指し貫け誰よりも速く (samusara)
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第一話

 


 ビルの隙間から差す陽光が和らいでくる秋分。中学校脇にある公園で朝から日向ぼっこに勤しむ少年が一人。しかしつつじ色の瞳を虚空に向けてブツブツ呟く様はとても見れた物ではない。出勤登校する大人子供の中から見かねた彼の同級生が声をかけた。

 

「おいクズ!遅刻するぞ」

「誰がクズだ」

「ああ?お前放っておいたら学校行かないだろうに」 

 

 少年の何やら触れがたい雰囲気は鳴りを潜めた。騒がしい同級生と対照的に静かに学び舎へ歩を進める彼の瞳は鮮やかな赤に戻っている。

 

 九頭竜八一は世間一般の中学生とは事情が異なる。6歳の頃から将棋の為大阪に住み込みをして9年。小学生の時から対局の度に学校を休み対局が無くとも姉弟子と学校をさぼる。

 八一の傍に年下の前例があった為本人は特に意識していなかったが何気なく周りに話して引かれたこともある。

 特にここ一年半はプロ入りの登竜門たる三段リーグで苦戦。そこに住まう鬼達との首の絞め合いは文字通り心身を削っての闘いであり自分でもかなりピリピリしていたと思う。

 

「それでデビュー戦は何時なんだ」

「今月末、渋谷で山刀伐八段と」

 

 誰だそれとスマホを弄りだす輩を放って脳内の駒を動かす。八一としては自身が注目されようが将棋を指すことに全てを賭け耐えて耐えて敵陣を撃ち貫くのみである。

 驕る程自分は買えたものではなく常に敵は格上。関東というアウェー、経験の差、自分との相性。自身に不利な条件を並べては不敵に笑う。

 

「お前、ニタニタ気持ち悪いぞ」

「…」

「痛っおま、何しやがる。イテテ、ギブギブギブ!」

 

 自分でも少しは傷つくこともある。まずは目の前の不届き者に物理的制裁(ヘッドロック)を加えることにした。

 八一のスマホに姉弟子からメール着信のランプが灯ったのはこの後のことである。

 

 

 

 

「ただいま」

「遅い」

 

 古い日本家屋のガラス戸をがらがらと開けると奥の部屋から一喝。やれやれと荷物を2階に持って上がり急いで下に降りる。制服のまま姉弟子の待つ部屋に向かった。

 障子を開けると和室の中央には将棋盤の前に正座する制服の少女。清滝一門の姉弟子、名を空銀子。2年前に女王と女流玉座の二冠を達成した2歳年下の姉である。

 自分が向かいに座るや否や彼女は対局時計のスイッチを叩く。持ち時間は15分切れたら30秒のVS。幼少の頃から幾千万と変わらないレギュレーションである。

 

「…調子は良くなりましたか?」

「うん。もう大丈夫」

 

 パチ。タンッと駒を指す音と時折電子音を挟み互いにぽつぽつ話す。二人とも世間で言えば不愛想だが盤を挟めば自然と話せた。それほど身に沁みついた日々のルーチンであり多少の諍いなどこれで解決する。

 

「後で軽い物を作るので食べてください」

「ありがと。お好み焼きがいい」

「重いから駄目です」

「ケチ八一」

「ケチで結構」

「クズ八一」

「クズじゃないです。九頭竜です」

 

 朝から久しく体調を崩した姉弟子を桂香さんに任せて登校したものの生活力皆無の彼女。何をしでかすか気がかりで仕方なかったところに呼び出しである。火を扱えば全て消し炭のソースかけになる以上ソース直飲みをしかねない。

 一戦目は八一の一手勝ち。次の一戦を行おうとする自分にぽつりと姉弟子が声をかけてきた。続く言葉を待つがなかなか彼女の口は動かない。

 

「何でもない」

「では横になって待っててください。すぐ済みますから」

「うん」

 

 いつもと違いやけに素直な彼女に首を傾げつつ台所に立つ。メニューはよく世話になる肉うどんである。麺の上の肉は牛肉。さらにたっぷりのネギをのせて完成だ。

 2人して遅めの昼食を食べていると玄関が開く音が聞こえた。

 

「銀子ちゃん遅くなってごめんすぐご飯…あら八一君?」

 

 台所の戸口から顔を覗かせた女性は清滝桂香。師匠の一人娘にして年上の妹弟子である。もっとも小さい頃から何かと世話になった2人は彼女に頭が上がらないので八一と銀子の様な関係には無い。今も昔も彼女は清滝一門のヒエラルキートップである。

 

「早退しました。もう理由を言わずとも帰してくれます」

「先生も苦労するわね」

 

 続けて銀子に小声で注意する。

 

「あまり八一君を困らせちゃ駄目よ銀子ちゃん。私が遅れたのも悪いから今度一緒に料理しましょ」

「わかった」

 

 八一に関することで銀子が他者の言う事を聞くのは桂香のみ。そも銀子は清滝一門以外に相談する程の縁が無い。銀子本人も必要と思っていない為門戸が開かれることは無いだろう。

 その時八一の体に悪寒が走ったが彼の味方は何処にもいなかった。

 

 

 

 

 数日後東京渋谷千駄ヶ谷にある将棋会館で行われた玉座戦一次予選。史上四人目の中学生プロ棋士九頭竜八一は中盤まで山刀伐七段の攻めに苦戦するも終盤相手のミスを逃さず冷静に突き形勢逆転。初白星をあげB級棋士を喰らう鮮烈なデビュー戦で世間を賑わせた。

 




 原作九頭竜は熱男。こちらは冷血(熱男)

原作の詳しい月日時と差異があると思いますが独自設定です。(あんまりな矛盾をしでかしていたらごめんなさい。



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第二話

 福井のとある街。将棋道場やアマチュア大会に出ては優勝を掻っ攫う小学生になり立ての男児。彼は幼い顔の下で”もっと強い相手と満足するまで指したい”と相手に不足を感じていた。

 自分の様な小学生にも本気で指す対局相手には敬意を払って倒す。舐めてかかる者、警戒する者、諦める者平等に吹き飛ばしていると大会で同地区の小学生に対局を避けられた。

 闘わなければ負けない。もっともなことである。

 そこで対等な相手を求めて研修会という機関に入りたいのだが場所が一番近くて大阪。入会金、月謝、月2回の例会に出る為の経費その他諸々必要となる。

 両親に借りる以上実績をもって説得するなどと考えているあたり本当に子供らしくない。

 ゲストとして来ていたプロ棋士との指導対局に向かう彼の願望は予想外の形で叶えられるのだが。

 

 

 

 

 むっすと不機嫌顔で大阪なにわ筋を邁進する少女と八一は並んで歩く。少年の表情筋はぴくりとも動かないが内心困り果てていた。隣の姉弟子は先程TVの取材を受けた後からずっとこの調子である。正確にはスマホを取り出して何やら調べた直後からである。

 

「姉弟子。何を書かれていたか知りませんけど気にしない方が良いですよ」

「…付けられた」

「は?」

「変な異名を付けられた」

「はあ。そういうの気にしないと思ってましたよ」

 

 歩道に駐輪された自転車の脇を抜け福島駅に登る。環状線内回りの電車を待つ間に鞄を探り彼女が何と言われているのやら調べようとするもスマホを奪われた。素早くポケットにしまわれて手が出せない。

 

「自分の事は一切見ないくせに何調べてる」

「次の電車が来る時間を少し」

「見え透いた嘘を吐くなぼけぇ」

 

 悪手でますます不機嫌にしてしまった。公共の場で姉弟子を暴れさせる訳にもいかず八一は付かず離れずの位置を維持することに努める。ここで完全に離れると後日に響くことはその辺に疎い八一も学習済みである。

 野田で電車を降りて見慣れた密集住宅地域に入ると騒がしさが一気に遠のく。静けさの中ぽつりと姉弟子が言葉を漏らした。

 

「浪速の白雪姫だって」

「ああ、姉弟子は綺麗ですしね」

「…ッ」

 

 姉弟子が黙り込んだことで場に微妙な空気が流れる。流石の八一も不快にさせたかと隣を見ると首筋まで赤くした姉弟子の姿が目に入った。この程度で照れていてはこれから大変だろう。

 

「早くVS」

「はいはい」

 

 彼女の機嫌は良くなった様なので良しとする。やはり練習とはいえ対局には互いに良い状態で臨みたい。しかしこの後の練習将棋で八一は姉弟子に負け越した。

 夕食の場で珍しく落ち込む弟弟子の姿が見られたという。

 夜静まり返った日本家屋の二階。八一は今後の身の振り方を考えていた。要は高校に進学するかどうか、住まいをどうするか。将棋に全てを注ぐ覚悟はとうに出来ている。

 しかし進学するかどうかは別の話だろう。現に先達の中学生プロ棋士は皆進学している。世間体を気にする八一ではないが両親がどう思っているかも気になる。

 

「どちらにせよ一旦実家に帰るか。プロ入り決めてすぐ公式戦だったからな」

 

 幸い次の公式戦は11月半ばの玉座戦一次予選。無論プロ棋士達の対局はごまんとあり検討、研究幾らでもすることはあるが時間はある。むしろ順位戦他タイトル戦が始まる来年の方が忙しいはずだ。 

 

「師匠は起きているか…?」

 

 清滝鋼介。姉弟子と自分の師匠にしてこの屋敷の主。あと数日で50歳を迎える一児の父。幼い弟子2人が紆余曲折あって憧れを抱いたプロ棋士。順位戦B級1組で死闘を続けるばりばりの現役である。

 

「うむ親御さんとよう話し合って来い。別に中学を出てもここにいてええからな。収入が入ったからと家族を放り出すわけないやろ」

「ありがとうございます」  

 

 晩酌をしていた師匠に考えを伝えたところすぐ返答が帰ってきた。師匠もこの件は考えてくれていたのだろう。全く感謝の思いしか湧いてこない。いつか溜まった恩を返すことができるのだろうか。

 

「では明日福井に帰ります」

「八一、銀子にはちゃんと説明しい」

「…?はい」

 

 姉弟子に事情を話すことなど当たり前だ。師匠の言葉を不思議に思いつつ一礼して部屋に戻る八一であった。

 

 

 

 

 ――銀子ちゃんそっちに行ってないかしら。

 

「何故ここにいるんですか姉弟子?」

「休暇よ」

 

 新大阪と金沢を結ぶ特急列車の青を基調とした車内に八一の呆れを含んだ声が響く。最も長い付き合いのある者にしか声音の違いは分からない程度だが。

 朝一番のサンダーバードに乗った彼は一時間ほど経った頃ファンに囲まれた姉弟子の姿を目にしたのだ。次いで桂香さんからの一報。もう自分に付いて来たのは明らかであるが面と向かって指摘するのは悪手。ここは知らないふりである。

 

「和倉温泉ですか?」

「…福井」

「奇遇ですね。実家に寄っても良ければ案内しましょうか」

「ん」

 

 取り敢えず温泉好きの姉弟子を考慮し芦原温泉は確定。幸い実家との距離は北陸本線で三駅程と近くアクセスも良い。恐竜博やらその他は興味も示さないはずだ。

 

「日帰りですし急ぎますか」

「疲れた。まだなの?」

「もう少し鍛えた方が良いですよ」

「うるさい体力お化け」

 

 駅の裏手に広がる水田と用水路を背に密集する民家の一軒。日本海沿岸の強風と頻繁に降る雨に対応する雨戸、生垣を備えた典型的な日本家屋が九頭竜家だ。八一は大阪清滝家で暮らした時間の方が長い為変わらない風景にほっとしている。

 八一は後ろで小さくなる姉弟子を引っ張って実家の戸を開ける。九頭竜家と空家は同門に子を預ける関係で顔を知っていた。にも拘わらず八一が女性を連れてきたと九頭竜家は大騒ぎ。姉弟子は自分の後ろで更に縮こまりしばらく収拾は着きそうにない。

 

 

 

 

 結論から言うと両親は自分の決断に任せてくれた。多芸な八一なら後から高認を取ることも出来るだろうとは父の言葉だ。今までもずっと親の心情より子の意志を優先させてくれた2人には頭が上がらない。

 九頭竜家を出て芦原で疲れを取った二人は屋台村で腹も満たし特急の座席に並んで座った。脳内将棋盤で早指しを行うこと二回。舌足らずなしゃべり方で姉弟子が話しかけてくる。

 

「八一。師匠の家を出てくの?」

「はい」

「そう。明日福島の賃貸探しに行くわよ」

「姉弟子のお手間を取らせる訳には。適当に決めておきます」

「うるさい。黙って従え」

「はぁ…」

 

 言い終わるや否やこてんと頭を八一の肩にのせてスースーと眠る彼女。腰に掛けていたジャケットを彼女に掛けてやる。

 昔から姉弟子の命令に振り回されてきた八一の宿命である。

 

「…ありがとうございます」

 

 八一は幼少の頃からずっと共に将棋を指してくれた銀子に深く感謝している。一人で指す将棋は二人のそれより味気ないのだから。

 




 誤字報告ありがとうございました。


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第三話

 道路脇に多くの駐車スペースが設けられ歩道を店舗の軒が覆う日本橋電気街。上から高校中学小学生といった見た目の三人組がPCショップを前に立っていた。しかしその中の一人が白いマントを着ているお陰で相当目立っている。

 白マントに白スーツの17歳は神鍋歩夢。八一より一期早く三段リーグを抜け今もC級2組順位戦でトップを走る関東所属棋士である。恰好からして独特な人物であるが内面もそれに似合った物となる。

 もう一人は他二人の腰程度の身長しかない子供。しかしその正体は齢10にして関西奨励会に所属する小学生。小学生プロ棋士の可能性も残す怪物。名を椚創多。

 最後は言わずと知れた九頭竜八一。八一と歩夢は小学生の頃から大会でよく顔を合わせる研究仲間。創多は奨励会時代に何故か懐かれた後輩である。

 八一と歩夢はパソコンの新調。創多はアドバイザーとして来ている。小学生に世話をかける年上二人。何と言えば良いやら。

 

「つまりですね。自作はお金をかける場所を選ぶことが出来るのです」

「すまん創多。俺にはお前が何を言っているのかさっぱりだ」

 

 機械系には人並みの知識しか持たない八一。創多のパーツ用語に頭を抱えている。事実創多に一人暮らしを聞きつけられるまで完成品を購入するつもりであった。

 

「くく我には分かるぞ。時空(とき)を歪める遺物(オーパーツ)こそ重要なのだと」

「流石ゴットコルドレン。お目が高いです。後はメモリ(万象の書架)電源(大いなる力の源)も良いのにしたいですね」

「ふーはっははは。お主見所があるな。我等関東棋士団(ゲートイースト・レギオーン)に入らぬか?」

「僕は八一さんがいる関西棋士団(ゲートウエスト・レギオーン)がいいです」

「そっか…」

「折角合わせたのに素に戻るの止めてもらえます!?」

 

 ゴットコルドレンなんかもう知りませんと店員に必要な部品を伝える創多。隣で加速度的に増えていく合計金額に顔をしかめる八一と青くする歩夢。下級プロ棋士の懐事情は世間の思っているほど良くないのだ。

 しかしここは自分への先行投資だと思い切る。数年もすれば性能が一段更新されると知り高い買い物であったと述べる後の二人である。

 

 

 

 

 大阪福島のとある2DKアパート。八一は中学卒業を待たずここでお試しを兼ねて一人暮らしをしていた。ちなみに両親、師匠や桂香さんとは三食を守れない場合直ぐに戻すとの約束があったりする。

 

「まずは姉弟子、防衛おめでとうございます」

「当然」

 

 空銀子は挑戦者供御飯万智山城桜花を三連勝で下し女流玉座を防衛。静岡での三局後大阪に帰った彼女は直接八一宅へ来たのだ。何でもない様に見せて隠れた目的は穴熊相手にげんなりした精神のリフレッシュである。

 VSこそ先約があり断られたが八一の一言で喜んでいることは紅潮した首筋から見て取れた。八一は無表情ド真面目ではあるが鈍感ではないのだ。

 

「八一は何をしてたの」

「これで研究をしてました。今も…ほら」

 

 何やらスイッチを入れ誰かに呼びかける八一。銀子からして見ればいつの間にか増えていたごついPCに言いたいことはあったが第三者が向こうにいると察し口を閉じる。

 

「戻ったか」

「歩夢。姉弟子も混ぜていいか?」 

「ふむ、新しい風を混ぜるのも良いだろう」

「問題ないそうです」

 

 部屋に対して大きめのPCデスクの上にはPCに繋がれた16インチのモニタが二枚。スリープが解除されたそれに将棋ソフトと神鍋歩夢の顔が映り姉弟子の顔に安堵の色が浮かんだ。八一を通してある程度の接点がある歩夢なら不安も少なかろう。

 

「矢倉崩し左美濃急戦の対策を立てる」

「それネットで見たことがあるかも。でもまだプロで使う人なんて」

「いるでしょう。ソフト研究に特化したプロ棋士が。あとは創多とか喜々と指してきました。更に言えばアマでは流行の兆しもあります」

 

 於鬼頭帝位はここら辺に一切の躊躇がない。人間相手の研究会も行わず一人でソフトに向かい膨大な局面を文字通り”学習”しているのだろう。表にこそまだ出さないが彼は必ず左美濃急戦を指せる。

 

「然り。我等はファッションに敏感でなくてはならない」

「まあ対策を練るにこしたことはないでしょう。と言っても先に攻める、まともに相手をしないに帰結するのですが」

「こうこうこう、などどうだ?」

 

 画面上の盤面で玉の囲いが不十分なまま開戦。主導権を渡さず柔軟な指し方で守りを徐々に固めていく。その戦い方はまず玉の守りを固める将棋指しには慣れないものがある。

 

「やはり直接会ってした方がいいな。ラグが惜しく雰囲気もない。歩夢次何時こっち来る?なるたけ早いと助かるのだが」

「我もそう思う。明後日伺うとしよう」

「あんた達の会話はおかしい。この将棋星人共が」

「我はここで失礼する。ふーはっはは!」

 

 切りが良くなったところで不機嫌になった姉弟子を残して歩夢は退散。この後御機嫌取りにお高いスイーツを買いに走る八一であった。

 

 

 

 

 関西将棋会館5階には玉座戦一次予選第二戦に臨む八一の姿があった。対局相手はプロ編入を経てフリークラス、C級2組へと昇級した福山三喜。プロ入り対極の記録を持った両者の対局はメディアの格好の的となり報道は過熱する一方。

 初戦に経験したフラッシュの洪水が少年と対局相手を包む。前回同様光の中でむすっとした表情をして佇む少年はトップニュースの絵面としてどうなのだろうか。

 一言言葉を求められた相手は八一に向き直り笑顔で手を出してきた。

 

「私は負けないよ九頭竜君」

「…よろしくお願いします」

  

 中学生に負けてやるものかという闘志を感じる笑顔。アマタイトル大三冠に加えプロ棋士との優秀な対局成績からくる自信は壮年の男性に覇気を与えている。対する八一は変わらず仏頂面。

 記録係を務める創多が振り駒を行う為席を立った。慕ってくれる後輩の目の前で無様は晒せないなと八一は気を引き締める。

 

「福島先生の振り歩先です」

 

 創多が並べ終えた福島の歩を5枚取り手の中で混ぜる。放られた駒の結果は歩が五枚。結果を見た福島はポーカーフェイス、八一の口端はほんの僅かに上がる。

 

「歩が5枚です」

 

振られた駒を戻し時間となったら対局開始である。

 

「「お願いします」」

 

 対局は序盤から変化の激しい先手が2五歩居飛車の意志表示をした後両者が空けた角道を八一の角が一閃。両者は角を交換し先手は後手の一手損を咎めて早繰り銀による急戦を選択。対して八一が得意の腰掛け銀を捨て合早繰り銀に持ち込み殴り合いに入ろうとした時。

 

「君は真っ直ぐすぎる」

「よく知っています」

 

 福島の言葉と共に指された銀により先手は腰掛け銀へと変化。序盤の形勢は見るからに八一の不利となる。

 対局は中盤へ突入し全く動かない八一の玉と7筋まで寄った福島の玉が対照的である。

 八一は4筋の猛烈な攻撃を受けながら桂馬を狙って歩を進めると福島も別筋を責め立てる。敢えて一歩誤れば大崩壊を起こす崖っぷちでバランスを取り続ける強心臓が八一最大の強み。一手損が受け将棋であることも彼にとって良い要素でしかない。そして劣勢になればなるほど静かに燃える彼の瞳は赤みを帯びていく。

 40手目この日一番の長考をした八一はここから始まる泥臭い対局に心を躍らせ駒台に手を伸した。取った駒は角。

 

「これが俺の…。切り札だ!」

「っ!」

 

 敵陣の最奥ど真ん中に音高く叩きこんだ。劣勢時に角金交換の駒損を気にしない八一に対局を見ている者達は言葉を失う。

 

「負けました」

 

 先手福島は終盤まで駒を生かして寄せを目指すも九頭竜の△6九金に貫かれ徐々に勢いを無くす。そこに九頭竜の△8六歩から始まる反撃が刺さり対局は終了した。九頭竜プロ入り二連勝である。

 




 根本を理解していないので矛盾はあるでしょうが優しくご指導ください。(筆者の将棋知識は原作を読んだ時点で銀はゾウさんと知り感心するレベル)
 


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盤外一話

 銀子がその少年と初めて会ったのは9年前。地元で開かれた将棋イベントの指導対局から色々あって師匠の下に住み込んで直ぐの頃だ。対局で負けた復讐の為に自宅を調べ上げられ連日幼女の殴りこみを喰らった師匠からして見れば一言で収まらないのだが。

 弟子入り(当時そんな考えは無くただ復讐の一心であった)の二週間後、師匠が少年を連れてきてこの子に勝った数だけ相手をすると告げた。

 銀子は鴨がネギ鍋を背負っていると対局を行い初戦は快勝、二戦目以降しつこく粘られ一週間後に初めて負けた。その時点で銀子の復讐対象は師匠から少年に移り師匠の目論見は多少のずれはあるも成功。以降銀子は少年と毎日将棋盤を挟んで生活することとなる。

 これはそんな少女の思い出の一つ。

 

 

 

 

 私が6歳となった年の春。八一と彼の長期休暇を利用して県外の将棋道場へ行くことにした。早朝、大阪の道場で真剣師相手に少しづつ貯めた軍資金と切符を分けリュックの奥底に仕舞う。

 二人の標的は東京歌舞伎に存在する憎き真剣師。前年の遠征では自分がむきになって全財産を賭け敗北した相手だ。

 手持ちが帰りの切符と百円足らずとなり帰りの9時間を泣きながら過ごしたことは今でも鮮明に覚えている。八一は賭金が足りないと断る相手に自分の資金も乗せて勝負を任せてくれた。ひもじい思いをした帰りは文句も言わず弁当を分け”来年も行きましょう”と言う。振り返ると八一は出来すぎた子供である。比較すると周りの子供が目に映らない程度には。一緒にいた少女が好意を寄せるには十分に。

 

「行きますよ姉弟子」

「ん」

 

 八一から差し出された手を握り野田から大阪、新大阪へ電車で向かう。休日で賑わう新大阪の人混みを進む彼の体は小さくも頼もしい。私も姉弟子として弟を守らねばと思っていたが今思うと守られてばかりだった。

 その年は疲労の面を考え新幹線で行軍することにしたのだ。お金は掛かるがその分勝てばいいのですとは八一の言である。こう言われては姉弟子として勝つしかあるまい。

 余談としてこの為に大阪近隣の真剣師は去年に増して二人に搾り取られたと述べておく。道場でお痛をすると現れる恐怖の子供がいるとか噂ができたそうな。

 道中は子供にとって十分な広さの自由席で2時間半。これならば移動の負担も少なく済む。新大阪を発車するや否や私が口火を切る。

 

「7六歩」

「8四歩…」

「2六歩」

 

 時速270キロで流れる外の景色に目もくれず脳内の将棋盤に没頭する。変わった遊びだと周囲の家族連れやサラリーマンの視線が集まるも二人は気にしない。気にならない。稀に意味を悟ってぎょっと見る者もいたが首を振って自分の世界に戻っていく。

 二人が集中していると並走する阪急電車も富士山も気づかれる事なく置き去りである。都心に入り防音壁に囲まれる頃には三局目が終わっていた。

 

「乗り換えます。降りるときは気を付けて」

「分かってる」

 

 子供は総じて視線が低い。大人の腰丈程の高さから見る東京の人混みは恐怖以外の何物でもないのだ。まして目的地は乗降者数日本一の超過密地帯である。二人は繋いだ手が離れないようしっかりと握った。改札を出て一年前の記憶を頼りに中央本線へ乗り換え新宿へ向かう。

 

「僕たちどうした。迷子?交番行く?」

「大丈夫です。両親も近くにいます」

「そう。良かった」

 

 大通りを離れゴジラ像を通り過ぎ路地に入ると金髪の青年に声をかけられた。私は八一の手を握り直し彼の影に隠れる。初対面の相手に言葉が上手く出てこないのだ。こういう時いつも八一は前に出てくれる。

 

「大丈夫です。相手は心配してくれていただけです」 

「分かってる。八一は気にしすぎ。別に恐くなんてなかった」

「はい。行きますよ」

 

 東京で最も欲望が渦巻く街。居酒屋やカラオケ屋が密集する巨大な繁華街の裏側にその店はあった。寂れた雑居ビルの2階。時代に追いやられた真剣師達の最後の戦場である。

 

「げっガキんちょ。また来たのか」

「お久しぶりです。一年前はお世話になりました」

「世話した覚えはねえよ。全くどういうおつむしてんだ?」

 

 狭い階段を上がり扉を開けるとタバコの匂いが鼻を突く。店の奥から宿敵の嫌そうな声が聞こえた。今度こそ弟分に良いところを見せるのだ。自分は八一の影から出てなけなしの勇気を使い宣戦布告した。

 

「勝負しろ」

「あー去年の金か?返す返す。ありゃ要らないって言ったのにそっちが押し付けて…」

「これで、勝負しろ。逃げるのか?」

 

 鞄をあさってタバコケースを取り出し机に叩きつけた。ひと箱英世が20本入ったそれは諭吉2枚分。とても小学生がポンと出す金額ではない。

 

「おい弟。こいつを何とかしろ。少し頭おかしいぞ」

「受けてください。一年待ちました」

「足りないつったらお前が出すんだろ?…今頃の子供はどうかしてるぜ。くそ、座んな」

 

 頭をがしがしと掻いて宿敵が古いソファーに座る。私も対面の古いパイプ椅子に着いた。ぎしぎしと音を出す相手のソファーが一年前の屈辱を思い起こさせた。

 

「ありがとうございます。それと姉弟子の次は自分もお願いします」

「お前も遠慮がねえなあおい!」

「姉弟子の敵は自分の敵です」

「可愛げもねえ…これだからガキは嫌いだ」

 

 この後無事に復讐を果たした自分達は戦果を手に凱旋。

 

「はっは良くやった。それでこそ我が弟子達。今日は祝勝会や」

「もう、褒めないでお父さん!二人を誰が止めるのよ!?」

 

話を聞いた師匠は笑い、桂香さんには戒められる。これは清滝一門の数ある武勇伝の一つにして少女の大切な思い出。

 

 

 

 

「…し。姉弟子大丈夫ですか?」

 

 我が幸せな回想を邪魔する愚か者は誰だと睨みつける。しかし目の前に想い人の顔が映り身体が飛び跳ねそうになった。必死で暴れる体を抑え朱がさす頬を隠して少しだけ距離を取る。何か言わねばと口を出てくる言葉は自分でも刺々しいと思う一文字。これは後で頭を抱えるコース間違いなしである。

 

「で」

「はい」

「…どう?」

「お似合いですよ」

「そう」

 

 銀子の頭には雪の結晶デザインの髪飾りがちょこんとのっている。彼曰く折角良い名前を貰ったのだから玉座防衛の祝いも兼ねてだそうだ。彼の一言で良い感情を抱いていなかった異名も悪くないと思ってしまう。

 私は左手でそれを優しく抑えて八一に向き直った。これだけは面と向かって言わなければならない。言えなければずっと後悔すると。

 

「ありがとう」

「はい、どういたしまして」

 

 何でもないことの様に返す彼に少し腹が立つ。でもほんの少し。少しだけ素直になれた。空銀子13歳冬のある日の出来事である。

 



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第四話

 12月末竜王戦6組ランキング戦第一戦、玉座予選第三戦と白星を上げデビュー四連勝を上げた九頭竜八一。彼は予期せぬ襲撃者により混沌とした一日を送っていた。対局が一段落しゆっくりと年末を迎えようと思っていた八一は苦い表情をしている。

 原因は新居のアパートに押しかけたアラフォーとプレティーンだ。

 

「うふ。キミに興味を持ったら居ても立ってもいられなくて。キミの対局が落ち着いたら一緒に研究をと思ってたんだ」

「……」

「そして今日会館に顔を出したら丁度創多君がキミの家に行くと言うじゃないか!これは運命だよ!」

「尽さんも八一さんに会いたいって言ったので案内しました」

「事前の連絡をしような」

「ごめんなさいー」

 

 創多の隣でしなしなしている男は山刀伐尽七段。プロ入り初戦の対局相手だった男である。爽やかな挨拶と共に現れた彼に八一は警戒心を抱いた。己の悪手から負けた一回り年下のC級棋士に即研究を申し込む。負けず嫌いが多い棋士の中でも特に危険な類。手段を選ばない向上精神は八一の相手認識を改めさせた。唯の格上から注意を払うべき危険な格上へと。

 

「キミみたいなスペシャリストと親交を持ちたい。僕はオールラウンダーとして経験だけは豊富だ。新人の君が欲する物をあげられるよ」

 

 相変わらず男色の様な口調だったが軽薄な言葉ではない。八一に対する嫉妬と悔しさを強靭な心で抑え込み相手の強さを吸収せんとする姿勢が見られた。そして落ちてくるA級棋士を喰らい目の前の男は鬼のB級1組に残り続けているのだ。恐らく次に当たる時は此方の癖まで見抜かれているはず。

 

「願ってもない話です。こちらこそお願いします」

「いやー、八一クンなら受けてくれると思っていたよ。キミの初めて(初白星)は僕なのだからサ」

「研究中は気持ち悪い言い方は止めてもらえますか。虫唾が走ります」

「ふううぅ。毒舌もイイね」

「…はぁ」

 

 ここで断り自身を隠しても公式戦を重ねるプロである以上闘い方は暴かれる。それよりも相手の深い知見に触れ取り入れる良い機会だと思うことにした。

 したのだが大丈夫だろうかとそこはかとなく不安となる八一である。新しい世界とかそっちの方で。

 マイペースに将棋盤をセットしていた創多から声をかけられる。創多も負けることなく色が強い。果たしてこの三人で大丈夫だろうか。

 

「八一さん。早く指しましょう」

「む、創多君。ここは普段八一君と指せない僕に譲ってはどうかな」 

「早い物勝ちですー」

 

 山刀伐と創多が一瞬睨み合いをして山刀伐が折れた。にこにこと笑みを絶やさない創多が早く早くと急かしてくる。

 

「ごもっとも。君はいろんな意味で強敵となりそうだね…」

「何のことかわかりませんよ」

 

 この後三人という人数に不満を抱いた八一、創多、山刀伐が奨励会、プロ問わず若手に声を掛けた結果大きな研究網が出来た。これは若手の中でも飛びぬけて若く遠巻きに見られていた八一に広い交友関係を与えることとなる。

 このことに不機嫌となる姉弟子が若干一名。研究会に銀子も参加する。八一は月のVS時間を減らさない。八一の自室は同門以外誰も入れない。の三項をもって和睦を勝ち取った。後二項は後々姉弟子の治外法権と呼ばれるとか呼ばれないとか。

 

 

 

 

 新年を迎えるにあたって清滝家へ帰ってきた八一。大阪城やUSJでは派手にカウントダウンが行われ漫才ライブで盛り上がる大阪の中で清滝家の騒ぎは引けを取らない。除夜の鐘が響く厳かな夜に50代男性の悲痛な叫びが響く。

 

「け、桂香」

「なあにお父さん?」

「パスワード教えてくれへんか」

「駄目よ。課金はプリペイドで私が渡します」

「いやあああ!わしの振袖新田ちゃんがあああ」 

「唯の絵でしょ。しょうもない」

「新田ちゃんは生きとるんやああ。動くし喋るもおおん」

「クリスマスに引いたでしょ。もう駄目よ」

 

 新ガチャが出る度に起こる事象は騒ぎに数えないものとする。姉弟子と八一は我関せずとTVから流れる歌手番組をBGMに早指し。一応将棋盤で指していたものの互いの手が速すぎて途中から目隠し将棋となっていた。手を止め口火を切ったのは勿論銀子である。

 

「銀子ちゃん八一君。そば出来たわよ」

「ありがとう桂香さん」

「銀子ちゃんお盆持ってきて」 

「八一」

「はいはい」

 

 のそのそと炬燵に寄ってきた弟子二人と合わせてずるずると麺をすする一門。既に大掃除は12月半ばに済ませ明日のお節料理は注文済み。今年にすることはもう何もない。

 

「「明けましておめでとう(ございます)」」

「なあ桂香。実質無料なんや。今しか買えへんのや…」

 

 新年早々とても情けない師匠の声は三人に無視された。

 

 翌朝新年を迎えた清滝一門であるが御節料理を食べる以外普段と変わらない。5日の初仕事までのんびりと過ごすことが毎年のルーチンである。

 しかし今年は様子が違った。白味噌丸餅の雑煮をちょこちょこ食べた姉弟子は立ち上がり自分と初詣に行くと言う。将棋の神一筋で寒暖人混みが大嫌いな姉弟子がである。

 

「今年は八一君がプロ入りしたでしょ?」

「桂香さん!」

 

 基本頭が上がらない桂香さんの言葉を遮る姉弟子。新年早々珍しい物を見た八一は目を瞬かせる。姉弟子は引っ込みがつかないのか玄関へ向かうも此方を向かない。靴を履き扉を開けて声をかけてくる。 

 

「行くわよ」

「ふふ、行ってらっしゃい。お父さんは見張っておくから」

「はい。行ってきます。それとありがとうございます姉弟子」

「うるさい勘違いするな。唯そういう気分だから」

「それでもです」

「ふん」

 

 姉弟子が向かったのは近所のマンションや駐車場に囲まれた祠。正月でも地元の僅かな人しか来ない小規模な殿舎である。小さな鳥居を潜りわずか数歩で神前に着く。一礼し鐘を鳴らして二礼二拍手一礼、鳥居を出て一礼しとっとと清滝宅へ帰る。

 道中合わせて僅か30分足らずの初詣は終了した。その間二人に一切の会話は無く無言の息苦しさもない。家に着くや将棋盤を引っ張り出し二人で指し初め。

 互いに何を願ったかは聞かない。自分の事は自分で決める似た者同士の二人、姉弟が神に願うことがあるとすればお互いの事に他ならない。

 




 好きな子は千尋の谷に突き落とせ。


 次は多分間が空きます。


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第五話

 ここ数日八一は集中すると発熱するフィラメントの様な頭に読みを邪魔されていた。プッツンと頭の中で線が切れると暗転と同時に軽く記憶が飛ぶところなど言い得て妙だと八一は考える。そして記憶が飛ぶと数手進んだ盤面に指した覚えのない手が指してあるのだ。

 

「ふん、いっそ竹で脳の炭素棒でも作ってもらうか?」

 

 彼が悪態を吐くのも仕方あるまい。こっそりと通った病院も身体的に何ら問題が無く精神的な物ではないかと判断を下した。今の自分は控えめに言って実戦に耐えうるコンディションではない。しかし八一は何としても次の相手と死力を尽くして戦いたい。

 

 

 

 

 一月末、外は悪天候の中関西将棋会館で始まった盤王戦予選。九頭竜八一の相手は神鍋歩夢。順位戦一年目にしてC級2組全勝中の超大型新人とプロ入り四連勝中の新人の対決とあって注目が集まる一戦である。相変わらず振り駒で後手を引いた八一に詰めかけた記者たちから吐息が漏れた。

 両者角道を開けた後、飛車先の歩を突撃させ15手目歩夢が横歩取りの形に入る。八一は3三角で対処し飛車を下げた。ここまで定跡通りの進み方。ここから両者の研究勝負が始まる。

 急戦を恐れず30手目に八一は飛車交換を要求し歩夢は受諾。

 

飛車(ペガサス)突撃(チャージ)アンド竜王へ(チェーンジ)!」

「ふん」

「そこだ!角を5五へ(ライジングサン)!!」

「っ!」

 

 神鍋は空いた8筋から飛車を投入し成った後天王山に角を進めるも九頭竜は即座に飛車で睨みを効かせる。

 攻める神鍋、受け止める九頭竜の後手寄りが崩れたのは中盤。8筋に神鍋の投入した香車が防ぐ歩を跳ね飛ばし突撃逆転。寄せに入る神鍋に八一は猛烈な抵抗をするも玉を固く守った神鍋は主導権を渡さない。そして神鍋が歩を指したのを最後に九頭竜は重い口を開いた。

 

「…負けました」

 

 終わってみれば82手で神鍋の圧勝。何かと大会で戦って来た両者だがいつも接戦となり熱い対局を繰り広げていただけに周囲の驚きは大きかった。

 八一の逆転勝利をどこかで期待していた周りも切り換えて騒がしく歩夢と八一に群がる。質問と感想戦も両者無難な受け答えで一時間もせずに場は解散した。

 対局室に一人残った八一は黙して動かない。去り際歩夢に掛けられた言葉が自分の情けなさに拍車をかけたからだ。

 

「今日の勝負、我は勝ったとは思わぬ。また戦おう宿敵よ」

 

 攻め筋を見逃した事よりも歩夢に長期戦で粘れなかったことの方が悔しい。強敵との闘いを不調で汚した自分が情けない。

 集中する度に暗転しかける意識をねじ伏せ続けた八一は長期戦を不可能と判断。以前なら読み切れた盤面でミスを犯し逆転されそのまま敗着した。

 階下では報道陣に囲まれる歩夢の白傘が遠ざかっていくのが見える。八一はそろそろ帰らねばとふらふらエレベータに向かって歩き出した。

 

 

 

 

 ぼんやりした視界の端に雪結晶がひらひらと舞う。見慣れない自宅の天井にピントが合った八一はほっと一息つくと横たわる自身の体を起こし壁に寄りかからせた。身体が重いと思ったが廊下にも関わらず自分に毛布が掛けられている。

 どうやって帰ったのか覚えていない。会館で倒れて歩夢の勝利にけちが付いていなければいいのだが。

 

「姉弟子が助けて下さったのですか?」

 

 キッチンで大火力をもって何やら作っている彼女に声をかける。彼女はびくりとして火を消しこちらへとんできた。そんなに慌てなくともと八一の顔に笑みが浮かぶ。

 

「玄関で倒れてた。バカ八一。一度もニタニタしない。長考をほとんどしない。部屋を出る時間が長い。近くなのにタクシーで帰るのが見えたから追いかけた」

 

 聞く限りどうやら一人で帰宅したらしいと力を抜く。しかし指摘されてみれば酷い体たらく。それに家族への隠し事など俄然無理な話だった。

 

「ばればれですか」

「ばればれよ」

「後で師匠と桂香さんにも事情を話しなさい。怒ってるし事によっては一人暮らしも止めさせるそうよ」

「心配をかけましたし信用ないかもしれませんが」

 

 実のところ対面で見続け将棋を指した歩夢と付き合いの長い清滝一門以外は八一の変化に気づいていない。仏頂面が不断に増して酷いと思われた程度だ。

 

「食べろ」

「姉弟子が?」

 

 キッチンに戻った姉弟子が持ってきた茶碗には半ばおこげとなったおかゆが入っていた。しかし赤紫蘇のつんとした匂いが八一の食欲をかきたてる。口に運ぶと梅干しの汁が広がり疲労した体に染み渡った。引っかかったおこげを差し出されたスポーツドリンクで流して一息。 

 一口受けつけた胃が出す猛烈な食欲を鍋一杯平らげ収める。その後心配をかけた家族には自分の状態を伝えるのが筋だろうと八一は口を開いた。

 

「で、結局自滅したのね?」

「自分の手を読み切れず防御が薄くなり…歩夢には悪いことをしました」

 

 八一の棋風は玉の守りが他と比べ薄い分繊細な指し回しが求められる。しかし集中しきった八一に見える手が我に返った八一には見えない。結果自分で自分を容量以上に追い詰める。自滅なんて無様を歩夢に晒したことが悔しいのだ。

 

「凹んでないで指しなさい。一段上にいる自分なんて最高の殴り相手よ」

「は…?」

 

 頭を扇子で叩いてすっぱり言う姉弟子に呆気にとられる八一。銀子としては早く八一の意識を外に向けて貰わないと何時自分だけを見てくれるか分からないのだ。例え八一が内の自分を屈服させた時更に強く遠い存在になっていたとしても。

 

「くっく、姉弟子は厳しいことを言いますね」

「何よ。この程度八一なら問題ない」

 

 そう、盤外定跡外れ上等泥臭く粘り強い関西将棋の枠で言えば自己完結するこの程度手ぬるい。立ってる者は親でも使い受けた恩と借りは倍にして返す。

 好調の時も不調の時も体調を崩しても変わらず暇さえ見つけて彼女とそうした将棋を指してきたではないか。

 

「今からですか?」

「感想戦もろくに頭に入ってないでしょ」 

「…お願いします」

 

 姉弟子と夜通し将棋を指した次の日。師匠と桂香さんに頭を下げて一人暮らし継続のお墨付きをなんとか勝ち取ったと述べておく。 

 

 

 

 

 この数日後行われた玉座戦予選第四戦。八一は相手の意表を突く一手を突くも攻撃の流れを掴み切れず敗北。制服のズボンごとももを締上げ最後まで持久戦を闘い抜いた八一は悔しさを顔に浮かべ長い感想戦を行った。

 この対局で手答えを感じた八一は次の竜王戦6組第二戦を苦戦しつつも辛勝。徐々に指し回しの感覚を修正した八一はこの後一年かけて一段一段トーナメントを這い上がって行く。

 




 自然と将棋を指すと書きたい(打つと書くこと数多)


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第六話

 別れの季節3月、八一の通う中学校は卒業式を迎えていた。今年は一月の指し初めから竜王、盤王、玉座、公共放送杯そしてつい先日の玉将と予選を戦い今も新人戦の真っ最中。中学最後の学期も休みがちであった八一。早いなと思いを抱いても仕方あるまい。

 今は式典を終了し証書入れと紅白まんじゅうを手に教室でだべっている。

 

「クズはすっかりプロ棋士だよな。もう幾ら稼いだ?」

「教えるかぼけ」

「実際凄いよお前は」

「好きな事をしているだけだ」

「これがな」

 

 自分が勝敗を重ねている間に同級生は皆高校受験を済ませ進学を決めていた。自分の決断を迷いこそしないが別れを惜しむクラスを見れば少しは悲しいものがある。

 

「お前待ちの行列だ。どうにかしろ」

「正直顔も知らん奴が大半なんだが」

「有名税だ。甘んじて受けろ」

 

 廊下で待ち受ける下級生達に背を向け指を指す友。そこを抜けた頃にはもみくちゃにされているだろう。しかし先程スマホに届いたメールには通用門と書いてある。遅れると機嫌を損ねるだろう。何より今日は少し陽が強い。

 

「ほら行け。お姫様が待ってるぞ」

「ああ、…じゃあな」

 

 人混みを抜けた八一の惨状は酷いものであった。制服と髪は乱れ饅頭はぺちゃんこ。嵐にもまれたかの様な有様である。

 

「姉弟子」

「八一遅い」

「すみません」

 

 塀の影から銀色が覗いた。彼女がいた場所は丁度日陰になっていた様で八一は安堵する。しかし彼女は何やら此方を見て機嫌を悪くした。

 

「ボタン、誰かにあげたの?」

「混雑で取れたのでしょう。もう着ることもないですし問題ありません」

「ふうん」

 

 二人はそれ以上の会話もなく自然と並んで帰路につく。土曜、昼間一切車の通らない交差点で律義に信号待ちをしていると銀子が口を開いた。

 

「私も高校行かない。一人暮らしする」

「判断するには早すぎませんか?あと二年あります」

「私はタイトルホルダーだし収入もある」

「収入の問題ではなく親御さんとよく話し合って下さい。家事も覚えた方が良いです」

「むかつく。バカ八一」

「はいはい」

 

 銀子が無茶を言い八一がなだめる。これは二人にとってじゃれあいに過ぎず喧嘩へと発展することはほぼない。彼が銀子に対し怒ることがほとんどないからである。

 体調不良を認めず将棋を指し続けたり度が過ぎた学校サボりをすると八一は銀子を無視。すると銀子は桂香に泣きつき呼び出された二人は和解する。

 この八一は諭しても怒鳴っても反発する銀子に最短の和解手段を選択しているに過ぎない。

 

「卒業おめでと」

「ありがとうございます」

 

 暖かな空気に居たたまれなくなったのだろうか。青信号と共に歩き出した二人の前に春先の小寒さは忍び寄ることも出来なかった。

 

 

 

 

「何であいつが、八一と。私より先に…」

 

 関西将棋会館で行われる新人戦第二戦、八一の対面には女流棋士が座っていた。今年5月末に女流帝位のタイトルを取った祭神雷女流帝位である。

 女流帝位となった彼女は帝位戦予選に参戦し鮮烈な勝利と共に一躍有名となった。他タイトルホルダーやA級棋士の予選免除がないその苛烈なタイトル戦で当たったA級棋士を喰ったからである。この新人王戦でもC1クラスを一人飛ばしてこの場に立っている。

 

「くひっ!くずりゅうくんとは一度戦いたかったんだぁ」

「よろしくお願いします」

「白髪ブス女の弟弟子はどんな将棋を指してくれるのかなぁ?」

「…」

「今日の振りはこぉこおぉ!」

 

 対局が始まるや否や5筋の歩を進め中飛車の構えを見せる祭神。対する九頭竜は飛車先の歩には手を付けず角交換から左美濃を組んだ。お互いに銀冠となり両者弓を引き絞り力を解放せんと空気が張り詰める。ここまでも、ここでも黙っている祭神ではない。

 

「ぼくぅも、左美濃ですかー?もう、見飽きたんだよおおぉ」

「喚くな。弱く見えるぞ」

「ッあ、…うェ?」

 

 挨拶から黙っていた八一は一言呟くと祭神が口を開いた瞬間6四角へ駒を打ちつけた。ここまで祭神優勢で組まれていた展開に杭を撃ち込む形だ。

 

「ひ、ひひひひゃあああぁ!」

 

 祭神は解き放たれた獣の様に銀捨てを契機に九頭竜を攻撃した。その末九頭竜に王手飛車をかけるも躱され直後1筋の突き捨てを咎められる。ここからは九頭竜の一転攻勢、祭神の攻撃も金で封殺し自分の王は銀に歩に追い回される。

 

「こひゅ、この局面、どこ…かで」

「まだ口を開くか」

 

 八一は初手から祭神の息継ぎの直前で駒を指し続けていた。盤外戦術もかくやと話し続ける祭神の口調は中盤の激しい指し合いと共に息切れを起こしている。

 

「みぃ…つけた。ヒュー、わたし、の…」

「打ち貫く。そのふざけた性根ごとな!」

 

 序盤に八一へ話しかけ続けた祭神の持ち時間は80手頃に無くなっていた。八一はびしりと相手の王の後ろに飛車を叩きつけ、蹲る祭神を見下ろす。既に祭神の王がどう逃げてももう一体の飛車が龍と成り喰らい付く。

 

「ごじゅうびょうー、いち、に…」

「っぁ、ごほごほっ!」

 

 記録係の秒読みが発せられると同時に息絶え絶えの祭神は必死に駒台へ手を伸ばした。ばたんと横へ倒れこんだ彼女の惨状に問題児の姿は欠片も見えない。少し後落ち着いた祭神は横になったまま口を開いた。

 

「やっぱあそこ?」

「指しすぎだな。飛車が成っていたら面倒だった」

「そっか。4五桂があったかあ」

 

 少し後に起き上がってきた祭神と八一は何もなかったかの如く感想戦を始めた。憑き物が落ちたかの如く落ち着いた彼女の指す変化に八一も真摯に答える。しかし二人が満足に感想戦を終えた頃祭神の様子は対局前と別の方向にぶっ飛んでいた。 

  

「ねえ、やーいち。わたし達は運命(将棋)で繋がっているの。これから一生将棋指そ。わたし他には何も要らない」

「何の冗談か知らんが断る」

「今日だって女流棋士と遊ぶの飽きてきた雷にやいちが会いにきてくれたんでしょ?」

「違う。先約があるので帰らせてもらう。じゃあな」

「おうちに行くの?。いえーぃ」

「……」

 

 全く話が通じていないことに気づいた八一は立ち上がり部屋を後にする。しかし祭神は会館を出てなにわ筋を逸れ路地に入った八一にぴったりついて来た。

 

「ついてくるな!」

「そんなこと言って―。恥ずかしいにょ?じゃさカラオケで指そ」

「用事があると言っている」

 

 この後祭神は理事会を通して祭神の師匠辷田隆次五段の言葉を聞くまで八一に付きまとった。鉄の平常心を持つ八一も少し参った様子で困りましたと姉弟子に漏らして彼女を激怒させている。八一が他者について愚痴ることは珍しく祭神はある意味で特別な存在なのだ。そして上下なく好き勝手言い合える関係は彼女の最終目標である。

 客観的に見れば八一と祭神がそこに至るはずもないのだが彼女は冷静と程遠い状態にあった。

 

「あいつ、いつか、ぶち殺す。わたしを、差し置いて、あの女、覚えていろ」

「落ち着いて下さい姉弟子。手は駄目です!」

「離せバカ八一。この、っ――」

 

 ここに女王と女流帝位の長く深い確執が生まれるのだが八一はどうすることも出来ない。ただ姉弟子の普段より苛烈な攻撃を耐え続けるのみであった。

 




 雷ちゃんでした。

 誤字報告ありがとうございます。やはりありましたか…お恥ずかしい。


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第七話

 中央区に大阪の象徴としてそびえ立つ城の縄張り。桜が咲きだした西の丸庭園に荷物を持ちこむ八一と銀子。彼等は大手門から入り中の仕切門で入園料を支払い外堀沿いに奥へ進む。桜の下に着くとシートを広げ大事そうに布で包んだ携帯将棋盤を取り出した。

 時刻は朝9時、清滝一門の花見開始時刻は12時。場所取りを兼ねて二人で将棋を指して待とうという考えだ。平日の早い時間、入園料の必要なエリアとあって周囲に人は少ない。

 

「邪魔」

「折角の風情が…」

「何?」

「何も言ってませんよ」

 

 81マスにのめり込む二人の間を何度も遮る薄桃色。頭上に咲き誇るソメイヨシノの主張も銀子からすると対局を邪魔する物に過ぎなかった。花より将棋と上を見ない二人。真下に陣取っておきながら酷いものである。

 

「負けました。…次お願いします」

「負けず嫌い」

「姉弟子が言いますか?」

「うるさいうるさい」

 

 集中して5、6局も指すと昼が近くなり庭園には人が増えてきた。中央では大手ピザチェーンから唐揚げまで屋台が出張って観光客を引き寄せている。銀子の容姿と将棋盤、八一を遠目に見る者も現れ始めた頃師匠と桂香さんが来てくれた。

 

「場所取りありがとう銀子ちゃん、八一君」

「二人きりで花見を楽しんでたちゃうん?目出度い弟子にも乾杯や」

「もう酔っているのですか師匠」

「気づいたら何本か開けてて外国の方とも一杯…。もう、真っ直ぐ歩いて!」

 

 桂香さんは虚空に杯を掲げる酔っ払いをシートに座らすと弁当箱を開け始めた。鮭から梅干しまで揃い踏みのお握り各種が顔を出す。

 

「ぷはっ。この和風ツナうまいやんけ。八一おかかと交換せんか」

「いいですよ」

「桂香さんソースは?」

「はいこれ、特製品よ」

「ありがとう」

 

 肉巻きおにぎりにドバドバとソースをかけ食す姉弟子。黙しておかかを食べる八一。新しく瓶を開ける師匠と皆の世話をする桂香。

 清滝一門毎年恒例の花見光景である。 

 

 

 

 

 朝6時、おろしたてのスーツに着られた少年が自宅アパートのドアを出る。まだ人通りの少ない道を通り将棋連盟の三階棋士室へ。着くやロッカーから盤駒と時計を取り出し椅子の内一つを選んで座った。練習将棋相手が来るまで眠っていた脳細胞に血を通わせる。早出は一人暮らしを始めて道草を止めてくれる姉弟子や友がいなくなった八一の遅刻対策である。

 

「期待の新人サン。こなたの相手をしてくれやす」

「はい。お願いします」

 

 ドアを開けて部屋に入って来たのは供御飯万智山城桜花。去年は女流玉座の挑戦者となり銀子と対局もしていた。彼女の暴力的なまでの固さを誇る穴熊は一戦の価値がある。しかし彼女は来月山城桜花の防衛戦を控える難しい時期のはず。更に言えば京都からここまで一時間半なのでこの場にいる為には泊まりか4時起きが必要となる。

 

「大事な時期に俺と指していいのですか?」

「八一サンがええんどす!いけずなお人やなぁ」

「…光栄です」

 

 対局を始めて少しすると徐々に棋士室が埋まってきた。周囲は二人の対局に興味を持つが供御飯の様子を見てそっと離れる。彼女が完全に熱くなっていたからだ。当てられた周りも静かになり時計と駒の音だけが響く朝が過ぎる。長期戦の末八一が彼女の守りを撃ち崩し最後の攻勢を防ぎきると対局は終わった。

 

「四間飛車を指すとは予想外どす。しかもこの戦法は…」

「すみません」

「こなたもええ経験になったしかまいまへん。寧ろ見せてええんどすか?」 

「この手で穴熊のエキスパート以上に良い研究相手はないですよ」

「おおきに。この一局は誰にも話さへんよ」

 

 九頭竜サンとの秘密やーとにこやかに笑う京美人に八一も苦笑い。小さい頃からの長い付き合いなのだが何かと揶揄われ続けてきた八一は供御飯の弄りに上手く返せないのだ。天敵と言ってもいい。 

 

「ほな、こなたは大学に行くのでごめんやす」

「はい。対局ありがとうございました」

「誰か、未来のタイトルホルダーが暇しとりますえー」

「はぁ」

 

 感想戦も終わり気づけば1時間以上経っているがまだ足りない。集中の具合を確かめたい八一は手の空いている棋士を見つけると手当たり次第に対面へ誘う。相手の若手棋士、奨励会員も白星が先行する八一を負かしてやろうと自分の研究内容をぶつけてくる為有意義な時間となった。

 

「負けました」

「ありがとうございました」

「また強くなってないかい?」

「今日は一段調子が良いんです。むらが無いというか…これを公式戦で出せれば」

「うん。自分の管理も大事だ」

 

 昼休憩を挟んで指し続けもう夕方、一日の最後と対局した相手は鏡洲飛馬三段。奨励会員にして若手プロを退け新人戦で優勝、名人と対局をした経験も持つ実力者。八一が奨励会入りした時から何かと世話になった人である。頭を下げる鏡洲に八一は返礼して感想戦に移る。

 変化手に対応していると鏡洲に質問された。

 

「時に八一君は不調に陥った時の対処法とか決めているかい?」

「…より最悪の事態を想定して比較する…ですかね」

「それに比べれば大したことじゃない、か」

 

 八一の対処法は根性論。冷静な様で元は熱血漢なのだから仕方ない。習慣や気分転換などの方法を予想していた鏡洲は苦笑する。

 

「姉弟子に比べれば自分は面倒ですよ。彼女は不調でもひたすら将棋を指して元に戻しますから。まあ止め際に苦労しますが」

「それ八一君と何処が違うのかな。まあ初めてこの部屋に来た時の彼女は凄かったけどね」

 

 姉弟子も自分と同様鏡洲に一から世話になっていた。彼女が棋士室に初めて来た時の事件は今でも笑いの種である。

 

「その節はすみませんとしか」

「ちゃんと付いててあげなよ。八一君の傍なら大人しいのだから」

「姉弟子を止めるなんてとてもとても」

 

 駒を動かす指を止めずに二人でくっくと笑う。鏡洲の手が止まり感想戦も終わりかという時八一は口に出せずにいた質問をした。

 

「それで鏡洲さんはどうなのですか?」

 

 そも鏡洲が振ってきた話題で聞き返されて然るべきもの。恐らく鏡洲はこの質問を待っていたはずだと。八一の質問に将棋盤を見つめる鏡洲の笑顔は威嚇闘争の物に変わる。

 

「俺か、俺は大きな波をまた起こしたいのさ。プロで勝ち上がる八一君を見てそう思えた」

「鏡洲さん…」

「あと5回で勝ち越しも終わり。ここらで全賭けくらいの心意気でないと」

 

 盤面から顔を上げた鏡洲の目は強い闘争心で満たされている。八一も決して他人事ではない。彼の師匠は前期順位戦B級1組から降級し2組で再起を狙い自身もC級2組で一局に人生を賭けて戦うのだ。

 春、束の間の休息は直ぐに過ぎ去り熾烈な争いがまた始まる。

 




 誤字報告ありがとうございます。今回は無いと思ってました。


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第八話

 今から六年前、奨励会に入ってすぐの頃。あるアマチュア名人の記念対局に記録係として潜り込んだ自分は全てにおいて傲慢未熟に過ぎた。尊敬する一手損の”伯父さん”が不利な盤面でも敗れるとは欠片も思わず何処かで逆転するだろうと予想していた。

 僅か三年で師匠や姉弟子に出会った時の衝撃を忘れていた愚か者である。

 

 

 

 

 八一は師匠に呼び出されて清滝邸へ顔を出していた。玄関扉を開けると来客の靴が二足。ただいまの声も小さく静かに居間へ向かう。声をかけて和室に入ると師匠の対面に月光聖一将棋連盟会長と秘書男鹿ささりの姿が目に入り流石の八一も驚いた。

 

「ご無沙汰しております月光会長、男鹿さん。」

「はいお久しぶりです。崩して構いませんよ。」

「失礼します。」

 

 許しを得て師匠の隣に座る八一。この世で最も尊敬する二人がそろい踏みの状況に困惑する。確かに兄弟弟子の関係で昔は月光がこの家を訪れる度に世話になっていたが最後に会ったのは何時だったか。

 

「本人が来たところで本題に入りますか。」

「おう。八一が関東の女流棋士を引っかけたことについて…。」

「違います。」

 

 師匠の言葉を月光はバッサリ切った。外でほんの僅かにドタッと音がした気もする。月光会長は見えない目をちらりと外に向けるも此方に戻して言葉を紡いだ。

 

「稽古仕事の紹介です。」

「レッスン、ですか。」

「はい。将棋界に長く援助をして頂いている実業家の孫娘さんへ指導をお願いしたい。」

「しかし自分はただの四段ですよ?良い先生なんて他に幾らでも。」

 

 暗に他の人へ回せと告げる八一に月光は涼やかな顔で言葉を続ける。

 

「先方の希望で史上四人目の中学生プロ棋士に教わりたい、と。」

「…ファン、ですか?」

「そうですね。ここは私の顔を立てると思って受けては頂けませんか?」 

「ええんやないか八一?稽古の経験は他所と比べて少ないやろ。そんなんじゃ解説とかできひん。」

「分かりました。お受けします。」

「お願いします。」

 

 師匠の言葉に受諾したものの八一の表情は固い。自分が人に物を教える器ではないと分かっていたからだ。男鹿から出先の情報を受け取るもまだ迷っていた。

 

「何、深く考える必要はありません。八一君にとって教えやすい相手ですよ。」

「どんと行って来い八一。」

 

 月光と師匠の言葉が混乱する八一の耳に届くことは無かった。

 

 

 

 

 数日後、渡された住所メモを手に電車に揺られること小一時間。神戸灘区の高級住宅街に八一の姿はあった。普段の怖い物知らずはどこへやらネクタイの位置を弄っては戻している。

 

「先方の名前も聞き忘れるとは…。いや、此方から名乗れば問題ない。」

「九頭竜先生でいらっしゃいますね?」

「…はい。」

 

 八一の考えはスーツ姿の女性に崩された。続いて門内に並び立つお辞儀黒服サングラス集団。追い打ちで陣太鼓の迎えに八一の頬は引きつる。

 

「どうぞ屋敷の中へ。」

「…はい。」

 

 広大な前庭を抜けると豪華な玄関で一人の老人が待っていた。小柄だが風格があり隠しきれない威圧感を感じる。その道の人間と八一は判断する。

 

「始めまして九頭竜先生。当家の主、夜叉神弘天でございます。」

「夜叉神?…お初にお目にかかります。私九頭竜八一と申します。」

 

 夜叉神の名字に数年前の対局が思い浮かんだ。月光会長がわざわざ稽古を回してきた理由もそれならば納得できる。しかし八一は夜叉神アマ名人と関係があるのかを聞こうとして止めた。前を行く弘天の背中がどこか寂しい物だったからだ。

 

「月光会長の仰られた通りの御方だ。こちらへどうぞ。」

「お邪魔します。」

「これが孫娘の天衣になります。」

 

 弘天が天女と夜叉の描かれた襖を開けるとそこには黒衣の少女が正座している。彼女の紅玉と赤みがかった黒髪を見てあのアマ名人の娘だと八一には分かった。

 

「貴方が私のレッスンプロ?来るのが遅いのよ。」

「これ、天衣。先生は時間通りお見えになられておる。」

「いえ、遅れてすまない。九頭竜八一だ。じゃあ、指すか。」

「ふん。」

 

 駒を並べ終えると八一は鞄から対局時計を取り出し将棋盤の横に置いた。そして自陣から飛車を駒箱に仕舞う。

 

「まあ妥当ね。」

「一番手直り、持ち時間は40分、その後は60秒。」

「ふうん。負けても知らないわよ。」

「何、指せば分かる。」

「「…お願いします。」」

 

 

 飛車が無い八一に対して定跡通り4筋を攻める天衣。対して八一は脳内に眠る膨大な棋譜から攻撃の隙間に金と桂馬で逆襲し116手で一局目は終了。

 二、三、四局目と攻めては痛い反撃で連敗した天衣は六枚落ちの第五局を目尻に涙を貯めて開始した。

 

「殺す。殺す。」

「天衣!」

「構いません。」

「…後で頭を下げさせます。」

 

 天衣が定跡通りの綺麗な将棋を崩したのは終盤。逆襲の一手を指した八一に対し天衣は自陣に持ち駒を打ちつけ守りを補強し始めたのだ。

 構わず更なる杭を撃ち込む八一に天衣は守りを固め逆にカウンターすら狙って見せた。

 

「ここまでだな。」

「くぅぅうう。ううううぅぅ!」

 

 しかし数手の後八一は天衣の王を詰ませる。連敗し追い詰められ最後の最後に垣間見せた彼女のスタイルに八一は興味を持ちつつも。

 

「挨拶をしろ。」

「今度は負けない!!」

 

 ボロボロと涙を流しながらこちらを睨みつけ叫ぶ天衣。ドタドタと部屋を出ていく彼女に長い間観戦していた弘天氏が溜息をつく。

 

「天衣には厳しく言い聞かせておきます。数々の非礼申し訳ありません。両親が揃って事故死してあれは誰も近くに寄せ付けなくなりまして。両親と指した将棋が唯一開いた戸なのです。」

「っ!…こちらこそすみません。強く当たりすぎました。」

「あれくらいで良いのです。孫相手ではどうしても甘やかしてしまいます。」

 

 弘天氏は下げた頭をゆっくり上げると口を開いた。そこに対局前までの風格は無く一気に老けて見える。

 

「…彼女の父はさぞ将棋がお強かったのでしょう。」

「アマチュア名人でした。ところで天衣は勝てなかった様ですが…。」 

「本人が次を望んでいますし続けますよ。」

「ありがとうございます先生。…あれは去年の夏頃から先生を希望してましてな。ありがとうございます。」

 

 その言葉を聞いた八一は借りを返す時が来たと決心する。

 

「帰ります。彼女に声をかけていってもいいですか?」

「勿論です。晶君案内しなさい。」

 

 豪華な扉の前に彼女のお付だという女性に案内される。ノックしたが押し殺した泣き声以上の返事がない部屋に八一は宣言した。

 

「夜叉神アマ名人との約束を守るに俺はまだ力不足だ。自分自身が満足出来る実績を獲って来る。それまでは稽古で待ってくれないか。」

 

 少しすると泣き声は止み布切れ音の後扉越しに小さく反応がある。

 

「私が棋士を目指した時点で師匠になる約束よ。そっちの年齢は関係ない。」

「すまん。俺が納得できない。」

「このクズ。一年で顔も知らない奴の弟子になるから。そのままプロになってボコボコにしてやる。」

「それは…それで楽しみだな。」

「この…手を抜くんじゃないわよ。先生!」

 

 

 

 

 盤面は月光名人の一手で攻勢逆転した。しかし夜叉神アマ名人は光速の寄せに入った名人の10手連続王手を防ぎきり勝利する。後の感想戦で名人の変化手に感心していた夜叉神アマ名人は最後に記録係の少年が示した23手の月光玉詰みに驚いた。

 そして”やはり自分にプロは無理だ。将来この小さな奨励会員に娘の師匠になって欲しい”と奨励会編入試験の薦めを断る。

 その少年は劣勢状態で勝ちを拾った夜叉神の手こそ対局中見えていなかった。感想戦で詰みに気づいた自分の負けなのに目の前の男はプロにもならず娘を任せると言う。勝ち逃げの様で無性に腹が立って対局室を去る男を追いかけた。

 

「なら勝者のお願い、いやごめん。これは押し付けがま…。」

「分かった。」

 

 少年は敗北と共に約束を一片一句違わず記憶に刻み込んだ。 




 姉弟子…?

 次の投稿は間が空きます。


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第九話

 放置ぷれい


 九頭竜八一は史上4人目の中学生棋士である。将棋界では言わずもがな世間一般でも少しは名の知れた存在。無愛想、世間に疎いなどの面もあるが変人の多い将棋界。そのくらいの欠点は個性と広報は判断した。逆に八一の隠せないある欠点はお偉方の目に止まる。

 東京千駄ヶ谷にある将棋会館の一室。八一をはじめ歩夢や若手プロ棋士が数人机に向かい背筋を正して筆を持っている。

 プロ棋士が参加する部活のうちの一つ書道部。大阪にも同様の部活があるにも関わらず八一がここにいる理由はこのままでええやろと放任されていた事が関東に漏れたからだ。

 

「字はその人を表すと言います。つまりこれが自分。これを変えると己も変わります。」

「はい、まずこれを真似て書いてね。」

「…。」

 

 無常にも先生に渡された用紙には八一の書いた下手な”逆境道”より遥かに達筆なお手本が。有無を言わさぬ先生に八一はこの程度の試練乗り越えずどうすると筆を取る。

 

「力を込めすぎだね。そこは川の様に滑らかに。」

「ぐぎぎ。」

「そんなにぷるぷるしなくても。」

 

 しんにょうの部分で力加減に苦戦する八一の隣では歩夢が自在に筆を操っている。ゼロか全力の八一に比べ歩夢の変幻自在なタッチは正に優雅。

 

「ふはは。我が友よ見るがいい、我が筆捌きを。」

「おい、汁を飛ばすな。」

 

 墨汁を扱うのに白いスーツは脱がない。そのくせ格好付けて書くものだから滴が飛び散りクリーニング代が掛かる。それが神鍋流。

 

「歩夢は何しに来たんだ。俺を笑いに来たのか。」

「彼はよくここに来ては自分の台詞を書き出している。流石は豆腐屋の息子。彼を勧誘したんだけど自分は騎士だとすっぱり断られてね。」

「完成だ。」

 

 なるほど豆腐屋は兎角、歩夢が自慢気に見せてくる用紙には無駄に綺麗な字で”ホーリーランス”と書いてある。名前欄は勿論ゴットコルドレン歩夢。相も変わらず自分を貫き書道を楽しんでいた。もう入部してしまえ。そして自分の悪筆は個性だ。

 

「まあ彼はおいて問題は君だ。」

「ぐぅ。」

「3時間みっちり教えよう。君程教え甲斐のある子は久しぶりだ。」

「お願い、します。」

 

 書道教室が終わるまで三時間延々と三文字だけを書き続けた八一。袖口と頬を黒くして最後に書いた作品は何とか及第点を獲得した。

 この日を境に八一のサインが激変。後にそれ以前に書いた独特なサインはプレミアがつく、かもしれない。

 

 

 

 

 朝早く大阪を出て午前中一杯を書道教室に費やした八一。午後は歩夢と原宿のカラオケでVSを行おうと大通りを南進していた。いつもは歩夢の下宿先を使うのだが今日は彼の師匠の事情もあって使えないらしい。関東の会館は検討以外の場所使用が制限されて少し不便だ。

 あの一局以来歩夢に対し負い目があった八一。その悩みは歩夢が平然と八一宅に来たことで有耶無耶になる。聞けば八一と玉座一次予選決勝で当たると思っていたから自粛していたと歩夢は怒った。

 

「次に我等が棋戦で当たるのは何時になるやら。」

「とっとこC1五段に上がったのはそっちだぞ。」

「我が敗退してなければ決勝で闘えたのだ!」 

「急に叫ぶな。周りに迷惑だ。」

「す、すまない。」

 

 唯でさえ一方の恰好で目立つ二人に周囲の視線が集中する。流石の八一も若者の街で向けられる生暖かい目は堪えた。

 歩夢にとって八一と予選の頂点で戦うというのは見逃せない物だったらしいがそれは熱血漢の八一も同じなのだ。

 少し歩いて場所を移し八一が先の話を続ける。

 

「賢王戦は本戦まで勝ち上がる必要があるからな…一番早いのは毎朝杯、棋帝戦、駒王戦か?」

「それも全部予選組が違う。」

「なに、勝ち上がればいいだろう?」

「尤もだ我が友よ!」

 

 勝ち続けたらどの棋戦でも対局するだろうと指摘する者はこの場にいない。何だかんだ同世代で突出した強さを誇る二人の対局率は高いのだ。

 気分良くカラオケ店へ入る二人へ店員が不可解な確認をしてくる。心なしか店員の視線は二人からずれていた。

 

「三名様でよろしいですか?」

「二人で…。」

「うーん、本当は二人がいいけど。まあいいよ。」

 

 後ろから少女の声で返答がある。二人が振り向くとそこには不敵な笑みを浮かべる祭神の姿があった。薄く化粧を決めて高校の制服に身を包んだ彼女はすっかり原宿の子である。

 

「たまたま八一を見つけちゃって。」

「あー、我はお邪魔なら帰るぞ。」

「お、気が利くね。じゃ二人で。」

「いや、祭神。今から歩夢とVSをするんだ。すまんがまた今度な。」

「…分かった。またね八一。」

 

 歩夢をじっと見つめて返答した祭神。手帳に何やら走り書きすると破り八一に押し付け去って行く。それには電話番号とメールアドレス、見覚えのあるIDが書かれていた。

 

「これは、なるほど。執着されたわけだ。」

「あれが祭神雷か。強者の気配を感じたぞ。」

 

 天を仰いで過去の所業を思い出す八一。自分が三段リーグに上がる前まで姉弟子とパソコン画面へ向かった場面が頭に浮かぶ。二人して肩を並べ顔も見えない敵と対局した時、強敵認定したIDと一文字たりとも違わない。

 

「歩夢には届かないさ。ああ、二人でお願いします。」

「はいぃ。」

「む、お主顔が青いが大丈夫だろうか。」

「だ、大丈夫です。すみません。」

「うむ、体調には気をつけるのだな。」

 

 歩夢が八一のVS相手でなければ相手を追いやるまで彼女は諦めなかっただろう。強さこそ全ての有り様にやれやれと肩をすくめ料金を払う八一である。

 

「紅茶でいいな?」

「うむ。では始めるか。」

 

 集中しだすと遠くからかすかに聞こえる音楽も全く気にならない。ボックス席には3時間駒を指す音と時折漏れる呻り声、溜息が響いた。珍しく必殺技の一つも叫ばず感想戦まで終え深く息を吐いた歩夢はぽつりと呟く。

 

「我は敗退したが貴様は負けるでないぞ。」

「ああ。」

 

 

 

 

 竜王戦本戦出場をかけた6組決勝は千賀五段と九頭竜四段の対局となった。

 九頭竜は珍しく先手を引き当てると周囲の予想を外して端歩を突き更に角道を塞ぐ。そして飛車を6筋に振り四間飛車を盤上に出現させた。

 駒組が進み穴熊を組む千賀に対し居玉のまま九頭竜は4五歩と開戦。交換した角を盤に打ちつけた九頭竜に千賀は得意の受けを捨て飛車先の歩を突撃、相手の左翼に喰らい付く。ここまで九頭竜が後手だと言われた方が信じられる展開だ。

 中盤互いに玉へ迫る場面があるも決定打とならず飛車交換を機にどちらも受けに回らない殴り合いは更に過熱。103手目、乱打戦を制したのは九頭竜四段であった。

 感想戦で終盤の己が手を批評した九頭竜はあまり良くないと締めくくった。苦い顔(だと思われる無表情)の九頭竜は本戦への意気込みを先達を追い抜く気で戦うと語る。

 将棋界の新星は一段上の舞台に新たな手札を揃えて挑む。彼の竜王戦本戦に注目したい。

 




 駒王戦についてどこか記述ないかしら。あ、マンガ買いました。

 
 多くの閲覧、評価、お気に入り登録、感想、誤字報告ありがとうございます。



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盤外二話

 7月半ば大阪駅に直結した大型複合施設。200強のファッション、雑貨店を目当てに多くの人が集う。その内の一つに銀子と桂香の姿があった。二人は朝からメンズ物を探して幾重もの店舗をはしごしては長考を繰り返す。

 

「これなんてどう銀子ちゃん?」

「女子受けしそうで嫌。」

「ああ、去年の伊達眼鏡はねー。」

 

 桂香さんがネクタイの並んだワゴンからネイビーのドット柄を手に取る。なるほど確かにグレーのスーツに合う。既に休憩も含めるも見繕い始めて5時間経つ。やはりさっきの黄色が良いかなと商品に指を滑らせる。

 

「いっそシルバーとかどうかしら?さっき買ったネクタイピンと合わせて周りのライバルに差をつけるの。」 

「もう、桂香さん!あ、これ。」

 

 色鮮やかな陳列の中から赤のストライプに手を伸ばす。燃え上がる情熱を落ち着いた外装で覆う。彼を体現した装いではないだろうか。

 

「良いと思うわ。」

「うん…。」

 

 私同様服装に興味の無い彼は今の対局服に深い拘りは無いだろう。彼にしては頑張ったダブルスーツの選択は店員の助言に違いないし渡せば付けてくれると思う。

 装いの変わった彼にインタビューがとんで私の贈り物だと公言してくれたり?

 

「ぅう…。」

「決まりね。」

 

 

 

 

 その後桂香さんと帰宅するも長時間の外出疲れと外の高い湿度、気温を前に今夏初めて体調を崩した。帰宅してクーラーを入れ自室で横になっていると聞き慣れた階段を上る足音が耳に入る。慌てて今日買った商品を隠して身嗜みを整えているとドア超しに八一の声がした。

 

「姉弟子、起きてますか?」

「起きてる。」

「氷とタオルを持ってきました。」

 

 寝癖を枕に押し付けて隠し入室の許可を出すと部屋の温度差に顔をしかめた八一が入ってきた。視線が部屋を一周したのは無粋な物でなくリモコンを探しているのだろう。枕の下に隠したので絶対に見つからない。

 

「どうぞ。」 

「ありがと。」 

「設定は27度にして下さい。この先辛いですよ。」

「今だけ。」

 

 火照った体に冷えたタオルが心地よい。交換した氷嚢を手に部屋を出ようとする八一に迷った末あの話題を投げかけた。違う。本当はもっと他愛もない話をしたい。

 

「ねえ。」

「はい。」

「本当に弟子をとる気?」

「はい。」

 

 自分の質問に困った顔をしつつ言葉数少なくも正面を向いて答えてくる八一。彼が考えなしに行動したとは思っていないし理解者でありたいと思っている。ただ相手が女の子という一点が気に入らない。ここは一度その子に立場を分からせる。

 

「今度ここに連れて来なさい。一応姪になるのだし。師匠も孫と聞いて煩いの。」

「本人に聞いておきます。あまり社交的な子ではないので。」

 

 返答は芳しい物で無かった。彼が自分以外の子を守る構図に少し、いやかなりイライラする。

 

「甘やかしすぎじゃない?」

「8歳の頃の姉弟子も似た感じでしたよ。」

「…うるさい出てけ。」

「水分はとってくださいね。失礼します。」

 

 望んでもない言葉が口から出てしまった。理不尽な命令にも従って出ていく八一を止める術はない。階段を下る音が止み静けさが訪れた。部屋が一気に冷えた気がして冷房を止める。

 

「バカ。」

 

 枕下に並べた将棋雑誌の中から一冊を取り出しいつものページを開いた。この一冊を誤魔化す為に興味もない将棋雑誌を適当に並べている。

 

 

 

 

 週刊将棋2015年10月7日号【インタビュー】九頭竜八一四段

 大型新人棋士の強さに迫る (文・構成 鵠)

 

―四段昇段おめでとうございます。三期目にして三段リーグを15連勝、最終成績16勝2敗一位の成績で戦い抜いたご感想は?

 

「最終日に喫した一敗の悔しさは忘れません。」

 

―まず定番の質問です。得意の戦法は?

 

「相掛かりと一手損角換わりです。」

 

―半年リーグを戦うにあたってコンディションの維持が大切だと思います。休息法などはありますか?

 

「休みには姉弟子(空銀子女流二冠)と将棋を指してます。他ですか?棋士室に来る人なら誰とでも。貴方もよく指しますよね。将棋以外?…サッカー観戦ですかね。昔に一門で見に行って以来の趣味です。速攻シーンとか見ていて楽しいですよ。」

 

―棋士としてサッカーから発想を得るのですか?

 

「自分は何も考えずに見ています。意外、ですか。生で応援していると細かいことは考えにくいので。普通に楽しんでますよ。」

 

―中学生棋士として注目されていますが将棋を初めて指したのは何時ですか?

 

「恐らく3歳の時です。父と将棋盤に向かう写真がありました。朧気に父と兄に挑んでは負けた覚えがあります。その悔しさは今でも思い出せますね。よくある話じゃないでしょうか。」

 

―清滝鋼介九段に弟子入りした切っ掛けは?

 

「6歳の時福井の将棋イベントに来ていた師匠と指導対局をしたことです。二枚落ちでどうだと言われたので喰らってやろうとしたらタコ殴りにされました。」

 

―その後大阪に住み込みで弟子入りしたのですね?

 

「はい。毎日将棋を指す相手がいる環境に身を置けました。最初は一勝も出来なかったですが。」

 

―ここまで誰かに負けた話が多いですが。

 

「お陰で自分には伸びる鼻もないですね。」

 

―空銀子女流二冠がよく話に出てきますが九頭竜さんにとってどのような存在ですか?

 

「掛け替えのない存在です。」

 

―最後にプロデビュー戦は山刀伐尽八段との対局ですが心意気は?

 

「最後まで諦めずに戦います。」

 

―ありがとうございました。 

 

 

 

 

 たった三期、されど三期、時間にして一年半。変化の少ない表情筋の下で激しい感情を隠していたことを身近な者は知っている。

 一期目は10勝で残留。二期目、神鍋歩夢との最終戦を残して12勝するも敗れ次点。(腹立たしいことに八一が認める)ライバルに追い抜かれた直後三期目の成果であった。

 大切に本をラックへ戻してベッドに倒れこむ。

 

「バカ八一。」

 

 そも全18戦の三段リーグで昇段確実と言われる15勝の壁を破る時点で入口に立ててすらいない私との差は明確。そして八一はプロ入りし今も上へ登り続けている。

 彼との距離を実感させる一品を何度も見てしまうのはたった一文のせいだ。自分でもつくづく度し難いと思う。

 

 

 

 

 一月かけて竜王戦決勝トーナメントで上位組の高成績者相手に5連勝した八一。8月11日に関西将棋会館で行われた射森文明八段との挑戦者決定三番勝負第1局。ベテランに挑む若者は燃え上がる闘志にシルバーとオニキスでアクセントを加えた装いで登場した。

 



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第十話

 勝負事であるがゆえ将棋界においても番狂わせは昔から起こってきた。60年以上前に創設された棋戦を起源に持ち現在序列一位のタイトル戦。頂点に座する竜王に挑む権利をあと一勝でひと月前まで15歳だった子供が得てしまう。これを大番狂わせと言わず何を言うのか。狭い世界の隅っこを除いて世間の認識はこうであった。

 ベテランの意地を期待する者。若人の躍進を期待する者。若者を脅威と捉え警戒する者。その将棋に興味を持つ者。将棋界隈のみならず世間お茶の間まで巻き込んで三番勝負は注目を集めた。

 朝10時前、関西将棋会館前に現れた八一に報道陣は身体を差し込み質問とマイクを突き付ける。常時フラッシュが光り押すな踏むなの怒号が飛び交った。

 

「九頭竜四段。今日勝てば竜王挑戦者となりますが今の心境は?」

「今朝は何を食べてきましたか?」

「姉弟子の空銀子女流二冠とは何か話されましたか?」

「時間ぎりぎりの登場ですが自信があるということでしょうか?」

「一所懸命に戦うだけです。残りは対局後にお答えします。」

 

 八一はプロ入りから幾重もの似た事態に慣れたのか一言述べるとさっさとエレベーターに姿を消した。対局に遅刻させるわけにもいかず強く引き留める者はいない。彼等は後の仕事を対局室でおしくらまんじゅうをしているだろう同僚に任せ次の仕事場に散っていった。

 対局室に一礼して入った八一は既に上座へ座っていた相手に向き直った。

 

「今日も勝たせてもらいます。」

「はは、これだから若い子は面白いんだ。負けないよ。」

「こちらこそ。」

 

 対局者は八一が奨励会員の時から将棋を指す仲で先輩後輩関係にある。休日の早朝、棋士室に必ずいる二人の子供。彼等と頻繁に盤を挟んだ棋士の一人が東から移籍してきた射森文明八段であった。一級線のプロ棋士との対局経験が今の八一を構成する大きな役目を果たしたのは間違いない。

 九頭竜は第1局の振り駒で相変わらず後手を引いたので今対局は射森が後手。そろそろ九頭竜は歩に好かれるのか後手を吸い寄せるのか興味が湧いてくる。

 

「定刻になりました。竜王戦挑戦者決定三番第2局は九頭竜先生の先手で始めてください。」

「「お願いします。」」

 

 長く頭を下げた九頭竜はゆっくりと初手2六歩と指し射森は3四歩と返す。すると報道陣が退出し静かになった対局室に射森の言葉が響いた。

 

「かかって来い。」

「…。」

 

 八一の返答は7六歩。お前こそかかって来いと戦型を射森に委ねた。射森はその無言の答えにそうでなくてはと笑みを浮かべて飛車を4筋に振る。更に角交換四間飛車かと持久戦に備える九頭竜を焦らして玉を動かす射森。対する九頭竜の玉も鏡合わせの様に追従する。

 机の下での殴り合いは過熱。射森が3筋へ飛車を振り直して三間飛車へ移行、飛車を高位置に配すると九頭竜はすかさず角交換を行った。

 

「昼食のご注文は?」

「うな重を。」

「冷やし中華をお願いします。」

 

 両者固く構えることなく相手の変化に対応せんと駒組みに余裕を持たせたまま午前は終了。ここまでの消費時間は両者きっかり一時間と後半の激しいぶつかり合いを予感させる均衡である。

 昼休憩を挟んで盤上に互いの持ち駒を投入するも開戦はせず突き出た駒を狙う程度の小競り合いが続く。その間にも九頭竜は角を囲いに取り込み射森は銀冠で守りをより強固にする。

 

「かああぁぁ!」

「しっ!」

 

 夕食の後小火が膨れ上がったのは81手目飛車交換直後。突如気勢を膨れ上がらせた射森は駒台から次々と九頭竜の陣に駒を打ち込む。3八飛車を機に九頭竜の金銀を自陣の守りと交換で剥すと猛攻撃を仕掛けたのだ。

 飛車切りを始めとして持ち駒を打ち続け連続王手をかける射森に対し九頭竜は冷静に玉を動かし8連続王手をしのぎ切る。

 132手目射森八段は長い溜息をつき負けましたと発した。

 

「ここは?」

「はい。攻め急ぎました。」

「ふむ、もう少し付き合ってもらうよ。」

「勿論です。」

 

 感想戦の後射森八段と会館二階で行われていた大盤解説会に顔を出しインタビューを受けて一息つく。師匠と姉弟子、桂香さんを探すかと彷徨っていると棋士室の扉が眼前にあった。はてどうやって階を上ったか、どうしてここに来たのかと思いつつも扉を開けるとそこには銀色。

 

「ぁ、勝ちました。」

「見てたから知ってる。」

「師匠と桂香さんは?」

「下で待ってる。帰るわよ。」

 

 大阪の熱帯夜。蒸し暑い空気も構わず一門は騒がしく家路につく。4人共電車を使う気分でもなかった。

 

「うむ、八一。次もしっかりやりなさい。」

「ふふ、お父さん対局中ずっとうろうろしてたのよ。最後なんて…。」

「け、桂香言わんでええ。」

 

 姉弟子がこそっと師匠が大盤解説会に乱入して一悶着あったことを伝えてくる。昔から数々の破天荒は見てきたが今回もやらかしたそうだ。

 それよりももし勝てたらと思っていたことを頼むとしよう。

 

「師匠、次も勝って来ます。」

「おう、赤飯は持ち越しや。その前に和服を揃なければ。」

「その、第1局は師匠の和服を借りてもいいですか?」

「ん?二連勝したしぎりぎり仕立ては間に合うやろ。安心せい。得意先だから優先してくれる。全く違和感ないぞ。」

「そうですね。…すみません。」

「もう!黙って貸してあげて。八一君はお父さんの和服で勝負したいのよ。」

「お、おうそうか。全局着てもええ。」

「そこは対外的に仕立てが間に合わず初戦だけって形にしたいんでしょ。このひねくれ者は。」

「桂香さん、姉弟子。その、声が大きいです。」

「はっはは、あの八一が、16になって初めて我が儘を。っげほげほやはり赤飯炊くか。」

「師匠のつまみと姉弟子のソース作りませんから。」

「「っな!!」」

「あらあら遅い反抗期祝いもかしら。」

「…。」

 

 一駅分の道のりをゆっくりと。自宅のある路地を通り過ぎ線路沿いに。6歳の時から長くを過ごしたもう一つの家へ。

 

 

 

 

 8月中旬に行われた三番勝負第1局。後手番となった九頭竜は同じ一手損使いの射森に対し真っ向勝負を挑む。激しい攻撃の応酬が行われた末九頭竜が初戦を制した。

 そして10日後の今第2局。対局終了時間夜22時19分。投了する射森に九頭竜は固く握りしめた右手を左手で解くと深く頭を下げた。

 九頭竜八一四段は七段へ昇段、次期竜王戦1組昇級。16歳1ヵ月での史上最年少タイトル挑戦、七段昇段の報はその日のうちに日本中へ広まるだろう。

 竜王戦七番勝負は10月から最長12月末まで行われる。報道が過熱していく中人々は少しづつ期待するのだ。あり得るかもしれない史上最年少タイトルホルダーの誕生を。

 



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第十一話

 夜叉神邸の広い庭園を一望できる縁側。真夏とは思えない心地よい風が吹き抜けるそこで八一は天衣に稽古をつけていた。春から始まったそれはどんなに棋戦が立て込んでも週2回を守って行われている。

 

「ふん、七段くらいで良い気にならないことね」

「未来の弟子は棋界の頂点をお望みか」

 

 パチンタンッ、ぴたんタン。駒と時計を打つ音が風に流され消える。盤上では過去と現在の八一が向かい合っている。ここ数ヵ月で天衣は八一から棋譜に乗せなかった術を吸収し続けていた。そこには八一が一門以外に見せることを拒む深層まで含まれる。

 

「貴方が自分で言い出したことでしょ。ボケたの?」

「そうだな」

 

 バチッ。十数手の後八一の銀が天衣の玉を追い詰めた。主な逃げ場は金が塞ぎ龍が銀をカバーしている。一目見て分かる詰みの形だがそこまで投げずに続ける精神を初対面から八一はかっていた。自分の将棋を教えるに根幹となる一柱がそれであるからだ。

 

「ま、け、ま、し、た!」

「誰かに負ける度にそれをするのか?」

「貴方だけよ」

 

 気の強さ、負けず嫌いも勝負師としていい要素なのだがと八一は頬をつく。明らかにこの子は挑発、揺さぶりに弱く見えるからだ。もっと言えばそれを含めた対人経験、そこからくる揺るがぬ精神の不足。受け師としては致命的な弱点である。

 まず最低限の支柱を叩きこんで後は大阪で鍛えると変化を教える為に駒へ手を伸ばした。

 

「ねえ、駒の指し方を教えてよ」

「ん…ああ、音の出し方か?確かに此方の気まで抜けそうな音だが」

「うるさい。早く教えなさい」

「人によって違う」

「この際貴方のやり方で良いわよ」 

 

 キリ良く感想戦も終わりどうしたものかと考えていたところ天衣が言ってきた。稽古時間ももう直ぐ終わるのでまあいいかと普段行う行為を言葉におこす。しかしどうも感覚の部分を上手く口に出来ない。

 

「持ち上げ方はそれでいい。次に親指を使いながら人差し指を裏面に持っていく。最後に中指と人差し指で駒を挟み盤に打ち下ろす」

「??」

 

 ぴたん。ペタン。ぺし。

 

「…今は指し方よりも覚えることがあるだろう。数をこなせばそのうち出来る」

「ちょっと、投げないでよ!それでも将棋の先生なの!?」

 

 無意識に行うことをどう説明しろと言うのだ。立ち上がって天衣の右隣に移動する。

 

「手を借りるぞ」

「え」

「人差し指を素早く抜くんだ。狙いはマスのど真ん中。多少ずれてもしれっと直せ」

 

 小さな手に自分の手を重ね狙いのマスに誘導する。

 パチンッ。

 

「時間だな。次は順位戦があるから5日後だ」

「…竜王戦にかまけて降級点をもらわないことね」

「無論だ」

「九頭竜先生。本日もありがとうございました。晶お送りしなさい」

 

 パチンッパチンッと響く音を背に長い廊下を歩く。前を行く黒スーツ姿の女性は天衣のお付の女性である。19歳にして会社勤めの立派な社会人だそうだ。いつも大阪まで送り迎えをしてくれる為少し話す間柄となっている。

 彼女は車を湾岸幹線道路に乗せると丁寧な運転をしながら話しかけてきた。

 

「お嬢様は最近明るくなられた。先生のお蔭だ」

「自分の勝手で待たせる酷い奴ですよ」

「先生の時間を貰っているのはこちらだ。それも下手な師弟関係以上にな」

「お金を貰ってますから」

「頑固とかひねくれ者とか言われないか?」

「よく言われます」

 

 福島駅近くの通りで止めてもらい歩道に出た。夕方の帰宅ラッシュと重なりなにわ筋は中々の人通りである。

 

「ああ先生、我々からの礼だ」

「?」

 

 窓超しに手渡されたのは四角い箱。断って開けると上等な名刺入れが入っている。そういえば名刺を切らしていたなと思い出す。さて何枚刷ればいいだろうか。

 

「返品は受け付けない。ちなみにお嬢様の誕生日は12月10日だ」

「覚えておきます。晶さん達も覚悟しておいてくださいね」

「何だ?我々に勝負をしかけるのか?」

「ええ、倍返しです」

「伝えておこう。ではな」 

 

 滑らかな発進をした黒の高級車は瞬く間に視界から姿を消す。八一は見えなくなった車に背を向けて西日が差し込む路地に姿を消した。

 

 

 

 

 まあ毎年恒例ね。7月に銀子ちゃん、9月始めに八一君、10月末は二人共。年下の姉と兄は揃って不器用で、互いに何を贈られても喜ぶくせに毎年私に助言を求める。

 銀子ちゃんは何だかんだ可愛い選択をする。しかし八一君は破壊的だった。現に彼が私を連れて向かったのは中央区の千日前。雑多な店が並ぶ道具屋筋を通り脇道に逸れた場所にある碁盤店である。女王防衛の記念も兼ねて大幅な予算増額をしたと彼は言うけれど。

 

「いらっしゃいませ八一さん、桂香さん」

「こんにちは」

「お久しぶりです天辻先生」

 

 天辻碁盤店の店主にして囲碁大三冠の一つ本因坊の保持者がにこやかに挨拶してきた。彼女の逸話を幾つも知っているので結構緊張する。

 彼女は机の上に並べた平たい駒箱を3つ撫でて口を開いた。

 

「今日は八一さんにぴったりな物もありますよ」

「2つではなかったのですか?」

 

 そう言って一つ目の箱の蓋を開けると中には黄楊材に昇竜の書体が盛上された一品。隣を見れば呻り声を上げる八一君が。くっきりした虎斑模様でどんなに価値あるものか分かってしまう。

 

「さる駒師の初代作です。御蔵島の黄楊材を使った一品物」

「今日は姉弟子への贈り物を見繕いに来たのでまた今度に」

「ああ誰かが先に買ってしまうかも」

「…。」

「冗談です。私も売り時と相手は選びます。そうですね…八一さんが竜王になったらお売りしようかしら」

「!?」

「ぜひ手に入れてくださいね」

 

 ああ八一君の目がここまで揺れるのはいつ以来だろうか。恐らく7桁するだろうに販売条件を満たした時彼の収入を考えると手が届いてしまうのだから恐ろしい。

 

「さて最初は特上彫金竜」

 

 二つ目の箱からは同じく黄楊材に特徴的な字体が彫られた駒一式が現れた。駒字のハネが独特で武士が源流の書体は銀子ちゃんによく合う気がする。練習から本番まで十分使えるので実用的だ。

 

「次は極上彫菱湖」

 

 天然木の柾目に彫られた流麗な筆致。磨かれた駒は木の艶を出し手触りも最高だろう。単純な美しさは前者を上回る。どちらにしろ銀子ちゃんが贈られて嬉しくないはずがない。

 

「八一君。これ2つのどっちが良いかってこと?」

「自分では姉弟子の好みが分からず。すみません」

「八一君が選びなさい」

 

 正直言って八一君が選んだ方が正解なので下手に先入観を与えた瞬間私の敗北である。今年の八一君はなかなか優秀で私のツッコミは不要だったらしい。天辻先生もにこにこと頭を抱える少年を見つめている。

 

「これをお願いします」

「まいどー」

 

 普段は頼りになるのにこういう面では本当に手のかかる兄なのだ。まだまだ私が付いていなければなるまい。

 何やかんやで9月9日以降銀子ちゃんの愛用駒は変わった。

 



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第十二話

 10月中旬。普段のスーツとは異なり紺のシングルで京都駅へ降り立った八一。隣には信濃介一竜王。竜王登場回数2、獲得2期、全日本プロトーナメントをはじめ多くの優勝経験を持つ対局相手。前には案内の連盟関係者、供御飯さんもいる。

 今から行われるのは対局室の検分。棋具や照明の具合など対局に関することを事前に確認する。バスで30分ほどの対局場に着くと既に立会人、解説、記録係が既に座っていた。

 盤と駒の確認が済み対局者の目は室内に向けられる。黙々と駒を触って感触を掴む八一の周りでは大人達が忙しなく動いていた。

 

「少し机が近いです。照明は少し暗くお願いします」

「このくらい、ですか?これ以上はちょっと…」

「今ちょうど良いです」

 

 ピンと張り詰めた空気の中次々と要望を出し自分に合った空間に作り変える竜王に対し八一は無言。気を利かせたのか立会人が何かないかと聞いてくれたので何もないことを伝え礼を述べておく。

 

「九頭竜先生の字は上達しましたかな?」

「まだ勉強中です」

「はっは」

 

 検分の後色紙や駒箱に揮毫する場面。笑みもこぼれる和らいだ空気の中八一が書いた文字は勇気。竜王戦にあたって八一が増やしたレパートリーだ。バランスも上手さも並だが勢いで持たせたそれに頷く連盟のお偉方。名前は相変わらず力の入れすぎで不格好だが以前の八一を知る者は大満足である。

 八一と信濃が食事のメニューや封じ手についての確認と供御飯さんのインタビューを終えると一同は部屋を後にした。

 

 

 

 

 夕方京都中京区に門を構える老舗ホテルの宴会会場。中心市街地で頭一つ飛び出たこの建物に将棋関係者、来賓、ファンが続々集結する。200人を越える老若男女はこれから行われる竜王戦前夜祭に参加する幸運な人達である。

 司会者が連絡を受けマイクを手にとり時間を告げる。隣と雑談していた人達は口を閉じ主役の登場を待つのだ。

 

「さあ九頭竜君も前に出なよ。若い子の目当ては君だろ」

「はぁ」

 

 30代にして甘いフェイスを持つ信濃はこちらの背を押してくる。八一はここまでの観察で良くも悪くも己のペースを貫く人物だと判断した。このタイプは歩夢への対応で慣れている為大きな問題はない。

 そうして広間への入口を潜った自分と目の前の男は万来の拍手で迎えられた。主催会社社長、月光会長、京都市長とあいさつが済み乾杯。自由に歓談する時間となる。

 

「九頭竜先生!対局頑張ってください!」

「先生、一緒に写真を撮ってもらえますか?」 

「奨励会の時からファンでした。お会いできて嬉しいです」

 

 挨拶回りを終え少し時間ができるや否や次から次へと着飾ったファンに詰めかけられる八一。一人一人丁寧に対応するも遠巻きにタイミングを伺う人は増える一方。その間を縫ってちらほらと棋士が声をかけてくれる。

 

「お疲れの様だね八一君」

「…鏡洲さん」

 

 鏡洲飛馬新四段である。9月まで行われた三段リーグは1局残して二位争いが11勝が5人並ぶ大混戦となった。鏡洲さんは最終局で白星をあげるも12勝は4人。成績を加味した順位順で二位を落としてしまう。

 だがここで鏡洲さんの積み上げてきた物が光った。順位が上の二人が昇段、敗退したことで次点を獲得したのだ。他者が得ても悔しさを助長させる物でしかないが彼にとってのそれは2回目。フリークラス編入の資格となる。

 権利を行使した鏡洲さんは10月付けでプロになったのだ。

 

「啖呵を切っておいて格好良く一位抜けはできなかった。けどこれもまた俺らしい。より出口は狭くなったけどまだまだ戦う。そのうち君とも対局したい」

「…はい!」

 

 彼は次に10年の期限でプロを相手取って好成績を収めなければならない。それは歴代で片手の指で足りる程度の前例しかない狭き門。だが八一は鏡洲さんならやるだろうと思えた。

 

「じゃあまた。あまり人気者を取っちゃ恨まれる」

「昇段おめでとうございます」

「よせよ。ここは君が主役だってのに」

 

 手を振って人だかりに消える彼を見送る。少し心が熱くなったところで飲み物を探して歩いていると乱暴な言葉に止められた。

 

「ようクズ大人気じゃねえか。良かったなあ」

「お久しぶりです月夜見坂さん」

 

 関東から来てくれたのか月夜見坂燎が全く似合わないスーツを纏って現れた。幼い頃からの付き合いである彼女はまれに関西の棋士室に来ては供御飯さんと将棋を指す仲でもある。

 

「じょ、女流玉将、九頭竜先生とお知り合いだったんですか?早く紹介してくださいよ!」

「面倒くせえ。勝手にしろよ」

「初めまして第1局でニコニコ動画の聞き手をさせて頂きます鹿路庭です。お話は山刀伐先生からよく聞いてます。デビュー時から尊敬していました」

「九頭竜八一です。よろしくお願いします」

「鹿路庭お前いつもの☆酷いですよー☆的な反応はどうした。猫々かぶりかぁ?」

「黙ってて下さい。これでいいんです」

 

 女流棋士も色々あるのだろう。天衣のこともあるし伝手を持っておいて損はないかと八一は考える。しかし目の前の女性は何か苦手だ。

 

「先生を注視している若手は多いんですよ?年下に負けるかって気持ちもあって皆無関心を装いますけど」

「はあ」

「竜王戦応援していますね。あ、それと挑決1局の45手目なんですけど…」

「おら向こう行くぞ鹿路庭。クズはそろそろ棋士紹介がある。それに視線がそろそろヤバい」

「ちょ、あと少しだけ」

「お前、今度殺されるぞ」

「ええ!」

 

 月夜見坂さんが鹿路庭さんを引っ張って人混みに消えると入れ替わりに見慣れた制服姿が目に入った。その左手は魚料理をのせた皿を持っている。

 

「ほとんど食べてないでしょ」

「すみません姉弟子」

「断って食べないからよお人好し」

「まあ立食パーティーですし。部屋で何か頼みますよ」

 

 姉弟子のチョイスは八一の好みで固められている。渡されたカツオの刺身を頬張ると戻り鰹特有の脂が舌でとろけ頬が緩む。お茶を一口欲しいと思えば烏龍茶が入ったグラスを突き出される。そっけなさの中にある気遣いが頬を更に緩める。最も外見上の変化は僅かなのだが。

 

「ふん、早く行きなさい」

「ありがとうございます」

 

 次のプログラムの為に八一は壇上へ向かうのであった。

 

 

 

 

 翌日行われた竜王戦七番勝負第1局遠州寺対局は振り駒の結果九頭竜八一七段が後手となった。午前9時2六歩8四歩で開始された対局は二度のおやつと昼食休憩を挟んで九頭竜の封じ手で中断する。

 戦型は相掛かり。居玉を貫く九頭竜に対し信濃介一竜王はじわじわと形勢を傾けるに止め大攻勢に打って出ない。時間を使った九頭竜の反撃も上手く刺さらずついには形勢の天秤が信濃に傾いてしまった。明日は九頭竜の持ち駒を使った大攻勢が見られるはずだ。

 



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第十三話

 京都の曇天に反撃の狼煙は消えた。

 

 竜王戦七番勝負第1局2日目。九頭竜七段の封じ手は持ち駒を切った9二角。信濃竜王はその顎を開けて攻撃を待ち構えるも九頭竜は構わず2枚目の角を投入。休憩明け最後まで取っていた銀も盤上に打ちつけ総力戦を挑んだ。

 しかし竜王の2四飛が常に睨みを利かせ九頭竜の大反攻を許さない。攻防で押し負け玉の頭に成銀を指されると九頭竜の守りは崩壊した。重い腰を上げた飛車、寝返った角を前に薄い守りはずたずたにされる。自陣で敵龍が二匹暴れ回る事態を前に九頭竜は長い沈黙の後投了した。

 

 

 

 

 序盤の読み合いに負け開戦を強制させられた。どうしようもなく追い詰められてからの反攻。自分が最も忌避する将棋を指した事に怒りが湧く。窮鼠や背水の状況へ受動的に追い詰められてからの反撃は逃げの攻撃。そんなものは後ろの脅威から前へ逃げているだけだ。心が逃げていてどうして相手に勝てるだろうか。

 状勢に関わらずいつでも決死の一撃で喰らい付く。それが自分の定めた受け将棋。だと言うのにこの2日間の将棋は何だ?

 

「っ負けました。」

 

 すぐに押しかけた記者達に囲まれ主催会社の記者を先頭に観戦記者達の質問が始まる。

 

「次の対局へ向けての心意気を教えてください。」

「気を抜かずに戦います。九頭竜君は恐いですから。」

「竜王防衛へ好発進ですがファンの皆さんに一言お願いします。」

「皆さんが楽しめる対局にしたいですね。」

 

 自分にも何か質問されたと思うが怒りを抑えるのに必死で何と答えたのかも分からない。悔しい。情けない。師匠の衣を羽織って挑んだ対局での無様な敗北。それもただの敗北ではない。こうあれと決めた自らの心柱を傷つけられた。

 目の前の竜王を見る。軽薄に見える態度の中でその目が一瞬だけ此方を捕えていた。明らかに此方の状況を観察している。そしてようやく相手が最初からこれを狙っていたと理解した。

 その後は感想戦どころか大阪駅に着くまでの記憶がない。

 

「…。」

 

 自宅にたどり着き盤に向かって考える。時間がない。対局前の自分なら迷うことなく相掛かりで復讐するはずなのだが徹底的に自分を見ている竜王相手にそれで良いのか。まず間違いなく読まれているだろう。

 思考の冷徹な部分が今は耐えて2局目は復調に当てろと諭し燃え盛る怒りが相掛かりを主張する。そして己の選択に疑問を持った第三の自分が振り飛車で奇襲をと囁く。以前の自分ならどれを選んでいたかも分からない。

 

 

 

 

 神奈川箱根で行われた竜王戦第2局。前局同様相居飛車が決定した時点で相掛かりだと確信した筆者は首を傾げることとなった。九頭竜七段は選択を信濃竜王に委ね選ばれた戦型はノーマル角換わり。前局の反省か序盤から積極的に攻め立てる九頭竜。昼食休憩を挟んだ33手目早々飛車を切る九頭竜に控室はどよめきが広がる。

 一日目で終わらせる。そんな声すら聞こえてくる速攻を竜王は冷静に玉を動かし対処し逆に5筋を咎める。その後角道を塞いだ九頭竜の一手に竜王が長考に入りそのまま一日目は終了した。

 

 

 

 

 夜が明け信濃竜王の封じ手が開かれた第2局2日目。九頭竜の攻勢はまたも飛車に止められた。これが竜王だと言わん一手であっけなく龍と成るや九頭竜玉を睨む。対して何かに憑かれたかの様に攻撃を止めない九頭竜。信濃竜王は反撃を防ぐと余裕を持って寄せに入った。

 対局終了時間は午後1時58分。8時間の持ち時間を3時間以上余して投了した九頭竜に彼を知る者は一様に口を噤んだ。

 

 

 

 

「八一!」

 

 遅遅として湧かない戦意に将棋盤に向かう気が失せるなどという人生初の事態に呆然としているといつの間にか目の前に姉弟子がいる。最後に顔を見たのは何時だったか。恐らく心地良い時間だったような気がする。

 

「姉弟子?」

「っち、近くに来たから寄っただけ。」

「そうですか。」

 

 十年続いた慣習が自然と盤を挟んで会話させていた。そうすると手が寂しくなるのでどちらからともなく指し始める。先程まであった将棋盤への拒否感は何処かに消えていた。

 互いに一言も発さずそれでいて居心地は悪くない。何故だろうか?ずっと一緒にいて隣にいるのが当たり前になっていたからか。 

 

「これ。桂香さんから。身体を大事にって。」

 

 ゆっくり一局を指し終わると姉弟子が脇に抱えた紙袋を突き出してくる。中にはまだ暖かい料理の入ったタッパーが複数。朝から何も食べていなかったことに気づく。約束を破ってしまった。 

 

「いらないなら捨てる。」

「いえ、頂きます。」 

「あと師匠から言伝。」 

 

 その言葉にピクリと体が跳ねる。師匠には顔を合わせるのも恐くなって和服も返していない。とんでもない無礼を働いてしまっている。

 

「聞きます。」

「儂の服は一敗が目立つ程度の汚れちゃう。関西将棋の泥臭さを忘れたか?いけ好かないイケメンを血祭りにあげて来い。だって。」

「…師匠。」

「私も本気で女流玉座守るから。一緒にタイトルを贈ろう?」

 

 心の奥底で消えたと思っていた火が燃えだす。師匠とて今季の順位戦は相当苦しいはず。それでも身を割いてタイトル戦の戦い方を教えてくれた。その大恩を少しでも返したい。その思いを忘れていた?

 自分の矜持が傷つけられたから何だ。全て師匠から与えられた物でないか。それをコケにされてこのまま消えるのか?

 情けない自分だがこれ以上師匠に心配をかけない為に。清滝一門が健在だと世に知らしめる為に。その教えを次世代に受け継ぐ為に。

 分かりやすすぎる答えが目の前にある。ここまでお膳立てされて前に進めないなど嘘だろう。

 

「はぃ…はい!!」

 

 清滝一門は卵焼きの好みが醤油派2人砂糖派1人ソース過激派1人。姉弟子は桂香さんが作った料理を捨てるなど嘘でも言わない。不格好な卵焼きが塩辛いのは塩のせいか頬を伝う滴のせいか。夜誰もいないキッチンで八一は黙々と口を動かし続ける。

 

 

 

 

 11月初旬に行われた竜王戦第3局福岡二日市対局。天才武将ゆかりの地で若武者は竜王を相手に初めての軍配を上げる。この対局で九頭竜の手が作り出したのはどこか彼の師匠を思わせる矢倉囲い。その守りは穴がある様に見えて玉への最後の一手を通さない。築城の名手が憑依でもしたのか守りを得た九頭竜は更に踏み込んだ攻撃を繰り返す。

 ここ九州の地に九頭竜は完全復活した。

 




 8巻出ましたよ(ボソッ


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第十四話

 クリスマス・イブ前日。帰郷でもお世話になる特急列車で向かうは決戦の地。石川県七尾市に位置する高級温泉街の代表格名宿ひな鶴である。こうも温泉地が続くと姉弟子が温泉好きになるのも良く分かる。

 駅から旅館までマイクロバスで向かうと通行人がちらほら手を振ってくれた。恐らく大盤解説の参加者だろう。三連休の初日ともあって何事かと此方を見る家族連れも多い。

 玄関で旅館の女将さんが出迎えてくれる。

 

「ようこそお越しくださいました。当宿の女将雛鶴亜希奈でございます」

「九頭竜八一です。よろしくお願いします」

 

 すぐに彼女自ら宿泊部屋と対局室を案内してくれるそうだ。臥龍鳳雛の間。そこが2ヵ月続いた戦いの終結地である。美人女将に信濃竜王が将棋の話題を振って一刀両断される一幕があり検分が速やかに行われた気もするが他に問題なく夕方となった。

 

「君が九頭竜君?まだ子供やないけ?」

「雛鶴の奴が生きていたらどんなに喜んだことか」

「亜希奈ちゃんを説得するが大変だったわい」

「まあ一杯飲まんか」

 

 地元関係者が集まった前夜祭。何故か来賓が多く挨拶回りが大変である。気の良い人達が大半なのが救いか。背中をばんばん叩いては飲めない酒を勧めてくる。断るとわははと笑ってお前の分もだと飲む。

 赤ら顔が揃ったテーブルに小さな子が給仕に来てくれた。

 

「料理をお持ちしました」

「おお、あいちゃんあんやとなぁ」

「これ儂の孫なんじゃけど会ってみん?」 

「うーん。お母さんに相談してみます」

「あ、いやせんでいい。ほ、ほーや知とっけ?この先生はな。次勝てば竜になるんや」

「りゅ、竜ですか!」

 

 苦笑して勝てばねと頷く。女将さんそっくりの容姿を見るに旅館の娘さんなのだろう。目をきらきらとさせて此方を見上げてくる様は見ていて微笑ましい物がある。人気が出るわけである。 

 

「それも竜の王や」

「竜の王様!?」

「儂は先生と仲良しだからあいちゃんの為にサインをあたろう」

「わー」

 

 既にキラキラが溢れ出ている子供を前に断る選択肢はない。彼女はこちらに頭を下げると戦利品を抱えて部屋を出て行った。入れ替わりに入ってきた女将さんが此方を見ている気がするが気のせいと思いたい。

 

「かんにんな先生。ついのう」

「いえ、既に腹はくくってますので」

「はっは。あんたなかなかきかんじー。気に入った!」

 

 応援する気があるのなら背を強く叩くのと飲み物に酒を混ぜるのを止めて欲しい。老人は更に周囲の有力者を呼び始めた。現地の熱心なファンを得たと考えて少し分からない方言の嵐に相槌を打つことにする。

 

 

 

 

 竜王戦七番勝負第7局ひな鶴対局一日目。朝8時43分臥龍鳳雛の間に入室したのは九頭竜七段。遅れること8分、信濃竜王が上座に着くと両者は駒を並べ始める。定刻9時。8期振りに第7局までもつれ込んだ激戦の主役はここに揃った。

 

「「よろしくお願いします」」

 

 両者無言のまま4手まで進める。八一は元々言葉が少ないので竜王が黙っていると言うべきか。記者達が退出する間もなく2六歩、8四歩、2五歩、8五歩と指され控室ではどよめきが広がった。第1局で竜王の研究に抑え込まれた相掛かりを八一が受諾したからだ。

 

「…っ!」

 

 竜王は八一の歩を取った飛車を元の位置まで引いて銀を矢面に立たせる。すると八一も飛車先の歩を突き8五飛として棒銀の構えを見せる。

 昼食はのどぐろの刺身。初めて食べたとろける食感に大満足の八一。午後開始の一手は長考から繰り出された3五歩。この一手で盤面は過去の棋譜から外れ未知の領域に突入した。

 互いに角交換をしたところで再び間食。ぜんざいで頭の回転を上げた八一は相手の銀を押し返すべく桂馬を手に取った。

 両者自陣の整備に力を入れんとしたところで九頭竜の封じ手で一日目は終了する。

 

 

 

 

 朝早く控室では弟子と駒を動かす清滝九段に見知った記者が声をかけていた。つんけんした弟子の視線に臆せずメモを構える。彼女は午後から大盤解説があるので控室を離れなければならず機嫌が悪いのだ。

 

「清滝先生はここまでどう見ますか?」

「…流石にこのまま居玉は苦しいやろ。八一だから分からんが」

「九頭竜七段が厳しい、と言う事で?」

「文句があるならかかってこい八一!!」

「えぇ…」

 

 記録係の読み上げに従い盤上に指し手が再現される。そして封書から出された紙に赤字で記された九頭竜の手は4一玉だった。

 開幕早々長考合戦となった二日目。画面上の九頭竜は右手で和服を握りしめじっと考えこむ。彼の身体がピクリと動くと一手が浮かんだ証左。それからしばらくして盤上に一手が指される。

 九頭竜は竜王が矢倉を組み終わり進めた歩の後ろに角を叩きこんだ。

 対して竜王は冷静に刺さった杭を対処し右翼から攻め上がる。 

 

「もう時間か。銀子」

「…」

 

 タブレットから目を離さない弟子を連れて清滝九段は部屋を出て行った。会場まで徒歩数分の距離だというに一途なことである。

 

 

 

 

「ぐるぅぅぅ!!」

 

 甘い仮面をかなぐり捨てた竜王の呻り声が聞こえる。激しい攻撃で自陣の左翼は崩された。だが今度は此方の番である。

 駒台に手を伸ばし桂馬を取り盤上に叩きつける。次いでこの時の為に取っておいた馬を最奥に飛び込ませる。残りは歩が6枚。行け。

 がらがらの自陣に角を打たれる。構わない。行け!

 盤面に現れた飛車が龍と成り敵玉の前でこちらを睨む。全く恐くない。行け!行け!!行け!!!

 

 

 

 

 石川から南西に250キロ離れた大邸宅の一室。少女は横で騒がしいお付とPC画面を見つめる。後学の為よ。と理由を付けて初戦からこうしていた。右手で上手く開閉できない扇子を握りしめて師匠となる男の戦いを見続ける。

 

 

 

 

 飛車と金を射程におさめる6一角に対し飛車捨て覚悟で敵玉の近衛に歩を進める九頭竜。竜王は飛車取りを諦め不届き者を始末するもそこに突っ込んでくるのは先程見逃した飛車。強烈な攻めに会場には喝采が上がる。

 

「よっしゃ行け八一。そこや。む、竜王め早速龍を作りおった。じゃが攻める。よしよしよーし」

「あの、清滝先生。解説をお願いします」

 

 壇上の清滝九段(乱入の前科持ち)にお目付け役の連盟職員が駆け寄るも勢いに負けて大騒ぎになった。何故関西の職員をつけた。銀子はこれ幸いと師匠を止めず棋譜の更新を待つ。一応大盤も片手間に進めてあげるあたり優しい。

 

「師匠をこの解説に呼ぶのが間違っているのよ…」

 

 最早解説会にあらず応援上映の有様。その形勢は何故か現地のファンが増えた九頭竜側が押している。12月の寒さを吹き飛ばして余りある熱気は唯観光に来ていた人達も巻き込んだ。

 

 

 

 

「…すごい」

 

 お祭り騒ぎの温泉街を見下ろして少女は呟く。この事態を引き起こした主役を彼女は知っている。差し入れを買って出て控室で画面越しに彼を盗み見る。ただ黙ってボードゲームをする姿が何故ここまで格好良いのか。どうして周囲を熱くさせるのか。自分も指せば分かるのだろうか?

 

「格好良い!」

 

 

 

 

 必死に上へ逃げる竜王の玉を小駒が執拗に追い詰める。128手目遂には盤のど真ん中まで来た敵玉の前に八一が音高く打った駒は銀。竜王に突き付けられた剣は確かに光って見えた。

 騒がしさが徐々に近づいて来る。史上最も若い竜王がここに誕生した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 りゅうおうの初おしごと!

 

 その戦いは打ち上げの場で起こった。どんちゃん騒ぎの関西棋士達の中で浴びる様に酒を飲んでいた清滝九段は突如立ち上がりこう叫ぶ。

 

「わしは…将棋や!」

 

 更に浴衣を脱いで全裸となりそれに触発された関西若手棋士達も追従。人間将棋をせんとロビーへ続く通路を疾走する集団と対峙したのは用を足しに席を外していた八一である。九つの頭を持つ竜王の咆哮がクリスマスの夜に響いた。

 




 多分間違ってる金沢ことば 

あたる もらう 
じー  驚嘆~だね
きかん 気が強い
~け? 親しみをこめた終助詞。~かい? か? より優しい
ほーや そうだ 指示語のそがほになる
語尾  男/女 がいや/がいね わいや/わいね ぞいや/ぞいね(どれを用いるかさっぱり

ほんなががいいがか? そんなのがいいのか? 準体助詞の→が 指示語そ→ほ
 


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第十五話

 竜王戦が終わり途中福井に帰郷し大阪に戻って来た八一。早速今年中に溜まった用事を済ませんと動き出した。まず天衣と師弟契約を結ぶ為に彼女を連れて会館事務所を訪れる。

 棋士の卵達が集い研鑽を重ねる研修会。一昨年東海、今年は九州と新しく研修会が開かれ関東と全国を二分とは言えなくなったがその熱気は今も変わらない。

 最も今日は別の意味で騒がしかったが。

 

「例会は月2回第2、第4日曜日に開かれる。幹事指導者は久留野義経七段、本田修二七段、佐東貴文六段。棋士と奨励会員による指導もある」

「は?今月もう過ぎてるじゃない。大阪まで呼んでおいて馬鹿なの?」

 

 早速噛みついてくる彼女に苦笑して言葉を続ける。初めて会った時と変わらず黒の衣服を纏い良く通る声で話す物だから容姿と相まって周囲からの視線が絶えない。

 

「今日は稽古のついでに書類を出しに来た」

「郵送しなさいよ。給料減らすわよ」

「残念ながらお前はもう弟子なんでな。その手は効かん」

「っち」

 

 舌打ちして扇子を弄りだした彼女と三階事務所で連盟職員と入会手続きを行う。しかし周囲は相当忙し気だ。聞けば取材要請から入会の電話、果ては迷惑電話まで殺到しているらしい。自分のせいだったこともあり具合が悪い。

 

「はい、お終い。竜王の推薦を断る訳ないです」

「良かったな」

「ふん」

「こんな時に来なくても試験当日でいいんですよ?」 

「すみません。早く済ませたかったんで。あとこれ皆さんでどうぞ」

 

 両手に下げた糸谷堂特製ロールケーキを差し出す。棋士室に詰める棋士会員達にも十分行き渡る量だ。少し財布が軽くなった。

 

「これは、先生も悪ですなあ」

「よろしくお願いします」

「絶対分かってないわよこいつ。まあ、お願いするわ」

 

 何やら意味あり気な言葉だったが良く分からない。取り敢えず頼んでおけば間違いないだろう。そして左隣が先程から自分に厳しい。

 会館の自動ドアを出て右へ。駐車場の白線ぎりぎりで収まる高級車へ向かう。精算機の前で待っていた晶さんは当然の様に後部ドアを開けて天衣を待つ。いつも天衣の側を離れない彼女だが今回はここで待つと聞かなかった。

 

「それでどこに行くのよ?」

「浪速区恵美須東。ここから車で10分少しの場所だな。晶さんがいて助かります」

「先生も二輪を取ったらどうだ。16だろう?」

「考えたことも無かったです」

「止めておきなさい。多分事故るわ」

「……」

 

 一瞬18で大型を乗り回す自分を想像したのだが天衣の一言で夢と消えた。阪神高速を飛ばす車の後部座席で少しだけ落ち込む。ままならないものだ。

 

「あ、貴方は将棋指しておけばいいのよ」

 

 先程まで尖っていただけに分かりやすく気を使ってくる弟子の言葉が痛かった。

 

 

 

 

「何よここ」

 

 車を降り高架を背後にタイルの敷かれた道へ入り左折。更に狭いアーケード街へ入る。焼き肉、串カツ、飲み所、理容店、射的屋まで立ち並ぶ横丁。目的地は姉弟子共々お世話になった道場だ。晶さんに人混みから守られながら横丁に足を踏み入れた天衣は周囲を見渡し顔をしかめる。

 

「新世界。今日の稽古はここで行う」

「こんなところでか?」

「自分と姉弟子も通った道です」

 

 歩きながらネックウォーマーを引き上げ野球帽を取り出し深く被る。目の前には将棋盤と囲碁盤が並ぶ正面がガラス張りの店。幾人かのギャラリーが立ち見して中を覗いている。

 

「レベルが低いわ。相手にならない」

「相手がいなくなったら次の場所へ変える。一端指して来い。ああ…」

 

 奥に特徴的な人物を確認し笑みがこぼれた。ポケットを探り角の潰れたタバコの箱を取り出す。机の中に仕舞っていた懐かしき思い出の品だ。よれた跡は姉弟子の仕業である。

 

「先生?未成年だろ」

「強い人と手っ取り早く戦う為です」

「これタバコ…じゃなくて千円札ね」

「ん、取り敢えず一本賭けて奥の虎柄だ。勝った分は小遣いだな」

「まあいいけど」

 

 扉を開けた瞬間聞こえてくる罵声に固まる天衣。漏れ出た鼻をつく煙で再起したのかバアンッと限界まで開け放つ。そのまま席主を無視して奥へ行ってしまった。金払えと睨む席主に三人分の料金を払い晶さんと彼女を追う。

 

「ハアア?!」

「あちゃー、アホな事してもうたわ」

 

 隣の席を取り晶さんと観戦するも早速やられた様だ。ちらりと見ると角頭歩戦法に迷わず飛び込む天衣の一手が見える。力で捻じ伏せると判断したのか油断しているのか。角交換が済んでしばらく。徐々に形勢が逆転していく。

 

「お前みたいな子供はあのクソガキ共を思い出していかん。踏み潰したくてかなわんわ!」

「何で、何でこっちが不利なのよ!」

「何でやろうなー」

 

 ここで冷静に対処できるかが境目となる。しかし相手の揺さぶりに崩れた天衣はそのまま連敗、次いで別の相手にも連敗してしまった。

 

「嬢ちゃんもう十分じゃろ?別に賭けじゃなくても受けるぞ」

「っくぅぅ!!」

「待ってくださいお嬢様!」

 

 天衣は黒星を4つ重ねたところで駒を盤上にぶちまけ外に駆け出した。残された老人に謝り駒を直す。まんま何時か見た光景にそっくりなので対応は慣れた物だ。   

 

「あのパンサー、次は殺す」

 

 数刻が過ぎ夕方。動物園前で空となった箱を握り潰し地団駄を踏む彼女がいた。八一は彼女が地面に叩きつけたそれを拾い懐に仕舞う。…ポイ捨てはいけない。

 既に定めた稽古の時間を過ぎこのまま解散の流れだ。今日はこれで最後だと今後に関わる事を済ませておく。

 実のところ今日の相手に対して天衣の勝算は十分あった。この数ヵ月で鍛え上げた彼女の基礎力は多少の小細工を跳ね返すレベルにあるからだ。敗因はハメ手への対応、対人経験の少なさ、それに伴う心の強度等多々あるが大元はこれだと判断する。

 

「負けた理由は分かるか?」

「ちょっと動揺しただけ!冷静になれば勝てたわよ」

「そうだな。良く分かっている。では何故実力で劣る相手に連敗するほど動揺した?」

「っ!」

「相手を侮ったな?挑発も勝ち気なのも構わない。ただ対局相手に敬意を払え。それは己の心の緩みを引き締めもする」

「…分かった」

「分かれば良し。素直な子は伸びる」

 

 項垂れる彼女の頭に手をのせると全身で振り払ってくる。

 

「何するのよ!」

「そう気落ちするなと言っている。これは稽古だ。次から気を付ければ良い」

「気にしてなんかいないわよ!」

 

 そう最初から何でも出来たら此方の立つ瀬が無いというのに落ち込むからだ。こっちはようやく師匠らしい教えを出来たというのに。師匠の受け売りだが。

 ちなみに彼の師匠は同じ悩みを抱えた挙句10年経ってようやく少し報われていたりする。

 

「道場の1つや2つすぐに制覇してやるわよ!」

「まあ次のは無理だと思うが。まずは虎柄を倒すことだ」

 

 何処よそれと噛みつく弟子を車に追いやり自分も乗り込む。八一が福島で降りるまで教えろ秘密だと騒がしいやり取りが続いた。

 

 

 

 

 駒の動きを覚えた少女はまず倉庫から引っ張り出した将棋盤で脳裏に焼き付けた駒の動きを再現することから始める。最初に両者の歩が突進するこの形は?

 

「相掛かり」

 

 古びた将棋本から序盤戦術の一覧にそれらしき図を見つけた彼女は目を輝かせた。この調子で読み解けば彼の考えが分かるかもしれない。

 

「あいー。少し手伝って」

「はーい」

 

 親の呼ぶ声に返事をして急いで一冊の本を開き頭に内容を叩きこむ。うんと頷いた少女は広げた物を収納に隠してバタバタと部屋を後にした。

 



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第十六話

 原作も隠す気はないようなので踏襲します。


 関西将棋会館5階御黒書院に関西棋界の面々が集い指し初めの儀式を行う。八一がこの催しを経験するのは11回目。今年はタイトルを引っ提げた彼を負かしてやろうと挑む棋士が絶えない。新年早々最新研究を次々ぶつけられる彼の勝率は芳しくないが相手の策を正面から撃ち破った時は満足気な顔をしているので心配はないだろう。

 本来決着が着くまで指さない縁起物なのだがそれを皆忘れての全力全開である。

 

「……ぽ~」

 

 微かにその声が聞こえた瞬間一同の頬が引きつる。さっと彼を取り囲んでいた若手棋士、記者が散り各々将棋盤や機材、メモに向かい視線を落とした。時折八一にも向けられるそれは後は頼んだと言外に言っている。どうしてここまで上がってくるんだとはここにいる皆の総意である。

 

「おち〇ぽおおおおお!!」

 

 襖が勢い良く開けられ耳を疑う発言と共に入って来たのは着物を着た女性。右手に一升瓶、左手にも一升瓶。振り回されるそれの手が届く範囲に近寄れる者はいない。

 

「八一ぃいい!なかなか来ないから迎えに来たぞ!」

「せ、先生、待ってください」

 

 息を切らして部屋に入って来た姉弟子が駆け寄る女性の名は天辻埋。夏に会った時のお淑やかさは消え去り今の見た目は崩れた着物も相まって痴女である。最も彼女は酔っているのが普通で前回の素面が稀なのだが。被害に合う周囲には何の慰めにもならない。

 関西の棋士が一堂に集うこの場でこの発言をしてもまあしゃあないで済まされる強烈な存在。強く激しい碁が周囲の尊敬と敬愛を集める囲碁棋士。本因坊秀埋通称シューマイ先生である。

 

「八一、1人でお〇んぽしているなら何故下に来ない?私は悲しい!!」

「先程まで皆さんと指し初めしてたんですよ」

「何ぃ。一人だけずるいぞ。私もお〇んぽさせろ!」

「先生も指しますか?」

「おお、八一も私とおち〇ぽするか!」

「だ、駄目です!下に行きましょう先生!」

 

 彼女を尊敬して止まない姉弟子が珍しく無理矢理連れ出す暴挙に出た。逆の手で八一の裾を引っ張るので彼も周囲で待つ対局を背に渋々立ち上がる。

 

「下でお〇んぽするのか?私は上でも構わんぞ」

「…八一助けて」

「いつも通り強いので潰しましょう」

「先に行ってお酒用意しておく」

「先生真っ直ぐ歩いて下さい。下にたくさんお酒がありますよ」

「なにぃ!おち〇ぽがいっぱいだと!」

「はぁ」

 

 先生は気持ちよく酔えて幸せ。周囲も被害を免れて安堵。こうしてシューマイ先生係が固定化しているのであるが2人は知らない。

 到着した新年会会場でシューマイ先生の酌をして、突如戻した師匠の世話も行い、纏めて休憩室に送った弟子達には拍手が送られた。

 

 

 

 

 毎年恒例の波乱を乗り切った翌日。師匠を送り届けてそのまま清滝邸へ泊った八一は賑やかな朝を迎えていた。久しく日本家屋の一階から4人分の挨拶と朝の団欒の声が聞こえる。

 

「頂きます!!」

「八一君おかわりは?」

「ください」

「う゛ぅうう。しじみが効くうぅぅ!!」

「師匠うるさいです」

「八一海苔取って」

「どうぞ」

 

 ご飯に焼き鮭、ホウレン草のお浸し、しじみ汁の朝から手間の掛かった料理が並ぶテーブルに4人が揃う。久しく八一と桂香、銀子の3人で作った力作である。少し濃いめの汁物が良い味を出している。

 

「八一。そう言えば午後から何の仕事で連盟に呼び出されとるんや?」

「自分も聞いてないです」

「わしも月光さんが内容を教えてくれへんかったから気になって」

「お父さん。八一君もそろそろ自分で仕事くらい選べるわよ」

「いや八一もまだ16歳や。そのうち変な仕事に引っかかって将棋を疎かに…いや、ないわ。わしは酷く酔っておる様だ」

「ほら心配ないわよ」

 

 興奮したせいか顔を青くして突っ伏した師匠を桂香さんに任せて皿を片付ける。隣で洗った食器を拭くのは姉弟子。見ない間に随分と家事を出来る様になったらしい。 

 

「八一。時間まで上でVS」

「はいはい」

 

 慣れた足取りで急な階段を姉弟子に続いて上る。数時間後少し慌てて玄関を出る八一の姿を近所の猫が目撃している。

 

 

 

 

「急な呼び出しをしてすみません竜王」

「新年おめでとうございます会長。仕事を回して頂けると聞きましたが?」

 

 連盟の理事室。男鹿さんを傍に付けた連盟会長月光聖一九段と向き合う。彼は役職上関東の指し初め式に出席するので今年会うのは初めてである。机の上に置かれた山積みの書類が彼の忙しさを物語る。

 

「ああ、明けましておめでとうございます。早速本題なのですが竜王はネット将棋を指しますか?」

「少しは覚えがありますけど…」

 

 祭神のことを思い出す。竜王戦前までは彼女が暴走しない程度に指していた。こちらの余裕が無くなって触っていなかったが大丈夫だろうか?

 

「それは上々。見て頂きたいものがあります。男鹿さん」

 

 会長がそう言って男鹿が隣から差し出した物はタブレットPC。表示されたページは連盟が運営するネット将棋サイトのイベント欄。大きなフォントで棋士Zは誰だ?と書いてある。

 

「これがどうしました?」

「今年から始めるイベントです。名を隠した棋士が月変わりでサイトのユーザーと平手早指し対局。勝利者は棋士Zの名を当てる権利を得る。正解なら豪華賞品といったとこですね」

「読めてはきましたけど、良いのですか?」

「2週間足らずで竜王が出張って来るとは誰も思わないでしょう」

 

 昔から割とお茶目なところがある人である。続いて何より公開した時の話題性が抜群であること、駒王戦や毎朝杯をはじめとする早指し成績が良好なこと、スポンサーの強い推薦など次々背景を述べる。

 止めに八一の闘争心を煽る一言。

 

「断ってもいいですよ?」

「引き受けました。止めろと言っても無駄です」

「ああそれとアマ段位免状に署名して行って下さい。取り敢えず今日は50枚でいいですよ。竜王の業務です」

 

 踵を返し退出しようとした八一を会長の一言が引き留めた。仕事を終えくたくたになって退出した少年を見送って男鹿と会長はささやく。  

 

「会長。男鹿はやりました」

「ええ、これで少しはゆっくりできます。ありがとうございます男鹿さん」

「やりました」

 

 通達がギリギリなのはそういうことである。 

 少し躓いたがやるからには徹底的に。先の不調時に帝位、玉座、賢王と落とし竜王戦予選が免除されて順位戦と稽古以外に1月の手が空いていることを幸いと借りた端末でサイトにログインする。

 コラボする将棋世界からユーザーに与えられた棋士のヒントは男性棋士のみ。初戦八一は少し考えていい機会だと飛車を振った。アマチュア棋界の流行は既に掴んでいる。どうせなら徹底的に暴れてやろうと端歩を突いた。

 

 

 

 

 初代棋士Zの正体は終ぞユーザーの手で暴かれることはなかった。正確には月半ばに角交換系を指し始めた時点で犯人の名は棋士Z候補に挙がっていたのだが最初から一切回答の権利が与えられなかった。

 初代棋士Z対局成績74戦74勝1中断局。

 

「遅い」

「少し待って下さい。もう終わるので」

「あと5分」

 

 200は指そうと思っていた対局数が少なくなった主な理由である。

 




 原作八一君はあまりに字が下手で仕事を免除されている可能性がある。


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盤外三話

 苦手な方は飛ばしてください。


【表情筋は】九頭竜八一を泣かしたいスレ83【鋼鉄製】

 

  1:名無し名人

   史上四人目の中学生棋士にして最年少タイトル保持者

   十六歳四ヶ月という史上最速で棋界の頂点に立った

   九頭竜八一竜王について語ろう!

 

  6:名無し名人

   もうこいつは弱点が無愛想くらいしかないのでは?

 

  7:名無し名人

   確かに何考えているか分からん。

   普通あの歳の子供が頂点に立ったら

   もう少しこう…

 

  8:名無し名人

   舞い上がったりするだろうな

 

 10:名無し名人

   対局相手には咆えたりしているぞ

 

 12:名無し名人

   >>7 それも相まっての鉄人

 

 16:名無し名人

   こいつ小さい頃からこんな感じよ

   それで女の子泣かしてた

 

 19:名無し名人

   >>16 マジかよ。竜王サイテーだな

 

 23:名無し名人

   >>16 今から慰めに行きます

 

 26:名無し名人

   >>23 残念ながらなにか九頭竜が声かけてたよ 

 

 28:名無し名人

   はあブチ切れそう

 

 29:名無し名人

   俺小さい頃対局したけど一蹴されてあの鉄面皮だぞ

   相手にされてない様で心折れた

 

 31:名無し名人

   誰にでも全力で指しているだけだぞ

   

 34:名無し名人

   >>28 それでなくとも銀子ちゃんの弟弟子だろ

 

 37:名無し名人

   それな。内弟子同士だから最近まで一つ屋根の下

 

 38:名無し名人

   このご時世に内弟子だと

 

 39:名無し名人

   弟子二人でタイトルとな。なんて師匠泣かせな

 

 41:名無し名人

   俺も将棋指してたらなあ

   今頃女流の方々とお知り合いになれたのかしら?

 

 42:名無し名人

   >>41 やめとけ。おっさんに囲まれるだけだぞ

 50:名無し名人

   29はどんまい。女の子ならいけた

 

 55:名無し名人

   雷ちゃんには容赦しなかったがな

 

 56:名無し名人

   銀子ちゃん侮辱したからね。仕方ないね

 

 57:名無し名人

   あれはドン引きだった

 

 58:名無し名人

   九頭竜どう見てもキレてたよね

   こいつも怒るんだって安心した

   顔はまんまだったけど

 

 61:名無し名人

   そう言えば竜王が弟子を取ったとか噂がある

 

 62:名無し名人

   いやいやそらないでしょ

 

 64:名無し名人

   嘘臭い話多いからなあ。竜王戦で人間裸将棋したとか

   その筋と知り合いが多いとか

 

 66:名無し名人

   書類上の関係かもしれない

 

 70:名無し名人

   そら冷めたもんだな

 

 74:名無し名人

   意外と面倒見良いしそんなことないと思うがね

   サインくれって群がる子供にちゃんと対応してたし 

 

 76:名無し名人

   小さい子の人気も凄いよな

   こうして10年後の支持が約束されるのか    

 

 78:名無し名人

   神鍋がこないだ九頭竜は前世からの宿敵にして

   騎士の敵ドラゲキンなりとか叫んでたよ

   子供はドラゴンキングとか言ってた

 

 80:名無し名人

   イタタタ

 

 82:名無し名人

   九頭竜が目を付けられたのも

   小学生の頃大会で指に包帯巻いてたからなんだなあ

 

 83:名無し名人

   ゑ?

 

 84:名無し名人

   奴も我らの同志?

 

 85:名無し名人

   お前らと一緒にしてやるな

   右の爪が血まみれになるまで指したんだと

   付き添いに睨まれながら左手で指してたよ

 

 86:名無し名人

   いやどんだけ。引くな

 

 87:名無し名人

   俺もフリックしすぎて腱鞘炎なったわ

 

 89:名無し名人

   俺もボタン連打しすぎて豆つぶれた

 

 90:名無し名人

   そこはバットとかにしておけよ

 

 95:名無し名人

   話を戻すが九頭竜はこれからが大変だぞ

 98:名無し名人  

   ドユコト

 

100:名無し名人

   タイトルホルダーは多くの予選が免除される

   いきなり上級棋士と隣り合わせじゃ

   流石に勝率も下がるでしょ 

 

101:名無し名人

   九頭竜は結果的に竜王戦へリソースを

   割いていたと言わざるを得ない

   偉業には変わりないがここから勝たないとケチは付く

   だろうな      

 

102:名無し名人

   狙い撃ちもされるだろうし

   それを跳ね除けてこそタイトルホルダー

 

103:名無し名人

   まずは盤王戦だな

 

 

 

 

 ベッドにスマホを投げて椅子にもたれかかる。緊張を紛らわそうとネットを見ていたのだが随分と弟分に馴れ馴れしい姪を思い出してむしゃくしゃしてきた。クラスメイトに借りたコミックでも読むことにする。タイトルからして想像出来なかったが将棋物らしい。

 

「一月のドラゴン…?」

 

 あまり内容が頭に入ってこない。主人公が少し盤外戦術に弱い気もするが人情物である以上そこは仕方がないのだろう。あと八一の方が断然格好良いと思う。

 パラパラと読み進めていくと主人公が告白するシーンが目に入った。ヒロインの反応を見るに満更でも無さそうだ。相思相愛とは作り話でも羨ましい。

 

「…うぅ」

 

 時間だ。遂に来てしまったこの時に私は焦りを隠せない。一昨年までは良かった。毎日顔を合わせるのだから桂香さんに混じってしれっと(それでもかなりの勇気を振り絞って)物を渡せば問題は無かったから。

 去年は大変だった。VSの約束を入れてそう言えば今日は…といった感じでなんとか作戦成功である。将棋をだしに使ったような気がして気が引けたが桂香さんの一押しで目をつむった。これは戦争なのだ。

 しかし1ヵ月前。去年同様の作戦で行こうとして愕然とした。その日は丁度標的の対局日だったのだ。これではついでといった体裁が取れない。

 以下部屋をなかなか出ない私の醜態にしびれを切らした桂香さんとの会話である。

 

「銀子ちゃん。一度止めると再開しにくくなるわよ。これまでの頑張りを無にするの?」

「分かってる桂香さん。でも!」

「でもも案山子もない!八一君の周りを見てみなさい。綺麗な女流棋士に女性ファン、ストーカー、可愛い弟子に男の子、両刀。竜王になった今年は物をいくつ貰うのかしら?」

「たくさん。八一は人気あるから…」

 

 何か違う気もするが桂香さんの言う事ゆえ心に入ってくる。頭の中がぐるぐる回ってきた。

 

「最早悠長にしている余裕はないわ。最も印象に残るのは最初と最後。だから今回私の分はなしよ」

「そんな!」

「八一君は一歩も逃げないのに姉弟子の銀子ちゃんがそれでいいの?」

「…」

「頑張って」

「…うん」

 

 時刻は既に夜7時。対局の後いつも真っ直ぐ帰る標的は帰宅している頃だ。陽の暮れた道を火照った頬を冷やしながら歩く。予行した言葉を口の中で繰り返していると目的の扉が目の前にあった。

 顔を出した標的は白星を祝うと僅かに笑って部屋に上げてくれた。普段なら満足して盤に向かうところだが今日の私は違う。

 後ろ手に持った小袋を突き出して口を開く。しかし部屋の奥に置かれた袋の山を目にしてしまい出てきた言葉は指示語の一言だった。

 

「これ」

「ありがとうございます。今食べても良いですか?」

「大丈夫」

 

 あんまりな自分の口に落ち込むもたった一言で持ち直す自分の心に呆れる。そして次の言葉で急上昇する。それはもう素直に返事出来る程の舞い上がり様だ。 

 

「とても美味しいです」

「そう。どういたしまして」

「今日の対局を並べ直していたのですが。手伝ってもらえますか?」

「うん」

  

 少し遅くなり帰りに八一の送迎が付いたことも含め満足の結果となった2月14日。少し後の二段昇段に大きな影響を与えたことは間違いない。

 自分でも少しちょろいとは思う。 

 




 月曜日を頑張る皆さんの為にお昼休みに投稿します。





 嘘です。
 



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第十七話

「まあ良かったじゃない。ヘボ昇級だけど」

「むぅ…」

「な、何よ。不満なら全勝しなさいよ」

「そうだな」

 

 八一がプロ棋士になって迎える2度目の3月。佳境を迎えた順位戦に挑んだ八一は粘る相手を突き放し勝利。更に7勝で並んだ他2人が3敗目を喫したことで最後の一枠に滑り込んでいる。上二枠は全勝と9勝で既に埋まり順位が低い八一は昇級の可能性がほぼ無かったはずが一筋の可能性を引き当ててしまったのだ。

 勿論C級2組50名中3番目の勝率であることは間違いない事実。八一も黙して結果を受け止めたがここまで全ての階段を自力で上ってきたがゆえの違和感があった。

 

「で先生。大体察しは付くがここ京橋に何の用があるのだ?」

「道場があります」

「どうして揃って普通の場所にないんだ。ご当主も一任せよの一言だし…」

「晶。気にしたら負けよ」

 

 八一が天衣、晶を連れて歩くはネオンサインが多く光る京橋の商店街。この中に紛れた木造二階建ての建物が3人の目的地である。かなり強くなっていた虎柄に手こずった天衣が満足行く結果を出したのは先日。それに伴い事前の宣言通り稽古場を変えることになったのだ。

 玄関に掛けられた暖簾に書かれたゴキゲンの湯の文字が3人を迎えた。

 

「銭湯?何考えているのよ?」

「ここの二階が道場だ」

「はぁ?」

 

 木製の引き戸を開けると呼び鈴が鳴る。そして正面の番台で体操服を着て俯いていた少女がこちらを見て固まった。前髪に半分隠れた目が彼女の動揺を表して揺れている。

 

「こんにちは飛鳥さん」

「や…いち君?」

 

 彼女は生石玉将の娘とあって同年齢でも敬語を使ってしまう。

 

「またしばらく通います。大人2人子供1人で」

「ぅん…あ、あの。そっちのお二人は?」

「弟子とその連れです。二階に上がっても?」

「で、弟子!?…え、ぇ、あ!っとお父さん下で作業してるから…」

「休憩所で待たせてもらいます。お前は二階で指してくるといい。ここは面白いぞ」

「ふん蹴散らしてやるわよ。晶!」

 

 弟子は尊大な態度を取るも油断の色は見えない。しかしここの常連は捌きのマエストロの手解きを受けた強者揃い。いい勝負になるだろう。

 長椅子に腰掛けボイラーでも見ているのだろう店主を待っていると後ろから話しかけられた。 

 

「あ、あの。久しぶり」

「お久しぶりです。姉弟子がお世話になってます」

「ううん。私は何も…」

「姉弟子はここの帰りに機嫌が良いですから。番台の飛鳥さんのお陰です」

「そう、かな?」

 

 互いに口下手なりにぽつぽつと思いついた世間話を脈略なく話す。幸い突飛な将棋界に身を浸す身。話題には事欠かない。

 

「あの!八一君…」

「おう八一か。今日は銀子ちゃんいないぞ?」 

 

 奥から黒いスーツを着た男が現れた。彼の名は生石充。玉将のタイトルを持つトッププロ棋士である。マエストロの異名を広めたその将棋は軽快にして華麗、繊細ながらダイナミックな振り飛車。

 10年前、棋士室で姉弟子が”振り飛車なんて消えて無くなれ”と喧嘩を売ったのが初対面。その後逆恨みした彼女とここに殴り込みをかけたのが縁で今では姉弟子が研究相手を組む程の付き合いとなっている。

 

「弟子を取ったのでその子の稽古に来ました」

「お前、ここを何だと思ってやがる」

「全国屈指の道場ですかね」

「まあいいだろう。その弟子とやらを見に行こうじゃないか」

 

 階段を上がる彼に続こうとした八一は振り返って飛鳥に尋ねる。

 

「さっき何か言いかけましたか?」

「なんでも、ないよ…」

「そうですか」

 

 無理に聞くこともないだろうと八一は歩を進めた。彼は後ろから刺さる羨望の眼差しに気づかない。

 

 

 

 

「君が八一のお弟子さん?ほう、うちの連中に勝ったのか」

「んな!お、生石玉将!?」

「何だ知っていたのか。誰よこのおじさんとか言うかと思っていたが」

「貴方趣味悪いわよ!」

 

 それでも弟子を驚かせられたので良しとする。下で席主を待つ間に目立ったのかギャラリーが彼女を囲んでいた。彼等が八一に気づいてどよめく。タイトルホルダーの登場に加え会話を聞く限り目の前の少女が竜王の弟子となるので仕方ないが。

 

「どれ、少し指すかい?」

「勿論」

「じゃあ飛車落ちで」      

 

 駒落ちの対局を素直に応じる辺り冷静に向き合えている。駒落ちは上位者が棋力を埋めて下位の者と真剣に戦おうとしているとも取れるのだ。願わくば今の落ち着いた態度を自分との対局時にも取って欲しい物である。

 天衣は右四間飛車を繰り出し右翼を責め立てた。対する生石は何気無く見せて打った歩を餌に銀で桂馬を取るや角の睨みを塞ぎ徐々に手駒を揃えていく。

 最善と思う手を指しているにも関わらず不利になっていく感覚に追い立てられた天衣は無理攻めをしてしまった。寄せきれずにいる天衣に対し我が意を得たと寝返った飛車が走る。攻撃力の上がった生石の攻めを前に天衣の守りは崩れ終着。

 

「…負けました」

「おい八一。この子強いな」

「本来の力ならもっとやれましたよ」 

「ふん」

「折角だお前も指してけ。竜王のお手並み拝見だ」

 

 玉将と竜王のVSとあって人が集まって来た。天衣も好きにしたらと了承してくれたので遠慮なく闘争に身を委ねることにする。相変わらず圧倒的な攻撃力を誇るゴキゲン中飛車との激戦を終えると負けた悔しさに順位戦のしこりは塗り潰された。

 感想戦を終え再戦を誓って帰ろうとした八一を呼び止めたのは生石。風呂に入らないのなら今後道場は貸さねえとのことである。風呂道具を3人分、八一の出費である。

 

「あ、あの飲みもの、アイスありますよ…」

「お嬢様!イチゴミルクとガガリリ君どちらにしましょう!」

「ひぅ」

「晶、声が大きい」

「すみません」

 

 対局と風呂で熱くなった体を休めていると銭湯を満喫中の2人が目に入る。八一は推しの熱い緑茶を勧めるため立ち上がった。

 

 

 

 

 帰宅した八一は郵便受けにやたら分厚い封筒が入っていることに気づいた。指で弾いて異物が入っていないか確かめる。以前熱心なファンが連盟の名でカミソリを贈ってくれたからだ。

 

「弟子入り?」

 

 ひらりと出てきた便箋にびっしり書かれた平仮名混じりの文字を要約するとこうなる。更に封筒をひっくり返すと詰まっていた棋譜用紙がどさどさ落ちてきた。その全てが相掛かりで始まり古い戦型から最新型まで順に揃っている。なかなか味のあることをしてくると八一は頷く。 

 しかし自分は既に弟子を1人取っている。送り主の近場に良い指導者がいないか師匠に聞いて推薦してもらおうとスマホを手に取った。

 

「師匠?少しお時間よろしいでしょうか?」

「実は…でして」

「ありがとうございます。失礼します…」

 

 少し考えた後便箋を取り出してペンを走らせる八一。文才が無い八一が近くのポストに封筒を投函し終えたのは夜遅くのことであった。 

 しかし八一が得た情報には幾つか抜けがある。送り主の将棋歴と実力、本当の住所、大人顔負けの行動力である。

 




 結構恥ずかしい間違いに気づいたので修正中です


 飛鳥ちゃんの年齢を再度調べて文を修正しました


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第十八話

 とうの昔に勝負事の世界で戦う覚悟はできていた。一時期を境に姿を見ない同年代、対局後力なく崩れる奨励会員、唇を噛みしめる後輩。他者を蹴落として一時の心を満たし満足することなく上を目指す。将棋が無ければ死んでいるのと同じだから。同じ境遇の相手から将棋を奪って進むのだ。

 

「何なんやその手は!」

「…」

 

 

 

 

 その日は関西将棋会館である対局が行われる。将棋雑誌が組んだお好み対局。その趣旨はプロ棋士になった弟子が初めて師匠に挑戦する師弟対決だ。史上最年少タイトル保持者でありつい先日の昇級も相まって注目が集まる八一を表に出した普及の一環でもある。

 

「おう八一、おはようさん」

「おはようございます」

 

 会館近くの小さな公園。ベンチに座り桜が舞う様をじっと眺めていた八一の後ろにどかっと座る今日の対局相手。重厚な棋風と熱い勝負魂を併せ持つ関西棋界の重鎮。タイトル経験こそないものの二度も名人挑戦者として名乗りを上げた強者。自分の尊敬する師匠である。

 

「道草は相変わらずやな」

「最近は控えていたのですが、つい」

「さよか」

 

 師弟二人並んで会館五階に着くと記者の質問に迎えられる。軽く答えながら部屋に着くと師匠から上座に向かって背を押された。自分が上座に座ったここ数ヵ月の対局で一番の違和感を感じる。

 盤を挟んで写真撮影をした後は記者の質問タイムだ。自分の小さい頃の話が主に師匠から次々流出する。その出だしが自分の付きまといなのでどう反応したものか。

 部屋の外にちらりと銀色が見えたので姉弟子のことも話したのだが結果ヤバい奴認定されるのは清滝一門である。

 最後の質問はいつものやつ。

 

「九頭竜竜王。対局へ向けて意気込みを一言お願いします」

「師匠に成長した姿を見てもらいたいです」

「清滝九段。意気込みをどうぞ」 

「弟子とはいえ相手はタイトル保持者。こちらが胸を借りるつもりでぶつかっていきたい」

 

 そう言ってニヤリとこちらに目を向ける師匠に八一は戦意を高めて視線を返す。

 

「「お願いします」」

 

 

 

 

 振り駒の結果先手は清滝九段。7六歩、8四歩と互いに指したところで清滝九段は6八銀と矢倉の構えを見せた。本格的な矢倉戦が見え隠れし師弟同士の熱い戦いを期待した周囲は静かに盛り上がる。

 しかししばらく定跡をなぞるものと思われていたところ九頭竜は不審な動きを見せる。6四歩と急戦を匂わせたと思えば7四歩でどっちつかずの運び。清滝九段は弟子のらしくない一手に戸惑った様で少し考え金を手に取った。

 

「うむぅ…?」

 

 九頭竜は更に4二玉と指し疑惑が深まる。しばし両者唸った後清滝九段は頭を振って飛車先の歩を交換、飛車を元の鞘に収めた。

 徐々に九頭竜の戦略が見えてくる。一歩交換と引き換えに角の睨みを通しつつ桂馬と銀、飛車を活用した超速攻、超攻撃的な将棋と思われた。

 

「いや、そんなに簡単にいくわけ」

「え…、350?」

「誤差だよ、誤差。序盤は弱いと言うだろ?」

 

 控室にソフトで評価値を見ていた棋士の声が響く。九頭竜が6筋7筋と歩を突撃させた時のことである。明らかに後手が無理な攻めをしているのに評価値が跳ね上がる。

 検討をしている棋士達の苦い表情の中で一人小学生の笑顔が浮いていた。

 

 

 

 

「何や、これは…」

 

 弟子は自分の問いに答えることなく銀を手に取った。早すぎると思われていた後手の仕掛けが何故か成立している。飛車の横利きを通して金銀4枚と角で受けてなお警鐘が止まらない。相手の角を確実に止める為に4六銀とするしかないと見える。

 考えうる全ての手がスパリと断ち切られる気がしてならない。外から見たら後手の攻めは綱渡りにしか見えないだろう。事実その通りだが目の前の弟子は一手損を多用するクソ度胸の持ち主。事前の入念な研究も働き丸太渡り程度にしか感じていないのかもしれない。 

 

「清滝先生。持ち時間を使い果たされましたので、これより1分将棋でお願いします」

「…」

 

 まだ持ち駒が多い自分にも分はある。あと数手八一の攻めを凌げば流石に途切れるはず。残り5秒で角を残して金を捨てた。すかさず自玉の上で争いが始まる。 

 

「何なんやその手は!」

 

 弟子は攻め手を緩めない。2枚並んだ銀の前に歩の代わりとして6三銀を打つという一手に思わず言葉が漏れた。自殺としか思えない。時間に追い立てられ取りに行くも八一の飛車と角が回り守りも固められてしまった。

 

 

 

 

「700からせ、1400」

「そんな馬鹿な!」

 

 控室は既に一非公式戦の観戦模様に非ず。序盤から高評価値を叩き出し続け6三銀打からソフト最善手そのままをなぞる九頭竜を見る目には恐れが混じっている。

 

「九頭竜竜王はコンピュータか!?」

「いいえ。研究通りです」

 

 小学生の男の子が高い声で異論を唱える。彼と盤を挟む鏡洲は清滝九段の側に立って検討しているが表情が無い。どのように変化させても椚に切られ遡っていくと2筋の歩交換が悪く思えるからだ。聞けば2人してこの1年温めた戦法だと言う。そんな物をお好みマッチに持ち出してくるとは九頭竜の本気度が分かる。

 序盤戦術の常識に一石を投じる重大な対局が師弟戦で現れてしまった。将棋はそんなに簡単な物じゃないと必死に変化を探す棋士達の長考で静まり返る控室。

 そこに高い声で小さな口から恐ろしいことが告げられる。

 

「格言、意味ないですよ。柔軟な思考を縛るものです。これからどんどん破られるでしょうね」

「そう、なのかもな」

「評価値2500…」

 

 持ち駒を使った反撃を止められ玉を龍に追い立てられる清滝九段の姿を見た鏡洲は呟いた。

 

 

 

 

「負けました」

 

 気が付くと頭を下げる師匠を目にして慌てて頭を下げ返した。どんな対局でも常に勝ち気はある。だがこの1局だけは不純な想いを抱いて挑んだ。感想戦に入り最初から駒を並べているとぽつぽつと師匠から言葉が漏れる。   

 

「何もしない選択をお前は許さんか」

「…師匠は自分の目標です。上にいてください」

「番勝負の心構え、封じ手、二日制の対局、連戦の調子維持、取材対応、ファンサービス、タイトル保持者の立ち振る舞い。何一つ教えられんかった儂やぞ」

「師匠のお陰でタイトルを取れました。師匠の教えは間違っていません」

「今日封殺しておいてまだ戦えと言うか」

「…」

 

 棋士になって初めて不純な考えを抱いて今日の将棋を指した。本格居飛車党の中でも鋼鉄流を汲み取る師匠にとって矢倉は命そのもの。そこを弟子に突かれた悔しさは廻って師匠の力になるのではないかと切り札を切ったのだ。この想いは決して悟られてはならない。

 沈黙が続き八一は疎まれたかもしれないと盤に目線を落とす。するとこつんと額を小突かれた。驚いて顔を上げると笑みを浮かべた師匠の顔が目に入る。

 

「儂1人じゃ感想戦にならへん。見てないで意見をくれんか」

「…っ!」

 

 八一は必死に駒組みの場面まで戻すと師弟二人他所を放って盤に熱中した。終局後師弟の感動場面を期待した記者達は苦笑いである。数10分後それは凍り付くことになるのだが。 

 

「こんなところですか」

「こりゃよっぽど事前研究せな指せん。そこが救いか。ところで八一」

「はい」

「儂は弟子に初めて負けてとても悔しい」

「はぁ…」

 

 負けた悔しさは少し分かる。自分も天衣に真剣勝負で負けたら相当衝撃を受けるだろう。好物のおつまみくらいなら作るのだがと次の言葉を待って後悔する。

 

「何か一つ弟子に勝る物が欲しい。ならば今こそ竜王戦の敗北を覆す時!すぅぅぅ――……オシッコォォォォォォォォォォォッ!!」

「!?!?」

 

 その場に膝上が皺だらけのズボンを脱ぎ棄てパン一になった50歳は廊下へ疾走した。八一は至近距離でもらった絶叫のせいで対応が遅れる。

 

「オシッコでりゅぅぅぅぅ!」

「あんた九段の大先生だろ!何やっとんのや!!」

「と、止めろ。外に出してはいかん!内々で処分しろ!」

 

 騒ぎを聞きつけ控室からぞろぞろ出てきた棋士達が徒党を組んで妨害に走るも敵は無駄に華麗なフォームで横をすり抜ける。リズムゲームで培ったフェイントや!とかなんとかもうめちゃくちゃである。

 

「く、九頭竜竜王!清滝先生を止めて下さい!」

「負けました」

「何がですか!?」

 

 何だかんだ行ったれと煽る者までいる中上着を犠牲に若手棋士の拘束を振りほどいた清滝九段。窓を開けて身を乗り出しその若々しさを解放した。

 

「ウヒョ―――――!」

 

 その日将棋連盟における清滝一門の発言力は地に落ちた。

 

 

 

 

「何で私が師匠の後始末を」

「まあまあ」

 

 清掃と謝罪に追われた2人が帰路についたのは夕方。VSの約束を念押しされ姉弟子と自宅に続く路地で別れる。そして自宅入口でうずくまる小さな影を見つけた。

 

「あ、あの。くじゅりゅりゅやいぢっ!」 

「大丈夫か?」

「くひゅ…くじゅ……先生でいらっしゃいますよね!?」

 

 物語は加速する。



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第十九話

 自宅ドアの前でじっとうずくまる少女。会館での大惨事から1時間と経たずに再来した異常事態に八一も固まる。少女も少女でじっと黙り込む八一におろおろしはじめた。自分の顔が相手に誤解を与えることは良く知っている。無理矢理身体を動かしてまずはと家に上げることにした。竜王戦での一場面を思い出して口を開く八一。

 

「確かあいちゃん、だったか」

「雛鶴あいともうします!竜王戦の時お会いして前にはお手紙も出させていただきました」

「ああ、相掛かりの」

「はい!それで…1回、1回だけでいいので直接見て弟子入りを考えていただけませんか?」

「なるほど」

 

 目の前の少女。文面のみでは納得出来ず実際に見てもらおうとここに来たのだ。八一もその点は共感する。どころか過去に類似した行動をとっていた。

 そこではたと彼女が持ってきたランドセルと手提げ袋が頭に引っかかった。世に疎い自分でもあれは片道3時間の旅に適したバッグではないと分かる。はち切れんばかりに膨らんだそれの隙間から衣類が覗いているあたり宿泊も視野に入れているのだろうがそれならば尚更である。

 

「ところで学校はどうしたんだ?」

「今日終業式でした。明日から春休みです」

「…」

 

 どうも怪しい。自分には判断し難い事が多すぎると世間を知る大人に頼ることにした八一である。我が道を行く八一とて警察沙汰は勘弁してほしいのだ。

 

「少し行くところができた」

「はい?」

 

 

 

 

 一刻の後、八一と師匠はばつが悪い顔をして机を挟み向かい合っていた。少女を連れて電車で一駅野田の清滝宅を訪ねた八一が目にしたのは娘からトイレの再教育を受ける師匠。大惨事から1時間少しで顔を合わせると思っていなかった両者。流石の八一も頭を抱える。

 

「ほんでひな鶴の娘さんが…昔の八一と銀子そっくりやな」

(あの、この方達は?)

(師匠の清滝鋼介、その娘の桂香さん、姉弟子の空銀子)

「小童と一緒にしないでください」

「お宅訪問を続けた4歳児に普及先で度々待ち構えているガキんちょどっこいどっこいや」

「…」

 

 隣に座る姉弟子は過去師匠宅突撃を繰り返した手前口を閉ざし逆隣では押しかけ少女が縮こまっている。八一が師匠達に相談するとお前のパターンじゃあるまいし十中八九家出との判断が下され何やかんや今につながる。

 

「さてあいちゃん。いくら将棋が指したいからって家出するのはよくないで。連絡したら上を下への大騒ぎや。親御さんも心配しとったよ」

「…はい」

「電話かけたのは八一君だけどね」

「し、仕方ないやろ。儂はあの女将さんに相当睨まれとるんや」

 

 全て身から出た錆。一刀両断された前竜王を思い出した八一は師匠が口撃で沈む姿を幻視した。あの一件は噂レベルで広まる程度で済んだものの女将さんにはきっちり把握されているのだ。

 

「小童。親が心配しているわよ。弟子入りなんて止めなさい」

「銀子の内弟子は親御さんが心配したのもあるんやで」

「…」

「あいちゃん。何でご両親に相談せんかったんや?」

「言ってもぜったい反対されるから」

 

 姉弟子が撃沈する中話は進む。両親は将棋が嫌いで家は自由に指せる環境に無かったと少女は続けた。深く息を吐いた八一は重い口を開く。

 

「ご両親を説得して近場の道場に通うのは…」

「いやです!わたしはくじゅりゅう先生の弟子になりたいんです!」

「はっは。八一にとは見る目がある」

「笑い事じゃないです師匠!」

 

 八一の両隣から声があがった。左側からは苛立たし気に扇子を弄る音がし始め右の声音には水気が混じる。八一はすわりが悪くなって正座を組み直した。

 

「…八一の手を煩わせることもない。今から私と指せばいい」

「いやいや銀子。お前指導下手やん」

「待て。姉弟子は」

「わ、分かりました。先生!見ててください」

 

 バキっと何かが折れる音が机の下から響いた。無残に折れた百折不撓の扇子が姉弟子の手からぶらぶら揺れている。

 

「それもいいけど。まずご飯ね。勿論八一君とあいちゃんも」

 

 一触即発の事態を止めたのは桂香。姉弟子も何処か凄みを感じる言葉に大人しく引き下がる。一家の台所を預かる彼女に逆らっては生きていけないのだ。

 八一は食事時に押しかけてしまったことを思い出した。同時にくぅと家出少女の腹が鳴る。頬を染めて俯く少女はもごもごと緊張で昼も取り忘れていたと言った。八一と少女は清滝家のご相伴に預かることになる。

 

 

 

 

 一同の腹も膨れてゆったりした空気が戻った部屋。食事中に少女の将棋歴が3ヵ月でしかないこと、将棋図巧を全て解いたことなどが会話に上がり一門が驚く場面もあったが普段通り賑やかな食卓だった。腹を満たすと騒がしい議論の再開である。

 

「そんだけ将来性があるなら天衣ちゃんのライバルになるんちゃう?ウォーズで初段なら八一が弟子入りした時とそう変わらん」

「ライバル?」

「八一にはもう弟子がおるんよ。名前も天衣ちゃん。同じやな」

「一番じゃ、なかったんだ…」

「師匠!この小童の師匠が八一である必要はありません。その内誰の下にでも行けます」

「でもあいちゃんは八一君に教わりたいのよね?」

「はい!」

「桂香さん!」

「八一はどう考えとるんや?」

 

 ずっと黙っていた八一に師匠が振る。一文字に閉じられた口が開き行動の一言が発せられた。 

 

「石川に行きます。どう転んでも親の許しは必要でしょう」

「でもお母さんは」

「親も説得させられない実力で棋士になれると思っているのか?」

 

 少女は俯いて震えている。話を聞くにとても厳しい親なのだろう。だが彼女が本気で棋士を目指すなら一度深く話す必要があるのだ。金銭面は勿論学校のこともある。

 

「才能は十分あると太鼓判を押そう」

「ぁ、はい!」

「自信持ってええで。竜王のお墨付きや」

「ふふ、良かったわねあいちゃん」

「チッ」

 

 ほいで八一のどこがそんなに格好良かったんと師匠が続けると少女の口から出るわ出るわ。八一すら苦笑いする外から見た評価。すると何故か姉弟子が対抗して身内しか知らないことを暴露し始める。偶に師匠と桂香からちゃちゃを入れられ居間から笑いが絶えることは無かった。

 

「すみません姉弟子。明日のVS、後日に回させてください」

「八一は小童の味方なの?」

「前から天衣に競い合う相手が必要だとは思っていたんです。自分と姉弟子の様に将棋を指してくれれば、と」

「ふん。ヒルトンのアフタヌーンティーセット」

「分かりました」

 

 このまま清滝邸に泊まることにした八一とあい。就寝まで八一の盤の対面を巡って争いが勃発したのは言うまでも無い。八一との対局権をかけて駒落ちで何度タコ殴りにされても姉弟子に挑むあい。ついには姉弟子の将棋を前に僅かながら抵抗して見せた彼女に八一は目を見張った。

 

 

 

 

 翌日朝、家出少女を連れて大阪を発った八一。昼時に到着した3ヵ月振りの石川は以前と違い雪が消え緑が顔を出していた。八一がロータリーで冬と全く異なる装いを見せる七尾の風景を眺めていると旅館の関係者に囲まれハイヤーに乗せられる。そして気づけばあの決戦の部屋であいの両親と向かい合っていた。

 

「雛鶴隆です。この度は娘が大変ご迷惑をお掛けしお詫びの言葉もございません。それと迅速な対応に感謝します」

「雛鶴亜希奈でございます。竜王戦では大変お世話になりました」

「九頭竜八一です」

 

 相手のホームで先手を取られた。八一は隣に座る少女を一見、気を取り直して前を向く。相手は自分では及ばない人生経験を積んだ大人2人。分の悪い盤外の戦いに臨む八一はズボンの裾を握り口を開いた。

 




 改めて感想評価誤字報告に感謝です


 月曜投稿が多いのは週の始まりを皆さんの反応で乗り切るためです(これはわりとホント



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第二十話

 野に伏し飛び立つ時を待つ龍と鳳凰。優れた才が世に出るにお似合いな部屋ではないか?部屋に飾られた掛け軸を見て自分は竜王になる前から割と注目されていたくせしてそれを忘れ心中頷く八一である。

 

「あい、先生にご挨拶を。一日遊んだのなら今日は午後から旅館を手伝いなさい」

「いややっ!私はくじゅりゅう先生の弟子になる!」

「他所様に迷惑をかけておいてまだそんなことを…いい加減になさい!」

「先生、折角お越しになられたのです。自慢の温泉に入って行ってください」

「あなた」

「はい。すみません」

 

 あいと彼女の母亜希奈がだらだのやいねがいねと言い合いを始めた傍で父隆が宿泊もどうですかと勧めてくる。明日の対局を理由に断ると同時じろりと横から睨め付けられた父親は何故か謝り下がった。八一は隣の口論が途切れたのを幸いと切り込む。

 

「あいさんの件で話があります」

「…聞きましょう」

「彼女は私に師事を求めました。それを受けたいと思います」

「先生?私は冗談が嫌いです」

「自分も苦手ですね」

 

 親子の口論が止み家庭内に口を出す痴れ者に対する冷たさが襲来する。八一は自分の発言に対する三者の反応を見ておく。あいの喜悦、父親の困惑、母親は無表情。楔を撃つべき場所は明らかである。

 

「この子はひな鶴の娘でいずれこの旅館を継がなくてはいけません。ボードゲームに興じる時間はないのです」

「確かに歴史ある旅館を守るに教育は幾ら早くても足りないのでしょう」

「そうです。私達雛鶴家は1200年続く湯を代々守ってきました。これをしょうもない理由で絶やすことなど許されない」

 

 八一の頭は回り続ける。次の最善手を模索してそこからどう終着に持っていくかと。旅館経営第一の穴熊思考は崩せないと判断。まずは搦手を使って横撃することに決めた。

 

「仰る通りです。しかしあいさんはその為の勉学に身が入っていないと見えます」

「先生には関係ないことです」 

「今回の件もそうですが彼女は隠れて将棋を続けますよ。聞けばこの3ヵ月旅館の手伝い中も頭の中で駒を動かしていたそうです。そして私も目を見張る将棋を身に着けました。考えることを禁じますか?」

「あい?」

「あわわ、何で言っちゃうのです先生ー」

 

 ここまで変化の無かった母亜希奈の表情に苛立ちを見て取った八一。序盤は優勢に立てた様だと足を組み直す。先の発言は大人になって自分に関する決定権を得たあいが再び家を出る可能性をも含む。反則に近い一手なのだ。

 

「先生の仰りたいことはこうですか?無理に勉学をさせるよりは期限を区切って好きなことをさせた方が為になると」

「あいさんの才能は一線を越えています。決して無為な時間にはならないでしょう」

「っだら。つくづく邪魔な遊びがいね」

「今だらって言った!お母さんのだら!!」

「親に向かってだらとは何やいね!」

「先生、私達は将棋に関して詳しいことを知りません。まずは女流棋士について教えてもらえますか」

 

 母子の言い争いが再燃したが喰いついてきた標的に八一は心の内で笑みを零す。そして鞄の中から幾つかの雑誌を取り出した。姉弟子から貰った将棋雑誌である。彼女が表紙を飾るそれを貸してくれと言った時八一は返さなくて良いと言われたがはてさて。

 

「まず彼女達女流棋士になる為の条件ですが…」

 

 パラパラと雑誌をめくり山城桜花戦の特集ページを開きペンを持った八一は話を続ける。

 

 

 

 

 外から見ると複雑なことになっている将棋界の説明を続けること1刻。女将と違い全く将棋界のことを知らなかったのか板前の父親は深く頷いている。 

 

「なるほど。つまり女流棋士になるにはその研修会でC1になる必要がある」 

「2週に1回ある例会で年108局戦いその結果で昇降を決めます。まず1年ここで様子を見ても遅くはないかと」

「1年ですか。うむぅ」

「…失礼ですが先生はこれまでに弟子を取られた事は?」

「去年から指導して今年初めに研修会入りした子が1人。今のところ負けなしです」

「それはすごい」

「あなたは黙っていなさい!」

「はい!」

「竜王にまでなった九頭竜先生があいに注目する才能がある…という前提で進めましょう。先生は私達にA2から奨励会そしてプロへ進む道を示しませんでした。それはどういう意図でしょうか?」

「2歳で将棋のルールを覚え4歳で親元を離れる。7歳で小学生名人、11歳女流2冠、14歳奨励会2段」

「は?」

「史上最もプロに近いとされる女性の経歴です。私は彼女をずっと傍で見てきました。彼女は将棋に全てを捧げて戦い血の滲む努力を重ねその入口に手を掛けています。その道は決して私が才能だけで保証できる様な軽い物ではない。勿論あいさんが奨励会規定の26歳まで人生を賭けるというのなら全力で支えます」

「…プロ棋士に比べ条件が低いということは女流棋士の地位が不安定ということ。その点については?」

 

 もう一押しといったところと見た八一は寄せに入る。もう相手の反応は見ない。元々交渉など柄ではないのだ。事前演習の域は当に過ぎ後は情に訴えるのみである。

 

「棋士女流棋士問わず対局のみで食っていける層は一握りです。しかし明るく快活なあいさんならレッスンや解説の仕事は引っ張りだこでしょう。経済的には普通のOLの方より恵まれるかと。好きなことを好きなだけできる人生は幸福と私はとらえます」

 

 最早ここまでと八一は座布団を横に手の平を地に付け額が床に付くまで伏せた。それを見たあいも身体を跳ねさせ隣で頭を下げる。

 

「確かに将棋は単なるゲームです。この旅館のように人を癒す事も社会の発展に寄与することもない。ですがそんな穀潰しでも恰好良いと、自分も将棋を指したいと言ってくれる子がいます。そんな彼女だから弟子に迎え入れたいと思いここに来ました。自分が彼女を竜王の名にかけてタイトルが取れる程の棋士に育てて見せます!…どうかあいさんを弟子に下さい!」

「わ、私は先生の弟子になって将棋を指したい!お母さん!お父さん!一生に一度のお願いです。弟子入りを認めて下さい!」

 

 しばし沈黙が続き父親が口を開いた。続く重い言葉がどちらに転ぶか見当もつかず八一は身体の震えを抑えられない。

 

「頭をお上げください。お前、先生はよく考えていらっしゃる。まず1年…」

「まだ弱いです。取引は相手に一定の利を見せなければいけません。先生ご兄弟はいらっしゃいますか?それと年収も」

「お前!先生に失礼だろう!」

「黙りなさい!」

「はい」

 

 これで都合何度目になるのか。八一は少し弱すぎやしないだろうかと妻に平伏する父親のことを心配しながら意図が読めない質問に答える。

 

「兄と弟が1人ずついます。年収は…これくらいかと」

「なるほど。ではあいが1年後女流棋士になっていない。又はあいが高校卒業までに女流タイトル保持者になれないか先生が永世竜王の資格を得ていない場合」

「…?」 

「あいは女流棋士を引退、先生は雛鶴家に婿に入ってもらいます!」

「は?」

「九頭竜先生は竜王の名をかけてあいの才能を保証しました。ならば両方大した問題ではないでしょう」

「婿というのは」

「ひな鶴の1人娘を弟子に取るのです。それ相応の責任は取って頂きます。先生には入り婿としてあいを支えていただかねば。明後日にあいを大阪によこすので今日は湯と食事を取って夕方の列車で帰りなさい」 

「はあ」

 

 老舗旅館の例に漏れず後継者問題で悩んでいたのかと混乱する八一。亜希奈とあいの地元人気を考えればそれはないと言えるのだが彼は知らない。

 

「師匠!一緒にがんばりましょう!」

「一緒にがんばりましょう…」

 

 親子で同じ言葉を発しながらなんとも対照的すぎる表情を前に流石の八一も考える。これは何処かで何かを間違ったのかもしれないと。

 




 八一喜べ3年延びたぞ。


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第二十一話

 とあるインターネットTVチャンネルが主催した将棋番組。その名を神鍋歩夢熱血の七番勝負。プロ入りからC級2組、1組と一期抜けし今タイトル挑戦すら見えている期待の若手に7人の棋士が立ちはだかるといった番組。

 連盟のお墨付きを得た関係者は獅子奮迅の働きを見せ解説にイケメンタイトル保持者と人気絶大の女流二冠を呼び込んだ。更にB1の鬼棋士からタイトル登場、経験者まで含む6人の棋士を並べ7人目に主役が最も望んだ人物を置く。世の老若男女将棋ファンの目を引き付けるに十分なキャスト陣であった。

 このお膳立てに中二病気質の歩夢が喜んだのは言うまでもない。絶好調となった彼はここまで6戦全勝。そして最後の敵を前に高笑いをしていた。

 

「フッフッフ…ハハハハハ!この時を待ちわびていたぞ竜王(ドラゲキン)!」

「一応待っていたのはこっちなんだがな」

「む、むう?確かに勝ち進んで来たのは我…ええい!勝負だ前世からの(かたき)!!」

「受けて立とう」

 

 純白の衣を振り上げ顔の前に手を翳してポーズをとる神鍋。向かい合う八一も下ろしたてのダブルスーツを纏い珍しく伊達眼鏡を掛けての登場である。1年以上待った一方的な名誉挽回の機会に闘志を抑えきれず溢れさせた八一。中二病ではないが2人の背景に龍と騎士を幻視できなくもない。

 

「ところでそれはマントか?」

「如何にも。巨悪と戦う聖棋士(シュヴァリエ)に相応しい衣装よ!」

「まあ似合ってはいると思う」

「話が分かるではないか!行きつけの店に黒のマントも置いてあった。今度買ってきてやろう」

「遠慮しておく」

「そ、そうか、いらないか。似合うと思うのだが」

「ありがとう。それより」

 

 結構落ち込んだ様子を見せる歩夢に八一はそんなことより早く対局をしようと誘う。いそいそと上座に座り時計、扇子、水筒、ハンカチを並べて雪辱戦の準備完了だ。

 

「フッ、そう。我等は姿形など些細な問題!戦うことこそが世に生まれ落ちた時からの定められた宿命!」

「…早く座れ」

 

 ポーズを決め聞いていて恥ずかしくなる言葉を延々続けそうな気配を察した八一は一刀両断した。今の様子もネットに流れているのだ。同類と見られては敵わない。

 

 

 

 

 快進撃を続ける神鍋六段を最後に迎え撃つ棋士は九頭竜八一竜王。プロ入りしてから両者の対戦成績は神鍋の1勝。今回の対局はどちらが制するか大いに興味が湧くところだ。上座に座った九頭竜が駒を取り出し両者で並べること数分。振り駒の結果歩を揃えて先手を握った九頭竜の一手でライバル対決の火蓋が落とされた。

 九頭竜の角道を開く7六歩に対し即座に神鍋が飛車先を突きおもむろにマントを脱いだ。九頭竜のフォローによると神鍋なりに対局相手へ敬意を表しての行動らしい。その気遣いを面倒な技名を執拗に主張される私にも向けてほしいどす

 ノータイムで手が進み両者が打診受諾した戦型は角換わり。定跡通り進むこと10手目神鍋が角交換をしかけノーマル角換わりとなった。

 

 

 

 

「我が手中で復活の時を待て成虎よ。そして白銀の剣(シルバーソード)をポーンに装備!」

「さてさて」

 

 八一は腰掛け銀の動きを見せる歩夢に応じず銀を一端おいて桂馬を跳ねさせる。じりじりと陣形を整えていく両者。九頭竜が先に腰掛け銀を完成させると歩夢は8一飛と構え相腰掛け銀を目指す。

 

「行けポーン!竜王の入城を許すな!突撃せよ!!」

「くっ!」

「友軍の屍を越え跳ねよ天馬(ペガサス)!」

 

 直後相腰掛け銀とした歩夢は6筋の歩を進め開戦である。八一は手持ちの角を即座に投入。それに構わず歩夢は歩を伸ばし玉の頭上に迫るといった強気の攻めを見せた。

 突っ込んで来たと金を桂馬が跳ね飛ばすも歩夢の桂馬も同位置に跳躍する。争いが一段落した時に歩夢の駒台には金と角が載っていた。

 

「まだまだあ!」

 

 反撃の準備を進める八一に対し攻めこそ防御と強気の攻勢を止めない歩夢。八一の陣深くに角を打ち玉の退路を睨み残った金も攻撃に参加させる。そして馬を作った歩夢は八一の玉に迫ったかに見えた。

 

「ここだ!」

「いいや。ここからはこっちの番だ。少しはいいのを貰っていけ」

「な!?」

 

 しかしここで八一は2筋に叩きの歩を打ち込みと金とするや相手の攻撃を凌ぎつつ驚異の単騎駆けを命令。元一兵卒が敵地深くを横に一閃する。金と銀を喰らう大往生の末敵の守りをずたずたにした。当然歩夢の玉は左に追い出され丸裸となり持ち駒の連続王手に晒される。

 

「参りました」

「…」

 

 117手目に打たれた玉の頭上に金を打つ明確な詰みを前に頭を下げる歩夢。八一は返礼すると手汗を吸ったズボンの皺を伸ばし深く息を吐いた。

 

 

 

 

「それで八一は婿入りを承諾して帰ってきたわけ」

「了承してないですよ」

「小童がタイトルとれるかなるかなんて分からないのに」

「あの子ならそのくらいは行ける。姉弟子も指して分かっているでしょう?」

「…それでも嫌なら断れ」

「あれは直前の発言から察するに女将さんが何の利も示せなかった此方を手助けしてくれたものでしょう。そもそも16の学もない小僧に将棋以外の何を期待するんです?」

「世の中に8桁稼ぐ10代がどれだけいると思ってるのよ」

「探せばいるでしょう。ゴルフの…誰でしたかね?」

「知らない。八一のバカ!」

「…調べておきます」

  

 東京から大阪に疾走する新幹線の自由席。今回の対局で聞き手を務めた姉弟子と隣り合って座る八一の姿があった。

 昨日は北陸新幹線で東京に直行した八一から電話超しに事情を聞いていた彼女。対局前とあって詳しい追及を抑えていたらしいが今は遠慮なしだ。かれこれ道中の半分1時間を対局しながら八一は弁明に追われていた。

 

「はあ、もういい。どうせ公になってない口約束だし。疲れた寝る」

「着いたら起こしますね」

 

 何でも解説と話を合わせるのに疲れたらしい。背もたれに身を委ねて外を向くと静かになった。八一が慣れた手つきでリュックからケットを取り出して掛けると彼女は身じろぎして包まる。車内が寒かったのか頬まで引き上げるものだからその様は頭が銀色のミノムシ状態だ。

 

「…おめでと」

「ありがとうございます」

 

 新大阪前に姉弟子を揺り起こし寝ぼけ眼を覚まさない彼女の手を引いて大阪駅を経由し野田へ。狭い路地を通り清滝宅の門を潜った2人は灯りのともる玄関に消えた。

 その夜の新しい弟子を迎えるにあたっての家族会議。まずあいの下宿先で一悶着あったのは言うまでもない。

  




 人生で初めて将棋の盤と駒を買いました。ぺちぺち棋譜を並べてます


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第二十二話

「雛鶴あい!小学4年生です!よろしくおねがいします師匠!」

「よろしく。部屋はキッチンの奥の和室を使っていい」

「はい!」

 

 東京から帰った次の日の昼下がり。玄関のチャイムが鳴らされ新しい弟子がやって来た。あいを彼女の自室となる和室へ案内して間取りを説明する。彼女はちゃぶ台の前にちょんと座って借りてきた猫の様になっていた。

 

「玄関入って右がトイレと風呂」

「あの。左の鍵がかかった部屋は?」

「俺の部屋だ…すまない。鍵付きの方が良いよな。配慮が足りなかった」

「いえ!弟子の身でこれ以上お手を煩わせるわけにはいけません!」

「しかしな」

「いいんです!」

「…いつでもかわるから言うように。あとパソコンを置いてあるから好きに使って良い」

 

 八一はそのうち心変わりするだろうと話を進める。

 

「家事はできるか?」

「はい!そこは自信があります!」

「じゃあ交代制で」

「全部やります!内弟子は身の回りのお世話を対価に師事するんですよね?」

「そうなんだが。まあこっちの事情だ。俺にもやらせてくれ」

「はあ」

 

 カチコチの姿勢からビシッと手を上げてやる気を見せる弟子に苦笑して生活の上での約束を決めていく。東京での対局がある時は基本留守番という決まりを最後に全10項の条約は紙に書き出して締結。次いで短期目標の設定である。

 

「まずは序盤戦術の習得は勿論、自分なりの将棋の勉強法を見つけてもらう」

「勉強法?」

「仲間と研究会を開くもソフトで勉強するも良し。道場をまわるのも良い。折角本とネットだけの環境から移ったんだ。自分に合った新しい割合を模索すること。弟子入りしたとはいえ自習の時間は多いぞ」

「将棋仲間ですね!私にできるかな」

「おま…あいを放っておく勝負師はいないだろう」

「し、信じますからね!」

 

 将棋で繋がる仲間という言葉に引かれたのか目をキラキラさせたかと思えば不安で言葉を小さくする。かと思えば一言で調子を戻す。元気なことだと八一は感心する。

 

「まずは4月始めの入会試験全勝を目標にする。少し事情があってかなり難しくなっているはずだ。が、負ける気で挑むことは師として許さない」

「はい!」

 

 竜王の弟子という事もあるが天衣の前例もあって、あいに興味深々の幹事から”楽しみにしててください”などと言われたからなのだが伝える必要はあるまいと口を閉ざす。

 

「さてと。次はあいの姉に顔合わせだ」

「お姉さん?」

「あいにとって年下の姉弟子だな」

 

 

 

 

「八一君…ええとその子は?」

 

 ごきげんの湯に風呂道具を持って現れた八一とあいを迎えたの番台の飛鳥。小声で天衣ちゃんじゃないよね…などと混乱を隠せていない。

 

「こんにちは。この子は新しい弟子の」

「雛鶴あいです!」

「えぇ!」

「飛鳥さん?」

「あ…もう天衣ちゃんはもう上にいるよ。お父さんは作業中」

「いつも通り先に遊んでいきます」

「うん」

 

 階段を上がる八一とあいを見送る飛鳥の表情は苦い。俯きぐるぐると廻る思考の渦で光る自分の感情を見つけてはっと顔を上げる。その目には強い意志が宿っていた。

 

「何か用かしら。稽古を延ばして新しい弟子を作っていた先生?」

「急な連絡ですまなかった。そのうち埋め合わせはする」

「別に。怒ってないし」

「そうか」

 

 道場へ入ると1人長椅子に座っていた少女が歩み寄って来て一撃。八一が低頭平身に徹する気配を察したのか早々に切り上げ隣に立つあいを睨みつけた。 

 

「貴方が雛鶴あいね?私は夜叉神天衣。一応貴方の姉弟子らしいけど…よろしくはしないわ」

「雛鶴あいです。ええとお姉ちゃん?」

「はあ!?」

 

 純粋に親しみを込めて距離を詰められた天衣は不意を突かれて普段の言葉の壁を作ることに失敗。予想外の呼称に対する動揺が収まらず更に懐への侵入を許しそれが元で更にキョドっている。

 

「私1人っ子だからお姉ちゃんに憧れてたんだ。よろしくね!」

「話を聞きなさいよ!何で笑ってるそこ!」

「上手くやっていけそうだな」

「眼科に行ったらクズ先生!?貴方そこに座りなさい。踊ってあげる」

 

 道場で棋士が揃えばやることは対局。天衣が何故か慕ってくる妹分を将棋で突き放そうと考えたのだろう。八一としても元々その考えだったので手間が省けたと側から見守る。

 

「…?」

 

 天衣の振り駒で先手を取ったあいがノータイムで飛車先の歩を進め続けることに少し疑問を覚えた天衣。それしか指せないなど露程も思わず銀を繰り上げ飛車を振りあいの表情を読む。すると隠すことなく苦い表情を浮かべるあいが目に入り罠なのかと疑う天衣。

 これまで散々驕った所に痛い杭を打ちつけてきた八一の行いが作用している。それを見て中々面白いことになったとほくそ笑む八一である。

 

「飛車が向かい側に…」

「パンサーよりは演技が上手ね」

 

 飛車による2筋の睨み合いを置いて玉の囲いを目指す両者。未知の戦いに対応せんと守備優先のあい。天衣はじわじわと歩を位に到達させ相手を誘う。

 張り詰めた糸を切った手はあいの8五桂。しかし天衣が直ぐに穴を塞いだ為攻撃が続かず小康状態へ戻る。対して天衣の逆撃は小駒達が露払いした4筋に移動した飛車が盤を縦断することで明確に示された。

 

「さあ本性を見せなさいな」

「くぅぅ」

 

 終盤になるにつれてあいの読みは鋭くなり猛烈に玉へと迫るが天衣は冷静に対処する。一片の油断も無くあいの玉を端に追い込んで圧殺した。序盤の大幅な有利を最後まで譲らなかった天衣の勝利である。

 

「まけました」

「先生?」 

「あい。終盤の読みは特筆すべき物がある。これからやるべきことは分かっているな?」

「はい…」

「天衣も最初よく気を抜かなかったな。一番大事だがこれを貫くことも難しい…偉いぞ」

「ふん!」

 

 2人の組み合わせは予想を上回る効果を発揮しそうだと八一は頷く。目の前で騒がしく感想戦を始める弟子達の姿はそう思わせるに十分だった。先程と一転激しい切り合いが始まった盤を見て八一はふと考える。師匠は自分達を見て何を思っていたのだろうかと。

 

「何ぼっとしてるのよ。師ならちゃんとしなさいよ!」

「師匠!」  

 

 そして数秒考える間もなく弟子達に咎められる。賑やかな2人の前では前を向くこと以外は許されないらしい、と八一は賑やかな感想戦に混じることとした。

 

「嬢ちゃん達1局どうや?」

「1局願えますかな?」

「えと師匠?」

「行ってこい」

 

 一段落したところを見計らった様に客の1人が声をかけて来るとそれを切っ掛けに竜王まで巻き込んで振り飛車党対九頭竜一門の戦いが勃発する。将棋道場に昼から通う常連がここ数ヵ月メキメキ実力を伸ばす天衣に続き現れた新顔を見て勝負心が疼かないわけがないのだ。

 

「人の道場で本当何してんだよ八一?」

「すみません」

 

 新顔の歓迎騒ぎは道場の主が不機嫌顔で上がって来るまで続いた。

 




予約しようとしたらエンター連打しちゃって誤爆しました


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第二十三話

 キョロキョロと辺りを見回し落ち着かない弟子を連れて将棋会館へ向かう。小さな公園を横切り路地を出てなにわ筋に沿って歩くこと数分。1階にレストランが併設されたビルを前に2人は立ち止まった。

 

「壁に大きく将棋会館って書いてあります!」

 

 通い慣れた建物をわざわざ見上げることも少ない為久しくその字を見た八一。初めてここに来た時は自分も心が踊っていたと昔を思い出し懐かしむ。強者との対局にうずうずしていた彼と新天地に舞い上がる彼女を一緒くたにしていいのかは不明だ。

 ガラス扉を開け建物に入ると右に位置する売店を見たあいが歓声を上げた。

 

「わあ。将棋の本がいっぱい!師匠!扇子!扇子です!!」

「まあな」

「こうそく、しょしん、たいし。これは何て読むのでしょう?」

「涓滴岩を穿つのけんてき。わずかな水の滴も続けば岩に穴をあける…小さな努力でも怠るなってことだ。」

「ほえー。師匠の扇子はどれですか?」

「嬉しいことに売り切れている」

「そうですか…流石です師匠!」

 

 売店のおばちゃんに微笑ましく見送られ3階へ。何時ぞやの様に事務所に入り顔見知りの職員へ挨拶する。

 

「こんにちは」

「こ、こんにちは!」

「はいこんにちは。話は清滝先生から聞いていますよ」

「よろしくお願いします」

「やい、九頭竜先生の紹介なら間違いないでしょう。天衣ちゃんなんてもうD2でしょ?」

「生意気言っていませんか?」

「周りが騒いでいても静かですよ」

「そうですか…」

 

 職員から一番弟子の躍進振りを聞かされつつ弟子登録を含めた研修会試験の申込を進める。そして姉のすました顔を妹が崩してくれることを信じて判を押し書類を仕上げた。

 

 

 

 

「八一さんここ空いてますよ」 

「ありがとう創多」

「今日は鏡洲さんが東京行っちゃって暇してたんです」

 

 子供達に囲まれる騒動があったものの何とかあいを2階の道場に預けて棋士室に顔を出した八一。彼を駒と時計の音の響く部屋の奥から手を振って迎えたのは椚だった。小さな体なので手前の若手棋士に隠れて動く手しか見えない。聞けば鏡洲は盤王戦予選の為に東京へ行ってしまい折角の学校休みをもて余すところだったらしい。

 

「研究場所を取り上げてしまったからな。これくらいは」

「元々皆が押しかけてただけですし。でも八一さんの内弟子かあ。いいなあ」

「創多の師匠にはなりたくないな。大変そうだ」

「えー、酷いですよ八一さん」 

 

 急に真顔になった椚に首を傾げつつ駒を並べていく。目の前の10歳は奨励会に入って3級まで負け無し。現在27連勝中の恐るべき実力の持ち主である。やっておいて何だが八一は恩返しなど当分されたくないので彼の師匠役は御免被る。

 

「矢倉ですか?」

「どうだろうな。嘘かもしれん」

「いやいや隠す気ないでしょ。なら、こうです」

 

 駒落ちなどつまらないと平手で駒を振った両者。先手を取った八一が矢倉の構えを見せたところで椚が問う。早速急戦を仕掛けんと銀を進める椚だが即座にけん制されその進撃は止まった。八一は折角作った囲いに玉を入れる素振りも見せず鮮やかに飛車先の歩を交換する。

 己が披露した作戦の対策など最優先課題なのだ。

 

「あ、やっぱりそうしますよね」

「元々居玉は好きなんだ」

 

 更に角を突っ込ませた八一。椚は歩を打ち込むも下がった角は間接的に飛車を睨み相手の駒組みを邪魔する。そのまま駒組みで優位に立った八一はソフトを思わせる精密な寄せから玉を防ぎきり勝利した。

 

「やっぱり難しいですこの戦法」

「だからこそ面白い」

「そうですよねー」

 

 日々更新される戦法の先を行かねば蹴落とされる。そうした厳しい環境で前進する原動力は将棋を好きな心から来るちょっとした遊び心。綱渡りは視線は遠く常に先を見る者こそ前に進めるのだ。

 

「あそこで8三飛としてみるか」

「角を上げて飛車を抑える、と。うっわぁ行動範囲が狭い狭い」

「では対策だ」

 

 まだまだ研究が進んでいない戦法ゆえ変化は次々現れ盤上の駒は加速する。一見後手の攻めが細く今にも途切れそうに見えて止まらない。並の使い手では奈落へ一直線と思わせる道を一歩ずつ確実に前進するそれは勝負師の心を揺する。

 

「一手損なんて指しこなす八一さんにピッタリですねこれ」

「いや読みの深い創多の方が合うだろう。元々ソフトが好む戦法だ」

 

 周りから言わせてもらえばどっちもどっちである。

 

 

 

 

「ではお弟子さんによろしくです。顔はそのうち合わせるでしょ」

「ああ」

 

 棋士である以上何処かで会うだろうと席を立つ八一だが存外直ぐにその機会は早かったりする。昼前となり棋士室を出た八一は道場へ向かいサインをせがむ子供達に混じり突撃して来るあいを迎えた。彼女が見せてくる緑色の手合いカードには白星がズラリと並んでいる。

 

「師匠!見て下さい!!」

「全勝か。よくやった」

「はい!あと仲の良い子も出来ました!みおちゃんとあやのちゃんとシャオちゃんです!」

「ほう。祝いに昼はトゥエルブでとるか。普段は弁当だからな」

「わーいがいしょくですー!…だいなまいとって何です?」

「…大人しくランチセットにしておけ」

 

 ちらほらと見える棋士や奨励会員に挨拶してテーブル席に着くとそれぞれ海老フライセット、カニクリームコロッケセットを頼んで黙々と食べる。2人共食事時に会話が無くても特段苦にしないタイプなのだ。

 

「カニは好きなのでうれしいです」

「石川の魚介類は特に美味いしな。竜王戦ではお世話になった」

 

 空となった皿を前に互いの成果を報告し合う。八一の言で二段として道場に挑んだあいは同年代との対局に戸惑いながらも白一色を守り切ったらしい。棋譜を暗記していると言うので一から言わせてみれば相手のミスを容赦無く突く彼女の姿が目に浮かんだ。何人かいい筋の相手もいたが途中から崩れている。恐らく時間が切れたのだろう。突然思い切った攻撃をしかけあいに逆撃されていた。

 

「将棋は減点式のゲームだ。いかに持ち点を減らさずに相手の点数を減らすか。盤の向かいには相手がいるということを覚えておけ」

「むずかしいです」

「今は何にでも全力で当たればいい。壊せない壁に当たった時考えるんだ」 

「はい!」

 

 行き当たりばったりにも見えるが人間痛い目にあってこそ真に学ぶ。期限こそあるがあいに舗装して看板を付けた道を進ませるつもりは無い。何故そうすると良いのかを考えて行動選択して欲しいのだ。

 そうした思いを込め子を谷に突き落として戦わせるのも師の務めと首を傾げる弟子に助言を贈る。基本的に事前準備をしっかりする癖に最後は精神論でどうにかすると考えている八一らしい選択である。

 

「師匠!午後はどうしましょう」

「VSがあるんでな。相手はしてやれんぞ」

「うー、道場で指しておきます。師匠のだら…」

「終わったら迎えに行く」

 

 不平を言う弟子を道場まで送り2階から外を見ると見慣れた日傘が目に入った。少しずつ回っているそれを見るに彼女の機嫌は良いらしい。八一は少し急ぎ足で階段へと歩を進めた。

 



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盤外四話

「師匠!指しましょう!」

「貴方は普段指せるのだから少し譲りなさいよ」

「天衣ちゃんこそ姉なら妹に譲ってよ」

「八一さっさと座る」

「なら4人でしますか?」

「…?」

「角桂馬香車の無い4人制将棋です。見るべき方向は3つ、王手による手番変化、双王手、裏王など独自ルールもあり単純な棋力だけでは勝てない…そうです」

 

 桜が舞い散る西の丸庭園で将棋盤を囲む。例年通り師匠達が来るまで八一とVSをと思っていたら余計な奴等がピーチクと騒いだ結果こうなった。八一が子供達にしてやられたと言う聞き慣れないルールを確認すること数分。ぶっつけ勝負だとばかりに開戦した4人将棋は皆恐る恐る手を進めながら既に2巡目だ。

 

「姉弟子?手番ですよ」

「師匠!教えるのはずるいです!ずる!時間切れです」

「黙れ」

「ぶううぅ!」

 

 あまり見ることのない距離角度の八一を眺めていて手が止まっていた。慌てて飛車の隣の歩を上げる。ここ数日はこんな調子でいけないと視線をずらすも小童の手に見逃せない物を見つけてしまった。

 

「ねえ」

「はい?」

「あれ、あげたの?」

 

 小童が鞄から取り出した物は八一と前竜王が竜王戦記念に揮毫した扇子。墨汁が少し散ったそれは彼が持っていた一品物に違いない。

 

「はい。丁度良い字も入っていたので」

「ふふーん」

「…ちっ」

 

 まあいい。余計な物もくっ付いていることだし私は八一が新四段になった時の物も竜王襲位後の物も一番に貰っている。一々目くじらを立てる私ではない。ただ少しだけ自慢気に勇気の字を指でなぞる小童にイラっとしただけだ。帰ったらネットで探してみよう。

 

「何だべっているのよ。早くしなさい」

「ふむ」

「は?下家を攻めなさいよ。セオリーでしょ!?」 

 

 八一は飛車先の歩を進め対面の天衣へ迫る。いい気味だと私も飛車を左に一閃させ同時に攻め立てることにした。八一も最後は私と戦いたいに違いない。

 

「ちょ、貴方助けなさいよ!」

「えーどうしようかな。お姉ちゃん下家だし。セオリーだよね」

「こぉの!」

 

 小童は八一への攻撃を匂わせるも開戦はせず高みの見物。私は飛車と銀を進めて八一の歩成を助ける。このまま行けば早速1人脱落。盤上に残った夜叉神の駒を喰いながら邪魔者を一掃。八一との一対一に持ち込めれば普段のVSと同じだ。

 

「…八一?」

「姉弟子にあんまり駒を持たれたら困るので」

 

 しかし龍となった八一の中飛車が頭の向きを変えて私の金を喰らう。ここぞとばかりに小童が私に攻撃してきた。特に一番弟子は死に体のくせに八一と小童の駒に隠れて再起を図ろうとしている。これはかなり腹立たしい。

 

「くっ、ああもう投了よ。3人してよくも」

「…」

「ししょー!私達2人だけですね!」 

 

 結局私と一番弟子は2人掛かりで詰まされ八一と小童の一騎打ち。かなり悔しい。だがこの将棋の戦い方は私にとって鬼門だ。乱戦の中話術を含め広い視野で上手く立ち回り勝ちすぎず負け過ぎず最後の決戦に備える。普段力押しが基本の私にとって慣れない戦いなのだ。

 

「八一覚えてなさい」

「貴方覚悟は出来ているのでしょうね!」

「遺恨が持ち越されるのもこのルールらしい…」

 

 結局勝ち越すまで再戦していたら師匠達が来てしまった。まあ八一は楽しんでいた様だしそこまで悪くない将棋だったかもしれない。

 

 

 

 

 去年より3人増えた為若干狭く感じるシートの空き場所一杯に広げられた弁当箱。定番のお握りから凝ったデザートまで。毎回そのレベルを上げていた食事事情は認めたくないが小童の参戦により数段上がっている。

 

「お嬢様!肉巻きをどうぞ」

「自分で取るからいいわよ。ん、まあまあね」

「このからあげいつものと違わへん?」

「マヨネーズを入れて柔らかくしているのです!」

「あいちゃんは料理上手やなー。八一今からでもうちに預けんか?」

「ちっ」

 

 余計なことを。うちはヨーグルト派なのだ。私はソースで潰すからいいが八一に変な味を教えるな。私がどれだけ苦労して桂香さんの味に近づいたと思っている。本当にふざけるなと言いたい。

 

「今度は肉じゃがを練習しましょ。大丈夫、八一君の舌は関西に染まっている」

「分かった」

「呼びましたか桂香さん?」

「いえ何も―。はい砂糖の卵焼きあるわよ」

「いつも別々にすみません」

 

 一応八一の出身は福井だ。しかし味噌の好みは赤から白、肉は豚から牛寄り、海鮮丼よりスタミナ丼と胃袋を改造されていたりする。卵焼きは最後の砦にしか見えない。桂香さんの10年に渡る偉大な成果だ。

 

「む、桂香さん私にもお好み焼きを教えてください!」

「駄目」    

「む、おばさんには聞いてません」

「頓死にたいようね小童」

「こわっぱじゃないですぅー!雛鶴あいっていう名前があるんですぅー!」

「…」

 

 こいつはそのうち頓死させる。 

 

 

 

 

 先日のアフタヌーンティーは最高だった。落ち着いた雰囲気の店内で中身を空けるまで分からないジュエリーボックスを思わせるタワーと宝石を連想させる小粒のスイーツ。少し露骨すぎたかもしれないと思い返す度に顔が赤くなる。

 八一の反応は悪くなかったはずだ。彼もあの性格態度でいて甘味は大好物。苺を贅沢に使ったそれを食べては頷いていたので喜んでいたのは確か。何にせよ至福の時間であったことは間違いない。いつもの私ならこの前進にしばらくは満足して行動をためらう。だが今日の私は更に一歩踏み込むと決めたのだ。

 今更、本当に今更ではあるが確認する。私は八一との関係を深めたい。それは将棋という絶対の道から分岐して肥大し続けた願望。幸いと言っていいのかは分からないがこの2つの欲求は相乗効果がある。将棋が強くなれば僅かだが彼に近づけるし単純だと思うが関係が進展したと思えば将棋で良い成績が出る。

 ならばこれは将棋が強くなる為の手段ともとれる。今まではVSとか糖分摂取だとか言って将棋に託けて色々と誘ってきたが今日私は前進するのだ。舞い上がっている今の私なら調子に乗れる。私は進める。

 スマホを手に取り登録者が2桁いくかいかないかの電話帳を開く。数秒戸惑った後震える指先で一番下の名前を押した。

 

「はい」

「八一、来週の火曜何か予定入った?」

「前から姉弟子が空けておけって言ってた日ですね?大丈夫ですよ」

 

 当然だ。八一のスケジュールを把握して小童の試験後、それも平日を1日指定した。これで真面目な八一が気後れする可能性は少なく邪魔も入らない。更に私の中学校はその日本当の創立記念日だ。

 

「クラスの子から聞いたんだけどユニバに新しいアトラクションができたんだって」

「はあ」  

「それで…」

 

 バクバクと心臓が鳴る中遠くからかすれた自分の声と八一の返事が聞こえた。完全勝利とは言い難いが私の勝ちだ。きっと来週は夢の様な時間を過ごせるに違いない。…本当にそうだろうか?こうした遊び場に私と八一は2人で行った覚えが全くない。パーク内をさ迷って延々と行列に並びただ疲れて帰る私達の姿が目に浮かんだ。

 

「け、桂香さん!助けて!!」

「はいはい。八一君と何かあったのね」

 



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第二十四話

 会館5階にある対局室に小学生から大人まで40人の棋士達が詰める。その中で弟子と対峙する少女が呆然とした表情で頭を下げた。何が起こったのか分からず気づけば負けていた。眼鏡をかけた大人しそうな顔にはそういった表情が浮かんでいる。

 

「ありません…負けましたです」

「あ、ありがとう、ございますっ」

 

 頬を赤くした弟子も息を切らして勢い良く頭を下げた。盤上に広がる戦闘の跡は一方のみに集中している。あいが初っ端相手の隙を突いて強引に攻め続けた結果僅か34手の短期戦となったのだ。

 

「あいちゃん強すぎるですー」

「でも、あの、私暴発気味で」

 

 今日はあいの研修会試験当日。様子見の3局のうち1局目が今終わった。あいは相手からの賛辞を謙遜しつつほっとしたのか息を整えている。

 並べられた将棋盤を周って対局を見ていた幹事が八一の隣に来た。

 

「また面白い子を連れて来ましたね竜王。いっそ幹事になりませんか?」

「自分では力不足ですよ。代わりに先生がしっかり揉んでください」

「ほう、では遠慮なく。次は私がやります」

 

 実際のところ八一が講師役などできるはずもなく冗談である。結構な頻度で棋士室にいたり足が軽いので忘れられがちだが八段タイトル保持者の時点で出張稽古料金表には横線が付く。ちなみに連盟を通して詰将棋の作成を一題頼むと諭吉が6枚以上必要だったりする。

 今日の研修会幹事は久留野義経七段。順位戦B級1組に所属する振り飛車党。捌きが際立つ彼等の中で金銀が前進する特異な彼の棋風は泥臭い面も併せ持ち多くの棋士を長丁場の末喰っている。その彼が入会してもいない小学生と指すとあって背後に集まった奨励会員や観戦記者がざわめいた。ギャラリーの中から1人の記者が八一に話しかけてくる。

 久留野が香車2枚を抜かずに一礼。一丁半どころかスーツの上着を脱ぎ半袖シャツとなり本気と見て思わずといったところか。

 

「2枚落ち。そこまでですかあいさんは」

「見ていれば分かりますよ」

「あの子に続く弟子と思えばそうなのでしょうけど…」

 

 端の方で相手を圧倒している竜王の一番弟子を見て記者は呟く。淡々と優位を維持する姿は先程のあいと対照的。既に相手の力量を見切って必要分の力だけを割いている。迫る敗北に焦った相手が強引な一手を指した瞬間天衣の駒が舞った。虚を突かれた相手は崩れだした戦線を再構築出来ず玉を詰まされる。感想戦を済ませさっさと待機場所に戻る彼女がちらりと見てきたので頷くもぷいと顔を逸らされた。

 

「相変わらず小学生の指す将棋には見えないですね。もしかして普段の言動も計算からくるトラッシュトークですか?」

「いえ、あれは素です。ですが優秀すぎて自分には勿体ない子です」

「あ、やっぱりですか。でも天衣さんを御せる時点で師匠してますよ。っと動きましたね」

「なるほど。これはどうです?」

 

 久留野が定跡から外れた変化を示し最善手から外れた為にあいは少し戸惑う。しかしあいはすぐに体を揺らし頷くと久留野の手を否定し殴り合いに飛び込む決断を下した。背後からはやるなぁなど賛辞の声が聞こえる。2局目にして既に弟子は認められつつある様だ。

 

「ん…!」

 

 久留野が脱いだ上着を再び羽織ると自陣に幾重もの罠を張り巡らし始めた。しかしあいは陣の完成を待たず銀を突撃させ相手玉に迫る。それを見て測り違えたと手の平でアイアンクローの如く顔を覆う仕草をした久留野は長考に入った。

 

「こう、こう、こう、こう…うん!」

 

 あいの頭は回転し続ける。この盤面、状態の弟子から勝ちを拾うのは難しい。それを当に分かっている久留野の一手はあいの玉を攻める勝負手だった。しかしあいは自陣を少し見ただけで攻撃を再開。相手が詰みを完全に読み切っていると判断した久留野は投了した。

 

「強い。彼女は文句無しで合格ですよ」

「まだもう1局あります」

「ん、どちらが試験官か分かりませんね。私としてはぜひとも育ててみたいのですが。次の相手は強いですよ。ではお願いします」

「次は…ってあの子ですか!?」

「創多か。何がそのうちだあいつめ」

 

 弟子の前にちょんと座ったのは中性的な少年。ニコニコと笑ってあいに話しかけるが八一は彼の口調にどこか棘を感じとった。あいの表情は久留野が読み上げた角落ちの手合いを聞いて顔を強張らせる。

 

「あなたが八一さんのお弟子さんですね?僕は椚創多。よろしくおねがいします」

「よ、よろしくおねがいします」

 

 初手から定跡を外す椚に対し序盤から持ち時間を使い切る勢いで長考するあい。しかし椚はあいの持ち時間で十分に読んだのかノータイムで返してしまう。そして終盤に生じる圧倒的なタイムアドバンテージ。八一をも認める読みの正確さを誇る椚にとって攻めが途切れ精細さの欠いた指し回しの間隙を突くにそれは十分な時間であった。対するあいは勝負を投げずに序盤の優位で得た手駒を投入し続ける。

 

「くぅぅう、師匠と目標を立てたんです!私は勝たないと…」

「悪いけど僕も君には負けたくないんですよ」

 

 結果から言うとあいは椚に全ての面で上を行かれ蹴散らされた。奨励会で連勝中の椚の実力は在籍する級位と遥かにかけ離れたレベルにあるからだ。八一は勝敗より圧倒的な強敵に対峙した弟子の反応を見ていた。小さな声で投了を告げたあいの目には涙が浮かんでいるが再起する気概はあるようだ。感想戦でも椚の読みに先を行かれているがそれでも必死に喰らい付く様は好感を持てる。

 

「じじょー、すみばせん。負けてしまいました」

「最後まで戦えたのならば良し」

「ぐすっ」

 

 泣きだす弟子に顔を上げるよう促す。研修会員からは賞賛と関心を含んだ視線が送られ認められていることは明白。また感想戦中にあいが椚に再戦を誓っていたので創多にとっても横の繋がりが広まったいい機会だったのかもしれない。

 

「僕も褒めてくださいよ八一さん」

「弟子を可愛がってくれた創多には今度お返しをしよう」

「やったー」

「あーー!ずるいですー。私もごほうびをしょもうします!」

「ちょっと!私にはなにもないわけ?」

「…串カツでも食べに行くか?」

「はい!」 

「ふん!」

 

 あいは入会試験に文句なしで合格し次の例会からF1クラスで参加が決定。天衣は今日の例会で4人目の奨励会員にも辛勝、連勝記録を27に伸ばしD1クラスに昇級した。弟子が躍進すると師として自身も嬉しく思い始めたこの頃。16にして2人の子を持ってしまった八一の明日は何処だろうか。

 




 山城桜花戦が近くなると現れる鵠さん


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盤外五話

 前日よく眠れずぼんやりした頭で地球儀のモニュメントを背後に行列に並ぶ。隣には白シャツとスラックスをシンプルに着用し野球キャップと眼鏡で変装した八一。一見無表情だが平日朝早くからゲート前に集う人の列に驚いているのが分かる。

 ところが問題はそこではなく我が身にある。始まりは桂香さんの一言だった。

 

「ところで銀子ちゃん。当日の服装はどうするの?」

「え、制服を着ていくけど」

「確実に身バレして騒ぎになるわよ」

「むぐぐ…」

 

 ぽやぽやした脳裏に連鎖して八一の身も判明し彼が女性に集られる様が浮かんだ。かなり頭にくる光景である。ということで私服なのだ。年がら年中冬服を着てきた私には一世一代の判断。苦労して用意した帽子にニット、キュロット、タイツは肌を出す服装でこそないがまず落ち着かない。野田で待ち合わせた八一が一言似合っていると言ってきたことも一因だ。

 

「どうも開園が早まったみたいですね。早く来て良かった」 

「走ってる」

 

 後ろを見ると長蛇の列。そして前方には入場ゲートを潜り目当てのアトラクションに向けてダッシュする客の姿。一部からは闘志すら感じるガチっぷりに2人して気圧される。

 

「そう言えば新しいアトラクションが目当てでしたか。そろそろ教えてくださいよ」

「最初にトリリオンパークでその後ワンダーエリアその次にハリエットの魔法エリア。最後にドラゲキンハント・ザ・リアル。パスで時間指定してるからゆっくり周っても夕方には帰れる」

 

 将棋一筋だった私達にとって元となった作品を知っているエリアは皆無。よって明らかな絶叫型コースターだけ私が倒れかねないので除外して後は第一印象で決めた。普通の遊園地に行けという文句は受け付けない。

 話している間にゲートが目の前に来る。 

 

「走る」

「え…大丈夫ですか?」

「開園直後は予約出来ないの。早く来たのに後ろに追い越されるなんて腹立つでしょ」

「はあ」

 

 歩こうとする八一の手を取り走る勢いでぐいぐい引っ張るとすぐに抵抗は無くなり逆にリードされる。これはなかなかいいものだ。

 だが目的地は敷地の奥に位置する。次々と後ろから追い抜かれむきになって完走した私の息は途切れ途切れ。待ち時間300分を記録したアトラクションを最初に狙う考えの人はそこそこいるらしい。

 

「けほ、ほら、そんなに並んでない」

「水です」

 

 繋いでいた手を離して鞄から水筒を取り出す八一。受け取って冷えた水で喉を潤すもコップを返して気づいた。このまま惰性で離さないつもりの手を放してしまった。私は未練がましく八一の綺麗な手を見てしまう。 

 

「ありがと」

「自愛してください」

「えっ」  

 

 注意と共に望んでいた物を差し出されて困惑する。

 

「無茶しないようにです」

「うん…」

 

 順番が来たアトラクションは夢見心地だったと言っていい。後々振り返っても手の熱さ以外何も覚えていないのだから。 

 普段なら仏頂面で眺めていること間違いなしのストリートショーも今なら楽しめた。キャラクターとパフォーマーがコミカルに跳ねる。人を楽しませることを一心に非日常を作る彼等は尊敬に値する。

 

「トリリオンと一緒に写真を撮りたい人は前へどうぞー」

「行きませんか?」

 

 少し惹かれたがそんな柄でもないと立ち去ろうとして八一に止められる。そして戸惑っているうちにあれよあれよと手を引かれ着ぐるみの前に連れて来られた。

 

「やっぱりいい」

「まあまあ。弟の我が儘も偶には聞いて下さいよ」

「ご姉弟…ですか?カッコいい弟さんですね!笑って笑って―。はい、バナナ!」

「あ…」

 

 恐らく俯いてはにかむ私が映っただろう。こればかりはいつもの私だ。

 

 

 

 

 遊園地で定番らしいティーカップや回転遊具を巡る。どの遊具も生まれてこの方乗ったことが無い故におっかなびっくりだ。聞けば八一も初体験だと言う。小さなことで嬉しくなれる。

 

「これこっちの操作で上下するらしいです。良く出来てますね」

「私が動かす」

「はいはい」

 

「あの赤毛むくじゃら。頓死させる」

「キャラに怒らないでください」

 

「これは、取り敢えず回せばいいんでしょ」

「どうぞ」

「…何か悪手の気がするからやめとく。八一、何か知ってたでしょ」

「気のせいです」

「口端が動いた。吐け」

 

 家族連れに混じって本気で遊んだ密度の濃い時間だった。人気のイタリアンレストランでピザを食み振り返る。歩き回って少し疲れた足を休めるに落ち着いた雰囲気の店内は丁度良い。加えてテーマパーク内ゆえ割高だが普通に料理が美味しい。驚きである。

 

「しかしイタリアンなんて久々に食べました」

「そう?探せば会館周りにもある」

「ほとんど弁当だから目に入らないんですかね」

 

 八一は歳の割に早起きだし朝に時間もある。雑とは本人談で桂香さん直伝の家事スキルは主婦並に高く外食の必要性を感じていなかったのだろう。最近は小童と出かける様で…。

 

「ふん」

「どうしました?」

「別に。次外食に行く時は誘って」

「分かりました」

 

 

 

 

 魔法をテーマにしたエリアで杖を振り菓子を摘まむ。もう最初の受け身な姿勢は抑えて主体的に楽しむことに決めた。斜に構えて下らないとするに八一と過ごすこの時間は楽しすぎる。幸いテーマパークとはそんなものだ。そうすると時間はあっというまに過ぎ最後のアトラクションが来てしまった。

 

「竜王を狩るんですか。またなんとも歩夢が喜びそうな設定だことで」

「職業は騎士ね」

 

 どうもコントローラを振って画面上の敵を倒す体験型らしい。アトラクション前には子供から大人まで広い世代の客が列をなしている。勝負事とあればやることは明白。

 

「いやでも、流石に前衛のみはまずいですよ」

「何が?」

「あの、バランス、ですかね?普通に負けもあるそうですし今からでも自分が僧侶に」

「回復職の竜王とか認められるわけないでしょ。いいからやられる前にやるの」

 

 そして最後に出てきた竜王の強烈な一撃を受けて負けた。しっかりと防御をしなければいけないらしい。

 

「…もう一回」

「…自分もそう思っていました」

 

 

 音声が情けないとか貶してくるのが本当にムカつく。誰に向かって竜王には勝てないとか言っているのだ。私達は再挑戦するべく無言で券売機へと足を進める。都合3回挑戦して完全勝利した時には疲労で腕が上がらず日も暮れてしまった。癪だが八一が時計を気にしだしたので桂香さんへのお礼と各々記念品を見繕って帰ることにする。

 

 

 

 

 帰宅する大勢の客に混じって電車に揺られる。ユニバから帰る客と社会人や学生が合流して結構な混雑だがしっかりと八一が守ってくれる。彼もインドアの筈だが隣に押されてびくともしないあたり鍛えているのだろうか?たった一駅分の時間なのが勿体ない。

 

「将棋の無い一日とはこんなものなのですかね?」

「待ち時間に結構したでしょ」

「そうでした」

 

 私達にそんな生活は色が薄くてありえない。だが邪魔と切って捨てるには右手の感触は惜しい。対面で将棋を指すだけはこの熱は感じられない。だから偶に、本当にごく偶に端の方へ置くくらいなら良いかもしれない。

 

「ではまた明日」

「うん」

 

 野田駅からの帰路。今日の体験を脳裏で繰り返していると直ぐに清滝邸に着いてしまった。玄関から漏れる明かりに八一と揃えたストラップを翳す。よほどニヤニヤしていたのだろう背後から声をかけてきた桂香さんの顔は引き攣っていた。

 




 あねでし は ちからを ためていた


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第二十五話

 いつもの様に暖簾をくぐった八一を迎えたのはここの主の奥さん。普段は娘が番台に立つので珍しいと思いつつ挨拶をすると生石はいないので先に銭湯でもと勧められた。一番風呂も偶には良いかと弟子と別れて脱衣所に向かう八一。

 男湯に入って苦い表情でシャンプーを手に取る。目に染みる髪洗いが苦手なのでさっさと済ませるのが定跡の八一。目を閉じたまま手探りでシャワーヘッドを探していると誰かに手渡された。

 

「あの…流しましょうか?」

「…っ!?」 

 

 ガラス戸が空いて誰かが入って来る音は聞いていたが他の客だろうと気にもかけなかった八一の思考は飛ぶ。混浴だったかなどと突拍子もないことを考え出す棋界最高峰の頭脳。固まっているうちに了承とみなされたのか泡を洗い流されてしまう。

 

「何しているんですか飛鳥さん!?」

「えっと、背中を流そうかと、思って…」

 

 咄嗟に振りむこうとする身体を抑えて問うもハンドルを戻しに出てきた彼女の姿が目に入ってしまう。幸い体操服とショートパンツを身に着けていたものの心臓に悪い。

 

「どうしてそうなる…とにかく出て行ってくれませんか」

「…あぅ、でも」

「話なら外で聞きますから」

「…わ、わかった」

  

 彼女が浴室を出たのを確認して湯船に浸かる八一だが彼の心労は貯まる一方である。

 

「それでどうしてあんなことをしたんですか?」

「わ、わたしのお母さんが」

「…」

「お、男の人にお願いをする時は…い、い、一緒にお風呂に入ると言うことを聞いてくれるって…昔のお父さんもそうだったって…」

「はあ…」

 

 その後十分に時間を空けて飛鳥と対面した八一。動機は回り回って父親のせいだった。一体何の願いが引込み思案の彼女をそこまで駆り立てたのやら。八一は頭を抱えて続きを促す。未だ顔を真っ赤にしたままの彼女は真剣な表情で口を開いた。

 

「りゅ、りゅ、りゅ…、りゅうお…」

「落ち着いて」

「すぅ、はぁ…りゅ、竜王にお願いがあって……わた、私に……将棋を教えてください!」

 

 

 

 

 才能とは何だろうか。誰もが自分に史上最高峰の才能を持っていると言う。だが自分は煌きだとか金色の脳細胞みたいな高尚な物を持っているとは思わない。確実に持っていると言えるのは将棋に巡り合えた奇跡、十全に指せる環境と大きな運。そして将棋が好きだという感情だけだ。

 

 

 

 

 その後の展開は早かった。勢いのまま父に将棋を指したいと積もった想いを告げた飛鳥と棋士の親として才能が無いと斬って捨てる生石。2人の諍いは表面上激しい物ではないが道場中の客が横目で気にする程度にはピリピリした空気を発していた。

 

「駄目だ。将棋はやめろと言った」

「…お父さんからは教わらないよ。八一君に教えてもらうから」

「おい!」

「…」 

「八一、後で覚えていろよ」

 

 ギロリと生石に睨まれるが八一はどこ吹く風とばかりにそっぽを向いた。竜王が後ろに付いていると思い舌打ちした生石は最後の手段とばかりに娘の心を折りにかかる。竜王の一番弟子より将棋歴4ヵ月という才媛に敗北した方がダメージが大きいと判断してあいを呼ぶ。

 

「あいちゃん、ああ、雛鶴の娘さんの方だ。娘と1局指してくれないか?」

 

 急に呼ばれたあいが恐る恐るやって来る。途中まで近づいて来た天衣はピクリと反応して迷った末八一の隣に構えた。

 生石が言外に負けたら分かっているなと娘を睨み飛鳥も真逆の意を視線に乗せる。楽しいはずの将棋で殺伐とした空気を生むことに怯えたあいは師に助けを求めた。しかし八一は天衣にあってあいに無いものを育てる為に突き放す。

 

「し、ししょう…」

「あいは研修会に入った時点で他者の棋士人生との交わりは避け様が無い。この場で指さないのは良いが指せないというのなら女流棋士になれない」

「あ…」

「親に切った啖呵はその程度の物なのか?」

「わ、わたし…やり、ます!」 

 

 青白い顔になりつつも言い切ったあいの背を押す八一。彼は信じていた。そう悪い方向には神様が行かせまいと。

 

 

 

 

 残っている客達が自分の対局を終わらせ囲んで観戦する中あいと飛鳥が対峙する。振り駒の結果先手はあい。飛車先に続けて角道を開けるあいに対し飛鳥は中飛車一直線。以前の相掛かり一辺倒な弟子を思わせるそれに八一は頷く。

 しかし中飛車の気配を察したあいは玉をそのままに銀を前進させた。飛鳥が美濃囲いを完成させるも銀の前進は止まらない。

 

「…超速」

 

 奨励会で生まれたゴキゲン中飛車対策を前に苦しみながらも飛車を進める飛鳥。60手もすると大駒が互いの駒台に乗る激しい切り合いが発生した。

 

「ッ!?うっ…く!」

 

 あいが飛車先突破を成し形勢はあいに傾き始める。必死に敵陣で馬を作った飛鳥に2枚目の飛車が襲い掛かる。だが飛鳥の目に諦めの色は無い。

 

「おい飛鳥。どこでそんな手を覚えた」

「…道場のお客さん達だよ」

「なにぃ?」

「頼まれたら断れないですって」

「”飛車は振っても女の子は振るな!”が俺達の合言葉じゃないすか!」

 

 頭を抱えた生石はそれでもどこか嬉しそうに呟く。

 

「この振り飛車バカどもが…」

 

 飛鳥が徐々に守りを削られながらも飛車を取り返す。既に手数は100を超え一方が素人の対局の様相では無い。生石に睨まれた客達も飛鳥の吐露を契機に表立って応援をし始めた。ここ数ヵ月八一に指導され続けた彼等はいつか竜王を負かすと集まっていたのだが飛鳥もそれに混ざっていたのだ。

 

「私は将棋が好き!中飛車が大好き!こんな私でも正面から思いっきり気持ちをぶつけられるから…私は将棋を止めない!私の中飛車は――道だ!!」

「…よく言った」

「こう、こう、こう!…うん!」

 

 しかし既に対局は終盤を迎えあいの苛烈な攻めの前に飛鳥の守りは崩れてしまう。飛鳥は自陣に持ち駒を打ちつけ受け続けるがそれも途切れた。まで、121手で先手あいの勝ちである。

 

「…まけ、ました…うっぅぅー」

「…ありがとう、ございました」

 

 しんと静まり返った道場に飛鳥の嗚咽が響く。それを遮ったのは悪の竜王の一言だった。

 

「では飛鳥さんが負けたので彼女は将棋を指さないということで」

「おい、竜王!さっき飛鳥ちゃんの味方面してたろ!」

「やっぱり居飛車は空気を読まない!」

「竜王の血は何色だ!」

 

 こと今回に限っては味方だと思っていた八一の言葉に怒りの声を上げる客達。騒動の中八一は生石にヘッドロックをかけられピアノの影に引き込まれた。普段クールに振舞う玉将の姿はそこにない。

 

「おい…そこは、こう、どうにかして俺を説得する場面だろ」

「素直に教えてやるって言ったらどうですか?」

「…」

 

 生石は少しの逡巡の後ぼろぼろと涙を流す娘に近寄り口を開いた。九頭竜一門含め周りの客も静まり返って耳を傾ける。

 

「なに泣いているんだ。俺は一言もあいちゃんに負けたら将棋を止めろなんて言っていない」 

「え…」

 

 確かに口には出していない。それ以上に濃厚な意思を叩きつけていたが。決まりが悪そうに髪を弄った生石はぶっきらぼうにその言葉を告げる。

 

「八一なんかに教わるくらいなら俺が教えてやる」

「いい、の…?」

「いいも何もお前、ダメだって言ったのに結局やってただろ。それに、まあ、さっきのはいい将棋だったからな」

「…わ、私…が、頑張るから…自分に才能が無いのは、わかっているけど…お父さんみたいに、頑張るから…」

「言っておくが厳しくするからな!ったく」

 

 成り行きを見守っていた客達が騒ぎ出す。泣き笑いをしだす飛鳥に憮然とした生石。隅で妹分の勝利を辛口に祝う天衣とそれらを眺める八一。収拾がつかないかと思われたそれは玉将の奥さんが一喝するまで続いた。

 

「…中飛車は強いな」

 

 

 

 

 先も見えず真っ暗な中、報われないかもしれない努力を続けさせるもの。それらを総じて才能だと思っている。

 



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第二十六話

 師匠が熱を出してダウンした為こっそり将棋道場を引き受けることになった。地方の小さな将棋大会で審判役をこなし大移動を行いながらの研究三昧だったらしい。幸いにも肺炎などではなく順位戦に向けて気合いが入りすぎただけらしいが大事を取って休んでもらう。無理でもやりかねない人だから周りが止めないといけないのだ。

 

「みっ、みじゅこち…水越澪です!」

「貞任綾乃と申しますです!」

「しゃうおっとぃずぁーうだよ!」

「この子はシャルロット・イゾアールちゃんです。シャルちゃんって呼んでます」

 

 その八一の前には近所の老人達に混じって場の平均年齢を大幅に下げている小学生が数人。八一の覚えが正しければ彼女達は弟子の将棋仲間である。

 

「あい?」

「す、すみません。皆で何かお手伝いをできたらって…」

「あの!私なんでもします!」

「しゃうもすうー」

 

 見た目通り活発そうな澪が真っ先に手を挙げて発言しシャルロットと名乗る少女も真似して跳ね出した。しかし金銭が発生する指導を任せるわけにもいかず肝心のお客さんも主の不在を知ってか疎らなのだ。

 

「…見ての通り暇しているんだ。折角来てくれたのだし1局相手してくれないか」

「うわぁ、本当ですか!?」

「ご、ご指導よろしくお願いしますです」

「…むぅ」

 

 何故か機嫌の悪い弟子を急かして将棋盤を4つ寄せ身体の小さいシャルロットを重ねた座布団に座らせる。手合いは澪、綾乃の2人が2枚落ちを望んだが1人が首を傾げるだけ。綾乃に聞けば師である加悦奥先生が開く教室に通う初心者だそうなので駒を6枚落とすことにする。

 

「「お願いします!」」 

 

 指導対局は人によって傾向があるが八一は基本的に指導対局で手を抜かない。それは苦境に追い込まれた人は素、つまり最も得意で信用のおける選択を選ぶとの考えからである。八一が不器用なりに考えた指導方法だった。シャルロットを除いてきっちり3人を負かして感想戦に入る。

 

「2人共筋がいい将棋だった。澪…ちゃんは攻めに勢いがある。ただ盤全体を見て離れ駒に注意しようか」

「は、はい!ありがとうございます!」

「綾乃ちゃんはもう少し伸び伸びと指してもいいと思う。時に感覚を信じて自分で考えた手を色々試すのも大事だ」

「頑張るです!」 

 

 そして自分の弟子に向き直る。端的に言って気の抜けた将棋をされると相手にされていない様で悲しい。何より盤上から意識を外して出した失着はただの読み間違いと同列にしてはいけない。

 

「体調でも悪いのか?」

「だ、大丈夫です!もうしわけありません!」

「ならもう1局だ」 

「は、はい!」

「しゃうはー?」

「…シャルちゃんはいい桂の使い方をする。今の対局は楽しかった」

「ふんどしのけぃーおー!」

 

 ニコニコと笑うシャルロットに毒気を抜かれた。弟子の隣を見れば澪と綾乃は驚いた顔をしている。そこで対局前に自分が言ったことを思い出した。

 

「すまない。席は自由に使っていいから研究会でも…」

「い、いえ!もう1局おねがいします!」

「です!」

「おねぁいしまうー!」

 

 言い出した手前断る理由も無く指導第二局は始まった。今回は弟子も早々に定跡を外してこちらに負荷をかけてくれる。身体を前後に揺らして全開のあいとその友人達に応えるべく駒に手を伸ばした。

 

 

 

 

 5月初めのある日。八一の姿は千葉県の幕張新都心に位置するコンベンション施設にあった。平日の仕事が続き連れて行けない弟子の膨れ顔に見送られ大阪から新幹線で東京へ。そのまま一泊して車で千葉入りしたのだが京葉線から続く歩道を見れば人の山。今日の朝に大阪を出ていたら下手すれば遅刻していたかもしれない。

 運営に案内されてブース近くの控室に入った八一を迎えたのは2人の棋士だった。

 

「あ、九頭竜先生!お久しぶりです」

「やあ八一君。元気してる?」

「おはようございます。鹿路庭さん、山刀伐さん」

  

 今日の仕事はIT関連企業主催の複合催事で組まれたお好みマッチの解説。山刀伐八段がアマ5段の人気俳優と対局し聞き手は鹿路庭女流二段が務める。八一は初の解説役なので顔には出さないが緊張していた。ネット配信されるそれの視聴者は兎も角現場の客層が将棋のルールも知らない人も多いと聞きどう解説したものかと昨晩は悩んでいたりもする。

 

「いやー。お相手の俳優さんイケメンだからテンション上がっちゃうなー。あ、勿論ボクの本命はキミさ!」

「はあ」

「ジンジンの言うことは大抵聞き流して大丈夫ですよ」

「じ、じん…?」

 

 あまりに砕けた呼称に口が詰まる八一。聞けば山刀伐は鹿路庭に一から将棋を教えたと言えるほどの関係らしい。弟子でもない棋士を1人育て上げたと言う目の前の男の評価を一段上げる。

 

「それよりも…」

「九頭竜竜王、山刀伐八段、鹿路庭女流二段は段上にお願いしまーす」

「ちっ!」

「ひっ」

「珠代くん。口調口調」

 

 背後で仲良くひそひそ話す2人にお似合いの組合せだと思いながらステージへ向かう八一である。

 軽い紹介を経て定刻通り人気俳優と山刀伐が飛車落ちで対局を開始した。八一と鹿路庭は後方の大盤を使って司会解説の役だ。

 

「まず挑戦者久東さんは5筋、真ん中の歩。山刀伐八段は7六歩、角の通り道を開けました。次は…これを竜王はどうみますか?」

「迷いなく中飛車を選びましたね。プロ相手に駆け引きを避けて得意な戦型を選ぶのはいい手段です」

「このまま臆せず攻めてほしいですね」

 

 慣れた口調で説明を進める鹿路庭に八一は感心する。大盤の駒を動かしながらも画面に流れるコメントを拾い質問で周囲を巻き込み飽きさせない姿は人気が出るわけを物語っていた。

 

「えーと。この歩はどういう意図で打ったのでしょうか?」 

「今の手は大人気無いですね。怪しい手で撹乱させに来ました。挑戦者の手が想定以上だったのでしょう」

「なるほど。甘い顔をしてこすいですね」

「2人共さっきから僕に辛くない?」 

「ここで画面の向こうの皆さんにどちらが勝って欲しいかのアンケートです」

「好きな方に入れてください」

「ちょっとー?」

 

 カンペに従い滞りなく進行する。普段面倒な言動をされることへの意趣返しなどでは無い。

 

 

 

 

「お疲れ様でしたー」

「八一君ちょっと時間をいいかい?」

 

 引き上げた控室で山刀伐から隅の方へ呼ばれる。

 

「実は別口の研究会が入ってね、頻度が結構な物でなかなか大阪に行けなくなるんだ。そこで代わりに珠代くんを推したいのだけど」

「そこら辺は自由って決めませんでした?」

「まあそうなんだけどねー。彼女は扱いが難しいから取説をとね」

 

 周りからは誤解されやすいけど将棋に対する熱意は高いよと続ける山刀伐。聞けばプロ棋士との研究会を重ねて強さを追求するあまり女流棋士の中で孤立したらしい。今は伸び悩んでいるが不変の努力を続ける根性があるとも加えられる。

 

「はあ、やっかみですか」

「その分自分を高めようとは…思えないのかな?」

「…」

 

 自分には憧れの対象は多々あれど嫉妬の対象はいない。それ故目の前の男に言葉を返すのは何か違う気がした。

 

「珠代くんには関西の水が合うかもとかすら考えたりするよ」

「どこでも一緒ですよ」 

 

 姉弟子への風当たりを思い出して苦々しく返す。傲慢と言われようが突き進み向かい風も翼に当てて上に昇る力にするくらいしないとやっていられない。

 

「ま、君の所ならクラッシャーも仕事しないでしょ。一騒動はありそうだけど」

「クラ…?」

「気にしないで。じゃあ一応弟子みたいなものだしよろしくね」

「2人で楽しそうですねー。もうお話はいいんですか?」

 

 その後1人待たされむくれる鹿路庭に早速とばかりに決定を告げる山刀伐。直後誰かの驚きを含んだ声が表にまで聞こえたとかどうとか。

 




 誤字報告ありがとうございます。ちょっと今回は反省です


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第二十七話

「ごきげんよろしおすぅ」

 

 朝の棋士室に顔を出すと機嫌の良さそうな京美人が待ち構えていた。彼女は先日行われたタイトル戦で見事防衛を果たし4期目を迎えた山城桜花。徹底した穴熊戦法を使い3局中2局にて挑戦者を嬲り殺しにした女傑である。

 

「こんにちは。防衛おめでとうございます」

「竜王サンに祝って貰えるならもう一回いけそうどすなぁ」

「まあ、指しますか」

「竜王サンは相変わらずや」

 

 そう言う供御飯も取り出した駒をさっさと並べ始める。駒を振り開戦。パチッタンッと互いに数手進めたところで供御飯が口を開いた。

 

「そう言えばうちの妹がお世話になったそうで」

「いい将棋を指す子でした。供御飯さんに似ていますね」

「嬉しいどす、が…少し妬けますなぁ」

 

 話しながらも盤上の駒は進む。少しすれば2人が指せば毎回起こる居飛車穴熊対四間飛車の様相が現れるだろう。棋界では現状判定が出ている議題が手を変え品を変え続く。ここで研磨された幾つかの対穴熊戦法は八一の公式戦で登用されていた。

 

「おーす!」

 

 1局目が終わったところで棋士室の扉が勢い良く開きライダースジャケットが似合う女性が現れた。ヘルメットを被る為に結んだのだろう長髪をしきりに撫でつけている。高速を使っても5時間の道のりを踏破できるあたり棋士の中でトップクラスの体力の持ち主だ。

 

「お燎、もう来たん?」

「昨日は名古屋で泊まった。それより万智も指したみたいだし次はオレの番な!」

「はあ、供御飯さんいいですか?」

「その次指してくれるならええよ」

「その後はオレだ」

 

 聞く限りこの後自分に休憩はないらしい。まずはと月夜見坂を加えての感想戦に没頭することにする。

 時間は矢の様に過ぎ、自然と階下のレストランで昼食を取ることになる。4人席に陣取った3人がそれぞれ頼んだ料理はこの日のサービスランチである珍豚美人、チキンステーキと白身魚フライ盛り合わせ、タンシチュー。ちなみに八一、月夜見坂、供御飯の順だ。

 

「あーうまい。やっぱ普段からこれくらい食べたいよなぁ」

「お燎は食べ過ぎどす」

「あー聞こえないー。だってよ対局日なんて軽食が精々だぜ?腹の音が鳴るってーの」

 

 体力はあれど燃費が悪いらしい。ぶーぶーと男はいいよなー等と言い出す始末。確かに女流の対局は持ち時間がプロ棋士に比べて少ない為昼食やおやつに何を選んだとかの話題は無い。

 

「まあ、そこらは上に言って貰えると」

「だから今言ってるんだよ。クズならそのうち理事にでもなるだろ」 

「未来の会長さんどすなー」

「御冗談を」

 

 等と軽口を叩き合える程度には長い付き合いの3人。食後のデザートを片手に話は続く。

 

「そういえば名人が研究相手を取ったとか噂聞いたか?」

「名人が、どすか?それは誰か知らへんけど羨ましいわぁ」

「それ山刀伐さんですよ」

「あの人もうクズには負けたくないだろーし。何か対策あんのか?」

 

 そう言われるがオールラウンダーである彼の人を狙い撃つのは難しい。それ故こちらの性格、棋風、好みも晒した上で突破すると1年以上前から決めている。つまり大した対策は無かった。

 

「案外勝手に苦手意識を持ってくれているかもしれへんなぁ」

「対局は…まだ1回だけか。そしたら1回も負けてないってこった。あるかもな」

「山刀伐さんが自分に?あり得ませんよ」

「かもって話だよ。確かに今更新人に1敗した程度で崩れる様な人にゃ見えねえけどよ」

「まあそれでどうこうという話ではないどすな」

 

 確かにここでどうこう言って決まる話でもない。話を進めることにする。

 

「お2人は調子が悪くなった時の復帰法とか決めてます?」

「あ?思いッきし叫ぶ」

「こなたは内緒どすー。でも竜王サンからの質問は珍しいなぁ。どないしたん?」

「…いえ、大したことはないです」

 

 割と恥ずかしくて身内にも持ち掛けにくい話題ゆえ飛び出しかけた返答が消える。まさか気分転換の方法を将棋以外に持ち合わせず最後は身内に助けられたなんて言えない。

 

「何だよ。言ったのオレだけじゃねーか。クズテメエ銀子の弱点でも教えろ」

「そんなの知りませんよ」

「お燎。目の前にあるやん」

「おっとそうだった。最近銀子の奴調子良いみたいだし何かあったろ。吐、け」

 

 ニヤニヤとしだした女性陣に形勢の悪化を感じた八一は切り上げようとしたが遅い。数刻の後竜王と女流玉将、山城桜花の3人は一様に疲れた表情で会館を出ることとなる。

 

 

 

 

「…とまあこんなことがありました」

 

 突如自宅に現れ弟子を連戦でぼこぼこにした客人。あいを布団に追い込むと彼女はこちらに向き直り、対局相手がしてきた口撃の詳細を追究し始めた。対局前に自分の名を出されて気に障ったらしい。

 

「ふぅん」

 

 着物を着た姉と盤上に駒を並べながら一部抜粋した数日前の出来事を話す。次いで動き出した駒の軌跡はつい数時間前に静岡で行われた女王戦第1局。諸事情で感想戦が行われず持ち帰って来たという。戦型は横歩取りとなり序盤から激しい将棋が現れた。

 

「…この変化は、なるほど」

 

 両者がなぞった変化は1週間前に関西奨励会で先手良しの結論が出た定跡。2週間前にプロ公式戦で後手良しの結論が出た定跡の半ばでもある。超の付く短期戦も知る人が見れば当然の結果。現代将棋では珍しくもない知識勝負である。挑戦者は今頃悔しさで大荒れしているだろう。

 

「別に変に悩む必要はないですよ。月夜見坂さんが更に上の研究をしていた可能性もあるんです。そこに飛び込んだ姉弟子の勝ちです」

「別に気にしてなんかいない」 

「ですか。ところで弟子にあまり辛く当たらないでほしいのですが」

「…手応えがあったから」

 

 弟子をするめか何かかの様に答える彼女に溜息が出る。拗ねた弟子は隅の布団に潜って泣いていた。それでもタイトル戦に向けて入れた火が冷めやらないのか瞳を透き通らせて此方を見てくる。

 

「はあ、もう遅いですし1局だけですよ」

「うん」

 

 感想戦を閉めて駒を並べ直す。姉弟子が初手2六歩と指すのを見て少しの躊躇の後歩を進めた。仮想敵は圧倒的な経験値により序盤を得意とする巧者。ところが相手の返答は荒々しい物だった。盤から顔を上げると姉は少し不機嫌そうにも見える。

 

「どうしました?」

「別に?今は私とのVSでしょ。早く指して」

 

 確かに思考が飛んでいたかもしれないと目の前に集中することにする。2人の将棋は復活した弟子の乱入まで止まることがなかった。

 

「そういえば姉弟子」

「何?」

「1勝おめでとうございます」

「あ、ありがと…」

 



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第二十八話

 成長著しい弟子達をもう少し労ってもいいのではと八一が思ったのはあいの両親に近況の報告をした日。妙に将棋について詳しくなった女将から厳しいながらどこか優しい反応を得た後の事である。

 何の因果か16歳にして人の師となった九頭竜八一の師匠像は清滝鋼介だ。それ故師として弟子に何ができるかを考える時は自身の内弟子経験を参考にするのだがその度に師への感謝と尊敬で評価が上昇し偶に急落する。

 

「はあ…」

 

 一定期間ごとに起こす騒動さえなければとため息をつく。椅子の背もたれに寄りかかり目を手で覆うと対局の後帰ってこない師匠を迎えに行った記憶が頭に浮かんだ。続いて口止め料として様々な恩恵を受けたことがよみがえる。姉弟子と揃って子供ながらにそれを期待していたこともだ。

 

「今度の間食はぜんざいにするか」

 

 弟子達を食事に連れて行った時は普段すました一番弟子も喜んでいたことも思い出す。時に数十手先をも読む頭脳が子供らしく外食に連れて行けばいいと普通の判断を下すのにそう時間はかからなかった。

 

 

 

 

 周囲を威圧する高級車が駐車場をゆっくり旋回して止まる。運転席から黒のスーツを纏った女性が現れ後部ドアを開けると黒の少女が慣れた様子で地に足をつけた。

 

「…炭火焼き肉屋コーヤン。将棋バーもあるって聞くしまさかここも道場なの?棋士が経営してるとか」

「お嬢様。調べたかぎり普通の炭火焼き肉屋です」

「はぁ!?」

 

 少女はずかずかと己を呼び出した人物に近寄ると啖呵を切った。

 

「わざわざ大阪に呼んでおいて慣れあい?将棋を指しなさいよ、将棋を!」

「別に来なくても良いのよ」

「姉弟子…あいだけ祝うのもどうなのかって思ってな」

「お姉ちゃんはもう少しで女流棋士になれるから景気づけにって」

「ふん!仕方ないわね」

 

 実質今回の主役であることを知らされ頬を染めそっぽを向く弟子とお付。無邪気に笑うあいと不愛想に急かす姉弟子に傍を固められて八一は店の暖簾を潜る。一般客に何事かと振り返られるのはこの面子が揃うといつも起こる事象である。

 

「ところで空…先生はどうしてここにいるのよ」 

「女王戦の前祝いだそうよ」

「第2局を前にして随分余裕があるのね」

「月夜見坂さんは十八番を破られた後だからな。姉弟子の力量ならどっしり待ち構えるくらいが良い」

 

 後手番になっても姉弟子の勝利を欠片も疑わない八一に天衣の口も閉ざされる。そこに含まれる物は48戦勝ち続けているから次もそうだろうなどという軽い信頼ではない。彼女は自分も連勝しているのにと少しだけ嫉妬した。

 

「さっさと食べるわよ。八一の支払いで」

「先生!私もいいのか?」

「私達の分は交際費から…」

「勿論。そも呼んだのはこっちです」

「これが世で美味しく感じるという焼き肉のおごりだな」

「晶、多分それは間違っているわよ」

 

 お冷を持ってきた店員に即注文を伝える姉弟を後ろに人の欲望に片足を突っ込む20歳。止める側も世間から見るとお嬢様なので説得力が無い。

 注文した肉が届き始めると姉弟は次々肉を網に乗せ始めた。トングが上手く握れない小学生2人と初焼き肉のお付が見守る中隣り合って座る2人は中心に見えない線を引き自分の領分で肉を焼く。大量に肉を敷き詰めて一気に焼く姉と間隔をあけてじっくり焼く弟。過去一度だけ互いの焼き肉観がぶつかり微妙な空気になった結果生まれた協定である。

 

「焼けた肉は好きに取っていいぞ」 

「はーい」

 

 トングを置いて箸で摘んだそれの味はかなりのもの。タイトル戦で各地の高級旅館やホテルを回る銀子をも満足させるレベルだった。

 

「悪くないわね」

「ねえ。ミスジっていうの頼んでも良い?」

「何でもいいぞ。シャトーブリアンが出た時点で覚悟はできてる」

「じゃあミスジとトモサンカク、とうがらしを一人前ずつ。晶、2人で分けましょ」

「はいお嬢様!」

 

 黒い焦げがこびり付いた網を交換して慣らし第2戦。新たに頼んだ野菜、肉、デザートが乱立するテーブルを前に弟子が口を開く。

 

「そう言えば棋士の先生は対局で何を食べるんですか?」

「外に行くか出前で何か食べてるな。定食とかかつ丼とかカレーばっかり頼む人もいる」

「あの人は周りの期待に応えてたら止められなくなったとか聞いたけど」

「観客を味方に付けるのも戦術ですね!」

 

 最近はほとんどの対局がネットで配信され出前を頼むと何を食べたとかが外に筒抜けだ。隣で食べている物が美味しく見えたり勝った人の食事を真似する人もいて今はもちを追加することが流行っていたりする。

 

「間食と飲料は持ち込めるから多種多様だな」

「大半はチョコとか飴ね。変わり種ではサプリメントとか神鍋先生はフィナンシェを持ち込んだこともあるわ」

「ふぇー。結構自由なんですね」

 

 感心しながらアイスをぱくつくあい。続いて野菜をつついていた天衣が口を開く。

 

「貴方は何を持って行っているのよ」

「水だけだな」 

「味気ないわね」

「味覚に集中を邪魔されたくない。これもまた多数派だ」

「棋士って…」

 

 そのまま棋界の話半分に皿の上を片付けること一刻。一門の焼き肉会は幕を閉じた。店を出た時カードなど持たない八一の財布がかなり軽くなったのは言うまでも無い。

 

 

 

 

 棋界最高位を独占する最強の一門。などと言われ始めたのは半年前のこと。その1年前兄弟子がプロ入りした時も精強一門と見做され清滝先生も鼻が高いだろうと言われていた。年下の兄は一門の名を広めようとしている節がある。そこに悪意は一切なく師への善意だけなのだろう。

 だがその一門に女流棋士にもなれていない私の居場所はあるのだろうか。

 

「こんなのじゃだめ。もっと…」

 

 普通の生活は切り捨てた。これ以上努力は出来ないという程の努力もしている。それでもC1は近づくどころか遠ざかるばかりだ。こういう時他者は陰でもっと努力しているんだと人は言う。だけど将棋しか無い生活を送ってもうすぐ2年。研修会の現役学生に最新の定跡研究で劣るはずがない。

 つまりはそういうことじゃないのか?

 

「違う!!」

 

 自分のしてきたことは決して無駄ではないはず。そんなのはあんまりではないか。もう私は外の世界で生きていけないというのに。いいや、もっと真剣に指さなければ。…強くなる為に何でもするのだ。

 背後から迫る影に突き動かされて必死に駒を動かす。夢にまで出てくる恐怖の姿は可愛らしい黒の少女を模していた。

 

「神様…」

 




遅れたのはリア充と今後の展開に悩んだからです。何とか修正しました。

あと誤字報告いつも助かってます。この場をお借りして感謝をば。


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第二十九話

「非常に不本意だが俺が九州に行く間飛鳥の相手をしてやって欲しい」

 

 PCと将棋盤に向かい黙々と研究をしていた八一がスマートフォンの着信通知に気づいたのは休息がてら部屋を出た時のこと。発信元はこの数ヵ月でやり取りが増えた生石玉将。その声はクールな印象の彼にしては珍しく焦りを含んだものだった。 

 

「護摩行ですか」

「それだけならいつものことなんだが…あー、カミさんが実家に帰っちまってな」

「はあ。さっさと謝ったらどうですか」

「大昔のことを喧嘩で蒸し返されてな。引けなくなった」

 

 事の次第を聞けば何の変哲もない夫婦喧嘩だ。しかし娘の命名を飛車としようとした16年前の悪手が効いていた。恐らく彼は一生パートナーに勝てないだろう。

 

「飛鳥にやりたいことができたからには銭湯を任せっきりというのもな。というかカミさんもいないなら火もおこせねえし」

「そういうことなら喜んで」

「まあ頼む」

「ところで例年より護摩行開始が遅いですけど飛鳥さんに教えっきりだったのでは…」

「じゃあな!」

 

 ぷつりと切れた通話に苦笑する八一。ほんの少し前まで娘が将棋を指す事に反対していた生石だが自身のルーチンをずらしてまで指導を行っていたのだ。

 

「弟子をとらないのはこれか?」

 

 そして東梅田の将棋道場にて将棋盤を並べる今の状況に至る。飛鳥の通学路上に位置していたことと弟子をアマ強豪へぶつける意図も相まっての選択だ。ちなみに銭湯は臨時休業、道場は常連に任せてあった。

 しかし時間が早く相手がいない為最初は八一の対面に弟子と飛鳥が座る。ようやく駒の持ち方が様になってきた弟子に対して親の指し方を左手で見事に再現する飛鳥。ももに手をつき身体を揺らすあいと動かずじっと盤を見つめる飛鳥の姿も対照的だ。

 そこら辺は触れていた時間の差かと心中で頷く八一である。

 

「こう、こうこうこう…だめ。こうこうこうこう…」

「うぅ…」

 

 2つの盤上には攻防優劣が逆転した戦場が描かれている。片や苛烈な竜王の攻めを前に得意の攻めをさせてもらえず、片や普段と一変した固い守りを前に開戦時の勢いを無くして停止してしまっていた。

 

「攻め、られない…」

「そう見せているだけだ」

「これ…で!」

「そこは殺し間ですよ」

「っう!」

 

 差し込む光の如き細く鋭い攻めが相手陣を切り開き頑強に紐付けされた駒達が鋼鉄の如き固さで自陣に入り込んだ不埒物を押し潰す。記憶のそれと比べてあの人達にはまだ届かないなと苦笑する八一。

 彼は幼い頃から変わらず最強の剣と鎧を求め続ける欲張りなのだ。

 

「ししょー強すぎですー」

「簡単に弟子に負けてたまるか」

「ぶー」

 

 八一は弟子に文句を言われて誇らしげに言葉を返した。2人のやり取りを微笑まし気に眺めていた飛鳥は道場の入り口に見知った人物を見た気がして首を傾げる。しかしすぐに雑踏へ紛れたそれを見間違いと判断して言及することはなかった。

 

「飛鳥さん?」

「っごめん!」

「将棋普及指導員を目指すなら推薦人が必要ですが…生石さんがいいですよね?のんびりしてると認めてくれませんよ?」

「う、うん」 

「では次。他の客とも指してみましょうか」

「ええっ!」

 

 ゴキゲンの湯で将棋を覚えた飛鳥にとって顔も知らない他者と将棋を指すのはほとんど初めてのこと。内気な飛鳥には結構な勇気のいる行為であった。

 その後数人の客と早指しを繰り返すと良い時間となった為お開きになる。あいも満足に指せたのかほくほく顔でお腹を空かせている。

 

「今日は…あ、ありがとう!」

「はい。また明日」

「飛鳥さんまた明日ですー」

「う、うん。じゃあね」

 

 大阪駅で飛鳥と別れて一駅。街灯と車のライトで明るい通りを家に向かい腹を満たして将棋盤に向き合う。将棋漬けの日々であった。  

 

 

 

 

 6連勝、9勝3敗、11勝4敗、13勝5敗、15勝6敗。それが研修会でクラスを上げる為の条件だ。しかしここ数ヵ月の私は7割どころかB(降級点)が付くか付かないかの勝率が続いている。

 私は4年前から成績がふるわず一昨年1度D1クラスへ落ちてからC2クラスへ戻ってくるのに1年かかった。ここに5ヵ月でD1クラスなんてものを見せつけられては嫉妬より畏怖が大きい。

 研修会員40名のうち彼女と例会で対局していないのは僅か9名。別に一巡する決まりもないがクラス差の小さい相手をわざわざ外す理由もない。間違いなく次かそのまた次の例会で私は彼女と戦うこととなる。

 加えて例会の度に圧し掛かる降級と退会期限の重圧もあり最近の対局は思うように指すことができていない。考えるまでも無く負の連鎖から抜けられなくなっていた。

 もう自力での復調を望めないと判断した私はこれだけはしたくないと思っていた手段に手を出そうとしている。

 

「私と研究会をしてほしいの。…少しだけ先生の時間を私にください。そうしてくれたら私は、残りの一生をかけて、先生に尽くしますから…」

 

 女王戦をストレート勝ちして帰って来た姉弟子に祝いの言葉も早々床に手を着き頭を下げた。研究会は指導とは違う。互いに温めた戦術を持ち寄るに自分と彼女の実力は不適正。数秒の沈黙が続き悲鳴の様な返答が返ってきた。次に弱弱しい力で体を起こされ抱き着かれる。

 

「やめて!桂香さんの為だったら私は何でもするよ!どうしてそんな言い方をするの?」

「ありがとう銀子ちゃん…ごめんなさい」 

 

 こびり付いたタールの如く黒い感情が割れた心の隙間から染み出す。汚い打算から出たパフォーマンスは大切な家族を傷つけた。立てかけられた姿見の中から見つめ返す自分の顔は醜く歪んでいた。

 

 

 

 

 二十才のわたしへ――――

 

 

 わたしの夢はかないましたか?

 




 ぐさぐさざくざく。そういえば昔住んでいたとこの幼稚園にタイムカプセル埋めたような気がする。
 あとは銭湯のボイラーが小型なのかとか資格はとか脱線したことを調べてました。私も番台になりたい。


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第三十話

 定跡や流行をなぞるだけの芯と伸びのない将棋。姉に下されたその評価を証明するかのような惨敗。先日の例会で私は1勝もすることができずにB(降級点)が付いた。これを消すにはまず3つの白星がいる。しかし曲がりなりにも重ねてきた努力に自信を持てなくなった今の私にその条件は厳しいものだった。

 

「温すぎる。軽率な手が多すぎる。まるで考えていない」

「っ…」

 

 目の前には私の棋譜を見て辛い指摘をする姉の姿。久しく他者から聞いた厳しい言葉につい降級と退会が迫る心情を吐露してしまう。

 

「それでも指すのよ」

「どうやって?」

「積み上げてきたものを使って」

 

 今まで膨大な時間を費やしてきた定跡や詰将棋の知識は言わば答えを見て解いた問題集。数をこなしソフトで全てを解析したネット将棋の対局も今や大した価値を見出せない。

 だが姉は部屋の隅に積み上げられたノートの束を指して言う。

 

「自分で考えることが出来る様になればこれも武器になる」

「でもこれは研究会で学んだ戦法とかプロの先生の意見しか書いていないただの…」

「桂香さんは流行に乗せられて経験の優位を自ら捨てているだけ。桂香さんは本当は強いの」

 

 自分が強いなど敬愛する姉の言葉と言えど冗談にしか聞こえなかった。呆然としているとぐいと手を掴まれて部屋から連れ出される。

 

「どんなに才能があっても自分が揺らいでいては実力を出せない。洗礼を受けて復調した棋士の話は有名でしょ?」

「…」

「もっと自信を持って指しなよ!勝負事においてはそれが一番大事なんだから!」

 

 姉の部屋に叩きこまれ激しい口調で詰め寄る彼女に私は気圧される。返す言葉を探していると彼女は机に備え付けられたキーボードを叩いた。スリープ状態を解いた画面に映し出されたのは将棋盤。テロップには遥か高みに立つ兄の名前が書かれていた。

 

 

 

 

 1局わずか1時間足らずで決着が付く早指し対局の駒王戦。頂上決戦の三番勝負でさえ1日で完結してしまう非常にスピーディなタイトル戦である。

 竜王のタイトルを持っている八一はシード権を得て二次予選から参戦。挑戦者決定リーグの参戦をかけて今日2度目の対局を迎えていた。

 

「九頭竜くん!」

「こんにちは山刀伐さん」

「今日はよろしく」

「こちらこそ」

 

 昼休みを近くの公園で過ごし時間ギリギリに会館へ戻って来た八一を迎えたのは山刀伐。挨拶もそこそこにエレベーターに乗り5階の御黒書院へ向かう。八一は対局室に控える記録係と観戦記者に挨拶を終えると飲料と扇子を脇に並べて駒箱に手を伸ばした。

 2人が駒を並べると若干急ぎ足の記録係が駒を振り山刀伐の先手が決まる。かくしてやや定刻から遅れて対局は始まった。

 

「キミと戦える日をずっと待ってた」

 

 初手から相手の駒の音に被せるかの如く間を置かず手が進められる。これは秒読みを無くし一手指すごとに持ち時間が加算されるこの棋戦のルールにも起因した。追加される時間以内に指せば持ち時間を増やすことにもなる為これは良く見られる光景である。

 しかし山刀伐は一瞬だけ手を止めニマァと笑みをこぼす。八一が角道を開け5筋の歩を突き飛車を中央に振ったからだ。

 

「ふふ、ふふふふ。それでこそキミだ」

「…」

 

 持ち時間の少なさから経験と事前研究が物を言う早指しで道理を外して飛車を振る八一。相手の棋譜を全て並べてなお対策しきれない宿敵を満面の笑みで迎え撃つ山刀伐。記録係と観戦記者の2人は口の中が乾くのを感じつつも将棋盤から目を離さない。盤上の駒が荒れ始めたからだ。

 

 

 

 

 山刀伐尽八段の角道を開ける一手で火蓋が切られた駒王戦二次予選2組決勝。同じく7四歩とした後手は前期の駒王戦でも挑戦者決定リーグに進んだ九頭竜八一竜王。両者異なるアプローチで早指しを得意としている注目の一局だ。

 対局前の一言で挑戦あるのみと竜王は述べ眼前の対局はその言葉を体現していた。普段の慎重な駒組みを脱ぎ捨て序盤から駒を捌き文字通り駒を飛ばす九頭竜。堂々とした手つきで駒を持つ竜王に一切迷いは見られない。

 2人は定跡に乗り加速し続け持ち時間をほとんど使わないままその時を迎える。36手目九頭竜が定跡から外れる新手を指したのを機に記録上未知の戦いが始まった。

 

 

 

 

 

 悪路に入っても両者の指し手は緩まない。自玉の守りを最低限に攻める八一とそれを受ける山刀伐。八一は速攻で組み立てた2段ロケットを敵玉に突っ込ませる。そして減っていく味方を気にせず竜王の尖兵が敵玉の頭を押さえた次の瞬間状勢は変わった。

 八一の手が初めて止まり記録係と観戦記者の驚嘆の溜息が漏れる。

 

「…顔面受けですか」

「これくらいで止まるキミじゃないよね?さあ、続けよう?」

 

 元手となる手駒はここまでの強引な攻めで残り僅か。自玉の守りは穴が開きこちらの攻勢は停止している。研究勝負の敗北を悟った八一は迫る敗北の音を背に水を一口含み姿勢を正す。次いで両手でズボンを握り前傾姿勢をとって視界を将棋盤で埋めた。 

 八一の頭の中で星の数程の可能性を経験に基づくフィルターで透かして見た生存の道が一瞬光っては消える。しかし幾重もの敗北と死を重ねてなお目の前の壁は破れない。そして早指しゆえの持ち時間の少なさが試行回数を制限した。

 

「ぐっ…」

 

 敗北の足音が近づき八一の呻きが漏れる。普段なら嗅ぎ分け突破する綻びが見えない布陣を前にして遂に脳内の将棋盤がブラックアウトする。舌打ちを抑えて縋る様に再起動した将棋盤にその駒は光明の様に逸早く現れた。それは多くの場面で活躍し最も信頼する駒。その瞬間空想の駒達が動き出し強く光る道を創り出す。

 山刀伐が何かを言っているが聞こえない。じっと自分の駒台に乗る駒を見つめ脳内の将棋盤と現実の将棋盤を重ねて手の震えを抑えながら敵玉に詰めろを掛けた。

 

「形作り?いやキミはそんな気質じゃ…」

 

 既に一手ごとに追加される持ち時間で命を繋げる現状。駒を持つ時間すら惜しい。間髪入れず打たれた飛車から玉を遠ざけ続く桂馬を歩で取って王手を受ける。そしてその時はやって来た。

 

「…銀?」

 

 6四から玉を狙う角を打つも銀で受けられた山刀伐はこちらの持ち駒である桂馬を見て顔を強張らせた。ここぞと貯めた持ち時間を消費して慎重に龍を動かすも再び銀に道を阻まれ手を震わせる。

 

「また銀…そんな!?」

 

 次に打つ駒を求めて駒台へ伸ばした手を力なく下ろした山刀伐は茫然自失の体で自玉を動かす。ノータイムで敵玉の背後に角を撃ち込む八一に対し香車で王手を掛ける手つきは見るからに重い。

 連続王手が途切れぽつりと投了の声が伝えられたのは持ち時間が無くなる数秒前であった。

 

 

 

 

「この研究、名人との共同だったんだ。キミとの対局に向けて何でもしたけど…負けちゃった」

「多方に助けを貰ったのはこっちも同じですよ」

「そっか。キミから目を離したのは悪手だったかもね。珠代くん共々またお世話になろうかな」

「お手柔らかにお願いしますよ…」

「ふふ」

 




 遅くなりました。今回の言い訳はお部屋暑すぎ。ぱしょこんつけるともう…ね


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第三十一話

 1ヵ月ってあっという間ですね…しかも今回短いです。その分は次からの話で頑張ります。


 画面越しにでも現場の異常な空気が伝わってくる。和気藹々と感想戦を続ける対局者達と将棋盤に内包された天文学的な確率に圧倒された記録係、観戦記者の間には明確な温度差があった。90手足らずで終結した高速の戦いの中に私では決して触れられない高みが存在する。

  

「何が起こったのよ…」

「銀、銀、角の3連続限定合。角の中合は出現しなかったけど八一は間違いなく分かっていた」

「ど、どこで…?」

「最後に八一が長考したのは58手目。そこからは持ち時間もない」

 

 姉が淡々と口にする事実が呆然とした私を打ち据える。理解の範疇を越えていた。

 

「そんなに前から3連続限定合を読んでいたの!?」

「運や偶然であんなことが出来るとでも?まあ早すぎるし…読み切ったと言うか嗅ぎ分けたのかも…だとしたら第三の目どころじゃないけど」

 

 姉が珍しく無表情を目に見える形で崩し困惑の様相を見せる。将棋は対局に向けて相手の弱点や戦法の研究を重ね盤上で披露する地味な競技と言ったのは誰だったか。だが画面越しに見た対局は正しく天才棋士が神の一手どころか二手を指して勝利した図である。こんなものを見せられては自分どころか多くの棋士が打ちのめされただろう。   

 

「参考にならないものは置いておく。まずあの状況でも諦めない根性は本来私達も持つべきもの。気圧されている場合じゃない。例会までに少しでも指すのよ」

「…でも」

「下にいるから覚悟が出来たら呼んで」

「え、えぇ…」

 

 パタンと扉が閉められここが姉の部屋だったことを思い出す。八一君が成したのだから私達も、といった意の言葉を彼女は口にしない。そんな段階はとうの昔に過ぎていて、何より将棋界で最も弟分の強さを理解しているのは姉なのだから。

 

「私ダメだなぁ」

 

 ふらふらと自室に戻るも暗い部屋の床に置いてあった何かに蹴躓きベッドに倒れこんだ。見ると私の武器だと言われた薄っぺらいノートの山が崩れている。衝撃で簡素なノートに似合わない可愛らしい封筒が頭を覗かせていた。

 

「これ…?」

 

 どうして将棋を指していたのかを思い出させられる。私はいつの間にか人生の目標を下げて下げて楽をしようとしていた。

 

 

 

 

「ししょー!ししょう!」 

「分かったから落ち着きなさい。後ろから自転車も来ているから危ない」

「むぅ、ししょーも職員さんも今日は何か冷たいです。ししょーはいつもクールですけど皆も反応薄いし…」

 

 興奮して飛び跳ねる弟子を宥める。時刻は午後6時を回ったところ。感想戦とインタビューを終えロビーに降りたところで弟子の突進を受けた。聞けば学校からタブレットで対局を観戦し終業するや一直線で連盟に来たらしい。歩道をすれ違う学生と社会人の視線が少し痛い。

 

「駒がびゅんびゅんって飛んでました!」

「それだって徐々に追い詰められている最中だ。事前の研究が大事だって分かるだろう?」

「それでも師匠は凄いんです!」

「やれ、まあ悪い気はしないがな」

 

 顔を膨らませて己が師の偉業を語る弟子に昔の姉弟子の姿が被る。当人達が聞けば即否定する案件だろうが静動の違いはあれ主張を曲げない様はそっくりだった。

 その時ポケットに入れたスマホが震え通話アプリの通知を知らせる。画面を開けば勝利を祝う一言が2つ。そっくりそのままの文に少しだけ口の端が緩んだ。画面を覗こうと背伸びする弟子を横に返事を書き込む。

 

「ししょー誰からですか?」

「姉弟子と天衣からだ」

「むっ」

「はあ…頭も使ったし夕飯は期待してもいいぞ?」

「やったー!」

 

 目を輝かせてデザートも追加でと調子良く聞いてくる弟子にゴーサインを出すと、小さく飛び跳ねる。果物の缶詰をお気に召して台所の収納にあるそれを食すことを待ち望んでいたそうだ。弟子曰く残ったシロップが直でも混ぜても良いらしく、カニが好物な高級旅館の娘がそれでいいのかと心配になる。

 

「というかあい」

「はい?」

「対局を生で見ていたかのような口ぶりだな?」

「えへ。先生を説得してクラス皆で見てました!」

「…おい」

 

 こつんと弟子の頭を小突いて溜息を一つ。自分も姉弟子も師の対局を見る為にずる休みや遅刻早退はしたし、果ては授業中に頭の中で駒を動かすまであった為そう強く言えない。将棋好きだと言う教師の認まで得る正攻法を取られては尚更だ。

 

「はあ…両親に見せられない成績表は出してくれるなよ?」

「そこは大丈夫です!」

 

 びしっと手を上に敬礼の様なものをするあい。八一は調子が良いものだと首をすくめ夕飯追加の一品を何にするかと考え出した。

 

 

 妹弟子と弟子2人。それぞれの思いをかけた例会まであと1週間。

 

 

 

 徹底的に敵の戦意を潰す手をどうして平然と指せるのか。礼を失した質問の答えは実に彼女らしい物だった。

 

「元々どうでもいいと思ってたけど…辛さを突き詰め勝利のみ求めるそれも棋風の1つだと言ってくれた。今の周りが光の寄せに目が眩んでいるだけだとも。それから少しは誇りを持って指している」

 

 誰からの言葉などと聞くまでもない。

 




 改めて評価感想誤字報告ありがとうございます。


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第三十二話

 大盤を前に久留野幹事が出席確認を終え戦法講座を開始した。しかし普段賑やかに手が挙がる場面で会員の子供達が下を向く。場のピリピリした空気を察して隣の様子をうかがっているのだ。

 

「あわわ…これが研修会」

「普段はもう少し落ち着いてますよ」 

「そ、そうなの?」

 

 襖を解放して作られた大部屋に並べられた将棋盤を遠目に八一と飛鳥が例会の様子をうかがう。彼女がここにいるのは研修会の空気を知ってこいと九州から天邪鬼のオーダーがあったからだ。間違いなく天衣、あい、桂香の背景を知って今日を指定してきた。厳しいようで一人娘に過保護な親。八一の生石に対する印象である。

 

「桂香さん…」

「あいが気圧されてますね」

 

 飛鳥は弟子2人が心配ではないのかと八一を見るも結果を受け入れる覚悟があるのか弟子を信じているのかその表情には変化が見られない。そして視線を正面に戻した飛鳥は公開された手合いを見て紡ぐ言葉を失った。

 

 

「ん、誰も質問はないようですね。では本日の手合いを告げます」

 

 普段と何ら変わらず久留野は手合いを公開した。ホワイトボード上では第2、3局目に八一の弟子達と桂香の名が線で繋がれている。誰もが予期していた組み合わせ。澪と綾乃まで顔面蒼白となる。

 背後に如何な個人の事情があろうと例会は粛々と進められ重い足取りで将棋盤に散った会員達は張り詰めた空気を気にしながらも対局を開始した。

 チェスクロックと駒を打つ音が鳴り始めると子供達も幾分調子を取り戻すが場の支配者はそれを許さない。 

 

「ま、参りました」

 

 呆然とした表情を顔に浮かべその言葉を発したのは1人の男子中学生。対面には厳しい表情を崩さない桂香。相手のミスを突いたとはいえ過去の対局成績で大きく負け越していた相手を圧倒。久留野は前回の例会との違いに驚嘆の溜息を付いた。

 次いで危なげなく天衣が対局を制し後方の八一達を一見鼻を鳴らす。あいは精彩を欠く手が続き普段の攻めができないままずるずると1勝。救いを求める様に周りを見たあいは八一を見つけ肩を跳ねさせた。

 

「あいちゃん…」

 

 目の前の相手を見ない対局は八一の教える将棋ではない。八一を見て先の対局が師の目にどう映ったかに思い至ったのだろう。彼女はその焦燥で飛鳥が視界に入らない。今彼女が最も思い返すべき存在に気づかない。

 

「よ、よろしくおねがぃ…」 

「よろしくお願いします」

 

 淡々としながら存在感のある声を前に尻すぼみの挨拶は掻き消された。振り駒の結果あいに先手がまわる。挽回しなければという一心で手の震えを抑え5六歩と進めるあいに対しノータイムで飛車を動かす桂香。飛車が横一直線に向かう先は3筋。普段の桂香からはかけ離れた戦法を前にあいは動揺で手を止めてしまう。

 

「三間飛車…?それなら!」

 

 あいは大きく頭を振って中飛車として穴熊を組み始めた。

 

 

「桂香さんがここで飛車を振るなんて!」

「姉弟子からあいの傾向を聞いていたのでしょう。プレッシャーをかけたのも視野を狭めて選択肢を絞るため。そして押し続けあいを型に押し込めた」

「あう、お父さんから清滝先生のことを聞いてたから。その…」

「確かに師匠は頑固ですけどそういうのは昔に言われたくらいですよ」

 

 実際のところ幼い八一と銀子に振り飛車を禁じた程の居飛車党なのでその感想は間違っていない。桂香は清滝鋼介の娘という印象すら味方につけた。

 

「三間飛車の中でも攻撃的な石田流。それに対して穴熊を組むのは最新型ですがそれはあいの棋風に合わない」

「すごい。桂香さんはそこまで」

「…大元は覚悟の差です」

 

 こればかりは本人で解決しなければいけない。自ら戦いの日々に入った自身の体験は役に立たず師として弟子にもっとしてやれることがあったのではと八一の声に硬さが含まれる。それを聞きやはり桂香とあいの対局に八一も思うところはあるのだと飛鳥はしばし迷った後一呼吸して口を開いた。

 

「だ、大丈夫!」

「はい?」

「や、八一君は悪の竜王さんだから…私の時の様に最後には皆笑っていると思う」

「…」

「ゎらわないでよ…」

 

 飛鳥の言に迷っていたのは自分もだったかと気を引き締める八一である。弟子を信じどちらの結果になろうと師として迎える。事ここに至って後ろ向きな考えをしていたらしくない自分に活を入れる。

 

「攻めが重い。駒損なんて気にするな。角なんて駒はさっさと捌いて相手にくれてやれ。考えるな!痺れる心で指すんだ」

「へ?」

 

 八一から急に有り得ない言動を聞いて固まる飛鳥。

 

「と生石さんは言うでしょうね」

「あ、はは…言いそう」

 

 目を戻した盤上ではあいが動きを見せていた。

 

 

 あいが穴熊を組み終わる前に美濃囲いを選択した桂香の攻勢は始まった。未完成の陣に小駒が次々侵入してその綻びを拡大していく。八一やあいの様な一気呵成といった攻撃ではなく一手一手着々としたそれは不慣れな将棋に苦戦するあいの首を確実に絞めた。

 

「っ!」

 

 桂香が駒に伸ばそうとして思いとどまる様に膝に手を戻す。あいが桂香の研究から外れんと暴れる度に必死に型へと抑え込むこと数度。彼女のスカートは握りしめられ伸びて皺が寄っている。そして盤上を睨んだ桂香は自軍の角を手に取り端に叩きこんだ。

 

「えっ!」

 

 即座にあいの飛車が追いすがり桂香は角を下げてしまう。次いで飛車を戻し馬を作って怒涛の攻めに入ろうとしたあいの手が止まった。桂香が打った小駒により攻勢の要のはずの飛車が動けないのだ。

 

「うっ…ううう…」

 

 あいの持ち時間が少なくなった頃嗚咽が部屋に響いた。ぼたぼたと流れる涙の滴に次の言葉を待つ桂香も僅かに揺らぐ。しかしあいの口から出た言葉は投了の一言ではなかった。

 

「ごめんなさい…わたし…け、桂香さんのこと大好きで……ふらふら、いろんなこと考えて…ぐちゃぐちゃの将棋さして…」

「…」

「でも…それでもわたしは、負けたくない!」

 

 馬を手に涙でぐちゃぐちゃの顔を上げるあい。その瞳は真っ直ぐに前を見据え光を灯している。戦意を見て取った桂香は警戒しつつも小さな手の行き先を見つめ己が目を疑う。

 

「馬を…」

 

 桂香が馬を取ると間髪入れずにあいの飛車が飛んだ。行き先は下段で遊ぶ桂香の角。飛車まで切るあいの手に対し震える手で答えた桂香を更なる未知が襲う。

 

「…ただ!?」

 

 駒の突撃は止まらず目まぐるしく盤面が変化する。最早桂香はあいの意図が理解できず駒の損得で己の正当性を補強するしかない。居飛車党の感覚を持った桂香にはそれこそ理解できない次元。だがあまりに細い攻めが途切れることはなく局面は徐々にあいへと傾いていく。

 捌きの真髄がそこにはあった。

 

 

 

 

 完璧な序盤だったはずだ。セオリー通りでこそないが事実あいちゃんには刺さったし優勢だった。飛車を狙ったのも間違いではないと言い切れる。飛車はあいちゃんにとっての憧れにして心柱のはずだから。

 あの馬切りからだ。強大な才に嫉妬しそれ以上に気圧されて最善手で日和った自分に腹が立つ。身を切らずして勝てる程甘い相手ではないというのに自分は!

 

「まだ!まだよ!!」

「こう!こう…こうこうこうこうこうこう!!」

 

 負けたわけではない。自分は投げない。迫る必至から玉を遠ざける。オッサンのような嫌がらせはお父さんから見て盗んだ。相手の攻めが細いことは事実。幸い持ち駒は駒台から溢れんばかり。入玉を狙いつつ敵玉にはプレッシャーをかけ続けることでミスを誘う。

 

「…ぁ」

 

 入玉するために盤を昇っていく自玉はまるで私の様で。立ち塞がる駒達にあいちゃん達を幻視して。最後に現れた桂馬に泣きそうになるが不思議と反感は浮かばなかった。姿勢を正し駒台に手を翳して頭を下げる。

 

「負けました」

 

 瞼の裏で幼き私が夢を見失うなとぺしぺし叱咤してくれている。

 

 

 

 

 誰も音を立てない永遠とも思える数秒を経て桂香が口を開いた。

 

「あいちゃん」

「あの…桂香さ…」

「ありがとう。ずっと気まずい思いさせちゃってごめんね」 

「け、けいかさぁん…」

 

 忘れていたかの様にだばだばと再び泣き始めるあいに感想戦を申し込む桂香。その目は未知の将棋を暴いてやろうと燃えている。

 

「いい将棋でしたね姉弟子?」

「ふぇ!」

 

 背後にいきなり問う八一に何事かと振り向いた飛鳥は氷雪の姫を見る。

 

「全部終わったら、ですよ」

「…うん」 

 

 今すぐにでも桂香に突撃しそうな姉へ牽制する八一。そう、まだ彼女が歩む夢への道は終わっていない。

 

 

 

 

「不戦勝で女流棋士になってしまうかと心配したわ」

「あらごめんなさい。心配しなくても相手にとって重要な勝負なら全力で潰しにかかる。それが将棋指し!かかってこんかーい!!」

「ふ、ふん!挑むのはそっちでしょ!踊ってあげる」

 

 研修会の長い一日は熱気で満ちる。

 




本当頑張る宣言しておいて何と言うかただただ遅くなり申し訳ないとしか。
天衣戦は描写しません(できません。
今年中に次を…出せたらいいなあ


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第三十三話

 7月中旬新大阪駅に新幹線へ乗り込む八一の姿があった。弟子2人が参加する女王戦チャレンジマッチへの付き添いで早朝出勤である。

 ドアが開くとあいが桂香と天衣の手を引いて3列シートに走る。彼女は渋る天衣を窓際に追い込んで自身は真ん中に座ると桂香と並んで詰将棋の問題集を開いた。そして発車する間もなくアイマスクを被る天衣と集中して本を捲るあい、桂香が並び隣のシートは静かになる。

 

「お嬢様とペアシートのはずが…違和感なく富士山を背景にお嬢様を撮るプランが…」

「初の公式戦前ですしそっとしてあげましょう。あれは夜眠れてなさそうですし」

「む…」

 

 斯く言う八一も三食こそしっかりこなすが多くの将棋指しに違わず夜型。起き出した弟子の生活音で4時起きともなれば辛いものがある。持ち込んだボトルコーヒーを一口飲み眠気覚ましと八一はマグネット将棋盤を取り出した。そしてすまし顔で晶に声をかける。

 

「一局どうですか?天衣の話ではなんでも道場の子に勝てないとか」

「確かにあのクソ餓鬼と私は道場の頂点を争っている。しかし最近は負け続きだ。何か策を教えてくれるのか先生!?」

 

 思わぬ食いつきに廊下側へ体を逸らす八一に対し晶は早々に駒を並べ始めた。その手つきは慣れたもので覚えたての頃の斬新な反則は見られない。

 

「…とりあえず1局指しましょう」

「くく…これであの餓鬼に一泡吹かせられる」

 

 大人気無く子供にリベンジを誓う晶に押され指導が一段落する頃には富士山が車窓に映っていた。

 

 

 

 

 

 プロ棋士同様女流棋士にも段級位制が存在する。その入口は女流3級だがそれは2年間の内に規定の成績を出せなければ資格を取り消される仮免許。あの例会の後天衣は即座に登録を終えその座に至った為正式な女流棋士へ成るべく今大会へかける意気込みは強い。

 一方アマチュア選手であるあいは記念参加であるかというとそうでもない。チャレンジマッチと一斉予選を勝ち抜き本戦で一勝すれば女流2級の資格を得られるからだ。

 大会参加にあたってその辺の事情を知った弟子2人の戦意は高まるばかりだった。

 

「じゃあこっち。まず受付を済ませないと。八一君ご飯お願い!」

 

 時間が押していることもありこの後八一は軽食調達の為に別行動である。早足で階段を上がっていく4人を見送った八一はシャッターが下りた店舗の多いフロアで光を灯すコンビニへ歩を進めた。しかし食料品棚を見て眉を潜める。元々小さな店舗に同じ思考の先客が押しかけたのか目当てのお握りが無い。 

 

「…」

 

 持ち時間の少ない棋戦それも連戦での補給は重要だ。棋士もおやつは試行錯誤するし緊張の中では好み一つとっても箸の進みは違うだろう。

 スマホを取り出して付近のコンビニを検索、ビルを出て通りを歩く八一を追いかける影が1つ。ずっと付いて来るそれを無視する八一だが帰りの大通りで待ち伏せされ捕まってしまう。

 

「ひひひ!」

「祭神。一斉予選の日を間違えたか?」

「連れないこと言わないでよやーいち」  

 

 面倒な奴に捕まったと顔を顰める八一に対し満面の笑みを浮かべる祭神。隣で信号待ちをしていたサラリーマンが居心地悪そうにスマホへ視線を落とした。どういった目で見られているのか甚だ不安を感じながら八一はだんまりを決め込む。

 

「こっちあの対局からずーーと再戦を楽しみにしてたのにやいち今年は竜王だから新人戦に出られないし女流棋士枠で棋戦出ても当たらないし」

「それは悪かったな」

「だ、か、ら弱いけどやいちの大事な大事な銀子を一度下して早くプロになるんだ」

「姉弟子は弱くない」

「その銀子に勝ったわたしをやいちは見逃せないにょ」

 

 離れた分だけ付き纏ってくる目の前の女子にかなり引きながらどうしたものかと天を仰ぐ八一。姉弟子が敗れるとは欠片も思ってはいない。だが気に入らない。しかしこれは祭神の一方的な宣言で止めようもない。

 

「…足元をすくわれないようにな」

「…?ヒヒ、ウヒヒヒヒヒ!」

 

 どう返答しても曲解をしてくる女怪に対し八一はそう返答し踵を返した。祭神は祭神で何を勘違いしたのか妄想した心躍る未来にトリップし始め上機嫌に手を振る。八一の姿がエレベーターに消えるのを見送った祭神は不気味な笑い声を響かせながら地下へと降りて行った。 

 開店の準備をしていた従業員達にドン引きされていたのは言うまでもない。

 

 

 

 

 静かに会場入りするがそこは序列最上位のタイトル保持者。受付へ行くまでも無くフロアに入るだけで一騒動起こった。挨拶を頼まれた八一は事情を説明して丁寧に辞退し代わりにネット解説の手伝いをすることになる。

 

「ししょー大人気です!」

「なに騒ぎ起こしてるのよ。師匠ならしっかりしなさいよね」

「すまん」

 

 がちがちに緊張していたあいは笑い天衣はこちらに文句を言う。その隣で桂香が目を閉じて集中していた。一連の騒動にも気づいていなかった様で普段との違いを感じさせられる。逆にそわそわしっぱなしの晶が天衣に怒られていた。

 

「全力でやってこい」 

「はい!」

「ふん…言われなくとも」

 

 八一はやる気十分に返事をするあいと髪を搔き上げそっぽを向く天衣へ頷いた。抽選が行われあいと桂香の相手は若手の女流棋士、天衣の相手は地方のアマチュア選手に決まる。直後何やら八一を外して一言二言確認した3人は一回戦に挑むべくそれぞれ盤の前へ散って行った。

 弟子達の初大会が始まる。

 




 短かったし調子が良ければ年内にもう一声…


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第三十四話+

 来年もよろしくお願いします。


 一斉予選へ駒を進められる9の枠を巡って60名の女流棋士、アマチュア選手が5つのブロックに分かれて盤の前に座る。時折誰かがする咳込みが良く響く静けさの中、八一の姿は鵠と並んで記者席にあった。

 

「では竜王。今日はよろしくお願いします。でも解説は3回戦からでいいのですが」

「どこにいても気を遣われるので…」

「ふふ、では午前中は私とお喋りするだけでいいですよ」

 

 極めて真面目に仕事をこなそうとする八一をやんわり止める鵠。オフに無理を言った負い目と僅かな下心が言葉の下に見えた。聞けば辛く噛みついただろう女性陣はここにはいない。少しずれた眼鏡の位置を直しノートPCに白い布を敷いた鵠は指を走らせる。

 

 

 本局は第三ブロック一回戦の夜叉神天衣女流三級―小谷内亜生アマ戦。勝者は二回戦に進み敗者は敗者復活戦にまわる。対局開始は九時四十五分予定。持ち時間はチェスクロック使用で各十五分、切れたら一手三〇秒の秒読み。振り駒の結果は歩が三枚。夜叉神の先手と決まった。(コメント入力=鵠)

 

 

 一息でコメント欄に情報を書き込んだ鵠はタブレットを操作して八一に見せてくる。画面を八一に見せながら操作するせいで2人の身体は近づくが八一の目線は画面から動かなかった。鵠も何食わぬ顔で口を開く。

 

「一回戦からすごい注目ですね。中継しているこっちが言ってもアレですが」

「師としては心配ですよ」

「確かに夜叉神さんは可愛いですしね」

「はあ」

 

 

 先手夜叉神女流三級は小学四年生。関西研修会に所属しており6月には女流棋士としての申請を行ったことで注目を浴びた。師匠は九頭竜八一竜王。女流公式戦は初登場と話題には事欠かない。

 後手小谷内亜生アマは関東研修会A2クラスに所属する中学三年生。昨年はチャレンジマッチを抜け一斉予選に進んだ。今年の目標は本戦出場だと語る。

 対局は夜叉神の角道を開ける一手で開始。小谷内さんも応じて戦型は角換わりとなった。両者は小考を挟みつつ駒組みを進める。

 

 

 盤上の均衡が崩れたのは一瞬であった。減る一方の持ち時間と天衣の落ち着き様に僅かに浮ついた相手の無理攻めを天衣は見逃さない。冷静に綻びを突く天衣の側に戦況が傾きそれを打開しようと焦る相手は悪循環にはまる。

 

 

 現局面は夜叉神勝勢。駒の持ち方、指し方がかの竜王に似ている点は微笑ましいがその将棋は口端の緩みが締まるほど辛い。小谷内さんは△2七角と最後の抵抗を見せたが夜叉神は冷静に対処。後手の反撃の芽を摘んだ。

 ここで小谷内さんが投了した。終局時刻は十時十四分。消費時間は夜叉神七分、小谷内十五分(持ち時間各十五分)。

 勝った夜叉神女流三級は公式戦初勝利。昇級へ向けて貴重な勝星を得たことになる。この後の対局も注目必至だ。

 

 

 終わってみれば最後の一矢すら許さぬ完勝。しかし勝った本人は何が気に入らなかったのか仏頂面である。八一はタブレットであいと桂香の対局が終わったことを確認すると鵠に声をかけた。

 

「少し外します」 

「どうぞごゆっくり」 

 

 にこにこと笑う鵠に見送られた八一は記者席を出る。興奮冷めやらぬあいと晶をあしらう天衣に近づくとそっぽを向かれた。隣では心底安堵した様子の桂香もいる。

 

「ししょー!勝ちました」

「お嬢様!3人で初戦突破の記念写真を」

「2人共よくやった。桂香さんも良かったです」

「ふん。当然よ」

「な、何とか勝てたよ八一君」

 

 あいは女流棋士相手に完勝、桂香も相手が暴発したことで白星を上げ2人のコンディションも良好。全員初戦を突破したことで場の空気も明るい。そして対局が短時間で終わったことでいい具合にクールタイムも取れ足取り確かに3人は2回戦へ向かって行った。

 

 

 

 

「シード枠相手に完勝する将棋歴7ヵ月。どんだけですか」

「自分の弟子ですから」

「住み込みで朝から夜まで手取り足取りですよね」

「いえ。あいは学校がありますし自分も仕事でそこまでは…」

「冗談ですよ?」

「…」

 

 鵠からじとっとした目線を向けられた八一はタブレットに目線を落とす。何らやましいことは存在しないのだが何かの力がそうさせた。

 

 

 第四ブロック決勝剣抜茅尋女流三段―雛鶴あいアマ戦。本局の勝者は一斉予選への出場が決まり敗者は敗者復活戦へまわる。振り駒の結果雛鶴さんの先手が決まった。

 ネット解説を務める九頭竜八一竜王は対局者である雛鶴さんの師匠にあたり第三ブロック決勝の夜叉神女流三級とは姉妹弟子となる。両者ここまで三連勝で勝ち上がって来たことからその実力は疑うまでもない。

 本局では竜王の弟子の実力を師匠の解説でご覧頂く。 

 

 

「先手の雛鶴さんは相掛かりを打診しこれを剣抜さんが受けて力戦へ突入。雛鶴さんの対局はここまで全てこの形ですね」

「そろそろ拒否されると思っていましたが」

「まあ、受けてしまいますよ」

「どうであれあいからすれば願ったり叶ったりです」

 

 

 戦型は相掛かりとなった。両者指し手が早いが九頭竜竜王の顔に心配の色は無く望んだ展開だとほくそ笑む。雛鶴さんが3筋の歩を突き捨てて開戦。加えて角交換を仕掛けその後も攻撃的な手を連発する。後手の剣抜は受け切れずに減速した。

 

 

「…自分笑ってました?」

「フレーバーです」 

 

 

 局面は雛鶴さんが好手を連発して勝勢。師匠ゆずりの将棋センスを存分に発揮し勝利に近づいている。剣抜は既に攻める手段を喪失しまともに粘ることも出来ていない。

 総手数は75手。剣抜の投了で対局は終了した。勝った雛鶴さんは小学四年生。時を同じくして第三ブロックを制した夜叉神女流三級と揃って一斉予選進出を決めた。

 

 

「竜王」

「はい?」

「強すぎます」

「…自慢の弟子と家族です」

 

 小学生2人の一斉予選進出にざわめく会場へ更なる一石が投じられる。第5ブロック決勝で女流棋士相手にまた1人アマチュア選手が大番狂わせを起こしたのだ。

 どよめく記者や大会関係者を他所にこちらへ一直線で向かってくる3人を見て八一は首肯した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Christmas盤外

 

 

 その年のクリスマスはよく覚えている。八一はその月の三段リーグ戦を終え自分も例会が休みでタイトル保持者の仕事も無し。師匠は順位戦でA級に所属し上位を争っており前日イヴの対局は超の付く接戦。テレビ超しに対局を見守りそのまま寝落ちして朝を迎えた私達は勝利祝いに別口で何かを贈ろうと街に出たのだ。

 

「姉弟子。寝ながら歩かないでください」 

「寝てない」

「なら1人で歩けますよね」

「うるさい」

 

 極度に朝が弱い小さな私は羨ましいことに半ば八一に抱き着いて歩いていた。朝にプレゼントされたマフラーに顔を埋めて夢見心地。それでいて朧げなはずの記憶がここだけしっかりしているのは頻繁に想起しているからだ。

 環状線で野田から大阪駅まで出てデッキを通り4月にオープンした真新しいショッピングモールの門を潜る。クリスマス装飾に染まったホールは煌びやかだったと思う。

 

「眩しい」

 

 ぽんこつで雰囲気ぶち壊しの半分眠った私は八一にくっついてメンズショップをまわる。甘味は長蛇の列を見て即断念。案内板の前で唸ること数刻。間に迷子と勘違いされるハプニングを挟んで昼前。モールを出る私の手には紙袋が握られていた。

 戦利品はシンプルなデザインのニットグローブ。弟子入りしてずっと見てきた手ゆえにその大きさはよく知っている。子供にしては随分と高い買い物だったが商売道具を守る物だから妥協はしなかった。

 

「いいものを選べましたね。師匠もきっと喜んでくれます」

「…うん」

 

 人で埋め尽くされたホームで電車を待つ。しばらく前から動き出した頭が己の愚行を振り返って熱くなり冷えた外気が恋しい。微かに雪が降っているが上は巨大な大屋根、横は人垣に阻まれ近くに落ちることもなかった。徐々に意識がふわふわとしてくる。

 

「姉弟子!」

 

 油断してオレンジバーミリオンの扉から次々出て来る人に流されかけた私の手を八一が掴んだ。中学生になって急に一回り大きくなったその手は力強い。少しだけごつごつしているが綺麗なそれは少し冷えていて心地良い。

 

「ぁ…ありがと」

「はい」

 

 私は離れるその手を逃さぬ様強く握った。これは私の胸の内で光るたくさんの思い出の1つ。

 




 その後数年プレゼントセレクトから手袋を外していた姉弟子。八一プロデビュー戦の後に周りが煩くなり先を越される前に撤回した模様。という補足設定。


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第三十五話

 新年おめでとうございます

 


「おー。これがかの15世名人の字かー」

「御利益ありそうです!」

「ごりやうー」

「むっ。ししょーの揮毫も負けてません」

「くずりゅー先生のは別方向に味があると言うか」

 

 東京千駄ヶ谷駅のホームに鎮座する王将を前にして興奮しっぱなしの小学生達。彼女達の側には八一と桂香、晶の姿もある。

 

「全く何で貴方達が」

「まあまあ。妹のお願いを聞いてあげるのもお姉ちゃんよ?」

「…ふん」

 

 将棋雑誌の看板や道場への案内を見つけては駆け寄る3人の小学生はあいの道場仲間。彼女達は夏休みを利用して将棋会館道場への遠征を目的に東京を訪れていた。その引率があいを介して八一達に頼まれている。これは元々大会翌日を東京観光に当てるつもりだった桂香達に快諾された。

 

「ここが鳩森神社。棋力向上絵馬は将棋好きには有名ね」

「名人が神前式をした神社だよね!」

「棋戦の中継ブログとかでよく見ます!」 

 

 神社の境内に足を踏み入れた八一達を出迎えたのは六角形の将棋堂とそこに納められた駅の王将の数倍はする大駒。折角なので授与所で御朱印を頂き社務所で絵馬を買った一行は各々願いを書いてお堂の壁に吊るす。その内容は『皆でマイナビの本戦!』に始まり『研修会で勝てますように』『終盤に強くなりたいです』『しょたんになう』『私は負けない』と様々。

 その中に師の絵馬がない事に何を察したのか天衣がタイトル保持者も面倒ねと呟く。八一は何のことかと潜考し弟子の考えに至った。

 

「ああ…今年分の願いはもうしてあるんだ」

「貴方そういうの気にしないと思ってた」

「特大の願いだからな。神様も手一杯だろう」

「ふうん」

 

 鳩森神社を抜けて角を一つ曲がれば将棋会館の縦看板が現れあい達の興奮は最高潮。入口の石碑前まで走り5階建ての将棋会館を眺めてはお洒落だなんだと感想を言い合っていた。

 

「中で将棋指してます!2階だから道場です!!」

「そうだ写真。会館をバックに写真撮ろうよ」

 

 澪がそう言いながら天衣の手を取るとその左右をあい、綾乃、シャルが固める。

 

「なんで私の手を掴むのよ」

「だって天衣ちゃん逃げるし。晶さんお願いしまーす」

「なっ!晶貴方静かにしていると思ったら」

 

 既に道路を挟んで撮影ポジションにいる晶。神社で澪が晶に何やら耳打ちしていると思えばこれ。欲望に忠実な護衛に頭を抑える天衣である。

 

「ししょーと桂香さんも早く!」

 

 渋る八一と桂香があいに手を引っ張られてフレームの端に収まると晶はシャッターを切った。

 

 

 

 

「皆様おはようございます。本日は棋帝戦第3局の模様を終局まで完全生中継でお送りします。聞き手を務めさせていただきます女流棋士の鹿路庭珠代です」

 

 将棋会館5階の一室。カメラの前に組まれた大盤セットを背景に鹿路庭が一礼する。その隣では年齢に似合わずスーツを着こなした少年がカメラを睨んでいた。

 

「本日の解説者は九頭竜八一竜王です。先生どうぞよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

「九頭竜先生と私の組み合わせは5月の極会議ぶりの2度目ですねー。前回の反響の大きさに運営は味を…んんっ皆様のご期待に応えようと手配に力を尽くしました。皆さん拍手!」

 

 2人の足下に置かれたモニタ上を流れるコメントが激増した。さっと拾うと『竜王おこ?』『怒ってないよ』『辛いたまよんもイイ』『8888』等生で反応が返ってきていることが分かる。そしてカメラが切り替わり遠く淡路島の対局室が映し出された。コメントも『裏でご叱責』等書きたい放題である。

 

「ただ今対局室が映し出されていますが…まだ両対局者は入室していない模様です。立会人の清滝九段と副立会人の久留野七段、記録係の椚奨励会初段の姿が見えます」

「ここの常連さんなら恐らく知っている顔だと思います」

「先生の師匠でもある清滝先生が何かそわそわしていますが…」

「…何でしょうね」 

 

 答えが解っている八一ははぐらかす。しかし画面上の師匠は早足に部屋を退出してしまった。それを見てコンビニだのトイレだお風呂だと書きたてる視聴者達。もう正解分かっているだろうと心中で視聴者達に思う八一である。 

 

「あ、対局者来ちゃいました!正立会人不在のまま両者駒を並べ始めます」

「副立会人の宣言で始めるようですね」

「だ、第八十八期棋帝戦第3局いよいよスタートです!あっ…」

 

 部屋の襖が開け放たれ対局開始の場を記録せんとしていたカメラは和服がはだけて半裸になった立会人を画面に収めてしまう。数秒の沈黙の後係員に引きずられ師匠はフレームアウトした。

 

 

 

 

 対局は場外の波乱を他所に定跡通りの穏やかな展開となった。落ち着いたところで鹿路庭はスタッフからの指示に従い対局者の紹介を始める。

 

「ここで対局者の紹介をしておきましょう。後手番の篠窪大志棋帝は現在23歳。昨年この棋帝戦で初タイトルを獲得し関東若手棋士の中で一躍トップに踊り出ました」

「あの時は関西の棋士も触発されてました」

 

 去年の今頃お茶の間のアイドル棋士に対する嫉妬で関西の若手が結束した事実もある。結果研究が加速しその被害(恩恵)を竜王戦トーナメント中の八一が受けたとかどうとか。

 

「将棋の強さだけでなく慶應大学を主席で卒業するなど学業も優秀。ニュースのコメンテーター等広報でも活躍しています。九頭竜先生は篠窪棋帝にどんな印象をお持ちでしょう?」 

「学業との両立は本当に尊敬します。篠窪さんはよく最新型の棋戦に登場しますし要領が良いのだろうなと」

「なるほどー。将棋もイケメンということですね。では次に挑戦者の紹介です」

「名人です」

 

 前置きに迷った八一はただ一言そう告げる。だがそれで視聴者達に通じる。元よりこの棋帝戦。例年の軽く数倍を超えた注目を集める理由がかの人物だからだ。

 

「タイトル獲得通算98期にして現在は玉座と盤王のタイトルも保持、5つの永世称号資格を有する…よく分からないという人は前提としてタイトルが全棋士の目指す目標だと踏まえて聞いて下さいね」

「永世称号は規定の回数をタイトル防衛したという称号です。歴代で10人もいないと言えばその条件の厳しさが伝わるでしょうか」

「そして第1局第2局と連勝した名人は今対局でタイトル獲得に王手。取材陣も例年の倍以上という注目のされ様です。ありがたいことですねー」

 

 その中で師匠は半裸をさらした訳だが思い返すと頭痛が酷いので八一は忘れることにした。都合良く大盤解説の指示が出たので鹿路庭とマグネットの駒を手に取る。

 

「戦型は篠窪棋帝の打診通り横歩取りとなりました。第1局と同じ展開ですが九頭竜先生は予想していらっしゃいましたか?」

「名人のスタイルを鑑みれば篠窪さんの後手横歩が通る可能性は高いと見てました」

「あっそうですね。第2局の角換わりも篠窪棋帝の得意戦法でした…」

 

 外向けに解説する八一は戦法を取れた様で逆に掴まれているとは口にしない。名人が自分の棋譜を見ていると聞かされたのが山刀伐だからだ。自分がそうで篠窪が違う等と思う程八一は驕った考えは出来なかった。

 

「…ぃ。……竜先生!」

「はい?」

「もう!生放送中ですよー?局面が固まったので次の一手クイズをしますって聞いてました?」

「すみません」

 

 思考にふけっていた八一が気づけば目の前に鹿路庭の接近を許してしまい青い瞳に映る自分と目が合ってしまう。何処かから寒気を感じ取った八一は必死に身体を逸らした。

 

「ふふっ。後でバツゲームですよ」

「…7七角だと思います」

「4六銀、7七金に続いて新しい予想ですね。では3択でクイズです!…ですが7七角だと頭にある歩を飛車で取られて…うーん?」

「歩は失いますが角を上げてしまえば玉を固められます。悪手にも思えますが篠窪さんにとっては嫌な手でしょう。…あくまで自分の予想ですが」

「なるほど。ここでデータ以上に辛い手ですか。あっ!…本当に7七角を指しました!すごいです先生!!クイズの当たった人もたまよんが褒めちゃうゾ」

 

 角に睨まれた画面上の棋帝は正座を崩してお茶のペットボトルに手を伸ばす。膠着状態に入った対局を見て鹿路庭はメールから質問を拾い始めた。

 

「うわあ沢山のメールが届いてますよ。えー1つ目は大阪府の女性から『九頭竜先生の恋愛観を教えてください』です。先程のバツゲームとして黙秘権はありません!」

「はあ」

「では『将棋を知っている人と知らない人ならどっち?』」

「将棋は自分の全てなので理解のある人の方が合う…と思います」

「はい。第1問からかなり範囲が狭まりました。この調子で行きますよ!『先輩のお姉さんと後輩の女の子ではどちらが…』」 

 

 次々と繰り出される割と突っ込んだ質問に早く局面が動いてくれと願いながら悪戦する八一であった。

 




 棋帝戦後編に続く


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第三十六話+

 八一が東京で解説に従事していたのと同時刻。東京から西に450キロ離れた棋帝戦会場ホテルの控室でタブレットPCの画面を見つめる少女が1人。彼女が八一の解説を見逃す訳が無いのだ。

 

「むっ」

 

 放送に現れた聞き手を見て眉をひそめる銀子。八一の周りをうろつく女流棋士4号が聞き手を務めることは知っていたが実際目の当たりにすると腹が立つ。去年から身の程を知らせようと思っているのだが機会が無い。運の良い奴だ。あと無駄に育った部位が憎らしい。

 

「近すぎ。バカ八一」

 

 多くの棋士が立てる雑音にぽつりと呟かれた言葉が吸われた。確かに八一は堅物だが16歳の少年でもあるのだから相手が明らかに好意を示す魅力的(自分は認めないが世間ではそうなのだろう)な女性では少し不安にもなる。

 対局が始まる前に半裸の変態が出る放送事故もあったがそれについては考えることを止めた。既に連盟での清滝流の発言力は最低なので特に問題はないだろう。それよりも、だ。

 名人が手を止めた為自分で次の手を読もうと集中していたら付きまとい1号が隣で金将の駒を手に唸っていた。画面の女同様現役JDにして横から見るそれは大きい。やはり八一に近づく持っている奴等は皆敵だ。

 

「竜王さんの予想は7七角どすかー」

「供御飯先生。勝手に見ないで下さい」

「堪忍ぇ。竜王サンの名前が聞こえてついなぁ」

「…」

 

 口では敵わないと放送に意識を逃がすと丁度名人が駒を進めるところだった。改めて思い知らされた八一との距離に歯噛みすると同時に少し安堵する。名人は竜王戦1組を2位通過して決勝トーナメントを勝ち上がっている八一の真っ赤な仮想敵でその傾向を掴めているという事は大きいが故に。

 そんな極めて真面目な思考を揺るがす一言が隣から聞こえた。

 

「はー。竜王サンはお姉さんが好きなんかー」

 

 驚きで暗い感情も安堵も一切合切全てが吹き飛んだ。

 

 

 

 

 1日制タイトルである棋帝戦の持ち時間は各4時間で朝から始まり終局は大抵夜になる。その間聞き手と解説はひたすら盤面を掘り下げ解説することもできるがそれでは堅苦しい。それ故お昼のメニューから体験談、将棋トリヴィアまで何でも話のネタにして視聴者を飽きさせない様に工夫するのだ。

 その結果ウミガメのスープの如く恋愛観を暴かれかけた八一である。

 

「皆様こんにちは!お昼休みを挟んで放送再開です。篠窪棋帝はにぎり寿司、名人は例年通りきつねうどんとおにぎりを注文していました。画像が出てますね。おいしそうです!視聴者の皆さんはお昼何にしましたか?」

「昔あそこのきつねうどんを食べたことありますけどだしが効いてておいしかったです」

「九頭竜先生も名人に肖って食べに行った口ですか?」

「小学生の時に姉弟子と行きました。憧れというよりは偵察気分でしたね」

「これは面白そうな話が飛び出てきました」

 

 鹿路庭が興味深そうに八一へ向き直った。八一と銀子が姉弟弟子であることは知られているが2人の昔話の大半は彼等の師匠から暴露されたもので本人達が語ることは珍しいのだ。 

 

「色々気になりますがまずは偵察、ですか?」

「師匠が名人に挑戦するとあってタイトル戦の事を色々調べていたんですよ」

「ふふっ。師匠想いのお弟子さんですね」

 

 過去を振り返って八一は少し頬を緩ませ楽し気に調査報告を開始する。

 

「昼食メニューの研究成果は小さかったですね。お菓子についてはVSを繰り返してチョコを食べたりゼリー飲料とかご当地ジュースを試したりで色々分かったんですが」

「可愛らしいです」

「成分表とにらめっこした結果ラムネ菓子を渡しました。音もしないですしね」

「微笑ましい研究と思いきや割とガチでした…」 

 

 ちなみに八一の今のブームは薄めに淹れた梅昆布茶。疲労回復リラックス効果を見込めカフェインレスとあっての採用である。おかかと茶の粉末の相性が良かったのも水派の八一の心を大いに揺さぶった。

 

「そして空銀子二冠と行ったとのことですが」

「偵察云々は姉弟子が言い出したんです」

「意外…。くしゅん!スタッフさん急に冷房効きすぎじゃないです?」

「あれで情に厚い人ですよ。誤解されやすいだけで」

「なるほどー。では九頭竜先生の子供時代を交えておやつとしま…くしゅ!失礼しました。この後お三時タイムです」

 

 画面には3時のおやつが運ばれてくる対局室が映し出され八一達も届いたプリンを食べながら身辺の話に花を咲かせる。

 西高東低。西で高まったあらゆる緊張はゆるふわな東へ吹き降ろし局地的に激しい雷を引き起こした。

 

 

 

 

 膠着した戦局は陽が傾くにつれじりじりと動き出し名人の一手で一気に燃え上がった。棋帝の歩を名人の囲いが飲み込み終盤戦へ突入する。すかさず飛車を回す棋帝だが逆に名人は▲7一角成と一閃。対応に追われ飛車と角を交換した形になった棋帝が△5六角と敵玉に圧をかけるも名人の駒台から出張ってきた角がそれを遮る。

 それでもと名人の玉に棋帝の金将が迫ったがそれを名人は淡々と玉で受けた。あっさりと動いた玉に控室がざわめく。顔面蒼白の棋帝が△6七角成とするも名人の飛車が七段に下りて来てそれ以上を許さない。

 手番を握った名人が飛車を敵陣奥深くに打ったのを最後に棋譜は停止した。

 名人に一切の死角なし。棋帝位を併呑しタイトル獲得99期・永世六冠となった名人は次を見据えている。

 

 

 いつになく静かにスマホを見ていた彼女達は1つの想いを胸にもう一勝負と散って行く。

 




 おかしい。解説してないぞこの竜王


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第三十七話

 りゅうおうのおしごと!10巻発売!私の地域は少しおあずけですね



 大阪へ帰る弟子達が乗った新幹線を見送った八一は階段を上がり隣のホームへ降りるとベンチに座る。そうして待つこと半刻。到着した新幹線から出てきた制服姿の少女と並んで山手線に向かう。幼い頃から幾度も通った道ゆえ彼等の歩みに迷いは見られない。

 2人はエスカレーターの上から丁度発車せんとする電車をのんびり見送ってホームドアの前に陣取った。

 

「これ土産の煎餅」

「ありがとうございます」

「ん」

 

 僅かに顔をほころばせる八一に対して銀子は素っ気ない返事を返してそっぽを向く。それでも会話は途切れず続いた。その内容は昨日の棋帝戦から始まり他愛も無い師への折檻話に亘る。到着した電車に乗っても特に口が上手いわけでもないはずの2人の話題は尽きなかった。

 

 

 研究会の約束まで時間があるため原宿を回ることにした2人。この先少なくなるだろう八一と散策をする貴重な機会とあって銀子の日傘を握る手にも力が入る。今日の為に彼女は周辺の店舗を調べ上げ朝早くに大阪を発っている。何気なく銀子から提案された散策に彼女がどれだけの力を注いだか。それを知るのは桂香だけである。

 

「美味しいホットケーキを出す喫茶店を見つけたと歩夢に聞いたんですけど行ってみます?」

「…行く」

 

 だがこの八一、ゴッドコルドレンに連れまわされ原宿に多少の覚えがあった。拙いながらも銀子を楽しませようとして意図せず彼女の計画を崩す。初手は八一の好みである抹茶菓子を古民家風カフェでと考えていた銀子は想い人のエスコートと構想1ヵ月の完璧なプランを天秤にかけ後者を放棄した。

 

 

「美味しかった」

「ですね。歩夢に礼を言っておきます」 

 

 通りから外れた路地にある如何にも隠れ家といった純喫茶のボックス席。コーヒー片手に昔ながらのケーキをぺろりと平らげた2人は食後の時間を過ごしていた。まだ昼時には早いとあって客足もまばらで周囲には本を開く客もいる。

 

「研究会本当にいいの?」

「棋帝戦の名人は完璧でした。今は何でも切っ掛けが欲しいので歩夢には万全以上の状態で戦ってもらって名人の反応を見たいんです」

「神鍋先生と戦いたいだけでしょ」

「まあそれも多少は」

 

 嘘である。八一は竜王戦で神鍋と戦いたいという気持ちを多分に持っていた。幼少の頃からの戦いを七番勝負で繰り広げる等と想像しただけで胸が熱くなるからだ。

 そんな八一をじろりと一瞥した銀子は仕方が無いと溜息をつく。理論を固めた弟分に十年前から口で勝てない自分にである。

 

「確かに名人は圧巻だったけど」

 

 カップから視線を上げて八一の目を真っ直ぐ見て言葉が続けられる。

 

「相手が名人でも神鍋先生でも八一が勝つから」

「…頑張ります」

 

 精算時強面の店主にサインを求められる一幕を経て2人は店を出た。

 

 

 

 店を出て通りに戻り人が群がるクレープ屋の角を曲がると再び人気が無くなる。近くに置かれた噴水で生まれた涼しい風が通りを吹き抜けた。苔むした石垣と蔦に覆われた壁に挟まれた小道を進んだ2人は古い教会を思わせる石造りの建物を前に足を止める。

 

「来たな我が宿敵。早く上がって来るのだ」

 

 降ってきた声に視線を上に向けると恰好を付けて2階の窓に寄りかかる神鍋の姿が目に入る。軽く手を上げた八一と頭を下げた銀子は重い木と鉄からなる扉に手をかけた。

 

「時間通りだ銀子。そして若き竜王も歓迎しよう。ようこそ余の城へ」

「今回は研究の場をありがとうございます釈迦堂先生」

「神に向かう戦士の集いの場がカラオケでは締まらんだろう」

 

 釈迦堂里奈。女流名跡のタイトルを20年近く保持し続け女流棋界を牽引してきた女傑にして銀子の研究相手。女流棋士にしてブティックを構え独自のファッションブランドまで持つ異色。尤も銭湯やらバーを経営していたりと棋士が好き勝手やっているのは今更でもある。

 

「歩夢に早く上がれと言われたのですが」

「む、うむ。ゴッドコルドレンは階段を上がって突き当りの部屋だ」

「では姉弟子。また後で」

「ん」

 

 階段に八一の姿が消え少しして扉の閉まる音が聞こえると何が可笑しいのか釈迦堂がくすりと笑う。銀子は不利を察して無言で衝撃に備える。

 

「そうそう。ホットケーキは口に合ったかね?」

「!?」

「あの店主とは旧知の仲なのでな。さてまずは一局手合わせといこうではないか」

「…そうですね」

 

 動揺を何とか抑えた銀子と釈迦堂の研究会が始まった。

 

 

 

 

「歩夢。入るぞ」

 

 二階の一室に一声かけて足を踏み入れるとソファーで足を組む神鍋歩夢の姿が八一の目に入る。その姿は釈迦堂と通ずるものがあり神鍋が師をどれだけ慕っているかが察せる。まあそんなことは一目見て分かるのだが。

 

「△4五歩」

「▲6八銀」

「△9五歩」

 

 口を開くや否やそう口にする神鍋に対し瞬時に頭の中に盤を展開し相手の十八番である矢倉を受ける八一。準備運動とばかりに頭の回転を速めていく2人の会話に淀みは存在しない。両者の思考が高回転域に入ったところで盤面を戻し角換わりへ。

 

「△3五歩」

 

 脳内で神鍋が進めた歩に対して2四歩同銀と駒が進む。これは対局でなく互いに課題としていた盤面の研究。ゆえに1つ1つの駒を動かす宣言は必要ない。

 

「▲6五銀」

「△4七と」

「▲5四銀」

 

 55手目に八一がいたずら顔で示唆した一手に初めて滑らかだった会話が途切れる。6筋に八一の飛車以外の駒が存在せずこのままでは八一が龍を得てしまうからだ。

 

「…△6三歩?」

「▲6八金右」

 

 八一が動かした駒は先程4七に動いたとが狙いを定めていた金。神鍋は平静を装い紅茶を口に含むがそれは喉が渇いたという証左。八一は微動だにせずじっと神鍋の手を待つ。

 

「△8六歩」

「▲同歩△8七歩▲5三桂成」

「△8…六、飛?」

「▲3九飛」

 

 八一の飛車が角の頭に滑り込む。この筋で出された結論は先手優勢。神鍋は数秒黙りこんで不敵な笑みを漏らす。

 

「▲2四歩」

「△同歩」

 

 手を戻して43手目。神鍋は先後を交代し八一に先と異なる応手を要求。瞬時に意図を理解した八一もノータイムで応えた。そこからは互いに意識が混ざりどちらが指しているかも不鮮明で読みが共鳴する領域に入る。

 

「▲6五銀右△同銀▲同銀△3六歩」

「▲4五桂△同歩▲3四歩△同銀」

「▲5五角」

「△6二飛」

 

 自分の全力を受けて答えてくれる神鍋(ライバル)に冷静な仮面をかなぐり捨てた八一は歓喜する。久しく遠ざかっていた熱に身体が焼かれる感覚が心地良いのだ。

 しかし最高の時が過ぎるのは一瞬である。疲労困憊の2人が文字通り正気に戻ったのは窓から夕日が沈む頃。実に5時間以上研究の階層を深め続けていたことになる。 

 

「よもやここまで我の真髄が見透かされていたとは、な」

「それはお互い様だ」  

 

 ここまで入りこんだのは互いの理解度があってこそ。八一は対局の遠近に関わらず常に神鍋の研究を行っていたのでそれに拮抗した時点で神鍋もまたということである。棋士を適当に2人捕まえて手の内全てを晒した対局をさせてもこんなことは起こらない。八一と神鍋が十年来の腐れ縁の果てに対名人という名分を得て解放した域なのだ。 

 

「神の強さは中盤の対応力、無謬の終盤力で保たれている。序盤は押されることも多い」

「研究家で序盤巧者と言われる山刀伐さんと組んだのもそこらがあるだろう」

「確かに先の棋帝戦は全く隙がなかった。だが神とて無敗ではない。何より我は神を殺し貴様と天上の舞台で戦いたい。覚悟しておくのだな」

「勿論だ」

 

 静寂に満ちた部屋に誰かが階段を上る音が僅かに響く。予定していた時間を過ぎて銀子が呼びに来たのだろう。外では夏の夕日が一日最後の仕事と通りを照らしている。

 

「まあこっちとしては神を下すのも面白そうなんだがな」

「っな!今の流れでそんなことを言うか」

「好物は最後にとっておくものでな。悔しければ勝つことだ」

「い、言われるまでもない!」

 

 八一と神鍋の研究会は扉がノックされる音と共に終了した。

 



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第三十八話

 他の投稿者さんに当てられて筆が進みました


「成果はあったみたいね」

「はい。歩夢の出来上がりは相当ですよ」

「そう」

 

 西日に照らされた階段で刺々しい視線を向けられる八一。その元は先程扉超しに半裸で満足気な顔をした神鍋と瞳に赤味を残した八一を目撃した銀子である。弟分と深くで繋がったと見られる神鍋への嫉妬が彼女の中で荒れ狂っていた。無論如何わしい行為を咎めているのではない。将棋の話だ。

 

「ところで姉弟子」

「なによ」

「そのメイド服ですか?お似合いですよ」

「め、めいど服ちゃうわ!…釈迦堂先生のブランドが出してるドレスよ」

「はあ」

 

 八一の前を行く銀子は普段の制服ではなくリボンやフリルをふんだんに使ったドレスを着ていた。鋭い突っ込みを受けた八一はメイド服ではないと心にメモをして無難に事情を予測する。そして紅茶でも零してしまったのだろうと1人納得しかけたところで奥の部屋から説明が飛んできた。

 

「余と銀子の契約の1つだよ。研究の対価としてモデル役をしてもらっている。更に…」

「そういうことよ」

 

 城の主の言を銀子が遮る。そして話を止められた釈迦堂だがその顔に負の色は無く駆け寄った銀子と小声で話し始めた。1人仲間外れにされた八一は部屋に展示された服の数々を見遣り2人を待つ。着こなしの難しそうな服の群れも姉弟子がモデルだと言われれば納得できた。

 

「何をしているのだ」

「良い服だと思ってな」

「ほう。貴様分かっているではないか。これはシュネーヴィットヒェンというマスターのブランドだ。ほぼ白雪姫のプライベートブランドなんだが最近は人気もあってだな…」

「か、神鍋先生!」

 

 下りてきた神鍋が彼の師の素晴らしさを早口で説き始めたところでまた慌てた銀子がインターセプト。顔を見合わせた主従はやれやれと矛を収める。

 

「仕方ない。銀子、口止め料と今日の負債を合わせて今日はその服で帰ってもらおう」

「はあっ!?」

 

 ついには外向けの体裁すら外して釈迦堂に詰め寄る銀子の姿を八一はいい研究相手を得られた様だと眺めていた。

 

 

 

 

 そして場面は竹下通りに移る。八一と銀子は制服姿の学生から私服姿の女性陣、会社帰りの企業戦士、果ては観光中の外国人まで入り乱れた混雑の中にいた。

 

「…あれなに?」

「かわいい!」

 

 ヒールの高い靴に苦戦する様子を見せる銀子の手を引いてゆっくり歩くしかない八一にこの事態を避ける術は無い。集まりがあれば何事かと興味を持つのは人の性。人垣は徐々に厚くなり熱気を帯びていく。八一達は知る由も無かったが直前に通りでバラエティー番組のロケが行われていたこともあり周囲の遠慮は薄れていた。

 

「あの髪…浪速の白雪姫?って隣は竜王じゃ」

「白雪姫?ドラマ?」

 

 色々と勘違いを含んだままざわめきは増大し一応保たれていた均衡は1人の青年がした質問で決壊した。

 

「すいません!写真いいですか!?」

「え、やっぱりモデルさん?」

「放送はいつですか!?」

 

 矢継ぎ早に声が掛けられ場の空気に危険な色が混じり始める。関西の賑やかさとはまた別の押しに注目を流すことに慣れたはずの2人も対応が遅れた。むしろ若干1名は完全に足を止め片割れの妨害をしているまである。

 

「モデル等ではないので写真はご遠慮願います。TVでもありません。服はシュネーヴィットヒェンというブランドです」

 

 ここで律義に宣伝も行うのが八一。その真面目は遠間から無許可でカメラを向ける輩にイライラしながらも申し出に対しては丁寧に断り続ける。

 

「べつにいい」

「彼女さんは撮っていいそうだぞ!」

「姉弟子?」

「…」

 

 顔を顰めた八一の詰問から顔を逸らす銀子だがその様子もギャラリーの的である。若干頬を膨らませて聞く耳を持たないといった様相にフラッシュが増大した。今やシャッター音は途切れることが無い。

 

「はあ。大通りにタクシーを呼びます。いいですね?」

「ん」

 

 実は通りの車両侵入禁止がもう直ぐ解けるのだが八一はそれを知らない。ゆっくり雑踏を掻き分け進み始める八一。進路を塞いで無遠慮に手を差し出す輩まで出始めた為その視線は鋭さを増す。少年にあるまじき圧を向けられた不埒者は口の中が渇き我に返らせられると2人に道を譲った。

 2人が大通りに出る頃には1時間も経っていたがタクシーを通りに呼ばなかった八一の行いは結果的に好手となった。通りの混乱模様が警察が来て入場規制を敷くレベルだったからだ。八一と銀子はそそくさと予約の札を掲げたタクシーに乗り込んで品川駅に向かった。

 嫌いな人混みに囲まれ続けた銀子の機嫌がどうだったかはご想像の通りである。一連の騒ぎで撮られた写真は即座にネットへ流出し将棋界では関東を中心に銀子と八一がデートしていた等の噂が急速に広まっていたりする。なお関西ではいつものことかと無視された。

 

 

「早速ネットに流れてますね。何を言われるやら」 

「別に私達は悪くない。断ってもあいつらは勝手に撮ってた」

 

 しいていえば銀子が可愛いのが悪い。

 

「それもそう、ですかね」

「そうよ」

 

 そもそも何故行動の選択に人の美醜を加味しなければいけないのか。今日の事態は起こるべくして起きたのかもと八一は投げた。新幹線に乗りようやく一息ついた八一と銀子は揃ってゆったりしたシートに身を任せる。結局駅に着いてからも注目され続けた2人は窓口で指定席からグリーン車へ切符を変更していた。何故かこの間2人の手は繋がれたままである。

 

「昨日歌舞伎町に行ったんですけどあの店無くなってました」

「そう…」

 

 八一と銀子が殴り込みをかけた店である。思い出を懐かしむかのように目を閉じる八一に銀子も倣った。しかし訪れた闇の中で繋がれた八一の手に意識がいき何も考えられなかった。

 

「隣に小奇麗な道場開いてましたよあの真剣師」

「…何でしんみりした口調で話したのよ。くたばったかと思ったのに」

「いえ。お店がなくなるのは悲しいですから」

 

 無駄にいい笑顔でサムズアップした中年が頭に浮かびイラっとした銀子は先程煩悩に塗れていた自分を置いて八一に突っ込んだ。八一を知る他者には一連の会話で彼が終始真面目に発言している様に見える。しかし銀子には生意気にも姉を揶揄う弟分の顔が見えた。

 

「…昔はこうしてどこにでも行った」

「今ではすっかり遠出を嫌がってますよね」

「うるさい」

 

 2人なら文字通り日本全国何処へでも行けたのだ。泣き虫で弱虫だった銀子1人では到底無理な話。だが無駄に成熟していた八一1人でも行動範囲はそこまで広くならない。幼い八一にとって銀子はただの庇護対象ではなく共に歩む存在だったことが分かる。

 

「いつもの。4六歩」

「ちょっといいですか」

「それ…」

 

 八一が器用に片手で鞄から取り出したのは行きの便でも使ったマグネット将棋盤。側面には誰かとは比べようが無い流麗な字で空銀子と書かれている。幼い銀子がいつも抱えていたそれは師匠から将棋駒を贈られた時を境に八一の手へ渡っていた。

 

「昔を思い出しません?」

「うん」

 

 乱暴に扱われたこともあるプラスチックの駒は傷だらけだがそれがまた1つ1つ古い記憶を呼び起こす。銀子は自然と己の右手を解放して駒を並べていた。

 小さな盤に顔を寄せ合う2人の姿が傍からどう見られていたことやら。思い出に浸る2人は終ぞ気づくことはなかった。

 




 改めていつも誤字報告、感想をしてくれる方々に感謝です


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第三十九話

 (´・ω・`)毎度遅くて申し訳ない


「ししょー早く!」

「ちょっと!離しなさいよ」

 

 先月と比べ一段と強くなった陽射しに臆さず東京駅へ降り立つ小学生が2人。高飛車な姉は自らを慕う妹分に手を引かれることが不満そうではあるが無理に振り払う様子はない。

 性格も容姿も違うがどこか桂香と銀子を想起させる光景に桂香は苦笑いし八一は目を閉じる。そして続いてホームに現れた3人目の引率者銀子は一見して鼻を鳴らした。

 ちなみに前回の同行者である晶は一番弟子に置いてこられている。

 

「しかし姉弟子と一緒の解説は初ですね」

「うん」

 

 何食わぬ顔で相槌を打つ銀子だが竜王と女王という豪華セットが実現した裏では鹿路庭へ嫉妬した銀子への打診があった。運営にとって本戦出場者の中でもタイトル保持者である供御飯か月夜見坂のどちらかに依頼しようとしていたところに降った天啓。運営は女王の好感を得る好手を指した。というよりも紙一重で身を守ったと言える。

 

「じゃあ手筈通りにね」

「貴方こそ負けたら承知しないから」 

 

 会場に到着し人だかりを避けつつ階段を駆け上がった弟子達は師匠達の視界から外れたのを確認して短く言葉を交した。そして天衣は腕を組んで静かに後続を待ちあいは手を振って急かす。その様は姉妹の普段通りで2人がなかなかの役者であることが分かる。

 続いて例年の5割増しにも思える観客を掻き分け八一達が会場入りすると竜王と女王一行の登場に気づいた将棋ファン達が騒めいた。そして天衣達の素性に思い当たった目敏い者が出始める。どこかの世界の様に生配信デビューこそしていないもののここに来る将棋ファンの間でチャレンジマッチ突破者に混じる2人の小学生はその棋風、素性共に知られた存在となっていた。

 

「ししょー?あのボードあいの名前の横にいっぱいシールが貼ってありますけど…?」

「ファンが応援してくれているということだ」

「ふえぇ」

「私の方が多いわね」

「むっ。あいも女流棋士になればもっと…」

 

 件のボードは選手の個人スポンサー数を示す物である。注目に臆すどころか競争すら始めかねない2人の側で姪達の掛け合いがツボに入ったのか桂香が緊張を解く。

 

「人気で将棋の駒が増える訳でもない。忘れなさい」

「まあ終局後にきちんと礼を言えばそれでいい」

「八一、早く行くわよ。桂香さん冷静にね。小童共は八一に恥かかしたら承知しないわよ」

 

 伯母の言に即座に反発したあいが舌を出す様に八一は苦笑する。

 

「2人共勝って来い。会場で待ってるぞ」

「ふふっ。八一君と銀子ちゃんも解説頑張って」

「桂香さん後はお願いします」

「はいはい」

 

 八一は弟子達の肩を軽く叩いて場を後にする。人垣に銀色が飲まれる前に追いついた八一は無言で銀子の横に立った。

 

「何?」

「いえ」

「そもそも私女王だし小童共は敵よ?」

「ごもっともです」

「…何で笑ってるの」

「一切笑ってません」

「嘘つくな。笑ってる」

  

 似たような銀子の言は時間が迫り係員が意を決して割り込むまで続く。この後女王の視線を浴びる彼の踏み出した一歩は後に同僚から英断として称えられた。

 

 

 

 

 出場者控室に足を踏み入れた天衣は談笑が絶えず和気藹々とした空気に眉を潜める。よく観察すれば同ブロックの対局者は目も合わせない火薬庫なのだが天衣からすれば等しく敵なので和やかなムードだけが目に入った。

 

「ヒヒッ!」

 

 知り合いらしき女流棋士に声をかけられた桂香と別れた2人に制服姿の少女が真っ直ぐ向かって来る。直前で立ち止まりじっと見てくる相手を無視していた天衣だが顔色が悪い少女に妹分が反応してしまった。いつの間にか静まり返った部屋にあいの声が響く。

 

「あの、どうかしました?」

「いやあ?どこもかしこも腐臭が酷くて。ここはまだ空気が綺麗だよね」

「はあ」

「体調が悪いのでしたら救護室に行かれてはどうですか?」

 

 天衣は相手にするなとあいを小突くも妹分は相槌を打ってしまった。仕方なく会話を切ろうと無難な受け答えを選択する天衣。ここであいを見捨てないあたり彼女も姉をしている。

 

「ヒヒッ!そうしようかなぁ。やっぱやいちの顔でも見に行こ!ありがとねー」

「待ちなさいよ。私の師匠に何の用?祭神雷」

「んんっ?」

 

 上機嫌に控室の出口に向かう相手が2人にぐりんと振り返る。

 

「今何て言った?おチビちゃん」

「私達の師匠に何の用ですかと言いました。言付けなら私が受けますけど」

「やいちが師匠?んー?」

 

 敢えて八一が口にしなかった事実を惜しげも無く投下していく弟子2人。祭神はしゃがみ込んで小学生2人と目線を合わせ首を傾げる。彼女にとっては疑問がさせるその行動も外から見ればメンチを切る敵対行動である。これには様子を見守っていた桂香も席を立つ。

 

「そっかぁ。八一に今会うのは止め。会えない時間が愛を育てるんだー。そのかわりちゃあんと勝ち上がるんだゾ。そしたら」

 

 立ち上がりニタァと笑った祭神は上機嫌に部屋を出て行く。先程までの鬱屈とした雰囲気は消えその足取りは見るからに軽い。

 

「やいちの前でたくさん遊んであげる」

 

 音が戻った控室の端で天衣はやってしまったと小さくため息をつきあいは手を握りふんすと構える。

 

「ふん。返り討ちにしてあげる。愚妹がね」

「えぇっ!」

「仕方がないじゃない。私別ブロックだし。貴方が勝てば奴は私より下。負けたら本戦で敵くらいはとってあげる」

「何か納得いかない…」

 

 何も労せずに勝ったことになる姉に不満を漏らす妹であった。

 

 

「行かなくていいの?」

「ううん。大丈夫みたい」

 

 香酔千女流三級。長らく会う事も無かったかつての研修会同期にして今日の敵。

 

「強いね」

「私は叔母だから大変よ?」

「あはは」

「…じゃあ決勝で」

「…うん」

 

 互いの夢を賭けた再開を誓い2人は別れる。香酔の桂ちゃんも強いよという呟きは吐息として消えた。

 

 

 

 

 対局場に詰めかけた大勢の観客から拍手で迎えられ入場する弟子達をステージから見守る。それぞれの思惑が混じり合った一斉予選の幕開けである。

 




 短いですが一端ここできります。次は対局をいくつかで


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第四十話

 


 将棋棋士九頭竜八一のルックスは篠窪太志(王太子)神鍋歩夢(ゴッドコルドレン)程良くも無いが平均以上である。よくネタにされる鋭い目も一部では好印象。それどころか眼鏡をかければ魅力にすらなる。よって将棋ファン間での人気は意外と高い。

 このことが如実に表す結果は目の前にある。解説会場の一部を陣取る八一目当ての女性ファン達だ。彼女達は大会に先んじて開かれた販売会で男性陣に混じり八一のグッズを購入し立ち見も気にせず八一の解説を待っている。

 

「お待たせいたしました。一斉予選一回戦の解説を始めさせて頂きます。聞き手は私空銀子。解説は九頭竜八一竜王でお送りします」

「お願いします」

 

 そして眼前の光景に口調を固くする銀子。心情は分からないでもないが難儀な性格をしている。

 

「まずは九頭竜先生。大人気ですね…聞けば遠方から駆け付けた人もいるとか」

「棋戦が盛り上がるのは一棋士として本当にありがたいと思います」

「盤面を見ていきましょう」

 

 2人が挟んで立つスクリーンに将棋盤が投影される。最も進行が早いことから最初の解説に選ばれたその対局で先手を持つのは八一の二番弟子あい。椅子にクッションを敷きその上に正座するという微笑ましい姿を裏切る烈火の如き攻めを対局相手に叩きつけていた。

 

「場を整えて指すのが好みという旗立女流には辛い場面かもしれません」 

「よくお知りですね」

「月夜見坂さんに聞きました」

 

 旗立女流二級。現役帝大生にして将棋を始めたのは高校からと晩学派。昨年女流三級から年間成績により女流棋士となった新星。女流玉将曰く超のつく真面目。八一の手元にあるメモより抜粋。

 初手から解説を加えつつ盤面を進めていく2人だがその手が止まるのはほぼ後手番。大した時間もかからず現局面に追いつくも既に先手の勝ちが決まっていた。

 アマチュアの小学生が大学生女流棋士を破ったとあって会場にどよめきが広がった。

 

「ししょー!勝ちました!!」

「よくやった」

「…雛鶴あいアマ。ステージへどうぞ」

 

 会場に響いた声に騒めきが一瞬静まり再燃する。収拾がつかなくなる前に銀子があいを段上へ呼びつけた。八一との解説にケチがつくことを嫌った行動である。

 

「雛鶴さんはチャレンジマッチで居飛車を指していましたが振り飛車も指すんですね?」

「は、はい。…生石先生に教わっています」

「昨年今大会で好成績を出した強敵相手にどんな気持ちで戦いましたか?」

「今日はぜったいに勝ちたいと思ってました!」 

「それはどうしてですか?」

 

 周りがビックネームの登場に驚く中続く八一の質問に答え切ったあいは何故か挑戦的な笑みを伯母に向ける。八一は姉弟子がマイクを切って舌打ちした音を確かに聞いた。

 

「それは…内緒です」

「雛鶴さんは個人スポンサーとの写真撮影が押しているのでこのあたりで。ありがとうございました」

「むぅ!」

 

 頬を膨らまして別室に向かうあいにかわり登壇したのは天衣。ベテラン女流棋士を相手に圧勝した少女は師の側に収まると腕を組み会場を一瞥した。

 

「夜叉神天衣女流三級。姉妹弟子揃って決勝進出を決めた今のお気持ちは?」

「信じられません」 

 

 八一は天衣の発言に火の気を感じ話題を変える。この一番弟子は勝てたことが信じられない等と嘘でも言わないからだ。

 

「あと一勝で女流二級へ昇級とのことですがそれについて一言どうぞ」

「関係なしに勝つわ」

 

 天衣は妹分に先んじて本戦入りした時点で昇級規定を満たす。師匠名利に尽きる弟子達だと胸の内が熱くなり己の師匠が近年涙もろい理由が少し分かった八一である。

 

「ありがとうございました。予選決勝の個人スポンサーはまだ受け付けておりますのでぜひお申し込みを」

「次に祭神女流帝位お願いします」

 

 スポンサー受付に人が集まる様を横目に銀子が次の決勝進出者を呼んだ。その人物は対局相手を甚振った末吹き飛ばした祭神雷。ではなくニコニコと笑う女子大生棋士。

 

「祭神さんなら笑いながらどっか行きましたよ」

「ごほん、予定を変更して鹿路庭珠代女流二段にお越しいただきました。まずは一勝おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 

 八一の言に対しぱっーと笑みを増す鹿路庭に冷たい視線が突き刺さった。鹿路庭が銀子から盾にする形で位置している為八一は北風と太陽に同時攻撃される旅人状態だ。太陽が若干引き気味なのが2人の力関係を示している。

 

「鹿路庭女流に自分がインタビューするというのは新鮮ですね」

「ですねー。でも結構様になってますよ」

「だと良いのですが」

 

 他の対局が長丁場になったこともあり弟子達のそれよりもインタビューは長引いた。そのことが銀子の機嫌悪化の一因となったことは言うまでもない。 

 

 

 

 

 休憩の場として開放されたお堀を臨むビルの一室。先のインタビューで処置無しと話を進めた八一は的確に好みのおかかお握りを盗られ少し気落ちしていた。弟子達と桂香は既に対局へ向かった為今は2人なのだが珍しく居心地の悪い時間が訪れる。

 銀子は銀子で少しやり過ぎたと思うもどうしようもなくぶっきらぼうに会話を切り出した。

 

「小童の相手だけど」

「はい」

「大丈夫なの?」

 

 今の彼女は軽いパニック状態。そして柄にもなくあいの心配をする形になってしまっていた。八一はおとがいに手を当て考えるふりをする。祭神の棋力は一度指しているので女流タイトル保持者とアマ棋士の実力差以上に分が悪いことが分かっていた。

 加えて八一は祭神を焚きつけたことが今になって気になってしまう。

 

「もどかしいですね。自分の行動を少し後悔するくらいには」

「勝負は蓋を開けてみなければ分からないでしょ」

「そうですね」

 

 ここまでくれば姉弟子が自分を励まそうとしていることは今の八一にも察せる。

 

「…ごめん。これあげる」

「いいですよ。こっちもすみませんでした」

 

 おずおずと焼き肉お握り(ソース付き)を差し出され逆に申し訳なくなった八一。弟子の対局が気になり無自覚に気持ちが下降気味だったと自覚し努めて明るく言葉を返す。

 

「姉弟子。マイソースは止めません?」

「うるさい。はいお茶」

 

 心底ほっとした銀子はようやく普段の調子を取り戻しペットボトルを突き出す。八一は口に残る甘辛いソースをお茶で流し立ち上がった。時間である。

 

「そこらの師弟より万倍師弟してるんだから自信持ちなさい」

「はい」

「むしろ構いすぎ。もう少し…」

「はあ」

 

 銀子は色々背負い込む弟の肩に一撃加え、並んで会場へ向かうのであった。

 




 昇級規定がこんがらがって…


 あ、現実で女流3級なくなるそうですね


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第四十一話

 控室を出てステージに上がる八一と銀子を迎えるのは超満員の観客。2人もの小学生の決勝進出に数年前の少女の再来を予感して唾を飲む者。出場者のビジュアルの良さに頬を緩める者。期待以上の好カードに興奮を隠せない者。様々であるが総じて対局の開始を期待して待っている。

 

「では予選決勝の解説を始めさせていただきます。今は各々振り駒が行われてます」

「この対局の勝利者12人は本戦の出場権を得ます。本戦シードは前期ベスト4のみなのでもう今期の実力者が揃ったとみていいでしょう」

 

 それ故に彼女達が注目されるのだ。

 

「と金が3枚。雛鶴さんの先手です。師匠譲りの引きですね」

「譲るほどは無いと思いますが同じ面が5枚揃うと少し嬉しかったりします」 

「それ相手も同じですよね」

「まあ、はい」

 

 6%の確率を公式戦で何度も引く八一の妙な運は意外と知られていた。妙なというのはそれが先手後手の割合に寄与しないからである。

 スクリーン上であいが迷いなく飛車先の歩を突くことで対局が始まった。後手の祭神はあいの顔を覗き込んで笑いゆっくりと駒に手を伸ばす。

 

「雛鶴さんの初手は2六歩でした。祭神さんは…端歩!?」

 

 あいは周囲のどよめきを気にすることなく2筋の歩を更に進めた。さらに両者角道を開け祭神が角交換を行った後の8手目。

 

「ひひ!ごたぁーいめぇーーん!」

 

 盤と擦り合う音を出しながら移動した飛車は4筋で止まらずあいの飛車と歩を挟んで向き合った。実戦例の少ない戦型の登場を理解した観客は大喜びである。

 

「ダイレクト向かい飛車。相手の6五角打をも恐れない乱暴な将棋が出ました」

「自分は結構好きな戦型でっ!?」

 

 余計な口を出し足を踏まれた八一が沈黙する。銀子は最近の八一が一手損角換わりと似た感覚で指せると角交換系のダイレクト向かい飛車を研究していることを知っていた。それを隠そうとするが故の先程の行動なのだが周りがどう見るかといえばピンク色。意図せず二重の意味で銀子の想いのままとしたファインプレイである。

 

「二手損向かい飛車とも呼ばれる角交換四間飛車と比べ手損を一つ減らす戦法ではありますが玉が戦場に近い。後の殴り合いに絶対の自信があるのでしょう」

「あ、姉弟子。解説を取らないでくださいよ」

「うるさい」

「はあ」

 

 竜王の仕事を奪う女王という絵面に観客の間では笑みが広がった。場外の騒動を他所に対局は加速する。定跡がほとんど整備されていない盤の上をあいの駒が次々と突き進む。しかし一気呵成と金銀まで投入したその攻勢は祭神の駒に少しずつ勢いを止められていった。

 

「きみ、やいちの弟子なんだってぇ?いいなぁ遊んでもらえて。こっちはずううぅーと我慢しているってのに毎日毎日毎日毎日…」

 

 祭神はガタガタと体を揺すりながら一手一手ゆっくりとあいを追い詰めていく。あいのファンに押されていた祭神のファン達はここぞと拍手喝采だが八一は顔をしかめつつも解説を続けるしかない。

 

「詰・め・ろ。でぇっす!」

 

 盤の中央に打たれた金が歩を挟んであいの玉にプレッシャーを加える。自陣深くに食い込んだ馬と龍も相まって観客の中には溜息を漏らす者も現れた。事実天王山に陣取る金をとれば3手後にあいの玉は逃げ場が無くなる。

 

「なあぁ。代わっておくれよお。こっちが勝ったらやいちの弟子やめてくれない?」

「…」

 

 あいは俯いたまま反応しない。祭神は少女が僅かに体を揺らす様も敗北の震えと見て後に訪れる至福の生活を夢見て1人笑う。そして指された一手に呆れを隠さない。

 

「そんな王手はぁぁ恐くなぁぁぁあいッ!」

 

 予想外の反攻に会場は静かになる。そして各々後の展開を予想できずに首を振り解説に救いの目線を向けた。

 

「彼女が進むべき道は1つ」

 

 画面上であいが動き出したのと同時に八一は伸ばした指し棒でスクリーン上の金を指す。観客の多くがその愚直な敵玉の追い方に思考を停止させた。将棋をかじる観客達がただ捨てだと真っ先に切り捨てた手。しかしあいにとっては自軍の金が空けた道こそに意味がある。

 

「敵玉にプレッシャーを与え続けること」

 

 あいの駒台から飛車が飛び敵玉と件の金を狙う。堪らず祭神は玉を逃がし天王山に竜の降臨を許した。同時に強固に見えた先程の詰めろも解ける。一連の攻防を解説でおぼろげに理解した観客達は大興奮だ。

 

「それがやいちなら獲ってやるよぉ!」

 

 互いに喉元へ剣を突きつけ合う攻防の最中祭神は欲してやまない竜王の目前に金を打ちこんだ。今やあいの精神的支柱ともなっている駒の危機。しかし彼女は竜を逃がすでもなくノータイムで攻撃を続ける。

 

「わたしはお姉ちゃんに勝てないしまだまだ弱い弟子だけど」

「…ひ?」

「それでもあなたなんかに竜王の弟子は譲りません!」

「ひひぁ!?」

 

 ここまで駒捌きに迷いが無かった祭神が手番が来る度に長考をしだす。あいが即座に返してくることもあって読みが間に合わなくなってきたのだ。そして明らかに取った方が良さ気なあいの竜に手を伸ばしたまま固まる祭神。そして記録係が一分将棋の訪れを告げた。

 

「竜を取られても逃がしてもあいに勝ちはありません」

「え?」

「だから考える時間を与えずに竜を放置して相手のミスを誘うんです」

「…ふん」 

 

 祭神は時間切れ寸前に持ち駒の桂馬を手に取り受けに回る。すかさずあいが詰めろを掛けたことで祭神は自身の間違いを自覚してしまう。最早傲慢な女流帝位の姿はそこに無くあいの一手一手に痺れる少女がいるだけであった。

 

「こうっ!」 

 

 最後の抵抗とばかりに祭神の駒が王手をかけるがあいは迷いのない手つきで玉を動かす。既に勝敗は着いていた。最後に駒台から取った飛車を盤上にバラ撒いて投了の意を示した。

 

「ぎひひ…つ、強えぇ」

「まで135手にて雛鶴あいアマの勝ちとなりました。ご清聴ありがとうございました」

「ありがとうございました」

 

 終わってみれば珍しい戦型の登場に加え目まぐるしく入れ替わる攻守、小学生の本戦進出と話題大盛りの対局に周囲は興奮の嵐。一応竜王と女王の解説は高評価と見ていいだろう。

 

「まあまあね。私がいないとだめだったんじゃない?」

「姉弟子には助けられました」

「でしょ」

 

 対局者の話題性に助けられた分を引いた姉弟子の評価はきつめであった。

 




 次でようやく4巻終わりそう?


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第四十二話

 


 夜叉神天衣と鹿路庭珠代。関西の女流三級と関東の女流二段。小学生と女子大生。年齢も棋風も異なる2人は九頭竜八一を介して互いの名を知っていた。片や竜王の弟子。片や師匠との雑談で出てきた名前である。

 

「あなたも妹弟子さんも大人気ね」

「どうでもいいわよそんなこと」 

「へー」  

 

 天衣は多くのファンに囲まれる現状を心底どうでもいいといった風に淡々としていた。傲慢ととるか据わっているととるかは人それぞれだろうが鹿路庭は後者である。しかし天衣は口が悪かった。

 

「喋ってないでさっさと駒並べなさいよ」 

「…」

 

 少し上がった鹿路庭の好感度は急落。ピリピリした空気の中行われた振り駒の結果鹿路庭が先手となる。そのまま始まった対局で初手に鹿路庭が放った手は2六歩。その一手に天衣はピクリと反応した。

 

「飛車を振ると思った?」

「なるほどね」

 

 事前の研究を外された天衣は内心舌打ちして飛車先の歩を進める。そして更に前進してきた敵の歩を見て鼻を鳴らした。今日の彼女には挑発による手の乱れも許されない事情があったからだ。

 天衣が静かに歩を前に進め対局が加速した。

 

「…っく!」

 

 自陣の玉をそのままに次々と突撃してくる駒を天衣の配下が優雅に狩る。柔らかな布を思わせる柔軟な天衣の受けは攻め手に攻撃の手応えをほとんど感じさせず鹿路庭の感覚を狂わせた。しかし受けに回れば敗北に一直線なことも分かっている鹿路庭は手を止めることができない。

 必死に活路を見出さんとする鹿路庭を赤味がかった瞳が捉えていた。

 

 

 

 

「あっ…」

 

 清滝桂香と香酔千。女流二級を目指すかつての修行仲間。賭けられた夢に反して2人の対局は終始一方的な展開で終わる。消極的な手に終始した千を桂香が押し切った形の圧勝。対局中どちらからともなく泣きだした2人の心情を察してか周りは静まり返る。

 片や静かに一筋。もう一方は堰を切ったが如く涙は流れる。そして感想戦。千は初手7八金を繰り返し指し直した。高く響く駒音が千の心の叫びを代弁する。

 

「私今日ダメだったね」

「千ちゃん…」

「桂ちゃんは真っ直ぐ前だけを見てた」

 

 千は目元を拭い先へ進む戦友に言葉を送った。 

 

「あと一勝。だけどそこで止まっちゃ嫌だよ?」

「うん」

「ほら。女流棋士は将棋の花なんだから笑わなきゃだめだよ。桂ちゃん」

「うん!」

 

 結局泣き笑いのまま2人は袂を分けた。数年後に再び道を交えることを約束して女流棋士と指導棋士。2人はそれぞれの将棋道を進む。

 

 

 

 

 幼き白雪姫に伸びた鼻を圧し折られてから数年。年下の綺羅星達にもほとんど勝てず時にタイトル挑戦権を逃し時には初戦落ち。相性で言い訳できるレベルの負け様ではない。女流タイトル保持者達と私の間には明確な実力差があると認めざるを得なかった。納得はしないが。

 そんな私が彼女達と同じ土俵に上がる為に男性のプロ棋士との研究会を望むのはごく自然なことである。しかしその行動は他の女流棋士から”婚活”と揶揄された。今や空想の私はとんでもない悪女らしい。

 研究会を転々とする中女流タイトル保持者の大半が知己の人物を知る。藁にも縋る思いで接触を試みたその人物はデビュー1年で竜王挑戦を決めると中々にぶっ飛んでいた。

 

「ふん」

 

 そして目の前の少女は彼の棋士の知り合いどころか弟子。彼は女流棋界を間接支配しようとしているのだろうか。現に私は彼女の鋭い咎めに攻勢を止められて最後の抵抗をしているのだし。

 ここで素直に諦めるほど私の性根は良くない。

 

「これで、どう!?」

 

 停滞した戦線の裏で練りに練った渾身の一手は少女の動きを止めて見せた。手応えは十分。しかし盤の向かいの少女は左目を手で隠して深く息を吐くとかつての白雪姫の様に相手を押しつぶす一手を返してきた。

 もう裸の玉を動かすしか退路がない。その先は一目で分かる。それでも盤面を整える気にならず数手の後私は駒台に手を置いて頭を下げた。

 感想戦。そこには謙遜、気遣いの一切を抜いた追撃が待っていた。ただ私が示した変化を容赦なく切る少女は真剣で真摯でもあった。

 負けたというのに悔しさや無力感に混じって清々しさがあった。駒を片しながら私は一方的な宣言をする。

 

「何年かかってもいつかあなたに勝つわ。わたしはしつこいの」

「何度でも返り討ちにしてあげる」

 

 鹿路庭の倒すべき敵リストにまた1人名が刻まれた。それは彼女が生涯をかけて成す目標にして一方的なライバル宣言である。

 

 

 

 

 全ての対局が終わり本戦で戦う相手を決める抽選が行われた。桂香が釈迦堂里奈との組み合わせを引く一幕もあったが滞りなくイベントは進み12人の本戦出場者がひな壇に並ぶ。

 八一と銀子は来賓席から上ずった声で抱負を述べる桂香を見ていた。一仕事終えた2人は妹にして姉の百面相を温かく見守る。

 

「まずは3人揃って本戦入りしたことを喜ぶとしましょう」

「小童共なんてどうでもいいし」

「その割には気にかけていたようですが」

「今日は特別よ」

 

 銀子に促されてひな壇を見た八一は目の前でマイクを手にじっと此方を見つめる弟子達と目が合う。拍手とフラッシュに包まれていた会場もこれから始まる何かを予期して静まっていた。

 

「師匠。17歳のお誕生日おめでとうございます」

 

 小さな紙を見て普段よりしっかりした口調で話すあいに八一は固まる。そして追撃とばかりに天衣が口を開いた。

 

「私達は貴方に今日の対局を贈る。貴方が大事な対局に集中して臨めるように」 

「まだまだ心配だらけでしょうけどもっともっと強くなるので…ずっと、ずっと私達の師匠でいてください」  

 

 横から椅子を蹴られた八一は少し迷ったものの席を立ち自身の胸元にある2人の頭を撫でて肩を抱き寄せる。弟子達は会場に響く万雷の拍手の中で八一の言葉を聞いた。

 短く素っ気なくも聞こえるが心のこもった感謝の言葉を確かに聞いた。

  






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第四十三話

 コミック版をチラ見して書いた茶番回です


 女王戦一斉予選の翌日。八一は晶に連れられて神戸は灘区の高級住宅地を訪れていた。八一と天衣が定期的に行うVSの場として珍しく天衣の自宅を指定されたためである。

 相変わらずの黒服サングラス達にお辞儀されながら門を潜った八一を天衣の祖父がにこやかに出迎えた。

 

「昨夜の孫娘はそれはもう嬉しそうにしておりました。孫娘の昇級対局はいかがでしたでしょうか」

「見事なものでした。師匠冥利につきます」

「それは良かった」

 

 八一を連れた弘天は以前入った部屋の前で止まらず屋敷の奥へ奥へと入って行く。後ろの晶を振り返った八一だが進むよう促されて老紳士の後を追う。

 

「どうぞこちらへ」

 

 かつての天衣との対面時を思わせる口調で弘天が襖を開けた。怪訝に思いながらも何故か薄暗い部屋に足を踏み入れた八一をパンッパンッと連続して乾いた音と眩しい光が襲う。場所が場所だけに普通の人なら腰を抜かすこと間違いない奇襲に流石の八一もたたらを踏んだ。

 昨日一門で祝ってもらったこともあり誕生日は終わりと思っていたことも八一の不意を突いてきている。

 

「「お誕生日おめでとう(ございます)!!」」

 

 明るさに慣れた視界に一番に飛び込んで来たのはあい、澪、綾乃、シャルの小学生組。駆け寄ってきた彼女達はそのまま八一に群がる。

 その後ろで鼻を鳴らす天衣と舌打ちする銀子。飾り付けられた座敷机に頬杖をつく供御飯と月夜見坂。散ったテープを回収する飛鳥、桂香の姿も見える。

 

「くずりゅー先生!これわたし達からプレゼント!!」

「…ありがとう」

 

 小学生達が駆け寄った勢いのまま八一に渡した小箱の中身は湯呑。そこに本当に初期の拙い己の揮毫を見た八一は苦笑いを鉄面皮に隠した。

更に上座の席を叩く銀子に従い座った八一の前にはどさどさと贈り物の山が置かれる。 

 

「相変わらずモテモテどすなー竜王サン。はいプレゼント」

「供御飯さんと月夜見坂さん、飛鳥さんまで」

「こなたは綾乃に誘われて」

「オレは万智に連れてこられた」

「わ…私はあいちゃんに」

 

 見事に女性しかいないのは連絡網の発端があい達だからで八一の交友が女性に偏っているからでは…ないとも言い切れない。世の男性達が知れば血涙を流す宴がそこにはあった。

 

「あぅおでしゃうとしょーぎしゃちて?」

「あーみおも!みおもー」

「先生。うちもいいですか?」

「順番にな」

「ほらお姉ちゃんも!…伯母さんもどうせこっちでしょ」

「し、仕方ないわね」 

「ちっ!」

 

 部屋では八一に群がる小学生達(例外あり)と大人勢に別れ各々会談が始まる。そのうち誰かが持ち込んだ携帯盤を中心に将棋談話に移るのはお約束だ。

 

「竜王サンはあれやしここは大人同士で話しまひょ」

「桂香さん今回は良かったぜ」

「ありがとうございます」 

「あ、あれ?私も?」

「その戦闘力で子供は無理どすな」

「え?え!?」

 

 部屋の酒と軽食が半ば消費された頃突如部屋に設置された大型テレビの電源が入り何故かジャージ姿の晶が映し出された。手間のかかった登場に一同の反応は様々である。 

 

「今日は皆さんにちょっと…ゲームをしてもらう。部屋の外に届けたヘッドギアを被れ」

「なになに?最新のゲーム?」

「あのネタはここの面子じゃ分かんねえだろ」

「晶は開発なんて出来ないし…勤め先に無茶言ってなければいいけど」

 

 好き勝手言いながら余興に胸を躍らせ指示通りVR機器を着けた面々の場面は転換する。

 

 

 

 

「…すごい作り込みね」

「いやいや触覚あるのはおかしーだろ!」

「下の滑り台すごい角度…」

 

 八一を除く9人の女子は背後が壁になっている9本の飛び込み台に立っていた。何故か八一だけ全員を一望できる対面の高台に位置している。皆が困惑する中どこからともなく天の声が響いた。

 

「第1戦は九頭竜先生に関する指名制クイズだ。間違えたら足場が傾く」

「おうぼうですー」

「あ、あれ?これ取れなくないですか?」

「全2戦の勝者には九頭竜先生に何でもお願いを聞いてもらう権利が与えられる」

 

 面白くなってきたと笑う者。興味を隠しきれずにそわそわする者。周りを蹴落とす算段をつけ始める者。口々に文句を言っていた女性陣が静まり返った。

 

「では雛鶴あいさんに問題だ。九頭竜先生が小学生名人戦で優勝したのは何歳の時か?」

「えっとろ…な、7歳!」

「不正解。8歳10ヵ月だ。ではダイビング!」

「え!?えええぇぇぇ!」

 

 乗っていた足場が一気に傾き瞬く間に姿を消すあい。残る8人、特に元ネタから勝手に数問の猶予があると思っていた面子の動揺は大きかった。天の声はすかさず次の標的に質問を繰り出す。

 

「供御飯万智さんに問題だ。九頭竜先生の地元は福井県何市?」

「大野市。そこを流れてる川も九頭竜どす」

「…ちっ。正解」

「まあクズの話題って限っちまったらなあ」

 

 流石はおっかけ。下手したら市町村まで言いかねない。落とせなかった腹いせか天の声は小学生3人にも容赦なく牙をむいた。

 

「澪さん、綾乃さん、シャルさんは3人で答えること。九頭竜先生の好物は?」 

「この間シュークリームを差し入れてくれたです」

「それを言ったら串カツもだよ?」

「けぅき?」

「不正解。正解はおかかおにぎりだ。ダイビング!」

「「「きゃああぁぁ!」」」

「天衣おじょ…夜叉神さんに問題です。九頭竜先生が竜王となったタイトル戦は第何期ですか?」

「…29期」

「正解です!」

 

 贔屓に見えないギリギリを攻めた質問である。だが贔屓だ。晶は天衣がどれだけ竜王戦に注目していたか知っているが故に贔屓だ。 

 

「生石飛鳥さんに問題だ。九頭竜先生がよく観戦するスポーツは何?」

「えと…サッカー」

「正解。空銀子さんに問題だ。九頭竜先生のデビュー戦となった公式戦の名は?」

「玉座」

「正解。清滝桂香さんに問題だ。九頭竜先生と神鍋歩夢六段。2人のプロ棋戦における勝敗は?」

「うーん。わからないわね」

「ぇ…先生の0勝1敗だ。ダイビング」

 

 落ち際に銀子へウインクするのを忘れない桂香。折角の引っかけ問題をふいにされた天の声は落ち込んでいる。

 

「月夜見坂さんに問題だ。九頭竜先生は何歳?」

「ここにきて投げやりになるなよ!17!!」

「正解。残った5人が第2戦へ進出する。あ、場面転換の為に皆さんには落ちてもらう。では後ほど」

 

 結局落とすのかよと高速で滑り台を降りる5人は天の声へ恨み節をあげて暗闇へ消える。この時少女は後で付き人へ折檻することを心に誓ったそうだ。

 

「何でもお願いなんて聞けませんよ?」

「聞いて叶えるかは先生次第だ」

「はあ」

 

 残された八一は隣へ現れた晶に非難の視線を向けるも仮想空間なのを良い事に下へ蹴り落とされた。

 

 

 

 

「ここは…?」

 

 暗闇を落ちた5人は気づけば通天閣の孔雀絵を下から仰いでいた。そこから見渡す限り恵美須の街並みが広がっている。最早とんでも技術に突っ込みが追いつかない。そこに天の声が第2戦の開幕を告げた。

 

「第2戦は人探しだ。街のどこかにいるターゲットたる九頭竜先生を見つけてもらう。拾った武器を使った妨害も徒党を組むのもありだぞ」

 

 我関せずと立ち去る銀子の後ろで供御飯と月夜見坂が目を合わせ飛鳥がおろおろと残った天衣に目をやる。天衣は無視しようとしたが人が一切いない不気味な街を前に今にも泣きそうな飛鳥を見て溜息をついた。

 

「銀子ちゃん達何か当てでもあるのかな」

「あるんじゃない?」

「お、追いかけないの?」

「晶はあれで動物好きなのよ」

「ふぇ?」

 

 街から聞こえる銃声に構わず進路を東にとった天衣は道路を渡り係員のいないそのゲートを潜った。そして檻の中でリアルに動くチンパンジーを目にしてその足を速める。天衣と飛鳥はアシカ、ホッキョクグマ、コアラと檻を回りふれあい広場に足を踏み入れた。

 

「八一君」

「何呑気に動物と遊んでるのよ」

「晶さんに動物園で遊んでいろと言われてな。動きが自然ですごいぞ」

 

 呑気にテンジクネズミ別名モルモットと戯れる竜王の姿がそこにあった。

 

「ほら」

「ちょ…ちょっと」

 

 両手で抱えたふにゃふにゃの彼等を差し出す八一だが天衣は受け損なって腕に登られてしまった。大人しいはずのネズミは予想外の俊敏さを見せて天衣の服にしがみつく。バーチャルとはいえ振り払うことも出来ず天衣は硬直した。

 

「…はい」

「覚えてなさいよこの鬼畜」

 

 見かねた飛鳥が天衣の腕にぶら下がる強者を捕まえた。離れたら離れたでチラチラと飛鳥が抱えるそれから目を放さない天邪鬼。八一が自身に群がるもふもふの一匹を掴んで弟子の膝の上に乗せると文句を言っていた天衣もすぐに目を輝かせて撫で始めた。

 

「それでお願いとやらがあるのか?飛鳥さんも現実的な範囲で聞きますよ?」

「ないわよ」

「わ、私もいいかな」

 

 モルモットから目を放さずに即答する天衣にどもりながらもしっかりと答える飛鳥。しかしゲームは終わる気配を見せない。

 

「晶さんがゲームを終わらせるまで散策といこう」

「仕方ないわね」

「う、うん」

 

 八一達は想像以上のリアルさに驚きながらもサファリゾーンの動物達を見て回ることにする。あまり手の掛からない一番弟子が楽しめていることだしこれでいいのだろう。その後3人は晶の声が降ってくるまで猛獣との逢瀬を楽しむ。

 今年の誕生日は豪華なことだと八一は幸福を噛みしめた。

 

 

 

 

 時を同じくして狭い飲食店街では睨み合いが続いていた。中心の将棋サロンへの到達を互いに妨害し合っていた1人と2人はいつしか相手を倒すことに意識が傾注して目的も残る2人の事も忘れていた。

 

「クソ!あのすまし女王。運動が苦手って話じゃ」

「予想外やな」

「こうなったらオレが先に飛び出すから万智がトドメ刺せ」

「でもお燎」

「いいから行くぞ」

 

 もう何かのドラマさながらのやり取りである。供御飯と月夜見坂の前には現在盾にしている露店にあったライオットシールドと日本刀。相手はこちらに飛び道具が無いのをいいことに狭い道の先に陣取って狙撃銃を構えていた。

 

「オラアァ!」

「…くっ!」

 

 威勢良く狭い道を駆けた月夜見坂は銀子の銃撃を数回耐えて光の粒と消える。供御飯は親友の残滓すら目晦ましに刀の間合いに銀子を捕えた。

 

「取った」

「甘いのよ」

 

 両者が刀と銃を突きつけ合った瞬間両者の視界は光に包まれ現実に戻された。結果2人は先に戻っていた全員に奇妙なポーズを晒すこととなる。

 争いは空しい。戦いの中に生きる棋士達の総評であった。

 



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第四十四話

 2か月空いてしまった…
 描写に困って一部掲示板もどきにしたので注意をば


 夏の気が早い太陽が覗く前に棋士室の扉を開けた八一だがそれを1人継ぎ盤の準備をする少女が迎える。弟分を一瞥して作業に戻った彼女はぶっきらぼうに口を開いた。

 

「おはよう。座ったら?」

「失礼します」

 

 モニタ前の特等席の1つを示されそこに座った八一は銀子を手伝いだした。窓超しに微かなセミの鳴き声が響く中慣れた手つきで駒を磨く2人。立場年齢が大きくなっても変わらない光景がそこにある。

 

「現地に行くと思ってた」

「1人で見てると悪い方向に考えが行きそうでして」

「ふうん。前科あるものね」

「御尤もです」

 

 人心地が付いた八一がモニタの電源を入れると同時にドアが開け放たれた。珍しい人が三番手だと八一と銀子は顔を見合わせる。

 

「「お早うございます」」

「おう。外であいつ等が屯ってると思えばやっぱりか」

 

 呆れた表情の壮年の男は八一の向かいに座ると煙草に火をつけないまま咥えた。生石の示すドアを見れば地元高校生の奨励会員と若手棋士が今来たとばかりに入って来る。彼等は八一達に挨拶するといそいそと空いている席に着いた。モニタと八一達の盤が見える席に着くあたりしっかりしている。

 

「本当に早いですね」

「今日は下手すると一日突っ立ってるはめになりそうだしな」

 

 注目の対局は東京で行われるもののここも将棋関係者で混むのは目に見えている。今日の一局はそれほど注目されるものなのだ。 

 

「神鍋六段か。1度対局したが勢いが凄かったな」

「歩夢はのった時本当に強いですから」

「あれは厄介だった」

 

 渋い表情で煙草を玩ぶ生石は年度連勝賞を懸けて毎朝オープン決勝で対局を挑んできたルーキーを思い出しぼやいた。結局生石が神鍋の快進撃を食い止めたのだが八一も当時の盛り上がりはよく覚えている。

 

「ま、じっくり見させてもおうか」 

「はい」

 

 準備運動とばかりに生石と八一が駒をぶつけ合っている間に棋士室は関西圏の将棋関係者で埋まり騒々しくなる。白い雲の隙間から強烈な日差しがそそぐ中注目の一局を前に周囲の熱は高まる一方だった。

 

 

 

 

 第30期竜王戦挑戦者決定三番勝負第1局。去年の九頭竜竜王を追うように竜王戦6組で優勝、決勝トーナメントで前竜王を含む強者達を相手に連勝してこの舞台に上がったのは神鍋歩夢6段。

 対するは名人。タイトル登場回数131、獲得合計99、優勝回数44。将棋の象徴。

   第30期竜王戦スレ65

 

  対局前:名無し名人

     神鍋が強いのはわかるが名人相手はまだ無理だろ

 

     :名無し名人

     戦績で高を括って手を返した去年を忘れたか?

 

     :名無し名人

     いやでも名人だし

 

     :名無し名人

     まあわかる

 

     :名無し名人

     あゆむきゅんは一つ前に名人に勝った1組1位に

     勝ってるだろ!

     

     :名無し名人

     あの人は見るからに調子崩してたじゃん。名人に

     勝ったあとから

 

  振り駒:名無し名人

     なにそれこわい

 

     :名無し名人

     将棋界ではままあることです

 

     :名無し名人

     記録は振ってるんだか震えてんだか。あ…

 

     :名無し名人

     立った—―――

 

     :名無し名人

     しかも3枚立てた

 

     :名無し名人

     はい振り直し

 

     :名無し名人

     神鍋が先手か。三番勝負だからこれは大きい  

 

 対局開始:名無し名人

     初手7六歩

 

 △3二飛:名無し名人

     名人は…飛車を振った!?

 

     :名無し名人

     名人はオールラウンダーでしょ。何がおかしいの

 

     :名無し名人

     名人は相手の勝負を避けないスタンス

 

     :名無し名人

     でなくとも基本居飛車の人だ。神鍋の名人研究も

     外されたでしょ

     :名無し名人

     解説王太子固まる

 

     :名無し名人

     彼の時は全て居飛車だったから

 

     :名無し名人

     神鍋押されてる?

 

     :名無し名人

     まだ前例通り。それで前準備してきた名人に通用

     するかは別だけど

 

     :名無し名人

     お?

 

     :名無し名人

     左美濃?孝美濃囲い!?

 

     :名無し名人

     もうわからんわからん

 

△6四金打:名無し名人

     素人目に金3枚の壁はきれい

 

     :名無し名人

     78手目▲7二飛。まあた格言こわれる

 

     :名無し名人

     格言意味ないですよ。場合によるじゃないです

     か

 

     :名無し名人

     玉頭戦じゃあああ

 

     :名無し名人

     まだはやい。おちつけ

 

 ▲7二馬:名無し名人

     神鍋角飛車切って更に馬も切る

 

     :名無し名人

     でも名人リード

 

△8八桂成:名無し名人

     名人の手震える

 

     :名無し名人

     終わりか

 

     :名無し名人

     なんか神鍋が攻めてない?

 

     :名無し名人

     王太子が神鍋優勢って言ってる

 

     :名無し名人

     飛車2枚持って詰めろ。これは

 

     :名無し名人

     いや、いざこうなると名人がんばれ

 

     :名無し名人

     名人長考

 

     :名無し名人

     本当に勝つのか?

 

     :名無し名人

     おいおい。秒読み入ったぞ…

 

△6六銀打:名無し名人

     動いた

 

     :名無し名人

     銀のタダ捨て?

 

     :名無し名人

     タダなんて大抵罠

     

     :名無し名人

     でもこれ取らないと詰めろじゃ

   

     :名無し名人

     どうすんだよこんなの

 

     :名無し名人

     取った

 

     :名無し名人

     評価値が…

 

     :名無し名人

     なんかこの盤面見覚えが?

 

     :名無し名人

     あっ

 

     :名無し名人

     30分後だから12時から指し直し。持ち時間は

     両者1時間

  

     :名無し名人

     俺ネルソン

 

     :名無し名人

     駄目だ!

 

     :名無し名人

     駄目だ!!

 

     :名無し名人

     とりまコンビニダッシュ

 

 

 

     

 

「八一!」

「はい」

 

 衝撃の一手から続く千日手にどよめく棋士室をいち早く飛び出した八一と銀子は続く道路を挟んだ位置に立つコンビニへ走った。空きが目立つストッカーに残った食品と飲料を手あたり次第にカゴに詰め会計を済ます。そして追いついてきた奨励会員に食糧を満載した袋を渡した。

 ちゃっかりと自分達の食べる分は小分けしており夜風で火照った体を冷やしながら後を追う。

 

「神鍋先生。崩れないといいけど」

「大丈夫ですよ。歩夢は強い」

「…そうね」

 

 一体どれだけの棋士がこのあと名人相手に早指しで戦えるだろうか。勘違いしようのない嫉妬を銀子は噛み殺す。

 棋士室に戻ると特等席の玉将を筆頭に年配の棋士達から少し煙草の匂いが香った。長机の上に並べられた将棋盤では何度も先の対局の122手目が再現され棋士達が顔を突き合わせている。

 今考えてもまともな考察は出来ないだろう。だが駒を並べられずにはいられないのだ。

 

『時間になりました。対局を開始してください』 

 

 持ち時間が少ないこともあってすぐにその戦形は盤上に現れた。モニタに映る篠窪と鹿路庭は困惑を隠せていない。

 

『矢倉!?』

『神鍋6段の得意戦法です。これはまた長くなりますよ』

 

 名人の打診に神鍋が動く。駒達が階段の様に並ぶその囲いは雁木。すかさず名人が前からの圧に強い菊水矢倉を出し神鍋もそれに対応する。いわゆる中盤の捩り合い。経験がものを言うじゃんけんは名人が元の矢倉に戻ったことでリードを奪った。

 

「ここで穴熊?」

「歩夢の守りが固いからです。ここからですよ」

 

 61手目に少し思案した名人が手にしたのは金。その金を名人は下げたのを皮切りに香、玉と穴熊に駒を収め始めた。ここぞと神鍋は名人につけられたリードを縮めんと駒を動かす。

 

「おい?あの構えは?」

「…歩夢の切り札ですかね」

『エクスッ!カリバァァァァァッッ!!』

 

 神鍋が左目に手をかざしながら指した70手目1一飛。駒が上がり空いた道を飛車がスライドして1筋に香車、飛車のロケットを建造される。そして開戦。ロケットに火を付けんと歩が名人の香車に突っ込んだ。

 

『いっけえええ!』

『名人を倒せえええ!』

 

 4、3、5筋と燃え移った火は消えない。綺麗に並んだ前線はあっという間に消え去った。神鍋の玉が小駒達が開いた道を上る。既に両者の持ち時間は無くなり記録の秒読みが聞こえだして久しい。

 

「…」

「入った」

 

 生石が呟いた言葉が静まり返った棋士室に響いた。しかし直後の名人の一手が周囲の余韻を打ち崩す。穴熊から離れたその将は銀色に輝く剣を敵玉に向ける。神鍋の玉が取る手は後退しかなかった。すかさず名人が持ち駒を展開していく。神鍋の入玉はなくなった。

 

「神様…」

 

 名人が神鍋の玉を詰ましにかかる。必死に粘る神鍋だがついに持ち駒が大駒だけになった。それでもと指し続けること10手。名人の王手を見た神鍋は手を止め固く目を閉じる。秒読みが響く中リップクリームを取り出すとそれを唇に塗って最後の言葉を口にした。

 

『参りました』

 



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第四十五話

 


 衝撃の対局に続いて行われた挑決第2局。神鍋は前局に引けを取らない激闘の末竜王戦の舞台から去った。それからの八一は周りに鬼気迫るものが漏れていると言わしめたひと月を送って今日を迎える。迫ってくる者は鬼より恐ろしいとは弟子と銀子から心配された八一の言だ。

 

「着替えと洗面用具とドライヤーに水着とプールセットとクッションに宿題にタブレットとポケットWi-Fi、充電器…」

「ほどほどにな」

 

 努めて明るく振る舞う弟子に八一は苦笑する。はち切れんばかりに膨らんだリュックを背負い準備万端といった弟子はふんすと胸を張り己が師の装いを見て首を傾げた。

 

「ししょーは軽装ですね?ハワイはかいがいですよ?かいがい!」

「着物は送ったし向こうでシャツも買うからな」 

 

 アロハシャツは現地の正装でVIPの参加する夕食会にも着込める。むしろ絵になると推奨されていて初日はショップにも寄るらしいので最低限で上には困らないはずだ。必要な物が出てきてもハワイは日本人がわんさか向かう観光地。割高になるだろうが大抵の物は揃うだろう。

 

「行くぞ」

「はい!」

 

 

 

 

 常夏の島―ハワイ州はオアフ島。ホノルル国際空港に降り立った八一と将棋連盟一行は待たせてあるバスへ向かう。スーツ姿の男達がぞろぞろと荷物を押す様は周囲の注目を集めていた。

 

「黒一色で暑くないか?」

「お嬢様!ムームーの準備はできてます!更に水着!場所も確保済です」

「貴方達はスーツだしあっちは制服じゃない。放っておいて」

「おじょうさまー」

 

 空港を出た八一は降り注ぐ陽光に目を顰めるとサングラスをかけた。スーツにそれなので日本だと…ハワイでも危ない人である。ちなみに物は誕生日に夜叉神一同から贈られた本物?だ。

 

「おばさん。日本は台風来てますよ。今からでも帰ったらどうですか?」

「小童。私のタイトル戦は1週間後よ。時差ボケ大丈夫?」

「むっううぅぅー」

「ふん」

 

 側には日傘がかなり浮いている銀子と桂香、出国時からビニールサンダル装備の師匠の清滝一門、弟子達とそのお付き。この面子はいつの間にか現地大盤解説の仕事をとってきた銀子に始まり対抗して同行を主張したあい、どうせならば一門でと師匠、桂香が付きそこに天衣、晶が加わったことで八一陣営は構成されている。

 名門ホテルに着くと会場の下見、スケジュールの打ち合わせ、現地ラジオへの出演とてんてこ舞いだ。海外対局とあって現地ファン向けのイベントがぎっしり入っている。メディアに頼まれにこにこ笑う名人とポーズとはいえ盤を挟むことになった八一の心情は複雑であった。

 

「なかなか遊ぶ時間ないわね…」

「すまん桂香。月光さんに頼まれてなあ」

 

 普及を続ける中で将棋を指す女性を推したいと女王である銀子から天衣、あいと続き桂香に取材の申込が成されたのだ。特に桂香の人気が凄まじかった。恐らく翌日の朝には八一と名人の隣に記事が載るだろう。

 

「気にしないで。明日たくさん遊ぶから」

「け、桂香。それお父さんのクレジットカードやないかい…?」

「新田ちゃんの限定SSRなら無料石で出しておいたから後顧の憂いなく家族に課金なさい」

「うおおおお!?ええよ!今の儂は最高潮やあぁ」

 

 スマホを手にスキップでハワイの街を駆けるビニサン中年の姿は日本人観光客の手によりしっかりと動画付きで日本へ向け呟かれたことをここに記す。

 

 

 

 

 ハワイに到着して2日。八一の竜王戦前夜祭はハワイ州知事と総領事に挟まれフラッシュの光を浴びて始まった。両脇のVIPは直前に授与された月光、八一、名人署名の豪華初段免状を手に満面の笑み。将棋連盟のリップサービスも光る。

 そのまま隣の名人と共に対局者の挨拶だ。心底真面目な顔をした少年が静かに発した第一声は会場に響き渡る。

 

「皆さん、ALOHA!」

 

 大爆笑が起こった。晶が喉に天ぷらを詰まらしてむせる声が聞こえる。しかし八一本人は愛想笑いもせず至って真面目だった。その後に続けた言葉を要約すると「異国の神様が前にいると思って清心で戦う」「名人との最高の舞台での対局が待ちきれない」と闘志を隠しきれない内容である。

 

「面白味も何も無いスピーチのはずなんですけど」

「竜王はそのままでいいと思いますよ」

「はあ」

 

 隣でカメラを構える鵠にはぐらかされた八一は疑問を頭の端に追いやった。花束の代わりにレイを持った弟子2人が段上脇から現れたためだ。相変わらず黒と白のコントラストが際立つ2人だが今日はその装いがハワイの民族衣装となっている。黒の落ち着いたムームーなど探すのは大変だったのではなかろうか。

 

「ふんっ今回だけだから!」

「ししょー。これお姉ちゃんと作りました!」

「ありがとう」 

 

 会場の端から姉弟子が睨んでいるが八一にはどうしようもない。

 

「ところで本日は竜王戦の開幕以外にも喜ばしいことがあります。竜王の弟子である雛鶴あいさんの十回目のお誕生日なのです!」

「ふぇっ!えぇええ」

 

 あい以外の参加者はこの催しを知らされていたので滞りなくハッピーバースデーの合唱が始まる。ハワイらしく演奏はホテル従業員のウクレレだ。

 

「こんな時にすまないな。後日改めて一門で祝おう」

「そんな!とても嬉しいです!!」

「贈り物はこれだけではありませんよ?」

 

 月光がそう言うとコックが台車に載せたケーキを運んできた。ケーキは脚付きの将棋盤を模したものでその盤上には詰将棋の盤面が作られている。

 

「この作品は見ての通りハートの形をしていますが解くと」

「すごーい!二十七手目の詰上がりも小さなハートになるんですね!」

「…」

 

 自信作を即座に解かれて月光が呆気にとられる珍しい一幕が見られた。一方あいは一気に会場の人気をさらっている。集まった記者達の質問にも明るく答えていた。

 

「やれ、流石は竜王の弟子といったところですか。私はこれで」

「妹に負けてられないな天衣?」

「うるさい」

 

 八一はあいに詰将棋を先に解かれてむくれている一番弟子の頭を撫でて振り払われた。全力で体を振る天衣にそこまで嫌だったかと少し反省する。

 

「何遊んでいる」

「いえ。何も」

 

 追撃とばかりにいつの間にか背後に移動していた姉弟子から冷たい視線を向けられた八一は背筋を伸ばしたまま前を見続けた。

 竜王戦第1局まで一夜と迫った日の出来事である。

 




 11巻は明日で一気読みします。楽しみだあ


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第四十六話

 対局1日目の朝。直前にハワイ特有のシャワーの様なスコールが降ったがすぐに止み東の海上では雲の隙間から陽光が差し込んでいた。俗に言う天使の梯子を横目に部屋に運ばれた大盛のエッグベネディクトを食べる。朝食が済めば次は着付けだ。

 

「襟曲がってる」

「気づきませんでした。助かります」

「ふん。1人でするからよ」

 

 途中で入って来た銀子に手の届かない後ろの乱れを正される。かれこれ数年着物を着てタイトル戦に出ていた彼女の手付きは慣れたものでついでとチェックは全身にまで及んだ。

 

「じゃ、私控室に行くから」

「はい」

 

 交わす言葉は少ないながらにじみ出る激励が八一の身体を押す。

 ハワイの高級ホテルに和室の部屋などあるはずもなく対局室は洋装の部屋に茣蓙を敷いた即席場。隅の観葉植物がいい味を出している。茣蓙の手前で雪駄を脱ぐのも不思議な感覚だ。 

 時刻は8時47分。ずらりと並んだ立会人達の視線を一身に受けながら八一は座布団の座り心地を確かめ名人を待つ。

 その数分後和服を着こなした名人が入室した。今まで八一が遠目か画面越しにしか見てこなかった中年の男性が目の前で静かに座る。そこにあるのが当たり前かの様に名人は部屋の空気に馴染んでいた。

 

「九頭竜竜王の振り歩先で振り駒を行わせていただきます」

 

 駒を並べると和服を着た記録係の四段が駒を振った。結果は歩が5枚。相変わらずである。そして9時になり対局開始だ。

 

「お時間になりましたので対局を開始してください」

 

 深々と頭を下げた八一は少しの間をおいて歩を手に取り駒音高く2六歩と指した。フラッシュが光る中名人も同じく飛車先の歩を突く1手を指す。

 互いに歩を進めること4手。エースである相掛かりを見せたところで八一は角道を開け角換わりに誘う7七角、6八銀と続ける。10手目名人が角交換をしかけ八一が応じたことで戦型は決定した。

 

 

 

 

 竜王戦 名人ノーマル角換わりを採用

 

 10月になり暑さの和らいだハワイ。時々降るスコールも涼しさに一役買ってますが眼鏡にかかるので遠慮したいです。今日の我々は空調の効いたホテルに缶詰なので安心ですが。

 遅れましたが日本の皆さん、アローハ。

 現地から中継を担当する鵠です。

 現地時間午前9時に始まった対局は先手九頭竜竜王が相掛かりを仄めかしましたが古来より指されてきた有力戦法角換わりに落ち着きました。現在午前10時朝のおやつが対局室に運ばれてきたところです。

 竜王はアイスティー、名人はハワイ名産のコナコーヒーを注文しました。別室では月光会長が封じ手の準備中。棋戦名、会場名、立会人と副立会人の署名がなされ封筒は対局者の署名を待つのみです。早いペースで進む対局が気になるのか全員すぐに控室へ戻って行きました。

 控室にも差し入れのお菓子がたくさん届いています。特にシェフ特製のチーズケーキ(しっかり祝第30期竜王戦と書いてあります)は絶品でした。検討陣も栄養補給はばっちりのようです。

 海外対局にも関わらず控室には九頭竜竜王の関係者が勢揃いしており一門の結びの強さが伺えます。彼等による大盤解説は現地時間午後2時から生中継もされますよ!

 ここで九頭竜竜王をよく知る姉弟弟子の空銀子女流二冠と弟子の夜叉神天衣女流二級、雛鶴あいアマにお話をうかがいます。

 

 

 お三方は竜王の応援として駆け付けたということでよろしいでしょうか?

「別に大盤解説の仕事があっただけ」

「ふん。頼まれたから来てあげただけよ」

「はい!」

 

 ははは。では本題に入りましょう。皆さんは竜王の戦型選択の意図をどうとりますか?

「深い意味はないと思う」

「どうせ切り札はとっておくとかでしょ」

「ししょーはどっちになっても大丈夫なんだとおもいます」 

 

 確かに竜王は元ガチ居飛車党。どちらも苦にはならない、と。ここ数年来の私という練習相手もあって直近に振り飛車も指していますが竜王戦で振り飛車は竜王の切り札に足ると思いますか?

 

「全局居飛車」

「匂わしておいて使わない見せ札」

「わ、わかりませんー」

 

 

 …伝家の宝刀ということですね!はたして若き竜王が一瞬見せるあのあぎとはこの七番勝負で見られるのでしょうか。以上ハワイホノルルはワイキキからお送りしました。

 

 

 

 

 時刻は午後9時。ホテルから徒歩数分の距離にある通りは週末の夜を楽しむ観光客達で賑わっている。そんな中に封じ手とそこからの展開をぶつぶつ呟く八一がいた。周りに引かれているのは気のせいではない。

 

「もっと淡々とした人だと思ってたが」

 

 日の入りと共に60手目を名人が封じ対局1日目は終わった。両者腰掛け銀を組んだ後早々に名人が動いた為八一の陣に名人の楔が入った形で対局は中断。誰が見ても名人は攻勢を止める気はないと分かる状況。今の状況も苦ではないがあまり名人に好き勝手されるのも面白くない。

 

「同銀は間違いないはず。もっと深く。深く、深く…深く…痛っ」

「前を見なさい」

 

 後ろから頭をはたかれた八一は振り返ることなく銀子に苦言を呈するが頭を上げると目の前にはニコニコ笑う美女がいた。彼女が着ているのは左袖に大きなワッペンを付けた紺の制服。これには八一の額から冷や汗が流れる。

 幸い心ここに有らずといった少年を心配して声をかけた(観光客が酒や葉っぱをやっている疑い)だけで拙い日本語の質問に幾つか答えるとアロハと去って行った。

 

「何してるのよ本当に」

「すみません」

 

 夜のビーチで泳いでいた銀子がホテルへの帰りに目にした光景は人垣に囲まれた八一と美人警官。その心境や想像に難くない。駆けてきたのか上気した肌を覆うのは黒の水着だけだがそれも気づいていなかった。

 

「姉弟子。上着はどうしました?」

「え…?そこに置いてたんだけど…」

 

 銀子が振り返った木の根元には何もない。

 

「とりあえずこれ着てください」

「うぅ…!ふん。あっち向いてて」

「はいはい」

 

 際どいローライズ水着への野次馬の視線を感じた八一が着ていたパーカー差し出すと銀子はそそくさと羽織った。人前で着ずらい水着を何故選んだとか八一は突っ込んではいけない。彼女にも色々あるのだ。

 

「騒ぎを起こしたなんて記者に知られたらどうするの」

「これくらいなら笑い話で済みますよ。それより姉弟子も夜のビーチに1人で行くなんてだめです。現に荷物取られて」

 

 姉弟子に強気の八一という珍しい絵図は昔から銀子が危ない線を踏むと見られる。

 

「うっ。お金は持ってきてないし」

「それ。逆に危ないですよ。ただでさえ姉弟子は綺麗なんですから」

「う、うるさいうるさい」

 

 騒ぎよりも記者が撮って喜ぶのは八一のシャツを掴む銀子のツーショットである。幸か不幸かこの場にはそれを指摘する者は誰もいなかった。

 

「目が覚めた。散歩するからついてきて」

「少しだけですよ」

「分かってる。ほら。いこ?」

 

 ほとんどの店が閉まる11時を過ぎてはいくらハワイを代表するメインストリートでも危ない。それまでにはホテルに帰る必要があるだろう。繋いだ手を賑やかなストリートパフォーマーに冷やかされ露店を覗きつつ明るい場所を選んで通りを散策することしばらく。2人は店で買ったアイスクリームを手にホテルに戻って来ていた。

 

「アイス美味しいね」

「こっちに来てから食べ物が甘い物ばかりな気がしますよ」

 

 甘い物も好きな八一だが手にあるアイスの甘さは格が違い持て余し気味である。半分は銀子に食べてもらっていた。

 

「八一はもう少し甘いのを食べなきゃだめ」

「ブドウ糖ですか?最近はタブレットが…」

「はいはい」

 

 そんなどこかずれたいつもの会話が2人の調子を上向かせた。何でもできる。そんな高揚感がエレベーターに乗る2人の身体を満たす。2時間前の神に触発され修羅へと突き進んでいた八一はもういない。

 

「八一!」

「はい?」

 

 部屋のある階で降りた銀子が八一と向き合った。覚束ない足元も気にせず彼女は息を吸う。

 

「おやすみ!!」

「おやすみなさい」

「あっ…」

 

 冷鉄にも閉まる機械の扉は就寝の挨拶しか通さなかった。これには遠くから見守るカメハメハ(孤独、静かな人の意)大王もニッコリ。これが鋼鉄流か。

 

「そういえば上着」

 

 明日返してもらおうと思う八一。しかしその願いがかなう事はない。別の世界線と同じ宿命を負った八一の嘆きが鉄の箱の中に消えた。以上竜王戦第1局1日目のことである。

 




 


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第四十七話

 積んでたゲームとアニメの消化をしてました…


 ふと顔をあげれば神が硝子越しになにかを睨んでいた。

 

 

「封じ手は7六銀」

 

 記録係が読み上げる棋譜に従い八一と名人が一日目の指し手を並べ立会人が封じ手を読み上げると2日目の対局が始まった。想定通りの一手に対し八一は自玉に迫る銀剣を持ち駒の金で受けたが当然とばかりに名人の攻勢は続く。そして接戦の中で名人が間隙を突いて進めた歩に八一の手が止まった。

 

「…」

 

 盤に覆いかぶさるかのような前傾姿勢で長考に入った八一に控室の面々はざわめく。そして次の手がこの後の竜王の指針を示す一手になることを予感した。こういう時にソフトが出す予想は一見不用意でいて見方を変えれば理にかなった手のことがある。今回も例に漏れずそうなった。

 

「角だ。あの竜王なら玉の守りが薄いくらい気にしない」

「いや金だろう。駒得が大きい今なら多少の損は許容できる」

「別の一手があるのか?」

 

 控室では検討が飛び交っていたがじっと静止していた八一が動いたことで静寂が訪れた。

 

 

 

 

 対局は151手目が指されることがなく終了する。名人の攻勢を前に粘り続けた八一だったが終ぞ押し切られた形。その強心臓と剛柔どちらも苦にしない守りが一目置かれる竜王の受けも最後まで続いた抵抗の結果その跡は見る影もない。控室は結果を噛みしめる者と名人の勝利に沸く者で明暗が分かれた。

 詰めかけた報道陣が見えないかの様に名人が八一へ鋭い変化を飛ばす。八一は身体に鞭打って手を提示するも勝利したはずの名人の問いは終わらない。そして先手は攻めをかわしつつ入玉を目指せば互角ということで落ち着いた。

 ようやく緩んだ空気の中記録係や立会人が混じり記者達が質問を開始する。

 

「記録は意識していない。なんとかするだけ」

「際どい勝負だった」

「次もいい将棋を指したい」

 

 名人に飛んだ大量の質問の答えをまとめるとだいたいこのような感じに収束する。八一にも無難な質問が数個あったがそれだけだった。記者の大半は名人をカメラのフレームに収めようと八一の後ろから横にかけて立ち並んでいるので名人の背後は鵠や知り合いの記者しかいない。

 

「ありがとうございました」

 

 感想戦を終えた八一は賑やかな対局室を1人去る。静かに部屋の扉を閉めて部屋に向かった八一は廊下の隅に隠れようとする小さな黒の少女を見た。

 

「…ぁ」

「すまん。負けた」

 

 いつもの棘がない弟子に八一は頭に手をやり再起動を促す。しかし即座に弾かれるはずの手は予想に反して収まってしまった。そして綺麗な髪の流れに誘われて手を滑らせても無反応ときて困惑する。

 

「あなたの師匠。貴方寄りの解説して怒られてたわ」

「師匠らしい」

「あの子は言わずもがな空銀子まで公平なふりして止めないし。何で私があいつ等のフォローしなきゃいけないわけ」

「それは、迷惑をかけた」

 

 名人目当てに来たファンも多い中天衣が清滝一門の評判を守ったと言える。守る名声があったの?と姉弟子の声が聞こえた気がするが気のせいだ。タイトル保持者を2人も出せばイーブンのはず。

 本当よと天衣は顔を背け八一は程良い位置にあった手の置き場を無くす。加えてジトっとした視線を向けられ顔を逸らした。

 

「詫びとして明日はハワイ観光に付き合おう」

「はあ!?」

「なんだ、俺だって休む時は休む」

 

 名人が熱の冷めやらぬ内に感想戦をしてくれたのもあって燃える様な悔しさがある割に引きずる様な敗北感は小さい。折角日程が開けられているのだから切り替えに使うとは八一の考えである。だが弟子の疑いの視線は打ち上げに呼ばれるまで終ぞ止むことはなかった。

 

 

 

 

 対局の翌日。窓から遠ざかるハワイ諸島を見送って八一は瞼を閉じる。午前中にダイヤモンドヘッドやイオラニ宮殿、アラ・モアナセンターで観光とショッピングを楽しんだ八一達は時差を含んで翌日の夜に日本へ着く算段で午後の帰国便に乗っていた。

 向かい風のせいで飛行時間は10時間の大台に乗っているが元がインドアな将棋指しにとって大きな問題ではない。行きに比べて時差ボケ対策も起きていればいいだけなので一門で座席を替わりながら盤を挟む。

 

「名人は帰ってすぐ玉将戦。本当に40代なのかしら」

「自分もリーグ入りできていれば良かったのですが」

「そういう意味で言ってないからね。シード権あるのに年50局以上指す名人の強さと体力のことだからね」

 

 枷が外れた名人が暴れた跡は歴代ベスト記録、ランキングに記されている。7つのタイトルは名人を次元幽閉するための物だった!?

 

「沢山対局して勝ち続ければ桂香さんもわk…」

「なあに?八一君?」

「若々しさが続くかもしれません」 

「うーん?一理あるようなないような。いや皆ただ単に若いだけじゃ」

 

 何も悪いことはしていないつもりなのに背から汗が止まらない八一は冷静を装って話題の転換を試みた。

 

「自分もですが桂香さんは釈迦堂さんと対局でしょう?」 

「あ”ー。そうなのよね。そうなのよねー。あとあの人年齢不詳ってどういうこと。それありなの」

 

 頭を抱える桂香越しにこちらを見つめる青い瞳と目が合う。何しているんだと非難の色を見た八一は慌てて言葉を続けた。

 

「幸い持ち時間が大幅に増えたことは桂香さんに合ってます。あと1つで女流ですよ」

「そうよね!あと少しなのよね!」

 

 姉弟子はこちらを向いて頷いていた。その隣では無視された形のあいが膨れっ面。晶と通路を挟んで天衣は師匠とVS。接する機会の少ない孫弟子と将棋をを指せて満面の笑みの師匠と対照的に天衣は噛みつく一歩前といったところ。

 

「なんかやっぱ私も清滝一門なのかなあ」

「怒りますよ」

「そ、そういう意味じゃないから!デビューの為には名跡が壁なんて中々ないじゃない。不安も大きいけどコンディションはそう悪くないの。予選はあんなだったのに不思議ね」

「確かに相手が強いほど燃えますよね」

「やっぱやめやめ」

 

 流石に桂香はここで勝ちを信じ切れる人生を送ってはいない。座席に身を任せ天井を仰ぐ桂香に然しもの八一も何か間違えたかと背に汗をかき始めた頃桂香が話を続けた。

 

「あーもー。八一君が名人にやり返したら私も元気でるかな。なーんて」

「任してください」

「…八一君は保険とか嫌いなの?」

「入ってますよ?」

「分かった。両手に億かけてるでしょ。アイドルとか芸能人みたいに」

「なんですかそれ」

 

 名人に負けると調子を崩すという何ともタイトル戦キラーな話もある。そんな中で普段通りの八一に一行は一応の安堵と共に密かに向けていた注目を元に戻すのであった。

 

 

 

 

 ご観戦ありがとうございました。第30期竜王戦七番勝負第1局は接戦の末名人の勝利となりました。

 竜王が押し返すか名人が連勝するかの熱戦は10日後大阪にて行われます。次局もどうぞお楽しみに。

 執筆者 鵠

 



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第四十八話+

 悪逆竜王退魔の夜に反逆の一撃

 

 打ち上げの後ホテルで1泊して朝帰りとなった八一を家で出迎えたのはあいである。ドアの鍵が回る音を聞きつけてぱたぱたと走って来た内弟子は満面の笑みを浮かべていた。

 

「ししょう!」

「1勝だ」

「はい!」

 

 胸元に突き出された小さな手に拳を返す。次いで朝食の準備が出来ていることを伝えられここ数日の煌びやかなメニューに少し辟易としていた八一の足が逸る。

 

「お茶漬けです!」

 

 単純ながら八一の好物が詰め込まれた梅鮭茶漬けがテーブルに鎮座していた。食べなれた梅干しの酸味が胃に染み渡る。外の高級品も良いが八一は果汁をたっぷり含んだ赤紫蘇付きの自家製が好きだった。ちなみにここでの自家が指す家は福井の実家のことだ。

 

「渋谷スクランブル交差点はコスプレ姿の若者達で…」

「相次ぐ品質データの問題に政府は…」

 

 あいが見ているタブレット端末は朝のニュース番組を流している。そわそわと落ち着かない彼女は頻繁に番組を切り替えているのか情報キャスターの言葉は最後まで続かない。

 

「昨夜行われた第30期竜王戦七番勝負第2局は九頭竜八一竜王が166手で挑戦者の名人に勝利しシリーズ成績を1勝1敗としました。名人は永世七冠、タイトル通算100期を目前に…」

「むむ、むううぅ!」

「どうかしたか」

「ししょーが勝ったのにゲストの人、名人の記録の説明ばかりしてます」

「まあ永世七冠とかぽんと言われてそのままも困るだろう?」

 

 八一も九段昇段の史上最年少記録がかかっていたりたたけば色々と出てくるので確かに名人寄りにも見えた。ただ去年は八一が逆の立場だったとも記しておく。

 

「むしろ気楽というもの」

 

 嘘である。往復ビンタを恐れず角換わりでお返しをした程度には第1局が悔しかった八一。彼の目は燃え盛っていた。相手が何もしていないのに勝手に内燃するとは迷惑な奴だ。

 

「結果で見返すのですね!」

「ああ…」

 

 そして弟子の目には師と逆で暗い光が宿る。弟子がどこか姉弟子に似てきたなと思う八一である。食器を片付けあいが学校に出かけるのを見送った八一は次の対局へ向け1人意識を盤面に沈めた。

 

 

 

 

 夜今年初めて入れた湯船に浸かりほかほかの八一がダイニングの扉を開けるとあいにスマホを渡された。聞けば彼女の母だと言う。半ば強引に渡されたそれに対し八一は姿勢を正した。

 

「お待たせしました。九頭竜です」

『いいえ。夜分に電話をしたのは此方です』

「…」

『…』

 

 2人は定期的に連絡を取り合う関係であるがその内容は大半があいのこと。女将もあいの番号と見て出たのか珍しく出鼻をくじかれていた。僅かな沈黙の後に女将が口を開く。

 

『まずは昨日の勝利おめでとうございます』

「ありがとうございます。ストレート負けなんてことにならなくて良かったです」

『第5局でお待ちしております。来年は全勝しても構いませんが』

「すみません。どうも電話が遠くて聞こえなかったのですが」

『こちらの話です。ええ、もうひな鶴を後ろには回させませんとも。あいに電話をかわっていただけますか?』

「はあ、失礼します。あい」

 

 少し離れて電話越しの親子の言い合いを眺める。そして自分は前回実家に帰ってから2年経っていることに気づき驚いた。デビュー直後に1度戻ったがそれが丁度2年前の11月。去年丸々竜王戦を戦って就位したのが今年の1月。そしてもう今年は2ヵ月しかない。

 

「石川の対局の帰りに寄るか?いや竜王戦が終わってからか」

 

 両親とは将棋の話をほとんどしない。竜王戦の最中に帰っては気を遣わせてしまうだろう。そこまで考えてふと顔をあげると通話を終えた弟子がおずおずと近づいてきた。

 

「もうしわけありません。ししょうがすごいんだってお母さんに言いたくてまい上がってわたし…」

「なんだそんなこと」

「でも大事なことなんです!」

「そ、そうか」

 

 勢いに押された八一は手を彷徨わせお茶の入った湯呑を啜り盛大に眼前を曇らせる。そして眼鏡を掛け直していたことに気づいた。度の入っていないそれは八一にとっての切り替えスイッチ。数年来の習慣を忘れるほど嬉しかったのかと苦笑いを漏らす八一だった。

 

 

 

 

 これは浪速の白雪姫の記憶。

 

「ハロウィンイベント?」

「そう。なんか呼ばれたけど行きたくない」

「はあ」

 

 黄色く染まったイチョウと大阪城を見上げ歩く制服姿の男女。今より幾分背が縮んだ八一と銀子である。2人が同じ中学校に通ったのは1年だけなのでこれは今から2年前の秋だ。話のタネに駄々をこねる感じで言った言葉にも八一は真摯だ。

 

「ちなみに何故行きたくないので?」

「見世物だし何着ればいいかも分からない。折角の休みになんでこんなこと」

「なるほど」

 

 少し強い風が吹き抜け落ちていた葉が舞い上げられた。周りを歩いていた家族連れや観光客の喧騒が聞こえる。

 

「確かに迷います。自分も何を着て行けばいいやら」

「!?」

 

 少女に電流が走った。唸る少年は彼女の不審な行動に気づかない。考えて見れば話題沸騰の中学生棋士を地元のイベントに呼ばない道理がない。自分と同門と来ればなおさら。

 これはいかに違和感なく前言をひっくり返すべきかと少女は頭を回転させる。

 

「和服を着てタイトル保持者の仮装とか駄目ですかね?」

「それただの和服を着た棋士だから」

 

 少年の案にぶっきらぼうに突っ込んで次の言葉に全神経をつぎ込む銀子。しかし徐々に早口となっていく。

 

「に、日本橋に行けば衣装売ってると思う。今から行ってみる?」

「ああ、いえ。まずは姉弟子は行きたくないのでしたね。すみません言葉を遮って」

「そ、そもそも男鹿さんに言われたしもうこれは会長事案だから断れなかった。仕事だし仕方ないわ」

「む…今度会長に」

「いいからっ!」

 

 プロ1年目の平棋士がガセを元に会長へ物申すなど温厚な人と知ってても笑えない。八一も会長はむしろ自分のメディア露出を抑えてくれている側だと知っているだろうに今の目は本気だった。

 

「とにかく行こ?見てれば無難なのもあるでしょ」

「だといいのですが」

 

 少年の手を引いて進むのは少女。驚安の殿堂や専門店を回って2人が選んだ仮装は店員に勧められた白雪姫を断固拒否した銀子が雪女。ネタも分からず何故か目に付いた赤いパイロットスーツが八一。

 イベントの数日後彼女はすまし顔で記者からそれを受領した。狐面(付けただけ)や騎士(主張)といった想定内からバニー兎(仮装して来なかったヤンキーに渡された)、陰陽師(誰もが一度頭を下げた)、キョンシー(陰陽師に付きっ切り)まで意外とバリエーションに富んだ数枚の写真。

 その中から消えた1枚は今も彼女の部屋に飾られている。

 

 




 今ならぎゃOでりゅうおうのおしごと!見れちゃいますよ!!


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第四十九話

 新年おめでとうございます


 伝説は終わらない

 

 山形県天童市。竜王戦七番勝負第3局が行われる将棋の街は竜王戦一色だ。温泉街を少し見渡せば歩道の詰将棋に将棋ファンや報道陣がたむろし将棋教室は対局を見守る小さな後進達で満員。少し取材をしてみれば将棋を始めた切欠が竜王という子もちらほらいる。(ほんの少しだけ私の名も期待したが子供は正直だった)

 彼等は30年前に名人経験者を次々撃破して公共放送杯を征した名人を見る当時の子供達だ。我々は2つの伝説の激突を見ているのかもしれない。

 

 

 駒を持つ名人の手が震えた。その震えは読み切られた証か追い詰めた証か。どよめく控室を他所に八一はじっと盤上に現れた銀を見つめる。

 

「ごじゅーびょうー。いち、にぃ」

 

 記録の声が時を刻んだ。両者残り時間が切れてここまでの数十手は僅か30分足らずで進んでいる。突き立てた牙を半ば無視して打たれた鈍色に違和感を覚える八一。しかし50秒と少し読んだ範囲に詰みは見つけられない。こうなった以上選択肢は攻め続けるか引くかの二択だ。

 

「さん、しぃ、ごぉ、ろぉく」

 

 天上にその巨体を持ち上げんとする竜王は足元が崩れるのも構わず喰らい付いた。一目見て危険だと分かる手に大盤解説場では観客が悲鳴を上げる。そしてここまで幾度も予想を裏切られた棋士達は一周回って冷静だ。    

 過熱しチカチカ光る視界を振り払う様に顔を上げた少年と疲れた中年男の血走りながら爛々と光る目が交錯する。その先を八一はよく覚えていない。 

 対局後インタビューで名人は理想とかけ離れたいい将棋と言葉を残している。

 

 

 

 

「大丈夫ですよ。ちゃんと名人が勝ちましたから。竜王が持ち直すなんてありません」

「はい。後は適当なこと書いて弟子を引き離します、はい」

「女王戦に妹弟子?…ああ、それはネタになりますよ!エリート(笑)一門の面…」

 

 打ち上げの会場に向かう途中の便所。その記者は手洗いの鏡に映るそれに言葉を失い肩で保持した携帯を落としてしまった。床で滑ったそれは渦中の人物の足にぶつかり止まる。

 

「大丈夫ですか」

 

 丁寧に落し物を拾ってくれ何事も無くすれ違った相手に息を吐いた彼の背後から冷えた空気と共に押さえきれていない殺意が襲う。

 

一瞬で死ねるなどと思うなよ

 

 よく聞き取れなかったことは彼にとって唯一の救いだった。何しろこれからの彼等はやることなす事裏目に出て散々になる。よく考えなくとも連盟会長と何より元博徒の資産家に守られた弟子2人と研修会員に手を出せばそこら中から顰蹙を買う。今までの所業(政治部から異動して荒れていた彼は新顔の増えた竜王戦でも特に悪目立ちしていた)と合わせてまともな人なら相手にしないだろう。

  

 

 

 

 夜叉神天衣にとって師匠は家族との温かい記憶を思い起こさせる存在だ。加えて彼女は2歳の時から母の読み上げを聞いて父の膝の上で竜王の軌跡を追ってきた自覚無き生粋のファンでもある。変態棋風がうつった責任を取れ等と言っているが本心では誇りそのもの。そんな内情を知らない周りもプライドの高さが相まって子供らしく煽りや挑発に弱いと思っていた。

 

「まあ賢い君なら分かるだろう?上にくれば出る杭は打たれるんだ」

「”は”ではなくて”に”だそうよ」

 

 逆に何やら呟いて嘲笑してくる小学生へ登龍(のぼりりょう)が返す言葉は異様に滑りのいい(誰かが溝に蝋を塗ったのだろう)対局室の襖と外枠がぶつかる凄まじい音に掻き消された。

 

「わりぃわりぃ。普通に開けたんだがなあ」

 

 ドスッドスッと部屋を横切った女性は悪びれずに下座の少女を睨みつけた。対してあいは師から貰った扇子を握りしめ目を逸らさない。 

 

「お願いします」

「ああ」

 

 女流玉将月夜見坂燎の纏う凶暴な気が収まり勝負師としての圧が噴出した。その隣には窓の外に視線を向けたまま相手を無視し続ける天衣にイライラしだした登龍がいる。

 机の陰でこっそり腹を擦る記録が対局開始を告げると両対局が始まった。

 

 

 同じ部屋で指される2つの対照的な将棋。各3時間と伸びた持ち時間を用い徹底した長期戦を行う天衣。月夜見坂の早指しに引っ張られ徐々に高速戦と化したあい。

 必然決着はあいの座る盤に早く訪れる。

 あいの調子は何も悪くなく特に悪手を指したわけでもない。しいて言えば対局相手のことを知らなさすぎた。

 月夜見坂があいが要所で長考して出した手に即答する。すると高速戦から外れたあいの手は徐々に精彩を欠き勢いが失われていくのだ。読みを尽く上回ってくる月夜見坂にあいは自信を揺るがされていた。

 形勢は持ち時間という形で可視化されついにチェスクロックがある電子音を鳴らす。あいは月夜見坂にのまれてしまっていた。

 

 

「ふん」

 

 登龍を焦らす為に数回目の離席をした天衣は廊下で独り言ちた。同じ頂点を奪い合う敵ではある。将棋歴1年未満で何故か同じ場所にいるふざけた存在。だがこと今日に限っては隣で頭を下げる姿が腹立たしかった。

 部屋に戻ると細々とした所業で煽られ続け怒りの形相の登龍が目に入る。登龍は天衣を見下しているので焦らすだけで熱くなってくれる。隣で女流玉将と妹分の対局が終わったこともプライドをくすぐっているはずだ。

 席にゆっくりついて慎重に駒組を展開する一手を指すとしびれを切らした登龍は強引に斬り込んできた。後は相手の誘いの一切を拒絶して既存の踏み固められた盤上で戦う。常に相手より一段上に立って登ってくる相手に辛い手を指し続けること数十回。

 顔を真っ青にした登龍が震える手で駒台に手を置いた。そのまま盤の前に蹲る相手を背に対局室を後にする。将棋会館の外で待っているだろう晶と妹分ついでに師匠へ勝利を報告するために。

 

 

 

 

 あいの対局が終わりかなりの時間が経つ。連絡はついているが流石に迎えに行こうかと席を立ったちょうどその時おっかなびっくり集合場所のカフェにあいは現れた。小さい身体を更に縮こませ何処かで泣いていたのか彼女の目は赤い。あと1勝で女流二級になれた事実が彼女に圧し掛かっていた。

 

「し、ししょう…すみませんでした!」

 

 弟子を労おうとした八一はいきなり頭を下げられ硬直した。そして静かに席に着くよう促しどうしたものかと思案する。その何気ない仕草が威圧感を伴ってあいを怯ませた。

 

「うぅ」

「忙しい中来てくれたのにってことだ」

 

 隣で横に倒したケーキを切っていた晶が見かねて八一に助けを入れる。彼女が持つタブレットPCに表示された盤にはここ数分動きが無い。晶はこの1時間更新ボタンを連打しつつフォークを口に運んで過ごしていた。

 

「なんだ。あいが謝るとはどんな非常時かと」

「先生。それは苦しすぎるぞ」

「ぇ…え?」

 

 誤魔化しの咳払いをした後無理矢理笑みを浮かべる。それを見て様子を窺っていた隣の客が安堵して前を向いた。

 

「何連敗しようと見捨てるものか」

「!?」

「師として当たり前だ」 

「もうっ!ししょー!つぎは絶対かちます!」

 

 一転笑みを浮かべたあいの向かいで机に置かれた画面に変化が生じる。だが駒の動いた様子はなく代わりに盤の下に小さく文字が表示されていた。

 

「せ、先生。投了ってでたぞ」

「168手で天衣の勝ちです。相手も粘りましたね」

「お、お嬢様ああぁ」

 

 ケーキを丸呑みして会計にお札を置いた晶は鬼気迫る表情で主を迎えに行った。彼女の殺気に釘付けされた店員が助けを求めてこちらを見ている。

 

「迎えに行くか」

「はい!」

 

 幾つかケーキを包んでもらい店を出た八一にあいが飛びついた。八一は二番弟子を見やるが彼女はニコニコと笑うだけでその手を離さない。結果八一達と晶の差はますます広がった。

 

「なんでいないのよ」

「晶さんが先に行ったんだ。それより…よくやった」

「っ―!のんびり歩いて来ておいて言い訳を、するなこのクズ!!」

 

 千駄ヶ谷の夕焼けに一番弟子の罵声が響いた。

 




桂香さんは勉強中なので出番ないです


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第五十話

 暖冬だ何だ言っても冬は寒い


 竜王戦と女流玉座戦は時期が重なる。日程こそずれているものの八一と銀子は他に公式戦や昇段戦を抱える身。研究も含め年末は1年で最も忙しい。

 はずなのだが近場で行われる互いのタイトル戦には大抵もう片方が現れる。これは関西の棋界で周知の事実だ。

 

「にーちゃ。にーちゃ!!」

 

 関西将棋会館の一室に赤ん坊に服を掴まれ頬を引きつらせた八一の姿があった。無論彼が誰かと子をなしたというわけではない。嘘でもそんなことは書くことをお勧めしない。主に発信者の身の安全のために警告する。

 彼女は銀子の対局相手と目の前で継ぎ盤をしているプロ棋士の子だ。八一の隣では鵠がキーボードを一閃させている。

 

「然しもの竜王も泣く子には負ける、と」

「変なこと書かないでくださいよ?さっきあたふたしてたのは誰ですか」

「む、いいじゃないですか。最近変なことを書く輩もいますしイメージアップです。ねーさーちゃん?」

「いめぃあぷー」

 

 部屋に置かれたテレビ画面の中で銀子と向かい座る女性の名は花立薊女流五段。銀子が持つ2つのタイトルの前の持ち主だ。女流玉座戦直前まで長期休場していたが驚くことに第二子の妊娠中突然復帰。安定期ということだが着物を着ていてもわかるお腹の膨らみは周囲を戦々恐々に加えいきなりのタイトル戦登場に驚愕させていた。

 そして彼女の棋風もガラリと変わっている。

 

「花立さんが早指しとは」

「はりゃさしー」

 

 今日の対局は五番勝負の3局目で銀子が勝てばストレート防衛となる。だが4年前を知る人は花立のスタイル変更に驚いていた。

 以前の花立と真逆の感覚指しに銀子は違和感が拭えず指しにくそうだ。それで白星が揺るぐ彼女ではないが珍しく苦戦しているのは事実だった。

 その奮戦も終盤には銀子の前に崩れ去る。だがスタイルから思考まで全てを変えた花立五段が新たな産声を女流棋界にあげたのは間違いない。それは彼女に追い抜かれた女流棋士達が誰よりも分かっている。

 

「にーちゃ、きゃっきゃ」

「むぅ…」

「ふふ、しまりませんね」

 

 ちなみに八一のダブルスーツのボタンを握って離さない1歳児。名を花立桜愛称さーちゃん。この後母親に見せられた八一の対局動画が大のお気に入りとなる。ルールも理解していないのに何時間も続く動きのない動画を見て大喜び。

 これは将来の察しが付くというものである。

 

 

 

 

「さあ。全力で向かって来たまえ」

「はい!」

 

 桂香は震え出した身体を押さえつけ自身を奮い立たせるかのように応えた。20年近く女流棋界を引っ張ってきた天辺にして憧れの女流名跡釈迦堂里奈。彼女を撃ち破れば桂香の夢は叶う。

 

「対局を始めてください」

 

 目の前の人物と己の隔絶した実力差を綺羅星の如き将棋指しに囲まれてきた桂香は人一倍理解している。だが将棋というゲームに絶対はない。彼女は何十何百回に一回の目を今日引くつもりでいた。

 まず今回のために温めてきた振り飛車を切る。少しでも相手の意表を突けたらと選択した手。無論それで釈迦堂が流れを渡すわけもなく逆に急戦を仕掛けられる。そこから釈迦堂の流麗な指し手がその上から猛威を振るった。

 

「やれる。私はやれる」

「ほう」

 

 蒸し焼きにされる恐怖と戦いながら総崩れを必死に抑える桂香。胸を拳で何度も叩いて自身を鼓舞し続けることで楽な死に逃げる己を抑えこむそれは彼女の父が指す鋼鉄流を思わせた。

 次いで小駒を惜しげなく投入し強引に釈迦堂の喉元へ食らいつく。王手飛車から強引に勝負形へ持ち込んだやり口はどこかの竜王の一側面が覗く。

 彼女は何度も姉弟子の自信を持てと言う声を頭の中で繰り返す。自然と利き手で膝を強く握りしめる仕草は所属一門共通だ。

 もちろん指し手は元と似ても似つかずあくまで僅かに香るだけ。彼女の代わりにどんな棋士が座っても心をこめることはできない。今指されている温かい将棋は桂香だけのものだからだ。

 

「私の将棋…私の将棋は、私のものだ!」

 

 そこからの桂香の泥まみれで粘り強い将棋はここまで彼女が犯した悪手による劣勢を拮抗状態にまで戻して見せた。そして今一部で押し込んですらいる。流麗だった女流名跡の手が止まりだし長考の末の鋭い一撃が飛ぶ。だが桂香の勢いは止まらない。

 

「ここから。ここから私はやる!」

 

 終盤に入り両者の持ち時間がなくなり一切のミスが許されないデッドレースが始まる。誰もが予期しなかった激戦に息を飲んでいた。そしてお互い1分未満で指し続けた結果盤上の時は加速。終末はあっさりと訪れる。

 

「おめでとう。強くなったね」

「…ぇ?」

 

桂香は幼い頃に釈迦堂の指導対局を受けたことがある。ほんの一度だけ。棋士の父親の紹介だったがその時既に女流名跡となっていた釈迦堂にその手の話は多かっただろう。

 

「もう少しで20年かな。盤を挟んだ」

「憶えて…」

 

 これまで女流名跡がどんな対局にも手を抜かず今回も桂香のことを研究して臨んだ証。桂香の勝利を讃える女流名跡は悪戯っぽくウインクしてみせた。

 

 

 対局後のインタビュー。涙が止まらずボロボロの彼女が浮かべた笑顔は世の何処かで何の気もなく観ていた幾人かのネット視聴者を魅了しただろう。

 彼女は女流棋士の入り口に立ったにすぎない。夢を懸けて盤を挟んだ友が去った地。格上相手に2年間で一定の成績を出せなければ場を追いやられる世界の崖っぷちだ。

 今日の対局をした彼女ならなどと無責任なことは書くまい。私が送る言葉はただ一つ。かかってこい新人!!  

 

 

 

 

 竜王戦七番勝負第4局が群馬県臨江閣で行われた。名人が永世七冠に王手をかけるか九頭竜竜王が巻き返すかの一局。言うまでもなく重要な対局であるがここでは水面下で行われた我々の戦いについて記す。

 さて公共放送ドラマの放送に合わせて改修を終えたこの迎賓施設。周囲を遊歩道や公園、河川に囲まれているのだが現地関係者達は思わぬ来賓に左右される。

 隣の東照宮から長壁姫が覗きに来た。というのはうそで休憩中に対局室へ野鳥が2羽迷い込んだのだ。彼等は棋士の頭上を飛び越えどよめく報道陣を後目に天井に陣取った。我々が必死に彼等を外へ誘導したのは言うまでもない。

 幸いにも対局再開前にはお帰り頂けたが可愛らしい侵入者達は対局室へ向かう竜王と名人にもしっかり挨拶して去ったことを述べておく。加えて一部始終はウェブカメラを通じて全国に放映されていたとのことでここに我々の完全敗北を認める。

 




 新刊の限定版小冊子は姉弟子盛り盛り! 予約だ


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第五十一話

 


 例会を終え将棋会館を出てきたあいを捕まえささやかなお祝いをした日の翌々日。八一とあいは石川県に向かうための荷造りをしていた。とは言っても八一はこの2ヵ月で5回目と慣れたものであいに至っては実家。ものの30分で荷物の確認を終え明日朝の出発を待つのみである。

 

「えへへ」

「…失くすなよ」

「はい!」

 

 昨夜は枕元、それから朝食、学校、荷造りの今もあいは師匠の欄が記入されたそれを手元から離さない。一番弟子は感慨深くなる前に速攻で提出してしまったので八一としても新鮮である。そんな中何時ぞやの様にあいの持つタブレットPCが鳴った。

 

『あいが女流棋士申請の条件を満たしたと聞きました』

『あい。おめでとう!』

 

 画面の中にはあいの母亜希奈と父隆が7:3ほどの割合で映っていた。遠くからは慌ただしい音がかすかに聞こえる。竜王戦受け入れの準備に忙しいだろうに揃って時間を作ったようだ。八一は机に端末を置きあいに椅子へ座るよう促した。

 

「そちらで書類に記入して頂いて連盟に提出すれば娘さんは女流三級です」

「ししょーがサプライズで申請書を用意してくれたの!それでね!お祝いのケーキもそれに…」

 

 帰りの道から史上最高にテンションの高いあいが委細を口早に両親へ報告を始めるが興奮のせいで収拾がつかない。八一はやんわりと弟子を止め亜希奈の言葉を待つ。

 

『何も大事な対局の前に時間を使わなくとも』

「心残りがあっては指が鈍るので。自分のわがままですみません」

『責めているのではありません。先生が憂いなく対局することはこちらも望むところ』

『妻はこっちであいと先生のっ!』

『あなた』

『はい』

 

 憐れ父隆は亜希奈の一言で撃沈した。そして彼が小さくなったことで夫婦の画面比は8:2にまで迫っている。彼の好きなものは妻と娘。苦手なものも妻と娘。

 

『とにかく先生は勝てばよろしい。あいのことは時間を作っておきましょう』

『あ、あい。お父さん好物を作って待っているからね!』

 

 通話は終わり静寂が訪れた。固まった身体をほぐそうと腕を回し背を逸らす八一から鳴る音が部屋によく響いた。弟子がマッサージに走ろうとするのを制し八一は口を開く。

 

「すぐ会うのに律義な人達だな」

「お母さん嬉しそうでした!きっと連絡せずにいられなかったんだとおもいます」

「そうは見えなかったが」

「いいえ!見ればわかります。お父さんへの牽制がいつもの2割増しでした!」

「そうか」

 

 何と反応していいやら分からず以後八一は上機嫌な弟子の聞き役に徹する。 

 

 

 

 

 薄く雪化粧を纏った石畳を器用に歩いてあいが戻って来る。少し温泉街を歩けば地元の人達があいに向かって手を振り旗を振りお裾分けを持たせるのだ。今も彼女の手には湯気を上げる温泉卵が入った竹籠があった。時間を見計らってお店の人が茹でていた物だ。

 

「どうぞ!塩味が効いてておいしいですよ!」

「八一」

 

 八一が突き出された卵を丁寧に剥いて返すと銀子はどこからか取り出したソースをかけて一口。眉をしかめた彼女はソースを追加しようとして桂香に瓶を取り上げられた。

 

「おばさんにはあげてないんですけどー」

「どう見ても人数分あるでしょうが小童」

 

 あまりの歓迎振りに銀子と師匠、桂香が八一とあいの前後に立つが彼等の目当てはただ1人。あいが自分から歓迎の輪に近づくことで八一に近づく人は少数の将棋ファンだけになった。

 

「わはは。先に到着した東京組が騒ぎは何事かと聞いてきたわ」

「お父さん。嬉しいのは分かったから抑えて」

 

 特急から見えた”お帰り!雛鶴あいちゃん”の大弾幕の意味を今は将棋関係者の誰もが理解した。彼等は名人や竜王の来訪ではなく彼女の帰還を一番に喜んでいる。  

 

「はぐはぐ。おひょうさま!このまんひゅう美味しいですよ!!」

「晶。食べきってから話しなさい」

 

 八一達の後ろにはあいから配られた和菓子をちびちび齧る天衣と饅頭を一口で食べる晶の姿もある。その更に後方には大阪から同行した将棋関係者達がぞろぞろ。先頭のあいが歓迎の人の海を割って進む様はまるでモーゼの軌跡だ。

 あいの人気は離れていた反動で凄まじいものとなっていた。

 

 

「ようこそお越しくださいました」

「お世話になります」

「お母さん、ただいま!」

 

 ひな鶴の玄関先で八一達を待っていたのは女将の亜希奈。あいは母親に駆け寄って春以来の再会を喜んでいる。屈んで娘の突撃を受けた亜希奈も優しい目で抱擁を返していた。住み込みの修行を許したとはいえやはり遠くで生活する娘が心配だったのだろう。

 心なしか周りの目も潤んでいる。特に晶はサングラスの隙間から流れるそれをハンカチで抑えていた。

 

「あい。お父さんに顔を見せてあげなさい」

「うん!ししょー」

「行ってこい」

「はい!」

「あら…失礼いたしました。皆様、ご案内いたします」

 

 部屋に続いて名人達と合流し対局室へ検分に向かうが一同首を傾げることとなる。去年は見え隠れしていた機材や天井カメラが見当たらない。まさか準備中かと注視して見れば天井に埋め込まれたカメラが見つかった。

 

「そこの柱にもカメラが入っているので触れないようお願いします」

「うおっ!本当だレンズがある」

 

 柱の側にいた師匠が顔を近づけてようやく小さなそれを見つけた。続いて真新しい壁を眺めていた鵠が抱いていた疑問を口にする。するとよく聞いたとばかりに亜希奈の目が光った。

 

「去年はここにコンセントがあったような」

「カメラに映る場所のそれは全て取りました。勿論目立たない場所に増設しています」

「畳が…」

「天井からの盤面映像に縁が映らないよう一回り大きくしています。その他にも防音、照明、セキュリティ、動線と竜王戦の為に改装しました。名を臥竜鳳雛の間と改めたのでお間違いなく」 

 

 工期がギリギリで肝を冷やしたとは亜希奈の内心。無論彼女はそんなことはおくびにも出さず自信満々で極上の棋器を八一と名人に勧めだす。両者細かく要求する気質でもないので検分はこれまで同様ものの数分で終了。しめやかに解散と相成った。

 

 

 そして夕方に行われた竜王戦前夜祭。大ホールの段上には顔を引きつらせた八一と満面の笑みを浮かべたあいの姿がある。脇では”時間をつくった”と亜希奈が微笑み眼下のテーブル席からは珍しいことに銀子と天衣が揃って鋭い視線を飛ばしていた。

 堅苦しい挨拶が終わり始まった歓談の時間。挨拶回りを終え司会の山刀伐や鹿路場、鏡洲、椚のコンビと話していると亜希奈に呼ばれてゲリラ的に女流棋士資格申請の儀という謎の行事が始まり今に至る。

 挑戦者の名人は隅から楽し気にこちらを見るだけでもはや誰も止める人がいない。そしてダメ押しのように男鹿を引き連れた盲目の棋士が姿を現した。

 

「竜王。あなたは雛鶴あいさんを弟子にすることを誓いますか?」

「何しているんですか会長」 

「ごほん。雛鶴あいさん。あなたは九頭竜八一竜王を師匠とし、将棋道に邁進することを誓いますか?」

「ちかいます!」

「結構。ではこの用紙にお名前の記入を」

 

 誓うも何も申請書は八一が準備した物で師匠欄には既に名前が書いてある。いつの間にか亜希奈の記名もされており後はあいの記入を待つのみ。

 見覚えのある地元有力者達が酒瓶を片手にやんややんやと囃し立て何事かと遠巻きに見ていた一般客まで加わり万雷の拍手の下八一は二番弟子の女流棋士入りを迎えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 目覚めは最高だったがどういうことか昨晩の記憶がおぼろげである。挨拶回りの際に渡された飲み物が彼の頭をよぎった。

 

「…んっ」

 

 そして敷かれた布団の端に見える銀糸。酒、失われた記憶、乱れた布団。真実はただ一つ。

 朝に弱い癖して義憤のままに朝駆けしようとした彼女が二度寝しただけである。八一は彼女へ布団を掛け直すと気付けに何か貰おうと静かに部屋を出た。

 そして騒がしい一夜は終わり八一は対局1日目の朝を迎える。

 




 昨日予約してたのを受け取ったんですが何か怖くてまだ読んでないんですよね…いい加減今日の夜読みます。勿論冊子から!



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第五十二話

 遅くなりました。次こそいっか…3週間くらいを目標に
 あと感想評価誤字報告いつもありがとうございます


 部屋に戻ると銀子の姿はなかった。実は八一が呑気に朝風呂に入っていた時師匠を起こしに来たJSと布団の上で赤面ローリングをかましていたJCの間で冷戦が勃発していたのだが知る由もない。亜希奈が持ってきた朝粥に舌鼓を打っていると気づけば一番弟子が背後に立っていた。並べられた食事を見て感心したように頷くお嬢様。蝶よ花よと育てられた彼女の目から見ても上等なものだったらしく興味を出してくる。

 

「ふうん。良いもの食べてるじゃないの」

「一口どうだ?」

「いらないわよ!」

 

 差し出されたスプーンから天衣は全力で顔を背ける。そして絶品なのだがと少し残念そうにする八一を置いて肩を怒らせ部屋を去ってしまった。

 朝食は明らかに八一の好みに合わせて作られている。あいの下宿情報を元に量から味まで考慮されたそれらは一日を戦う力となってくれるだろう。食べ終わると同時に郵送した着物を持った亜希奈が現れる。

 

「着付けのお手伝いをさせていただきます」

「いえ、はい。お願いします」

 

 有無を言わさぬ視線に何かを察した八一は任せることにした。着物が擦れる音が静かな部屋に響く。長く重い沈黙が続き着付けも完了間近といったところで亜希奈が口を開いた。

 

「先程の子は先生のお弟子さんですね?」

「夜叉神天衣女流1級です」

 

 先日昇級しましたと誇らしげに一番弟子の名を告げる少年の目を捕えて一児の母は口を開く。

 

「断っておきますが私はもう先生と将棋を信じています。故にこれはただの区切り。踏ん切りがつかぬ親の心配性です」

「はい」

「あいは、あいは女流棋士としてやっていけますか?」

「その才と、実力を竜王の名にかけて保証しましょう」

 

 その返答に亜希奈が羽織りをやさしくかけた。次いで完成だとばかりに軽く肩を払う。

 

「九頭竜八一先生。改めて娘をよろしくお願いします」

 

 深々と頭を下げた亜希奈に送られて部屋を出た八一は静かな廊下へ足を踏み出した。

 

 

 廊下の角に姉弟子が潜んでいたなんてことはなく無事対局室に着く。ちなみに彼女は未だオーバーヒート中だ。かなり時間に余裕を持って出現した竜王にフラッシュが集中するが対象の表情は微動だにしない。真っ直ぐ席に向かうと月光と立会人、記録係に一礼してすとんと床の間を背に着席した。

 逸る気持ちを抑えつけて堪えていると廊下の丸窓に人影が映る。彼が八一達に一礼して着席すると2人の背後に記者達がわらわらと陣取った。今までの対局と異なり名人の背後にも人の山ができている。 

 

「時間になりましたね」

 

 見る者にとっては幾倍にも感じただろう待ち時間を月光が穏やかに刻む。盲目の棋士は八一と名人を確かに見遣り言った。

 

「さあお茶でも飲んで、それから始めることにしましょう」

 

 少年はぎこちなく、神は軽くクスリと笑った。そして開始の挨拶がなされ八一の初手が濁流の如きシャッター音を切り裂いた。八一が名人に付きつけた戦型は相掛かり。名人も舞うような手付きで飛車先の歩を進めた。

 

 

 

 

 外の庭園が白く染まり始めたのは対局が始まって少ししてのことだ。時おり風に乗った白雪が窓を叩き控室の熱ですぐに流れていく。それもそのはず。この部屋には将棋関係者達が所狭しと詰めている。暖房も相まって冷気が入り込む隙間はない。

 銀子が見るモニタの中ではテンポ良く同形が続く。火がない訳ではない。今も戯れているかの様に飛車を突きつけ合い何もなかったかの如く元の鞘に戻している。

 少なくとも少年が冷静な振りして燃えていることは彼を知る人達に一目瞭然だった。

 

「八一君絶好調みたいね」

「っ――!」

「ふむ。これはだめか」

 

 桂香は白い頬を赤く染めて悶絶する銀子を冷静に考察する。八一絡みで事あるごとに泣きつかれてきた彼女は大破判定を出した。君達小さい頃は2枚布団並べて間で将棋指してたのにねとは姉貴分の心の声だ。

 角交換が行われた後は両者の銀将が歩に紛れて前線に姿を見せ始める。これからの大激突を予感させる形で午前の対局は終わった。

 

「お姉ちゃん海鮮丼食べよ?」

「まあいいけど。あなた朝からカニ食べてたでしょうに」

「きゃには別腹ですー」

 

 何だかんだ10時のおやつも師匠と同じものを食べていた2人。彼女達を見る周りの視線は微笑ましいものがある。尤もそんな彼等とて他人が食べる物が美味しく見えるのか対局者の昼食であるカレーライスと海鮮丼を頼む者が多い。そして耐性のない者は独特なルーに意識を飛ばしていた。

 

「…はっ!カレーにはフォーク。これぞ最善手」

「名人は普通にこれを…。これが神へと至るほう…法?」

 

 堅物をも唸らせたあいの凶悪カレーのルーツは幾人かの若手に中毒者を出した模様。彼等は今夜眠れないだろう。そして一泊して対局が終わる頃にはひな鶴の熱烈なリピーターになること間違いなしだ。

 

「なにあれ。ヤバいのでも入ってるの?」

「何か恐ろしいものを見てしまったような」

 

 銀子と桂香が何か天からの啓示を漏らす若手達を眺めていると対局室に変化が訪れる。カメラの前を横切った影は八一のものだ。気づけば対局再開5分前。2人は犠牲者のことは置いてモニタへ意識を向けた。

 

 

 

 

 13時30分に対局は再開。手番の名人は未だ現れず九頭竜竜王は姿勢を正したまま微動だにしない。動きのない絵ではあるが進行の彼等は慣れたものだ。

 

「午前に引き続き現地生放送解説を名刀伐尽八段。聞き手は女流棋士の鹿路庭珠代が務めさせていただきます!」

「やあ!名人と竜王の間で揺れる罪深きジンジンだよ」

「えーと。ジンジン先生はこれでも八段の先生なので解説はちゃんとしてますよー」

「おっと。いきなり辛いなあ」

 

 将棋盤を映していた画面が切り替わり大盤を後ろに2人の男女が映される。そしてまばらに流れていたコメントの量が急増した。好き勝手にご飯何食べただのたまよんかわいいだの書き込まれるのはご愛敬。その中から出演者が拾い上げて応えてくれる双方向性も生放送の強みだ。

 

「お昼は…少し外に出て海鮮丼を食べてきました!お肉と迷ったんですけど明日もありますし」

「僕はステーキ丼食べたよ。ちなみにどっちも能登丼で器と箸から食材まで全部地域でとれたものだそうだよ」

「ちなみに竜王と名人が食べた能登海鮮丼と能登牛カレーライスの写真はこれでーす」

 

 お店からプレゼントに貰った能登産のお箸を2人が見せびらかしていると待ち人が現れた。席に着きしばらく盤上を見つめた名人は八一が突出させた歩を狙い駒を動かす。そこから一転ペースを落として同形を離れた駒達のかわしかわされ食い食われの衝突が始まった。

 

「ここまでで名人が形勢を握ったとみていいでしょうか」

「いや竜王は敢えて受けに回ったみたいだ。こうなった彼は硬いよ」

「なるほど。耐えて耐えて反撃ですね!」

 

 時に柔らかい上粘り強いけどねと名刀伐は呟く。ある時を境に名人の見方を改めた彼はこの竜王戦が八一だけでなく”名人攻略”の鍵になると思っていた。特に根拠がある訳ではない。怪物をぶつければ何かが起こるとの直感である。

 こうした考えは八一と関わりのあるトップ棋士達共通のものだ。負けると悔しい。次は勝ちたい。彼等は名人と対局して時に勝ち時に負け調子を崩しその手応えの無さに辛酸を味わってきた。一度でも名人と盤を挟んで真剣勝負をした者は強さを認め戦歴を讃えこそすれど神とは持ち上げない。

 名人になりたいという願いを持つ者にとって名人は最後の壁なのだから。

 

「さあ君の神髄を見せてくれ」 

 

 

 

 

 9筋から自陣右翼を貫く長距離砲を九頭竜竜王は長考の末歩で止めることで対処した。名人は攻撃を続けるが九頭竜竜王は駒の間隙を縫って飛車でその角を大きく引かせることに成功。ここで時刻が6時となり九頭竜竜王が53手目を封じて対局1日目は終了した。

 




 ゴットコルドレンは素で自分が神を倒すと思っている激強メンタル
 


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第五十三話

 北西から吹きつける強風にのった雪と同時にその咆哮は発生した。暗雲と同時に訪れるそれを地元の人達は鰤起こしと呼び豊漁と結びつける程度には付き合いがある。対して何の予期もしていなかった北陸にゆかりのない若者達は夏の落雷と比べ規模の段違いな重低音に身を震わせていた。

 

「きゃあ!」

「っ!」

 

 それでも手が当たった継ぎ盤をすぐに直して対局室を映すモニタへ視線を走らせるのは流石と言える。彼女達が見る画面の中の少年は立会人の読み上げに従い手に持った駒を平然と進めていた。17年の大半を大阪で育った彼だが一応出身は福井。なおその地は石川に次ぐ激雷地区だったりする。

 

「ご安心を。当宿の落雷対策は万全です」

「わはは。八一の奴ピクリともせなんだ」

「もう!笑い事じゃないでしょ」

 

 八一の封じ手6八金で始まった対局2日目。さして時間を置かずにスペースを開け馬を作った名人に対し八一は自玉を遠ざけつつ盤の端に戦力を投入。場面は八一が1筋の争いを制し名人の桂馬を奪ったところだ。

 

「なんか重いな」 

「さっき充電してたろ」

「新調したばかりなのにやめてくれ」

 

 ソフトを見ていた若手達がその動きの悪さに愚痴るその後ろで突き付けられた成金と香車を貫く角打ちにベテランが唸る。その向かいでは天衣とあいが頭を突き合わせて駒を動かしていた。

 

「8六に歩を打ってくるから角を捨てて飛車取りだよ。そこからこうこう…」

「名人どれだけ攻撃的なのよ。6二に逃がすでしょ」

「えー?」

 

 師匠と同じ間食を食む様は高齢棋士達の間で孫的人気があるので時おり微笑ましく見られていた。そして陽が沈み始め手数は100を超える。控室の検討は先手有利なれど寄せは全く見えず互いの持ち時間は残り僅か。

 

「ここからや八一」

 

 誰もが憧れる名人の流麗な指し手の本質は驚異的な足掻きの中にこそある。弟子と名人のことを知る清滝はこの後訪れる高速戦を誰よりも予期していた。

 

 

 

 

 夕食休憩というものは竜王戦に用意されていない。この先は一挙手一投足が勝敗に直結する休みなしの戦い。八一は記録の告げる刻限を冷静に受け止めた。

 

「さて…やろうか!」

 

 八一が駒音高く銀を盤面に打ち名人の金と飛車を狙った。直後に名人も1分将棋へ突入する。そこからは秒読みの声が響く綱渡り。優位が一手で吹き飛ぶデッドレースだ。

 16時間以上かけて進んだ作品がものの数分で変容する。名実共に最高峰の早指しを前にして控室の棋士達は息を呑んだ。時に連続してノータイムで行われる応酬は下手すると候補手の検討をまともに許さない。

 何故秒読みギリギリまで待たないのか。竜王と名人はどこまで読んでいるのか。手数が150、160と進むにつれ読み遅れた者が出てくる。

 

「ぐぅぅぅ!」

 

 狭まった視界の中で名人の指し手がチカチカと光る。勿論実際に起きた現象ではなく錯覚だ。そして八一にはこの後襲うであろう灼熱に覚えがあった。指し手に精彩を欠いた相手の隙を名人は見逃さない。少しずつ反撃のための力を蓄えていく。

 またなのかと己の膝を握りしめた八一の脳裏に銀子の声が響いた。

 

『何よ。この程度八一なら問題ない』 

 

 ただ一声で黒く塗りつぶされていた八一の中の将棋盤が復活する。同時にある駒の前方にジグザグの光る道が示された。眩く光り主張するその手は何故気づかないのかと此方を叱責しているようにも見える。八一は震える身体を抑えてその駒を前進させた。

 

「ふっ。くくく」

 

 名人の駒達が押し返さんと立ち塞がるが描いた道に従い突き進む。1歩ずつ確実に歩む彼を阻むことはもう誰にもできない。

 

 

 

 

「後ろ失礼するよ」

「こ、こんばんは」

 

 娘を引き連れ棋士室に現れた生石が頬をかく。気を遣って席を立とうとした棋士を制し親子は揃って壁際に陣取った。早速銀子が振り返って意見を求める。盤面は名人が入玉をしたところだ。

 

「このままいけば引き分けか?持将棋は疲れる」

「ひぇっ!」

「怖い顔しないでくれ」

 

 将棋は後ろに動ける駒の少ないことから自玉を敵陣三段目以内に入れると詰みにくい。素人目にも成金を簡単に玉の側に作られ続けたら盤をひっくり返したくなる。そこで双方の玉が詰む見込みの無くなった時から将棋は詰まし詰まされのゲームから点数制の別ゲームへ姿を変えるのだ。

 大駒を5点、小駒を1点として採点する温存戦。キーとなる数字は24と31。現在優勢の八一が31点を獲得し名人を23点以下に抑え込めば勝利。名人に24点以上をとられるか八一が30点以下で引き分け指し直し。

 八一にはこの点数制の経験が棋士として驚くほど少なかった。新たな要素の追加で普段の悪手が好手に反転するも秒針は待ってくれない。

 

「そう言えばあいつが入玉するの初めて見たな」

「苦手だそうです。そうは思えないけど」

「何かの美学に反するのか?そういうところは会長の甥だよ」

 

 名人の手が震え天王山に桂を打つ。あからさまな反撃の印に銀子がうめいた。これを通せば名人に点が入ってしまう。1点を争う指し合いが王不在の自陣で始まった。

 

が、がんばって八一君

 

 暴れ回る竜王を追い払った後に中央にいた八一の駒達は残っていない。間違いなく八一もやり返しているのだが名人の攻勢が目に焼き付く。極限状態で60手以上1分将棋をできる神経を疑い”竜王もこの人に引き分けるなら十分だろう”そんな空気が控室に漂う。

 そんな空気の中2度目の5五桂打に対し八一は飛車を投入した。封殺した桂を喰らったその駒は盤を駆け上がり竜王に至る。

 

「ししょう!」

「引き分け?勝つのを諦める?そんな甘い奴じゃないわ」 

 

 敵陣奥深くで眠る2体の竜馬が身を起こし名人の駒を踏んで地に降り立つ。そして先の竜王と真っ直ぐ囲い超しに睨むのは名人の玉。点数を餌に名人を死角から殴った形だ。

 

「詰めろだ!」 

「強引にもほどがある」

 

 無理矢理盤をひっくり返す所業。そんな力技が通ってしまっている。そこから名人は点数勝負から玉の詰まし合いという元の勝負に引きずり戻される。

 

「八一…」

「一緒にがんばろ?ね?」

 

 桂香と身を寄せ合う銀子は震える身体を抑え弟の対局を見守る。遠くに行こうとしているその背中をそれでも追いかける決意を胸に少女は家族の勝利を願う。

 天衣は継ぎ盤に覆いかぶさる妹分を引き戻ししっかり自分の位置を確保する。ここは譲らないとの言葉を飲み込んで。

 清滝は月光と共に八一との思い出話に耽り何度でも息子を兄弟子に自慢する。  

 

 

 

 

 対局の手数は200を超える。目は深く落ちくぼみ視点は盤から動かず白目を剥いているようにも見える。半開きになった口から唸り声を漏らす中年の男。ワイルドでも凛々しくもない平凡そのものの人。八一の憧れはここまで追い詰めてもまだ終わらない。彼の人物の手は先程から震えっぱなしで今もお返しだとばかりに鋭い手が打ち込まれる。

 

「ごじゅうびょう」

 

 震えを含んだ秒読みの声に飛ばした意識が戻された。震える手で慎重に仕掛けられた悪辣な罠を回避する八一。ふと顔を上げれば名人が満身創痍な顔に薄い笑みを浮かべていた。この鬼畜がと思いながら応える。

 読み続けたことで吹き飛びそうな意識を留めるのは今まで関わった人達の声だ。

 背中を押された八一が駒を持った瞬間天が轟いた。暗雲の電荷を求める上向きの先行放電は天へ駆け上る龍そのもの。稲光の中赤紫に染まった瞳を光らせ少年は腕を振り上げる。 

 

「これが最後の1枚だ!」

 

 最後に動かした駒は銀将。名人の竜王から逃れたその駒はそこが定位置であるかのように自玉の後ろに収まった。ただ守られるのではなく左後ろの歩と紐付いているのが彼女らしい。

 

 

 

 

 今朝と比較にならない轟音と同時に消えた照明とモニタ。スマホやノートPCの光のお陰で完全な暗闇でこそないが彼等は対局が気がかりで浮足立つ。すぐにホテルの発電機が動き光が戻った控室は静まり返った。

 対局室を映すモニタから名人のその一言が聞こえてきたのだから。

 

「負けました」

 

 身体が浮くような現実味の無さが徐々に引いていき誰かが部屋を飛び出る音を切っ掛けに音が戻る。2つの小さな足音は遠ざかり我に返った記者達が出口に殺到した。

 

「桂香さん…」

「さっ、八一君を迎えに行きましょ。先越されたわよ?」

「小童共!?」

 

 慌てて部屋を出る年下の姉に肩をすくめその背中を追う清滝家の長女だった。

 

 

 第30期竜王戦第五局。237手で九頭竜八一竜王の勝ち。 

 




 忙しくなることはあっても休みにならないのなんで?


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第五十四話

 


 白星の均衡を破った竜王はその勢いのまま次も勝利。とは名人が問屋を卸さず去年同様竜王戦は第七局までもつれこんだ。

 

「ふん。締まらないわね」

「そうだな」

「いやいやいや。十分イケてますから。もう話題沸騰なんですよ?」

「そうです!ししょー格好いいんだから!!」

 

 その最終局は接戦の末千日手が発生し指し直しの結果竜王が防衛を果たしている。そして八一は将棋会館近くのカフェで弟子2人と鵠のインタビューを受けていた。 

 

「本当なら年末年始のTVが竜王を放すわけがないのです」

「ご冗談を」

 

 熱いコーヒーを一口溜息を付く八一に鵠はスプーンをくるくると回し畳み掛ける。弟子達は蛇を前に笑う狐を鵠に幻視した。

 

「熱血大陸とかおしごとの流儀に出たら炎上間違いなしですけど」

7歳差なんて珍しくないのに

 

 天衣が妹分にジト目を向け効果が見込めないことに苛立ち八一の足を蹴った。弟子が竜王位を防衛した直後でテンションの高いK九段のこともある。密着取材など受けたら何が起こることやら。

 

「なのでこうしてある程度事情を知る私が取材してるわけです。いろいろ言っちゃって大丈夫ですよ」

「特に鵠さんだから言えることと言っても…」

「なら私も切り札を切らざるをえません」

 

 少しムっとした鵠は鞄からファイルを取り出すと弟子達にだけ開いて見せた。胡乱げに目をやった天衣が固まりあいの目が輝く。

 

「何でも聞いてください!」

「ま、まあ協力してあげてもいいわ」

 

 弟子達に裏切られ訝しげに鵠を見るが彼女はそっぽを向く。根負けした八一が鵠を促したことで取材はスタートした。

 

 

 

 

 ―まずは竜王決定戦おめでとうございます。今回の防衛で史上最年少の九段昇段です。

 

「ありがとうございます。勝ち星が寂しいので名前負けしないよう重ねていきたいです」

「このくらい当然よね」

「またお姉ちゃんは…」

 

 ―八一九段ですからね。

 

「そのネタまだあったんですか」

 

 ―そして弟子の夜叉神さんと雛鶴さんは女流棋士となり師匠としても順調だと思っても?

 

「まだまだこれからだと思います」

「二番弟子ができてからはそっちにかかりっきりだったしクズよクズ」

「えー?お姉ちゃんだって月に数日はししょーと「ここ消しておきなさい」」これでよし!

 

 ―では早速。ずばりシリーズを勝てた理由は?

 

「一言ではなんとも。例えば歩夢と名人の対局が無かったら第五局は勝てませんでした」

「ふうん」

「むむ、やりますねゴッドコルドレン」

 

 ―神鍋歩夢六段ですね。6組で優勝して挑決まで進んだ様は去年の竜王を彷彿とさせました。やはり意識する存在なのでしょうか?

 

「はい。変なあだ名を広めてくれましたしいつか引導をわたします」

「異名とか恥ずかしくないのかしら」

「ドラゲキンいいのに…」

 

 ―私は格好良いと思いますよ。こう由来をねじ伏せるみたいな感じで

 

「はあ?」

「なに照れてるのよ」

「じっーー」

 

 ―お弟子さん達と仲良くしているようですね。

 

「先日は祝勝会を兼ねてクリスマス会を開いてくれました」

 

 ―ほうほう。そこら辺を詳しく

 

 

 

 

 ほんの少しだけ力を入れた装いの彼女が人が行き交う梅田に降り立つ。そして目当ての人物を紅玉の瞳に捉え歩を進めた。

 

「で、何でいるのよ。今日は私のレッスン日でしょ」

「2人でクリスマスデートなんてさせません」

「あんたと一緒にしないで」

 

 八一を挟み何事かを言い合う天衣とあいの3人は周囲の注目を集めた。彼等を横目に通りすぎる人達のうち何人は首をかしげる。その中から幾人か近づこうとする者が出てくるがその前には黒服達が立ちはだかった。

 

「行くぞ」

 

 放っておけば姉妹の争いは将棋での決着まで続くので八一の対応も慣れたもの。先を行く八一をあいが慌てて追いかけたことで中断と相成った。そのまま近くにある道場に向かうのはお約束である。

 

「デビュー祝いだ。2人とも平手で。恩返ししてくれてもいい」

「!?…お願いします」

「おねがいします!」

 

 じっくり弟子の手を吟味して天衣の狡猾な手を跳ね返しあいの超攻撃的な手を絡めとる。自分の将棋に影響を受けたと明言する弟子達の将棋は相手するだけで少し嬉しかったりする。

 

「このっ!ニマニマするな!」

「言いがかりはよしてくれ」

「この性悪。こっそり笑ってるくせにー!」

 

 簡単に恩返しされていてはあの師匠がここぞとばかりに煽って来るだろうし合わす顔がない。感想戦をする度にもう一回とVSを強請る弟子達に竜王戦で構えなかった分と応えていると時間は矢のように過ぎていた。

 

「あっ。時間!?ど、どうしよう」

「時間?まだ5時にもなってないわよ」

「お、お姉ちゃん。お願い晶さん貸して!」

「?」

 

 

 

 

 去年の竜王戦はたまたまクリスマスイブの最終局だったが今年は日程が少し早かった。そうなると目出度い事が続いた清滝一門が全てひっくるめてその日を祝おうとするのは自然な事である。

 八一達が梅田で待ち合わせていた頃清滝邸の前庭には白い吐息をお気に入りのマフラーで止める銀子の姿があった。彼女の前には先日まで無かった巨大なクリスマスツリーが鎮座している。

 

「銀子ちゃんこれ付けてくれる?」

「わかった」

 

 戸口から現れた桂香がカラフルな玉と紅白の杖を銀子に渡し自身はキラキラのモールを取り出した。彼女の父が張り切って買ってきた生木。今日明日が終わったらどうするのかとか色々言いたいことはあったが同時に嬉しかったのだろうと照れ臭くなる。一門祝賀会も近々開くそうなのでクリスマス限定新田ちゃんへの貢ぎは諦めてもらうが。

 

「あ、これ」

「あちゃー忘れてた」

 

 次々と飾りの入った箱を開けていた銀子は巨大な星を発見した。明らかに天辺に着ける筒のついたそれを飾るには銀子は言わずもがな桂香の身長では微妙に足りない。

 

「脚立、脚立どこだっけ?」

「物置?」

 

 ちなみに飾りにはそれぞれちゃんとした名前と意味があるらしいが桂香も銀子も知らない。気になった人は検索して知っているかもしれない。日本ではその程度の認識だろう。彼女達は今日という日を祝えればそれでいいのだ。

 八一の竜王位防衛、桂香と天衣、あいの女流棋士デビューとクリスマス。特注ケーキのプレートも大変なことになっているそうだ。出前の時間も迫り休んでいる暇はない。

 

「そういえば銀子ちゃん。今年は何をプレゼントするの?毎年相談してくれてたのに」

「内緒」

「そっかー銀子ちゃんが私にかくしごとを…うぅ」

「なんで泣くの!?」

 

 事あるごとに八一に関する相談を受けてきた桂香。相談役を解任され恋路でも置いていかれる日を想像して涙する。

 

「桂香、銀子。ええもん買うて…ぎゃあああ!」

「なんでクラッカーだけで諭吉何枚も飛んでくのよ!?」

 

 そしてふらつきながら両手いっぱいにパーティーグッズを抱えて帰ってきた家長はとっちめられた。

 

 

 

 

 そして夕刻大阪野田駅から少し離れた狭い路地。黒い高級車から降りた八一達は真っ暗なその家に近づく。そして乾いた破裂音と眩い閃光に襲われた。

 

「〇ねーやいちいぃ!」

「て、敵襲!てきしゅー!」

「晶さん。懐の物は出さないでください」

 

 巨大な筒を両肩にかついだ酔っ払いが次々とその引き金を引く。その後ろには桂香と銀子がしゃがんで耳を塞いだ姿があった。いつもすかした弟子を偶には驚かせてやろうという酔っ払いの悪戯である。

 

 

 

 

 ―え、そこで切るんですか!?もうちょっと、もうちょっとだけ教えてくださいよ!

 

「平穏無事なパーティーが開かれました」

「貴方入る一門を間違えたわね」

「たのしかったですよ?」

 

 ―いやいやいや、絶対嘘でしょう!?誰が正直者か一目でわかりますよ!?

 

「やはり竜王戦を勝てたのは一門の助けも大きかったです」

 

 ―ははっあっ駄目だ。これ絶対口割らないやつです。ごめんなさい編集部。

 

 インタビューの帰り。家のドアの前で八一が取り出したキーケースは真新しかったとかなんとか。車も自転車も持たない八一に彼女がどういう意図をもってそのチョイスをしたかは定かではない。

 




 また遅くなりました。今回は恐竜の島に漂着しましてそこから現実にログインして現実から書いて…


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第五十五話

しばらく見ないうちにリアル将棋はすごいことになってますね





 ふけるつもりだったこの場にしぶしぶ晶を連れて顔を出す。それもこれも隣で周囲からハブられて所在なさげな師匠のせいだ。まあ代わりのレッスン日を用意した上で面と向かって出て欲しいとまで言われては駄々をこね続けるのもガキに思えて嫌だった。

 

「えへへ。今年ははじめから将棋つくしであいは幸せです~」

「危ないから飛びつくな」

「は~い!」

 

 満面の笑みで師に飛びついたまま離れない妹分。こいつも普段にこにこしているがしがらみがあった難儀な奴。まあ抱える問題はつい先日ずいぶんと温くなったそうだ。まあどうでもいい。

 

「先生、なんで周りにメンチ切っているんだ?」 

「知ってる若手がいたので挨拶しただけなんですけど…」

 

 彼が行った目礼はあらぬ方向へ乱反射して返ってきた。弟子の私達まで無遠慮に見てくる奴等が一斉に視線を逸らすさまは痛快だ。当の本人はシューマイがなんとかと言っているが間違いなく勘違いしている。今の状況は名人を相手に死闘を繰り広げた私の師匠が原因に他ならない。

 

「いつまでもくっついていない!私まで変に見られるでしょ」

「え~」

 

 着物が崩れることも構わず頬を擦り付け始めた妹分に何故か感じた苛立ちを取り敢えずぶつけることにした。

 

 

 

 

 指し初め式の後に行われた新年会でシューマイの意味が分かった。なるほどあれは確かにテレビの画面越しに見た本因坊秀埋その人だ。時を同じくして囲碁界も打ち初め式があるはずなのだが欠席してこっちに来たらしい。お、お、おおおち…正気を疑う単語を連呼する彼女が将棋でいう名人位に匹敵するタイトル保持者とは知りたくなかった。私を妹分と一緒に遠ざけようとするはずだ。

 

「ぎんこぉぉ!私だぁぁぁ!」

「お久しぶりです秀埋先生」 

「おおっ八一か!!おち●ぽしてるか!?」

「してません」

 

 間近からよく見たらその変化が少し分かる。頬を引きつらせた彼が一升瓶を振り上げた彼女を押し留めた。そのまま自然な流れで酌をし始める。

 

「なぁぬぃいまだ童貞だと!!ん?おい八一お前、銀子を差し置いて幼女とお●んぽするのか!?」

「しません。あと彼女は弟子の夜叉神天衣です」

「…はじめまして」

 

 今度は苦虫を噛み潰した表情がはっきりと見て取れた。彼がこうなるということは彼女もまた親しい間柄なのだろう。とんでもない酔っ払いでこそあるが一つの世界の頂点に立つ実力者、そしてやはり美人だ。なにか腹立たしい。

 

「先生!」

「来たか銀子!はやくしないと八一は幼女とヤッてしまうぞ!」

「ダメです!?」

 

 息を切らせて現れた女王様は速攻でぐらついた。馬鹿みたいな話題でも師匠が絡めば揺らぐ。分かりやすい女だがこれで強い。本当に師匠の周りにはきら星が多い。場の混迷を他所にほら、また現れた。

 

「お冷どうぞ」

「ありがとう創多」

 

 空いていた座布団にちょこんと座りニコニコ笑う美少年。師匠の棋戦でよく見た記録。この頃の将棋界の話題を空銀子と二分する小学生。椚創多。奨励会二段にして連盟の成績表が白丸だらけの化け物。

 

「んぁ?お前はお●んぽついてるのか?」

「やだなあ。ついてますよ」 

 

 突然隣の机で談笑していた人が畳に手をついて倒れたが飲み過ぎたのだろうか。私は酔っ払いから学ぶことはないだろうと現代将棋の申し子に目を向けた。否定する気はないが酔って対局に出る彼女はどう考えても感覚派。思考が鈍るはずの状態で勝つからには染みついた囲碁知識が生きているのだろうが私では参考にしようがない。

 

「今週時間がある時に指しましょう!八一さんと指し初めできたら良かったんですけど」

「すごい人気だったな。こっちは生石さんとしか座ってないぞ」

「見る目のない人達ですねー」

 

 師匠に向ける笑顔とは明らかに違う笑顔を浮かべ小声で毒を吐く美少年。その点に関しては同意する。気持ちは重々分かるがあそこで物怖じせずに向かえないうちは根底の部分で師匠の敵足り得ない。つまりこいつは師に将来牙をむくのだろう。

 

「あの子が女流棋士になった途端他の子にご執着?」

「どうしてそうなる…」

「八一さんはお弟子さんと仲良いんですね♡」 

「はぁ!?」

「揶揄ってくれるな創多」

 

 同じ小学生の癖して師に指導対象ではなく研究相手として認められている。自分との差を突き付けられているようで無性に腹が立った。 

 

「だって八一さんプロ入りしたと思ったらすぐタイトルに弟子までとっちゃってあまり構ってくれなくなっちゃいましたし」

「…私の知ったことではないわ」

「割とネットで指すだろう?」

「あはは。鳴川はよわよわですから。僕とても助かってます」

 

 今ばかりはほんの少し身を引いてやろうかと思ったが分かった。こいつは私の敵だ。そして師は何ちゃっかりとバケモノを育ててくれている!憤慨して見境ない師へ掴みかかろうとしたその時空銀子と話し込んでいた本因坊が突然叫んだ。

 

「処女膜も破れなくて才能の壁が破れるか!!」

 

 やはりトップクラスは完全なアレなのかもしれない。ついぞ日本刀を振り回し始めた本因坊秀埋は師匠に渡された一升瓶を手に決死の覚悟を決めた連盟職員達のタックルを受け外へと消えていく。懐に手をのばす晶を止めるかは少しだけ迷った。

 

 

 

 

「…」

 

 帰り道。高速道路を走る車の中から淀川を眺める。建物や遮音壁がなくなり一気に視界が開くここからの眺めは良いものなのだろう。大阪湾に沈む夕日は見る者の目を奪うのかもしれない。だが私にとってのそれはレッスンの刻限と共に現れる苦々しいものだ。

 

「晶」

「はい。お嬢様」 

「明日車出して」

「着物の準備はできております」

「…お願い」

 

 高速をおりて市街地を抜け少しずつ山をのぼって行く。私がその言葉を発せたのは終ぞ家の敷地が見えた時だった。時間にしてちょうど1時間。私と師匠の家の距離は現代社会において大した障害にならない。

 

「神戸のシンデレラね。言ってくれるじゃない」

 

 記者から言われて知った自分の異名。どうせなら棋風から無難なものを選んでくれればよかったのに。今の私の状況に当てはまる点が多すぎて腹立たしい。

 

「そう。これはタイトル戦へ向けた準備よ」

 

 シンデレラは女王へ至るものだ。その為と言うならば何でもやってやる。

 




4か月はだめだとあせあせ書きました。短くてごめんなさい
次は頑張るぞ


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盤外六話

 未だ正月の雰囲気が抜けない通りにできた人だかり。一様にごつい仕事道具を手に持った彼等は獲物を待っていた。

 

「女流二冠が来たぞ!」

 

 彼等の狩りは簡単だ。何しろ目的の人物は防寒着に身を包んでも分かる別世界の登場人物。それが駅から一直線に目的のビルへ向かって来るのだから。

 

「現在の心境はいかがですか?」

「元奨励会三段を相手に勝算は?」

「朝ご飯は何を食べましたか?」

 

 無数に寄せられる質問への返事は奨励会員として恥ずかしくない将棋を指すという台詞のみ。彼女は歩みを止めることもなく会館の自動ドアへと入って行った。

 

「相変わらず愛想がない」

「画を撮れればいいんだよ。何処で聞いても同じ答えだからな」

「あの様子じゃ今日も快勝かね。っとと」

「勝った方が三段。連盟も美味いとこを分かってらっしゃる」

 

 寒空の下歩道で駄弁る彼等はこの後ハンドルに日傘を固定したおばちゃんの自転車に突っ込まれてたたらを踏むことになる。

 

 

 

 エレベーターで三階まで上がり棋士室に向かいロッカーにスマホを仕舞おうとして点滅するランプに気づく。慎重にアプリを開いて短い返事を書き込んだ。強張っていた頬が少しだけ緩む。姉の大事を前に小童共と初詣に行く八一なんて知らない。そう、少しメッセージを送って来たからといって知らないのだ。

 

「おや~。何かいいことでもありましたか空二段」  

「…別に何もありません」

 

 落ち着くまでドアノブを握ってから外に出た用心が働く。廊下には今日の観戦記者が待っていた。ニタニタと此方を見てくる彼女を無視して対局室へ向かう。ふと窓から階下を見ると報道陣の塊が散っていた。少し気分が上向く。

 

「あ!おはようございます!!」

「失礼します」

 

 お陰で盤を磨く彼に大声で挨拶されても心を揺らすことはない。空いている上座に座りじっとその時を待つ。ざわざわと騒がしくなったかと思えば盤を報道陣が囲んでいた。無遠慮に突き付けられるマイクブームもいつものことだ。

 改めて今日の対局相手を見やる。アマ三冠の辛香将司。かつて僅か14歳で奨励会三段まで昇った人(もちろん抜けた以上八一の方が上手だ)。ニコニコと人の好さそうな顔をしているがプロ入りを目の前に退会を告げられた場に誰がまともな精神をして戻ってくるだろうか。

 その答えは辛香がお願いと称して取り出した駒袋の中に入っていた。

 

「いいかな?そんなに悪い駒じゃあないと思うんだけどな」

「…どうぞ」 

 

 退会駒。磨きこまれたその駒からは辛香の執念が感じられる。恐らくこの人はアマチュアの世界で1人奨励会員として戦ってきたのだ。

 まあ”知っていた”。この試験が私の昇段にこれ以上なく関わる以上辛香さんのことを調べない道理もない。少しアマ棋戦の棋譜を見ればその泥臭い匂いがすぐわかった。勝ちが見える盤面でも守りを固め相手の心を折る将棋は派手な殴り合いと比べてネット上での評判があまりよろしくない。あれは奨励会員の将棋だ。

 

「ありがとう!」

 

 私はニッコリ笑う辛香さんを睨み返した。

 

 

 

 私が駒を投じると同時に対局室が騒がしくなる。一段二段三段とカメラが並びフラッシュが焚かれる中辛香さんはハンカチで涙を拭った。視線の向け所がない私は俯くしかない。どうせまともな感想戦は見込めないのだから雑音を無視して1人盤に潜ることにした。

 

「42年振りの機会を見事ものにされた今の心境は…」

「うれしいです…ホンマに、うれしい…」

「空二冠との対局を振り返って…」

「ホンマ、ギリギリの戦いでした…何度追い込まれたか分かりません。彼女は間違いなく三段になる」

 

 そう、決して今日の私のコンディションは悪くなかった。本当に盤面は拮抗していたしあと少しで押し切れた場面すらある。だからこそ私は今日の白星を逃した自分を許せない。 

 

「必死でした。指運の勝利やったと思います…今でも勝てたことが信じられへん…」

 

 終盤で徐々に熱を失っていく自分の指が、盤面を読み切れない頭が、激しくなる動悸が、今日に限ってたった一局で息を切らす自分が許せない。

 

「次は三段リーグで戦いましょう!」

「…はい」

 

 こんな調子で三段リーグを戦えるのか。ましてなれるのか疑う自分を許せない。玉虫色の回答で取材を振り切り人気のない三階でやっと一息つけた。だがそのドアノブを回す前に気を引き締めなければならない。

 

「…」

 

 駒音の響く棋士室。盤を覗き込み入室した私を一顧だにしないライバル達。さっさとロッカーに預けた荷物を取り出し彼等のパイプ椅子を巻き込まないよう注意しながら狭い通路を抜ける。下手したらここも辛香さんが来るかもしれない。いや、あのタイプならニコニコ挨拶(宣戦布告)しに来るだろう。文字通り逃げるように私は出口を目指した。

 外に出ると今にも雨が降りそうな曇天。逃げるように大通りから路地へ入り会館近くにある公園で足を止める。どうせ今行っても誰もいない。扉の前で待つことも考えたが負けた姿を小童に見られるのは癪。つくづく邪魔な奴だ。

 

「あと1つ…あと1つだったのに」

 

 二段になってからずっとそうだ。今まで躓かなかったことはないし過去には今以上に酷い成績も取った。だけどここ一番の勝負にはそこそこ勝ってきた自負がある。それが初段になってからは11勝の時も13勝の時もチャンスを逃し今や15勝7敗。1ヵ月4局でまだ半年?違う。もう半年経ったのだ。私がここから昇段するにはまた3連勝が必要になる。

 テレビの向こうの知識人は私の勝率を見て三段入りも近いとか無責任なことを言うがとんでもない。今の二段にはバケモノが混じっているのだ。ただでさえ粘着質な奨励会の有段者相手に詰めろで勝てるところを即詰みで斬る異物。  

 

「だめ。どうせ椚に勝たなきゃ私のプロ入りはない」

 

 今の私の成績は所詮白星が偏った一過性のもの。まだマークの緩い今を逃せば退会まで勝ちを献上し続ける宝箱になってしまうだろう。男所帯の段位者達が私を女だと侮るなり意識している内に、本格的に研究のリソースを割かれる前に三段へ昇らなければ。

  

「おばさん?」

 

 顔を上げるまでもなく生意気な顔が視界に入る。いけない。コイツがいるってことは隣の足の持ち主は?

 

「姉弟子」

 

 私は今の情けない表情を見られたくなくて首に巻いたマフラーをひき上げた。恐る恐る視線を上に上げるとベージュのコートをしっかり着こなした八一の姿がある。

 初詣の帰りだったのか小童は着物を着て目一杯着飾っている。そして傘を持つ八一へ必要以上にくっ付く小童は挑発するようにこちらを見てきた。どうせ下駄で足元が不安だとか言ったのだろう。絶対着慣れている癖に。

 

「…」

 

 今ばかりはその手を離せと突っかかる気も起きない。小童が肩を透かされたように首を傾げている。これ以上疑問を持たれる前に一刻も早くここを去るべきだ。

 

「帰る」

「送って行きます。一端家に上がってください」

「1人で帰れる」

 

 素直に甘えればいいのに意思に反して口が動く。それでいて私の足は根を張ったかのようにこの場を動かない。頭は沸騰、手足は冷え切りそこら中で相反する指令を受けた私の身体は固まってしまった。

 

「このまま帰そうものなら自分が桂香さんに折檻されてしまうのですが」

「…ふんっ」

 

 芯から温かいなにかが湧いてきてじんわり感覚を取り戻した自分の手足に安堵した。小童のじとっと見てくる視線が腹立たしいがそれ以上の安堵感が身を包む。

 

「足元だけ地面が乾いてるってドベタすぎです。態とに決まってます」

「あい!」

 

 無言で不自然に乾いた砂地を蹴り飛ばし誤魔化すしかなかった。

 

 

 

 握りを直すまでもなくするりと私の手にフィットする。並み居る棋士達を圧倒する竜王の手も今だけは私のもの。師匠の小っさい手が理想で自分の手が綺麗だと称されることに納得してないこと。それでいてケアは怠らないことも私だけが知っている。

 十数分の歩きの間私達の間に会話はない。まだ今日の敗北は気になるし眠気を消し飛ばすほどの熱い悔しさもある。だが幼い頃よく感じたこの暖かさは私の心を落ち着かせた。

 今だけは弟の声なき言葉に従って休もうと思えるあたり私は簡単なのだろう。

  




 男性の少ないりゅうおうのおしごと!世界を考えたけど八一君の周りは元々そんな感じだった。それでも誰かが書くのを待ってます(毎度遅くなり申し訳ない


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