Fate/crescent 蒼月の少女【完結】 (モモ太郎)
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第一話 運命の夜 【9月4日】

 その日。

 俺は、夜空に煌めく流星を見た。

 

「はッ、はぁッ、はぁッ──‼︎」

 

 ──某県大塚市中心、大塚駅付近。

 

 等間隔に置かれた街灯が疾走する俺の姿を照らし、その影を歩道に長く映している。

 両脇には高く聳えるビルの群れ。縦に区切られた不自然な形の暗い夜空を、千切れた雲が流れていく。綺麗な秋月も今宵は雲の向こうに姿を隠す、そんな不気味な夜だった。

 そんな夜空を跳び回る「何か」。乱立する高層ビルの間を縫うように、二つの影が激突を繰り返している。

 あの影の正体について分かることなんて何一つない。だが、不思議と心の底から湧いてくる感情があった。

 

 ──走れ。たとえ足が千切れたって。

 ──名も知らぬ誰かに逢うために、走れ。

 

 後方でなんとか追い縋る俺には当然目もくれず、二つの影は交わりながら東の空へと飛んでいった。人型だが、少なくとも人間ではない事は明らかだろう。

 

(何なんだアレ……幽霊、怪物……少なくとも幻じゃない)

 

 俺がそんな無為な思考に耽る中、不思議に輝く二つの光は夜空に美しい軌跡を刻み、尾を引くような光の残滓を残していく。

 

「はぁ、はぁ……‼︎ くそ、速いっての……‼︎」

 

 閃光と火花を遠目にも判るほど激しく撒き散らしながら、二つの影は何度も何度も交錯した。

 息は切れ、脚はどんどん重みを増していく。肺が苦しい、酸素を求めて悲鳴を上げているのが分かる。

 ──それでも、諦めずに追い掛ける。

 前へ。前へ。足を踏み出す、ただそれだけの行為をいつまで繰り返したのか。俺とその人影は駅前のビル群を抜けて、大塚市東部の住宅街へ。いつしかちらほら見えた人影は消え、閑静な住宅街が両側に続く。

 時間帯は深夜。この日の住宅街は異様なほどに静まり返り、まるで街全体が息を潜めて「奴ら」の激闘の終わりを待ち侘びているかのようだった。

 

「──⁉︎」

 

 遥か彼方で響き渡る硬質な、それでいて激しい響きの金属音が、微かに俺の耳を打った。

 ほぼ反射的に、ぴたりと足を止める。

 息は切れているが、体力的な限界ではない。単純に、あの二つの影が発する尋常ならざる威圧感に気圧されたのだ。

 感じた事もないような悪寒が全身を駆け巡る。死が限りなく近いと理解できる。どうやらあの影は、俺の、人間の想像力の範疇など容易く超越しているらしい。

 

「………………っ‼︎」

 

 思わず息を呑んだ。恐怖に息を呑んだ。

 闇に包まれた行く先へ瞳を向ける。すぐ目の前には、山の中腹を切り開いて作られた森林公園へと続く階段が、まるで地獄の入り口のように佇んでいた。

 六時過ぎには閉まってしまう森林公園に人の気配は無い。しかし確かに、ゾッとするような気配だけは漂っている。ざわざわと不気味に鳴る葉擦れの音。それがこれ以上は立ち入るな、と警告を発しているように思えた。

 

 ……この先に踏み込めば、きっと俺は何かを失う。

 不思議とそんな嫌な予感だけは感じていて──、

 

「今更なに言ってんだ、俺。ここまで来たってのに、逃げ帰る訳にもいかないだろ……‼︎」

 

 ──それでも構わないと、力強く一歩を踏み出した。

 

 二歩、三歩と勢いよく駆け出す。粘つく恐怖で止まりそうになる脚を無理やり動かし、金属製の門扉を飛び越えて、俺は再び全力疾走を開始した。

 

(……どうして、俺はこんなに必死なんだ)

 

 はっきりいって異常だ。数日前からこの街を包んでいる不気味な気配も、頻発する行方不明者も、あの正体不明の二つの影も、こんな必死になっている俺自身も。

 自分で自分の行動の理由が説明できない。この行為は自ら奈落の底に中に身を投げるようなものだと知りながら、俺はあの影を追うことを止められない。

 

(ああ……けど。一つだけ、理由はある)

 

 懐かしいような、嬉しいような、そんな感覚が胸を焦がす。

 それが、俺の中にあるたった一つの理由だ。非科学的で、馬鹿らしくて、それでも強い強い意志の咆哮。「走れ」と声高に叫ぶ魂だけを原動力に、俺は今こうして走り続けている。

 しかし、此処に在るのは静寂のみ。

 木々は鬱蒼と生い茂り、森は漆黒の闇で埋められている。真っ黒なペンキを全てにぶち撒けたような不気味な闇が、この場全てをすっぽりと包み込んでしまったかのよう。

 

「はぁ、はぁ……この階段の上、ね……」

 

 この闇の中では、急な階段に沿って一定間隔で並んでいる夜灯の頼りない光だけが唯一の拠り所だ。何十段も上がったところで、ようやく階段が途切れた。肩で息をするように荒い呼吸を繰り返して、目の前の闇を睨む。

 

(近い。間違いない……ここに、いる)

 

 いよいよ激しい戦闘音が近づいてくる。それは余りにも近過ぎて、その音一つ一つに籠められた殺意までもが伝わってくるようだった。

 何かが激突する金属音。

 地面を粉々に粉砕する音。

 木々が烈風に震える音。

 蛇のように曲がりくねった森の小道。そこを奥まで進んだ先にある広場で、二つの影は熾烈に戦っているのだろう。

 ……既に、俺という存在は日常の世界から逸脱してしまっているらしい。

 早鐘の如く心臓を鳴らしながら、俺は移動を開始した。馬鹿正直に遊歩道を進む訳もなく、整備された道から外れて木々の間に身体を滑り込ませる。

 ぱきり、ぱきりと、積もった落ち葉を踏みしめる。響き渡る大音響に掻き消される筈の小さな音にも怯えながら、ゆっくりと身をかがめて進む。木々が途切れ視界が開けるその寸前、俺は一際太い大木に背を預けた。

 

(この先だ)

 

 この大木の先からは、鬱蒼とした森がすっぱりと途切れている。夜の森林公園は遮蔽物も邪魔者もない、まさに決着をつけるに相応しい場所だ。

 

(この先に、奴らが────いる)

 

 俺はまず冷静になろうと努めた。深く深呼吸を繰り返して動悸を落ち着かせる。たったそれだけの行為に十秒以上もかかった。ようやく落ち着いたその後、額を握った右拳でまじないのように小突いて──。

 

 そして少しだけ、身体をズラす。

 奥を。片目で木々の奥を、未知の世界を覗き込んだ。

 

「…………………な、に?」

 

 その瞬間、世界が違って見えた。

 自分の口から漏れた小さな声を意識することすらできずに、呆然と眼前の光景を眺める。

 美しく混じり合う蒼と紅の光芒。凄絶な速度で激突する刃。

 

 ──其処には、本物の死闘があった。

 

 桜花のように舞い散る赤い火花に、対のように輝く蒼光。

 それは、二人のうちの一人が振るう長剣の軌跡だった。ヒトの視認可能限界を悠に越えた速度で打ち合う、長大な二振りの刃。

 たった一太刀、一合──それだけで大地は粉々に割れた。空気は吹き荒れる暴風と化して悲鳴を上げた。そんなバケモンじみた威力の剣戟は絶え間なく続けられている。恐らく秒間に数十は行われているであろう、莫大な威力を誇る剣戟の激突。

 斬り結ぶ両者はまるで天変地異の具現。

 直視する事を思わず避け、再び背中を幹に預ける。衝突の現場から十メートル以上離れた位置に居るというのに、背中を預ける大木が今にも折れそうに揺れていた。こんなにも太い巨木が、今は細い枯木を背にしているかのように頼りない。落ち着いた筈の心臓は再び狂ったように鼓動を繰り返し、思わず歯を食い縛る。

 

(やっぱアレは、人間じゃない……‼︎)

 

 そう、はっきりと。

 今更ながら理解してしまい、愚かにもヤツらを追ってきた自分自身を俺は呪った。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■‼︎」

 

 地を這うような獰猛な咆哮──それに込められた意味などない。

 在るのは殺意、殺意、殺意。殺意‼︎ それだけがひしひしと伝わってくる。地獄の呼び声だってここまで恐ろしいもんじゃないだろう。全身に鳥肌が立って、体の震えが止まらない。だが──、

 

「ぐ……っ、う‼︎ ──あぁぁぁっ‼︎」

 

 それに真正面から立ち向かわんとする、弱々しくも凛々しい声があった。

 今にも咆哮に掻き消されそうなそれを辛うじて聞き取り、はたと気づく。

 

(………………聞き覚えが、ある? 気のせいか)

 

 その声に触発され、決死の覚悟で再び地獄を直視する。今度は余裕も少しは取り戻せたのか、視界の中心で剣を交わす両者以外も視界に映す事が出来た。

 夜灯に照らされた、半径数十メートルはあるすり鉢状の広場。綺麗に刈り揃えられていた筈の芝生は見るも無残に抉り割られ、激闘の熾烈さを物語っている。月が出ていないせいか夜灯の少ない広場はなお暗く、昼間ののどかな明るさとは正反対の印象を抱かせた。

 今も争っている二人に視線を移す。

 一人は、ドス黒く禍々しい長剣を携えた、かなり高い背丈の大男。その程度の情報ですら、理解するまでにかなりの時間を要した。距離もあり、辺りは暗い。だがそれを抜きにしても、あの男は疾すぎたのだ。

 まともに視えるのは、精々が振り回される長剣、その残像らしきもの程度。その速度は生物の限界をとうに超え、もはや生物ではない何かの域へと達している──。

 

「馬鹿げてんな……くそ、なんなんだアレ」

 

 無意識の内に呟きながら、もう片方に視線を移した。

 暴れ回る一方に対し、もう一人は殆ど動かない──否、動けないと言うべきか。

 絶叫と咆哮を上げながら疾風の如く飛び回っては、殺意に任せて長剣を叩きつける大男。力任せの、乱雑極まりない剣技──されど男の速度をそれに加えれば、巻き起こるのは斬撃の檻だ。周囲を覆う男の連撃に閉じ込められるように、少女は一歩たりとも動けないでいた。

 周囲三百六十度、全方位から息もつかせず迫り来る嵐の如き凶刃。常人なら瞬きの間に細切れにされるだろう。人を超えたモノのみが扱える人外の剣戟。

 そして、それらを全て迎撃するあの少女も、恐らく──。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■──‼︎」

 

「う、あァァァァァァァ────‼︎」

 

 両者が吼える。彼らの刃は持ち手の意のままに閃き、真正面から激突した。

 同時に闘志と殺意と剣気が一緒くたになって膨れ上がり、両者の間を埋め尽くす。

 円状に広がった衝撃波は突風と共に空気すらも吹き飛ばし、周囲の木々がへし折れんばかりの勢いで揺れ動いた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 その轟音と衝撃に怯むことなく、音速をたやすく振り切った超速で振るわれる男の長剣。少女は手にした曲刀を長剣に押し当て、受け流す形で致死の剣戟を凌ぎ切る。

 だがそこに、二撃目の斬撃が迫る。凌ぐ。追撃。凌ぐ。追撃──、

 彼女は全ての斬撃を打ち払うが、幾ら攻撃を防いでも無意味。反撃に転じる動作そのものを、男は怒涛の攻撃で潰してしまう。

 それはまさに、「平穏」や「日常」といった言葉から乖離した光景だった。ここは俺の知る世界ではない。超常と未知に溢れた地獄だ。

 だが、そんな光景の中で──、

 

(……あれ、は。あの子は…………なんなんだ)

 

 気高く剣を振るう少女の姿だけが、俺の網膜に焼き付いてくる。言いようのない不思議な感覚を味わいながら、俺はその姿を始めてまともに捉えていた。

 全身を覆っているのは刺々しい漆黒の鎧。澄んだ湖面のように蒼い髪が、巻き起こる風を受ける度に揺れる。その奥に覗く顔は思わずはっとするほど整っていて、少し赤みのさした頰には一筋の刀傷が走っている。

 ……思わず、彼女以外の全てを忘れた。

 だってその姿は、まるで一枚の絵画のように美しくて──、

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■──ッッッッ‼︎」

 

 ──なんて馬鹿な事を考えている場合じゃない。全てを破壊せんとする一匹の獣が、今ここには存在しているのだ。その声で呆けていた頭は我に返り、慌てて頭を振る。

 男の猛攻で見え辛いものの、彼女は見るからに追い詰められているのが素人目にもはっきりと見て取れた。絶える事ない攻撃を受け続け、次第に防御の鋭さが鈍くなっていく。

 その隙間を縫うようにして、男の凶刃が彼女を何度も何度も斬り裂いた。その度に噴き上がる鮮血が地面に溢れ、鮮やかな赤色が苦痛に顔を顰める彼女の周囲を彩っていく。

 

「……はぁ──はぁ、っ! う──ぐぅぅ……‼︎」

 

 よく目を凝らして見れば、彼女の全身を覆う鎧は所々が砕け、流血が彼女の全身を伝っている。身体の所々には決して少なくない量の血が滲み、酷い傷を負っている事を窺わせた。無意識の内に右手を震えるほど強く握り締めてから、改めて考え直す。

 

(……分かるだろ。アレはきっと、人智を超えた怪物だ)

 

 そう。とても人間が関われるような、関わっていい存在じゃない。

 無茶を通そうとする理性に言い聞かせるように、理不尽を無理矢理飲み込ませるように、ただただ逃げろ──と己に命令する。

 そっと森を抜けて家に帰り、ベッドに入って全て忘れる。それが正しいと、生存本能とも言うべき何かが、恐怖と緊張で小刻みに震える身体の奥で警鐘を鳴らしている気がした。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■──‼︎」

 

 それはきっと正しく、生存確率の最も高い確率だ。

 だが同時に、あの子が目の前で殺されかかっているという事実は揺るがない。

 

(じゃあ、飛び出すのか──俺は。できるのか)

 

 しかし、脚は地面に不可視の糸で直接縫い付けられてしまったかのようにぴくりとも動てくれない。

 ……単純な話、どうしようもなく怖かった。

 確実に殺されると知っていたから怖かった。

 飛び出す事も、去る事もできない中途半端な勇気を抱いたまま、ただ荒い呼吸と葛藤を繰り返す。

 

(……クソっ、動け、動け、動けよ‼︎ 何のためにここまで来た⁉︎ 今動かないと、ここであの子は死ぬんだぞ……‼︎)

 

 砕けるかと思うくらいに歯を食い縛り、無理矢理恐怖を心の奥底に押し込める。

 腹の底から声を上げる準備。拳を握る。覚悟を決める。全て整ってから思い切り息を吸い、木の陰から俺がヤケクソ気味に飛び出そうとした──その瞬間だった。

 

『もういい。終わりだバーサーカー』

 

 何処からともなく響き渡ったのは、男の声。

 それは果てること無き暴虐と破壊に囚われていた凶戦士の動きを、一言でぴたりと止めていた。振り上げた拳のやり場に困るように、飛び出す寸前の中途半端な姿勢で硬直しながら、俺は呆然として耳を傾ける。

 

『マスターを失っても、流石は最優のクラス……無駄に長引かせる。まあ構わん、そのサーヴァントはあと一分と保たずに消滅する』

 

(なにを言ってんだ、この声は……園内放送? 違う? じゃあどこから……)

 

 その声は、何処からでも聞こえてきた。

 ある時には目の前。ある時は後方から。前後左右、居場所を掴ませないその声は、聞くものに言い表せない不安を与えてくる。

 

『タダでさえ、お前は魔力消費が馬鹿にならない……帰還しろ。無駄な戦いは避けるべき愚行だ』

 

 先程までとは一転。完全に沈黙した狂戦士は、やはりその声に従っていた。

 この声の正体?あの狂戦士が帰る場所?

 ──そんなものはどうでもよかった。

 何より重要なのは、ヤツがここから立ち去るという事実。俺は思わず詰まった息を吐き出すのを堪えられなかった。ヤツが立ち去ってくれるならどうとでもなる筈だ。彼女の傷は酷いが、今すぐ救急車を呼べばまだなんとか助かるだろうし──、

 

『それと。そこの鼠は忘れず殺しておけ、バーサーカー』

 

 瞬間。矛先が一転する。

 幹の向こうで発せられる膨大な殺意。それは全て、木の陰の俺に向けられた。

 

(…………ぇ?)

 

 全身が総毛立つ。

      ──やばい、と察する。

 目の前に回り込むように、あの男が現れた。

 駄目だ速い。速すぎる。

      ──これは、死ぬ。

 赤く灼熱するその眼光は、無言のままに告げていた。

      ──このまま殺される。

 「オマエをコロス」と。無慈悲なまでに。

      ──ダメだ。やめろ。俺はまだ、

 目の前に闇が奔る。死の闇が。

      ──ならはやく逃げろ、走っ

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■──ッ‼︎」

 

 炸裂音が、広大な森林公園全域を揺るがした。

 それは多分、普通の蹴りだった筈だ。しかしその威力は俺の腹を蝋細工のように粉砕し、その背後に聳える大樹までをも一撃でへし折った。

 人間一人が受け止めるには余りに重すぎる衝撃。もはや爆発に近い。正常だった筈の五感は何処かへ一瞬で吹っ飛んだ。致命的な何かが途切れてしまった、そんな感覚だけを鮮烈に味わう。

 そうして──自分が生きているのか不安になった頃。口から迫り上がってきた血の塊が、ごほっ、と口蓋から溢れて、俺は明確な意識を取り戻した。

 

「あ──ごふッ、が……?」

 

 気がついた時には、地面に寝ていた。

 ……ぐじゅり、という粘ついた音。

 見れば辺りの芝生も、視界に映る自分の右腕も真っ赤に染まっている。どうやら広場の中央付近まで蹴り飛ばされたらしい。浅い呼吸を刻む俺のすぐ横で、無残に抉られた地面が茶色の土塊を露出させていた。

 赤い水溜りに沈みながら思考を回す。

 身体の感覚は、もう全く残っていない。

 

(………………あ、れ。俺、これで、死ぬ──のか……?)

 

 革鎧が擦れる不気味な音を立てながら次第に遠くへ立ち去っていく足音は、恐らくあの男のものだろう。

 糸の切れた操り人形のように手足を投げ出したまま、ようやっと迫りつつある死を認識する。

 胴体は元通り繋がっているのか、そんな事も分からない。腹は文字通り破裂し、絶望的な量の血液が流れ出しているに違いない。臓器だって、幾つかは滅茶苦茶に潰されてしまったと思う。

 

(ああ、これは、駄目だ……詰んでる、な)

 

 酸素が吸えない。生命活動が続けられない。血の塊だけが口から溢れていく。死の淵へと転がり落ちていく。

 

(クソ、こんな、何も出来ずに、俺は──)

 

 恨み言と文句と、耐えきれないくらいの死への恐怖に襲われる。

 死にたくなんてない。こんな、訳がわからない奴らを追ってきてしまったくらいで死ぬなんて。

 

「ぁ…………あ、嘘だ、そんなの、ありえ……ない」

 

 そんな後悔と絶望の中。

 俺は失われかけた聴覚で、柔らかい、それでいてか弱く震えた声を聞き取った。

 透き通るような蒼髪を不釣り合いに俺の血で赤く汚しながら、彼女は俺の身体を抱き留めて頰に手を添えている。

 暫くして、落ちてきた水滴がその白い手を濡らした。

 

 ……その少女は、泣いていた。

 

 吸い込まれそうな碧色の瞳に涙が溢れている。理由は知らない。そもそも俺たちは初対面のはずだ。それでも彼女は泣いている。見知らぬはずの俺の死を前にして、その悲しみに涙を流している。

 彼女の涙を見ていると、俺も無性に泣きたくなった。何故か謝りたかったけれど、もう唇はぴくりとも動かない。

 

「なんで……もう一度、貴方に──、──‼︎ こんなの……‼︎ お願いです、──、まだ私は、あの時の……‼︎ 私は──、──‼︎‼︎」

 

 殆ど聴き取れない彼女の言葉は、てんで頭に入ってこない。まあ今の状態じゃ、聞き取れたとしても理解できていたかどうか。

 

 ──ただ、暖かさだけが。

 添えられた彼女の手の暖かさだけが、死の間際に俺が知覚できた全てだった。

 

「──、────‼︎ ──‼︎ ──……‼︎」

 

 彼女の悲痛な叫びは次第に遠ざかる。

 全身から力が抜けていく。深い沼に沈んでいくように、全てが遠くなっていく。

 

(ああ、これが死。……命の、終わり)

 

 数秒後に死ぬという事実。それはたった一人で孤独に受け止めるには余りにも重過ぎるのだと、俺は死ぬ寸前に理解していた。

 

(けど、俺は一人じゃない……)

 

 俺を看取ってくれる名も知らぬ少女がここにはいる。せめて名前ぐらいは知りたかったが、それは強欲というやつだろう。もう死ぬとはいえ、一人でくたばるよりはマシなことに変わりはない。

 それを思うと、自然と笑顔が浮かんだ。

 後悔も恐怖も消え失せる。ただ、無性に嬉しくて。

 

 互いに知らない筈の彼女と俺は。

 それでも確かに、この場所で出逢えたのだ────。

 

「──────────────‼︎」

 

 最期に……何か聞こえた、ような。

 けれど、そこで全てが断絶し──、

 

 午前零時ジャスト。

 俺……志原健斗の命は、そこであえなく燃え尽きた。

 

 

 

 

 

 

 ────"私"は、ずっとずっと忘れなかった。

 

 『お前は、魔王なんかじゃない』

 

 死の淵にいる彼の口から語られた、あの言葉を。

 この日、この運命の夜に至るまで、その記憶を抱き続けた。

 

 ああ……もし、一度目の出会いが奇跡だったなら。

 

 二度目のそれは、きっと────。




【志原健斗】
十七歳。神秘も魔術も知らない高校生。深夜に家を抜け出し、コンビニにでも行こうかと街をふらついていたところ、戦闘する二騎のサーヴァントを目撃。追っていった先の森林公園で死亡する。


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第二話 目覚めと悪寒 【9月5日】

 ────見知らぬ筈の風景を、目にしていた。

 

(…………っ? なんだ、この場所)

 

 オレンジ一色に染め上げられた空の下、荒涼とした大地が延々と続いている。赤土が剥き出しの土壌には草一本生えておらず、どこか寂しさを感じさせる風景だった。

 そして、焼け付くような空気に混じる、思わず顔を顰める程に濃い血の匂い。それは不愉快なまでに鼻腔を刺激し、俺は嗅覚に従って振り返った。

 

「…………………っ‼︎‼︎‼︎」

 

 ……何も言葉が出なかった。

 何と、言えばいいのか──、

 目の前の地獄を。すぐそこに口を開けた地獄よりも酷い何かを。それを言い表わせるような言葉を、俺は持ち合わせていなかった。

 

 死体、死体、死体、死体、死体、死体、死体。

 

 折り重なり。鮮血を撒き散らし。四肢をすり潰され。身体を真っ二つにされて内臓をぶち撒け。苦悶や恐怖や憤怒を浮かべて絶命している死体の海。それが、俺の立っている場所から先に広がっている。

 つま先からうなじまでを駆け抜けた悪寒が震えとなって襲い、俺は無意識に両手で自分の身体を軽く抱いた。震えが止まらない。自分がこの死体の海の一員にならずに済んで本当によかったと思えてしまうくらい、この死体の山から発せられる怨念は俺を圧倒した。

 

「う゛っ……なんだ、これ……?」

 

 夢にしては趣味が悪い。悪すぎる。

 吹き荒ぶ荒野の風に誘われるように、足元から先に広がる地獄に釘付けにされた視線を、俺は少しだけ上に向ける。

 

 ──その地獄の中心に。

 誰かが、ぽつりと立っていた。

 

 折り重なり、俺から離れる程に高さを増していく死体達の山の頂点。そこにただ立ち尽くし、紫紺の外套をたなびかせる少女に、俺は見覚えがあった。

 

(あいつは……間違いない。あの子は)

 

 あの蒼く美しい、波打つ海を連想させる長髪を簡単に忘れる筈がない。

 ────あれは、あの夜の彼女だ。

 少女は全身を真っ赤な返り血で濡らし、死体の山の天辺から辺りを睥睨していた。

 

 ……あたかも、死を()べる魔王のように。

 

「──────」

 

 少女の両目と、ふと目が合った。

 綺麗な碧色の瞳。くりんとして睫毛は長く、愛嬌のある目をしている。けれど、その瞳の中は冷え切っていて光なんて存在しない。自分すら価値などなく、世界すべてを敵にしているような孤独な瞳だった。

 俺が何かをしようとするより速く、彼女はさっと踵を返す。

 死した命を踏み散らして、彼女はだんだんと遠ざかっていってしまう。

 

(もう、行っちまうのか──?)

 

 まだだ。まだ俺は何も聞いていない。

 なによりここで立ち止まってはならないと、俺の魂が叫んでいる。あの彼女を一人になんてさせてなるものかと、鬱陶しいくらいに魂が吠える。

 ……それでも、今の俺では不足だった。

 身体は死体の山を前に硬直し、ぴくりとも動かず。小さな両肩は次第に死体の山の向こうへと消え、完全に見えなくなって──、

 

 

 

 

「……ぃだぁっ⁉︎」

 

 そんな夢想が搔き消えると同時、俺は勢い良くベットから転げ落ちた。

 フローリングの床に後頭部をしたたかに打ち付け、鈍い痛みが駆け巡った頭を抑える。

 

「くぅ……〜っ。ンだよ、くそっ……」

 

 悪態を吐きつつ、まだじんじんと残る鈍痛に顔を顰めて立ち上がる。ふと机の上に置いたデジタル時計に目を移せば、現在時刻は六時半。

 俺にしては非常に珍しい事だが、独力で早起きに成功した模様。

 カーテンの隙間から差し込む朝日が、寝惚けた瞳に染み渡っていく。そんな朝の陽気に誘われ、思わずふわぁ、と大きなあくびを一つ。

 

「うぁ〜…………ねむぃ……んー……」

 

 変な声を唇の間から漏らしつつ、ぼんやりと窓からの景色を眺める。思考が半分ほどしか回ってないみたいだ。

 小さな雀が何羽か視界を横切っていき、早起きのサマリーマンが早足で真下の道路を歩いている。いつも変わらない、ありふれた朝の風景──。

 

「………………?」

 

 一体いつからか、全身が震えている事に気が付く。

 ……どうしてか、何かに怯えるように。

 季節は未だ残暑が残る秋始め。蒸し暑い事こそあれ、まだまだ寒いなんて時期じゃない。事実、俺は寒さなどこれっぽっちも感じていない。

 であれば、何故。

 俺はこんなにもがたがたと震えてるんだ?

 一体何に、恐れをなしている──……。

 

「…………あ」

 

 そのふとした瞬間に、全ての景色が戻ってきた。昨晩の全て。腹をごっそりと吹き飛ばされ、そのまま死に絶えた記憶を思い出す。

 フラッシュバックしたのは衝撃と恐怖と死を前にした諦念と、とにかく気持ち悪い感情。それが洗濯機みたいに頭の中で渦巻いた。

 

「──ッ⁉︎」

 

 思わず吐き気が込み上げてくる。咄嗟にゴミ箱に胃液をぶち撒け、肩で荒い呼吸を繰り返して──恐る恐る、震える手でジャージを捲る。

 

「……なん、でだ? 俺は、確か」

 

 しかし予想に反して腹には傷一つなく、元通りの身体がそこにあった。

 けれど安堵感は無い。残っているのは不気味な浮遊感と疑問だけだ。

 ……あの体験が夢だったにしては、余りにも鮮明に覚えている。覚えすぎている、と言ってもいい程に。

 今でもついさっきのように身体が死にゆく感覚を寸分の狂いなく思い出せるのだから、まず間違いなく俺は昨晩死亡している。

 

「う……あの辺りの記憶を思い出すのはやめとこう」

 

 二度と味わいたくない感覚を思い出しそうになり、思考を切り替える。

 考えるべきは一つ。昨晩何が起きたかだ。

 記憶の糸を鋏でぶっつりと切断してしまったかのように記憶が途切れている。それも、死に掛けた寸前で──。

 

「深呼吸、深呼吸……よし、最初から思い出すぞ……」

 

 落ち着いて、最初から記憶の糸を辿っていく。

 ……確か昨晩深夜一時過ぎのこと。

 どうも昨晩は寝付けなかった俺は、コンビニにでも行こうと深夜にこっそり家を抜け出した。しかしお目当てのアイスが売り切れていた事で、遠い駅前のコンビニまで足を運ぶ流れに。

 

「ああ。そうだ、アイツらが……」

 

 ……そして、あの人影を目撃した。

 

 大体思い出した。分からない事も多いが。

 昨晩から着ていたジャージは汗でびっしょりと濡れてしまっていて、その不快感に俺は思わず身を縮こませる。

 

「……うん。よし。とにかく、飯……」

 

 思考を落ち着けようと、そして我が身の安全をこの目で確認しようと、自室のドアを開けて廊下へ出る。木製の階段を下り、広いホール状の玄関を通り抜けて、包丁がまな板を軽やかに叩く音が聞こえるダイニングへ。

 毎朝聞いている筈の何気ない生活音。だがそれが、怯える心を勇気付けてくれた。

 頰を叩き、なんとか気合でポーカーフェイスを作成。それを顔にぺたりと貼り付ければ、平常時かつ寝起きの志原健斗が完成する。

 俺はいつも通りの志原健斗だ、と脳内で何度も連呼し、何気ない様子を装ってダイニングルームの扉を開けた途端──、

 

「あ、お兄ちゃん。今日は早いのね。どうしたのよ、いっつもぐうたら寝てるのに」

 

 カウンター式に作られたキッチン、その奥から聞き慣れた明るい声が飛んでくきた。

 真っ黒な俺とは異なる栗色の髪。それを黄色いリボンでツインテールに纏めた小柄な少女の名は、志原楓──俺の一つ下の妹だ。

 毎朝見る妹の顔。それも今は貴重な物に思えて、少しばかり泣きそうになった。

 

「……お兄ちゃん、聞いてんの? まだ寝てる?」

 

「い……いや。なんでもない。今日も悪いな、いつもいつも」

 

「大丈夫よそんなの。……ていうか、今更どうしたわけ? なんかヘンだよ、今日のお兄ちゃん。顔が真っ青だし」

 

「べ、別にヘンじゃないって……ちょっと着替えるついでにシャワー浴びてくる。遅くなりそうなら先食べといてくれ」

 

 はーい、という弾むような返事を背中で受け、俺は汗で濡れたジャージを着替える為にバスルームへと足を向けた。

 ポーカーフェイス作戦は──うん、無かったって事にしよう。失敗は素直に受け入れるが吉。

 扉を開け、洗濯籠にジャージをシュート。急いで鏡に視線を移す。

 ……外傷はやはり存在しない。大雑把に確認してから風呂場の磨りガラス付き扉を開け、物思いに耽りながら無意識にシャワーのハンドルを捻る。

 と、何故か温水ではなく冷え切った水が唐突に俺の頭上から襲来──‼︎

 

「うぉあ‼︎」

 

 情けない奇声をあげて飛び退る。空気を読まずに冷水を吐き続けるシャワーを一睨みし、シャワーの温度設定をぐんと上昇させる。電子制御されたシャワーは数秒のラグの後に温水を吐き出し、俺はようやく汗を洗い流す事が出来た。

 

「ついてないな、昨日といい今日といい」

 

 瞳を閉じて肌を打つ水滴に身を任せながら、昨晩の事を慎重に思い返す。

 

(──そう。俺は、死んだのか?)

 

 この記憶を夢だと仮定してみる。だがそれでは、外出してから家に帰り、楓の目を盗んでベッドに潜り込んで就寝するまでの記憶が無い事が説明出来ない。

 とはいえ、俺があそこで「死亡」していたとして──それからどうやってこの家に戻り、今こうして動いているのか。それがさっぱり分からない。

 

「……駄目だ、全然わからん。無理」

 

 水にしっとりと濡れた硬い黒髪を掻き上げて、俺はシャワーを停止させた。

 やはり朝シャワーはいい、なんというか生を実感する。ふわふわのタオルに顔を埋めながら、ひとまず命がある事の有り難みを味わっておく。

 

「ん……? なんだ、この痣」

 

 身体を隈なくタオルで拭いている最中、奇妙な痣が右手の甲に存在するのを発見した。

 真っ赤な、鮮血を連想させる少し不気味な痣だ。

 シャワーを浴びる前は、腹の辺りを重点的に確認していたので気付かなかったらしい。まあ大方、ベッドから落ちた時にでも打ったんだろう──そう簡易的に結論付けて歯ブラシを引っ掴む。

 速度重視で歯磨き顔洗い。その後そそくさと下着を着て、一度自室に戻って学生服を羽織り、一応見栄えが悪いのでぺたりと湿布を貼り付ける。上から包帯をぐるぐる巻きつけて、学生鞄を引っさげつつ再度リビングへ。

 

「もきゅもきゅ……ん、遅いよ。ご飯、もうできたって」

 

「おー、ありがとう。いやもう腹減っちゃって」

 

 どうやら、まともに会話をこなせる程度には落ち着けたらしかった。椅子を引いて腰掛けつつ、テーブルの上に並べられた朝食に視線を落とす。

 この料理がもう二度と食べられなくなるかもしれなかったのだ、と考えるとゾッとするが、そんなそぶりはなるべく出さず、

 

「……いただきます」

 

「うん、ありがたく味わってよね。もきゅ」

 

 そう言って、昨晩の事を脳から追い出さんばかりの勢いで箸を動かし始めた。

 そぼろ丼に味噌汁、アジの干物に漬物。程よく味付けが施された挽肉を卵そぼろ、熱々のごはんと共に喉奥へ流し込み、その美味さに思わず嘆息する。

 

「──ねえお兄ちゃん、それどうしたの?」

 

「ん……ああコレ? どっかで打ったみたいでさあ、痣ができてたんだよな。目立つから隠してるけど、まあすぐ治ると思う」

 

「ふぅーん。変なの」

 

「他人事丸わかりって感じの返事、ありがと」

 

 そんなこんなで味噌汁を一杯飲み干す。うまいうまい、と一人で感想を漏らしていると、それに気を良くした楓は少し声を明るくして、

 

「うまいって言ってもらえるのはありがたいんだけどさあ……本当、ゆっくり食べるって事を知らないよね。お兄ちゃん」

 

「んぐんぐ……うるさいな。これが俺の食う速さなの、だからお前にとやかく言われる筋合いは無い」

 

「もう……はいこれ。しっかり飲んでよ、お兄ちゃん全然お野菜食べないんだからね⁉︎」

 

「あー、へいへい……了解です」

 

 頰を膨らませながら小生意気に言って、楓は俺にパックの野菜ジュースを差し出してきた。

 コレ、正直あんまり好きじゃないのだ。変な味するし苦いしいいところがない……いや、栄養価とかはあるんだろうけども。

 とにかく気を遣ってくれる妹の好意を無下にはできまいよ、という訳で野菜ジュースを渋々学生鞄の中へ押し込み、溜息。

 

「あ、そうだ。なぁ楓、昨日の夜何かあった?」

 

「え? 昨日の夜?」

 

 思い付いた疑問を口にして、楓の返答を促す。もしも俺が昨晩帰宅した所を楓が目撃していたのなら、何かが掴めるかもしれない。

 

「お前、最近結構遅くまで起きてるよな? だからさ、何か変な事なかったかなー、とね」

 

「そんなの知らないわよ。そりゃあ、昨日はだいぶ長い間起きてたけど。……なに、兄ちゃんまた外で変な事してたの⁉︎ 最近殺人事件とかあって物騒だって言ったよね、私‼︎」

 

 鋭い指摘に思わず声が裏返る。

 

「あえっ⁉︎ い、いやいやそんな事ないって。そのー、なんか寝付けなくてさ。昨日の夜はやたらと蒸し暑かったみたいだから、楓は大丈夫かなぁ、と」

 

 慌てて誤魔化しつつ、彼女の追求を逃れる術を探す──あった。机の端に無造作に置かれたテレビのリモコン。この際チャンネルは何でもいいので、適当にスイッチを押す。

 画面に映し出されたのは、ありふれた朝のニュース番組だった。ニュースキャスターが難しい顔をして複雑な政治経済の世情についてフリップを翳しながら語っているが、当然俺はそんなものに目もくれない。目当ては画面端の時刻表示。

 現在時刻は7時45分過ぎ。幸運にもそろそろ家を出る時刻だ。

 

「お、時間だ。そろそろ出ようぜ、まだ出るにはちょっと早いけど」

 

「うーん……まあいいや。んじゃ、片付けちゃいますか」

 

 なんとか誤魔化せたことに安堵しつつ、俺はテレビを消して立ち上がった。

 カチャカチャ、と音を立てて、食器を重ねて洗い場へと向かう。

 

 刹那。記憶の淵から浮かび上がるのは。

 舞い散る火花、鬩ぎ合う刃──。

 

 毎朝聞く食器が擦れる金属音は、昨夜の剣戟の音を思い出させるかのように聞こえたのか。

 俺は思わず顔を顰め、ダイニングの窓から降り注ぐ朝日に目を細めた。

 

 

 

 

「……………………」

 

 雲一つない蒼穹の下。

 ──少女は、悠然と立っていた。

 

 大塚市の中心部。商業施設複合型の大塚駅に隣接する形で天高く聳える、高さ百五十メートルを誇るランドマークタワーの頂点。

 ──そこに、剣士(セイバー)は立っていた。

 

「……………………」

 

 朝日が東の山麓を越え空に昇った事で、にわかに人が増え始めた駅前のビル街。遥か下のアスファルトは人と車で埋め尽くされ、一様に蠢いている。

 だが、そんな有象無象の民に興味はない。

 視線を移す。遥か先、大塚市の東側へ。

 彼女のクラスはセイバー。千里眼の類に相当するスキルは保有していない。だが結ばれた契約の賜物か、姿も碌に視認できない程距離を置いているというのに、坂道を登るその少年の姿だけははっきりと捉えられた。

 黒い鞄を肩に下げ、白のカッターシャツとかいう服を着ている。聖杯が与える現代知識は速やかに、彼が『高校生』という身分である事を彼女に知らせていた。

 ──あんな事があったというのにこうして外出するとは、全く。肝が据わっているのか馬鹿なのか。

 

「………………」

 

 少女はひどく懐かしそうに。

 そして愛おしそうに、少しだけ笑った。

 軽やかに足取りを運び、跳ぶ。高さ百五十メートルからの自由落下。しかし彼女は微塵も臆さない。空中で軽やかに姿勢を整え、眼下のビルの無骨な屋上へと音も無く降り立つ。

 そのような芸当を苦もなくこなし、少女は微かに言葉を紡いだ。

 

「………………さあ、行きましょうか」

 

 少女は嬉しそうに顔を上げる。

 彼女の鋭い視線は明確に、少年が居る、遥か東へと向けられていた。




【志原楓】
十六歳。健斗の妹。
運動神経には自信がある。趣味兼特技は料理。
風貌としては茶髪、かつ髪を短めにした凛みたいなイメージ。


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第三話 数千年を越えて、また君に出逢う

「お兄ちゃん、授業中はあんま寝ないでよ? ティッシュとハンカチあるわよね? 何かあったら妹のわたしも恥かくんだから、きちんとした行動を」

 

「ああーもう、わかってるって……いいからさっさと行け! 一年校舎はあっちだろ⁉︎」

 

「はいはーい、じゃあね」

 

 楓は軽く手を振って、色々と世話の焼ける兄と別れた。ツインテールに纏めた髪を無意識のうちに弄りながら、ぼんやりと今日の夕食の予定を考えてみたりする。

 

(今日の家計も割とギリギリだし……うーん、どうしよう。ちゃっちゃと帰ってスーパーのセールに間に合うようにしないと)

 

 お財布の中身を思い返しつつ、今日もそこまで余裕のない志原家の財政状況に溜息を漏らす。今月も残ったお金は大して多くない。家計簿アプリにつけた出納記録を洗いざらい確かめてみても、楓がほっと安心できるような裕福な時期は今までないのだった。

 三年前に無理して新築に引っ越したのが響いているのかもしれないが、快適性と引き換えなら仕方がない。もう一軒借りている空き家の維持費も結構バカにならない。

 

「……うぅ、わたしだって他の女の子みたいに色々買いたい」

 

 恨み言をぼそっと呟きつつも視線は落とさない。昔から見栄を張るのだけは得意なのだ。とはいえその活発な明るさは人を惹きつけるに足る魅力であって、志原楓は色々な友人に慕われている。嫌いな奴はキライと言えるようなハキハキした性格も、好意的に捉える人は多かった。その中の何人かは恋慕に似た感情を抱いているということを、当の本人は全く自覚していないが。

 そんな訳ですれ違う友人に軽い挨拶を交わしつつ、少し気だるげに教室の扉をくぐる。

 どっせぇい、と重めのカバンを机の上に投げ捨てる感じで置いてから、楓はその視線を教室の端っこに向けた。

 ──視線の先にはまだ誰も来ていない机がある。

 だが、恐らくチャイムが鳴ろうとも、お昼の時間になったって、その生徒が来ることはないだろう。

 

「………………ふん、アホらし」

 

 楓は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、テキパキと一時間目の教科書を取り出す作業に移ったのだった。

 

 

 ◆

 

 

 楓を見送ってから、俺は二年生校舎の廊下を歩き始めた。

 我が2年5組は一番奥。まだ授業開始二十分前だが、廊下を歩く生徒の数は意外と多い。早くから登校する奴がこんなにいるんだなあ、とギリギリセーフが常の俺が場違いな感慨を抱いていると──、

 

「おっはよう我が友よ! 珍しく早いじゃないか‼︎」

 

「おいっ、いちいち挨拶で背中を叩くなって言ってるだろ⁉︎」

 

 スパァン、と小気味よく響いた音。俺の背中が叩かれた音だ。

 怒声とともに背後を振り返れば、日焼けしない白い肌に年中変化ナシの整った金髪ロン毛、おまけに西洋人とのハーフである奇人高校生こと前田大雅(まえだたいが)が、平時と変わらぬ人のいい笑顔を浮かべて立っていた。

 

「まあまあ、それはそれとしてだね……やっぱり楓ちゃんは可愛いよなぁ。運動もできるし頭もそこそこいいし、おまけに明るくて家事好き! どうして君なんかの妹なんだい? 勿体無い。僕にくれ」

 

大雅(たいが)さあ……願望をストレートに出していくその姿勢は嫌いじゃないけど、社会的には嫌われるぞ。あと絶対そんなことはしない。どうしてもと言うなら、俺を力ずくでどかしてみろ」

 

「い、いやいや。健斗に喧嘩で勝つなんてそんなの無理だ。君の取り柄って、腕っ節の強さくらいしかないだろう?」

 

「……なるほどね、つまりお前はその喧嘩を売っ」

 

「というか、君って存外シスコンだよねー。過保護」

 

「はあ⁉︎ おいお前、覚えとけよなその軽率な発言‼︎ いつか纏めて返すからな」

 

「何を言うか、借りはなんだかんだで結局返さないもんだって相場が決まってるんだよ」

 

 そんな事を話しつつ、教室の扉を二人揃って潜る。

 まだ綺麗な黒板の前を横断し、教室では一番窓際の列、その前後並んだ席に二人して腰掛ける。

 

「おはよう、志原くんに前田くん」

 

「おはよう」

 

 席に着くやいなや、隣の少女が口を開いた。

 背中までかかるほどの艶やかな黒髪に、片手には文庫本。学年でも噂になる程の美貌まで兼ね備えた、如何にも優等生ですと言わんばかりのオーラを放つその少女──三浦火乃香は、やや大人しい性格なのに何故か俺たち二人と仲が良いのだ。

 

「朝っぱらから三浦さんに挨拶して貰える僕ッ……ああ、全くもって幸せ者だ‼︎」

 

「相変わらずやかましいよね、お前」

 

「ハハハ、僕が元気じゃない日? そんなの、この先百年は存在しえないねぇ‼︎」

 

「それじゃあ、長生きしないとね〜……」

 

 間延びした可愛らしい声で返答しつつ、三浦は長い睫毛の目を細める。

 そんな何回繰り返したかもわからない朝の会話を噛み締めながら、俺は椅子の上で身体を90度回転し、少し声のトーンを落として三浦に語りかけた。

 

「なあ三浦。そこの大雅(バカ)は置いといてさ、昨日の夜なんかあったって話聞かないか? 例えば、そう……変な人影を見たとか」

 

「変な人影……? そんなの聞いた事ないよ」

 

「おぅい僕も知らなああああ──い‼︎ 知らないぞそんな、胸踊るアドベンチャーに繋がりそうな情報は────っ‼︎」

 

「お前には聞いてないから」

 

「うーん、変な人影なんて怖いだけだと思うんだけどなあ……」

 

「安心したまえ三浦さん。僕こそが君の騎士(ナイト)となり、この街に潜む脅威から守り通してあげようじゃない──かッ‼︎」

 

「お前で騎士が務まるならこの学校の男子全員が務まるって」

 

 そんな溜息を漏らしていると、三浦が続ける。

 

「でも最近色々起きてるよね。一昨日も行方不明者が出たらしいし、四日前には殺人事件まで起きてるんだから」

 

「ああ、駅前のビル裏で二人死んでたってヤツだな。それに、今月だけで行方不明者は十人越えか……」

 

「えっ、そんなに増えてるのか⁉︎」

 

 行方不明者……というのは、残念なことに今この街で話題となっているワードだ。今月の頭あたりから行方不明者が続出するようになり、前田の話によると一昨日でとうとう計十人に達したらしい。

 大塚市に潜伏している連続殺人犯(シリアルキラー)だの、数年前に壊滅した筈のカルト集団が行動しているだの、情報が錯綜している上にそんな噂まで流れ始めているとか。そろそろ全国区ニュースでも取り上げられる頃合いだ。

 

「知ってるか、君たち。駅近くのビル街で死んでた二人組なんだけどな、一人は……喉と腕と腹をばっさり切られ、挙げ句の果てに心臓を引き抜かれて死んでたんだと。もう一人の死に方も異常でね、身体の右側は黒焦げなのに、左側は骨の芯まで凍り付いて死んでたらしい。この場合は焼死か凍死、どっちになるんだろうな?」

 

「や、やめてよ前田くぅん……‼︎ 私そういうのダメなんだから……」

 

「そうだよ大雅、三浦を守るはずのお前が怖がらせてどうする」

 

「い、いや、すまん。ついうっかりしていた、許してくれ」

 

 ハッと気付いた大雅は慌てて三浦に頭を下げる。とはいえ三浦は末恐ろしいほど人が良いので、きちんと謝れば決して怒らないだろう。

 

「……まあ、何もないならいいか。そうそう話は変わるけど、実は昨日ゴタゴタしてて今日の課題終わってないというかなんというか」

 

「あ‼︎ おいおい、先取りは良くないぞ健斗‼︎ それは失礼で卑劣極まりない行為だ、僕だってまだやってないのに‼︎」

 

「ま、まあまあ。慌てないでもノート見せてあげるから」

 

「あ、ああっ……なんという……やはり聖女」

 

「お、オイ気持ち悪い声を出すな、うっとりして三浦の方ににじり寄るんじゃない‼︎ お前本当に大丈夫か⁉︎」

 

「ハッ。僕が元気じゃない日は無いと言っただろう健斗ォ‼︎」

 

「違うよ、体じゃなくて頭の事だよ……」

 

 再びため息をつく俺をよそに、大雅は座ったまま喜びの舞を踊る。

 しかしそう簡単に世の中はいかないもの。ノートを机の上に出した三浦は、見せようとする直前に思い出したように大雅を見て、

 

「あ、前田くんはさっきヘンなこと言ったからやっぱり見せてあげない」

 

「そ、そんなっ……待ってくれ三浦さん、僕が悪かった。お詫びの印に……ああクソ、何もない! あああ時間が‼︎」

 

「悪いな大雅、けど自業自得だぞ」

 

 結局有益な情報は得られなかったが、構わないだろう。

 そんなこんなで変わらぬ朝は過ぎていく。大雅が騒ぎ、三浦に癒され、そして退屈な授業が聞き慣れたチャイムと共に開始される。

 数学の教科書とノートを気だるげに開けつつ、そんな「あたりまえ」を何度も何度も慎重に確認して、ふと窓の外に目をやる。

 窓外には、どこまでも広がっていく蒼穹。

 

「──────、?」

 

 何百回も見た筈の窓の外の景色。ありふれた地方都市の、何の変哲も無い街並みだ。

 けれど、それを見て背筋に冷たい何かが這い上がる。

 

(一体なんなんだ、これ。やっぱり何か異常だ、絶対に「何か」がこの街に起きてる)

 

 穢れとも言うべき淀みがあった。

 町全体をすっぽり覆い隠してしまうような不気味な何かは、今にも俺の足元まで這い寄ってきそうな程で──、

 

「……志原くん。貴方の番ですよ?」

 

 と。前方から飛んで来た声が、俺の意識を学生の本分たる学業へと引き戻す……が、時すでに遅し。

 

「はぁ。また窓の外を眺めてたんですか、もう。確かにここからの眺めはいいですけど、もっとしっかりと学生としての自覚をですね」

 

「す、すいません……」

 

 思わず項垂れる俺の周囲で、笑いが幾つか。

 

(くそ、能天気な奴らめ。昨日の俺みたいな目にあってみろ、まともに勉強する気なんて失せるっての……)

 

「じゃ、お隣の三浦さん。志原君のフォローをお願いします。この単語の意味を」

 

「はっ、はいっ! え、えっと。この、Destinyは……運命、って意味がありまして。そういう訳でこの文の訳は……」

 

 すこし戸惑いつつもきちんと説明し始めた三浦を眺めつつ、俺は再びシャーペンを掴み直した。先生の丁寧な板書を見ながらノートにペンを走らせる。

 

「はい、その通りです。ちなみにこの、「運命」という単語ですが……「良い運命」と「悪い運命」、この意味の違いによって単語も変化することを覚えておきましょうか。まず文中のDestinyは俗にいう「良い運命」を指しますが──」

 

 ……その瞬間。

 ふと、優しい視線を感じたような気がした。

 

「不幸をもたらす運命、死の運命……そういったものは──」

 

 再び懲りずに視線を窓の外に戻すが、強めの風が吹き抜けただけで、そこには相変わらず気味の悪い街並みが広がっているだけ。

 

 

「いわゆる、Fate(運命)と呼ばれるのです」

 

 

 その時、俺はまだ気付いていなかった。

 教室から遥か彼方、肉眼では捉えきれないくらいの距離を挟んだ場所から、一対の宝石みたいな碧色の瞳が俺の姿をじっと見つめていた事を──。

 

 

 

 

 退屈で、かけがえのない時間はすぐに過ぎる。

 太陽が西に沈み始めた放課後。部活動の活動にも縛られぬ自由気ままな幽霊部員である俺と大雅は、緩い登り道を二人で歩いていた。

 

「あーあ。君じゃなく、三浦さんと帰れたらなああああ────‼︎」

 

「ハイハイ、諦めて下さいね。アイツ、大人しそうだけどウチのかるた部のエースなんだから。しかも全国控えてるんだぞ」

 

 一瞬怒りに任せて学生鞄を振り回したい衝動に駆られたが、それは心の奥底に押し込んでおく。サラッと失礼な事を言う大雅の発言を俺は受け止める気力もなく受け流すと、

 

「そういやさー、最近やってる映画……アレ、なんだっけ。前世から結ばれた男女が数百年ぶりに再会するってやつ」

 

「ああ、あの……アレね、アレ。俺も名前忘れたけど」

 

「そうそう、定番だよなそういうの。まあそれを最近見た訳なんだけど」

 

「見た映画のタイトルを忘れるかフツー……」

 

「まあまあそれは置いといてだね、もうすんごいクオリティ高かった。後半泣きっぱなしの鼻水垂れ流し。という訳で君にもオススメしておこうかと思ってね」

 

 歩道の縁石の上をひょいひょいと歩きながら、大雅はそう言ってにやりと笑う。

 

「ふーん……まあ話題性はあるよな、確かに」

 

「そうそう、前世からの繋がりとかさ、なんていうの……運命? 三浦さんがそういや言ってたな。ま、そういうのって憧れるんだよね」

 

「運命……大雅君。さては君、意外とロマンチストだな〜?」

 

「たはーっ。今更かよ健斗、長い付き合いだってのに遅すぎるぞ‼︎」

 

「それはしょうがない。こんだけ顔を合わせといて毎日新しい発見があるやつとなると、この世を探してもお前くらいだよ」

 

 はっはっはっは、と互いに大口開けて笑い合う。

 こいつ、前田大雅と話すのは気が楽でいい。色々と困った時もこの男がいればなんだかんだで解決に向かうのだ。無論、その過程で様々なトラブルを引き起こすので最終的には余計に疲れるだけなんて事も多いが。

 とにかく今だけは、不安や懸念も何処かに吹っ飛んでくれる──そう、思っていたのだが。

 

「…………‼︎‼︎」

 

「ん? どうした健斗、急に真っ青な顔して」

 

「……ああ。いや、なんでも……」

 

 とっさに取り繕った笑いで誤魔化す。

 唾を飲み込んで深呼吸、無理矢理にでも気持ちを落ち着かせる。

 

「…………なあ大雅、聞いていいか」

 

「ん? ああ、明日明後日の予定とか? うーん、明後日は地元の祭りの手伝いとかあるから無理だな。明日なら空いてるから映画に付き合ってもいいぞ、あれは二回見てもいい価値がある」

 

「いや、映画じゃなくて。……仮に、お前が物凄い危険な事件に巻き込まれかけたとしよう。それはもう下手したら死ぬかもしれないってくらい物騒な事件でさ。そんな時、お前ならどうする? 見て見ぬ振りをして逃げ去るか、思い切って事件の渦中に飛び込むか」

 

「映画じゃないのか? ……じゃあ、僕なら逃げるだろうなあ。まだまだ僕ってば若いのに死にたくないし。どうしたんだ急に」

 

「だよなぁ。うん、普通ならそうだ。でも、とんでもなく可愛い女の子が関わっていたとしたら──どうする」

 

「そりゃあなりふり構わず、後先考えずに突っ込むに決まってるだろう。それは愚問だな、僕に言わせれば」

 

「……はは。やっぱりお前ならそうするか」

 

「おいおいどうしたんだよ、本当。それにどことなく冷めた目線を向けるのはやめてほしい。なんだ、サスペンスドラマにでもはまったのかい? 今日の君は一段とおかしいぞ」

 

「学校で一番頭がおかしい奴に言われたくない」

 

 言葉の意味がわからん、とばかりに首を傾げる大雅から視線を外す。

 

「よし。そんじゃ、俺はこっちだ」

 

「あれ? 健斗の家はそっちじゃないだろ?」

 

「ちょっと用事が、ね。悪いけど、今日はここで」

 

「ふぅん、なら仕方ないか。それじゃあまた明日な、我が友よ‼︎」

 

「はいはい、じゃあな。あと明日お前と映画に行く約束をした訳じゃないから、朝六時半とかに俺の家に来てピンポン鳴らしまくるとかいう迷惑行為はやめろよ? ほんとに。フリじゃないからな」

 

「あれ? そうだったか? ……まあいいじゃないか、はっはっは‼︎」

 

 秋、見事に鮮やかな夕焼けの下。

 相変わらず大きな声で叫びながら、俺とは違う道を後ろ歩きに進んでしつこく手を振り続けている大雅に軽く手を振る。「また明日」とはいかないだろうが、またアイツと言葉を交わしたいものだ。

 

「しかしアイツ、いつまで後ろ向きで歩く気……あ」

 

 後方不注意。ガードレールに引っかかり、豪快に背中から引っくり返る大雅を苦笑交じりに見やってから、俺は踵を返した。

 相変わらず歩道を進み、険しい斜面を下ったり登ったり。俺の家と我が鷹穂高高校があるここ大塚市東部は、山を切り崩して住宅地開発が進んだせいでやたらと起伏が多い。

 

「くそ、つくづく面倒臭い立地」

 

 下って、登って。また登る。

 家は鷹穂高高校よりも更に高い場所に位置しているので、自然坂を登ることは多くなってしまう。とはいっても、俺が向かうのは家ではないのだが。

 前田がいなくなると、住宅街は異様な程に静まり返ったように思えた。踏み出す足が重い。まるで黒泥の中を進んでいるような感覚を味わいながら、ひたすら足を動かす。

 

 ……なにか不気味だ。

 どこかで、この街は狂い始めている。

 

 電柱の上に、ひらひらと揺れる黒い外套が見えた気がした。その真ん中に浮かび上がる髑髏の面、それは闇に潜む暗殺者の影か。

 ゾッとして視線を向けると、カラスが飛び立って行くのが見えただけ──。

 

「………………ンな馬鹿な」

 

 俺はどうかしているのか。

 それとも周囲がどうかしているのか。

 そんな馬鹿げた存在がこの街にいる筈がない──と、否定できないのが不安を煽る。

 暫くして道から逸れ、住宅街の隙間、高台に面する形で作られた小さな公園へ向かう。平均的な民家一軒分程しかない敷地の中には、申し訳程度にブランコとベンチが置かれていた。寂れたそれはどこか哀愁を漂わせるが、当然それらに興味はない。

 公園を突っ切り、一番奥へと歩を進める。

 

「───────」

 

 ……言葉を失うように、俺は立ち竦んだ。

 背の高いフェンスの奥に広がる斜陽に(あかがね)色に染め上げられた街並み、そして彼方に広がる銀色の湖面。まるで天然の展望台だ。柵の奥に広がる景色は学校の教室から見えるソレよりも遥かに美しくて、だが確かに「何か」を感じてしまう。例えるなら、瞬きの後にこの街が火の海と化していてもおかしくないような不安感がある。

 

 ……間違いなく、何かがいるのだ。

 この街には。そして、俺のすぐ近くにも。

 

 フェンスを掴みながら覚悟を決める。

 未知の世界へと飛び込む覚悟を。

 

 ──さあ、帰るにはまだ早い。

 その前に、やる事が一つ残っているだろう……‼︎

 

「おい。出てこいよ、いるんだろ?」

 

 俺はついに言葉を投げた。大雅との会話の途中から感じていた、隠そうともしない異様な気配に。

 その言葉を以て空気が痙攣する。時が止まったかのように周囲の空気が重圧と化し、重く両肩にのし掛かる。何者かの視線は異様に鋭く、明らかに常人のモノではない。

 

「俺は昨日の事をハッキリ覚えてるぞ……化け物め。生き延びた俺を殺しに来たのか?」

 

 震えそうになる声を抑え、教科書を読み上げるかのように淡々と姿なき敵対者に述べる。湧き上がる恐怖心を悟られないように、せめてもの抵抗だった。

 振り向いて、狭い公園の中心へ向かう。

 

 爽やかな風が吹き抜けて、前髪が微かに揺れた。

 

(…………どこだ)

 

 気配は感じる。痛い程に。

 

(どこから、来る────?)

 

 全身に感覚を行き渡らせて、周囲の隅々を観察する。

 どうせ殺されるのだろうが、せめて抵抗くらいはしてやらないと気が済まない。武器もないし、パンチ一発くらいは──、

 

「それは、違いますよ」

 

 またもや風が吹いた。

 けれど違う。風向きが違う。俺の背後から、まるで何かがそこに降り立ったかのよう(・・・・・・・・・・・・・・・)に、風は軽やかに俺の背中を撫でていく。

 

「っ‼︎」

 

 ────背後(うしろ)‼︎

 咄嗟に振り返り、同時に右の拳を振り抜く‼︎

 

 けれど、無駄だった。

 十分な速度を乗せだはずの拳。しかしそれは、俺なんかより遥かに細く、小さな手に止められていたのだ。

 弾かれたように視線を上げて、目の前に立つ少女を見る。

 

 ──目が合った瞬間、全ての時間が止まって。

 ──形容し難い感情が、胸の内で吹き荒れた。

 

「……………………おまえ、は」

 

 視線が釘付けになる。透き通る清流を思わせる蒼い長髪。美しいエメラルドに似た碧色の瞳。はっとするほど整った顔立ち、朱い頰。

 まるで金縛りにあったかのような衝撃の中で、俺は呆然と彼女の顔を眺める。

 日常の中で錆びついていた魂が脈動を始めたような感覚。

 長く長く眠っていた感情が、再起動を果たして燃え上がる。

 

 

 ああ。そうだ。忘れる筈がない。

 確かに俺は、この■■を憶えて────、

 

 

「このゴミムシ馬鹿愚か不敬者ぉーっ‼︎」

 

「ぶべらっ⁉︎」

 

 いたって真面目な顔をしていた俺の顔がぐんにゃりと歪んだ。

 超早口で述べられた罵倒の言葉を聞き取る間も無く、少女が振り抜いた平手が俺の頬をしたたかに打ち──いや、打ったというより殴り飛ばして、俺は横殴りに吹き飛ばされた。

 首から嫌な音が響く。そのあまりの衝撃は直に俺の脳を揺らし、視界がぐわんと歪んだ。

 

「うお……おおぉ……ビンタが、なにゆえ、右ストート並の威力に……⁉︎」

「フンッ。いきなりこの魔王に殴り掛かるとは、いい度胸してるじゃあないですか。本来なら万死に値する愚行です」

 

「お、お前、一体……てか、馬鹿力にも程が」

 

「あっ‼︎ 今馬鹿と言いましたね、馬鹿と‼︎ よろしい、今すぐもう一発追加してあげますよ」

 

 ゆっくりと近づいてくる少女。よく見るとあの刺々しい鎧は着ておらず、代わりにフード付きの黒ジャージを着ているのが分かった。

 でもって目が爛々と輝いているのを見るに、相当怒ってらっしゃるご様子。その手が再び振り上げられるのを見て慌てて尻餅をついたまま後退し、あれこれ言い訳を探してから、殆ど考えずに叫ぶ。

 

「──と、とにかく悪かったのは俺なんだな⁉︎ よし理解した、だから、あー、その、そう‼︎ お詫びはなんでもする‼︎ だからその手を降ろして一回落ち着け頼むって怖いんだよ本当‼︎」

 

「ほう? なんでも、と言うんですね」

 

 ジャージ少女は、その言葉に口角を釣り上げて笑う。

 これはマズイ、という直感が俺の脳裏を突き抜けるが、一度空気を震わせた言葉はもう口の中に戻らない。未だ尻餅をついたままの俺に少女は悠然と立ったまま───、

 

「では、一緒に来てくれますか。私の……マスター」

 

「……ます、たー?」

 

「貴方のことですよ。そんなきょとんとされても困るんですけど」

 

 ──その言葉を合図としたかのように、沈みかけていた夕日が完全に西の山脈の影へと没した。

 これからは夜、太陽は役割を終えて月が主役に成り替わる。

 残照の中で彼女は手を伸ばし、俺の手を掴んで立ち上がらせた。

 

「私の名前はセイバー。貴方のサーヴァントにして──」

 

 そこで一度言葉を区切り、彼女はにっこりと笑顔を浮かべて、

 

「きっと、私は貴方の味方(・・)です」

 

 そう、どこか安堵したような声で言ったのだった。

 その笑顔に思わず頬を赤くして、俺は「ワケわからん」と呟く。

 

 ……ここは終着点の先。ある筈のない、もう一つの始まり。

 さあ始めよう。

 濃紺の(そら)には、既に薄っすらと半月が浮かんでいる──。

 

 

 

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【前田大雅】
十七歳。健斗の同級生。
基本的に「今日をいかに面白く生きるか」に全力を費やす人間。先の事は全く考えていないタイプの陽気な男。西洋人とのハーフなので王子様みたいな容姿だが、性格が足を引っ張ってモテたことはないらしい。健斗とは最も長い付き合いであり、彼の一番の友人である。

【前田火乃香】
十六歳。健斗の同級生。
心優しく真面目ながら、かなりマイペースな女の子。かるたという得意科目がある上に成績優秀。が、運動は大の苦手。大雅と健斗の二人と仲が良い。


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第四話 魔王さま、キレる

 夕方と夜の境界と言える曖昧な時間。夕日の残滓に映える蒼髪を揺らす少女と、公園の中心で相対する。

 殴られた頰はじんじんと痛むが、色々と状況がしっちゃかめっちゃかで気にならない。ともあれ確認から入ろうかと、俺は口を開いた。

 

「せ、セイバーって名前でいいのか、お前?」

 

「む。こちらが名を明かしたのですから、そちらも名乗るのが先ではないですか」

 

 非常識の塊みたいな奴に至極真っ当なコトを言われ、俺は思わず狼狽して──、

 

「…………志原、健斗」

 

 結局、無愛想に名前だけを告げる。焦ったり気恥ずかしくなると無愛想になるのは生まれつきで、今更どうしようもない悪い癖だ。が、当の彼女はさして気にした様子もなく、

 

「そう、ですか。……ええ。では、ケントと」

 

 どことなく噛み締めるように言って、セイバーと名乗る少女は俺に真っ直ぐな眼差しを向けた。碧色の瞳は綺麗に澄み渡っていて、彼女の性格を窺わせる。

 改めて思えば初見が暗い夜であっただけに、彼女の容姿をはっきりと捉えるのはこれが初めてだった。

 同年代か、歳下──10代半ばに見える。身長は高校一年生の楓とほぼ同じ。百七十センチ程度の俺より十センチ以上背が低い。こうして見るとかなり小柄だが、改めてこの体格で長剣を振り回していたのかと驚かされる。一体この体のどこにあれ程の力が秘められているのだろうか。

 

「オイ、なんだよ。ニヤニヤしやがって」

 

「いえ? そうだろうとは思っていましたが、やはり素人でしたか」

 

「素人? 何が?」

 

「この世の理から外れた神秘の力に関する知識を、ケントは何も持ち合わせていないんですね、と言ったんです」

 

 ぷーっ、と吹き出しそうな表情を少女は浮かべた。そのイラっとする言い草に、憮然とした表情のまま反論する。

 

「はぁーっ? 学校で習わないんだから仕方ないだろ、ンなの。馬鹿を馬鹿にするのは最も馬鹿な行いだって習わなかったのか」

 

「残念ですけど、私が知ってるのは『無知は罪なり』という言葉なんですー。そう考えるとケントは有罪人です、よってケントが悪いんです」

 

 ……ウザい。非常にウザい。

 なんだかもういっそ帰ろうかと思うが、まだ聞いていない事が多いのも事実。ふつふつと湧く怒りを抑えて冷静さを保ちながら、未だに腹立つ表情を浮かべるセイバーに問う。

 

「……お前、自分がサーヴァントだって言ってたよな。悪いけど、最初から説明してもらうぞ。『サーヴァント』ってのは何で、この街で何が起きているのか──」

 

「へえ。人間ではない、という事くらいは理解してたんですねえ。そこから説明しなきゃいけないと思ってましたが」

 

「当たり前だ。……昨日の夜、俺はお前達が戦うのを見てたんだぞ。あんなのを見て、まだお前らが人間だと思える方がどうかしてる」

 

「それでも、常識の尺度でしか物事を測れない愚かな人間は多いんですが……まあいいでしょう。長い話になりますから、ここでは都合が悪いです。魔王たる私を歓待するに相応しい場所を用意することを要求します」

 

「……つまり?」

 

「立ち話は疲れるので何処か座れる場所に連れてって下さい」

 

 そんな頼み事を、何故かふんぞり返ってセイバーは堂々と言う。その姿が一応様になっているのが少しだけ可笑しい。さすがは魔王さまと言ったところだろうか。

 

「しょうがないな。最初からそう言っとけ、おチビ」

 

「ちびっ⁉︎ チビじゃありませんよ、私は誇り高き魔王で……あっ、ちょっと、さっさと行かないで下さいよ‼︎」

 

「フン。言っとくけど、俺はお前をまだ信用してないからな。それを分かっとけよ」

 

「こ、こいつ、不敬ですねホント‼︎ いーでしょう、それじゃあまた鉄拳制裁をかましてあげますからね」

 

「こ、こらっ、そうやってすぐ暴力を行使するのはやめろっ」

 

 ──第一に、彼女が何者か。

 

 この、何かがおかしい街に何が起きているのか。俺はどうなったのか。それと、この少女は何故似合わないぶかぶかのジャージを着ているのか……まあ、それはどうでもいいか。

 積み重なった疑問の山を削り崩す為、俺は張り倒された頰をさすりながら、彼女を先導して歩き始めた。

 

 

 

 

 質素な木製の扉を押し開くと、据え付けられたドアベルが爽やかな音を鳴らし、心地いい木の薫りがふわりと鼻腔を刺激した。

 『喫茶 薫風』と書かれた看板を提げた店内へ入る。俺の姿を目ざとく見つけたここの店主──槙野和也は、「いらっしゃい、志原君」と顔を綻ばせた。

 二十代前半の、眼鏡の奥に人のいい微笑を浮かべた青年である。親元から離れ、ここ大塚市で夢だった喫茶店を開くに至ったらしい彼は、何時も俺を喜んで迎え入れてくれる。

 

「や、マスター」

 

 挨拶を交わしつつ、店の奥へ。内部には四人がけのテーブルが窓際に配置され、反対側には長いカウンターが置かれている。だが客は居ない様子。この店はいつも閑古鳥が鳴いているので、今更驚くことでもない。

 二人して端っこのテーブル席に腰掛け、流れるようにアイスコーヒーを二つ注文する。

 

「二人分だから、いつもより時間はかかるね」

 

「全然大丈夫だから、ゆっくり作って」

 

 そんなやりとりを交わす間、セイバーは不思議そうに周囲を見渡していた。

 

「……ふむ。ここが、かふぇ、という所ですか。知ってはいますが、来るのは初めてです」

 

「ココには客も全然来ないし、店員もマスターだけ。のんびり落ち着くのにはもってこいって訳だ」

 

「……おいおい、聞こえてるぞー。ついに女の子を連れて来てしまった志原くん?」

 

 名前も知らぬ機械をあれこれ触りながら、マスターは苦笑する。とりあえず、見当違いもいい所なその発言を即座に否定しておく。

 

「えー……君は、見たところ……中学生……かな? コーヒー飲めるかい?」

 

「はい? 私を舐めてるんですかね、「こーひー」が何かは知りませんが私に飲めないものなんてありません。……あと、私は中学生じゃありません次言ったら不敬罪でぶっ飛ばしますよ」

 

(物騒な子だな…………)

 

「まあいいや、話の続きだな。改めて言っておくけど、俺はお前を信用したって訳じゃない。嘘をついたら──」

 

「はぁー、もう聞きましたよそれは。それで構いませんから聞いてください」

 

 睨み付けた俺の目線を柳に風と受け流したセイバーにむっとしながら、彼女の言葉に耳を傾ける。

 

「ではまず、『聖杯戦争』についてお話しましょうか」

 

「聖杯戦争?」

 

 真相に迫りつつある事を自覚し、鼓動が加速するのを感じる。

 それは恐怖からか、好奇心からか。どちらにせよ構わない。無言を保ったまま少女の話に耳を傾ける。

 

 ──それは、到底信じ難い話だった。

 魔術師と呼ばれる神秘の代行者達の存在。

 聖杯戦争……万能の杯、聖杯を巡る争い。

 聖杯が七人の魔術師を選抜、『サーヴァント』と呼ばれる英霊を召喚させ、聖杯の担い手に相応しい人間を殺し合いによって決定する。剣士、槍兵、弓兵、暗殺者、魔術師、騎乗兵、そして狂戦士。それら七つのクラスに振り分けられた一騎当千の英霊達が激突する、比喩でもなんでも無い文字通りの「戦争」。

 

 今更だが。遅まきながら、そこで俺はようやく「セイバー」が彼女の本名ではなくクラス名に過ぎないのだと知ったのだった。

 

「サーヴァントとは、一個人の力で神域へと辿り着いた存在……人類史にその名を刻み込んだ者達とも言えるでしょう……が、受肉して現界したものです」

 

 英霊としての自負からか、やたら得意げに話すセイバー曰く。

 生前に人の身に余る偉業を成し遂げた者達は、死後魂の輪廻から外れ、ヒトを越えた領域に昇華するらしい。 それが『英霊の座』。自らもまた、その座から呼び出されたのだとセイバーは語る。

 

「人類史に名を刻んだ者。世界史なんかで習う史実の偉人達って事か」

 

「いえ。半分は正解ですが、半分は違います。英霊は何も実在の人物とは限りません。その出展が御伽噺であれ伝承であれ、人々の信仰、畏怖を十分に集めた存在はそれだけで神秘の獲得に至り、英霊の座に登録される」

 

「んー……英霊にフィクションノンフィクションの違いは無い?」

 

「まあ、そうですね。現代風に言えば、概ねそれで合っています」

 

 現界時、聖杯がサーヴァントに与えるという現代知識。それは今も早速その恩恵を発揮し、彼女の理解を円滑に進めてみせた。

 

「なるほどね。信じられないけど、伝説や神話の英雄達か」

 

 そのあり得ざる神秘を伝え聞いただけで少し胸が高鳴る。しかし同時に、それを遥かに上回るの恐怖と焦燥感が俺の内心で吹き荒れた。

 目の前のセイバーは置いておくにしても、俺は知っている。理性を失い、全てを破壊する、名も知らぬあの狂戦士(バーサーカー)の存在。

 

「………………くそ、震えてくるな」

 

 更にアレに類する人外の存在が七騎も殺し合う、まるで悪夢だ。

 バトル漫画を読みながら、超人達の戦いに巻き込まれる街の人々を「可哀想」なんて他人事に思ったこともあるが、それが現実に起こるかもしれない状況。他人事なんて言ってられない。

 そして、目の前の少女とて例外ではない。小柄な身体に想像を絶するような力を潜ませており、簡単に人々を抹殺できるのだろう。

 

 ……そんな奴らが、この大塚市で激突するらしい。

 全くもって末恐ろしい話だ。どことなく感じていた街の異常はこのせいなのか。それとも、何か他の要因なのか──。

 

「……ケントも案じているようですが、ケントの様に市政への被害が出る事もありますし、召喚されるのは人々が憧れる完璧な英雄ばかりとは限りません」

 

「と、言うと?」

 

「反英雄……英雄とは対となる存在。暴虐と悪逆の果てに人々の信仰、恐怖を得、英雄とは真反対のプロセスで座に至った者達の総称です。彼らは人命を軽んじ、無辜の民の犠牲を厭わない事も多いです」

 

 ──その声が。

 ほんの僅かに震えていた気がしたのは、(ただ)の気のせいだろうか。

 こちらのコーヒーをぐいっと飲み干してから、改めてセイバーを見る。彼女はらしくもなく目を伏せ、茶色いコーヒーの液面に視線を落としたまま淡々と続けた。

 

「聖杯戦争とは本来、一般人に秘匿され、隠し通されるものなのです。しかし反英雄だけでなく、マスターの中にさえ、多少の無茶を通す輩も存在します。例えば、まさに……」

 

「昨日のバーサーカー……そのマスターか」

 

 セイバーより早く口に出すと、彼女は神妙に頷き、下方で彷徨わせていた視線を俺の瞳に戻した。

 その瞳を見た瞬間、何か嫌な予感──知りたくも無い事実がその瞳から分かってしまうような──を強く感じて、軽く息を呑む。

 

「一般人を巻き込むなど、本来あってはならない行為なのです。いくらケントが自ら首を突っ込んできたとはいえ、あそこまでする必要はなかったはずです」

 

「あそこまで、ねえ。あんまり覚えてないけど」

 

「……あれ。ケントは、昨日の事を覚えていないんですか?」

 

「あんまり。バーサーカーに吹き飛ばされてからの記憶は曖昧」

 

 真っ直ぐな瞳を逸らして、彼女は口ごもった。

 

「お、おい、なんだよ。はっきり言ってくれよ」

 

「じゃ、はっきりと言いますけど……昨晩、ケントは死にました」

 

「へ?」

 

 驚く事も、悲嘆する事もなく。否、できずに俺は体を強張らせた。

 仮に言葉の表面的な意味だけを切り取るのなら俺はもう既に死人だという事になるが、俺はこうして生きている。朝にも感じた矛盾に突き当たった俺に、セイバーは続ける。

 

「正確には、『身体だけが』死亡している状態ですね」

 

「それは……どういうコト?」

 

「言葉の通り。ケントの身体は既に生命活動を停止しましたが、生命の源である魂はその身体に残留しているんです」

 

「残留って……魂と言われても、正直ピンと来ないんだけどな」

 

 そういやさっきも言っていたっけ。英霊になる条件はその人物の「魂」が英霊の座に押し上げられる事だと。

 ……つまり、非科学的だが魂とやらは確かに存在するって事だ。

 あながち迷信の類も間違っちゃいないのかもなあ、と思いつつセイバーの言葉を待つ。

 

「まず、生物の『死』から説明しましょうか。死には大きく分けて二段階の死が存在します。一つが身体的な死亡、そしてもう一つが魂の遊離」

 

 要は身体が死んでから魂がフワーッと抜ける事で、人は始めて死亡するらしい。なんとなくだが、この理屈は理解できる。

 

「昨晩、私がケントの元へ辿り着いた時、ケントは既に死亡していました。しかし魂の遊離より早く、私がケントの身体に『宝具』という楔を埋め込むことで、完全な死亡……魂の遊離だけは防げたのです」

 

「ま、待ってくれって。いきなり言われてもわからないっての。そんな事が可能なのか? 離れていく魂を抑え付けて、死に掛けの人間を救うなんて」

 

「器を用いず魂のみを固定化するとなると、それはもはや魔法の域になってしまうんですが……器となる元の肉体があったので、なんとか擬似的な延命に成功したようですね。正直私も駄目元だったんですが」

 

 そこでセイバーは一度言葉を区切り、深く息を吐いた。彼女の表情は晴れない。続きを言いにくそうに、口を開いては閉じる。まるで最適な言葉を探すかのように。

 その理由は、俺にもなんとなく察しがついた。

 

「延命……ってことは。つまり俺は、助かった訳じゃないのか」

 

「……理解が早くて助かります。仰る通り、ケントの身体は依然死んだままであり、私の宝具が無ければ生きていられません」

 

 その返答を予期していなかったのか。少し驚嘆の表情を浮かべてから、セイバーは静かに目を伏せて頷く。

 

「私の消滅、それはケントの命を保っている宝具の消滅と同義です。宝具の動力源(エンジン)は私ですからね。……つまりケントが生き延びるには、この聖杯戦争に勝利し、私が消滅する前に蘇生の奇跡を聖杯に願うしかないんです」

 

 聖杯、万能の願望器。詳しい事は分からないが、「何でも願いが叶う」なんて代物だ。魂まではどうか分からないが、肉体の活動を再開される事くらいは造作もないのだろう。

 要は、俺の命は潰えたままで、生き延びるには聖杯が必要らしい。

 そこまで状況を整理してから……といってもできれば信じたくない悲惨な状況だったが、浮かんだ疑問を問いかける。

 

「認めたくはないけど、仕方ない。俺の状態は理解できたよ。次に、俺がいつの間にかお前のマスターになってる理由を尋ねていいか」

 

「ほ、本当に理解してます? だいぶ絶望的な状況なんですけども」

 

「してるって。けど、過ぎたことをウダウダ言っても仕方ないし……正直、あんまり死んだ実感が湧かないからな」

 

「では……おほん。あの夜、私にはマスターが存在しませんでした。そこで不足する魔力の供給を得るため、私はケントと勝手に契約を交わしたのです」

 

 それからのセイバーの話を纏めよう。

 まず、「マスターが存在しなかった」という彼女の発言には語弊がある。

 正確には、「マスターが存在していたが失ってしまった」というのが正しい。なんでも昨晩突如として現れたバーサーカーの奇襲により、セイバーは前マスター、つまりセイバーを召喚した魔術師を殺されてしまったそうだ。

 それについて突っ込むと、「……それは不意打ちとか空が曇ってたせいとか相性とか云々」などとモゴモゴ言い訳を並べていたが、ここでは割愛。

 

 ──原則として。魔術師による魔力供給が無ければサーヴァントは存在を保つ事ができない。サーヴァントは霊体であり、現世に存在を保つための要石が必要になるからだ。

 故にサーヴァントにとって、己のマスターを失う事は敗北に直結する。

 魔力供給も途切れ、力も出せず、敗北が確定している凌ぎ合いの末にセイバーあの森林公園まで追い込まれた。

 

 ……悲しきかな、そこにノコノコ現れたのが俺である。

 バーサーカーは不都合な目撃者を排除し、無駄な魔力消費を嫌って勝手に撤退。後には死に体の俺と消滅寸前のセイバーが残された。

 

「そこで私が契約を結び、私はケントからの魔力供給によって、ケントは私の宝具によって共に生きながらえたのです」

 

「互いに助け合う事で、両者を同時に生かした、と……逆に言えば、俺たちはどちらかが死ねば終わりなのか。今も両方が相手の存在に依存しているから、片方が倒れれば共倒れする……」

 

 長い説明が終わった開放感からか。思わず唸りつつ肩を伸ばしながら、改めて状況を整理していく。

 これで大まかな謎は解けた。

 ……が、大きな疑問が一つだけ残っている。

 

「あ、話は変わりますが。私の咄嗟の判断力を褒め称えてもいいんですよ、ケント」

 

 ──何故、俺は「魔術師」とやらでもないのに、セイバーと契約を結べたのだろうか。

 英霊を使役する契約というのは、そんなに簡単な物なんだろうか。魔術の「ま」も知らない一般人が何も知らずに契約を結べる程に。

 魔術師について詳しくは知らない。世間から秘匿された力、神秘の奇跡を魔術という形で行使する者達……とセイバーは言っていたが、当然ながら俺は魔術師なんかではない。その筈だ。

 

「お待たせしました、アイスコーヒー二つになります」

 

 と、俺がセイバーに疑問を投げるより早くアイスコーヒーが二つテーブルの上に置かれ、俺の思考は非日常の範疇から引き戻された。

 「ありがとう、和也さん」そう言おうとして、ギョッと目を見開く。

 そこに立っていたのは俺がよく知る若店主ではなく、艶やかな銀色の髪を背中まで伸ばした、端正な美貌を持つ外国人女性だった。大学生程の年齢に思えるその女性は、日本人では到底持ち合わせることの出来ぬ艶やかな長髪を揺らしつつ、俺とセイバーに視線を向けていた。

 

「あ、え……槙野さんじゃないよな、当然。あんたは?」

 

 何のモデルだよ、と思わず困惑しつつ、店に入った時は見えなかった彼女に尋ねる。

 

「申し遅れました、お客様。私は先週からこの店に入った、アナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナと申します。まだまだ不手際も多いですが、何卒宜しくお願い致します」

 

「あ、親切にどうも……よ、よろしくお願いします……?」

 

「………………」

 

 セイバーは相変わらずの無愛想で、名前からしてロシア人と思われる女性を一瞥しただけに留める。

 が、アルバイトだという彼女もそれなりに無愛想に踵を返すと、トレイをカウンターに戻しつつ片隅のロッカーから箒を出して店外へと出て行った。恐らく店前の掃除にでも行ったのだろう。

 

「アナスタシア……アナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナ……だっけ。長くて覚えられそうにないな……悪いセイバー、ちょっと待っといて」

 

「へ?」

 

 呆けた声を出すセイバーはそのままに、カウンターでコップを拭く和也さんの元へと駆け寄り、小声で耳打ちする。

 

「ちょっとっ。誰だよあのお姉さんは?」

 

「はは……ガールフレンドが出来たのは君だけじゃない、と言いたいんだけど残念ながら違う。彼女は本当に、ただのアルバイトとして雇ったのさ」

 

「う、嘘だろ⁉︎ 前来た時はアルバイトなんて要らない、って言ってたじゃん‼︎ 「どうせ客はあまり来ないんだから、僕一人で十分だ」って‼︎ 実際二人いても客が来ないんじゃ無駄だろうに‼︎」

 

「うぐ、さらりと酷いことを……いやね、ちょっと気が変わってさ。あれだけ美人なら、評判になって客足が増えるかもしれないだろう?」

 

「……まあ、そういうモンか。確かに来る頻度をちょっと上げたくなるかも、あの人がいると」

 

「だろう⁉︎ これからもじゃんじゃん通ってくれ、君は貴重な常連さんの一人なんだからね……いやほんと、頼むよ⁉︎」

 

 切実なマスターの頼みを承ってから、会話を訳もなく小声で済ませてセイバーの元へ。アイスコーヒーの黒に染まった氷をストローでかき混ぜながら改めて浮かび上がった疑問を問おうと、セイバーに声をかける。

 が、当のセイバーは窓の外を眺めたまま微動だにせず──、

 

「おい、どうしたんだよ。さっきまでうざったいくらい饒舌に話してたじゃん」

 

「フンッ、話の途中でこの私を放り出して他の人間と他の人間について話すなど以ての外です。私は著しく気分を害しました」

 

「…………ちょっと待って? 俺が悪いの??」

 

「そうです。大体、ケントには私への敬意がこれっぽっちも感じられないのが不愉快なんですよ。別に恐れろと言っているわけじゃないですが、私は魔王なんですよ」

 

「そりゃあそうだよ、だってこれっぽっちも尊敬してねえんだもん」

 

「……………………〜〜‼︎」

 

 俺のもっともな意見に、顔をリンゴのように真っ赤にしてセイバーが唸る。だが流石に店内で暴れない程の分別は持っているのか、不気味な音がなる程度に拳を握るだけに留めたらしい。

 ……後が怖いけど、今は考えないでおく。

 

「ま、まあまあ、落ち着けって……お前怒るとほんとシャレになんないんだから。一旦それ飲んで、な?」

 

「先程の発言はともかく、確かにこの『こぉひぃ』という物に興味はありました。仕方がありませんし、頂くとしましょう」

 

 セイバーはカラカラと音を立てる氷が幾つか入ったコップを持ち上げると、朱色の唇でストローを咥えた。

 黒色の液体が吸い上げられていき、彼女の口の中へと到達する。

 何故か固唾を飲んで見守る俺。

 そういや砂糖とか全く入れなくて良かったのかなコイツ、と一瞬だけ思ったが後の祭りだ。セイバーの喉がごくりと鳴り、それから無言で小さい身体を小刻みに震わせるのを見て、俺は恐る恐る声を掛ける。

 

「ど、どうしたよ」

 

「……………………にがい」

 

「え?」

 

「苦い、と言ったんですよ‼︎ ──あのですねえ、私は甘い物が好きなんです‼︎ なのに一体なんなんですかこの飲み物は‼︎ ニガニガの水か何かですか‼︎⁉︎ この私にこんな物を飲ませるなど、いい加減に堪忍袋の緒が切れますよっていうか今切れましたァ‼︎」

 

 緒が切れるのが早すぎるだろ。

 そして前言撤回。このワガママ魔王、店内で暴れない程の分別すら持ち合わせていないと見た。

 後ろの方でマスターが少なからぬショックを受けたのが分かったが、それどころではない。セイバーは怒声を張り上げただけ。だというのに殺気とも威圧感ともつかぬ何かが激しい烈風となって吹き荒れ、狭い店内を蹂躙した。なんか小さな雷まで見える。ナプキンや椅子やコーヒーの液体(セイバー曰く「ニガニガの水」)が吹き飛ばされ、瞬く間に店内が破茶滅茶な地獄へと変わる。

 

「うおおおお────⁉︎ まままマスターっ‼︎ とにかく砂糖! 角砂糖でもシュガースティックでもとにかく全部寄越して今すぐ‼︎」

 

「わわわわっ、分かった! 何が起きてるのかさっぱりだけど分かった! ああっ、色々ぶっ飛んでるよもう熱っ‼︎ 熱い熱いコーヒーかかった‼︎」

 

「ちょっ、ぎああああああ⁉︎ 俺にもかかってるから熱い熱い熱い‼︎」

 

 ……それから三分ほど。

 一瞬かつ長かった戦いは終わった。角砂糖五個、シュガースティック十二本という途方も無い量の砂糖を含んだコーヒーをお召し上がりになった魔王様は、なんとか機嫌を取り直された。

 が、店内はまるでこの中にだけ時期外れの台風が襲来したかのような有様を晒していて、

 

「いいですか、覚えておいてください。私は甘い物が好きです」

 

「はい、もう聞きました」

 

 力尽きて床に倒れ伏すコーヒーまみれの茶色なマスターと俺に、そんな憮然とした声が投げられる。

 その頃には俺は痛感していた。コイツは剣士(セイバー)である以前に、色々と手のつけられない「魔王」なのだ。

 

「こんな奴と一蓮托生……はぁー……やっぱ死ぬのかなぁ、俺」

 

「あっ、口直しに甘い物をください」

 

 ──やかましいわ。

 なんかもう起き上がるのも億劫で、綺麗に掃除された床に額を押し付けながら、俺は自らの運命を改めて呪わずにはいられなかった。




【セイバー】
剣の英霊。蒼色の長髪が特徴的な、小柄な少女。
一人称は「私」。好きな物は甘いものオンリー。
事あるごとに健斗に迷惑を掛けるが、戦闘能力は超一線級。大英雄、神殺しの豪傑にさえ匹敵する力を持つ。
「無辜の怪物」スキルによってその姿を異形の怪物に変貌させてしまう筈だが、本人の並外れた魔力量、加えて「魔王特権」のスキルを無理やり自分に適応させる事でその発現を抑えている。仮にそのリミッターが外れれば、彼女は人々が思い描くような恐怖の怪物と成り果ててしまう。

〈ステータス〉
筋力A、耐久A、敏捷B、魔力A+、幸運C、宝具EX
〈保有スキル〉
■■■■■の加護EX
魔王特権A
魔力放出A+
直感B
無辜の怪物A(抑制)


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第五話 召喚の儀/Other side

 ──時間は、とある少年と魔王が出会った夜から二日ほど前に遡る。

 

 その日も月が分厚い雲に覆い隠された夜だった。

 大塚市のやや西部。龍神湖の岸まで広がる田園地帯に寄り添うように存在する古い住宅街、その一角に悠然と建つ和風豪邸の敷地内に一人の少年の姿があった。

 灼かれた鉄を思わせるような赤銅色の髪。同年代の少年に比べると結構長めなそれを、彼は乱雑に後頭部に纏めていた。整った鼻梁の上で、どこか気弱そうな瞳が目の前の扉を見つめている。

 ──名を、繭村倫太郎。

 この辺り一帯の管理統括を委託された魔術の大家『繭村家』の長男にして、聖杯によって聖杯戦争の参加者に選抜された人物の一人である。

 

「………………」

 

 彼の左手に令呪が現れたのは、かれこれ一週間前の事だった。

 円弧と直線が不思議な紋様を描く、血潮のように赤い刻印。博識な父は、それが『聖杯戦争』という名の、かつて冬木にて五度に渡って行われたという大儀式に関連するものだと突き止めたが、不可解な点は幾つも存在していた。

 

 何故聖杯は現れたのか。

 そして、誰がこの戦争を始めたのか。

 

 正史の聖杯戦争とは異なり、この聖杯戦争は非常に突発的なものだ。そこには細かい規則も、聖堂協会の監督役すらも存在しない。まさにルール無用の殺し合いだ。

 そして、既に戦端は開いてしまった。

 この地に夜灯に群がる蛾の如く集まった魔術師達はサーヴァントを各々召喚し、ついに先日、この戦争の緒戦が交わされたのだ。

 剣士(セイバー)騎兵(ライダー)二騎の衝突によって、大塚市西部の田園地帯の一部、面積にして約20,000平方メートルが焦土と化したとの報告も既に受けている。事態を重く見た魔術協会が工作員を派遣、隠蔽に励んでいるらしいが、それにも限界はあるだろう。

 このままでは取り返しのつかない事態に陥る。

 繭村の一族は、可能な限り早急に事態の収拾を図る必要があった。大塚の地で厄介ごとが起これば、翻ってその責任はこの「大塚」という日本でも有数の霊地を監督する繭村家に押し付けられてしまう。

 各地に放った使い魔や魔術協会から幾ばくかの情報を得た倫太郎とその父親は、もはや戦いは回避できない段階に移っていると判断。かくして父親に事態の解決を命じられた倫太郎は、こうして一人家に残っているのである。

 

「……だからって、半分引きこもりみたいな僕一人に丸投げってのも酷い話だ。僕を過大評価するにも程がある」

 

 ──とはいえ。

 厳格な父から事態収拾の主役を任される程の評価、信頼を得られるだけの才覚を、倫太郎は既に持ち合わせていた。基本的に成人後に譲渡される魔術刻印を既に受け継いでいる、という事実も彼の才覚を物語っている。

 遥か四百年前、江戸時代より連綿と続く繭村家の魔術刻印。日本でも有数の実力派魔術一派が磨き上げてきた輝きは、凡百な魔術師達の刻印では到底及ばない。まさしく何十代と積み上げられてきた神秘の結晶。ソレは今現在倫太郎の背中に刻まれ、様々な魔術的恩恵で彼の力をより高めるに至っている。

 ただ、問題が一つあって──、

 

「幾ら魔術の才を磨いても、それに見合うだけの資格(・・)が無ければ意味がないのに」

 

 元より倫太郎は、魔術を使うという事に強い忌避感(・・・・・)を覚えてしまう人間だった。

 それは魔術師として矛盾しているのだろう。幾ら実力と才能があろうと、それを振るうだけの覚悟が無ければ意味が無い。

 魔術とは、自らを滅ぼす道。

 魔術師の本質は、生ではなく死。

 

 ──いずれ、この身は魔術という名の怪物に骨まで食い散らかされてしまうのではないか? 

 ──自分だけならまだいい。

 ──けれど。他人まで、その怪物は喰らい尽くす力を秘めている。そんなものを極める道なんて、本音を言えばまっぴらだ。

 

 そんな恐怖が、扱いきれぬ怪物を内側に飼っているかのような不安が、倫太郎には常に付きまとう。

 当然、どうにか逃げたいと思い続けていた。されどその恐怖を後継者としての責務感で誤魔化し、押し込めてきたというのに。

 そんな気弱な自分が聖杯戦争という大儀式を前に溢れそうになっているのを自覚しながら、彼は心の中で自らを嘲笑う。

 

(魔術を使うことを怖がる魔術師。天才なんて言われているけれど、僕はとんだ三流だな……)

 

 戦いとは無縁の生活の中、この広大な家に引きこもって恐怖に耐えて魔術の鍛錬を重ねる。

 魔術刻印を受け渡す後継ぎの事を考えられるほど彼は齢を重ねていなかったし、これまでも、これからもそれだけを繰り返そうと倫太郎は固く心に決めていた。

 ……一つの別離を経験してからは引き返せなくなり、よりその覚悟は強まった。

 だがこうして戦いが始まってしまった以上、土地の管理者として見過ごすわけにはいかない。これ以上逃げる事は出来ないのだ。

 

「……………………」

 

 やるしか、ない。

 緊張を隠せない面持ちで、倫太郎は長い木製の廊下を歩いていく。目指す先は書庫。立て付けの悪い扉を、彼は少し震える両手で引き開ける。

 暗闇の中、仄かな明かりが灯った。

 オレンジ色の光源が揺らめく。一般的な照明器具ではなく、堅物な父が取り付けた魔力動作式の照明である。

 

「うん……よし、準備は万全のはず」

 

 床一面に水銀で描かれた巨大な魔法陣の周りをあっちこっち這い回り、かれこれ五度目の確認を終える。

 英霊召喚に用いる陣は、それはもう完璧な仕上がりだった──というか、完璧でないと困る。

 緊張で汗ばんだ掌を拭い、倫太郎は陣の前に立った。

 召喚の詠唱は完璧に頭に叩き込んでいる。英霊を使役するに足る魔力量を持っているという自負もある。触媒こそ用意できていないが、それは他のマスターとて同じはずだ。

 後は魔力云々の話ではなく、英霊という存在を駒として使役する程の威厳があるのか──という話になるのだが、

 

(それについては、考えないでおこう……僕と気が合うような、そんな英霊が召喚される事を祈るだけだ)

 

 首を振って、倫太郎は陣を睨んだ。

 魔術を行使する事に対する恐怖を抑えつけ、気晴らしのように呟く。

 

「気乗りはしないけど、始めようか────」

 

 

 

 

 その頃──奇遇にも倫太郎と時を同じく、この大塚の地にもう一人、英霊の召喚を試みようとしている魔術師が居た。

 七人目のマスター。

 深くかぶったフードで顔をすっぽり覆い隠した、小柄な人影である。身長の話で言えば、同年代と比べても比較的小さめの倫太郎よりも僅かに背が低い。

 

「よしよし、これでよし……っと。準備万端ね。なあんだ、私だって意外とできるじゃない」

 

 魔法陣はつつがなく完成した。一仕事終えたという安堵感に魔術師は思わず気を緩めそうになってから、慌てて意識を改める。

 寧ろ、本番はこれからと言っていい。

 この聖杯戦争が突発的に開始されたものであるが故に、強力なサーヴァントを引き当てる為の聖遺物を用意する程の期間は与えられなかった。故に、如何なるサーヴァントが召喚されるかは全くの未知数。藁にもすがる気持ちで魔法陣の上に置いた某映画のパッケージも、果たして役に立つかどうか。

 ……この戦いには負けられない。

 彼女の為にも、彼女が大切に思う者たちの為にも。

 やや緊張の色を含んだ声で、その魔術師は言葉を紡ぎ始める。

 

「えっと、まず……そ、素に銀と鉄。礎に石と契約の大公……」

 

 ────同時刻。

 繭村邸にて、倫太郎もゆっくりと詠唱を開始していた。

 聖杯の助力を借りて、英霊の現界という奇蹟を彼らが起こすのを待ちわびるかのように、二人の周囲に満ちた空気が揺れ動く。

 

「降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」

 

 それぞれが描いた魔法陣が何度か妖しく明滅を繰り返し、烈風と共に輝き出す。

 その輝きは、奇蹟の前触れか。

 

満たせ(閉じよ)満たせ(閉じよ)満たせ(閉じよ)満たせ(閉じよ)満たせ(閉じよ)……繰り返すつどに五度。ただ満たされる刻を破却する」

 

 倫太郎が立つ薄暗かった書庫の中は、もはや真昼を思わせる程の光に満ち溢れ、風に煽られた冊子や本が壁に激突を繰り返していた。

 魔術を行使することに対する恐怖は依然として消えていなかったが、今更止められる訳もない。歯を食い縛りながら、倫太郎は全意識を魔力の循環に集中させる。

 

「「─────告げる!」」

 

 二人は告げる。

 未だ名も知らぬ英霊、遥か奇跡の担い手に。

 

「汝の身は我が元に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意この理に従うならば答えよ!」

 

 魔力が全身を駆け巡る感覚。

 倫太郎の背中に刻み込まれた繭村家伝来の魔術刻印は極限まで経路を循環させ、持ち主の身体を激痛で責め苛む。

 当然、痛みは簡単に恐怖へと変換された。かつてこれ程の魔力の蠢きを前にした事はない。平常時なら、とっくに倫太郎は魔術の続行を諦めていただろう。

 

(けど、僕はまだスタートラインにすら立てていないんだ。ならばこそ、こんな所で怖気付いてたまるか……‼︎)

 

 顔を顰め、目を苦痛に細めながらも、しかし彼は決して目を離さない。

 つまらないが、強い意地だった。

 この恐怖すら乗り越えられない臆病者など戦いに参加する資格すらない。途方も無い神秘の果てに待つ自らの契約者(サーヴァント)に、そいう言われているような気がしたのだ。

 

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七転──」

 

 もう一人の魔術師も、全く同じ感慨を抱いていた。

 少女は強い意志の篭った瞳を見開く。限界まで振り絞った自分の声に、絶対に「彼」は応えてくれる。その信頼を頼りに言葉を紡ぐ。

 駆け巡る痛みと閃光。暴力的なまでに空間を席捲する魔力の解放の中、少しも臆さずに見届ける。

 

 まごうことなき奇蹟の顕現──その瞬間を‼︎

 

「「抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ‼︎」」

 

 その日。

 豪雷に似た衝撃が、大塚の地に二つ轟いた。

 

 あれ程荒れ狂っていた魔力の暴風がぴたりと凪ぎ、静寂が訪れる。

 だが──。

 立ち込める白煙の奥に確かな気配が存在しているのを、二人の魔術師は同時に、明確に感じ取っていた。

 

「……我、此度聖杯の寄る辺に従い推参した」

 

 ふわりと揺れる日本古来の装束が、白煙の奥から姿を見せた。

 まず目につくのは長い黒髪に、人懐っこそうな瞳。思わず目を惹く端正な美貌。衣服は袴に着物、片手には扇子と、和風な出で立ちをした男である。

 その姿を見て、少女は確信する。

 ごく僅かな可能性の糸を手繰り寄せ、私は自分が考え得る限り最高の「魔術師(キャスター)」を召喚せしめたのだ、と。

 思わず頰を緩める少女に、彼は凄まじい存在感と魔力の重圧を伴ってなお軽やかに、誰何(すいか)の言葉を言い放った。

 

「よお、嬢ちゃん。君が僕のマスターやな?」

 

 

 

 

「──君が、マスター?」

 

 一方、倫太郎の側。

 彼は、呆然とその存在を眺めていた。まるで言葉を忘れてしまったかのように言葉が出ない。返答しようという意思はあっても、身体が追い付いていないのが理解できる。

 

「わたしは、アサシン。真名は……えーっと、『魔眼のハサン』。この度、召喚に従い推参したよ」

 

 擦り切れた黒衣を見に纏った少女だった。紫陽花を思わせる紫色の髪は長く、顔の半分は前髪に隠されている。目に包帯を巻いているせいでその瞳の色は見えないが、美しい顔立ちだということくらいは分かった。マントのように広がるボロボロに擦り切れた黒衣の下、体にぴったりと張り付いた黒装束が示す身体のラインが、彼女が女性である事を如実に知らせている。

 

「本当に……サーヴァント」

 

 実際に目にしたその姿に、倫太郎は自らの両手が震えだすのを知覚できなかった。一目見るだけで、彼女から溢れんばかりに発せられる神秘と威圧感を嫌という程に感じ取る。

 

(お、落ち着け、落ち着くんだ。まずは深呼吸して……よし。僕はマスターとして毅然とした態度を取ればいいんだ)

 

 一人慌てている倫太郎のささやかな決意もよそに、アサシンを名乗るサーヴァントは辺りを不思議そうに見渡し、

 

「まず……君に、一つ聞いておかないと」

 

「?」

 

 思い出したように暗殺者は視線を倫太郎へと戻し、両目を覆う包帯に手をかけた。

 その行為の意味が解らず、思わず疑問符を浮かべる倫太郎。しゅるしゅる、と解かれていく包帯を倫太郎が見守る中、ついに包帯が乱雑に取り払われ、

 

「君は……聖杯に、なにを求める?」

 

 赤と青の入り混じった瞳が。

 言葉と共に、姿を見せた。

 

「ッ⁉︎⁉︎」

 

 ──目が合った刹那、彼は殺された。

 

 余りに鋭い視線が皮膚を抉り、首を裂き、脳髄すらも捩じ切って、倫太郎の後頭部を抜けていった。

 身体がバラバラに千切れ飛んだような錯覚を感じ、不恰好によろめく。死を幻視する程に、彼女の眼は見ただけで「死」というものを連想させた。

 ……いや、あれは、「死」そのものなのか?

 震え上がらせるような恐怖が脳髄から爪先までを駆け抜け、倫太郎は鋭く息を呑む。全身に鳥肌が立ち、手足の末端が震えだす。

 そうして動けない間に、きちり、と音を立てて、鈍く光る短刀が喉元に突きつけられていた。

 

「………………ッ」

 

 恐らくこの問いは、主人の本質を見極める為の問いに違いない。

 繭村倫太郎という人間が、果たして仕えるに値する人物なのか否か。ここで下らない言葉を吐けば、倫太郎が令呪を行使するより速く、アサシンの刃が必ず自分の喉元を切断する。それどころか彼女の眼をもってすれば、一睨みで自分を殺してしまいそうだ。

 

(……な、なんだってこんなに運が悪いんだっ……)

 

 召喚早々殺されかけるサーヴァントなんてハズレ意外の何者でもない。混み合った事情から触媒を用意できなかった事が悔やまれるが、今更後悔しても後の祭りだ。

 

「こたえて」

 

 催促の声が飛ぶ。もはや猶予はあるまい。倫太郎は頰に冷や汗が伝うのを実感しながら、もはや取り繕う術もないと、本心のままを言葉に変える。

 

「ぼ……僕は土地の管理者として、この戦争の早期解決を命じられた者だ。君を召喚したのも、そんな義務じみた理由。聖杯を手に入れたら、なんて考えなかった」

 

 不気味に沈黙したままの暗殺者は、倫太郎を見据えたまま続きを待つ。今の発言が、問い掛けに対する明確な答えではないためであろう。

 

「けど……そう、だな……もし、聖杯を手にする事が出来たなら」

 

 倫太郎は考える。

 聖杯があったら自分は何をするのか。何をしたいのか。元より彼に命じられたのは「事態収拾」であって、もし聖杯を手にした時に何をしろとは言われていない。つまり、自分の好き勝手に使える訳だ。

 

「魔術師としては、根元──万象の始まりにして魔術師が至るべき到達点……に、至るべきなんだろうけど。残念ながら、僕にそんな資格はない」

 

 当然だ。己の魔術すら怖がるような臆病者に、根元に至る度胸がある筈もない。

 であれば何か。倫太郎を、最も苦しめている根本原因は。

 

「──なら、僕は勇気を望むよ」

 

「勇気?」

 

「……他人には隠し通してきたけど、僕は嫌になるくらい臆病だ。今だって、正直なところ君が怖い……自分の魔術を使う事すら怖いんだよ」

 

 自虐気味な声色で、倫太郎は続ける。

 

「それでも……僕は繭村家の長男として、立派な魔術師にならなくちゃならない。強くならなくちゃならないんだ。その責任を持って僕は生まれ、僕にはそれしか求められていない──その為に、僕は色々なものを切り捨ててきた」

 

 自分は魔術師。だからこそ、それ以外の生き方は許されない。

 それが倫太郎の根底にある大前提だ。「責務」という二文字にがんじがらめに縛り付けられた、繭村倫太郎という少年の考え方だ。

 魔術師として生きられないのであれば、己に価値などない。

 倫太郎は、本気でそう思っている。

 

「だから、聖杯には……僕に足りないものを望む。僕が求める強さに繋がる勇気を、責務を果たせるだけの勇気を、今までの犠牲を無駄にしないための勇気を聖杯に望んでやる」

 

 声高に言い切り、倫太郎は不安げに揺れる瞳をアサシンに向ける。

 一瞬で、途方も無く長い沈黙だった。

 固唾を飲んで返答を待つ倫太郎に対し、アサシンは妖しげに輝く瞳で彼の全身を眺め見て、

 

「……いい、感じ」

 

「へ?」

 

「きにいった。認めて、あげる……君はわたしの、マスターだよ」

 

 暗殺者から発せられていた殺意が搔き消えると同時、彼女の両目の輝きも消失した。アサシンは手慣れた動作で短刀を懐に戻すと、丁寧に包帯を巻き直す。

 戸惑い半分、安堵半分といった感情の中、倫太郎は思わず詰まった息を吐いた。

 

「どうやら君は、悪い人じゃない」

 

「そ、そうなの……かな?」

 

「殺さずに済んで良かった……じゃあ、いこっか」

 

「え? あ、ちょっと!」

 

 制止も聞かず、勝手に書庫から歩き出していくアサシン。目まぐるしく移り変わる展開に面食らいながら、倫太郎は彼女の背中を追う。

 

「ま、待ってくれよ! もう行く気なのか、何の策も練らずに⁉︎」

 

「サーヴァントに遭ったら、殺す。それを六回繰り返せば終わり、でしょ?」

 

「………………」

 

 絶句。

 まさにそんな言葉が相応しい表情を披露する倫太郎の前で、暗殺者は少しだけ楽しそうに夜空を見上げる。

 

「行こう。勇気が欲しいっていうのなら……ついて来ないなんて言わない、よね?」

 

「だ、だから待ってくれって! 君、アサシンだろう⁉︎ アサシンは他の英霊に比べると単純な戦闘力には劣るらしいし、姿を隠しての闇討ちが譲渡手段だ‼︎ なのに情報も何も掴まずに行動なんて──、」

 

 ヒュン、と風を切る音。

 それが鼓膜を刺激し、感覚神経を情報が走り抜け、倫太郎が音を理解した頃には既に、アサシンの短刀が首元まで迫っていた。

 なんという早業。どこから短刀を取り出したのも、どう動いたかも分からない。アサシンの姿がブレた。そう知覚した瞬間には、煌めく刃が再び首元にあった。

 

「ひ⁉︎」

 

「私を、甘く見ないでほしい」

 

 呟いたアサシンは短刀を器用に回転させて、黒衣の下へと潜り込ませる。

 冗談抜きに漏らすかと思った倫太郎は、顔を青くして硬直したまま、

 

「きっと大丈夫、だから。……ね?」

 

「そ、そんな事言われてもさあ…‼︎」

 

 掠れるような悲痛な叫びにも、この気ままな暗殺者はどこ吹く風だ。

 こんな常識外れなサーヴァントと上手くやっていけるのだろうかと、倫太郎は生まれて一番重たい溜息を漏らしたのだった。




【繭村倫太郎】
十五歳。繭村家19代目当主。アサシンのマスター。
稀代の天才であり、魔術回路の数は相当なもの。繭村に伝わる「熾刀魔術」の使い手だが、本人は魔術そのものを嫌っている。
容姿としては髪を纏められるくらいに長くして、弱々しい感じになった士郎みたいなイメージ。
【アサシン】
殺の英霊。目元を包帯で覆った、褐色肌の少女。
容姿はライダーさん(SN)と静謐のハサンを足して二で割ったようなイメージ。身長、年齢は静謐に近い。一番最初の原案ではモードレッドみたいな性格だった。あまりにもモーさん過ぎたので没に。
武装は投擲用の短剣数本、そして直接戦闘用の短剣一本。ズボラなので、某呪腕さんのようにこまめに使った短剣を回収したりはしない。莫大な倫太郎の魔力を拝借して、使うたびに新しく短剣を作成する。

〈ステータス〉
筋力D、耐久D、敏捷A+、魔力C、幸運D、宝具EX
〈保有スキル〉
気配遮断A(本人の矜持により使いたがらない)
投擲(短剣)C


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第六話 サーヴァント

『え 今日前田先輩の家に泊まるの?』

 

『うん。晩メシ作れなくてごめん』

 

『もっと早く言ってよー 歯ブラシは? 着替えとかはどうする気?』

 

『大丈夫 こっちでなんとかする』

 

『わかった。気を付けてね最近物騒だから。特に夜はあんまり出歩かないこと』

 

『はーい』

 

『文面で分かるくらい適当に返事しない‼︎ お兄ちゃん前田先輩とつるむとたまに悪ノリするから心配なの‼︎』

 

 ……メンドくさい流れに入ったので既読無視を決め込んで、スマホを雑にポケットに突っ込む。俺は現在妹の言う「物騒」の真っ只中にいる身なので、残念ながら彼女の忠告は手遅れだ。

 さて、俺とセイバーは夜の帳が下りた駅前広場のベンチに腰掛け、二人して夜闇を煌々と照らし上げる照明の輝きを眺めている。

 見るに、どうも人気が少ないようだ。

 この駅前広場は駅前を謳いながら少し大塚駅から距離があり、さしたるものも存在しないために普段から人気は少ないのだが、人影が一人も見当たらないというのは珍しい。今日は金曜日。待望の休み前だというのに、金曜の夜は必ず目にするような酔っ払い達の姿も街には無かった。

 街に蔓延る不穏な空気を人々も無意識に感じ取っているのだろうか。俺が変な違和感を感じ取ったのと同じように。

 ひゅぅっ、と熱気混じりの夜風が吹き抜ける。人気のない夜というのはここまで恐ろしく感じるものだっただろうか。何か背筋の後ろによくないものが張り付いているような悪寒が離れないが、幸い俺の横にはこのデタラメ魔王様がだらーんと座っている。

 

「ねえケント、妹さんに連絡は済みました? ……それならそろそろ動きましょう。これからの方針はどうします?」

 

「いや方針も何も、聞きたいのはこっちなんだけど。お前、今まで自分が何してきたか思い出してみろ? さっきまで遊び呆けてたじゃねえか、あっち行きこっち行き。そのせいで緊張感ってもんが完全に抜けたんだけど」

 

 あの「コーヒー飲んだセイバー激怒事件」からはや二時間。現在の時刻は早くも九時を回っている。

 マスターに平謝りしつつ、喫茶店「薫風」から出た俺は、セイバーと共に暫しの平穏を過ごした。と言っても、ふらふらと行きたい所に行こうとするセイバーに嫌々ながら付き合っただけなのだが。

 

「ったく、やれゲームセンター行きたいだのやれスイーツが食べたいだの。お前本当に英霊なのか? いやそもそも、聖杯戦争ってこんなに緩いもんなの?」

 

 この魔王様は行く先々で問題を引き起こそうとするので気が滅入る。メンドくさい王様を持つ従者はかように疲れるものなのか。

 

「まあまあいいじゃないですか。適度な息抜きは必要ですし。実は街を巡回しつつ、サーヴァントの気配を探っていたんですよ」

 

 「絶対嘘だろ」と俺が訝しげな視線を向けると、セイバーは案の定視線を逸らす。

 この短い付き合いの中でも、分かってきたことが幾つかあった。

 ──第一に、コイツは我儘である。

 面倒臭いのは言わずもがな。一応口調は丁寧で、思いの外俺には寛容な態度を取るが、あまり彼女の決定には逆らわない方がいい。

 ──第二に、甘い物が好き。

 時折うっかり魔王様に失言を述べようとも、近くに甘味があればどうにかなる。

 ──第三に、都合の悪いことがあるとすぐに目を逸らす癖があるらしい。

 あまりにも分かりやすいので、最初は噴き出しそうになった。

 それと、あとは──、

 

「な、なんですか。しつこいですよ視線が」

 

 ──認めたくはないが、非常に可愛い。

 髪色が目立つのでフードを被ってもらっているが、よく見てみると結構童顔で、幼さの残滓を微かに感じさせる顔立ちだ。頬の赤みがその可愛らしさを引き立てている。更に日本人では到底持ち得ない白い肌に、透き通るような蒼い髪。

 そんな風貌をしていながらぶかぶかな黒いジャージの上下を着ているのがアンバランスだが、それさえも不思議な魅力に変えてしまう程の雰囲気を彼女は纏っている。「魔王」という自称がアンバランスに思えてしまうくらいだ。

 

「ちょいと、聞こえてますかー? うーん、敵魔術師の暗示の魔術にでも引っかかりましたかね……いや流石にそんな馬鹿じゃないでしょうし……」

 

「うるせー。なんでもない」

 

「んなぁっ⁉︎ 人をじろじろ見ておいてなんなんですかそれは‼︎」

 

 愕然とした表情のセイバーから、知らん顔で目線を外す。

 コイツと居ると何故か調子が狂うのを自覚しつつ、すぐ近くの大塚ランドマークタワーを仰ぎ見る。上空四十メートルあたりの壁面に取り付けられた巨大電光掲示板は明確に今の時刻を表していた。

 

「あ。あそこは私が今日の朝に登った塔ですね。見晴らしも良く、風が気持ちよかったですよ」

 

「お前あんな所まで登ったの? なんで?」

 

「そりゃケントを見つけるためですよ。モノを探すには高い所から探す、こんな事も知らないんですか? つくづく無知ですね」

 

「俺も知ってるわ‼︎ その程度の知恵で堂々と胸を張んな‼︎」

 

 コノヤロー揉むぞ。……という冗談は流石に喉の奥に飲み込んでおく。この魔王サマの場合ワンタッチが何を引き起こすか分からないというのに、そんなセクハラ発言は自分からあのバーサーカーに飛びかかるに等しい自殺行為だ。

 ……下らないことから思考を切り替える。

 このふざけた魔王サマと一緒にいると危うく忘れそうになるが、今は「聖杯戦争」という名の殺し合いの真っ只中なのだ。やすやすと気を抜くことはできないって話。

 

「そういや……今は九時十二分か。聖杯戦争が始まるにはまだ早いんじゃないか? 昨晩みたいに、サーヴァントは人目につかない深夜戦ってるイメージがあるんだけど」

 

「いえ、その思い込みは危険ですよ。いつ如何なる時も聖杯戦争は続いているんですから、人気が無ければ昼間に襲撃してくる事もあり得ます。──まあ、警戒は怠っていないので安心して下さい」

 

「りょーかい」

 

 気の抜けた返事を返して、話を主題に戻す。

 

「さて、これからどうするかだけど。確かセイバーは、召喚される七騎の内じゃ「最優」のクラスなんだよな? なら適当に街を巡回して、出遭ったサーヴァントを逐次倒していけば……とはいかないか、流石に」

 

「ま、簡単にはいきませんよ。セイバーのクラス……要は私ですが、私は「最優」であっても、「最強」ではありません。バーサーカーの奇襲で前マスターを失ったのが良い例ですし、暗殺を得意とするアサシンなんて英霊も居るはずですからね。マスターを殺す戦法を取る陣営もあるでしょうし、私が相性の悪いサーヴァントが召喚されている可能性だってあります」

 

「相性が悪い……『こうかは ばつぐんだ!』的な? お前は魔王だし悪っぽいから、ムキムキなタイプは苦手なのか? 確かにあの英霊は筋肉すごかったような」

 

「はあ? 何を言ってるのか知りませんけど……例えば、そうですね。かつて私を殺した(・・・)奴とかですよ」

 

「──────」

 

 けろりと言われた言葉に、俺は思わず押し黙る。

 彼女が過去の英霊であり、魔王であるというのなら。それを討ち果たす勇者が存在するのは当然の話だ。そうでなければならない。魔王というのはいつか打ち滅ぼされるモノだと、遥か昔から相場は決まっている。

 ……まあ、それを認めたくはないが。

 

「こ、こほん。そんな黙らないでくださいよ、軽い冗談ですって。そんな奴がいたら不思議と感覚で分かるものですし、いまこの地にあいつ(・・・)は召喚されていないようです」

 

「ならいいけどな、そう物騒な冗談を言うんじゃねえ」

 

「反省はしますけど謝りませんよ、魔王なんで」

 

 また変な事を言ってやがるが、コイツの性格を把握し始めた今となっては返答するのも面倒なので置いておく。

 

「魔王……勇者に倒されるモノ、ねえ」

 

 言葉にしてみると、物言わぬ血塗れの死体と化した目の前の少女の姿が見えたような気がした。その目眩に似た瞬間的な光景を誤魔化すように、クラス毎の特徴でもざっと思い出す事にする。

 

「えー……また脱線したな。敵のサーヴァントは全部で六騎だっけ」

 

 まず、セイバーに匹敵する優秀な総合戦闘能力を誇る『ランサー』に『アーチャー』。

 多彩な宝具により、本体性能を遥かに上回る能力を兼ね備える『ライダー』。

 気配遮断の能力を持ち、闇から致死の一撃を加えてくる『アサシン』。

 与えられた陣地作成能力により、防衛戦に関しては比類ない力を持つ『キャスター』。

 無尽蔵の体力を誇り、理性を捨てて暴走する狂戦士『バーサーカー』。

 

「うーん。バーサーカーの奴、あいつは苦手ですねえ」

 

 まるで俺の思考を読んだかのように、セイバーが呟く。

 

「なんで? 確かにあいつはムキムキ系っぽいけど、それ以上に悪! って感じが強かったぞ。何も言わなきゃ奴が魔王って言われた方がしっくりくる……うん、やっぱりお前が魔王を言い張るのは無理がある気がする」

 

「魔王は私です‼︎ 失礼な‼︎」

 

「んじゃあなんで苦手なんだ?」

 

「……そもそも、あのバーサーカーは戦闘能力が異様に高いです。打ち合った際はバーサーカーらしく無茶苦茶な剣筋でしたが、基礎能力が高過ぎるせいで押し切られてしまうんですよ。重く、鋭く、何より速すぎる──タダでさえ強力な英霊が狂化によって更に強化され、手の付けられない次元に達してるんでしょうね」

 

「タダでさえ強い奴が更に強化ね……つまりはバーサーカーが最強って事でいいのか」

 

「そんな事ないですぅ。……私だって強いですぅ」

 

「けど負けてたじゃん、お前」

 

「……………………」

 

 事実を突きつけると恨めしげにセイバーが睨んできたので、慌てて視線を逸らす。どうやらそこには触れて欲しくなかったらしい。

 

「……もう一つ、奴を私が苦手とする理由があります」

 

「?」

 

「奴の剣ですよ。詳しくは判りませんが、バーサーカーが持つ剣は、かつて私を殺した剣によく似ている(・・・・)んです。だから攻撃は受けにくいわダメージは増加するわで、できれば戦いたくないですね」

 

 英霊の得手不得手というのは生前の逸話、本人が持つ属性等によって決定されるが、バーサーカーの「剣」は、セイバーという存在に効果覿面の性質を秘めているらしい。

 セイバー……魔王……殺す……となると、「魔王を殺す剣」とか?

 ゲームに登場するような石の台座に突き刺さった煌びやかな剣を連想してしまい、思わず苦笑する。昨晩の記憶にあるバーサーカーの剣の姿は、「勇者の剣」というよりも「魔剣」という表現の方が適切な代物だった。その刀身はドス黒い霧に覆われていて、輝きを放つ事は全くなかったと記憶している。

 

「じゃあ、バーサーカーにちょっかいは出さない方がいいのか……と言っても、奴の方から仕掛けてきたらどうしようもないけどな」

 

「まあ、打開策ならあります。バーサーカーの消費魔力は尋常ではありませんし、長期の戦いには向いていません。そうそう易々と動けないからこそあの夜は撤退してくれたんですし、あれ程の英霊を召喚している時点で、奴を使役している魔術師の魔力はどんどん吸い上げられている筈です。うーん、今頃地べた這いつくばって死にかけてるんじゃないですかね?」

 

「魔力……確かサーヴァントの栄養源だっけ。魔力が無くなると、人って死ぬのか?」

 

「栄養源って何ですか……まあ、魔力も元を正せば生命力ですから。生命力がすっからかんになったら人は死にますね」

 

「……あれ? じゃあ俺、死んでるのになんでお前に魔力を供給できてるんだ?」

 

「そこらへんは私もよく分からないんですが……多分、身体の生死は関係ないんじゃないですか? 身体よりも魔術的要素を多く含む魂が残っている限り、魔力の精製は可能みたいですね」

 

「あー。なるほどね、うん。理解した」

 

「絶対理解してませんよね……」

 

 呆れたように言うセイバーの顔をまじまじと見てから、ふと俺は思い出す。

 

「そういや……やっぱ、セイバーの本当の名前は教えてくれないのか?」

 

「残念ながら教えません。魔術抵抗力が皆無のケントでは他の魔術師に容易く情報を抜き取られてしまいますし、なにより私が言いたくないです」

 

「言いたくない、ねえ。まあ、嫌なら無理強いは避けるけどさ」

 

「それに、どうせ知らないと思いますよ? 私、この極東じゃ知名度ゼロですから」

 

「へー……まあ、そういう事ならしらないかもな」

 

 このように、セイバーは自らの情報を極端に秘匿しようとする。だが彼女に少し拗ねたような口調で嫌だと言われると、追求しようにもする気が起きない。

 とはいえ真名の露見はサーヴァントの情報漏洩に繋がり、それは聖杯戦争の勝敗に直結するため、基本的には避けるのが筋だ。彼女がほとんど一般人の俺に不用意に真名を伝えたがらないのも頷けるだろう。

 

「ああそうだ、もういい加減に話を今後の方針に戻すけど……やっぱり難しいな。下手に動き周るのも危ないし、かといって弱気になりすぎたんじゃ、いざって時の敗因に繋がる」

 

「はん、全く。ケントはまだ、自分にしか無い利点を把握できていないんですか」

 

 そこはかとなく馬鹿にされている気配を言葉から感じ取り、隣のセイバーをじろりと睨みながら、

 

「俺にある利点……これでも喧嘩は得意だぞ。昔親父にひたすら格闘術を叩き込まれたからさ、並の奴には負けないと思う。それに格闘術っても柔術とか護身術とかじゃない、正真正銘のヤバい奴ね。骨とか容赦なく折る感じの……」

 

「いやいや、なんで教わったんですか。そんなの」

 

「いや……あれ? そういや、なんでだったかな。なんか途中で『必要なくなった』とか言われてそれきり鍛錬はしてないんだけど」

 

 思わず記憶の糸をほどき始める俺に、

 

「馬鹿ですね。自信があるのかしりませんけど、所詮ケント程度のチンケなパンチが役に立つわけないじゃないですか。よく考えて下さい。ケントは魔術師ではありませんが、しかしそこに強みがあります」

 

「それは……えー、どういう事でしょうか、魔王様?」

 

「そもそも、原則として聖杯戦争は魔術師同士の殺し合いです。つまり他のマスター達は、必ず他の魔術師を捜そうと躍起になっている。……事実、この街には現在、山ほど魔術師が溢れかえっていますからね。私がひと睨みしたら逃げていきましたが」

 

 それは実に遠回しな言い方だったが、漸く俺にも合点がいった。

 

「……そうか、つまり」

 

 大前提として、俺はあくまで一高校生に過ぎない。

 魔術は使えず、知識もない。

 不幸にも巻き込まれただけの人間だ。

 だがそれは、言葉を返せば、どこからどう見ても一般人にしか見えないという事でもある。自らの情報を秘匿し、他マスターの動向を慎重に探る事が求められる聖杯戦争に於いて──これは、俺だけが持つであろうアドバンテージであろう。

 

「即ちケントが寧ろ家から姿を消したり、学校に通わないといった不自然な行動を繰り返せば、それは逆に自らの首を絞めているのに等しいのです」

 

「……って事は、こうして俺がセイバーと行動してるのもまずいんじゃ?」

 

「そうですね。私達が取るべき最善の行動は簡単です。互いに無関係を装い、無視を貫けばいいんです。ケントは私が最後の一騎になるまで、日常に立ち戻ってくれていればいい」

 

「じゃあなんで、お前の物見遊山に俺を付き合わせたんだよ。サーヴァントに出遭ったら俺がマスターってバレるじゃねえか」

 

「それは、私が気分的にそうしたかったからそうしたまでですけど? 私は魔王ですから、好きなままに好きな事をするんです」

 

「ああ、そういうヤツでしたねお前は……」

 

 思わず嘆息してから、押し黙る。

 それは、セイバーの物言いに呆れたというより、湧き上がった不安によるところが大きかった。

 ──理解しては、いる。

 それは俺の安全を確保し、セイバーを気兼ねなく行動させられる、実に合理的な作戦方針なのだと。俺がセイバーに付いていた所で、お荷物にしかならないことは目に見えている。けれど効率とかそんなものを一切合切無視して、何故か別行動という案に対して首を縦に振る事ができない。

 

「何か不満ですか?」

 

「いや、まあそうなんだけど、なんでだろう。理由が説明できない、なんだかモヤモヤしてて。……お前一人に任せきりってのは、その……」

 

「私に一任するのが不安だというのなら、理解できます。実際、私は前マスターを失うという失態を晒しているんですし」

 

「いやそういうんじゃないんだけど……ん? 今セイバー、謝ったのか⁉︎ お前が⁉︎ ……大丈夫か?」

 

「大丈夫ですよ! あくまで客観的に、ケントの視線から私を見つめただけです‼︎ 私の事をどう考えているんですか‼︎」

 

「なんてったって自称魔王だし、何をしても自分が悪いとは思わない奴なんだろうなあ……と思ってた」

 

 思わず声を掛けると、セイバーは憤然と「自称じゃないです」と呟いてそっぽを向いた。

 心の中で渦巻く感情の仔細もよく判らないまま、苦笑して椅子の背もたれに背中を預け、思い切り背筋を伸ばす。

 

「ま、不満なら不満で構いませんけど‼︎ 幾つも勢力が入り乱れるような混乱した戦況では、私の隣が一番安全だという見方も可能ですし‼︎ バーサーカーのマスターがケントの生存を知ってしまう可能性もありますし‼︎」

 

「ごめん、俺が悪かった……ともあれ俺は、お前の隣にいるよ。お荷物かもしれないけど、お前を一人にしてしまうのはなんか不安だし」

 

「ムスッ」

 

 一悶着あったが、俺とセイバーの行動方針は行動を共にする方針に着地したらしい。まあその方が孤独からくる恐怖も少ないし、メリットも色々あるだろう。

 ただ、魔王様が機嫌を損ねたままだ。

 

「……あー、魔王様。この愚かな私めが不敬を働いた事は心の底から謝罪致しますので、どうかご機嫌を治して頂けると幸いです」

 

「嫌です」

 

 駄目だ、こちらを見ようともしない。

 目上に敬う作戦は敢え無く失敗に終わった。

 だが俺とて人間だ。失敗から学び、成功へと日々進歩する。俺はこのすぐに機嫌を損ね、一度街に出れば我儘の限りを尽くす魔王の扱い方を、しかし着実に覚え始めていた。

 

「……セイバー、またアレ食べたい?」

 

「それなら考え直さないこともありません」

 

 甘いもので釣ると呆気なく成功した。この魔王、扱いにくい様に見えて実はチョロいんじゃなかろうか。

 俺が口にした「アレ」とは、夕飯に入ったファミレスで散々ゴネられた挙句俺が注文を余儀なくされた高級パフェの事だ。甘い物に目がないらしいセイバーは、これを大層お気に召されたのである。

 結果として俺の夜飯はセイバーのパフェ一つ分の値段よりも安いサラダになってしまったが、ファミレスで先のように暴走されるよりかはマシであろう。

 

「そうだな、今度はイチゴじゃなくてバナナパフェにしたらいいんじゃないか」

 

「いや、バナナはちょっと……軽いトラウマというか、苦手なんですよね」

 

「英霊も好き嫌いはするんだな……。ま、パフェはまた今度にするとして。どうする、セイバー」

 

「聖杯戦争の仕組みなど、色々と説明したので忘れていましたが……私の戦闘能力(スペック)についても、さらりと説明しておきましょうか。詳しい事は言えませんが」

 

「じゃあそれでよろしく」

 

「ケントは……私を見て、何か感じませんか? 大まかな能力値が読み取れるような」

 

「能力値? 読み取る? 何言ってんだ、ゲームじゃあるまいし。そんなの何も見えないぞ」

 

「あー……もういいです。自分で話しますから」

 

 セイバーはそんな事を言うと、さも当然とばかりに右手を宙に伸ばした。

 不可解な行動に思わず首を傾げる。そんな中、空間が割れるように虚空から眩い一筋の銀光が漏れ──、

 

「では。まずこれが私の武器です」

 

 次の刹那。一陣の風が吹き抜けたかと思うと、うざったいどや顔を浮かべる彼女の掌の中に一振りの曲刀が握られていた。

 

「いやいやいや私の武器ですぅ、じゃないからああ⁉︎ なんでこんな場所で堂々と剣を出してるんですかねこの非常識魔王は……⁉︎」

 

「落ち着いてくださいよ。別にいいじゃないですか、周りに人はいませんし」

 

 慌ててセイバーの姿を隠そうとした俺が落ち着いて辺りを見回してみると、なるほど確かに、周囲に人影は無い。

 だからって──と顔を顰めるも、今更この魔王に常識を説いた所で意味がないのは百も承知だ。

 

「はあ……頼むから人前で出さないでくれよ、ソレ。もしお前が警察に捕まっても他人のふりするからよろしく」

 

「私がケーサツなんかに捕まると思ってるんですか? サーヴァントが現代の治安維持機構なんぞの世話になる訳ないじゃないですか、霊体化だって可能ですし」

 

「いや、お前みたいなバ……破天荒な奴がいるんだから、多分警察に捕まるようなサーヴァントだって一人くらいいると思うよ、俺は」

 

「今なんて言おうとしました?」

 

「いや何も」

 

 目線を再度その刀身に戻す。

 改めて見ると、芸術的なまでの美しさと、身震いするほどの獰猛さを併せ持った剣だ。幅広の刀身は少女の髪に似た蒼色。

 だが驚くべき事に、その刀身は半透明に透き通っていて、降り注ぐ月光を幾ばくか内部に溜め込み、乱反射させて幻想的に輝いていた。ガラス質にも見えるが、その強靭さはガラスの比ではない。なにしろこれは魔王の武器なのだから。刀身の右側、刃から切っ先に掛けての滑らかな曲線は、思わず嘆息してしまいそうな優美さを湛えている。

 思わず辺りに気を配る事も忘れ、俺は食い入るようにたっぷり数秒間もその剣を見つめていた。

 

「私の今のクラスは剣士(セイバー)ですから、持ち合わせている武装宝具はこれだけです。もう一つはケントの体内に霊子化して埋め込んでありますし、実質一つですね」

 

「……へえ。すごいな、これは。剣について詳しい訳じゃないけど、これが想像を絶する逸品なのは分かる。なんというか、圧で」

 

「ふふふ……さしものケントも、この輝きには目が眩みますか。詳しい事は言っても分からないと思うので割愛しますが、とにかく神様が作った超強い剣とでも思っておいて下さい」

 

「うーん、いまいち釈然としないけど、まあそれでいいか」

 

 セイバーの掌の中で、奇蹟の刀身は淡い光となって消えていった。二人してその残滓を最後まで見届けてから、セイバーが上半身を捻ってこちらに向き直る。

 

「では次に、ケントが現在所有している宝具について……と言いたいところなんですが、空気の読めない不埒者が現れたようですね」

 

 言葉の真意を測りかね、首を捻る。

 

「この辺りには俺とお前しかいないんだろ?」

 

 その言葉を口にすると同時、生暖かい夜風が無人の駅前広場を吹き抜け、何かの到来を継げるように俺たちの背筋を撫ででいった。

 そんな中、セイバーはくりんとした瞳に険しい表情を乗せ──、

 

「いえ。確かに人は居ませんが……私の後方に一騎。サーヴァントです」

 

 そう、淡々と戦いの幕開けを告げた。




【志原健斗】
普通の高校生改め、セイバーのマスター。
身体は死亡しているが、魂が残留しているので、「生きてもいないが死んでもいない」という微妙な状態にある。一応、身体の感覚は残っている模様。それつまりゾンビなんじゃないの? と言われると怒る。何故か魔術回路の質が非常に良く、セイバーの魔力消費をもカバー可能。


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第七話 盗んだ自転車で走り出せ

「え…………」

 

 サーヴァント。その言葉に、俺は思わず背後を振り返った。だが背後にはシャッターの閉まったビルが聳え、何も見通せない。

 サーヴァントの気配……至近距離で気配を発せられれば、流石に俺でも「何かヤバい奴がいる」と判るのだが、流石に二百メートルもの距離が開けばその気配を少しも感じ取れない。

 だがセイバーは感じ取っているらしく、険しい表情のまま俺が目線を向ける方向を睨んでいた。

 

「マジかよ……もうこっちに気付いてるのか?」

 

「間違いなく。数分前から、奴は私の探知範囲の境界付近を彷徨いています──それもわざわざ霊体化を解いた上で。まず間違いなく誘っています」

 

「へー、探知能力まで……お前、結構役に立つんだな」

 

「当たり前じゃないですか私を誰だと思ってるんですか‼︎‼︎」

 

 顔を真っ赤にして怒るセイバーだったが、流石に戦闘前は怒ろうとも怒りきれないらしい。例の暴風と雷が巻き起こっていないのがいい証拠だ。

 彼女は呆れたように一つ嘆息してから、子供っぽい童顔に見合わぬ鋭利な視線を肩越しに背後に向け──、

 

「この場所は人が多すぎます。少し駅前から離れたのち、戦闘を開始します」

 

 二人して立ち上がり、セイバーの先導に従って駅前から離れる。

 ここ「大塚市」は、市を南北に貫く国道と発達した駅ビル街を中心として発展してきた地方中心都市である。

 俺の家や鷹穂高高校、森林公園が存在する市の東部は、山を切り開いて住宅地開発が進んだ甲斐あって人口密度が高い。

 だがそれに反し、市の西側──日本でも有数の面積を誇る広大な「龍神湖」に接する西部は広大な田園地帯が主となり、人口密度がぐんと下がる。開発計画に置いていかれた廃墟なども散在する、聖杯戦争にはおあつらえ向きの地域だ。

 よって戦うなら大塚市の西が主な戦場となるんだろうなあ、と密かに考えていたのだが、こうして言いそびれてしまった。

 

「しかし……どこにいるんだ……?」

 

「あまり周囲を見ないで下さい。下手に刺激すれば、最悪この辺り一帯が更地になりますよ(・・・・・・・・)。前回もそうでしたからね」

 

「…………そうかよ」

 

 周囲には高層ビルが無数に存在している。これらを人間が一つ潰すだけでもとんでもない費用と労力を要するだろう。

 だが奇跡の担い手たるサーヴァント達にかかれば、これらを数秒単位で灰燼に変える事すらも可能なのだ。人が必死に創り上げたモノが如何に脆いのかを実感させられたような気分。全くもってデタラメである。

 

「ここから西に移動します」

 

「……西側に向かうのは、やっぱり人目を気にする必要が少ないから?」

 

「そうですね。あとここらを抜ける前に、できれば一つ手に入れておきたい物があるんですが……選り好みはしてられませんか」

 

 セイバーは抜け目なく、歩道にいくつか違法駐車されている自転車に目を向ける。チラチラ車道を走るバイクを横目で見ているあたり、本当のお目あてはバイクだった模様。

 そこはかとなく嫌な予感を感じつつ、セイバーを見守る俺。

 しばらくして彼女はその内の一つ、何の変哲も無い銀色の自転車の前で立ち止まった。後輪の荷台に前輪の荷物籠と見てくれより実用性重視のありふれた自転車だが、綺麗に磨きぬかれたボディからは持ち主の自転車に対する愛情が伝わってくる。

 だが不幸なことに、それは魔王の目に留まってしまった。御愁傷様。

 

「い……よっと」

 

 バキン、という硬質な音が響く。何の苦労もなく、一瞬でセイバーは鉄の錠を容易く切断してのけた。

 どうやったんすか、という疑問は、人前で堂々と犯罪に及ぶ彼女の非常識さに対する驚嘆に塗り替えられる。

 

「よし。さあ、乗ってください」

 

「………………いや乗ってください、じゃないからァ‼︎‼︎ なに堂々と窃盗罪かましてるのお前‼︎⁉︎」

 

「フン。魔王の行いを法なんてくだらない物で縛ろう、というのがそもそも間違っているのです」

 

「フン……じゃないから。何百何千年も前の古い人間にはちょっと難しい話かもしれないけどな、今の時代には法律っていう遵守すべきものが」

 

「あーもう時間無いので早く座ってください。あとその発言覚えといてくださいよ、後で五千倍にして返しますからね」

 

 とまた怖い事を述べつつ、彼女は自転車の荷台を指先でとんとんと叩く。

 ひとしきり騒いだ事もあり周囲の目が痛いので、速やかに二人乗りへ移行。出発。セイバークラスに与えられるという「騎乗」の能力は自転車にも適応されるらしく、彼女は不自由なく、すいすいと夜の街を走っていく。

 

「……もう窃盗罪とか常識とかどうでもいいか……で、敵の気配は?」

 

「そうそう、何事も諦めが肝心ですよ。そして敵サーヴァントですが、ぴったり二百メートル後方をついて来てます。恐らくあと数分も走れば戦闘が始まりますから、そろそろ覚悟を決めて下さい」

 

「覚悟なんて、してなきゃこうしてお前の後ろに座ってないって。最初の時共に戦ってくれますか、とかなんとか言っておいて何を今更」

 

「ああ、そういえばそうでしたね。勢いで言ってみたものですから忘れかけてました」

 

「……お前、気をつけろよ? そうやって深く考えずにモノを言うと後で後悔するぞ」

 

「精々気をつけますよ。あと更に言えば、私はケントの答えをまだ聞いていません。──結局ケントは、私と共にこの戦いに臨んでくれるんですか?」

 

 セイバーは、以前として前を見据えたまま問い掛けてくる。その視線の見据える先には何があるのかさっぱり読めない。何が待ち構えるのか、俺たちの最後はどうなるのか。

 不明瞭な事ばかりの現状で、俺は彼女と共にその未知へ挑む覚悟を持ち合わせているのかと自問する。しばらく間を置いて、考え込んで──、

 

「当然だ」

 

 それでも、やはり揺るがぬ答えを口にした。

 

「お前みたいなやつを一人で放っておいたら、どこで何をしでかすかわからないし……色々心配だしな。不本意だけど、ここまで来たら最後まで付き合うよ」

 

 短い掛け合いを経てセイバーが笑う。だがそれは嘲笑ではなく、もっと心地の良い笑いだった。

 

「はは……ちょっと腹立ちますけど、その覚悟に免じて許してあげましょうか」

 

「それはどうも。しかし、なんで自転車?」

 

「背後の相手の気配……感じた覚えがあります。恐らく相手は騎兵(ライダー)。ケントを連れて戦うとなると、この二本の脚だけでは不十分ですね」

 

「ライダーって、「騎乗」の能力に優れたサーヴァントだったっけ? 確かお前にもその能力はあったと思うけど、どう違うんだ?」

 

「いくら「騎乗」の能力があるとはいえ、今の私には剣しかありませんから、機動力という点で奴に大きく劣ります。そこでこのような乗り物が必要になるわけです」

 

「乗り物って。これさ、自転車だぞ? こんなのでサーヴァントとかいう連中に対抗できるのかよ」

 

「いいんですよ。どうせ何でもいい(・・・・・)んですから」

 

「……?」

 

 夜の風を裂きながら、自転車は速度を緩めずに夜灯の下を疾走する。

 次第に、人の気配が減り始めた。

 駅前ビル群から抜けるのが早い。それだけセイバーの運転が達者なのだ。安定した挙動で、顔色一つ変えずにゆっくりとペダルを漕いでいながら、その速度は既に時速50キロに届こうとしている。

 

「やあ。また会いましたね、セイバー」

 

 ──と。

 空間全てを震わせるような、それでいて落ち着いた声が俺とセイバーの耳朶を打った。

 それを聞くや否や、セイバーは背後を振り返りもしないままに叫ぶ。

 

「フン、一度私の前から逃げ出した痴れ者が。わざわざ殺されに来たんですか?」

 

「いえいえ、死ぬつもりは毛頭ありません。マスターに貴方の生存を確認するよう言われたので来てみたんですが──成る程、これはまた随分面白い状況のようだ。一難去って結果良し、といったところでしょうか?」

 

「……マスター共々何をコソコソ企んでいるのか知りませんが、いちいちうざったい物言いですね。貴様は特に気に食わない」

 

「同族嫌悪でしょう、それは。……しかし魔王よ、暫しお待を。じき、貴方の苦手な「この口調」も変わりますので」

 

 ──随分と落ち着いた声だ、という印象を受けた。

 セイバーの方はやけに殺気立っているのに対して、ライダーの方はとても殺し合いを始める前の声とは思えない。が、後方から発せられる尋常な存在感だけは本物だ。

 殆ど灯りも消え、ちらほら見えていた民家も置き去りにした。両脇には田畑が広がり、コンクリートで舗装された一直線の道は農道じみた様相を呈している。

 

「さて──前回と同じ場所で争う事になりそうですね。前は決着を付けられませんでしたが、今度は最後まで殺し合いたいものです」

 

「………………」

 

「ああ。それはそうと、セイバー。貴方は話し方をがらりと変えましたね。まさか貴方が一般人に敬語を使うとは驚きました」

 

「いちいち煩いですね。そういう気分なんですよ、今は」

 

「ですがそれでは、とてもかの魔王の口調とは思えませんが──なるほど、どうやらその少年に関係があるらしい。仔細を尋ねるのは野暮でしょうか」

 

 口調は丁寧だが、その声色には明らかに嘲弄が含まれている。

 マズイなあそんな事言ってたらコイツ絶対ブチ切れるよなあ、と俺が思った通りに、セイバーの肩が怒りで震える。

 

「……決めました。まず貴様の矮小な四肢を残らず引き千切って、喉から腹まで串刺しにしてから全身丸焼きにして殺します。ゆっくりゆっくり、自分から死にたいと思うくらい丁寧にね」

 

(俺を挟んでそんな怖い会話をしないでくれ)

 

 そんな事を思いつつも、口を挟み辛い緊張感が漂っているので、黙ってセイバーの背中にしがみつく。

 前門の魔王、後門の騎兵。こんな調子で後ろのライダーがセイバーを煽り続けると、そのうち俺ごとセイバーが背後を吹き飛ばしそうで怖いが──、

 

「ライダー。いつまでも喋っていないでとっとと本性を現したらどうですか?」

 

「ふふ、そうですね。……貴方の殺気を感じとったか、僕の内で滾る闘争心もそろそろ抑えられそうにない──」

 

 その言葉を皮切りに、後方で蠢いていた存在感の性質が異質に変貌する。まるで死神がすぐ背後に忍び寄ってきているかのような恐怖が背筋を撫でる。

 この尋常ならざる殺気こそが、英霊たちが持つ「圧」。殺気に当てられただけで観念しそうになるが、俺の前には一応頼れる魔王がいる。

 

「ケント。ここから先は英霊の戦い、ヒトとは次元を分かつものの激突です。しっかり捕まって、決して離れないようにしてくださいよ」

 

「一応聞くけど、もし離したら?」

 

「多分……ですけど死にます。黒焦げになって」

 

「俺はもう死んでるんじゃないのか」

 

「完全に死ぬってコトですよ。多少の外傷なら治癒しますが、心臓に埋め込んだ宝具にダメージが及び、機能が阻害されればケントの魂は霧散しますから。もし死にそうになったら、とにかく心臓を守って下さいね」

 

「えーっ……無茶言うよなあ、ほんと」

 

 ギュンッ──‼︎ と、セイバーが空気を全てエンジンと変えたかのように突如として加速した。時速70キロ、90キロ、120キロ──止まらない。不気味な夜を吹き抜ける風となって、彼女は更に加速していく。

 駅に向かう数人の通行人がギョッとして立ち止まるのが引き伸ばしたように流れていく風景の中に見えたが、今更気にしても仕方がない。

 その頃にはセイバーはお気に入りのジャージ姿ではなく、見覚えのある漆黒の鎧を纏っていた。たなびく長髪が魔力により編まれた紐で一纏めに結ばれ、ポニーテール状に纏められる。今更ながら、コイツが戦う時は髪を結ぶんだな……なんて事を俺は知ったが、そんな事に気を向けるほどの余裕は無かった。

 

「ハハッ。そんな玩具で僕に対抗しようとは、流石に安く見られたものですね」

 

 その声は一般的な自動車の限界すら振り切った速度を出しているというのに、一向に離れようとしない。余裕すら伴った声色は驚くほど近くから聞こえ、ぞっとするような悪寒が全身を駆け巡る。

 

「うわ────ッ⁉︎」

 

 あまりの近さに思わず首を捻って後方を確認しようとした刹那、閃光が炸裂した。

 視界に、ただただ「紫」が見えた。数えるのも馬鹿らしい数に枝分かれした紫電が、一斉に雷撃の矛をこちらに向けて飛んでくる。

 ──対するは、「蒼」の煌めき。

 セイバーは片手に剣を出現させると同時、渾身の力で斬り払った。

 俺の頰の横数センチを魔王の剣が駆け抜ける。剣戟はそれだけで斜め一文字の衝撃波を生み、雷撃の矛は一つ残らず搔き消えた。

 

「────ケント、来ます‼︎」

 

 だがそんなのは前哨戦にすら及ばない。

 雷雲が巻き起こったのかと錯覚するほどに凄まじい雷鳴が轟く中。圧倒的な威圧感を伴って、「ソレ」は悠然と姿を顕した。

 

 

「く……はっ。ぎゃは、あハ、はははははははははははハはははははははハハははははははははははは────‼︎」

 

 

「っ⁉︎ な、んだ……あれ⁉︎」

 

 ライダーの声、それに含まれた雰囲気ががらりと変わる。理知的な声色から残虐な声色へと変化する。

 頰を叩く烈風に顔を顰めながら、俺は見た。

 

 闇に浮かぶ、戦車──。

 

 そうとしか言い表せない異様な巨影を。

 一頭の軍馬が玉座を模した戦車を牽き、魔法のように宙を駆ける。蹄が空間を蹴り飛ばす度に獰猛な雷光が蜘蛛の巣状に迸り、夜の闇を明るく照らし出していた。

 そして、それを駆るは一人の少年。

 

「いいよ、ノッてきたノッてきた。やはりテメェの相手は滾る‼︎ 血が疼く‼︎ 悲鳴を求めて身体が叫ぶ‼︎ また凄惨に潰し合うとしようか、魔王ォォォォォォォ────‼︎」

 

 逆立つ金髪が烈風の中にたなびいている。

 彼の身体は目を疑うほどに小さかった。小学生程にも見えるが、長い前髪の間から覗く双眸は悪魔と見紛う程に鋭い。容姿の幼さなんざなんの油断材料にもならない、と瞬間的に悟った。

 肌の色は透き通るような白。吊り上がった口の奥に見える鋭い犬歯は、その獰猛さを如実に表している。

 

「いいでしょう。()くぞライダー、その身に魔王の畏怖を刻んでやる」

 

「上等だ。悪鬼羅刹を束ねしその滅刃、果たして俺に届くかな‼︎」

 

 滾るように張り上げられた声と、凍てつくように冷たい声。対照的な両者の宣言が激突し、それは開戦の鐘となって夜の闇に木霊していく。

 

 

 

 

 一方、大塚市の西端──。

 

 月光に照らし出された龍神湖のほとりに、静謐に佇む鉄塔があった。

 かつては電波塔か、それに似た役割を果たしていたのだろう。

 しかし現在、時代の流れに忘れ去られたソレは死した巨人の骸の如く聳えるのみ。錆びついた身を風雨に晒しながら、崩壊の時を待つ事しか許されない。

 その寂れた頂点に、一人の人影があった。

 三十歳前後程度と思われる、剛毅な風貌の男だ。短く刈られた髪と、太い眉は暗いグレー色。両眼の鋭さは猛禽類のそれを思わせる。

 彼は鉄塔の頂点の僅かなスペースに仰向けに寝そべり、無骨な木と鋼の塊──およそ3フィート3インチにもなる時代遅れな狙撃銃(・・・)を構えていた。

 

「……………………」

 

 黙したまま、男はスコープを覗く。

 周囲の光源は月光と星の光のみだが、彼に暗視スコープ等は必要ない。彼にとっては、ライフルに備え付けられたこの高倍率スコープ一つだけでも十分過ぎる装備である。

 彼は天に与えられた両眼でもって、約十キロ先の二つの影を正確に捉えていた。

 真っ直ぐに伸びた農道を西(こちら)に向けて疾走する二つの影。

 速度から考えるに、数分でこの湖岸まで到達するだろう。

 一人はライダー……こちらは判りやすい。

 宙を疾る馬を駆り、戦車に腰掛けた英霊がライダーでない筈がない。

 そしてもう一人はセイバーと思しきサーヴァント。何故か自転車に跨り、背にマスターと思しき少年を乗せている。とはいえたかが現代の乗り物であれだけの動きを披露している以上、『騎乗』の能力に恵まれた剣士である事は明白だった。

 

「チ、二騎か……面倒だな」

 

『仕掛けられますか?』

 

 念話で伝わってきた平坦な女の声を聞きながら、男は逡巡する。

 前提として、あの二騎はこちらの存在に気付いていない。

 夜の闇、決して弱くはない風、そして差し渡り十キロ以上にも渡る長大な距離。それらの要素を全て噛み砕き、吟味した上で、彼はこう結論を下していた。

 狙撃により一騎を仕留める事は、造作もない──と。

 ……あり得ない事だ。

 スナイパーライフルは基本的に二百から八百メートル程度の狙撃に運用される。よくて一キロを超える程度。しかし、標的までの距離は実に十キロを超えている。馬鹿げた数字だと評する他ない。

 幾ら次第に接近してくるとはいえ、時速200キロに迫る速度で動く標的を撃ち抜く事がどれ程困難かは想像に容易いだろう。

 

 ──だが、出来るのだ。

 生前の絶技を以って「英霊」にまで昇華した彼の肉体は、人には成し得ない奇跡の次元へと足を踏み入れるのに十分足りている。

 

「駄目だな、引き上げる。今晩は無理だ」

 

 が、彼は苦い顔でそう言った。

 彼が攻撃を諦めた理由は、敵がサーヴァントの中でも一際機動力に優れた二騎だという点に終始する。

 仮に狙撃でどちらかを仕留めたとしても後、もう一騎は必ず狙撃の位置を把握し、こちらに向かってくるに違いない。

 他のサーヴァントならまだしも、敵はセイバーとライダーである。

 単純な強さもあるが、それ以上にあの二騎は機動力に長ける。逃げ切るのは困難であり、位置の割れた狙撃で俊敏な彼らを捉えることは不可能だ。

 狙撃手(かれ)にとって自らの位置を把握されるのは敗北に等しい。これが親しんだ雪原の戦場ではなく、サーヴァントという人外の存在同士の殺し合いならば尚更の事。

 ──故に、狙うは一撃確殺。

 追撃をも許さぬ問答無用の狙撃で強引に片をつけるのが信条の彼にとっては、今の状況は手を出せるものではない。無防備な英霊二騎を前にして微かにトリガーを引きたい衝動に駆られたが、首を振って狙撃銃を抱え上げる。

 

『了解しました。では、速やかに離脱を』

 

「ああ、そうさせてもらおう」

 

 離脱の前に市販の煙草に火を付け、鉄塔の上で紫煙をくゆらせる。

 その姿は降り注ぐ星の光も相まって中々様になっていたが、彼の生真面目なマスターが見れば怒りを露わにした事だろう。戦場で何を呑気な、などと言うに決まっている。

 

(実際、戦場で余裕を保てない奴ほど真っ先に死んでいくんだがな。しかし、狙撃しか能のない自分では、正面からサーヴァントと戦ったところでまともな勝機はない……か。やれやれ、とんでもない戦場に呼ばれたものだ)

 

 惜しい状況に嘆息しつつ、吸殻を鉄塔の錆びた鉄板に押し付けて、身体を霊体へと変化させる。離脱する以上、彼らの戦いに巻き込まれてはたまらない。

 

「まあ、精々遠くから見物させてもらうとしようか」

 

 少しだけ愉しそうに嘯きながら、その英霊──弓兵(ガンナー)は、溶けるように闇に消えていった。




【自転車】
普通の通学用自転車。戦闘には向かない。
【大塚市】
第六次聖杯戦争の舞台。ありふれた地方都市。西の端は広大な「龍神湖」に接しており、自然が豊かな事で知られる。
〈東部〉
住宅街。健斗の家、喫茶店「薫風」、鷹穂高高校、森林公園がある。
〈中心部〉
大塚駅と、それに隣接するビル街。高さ150メートルのランドマークタワーが存在する。
〈西部〉
田園地帯、放置された廃工場など。倫太郎の家は中心部と西部の丁度中間地点に位置する。


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第八話 稲妻を超えて

 「皇帝特権」という能力(スキル)がある。

 そのサーヴァントが本来持ち得ない能力を、短期間のみ自己主張する事で強引に借り受ける力。かの暴君ネロ・クラディウスや神祖ロムルス等の高名なサーヴァント達が保有する強力無比な力である。

 

 ──そして。

 この魔王が持つのは、それとはまさに対極に位置するモノ。

 その名も、「魔王特権」。

 皇帝が自らを高め、至高の統治者たらんとするのであれば。魔王は万象を虐げ、恐怖の統治者として君臨する──それこそが魔王たるものの役割だ。

 故にこそ、「魔王特権」の能力が作用するベクトルは彼女本人ではなく、もっぱら他者に向いている。変革されるべきは周囲であり、魔王は森羅万象に畏怖と恭順を強要するのだ。

 即ち、己以外のありとあらゆる存在に干渉し、短期間のみその性質を変貌させる。それが彼女に許されたチカラの一端だった。

 

「かつての愛騎には及ぶべくもないですが、私が戦車といえば戦車です。この私が命ず、あるべき様へと姿を変えよ──‼︎‼︎」

 

 有り余る威厳と共にセイバーが訳の分からない事を叫ぶ。

 しかし、明確な異変はすぐに現れた。

 ……ぞわり、と。セイバーの声に応えるかのように、何の変哲もない自転車が蠢く。物理法則を根本から無視して、自転車のボディが爆発的に膨れ上がっていく。

 煌めく翼を連想させるエメラルド色のウイングが展開し、大きく両側に広がった。足元を包み込む装甲は眩い金色。荒々しい巨大な四つの車輪が新たに形成され、元の車輪に至っては装甲の中に呑み込まれてしまっている。ゴム製のサドルとハンドルだけが辛うじて元の原型を留めているが、もはやコレを自転車と思える人間はいないだろう。

 

 それは──彼女から潤沢に与えられた魔力をターボエンジンの如く噴出して疾駆する、もう一つの「戦車」だった。

 

 魔王特権の発露に合わせて顕現した四つの車輪が高速で回転し、豪快な轍が地面に刻まれていく。時折巻き起こる蒼色の火花は、ブースターから溢れ出したセイバーの魔力の残滓だろうか。

 

「おわああああああああああああああああああ────‼︎⁉︎」

 

「捕まってろとは言いましたけど、うっさいですね‼︎」

 

 だが俺はそんなことにも構わず、ただ奇声を上げて凄まじい風圧に顔を歪ませていた。俺は絶叫系は苦手なんだ、たぶん時速200キロは出てるだろうに無茶を言うな……と言いたいが諦める。

 なにせ、背後で追走していたライダーは今や隣に並び、絶え間なく熾烈な雷撃を浴びせかけてくるのだ。その密度は雨どころか、まるで壁。見るだけで痺れそうな輝きを放ち、それらはのたうつ蛇のように降り注ぐ。

 激突、炸裂、回避、迎撃、相殺──それをいくつ繰り返したのか。

 凄まじい両者の火力が眼前でぶつかり合い、鬩ぎ合って雷鳴を響かせる。無茶苦茶な閃光の乱舞に、まるで記者会見のフラッシュライトの中を延々通り抜けているみたいだ、なんて馬鹿げた例えが頭に浮かんだ。

 しかし。大火力で押し潰そうとしてくるライダーを「電光雷豪」なんて言葉で表すなら、セイバーはまさに疾風迅雷だ。間断なく叩きつけられる稲妻の中を、彼女は卓越した操作技術で駆け抜けていく──‼︎

 

「……む。所詮は紛い物だからでしょうか、本来の三割ほどしか力を出せませんね。物理法則にも縛られてますし」

 

「お──おいっ、セイバー⁉︎ よく分かんねえけど、こっからどうするんだ⁉︎ アイツ空飛んでるし、こっちから反撃できないぞ⁉︎」

 

 無理矢理喋る余裕を作り出して叫ぶ。

 道路に黒色の轍を刻みつつ、セイバーは紙一重で稲妻の中を掻い潜るのだが、いかんせん反撃の余地がないのが実情だった。

 

「ちょっと、焦らないでくださ──って、どこ触ってんですか‼︎‼︎」

 

「うるさいなこっちも余裕が無いんだよ‼︎‼︎」

 

 立ち漕ぎに似た姿勢で低く身を屈められれば、目の前に突き出されるのは当然、容姿に似合わず大きなお尻である。無駄に刺々しいセイバーの鎧は胸から腰回りを覆っていて、尻はスパッツに非常に似ている黒の布地に覆われているのみ。しがみつくにはここしかない。

 セイバーの怒号が前方から飛ぶが、俺は頑としてこの手を離さない。

 何せ、離せば振り落とされて次の瞬間には黒焦げだ。セイバーの回復能力があるとはいえ、心臓を一撃されれば死んでしまう。

 ここぞとばかりに生き意地を滾らせ……というかもう死んでいるワケだが、とにかく死に物狂いで柔らかなお尻にしがみつく。

 

「オイオイオイオイどうした魔王ォ‼︎ 前にあれほど振りまいてた殺意も重圧も、ちっとも感じられねえぞ────⁉︎」

 

 返答は返さず、セイバーは鬼気迫る表情でハンドルを握る。

 一生に一度経験するかどうかの生死の狭間、そこを秒間に二、三は潜り抜けていく感覚があった。

 標的を外した稲妻は容易くコンクリートを粉砕し、後方で不気味な黒煙を上げていた。耕された後の田畑のように破壊の限りを尽くされた農道を見るに、奴が通り抜けたあとの道はもはや農道としての役割を果たせないだろう。

 

「ちくしょう、さっきからバカスカと……‼︎ なんなんだよアイツ、さっきと性格変わりすぎだろ──⁉︎」

 

「ひとたび戦闘、殺し合いとなるとまともな理性が飛ぶタイプです。ああなれば最早止められません‼︎」

 

 セイバーが作り出した金とエメラルド色の戦車も十分な性能を誇る。これで本来の三割程度の性能しか引き出せていないというのだから、果たして本物はどれ程の出力を持っているのやら。

 しかし、ライダーの戦車は宙を飛んでいる以上、こちらの不利は揺るがない。セイバーの間合いの外から一方的に稲妻を浴びせるのみだ。

 更に加えれば、雷撃の数は余りに多く、セイバーの操縦能力のみでは切り抜けられない。防御に攻撃が回される以上、ライダーへの攻撃手段は封じられてくる。

 

「どぉしたどぉしたァ‼︎ つまんねぇなァ、おい──‼︎」

 

 天と地。その距離は近く、そして余りに遠かった。

 

「そうですね……ケント‼︎」

 

「なに? なに⁉︎ 俺⁉︎」

 

「仕事です‼︎‼︎」

 

 仕事ってナニ、と聞くよりも早く、異変があった。

 戦車のボディが蠢く。車体の下部に設置されていたブースターの一部が大きく上部に移動し、細長く形を整えていく。

 

「おい、これってまさか──⁉︎」

 

 目の前にあったのは──可動式のグリップに、トリガー、黄金色をそのまま残した大きな銃身。

 いわゆる機銃とでも言うべきものが、セイバーの力によって現れていた。

 

「ケント‼︎ 私が攻撃できない以上、貴方に任せます‼︎」

 

「俺が──むっ、無茶言うな‼︎‼︎ 攻撃なんて無理だっての‼︎」

 

「無茶でも無理でもありません、いいからやって下さい‼︎ 覚悟はしたんでしょう⁉︎」

 

 今まで、魔力をぶっ放して推進力に変えていたワケだが、セイバーはその一部を機銃に変換したらしい。速度が僅かに落ちるかわりに、推進力に変えるぶんのエネルギーがそのまま弾丸としてチャージされる。

 後は俺が狙いを定めてやれば、勝手にセイバーの魔力がライダーめがけて飛んでいくようだ。少しグリップが歪んでたりところどころ不恰好だが、出来映えは完璧と言っていいだろう。

 ここまでされて──挙げ句の果てに覚悟なんて言葉まで持ち出されたら、流石に負けん気の方が上回ってくる。

 

「覚悟ったって、ああもうっ……やってやる‼︎」

 

 やけくそに叫んで機銃を掴んだ。

 それを見て、数メートル横を並走するライダーはにやりと笑い、

 

「ほう、おもしれぇ余興だ。腑抜けたガキかと思ったが、俺に噛みつく度胸くらいはあるみてぇだなァ‼︎」

 

「やかましい、テメエの方が見た目はガキだろうが──‼︎‼︎」

 

 ライダーへの恐怖やら凄まじい速度が出ている事への恐怖やら、余分な全てを頭の中から締め出して、機銃もどきを握るのに全集中。

 不思議と、「死」への恐怖は少ない。

 もう死んでるし、という諦念もある。しかし、なにより多分、セイバーが居てくれるというのが大きい。コイツの事は全く知らないし、名前すらも教えてもらっていないけれど、それでも信頼できると俺の魂が告げている。不思議な信頼感が、何故か俺の中にある。

 ならば後は簡単だ。

 安心して後ろを任せ、こいつを容赦なくぶっ放すのみ──‼︎

 

「っ‼︎」

 

 銃口を上げ、頑張って再現したのであろうトリガーを引く。

 その瞬間、推進力に回される分の魔力の一部が機銃の中を通り抜け、猛烈な勢いで射出された。それは迎撃ではなく、攻撃。蒼色の雷は槍の如く飛翔し、ライダーの身体に迫る。

 

「ほざけ、この程度で‼︎」

 

 ……が、あっけない事に。

 俺が必死で狙いを定めた一撃は、しかしライダーが雷を纏わせた右腕を振り払っただけで掻き消されたしまった。

 反射的に失敗か、と思うが、その考えはすぐに裏切られる。

 俺の攻撃が届かないことくらい、セイバーは最初から織り込み済みだった。

 

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ‼︎」

 

 機銃によって生まれた僅かな隙に、セイバーが動く。

 ライダーが迫ってきた蒼雷の輝きに目を細めた瞬間にはもう、セイバーは勢い良くハンドルを切っていたのだ。

 まさにそれは乾坤一擲──。

 セイバーは稲妻から遠ざかるように動くのではなく、敢えて自ら突貫するように動いた。ライダーが己の失策に気付く。極限まで引き延ばされる時間。セイバーの鼻頭を稲妻が掠めるくらいの紙一重で、致死の閃光を回避する。

 そして次の瞬間、セイバーの戦車は宙を飛んでいた。

 これまでも使用していた、彼女の強力な魔力放出。膨大な魔力をジェット噴射の如く放つ事で、セイバーは本来あり得ぬ筋力、速度をその手中に収める。

 今披露したのはその応用だ。戦車に隅々まで巡らせていた魔力の循環を一時的に阻害し、噴出店を足裏一点に集中、噴射。瞬間的に第二のターボエンジンを得た戦車は軽々と宙を舞い、空を駆けるライダーに肉薄する──‼︎

 

「チィッ‼︎」

 

 雷を無限に生み出すライダーは驚異だが、奴の手に武器は握られていない。接近できればこちらがはるかに優位だ。

 いつの間に手にしたのか、彼女の手の中にはあの曲刀が──、

 

「はぁっ‼︎」

 

 疾風一閃、セイバーの刃が宙を駆けた。

 刹那の激突が終わり、セイバーの戦車もどきが道路横の田んぼに突っ込む。想像を絶するドライビングセンスで転倒を免れながら、セバーは素早く顔を上げた。

 

「……フン。流石だな、セイバー」

 

 口から漏れる感嘆の声。話すライダーの姿に外傷はない。

 ──だが、その一撃は致命的だった。

 ドウッ、と地響きを立てて、首を絶たれた軍馬が地に倒れ伏す。淡い青色の霊体となって消えていく軍馬を見つめるセイバーの瞳は、敵対者に対する絶対零度の冷たさを伴っていた。

 

「自慢の戦車も最早使えないでしょう。──ここからは魔王が裁を下す。貴様はここで死に絶えろ」

 

 ゾッとする。俺は最初、その声がセイバーのものとは思えなかった。

 まさに空気が余すことなく慄くような。この世の全てに恐怖の念を感じさせるような。それは恐らく、本来あるべき彼女が併せ持つ、殺意と冷酷さのみが込められた宣告……魔王の一声。

 

"何を考えてる、ふざけるな。それは俺の役割だ"

 

(……っ、なんだ、頭痛が)

 

 強い目眩を感じて頭を抑える。

 そんな俺には目もくれず、ライダーは乾いた笑いを漏らしていた。

 

「ははっ、侮るのは早ぇよ。セイバー」

 

 傲慢不遜な発言にセイバーが眉を顰める。戦車を破壊しても尚、小柄なライダーの顔に張り付いた余裕は消えない。軍馬を仕留められた事など、つゆほどにも気にしていない様子であった。

 俺には知る由もない事だったが──セイバーは先程の言葉とは裏腹、戦車を破壊した事でより警戒心を高めていた。「騎乗兵」のクラスは、所有する宝具の数が多い事でも知られる。仮に今の戦車が宝具であったとしても、まだ奥の手を隠し持っている可能性は十分に存在するのだ。

 

「……道理で、貴様の軍馬が紙屑よろしく脆かった訳だ。貴様の真髄は戦車ではなく、別の何かにある」

 

「その通り。俺は本来残虐な男でな──」

 

 小学生にさえ見える矮躯から、しかし禍々しい殺気が放たれる。

 それは正真正銘、目の前の敵を轢き潰す為の殺意だ。滾らんばかりの殺意は、それは本来不可視のモノである筈なのに、目を凝らせば見えるような気もしてくる。

 

「そう──勇ましく戦車を駆るよりも、残忍に敵を潰し殺す方が性に合ってんだよなァ‼︎」

 

 ライダーが右手を宙高く掲げた。刹那、世界を割らんばかりの雷鳴が轟く。夜空を真っ二つに切り裂いて、一筋の雷撃が墜ちる。

 だがそれは。セイバーや俺に、ではない。

 

「真名固定。認識置換、神格設定完了」

 

 炸裂と同時、光が爆ぜた。それは混じり気のない完璧な「光」。俺が今まで目にした何よりも更に神々しい「何か」の輝きだった。

 ……目を灼く閃光の中でライダーが言う。その言葉の意味は、俺にはよく判らない。

 ただ、全身が畏怖に震え上がった。昨夜のバーサーカーすら遥かに上回るような絶望的な悪寒が、俺の脳髄を突き抜けていく。

 

「ッ⁉︎」

 

 これはライダーへの恐怖による悪寒?

 ……違う。違うに決まっている。そんなモンとはかけ離れてる。

 これはもっと深く重い感情だ。ヒトという存在がこの惑星(ほし)に産み落とされた時から持たざるを得ない何か。俺の遺伝子情報に刻み込まれた「本能」ともいうべき何かが、今まさに畏敬と恐怖の念に悲鳴を上げている──。

 

「出番だ。吼えろ、『雷霆(ケラウノス)』」

 

 神の光の奔流を切り裂いて。

 果たして、それは現界した。




【魔王特権】
セイバーが持つ能力。己以外の色々なモノに干渉する事ができる。
セイバーが覚えているものほど、精巧に再現することができる。また、「自転車」から「戦車」を作り出したように、元の物体が有する要素によって改造できるレパートリーは限られる。(石ころから戦車を作ることはできないが、バイクなどの「乗り物」からであれば可能)
物体、無機物には干渉しやすい反面、生物に対しては干渉力が減衰する。敵のサーヴァントには殆ど影響を与えられず、人間に対しても簡単な命令しか出せない。その命令も、干渉された当人が少し踏ん張れば抵抗できる程度の強制力しかない。
一応、自分にも適応させることはできる。「皇帝特権」に比べると遥かに出来ることは限られ、せいぜいスキル一つの発現を潰す程度。
ちなみに、第一話で瀕死の健斗を治療した後、セイバーは意識を失った彼に「魔王特権」を使って帰宅を命じた。健斗は夢遊病者のごとくフラフラと意識のないまま帰宅したので、その記憶がない。
【戦車】
真名、■■■■■。
ライダーとして召喚された彼女は、この戦車を宝具として有する。
本来のスペックであれば空も飛べるし、ミサイルじみた魔力弾も撃てる、まさに空中戦艦。宇宙にだって飛んでいける。


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第九話 「雷霆」、真名解放

「……っ⁉︎」

 

 遠方で発せられた莫大な「何か」の威圧感に叩き伏せられるようにして、何処かの路地裏に立つ繭村倫太郎は言葉を詰まらせていた。

 距離にしておよそ三、四キロメートル西方で、莫大な魔力波が渦巻いている。遥か天まで立ち上った光の柱は、大塚市の闇夜を明るく照らし出していた。

 この魔力密度は正しく神代のものだ。現代の魔術師が扱える次元をとうに超越している上に、この存在を受け入れる「世界そのもの」が悲鳴を上げているのが分かる。

 

「あれ、何だろーね?」

 

「わからない……けど、まずい。あの一撃が全力で解き放たれたら取り返しのつかない事になる‼︎ 信じられないけど、大塚市くらいなら軽々消し飛ばすぞ、あの輝き……⁉︎」

 

「確かに凄く強いし、それに嫌な感覚。まるで頭を掴まれて、無理矢理地面に押し付けられてるみたいな……きらい」

 

 抽象的な意見だったが、倫太郎も心から同意する。不思議なことに、身体中から沸き起こるのは恐怖よりも畏怖に似た感情だった。

 あれで命を奪われようとも仕方ない。

 それは、人智及ばぬ神の裁きなのだから──。

 無意識にそう思わせてしまうような神圧が、今も全身を貫いている魔力波には含まれている。

 

「予定変更だ。あそこに急ぐぞ、アサシン」

 

「うん、いこう」

 

 額の汗を拭って、倫太郎は夜の街を駆け出した。

 怖い。すごく怖い。逃げ出したいくらいに怖いけれど、それを管理者として「この街を守る」という責務感で誤魔化して走る。

 目指す先は西。想像すらつかない何かに自分は立ち向かおうとしている、という愚かさを彼は感じていたが、そもそも自分が止めても傍の暗殺者は嬉々として台風の目へと向かうのだろう。

 諦念は理不尽を飲み込むいい材料になってくれる、という事を、彼は若いながらも理解し始めてしまっていた。

 

 ──とにかく、今すべきことは明白だ。

 あの暴威の解放を防ぐ為、彼は全力で地面を蹴る。

 

 

 

 

「む。なぁんや、派手にやっとんなあ」

 

 水晶玉と睨めっこしていたキャスターは、思わず顔を上げていた。

 彼の目の前の水晶玉はサーヴァント二騎が向かい合う姿が不鮮明ながらも映し出されていたが、この魔力の波動だけは映像越しには感じられない。

 彼が居るのは地下だったが、そんな事は関係ないとばかりにその魔力の暴風は彼の全身をも貫いていた。

 神の力を振るうという点で彼は一家言持っていたが、この魔力の持ち主──バラ撒いた記録人形の映像から判断するに、恐らくはライダーと思われる──は、相当な能力を保有している。恐らく引き出せる出力の限界はあるだろうが、それに目を瞑れば、その輝きはまさに神話の再現だ。原典(オリジナル)と比べようと遜色無い。

 

(こりゃあ下手に全部引き出してもうたら、日の国どころか宇宙がまるごと吹っ飛ぶ次元の力やな……いくらサーヴァントゆうても、限度があるやろっちゅうに)

 

「うっ、なに……これ……?」

 

 彼から少し離れたところで床に座り込み、一般人なら思わず目を疑うような品々──具体的には古風な手裏剣や小刀といった、時代劇の忍者が使うような武器を入念に手入れしていた忍者じみた少女は、僅かに怯えたように顔をきょろきょろと動かしていた。膨大な魔力波を受けて魔術回路が酔っているのか、少し顔色が悪い。

 

「……ま、まさか、これがサーヴァント一騎の魔力?」

 

 少女は微かに震えた声で呟く。

 神そのものの力を感じ取って畏怖しない魔術師の方が異常なので、多少なりとも怖がってしまうのは致し方あるまい。そんなことを考えつつ、護るべき自らの彼女(マスター)を安心させようと、キャスターは敢えてのんびりした声で返答した。

 

「まあまあ、日本列島が藻屑になろうと君は絶対大丈夫やって。僕がついてんのにビビってんの?」

 

「ビビってないわよ‼︎ はあ……そもそもなんでアンタはそう自信満々なのかしら」

 

「そりゃ、僕ぁ天才やし? どうせ勝手にセイバーとライダーが潰しあっとるだけや。直に見れれば色々分かるんやけど……ま、対魔力とか諸々厄介なセイバーが退場してくれる事を祈っとこうか」

 

「ふぅん。ま、アンタの力はけっこう信頼してるから。それだけ自信があるならしっかり私を守ってよね、キャスター」

 

 

 

 暗がりの中で、男は茶色の顎髭を撫でていた。

 凄まじい魔力の波動が今も全身を貫いているが、彼がそれに怯むような様子は無い。なぜなら彼のすぐ背後に、彼が自信を持って「最強」と断言できるサーヴァントが控えているからだ。

 

「Rrrr………………‼︎」

 

「今はお前は出さんよ、バーサーカー。勝手に潰しあってくれるならば幸いな事だ。しかし……」

 

 微かに唇を噛み、今からでも蝙蝠型の使い魔を送り込むか迷う。

 西部に散っていた使い魔は既に例外なく全滅していた。近距離であの魔力の蠢きを受け、例外なく活動に支障をきたしたのだ。

 魔術師ならば多少酔う程度で済むだろうが、貧弱な使い魔はそうはいかない。許容範囲外の電力を注ぎ込まれた家電が使い物にならなくなるように、彼らもまた機能を停止してしまう。例えるなら一種のショック死だ。

 

「しかし……まさか、セイバーが?」

 

 最後に使い魔が彼に伝えた映像には、ほんの一瞬だが、馬鹿げた規模の魔力放出を行なっている英霊に向かい合うサーヴァントを映し出していた。

 そこに見えたのは、蒼色の髪、漆黒の鎧。

 奴は消えたはずだが、もし逃したとすれば──、

 

「再契約……失態だな」

 

 ぎり、と男は奥歯を噛み締める。あれほど瀕死の状態に追い詰めてなお、マスターとするに足る人間を探し出して契約を交わす程の余力を残していたとは。

 しっかりと仕留めておかなかった事への後悔は湧いてきたが、潔く思考を切り替える。過ぎた事への反省は残し、今後の糧に変えるために。

 

「この特有の感覚、普通の魔力ではない。神代のものか……やけに魔力の密度が濃い。お前とも相性が悪そうだ」

 

「Graaa──……‼︎」

 

「ああ、お前ならば殆どの英霊を真正面から軽々叩き潰すだろうが、万が一を想定しよう……今晩は出るのを控えるぞ」

 

 言葉の意味を理解しているのかいないのか、バーサーカーは微かに唸るのみ。それでも構わない、とその男は軽く呟いてから、薄暗い魔術工房への奥へと姿を消していった。

 

 

 

 

 荒れ狂う雷、それを一つに束ねた不定形の槍。雷光の先は三叉に分かれて獰猛に閃光を撒き散らしている。

 そう言い表すこともできるが、それは違う。

 目の前で雷槍と化して荒れ狂っているのは、人間が用いる言語程度では表現し得ない次元の力だ。あの槍が纏う力を十全に言い表わせる程の語彙力を、きっと人間は持ち合わせていない。

 

(……駄目だ、アレは、駄目だ。勝てるビジョンが浮かばない)

 

 さっきはまだなんとかなったけれど、あれを前にして戦える気概がさっぱり湧いてこない。絶望感しか感じ取れないような、絶対の力。

 自然と膝が震えてくる。動悸が激しくなり、全身を寒気が襲う。

 

「……フン。まさか、『神の武器』そのものを引っ張り出してくるとは。その手に余る不遜な行いだが、それでは私に傷一つ付けられない。貴様も知っている筈だが」

 

「ああ、テメェの加護については嫌という程知ってるとも。だがな。お前はともあれ、まともに受ければ後ろの貧弱な人間が無事で済むとは思えねえぜ? 肉片すら残らねえだろうなぁ」

 

 ──あれが。神の、武器?

 そう言われれば自然と納得がいった。

 あんなもの。人間如きが振るうには、あまりにも荷が重すぎる。

 

「貴様……」

 

「おっとそれどころじゃ済まねえか。余波でどんくらいの範囲が吹っ飛ぶだろうなァ? 何人死ぬ? 千か、万か。少なくともテメエの背後の街は一瞬で蒸発するぞ。ンー、この街の人口はざっと10万ちょいだったか」

 

 くそ野郎ですね、とセイバーは呟いて、剣を強く握り直す。

 

「まあ、所詮は贋作に過ぎませんが……その槍、偽物であれ真に迫る程の輝きという事は認めてあげましょう」

 

 ゆらり、と少女の背中が揺れる。

 あの輝きを前にして、臆さずにセイバーは一歩踏み出した。左足は前に、右足は後ろに。深く腰を落とし、曲刀を腰だめに構える。まるで日本剣術の居合斬りを思わせるような不思議な構え。

 

「──ケント。私の背後から決して出ないで下さい」

 

 冷や汗を流しながら頷いて、セイバーの背後へ。

 魔術に疎い俺でも、双方から莫大な魔力が放出されているのが判る。魔術回路とやらがその余波に至近距離で晒されているせいか、全身が針に突かれたかのように痛む。周囲の空気は吹き荒れる暴風と化し、魔力の高まりに耐えられぬかのように軋んでいた。

 

「まずいことに、少し侮っていたようです。主神ゼウスの雷槍……まさか、ライダーがあれ程の宝具を隠しているとは思いませんでした」

 

「尋常じゃないってことくらいは判る……気を抜いたら気を失いそうだ。受けれるのかよ、あんなの」

 

「今宵は満月ではありませんから、加護による後押しを含めても完全に相殺できるかは精々五分。押し負けても私は無傷で済みますが(・・・・・・・・)、ケントは跡形もなく消滅します」

 

「…………死ぬよな、さすがに」

 

「アレは正真正銘、神話の頂点に立つ武器ですから。……まさしく権能の域に片足を踏み入れた破壊の塊、威力の格付けなんて意味を成さない。問答無用のEXランク……ってとこですかね」

 

 『宝具』。彼らが築き上げた伝説が物質化したモノ。サーヴァントが持ち得る最大の奇跡であり、切り札だ。

 いたずらな宝具の使用は真名の露見に繋がるため、基本的には出し惜しみするモノ──というのはセイバーの言だ。

 だがその本人が、「宝具を使う」事を視野に入れている。それだけで、この状況がいかに緊迫したものであるかは理解できた。

 数時間前に丸暗記しただけの頼りない知識を洗い直し、状況の切迫さを把握する。とはいえあれ程のモノを目の前にして、さっきから心臓が緊張と恐怖でバクバク鳴りっぱなしなのだが。

 

「──相手がどうあれ、俺はお前を信じる。せいぜい死なないように背中に隠れておくから、やってやれ」

 

 数時間前は丸きり信用していなかった俺の台詞としては可笑しいような気もしたが、構わない。

 先程も感じたように、俺はこの剣士に絶対の信頼を置いている。

 ワガママでバカで迷惑で面倒な奴だけれど、それでもきっと、彼女は最後まで俺の味方でいようとしてくれる。初めて言葉を交わしたとき、彼女が自分で言ったように。

 

 ──だから俺も、彼女に対する信頼を声に込めた。

 

「ふふ、了解です。……魔力をかなり使わせて貰いますが、やってくれって言ったのはケントですからね」

 

「……それ後で言うか? 普通」

 

 少しだけ楽しそうに笑ったセイバーの曲刀が、軋む。刀身の内側に蓄えられた莫大な力が、今か今かとその出番を待ち望んでいるのだ。

 セイバーが何かを呟くと、蒼色の刀身が眩い銀光に包まれた。局地的に光の台風を巻き起こしたかのような猛烈な輝きが、セイバーの携える剣から放たれる。

 

 燦然と煌めくその輝きは──。

 かの剣が邪悪な魔剣と成り果てても残った、かつて聖剣であったことを示す最後の残滓。

 

 数瞬後の前哨戦とばかりに両者の獲物から溢れ出る閃光が食い合い、互いに互いを潰し合う。ライダーの槍が放つ輝きはこの世のものではないとまで言える代物だったが、その点で言えばセイバーの剣も同じだった。

 両者の輝きは丁度拮抗。

 闇を敷き詰めたような夜空が真っ白に染め上げられる。周囲の空間の明度は今や日中のソレを遥かに上回っていて、俺は細めた視界の中で、辛うじて二つの影を捉えた。

 

「「……………………」」

 

 およそ十メートルの距離を開け、相対する英霊が二騎。

 合図は無かった。

 

 

 

 ──同時。互いの魔力が(こえ)を上げた。

 

 

 

「ぎ────、が──ぁ……⁉︎」

 

 震える。

 全身の筋肉が硬直し。

 全身の血流が膨れ上がる。

 

「はっ──か、ぐっ……‼︎」

 

 「魔力」とやらが急速に抜け落ちていく感覚。

 先程までとは比べ物にならない。この消費量は俺が安定して供給できる量を遥かに上回っているらしい。

 少しでも気を抜けば膝をつきそうになる。だがそれでも、俺は歯を食い縛ってセイバーの背中を捉え続ける。

 

 ──大地は揺るぎ、空は震え、大気が痙攣して悲鳴を上げていた。

 

 大自然すらも畏怖させる激突が始まる。目の前の光景に流石に色々な感覚が麻痺してきた頃合いだが、それでも全身の震えは止まらない。その震えは畏怖によるものか、恐怖によるものか、他の何かに起因しているのか。

 ともあれ──、

 

「行くぞセイバー。神の(いかずち)、止めてみせろ」

 

「ほざけ不敬者が。正面から圧し潰す」

 

 交わす言葉は短く。

 次の刹那、両者が動く。

 

 

三界滅す(ケラウノス)神話の終局(ティーターノマキア)──‼︎」

 

 

「煌々たる、────‼︎」

 

 

 雷槍は膨張し、剣は震えた。

 両者の口から軽やかに真名が謳われる。全てを蹂躙する奇跡と奇跡の衝突。その寸前の一瞬。一秒も満たさぬ間隙。

 その瞬間を狙い澄ますように──その声は、高らかに響き渡った。

 

『令呪を以って命ず』

 

「「⁉︎」」

 

 俺とセイバーが揃って空を仰ぐ。だがそこに人影は無い。幾つか光る星々が、激闘の決着を今か今かと傍観しているのみだ。

 

『今すぐ帰還せよ、ライダー』

 

「なッ⁉︎」

 

(…………ここで、帰還命令⁉︎)

 

 その命令が予想外だったのはセイバーも、そして驚きの呻きを上げたライダーも同じだったらしい。ライダーは歯噛みしながらこちらに今一度視線を投げ、凄まじく濃い魔力の暴風は敢えなく霧散した。心底嫌そうな顔のライダーの小さな体が瞬く間に淡い光に包まれていく。

 

「待て、ライ……」

 

 セイバーの制止も虚しく、次の刹那、其処に立っていた存在は跡形も無く消え去っていた。

 

「あれ……これ、終わったの……か?」

 

 戦いの終わりは、実に呆気ないものだった。

 どうも信じられず、恐る恐るセイバーに尋ねる。

 

「……やれやれ、そうみたいです。よりによってあそこで水を差すとは、相手方のマスターも風情がありません。私がだーい嫌いなタイプです」

 

「はぁっ、そうか、終わりか──」

 

 今更麻痺していた恐怖が一気に襲ってきたか、動悸が急に乱れ始める。歯が上手く噛み合わない。肩にのしかかる得体の知れない感覚に震えながら足元を睨み付けていると、

 

「お疲れ様でした、ケント。今夜の戦いは終わりですよ」

 

 武装を解いてサイズの合わないだぼだほの黒ジャージ姿に戻ったセイバーが、その若干袖余りの小さな手で、まるで労わるように俺に触れた。

 ──違う。労わるべきは、俺だ。

 ここで戦ったのも、百を超える死線を潜り抜けたのも、全て彼女なのだから。俺は所詮、彼女の力を少しばかり借りたに過ぎない。

 

「自分を卑下する事はありませんよ」

 

「なんだよ。……お前の直感は、何を考えてるかも分かんのか」

 

「いえ。顔を見てれば分かります」

 

 悪戯っぽく笑うセイバーに毒気を抜かれ、思わず言葉に詰まる。

 

「サーヴァントの重圧に屈さず戦ったことだけでも、十分に誇るべき事なんですよ。気絶しなかったのがおかしいくらいです。それに、ケントが後ろに居てくれれば私もやる気が出ます」

 

「…………やる気、ねぇ」

 

 自由気まま、気分屋なセイバーらしい話だ。

 けれど俺も同じ。彼女が後ろにいるから、あの時は頑張れた。

 思わず苦笑しつつ、胸の中の(もや)が多少和らいだ事に気が付く。少し遅れて、今のが彼女なりのフォローだったんだと理解した。

 ほんと、常に我が物顔で俺を振り回す癖にこういう時には気が効く奴。

 

「変なヤツだな、お前……」

 

「んなぁっ⁉︎」

 

「けどまあ、ありがとう。……正直、助かったよ」

 

「……‼︎ ……むぅ」

 

 口を開けたまま次の言葉を探すその姿に、先程ちらりと見せた「魔王」としての面影は欠片も無い。そんな姿を見て、俺は改めて「よくわかんない変な奴」という評価を内心で下したのだった。

 

「さて、ここから離れるか。戦いの匂いを嗅ぎ取ったヤツが近づいてくるかもしれないし、これ以上戦うのは俺がキツイ。……なんだろうなこれ、魔力不足ってやつ? 身体がだるくて仕方ない」

 

「まあ、正直なのはいい事です。宝具解放直前まで行きましたから魔力もかなり消費させてしまいましたし、ケントが無理しては意味がありませんしね」

 

 そんな事を言い合いながら、すっかり萎んでしまった自転車の荷台に腰を下ろす。

 

「またお尻を触ったら、今度はグーで殴りますよ」

 

「言われなくても触らねえっての……」

 

「手は胸じゃなくて肩か腰に置いて下さい」

 

「しつこいなお前‼︎ そんなとこ触らねえっつってんだろ‼︎」

 

 一つの戦いが終わった。

 恐らく何十も積み重ねなくてはならない内の、最初の一つが。生き残るにはその全てに勝利を収め、生存しなくてはならない──。

 『聖杯戦争』という戦いの苛烈さを初めて実感して、俺は覚悟と共に唇を軽く噛んだ。




【ライダー】
騎の英霊。小さな体に金髪の髪、白い肌の少年。
一人称は「僕/俺」。体は子供、頭脳はバーサーカーなタイプ。
主武装は雷を纏わせた拳、及び両手から発する雷撃。
平常時は落ち着いた口調で話すが、戦闘時になると急変。残忍かつ残虐な性格へと変化する。これは二重人格などではなく、彼の精神構造が歪んでいる事に起因している。
彼が幼い容姿で召喚される理由は、一定の年齢を超えると精神が破綻し、バーサーカーのクラスに適応してしまうから。
とあるマスターに霊基を調整された事で、本来持ち得ない筈の「宝具」を保有している。

三界滅す神話の終局(ケラウノス・ディーターノマキア)
ランク:EX
種類:対界宝具
主神ゼウスが持つ「雷霆」を疑似的に再現して放つ、必殺の一撃。
格落ちに格落ちを重ねてなお、その威力は恐るべきもの。

【煌々たる■■■■■】
ランク:A
種類:対軍宝具
■■■■■■■■。彼女の代名詞とも言える蒼色の剣。


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第十話 武装信徒/Other side

 午後十時過ぎ、喫茶「薫風」にて──。

 

「ぃよし、掃除も片付けも終わって、一日のお仕事終わり。今日は色々あったせいで長い間付き合わせちゃったけど、お疲れ様。アナ」

 

「お疲れ様ですね、槙野さん。コーヒーでもお淹れしましょうか」

 

「あー……うん、頼もうかな。僕はコーヒーを作るのが本業だけど、たまには誰かのコーヒーを味わいたいしね」

 

 深緑色のエプロンを外しながら、木製のカウンターに手をついて首を鳴らす青年、槙野和也。

 そんな何の変哲も無い一般人の彼を、先日からこの喫茶店に住み込みで働いているロシア人の少女──アナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナは、澄んだ青色の瞳でじっと見据えていた。

 

「……ん? な、何かな?」

 

「いえ、なんでもありません」

 

 思わずぼんやりとしかけた思考を振り払って、アナはコーヒーのマグカップを取った。そこの彼ほど上手くはいかないが、一日の労働を労う程度のコーヒーは作れるだろう。

 用意したネルフィルターの上へ、細かく砕いたコーヒーの粉を投入。その後少量のお湯を加え、暫く待つ。立ち上る湯気を吸い込むと、不思議と気分が落ち着くような気がした。

 

「それはそうと……アナ。留学のレポートは進んでる?」

 

「はい、滞りなく。ニホンの文化は興味を惹かれるものが多いですし、書く内容に困ることは無さそうです」

 

 睫毛を伏せながら、平坦な声で返答を返す。

 アナはロシアの大学に学籍を置く留学生であり、日本の異文化に触れるという名目の元ここに下宿している。

 

「……ええ。なので、問題ありません」

 

 ──彼の中では、そういう事になっている。

 

 そんな身分は全くの偽りであり、本来の彼女はキャンパスライフ等とはかけ離れた存在である。そもそも彼女は大人びた風貌で大人の女性と間違われるが、未だ十八歳。高校生にも分類される年齢だった。

 自らに掛けられた暗示もつゆ知らず、不思議そうに首を傾げてみせる青年。

 彼女が背負う本来の役目と、今のこの状況のギャップに嘆息しつつ、暖かい湯気の立つコーヒーカップを差し出す。

 

「どうかしたのかい?」

 

「こちらの話です。……と、終わりました。不出来ですが、どうぞ」

 

「お、ありがとう」

 

 にこにこと笑顔でカップを受け取る謙也。

 そんな彼を複雑な心持ちで見つめながら、アナが使え終えたネルフィルターの煮沸に取り掛かった──まさにその時だった。

 

『……マスター。サーヴァントを発見した』

 

 この場の安寧にそぐわぬ緊迫した声が、彼女の鼓膜を震わせた。

 肩を震わせ、鋭く息を呑む。

 今の言葉は、魔術的に繋がれた経路(パス)を通じて伝えられた念話だ。目の前の青年には聞こえていない。事実、彼は何かに気づいた様子もなく、のんびりとコーヒーを味わっている。

 しかし反射的に、目の前の人物に聞かれてはいないか、という不安が彼女の内心を走り抜けたのだ。

 

「……敵の詳細は?」

 

『恐らくはライダー、そしてセイバー。セイバーにはマスターもくっ付いている。ライダーのマスターは……姿は見えんな』

 

「またあの二人組……? 何を考えているのか分かりませんね」

 

『ああいう手合いは厄介だぞ。あのように行動の先が見えん敵は、寧ろ知略謀略なんでもありの奴よりやり辛い。真面目な顔をして奇想天外な方向に突き進むからな』

 

 蒼髪のセイバーと、カッターシャツ、とかいう学生服を着込んだ少年。今日の夕方過ぎに彼らがこの店に来店した際には、冷静沈着なアナといえども肝を冷やした。

 少年はともあれ、「サーヴァント」の方に気取られずに済んだのは幸いだったと言えるだろう。平常時から使用している魔力隠蔽の魔術は役に立ってくれたらしい。

 一時は令呪を使い、鉄塔で待機しているアーチャーを呼ぼうかとも考えたが結局踏みとどまった。アーチャーの能力から考えるに、セイバーとまともに近距離戦闘を行なっても勝機は無い。

 最終的には何故かあのセイバーが店内で一通り暴れ、後片付けには自分も加わる事になったのだが──全く、何故他のサーヴァントの不始末を自らが処理しなければならないのだろうか……?

 

『チッ……二騎か』

 

「仕掛けられますか?」

 

『駄目だな、引き上げる。今晩は無理だ』

 

 その言葉に、アナは軽く唇を噛んだ。

 視覚共有を行わずとも、彼が無理と言うのであれば従う他ない。

 彼の言葉はサーヴァントの言葉であり、生前に得た深い経験と知識、感覚、考察、ありとあらゆる要素から成り立つものだ。現場に立ってすらいない自分が、彼の決定を覆すべきではない。

 

「──了解しました。では、速やかに離脱を」

 

『ああ、そうさせてもらおう』

 

 ぷつん、と魔力の波が切れた。

 精神的疲労からカウンターに突っ伏したい微かな欲求を抑えながら、アーチャーが攻撃を渋った理由をぼんやりと察しつつ、アナはネルフィルターの煮沸に戻る。

 

「うわっ、ひどく雷が鳴ってるね。……今夜の予報は晴れのはずだったんだけど、一雨降るかもしれない」

 

「嫌な音です」

 

「へえ、意外だね。冷静沈着って感じの人だと勝手に思ってたけど、アナって雷苦手なんだ」

 

「そ、そういう訳ではありません! あくまで私は……」

 

 魔力的に、と言おうとして、結局アナは続きを濁した。

 まさか『魔術』について言う訳にもいかず、結果として、面白そうに笑う店主にはただの強がりと思われてしまったらしい。

 

 アナが不満気に店主をひと睨みした、その瞬間だった。

 遠方で放たれた凄まじい魔力の波動が彼女の全身を貫き、魔術回路に鈍い痛みが走り抜ける。

 

(……ッ⁉︎ ……なんて、莫大な……⁉︎)

 

 思わず身体が硬直する。

 放たれた魔力の圧は長大な距離を経て衰える事なく、大塚市全域を蹂躙していた。魔術師が扱える筈がない魔力の暴風、凄まじい奇蹟の存在感。

 一般人には感じないだろうが、この地に潜む魔術の心得がある者ならば否が応でも感じ取っただろう。ギチギチと蠢き膨れ上がっていく、一つの……いや、二つの存在。

 

(幸い反応は西。周囲一帯の東部住宅地が巻き込まれる事態は避けれそうですが……いえ、ともすればここまで……?)

 

 アレらが真っ向から衝突すれば、互いが互いの威力を完璧に相殺できなかった場合、甚大な被害が出る事は確実だ。

 自らの為には他の全てを見限る典型的な魔術師、と言うわけでもなく、むしろ聖職者に近い性格を持っているアナは、これほどの力が容易に振るわれている事に少なくない不安を腹の底に感じていた。

 例えるならば、日本(ジャパン)のこの街は今や、いつ爆ぜるかも分からない核弾頭が無数に埋まった一級危険地帯のようなもの。

 世界中どんな治安の悪い街であろうと、この場所以上に命の危険が潜んでいる場所は存在しないだろう。抑止的に働く教会の監督役が存在しない以上、サーヴァントやマスターの気分次第で数百、数千人単位の人間が容易く命を落とす──……。

 

「うわ、今のは一際大きいな。近くに落ちてないといいんだけど」

 

 莫大な力とそこから連想された最悪のシナリオに硬直した思考は、横合いから聞こえてきた間延びした声で元に戻った。

 幸か不幸か、コーヒカップを洗う彼の様子に緊迫したものは欠片も見られない。

 彼が一般人である以上それも当然の事なのだが、そんな彼を呆れとも羨望ともつかない感情の篭った瞳で見ているうちに、発せられていた凄まじい魔力の波動も消えてしまった。

 

「……最近は物騒ですから、気をつけた方がいいですよ」

 

「へ? そうなの?」

 

「知りませんか? 色々と噂になっているみたいですよ。……本来、噂になるという時点で根幹のシステムが綻び始めているんですが……私達が公式に介入していない以上、荒れるのも無理はありませんね」

 

「……? まあよく分からないけど、気をつけるよ。アナも気をつけてね? ここらは不慣れな土地だろうし、道に迷ったりするかもしれない。日本は治安がいいって聞くけど、それでもトラブルが無いわけじゃない。何かあったら店に電話をかけてくれていいから」

 

「ありがとう……ござい、ます」

 

「まあともあれ、お疲れ様……奥のお風呂は使ってくれて構わないから。僕は後で入るからね」

 

「お気遣いに感謝します。ではお先に」

 

「ああ、洗剤の場所とか分からなければ僕を呼ん……いや、それは色々と問題があるか……」

 

 気まずそうに頭を掻く丸眼鏡の青年に苦笑を返して、アナはまず自室へ戻る事にした。

 階段を登り、最奥の借り部屋の扉を開く。

 内装は小綺麗に整えられ、クローゼットにベッドと小テーブル、小椅子。余分な物の少ない、容易に彼女の性格を連想させる部屋だった。当然ベッドに横たわる事もなく、彼女は部屋の端に置かれた木製のドレッサーの引き出しに手をかけ、簡易的な施錠を外す。

 その中からアナが取り出したのは、数センチサイズの小さな、使い古して所々の舗装が剥げ落ちた十字架だった。

 

「……こちらはアナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナ。応答願います」

 

 十字架にまるで無線機のように語りかける、という一般人からすれば珍妙な絵面だったが、常識に反して十字架から毅然とした男の声が返される。

 

『承った。手短に要件を』

 

「では簡潔に。……本グループが現在遂行中である作戦行動の進捗状況をお聞きしたいのですが」

 

『概ね順調だ。此度の聖杯戦争、それを開始させた原因を突き止めた。明日にでも「本隊」が元凶に辿り着く』

 

「了解。このまま状況観察を続行します。……因みに、原因とは?」

 

『到底信じ難いが、一人の魔術師によるものと思われている。いつかの大聖杯を掠め取ったのか、造り直したのか……ともあれ、その魔術師は湖岸そばの人工島にて大聖杯を起動させ、そうして聖杯戦争が開幕した』

 

「その魔術師についての情報は?」

 

『残念だが我々の知識を持ってしても、魔術師の正体が突き止められいない。現在時計塔に登録されているどの魔術師とも合致せず、同じく戦争を起こした理由も不明。判明しているのは金髪の女、従えているのは金色(こんじき)の少年だという事くらいか』

 

「成程…………了解しました。では」

 

 通信終了と共に、彼女は再び十字架を引き出しへ戻す。

 彼女の職務は留学生などではない。

 そして、魔術師でもない。

 

 ──……その名は、代行者。

 

 それは全世界に幅広い勢力分布を誇る「聖堂教会」に属する闇の執行者にして、文字通りに神の代行者(まのげきめつしゃ)

 即ち一人一人が人外の力を備え、異端を鏖殺する役を持つエクスキューター。本来存在しないはずの第八秘跡を身に付ける者達。

 

 このアナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナもまた、聖堂教会に存在する特務機関、第八秘蹟会にその一員として名を連ねる人物だ。

 そも、聖堂教会と聖杯戦争の因縁は深い。

 よく知られる冬木の聖杯戦争に於いても教会は監督役を務め、聖杯戦争の度に聖杯の行方を中立的に監視していた。事実、同部署の先輩にあたる「言峰綺礼」なる人物が、第五次聖杯戦争の監督役として派遣されている。

 彼の最期については情報が無く教会でも様々な推測が為されているが、聖杯戦争を争う連中にに巻き込まれる形で哀れにも殺されたのだろう、と彼女は憶測ながらに考えていた。

 更に第四次の監督役──確か、言峰氏の父親だったか──も、そのような結末を迎えたと聞く。

 ともあれ、その役目も冬木の大聖杯の解体と共に消え失せたのだが、実に一週間前──突発的に「大聖杯」が起動した。

 これはサーヴァントを七騎召喚する事も出来ない模造品(できそこない)ではない。即ちこの戦争は出来損ないの亜種聖杯戦争ではなく、正真正銘のオリジナルだ。

 御三家のシステムに独自に辿り着いた鬼才による仕業か、はたまた大聖杯の解体は虚偽であり、その大聖杯が今再び大塚の霊脈を受けて活動を再開したのか。

 

 ──それとも、今度は正真正銘の聖遺物、「聖杯」なのか。

 

 ともあれ聖遺物の回収、管理を任とする第八秘蹟会は、数人の代行者を大塚市に送り込んだ。それが「聖遺物である」という可能性が存在する以上、彼らが動かない訳にはいかない。

 その真偽を確かめる為、ひいては神の威光を知らしめる為、彼らは是が非でも聖杯を手に入れる必要がある。

 その理念の下にこの作戦に参加しているのは、アナを含んで五人。いずれもが代行者であり、彼女を除く四人は未だ半人前(・・・)のアナを遥かに凌駕する力を持つ熟練である。

 

(やはり教会は、なんとしても聖杯を管理したいようですね……)

 

 自室を抜けて階段を降りる。

 店舗からは奥まった場所にある浴室の扉を開けると、彼女は身につけていた小洒落た店の制服を脱ぎ捨て、磨りガラスの扉をガラガラと引き上げた。

 

(ふぅ……ん……あったかい……)

 

 同僚からは華奢と揶揄される身体に、心地いい熱湯が降り注ぐ。

 水にしっとりと濡れたブロンドの髪を纏めながら、彼女は湯気を立てるお湯に身を沈めた。母国のロシアに風呂という風習は無いが、こうしてみると浴槽も悪く無いものだ。

 不満点を強いて挙げるなら、後から入るであろう店主が自分の残り湯に浸かるという事実が、少しばかり恥ずかしいということくらいだろうか。

 

(……まぁ、あの人は能天気ですから、そんなことは気にしませんか……いや、日本人とは他人が入ったお湯であるとか、そういう事をあまり気にしないのでしょうか? ぅーん……)

 

 しばらく日本人の風習について考えていたアナだったが、どうせ自分は生粋のロシア人なのだから分かりませんね、と思考を切り上げた。

 湯気に曇る天井を見上げながら、「作戦」について考えてみる。

 

 ──本来、五人もの代行者が一度に作戦を行う事は非常に珍しい。

 

 そもそも個人個人の戦闘能力が彼らを人間と呼ぶには余りに傑出しているせいで、一人で事足りるという状況が殆どを占めるからだ。核兵器を同一対象に何発も撃ち込むのが非効率であるのと同じく、多人数を必要とする状況が存在しない。

 人数から聖堂協会が聖杯にどれほど執心しているかが読み取れる、と内心で苦笑しながら、アナは窓から闇に沈む街並みを眺めた。

 

 ──年齢、技量共に選抜された代行者の中で最も劣るが魔術の素養に長けていたアナは、今回の作戦のスペアプランとしての任を受けている。

 

 大元の計画である、代行者達による聖杯の「器」の回収。

 それが失敗に終わった場合、聖杯戦争の参加者として真っ向から聖杯の獲得に挑むのがアナの役目だった。

 

(とはいえ、代行者が四人……聖杯戦争を始めた魔術師がどのような存在であれ、勝利はあり得ないでしょう。サーヴァントですら代行者が四人もいれば十分に渡り合える。……そうすれば聖杯戦争は終結し、私の任務も終わる)

 

 上層部からの情報によると、既に原因は特定されている。

 明日の夜にでも代行者達が流れ込み、元凶たる魔術師の巣を血染めの廃墟に変えるだろう。ともすれば、拠点があるとされている人工島そのものが朝には消失しているかもしれない。

 それほどに代行者の力は圧倒的である。

 ──所詮、魔術師風情では勝ち目はないのだ。

 己が代行者の端くれを務めるが故に想定された、奢りでもなんでもない結論。

 だが同時に、奇妙な違和感を感じているのも事実だった。

 それは例えるならば小さな棘のようなもので、気にかける程の物ではない。だがこうして街を眺める度、心臓を刺すような不穏な空気を感じる。

 

(……急に魔力反応が消えたライダーとセイバーの顛末も気になりますが、今は身体を休めましょうか……それに彼らが聖杯を回収すれば、私の仕事も明日で終わりです)

 

 気難しい顔で天井を睨んでいると、どうもあの店主の顔が浮かんでくる。

 

 ──……思えば、生まれた時から鍛錬しかしてこなかった身だ。

 

 任務の為とはいえ、このような場所でまっとうに働いて過ごすなどという経験は無い。接客などした事も無かったし、珈琲の作り方を教わる事も無かった。客商売も中々一筋縄ではいかないと思い知らされる。

 

(私が教わったと断言できるものは魔の殺し方と主の教え、それくらいですから)

 

 色々と未知の環境に放り出され、ついつい彼に頼ろうとしてしまうのだろうか。これなら吸血鬼あたりと刃を交わす方がまだマシというものだが、不得手とするものからの逃避は自らの未熟の証明に他ならない。

 気を引き締めなくては、と心で決めつつ。

 無意識に、唇からは軽い溜息が漏れた。

 

「はぁ……」

 

 改めて無知と無力を実感しながら、彼女は軽く瞳を閉じる。

 ──彼女はまだ、己が抱える事実が孕む哀しさに気付いていない。

 

 

 

 

 ──同時刻、何処かの闇の中。

 

「ライダー。(わたし)は貴様に偵察を命じた筈だが」

 

 凛とした女の声が響く。その冷え切った声に、令呪の命令によって推参したライダーは首をすくめて返答した。

 

「悪い悪い。ちと興が乗り過ぎた。なんせ、かの魔王と闘える機会なんざ滅多に無いモンなんでね」

 

「解せんな、貴様の思考は。(わたし)の大願が果たされた暁には、貴様は望むままに惨殺を繰り返せると言うのに」

 

 狂人を理解できるのは狂人だけか、と吐き捨てるように言う女を見て、ライダーは大声で笑った。

 全くもってその通り。彼を理解できる者は、生涯をかけてもたった一人しか存在しなかった。今更誰が理解できるとも思わない。

 

「アンタが据える「主役」はあの魔王様だろう? 大願が果たされた時ってもな、俺は所詮脇役な訳だ。対等に渡り合える今のうち、楽しんでおこうというのは分かるだろう?」

 

 女はライダーの言葉に耳を傾けず、己の腕を凝視した。

 そこには三画の令呪が刻まれていたが、今や二画。見事なまでな三重円を描いた令呪の一番外側の痣が消失し、微かに跡が残るのみ。

 だが女はそんな事に構わず、その「魔眼」で令呪を凝視した。

 瞳が妖しく輝き、秘められた奇蹟が発現する。女は令呪の魔術構造を瞬きの間に読み取ると──、

 

「………………」

 

 次の瞬間、消えたはずの令呪は再生していた。

 「再生」というよりも、「再現」だ。彼女は数百年前にマキリが作り出した令呪の構築プロセスをなぞり、同じ結果を生み出しただけ。

 

「しかし、結果的には良かったのでは? あの魔王がよりによっていの一番に敗退、なんて事にはならなかった。貴方の計画を成し得る上で、あの魔王が欠けてしまえば意味がなくなる」

 

「ふむ、戻ったか。その方が話しやすくて都合がいい。……そして、確かにその通りだ。大聖杯、及び黒泥の制御には今しばらく時間を要する。あのセイバーならばまず敗退はあり得ないと思っていたが、あのバーサーカーが規格外過ぎたか」

 

 最もセイバーが敗退しようと、ライダーを「主役」に据えるだけなのだが。そんな事は口に出さず、女は無言でライダーの報告を聞く。

 

「どうも、新たなマスターと契約したようです。会話の内容を聞くに素人の様ですが、何故か魔術回路の質は良い。あれならば、そう簡単に敗退はあり得ないかと」

「ならばいい。前マスターには(わたし)が手を回し、あの魔王を召喚するための触媒を与えてやったが……あれほどに無能だったとはな。選択を誤ったか……。加えれば、泥から湧き出た過去の英霊の影が、無作為に殺人を繰り返している──想定外だが、こちらの制御も急がねば」

 

「課題は山積み、茨の道というやつですかね」

 

 セイバーの前マスターは強欲な魔術師だった。

 セイバーを利用したい、しかし自ら召喚する事はできない。そう考えた彼女はわざわざ手にした触媒を他のマスターに流し、別人の手を借りて召喚させたのだ。

 とはいえ、あれ程の反英雄を簡単に使役できるわけがない。マスターと魔王の不和と不信頼は、結果的に最初の敗退という形で決着をみた。

 

「ところで。なぜ貴方はセイバーではなく、私を召喚したのです? 計画を進める上で、自らがあの魔王を保有していたほうが遥かに簡単かと思いますが」

 

「あの魔王は反英雄の極致、故にこそ悪たる行いに敏感だ。(わたし)があやつを召喚などしてみろ、目を合わせた瞬間に「不愉快」とでも言われて斬り殺される」

 

 そうなると、殺人や虐殺に嫌悪感を示さない、かつ使役しやすいというサーヴァントが望ましい。中々に困難な命題だが、このライダーはその点で見れば最適解だ。とりあえず戦わせる事を禁止さえしなければ、このサーヴァントが謀反を起こす事はない。

 女はローブを翻すと、背後で仄かに光る巨大な術式を見た。

 これこそが、「大聖杯」の基幹システム。かつて円蔵山の大空洞に横たわっていたこの大規模術式を、彼女は十年をかけて再構築した。令呪を瞬きの間に再現できる異能をもってしても、その完全再現に三年。そして、龍神湖の下部にある龍脈から魔力を貯めるのに七年。

 冬木式の聖杯戦争では、聖杯戦争を行う分の魔力を貯めるのに六十年が必要となる。……ただしそれは、「龍脈を傷付けずに、何度も聖杯戦争をできるように」考慮したペースで魔力を汲み上げた場合だ。

 仙天島の龍脈は冬木のものよりも良質な、世界有数の龍脈である。

 そこから更に、龍脈へのダメージを無視して魔力を汲み上げた。結果的に十年という短期間で、女は聖杯戦争を再開するに至ったのだ。

 

「……大聖杯の起動は順調。内部の汚染は寧ろ好都合だ。これらを利用し、(わたし)は今度こそ──」

 

 「魔王」を再誕させる。

 そう呟いて、女は嗤う。その時、何が待つかを夢想しながら。



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第十一話 血まみれの記憶 【9月6日】

 ──息苦しくて、目を開いた。

 

(う……なんだ、やけに血生臭いな……)

 

 ここは夜闇よりもなお暗く、どこまでも黒しかない漆黒の中だ。

 若干戸惑いつつも、たぶん夢なんだろうなと考えて周囲の状況を把握する。

 身体はてんで動かない。四肢が石膏か何かで固められてしまったかのように、筋肉はぴくりとも反応を返さなかった。

 体勢はというと、大の字に手足を広げ、仰向けに寝転がっている。この場合、床に磔にされていると言ったほうが正しいのだろうか。

 

『dtgAw……? xtpju@Mkw@J』

 

 聴覚にノイズが走る。この声を俺は知らない。だが恐らく、俺ではない「彼女」は嫌という程知っている筈だ。

 直感か、はたまた必然か。この黒一色に塗り潰された視界は、既に知っている彼女の記憶なのだと、俺は何故か理解していた。

 ……何に起因しているのか、この世界は酷く不安定だ。

 ここは川面に浮かぶ泡沫に似ていて、偶然に存在を保っているに過ぎない。恐らく数分で、何の脈絡もなくこの世界は搔き消えるだろう。たぶん、俺自身の記憶にすらも残らない。

 そんな事を何故かぼんやりと悟っていると、荒れ狂う感情の奔流がどっと胸の中に流れ込んできて──、

 

「っ⁉︎」

 

 ゾッとして息を呑む。

 その感情は、気が狂うほどの恐怖だった。

 

 この身体の持ち主と視界共有を行える程同調しているが故、相手の感情までもを感じ取っているのか。それとも、俺が彼女自身の記憶を追体験しているからなのか。

 「恐怖」という残酷な感情はこの身体の心の内で暴れまわって、他人の感情だと分かっていても尚、俺の精神を強く揺さぶってくる。

 これ程の恐怖を彼女に刻み込んでしまうほどの何かが。

 粘り着くような不気味な闇の中、すぐ目の前に居る──。

 

『い、い……やだ……! おねがい、やめて……‼︎』

 

 喉奥から呻くような、掠れてすり切れた絶望の声が響く。

 しかし、実際に声を出しているのは俺ではない。俺は彼女の身体と重なる形でこの状況を俯瞰しているに過ぎない。

 ──故に、何もできない。

 動かない右腕の手首あたりに何かが触れたのが見えた。

 

『なんで⁉︎ なんで、私が、私は何もしていないのに‼︎ いやだ、やだ、やめてください、いっそ殺してください‼︎ わたしを────』

 

 これは……どろりとした血に塗れた、刃だ。

 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も彼女を切り刻み、絶望に叩き落とし、人権も尊厳も生きる希望も奪い去った刃。

 必死で声を張り上げ、殺してくれと懇願するその声に、刃を握る「ヒトではない何か」は嘲笑を返した。

  そして次の瞬間、感じていた嫌な予感が現実となる。

 

『ぃぎ──⁉︎ い、いやいやいやいや、ぁ、あ、ぎああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼︎‼︎』

 

 鮮血が噴き出した。おぞましい悲鳴が上がった。

 最近ようやく聞き慣れてきた彼女の声が、想像を絶する痛みの前に聞いたこともないような悲鳴に変わる。

 

 痛い。痛い。痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いイタイイタイイタイタスケテイタイイタイころしていたいいたいいたい……い……ぃ…………‼︎‼︎

 

「お、おい、やめろ……⁉︎ なあ──おい、クソッ⁉︎」

 

 刃が沈み、肉が断たれていく感覚があった。

 幸い俺が痛みを感じる事はない。だが、絶え間無く上げられる絶叫じみた悲鳴と伝わってくる感情の波が、その感覚の恐ろしさを伝えてくる。

 身を必死に捩って逃げたくとも、身体はまったく動かない。洪水に似た恐怖と痛みの中に晒される。動くのは悲鳴を叫び続ける口くらいのものだ。

 次第に身体が壊れていく。その内、ぶちぶち、と残酷な音を立てて、見る影もなく血に濡れてしまった細腕が寸断された。

 

『ぎゃあああああああああああああああああああああ、あ、うわああああああああああああああああああああああ‼︎‼︎‼︎‼︎』

 

 悲鳴に構わず、再度刃が腕に押し付けられる。人間ならば容易く死に得る傷でも、彼女に「死」という安寧の終わりは許されない。

 この地獄は、あるかも分からない目的地に到達するまで続くのだ。

 終わりなどない。そのまま、永遠とも言える時間が過ぎていく。

 彼女が憶えているその全ては、神さえ同情する程の痛みと恐怖に埋められていた。

 終わらぬ地獄に無理やり適応するように、彼女の心も壊れていくのが判る。本来彼女を支えていたはずの純粋な心が、穢れなどなかった少女の心が、無力な羽虫を握り潰すように殺されていく。

 

「……やめろ……やめろって‼︎ おい、頼むよ、やめてくれ、やめろって言ってんだろうが──‼︎」

 

 思わず叫んでいた。

 怒りで脳が沸騰する。視界が狭まって目が血走る。かつてここまでの激情を抱いた事はない、と今ここで断言してやってもいいくらいに俺は激怒している。

 今にも全身が怒りで張り裂けそうだった。

 どうしても、彼女を殺し続ける輩を許せなかった。

 だが、その激情は哀しい程に意味を持たない。この世界で、俺は何の力も持たなかった。いくら声を張り上げてもその声が届く事はない。この世界は記憶のカケラ。過去を変える事は出来ないように、俺がこの世界に介入する事は出来ない。

 ──それでも、叫ばずにはいられなかった。

 喉奥から悲鳴を迸らせ、絶望の淵に叩き落されている彼女を前にただ傍観する事は、他でもない俺自身が許さなかった。

 けれど、無意味だ。この身体の持ち主は、彼女は此処で完全に壊れてしまう。壊れた少女は絶望と憎悪の果てに、神をも喰らうバケモノへと変貌する。

 それは確定した過去であり、覆す事の出来ない確定事項。

 

 そうして、ユメの終わりが来た。

 

 遠ざかる視界の中。辛うじて最後に見えたのは、血に塗れた刀身に映る、少女(セイバー)の絶望に染まった虚ろな顔で──、

 

 

 

 

「う……ぁ……セイ、バー…………?」

 

 ベッドの上で重い身体を起こしてから、遅れて朝を認識する。

 寝ぼけ眼を擦るよりも早く、何故か喉元まで胃液がせり上がってきた。思わず口を押さえて吐き出すのを堪えてから、何故か心の底で渦巻いている腹わたが煮えくり返るような怒りを認識する。

 

(……寝ぼけてんのかな、何に俺は怒ってるんだ。変な夢でも見たか)

 

 酷い悪夢を見ていたような、気味の悪い感覚が頭に残っていた。

 埃っぽく、懐かしい匂いの漂う七畳程の狭い部屋をぐるりと見回して、部屋に一つしかない窓から差し込む朝日に目を細める。

 薄暗い室内には色々な物が散乱していた。漫画の類、誰かのカッターシャツ、忘れ物の教科書。体の下には、それなりにしっかりした作りのベットが横たわっていたりする。

 

「……なんだ、重いな……?」

 

 雑にかけられた毛布が、やけに重い。

 まだ若干寝惚けた頭で「重い」という感覚だけを感じ取り、半ば無意識に毛布を横に押し飛ばす。

 ──と。

 やけに鈍い音を立ててベットから転がり落ちた毛布の塊からは、真っ黒な何かが飛び出していた。それは床に激突した際、「ぶぎゅっ」なんて潰れた猫みたいな声を上げる。

 

「………………んえ?」

 

 ベットから墜落した毛布と一体化している黒い物体は、丸まった猫のようにモゾモゾと蠢いたあと、不気味な猛獣を思わせる声で低く唸り始めた。

 その声で俺は状況を瞬時に理解。次いで、その絶望的な状況に眠気が吹き飛んだ。

 朝っぱらから額に冷や汗が流れる嫌な感覚に肝を冷やしながら、おっかなびっくり毛布の端に手を掛け──、

 

「せ、セイバー? おは」

 

「ブチ殺しますよ」

 

 毛布の奥から放たれた、殺意満点のドス声が耳を打った。

 目にも留まらぬ速さで猛獣が跳ぶ。風を切る音がやけに大きく聞こえたと思えば、眉間の皮膚がチクリと痛んだ。

 その痛みに眉を顰めてから──認識する。

 セイバーの曲刀、その切っ先。それが俺の眉間にギリギリ触れるか触れないかの距離で静止している……いや、ほんの僅かに先端が刺さってしまっているう──⁉︎

 

「よ──……ぉおああああ⁉︎ うわっ、おっ、おまっ‼︎ ……お前はッ‼︎ なんでそう心臓に悪い事を‼︎ あーもう嫌もう嫌になった俺は全てが嫌になったもう知らん‼︎」

 

「ウルサイですね。次に私をベットから叩き落とすような事があれば、ただじゃ済みませんからね」

 

「いやだってお前昨日、サーヴァントは睡眠も食事も必要ないからベットはケントが使っていいですぅ、とかなんとか言ってたじゃねえか‼︎ なのになんで起きたら俺と一緒に毛布にくるまってんだ‼︎」

 

「昨晩はそんな安物のベットで寝る気になれなかったんですよ。……まあ夜通し寝ずの番というのも非効率なので、結局私も寝る事にしましたが」

 

「お前それ暇だっただけだよな、絶対」

 

 俺の追求にもこの魔王は寝ぼけ眼を擦るばかりで、不機嫌そうに唇を尖らせている。

 あー面倒くさ、と俺がもはや何度目かも数えたくない感情を抱いていると、案の定セイバーはあくび混じりにぐちぐちと文句を並べ始めた。

 

「ふわぁ……そもそも……ここ、学生が活動の為に使う部屋ですよね。改めて言いますが、私には余りにランクが低すぎます。かつての私の部屋はここの数十倍の広さを有していたというのに」

 

「広っ……けどなあ、しょうがないだろ。楓には外泊って言ってるんだし、今更家には帰れないんだ。そう我儘言うなって、王様目線で庶民の暮らしを測るんじゃねえ」

 

「チッ、使えませんね本当……」

 

「あ、今何か言った? 何かとんでもなく精神を抉る一言を呟いたなお前こらァ‼︎」

 

「いえ何も。……まあ強いて言うなら、思った事を素直に口にしてしまったかもしれませんがぁー」

 

「こ、この……野郎……ッ」

 

 俺がセイバーと行動を共にする関係上、我が家にはあまり立ち寄りたくない。セイバーの存在をどう説明するのかという問題もあり、なにより最悪の場合、無関係な家族が巻き込まれる可能性が考慮されるからだ。

 とはいえ──心もとない金銭事情を考慮した上で、学生が安全に一夜を過ごせる場所となると相当限られてくる。

 

「ごほん……しかし、学校の部室に泊まるコトになるとはなあ。ほぼ幽霊部員とはいえ、文芸部に入っといて良かった」

 

 最終的に俺が選択したのは、深夜の学校に侵入し、文芸部の部室を仮宿として使用する、という方針だった。

 ここには仮眠用のベッド、部員が持ち寄った漫画にゲーム、更に菓子の類まで揃えられている。文芸とは……と突っ込みたくなるような内装だが、残念ながら鷹穂高の文芸部に高い志を持った人間は存在しないのだ。国語の高木先生は泣いていい。

 

「はは、ケントが文芸とか、まったく想像できないんですが……本当ですか?」

 

「想像しないで結構。どうせ部活所属義務を避けるために所属してるだけだし、他の奴らもそうだ。小説を書こうと頭を悩ました事なんて生まれてこのかた一度も無いよ」

 

「じゃあここ、サボりの巣窟ってことじゃないですか」

 

「まあな。けど、運動部の汗臭い部室とかよりは遥かに快適だと思う。ちょっとボロいけどベッドに娯楽と揃ってるんだから、過ごしやすさじゃどんな部室にも負けないし」

 

 欠伸を噛み殺しながら、ドアの鍵を慎重に押し開ける。

 土曜日の朝七時、文化部の部室棟が校舎から離れているとはいえ、教師がうろついていないとも限らない。俺一人なら言い訳は効くが、朝早くに女子と部室から出てくるところを目撃されれば、生徒指導科のおじさんによる説教は確実だろう。

 

「……よし、いないな。ちゃっちゃと顔洗おう」

 

「なにをビクビクしてるんですか。とっとと出てくださいよ」

 

「うるっせえなお前はさっきからいちいち‼︎ お前が素直に霊体化してくれれば済む話なんだよ‼︎」

 

「なーんで魔王である私がわざわざ霊体化しなきゃならないんですか、たかが一般人のために」

 

 その声に押されるようにして部室から出る。グラウンド横に設置された文化部部室棟は朝日を浴び、綺麗な銀色に輝いていた。

 土曜練習の運動部員たちも、こう時間が早いと姿を見せない。

 今のうち、とばかりに二階建ての、小型アパートか建設現場の小屋じみた部室棟に背を向けて、グラウンドの隅の水道へ走る。

 

「がぼぼぼぼ……っはー、スッキリ。やっぱ朝は顔洗わないとやってらんないな」

 

「ほう。ケントにしてはいい心がけじゃないですか。どれ、私も」

 

 運動部の連中が飲みやすいように上向きで水を吐き出し続ける蛇口。水に濡れた顔を手で拭いながら、俺は天啓じみた発想が悪戯心という原動力を得、実行されるのを止められなかった。

 セイバーが水を掬おうと手を伸ばす。

 彼女の顔には無警戒の字がありありと浮かんでいる。

 

(その、油断した瞬間をっと……今ぁ‼︎)

 

「ん? わ、ぶふぉぉ⁉︎」

 

 俺は素早く手を伸ばし、蛇口のハンドルを思い切り捻った。

 途端、水が猛烈な速度を伴って飛翔する。朝日にキラキラと輝く飛沫の中、透明な一筋の激流は見事セイバーの顔面に吸い込まれ、彼女の鼻っ面に直撃した。

 ハンドルを戻すと、ずぶ濡れで呆然とするセイバーが残される。いつもはくるんっと跳ねている前髪がへにょっと垂れているあたり、新鮮で中々に可愛い。

 

「ははははははは‼︎ ざまあみろこの非常識魔王めが、朝っぱらから殺されかけた恨みを喰らえバカ‼︎ バーカ‼︎」

 

「ケントォォ……?」

 

 セイバーは呪詛の如く俺の名前を呟きながら、ゆっくりと近づいてくる。

 数秒後、愉快にブッ飛ばされる自分を幻視した気がした。

 だが、俺も無策でこんな事をする程間抜けではない。セイバーの無言の圧力にやや焦りつつ、俺はとっておきの一言を言い放つ。

 

「オイオイオイオイいいのかよ。ン? セイバーは『令呪』ってのがあれば、命令には従わなくちゃなんないんだろ? あんな事やこんな事、なんだって命令できるんですよぉ」

 

「気持ち悪いんですけど」

 

「ぐっ……お前の口調の真似だっつーの……」

 

 セイバーのドン引きした目線にまたもやメンタルダメージを負いながら、俺はなんとか昨日まとめて詰め込んだ知識を引っ張り出す。

 令呪──サーヴァントを律する鎖であり、絶対命令権である刻印。

 まさしくマスターの証、とも言えるこの証は、現在俺の右手の甲に刻まれている……という事を、昨晩他でもないセイバーに教えてもらったのだ。

 コレさえあれば、セイバーは俺の言う事を聞くしかない。要はこの魔王を好きなように操れる。故にこうした行動に出ても、報復を受ける心配は無い。

 と、そこまで考えたところで、俺は肝心な事に気が付いた。

 

(あれ。令呪って、どうやって使うんだ? ……そもそも回数制限ってあるんだっけ?)

 

「あー……えー……あれ、どうするんだっけ? えと……なあセイバー、令呪ってどうやって使えば」

 

「遅ぉい‼︎」

 

「ぎゃふぁっっ⁉︎⁉︎」

 

 哀れ、俺は先の予想通りに宙を舞い、グラウンドの硬い地面に転がった。

 凄まじい平手打ちをモロに受け、うつ伏せで痙攣する俺の前で、仁王立ちのセイバーは冷ややかにこちらを見下ろす。

 

「令呪の行使に面倒な詠唱などは必要ありませんよ? 命令を強く念じて口に出せば、令呪は効力を発動します。コレ昨日説明しましたよねぇ?」

 

「い、いやその、魔術師の存在から聖杯戦争の仕組みまで、一気に説明されたら暗記抜けだってあるだろ……仕方ないって。人間の理解力にも限界があるんだしさ、あと令呪って何回まで使えるんだっけ?」

 

「あるだろ、じゃありませんよ! たったの三回しか使えません‼︎ こんな大事な事を忘れないでください‼︎」

 

 ズン、と背中にセイバーの足が乗る。

 潰れたカエルのような声で呻く俺に、魔王は裂帛の勢いでまくし立てる。

 

「大体私を令呪で縛ろうとか、そういう考えが気に食わないんです‼︎ ケントはそういうんじゃなくて、ああもう腹が立ちます‼︎ ムカつきますね‼︎‼︎」

 

「あがががががががが背中を蹴るな踏むなマジで痛いほんと痛いイタイ背骨折れるって‼︎」

 

「このっ、このっ、このっ」

 

 げしげしげしげし……と、セイバーの蹴りは続く。

 彼女にとっては大分加減しているつもりなのだろうが、一応コイツもサーヴァントだ。その威力は女の子が出せるレベルの力ではない。

 ──よって、冗談抜きにマズイ。背骨はヤバイヤバイと悲鳴を上げ、先程からずっと鋭い痛みを訴えている。

 

「ちょ、おま、ごはぁっ⁉︎ おいコラ、やめっ、やめ、やめろっていってんだろ馬鹿──‼︎」

 

 ──その瞬間。

 俺は愚かにも、明確に「令呪」の存在をイメージしてしまっていた。先程まで話していたせいで、叫んだ瞬間、その存在がふと頭によぎったのである。

 刹那、右手の甲に激しい痛みが走る。

 

「が……あああああっ⁉︎」

 

 思わず左手で右手を抑える。全身に激痛が走り、何か得体の知れない神経が発熱して身体中を滅茶苦茶にした。

 だがその凄まじい痛みの原因を知るより早く、朝の風が吹き抜けるグラウンドに、膨大な魔力の発露と共に真っ赤な閃光が走り抜ける。

 

「「………………え?」」

 

 セイバーが足を止める。俺はうつ伏せのまま呆然と右手を見る。

 気まずい沈黙。

 

 ──真っ赤な刻印は、一部分が消えてしまっていた。

 

 俺の「蹴るのをやめろ」というシンプル極まりない命令を受け、貴重な三画の内、一つが呆気なく消費されてしまったのであった。

 

「…………あ、使っちゃった☆」

 

 セイバーはどこまでも無言だった。沈黙が一瞬で恐怖に変わる。言葉の代わりに、彼女の掌の中に一振りの刃が現れた。

 それを見た瞬間、俺はカッターシャツの汚れを払うことすらもせずに逃げ出していた。

 逃げる。転がるように、とにかく逃げる。

 背後で膨れ上がる殺気が頬を撫でた。

 

 ゆっくりと、彼女が剣を振り上げたのが見えた気がする──、

 

「……だ、誰か助け──⁉︎」

 

「このクソ馬鹿ナス愚か者──‼︎」

 

 慈悲は無かった。

 ──凄まじい衝撃があって、何が何だか分からなくなった。

 

 垂直に振り下ろされた彼女の剣は、その莫大な力を吹き荒れる衝撃波へと変え、グラウンドに巨大な跡を刻み込んだのだ。三十メートル以上に刻まれた真一文字の傷跡が、その威力を無言で物語っている。

 それはまさしく、魔王の一撃だった。

 その余波を受け、身体が虫けらのように吹き飛ばされる。無数の土塊と共に空中遊泳。破壊は真一文字に留まることなく、薄氷を力一杯踏みつけたように大地に亀裂が走り、面白いように粉砕されていくのが辛うじて見えた。

 

 ──このグラウンド、誰が直すんだ……。

 

 そんなどうでもいい事を考えながら、俺は地面に墜落する。

 そこで、俺の意識は断絶した。




【鷹穂高高校】
普段は志原健斗、繭村倫太郎などが通うありふれた学校。大塚市の東部、ちょうど龍神湖とは反対の山中にある。
健斗はここの部室を一時的な活動拠点とし、滞在している。

【夢】
健斗が垣間見たもの。魔王たる彼女の原点たる記憶。


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第十二話 ふたりの魔術師/Other side

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 健斗がセイバーに吹き飛ばされ、愉快に宙を舞っていた頃──。

 

 大塚市東部の新興住宅地を、一匹の動物がのんびりと歩いていた。

 柔らかな白い毛並みにつぶらな瞳。ここ日本ではポピュラーな「芝犬」なる犬種に分類されるその中型犬は、赤い舌を出しながら朝日照る道の日陰を進んでいく。

 

「うおぁ⁉︎ なんだ……って、犬かぁ。あまり驚かせないでほしいね」

 

「前田くん、見事にひっくり返ってるけど大丈夫……? それにしても、野良かな。か、かわいいねこの子。触っても噛まれないかな?」

 

「なにっ、三浦さんを噛むとかマジありえないんだが⁉︎」

 

「まだ触ってないし、噛まれてないよ。あ、行っちゃった……」

 

 白い芝犬は二人の反応を嫌がるように、たたっ、と走り去ってしまう。しかし勢いよく走っていたかと思えば、人気が消えるにつれて再び歩き出した。

 のそのそと歩くその様子は、決して大きい体躯ではないながらも、「まるでオレがこの周辺の親玉だ」と誇示しているかのよう。彼は何の脈絡もなく散歩しているようでいて、ある一箇所の周辺を延々と歩き続けていた。

 

「……………………」

 

 ふと、芝犬が立ち止まる。

 彼より三十メートルほど先、白や橙色の家々が立ち並ぶ一角に、目的地は存在した。

 一見すると──何の変哲も無い、ただの空き家だ。

 木材を主体にした建築だが、決して古くから建つお屋敷という訳でもない。少し前の住宅開発期に建てられ、そのまま家々の中に埋もれていったような寂しい印象を受ける。

 その外見にどこからどう見てもおかしい所はない。この平穏な光景を異常と見る方がどうかしているだろう。

 

「んー…………」

 

 そこから少し離れた日本家屋の中。朝日が眩しい縁側で胡座をかいて、頬杖をつきながら、繭村倫太郎は苦しげに唸っていた。

 その瞳は眼前の日本庭園を眺めているようでいて、全く違う風景を捉えている。魔術的な視覚共有により、他者の視界を介入する形で眺めているのだ。

 

「あー……シロ、一度屋根の上から頼む」

 

『アオンッ!』

 

 芝犬は一つ吠えた後、驚くべき跳躍力で塀に飛び乗った。

 更に跳躍を重ね、時には民家の庭に植えられた小さな植木さえも利用して、瞬く間に屋根の上に登ってしまう。どんな調教師に躾けられようと、こんな動きを軽々と披露する犬は存在しないだろう。ぱっと見普通の犬だが、彼の遺伝子には様々な生物のモノが組み込まれている──要は一種の合成獣(キメラ)だ。また、倫太郎がもっとも信頼する使い魔でもある。

 屋根の頂点まで軽快に移動し、再び芝犬は視線を先のありふれた民家に向けた。

 利口な相棒の視界を通じ、倫太郎は五感の内、視覚のみに意識を集中する。

 

「──っ……ぐ……」

 

 彼は魔術の行使が苦手だ。

 才能的に恵まれていないのではなく、その行為自体に強い恐怖を覚える。ストレスから胃がまるごと裏返ったような感覚を覚え、顔を青くしながら倫太郎は眉間を抑えた。

 

(くそっ。大丈夫……まだ……いけるか……)

 

 見るだけでも、倫太郎ほどの魔術師であれば魔術的な仕掛けはある程度まで識別可能だ。

 限られた時間内で綻びを見つけ出す。第一警戒対象のとある少女がこの戦争に参加している可能性は低くない。もしサーヴァントを召喚しているのならば、何らかの変化があってもいい筈だ。

 

(……おかしい。何も、変化がない?)

 

 だが倫太郎が警戒する魔術師の拠点は、不穏さすら感じさせるほどに何もなかった(・・・・・・)。結界どころか警報の類も無く、場所をあらかじめ知っていなければ普通の空き家としか思えない程だ。

 隅から隅まで民家の壁、窓、停められた自転車に至るまで凝視するも、特に違和感は存在しない。そこまで確認してから、ようやく倫太郎は張り詰めた緊張を解き──、

 

「……ありがと、シロ。ずっと監視を命じているし、一度戻ってくるといいさ」

 

 倫太郎が口にすると、シロと呼ばれた芝犬は素直に方向を変えて、閑静な新興住宅街を引き返し始めた。

 

 

 

 

「……お、あのワンちゃん帰ってくで」

 

 どこか楽しげな声が響く。現代の民家には不釣り合いな和装束を身に纏った男は、顔を顰める少女を見つめて笑っていた。

 

「所詮は現代の使い魔、空腹には勝てんかね。さて、どーする? 追うか?」

 

 彼らが居るのは、先程まで倫太郎の使い魔が監視していた空き家の中だ。

 このサーヴァントのマスターたる少女は、この空き家の地下に造られた武道場……もとい、魔術工房を拠点としている。

 

「どうせアイツんとこの使い魔ね。無駄にかわいいやつ。……チョロチョロされんのも鬱陶しいし、挨拶くらいはしておこうかしら」

 

「となると──出るんか?」

 

「うん。昨日もここに篭りっぱなしで疲れたし……まぁ、朝っぱらから派手にやり合うわけじゃないけどね」

 

 桃色のパーカーに黒光りする刃物を忍ばせて、少女はすっと立ち上がる。

 

 

 

 

 一方、倫太郎は視覚共有を切り、目の疲れから何度か目を瞬かせていた。途端、昨晩から徹夜明けの疲れが襲ってきたのか、まるで石化したかのように身体が重くなった。

 周囲を包む暖かい陽気。このまま目を閉じてしまいたい衝動に襲われるが、横合いから飛んできた声がそれを許さない。

 

「わんこ。帰ってくるの?」

 

「シロにはずっと監視を言いつけてたから休ませないと……まあ、三十分もしたら戻って来るでしょ」

 

 同じく縁側に座り、手持ち無沙汰気味に空を見上げていたアサシンは、背中から木張りの床に倒れ込んだ。

 

「何もなかった、昨日」

 

「本当だよ。……はあ、昨日はとんだ無駄足だった。徹夜には慣れてないんだけど、僕」

 

 皮肉っぽく言ってみるが、アサシンはどこ吹く風でぼーっとしている。

 聖杯戦争が開幕した時から、倫太郎はこの大塚市に居を構えるもう一つ(・・・・)の魔術家系に目をつけていた。

 調べ……というか、そこの魔術師である少女から昔に聞いた話によれば、当主は基本的に海外で活動している。家系の大黒柱が不在である現在、聖杯戦争に参加している可能性は低い、と考えるべきなのだが──、

 

(まあ、あいつなら参加するよな……)

 

 あいつ──彼が知る魔術師の性格からするに、彼女が無謀にも聖杯戦争に名乗りを上げている可能性は高い。そんな目論見もあって、倫太郎は昨晩、彼女の拠点をアサシンに探らせようと試みたのだ。

 

(実際にあいつがマスターだったとして、僕が彼女を殺せるかって聞かれたら……どうしても殺せない、と言う他ないんだけども)

 

 自分の甘さが嫌になるが、聖杯に託す願いが知人を殺してまで手に入れたいほど大切という訳でもない。

 土地の管理者たる倫太郎にとってはあくまで事態収拾が第一目標であって、聖杯に託す願いも「なんだかんだ聖杯が巡ってきたら願ってみるかあ」という程度のものでしかないのだ。「根元への到達」という魔術師総体の願いを叶えるべきなのかもしれないが、そもそも魔術に恐怖を感じるような自分が根元への資格を手にしているとはとても思えない。そんな自分が全ての神秘の源たる「根元」なんてモノに触れてしまえば、最悪発狂する可能性すらある。

 

(けど──向こうは躊躇なく僕を殺しにくるだろう。なんせ、あいつは僕を心の底から恨んでるだろうし)

 

 とある決別を経て以来、二人がまともに話した事はない。顔を合わせても、向こうが鬼の形相で睨みつけてくるだけだ。

 といっても「もう関わるな」と一方的に彼女を突き放したのは倫太郎の方であって、あちらに非がない事は重々承知している。こうして憎まれるのも自分が蒔いた種という訳だ。

 

(……別の事考えよう。あいつが参加者と決まった訳じゃない)

 

 両者にとって思い出したくないであろう過去を頭の中から締め出して、倫太郎は昨晩のことを思い返した。

 戦いの定石(セオリー)をまるきり無視して突撃しようとするアサシンを苦心しつつも言いくるめて、さあ出発──といった時に起きたのが件の衝突である。

 大塚市全域に行き届く程の莫大な魔力放出。この土地の管理者として、あのように形振り構わない形での戦闘は目に余る。倫太郎は計画を変更してでも、彼は魔力波が放出された地点へと向かわざるを得なかった。

 結果として彼らが到着した頃には、サーヴァントの気配は完全に消え失せていたのだが──、

 

「あーもう……君の諦めが悪いせいで、一晩中あの付近を歩き回るハメになるし‼︎ 足痛いしすごく眠いんだぞ、僕」

 

「何言ってるの……こら、まだ寝ちゃだめ。わんこを行かせたトコ、どうだった?」

 

「どうも何も、やっぱり全く異常は感じられない。相変わらず結界の類も張られてないし、拠点だけを見るならとても聖杯戦争に参加してるような雰囲気じゃない」

 

 可能性が低いということに少し安堵しつつも、倫太郎は付け加える。

 

「もっとも、あいつは基本的に「強化」の魔術しか使えない。セイバーやランサーを召喚していたら、拠点の防備策を講じていないのも納得できる。そもそも防備をする奴がいないんだからな」

 

 いつも色々と魔術を使える自分を羨んでいたな、と倫太郎はぼんやり思う。

 

「ふぅん。まあ、どーでもいいけど……私はまだ、あの子としか……殺しあってない。退屈」

 

「ああ、あのチビライダーか。魔力波の感じから察するに、昨晩衝突していた片割れは奴だったみたいだけど──」

 

「君もそんなに、背、高くない」

 

「う……気にしてるんだけどなソレ、ほんといちいちグサッとくる言葉を吐くヤツ」

 

 サーヴァントを召喚した翌日──今日より二日前に交戦した、小柄な体躯をしたサーヴァントを思い返す。

 荒れ狂う電撃に似た、バチバチと爆ぜる独特な魔力。あの痛烈な感覚を一度肌で感じれば、忘れる事は到底できない。

 

「剣士でも槍兵でも、どんな奴だろうと相手する……けど、こうも敵が現れないと、退屈」

 

 戦闘能力の低い「暗殺者」のクラスで召喚されておきながら、この自信。

 最初は倫太郎もその真意を勘繰ったが、ライダーとの戦いに於いて、彼女はその素晴らしい戦闘能力──そして、数多の英霊でも及ばぬ「切り札」の一端を披露してくれた。

 土地勘の利点と引き換えに倫太郎達が持つハンデとして、拠点の位置が他マスター達に露見しやすい、という事が挙げられる。この地に居を構える魔術師としては、アサシンのように影で暗躍して的を狙うタイプの英霊は相性が悪い。

 だが。「魔眼のハサン」の真名に相応しい彼女の実力は、確かにセイバーやランサー等の強力な英霊でさえ──伝説の神さえも、ナイフの一突きで仕留め得る。

 

「ま、君の力は十分に信頼してる。その内必要になる時も来るだろう」

 

「……むぅ」

 

 アサシンは唸りつつも、倫太郎の言い分を聞き入れたようだった。

 縁側に腰掛け、足を上げてプラプラ揺らしたまま、朝日の差し込む中庭を眺めている。

 

「と、一応状況を整理しておくか……今後の方針だって立てておきたいしな」

 

 隙あらば落ちそうになる目蓋を無理やり開いて、倫太郎は隣に置いた携帯ポーチから一メートル四方の地図を取り出した。

 大塚市の土地がでかでかと示された地図を板張りの床に広げ、更に用意した画鋲を地図上にいくつか置いていく。

 

「東部の新興住宅街は、今後もシロに警戒させるとして……問題は中心部の駅周辺、それと西部の田園地帯だ」

 

「ここらへんは、怪しい」

 

「そこは僕も特に怪しいと思う。大塚の西部には基本的に畑ばかりだけど、何も無いって訳じゃないからな」

 

 アサシンが指し示したのは、大塚市の西部、田園の広がる一帯だった。

 一見何も無いように思えるが、ここには東部開発計画の煽りを受けて取り残された廃墟が多い。魔術師が姿を隠すにはうってつけと言えるだろう。

 

「この地の霊脈は、全部で四つある」

 

「……ほー」

 

「画鋲で示してみたけど、大まかには西側に集中してる。一つ目は当然僕の家の地下だ。それから大塚ランドマークタワーの根元、田園地帯の途中にある工場跡の廃墟、それから……」

 

「ここ、だよね?」

 

「その通り。辿天(せんてん)島……龍神湖の湖岸に作られた人工島で、その質は近畿全体で考えても素晴らしいと言える」

 

 ──正式名称は、石狩仙天島。

 昔に莫大な費用を注ぎ込まれて作られた、運動公園と水質調査場、浄水場などの施設を備えた人工島である。

 表地面積は七百三十万平方メートル。その地下には莫大な魔力貯蔵量の龍脈が広がっている。

 人工島が建設された表向きの目的としては浄水場の建設のため、とされているが、本当の目的は剥き出しの龍脈の保護にあったらしい。最も、この事実を知るのは繭村の人間と魔術協会の連中に限定されるが。

 

「相手の魔術師からすれば、当然立地の良い場所を抑えたいだろう。内一つは僕が抑えているし、もう一つは龍脈上とはいえランドマークタワーだ。あんなに人気の多い場所に潜伏するとは思えない」

 

「要するに、どこ?」

 

「残りの二つ。……大工場の廃墟に、仙天島だ。このどちらか、もしくは両方。ここに必ず魔術師は潜んでるに違いない」

 

 強く断言して、倫太郎は胸を張った。これでも使えるマスターなのだと、少しは評価を改めろとその態度で示したかったのだが、アサシンは倫太郎よりも更に眠たそうな目でこちらを眺めるのみ。

 渋々姿勢を元に戻しながら、倫太郎は再び話し始める。

 

「けど、今晩はどちらにも仕掛けないから」

 

「なんで?」

 

「うわっ、いきなり形相を変えないでくれ……って、近い近い近いって!」

 

 アサシンの艶やかな脚に乗っかられ、折角買ってきた新品の地図がくしゃりと歪んだ。

 ずいっ、と顔を寄せてきたアサシンから尻餅の姿勢で距離を取りつつ、倫太郎は両手でアサシンを制止する。

 

「それより先に確認すべき場所がある。大塚市の外、近辺に住む魔術師の本家だよ。聖杯戦争に参加するのは、遠くから来る連中と開催地の魔術師だけじゃない……かつてのアインツベルンだって、冬木から遠く離れた森の中に古城を建てていたそうだし。大塚市の内部だけを警戒してたら足元を掬われる」

 

 アサシンのおでこを押しながら気持ち三割り増しの速度で説明を終えると、ようやく彼女は引き下がった。

 再び、「むぅ」と唸ってから、不満げそうな視線を向けてくる。まるでお預けを食らったシロみたいだな、と失礼にも倫太郎が思っていると、アサシンはつまらなそうに寝っ転がった。

 

「あー……ひま」

 

「そういう時は寝て過ごすか、ネットでもしてたら。なんなら僕のパソコン貸してあげようか?」

 

「うん……それが、いいかも」

 

 少しでもアサシンの気が紛れれば、という願いから、魔術師らしからぬ倫太郎の最新型ノーパソを引っ張り出し、アサシンの手前に献上するかのごとく置いた。こうして科学技術に迎合的なあたり、倫太郎は近代の若い魔術師らしいところがあると言えるだろう。もっとも、本人は魔術師失格だと思っているのだが。

 きょとん、とアサシンが画面を見つめる中、簡単に仕組みを説明する。

 

「ん、わかった」

 

「早っ。まだ検索方法しか教えてないんだけど」

 

「じゅうぶん……これで文字を打って、これで矢印を動かす。完ぺき」

 

「それでいいんならいいけど……見えてるのか、ソレ?」

 

 目を隠すためにぐるぐる巻きにした包帯を倫太郎が目線で示すと、アサシンは無言で頷いた。

 それはそれで問題があるんじゃないかと思える倫太郎だったが、そもそも「魔眼殺し」でもない限り彼女の視覚を抑え込むのは困難なのだろう。アサシンの両目を覆う包帯は気休め程度のものなのかもしれない。

 

「ふーん。まあいいや、僕これから寝るから。分からないことがあっても、起こして聞くっていうのは無しで頼むよ」

 

「……………………」

 

 無言でアサシンがパソコンを操り始めたので、サーヴァントの適応性に驚嘆しつつ、アサシンを真似て縁側に寝っ転がる。

 成る程、試したことはなかったが、この場所もなかなかの寝心地だ。横になるとすぐに、睡魔が怒濤の勢いで襲ってきた。体力回復の為にも効率的な睡眠を、つまり布団で寝るのが一番と分かっていても、このまま寝てしまいたい欲求には抗えない。どうも体力的にも精神的にも疲れが深刻らしい。

 

「ふわあ……とにかく……今日の夜は電車で隣町まで偵察に、行くから──」

 

「うん、わかってる……今は、おやすみ」

 

 「はい、おやすみぃ……」という声は、果たして口に出す事が出来ていたのか否か。

 だが、とうとう倫太郎が完全に眠りに落ちる寸前──。

 

「………………くる」

 

「ん?」

 

 ──意味を理解する暇は無かった。

 

 刹那、凄まじい衝撃音が走り抜ける。

 屋敷に張り巡らされた三重の結界を全て容易く貫いて、一条の光柱が堕ちる。

 

「ッ⁉︎」

 

(敵の攻撃っ、回避、無理──……⁉︎)

 

 倫太郎が咄嗟になんとかそこまで把握する間に、アサシンの姿が掻き消える。風より速く疾駆する暗殺者は、迫り来る光の前に立ち塞がるように立つと、

 

「────邪魔。消えて」

 

 手にしたナイフを、軽い挙動で振り上げた。

 ──無茶だ。

 怒濤の勢いで迫り来る光の大瀑布をナイフ一本で受け止めるなど、出来るはずがない。あの光は恐らく、倫太郎数人分の魔力を束ねて極限まで濃縮した魔力の輝き。触れる物全てを蒸発させる威力を持つ。

 だが、その常識を塗り替える者こそ英霊。

 彼女の身体は蒸発することなく、ナイフの刃先と真正面から衝突した光の柱は一瞬にして霧散していた。

 

「へぇ、やるじゃない」

 

 聞き覚えのある声が響く。愛用の強化木刀を引っ掴んだ倫太郎が視線を下げると、中庭の先の塀の上に立つ少女が視界に映った。

 

「………………やっぱり君か」

 

「何ソレ? わざわざこっちから来てやったんだから感謝しなさいよ。あ、繭村の魔術師様は私みたいな三流とは関わらないんだっけ?」

 

 怒りと皮肉が滲み出るような口調で少女は言う。

 この彼女こそが、倫太郎が警戒していたこの地に根付くもう一人の魔術の後継者だった。

 

「……なんで君が聖杯戦争に参加してる」

 

「決まってるでしょ、一族のお金と名声、繁栄のために、根源を目指すの。魔術師としちゃ俗な願いだけど、フツーそんなもんじゃないの?」

 

「君と僕を一緒にしないでくれ。僕はそんなものに興味はない、この狂った儀式を終わらせることが第一目標だ」

 

「あっそ。何でも持ってるアンタには分かりっこないでしょうね」

 

 ぎりっ、と怒りで奥歯を噛み締める少女。

 二人の間に満ちる空気の緊張感が急激に高まる中、少女の隣に一人の男が姿を現した。

 

「いよぅ、君がアサシンのマスターか」

 

「そういうお前はキャスターか、サーヴァント」

 

「まあまあ、そう警戒すんなって。今すぐ殺し合おうって訳ちゃうからさ」

 

 優雅に扇子を扇いでいる男は、闘志など欠片も感じさせぬ様子で嘯く。

 

「……じゃあ、何のために?」

 

「そんなの決まってんじゃない。宣戦布告よ」

 

 殺気の篭った声色を叩きつけられ、倫太郎の肩がぴくりと震えた。

 

「へぇ……いいのかな、わざわざサーヴァントを使役している事を明かすなんて。僕には愚行としか思えないんだけど?」

 

「どうせ遅かれ早かれバレるんだし、私コソコソするのは嫌いなの」

 

「…………君、本当に忍者の末裔か?」

 

「どうとでも言いなさい。こっちがアンタに言いたいのは一つだけよ」

 

 肩を鳴らす少女が何かを呟くと、竜巻に似た赤色の閃光が迸った。

 その輝きは少女の両腕を凛然と包み込み、同時、その腕から毒仕込みの暗器が異様な速度で放たれる。

 

「────‼︎」

 

 だが、倫太郎も負けてはいない。

 プロ野球選手の豪速球をも上回る速度で投擲された暗器に対し、辛うじて木刀を合わせる。鋭い激突音と共に苦無と木刀が激突し、弾かれた苦無は屋敷の床に深々と突き刺さった。

 

「聖杯を奪い合うってんなら容赦はしない。次会った時、アンタを殺してあげる」

 

 少女はそう言い残すと、無言で塀の向こうに消えていった。キャスターと思われる男も首をすくめてから、霊体となって消えていく。

 再び沈黙が戻る中庭。暖かい朝日の輝きは変わらずに、先の緊張感は消え失せた。殺気の残滓すらも残らないこの場所には、平穏そのものの空気が漂い始める。だが、そんな中で──、

 

「………………………」

 

 少年は一人、硬く奥歯を噛み締めていた。




【少女】
キャスターのマスター。
とある事をきっかけに、倫太郎に複雑な感情を抱いている。

【キャスター】
和風な衣装に関西弁の優男。趣味はマスターをからかって遊ぶこと。

【繭村倫太郎】
世にも珍しい「魔術が嫌いな魔術師」なので、対照的に科学技術には迎合的。鍛錬がない日はネットサーフィン三昧という、半ばニートじみた生活を送る。聖杯戦争が開幕してからは、用心して学校には行っていない。


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第十三話 魔王さま、おさんぽの時間

 ──ふと、獣の遠吠えが聞こえた気がした。

 

「いや……それにしても起きませんね……」

 

 やけに狭っ苦しい部室の中。手持ち無沙汰にぺらぺらとめくっていたすいーつ雑誌を適当に放り捨て、私は思わず呟いていた。

 視線の先には一人の少年がベッドに横たわり、うんうんと顔を青くして唸っている。夢の中でも未だに吹き飛ばされているのだろうか。

 あれから2時間ほどが経過──。

 今もこうして彼の眼が覚めるのを待っている私なのだが、いかんせん起きる気配が無い。

 

「やり過ぎましたかね……いえ、あれはやり過ぎじゃないです。絶対。そうですよ、あろうことか令呪を使うなんて──」

 

 独り言を呟きながらベッドの横をうろうろ、うろうろ。彼の意識を吹っ飛ばした原因は私なのだが、こうも起きないとだんだん不安になってくるのでやめて欲しい。

 令呪を使った時の反応を見るに、もしかすると魔術回路のほうまでダメージが及んでいる可能性もあるかもしれない。おそらく無いとは思うが、悪い方向に考えると大体止まらなくなるものだ。

 

「……そういや、なんでケントはこんなに魔術回路が優秀なんでしょうか。一般人にしては異常過ぎるような気もしますね」

 

 偶然、と言うにはあまりに良質な魔術回路をしている事くらいは私にも分かる。恐らく、魔術師ならばこぞって後継者にしたいと思える才覚の持ち主だろう。

 ……まあ、そのお陰で余裕を持って戦えるのは事実であって、デメリットは何もない。運が良かったと受け入れることにしておく。

 さて、彼の覚醒をただ待っているだけというのも存外気が滅入るので、どうせ勝手に起きるだろうと決めつけて外出する事にする。

 なんだかんだと慣れてしまった部室の扉を開けると、晴れやかな昼下がりの日差しが私に降り注いだ。空には雲ひとつなく、絶好の散歩日和である事が伺える。

 

「いい天気です。散歩のしがいがありますね」

 

 部室棟から出ると、私が叩き割った地面の周囲に人が群がっているのが正面に見えた。

 どうやら、何故このような惨状になったのかを調べているらしい。

 

「無駄なことを。……ま、私には関係無いですね」

 

 幸いそちらに人々の意識が割かれていたお陰で、私は誰にも見られることなく部室棟から離れた。「思いっきり関係あるだろ」という誰かのツッコミが聞こえる気がするが、無視。

 とりあえず、目的地もなく歩いてみる。

 部室棟前に停めた愛騎、ウルトラシルバー魔王号(自転車)を使おうかとも考えたが、この天気だ。折角なので歩きで行こうと思う。

 着ているのは少しサイズの合っていない黒ジャージ。前マスターに使役されていた際、洋服屋から適当に頂戴した物だ。大きいせいで袖が余り気味である事を除けば、機能性も良く、概ね気に入っている。私の黒鎧を彷彿とさせる色合いも素晴らしい。

 

「……とりあえず、例のふぁみれす、とやらに向かいましょうか」

 

 土曜日、という休日のせいか、住宅街に人は多い。

 行き交う自動車は勿論のこと、駆け回る子供達の姿が多いのが印象的だった。何処からか聞こえてくる柔らかい笑い声を聞いていると、此処が聖杯戦争の舞台であるという事を失念しそうになる。

 

「幸いケントの財布がありますし、お金には困りませんね」

 

 先ほど(勝手に)持ってきたケントの財布をまじまじと眺めながら、昨晩ケントに食べさせてもらった様々な甘味の味を思い返す。

 頰がとろけるような味は、古き私の時代には無かったものだ。

 今度はどんな物を頼んでみようか、ぱふぇ、とやら以外を頼むのも悪くないかもしれない──そんな事を考えながら歩いていると、私はいつの間にか住宅街を抜け、大塚市中央部の駅ビル街へと差し掛かっていた。

 

「……あれは……確か、信号……?」

 

 怪訝な声を出しながら、目の前の光景を観察する。

 目の前にはびゅんびゅんと通過していく自動車。そしてその奥に赤色に光る機械が見えた。私の眼前では数人の歩行者がそれを眺めて立ち竦み、通行許可が下るのを待っている。

 

「ふん、不愉快な。たかが鉄の塊風情が私の歩みを止めるか──舐めてもらっちゃあ困りますよ、信号機‼︎」

 

 私は魔王、アレは道具。そこに対等性など存在しない。

 ──ぎろり、と信号機を睨みつけて、私に許された「特権」を行使。信号機が持つ性質そのものに干渉し、私が望む性質をもってその存在を侵食する。

 数秒後、信号機は何度か点滅を繰り返した後、私の望み通りに青色の光を照らし出した。少し気合を入れ過ぎたのか、恐らく十分ほどはあのままだろうが──まぁ、問題ないだろう。たぶん。

 

「さて、行きましょー……っと」

 

 悠々と横断歩道を渡る。

 と、そんな時、愚かにも私に声を掛ける一人の男がいた。

 

「おぅい、そこの君」

 

「…………私に声を掛けているのですか? 下郎」

 

「げろ……って、なんだよソレ! いきなり酷くないか⁉︎」

 

 金髪に白い肌と、中々目立つ容姿の男だった。見るからにこの地の民族とは思えないが、話す言語は日本語だ。

 いや、その点で言えば私も似たようなものか──と首を振ってから、改めてその男の話に耳を傾ける。

 

「まあいっか……でだね、君。どうだい、これからちょっと軽い食事でも。奢るよ?」

 

「……? 貴様は、私を食事に誘っているんですか?」

 

「そ、そうだけれど。うぅむ、なんかやりずらいな……」

 

 初対面の人間を食事に誘う行為の目的が読めず、首をひねる。

 私と同じように少し困惑している様子の金髪男を眺めていると、ふと、昨日の記憶が蘇ってきた。学校とやらに通うケントの近くを常にうろついていてた男であり、彼の友人だった筈だ。

 

「となると、無下に扱う訳にもいきませんか……仕方ありませんね。聞きなさい、そこの男」

 

「は、はい。なんだろうこれ、威圧感が凄いんだが」

 

「私はこれより、ふぁみれす、という場所に行きます。奢ると言うのならば同行を許しますから、付いてきなさい」

 

「りょ、了解した……食事というより、なんだか連行される気分だが。声掛ける相手間違ったかなー……いや凄い可愛いしな……いや、でもなー……」

 

 ぶつくさ呟いている金髪男を引き連れて、目指すは駅前。

 金の心配が無くなった私は少し歩調を上げながら、夢の目的地に歩いていく。

 

 

 

 

「あの……まだ十一時だしさ、喫茶店かどこかでコーヒーでも飲まないか?」

 

「世迷言を……貴様は、この私にあの苦い液体を勧めるんですか?」

 

「ヒエッ、なんでもないデス」

 

 縮こまる金髪男と共に、昨日も訪れたふぁみれすに入る。

 店員を呼び、注文の方法はケントを真似てうるとらびっぐさいずぱふぇ(イチゴの乗ってるヤツ)を三つ注文。この時点で料金が三千円を超え、目の前の金髪男の顔がさぁっ、と青ざめる。

 

「き……君、結構容赦無く頼むんだな……」

 

「何か問題が?」

 

 特大パフェの料金が放つ威圧感の前に冷や汗を垂らしながら、金髪男は必死で財布の中身を確認している。

 とはいえ、そんな光景に興味はない。今は甘味だ。

 金髪男の軽快なトークに頬杖をつきながら付き合っていると、店員がトレイを抱えてやって来た。いい働きである、ご苦労。

 スプーンを使って柔らかいクリームを掬い取り、口に運ぶ。この美味しさの前には思わず頰が緩んでしまって、私はいつも慌てて表情を引き締めるのである。

 

「美味、実に美味ですよ。私に捧ぐ献上物としてはこの上ありません」

 

「ならいいんだが……名前もまだ聞いていなかったね。僕は前田大雅というんだが。君、名前は?」

 

「セイバーでふ」

 

「へぇ、セイバーか……いい名前だ。格好良くて凛とした響きを含みながらも、その中に儚さを秘めているような、そう、まさにそれは」

 

「店員、新たにこのケーキを二つお願いします」

 

「は……話あんまり聞かないんだな、君は……」

 

 がっくり項垂れる金髪をちらりと見やる。

 どうせなので少しは話に付き合っておこうか、と考え直して、私はクリームアイスをゆっくり咀嚼してから顔を上げた。

 

「いいでしょう。これらの対価として、私が満足するまで話は聞いてあげます」

 

 

 

 

「──それでだな、帰って来たら自転車が盗まれてたんだ! 酷いと思わないか、気に入ってたし結構高かったのに……はぁ、またバイトだよバイト」

 

「そうですか、多分その自転車も新しい持ち主に大切に大切に扱われていると思いますよ。では、私はこれで」

 

「エッ、終わり⁉︎ まだ二十分くらいしか……って待てよ、ジャンボパフェ四つにチョコレートケーキ三つ、ドリンクバーに……あれ、一万円超えてる? 残金五千円で……僕、詰んでる?」

 

 絶望の呻きを背中で聞きながら、ふぁみれすを後にする。

 ──それにしても、中々有意義な時間だった。

 お金の心配もなく注文を繰り返し、たらふく甘味を食べることができたのだから。あの金髪には一応感謝しておこうと思う。

 

「さて……次はどこに行きましょう」

 

 きょろきょろと周りを見回す。

 と、今まで気がつかなかったが、結構な量の視線が私に注がれているのに気が付いた。先の男同様、私の容貌は日本人離れしている。この大して気に入っていない蒼色の長髪も、人混みの中ではいい注目の的だ。

 

「はぁ……仕方ありませんね」

 

 すぽん、とフードを被る。

 少し蒸し暑いが、こうも人目に晒されるのは暑さよりも不快だ。

 そんな事を考えつつ、しょっぴんぐもーるの人混みの中を縫うように彷徨い歩いていると、幾多の騒音が重なり合ったような雑音が私の鼓膜を刺激した。

 視線を音の方向へ向ける。数メートル先には巨大な発行する看板に様々な音を垂れ流して駆動する機械の数々、そしてそれらに向かい合う様々な人々。この場所に、私は見覚えがあった。

 

「……アレは確か、げーせん……」

 

 思い出す。昨日ふぁみれすの前にケントと訪れた場所がここだ。

 誘われるように足を動かして、騒がしい機械の群れの中に突入していく。奥に進むにつれて、私の頰には一筋の冷や汗が流れていた。私は今、戦闘時のような緊張感を伴っている。

 

 ──この場所には、因縁があるのだ。

 

 今思い出すだけでも腹が煮え繰り返るような体験を私に強いた宿敵が、この場所の奥に存在する。

 

「……見つけましたよ、打楽器の機械‼︎」

 

 その機械を発見した瞬間、私は思わず呟いていた。

 私が剣呑な目線を向ける先には、東洋独特の打楽器が据え付けられた機械が一つ。アレに硬貨を入れれば、傍に備え付けられた棒キレでもって旋律に乗って打楽器を叩く、そんな遊戯が行える。

 

「昨日は散々辛酸を舐めさせられましたが──」

 

 昨日、私を色々なところに連れて行ったケントは、一度だけこの機械を私に遊ばせたのだ。

 だが、彼が意地悪にもこっそり最高難易度を選択していたことで、私の点数は散々だった。その後に明かされた事実を知った私の拳が飛び、彼の体がゲームセンターの中を鼻血と共に舞った事は言うまでもない。

 

「もうコツは掴みました。今日こそ私がコテンパンにしてあげますよ」

 

 機械の前に人はいない。荒々しく足音を踏み鳴らしながら、打楽器の前へ進み出る。

 

「とりあえず、魔王特権」

 

 目を見開いて、先の信号と同じように打楽器の機械を侵食する。

 私にさっさと遊ばせろ、と強く念じながら魔力を回し、「こうしたい姿」を強くイメージ。しびびびび、とコミカルに震えた機械は従順に私の意に従い、画面に表示された珍妙な生物が難易度はどれにするか、と問い掛けてくる。

 

「ハッ、私に百円なんて必要ないんですよ」

 

 当然難易度は最高難易度だ。曲はひとまず、前にケントが選んだ最近の流行曲とやらを選択した。

 二本の棒キレを握り締めて、むん、と気合いを入れる。

 

「……()くぞヘンテコ機械、その身に魔王の畏怖を刻んでやる」

 

 つい最近何処かの誰かに吐いたような台詞を呟きながら、私は流れ始める旋律に耳を傾ける。要は戦闘と同じだ。猛速度で迫り来る敵の攻撃をタイミングよく迎撃する、そんな感じ。

 ──あのお姉ちゃん、一人なのにさっきから誰と話してるの?

 背後からそんな不敬発言が聞こえてきたが、そんなものは全て私の集中を妨げる雑音だ。それらは全て切り捨てて、今は己が全てを、目の前の打楽器と手の内の棒キレに集中するっ──‼︎

 

 

 ……そうして、二十分後。

 

 

「………………………………………………………………」

 

 私は、完膚無きまでに破壊された打楽器の機械を前に呆然と立ち尽くしていた。

 ふと冷静になって視線を下げると、掌の中には魔王特権により強化に強化を重ねられた禍々しい棍棒が握られている。

 

「……あれぇ、なんでこうなったんでしたっけ」

 

 記憶を辿る。

 ──結局私は、全く音符を叩く事が出来なかったのだ。

 音符に合わせて打楽器を叩く遊戯、それがいつからかとにかく力のままにバチ(棍棒)を振り下ろすストレス解消にすり替わっていたのはいつからだったか。

 ともあれ、怒りに我を忘れた私は闇雲に打楽器を叩きに叩き、この目も当てられない残骸を生み出してしまった訳だ。

 

「わ……私は、悪くありませんよ」

 

 周りには人だかりが形成され、人々は一様に私を恐怖の目線で見つめている。先の不敬な子供に至っては号泣し、わんわんと泣き散らしている有様だ。

 ──その視線は、少し堪える。

 フードを深く被り直して、勝手に震え出しそうな手を強く握る。

 

「こ、こんな滅茶苦茶な速度を出すコレの方がいけないんです‼︎ ……も、文句はケントまでお願いします‼︎」

 

 とりあえず逃亡を試みる。

 私が突撃すると人の群れはざっ、と割れたが、入り口付近には数人の店員が両手を広げて待ち構えていた。ここは通さん、とでも言いたげな雰囲気だが、彼らは魔王の威圧で退ける。

 

「あ、謝りませんからね、私は────‼︎」

 

 そんな捨て台詞を残して、私は速やかにしょっぴんぐもーるを離脱したのだった。

 

 

 

 

「はぁ……なにやってんですか私は……」

 

 肩を落としながら、帰り道をとぼとぼと歩く。

 ……先程のアレは流石にやり過ぎだ。

 私は魔王なので、大体の行いは「やっていい」ことに分類されるのだが──あそこまで我を忘れ、挙げ句の果てに八つ当たりじみた理由で機械を破壊する、というのは流石にアウトの部類。

 人目を引くという結果を引き起こしてしまったし、何より少し幼稚に過ぎる。私とああいったゲーム類は相性が悪いのかもしれない。

 

「ケントが居なくて良かった。あれじゃあ、彼の隣に立つようなサーヴァントとして……」

 

 「いや待て、自転車泥棒も喫茶店を滅茶苦茶にするのも大して変わらないだろ」というツッコミが再び聞こえるような気がするが、それも無視。

 だが、そこまで呟きかけて、私は言葉の続きを呑み込んだ。

 

「……いえ。私には、彼の隣に立つ資格などある筈がないんでした」

 

 彼との交流の中で忘れそうになっていた事実を再認識して、私は深い溜息を漏らした。目線を伏せながら、沈んでいく気分に構わず無言で昼過ぎの歩道を歩いていく。

 しばらくして、高速道路の高架下に差し掛かった。

 この高速道路は駅前のビル街と東部の住宅街を分けるような役割を果たしていて、この先からは高層建築の類も消える。無言のままに薄暗い高架下を潜り抜け、先に進もうと足を踏み入れた瞬間、

 

「誰だ? 私に殺気を向ける愚か者は」

 

 ──殺意に溢れた獣の気配があった。

 

 瞬間的に魔力を束ね、自慢の黒鎧を全身に纏う。

 同時に銀光と共に顕れる一振りの刃。殺気の方向に掴み取った剣の刃先を向けながら、油断なく薄闇の向こうを凝視する。

 

「おうおぅ、可愛らしい嬢ちゃんかと思えば本質は魔の類か。こりゃあこれから世界を滅ぼす起点にもなるってもんだ」

 

 高架下の荒れ果てた空き地。

 薄暗いその周囲には四方を囲む壁の如く高くコンテナが積み上げられており、その中心に立っていたのは──、




【セイバー】
ゲームは苦手。


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十四話 朱色の魔槍

 青色の痩身、手には朱色に輝く長槍──。

 突然に現れた敵対者は一目見ただけで強いと推し量れる闘志を発しており、その両眼は猛犬の如き鋭さを秘めて私を見据えている。

 

「……ランサー、か」

 

「そういうお前は、セイバーで合っているな」

 

 軽い口調で確認を交わすランサーだが、その瞳の鋭さは消えない。

 相手のクラスは判明した。これ以上の会話に意味は無いだろう。

 そこまで考えて、男の殺気に臆する事なく剣を構える。

 

「待て。果たし合う前に一つ尋ねたい。貴様は聖杯を使って何を望む気だ? よもや世界を滅ぼしたい、とでも考えているのか」

 

 ──だが、その問いは無視できなかった。

 

「………………何を、言っている?」

 

 ランサーの言葉の意味が読み取れない。

 私の願いはその実、もう半分ほど叶っているのだ。もう充分に満足しているし、これ以上を望む事は赦されないのではないか、という思いも少なからずある。

 だから私はあの少年が生き延びる為だけに剣を握る。

 当然私に世界を滅ぼす気など毛頭無いし、そうした所で何か利益があるとも思えない。

 

「あー……なんだ? 指令によると起点はお前で間違いねえ筈なんだが、本人にその意思がねえときてやがる」

 

 眉を顰めながら何事かを呟くランサー。

 だが、すぐにその目線は私に戻る。

 

「──まぁいいさね。どうせ大元を殺せば残業(・・)も終わりだ」

 

 言葉と同時、異様な殺気が男の背後で膨れ上がった。膨張する鍛え抜かれた筋肉、吊り上がる獣の瞳。

 負けじとこちらも、全力の殺気を叩きつけて──、

 

「そんじゃあ話は終わりだ。行くぞッ‼︎」

 

 次の瞬間、来た。

 

 放たれたのは、喉元を狙う稲妻じみた速度の一閃突き。

 空間に残像が焼き付く程の一閃、風を貫く光線と化した猛烈な一撃に、手にした剣を振り上げて対抗する。

 蒼と朱の衝突──寂れた空き地に凄まじい衝撃波が走り抜けた。

 だが、戦いはそこで終わらない。私も相手も一撃で勝負が決するなどとは考えず、両手が霞む程の速度で互いの武器を交わし合う。

 

「ッ……‼︎」

 

 強い。それも尋常ではない。

 この男が操るのは極限まで鍛え抜かれた絶技だ。これ程の勇士は世界広しといえどそう存在しないだろう。

 刃を交え、男の強さを否が応でも思い知る。実に秒間三十二の激突を経て、私と槍兵は同時に飛び退いた。

 再び強く地を踏みしめ、魔力放出──再度、開始。

 荒れ狂う蒼雷が周囲で爆ぜ、空間が魔力の高鳴りに悲鳴を上げる。握り締める長剣が異様な振動音と共に震え出す。

 

「はぁッ──‼︎」

 

「おおァ──ッ‼︎」

 

 再度、私と槍兵が限界まで加速する。

 

 朱色の魔槍が唸りを上げる。襲い来るは刺突の豪雨。

 怒濤の勢いで迫る連撃を一つ一つ撃ち落としながら、絶え間なく舞い散る火花に目を細める。数秒と待たず、瞬く間に防ぎきった刺突の数は百を超えた。

 異様に研ぎ澄まされた第六感が告げている。

 これ程の槍撃は私でも抑えきれない。このまま五十も受ければ強引に押し切られ、心臓を貫かれる。

 

「ならば、その前に斬り伏せる──‼︎」

 

 残り三十手を掛けて男の僅かな間隙を把握。絶え間なく降り注ぐ朱色の穂先が、連撃の間にほんの一瞬動きを止めた。

 敗北まで残り二十手──。

 その瞬間を待っていたとばかりに、力強く右足を踏み込み、

 

「──ぁぁぁぁああッ‼︎」

 

 たった一歩を以って、押され気味の形成をぐるりと返す。

 こちらが優位な剣の間合いへ、強引にこの身を滑り込ませる──‼︎

 

「チッ‼︎」

 

 一撃一撃に全霊の力を籠めて、降り注がせるように斬撃を見舞う。

 我が身を小さな台風と変えた怒濤の攻勢。

 だが、槍兵の技量は恐るべきものがあった。槍の間合いよりも深く踏み込まれて尚、その守勢に隙は無い。視認すら困難な筈の私の刃を次々に受け止めて、眉一つ動かさずに槍兵は全ての攻撃を防ぎ切る。

 

「お──らぁッ‼︎」

 

 ──斬り払いを強く弾かれ、体制が僅かに崩れる。

 

 私の攻勢が途切れたその一瞬に、槍兵は魔槍を薙ぎ払った。

 大気を切り裂き、地面と水平に振るわれる朱い旋風。首を刈るように右から迫り来る一撃を咄嗟に地面に這うようにして回避して、

 

「ッ‼︎」

 

 回避と同時、足裏から魔力放出。

 低空から天へ飛び上がるように、垂直な軌道を描く斬り上げを放つ。その刃先は槍兵の胴を見据えていたが、槍兵は身体を捻って私の一撃を躱しきった。

 だが、それでも構わない。

 その勢いのままに宙高く跳躍し、空中で半回転。頭上を覆うコンクリートの高速道路に両足を乗せて、きっかり一秒後、一つの砲弾と化して天空より一撃を見舞う──‼︎

 

「はぁ──あぁぁぁぁぁぁぁッ‼︎」

 

 重力加速度、位置関係、魔力放出──全てを乗せた渾身の一撃。

 轟然と振り降ろされる蒼色の刃。対し、槍兵は横に長槍を広げる。

 

 ──次の刹那、一帯の大地が粉々に砕け散った。

 

 衝撃の余波を受け止めた地面は陥没と隆起を繰り返し、平坦だった荒れ地が粉々に割れていく。

 だが不敬にも、その中心点に立つ男が潰れることはない。

 地面に膝をつき、肩で軋む槍の柄を抑えつけながら、この槍兵は私の一撃を無傷で受け切った。にぃ、と愉しげに笑うランサーの姿が霞み、私の身体が弾き飛ばされる。

 

「甘いわ、たわけッ──‼︎」

 

 私が地面に着地した瞬間を狙い澄まし、猛烈な刺突が迫り来る。

 認識、回避は不可──軌道予測──迎撃‼︎

 魔剣と魔槍が真正面から激突し、衝撃と轟音がこの場を席巻した。槍兵の勢いに押し込まれるように私の身体が後退し、私の靴底が滅茶苦茶になった大地を深く抉っていく。

 

「っ、はぁぁッ‼︎」

 

 受け流し、返す刀を一閃。ランサーは槍の柄で受け止める。

 近距離での鬩ぎ合い、まるで剣士の鍔迫り合いに似た様相を呈する中、私と槍兵は互いの武器越しに睨み合う。ぎりぎり、と微かな火花を散らしながら拮抗する魔剣と魔槍。

 ──数秒の沈黙の後、拮抗を破ったのは槍兵だった。

 ランサーは自らその長槍を手放し、その拮抗を破ったのだ。

 当然槍の柄は地面に落ちていき、私の剣は強力な抗力を突破、青い痩躯に向かって振り降ろされる。

 

「愚かな──血迷ったか、ランサー‼︎」

 

 幾ら男の俊敏性が高かろうと、この距離では回避不可能。

 ランサーの手に武器は無く、防御も行えない。

 大地を割る程の力強い踏み込みを一歩、二歩と踏み出して、一撃で斬り伏せんと私の長剣が唸りを上げ──、

 

 

 ──そして。

 その瞬間に、私は呆気なく死んでいた。

 

「──ごふ、あ──ぇ……っ?」

 

 私の喉元は朱色の穂先に貫かれて、夥しい量の血飛沫を撒き散らしていた。血液がどんどん流れ落ちる絶望的な感覚と共に、全身から力が消えていく。

 間違いなく致命の一撃だった。

 何が起こったのか、何をされたのかを理解する暇もない。

 必死で首を貫く槍の柄を掴もうとして、でも、できなかった。槍兵が無表情に槍の穂先を引き抜き、首に風穴を開けた私の身体は糸が切れたように背後に倒れていく──。

 

「ッ⁉︎」

 

 それは幻視。第六感が見せた一瞬先の未来。

 直感に従って攻撃を中断、全神経を回避に費やす。

 勢い良く首を捻ったその瞬間──地面から矢の如く射出された長槍が、私の喉元を微かに掠めて硬質な音(・・・・)を響かせた。

 

「…………づ、ぁ⁉︎」

 

「お、やるじゃねえか」

 

 その勢いのままに後退し、数メートル背後の地面に着地する。

 あろうことか──あの男、平時と変わらぬ冴えの刺突を脚で放って見せたのだ。地面に落としたのは攻撃の布石であり、ランサーは防御でも回避でもなく、反撃によって私の一撃を防いでみせた。

 

「チッ……小賢しいな。足でもその槍術は健在か」

 

「あん? サマーソルトで蹴り飛ばしたりしない分、まだ俺のは常識の範疇だと思うぞ」

 

 ニヤリと口元を歪めて、ランサーは笑みを浮かべる。

 

「いいね、こりゃあ楽しい。今ならくっだらねえ縛りもねえし、相手取るのは最高に手強い剣士ときたもんだ。まさに戦士の本懐。破滅までの期限に焦る必要もなく、存分に戦える夜に仕掛けられたら最高なんだが」

 

「ほう? 随分と余裕だな、ランサー」

 

「残念だが、こちとら大英雄と呼ばれる身でね。ハナから満身創痍の相手に押されるほどヤワじゃねえんだわ」

 

「…………‼︎」

 

 思わず息を呑んで、私は唇を噛んだ。

 ランサーとの熾烈な激突の中で、私は傷と呼べるような傷を未だ負っていない。それは向こうも同様だ。だが──。

 

「気付いていたのか」

 

「直に戦えばわかるっつうの……酷え有様だこと。とっくに全身斬り刻まれて霊基はボロボロ、傷は外見を塞いでいるだけ。それで7割の力でも出せりゃあ儲けもんってもんだ。テメェがそれ程まで力を振るえる優秀なマスターに恵まれながら、なぜ治癒を頼まない?」

 

「……貴様には、関係のない事だ」

 

 二日前、私は不意打ちでマスターを殺害された。

 敵対者は例のバーサーカー。異様な強さを誇る難敵であり、魔力供給が途切れた事も合間って、私はあの夜に消滅寸前の状態まで追い詰められたのだ。

 ケントとの再契約を交わして以来は存在を保てているが、頼みの綱の回復宝具は彼の心臓から離れられない。魔術回路が多いとはいえ彼に魔術の心得がある筈も無く、故に私は今も無理矢理外見だけを修復して活動している。

 

「まあ、そうだわな。──再開だ。剣を構えろ、セイバー」

 

 この傷の深さは、通常のサーヴァントにとっては致命的だ。七割の力しか出せないのであれば、その戦闘能力は大幅に下がる。

 そしてこの男は、その足枷に合わせてくれる程に甘くない。

 次の刹那。三度大地が蹴られ、槍兵の姿が視界から消え去った。

 ──問題はない。奴の性質は先の一撃で既に見極めた。

 音だけを頼りに背後から迫り来る穂先を察知。軽やかにその場で半回転し、閃光となって眼前に迫り来る朱色の魔槍を、

 

「な────に?」

 

 ランサーの喉から、驚嘆の声が漏れた。

 

「ランサー。その「満身創痍」とやらの状態でありながら、何故私が大人しく回復を待たずに外を出歩いていると思っている?」

 

 不気味に軋みを上げ続けるランサーの長槍。

 それは私の左手に容易く受け止められ、その勢いを失っていた。

 

「簡単な話だ。例え傷を負おうが、貴様ら純英霊如きに易々と遅れをとるほど私は弱くない。あまり魔王(わたし)を舐めるなよ、不敬者が」

 

 ランサーの槍は微動だにしない。

 私の掌なぞ容易く貫く筈のその穂先は、まるで岩壁に突き立てられた槍のように、僅かたりとも私に傷を付けられない。

 

「テメェ、その力は」

 

「ほう……私の正体を察したか? ──ならば分かるだろう。残念だが貴様という存在は、どう足掻こうが私を傷付けられない」

 

 片手で槍を掴んだまま、槍兵の身体を斬り伏せにいく。

 槍兵は槍の柄を手離して跳躍して回避。数メートル先に降り立ったランサーは悔しげに顔を歪ませながら、軽く舌打ちを漏らす。

 

「成る程……魔王……ねえ、そういう事か。俺の槍が必中とはいえ、当たっても刺さらないんじゃあ意味がねえってもんだ」

 

 手の中の魔槍が急激に震えたと思うと、それはするりと手から抜けていった。それは複雑に折れ曲がる異様な軌道を描いて飛翔し、独特な反響音を響かせて持ち主の手の中へと戻る。

 

「やれやれ──こりゃ仕方ねえ、ここは退くとすっか」

 

「……逃すと思うか」

 

「まあ聞け、最後に一つ言っておく」

 

 空気が痙攣するような、声の響き。

 その言葉は、ランサーが今までに口にしたどんな言葉よりも重たい圧が伴っていた。思わず私は足を止め、その言葉に耳を傾ける。

 

「この聖杯戦争は、最早聖杯を競い合うものではない。このまま事が進めば、貴様はいずれ世界を滅ぼす存在と化す」

 

「…………」

 

「恐らく、お前の意思に関わらずな。そうでなけりゃ世界にわざわざ俺が喚ばれる訳がねえ。……あー、俺が言うのもなんだが……この世に余計な災いを招きたくなければ、その理性がまだ残っている間にに自害する事を勧めておく。さもなくば、お前の主も死ぬ事になるぞ」

 

 その忠告が僅かに私の心を揺らしたが、雑念を無理矢理振り払って敵を倒す事に集中する。

 言葉と同時に大地を蹴り飛ばし、秒以下の所要時間で槍兵に肉薄。刹那の飛翔を経て、魔力放出を合わせた渾身の一撃を放つ。

 

「ッ‼︎」

 

 鋭い炸裂音と共に剣が弾かれると同時、ランサーは大きく跳躍。

 高速道路の上に上がった敵影を追って私が跳び上がると、奴の姿は瞬く間に中央分離帯の上を遠ざかっていくところだった。

 余りに速い。恐らく、「仕切り直し」に類する能力か。

 

「フンッ……くだらない」

 

 追跡は諦めて、鎧を解くと同時に地面に降りる。

 

「帰り、ましょうか」

 

 残念だが、これ以上できることはない。

 微かな声で呟きを漏らしながら、私はケントの待つ学校への道を引き返し始めた。思考は冷静さを保とうと努めているが、先よりあの言葉が耳から離れない。

 

『貴様はいずれ、世界を滅ぼす存在と化す』

 

 先の状況で虚偽をあの男が吐くとは思えなかった。

 あの言葉が真実であり、ランサーが世界の「抑止力」の働きを受けて今回の聖杯戦争に顕現したとするならば──私がその破滅を引き起こす可能性は確かに存在する。

 元より私は反英雄。人類に仇なる絶対的な「悪」だ。そんな事態を引き起こすに相応しい存在だと言える。

 

 ──けれど。だからといって、どうして自害などできるだろう。

 ──あの少年の命を今も繋ぎ止めているのは、私だというのに。

 

 ランサーの言葉が頭の中でぐるぐると回る。

 言い表せない漠然とした不安感の中、私は俯いて歯を食い縛った。

 今日でも、何か致命的な出来事が起こる気がする──そんな予感は、纏わりつく蛇のように私の背中を這い回っている。

 

「……おーい、セイバーっ‼︎」

 

 と、張り上げるような声が聞こえた。

 俯いていた顔を上げると、前から駆け寄ってくる少年が見える。

 

「ぁ──ケン、ト……」

 

「ったく、何やってんだこんな所で‼︎ さんざん心配させやがって、これで散歩してたとか言ったら怒るぞ」

 

「……ええ、散歩ですよ。すいーつ、を食べてきました」

 

「なぁ⁉︎ くそっ、財布なくなってると思ったらやっぱりそういう事か‼︎ 俺の財布返せ‼︎ 頼むから今すぐ返して‼︎」

 

「大丈夫ですって、そこらへんのやつに金は全部出させましたから」

 

 ポケットから取り出した財布を手渡しながら、けろりと言う。

 

「さ、最悪だコイツ……やっぱり俺が見張っとかねえと……」

 

「まあまあ、いいじゃないですか。さ、帰りましょう」

 

 自然と心の底からの笑顔を浮かべながら、私は軽やかに歩き出す。釈然としない面持ちの彼も、少し遅れて歩き始めた。

 しばらく無言で歩いてから、ふと気になった事を聞いてみる。

 

「そういえば……ケントは、私を心配してたんですか?」

 

「何言ってるんだ、当然だろ」

 

 返事は即座に、何の迷いもない声色で放たれた。

 不意打ちを喰らったような気分になり、思わず私の肩が跳ねる。

 

「……な、何を言ってるんですか、私はサーヴァントであって、寧ろ心配されるべきはケントであってですね、要はその」

 

「オイ、何勘違いしてるんだ。──俺が心配してたのはお前じゃなくて、お前という非常識の塊を野に放つことで振り回される人達のことを心配してたんだよ。ったく、人に食費を奢らせて帰ってくるし、他にも人様に迷惑掛けてないだろうな?」

 

 ぴたり、と。私の動きが止まった。

 

「な────んですっ、て?」

 

「残念ですが、俺はお前みたいなのを心配なんてしません。心配されたかったらもう少し常識を身に付けて下さいね」

 

「ちっ、違……違いますよ‼︎ この不敬者‼︎」

 

 熱くなった顔を隠すように俯きながら、思い切り平手を振り抜く。

 「えっ、嘘それは待ったぇべっ⁉︎」という滑稽な悲鳴と共に、容赦無く殴られたケントは宙を舞っていった。

 

「はぁ、はぁ……もう知りません。先に帰ります」

 

「お、お前……ちょっと、待っ……あ、これ、意識が……ぅ」

 

 路上に倒れ伏している彼を置き去りに、私は足早に歩き始めた。

 照れ隠しに見上げた頭上には、美しく澄み渡る晴天がある。

 そこに、未だ、翳りは存在しない。

 

「……………………」

 

 けれど、私は──。



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十五話 喫茶店で/Other side

「……ふぅ、なんとか落ち着いたかな」

 

 夕焼けが美しく空を染め上げる頃。喫茶店「薫風」の店主である槙野和也は、額の汗を拭って一息ついていた。

 さっきまで結構な数の客がいた店内も、今はしんと静まり返っている。新しく雇ったバイト……アナスタシアという少女のお陰で、閑古鳥が鳴きまくりのこの店もにわかに賑わい始めていた。娯楽の少ない平凡なこの街では、「美人の外国人が喫茶店にいる」という情報だけでも十分に人々を惹きつけるに足る。

 

「お疲れ。閉めるにはまだ早いけど、ひとまず一息だ」

 

「槙野さんもお疲れ様です。……改めて、手際よく注文をこなすその手腕に感服しました」

 

「い、いやいや。客が来なくて練習する時間だけは豊富だったからね、そりゃあ少しは珈琲の扱いにも慣れるさ」

 

「とはいえ、鍛錬とは辛く、厳しいものです。その過程を踏まえて研鑽された技術ならば、賞賛されるべきだと思います」

 

「んー……まあ、そう言われると悪い気はしない」

 

 笑顔を浮かべてアナスタシアを見るも、彼女は真顔でじっと槙野を見つめているだけである。一人でニコニコしているのも気持ち悪いので、咳払いを一つして槙野は空いた時間をどう使おうか考えた。

 

「皿洗い……も、後で纏めてやればいいしなあ。昔は暇だったのに、忙しくなったらなったでいざ時間ができたときの潰し方が分からない。これから練習って気分でもないしね」

 

「………………」

 

 会話が続かな──い‼︎ と槙野は心の中で叫んだ。

 アナスタシアは客がいない時は基本的に雑務をこなすか、それも無ければ無言のままカウンター横に姿勢良く立っているだけだ。

 

「────」

 

 なんだかやりにくいなあ、と槙野は視線だけ横に向け、道路に面したピカピカの窓ガラスを見つめるアナスタシアの横顔を盗み見た。

 綿雪のような白い肌に紅い頰、日本人では得られない独特の美しさがそこには秘められている。

 ただ──どうも、槙野にはひっかかることがあった。

 そもそも彼女は「留学生」だというのに、昼間は基本的にこの喫茶店で働いている。夜は夜でこの店の二階に下宿しているのだが、その姿をほとんど見た事がない。

 だが、それは些細な事だ。

 槙野が彼女を雇って以来最も気になっているのが、彼女はどうも人間味が薄いように……時には感情のないロボットのようにさえ感じられるという事だった。

 そもそも、彼女は喜怒哀楽を滅多に表現しない。この数日で彼女から人間味を感じたのは、昨晩雷がひどく鳴っていて、彼女がそれに敏感に反応していた時くらいのものだ。本心ではアナスタシアの顔は女優なみに綺麗だと槙野は思っているが、ずっと真顔のままじゃあその魅力も半減してしまうというもの。

 

「……アナは、家族とかは向こうにいるのかい?」

 

 殆ど無意識に口から出た質問。

 暇つぶしに会話したかった訳ではない。恐らく、本当に彼女は感情に乏しいのかを確かめるため、そしてできればそれを否定したかったために自然と漏れた言葉だった。

 

「家族……は、いません。私は孤児で、物心ついた頃には孤児院に引き取られていました」

 

「そ、そうだったのか。悪い事を聞いちゃったな」

 

「いえ──確かに悲しい事ですが、私は満足しています」

 

「……じゃあ、孤児院の友達は? 今も連絡を?」

 

「残念ながら、それもいません。孤児院に預けられてしばらくすると、私は別の場所に引き取られましたから。友人……も居たと記憶していますが、その記憶はほとんどありません。その後は同年代の人物も周囲におらず、今に至るまで世間一般が指す友人に相当するような人はいません」

 

 うぐ、と言葉に詰まる槙野。

 このまま会話を続けても彼女のことを知るどころか、ますます彼女が感情に乏しいことを証明してしまいそうだった。生まれた時から両親も友人もいないのでは、そもそも会話をするどころか、当人の人格形成にさえ影響を及ぼす可能性すらあるのだから。

 もしかすると。本当に彼女は、感情というものがほとんど──、

 

「……その、申し訳ありません」

 

「え、な、何を謝ることがあるんだい? 今のは僕が──」

 

「い、いえ……そうではなく、この喫茶店の営業において、です」

 

 珍しく会話を始めたどころか、言葉を探すようにたじろぐアナスタシアを見て、槙野は優しい目線を向けたままその続きを待つ。

 

「……私は、よく無愛想と言われます。しかしその通り、私は……その、感情を表に出すことに慣れていません。孤児院から移った場所では人付き合いも限られ、こうして人と沢山話す経験にも乏しいです」

 

 「孤児院から移った場所」というのがさっきから何処なのかよく槙野には分からなかったが、とにかく人が少ない、もしくは友人のような人間関係を築きにくい場所だった事は理解できる。

 若い頃からそんな場所に送られるなど、ありふれた地元の高校育ちの槙野には考えられない。彼女自身が自覚していなくとも、きっとそれは残酷なことだ。

 

「だからこそ、私は──私は、接客という職務に、向いていないんではないかと思うんです。ときたま私を見て、少し不機嫌そうにするお客様もおられました。恐らく、私が愛想よく対応できないせいで……」

 

 心なしかしゅんとして話すアナスタシア。言葉は尻すぼみになり、噛み締めた唇の向こうに消えてしまう。

 彼女が下宿付きのバイトに入って数日になるが、恐らく今までずっとその不安を心のうちに抱えてきたのだろう。それを気に病むあまり余計に応対が機械的になっていたのかもしれない。

 ……確かに接客において、何より大切なのはお客様への誠意だ。

 アナスタシアがそれに欠けるような性格ではないという事は重々承知しているが、それでも形に表さなければ不愉快に思う客は多い。確かに誠意があろうと表に出さなければ意味はない、という考えも理解できるし、そう考えると、アナスタシアの接客は満点とは言い難いのだが──、

 

「ぷ、ははは……」

 

「な、どうして笑うのですか、槙野さん! 私は真剣に……」

 

「いや、ごめん。君の気持ちはよく伝わった」

 

 槙野は真面目な表情に戻って、いらぬ心配をしていた自分を深く反省した。彼女を誤解するどころか、失礼な思い込みまでやらかしたのだ。

 アナスタシアは確かに感情の発露が乏しく、どこか機械的な少女であることは確かだ。話していてもほとんど真顔で、喜んでいるのか怒っているのか判別がつかない。

 

 ……それでも、彼女は普通の女の子だ。

 

 内心では経験のない接客に緊張していたり、その事を相談しようか迷ったり、変わらない美貌の奥に確かな感情を内包している。

 それを数日かけて理解できた槙野は嬉しくて、自然と笑いが溢れてしまったのだった。

 

「経験がない、と言ったけど……そんなものはここで経験すればいい、いくらでもね。その過程のミスは仕方のない事だし、全くの許容範囲。それに多少愛想がないくらい、君のとびきりの可愛さを考えれば全然チャラだ。実際お客さんだって、君が入って以来うなぎ登りの上昇率で──」

 

 真顔に戻ったアナスタシアの口の端がひくひく震えているので、槙野はふと珍しい事だと思って言葉を中断した。

 口元が震える……つまり殆ど表情を変えない彼女が、思わず顔に出してしまうほどに感情を露わにしている。口元が震えるってどんな感情だ、そもそもそんなキッカケいつあったんだ? とぼんやり自分の言葉を反芻して、槙野は秘めていた本音をさらりと漏らしていたことを理解した。

 

「……………………えー、その、ね。お客さんも、全然それくらいじゃ気にしないと思うというかね、なんというかね、うん、とりあえずやる事もないし掃除しようか」

 

 強引すぎる流れで会話を断ち切り、アナスタシアとは対照的に顔を真っ赤にした槙野は早足で店の奥へ掃除用具を取りに向かった。

 しばらく無言で照れていたと思われるアナスタシアも、慌てて彼の後を追う──が、そのタイミングで扉の鈴が爽やかな音を立てた。

 ぐるりと180度回転する槙野、反射的に頭を下げるアナスタシア。

 槙野が顔を上げて見たのは、まずさらりと長い黒髪。理由も分からずゾッとさせるような妖艶な顔、奥が見えないような瞳。人とは思えないような端正さの男が、扉を開けて物珍しそうに店内を眺め回していた──。

 

 

 

 

「いらっしゃいませ」

 

 アナスタシアは背筋が凍り付いたような悪寒を感じながら、それでも一店員としての役目を果たすために頭を下げた。

 流行のガーディガンを羽織り、下にはジーパンを履いている。今の若者が好みそうな服装だった。雑誌のモデルになってもおかしくない端正さの男にその服装はしっくりと似合っていたが、あの顔ならば何を着ても映えるのだろう。

 

「へぇ。こんな風になっとるんやなあ」

 

 だが、服装はこの際どうでもいい。

 重要なのは──この男の肉体は仮初めのものであり、つまりは目の前の男は間違いなくサーヴァントであるという事だ。

 

「ちょっと‼︎ 私を無視して勝手に行かないでよ、キャ……おほん、アンタ‼︎」

 

 男に続いて、小柄な少女が現れる。

 一目で活発そうな印象を受ける少女だった。フード付きのパーカーにミニスカートを着て、髪留めのリボンが動くたびに揺れる。可愛らしい瞳の上の眉毛はぐぃんと吊り上がって、先導する男を不満げに睨んでいる。

 

(…………この、男)

 

 男は店内を見渡していた瞳を、アナスタシアの方に向けていた。

 目と目が合う、その瞬間に察する。

 この男は間違いなく気付いている(・・・・・・)。令呪同士の共鳴を抑える術式によってマスターの方には知覚されていないようだが、この男の瞳は欺けていない。この前遭遇したセイバーが気付いていなかった事を考えるに、隠蔽は完璧だと思っていたのだが──、

 

(アーチャー、聞こえますか)

 

(何だマスター、こちらは定点ポイントから駅前付近を監視しているが)

 

(いえ、信じられませんが……またもサーヴァントが店に現れました。それに、恐らくこちらに気付いている──今すぐ、全速力でこちらへ移動して下さい)

 

(チッ。お前さんの店、サーヴァントを惹きつける香か何か焚いてるんじゃないだろうな……‼︎)

 

 数キロ先で、狙撃銃を抱え上げたアーチャーは勢い良くビルの屋上から飛び降りた。

 信号機の上に降り立つと同時、大跳躍を繰り返して夕焼けのオレンジに染まるビル街を跳ぶ弓兵。道路、壁面、時には自動車の上すら踏み台にして、目にも留まらぬ速度で彼はマスターの元へと疾走する。

 

「はぁ……んで、ここ来てどうすんの? コーヒーに興味でも湧いたわけ?」

 

「まぁそんなとこなんやけど。んー、なかなか面白い奴を見つけたっぽいなあ」

 

 にやり、と男は口の端を吊り上げる。その視線は明確にアナスタシアを捉えていたが、すぐにメニュー表の方へと視線を移した。

 目を細めてメニューの長いカタカナを読んでいたり、向かいに座った少女の方を見たり、敵ではあるだろうがその真意が掴めない。

 

「???」

 

 キャスターの言葉に頭から疑問符を飛ばしているマスターらしき少女は恐らく無害だろうが、サーヴァントの方はそうもいかない。今のところ襲い掛かってくる様子は無いが、いつ豹変するかも分からない。

 ここが店内で無ければ、アナスタシアも堂々と敵対者に立ち向かったのに。こんな場所で殺されれば、口封じに無関係の槙野まで殺される可能性がある。……それは、それだけは、アナスタシアにとって最も恐れる結末だ。

 

「……アナ? どうしたんだい、固まって」

 

「いえ。職務を遂行します──」

 

 「店員」である以上、客である彼らを放っておく訳にもいかない。この辺りはアナスタシアの超がつく真面目さの発露と言えるだろうが、ともあれ彼女は毅然として敵サーヴァントとマスターの前に立った。

 

「ご注文は」

 

 普通に接客しても不機嫌そうに見える彼女だが、今回ばかりは緊張と敵意でますます不機嫌そうな声が出た。

 サーヴァントの方は面白そうに目を細めるが、気付いていない少女の方は何で私は怒られているのかと不可解な面持ちである。

 

「え、えと……とりあえずアイスコーヒー2つ貰えますか」

 

 無言でアナスタシアは踵を返し、カウンター奥で準備を始めていた槙野にその旨を伝えた。彼が軽く頷くのを見て、アナスタシアはカウンター横の定位置に戻る。

 

「……あの人になんかやったの? アンタ」

 

「え、何や? あの店員のことか?」

 

「そうよ。なんでか私、怒られてるみたいだったんだけど。滅茶苦茶怖かったんだけど」

 

 少女の言葉に対し、楽しそうに笑う男。

 一見すれば落ち着いた雰囲気の店内で1組の男女が楽しげに話している、という平和な光景だが、アナスタシアの心中はそれどころではない。アーチャーが駆け付けたとして、この場所で戦闘になるのだけは避けなければならない。けれど、それを一体どうやって──、

 

「…………?」

 

 そこまで考えて、アナスタシアは自身の違和感に気づいた。

 己の職務は代行者であり、それが全てだ。

 幼少の頃に才覚を見出されて以来、代行者として生きるためだけの教育のみを施された。この身は神に捧げたものであり、この身の全ては主の威光が為に使われなくてはならない。

 アナスタシアの職務は明白である。聖杯の真贋を獲得する為の「保険」。本隊の代行者たちが聖杯の強奪に失敗した際、正規の参加者として聖杯を手にするのが彼女の役割だ。

 つまり──任務を遂行する上で、この店主の安全を守るという優先目標は極めて低い。

 そもそもここで働いているのは、民衆に溶け込むのと同時に活動拠点を立てる上で最適な場所にこの店があったからだ。

 要は、任務のために利用した(・・・・)だけ。

 だというのに任務の遂行を押しのけ、任務遂行の手段に過ぎないこの場所の安全を優先するのは間違っている。

 

(……そう。私は代行者。ここがどうなろうと、私が生き延びさえすれば、新たな拠点を見つけるだけで任務は続行できる)

 

 そう考えた瞬間、アナスタシアは右の袖口から三つの長細い柄を取り出していた。

 黒鍵……代行者に支給される専用武装。

 魔力を通して刃を精製すれば、即座に使える投擲剣として機能する。未熟とはいえアナスタシアの技量であれば、瞬きの間にあの少女の急所三点を同時に貫くことも可能だ。

 それに左手には、もう一つの概念礼装──彼女が独力で作り上げた対「不浄」の切り札もある。

 相手はサーヴァントだ。いくら代行者(かのじょ)の身体能力があろうと先手を取られれば勝ち目はない。アーチャーの到着まで残り数分、その程度の僅かな時間であればアナスタシアでも耐えられる。ならば──、

 

「………………っ」

 

 そう理解していながら、アナスタシアは一歩たりとも動けなかった。

 ふわっ、と漂ってくる珈琲の芳香が鼻腔を刺激し、戦いに向かって奮い立とうとしていた心を諌めていく。

 

「──アイス二つ、お待たせしました」

 

 溶ける速さまで考慮して珈琲を固めて作られた氷が、グラスの中でぶつかり合って爽やかな音を立てる。

 

「へぇー……最近話題みたいだけど、ほんとにおいしいんだ」

 

「これが西洋の飲み物かいな。またけったいな味やなあ」

 

「こら、失礼でしょ。それにね、これはまずこうやって砂糖とかを……」

 

 珈琲の飲み方を教わり始めたサーヴァントに、何故か戦おうとする様子は見られない。

 アナスタシアは拍子抜けしつつも警戒は保ったまま、念話を繋いでアーチャーに連絡を飛ばした。

 

(アーチャー、聞こえますか)

 

(なんだ、お前の店内が見えるポイントまで移動したが)

 

(まだ良識のあるサーヴァントのようです、気付いてはいますがこの場で争う気は無いかと)

 

(そうか……全く、焦らせてくれる。こちらで警戒は続けておく、念のためいつでもサーヴァントの方を撃ち抜けるように構えておくぞ)

 

(いえ──狙うのはマスターにしておいて下さい。万一サーヴァントが動いた時、確実に仕留められるのはマスターの少女ですから。私ならば、サーヴァント相手でも狙撃の時間は稼げるでしょう)

 

(おっと、確かにアンタは代行者だったな。了解、マスターの方に照準を──)

 

 そこでアーチャーの言葉が途切れる。代わりに聞こえてきたのは、まるで何かを賞賛するかのような口笛だった。

 アナスタシアが怪訝な顔で何事かと尋ねると──、

 

(奴め、どうやらこの距離でも気付ているらしいな。窓からこちらを見ている)

 

 アナスタシアが視線を窓際席に座るサーヴァントに向けると、確かに彼は窓の外を眺めている。一見すれば外の風景を眺めているだけのようだが、外から向けられる殺気を敏感に感じ取ったのだろう。

 アーチャー、もとい狙撃手の信条として、「こちらから撃つ前に位置を判別させない」という事が挙げられる。狙撃は常に先手必勝、一撃必殺を満たすべきだ。当然狙撃手として英霊に昇華した彼自身がその事をよく理解しているし、そうする為の方法も身につけている。

 だと言うのに、あのサーヴァントは狙撃手の気配を看破した。それは即ち、あの男が並大抵の英霊ではないということに他ならない。

 

(マスターを撃とうとしようものなら、即座にお前のマスターブチ殺す……とでも言いたげだな。大まかとはいえこちらの位置を判別されるとは参ったね、これは狙撃手失格だ。少し焦りすぎたか)

 

(……お互い手は出せませんね。こちらから仕掛けてもサーヴァントに近い分私が不利ですから、今は睨み合いに収めます)

 

(了解した)

 

 この場に満ちる一触即発の緊張感にも気付かず、なぜか得意げにコーヒーの飲み方をレクチャーする少女を眺めながら、アナスタシアは少しだけ胸を撫で下ろしていた。

 これは敵対者をみすみす見逃すどころか潜伏先まで把握されるという、大きな痛手だ。

 だがそれでも、この場所を血で汚すような事がなくて良かったと思える。この店で働き始めた頃はただの活動拠点としか考えていなかった事を考えると、相当に大きな変化だと言えるのだろう。

 だが、結局アナスタシアはその変化に少しも気づかないまま、サーヴァントと少女が退店するのを無言で見送ったのだった。




【アナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナ】
第八秘蹟会所属、代行者(見習い)の少女。18歳、ロシア生まれ。
「代行者4人からなる部隊が聖杯の強奪、調査に失敗した際に、聖杯戦争の参加者として正規の手段で聖杯を手に入れる」という任務を受けている。

【槙野和也】
喫茶店「薫風」の店主。最近売り上げが上がって喜んでいる。

【アーチャー】
狙撃銃を愛用する精悍な男性。歳は三十前後のイメージ。近距離戦は不得手だが、遠距離からの狙撃においては比類なき力を発揮する。


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十六話 不穏な夜

 ──時間は流れ、今の時刻は夜の十一時前。

 二回も気絶すると貴重な休日が過ぎるのはあっという間なんだと、俺は理解したくもないことを理解する羽目になった。

 雲間から差し込む仄かな月光が、所々が破れ、見るも無残に汚れてしまった俺の制服を照らしている。

 

「ったく……コレ帰ったら捨てないとな……」

 

 ところどころ土色に汚れたカッターシャツは、セイバーの怒りの一撃に巻き込まれた代償である。ともあれあれで無傷で済んだだけマシ、と考えることにして、なるべく悪い事を考えないようにする。

 

「先行の魔術師が──西──異様な──だから──は──」

 

「──じゃないか──わかった──けど──冬木──……?」

 

「それは──だから、まずは──」

 

 思わず溜息を漏らしながら、よく日に焼けた赤髪の男性と黒髪の女性とすれ違う。

 何やら気難しい顔で話し込んでいる二人だったので少し気になったのだが、意識を彼らに向けるより早く、唐突に黄色のぷるんぷるんしたアレが頭に浮かび上がってきた。

 

「あーっ! プリン買い忘れた」

 

 一応コンビニ袋の中を確認してみるが、プリンと思わしき物体は存在しない。

 

「あいつ、怒らないといいけど……ったく、コンビニまで往復三十分以上かかるんだぞ、なんなんだよアイツは。せめて自転車くらい貸しやがれっての……大体いちいち偉そうなんだよ、なんで俺が」

 

 セイバーの物になった例の自転車を借りようと思ったら、これは私専用機なので駄目ですぅ、とかなんとか言われたのだ。

 

(ソレ、もともとお前のじゃねえだろ‼︎)

 

 そろそろ深夜に差し掛かる頃合いだからか、辺りの住宅街に人気は無かった。ヘッドライトを点けた車がごく稀に通り過ぎる程度で、さっきの二人以外に歩く人影は見当たらない。

 そんな中、片手にコンビニ袋を提げながら、仮宿代わりの部室がある鷹穂高へ向かう。少し足早になっているのは、この暗闇から早く抜け出したいという恐怖心からだろうか。

 とはいえ、ここから鷹穂高まではそこそこの距離だ。手持ち無沙汰に、空いた片手でスマートフォンの画面に指を走らせる。

 

「……魔王、魔王……と。検索」

 

 「魔王 伝承」、「魔王 史実」……。

 考えうる限り、色々と言葉を変えて検索を繰り返す。

 彼女の正体について無理に聞きはしないと言ったが、かといって黙って何もしない程俺は馬鹿正直ではない。俺だってアイツの事を知りたいし、もし情報を持っていれば、俺でも少しは力になれたり──、

 

「魔王、ま、お、う……っと、あった」

 

 ゲームの攻略サイト等々に邪魔されつつも、俺は目当てのネット百科事典に辿り着いた。

 「サーヴァント」……彼等はこの世の伝承、歴史に名を刻む者達だ。セイバーの名前とて、その捉え方が善であれ悪であれ、人類史の中核に深く刻み込まれている。

 故に必ず、その存在の手がかりは存在するハズだ。

 

「えー……神話や伝承に登場する、邪悪の頂点。悪魔や魔物達の王……。ま、大体イメージ通りだよなぁ」

 

 ざっと読み上げて、セイバーの姿に文面から思い描くイメージを重ね合わせる。

 非戦闘時のセイバーは、魔王というよりも我儘な王女って印象の方が強い。酷いくらい自由奔放で、気に入らないものには素直すぎるくらいに不満を示す。

 ──だが、戦闘時ともなれば話は別だ。

 敵対者に何ら臆する事なく、冷酷に相対する彼女の姿が脳裏に浮かぶ。一度鎧を纏ったセイバーは思わず味方側のこちらでさえ身震いするような威圧感を放ち、その言葉は重石の如く眼前の敵対者に突き刺さる。

 

「知らない事が多いな」

 

 ──思いかえせば、知らない事は多い。

 

 あの月の夜。彼女を始めて見た日。

 あの時から散々セイバーに振り回されているのに、俺は彼女の事を全然知らないままだった。それが何故か悔しくて、セイバーの背中を時折遠く感じてしまう。

 とはいえ、セイバーが積極的に多くを語りたがらないのも事実だ。

 渋る理由について聞くと、「真名は秘匿するものなんです」とかなんとか言っていたが──彼女は真名を明かす行為そのものに忌避感を抱いているような気がした。

 そんな事を思いながら、神話、伝説に登場する「魔王」の一覧をスクロールしながら眺める。と、ふと一つの名前が目に留まった。

 

 その、瞬間──、

 

 

 

 

”………………オマエハ、ダレダ?”

 

 

 

 

 何かが、軋んで。

 俺という存在は、致命的に穢れてしまった。

 全身を巡る血流が膨れ上がり、感じた事のないドス黒い何かが、ほんの一刹那俺の思考を奪っていく。

 

「……っ……あ?」

 

 目を覚ます(・・・・・)

 画面に映っていたのは、聞いたこともなければ知るはずもない、初めて見た名前だった。

 だが確実に、その名は俺の目線を引きつけている。

 不快な緊張感が腹の底で渦巻いていた。まるでその名前だけは、ずっと前から知っていたような──不思議な既視感が俺を襲う。

 瞼が痙攣する。全身が総毛立つ。ただの文字列、名前を見ただけだというのに、「何か取り返しのつかない事をしてしまった」という感覚だけが離れてくれない。心の内を埋めた既視感と、それに匹敵するおぞましい何かに翻弄されながら、無意識に唾を飲み込む。

 

 ──それでも俺は、その名を。

 その名前を口に出してみようと、無意識に唇を開いたその瞬間、

 

「志原くん?」

 

「…………み、三浦? 何してるんだ、こんな遅く」

 

 目の前に見知った顔があったので、一度思考を中断する。

 ──三浦火乃香。

 まだ夏の残滓を残すかのようなカッターシャツから察するに、まさか今まで学校に残っていたのだろうか。

 

「おいおい、まさか今まで練習? もう十一時前だぞ」

 

「そうだよ。あはは……本当は部活動が許されるのは八時までなんだけどね、つい練習に熱が入っちゃってこっそりと……志原くんは? なんだかコンビニ帰りっぽいけど」

 

「え、えーっと、学校に忘れ物取りに帰るとこかな……」

 

 まさか部室に泊まるという訳にもいかず、適当に誤魔化して笑う。

 セイバーの存在、もとい聖杯戦争についての情報を漏らす訳にはいかない。それは神秘の秘匿などというよく分からないお題目の為ではなく、単純に犠牲者を増やしたくないからである。

 俺が戦う理由は、個人的に生き延びたいという願望だけ、という訳でもない。

 この街が人知れぬ戦場と化している以上、いつ何処で犠牲者が増えるか判らない。この戦争を可能な限り早期に決着させ、あの安寧の日々を取り戻す。欲張りと言われようが、この二つ目の目標を撤回する気はないのだ。

 ……とまあ、そんな訳で。

 戦争中はなるべく知人とは顔を合わせたくなかったのだが、このような不意の事態は致し方ない。

 が、言い方が不自然だったのか、三浦は少しだけ目を細め、

 

「ねえ……なんだか志原くん、ヘンだよ?」

 

「へ?」

 

「制服もボロボロだし、顔も片側だけもんのすごく腫れてる気がするし……それに、なんだか雰囲気が──」

 

「うぇっ、そ、そうか⁉︎ ……あ、そうそう、さっきすっ転んでさ、だからボロボロなんだな」

 

(やば、そんな目立つのかコレ)

 

 慌てて目を逸らしながら、この状況をどうしたものかと思案する。

 魔術師とかいう訳の分からん連中の殺し合いに参加させられて、魔王を自称する奴と戦ってます、と正直に言えれば楽なのに。

 

「……志原くん、危ない事はしないでよ。志原くんに何かあったら、私も前田くんも、みんなだって悲しいんだから」

 

「………………うん。そうだな、その通り。気をつけるよ」

 

 こくりと頷いて、今更だが確認した。

 こんな俺でもこうして身を案じてくれる人が、少なからず確かに存在する。一度殺されて命の尊さを否応無く思い知らされた今、その事実は余りに有り難く、儚いものだった。

 

「まあ、それはそれとして。……今、外出たついでに色々買い込んでるんだけどさ。三浦も一本いる?」

 

 少々苦手なシリアス風の空気が漂い始めたのを敏感に察知して、レジ袋をそそくさと三浦の眼前に差し出す。

 

「ありがと。じゃあ私はこのオレンジジュースで」

 

「じゃ、俺はコーラ貰う」

 

 炭酸の抜ける小気味いい音を聞きながら、今後の景気付けとばかりに勢い良く飲む。目を閉じて久方振りの弾けるような味を噛み締めていると、一足先に唇を離した三浦が口を開いた。

 

「そうだ。知ってる? 今日、グラウンドが壊れちゃったんだよ」

 

「んぶふッ……⁉︎」

 

「今日のお昼に登校したらね、グラウンドの真ん中にテープが張ってあったの。なんだか、滅茶苦茶にひび割れてた。まるで隕石が落ちたみたい」

 

「ウン………………怖いなあ、それ。とてもこわい」

 

 嫌な記憶が十四時間ぶりに蘇り、やや死んだ目で学校の方角を見やる。

 脳裏では、ここまでの記憶がまざまざと再生されていた。

 意識を取り戻したのは令呪使用から数時間も経過した夕方。目を覚ますとセイバーの姿が無く、慌てて俺が外に飛び出してみると、丁度帰ってきた気ままな魔王様は「今まで散歩していました」とほざきやがる。

 お前という非常識な存在を俺の目の届かない場所に放置する恐怖を知ってほしい。一人で行動している間に人様に迷惑を掛けていない事を祈るばかりだ。たぶん手遅れだったようだが。

 結局また気絶して放置されて、なんとか部室に帰ったら──、

 

『いいですかケント、令呪をあんなしょうもない事に使うなど以ての外であって、そんな事では聖杯戦争を乗り切れません‼︎ さっきからずっと俯いて、分かってるんですか‼︎』

 

『……アレはお前も悪いと思うよ、俺は』

 

『わ、悪くないですよ‼︎‼︎ ああもうこの際ですから、普段の行いの愚かさから云々かんぬん──‼︎』

 

 今度は激怒からのお説教だ。

 お前は一体なんなんだ口うるさい教師か、とかなんとか考えながら、嫌な記憶を脳の引き出しの最奥に押し込む。苦虫を噛み潰したような顔で、思わずもう一回引っ叩かれた頰をさすった。

 不思議と墜落の際にも大した傷が無かったのが幸いだが、そう言っていられるほど事態は甘くない。

 破壊されたグラウンドは即刻生徒達の間で話題になり、その異常性に警察が駆けつける事態に発展していたのだ。

 目撃者がいなかったのは不幸中の幸い。だが、話題になる事自体が既に十分に問題であるとも言えるような……。

 

「明後日の体育、どうなっちゃうんだろ。グラウンドの真ん中が壊れてたらどうしようもないし」

 

「……げ、原因が分かんないんじゃ近寄れないなー。しばらくは体育館競技に変更になるんじゃないか?」

 

「めんどうな持久走が無くなると考えたら、いいことって思う事もできるけどね」

 

 そっか、と呟いて、俺たちは笑い合った。

 秋の夜風に乗って、二人ぶんの笑い声が町の片隅に溶けていく。そんな雰囲気は久方ぶりに、心地いい安寧の感覚を与えてくれた。

 

「え?」

 

 最も、人気の無い住宅街は少しばかり不気味ではあったが──、

 

「ん? どうしたんだよ、三浦」

 

「…………し、志原、くん? 手が」

 

 三浦が怪訝な顔でこちらを見ているので、尋ねてみた。

 先程から視界は歪みきり、身体の中はドス黒い感情で轟々と燃え盛っている。

 いつから? 違う、元より俺はそういう存在だ。

 いつの間にか俺の両手は、三浦の白い首筋に添えられていて──、

 

「手がどうしたんだ、何か変か?」

 

「いや、だから──」

 

 夢遊病者のようにゆったりと、自らの両手に視線を下ろす。

 

 手は揃って三浦の首元にある。何もおかしくない。

 

 ぎぎ、と壊れかけのロボットみたいに首を捻りながら、ぼんやりと思考を回す。

 

 そういえば、さっきから耳障りな幻聴が聞こえるな。煩い。

 

 なんなんだお前は、誰だお前は、ああ、俺はお前なのか。

 

 くそったれ、煩い、煩い、煩っての──……

 

"   ラ      コロ テ  カ?"

 

 思考がすとんと切り替わって、スイッチが入った。

 

 ──幻聴は置いておいて、今は、目の前のコイツの事を考えよう。

 ──さて。この首を今すぐ捩じ切ってみたら、どうなる?

 ──簡単だ。さぞ綺麗な血がたっぷりと溢れ出るんだろう。

 ──どばどは、ぶしゃあっ、と。真っ赤な悲劇のできあがり。

 

 一人の人間を縊り殺した両手はどっぷり血に濡れて、そこで俺は一人で嗤うんだ。三浦はこの綺麗な喉からどんな断末魔を上げてくれるだろうか。思わず身震いするような愉しい愉しい絶命の叫びを上げて、一つの命がぷちっと潰れ、ああ想像しただけで鳥肌が立つ、命を奪い取る感覚、愉悦、光悦、どんな表現を用いようとも言い表せない最上最大最高の悦楽がそこにはあって、俺はその為だけに存在するようなものであって要は今すぐ名前忘れた誰だっけまあいいこの女をこの手で

 

『それなら、殺してみるか?』

 

(ああ──なんだ。簡単なことじゃないか)

 

 口の端から奇妙な音が漏れる。

 それはくぐもった笑い声。

 

 俺の笑い声。

 

「志原くんっ‼︎」

 

 また、目が覚めた(・・・・・)

 

「…………ん?」

 

「ど、どうしたの? いきなり」

 

「あれ? いや、なんでも……なんでもない」

 

 目眩を振り払うように頭を振る。

 どうやら一瞬、記憶が飛んでいたのか。

 何故かは知らないが、所詮数秒のことだ。魔力関連で身体が少しおかしくなっているのかもしれない。無理矢理魔術回路とやらが開かれたせい、という可能性もあるし。

 

(しかしなんだか、やけに気味の悪い……さっきまですぐ後ろに死神が立ってたみたいな……うーん)

 

 言いようのない恐怖感に首を捻っていると、いつのまにか両手が三浦の細い首元に伸びていたことに気がつく。全く何をしているのやら、俺はいつのまに意識切り離しオートメーションでセクハラまがいの行為をするようになったのか。

 とにかくパッと手を離して、きょとんとする三浦に頭を下げる。

 

「わ、悪いっ、よく分からんがゴメン」

 

「い、いーよいーよ、私だってさっきの志原くんはよく分からなかったし……」

 

 なはは、と笑う三浦の笑顔はまさに聖女の如し。学校イチ慈悲深いと前田が声高に言うだけある彼女の性格に助けられて、俺は一安心して胸を撫で下ろした。

 が。頭を上げてすぐ、その束の間の安心は崩れ去ることになる。

 

(ん? ……え、何だあれ?)

 

 全身に突き刺さるような視線を感じて、俺は頭を上げると同時に視線を巡らせていた。

 本能的に警戒を強めた視線が、塀の上を歩く小さな影に収束する。

 最初は猫かと思ったが形がまるで違う。とても信じられないことだが、歩いているのは紙で作られた人形だった。人形というにはあまりに平面的で、精巧に作られた折り紙、という表現が一番しっくりくる姿。高さは十五センチ定規程度で、真っ白な足を変わらぬペースで動かしている。

 その少しコミカルな呆気にとられ、反応が遅れた。

 顔の無い頭がこちらを見た瞬間、得体の知れない寒気が背筋を撫でる。バカか俺は、ひとりでに人形が動くわけがないだろうが。

 人形の身体はその中心に吸い込まれるように捻れ、長細く変化していく。そう、それはまるで一本の槍のように──、

 

「ッ⁉︎」

 

 全力で首を振って。

 

   ────同時、射出があった。

 

 疾風が駆け抜け、槍の穂先が俺のこめかみを軽く裂く。

 焼けるような痛みが走った。

 数滴の鮮血が宙を舞った。

 あろうことか、人形はその身体自体を槍へと変え、俺の頭蓋を貫こうと試みたのだ。

 

「な、ッ────⁉︎」

 

「え、な、何」

 

「駄目だ三浦、来るな‼︎ 急いで逃げ──‼︎」

 

 ろ、とまで言いかけたところで脳裏に浮かんだのは、他でも無い俺自身の記憶。

 この三浦もまた、非日常の目撃者だ。たった今。刹那の攻防を経て、彼女も非日常の領域に足を踏み入れた。

 俺の不注意だ。完全に油断していた。

 サーヴァントの戦いを目にしてしまった俺がどうなったか、今更説明するまでもない。ここから三浦が逃げられたところで、待っているのは、もしや──。

 

「くそ、こっちだ‼︎」

 

「う、うわっ、きゃあ⁉︎」

 

 咄嗟に手を取り、駆け出す。背後で人形が再びヒトの形を取り、俺たち同様走り出すのが見えた。

 歩幅は俺たち人間に比べて遥かに小さいだろうに、かなりの速度。全力で走ろうとも引き離せそうにはない。

 

「な、ななっ、何あれ……何なの一体⁉︎」

 

「わかんねえ‼︎ けど逃げるしかない‼︎」

 

 逃げる場所は……迷う余地なんてない、学校だ。

 セイバーが居る部室棟まで辿り着けば、どうにかなるに違いない。彼女の力量を持ってすればこの程度の相手など障害にもならない。

 だが、大前提としてセイバーはここにいない。

 そして俺たちにとって、あの一匹は命を脅かす難敵と化す。

 体こそ小さいものの、アレは生きて自動で照準を合わせてくる猟銃に近い。こちらから立ち向かうどころか、射線を合わせられたまま下手に立ち止まれば即座に撃ち抜かれる。あの槍の威力の程は想像したくないが、少なくとも数ミリの弾丸よりかは破壊力があるに違いない。

 ──とにかく走る。逃げる。

 他の事は逃げ切ってから考えろと、歯軋りしながら前を睨む。

 

「し、志原くんっ、アレ……‼︎」

 

「……は、嘘だろ⁉︎」

 

 三浦が指し示す先。そこを見て、俺は愕然として目を見開いた。

 周囲の民家の屋根から、わらわらと紙人形が姿を現わしている。

 

(何十、何百──? 駄目だ、多すぎる‼︎)

 

 数えるのも馬鹿らしい数だ。直後、その全てが不気味に捻れる。

 射出の合図。今度は一本ではない。何百と整列した人形達は全て、こちらに標準を合わせている。

 ギリギリまでタイミングを見計らえ、秒の差が命取りになる、落ち着け、まだ、タイミングを完全に合わせないと死ぬ、まだだ、射出まであと──、

 

「……くそ、が!」

 

   ──ゼロっ‼︎

 

 カウントと同時に三浦の小さな身体を抱え、俺は思い切り地面を蹴っていた。

 狙ったのは、家と家の間に伸びる細い路地。そこに背中から飛び込んだ瞬間、数百の槍がアスファルトを砕き、俺と三浦が居た場所に突き刺さる。

 瞬時に剣山の如き様相を呈する目前の道路。

 眼前に広がる惨状を見て、三浦が恐怖に息を呑んだのが痛い程に分かった。状況の把握はともあれ、己の命の危機であるという事は敏感に察したらしい。

 

「し、志原、くん、あれ……は」

 

「……大丈夫。何とかする」

 

 人型形態へと戻った人形達は、再度こちらに狙いを定め、一様にその身体を軋ませる。

 踵を返し、再び走りながら、死に物狂いで情報を整理する。

 

(考えろ、考えろ、考えろ……‼︎)

 

 ヤツらの行動パターンは単純。基本は人型形態で移動。標的を捉えた後、槍に姿を変えて飛んでくる。捻れてから発射までは約一秒半。その猶予がギリギリ救いか。

 避難通路を抜けて角を曲がった直後、再び追うように数百の槍が通路を飛び出した。物騒な音をこれでもかと放ちながら、民家の壁にその全てが突き刺さる。

 人的被害が出ていない事を祈りながら、三浦の手を確かに握り締める。

 一度射出されれば、あの速度には到底反応できない。だが事前の予備動作さえ見れば、まだ対抗策はある。

 

「このまま学校まで走るぞ、三浦っ。そこまで行けば、アイツが──!」

 

 言い終わるより早く、再びの斉射があった。

 今度は身を隠す路地が無い。咄嗟に電柱の陰に隠れ、三浦の身体を引き寄せる。

 ドカカカカカカッッ──‼︎ と、暴力的な炸裂音が何重にも重なって鳴り響いた。

 続いて、嫌な音が連続する。氷がひび割れていくようなその音に振り返れば、背中を預けた電柱全体にヒビが入っていて──、

 

「うっ、おおおおおおおおお⁉︎」

 

「きゃああああああああああ⁉︎」

 

 地響きと共に電柱が倒壊し、俺と三浦は転がるように走り出した。

 電線が千切れ、獰猛な火花を散らしながら落下してくる中、人形達は無慈悲に狙いの修正を繰り返す。

 ──ああ、駄目だ。

 ──このままでは、死ぬ。

 そんな直感を受け入れた瞬間、俺はぴたりと足を止めていた。

 

「なっ、何してるの、志原くん! 早く……」

 

「三浦。お前は先に学校まで行って、文化部の部室棟で助けてって叫ぶんだ。そしたらきっと何とかなるから、お前は助かる」

 

「し、志原くんは? どうする気⁉︎」

 

 ……正直なところ、これは賭けだ。

 三浦は運動が得意じゃない。彼女を連れこのまま二人で逃げていれば、学校に辿り着く前に二人揃って串刺しにされる。

 

「……多分、あいつらの狙いは俺。三浦は優先目標に入ってない」

 

 もしも奴らが数を二分し、俺と三浦を同時に狙う事が可能ならば、俺はともかく三浦に自らの身を守る術はない。

 だが、奴らが俺を「マスター」として最優先目標に設定しているのなら──。

 

「志原くん……怖く、ないの?」

 

 奇妙なまでに冴え渡った頭。

 そこに、三浦の恐怖に震えた声がするりと入ってきた。

 

「怖くはないだろ? だって俺は、──なんだからさ」

 

「え、な、何? 聞こえないよ‼︎」

 

 生物が呼吸のすると同じくらい当たり前で、突然のことだった。

 この人形の群れに単身突撃する事に対して、恐怖などあるはずがない。死ぬ可能性は十分にあると知っても、俺は一寸たりとも怖いと感じていない。なぜなら、そんな感情は──に不必要なモノだから。

 答えると同時に強く強く拳を握り、目線で全部殺し尽くすくらいの気持ちで紙人形達を睨み付ける。

 

「ちよっと、志原く──」

 

「行ってくれ‼︎ 頼んだぞ三浦‼︎」

 

 最後に答えてから、全力で走り出す。

 方向は後ろではなく前へ。

 目前で数百の人形が一斉に姿を変え、裏返しにしたハリネズミみたいに蠢いた。無機質かつ鋭利な直径数センチの棘に似た槍の先端が、全て同時に俺を捉える。

 三浦が大声で何かを言いかけて、それから必死に駆け出したのが、死を前にして鋭敏に研ぎ澄まされた聴覚で理解できた。



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十七話 人形乱舞

「ち、っ……はぁっ、はあっ‼︎」

 

 再び路地から飛び出し、二車線の道路に飛び出したところで素早く九十度回転。全力で前に跳ぶと同時、背中を鋭い穂先が掠める嫌な感触が走り抜けた。

 

(くそ、早く来いよなアイツ……‼︎ どうせ部室で食っちゃ寝生活してんだろ‼︎)

 

 部室を出る前に見た、ぶつくさ文句を言いながら菓子をつまみ、単行本を読み漁っていたニート魔王の姿を思い浮かべる。

 俺を逃した数百の槍の束は速度を緩めず、俺の斜め後方をたまたま走行中だった小型トラックの荷台に激突した。

 戦慄と共に俺が視線を向ける中、その余りの威力にトラックの後輪が浮き上がる。なんとか横転こそ免れたものの、大きく揺れ動いたトラックの荷台は隣の民家の門柱に激突し、真夜中の市街地に轟音を轟かせた。

 

「……っ、お構いなしだな、ちくしょう!」

 

 道路を塞ぐようにスリップしたトラックの荷台から、再び人形達が顔を覗かせる。

 運転手の無事を祈りながら、俺は必死の形相で急勾配の坂を駆け下りた。

 足への圧力がぐん、と増す。

 コンクリートの大地を蹴る硬い感触が、一層強く履き慣れたスニーカー越しに伝わってくる。

 肩越しに目線を背後へ向ければ、揃いも揃って俺を追走する人形達が、再び射出態勢へ移るところだった。

 ──この辺りに遮蔽物は無い。

 判断し、物陰に隠れるという選択肢を切り捨てる。更に速度を上げ、俺は目の前に迫る急カーブ沿いに設置されたガードレールを睨み付けた。

 

「行くしか──……ないか‼︎」

 

 全力疾走の勢いは緩めない。

 ガードレールをひとっ飛びで越える。

 

 ──その先は闇。地面は無い。

 坂道の端は崖のように途切れていて、数メートルの段差を挟み、下方に新興住宅地の屋根広がっているのだ。

 一瞬だが長い落下を経て、俺は眼下に建っていた民家の屋根の上に激突した。

 両脚を駆け抜ける凄まじい衝撃に顔をしかめる間も無く、落下の勢いを殺せず、今度は屋根の上から墜落する。

 

「ごはっ──がぁ……ッ、ぐ⁉︎」

 

 狭い民家の中庭に背中から叩き付けられ、口から空気の塊が声にならない悲鳴となって放たれた。

 衝撃と土埃で明滅する視界。

 それを我慢して、周囲をぐるりと見回す。

 鎖を鳴らしながら突如として現れた闖入者に吠えかかる犬、それと裏口と思われる小さな扉を発見。犬に追い立てられるようによろよろと扉を押し開け、家々の裏手を這うように伸びる薄暗い避難通路に歩み出る。

 途端、右足に鈍い痛みが走り抜ける──どうも着地の際に捻ったらしい。

 

「くぅ……もう走るのは無理だな……」

 

 だが無謀な跳躍の甲斐あって、人形達の姿は見えない。

 ただでさえ狭い避難通路は、両脇に聳え立つ民家という格好の壁を伴い、俺の姿を奴らの視界から消し去っていた。

 とはいえ止まる訳にもいかない。屋根の上から覗かれれば、俺の存在はすぐに露見する。

 ひとまずこの先へ少し歩いた場所にある公園を目指し、痛みの引かない足を引きずって歩き出す。

 

「はぁ、はぁ……一体奴ら、何なんだ? 魔術師が放ったものなのか、それともサーヴァントが操ってんのか……?」

 

 まとまらない考察を重ねながら、辺りを注意深く観察しつつ、無駄に広大な敷地面積を誇る街区公園に足を踏み入れる。

 流石に十時過ぎとあって、夕方は近辺の子供で賑わうこの場所も、今は不気味な静寂に包まれていた。

 

「よし、ここなら……」

 

 先から目を付けていたのは、公園の端にぽつんと佇む錆びついた倉庫だ。

 軋む扉を開ければ、中は意外と広い。

 所々に積まれたリサイクル回収の新聞紙や雑誌の山を越えて、奥の壁際に腰を下ろす。外部から遮断された真っ暗な空間に至って始めて、俺はようやく一息つく事ができた。

 

(さてと……遅刻してるあの魔王サマが来るまでここに隠れとこう。ここなら見つかる心配もないだろうし)

 

 痛みを紛らわせようと足首を揉みながら、俺は扉を閉め、暗闇に閉ざされた倉庫の中をぐるりと見渡した。

 サーヴァントとマスターには、魔術的な経路(パス)が繋がっている。詳しい事は俺にも分からないが、それを介して魔力の供給、令呪の行使などを行うのだ。

 この分ならばこのまま姿を隠していようと、経路がサーヴァントに伝える感覚を元にしてセイバーは俺を見つけてくれるだろう。 

 

「はあっ、あ……っ、ぐッ……ぅ‼︎」

 

 しかし、こうして黙して座り込んでいると、足首の痛みが酷く感じられてくる。幸か不幸かアドレナリンの供給が抑えられ、緊張から解き放たれた結果か。

 骨にまで怪我が及んでないといいけど、などと考えつつ、今か今かとセイバーを待つ。

 

 しかし数瞬後──俺は認識の甘さを思い知った。

 座り込んだまま、ふと俯いた顔を上げた瞬間、それは来た。

 

 ズドンッッ‼︎ という轟音が響き渡り。

 真っ暗だった倉庫に、一筋の月光が差し込んでくる。

 

「は……?」

 

 咄嗟に視線を上げれば、直径数センチの綺麗な円が、頑丈な鉄製の天井に一つ穿たれていた。

 視線を横へ。

 傍の床に深く突き刺さり、衝撃の余波でビイィィ……ンと震えている一本の細槍に視線を移す。

 

(な、ヤバイっ⁉︎)

 

 俺が痛む足に鞭打ち、全力で前のめりに駆け出すのとほぼ同時。

 

 ──垂直に落ちた槍の豪雨が、倉庫の天井を吹き飛ばした。

 

 鉄片と紙切れ、倉庫の残骸が宙を舞う。

 扉を吹き飛ばさんばかりの勢いで外に転がり出て、巨人が踏み付けたかのように完膚なきまでに押し潰された金属製の倉庫を俺は呆然と見つめた。

 へしゃげた倉庫から、先程の数百体がぞろぞろと這い出てくる。

 視覚的な情報ではなく、何か別の物を手掛かりに俺を追跡していたのか……と、今更考えても意味が無い。

 

(まずい。これは、まずい……‼︎)

 

 正に絶体絶命。この足では最早数百の槍の穂先から逃げることは能わず、俺はただ息を呑んで、目の前の人形を眺めるのみ。

 

「くそ‼︎」

 

 人形が射出態勢に移ると同時、俺は無駄と知りながら走り出した。

 ワンテンポ遅れて、右足首で痛みが爆発。動きの鈍った的めがけて、人形達は爆発的な推進力を得、俺の背中に殺到する。

 だが幸運にも、俺はアスファルトの道路に躓いて豪快に転倒した。顔から道路に突っ込んで衝撃と痛みが頭が揺れたが、うつ伏せになったすぐ直上を槍の穂先が通過していく。

 

(さっきコケてなきゃ、死んで……ッ⁉︎)

 

 死を紙一重で回避したという、背筋の凍るような事実を認識する。

 同時に、俺は肩の一部分だけが燃え上がるような灼熱の感覚を感じ取った。

 肩の辺りがおかしい。異様なまでに、熱い。

 たまらず視線を右斜め後方へ落とすと、そこには──、

 

「……え?」

 

 運任せの都合のいい回避など、ハナから無理だったのだ。

 

 俺の身体は、とっくに貫かれていた。

 真っ白な槍が俺の右腕の付け根を貫通し、そこから笑えるくらいの血が溢れ出してくる。完全に力を失った右腕はぶらぶらと揺れ、半ば千切れかけていた。

 肩から飛び出した長さ一メートルを超える血濡れの白を見て、最初は認識が追いつかず。

 そして──、

 

"コレガ、オマエノ血ダ"

 

 この血が誰のものかを正しく認識した瞬間。      

 ほんの一瞬だけ。 

 己の心臓が張り裂けて、おぞましい「何か」が飛び出してくるような感覚があった。

 

「……ッ⁉︎ が──あ……ッ⁉︎」

 

 脳の奥に甚大な痛みを伴うノイズが走り、俺は咄嗟に動く左腕でこめかみを抑えた。

 何かに揺れていた思考が元に戻る。認識から少し遅れて、焼け焦げるかのような右肩の熱さは想像をはるかに上回る痛みへと変換され、

 

「ぎッ、ああああああああああああああああああああ⁉︎」

 

 痛みに吼えて、俺は震える手で槍を握った。

 引き抜くのを待つ事も無く、掌の中で紙人形が元の形を取り戻す。

 

(──痛い。痛い。痛いってんだよ、こ……ンの野郎‼︎)

 

 痛みと怒りで沸騰した頭で、その紙人形を滅茶苦茶に引き裂こうと試みる。だが、たかが紙で作られているはずの薄っぺらい人形は、いくら力を込めようがびくともしない。

 そんな俺をよそに、人形の体が再び捻れる。

 その狙いは明確に俺の頭蓋を指し示していて、この超至近距離では回避も間に合わない。

 

     ──……あ、死ん、

 

 閃光の如く駆け抜けた直感が、脳裏を突き抜ける。

 咄嗟に俺は目を瞑っていた。頭を貫かれ、脳髄をぶち撒ける俺の姿を想像し、

 

 ──そして。

 懐かしい風鳴りの音が、俺の鼓膜を震わせた。

 

 

 

「何をしている、紙屑」

 

 

 

 見覚えのある蒼色の刀閃が眼前で瞬く。

 結果として、俺は生きていた。確定したと思えた未来は、燦然と現れた彼女の手によってがらりと覆されていた。

 俺を傷つける事なく、一瞬でバラバラに斬り裂かれた紙人形が、掌から離れて宙を舞っていく。

 

「────おい。かんっぜんに、遅刻、だぞ、オマエ……もうちょっとで……はあっ、死ぬとこだ」

 

「今更何言ってんですかもう死んでるくせに。全く、こんな時くらいは令呪を使ってもいいんですよ」

 

 俺に小さな背中を向けたまま、彼女は言う。

 

「俺の……ミスで、一画失ったんだ。そのぶんは俺が補填、しなきゃ……割りに合わない」

 

 眼前に凛と立っていたのは、俺がこうして待ち続けた少女。

 吹き荒ぶ夜風に長髪をなびかせる黒と蒼の剣士は、頼もしい存在感と共に剣を構えていた。

 

「はぁ。やはり、昔からずーっとケントは変わりませんね。馬鹿みたいに愚かで無鉄砲で、無謀すぎる。そのクセ運だけはいいんですから、なんと言いますか……ったくもう」

 

「……………昔、から?」

 

 セイバーが肩越しに視線を投げ、呆れた口調で呟いた。

 ただ、肩に風穴を開けられ、白色のカッターシャツを真っ赤に染め上げる俺を見て、セイバーの眼光が僅かに揺れる。その揺れが意味するものが後悔なのか、怒りなのか、俺には判らない。

 

「ま、安心してください。私が来たんです、ケントが案ずる事はもうありません」

 

「ん、あぁ……じゃあ、任せたぞ……あとは──頼んだ」

 

 セイバーが広い公園の隅に向き直る。

 俺を貫いた一体以外の残り全ては未だ健在だった。数にして数百。紙人形達はその身に月光を受け、一様に白色の体を銀色に変えている。

 セイバーの存在感を感じ取ったのか、奴らは初めて目標を変更した。俺ではなく、曲刀を軽快に回すセイバーに無貌の視線が注がれる。

 

「あいつらの、攻撃方法は──たぶん、姿を槍に変えて飛んでくるだけ。それ以外の動作は、見てない……行けるか」

 

「当然ですよ。……が、無駄に数だけは多いですね。一刀では面倒臭そうですし、迅速に殲滅するとしましょう」

 

 セイバーが莫大な魔力を練り上げる。

 離れていても、魔術に詳しくなくとも全身で感じる程の魔力を苦もなく制御し、手にした曲刀に彼女がソレを注ぎ込んだ瞬間、

 

「っ⁉︎」

 

 ──眼前にて、驚くべき事が起きた。

 射出態勢すら取っていなかった紙人形達が超速度で槍へと姿を変え、セイバーの元へと飛翔したのだ。

 かつての速度とは比べ物にすらならない。

 俺を追う際は狙いの修正、槍への変化、同時射出──と、少なくとも三ステップを踏んでいた。しかし今の射出は、狙いの修正をすっ飛ばして、槍への変化と射出を同時に行なっている。

 その速度たるや、ライダーの雷光にすら匹敵しただろう。到底ヒトには見切れない速度。俺が反射的に彼女の名を呼ぶより遥かに早く、人形達は一斉に彼女の体へ突き刺さる。

 ──だが更にその寸前、セイバーは魔力の発動を終えていた。昨晩も見せた彼女の能力、「魔王特権」の発露だ。

 それにより変革されたのは彼女の剣。セイバーを剣の英霊(セイバー)たらしめる秘剣が、彼女の意思に恭順して姿を変える。

 刀身の変化が終わるのと、槍が彼女を貫くまでのタイムラグは、コンマ一秒にも満たなかっただろう。

 だが。

 たった一刹那。それでも、彼女には充分過ぎる──‼︎

 

「目障りだ──失せろ‼︎」

 

 瞬くは不可視の剣閃、その輝きは二重(ふたえ)

 魔剣を二本に分割し、二刀流の剣士へと早変わりしたセイバーが、一息の間に数十の斬撃を放つ。

 無造作に振るわれながら圧倒的な暴力と卓越した技量を兼ね備えた連撃は、瞬きの間に斬撃の防壁を作り出した。好き放題に暴れていた奴らが、吹き飛ばされた倉庫よろしく吹き飛ばされていく光景は、いっそ滑稽ですらあった。

 

「二本でも足りませんか。面倒な」

 

 だが、セイバーの顔は晴れない。

 全体の三分の一程がただの紙切れと化すと、紙人形達は潔く距離を取った。ざあっ、と羽音のような音を立てながら、奴らがまでとは異なる挙動を見せる。

 個々で行動していた集団が、一箇所に集まっていくのだ。

 重なり、積み上がり、膨張し、一つの形を成していくその異様な光景は、何処かで見たミツバチの攻撃行動を連想させた。

 

「なん、だ………………?」

 

 ある者は牙に。ある者は鱗に。そしてある者は尾に。

 煌々たる月明かりの下、一つの「存在」が顕現する。

 黄金の輝きと共に俺たちの眼前に立ち塞がったのは、溢れ出すような神秘を纏った金色の大蛇だった。

 まさに小山、見上げる程の巨躯だ。数メートルも上空にもたげられた口の奥から、眩い金色に光る牙と燃え盛るように赤い舌が覗いている。その威圧感たるや生物のものとは思えず、まるで神か何かをそのまま相手取っているかのような重圧が全身を縛り付ける。

 

「へぇ……普通の使い魔じゃないと思ってましたけど、大体予想通りでしたね。とうとう正体を表しましたか」

 

「あいつは──あんなのが、生物、なのか」

 

「生物っちゃあ生物かもしれませんが、棲む場所も能力も次元が違います。彼等は伝説に語られる神秘、ヒトと分かたれた悠久の存在」

 

 伝承に曰く、既知の生命に類する事なく、古き伝説の中でのみ語られる存在。現代で目にすることは叶わなぬ、神秘そのものが形を成した奇跡。その伝説たちの名は──、

 

「つまりは、幻想種と呼ばれるモノです」

 

 幻想種。

 それは目を奪われるような美しさの黄金の燐光を振りまきながら、現世との境界を越えて顕現した。

 無知ながらも感じた事のない威圧感を全身で感じ取り、俺は半ば無意識に唾を飲み込んだ。




【セイバーの剣】
蒼色の刀身、曲線を描くエッジが特徴的な彼女の宝具。神造兵器。
セイバーが「魔王特権」を行使する事で、色々と姿を変える。宝具としてのランクは状況によって変化するので、ランク付けはされない。


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十八話 魔王の願い

「……驚きましたね。この大蛇、既に神獣の領域に達しています。経た年月は千を軽く超え、単純な強さでは恐らく竜種に匹敵する。こちらに現界させた際に少しばかり格落ちしているようなので、まだ弱体化してると思いますが」

 

 眼前に立つ蒼色の剣士は、少しの驚きを含めた声で呟く。

 

「恐らく差し向けたのはキャスターでしょうが……これ程の存在を使役するとは」

 

「神、獣………竜種……?」

 

 伝説の中に語られる、幻想の中に棲まう獣──幻想種と呼ばれる彼らは大きく分けて、魔獣、幻獣、そして神獣に分類される。

 魔獣程度の存在であるならば、魔術師が使役することもあり得るだろう。だが幻獣、そしてその更に高位、神獣クラスの存在ともなれば話は別だ。

 「神秘は、より強い神秘により打ち消される」。

 この魔術界の大原則に則って言えば、その存在は正しく伝説である。神獣の類が持つ神秘性は魔法の域にすら達し、とても人間が御しきれるモノではない。

 だが眼前に突きつけられた事実として、敵はその神獣をこうして使役している。

 流石は伝説の神秘すらも超越した、幻想の調伏者たるサーヴァントと言ったところ……とセイバーは考えていたのだが、知識の疎い俺は精々目の前の家一軒分はある大蛇の危険性を察する程度の事しかできなかった。

 

「少しは褒めてあげましょう。しかし貴様、自ら墓穴を掘りましたね」

 

 黄金の大蛇へと変貌した紙人形達の力量は、先程よりも遥かに増大しているに違いない。客観的に考えれば、戦況は先程とは一変して不利になっていると思われる。

 だがそれでも尚、セイバーは不敵に口の端を吊り上げた。

 

「さっきからギラギラピカピカと……その輝き、非常に目障りです」

 

 小さな右肩に担ぎ上げられた長剣は、魔力の煌めきに霞んでいた。

 魔王の眼光が怒りに光る。

 軽やかに謳われるは、敵対者への死の宣告──。

 

「──沙汰を下す。疾く、今ここで死に絶えよ」

 

『キ……ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ────‼︎』

 

 静かな怒りを込めて放たれたセイバーの言葉に応えるように、大蛇は咆哮。

 目にも留まらぬ疾さで、大蛇の口蓋から灼熱の火炎が放たれた。

 まさに神威の一撃、天然自然の生物が有する筈のない圧倒的な熱量が、数メートル大の灼熱の塊と化して飛翔する。

 それは森羅万象一切を灰燼と化す、神秘の火焔。

 対し、セイバーは防御姿勢をとる素振りすら見せない。不敵な笑みを浮かべたまま、俺を庇う形で燃え盛る火球を睨み付けるのみ。

 

「おいっ、避け──⁉︎」

 

 続く言葉は熱風に呑まれた。

 着弾と同時、凄まじい爆発が巻き起こる。

 感じ取れたのは閃光と熱、轟音。数メートルの距離を挟んでも、その余波たる熱風は俺の全身のみならず喉から肺までをも蹂躙し、焼け付く痛みが全身と気管支を走り抜けた。

 天地が震え、闇に包まれた街に一筋の火柱が立ち昇る。その破壊力たるや、セイバーの背後を除く公園の全範囲が残らず吹き飛ばされたほどだ。

 吹き荒れた爆風によって鉄棒は遥か彼方に吹き飛び、ジャングルジムは半ば融解し、ベンチの表面は炭化した。

 伏せたまま咄嗟に左手で鼻と口を抑え、苦しげに咳き込みながら、あの一撃をまともに喰らったセイバーの姿を黒煙の中に探すが──、

 

「鬱陶しい」

 

 彼女を見つけるより早く、雷鳴に似た轟音と共に放出された魔力の蒼光が、立ち込めた黒煙を跡形も無く消し飛ばした。

 

「大した火力ですが、残念ながら無駄ですよ」

 

 あれ程の一撃を真正面から受け止めて、無傷……‼︎

 焦げ跡一つ無く、セイバーは平然と目の前の大蛇を眺めている。

 

 ──「対魔力」とやらがセイバーの身を守ったのか?

 ──それとも瞬間的な魔力放出により、火球の一撃を相殺した?

 

 ……どちらもたぶん違う。その考えを即座に否定する。

 セイバーの対魔力が働く対象は、確かあくまで「魔術」に対してのみだった筈だ。れっきとした魔術をこの目で一度も見たことがない俺が言うのもおかしな話だが、あの大蛇が放った一撃は、魔術ではなく大蛇の身体構造を生かして放たれた「物理的な攻撃」に分類されるように見える。

 そして火球の激突の際に、セイバーが魔力を放出したような様子はなかった。ならば、何がセイバーの身を守ったのか……?

 

『シャア──────ッッ‼︎』

 

 疾風が唸る。高く鎌首をもたげた大蛇は攻撃方法を変更、大口を開けて直接セイバーに躍り掛かる。

 黄金の残像が空間に染み付く程の速度を伴った、神速の一撃。

 魔術師どころか、その牙はサーヴァントすらも容易く仕留め得る。幻想種、幻想の担い手の名は伊達ではない。

 鋭利かつ巨大な牙は正確無比にセイバーを狙い、次の瞬間、それは確かにセイバーの喉元を捉えた。

 だが、彼女の白く透き通るような喉が食い破られる事はない。

 幾ら力を込めようとも、大蛇は彼女を傷つけられない。寧ろ牙の方に亀裂が走り、砕けていく有様だ。

 

「言ったじゃないですか。貴方がいくら足掻こうと、私に傷はつけられない」

 

 魔力を放出する雷鳴と共に、セイバーの姿が消えた。

 正確には、目視すら困難な程の超速度で大蛇の身体を駆け上がった。

 

「さて──これでも私は、怒っていまして」

 

 斬る。斬る‼︎ ──怒涛の勢いで、斬って斬って斬り続ける‼︎

 断続的に噴き上がる鮮血が霧状に舞う中を、魔王が走る。

 黄金の躰の上を疾駆しながら、蒼色の剣戟が次々に巨躯を切り裂いていく。大蛇が怒りの絶叫と共に火焔を放つが、セイバーの動きは微塵も止まらない──いや、あれは誰にも止められない。

 

「私に牙を剥く不敬はともあれ……いや。許せませんけど……」

 

 ヒトの動体視力では彼女の太刀筋を捉えきれない。閃光が駆け抜けると同時に血飛沫が舞い散る、そんな光景を見せつけられるのみだ。

 一際高く跳んだセイバーは、空中で数回転。

 重力と遠心力を乗せた渾身の踵落としが、大蛇の脳天に突き刺さる。

 

『ギギッ……ガァァァッ──⁉︎』

 

 大蛇の頭蓋は地に叩き落とされ、公園の地面が粉々に砕け散った。

 へしゃげた血塗れの頭蓋の上で、魔王が呟く。

 

「我がマスターを傷付けた罪、それだけは万死に値する。その大罪、今此処で贖うがいい」

 

 それは最早、戦いではなく。

 魔王の手による、圧倒的な蹂躙だった。

 

 独楽のように回転しつつ、円弧を描く対の刃が有無を言わせず大蛇を切り裂いていき──最後に締めの双撃が、裂帛の気合いと共に大蛇の胴体を真っ二つに両断する。

 

『……ガ──ア、ァ────…………』

 

 二本の刀身を真っ直ぐに突き立てられて体を二つに分かたれた大蛇は、音も無く絶命していた。ガラスにヒビが入るような轟音が連続し、大蛇の死骸が砕け散っていく。

 そんな光景を見せつけられ、

 

「アイツ、あんな強かったのか」

 

 何故か悔しさが篭った声が、俺の口から漏れていた。

 黄金の燐光を撒き散らしながら崩壊していく大蛇に踵を返し、セイバーが俺に歩み寄る。

 

「…………ケント」

 

「ああ、お疲れさま……悪い。まったく……油断して、こんなザマだ」

 

「ケント‼︎」

 

「うおわっ、な、何だよ⁉︎」

 

 怒声に近いくらいの大声を張り上げて、こちらにズンズンと歩いてくるセイバー。痛み以外の感覚が無い肩を抑えつつ、顔を顰めながら俺が反射的に問い掛けると──、

 

「う。いえ、その……謝るのは私です」

 

 少しだけたじろいだセイバーは、少し拗ねたような顔でそう言った。

 その言葉の意味が……正確にはその言葉をこのワガママ魔王が述べたというこの状況がまるで理解できず、俺の思考が凍りつく。

 

「こんな時に、ケントを一人にするべきではありませんでした。つまらないことで腹を立てて……完全に、私の不注意です」

 

「な、なに? ……もう一回聞いていい?」

 

「だから──ご、ごめんなさい、ケント」

 

 まさかセイバーの口から聞くとは思っていなかった謝罪の言葉に、俺は気が動転するような気分を味わう。例えるなら、急に泣き出した女の子を目の前にして慌てているような状況に近いだろうか。

 セイバーの場合、涙が謝罪にすり替わるというのが面白い──ような、ぜんぜん笑えないような。

 

「い、いや、待てよ、お前が謝るなよ、調子狂うだろ? どうして急に謝るんだ。お前はどーんとふんぞり返って、ワガママにあーだこーだ言ってる方が似合ってるだろうに」

 

「そ、そんな事ないです。私は魔王ですがサーヴァントでもあり、サーヴァントとはマスターを守るものですから。ケントに一人で「ぷりん」を買いに行かせるのは明らかな失策でした。私は頭に血がのぼると正常な判断ができなくなるといいますか、悪いくせというか、とにかく悪いのは私で……」

 

「バカ、だからもういいって! ほら見ろよ、怪我は酷いけど、こうしてまだ動ける。生きて……いや、もう死んでるんだっけ? まあともあれ結果オーライじゃんか。そもそもお前、素直に謝って反省するようなタイプじゃないだろうに。らしくないぞ、それじゃ」

 

 俺としてはセイバーには素直かつあまり手間のかからない性格でいて欲しいのだが、一度彼女のワガママに慣れてしまうと、急に素直になられるとどうしたらいいか分からないのだ。

 俺も大概面倒な性格だなあ、と自己嫌悪しつつも、彼女がしゅんと落ち込んでいる姿はあまり見たくない。ならば、とっとと立ち直ってもらうとしよう。

 

「けど……」

 

「いいんだよ。だからそんな落ち込むな」

 

 尋常ではない肩の痛みを忘れようと、意地悪く笑ってみせる。

 セイバーは少し呆気にとられたような表情を浮かべて呟いてから、何故か機嫌を損ねたのか、ぷいっと視線を俺から背けた。

 

「……今度窮地に陥った時は、令呪で私を呼んでくださいよ。決して無理はしないでください。いま約束してください」

 

「分かったよ、約束する。……ちなみに、もし無理したらどうなる?」

 

「その時は私がものすごく怒ります。そしてケントは前のように私の怒りを鎮める為に令呪を使います。つまり結局使うので、ケントは身に危険が迫れば令呪を使うべきなんです。分かりましたか」

 

「どういう理論だよ、それ……」

 

 大好きな甘い物を食べさせてやるか、もしくはコミック本を数冊読ませればケロッと忘れる癖に、という言葉は心の内に仕舞っておく。

 

 俺達の関係は一蓮托生だ。

 単純明快。どちらかが欠ければ、もう片方も死ぬ。

 

 故にセイバーが俺を気にかけるのは至極当然な行いなのだが、それが単純にマスターを生存させるという利己的な考えによるものなのか、「俺」という存在を思いやった上に成り立つものなのかでは、行動が同じであれ大きな違いがある。

 さてこの魔王サマはどっちなんだろうね、と雲の影に隠れた月を眺めて考えていると──、

 

「ん?」

 

 むにゅり、というとてもとても柔らかい感触。

 それが二つ。同時に。

 

 体感したことのないような柔らかさに、心地いい暖かさが同居している。一瞬ちょっとアレな想像をしてから、俺は自分の馬鹿らしさに苦笑してその考えを投げ捨てた。

 たが──それから視線を下げればそこにはまさに想像通りの光景が広がっていて、俺の思考は完全にフリーズ。

 

「これからしばらく心を平坦にして、動かないでください」

 

「なっ、え、は、なにやってんのお前⁉︎ そんなの無理──」

 

「いいからぁ! 黙っててください‼︎」

 

「むむ、胸ッ‼︎」

 

「馬鹿にしてるんですか?」

 

 鬼気迫る剣幕に「了解!」と返すつもりが、混乱した頭で咄嗟によく分からない返事を叫び、とにかく言われた通りに沈黙する。

 いつものジャージ姿に戻ったセイバーは、何故か俺の体に真正面から抱きついていたのだ。

 もう、ありえないくらいの至近距離。

 夜風に揺れる蒼色の髪から放たれる花に似た香りが、俺の鼻腔を刺激する。その香りを知覚した瞬間、顔が燃えるように熱くなった。

 ますます動転した俺はその行動の真意が図れず、というかそれを考える以前に色々と感触がヤバいというかあれコイツ背のわりにかなり胸でかくない? というかやけに柔らかくないか──、

 

「あのですね、これから失礼な事を尋ねてもいいでしょうか」

 

「仕方ないので、許可します」

 

「魔王様、貴方はブラジャーという物をご存知ですか」

 

「それは、現代の……女性用の下着ですか? 私の生まれにはそんな風習もありませんし、着けていませんけど。それがなにか?」

 

「……まさかジャージの下は全裸とか言わないだろうなお前」

 

「何か悪いんですか、それが」

 

 流石は非常識の権化、セイバー。

 彼女が着ているのは基本的にジャージ「のみ」であるという凄まじい事実が明らかになったところで、彼女に問う。

 

「まあその件は非常に悩ましい問題だけど、今は置いといてだな……無理矢理置き去りにしてだな……‼︎ 何ゆえお前がこんな奇行に走っているのか、そろそろ説明してほしい」

 

「きっ、奇行じゃないですよ‼︎ 宝具ですよ、私の宝具! 思い出してください、ケントの魂を繋ぎとめている要が存在するでしょう」

 

「宝具? お前のあの綺麗な剣じゃなくて、俺の心臓に埋め込まれてるっていう宝具のほう?」

 

「そうです。それですよ、それ……‼︎」

 

 視線を俺の胸元辺りに落としながら、セイバーは続ける。

 

「その宝具は本来、持ち主に有り余る生命力を付与するものです。現在は機能の半分を魂の定着に用いているので、回復効果はあんまり発揮されていませんが──」

 

「が?」

 

「……その、本来の持ち主である私が近くに寄れば寄るほど、宝具もそれだけ活発に力を発揮するんです。そこ、見てください」

 

 セイバーに従って視線を横に逸らすと、今まですっかり忘れていた肩の痛みが、心地よい暖かさにじわじわと上書きされていくのが分かった。

 傷が早送りしたかのように癒着し、再生していく少し不気味な感覚を味わいながら、改めてサーヴァントが持つ宝具の奇跡を思い知る。無性にむず痒いのは我慢するとして、おそらく十分もこうしていれば治るだろう。

 

「すげーな、これ。まるでゲームの回復魔法だ。なんだ、昔からこんな便利な回復アイテムを持ってたのか?」

 

「…………いえ。これは生前の所有物がそのまま宝具として顕現したケースではなく、生前の「逸話」が宝具として昇華され、形を得た部類ですね。ケントに量子化して譲渡する以前は、マント(・・・)の形を取っていました」

 

 ほぼ反射的に、俺はセイバーを初めて見た夜の光景を思い出した。

 確かにあの夜、セイバーは大きな紫紺の外套を纏っていた。魔王の背に悠然と揺れるあの威風堂々たる姿は、今でもはっきりと脳裏に染み付いている。

 

「ああ、あれか。それが今は俺の心臓に埋め込まれてる、と……マントを埋め込むって、一般人にゃあんまり想像できないんだけども」

 

「それはいいんですよ、どうでも。とにかく細かい事は置いておいて、今は怪我の治癒に専念して下さい」

 

「へいへい。分かりましたよ、黙っときます」

 

 専念しろ、と言われても俺がする事と言えばじっとしている事しかない。必然、セイバーの身体の感触に意識が向けられてしまう。

 ……これだけ近いと、俺の鼓動まで聞こえてしまうんじゃなかろうか?

 セイバーも俯くと、俺と同じように押し黙ってしまう。

 

「「………………」」

 

 二人分の身体に挟まれ、柔らかに形を変えている双丘から意識を逸らしつつ、どうしたものかと思案する。

 

(いや、どうにもできないだろこれは……⁉︎)

 

 思案といってもそれは完全殺人を前にした探偵の苦悩に近く、俺がまとまった行動指針を出すのにはかなりの時間が必要だった。

 

「──セイバー」

「──ケント」

 

 しばらくして、俺たちは同時に口を開いた。

 ぎょっとしてお互いに視線を合わせ、慌てたセイバーが眉毛を伏せながら「お先にどうぞ」と促してくる。

 

「え……えと、くそ、なんか調子狂うな……サーヴァントってのは、それぞれの目的を持って聖杯戦争に参加するんだよな。だからこそ、セイバーは召喚の招きに応えた……と。合ってるか?」

 

「そうですね。主人に仕え、その為に働く事を願とする者や、暇潰しのような軽い気分で参加する英霊もたまーに存在しますが」

 

「……けど、セイバーはそのどっちかって感じじゃない。じゃあ、お前が聖杯に託す願いって何なんだ?」

 

「それは──その……」

 

 セイバーが再び、言葉に詰まった。

 彼女は自分の事を語りたがらない。俺の方も無理に聞き出そうとする気は無いので、この問いも諦め半分だった。「いや悪い、言いたくないなら別にいいよ」と口にしてから、動く方の腕で頭を掻く。

 それから再び、沈黙が訪れた。

 セイバーが嫌がる話題を選んでしまったかな、と後悔しつつ、否応無く押し付けられる胸の感覚を遮断しながら長続きしそうな話題を探すという困難な任務を再開する。

 だが暫くしてから、セイバーは少しだけ口を開き──、

 

「……ケントは。魂って、死んだらどうなると思いますか」

 

 そう、ぽつりと言った。

 

「魂? 俺はそういうのに疎いから、よく分からないけど」

 

「サーヴァントの魂は英霊の座に押し上げられ、通常の輪廻の輪から外れます。なので、決して転生することはありませんが……普通の、何の変哲も無い人の魂は、輪廻の輪に従って再び生を受けるんです」

 

 その言葉は、ゆっくりと、独白のように語られていく。

 俺は、無言でその言葉に耳を傾ける。

 

「私が魔王になるずっとずっと前に、誰かが言っていました。何度転生を繰り返しても……魂は必ず、強い縁がある者同士で惹かれ合うんだと」

 

 その声に、思わずドキッとした。

 反射的に思い出す──確か、どこかで俺はこの声を聞いたことがある。

 明るくもないが冷酷でもなく、激しくもない。彼女の心の底から滲み出たような声色。その声がトリガーとなって、混濁していた死の淵の記憶を呼び覚ます。

 生を終える寸前に記憶した最後の光景。確か、血まみれの俺はセイバーに抱きかかえられていて──、

 

(そうだ。思い出した……俺が、死に掛けてた時……こいつは)

 

 ──俺が死ぬ寸前。何故か、彼女は泣いていて。

 そして、こんな声で何かを叫んでいた筈だ。

 

「いわゆる運命というヤツでしょうか。そんな物はただの迷信だと信じていませんでしたが、それは違ったんです」

 

 背中に回された彼女の手が、微かに俺のシャツを握る。

 

「ケント。私の願いは、とても簡単な事だったんですよ? ケントが死んでしまったあの夜に、それでも、半分叶ってしまうくらいには」

 

 ──その言葉の意味は、よく理解(わか)らない。

 ただ、綺麗な碧色の瞳には、どこか愛しむような色があった。こちらを見上げてくる柔らかな視線は微動だにせず、俺の瞳を捉えている。

 

「半分でも、私は……もう満足なんです。あなたが無事に生き延びてくれれば、私はそれでいいんですよ」

 

 そこまで言って、彼女は桜色の唇を閉じた。

 暫くの沈黙を挟んでから、今度は俺が話し始める。

 

「…………じゃあ、お前はさ」

 

 分かりきった事だ。俺の問いは、もう既に答えが見えている。

 けれどその答えを否定したくて、俺は無駄と知りながら問い掛ける。

 

「この殺し合いが全部終わって、俺が仮に生き返って、なにもかも丸く収まったとしたら、その後お前はどうするんだよ。前、英霊は受肉して第二の生をうんぬんかんぬん〜とか言ってなかったか」

 

「やっぱ適当に話聞いてましたねコイツ……そりゃあ、あくまで一般的な英霊の話です。第二の生を求める英霊も多い、ってだけで。私は事が済めば、大人しくケントの前から消えますよ。また、英霊の座に戻るんです」

 

 俺はその言葉で、硬く奥歯を噛み締めた。

 夜空を睨み付けるように頭を上げて、その言葉を反芻する。

 「消える」──そうだ。彼女は元より英霊であり、この世を生きるモノではない。一時的な役目を終えてあるべき場所に戻るのは当然の帰結だ。

 だが、それを認められない自分がいる。

 

「それは……仕方ない、事なのか? そんなことないだろ⁉︎ お前は魔王なんだろう、いつもみたいにワガママになれっての……‼︎ 例えば、ほら、まだ沢山この世には甘い物があるんだ‼︎ それに──」

 

「ケント」

 

 ぴしり、と空気を震わせて、彼女は俺の言葉を遮った。

 まるでそれを、決して叶わぬ夢物語だと理解しているかのように。

 

「確かにそれは魅力的ですけど、貴方は私という存在の性質を理解してないみたいですね」

 

「……性質だって?」

 

「はい。真名は明かせませんが、私は魔王。人に、神に、世界に仇なす敵役にして負の象徴。だから今更どう振る舞おうと、私は絶対の()だと決められているんです」

 

 セイバーの口調はどこまでも単調だ。自らの役割を把握しているロボットのように淡々と告げる、その声色に躊躇いはない。

 

「現世に至り、争いは随分と数を減らしました。戦乱で死ぬ人間も少なくなりつつある……そんなこの世界にとって、私は邪魔者なんですよ。こんな存在が留まっては、きっと迷惑になってしまう。だから私が消える事は、ケントにとっても、きっと正しい事なんです」

 

(そんなの違う。ふざけるな。「いてはならない」なんて、ンな訳がないだろうが……‼︎)

 

 ……そう言いたかった。

 それでも俺には、どこまでもそう考えている目の前の少女に、なにを言ってやればいいのか分からなかった。

 鬱陶しいくらいにもやもやしたまま、俺に抱き着く形になっている彼女の頭に触れる。蒼色の髪を撫でるように手を動かしながらも、語るべき言葉は喉奥に引っかかって出てこない。

 結局、俺は少し戸惑うような表情のセイバーに笑いかけて──、

 

「……何が正しいなんて、俺にはまだ分からない。けどそんなのは、捕らぬ狸のなんとやらって奴だろ? よくよーく考えたらまだ一騎たりとも倒しちゃいないんだし……だから、答えを出すのは先にしよう」

 

「ふふ、そうでしたね」

 

 彼女はどこまでも英霊であり、俺はどこまでも普通の人間だ。

 

 そんな俺たちの別離(わかれ)は。

 きっと、出逢った時から決まっている──。

 

「じゃあ、治ったら帰るか。ん……そういや、コンビニ袋どこ行ったかな?」

 

「あー、無くしたならまた買ってきて下さいね」

 

「お前、一人で行かせて悪かったとか言ってなかったか⁉︎」

 

「仕方ないので私も行きますよ。今度は」

 

「いや、金の問題もあるから……お前、俺の財布を無限に金が湧いてくるアイテムか何かと勘違いしてないか?」

 

 そんな風に軽く言葉を交わして、夜空の下で互いに笑い合う。

 だが、その笑顔は偽物であって。俺にとっては最大の問題を先延ばしにしただけの、取り繕った笑顔に過ぎず──、

 

「────────」

 

 俺の心は、深く深く沈んだままだった。




【セイバーの宝具】
持ち主に絶対の回復力を与える、彼女の逸話が昇華された宝具。
通常時は紫紺のマントという形をとり、セイバーは背中にそれを纏うことで、瀕死の重傷であろうと数分で治癒してみせる。ただしマスターからの魔力供給を断たれてしまうと、その能力は大幅に減衰する。逆もしかり。
この治癒能力だけを見るとせいぜいBランク程度の宝具。だが、通常の宝具にはあり得ない「とある性質」を持つが故に、この宝具のランクは「EX」とされる。


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十九話 暗殺者の過去/Other side

 ──世界は今日も、地獄だ。

 

「ああクソ、うざってぇんだよ‼︎」

 

 大きな拳が飛び、少女の頰をしたたかに打った。彼女はそれだけで薙ぎ倒され、硬い地面に倒れ込む。

 唇が切れて血が滲んだ。

 それでも、何故か心の方が痛かったのを、彼女は今でも覚えている。

 

「糞が、糞が、糞が…………‼︎」

 

 ──おとうさんの、怒った声。

 ──何を言ってるのか、よく分からない。

 

 彼女が縋り付くように立ち上がろうとすると、完全に我を忘れた父は棍棒を持ち出し、その頭を殴り付けた。

 鈍い衝撃音が炸裂する。今度は少なくない量の鮮血が飛び、汚れた床に散った。意識が半ば千切れて、ついに立ち上がれなくなる。

 まだ齢10にも達していないような少女の身体は、まるでゴミみたいに持ち上げられると、家の扉から投げ棄てられた。

 

「ぁ、ぅ…………」

 

 男は一瞥すらもせず、扉を閉める。

 

 ──いやだ。すてないで。

 ──おいて、いかないで……。

 

 荒野の風が吹き荒れる中、彼女は一人取り残された。

 愛なき親に見捨てられ、行き場をなくした孤児が一人。行く当てもなく、意識も覚束ないまま、彼女はふらふらと歩き始める。

 だが数歩も歩かない内に、どさりと倒れてしまう。

 傷は致命的だった。今すぐ処置を施さなければ、待っているのはまごうことなき死。

 だが、彼女は最早指一本も動かせず、ただ血に濡れた地面を眺めて──、

 

「────なんだか。……さむい、な」

 

 結局何もできずに、彼女は死を受け入れた。

 意識が消える。

 少女が最後に感じていたのは、死への恐怖などではなくて──。

 

 

 

 

 ……事実だけを言えば。

 幸運にも、彼女を神は見捨てなかった。

 心優しい老人に拾われた少女は森深くの小さな山小屋に運ばれ、辛うじて一命を取り留めたのだ。

 最初は何故生きているのか、と思った。だが神が与えたもうた幸運に感謝しなくては、それじゃあ生きなくては──そう、幼いながらも少女は思った。

 そんな都合のいい話なんてあるはずない、と知ったのは、それからすぐのこと。

 

「なに……これ……?」

 

 自分の手に視線を落とす。

 黒い線のような、見ていて不安になる「何か」が纏わり付いている。

 それは自分の体だけではない。小屋にも、渡り鳥にも、木々にも、その黒い何かは纏わり付いている。「線」として視える時もあれば、「点」として視えるときもあった。それらから目を逸らそうとしても、逸らした先にまで追いかけてくるのではどうしようもない。

 黒い線を試しになぞると、言い表せないような悪寒を覚えた。

 これ以上、コレと関わってはならない──確実に。

 

 ……そうして、一年が経った。

 黒い何かは消えず、ますます数を増す。

 ……また一年が経った。

 時折、頭が割れるような頭痛が襲うようになった。

 ……また一年が経った。

 頭痛にも慣れた。この不安定な世界にも慣れた。

 

 そんな頃、ふと思い立ったのだ。

 あの人(ちち)は、どうしているだろうか──と。

 三年前に捨てられたとはいえ、親は親。

 十二歳になり、翁の元で細々と繋いでいる暮らしだが、それでもある程度の貯蓄はできた。今ならば迷惑をかけることもない。かつて自分を捨てた父であろうと、一目見るくらいは──。

 

「あァ……? 誰だ、お前…………」

 

 三年ぶりに懐かしい扉を開けると、父はいた。

 机の上に積み上げられた大量の酒瓶、酒臭い吐息。部屋の中は荒れきっていて、男の堕落ぶりを思わせる。

 だが、懐かしい顔だった。黒い線は視界から消えず、男の顔には特に多くその線が刻まれていたが、それでも変わらない顔だった。

 

「お、おとうさん……おとうさんっ‼︎」

 

 向日葵のような笑顔で顔を綻ばせる少女に、父は赤い顔を近づけて──。

 

「…………お前、女か」

 

 ぼそり、と父は呟いて。

 気が付いた時には、少女は床に押し倒されていた。

 

「……………………、え?」

 

 行動の意味が分からない。

 言葉の意味が分からない。

 いや。とうに理解していた。理解できないと思ったのは、単に認めたくなかっただけ。

 

「女、女だな。おんな、おんな、女だ。丁度いい──」

 

 ごつごつした手が擦り切れた服をめくり上げる。その柔肌に手が伸びる。

 

「ひっ、い、いや……なにを、して、おとうさん、わたしだよ、わたし……⁉︎ 覚えてないの、■■■■って名前を……やめて、いや──‼︎」

 

 聞いていない。聞こえていない。

 男は酒に溺れていただけではない。きっと麻薬の類に犯され、最早まともな思考すらも持っていなかったのだ。そんな獣の前に、少女は無警戒に姿を晒してしまった。

 

「なんでっ、わたしは、こんなの……‼︎ やめて、やめてよ、触らないで……わたしは、わたしはっ、愛してもらわなくてもよかった‼︎ ただ、一言……言葉を交わしたかっただけなのに、ただ、それだけなのに──‼︎」

 

 身体を大きな手でまさぐられる不快感に襲われながら、少女は必死に手を動かした。床に散らばったガラクタが手に当たり、なんとか酒の空き瓶を掴み取る。

 

「ぐ……う、うあああああああああああああああああ────‼︎」

 

 それを力一杯叩き割り、尖った先端を突き刺した。

 狙うは、謎の黒い線(・・・)。よく分からないが、そうすれば全て終わってくれるという確信があった。

 ──力は不要(いらない)

 ただ、この眼があれば。

 かつてないほど必死で、それでいて驚く程冷静に、少女は父だった男の脇腹に酒瓶を突き刺した。

 

 そして。その瞬間、全てが弾けた。

 

「え…………ぁ…………?」

 

 ぶしゃあっ、と血が舞った。

 一瞬で十数個に解体された肉塊(ちち)が宙を舞い、組み伏せられた身体に落ちてくる。それはささやかな少女の抵抗などではない、完膚なきまでの「殺害」だった。

 何が何だかわからない、といった表情で立ち上がり、血まみれの自分と床に散らばる肉塊を見て、少女は自分のした事を認識した。

 

 殺した。

 殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。

 わたしは、父を、この手で、殺し─────────。

 

「……………………は、ひ、はは……はは」

 

 大切な何かが、壊れた音がした。

 

「あはっ、ひっ、ははははははっ、ひゃはははははははははははは‼︎‼︎」

 

 狂ったように笑った。

 いや、そこでもう狂ったのか。

 ともあれ、笑わないとやっていられなかった。

 

 ──今更やっと、認識した。

 今日も、じゃない。明日は、じゃない。

 そもそも、未来に希望を抱くことが間違っていた。

 

 ──この世界は、元から地獄だったのだ。

 

 ふらふらと、扉を押し開けて外に出る。

 何もかも、全部殺し尽くしてやりたい気分だった。

 

「しんじゃえ……こんなの……」

 

 ヒュン、と酒瓶の破片を振り抜く。

 それだけで、家だったモノはバラバラになった。

 

「しね……しんじゃえ、ぜんぶ、こんなもの────‼︎‼︎」

 

 この場所に残るかつての痕跡を、僅かに残っていた両親との思い出ごとすべて殺し尽くして、彼女はふらふらと歩き出した。

 それはまるで、三年前の焼き直し。

 ただ、今度は違う。死から逃れる力と引き合えに、彼女はかつての心を喪ったのだ。

 

 

 

 

 気が付いた時には、少女は暗殺者(アサシン)になっていた。

 死に魅入られていた彼女にとって、その生業は最適とも言えるものだった。その能力を高く買われて暗殺教団に転がり込み、人を殺す事を少しも躊躇わない気性に卓越した才能、そして暗殺者にとって「最強」とも言える魔眼の力によって、いつしか彼女はその長──「山の翁」の地位にまで登りつめる。

 

「────────」

 

 数年が経ち、彼女は常に目隠しを着けるようになっていた。

 あまりに眼の効力が強すぎるせいで、こうでもしなければ正気を保つのは困難だったのだ。

 この魔眼が捉えるのは、万象の「死」。

 死という、明確だが抽象的な現象を視覚情報として捉え、干渉、発現すらも可能とする反則級の異能。どんなものであれ、たとえ生物ではなかろうとも、彼女はそれが抱え込む「死」を捉えてしまう。

 暗殺を生業とする上ではこの上ない能力だが、人の身に余るそれは、間違いなく有償の奇跡だった。

 歳を経るにつれて魔眼の力を強力になり、彼女の脳も悲鳴を上げ始めた。本来捉えられる筈のないモノを常時見せつけられ、自分自身の、世界の脆さを嫌でも思い知らされる。

 

 ……そんなの、正気でいられる筈がなかった。

 それでも彼女が暗殺者をやれていた理由は、きっと、「あの日」からどこか狂ってしまっていたからなのだろう。

 

 父を殺し、彼女は一切の殺人に躊躇いを覚えなくなった。

 どんな困難な任務をも率先して引き受け、実質的な事務は適当な連中に任せて、ただただ人の命を奪うことに没頭した。しかし、殺すのは、彼女が認める「悪人」のみにすると決めていた。

 彼女の半生は血に濡れた道だ。だが、それを振り返っても後悔はない。

 元よりこの世界は地獄であり、従って自分の人生も地獄に等しいのは道理だろうと、そう考えていたからだ。

 

 そうして刃を振るい続け、何年が経ったのか──。

 

 とある古城の最上階で、暗殺者は短刀を構えていた。

 今日も変わらず、人の命を奪うために。

 

『や───やめろ、待────⁉︎』

 

「じゃあね」

 

 短刀を、もはや眼帯越しですら把握できてしまう「黒点」に突き入れる。

 それだけで対象(ターゲット)の身体は解体され、終わり。

 どのような堅牢な城塞であろうと、彼女の眼の前には意味を成さない。どれほどの数の兵士であろうと、闇に潜む彼女を捉えることはできない。

 ──彼女はまさしく、死神の体現者だった。

 

「これで、おわり…………」

 

 ……ずきり、ずきり、と頭が疼く。

 眼の奥が異様な神経痛に悲鳴を上げている。

 神すらも殺し得る力の代償が、彼女の体を蝕んでいたのだ。

 

「……はぁ……はぁ……はぁ……っ」

 

 自分でも分かってしまうほど、終わりが近い。

 息を荒げながら、彼女は古城を離脱した。

 擦り切れた黒衣を翻して、夜の荒野を駆け抜けていく。

 

 ──たとえ、この命の終わりが近くとも。

 ──わたしは、最後まで…………。

 

 そんな事を、思考すら朦朧とさせるような頭痛の嵐に苛まれながら考えていると、少女はつんのめるようにして転倒した。

 

「……ぁ、ぐ……?」

 

 こんな何もないところで転倒するなど、どうかしている。

 自分の未熟さを恥じながら、彼女は立ち上がろうとして──そして、どう足掻いても足が動いてくれないことに気が付いた。

 

「……………………」

 

 何かを観念したくないように首を振って、少女は眼帯を外した。

 だというのに、世界は黒色に染まったままだ。

 美しい満月も、満天の星空も、見慣れた赤銅色の大地も。

 

 ──何も、なにも、見えない。

 

「そん、な。……まだ、わたしは」

 

 辛うじて手を動かし、自分の体を少しでも前へ。

 まだ手が動くならば、足掻く。

 最後まで、最後まで、自分は暗殺者であると決めたのだ。

 誰かを殺して、そして誰かを救うと決めたのだ。

 目が潰れたくらいでなんだ、足が動かぬ程度がどうした、そんな事で都合よく自らの道を諦めるなど許されない。この身が絶対の死に追いつかれるまで、少女(わたし)は暗殺者でなければ──‼︎

 

 

『────終わりだ、魔眼の。その首、確かに戴こう』

 

 

 ……荘厳な声が、聞こえた気がした。

 

 何処からか響き渡った万鐘の音が鼓膜を震わせた瞬間、彼女の首に漆黒の大剣が突き刺さる。

 致命の一撃、それは死を告げる天使(アズライール)によるものだったのか。

 だが──もう、そんな事はどうでもよかった。かの声を聞き届けたとき、少女は「自分の終わりが此処なのだ」と悟っていた。

 

(あぁ……なんだ。……これで、おわり……か……)

 

 つまらなそうな、しかし安堵したような表情で、少女はゆっくりと目を閉じた。

 ──散々人を殺してきた罪人にとって、この荒野で野垂れ死ぬというのは相応しい末路だろう。

 眼を失い、同時に「山の翁」としての資格を失った少女に手を下した何者かが、夢幻のように消え去っていく。その正体を考える余裕もなく、少女は自らの死を受け入れた。

 

(そっか……けど、やっぱり)

 

 荒野の冷たい夜風が吹き抜けていく。

 誰にも見届けられず、彼女はその生を終える。

 

(死ぬのは、さむいし────寂しい、な……)

 

 そして。

 その場に残されたのは、ただ一人で命を燃やし、その生涯を駆け抜けた──哀しい暗殺者の死体だけだった。

 

 

 

 

「………………っ」

 

 微かに呻きながら、倫太郎は目を開けた。

 がたん、がたんと揺れる車内。通常より遅い思考速度でここは電車の中だと認識して、今まで自分がもたれかかっていたモノに視線を向ける。

 

「おはよ」

 

「……あー、ごめん。寝てたのか、僕は」

 

 どうも、電車の座席に腰掛けながら居眠りしていたらしい。

 聖杯戦争が始まって以来寝不足だなぁ、と少し憂鬱になりつつ、倫太郎は目を擦った。

 時間はとっくに終電を過ぎている。隣町の潜伏場所を片っ端から調べたせいで、こんな時間になってしまったのだ。

 しまった、タクシー代残ってないじゃないか僕のバカアホマヌケ……などと倫太郎が致命的なミスに気付いたころ、丁度車庫に戻る電車が走っているのを発見。アサシンに頼んで車内に強引に侵入し、二人はこうして無銭乗車を行っている。ちなみに諸々の証拠隠滅は渋々倫太郎が引き受けた。

 

「……どうしたの?」

 

「なんでもない──って言いたいけど、そんなこともないな」

 

 座席に腰かけたまま、呟くように口にする。

 

「さっき夢の中で、君の……たぶん、過去を見た」

 

 アサシンはいつもの如く表情を少しも変えず、その告白を受け入れた。紫陽花色の長髪を揺らし、彼女は倫太郎を包帯に隠された瞳で見つめる。

 

「そう。──あんまり、楽しいものじゃ……ないでしょ?」

 

「まあね。少なくとも、良い夢って訳じゃなかったな。救われない話は好きじゃないんだ」

 

「む。なんか、ごめん?」

 

「いや……それは、君が謝る事じゃない」

 

 たった一人で荒野に残された彼女を思い返しながら、倫太郎は息を吐いた。

 英雄とは、往々にして非業の死を遂げるものだ。ニーベルンゲンの歌のジークフリート然り、アーサー王伝説のアーサー王然り。幸福な最期を迎えられた英雄の方が圧倒的に少ないだろう。

 故に、彼女の生涯も、数多の英霊たちの中では「ありふれた」ものなのかもしれない。

 だが──だからといってその悲しみを素直に呑込めるほど倫太郎は大人ではなかったし、そんな大人になる気もなかった。

 

「……僕が聖杯に託す望みは、繭村の魔術師に相応しい度量と勇気を得る事だ、って言ったの覚えてるか?」

 

「うん、覚えてる。そうじゃなきゃ、あそこで殺してたし」

 

「……今の物騒な発言はスルーするけど、その上で君に尋ねたい。今の今まで聞くのを忘れておいてなんだけどさ、アサシン……君は聖杯に何を求めて、僕の召喚に応じた?」

 

 問い掛けにすぐに答えはなく、沈黙が場を包みこむ。

 がたん、がたん……と、電車が揺れる音が連続する中、アサシンは窓に映る夜の街の光を眺めながら、相変わらず心情の読めない口調で呟いた。

 

「この世界は、きっと地獄だから。……だから、わたしは、すこしでも……この世界を、しあわせにしたいと思ってる」

 

「──世界を?」

 

「うん。だけど聖杯っていっても、たぶん……限界はある。全人類を幸せにする、なんて……わたしには、どう願えばいいか、分からないしね。それこそ、何十年考えても……わたしには、たぶん答えを出せない。だから、とりあえず……聖杯を得たら、「もう少し、できるだけでいいから、世界をしあわせにしてほしい」って願うつもり」

 

「けど、君は英霊だろう。聖杯が願いを託され、その魔力で願いを叶えたら、君はそこで消える。願いを受けて、「しあわせ」になった世界に君がいられないとしても、その願いは変わらないのか?」

 

「うん、変わらないよ」

 

「────ふぅん、そう」

 

 なんとなく、倫太郎は嬉しかった。

 この暗殺者は、恐らく、その願いをずっと抱き続けるのだろう。

 曖昧模糊で、まるで無垢な子供が世界を救う「正義の味方」に憧れるように──幼稚かもしれない、愚かと断じられるかもしれない願い。

 ……だが。その確かな輝きだけは、きっと誰にも否定できない。

 

「話を変えるけど。参考までに聞いていいか」

 

「うん。ひま……だし」

 

「じゃあ質問。──君は生前、沢山の命を奪った暗殺者だな」

 

「そのとーり。それだけ?」

 

「……いや、これは確認だ。別にその罪をいまさら咎めようなんて気はないんだけど、ひとつだけ気になっててね。どうして君は、暗殺者になったんだ? 積み上げた死体の果てに、君は何を求めていたんだ」

 

 母に棄てられ、父を殺し、狂い果てた少女。

 その生涯の最中で得た「魔眼」の力を見込まれ、暗殺教団にスカウトされたというのは倫太郎にも解る。彼女ほどの人材はそうはいないだろう。だが、そこで「暗殺者になる」と決めたのは彼女自身の意思だ。

 その理由が、倫太郎には分からなかった。

 

「────最初は、暗殺者になった意味なんて……なかった」

 

 彼女の声は静かだ。

 かつて世界に絶望した彼女は、周囲に流されるように暗殺者への道を進み始めた。

 

「けれど、人を殺し続けてるうちに……気付いた。私の行いは、絶対に悪だけれど……それでも、救われる人がいるんだ、と」

 

 それは、至極当たり前の話だった。

 救われる人──それは、暗殺を依頼して我欲を満たす人間のことではない。ただ彼女の暗殺の「結果」のみを受け取る人々だ。

 例えば、熾烈な圧政を敷く領主を彼女が殺せば、その地の人々は平穏を取り戻した。戦乱を巻き起こす暴君を彼女が殺せば、一国の人々は戦禍を免れた。

 

「けど……当然、救われない人も、いる」

 

 例えば、領主にも妻がいた。例えば、暴君にも娘がいた。

 

「これは、わたしが暗殺者である以上……どうしようもない。だからわたしは、その人たちから目を背けた(・・・・・)。ただ、わたしが手を汚すことで救われる人々のためだけを思って、わたしは人を殺し続けた」

 

 人を殺す事になんの罪悪感も感じない狂人だったとしても、彼女はどこかで「人間」だったのだろう。

 故に、自らの行いで救われる誰かの存在を信じ続けて、数多の命を奪い続けた。

 それが、彼女がかつて暗殺者として生きた理由。

 

「自分勝手、だね。都合のいい……ばかな理由。キミは、軽蔑……するかな?」

 

 可愛らしく首を捻るアサシン。倫太郎はどう答えればいいのかもよく分からないまま、

 

「──軽蔑は、しない。君は確かに悪だったんだろうけど、その行いで救われた人が一人でもいるなら、僕は決して君を軽蔑したりはしない」

 

 それでも、そう口にした。

 詭弁ではなく、心からの言葉だ。アサシンの無表情な顔が微かに綻んだような気がしたのは、きっと気のせいではないだろう。

 

「ありがとう、アサシン。質問に付き合わせて」

 

「むむ。ぜんぜん構わない、よ」

 

 サーヴァントとマスターの信頼関係は非常に大切だ。互いの事を深く理解する事は、きっとこの戦争で有利に働くだろう。

 だが、そんな実利的な要素を排除しても、倫太郎はこの問答に確かな意味があると思った。

 

「──さて、あと十分くらいで大塚駅か……」

 

 電車のパネルに表示された時間を見ると、時間は深夜の一時。

 これはまた寝不足だな、と再び憂鬱になりながら、倫太郎は目の前を流れていく夜の風景に視線を戻す。

 

 ──そこに、いた。

 ──白い何かが、猛烈な速度で迫っていた。

 

「⁉︎」

 

 アサシンに手を引かれるように、倫太郎が座席を飛び退く。

 その瞬間、右から左へ貫通していった白色の豪雨が、車両の壁面を粉々に吹き飛ばした。烈風が半壊した列車の中に吹き込み、赤銅色と紫陽花色の髪が激しく揺れる。

 

「おー……きたね、敵」

 

 鋭い風切り音を立てて、アサシンが短刀を構える。

 その目線の先には、数百の群れをなした鳥型の紙人形が、一つの群体と化して電車に並ぶように宙を飛んでいた。

 

「自立人形……⁉︎ いや、アレは……なんだ……⁉︎」

 

「なんだっていいよ──あと、聞き忘れてたこと、言っていい?」

 

「え、今⁉︎」

 

 纏った黒外套を風に激しく揺らしながら、暗殺者は言う。

 

「わたしは、悪い人(アサシン)だけれど。……君のために戦う私は、いい人(・・・)になれるのかな?」

 

 ……その言葉は、倫太郎の胸に矢の如く突き刺さった。

 

 彼女は暗殺者でありながら、どこまでも正義に憧れた。

 人を殺しながら、人の幸せを夢想した。

 

 どこまでも矛盾した存在が彼女だった。いくら正義を夢見ようと自分は暗殺者であり、人を殺す事こそが役割だ。だからこそ、このアサシンは何よりも「自分が暗殺者である」事を嫌悪している。

 正義の味方なんて、そんなものなのかもしれない。

 分かりやすい正義でさえ、悪の側からすれば悪なのと同じ。万人全てにとっての正義など存在せず、彼女はどう足掻いても「誰かのための正義を遂行するには、別の誰かにとっての悪になるしかない」という自己矛盾から逃れられない。

 かつて彼女はその矛盾を受け入れ、「別の誰か」を切り捨てて、自分の正義を貫いた。

 

「………………」

 

 彼女が求めるのは、たった一つの言葉だ。

 片方だけの正義を貫くのは確かに万人にとっての正義ではないのかもしれない、自分勝手なエゴなのかもしれない。それでもそこには高潔な意思が有ると、彼女はずっと認めてもらいたかったのだ。

 その思いを知った上で、マスターが彼女をどう認識するのか。

 サーヴァントはサーヴァント、所詮は殺す事しか知らぬ暗殺者(あくにん)だと断じるのか。それとも──。

 

「アサシン」

 

 倫太郎は、もう見慣れてきた彼女をもう一度見つめなおす。

 小さな身体に黒衣を纏って、短刀を数本構える彼女。目元に巻かれた包帯の奥にはどんなものでも殺し尽くす魔眼が潜んでいて、その姿は闇に溶け込む暗殺者そのものだ。

 けれど、彼女は暗殺者である以前に、一人の少女であって──、

 

「断言するよ。君は僕の、サーヴァント(せいがのみかた)だ」

 

 思いのまま、倫太郎はそう口にした。

 

「────うん、ありがとう」

 

 アサシンが微笑む。それはドタバタと契約を結んで以来初めて見せた、小さなアサシンの笑顔だった。

 その表情に奮い立った倫太郎は、竹刀袋から木刀を引き抜く。

 アサシンも短刀を構え、包帯の奥の瞳で敵対者を睨み付ける。

 

 時速百二十キロの戦闘は、そうして幕を開けたのだった。




【アサシン】
世界に絶望した彼女が聖杯に臨む願いは、「世界総体の幸福」。
魔眼以外に何も持たなかった少女には、暗殺という手段しか残されていなかったが、それでも彼女は世界が少しでも平和になる事を強く願っている。
彼女もまた、「正義の味方」に憧れた一人と言えるかもしれない。


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二十話 魔眼のハサン/Other side

 ──夜闇を照らす月光の中を、電車は速度を緩めず走り続ける。

 

「気を付けてくれ、アサシン。奴ら自律人形(オートマタ)にしては、何か違和感がある」

 

「敵でしょ。それだけ判れば、いい」

 

 風が荒々しく吹き抜ける車両の屋根の上、アサシンは紫陽花色の短髪を激しく揺らしながら呟いた。

 かなりの速度で走る車両に並走するように滑空するのは、数百の白い影だ。よく目を凝らせば、それらは小鳥を模して作られた紙人形だという事が分かる。

 白い群れは水中の魚群の如く一斉に旋回すると、一斉にその姿を鋭い槍に変えて、

 

「────くるよ」

 

 次の瞬間、莫大な破壊力と制圧力を伴った槍の豪雨が、アサシンと倫太郎の頭上に降り注いだ。

 だがその速度は、サーヴァントからすれば余りにも遅い。

 アサシンは軽く倫太郎の手を掴むと、自らの身体に引き寄せるようにして攻撃を回避。先程まで立っていた列車の屋根に大穴が開き、巨大な鉄の箱がぐらりと揺れる。

 

「速度は全然、大した事ない。けど……」

 

 起伏のない声で淡々と呟きながら、アサシンは手元が霞むほどの早業で黒衣の下に隠し持った短剣を投げ放つ。

 先の突撃をも上回る速度で飛翔する数本の刃。

 そのどれもが的確に目標を捉えた。空を飛ぶ自律人形の内、数匹の翼に黒光りする短剣が突き刺さると、それらは例外なく墜落していく。

 

「簡単に殺せても、数が多い……厄介」

 

 ──そう。単純に数が多い。

 

 彼女の能力は強力だが、その真価は少数の敵との戦闘に於いてしか発揮されない。奴らのような多数を強みとする敵を相手どるのは不得手と言える。

 

(けど、所詮は自律人形だ。僕が魔術を使えば──)

 

 手にした木刀を握り締めたが、頬を伝う冷や汗は拭えない。ここに於いてもまだ震えてくる手に呆れて、倫太郎は思わずきつく歯を噛み締める。

 

(ちくしょう。まだ……此の期に及んでもまだ僕は、魔術を使う覚悟すら持ち合わせてないのか⁉︎)

 

「……マスター。無理してる?」

 

「聖杯戦争に参加した時から無理は承知だよ。魔術を使えば死ぬって訳じゃないんだ……やらなくちゃ、この戦いには生き残れない」

 

 震え上がる心を叱咤して、倫太郎は息を吐いた。

 

(イメージしろ。数が多くても、しょせん奴らは紙だ。繭村の真髄を見せるまでもない……纏めて灼き払う(・・・・))

 

 緩い曲線を描く列車の屋根の上にしっかりと両足を乗せ、意識を体の中心線に集中させる。

 自らの胸の中心に杭を穿つような、そんな想起を因子として、彼は一つの魔術を完成へと導いていく。段階の進行に呼応して、背中の魔術刻印が魔力の奔流にざわめいた。

 活性化した魔力が無数の筋となって淡い緑色に輝き、その輝きは彼の右腕を伝って、木刀の刀身にまで張り巡らされる。

 だが──その瞬間だった。

 

「ッ⁉︎」

 

 いつも眠そうな顔を崩さないアサシンが初めて焦燥の表情を浮かべた直後、先の数倍の速度、サーヴァントすら反応も難しい速度で、紙人形達が一斉に襲い掛かる。

 それは、唐突かつ完全な奇襲だった。

 奴らは飛翔体型のまま、まだ射出体制にすら入っていなかった筈だ。

 脳が状況を理解した間に、紙人形達は半分以上の距離を詰めている。網膜に焼き付くのは、数百の穂先。

 明確な「死」のイメージが、魔術行使のイメージを上回る。

 ──魔術の発動が妨げられる。

 

「くッ‼︎」

 

 彼に死が追い付く、その寸前。

 ボロボロの黒衣が眼前に翻り、倫太郎の身体が再び強く引っ張られた。

 首筋を槍の一本が掠める程の際どさで、致死の豪雨を回避。激しく揺れ動く電車の屋根の上を二人して転がりながら、死に物狂いで態勢を立て直す。

 

「はッ、はッ……‼︎ ……何だ、今の。アサシン、君は……⁉︎」

 

「ぅ……ぐ。三本、掠っただけ……」

 

 少し苦しげな声に、倫太郎の顔がさっと青ざめる。

 つう、と彼女の脚を鮮血が流れ落ちていた。庇った際に傷を負ったのか、脇腹から決して少なくない量の血を滲ませる彼女を見て、倫太郎は必死で思考を冷却する。

 

(急いで治癒魔術を……いや、落ち着け。今、奴らは僕の魔力に反応したのか⁉︎ たぶん魔力発動源を狙って、高速で特攻する性質……恐らくは魔術師殺しに特化して、凶悪に改良を重ねられてる‼︎)

 

 性質(たち)の悪い相手だ、と倫太郎は木刀の柄を握り締めた。

 魔力を使えば奴らはそれに反応し、速度を数倍に跳ね上げて襲い掛かる。現代で言えば熱感センサーみたいなものだ。

 魔術で高専しようとした魔術師に対し「後の先」を取る、まさに魔術師を殺す事に特化した使役人形と言えるだろう。あれ程の出力を誇る自律人形は、到底現代の魔術師には作り出せない。

 

「なら、仕掛けてきてるのはキャスターか……⁉︎」

 

 サーヴァントには相性の悪い相手に、己の魔術まで完封された。

 一瞬キャスターのマスターであり、今日の朝にわざわざ宣戦布告を叩きつけてきた少女の顔が浮かんだが、無視。

 身体の芯に氷柱を挿し込んだような寒気に全身が震えるのを自覚しながら、焦燥感に追われるように加熱された思考を続ける。

 

「落ち着いて、まだ君は立てるでしょ。すぐに、へこたれないの」

 

「……ああもう、わかってるさ‼︎」

 

 半ば意地で、倫太郎は消えかけの闘志を再燃させた。

 紙人形達は旋回しつつ、列車と付かず離れずの距離を保っている。このまま無為な戦いを繰り広げても、待っているのはジリ貧の果ての破滅だ。電車の上は狭いし、アサシンの傷も無視できない。

 あと数秒もすれば、再度の突撃がくる──。

 そう予測して、倫太郎は素早く周囲に視線を巡らせる。

 

(このままじゃ……何かないか。アサシンの能力、魔力を使わず、奴らを一網打尽に……)

 

 ──と。それは必然か、天啓か。

 刹那の閃光めいた考えが倫太郎の脳髄を駆け巡り、彼は咄嗟にアサシンの手を掴んでいた。

 

「…………なに?」

 

 全身を包む烈風に目を細めながら、倫太郎は視線を電車の進行方向へと向ける。正確には、その先に待っているモノに。

 

「上手くいけば、魔力を使わずに奴らを完封できる……かもしれない」

 

「じゃ、すべき事を教えて」

 

「うん……けど、被害が……とんでもないことになるというか」

 

「あー、もう。迷ってる暇ないでしょ。急いで」

 

「わ、わかったよ! くそ、魔術協会の連中め……後で聖杯戦争の被害とか全部僕に押し付けられても知らんふりするからな……」

 

 軋む音が響く。夜空を舞う数百の小鳥が、一斉に射出態勢に移る。

 が──その前に運良く電車は錆びれたトンネルに侵入し、小鳥達は標的を失って再び飛翔形態に逆戻り。

 天井に頭を擦らぬように姿勢を低く屈めたまま、倫太郎とアサシンの二人は手際よく作戦会議を終え、電車の最後尾を睨み付ける。

 

「って感じで──いける?」

 

「まかせて。さて……予想どおり、きたね」

 

 紙人形達は一糸乱れぬ動きで、トンネルに入った電車の数メートル後方を追走してきた。

 照明の少ない暗い闇の中。細められた倫太郎の眼球が、トンネルいっぱいに広がる数百の影を確かに捉える。トンネルの内部は狭く、最早彼らに逃げ場は存在しない。

 

 ──だが、それは相手も同じ事だ。

 

「剣鬼、抜刀────」

 

 幾度となく口ずさんだ、詠唱の一小節。

 所定の構えをとり、潤沢な魔力を木刀に注ぎ込む。だが魔術を使う必要はない。魔力を使うだけで奴らは反応し、倫太郎を貫かんと迫ってくる。

 ぎゅあっっ‼︎ と一様に人形が捻れた。

 一秒後の死が嫌という程認識できる。これは死んだと、倫太郎の本能が煩いくらいに叫んでいる。

 

(……けど、それでいい)

 

 一秒後の死。それは即ち、これから確実に奴らは槍へと姿を変え、倫太郎を串刺しにする為に突撃してくる事を意味する。

 つまり──今この瞬間、奴らの行動は一本に絞られる。

 一度放たれた弾丸が軌道を変えられないのと同じだ。飛翔形態に戻る事もなく、倫太郎の魔力を追って突撃してくるだけ。その速度と攻撃力は恐ろしいが、それと引き換えに奴らは回避力を完全に捨てている。

  

「──────アサシン‼︎‼︎」

 

 烈風に呑み込まれそうな声は、しかし確かに少女の耳に届いていた。

 暗殺者は既に、両目を覆っていた包帯を解いている。

 その奥から現れるのは禍々しき魔眼。青白い瞳孔が拡がり、彼女の瞳が妖しく輝く。彼女の刃に貫かれたが最期、待っているのは不可避の死だ。

 

 ──例えどんなモノであれ、彼女の瞳からは逃れられない。

 ──その魔眼は森羅万象の死を紐解き、一切を殺し尽くす。

 

「はあッ‼︎」

 

 アサシンが一本の短刀を投擲し、鋭い刃は寸分違わずトンネルの天井に突き刺さる。

 直後、異変があった。

 低い地響きと共に、天井の一部が沈み込む。ただの短刀を起因とした崩落は次々と連鎖し、紙人形達の前方を塞ぐ形で大質量の土砂が降り注いだ。

 奴らが土砂を回避することはできない。倫太郎の魔力を追いかけるが故に、紙人形は自ら崩落する土砂の中に突っ込んでいく。

 

「っ……‼︎」

 

 数秒後、間一髪崩落に巻き込まれるのを逃れた列車がトンネルから飛び出し、濃縮された土煙がトンネルの出口から噴き出した。

 絶大な威力を誇る、数百の長槍による突撃──それを誘発された紙人形たちは例外なく土砂に埋もれ、一匹たりとも追ってくる気配はない。

 車掌もまさか背後でトンネルが崩壊しているとは思うまい、と倫太郎は思わず苦笑して、

 

「とりあえずお疲れ様、アサシン。……帰ったらすぐに治療しよう。ゆっくり落ち着ける環境なら、なんとか回復魔術も使えるだろうし」

 

「うん、まかせた」

 

 アサシンの緊張感に欠けた表情は、死線をたった今潜り抜けたとは思えない。「疲れた」とばかりに欠伸さえしてみせる。そんな姿に毒気を抜かれたような気分を味わいながら、倫太郎は無意識に呟いた。

 

「……君の瞳は、すごく──」

 

「なに?」

 

「……今のは、その……なんというか、違うんだよ、頼むから黙って聞き流してくれ。なんでもない、本当に」

 

「違うってなに?」

 

 今も疾走する電車の上という事も忘れて狼狽える倫太郎に、アサシンは不満そうに顔を近づける。

 自然、倫太郎は至近距離でその瞳を覗き込んだ。その瞬間──、

 

「っ、あ⁉︎」

 

 全身が硬直する。

 紙人形達が眼前に迫った時よりもずっと濃く、リアルな死の実感。刹那、全身がバラバラに千切れ飛んだような錯覚を感じ、不恰好によろめく。

 

(やっぱり、慣れないな……くっ……なんて、強烈な)

 

 やはり、死んだ、と。確かに思った。

 自らが死んでいない事に少しの驚きさえ覚えながら、倫太郎は呆然と自らの体に視線を落とす。全身から冷や汗が噴き出す、嫌な感覚。倫太郎が両手両足がきちんとくっ付いているかを確認していると、

 

「……大丈夫?」

 

「今のは完全に僕の不注意だ、大丈夫」

 

「わたしの眼を見たせい、だね。あんまり、不用意に見ちゃ、だめだよ」

 

 それは勿体無い、と倫太郎が思っていていると、ふと気が付いた。

 遮る物のない車上に立っているが故に吹き荒ぶ風──その中に、細かな粒が混ざっている。それらは倫太郎の肌を叩き、微かな不快感を与えていたのだ。

 

(これは、砂粒……? そんな馬鹿な。ここは砂漠じゃないんだぞ)

 

 否。これは砂粒どころではない。──この激しさはもはや砂塵だ。

 吹き荒れる風に混じる砂はいつからか痛い程に肌を叩き、思わず目を細める。日本ではあり得ない砂嵐の前に、数メートル先すらも見通せない程に視界が曇る。

 

「砂嵐だって⁉︎ こんなの日本じゃ起こるわけない……気を付けてくれ、まだ何かいる(・・・・)‼︎」

 

 砂嵐の奥で五芒星が瞬いた直後、轟音が鳴り響いた。向こうから飛来した一本の巨大な大剣が、電車を一撃で断ち切った音だ。

 凄まじい衝撃に火花を散らして横転する列車から飛び降り、倫太郎を抱えたアサシンは線路の後方に敵対者の姿を捉える。

 

「──嘘だろ。な……何なんだ、あれ」

 

 それは、巨大な人影だった。

 砂塵の向こうに霞むシルエットは、恐らく悠に十メートルを超えている。

 目を凝らせば、その細部が辛うじて見えた。武装は古風な和鎧と、先程投擲した刃渡り数メートルにも渡る巨大な太刀。いや、あの長さでは太刀と言うより鉄塊か。武者兜の奥から覗く人外の瞳が、アサシンの視線を冷ややかに受け止めている。

 

「へー。みんな合体して、本領発揮……って、ところ? でかいね」

 

「お、大きいどころじゃない‼︎ アレはもうとっくに使い魔の域を超えてる……サーヴァントにすら匹敵する存在だ‼︎」

 

 事実、その圧倒的な威圧感たるや、彼が交戦したサーヴァントに比類する程のものがあった。

 天候にすら干渉する程の力。奇跡を呼び起こす絶対の力。当然の如く魔法の域に達している超常の神秘を振るう相手を前に、倫太郎の思考が真っ白に染まる。

 

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■──‼︎‼︎‼︎』

 

 絶叫に似た咆哮が、夜に沈む街に響き渡る。

 砂嵐が更に強まり、大気に満ちた大源(マナ)が畏怖に痙攣する。

 魔術師としての本能が倫太郎の脚を一歩退かせたが、アサシンが臆する事は無かった。冷静に、死を呼ぶ視線を眼前の巨兵に投げ続ける。

 

「アサシン……やれる、のか?」

 

「わたしに殺せないものは、ない。あいつの死は、もう、視えてる」

 

 アサシンの両眼が、更に輝きを増す。

 ……彼女が仮にこの両眼を持ち合わせていなければ、勝敗は決していただろう。

 アレはゴーレムなどという次元ではない、あの存在は神の眷属に名を連ねる存在だ。倫太郎の本能がそう告げている。多少の攻撃では傷一つ与えられず、膂力だけで言えばサーヴァント数騎分に相当。サーヴァントが有するステータスで例えるならば、他すべての能力もBランクを超えているだろう。並のサーヴァントであれば、容赦なく殲滅するに足る力を持つ。

 ステータスでは他の英霊に一歩どころか二、三歩は劣る彼女では、まず勝ち目はない。

 

 ──しかし。

 体格差、筋力差、魔力量の差、武器の差、リーチの差、俊敏性の差、耐久力の差、幸運の差。全てのアドバンテージを無にする絶対の武器()を、この暗殺者は既に有している。

 

「じゃあ、いくよ」

 

 アサシンは、たった一本の刃を構えて、

 

「加減はしない。──全力で、キミを殺し尽くす」

 

 当然とばかりに、呟いてみせた。

 

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■‼︎‼︎』

 

 風に乗った少女の声に呼応するように、その巨躯には不釣り合いな速度で十メートルを悠に越える巨兵が跳んだ。

 宙を舞う巨影。その威圧感は天から落ちる壁に似ていた。

 砂塵の中、暗殺者も同時に走り出している。対照的に姿勢は低く、地を舐めるような疾走。

 そして数瞬後、人間数人分はあろうかという分厚さの大太刀が、全てを両断せんと垂直に振り下ろされた。

 倫太郎の聴力が一時的に飛ぶ程の轟音が響き渡り、莫大な質量の激突を受け止めた線路が、大地が粉々に粉砕されていく。手榴弾を数十個まとめて爆発させたかのような破壊が巻き起こる。

 だが、その刀身の先に暗殺者の姿は無い。

 

「それじゃ、私は殺せない」

 

 砂塵に姿を隠形するかのように、暗殺者の声が何処からか響く。

 だが、名も知らぬ巨兵は出鱈目に大太刀を振り回し、周囲一帯に凄まじい破壊の嵐を巻き起こした。姿が見えぬならばあたり一面を更地に変えれば良い、そんな意思が感じられる圧倒的暴威。

 土塊が飛び、衝撃波が踊る。単純な大質量が生む暴力の渦。

 そんな中を華麗に跳ぶ、ひとりの影。

 

「それじゃ、私に殺される」

 

 わざわざ姿を見せた暗殺者の身体に、容赦なく大剣が迫る。

 回避不可能。防御不可能。その一撃に秘められた威力は容易く彼女の身体を引き裂き、一撃で死に至らしめる──そう判断したのか、巨兵の動きに躊躇いはない。

 

 だが──。

 すぅ、と彼女が刃を走らせた。

 それだけ。迎撃にもならない筈の、か弱い一撃。

 だが次の刹那、彼女の身を粉砕する筈だった大太刀はあっさりと機能を失った。バラバラに解体され、崩れ落ちていく刀身の雨。その中を駆け抜けて、少女は疾走(はし)る。

 

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■‼︎‼︎』

 

 アサシンの強烈な殺意に応えるように、巨兵が右の拳を握った。

 巨大な両の瞳が暗殺者の姿を空中に捉える。宙を舞う影に狙いを定めると同時、音すらも振り切る神速の拳打がアサシンに放たれたが、空を舞う彼女はその振り抜かれた腕の上を駆け抜けて──、

 

 ──すとん、と。

 

 巨躯の胸部、その中心に、一本の短刀を突き刺した。

 あまりに脆く、儚い一撃。

 その傷は巨兵の大きさからすれば擦り傷にすら分類されない。精々数センチ、堅固な身体にヒビを入れただけだ。

 

「おわりだね」

 

 しかしそれは、明確な「死点」を貫いていた。

 

「あれが……直視の魔眼」

 

 倫太郎の乾いた唇から言葉が漏れる。

 それは死を視る眼であり、森羅万象の綻びを捉え、「死」という結果を強制発現させる魔眼。それは「魔眼のハサン」という英霊が獲得した、最大にして最強の武装。

 例え相手が神であろうと関係ない。

 全てを例外なく葬り去る彼女(あんさつしゃ)の前には、どんな防御、加護でさえ通用しないのだから──。

 

「……さようなら」

 

 呟きがあった。

 砂塵が綺麗に消えると同時、完膚無きまでに「殺された」巨兵の姿は爆ぜるように消滅し、その残滓すらも風に乗って消えていった。




【アーチャー】
真名:シモ・ヘイヘ
フィンランドとソビエトが争った冬戦争において、「白い死神」と恐れられた狙撃手。その恐るべき技量によって数多の伝説を残し、フィンランドの独立に大きく貢献した。
〈ステータス〉
筋力D、耐久B、敏捷B、魔力B、幸運A、宝具B
〈保有スキル〉
氷結の射出A+(弾丸作成、千里眼などの複合スキル)
単独行動A+
対魔力D

【直死の魔眼】
アサシンが保有する異能。
志貴や式といった保有者と比べるとやや性能が高いぶん、本人への反動が大きい。普段は包帯で覆い隠すことで、少しでもその反動を抑えようとしている。


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二十一話 キャスターと少女/Other side

「────何故です。聖杯の在処(ありか)が判明したのならば、今夜にでも仕掛けるべきでは」

 

 大塚駅に隣接する高層ビルの屋上。真っ赤に輝く航空障害灯の光に照らされて、一組の男女が夜の街並みを見下ろしていた。

 

 若い女性──アナスタシアは怪訝な顔をして通信具に語りかけ、軍風を着た壮年の男、アーチャーはつまらなそうに煙草を咥えている。

 アナが通信手に問うているのは、今晩に湖岸の仙天島で行われる筈だった、他の四人の代行者による聖杯奪取作戦についてだ。それが「急遽先延ばしになった」と告げられ、その理由を尋ねているのである。

 

『現在大塚市に潜伏している魔術師の数は時計塔の隠蔽役にマスター権の奪取を目論む連中、マスターと入れれば五百を超える。その程度ならば何の支障もないが──厄介な魔術師が二人、今日の昼にそちらに現れた』

 

「……厄介とは?」

 

経験者(・・・)。前回の生き残りだ』

 

 前回の生き残り──それは即ち、第五次聖杯戦争を生き残った魔術師である。聖杯やサーヴァントに関する知識、聖杯戦争を勝ち抜く実力と幸運、その他諸々を持った手練れ。

 

『名前は「衛宮士郎」、「遠坂凛」。前者の方はデータが少ないが、後者は近年に行われた冬木の大聖杯解体にも深く関与している。これらの不穏分子がどう動くかも定かではない。奴らの目的、動向を探ってから聖杯奪取に望むべきだ──というのが教会の決定だ』

 

 アナは夜に沈むような街を見下ろしながら、その淡々とした報告を聞いていた。

 勝手に方針を決められるのは少し腹立たしいが、決定事項には従う他ない。

 

「はっ……全くもって馬鹿だな、その魔術師どもは。こんなイカれた殺し合いに生き延びておいて、まだ首を突っ込む気とは」

 

「アーチャー。静かにしていて下さい」

 

 ぴしりと言われ、つまらなそうにアーチャーが首を竦める。

 

「……ともあれ、了承しました。現状維持に努めます」

 

 アーチャーの心中をよそに、二、三の言葉を交わしてからアナは通信を切った。

 現状維持──要は決して無茶な行動を取らず、聖杯の強行奪取を目論む代行者達が敗れ去った時のため、マスターとして生存する。

 黒の修道服を風に揺らしながら、アナはアーチャーに向き直った。

 

「さて。これからどうしますか、アーチャー」

 

「どうも何も。狙撃手の本懐は忍耐に有り──機を待つだけだな」

 

 今日の狙撃位置はこのビルの屋上にしたのか、アーチャーはひと跳びで貯水タンクの上に飛び乗ると、その上で無骨なスナイパーライフルを構える。

 彼の鋭い瞳がスコープ越しに睨みつけるのは、大塚市中心のビル街から遠く離れた東部の住宅街。もしサーヴァントが不用意に姿を見せれば、彼の弾丸は容赦無く標的を貫くだろう。

 

「再三言いますが、決して無理はしないようにしてください。今の役目は静かに状況を俯瞰し、生き延びる事ですから」

 

「わかっているさ。昨晩とて、わざわざ攻撃を中断しただろう?」

 

「分かっているのならば構いません。……けれどアーチャー、貴方は本当に私に従うつもりなんですか?」

 

 アナには一つ、解せない事があった。

 彼女ら代行者の目的は、新たに出現した聖杯の奪取だ。それが成功し、仮に聖杯が本物の「聖遺物」だった場合は教会の所有物となる。冬木の物同様に偽の聖杯だったとしても、聖杯戦争の混乱は避けられまい。

 それは即ち、サーヴァントが聖杯に託す望みが叶わないことを意味する。

 

「マスター。お前はつまり、俺が土壇場で裏切る事を危ぶんでいるワケだ」

 

「はい。召喚に応じた貴方にも、叶えたい望みはある筈です。私に従う限りそれが叶わないのであれば、私に従う理由もないはず」

 

「言っておくが──」

 

 アーチャーはスコープから視線を外し、

 

「その懐疑は無意味だぞ、マスター。先も言ったように、この戦争は元から狂っている。「聖杯」などという得体の知れないものに願いを託すほど、俺は愚かではない」

 

「何故狂っていると言い切れるのです、アーチャー」

 

「……なに、軍で生前少し耳にする事があってだな。第三次の頃はクソったれのドイツあたりが聖杯戦争に介入し、結局は散々な結果で終わったそうじゃないか。それに大元のシステムが狂っていたからこそ、聖杯は一度十年前に解体されたのだろう?」

 

 実のところ、聖杯が解体されるに至った経緯はあまり公に明かされていない。

 聖杯戦争に含まれる「何か」を危惧した遠坂凛とロード・エルメロイII世の手によって聖杯は数年前に解体され、二度と聖杯戦争は行われなくなった──それが広く知られる、聖杯戦争の終焉だ。

 だがアナにとっては、生前からこの男が「聖杯戦争」の存在を知っていたという事実の衝撃の方が大きかった。確かに魔術を軍事的利用する試みは第二次世界大戦中に各国で見られたが、それが神秘が絡む情報である以上、余程厳重に秘匿されていたであろうに──。

 

「まさか、一般軍人の貴方が生前から魔術の知識を持っていたとは驚きですね。流石はフィンランド救国の英雄──シモ・ヘイヘです」

 

「その呼び名はやめてくれ。……英雄の名は、俺には重過ぎる」

 

 第二次世界大戦中に行われた「冬戦争」にて絶大な戦果を挙げ、何百もの兵士を葬り去った伝説の狙撃手にして「白い死神」──シモ・ヘイへは、苦々しい顔で返答する。

 

「呼び名はさておき。確かにアインツベルンの聖杯には欠陥があったのかもしれませんが、今回の聖杯はわかりません。貴方の言う通りにロクでもない代物かもしれませんが、万能の願望機である可能性も否定できない」

 

「ソレの真偽はどうでもいいさ。繰り返すが、俺は聖杯なんてモンに関与する気は無い。聖杯絡みのイザコザは精々勝手にやっておいてくれ。俺は久々にコイツと戦えるだけで満足なんでな」

 

 意地悪げな口調で愛用の狙撃手──専用チューニングを施されたモシン・ナガンを叩くアーチャーにむっとして、アナは会話を切り上げた。聖杯に興味が無いのならばそれでいい、アーチャーにはサーヴァントとしての役割に徹してもらうまでだ。

 

「では、勝手にさせて頂きますよ」

 

 直後、黒色の修道服が翻った。

 背後から脳天を貫かんと迫る影を、彼女はとうに把握している。

 体を反転すると同時、異様な速度で振り抜かれる右手。それはダクトの影から突如として飛来した純白の槍を掴み取り、問答無用でへし折った。

 

「……自律人形ですか。貴方も気を付けてください、アーチャー」

 

 人外(だいこうしゃ)の力を異端なく発揮し、くしゃくしゃに潰した人形の紙人形の残骸を放り捨てる。サーヴァントが使役する自律人形も、彼女の前には歯が立たなかった。

 

「私は拠点に戻ります。敵を発見した場合は報告を」

 

 時速百五十キロで飛んでくる槍を素手で握りつぶした挙句、さも当然とばかりに屋上から飛び降りていく不機嫌そうな代行者。そんなマスターを見て、アーチャーは愛銃モシン・ナガンに語りかけるように、

 

「……あの女を怒らせるのはマズかったかな、流石に」

 

 小声で呟いて、どうしたものやらと思案するのだった。

 

 

 

 

 それから幾ばくも経たぬ真夜中──空に高く登った月は煌々と街を照らしている。だがこの二人は依然として地下室に篭り、その姿を地上に晒さないでいた。

 

「こンの、バカバカバカっ‼︎ アホ‼︎ あっさりやられちゃったじゃないの──‼︎」

 

「いやー…………すまん、ほんま。堪忍やで」

 

 トレードマークの黄色のリボンを揺らしながら、少女は隣に立つ男の頭を結構強めにぽかぽかと叩く。現在進行形で殴打の被害を受けているのはこの少女が使役する和装の優男(サーヴァント)、キャスターである。

 光る水晶玉が空間に投射している映像には、倒壊していく砂塵の巨兵の姿がありありと映し出されていた。

 

「なによ、『まあまあ僕に任せときぃ、魔眼って言うても相手はアサシンやぁ〜。真正面からなら流石に倒せるやろぉ〜?』とか言って余裕満々だったくせに。結果は一撃よ? ワ、ン、パ、ン‼︎ どうなってんのよ‼︎」

 

「痛い痛いっ、それに僕はそんな喋り方ちゃう。……そう言うけどな、僕だって予想外なんや。流石は敵さんもサーヴァントっちゅう事か。天将が二柱ともあっさりやられてまうとは──」

 

「流石の天才も油断したって?」

 

「………………うん、その通りやな。弁明の余地なし!」

 

 何故か自慢げに言うキャスターに、少女の絶対零度の視線が注がれる。思わずキャスターは冷や汗を流して目線を逸らし、居心地悪げに頰を掻いた。

 彼が使役する神霊たちは、各々がサーヴァント一騎ぶんに相当する力量を持つ。そんな彼らであればそう簡単に倒される事はないと踏んでいたキャスターだったのだが、どうもアテが外れたらしい。

 

「いや、戦力の低下を懸念しとるんやったら問題ないで。完っ璧に殺されてもうたといえどアレらは分霊、世界の裏側に潜む本物から這い出た影に過ぎへん。魔力が溜まればいつでも呼び直せる──同時に二体まで、って制約はあるけどな」

 

「…………そ。よかった」

 

 少し翳りのある表情の少女をよそに、水晶玉が映し出す映像が切り替わる。

 今度は打って変わって映像の画質が荒いが、蒼髪の剣士が大蛇を切り裂いていく姿が辛うじて見えた。

 やがて戦闘が終わると、死した大蛇が放つ黄金の燐光の中に二人の人影が残される。顔は酷いノイズのせいでよく捉えられないが、間違いなく「剣士」のサーヴァントとそのマスターだった。

 

「うえ、酔いそ……こっちはなんだか画質が異常に悪いわね。マスターの素顔が分かれば楽だったのに、これじゃよく分かんないじゃないの」

 

「本来はもっとしっかり映せるんやけどなあ。このセイバー自身の能力か……この英霊に近づくだけで、動作精度が低下してまう。魔術……もしくは、物体そのものに干渉しとるんかな?」

 

「スキルか何かでこっちに干渉してる可能性があるってこと? 面倒臭いわね、私そういう面倒なの嫌い」

 

「うん、でしょーね。……あと、それだけちゃうな。純粋な神たる勾陳の攻撃がこの英霊には全く効かへんかった。物理的な攻撃は対魔力の影響を受けへん筈やし、こりゃ彼女に何らかの加護があると見て間違いないやろ」

 

「一定の攻撃を無効化する、ある種類の攻撃を弾く、とかかしら。有名なところじゃ、竜殺しの英雄が持つ血の鎧……もしくはアキレウスの不死性みたいな? なんにせよ、相当強力な英霊みたいね」

 

 悩ましげな表情を浮かべ、下唇を噛んで考える少女。

 そうした加護、もしくは呪いの類は厄介だ。「ダメージが減衰する」程度ならばまだいいが、「特定の条件を満たせない限りダメージを与えられない」ような強力なものは、どう足掻いても絶対に倒せないなんて可能性も出てくる。

 

「タチの悪いことに、この加護は防御のみに働いとらんみたいや。この英霊は攻撃を無効化するだけじゃなく、自らの攻撃を致命のものへと変質させとる。相手がサーヴァントとはいえ、神サンはこんな簡単に斬り伏せられるほどヤワちゃうって」

 

「この子は確か都の守護神だから、高ランクの神性を持ってたわよね。神殺しの英雄はいるらしいけど、この英霊もその一員とか? それとも単純に「神秘殺し」に特化した英霊?」

 

「神秘殺しっちゅうと知り合いにそんな人もおるけど──それにしてもこの力は桁が外れとるな。このセイバーは、恐らく「神殺し」なんて次元を超えとる。とにかく、神代の英霊って事は確かやと思うで」

 

「神代……神が世界に君臨してた時代。私じゃ想像もつかないけど」

 

 敵のセイバーが神殺しに近い性質を持つと仮定すると、当然殺す対象である神が存在していた時代にセイバーは存在していたという事になる。とはいえ神代とは今の人類には計り知れない領域であり、マスターの少女にとってもそれは同じだ。それどころか、眼前のキャスターが生きていた頃にも既に神代は終わっていた。

 

「大昔やと思うとけばええ。そんな時代の英霊なんやから、纏ってる神秘はサーヴァントの中でも最高位や。正直、僕とは相性最悪。真正面からぶつかるとしたら攻略法も何も浮かばん、正真正銘の化物やで」

 

 深刻な言葉の割に、余裕げに口笛を吹いてみせるキャスター。

 だがその瞳だけは真剣で、少女はそれを見て軽く息を呑んだ。

 

「この目で直に見ればセイバーの真名も分かるし、対策も思いつく……と、ええんやが」

 

「伝説の神獣やら神霊やらを軽々と十体以上も使役してるアンタも、私からしちゃバケモノの類なんだけどね……」

 

 ぼそっと漏れた本音をきっちり聞き漏らさず、キャスターは手にした扇子を振りながら抗議する。

 

「いやいや失礼やな、誰がバケモノや。僕ぁ一応、かつては悪鬼羅刹をバッタバッタ倒す都の守護者やったんやぞ!」

 

「それはもう知ってます。言い方が悪かったことは謝るわよ。アンタ自信はいい奴だって分かってるし信頼してるんだから、話を続けて。どうせなんだかんだ言って、何かしら対策は浮かんでるんでしょ?」

 

「むむ……まあ確かに、付け入る隙が無いって訳でもなさそうや」

 

 首を可愛らしく傾げる少女に、男は珍しく悪どい笑みを浮かべてみせた。

 水晶玉に映し出された剣士の姿から視線を外すと、男の指がもう一つの人影を指し示す。剣士から少し離れた場所に立つ、肩を貫かれた人影だ。映像が不鮮明だが、どうも眼前の戦いを傍観して立ち尽くしているように見える。

 

「大前提として魔術師っちゅうんは、どうしても窮地で己の魔術に頼る癖があるもんや。己の魔術が己の矜持、生き様にして最大の武器やからな」

 

「そうね、私だってその通り。だからこそ、アンタの式神はその魔術師の心理を逆手に取る性質が組み込まれてたと思うけど」

 

 魔術の行使、魔力のうねりを感知して特攻する──「聖杯戦争」という状況に合わせてチューニングした魔術師殺しの人形を、総勢五千体以上も容易く使役する。日の本に数多の伝説を刻みし彼にしか出来ない芸当だ。

 

「うむ。……けどコイツ、どうも魔術を使う気配がないんやわ。セイバーの戦闘中は突っ立って見とるだけやし、倒した後も簡単な治癒魔術すら使おうとせん。肩まで貫かれてんのに、こりゃ不自然や」

 

「へえー……確かに変ね。魔術師は優秀なほど魔術に頼りがちになるって言うけど、全く使おうとしないってのは」

 

 治癒魔術どころか身体強化しか使えない彼女からすると、正直に言えば不自然でもなんでもないのだが、そこは黙っておく。

 

「そこでや、まずは固定観念を崩す所から始めよう。君は恐らくマスターは魔術師……そんな風に思っとるやろう。まあ十中八九どころか殆どその通りなんやけど、ごく稀に例外が存在する。そう、例えば今回の聖杯戦争のように──突発的に聖杯が出現した場合なんかは、聖杯の方がいちいちマスターに適応する魔術師を選んでられへん場合もあるわけや」

 

「……セイバーのマスターは魔術を知らない素人かも、ってこと?」

 

「そのとおり。僕はこのマスターは魔術が使えないと見た。となればセイバーを倒すんも容易やで」

 

 なるほどね、と少女が両手を合わせる。サーヴァントの打倒が困難ならば、大元のマスターを狙う──聖杯戦争における定石だが、定石は最も効率が良く理にかなっているからこそ定石なのだ。更に加えて、セイバーのマスターが魔術を使えないとすれば、マスター殺しの成功確率は大幅に上昇する。

 流石の洞察力に少しばかり悔しくも感嘆の目線を向けると、キャスターは満足気にうんうんと頷いて──、

 

「それと、僕の得意とする術は敵を殺す為の術って訳でもない。もとは世界の裏側に接続するためのモンやさかい、その用途は多岐に渡る。例えば情報収集、追跡なんかもお手のもんや。映像が荒くて悪かったが、代わりに彼らのおおまかな位置は常時把握できとる……セイバー陣営の拠点くらいは把握できるやろ。やろうと思えば明日にでも仕掛けられる」

 

 キャスターは得意気な表情を浮かべつつ、仄かに光る水晶玉に手を翳した。

 再び映し出される映像が切り替わり、線路の上に立つ二人が映し出される。黒衣を纏った女と、木刀を携えた少年だ。

 

「さてと、こっちやけど……まさか、ナイフで一撃とはな。流石は「直死の魔眼」、あのセイバーですら勾陳を下すのに八十七合必要やったっちゅうのに。アサシンの癖してやけに素直に姿を現わすなあ思っとったけど、この強さじゃあ納得やわ」

 

 神に等しき神霊を一撃の元に葬り去るとは大したものだ。

 水晶越しだというのに、アサシンの妖しく光る瞳がこちらを捉えたような気がして、少女はぶるりと体を震わせる。

 だが、アサシンの隣に見える既知の少年を見て、彼女はその震えを無理矢理押さえつけた。彼にだけは負けるわけにはいかない、という強い意志で、微かな恐怖を全て闘志に変換する。

 

「今日の朝にアサシンの能力のタネは割れとったんやし、僕の魔術攻撃すら「殺せる」時点でもっと警戒すべきやったなあ」

 

「アンタの眼は便利ね。……そのせいで油断するのはどうかと思うけど」

 

「うぐ……すんません」

 

 最高位のキャスターのみが有するという、この世の万象を識る事を可能とする「千里眼」。彼の瞳は対象の過去を見通す性質を持つが故に、彼は裁定者の「真名看破」と同様の力を備えている。

 キャスターは一目見た瞬間にアサシンの過去を読み解き、彼女に何が起き、いかにしてその魔眼を得たのかを識ったのだ。

 首を振る少女に視線を向け、キャスターが有り余る魔力の発露を止めた。色を失う水晶玉を余所目に、少女がぱん、と両手を打ち鳴らす。

 

「──気を切り替えて、ひとまず情報整理ね。これで私達が把握したサーヴァントは二騎……セイバーとアサシン。あと……カフェにもマスターが潜伏してたんだっけ」

 

「んで、そいつが使役しとるのはたぶんアーチャー。姿がはっきり見えんかったんで千里眼は使えんかったが、距離を置いて戦おうとするっちゅうことはアーチャーの可能性が高いやろな」

 

 武道場に似た畳貼りの地下室、その端から引っ張り出してきた小さなホワイトボードに、少女はマジックペンを走らせながら話を続ける。

 

「セイバーについて分かってることは、彼女は詳細不明の加護持ちで、恐らくマスターが何らかの事情で魔術を行使できないってこと。民間人の可能性もあり、と。……まあごく偶にだけど、サーヴァントの使役に耐えうる良質な魔術回路を生まれ持った一般人も存在する訳だし、確かにあり得るかもね」

 

 「セイバー」と書いた下に、箇条書きに情報を書き込んでいく。

 隣にでかでかと貼られた地図は大塚市のもので、そこには敵と遭遇したポイントが赤マーカーで示されていた。

 

「こっちは何とかなりそうや。具体的には僕が陽動、キミがマスターを叩くって作戦でいけると思うで」

 

「よし。次はアーチャーだけど……未知数なところがあるわね、こいつは」

 

 アーチャー、と書き込んでから筆が止まる。手持ち無沙汰にペンを片手で回しながら、少女は何かないかとキャスターの方を見た。

 

「マスターが聖杯戦争も何の関係もない喫茶店にいるあたり、こちらからは手を出しにくいしなあ。キミ、関係のない民間人が犠牲になるのとか大嫌いやろ?」

 

「当たり前。アーチャーについては今のところ保留ね、保留」

 

 少女がホワイトボードをぺちぺち叩いて怒りを露わにすると、キャスターは思い出したように扇子を叩いて──、

 

「あー、喫茶店のマスターについてなんやけどな。試しに偵察用のやつを一体突撃させてみたら、あっさり握りつぶされてもうたわ」

 

「は、はぁ? 握りつぶした……って、嘘でしょ? どんな速度で飛んでくると思ってんのよ、あれ」

 

 無言で指し示された水晶玉が、人形が残した映像を映し出す。

 ……ビルの屋上らしき場所に立つブロンド髪の少女に狙いを定めた紙人形は、ぎゅるりと捻れるとロケットの如く特攻した。

 が、ぎろりと少女が背後を睨んだかと思うと、次の瞬間に映像が途切れてしまう。高速を上回る超速で、人形は破壊されたのだ。

 

「………………なに、こいつ?」

 

 意味不明、という四文字を顔に貼り付けたまま、少女は唖然として声を漏らす。キャスターの方も興味深げにアーチャーのマスターの姿を思い返しつつ、「なにこいつ」という曖昧極まりない質問に返答した。

 

「僕ぁ西洋方面の事はさっぱりなんやが、過去を覗いてみたとこ、まっとうな人間じゃないみたいやな。現代に生き残った悪魔狩りってとこ……たかが魔術師じゃあ歯が立たん奴みたいなんで、このマスターも警戒すべきやと思うで」

 

 暫くその危険性についてキャスターが語ったのち、アーチャーのマスターについてはひとまず静観することが決定された。目下最大の敵は謎の加護に強力な耐魔力を持つセイバーであり、これを如何するかで彼女らの進退が決まると言っていいからだ。

 二人の議題はアーチャーのマスターから移り、アサシン陣営へ変わっていく。

 

「アサシン……真名、魔眼のハサン。保有している能力は「直死の魔眼」、神霊すら一撃で殺す力を持っている」

 

 キュキュッ、とマジックペンを走らせて、「アサシン」と書いた文字の下に「直死の魔眼」の文字を付け加える。

 

「マスターの方は……まあ、嫌ってほど知ってるわね。繭村倫太郎、齢十六でかの高名な繭村家を嗣いだ天才中の天才にして、この土地の管理者でもある」

 

「天才の中の天才のさらに上をいく超天才の僕からすれば凡人……あっ、痛い。すまんすまん調子乗った」

 

 キャスターは叩かれた頭を抑えつつ、気を取り直して口を開く。

 

「ともかく居場所と能力は割れとるんやし、アサシンについても今は傍観で構わんやろう。仕掛けてきたら応戦する他ないが……厄介ながら明確な弱点が判明した以上、狙い目はセイバーやで」

 

「そうね……キャスター、明日の夜にでもセイバーに仕掛けられるようにしておいて。明日、あのセイバーを倒すわ」

 

 彼女の口調に躊躇いはない。

 決して高くない勝算ではあるが、セイバーが避けては通れぬ敵である事も確かだ。どうせ遅かれ早かれ戦うのであれば、こちらが一方的に位置を把握している優位状況で仕掛けた方がいい。

 

「それは分かったけどやな、君の調子はどうなんや?」

 

 キャスターの少しからかうような問いに、少女は長い言葉ではなく瞬間的な魔力の発動で返答した。

 燃え盛るような魔力の渦が彼女の腕部を包み込み、強く照らされた壁が紅く光る。キャスターはその輝きに目を細めつつ、満足げに口の端を吊り上げて言った。

 

「好し好し。どうやら問題ないみたいやなあ」

 

「私にはコレくらいしかできないんだし、せめてコンディションくらいは万全にしとかないとね」

 

 両手を確かめるように開閉しながら、少女は続ける。

 

「当然、敵マスターは殺すけど……そうね、上手くいけば令呪を奪ってセイバーを支配下に置けるかもしれない。そしたらこっちの戦力アップ、聖杯も夢じゃないんじゃない?」

 

「余裕があったら頼もうかね。それとセイバーを押し留めるんは請け負うが、僕の宝具を使ってもええかな? あいつを押しとどめんのは、宝具抜きじゃあちときついと思うで」

 

「ええ、宝具を使う事を許可するわ。どーも貧相な魔力供給量で悪いんだけど、私が決着をつけるまでは時間を稼いでもらうから。──けっこう期待してるわよ、伝説の陰陽師さん?」

 

 少女は腰を軽く曲げて、キャスターを覗き込むようにして笑った。

 その笑顔は戦いを前にする魔術師のものとはとても思えないような明るさで、まるきり矛盾しているようでありながら、キャスターは彼女の笑顔を気に入っていた。だからこそ、彼もにやりと笑って返答を返す──。

 

「まっかせときい、僕を誰やと思うとる。君が言う伝説の名に恥じぬ働き、その目に刻んでやろうやないか」

 

 かくして夜は更けていく。キャスターと少女は暗闇で牙を研ぎながら、来たる翌日の決戦に向けて準備を整え始めた。



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二十二話 血まみれの君を 【9月7日】

 ……何か、聞こえる。

 鎧の金具が擦れる音。靴裏が大地を踏みしめる音。

 現代に生きる俺では聞き覚えのない、戦争が奏でる音色──。

 

「なんだ……あれ」

 

 もうもうと立ち込める土埃の奥から、馬鹿らしい数の人間がこちらに向かって進軍してくる。その姿を一目見て、彼らが何であるかを俺でも理解できた。陽光を受けて鋭く輝く刃に盾、矛……あれは恐らく人間の軍隊であり、これから戦争をしようというのだろう。

 ……しかし、とんでもない数だ。

 千人ちょいが集まる全校集会の様子を思い出しつつ、何人くらいなのかを数えてみるが、すぐに諦めた。ざっと見えるだけでも一万は超えているだろうに、その奥にまで兵士がひしめき合っているのだから数えるのもバカらしい。

 

「……あんだけ人が集まってんのは、中々見ない光景だな……」

 

 此処がどこなのかも知らず、俺はだんだんと迫ってくる軍隊を隅から隅まで眺めてみた。装備品から年代を推定できるほど博識ではないが、少なくとも中世、近代の装備ではないような……気がする。そもそも数百メートルは離れているので、細部までは見通せない。

 

(……いやいや。まず第一に、どこなんだここ)

 

 周囲をぐるりと見渡そうとして──瞬間。

 何か異様な存在感が、ぞわりと背筋を撫でた。

 

「────────っっっ‼︎⁉︎」

 

 振り返れない(・・・・・・・)

 本能的な恐怖が全身を縛り付ける。

 間違いなく──凄まじく恐ろしい「何か」が、後ろにいる。

 前方に迫る何万もの兵士達の威圧感も相当なものがあるが、背後のソレは最早人間が持つものではない。神か、魔か。その類の超越者にのみ許された覇気ともいうべき何かが、俺の背後数メートルの場所から強烈に発せられている。

 

『見えたぞ────ッッ‼︎‼︎』

 

『ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ‼︎‼︎』

 

 地響きと錯覚する程の雄叫びが、眼前の軍隊から発せられる。

 笛が高らかに吹き鳴らされ、兵士達は各々の武器を掲げた。

 数万の殺意がいっせいにこちらに向く。正真正銘の「戦争」がこれから始まるのだ。先頭の兵士たちが力強く地面を蹴り、速度をぐんと増して一直線に突撃してくる。

 ずらりと並んだ槍の穂先は、太陽光を反射してぎらぎらとやけに輝いて見えた。まるで喉元に刃を突きつけられたような威圧感が眼前から迫ってくるが、そんなものには全く恐怖を抱かない。

 単純な話。万の軍勢より恐ろしいものが、すぐ後ろにいたからだ。

 

『…………………………』

 

 無言で、俺の横を通り過ぎる影があった。

 

 その少女の髪は美しい蒼色で。

 その少女は見覚えのある黒鎧を身に纏っていて。

 その少女の手にはあの長剣が握られていて。

 その少女はどこからどうみても、あのセイバーと同じで。

 そして同時に、その全てがまるで別物だった。

 

「……お前……は……セイ、バー……なの、か?」

 

 思わず呟きが漏れた。それは数万の兵士達の雄叫びに容易くかき消され、荒野の風に揉まれて消えていってしまう。

 だが、その声が仮に届いたとして。

 果たして目の前の彼女は、俺が知っているセイバーなのか。

 明るく笑ったり、お菓子を頬張ったりするあいつの姿は、しかし目の前の少女には当て嵌まらない。同じなのはガワだけで、残る全てが完全に違ってしまっている。

 

(無理だ、不可能だ……勝てる訳がないだろ⁉︎)

 

 直感的に悟る。迫り来るは万の軍勢。対し、彼女はたった一人。

 

「逃げろって‼︎ おい、頼む、逃げろバカ────‼︎」

 

 喉が痛むほど声を張り上げるが、俺の声は誰の耳にも届かない。

 びりびりと振動する空気。殺気に焼け付いたかのような戦場の空気。突進してくる怒涛の兵士たち。剣をゆっくりと構える彼女。

 

 ──それら全てを見て、俺は、

 

「分かってんのか、こいつ相手に(・・・・・・)戦ったって勝ち目なんてない‼︎‼︎ 全員早く逃げろ、バカヤロ──ッ‼︎‼︎」

 

 戦場に虚しく響いた声は意味を成さず。

 魔王の片手で、異様な魔力が蠢いた。

 

『──────失せろ』

 

 瞬間、致死の竜巻が巻き起こる。

 魔王は無造作に剣を振り払っただけ。しかし巻き起こった斬撃の波は地面ごと軍隊の一部を滅茶苦茶に切り裂き、数千人を一撃でバラバラにしてみせた。

 余りに大量の鮮血が弾け、荒野の土煙が赤色に染まる。鼻をつく血の匂い、秒間に散った数多の命。しかし魔王は何の感慨も抱かない。

 

『と……止まるな、止まるなァッ‼︎‼︎ 止まれば死ぬぞ‼︎ 奴の元にまで辿り着ければ、後は物量で押し潰』

 

 そう言った奴は、次の瞬間潰れていた。

 第二撃。今度は軍隊の中央、魔王の剣戟が空を駆ける。

 すり潰されて原型すら留めない仲間の死体。それすらも踏み越えて迫り来る兵士達の目に余裕などなく、ただあるのは恐怖のみだ。

 死を目の前にした絶望。恐怖、怒り、その全てを魔王は──、

 

『殺せ、あの魔王を殺せ──‼︎』

『早くっ、早く、がああぁぁぁ⁉︎』

『くそっ、クソクソクソ‼︎ 突撃しろ、それしかない──‼︎』

『無理っ、無理だ、ヒィッ、俺の足ィィィッ⁉︎』

 

 阿鼻叫喚、地獄絵図とはこのことか。

 まるで子供がアリの大群にホースの水を噴射するように、一撃を放つたびに大地が抉り飛んでいった。だがその犠牲になるのは一人一人がれっきとした人間だ。尊厳も慈愛もなく、恐怖の中で数え切れないほどの人間が死んでいく。

 雄壮な雄叫びはとっくに消えた。

 聞こえてくるのは悲鳴と怒号だけだった。

 

 ──たった数分で、それも聞こえなくなった。

 

「………………………」

 

 言葉すら出なかった。数万の軍は魔王と剣を交わすことすらなく、完膚なきまでに壊滅していた。

 俺はその陰惨たる光景に言葉を失い、ただ彼女の背中を見つめる。

 ……俺は、甘く考えていたのか。

 これが、これこそが、彼女が哀しげに言った「反英雄」たる証。彼女が、自らがこの世界に邪魔だと語る理由の根源。人類史にその悪名を刻み込んだ魔王の所業は、俺の想像を遥かに上回っていて──、

 

(………………………………)

 

 普通の人間なら、こんな怪物に恐怖しない訳がないだろう。その上で、或いは無謀にも義憤を覚える者もいるかもしれない。

 魔王……善なる者たちの敵。全てに恐怖を振りまく絶対の悪。

 疎まれて当然、憎まれて当然。他人からそう思われる以前に、彼女自身が自分をそういうものだと決めつけている。

 

 ──けれど、俺は。

 その背中を、とても悲しいと思ってしまったのだ。

 

 怖くなかったとは言わない。

 今すぐ血みどろのセイバーに背を向けて逃げ出したいと思う。

 それでも、心の根底で感じたのは、彼女に対する悲しみだった。

 

 セイバーが本当に魔王なら、あんな風に笑える筈がない。

 セイバーが本当に魔王なら、あんな風に涙を流せる筈がない。

 彼女の本性は魔を統べる悪鬼なんかじゃない。我儘でも可愛らしくて、どこか憎めないようないい奴だと、俺は断言できる。

 それなのに、どこかで全てを狂わされて、彼女はこの世界の全てを絶望的に誤解してしまっている。彼女は根から魔王なのではなく、ただ「そうあるべし」と定められているだけなのだ。

 

 だから、たった一言でいい。

 「お前は、魔王なんかじゃない」……と。

 

 武器を構えずに駆け寄って、そう彼女に言えたなら、きっと──。

 

 

 

 

「んごー…………」

 

 明くる朝。煩い寝息に、私は思わず目を開けた。

 窓から差し込む朝日に目を細める。昨夜からの深い睡眠で、戦闘での消費分魔力、体力は存分に回復していた。とはいえ、あの程度の戦闘では回復の必要すらも無かったのだが。

 

「くかー…………かー…………」

 

 狭いベッドの隣で脳天気にいびきをかいているのは、成り行きで私のマスターを務めている少年。

 また私が勝手に布団に潜り込んだことを知ったら、彼は昨日のように取り乱すのだろうか。何の気なしに薄い毛布の中で体を動かし、のしかかるように顔を彼の顔の間近まで近づけてみる。

 少しボサついた硬めの黒髪、長めの睫毛、太めの眉。いかにも年頃の少年然とした顔立ちの彼の顔をじっと見つめていると、何故か心の底がむず痒くなるような、そんな気分を感じる。擦り切れた記憶の最後のカケラが、彼の顔に共鳴しているのだろうか。

 

 志原健斗……私は、彼を知らない。

 

 どんな生活を送り、どんな家族を持ち、どんな将来を歩んでいくのか。サーヴァントであり魔王である私は、彼という存在についてあまりに無知だった。

 それが腹立たしくて、思わず彼の頰を摘んだ。

 

「……せい、ばー……お前……は……違う……」

 

 私の名前。夢でも見ているのだろうか。両手で頰を引っ張られ、変な顔を晒してなお爆睡を続ける少年の姿に少しだけ笑いを堪えながら、私は思う。

 願わくば、私と彼が聖杯を手にするその瞬間まで、ケントには私の正体を知らないでいて欲しい……と。

 自ら「魔王」を名乗っておいて滑稽な話だが、私が真名を隠すのは戦略的な理由を主としている訳ではない。

 ……怖いのだ。真名を知られる事が。

 かつて冷酷無比、残虐卑劣を成した反英雄が何を言うか、と自分で自分に呆れ返る。この極東の地では知名度は無いに等しく、仮に真名が露見しても「なんだソレ?」で終わってくれる可能性は高い。

 けれど、私の正体を、過去の過ちを知ってしまったなら──、

 

「チっ……お……もい……んだよぉ……こら」

 

 と。ケントの口から漏れた一言で、私の思考は凍り付いた。

 

「おもぃ……っての、どけぇ……おらッ」

 

 ほとんど無意識に伸ばされたケントの右腕が私の顔をぺしぺしと叩く。

 あまりの不敬発言に考えがまとまらず、とりあえず頭の中でその言葉の意味をじっくりと考えてみる。考えて、考えて、うん、キレた。

 目を閉じたまま寝心地悪そうに私をどかそうとしてくる彼の姿に、私の中の怒りがどんどん沸騰していく。無意識に放出された魔力が狭い部屋の内部を掻き回し、毛布が暴風に激しく揺れる。

 

「んー………………?」

 

 だが、彼は一向に起きない。飛んで来た雑誌が顔に激突しても起きようとしないその図太さが余計に癪に触る。

 私は怒りで目を爛々と光らせながら、どうしたものかと考えた。

 こうも魔王を侮辱した不敬、どう償わせたものかと──‼︎

 

 

 

 

「…………なんで俺は窓から突き落とされて目を覚ましたのかな?」

 

「自分が悪いんですよ。文句は聞きません」

 

「おかしいだろォ‼︎ 俺何もしてないよな、ただ寝てただけなのに‼︎ それなのになんで二階の窓から投げ捨てられなきゃならないんだ死ぬぞ本当何事かと思ったわ‼︎ 俺がベッドからお前を突き落とすのとは訳もレベルも痛さも色々と違うんだぞお前‼︎‼︎」

 

「だからー、もう死んでるじゃないですか。窓から落ちた時点で私に対する不敬罪の清算は済んでますから、もうケントは自由の身ですよ。まあどうせ、またくだらないことで私の不敬ゲージを上昇させるんでしょうが」

 

「……言ってる事がカケラも理解できないんだけど。不敬ゲージって何だよ、理不尽勝手にイライラゲージの間違いだろ?」

 

 言ってるこっちがイライラしながら続ける。

 内心今すぐこのふざけた英霊の頭をしばき回したいところだが、そうなれば面倒な事になる+確実にボコボコにされる事は火を見るより明らかだ。

 

「大体なあ、日本じゃとっくに不敬罪は廃止になったんだぞ。お前曰く、無知は罪なんじゃなかったか?」

 

「知りませんよこんなチンケな島国の法律なんて。けど腹立ったのでまた不敬ゲージが上昇しました、だいたい半分くらい。あと半分でまたおしおきですね」

 

「理不尽かつ溜まるのが早すぎる……ッッ」

 

 色々と考えなければならない事がある筈なのに、俺はのんびりと思考に耽るような余裕を持ち合わせてはいなかった。

 二階から下の植木に叩き落とされる形で目が覚めた俺は、痛む身体に鞭を打ち、髪の毛に植木の土を被ったまま、鬼の形相でセイバーの蛮行を問い詰めていたのだ。

 が、俺が幾ら眦を吊り上げようと、セイバーにはどこ吹く風である。

 

「セイバー君。正直僕は今怒りすぎて、もう君をメッタンギッタン滅茶苦茶にしてやりたい衝動に駆られています。思わず敬語にならないとついつい罵倒しそうになるくらい」

 

「……あの、ちょっと離れてもらえます? まさかケントが変質者の類だったとは思ってなかったんですけど、ちょっと認識を改める必要が」

 

「そういう意味じゃない‼︎」

 

「あーはいはい、騒ぐと先生とやらに見つかるんじゃなかったんですか。大丈夫ですかそんな声を張り上げて? ン?」

 

 ──ああもう嫌だああああああ‼︎ と奇声を上げて、俺は部室を飛び出した。言い合いではヤツに分があると理解したが故の戦術的撤退。

 グラウンドを端から端まで全力で駆け抜け、ヤケクソじみた勢いで顔を洗う。毎朝恒例の洗顔により、ポンコツ魔王への怒りは多少なりとも鎮まってきた。

 肩で息をしつつ、朝日に照らされたグラウンドの隅から空を見上げる。遥かな天空には雲一つない蒼穹が広がり、心地よい陽気が当たりを包んでいた。大地を浄化するかのような光に身を任せていると、色々なストレスが霧散していく気がする。

 

「光合成、最高」

 

「いつから貴方は植物になったんですか」

 

 と、そこに不当なストレスの元凶が襲来。

 獲物を横取りされそうになった野良猫の如く飛び退き、両手を挙げて威嚇する俺に呆れた溜息を漏らしながら、セイバーは長い蒼髪を梳くように撫でる。

 

「なんだよお前。俺たちの間にまだ停戦協定は結ばれてないぞ、帰れ。帰れ‼︎」

 

「いつの間に戦争おっ始めてるんですか……ほら、ケントこそ帰りますよ。朝ごはんもまだ食べてないでしょう」

 

 部室からわざわざ持ってきたのか、昨晩の帰りに再び立ち寄ったコンビニのレジ袋をセイバーが掲げる。

 途端、意識とは別に、忌々しい胃袋がぐぅぅ……と鳴った。思わず赤面して俯く俺に、セイバーが声を抑えて笑う。相変わらず、魔王である癖に人懐っこそうな笑顔を浮かべてみせる奴めちくしょう。

 

「……おい。いくらは俺のだぞ」

 

「仕方ありませんね、じゃあ私はしゃけの方で我慢しておいてあげましょう……ケントの面白い姿も見れましたし」

 

「お前、かつてないレベルの大盤振る舞いだと思えばそれが理由か。今すぐ忘れて」

 

「忘れませんからね、絶対……絶対に」

 

「な、なんだよ急に。忘れろよな」

 

 そんな事を言い合いながら、日曜日の朝は慌ただしく過ぎていく。朝日に輝くような蒼髪に目を細めながら、俺は駆け足で彼女の背中を追う。

 ……と。

 その背中を、俺はいつまで眺められるのかと──。

 その瞬間、刹那的に思ってしまった。

 背筋を冷たい何かが伝う。昨夜のセイバーの言葉が脳裏に走る。思わず平静を装って彼女に言おうとした軽口を呑み込んで、俺は歯をきつく擦り合わせた。

 

「ケント?」

 

「何でもない。とっとと行こう」

 

「ケントこそなんなんですか。まさかまだ寝ぼけてるんですか?」

 

「寝起きドッキリも真っ青どころか下手すりゃ殺人事件な起こし方で寝ぼけてる訳がねえだろうに。いいから止まるな止まるな、こんなグラウンドのど真ん中じゃ人目につくって」

 

 セイバーの背中を背にかかる蒼色の長髪ともども押して、俺は怪訝な表情のセイバーを強引に前進させる。

 その頃にはこれからの聖杯戦争のことや、胃袋を苛む空腹のことなど頭のどこかにすっ飛んでしまっていて、俺はもう一度だけ、その小さな後ろ姿を不安な色の混じる瞳で見つめたのだった。



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二十三話 繭村の刀蔵/Other side

「寝させて」「いや」

 

 天候をも変える巨人との戦いを切り抜けた倫太郎とアサシンだったが、彼らの戦いは日が昇っても続いていた。寝室に向かう扉の前で、倫太郎とアサシンは両手を合わせてぎりぎりと対峙する。

 一刻も早く布団に潜り込まんとする倫太郎と、暇を潰してくれるマスターには寝てもらいたくないアサシンとの真っ向勝負である。

 

「いい加減に頼むよぉぉ……‼︎ 分かるだろアサシン、人間の体力は英霊に比べて貧弱だから睡眠という休養は必要不可欠であ」

 

「ひま。ひま、ひまひまひまひまひま」

 

「ああああああ頭にその二文字を刷り込もうとするな! また僕のパソコン貸してあげるからそれで勘弁してくれ‼︎」

 

「あれ……私の名前、けんさくしても……何にも出てこない。他のハサン様も出てこない。……壊れてる?」

 

「そりゃあ本物の山の翁の情報がネットなんかに載ってる訳がないだろ‼︎ 時計塔の書庫にだってまともに残ってるかどうか……」

 

 悲しげなアサシンに全力でツッコんで、倫太郎はいっそのこと東部の住宅街を見回らせているシロを呼び寄せようかと考えた。

 シロは賢い上に可愛いので、ご近所ではアイドル待遇を受けている。アサシンもあの白柴犬は非常に気に入っているようだった。たまに食事に戻ってきた際には、ボールで彼女とシロが戯れているほのぼのとした光景を見ることもある。

 

「…………はぁ。しかたない」

 

 とうとう観念して諦めたと見えるアサシン。

 自分の言い分ももっともだと思うし、自分から退くことにしたのだろうか──と考える倫太郎だったが、

 

「もういい。……わんこと遊んでくるから。ふん」

 

 気ままな暗殺者は、霊体化して宙に溶けていってしまった。恐らく住宅街のシロのところに行ったのだろう。

 ぽつんと取り残され、何故かワケもなく不本意な気分になる倫太郎。

 

「いや…………まあいいけど。僕は悪くないし、寝れるし」

 

 そう呟いてみたものの、アサシンとの無駄に疲れる攻防を経てかえって目が覚めてしまっていた。

 どうしたものやら、と暫く考えてから、倫太郎は寝室を通り過ぎて更に奥へと向かう。彼の日本家屋は屋敷と言っても差し支えない広さを持っているが、倫太郎はその敷地の中でももっとも奥──小さな武道場へと足を踏み入れた。

 

「────────」

 

 倫太郎はいつもの強化木刀ではなく、棚に置かれた真剣を手に取った。本気で振るうわけでもなし、刀の方が砕ける事はないだろう。

 それを取るやいなや武道場の扉を開け放ち、武道場に隣接する広々とした中庭に降り立つ。どうせ汗だくになるのでシャツは適当に脱ぎ捨てておいた。パチン、と指を鳴らして待機させてある鍛錬用の石人形を呼ぶ。

 これは魔術の鍛錬……というよりは、基礎動作の確認に近い。

 乾いた地面を踏みしめながら、美しい曲線を描く刀身を鞘から抜き放ち、上段に構える。倫太郎の強い眼差しを表すように、満ちる空気が緊張感を孕んだ。

 

「剣鬼──抜刀」

 

 ただ一つの詠唱語句。それは自己を変革される暗示であり、この瞬間、倫太郎は全身が剣を振るう為だけの存在に置き換わった事を実感する。

 「熾刀術式」。

 其れは、遥か戦国時代の先祖より繭村の家に伝わる秘奥である。

 繭村家は、心と動の調和によって生まれる奇跡を探求する大家として、極東の魔術師としては破格の知名度を獲得している。

 だが、繭村の祖である武家の一族は、元を正せば「ただひたすらに斬ること」の探求を続け、副産物的にこの剣術複合型魔術を生み出した。そこからいつしか魔術と武道の理念バランスが逆転し、繭村の魔術師は「断ち切る」、つまりは「切断」に特化した魔術を極める道を歩み始める。それが大体明治時代の初め、開国によって西洋の情報が潤沢に得られるようになった頃だ。

 古来武家の流派には、剣術に於いて様々な「型」が存在するのが常だったという。

 倫太郎の先祖はその型に魔術的な要素を見出し、発展させ、「切断」特化の魔術として結実させるに至った。故にその魔術には何文字にも及ぶ複雑な詠唱ではなく、使用者の適切な動作が求められる。他所の神秘で例えるなら、古代インドから全世界に広がりつつある「ヨガ」も本来は動作を起因とする魔術として挙げられるだろう。

 

(神域に至る刀剣ともなれば、人の業すら断ち切ると云う。僕には到底無理な技だけど、その型落ちくらいなら成せる)

 

 ──じわり、と汗が額に浮かぶ。

 自らの胸に杭を穿つようなイメージを基礎として複雑な魔術理論を構成し、それを動作に繋ぎ合わせる。

 ──気分が悪い。吐き気がする。

 活性化した身体の魔術回路が淡い緑色に輝き、瞬く間に刀身すらも覆っていく。倫太郎の全身が一つの目標(まじゅつ)に向けて稼働、回路の中で魔力の奔流が騒ぎ出す。

 ──それでも、己は繭村の魔術師だ。

 魔力の輝きを上から塗り潰すように、魔術の炎が刀身を包んだ。

 狙うは眼前の石人形。間合いは万全、後は己の力を示すのみ。

 

「ふッ──‼︎」

 

 目にも留まらぬ踏み込みと同時、袈裟懸けに刀身を振り下ろす。

 瞬間、怒涛の火焔が倫太郎の眼前を呑み込んだ。

 それは剣術の域を超えた一撃。絶大な火力が目の前の空間を焼き焦がし、中庭を突き抜け、倫太郎より大きな石人形に激突する。

 轟音を響かせて、発生した炎は霧散──。

 黒煙の奥に残されたのは、ゾッとするほど綺麗に切断された石人形。熱された空気は蜃気楼を生み、不気味にゆらゆらと風景が揺れている。

 

「…………ふぅ」

 

 魔術の行使による精神的負担がどっと襲ってきて、倫太郎は歯を食いしばった。吐き気を催し、喉元まで中身がせり上がってきた。ぐつぐつと煮え返るような不快感を無理やり呑み込んで、荒い息を落ち着かせる。

 

「くそっ。なんでだ」

 

 結果は申し分ないと言えるだろう。魔術の精度、威力共に最高クラス。非の打ち所がない、とはまさにこの事だ。

 けれど、何度繰り返しても変わらないものがある。

 纏わりついてくる魔術への恐怖心と拒否感──それに苛立った倫太郎は意味もなく赤熱した日本刀を振り払った。炎の残滓が宙を舞い、空に消えていく。

 視線を前に戻すと、石人形の自動修復が始まっているのが見えた。

 

(踏み込みの瞬間、僕は恐れる。魔術を使うことを恐れ、そして何より、目の前の人形が生きている人間だったらどうしようと怖くなる)

 

 今までは家督を継ぐという責務感から恐怖心を押し込め、無理矢理に魔術の鍛錬を続けてきたが、それもいよいよ限界が近づいている。

 いつまでも魔術の行使を躊躇っているようでは、到底この戦争に勝ち残れる気がしないというのに。

 昨晩は魔術抜きでもなんとかなったが、今後迅速に魔術を使って戦況を変える必要も出てくるだろう。そんな命懸けの戦いの中で、魔術を使うのを、人を殺すのを躊躇うような猶予があるとは思えない。一瞬の隙が命取りになるような局面だってきっと訪れる。

 

「もう一度だ」

 

 ざりっ、と硬い地面を踏み締めて、赤熱した日本刀を下段に構える。

 今度は敢えて、人形が生きた人間だと想定する。魔術師とは目的を第一に考えるモノであって、他人の命を優先するなど愚の骨頂だ。

 ──よりによって、最初に思い浮かんだのはあの少女だった。

 キャスターのマスター。わざわざ宣戦布告までして、一度はこちらを確実に屠ろうとしてきた己の敵……‼︎

 

「──────‼︎」

 

 奥歯をきつく噛み締めて、その幻想を叩き斬る。

 その表情は歪んで、まるで自分の腹を掻っ捌いているかのような苦痛に満ちていたが、倫太郎自身はそれに気付かない。

 そうして、彼の鍛錬は小一時間ほど続いたが──結局のところ、大した結果は得られなかった。

 何年もずっと魔術への忌避感情を抱いてきただけに、今更克服しようと思うことこそ都合がいいのだ。

 ともあれ、倫太郎が何十回目かの踏み込みを果たそうとした瞬間、来客者を告げる鈴の音が屋敷の敷地内に響き渡った。インターホンではなく魔術的に作動する仕掛けを利用していることから、来客者が一般人ではないと判断できる。

 

(魔術師の来客? こんな時に珍しい)

 

 魔術を少しでも知る者ならば、この家がどれほど危険な状況に立たされているか分かるだろう。

 この地の管理者であるという事は簡単に自らの拠点を把握されてしまうというデメリットを伴う。不用意に近づけば戦闘に巻き込まれる可能性も高いというのに。

 

「…………敵、はあり得ないか。こんな時間だし、第一にわざわざ来客を伝えてくる間抜けがいる筈ない」

 

 日本刀を置いて汗を軽く拭い、服装を慌ただしく直して小走りに玄関へ向かう。少し時間を掛けたが、向こうは律儀に待っているらしい。少し息を切らしながら倫太郎が古めかしい門を開けると、そこに立っていたのは一人の男だった。

 見たところでは恐らく二十代後半。彼の髪は赤銅色と揶揄される倫太郎の髪色よりも少し明るいだろうか。よく日に焼けた身体は引き締まっていて、よく見ると目尻などに幼さが残っているが、その全てを見透かすかのような視線が倫太郎には恐ろしいもののように見えた。まるで一本の剣が人と化したような雰囲気がある。

 

「こんな時に申し訳ない。君が繭村家の長男、繭村倫太郎か?」

 

「そうですが」

 

 倫太郎の少し警戒を込めた視線に、赤髪の男は敏感に反応した。

 

「……申し遅れた。オレは魔術協会のツテで派遣され来たものだから、君の敵じゃないと思って欲しい。なんなら今ここで、気が済むまで身体検査でもなんでもして貰って構わないが」

 

「大丈夫です。父から魔術協会の調査員が来るという事も聞いてましたから……とりあえず、中へどうぞ」

 

「ん、じゃあ失礼しよう」

 

 男は丁寧に門の前で一礼すると、先行する倫太郎について来た。

 それとなく観察するが、武器らしきものは持っていない。まあ魔術師にとって最大の武器は己が魔力なので、警戒を解く要因とはなり得ないが。

 長い廊下を渡り、西洋風の応接室に来訪者を通す。繭村の家柄上他国から魔術師が訪問する事も多いので、倫太郎の屋敷の中で唯一、この応接室だけは西洋風に作られていた。

 

「お茶を入れますので、ちょっとお待ちを」

 

「ああ、気遣い感謝する」

 

 コップに注いだ緑茶を差し出して、倫太郎はソファに腰を下ろした。

 素早く目線を巡らせて男の全身を観察しつつ、会話を切り出す。

 

「……早速ですが、本日はどのような要件でこちらへ?」

 

「その前に、名乗らせて貰ってもいいか?」

 

 倫太郎が頷くと、その男は少し目尻を緩ませて言った。

 

「オレは衛宮士郎。一応、遠坂凛の弟子を勤めている者だ。宜しく」

 

 衛宮士郎。その名前に聞き覚えはなかったが、「遠坂凛」の方は聞き覚えがあった。冬木の地で聖杯戦争を作り上げた「御三家」の一つが遠坂であり、何より彼女は冬木の聖杯を解体する際に大きな貢献を果たしている。

 

「遠坂凛……?」

 

「ああ……凛のことは有名だから知っているだろうが、実はオレも第五次聖杯戦争の生き残りでね。その経験とか諸々を考慮して、ロード・エルメロイたっての頼みで派遣されてきたのがオレと凛という訳だ」

 

 つらつらと語られた言葉に、倫太郎は思わず言葉に詰まった。まさか実際に聖杯戦争を生き残った魔術師が派遣されてくるとは想定外だったというのもあるし、時計塔の「現代魔術論」学科を管理する君主(ロード)の名が出てきたのも予想外だった。

 ロード・エルメロイII世。

 確か位階は「祭位(フェス)」……いや、最近は一つ昇格したのだったか。ともあれ、「繭村の嫡子」としてそう遠くない未来に時計塔への留学が決まっている倫太郎としては、新時代式の教育方針を取る現代魔術論学科は興味を惹かれるものだった。そもそも魔術を使うのが苦手な倫太郎としては「他の堅苦しい学部に入るよりもラクに済みそうだ」という邪な考えもあったりして、現代魔術論学科への参入を内心で決めていたのだ。

 

「なるほど、確かにこれ以上の適任もいない。凛さんはどちらに?」

 

 倫太郎が尋ねると、士郎は黙って苦虫を噛み潰したような顔をした。何かまずいことだったかな、と倫太郎が焦り出す前に、

 

「……機嫌が悪いんだ、朝は」

 

「?」

 

「あー……なんでもない、忘れて欲しい。とにかく無礼で申し訳ないが、凛のヤツは今はいない。ゆくゆくは情報交換とかの際に会えるだろうから、今はオレで勘弁してくれ」

 

 なんとなく察した倫太郎は、そこには踏み込まずに黙って茶を啜った。

 

「早速だが、本題に入らせてもらう。オレが訪ねてきたのは他でもない、今回この大塚に現れた聖杯についてなんだが……」

 

 士郎の言葉は当然ながら予想通りだったので、倫太郎は黙って頷く。

 

「……君は、聖杯の解体については知ってるのか?」

 

「概ねですが。第五次が失敗に終わったのちに聖杯は解体され、冬木の地から大聖杯は失われたと聞いていますね」

 

 最も、その理由は不確かなのだが。

 聖杯戦争……令呪を持つ魔術師が伝説の英霊たるサーヴァント七騎を召喚し、「万能の願望器」たる聖杯を完成されるための大儀式。

 しかし第五次聖杯戦争を契機に聖杯戦争は幕を閉じ、以後それが行われることはなくなった。その程度の記録しか倫太郎が調べられる記録の中には残されておらず、未だ聖杯戦争という儀式の仔細は謎のベールに包まれている。

 五度に渡る儀式の失敗を経て、とうとう始まりの御三家が聖杯戦争の終結を諦めたんじゃないか、などと倫太郎は憶測していたのだが──、

 

「そうか。じゃあ、聖杯の汚染についても知らないんだな」

 

「聖杯の──汚染?」

 

 予想外の単語に、倫太郎の眉がぴくりと跳ねる。

 聖杯とは万能の願望機であり、文字通り聖なる杯だ。それに「汚染」などというワードが似つくはずもなく、倫太郎は首を傾ける。

 

「そう。端的に言えば、冬木の聖杯はアインツベルンが呼び出したサーヴァントによって汚染されていた。人類の悪性、「この世全ての悪(アンリマユ)」……ソレが聖杯の中に巣食ってしまったことで、万能の願望器は致命的に歪んでしまったんだ」

 

 「この世全ての悪」、それは純粋なるヒトの悪性だという。

 人の世に災厄を振りまき、聖杯に託された願いを人を害する方向でのみ叶えようとする呪い。それはいつからか黒泥として聖杯の中に蓄えられ、聖杯を災いの願望器へと変貌させてしまった。

 

「……そんなものが、本当に? 僕にはスケールが大きすぎて測りかねますね」

 

 全人類の悪性が形を取るほどの呪いとしてこの世に在った、ということ自体が信じられず、倫太郎は思わず聞き返していた。

 何しろ、人の感情が持つエネルギーは凄まじいものがある。特に怒りや憎しみが人にもたらす力は恐ろしい。それは魔術師でなくとも生活の中で薄々感じられるだろう。

 そしてそれが実に七十億ぶん集まり、堆積し、一つの強烈な呪いとして成立している──それが含む負のエネルギーは計り知れない。

 

「事実、それが元でオレたちは聖杯の解体を決意したんだ。当然そんなものの存在を公表すれば悪巧みをする奴は幾らでもいるだろうから、聖杯の解体は内密に数年を費やして行った。解体が完全に完了したのがつい最近だな」

 

 どこか懐かしむように士郎は言う。解体の際に魔術協会と一悶着あったと聞いているが、その顔にはあまり後悔の色は見られない。

 

「話を戻そう。──今回の聖杯戦争についてだ」

 

「……と言っても、誰が始めたのか、何を目的とするのかも未だ詳細不明。現在数日が経過していますが、もう何が何やらで……正直、僕に聞かれても有益な情報は得られないと思いますけど」

 

「構わないさ。寧ろオレは尋ねるよりも、君に言いたい事があって来たんだからな」

 

 てっきり細かに現状報告をさせられるのだと思っていた倫太郎は、士郎の言葉に疑問符を浮かべた。

 

「……そもそも御三家が作り上げた聖杯戦争のシステムは地下深くに厳重に秘匿され、何者も到底真似をすることができなかった。解析すらも難しいだろう。だからこそ聖杯戦争は何十年かの周期を繰り返し、数百年間冬木の土地でのみ行われてきた」

 

 龍洞に敷設された、所謂「大聖杯」と呼ばれる超弩級の魔術陣。それこそが聖杯戦争を成り立たせる大元のシステムであり、そしてそれが遠坂凛たちの手によって解体されたのだ。

 

「だがこうして、聖杯戦争は場所を変えて行われている」

 

 ……それは本来不可能であるはずだ。

 冬木からは何百キロも離れたこの土地には当然の如く「大聖杯」たる基盤システムは存在しないし、聖杯戦争を開催する事はできない。紛い物を無理やり再現したとしても、それは英霊の人数が足りない亜種的なものになるに違いない。

 だが、実際に儀式が七騎の英霊を召喚して滞りなく始まっている事を考慮に入れれば、この大塚の地に「大聖杯」のシステムが再現され、同一かそれに近い弩級の魔方陣が敷設されている……逆説的にそう考えるしかない。

 

「つまり……第五次聖杯戦争の終幕から解体までの間に何者かが大聖杯のシステムを模倣する事に成功し、大塚の良質な龍脈を利用して聖杯戦争を成り立たせたと?」

 

「その通りだ。流石は繭村の長男、俺とは違って理解が速いな」

 

「い、いやいや」

 

「……ともかく聖杯戦争を行えている(・・・・・)以上、この地に再現された大聖杯が在るという事は確実だろう。アレ以外に聖杯戦争という大儀式をここまで再現できるとは思えないからな。そこで問題になってくるのが、さっき話した聖杯の泥についてだ」

 

 聖杯戦争を「再現」するという事は即ち、その汚染さえも復元されている可能性がある。その場合、ただ一人の勝者を選定できたとしても──巻き起こるのは二十年前にも冬木の地を襲った大災害だ。場合によってはそれ以上の規模、全人類を危険に晒す可能性もある。

 

「アレが聖杯に潜んでいる限り、聖杯は願望期としての役目を歪められる。これからオレたちも調査を始めるが、君も気を付けて聖杯戦争に臨んでくれ。決してあの黒い聖杯は、人が掴んでいいものではないんだから」

 

 

 

 

「…………………」

 

 それから暫く後。倫太郎はとある部屋の扉を前に、無言で立ち尽くしていた。

 何重にも物理的、魔術的ロックが施されたその一室は、繭村の屋敷の中央に位置している。ここにこそ、彼ら一族が何百年間も守り通してきた家宝たる刀蔵が存在するのだ。

 

「マスター」

 

「あれ、アサシン?」

 

 淡い青色の霊子を散らしながら、霊体化を解いたアサシンが現れる。

 それを見て、倫太郎は扉に伸ばしかけていた掌を引っ込めた。

 

「いたのか。……士郎さんと話してた時から?」

 

「うん」

 

「って事は、聖杯の汚染についても聞いたわけだ」

 

「聞いてた。すごく、残念。まぁ、願いを何でも叶える、なんて都合のいいもの……何かおかしいんじゃないかと思ってたけど」

 

 アサシンの望みは世界総体の幸福だ。この世が少しでも良くなって、少しでも幸せな人が増えることを、彼女は純粋に願っている。

 だが、聖杯が人にあだなす災厄と化しているのであれば、アサシンの望みはどうやっても叶わない。つまりそれは、彼女が召喚に応じた意味を剥奪されたのと同じだと言える。

 

「……そうだね。僕も、何をすればいいのか分からなくなってきた」

 

 「この事態を収拾する」というのが、一応の倫太郎の目的だ。

 だがそれはあくまで役目的なものであって、彼自身の目的ではない。彼自身が聖杯に願うのは繭村当主に求められる「勇気」だが、とそれも聖杯が汚染されているのであれば、願ったところで意味がない。

 

「君は、何をしにここへ来たの?」

 

 アサシンは、目の前に聳える異様な扉を見つめて尋ねた。

 倫太郎はその質問に答えられないまま、改めて扉の鍵を外していく。いくつもの物理的な錠を外し、さらに複雑な魔術的ロックに解除信号を打ち込むと、重苦しい音と共に扉が動いた。

 

「──ここは、繭村の刀蔵と呼ばれる場所だ」

 

 薄暗い室内に仄かな明かりが灯る。青白い、人魂に似た照明に照らし出されたのは、壁面に飾られた無数の日本刀だった。

 

「繭村の魔術師は、元を正せば侍だったそうだ。侍ってのはなにより武道を尊ぶ連中でね、僕の先祖は剣術における正義……「斬ること」を何よりも極めようとしたらしい」

 

 倫太郎は額に一筋の汗を流しつつ、その刀蔵に足を踏み入れる。

 この場所に満ちる威圧感は相当なものだ。アサシンは平気な顔だが、倫太郎は何よりもこの場所に入ることが苦手だった。

 

「彼らの武芸はいつしか神秘性を獲得し、文明開化を経て正式に魔術師として歩み始め……そうして、繭村という魔術家系が生まれた」

 

「ここの刀……かなりの力を感じるけれど、これは?」

 

「繭村の魔術師は二十歳になると、魔術を極めるために、己だけの刀を用意するんだ。彼らは生涯をかけてその刀と向き合い、魔力をその内部に貯蓄し、やがて自分を刀と同一の存在にする。そうして剣士としてのある種の極致に達したとき、人類がまだ見ぬ領域への道を斬り開ける……そう考えたのさ」

 

 聖杯戦争が行われた冬木の地を管理する遠坂家は、宝石に己の魔力を込める「宝石魔術」を使うというが、繭村の熾刀魔術も似たようなものだ。

 違う点を挙げるとすれば、担い手の魔力が込められた霊刀は消耗品ではなく、共に魔術師としての人生を駆け抜ける相方だということ。そして担い手の人生が終われば、彼らの仕事も失われる。この場所は歴代の刀を貯蔵する保管庫であると同時に、奇跡を追い求めた繭村の一族の墓標でもあった。

 

「ここにあるのは全て、歴代の当主の霊刀だ。こんな刀は、神秘が薄れた現代じゃあ中々見れないものなんだよ」

 

 倫太郎は十九代目当主なので、老齢で引退した父のぶんも数え、実に18本の霊刀がここには保管されている。短いものでも数十年、長ければ四百年ほどの神秘を蓄えたこれらの刀は、ただあるだけでも凄まじい威圧感を放っている。

 

「けど……僕は、これに触れない」

 

「なぜ?」

 

「…………分からない。怖いというより、嫌なんだ。ここの刀はどれも最高級の魔術礼装で、僕が使えばきっと想像もつかないような魔術を成せる。根元に辿り着く度胸があるかは別にして、これらを全て束ねたとしたら、万に一つの確率だけど、根元への道を斬り開くことだって可能かもしれない。だけど──なぜか、嫌なんだよ」

 

 なにそれ? とアサシンが首をかしげるが、倫太郎自身にもこの感情の理由は分かっていないのだ。

 嫌だ、というのもあくまで恐怖心からくるものであって、単純に自分がどうしようもなく臆病なせいなのだろう──倫太郎はいつもそう結論付けて、結局自己嫌悪に陥るのであった。

 

「君は、何が……したいのかな?」

 

「僕は当然、繭村の魔術師としての責務を果たすだけだよ。だからいつか、この嫌悪感を乗り越えなくちゃならないと思ってる」

 

「──違う。いまの君は、ニセモノだ」

 

 その言葉が核心をついているように思えて、倫太郎は息を飲んだ。

 

「君の、事態収拾って目的も……繭村の当主に、ふさわしい勇気を得るって目標も……全部、「あなたがしたい」と思ったことじゃ、ない。あらかじめ課せられた役目があるからこそ、君はそう考えてる」

 

「そんな事ない……‼︎ 僕は魔術師であり繭村の当主だ、なにより自分の家系の事を第一に考えるのが当然なんだ‼︎ だから当主として足りないものを探し続けるし、その邪魔になるんなら、どんなものだって……」

 

「いや。君は、思い込んでるだけ。あなたに本当に足りないものは……君が思っているような事じゃ、ないはずだよ」

 

 ──自分に本当に足りないもの。

 そんなものは分からない。魔術師失格な自分を少しでも魔術師として完成させるために足りないものは幾つでも挙げられるくせに、アサシンはそれは違うと言う。

 じゃあ、何なのだ。

 自分が本当に必要とする「何か」。それが揃ったとき、繭村倫太郎は魔術師として完成し、ここの霊刀を握れるようになるのか──。

 

「じゃあ僕にどうしろって言うんだ、アサシン?」

 

「さあ。自分で分かるまで、考えてみよー……」

 

 アサシンは軽快なステップを踏んで、薄暗い刀蔵から出て行った。

 その背中を見送りつつ、再び倫太郎は刀蔵の霊刀たちを眺める。その妖しい輝きの中に、答えが秘められているような気がして。




【衛宮士郎】
「第五次から十年後、解体戦争が行われてすぐ」という時間設定なので、恐らくアーチャーより少し若いくらいの容姿をしている。
凛が十年前の約束を守り続けているので、魔術を使い過ぎた反作用による髪の白髪化は発症していない。体も魔術回路もいたって健康、十年経っても荒野を目指して歩き続ける。
喋り方は、凛がついているおかげで変にねじくれてないので、皮肉屋なエミヤと違って結構素直な感じにしています。


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二十四話 ヤキソバと魔王さま

「…………………………んあ?」

 

 朝と昼、丁度その中間にあたる頃合。

 ぼんやりと青空を眺めていたランサーは、視界の端に映った蒼色の髪に視線を引き寄せられた。

 

「なんだ、セイバーの奴……マスターも一緒か。んで、こっちに向かって来てると」

 

 彼が胡座をかいていたのは大塚市民病院の屋上、その給水タンクの頂点である。

 自分の好きな場所を拠点とする癖があるこのランサーは、この見晴らしのいい屋上を勝手に自分の住処としていたのだ。辺りには食べ物の飲みさしが散らかっていたり、結構汚い。人が立ち入れるテラスからは離れた場所にあるので見つかる心配はないだろうが、これを見れば看護師さんは悲鳴を上げるだろう。

 

「しゃーねえ、逃げるか」

 

 自分ではあの剣士に勝てない……と、この槍兵はとうに知っている。

 それは強さ云々の話ではなく、そもそも世界のシステムがそういう風にできているのだ。こればかりは覆しようもないし、無闇に突貫したところで勝敗は目に見えている。

 ひとつ舌打ちして、槍兵は宙に消えていったのだった。

 

 

 

 

「よー…………す」

 

「あっ、志原くん!」

 

 そそ〜っと扉を開けて中に入ると、存外元気そうな声が帰ってきた。

 病室には数人分のベットが置かれていたが、中にいたのは声の主の少女……三浦火乃香のみだ。軽く手を振る彼女の顔に翳りや不穏な色はなく、とりあえず一安心する。

 

「大丈夫か? 三浦。とりあえずコレ、差し入れ」

 

「わー、ありがとう! しかもこれ高いやつじゃ……明日には退院できるし、なんか申し訳ないかも」

 

 こちとら命の恩人なんだから、そりゃあ気合も入れて高級フルーツセットを持参するさ──と言いたいところだが、彼女に「あのこと」は伝えられない。

 俺が三浦と一緒にいたとき、突然襲い掛かってきた紙人形たち。

 奴らの注意を俺が引きつけ、その間に三浦には学校までセイバーを呼びに言って貰ったのだ。後で聞いた事によると、精一杯張り上げられた彼女の声はしかと部室で漫画をダラダラと読んでいたポンコツ魔王の耳に届き、結果として俺は一命を取り留めた。

 

「…………どうだ? 体調」

 

「いやもう、全然平気。なんで気絶なんかしちゃってたんだろうね、あはは……」

 

 昨晩、戦いを終えて傷を癒した俺とセイバーが帰還すると、驚く事に三浦が部室の前に倒れていたのだ。一瞬は真っ青になったものの彼女に目立った外傷はなく、体を少し揺らすとすぐに意識を取り戻した。

 とはいえ奇妙なのが、俺と逃亡した記憶を綺麗さっぱり失っていた事だ。

 万が一を考慮して救急車を呼び、俺たちはひとまず部室に戻った。セイバーの見立てでは敵方が律儀に戦いの痕跡を消した結果だろう、という事だそうだ。実際戦った痕跡は綺麗さっぱり消えていて、何もかもが元通りに戻っていた。

 しかしながら少しでも三浦を聖杯戦争に巻き込んでしまった事は事実であって、これは反省すべき事に変わりはない──。

 

「ん?」

 

「なに、どうしたの?」

 

「いや…………何か、思い出しかけたような」

 

 ジジ、と脳髄の奥に不快なノイズが走る。顔を顰めて、喉元まで出かかっている失われた記憶を手繰り寄せようとする。

 

 "──忘れタのか?"

 

 違う今すぐやめろ思い出してはいけない考えてはいけない思い出せ思い出すなこれ以上思考を続けたら今度こそ──、

 

「…………フンッ!」

 

「ひぇ⁉︎」

 

 胸の奥で湧き上がった得体の知れない焦燥感に突き動かされて、俺は無理やりどこかへ飛ぼうとしていた思考を引きちぎり、ベッドの金具に思い切りオデコを叩きつけた。

 

「………………………………え、え、何」

 

「おい待て待て待って引くな引かないで、いや引くのもわかるけどさ……。ほらあれだよ、ちょっと三浦が無事でテンション上がったから思わずヘッドバンギングしたくなったの」

 

「そ、そんな感じの人だっけ志原くん……? どっちかというと前田くんがそういう事しそうなんだけど」

 

「大丈夫大丈夫、なんてことない。最近はケガもすぐ治るし」

 

 額を赤く腫らしつつも、俺はなんとか笑顔で弁明した。若干狂気じみている気もするが気にしても仕方ない。

 何故か見舞いに来てかえって怪我をする事になったものの、三浦の身に重大な後遺症やらが残っていない事を良しとしよう。

 ……それからしばらく適当な話をして、俺は病室を出た。

 案の定早くも痛みが引き始めている額をさすりながら病院の廊下を歩いていくと──、

 

「──遅いですよ、ケント!」

 

「悪い。けど幸い、三浦に怪我はないみたいだった。貧血で倒れたって事になってて、今日の夕方にでも退院できるらしい」

 

 ジャージ姿のセイバーが入り口のところで待ち構えていて、彼女に一通り説明しつつ見慣れた大塚市民病院を後にする。

 ロビーを抜ける際、やたらと人の影が多いのが少し気になった。看護師さんは忙しそうにそこらを歩き回っているし、救急車が何台か入口付近に停まっていて、辺りには騒然とした雰囲気が漂っている。

 されど、病院から離れれば喧騒も掻き消える。

 空はどこまでも澄んだ青空。日曜日に相応しい絶好の天気だ。こんな日は聖杯戦争のことも何もかも忘れて、自由気ままに散歩したくなってくる。

 

「じゃあ懸念も消えた事ですし、どーしますか。夜までやる事もありませんが」

 

「だよなあ。結局紙人形の出どころも不明だし……とりあえず安心したら腹減ってきたし、昼飯食いに行こうか。しかし俺ん時も殺すんじゃなくて、記憶を奪うくらいにしてくれたらよかったのになぁ……」

 

「バーサーカーに腹をほとんど吹っ飛ばされてましたからね、そりゃあ酷いもんでしたよ。上半身と下半身が背骨だけで繋がってる感じでしょうか。千切れた腸やら肉片やらが私の方にまで飛んできましたし、いやほんと汚かった」

 

「それは全く俺のせいじゃないし、これから飯だってのにそういう事を言うんじゃねえ」

 

 軽くゲンコツを落とすと、倍くらいの強さのグーパンチが俺の頰に叩き込まれた。なんだかんだ、このサーヴァントは今日も平常運転のようである。

 

 

 

 

「ん……やはりしょっぱいのは嫌いですね」

 

 とりあえず目についたところ行くか、というアバウトな方針に従って入ったハンバーガーチェーン店にて、肉厚のチーズバーガーを口いっぱいに頬張っていたセイバーは、眉の間に深い皺を寄せていた。

 

「嫌いって、お前が頼んだんだろ」

 

 こちらはポテトを一本摘み、口に運ぶ。

 運のいいことに揚げたてを頂けたらしく、丁度いい熱さにいい塩梅の塩味が効いている。一本食べると手が止まらない、そんな魅力を感じさせてくれるのがこうしたポテトのいいところだと思う。

 

「甘味ばかりだと、新鮮味やありがたさが失われるんですよ……もぐ。わかってませんね」

 

「はあ。要は甘いもんばかりだと飽きるから、たまにはしょっぱいのを食べたいとか、そういう話?」

 

「もぎゅ、んむ……まあ、そうですね」

 

 言う割にはペースが早く、セイバーはどんどんバーガーを腹に詰めていく。

 口が小さいので、リスのように頬張らないと食べられないのが何とも見ていて面白い。

 

「これとそれ食べたら、一旦家帰るぞ」

 

「え⁉︎」

 

「着替えとかもあるし、今後(よる)に備えて色々と準備しておきたいんだよ」

 

「まだ回ってない所があるじゃないですか。マンガ喫茶、とかいう場所にも行きたいですよ、私は。映画とやらも見てみたいですね」

 

「……なあ、聖杯ってそんな俗な知識まで与えるもんなの?」

 

「私が知っているんですから、そうなんでしょう」

 

「仕方ない……金が足りたら後で寄ってやるから、一回家に戻るってことでいいよな」

 

「なら、異論はありません」

 

 ポテトをつまみながら、セイバーの言葉に複雑な表情を浮かべる俺。

 セイバーはもきゅもきゅとチーズバーガーの最後の塊を飲み込むと、今度は新たなハンバーガーに手を伸ばした。

 

「そういやサーヴァントって、そもそも食事を必要とするんだっけ?」

 

「もぐ、もぐり……いえ、別に必要ではありませんよ。私が食事を摂るのは、何といいますか……まあ気分、娯楽みたいなものですね」

 

「ただの娯楽で財布の中身をガンガン削られる俺からすれば堪ったもんじゃない」

 

 大分薄くなった財布を悲しげに見つめつつ、相変わらず丁度いい塩味を舌で味わっていると、セイバーはハンバーガーをジロジロと眺めながら──、

 

「しかし、嫌いとは言いましたが、現世は私の時代に比べれば遥かに美味しい食べ物で溢れてますね。庶民にとっては、食べる物全部が美味しいことでしょう」

 

「ファストフードで満足するのは早いぞ。この世にはな、もっと美味しい食べ物があるんだから。俺なんかにはとても手が出せないような高級寿司とか、ステーキとか」

 

「へえー…てじゃあ私がそれを食べたいと言ったらどうします?」

 

「……やばい、墓穴った‼︎ くそ、どうせ食わせなきゃお前暴れるだろうし。俺が何も注文しなけりゃステーキ一枚くらいは」

 

 青ざめた顔で財布の中身を確認する俺に、セイバーは不満気に頰を膨らませる。

 

「私を何だと思ってるんですか。学生という立場上、金銭的にケントが恵まれていないのは理解してます。そこまでの我儘は言いませんよ」

 

「…………いや待てさらりと嘘をつくな。今までの行動を胸に手を当てて思い返してみろ? お前の我儘でこっちはいい迷惑だぞ」

 

「……確かに八百円のパフェを三つも注文したり、無断で寝床に潜り込んだり、あちらこちらと連れ回しましたが……」

 

 うんうん、と頷く俺。目を明後日の方向に逸らしてぶつぶつ呟いた後、セイバーは「それでも」と前置きして──、

 

「ケントが食べられないなら嫌です。私一人が食べるだけなんて楽しくありませんから」

 

「……へ、へえ。そう」

 

 予想外の言葉に、若干尻すぼみな返答を返す。

 彼女の言葉の通り、元々セイバーにとって食事は真の意味での娯楽に過ぎない。だから彼女は味よりも、値段よりも、行為そのものの楽しさを追求するのだ。

 つまりコイツは、別に話し上手でもない俺との食事を、一応は楽しいと思ってくれているという事であって。

 こちらをじっと貫く碧色の視線から逃れるようにポテトを頬張り、コーラで流し込む。何故か、気に入っていた塩味は感じなかった。

 

「ケント?」

 

 跳ね上がる動悸を意識しながら、俺は咄嗟に話題を変える。

 

「──な、なんでもない。それよりソレ、まだひとかけら残ってるぞ。食わないのかよ」

 

「む。分かってますよ……もぐ」

 

 セイバーがとうとう最後のハンバーガーを食い終わったのを見て、俺も最後のポテトを口に押し込んだ。二人して席を立ち、混み合った店内から撤退する。

 

「しかし暑いなぁ、九月になっても……」

 

「雲ひとつありませんからね。サーヴァントといえど暑いもんは暑いので、そろそろフードを脱いでもいいですか」

 

「駄目。お前は髪色とか容姿とかタダでさえ目立つんだからちょっとは我慢しろ」

 

 子供みたいにぶーたれるセイバーを連れて、駅前から東部の住宅街へ向かう。

 日曜日の昼間とあって大塚駅周辺の人並みは多かった。知り合いに出くわさないかと内心焦りつつ、俺達は歩調を早めてビル街から速やかに離脱していく。

 

「そういや……ケントの家族はどのような方々なんですか?」

 

「なんてことのない、普通の家庭だよ。両親に妹一人で、親は大体海外出張してて家を開けてる。とはいえ妹を巻き込みたくはないし、三浦の例だってあるんだから今後も慎重に行動し……どこ見てんだお前」

 

 魔王様が頑なに足を止めているのに渋々従って、セイバーの視線を追う。

 視線の先では町内会の祭りでも行なっているのか、道路の一部分が通行閉鎖され、屋台や小さな旗が立ち並ぶ簡易歩行者天国が出来上がっていた。

 興味心が惹かれたらしく、セイバーが問答無用で突撃しようと歩き出す。

 ──そう、歩き出してしまった。

 

「待て待て話聞いてた? 慎重に行動しよって言ったよな俺」

 

「慎重に行動? はっ、何を言いますか。魔王であるこの私の行いをケント風情が縛ろうとは片腹痛いですね。令呪の失敗で懲りたかと思ってましたけど」

 

「もう嫌だわこの暴君……」

 

「褒め言葉ですね、それは。ほらほら、とっとと行きますよ」

 

 今すぐ帰りたい、と切に思う。せめてもの抵抗とジャージの裾にしがみ付く俺を引きずって、セイバーが祭り会場に突入する。

 いつも通りの閑静な住宅街から、急激に人口密度が跳ね上がった。

 ここいら一帯の住民が集まっているのだろう。小学生や保護者、祭りの手伝いに駆り出されたと見える大人や俺と同い年程の高校生の姿まで見える。

 

「はいはい、何がお望みですか魔王様」

 

「うんうん、私との付き合い方も理解してきたじゃないですか。ではます、あの「わたあめ」というものを所望します。あのぶらっくこぉひぃのように苦かったら承知しませんからね」

 

「頼むからブチギレ案件はやめてくれよ……薫風の中ならともかく、ここじゃ祭り自体が中止になりかねないし」

 

 さらさらと語るセイバーに割と本気で怯えながら、俺はなけなしの残金で屋台のオジサンに話し掛け、普通の綿飴を一つ購入した。

 甘い綿飴ならばセイバーの逆鱗に引っかかる事もあるまい、と割り箸に引っ付いたふわふわの白い塊を手渡す。

 

「わたあめ……すんごいですね、まるで雲みたいです。こんな食べ物が存在するとは、全くもって驚きですよ」

 

「すんごいって何だよ」

 

「ケントケント、あれもやりたいです」

 

 そう言って袖を引くセイバーに、思わず頰が熱くなるのを自覚しながら、ぶっきらぼうに小銭を渡す。

 

「金魚すくい、かぁ……いいけど、わかってるよな? サーヴァントの力は使うなよ。常識の範囲内で楽しめよ」

 

「分かってますよ」

 

 分かっているのか不安になる口調で強く言い切った後、綿飴を一時俺に押し付けたセイバーは、意気揚々と水の張ったビニールプールの前に陣取った。

 小銭と引き換えに網とお椀を貰い、だいぶ余りぎみのジャージの裾を捲る。こうして見るぶんにはやはり、普通の女の子にしか──、

 

「はっ‼︎‼︎」

 

 どはしゃあッ、と凄まじい水飛沫が上がった。

 ……水飛沫が上がってしまった。

 

「馬鹿かお前はあああああああああああああああああああ⁉︎⁉︎」

 

「?」

 

 金魚が宙を舞う。まるで爆弾が爆発したかのような水飛沫だが、あくまでセイバーは全力で掬っただけらしい。

 首を傾げるセイバーの奥で、店番のお爺ちゃんが驚きにひっくり返っている。周りの子供達は何が何やら、突然の水飛沫に濡れて泣き出す子供までいる。

 

「どうしました?」

 

「一度お前に常識を教え込む必要があるらしいってことはよくわかった、今すぐ帰ろう」

 

「いえ、まだお椀には一匹も……」

 

「うるせーッ‼︎ 見ろこの惨状を、お椀に入れるどころか金魚の半分くらいが外に撒き散らされてる‼︎」

 

 水飛沫と共に宙を舞った金魚達は、悲しげにアスファルトの上でピチピチ跳ねていた。

 お爺ちゃんに何度か謝り、最後の一匹をプールに戻し終えてから、怒り心頭の表情で食いかけの綿飴を渡してセイバーを引きずり始める。

 

「ちょっとぉ。さっきのは少し力加減を間違ったんですよ、もう一回させて下さいよぉ」

 

「絶対ダメ。ああもう、こんなの知り合いに見られたらマズイな……けど絶対離れるなよ、お前から一瞬でも目を離すのは心臓に悪い」

 

 小さなセイバーが人混みに紛れてしまえば最後、彼女の姿は捉えられなくなる。そして俺という枷が無くなれば、この暴君が群衆の中で何をしでかすかは想像不可能だ。

 と、そんな時に限って、俺の視界の端で見覚えのある金髪が揺れていた気がした。

 

「もぐもぐ……やはり、美味。美味ですよこれは。やはり甘い物はこの世で最も価値がある……どうしたんですかケント。顔を真っ青にして」

 

「い、いや、何でもない。おい早く行くぞ」

 

「何言ってるんですか。私はまだ満足してませんよ、今度はあの……なんですか、射的?」

 

「そんなのやってる場合じゃないんだよ……‼︎ ある意味敵サーヴァントとより厄介な奴の頭がチラチラ見えてんだよさっきから‼︎ 後で来るから今は大人しくついて来」

 

「ん? 健斗じゃないか」

 

 終わった。

 出店の手伝いを甲斐甲斐しく務めていたと見える我が悪友、前田大雅が視線をこちらに向け、笑顔で手を振っていた。そういえば学校帰りに地元の祭りの用事があるとか何とか言っていたが、ここでエンカウントする可能性を予測しておくべきであったか。

 性格はともあれ西洋人とのハーフ、整った顔立ちをしている前田だが、そんな彼が厳ついおじさんに混じってタオルを頭に巻き、焼きそばと格闘している姿は中々にシュールだ。

 

「……よ、よっス……」

 

「奇遇だね健斗‼︎ なあ聞いてくれよ、最近自転車を盗まれてしまってさあ‼︎」

 

「自転車? お前の?」

 

「そう。知ってるだろ? まるでグレイ型宇宙人の頭皮のように美しい銀色のアレだよ‼︎ ……とまあ新しい自転車を買う資金を貯めるため、僕はこうしてヤキソバを必死に作り続けている訳だ、な‼︎」

 

 それは今現在部室の前に停められているかのウルトラシルバー魔王号なのではないか、という考えが頭をよぎったが、俺はその可能性を決死の覚悟で無視した。

 

「なんか聞いた事があるような気もするけどとにかくお疲れ様、俺は適当に立ち寄っただけだからもう帰るそれじゃあまた今度」

 

「ちょっと、だからどこ行くんですか」

 

 足早に立ち去ろうとした俺の腕を、セイバーがむんずと掴む。

 その不満気な声を聞き取り、前田の動きがぴたりと止まった。フードを深く被ったセイバーを見た前田はヘラ片手に石像の如く身体を停止させ──、

 

「オイ」

 

「な、何だよ」

 

「……………………………今の声ハ、女の子の声だったゾ?」

 

 ぞっとするほど機械的に、そう言った。

 

「違うっ、落ち着け。きっと気のせいだそれは。こいつは……あれだ、フードで分かりにくいけど男……だヨ?」

 

「ああもう、暑いですね。この炎天下に鉄板の上で料理なんて馬鹿なんじゃないですか……んしょ、っと」

 

「んあ゛ぁぁぁぁ⁉︎ お前はなんで最悪のタイミングでフードを脱いでんの⁉︎ いや、あのだな、大雅くん。こいつはお前が想像するような奴じゃなくて」

 

 あわあわと慌てる俺、呑気に綿飴を頬張るセイバー、硬直するヤキソバ職人。なんとも奇妙な状況が出来上がりつつある中、俺は必死でこの状況を弁明する方法を探っていた。

 よりにもよってセイバーがフードを脱いだ事で蒼色の長髪と色白の素顔が明らかになり、前田は目をこれでもかと見開いて──、

 

「……ずるいぞ」

 

「違」

 

「ずるいぞ────ッッ‼︎ 僕が汗水垂らしてヤキソバと格闘してる間に、健斗は超可愛い外国人の女の子……って、僕に散々奢らせたあの子じゃないか‼︎ んでその子とお祭りデートってか⁉︎ クソッ、今すぐ首の骨折ってから野犬に貪られて死ね‼︎」

 

「お前も半分は外国人だろうが‼︎ そもそもこいつは彼女とかそんなんじゃなくてだな、えー……」

 

 ──この場合、何と言えばいいんだろう?

 留学生、という言い訳は罠だ。外国人の女子留学生がこの街に来る、という情報を前田が聞き逃すはずが無いし、かえって墓穴を掘る結果に繋がる。

 とはいえ、親戚は無理がありすぎる。苦しいが外国人の友人という選択肢が無難か、と俺が口を開くその寸前に──、

 

「恋人ですよ」

 

「「は?」」

 

「私は彼の、恋人ですよ」

 

 ──その瞬間に、時間が止まった。

 

 頭の中を疑問と不可解が埋め尽くす。

 恋人。コイビト。こいびと……世間一般の意味が指すところでは相思相愛の男女のことを指し、別の呼称ではカップルなどと呼ばれる事も多いとかいやそういう問題ではなくて──。

 完全にフリーズした頭で呆然と立ち尽くす俺の前で、前田は耐え難き何かにぶるぶると身を震わせてから、

 

「裏切り者ァああああああああああああああああ────‼︎‼︎」

 

「ぎゃああああああああああああああああああヤキソバああああああああああああああ⁉︎」

 

 前田は憤怒の叫びと共にヘラを上手く操り、熱々のヤキソバ塊を投擲。思考の止まっていた俺の顔面に叩きつけた。

 熱さと衝撃と少しの恥ずかしさに転げ回る俺を無視して、前田が上半身を乗り出す形でセイバーに迫る。

 

「えー、えっと、確かセイバー君だったよな……ほ、本当なのかい? こいつと付き合ってるっていうのは。目つきは無駄に怖いし、得意な事といえば運動神経と腕っ節の強さくらいだし、その上喧嘩っ早い性格だから一時期学校で不良扱いされてたような男なのに?」

 

「ええ、そうですが。私とケントは一蓮托生のパートナーですから。しかし誰かと思えば、いつぞやのふぁみれす男でしたか。女神の如き美貌とはなかなかに褒め上手じゃないですか、うんうん。褒めてあげましょう」

 

 一人空気を読まず、得意げにデカイ胸を逸らすセイバーに気を向ける余裕すら失ったのか、生気を失った顔の前田が崩れ落ちる。

 

「う、嘘だ……女っ気ゼロの健斗に先を越されるなんて……嘘だ」

 

「お前──食べ物っ、粗末に……しやがってっ、さっきから聞こえてんぞコラぁ‼︎ 喧嘩っ早いってな、元はお前が色々トラブルに首突っ込むから俺にツケが回ってきたんだろうが⁉︎」

 

 ……ああ、未だに忘れないとも。この街で問題になっていた暴走族を無謀にも懲らしめようとして、不良どもに単身突撃していった前田の姿は。

 結局俺が火事場の馬鹿力と前田という肉盾を用いてどうにかしたものの、俺は暴走族と一悶着起こした問題児としてしばらく後ろ指さされる事になったのだ。だいたい俺に関する悪い噂は全部こいつのせいと言える。

 しかしヤキソバ攻撃から回復した俺が怒鳴りながら立ち上がった時には、前田は完全に再起不能に追いやられていた。パイプ椅子に力無く座るその姿は、何処ぞのボクサーの最期を連想させる。

 

「もう嫌だ。嫌がらせに楓ちゃんに写真送ってやる……いつのまにか健斗君が外国人少女と仲良くイチャついていたので家で懲らしめてあげてください、っと……」

 

「ハ……おい馬鹿やめろ‼︎ あっクソ、遅かった……‼︎ 今すぐ写真消せ、こら‼︎」

 

 一体何処で妹の連絡先を仕入れたのやら。俺が気付いた時には、前田は神がかった早業で楓に俺とセイバーの写真を送信していた。

 なんとかセイバーが写真に映り込むことは阻止できたようだが、よりによって一番知られたくない人物にセイバーの存在が露見する結果に。そろそろ外泊の言い訳が苦しくなってくるというか、下手に前田とメールで会話でもされたら「前田の家に泊まっている」という嘘までバレるかもしれない。

 

「もういいですか? 私は金魚すくいをしたいんですけど」

 

「金魚すくいがしたい、じゃねえよ。お前はお前でおかしいんだよ。今更だけど突っ込むからな、何なんだよ恋人って」

 

「嘘はついてませんよ。私達はどちらかが欠ければそこで終わりの運命共同体なんですし、恋人と偽るにはもってこいじゃないですか。ね?」

 

「ね? じゃない‼︎ 別に友達でよかったじゃねえか‼︎ 見ろ、お前のせいで前田のメンタルが」

 

「知りませんよそんなの。そろそろ金魚すくいに行きたいんですが、まだですか」

 

「…………………〜〜〜〜‼︎‼︎」

 

 声にならぬ絶叫を上げ、頭を掻き毟る。

 最早どうしようもない状況だった。前田は再起不能、セイバーは制御不能。おまけにメールを見たと思われる楓からの着信が俺のスマートフォンを震わせている。妹絡みでもぜったい面倒なことになる。

 

 ………………結局。俺は全てをヤケクソの笑顔と共に放棄し、全力で炎天下の道路を家めがけて駆け抜けていった。



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二十五話 Assassin in the darkness/Other side

 ──時間は少し遡り、アサシンが砂塵の巨兵を打ち破ってから幾ばくかの時間が経った頃。

 夜明けをあと一、二時間後に迎えるであろう時間帯に、十人を超える数の魔術師たちが集まっていた。

 

「──ゴッダ、お前は五人連れて反対側に回れ。大規模な崩落ではあるが、始発電車に間に合わない規模ではないだろう。私の指示ののち、そちらからも修復作業を始めろ」

 

「了解……おい、お前達‼︎ お前達はこっちだ、ついてこい」

 

 ゴッダと呼ばれた男は、若手を連れてトンネルの反対側へと回り込む。それを見て、この秘匿部隊のリーダーを務める男……グリモアールは軽く舌打ちしていた。

 崩落したトンネルの前で、魔術師達はその被害状況などの把握に努めていた。聖杯戦争の痕跡を秘匿するために魔術協会から遣わされた魔術師達は、こうして日夜頻発する戦闘の後処理のために奔走しているのだ。

 これも本来の聖杯戦争であれば「監督役」の指示によってスムーズに動けるのだが、この戦争にはルールも何もない。指揮系統が崩壊していることで、彼らはますます忙しなく動かざるを得なかった。

 

「よし。各員、修復を開始しろ」

 

「「「Minuten vor schweisen──」」」

 

 ゴッダの連れた魔術師がトンネルの反対に回り込んだのを待ち、彼らは一斉に修復魔術を起動させた。

 各々が放つ魔術回路の淡い輝きが、薄暗いトンネルの中を照らし出す。

 トンネルは数十メートルの長さがあるが、崩落はせいぜい数メートルのものだ。一人で復元しようとすれば莫大な魔力と類まれな才能を必要とするが、十人以上でかかればできないこともない。トンネルを塞いだ土砂は少しづつ持ち上がり、かつての場所へと戻っていく。

 

(……このまま全員で魔力を込め続ければ三十分程度で修復できるか。とはいえ、気が滅入るな)

 

 軽く溜息を漏らすグリモアールの顔には疲れが見える。

 この程度の仕事はさっさと終わらせて帰路につきたいところだが、どうも聖杯戦争の終結には未だ時間が必要になる。

 最近セイバーが脱落したやら生存しているやらといった噂を聞くが、はっきりと脱落したサーヴァントは今のところ確認されていないらしい。この戦争の幕を開けた者の正体も掴めず、どうも得体の知れない不穏感が現地の魔術師の間にも漂っている。

 

「アルフレッド。暇じゃないか?」

 

「いいのかよコンステッド、喋っていて。下手なお喋りで魔力を乱すなよ」

 

「ンなミスを僕が犯すか。つまらん作業なんだ、少しくらい会話を楽しんだってバチは当たらないんじゃないか?」

 

 着々と元に戻りつつある土砂の塊をよそに、コンステッドと呼ばれた西洋人の青年は人のいい笑みを浮かべる。

 一度魔術の詠唱を済ましてしまえば後は楽なもので、継続的に魔力を注ぎ続ければ魔術は発動し続ける。慣れた者ならば、会話をこなしながら魔力を注ぐのは朝飯前だ。

 

「そうだな、じゃあ適当に話題でも──」

 

 呑気に会話し始める若手を見て、グリモアールはまたもや溜息を漏らしつつ、開いた片手で器用に煙草を咥える。

 ライターで火をつけて煙を吐き出すと、隣にいた銀髪の少女が煙たげに咳き込んだ。

 

「先生、こんな密閉空間でタバコはやめて下さい」

 

「ニア君。確か君は幾つかの研修の結果が優れていなかった筈だが、それを理解した上で私にそう言うのかね?」

 

「うぐ……権力を不当に振りかざすのはどうかと思いますよ。それに副流煙は本人よりも他人に悪いんです」

 

「社会とはそういうものだ。若いうちに学べたようで何よりだよ」

 

 彼らは「法政科」と呼ばれる学科の出身であり、今回の聖杯戦争の痕跡秘匿を一手に担う学部出身の人間だ。

 時計塔の十二学部のうち十三番目に位置する法政科は少々他学部とは事情が異なり、根元探求ではなく時計塔の、ひいては神秘の存続を第一目的とする。そのためこういった職務は彼らの仕事なのだが──、

 

(……聖杯は解体されたと聞いていたが、まさか未だしぶとく残っているとは。極東まで出張るのも楽じゃない、これで最後にして欲しいところだな)

 

 無駄な仕事は無い方がいい。最近ちょっと前髪の後退に本気で焦り始めたブロンドの髪をいじりつつ、グリモアールは「強化」した眼球を使って土砂の進捗状況をざっと眺める。

 

「……あんまり弄るともっとハゲますよ」

 

「ニア君、君はもっと社会の上下関係の厳しさを知るべきだな。罰として秋季課題の量を君だけ特別に増やしておく、喜ぶといい」

 

 顔を青くする少女は置いておいて、グリモアールは目を閉じて考え事に耽る。

 現在彼らが隠蔽した痕跡は幾つか挙げられるが、完全に全てを隠し通せている訳ではない。特に人命に関する被害は、隠そうとも全て隠しきるのは非常に困難だ。人が消えればそれだけで大ごとであり、人は痕跡のように簡単に偽装できない。

 ここ最近、大塚市では行方不明者が相次いでいる。

 行方不明者──と言えばまだ柔らかい印象を受けるが、実態は全員が死亡しているのだ。

 何らかのサーヴァントによって惨殺された者たちを、ひとまず衆目から隠蔽しているだけに過ぎない。とはいえそれすらも容易な事ではなく、いくつかの変死死体が警察によって回収されてしまっているのも事実だ。

 とうとう全国区ニュースでも取り上げられるようになり、街の人間も少しづつ不穏な空気を感じ取っている様子が見られる。魔術協会からかけられる重圧も日に日に増しているという二重苦だ。

 

(サーヴァントが魂喰いでも行なっているのか、第四時のように享楽殺人鬼がマスターに紛れているのか。どちらかは把握できないが、マズイ状況であることは確か……人々を殺して回る英霊がいる事は間違いないだろう)

 

 監督役がいなければ、聖杯戦争を乱す陣営に対してペナルティを与えることもままならない。そもそもどのマスターがどのサーヴァントを使役しているかも不明瞭な時点で、第三者がこの聖杯戦争に介入する事は困難を極める。

 つくづく監督役の不在とは大きいものだ、と思い知りながら、グリモアールは腕時計を眺める。修復開始から実に三十分、もうそろそろ完全に修復が完了してもいい頃合いだが──、

 

(…………予定の時間を上回っている?)

 

 更に数分が経ったが、土砂の向こう側が見えてくる気配はない。

 誰かが手を抜いている様子もないというのに、明らかに修復されるスピードが落ちている。

 

「先生、三十分経ちましたよね?」

 

「あぁ……妙だな。時間がかかり過ぎている」

 

「どうせ向こうに回った連中がサボってんじゃないですかね。全く何してんだか……」

 

 そんな事を言いつつ、予定より十五分も遅れてトンネルの修復作業は完了した。

 土砂の最後の一掴みぶんが時間を巻き戻したかのように浮かび上がっていくのを見て、作業中止の指令を出す。

 

「さて、各員次の……」

 

 ぐるりと周囲を見渡して、次の作業に移ろうとしていたグリモアールは、トンネルの向こうを見て目を疑った。

 本来ならば開通した向こう側からゴッダが連れた半数の作業班が姿を現わす筈だが、一向に姿を見せる気配がない。

 

「……ありゃ、いませんね?」

 

 サボりについて問い詰めてやろうと考えていたコンステッドが拍子抜けしたような表情で呟く。

 

「先生、彼らはどこに──」

 

 少し不安げなニアの声を遮り、グリモアールは静かに周囲を見渡す。トンネル内の照明は薄暗く、特に土砂に押し潰された部分の修復は未だ終わっていない。彼らの周囲は完全に闇に包まれていた。

 

「……各自、念のため視力を更に「強化」。一ヶ所に集まれ」

 

 グリモアールはそう言い残すと、残りの班員を捜すために前進した。硬いレールの枕木を踏みしめながら、向こうにいるはずの人影を捜す。

 

「ハハッ、幽霊(ゴースト)でも出たか? だってよアルフレッド。とっとと集ま──アルフレッド?」

 

「何してんの、早く集まりなさいよ」

 

「いや……アイツ、俺の隣に居たんだが……」

 

 後方から聞こえてくる会話をよそに、グリモアールは崩落の中心地点まで慎重に歩を進めた。だが相変わらず人影は見えず、どこまでも一直線な線路が続いている。

 

(馬鹿な。何処に消えた──?)

 

 忽然と消えた魔術師たちは何処へ消えたのかを考えようとした時、グリモアールの鼻に一滴の雫が落ちた。

 水漏れか、と鼻を拭って、そのどろりとした感触に背筋が凍る。水などではない。この微かに臭う鉄の香りは──そして指先に付着した、真っ赤に汚れた跡は──、

 

「⁉︎」

 

 勢いよく上を向き、彼は見た。

 ちょうど六人分、向こう側に渡った者たちは、例外なく骸と化して天井に吊るされていた。吊るされているというより、トンネルの天井に半ば呑み込まれてぶら下がっている。恐らくは修復魔術の最中に土砂に死体が混じり、そのまま修復に巻き込まれたのだ。

 

「……馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な‼︎」

 

 戦慄する。手足が震える。動悸が加速する。

 何故、どうやって、誰が、疑問符が竜巻のようにグリモアールの脳内を駆け巡り──、

 

「ぜ、全員……固まったまま出口へ急げ‼︎」

 

 ほぼ反射的にそう叫ぶと、グリモアールは勢い良く後ろに駆け出していた。だがトンネル内に響くのは自らの足音だけで、目の前にいたはずの班員たちから返事はない。

 

(まさか、もう……⁉︎)

 

 だとすれば残っているのは自分一人、という絶望的な考えが脳裏をよぎったが、幸い前方に見慣れた銀髪が見えた。

 あの髪はニアのものだ、その隣にはアルフレッドの紅毛も見える。思わず安堵して、気が動転しながらも彼らに駆け寄って──、

 

「君達、何を立ち止まっ、て──」

 

 その二人は、ぐるんと後ろを振り返る。

 どこか生気のない表情だが、二人はまだ生きている、と思ったのもつかの間──、

 

「──────な」

 

 遅れて、ようやく認識した。

 二人の首から下が、ない(・・)

 暗くともはっきり分かるほどの鮮血が断面から落ち、引き抜かれた脊髄は宙にぶらぶらと揺れている。その奥に転がっているのは、グリモアールを除いた魔術師たちの死体。

 

「あ、ああああああああああああああああああああああああああああああ──‼︎⁉︎‼︎⁉︎」

 

 虚無の闇に浮かび上がる何か。

 その、白い人魂のように見えたモノの正体は、どこまでも不気味な髑髏の面だった。

 

『まじュツ、し。ます、ター、ころ、ス?』

 

 そう呟いた人影は、両手に掲げるように持っていた二人の生首を放り捨てる。

 

「やめ、やめろ、待て、貴様は──」

 

『ギ、ギぎ』

 

 昆虫の様なおぞましい呻きを漏らし、影が動く。

 瞬きの間に黒衣の下から放たれた黒塗りの暗器は、知覚すらさせずにグリモアールの急所を貫いた。

 

 

 

 

「アナ?」

 

「何でしょうか」

 

「いや。何か、ぼーっとした風だったから」

 

「いえ。私はぼーっとなんてしてません。いたって真剣に、買い出しという職務を果たしている最中ですから」

 

 喫茶店の店主である槙野と、アーチャーのマスターであるアナスタシアは、二人して昼過ぎの陽気に包まれた道を歩いていた。

 郊外の線路沿いには綺麗に家々が並んでいて、反対側には侵入防止のフェンスが建てられている。やかましい音を立てながら、ときおり電車が通り過ぎていった。

 

「ははは……付き合わせて悪いね。この前志原くんが連れてきた子が色々壊しちゃったから、ついでに色々買い込んじゃって」

 

「構いません。居候させて頂いている以上、この程度の仕事は当然のことです」

 

「真面目だなあ、ほんと……」

 

 あろうことか店内で暴風を巻き起こしたセイバーの姿を思い返しながら、アナスタシアは軽く唇を噛む。

 現状維持が現在の目標とはいえ、昨日はキャスターにこちらの位置を把握された。

 幸い仕掛けてくる事は無かったが、これでますます警戒を必要とするだろう。最悪の場合店主の槙野が巻き込まれる可能性もある。

 キャスター陣営は、まず真っ先に潰さなくてはならない。敵サーヴァントを撃破してはならない、などという指令は受けていないし、そもそもアナスタシア自体予備戦力なのだ。少し独自に動こうと上は本隊の作戦遂行にかかりきりだろう。

 

「……槙野さん」

 

 アナスタシアはますます深刻そうな表情を浮かべると──、

 

「はい?」

 

「ズボンのチャックが開いています」

 

「えっ、嘘⁉︎」

 

 両手に持ったレジ袋を放り出してわたわたとズボンを確認する槙野を見て、アナスタシアは微かに笑った。それが微かすぎて、槙野はなかなかその笑顔に気付かないのだが、彼女はここ最近でずっとよく笑うようになった。

 

(……穏やかで、心が温かくなるような……これが、「平和」というものなのでしょうか)

 

 若くして代行者としての道を歩み始めたアナスタシアには、こうして平穏の時を過ごすという経験がない。

 代行者は常に死と隣り合わせ、気を抜けば死ぬような厳しい職務だ。戦いと近しい者の死を繰り返し味わってきた彼女にとって、この時間はなによりも大切なもののように思えた。

 だが──、

 

「…………‼︎」

 

 血みどろの戦闘に慣れすぎたアナスタシアの鼻が、微かに漂ってくる血の匂いを感知した。

 素早く周囲に気配がないことを確認し、血の匂いの出所を探す。

 

(あそこ……トンネルの内部ですね。しかし今は買い出しという大切な仕事中ですし……けど、そもそも私は代行者ですし……)

 

 線路沿いの道は目の前で折れ曲がっていたが、匂いはその奥にあるトンネルから漂っている。歩きながら悶々と考え続けた結果、アナスタシアは自分本来の職務を全うすることにした。

 

「槙野さん。少し用事を思い出したので、申し訳ないのですが……」

 

 アナスタシアは少し俯くと、片手に持った小さめのビニール袋をおずおずと差し出した。両手に袋を持った槙野は少しきょとんとしてから──、

 

「ああ、構わないよ。大学のこと? なんにせよ、気をつけてね」

 

 よいしょ、とアナスタシアの分の袋を持つと、人のいい笑顔で曲がり道の奥に消えていく槙野。それを相変わらず真顔で見送りながら、彼の人の良さを利用してしまったような気分になったアナスタシアは軽く唇を噛んだ。

 

「──いえ。今は……」

 

 トンネルから漂ってくる不穏な空気に集中する。

 戦闘用の修道服ではなく夏用のワンピースという軽装だが、武装はいつ何時も準備している。人影がない事を確認してから、アナスタシアは勢いよく駆け出した。線路のフェンスを容易く飛び越え、硬いレールを蹴り飛ばしてトンネルの暗がりに忍び込む。

 

「……………………」

 

 奥に進めば進むほど、入り口の光は消えていく。頼りになるのはトンネル照明の明かりだが、それも途中から途切れていた。

 こつーん、こつーん……と反響する足音。

 数センチ先の闇の中に何かがいるような悪寒を感じ取りながら、アナスタシアは両手に代行者の武装である「黒鍵」を構える。

 

「……………………」

 

 ──何か聞こえた。

 電車が入り口側から来るのかと思ったが、違う。

 粘ついた水音のような、まるで獣が何かを貪り喰らうような音が微かに聞こえてくる。

 鬱陶しい闇を見通そうとアナスタシアは眼球に魔力を通そうとして、

 

「っ、く⁉︎」

 

 何かが飛んできて、アナスタシアは咄嗟に首を横に振った。

 投擲されたのはボール大の何か。それがアナスタシアの横を通過した際、生暖かい水滴がアナスタシアの頰を濡らした。

 

『ギ、き、キ……魔術、し。心の、臓、喰ウ』

 

 反射的にアナスタシアは黒鍵を三本まとめて投げ放ったが、闇の向こうにいる「何か」はそれを容易く回避した。

 

(──この場所は、流石にまずい……‼︎)

 

 死体がある事は想定していたが、まさかこんな昼過ぎになっても当事者が残留しているとは想定していなかった。生きてここを出られる可能性は低いが、全力でアナスタシアは後退しようとして──、

 

「‼︎」

 

 咄嗟にアナスタシアは横っ跳びに飛ぶと、壁面に身体を押し付けた。

 直後、線路の上を猛スピードで電車が通過していく。唸りを上げるトンネル内の空気に、アナスタシアのブロンドの髪が激しく揺れた。

 

「これは……‼︎」

 

 電車のライトがトンネル内を一瞬だけ照らし出したことで、アナスタシアはその惨状を見て取った。

 死体らしきものが天井に幾つか。残った死体はトンネルの端に投げ捨てられ、ただおびただしい量の血痕が床と壁にぶち撒けられている。

 

「──────‼︎」

 

 電車の最後の一両が通過した瞬間、アナスタシアは入り口めがけて疾走する。

 闇の奥で蠢く空気は消えず、むしろ代行者の走力に容易く追いついてくる。ヒュン、と空を裂くようなこの音の正体は──、

 

(投擲物‼︎)

 

 まともに迎撃する余裕はない。

 足を止めれば、生存確率はゼロになる。

 人体の急所──眉間、喉、心臓。そこだけを守る為に、アナスタシアは反転すると同時に黒鍵に魔力を通し、その三点を覆い隠す。

 

「ぐ、ぶ……っ⁉︎」

 

 だが──。

 予想に反し、白いワンピースを切り裂いて、アナスタシアの太腿に二本の短刀が突き刺さった。

 素早い獲物は、まずその機動力を奪う。

 当たり前で単純な思考。だがアナスタシアはかえって先読みに失敗した。激痛が走り、足がもつれ、勢いを殺せずレールの上を転がっていく。真っ白なワンピースの布地が噴き出した血と砂利の砂で汚れていく。

 

「ゲホッ、はぁっ、は────」

 

 立ち止まったら、死ぬ──それは怪我を負っても構わない。

 アナスタシアの走力はヒトの限界をはるかに越えている。だがそれ故に、転倒した際のダメージも相当なものだ。骨が軋む音を聞きながら、アナスタシアは再び疾走を──、

 

「がは……っ、あ゛‼︎」

 

 する暇もなく、今度は肩に深く短刀が突き刺さった。機動力を削ぐだけでなく、防御手段すらさせまいと言わんばかりの攻勢。

 トンネルの出口まではあと数歩分。

 次の投擲は恐らく命を奪いにくる。迎撃は到底不可能、このまま一縷の望みに賭けてトンネルから飛び出すしかない。

 

(もう少し、で──‼︎)

 

 出血が激しい足に鞭打って、必死で地面を蹴る。動けるかどうかは殆ど賭けだった。辛うじてアナスタシアの脚は動いたが、傷の奥の筋繊維がぶちぶちと千切れる感覚があった。

 死に物狂いで死のトンネルから飛び出したものの、もうアナスタシアは一歩も動けそうになかった。

 力なく線路の上に倒れ込んで、顔だけを上げて追跡者の姿を捉える。その影はどこまでも異形だった。白い髑髏の面に黒衣を纏い、棒状になった歪な右腕がやけに目を惹く。だが何よりも目線を引きつけたのは、その白髑髏を侵食するかのように広がる漆黒の痣だった。

 

「…………アサ、シン?」

 

『……アサ、シン。クラ、ス?』

 

 その男は自分が何者かを理解していないように呟くと、降り注ぐ日差しを嫌がるように顔を背けた。

 先程から言葉に理知的なものを何も感じない。まるで狂化を受けたバーサーカーのような口調が不気味だったが、この絶体絶命の状況ではそんな事に構う余裕はない。

 

『死ね』

 

 アナスタシアが瞬きをした瞬間、彼女にすら認識困難な速度で、アサシンは短刀を投げ放っていた。

 一刹那ののちに目を開けると、すぐそこに黒塗りの短刀の切っ先がある。喉元と眉間狙って放たれた短刀は、上半身に僅かに残った力を総動員して何とか避けれた。だが、心臓めがけて放たれた三本目だけは──、

 

『フン』

 

 瞬間。数百メートル後方にて閃光が走り、

 

『屋内で戦うなと言ったろう。そんな場所じゃあ、俺の弾は届かない』

 

 音速を遥かに振り切った速度で放たれた銃弾が、その三本目を容易く弾いていた。

 アサシンが怪訝な様子でアナスタシアの背後を見る。後方に聳える小山、その内の一本の樹上に立つ狙撃手を探す為に。

 

「暗殺者風情が太陽の下に出しゃばるとはな」

 

 「白い死神」と呼ばれた男は、もう既にトリガーを引いていた。

 大口径から爆音が炸裂し、アーチャーの周囲を覆い隠す木の葉が激しく揺れ動いた。だが銃声は数百メートル先のアサシンに伝わる事なく、それより遥かに速く彼の魔弾は着弾する。

 彼に「外れる」などという概念はない。

 彼は「確実に当たる」状況でのみ引き金を引くし、その確信を得て放たれた一撃は的確にターゲットを貫く。

 何度も何度も、魂に染み付くほどに繰り返された行為は、時として伝説の英雄たちすらをも仕留める絶技へと昇華されるという。例えば鳥を断ち切らんとした男が究極の剣技を生み出したように、この男の「狙撃」という行為も、既に唯一無二の領域へと達している──‼︎

 

『ギ──────』

 

「失せろ砂虫。貴様には骸がお似合いだ」

 

 着弾。アサシンの脳天を弾丸が貫き、花弁のように鮮血が舞った。

 その手から残りの短刀が滑り落ちる。だがアサシンは消滅するのではなく、溶けるようにドロドロした黒い塊に崩れると、そのまま地面の奥に沈んでいった。

 ワンショット・ワンキル──スナイパーが遵守する絶対原則。例えサーヴァントになろうとも、その原則は揺るがない。

 

『アーチャー……助かり、ました……』

 

 念話でアナスタシアはアーチャーに礼を述べる。応援を呼ぶ暇どころか、まともに令呪を使う暇すら無かったので、外に飛び出してもアーチャーの援護をアテにして生き延びられる確率は低いと考えていたのだが──、

 

『俺はお前のサーヴァントだ。主の姿は逐一把握しているし、危険に突っ込みそうな時はいつでも撃てるように準備してある。……まあ、店にサーヴァントが来店したりする馬鹿げた例外は除かせてもらうが。ともあれ、あまりシモ・ヘイヘ(おれ)を舐めないで貰いたいね』

 

『……そうですね、反省します。貴方を過小評価していました』

 

『分かってくれたなら構わない。折角だ、俺からアドバイスを言わせてもらうか』

 

『アドバイス? サーヴァントを前にしての戦闘についてですか?』

 

『馬鹿かお前は。いくらお前が代行者だろうと、まともにサーヴァントとやり合おうなんざ思わない事だ。命がいくらあっても足りん』

 

 不満げな真顔になるアナスタシアだが、その言葉はもっともだ。キャスターの一件で少し焦りが見えてしまったが、今後はもっと慎重に動かなくては──と自分に言い聞かせる。

 一仕事終えた気分で煙草を取り出し、古ぼけたライターで着火しながら、木の幹に背を預けたアーチャーは語る。

 

『さて、俺が言いたいのはだな……反省した時は仏頂面で言うんじゃなく、もっと分かりやすくシュンとした方がいいって事。感情を出す時はもっとそれらしく。アンタの男もそれじゃ困惑するだろうさ』

 

『アンタの男──とは?』

 

『分からん奴だな、店主の槙野とかいう奴の事だ。アレ、もうすっかり仲がよろしいようだからてっきりお前が告白でもされたのかと』

 

『………………!』

 

 念話はそこで切れた。煙草をふかしながら、アーチャーは少し意外そうな顔で首をすくめる。

 己のマスターの今の顔をスコープ越しに眺めたくなってみたが、やめておいた。後で怒られると面倒だし、何より勝手に想像した方が楽しいような気がしたからだ。

 

「最初召喚に応じた頃は、まるで機械みたいな奴だと勘ぐったものだが……やれやれ、ずいぶん不器用な女だ」

 

 マスターの微かな変化を楽しみながら、アーチャーは二本目の煙草に火をつけた。




【アサシン(?)】
アナスタシアを殺そうとしたサーヴァント。
まともな思考力どころか己のクラスが何かすら把握しかねている状態なので、気配遮断のスキルを使いこなせていない。もし闇に紛れる彼本来の戦い方が可能だったなら、アナスタシアは確実に死んでいた。


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二十六話 戦闘準備──強襲

 カッターシャツを乱雑に脱ぎ捨て、着慣れた紺のシャツに腕を通す。教科書が散乱した勉強机の上に置かれたデジタル時計の針は、ちょうど午後二時を指し示していた。

 早々に着替えを終え、手にしたスマートフォンから響く騒がしい声に耳を傾ける。声の主は我が妹、志原楓だ。

 

「──もしもし、お兄ちゃん? 前田さんから聞いたんだけど、ついに彼女できたってほんと? ちょっと私にも教えてよぉ」

 

「お前には関係ない。どうせアレだよ、いつもの大雅の勘違いだ。そんなんじゃない」

 

 俺とセイバーは彼氏彼女などではなく、もっと深刻かつ重大かつ俺が一方的に迷惑を被る関係だ。そんな華やかなものでは断じてない。

 

「怪しい。怪しすぎる。なんか隠してる感じするし」

 

「隠して…………ないって。別に」

 

「ほら今言葉に詰まったじゃない‼︎ お兄ちゃん嘘つくのド下手よね昔から」

 

「う、うるせえなあ‼︎ お前はどうなんだよ、家に帰ったけどどこにもいないし‼︎ お前今どこで何してんだ⁉︎」

 

「私はバイトだけど、何か問題あるわけ?」

 

「じゃあバイト中にわざわざかけてくんな、もう切るからな‼︎ とにかく夜は危ないから家に帰って寝てくれ、じゃあまた‼︎」

 

「あっ、ちょっ────」

 

 野次馬根性丸出しで兄のプライベートを探ろうとする楓を一蹴し、俺は容赦無しに通話を切った。

 途端に沈黙する端末の電源を切り、改めて視線を上げる。目の前には勝手にベッドに寝そべる魔王さまの姿がある。

 

「セイバー。楓が居ない今がチャンスだ、俺の用意が終わったらすぐに家は出るからな。それまでにそれ読み終わっとけよ。読み終わってないってだだこねても知らねーぞ」

 

「いやいや、まだ十ページも読んでないんですけど、どうしろって言うんですか。むしろ私は深夜までここに留まり、下手に動くべきではないと思います」

 

「今更何言ってんだ、俺を至る所に散々連れ回しやがった癖に。漫画読みたいだけだろお前。それに俺だってできれば夜まで家に居たいけどさ、帰ってきた楓にどう説明するんだよ?」

 

「言ったじゃないですか。恋人と」

 

「だ、か、ら無理言うなァ‼︎ あいつの事だ、絶対根掘り葉掘り聞いてくるに決まってる‼︎ そうなりゃ嘘なんてすぐバレるぞ、絶対‼︎」

 

 家に一日ぶりに帰宅してから既に十分が経過している。幸いにも妹の姿は無く、俺は安心してセイバーを家に入れる事ができた。

 家に上げた友人のようなノリで漫画を読み耽るどころか勝手に冷蔵庫からジュースを引っ張り出したセイバーに釘を刺し、自室のロッカーをがらりと引き開ける。

 久方ぶりに開けたからか、埃っぽい匂いが微かに鼻をついた。

 

「そういえば、準備って何するんです?」

 

「そりゃあ、戦う準備に決まってるだろ」

 

「何言ってるんですか。基礎魔術すら使えないケントが戦うなんて。強力な回復能力があるとはいえ、死なない訳ではありません。あまり調子に乗っていては死にますよ」

 

 その声は静かで、そもそも漫画から視線を離さないまま放たれた言葉だったが、そこに秘められた真剣さと威圧感は本物だった。彼女は本気で言っているのだ。

 まるで背筋を鷲掴みにされたような感覚をたった一言で味わいつつ、目線を逸らして頭を掻く。

 

「分かってるよ。でもな」

 

 思い返すのは昨晩のこと、サーヴァントに遭遇すらせずに死に掛けた夜のことだ。

 

「昨日みたいにお前に頼れない時だって絶対に来る。昨日だって、数秒の差で助かったようなもんだ。……お前みたいにガンガン戦おうとしてる訳じゃないよ。ただ緊急時に少しでも生存率を上げれるよう、なんとか努力してるだけだ」

 

 実は俺も戦う手段は持っている。あまりに非合法すぎて使うのは気がひけるどころじゃないのだが、昨晩またもや死に掛けていい加減敵の脅威度を認識した。

 全く気は進まないが、殺される前に殺すくらいの覚悟で臨まなければ──俺はこの先、確実に死ぬ。

 

「……ならいいですけど、どうする気ですか? いくらケントが腕っぷしに自信があろうと、魔術師には到底対抗できませんよ」

 

 先程の鋭い口調は何処へ行ったのか、セイバーはけろりと口調を変えて面白がるように呟く。

 

「うるせえな、それくらい分かってるよ……子供の喧嘩じゃないんだから」

 

 ロッカーの中から厳重に封をした段ボール箱を持ち出し、ベッドの横に置く。

 セイバーの目はくりくりと忙しなく動き、突然現れた謎の箱の表面に視線を滑らせた。

 

「何です? ソレ」

 

 それには答えず、俺は少し焦った手付きで封を開いていく。積もった埃が舞い上がるのを片手で払いながら、箱の内部に積み上げられた様々な物の内の一つを拾い上げた。

 

「これが催涙ゴム手榴弾、こっちは……えーっと、確かM84スタングレネード。こっちはスモークだろ……こっちがサバイバルナイフで、なんと本物のハンドガンまであるんだ。絶対人には見せないようにいつもはロッカーの奥深くに隠してるけど」

 

「うぉわ……こりゃまた、物騒というか……何故ケントがこんな武装を? 一般人が入手できるような物では無いと思いますが」

 

「それが、俺の父さんがやたら変人でさ。海外で何をしてるんだか知らないけど、母さんに内緒でくれるんだよ、こういうの。土産物代わりに。ぶっちゃけ迷惑なんだけどまさか役に立つ日が来るとは」

 

「私が言うのもなんですが、胡散臭くありませんかソレ。一度しっかり話し合った方がいいと思いますよ、家族で。なんか重大な秘密とか隠されてません?」

 

「けどなあ。両親とも年に一、二回しか帰ってこないし」

 

 そんな事を言いながら、クローゼットの奥に掛けてある少しボロっちい黒のジャケットを勢いよく羽織る。少し暑いが頑丈さは相当なもので、きっと活躍してくれる筈だ。

 と、それを見たセイバーはぎょっとした顔で──、

 

「……ケント。それは、どこで?」

 

「ん、このジャケット? 父さんが昔の仕事仲間に作ってもらったらしい、俺の誕生祝いに」

 

「何故、魔獣の皮で魔術的に編まれたものをケントが……これは魔術師が……いや……ということは……」

 

「?」

 

 セイバーは怪訝な顔で何事か呟いていたが、まあいいやと放っておく。大きめのサバイバルナイフを握り直しながら、壁に掛けられた家族写真を見やる。

 よく日に焼けた父親に、楓によく似た笑顔の母親。今より数歳若い俺と楓は仲良く手を繋いで、カメラに向けてピースをとっている。確か有名レジャーランドに行った時の写真だった筈だが、最近我が家は不景気なのでとんとそういうイベントがない。

 ……今後、俺が生きて家族団欒に参加できるかも怪しいのだが、最悪の可能性はなるべく考えないようにしておく。

 

「そういえば、セイバーにも家族はいたのか?」

 

 口から出たのは、ふと湧いた、単純な疑問だった。

 失敗点を挙げるならば、その時の俺はどこかぼーっとしていて深く考慮する事を忘れていたということ。

 問いかけた直後、セイバーの手の中から単行本が滑り落ちる。

 

「………………………………私の、か、ぞく?」

 

 自然な流れで生前のセイバーの話に興味が向いたと思っていたのだがが、セイバーは答えないまま、信じられない程に顔を蒼白に歪め──、

 

「ぅ、あ──ぐぇ、げぇっ‼︎」

 

「せ、セイバーっ⁉︎」

 

 両目を見開いて嘔吐(えず)くセイバーに転がるように寄り添い、俺は無我夢中でセイバーの背中を撫でてやった。蒼色の髪が至近距離に迫り、ふわりとした心地いい香りが鼻腔を刺激する。

 だが、こんな時でもそんな事に気をとられる考える自分に腹が立ち、俺は自分を殴りつけたい衝動に駆られた。

 肩を震わせ、暫し身体を固くしていたセイバーだったが、数分経ってからようやく顔を上げる。

 

「だ、大丈夫、です。……見苦しいところを見せました」

 

「いや。俺のせいだ。……ごめん」

 

 わかっていた筈だ。彼女が極度に過去の話をする事を嫌うということは。

 うなだれる俺を見て、セイバーは力無く笑う。

 

「じゃあ、そうですね、お菓子の一つでも持ってきてもらいましょうか。今ので私は機嫌が悪くなりました」

 

 ──嘘だ、とはっきり分かった。

 セイバーは我儘でよく物をねだるが、今のは声に力が無い。きっと、無理を誤魔化そうとして振舞っているに決まっている。セイバーの頰にはじっとりと汗が浮かんでいて、俺は思わず歯を食い縛る。

 だが、どうしようもなかった。

 大人しく俺が自室のストックからチョコレートを引っ張り出すと、セイバーはそれを美味しそうに頬張って──、

 

「もぐもぐ、ん……で、家族でしたか」

 

「いや、その……無理なら、いいぞ。お前は自分の事を話すのを嫌がるのに、不意に聞いた俺に非がある。ほら、汗も拭けよ」

 

「……すいません」

 

 タオルを手渡した際に漏れた弱々しい声に、後悔の念が胸中で吹き荒れる。

 よもやここまで彼女が自らの事情を語る事に拒絶反応を示すとは思っていなかった。とはいえ、元を正せば自分の不注意が引き起こした結果だ。

 

「反省した、今後は気をつける。……なんだから話を変えるか。今日の方針をどうするか、なんだけど──」

 

「方針は変えないでいいでしょう。バーサーカーにさえ……そう、アイツにさえ気を付ければ多少大胆に動いても構いません。私ならば大体のサーヴァントに優位が取れますから、自分達を囮にするくらいの心意気でいきましょう」

 

「すっげえ自信だな、相変わらず……しかし、バーサーカーか」

 

 携帯型ポーチに色々な武装を詰め込みながら、嫌な汗が首筋に浮くのを自覚する。

 ……なんせ、一度殺された相手だ。

 根付いた苦手意識は、どう足掻いても消えそうに無い。あの憤怒に駆られた悪鬼羅刹と見間違えんばかりの貌、膨張する筋肉、禍々しく唸る漆黒の剣──。

 

「奴の強さは度が外れています。あのサーヴァントを単独で倒せる英霊となると、ほんの一握りと言っていいでしょう」

 

「昨日の化け蛇をいとも簡単に倒してたお前ですら、あの男は手に余るのか」

 

「ええ……更に悪い事に、どうも奴の剣は私も相性が悪いんです。これは運の悪い偶然という他ありませんね。バーサーカーに関しては正面から戦えばまず勝てませんし、前マスターも奴に殺されました」

 

「……了解。けど狂戦士のクラスは消費魔力が尋常じゃ無いとか言ってなかったっけ。なら、付け入る隙はあるんじゃないのか」

 

「ええ。あれ程の英霊に狂化を付与し使役すれば、必ずその代償が現れるでしょう。叩くとしたら、その崩れたタイミングですかね」

 

 成る程ね、と呟いて、俺は所持品の最終確認を終えた。膨れたポーチを叩き、最後に主武装となるコンバットナイフをいつでも取り出せる場所に詰め込んでおく。

 ハンドガンはあくまで切り札だ。弾倉に込められた弾が15発、予備マガジンは一つ。魔術師とやらがどんな連中がいまだに不明瞭な以上、最初からぶっ放して下手に対策されれば勝ち目は薄くなる。

 まあそもそもこのセイバーが馬鹿じみて強いので、戦闘はほとんど丸投げした方が確実かつ両者にとって安全だろう。つまるところ俺が戦うという状況は、とんでもないピンチであるという事に他ならない──それをあらかじめ理解した上で、俺は軽く頬を叩いた。

 

「これで準備完了。よし、今日も死なないように気合い入れていくぞ‼︎」

 

「ちょっと待ってください、あと半分読んでません」

 

「……………………」

 

 空気を読むということを、この英霊は知らないらしい。

 折角威勢良く出陣しようと試みたというのに出鼻をへし折られた気分に陥り、渋面の俺は無言でセイバーから単行本を取り上げた。

 

 

 

 

「もぐもぐ……」

 

 数時間が経過し、時間帯は深夜の十二時を微かに超える頃合いに突入していた。

 俺はコンビニで購入した夜食代わりの某有名チキンを頬張りつつ、隣のセイバーにちらりと視線を寄越す。

 

「……何ですか、ケント」

 

 サーヴァントは食事を摂る必要が無い。故に、彼女が食べるのはもっぱら好みの甘味類だ。今も大事そうに抱えたグミの袋から一つ一つ蛍光色の粒を取り出しては、美味しそうに咀嚼している。

 食事中の俺が言うのもなんだが、その姿からは緊張感という物が全く感じられない。

 

「……いや、何でも。しかし、目標も無くうろつき回るのもなかなかにきついな。それに、俺は自分自身を餌にサーヴァントを釣ろうとしてる訳だし」

 

「そうですか? 私は楽しいですよ。こう、ふらふらと二人で歩いているだけでも」

 

「そりゃどうも」

 

 ガードレールに腰かけたまま、空を仰ぐ。

 二十二時に行動を開始し、かれこれ二時間以上東部の住宅街を巡回してみたが、これといった成果は得られていない。

 

「……あ、ぐみが無くなりました」

 

「今のお前、どう見てもサーヴァントには見えないぞ。明らかにコンビニ帰りに我慢できなくなってお菓子をつまんでるダメな人だ。敵が出ないのもそのせいじゃないのか」

 

「む、失礼ですね。ぶっとばしますよ」

 

 セイバーが片手を置いていたガードレールがめきり、と歪むのを見て、若干顔を青くしながら沈黙する。

 しかし次の瞬間、セイバーが勢いよく西の方角を振り向いた。ほとんど間髪入れずに俺の手がむんずと掴まれ、セイバーが電柱の陰に俺を引きずっていく。

 

「……な、何だよ⁉︎ 結局また俺は殴られるのか、そうなのか⁉︎」

 

「違いますっ。静かに……奴です」

 

 奴──と聞いて心当たりがあるのは、一人しかいない。

 この魔王たるセイバーが唯一警戒し、真正面からでも勝てないと言う狂気の英霊。俺の全身が異様な気配に総毛立つと同時に、何かが踏み砕かれる音が連続して聞こえてくる。

 

「あれは──────」

 

 夜闇の中。俺たちがいる住宅街の遥か遠くに駅前の光が瞬いていて、それを横切るように動く閃光が見えた。

 その人影は住宅街の屋根を踏み潰すくらいの勢いで宙を駆け、異様な速度でこちらに迫ってくる。定期的に聞こえてくる破砕音は、バーサーカーが足場とする住宅の屋根を踏み砕く音だったのだ。

 それは幸い俺たちに気付くことなく、数軒先の民家の上を駆け抜けていった。分かっていてもなお目で捉えられない程の速度に、つい嫌な記憶を思い出してしまう。

 

「…………行きましたね。最近になって大塚市中を巡回しているようですが、バーサーカーとして狂化していることが救いでした。こうして隠れるだけでも、奴に発見されるのだけは防げる」

 

「でも、バレたら確実に──」

 

「その通りです。せめて満月の夜まで待たなくては、あの英霊を倒せる気がしませんね」

 

 セイバーの表情は研ぎ澄まされた刃の如く真剣だ。再び合間見えて、あの英霊の恐ろしさを実感する。

 

「……そういや、「超強い剣」としか言ってなかったけど。満月になると倒せる可能性があるってどういう仕組みなんだ?」

 

「そうですね。確かに伝えておいてもいいかもしれません」

 

 俺の問いにセイバーは平然と片手に剣を出現させ、軽く掲げてみせた。最早いちいち動揺しないあたり、俺の成長が伺える気がする。

 

「うん……いつもの剣だな。それでどうなんだ」

 

「一応れっきとした神造兵器、この世に二つと無い逸品なんですけどね……まあいいや、よく聞いてください。これは降り注ぐ月光を集約し、極限まで鍛え上げた神剣です」

 

「やたらとかっこいいな……」

 

「なんですかその子供みたいな感想は。まあもとは聖剣とはいえ、私のせいで魔剣化しちゃってますけどね」

 

「別にいいじゃんか、魔剣は魔剣で闇パワー感あってかっこいいし。それに聖剣も魔剣も変わらんだろ」

 

「いや全然違うんですけど……まあともあれ、この剣が持つ性質は月光の「蓄積」と「放射」。空に浮かぶ月が輝くほど、この剣も力を増すのです」

 

「なるほど、だから満月か。そういや、ライダーの奴と戦ったときも言ってたっけか」

 

「そうですね、新月、もしくは月が雲で隠れている時の出力を1としましょうか。すると半月時には4、満月時には8……というように、この剣の出力限界(リミット)も解放されていきます」

 

 そう聞いて、俺は思わずライダー戦の光景を思い返していた。

 あれはあれで鮮烈極まる光景だったが、比べてみれば、今宵のセイバーの剣は確かに輝きを増しているように見える。

 「出力」とセイバーは言ったが、恐らく、その刀身の硬さや鋭さ、その他諸々までもが纏めて強化されるに違いない。そして剣士(セイバー)にとって、剣の強さはそのままサーヴァントとしての強さに直結する。

 

「今の月って、アレは……だいたい上弦の月か?」

 

「そうですね。恐らくあと一週間ほどで満月かと」

 

「成る程、今後は月の状態も考える必要があるか。曇りの日は派手な行動は避けるべきとか……今日以降も月はどんどん満ちていくんだし、しばらくは状況的に有利だな……」

 

「ちょっと、何ブツブツ言ってるんですか。似合いませんよ全然」

 

 一人で放置されたセイバーが唇を尖らせる。

 

「うるせえな。俺だってちょっとは考えて……」

 

 俺の考えが呟きとなって漏れていたのか。カチンとくる台詞を吐かれて、思わず言い返そうと俯き気味だった顔を上げる。

 瞬間。

 全身を襲う奇妙な違和感があった。

 辺りに満ちる空気ではない何かが震えるような感覚。そうだ、身体が憶えている。今までも感じたことがある、これは多分魔力とやらのうねりによるもの──。

 

「────来ます!」

 

「ンな……⁉︎」

 

 視界の端で光が膨れ上がった。

 セイバーが俺を庇って飛び出す。俺はほぼ無意識にその小さな背中に手を伸ばしていた。

 が、それを妨げるように、目を灼く閃光が炸裂する。暴風と光が一緒くたになって通り過ぎ、俺はガードレールから転げ落ちそうになりながら目を細め、光の奔流の奥を見ようと試みる。

 

「くそ……‼︎ セイバー、大丈夫か──⁉︎」

 

 あるはずの返事が無い。

 胸に一抹の不安を抱えながら、腕を掲げて光が収まるのを待ち続ける。やがて刹那的な輝きは途絶え、視界に光の残滓が焼き付いたままではあったが、俺は視力を取り戻した。

 だが、奪われたものが一つだけ。

 

「……おい、セイ、バー……?」

 

 セイバーが居ない。

 どこにもいない。

 跡形もなく、消失してしまった。

 

 その事実は俺の中心を貫き、雷撃の如き衝撃を脳髄に叩き込む。

 

「返事しろよ──おい‼︎ どこだ⁉︎」

 

 無情にも返事は無く。

 代わりに響いてきたのは、足音。

 突如として現れたその人影は、坂道の途中に立つ俺を見下ろすように、殺意を籠めた目線を俺に向けていた。




【健斗のハンドガン】
正式名称:ベレッタ92。
米軍に正式採用された事から始まり、映画などに度々登場し世界中で絶大な人気を誇ったベレッタ社製のハンドガン。15発入るダブルカラム・マガジンにブレにくい弾道、軽めの反動など扱いやすく親しみやすい一丁。
最近では拳銃の世代交代の波に飲まれつつあるものの、色褪せない魅力が詰まった名銃。

……と色々頑張って調べて書いてみたけど、筆者は知識のないミリタリー系にわかなので、間違ってる描写などがある可能性があります。
にわかを晒していても暖かい目で見て頂けると幸いです、スイマセン…。

【健斗のコンバットナイフ】
比較的大型のコンバットナイフ。海外製。昔は父親が使っていた。

【健斗の両親】
海外で働いているが、何をしているのかはさっぱり不明。
不要になったり余ったりした武器を検閲にも引っかからず日本に持ち込めんでいるのを見るに、相当怪しい仕事をしているのは確か。


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二十七話 激突、魔王と陰陽師

 それは、小柄な人影だった。

 そして、異様な人影だった。

 闇に溶け込むかのような衣服──いや、アレは元より闇に潜む事を前提として作られた衣装なのか。

 ノースリーブの黒装束に首元を隠す長布と、まるで女忍者が着る忍装束だ。機動力と隠密性のみを求めた軽装。そして魔術的な力が働いているのか、その人影の顔を見ようとすると焦点がぼやけ、まともに顔を見ることもできない。

 一見武器らしきものは何も持っていない。だが、俺はその人影の背後に陽炎のように揺れる闘気を確かに見た。

 

「………………‼︎」

 

 その姿がまともに捉えられたのも一瞬だった。

 住宅街の道路に等間隔で設置された夜灯が一斉に光を失い、夜を照らす僅かな灯りが全て消えてしまったからだ。

 一気に下がる辺りの明度。それは関係ない目撃者を減らすための計らいか、それとも何か別の意図があるのか。

 だがその時、俺の思考は腹の底から業火の如く湧き上がった憤怒に取り憑かれていた。「セイバーを消した」という明確な事実がもたらした衝撃は、全て目の前の魔術師への怒りに変換されていたのだ。

 

「オマエ……‼︎」

 

 自分でも感じたことのない程の激情。怒り。憎悪。殺意。

 それらに駆られたまま、それでも怒りを押し殺して敵対者に問い掛ける。

 

「答えろ‼︎ セイバーに何をした⁉︎」

 

 魔術師は答えない。返答の代わりに、鋭く突き刺さる弓矢の如き殺意が俺の全身を舐め回した。

 完全に敵意剥き出し、対話すら気はさらさらないと見える。

 

「おいッ‼︎ さっさと答えやが──」

 

 ──どぐん、と。

 動かない筈の心臓が、跳ねた。

 

「ごッ、は……ぁ⁉︎」

 

 ──何かが、おかしい。

 心臓がひっくり返る。埋め込まれた宝具で辛うじて魂の遊離を逃れている身体が、生を取り戻したかのように赤熱する。

 

"何がおかシイ?"

 

(ヘンだ。これは、俺の意思じゃ、な……)

 

 頭がノイズで埋め尽くされる。騒音と偏頭痛の洗濯機の中に放り込まれたような気分を味わいながら、何者かの声を拠り所に意識を保つ。

 

"すべき事ハ何だ"

 

(そうだ、あいつは、セイバーは?)

 

 重要なことを思い出した。最も大切な存在が此処には居ない。

 消えたんだ。消えた、死んだ? 誰のせいだ、誰が……。

 

"コイつが、殺シた"

 

 ────ふざけるな。

 そんなことは許さない。

 たとえ誰が許そうとも俺が決して認めない。

 アレを■すのは俺だと、死の淵から蘇った時から決まっている。何の関係もない魔術師風情が介入するなど、まったく不敬極まりない。

 思考が一度ぷつんと途切れて、何がが切り替わった。

 全身の感覚が異様に冴え始める。心の底から沸き起こった残虐な黒い何かが、ぞわりと脳内を埋め尽くしている。

 

「ああ……は、は、は」

 

 がちり、と何かが噛み合った感覚。

 全身の細胞が隅から隅まで裏返る。俺は俺のままの姿を保っているのかも不確かなままで、それでも確かに殺意を籠めた台詞を吐き捨てた。

 

「────オマエは、今すぐ解体(バラ)して殺してやる」

 

 取り憑かれたように、頼りのサバイバルナイフをポーチから引き抜く。微かな月光を受け、十センチを超える分厚い刃はぎらぎらと妖しく輝いていた。

 緊張と殺意で全身が熱い。

 やけに喉が乾く。神経が末端まで発熱しているかのよう。

 頰の筋肉が不気味に痙攣する。遅れて、俺は嗤っているのだと気付いた。

 あるはずの恐怖は無い。

 その場所を埋めているのは、「殺意」という名の熱情だけ。

 

駆動開始(セット)

 

 俺に応えるように、敵の唇からぼそりと何かが呟かれる。

 くる──発熱する頭で漠然と判断する。

 直後。鋭い噴出音と共に、漆黒の闇を紅く照らす凛然とした美しい輝きが生まれた。その輝きに目を僅かに細めながら、何を仕掛けてくるのかと意識を更に集中する──。

 

「………………?」

 

 だが俺の予想に反し、逆巻くように展開する紅い光はいつまでも離れることはなかった。まるで身を包む籠手と脚鎧のように、その光は魔術師の四肢を覆い続ける。

 ゲーム知識で言えば魔術師といえば遠距離攻撃、てっきり坂の上から何か仕掛けてくると考えていたんだが。

 俺の微かな動揺を見透かしたように、魔術師は四肢を不気味に紅く発光させたまま、肉食獣の如く深く腰を落とし──、

 

「ッ‼︎」

 

 僅かに息を吐き、猛然と大地を蹴った。

 

「………………‼︎」

 

 ────あまりに、疾い‼︎

 コンクリートの大地を踏み砕き、本当に人間かと疑う程の俊敏性で、魔術師が真正面から迫ってくる。

 肉食獣を思わせるしなやかな足運び。俺が十歩以上かけて走破するであろう距離をたったの三歩で縮めた魔術師は、坂道の上という位置関係を最大限に利用して空中に身を躍らせると同時、独楽のように身体を回転させる。

 ちりっ、と額を灼く悪寒。

 反射的に首を反らす──直後。

 遠心力を伴ってギロチンの如く振り下ろされた魔術師の右拳が俺の鼻頭を掠め、そのまま足元の地面を粉々に叩き割った。

 

「チッ──‼︎」

 

 全力で背後に跳ぶ。

 続いてアッパー気味に襲い来る左の拳が放たれたのはほぼ同時だった。一瞬前に居た場所を、空気を揺らして凄まじい拳撃が突き抜けていく。

 

「……く‼︎」

 

 坂道でのバックステップ。当然足場は傾いており、バランスを崩した俺は体勢を崩す。数メートル転がったところでなんとか止まると、俺は無言のままに立ち上がった。

 ナイフを逆手に構えるが、荒い呼吸は落ち着きを取り戻さない。

 再び間合いは広がったが、当然魔術師がその気になれば、その脚力で瞬時に間合いは詰められてしまう。

 大方、あの魔術師が使う魔術は肉体を強化する魔法なのだろう……と大体の予想を立てる。

 となると、非常に状況は不利だ。

 こちらの得手はもっぱら格闘戦だというのに、これでは俺の数少ない有利点が潰されてしまう。あんな速度で走り回られたら、素人が拳銃の弾をまともに当てるのも非現実的。

 魔術師ってのは大体近接戦闘は不得手なんじゃねぇのかよ、と心の中で吐き捨てて──、

 

「やかましい……」

 

 細かいコトはどうでもいい、と余計な思考を切り捨てる。

 すべきことは一つのみ。

 ただただ、敵を屠ることのみに己の全てを集中させろ──。

 

"殺せ、殺せ、殺せ‼︎"

 

 笑えてくる。何か変だ、何かおかしい。

 だが、それすらも心地いい。

 喜悦を感じながらも眼光に一層強い殺意を込めて、俺は大地を蹴り飛ばした。

 

 

 

 

 圧倒的な光量が過ぎ去った後。

 目を細めるセイバーは、不気味な違和感を感じて動きを止めていた。

 彼女が身に纏う最高ランクの対魔力は殆どの魔術攻撃を無効化する為、傷を負うことはない、と踏んでセイバーは真正面から閃光を受け止めた。

 結果的には、セイバーが傷を負うことは無かった。四肢は十全に動く。呪詛の類を受けた痕跡も無い。

 だが、彼女の表情は冴えない。

 軽く唇を噛みながら、セイバーは内心で呟く。

 

(あれは、「攻撃」ではない……?)

 

 アレを対魔力など皆無のケントが真正面から受け止めていたとしても、彼は擦り傷一つ負わなかった筈だ。

 つまり今の光は、攻撃以外の、何らかの目的を持って放たれた何かであるという事。

 単純な攻撃よりも、その方が何倍も恐ろしい事は言うまでもない。

 

「何か変です、決して私の背後から……」

 

 セイバーは肩越しに背後に視線を投げ、何かと危なっかしい例の少年に注意を飛ばそうとして、

 

「……っ、ケント⁉︎」

 

 そこで遅れながら主の不在を知り、思わずセイバーは声を荒げた。

 辺りを見回しても、少年の姿はない。

 セイバーが固く奥歯を噛み締めると共に、瞬く無数の光があった。

 坂の上から無数の魔力弾──杭や剣と、攻撃用の形をとっている──が、風を切り裂いて襲い掛かる。その一つ一つが地を穿ち、人体を容易く四散させる、致死確殺の威力を伴った殺戮の雨。

 

「邪魔だ」

 

 ただ短く嘯いて、セイバーは手にした曲刀を薙ぎ払った。

 無造作に見えて、その実恐るべき技倆(ぎりょう)で放たれた剣戟。

 激突、爆裂────‼︎

 撃ち放たれたそれらは連鎖的に爆発を引き起こし、彼女の眼前で瞬間的に灼熱の火炎が膨れ上がる。

 その余波はあろう事か両脇に並ぶ民家までもを粉砕し、灼けた瓦礫がセイバーの頭上に降り注いだ。

 

「……………………」

 

 セイバーは苦い顔をして、崩落する民家に視線を投げた。

 この攻撃の主は、周辺への被害を悟った上で、この苛烈な魔術攻撃を住宅街のど真ん中で繰り出している。犠牲者の数も厭わずに、だ。

 

「屑が。無辜の民を巻き込んでまで、その手に聖杯を求めるか」

 

「おっと。あの彼がおらんくなったからか? 口調も目つきも相当怖くなっとるけど、君にはあんま似合わんで。それ」

 

 侮蔑の感情と共に吐いた言葉に返答があった瞬間、セイバーは全身から溜め込んだ剣気を解放した。実体を持たない筈の剣気(オーラ)。しかし火炎の渦は怯えたように押し戻され、セイバーの目の前から掻き消えていく。

 火焔を裂いて立つ魔王に、飄々とした声が掛けられる。

 

「ま、安心しぃ。ここはもう陰の世界、世界の裏側に貼りついた幻想郷……邪魔なモンはなぁんにもあらへんからな」

 

(陰の、世界……?)

 

 道路の真ん中にすらりと立つ、セイバーから見れば珍妙な格好をした東洋人らしき男の姿を捉えて、セイバーは眦を吊り上げた。

 

「貴様は……キャスターだな」

 

「そういうキミはセイバーやな。真名は……こりゃ……成る程、かの魔王────か」

 

「っ⁉︎」

 

 あっさりと告げられたその言葉で、セイバーは喉が干上がるような緊張を感じていた。

 

(馬鹿な。真名を察するにしても、余りにも早すぎる)

 

 セイバーの沈黙を肯定と捉えたのか、キャスターが可笑しそうに笑う。

 

「すまんなあ、僕の眼は視た者の過去を見通してまうんや。しかしまあ、肩書きの割に可愛い子やんか。なんや興が削がれるなぁ……それに、君が魔王に至った成り立ちを見てしまえば、ますます戦う気も失せるってもんや」

 

「不敬者が……この私を愚弄するか‼︎」

 

 過去を見通された不快感から、セイバーは怒号を上げた。真名を明かされた事よりも、その言葉がまずなにより癪に触る。

 ……だが、今は怒りに我を忘れている場合ではない。ケントの身が危ないのだ。

 くくくっ、と手にした扇で口元を隠して笑うキャスターを睨み付けながら、セイバーは周囲に意識を飛ばす。

 両脇には半壊した民家が二棟。

 あれほどの爆音、爆風が巻き起これば、いかに深夜とはいえ一帯の住民が気付かない訳がない。だが辺りに人間の気配は無く、崩れ落ちる民家の中から悲鳴が聞こえてくる事もない。

 

(どこから見ても、極めて現実世界に類似していますが……確かに静か過ぎる)

 

 風は吹かない。星は動かない。

 この「世界」は、世界の模造品(コピー)とも言える何かだった。

 同じなのは見てくれだけで、中身はからっぽ。世界に溢れ、世界という名のキャンパスを色とりどりに染め上げているはずの生も死も時も此処には存在せず、残るのは孤独な一枚絵の風景のみ。

 その孤独な光景は──自分がかつて嫌という程味わってきたモノに被って見えて、セイバーは思わず瞳を細めた。

 

(ここは……固有、結界? 大気に浮遊する魔力の密度が異常に濃い……少なくとも、まともな世界ではない)

 

「おっと、結界の類やと思っとるんなら違うで。言ったやろ? ここは世界の「裏側」、現世から放逐された幻想の化身たちが隠れ潜む理想郷や」

 

「……つまり、ケントは現実世界の「この場所」に置き去りにされた、と?」

 

「そやで。今頃ボクのマスターが相手しとるんちゃうかなぁ?」

 

 セイバーの言葉通り、ここではない「ここ」に視線を寄越すように、宙を見上げてキャスターは嘯く。

 

「ならば、助けに向かう」

 

「そりゃ無理や。ここからは僕を殺さん限り出れんからなぁ」

 

 その一言で彼女の行動は決定した。

 跳ぶ。姿が霞むほどの速度で。

 足裏からの魔力放出を併用すれば、弾丸の如く飛翔することも容易い。彼女の前には数十メートルの距離も殆ど意味を成さない。

 腰元に構えた曲刀を右から左へ、目にも留まらぬ速度で振り払う。切っ先は吸い込まれるような正確さで男の首元へと迫ったが──、

 

「ふッ‼︎」

 

 虚無から出現した七本の刀剣が、神速で繰り出された刃をすんでの所で押し留めた。

 だが所詮は魔術師(キャスター)の剣。彼女の神造兵器には一秒も対抗できない。強引に力を込めれば刀剣は一本一本砕け散り、その残滓を撒き散らして地面に落下していく。

 しかし、その一瞬の間に、キャスターは詠唱を早口で複数個唱え切っていた。

 呼応するようにキャスターの背後の空間が歪み、ねじれ──、

 

式神跋祇(はっし)。魑魅魍魎、怨鎖招来」

 

 瞬いた五芒星から一斉に飛び出したのは、不思議な風貌の怪物達。鬼、獣、蟲、人魂……セイバーも知り得ぬ極東の妖だった。

 一匹一匹が熊をも凌駕する体躯を誇る数十の影が一斉に殺到する。

 小柄なセイバーの姿は、瞬く間に怪物達の巨躯に埋め尽くされた。

 蹂躙、という言葉こそ相応しい。一匹一匹が計り知れぬ人外の力を持つ怪異。その群れ。圧倒的な物量の飽和攻撃は、セイバーの余りに小さな体躯を真正面から圧し潰す。

 

 ──が。瞬きの一閃。

 

「煩いぞ、不敬者供が」

 

 一瞬で。完璧に。

 猛る魔王の凶刃は、仇なす不敬者らを例外なく一刀の元に両断した。

 刃の軌道がまるで見えない。その音すらも超越した剣速の前には、「斬られた」という事実を認識できた妖は一匹も存在しなかった。

 だがキャスターは動じない。

 莫大な力の一端を披露するセイバーに、不敵にも笑みを浮かべてみせる。

 

「やあやあ。足止めご苦労さん」

 

「……っ⁉︎」

 

 次の瞬間。鋭い炸裂音と共に、何かがセイバーの右腕付近──正確には曲刀の刀身を激しく打ち据えた。

 襲い掛かったのは一筋の雷撃。

 彼女の対魔力を貫いて傷を負わせる事こそ無かったものの、その狙いは別にあった。曲刀に纏わり付いた紫電は勢いを緩めず、セイバーの掌からそれを奪い取ったのだ。

 

「さて勾陳、頼んだ」

 

 矢継ぎ早にキャスターの攻勢。いつの間にか彼の背後に現れていた黄金の大蛇は、正しく彼女が昨晩打倒したモノだ。

 何か言葉を言う暇もない。

 大蛇の口から放たれた赤光は、瞬く間にセイバーの全身を包み込んだ。

 一筋のレーザーとなって地表を舐めるように放たれたその一撃は、セイバーどころか数十キロ先に位置する大塚市の端まで一本の赤熱した轍を刻み込む。たまらずセイバーは数百メートル吹き飛ばされ、舌打ちしながら態勢を立て直す。

 コンクリートが蒸発していく不快な音。セイバーは尚も身を押し飛ばそうとする灼熱の本流に耐えながら──、

 

(ぐ……っ、こいつ、昨晩とはまるで違う……⁉︎)

 

 困惑と共に、セイバーは思う。違う──というよりも、恐らくはこれがあの蛇が持つ本当の力なのだ。どうも自分はあの生物(かみ)が十全に力を振るえる場所に引きずり込まれたらしい。

 記憶しているものとは段違いの威力を伴う火焔の一撃が終わる。しかしその一撃が撃ち切られるよりもなお早く、キャスターは次の手を打っている。

 

「青龍」

 

 セイバーが驚嘆に目を見開く。

 神に類する存在をああして使役しているだけでも脅威だというのに、更にあのキャスターは黄金の蛇に匹敵する存在を複数対使役するのか──⁉︎

 顕現したのは蛇のような身体をうねらせる東洋の龍。溶解して赤々とした地表を晒す瓦礫の山に立ち、全身から黒煙を立ち上らせるセイバーでは、龍の口蓋の奥で瞬く藍色の閃光を捉えるのが限界だった。

 慈悲はなく、絶対零度の一撃が放たれる。

 それは他の竜種も用いる龍の吐息(ドラゴン・ブレス)であったが、正真正銘の神霊たる青龍の一撃は他の竜種と比べても桁が違った。

 放射状に放たれた氷の嵐は触れたものを例外なく凍り付かせ、物体すらも凍死させんばかりの勢いで住宅街を席巻した。実に数千棟の民家が一秒と経たずに氷の彫像と化し、ありふれた街並みが氷の奥に閉ざされる。それはセイバーとて例外ではない。

 

「ぁ──が…………」

 

 口から侵入した冷気はセイバーの気管支から肺を一瞬で蹂躙し、セイバーの喉奥から絞り出したような掠れた声が漏れる。

 正に絶対零度、霊基すら凍て付かせてしまう神の一撃。

 

「次。──押し潰しィ、玄武」

 

 さらに猛追。氷の牢獄に巨大な影が落ちる。

 身体の内側まで凍り付いてほとんど動きを封じられたセイバーは、降り注いでいた月光が何者かに遮られたのを感じて、咄嗟に目線だけを上げて脅威を認識しようとする。

 

「────────な、ん」

 

 が。それは彼女の理解の範疇を超えていた。

 頭上数メートルに現れていたのは、途方も無い大きさの巨大な漆黒亀。それが何かを彼女が認識するよりも遥かに早く、セイバーを大質量の落下が襲う。

 ──虚無の世界から、音が消えた。

 圧倒的な質量を受けてアスファルトが捲りあがり、その衝撃は木々をも根底から刈り取る死の衝撃波と化して、瞬く間に凍り付いた住宅街を更地に変えていく。氷の欠片がガラス片の如く宙を舞ってアスファルトを彩り、凄まじい破壊とは対照的に幻想的な光景を作り出す。

 

「玄武の重量は十万トンを悠に超える。当然、現存の生物が持ち得る筈のない質量や」

 

 民家をざっと数十軒ほど寄せ集めたほどの大きさを誇る巨大亀の落下攻撃は、隕石の落下にすら匹敵する威力を誇っていた。莫大な土砂と共に土煙が巻き起こり、巨大亀の姿すらも覆い隠してしまう。

 

「筋力自慢のサーヴァントでもこの重量は流石に持ち上げられん。更に自慢の剣が無ければ尚更難しい。神々の肩書きは伊達じゃない、ってな感じでもう終わりたいんやけど──」

 

 時折飛んでくるガラスやコンクリート片を扇で軽く払いながら、キャスターは目を細める。

 彼の眼に映るのは、立ち込める土煙。うっすらと煙の奥に霞む巨大なシルエットが、彼の使役せし守護神の健在を雄弁に語っている。

 が。何を思ったか、キャスターは懐から三センチ四方の小さな紙片を取り出して──、

 

式神跋祇(はっし)、紙片防破‼︎」

 

 宙に投げられた、一片2、3センチ程の紙片。それは瞬く間に直径二メートル以上に広がり、堅剛なる大盾へと変貌する。

 ガァァァン‼︎ と響き渡る硬質な衝撃音と共に、凄まじい勢いで何かが防壁に衝突した。

 顔を顰めたキャスターは、跳ね返って横に墜落したその飛来物に目線を寄越す。

 

「ちぇ……足止めにもならんとは、な」

 

 ──それは、首だった。

 見るも無残に、グチャグチャにひしゃげてしまった巨大亀の首から先。

 光を映さぬ虚ろな瞳からは、一筋の鮮血が流れ落ちていた。剣によるものではない、凄まじい力で強引に引き千切られたと思われる傷跡は余りに恐ろしく、傷を付けた者の残酷さを容易に連想させる。

 今もなお血飛沫を噴き続ける生首からキャスターは視線を外し、土煙の向こうから現れた人影を睨んだ。

 

「さすがやな。神の眷属じゃあ相性最悪か」

 

「フン。──貴様、不愉快だな」

 

 ぽた、ぽた、ぽた、と。

 漆黒の棘鎧は真紅に染まり、全身を隈なく血で塗り上げた少女(まおう)が歩く度、返り血が大地に刻まれていく。

 

「はぁ。とんでもない嬢ちゃんを相手にすることなってもうたなぁ、嫌や嫌や……なんてコト言っとると、まぁた頼光サンあたりに叱られるかね」

 

 血に濡れたその細腕に剣は握られていない。握られているのは物言わぬ肉塊だ。彼女が憤怒と共に力を込めると、神だったモノはさらに細かい肉片となって四散した。

 あろう事かこの少女は、神獣すらも超越する存在である伝説の守護神「玄武」の身体を──素手で貫き、臓物を捻り潰し、首を捻じ切ってみせたのだ。赤と蒼のコントラストを見せる前髪の向こうで、爛々と輝く獣の如き眼光がキャスターを射抜く。全てを蹂躙せんばかりのその威容はまさしく魔王に相応しい。

 セイバーが残った肉片を無造作に投げ捨てると、呼応するように蒼の曲刀が遠くから飛来し、難なく彼女の掌に収まった。

 

「貴様は特に私の不興を買った。様子見も加減も無しだ──殺す」

 

 短い言葉。だがそれには、空気さえも殺してしまうかのような圧と殺気が伴っている。

 

「さて、どうやろね? 君のマスターが倒される方が早いと思うで、僕は」

 

 にやりと笑うキャスター。それをどう捉えたのか、更に眼光を強めたセイバーが踏み込んで跳躍する。

 雷光の如き動作だが、図星を突かれた彼女の思考からは既に全てを見通すかのような冷静さは失われていた。

 轟音と共に大地が割れる。地中から突如顕れた巨大な刀剣が、セイバーの腹部をしたたかに打ち据える。

 

「────っ⁉︎」

 

 当然のように傷は無い。だが刀剣の切っ先に打ち上げられる形で、セイバーの小さな身体が軽々と吹き飛ばされる。

 ありとあらゆる神性の攻撃を無効化する彼女の加護。それに敢えて難点を挙げるとすれば、攻撃の威力そのものは殺せないという点が挙げられるだろう。ダメージを負わなくとも、攻撃で吹き飛ばされてしまえばそれだけ時間を稼がれる。

 途方も無い一撃に数百メートルは地表から引き離され、セイバーは唇を噛んだ。

 

(コイツ、なんて出鱈目な膂力を──‼︎)

 

 雲の切れ間に見える月が近い。

 偽物の街を高みから見下ろすセイバーの視界に、地面から姿を現わす巨大な武士の姿が映った。頰を叩くのは、眼下の巨兵が巻き起こした砂塵か。

 

『『『『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■‼︎‼︎‼︎‼︎』』』』

 

 その絶叫は、土色の巨兵のものだけではなかった。

 キャスターを守護するかのように、次々と顕れている複数の巨影。ざっと見えるだけで金色の蛇、灼熱の巨鳥、砂塵を纏った巨兵、それに青色の龍──都合四体。

 それらが一様にセイバーを睨み付け、怒りと闘志に叫んでいるのだ。

 

「皆、手加減無用や。全力で消し飛ばしい」

 

 それら全てが、練り上げた莫大な魔力をセイバーに向ける。

 その魔力の質はAランクを遥かに超え、最早計り知れぬ次元にまで到達。対軍宝具(・・・・)に匹敵する光の渦……それらの集中砲火を受ければ、対魔力など障害にもならない。

 遥か下方の地上で煌めく無数の輝きは、凄まじい破壊を巻き起こす前兆の輝きでありながら、まるでケントと見た夜の街のようだとセイバーは思っていた。

 ──だが、それも一瞬。

 滾る闘志をほんの一刹那忘れたセイバーの瞳に、明確な殺意の色が戻る。

 

「舐めるなよ有象無象が。一体誰を相手にしていると心得るか──‼︎」

 

 頭を下に、足裏を上に向けたまま、天空から落ちる一筋の矢となってセイバーが空を駆ける。

 ぎちり、と刀身が啼いた。

 呼応するようにセイバーが柄をより一層強く握る。

 

(ケント。悪いですが、魔力を借りますよ‼︎)

 

 月光に当てられた彼女の曲刀が、低い振動音と共に輝き始めた。いつしかライダー戦で見せたのと同じ様に、空間そのものが恭順の意に痙攣する。

 真名が把握されているのなら躊躇うこともない。

 そしてこの街が偽物である以上、この一撃で眼下の街ごと全てを吹き飛ばしても(・・・・・・・・・・・・・)何ら問題は生じない。

 故に。

 この剣の真たる名を解放し、一切合切を押し潰すのみ──‼︎

 

()くぞ、■■■■■■■■……‼︎」

 

 桜色の唇から漏れた小さな呟きは、渦を巻く旋風に揉まれて消えてしまう。だがその微かな声を彼女の愛刀は聞き取っていた。

 刀身の根元からバーナーの如く噴き出す銀色の光が伸縮し、刀身の三倍ほどの長さまで伸びる。それだけではない。魔王特権の能力を併用して、セイバーの剣そのものが彼女に不釣り合いなほど膨張する。

 

 ────彼女の剣、その名は「月の刃」。

 

 蒼色の刀身に溜め込んだ月光を圧縮、開放する事により、その一撃は夜をも引き裂く必殺の一撃へと変貌する。凛然たる銀光は曲刀の刀身すらも覆い隠し、セイバーは銀色の流星と化していた。

 全身で風を受けながら、彼女は迫り来る破壊の嵐を睨み付け──、

 

 遥かなる神話に謳われる伝説の一撃が、全霊の力で解き放たれた。



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二十八話 夜を引き裂く紅光

「……うおおおおッ‼︎」

 

 ナイフの刃先が地面を擦る程の低空から、跳ね上がるように刃を滑らせる。

 まるでこの身に得体の知れない力が宿ったような違和感。

 全身が戦士(べつじん)と化したような感覚を覚えながら、身体能力の限界を無理矢理に飛び超えてナイフを振るう。

 ……いや、待て。待ってくれ。

 そもそもなんで俺は、とうに俺の限界を超えて──、

 

「────っ‼︎」

 

 無駄な思考を容赦なく切り捨てる。だがその隙が刃の速度を鈍らせたか、魔術師は容易く俺のナイフを回避。

 月は先程から分厚い雲の向こうに隠れてしまい、辺りに光源と呼べるものは魔術師の四肢が発する仄かな輝き、そして星明かり以外存在しない。文明の光に慣れていると感じないが、月のない夜の闇はぞっとするほどに濃かった。この闇では、一メートル先の人の顔すらまともに把握できないだろう。戦闘中なら尚更だ。

 

「しッ‼︎」

 

 入れ替わるように魔術師の攻撃。回避可能限界ギリギリの速度を伴って放たれる拳撃、それは破壊と速度が合わさった魔拳だった。

 右、左、左、右、左、左、下、左──‼︎

 渦巻く紅色の光を闇に刻みながら、猛然と唸る拳が身体を掠めていく。

 こちとら喧嘩は得意分野だが、魔術で強化された相手方の動きが余りにも速すぎる。その実力差たるや、プロボクサーと素人が喧嘩しているよりもなお差があって余りある。

 そして更に悪いことに、相手の拳は地面すら粉砕する一撃だ。まともに受ければ確実にこちらの骨が折れる。

 辛うじて拳の軌道を直感で読み、サンドバックみたいに殴りまくられるのだけは避ける。けれどこのままじゃ埒があかない。

 

「チ……‼︎」

 

 つけ入る隙が無いならば、無理矢理に作り出すしかない。

 問題は頭に敵の拳を一発貰って意識を繋ぎとめられるか、否か。

 ここで意識を失えば敗北は必至。しかし耐えきればほんの僅かな勝機を切り開ける──そう、俺の直感が告げている。

 

(なら賭けに出てやるよ、この野郎っ──‼︎)

 

 俺は勢い良く一歩を踏み出し、自らの額でその拳の一撃を受けた。

 拳だというのに、まるてハンマーでブン殴れたように視界がぐわん、と揺れる。事実、この魔術師の拳は鉄と同等の硬さを誇っていた。

 脳の隅から隅まで衝撃が走り抜け、額が割れて少量の血が噴き出す。視界が遠ざかって頼りの綱の意識が遠く離れていく。

 ……しかし、ギリギリのところで耐えきった。

 相手は拳を額で止められた事に驚愕したのか、動きがほんの僅かに止まる。

 殆ど意識もせず、そして何の躊躇いもなく、逆手に握り締めたナイフを全力で突き出し──、

 

「く、このッ‼︎」

 

 短い叫びが相手方から聞こえたと思った時には、強い衝撃に手首が跳ね上がっていた。

 ナイフを取り落とさなかったのは奇跡に近い。

 魔術師の爪先がナイフを蹴り上げたのだ、と理解したと同時──、

 

「ぐ、ふッ……⁉︎」

 

 俺のこめかみに、重すぎる拳が突き刺さっていた。

 脳へのダメージの蓄積が酷い。あと一撃貰えば碌に立てなくなる。今の一撃まで耐えられたのは幸運と言うしかない。

 殴り飛ばされた反動すら活かして、坂道を無様にでも転がって距離を取る。ぜえぜえと肩で息をしながらナイフを眼前に構えるが、再度魔術師の靴裏が道路を蹴った。

 

”アイつを殺せ、殺セ、殺せ”

”それガお前ノ役割だ、ソレが──”

 

「ああ、そうだよその通りだ、だから少し黙ってろ……‼︎‼︎」

 

 意識が混濁しかけているが、不気味なほどの冷静さが身体の芯を支えてくれている。ナイフを握り締める手はみしみしと音を立てるほどに力強く、足は血脈が数倍の速度で廻っているかのように軽い。

 全身が戦闘に特化していくような不思議な感覚を噛み締める。

 数秒前の攻防を思い返すに、どうも俺には色々と足りていないらしい。

 さっきのは甘かった。まだ反撃の余地があった。

 まだ、速さも正確さも、なにより殺意が全然足りていなかった。

 命のやり取りを前に生存本能が働いたのか、意識が極限まで集中される。視界から敵の姿以外の情報が遠くなって締め出されていく。

 

「────‼︎」

 

 とうとう相手の姿以外が見えなくなった瞬間、勢いよく駆け出す。

 魔術師が右腕を振り上げた。俺はナイフを水平に構えたまま、首を少しだけ沈ませる。最小の動きで右拳は避けたが、鋭く放たれた左拳が眼前に迫っていた。

 ──右はフェイク、それは読めている。

 更に体を沈ませる。膝を曲げつつも突進の勢いを殺さず、スライディングに似た姿勢で顔面を捉える寸前の左拳も回避した。

 その先に活路が見えてくる。

 岩砕の拳を潜り抜けた先に迫るは、魔術師の無防備な懐──‼︎

 

「ぁ、くうッ……⁉︎」

 

 微かな呻き声が魔術師の口から漏れた。素早く魔術師の脇を通り抜けた俺のナイフが、浅くとはいえ魔術師の脇腹を切り裂いたのだ。

 掌にじわりと広がる、肉を裂く手応え。

 震える。他者を傷付ける甘美な感覚を愉しむ。

 気付いたら、口の端が歪んでいた。

 ──ああ、堪らなく気分が良い。

 何故か鳥肌が立つほどに身体が高揚している。血が飛ぶ程の傷では無いが、確かに一撃を与えたのだ。俺の手にした刃は、俺の腕は敵の命を奪うことができる。

 という事は、即ち──。

 

”ソウダ、お前は奴を殺せル‼︎”

 

「ははっ、──あはははははははは‼︎」

 

 素早く身体を起こす。低姿勢から攻撃に移る。

 先程止められた下段からの一撃では無く、大きくナイフを振り上げた大上段の一撃。半円を描く銀色の軌跡は魔術師の脳天に稲妻のように振り下ろされ──、

 

「こンの……舐めんじゃ、ないわよ‼︎」

 

 だが、相手もそう甘くなかった。

 背後に回った俺をまともに見ずに放たれた裏拳。だがそれは対照的な円弧を描き、見事なほど正確無比にコンバットナイフを捉え、

 

「⁉︎」

 

 パキン、という嫌な音が響いた。

 ────折れた。

 振り抜いたコンバットナイフの刀身は、その鉄拳に押し負けて柄のすぐ上から先が後ろに吹っ飛んでしまった。軽くなってしまったナイフの重みが頼りない。

 好機とばかりに、魔術師が一歩前へ。懐に潜り込んだ小柄な人影は勢い良く左手を引き、溜め込んだ力を解放する。

 予測──回避──不可──直撃する──。

 人外の膂力を以って放たれた掌底は、俺の胸のど真ん中を直撃した。

 

「が……ごッ、は⁉︎」

 

 喉奥からせり上がって来た塊は、血。

 吐血の不快感に身を震わせる暇は無かった。悠に三メートルは宙を舞い、そのまま坂道を転がっていく。

 全身に擦り傷を刻みながら停止するが、掌底を打たれた肺は悲鳴を上げていた。呼吸するたびに鋭い痛みが走り抜け、息を続けるだけでも苦しい。骨にヒビが入ったか、最悪折れているか。

 ──今ので確信した。アイツは魔術師なんて存在じゃない。

 「魔術」を使っているものの、奴の本質は己が肉体を極める格闘家だ。一つ一つの動作が洗練されていて、俺の下手な戦い方とは比べ物にらない。

 

”殺せ、殺セ、殺セ、殺せ、敵はみナ殺せ‼︎”

 

 聞こえてくるような、自分が言ったような、よく分からない声。

 当たり前のように、俺はその声を肯定しようとして──、

 

「…………ぐ⁉︎」

 

 気持ち悪い、全身が脈打つような感覚が俺を襲った。

 この感覚。全身から身体のエネルギーを強引に吸い上げられるようなこの感覚は覚えがある。

 間違いなく、どこかでセイバーが宝具を使ったのだ。

 

「ガっ……あ、はぁ、はぁっ‼︎ あいつっ、こんな時に──‼︎」

 

 ぶつくさ文句を並べるが、その声は自分でわかるほど弾んでいた。

 確かに目の前から消されたが、多分セイバーはまだ健在らしい。

 よくよく考えればこの令呪が残っているので当たり前とも言える。だが確かな確証が得られたことで、俺は安堵から息を吐いていた。

 だが、それはそれ。──敵対者への殺意が消える訳がない。

 余分な懸念も無くなって、改めて頭を戦闘用に切り替える。

 幸い近くに飛んできたナイフの刃先を拾い上げながら、俺は魔術師を睨み付けた。

 

「……………………」

 

 魔術師はその余裕を誇示するかのように、無言でこちらに歩いてくる。

 

(サバイバルナイフは折れた、ハンドガンは当てられるか怪しい……じゃあ残ってるのは……)

 

 ポーチの中身を改めて思い返しながら、俺は勢いよく地面を蹴った。

 だが走っていく方向は違う。敵魔術師がいる真正面ではなく真横。伸びる住宅の合間の路地に飛び込んだのだ。

 

「‼︎」

 

 突然逃げに徹した俺を見て、魔術師が一瞬動揺したのが視界の端に見えた。

 肺が痛む。それどころか打撲で全身が痛む。だが走って、走り抜く。

 セイバーは今も戦っているのだ。ならば俺もそれに倣うまで、俺だけが諦めるなんて許されない。

 停電はここら一帯に及んでいるのか、いくら走ろうとも闇はしつこく纏わり付いてくる。路地に入ると更に星の光は減り、闇に溶け込んだ室外機やゴミ箱に衝突しそうになりながら、必死で狭い路地裏を駆け抜けていく。

 

「はぁっ、はぁっ──‼︎」

 

 背後を振り返るが、あの紅色の輝きは見えない。

 だが追ってこない、というのもあり得ないだろう。俺が目指す場所はもう少し先、まだ止まるわけにはいかない。

 と、視界の上端で何かが見えた。嫌な予感に従って目線を上げて、

 

 ──そこに、いた。

 

 魔術師らしく飛んだり絨毯にでも乗るのかと思っていたが、奴は単純に走って俺を追走していた。

 だが魔術師の足が蹴り立てるのは地面ではなく、壁だ。

 魔術師はその尋常でない脚力を使いこなし、聳える住宅の壁を疾駆している──‼︎

 

「……っ⁉︎」

 

 予想外の追走に、思わず反応が遅れる。

 その隙を突いて、身体を斜めに傾けたまま魔術師が何かを投擲。

 フリスビーを投げるような軽い動作だったが、魔術で強化された腕力は投擲物に恐ろしい速度を付与するに至る。黒塗りのクナイじみた鋭い何かは太腿と腰と、更に肩口に突き刺さった。

 飛ぶ鮮血。爆発する激痛。

 俺はくぐもった呻きと共にバランスを崩し──、

 

「式神跋祇、強化三連(エンチャントサード)‼︎」

 

 その言葉は、敵対者が有する絶対の一撃へ繋がる詠唱なのだと、うねり上がる魔力の渦を感じ取ってから理解した。

 魔術師は空中で姿勢を整え、前傾姿勢へと移行。小さな右腕に装着された白籠手が、風を裂く一筋の槍と化して俺に迫る。

 防御──は、腕が砕ける。

 魔術の強化に数メートルの高さが乗った分、あの一撃は受け止められない。

 回避──は、無理。

 体勢を崩した今、回避行動を取るのは難しい。

 二つの行動案が刹那的に浮かんでは消える。最終的に俺は身体を反転させて両腕を交差し、正面の魔術師を睨み付けた。

 激突の寸前、僅かに跳ぶ。この僅かな滞空が俺の命を辛うじて保つ。

 丁度一秒後に魔術師の飛び蹴りが俺を捉え、体の芯まで震わせるような衝撃が走り抜けた。

 両腕を貫いて心臓を潰すどころか俺の体を貫いてしまうであろう威力を秘めた一撃。しかし忌々しい摩擦力から解放された俺の身体は勢いよく弾き飛ばされ、激痛こそあれ重症は免れる。

 

「ぐ……‼︎」

 

 俺は跳ね起きると転がるように路地を抜け、線路の下にひっそりと設けられたトンネルに転がり込んだ。

 トンネルと一言に言っても歩行者用に作られた小型のもので、その長さは五メートル程、幅はたった二メートル程に過ぎない。当然車道なんて広いものはついていない。

 

「………………」

 

 追い付いた魔術師が、何か呟いた気がした。

 一帯の停電の影響はトンネル内の照明にも及んでおり、星の光が遮られた分、周囲の視界は無いに等しい。魔術師がまだ姿を捉えやすい入り口付近に立っているのが幸いだった。

 トンネルに転がり込んだ際に取り出しておいたハンドガンを腰の後ろに隠しながら、魔術師を不遜にも睨みつける。

 

「──随分と変な魔術、だな……」

 

 魔術師が、少し肩を震わせた。

 このままハンドガンを馬鹿正直にぶっ放そうと、奴の身体能力からすれば当たる確率は低いだろう。当たっても一撃で仕留めなければ分は悪くなる。

 この切り札を切る前に、それ相応の隙を作り出す必要がある。

 だがコンバットナイフを失った以上、戦闘面で隙を作るのは不可能に近く、残された手段は話術のみだ。

 

「全く笑わせるよ。跳ぶだの壁を走るだの、オマエはさっきから猿の真似しかできないのか? くだらない」

 

「ッ‼︎」

 

 嘲笑を込めてせせら笑うと、魔術師が全身から凄まじい怒気を迸らせるのが分かった。運のいいことに、どうやら奴の地雷を見事に踏み抜いたらしい。

 

「けどな、その猿真似も見飽きたよ。これからオマエに、本物の魔術ってのを見せてやる──……」

 

 右腕をゆらり、と掲げる。

 その動作で、目の前の魔術師は身体を強張らせた。

 ばっちり予想通り、俺が魔術を使うのを警戒しているらしい。マスターであるという事は魔術師であるという事とほぼ同義だろうし、魔術を使わない方が異常なのだ。魔術師の警戒も当然だろう。

 ……まあ、これっぽっちも魔術の知識はないが。

 内心で独り言を呟きつつも、そんな表情はおくびにも出さないよう努力する。こちらの右腕に意識を向けられればそれでいい。

 

「────くらえッ‼︎」

 

 大仰に右腕を振りかざし、俺は素早く左手を跳ね上げた。

 躊躇わずに引き金を引く。

 ズガン、と小さなトンネルに響き渡る銃声。どうしてか、自分でも恐ろしくなるほど正確に腕は動いた。

 狙いはほとんどシルエットしか見えない敵の頭部、だが確実に弾道は着弾コースを駆け抜ける。が──、

 

「ン、な……ッ⁉︎」

 

 高らかな金属音が響いた瞬間、飛び出してきた何かに弾かれた跳弾が俺の真横を駆け抜けていった。

 驚嘆する俺の前で、魔術師の姿が霞む。その姿を自分の懐に視認した時には、魔術師の両腕が唸りを上げていた。

 ──双手突き。

 空気すらも揺さぶるような左右同時の一撃が、俺の喉と鳩尾を確実に捉えた。

 肋骨が限界を迎え、ついにへし折れた音。そして手から離れたハンドガンが地面で跳ねる音をやけに遠く聞きながら、俺は血反吐を吐いて地面に叩きつけられた。

 

 

 

 

 身体の芯を捉える嫌な感触と、骨を二、三本一撃で砕いた不快な感触。それらが同時に彼女の身体を貫いた。

 まるで自動車に轢かれるかのように吹っ飛んだ黒ジャケットの敵対者──暗過ぎて顔までは分からないが、声からして恐らくほぼ歳の変わらない少年──は、何度か地面を転がり、ボロ切れのように横たわった。

 視線を地に伏す敵に向けると、敵影の輪郭が苦しげに呻いているのが分かる。

 彼の最後の攻撃──こいつも魔術師だったのかと焦ったが、どうも近代武器に頼った攻撃だったらしい。やはりキャスターの読みは正しかったという事になる。

 そして巧妙に放たれた起死回生の一手は、懐から自律的に飛び出した小型の紙人形によって無効化されていた。

 

(キャスターの式神……ポケットに紛れてたんだ。いつもヘラヘラしてる癖に用意周到というか、なんというか。けど、助かったのは事実ね)

 

 弾丸を受け止め、くしゃくしゃに潰れてしまった式神。

 それに感謝の念を抱きながら、彼女は隙を見せた自分を戒める。キャスターの気遣いが無ければ今頃死んでいたのは自分だったのだ。

 

(しかし──こいつ、なんて奴よ。魔術も使えないのに、私相手にこれだけ粘ったっていうの……?)

 

 目前の少年の不自然なまでの強さが、魔術師には不快だった。

 聖杯戦争に巻き込まれた一般人らしい、という考察は当たっていたが、それにしても妙だ。徒手空拳を用いた戦闘に自信はあったが、このマスターは劣勢ながらも自分の拳になんとか追いついていた。

 否、追いついていたのではない。

 恐らく、己の拳はハナから全て読まれていた(・・・・・・)

 何故かは知らないが──彼は全ての攻撃を見切り、目で追っていた。自分が勝てたのは、単純に彼の身体能力がその直感に追いついていなかったから。「ここでこう殴られる」と読み切っても、回避する運動能力が足りなければ意味がない。

 ……それに何より不快なのが、この少年の発する気配。

 殺意に嗤うこの少年の姿には、一瞬恐怖を感じかけた程だ。戦いの最中、まるで人間ではなくおぞましい何か(・・・・・・・・)を相手にしているような、そんな感覚が常に背筋から離れなかった。

 

(こいつ……本当に、人間……?)

 

 思わず、そんなことすら考えてしまった時。

 

「………………‼︎」

 

 魔術師の瞳が驚愕に見開いた。

 確実に急所を、それも彼女が他一切の魔術の研鑽を捨ててまで磨き上げた格闘特化の異端魔術、「徒手魔術」を重ねた拳で打ち抜かれた少年は、しかしそれでも立ち上がろうともがいている。

 

「は……ぁ、が……っ。ぐ、が──」

 

 喉への打撃で、暫くの間は呼吸をするだけでも激痛に苛まれるであろう身体を無理矢理引き摺り、彼は少しでも身体を動かしていく。

 ──ともあれ、これで終わりか。

 その瞳に少しの哀れみを浮かべながら、魔術師はゆっくりと彼に歩み寄った。

 

「………………」

 

 この傷だらけの少年に何ができようか。

 武器は折られ、起死回生の奇襲は破られ、もはや満身創痍で諦念の視線を向ける事しか出来ない。

 息を吐いた魔術師は、尻のベルトに挟むようにして隠し持ったクナイを引き抜いた。

 ──悪いが、その令呪は有効利用させて貰う。

 こちらにはキャスターもいる。上手くいけば、最優のクラスであるセイバーを手中に収められるだろう。

 ここで迷い無く命を奪えるのが魔術師「らしい」んだろうな──と少し自分自身の甘さに憂鬱な気分に浸りながら、ぎらりと光る刃を構えて少年へと歩み寄る。

 

「はぁ……っ、たく、ちくしょう……」

 

 と、少年が血に濡れた唇を動かし、喉奥から掠れた声を絞り出した。

 

(………………え?)

 

 風に乗って届いたその声に、身の毛のよだつような強烈な殺意は全く含まれておらず。

 ──そして敵でありながら、どこか安心するような声質だった。

 遺言じみた台詞を言うくらいは許そうと、僅か二メートル程の距離を開け、魔術師はその苦しげな声に耳を傾ける。

 

「頼りの、不意打ちも……失敗……か、くそ」

 

 そこまで言って、脱力するように肩を落とした少年は苦しげに咳き込んだ。

 吐き出された少量の血が床を赤く濡らし、彼は痛みを誤魔化すように、前髪を震える手で搔き上げる。

 

「⁉︎」

 

 魔術師は短く息を呑んだ。長めの前髪からちらりと覗いた黒い瞳に、ひどく見覚えがあるように感じたからだ。

 

(……嘘よ、まさか。ありえない)

 

 街灯を潰したせいで、星の光の届かないトンネル内はなお暗い。

 手足の強化ばかり練習してきた彼女は、他の魔術師のように眼球を強化して闇を見通すなどという器用な事ができない。微かに紅色の光を放つ両腕で少年の顔をじっくり照らせば顔は判別できるかもしれないが、この光は懐中電灯なんかよりずっと弱々しい。

 

 ──そういえば。

 何故この少年は先程いきなり逃げ出したのだろうと、ふと思った。

 

 威勢良く掛かってくるかと思えば、唐突に背を向けて逃亡を試みる。かと思えば攻撃し、瀕死の身体で悪態を吐く。

 行動の指針が一定していないように思え、その違和感はかえって、もはや彼の生殺与奪権を握ったと言っても過言ではない魔術師の心に疑問という名の小さな針を刺した。

 こうも追い詰めているのに。

 なのにこの、首筋にまとわりついて離れない悪寒は何だ──?

 

「しかし、魔術師ってのは……散々、サンドバックにしてくれやがって」

 

 なお喋り続ける少年に、魔術師は底知れぬ焦燥感と共に一歩を踏み出した。

 ──なにか、マズイ。

 ──このまま喋らせていれば、死ぬ。

 前に出た魔術師に反応して、伏せられていた瞳がこちらを捉える。

 その時彼女が感じたのは、紛れも無い恐怖。

 そこにあったのは、言葉では言い表せないほどの黒々とした感情。それに囚われたおぞましい両眼が、黒い前髪の間から覗いていた。

 

「…………っ⁉︎」

 

 それは一般人の彼が持ちうるはずのないものだったのだが、その瞳に気圧された魔術師がそんな事を知る由も無い。その隙に、少年は隠し持っていた武器をごろり、と床に転がらせた。

 ハッとして少年に視線を移すと、彼は既に右腕で顔を庇い、更に痛む上半身を捻って衝撃と閃光に備えている。

 

(………………ぁ)

 

 反応は、できなかった。

 余りに恐ろしい人外の視線に捉えられ、魔術師は一歩たりとも動く事が出来なかったのだ。

 キュガッッ‼︎ という炸裂音を放ち、花火の光を何百も集中させたかのような途轍もない光量が、魔術師の瞳を灼いた。

 

「きゃ──っ、あ⁉︎ うぐ……⁉︎」

 

 そこで、ようやく魔術師は知った。

 閃光手榴弾は、閉所で使わなければ効果が飛躍的に下がる。

 わざわざ停電を引き起こしたが故に、外で使用しても一定の効果は得られるだろうが、それではまだ足りないと判断したのだろう。

 そのしたたかさに舌を巻くくらいの思考能力は残されていたが、平衡感覚、聴覚、視覚の全ては一瞬で失われる。

 自分が無様に倒れ伏したのを、地面に体が激突した衝撃でようやく魔術師は知った。

 

「っ、あぅ……この──……っ‼︎」

 

 視界にまとわりつく真っ白な光を振り払おうと必死に頭を振るが、全く視界は回復しない。音すら聞こえず、軽いパニックに陥りながら、彼女は滅茶苦茶に両手を振り回した。

 

(これは……駄目、早くしないと──⁉︎)

 

 あの少年が幾ら満身創痍とはいえ、この隙は余りにも──……、

 

「死ね」

 

 短く、冷淡で。

 故に彼の全てが籠められた言葉だった。

 その身体で何処から掻き集めたのか、と思える程の腕力で、背後から首に腕が回され、同時に首元に何かが突きつけられた。

 っ! と声にならない声を上げ、魔術師は全身を硬直させる。

 

(あ──わたし、死)

 

 直感的に悟った時には、折れたナイフの刃が首筋に僅かに沈み始めていた。毛細血管が途切れ、鮮血が球となって溢れ──、

 

「………………え?」

 

 だが、魔術師の頚動脈が搔き切られる事はなかった。

 何があったのかと疑問に思う速く、身体が無理矢理反転させられる。

 短い驚嘆の声が漏れると同時に、魔術師は上手く機能しない視界の中心に、始めてその少年の顔をまともに顔を捉えた。

 紅光を纏った腕が彼の手で持ち上げられ、自分と相手の顔を微かに照らす。

 

「お前、まさか」

 

 瞼から涙を溢れさせながら、魔術師は必死で目を瞬かせる。

 ぼんやりと涙と光で滲む顔には、やはり見覚えがあった。

 その頑固さを表すように硬くて、それでいてボサボサに跳ねた黒髪に、驚く程鋭い眼光。太めの眉に、程よい高さの鼻梁がよく似合っている。

 喉元から自然に出ようとした言葉を、魔術師は逆らわずに口にした。

 

「…………お兄、ちゃん?」

 

 殆ど機能しない視界でそうと判ったのは、きっと日々、彼の顔を見慣れていたからなのだろう。

 魔術師──志原楓は、震える唇で、呼び慣れた愛称を口にした。




【志原楓】
十六歳。キャスターのマスターであり、志原の家を継ぐ、大塚の地に住むもう一人の魔術師。
因縁のある繭村倫太郎とは対照的に、魔術回路の質は低い。使える魔術は「身体強化」系統の魔術のみ。身体の強化に特化しすぎたせいで物体の強化は苦手であり、成功したことはない。
自分の魔術を否定される事を強く嫌うと同時に、激しいトラウマを抱えている。そのため、そういった事を言われると激しく怒る。

【楓の戦闘服】
志原の家に伝わる由緒正しい忍び装束。母親のを勝手に借りている。
暗殺を家業とした志原家の役割に適するように設計されており、一式を適切に装備すれば顔を隠蔽させる魔術が自動発動する優れもの。

【繭村倫太郎と志原楓】
この二人を形作る上で、SNの主人公とヒロインである「衛宮士郎」と「遠坂凛」の要素をごっちゃ混ぜにして詰め込んだので、二人には士郎と凛を思わせる要素が多いです。
倫太郎は「剣」「宝石魔術」「赤髪」「魔術師としては優等生」「屋敷住まい」、楓は「強化(しかできない)」「ツインテール」「料理」「魔術師としてはへっぽこ」……などなど色々。


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二十九話 伝説の陰陽師、その名は/Other side

 ──私は、一人の男に憧れていた。

 

 彼の姿をはじめて見たのはいつだったか。

 魔術の一家に生まれ、本来魔術回路の優秀な兄が継ぐはずだった一家相伝の魔術の後継者に選ばれ、齢六の時に奇跡に触れた。

 私にはまったく才能なんて無かったけれど、それでもなんとか今まで足掻いて、もがいてきた。

 そんな無様で、魔術の世界では日陰者で、地を這うような私にとって。

 彼は……言うなれば、憧れの存在だったのだ。

 

 曰く、平安における最強の陰陽師。

 曰く、京を守り抜く絶対の守護者。

 曰く、稀代の天才にして、伝説。

 曰く、人にして神の力を手繰るもの。

 

 小説でも、古典でも、映像でも、彼はいつだって輝いていた。

 どんな困難に遭ったって飄々と物事にあたり、さしたる苦労もなく得意の陰陽術で何でも解決してしまう。まさしく彼は、私の正義の味方(ヒーロー)だったと言えるだろう。

 魔術の修練はとても辛いものだ。その本質が死を前提とするものである以上、辛くない筈がないのだ。

 最初の頃は我が家に伝わる魔術を使う度に四肢の筋繊維が千切れかけたし、実際そうなった事もあった。

 肉離れ──と聞くと大した事ないように聞こえるかもしれないけれど、魔術の反作用で起こるアレは本当に痛い。酷い時なんて、右足と両腕の筋繊維が同時に滅茶苦茶になった。

 まともに立つことすらできずに、なんとか家まで這って帰ろうとして、運良く通りかかったお兄ちゃんに助けられたのだ。その時の痛みは忌々しいトラウマと化して、今も胸の中で燻っている。

 そんな失敗と痛みを繰り返す度に、私は苦痛に耐えられず、一人でうずくまっては泣いて、泣いて──、

 

 ……最後には、それでも立ち上がってきた。

 

 両親はそんな私を見て、やめてもいい、と言った。

 我らの魔術は元より「根源」を目指すという第一目標の元に編み出されたのではなく、戦乱の時代を生き抜く為に編み出されたモノ。いわば武術に近いものだ。

 その起源が歪んでいる以上、私たちの家系は続く限り他の魔術師達から罵詈雑言を投げかけられる。

 「邪道」であり、私たちは穢れていると。

 

 けれど──だからこそ、私は「魔術師」の常識に囚われない。

 私が無理をして、魔術の道を進む必要もない。

 

 そもそも、私の魔術回路は今までにないくらい貧弱だ。この有様ではあと一代、もって二代……魔術師としての家系を続けるのはそこが限界だろう。もう既に、私たちの終わりはすぐそこに見えている。

 だが、私は決してやめなかった。

 たとえ、魔術回路の衰退が致命的に進んでいても。

 この私が、この家柄の最後の代になる可能性さえあったとしても。

 「志原」という魔術家系の後継者として、私は在り続けた。

 

 ──それは何故か。

 私がここで魔術を投げ捨てれば、少なくない負担が両親に加わる、という遠慮もあった。今までご先祖様がやってきた事を全て無駄にすることへの恐怖もあった。あれだけ無理をして耐え続けた痛みの価値を自ら投げ捨てたくないと、そういう心の弱さもあったと思う。

 

 けれど、一番の理由は。

 馬鹿馬鹿しいと自分でも自覚している、と前置きをするが──。

 

 ……憧れている伝説の男が、私と同じ魔術の使い手だったから。

 

 遥か昔、平安の世に君臨した陰陽師「安倍晴明」。

 彼は陰陽術、私は身体強化しか能のない徒手魔術。魔術の内容は全く異なり、私と彼では才能という点で天と地よりも遠い差があるけれど──それでも、彼と同じ力の担い手でありたいという願いが、私にはあった。

 

 ああ、あとそれと。

 とある魔術師への反抗心が、多少なりともあったのだと思う。

 

 ともあれ──。

 志原楓は、伝説の陰陽師への憧れを抱き続けた。

 そうして始まったのが聖杯戦争だ。万能の願望機を巡る殺し合い。七人のマスターが七騎のサーヴァントを召喚し、争い、勝者は願いを叶える権利を獲得する。

 どうしてこんな辺鄙な街で、そんな物騒な儀式が。

 ……そんなものはどうでもよかった。

 他でもない私自身の願いのために、私は殺し合いに参加しようと決めた。幸いこの地に住む魔術師という事もあり、聖杯は私をマスターに選び出したらしい。鋭い流線型の令呪が胸元の中心に現れたのを確認して、私は覚悟を決めた。

 そうと決まれば呼び出すサーヴァントを決めなくてはならないが、呼び出すのはとっくの前から決まっている。

 だが、私には権力も財も無い。

 どうしたものかな、と一日中悩んで。結局私は何十回と見返した、彼が登場する映画のパッケージを触媒にする事にした。触媒としちゃあ最低最悪もいいところ、正直こんな物で呼び出せるほど英霊は甘くない。

 けれど、これには私が彼に抱き続けた憧れが全て詰まっている。

 

「お願い……どうか、この声が、届くなら」

 

 召喚の文句を口にする前。

 掠れた声でまじないのように呟いて、私は詠唱を開始した──。

 

 

 

 

「我、此度聖杯の寄る辺に従い推参した」

 

 それは、時間が止まったかのような一瞬だった。

 

 大塚に居を構えた若き魔術師──志原楓。

 彼女はその言葉を、きっと死ぬまで忘れないだろう。

 

「よお、嬢ちゃん。君が僕のマスターやな?」

 

 その声は、燦然と現れた男の口から軽やかに放たれた。

 遥か昔の日本から抜け出してきたのか、と見間違えるような時代がかかった衣装。女性でも羨むような艶やかな黒髪は肩にかかるほど長く、その顔立ちは楓が言葉を失うほどに整っていた。思わず本当に人間かと疑う程だ。

 人懐っこい瞳が僅かに細められ、マスターである楓を見つめる。彼が微かに笑っているのだと気づいてから、楓は呆然としていた思考を取り戻した。

 

「ぁ……あ、貴方が、私のサーヴァント。そして──」

 

「如何にも。御察しの通り、僕の名は安倍晴明。君は僕を呼び、僕は君に呼ばれた。魔力は繋がり、ここに契約は成立しとる」

 

 その言葉を聞いて、楓は全身に鳥肌が立つのを感じていた。

 成功──自分は、伝説の陰陽師を使い魔として契約する事が出来たのだ。

 

「や、やった──じゃなくて……いい? もっかい確認するけど、貴方の真名は……かの伝説の陰陽師、「安倍晴明」で合ってるわね」

 

「お褒めに預かり光栄やで。自他共に認める天才なんで、宜しゅう」

 

 ぺこり、と一礼するキャスター。

 相手の方に緊張感はカケラも見当たらず、寧ろこの状況を楽しんでいるような節があるが──楓はそれどころではなかった。声を張り上げたのはいいが、サーヴァントという存在を前に緊張を隠せなかったのだ。

 そういう彼女が真名確認を終え、どうなったかというと──、

 

「え、っと……………………」

 

 頭が真っ白になり、色々と取り決めようとしていた事を忘れてしまったのである。

 

「あ、の……あれ……その」

 

「なんや、緊張しとんのか? まぁたぶん歳も魔術も、見るからに未熟っぽいし……そ、れ、に」

 

 困惑する私をよそに、キャスターはその人間とは思えぬ眉目秀麗な顔に、どこまでも妖しげな笑みを浮かべた。

 独特な歩法で音を立てずに私に近寄ってくるキャスター。

 彼からは何か異様な雰囲気が漂っている。まるで獲物を見つけた肉食獣を思わせる鋭い目線。このままパクッと食べられちゃいそう、なんて事を考えて、楓は慌てて首を振った。

 ──このままじゃ、まずい。

 「このキャスターは私に何かしようとしている」と理解できたが、その目に見つめられるとまるで金縛りのように動けなかった。

 そして、彼の艶やかな指がすう、と持ち上げられ──、

 

「あらよっと」

 

「へ?」

 

 その瞬間────。

 楓は自分が何をされたのか分からず、ただただ呆けた声を漏らした。

 

「おお、あるやん令呪。やっぱ君が僕のマスターっちゅうことやな」

 

 彼女の令呪をじっと眺めて、キャスターは満足げに頷く。

 けれどそもそも、彼女の令呪がある場所は「胸元」だ。具体的には僅かに膨らんだ胸部の少し上、ギリギリ楓のスポーツブラが覆い隠せるくらいの場所。

 もう少しサイズが大きければ胸の谷間の切れ目あたりに令呪がある、なんて楽に説明できるのだがそもそもスポーツブラを着ている時点で察しろというか、他の子に比べても少し成長が遅めなんじゃないかななんて最近は不安に思い始めたというか。

 ……とにかく、キャスターがした行為はとんでもないものだった。

 何をどうやったのか知らないが、彼が手を軽く動かすだけで楓が着ていた服と下着の繊維が解け、楓は瞬きの間に上半身を真っ裸に剥かれてしまったのだ。

 

「い、いや────────────⁉︎」

 

「おごっぷ⁉︎」

 

 反射的に身体的コンプレックスを感じていた楓はふと我に帰ると、悲鳴をあげると共に迷いなくキャスターの股間を蹴り上げた。

 楓は比較的身長が低い方だが、志原の後継者として幼い頃から鍛錬を重ねている。故に格闘技術に関しては相当なものだと自負しているし、女の子らしくないとは自覚しつつも筋肉量には自信がある。

 つまり何が言いたいかというと、楓のキックには凄まじい威力が秘められているのだ。

 

「わ、私の、服、服は⁉︎ 下着も‼︎‼︎」

 

「………………………………ぱぅ」

 

 顔を真っ青にしてうずくまったキャスターが、辛うじて絞り出した一言はなぜか「ぱぅ」だった。

 苦悶の表情を浮かべるキャスターの袴をむんず、と踏みつけると、楓はキャスターの頭を片手で固定して容赦なく往復ビンタを喰らわせていく。

 

「この、最低! 最低! 最低! 最低……───ッ‼︎」

 

「待っ、待っ、待、ちょっ、と、でででででででで痛ァい‼︎ 悪かった、悪かったからちょっと離れて⁉︎」

 

 叩かれて左右にぶるんぶるん顔を揺らしながらキャスターが弁明すると、少し平静さを取り戻した楓はキャスターから離れた。

 ただ、その目は凄まじい形相でキャスターを睨んでいる。

 もちろんそれは怒りの目線というより、性犯罪者に対する軽蔑を込めたような冷たい目線である。「あ〜痛かった。痛すぎて座に帰るかと思うたわ」なんてほざきやがるバカキャスターを今にでももう一、二回しばいてやりたい気持ちをぐっと抑えて、楓はキャスターの言葉を待つ。

 

(……って、あれ? いつのまにか服が元に戻ってる?)

 

 ふと視線を落とすと、数秒前と変わらぬ灰色のパーカーが楓の上半身を包んでいた。下着もきちんと元どおりになっている感覚がある。

 いつのまにかキャスターが元どおりに修復したと思われるが、当然彼の「裸を見た」という大罪は消えない。

 

「いやぁ、確かに今のは紳士的じゃあなかった。けどマスターである令呪の確認ってのは一番大事なことやからな、堪忍してくれ。……しかしみずみずしい反応といい、ちょっと田舎臭いけど可愛らしい顔といい、ちょっと若過ぎるけど実にええやんか。君、正直タイプやで」

 

「か、か……っ、この、馬鹿にしてんの⁉︎ 私はそんな舐めた態度を使い魔(サーヴァント)なんかに取らせたりしな──」

 

 褒められているようで微妙にバカにされている感のある言葉を聞き取って、楓は激昂してキャスターに詰め寄った。

 反省の色がないなら拳で分からせてやる! という実に志原の魔術師らしい物騒な考えでキャスターの襟首をつかもうとして──、

 

「わひっ⁉︎」

 

 わざわざ自分で置いた映画のパッケージを踏んづけて、豪快にすっ転んだ。

 見事な転倒。バナナの皮を踏んで転ぶ喜劇役者の如く、それはそれは美しいコケ方であった。腕で抑える間も無く、楓は黄色いリボンを揺らして顔から床に突っ込んでいく。

 

「だ、ぁ────ぅ……」

 

 頭からうつ伏せに倒れて、痛みに思わず顔を顰めてから、自分の行為が猛烈に恥ずかしくなる。

 ……よりによって、最初にやらかした。

 恐らく、サーヴァントとの契約直後にこんな失態を晒したマスターなんぞ存在しないだろう。隠す間もなく胸をモロに見られるわ調子に乗られるわコケるわ、あまりにもひどすぎる。冷たい床に額を押し付けていると自分の不甲斐なさに泣きたくなってきて、楓は涙目で唸り始める。

 

「う、うぅぅぅ……なんで、なんでこんな」

 

「あー、なんや、転ぶ姿も可愛らしいと思うでンフフっ」

 

 明らかに笑いを堪えながらのフォローを聞いて、楓は顔を真っ赤にしたまま跳ね起きた。

 

「う、うるさい──うるさいっ‼︎ やりなおすわ‼︎ 今すぐ令呪使って今の事は全部忘れさせてやるから、もう一回最初からやり直すの‼︎」

 

「お、おいおい、落ち着けって。それはちょいと勿体無いんとちゃうか? 令呪ってのは意外と使い道があるモンやで」

 

「分かってるわよ、それくらい──‼︎‼︎」

 

 敷き詰められた畳を荒々しく踏みつけ、無性にムカムカする気分を言葉に変える。だが、そのうちしゅんとして項垂れると、楓は水をかけたように大人しくなった。

 

「お、なんや? もうバーサーカー状態は終わりか?」

 

 楓に長髪を引っ掴まれてぐいぐいされていたキャスターは、若干髪を乱しながら楽しそうに嘯く。その顔には余裕とも言うべき何かが張り付いていて、それを見るとなんとなく腹が立つ楓なのだが、今は我慢。

 

「ごめん────その……叩いちゃって、ゴメン……」

 

 楓はそれだけ呟くと、なんとなく恥ずかしくて俯いた。

 

「あれれ? 僕、君を怒らせてもーたと思っとったんやけど」

 

「私が真っ白になっちゃったから、気を遣ってくれたんじゃないの……それくらいは、私にだってわかるし」

 

 軽く頰を掻くキャスター。これまた腹立つくらいサラサラな黒の長髪から手を離し、楓は再び真正面から己のサーヴァントに向き合う。

 

「地下じゃ気分も滅入るわ。──付いてきて」

 

 楓は踵を返すと、床一面に敷き詰められた畳の上を歩き始めた。

 トレーニング用品が散乱していたり、額縁や巻物が飾られていたりとどこぞの道場かと思わせるような内装だが、ここはあくまで空き家として扱われている家の「地下室」である。

 短い階段を上がって扉を開け、二階へ。そのままベランダから身を乗り出して、軽やかに屋根の上に登る。

 

「うお……君、忍者か何か? 僕非力なもんで、そんな簡単に登れへんのやけどな……んしょっ、と」

 

「まあ……一応、しがない忍者の末裔だしね……」

 

 屋根の上は、心地いい夜風が吹き抜けていた。

 満天の星空──という程でもないが、今宵は欠けた月が綺麗に見える。不思議と月が少しばかり近く感じられるようなこの場所を、楓は幼い頃から気に入っていた。

 

「ふむ、平安の世も現世(うつしよ)も、月の美しさは色褪せへんもんや。一首詠むにも都合がええ」

 

「和歌? アンタ、陰陽師なのに和歌も嗜むのね」

 

「まぁ、僕の時代は一種のステータスやったからなぁ……恋しくば、尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉……っちゅう感じで。ま、これは受け売りやけど」

 

「フーン」

 

「……楓ちゃんあんま興味無さそうやし、この話題はこれまでにしとくかね」

 

 月を見上げながら呟いて、キャスターは目を細めた。

 楓が横目に彼の姿を見ると、その衣装、風貌と相まって、キャスター……安倍晴明の姿は実に夜空に映えている。まるでかつての大和の風景が、この一部分にのみ蘇ったかのような──そんな事を思って、楓は不思議な気分を味わっていた。

 

「ねぇ。キャスターは、その……なんで私なんかの召喚に応えたの? 私はお金も無いし、触媒なんかもいい物用意できてなかったし」

 

「ま、普通無理やわなぁ。僕の紛い物が出てくるだけの映画の空箱で召喚しよう、っちゅう考えがまず無理あるわ」

 

「う。……でも、実際呼べたじゃない」

 

「じゃあ、成功したんはなんでやと思う?」

 

 突然真面目な顔をして問い掛けてくるキャスターの眼差しに、楓は若干焦って視線を前に戻しつつ、

 

「た、たまたま……とか?」

 

「ハズレー。僕を呼ぶ声が可愛らしい女の子の声やったんで、面白そうやなぁと思って召喚に応じただけや。君が男やったらアウトやったで、ほんま」

 

「……からかったわね」

 

 再び目線を横に向けると、キャスターは実に楽しそうに笑っている。

 それに怒ろうとして──けれど、その楽しげな笑いこそがキャスターが召喚に応じた理由だと考えると怒るに怒れず、楓は渋々口をつぐんだ。

 

「とまあ……僕はこういう奴なんで、聖杯に託す望みは特に無い。晩年も満足して死んだし、悔いも無いしなあ」

 

「面白さを求めて召喚に応じるようなふざけた英霊がマジメに望みを抱いてるなんて、そりゃあ思えないわよ」

 

「違いない。……とはいえ、僕は君のサーヴァントや。契約が続く限り、僕は君を全霊で守り通そう」

 

 ひゅっ、とキャスターが紙切れを放ると、それは瞬く間に紙で折られた一羽の小鳥へと変身した。まるで鶴の折り紙が意思を持って動き出したような、そんな人形である。

 

「わ……これが、式神?」

 

「そいつ、可愛いやろ? 僕ぁ色々な式神を使役できるけど、なるべくゴツくて派手な武者とか、そういう見た目が騒がしい式神は使いたくないんや。風情が無いやん。道満のヤツは無駄にド派手な服着とったし、そこらへんの大人しい風情がわかっとらんかったなぁ……」

 

「すごい。あり得ないくらい緻密で、上手く組み上げられてる……魔術は不得意だし、陰陽術はお門違いだけど……この式神が現代の魔術師じゃ生み出せないんだろうな、って事は分かる」

 

 掌に止まった小鳥を夢中で観察していると、キャスターが軽く指を鳴らした。すると紙の小鳥は微かな振動を繰り返して二羽に分裂し、更に四羽に増え、楓の周りを飛び回る。

 

「君、魔術が不得意なんか? 正直なとこ、確かに魔力の供給量は若干心もとないけども」

 

「うぐ…………残念だけど、本当よ。私は本来、魔術師になるハズじゃなかった出来損ないだから。使える魔術だって一点特化で、身体強化(フィジカル・エンチャント)の発展系しかロクに使えない。……ごめんね」

 

 言いながら再び情け無くなってきて、楓は三角座りにした膝に顔を埋めた。

 しばらくして、頭に暖かい掌が触れる。キャスターは茶色がかかったツインテールの髪を優しく撫でて、

 

「なぁに、気にせんでええ。この地で呼ばれた今の僕は最強や。陰陽術の真髄は世界の「裏」から力を引っ張ってくる事にあるし、僕の魔術はさほどマスターに負担をかけへん。君のせいで存分に戦えん、なんて事はないから安心せえ」

 

「──────うん」

 

「そういや……君こそなんで聖杯戦争なんぞに参加しとるんや? こんな危険に飛び込んでまで、一体聖杯に何を求めとる?」

 

 キャスターが疑問を口にすると、楓は少し言い淀んでから、

 

「一族の名誉と繁栄。魔術師としては俗っぽいけど、欲しいのはそれだけよ」

 

「ふむ……聞き方が悪かった。じゃあ、なんで君は、聖杯を使ってまでそれを手に入れようとする?」

 

「それは──」

 

 なんと言うべきか迷って、楓は軽く言葉を途切らせた。

 

 

「「穢れた一族」なんて呼ばれている私達は、もう後がないの」

 

「というと?」

 

「志原家は江戸前期の忍者集団を大元とする家系なんだけど……もう回路の衰退が始まってるの。代を重なるごとに魔術回路は少なくなって、そんな瀬戸際に後継になったのが、よりによって私みたいな三流ってわけ。これじゃ魔術師としての繁栄なんて夢もいいところ……それどころか魔術師としてやっていけるかも怪しい。でしょ?」

 

 自嘲の念を込めながら、楓は呟く。

 

「けど、もしこの願いが叶うなら……私の両親も、今みたいに無理してお金を稼ぐ必要もなくなるわ」

 

 楓の両親は、兄には内密に今も海外の紛争地域で血生臭い仕事を続けている。金と引き換えに対象を暗殺する、今も昔も変わらぬ「忍び」の役目を果たしているのだ。

 だが、それは嫌だった。

 両親の優しさを痛いほど知っている彼女だからこそ、その彼らが人殺しをして食い扶持を稼がざるを得ない今の状況は、耐え難いものだったのだ。

 

「私一人じゃ……どう足掻いても状況は詰んでるの。今を変えるためには盤をまるごとひっくり返すような聖杯っていう手段に縋るしか、方法は残されてないのよ」

 

 その言葉にキャスターは眉を顰めた。彼の時代も──否、いついかなる時代でも、栄華と凋落は背反的に存在する。栄枯盛衰という言葉は彼が生きた時代より少し後の言葉だったか。

 ともあれ、千年を経ても変わらぬ世界の在りように飲まれ、こんな殺し合いに身を投じることを迫られた少女がここにもいる。

 それはきっと、とても悲しい事なのだろう。

 

 ……それに、彼はその千里眼で見た。

 彼の千里眼は対象の過去を見通すが、見た人物が鮮烈に憶えている過去ほどその映像はありありと視える。

 そしてキャスターが初めて楓の姿を見た瞬間、一つの光景が脳裏に突き刺さったのだ。

 

 止むことなく降りしきる、冷たい雨。

 無残な燃え滓の前で茫然と涙を流す楓の姿。

 そして、彼女に背を向けて去っていく、赤銅色の髪の少年──。

 

 彼が「視よう」と意識せずとも視えてしまうほど、その過去は彼女の心に刻み込まれている。楓がこの戦争に参加した「もう一つの理由」になり得るくらいには。

 楓と彼の間にかつて何があり、どうして楓が彼を憎むのか──それくらいは簡単に理解できたが、それに関しては当人たちの問題だ。キャスターが簡単に口を出していいものではない。

 故にその光景を完全に無視して、キャスターは口を開いた。

 

「……気持ちは解る。とはいえ、聖杯は願いを叶える手段としちゃあ最低や。なにしろワケわからん危険に満ちとるし、上手くいく保証もないんやからな。根元とて、僕ですら測れんモンやし」

 

「そんなの……分かってるし」

 

 楓が唇を尖らせて、不機嫌そうな表情を見せる。

 

「悪い悪い、説教する気じゃないんやで。……僕が言いたいのは、家族を思うのも大切やが、少しは自分の身を案じろって事や。大方、家族に黙って勝手に聖杯戦争に飛び込んだクチやろ」

 

「うっ、正解だけど……。なによ、結局お説教じゃない」

 

「あれれ……まあええやん、年長者っちゅうんは往々にして偉そうになってまうもんや。許してえな」

 

 気が重くなるような話だったが、快活に笑うキャスターを見ていると鬱屈したものも薄れていった。

 

「けど、これで分かった。君は魔術師としては三流、と言っとったが……人がなかなか得られんモンを秘めとると見える」

 

「なにそれ。そんなもの、私には無いわ」

 

「いや、ある。人を、家族を愛し、その為に弱くとも戦える勇気……例え君が弱くともその気持ちは本物や。それは僕がついぞ持ち合わせなかった、尊いもんやと僕は思う──」

 

 キャスターは目を細めた。まるで楓の姿を、眩しいものだと思うかのように。

 

「だからこそ、それを持てるような人間性は誇りに思ってええと僕が太鼓判を押したろやないか」

 

 楓はしばらく黙り込んでからその言葉を噛み砕いて──彼は自分が思う以上に、楓のことを認めてくれている(・・・・・・・・)のだと知った。

 

「う、嬉しくなんかないけど。助かったわ」

 

 流石にさっきから二度も礼を言うのは恥ずかしくて、楓は若干震える声で文句をぶつけるように呟いてみる。

 

 ──つまるところ、楓は最初から不安だったのだ。

 自分なんかがあの伝説の陰陽師を使役するなんて考えられなくて、もし出来たとしても、簡単に見限られるんじゃないかと恐れていた。

 結果として、楓は自分でも驚くくらい緊張したり、怒ったり悲しくなったり情緒不安定な状態に陥っていた訳だが……、

 

「にゃはははは、そりゃなにより」

 

 ──彼女が今も昔も憧れた伝説の男は。

 その実、びっくりするほど優しい奴だったらしい。

 

 のんびり言うキャスターを尻目に、楓は勢い良く立ち上がる。気分転換に頬を強く叩いて、月を見上げて安堵と共に溢れそうになった涙を引っ込めた。

 

「重苦しい話はここまでよ。アンタの力を見せてもらうわ」

 

「お、早速出んのか? まあ僕ぁ陰陽師やし、他の魔術師とかと違ってずぅっと工房に引き篭もったりもせんから、その方針に異論は無いけども」

 

「じゃあ決まりね。私、コソコソ隠れ回ったりするのは大嫌いなの。この土地に加えて伝説に名高いアンタの力があるなら、絶対どんな英霊にだって負けたりしない」

 

「こりゃ期待が大きいなぁ。裏切らんようにすんのは僕でも結構な苦労になりそうや」

 

 月下、二人の影が向き合う。楓は色んな重圧から解き放たれたような満面の笑みを浮かべて、キャスターに笑いかけた。

 

「おぉっと、そーいや大事な事を忘れてた」

 

「ん、何? 何か問題あるの?」

 

「いや。……契約において最も重要な交換を、僕等はまだしとらんかったな、とね」

 

 首を傾げてから、楓は頭上に豆電球を輝かせる感じで「あ」という呟きを漏らした。

 

「そっか、名前ね。すっかり忘れてた」

 

「ウンウン、君みたいな可愛い子をいつまでも名前で呼べへんってのはある種の焦らしやで、ほんま」

 

 その物言いにキャスターをじろりと睨んでから、溜息を吐いて楓は彼の瞳を見上げた。

 人懐っこそうな目の奥にあるのは、とても澄んだ瞳だ。きっと楓では想像もできないほど色々なモノを見てきただろうに、その瞳に秘められた清廉さは、たぶん死ぬまで失われなかったんだろう。

 

 

「──私、志原楓。これからよろしく、キャスター」

 

「ああ。宜しゅう、楓ちゃん。秋月と君に合った……いい名やなぁ」

 

 

 かくして最後のマスターは契約を終え、信頼の証を交わし合う。

 この日、七人のマスターか大塚の地に揃い、第六次聖杯戦争は幕を開けた。

 その後、とある八人目のマスターが誕生する事になるが──当然、それを知り得るものは誰一人としていなかった。




【キャスター】
真名:安倍晴明
平安の京に生まれ、都の守護神として様々な伝説を生み出した歴代最高の陰陽師。大江山の鬼たちとの戦いに手を貸したり、玉藻の前の正体を突き止めて京から追い出したり、色々面白いエピソードがある。FGOで登場しそうな予感がありますが、本作では完全オリジナル設定でお送りします。
〈ステータス〉
筋力E、耐久D、敏捷C、魔力A+++、幸運B、宝具A
※日本なので、知名度補正が最大。
〈スキル〉
千里眼A
道具作成A
陰陽術A++ (※陣地作成はこのスキルと引き換えに削除される)
高速真言A

【千里眼A】
視力の良さ。遠方の標的の補足、動体視力の向上。ランクが高くなると、透視、未来視さえ可能になる。
晴明の千里眼は「過去」を見通すもの。効力を発揮するには「直に目視」かつ「ある程度の近距離」という必要条件があるが、その効果によって彼は事実上「真名看破」と同じ能力を持つ。

【陰陽術A++】
陰陽道に精通したのものが獲得するスキル。彼は陰陽術の真髄、陰の世界(世界の裏側)に到達したただ一人の存在であり、故にそのスキルは最高ランク。五行から吉凶を占うような基本的なことから、多様な式神、更には十二天将と呼ばれる神霊まで使役してみせる。

【高速神言A】
陰陽術には本来長い詠唱、複雑な前準備に暦などの調整、専用の道具などが必要になるが、彼はその全てを「跋祇」の一言で済ましてしまう。稀代の天才にのみ許される神業。

【十二天将】
ランク:A+
種類:対軍宝具
彼が使役したと言われる神々の名前にして、安倍晴明の第一宝具。
陰陽術はこの世界を「陰」と「陽」の二律背反と捉える事からスタートするが、それを突き詰めた彼は、この世の「陰」にあたる「世界の裏側」への接続を成し遂げた。そこは幻想種が放逐されたもう一つの地球であり、いつか人類が辿り着くとされる場所。そこに一足早く到達した彼は、そこの住人となんやかんや仲良くなった結果、十二体の神霊と契りを結んだ。それこそが「十二天将」と呼ばれる安倍晴明の奥の手である。
これらの神霊は全員がサーヴァントに比類する力量を持ち、更に「こちら」に顕れるのはあくまで仮の分霊であるため、倒されたとしても一日掛ければ何の問題もなく再召喚できる。
マスターの志原楓が魔術師として未熟であるために、最大の知名度補正を考慮しても現世に呼び出せるのは二体が限度。それでも実質三騎ぶんの力を持つのと同等であり、消費魔力を考えるとその性能は破格と言える。倫太郎なんかがマスターになった日には手がつけられない。

【跋祇・陰陽ノ極】
ランク:B
種類:対人宝具
安倍晴明の第二宝具。正確には陰陽術の一種。そもそも陰陽術は世界の二律背反を認識した上で、「陰」、つまり世界の裏側から神秘を引っ張ってくることで奇跡を成す。しかしこの術式は力を引っ張ってくるのではなく、術者と対象をまるごと裏側へと転移させる。
この空間において、「十二天将」は分霊ではない本体で戦える為、彼らの戦闘能力は飛躍的に向上する。更に同時に召喚できる数も増加し、楓がマスターの場合であろうと最大四体まで同時使役が可能となる。サーヴァント数騎分を上回る火力で、真正面から敵サーヴァントを殲滅する事が可能。
弱点としては、十二天将がその本体を晒しているという事が挙げられる。深刻なダメージを負えば長時間は行動不能になるし、「直死の魔眼」なんかで殺された日には二度と蘇らない。彼らそのものはあくまでサーヴァントではなく、今の時間を生きながら、座から召喚されたキャスターに力を貸しているからだ。

【護身・破敵】
ランク:C
種類:対人宝具
安倍晴明の第三宝具。一対からなる霊刀、詳細不明。


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三十話 Magus──志原楓

(な、なんで……こんなことに……)

 

 場を満たす異様な雰囲気に、魔術師──志原楓はその小柄な身体をますます縮こませていた。

 時期は秋始めだが、空気は真冬のように凍てついている。

 ありふれたダイニングテーブルに座るのは、志原健斗、志原楓、セイバー、キャスターの四人。楓の右隣にはキャスターが座り、向かいには兄が、その隣にセイバーがちょこんと腰かけている。

 

(キャスターは……駄目ね。相変わらずのんびり煎餅食べてる……)

 

 雰囲気から逃れるように視線をキャスターに逸らすが、彼は僕ぁ関係ないし、とばかりに好物の煎餅を摘んでいる。

 溜息と共に視線を前に戻すと、かつて見た事も無いほど剣呑な兄の視線が瞳孔を貫き、楓は思わず目を伏せた。

 

「楓」

 

「は、はひっ⁉︎」

 

 唸るような低い声に、思わず敬語で答えてしまう。

 基本的に兄に対してはふてぶてしい楓にそうさせるほど、兄の声には怒りと──それに比類する困惑が込められていた。

 

「説明してくれよ、全部」

 

「あ、ぇと、その……な、なんというか」

 

 言葉に詰まり、口ごもる。

 そもそも何を言えばいいのか分からない。楓は目まぐるしく変動していく状況に、未だついていけていなかったのだ。

 マスターが魔術を知らないはずの兄で、それがあろうことかセイバーを使役していて、それどころか隠し通してきた自分の秘密まで明らかになってしまった。今更どう弁明して、何を伝えるべきなのか──。

 

「……ケント。先にケントが事情を説明するべきなんじゃないですか? 彼女、説明といっても困惑しているようですが」

 

「セイバーは黙っててくれ、それどころじゃないだろ⁉︎ 俺の家族が魔術師なんて連中の一員で、挙句こんな得体の知れない奴を」

 

「むっ、私にそんな口をきくとは愚かですね。とても見てられませんし、少しは落ち着いて下さいよ」

 

「あいだだだだだだだだだ痛い痛い痛いやめろやめろやめてクダサイほんとに‼︎」

 

 セイバーと思われる少女が片手を伸ばし、兄の脇腹をぐりぐりと押す。

 恐らく最後の双手突きで彼の肋骨を一、二本へい折ってしまったと思うのだが、それにしても容赦の無い行動だ。兄は悲鳴を上げて椅子をガタガタと揺らす。

 

「だ……大丈夫なの、怪我? 怪我させた私が言う事じゃないけど……」

 

「だっ、大丈夫だって言ったろ。俺の近くにこいつがいる限り、怪我なんてすぐ治る」

 

 情けなさと罪悪感に米粒になってしまいそうな楓の言葉に、顔を顰めながら兄が返答する。

 

「けど、私だって、分からない……なんでお兄ちゃんが、マスターで」

 

 平静を装うとしたが、自然と声が震えてしまった。

 楓は今まで、兄をこの世界の闇とも言える魔術の領域に踏み入れさせまいと努力してきたのだ。どんなに辛い鍛錬の後でも、魔術を使い過ぎた精神的疲労の後でも、彼の前でだけは「普通の女の子」を演じてきた。

 なのに──彼は知ってしまった。

 魔術を一度知ってしまえば、もう、ありふれた一般人には戻れない。マスターとしてサーヴァントを使役している以上、先日の女学生に記憶を丸ごと消すというような荒療治も不可能だ。

 

「──ごほん、話を急がせて悪かった。そっちが話せるほど落ち着いてないんなら、こっちから話す事にする」

 

「どこが落ち着いてるんですか、偉そうに」

 

「やかましい、常に一番偉そうな奴が言うな」

 

 楓には知る由もなかったが──今にも泣きそうな妹を前にいつまでも怖い顔を保てるほど、健斗は冷徹になれるという訳でもなかったのだ。

 大雅が見たら「おいシスコン」などとからかうだろうが、健斗曰く妹には少し甘いだけである。

 

「まあ、要は……俺はヘマやって、この戦争に巻き込まれたんだ」

 

「……?」

 

「まあ、説明すると長くなるんだけど──」

 

 魔術に不慣れながら、健斗は端的に、しかし包み隠さず、今の絶望的な現状を数分かけて楓に伝えた。

 バーサーカーに殺され、セイバーと契約を結ぶ事で死を免れた兄。ただ、それは──、

 

(死んでるのと、変わらない……)

 

 背後に忍び寄る死神を一歩ぶんの距離で押しとどめているようなもので、「生きている」と表現するには彼の存在は余りに脆い。

 なんせ身体は死に絶えている。魂という観測すら困難な要素だけが、彼という存在を現世に括り付ける唯一の楔なのだ。

 理解したくもなかった兄の言葉を一字一句噛み砕いて、完璧に理解する頃には、楓の紅い頰は先よりもますます青くなってしまっていた。

 

「──とまあ、俺が助かるには、聖杯に願いを叶えてもらうしかない訳だ」

 

「そ、そんな……」

 

 そんな状況をきちんと理解しているのかいないのか、あっけらかんと言う兄。だが魔術師である以上、それが「死に限りなく近い生」であると理解してしまった楓は、絶望の呻きを漏らしていた。

 

(私じゃ何もできない……キャスターだって、身体蘇生なんて魔法レベルの術式は使えない。どう足掻いても、聖杯を取る以外には……)

 

「楓、そろそろいいだろ? 次はお前の番だ」

 

「うっ……そりゃあ、そうだけど、でも」

 

 楓ははたから見れば気の毒に思えるほど視線をウロウロさせ、ようやく観念して項垂れた。

 心の中で、海外を飛び回っているであろう両親に、楓は深く深く謝った。

 かつて両親が下した苦渋の決断も、今日で意味を失ってしまう。兄が志原家と、己の出生に関する秘密を知らないままでいてくれたなら、彼はその一生を平穏とともに過ごせたろうに。

 

「これを聞けば、お兄ちゃんは将来、呼びもしない争いに巻き込まれてしまうかもしれない。魔術を知るだけならいいけど、己の出生まで知ってしまえば、それはほとんど魔術師である事と同じなんだから」

 

「構わない。どうせ死んでんだ、そもそも生き残るかも分かんねえ状態で将来にあるかもしれない事を心配しても意味ないし」

 

 また不吉な事を、と呟いて、楓は深い溜息を漏らした。鼻頭のあたりを押さえてむ〜、っと考え込んでから、観念したように顔を上げる。

 

「…………分かった、話すわ。私と志原の魔術師が抱える秘密を」

 

 それは────。

 生涯隠し通してきたモノが、音を立てて崩れていった瞬間のように楓には思えた。

 

 

 

 

 志原家。

 

 それは「大塚」の土地に住まう二つの魔術家系の内の一つであり、その起源はなんと繭村とほぼ同じ頃、江戸時代以前にまで遡る。積み重ねてきた年代、という点に於いては、極東有数の家系である繭村家にも劣らないのだ。

 だが、彼らの功績が評価される事は決して無い。

 何故なら──彼らはれっきとした「魔術師」の家系になろうとしなかったからだ。

 日本の戦国時代に在ったという「忍者」なる暗殺者が発端であるが故に、彼ら一族の本質は奇跡を手繰り根源を求む魔術師に(あら)ず、ただ力と効率を求めることこそにある。

 文明開化と共に魔術師としての生き方を取り入れ、上手く地位を獲得していった繭村の魔術師とは正反対といえるだろう。

 とはいえ繭村も志原も、元は同じだ。

 戦国という血生臭い地獄の世界を生き抜く為に編み出されたちっぽけな奇跡が、いつしか「魔術」として体系化され、形となった。そして繭村は上手くその方向性を変え、根元への探求へと向かい始めたのに対し、志原は変わらず力と効率のみを求め続けたのだ。

 

 いわば、魔術師としての「成功」と「失敗」。

 

 当然、「根元を求めぬ魔術師」などが正規の魔術師と呼ばれるわけがない。

 根元への到達は魔術師の共通理念であり、到達点だ。

 それを目指すものたちを魔術師と呼称する以上、志原の者たちは魔術師とはいえない。言うなれば、「己が目的のために魔術を使う魔術使い」といったところか。

 そんな彼らは、時代が進むにつれて魔術師たちから白い目で見られるようになった。

 魔術師としての裏切り者、異端者、穢れた者たち──根元を求めず独自の追求を果たそうとする志原の魔術師は忌み嫌われるようになり、当然魔術師としても衰退の一途を辿っていったのだ。

 

 

 

 

 ──古い記憶を、紐解いてみる。

 

『ねえ、ママ。わたしたち以外にも、魔術師はいるの?』

 

『ええ……いるわ。この街にも、繭村という魔術師が住んでいるの。湖のほうにある、大きなお屋敷が彼らの家よ』

 

『へぇ……‼︎ そのひとたちとわたし、お友達になれる?』

 

『……やめておきなさい、楓。私たちは魔術師であって魔術師ではない、中途半端な存在なの。彼らと会っても、ろくなことにはならないわ』

 

『ちゅうと……はんぱ?』

 

 幼い楓はかつて、そんな事を母に教わった。

 けれどその意味を理解するには、彼女はあまりに幼く、無垢だった。世界に溢れる悪意も敵意も知らなかった少女には、「自分がそもそも忌み嫌われる存在である」という考えなど浮かぶはずもなかったのだ。

 だから──楓は、幼い頃特有の強い好奇心に突き動かされて、一人で繭村の家を訪ねた。

 

『ごめん、くださーい』

 

 背伸びして、なんとかチャイムを押す。

 軽やかに鳴り響く電子音のあと、楓の家の車庫ほどある門の奥から現れたのは小さな少年だった。赤銅色の髪の毛をした、どこか気弱そうで頼りなげな少年。

 

『……君、だれ?』

 

『わたし? わたし、志原楓よ! 今日はね、繭村のひとと仲良くなりに来たの!』

 

『変なヤツがきたな……どうしよう、父上は出かけているし……門下生のひとも、今日は出稽古に出かけてる』

 

 その少年はしばらく迷ったあと、

 

『あんまり他人を家に入れるなと言われてるんだけど……仕方ない。入りなよ』

 

 渋々といった表情で、楓を中に招き入れてくれた。

 あまりに大きな武家屋敷は、楓の好奇心を激しく刺激した。何十メートルもある廊下に、完成された日本庭園。ガラス張りの縁側に、屋敷の中に満ちる静謐な空気と木の香り。

 目を輝かせながら歩く楓を先導して、その少年は彼の自室へ楓を案内した。

 

『そうだ。あんた、名前は?』

 

『なんか失礼なヤツだなあ。……倫太郎だよ、繭村倫太郎。よろしくね』

 

『倫太郎、ね。覚えたわ!』

 

 綺麗な畳張りの床の上をコロコロと転がりながら、にこにこと笑う楓。

 「なにがそんなに面白いんだか分からないな」と言いつつ、倫太郎はタンスからお菓子を引っ張り出し、お茶を用意して即席のお茶会を作り出した。

 

『──で、あんたは魔術師なの? 倫太郎』

 

『ぶ⁉︎ ごぼっ、ごほっ……き、きみ、魔術師だったの⁉︎』

 

『魔術師だから、ほかの魔術師さんと仲良くしに来たんじゃない』

 

『……そう、下手に隠す必要もなかったのか。質問に答えるけど、僕は魔術師だよ。しかし「志原」なんて名前、聞いたこともなかったな』

 

『うっそぉ。おんなじ街に住んでるんだから、知っておくくらいしなさいよね!』

 

『悪かったよ』

 

 そんな事を言いつつ、小学生になってすらいない幼い魔術師の卵たちは、色々な会話をした。

 時には朝の戦隊モノの話題という、園児にはありふれた話題であったり、魔術師に関して抱く莫大なイメージを好き勝手に喋ったり。昼過ぎだった時間がすっかり夕暮れになっても、二人の会話は途切れそうになかった。

 初めて会った、同年代の魔術師。

 その出会いは同年代の子供なんかよりも遥かに刺激的で、倫太郎は自分の父親が帰ってきたことに気付けなかったほどだった。

 

『──倫太郎、誰と話している。人を勝手に家に上げるなと、きつく言っておいた筈だ』

 

 がらり、と障子が開き、老齢に差しかかろうとしている強面の父親が現れたのは、もう夕日が山の向こうに沈みきった頃だった。

 たわいのない話に興じていた倫太郎は思わず跳び起きると、父親に深々と頭を下げる。

 

『──ちっ、父上、申し訳ありません! 少し話したら帰そうと思っていたんですが、彼女は……』

 

『まあ待ちなさいよ。倫太郎のおとーさん』

 

 強面のオーラもまったく意に介さず、縮こまる倫太郎を庇うように楓が前に出た。

 皺は深いが、爛々と輝く険しい目線が楓を射抜く。さすがに少し気圧されて、楓は言葉を飲み込みそうになったが、それでも後ろの倫太郎のために口を開く。

 

『魔術師が、一般人を家に入れたがらないのはわかってるわ。でもね、わたしも志原の魔術師なの。今日はあなたたちと、仲良くなりに──』

 

 誇らしげに言おうとした楓は、しかし最後まで言葉を続けられなかった。

 それもそのはず、倫太郎の父親の表情が「志原」の言葉を聞いた瞬間に一変したからだ。

 なぜそのように親の仇を見るような顔をするのかまるで理解できず、楓は少し顔を青くしながら疑問符を浮かべる。

 

『ち、父上? 何か問題が……』

 

『馬鹿者がッッ‼︎』

 

 怒声が飛ぶ。同時に風を切った豪腕は、倫太郎の頭を殴り飛ばしていた。

 畳の上に吹っ飛ばされて動かなくなる倫太郎と、突然の事にへたりこむしかできない楓。父親の目線は楓の方を向き、その手が楓の首をきつく掴む。

 

『異端児が。まさか貴様の方から、我が家の領域に足を踏み入れるなどという蛮行を犯すとは……‼︎』

 

『は──かっ……やめ、て……い、だ……ぃ』

 

 怒声を聞きつけて駆けつけてきた繭村の門下生たちが、首から手を離されて苦しげに咳き込む楓を取り囲む。

 その頃にはようやく楓も「してはいけない事をしてしまった」と幼心ながらに理解していたが、頼れるものは周りに何もない。

 あまりの孤独感、不安──さらに少女にのしかかったのは、何十人もの魔術師から吐き捨てられる侮蔑の言葉だった。

 

『穢らわしい、志原の家系の者が立ち入るとは‼︎』

『今すぐつまみだせ、二度と近づけるな‼︎』

『おぞましい、魔術師とは名ばかりの異端者どもめ……‼︎』

『消えろ‼︎ 消えろ‼︎ 消えろ‼︎』

『いっそここで、命すら奪ってやろうか⁉︎』

 

『なんで……なんで、わたし……ただ……』

 

 理解できない。

 何もしていない。

 ただ──仲良くなれると、思っただけなのに。

 どこかからか飛んできた太い足が楓の顔を蹴り飛ばし、意識が朦朧としている間に身体を持ち上げられた。

 

『────、────‼︎ ──‼︎』

 

 微かに見える視界の端で、起き上がろうとして必死に何かを叫ぶ倫太郎の姿が記憶に焼きつく。

 けれど、倫太郎と楓は決定的に身分が違っていた。たとえ四民平等の世であろうが、魔術師としての格差は今となっても続いているのだ。そんな残酷な現実を、まだ幼い少女が知っているわけがない。

 そうして楓は家の外に放り出され、わけのわからないまま号泣して家に帰った。そうして、暖かい母の腕の中で泣き疲れるまで泣いた。「ごめんね」と何度も何度も語りかける母親の姿が切なくて、楓は悔しさと理不尽さを叩きつけるように涙を流し続けた──。

 

 

 

 

 ──このように、志原家の扱いは過酷を極める。

 当然ながら魔術師同士の繋がりは無く、魔術関係の仕事を受ける事もほとんど不可能。だからこそわざわざ、海外で危険な闇稼業に手を染めなければ、志原の魔術師は魔術師として存続すらできない。

 そんな彼らだったが──幼い楓が心に深いトラウマを負ってから、幾ばくも経たない頃。

 志原一家にとって光明と言える一つの道が、彼らの前に開かれたのだ。

 

『……養子が決まった、ですって?』

 

『ああ‼︎ それも、なんとだ。かの────家が僕たちとの養子縁組に応えてくれたんだよ‼︎ あそこは魔術的に優れた子を残すため、品種改良じみた行いまでしているらしいが……その、言ってしまえば「余り」を、僕たちの養子として預けてくれるそうだ』

 

 それは、魔術師としては極めて優れた地位を築いている大家からの返答であった。

 魔術師は魔術回路の優れた子孫を残すため、様々な手段を用いて子を成そうとする。中には非人道的なものも含まれるというが、そうした際に発生するのが「余った子供達の処理方法」である。

 当然廃棄(・・)すれば良い話ではあるが、あまりそれを繰り返せば悪評が立つ。

 だからこそ定期的に他家と養子縁組を組む事で、「己の家はまっとうなやり方をしている、クリーンである」というイメージを形成するのだ。そして何故か、その大家は志原の魔術師を養子の受け入れ先として選択した。

 

『けれど、何故? 私たちは向こうにとって許しがたい異端者の筈。どうして急に養子縁組に応える気になったというの?』

 

『いいじゃないか。いくら後継者争いに敗れた子供とはいえ、その魔術回路の優秀さは平凡な魔術師たちを遥かに上回る。志原はほとんど終わりが近いが、再起だって夢じゃない』

 

『でも……』

 

『それに、楓の負担だって減る。誤って楓が繭村の家を訪れ、傷つけられて……あの子は心にひどいトラウマを植え付けられた。強い子だ、表面上は笑っているが……部屋で時折泣いているのを、君も知ってるだろう』

 

 養子の話は、決して少なくない量の資金を必要とした。エリート魔術師の後継者を養子として引き取る以上、それには高額な金額が提示される。

 志原の家はそもそも経済状況は悪かったが、それでも掻き集めればなんとか規定の額は揃えられた。

 回路の衰退は抑えられ、楓の負担は消え、志原という一族はこの取引で報われる。悪評が消えなくとも、いつか──そう、楓の両親は強く願ってやまなかった。

 

 ──だが。

 

『「自己強制証明(セルフギアス・スクロール)」。ここに契約は完了した。この子と私たちは今後一切関与しないと共に、貴方がたはこの子を子供として迎え入れる』

 

『では────』

 

『ああ。これまでの記憶は消去しておく、せいぜい普通の子として(・・・・・・・)育ててやってくれたまえ』

 

 相手の魔術師が述べたその言葉に、楓の父親は違和感を感じ取っていた。

 魔術師が養子を迎えということは、そのまま「その子を後継者として迎え、育てる」という事と同義である。これは魔術師の常識であり、当然のこととして扱われる。

 だが──それでは、まるで一般人の養子取引のように聞こえてしまうではないか。

 

『何を……言っているのです、────』

 

『何を、だと? 繰り返すが、魔術師としてではなく、普通の子として育てよと言っているのだ。貴様らの穢らわしい魔術もどきを、失敗作とはいえ我らの子息に使われるのは腹立たしいのでね』

 

『ば……馬鹿な‼︎ 貴方は私が志原の魔術のことを口にしても、「決して侮蔑はしない」と言ったではないか‼︎ 魔術師として育てる事にも反対はしなかった‼︎』

 

『ああ。だが、賛成もしていない。そして侮蔑しないなどというのはただの方便だ、語るのも穢らわしいがな。だが──自己強制証明にある言葉は、ただの方便などでは済まない』

 

 顔を青くして父親は文書を隅から隅まで眺める。その瞬間に向こうの魔術師が指を鳴らすと、軽い風が吹いて紙面上の魔力を洗い流した。

 簡単な隠蔽の魔術によって隠された一行には──こう書かれている。

 「志原の魔術師は、養子を魔術師として育てることは許されない」。

 

『貴様……‼︎ 図ったのか……‼︎』

 

『我々は不要な子を排除し、契約金を頂き、貴様らは愛すべき子を獲得した。素晴らしい取引だとは思わないかね、ハハハハハ……‼︎』

 

 志原の家はまんまと子を押し付けられた、というわけだ。

 そうして、「志原健斗」は健斗として一生を歩み始めた。無論、魔術師として生きる事が許されるわけもなく、ただの一般人として。

 優秀な魔術回路を備えながら、後継者の大役は楓が担うことになり、志原の家はますます貧困に苛まれるようになった。両親の海外働きが増えたのもこの事件が起因している。

 ──ともあれ。

 そうして志原楓は「穢れた魔術師」としての茨の道を歩み始め、志原健斗は何も知らぬまま、一般人としての道を歩んでいくはずだったのだ。

 

 

 

 

「……ってわけ。分かった?」

 

「──────」

 

 俺は何を言うべきか分からず、無言で息を呑んだ。

 志原という、穢れた一族について。

 そして俺は彼らとは違い、どこかの魔術師の家で生まれた子供だったということ。

 その時の記憶は綺麗さっぱり消去され、俺は普通の子供として育てられた。そして俺が担うはずだった大役は、楓が引き継ぐことになってしまった。

 

「……そうですか。魔術師とは得てして己の利益と名誉のみを追求する存在ですが、その在り方は私は好みません。やはり、魔術師は好きになれないみたいです」

 

「同感だ。──クソ野郎どもめ、なんで楓がそんな爪弾きを受けなきゃならないんだ」

 

 奥歯を噛み締めて、やり場のない怒りを堪えようとする。セイバーも同意するのか、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 魔術師筆頭であるキャスターはというと、そんな場の空気も介さずに相変わらずせんべいをボリボリ食っている。なにやら大好物らしいが、もう少し空気を読めお前。

 

「……しょうがないわ。魔術師なんて、みんなそんなもの──私だって同じよ」

 

「それは……」

 

 ──違う、と言いかけて止まる。

 楓が聖杯戦争に自分の意思で参加していた以上、彼女も覚悟を決めていたはずなのだ。

 「自分のために、他者を殺してでも望みを叶える」と。他者よりも自分の目的を最優先する、まさに魔術師らしい在り方だと言えるのではないか。

 

「ともあれ、私の話はおしまいよ。お兄ちゃんが理解できたなら、これからの話に移ったほうがいいんじゃないの?」

 

 確かにそうだ。だが──俺はまだ、色々と飲み込めていない。

 今まで当たり前だと思っていたものが全く違っていたという困惑や、自分の出生に関する衝撃、怒り、様々な感情が竜巻みたいに絡み合って渦を巻いている。

 こんな状態じゃ、まともに考えられそうにない。何を信じて何をすればいいのか、それすらも曖昧になってきている。

 

「……悪い。その話は明日にさせて欲しい」

 

「ケント?」

 

「ちょっと整理する……楓、疲れたろうから先に寝といてくれ」

 

「あ────」

 

 そうして俺は、振り返ることなく扉を閉めた。




【志原健斗】
有名な魔術師の家に生まれたが、目標の回路量を満たしていなかった為に失敗作と断じられた子供。
とはいえその魔術回路は相当に優秀であり、素人ながら、セイバーの魔力消費にもなんとか追いつけている。

【健斗の両親】
志原の魔術師として、主に海外の紛争地帯で傭兵じみた仕事をこなしている。拳銃やら手榴弾やらが健斗の部屋にあったのもそのため。


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三十一話 夜空の下、気付く想い

 鬱陶しい熱気混じりの夜風が吹き抜けていく。

 目の前には立ち並ぶ家々の屋根。その奥には駅前の灯りが幾つも見え、ランドマークタワーの黒々とした影が天に向かって伸びている。それはまるで、漆黒を纏った巨人のよう。

 

「…………………………」

 

 屋根に腰かけたまま、俺は息を吐いた。

 頭の中で状況を整理する。

 ──「志原」という俺の家はありふれた普通の家庭ではなく、魔術に深く関わる魔術師の家系だったらしい。

 俺はその後継者として養子に迎えられたが、それは外部からの圧力により頓挫。結局俺は厄介払いをされただけで、正当な血筋の妹が後継者として育てられた。

 軽く息を吐いて、胸の中に溜まった感情を吐き出そうとする。

 俺は養子とはいえ、話を聞いたところによると、元の家に捨てられたも同然の扱いだったらしい。魔術師という奴らは子供の安寧よりも、子供が持つ才能……ひいては自分達の家系の繁栄を重視するのだ。

 それに対して──怒りは、あまりない。

 不当な扱いを受けたとはいえ、そもそも顔すら思い出せないような連中だ。今更そんな不明瞭な奴らに対して怒る気にもなれないし、怒ったところで何か返ってくるわけでもない。

 

(ただ、問題は)

 

 ──問題があるとすれば、それは。

 

(俺の家族が……魔術師だった、って事だ)

 

 その事実のみが、俺の胸の中で鬱陶しい錘となって俺を苦しめている。

 魔術師。根元を目指す探求者たち。

 そう聞けばまだ印象はいいかもしれないが、俺はセイバーから色々と伝えられたし、実際魔術師のせいで殺されている。

 正直なところ、俺の中での「魔術師」に対する印象は最悪だった。

 だから、聖杯戦争なんていう狂った儀式に参加している奴らも、総じて自分の事しか頭にない奴らなんだと思い込んでいた。

 

(けど──実際はどうだ。楓も、父さんも、母さんも、みんな平気で人を殺せるような奴らだったっていうのか⁉︎)

 

 俺だって、人を殺す覚悟くらいはある。

 そうでなければ生き残れないし、一度殺される恐怖を味わった上で易々と命を差し出すほど俺はバカじゃない。

 けれどそれは、あくまで生存に必要だからだ。

 俺のような例外を除けば、聖杯戦争の参加者は、自分自身の意思でこの儀式に参加する。それはつまり、最初から「人を殺す」事を手段として用いても構わない、と考えて参加しているということ。

 つまり。楓は──魔術師は、そういう存在なのだ。

 平凡な家族だと思っていた。

 だが、魔術師なんて存在だったと知れた以上、俺はどう家族と接すればいいのか。それが分からなくなってきた。

 

「魔術師って何なんだよ。父さんも母さんも楓も魔術師だっていうんなら、今まで俺が見てきたのは何だったんだ⁉︎」

 

 家族だと思っていた人たちが、形が同じだけの怪物だったようにさえ思えてしまう。これから何信じればいいのかも定まらない不安定な状況で、俺は絞り出した声を張り上げた。

 当然、その声に答えはない。

 闇に浮かぶ月と星々だけが、屋根の上で座り込んだ俺を眺めている。

 

(──ああ、もう、全部壊してしまえば)

 

 ぎょっとして俺は目を見開く。

 なにかとんでもないコトを考えた気がした。

 想定外の事実を目の当たりにして気が立っているのか。とにかく何とかしてこのモヤモヤを心の奥に押し込んで、少なくとも朝セイバーに会うまでには元の俺に戻らなければ。

 セイバーはやたら鋭いところがあるし、きっと俺の不調にも気づいてしまう──。

 

「あ、ここにいたんですか」

 

 だが、最悪のタイミングで彼女は現れた。

 いつものように素っ気ない口調で、けれどどこか楽しそうに。

 

(駄目だ。今は、まずい、来ないでくれ……‼︎)

 

 色んな感情がごちゃ混ぜになって、何を言うべきかすら分からない。そもそも自分の意思すら定まらない。

 それくらい家族が魔術師という存在だったことの衝撃は大きかったらしい。ともあれ俺は言葉に詰まり、セイバーが屋上に軽々飛び乗ってくるのを眺めていた。

 

「やれやれ。全くもって変なとこにいますね、ケント」

 

 セイバーは軽やかに屋根の上を歩いてくる。

 彼女が近くに来ると、ふわりと漂うような香りが鼻腔を刺激した。楓のゴムで髪を纏めているところと、仄かに紅くなった頰……でもって楓のジャージに着替えていることから察するに、風呂にでも入ってたらしい。

 まったく呑気なヤツ……と俺が呆れかけた瞬間──、

 

「う゛ぐっ⁉︎」

 

 セイバーの接近が何らかの引き金になったのか、それとも別の要因か。

 

"こンな事を、シテいる場合カ"

 

 突発的に、脳髄の奥でなにかが蠢いた。まるで俺が抱いている鬱屈した感情を燃料にして、よくないものが本格的に稼働を開始したような感覚があった。

 

「ケント……⁉︎」

 

「ああ──。なんだ、セイ、バー……?」

 

「な……なに言ってるんですか、自分で分からないんですか⁉︎ 顔が真っ青じゃないですか‼︎」

 

 そんなモン分かるか。自分の目は自分の顔を見れるようにできてないんだ。

 違う、そんな事は今はどうでもいい。地獄の奥底から響いてくるようなノイズが俺の脳内を這い回っている。

 

「ああ、悪い、なんか気分、悪──」

 

 がちがちと歯が鳴る。呼吸が荒い。

 死神がすぐ後ろにいるような、異様な寒気が全身を襲っている。

 すぐに意識が今にも途切れそうになってきた。これはまずい、今すぐ何らかの対策をしなくちゃ俺は──、

 

 意識が、反転した。

 

「…………………………………………………………」

 

「な、なんですか? 急に黙り込んで。もう夜も遅いんですし、こんな所にいないで休んだほうが」

 

 血管の浮き出た両手が異様な速さで伸びる。

 セイバーは流石に想定外だったのか、その手を振り払うこともなかった。獣のようにセイバーに飛びかかった俺は彼女の華奢な身体を組み伏せ、両手を強く上から抑えつける。

 彼女の体は驚くくらい軽く、簡単に屋根の上に押し倒せた。蒼色の髪が広がり、押し倒す俺の手にかかる。

 

「──────け……ケン、ト?」

 

 距離が近い。綺麗な彼女の碧色の瞳が、柔肌が、唇がすぐそこにある。何を、と言おうとした彼女の口を俺は左手で塞いだ。

 食い縛った歯の間から漏れる吐息は荒い。俺の両目は異様に血走って、セイバーの白くて細い首元だけを捉えている。

 綺麗で/憎くて、愛らしい/殺したい彼女の顔に、驚きと困惑の表情が浮かぶ。

 

「……………………は、はははは」

 

 乾いた笑いを漏らしながら、ひゅっ、と素早く右手を振り上げた。

 一体何をする気なのか。俺が何をしたところで彼女に傷はつけられないだろうに。

 それでも、俺は絶望的な危機感を覚えていた。今すぐ止めさせなければ不味いと、俺の直感が告げている。

 止まれ、止まってくれ。

 まるで手刀のように右手の五指が伸ばされる。勢い良く振り上げた右手は、更なる神速を伴ってセイバーの首元へと──、

 

(止まれってんだよ、俺の身体────‼︎‼︎)

 

 意識が、反転した。

 

 何かが起きて何かが正常に戻った。世界が歪んだかのような衝撃が脳髄を駆け巡り、俺は苦悶の声と同時に肉体の支配権を取り戻した。さっきまでの記憶が黒い洪水に呑まれて混濁する。

 ……俺は何を思い、何故彼女を押し倒したのだったか。

 だが、既に右手は振り下ろされている。

 多分そのまま振り下ろしても害はなかったろう。俺じゃあ彼女に傷を付けるのは難しい。それでも、俺は強烈な忌避感からセイバーの首筋に振り下ろされる手刀を全力で止めにかかった。

 勢いは殺しきれず、結果的に振り下ろす起動が僅かに逸れる。

 若干内側に曲がった俺の右手は勢いを緩めつつも結局止める事は出来ずに──、

 

「…………………………え?」

 

 セイバーの柔らかな、そして結構大きめの豊かな胸部のど真ん中に着地した。

 そのたわわな感触を味わった瞬間に俺の時間はぴたりと止まって

 

「え? じゃないでしょうが頭おかしいんですかこの変態愚か者不敬者ゴミクズ変態虫‼︎‼︎」

 

 ……時間が怒号と共に動き出し、俺は頭のどこかで想定していたビンタどころか、ショットガンを思わせる魔力放出の雷に打ち据えられて吹っ飛んだ。空気が肺から全部押し出されて、身体中を感電特有の嫌な感覚が駆け巡る。

 数メートル吹っ飛んだ俺はあろうことか道路を飛び越え、向こう側の民家の屋根の上を転がって停止した。全身がずきずきと痛むのを感じながら、どうせなら今回も気絶しときたかったとぼんやり思う。

 そして、仰向けの俺に歩み寄ってくるセイバー。彼女の眉はぐいぃんと釣り上がり、怒りで漏れ出した魔力が火花を散らしている。

 

「──ヘンタイ‼︎ ヘンタイですよ‼︎ そんな 男だったなんて見損ないました‼︎」

 

「いやっ……違うんだっての‼︎ 落ち着いて、ゴカイ、ゴカイデス」

 

「なぁにが違うんですか触っておいて‼︎‼︎」

 

 ……正直なところ、今更なにを言っても押し倒したのはまごうことなき事実であって。

 まだ痺れてよく動かない身体をもぞもぞと動かして、憤慨する魔王様に日本人特有の伝統謝罪体制ことドゲザを披露する。まさか向かいの渡辺さんの家の屋根で土下座をする日がくるとは思わなかった。

 

「……いやその、すいませんでした」

 

「むっ」

 

 構うものか、ガンガン額を擦り付けていけ。この局面を切り抜けるには誠心誠意魔王さまに謝罪の意を表明するしかない。

 元より俺とセイバーは運命共同体、生死を共にするパートナーなのだ。こんな事で関係を険悪にするなんてたまったもんじゃない。

 

「…………………………ま、いいですよ。顔を上げてください」

 

「えっ、こんな簡単に許してくれたり⁉︎」

 

「ンなこと言ってないでしょうが‼︎ とりあえず顔を上げろと言ってんですよ‼︎」

 

 人ん家の屋根の上でずいぶんと大声で騒いでるな俺たち……とセイバーの言葉をよそに考えてみるが、今更どうにもならないので諦めた。内心ではセイバー同様にご近所さんに謝っておきたい気分。

 

「これから私の不敬ゲージを数本ぶんは貯めた先の行いついて問い詰めますからね。そう、魔王裁判です。被告人である変態クソ野郎ことケントは誠心誠意真実を述べるように」

 

「んな魔女裁判みたいな……」

 

 唐突に始まった魔王さまの裁判。

 セイバーの口調がやけに速いし所々声が裏返っているのを鑑みるに、珍しく気が動転しているのだろうか。最もそれはこちらもなので、何がどうなるという訳でもない。

 

「では……ケント、もとい変態クソ野郎。なんであんな事したんですか」

 

「えー、あの、ですね。まず先に結構精神的にきついからその呼称やめてくんない? いや、悪いのは確かに俺なんだけど……」

 

 ……正直なところ、分からないのだ。

 身体が気がついたら動いていた、なんて言っても信じてもらえないだろう。絶対セイバーの怒りを煽るだけになる。

 けど、他に言うべき事もない。俺が最近頭に違和感を覚える事は多いが、その違和感が消えた頃には何がどうなったのか記憶が混乱しているのだ。「セイバーを確かに押し倒した」という記憶はあっても、その瞬間俺が何を思っていたのかよく思い出せない。

 

「最近…………変なんだよな」

 

「変?」

 

「なんか時々頭に靄がかかったみたいになって、強烈なノイズみたいなのが走ったと思うと……気がついたら相手に手が伸びてたりする。そんで何を思ったのか覚えてない」

 

「──────」

 

 あれだけ騒いでいたセイバーが沈黙する。なにか、俺がとんでもない事を言ったような表情だった。

 

「そんなバカな……まさか宝具が……」

 

 何かを危ぶむかのように俺を見て、セイバーは長い眉毛を伏せた。

 

「えっと、どうしたんでしょうか、裁判長?」

 

「いや、その……とりあえず、さっきの蛮行は許してあげるとします。そもそも変た……ケントは死んでる上にもともと一般人なんですから、表面上は見えないようでもストレスが溜まってたのかもしれませんね。あんなことをしてしまうくらいに」

 

 まあ、精神的負荷はあったのかもしれない。

 突然殺されたかと思えば超人たちの殺し合いに巻き込まれ、挙げ句の果てに家族が魔術師だったと立て続けだ。セイバーの言葉通り、確かに結構な負担が肩にのしかかっているのを感じる。

 ……けれど、その程度の原因で俺が理性をなくしかけるとは思えない。

 そも、セイバーという最良にして最強のパートナーが俺にはついているのだ。彼女には実際にも精神的にも救われているし、そんな彼女をわざわざ襲おうとするなんてことは──。

 

「けど、注意してください」

 

「……無罪放免お咎めなしってのは非常にありがたいんだけど、何でしょうか」

 

「今後、精神をしっかりと保つこと。今後不穏な兆候があれば私が必ずケントを引き戻しますが、それでも自己防衛は心がけてください」

 

「自己防衛……? 精神をしっかり保つったって、何に備えろって言うんだ」

 

 セイバーが言葉に詰まった。自分の事を俺に言いたくないときの態度によく似ている。

 

「例えるなら……わーっと怒りたくなったり人を殺したくなったりするような、そんな悪い感情です」

 

「なんだそれ。そんな物騒なことを俺が思ったりするわけないだろうに……やるからやられるかの極限状態なら、やむなくそんな手に出るかもしれないけど」

 

「いえ──まあ、そうなんですが……」

 

 顔を俯かせると、セイバーはかき消えるような声色で俺を肯定した。

 なんだか腑に落ちないが、ひとまず無罪放免のありがたさを味わっておこう。

 

「それはそれとして。もしかして、なにか悩み事ですか?」

 

「へ? なんだよ、藪から棒に」

 

「屋根の上にいたケントの顔、なんだかとても悲しそうだったので」

 

「…………はあ」

 

 軽く頭を掻く。流石はセイバー、変なところで目敏いやつ。

 この際だ、この魔王さまに愚痴に付き合っていただくのも悪くないだろう。ひとまずセイバーに抱えられて我が家に飛び移り、微かな傾斜がある屋根の上に腰掛ける。

 

「なあセイバー、俺はさ────」

 

 暫く沈黙を挟んで、俺は話し始めた。

 

「これから……どうしていけばいい? 分からないんだよ。妹が魔術師だって分かって、それでも俺には何の知識も力もない」

 

 セイバーは無言で俺を見ている。美しい碧色の瞳は俺の姿を映し出し、ただただ俺の言葉を待っていた。

 

「……ぶっちゃければ、楓に魔術師なんてやつにはなって欲しくないんだ、俺は。お前も確か聖杯戦争について話してくれた時に言ってただろ、魔術師は人でなしばかりの集まりだって……」

 

「まあ、例外もあると思いますけど」

 

「楓はそうじゃない……とは言い切れない。だってあいつは確かに、俺を殺そうとしてたんだ(・・・・・・・・・)。そんなの異常だろう、敵だからってそう簡単に殺すなんてイかれてる! 平和主義者って訳じゃないけどさ、普通の市民ならそういうもんだ‼︎ そもそも人の命なんてそう簡単に奪っていいもんじゃないだろ⁉︎」

 

「そりゃ一般人のケントからすれば人殺しなんて最大の禁忌でしょうけど、魔術師にとってそういう道徳的な倫理観は薄いですからね。己の目的が全てにおいて優先されるんです。決して彼らは無法者という訳ではありませんが、必要に迫られれば容赦をしない」

 

「だろ? まあ要は……怖いんだ。楓が、いやそれだけじゃなく、魔術師だっていう父さんと母さんにまで恐怖を感じてる」

 

 ……普通そうじゃないか。

 今まで何の変哲もない家族だと思っていたのに、俺以外は全員人であって人から外れた存在だったんだから。

 孤独感と疎外感、それに得体の知れない「魔術師」という存在への恐怖が心の中に溜まっている。

 

「俺は、これから家族とどう接すればいいかが分からない」

 

 声が震える。言葉を重ねるごとに語気は強まっていき、最後の方は苛つきと理不尽を言葉に乗せて吐き出したみたいになってしまった。

 

「……ケントは、当たり前の事を忘れていませんか」

 

 セイバーは隣に腰かけたまま、夜空を見上げてそう言った。その言葉は毅然として、まるで彼女ではないかのような声質を伴っている。

 

「ケント、貴方の目を見れば分かります。その目には濁りも曇りも、闇だってない。きっと今までのケントの人生は幸せなものだったんでしょう」

 

 幸せか……と聞かれれば、確かにそうかもしれない。

 人並みに不運や悲しい事も経験しているけれど、逆に言えば人並みに幸せを享受できているとも思える。特に一度死んでからは、何気ない日々の幸福が異様にありがたく感じられたものだ。

 

「それなら分かる筈ですよ。確かにケントはかつて魔術師に捨てられましたから、魔術師を嫌うのも道理ですが……それでも、ケントが家族と今まで積み上げてきた過去は揺るぎません。もう一度思い出してみてください。ケントの今までの人生が、良いものだったというんなら──」

 

 セイバーの碧色の瞳が、俺の瞳を覗き込む。

 

「たとえ魔術師であったとしても。ケントの両親は、他人の家の子であろうと等しく愛情をかけられるような、きっと素晴らしい人たちなんだと思います」

 

 セイバー自身の家族について語ろうとした時、彼女は顕著な拒否反応を示してはいなかったか──と俺は彼女の身を密かに案じたが、セイバーの瞳に揺らぎはない。

 おもむろに、彼女が俺の手を軽く握る。

 その暖かさと、「それが真実だ」と高らかに述べているような瞳に励まされて、俺の中の鬱屈した感情が消えていく。鬱陶しいなにかの雑音も、それに伴って引っ込んだ。

 

「たとえ魔術師だったとしても、今までの思い出に変わりはない、か。確かにそうだな、その通りだ」

 

 ……気を取られて、忘れていた。

 両親と妹の正体がなんであれ、俺と彼らの間に築かれた確かなものは消えない。否、その程度のことでは消えさせない。

 全くもって笑えてくる。

 正体がどうあれ、俺が尊いと感じたものに揺るぎはないというのに。俺は、もの凄くつまらないことで悩んでいたらしい。

 

「ありがとう。またお前に助けられた」

 

「いえいえ、構いませんよ」

 

 セイバーははにかむように笑う。

 それを見て、俺は思わず息を呑んだ。

 朱が差した頰。風に微かに揺れる蒼髪。長い睫毛の奥から覗く碧色の瞳。月光にその身を浸したような彼女の姿は一瞬呼吸を忘れるくらいに美しくて、俺はその間だけ、彼女が誰なのか分からなくなった。

 

(──────っ、あ)

 

 その姿を見て、雷のように走った感情があった。

 

(……そんなの分かってた、本当はとっくに理解してたよ。ただ、こうして完全に自覚したくなかった……)

 

 昨晩、彼女との別離を強く意識してしまったからだろうか。

 それとももしかすると、俺は最初に彼女を見た時、もうこの感覚を抱いていたのか。

 

(けど、俺はやっぱり、セイバーのことを……)

 

 気を抜くと、心の内で渦巻く感情を認めそうになる。この感情を認めてしまったところで、最初から俺たちの別離は決まっている。

 ならば、後に残るのは身を切り刻むような悲しみと孤独だけ。

 ──それは、それだけは嫌だ。

 ならばせめて、この感情は胸の奥の奥にしまい続けよう。

 嫌だけど、心の底から耐え難いけれど。

 もし「その日」が来てしまった時、目の前の彼女に涙を見せないように──。

 

「いいところ、失礼しますよっと」

 

 と、何か変なヤツが出てきた。

 その和風の男はどんくさくベランダから屋根に登ってくると、ああ疲れた、とばかりに軽く溜息。腰掛ける俺とセイバーの近くまでやって来る。

 

「貴様、キャスター……何をしに来た」

 

「おっと。僕らはもう戦わないと決めたはずやん?」

 

 セイバーがやおら立ち上がって長身痩躯の男に向き合う。セイバーの鋭い視線も意に介さず、キャスターは俺の方に視線を向けた。

 色んなものが入り混じった瞳だ。だが、少なくとも不快感はない。

 

「君ときちんと話しとらんかったな、健斗クン?」

 

「……ああ。妹が世話になったみたいだし、一応それについては礼を言っとく」

 

「はははは‼︎ さっきまで敵やったっちゅうのに、随分礼儀正しいもんや」

 

 畳んだ扇子を口元に当てて笑う。まるで平安時代の貴族様だ。

 ──いや、違う。

 この男はサーヴァントだ。ならば当然、この男も今ではない時代を生きた超常の存在。であればこの男は本当に、かつての日本に生きた英雄なのか。

 

「さて。楓ちゃんはお風呂入ってもうたんで、僕が代わりに来たっちゅうわけやな。ひとまず停戦するとはいえ、それ以外のことは何にも決めとらん訳やし」

 

「何にも……と言うと?」

 

「例えば情報交換。それを踏まえた上での行動方針の決定……。楓ちゃんがおらんのやから細かいことは決めれんが、真名を明かし合うくらいの事はすべきなんちゃうか?」

 

「………………‼︎」

 

 びくり、とセイバーの肩が震えた。間違いなくキャスターの言葉に過剰な反応を示している。未だに彼女は俺に真名を明かす事を拒んでいるらしい。

 だが、キャスターはセイバーの動揺を知った上で──、

 

「まあ、こっちはセイバーの真名を把握しとるんやけど。かの魔王───」

 

「やめろ‼︎‼︎‼︎」

 

 直後、凄まじい暴風が吹いた。いつしか喫茶店で見せたものとは比べ物にならない、蒼色の稲光が彼女の体から噴き出すほどの衝撃だった。

 俺は思わずセイバーを見て、驚きに目を見開いた。

 彼女の笑った表情を知っている。怒った表情を知っている。……淡々と殺戮を行いながら孤独を秘めたような表情だって、俺は知っている。

 ──だが。

 この瞬間まで、彼女が恐怖している(・・・・・・)表情は見たことがなかった。

 大地に響くような怒声を張り上げて剣に手をかけていても、セイバーが浮かべているのはれっきとした恐怖だ。顔は青く、隠しきれない怯えの色が滲み出ている。

 

「……口に気を付けろ魔術師。それ以上言えば首を刎ねる」

 

「せ、セイバー?」

 

「おっと。この街を一度更地にしておいて、まだ暴れ足りんのかいな。ま、そんな嫌なんやったら僕も言わんどこうか」

 

 キャスターは面白そうに口の端を歪めると、わざとらしく首を振った。

 なんとなく気に入らん奴だなあと俺が考えていると、それはセイバーも同じだったらしい。鼻を鳴らしてそっぽを向くセイバーをよそに、俺はキャスターに歩み寄った。

 

「……キャスター。お前は楓のサーヴァントで、サーヴァントってのはマスターを守るものなんだよな」

 

「如何にも」

 

「じゃあ──約束してほしい。必ず、何があろうと、俺の妹を守り抜くって」

 

 真剣な目でキャスターを見る。彼の顔は異様な妖しさを纏って、一目見られただけで足がすくみそうだった。

 それでもコイツは楓のサーヴァントであり、楓が最も信頼を置く男だ。

 俺は多分、他人の事まで気が回らない。俺一人、なんとかかんとか生き延びるのが精一杯だ。だからどうしても、大切な妹を守る役目はこのキャスターに頼むしかない。

 

「ンー、その願いに相応しい対価は?」

 

「お前が満足しそうなモンなんて、俺には提示できない。けど、お前だって英雄(サーヴァント)なら、それを飲むくらいの器量はあるはずだ。──そうだよな? 陰陽師、安倍晴明」

 

「ほう……なんで僕の真名が分かった? 君は確か、魔術師ですらない素人の筈や」

 

「楓は昔からやたら陰陽師……特にお前が好きだったし、サーヴァントを呼ぶならお前以外あり得ないと思ったからな。それに、そんなバレバレの格好してたら、日本人なら大体察せると思うぞ」

 

 内心、外れてたら恥ずかしすぎると思っていたので安心しつつ、少し得意げに言い放ってやる。

 

「かぁー、やっぱ有名って罪やわぁ。人気って罪やわぁー。僕レベルになると素人にも分かっちゃうんやねこれが、いやあ参った参った」

 

 言葉と裏腹に、物凄く嬉しそうな顔だ。

 話に若干置いていかれたセイバーは俺の後ろでしばらくきょとんとした顔をしたあと、

 

「いや、私全然知らないんですけど。なに? 極東の英霊ですか? ハン、あべのせいめいだかアベノミクスだが知りませんが、田舎者風情があまり調子に乗らない方がいいと思いますよ」

 

「あっ、いいのかなそういうこと言って。君の真名、彼にばらしちゃおっかなぁ〜ン」

 

「キサマ──‼︎」

 

 どうやらこの二人は相性が悪いらしい。

 待て待て待て待て、とすぐに再会しかけたケンカを無理やり中断させて、俺は改めてキャスターに尋ねる。

 

「……で、どうなんだ、キャスター。俺の約束に従う気はあるのか」

 

「当然、僕は元からそのつもりやぞ。……君が僕の真名を当ててなかったら、対価としてせんべい100枚くらい要求したろかと思っとったけど。今の僕は気分がええからな」

 

「ならいい。じゃあ──これから、楓をよろしく頼む」

 

 手を差し出すと、キャスターは硬くその手を握り返した。

 その握手を今は信じることにして、もう一方の手でブチ切れた猫みたいな唸り声を上げているセイバーを制止する。

 

「私、こいつ嫌いです」

 

「はっはっは、たしかにお胸は楓ちゃんと違ってデカいけどな、僕も大事な大事な十二天将の皆を素手で虐殺するようなロリ巨乳もどきはお断りやわ」

 

「こ、こ、こッ‼︎‼︎ この不敬も@△◆¥●&〜〜ッ‼︎‼︎‼︎」

 

「オイだからやめろ、喧嘩すんなセイバー何言ってるかわかんねえし雷漏れてるから‼︎ あと頼むからお前も煽るのをやめろ馬鹿陰陽師‼︎」

 

 まったく仲良くなりそうな気配がない二人を見て、俺は今後の戦況がさっそく不安になってきたのであった。



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三十二話 魔王さまはR18が苦手 【9月8日】

「ん……ぐ……?」

 

 遅くまで起きていたので寝不足気味の脳をなんとか働かせて、俺は寝惚け眼で辺りを見回した。我が家の少し広めのリビングは何の変哲もなくいつもの風景を保っている。

 微かに聞こえる、聞き慣れた調理の音──楓が今日も朝食を作ってくれているんだろう。ゆっくりとベット代わりのソファから起き上がると、俺は忌々しげに自室へと向かう扉を睨んだ。

 

(……なんで俺がセイバーに寝床を奪われなくちゃなんねえんだよ)

 

 昨晩の言い争いで、「そもそも私がベットに寝れないとか論外なんですが」とかなんとか喚く例の魔王様に嫌々追い出される形で、我が寝床はリビングのソファへと移ってしまっている。

 昨日は疲れで眠かった事もあり、いつまでも引き下がろうとしないセイバーはかなーり面倒臭いので、渋々部屋を譲ったのだが──、

 

「いや、やっぱりおかしいよな? 俺は部屋主、あいつは居候」

 

 ……今こそ、かの邪智暴虐の魔王を除かなければなるまい。

 楓が待つダイニングへと続く扉を無視して廊下へと歩み出る。ずかずかずかずか、と不満気に足音を打ち鳴らしながら、階段を上って魔王の居城と化した自室へ向かう。

 楓の部屋の更に奥、二回廊下の突き当たりが俺の部屋だ。俺は部屋の前で一度立ち止まって、限界まで肺に息を吸い込んでから──、

 

「セイバー‼︎ いつまで寝てんだとっとと起きろ、ってかそもそもいい加減にベット返」

 

 怒声と共に勢い良く扉を開ける。

 俺の脳内では、惰眠を貪っていたセイバーは俺の声で仰天し、飛び起きたあげく転がり落ちて笑える姿を晒してくれればいいなぁ……という、具体的なようで曖昧なイメージがふわふわと浮かんでいた。

 だがそのイメージは、ものの最初から完膚なきまでに覆される事となる。

 

「んむぅ………………?」

 

 セイバーは口元をもごもごさせて、寝てた。

 それくらいは一目で分かる。俺が愛用する毛布に暖かそうにくるまって、魔王とは思えぬ微かな寝息を立てている。

 セイバーの小動物を連想させるような寝顔は大変可愛らしく、少し黙って見つめていたいような欲望に襲われたが、俺の視線は凄まじい吸引力によって彼女の肢体へと引き寄せられた。

 

 ──その、一糸纏わぬ華奢な身体に。

 

「ケントぉ、もう朝ですかあ…………?」

 

(あのお気に入りのジャージは? 違う、確か楓の寝間着を貸してもらって……んじゃあ寝巻きはいったい何処に消えたんだ⁉︎)

 

 厚い掛け布団は全てベットの下にずり落ちてしまっているので、彼女の肢体を覆うのは薄めの毛布のみ。

 故に、彼女の身体の起伏が毛布越しに丸分かり──というかそもそもその毛布すらも半分くらいがずり落ちているので、肝心な所を隠せているのが奇跡のようにも思える。

 しかし、この状況は非常にマズイ。

 楓に見られてもアウトだし、そもそも寝惚けてむにゃむにゃと口を動かしているセイバーが完全に起きればどうなる事か。

 だがそうと分かっていても、俺の足はぴくりとも動かず、見開かれた両眼は抗えぬ欲望によって彼女の身体に吸い寄せらてしまう。

 俺とて一応は男だ。色々と気になってる女の子のこんな姿を見て、「もっと見たい」と思わない方がどうかしてるって話──というか、そんな姿で俺の名前を呼ばないでくれ。

 などと百文字を優に超える言い訳をつらつら脳内で誰かに述べながら、俺は脳内記憶媒体に現在の光景を余す事なく記憶した。

 ふわふわした蒼い髪が、柔らかいシーツの上に波打って広がっている。白い毛布の下端からはまるでモデルみたいな脚がはみ出ており、太ももの美しい肌色が目に沁みる。少し視線を上げれば、毛布の上端は童顔の割に立派な胸の膨らみの途中で途切れてしまっていて、あと少しでもズレたらアウトというようなギリギリさで留まっている。

 

「………………お、ぉぅ」

 

 空いた口から意味のない呟きが漏れた所で、セイバーは目を両手で擦りながら、目の前でゆっくりと身体を起こしはじめた。

 ──そろそろマズイ。俺の命の危機という点でも、毛布の位置が決定的な一線を越えてしまうという点においても。

 なんせセイバーが起き上がってしまうと、胸元の毛布が完全にずり落ちてしまう。流石にそこまで待つほどの度胸は持ち合わせていなかった俺は、慌てて身体を百八十度方向転換させた。

 今ならまだ何食わぬ顔で立ち去れば、寝惚けたセイバーは俺がいた事に気付かないかもしれない。いや忘れる。絶対忘れる。

 俺は無言で鋭く足を滑らせ、開いた扉から転がり出るように脱出。扉をそっと閉め、何事も無かったかのように廊下を歩き始める。

 

「ん……? え? あ、あああああ────⁉︎」

 

 だがそう甘くはなかったらしい。素っ頓狂な悲鳴が俺の部屋から聞こえてきた直後、俺は数秒先の死を悟った。

 吹っ飛ばさんばかりの勢いで扉が開き、中から毛布を両手で無理矢理体に巻き付けたセイバーが飛び出す。その双眸は異様にぎらめき、殺意にも似た雰囲気が身体を覆っていた。

 その無言の剣幕に思わず尻餅を突きつつ後退するも、セイバーは逃すまいと距離を詰めてくる。

 

「お、おはよう、セイバー。ところで服は?」

 

「……楓のパジャマは胸の辺りが全然サイズ合ってなかったので遠慮させてもらいました。他人の服を改造する訳にもいきませんし。それに、どうせ最悪鎧を着ればいいんですから」

 

「あっハイ、さいですか」

 

 今の言葉は楓に聞かせない方が賢明だろう。

 嫌な冷や汗が一筋頰を伝う感覚を感じながら、俺はセイバーの無言の圧力に押し潰されるように彼女を見上げた。

 

「それよりケント、何か言うことありません? 昨日といい今日といい、そろそろ私ケントに失望しそうなんですけどね」

 

「違う、不可抗力っ、これはどう考えても不可抗力だ。昨日のは確かに俺が悪いかもしれないけど、今回ばかりは俺ばっかり責められたもんじゃないと思う。だってそもそもお前が俺からベッドを強奪してなけりゃ話は」

 

 セイバーの眩しい素足が視界を埋め尽くしたかと思うと、痛烈な蹴りによって俺は階段までノーバウンドで吹き飛ばされ、轟音と共に一階まで転げ落ちた。

 

 

 

 

「志原くん……そのほっぺどうしたの?」

 

「ちょっと階段から転がり落ちたんだよ。そう、そんだけ」

 

「その割に、なにかに殴られたみたいな跡だけどなー?」

 

「俺は何も見てない! 転がり落ちたんだっての‼︎」

 

「「……?」」

 

 あれから数時間が経過していた。

 前田は机の上に突っ伏すように、無事復帰した三浦は対照的に綺麗な姿勢を保ちながら俺の頰をじっと見つめている。

 湿布の貼られた右頬は左より腫れ、ちょっぴりアンバランスに膨らんでしまっていた。この傷を付けた例の魔王サマに内心ちょっと舌打ちをしながら、なんでもないと両手を振る。

 

「まあ、君がそう言うならいいんだが……健斗、いい加減にあの子との関係を吐いてくれないか? というか吐けよオラオラ」

 

 前田の執拗な追求を聞き流しながら、俺は家で留守番しているセイバーの姿を思い浮かべていた。

 彼女の宝具は、俺の身体が死した今もその治癒能力を残している。実際、肩や腰の骨に亀裂が入り、肋骨が二本折れるという重症を俺は昨晩負った。だが今はその痛みを全く感じないどころか、折れた肋骨さえも完璧にくっついている。

 けれど距離があるだけに、この頬の傷がなかなか消えてくれない。とはいえ、この痛みは鼻の下伸ばして欲張った自分への罰でもあるんだから甘んじて受けるべきなのか。

 と、いつも変わらないチャイムの音を聞き、前田が見るからに嫌そうな表情を浮かべる。

 

「ハァ、もう休み時間終わりかぁ……っあ! 今日レポート提出だったか⁉︎ すっかり忘れてたよ‼︎」

 

「嘘っ、まじで?」

 

「そうだよ。またやって来てないの、二人とも?」

 

「三浦さん、僕と健斗が期限に間に合わせた課題なんて存在すると思うかい? いや存在しないね。これ、えーっと……何だっけ?」

 

「確か反語じゃなかったか。あと断じて言わせてもらうけど、俺とお前を一緒にしないで欲しい。そりゃあたまに忘れるけれどもだね、俺はお前みたいに毎回遅れるほどヒドくないし……今日は忘れたけどさ」

 

 魔術師とかサーヴァントとか、挙げ句の果てに養子宣言だったり妹が魔術師だったりと凄まじい事件の連続で、正直課題の存在なんて記憶の隅に吹っ飛んでんだよ‼︎ なんて声高に言いたい気持ちをぐっと抑え、俺は無意味に分厚い文法書を気だるげに机の引き出しから引っ張り出した。

 

「えー、課題は授業終わりに集めるから、今日は前回の続きから。それでは教科書の──」

 

 教科書を眺めつつも、俺の思考はふらふらと落ち着かない。

 今頃、セイバーは何してるんだろうか。

 窓の外に広がる見慣れた景色に視線を向けながら、あれから不貞腐れて部屋に閉じこもってしまったセイバーの姿を思い浮かべる。

 

(……帰りにドーナツでも買って帰ろう)

 

 彼女の姿はあのキック以来見ていない。帰ったら早急にご機嫌を立てる策を用意する必要がある、と今後の行動方針を固めてから、俺は昨晩から俺の頭を悩ませている、もう一人の人物の顔を脳裏に浮かび上がらせた。

 彼の名はキャスター、またの名を「安倍清明」。

 安倍清明とは、平安時代にその名を轟かせた陰陽師である。その名は千年の時を経た今でさえ日本の人々に語り継がれており、今なお高い人気を誇っている。かくいう俺も、陰陽師と聞くとテンションが上がるのを抑えられない男子高校生の一人だ。

 とはいえ実物と話した俺の中では、「せんべい好きな残念イケメン」という新たなイメージが植え付けられてしまっているので、今更陰陽師という響きに興奮したりはしない。

 だが──、

 

「彼は信用なりません。あとウザいです」

 

「ウザいのは確かだけどさ……信用できないってのはどうしてだよ? あいつが裏切るかもしれない、って言うのか? キャスターは楓を守るって約束してくれたぞ」

 

「いえその、直接裏切るような真似をすることは無いと思うのですが。奴、非常時ともなれば容易く私たちを切り捨てるような気がするんですよね。……まあ端的に言えば、彼も心情や目標を最優先するれっきとした魔術師だということです」

 

 昨晩、キャスターと別れた後のセイバーが語った言葉だ。

 心情や目標と言っても──キャスターに言わせれば、聖杯戦争は一種の「暇つぶし」。召喚に応じたのも気まぐれみたいなもので、やる気があるのかどうかも俺からすればよく分からない。

 ちなみに、セイバー曰く強さは申し分ないとの事。

 後で聞いた話だと、キャスターは偽物の世界でセイバーに挑み、このあたりの住宅街が更地になる程の激闘を彼女と繰り広げたらしい。特にこの学校の辺りは凍らされ燃やされ、挙げ句の果てにセイバーがまとめて吹き飛ばしてしまったんだとか。そんな破壊を引き起こすには爆撃機が数機は必要だろうに、全くもって英霊という奴らはイかれた強さだな、と思う。

 

「キャスター、ね………………」

 

 楓は全幅の信頼を彼に置いている。昔から安倍晴明が登場する映画を何十回も見ていたし、その心情も推し量れるというものだ。

 ただ、俺たちがキャスターを完全に信頼していいものなのか。

 念の為に、完全に信頼して足元を掬われるような事は避けよう、と決意しておこう。

 

「…………ん?」

 

 その時ふと俺は嫌な予感を感じ取り、視線を九十度横に向けた。その先には校舎の中庭があり、そしてその先にはオーソドックスな形の校門が見える。

 そんな中、校門の辺りにちらつくあの蒼髪の人影は──。

 

「……せ、セぃ……ッ⁉︎」

 

 思わず叫び声として口から飛び出しかけた言葉をぐっと飲み込んでから、俺はその人影を凝視した。

 彼女は不思議そうに校門の隙間から校内を覗き込んでいたが、やがてその身体をするりと滑り込ませ、そろそろと校舎の方へと歩き始めた。

 

(じょ、冗談じゃないっ、何であいつがこんな所に⁉︎)

 

 顔を真っ青にして狼狽える俺を物ともせず、彼女はじろじろと純白の校舎を眺め回した。上から下へ、下から上へと目線を動かし、そしてその動きがぴたりと止まる。

 

「アッ、やばい」

 

 俺を発見したらしきセイバーはぐっと身体を低くすると、一歩、二歩と助走をつけた後、地面を蹴り砕いて大きく跳んだ。

 

「うっ、うおおおおおおおおお来るな来るな来るな────‼︎」

 

 彼女が一飛びで三階の教室に肉薄し、二階と三階の間に設けられた出っ張りに足を掛けるのと、俺が思わず悲鳴を上げたのは同時だった。

 俺の席は教室の最後尾列、そして一番窓際。突如奇声を上げた変人にクラスメイトの視線が一斉に向けられ、俺は慌てて両手を振り、寝ぼけていたという苦しい言い訳を並べた。

 

「アハハハハハハハハハハハ‼︎ 寝惚けるのもいい加減にしておけよ健斗ぉ」

 

「くそっ、理不尽だ」

 

 大雅がやれやれ、とキザっぽく首を振るのを見ながら、俺は心ここに在らずといった風に謝罪した。

 だがそれも仕方のない事なのだ。こうしている今も、ギリギリ隠しきれていないセイバーの頭頂部が窓の端からちょこんとはみ出しているのだから。

 

「なっ、何しに来たんだよ、セイバー!」

 

「……………………」

 

 セイバーに小声で尋ねてみるが、彼女は沈黙を保ったまま。彼女の意図が分からず、俺はどうするべきかと視線を彷徨わせたが──、

 

「……………………なんでですか」

 

「へ?」

 

「なぁぁあんでまだ私に謝罪の言葉が無いんですか‼︎ ケントは‼︎ 謝りに来るのかと思ったら私を無視してそのままガッコウとやらに行くし‼︎ その不敬さもここまで酷いと最早呆れてきますね‼︎」

 

 口調とは裏腹に小さな声でそう言うと、セイバーは少し身体を上にずらし、目元だけを覗かせて窓越しにこちらを睨み付けた。

 それはセイバーが部屋に篭って出て来なかった事に原因があると思われる。

 先生がこちらに背中を向け、電子黒板のスクリーンに投影された文章をあれこれ説明しているのを確認してから、窓際ギリギリまで椅子ごと身体を移動させる。

 

「だから俺は別にお前を尊敬してる訳じゃないから不敬とか言われてもなあって感じなんだけど……まあ、ごめん、あれは確かに俺が悪かった。……七割くらい」

 

「いいえ十割ですっ。それにちょっと待ってください、まだ私には言いたい事が残ってますよ」

 

 セイバーは俺の謝罪を冷徹な声で遮ると、すっと右手を掲げた。

 彼女の右手に握られているモノ。

 一目見ただけで戦慄に凍り付く俺をよそに、魔王サマはそのブツを直視しないよう視線を逸らしながら、ありったけの怒りを込めた声で言う。

 

「なんですか、これは」

 

「………………し、私物だけど?」

 

「聖杯の知識で学びましたが……こ、これは、本来ケントが持つべきものじゃないんではないですかね。未成年は駄目なヤツじゃないですかね」

 

 丁度DVDが入る大きさのパッケージには、モザイク加工されたお姉さん達の、そりゃあR18な肢体の写真が貼り付けられている。

 そして右上には読むことすらちょっと躊躇う感じのエロチックなタイトル名が妖しいピンク色のフォントで刻まれているのだ。

 

「おっ……お、おとな、の、みりょく……えろ……お、おお、お……」

 

「バカ、読まなくていい‼︎ もう読まなくていいから‼︎ やめろ‼︎ 頼むからやめて‼︎」

 

 思わず声を荒げそうになりつつも俺はかつてないほどの冷静さを発揮し、顔を林檎の如く赤くして声をプルプル震わせるセイバーの朗読を小声で止めた。

 とっとと片付けとけばよかった、と後悔しても後の祭りだ。

 女の子がエッチなビデオのパッケージ片手に壁に張り付いている、という怪奇極まりない状況の中、気を取り直して口を開く。

 

「……けどな、それがどうしたんだよ。え? 俺の部屋に何があろうと俺の勝手だろ?」

 

 何故か最大の秘密を見られた事で却ってヤケクソになった俺は、開き直ってそう囁いた。

 そもそもあそこは俺の部屋なのだ。裸を見てしまった事はとりあえず俺が悪いとはいえ、そこに何が置いてあろうと俺の勝手じゃないのか。自室というのはその人のプライベートな空間であって、決して他人の為に作られた場所ではないんだから。

 

「何言ってるんですか。あの部屋はもう私の所有物になったんですよ? あの部屋、ベッドは硬いですし、部屋は狭いですし、色んなものが散らかってますし……私が使うんですから、もっと綺麗にしておいてください」

 

「は?」

 

 思わず俺の口から激怒寸前の言葉が漏れる。

 ──要するに、こういう事か。

 俺の部屋はもうセイバーのものになってしまったので、俺はあの部屋に自由に物を置くことすら許されず、セイバーの為にきちんと整理整頓を行き届かせなければならないと。

 

「こンの、バカかお前‼︎ 俺の部屋は俺の部屋だ、お前がどうしてほしかろうとそもそもあそこは俺の部屋だからな‼︎‼︎」

 

 んなもん許されるか……と、出しうる限りの小声で叫んだ俺は、軽く鼻を鳴らしてセイバーから目を逸らした。

 彼女はといえば、顔を真っ赤にしてこちらをしばらく見つめた後、俯いてワナワナと全身を震わせ──、

 

「そうですか、そうですか、そうですか……」

 

「な、なんだよ──」

 

「せいっ」

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛──ッ⁉︎」

 

 ズビャアッ、という音と共にDVDのパッケージが力技で破壊され、中の円盤が幾つかの破片となって散っていった。

 目の前の大雅から貰った唯一無二の宝物を失って思わず悲鳴を上げる俺に、再度クラス中の目が殺到。横を見れば、セイバーのヤツはちゃっかり窓の奥に身体を潜ませている。

 

「先生すいません‼︎ ちょっと体調悪いんで保健室に行ってきま──‼︎」

 

 す、を言う暇も惜しんで椅子を蹴り飛ばし、ダッシュで教室後ろの扉を開ける。憤怒に身を任せながら人のいない廊下を駆け抜け、昇降口を上履きのまますり抜けてから、俺は校門前でふんぞりかえるセイバーと対面した。

 

「てめえああああああああああああああああ‼︎」

 

 走る勢いを全く緩めず、俺は怒りに任せてセイバーに飛びかかった。ちょっと痛い目に合わせてこの我儘魔王を反省させ

 

「んぎあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ⁉︎」

 

 綺麗に決まったストレートが俺の顔面に突き刺さり、俺はあえなく吹き飛ばされた。凄まじい拳打に意識を朦朧とさせている俺の襟首ががっしりと掴まれ──、

 

「ねえ今、なにしようとしました? 不敬ゲージ溜まってますよ私」

 

「う、うるさい……宝物の仇だ……そもそもお前がワガママ言うから悪いと思」

 

 ひゅおっ、と風が吹き抜け。俺の顔の数センチ横のアスファルトが、セイバーの剣を用いた早業によって粉砕された。

 

「なんです?」

 

「……いやあの、なんでもないです、ハイ」

 

 顔面をまさに死者の如く真っ青にしながら、俺は死んだ声で答える。その答えにセイバーはにっこりと笑って──、

 

「ま、自室云々は置いておくにしても……これから一緒にわたしと来てください。ケントがここに行ってる間、私は暇なのです。とっても」

 

「お前、だから俺には学生の義務ってのがあって……いやなんでもないですだからその拳を降ろして、ほら‼︎」

 

(ちくしょう、この暴力魔王め……‼︎)

 

 眼前のサーヴァントに対する不満を内心で三十個ほどぶち撒けつつ、半ば脅迫に近い形で俺は学校から泣く泣く退散する事になった。



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三十三話 代行者の苦悩/Other side

 私──アナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナは、ロシアの片田舎にある教会で産まれた。

 いつしか槙野さんに「家族はいるのか」と聞かれた時、私は咄嗟に「物心ついた頃には孤児院にいた」と答えたが、それは虚偽。

 私には──確かに、家族と過ごした記憶がある。

 ただ、それを今まで誰にも言わなかっただけで。その記憶を漏らしてしまえば、私は間違いなく教会の手で解剖されることになるだろう、と理解していたから。

 そもそも、私の家は代々続く聖職者の家系だった。家は立派な教会と隣り合わせになっていたし、父も母もそこで神に仕えることを何よりの喜びとしていた。清貧を守る質素な暮らしではあったが、家族の愛は満ち足りていて、平穏で、幸福な暮らしがあった。

 

 けれど──その生活を、人外の者らが引き裂いた。

 

 憶えている。憶えているとも、未だ悪夢にうなされるくらいには。

 奴らは突如として現れた。魔が蠢くのに最適な新月の夜、私たち家族の教会は何らかの魔族によって襲撃を受けたのだ。

 炎に燃え上がる教会。その裏口に私は立っていて、母が強く強く私の肩を掴む。父は少しでも時間を稼ぐために教会の中にいたのか、その姿は見えなかった。

 

『アナスタシア、貴方は逃げなさい』

 

 ……奴らの狙いは明確だった。

 遥か昔から、私たちの教会の地下深くに保管されていた「聖典」だ。

 神聖な神の文言が記された書物は、それ自体が神秘を重ねた時、強力な概念武装として働く「聖典」に変化することがある。それは吸血鬼の真祖たる存在に非常に有効に働くと共に、奴らにとっても最悪の兵器であるので、聖堂教会はそれらを非常に優れた代行者に与えていると言う。新米の私は見たことすらないが。

 だが、そうした教会で管理された聖典とは違い、私たちが保管していたものは家に代々伝えられる家宝であり、我が家の財産だった。

 故に一家以外の人間には伝えず、教会に託すこともせず、ただ無心にその聖典を保護してきたのだ。

 

『この聖典を──アナスタシア、貴方の身体に埋め込みます。そうすればこの聖典も、貴方も助かる。私がいいと言ったら、全力で走りなさい。とにかく遠く、遠くへ。決して振り返らずに』

 

 轟々と燃え盛る炎はすぐそこに迫っている。

 時折響き渡るつんざくような叫び声、炎に照らされた異形の影。

 その緊迫した状況に頷かされるように、私はその儀式を──聖典を我が身に融合させる禁忌を受け入れた。古ぼけた書物の形をしていたそれは、猛烈な勢いでページが千切れ飛んだかと思うと、全てが私の胸の中に吸い込まれていく。

 最後の一ページが吸収される瞬間、誰かの声を聞いた。

 それは恐らく、聖典を守護するという精霊の声だったのだろう。

 「儀式」が終わり、私は全身が異様な音と共に変革されていくのを感じた。内臓がひっくり返って全身を激痛という激痛が駆け巡り、全ての骨が膨張と収縮を繰り返す。

 最初はこれで死ぬのかと思った。

 だが、聖職者の血を引く私の身体は、かろうじてその反動に耐えたらしい。

 

『最後にこれを。アナスタシア……私の愛しい子。貴方は生きて、自分がすべきと思った事を成しなさい。──さあ、行って‼︎』

 

 古ぼけた、親指ほどの大きさの木彫りの十字架を手渡される。

 そして、母の背後から異形が飛びかかってくるのを見た瞬間、私は全力で駆け出していた。

 ピッ、と頰に生温い液体が飛ぶ。

 それがなんなのかを理解するのを拒んだまま、私は目に涙を溜めてひたすら走った。聖典を吸収した影響か、全身が異様に軽い。私は聖典を手にしたと同時に、代行者として生きていく権利も獲得したのだ。

 冷たい夜の雪の中を私は必死で走り、走り、走り──そうして、私は生存した。

 

 

 

 

 お店の隣に生えた小さな庭木。そこに数羽の雀が止まったかと思うと、可愛らしい声でさえずり始めた。

 朝を告げるような鳴き声の合唱。アナスタシアはむくりと起き上がると、目を擦りながら大きなあくびをして立ち上がる。

 

「おはよぅ……ござい、ます……」

 

 今にも消え入りそうな声で、アナスタシアは小さなダイニングの扉を開けた。朝食のベーコンエッグを作る音が響く中、この家の家主である店主、槙野和也は笑みを浮かべて振り返る。

 

「おはよう、アナ。もうできるから座って待っていて」

 

「はぃ…………ぐう、ぐう……」

 

 槙野はこの、朝食を食べ始めるまでの時間が好きだった。住み込みで働くアナスタシアの面白い姿が見れるからだ。

 このアナスタシアという少女は無愛想に見える事を除けば、なんでも完璧にこなす完成された人間のように見える。だが唯一の欠点として、何より朝の早起きが大の苦手らしい。

 店主の朝は早い。頑張ってそれに合わせて起きてくるのはいいが、アナスタシアは朝食を食べるまでは意識がはっきりしない。テーブルに座ってはこっくりこっくり、槙野が朝食を並べるまで可愛い寝顔で船を漕いでいる。

 

「アナ。おーい、アナスタシア。できたよ、朝ごはん」

 

「……ハッ⁉︎ あ、ありがとうございます……いつも申し訳あり、ま……くぅ…………」

 

「全くもう、ホラ、また寝かけてる。そんな苦手なら無理しなくてもいいんだよ、どうせ店を開けるのはもっと後からだし」

 

「大丈夫……大丈夫、ですから……貴方は、私が、守ります……そのためなら、無理だって……」

 

 寝ぼけているのか、よく分からないことをブツブツ言いながらアナスタシアは否定する。店主の朝は非常に早いので、朝が苦手なアナスタシアにはとくに厳しいだろうに、真面目な彼女はどうしても手伝うといってきかない。

 まあ早朝から働いてくれれば助かるのは事実だ。それに朝食を食べて目が醒めるまで覚醒と微睡みを交互に繰り返す彼女の姿も可愛らしいので、槙野は今日もアナが朝食を食べるまで声を掛け続ける。

 

「今日、朝のお客さんが落ち着いてきたら、僕ちょっと用事で出てくる。その間は店番を頼めるかな? アナにも今まで色々と教えてきたし、もう一人で任せられると思うんだ」

 

「任せて下さい……頑張ります」

 

「うん、なら任せるよ。そういや、大学の方には顔を見せなくてもいいのかい?」

 

「大学……とは……い、いえ、今のところは大丈夫ですので、問題はないと思います、はい」

 

 一瞬自分が留学生と偽っていることを眠気の彼方に忘れかけていて、アナスタシアは思わず必死で首を振って誤魔化した。

 本来、こうずっと店にいるのは怪しいものだが、店主の槙野には軽い暗示をかけてある。アナスタシアの行動に対し、大した疑問を抱かないようにする作用を持つ術式だ。

 それが上手く作用しているらしく、槙野は簡単に納得してくれた。

 だが、こうした会話をこなすたび、アナスタシアは槙野和也を……どこまでも善人の見本のような彼を騙して、作戦の為に利用しているということをまざまざと自覚させられる。胸の痛みを貌の奥に包み隠して、アナスタシアはようやく朝食に手をつけた。

 

 

 

 

「……………………」

 

 ほとんど真顔だが、心なしかムスッとした表情のアナスタシアは、何かを忘れたいかのようにせわしなく店内を歩き回っていた。

 開店から二時間ほど、モーニングセット目当ての客も落ち着き、穏やかな空気が店内に戻ってきた。流れるクラシック音楽に耳を傾けながら、頭の中で悶々と自己嫌悪に陥る。

 ──なんで自分はあんなに朝が苦手なのだ。

 これだけは、どうあがいても治せる気がしない悪癖らしい。寝惚けているとまともに思考が働かず、ついつい言ってはいけないことまで漏らしてしまいそうになるのが心臓に悪い。

 と、ドアに備え付けられた鈴が爽やかな音を立てた。

 来客を示すその音に反応してアナスタシアは頭を下げ──ようとして、真顔のまま軽く眉を吊り上げる。

 

「よう、マスター。調子はどうだ」

 

 そこに立っていたのは、現代の服に着替えたアーチャー。

 迷彩柄の軍服から、どこから頂戴したのか立派なジャケットを身につけている。ダメージジーンズやワイルドな絵柄のシャツは実に軍人である彼らしく、ミスマッチさは特に感じない。

 

「アーチャー。何をしに来たんですか?」

 

「喫茶店に来る用事なんて大したもんじゃないだろう。暇つぶしだよ、あと休息。なんだ、アンタは俺に二十四時間ずっと街を見張れと命令するのか? 日本のブラック企業もびっくりな勤務方針だな‼︎」

 

「そこまでは言っていませんが、ここに来るのはやめて下さい」

 

「何故」

 

「……はっきりとした理由は、ありません。心情の問題です」

 

 はぁ〜、と大きな溜息をついて、アーチャーは勝手にカウンター席に腰掛ける。マスターの言葉はガン無視してくつろぐつもりらしい。

 どこか西洋風の雰囲気がある店内に、灰色の髪に白肌のアーチャーの姿は実にしっくりくる。

 彼の持論は「戦場で息抜きもできない奴はまっさきに死ぬ」というものだが、アナスタシアは真面目すぎるところがあるせいで、朝はともかく、この場所で働いている時にも緊迫感が抜けきっていない。そんなんだからますます無愛想に見えるんだ、とアーチャーは考えていたが、この頑固な聖職者見習いは簡単にそのスタンスを崩さないだろう。

 

「ふぅむ。じゃあひとまず、コーヒーをアイスで一つ貰おうか」

 

「……お金はあるんですか? アーチャー。いくら貴方でも対価を払わない客に出すものはありませんよ」

 

「なんだ、ケチな奴め」

 

「当然です」

 

 布はあるか? とアーチャーが尋ねるので、テーブルを拭くための濡れタオルを手渡す。するとアーチャーは重い音を立ててカウンターの上にサブマシンガンを置き、上機嫌で銃身を拭き始めた。

 更に片手で器用に煙草を取り出すと、これまた器用にライターで着火する。身勝手かつ非常識な行動に流石にイラっときたアナスタシアは、近くにあったお盆でアーチャーの短く刈りそろえられた髪の目立つ頭をすぱん、としばいた。

 

「なんだ、なんだよマスター、いきなり暴力とは酷いじゃないか。アンタらが大好きな聖書にはなんて書いてある? 人を叩け、なんて馬鹿げたことを書いているような本だったか? え?」

 

「口を閉じなさい。ここは禁煙ですし、銃の手入れをする場所でもありません。ルールに則らないのであれば出ていってもらいます」

 

「……ったく、じゃあ何をしろと」

 

 大人しく銃を霊体化させて、退屈そうに頬杖をつくアーチャー。

 彼はアナスタシアが渋々差し出してきたお冷を喉に流し込むと──、

 

「そういや、怪我のほうはどうだ。アサシンの野郎に受けたのはそこそこな傷だったと思うが」

 

「いまだ本調子にはほど遠いですが、活動に支障はありません。戦闘であろうとこなしてみせます」

 

 昨日のこと。トンネルの中から異様な気配を感じ取ったアナスタシアは、そこで人を喰らうアサシンと遭遇したのだ。

 その後、彼女は追い詰められながらも命からがらトンネルを抜け、アーチャーが狙撃でアサシンを仕留めた。

 その際に負った傷は深く、出血も多かったことから、アナスタシアは傷の治療と血の補給にかなりの時間を費やした。そのため帰りが遅くなってしまい、槙野にはとても心配をかけてしまったことが少し申し訳ない。

 

「ならいいんだが。……まあ、俺とアンタで七騎のうち一騎は仕留めたんだ。それに厄介なアサシンを真っ先に仕留められた。好調な出だしといってもいいだろうさ」

 

 乾杯、とばかりに軽くコップを掲げるアーチャー。

 

「その通りですね。これで私も、多少は夜間の警戒を緩めて体力回復に努められる。あと、問題があるとすれば──」

 

「キャスター、だな」

 

 その言葉にアナスタシアは頷く。

 サーヴァント七騎のうち、唯一アナスタシアの正体を把握しているサーヴァント……それがキャスターだ。

 彼女はマスターであることを隠した上で、工房などではなく敢えて一般市民が営む喫茶店に隠れている。そうする事で敵からの発見を困難にする狙いであり、実際そうした手段で生存したマスターも存在する。だが運の悪い事に、偶然からキャスターがこの場所の存在を知ってしまったのだ。

 

「この場所に潜伏していることを知られた以上、一刻も早くあのサーヴァントとマスターの少女は殺害します。ですが、私が仰せつかった役割は……不本意ですが、未だに「現状維持」。あのアサシンのようにサーヴァントに偶発的に遭遇、打倒できるならまだしも、こちらから大きく私が単独で動くと上からお咎めがあるかもしれません」

 

「まあそうだろうな。そもそもアンタら代行者の役目は聖杯の回収で、その連中が失敗した際の予備がアンタなんだっけか?」

 

「はい。ですが──朗報がひとつ」

 

 微かに声が弾む。アナスタシアはようやく自分たちの職務を果たせる時が来たことを伝えると、基本的に無表情な彼女でもわかるくらいには笑みを浮かべた。

 

「今夜、聖杯奪取の作戦が決行されます。突き止められた場所は大塚市の西端、湖に浮かぶ「仙天島」。あそこに聖杯がある、との情報は間違いないようです」

 

「……おいおい、待て。アンタらは正気か? 今あの島は──」

 

「ええ、分かっています。あの島は今現在……神殿(・・)クラスに分類される結界が張られている。代行者が四人とはいえ、真正面からの突破は困難を極めるでしょう」

 

 言いつつ、アナスタシアは少しだけひっかかるものを感じていた。

 アナスタシアがあらかじめ入手していた情報は、「聖杯戦争を開始したのは金髪の女魔術師であり、幼い容姿のサーヴァントを連れていた」というものだ。

 驚くべき事にその女魔術師は、湖の人工島……「仙天島」に大聖杯を敷設し、たった一人で聖杯戦争を始めたのだという。

 正体不明、データベースにも乗らない謎の存在。

 だが、あれほどの陣地を形成できるのは「陣地作成」のスキルを持った魔術師(キャスター)のサーヴァントに限られる。考えれるとすれば、あの少女とキャスターのペアが、仙天島に巣食うという女魔術師に協力しているという可能性だが……。

 

(どうも──その線は薄い気がする。昼間からこの店に立ち寄るほど、精神的にも強さにも余裕があるようなサーヴァントとマスターが、急に陣地を構築して籠城するような策に出るとは考えにくい。あまりに方針転換が急過ぎます)

 

 あのキャスターと少女が、仙天島の女魔術師に協力しているという可能性は低いだろう。

 であれば、様々な矛盾点が発生してくるのだが──力技で内部を殲滅してしまえば、何もかも明らかになるだろう。

 衛宮士郎と遠坂凛とかいうイレギュラーのせいで作戦決行の延期を余儀なくされた上層部もいい加減我慢の限界らしく、この作戦が延期される事はない。今夜にでも決着がつく可能性は高いのだ。

 

「困難なら、どうすると言うんだ」

 

 怪訝な顔のアーチャーには答えず、アナスタシアはカウンター越しに少しだけ身を乗り出した。彼女はなんだか嫌な予感がするぞ、とでも言いたげなアーチャーの瞳を覗き込んで──、

 

「簡単です。──貴方の力で、神殿に穴を穿つ(・・・・)。後は一気に制圧を試みます。確かにあの島の結界は強力ですが、霊体……サーヴァントに強烈に作用することに主眼を置いている。サーヴァントでない人の身であれば、一本しかない橋を渡らずとも侵入は可能でしょう」

 

「……オイオイ、冗談を言うな。俺は狙撃手だぞ? かさばるロケットランチャーを担いだ歩兵じゃあるまいし、そんな破壊力を求められても俺には無理だ」

 

「いえ。シモ・ヘイヘ……貴方は狙撃手である以前にサーヴァントです。たとえ無理難題だとしても、その無理を押し通す──それが英霊という存在なのでは?」

 

 彼の弾丸は魔力で編んだ魔弾だ。アーチャーは生前の、単純に持ち運べる残弾量という(くびき)から解放され、今やハンドフリーで魔力の続く限り弾丸を精製し続けられる超人と化した。

 それは通常人が持ち運べる弾丸量を遥かに超越できるという利点をもたらしたが、運用法を変えれば、もう一つの使い方が見えてくる。

 ──本来、弾丸は一発一発が規定の大きさ、威力を持つ。

 サーヴァントと化したアーチャーもそのセオリーに則り、魔力弾を一発編むのに要する魔力をある程度、生前に使用した弾丸に酷似するレベルに抑制している。

 だが──使い勝手を度外視して、「ただ一発にアーチャーが込められる全魔力を詰め込めば」どうなるか。

 簡単だ。狙撃手は正確性と連射性を失うかわりに、たった一発に全てを込める、また違った一撃必殺の体現者となる。

 

「ハァ。まあ、やるだけやってみるが……あまり期待はするなよ。俺にそんな役割を求めたのは恐らくお前が初めてだ」

 

「何事も挑戦です。それに聖杯奪取が済んだ暁には、もう槙野さんを危険に晒す必要もなくなるんですから。頑張りましょう」

 

 何やら気合の入っているアナスタシアをジト目で眺めて、アーチャーは氷の入ったコップをカラカラと鳴らす。

 

「前も言ったが、随分とあの店主にご執心のようで」

 

「…………そんな事はありません」

 

 思わず熱くなった自分を戒めるように、アナスタシアは俯く。

 

「ふむ、ここに潜伏するうちに情が移ったのか?」

 

「そんな事はあり得ません。私は神の代行者ですし、自分の職務を完璧に理解しています。任務が終われば、私はここを去るでしょう」

 

「別に悪い事じゃないと思うがね。カトリックの神父でもあるまいし、人を好きになって何が悪いんだ。人として当たり前だろうに」

 

「……あのですね。そもそも私がそういう感情を彼に抱いている前提で話を進めていますが、私はいっさい恋慕やそれに似た感情を誰かに持ったことはありません。これまでも、これからもです」

 

「自分に嘘をつくなよ、代行者。アンタはただ怖いだけだ。自分がもしそうした感情を持っていたとして、その上で「代行者」という自分を保ち続けられるのかどうかが怖いんだろう」

 

「っ……馬鹿にしないで‼︎」

 

 珍しく……本当に珍しく、彼女は明確に怒りを露わにした。

 アナスタシアの両手が木製のカウンターを強く叩く。めきょ、という音ともに凹む平らなカウンターの惨状も無視して、アナスタシアは自分を分かりきった風なことを言うアーチャーに反論した。

 

「私には、聖典をこの身に宿してまで生き延びた者としての義務があるんです‼︎ 主の教えに従わない魔の者らを、代行者として駆逐する義務が‼︎ それほどの覚悟を持っている私が、そんな事で──」

 

 そこまで口早に述べてから、アナスタシアは顔を青くして口を押さえた。誰にも漏らすまいとしてきた秘密を、感情的になったあまり口走ってしまったからだ。

 

「成る程ね。アンタはそういう過去を経て、わざわざ代行者になろうと決意したわけだ。そんな過去を背負っている以上、自分が代行者としての職務を果たすことに揺るぎはない──そう言いたいんだな」

 

 彼女の母は、今生の別れの際に言い残した。

 「貴方は生きて、自分がすべきと思った事を成しなさい」と。

 その言葉に対してアナスタシアが出した答えは、「代行者として生きる」という事であった。魔に対する概念武装である聖典を身に宿し、かつて築いた全てを魔の者らに全て奪われたのであれば、差し出す答えなど一つしかなかった。

 ──これが、この生き方こそが、私のすべき事に違いない。

 そう信じ込んで、アナスタシアは今までの人生を駆け抜けてきた。

 だからこそ、代行者として振る舞う自分を、アナスタシアは持てる全てを使って構築してきた。そんな自分が不要な感情一つで崩れるほど脆い存在であるなど、断じて認めるわけにはいかない。

 

「……ええ、そうです。私は聖典を身に宿す者として、決してこの世界に存在する魔を許すわけにはいかない。それが私の信念です」

 

「誰がそんな義務を決めたのやら。まあいいさ、アンタがそれを「すべき事だ」と考えているんなら、俺は口を挟んだりしない」

 

「何か言いたいことがあるんなら、どうぞ」

 

「今にもカウンターを飛び越えて胸ぐらを掴んできそうな女に文句を言えるほど俺は蛮勇じゃないんでね。──と、時間だ。じゃあなマスター、興味深い話が聞けて楽しかった」

 

 その言い分に思わず舌打ちするアナスタシアをよそに、アーチャーは霊体化して姿を消した。

 ほぼ同時に、店主の槙野が扉を開けて帰ってくる。

 反射的に姿勢を正すアナスタシアの前で、槙野は大きな荷物を持ってフラフラとカウンターまで歩いてきた。積み上げられた箱の山は槙野の顔まで隠してしまい、前が見えていないせいで足取りがおぼつかない。

 

「──ま、槙野さん。お帰りなさい。荷物、お持ちします」

 

「いやいや大丈夫だよ。ってアナ、段差に気をつけ──」

 

 状況が急展開した事で内心焦っていたアナは、カウンター奥と店舗内を繋ぐ場所に設けられた一段ぶんの段差を完全に失念していた。

 バランスを崩し、アナスタシアは前のめりに転倒する。

 代行者の身体能力であれば擦り傷ひとつ負わずに受け身を取ることも可能だったが、アナスタシアがそれをすることはなかった。何故なら荷物を全部放り出した槙野が、アナスタシアの身体を咄嗟に抱きとめたからだ。

 

「うわっ、た、た……っと。大丈夫? ごめんね、設計の関係上変な段差ができちゃってて。怪我はないかな」

 

「…………は、い、いえ、そんな事より荷物が‼︎」

 

「ああコレ? 大丈夫だよ、不足分のコップとかだけど、中に緩衝材とか入ってるし……たぶん。それにコップがいくつか割れるより、君が怪我する方がよっぽど大ごとだしね」

 

 アナスタシアは呆然としてその言葉を聞いていた。

 抱きとめられた腕は男性特有の逞しさを確かに含んでいて、心拍が戦闘時並みに加速していくのが把握できる。槙野がアナスタシアを椅子に座らせて怪我がないかを確認する間も、彼女は自分の変化に戸惑うことしかできなかった。

 

(……違う、違う……こんなのは、私では──)

 

「アナスタシア?」

 

 どうしたんだい、ぼーっとして……なんて言われて、アナスタシアはカタコトで「何でもないです」とだけ呟いた。

 ──彼はあくまで、職務を遂行する上で利用しているだけの存在。

 それをハナから理解して、暗示までかけてアナスタシアは彼と接している。つまりどんな状況に於いても、アナスタシアは彼の生存よりも任務の遂行を優先しなくてはならない。

 

 なのに──。

 果たして今の自分は、彼を切り捨てる事ができるのだろうか。

 

 もし、彼を優先してしまったその時。

 自分がすべきと思っていた全ては、一体どうなってしまうのか。

 自然と震えてくる手を押さえつけるようにして、アナスタシアは自問自答をただ繰り返していた。




【アナスタシア】
本名、アナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナ。
代行者見習いにして、未公認のNo.13、第十三聖典およびその守護精霊と融合した少女。
本来代行者としての素質は持っていなかったが、聖典と融合したことで「聖なる者、神に仕える者」としての属性が強化され、代行者たりうる素質を獲得した。だが、その分思考もそちら寄りに変化したため、自分は必ず聖職者であらねばならない、それを何よりも最優先すべきである、という強い思いを抱いている。

【第十三聖典】
儀礼用ながら強力な概念武装としての性質も持つが、アナスタシアの身体と融合しているために実体はない。
某カレー先輩の持つ第七聖典が「転生批判」の概念武装であるのに対し、こちらは「原罪からの解放」の概念武装とされる。
守護精霊、及び重ねた年月の詳細は不明。
"十三"という数字はユダの原罪による裏切りを示す忌み数。


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三十四話 魔王さま、映画館に行く

 セイバーことわがまま魔王を連れて、俺は大塚市中心の駅ビル街を気だるげに歩いていた。学校で授業の真っ最中である昼間に制服姿のままうろつくのは気が引けるが、いちいち家に帰るのも面倒だ。

 トコトコと隣を歩くセイバーはフードを被ったまま、興味深そうにビル群の煌めく窓ガラスを眺めている。

 

「前見ないと、コケても知らないからな」

 

「私がそんな無様を晒すわけがないじゃないですか。どうせコケたりするのはケントの役割だと思いますけど?」

 

「………………」

 

 イラっとした俺はどうしたものかと考えてから、完全に前方不注意のセイバーの足元にすっ、と右足を差し出した。

 

「? ケント、なに急に止まっ」

 

 て、と言いながら足につまずいたセイバーは豪快にすっ転んだ。

 「ぶべっ⁉︎」なんて悲鳴を上げて道路の上に転倒していった魔王さまを爆笑とともに嘲弄し、セイバーの激昂の叫びとともに俺が街路樹に叩きつけられて気絶しかけたあと、ようやく俺たちは歩みを再開した。

 コイツ、最近すぐ治るからって調子に乗って攻撃の頻度も威力も高くなっている気がする。そもそも俺がちょっかい出すな、と言われればそれまでだが。

 

「んー……暇とかなんとか言ってたけど、それなら映画でも見るか」

 

「おお、いいじゃないですか。行きましょうよ映画」

 

「映画が何か知ってんの、お前? 聖杯の知識ってのは便利だなあ……まあいいや、賛成なら映画館でいいだろ。今の時間なら空いてるし、適度に時間も潰せて食いモンもあるし」

 

 ──そんな感じで大塚駅へ。

 駅に隣接する大型ショッピングモールは、我らが大塚市民にとって使ったことのない奴はいないくらいの超重要レジャースポットだ。

 市の中心にあるお陰でアクセスもよく、娯楽にショッピングに食事に、ありとあらゆるものをこの場所で済まることができる。

 

「うっ、ここは……」

 

 何故かセイバーが入る前に嫌そうな顔をしたが、その割に「何でもないですよ」とか言ってついてくる。

 俺がそれについて聞くとものすごい勢いで目を泳がせていたので、多分この場所でセイバーは何かやらかしたと見た。考えられるとすれば俺が気絶している間に誰かに奢ってもらったとかいう二日前だが──。

 

「ああ、そういやここのゲーセンに一回お前と来たんだっけ。ほら、俺がお前とと始めてまともに喋った日」

 

「そ、ソウデスネ。けど私はもうこりごりというか、あんまり行きたくないというか、とにかくさっさと映画館に行きましょうよ」

 

「ちょい待って。まだ時間が余ってるから、適当にこん中をぶらついて時間を潰そう」

 

「……分かりましたけど、げーせんとかいう場所はもう勘弁願いますよ」

 

 何故そこまでゲーセンを嫌うのかよく分からなかったが、下手に首を突っ込むと面倒な事になる予感がひしひしと感じられたので、俺は「了解」とだけ返して歩き始めた。

 流石に平日の昼間とあって、人気はかなり少ない。目につくのもせいぜい主婦らしきおばさんかシニア世代の方々で、これならセイバーが変に人目につく心配も少ないだろう。

 

「前来た時はそこまで案内してなかったし、いい機会だから色々見て回ろうか」

 

 なんだかデートみたいだな、と考えると恥ずかしくなるのでやめた。

 あくまで俺はセイバーのワガママに付き合ってやっているだけだ、と言い聞かせながら平然を装って歩く。まず目に付いたのは色とりどりの洋服を並べたアパレルショップ。似たようなモンがいくつも並んでいて俺には違いがよく分からないのだが、ジャージしか着ないセイバーに、少しくらい服を選ぶ楽しみを教えてあげよう。

 

「ふんふん、ここはお洋服屋さんですか。現代の洋服は多様に進化していて、見ているだけでも面白いですね」

 

「なんなら試着って手もあるんだぞ。……何着も買うのは、金銭的になるべく控えて欲しいところだけどな」

 

「え? 私は動き易さがあればそれでいいですよ」

 

「いいからいいから、お前だって普通の洋服一着くらいは必要だろ。それくらいなら余裕あると思うから好きなの選んでみろって」

 

 本心半分、セイバーの洋服姿が見たいという欲望半分で洋服が森の如く乱立する店の奥へとセイバーを押し込む。少し戸惑っていた彼女も服を見ているうちに楽しくなってきたのか、これだあれだと選び始めた。

 

「これとかどうですかね?」

 

 そう言ってセイバーが差し出してきたのは、真っ黒で袖の短いブラウスだった。もう片手には紺色のスカートが握られている。

 

「お前、ほんと黒しか着ないのな。明るい色は嫌いなのか?」

 

「私に明るい色なんて、似合うはずがないと思います」

 

 それだけ言うと、セイバーは目を伏せてしまう。

 その言葉に少しひっかかった俺は、ほぼ無意識に反論した。

 

「ンな事ないさ。俺が保証するから、試しに明るい色のも試してみろって。きっとセイバーに似合うよ」

 

 しぶしぶ、といった様子でセイバーは手に取ったブラウスを戻すと、今まで見ようともしなかった明るい色の服を手に取り始めた。

 その様子を満足げに見守って、待つ事十分以上。

 女性の買い物は長いと言うが、確かに俺からすれば長い時間だった。俺なんてバッと見て気になるのがあればそれ! って感じで即決するのに、セイバーは色々と見て回っている。明るい色の服を選択肢に入れたことで、選択肢が急増して選びにくくなっているのだろう。

 

「──よし、これに決めました。ちょっと試着してきます」

 

「あ……うん、了解。待ってる」

 

 いつのまに勝手を掴んだのか、セイバーは手に取った服を俺にわざわざ見せることなく試着室へと直行した。

 手持ち無沙汰なので試着室の前をウロウロしつつ、セイバーの着替えが終わるのを待つ。よくよく考えれば不審者と見紛う不審行為だったが、どうも布一枚先でセイバーが着替えているという状況が俺の思考を鈍らせたらしい。

 ともあれ。しばらくして、試着室のカーテンが開かれた。

 

「………………や、やっぱり似合いませんね」

 

 少し顔を赤くしてモジモジしているセイバーだったが、俺は目をまん丸くしてセイバーを眺めたまま動けなかった。

 それも当然だ。

 いや──ほんとに今の今まで、コイツの可愛さを甘く見てた。

 普段から芋っぽいジャージばかり着ているせいでその可愛さがわかりづらいせいか、女の子らしい洋服に着替えたセイバーはまるで童話の中から抜け出してきたお姫様か何かだ。

 カチリ、と俺の中で不穏なスイッチが入る音がした。ピクリともせずに凝視し続ける俺を不思議に思ったのか、セイバーは落ち着かない様子のまま声をかけてくる。

 

「あの、ケント? やっぱりそわそわするので脱いでも」

 

「──────駄目だ」

 

「はい?」

 

 即答。有無を言わせぬ即答だった。

 なんだか今まで感じたことのない感覚が全身を襲っている。

 強引に例えるなら、超絶美少女をたまたま街中で見かけたアイドルスカウマンの心境に近い。

 こんな美少女にたかがジャージ風情を着させておくのは馬鹿の行いだ。あまりにも神から与えられた「美貌」という名の才能を無駄遣いし過ぎている。今まで人目につくからとジャージ+フードのファッションをしてもらっていた俺が間違いだった‼︎

 

「あの……なんか、目が怖いんですけど」

 

「うるさい、やかましい。まず確定しておくと、今のセイバーは確かにかわいいんだ。本当にかわいい。もう既にファッション誌にそのまま載れるレベルまで到達していると言っていい」

 

 俺の発言に、セイバーは「は?」と首をひねる。

 

「けどな、けどなァ‼︎ 違うんだよ、まだお前には"先"があるはずなんだ、もっとお前という素体を輝かせるファッションが存在するハズなんだよ‼︎ ああクソ、もっとレディースファッション誌を常日頃から読み漁っとけば……」

 

「それはちょっと気持ち悪いと思いますけど」

 

 突然美の探求というか、「セイバー」という素体を最高に輝かせるためのファッションを求めたくなってきた俺から、心なしかすすす……とすり足で距離を離すセイバー。

 

「なあセイバー。俺はその"先"を見たくなった」

 

「はぁ、そうですか。そろそろ映画館行きません?」

 

「いいや駄目だ‼︎ お前が最高に輝ける上下の組み合わせを見つけるまで俺はここを出たくない……‼︎ その為には今の組み合わせも捨てがたいが駄目だ、次のを試すぞ‼︎ 早くそれ脱いでくれ‼︎」

 

「えっ、ちょっ……何やってんですか変態虫‼︎‼︎」

 

 暴走モードに入ってスカートをずり下ろそうとした変質者を安定の平手打ちが襲い、俺は力技で店の外まで放り出されてしまったのだった。

 

 

 

 

「もったいない……ああもったいない……」

 

「ウルサイですね。私はこれが好きなんです」

 

 死人のような顔でショッピングモール内を闊歩する俺に(既に死人ではある)、セイバーは憮然とした表情のまま抗議してくる。結局嫌になってしまったセイバーは洋服を買うことなく、いつものジャージ+フード姿に戻ってしまっていた。

 落胆を隠せない面持ちで少し歩くと、モール内の端に位置する映画館に到着。平日昼間とあって人は少なく、予約なしでも簡単に席は取れそうだと一目で分かった。

 

「そういやよくよく考えたら、なに見るか決めてなかったな」

 

「ケント、ケント、私が決めていいですか」

 

「ん? まぁ……うん……別に構わないけど。俺はどれでもいいから、お前が見たいと思ったのを教えてくれ」

 

「ちょっとテンション下がりすぎじゃありません??」

 

 袖をぐいぐい引っ張ってくるセイバーに任せる形で、無気力状態の俺は上映作品のパネルを眺めるセイバーを見守った。映画や甘味など、好奇心を刺激する未知の体験が好きなのか、目を輝かせているセイバーの姿がやけに眩しい。

 そのうちセイバーは決めたらしく、映画館の壁にもたれて待っていた俺のところに駆け寄ってきた。

 

「ケント。あれにしましょう」

 

「分かった。なになに……「サーヴァント・ユニバース〜友情と裏切りを越えて〜」? 聞いたことすらないタイトルなんだけど」

 

「い、いいじゃないですか‼︎ 面白そうですし、この私の直感にハズレはありません」

 

 金髪のジャージ少女と餡子を頬張った眼鏡少女が描かれたパネルを見て、セイバーは根拠のない自信を根拠にして勧めてくる。

 まさか"ジャージ"というところにシンパシーを感じたのだろうか。

 とはいえ他に見たいものもないので、チケットを買ってからカウンターでキャラメル味のポップコーンを購入する。当然甘党のセイバーに対する配慮だ。

 

「さて、行きましょう」

 

「なにゆえお前が仕切ってんだ。ほら、これがチケットで、これをあの人に渡して入る。あとこれお前の分のポップコーンな、きちんと甘い味だから文句言うなよ」

 

「気がきくじゃないですかケント。ようやく私の扱いに慣れてきたみたいですね」

 

 フン、と鼻を鳴らしていばっているところ申し訳ないのだが、お前のような問題児といると一刻も早く扱いに慣れなければこちらの身にまで問題が降りかかってくるので、仕方なく彼女のわがままに適応しているだけだ。

 ……なんて言葉を喉奥に飲み込んで、とっとと上映スクリーンの中へ入る。

 流石に昼間なので人は少ない。ちらほら見える人影を気にしつつ、俺はセイバーと隣同士の席まで移動した。

 

 

 

 

「おお……ぉぉぉ……‼︎」

 

 先程から、隣のセイバーが呻きに近い感嘆の声を上げている。

 真っ暗になった大部屋の中に、スクリーンに映し出されたCG盛り盛りのド派手映像が絶え間なく投射される。

 映画が始まってから、一体どれほどの時間が経ったのだろう。

 「サーヴァント・ユニバース〜友情と裏切りを越えて〜」……訳の分からないタイトルだったが、こうして見てみると案外面白い。念願の劇場版アニメと銘打たれただけあって、そこそこの予算が注ぎ込まれたのだろう。

 主人公は「セイバー」とかいうよくわからん生命体(さすがに隣のセイバーを指すってことは無いと思う……)を駆逐する役割を担うヒーローの少女で、相方は眼鏡をかけた文系少女だ。

 だが物語の中盤に差し掛かった頃、親友である彼女が実は敵役のヴィランであり、主人公を倒す事を第一目的とされた悲しい存在であったことが明かされる。悲しみに暮れるものの、それはそれとして敵なら倒すと容赦なく聖剣を振り回す主人公は少し怖かった。

 ともあれ彼女らは聖剣と邪聖剣の激突の果てに、隙あらばセイバーを産み続け、同時にこの世の和菓子を全て自分のものにしようとする実に都合のいい諸悪の根源がいるという事を知る。

 そして物語終盤──。

 今まさにスクリーン上で、手を組んだ二人の少女と、キノコ型魔王との壮絶な戦いが繰り広げられている。

 

(……いや、なんで魔王が人型じゃないんだ?)

 

 当然の疑問をセイバーは抱いていないらしく、夢中といった様子でスクリーンを食い入るように見つめている。

 

(しかし、魔王……ね。まあ、セイバーが楽しんでくれてるなら何よりだけど)

 

 この映画でもはっきりと分かるように、"魔王"という存在は得てして悪役として描かれる。

 英雄に倒されるべき敵、それが魔王だ。

 そして彼女も言っていた。

 

 ──私は魔王。人に、神に、世界に仇なす敵役にして負の象徴。

 ──だから今更どう振る舞おうと、私は絶対の"悪"だと決められているんです。

 

 黄金の大蛇を倒した夜、彼女は悲しげにそう言ったのだ。

 だから自分は世界にとって邪魔者だし、きっといない方がいい。役目が終われば速やかに消え去る……と。

 

(違う。そんなのは絶対違う筈なんだよ、セイバー)

 

 横目でちらりとセイバーの姿を見やる。

 純粋で、わがままで、怒りっぽくて、可愛くて、頼り甲斐のある少女の姿を。

 ──確かに彼女は「魔王」だったのだろう。

 悪逆を成して、幾万の屍をたった一人で築き上げた魔の王。その過去を、俺は彼女の記憶から盗み見てしまった。

 けれどそれを理解してなお、俺は彼女を悪だと断じたくない。

 ──だってそうだろう?

 俺の死に際にセイバーは涙まで流して、命を間一髪のところで繋ぎ止めてくれた。一緒に笑って、戦って、色んなところに行った。彼女には何度も何度も助けられて、救われたんだ。

 そんな彼女を悪だと切り捨てられるほど、俺は酷い奴じゃない。

 思いに耽る俺をよそに、映画は最終盤へと移りゆく。

 唸りを上げる二つの聖剣が、クロスの軌跡を描いて魔王の身体を切り裂いた。光の塵となって消え去っていく、悪の"魔王"。こうして正義の英雄は役目を終え、また魔王(あくやく)も役目を終える。

 大立ち回りに大興奮といった様子のセイバーを見て、俺は自然と微笑んでいた。

 

 ──よし、決めた。

 ──もし倒されるのが、悪として在るのが魔王(かのじょ)の役割だっていうのなら。

 ──今なお生きている俺の存在をかけて、その認識を否定しよう。

 

 もし、彼女との離別が避けられないのであれば。

 俺は必ず、その時までに、彼女の悲しい自己認識を変えてみせる。

 「自分はこの世にいらない」なんて思い込んでいるセイバーに、魔王だって正義のヒーローになれるんだと、決してお前は邪魔者なんかじゃないんだって、そう考え直させてやるんだ──。

 

「いやぁ、映画とはこんなに面白かったんですね‼︎ 人間が生み出す物語が、まさかこんなに胸を踊らせるものなんて。……ああ、やっぱりかつての私は──あれ、ケント?」

 

「ん? どうしたんだ?」

 

「いえ、なんか上機嫌ですけど。あっ‼︎ やっぱり私の言ったように、映画が面白かったから嬉しいんですね⁉︎ だから言ったじゃないですか、私の直感にハズレはないと‼︎」

 

 ──彼女の自己認識を変える。それが魔王の願いを知ったあの夜以来に見出せた、俺の明確な目標点。

 その為にはまず、もっと彼女の事を知らなくてはならない。彼女の真名すら知らない状態では、俺が何を言おうと、きっと彼女の心に響く言葉にはなり得ないだろうから。

 

「ま、なかなか良かったんじゃないか。魔王が最後に討ち滅ぼされる、ってエンドを除けば満点だと思う」

 

「え? 悪が滅ぼされることの、何が不満なんですか?」

 

「……結構ニブいよね、お前。とにかく不満ったら不満なの、だから俺にそう恩を売ろうとするな。もう今日はお菓子買えないぞ」

 

「た、たまには褒めてくれたっていいじゃないですか。だいたいケントは私に対する労いの言葉が足りないと思うんですけど‼︎」

 

「オ、マ、エ、が普段から問題行動を繰り返すせいで感謝する気にあんまりなれないんだよ‼︎ だいたい褒めたくてもどっかでやらかしてるからイーブンになるの‼︎ 褒められたいならもっと常識人の振る舞いを身につけてからアピールしろ‼︎」

 

「あ、アピールとか……私を褒められたい子供みたいに考えてません⁉︎ ああもう不敬ゲージが溜まりました、おしおきですよ」

 

「それだ、それ‼︎ そのわけがわからんゲージシステムを廃止してくれたら褒めることについて一考してやるから手を振り上げるのをやめろ‼︎」

 

 セイバーから逃げるように映画館を飛び出す。

 スクリーンから飛び出してしばらく走ってから、俺は腹の底から込み上げてくるような笑いに抗わず、大声で笑った。

 

「ええ……一人で笑ってると変人に見えますよ、ケント」

 

「いいとこで空気が読めないなお前は、いつもいつも‼︎」

 

 だって、心の底から嬉しかったのだ。

 今の今まで、「生き延びる」という押し付けられた目的を第一目標にして掲げて戦ってきたけれど──それに匹敵するくらいやりたい事を、自分の為ではなくセイバーのためを想った願いを、こうして見つけられたのだから。

 決意は強く、硬く。俺の魂が燃え尽きるまで、決して消えることはないだろう──。




【サーヴァント・ユニバース】
たまたま上映していたアニメ映画。制作会社不明、声優不明。
謎のヒロイン(?)がなんと二人も出てくるSFモノらしい。セイバーはいたくこのシリーズを気に入り、パンフレットやら各種グッズ、さらには謎のヒロインとお揃いのジャージを揃えるまでの熱狂ファンになる……かもしれない。


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三十五話 平穏を貫く魔弾/Other side

 キンコンカンコーン、と聞きすぎてうんざりするようなメロディのチャイムが鳴り響くのを、志原楓はぼんやりと聞き取っていた。

 ちらりと教室の端に視線を移す。

 来ないだろうとは分かっていたが、案の定その席は空白のままだった。本来であれば、繭村倫太郎という少年が座っているはずの席だ。たぶん今日は来ないだろうな、という事を確認してから、楓は席を立った。

 さて、四限が終わって時間は昼休み。学生達が授業という拘束から解放され、意気揚々と各々の自由を楽しむ時間だ。

 弁当を開き始めるもの、購買のパン競争を勝ち抜くために小銭を握り締めて開幕ダッシュを決めるものなどなど、教室は多様な様子を見せる。

 

「楓ちゃーん、一緒にご飯食べない?」

 

「あー……ゴメンね京子、ちょっと用事」

 

 ちょっと先生に呼ばれてて、と適当に言って楓は廊下に出た。人がいないタイミングを見計らって階段を上がり、「立入禁止」の札を無視して屋上に続く扉を開ける。

 当然だが立ち入り禁止なので、人の気配はない。聞こえてくる音といえば階下の生徒たちの騒ぎ声くらいのものだ。

 降り注ぐ日差しに目を細めつつ、楓はその端っこに三角座りになって弁当を開いた。

 

「──キャスター」

 

「ほいほい。君のキャスターやで」

 

 霊体化を解いて現れるキャスター。相変わらずのんびりした口調で、彼は楓の隣に腰を下ろした。

 

「昨日、何を話してたの?」

 

「ん? 健斗クンと? 伝えたのは僕の真名、これからは争わないって大まかな方針。そんくらいや」

 

「ん、それじゃなくて。もう一つあるでしょ」

 

 キャスターは言わなかったが、楓が最も気になっていたのは別の事だ。

 

「……あのセイバーの真名(・・・・・・・・)をまだ教えてもらってないわ。アンタの千里眼なら分かった筈よ」

 

「その通り。一目で看破したったとも」

 

 にやりと笑ってから、キャスターは神妙な表情を浮かべた。彼がこういう顔をするときは、大抵良くないこと……それか、真剣にならざるを得ない程に重要な事を楓に伝えようとする時だ。

 

「実は昨晩、セイバーに口止めされてな。その名をケントの前で口にするな……と。破ったら問答無用で殺されるらしいわ、僕」

 

 ギョッとする楓を差し置いて、キャスターは続ける。

 

「ま、逆に考えれば健斗クン以外の人には口止めされてない訳やし? 楓ちゃんになら言うてええと思うけどね、今後の方針を立てるのにも必要やろうし」

 

「またそんな屁理屈……まあ、間違いじゃないか。それじゃ教えて、あのセイバーの真名を」

 

「いいけど、一つだけ気をつけや。真名を聞いたからとて、彼女を恐怖の対象として見んほうがええ」

 

「え? あの子、自分で魔王を名乗るくらいなんだから、むしろ自分を恐れてもらいたいんじゃないの。お兄ちゃんにもよくフケイだーとか言ってるし」

 

「恐怖と敬意は別モンっちゅう話。あの子は確かに魔王やが、根底は普通の女の子や。もし楓ちゃんが皆から怖がられて、誰からも話しかけられんくなったら嫌やろ? それと一緒。敬意ならええけど、あの子は向けられる恐怖を嫌っとる」

 

「なんでそんなコトまでアンタが知ってんのよ。千里眼ってそんな事まで分かるワケ?」

 

「別に好きで見たいワケじゃないんやけどなあ。見えるモンはしゃあないし」

 

「……じゃあ分かった。余計な事でセイバーと衝突したくないし、努力はする」

 

「良し良し。んじゃ、彼女の真名は……」

 

 キャスターの口から真名が語られる。

 すらりと語られた名前、しかし、それは──。

 

「ンな……なんですって⁉︎ あの⁉︎」

 

「だから、────。かの有名な魔王サマや」

 

「ま、魔王って……ただの自称じゃなくて本当の本当に魔王で、しかも女の子だったの⁉︎」

 

 それは日本より遠い地に語り継がれる、神代に君臨した魔王だ。

 ヒトの超越した神々が跋扈する神代にあって魔王を名乗れたのだから、その実力は尋常ではない。人は当然として、遥かな神々ですら止められない──止めようがない、己の意志を持った災厄。

 そして彼女が持つもっとも強烈な特性こそが──「神殺し」の力だ。

 

「そうか、アンタの十二天将が簡単にやられちゃった訳だ。あのセイバーにとって、神様なんて雑魚同然の敵だったろうし」

 

「アホやんなあ、向こうの神様も。勝手な慈悲で女の子に力を与えといて、結局手のつけられん怪物を生み出してもうたんやから」

 

「どこの神話でも神様なんてロクデナシばっかりよ。仕方ないわ」

 

 楓は一つため息をつくと、

 

「……なんて、言ってる場合じゃないわね。お兄ちゃんたら、随分な反英霊と契約しちゃって……下手にコミュニケーションをミスったら斬り殺されるんじゃないの。ほんとに大丈夫なのかしら」

 

「問題ないと思うけどなあ。あのセイバー、彼に対しては随分温厚に接しとるようやし。他のマスターが呼んだんなら、そりゃ冷酷無比な魔王として振る舞うやろーけど」

 

 キャスターはおもむろに人形型の式神を二つ放り投げると、ちょちょいっと指を動かした。それらはむくりと起き上がると、変なリズムで踊り始める。

 

「また器用な……む、かわいい……じゃなくて。なんでお兄ちゃんの前じゃ大人しいの、あの子? こっちとしちゃ助かるけど」

 

「ふむ、理由は幾つかあると思うで。まず一つは、健斗クンがセイバーの真名を知らんからや」

 

「……どういうこと?」

 

「健斗クンはその無知が故に、セイバーとなんの偏見もなしに接する事が出来る。そこに恐怖も侮蔑も介在する余地はない。あのセイバーにとって、そういう関係は新鮮で尊いものなんやろ」

 

 成る程ね、と呟いて楓はセイバーの顔を思い返した。

 これは少し驚いたことだが──昨晩話し合って、セイバーと兄の間には強固な信頼関係があるという事が分かった。魔術の危険性すら知らない筈の兄がどうしてあのサーヴァントと信頼を築けるのか、と思ったが、無知が功を奏する場合もあるらしい。

 

「けど、もう一つ大きな理由があるみたいや。「志原健斗」という人間を何より信頼する理由が。それは……ま、ええやろ」

 

「えー、何よそれ。一回言ってからやめってのは無しでしょ、フツー」

 

「ええのええの。はよご飯食わんと休み終わるで」

 

「むー…………」

 

 唸りながら自作の玉子焼きを口に運ぶ。今日も味はバッチリ、悪い点といえば少し量を盛りすぎたくらい。

 ……そういや今朝に兄が何かしらやらかしたらしく、頰を腫らしてセイバーと大声で喧嘩していた。大丈夫かな、と少し不安になったものの、あれは根底の信頼関係あってこそのものなのだろう。

 

(私とキャスターだって負けてないし)

 

 サーヴァントを知らない兄にサーヴァントのコトで負けるのが少しばかり腹立たしく、無意識の内にそんなことを思う。

 しばし無言で、ごはんをもぐもぐする楓。

 その視線はフェンスを越えて大塚市の西端、龍神湖へと向けられる。キャスターもその視線を追って湖面を見つめ、そして──。

 

「──何?」

 

 信じられないものを見るような顔で、そう呟いた。

 

「……なあ、楓ちゃん」

 

「もぎゅ……ん。なに? 弁当欲しいんならあげるわよ、今日作りすぎちゃったし」

 

「いや──違う。すごくアホらしい質問するけど、僕のクラスは「キャスター」やな?」

 

「はい? 何言ってんのよ、自分で分かるでしょ」

 

「そやな。じゃあ、アレはなんや」

 

 楓が頭の上に疑問符を浮かべて、キャスターの視線の先を見つめる。と言っても、元々湖をぼーっと眺めていたのは楓の方なのだ。目を細めてみるが、何か違和感があるようには──。

 

「違う。湖じゃない。島の方」

 

「島……って言うと、仙天島? あんな遠くまで見れないわよ」

 

 仙天島。湖岸から百メートルほど離れたところに作られた、レジャー施設と浄水場、水質試験場を備えた人工島である。面積はさして広くなく、三十分もあれば一周できる。自然豊かで、釣り人にも人気のレジャースポットだ。だが、今現在そこは──、

 

「あそこは魔術師の領域や。それも工房、結界とかいう次元ちゃう……あの島全域が、強固な神殿として構築されとる。当然やけど、あんなモンは昨晩の時点じゃあ存在せえへんかった。……というか眼球の強化って、魔術師としては初歩中の初歩中の初歩くらいちゃうの。それができてりゃあ無駄に健斗クンと殴り合わんで済んだやろに」

 

「わ、悪かったわね。どうせわたしは身体強化の延長しかやったことない落ちこぼれよ……」

 

「身体強化の基礎ができてるんなら、眼球の強化もその応用でいけると思うんやけどなあ。ま、気にせんでええよ。帰ったら教えたるし」

 

 異様に濃密な魔力の層が幾重にも重なっている様を、キャスターは感じ取っていた。

 神殿。魔術師が作る「陣地」を一般に工房と称するが、神殿クラスの結界は魔術師には到底作成できない。サーヴァントであろうと神殿を構築するには最高クラスの「陣地作成」スキル、そして何より良質な龍脈が必要となる──が。

 そもそも、基本的に「陣地作成」を持つのはキャスターのクラスだ。そして楓が召喚した安倍晴明は、特殊な陰陽術を使うが故にその類のスキルを持ち合わせていない。

 

「さて……あの島についてやけど。あれ程の神殿は並大抵のサーヴァントじゃあ作り出せん。それこそ神代の魔術(・・・・))に通ずるような奴でしか」

 

「──まさか。神代の魔術を扱うような高位のキャスターが、アンタに加えてもう一騎いるって言いたいの?」

 

「あくまで可能性。けど、現実としてあの神殿は構築されとる。間違いなくサーヴァントが持つ「陣地作成」に類するスキルを用いてな。島に続く橋も一本しか架かっとらんし、アレん中に立て籠られると相当面倒やぞ。ちと先手を取られた感はあるが、一応探っとくか」

 

 キャスターは立ち上がると、小鳥型の式神をふわりと宙に放り投げた。それは力強く羽ばたくと、一直線に仙天島めがけて飛んでいく。

 

「ふむ。これで少しは分かるとええけど」

 

「ぱっと見、千里眼で何か分からない?」

 

「現在を見通す千里眼でもありゃええんやけど……僕のは過去を見るだけやし、そこまで眼としての位階が高い訳でもない。そもそも距離も離れてるし、今は何も見えんなあ」

 

 そう言うと、肩をすくめるキャスター。

 彼の千里眼が発動するには、「対象にある程度接近する」という制約がある。それほどまで近づけば当然神殿の奥にいるであろうサーヴァントにも丸見えなわけで、千里眼を使うという選択肢はなかなか難しそうだ。

 

「ふぅん。じゃ、あの子待ちね」

 

 そう言って、楓はもう小粒ほどの大きさになった式神を眺めた。神殿クラスの結界に入り込めるとは思えないが、何かしらの情報を持ち帰る可能性もなくはない。

 

「一応あの結界については、私からお兄ちゃんに連絡しとく。昨晩までに少しづつ組み立てておいて、私たちが争ってる間に一気に構築したみたいだけど……まさか島をまるごと結界で覆うなんて考えてなかったわ。キャスターは私が抑えてるから、ああいう手合いのサーヴァントはいないと思ってたのに……‼︎」

 

 総じてキャスターというクラスは基礎能力が低く、代わりに自身の領域内に於いて絶大な力を発揮するという傾向がある。これは現代の魔術師にも同じことを言える。

 そのイメージに当てはめると、今や仙天島は難攻不落の要塞と化したと言っていい。侵入口はたった一つの橋に限られ、外部からの干渉は困難を極める。ブチ破るには真正面からの強行突破しかない訳だが、相手はその間安全圏から一方的に、それも潤沢に溜め込んだ魔力を使って攻撃できる。

 

「くそ、仙天島の下の龍脈を利用したのね。島の中に工房を作る魔術師はいるかな、とは思ってたけど……規模も質も想像を超えてた。ウチの近くを重点的に警戒してたのが失敗だったか」

 

 キャスターが扱える式神の数は最高で1000体。いつぞやに健斗を襲った式神はその内の数百であり、それらは現在西部の住宅街……志原家の付近を重点的に哨戒している。固めるなら自分の拠点から、という判断だ。

 

「セイバーとアサシンにやられた分の式神、補給はできてる?」

 

「あれから徹夜で補給したで……おかげで朝も目がしょぼしょぼしてなあ、楓ちゃんが膝枕でもしてくれれば多分治ると思」

 

「じゃあそれ全部、さっきの偵察用に加えて東に向かわせておいて。セイバーが味方になってくれるなら、ウチの近くを警戒させる必要もないでしょ。目下最大の目標はあの島の攻略になりそうだし」

 

「……へいへーい」

 

 キャスターは至極残念そうな顔で、ちょちょいっと指先を動かす。

 街中に潜んでいた千体の紙人形は、志原の家や学校のある西部から街の東……湖岸の方角へ向かって移動を開始した。

 

「お疲れさま。ハイこれ、ご褒美」

 

「むぐ……僕ぁシャケより……まあええか」

 

 差し出された鮭をぱくっと咥えて、ハムスターのごとく頬張るキャスター。ご褒美としちゃあ食べ物より役に立つ魔力の方がふさわしいが、楓にそんな余裕はない。大体、キャスターが宝具「十二天将」を使うのも魔力量ギリギリだ。本来のスペックから制限に制限を重ねて、ようやく楓も戦えるくらいの余裕ができる。そのせいで最大十二体まで使役できるところが、同時に二体までしか顕現させられない。

 ……言い訳がましいが。この鮭のボイル焼きは、数十分かけて作った楓の自信作であって、いわば今日の弁当の主役である。

 いつしかテレビでやっていた素人料理大会の優勝者が作っていたのを丸パクリしたものだが、なかなか出来はいいと思う。わさびマヨネーズやらの味付けも結構美味しくできた筈なので、どうかキャスターには我慢してもらいたい。

 

「……む、コレ美味いやん! ええなあ、僕の時代なんか調味料なんて塩くらいしかなかったからなあ」

 

「よかった。焼くだけじゃなくて、気まぐれで味付けに凝ってみた甲斐があったってもんだわ」

 

(……と言いつつ、魔力足りてないのは悲しいんだけど。不甲斐ないなあ私……)

 

 心の中でため息をついていると、キャスターが何かゴソゴソとやっている。どうせしょーもないコトでしょ、と考えて残りの鮭をつついていた楓は、何やら嫌な予感がして足の間を覗き込んだ。

 

「……ん? あれ?」

 

「ん? どーしたん?」

 

 何故かニヤニヤするキャスター。

 それを楓が若干気味悪く思っていると──、

 

「いや……今なんかいなかった……って、わひゃ⁉︎」

 

 いきなり太ももを撫でた何かに反応して、楓は変な声を上げてスカートを抑えた。

 必死になってスカートの中を覗こうとして、キャスターがこっちを凝視していることに気づく。多分キャスターが悪いのだろうなあと悟ったが、それを咎めるほどの余裕はなかった。

 

「ちょっと、何見てんの──んひぃ⁉︎ なに、なになになになに⁉︎ なんかお股のあたりにいる、それにヌメヌメしてる……っ⁉︎」

 

 場所が場所だけにキャスターに助けを求める訳にもいかず、混乱して闇雲に両手を振り回す楓。キャスターはそんな彼女を実に面白そうに眺めて──、

 

「玄武、そんくらいにしとき」

 

 その声に反応して、楓のスカートの中から小さな亀がぴょんと飛び出した。楓のスカートの中で好き放題しやがったその亀はのそのそとキャスターの膝によじ登ると、気持ちよさそうにぐでんと寝転がる。

 

「いや、気持ちよさそうに寝転がってんじゃないわよこのバカ亀‼︎」

 

 半ギレした楓が拳を振り下ろすと、亀は素早く四肢と頭を甲羅の中に引っ込める。甲羅と衝突した楓の手は硬質な音を立てて、

 

「ぎ⁉︎ いっ──だぃ⁉︎」

 

「そりゃそうや。神様たる玄武の甲羅なんやからなあ」

 

 亀は楓の悲鳴を聞くと少し顔を出し、愉快げに目を細めた。完全にバカにしているのがその表情から伝わってくる。

 

「ぐぐ……このっ、ちょっと顔出しなさいよ‼︎ 私に色々してくれちゃってこのエロ亀ェ‼︎ 立て籠もってんじゃないわよ‼︎」

 

 持ち上げて揺すったり指を入れようとしてみたりしたがビクともしない。というか頭を引きずり出そうとしたら思い切り指を噛まれた。挙げ句の果てには掌から飛び出して襟元へ着地、楓の胸元に潜り込もうとまでしてくる始末。

 しばらく格闘してから勝ち目がないと悟った楓は、半泣きになってむくれながらエロ亀をキャスターに返却する。

 

「ああもう……なんなのよこの亀⁉︎ 力強いし、硬いし、あと行動がキモチワルイ‼︎」

 

「おー、玄武やぞこいつ。昨日セイバーにやられてもうてなあ、こんな可愛らしい姿になってもうたわ」

 

 玄武といえば京の守護神、北方を守護する十二天将の一角だ。その神秘はその中でも最高とされ、彼が使役する神々の中で最も強い力を保有している。

 ……とはいえ例のセイバーに千切っては投げを繰り返され、あえなく力尽きてしまったのだが。

 

「いや、確かにサイズ的には可愛いけど……」

 

 じっと見つめると、玄武(ミニサイズ)は楓を見てにやつくように目尻を下げた。楓を見て、というより楓のスカートの中に視線は向いている。

 

「千を超える寿命の神々ともなりゃあ、殺されかけても肉片さえ残ってりゃあ蘇ることだって可能なんや。今の玄武はその真っ最中、セイバーにボコされて療養中ってワケ」

 

 他にも数体セイバーとの戦いで死んだので、今のキャスターの十二天将は半分くらいしか残っていないそうだ。流石はかの魔王、神に対しては滅法強い。全員放っておいたら勝手に蘇生するらしいが、全員揃うには一週間ほどかかるとか──。

 

「……あ、こいつだけドブに捨てれば? もう十一天将でいいんじゃない?」

 

「な、なんてヒドい事を。仮にも神やぞ?」

 

「だって‼︎ こいつ私のこと絶対エロい目で見てるじゃない、ホラ今だって‼︎ 嫌よこんな変態亀‼︎」

 

 腐っても神、楓の踏みつけなどものともしない。ゴキブリを数倍加速させたみたいな気持ち悪い速度でカサカサカサカサと足元を這い回り、しかし楓のスカートから目は離さない。

 

「玄武の尻尾は蛇なんやけどなあ、どうも大陸の方じゃ、その蛇は生殖を表してるとかなんとか考えられとって……つまるところ、玄武クンは性に関心を持ちやすい。亀ボディは長寿の象徴らしいし、実際エロジジイという呼称は当たらずとも遠からず、や」

 

「そんなの別に知りたくもなんともないんだけど。私としてはとっととこの変態亀を消して欲しいんだけど。あと恐らく「おもろいリアクションとるやろなあ」とかいう理由でこいつを喚び出したアンタはあとでしばく」

 

「よく僕のことが分かってきたようでなによりや、楓ちゃん」

 

 ムムム、と唸ったキャスターはどうしようか迷った後、空間に複雑な印を結んだ。ミニサイズの穴が空間に穿たれ、その奥から小さな人影が飛び出してくる。

 

「■■、■■〜‼︎」

 

 小さな剣を振り上げているのは、砂色の鎧を纏ったマスコットじみた小人だった。砂塵を呼ぶとされる十二天将が一角、天空。

 

「あ、確か倫太郎のアサシンに殺された……いや、こっちに現れるのは分霊なんだっけ? お人形さんが動いてるみたいで、こっちはかわいいわね」

 

「そのとーり。なのでこちらに顕現してくる分霊がいくら殺されても構わへんが、彼らの居場所たる「世界の裏側」で殺されたんなら話は別や。直に本体を潰されるようなもんやし。そん時ゃ、イチから再生が必要になる」

 

 ミニサイズの天空は楓を見て、ぴしりと一礼。それから剣をぐるぐる振り回して玄武を追いかけ始める。

 

「ってことは、この子はアサシンに分霊をやられて、セイバーに本体をやられちゃったのね。大変だったでしょうに」

 

 人差し指で無意識のうちに天空の頭を撫でる。しばらくしてから神様なのにこんな事して大丈夫なのかな、という今更な疑問が浮かんだが、天空は主人の主人たる楓の賞賛を無言で受け入れていた。

 楓が手を離すと、また変態亀を誅伐しに天空が走り出す。玄武も天空は苦手なのか、キャスターの周りをぐるぐる回って逃げ回るのみだ。どうやら天空は真面目気質で、玄武の行いを許すつもりはないらしい。

 

「セイバーが仲間になったとはいえ、こちらは結構痛い被害ね。しばらく派手なことできないか……」

 

「魔力もかなり消費してもうた。次宝具を使える分まで貯めようと思うと、だいたい三日間は宝具を使えんやろうなあ」

 

「了解。じゃあ、しばらくはそれを考慮して行動しよ」

 

 キャスターは頷いて、せんべいをもぐもぐする作業を開始した。

 ひとまず聖杯戦争の緊迫した事柄は置いておいて、自分ものんびりと昼食をつつく平穏な時間を味わっておこっかな、なんて事を考えて楓はお箸を握り直す。

 

 ────が。

 

「…………ん?」

 

 たまたま視線を前に戻して、見た。

 遥か遠方。赤色の何かが輝いて、一直線に天空に登っていく。高く、高く、高空を突き抜けて超高高度まで。

 発射された場所は仙天島から。雲一つないような青空を引き裂くその赤光は、言いようもないほど不気味に感じられて──、

 

「…………おい。おいおい、嘘やろ⁉︎」

 

 緊迫した表情でキャスターが動いた。素早く袖から三つの紙片を引き抜き、目を閉じて魔力を通しながらそれを放り投げる。そこまできてようやく、楓はあの赤光の正体を悟った。

 

「ちょっ、キャス────」

 

「あかん、伏せろ‼︎」

 

 思いがけない大声の警告に、楓はびくっとしてキャスターの足元に隠れた。とりあえずはためく袴の端をひっ掴んで、一直線に降り注いでくる赤光を捉える。

 

「式神跋祇、紙片防破──三重‼︎」

 

 間一髪でキャスターの防御は間に合った。

 凄まじい数の──「矢」と思わしき何か。降り注いでくる過程で瞬く間に百近くに分裂したソレは、凄まじい轟音を撒き散らしながらキャスターの防壁に衝突する。

 

「っ……⁉︎ ちょっと、何⁉︎ 今度はナニ⁉︎ 敵、アーチャー⁉︎」

 

「ああ‼︎ ちっと待っとけ、抑え込んだる‼︎」

 

 つんざくような爆音は途切れる事がない。

 それ程に降り注ぐ矢の数が多いのだ。さらに機関銃の如く降り注ぐ一撃一撃が、みな地盤を穿つ威力を誇る。

 キャスターが居なければ、恐らく数秒で学校は廃墟と化していただろう。瓦礫に押し潰された数百人の犠牲を残して。それを知ってなお、この攻撃には一寸の躊躇も含まれていない。

 

「ちょっと、ば、バカじゃないの⁉︎ 相手、ここがどこか分かってんのよね⁉︎」

 

「随分乱暴な相手さんなんやろ──なァッ‼︎」

 

 キャスターは勢いよく扇子を振り払って、「跋祇」の詠唱と共に暴風を巻き起こした。

 降り注いでくる残弾は全て残らず打ち払われ、学校の裏手の森に落下していく。

 

「……降りるで、楓ちゃん。今のは多分威嚇みたいなモンやろうけど、こう姿を晒してたんじゃ追撃される。もし本気で向こうが撃ってきたら、被害無しで抑えられるか怪しい」

 

「たく、何十キロ離れてると思ってんのよ……‼︎ キャスター、あとは警戒任せた‼︎」

 

 サーヴァントのデタラメな視力に改めて驚きつつ、楓は傍に落下した物体を咄嗟に拾い上げる。その観察は後回しにして、今はその破片らしき何かを握り締めて、楓は階段に続く扉へ転がり込んだ。




【鮭のボイル焼き】
衛宮さんちの今日のご飯で学んで作りましたが、ほんとに美味しかったです。初心者にも簡単に作れるし美味しいしオススメです。

【仙天島】
失われたはずの大聖杯(?)が敷設された場所。第六次聖杯戦争を始めた金髪の女魔術師に、そのサーヴァントであるライダーが拠点としている。
構築された結界は神殿クラスの強度を誇り、島に続く道は橋一本のみ。内部には運動系のレジャー施設や浄水場などがあるものの、夜七時になると唯一の橋が閉鎖されるため、島内に一般人が夜間立ち入ることはない。


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三十六話 空っぽの自分/Other side

「ぐー……ぐー……」

 

 広めの和室に微かないびきが聞こえている。その主は繭村倫太郎だ。

 昨日、衛宮士郎という来客から聖杯戦争の基幹システムが歪んでいることを知らされた彼は、すぐにアサシンと話し合った。

 聖杯は獲得したとしても次第速やかに破壊、以後の再出現を防ぐために徹底的に"破壊"、即ちアサシンの直死の魔眼によって完全に殺害する。そうした方針を立ててから土地主として各位に連絡を回した頃には夜も更けていたので、倫太郎は久々にまともな睡眠をとることにしたのだ。

 そして時計の針は進み、現在の時間はお昼すぎの二時三十分。

 布団の中で未だに惰眠を貪っているぐうたらマスターを咎めるべく、とある人影が行動を開始していた。

 足音を立てずに板張りの廊下を駆け抜け、障子をすらりと引き開ける。こんもり大きくなった布団の奥からは微かに寝息が聞こえてきて、彼女は不満げに頰を膨らませた。

 全く起きる気のないマスターをいい加減起きさせるため、持ってきたシロのドックフード入れに倫太郎の木刀を構える。それから、すう、と軽く息を吸い込んで──、

 

「わー、敵だー」

 

 どこかぼんやりした声を上げながら(アサシンにとっては大声のつもりだった)、アサシンこと魔眼のハサンは手にした二つをガンガンガンガン──‼︎ と激しく打ち鳴らした。

 つんざくようなその爆音に、おわああああああああああああ⁉︎⁉︎ などと叫びながら跳ね起きた倫太郎は悲鳴を上げる。

 彼は気が動転した様子で布団から飛び出した後、畳の上を何度も転がり、壁に一度激突し、その衝撃でクラクラしたまま最終的に騒音を撒き散らすアサシンへと顔から突っ込んだ。

 突然の事で何が何だか分からない様子の倫太郎は、アサシンの柔らかなお腹に顔を埋めたまま──、

 

「……おはよう」

 

「うん、おはよー……目は覚めた?」

 

「覚めたけど、ここまでしなくても僕は起きる」

 

「嘘つき。マスター……何回も、起こしたけど……結局起きてこなかった」

 

 記憶にございません、と倫太郎が突っぱねると、アサシンは不機嫌そうに眉を釣り上げた。

 寝ぼけた頭はとうに覚醒している。

 畳の上でぐだぐだしているのも何なので、大人しく倫太郎は起きることにした。寝ぼけたままキッチンに向かうと、アサシンも後ろをついてくる。

 

「アサシン、君も何か食べたいのか? 食べたいなら作るけど」

 

「マスター、料理できるの?」

 

「うん。僕にかかればカップラーメンにカップ焼きそば、カップ担々麺とか色々作れる」

 

「……それは……料理とは、言わない……」

 

 キッチン奥の棚にしまわれたカップ麺を適当に二つ選んでから、さっさと水を沸騰させる。ぼこぼこと泡立つ熱湯になったら手際よく湯を注ぎ、そこらの新聞紙で蓋をして3分待機。その間に二人で使うには広めの食事場に移動する。

 なんだかんだ初のカップ麺に期待しているらしいアサシンとその何とも言い難い3分を過ごして、倫太郎とアサシンは少し遅めの昼食に手をつけた。

 

「「ずずずず……ずずずず……」」

 

 遅めの昼食。聖杯戦争が始まって以来、このだだっ広い家に残っているのは現当主でありマスター権を持つ倫太郎だけだ。

 倫太郎の家が田んぼばかりの西部に近い地域にあることも相まって、平時は心地いい静寂がこの家を包み込む。聞こえてくるのは鳥の鳴き声、微かな風の音、あとはカップ麺をすする音くらいのもの。

 普段は家政婦さんが繭村の当主に相応しい身体作りを配慮した食事を作るせいで、倫太郎には好きな料理を選ぶ自由すらない。こうして密かな好物のカップ麺を好きに食べられる聖杯戦争という期間は貴重だった。

 

(僕がサーヴァントを召喚した頃は、まさかこうして二人でカップ麺を食うような状況になるとは思ってなかったな……)

 

 召喚した当初、いきなりナイフを突きつけられて殺されそうになったことを思い出す。

 そんなゴタゴタも、過ぎてしまえば意外と何とかなるものだ。アサシンの猪突猛進な戦闘方針も吞み込めるようになってきたし、この非常識な日々に適応し始めているのかもしれない。

 

「これ……あんまり好きじゃない、かも」

 

「そうかな。僕はこの、インスタント食品特有の変な美味しさが大好きなんだけど……はぁ、僕にはまともな料理なんて作れそうにないから諦めてくれ。志原とかなら料理上手いんだけどね……」

 

「しはら?」

 

 アサシンは倫太郎の言葉にぴくりと反応し、一度カップ麺を食べていた手を止めて、包帯の巻かれた瞳を彼に向けた。

 思わず口を滑らせてしまった倫太郎は何でもないよ、とだけ言い残して無かったことにしようと試みたが、どうもアサシンの粘っこい目線は離れてくれない。三十秒ほど我慢比べは続いたものの、結局倫太郎は先に根をあげてアサシンに向き直った。

 

「……志原楓ってのは、キャスターのマスターのコトだよ。ほら、いただろ、茶髪でツインテールでやたらツンツンした感じの奴」

 

「いたね。うん……そうだった」

 

「君、サーヴァントを倒したいからってマスターの事を完全に忘れてただろ。まぁ、そういう性格とかも含めて行動指針を立てるのがマスターの役目なんだろうけど……まあいいや。もうこれで志原の話はおしまい」

 

「ダメ。もっと……話して?」

 

「なんでさ。君があいつについて知っておくべことなんてあんまりないじゃないか。どうせ君が戦うのは向こうのサーヴァント、あの和服姿のキャスターなんだから」

 

「いいから。もっと教えて」

 

 有無を言わせぬアサシンの剣幕に、倫太郎はたまらず言葉を続ける。

 

「……じゃあ知ってる限りで話すけど。志原楓は僕と同い年、同じ高校に通ってる。けど目立った交流は今のところない。魔術系統は身体強化系統のみに特化した「徒手魔術」。キャスターを使役してるみたいだけどあいつの魔術回路は正直へっぽこだから、魔力量に余裕はないと思う。そんな状態で神霊クラスを使役するんだから大したものだよ。多分何らかの手段で魔力を汲み上げてるか、キャスター本人が燃費のいいサーヴァントなのか。僕としては後者だと思うけど」

 

 一息でぺらぺらと話してから、少し冷め始めているカップ麺の残りを勢いよくかっ喰らう。

 それに倣ってアサシンも残りの麺を完食し、再び倫太郎に向き直る。どうも簡単には解放されそうにないな、と頭を掻きつつ、倫太郎はまたもや志原楓について話し始めた。

 

「──それと。あいつは、誰よりも僕を憎んでる」

 

「?」

 

 突然倫太郎の口から飛び出した言葉に、アサシンは少し怪訝な顔をする。

 それも当然だろう。倫太郎という少年は決して悪たる者ではない。アサシンは悪たる者の屍を積み重ねてきた暗殺者であるがゆえに、人の本質を敏感に捉える。

 そんな彼女が認めたマスターが、特定の人物に憎まれるような行いをするとは思えなかった。

 

「簡単なことだよ。あいつは僕を信頼してくれていたのに……僕はそれを、全部裏切った(・・・・)んだから」

 

 倫太郎自身、その言葉を吐くのには、心を少しづつ少しづつ(えぐ)っていくような苦しみを感じていた。

 

「なんで?」

 

「理由はどうでもいいだろう。僕が犯した過去は変わらないし、決して変えられないんだから。忘れちゃいけないのは"僕が志原を裏切った"っていう揺るがない過去だけだ。……くそ、どうしてそうなっちゃったのかな」

 

 だから志原楓は、強烈な敵意を倫太郎に抱いている。

 二日前の朝。志原楓はわざわざ倫太郎の家を襲撃した上で、「次会った時は殺すから」と告げて去っていった。次はない、という忠告にも聞こえるが、裏を返せば次会ったら私は殺意を抑えられない、という言葉ともとれる。

 だから倫太郎は聖杯戦争が始まって以来、今まで彼女と出会うのを避けてきた。

 マスターとサーヴァントが二組出会えば、戦いは避けられない。楓の方は倫太郎を容赦なく殺しにかかるだろうが、倫太郎はそもそも「魔術師なのに魔術を恐れる三流魔術師」だ。

 さらに相手が顔見知りとくれば、倫太郎は自分のことながら、志原と戦ってもまず勝てないだろうなと予想していた。いくらイメージしようと、志原を斬れる気がしなかったからだ。

 そういう相手にわざわざケンカを売る必要もないだろう、ということを密かに心に決めていたのだが──、

 

「よし。じゃあ……キャスターと、戦おっか」

 

「はい?」

 

 倫太郎の口から素っ頓狂な声が漏れた。

 首をぎぎぎ、と傾けつつ、「何を言ってるんだ君は?」という意思表示。だがそんな倫太郎は無視して、アサシンは相変わらずぼーっとしたままだ。

 

「……あ、あのな、いいかアサシン。僕は最初も言った通り、臆病でビビりでチキンな奴なんだ。他のマスターを倒すってんなら現当主として努力もするさ、けど顔見知りの奴を手にかけられるほど僕は肝が据わってない。いいか、君がキャスターをどうこうできたとしても、僕は間違いなく志原に殺されるぞ」

 

「殺されたら……うん、しょうがないね」

 

「しょうがなくないだろ‼︎⁉︎ なんでわざわざ死にに行くような事をしなくちゃならないんだよ、僕は絶対行かないからな‼︎」

 

 こちらの敗北が決まりきっている戦いに自ら身を投げたところで、一体何が得られるというのか。

 倫太郎は断固拒否の意思を全身で表現しつつ距離を取ろうとしたが、アサシンはお箸をカップ麺の上に置くと立ち上がった。

 

「──マスター。聞いて」

 

「後ろから関節固められてるような状況じゃそんな事言われなくても聞くよ、ちくしょう」

 

 アサシンの早業は倫太郎にはとても捉えられなかった。気がついたら腕がグルンと後ろに回り関節をキメられ、あいだだだだだだ‼︎ と悲鳴を上げていたのだ。

 

「……君には、願いがない」

 

 倫太郎は虚を突かれたように言葉を飲み込んだ。

 それは昨日、倫太郎が繭村の家に伝わる遺産である十八本の霊刀を、どうしても使う気になれない……と愚痴ったときのこと。

 アサシンはふと思いついたように、「君は、何がしたいのか」と言ったのだ。

 自分がしたいこと──すなわち願いなんて、召喚の夜、アサシンの前で宣言したときから決まっていると思っていた。繭村の魔術師たるにふさわしい勇気を得ることだと、倫太郎はそう考えていたのだ。

 だから彼はそう答えたが──アサシンは倫太郎という人間を知ったことで、その答えを否定した。

 だってそれは"倫太郎"の願いではない。

 "繭村の魔術師"という役割を担う上で発生した願いであり、あくまで倫太郎本人が心の底から願ったものではない。それは願いの対象というより義務、役目に近いものだ。

 ──では倫太郎の願いとは何か。

 そう考えると、倫太郎は「わからない」という単純な答えに突き当たる。

 昔は純粋な願いを抱いていた筈なのだ。

 けれど歳を重ね、繭村の後継者として完成していくにつれて、彼の思考は役割と責務の二重苦にがんじがらめにされていった。

 

「……無駄だよ、アサシン。そんな僕じゃもう、繭村の魔術師として足りないものなら分かっても、僕自身の願いなんて見つけられそうにない。僕の価値は繭村一族の為だけにあって、僕自身なんて余分(・・)は無い方がいいと教え込まれてきたんだし」

 

 倫太郎が吐き捨てるように言うと、アサシンは首を振って否定する。

 

「違うよ、マスター。君自身は……立派で、確かにひとりの人間なんだから。それに、きみは過去を……その、志原とかいう魔術師との間に築かれた過去を……悔やんでる。よね?」

 

 それは正しい。

 志原楓が倫太郎に敵意を燃やすように、繭村倫太郎も楓に対して深い後悔と罪悪感を抱いている。

 

「悔いというのは……もともと、自分の欲求、つまりは願い(・・)が……叶わずに終わったとき、発生するもの。つまり君は、今に至るまで持ち続けるほどの後悔を生むくらいの……大きな願いを、かつては持っていたってことでしょう?」

 

「………………」

 

 倫太郎は無言のままで考えた。

 かつての裏切りを、志原楓との間に決定的な溝を作り出した過去を、倫太郎は確かに悔いている。

 もっとやり方があったのではないか、自分はそもそも間違っていたのではないか。そんな答えの出ない疑問は、その過去から二年に渡ってずっと倫太郎を苛んでいる。

 後継者という役割に徹し過ぎた挙句空っぽになった倫太郎の中に残っているのは、その後悔だけだ。

 

「私……言ったよね。君には「何か」が足りないって」

 

「言ったね。それは君自身が見つけて、とも言った」

 

「うん……けど、君はもう理解したはずだよ。……もう。随分君がのんびりしてるから……私も、口出ししちゃったけどさ」

 

 君にのんびりしてるなんて言われたく無いな、と倫太郎は皮肉を返す。

 ともあれハッキリした。倫太郎に足りないものは、力でも金でも、彼自身が己に不足していると思っていた勇気でもない。

 ──ヒトは強い。

 運動能力にも身体の頑強さにも恵まれていない、知恵くらいしか能の無い生き物だ。しかしそれらがこの地球上に蔓延るようになつた理由は、結局はたった一つに帰結する。

 それこそが欲求であり、願いだ。

 生きたいという欲求はいつしか利便性や娯楽、さまざまに枝分かれした欲求となり、更なる欲求へと加速していく。人類の発展の一歩先には、常に「己は〇〇をしたい」という欲求が走っているのだ。

 だからこそ願いの力は計り知れない。

 けれど倫太郎には願いではなく、責務という名の二文字しか残っていないというのなら──、

 

「僕に足りないのは……自分自身の、願いか」

 

 後悔しか残っていないのなら、そこから紡ぎ出せばいい。新しい目標を──繭村の魔術師としてではなく、己の身を掛けた目標点を。

 その言葉に満足したように、アサシンは腕を固定していた手を離す。やっと解放された倫太郎は恨みがましい目線をアサシンに向けたが、彼女はどこ吹く風である。

 

「うん、その通り。けど……こうして何もしないでいたんじゃ、見つけられるわけもない。だから、君から行動を起こすの。君の唯一の後悔に関係する、その子と話せば……昔に取りこぼした願いについて、何か、掴めるかもしれないでしょう?」

 

「その為に命を危険に晒せって? 君まで消滅するかもしれないんだぞ」

 

「構わないよ。どうせ、聖杯はロクでも無いもの……みたいだし。それにね」

 

 アサシンはずいっと顔を近づけて、倫太郎の瞳を覗き込んだ。思わず逃げようとした倫太郎だったが、やはり頰をぴったり両手で抑えられているので逃げ場がない。

 

「私はもう、新しい願いを見つけたよ?」

 

「え?」

 

「君が……自分自身の願いを、見つけられるように……頑張る。それ、いいと……思わない?」

 

 アサシンは上機嫌のようで、いつもぼーっとしている癖にに少しだけ笑っていた。

 そう笑顔で言われると怒る気も失せて、倫太郎は深い溜息を漏らす。願いを見つける為だけに死にに行くとはどう考えても馬鹿げてると思うが、アサシンは方針を変えないだろう。それはよく倫太郎も理解するところだ。

 

「……はぁ、参ったな」

 

 時刻は夕刻に差しかかろうとしている。

 志原楓の居場所は一応把握している。夜は何をしているのやらさっぱりだが、昼間はどうやら律儀に学校に通っているらしい。

 であれば──居場所が掴めている今のうちに、こちらから仕掛けるべきだろう。下手に探し回って、またあの人形の群れに襲われたらたまらない。

 

「どう転ぶかは分からないけど、やってみる。──もし死んだら君のせいだぞ、君を呪いながら死んでやるからな。人が抱く死に際の負のエネルギーってのは恐ろしいんだ。それに志原が聖杯を使う気ならやめておいた方がいいって事も伝えないといけないし」

 

「じゃ、死なないように頑張って」

 

「他人事みたいに……」

 

 倫太郎は素早く制服に着替えると、木刀を入れた竹刀袋をひっさげて家を出た。

 アサシンは霊体化し、主の出陣に従うのみ。

 ──決戦地は学校、鷹穂高高校。

 自分の望みを得られるかどうかどころか、そもそも生きて帰って来られるか怪しいところではあるが、倫太郎は覚悟を決める。

 

「……やってやるさ」

 

 聖杯に託す願いを持つはずの参加者(かれ)は今、ようやく自分の願いを持つために動き出した。

 自分だけ他の参加者より周回遅れを食らったような感覚を感じつつも──だが少しだけ嬉しそうに、倫太郎は自転車に跨った。




【繭村倫太郎】
当主に相応しい魔術師を目指す過程で「自己」というものを極限まで押し殺したため、全ての行動を繭村の当主として相応しいものか、必要なものかどうかという観点から捉える悪癖がある。
かつては自分自身の願望や意思を少ないながら持っていたが、二年前に志原楓と決別したことで、彼はとうとう自己というものを完全に手放した。無色透明になった彼自身に残ったのは後悔だけ。
アサシンの言葉によって、倫太郎は自分自身をもう一度見つめ直し、「当主として」ではなく彼自身が望む願いを取り戻そうとしている。


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三十七話 夢幻の戦争/Other side

 楓が目を覚ますと、見慣れぬ景色が広がっていた。

 どこまでも食い潰すような闇が広がり、目線を上げれば不気味に赤く輝く月が浮かんでいる。

 生暖かい風が頬を撫で、思わず楓は鳥肌を立てながら一歩下がった。

 硬い音が響き、剥がれた瓦の破片が転がって下へと落ちていく。そこでようやく、楓は自分が地面からかなり高い場所に立っていることに気がついた。

 

「…………なに、ここ?」

 

 後ろを振り向くと、見える限りまで家々が立ち並んでいるのが見えた。とはいえ現代のものではない。煌々と燃える篝火の炎に照らされたその町並みは、一千年以上前の日本の風景とほぼ変わりないものだった。

 そしてもう一度足元を覗き込んで、自分が立っている場所が「巨大な門の上」である事を把握する。

 どうして自分はこんな場所に立っているのか、それを考え始めようとした楓だったが──、

 

「ふぅん、ぎょうさんおいでなすって」

 

「うひぁ⁉︎」

 

 聞き慣れた声にびっくりして飛び上がると、楓は変な声を上げて声の方を見た。

 そこにはキャスター……安倍晴明が変わらぬ姿で隣に立ち、闇の深い前方を険しい目線で眺めている。

 

「な、なに言ってんのアンタ? まずここどこ? ……ちょっと、なんで無視すんのよぉ‼︎」

 

 長い髪の毛を引っ張ろうとして手を伸ばしたが、楓の手は彼の姿をするりとすり抜けた。

 思わずぎょっとする楓をよそに、キャスターは彼女ではない誰かに語りかける。

 

「あの数──僕らだけで止められると思う? 綱クン」

 

「さあな。俺は俺の役割を果たすのみだ」

 

 新たな気配。その声は楓のすぐ後ろから発せられたが、その声を聞くまで、楓には「後ろに誰かが現れた」という事すら知覚できなかった。

 

(……これは……何? まさかキャスターの記憶?)

 

 キャスターに並び立ち、異様に妖しく輝く日本刀を抜き放つ男。その全身からは楓でも分かるほどの闘志が発散されており、彼女は一目で彼が絶対的な強者であると理解した。

 そしてその言葉を皮切りに、いくつかの影が門の上に飛び乗ってくる。

 

「晴明? 京の守護神たる私たちに弱気は許されませんよ。今度は、私がサボりなど断じて許しませんからね」

 

「わかっとる、わかっとるから怖い顔せんどいてくれ頼光サン。しゃーない、今度は僕もしっかり働こうやないか」

 

「その意気だぜ晴明の兄貴。……とまあ、俺っちもそこまでやる気が起こるわけじゃあねえんだが、京のガキどもが泣くってんじゃあしょうがねえわな」

 

 激しい音を立てて、二人の持つ日本刀と巨大な斧が雷光を纏う。更に新たな武者風の二人が門の上に飛び乗り、計五人は堂々たる様子で門の真正面を睨みつけた。

 楓はまず斧を担いだ金髪男の隆々たる筋肉をツンツンして(触れないが)、それから物凄く綺麗な女性の、これまたスゴイ胸を見て悲しくなってから、肩を落としてキャスターの隣に腰かけた。

 

(頼光……綱……って事は、彼らは本物の頼光四天王……‼︎ まさかこんな姿だったなんて感動……って、そもそも頼光って女性だっけ?)

 

 引っかかる疑問に首を傾げながら、楓は何故これほどの猛者たちが一箇所に集まっているのかを考える。

 ──が、その答えはすぐに理解できた。

 背筋に氷柱を差し込まれたような悪寒が全身を襲い、楓は反射的に立ち上がって真正面を見た。

 闇の中に炎が浮かび上がる。

 最初は篝火が松明によるものかと思ったが、違う。そもそも炎があんなに禍々しく、荒れ狂うように燃え盛るわけがない。それはみるみるうちに膨れ上がると、巨大な鬼の貌となって牙を剥いた。

 

「──ク、ク、クハハハハハハ‼︎ 見えるか酒呑⁉︎ 奴らめ、雁首並べて愚かにも待っておるぞ‼︎」

 

「あらぁ、ほんまやわぁ。しかも牛女までおるやないの。今日はまた一段と、熱い夜になりそうやなぁ」

 

「酒呑は自由に動き、戦い、喰らうがいい。吾は……」

 

 煌びやかな金色の髪を振りかざし、その少女の形をした何かは明確に門の上に立つ一人の男を睨みつけた。

 

「──あの男を殺す。殺して千切って喰らう」

 

「随分はりきって、まぁ。あンの男の前やと、茨木も少しは鬼らしくなるんやなぁ」

 

 ──なんだ、アレは。

 楓は声にならない悲鳴を上げて、その二つの存在を凝視する。

 人のカタチ、少女の姿をしているが、あれは断じて人間などではない。一目こちらを見られただけだというのに、ここが幻の世界だという事を知っていてなお、楓はその重圧に一歩たりとも動けなくなった。

 

「茨木童子に酒呑童子。懲りずにまた来たという訳か──」

 

 綱と呼ばれた男はヒュン、と日本刀を軽く振り払うと、ますます目線を険しくして歩いてくる鬼達を睨みつけた。

 相手は茨木童子に、酒呑童子──かつて大江山に君臨したという鬼種たちの頂点、伝説に名を残す大妖怪‼︎

 そして彼らの後ろには、みるのもおぞましいような赤鬼、青鬼、緑鬼……鬼種の大群が好き勝手に武器を振り上げ、咆哮を上げている。

 

「蟲どもがまた大勢湧いて出ましたね。皆、奴らは今日こそここで仕留めますよ」

 

「っても奴ら、生き汚いトコあるからなぁ……モチロンそのつもりでやらせて貰うけどよ。まずはどうする、綱の兄貴?」

 

「晴明が遠距離から仕掛けたのち、俺たちが一斉に飛びかかる。茨木童子は俺を狙うだろうから、こちらは抑え込もう。頼光さんは酒呑童子の相手を願う。貞光、季武(すえたけ)、金時はあの大軍を押しとどめて欲しい。その間晴明はここから援護だ」

 

「えぇ〜? 僕が最初の攻撃役? 嫌やなァ、あいつら阿呆やから絶対最初に仕掛けた僕を狙ってくるやん」

 

「混戦になれば奴らもそんな事に構ってられんだろう。今日の奴らは一際多い。厳しい戦いになるだろうが、俺たちの背後(うしろ)には護るべき民たちがいる事を忘れるな。それにお前が一番楽な役回りなのだから、少しは自重しろ」

 

「はあっ。綱クンの頼みとあらば仕方ないかね、全くもう……」

 

 こんな時にまでぶつくさ文句を言いながら、晴明は軽く目を閉じた。

 場を包む──静寂。

 開戦前の気配を敏感に感じ取ったか、沸き立っていた鬼達も自然と口を閉じた。

 数瞬後、放たれるであろう一撃が開戦の合図となる。それまでに膨れ上がる緊張感、殺気、闘志……ありとあらゆるものたちの嵐を引き裂いて、晴明の一声は響き渡った。

 

「式神跋祇──雷轟、三十連華‼︎」

 

 空が割れる。

 閃光が瞬いた瞬間、鬼たちの頭上から凄まじい雷撃の雨が降り注いだ。それは空気を灼き、地面を砕き、凄まじい暴威を巻き起こすが──ヒトを越えた鬼種を仕留めるには、それでも火力が足りていないらしい。

 雷撃に撃ち抜かれた鬼は体から黒煙を上げながら、なお、怒りに絶叫して突撃した。

 

「あら、陰陽師もおるん。こりゃ面倒やな──っと」

 

 だが酒呑童子は雷が降り注ぐ中、茨木童子と共に駆け出していた。

 その手にした水瓶を振りかざすと、その中に入るはずのない莫大な量の液体が楓たちが立つ門へと襲いかかった。まるで十メートルを超える津波のように、それは瞬く間に楓もろとも全てを飲み込んでいく。

 

「ぎゃ……⁉︎ わぷ、ちょっと、え、私これで死ん──」

 

 息ができない。胃まで酒が蹂躙して意識が遠ざかっていく。

 その夢における最期の瞬間、楓は鼻腔で強い酒の香りを嗅ぎ取っていた。

 

 

 

 

「──死んじゃあああああああああああああ⁉︎」

 

 意識が途切れた瞬間、楓は絶叫して飛び起きていた。

 目を瞬かせて周囲を確認する。

 夕焼けに染まりきった空、親しみ慣れた机、脇に掛けられた学生鞄。黒板にロッカーにクラスのスローガンを書いたポスターやら、見慣れた景色が広がっている。

 生徒はもう既に全員帰ってしまったらしく、教室には楓一人が残されていた。

 

(あれ。そういや、六時間目の途中で……)

 

 連日の疲れから眠りこけた楓は、そのまま放課後遅くまで爆睡していたらしい。

 誰も起こしてくれなかったことに少し悲しくなりつつ、楓は気を取り直して頬を叩いた。

 

「随分な目覚めやなあ、楓ちゃん」

 

「全部アンタのせいよ……」

 

 楽しげに声をかけてきたキャスターは、先程まで見ていた和装ではなく、現代に合わせた洋服を纏っている。少ないお小遣いをはたいて買った安物のカーディガンにジーパンだが、彼の美貌があればどんな服でもファッション誌並みのイケメンになるので関係ない。

 軽い頭痛にこめかみを抑えながら、楓は頭を振って立ち上がる。

 今のはおそらくキャスターの過去だ。何故かは知らないが、契約して魔術的にラインを繋げたことが関係しているらしい。夢の中で殺されたまま戻ってこれなくなる、なんて事にならずに済んでなによりだが、最悪の寝起きである事に変わりはない。

 まだ微かに残っているような気がする酒の香りを嫌うように、楓は椅子を引いて鞄を勢いよく掴んだ。

 

「キャスター。とりあえず今日の夜の事だけど、私は仙天島に作られた「神殿」を早急に調査すべきだと思うわ」

 

「ほう?」

 

 下校時間がぐんと早められたことで人のいなくなった廊下はオレンジ色に染め上げられ、独特の趣を醸し出している。

 あたりに満ちるのは静寂のみ。あれ程溢れていたはずの人の気配は、未だ夕暮れ時だというのに全く感じ取れない。

 

「……あの島は何かひっかかるの。キャスター、アンタは前の喫茶店でアーチャーのマスターを補足したって言ってたわよね」

 

 たまたま立ち寄った喫茶店で働いていた外国人が、なんとアーチャーのマスターであった事は記憶に新しい。

 昼まであり、民間人も近くにいた事から、交戦は膠着状態のまま見送られた。楓は一人だけその緊迫感にも気づかなかったので、正直思い返すのは恥ずかしいのだが。

 

「けど、今日の昼間の攻撃は間違いなく弓兵(アーチャー)によるものだった。ここから仙天島まで数十キロはあるのに、攻撃を届かせるなんて弓兵でもなきゃ無理よ」

 

 学校ごと楓たちを諸共に吹き飛ばそうとしたあの熾烈な攻撃は、キャスターが迅速に隠蔽に励んだお陰で大ごとにならずに済んだ。今日の部活動は中止、生徒は速やかに帰宅するようにという放送が流れたが、それも最近の殺人事件や行方不明者といった不穏な事件を考慮してのものだ。

 とはいえ昼間から、市民への被害を度外視して放たれた攻撃という時点で、相手が反英雄に分類されるサーヴァントであるか、敵マスターがそういう人間であるという可能性は高い。

 楓はポケットに手を突っ込むと、先の攻撃の際に拾い上げた破片を取り出した。鈍く光る、長細く円筒状の金属片だ。赤黒く、どこか捻れたような形状のそれは、まだ微かに魔力を帯びて残留している。

 

「──で、咄嗟にこれを拾ってきたんだけど。アーチャーが放った矢の残骸。島を視るのは無理でも、これならいけるんじゃない?」

 

「成る程。確かに断片的ではあるけど、僕の目は物体に染み付いた記憶であってもある程度まだは見通せる」

 

 キャスターが「楓ちゃん、お手柄やで」と褒めると、楓は不機嫌そうに顔を逸らしながら口元をニヤニヤさせるという、実に面倒くさい表情を浮かべた。

 そんな楓から破片を預かると、キャスターはそれを顔の前まで近づけ、虫眼鏡を持った探偵の如くまじまじと見つめる。

 

「ふむ……魔力、矢──違う? 黒……」

 

「どう? 何か分かった?」

 

「いや。あかんな」

 

 しばらく睨めっこしたあと、キャスターは溜息をついて矢の破片を楓に渡した。

 

「どうもこの矢は、酷く黒々とした魔力で編まれたモンらしい。その魔力で汚染されてるせいで、まともな記憶が黒く塗り潰されとる」

 

「……どういうこと?」

 

「さぁてね。僕もこんな次元まで淀んだ魔力は初めてや」

 

 とにかく、見通せないという事は確からしい。

 そんな淀んだ魔力で編まれた破片を持っていても災いを招くだけな気がしたが、一応捨てるのもなんなので鞄にしまってしまう楓。どうせ魔力の残滓みたいなものなので、あと数時間もあれば消滅しているだろう。

 

「……ちょっと話が逸れたけど、私が言いたい事、分かる?」

 

「ああ。アーチャーのマスターは喫茶店で店員に化けとる筈で、アーチャーはその喫茶店からあまり遠くには行けん筈や。まして神殿が構築された仙天島の中から弓兵による攻撃が飛んでくるのはオカシイ、っちゅう話やろ?」

 

 ここで、今日の昼間にキャスターが懸念していたことを思い出してみる。

 「神殿クラスの結界を構築するには、陣地作成の能力を持つキャスターが必要不可欠。つまり、キャスターがもう一騎紛れている可能性がある」……しかし、あそこから攻撃してきたのは、ほぼ間違いなく弓兵だった。

 一見矛盾しているようにも思えるが、ひとつの答えを当てはめれば簡単に謎は解ける。もっとも、その答えはできれば考えたくないものではあるが──。

 

「その通りよ。あの「神殿」を構築したのが二騎目の(・・・・)キャスターだとすると、更に二騎目のアーチャーがそれに協力してる……のかもしれない」

 

「こりゃあ、二騎目のクラスってのもあながち冗談じゃすまんくなってきたなぁ。とすると、何や、この聖杯戦争には十四騎のサーヴァントが召喚されとるっちゅうんか? 聖杯大戦でもあるまいに」

 

「それもあり得ないわけじゃない。そもそもここは冬木じゃない以上、オリジナルから外れた法則が当てはめられても不思議じゃないし。お兄ちゃんの命が危ない以上、私たちはセイバーの味方につくと決めたけど……だからって安心してるとマズイかもしれない」

 

 ごくり、と唾を飲み込んで、得体の知れない悪寒に背筋を震わせる楓。

 その謎のサーヴァントたちが、この街に充満する異様な気配や、頻発する行方不明者や殺人事件と関連しているのかもしれない。

 思わず歩くのを忘れていた自分に気づいて、楓は再びキャスターを連れてオレンジ色の廊下を歩き始めた。こつん、と反響する音に返答するものは何もなく、外から聞こえてくるはずの喧騒もない。

 

 そう──。

 例えばこの瞬間に戦闘を開始したとしても、邪魔するものは何もない。

 

「⁉︎」

 

 ふわふわと浮いているキャスターは除いて、己のものしか聞こえないはずの足音。

 それが重なって聞こえた瞬間、楓はスカートの奥に隠し持ったクナイを素早く引き抜いた。その戦闘態勢に応えるように、廊下の奥から一人の少年が姿を見せる。

 

「……へえ、そう。今度はそっちから来たってわけ」

 

 ──繭村倫太郎。

 傍に暗殺者を伴った彼は、楓の前に立ち塞がるように立っていた。

 楓の目に強烈な敵意と憎しみが滲み出る。まるで別人のような表情を浮かべて睨んでくる少女を前にして、倫太郎は眉を潜めて返答した。

 

「僕の方はまったく気が乗らないんだけどね……アサシン、向こうのサーヴァントは任せる。僕の方はなんとか時間を稼いでおくから」

 

 心底嫌そうな顔で、倫太郎は竹刀袋から木刀を引き抜いた。

 すらり、と振るわれるそれは、只の木刀であるはずなのに真剣じみた威圧感を放っている。単純な話、持ち手(りんたろう)の強さが武器を強く見せているのだ。

 だが強さや剣気じみたものは嫌という程発散しているくせに、肝心な敵意や殺意が倫太郎には全くない。それがますます楓を苛つかせ、彼女は軽く唇を噛んだ。

 

「──君が繭村倫太郎か。いや、こんなに近くで(・・・)見たんは初めてやなあ」

 

 眼を細めるキャスターの言葉に、倫太郎は返答しなかった。

 ただ木刀を構えて、彼は戦闘が始まる時を待っている。

 

「キャスター、アンタはアサシンをやりなさい。私はあいつの方を担当する」

 

「君たちの間に何があったかは理解したが、これは当人達の問題か。ま、ええやろう。今はサーヴァントとしての役割に徹するかね」

 

 睨み合う楓と倫太郎の姿から何を読み取ったのか、キャスターは意味ありげな事を呟いたあと──、

 

「アサシン。ここじゃあ戦えんやろ? 僕についてきぃ」

 

 不可視の霊体となって、宙に消えていった。

 言葉を掛けられたアサシンは倫太郎に向かって軽く頷くと、同様に霊体化して消えていく。恐らくは彼らが十二分に戦える場所へと向かい、そこで決着をつけるつもりなのだろう。

 ともあれ──この瞬間、二人の間に邪魔者はいなくなった。

 手首を鳴らしながら楓が一歩前に出る。倫太郎はあくまで構えを崩さないまま、向かってくる少女を見つめていた。

 

「倫太郎。言ったはずよね、次会ったら殺すって」

 

「ああ、言ったね」

 

「じゃあ、それを承知で私の前に現れたんなら……もう覚悟はできている、情けも容赦もいらないってことよね? 殺されても文句は言わせないわよ」

 

 その声はどこまでも平坦で、今にでも噴出しそうな悪意を押し殺して平静を保っているのが見て取れた。

 

「その通り。まあ、やすやす殺されるほど僕は甘くないさ」

 

 志原楓と繭村倫太郎。

 この二人はいつも、どこまでも対照的だった。

 

 ──片方は、相手に強烈な敵意を抱き。

 ──そしてもう片方は、相手に全く敵意を抱いていない。

 

 どうしてこうなってしまったのか。

 とある決別があった二年前からずっと、倫太郎はその事を考え続けている。

 どちらも互いを互いに大切に思っていて、譲れないものがあって、そして色々な感情が交錯した果てに──結局二人は元に戻るどころか、決定的な敵同士になってしまった。たまたま「マスター同士」という役割を与えられているからやりやすいだけで、彼らは二年前から既に敵対する立場にあったのだ。

 楓は強烈な敵意に突き動かされて、倫太郎は何が正しいのかも曖昧なまま、双方の魔術回路に火を入れた。

 

 黄昏の回廊の中心で、二人の魔術師は激突を開始する──。



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三十八話 回想:Two years ago/Other side

 ……私は、とある"憧れ"を糧に魔術師として生きてきた。

 だが同時に、私の魔術師としての道には一つの鬱屈した感情が絡み付いている。思い出したくもないが、その過去の傷が、「志原楓」という魔術師を突き動かす一つのエンジンになっているのは確かだ。

 

 ──私は、繭村倫太郎という魔術師を憎んでいる。

 

 それは蒸し暑い夏の日のこと。

 忘れもしない、私がまだ中学校にいた頃の話。養子として兄を後継者にする目論見は潰され、私の魔術の成長は遅々として進まず、一向に晴れそうにない苛立ちと苦しみの中にいた頃。

 最も、その葛藤は今でも私を苦しめているのだが──、

 

「………………」

 

 私は今なお使っている黄色のリボンを揺らしつつ、夕焼け色に染まった道を歩いていた。遠くでうるさく蝉が鳴いている、その些細な雑音すら私の精神をきりきりと苛んでくる。

 疲れからか耳鳴りと頭痛が酷い。鍛錬の後の手足は鉛をありったけ詰め込んだみたいに重く、まともに歩くのも億劫だった。

 

「明日も朝から地下室に篭って……今度は最初から、もう一度魔術理論の把握と……ちがう、そんなんじゃ……」

 

 呟きながらフラフラと夢遊病者のように歩く。その目は虚ろで生気に欠け、私が疲労困憊している事は見るからに分かっただろう。

 あの頃の私は何をすべきかも分からずに闇雲な訓練を繰り返していた。最も、そういった疲労や悲しみを隠して見栄を張る事だけは得意だったので、今まで家族に悟られた事はなかったが。

 と、長い影が道路に落ちているのが見えて視線を上げる。

 こちらに歩いてくる人影に、私の目線は吸い寄せられていた。

 

「アイツ…………」

 

 あの赤銅色の髪は見覚えがある。この地を統括している魔術師の嫡子にして、稀代の天才と呼ばれている少年だ。

 ……確か名前は、繭村倫太郎。

 彼の魔術回路の優秀さは時計塔でもちょっとした話題になる程らしい。元々繭村家は極東の大家として有名なのに、更にあんな優秀な後継者にまで恵まれたとは、天は二物をなんとやらという格言は嘘だったのだろうかと疑いたくなる。

 「しても虚しくなるだけだ」と分かっていながら、私は彼と自分を比較するのを止められなかった。

 片や優秀な後継者は得られず、不利益と悪評、侮蔑のみを受けて。

 片や優秀な後継者を獲得し、名声と地位を磐石のものとしている。

 

「……………………っ」

 

 苛立ちがますます募って、私はコンクリートの地面を睨み付けた。彼の姿を見ていると自分の惨めさが際立つような気がして、とても真正面から見てなどいられなかった。

 唇を噛んで目尻の涙を堪えながら、顔を伏せて彼と足早にすれ違おうとする。どうせ他の魔術師と顔を合わせたところで好意的な反応なんて望むべくもないのだから、トラブルになる前に逃げるが勝ちだ。

 だが運が悪かったのか。

 とうとう連日の無茶な鍛錬で限界を迎えていた身体は、私の意思を無視して、その全てをぶつんと停止させてしまった。

 

「…………………え、ぁ?」

 

 ぐらり、と視界が回る。まるで体を支える糸が寸断されたかのように、全身から力が抜けていった。

 どしゃ、と道路に倒れこんで、そのまま指先一本動かせない。

 喉から漏れるのは掠れた息だけ。筋肉は異様に痙攣して、全身からあり得ない量の汗が噴き出しているのがわかる。

 当たり前だ。こんな暑い日に、空調もロクにない地下室で一日中夢中で身体を動かしていれば、当然熱中症だって発症する。

 それにしても、倒れるというのは相当マズイ症状で、今すぐ救急車でも呼ばなきゃまずいんじゃ──なんて事を考えている意識も、次第に朦朧と消え失せていく。

 

「……? ──⁉︎ ──、──‼︎ ────‼︎」

 

 ぼやけ始めた視界の中、倒れたこちらに駆け寄ってくる人影が見えた。

 私の虚ろな目を覗き込んで何かを叫ぶ赤銅色の髪の少年。

 その光景は、まるでいつぞやの焼き直しのように、ひどく見覚えがあるような気がして──しかしその瞬間、私の意識は完全に落ちた。

 

 

 

 

「ぅ…………」

 

 底なし沼から無理やり這い上がるような、酷い目覚めだった。

 頭痛の残滓はまだ頭の中にこびりついている。体調は優れないと自覚できるくらいには酷いし、しばらくは身体を休める必要があるだろう。

 

「ここ……は……?」

 

 頭の両側に異物感を感じて、のろのろと手をあげる。

 首の両側に当てられる形で置いてあったのは、氷水を詰めたビニール袋だった。よく見ると脇には冷えたペットボトルが挟まれていて、さらに私はどこかの和室に寝かされているらしき事が理解できた。

 身体を包むこの柔らかい感触は布団のものだ。

 どこかで嗅いだことのあるような、優しい木の香り。開け放たれた障子から見える中庭には、酷く見覚えがあるような気がする。

 だるい身体に鞭打って、起き上がる。ここが何処かは知らないが、礼を言うにしても家主を探さなければ始まらない──。

 

「……あのさ。あんまり無理しないほうがいいと思うけど」

 

 と。

 完全に見ていなかった方向から、そんな声が私に掛けられた。

 反射的にぎゅんっ! と首を回してその声の主を見る。胡座をかいて畳の上に座り込んだ少年の髪は確かに赤銅色。そしてそんな髪色をした奴といえば、私に心当たりは一人しかいない──。

 

「あ、あ……アンタ、繭村倫太郎……‼︎‼︎」

 

 驚愕と混乱がごちゃごちゃになりながら、私は布団を跳ねのけて勢いよく立ち上がった。そんな私と正反対に、彼は胡座をかいたまま一つ溜息を漏らしただけだ。

 

「そうか、ここは……繭村の家‼︎ どうりで見覚えがあると思った」

 

 幼い頃。私は一人でこの場所に入り込み、酷い目にあったのだ。

 その事件をきっかけに私は自分の劣等感を強く意識するようになり、同時に幼心に大きなトラウマを植え付けられた。今まさにその場所に立っていると分かり、身体も精神も成長したはずなのに、小さな子供の頃に戻ったかのようにガクガクと手足が震えてくる。

 

「っ……なに、こんなところに連れてきて、また囲んで私を痛めつけようって言うの。今度はそうはいかないんだから……」

 

 じわりと脳裏に広がる恐怖を押し殺すために声を上げる。

 だが、思い切り叫んだはずの声は、尻すぼみになって呟くくらいの声量にまで掠れてしまった。

 

「君、何か勘違いしてるだろ。そんな気はさらさらないし、君が突然道路のど真ん中でぶっ倒れたから介抱してやっただけだ。君に僕が睨まれる理由は何にもないと思う」

 

「──うるっさい‼︎ アンタも魔術師なんだし、どうせ何か目的があるんでしょう。わざわざ借りを作って法外な要求でもする気……⁉︎」

 

 敵意の塊のような私を前にして、倫太郎は驚いているようだった。

 なにを馬鹿な──私をこうした(・・・・)のも、全部お前たち繭村の魔術師が発端のくせに。

 不機嫌そうに足を踏みならして、私は中庭に走り出そうとした。どこに繭村の魔術師がいるかも分からないし、一刻も早くこの場所から離れたかったので、塀を飛び越えて逃げようと思ったのだ。

 が──病み上がりの足はまともに動かず、足をもつれさせて転倒する。

 

「あぐ…………このッ、なんで…………‼︎」

 

「ああもう、馬鹿か君は‼︎」

 

「え、ちょ、ちょっと、なに触ってんのよ‼︎ 身動き取れない女の子に乱暴するなんて最低、変態、セクハラ‼︎ ひひ、人呼ぶわよ⁉︎」

 

「黙っててくれへっぽこ、そういうトコが馬鹿だって言ってるんだ。今人を呼んだらマズイのは君の方だろ⁉︎ どうせ誰もいないけど、声は抑えてくれ‼︎」

 

 よくよく考えればごもっともな言葉に、沈黙してしまう私。

 

「まず、無闇に動こうとしちゃ駄目だ。君の足はただでさえ筋肉疲労が溜まってるのに、無理に強化(エンチャント)をかけ続けたせいで魔力の流れがバグって……もとい、おかしくなってる。魔力は生命力なんだから、ほっとけばそのうち壊死し始めるぞ。たく、君の監督役はどうしてこんなになるまで放っておくのか」

 

 ブツブツと文句を言いながら、ズボンを太ももまで捲りあげて的確に状態を調べていく倫太郎の姿を、私はぽかんとして眺めていた。

 

「……なんで、私を助けるのよ」

 

「君には大きな貸しがある。それを返したかっただけさ」

 

「貸し……? 私には覚えがないけど、アンタは……その、私の出自を知ってるんでしょ?」

 

 若干俯きながら、私はその疑問をぶつける。

 少ないが、今まで出会ってきた魔術師の中で、私の出自を知った上でまともに取り合おうとした魔術師はゼロだった。

 皆例外なく私のことを蔑み、貶し、会話を拒絶した。

 だからこそ不思議だったのだ。この少年(まじゅつし)はなぜ、自分とまともに話すなんて"奇行"に走っているのかと──。

 

「君は……そっか、覚えてないか。あんな事があったんじゃ思い出したくもないだろうし、当然かな」

 

 跪くように私の足を診ながら、倫太郎は目だけを上げて私の顔を見た。彼は少しだけ悲しげな表情を浮かべたかと思うと、その表情を無かったことにするかのように首を振る。

 

「……幼い時、僕は君と出会ったんだ。そん時は魔術師の規則も常識も何も知らなかったから、僕は君を家に簡単に入れてしまった」

 

「え……それは、確か──」

 

 そんなことを言われても、あの時の記憶は混乱している。

 幼い心に刻まれた暴力と侮蔑の傷が大きすぎて、その前後の記憶はそれに上書きされてしまったのだ。

 

「……僕が知っていたら、君はあんな酷い目に合う必要もなかった。僕の無知が、君の傷を作ったんだ。だから今度は助けるべきだろ。君の出身がどうとか魔術師がどうとか関係なく、ね」

 

 呆然とする私に、彼はいたって真面目な顔で頭を下げると、

 

「あの時はごめん。──うん。今度は守れたみたいで、良かった」

 

 そう言って恥ずかしそうに、けれど安堵したように頰を掻く少年の目に、敵意は全く存在しなかった。

 私は何も言えずに、その綺麗な瞳を見つめる。私が知る魔術師といえば、保身的で身勝手で私の事を毛嫌いして高慢ちきでうんざりするくらい偉そうな奴らばかりだったのに、彼は例外だった。

 

 ──そう。この少年だけは、私を否定しなかったのだ。

 

 

 

 

 それから数ヶ月。

 

 倫太郎は県外の中学校に進学していたので、私が彼に遭遇する機会はそうはなかった。しかしたまに会うたびに私たちは仲良くなり、機を見つけて魔術の手ほどきをしてもらうようになっていた。

 ……その発端は、私自身が倫太郎に弟子にしてほしいと頼み込んだ事にある。

 両親は海外にいる事が殆どで、私は碌に指導も受けられない。

 兄は当然ながら魔術を知らないのでどうしようもない。

 独力の訓練に限界を感じる中で、私が意を決して倫太郎に魔術の手ほどきを頼んだのが数週間前。

 私は初めて会った時の倫太郎の笑みに惹かれて、彼を信じたいと思ったのだ。当時の私はまだ十四歳であり、精神的な困憊が頼れる誰かを求めさせたのかもしれない。

 だが、普通の魔術師なら、志原のような邪道の魔術師を弟子とするなど以ての外だろう。そもそも「弟子を取る」という行為には何らかの報酬が用意されるからこそ発生する。契約金、弟子を取ることによる名声の獲得、研究資金確保の足掛かりにする、繋がりを広げるなど。しかし私の場合、出せるお金は無いわ他魔術師に知られたら悪い噂になるわ、いい事は皆無で悪い事ずくめと言っていい。

 しかしそれを承知の上で、倫太郎は簡単に私の頼みを受諾した。

 

「なんでそんな簡単にって? まあ、正直に言えば……君にはまだ貸しがあるし、君は放っておくには危なっかしいし。それに弟子をとるって、自分が少しは成長したような気がして個人的にも嬉しいんだよ」

 

 照れ隠しかぶっきらぼうに言う倫太郎を見て、私は笑った。どうも倫太郎は過去のあの出来事に大きな罪悪感を感じているらしく、熱中症で倒れたのを助けたくらいじゃ少しも満足していないらしい。

 ──そんなの、こうして話してくれるだけでも充分なのに。

 その頃には彼に対して感じていた劣等感は私の中から消えていて、週に一度くらいの彼の「講義」を心の底から楽しみに思うようになっていた。

 

「──要はさ、志原は魔力の引っ張り方が下手なんじゃないかな。もっとイメージを強固に……何か魔力と繋げられるようなイメージってない? 例えば僕なら胸に杭を打ち込むイメージを発端としてる」

 

「う、うるさいわねっ……そんなの、考えらんな……い⁉︎」

 

 魔力が暴走しかかって、慌てて魔術回路の活性化を抑える。

 志原に伝わる「徒手魔術」は「身体強化」を基にした魔術だ。強化の魔術で失敗すると対象物が耐えきれずに砕け散ってしまうように、徒手魔術も程度を見誤れば腕の筋繊維が断裂してしまう。

 

「ダメだ、やっぱり危険すぎる。志原はまず先に確固としたイメージを構築することから始めた方がいい。そうすれば格段に安定する」

 

「………理屈は分かるわ。けど、なんか偉そうで腹立つ」

 

「そりゃあ僕は一応君の先生なんだし当たり前じゃないか。これ以外にどうしろっていうんだよ」

 

 むぐぐ、と言葉に詰まって沈黙する。彼の言葉は正しい。それでいて分かりやすく、私のどこが足りないのかを的確に指摘してくれる。

 私たちがたまに集まるのは、大塚市西部にぽつんと佇む廃工場だった。彼は何とも思っていないようだったが、私との関係が露見すれば他の魔術師が騒いで問題になるのは間違いない。倫太郎はこの敷地内の端っこにあった倉庫を改良して簡易的な魔術工房に仕立て上げ、繭村の関係者から隠れられる環境を構築したのだ。

 なんだか秘密基地みたいでよくない、こういうの──とかなんとか言って、隠しきれないほどはしゃいでいた彼の姿が思い出せる。

 

「あーもう、なんだか気がつまってきた。なんかやってよ、倫太郎」

 

「だから毎度毎度僕に無茶振りをするのはやめてくれよ……まあいいけど。これが終わったらイメージ構築だからな」

 

 彼は私のリクエストになんだかんだと応じて、よく私が扱えないような様々な魔術を披露してくれた。

 ライター大の炎を無数に飛び回らせたり、ただのハンカチを下敷きみたいに硬くしたり。私には出来ないことでも、彼が魔術を使うのを見るのは好きだった。

 ごく稀にネタが思い浮かばない時、繭村の家に伝わる一家相伝の魔術──「熾剣術式」を見せてくれたこともあった。

 その焔は暴虐的でありながら芸術品のように美しくて、あんな事が出来たらいいな、と何度も妄想したのを覚えている。それを言うと、彼は「君は君の得意分野を伸ばせばいいだろ。まあ、君は一つしか出来ないけど?」と言って意地悪く笑うのだが。

 とはいえその言葉は他の魔術師による侮蔑とは違って、親しいもの同士が交わせるような冗談に近いものだった。

 

 

 

 

「え? これ全部志原が作ったの?」

 

「当然でしょ。私、料理は上手いんだから」

 

「ふぅーん……むぐ……確かに美味しい……けどそのドヤ顔が鬱陶しいから美味しくないという事にしておく」

 

「どんな評価よ。先生が弟子に劣ってるのを素直に褒められないの?」

 

「いいんだよ、僕は黙ってても料理なんて女中さんが運んできてくれるんだから。君みたいに料理なんて面倒な事に時間を割く余裕は僕にはないの」

 

「はぁー⁉︎ どうせ半分引きこもりみたいなアンタの事なんだから鍛錬してないときはずっと部屋でネットしてんでしょ⁉︎ そんな奴に言われたくないわよ‼︎」

 

「こら、やめっ、すぐそうやって肉体言語に訴えるな髪の毛引っ張るなぁ‼︎ いつもいつも思うけど君はゴリラか? 頭ん中まで筋肉で出来てるんじゃないだろうな‼︎」

 

「……女の子に言ってはならないコトを口にしたわね、アンタぁ‼︎ こうなったら徹底的にシめて立場を分からせてあげる‼︎」

 

「僕は先生、君は弟子‼︎ 立場なんてとっくに決まってるだろーが‼︎」

 

 

 

 

「……んで、こいつが火蜥蜴の幼体。繭村の家系は「火」を起源とする事が多いから、こういう被験体を何匹が保有してるんだよね。こんなの滅多に手に入らないんだぞ」

 

「うわ燃えてるじゃない。熱そう」

 

「………………ウン。燃えてる、熱そう、ね。君に魔術師らしい反応を期待する僕が馬鹿だった。今後気をつけることにする。魔術的価値に対して君にはリアクションを期待しない方がいいみたいだ」

 

「し、仕方ないじゃない。うちには魔術師とか魔術世界に関する教科書とか書物とか置いてないし、そういうのあんま詳しくないの。だから凄さがわかんないの」

 

「なんとなく察せるだろ⁉︎ ほらこの、いかにも神秘纏ってますよ感とか……」

 

「あ、こののぺっとした顔はかわいいわね。ウーパールーパーみたいで、ゆるキャラとかに向いてそう」

 

「はぁ……もういいや、今日も回路の調子の確認からね」

 

 

 

 

 ──そんな調子で、楽しい半年が経った。

 その頃になると、私は自分自身の変化に気づき始める。

 魔力の引き出し方がぐんと効率的になり、失敗して筋繊維を痛めるような事も殆どなくなった。両腕どころか四肢に徒手魔術を安定して使えるようになり、私は廃工場の錆びついたパイプの森を縦横無尽に跳び回れるくらいに成長していた。

 けれど、もう一つ。

 魔術の上達などの外面的なものだけでなく、内面的な点においても私は変化していたのだ。

 

「────はら? 志原? 聞こえてるか?」

 

「ぁ……な、何? 今何してたっけ?」

 

「バカ。君の参考になるかなと思ってわざわざ家の書庫からエンチャント関連の本を選んで持ってきたってのに、君が聞いてなきゃ意味ないじゃないか。君、古文字は読めないんだし」

 

「ご、ごごご、ゴメン。……うん、続けて」

 

「たく、ちゃんと聞いといてくれよ。で、この箇所に図示されてる部分の記述なんだけど、志原の徒手魔術は「身体強化」の発展形で元より難易度が高いんだよね。なら、ここに書かれてる──」

 

「ひえ‼︎‼︎⁉︎⁉︎」

 

「‼︎‼︎⁉︎⁉︎」

 

 その事故は突然として訪れた。

 まず私が奇声をあげて突然跳ねるという無駄に高機動なリアクションを取り、それにビックリした倫太郎はひっくり返って倉庫の奥の棚に激突、結果としてそこに積まれていた本やら木刀やら試薬やらが雪崩となって私たちを呑み込んだのだ。

 ドラガラガッシャーン、なんて音を遠くに聞きながら、頭に激突してきた魔道書の一冊を手でどかす。

 すると、目の前には緑色のベトベトした試薬を頭からぽたぽたと垂らしながらこちらを睨んでくる倫太郎の姿があった。

 

「あのなあ……なんで君は最近いきなり奇声を上げるんだ‼︎ 今までは黙ってたけどこうなったらいい加減僕も我慢の限界というかなんというかとにかく怒るんだからな⁉︎」

 

「ち、違……違……わ、ないです……」

 

 否定したかったが、どうも怒られるべきだという自覚はあるのでいつものように真正面から口喧嘩するわけにもいかず、私は唇を尖らせながら倫太郎が怒っているのをやり過ごした。

 ……倫太郎は私が突然奇声を上げる、なんて言うが、私のオーバーリアクションにはちゃんとしたきっかけがある。

 問題はそのきっかけが、ちょっと肩が触れてしまったとか、そんな些細過ぎることだという事だろう。

 最初は全くそうでもなかったのに、最近は気がつくと倫太郎の側にいるだけでむやみやたらと緊張するようになってしまった。必死で平静を取り繕おうとしているせいで、たまに意図せず急接近したりするとリアクションが暴発するのだ。

 

(参ったなぁ……なんでだろう)

 

 観念した私は、中学校で同じクラスだった友達にそれとなく訪ねてみた。知り合いの男子といるとヘンな感じになるというか、ちょっとしたことで心臓が爆発しそうになるみたいなことを言ったのだ。

 すると、向こうの女の子の反応は爆発的だった。

 

『それは恋だよ、恋に決まってるよ楓ちゃん‼︎ 今までそんな事は無かったってことは、初恋ってことでしょー⁉︎ そうかそうか、楓ちゃんが……』

 

『ちょ、ちょっと、やめてよ京子。そんなんじゃないって』

 

『いぃーや、絶対そうだもん。で? で? どうする気なの?』

 

 それまで私は魔術の鍛錬ばかりしてきたせいで、"そういうの"には疎かったのだが──友達の助けもあって、私は自分がどういう感情を彼に抱いているのかを知ったのだ。

 いや。本当は薄々自覚していたのに、あえて気づかないふりをしていたのかもしれない。

 ただでさえ身を隠して時たま会うような関係だと言うのに、この想いを伝えてどうこうできる訳がない。私と倫太郎は、例えるなら奴隷とエリート貴族みたいなものだ。一般人としては同じ人間であっても、魔術師として全てが決定的に違ってしまっている。

 

『そんなの……告白とか、私には無理よ。私とアイツは生きてる次元が違うし、認められるわけが……って、あ、例え話ね。あはは……』

 

 ──そう言って、そこで諦めてしまえば良かったのだ。

 ──でも、私は……。

 

『イヤ‼︎ 恋は当たって砕け散れだよ楓ちゃん‼︎ さあさあ、そうと決まれば計画を立てないと。まずは──』

 

『ちょ、ちょっと京子、話聞いてた⁉︎ それに当たって砕け散れってどっちかというと男性側のモットーな気がするというか砕け散ったらいろいろまずいというか、ね? だから話聞いてよぉ……』

 

 ウダウダ言い訳やら境遇の違いやらを遠回しに述べた私だったが、結局告白じゃなくていいからバレンタインに気合い入れたチョコくらい渡しなよ、という方針で固まってしまった。

 幸いバレンタインデーが間近に迫った頃だったので、告白は流石に無理だからそれで勘弁して、と言い切ってしまったのだ。

 それからは当然チョコ作りである。親友の京子がやたらと熱心に私の初チョコ作りに協力してくれたので、結果は失敗することもなく完璧と言っていいものが出来上がった。問題はチョコの型が四角とか星とかじゃなくてハート形ということだったのだが。

 

『う……こんなの私、やっぱりキャラじゃない気が……』

 

『そんなのだから男子から女子か男子か分からないみたいに言われるんだよ、楓ちゃんは‼︎ もう渡すって決めたんでしょ、なんで男の子が絡むと途端に気弱になるかなあ?』

 

『しょしょしょ、しょうがないでしょ⁉︎ 初めてなんだから‼︎』

 

『ンフゥ……やっぱり楓ちゃんはかわい……じゃなくて、ほら次はきちんと包装だよ。小さくていいからメッセージカードも』

 

『わ、わかった、分かったからぁ……』

 

 そうして私は苦労して手作りのチョコをこしらえ、決戦の日に備えたのだった。文句を言いつつも何だかんだ完成させてしまったあたり、私も内心では乗り気だったのかもしれない。

 来たるバレンタインデーは休日。同時に、彼と会う日でもあった。

 

 ──やけに寒い日だったのを覚えている。

 

 その日は青空の見えない曇天。都合の悪いことに雨が降りそうな空模様だったが、隠し倉庫の中に入ってしまえば関係ない。

 そんな事を考え続けていると、自転車で片道二十分の道のりは一瞬だった。

 目立たないように自転車を廃工場の中に停める。彼の独特な色合いの自転車はもう既に置かれていたので、先に到着しているらしいことは一目で分かった。

 それだけで、心臓が急激に跳ねるのを否が応でも感じ取る。

 一歩を踏み出すごとにやっぱりやめようかな、なんて弱気が加速度的に膨れ上がってきたが、今更やめられる筈もなく。どうせ告白する訳じゃないし、そもそもまだハッキリ好きとかそういうのを認めたつもりはないし。

 そんな言い訳を頭の中でエンドレスに繰り返していると、錆びついたパイプのトンネル前にまで辿り着いてしまった。この先には隠し倉庫があり、いつも私たちはここに集まっている。

 たぶんこのまま飛び出しても何も言えずに無言でチョコを差し出すという、最悪な醜態を晒すんだろうなあ、と何処かで冷静な自分が告げているが、それを考慮できるほど私は落ち着いていなかった。

 

(うぅ〜っ‼︎ ええい、ままよ‼︎)

 

 進退窮まった私は、決死の覚悟でトンネルを抜けて──、

 

 

 その光景を、見た瞬間。

 私の全身は不可解と困惑に縛られ、一歩も動けなくなった。

 

 

 目の前には、轟々と燃え盛る焔が見える。熱された風が私の頰を撫でて、やけに気持ち悪い感触を残していった。

 脳が理解を拒んでいるのか、燃えている不気味なオレンジ色だけがやけに網膜に染み付いてくる。

 様々な思い出が詰まったあの倉庫は──二人だけの秘密だったあの倉庫は、しかし何らかの一撃によって完膚なきまでに両断され、今も激しい焔で焼かれ続けていたのだ。

 そのような事をできる人間を、私は一人しか知らなかった。

 目の前にいる倫太郎が手にした木刀は、その事実を無言で示している。

 

「な……なに、してんの」

 

 声に出せたのは、ごく短いその言葉だけだった。

 咄嗟に握り締めたチョコレートの袋を後ろ手に隠し、私は眼前の全てを否定したいように首を振る。

 けれど、彼の目線はどこまでも冷酷に私を見つめていて。

 頰に水滴が落ちた。地面にいくつか染みを作った雨粒はすぐに激しくなり、私と倫太郎の身体をくまなく濡らしていく。

 

「──────終わりなんだよ、志原」

 

「は、はぁっ⁉︎ なに言ってんのよ、なにが終わりだって──」

 

「気が付いてるだろう。君は本来、僕と関わっちゃいけない存在だ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、私は目の前が真っ暗になった気がした。

 "関わっちゃいけない"──そんなこと、とっくに二人とも承知の上だった筈だ。それなのにどうして、なんで突然としてその言葉を持ち出すのか。全てを裏切られたように思いながら、しかし愚かな私は、それをどうしても認めたくなかった。

 

「は、はは……冗談きついわね……ほんと。もう、こんなに壊しちゃってどうすんの? ねえ、これから直すんでしょ? 今までみたいにすごい魔術を見せてくれて、そしたらまた──」

 

「今日で終わりなんだよ、志原。昨日、僕に繭村の魔術刻印が受け継がれることが決定した。これから本格的に繭村の魔術師としての修練が始まる。もう君みたいなのに付き合ってる暇はない。繭村(ぼく)の体裁にも関わるから、もう二度と僕には関わらないでくれ……‼︎」

 

「そん、な」

 

 倫太郎は手にした木刀をしまうこともせず、私の横をすり抜けていく。

 ──嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。

 待って、せめてもう少しだけでいい。

 しようと決意したことも為せず、初めて好きだと思えたひとに裏切られて終わるなんて、そんなの──。

 

「や、やだ……いやよ……お願い、そんなのって……‼︎」

 

 遠ざかっていこうとする背中は見慣れている筈なのに、ひどく遠く見えてしまった。

 憧れていた。信頼していた。──たぶん、初めて魔術師として純粋に接してくれた時から、もう好きだったのだ。

 だが、その想いは全て、彼がかつて否定したはずのものによって無駄になろうとしている。抱いていた感情全てが叩き潰され、ズタズタにされて、どこまでも崩れていく。

 ここで彼を留めなければ私はどうなるかわからない、という恐怖心がぞわりと這い上ってきたのに抗わず、私は反射的に手を伸ばした。

 

「近寄るな‼︎‼︎‼︎‼︎」

 

 ──それは、凄まじい感情とともに放たれた一言だった。

 一閃。焔の残滓が目前で舞った。彼の木刀が焔を纏って振り払われ、私の鼻先でぴたりと止まっている。

 燃え滾る刃先の威圧感と熱さに圧されて、私は硬い地面に尻餅をつく。彼が武器を抜いて私に向けたという衝撃も強かった。けれど何よりも一番心に突き刺さったのは、たった五文字の彼の言葉だった。

 こちらを見下ろす目線に、かつての優しさなんて残っていない。

 むしろ激しい嫌悪の表れなのか、倫太郎は歯を食いしばってこちらを睨みつけている。

 

「…………………………最後の、警告だ。二度と僕に関わるな」

 

 そうして、彼は二度とこの場所に現れなくなった。

 ──単純な話だ。結局、彼も他と同じ魔術師だっただけ。

 チョコレートの袋が地面に落ちる。くしゃり、という乾いた音は、まるで自分の心が完全に折れた音をそのまま表したかのようだった。

 ──ああ、もう、終わったのだ。

 私の初恋は、粉々になって終わった。惨めに終焉を迎えた。

 振られたならいい、遠回しでもいいから想いを伝えるだけでよかったのに──そんな些細な事すらも、倫太郎と残酷な現実は許してくれなかった。ただ魔術師としての生まれが悪かったという事実だけで、しかしどうしようもない事実を盾に、彼は私を否定してしまった。

 

「……は、は。ふふ、はは、あははははははははははっ‼︎ どうしようもない馬鹿ね、ほんっと‼︎ なにいい気になってんのよ、志原楓(わたし)‼︎ 魔術師でも倫太郎だけは違うなんて、なにバカな思い込みをしてたんだろ‼︎」

 

 ──ああ、愚かだ。

 彼を勝手に誤解して信じ込んで、挙げ句の果てには恋までして。

 馬鹿なことを。志原は穢れた一族であり、魔術師である以上その存在を許容することはできない。それでも話してくれる魔術師(ひと)はいる、なんて、そんな都合のいい話があるわけないのに。

 だがその都合の良さを信じ込んだ挙句、私はさらにその先を妄想しようとした。その一歩として、この、今やただのゴミになったチョコレートを握りしめて胸を躍らせていたのだ。

 ──ああ、本当に、愚かだ。

 自分の馬鹿さ加減をひとしきり笑ってから、私は無理やり笑顔のまま帰ろうとした。けれど足は帰るどころか、ぐるっと回って燃え続ける思い出の残骸の方に向いてしまう。

 

「はは、はははは……うっ⁉︎」

 

 足元のパイプに引っかかって転ぶ。よく見ていれば難なく避けられるはずなのにどうして、と考えて、そもそも視界が滲んでほとんどなにも見えないことにようやく気がついた。

 もう、起き上がる気力もない。

 こうして倒れたまま燃え盛る残骸を眺めていると、どうしようもなく、かつて彼と出会った日に逆戻りしたような気がした。

 結局私は惨めな魔術師もどきのままで、倫太郎は決して手の届かない、私が憎む魔術師のまま。

 

"オマエは、誰にも理解されない"

 

 思い出だったモノを燃料にして燃え続けている炎が、私にそう突きつけてくるような気がした。やめて、やめてよ、やめてください、と口の中で懇願しても、たった今起きた決別という名のナイフは止まる事なく、私の心を滅茶苦茶に切り刻んでバラバラにしていく。

 

「う……うぅっ……うわああああああああああああああ……っ‼︎‼︎」

 

 ああ、最初は笑って誤魔化そうとしたのに、これじゃ無駄骨だ。涙はどんどん溢れて嗚咽は止められないし、もうそれを止めようと努力する気すら起きない。

 ただ、身が裂かれるくらい悲しかった。

 降りしきる豪雨が彼の炎を消し尽くすまで、私は呆然と思い出の炎を眺めて涙を流し続けた──。



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三十九話 倫太郎と楓/Other side

 ……トントン、と上靴の先で床を叩く。

 

駆動開始(セット)

 

 その詠唱(ことば)を唱えた瞬間、志原楓の身体は変革される。

 魔力回路が全力で励起し、四肢の末端に至るまでを唸るような魔力の熱が包み込む。

 基本骨子、構成材質。それらを解析する必要はない。

 元より己の身体だ、その構造なんて頭に叩き込んでいる。あとはその構造の"空き"の部分に、余す事なく魔力を叩き込めばいい。

 

全工程(オール・シークエンス)完了(クリア)──‼︎」

 

 身体がヘンに帯電したような感覚。腕も足もずっと軽く、身体に翼が生えたような高揚感が駆け巡る。

 特に志原の「徒手魔術」は特別製だ。

 単純な筋力強化だけではなく、瞬発力、耐久力、更には運動神経と感覚神経の伝達速度さえも飛躍的に引き上げる。難度が強化の中でも最難度とされる「他者の強化」並みになる代わりに、人外の領域に少しだけとはいえ足を踏み入れる奇蹟である。

 繭村倫太郎と志原楓は廊下のど真ん中で相対したが、先に動いたのは楓だった。

 身体は低く。数メートルの距離を弾丸のように駆け抜ける疾駆。

 

「…………っ‼︎」

 

 倫太郎が構えた木刀を防御に回すのと、風を纏って放たれた楓の拳が炸裂するのはほぼ同時だった。

 硬い、金属同士がぶつかり合う反響音が人のいない校舎に響き渡る。実際楓の拳は鋼鉄並みの硬度を持つし、倫太郎の強化木刀もそれに準ずる硬度を誇っていた。

 倫太郎はその勢いに押されるように後退。

 楓の方には"退く"なんて選択肢はとうに無い。倫太郎という魔術師が自分からやって来て戦おうとする以上、彼に対する胸を焦がすような憎悪を拳に乗せて叩きつけるだけだ。

 

「ふッ、たぁっ、りゃっ──‼︎」

 

 魔術師としての力量は倫太郎の方が上回ってるが、戦況は圧倒的に楓に傾いている。

 やはり躊躇して剣を振り切れない倫太郎に対し、楓の拳に躊躇などあるわけがない。隙あらば頭を粉々に潰すという気概で、楓は流れるように突きを放っていく。

 

「つ゛──ぁ‼︎」

 

 渾身の力で木刀を振り払って、倫太郎は半ば無理やりに距離を取った。

 

(くそ、やっぱり斬れない……僕には無理だ‼︎)

 

 魔術への嫌悪感に似た、とてつもない拒否感情が倫太郎の動きを縛っている。彼女を殺めるという事実は想像する事すら恐ろしい。

 

(剣が振れないのも、僕の心が弱いからか……⁉︎ 責務を貫き通す覚悟もできない、魔術師として勇気のない三流だから、人を手にかけるのが怖いのか⁉︎)

 

 ──これは、二年前と同じだ。

 手にした木刀は鉛を詰め込んだように重く、魔術回路は錆び付いたようにその機能を拒否しようとしている。この葛藤に似た感覚を感じたのは二年前、自ら思い出に剣を振り下ろした時以来だった。

 ──あの時、あの曇天の日。

 倫太郎はあまりに自分を殺し続けてきたせいで、自分の願いと責務が衝突した時、どちらを優先すべきかが分からなかった。そして挙げ句の果てに、どちらも(・・・・)叶えようとして失敗した。

 その選択の代償は、今こうして己に向けられる楓からの憎悪という形で現れている。

 

(違う。アサシンが言ってただろ……魔術師としてって考えは捨てろ‼︎ "僕自身"が何をしたいのかを考えろ、僕も一人の人間なんだ‼︎‼︎)

 

 アサシンの言葉から分かったことは一つだ。

 いまの繭村倫太郎に足りていないのは、「自分が何を為したいか」という願いだ。それは望みと言い換えてもいい。

  そして今この瞬間に、繭村の魔術師としての責務に背き、剣を振り下ろさないことを望む自分がいるという事は──。

 

(とりあえず……僕自身の願いは、「志原を斬らない」ことに他ならない……‼︎)

 

 この瞬間、倫太郎は始めて自分の決断を「繭村の魔術師としての判断」より完全に優先させた。

 親が目上の社長よりも子供を先に庇うが如く、普通の人間にとっては当たり前の行為。けれど役割と責務しか教えられてこなかった少年にとって、この行為はとんでもなく禁忌に近いものだ。内心では繭村の先祖やら父やらに謝り倒しである。

 まあ、最初の理解としては、十分かな……とアサシンなら言うだろうが、そんな事を拳をいなすのに必死な倫太郎が知る由もない。

 

「──このっ、スカタン‼︎ なにさっきから避けてんのよ‼︎」

 

「痛いのが嫌だからに決まってるだろ⁉︎」

 

「アンタの意見は聞いてないから大人しく殴られなさい──よっ‼︎」

 

 楓は一段と低く腰を落とすと、一拍の溜めを置いて凄烈な正拳突きを放った。その威力は連突きなどとは比べ物にならず、木刀越しだというのに倫太郎の身体が宙に浮く。

 みし、と肋骨が軋む音と、楓の足裏が獰猛に唸る風切り音。

 聞き取れたのはそこまで。危険信号が突き抜けると同時、楓の回し蹴りが宙に浮いた倫太郎の後頭部に突き刺さった。

 

「ガ────っ、あ゛⁉︎」

 

 位置を入れ替わるように吹き飛ばされる。

 倫太郎は床を転がりながら、跳び上がって蹴りを決めた楓は羽のように廊下に降り立つ。勢いよく倫太郎は振り返ると──、

 

「速っ……‼︎」

 

 姿を捉えた瞬間には、もう既に楓は距離を半分ほど詰めている。

 思わず木刀を構えて衝撃に備える倫太郎だったが、あろう事か彼女は倫太郎の横を何もせずにすり抜けていった。予想外の行動に呆気にとられ、姿を目で追う倫太郎の視界に飛び込んできたのは──、

 

 ピンの抜かれた、手榴弾だった。

 

「ウソだろっ……⁉︎」

 

 すれ違いざまに手榴弾を置いてったあの爆殺魔ヤロウこと志原はとうの昔に距離を取っている。

 直後。鷹穂高(たかほだか)高校の廊下で、投擲された手榴弾が起爆した。窓ガラスが砕け散り、白煙と轟音が狭い廊下の中を蹂躙する。手榴弾から飛び散った破片は教室の壁に突き刺さり、無残な光景を晒していた。

 

「…………死ん、だ?」

 

 落下する破片がパラパラと音を立てる中、楓は白煙がたなびく廊下の奥を眺める。

 あの距離ではとても回避はできなかったはずだ。

 その声は憎っくき相手を仕留めたにしては大して嬉しげな感情が篭っていないというか、むしろどこか悲しげな声色だったが、本人はそれに気付かない。

 

「結構高いのよ、これ……あの距離じゃまず即死、ね」

 

 言葉を途切れさせながら、楓はなぜか震えそうになる声を無理にこらえて爆散したであろう倫太郎の姿を探した。

 ──が、その姿がない。

 白煙の向こうに飛び散るはずの血痕はなく、当然倫太郎の死体も確認できない。楓がふと視線を下げると、そこには綺麗な円形に斬られた穴がぽっかりと開いていた。

 

「ま、まさかあいつ……‼︎」

 

 穴を通って階下へ軽やかに飛び降りると、倫太郎は意外にも少し離れた場所で楓が来るのを待っていた。

 先程から戦う気が無かったようだから、逃げて当然だと思っていたが。

 

「志原。君に聞きたいことがある」

 

 ……倫太郎の雰囲気が、変わった。

 目の前の気配がどこまでも細くなっていく。細く鋭く、まるで一本の剣のように研ぎ澄まされる。

 

「僕は……君を斬りたくない。けど繭村の魔術師として生きるなら、僕は君を斬らなくちゃならない。武家の末裔たる繭村の家は、敵を斬り殺すことでその刃の精度を高めてきたからだ」

 

 楓は怒りで沸騰しそうな頭が、冷水を浴びせられたように冷えていくのを感じていた。

 今の倫太郎は──たぶん、一つの刃だ。

 繭村の秘奥に最も近づいた少年が纏う気迫は、既に老練の達人の域にまで達している。そして彼自身、未だ自分自身の意思と責務のどちらを取るかを迷っている。

 この状況で踏み込めば──二年前のように倫太郎は反射的に思考に染み付いた責務を遂行し、敵対者(かえで)を斬るだろう。

 

「二年前、僕は君の知っての通りに責務を優先させた。僕にとってそれだけが存在意義だったからだ。けど、その時の後悔だけが、今も消したはずの自分の奥で燻ってる」

 

 倫太郎の目にはまだ迷いがある。

 自分の願いを見つけろと言われても、そもそも自分自身を押し殺し続けてきた少年には難しい命題だ。

 

「どっちをとるべきなんだろう、僕は。都合がいいとは思うけど、君ならどう思──」

 

「この、ばかやろ────ッ‼︎‼︎‼︎」

 

 めきょ、という音とともに、倫太郎の顔に楓の拳が深々とめり込んだ。

 「ふげら⁉︎」なんて悲鳴をあげてぶっ飛ぶ倫太郎を冷たい目線で見下ろしながら、楓は上靴で倫太郎の頭をゲシゲシと踏んづける。

 

「痛い痛い痛い‼︎ やっぱ対話に応じる気ナシか⁉︎」

 

「バカね、私がその気なら今のでアンタの頭はトマトみたいに破裂してたわよ‼︎ 叱ってあげる気があるから強化抜きで殴ったんじゃない‼︎」

 

「た、確かに……硬くない、普通の拳だ」

 

「いい倫太郎、ほんっとぉーにつまんないこでウジウジ迷ってるみたいだから私が言ってあげる」

 

 馬乗りになった楓は倫太郎の襟首を掴むと、若干腫れた彼の顔をぐいと近寄せる。

 さっきから聞いていれば、コイツはそんな事で迷っていたのかと楓は苛ついた。自分が望む選択すらできなかった倫太郎にも腹が立つし、まずそんな奴になるしかなかったコイツの周囲にも腹が立つ……‼︎

 

「──アンタの生き方は酷く(いびつ)よ、倫太郎」

 

「僕が……歪んでる、だって?」

 

「ええ。人間ってのはね、本来自分がしたいように生きるものなの。そりゃあ他人に迷惑をかけるような事は自重するし、規則を破れば罰を受けるわ。でもね、その縛りを受けない範囲だったら、人間は自由であって然るべきなのよ」

 

 倫太郎の目を正面から見て、自分の言葉を叩きつける。

 散々ぶっ飛ばしたいくらい怒っているのに、なぜか思考は落ち着いていた。

 

「それが、その自由がアンタにはない。魔術師にしてもあんたのその生き方は狂ってるとしか思えないわ。だって意思を、自己を封殺して役目に生きるなんて、そんなのロボットと変わらないじゃない‼︎」

 

 倫太郎は無言のまま、楓の言葉を受け止める。

 

「岐路で迷って、それでも結局自分の意思を選べないのは、誰でもないアンタのせいよ。自分が今まで信じてた生き方が間違いだって否定する勇気がないから今までと同じように行動しちゃうだけ。でもそれじゃあダメなんでしょ、アンタは二年前のことを悔いてるんでしょう⁉︎ じゃあ学習しなさいよバカ、アンタは自分がしたいように生きろっての‼︎」

 

「……それでも。正規の魔術師じゃない君には分からないかもしれないけど、僕は繭村の魔術師だ。自分は極限まで封殺して、可能な限り役目に徹するべきなんだ……‼︎」

 

「口答えするな、頑固者ぉ‼︎」

 

「げぶ⁉︎」

 

 楓に思いっきりビンタを受けて、内心で「何だかんだ暴力で言い聞かせるとはなんてひどい奴だい」と思いながら沈黙する倫太郎。

 

「楽しそうじゃなかった……」

 

「……?」

 

「あの隠れ倉庫で自分の家の魔術について語るときだけ、アンタはいっつも楽しそうじゃなかった‼︎ ずっと何かに耐えるような、そんな表情ばっかりしてたの気が付かないの⁉︎」

 

 楓はぼんやりと、思い返したくもなかった過去の光景を脳裏に蘇らせる。

 かつて倫太郎が自分の前から姿を消した時、彼は歯を食いしばってこちらを睨んでいた。あれは激しい嫌悪と敵意の表れで、倫太郎も完全に志原を差別する他の魔術師と同一になってしまったのだと思っていたが──、

 

「もし……あの時のアンタが、相反する意思と責務の板挟みで苦しんでいて、結局責務の方を選んでしまったんなら。そしてアンタが、あの選択を悔いているんなら──‼︎」

 

 楓は手を離して、倫太郎の目をもう一度覗き込む。

 綺麗な瞳だ。他の魔術師と出会った時には絶対に楓に向けられない、澄んだ色がそこにはある。ならば──、

 

「今度は私が決めてあげるわよ‼︎ アンタは自分のしたいように生きなさい、倫太郎──‼︎‼︎」

 

 その一言は、倫太郎の精神を構築する芯のにしかと響き渡った。

 ──自分のしたいように、だって?

 そんな事は今まで考えた事すらなかった。

 けれど、自分はそれを無意識に行ってきた事があったのではないか──かつて路上でぶっ倒れた彼女を目にした時、自分が何かを考えるでもなく、そうすべきだと思ったから彼女を助けたように。

 

「………………僕、は」

 何か、馬鹿な思い込みを、していたような。

 首を振ってその違和感を突き止めようと試みていると、楓は馬乗りになっていた姿勢からスカートをはたいて立ち上がった。

 

「……その目を見るに、アホでマヌケなアンタも何となく理解できたみたいね。まっとうな人間の考え方ってやつが。で、「倫太郎は」これからどうしたいの? まだ私と戦いたいと思う?」

 

「……いや、全く思わない」

 

 その言葉にひとまずは満足したのか、楓はさも満足げに頷く。

 なんだか戦うというような雰囲気ではなくなってしまったものの、楓はけろりと表情を変えて倫太郎に嫌な笑顔を浮かべると──、

 

「まぁ、私はこれから倫太郎を倒すけどね?」

 

「な……なんでだよ⁉︎」

 

「だって私には叶えなきゃいけない願いがあるもの。聖杯を奪る以上はいてもらっちゃ困るし、参加者は当然倒すわよ」

 

「うーん、よし、逃げよう。僕は逃げる。三十六計逃げるに如かず‼︎」

 

「あ、待ちなさい‼︎」

 

 脱兎の如く走り出した倫太郎を追って楓がスタートを切ったあたりで、彼女は表情を曇らせて足を止めた。

 

『……楓ちゃん、聞こえるか⁉︎』

 

 魔術的な経路を通じて、楓にキャスターの声が念話で届いたのだ。倫太郎の方にもアサシンから念話が繋がったのか、何事かを倫太郎は答えている。

 それに倣って、楓も突然脳内に響いてきたキャスターの声に耳を傾ける。ちなみに念話は高度すぎるので楓にはできず、故に彼女とキャスターの念話はいつも一方通行である。

 

『理由は話してる暇ない……‼︎ そっちの状況がどうかは分からんが、今すぐその場所から離れるんや‼︎‼︎』

 

 キャスターの声はやけに緊迫している。どんな時ものらりくらりと立ち回る柳のような印象の彼がそこまで焦るとは、正直楓は想像すらしていなかった。

 

『マスター……今すぐ、逃げて……‼︎』

 

「逃げろって……いや今まさしく逃げる気だったわけなんだけど。アサシン、そっちで何が起きてる⁉︎ そもそも一体何から逃げろって言」

 

 そのまま念話を続けている余裕はなかった。

 ぞわり、と。倫太郎の全身を悪寒が襲う。

 魔術師としての本能か、刻まれた魔術刻印が残り続けようと主に危機を伝えたのか。ともあれ数瞬後の「死」を悟った倫太郎は、ほぼ反射的に駆け出していた。

 早く。一歩でも早く──躊躇えば終わる。

 窓に黒い巨影が映る。だが倫太郎はそれに目も寄こさず、突撃する倫太郎に驚いた様子の楓だけを捉えていた。

 

「え、何──⁉︎」

 

 困惑する楓の身体を抱きかかえて、直後。

 

 ──大きな校舎全体を揺るがして、一つの暴威が落下した。

 

 「それ」は校舎横のグラウンドから跳躍して倫太郎たちがいる二階まで肉薄したのち、窓どころか壁そのものを吹き飛ばして突っ込んできたらしい。

 ロケット弾を撃ち込まれたよりも酷い衝撃と破壊があった。窓ガラスは飛び散り壁の破片は反対側の壁に突き刺さり、煙が巻き上がって何者かの正体を包み隠す。

 だが──この場の二人は全身で、放たれているだけで粉々に潰されてしまいそうな威圧感を感じ取っていた。

 

「志原、君も生きてるな?」

 

「私は……なんとか。ごめん、助かった」

 

 二人して廊下を転がったお陰で、彼らは間一髪すり潰されるのを避けていた。

 少しでも遅れていたら、おそらく煙の向こうに見えるシルエットの下で二人仲良く挽肉になっていただろう。だが楓が感謝の言葉を吐く暇すらなく、そのシルエットは自ら姿を現した。

 

「………………‼︎‼︎」

 

 恐怖の表れである微かな吐息は、一体どちらのものだったのか。

 変わり果てている(・・・・・・・・・)

 二人とも目の前の敵の元の姿なんて見たことない筈なのにそう感じてしまうほど、その敵影は酷く狂っていた。

 まず二人を圧倒したのは、その尋常ならざる巨躯だった。身長は悠に二メートルを超え、学校の低い廊下では頭が擦りそうだ。

 だがそれは、その巨人の異質さの前には、どうでもいい外見情報に過ぎなかった。人を超越した巨躯、丸太と見紛う筋肉隆々の四肢、それら全てが黒いナニカに穢されたように覆われている。もはや奴には目も鼻も口もなく、判別できるのは殺意に燃える赤い両眼のみ。

 

 ──────死、ぬ。

 

 二人は言葉を交わす必要すらなく、それを一瞥した瞬間に理解していた。

 一秒後、五秒後、僅差はあれ間違いなく自分たちは殺される。あの巨人が手にした斧剣が台風じみた勢いで振るわれれば、倫太郎と楓の上半身はグチャグチャに潰れて跡形もなくなるだろう。

 絶望と、恐怖と、不可解があった。

 逃走は不可能。逃げきれずに死ぬ。

 抗戦は不可能。歯向かっても死ぬ。

 降参は不可能。武器を捨てても死ぬ。

 彼らはこの瞬間、どう足掻いても詰んでいる。

 二人のサーヴァントがいれば抗戦も撤退も視野に入るだろう。だがこの場所にサーヴァントは存在せず、離れた場所で交戦していたであろう彼らがここに駆けつけるのにどれほどの時間を要するかは不明だ。

 令呪を使って呼ぶことを考える──却下。

 サーヴァントをこの場所に瞬間移動させたとて、どれほど歴戦の英雄であろうと自分が意思に反して転移すれば転移後の状況把握に僅かな時間を要するだろう。その隙にサーヴァントを潰されれば、今度こそ生存の道は途絶える。

 

「志原──」

 

 倫太郎は絶望に屈しそうになる膝を叱咤しながら、

 

「やるぞ」

 

 そう、僅かな言葉を呟いた。

 黒い巨人が弾け跳ぶまでの僅かな時間に、倫太郎が言えたのはそれだけだったのだ。

 戦ったところで勝ち目はない。だが背中を向ければば更に勝ち目が無くなる。

 ──つまり、彼らにはただ幸運を祈る事しかできない。

 二騎のうちどちらでもいい、サーヴァントが間に合えば辛うじて二人は生き延びられる。その「間に合う」という奇跡を願う他ないのだ。

 だが前提として、このまま突っ立っていては恐らくどちらのサーヴァントも間に合わない。間に合わないからこそ、二人の全力を賭して時間を稼ぐしか道はない──‼︎

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■‼︎‼︎‼︎」

 

 次の瞬間、巨人が動いた。

 倫太郎の言葉の真意が楓に伝わったかどうか、それすら曖昧なままだったが、倫太郎は全霊であの巨人を押しとどめるしかない。

 

「剣鬼──抜刀‼︎」

 

 やる事は単純明快。

 次の一撃、この一刀に全ての余剰魔力を乗せて焔を放つ。

 あれ程苦しんでいた魔術への嫌悪感が──すっかり無い。

 極限状態に追い込まれたからか、それとも別の要因が存在するのか。その謎に気付く余裕すらなく、倫太郎は全身の魔術回路をコンマ数秒で最大速まで加速させる。

 廊下の狭さが幸いし、動きを遮られたバーサーカーの到達よりも倫太郎の剣が閃く方が速かった。廊下の全範囲を燃やし尽くす程の焔が木刀を中心に巻き起こり、猛然と牙を剥く準備を整える──‼︎

 

全魔力(セット)──集中(コンセントレート)完了(オールクリア)‼︎」

 

 同時に楓も、余剰魔力の全てをその右腕に叩き込んでいた。

 筋肉が不自然に膨張し、許容量オーバーの魔力に右腕の神経が激痛に叫んだ。だがその痛みと悲鳴すら無理やり押し殺して、迫り来る巨人を睨みつけ、楓はその右拳を振り上げる──‼︎

 

 ──勝敗は誰がどう見ても明白だった。

 

 倫太郎の一撃は頑強な巨人の肉体に激突した瞬間に霧散し、彼はそのまま巨人の突進に轢き潰されて絶命しただろう。

 楓の右腕は巨人に当たった瞬間へし折れ、反撃で振るわれた斧剣が彼女の胴体を容易く両断していただろう。

 それは自明の理だ。二人だって理解している。

 だから彼らが魔術の矛先を向けたのは巨人ではなく──、

 

「「墜ちろ‼︎‼︎‼︎」」

 

 その下。

 倫太郎はバーサーカーの足元めがけて木刀を振り払い、それに追従する火焔が痛烈な勢いでバーサーカーの足場に激突した。

 だが足りない。床に亀裂が入ってバーサーカーは軽く足を取られたが、倫太郎の魔術が得意とするのは「切断」だ。粉砕には向いていない。床が陥没するより早く、巨人は二人の元へ到達するだろう。

 ──だが。

 

「はぁぁぁぁ──っ‼︎‼︎」

 

 志原楓の拳は、たとえ相手が岩であろうと粉砕する硬度と威力がある。その魔力を右腕に集中させるのには若干時間を要したが、その隙は倫太郎が受け持った。

 あとは単純、今度は足元に渾身の一撃を楓が叩き込む。倫太郎の比ではない量の亀裂が廊下の端まで走り、それを確認したと同時、二人は全力を振り絞って後退した。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■────‼︎」

 

 巨人が怒りの咆哮と共に突っ込んでくる。唸りを上げて廊下を踏みしめ、走り、暴風の如く倫太郎たちに肉薄し──楓が穿った一点を踏み抜いた瞬間、ついに廊下が不気味な音を立てて崩壊した。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■────ッッ‼︎」

 

 連鎖的に崩れて行く廊下に、その巨人は巻き込まれていく。

 

「よしっ‼︎」

 

「バカ止まるなっ、あんな子供騙しじゃ──」

 

 憤怒の巨人は下階に落ちてなお、その進軍を止めようとしない。

 巨人の自重で空いた大穴から、倫太郎の身体くらいはあるであろう巨大な斧剣が顔を覗かせる。その荒削りな切っ先は迷う事なくこちらを見据えていて、倫太郎は息を呑んだ。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■──‼︎‼︎」

 

 轟、と空気が震えた。

 咆哮と共に巨人が走る。当然、巨大な斧剣を廊下の穴から覗かせたままで。

 廊下を掘削機の如き勢いで削り潰しながら、石塊の巨刃が迫ってくる。その光景はまるでホラー映画のサメの背びれを連想させたが、ここは陸だしアレは巨大鮫の数百倍は恐ろしい化け物だ。

 

「っ‼︎」

 

 今から走ったんじゃ間に合わない。横っ跳びに避けようにも、巨人はあろう事か廊下の天井そのものを粉々にする膂力を持っている。

 斧剣に削られた床はたちどころに崩れ落ち、八つ裂きにされるのをなんとか回避できても、その後はバーサーカーがいる階下に放り出されることになるだろう。

 

「倫太郎、私が令呪を──」

 

 切羽詰まった楓の声に、倫太郎は唇を噛んで考えようとする。

 間に合うのか。令呪が発動し、サーヴァントが顕現し、サーヴァントが状況を把握し、迎撃する。それだけの猶予が果たして残っているのか、そもそもこの考えた時間が致命的なのでは──⁉︎

 

「二人とも、お疲れさん」

 

 声が、聞こえた。

 ふわりと二人の前に降り立った男は、迫り来る破壊の嵐を前に少しも臆さず──、

 

「式神跋祇、現世(うつしよ)縛り」

 

 ほんの僅かな詠唱を以って、天才は対価に見合わぬ奇跡を成す。

 前方の空間が固定され、舞い散る瓦礫も含めてバーサーカーらしき巨躯の周囲が完全に"閉じた"。一瞬で物言わぬ標本と化した狂戦士を前に、陰陽師は軽やかな足取りで着地する。

 

「ちっ──こいつぁ相当やぞ、楓ちゃん‼︎」

 

 だが、その戒めは僅か一秒ともたなかった。

 天才の技巧を、暴威は尋常ならざる膂力という純粋な力量で上回る。再び黒い旋風が渦を巻き、鉄筋コンクリートの校舎をスポンジか綿きれのように裁断していく。

 

「逃げることは、できない。こいつは……ここで、倒さなくちゃ……大きな被害が、でる」

 

 少し遅れて駆けつけたアサシンが呟く。その手に握られたナイフの輝きは頼もしいが、目の前の暴威の前には霞んでしまいそうだ。

 

「あの巨人が何かは知らないけど……その通りだ。アイツはここで食い止めなきゃならない」

 

 高校の周りは三方が住宅街。残る一方には雑木林が広がっているが逃走に使えるほど広くはない。下手をすればあの巨人が住宅街に飛び出し、家々を文字通りに薙ぎ倒していく光景が広がるだろう。

 それは正義に憧れたアサシンにとって最も唾棄すべき展開であり、倫太郎も同じ考えだった。

 

「……けど」

 

 ──アレを。あんなのを、本当に、倒せるのか?

 

 あんなのをたったサーヴァント二騎程度で相手にしていいのか。

 あれはそもそもサーヴァントではなく、もっと異質で強力な何かなのではないか──。

 その弱気な言葉と考えを飲み込んで、倫太郎はサーヴァント二騎を前にしても全く臆する様子のない巨人を睨む。きっと力を合わせれば奴に勝てる筈だと、今はただそう信じるしかなかった。



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四十話 アウトサイダー・ヘラクレス/Other side

 凄まじい轟音を撒き散らしながら、一つの災害が咆哮をあげる。

 戦闘の舞台は校舎を飛び出してグラウンドへ、更にそこから裏山の森の中へと移っていた。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■──‼︎」

 

 尋常ではない破壊力を秘めた一撃。

 サーヴァントにとってもまごうことなき必殺の一撃は、しかし、絶え間なく連続して振り払われる。

 バーサーカーと思わしき巨人がひとたび斧剣を振るうだけで、生え並ぶ木々は切断され、落ち葉の積もった腐葉土は爆ぜ飛んだ。まるであれ自体が一つの台風だ。極めて局地的で、明確な殺意を持った、ある意味純粋な災害より恐ろしい悪魔。

 

「何なのあいつ……アレが、あんな歪んだ奴がサーヴァントだって言うの⁉︎」

 

「バーサーカー、としか考えられないけど。それにしたって異様だ。顔も身体も得体の知れない何かで覆われてるし、どう見たって通常の霊基状態じゃない。間違いなく、あのバーサーカーには狂化以外に何らかの力が働いてる……‼︎」

 

 少し離れた場所で降ろされた楓と倫太郎は、森の木々の向こうで熾烈に戦う三騎の姿を祈るように見守っていた。

 もう戦う気力も無いというか、そもそも数秒の隙を作るために魔力を殆ど消費したせいで少し動くのすら怠い。

 

「マスターは……いない、か」

 

 倫太郎があたりを見渡しても、視線や変な魔力の存在は感知できない。

 恐らくはバーサーカーのみを単体でけしかけてきたのだろう、とマスターへの警戒を緩め、バーサーカーと争うキャスターとアサシンの趨勢に注意を向ける。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■──‼︎‼︎」

 

 鬱蒼とした森が、たった一人の力で無くなっていく。

 キャスターは不思議な力で木々の間を飛び回り、式神や陰陽術を用いて多角度から攻め込む。アサシンは枝から枝へと跳躍しながら、その間隙を突くようにして必殺の一撃を決めようと目論んでいる。

 だが──二対一というこれほどない分かりやすい有利条件を与えられてなお、押されているのは明らかにキャスターとアサシンの方だった。

 

「チッ……コイツ、どんなデタラメな力と硬さしとんねん‼︎」

 

 振り払われる斧剣を間一髪のところで回避して、キャスターは宙空から引きずり出した数本の刀剣を勢いよく放つ。

 それらは例外なく巨人の胸に激突し、熾烈な爆風を撒き散らし──そして、何の傷も与えられずに終わっていた。

 それだけではない。式神百三十八体の一斉射出、雷撃、凍結、剣撃、純粋な魔力投射、爆撃、火焔、地盤圧縮、重力圧搾、魑魅魍魎の召喚、暴風、結界構築を絡めた原子崩壊、斬撃、某女狐からパクった呪術、霊符解放、鬼種の炎、単純に数えれば百を超える攻撃方法を片っ端からバーサーカーは受け止め、そしてその全てを無効化した。

 アサシンが近付こうにも、バーサーカーは攻撃など無いかとように暴れ回る。黒い旋風の中に不用意に立ち入れば引き裂かれるのを知っている以上、アサシンも手を出せないでいた。

 

「ぅ……ッ⁉︎ おェっ……げほっ、ごほッ……⁉︎」

 

 キャスターの苦戦に伴って魔力消費も加速し、口元を抑えた楓の顔色がみるみる悪くなっていく。

 しばらくすると立てなくなったのか、苦しそうに呼吸を繰り返しながら楓は地面の上にへたり込んだ。

 

「……‼︎ おい志原、それ以上は駄目だ‼︎ さっきので全然魔力が足りてない‼︎ 分かってるだろ、今でもうすっからかんなのに搾り取ろうとしたら命が危ないんだぞ⁉︎」

 

「ハァッ、ハァッ……ぁ……は、ハァッ……ぅぐ……は……ぁ‼︎」

 

 吐き気を噛み殺して、楓は奥歯をきつく噛み締める。全身から生気が抜けていくのが止まらない。魔力は即ち生命力であり、ただでさえ魔力を失った今、このままでは生きるために必要な機能すら阻害されかねない。

 それを、苦しみと痛みに悲鳴を上げ続ける身体で思い知らされてなお──、

 

「バカね……私は、魔術師よ……自分の道を貫くためなら、当然死ぬ事だって覚悟してるんだから……」

 

「目的を求めて死んだら元も子もない‼︎ いいから魔力の供給を切れ、僕とアサシンでアイツは何とかしてみせる……‼︎」

 

 倫太郎は楓の肩を掴んで懇願するように言ったが、楓は一向に聞き入れようとしない。

 メキメキ、と木々が裂け砕ける音はいつのまにか近づいてきている。サーヴァント二騎がかりでもマスターの位置から引き離せないほど、あのバーサーカーの強靭さは群を抜いているのか。

 時折響いてくる咆哮は腹の底に響くような恐怖をもたらし、倫太郎だけでなく楓の精神をも激しくゆさぶってくる──。

 

「クソ……‼︎ 参った、まともにやりあったんじゃコイツに歯がまるで立たん……‼︎」

 

「……つけいる隙も、ない……‼︎」

 

 破壊する。

 地面も、木々も、サーヴァントも、マスターも、僅かな勝ち筋さえも、あの巨人は全てを破壊し尽くすまで止まらない。

 一時的な視覚共有でその様を確かに確認してから、倫太郎は最後の手段を選択する覚悟を決めた。

 

「アサシン、宝具だ。アレはここで倒す」

 

「マスター……いいの?」

 

「リスクは分かってる。たぶん、僕らはここでゲームオーバーだけど……揃って全滅するよりはずっとマシな筈だ。聖杯を破壊する役目だって、最悪志原に引き継げばいい」

 

 何を言ってるの、といった顔で倫太郎の方を見つめる楓。

 魔力がすっからかんなのは倫太郎も同じだ。当然宝具を解放する余裕は無いはずだが、倫太郎の目に迷いはない。

 アサシンの宝具は諸刃の剣だ。

 ──「妄想死滅」。

 直死の魔眼のスペックを限界まで引き出す代わりに、アサシンの視覚能力はほぼ失われ、同時に過度使用(オーバーヒート)によって彼女の脳は破壊される。敵だけでなく自分すらも殺し尽くす……実質的に、自滅宝具と言っても過言ではない代物だ。

 アサシンがそれを放った時、倫太郎は聖杯戦争から脱落するだろう。そしてその一撃を受けてなお、バーサーカーが残っていたとしたら。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■──‼」

 

 悪い可能性を考慮している暇はない。

 黒い暴威はサーヴァント二騎程度で押し留められる筈もなく、乱雑無法に暴れ回る。

 迷っていればそれだけ悪化していく状況だ。

 魔力はほとんど残っておらず、大してバーサーカーの方には未だ力が有り余っている。まともに競り合ったんじゃ敗北必至、この状況をひっくり返すには一か八かの勝負に勝つしかない。

 

「ごめん。それでも頼むよ、アサシン。君の宝具で、あのバーサーカーを……」

 

 苦渋の決断を無理やり下し、倫太郎はその言葉をアサシンに伝える。

  ──だが、その瞬間だった。

 

「……⁉︎」

 

 倫太郎は、鳴り響いた轟音を聞き、反射的に視線を木々の奥へ向けた。

 数十メートル先で舞い散る落ち葉の嵐が、すぐ近くでサーヴァント三騎が戦っていることを示している。だがそれには視線を向けず、倫太郎は木々の間を飛ぶ巨大な影に視線を集中させていた。

 太く、しなやかで、巨大な飛翔体。

 運が悪い、としか言いようがない。それがバーサーカーが吹っ飛ばし、根元から寸断された木そのものだと倫太郎か気付いた時には、もうそれは回避不可能な場所にまで接近していた。

 視線を落とす。傍にはへたりこんだ楓、目の前には激突ルートを飛んでくる巨木の幹。

 己の周囲の状況を全て呑み込んだ上で、倫太郎は──、

 

「────くそ‼︎」

 

 楓を庇う形で、その大質量の落下をまともに受け止めた。

 

 

 

 

 意識が朦朧とし始めていた楓は、ぐちゃり、という変に悪寒を感じる音を聞き取って意識を取り戻していた。

 全身を苛む魔力切れの苦痛と空虚感は消えないまま、霞む視線を彷徨わせる。微かに聞こえてくる咆哮、ざわめく森の木々、足元に積もった血に濡れた落ち葉……。

 

「……ぇ?」

 

 視線を横へ。地面に突き刺さるようにして止まっている巨木の残骸、その傍に。

 

「な、なんで……嘘」

 

 多量の血を流して倒れる、倫太郎の姿があった。

 位置的にまともに巨木の衝突を受けたのか、倫太郎はすぐそばの幹に背中を預けるようにして意識を失っている。だがその衝突のお陰で木の幹のコースは微かにズレ、楓の身体のすぐそばに着弾したらしい。

 その木の幹にはべっとりと赤い鮮血が付着していて、返り血は楓のすぐそばまで飛び散っていた。生きているのかすら怪しい、そんな状態の彼を見て楓の呼吸が一瞬止まる。

 

「し、しっかりしなさいよ……ねぇ。ちょっと、まだ殴りたりないってのに勝手に死ぬなんて許さないわよ……⁉︎ コラ、寝てないで返事しなさいって‼︎」

 

 倫太郎は確か、宝具を使って戦闘を終わらせる……と言っていた。

 けれど戦闘音は止んでいない。

 意識を失っていたのは一瞬なのか、数分なのか、楓には判別がつかなかった。ともあれその宝具の使用はマスターの指令が途絶えた事で未だ成されていないらしく、絶望の敵との戦いは未だに続いている。

 

「ぎ、ぅ……⁉︎」

 

 楓の魔術回路が悲鳴をあげる。もう一滴も残っていないのに無理やり絞り出され、楓の血液そのものすら魔力に変換されて外に流れ出している。

 

「やるしか──ないじゃない。もう、どうにでもなれって……感じ」

 

 その状態でなお、楓は拳を握った。

 念話なんて器用なコトはできないから、掠れた声を無理やり張り上げる。木々が裂け散る音に負けないくらい、必死で。

 

「キャスター、宝具を使いなさい……‼︎」

 

 第一、第二宝具は消費魔力が多過ぎるし、なによりセイバーとの戦いでのダメージが未だ残っている。ただ、キャスターが持つ第三宝具は消費魔力も少なく、戦闘にも役立つコストパフォーマンスに優れた宝具だ。

 主の声をきちんと聞き取ったのか、キャスターの声が頭に響いてくる。

 

『楓ちゃん、そっちに木が吹っ飛んだみたいやが無事で何よりや‼︎ んで宝具を使えやと⁉︎ 君も自分の状態くらい分かるやろ、無茶や‼︎』

 

 咳き込んだ楓が手元を見ると、一緒に飛び出してきた血がこびりついていた。

 こりゃあ倫太郎とどっちが死ぬのが早いのやら、なんてどこかぼんやり考えつつ、楓はそれでもいいと大声で叫ぶ。

 

『………………ああくそ、この状態や、賭けるには宝具開放でちっちゃと決めるしかないか。自分の非力を恨むで、ほんまに……‼︎』

 

 念話が途絶え、楓はずるずると倒れ込む。

 ──これでいい。

 茂みの向こうで感じ慣れたキャスターの魔力が膨張し、炸裂する気配があった。

 その瞬間、全身の骨をすり潰すような、全身の神経を根こそぎ引きちぎったような、表現するのすらおぞましい激痛が楓の全身を走り抜ける。絹を裂くような悲鳴を上げて、楓は落ち葉を巻き上げながら転がり回った。

 

「キャスター……おね、が……ぃ……はやく、倒し……」

 

 うずくまって痛みを必死で堪えながら、楓はただ戦いの終わりを待ちわびる。

 満身創痍の二人を残して、サーヴァント三騎の戦いは更に熾烈さを増していく──。

 

 

 

 

「■■■■■■■■‼︎ ■■■■■■■■■■■■■■■■■──‼︎‼︎」

 

 もう何度、振るわれる斧剣を掻い潜ったのか。

 鬱蒼と茂る森の中を三次元的に跳び回りながら、アサシンは停滞どころか刻一刻と悪化していく戦況に歯噛みする。

 ──このままでは負ける。

 恐らくなし崩し的に共闘している向こうのキャスターもそれは感じ取っているはずだが、バーサーカーと思しきサーヴァントの力は圧倒的過ぎた。

 

「マスター? 返答して、マスター……⁉︎」

 

 更に悪い事に、マスターからの念話が途絶えてしまった。

 いつ何時も感じている主との繋がり(ライン)が弱まっているのが分かる。倫太郎は命の危機に瀕しているのだ。戦闘の余波をまともに喰らったのか、ともあれ主が瀕死なのでは宝具を使う訳にもいかない。ただでさえ魔力切れの今で宝具を使用すれば、魔力が潤沢な倫太郎とはいえ残り微かな生命力を絞り尽くされて死ぬだろう。

 

「──ぐぅぅぅ……‼︎」

 

 必死でアサシンはバーサーカーの動きを掻い潜り、その懐に潜り込もうとする。

 横殴りの斬撃──回避。

 続いて振り下ろしの兜割り──回避。

 地面が爆ぜる衝撃波──被弾、無視。

 幾重もの死線を掻い潜って、多少の傷は完全に無視し、アサシンは小さな、されど必殺の刃を届かせようとするが──、

 

「げぶっ⁉︎」

 

 右腕の拳打がまともに腹部を捉え、アサシンは口から鮮血を撒き散らしながら滑稽なほどの速度で吹っ飛んだ。

 木々の幹になんどか衝突し、小枝や葉を巻き込みながら地面を転がって倒れこむ。

 ……相当重い一撃を、モロに受けた。

 四肢が痙攣して動かない。呼吸は乱れるどころか停止して、酸素を吸い込もうにも血の塊ばかり溢れてくる。げほっ、がはっ、と吐血して辛うじて酸素を吸い込んで、アサシンは視線を上げた。

 

「…………っ」

 

 目の飛び込んできたのは、酷い光景だった。

 アサシンのマスターである倫太郎は、奥の木に叩きつけられて意識を失っている。出血だけでも命に関わる重症だろう。赤銅色の髪が更に生々しい赤色に彩られ、木刀を握る手には何の力も残っていない。

 そしてキャスターのマスターといえば、魔力を搾り取られてもう動く力も残っていないらしい。倫太郎の側でうずくまり、悲鳴を押し殺しながら不気味に痙攣している。こちらも十分ともたないだろう。

 

(これは……私でも、もう──)

 

 アサシンは避けられぬ敗北を予感した。

 二人のマスターは満身創痍の上に魔力切れ、サーヴァントの攻撃は少しも届かない。単純に敵の戦力が高すぎるが故に、彼らはここで敗北する──。

 

「■■■■■■■■■■■■■──‼︎‼︎」

 

 絶望に瀕したアサシンに影が落ちた。

 黒い災害が、めいっぱい巨大な斧剣を振り上げて落下してくる。狙いはアサシン、それだけでなく衝撃で瀕死のマスター二人もまとめて死ぬだろう。

 

「う……う、あああああああああ──‼︎‼︎」

 

 アサシンはそれでも、数秒後に両断されて死ぬことを知りながらナイフを握り締めた。

 最期まで戦わず、敵に屈して死ぬのは、サーヴァントとして仕える倫太郎に対する裏切りだ。たとえ敗北しようと、主を守れないと決まっていようと、彼女は最後まで彼の信頼に応えると決めた。

 巨躯は地へと向かい、小さな暗殺者はそれを迎え撃たんと空へ跳ぶ。

 敗北が決まりきった、その決着の寸前──、

 

「────そこや、破敵‼︎‼︎」

 

 横入りする形で飛来した一本の直剣が、バーサーカーが振り下ろした斧剣を弾き飛ばした。

 そのお陰で辛うじて刃の軌道は逸れ、アサシンの身体は無傷でバーサーカーに肉薄する。

 ──まさに、千載一遇の好機だった。

 殺せる。無傷で攻撃を潜り抜け、その身に刃を届かせる事さえできれば殺せる。

 幸い相手は理性の消えたバーサーカーだ、自分を鏖殺することしか考えてはいない。身体に傷をつけずとも、ただ視きった「点」を突けばそれだけでケリはつく──‼︎

 

「やったれ、暗殺者……‼︎」

 

 この瞬間。

 アサシンとキャスターの二騎は、二つの思い違いを犯していた。

 ──まず一つ。

 この泥の巨人は、狂気に身を歪めてなお、その戦闘感覚(バトルセンス)と技量を失わぬほどの大英雄であったということ。

 

「ぇ……」

 

 竜巻のように巨躯が回転し、アサシンの刃をするりとすり抜ける。

 この巨人は数多の命を持つからこそ、この暗殺者の目を最初から警戒していたのだ。この女は宝具による蘇生とかそういった次元の力を全て無視して自分を殺す力がある、と。

 故にバーサーカーは理性ではなく、研ぎ澄まされた戦士の生存本能から、そのたわいない筈の一撃を全力で回避した。

 

「────⁉︎」

 

 交差の瞬間、巨腕が円弧を描いてアサシンの脇腹に突き刺さる。

 これで二撃目。

 アサシンの身体が今度こそ完全に破壊され、彼女は悲鳴すら上げられず血反吐を吐いて吹っ飛んでいく。腐葉土に突っ込んで停止した小柄な暗殺者は、今度こそ動けなくなってその意識を途絶させた。

 

「チッ、ああくそ、出鱈目な──‼︎」

 

 横から攻撃を仕掛けたキャスターは、宙に浮く二振りの霊剣を素早く手元に引き寄せた。

 ──双剣の名は、「護身」に「破敵」。

 安倍晴明が用いる第三宝具にして、かつて京を襲った大火によって消失した際、安倍晴明を含めた陰陽師たちが再び鍛え直した由緒正しき霊剣である。

 その銘が示す通り、この剣の役割は大きく二つに分かれている。魔を打ち倒す「破敵」、そして担い手と人を守護する「護身」だ。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■……ッ‼︎」

 

 鬱陶しい闖入者を蹴散らそうと、バーサーカーの巨躯が地面を蹴り飛ばして方向を変える。

 アサシンはとうとう無力化され、マスターの魔力はとうに限界を越えてデッドラインに迫っている。一人残ったキャスターに残された道は、次の瞬間の激突でこの巨人を打倒するしか残されていなかった。

 もう戦いを長引かせる猶予はない。

 今までの彼の攻撃は全て、巨人の体躯に傷一つ与えられなかったが──それでも宝具たる「護身」・「破敵」を用いた攻勢ならば仕留められるかもしれない。

 もうまともに動く力すらない少女から、更に魔力を吸い上げるしかない我が身を呪い殺したいほど恨みながら、キャスターは主を守るために暴威の巨人を迎え撃つ。

 

「──護身‼︎」

 

 防御に特化した双剣の片割れが、まるで不可視の剣士に握られているかのように鮮やかな速度でバーサーカーの斧剣を押し留める。

 ──ここだ。

 二つの刃が拮抗している僅かな間に、キャスターが出し得る最大火力をこのバーサーカーに叩き込む。

 

「破敵──式神跋祇(はっし)、青龍纏成‼︎」

 

 振り上げられた攻撃用の長剣が、青龍の力を瞬間的に宿して美しい青色に輝く。

 この二振りの霊剣は本来戦闘に用いるものではない。その刀身にはびっしりと刻まれた正座や四神図が示す通り、陰陽術を行う上で必要となる祭器としての側面が強いのだ。

 つまり、この剣の真価はその鍛え抜かれた鋭さにあるのではなく、「莫大な四神の力を限定的に再現する」祭器としての力にある。

 この瞬間に破敵剣が呼び覚ましたのは、東方を守護する十二天将が一にして神に至った竜種である青龍の力。物理的な絶対零度すら超越した魔氷が轟然と刀身を包み込み、霊基すら一撃で凍て付かせる斬撃を放つ。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■‼︎‼︎‼︎‼︎」

 

 眼前に刃が迫っても、巨人は怯みもせずに護身剣を押し込み続ける。

 当然、あまりの無防備を晒す巨人の躰に、キャスターは全身全霊最高速をもって青龍の力を宿した破敵剣を叩きつけた。剣影が残像を残して数多に見えるほどの超神速で、破敵剣は氷の結晶を撒き散らしながらバーサーカーの身体を無慈悲に切り裂いていく。

 

(……キャスターやからと侮んなよ、得体の知れんバーサーカー風情が。破敵と護身を使った僕はセイバーの剣技とも互角や──‼︎)

 

 凄まじいまでの斬撃の嵐。

 砕け散った氷の結晶は霧のように霧散し、キラキラと輝いて巨人の身体を包み込む。

 キャスターは微かに目を細め、破敵によって全身をズタボロにされたバーサーカーの姿を捉えた。無残に切り裂かれた全身からは血が溢れ出しており、身体の表面で蠢く黒泥と混じり合って不気味にグスグズと音を立てている。

 ──この傷は致命傷だ。

 特に、胸に深々と突き刺さった破敵剣は霊格をブチ抜いている。

 これほどの傷を負った上で存在し続けられるサーヴァントなど、存在するはずがない──。

 

「⁉︎」

 

 にも関わらず、キャスターの背筋を悪寒が襲う。

 全力で後方に飛び退ろうとして──しかし、遅かった。致命の傷を負った筈のバーサーカーが血を振り撒きながら護身を弾き飛ばし、無防備なキャスターに大質量の斧剣を振り下ろす。

 

「ガ──────ッ、は……⁉︎」

 

 ──これが、致命的な思い違いの二つ目。

 このバーサーカーの全身を守護する常時展開型宝具……「十二の試練(ゴット・ハンド)」の効果は、バーサーカーが死亡した際に自動的な十一回分の蘇生(リザレクション)を発動させる。つまり彼を打倒するためには、十二回の殺害が必要となるということ。

 噴き出した鮮血が霧状になって舞い、切り裂かれたキャスターの式服が散れ散れになって飛んでいく。

 僅かに掠っただけだったが、その威力と速度は容赦なくキャスターの身体を破壊した。彼は落ち葉を巻き上げて十メートル以上転がると、とうとう動かなくなる。

 

「そん……なぁ……」

 

 楓は、朦朧としてきた視界でその光景を捉えていた。

 彼女が信頼するサーヴァントもとうとう力を使い果たし、この場所で動ける存在はあの巨人ただ一人となった。

 もはや貌すら失われた不気味な巨人は、ゆっくりと楓の方に近づいてくる。凶星に似て赤く輝いている眼光を見て、楓は不可避の死を感じ取った。

 ──まず……私が殺される。

 奴がとそらく、楓がポケットに入れたままの謎の破片に惹かれる形で彼女らに奇襲を仕掛けてきたのだ。それが何者かの意思なのか、バーサーカーの暴走によるものなのかは分からないが、まず目標物の持ち主が脅威に晒されることは間違いないだろう。

 

「…………っ」

 

 怖い。目の前の敵がこんなにも怖い。

 こんなにも怖いならいっそはやくその斧剣で自分の体を轢き潰してくれ、とさえ懇願したくなるくらい、平凡な魔術師にその存在感は圧倒的過ぎた。

 目をつぶって、斬首刑に処されるすぐ前の罪人のような気分を味わいながら、巨人がたった数メートルの距離を詰めてくるのを待つ。

 身体に響いてくる、地面を一歩ごとに揺るがす巨大な足音。

 そして、落ち葉を踏みしめるだけの、弱々しくて微かな足音──。

 

「え?」

 

 ありえない筈の気配に顔を上げる。

 影が落ちた地面、濃い血の匂い。

 痙攣する手は木刀を握るというよりひっかけているような形だったが、しかし彼はまだ立っていた。

 繭村倫太郎は意識を半分失ったまま、それでも凛然と巨人の前に立ち塞がったのだ。




【ヘラクレス・オルタ】
詳細不明。「十二の試練」の能力は完全に引き継いでいる。

【護身・破敵】
ランク:C
種類:対人宝具
安倍晴明の第三宝具。一対からなる霊刀。一時的に「十二天将」の力を刀身にインストールすると、ランクA相当の業物に変化する。
キャスターにとっては使いやすい愛剣。安倍晴明におけるエミヤズ・フェイバリット・ソードの干将・莫耶みたいなポジションだと思ってもらえると話が早いかもしれない。


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四十一話 絶望の果てに

 もう夕日も沈み切った藍色の空。早くも薄暗くなり始めた森の中で、その二人は対峙していた。

 

「バカっ……なに、やって……」

 

 張り上げようとした声は掠れて続かず、楓には目の前の倫太郎を呆然と見守ることしかできなかった。

 

「──────」

 

 倫太郎は無言だ。眼前に黒泥の巨人が立っているこの状況においてなお、倫太郎は一歩も退こうとしなかった。

 彼の意識はほとんど失われ、危機感も敵の重圧もまるで感じていないらしい。頭から流れる血は今も彼の足元を赤く染め、力の抜けた両手はだらんと垂れ下がっている。死人か幽霊かと見紛う姿だったが、それでも彼はいまだ生きていた。

 

「■■■■■■■■■■■」

 

 言葉ではない、唸り声に似たおぞましい声が倫太郎に浴びせられる。

 楓はその光景を見せつけられながら、必死で言葉を絞り出そうとしていた。

 だって彼の行為には何の意味もない。

 当然、倫太郎があの巨人をどうこうできるはずがない。そして巨人の狙いが楓なのであれば、わざわざ立ち塞がらずとも彼はその斧剣で潰されずに済んだかもしれないのに。

 

(ああもう、なんでわざわざ余計なことして無駄死にしようとしてんのよ、このあんぽんたん……‼︎)

 

 巨人は手を伸ばせば届くほどの至近距離まで倫太郎に近づくと、手にした斧剣を天高く振り上げた。

 ──終わる。

 あの剛刃が天辺まで掲げられ、振り下ろされた時が最後。倫太郎は何もできずにその凶刃に倒れることになるだろう。

 

「やめて……そいつは、関係、な……」

 

「■■■■■■■■■■■■■──‼︎」

 

 慈悲はなく。空気を裂いて、一直線に巨大な刃が倫太郎に向かって振り下ろされ──‼︎

 

 ……一秒後の楓が目にした光景は、予想とは全く異なるものだった。

 ズン、と地響きをたてて、あれ程猛威を振るっていた斧剣が地面に突き刺さる。片膝をついた巨人は、初めてその口から敵に向ける咆哮ではない唸りを漏らしていた。

 

「■■■■……■■■■■■■■……?」

 

 巨人の身体が次々に融け落ち、穢れた泥となって地面に染み込んでいく。

 まるで腐肉が身体から零れ落ちるような不快な光景を目の当たりにして、楓も倫太郎も言葉を発することができなかった。できることといえば、ただ黙して巨人の崩壊を願い続けることだけだ。

 身体を七割ほど失いながら、巨人は崩れ落ちる巨腕を持ち上げ、倫太郎の身体を掴もうと手を伸ばす。だが、その掌が瀕死の倫太郎を掴むより僅かに早く、巨人は完全にその輪郭を失った。

 バーサーカーだったモノは諦め悪く蠢いていたが、やがて他の大部分と同じように地面の底へと消えていく。

 

「────終わった……の……?」

 

 無音になった森の中で、楓の呟きはやけに大きく聞こえた。

 その呟きをきっかけにして、倫太郎は糸が切れたように地に倒れる。後に残されたのは莫大な暴力による破壊の跡と、ボロボロになった魔術師の二人だけたった。

 

 

 

 

「──あー……遅いよ、お兄ちゃん……」

 

 俺が駆けつけた頃には、空はすっかり黒色に埋め尽くされていた。明かりのない森の中は暗かったが、漂ってくる血の匂いが目的地を明確に教えてくれた。

 全力疾走の後で息を切らしながら、目の前に広がる光景を数秒がかりで呑み込む。

 楓からの着信に慌てて学校裏の森に向かってみれば、地面は抉れるわ木々は刈り取られるわの惨状が広がっていて、俺は焦りながらその奥へと足を踏み入れたのだ。

 

「っ────」

 

 何があったかは今はどうでもいい。

 楓に目立った外傷はないが、笑おうとする口元は吐血した血の跡で汚れていた。憔悴しきっているのか、顔は真っ青で立ち上がろうともしない。

 そして彼女の傍には、頭から血を流して倒れる一人の少年の姿がある。

 彼がどこの誰かは知らないが、とにかく酷い重症だと一目で分かった。正直生きているとは思えないくらいの出血量だ。その少年の生還は絶望的か、と考えながら楓に駆け寄る。

 

「あはは……そいつの止血くらいは、したかったんだけど……もう、手がまともに動かないみたい。電話、するくらいはできたから……よかった」

 

 その言葉を示すように、倒れた少年の頭には楓の制服が被せられている。本当はそこから結んでせめてもの止血を試みたのだろうが、どうやら結ぶ力すら残っていなかったらしい。

 

「くそっ──セイバー、何がどうなってるか分かるか? そこの奴は酷い怪我だし、楓も外見は大丈夫だけど苦しそうだ。俺はどうすればいい……⁉︎」

 

「落ち着いて下さい、ほんと妹には過保護ですねケントは」

 

 つい最近こんなやり取りをしたなあ、と思い返すと確かに冷静さは戻ってきた。

 そんな俺を見て良しとしたのか、セイバーは楓の身体をざっと一瞥してから重症の少年の方に視線を移す。

 

「彼女は単純な魔力不足みたいですが……その状態で更に魔力を吸い上げられたみたいですね。魔力変換された血液の不足と体全体の臓器不調、拒否反応による神経痛を発症してるみたいです。しばらく安静にして、魔力の回復を待てば自ずと治ると思いますが」

 

「そういうこと……私はいいから、そいつを」

 

 楓は目線だけで傍に倒れる少年を指す。

 その言葉よりもとうに早く、セイバーは少年の身体を慎重に抱えてその怪我の具合を測っていた。少し意外な彼女の姿に、俺は息を呑んでセイバーの言葉を待つ。

 

「──頭部に負った傷がかなりの重症ですね。頭蓋骨にまでダメージが響いてます。普通の人間ならこのままくたばるような大怪我ですよ」

 

 ですが、とセイバーは自分の言葉を中断させ、抱えていたはずの少年を無造作に地面に投げ出した。

 ゆらりと立ち上がるセイバーの目には、先ほどとは違う何か別の色がある。まるで敵対者にのみ向けるような、敵意に満ちた目線をセイバーは少年に向けているのだ。

 

「おい、何して……」

 

「ケント。この少年はマスターです」

 

 瞬きののち、セイバーは倒れた少年の首元に蒼色の長剣を突きつけていた。

 その言葉の意味が理解できぬほど俺は愚かじゃないつもりだ。今の今まで勘違いしていたが、この少年は戦闘に巻き込まれた一般人などではなく──敵。

 

「どうやら良質な魔術刻印を持っているみたいですね。そこに刻まれた治療術式が自律的に働いて、彼の怪我を修復しようと試みているみたいです。このまま放っておけば数日は動けないとは思いますが、死ぬ事もないでしょう。ゆくゆくは私たちの敵として再び現れるはずです」

 

 セイバーの声はどこまでも冷淡だ。

 「ここで殺さなければいつか敵になるぞ」と言外に示すセイバーは、その切っ先を僅かに首元に沈める。

 

「……殺すのか。無抵抗だぞ」

 

「敵ですから。ケントに判断を委ねようか迷いましたが……やはり私が独断で殺します。ケントに人を殺すか生かすかの選択をさせるのは酷ですし、私ならそういう役割に向いていますからね」

 

 その言葉に俺がムッとして反論するよりも早く、話すのさえ辛い筈の楓が口を開いた。

 

「待って、セイバー……それは、やめて」

 

 その言葉にセイバーは動きを止め、しなやかな動きで剣を担ぎ上げる。

 だがその目は依然として冷たさを伴ったままで、楓の言葉次第では殺す事も辞さないという事が理解できた。

 

「──どうして貴方が止めるんですか?」

 

「それは……その……」

 

 言葉に困るように、楓は目線を逸らして俯く。

 困ったりやらかしたりするとすぐに目線を泳がせるくせに、こういう時のセイバーは決して相手から目を逸らそうとしない。その上魔王の威風を伴っているんだから、目を合わせたくなくなるのも道理だ。

 

「そいつは……確かに、敵で、ろくでなしで、馬鹿な奴だけど……」

 

 楓はちらりと倒れる少年に視線を向け──、

 

「それでも、そいつは私を庇って……その怪我を自分から受けたの。その恩は無視できないし……騙し討ちみたいなの、やだし……だから今は……その、見逃してやってほしい、かなー……って」

 

 セイバーはしばらく無言で楓を見つめ、どうすべきか考えているようだった。

 俺としても可能な限りはセイバーに殺人なんて犯してほしくはないし、弱ったところをはいバッサリ、じゃ寝覚めも悪いだろう。

 そうだそうだ、なんてこれ幸いと便乗したらセイバーに睨まれ、すごすごと引き下がる俺。

 

「──ハァ。仕方ないですね。魔術師らしからぬその甘さには好感を持てますが、いつか身を滅ぼしますよ」

 

 セイバーはその目から殺意を抜き、嘆息するように剣を手から搔き消した。

 ほっとして息を吐く俺と楓をよそに、セイバーは改めて少年のそばに屈み込む。そんなセイバーの姿を見て、俺はひとまず楓の方を振り返って──、

 

 目にどーんと飛び込んできたのは、血まみれになった男の顔だった。

 

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼︎⁉︎」

 

 落ち葉を巻き上げてひっくり返る俺。

 なんだ幽霊かゾンビかはたまた敵襲か。ビビってひっくり返った勢いのままぐるんと綺麗に後転し、内ポケットのハンドガンを勢いよく引き抜く。

 息を切らしつつ安全装置を外した俺の前で、その幽霊もどきは口の端を吊り上げて笑っていた。

 

「おもろい反応……してくれんなぁ、ほんま」

 

「……あっ、お前、キャスターか⁉︎」

 

 ボロボロになった血まみれのキャスターは、その言葉に返答するように片手を上げた。

 

「ゲホッ……はぁ、くそぅ。僕ともあろうものが酷いザマや……。まぁええ、今言いたいんは愚痴ちゃうんや。健斗クン、君に少し魔力を借りたい」

 

 キャスターは真剣な顔に戻ると、先程から黙りこくっていた楓の方を振り向いた。彼女は全身の力を抜いたまま、ぴくりとも動こうとしない。

 ギョッとして思わず駆け寄ろうとした俺を制止し、キャスターは言う。

 

「安心せえ、安心して気絶してるだけやし。で、僕に任せてくれりゃあ手早くこの状況を元どおりに治せるんやけど──知っての通り楓ちゃんは魔力切れや。そこで君の魔力が必要になるわけやな」

 

「……さっきからお前、どうも怪我してる感じがしないんだけど。なんでそんな腹裂けてるのに余裕なんだ」

 

「僕ぁ幻想種たる妖狐の混血やからな、痛覚は鈍いし傷の治りも通常サーヴァントに比べて早めなんや」

 

 よく分からないが血に人外のものが混じっているおかげで、身体的な機能もヒトより優れているという事だろうか。

 とにかく、「魔力をよこせ」と言われても具体的に魔力供給とは何をどうすればいいのかさっぱり見当がつかない。俺が首を傾げて具体的に何をすればいいのか尋ねようと口を開くと──、

 

「ちょっと。何言ってやがるんですか、私のマスターに向かって」

 

 横合いからずい、と割って入ってきたセイバーが不機嫌そうな顔でキャスターを睨みつけていた。

 それを見たキャスターはしばらくセイバーを眺め回してから、意地悪い笑みを浮かべて愉しげに反論する。

 

「え? 魔力供給がどうしたって? 僕ぁただ魔力を分けてもらいたいと言っとるんや」

 

「シラを切っても私は知ってますよ、魔力供給する上でどうしたもこうしたも無いでしょうが‼︎ け、ケントと貴様みたいなのが魔力供給をするとか、それはさすがにこの世の摂理に反するというか単純にダメというか、考えるだけでウンザリするので二度と口にしないでください‼︎‼︎」

 

 セイバーの怒りっぷりというか、剣幕というか、それはとにかく凄いものがあった。ガァーッとまくし立てるセイバーは怒りからか顔を真っ赤にしているが、その理由がピンと来ずに俺は首を傾げる。

 

「なぁ、なんでセイバーはそんなに怒ってんの? 魔力をちょっと渡すくらいいいだろ、俺はどっかの名家の生まれとかで魔術回路とやらは優秀なんだしさ」

 

「ダ、メ、で、す‼︎‼︎ ケントは黙ってて下さい‼︎‼︎」

 

 おでこをおでこで頭突きされつつ大声を超至近距離で浴びせられ、思わず俺は耳を抑えてセイバーから離れるように転がった。

 運の悪いことにその先には満身創痍のキャスターが胡座をかくように座っており、怪我人にぶつかる訳にもいかないので慌ててブレーキ。

 と、俺が立ち上がろうとするとキャスターは突然俺の顎を片手で持ち上げ──、

 

「ええと思うよなぁ? 健斗クン……?」

 

 何故かものすごくネッチョリした美声で、俺に謎の確認を取ってきやがった。

 

「はぁ? まぁ……うん、いいよ。魔力をお前に渡せばいいんだろ?」

 

「おっしゃ許可はもろたで。悪いなぁセイバー、君がなんと言おうが君の主は乗り気みたいや」

 

 はぁ〜〜〜〜⁉︎ とか叫んでセイバーが激怒する理由が本当の本当に理解できず、とにかく怒れる魔王は怖いので両手を上げて落ち着かせようと試みる。

 だがそんな努力もむなしく、セイバーはとうとう剣まで持ち出しやがった。空を切る不気味な音ともに切っ先が俺に突きつけられ、とうとう理由が分からないまま怒られ続けた俺も憤慨する。

 

「ななっ、なんだよ、なんなんだよお前‼︎ いいか、たぶんキャスターは術師だし回復魔法的なヤツも知ってるんだ‼︎ 要は俺がその分のMPを回復してやれば早く済むって話だろうに、どうしてお前はさっきからそう激怒してるんだよ‼︎」

 

「それは──‼︎」

 

 言葉を途切らせ、ピタリと静止する魔王さま。

 ぐぎぎぎぎ、と歯を食い縛りながら、続いきを言おうか言うまいかと必死で悩んでいるらしい。せっかく綺麗な蒼色の長髪をがーっと掻いて謎の葛藤に悶絶している。

 そしてそれを実に愉しげに眺めるキャスターを見ているとなんだか嫌な予感を感じるのだが、とうとうセイバーの葛藤が終わった。彼女はやっぱりフラフラと目線を泳がせつつ──、

 

「それは……あのですね、ケントは知らないと思いますけど……まず魔力供給とは非常に倫理的な問題に触れるというか……最低でもごにょごにょ……しなきゃなので……ヤっちゃいけないというかですね」

 

「声が小さ過ぎるって。問題がどうのこうのってどういう事だ。そもそもやっちゃいけないって何を?」

 

「あ、あ……ああもうやかましいですね‼︎ もうヤケです‼︎ いいですかケント、そもそも魔力供給をする為には基本的に──」

 

 しどろもどろなセイバーがとうとう声を張り上げ、森の中に響き渡るような声で言っちゃいけないナニカを叫ぼうとした瞬間だった。

 

「セイバーちゃんよぅ。君がなにをどう考えてるかは知らんけどやな、僕の陰陽術を用いた魔力供給は実にスマートかつ健全なモンや。献血みたいなモンで、互いの合意があれば簡単に済む。当然ながら、君が想像とるようなコトは一切必要ないんや」

 

「は?」

 

 セイバーの身体が凍りつく。

 全身を不可解と困惑に縛られたまま、かろうじてセイバーが絞り出した言葉は「は?」の一言だった。

 それからは見ものであった。まずセイバーの顔が羞恥に真っ赤になり、自分の間抜けさに対する怒りでさらに真っ赤になり、そして自分を巧妙に弄んだキャスターへの怒りで限界突破真っ赤っか状態へ。

 

「う、う……うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ────っ‼︎‼︎」

 

 だが、セイバーにとっては何気に恥ずかしいのが一番精神的にキタらしい。

 彼女は悲鳴とも怒号ともとれぬ叫びを残して、一人で森の中から走り去っていってしまったのだった。残されたのは気絶した楓に、診察途中で放っておかれて心なしか寂しげな謎の少年、そして呆然とする俺にニヤニヤ笑うキャスターである。

 

「……いや、あそこで止めずに最後まで言わせてもうたら、怒りのあまり僕ぁ斬り殺されてたかもなぁ」

 

「分かっててそこで止めたのかお前。……で、結局そのセイバーが言いたかった事って?」

 

「秘密や秘密。さて、供給を済ませるとしよか──」

 

 

 

 

「ぃよし、準備万端」

 

 結局セイバーの魔力供給とやらはすぐに済んだ。

 キャスターが取り出したお札を魔力が溜まりやすいという丹田に貼り付け、そこを魔力的な「門」としてキャスターに向かってラインを繋ぐ。あとはキャスターが必要分の魔力を俺から吸い上げるだけだ。

 といっても聞いただけで、俺には仕組みも構造もさっぱり理解できなかったが。

 

「サンキューやで、健斗クン。楓ちゃんに怪我をさせた分とこの分の借りは、またいつか必ず返すと誓おう」

 

「ああ。何があったかは後で聞くとして、今はとっとと二人を治してやってくれ」

 

 キャスターはどこからか取り出した扇子を勢い良く広げ、空に向かって掲げる。

 その瞬間、空間を揺るがすような振動が、静謐の戻ってきた森を再び揺るがした。

 空間に亀裂が走り、世界のテクスチャに覆い隠された「向こう側」が微かに覗く。

 

「急急如律令っと──吉将、六合ちゃん招来」

 

 亀裂は更に広がり、そこから一人ぶんの人影が優雅に舞い降りてきた。

 ふわりと風に舞う色鮮やかな着物は豊満な身体を包み込み、一つの完成された美を作り出している。その輝くような翠色の髪と美貌は、暗い森の中を照らし出すかのような優美さだ。

 思わず言葉をなくして、俺は無言で亀裂の向こうから現れた天女じみた女性を眺めていた。

 

「おいーっす、久しぶりやなぁ六合ちゃん。早速で悪いんやけど、どうもこの惨状や。ちゃちゃっと傷塞いで魔力補充してくれるとありがたいんやけど」

 

 けらけらと笑いつつ、キャスターは見るも無惨に破け散った自分の式服と血まみれの腹を指差す。

 が、現れた天女らしき女性はまず俺の方にちらりと視線を向け──、

 

「ひ、人に見られるのは……恥ずかしいですぅ……」

 

 消え入るような声でそう言い残し、再び開いた空間の裂け目の中によっこらせと帰っていこうとした。慌ててキャスターと俺は彼女を引き止め、なんとか頼みの綱が仕事拒否で引きこもるのを阻止する。

 

「参ったなぁ、そういや六合ちゃんはぴゅあ(・・・)やから意地汚い人間たちに見られるのが苦手なんやった」

 

「お前だって人間だろうが」

 

「言うたやん、僕は混血やから人間っていう囲いには含まれないの。というわけで──」

 

 いつのまに現れたのやら、俺の足元には数日前散々追い回された式神が二体ほど佇んでいた。

 怪訝な顔でその動きを見守っていると、奴らは可愛らしい動きで俺の足をよじ登り、つい親切心で差し出した掌の上に乗ると、

 

 ──そののっぺりした手で、俺の両目に見事な目潰しを喰らわせた。

 

「いぎゃああああっ、目、目ァぁぁぁぁ⁉︎ お前ッ、キャスターっ、テメエなんてことしてくれやがんだこの野郎──っ⁉︎」

 

「さて、これで邪魔者はおらん。君の力を貸してくれ、六合ちゃん」

 

 俺が目を閉じてのたうち回っている間に、そのシャイな六合ちゃんとやらは晴明の頼みを聞き受けたらしい。

 暗い森の中が優しい光で満ちていくような感覚を閉じた瞳の奥で感じ取り、俺は彼女の力がこの一帯を包み込んでいることを察する。触れているだけでぽかぽかするような優しい光が、俺だけでなく傷ついた者たち全てを照らし出しているのだ。

 

「……お、終わったですよぉ、晴明さぁん……ここ、これでいいんでしょうか……しっかりお怪我は治ったでしょうか……?」

 

「もうしっかりと。いつも助かるで、六合ちゃん。今度酒をちょろまかしてくるからそれを振る舞おう。最近の日本じゃ海の向こうのお酒も手に入るらしいからなぁ」

 

「え、えへへ、楽しみにしときます〜……」

 

 場に満ちていた気配が消失する。

 さっきの光は俺にも作用したらしく、気がついたら目を抑えている必要も無くなっていた。何回か目を瞬せて立ち上がり、キャスターをジト目で睨む。

 

「貸しがあるとか言ってた俺に散々した挙句、盗んだ酒で埋め合わせしようとすんな。このボケ陰陽師」

 

 口笛で誤魔化そうとするキャスターにしばいたろかワレェ、と詰め寄ったところで、俺は肌を突き刺すような殺気を感じ取った。

 ゾッとして視線を向けるより早く、目の前数センチのあたりにナイフが突きつけられる。

 

「………………………‼︎」

 

 息を呑んで目線だけを動かすと、ナイフを突きつけている奴の姿が辛うじて見えた。

 ボサっとした紫陽花色の髪に、乱雑に目を隠すように巻きつけた包帯。やや褐色の肌に張り付くような黒衣を纏った少女が、こちらの様子をじっと伺っている。

 

「待て待て。アサシン、わざわざお前の主も助けたったっちゅうのに、お前は恩を仇で返そうなんて考えとるんか」

 

「……助けろ、とか、言ってない……もん」

 

 俺を挟んで言い合う二人。言葉を聞いていると、どうやらこの少女は倒れていた少年のサーヴァントであるという事が理解できた。

 

「知らんわそんなもん。あの狂戦士(ばけもん)相手に生き延びられたっちゅうんに、まだ戦わんでもええやろ。悪いこと言わんから今は大人しく退いとけェ、暗殺者」

 

「フン。……お礼は、言わない……よ」

 

「ンなモン求めとらんっちゅうに。ホレ、そこで転がっとるマスター担いでとっとと帰った帰った」

 

 キャスターが片手をしっしっ、と振ると、まるで野良犬を追い払うような所作にそのサーヴァントは不機嫌そうな表情を浮かべたが、黙って倒れた少年を肩に担ぎ上げた。

 ちらりとこちらを一瞥した後、暗殺者も破壊の跡がまざまざと残る森から離脱していく。

 結局俺はなにゆえナイフを突きつけられて寿命が縮む思いをしたのかも分からぬまま、呆然とその去り際を見送った。理不尽に命の危機を押し付けられた気がする。

 

「なんだあいつ」

 

「アサシン。暗殺者のクラス、影討ち暗殺を得意とするサーヴァントや。もっとも、彼女はそういうのは嫌いみたいやけど」

 

 そう言う間にキャスターは楓の身体を優しく宙に浮かせ、俺の目の前までやんわりと引っ張ってくる。

 

「じゃあ健斗クン、楓ちゃんを家まで送り届ける任務は君に任せた」

 

「お前はどうすんの」

 

「いーや……なに、気になることがあるんでなぁ」

 

 俺が引き止める間も無く、キャスターは淡い霊子の残滓を散らして空に溶けていった。

 まったく、英雄(サーヴァント)ってのは我が強いからかなんだか知らないが、やたらと自由気ままでマイペースなところがある。凡人が彼らに付き合うにはそれだけで苦労する、というのは最近の発見だ。

 

「ったく、楓を任せたってのに何処に行くんだかあいつは……」

 

 そういやこの場所で起きた事を聞きそびれたが、それは帰ってゆっくり尋ねればいいだろう。

 俺は顔色が良くなった様子の楓を背負って、すっかり暗くなってしまった帰り道を歩き始めた。




【十二天将】
キャスターが世界の裏側から呼び出し、使役する十二体の幻想種。
各々の戦闘能力にはばらつきがあり、「六合」のように戦闘には向かないものも含まれるが、それを除けば各々がサーヴァント一騎ぶんに相当する戦闘力を持つ。朱雀、青龍、玄武、白虎からなる神霊クラスともなれば、その力はAランクサーヴァントにも匹敵する。だが各自が最高ランクの神性を保有しているため、セイバーとは非常に相性が悪い。
六合ちゃんは神サーの姫枠です。


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四十二話 鎌首をもたげる不穏/Other side

 手にしたしゃわぁ(・・・・)とかいう機械から飛んでくるお湯を髪で受け止め、開いた片手でしゃんぷーを泡立たせる。

 鼻腔を刺激する甘い香りに、肌を叩く程よい熱さの水滴が心地いい。 お湯を止めて泡立った髪の毛を両手でわしゃわしゃしつつ、私は横目で風呂につかっている人物に視線を向けた。

 

「ふぃ〜…………」

 

 可憐な唇の隙間から息を吐いているのは、志原楓というケントの妹である。

 湯船に身体を浸けた彼女は栗毛の髪を解いており、濡れた髪が火照った肩に張り付いている。どことなく引き締まった印象のある肢体は、彼女が行使するという肉体魔術に関連しているのだろう。

 

「ごくらくごくらく。えっと……その、セイバーちゃん。こっちのお風呂はお気に召した?」

 

「あ、はい、とても気持ちいいですね。私の時代に、こうして発展した技術があれば良かったんですが……」

 

 泡を汚れと一緒に洗い流し、濡れ切った髪の毛を片側に纏めておく。りんす、とやらは面倒なので無視するとして、髪が終わったら今度は身体だ。

 なんか身体を擦るヤツ(意外と正式名称が定まっていないらしい)にぼでぃそーぷを加えつつ、私は再びチラリとカエデに視線を向ける。

 

「「……………………」」

 

 なんというか、空気がぎこちない。

 その理由くらい私にも分かる。私も彼女も、お互いに距離感を掴みかねているのだ。

 こんな状況だからこそ、「一緒にお風呂でも入って親睦を深めてこい」と言われて共にこの狭い浴室に詰め込まれたのだが。

 向こうからすれば兄と勝手に契約した謎のサーヴァントという認識な筈で、ともすればキャスターから内密に私の真名を知らされているかもしれない。私としてはケントに知られなければそれでいいのだが、博識かつ神秘に詳しい魔術師のような存在にとって、私の正体を知った上で容易く声を掛けるのは難しいだろう。

 そして私としても、別に人間が好きという訳でもない。

 そもそもが「人間にあだなす魔王」なので、ケント一人を除けば、私は基本的には人間に対してはあまり接さないようにしている。ケントの友人やら、家族やらとなればある程度の敬意は払うが、それでもやりづらい所はあるのだ。

 

「……ぁ、あのさ。さっきはついセイバーちゃんって呼んじゃったけど、もしかして気を悪くしたりしたかな。ほら、あなたは自分のこと魔王だって言うし……」

 

「いいですよ、別に。貴方のお兄さんに比べたらちっぽけな事ですし、別に様付けで呼べと言うほどでもありませんしね」

 

 ごしごしと身体を洗いながら、私は思いのままを口にする。

 

「ケントはいつもいつも、私に対して失礼な事ばかりするんです。水をぶっかけたり、足引っ掛けたり……意地悪なこと言ったり」

 

 そういった行動に至った原因は私にあるような気がしたが、全部無視する。

 ……うん、悪いのは全部ケントなのだ。

 そんな事を言うと、カエデは少しだけ笑って私に柔らかな視線を向けた。なんで笑うのか分からなくて、首を傾げてその視線を受け止める。

 

「あ、いや……本当に仲良いんだね、セイバーとお兄ちゃんは。お兄ちゃんがそんなに信頼するんだもん、やっぱりセイバーはいい人みたい」

 

「いい、人……」

 

 そう言われても、とてもそうは思えないが。

 漫然と、リラックスしてあまり働かない頭の中で、その言葉について考えてみる。英霊になってからそんな言葉をかけられるとは、今まで思ってもみなかった事だ。

 

「ねぇセイバー。あなたとは今後も協力しなきゃなんだし、これからはちゃん付けで呼んでいいかな。そっちは好きなように呼んでくれていいからさ」

 

「セイバーちゃん、ですか……魔王としては相応しくない気がしますけど、そうですね。どことなく響きが好みなので許可します。今後も共に戦いましょうね、カエデ」

 

 あ、と楓は口を開けて静止する。

 何かヘンな事でも言ったのかと自分の発言を顧みようかと思ったところで、呆けていた楓は首を振って自意識を元に戻した。

 

「──いや、ゴメン。初めて私の名前を呼んでくれたなと思って」

 

「そうでしたっけ? なにか発音におかしなところとかあったでしょうか」

 

「おかしくないよ。セイバーちゃんって、お兄ちゃんといると楽しそうだけど、それでもどこか人を避けてるような気がしてたからさ。ちょっと嬉しかっただけ」

 

「………………」

 

 私は、そう思われるほど人を避けていたのだろうか。

 そんな事はない、と言い切りたいけれど、思い当たるような節はある。サーヴァントとして使役される存在になった今、「人間」に力を貸す事が求められるからこそ、私は心の何処かで戸惑っている。

 ──かつて、人間は全て私の敵だった。

 彼らに対する考えが途中で変化したとはいえ、私は最期の時、勇者の矢に貫かれて死に絶えるまで「人間の敵」であり続けた。

 そんな私は、こうして第二の生を得ているに近い現状で、果たしてどう振る舞うべきなのか。それがあやふやなままなのだ──。

 

「これからも仲良くしてね、セイバーちゃん」

 

「……はい。よろしくお願いします、カエデ」

 

 だが、はっきりと定義をする必要も無いのかもしれない。

 苦悩も煩悶も全部無視して、私はカエデに向かって笑いかけた。なによりそれが、一番楽しいし正しいような気がしたから。

 

 

 

 

 ──その後、セイバーと志原楓の両名は、「健斗に対する愚痴やら不満(セイバーの場合だいたい彼女に原因がある)」という思いがけない共通の話題によって話に花を咲かせた。共通の話題や趣味は人と人をぐんと近づけることが多いが、彼女らもいい関係を築けるだろう。

 だが──健斗本人からすればたまったもんじゃないガールズトークが盛り上がっている最中にも、聖杯戦争の戦況は大きく動こうとしていた。

 

「……おや、アナ。もうお風呂上がったの?」

 

「残念ながら、今日はゆっくりとお風呂に浸かっている暇は無かったので」

 

 グラスを全て拭き終わった槙野が、タオルで頭を軽く拭きながら現れたアナスタシアに声をかける。

 風呂上がりで火照った白い肌は少し赤みがかかって、どこか艶かしい雰囲気を醸し出している。それを表情には出すまいと内心で決意した槙野だったが、ふと彼女の違和感に気がついた。

 彼女は今、槙野は見たことがない、少し不気味さを感じさせる黒衣を身に纏っている。ワンピース状のその衣装は、日本ではあまり馴染みのない修道服と呼ばれるものだ。首元に掛けられた小さな十字架がやけに異質なものに感じられて、槙野は無意識に唾を飲み込んだ。

 

「見たことない服だけど、それは──」

 

 首を傾げる槙野に、アナスタシアは掌を向けて何かを呟いた。槙野の目は吸い込まれるようにその一点に集中し、思考がたゆんだように覚束なくなる。

 暗示……比較的ベーシックな魔術であり、一般人の目を誤魔化すのには最適ともいえる手段。アナスタシアは普段からこれを彼に行使する事で、さしたる疑問を抱かせることなく、下宿しているバイト兼留学生という身分に溶け込んでいる。

 

「……私は外出しますが、貴方は入浴後、速やかに就寝して下さい。今夜は何があるか分かりませんから、決して外には出ないように」

 

「う……ん、分かっ……た」

 

 虚ろな目に無表情を浮かべる槙野から視線を逸らして、アナスタシアは軽く唇を噛む。

 時計に目を移せば、作戦開始時刻まであと三十分。これ以上ここに留まるわけにもいかず、彼女は修道服を翻して扉に向かった。

 

「どうか気を付けて……帰ってくるんだよ、アナ」

 

 ドアに手を伸ばした瞬間。微かに声が聞こえて、アナスタシアはぴたりと動きを止めた。

 虚ろな目のまま、槙野はそれでもアナスタシアから視線を外さなかった。アナスタシアの暗示で自分の行動と意思を縛られてなお、彼はその言葉を伝えるためだけに暗示の効力に僅かに抗ったのだ。

 

「……っ。それは──それは、貴方を欺き続けてきた私には勿体無い言葉です」

 

 恐らく今何を言おうが彼の記憶には残らないだろうが、アナスタシアは足を止めて語りかける。

 

「ですが、それでも……その言葉に、そして槙野さん自身に感謝を。Большое(ありがとう)……貴方と会えて、本当に良かった」

 

 深々と頭を下げてから、アナスタシアは力を込めて軽い扉を押し開けた。爽やかなドアチャイムの音を残して、深夜にさしかかった街へと飛び出す。

 電柱を蹴り飛ばして民家の屋根に飛び移り、遠くに見える駅ビル街の灯りを見つめる。乱立する高層ビルのうちの一つが、アナスタシアの目標地点だ。

 

「あれでいいのかよ、マスター。几帳面なアンタのことだ、まだ時間に余裕はあるんだろ?」

 

 風を全身に受けながら屋根の上を疾駆していると、横から低い声が聞こえてくる。

 

「……構いません」

 

「今日で終わらせる気なんだな、何もかもを。ったく、離別の言葉としては最悪だ。これから死にに行くと言っているような気がしてしょうがない」

 

 いつの間にか霊体化を解いたアーチャーは、大きなライフルを抱えたままアナスタシアの走力に追いついていた。時速70kmほどの速度で、二つの影は最短距離を駆け抜けていく。

 

「私の生死はどうでもいいんです。大事な事は目的の成就……今日、代行者の力を結集してあの神殿に存在する聖杯の真贋を見定めます。偽物であれば手を引き観察に勤めますし、もし真作であればどんな手を用いても強奪する」

 

 夜の秋風はやけに生ぬるく、まるで血が風に紛れているかのような感覚を覚えた。

 これに似た感覚を、アナスタシアは何度か経験している。いずれもこの世界に蔓延る魔の者らと相対した際に感じた、どうしようもなく濁った悪の匂い。

 

「……鼻につきますね」

 

「ん? どうした、タバコ臭かったか?」

 

「貴方に言ったんじゃありません」

 

 車で十五分はかかる距離も、最短ルートを最高速で駆け抜ければ五分程度の短い道のりだった。

 住宅街とビル街を分ける高速道路の高架下を潜り抜け、近場の信号を足場にして一気にビルの屋上まで跳び上がる。ベゴン、という足場にしたダクトや換気扇が凹む音だけを残して、アナスタシアとアーチャーの二人は目標地点のビルの屋上まで速やかに到着した。

 

「と、ここですね。決行時間は深夜一時ジャスト。まだ余裕はありますが、万一に備えて今から狙撃態勢を取ってください」

 

「かったるい。一服させろ」

 

「ハァ……分かりました、ご自由に。私は司令本部に確認を取ってきます」

 

 魔術的な通信具の媒体にしているのか、アナスタシアは首に下げた十字架に何事かを語りかけている。

 正直なところ、代行者とかいう人外らのゴタゴタに関わる気は無いアーチャーは、遥か遠方に見える仙天島の全景を眺めながら煙草に火を付けた。

 島の背後に広がる湖は、月光を反射して美しく輝いている。そこだけを見れば中々の絶景なのだが、あの人工島を視界に入れた途端に言いようのない悪寒が感じられるのが不気味だった。

 

(チッ。何を企んでいるのやら)

 

 目を細めて島を睨みつつ、アーチャーは脳内で今回の作戦とやらの内容を再確認する。

 作戦の主要となるのは代行者四人からなる聖杯回収部隊だ。補欠兼マスター役のアナスタシアは、アーチャーの協力して、島を覆うように構築された「神殿」に穴を穿つことが任務となる。

 そのため、今夜のシモ・ヘイヘは狙撃手ではなく砲兵に鞍替えする事が求められている訳だが──、

 

(俺とはいえ、そんな経験は無いからな。わざわざ不確定な手段を算段に入れるとは、よっぽど敵方に先手を取られたことで焦っているのか、追い込まれているのか)

 

 本来であれば六日の夜に決行するはずだった奪取作戦が、外部の魔術師の登場とかいうイレギュラーのせいで二日も延期されたらしい。

 予定通りに事が進んでいればわざわざ相手の陣地が構築される前に突入できたのだから、聖堂教会の苛立ちも理解できる。

 

「アーチャー。五分前です、用意を」

 

「ああ」

 

 随分長く考え込んでいたのか、時間が経つのは意外と速かった。剥き出しのダクトに腰掛けていたアーチャーは改めて愛銃モシン・ナガンを担ぐと、伏射(プローン)の体制に移行する。

 申し訳程度についているスコープを調整しつつ、肌で感じる風の感覚も考えて微調整を繰り返す。生前は鬱陶しいし反射光で位置がバレるしで嫌っていたスコープだが、のろまな兵士ではなく人外の連中(サーヴァント)を相手にする上では無いよりあるほうがいい。

 

(……距離、だいたい11800メートル。風は南東から……やや強めだな。再調整……)

 

 通常の狙撃手が様々な計測器や長い時間を費やして行う弾道計算を、シモ・ヘイヘは頭の中で、それもたったの一分間で終わらせた。

 集中に細められていた目が開き、スコープのレティクルを覗き込む。通常のスコープではなく超超遠距離用に改造された専用のサイトは、それでも弾道下降のために仙天島のかなり上方を狙い定めていた。

 

「アーチャー、私の方でも令呪によるバックアップを行います。事前説明の通り、普段行なっているような狙撃ではなく、令呪リソース分も含めて可能な限りの魔力を次弾に注ぎ込んで下さい」

 

「気分はRPG担いだゲリラ兵だな……。いいだろう、気前良くあの島に大穴を開けてやろうじゃないか」

 

 アナスタシアが時計を確認し、残り十秒のタイミングで腕を掲げる。

 

「令呪をもって命じます──次の一撃に持ち得る限りの力を注ぎなさい、アーチャー‼︎」

 

 刹那──。

 鮮血に似た真っ赤な閃光が、ビル街の天辺にて確かに輝いた。

 同時、弾倉に込められた魔力弾に、アーチャーの魔力と令呪によるブースト分の魔力が装填(チャージ)される。世界が歪んで見えるほどの魔力が一点に凝縮し──、

 

「了解だ、マスター……‼︎」

 

 アーチャーが引き金を引いた瞬間、ミサイル弾の数十倍の威力を誇る魔弾が、モシン・ナガンの銃身(バレル)を震わせて射出された。

 

 

 

 

「──凛、そっちの準備は?」

 

「それはもうバッチリと。車もホテルの前に手配してあるわ」

 

 よく手入れのされた黒髪を撫でながら、魔術師──遠坂凛は夜闇に沈む大塚市をホテルのベランダから眺めていた。

 遠くに見える灯りは駅周辺のビル群のもの。どこか冬木の新都を思い出す風景に、大聖杯の解体戦争で訪れてからは離れていた深山町に少しだけ郷愁を覚える。

 

「……あのな、凛。ダメモトでもう一度言うけど、無理してついてくることはないんだぞ。最近やっと片のついた大聖杯がこうも早く再起動したんだ、何が待ち構えていてもおかしくない。できれば──」

 

「前も言ったけどお断りよ。士郎、それが悪い癖だって何度行ったら分かるの? 目を離したらすぐ自分を顧みずに突撃するんだから、全く」

 

「む……」

 

 唇に人差し指を当てて黙らせる凛に、士郎は少し困ったような表情をしてから、諦めたのか髪をぐしゃぐしゃと掻いて「わかった」とだけ返答した。

 それでいいのだ、と満足げに頷く凛に先導してホテルの部屋を出る。

 山の中にひっそりと建てられた隠れ家じみたこのホテル、商売が成り立つのかどうか不安になるが、立地的にも霊脈的にもそこそこ都合がいいので二人は利用している。この地の調査をロード・エルメロイから頼まれた以上、拠点として最初に目をつけたのがここだったのだ。

 

「山の中で深夜ときたら、流石に静かだな。──なんとなくイリヤの城を思い出す」

 

「あそこは車も入れないし、歩きで往復数時間はかかるしで、ここより随分と不便だけど。あーあ、あの森の話してたら嫌なこと思い出しちゃった」

 

「それは──英雄王、ギルガメッシュのことか?」

 

「いや、あの金ピカについてもそうなんだけど……よくよく考えてみると、あの古城にはいい思い出が無いのよね。トラップで吹っ飛ばされるわ、ワカメに乱暴されるわ、腐れ神父が目の前で死ぬわ……いや、それはどっちかというと多少スッキリした方なんだけど……」

 

 十年前の聖杯戦争で築いた思い出に浸る凛と駐車場までの僅かな距離を歩きながら、士郎もかつて戦った「イリヤ」という少女のことを思い出す。

 英雄王との死闘に敗れ、心臓を引き抜かれて死んでいった彼女の墓は、今もあの古城に寄り添うように在る。

 解体戦争の際には凛も連れて墓参りも済ませてきたが、古城の花園が月日を経ても変わらず花を咲かせていたのが嬉しかったのを、士郎は鮮明に覚えていた。

 

「あの時の士郎、本当にどうぶん殴って言い聞かせてやろうかと思ったわよ。まさかよりにもよって英雄王の前に飛び出すなんて」

 

「ははは……ま、今も生きてるしいいだろ」

 

「よかないわよ‼︎ あれから十年も経ってるのに、未だにちょっと私が気を抜くと自分を度外視して考え始めるんだから」

 

 思い出話に花を咲かせていると、協会が手配させた車の前に到着。運転は士郎が務め、鈍い銀色のバンはのろのろと山道を下り始める。

 

「……さて、思い出話はここまでにしましょう。代わりに改めて状況確認を済ませておきましょうか」

 

 助手席に乗り込んだ凛は、大塚市全域が一覧できる地図を取り出すと、無造作に目の前で広げた。赤色で書き込まれたバツ印は四箇所、それらを順繰りに指しながら凛は続ける。

 

「ここ大塚市において、聖杯が起動できそうな場所は全部で四箇所。確認も済ませてあるわよね、士郎」

 

「ああ。確かに四つで間違いない」

 

「オッケー。じゃあイレギュラーは除いて話すけど、まずここの管理者である繭村家の拠点が一つ目。西部にある工場跡地が二つ目ね」

 

 凛は人差し指をすすす、と大塚市地図の中心まで持ってくると──、

 

「そして三つ目、大塚ランドマークタワー」

 

 凛が目線を上げると、鬱蒼と茂る山道の木々の奥に、闇に聳える巨大なシルエットが見て取れた。

 大塚市のシンボルともなっている高さ150メートルのランドマークタワー。内部には映画館や展示場にパーティー会場、展望台に結婚式場と様々な施設が詰め込まれている。

 

「この三つは調査したけど、聖杯のシステムが構築されているような形跡はなかった。繭村家の方は士郎に任せちゃったけど……」

 

「問題ないと思う。一応それとなく繭村家の内部は確認したし、地下の存在とかも探ってみたけどそれらしい気配は感知できなかった。繭村家が聖杯戦争を始めた下手人って線は無さそうだ」

 

「……ま、それなら問題ないか」

 

 他の二箇所についても、士郎と凛はこの二日間で調査を終えている。いずれも聖杯のシステムらしきものは影も形もなく、残った可能性はあと一つに絞られていた。

 

「それで残るは仙天島、だな」

 

「ええ。ま……あんなガチガチに島を覆う結界を張ったんじゃあ、向こうの方から答えを出してきたようなもんだけど」

 

 微かに声が緊張を孕む。今まではハズレだったのが、いよいよ大当たりの場所に向かって調査を行おうと言うのだ。それも敵を警戒しているのが見て取れるような場所に敢えて接近するという、実にハードな調査になる。

 

「今の私たちはマスターじゃない。サーヴァントも連れていない、言ってみれば小物よ。だからこそちょっとやそっとのお茶目は見逃してもらえるとありがたいんだけど」

 

「聖杯の調査が、その"お茶目"に入るといいんだけどな」

 

「島に乗り込むつもりじゃないんだし、あくまで今日は外周から内部の構造を伺うだけ。私たちの任務は「聖杯戦争が何故勃発したかの調査」なんだし、「聖杯戦争の幕引き」っていう役目は、協会の指示通り繭村の当主に任せるとしましょう」

 

 二人を乗せた車は、仙天島へ向けて山道を進んでいく。この先に何が待ち受けているのか、島の中に佇むただ一人の魔術師を除いて、予想できるものは誰一人として存在しなかった。

 

 

 

 

「マスター」

 

 妖しげな美しさを備えた金髪が夜風に揺れている。

 ライダーの呼びかけには答えず、その魔術師はただ夜空に浮かぶ月を眺めていた。彼女が纏った黒無地の質素なローブは、豪奢で可憐な金の長髪とはどこか対照的だ。

 

「珍しい。貴方のような人間でも月を眺めて物思いに耽る事があるとは思いませんでした」

 

「……少し、自分の答えが正しいのかを自問自答していただけだ。とにかく、わざわざ(わたし)にくだらぬ事を言いにきたわけではないだろう? ライダー」

 

「ええ。湖のほとりに数人の人間を察知しました。恐らくは聖杯を目的とした人間……教会から送られてきた執行人だと思いますが、如何にします?」

 

 聖堂教会の代行者……と聞けば並大抵の魔術師は震え上がるものだが、彼女は特にさしたる反応を示さなかった。

 

「全く、連中とは長い付き合いだがいつもこれだ。連中は重要な思索に耽っている時に限って教顔を覗かせる。我が道はとうとう果てようとしているというのに」

 

 うざったそうに呟く。いつも不機嫌そうだが特に不機嫌と見たライダーはこれ幸いとばかりに、

 

「──じゃあ、僕が潰しても?」

 

「その口元の歪みを直してから話せ、みっともない。そして未だ貴様は謹慎中だ、出る幕は無いと思え」

 

 聞こえるように舌打ちしてからライダーは引き下がった。彼の出自を考えるとあまりに異常な行動だが、彼に不満はあれ敵対心はない。彼女に従えば自分の望むものは確かに得られると、そう信じているからだ。

 

「そも、貴様は狂っていても敬虔な信徒だろう……キリスト教とやらの。曲がりなりにも主の教えに従おうとする彼らに手をあげることは、貴様の矜持に反しているんじゃないか?」

 

「私が信じるのは主の神秘のみです。それらを曲解し、あまつさえ神の力を代行するなどとのたまう愚か者(やつら)は、私にとって最も唾棄すべき輩ですよ」

 

「ふむ、そういうものか。……しかし、久方ぶりの外だ。作業ばかりで関節が痛むな」

 

「老体ならば、無理をなさらない方がよろしいのでは?」

 

「やかましいぞ小僧。この運動不足を解消するためにも丁度いい機会だ。彼らは私が相手取るとしようか」

 

 手首を鳴らしながら魔術師が答えた瞬間、島全体を揺るがすほどの衝撃が突き抜けた。

 何もない空中に亀裂が走り、その孔から躍り出る四つの影が月光を受けて照らし出される。「残念です」とだけ言い残して霊体化するライダーをよそに、魔術師は長い金髪を掻き上げて闇を睨んだ。

 

「神代の魔女が組み上げし結界を真正面から破るか。なかなかに優秀なサーヴァントを用意してきたらしいな、教会の走狗め」

 

 手を掲げて、トネリコの木で編まれたロッドを手元に持ってくる。どこからともなく飛んできた彼女の武器は、しかと魔術師の手中に収まった。

 迫ってくる気配。島中に満ちるほどの殺気。首を鳴らしてその重圧を受け止めながら、彼女は自信に満ち溢れた笑みを浮かべる。

 

「さぁ──魔術師は魔術師らしく。捻じ曲がった主の教えとやらに、奇跡を以って抗うとしよう」

 

 皮肉を残して、聖杯の主は戦場へと足を踏み出した。




【衛宮士郎と遠坂凛】
冬木で行われた解体戦争を終わらせてひと段落したと思ったもつかの間、大塚市に向かうことになった二人。彼らの目標は「どうやって、誰が、何の目的で」聖杯戦争を執り行なおうとしているのかを調査し、聖杯の汚染がどう関連しているのかを把握すること。
SNの舞台から十年後という設定なので、士郎はアーチャー似の好青年、凛は葵さんに似た感じの淑やか系美女(内面は全然違う)になってると思います。多分。


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四十三話 黄金の魔術師/Other side

 深夜三時、仙天島にて──。

 

 降り積もる落ち葉を踏み締める音が連続していた。

 夜闇の中、無数の人影が疾駆する。

 木陰から木陰へ、闇を縫うように疾走する彼らはサーヴァントではない。だが、人間と評するのも語弊がある。

 彼らは、人にして人を超えたモノ。

 人の権限を超え、神の権限すらをも代行するに至った信仰の悪魔たち──代行者だ。

 終わりを告げたはずの聖杯戦争、その起因となる黒幕をいち早く突き止めた聖堂協会が送り込んだ刺客。それが五人の代行者、「異端」を力ずくに鏖殺する人間兵器である。

 彼らの目的は聖杯戦争を再開させた起因を殺害し、未だ真偽の定かではない聖杯の調査。

 雑木林の中を駆ける三人は、サーヴァントもかくやという動作を披露しながら着実に目的地へと進んでいく。

 絶対強者たる魔に対抗する為、代行者たちが持ち合わせる圧倒的身体能力。その実力たるや、数人が揃えばサーヴァントと応戦すらも可能な程だ。

 三つの影は雑木林を飛び出し、開けた場所に到達した。

 仙天第二浄水場。仙天島の多目的グラウンドや大型レジャー施設の隣にように建てられた、広大な敷地を生かした浄水施設である。

 

「────行くぞ。突入開始」

 

 一人の代行者が、容赦なく金属製の扉を殴り飛ばす。

 凄まじい轟音が月の夜に響き渡った。

 バズーカ砲の直撃を受けたかの如くへしゃぎ、吹き飛んでいく扉には目もくれず、三人の悪鬼羅刹が次々に浄水場内へと雪崩れ込む。

 

「………………」

 

 恐らくは職員の事務室と思われる部屋に気配は無い。

 警戒の糸を張り詰めながら──代行者が三人も揃うこの状態で最大限の警戒を続けなければならないという時点で、既にこの状況は危険かつ異質だった──三人のうち一人、大柄な男が奥の扉を押し開く。

 プールに似た貯水槽が等間隔に六つ並ぶ広大な空間が、彼らを待ち受けていた。

 一見何も無いように見えるが、魔術師の工房が発する独特な空気の濁りが彼らの五感を刺激した。秋始めだというのに冷え切った空気、充満する死の気配。

 間違いない──ここに、居る。

 

「まずはわざわざ遠い極東の地までようこそ、と労っておこうか」

 

 コツ、コツ、と。

 甘く蕩ける様な女の声と共に、硬い床を踏みしめる音が行く手前方の闇から聞こえてくる。

 

「一度落ち着いて、少し話でもしようじゃあないか。万に一つの可能性だが、もしかしたら(わたし)と君達が分かり合えるという事も──」

 

「執行開始」

 

 会話らしい会話は無かった。

 有ったのはまごう事なき殺意の応酬。

 代行者の方は当然だが、女の方も、言葉とは裏腹に絶対の殺意をその全身から立ち上らせていたのだ。この結果は当然と言える。

 纏わりつく闇すらも振り払い、先頭の代行者が一息に距離を詰める。女の耳に地を蹴った轟音が到達するのとほぼ同タイミングで、代行者の拳は女の身体に到達する。

 マシンガンを撃ち放つような炸裂音が多重に響き渡った。

 空間を抉って放たれた数十の拳撃。

 自動車をもコンマ数秒でスクラップに変える怒涛のラッシュは、しかし、円状の衝撃波を派手に撒き散らしながら威力を散らしていく。

 女がその華奢な片手で、両手で放たれる全ての拳撃を受け止めたのだ。

 

「む……筋力強化四重、骨格強化三重、組織錬成を重ねてもダメージは追うのか。訂正だな……」

 

 女の目論見は外れ、相殺には至らなかった。受けきれなかった衝撃が腕を破壊し、血が筋肉を裂いて噴出する。

 だが──その程度の傷に抑えたという事実と魔術師には不釣り合いな身体能力に、代行者が訝しむように距離を取る。

 そこまで、僅か一秒。

 

「少し計算し直す。──とりあえず、吹き飛べ」

 

 女が呟いたその言葉に、何ら魔術的な要素は含まれていない。詠唱も無しに魔術が発動するなどあり得ない──が、その常識が覆される。

 何もない空間が着火、起爆を経て破壊を撒き散らす。

 大魔術クラスにすら匹敵する大爆発。それによって浄水場の建物の八割が吹き飛び、紅蓮の炎が深い闇に膨れ上がった。圧倒的な暴力は貯水タンク、窓ガラス、鉄筋コンクリート、周囲の全てを例外なく均等に押し潰していく。

 全てを焦がし尽くした猛炎の中、不気味に蠢く人影があった。

 女は虚ろな相貌を歪め、嗤う。

 ぞわり、と代行者達の胃袋の辺りに緊張が沈む。

 

「チッ……‼︎」

 

 若い女性代行者が投げ放った幅一メートルほどの刀剣が、爆風を吹き飛ばして女の身体を貫かんと迫る。

 俗に「黒鍵」と呼ばれる代行者の基本武装──それらから霊的干渉力を削り、対人戦闘用にチューニングを施された特製の投擲剣。

 投げ放たれた六本の投擲剣は、弾丸にすら追い付く速度を伴って女の四肢を吹き飛ばすかに思えたが、

 

「無駄だ」

 

 女が大きく目を見開くだけで、それらは揃って運動エネルギー失い、ぴたりと空中に静止した。

 歴戦の代行者達でさえ、どのような魔術を使っているのかが理解できない。何故なら、あの女はこれほどの魔術を多様に繰り出しながら、これまで一度も詠唱を行なっていないのだから。

 

「威力、速度共に十分。鉄骨だろうと貫く技術には敬意を表するが──己には無用の長物だ。全てお返ししよう」

 

 詠唱はなく、無言の奇跡が放たれる。

 ()れは解放。射出。

 宙に浮いた黒鍵が何らかの力を受けてぐるりと反転、先の更に二倍以上の速度を伴って射出された。

 

「ッッ⁉︎」

 

 全力で首を反らし、一瞬前に代行者の頭蓋が有った場所を黒鍵が突き抜ける。辛うじて残っていた背後の壁が残らず砕け散る中、

 ──とん、と地面を踏む音。

 揺れる金髪が視界に映る。女性の代行者が目線を下げれば、数メートル先に居た筈の魔術師が既に懐に潜り込んでいて──、

 

「では、弾けたまえ」

 

 女の左手が稲妻のように走り、代行者にそっと触れる。

 短い言葉が告げられた刹那。

 ドパッッ‼︎‼︎ という水温と共に、一人の人間が水風船のように破裂していた。

 

「ふむ、固有時制御(タイムアルター)の使い勝手はそこそこ良い。反動が中々に応えるところだが、相対効果の重ねがけで相殺できないほどでもない──もう少し、倍率を上げてみるとしよう」

 

 夥しい鮮血が飛び散る。

 が、仲間の一人が肉片と臓物を撒き散らしながら吹き飛んだのにも構わず、残る二人は臆する事なく無防備な女に襲い掛かった。

 ──いや。それは果たして、無防備なのか。

 

「質量操作、軽量化、身体強化、硬質化、加速魔術、神経伝達加速、そして四次の際に仕入れた固有時制御。ここまで重ねがけすれば、代行者の身体能力でも追いつかない」

 

 どこかつまらなそうに呟きながら、女がその目を見開いた。

 その瞳が黄金色に輝く。ただ、それだけ。

 しかし直後、二人目の代行者──最初に殴りかかった大柄な男の胴体が真っ二つに千切れ飛んだ。

 真空波とも、不可視の刃ともとれる一撃。巻き起こる破壊は代行者を殺すだけに留まらず、代行者の背後、浄水場の壁面どころか彼らが踏破してきた森林の木々すらも一薙で切り裂いていく。

 

「ガ──────…………」

 

 だが身体を二等分されても尚、代行者はその恐るべき信仰心と精神力によって闘志を消してはいなかった。

 消えていく声はそのままに、全力を振り絞って黒鍵を投擲する。

 

「────かはッ⁉︎」

 

 捨て身の反撃は予想外だったのか。

 女の顔に焦燥が浮かんだように見えた時にはもう遅い。黒鍵が身体を穿ち、彼女は先の代行者と全く同じように体を引きちぎられた。

 どちゃっ、という粘ついた音と共に、女の上半身が地に落ちる。明らかに絶命したと思われる光景だが、残る代行者の顔に慢心は無い。

 

 ──彼方から飛来した無数の杭が、二等分されて倒れ伏す女の身体に次々と突き刺さった。

 

 その数はまさに雨の如し。一人森の奥に待機し隙を伺っていた四人目の代行者が、トドメの追撃として持つ全ての黒鍵をもって女魔術師の命を潰しにかかったのだ。

 上半身だけになった女魔術師は芋虫の如く醜く悶え狂うが、数十本の黒鍵をもって地面に縫い付けられた身体はもはや動かなくなり、ボロ切れのようになった肉塊のみが後には残される。

 

「背信の大罪、その身で悔い改めよ」

 

 戦闘区域から少し離れた地点、仙天島の端の樹上からその光景を眺めていた代行者は、そう嘯いて残りの柄を懐にしまい込んだ。

 結果、四人中二人が戦死した。予想の範疇とは言え、我々が二人も葬られるとは……と悔いながら、目視で生き延びたもう一人の代行者を捜す。

 

 ──だが、見当たらない。

 最初に弾け飛んだ一人の死体。

 身を両断されたもう一人の死体。

 剣山のような惨状を晒す死体が一体。

 ──それ以外の人影は見えない。

 

「随分と容赦がないな、代行者よ」

 

「な……ッ⁉︎」

 

 ずぶり、という衝撃音。

 暴嵐の如き痛みの前に、代行者の視界が白く飛ぶ。

 

「まさか……あの程度で己を仕留めた、とでも思ったのか?」

 

 白から真っ赤に染まる視界を下げる。

 胸の中心からは、血まみれの手が生えていた。

 

「非常に残念だが、よくあの死体を見てみたまえ。代わりに串刺しになったのは君のお仲間の方だ」

 

 代行者がその存在を知覚した時には、既に勝敗は決していた。

 鍛え抜かれた代行者の目を欺き、数百メートルの距離を一瞬で詰め、彼女は平然と代行者四人を圧倒してみせたのだ。

 

「といっても、あの反撃は見事だったよ。賞賛に値すると言っていい。実際、一度胴体が下半身から分離しかける感覚を味わった。連中との縁切りの時以来だから100年以上ぶりか」

 

 心臓を左手で貫かれた代行者の口から、鮮やかな血反吐が溢れる。

 

「が……ごぶっ、は……きさま、やはり……Per……d──」

 

 血が絡みつくような喘鳴は、最後まで続くことは無かった。

 左手が引き抜かれ、完全に絶命した代行者は鉄塔の下へと落下していった。月光と血に濡れた金髪を掻き上げて、魔術師は冷酷な目線を代行者の死体に向ける。

 

「聖堂教会……貴様らには兼ねてより散々な妨害を受け続けたが、ついに我が願望は叶う。この戦争は己のものだ」

 

 勝利の余韻も無く、至極単純な作業をこなしたとばかりに首を鳴らす女魔術師。

 ──いや。魔術の域に収まらぬ神秘を平然と支配する彼女を、果たして「魔術師」と呼称するのが正しいのかどうか。

 そんな時、遥か十一キロメートル先の地表にて瞬く光があった。

 

「────‼︎」

 

 それは、一発の弾丸だった。

 彼女は所詮サーヴァントではなく人間だ。まともなサーヴァントでさえ察知が難しい無音の弾丸、彼女が気付けた時にはもう遅い。通り抜けた近辺の空間を瞬時に凍り付かせながら、弾丸は悟られぬことなく正確無比に女の頭蓋へ吸い込まれる。

 狙撃手の予想通り、それは狙い違わず女の脳天に突き刺さり──そして、何もなかったかのようにすり抜けていった。

 脳髄を撒き散らして地面に崩れ落ちるはずの彼女は、忌々しげに遠方を睨みつける。

 

「……神殿に穴を穿ったのは貴様だな。この己が、一度見た狙撃に対して対策を練らずに立っていると思うなよ」

 

 彼女は最初から自分の認識をズラす魔術を身体に掛けておいた上で、代行者達との戦いに臨んだのだ。

 しかし──常識はずれなほどの遠方から、さらに常識はずれな速度を伴って撃ち出された呪詛の魔弾。こんな芸当を行えるのは、人間を超越したサーヴァント以外にはあり得ない。

 

「お見事。正直、あれで死んだと思いましたよ」

 

「ライダー。貴様にはしばし謹慎していろと言ってある筈だが」

 

「霊体化は解いてませんし、連中のお相手も任せたじゃないですか。これでも我慢してると思いますよ?」

 

 飄々と答える、変声期も迎えていない幼い少年の声。

 女魔術師の肩付近でゆらりと揺れる霊子の残滓が、霊体化したライダーの存在を明確に示している。

 

「まあ良い──戻るぞ」

 

「はいはい……工房は吹き飛ばされてしまいましたが、どうするんです?」

 

「構わない、一分で直る」

 

「流石は魔術師(メイガス)……その極致たる存在」

 

「フン、何が極致か。果ての果てに辿り着いてさえ、望み一つ己が手で叶えられぬなど──」

 

 言葉が途切れる。

 前方の暗がりで、何かが動いた。

 緊張感、死の予感、ありとあらゆる警告が女の中を駆け巡る。

 反射的に自らのサーヴァントに警戒を呼び掛けようとして、女魔術師はその強かさに舌を巻いた。そんな間隙を敵対者が見逃す筈も無く、闇に刻まれた朱色の光が彼女の視界を埋め尽くす。

 

 

「────よう、女」

 

 

 獰猛な呟きが、鮮血が噴き出す寸前に聞こえていた。

 

 

 

 

「チッ……俺が外すか。あの狐め」

 

 舌打ちして、男が狙撃銃のスコープから目を外した。

 

「………………………そんな」

 

 茫然自失と言った様子で、代行者の少女──アナは駅郊外の廃墟ビルの屋上に立つアーチャーの横に立ち尽くしていた。

 殺された。代行者が、全て。

 圧倒的な暴威の前に殺戮の犠牲となった彼らの姿を見て、足が震えているのに気がつく。だが、どうしてもそれを止める気にはなれない。

 元より彼らが失敗した際のサブプランとして送り込まれ、こうして聖杯戦争に参加しているアナだったが、彼女の経験は未だ浅い。圧倒的な存在を前に思考が止まってしまい、どうすべきかも定まらない。

 

「私よりもずっと強い彼らが──殺されて、いえ、戦いにすらなっていなかった。あんな怪物が……一体、あれは。違う、嘘です、あんなのっ、あり得るはずがありません……‼︎‼︎」

 

「落ち着けよ、お嬢さん」

 

 アナスタシアが買い与えた安物のタバコを吸いながら、狙撃銃を構えた男がのんびりと答える。だが、その余裕すら漂わせる姿は、却ってアナスタシアの焦燥感を加速させた。

 

「落ち着いてなんてられますか⁉︎ 代行者を四人も失っては、協会も慎重に動かざるを得ないでしょう。となれば、私が「アレ」を一人で止めなくては……‼︎」

 

「だから、落ち着けと言っているんだ。アンタは……アイツは例外としても、人間にしちゃあ相当強い部類だ。接近戦なら俺とも互角……いや、俺が負けるかな? 俺は近接戦は専門外だし……うむ」

 

 アーチャーの様子に、緊張感はあまり見られない。

 

「──まあともかく、アンタにはまだ経験というものが無いらしい」

 

 諭すようなアーチャーの言葉に、アナは思わず黙り込んだ。

 殺された四人の代行者達から思考の焦点を外し、脳をフラットに戻しながら、紫煙をくゆらせる男の言葉に耳を傾ける。

 

「どう足掻いても勝てないと思える戦場でさえ、勝ち筋は意外と残ってるもんだ。焦ったら終わり、焦燥は失敗を生んで絶望を招く。仲間が来ないのなら、俺たち二人であの化物女に勝てる方法を見つけ出すぞ」

 

「………………ッ」

 

 反論を呑み込んで、アナは唇を噛んだ。

 それは正しい。歩みを止めてはならない。

 協会の意向を守り通し、悪たる異端を鏖殺する人間兵器──己はその役割を貫き通すのみ。

 

「んで。さて、どうする?」

 

「……とにかくは情報収集です。最大の敵はサーヴァントではなく、あの女──聖杯を使って何を企んでいるのかは知りませんが、碌な事ではないでしょう。好きにさせるわけにはいかない」

 

 確固たる決意とともに胸元の十字架を強く握り締め、アナは遠い湖面に映る月を睨む。

 

「………………む」

 

 男は生温い夜風から何かを察知したかのように眉を顰め、再び無骨な高倍率スコープを覗き込んだ。

 

「何ですか?」

 

「面白い。早速、その「最大の敵」が死ぬかもしれん」

 

「──な。何ですって⁉︎」

 

「まあ待て、視覚を俺と繋ぐといい。これ以上は用心して手を出す事は出来ないが……俺には慣れたものだ。いつも通り、二人で見物させてもらうとしよう」

 

 大人しく眼球の虹彩に魔力を廻し、同時にサーヴァントとの経路を強く意識する。

 かなり難易度が高いとされるサーヴァントとの視覚共有だが、彼女は容易くそれを行なってみせた。──最も、あの女の暴虐を目にした今でなお誇れるほど、彼女は自らの能力を評価していなかったが。

 

「……っ‼︎」

 

 「繋がった」確かな感覚と共に、視界がぐるりと切り替わった。

 

 ──最初に見えたのは、朱色の輝き。

 次いで、空間に染み付いた青の残像。

 

 人工島に生い茂る、黒々とした木立の奥の奥。戦闘の余波に木々が薙ぎ倒され、ぽっかりと穴を開けた仮初めの広場の中心に、一人の男が立っていた。

 手に持つは、朱色の長槍。

 アーチャーの視力を借り受けているお陰で、その神々しさと物々しさが均等に混ぜ合わせになったような異様な輝きが見て取れた。その鋭利な切っ先は女の心臓を刺し貫き、背中から飛び出して溢れる鮮血を地面に落としている。

 

「あれは……ラン、サー……?」



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四十四話 漆黒の騎士/Other side

 ──心臓を貫く、確かな感触があった。

 

 女を貫く長槍を握るのは、青色の戦装束に全身を包み、全身から闘志を滲ませる鋭い双眸の男。

 彼は暗がりから姿を踊らせると同時、目にも留まらぬ俊敏さで大地を駆け、女の身体に致命の一撃を叩き込んだのだ。その朱槍は心臓を穿つに留まらず、女の体内で幾重にも分裂、体内を蹂躙する。

 

「……ったく、つまんねえ仕事だ」

 

 血を吐く女をつまらなそうに一瞥。

 そうして、男は吐き捨てるように口にした。

 

「あ──かふっ…………?」

 

「何をするつもりだったか知らねえが、まさか魔術師風情が世界を敵に回すとはな。……出る杭は打たれる、だっけか? まあ残念だが、大人しくそこでくだはるこった。出過ぎた真似の対価、その命で支払って貰うがいい」

 

 冥土の土産とばかりに話すランサー。なにせ内臓器官の七割を瞬時に壊滅させるほどの深手だ。サーヴァントならばともかく、人間ならばものの一分も経たずに死に至る。

 故に女に勝ち目は無く、この闘いとも言えない刹那の奇襲は成功に終わった──そう、彼は思っていた。

 

 ──不気味に嗤う、女の血に濡れた顔を見るまでは。

 

「ケルトの大英雄、光の御子……クー・フーリン……か」

 

 瞬間。

 彼の戦士としての直感が、最大限の警戒を告げる。

 

「──てめえ……何者だ?」

 

「何、只の魔術師だよ」

 

 周囲の空気が急激に下がったような感覚。美しい貌に笑みを貼り付けた女の背後で、辺りを包む闇そのものがざわめいた。

 そう、それはまさしく「闇」。

 女の背後に潜むソレは夜闇の黒よりも遥かに濃い黒を孕んでいた。局所的な闇の濃淡の中から、蛇が鎌首をもたげるように一筋の影が持ち上がり──、

 

「チッ……‼︎」

 

 異様な悪寒を感じたランサーは跳躍。放たれた不定形の影はランサーの頰を微かに掠めたが、体を搦めとる事はなかった。

 僅か一跳びで十メートル以上後退した槍兵は、血に濡れた朱槍を軽やかに回しつつも、油断なく女を睨む。

 

(……なんだ? 今のは)

 

 感じた事のない、おぞましい感覚だった。

 頰を掠めたあの「影」は、言い表せば膨大な魔力の塊だろう。

 といってもその性質はありとあらゆる悪を集めたかのように穢れきっていて、見ているだけで嫌悪感が胃の奥から湧き上がってくる。例えるなら、腐り果てた屍肉の塊を相手取るかのような。ともあれアレは危険だ。最大限の警戒を要するモノだと、見るだけで理解できる。

 

「……ライダー。貴様、奴の存在に気付いていただろう?」

 

「サーヴァントの感知能力は高いですからね、木陰から彼が貴方を狙っていることも知っていましたよ。それが何か?」

 

「その上で私に警告はしなかった、と」

 

「なにせ僕、謹慎中ですから。余計なお節介もどうかと思いまして。何なら手伝いましょうか?」

 

 その言葉を体現するかの如く、女の身体が不自然なまでに修復される。溢れていた血液が戻り、肉が傷を塞いでいく。

 まるで逆再生の映像を流しているかのような奇妙な光景。

 

「……………………」

 

 ランサーは眉を顰め、その光景を油断なく観察していた。

 そんな事にも関心を寄せず、霊体化したサーヴァントの声が響く。その声に含まれるのは期待と、確かな高揚。

 

「確かに私一人ではこの男を倒すのには骨が折れるな。先の奴らとは次元が違う。貴様の欲望に乗るのは業腹だが、今は闘いを許そう」

 

「ククっ……ああ、そう言ってくれるのを待っていましたよ。かの光の御子だ、相手には申し分ない……ってな」

 

 黄金の髪を逆立てた、一人の少年が姿を現す。槍を構えた槍兵はその幼い容姿に一瞬呆気にとられたが、すぐに認識を改めた。

 琥珀色の双眸に宿る闘志、全身から獰猛に迸る紫電。

 単純な存在感から把握できる、女が纏わせる影とは対極に位置する強さがそこにはあった。

 

「……なぁるほど、俺との闘いを求めるが故に、わざと俺を止めなかった訳だ。こりゃあ刺され損って奴じゃねえの? もっとも同情はこれっぽっちも感じねえがな、気色悪い腐れ女が」

 

「随分と言ってくれるなランサー。今すぐ貴様もこの影に染めてやろうか」

 

「……おい、御託はいい。とっとと始めねえか、マスター」

 

 コキコキ、とライダーが両の拳を鳴らした。

 冷徹な目線で槍兵を睨みながら、魔術師は返答を返す。

 

「奴の真名はクーフーリン、宝具の名は『刺し穿つ死棘の槍』。奴の宝具には最大限の警戒を払え。アレの真髄を受ければ私とて治癒は難しい。無論、お前ならば即死する」

 

「おぅ、了解した。要は撃たせねえほど攻めまくればいい訳だな」

 

 戦意を挫かせるような事を言ったようにも見えるが、彼等の顔に敗北への恐れは無い。そもそも、彼らは敗北という可能性を心の底から考えていない。

 故に彼等の胸中に雑念は無く、あるのは純粋な殺意──目の前の(ランサー)を排除する、もしくは殴り殺すという明確な感情のみ。

 

 自然、言葉が途切れる。

 紫電と影、相対するは朱色の魔槍。

 

 ──開幕を告げたのは、ライダーの咆哮だった。

 

「──さァいくぜ、クー・フーリン‼︎」

 

「ハッ、拳か。……面白ぇ‼︎」

 

 大地が砕ける。暴風が吹き荒れる。

 同時に地を蹴る二騎の猛者。

 武器のリーチの関係上、先制攻撃を仕掛けたのは槍兵。彼の右腕が霞んだかと思うと、音すら置き去りにする神速の刺突が抉るように放たれる。

 ──狙いは眉間。

 疾風を切り裂いて迫る朱の穂先。その血に濡れたような輝きを、壊れたような笑いを浮かべる少年は完全に視認していた。

 視認し、理解した上で、完全な回避は不可能と悟る。

 ──だがそれは、死を意味している訳ではない。

 

「カハっ、はは‼︎」

 

 雷電を纏し少年が、全力で首を振る。空気をも刺し貫く一撃は彼の小さな頭を擦り、片耳が千切れ飛んだ。

 舞う鮮血。迸る肉片。

 ──たが、それだけ。

 そんな擦り傷では彼は止まらない。

 一点して拳の間合い。小さな身を更に屈めて懐に潜り込んだライダーの右腕が唸りを上げ、暴力的な炸裂音と共に乱撃が放たれる。

 

「チッ‼︎」

 

 槍兵は咄嗟に槍を引き戻し、雷撃を纏った右拳を受け止める。

 魔槍と紫電の激突。

 人外の者同時によるインファイトが幕を開ける。

 

「オラオラオラオラ──オオオッ‼︎」

 

 殴る殴る殴る殴る殴る──‼︎

 秒間に数十発を誇る速度で繰り出される、霊基をも軽々粉砕する両拳。時には槍で打ち払い、時には軽快な足運びで躱し、青の槍兵は拳打の雨を掻い潜る。

 

(……チ、存外手強い……‼︎)

 

 槍のリーチは多様な武器の中でも長大な部類だ。

 だがそれ故に、懐に潜り込まれればその長さが欠点となる。

 ライダーの後先考えぬような猛攻が予想以上に激しいという点から考えても、一度間合いを引き離すか──? 目まぐるしく槍を振り回しながら判断を下し、ランサーが後方への跳躍を目論んで大地を蹴ろうと膝を曲げた瞬間、

 

 ──視界の端に、忍び寄る黒が見えた。

 

「ッ⁉︎」

 

 咄嗟に身体を捻り、回避。

 ライダーの背後から飛び出した一筋の影は槍兵の逃げ道を塞ぐように突き抜けていき、不気味な脈動音を撒き散らしながら振るわれた。

 一瞬──歴戦の猛者たるランサーは、それ故にその影に内在する「己の死」を幻視する。

 

(──クソ。ありゃあ……やべぇな)

 

 ほんの一瞬、ランサーの集中が乱れる。

 瞬きよりも短い刹那。だがその間に、ライダーの全身が渾身の一撃を繰り出そうと踏み込んでいて、

 

「……ひはッッ‼︎」

 

 狂笑と共に放たれる、雷光を纏った回し蹴り。

 それは光り輝く刀剣の一閃の如く首筋を刈り取るかのような軌道を描き、槍兵の首筋へと肉薄する。

 

「ハン、舐めんじゃねえぞ?」

 

 ──だが。

 ケルトの大英雄(クーフーリン)は、その一撃を受ける程甘くはない。

 

「──小僧ォ‼︎」

 

 槍兵は、空けた左手を掌底じみた勢いで跳ね上げる。

 掌をライダーの迫り来る脚に合わせ、ランサーは回し蹴りの軌道を僅かに上方へとずらした(・・・・)のだ。

 同時、首を限界まで下げる。騎兵の一撃は彼の青い頭髪を掠め、空を裂く破裂音と共に突き抜けていった。

 秒にも満たぬ刹那の攻防。

 一撃を避けられた事にも臆さず、宙に跳んで小さな竜巻のように身体を回転させるライダー。続いて放たれたのは、身を屈めたランサーの脳天を狙う踵落とし。縦一閃に振るわれる紫電が宙に軌跡を刻み込み──‼︎

 

「ッ‼︎」

 

 そこで、再び槍による迎撃が間に合う。

 横に広げた槍の中間地点にライダーの踵が叩き込まれ、再度魔力の火花を闇夜に照らす。ぎぎ、と不気味な音を立ててたわむランサーの槍と、バチバチと蠕動するライダーの雷撃。

 

「お──ぉらァっ‼︎」

 

 更に一撃。

 踵落としを受け止める槍兵の槍の上に、彼の拳が落ちる。

 ──激突の寸前、ランサーは自ら盾となっていた槍を手放した。

 加えられる力が消失し、持ち主を失った朱槍が地面に叩きつけられるが、槍兵は轟然と落下してくるライダーの踵を回避。

 ライダーが驚嘆に目を見開く。

 武器を自ら手放す事により劣勢を覆した槍兵は、勢い良く大地を踏みしめ、ライダーにすら匹敵する程の蹴りを彼の小さな身体に叩き込んだ。

 

「っ──……ぐ……‼︎」

 

 予想の範疇を超えてきた反撃。

 胸に痛打を叩き込まれたライダーが顔を歪ませながら数メートルは吹き飛ばされ、土煙を上げながら膝をつく。

 

「……は。流石はクー・フーリン、体術もお手の物ってか?」

 

「当たり前だ。何なら剣だのルーンだのもお見せできるが……ま、俺は一番(コレ)が好きなんでね」

 

 コォ……ン、と金属を打ち合わせるような独特な硬質音を響かせる魔槍を大地に突き立てて、槍兵は不敵に笑う。

 ──だが、その目線に油断は無い。

 ライダーから少し視線を外せば、彼のマスターたる女が視界に映る。女は何をするでもなく、その背後から数本の影を立ち昇らせ、ランサーの動きを観察していた。

 

(チッ……確かに厄介だな。あの「影」を捌きながらライダーを相手するとなると、流石に宝具を使うほどの隙がねえ。……さて、どうするか)

 

 彼の「役目」は、あの女の抹殺。

 それだけであり、故に彼はその達成しか考えていない。

 無論、サーヴァントとして存分に闘いを楽しみたいという思いも存在するが──何せこれは、「世界」そのものからの要請だ。無下にする訳にもいくまい。

 

(まぁ、あの腐れ外道の命令に比べちゃ遥かにマシだわな。あの野郎、よりによって自害とか命令しやがって)

 

 彼は、マスターに召喚されたのではない。

 

 「抑止力」──世界そのものの介入の代行者として、この地に顕現したのだ。

 

 その目的は単純であり、一人の魔術師を殺せというものだった。

 だがそれは言い換えれば、あの女を放っておけば世界全体が甚大な損害を受け──ともすれば、比喩抜きに終わる(・・・)可能性がある事を示唆している。

 ともあれ、聖杯に残っていた第五次の記録を読み込む形で行われた特殊召喚であるが故か、彼には本来持ち得ない「以前」の記憶が残っていたのだ。

 

(……まぁ、記憶が残ってたからって何だという話ではあるが)

 

 殺気を孕んだ沈黙が続く。

 脱力したような姿勢を取りながら、全身は常に臨戦態勢。

 コンマ一秒以下の時間で最高速に達せるよう、槍兵の両脚には常に有り余る力が通っている。

 

「ふむ、どうもマスターとの繋がりが感じられん。抑止力の代行者として顕現したのか……どうりで「槍兵」のクラスだけ読み込みに失敗した訳だ。とうとう世界そのものが敵になるとは、なんとも皮肉な話じゃないか」

 

「……つくづく不気味な女だな、テメェは」

 

 互いの言葉が空気を揺らす。

 女魔術師は悲しみとも怒りともとれぬような表情を一瞬浮かべた後、

 

「今の貴様は世界の後押しを受けた、謂わばフルスペック状態。知名度補正の縛りが消失した事によるステータスの大幅向上、使用可能宝具の追加……といったところか。──ふむ、先の言葉を訂正しよう。このまま続ければ、私達の敗北は確かだな」

 

「ほう? よく判ってるじゃねえか」

 

 ランサーは嘲笑うように言う。

 それは虚実ではなく真実。

 今の槍兵に「魔力切れ」という懸念は存在しない。ランサーに魔力を供給しているのは「世界」そのものなのだ。

 たとえランサーが何百発宝具(ゲイボルク)を放とうとも、世界全体の魔力貯蔵量からすれば塵程の魔力消費に過ぎない。

 加えて、ステータスの全体的な向上。具体的には、極東の地では皆無とされる筈の知名度補正が最大値まで引き上げれているに等しいブーストが施されている。

 今のクー・フーリンは、故国アイルランドで召喚された状態の彼と大差無い。故に彼は、ただ全力を賭し、死力を尽くして己が勝負に集中できる。

 

「つぅわけだ。テメェに勝ち目は無い──改めて言うが、死んで貰う」

 

 言葉と同時──ランサーの姿が、消えた。

 

 魔術師が息を呑む。今まで全く本気の速度ではなかったのかという驚愕。

 その速度は到底目で捉え切れるものではない。槍兵は音すらも置き去りに、一陣の暴風と化して女の周囲を駆け巡る。

 それはさながら、荒れ狂う風の獣だった。

 大地を踏みしめる破砕音が、全方位から絶え間無く響き渡る。

 辛うじて空間に焼き付く青色の影。

 サーヴァントにすら捉えられぬ影が縦横無尽に空間を駆け巡り、朱色の光芒が獰猛に光る。尾をひく二つの輝きは、獣の両眼が刻みし軌跡──、

 

「その心臓──……」

 

 女の背後で爆発的に魔力が渦を巻き、断続的に木霊していた大地を蹴る破砕音がぴたりと止む。僅かに女が首を逸らすと、見えたのは朱色の煌めき。

 即ち、それは──。

 

「貰い受ける‼︎」

 

 宝具の発動、奇跡の開帳‼︎

 女魔術師が忌々しげに視線を向ける頃には、勝敗は九割がた決している……‼︎

 

刺し穿つ(ゲイ)──……‼︎」

 

 ランサーは全霊の一撃を放とうと全身の筋肉を脈動させ、一秒後の己を鮮明に思い描いていた。

 身に染み付いた動作で刺し穿つのみ。

 全霊の一撃は女の心臓に吸い込まれ、速やかに死を運ぶ。

 

 ──其れは、因果逆転の呪い。

 この魔槍が手から離れれば、女の心臓が破壊されるという結果は約束される。

 

 例え心臓を貫こうが再生する化物女だろうが、「宝具の真名解放による一撃」は話が違う。

 槍が持つ特殊性により、真名を解放した刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)による一撃には回復阻害の呪いが付与される。破格の幸運を持つ者で無ければ、この宝具による傷を修復するのは不可能。

 女の背後には重油のように広がった不気味な影が地面に溢れて蠢いているが、あそこから伸びた影が彼を襲うには、余りに時間が足りていない。

 一拍遅れて、ライダーが勘付く。

 察知と同時に騎兵が動き、一筋の雷光となって槍兵に肉薄する。だがこの距離ならば、宝具発動の方が僅かに速い──‼︎

 

 ──そして。

 

死棘の(ボル)──……ガ、ッ──?」

 

 そして、黒い閃光が瞬いて。

 次の瞬間には、勝敗は決していた。

 

「……な、に?」

 

 ──何かに、腹を裂かれた。

 

 槍兵(・・)の腹から、黒く濡れたような鮮血が溢れ出す。呆然と視線を落とす槍兵の前で、地面を抉りながら足を止めたライダーがつまらなそうに嘯いた。

 

「なぁんだ。おいおい、使えたのかよ。まだ制御が困難で、勝手に行動するから困るとか言ってなかったか」

 

「セイバーとキャスターの二騎はいの一番に支配下に置いた。それに抑止力の代行者だ、出し惜しみをする訳にもいくまいよ」

 

 宝具発動段階に入っていたランサーを一閃したのは、地面に溢れる泥の中から現れた……一振りの、黒い長剣。

 赤い文様が塚の部分には刻まれ、おどろおどろしい雰囲気を放っている。その刀身は昏く、それでいて高貴。だが、本来の輝きを奪われたその刀身は見るに耐えぬ瘴気を纏って震えていて、

 

(馬鹿な、二騎同時使役だと……⁉︎ いや、違う。こいつは……‼︎)

 

 ──そして、何より。戦士の直感が告げていた。

 オレ(ランサー)は以前、この剣と──、

 

「テメェ……は……‼︎」

 

 粘りつく黒泥を突き破り、一人の剣士が顕れた。

 血脈に似た赤色のラインを刻んだ漆黒の鎧。目元を覆うバイザーも黒。病的なまでに白く染まった肌。その姿からは生気という物が感じられず、あるのは混じり気のない殺意のみだ。

 

 

 

「騎士王──アルトリア・ペンドラゴン」

 

 

 

 まるで唄うように。

 女は、その真名を口にする。

 

 アルトリア・ペンドラゴン──かの高名なアーサー王伝説に登場する伝説の王にして、第五次聖杯戦争時、ランサーと鎬を削った好敵手。

 その英霊が、今、目の前に居る。その変わり果てた姿に呆然とする暇も無いまま、漆黒の剣士が肉薄する。

 直後、空間に閃く黒の一閃。

 

「チ──……ッ‼︎」

 

 朱槍と黒剣の衝突。その威力は彼が体感したモノよりも僅かに重い。沈み込んだ踵が大地を割り、深手を負った身体が悲鳴を上げる。

 

「オイオイ、忘れてくれるなよ……ランサー‼︎」

 

 剣士の背後で、二度、三度と雷光が瞬く。

 側面に回り込んだライダーの飛び蹴りが、ランサーの無防備な側面を強襲し、槍兵の身体が跳ね飛ばされた。

 強い衝撃を味わいながら地面を転がり、舌打ちしながら血濡れの槍兵は敵を睨む。

 

「終わらせろ、セイバー」

 

「く……ッ‼︎」

 

 短い言葉、そこには油断も慢心もない。

 黒い死神は頷く事もなく、ただ指令を完遂しようと全力を賭す。

 

 ──絶望の咆哮。黒い彗星が唸りを上げた。

 

 闇を凝縮した輝きが渦巻く。彼女の聖剣は邪悪の化身と化し、その身を暴風へと変えて荒れ狂う。

 極光は反転し。

 その先に顕れるは、黒く染まりし卑王が鉄槌──‼︎

 

約束されし(エクスカリバー)──』

 

 騎士王の魔力が一点に収束し、一秒後の放出に備えている。

 だが、解放の寸前──。

 

『……‼︎』

 

 セイバーが弾かれたように顔を東に向け、飛来する一つの物体を察知する。淀んだ空気を貫いて、燦然と降りかかる一本の「矢」。

 捻れた切っ先を向けて飛んでくるソレに、彼女(・・)は見覚えがあるような気がした。生じた僅かな躊躇いが剣を振るうことを鈍らせ、遠方より放たれた一撃が着弾する。

 

 空間すらも捻じ切る力を秘めた流星と、騎士王の魔力障壁。

 

 それらが激突し、夜闇が真っ赤な爆炎で染め上げられた。

 大地を割り、空を焦がし、大気を震わせる一撃。それは如何なる魔術師の手によるものか。

 だが、爆炎を裂いて現れたセイバーは──無傷。

 バイザーに覆われた顔が再び眼前のランサーに視線を向けた。先の一撃への対処に時間を割かれた間に、ランサーはなんとか形成を立て直そうと大地を蹴る。

 させるか、とばかりにセイバーは前へ踏み込んだ。

 低く構えた聖剣が吼え、再度。黒き極光が反転する──‼︎

 

『光を呑め──約束されし(エクスカリバー)勝利の剣(モルガーン)‼︎』

 

 直後。漆黒の大破壊が巻き起こり、世界が断たれた。

 大気を揺るがす一撃は極黒の衝撃波となって空間を駆け抜け、全てを等しく蒸発させていく。青い槍兵の姿は、怒涛の黒に呑まれ──、

 

 その夜。

 仙天島の半分が、跡形も無く消滅した。



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四十五話 トレース・オン/Other side

 仙天島の半分が、聖剣の一撃によって跡形もなく消し飛ぶ数分前。

 この島の調査を行いに来ていた遠坂凛と衛宮士郎の二人は、島の中で暴れ狂うただならぬ気配をひしひしと感じ取っていた。

 

「……この気配、記憶にある」

 

 高性能な魔力計やら、霊脈の状態を正確に把握する長い棒状の計測器やらを手放して、士郎は眉のしわを深めて呟く。この背筋に悪霊を詰め込まれたようなおぞましい感覚は、まず間違いなく「この世全ての悪」によるものだった。

 十年間で更に研ぎ澄まされた生存本能が警鐘を鳴らしている。このままこの場所に留まるのは危険だと、倫理や思考とは別の場所で理解してしまっている。

 

「どうやら事態は思ったより深刻みたいね。こんな状況までもつれ込んでるとは思ってなかった、私達の予測が甘かったか」

 

 軽く舌打ちして、凛は一度広げかけた計測器や魔術道具をバンのトラックに詰め込んでいく。

 言うまでもないが、逃走の準備である。

 今の彼らには第五次とは違ってサーヴァントが存在しない。これ以上の調査は無謀だと判断した凛は、速やかにホテルへ帰還して今後の策を練ろうと考えたのだ。

 ──が。

 今も昔も、計算的で常識的に考える凛の行動指針を引っ掻き回しやがる問題児こそが、隣にいる衛宮士郎なのだ。

 

「ん? ぁ、え⁉︎ どこいってんのよ士郎‼︎」

 

「悪い、気になる気配を一つだけ感じる。ちょっとだけでいいから確認させてくれ」

 

 ふざけんじゃないわよ逃げるのよ聞きなさいよコラァ、とぎゃあぎゃあ叫ぶ遠坂大怪獣から逃げるようにして、士郎は近くにあった寂れた鉄塔の梯子を上っていく。

 鍛錬を欠かさなかったことで相当に鍛えられた身体能力をフル動員して、異様な速さで梯子を登りきる。鉄塔の頂点にタバコの吸い殻が放置してあったのが少し気になったが、無視して士郎は島の中を高みから見下ろした。

 

「やはり。おぞましい気配が一つ、サーヴァントの気配が一つ……んで、すごく懐かしいんだがどうも虫が好かないような気配が一つ」

 

 士郎は凛より気配感知に長けている。目を閉じてその気配の"質"を感じ取っていると、突如として響き渡った轟音がその感知を遮った。

 巻き上がる土煙の中、何かが熾烈な勢いで争っている。

 迸る獰猛な雷光、対するは朱色の煌めき。

 その光を目にした瞬間、士郎の脳裏に蘇った一騎のサーヴァントの姿があった。再開を懐かしむのか憎んでいいのかも分からぬまま、士郎はかの男の名前を呟く。

 

「お前か、クー・フーリン……‼︎」

 

 瞬時に魔力で視力強化。眼球に魔力が通り抜け、遠距離でのより正確な観察を可能にする。

 戦況は、僅かにだがクー・フーリンの方に傾いているようだった。どこぞの英雄王を思い出す金色の少年が放つ異様な速度の拳撃を、しかし青の槍兵は余力を残したまま防ぎきっている。

 が、その次の瞬間、士郎は目を見開いた。

 

「──なんだ、あれ……⁉︎」

 

 どこからともなく、地面の影から生えるようにして飛び出した黒色の何かが、槍兵の身体を貫かんと襲い掛かったのだ。

 彼は身体を捻って回避すると、一度距離を置き直す。正体不明の黒い影は、何故か「この世全ての悪」に対するものに似た悪寒を士郎に与えてくる。

 

「あれを操っているのは……あの女か。魔術師……あの少年のマスターなのか?」

 

 黒い影は蛇がうねるように引っ込むと、少し離れた場所に立っている女の背後に収まった。奴の髪色も豪奢な金髪で、凛が見れば金ピカならぬ「金ピカコンビ」とでも命名するに違いない。

 

(……って、それはどうでもいいんだ。今は何が起きているのかを把握する)

 

 瞬きすらせぬ覚悟で、士郎は彼らの戦いを凝視する。

 彼らは一度戦いの手を止め、何からの言葉を互いに交わしていた。だが、ふとした刹那に槍兵の放つ殺気が段違いに膨れ上がる。肌を刺すようなそれは、離れた場所にいる士郎にさえ強い圧迫感を与えてきた。

 

「バカ士郎‼︎ なにやってんのよ‼︎」

 

 と、やっとこさ梯子を登りきった凛から、開口一番痛烈なお叱り。

 

「悪い。けど、どうしてもここで何が起きてるのかを把握するべきだと思ったんだ」

 

「……それならまず私に相談しなさい‼︎ 一人で勝手決めるのはナシだって、ああもう本当に手のかかる奴ねアンタは。まったくアイツの言う通り‼︎」

 

「う。いや、本当に面目な……」

 

 瞬間、士郎も凛も言葉を引っ込めた。

 槍兵の殺意が最大限まで達し、彼の姿が掻き消える。木々の間を目視困難な速度で駆け回るその姿は、まさしくクランの猛犬に相応しい。

 

「アイツ、前より疾くなってないか……?」

 

「クー・フーリン……随分と久しぶりね。私達の事はもう覚えてないでしょうけど」

 

 しんみりと呟く凛だったが、次の刹那に戦いの勝敗は決定しようとしていた。

 槍兵が一際強く大地を踏み砕き、必殺の一槍を放つ構えへと入ったのだ。何度か味わった経験のある、空間から魔力を捕食するような気配が殺意を上書きして膨れ上がる。

 ──刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)

 一度放たれれば心臓を確実に貫く、因果逆転の魔槍による一撃。

 勝った、と士郎が確信した瞬間──確かに、勝敗は決した。

 

「え……」

 

 凛も士郎と同様に勝ちを確信していたからこそ、その口から驚嘆の声を漏らしていた。

 地面に伸びた女の「影」から、何かが飛び出してランサーの身体を斬り裂いたのだ。必殺の魔槍は放たれる事なく、槍兵は苦痛に顔を歪めて一歩二歩と後退する。

 

「──そんな、馬鹿な」

 

 その言葉はランサーの敗北に対するものではなく、そもそも彼はまったく別のところに視線を向けていた。

 衛宮士郎の得意とするところは「剣製」であり、剣の構造を瞬きより速く解析することができる。その目でもって突如現れた黒い剣士が持つ剣を見た瞬間の答えを、士郎は否定することが出来なかった。

 

 解析結果──「約束されし勝利の剣(エクスカリバー)

 

「凛。あの剣は……あれは、エクスカリバーだ」

 

「……っ。そう、士郎が言うなら正しいんでしょう。つまりあの黒い剣士は」

 

 騎士王、アルトリア・ペンドラゴン。

 かつて士郎のサーヴァントとして、時には凛のサーヴァントとして、二人とともに戦い抜いた戦友にして相棒。最後の時に自ら聖杯を破壊し、彼女は魔力切れで消滅した。

 そうして、二人とは永遠に交わるはずのなかった彼女が──今こうして、黒色に染まって彼らの前に現れたのだ。

 

「でもアレは何? 見ればわかるわ、今のセイバーの霊基状況は異常よ。それに魔術師が単独で二騎のサーヴァントを従えるなんて、できるわけがない」

 

 不可解な点はいくつもあった。中でも最大の謎が、あのセイバーはライダーのマスターだと思われる女に従っているという事だ。

 ──士郎の直感が最悪の事態を予感した。

 彼は勢いよく立ち上がると、手の中に使い慣れた洋弓をトレースする。純黒の滑らかな弓はよく手に馴染み、体の一部になったような心地いい一体感がある。

 

「何する気? 今度はさすがに見過ごせないわよ」

 

 凛の方から凄まじく鋭い視線が飛んでくる。

 士郎とて、自分自身で理解していた。

 これからサーヴァント同士の戦いに手を挟もうというのだ。何がどうなってもおかしくはない、普通に殺される可能性が最も高い。

 それでも。

 今ここで槍兵という存在を失うのは最悪の展開だ。あのランサーをここで死なせれば、世界の存亡そのものに大きな影響がある──そう、何かに突き動かされるように士郎は感じ取っていた。だがその直感がたとえ彼に無くとも、彼は弓に剣をつがえただろう。

 

「一撃だ。次の一撃を撃ったら全力で逃げる。アイツのしぶとさなら一撃の隙があれば逃げられるだろう。凛は下に降りて先に車の準備を頼む」

 

「一撃ね……そうまでして士郎がランサーを助けようとする理由は?」

 

「決まってる。──誰かを救う、それが正義の味方だからだ」

 

 十年前から何ら変わらない目的を、救われぬと分かりきっている理想を、今も彼は追い求めるだけだ。

 凛はその言葉に何もいう事なく、やれやれとでも言いたいように首を振って梯子を滑り降りていった。一人残された士郎は、「ありがとう」とだけ呟いて目を細める。

 この十年、いつもこんな風に過ぎていった。

 どんな危険にも突っ込んでいく士郎に、決して叶わぬ理想を追い求める士郎に、凛はどこまでもついて来てくれる。それがどんなに士郎の心を支えて、助けになってきたことか。磨り減りそうになっても折れそうになっても、彼女が居るだけで立ち上がれた。

 

 ああ──本当に。

 借りた物が多すぎて、何からどう返していいのやら分からないのは問題だ。

 

投影(トレース)開始(オン)

 

 魔術回路に火を入れる。回路の速度は全速力に。全身と心に意識を張り巡らせ、奇跡を成す準備を整える。

 工程を飛ばす訳にはいかない。

 相手はあのセイバーだ。彼女の守りの鋭さ、堅固さは、かつてマスターを務めた彼自身が最も熟知している。

 ──だからこそ、手を抜くな。

 全行程を丁寧に辿り、今の自分が成し得る最高の投影を完成させる。

 

 ──想像の理念を鑑定し、

 ──基本となる骨子を想定し、

 ──構成された材質を複製し、

 ──製作に及ぶ技術を模倣し、

 ──成長に至る経験に共感し、

 ──蓄積された年月を再現する。

 

 己が思い描く姿を現実に投影し、空想を現実へと変える。

 魔力は脳天から爪先まで駆け回り、この瞬間のみ、衛宮士郎の身体は一つの奇跡を成すための道具に成り替わった。

 

投影完了(トレース・オフ)

 

 久しくカタチにしていなかった懐かしい一角剣は、残存魔力の殆どを突き込んでようやく掌の中に現れてくれた。

 洋弓に一角剣をつがえ、そこで一度目を閉じる。

 

 ──まだ、これでは足りない。

 

 このままでは、セイバーには届かない。

 あのセイバーの強さ同様に士郎は知っている。その身で憶えている。かつて剣を交わした男が如何にこの剣を使用し、歴戦のサーヴァント達と戦い抜いたのかを。

 

「──投影(トレース)重装(フラクタル)

 

 再現では足りない。

 さらに一歩。

 この剣を己が望む形に、セイバーを狙い撃つ上で最も適した形に変貌させる。

 単純な投影なんかよりも遥かに難易度は高い。その対象が宝具ともなれば、その難易度は群を抜く。複製、模倣、共感──その手順を踏んでいるが故に、投影品に手を加えるのは難しいのだ。

 己が望む形をイメージしようとしても、一度元の形を模倣し、その成長に共感した以上、「オリジナルの形状は至高にして唯一無二、たかが俺風情が手を加えることなど許されない」そんな雑念が思考を阻害する。

 

 だが、それを。

 あの男は、余裕綽々と行なっていた。

 

 ──そうだ、負ける訳にはいかない。

 ──かつて誓った。

 ──衛宮士郎は決して、自分にだけは負けられないと。

 

I am the born of my sowrd(我が骨子は捻れ狂う)

 

 あの姿を思い描ける限り。

 剣の丘に独り立っていたあの姿を、鮮明に思い出せる限り。

 その限界を知り、その愚かさを知った上でその先に辿り着けると──この身を以って証明するまでは。

 

全行程完了(ロールアウト)……」

 

 衛宮士郎は、こんな所で立ち止まってなどいられない──‼︎

 

「────偽・螺旋剣(カラドボルグII)‼︎」

 

 鏃の名を謳い、覚悟と共に目を開ける。

 狙うは遥か数百メートル先の敵影。

 身体は一つの奇跡を成す道具から、死の矢を放つ装置に早替わり。腕の関節は一ミリ単位で調整、魔力は最大循環を維持したまま。弦は限界まで引き絞り、衛宮士郎の全神経を敵影の額一点にのみ注ぐ。

 ……迷いはなく。

 息を軽く吐いて、指を離す。

 

 刹那、一筋の銀光が宙を灼いた。

 

 大気すらも捻じ切る光が一条。

 膨れ上がる聖剣の闇に歯向かわんと光を増しながら、放たれた矢は際限なく加速していく──‼︎

 

『…………‼︎』

 

 一拍遅れて、セイバーが反応する。

 バイザーの装着された顔が銀色の光を確かに捉え、右手に構えた聖剣はそのままに、セイバーは左手を(けん)へ掲げた。直後、彼女に纏わりつく高密度の魔力の霧が一様に蠢き、盾の如く展開される。

 

 ──そして、爆炎が膨れ上がった。

 

 漆黒と銀光が正面から激突し、大気はその余波に震え上がった。軽い地響きが鉄塔を揺らし、錆びた鉄が軋む音が響く。鬱蒼とした木々は焼き払われ、炎と煙が充満する地獄のような光景が広がる。

 

「……………………っ」

 

 だが、士郎は鋭く息を呑んだ。

 赤色の爆炎は黒煙に変わり、そして──それを力技に吹き飛ばして、無傷の剣士が姿を現したのだ。

 アレは衛宮士郎が出し得る全霊の一撃。

 だが、それさえも呆気なく無効化してみせるセイバーは、やはり正真正銘の怪物だった。

 

「どうなったの⁉︎ ランサーは⁉︎」

 

「分からない‼︎ 見てる暇は無かった‼︎」

 

 車の中に突撃するように転がり込み、アクセル全開で仙天島から離れる。所詮はレンタカーか、のろのろとしたスタートのバンにイライラしつつ二人は戦場から離脱していく。

 と、背後で凄まじい魔力が蠢き──、

 

「……嘘、人工島が──」

 

 窓から上半身を乗り出した凛が見たのは、仙天島の半分が闇に呑まれ、湖の水と共に蒸発した凄絶な光景だった。

 魔力の高鳴りだけで何が起こったのかを薄っすら察した士郎は舌打ちしながらハンドルを握り直し、一直線の農道を東に向かって突き進む。

 

「くそ、セイバーが敵に回るとこんなに怖いとは」

 

「当たり前でしょ⁉︎ いいから士郎は運転に集中──って、やば……‼︎」

 

 凛が呻くような悲鳴を漏らす。

 士郎がバックミラーをちらりと見ると、月の明るい闇に躍る、一つの影が見えた気がした。

 

「マズい……‼︎ セイバー、追ってきてる‼︎」

 

「大丈夫だ。セイバーだって、最高速の自動車並みの速度で走れる訳がない‼︎」

 

 これが例えば、俊敏さで知られるクランの猛犬──クー・フーリンであれば話は違っただろう。彼の健脚ならば、高速道路を疾走する車にも容易く追い付く事ができるに違いない。

 その点で言えば、セイバーは違う。彼女はあくまで剣士、地に腰をどっしりと据えて戦うタイプのサーヴァントだ。魔力放出を繰り返して大地を蹴ろうとも、これ程の速度を出し続けるのは難しい。

 だが事実、セイバーは爆走するレンタカーを猛追してくる。

 

「まさか……令呪? 私達を消すためだけに、令呪を使ったって言うの……⁉︎」

 

「ちっ。元々サーヴァントを二騎も使役するような奴だ、そんな出鱈目だってしてもおかしくはないか──‼︎」

 

 近づいている。差はもう十メートルほどしかない。

 真名を解放せずとも、セイバーが斬撃に魔力を乗せれば車を切り刻める距離だ。

 

「く──Es last frei(解放),Eis,Hammer(氷の槌)‼︎」

 

 それを悟ったか、凛は咄嗟に掴み取った青色に煌めく宝石を二つ投擲。

 詠唱と同時に宝石が爆ぜ、封じ込められた氷の爆風がセイバーの身体を包み込む。

 だが──。

 

「……ああもうッ、やっぱ無理‼︎ 二個も使ったのに無駄骨じゃない‼︎」

 

 爆風を真正面から突破したセイバーの動きは、何ら阻害されていなかった。

 微かに速度を落とす事すらも叶わない。彼女の対魔力は最高ランク、現代の魔術師風情では、魔術で押し留める事が叶うはずもない。

 

「凛、運転替われ‼︎ 俺が──」

 

「やばい‼︎ ハンドル、左ッ‼︎」

 

 言葉に弾かれるようにハンドルを切った瞬間、車内を凄まじい衝撃が走り抜け──ばかん、と馬鹿みたいな音を立てて、自動車の後部座席が分離していった。

 まるで何処ぞの斬鉄侍の如く、セイバーは魔力放出を乗せた漆黒の刃で、自動車を容易く両断したのだ。

 前輪だけになれば、当然自動車はバランスを保てない。前面部が地面に押し付けられて火花を上げ、悲鳴じみた音を上げながら停止する。

 

「っ……無事か、凛」

 

 横倒しになった車体の残骸から身を乗り出し、這い出るようにして道路に転がり出る。

 

「ええ、なんとか。……でも」

 

 一筋の冷や汗が頬を伝う。

 凛も険しい目つきで前を睨みながら、無駄と知りつつも宝石を握り締めていた。

 居た。──眼前に。

 懐かしい光が、闇に染まって立っていた。

 

「────────」

 

 ゆっくりと立ち上がり、油断なく漆黒のバイザーに覆われた顔を見据える。

 ああ──間違いない。

 この敵はやはり、かつて共に戦った彼女だ。どのような姿になろうとも、彼女が彼女であることに揺るぎはない。

 

「……投影(トレース)開始(オン)

 

 だが、感傷に浸る暇はなかった。

 目の前の剣士から叩きつけられる殺意はあまりに鋭く、昔話を楽しむなんて余裕は無かった。

 残った魔力を掻き集め、最も手に馴染む錬鉄の夫婦剣、干将・莫耶を握り締める。

 ──だが、勝ち目は無い。

 およそ十年前、目の前のセイバーと稽古として打ち合った経験が士郎にはある。

 が、結果は全て惨敗。彼女は一分の力で士郎の全てを圧倒してみせた。

 命を削るような裏技を用いれば辛うじて相討ちに持ち込む事も可能かもしれないが、今の衛宮士郎ではこの剣士は越えられない。

 ──だが、逃げ道もない。

 故に、無駄と知りながらもセイバーの前に立ち塞がるしかない。なんせ、この後ろには凛がいる。ここを通せば彼女が死ぬ以上、彼は決して引き下がらない。

 

(……先手を取られれば反応は出来ない。問答無用で斬り伏せられる)

 

 ならば前だ。

 

(万に一つだが、少しでも勝算の高い方法。それは、俺から斬りかかる他に無い……‼︎)

 

 少し身を屈めると同時、士郎の靴底が勢い良くアスファルトを蹴り飛ばす。

 

「っ、おおおおおおおおッ──‼︎」

 

「馬鹿、無茶よ‼︎」

 

 そんな悲鳴が、微かに聞こえた気がした。

 セイバーまでの直線距離を疾風の如く駆け抜ける。憑依経験をも同時に投影、己が身に宿らせながらの突撃。

 数メートルを駆け抜けるのは一跳びで済む。風を切る干将・莫耶の手応えを確かに感じながら、士郎は全霊を込めて初撃を放った。右上から左下へ、美しい軌跡を描く袈裟斬り。

 

「────」

 

 セイバーが迫り来る刃を睨みつけた瞬間、士郎の右腕が跳ね上がった。

 士郎の右腕を突き抜ける強烈な衝撃。それが、ただ無造作に剣を振り上げて干将を振り払ったのだと理解した瞬間には、セイバーの躰が一歩前に踏み出している。

 

「く……⁉︎」

 

 ズン、と彼女らしくない重々しい足音が響くと同時に、渾身の魔力放出を乗せた横薙ぎの一撃が迫ってくる。

 咄嗟に左手の莫耶を迎撃に向かわせ──逸らす。

 真正面から受ければタダでは済まない、という直感は当たっていたらしい。莫耶は刀身にヒビを入れながらも、その一撃を身体の前に受け流した。

 ──たった一合。

 それだけで士郎は理解する。例え十年の月日を経ようとも、この剣士には逆立ちしたって叶わないと、そう思い知らされた。

 ──それでも。

 後ろには凛が居る。勝てない、叶わない、それはこの際どうだっていいのだ。単純な事実、ここで自分が敗れれば背後の凛も殺される──それだけを見つめてがむしゃらに剣を振るう。

 

「ぐっ、ぎ────ぁ⁉︎」

 

 しかし、現実は常に非情だった。

 士郎とセイバーが打ち合えたのは僅か五合。限界を迎えた干将・莫耶が砕け散ると同時、再投影の暇もなくセイバーの脚が飛んでくる。

 ゴキュ、という嫌な音が、硬い脚鎧が突き刺さった肋骨のあたりから聞こえてきた。華奢な少女には似つかぬ強烈な蹴りを受けて、士郎の身体が数メートルはノーバウンドで吹き飛ぶ。

 

「かは……ゲホッ……くそ、俺は──」

 

「待ちなさい、士郎。私が話すわ」

 

 と、苦しみながらも立ち上がろうとした士郎の視界を塞いで、凛はセイバーと士郎の間に割って入った。決死の覚悟を抱きつつ、凛はバイザーに覆われた懐かしい顔に視線を向ける。

 

「セイバー。今の貴方は、私達のことを覚えてないかもしれないけれど……コイツを殺させる訳にはいかないわ。決して。それは、私達を救ってくれた、他でもない貴方の功績を無駄にすることと同じだから」

 

 セイバーの顔は見えない。凛の喉元に剣先を突きつけたまま、黒の剣士は無言を保っている。

 闇に染まりきった鋭い切っ先が僅かに動き、凛の胸に微かに突き刺さった。つぷ、と鮮血が粒となって漏れ、凛の服を僅かに赤色で汚していく。

 

「……っ」

 

 セイバーがその気になれば、少しでも剣を押し込めば、いつでも凛の心臓を貫ける。

 まさに一歩先に死が見えている状況。

 士郎が我慢ならずに飛び掛かろうとした瞬間、しかし──、

 

「今の私では。よく、判らん」

 

 ぼそり、と。

 掠れた声が漏れ、セイバーは確かに、そう口にした。

 

「セイバー……貴方」

 

「今の私は騎士王などではなく、ましてや英雄などではなく──ただの、貴様らの敵だ。だが……この身体は、貴様らを殺す事を全力で拒んでいる」

 

 カタカタ、と剣先が震えている。それは葛藤なのか、役目に抗おうとする意思の表れなのか、凛にも士郎にも分からない。

 

「今だけは見逃そう。魔術師(メイガス)どもよ、これが最初にして最後の慈悲だ。懲りずに私を追ってくるのならば、その時は容赦なく斬り伏せる」

 

 剣がゆっくりと引かれ、セイバーは踵を返した。

 困惑はあれど、安堵とともに肩を撫で下ろす凛。去っていくその背中に何を言えばいいのかも分からず、ただ士郎と共に彼女が去るのを見つめる。

 ──が、その瞬間だった。

 ぴたり、とセイバーの動きが止まる。

 まるで不可視の糸に操られるようにして、彼女は不気味に首を曲げて振り返った。

 

「あ、ぁ────ガ、■■■ッ、……割り込むか、■、貴様──」

 

 声にノイズが混ざりこんだように、彼女の喉から奇怪な声が迸る。

 セイバーは内なる何かと戦うような素振りを見せながら、ぎぎぎ、と手足を曲げて凛へと歩み寄ってくる。掲げられた黒い聖剣は間違いなく、凛を屠るために振りかぶられたものだ。

 

「駄目だ凛、逃げろ──────‼︎」

 

 とうとう、セイバーの微かな意思が何者かに上書きされた。

 躊躇の無くなったセイバーは音速に迫る一歩を踏み出すと、剣筋すら残さぬ神速の一撃を凛に見舞い──、

 瞬間。神速は、神速を以って迎撃されていた。

 高く響く反響音を撒き散らし、エクスカリバーの刃を横合いから割って入った男の武器が受け止める。

 

「よう嬢ちゃん、いつ以来だ? 随分いい女になったじゃねえか」

 

「あ、貴方……」

 

「話は後だ。オラ小僧、お前も来い‼︎ とっととずらかるぞ‼︎」

 

 士郎が返答する暇もない。腹部を斬り裂かれたランサーは、血を今も溢れさせながらセイバーの剣を受け止めたままなのだから。

 地面を蹴り飛ばして槍兵に肉薄すると、彼は目にも留まらぬ速さで凛と士郎の二人を担ぎ上げる。そのまま追撃の剣戟を難なく避けると、セイバーをも追いつけぬ程の速度で、三人は瞬く間に田園地帯を走り抜けていった。



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四十六話 騎兵とアナスタシア/Other side

「……フゥ、随分と静かになっちまったな」

 

 破壊の跡が残る地面に胡座をかいて、ライダーはつまらなそうに消し飛んだ島の光景を眺めてぼやいた。片耳が千切れたのには全く関心がないらしく、側頭部から血が流れ落ちているのを気にしている様子はない。

 セイバー・オルタは無謀にも手を出してきた魔術師らを鏖殺するため、令呪の加算を得てカッ飛んでいった。ここに残るサーヴァントは今のところ彼のみだ。

 

「チ……見てくれくらいは気にしろ、狂人」

 

 女が鬱陶しそうに彼の傷を見ると、その傷はたちまちのうちに再生していった。耳の形まで完全再現、時間を巻き戻したのかとさえ思える最高位の回復魔術である。

 

「いい魔術だな。一体どこで仕入れた?」

 

「……随分と昔、東南アジアに天才の域を超えて神域に至ったと謳われる医者が居てね。治療を専門とした魔術師の家系が、ただの小遣い稼ぎで調子に乗りすぎたらしい。その連中は消されたが、その前に仕入れておいた」

 

「成る程、成る程。しかし、テメェも相当だよな。その力は人が易々と手にしていいようなものじゃああるまい」

 

「生まれつきの、呪いに近いものだ。こればかりはどうしようもない」

 

 首を振る女魔術師。彼女は会話を切り上げて、今も黒煙を上げている破壊の跡に視線を移した。

 食い荒らされたような傷跡を残す地面に触れると、やや面倒臭そうに顔を顰める。

 島に張り巡らされた結界は「外からの攻撃や干渉を弾く」性質を有していたため、内から放たれた聖剣の衝撃波は受け止めることなく湖へ逃がす事が出来たようだったが、ゆくゆくは計画の要となる島本体がこのザマでは格好がつかない。

 

「ふむ、修復にはやや時間を有しそうだ。少しばかり、あの騎士王の聖剣を甘く見ていたか」

 

「エクスカリバーだろう? 人々の願いを糧に鍛え上げられた最強の幻想(ラスト・ファンタズム)、聖剣のカテゴリーじゃ頂点に君臨する代物だ。むしろ未だ本領発揮には程遠いような気もするが」

 

 彼の言葉は無視して、早速とばかりに島の修復作業に取り掛かる女魔術師。その姿を見て、「これ以上の闘いは無しか」とつまらなそうに溜息を漏らしたライダーだったが──、

 

「ん? 待てよ、まだ茶々入れてきた馬鹿野郎がいるじゃねえか」

 

 頭から電球マークを飛ばすような気楽さで、ライダーは顔を輝かせる。少年の姿にふさわしい無垢な笑顔の裏側にあるのは、「この際誰でもいいから敵を殺したい」という強烈な殺害衝動だけだ。

 

「ハッハ、おいマスター。そういやテメエが連中を皆殺しにしたあたりで、だいぶ遠くから狙撃してきた奴がいたの覚えてるか」

 

「当然だ。そも、まず最初の一手として恐らく神殿を穿ったのも、恐らくはそれと同一のサーヴァントだろう」

 

「つまりは敵だな?」

 

「そう焦るな。──言われずとも、貴様が存分に戦える準備は整っている」

 

 ローブの切れ端を地面に擦らせながら、女魔術師は億劫そうに西の方角へ腕を向けた。

 先ほどの弾道発射位置をおおまかに予測しつつ、ざっと十種類を超える魔術を自分に重ね掛けして双眼鏡を遥かに上回る精度の視力を得る。

 更には風速を捉える魔術、空間把握に適した魔術、その他諸々の魔術を彼女は無動作(ノンアクション)で行使し、最も可能性が高いであろう狙撃地点を的確に割り出した。ありとあらゆる魔術を無詠唱で行使し、それらを総合的に組み上げることを得意とする彼女にとっては、まさに十八番と言える作業だ。

 

「おおよその座標を確定した。今から貴様をそこに飛ばす。その先は貴様に一任する、自由に暴れて殺すがいい」

 

「了解だ」

 

 今まで消化不良で終わってきたサーヴァント達との死闘で昂ぶった加虐心を、この敵でようやく発散する事ができそうだ。

 あまりの高揚に全身から火花を散らしながら、魔術師が令呪を行使するのを待ちわびる。

 

「令呪をもって命ず。行け、ライダー」

 

 令呪に命じた命令は至極単純だった。

 脳内に思い描いた座標にライダーを"飛ばす"イメージを強固に保ち、一画の令呪が閃光と共に消失する。

 瞬間、彼の身体が空間から掻き消え──、

 

「よう女、早速だが死んでくれ」

 

 刹那の後。

 ビルの屋上で茫然とするアナスタシアの眼前に、ライダーは笑顔を浮かべて降り立っていた。

 

 

 

 

「よう女、早速だが死んでくれ」

 

 アナスタシアは、信じられないものを目撃していた。

 ──いや、その時に至るまでに、もう何度も信じられないものを目撃してはいたのだが。

 壊滅した代行者たち、乱入したランサーに胸を貫かれても治癒するあの女、無謀にも横槍を入れた見知らぬ魔術師に最後は謎の剣士ときていた。もう頭の中は混乱しきりで、多少冷静になれたといえども何からどう手をつけて考えればいいかすら分からない、そんな状況の真っ只中のことだった。

 島の方から、嫌な視線を感じたのだ。

 殺意の篭った視線がアナスタシアの全身を舐め回し、その感覚に悪寒を覚えた直後、その少年は虚空から突然として現れていた。

 

 ──早速だが、死んでくれ。

 

 言葉の意味を解するよりも速く、代行者として覚醒した身体は反射的に動いていた。

 全力で首を振り、彼女の頭蓋がコンマ数秒前にあった場所を雷撃を纏った拳が突き抜ける。空気すら灼き切る不気味な音が耳朶を打ち、アナスタシアは咄嗟に距離を取った。

 

「……お? なんだテメエ、普通の魔術師なら頭が粉々に爆散してる筈なんだが」

 

 信じられない。令呪の奇跡に頼ったとしても、向こうのマスターはどうやって、遥か十キロ以上離れたこの場所の座標を正確に把握し、令呪の命令に落とし込んだのだ。

 不可解は不可解のまま、戦闘は考える余裕など与える訳もなく加速していく。

 

「チッ‼︎」

 

 サーヴァントが瞬間的に目の前に現れるという状況においてなお、アーチャーの反応は素早かった。

 腰からサブマシンガンを二丁抜き放つと、容赦なく金色の少年に弾丸を浴びせかける。

 

「っと、いけねぇ。ついつい目的を見失うとこだ。マスターを先に殺しちまったんじゃあ、テメエのようなサーヴァントとの闘いが愉しめねえじゃねえか──なァ⁉︎」

 

 ぎゅんっ‼︎ とライダーの身体が疾駆する。

 その様はまさに疾風迅雷、全身に爆ぜ散るような雷を纏わせた彼はまるで一筋の雷光だった。ビルの屋上を弧を描くように駆け抜け、弾丸の間をすり抜けてアーチャーへと肉薄する。

 

「アーチャー……ッ‼︎」

 

 駄目だ──アーチャーは遠距離戦闘に特化したサーヴァント。明らかに徒手空拳の至近戦闘を得意とするのであろうあのサーヴァントを相手にするには、彼は相性が悪すぎる。

 アナスタシアは秒を待たずに黒鍵を準備(セット)すると、勢いよく数本分をまとめて投げ放った。

 ──が。

 

「邪魔だ、女」

 

 鉄骨をも穿つ威力のそれらは、しかし呆気なく宙空ではたき落とされ、同時にライダーの掌から放たれた雷撃の槍がアナスタシアの身体を貫いた。全身を雷撃特有の嫌な感覚が走り抜け、アナスタシアは数メートル吹き飛ばされてダクトに叩きつけられる。

 

「で。まずはテメエからだ、アーチャー」

 

 アナスタシアの方を見ることすらせずに彼女の無力化を済ませたライダーは、残忍な笑顔を浮かべながらアーチャーの懐に潜り込む。

 アーチャーの反応は、しかし間に合わない。

 たった一息の挙動。その間に実に二十四の拳打を全身に叩き込まれ、アーチャーの顔が苦痛に歪んだ。硬く閉じた唇の間から吐血した血が溢れ、彼の全身を不気味な紫電が駆け抜ける。

 

「不意打ちになっちまったとはいえ……なんだ、意外とつまんねえ敵だったな。テメエら」

 

 至極残念そうに呟きながら、ライダーは合わせた両手の内側で極大の雷撃を作り上げた。

 叩きのめされたアーチャーは、高さ数十メートルのビルの屋上から飛び出し、真っ逆さまに真下の路上へと墜ちていく。そこに追撃の極大雷槍が襲い掛かり、遥か下方の路上で激しい爆風を巻き起こした。ビルの窓ガラスが爆炎を受けてオレンジ色に染まり、アスファルトの下から露出した水道管が多量の水を吹き上げる。

 

「で、残るはテメエか」

 

 ぎろり、とライダーの双眸が雷撃を受けてうずくまるアナスタシアの姿を捉える。

 

「…………っ」

 

 そのおぞましい殺気を受けて、アナスタシアは理解した。この男は確かに殺気を持っているが、それは憎しみや敵だからという分かりやすい理由から発生したものではない。

 彼はただ楽しいのだ。単純に、彼が「殺意を抱いた上で対象を殺す」という行為からこれ以上ない悦楽を得ているからこそ、あのサーヴァントは相手に殺意を叩きつけた上で心いくまで惨殺する。

 

「さっきのは失敗だった。ああ、俺の悪い癖だ本当に。つい興が乗りすぎると、ついつい本気で全力で全霊で相手を潰しちまう……」

 

 さっきの、というのはアーチャのことを指しているのだろう。

 街のど真ん中に堕ちた雷撃は、二車線道路のど真ん中で凄まじい破壊を撒き散らしていた。意識を向ければクラクションに悲鳴、怒号が聞こえてくる遥か下の路上を横目で眺めながら、ライダーは自分を戒めるように拳で頭を小突く。

 人々の恐怖を浴びるようなその姿は、まさに彼を象徴しているとも言えた。

 

「動物を、特に人間って奴らを殺す時に一番愉しめるのはな、当然ながら向こうが死を恐れている時だ。恐怖、悲鳴、命乞い、謝罪、なんでもいい。そういったモンを挟まぬ殺しなど、俺にとっちゃあつまらない(・・・・・)

 

 狂気を語るライダーの姿に、アナスタシアはどうしようもない恐怖を覚えた。無意識のうちに一歩後退しながら、それでも彼を睨みつけて宣言する。

 

「そんなもの……私は認められません。貴方は狂っています」

 

「狂っている、だと? ふ、はははははははッ‼︎ そんな事は百も承知だ、たわけ。なにせ昔から散々、貴様は狂っていると言われ続けてきたんでなァ‼︎」

 

 ライダーの姿が掻き消えた。

 咄嗟に目を見開いて彼の姿を探す、そんな事をしている時点で勝敗は決していた。

 パチパチ、と稲光が弾ける不気味な音が聞こえた時には、既に彼の小柄な体がアナスタシアの背後で手刀を突きつけていた。

 

「貴様に大役を授けてやる。その白い喉から出し得る限りの悲鳴を上げ、俺を愉しませるという役目をな。皇帝(おれ)への献策だ、光栄に思えよ」

 

「……つ゛‼︎」

 

 アナスタシアは、無我夢中で右手を背後に振り払った。

 ──だが、軽い音を立てて拳が止まる。

 小柄な体のどこから出ているのかという怪力でもって、ライダーは代行者の筋力を真正面から受け止め、圧倒していた。押し込もうがぴくりとも動かない右手を見て、今度こそアナスタシアの心に絶望がよぎる。

 金髪を逆立てたその姿は、本当に熾烈で苛烈だった。

 その異様に怯んだアナスタシアが何かを言うよりも速く、ライダーの腕が胸元に伸びる。

 

「おっと。こいつは何だ」

 

 ライダーが掴み取ったのは、アナスタシアがお守り代わりに胸元にぶら下げていた木彫りの十字架だった。

 それは幼い頃、両親が死ぬ寸前に渡されたものだ。魔と呼ばれる者らに全てを奪われた後、たった一つだけ残った思い出。それを奪われたと分かった瞬間、アナスタシアの顔色が僅かに青くなる。

 

「……それを……返してください」

 

「この俺が収奪したものを返せ、とくるか。無知厚顔にしてあまりにも不敬だな、女」

 

「貴方の正体が何であれ、そんなものは関係ありません……‼︎ 私から大切なものを奪うというのなら、私は貴方に真っ向から歯向います‼︎」

 

 異様な視線がアナスタシアの体を貫いた。まるで視線という名の矛を喉元に捻じ込まれているような恐怖がアナスタシアを縛り付け、開いた口から言葉を発することができなくなる。

 この恐怖は──単純に、次元が違う。

 これは恐らく彼が持つ力の一種だ。単純に威圧感や強さで相手に恐怖を刻むのではなく、ライダーという存在が「恐怖を振りまくもの」と認識されていたが故に、何らかのスキルとして昇華した特異能力。だからこそ、その恐怖は代行者とて例外なく屈服させる。

 

「俺が怖いか? それを恥じる必要はない、至極当然のことだ。生前、俺は生前「恐怖をふりまくもの」と周囲や民草に認識されすぎた(・・・)らしくてな。サーヴァントになった今、俺という存在はそうあるべしと歪められている。いわば、無辜の怪物と呼ばれるバケモノだ」

 

 手足の震えを抑え込み、今にでも逃げ出したい気持ちを堪えながら、アナスタシアは彼の目から目線を外そうとしなかった。

 その意思の強い瞳を見て、ライダーの表情がわずかに翳る。

 サーヴァントですら、この威圧を纏った彼を相手にする時は特定のステータスが一ランク下がるという枷を押し付けられる。人間ならば言わずもがなだ。気弱な奴ならば失神するか悪くて発狂するか、もしくは訳もわからず傅いて許しを請う。

 だがアナスタシアは、確かに手足は頼りなく震えていたものの、それでもしっかりとライダーの姿を捉えていた。

 

皇帝(おれ)の威圧をこれ程の距離で受けてなお屈服しないか。面白い女だな、テメェ」

 

「それを……返しなさい」

 

 怖い。怖いけれど、それを奪われてしまうのはもっと怖い。だからアナスタシアは虚勢だとしても立ち続ける。

 毅然として言い張るアナスタシアをしばらくじろじろと眺めた後、ライダーは手元の十字架に視線を落とした。

 

「いいだろう。テメェに興味が湧いた。質問に答えたならば返してやらんこともない……が、場合によっちゃあ即座に殺す」

 

 一歩間違えれば殺される緊迫感を孕んだ空気の中、アナスタシアは覚悟をもってその言葉に頷いた。

 元より選択肢などあるわけがない。近接戦に関して、特に高い戦闘能力を持つと思われるこのサーヴァントを前にして未だ存命であるこの状況が、そもそも奇跡に近いものだった。

 

「テメェが神の教えを捻じ曲げる代行者とかいう存在であることは、今は不問にしてやろう。その上で、同じ主を讃える者として貴様に問う」

 

 ライダーの手はゆっくりと持ち上げられ、アナスタシアの頭に向かって向けられた。掌の中で極小の雷電が荒れ狂い、不気味な輝きがアナスタシアの目を眩ませる。

 間違いなく──次の返答次第で、あの雷はアナスタシアの頭蓋を消し飛ばすのだろう。

 

「──呪われた子と定められたからか、俺は生まれつきの狂人だった。他者の痛みに対して心を痛めるのではなく、悦楽を覚えるような人間だったんだ。民草の上に立つような地位を得ても、その歪みだけは変わる事は無かった。もうこれはどうしもないのだと、そう諦めもした……」

 

 ライダーは少年の容姿に似つかぬ、遠い昔を思い返す老人のような表情を浮かべ、己の過去を語り続ける。

 

「だが、そんな俺にも希望はあった。とある男に出会い、俺は変わる事が出来たんだ。主の教えに従い、敬虔な信徒であろうとする時だけだが……俺は俺自身の歪みから逃げる事が出来た」

 

 木彫りの十字架を優しく握りしめながら、ライダーは笑う。

 アナスタシアはなぜか、自分自信が絶体絶命の状況にある事を忘れそうになっていた。この男は敵同士だが、同時に彼女と通ずるところを持っている──そう、理解したからか。

 

「血を見るか、戦の気配が濃くなれば俺は元に戻りかけた。それを宥めるのは別の女の役目だったんだが……まぁ、それはいい。そとにかく俺は狂人でありながら信徒という、矛盾した生き方を続けていた。だがそんな事が本当に可能なのか? 貴様のような頭のおかしい奴が敬虔な信徒として生きていけるわけがない、主は許さない──そう、何度自問した事か」

 

「………………」

 

「結局、俺自身では答えは出せなかった。そこで、だ。暇潰しにしては大仰だが……いい機会だ、同じ信徒のテメェに聞くとしよう」

 

 ライダーは一度言葉を区切り──、

 

「俺のような狂人が、果たして真の信徒となり得ると思うか?」

 

 アナスタシアは無言のまま、その問いを受け止めた。

 思い沈黙がビルの屋上を包む。聞こえてくるのは強い風の音、ビルの下でざわめく人々の喧騒と消防車のサイレンの音くらい。

 その沈黙は数秒だったのか、あるいは十秒を超えていたのか。

 アナスタシアはゆっくりと口を開くと、詭弁も嘘もない自らの意見をライダーに告げる。

 

「貴方は存在する限り、きっとその煩悩からは逃れられないでしょう。また、貴方の歪んだ心はきっと元には戻らない。けれど」

 

 アナスタシアは、こちらを見上げるライダーの目を覗き込み──、

 

「それは、貴方が何を信じるかとは関係ありません。自分が狂っていることが枷になると言うのなら、その枷を引きずってでも自分は信徒たり得るのだと、自分自身の力をもって証明するべきです」

 

 ──確固とした口調で、そう言い放った。

 ライダーは一瞬だけ静止すると、次の瞬間弾けたように笑い出す。

 今の答えのどこに笑う要素があったのかさっぱり理解できないアナスタシアは若干の困惑を感じつつも、相変わらずの無表情で腹を抱えるライダーを眺める。

 

「……ああ、そうかよ。答えまで同じとは、全く」

 

 くるりと踵を返し、ライダーは自らアナスタシアから離れた。その身体からは異様な殺気も重圧も消え去り、彼の小さな背中には何の重みも感じられない。

 

「オラよ。それは返してやる」

 

「あ……」

 

 放り投げられた十字架を、アナスタシアは大切に握り締めた。

 気分を良くしているという事は、アナスタシアが口にした答えは、彼が求めていたものと同じだったという事なのか──。

 予想外の展開に多少戸惑いながら、アナスタシアはじりじりと離脱の準備に入る。が、アナスタシアがビルの屋上から飛び降りようとした直前に、ライダーの方から「待て」という声が飛んできた。

 

「最後だ。見逃す代わりに、テメェの名前を教えやがれ」

 

 静かに押し殺すような声で、ライダーは彼女の名前を尋ねる。

 

「……私の名は、アナスタシア。アナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナ」

 

「ハッ。──くだらねえ」

 

 未だ身体に紫電を這わせたまま、ライダーは遠い夜空を仰ぐ。

 その僅かな沈黙の間に、彼は一体何を思ったのか。

 さっきのものよりもずっと心地のいい、ただ静かな沈黙があった。ライダーはやはり彼女にその顔を見せぬまま、さも当然とばかりに──、

 

「イヴァン4世」

 

「……え?」

 

「それが俺の名だ。それだけ覚えて、今すぐこの街から去るがいい。テメェが死にたがりの大馬鹿だってんなら別だがな──」

 

 その言葉が最後だった。

 イヴァン4世……かつて雷帝と呼ばれた少年は、雷鳴に似た轟音だけを残し、ビル群の向こうへと消えていったのだった。




【ライダー】
真名:イヴァン雷帝
初代かつ原初の皇帝(ツァーリ)にして、雷帝と畏れられた男。
大規模な恐怖政治をもって貴族たちを弾圧し、ロシア全土を恐怖で支配した。幼い頃から心の内に残虐性を秘めており、さらにとある事件をきっかけとしてその傾向は極端化していく。しかしそれとは対照的に、信仰心の深い信徒としての一面も有していたという。
本来のクラスは「狂戦士」。しかし今回は騎兵として召喚されたため、狂気が薄い頃の幼少期の姿で顕現している。
〈ステータス〉
筋力B、耐久C、敏捷A、魔力D、幸運C、宝具A
〈保有スキル〉
対魔力D
騎乗C
矛盾精神A
無辜の怪物B

【矛盾精神A】
聖人と兇人が同居したような精神、とも称される彼の精神がスキルとして発現したもの。平時は落ち着いた物腰で、誰に対しても平穏に接するものの、一度闘いが起こってしまえば彼の精神は豹変する。
また、平時においても時たま豹変する事がある模様。

【無辜の怪物B】
在りし日、人々から「恐怖を振り撒くもの」として認識されたイヴァン雷帝に付与されたスキル。意図的に恐怖を相手に叩きつける事で行動を縛り付け、筋力、耐久、敏捷のランクを一段階低下させる。

雷帝(イストーチニク)
ランク:B
種類:対人宝具
皇帝という存在を作り出した原初の一である彼は、その存在そのものを宝具として昇華させた。雷帝の異名に謳われるその熾烈さを表すように、イヴァン雷帝は身体中に超高電圧の雷撃を纏っており、それを活用する事で稲妻のような速度での高速移動を可能とする。
真名を開示する必要もない常時発動型宝具であり、騎兵で召喚された場合はオマケとして幻想種の雷馬が曳く馬車を召喚できる。


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【現時点における登場人物紹介と、ここまでのあらすじ】

このお話も長くなってきたので、一度時系列を簡単に纏めたものと、マスター&サーヴァントたちのおさらいを掲載しておきます。四十六話までの内容が含まれますのでご注意下さい。
もしよろしければ、評価、感想、お気に入りなどよろしくお願いします。


〈第六次聖杯戦争の時系列〉

 

【8月26日】

・繭村倫太郎が令呪を獲得、聖杯戦争の勃発が明らかになる。

 

【9月1日】

・聖杯戦争の緒戦、セイバーvsライダー。決着付かず。

 

【9月2日】

・志原楓がキャスターを召喚、同時刻に繭村倫太郎がアサシンを召喚。

・合計七騎が揃い、聖杯戦争が本格的に始まる。

 

【9月4日】──運命の夜。

・セイバーvsバーサーカー。→セイバーは敗北。マスターも失う。

・運悪く、志原健斗もバーサーカーに殺害される。

・健斗とセイバーが契約を結ぶ。

 

【9月5日】

・志原健斗、セイバーと再会。

・セイバーvsライダー。→決着寸前で戦闘中断。

 

【9月6日】

・倫太郎、楓による宣戦布告を受ける。

・健斗が誤って令呪を一画使用。

・セイバーvsランサー。→ランサーは撤退。

・キャスターと志原楓、アナスタシア、及びアーチャーに初遭遇。→戦闘は起こらず。

・夜、窮地に陥った健斗をセイバーが救出。

・セイバーvs十二天将「勾陳」。→セイバーの勝利。

・セイバー、聖杯に託す願いを健斗に話す。

・倫太郎、アサシンが掲げる正義を認める。

・倫太郎&アサシンvs十二天将「天空」。→アサシンの勝利。

 

【9月7日】

・衛宮士郎が倫太郎を訪ね、聖杯の汚染や今回の調査について報告。

・セイバーと健斗がお祭りに行く。

・アナスタシア&アーチャーvs黒化アサシン。→黒化アサシン消滅。

・セイバーvsキャスター。→キャスター苦戦、決着付かず。

・健斗vs楓。→健斗の辛勝。

・健斗、敵対するマスターが己の妹であったと知る。

・セイバー陣営とキャスター陣営、休戦。兄が死亡しているために聖杯を求めている事を知り、楓は協力を誓う。

・健斗はセイバーの笑顔を見たことで、自身の恋心を自覚する。

 

【9月8日】

・自身の変化に戸惑うアナスタシアと、それを肯定するアーチャー。

・健斗とセイバー、映画館に行く。

・自分を悪と断じるセイバーを見て、彼女の自己認識を変えてみせると健斗は決意する。

・楓、学校の屋上でアーチャー(?)による攻撃を受ける。

・倫太郎の根本的な歪みがアサシンによって看破される。

・楓と倫太郎が遭遇し、戦闘。→楓の勝利。

・二人の前に黒化バーサーカーが襲来。→アサシンとキャスターは敗北。が、運良くバーサーカーは姿を消す。

・仙天島の女魔術師vs代行者たち。→女魔術師の勝利。

・仙天島の女魔術師&ライダーvsランサー。→女魔術師の勝利。

・衛宮士郎&遠坂凛vs黒化セイバー。 →ランサーの力を借り、撤退。

・アーチャーvsライダー。→ライダーの勝利。が、アナスタシアを見逃す。

 

 

〈登場人物、及びサーヴァント〉

 

【志原健斗&セイバー】

 

志原健斗(しはらけんと)

 

 一般人、17歳の少年。ボサボサの黒髪に若干悪い目つきが特徴。特に親しい友人に前田大雅(まえだたいが)三浦火乃果(みうらひのか)がいる。

 サーヴァントの戦いを目撃してしまったことで殺害されるも、瀕死のセイバーから宝具を受け渡される事で辛うじて死を免れる。「身体は死亡したが魂が離れない」という生と死があやふやな状態で活動しているため、セイバーが消滅して宝具の効果が切れれば死に至る。よって、聖杯に託す願いは自己の蘇生。……それとは別に、「自分を絶対の悪として捉えるセイバーを否定したい」という強い思いを持つ。また、良家の魔術師の「余りもの」として産まれたため、魔術回路の質は倫太郎に次いで高い。

 魔術は当然ながら使えない。が、父親から貰った拳銃やら手榴弾やらを持ち出して武装している。着ているジャケットは父の知り合いであるライオンなんちゃらさんのお手製らしい。

 志原楓と戦ったとき、セイバーを押し倒したときなど、時おり何かに取り憑かれたように変貌する事があるが、彼自身はその変化をあまり記憶していない模様。

 内心ではセイバーを大切に思い、自覚するくらいには強く惹かれているが、それを表に出すまいと頑張っている。

 

・セイバー(真名:???)

 

〈筋力A、耐久A、敏捷B、魔力A+、幸運C、宝具EX〉

 蒼髪が美しい小柄な少女。外見は健斗の一、二歳下くらいのイメージ。かなりの童顔なので中学生に間違えられたりするが、本人は「魔王」を自称している。ワガママかつ甘いもの好き、自由奔放な行動で健斗を振り回す独裁者。

 ただし戦闘能力は非常に高く、敵に対しては容赦のない冷酷無比な一面を覗かせる。特に「神性」を持つものに対しては無敵とも言える強さを発揮し、クー・フーリンの槍を皮膚のみで弾き、神霊級かつ各々が英霊数騎ぶんの力量を誇る十二天将を相手に、たった一騎で圧倒してみせた。「魔王特権」による物体への干渉により、さまざまな武装やクラス的に所持しない宝具でさえも再現可能と、戦術の幅が広いのも彼女の強み。「魔王」で「神性特攻」と、やたら某第六天魔王さんと設定被りが激しい。

 聖杯に託す願いは、志原健斗に出会った時点で「もう既に半分叶った」らしく、彼女はそれで満足している。その願いが彼女の過去と志原健斗にどう関係しているのかは今のところ不明。

 

 

【繭村倫太郎&アサシン】

 

繭村倫太郎(まゆむらりんたろう)

 

 16歳にして繭村家十九代目当主を継いだ天才魔術師。容姿は髪を長くして、気弱な感じにした士郎というイメージ。魔術回路の質は非常に良質で、単純な貯蔵量だけなら遠坂凛をも上回る(起源や属性を考慮すると、総合的には凛の方が優秀)。

 魔術師でありながら魔術が苦手という致命的な欠点があり、自分を三流だと感じている。また、自己よりも「繭村家」総体を優先すべきだと教え込まれてきたため、自己の目的や願いといったものが非常に稀薄。一見普通の少年のように見えても、その思考回路には自分というものが存在せず、完全に歪んでいる。アサシンと楓の言葉で、ようやく自分の歪みと向き合う覚悟を決めた。

 用いる魔術は熾刀魔術(しとうまじゅつ)。起源である「切断」を刀を媒介として発現させることで、不可視のモノですら断ち切る概念切断を引き起こす。

 

・アサシン(真名:魔眼のハサン)

 

〈筋力D、耐久D、敏捷A+、魔力C、幸運D、宝具EX〉

 目元にボロボロの包帯を巻きつけた、山の翁の名を継ぐ暗殺者。

 紫陽花色の短髪に褐色の肌が特徴。実にマイペースで、話し方は非常にゆっくりとしている。かつて「正義」に憧れながらも、人を殺す事でしか己の正義を成せなかったため、暗殺者である自分をなにより嫌悪している。「気配遮断」などに頼らず真正面から戦おうとするのは、その自己否定の表れ。そんな自分を認め、「僕の正義の味方だ」と言ってくれた倫太郎に対しては、非常に良い感情を抱いている。

 彼女の最大の武器は、神ですら死に至らせる「直死の魔眼」。

 普段は包帯である程度抑えているが、本気の戦闘時には包帯を解いて戦う。彼女の宝具は諸刃の剣、実質的に自爆宝具とも言えるものらしいが、詳細は今のところ不明。

 

 

【志原楓&キャスター】

 

志原楓(しはらかえで)

 

 志原の家に生まれた魔術師。容姿は髪を短く、茶髪に染めてツインテールに変えた凛のイメージ。魔術回路の質は悪く、量で比較すると士郎にも普通に負ける。

 また、使えるのは「徒手魔術(としゅまじゅつ)」という強化魔術の延長のみで、士郎でもできた魔力による視力強化すらできないというぽんこつっぷり。一応運動神経と料理には自信がある。

 一見すると気が強くて明るい少女のようだが、内側では大きなコンプレックスと劣等感、魔術師への嫌悪を抱えている。メンタルが超人クラスの凛に比べると、楓は嫌なことがあったら盛大に凹むし泣く。しかも若干卑屈なので慎二っぽいところも。過去に色々あった倫太郎には特に強烈な敵意を向けるも、彼の歪みと苦悩を知って、なんとも言えない複雑な感情を抱いている。

 戦闘時には自分が使える唯一の魔術である「徒手魔術」を活かせるよう、もっぱら徒手空拳で戦う。忍者の末裔なので、一応クナイの扱いにも長けているが、奥の手は無骨な手榴弾。現代兵器への適応と伝統の遵守という、まるで本職の魔術師みたいなしがらみに悩まされている彼女の心の表れともいえる武装。

 

・キャスター(真名:安倍晴明)

 

〈筋力E、耐久D、敏捷C、魔力A+++、幸運B、宝具A〉

 人外の美貌を持った和装の優男。平安時代に君臨した都の守護者にして、最強の陰陽師。強力なサーヴァントだが、楓が大好きな映画のパッケージを触媒に召喚されるという適当っぷり。本人の性格も気楽かつ能天気で、聖杯に託す願いはなく、ただ「楽しそうだし、かわいい声が聞こえたから」という理由で召喚に応じた。マスターである楓をよくからかったりするものの、彼女を守る為には全力を尽くす。

 知名度補正が最大に働くこともあいまって、その実力は非常に高い。千里眼による過去把握や真名看破に加えて、多種多様な術を用い、小型の式神を最大千体まで使役する。また、一匹一匹がサーヴァント1〜5騎ぶんの力を持つ「十二天将」を使役できるため、本来の戦力では最強を誇る。ただ、マスターの魔力量の関係から全力で戦うことは難しい。

 

 

【アナスタシア&アーチャー】

 

・アナスタシア

 

 本名はアナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナ。ロシア出身の、白い肌にブロンドの髪を持った少女。大学の留学生という身分を偽りながら、喫茶店「薫風(くんぷう)」に居候している。

 その正体は聖堂教会から送り込まれた代行者見習いであり、別働隊による聖杯奪取が失敗した際にマスターとして聖杯を掴む役割を与えられている。幼い頃に教会非公認のNo.13、「第十三聖典」と融合して代行者の力を手に入れてから、復讐を果たすためだけに生きてきたという過去を持つため、初めて享受する平穏に戸惑いながらも、それに対して悪くないと感じている。特に最近は店主の槙野が気になるらしいが、常に仏頂面なのでそれを知る者はアーチャーくらいしかいない。

 代行者だけあって身体能力はかなり高い。キャスターの式神を素手で握りつぶしたり、アーチャーと共にビルからビルへと高速移動したりと人間離れした動きを見せる。「黒鍵」と呼ばれる代行者の武装を用いることが多い。

 

・アーチャー(真名:シモ・ヘイヘ)

 

〈筋力D、耐久B、敏捷B、魔力B、幸運A、宝具B〉

 灰色の短髪に軍服を着た剛毅な男性。武器のモシン・ナガンが示している通り、真名は「白い死神」と呼ばれた狙撃手、シモ・ヘイヘ。

 皮肉屋だが仕事屋、戦場に慣れているので常に冷静さを失わない。アナスタシアの真面目気質には若干うんざりしているものの、何だかんだ望まれた役目はきっちり果たす。叶えたい願いは「戦争で失った戦友たちに再開する」というものだが、第三次聖杯戦争の顛末を把握しており、得体の知れない聖杯という願望機に頼る気は無い。召喚に応じた理由は、もう一度かつての愛銃と戦いたいという願いから。

 

 

【ランサー(マスター無し)】

 

・ランサー

 

〈筋力A、耐久B、敏捷A+、魔力C、幸運C、宝具A〉

 おなじみクー・フーリン。抑止力の後押しによって、前回の聖杯戦争の記録からサルベージする形で限界している(帝都聖杯奇譚におけるライダーの形に近い)。特殊な召喚の影響によって、前回の記憶(UBWルート)をそのまま引き継いでいる。

 抑止力ブーストによって全体的にステータスが引き上げられ、槍の宝具だけでなく地元でしか使えない「城の宝具」を行使可能。マスターが世界も同然のために実質的な魔力無限も加わり、並みのサーヴァントでは相手すらならない。スキルや加護を無視した純粋な戦闘能力を比較すると、魔王を名乗るセイバーすら上回っている。

 

 

【謎の魔術師&ライダー】

 

・謎の魔術師

 

 長い金髪に黒いローブを纏った女性。仙天島に大聖杯を模倣した基幹システムを敷設し、大塚の龍脈を乱用することで、第五次聖杯戦争から十年という短期間で第六次聖杯戦争を実現させた。

 ライダーが「魔術師(メイガス)の極地」と呼んだように、魔術師としての力量は非常に高く、無詠唱・無動作で様々な魔術を発現させる、致命傷を瞬く間に治す、令呪を瞬きの間に「再生」させるなど、その力量は計り知れない。代行者四人を容易くあしらった事からもその力量は伺える。また、セイバー・オルタと「聖杯の泥」の支配権を手中に置いており、それらを全て動員することでランサーにも勝利した。

 目的は「魔王を再誕させる」ことらしいが、詳細は不明。セイバーの存在が密接に関わっているらしく、予想外の強敵によりセイバーが脱落しかけた際には、ライダーを遣わして存命を確認させていた。

 

・ライダー(真名:イヴァン雷帝)

 

〈筋力B、耐久C、敏捷A、魔力D、幸運C、宝具A〉

 金髪に白肌の少年。見た目は常に荒っぽい子ギルみたいなイメージ。

 真名はイヴァン雷帝。子供の姿でも、広く知られる彼の残虐性は確かに残っている。むしろある程度成長すると「狂戦士」のクラスに振り分けられてしまうため、「騎兵」のクラスで召喚された際は必ず子供の姿で現界する。

 宝具「雷帝」による肉弾戦を好むが、「三界滅す神話の終局(ケラウノス・ティーターノマキア)」という切り札をも持っている。これは主審ゼウスにのみ許された神の雷であり、本来ならば人の皇帝に過ぎない彼には使えないものの、マスターの卓越した手腕と幸運によって可能となった。これは皇帝(ツァーリ)という存在が当時の人にとって「神」に等しい威光を持つものであり、同時にイメージ的な「雷」が彼に付与された結果として、彼がサーヴァント中もっとも主神ゼウスに近い存在だったというのが大きい。この宝具を行使する際、彼の霊基は僅かな間世界から神のものであると誤認され、雷霆による一撃を放つ事が可能となる。

 

 

【男魔術師&バーサーカー】

 

・男魔術師

 

 今ところ正体不明。茶色いあご髭がナイスなおじさん。健斗を殺害せよという指示を出したのはこの人。

 

・バーサーカー(真名:???)

 

 ステータス、真名ともに不明。毎夜毎夜大塚市を巡回しており、自信家のセイバーをして「満月でもなければ倒せそうにない」とまで言わしめる強力な英霊。セイバーに効果バツグンの剣を持っているらしい。



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四十七話 一日の始まり 【9月9日】

 熱したフライパンに卵を投入する作業をこなしつつ、俺は朝のキッチンに立っていた。じゅわあっ、と騒ぎ立つ油の心地いい音に耳を傾けつつ、朝の平穏をのんびりと味わう。

 普段なら朝食作りは楓の仕事なのだが、昨日のダメージを考えて今日は俺が担当する事にしたのだ。

 

「……………………む」

 

 菜箸で少し固まりはじめた白身を突っついていると、俺の背後から聞こえてくる楽しげな声がどうも気になった。

 

「セイバーちゃんは日本の食事って好みなの?」

 

「そうですね……私は料理という概念がそこまで発達していなかった頃の英霊ですから、現代の料理は概ね好みです。特にお菓子とか甘いものは好きですね、ほんとに好きですね」

 

「そう? なら良かった、昨日の朝に私がご飯作った時は口に合わないんじゃないかと思って内心ドキドキしてたのよね」

 

「カエデの料理は美味しかったです。ケントがいつか俺の妹は料理がうまいだのなんだのと話してましたので、不安はありませんでしたが」

 

 実に和気藹々とした会話である。だいたい楓よ、お前はいつのまにセイバーをちゃん付けで呼べるほど親しくなったと言うのか。

 彼女らを結びつけるような共通点が果たしてあっただろうか、と考えてみるも結果は芳しくない。大人しく、ダイニングテーブルに座る彼女らのために朝食作りに励むとする。

 

「ほい、出来たぞ〜」

 

 十分ほどのち、俺はテーブルの上に出来上がった朝食を運んでいた。

 時短重視なので野菜サラダは市販のをそのまま出しているだけだが、メインの目玉焼きはきちんと作った。部室に泊まっていた頃のコンビニおにぎり数個のような朝食よりかは、ずっと朝食っぽいものを出せたと言えるだろう。

 

「お、やればできるじゃないですかケントも」

 

「まぁ、楓には数段劣る腕だけど……というか、なんでさも当然のように家事も手伝いもしないお前が一番偉そうに意見を述べてんの?」

 

「いや、魔王ですし……」

 

「そんな免罪符みたいに魔王って御身分でなんでも押し通れると思うなよ、セイバー」

 

 とか言いつつも一応皿はセイバーの前にも置く。

 お箸は苦手みたいなのでフォークとナイフを添えるという、我ながら気の利いたサービス付きである。

 

「何だかんだ仲良いわよね、お兄ちゃんとセイバーちゃんは」

 

「ふっ、当然ですよ。マスターがサーヴァントを使役する上で最も重要なのはマスターの才能ではなく、如何にサーヴァントと信頼関係を築けるかなんです」

 

 セイバーはどこか得意げに語る。

 

「その点で言えばケントはひじょーに優れていると言えるでしょうね、ついでに魔術的な才にも恵まれていますし。私の前のマスターなんてもう、魔術師としては平凡なくせに私を破壊兵器か何かのように見なしていましたから最悪でしたよ。まともなこみゅにけーしょんも取ろうとしない」

 

「お褒めの言葉は光栄なんだけど、セイバー。俺はいついかなる時もお前がどこかでやらかさないかと不安なんですが、それは信頼関係と言えるんですかね?」

 

「それはつまるところ、「私が何かやらかす」という事を信頼しているから発生する感情であり、やはり信頼関係にあるという事実は揺るがないと思います」

 

「うーん、滅茶苦茶理論」

 

 アインシュタインも裸足で逃げ出す謎理論を披露するセイバーに話を合わせるのは放棄して、俺は若干死んだ目で卵焼きを口に運ぶ。

 

『──昨夜未明、〇〇県大塚市にて大規模な爆発が発生しました』

 

 つけっぱなしのテレビから聞こえてきたその声に、我が家の食卓が途端に緊迫感を孕んだ。箸を止めた俺と楓だけでなく、セイバーも目を細めてテレビの画面を注視している。

 

『原因は明かされておらず、爆破テロの可能性も視野に入れて警察は調査を続けており……』

 

「おいおい……これ、マズイんじゃないのか」

 

 確か、魔術師は神秘の秘匿とやらをしなければならないのではなかったのか。こんな全国区ニュースで流れる事態はまずかろう、と俺が楓に視線を移すと、楓もこくりと頷く。

 

「とうとう隠蔽が間に合わなくなってきたんでしょう。魔術師たちも努力している筈ですが……」

 

 そもそもこの聖杯戦争が本来の開催地から外れた、イレギュラー的に勃発したものであるがゆえに、隠蔽役や監督役の機能が上手く働いていないというのは周知の事実だ。聖杯戦争も日にちが経つにつれて戦況は激しくなり、魔術師連中の手も回らなくなってきたのだろう。

 

「ニュースになってないだけで、行方不明者はこの街で頻発してる。詳しいことは私でも分からないけど、もう二十人に届くくらいの数になるんじゃないかしら。とにかく、民間人を巻き込んで暴れてるサーヴァントがいるみたいなのは確かよ」

 

「こんな戦い、さっさと終わらせないと」

 

 生き延びる為に聖杯を手に入れたいという思いはあるが、それは別として街の人々に危害が及ぶのは避けたい。

 テーブルの上で拳を握り締めるも、ふとこの場所にいない人物がいた事に思い当たる。

 

「……あれ、そういやキャスターは?」

 

 昨日の夕方に何があったのかを聞く予定だったのだが、彼は姿を消したまま今朝になっても戻らず。結局、謎の黒い巨人が突如として楓とアサシンのマスターである少年の前に現れ、二人と二騎が一時停戦して命からがら生き延びたという経緯は楓の口から聞くことになった。

 

「アイツ、あれ以来帰ってないの。向こうからなら念話で連絡できるんだけど、こっちからは連絡できないし……」

 

「カエデをほっぽらかしにしてどこで何をやってるんですかね、あの外道ヒョロ男は……。まあ私としては奴が視界にいないだけで気分が良いんですけどね、はははは‼︎」

 

 ……どうも恥をかかされたことをまだ根に持っているらしい。

 ちなみに後で楓にあの時の疑問について聞いてみると、無言で俯かれたあと顔を赤くして去っていった。謎は迷宮入りとなったのだ。

 ともあれ楽しそうなセイバーは置いておいて、確かにキャスターの行方は気になるところである。楓の令呪が消えていない以上、どこかで勝手にくたばっているという事はない筈だが──、

 

「他にもわからない事はある。楓たちを襲ったっていうバーサーカー だけど、そいつは自壊したんだよな? それは消滅したって考えてもいいのか?」

 

「わからない。けど、あのバーサーカーは何か異質だった。あれほど強いんだから消滅しててくれる事を願うばかりだけど……」

 

 伝え聞く限り、バーサーカーは相当な強さを誇る英霊だったらしい。

 魔力切れだったとはいてサーヴァント二騎を相手に反撃も許さず蹂躙するその力は、確かに聞くだけでも恐ろしいものがある。

 

「やはり強いですね、今回召喚されているバーサーカーは。膂力も振り切れていますが、何より素早さがずば抜けている。私の目をもってしても捉えられない英霊は初めてです。昨日消滅してくれたなら助かりますが……もし奴と戦うのなら、万全の体制を整えて挑みましょう」

 

「んー……セイバーが特筆するほど速かった、かな……? まあ私の目からすればどのサーヴァントも神速じみてるから似たようなものか……」

 

 微妙に噛み合ってない感のある会話。何かひっかかるものを感じながらも、俺はバーサーカーがどうなったのかを考える……も、無知な俺が明確な答えにたどり着けるはずもなく。

 

「やばい、そろそろ時間だ。俺は登校するけど……楓、お前は大事をとって休んだ方がいいんじゃないか」

 

「大丈夫よ。このくらい、鍛えてるんだからなんともないわ」

 

 俺としては反対なのだが、反対しすぎてまたセイバーに過保護と言われるのも嫌なので黙っておく。

 まぁ、登校するといっても──、

 

「ん? なんですケント、そんなジトっとした目で」

 

 ──この剣士がいる限り、授業を全て受けるのは困難であろうよ。

 セイバーは昼頃までは我慢が効くが、恐らく昼休みを過ぎたあたりで暇を持て余したあげく学校に突撃をかけてくる。

 ただでさえ大雅のバカによる情報漏洩によってクラスの男どもにセイバーの事を知られてしまっているというのに、学校に当の本人から来られては堪ったもんじゃない。今日も多分明日も、俺は昼休みで早退しつつ暇な魔王さまに付き合わなくてはならないだろう。

 

「はぁ……セイバー、昼まででいいからじっとしてろよ」

 

「なんですか人を聞き分けのない子供のように、失礼ですね」

 

(オメーは実際そうだろうが──ッッ‼︎‼︎)

 

 喉まで出かかった言葉を辛うじて呑み込みつつ、引き攣った笑顔を浮かべてお皿を片付ける。不可解は多く、言いようのない不安感は残ったままだったが──それでも、今は日常に溶け込むしかすべき事は見当たらないのだった。

 

 

 

 

「ぅ…………」

 

 倫太郎が目を開けた瞬間、視界を遮るような紫色が見えた。

 身体の感覚が鈍い。それを我慢して指先を動かし、自分の身体に寄りかかっているモノが何かを突き止めようとする。

 ふにふにとした柔らかい感触に、嗅いだことのない独特な匂い。

 干したてのお布団みたいに暖かいこれは、本当に一体なんなんだろうか──、

 

「マスター……の……えっち……」

 

「なっ⁉︎」

 

 耳元で甘く囁かれて、倫太郎は半覚醒した目を見開いた。

 視線だけ横に向けると、数センチ先に見慣れた少女の顔があった。褐色色の肌に包帯を巻きつけて、紫陽花色の髪は倫太郎の顔にかかるくらい近い。そしてなんともみもみしていたのはアサシンの黒いぴっちりタイツに覆われた柔らかなお胸であった。

 倫太郎が意識を取り戻したことに気を良くしたのか、アサシンは倫太郎の目の前でにっこりと笑う。

 

「──────…………ぐう」

 

「こら……あんまり驚いたからって……現実逃避して、寝ちゃダメ。夢じゃ……ないんだ、よ?」

 

 不機嫌そうに唇を尖らせると、アサシンは倫太郎にますます擦り寄ってくる。布団は一つなのに入っている人間は二人分、当然身体と身体は密着しあってぎゅうぎゅうだ。

 さらにアサシンの四肢は倫太郎を逃すまいと絡みついていて、硬い男とは全く異なる女性特有の柔らかい身体の感触に、思わず顔を真っ赤にして倫太郎は現実を受け止める。

 

「わかった、わかったよ、わかったけど恥ずかしいからこれは駄目‼︎」

 

「嫌ー……」

 

 なんで嫌なのか、そもサーヴァントとはいえ若い男女がこんな朝っぱらから同じ布団でぴったりとくっつき合っていることが問題なんじゃないか──⁉︎

 抱き枕のようにされたまま、倫太郎は色々と青少年には厳しいものがあるお布団の中から脱出を試みた。が、派手に動こうとすると関節に鈍痛が走り抜け、倫太郎は呻きながら大人しくなる。

 

「つ゛……ぁ、そうか……僕は、まだ生きてるのか……」

 

 記憶の糸を解いていくと、こうして自分が家に戻っている事がまだ夢のような気がしてしまう。

 志原を庇ってから意識は飛んでいたが、意識とは別の深層的なところで自分は死に瀕している、とぼんやり感じ取っていたのを覚えている。あのバーサーカーはどうなったのか、そして志原は無事なのか、ともあれそこらの確認から始めなければならない。

 

「アサシン……僕を助けてくれてありがとう。あれから何が──」

 

「待って、マスター」

 

 ぴたり、と。突き出されたアサシンの細指が口に押し付けられ、倫太郎は面食らって口をつぐむ。

 

「それは……あとで、いい」

 

「あとで……? じゃあ、まず何をしろと?」

 

 口の端を吊り上げて、アサシンが包帯を解いた。妖しさすら感じされるほどの美しい赤眼が奥から現れ、倫太郎の目を覗き込む。かつて一度経験して抵抗力が備わったからか、特に強力な「直死の魔眼」を覗き込んだことによる強烈な拒否反応の類は起きなかった。

 最初見たときは身体をバラバラにされたかと思って、思わず冷や汗を流したものだ。というかこのサーヴァントは召喚するなり殺そうとしてきたりと、思い返せば思い返すだけゾッとする目に遭っている気がする。

 

「ねえ、マスター……?」

 

「なっ⁉︎ な、な、ななな、何だよアサシン? なんか雰囲気おかしいぞ、今でもはたから見たらヤバいのに一体何する気なんだよ──っ⁉︎」

 

 先程痛みを我慢して引っ込めていた手を、アサシンはあろう事か自ら掴んで自分の胸に押し当ててしまった。先程よりも意識が覚醒したぶん、よりリアルな女体の感触が手のひら越しに伝わってくる。

 悲鳴とも歓声ともつかぬ奇声を上げる倫太郎がたいして力が出ないのをいいことに、アサシンは倫太郎の耳元を舐めるように囁く。

 

「あの時……君は、あの子を……庇ったよね。自分の命も顧みずに」

 

 全く慣れていない雰囲気に、思わずこくこくと頷くことしかできない倫太郎。

 

「それはきっと……君の、成長の証……だと思う。染み込んじゃった、ロボットみたいな考え方は……すぐに、戻らないとしても……それでも君は、あの時、一人の人間として行動した」

 

 全くもってその通り。繭村の魔術師にとって、自分を敵対視する敵マスターを自分の命を投げ打ってでも救おうとするというのは、あまりに道理から外れている。だがそれを知った上で、あの時の倫太郎は反射的に自分の道理に従ったのだ。

 

「それは……ぅん、えらい。だから、ごほうび」

 

「え?」

 

 嫌な予感と素敵な予感の二つを同時に感じつつ、倫太郎が首を傾げると──、

 

 

「……揉むくらいなら、いいよ?」

 

 

 若干頰を赤らめたアサシンは、しかしあくまで倫太郎の目を直視しながら、そんなとんでもないことを言ってのけた。

 今も手のひらに押し付けられる柔らかな胸。下の方では倫太郎の足にアサシンの太ももが絡みつき、よく引き締まりながら柔らかさを失っていない独特の感触を残している。

 

「だ──駄目だ、駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だよ‼︎」

 

「なんで」

 

「そ、それは……その、なんか……そういうの、よくなくない?」

 

「わたしが、いい、と言ってるの」

 

 そりゃ分かってるそもぞいいと言われなくても今すぐ指を痛みなどガン無視してわきわきして胸の感触を存分に記憶媒体に残したいんだこっちは、と内心の葛藤を決して言葉には出さず、倫太郎は謎のやっちゃいけない感に従って身体を硬直させる。

 そんなつれないマスターを見ると、アサシンの方も不機嫌になるのであって。一応暗殺者である自分にそれらしい魅力がないと否定されては、さすがにもう引き下がれないのであって。

 

「……それなら……さーびす……付けちゃおうか、な?」

 

「うっ、うわあああああ駄目だってほんとに────‼︎」

 

 ……二人の熾烈な攻防は、まだ始まったばかりである。

 

 

 

 

「おはよう〜」

 

「お、おはようございます……」

 

 エプロンを紐を結びながら、アナスタシアは若干小さめの声で槙野の挨拶に答えていた。朝の心地いい日差しが窓から差し込み、木の薫りに満ちた居心地のいい店内を明るく染め上げている。

 

「ん? どうしたんだい、何か元気無さそうだね?」

 

「そんな事はありません。今日もきちんと職務を果たします」

 

 基本的に感情を表に出さないアナスタシアだが、ここに居候している以上槙野とアナスタシアは基本的に近くにいるわけであって。やっと近頃は、微妙な表情の変化でアナスタシアの様子を正確に捉えられるようになってきたのである。

 そんな槙野の喜びも知らず、アナスタシアは心の中で溜息を漏らす。

 それも当然、彼とは昨晩に決別するつもりで此処を出たのだ。

 きちんと後悔がないように、別れの言葉も言い残して。

 でも──未熟な自分は幸運と敵の気まぐれに助けられて、恥ずかしながらも生き延びてしまった。そうして敗残者と化したアナスタシアは、一人ですごすごとこの場所に戻ってくるしかなかったのだ。

 そういう事情を彼は覚えていないにしても、わざわざ「ありがとう」とまで言い残した彼の前にもう一度戻ってこざるを得ないという今の状況が悔しくて恥ずかしすぎて、アナスタシアは今にもどこかに隠れたい気分だった。

 

(これが……ニホンの慣用句に云う、「穴があったら入りたい」……)

 

 若干顔を赤くしながら、てきぱきと開店準備を進める。

 朝が大の苦手なアナスタシアは、普段ならばこんなにてきぱきと動けない。基本的に半分寝ているような状態でフラフラとしているのが常なのだが、昨夜の戦闘を経てから寝ようという気にもなれなかったので、今日は例外的に朝でも元気に動けるのだ。

 槙野に「夜更かしでもしたの?」と尋ねられ、思わず「ちょっと過激な夜更かしになりました」と変なところで正直に答えたせいで、彼に変な顔をされたアナスタシアであった。

 

『……随分と変わり身が早いな、マスター?』

 

 聞き慣れた低めの声。彼女のサーヴァント、アーチャーによる念話が繋がったのだ。その言いように反論したい気分だが、彼はライダーに受けたダメージを癒すために喫茶店近くの空き家で休んでいる。大方、屋上からアナスタシアが働く喫茶店の中を眺めていたのだろう。

 

『アーチャー、話せるくらいには回復したんですね』

 

『ま、しぶとさには自信があるんでね。かつて顎が吹っ飛んでも生還したお陰か、俺が持つ単独行動スキルのランクはA+だ。そう簡単にはくたばらんさ』

 

 てっきり消滅してしまったと思っていたが、あれからアーチャーはボロボロになりながらもアナスタシアの元に生還した。元が狙撃手なだけに単独行動のランクも高く、たとえマスターを失ってもなかなか死なないのが自分のいいところだとアーチャーは嘯く。

 

『ライダーはこの街を去れ、と言いました』

 

『そりゃあ正論だな。まだ外見だけは取り繕っているが、この街はもう戦場と化している。これから更に戦いは苛烈さを増すだろう。命が惜しいんなら、こんな場所からとっとと逃げた方が賢明だ。どうする? アンタが逃げると言うんなら、別に俺は止めんぞ』

 

『………………』

 

 皮肉っぽいアーチャーの言葉は、しかし確かに正しい。

 アナスタシアが頼りにしていた代行者達は全滅した。聖堂教会は想定していたとはいえ、あり得ざる大失態に対する始末と後処理に追われているのか、あの夜以来連絡が途絶えてしまっている。

 すなわちアナスタシアは、たった一人で戦場のど真ん中に取り残されたも同然の状況なのだ。

 

『教会からの支援もなく、貴方以外に頼れるものはもうありません。あの仙天島の主に対する勝ち目もありませんし。……ええ、貴方の言葉通りです。このままここに残れば、遅かれ早かれ私は死ぬんでしょうね。それは避けたいです』

 

『いい判断だな。なに、アンタの芯の強さならどこに逃げたってやっていけるさ。そうと決まればさっさと荷物をまとめて──』

 

『ですが』

 

 アナスタシアは朝日の差し込む喫茶店の中をぐるりと見渡してから、カウンターの奥でいつもと変わらぬ手つきで開店準備を進める槙野を見て目を細めた。

 

『私は……偶然に転がり込んだこの場所で、様々な事をさせて頂きました。両親を失ってからずっと復讐と信仰しか無かった愚かな私に、平穏と平和を、両親が何より望んでいたものを思い出させてくれたんです』

 

 微かに笑う。顔に無表情を貼り付けて、感情を封殺して生きてきた代行者の少女は、それでも確かに笑ったのだ。

 

『だから私は戦います。この命が尽きることよりも、大切だと思えるものを失ってしまうことは──ずっと、怖いことですから』

 

『チッ。早死にするぞ、アンタ』

 

『警告どうも。そして感謝を、シモ・ヘイヘ。貴方が私を安否を案じて先の言葉を述べてくれたことは、確かに理解していますから』

 

『……フン、礼は受け取っておく』

 

 念話が途絶える。最後の言葉は照れ隠しなのか、普段に比べてやけに平坦でぶっきらぼうな口調だった。

 あのサーヴァントは皮肉屋かつドライな男で、熱血系委員長タイプなどと通りすがりの金髪少年に言われてしまうような自分には、性格的に合わない英霊だと何度も思ったものだが……少しだけ、考えを変えてもいいかもしれない。

 

「アナ、開店時間だ。今日も一日頑張ろう」

 

「……は、はい!」

 

 少し弾んだ声を出して、アナスタシアは喫茶「薫風」の扉を押し開けた。



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四十八話 彼女は、悪なのか

(──セイバーは決して、魔王なんかじゃない)

 

 本当にそうなのか? 都合のいいところだけを見て、都合の悪いことには蓋をしているだけじゃないのか。お前も見たはずだ。あの殺戮と死体の山、その天辺に座すまごうことなき「魔王」の姿を。あの光景を見て、まだそんな妄言を言い切れると?

 

(──……ああ)

 

 あの魔王の役割は明確だった。人にあだなす災厄。言語で示すことすら不可能なほどの凄惨、残忍、非道を極めた試練という名の虐待を乗り越えて、彼女は神々ですら到達し得ない程の力を手に入れた。そうして彼女は再誕し、己の痛みを示すように蹂躙を始めたのだ。

 

(──その力はきっと、セイバーが求めたものなんかじゃない)

 

 そうかもしれない。彼女は力など求めなかったのかもしれない。だが結果は真逆だった。過程がどうあれ、彼女自身の意思がどうあれ、結果的に世界に災厄を振り撒いたことに変わりはない。その事実が既に、彼女を魔王たらしめているのだ。そしてそれは、彼女自身が認めている事でもある。

 

(──事実は事実だ。失われたものは戻らない)

 

(──それは決して否定することはできない。それでも俺は……)

 

 過去の事実から目は背けない、魔王に殺された者たちの悲しみも恨みも憎しみも全て認める、その上でそれらを背負った彼女が「悪」ではないと?

 

(──俺が知っているセイバーは、それでも悪なんかじゃない)

 

 ほう、どうも諦めが悪いようだ。であれば見せてやる。

 「絶対の悪」である魔王による殺戮を、視点を変えてもう一度。

 

 

 

 

「……うッ⁉︎」

 

 飛んでいた意識が、何かに引っ張られるように覚醒する。

 視界がクリアに戻る、続いて聴覚も。途端に聞こえてきたのは戦場における怒号と悲鳴、地面を揺るがすような何かの音。

 そうだ、こんな時に俺は何をしているのか。

 俺は兵士だ。平穏だった我が国、そこに跋扈し始めた魔族らの主を討伐するため、そして大切な両親と妹を守る為に志願した。意識を向ければ、穏やかな平原に乳牛がのんびり歩く姿も、酔っ払った父さんをなだめる母さんも、嫁入り前の妹の嬉しそうな笑顔だって思い出せる。

 俺の故郷は、運の悪いことに魔族の占領地にかなり近かった。

 これ以上奴らが勢いづけば、まず間違いなくいの一番に俺たちの村が蹂躙される。それだけは必ず避けなければならない。ここでかの魔族らの軍を残らず討伐して、絶対に大切なものを守るのだ──。

 

「クソっ、気合い入れろ……行くぞ‼︎」

 

 ぱん、と頰を叩く。腰の鉄剣を引き抜いて、怒涛の勢いで前進する兵士たちの背中に続いて大地を蹴る。

 総勢数万に及ぶ軍勢だ。あまりに兵士の数が多すぎて、前方の状況は視認できない。とにかく流れに逆らわず、突撃していく兵士たちに続いて俺も前進していくが──、

 

 次の瞬間、音が消えていた。

 

 半開きの口から「あ?」なんて腑抜けた声が漏れる。

 視界を埋め尽くしたのは突風じみた勢いで飛んでくる土埃の壁と、それに巻き込まれた兵士たちが撒き散らす血の雨だった。ベシャッ、という粘ついた音は俺にそれが降りかかった音だったのか。

 数メートル、ともすればもっと吹き飛ばされる。高く高く、戦場を俯瞰できるほど高くまで。俺が揺れる視界の中に見たのは、死体の海の中で剣を振るい続ける、一人の少女の姿だった。

 

(ンな馬鹿な、この数にたった一人で⁉︎)

 

 驚愕とともに、身体を包んでいた浮遊感が消える。

 待ち構えているのは当然ながら落下だった。胃の中がひっくり返るような、墜落特有の不気味な感覚。まともに着地できるかもわからぬまま、とにかく身体をグルンと回して足から着地を試みる。

 

(いや、これは好都合だ。このままいけば、アイツの側まで落ちていける……‼︎)

 

 俺の落下コースは、偶然にもあの少女の方向へと向かっていた。

 剣を掴み直し、まずはヤツのすぐ側に着地。そこから二歩も進めばもう剣の間合いだ。兵士になる直前にざっと叩き込まれだけの不慣れな剣術だが、流石に軍隊を相手取る怪物とはいえ、頭上からの一撃は想定外のは想定外のはず──‼︎

 

「…………ぶはッ⁉︎」

 

 だが。まともに着地すらできずに、俺は地面に叩きつけられた。

 

(ちくしょうっ、着地失敗とか締まらない……いや、まだヤツは軍のほうに意識を向けてる‼︎ 今すぐに立ち上がってぶった斬ってや──れ?)

 

 奇妙な、微かな戦慄を含む違和感があった。

 立て、立て、と命令を繰り返す脳に反して、俺は立ち上がれない。どうしても身体が立ち上がってくれない。俺の下半身はまるで消えてしまったかのように反応を返してくれないのだ。

 じれったさに耐えきれずに視線を足へ向ける。そこには──、

 

「……は?」

 

 無かった。

 見慣れたはずのものが、綺麗さっぱり消えていた。

 視界の先にあるのは、落下の際に衝撃を受け止めてくれたのであろう名も知らぬ兵士たちの亡骸の山のみ。

 俺の太ももから先はずっぱりと切断され、残っているのはひらひらと風に舞うちぎれかけの腰布だけ。吐き気を催すような赤色と骨の白だけを露出させて、俺の両脚は完全に断たれていた。

 

「な……あ──あ、ぁ、あああ……嘘だ、あ……俺の、あしが」

 

 認められない。目の前の光景をどうしても認められない。

 もたもたしている間に、一時的に麻痺していた痛覚が蘇ってくる。

 

「うぁ──あし、ぎィっ、ぎゃぁぁぁぁぁぁあ⁉︎ あづぃッ、傷が焼け゛るッ……嫌だ、うそだうそだこんな何もできずに……ッ‼︎⁉︎」

 

 ──とぶ。せいじょうなしこうがきょうふといたみでとぶ。

 ごろごろところがる、ちがでる、とまらない、たすからない、もうかぞくのかおもなにもみれない、おれはここでおわりそんなばかな

 

「あああああああああああああ‼︎ が、がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼︎ あし、あ、しぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ‼︎‼︎」

 

 ドスッ、という鈍い音が響いた。

 気がつけば、転がり回って絶叫していた俺は動きを止めていた。

 しん、と静まり返った荒野。散々活気付いていた兵士たちはみな殺されたのか、俺の背中に剣を突き立てた魔王以外、動くものは見当たらなかった。

 

「ぎ……ァ、ふ、が……ぎゃッ」

 

 魔王が突き立てた剣を捻る。ゴキュっ、という嫌な音を、消えていく聴覚の残滓は聞き取っていた。

 最期の時に感じていたのは困惑と恐怖と、その原因たる魔王への強烈な憎しみだけ。だがそれも、命が消えれば霧散していく。

 

 ──そうして、俺は死んだ。

 

 

 

 

「……うッ⁉︎」

 

 飛んでいた意識が、何かに引っ張られるように覚醒する。

 目の前に飛び込んできたのは赤だった。次いで肌を焦がすような熱気を全身で感じ取り、俺はふらふらと立ち上がる。

 俺は燃え盛る炎の中に立っていた。酸欠で意識が飛びかけたのか、少しの間立ちすくんでいたらしい。慌てて首を振って自分が誰かを思い出すと、瓦礫が散乱する道を勢いよく駆け出す。

 

「はぁっ、はあっ……ちくしょう、軍の遠征はどうなったんだ⁉︎ なんで街に奴が攻め込んできてる……⁉︎」

 

 ありとあらゆるものが破壊され、炎に包まれて跡形もなく消えていく。

 瓦礫に埋もれるもの、炎に巻かれるもの、煙の中で窒息するもの。ここは死ばかりだ。今まで当たり前のように過ごしていた日常が崩壊していくのを、兵士になる事もできなかった臆病者の俺は目をそらす事しかできない。

 

(……くそ、くそくそくそっ‼︎ 通りの婆ちゃんも死んでる、あの店はあいつの……もう生きてる奴はいないのか⁉︎)

 

 瓦礫から飛び出した焼け焦げた手。それが友人のものだという事実を無理やり否定して、目指す場所へと全速力で走る。

 幼い頃からの知り合いで、一番仲の良かった女の子がいた。

 物凄くワガママで、俺はいつもいつも困らされたけど──それでも、一番大切だと思える子だった。

 角を曲がって石畳の上を駆け上がる。坂を越えたら彼女の家がきっといつものように建っていて、あいつもきっと無事でいてくれるに違いない。

 そう、信じる事しかできなかった。

 

「────‼︎」

 

 冷汗を流しながら坂を駆け上る途中、坂の上に人影が見えた。

 ずっと見てきたのだから分かる。あいつはまだ生きていた。思わず頰を綻ばせて、手を振る彼女の元へと今すぐに──、

 

 すとん、と目の前に降り立った人影があった。

 

 それはあまりに鮮やかに、自然体で行われていた。

 それに驚くよりもなお早く、俺の胸に奇妙な違和感。鈍い音とともに俺の中心に突き立てられているのは蒼色の刀剣だった。口から噴き出した鮮血が呼吸を阻害すると同時に、俺は掠れた声を上げて地面に倒れ込む。

 

「■■■──、■■■──……‼︎」

 

 あの子が俺の名前を呼ぶのが聞こえる。泣いているのか、叫んでいるのか、あの子はこちらに手を伸ばしていた。

 でも今は涙を流しているような状況じゃない。たった一人で殺戮を繰り返しているこの女から、一刻も早く逃げ出さないと。

 

(駄目だ……俺は、もう、いいから……早く逃げてくれ……‼︎)

 

 まともな声なんて出るはずもない。動く目線だけで、せめて逃げろとあの子に伝えたかった。

 が──俺を串刺しにした無造作に魔王は剣を引き抜くと、

 

「────……ぁ」

 

 それを投げ放ち、あの子の首を一息で寸断した。

 どちゃっ、と地面に落ちる頭。倒れていく骸。

 その光景を見て、頭の中が真っ白に漂白された。あまりの怒りで思考が狂い、絶叫して掴みかかりたいのに体も喉もまともに機能してくれない。

 俺は霞んでいく視界で魔王の背中を捉えたまま、身をよじるような憎悪と敵意にその身を焦がす。アイツが憎い憎い憎いあの女を今すぐ殺したいのに俺ももう死ぬ、ふざけるな死ね今すぐ死ね我らを殺した罪は一生貴様という悪を許しはしな

 

 ──そうして、俺は死んだ。

 

 

 ──そうして、俺は死んだ。

 

 ──そうして、俺は死んだ。

 

 ──そうして、俺は死んだ。

 

 ──そうして、俺は死んだ。

 

 ──そうして、俺は死んだ。

 

 ──死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。

 

 リセットとロードを繰り返して、数多の死を体感する。

 あまりに多くの命が、あの魔王によって奪われていった。

 兵士も民間人も区別なし、ただ"人間"であれば容赦なく殺戮する。

 戦場に降り立ち、兵士達の骸を積み上げるあの存在が、どうして悪ではないなどと言えるだろう。

 炎の中に立ち、幼子の首を握りつぶしていたあの存在が、どうして悪ではないなどと言えるだろう。

 嫌という程、思い知った。

 アレの所業、悪魔の行いを、被害者の目線から思い知らされた。

 

(…………………………)

 

 理解したか。彼女が魔王であり、悪であるに足る罪過の多さを。

 人は他人の不幸に共感できる、慈しむこともできるだろう。だが、 被害者が感じた憎しみや怒りをそのまま感じ取ることは難しい。あれが悪だと言われても実感が薄い。

 だからこそ、実際に味わってみれば分かったはずだ。

 自分の命が失われることへの怒り、親族友人財産全てを殲滅される事への憎しみ、様々な負の感情を背負う彼女はまさに悪の象徴。先程まで彼女に殺されたうちの一人だった俺の中にも、既に彼女を悪として憎む感情が残っている。

 

(…………違う)

 

 ここまでの実体験を経て、まだその台詞を吐けるのか?

 

(ああ吐けるさ。何度だって否定してやるよ‼︎ アイツは絶対に魔王なんかじゃない、俺はそう信じてる──‼︎)

 

 まさしく妄言だ。あれほどの殺戮を見せつけられて、まだそんな虚実に頼ろうとするとは哀れだな。

 

(俺が信じるのは、今の(・・)セイバーだ。アイツが過去に何をして、どう考えて、今に至るのかは分からない。けど俺が(・・)、過去の人間でもなんでもない今を生きてる俺が接してきたセイバーは、俺のために涙を流してくれるような奴なんだ‼︎ 笑って、怒って、それでも俺と一緒に戦ってくれる奴なんだよ‼︎)

 

 俺が、彼女が悪であることを否定する理由は十分にある。

 それは、あの夜以来、ここまでに積み重ねてきた全てだ。

 あいつは顔も知らないはずの俺の死に涙を流してくれた。俺の命を救ってくれた。俺と一緒に戦ってくれた。いつもいつも、あいつは俺のそばに居てくれたんだ。

 あいつが俺にくれた輝きは──俺が味わった彼女への憎悪も怒りも、まとめて漂白して消し去るには十分過ぎる。

 

(失せろ。「お前」の言葉こそ、俺にとっては妄言だ──‼︎‼︎)

 

 振り払って信念を捉えなおし、その言葉を突破する。

 直後。視界を閉じていた闇は振り切れ、俺は勢いよく飛び起きた。

 

 

 

 

「ぶはァッ⁉︎」

 

 慌てて視線を前に向けると、先生が教科書やらをまとめて教室から出ていく姿が見えた。

 ……どうやらあの無限地獄から戻ってこれたのか。

 生きている心地がしないとはまさに今の事だが、どうも俺はもともと死んでいるらしいし。

 

「はッ……はッ……⁉︎」

 

 荒い呼吸を繰り返して動悸を落ち着かせる。

 あの幻覚と幻聴は一体なんだったのだろう。考えても答えの出るはずのない問いを無意味に繰り返していると──、

 

「お、起きたか。もう昼休みだぞう、健斗?」

 

「……あ、ああ、おはよう大雅。俺そんなに寝てたのか」

 

「二限の開始五分あたりかな、好調な滑り出しだったよ。頬杖モードでうつらうつらしだしたかと思うと、数分経ってとうとう突っ伏して爆睡モードに突入。あとはつついても起きやしない」

 

「本当だよ。志原くん全然起きないんだもん、ペアワークのとき困っちゃったよ」

 

「そ、そりゃ申し訳ない……」

 

 ガンガンする頭を抑えていると、顔色が悪いことに気がついた大雅が俺の顔を覗き込んできた。

 

「ひどい汗だな。こんな時期に風邪か? 生涯一度たりとも風邪をひいたことのない僕からすれば甘い甘い、軟弱者もいいところだなアッハッハッハッ‼︎」

 

 「馬鹿は風邪をひかない」という言葉の体現者だと前から密かに思っている前田大雅の言葉を聞いていると、あの地獄を引きずっていた心が元の日常に戻っていく気がした。こやつのおかげで、多少なりとも気を取り直せた事には感謝しなければならない。

 

「けど最近、どうもみんな元気ないみたいだから……仕方ないよ。今日もお昼で授業終わりになるかもしれないし、みんな不安なんだと思う」

 

「例の爆発事件か。……厄介なことさ、一体何が起きてるんだ」

 

 笑顔だった前田が、途端に何かを考え込むような表情に変わる。いつもバカみたいに笑っているコイツがこんな表情を浮かべるのは極めて稀だ。

 その変化は、日常を侵食せんとする非日常の表れのようにも思えて、俺はテーブルの下で拳を握りしめた。

 

「行方不明になってる人も増えてるみたいだよ。なんでか、ニュースとかじゃそんなに話題にされてないみたいだけど……」

 

「ふぅむ、本格的に用心する頃合いかもな。三浦さんは僕が守るからいいとしても……健斗、君は特に危なっかしいんだから気をつけろよ? 変な好奇心を起こすと取り返しのつかない事になるぞ」

 

 残念だが大雅、俺はもう既に「取り返しのつかないこと」に陥っている。なんせもう既に、サーヴァントの一騎によって殺されているんだから。

 

「──よし、ちょっと購買に行ってくる。君たちは?」

 

「あ、私も今日はお弁当じゃないから行くね」

 

「俺も今日弁当無いんだけど、なんとなく食欲ないからパス。ほれ、混む前に行ってこいよ」

 

 あんな夢を見たら食べ物を食う気も失せる。大雅と三浦が教室を出て行くのを見守ってから、気分を変えるために窓の奥に視線を移した。

 澄み渡るような蒼穹には、ぽつぽつと千切れた雲が飛んでいる。やや暑さを残した九月の初め、その光景には未だ夏の残滓がこびりついているように思えた。鷹穂高(たかほだか)の校舎は山の上に建っているので、ここからは見える景色は絶景なのだ。

 ……と、青空に混じってひょこひょこ揺れる蒼色の毛を発見。

 

「おい、まさか」

 

「そのまさかですよ、ケント」

 

 予想通りの声に、若干げんなりした声で返答する。

 

「……いつからいたんだ……」

 

「ちょっと前からです」

 

 窓のへりから顔を出す形で、例のワガママ大王が現れた。昨日と同じ、壁のでっぱりに足を引っ掛けて校舎に張り付いているらしい。こいつはあれだけ言い聞かせたというのに、結局俺を探して学校まで来てしまったのか。

 とはいえ今度は二度目だし、流石に俺も取り乱すほど馬鹿じゃない。騒ぎ立てることもなく、くりんとした大きな目でこちらを覗き込むセイバーを見つめる。

 

「む……なんですか。じっと見て。私にまた文句ですか」

 

「いや……ははっ。やっぱりお前って、お前だなあってさ」

 

 無性に嬉しいので逆らわずに笑うと、セイバーが若干引いたような目でこちらを眺めてきた。なんでこいつにそんな反応を取られなければならないのか、と途端に憮然とした表情へ移行。

 

「はあ、まあ別にどうでもいいんですけど……とにかく、また昼からどこか連れて行ってください。私暇なので」

 

「もうちょっとさあ、敵の位置を探るとか、俺を殺して楓たちを追い込んだバーサーカーについて調べるとかさあ……色々あるだろ色々。アーチャーもランサーもまだ捕捉できてないし。とっとと他のサーヴァントを倒して、取り返しのつかない事になる前に聖杯戦争を終わらせないと──」

 

「何を焦っているんですか、ケント」

 

 窓の端から目より上だけを覗かせたまま、セイバーは俺の言葉を途中で遮った。

 

「やっぱり色々と被害が出てるみたいだ。行方不明者ってのも、大方俺みたいに戦いに巻き込まれた人たちがそう言われてるだけじゃないのか? だとしたら、俺としては一刻も早くこの戦いを終わらせたい」

 

「それは理解できますが、焦ったところでどうにもなりませんよ。それこそ無駄骨になっていたずらに体力と集中力を削られるだけです」

 

「…………」

 

「それに、私の力なら並大抵のサーヴァントには遅れをとりません。もっとも警戒すべきはバーサーカーですが、キャスターの助力があれば勝ちの目も見えるはずです。大船に乗ったつもりで、向かってくるサーヴァントどもを蹴散らしていこうじゃありませんか」

 

 どうもセイバーの自信満々の表情を眺めていると、こちらの緊張感というものが抜けそうになる。

 

「ったく、どこからその自信が来るのか知らないけど……油断すんなよ。なんとなくだけど、こういう時に慢心してる奴はだいたい死ぬ気がするんだから──」

 

 どうもいまいち信頼できないセイバーの言葉だったが、とりあえず釘は刺しておくことにして──果たしてこの街はどうなってしまうのか、俺は今はまだ美しさを保ったままの街並みを見下ろしながら考えるのだった。



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四十九話 遥かな望み/Other side

 太陽は高く昇り、時間は午後二時を少し過ぎようとしている。

 大塚市西部に広がる田園地帯、そこにその廃工場は位置していた。

 広めの敷地内に三つ並んだ棟の中には放置されたタンクやパイプが転がっており、実際の面積の割に窮屈さを感じさせる。とはいえ草木が絡みついた屋根や床に空いた大穴から眩しい光が差し込んでおり、内部の明度は比較的高い。月が出ていれば夜でも問題ないだろう。

 

「ねーえ。なに……してる、の?」

 

 吹き抜け式の工場内で最も大きなタンクの上に腰掛け、忙しなく動き回る自分のマスターを観察していたアサシンは、いつものようにのんびりとした口調で倫太郎に尋ねた。

 

「……今君を召喚する前からこの棟全体の結界化を進めて、内部に少しづつ魔力を貯蔵(プール)しておいた。繭村の家がダメになったとき、第二拠点として使えるようにね。それで今は感知式のトラップとかをひたすら重ねて、この工場内を僕たちの領域に変えてるんだよ」

 

 倫太郎は試験管に入れた自分の血液を小筆で掬い取り、ぺたぺたとパイプの表面に簡易的な陣を描き出す。見てくれは悪いが魔術師の体液というのは非常に魔術的な力を秘めているので、術式を組み上げる際の下地としてはこの上なく優秀な素材なのだ。

 繭村が長けた特性は「切断」であり、それは刀を用いようと用いまいと変わらない。

 倫太郎が仕掛けた無数の魔法陣もまた、その性質を色濃く残していた。主たる倫太郎が許容しない者がその領域に足を踏み入れた瞬間、高圧縮された血液の刃が襲いかかる仕組み。人間の手足程度なら容易く切断できる威力も有している。

 

「けど……まだ、壊されたり……してないよ。でん、と構えるなら……あのおっきなお屋敷で、いいんじゃない?」

 

「うん、まあ、その通りなんだけど──事情が変わった。最近仙天島の方で不穏な動きがあるから、そっちの監視もしておきたい。ここなら直接肉眼で見える距離に島があるからうってつけなんだ」

 

 そう言うと、倫太郎は「もう疲れた」と言わんばかりに座り込む。

 

「はぁ……くそ、まだマシだけど慣れないな……」

 

 額の汗を拭いながら、倫太郎は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。天才魔術師である倫太郎がもっとも悩むところである、「魔術への嫌悪感」だが、それは今も彼の中から消えていなかった。

 回路に最高速度で魔力を通して一から発動させるのではなく、あくまで組み上げたモノに陣地内に溜め込んだ魔力を注ぐだけの作業だからか、胃の中を裏返すような強烈な嫌悪感は感じない。ただ、肌の裏側で何かが蠢くような悪寒を味わうだけだ。

 

「マスターって……そもそも、魔術師、向いてないんじゃ……ない?」

 

「ああ、全くもってその通りだ。魔術を使うのが大の苦手な魔術師なんてお笑いにも程があるって話だよ、本当……」

 

 あくまで「苦手」なだけであって、表面上を取り繕えば完璧な天才に見えてしまうからこそ、倫太郎は自分の意思を封殺するほど魔術師という役割に縛られてしまったと言える。

 あるいは「苦手」ではなく最初から「不可」であれば、一体自分はどう生きていたのだろう──と、ついつい昼間だからか関係ないことを考えてしまう倫太郎であった。

 

「む…………ぅ」

 

 起き上がって再び作業に没頭する倫太郎を見つめつつ、アサシンは不機嫌そうに頰をぷくっと膨らませていた。

 なんだかんだ今日の朝のことははぐらかされてしまったし、アサシンの中では言葉に表せないもやもやが残ったままなのだ。

 それに──昨日の戦闘の悪影響が未だ体に残っているだろうに、倫太郎はそれを承知で今日も戦おうとしている。それ程までに戦いを望むのは責務感ゆえなのか、それとも彼自身の意思なのか。

 

「──アサシン?」

 

「わ……⁉︎ な、なに……かな」

 

「いや、聞きたいことがあって」

 

 作業をしたまま倫太郎がタンクの上のアサシンに突然声をかけてきたので、アサシンは思わず驚いてずり落ちそうになってしまった。

 軽い咳払いをして誤魔化すと、小さな暗殺者は再び錆びたタンクの上に腰掛ける。

 

「昨日、僕たちはセイバーと思しきサーヴァントのマスターの協力によって助けられたらしいけど……そのマスターは、まさか志原と協力関係を結んでたのか?」

 

「たぶん、そう。キャスターと……セイバーっぽい子の、マスターは……なんか、親しげだったし。あの様子じゃ、敵対してるとは……思えない」

 

 その言葉を聞いて、倫太郎の顔が微かに曇る。しばらくブツブツと呟いて考え込んだ後、彼はやはり確証を得たとばかりにアサシンに振り返った。

 

「それは妙だ」

 

「なんで? マスターと、マスターが……停戦したり、共闘したりするのは……聖杯戦争じゃ、結構あることだとおもうけど」

 

「それはあくまでマスターが一般的な魔術師だった場合なんだ。その視点から見ると、「志原楓」っていう奴はその"一般的"から大きく逸脱してる。なんせあいつは魔術師たちから嫌悪されて、魔術師もどきの穢れた一族って烙印を押されてるんだから」

 

 「志原」だけでなく、そういった魔術師じみた家系に対する魔術協会の風当たりは思いの外強い。元より魔術師というのが人間らしさの薄い、極めて自己主義な存在の集まりなのだから当然か。

 ともあれ、倫太郎の主張は明白だ。

 即ち──まっとうな魔術師であればあるほど、「志原」などという家系からは距離を置きたがる、ということ。特に最優のクラスであるセイバーを使役するほどのマスターが、わざわざ三騎士でもないキャスターに加え、腫れ物扱いのマスターと共同戦線を張る理由が見当たらない。

 自分の言葉に少し顔を曇らせながら、倫太郎は続ける。

 

「それを踏まえた上で考えると、理由なんて数えるくらいしかない」

 

「?」

 

「もっとも可能性が高いと思われる理由としては……最初から裏切ることを前提として、あいつとキャスターに近づいてるってとこかな」

 

 最初から、"最後に裏切る事を想定している"停戦。最終的な勝者が一人しかいない聖杯戦争の規則では、むしろこうした魂胆が無いような協力関係の方が珍しい。

 わざわざキャスターを使役する彼女に近づく理由としては、搦め手で暗躍するのに長けたキャスターを早めにこちらで抑えておき、邪魔者を残らず消したところで確実かつ迅速に殺害するため……といったところだろうか。

 

「けどそれにしてもおかしい部分は残る。そもそも志原は、魔術師って存在全体に対して良い印象を持ってない。僕も含めて心の底から大嫌いって感じだ。そんなあいつが、わざわざ他の魔術師(マスター)と組むのは少し違和感を感じるんだけど──」

 

 だが、聖杯を獲ると言った彼女の目は本気だった。

 分かり合えない連中と協力してでも、最後には聖杯を掴んでやる──彼女がそう考えていたとしても不思議ではない。

 

「不甲斐ないな……今は全然情報が足りない。セイバーのマスターについて、まだ手がかりすら掴めてない弓兵と槍兵のサーヴァント、僕たちを襲った英霊の正体に、仙天島の結界は誰が構築したのか。あの中から真昼間に攻撃が放たれたって報告もある。士郎さんともあれから連絡が取れてないし」

 

 聖杯戦争を穏便に終結させたい身としては、これほど情報が少ない現状で立ち回るのはどうにも不都合だ。

 もっとも安全かつ確実に情報を集めるには、よく知る顔見知りに頼るのが一番手っ取り早い。幸い倫太郎は「聖杯の汚染」を知っているが故に聖杯を使ってどうこうしようという気は無いし、それを警告するという意味でも志原楓にコンタクトを取るのが一番良いように思える。

 が──そこで邪魔になるのが例のセイバーのマスターである。

 もし連中がキャスター陣営を利用しようと考えているのならば、そこに交渉しようとするアサシンと倫太郎は実に目障りだろう。わざわざ三騎もの陣営が協力するメリットよりも、裏切りやすれ違いが生むデメリットの方が遥かに大きい。基本的に腹の探り合いになるマスター同士の協力においては、三人よりも二人の方がずっと効率的かつ安全なのだ。

 

「僕としては、まず各マスターに聖杯の汚染について話して、大人しく聖杯戦争の被害が拡大しないように協力してほしいんだ。ただ、僕の言葉を嘘と思って敵対するマスターも絶対にいる。……むしろ、正直志原だって僕の言うことを信じてくれるかどうか」

 

 それも当たり前だ。「万能の願望器」を獲得できると信じて、自らの命を賭して規則の無いこの戦いに臨んだのに、その果てにあるのが人に災いをもたらす呪いの盃だと言ったところでどうして信じられよう。嘘をつくな、と即座に敵対される様子がありありと想像できる。

 

「それは……まあ、たしかに。あと、関係ないけど、さ……いま、なんでこんなとこにいるの? 君のやりたいことと、どう関係があるの……かな?」

 

 あくびを噛み殺したアサシンは、考え込む倫太郎に尋ねる。

 

「聖杯戦争もそろそろ一週間、どの陣営も腰を据えて動き始める頃合いだと思う。そこで、僕たちが先にこの霊脈地を確保して優位な状況を確保、あとからやって来た連中を叩く。これはさっきも言ったけど、目下最大の問題でもある"仙天島の結界"を監視するって意味もある。僕たち自身を餌にすると同時に、あの結界の中で何が起きてるのかを探るわけだ」

 

「敵を叩くって……この戦いを終わらせたいん、だよね? マスターとは……できるだけ、協力したいんじゃないの?」

 

「そう簡単に協力できるほど話は簡単じゃないさ。元からマスターっていうのは、相応の覚悟と願いを抱いて聖杯戦争っていう殺し合いに参加するものだ。それほど必死な連中に「聖杯は危険だから今すぐ諦めろ、だけど回収と破壊はしたいから協力しろ」……なんて言っても、ほぼ確実に無視されるだけだよ」

 

 聖杯の降臨予定地になるだけでなく、サーヴァントの魔力供給や工房の作成など何かと都合のいい霊脈は、現在のところ大塚市に四つ分布している。

 倫太郎の家、大塚セントラルタワーの根元、仙天島、そしてこの廃工場である。倫太郎の家は当然ながら無視するとして、仙天島には既に強固な結界が構築されているし、大塚セントラルタワーは駅前ビル街のど真ん中に位置しているために干渉しにくい。

 そういう流れから、魔術師達はこの廃工場に目をつけるのだ。

 

「ゆえに協力じゃなく、単純に参加者を減らしてとっとと聖杯戦争を終わらせる。ただ、今は敵の拠点の位置もなにも分かったもんじゃない……だからこそ、こちらは動かず向こうからやって来てくれるのを待つんだよ。あの結界を見張りながらね」

 

「ふぅん。あのバーサーカーは、どうするの?」

 

「今は僕の魔力も潤沢にあるし、これだけ準備した工房やら陣やらもある。それら全部をフル動員して勝てないんなら──撤退かな。可能なら、の話だけど」

 

 その言葉を聞きながら、アサシンは溜息をついた。単純に自分では力不足な相手というのは、これだから嫌なのだ。

 

「……がんばる」

 

 むん、と握りこぶしを作って気合いを入れる。どんなに準備や創意工夫を重ねても単純な力で押し潰される、そういう奴はなんだか自分とマスターの努力が馬鹿にされているようでキライな彼女だった。

 

 

 

 

 一方その頃。仙天島に建てられた浄水場は、本来ならば職員が出勤している筈の時間帯ではあるが──今なお静寂を保っていた。

 昨夜未明、凄烈な戦いが繰り広げられた場所とは思えない。

 「約束された勝利の剣」によって一撃のもとに消し飛ばされた島の半分は、しかし日の出までには元の形を取り戻しており、切り裂かれた木々や抉られた大地も完璧にあるべき姿へと戻っている。

 まるで時間を逆戻しにしたような光景が広がる木立の中を、金髪の少年はあくびをしながら歩いていた。

 

「ふわぁ……どうも、昼間は退屈で仕方がありません」

 

 その片手には、皇帝(かれ)には似合わぬレジ袋がぶら下がっている。コンビニ帰りの小学生といった風貌だ。

 彼は気楽な様子で浄水場の中に入ると、並べられた機材や水道管の中を突っ切って、ひときわ大きな鉄扉を押し開けた。

 

「────…………」

 

 やや薄暗い室内に、ライダーのマスターである女の姿がある。

 元は貯水槽が六つ並び、浄水処理を行う場所だったこの場所を、ここに巣食う魔術師は己の意のままに改造した。空間を湾曲させることでスペースを強引に確保し、邪魔な機材や貯水槽を全て押しのけたのだ。

 そして部屋の奥で蠢く暗がりは、聖杯から溢れ出さんとする「この世全ての悪」が形を成したモノか。それらも魔術師に従っているのか、部屋の奥から這い出てくるような様子はない。

 

「ただいま戻りました」

 

 まるでデッサンの狂った絵画のような、歪な大部屋に足を踏み入れるライダー。そんな彼には視線を向けず、女魔術師は目の前の巨人と相対し続けている。

 

「そちらの調子はどうです、マスター?」

 

「あと三十四秒で終わる。アーチャーにまんまと逃げられた役立たずはそこで静かにしていろ」

 

「ハイハイ」

 

 彼女がじっ、と眺めているのは、全身を異様な影で覆い尽くした巨人だった。常人を遥かに超える背丈の天辺で、ぎらぎらと燃ゆる赤色の瞳が女魔術師を見下ろしている。

 異様なる風貌のその巨人の名は──ヘラクレス。

 ギリシャの偉大なる大英雄にして、第五次聖杯戦争においてアインツベルンが召喚した強力無比なサーヴァントである。

 その英霊を前にして、女は微動だにせずその目を輝かせていた。

 彼女は昨夜の戦闘以来、不眠不休でこの英雄の制御にかかりきりだ。陣地の立て直しなどは、手中に収めたというキャスターが担ったのだろう。

 

(これで三騎目……。予定を早めてバーサーカーの制御にかかったのは、どうもひとりでに暴走しているような様子があったからでしょうか)

 

 本来必要な詠唱も動作も切り捨て、ただ「視る」だけで数多の術式を組み上げる。その過程を切除して結果だけを手繰り寄せる、この世界において彼女にしかできない裏技。

 そうして女魔術師は複雑巧妙に縛りと制約を積み重ね、令呪と契約のシステムを落とし込むことで、このバーサーカーの支配権をようやく手中に収めたのだった。

 

「…………よし。バーサーカーの制御も完了した」

 

「予想じゃ昼前には済んでるって話じゃありませんでしたか?」

 

「フン。──流石は大英雄ヘラクレスといったところか、どうも手間取った。第五次のデータをそのまま再現しているが故に、強力な「狂化」がかかっていたのも原因だな」

 

 女魔術師が視線を外すと、部屋の奥で蠢くばかりだった「影」が、津波のように膨張してヘラクレスの巨体を呑み込んだ。

 まるで咀嚼のように影は二度三度と波打つと、元の場所へと引いていく。それらが引いたとき、彼女の前からヘラクレスの姿は消えていた。

 

「さて……これで、こちらの戦力は四騎か」

 

 騎士王、アルトリア・ペンドラゴン。

 コルキスの魔女、メディア。

 ギリシャの大英雄、ヘラクレス。

 そして原始の皇帝、イヴァン雷帝。

 

「随分と揃えますね。もう戦力過多というものでしょうに」

 

「駒は多いに越したことはない。それに、"アレ"に染まった連中は目を離すと暴走し出すのが難点だ。早急に支配下に置かねば、勝手に何をしでかすか分からない。……で、それは一体何だ」

 

 ジトっとした目で、女はライダーの手からぶらさがっているビニール袋を眺める。そこから頭を出しているのは鈍く光る銀色の容器、もっと簡単に言えば無数のビール缶であった。

 

「調達してきた酒ですが、何か」

 

「いや……、いや、待て。お前はこんな時に酒を飲みたいと? 確かに第四次では、サーヴァント同士が酒宴を開いたこともあったが」

 

「まあまあ、細かいことはいいじゃないですか。貴方もどうです」

 

「……大体、その容姿でどうやってそれを手に入れた?」

 

「いやあ────」

 

 ライダーは笑顔を浮かべただけで、何も語ろうとはしなかった。

 彼の脳裏には、彼の凄みによって震え上らされた哀れなコンビニバイトこと金髪ハーフ野郎の姿が浮かんでいるのだが、面倒なので語られることはなかった。

 女が何かいうより早く、ライダーは缶ビールの栓を開けてごっきゅごっきゅと飲み干していく。見ているだけでも気持ちいい飲みっぷりであったが、どうも子供が飲酒しているように見えて安心できない。

 

「全く、くだらん。アルコールによる酩酊のどこが面白いのか。(わたし)は続いてアーチャーの制御に移る、酔い散らかして邪魔をするなよ」

 

「……あァ〜? ンだとぉ? ざけんじゃねえよオイ、皇帝(おれ)の酒が飲めねえってか、ええ‼︎ オラ、いいからそこ座れ。飲め‼︎ 言うこと聞かねえんならオプリチニキの連中呼ぶぞ‼︎」

 

「…………………………」

 

 ライダーの頰は赤く染まり、口調もいつのまにか戦闘時のものに変わっている。彼女からすると正直迷惑極まりない。

 ライダーは喚き散らしながら缶ビールを押し付けてくるので、こんな状況では作業にならないと判断。しぶしぶ女は床に胡座をかいて座り込むライダーの横に座り込んだ。

 

「……極めて不本意だが、付き合うだけは付き合ってやる。心の底から面倒だがな、本当に」

 

「それで良い‼︎ ハッハ、現世の酒は美味いじゃねえか‼︎」

 

 そうして、時間は過ぎていき──、

 ライダーが帰ってきてから、およそ一時間が経過した頃。

 

「────そこで己は憤慨した‼︎ 貴様らは屑だと、己はやはり"魔術師"などという連中の仲間になる気は無いと言い放った‼︎ そうして己は故国イギリスを離れた訳だ、連中への嫌がらせだけはたっぷりと残してな‼︎」

 

「ほう‼︎ 具体的に何をしてやった⁉︎」

 

「簡単だよ。連中のシンボル、魔術協会の本拠である時計塔のクソ忌々しい大時計……その長針を、逆回転でモーターの如く高速回転ように改造してやった‼︎ 当然、己が知る限りの術式をしっちゃかめっちゃかに重ね書きして、下手に弄って直そうとすれば術式同士の反発で即座にドカン! と塔をへし折るようにしておいたから、それはそれは苦労した事だろうよ‼︎」

 

 小学生のイタズラの延長みたいなことをあたかも武勇伝のように語る、完全に酔っていると思しき女。だが話し相手も酔っているので空気は全く冷めることなく、数時間前まで敵と殺し合いをしていたとは思えぬ陽気な空気が漂っている。

 

「ギャハハハハハゲホッゴホッ、むせた……」

 

 ライダーが爆笑しすぎて咳き込む中、女はいきなり静かになってどこか遠くを見始めた。テンションの落差が激しいのは酔っ払いによくあることである。

 

「……ああ、そうして己は長い間世界を放浪した。色々なものを見た。人々の美しさにも触れたが、もっと多くの悪意にも触れた。まあ、そうしたものが多い場所に好んで向かっていたことは否定できないが」

 

「そうして、テメェは一つの結論に至ったと?」

 

「その通り。──人種性別倫理宗教、数多のバックボーンが生み出す"差異"はどこまでいっても人間の結びつきを拒み、否定する。故に人間の中から悪意は消えず、世界から争いが消えることはない……」

 

「闘争は人間の根底にあるものの一つだ。そりゃあそうだろうな、「争いの無い平和な世界」なんざ所詮は幻想だ」

 

 うんうんと頷くライダーに、女は数本目のビール缶を振りかざしながら──、

 

「だが、己は見てみたかったのだ。全ての人間が争うことなく、くだらぬ悪意を捨てて支え合えるような世界を。その世界が一瞬でも構築されれば、一度でも「前例」を作ってしまえば、人間はその可能性をより拡げることができる……そう思った」

 

「だからテメェは世界を壊さんとする。ヒトを愛するが故の破壊か。全く捻じ曲がってるよ、テメェは」

 

「己は信じているんだよ。人間は私風情が与える試練など乗り越え、そして新たなステージに向かう事ができる、と──」

 

 ふらりと女は立ち上がると、美しい金髪を掻き上げて扉を向かう。

 「何処へ行く」と尋ねるライダーに対し、女は言葉を返さなかった。無言で擦り切れたローブを引きずりながら、浄水場の外へと歩み出る。時間はいつのまにか夕刻に差し掛かり、オレンジ色に染まる雲の切れ間には早くも月が浮かんでいた。

 

「…………………もう少しで、己も、死ぬ」

 

 長い、とても長い生涯を振り返るように、女は呟いた。

 この戦争には己の全てを託した。自分が歩んできた旅路で得た全てを費やして、己の結論に相応しい舞台をこうして整えた。

 だから、彼女はもう生きる気がない。

 元々インチキで生き延びている身体だ。そしてこの場所が、自分が生涯をかけて叶えんとしたモノの終着点になる。それさえ叶えば、あとの自分は全て蛇足だ。ここでくたばる事に未練はない。

 

「だが、望み半ばで死ぬ気はさらさらない。己は満足して、そして死ぬのだ」

 

 美しい掌を月に伸ばし、それを握り締める。

 天高く輝くあの星を、きっと掴んでみせると言いたげに。

 

「さあ────もう少しだ。待っていろよ、魔王」



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五十話 急転

 学校は結局お昼で終わることとなり、生徒たちは突然の知らせに喜びながら帰宅していった。楓も仕方がないので荷物をまとめ、サーヴァントがいないことを若干不安に思いながら帰路につく。

 楓が家に着いたのは、まだ日の高い午後二時頃のことであった。

 

「おかえり〜」

 

「はいはい、ただいま……って、あれぇ⁉︎」

 

 無言でダイニングの扉を開けると声をかけられたので、思わず返してしまった楓は──テーブルの上でテレビを見ながらせんべいをつまむキャスターの姿を見て、思わずびっくりして叫んでいた。

 

「き……キャスター⁉︎ 今までどこほっつき回ってたのよ⁉︎」

 

「いやぁ、ちょいと調べ物や。悪かったなぁ家を空けて。──で、少しばかり話がある。健斗くんとセイバーが帰るのを待とか」

 

 

 

 

「……さて、ようやっと話ができるなぁ」

 

 それから数時間が経過して、今は午後七時過ぎ。

 大塚駅近くのショッピングモールで遊び倒していた俺たちはすっかり日が暮れてから帰宅し、キャスターと家で待っていた楓に怒られてから、テレビを消したダイニングで集合していた。ご飯もきっちり食べて、いよいよ今日の戦いに赴かんとする雰囲気である。

 

「今までどこ行ってたんですかね、この役立たずノロマ男は。死罪ですよ死罪」

 

「ン? 昨日恥ずかしくなって逃げ出した恋愛クソザコロリ巨乳もどきにそんな風に言われたくないなぁ僕。そのすぐ真っ赤になる顔を直してから出直したほうがええんちゃうか?」

 

 舌戦ではセイバーより遥かにキャスターのほうが得意らしい。何か言うとその倍くらいの罵詈雑言で返され──、

 

「おいバカやめろ‼︎ 家が壊れる‼︎」

 

 小刻みにぷるぷる震えながら剣を取り出すセイバーを必死になだめながら、俺は戦いの前だというのにどっと疲れる羽目になった。

 怒りで思わず鎧を着てしまったセイバーを尻目に、俺はキャスターの話とやらに耳を傾ける。

 

「──さて。僕がどこで何をしていたかというと、アーチャーのマスターに会ってきただけや」

 

「アーチャーのマスターだって? ……って、知ってるのかよどこのどいつがアーチャーのマスターなのか」

 

「ああ。ソイツは喫茶店「薫風」っちゅう場所に潜入してる、外国人の女や。名前はアナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナ、どうも「代行者」とかいう連中の一人」

 

「ンな……」

 

 俺は思わず変な声を漏らすと、さも当然とばかりに言ったキャスターにくってかかった。

 

「く──薫風だって⁉︎ じゃああそこに入ったっていうバイトの人、あいつがマスターだって言うのか⁉︎」

 

「知ってるんかいな、なら都合がええわ。そう、その女がマスターや。軽い催眠を店主にかけて、自分の正体を怪しまれんようにしとる。普段は令呪の効力を隠しとるから、至近距離まで近づいても発見は困難や。見事な隠蔽やね」

 

「成る程、あの女がマスターでしたか」

 

「うむ。そして奴が使役しとるサーヴァントの真名こそが、「白い死神」と呼ばれた狙撃手……シモ・ヘイヘ。一人で狙撃における神域に至った、近代における天才やな」

 

「……なんでそんな事知ってるんだ?」

 

「当然、この僕の千里眼があるからや。前はチラっとしか見れんかったから深くは探れんかったんやが、今回はまじまじと見たったからな。生まれた時からどう生きて誰を召喚するに至ったか、奴の過去を全部丸裸にしたったで」

 

 隣に座る楓が、若干頰を引きつらせながら椅子をキャスターから離したことに、得意げになっているこの男はたぶん気づいていない。

 

「……とまあ、僕がアーチャーのマスターに会ったのには理由がある。それが最も重要なんやが、まずこれについて話させてもらおか」

 

 キャスターはそこで一拍おいて、新しいせんべいをばりぼりと齧った。俺もそれに習ってせんべいを一つ食べる。やはりおいしい。

 

「緊張感のカケラもありませんね」

 

「お前が言うな」

 

 せんべいが一つ口の中に消えると、気を取り直してキャスターは話し始める。

 

「さて、僕にはまず一つの懸念があった。それが、「この聖杯戦争にもう七騎のサーヴァントが存在するんちゃうか」っちゅうモンや」

 

「……聖杯戦争っていうのは確か、七つのクラスのサーヴァントが戦うんだろ? それじゃあ合計十四騎のサーヴァントがいることになるじゃねえか」

 

「その通り。誤差はあるかもしれんがだいたい十四騎、それらがこの狭っ苦しい街で大暴れしとる──これが、恐らくは現状なんや」

 

 その信じられない言葉に、一瞬志原家のダイニングがしん、と静まり返る。

 ──サーヴァントが計十四騎?

 どうも信じられないと思うが、それは隣のセイバーも同じだったらしい。キャスターは嫌いなので、ここぞとばかりに「証拠が無いじゃないですか、妄想を言われてもどーしようもないんですけど」とたたみかける。まるで探偵モノに登場する、性格が悪くて探偵を敵対視するイヤーな検事みたいなヤツだ。

 

「その証拠を僕は集めとったワケ。まず、最初に違和感を覚えたのはあの神殿やった。キャスターのクラスでもない限り困難やっちゅうのに、どうアレを構築したんか……それも、やっぱりキャスターがもう一騎いると考えると都合がつく」

 

「……「神殿」ってなんなの?」

 

「ちょっと高度な話なんで、おバカさんなケントは黙っててください」

 

 泣く泣く無言になる俺。

 

「けどそりゃあくまで仮説。けど、それが確証に変わった瞬間があった。それが、あのバーサーカーとの戦いや」

 

 バーサーカー……楓とアサシンのマスターの戦いに横槍を入れ、魔力切れとはいえ二騎を相手に圧倒してみせた怪物。

 

「セイバーは五日前、健斗クンの前の正規のマスターをバーサーカーに殺された。その過去を視るに、セイバーと交戦したバーサーカーは比較的痩躯の男やった……そやろ?」

 

「ええ。やたらとすばしっこく、身軽そうな男でした。まともに目視するのも難しかったです」

 

 若干不本意そうにセイバーが返す。

 だが、その言葉に反論したのが楓だった。

 

「ね、ねえセイバーちゃん、それっておかしくない? 私たちが戦ったバーサーカーはもっとこう、なんというか、馬鹿みたいに大きいマッチョ巨人だったわよ」

 

「……んえ?」

 

 開けた口から呆けた声を出すセイバーに構わず、キャスターは続ける。

 

「そう、そもそも──セイバーが戦ったバーサーカーと、僕らが戦ったバーサーカーは別モンやったんや。この時点で既に、少なくともバーサーカーのクラスに関しては二重召喚が行われとるっちゅう事実は揺るぎないんや」

 

 さっきカッコ悪いいちゃもんを付けていたセイバーが、気まずそうに沈黙する。

 なるほど、道理でセイバーと楓がバーサーカーについて話し合った際、なにか噛み合っていないような感覚を感じたわけだ。二人が思い描く"バーサーカー"が最初から違ったのでは、そもそも会話がうまく成立するはずもない。

 

「んで──楓ちゃんから聞いとるかな? 昨日の昼間、僕らは学校で仙天島から何者かの攻撃を受けた。霞むほどの超遠距離や、そんな距離から攻撃できんのは間違いなく弓兵のクラスやろ」

 

「あぁ、ちょっとした騒ぎになったヤツだな。階下にいた俺の方じゃよくわかんなかったけど、あとで楓に聞いたよ」

 

 楓とキャスターが学校の屋上から式神を飛ばして仙天島に向かわせたところ、それを咎めるように島から無数の矢が襲いかかったという。

 キャスターがいなければ学校が瓦礫の山と化していた、なんて恐ろしい事実を知ることになったのは、倒れた楓を家に運んでからの話だ。

 

「そしてアーチャーのマスター、彼女に会って記憶を覗いたところ……彼女がアーチャーにそんな指示をした過去は無かった。そも、彼女とアーチャーは島に近づいとらんし、狙撃手のシモ・ヘイヘに雨の如く矢を放つような芸当ができるとは思えん」

 

「アーチャーのクラスも重複してる可能性が高いわけね。他には?」

 

「物証はまだまだあるで。アーチャーのマスターの記憶は実に沢山の情報をもたらしてくれたからなぁ。次はアサシンについてや」

 

 アサシンのマスター……と聞くと、確か楓の知り合いだったはずだ。

 名前は繭村倫太郎。鷹穂高の一年生であり、楓と同じクラスに在籍している。もっとも魔術師関係で忙しいのか、それとも本人が無駄だと思っているのか、あまり顔を見せることはないらしいが。

 

「彼は「魔眼のハサン」っちゅうアサシンクラスのサーヴァントを従えとる。それは楓ちゃんもよく知るところや。が──なんと驚くことに、アーチャーとそのマスターは既に"アサシン"を倒してたんや。二日前、ここから近い線路のトンネル内でな」

 

 アサシンを、倒した──?

 さっき黙ってろと言われたので無言で驚く俺とは対照的に、楓はやたらリアクションが大きい。顔が真っ青になっている。

 

「え、そ、それは殺したってこと……?」

 

「あくまで"魔眼のハサンとは別のアサシン"をな? 骸骨の面に、棒状の腕を持った異形の男やった。別に楓ちゃんが気になってる倫太郎クンちゃうから安心してええで」

 

「………………ち、違うわよ? 私は最初から分かってたからね、はいこの話終わり‼︎ おほん、キャスター続けて」

 

「はいはい。んで、アーチャーが二日前に"もう一騎のアサシン"を倒したことから、アサシンが二騎存在しとったってことも明らかになったと」

 

「待ってください。その倒したというサーヴァントが別のクラスの、正規のサーヴァントだった可能性はないんですか?」

 

「ふむ、けどここにはセイバーもキャスターもおる。アーチャーとアサシンは除外したとして、ランサーも後で話すが当てはまらん。残るはライダーとバーサーカーやが、そっちに関してはキミが交戦したはずや。どや、戦った二騎は髑髏の面でも付けてたか?」

 

「……いえ、違いますね」

 

 完全に言いくるめられ、すすす、と引き下がるセイバー。

 

「また──アナスタシアちゃんの記憶には、もう一つ重要な事柄があった。彼女の仲間とアーチャーが協力して、仙天島に真正面から突撃したんや。それが昨晩の深夜やな」

 

「あの島に馬鹿正直に魔術師が攻めたところで、何をどうこうできるとも思えませんが」

 

「それが、アナスタシアちゃん達は「代行者」っちゅう……まあ僕にも専門外なんでよう分からんけど、とにかく異常な強さを持つ奴らやったんや。しかしながら、連中は更なる強者の手で敗れ去った。それがライダーのマスターにして、仙天島の主」

 

 キャスターによれば、湖岸の仙天島を支配しているのは金髪の美しい女だったらしい。そいつが迫り来る代行者達を一人で相手取り、勝利を収めたんだとか。

 イメージはしにくいがとにかく俺風情では全く勝ち目のないバケモンなんだろうなぁ、とぼんやりした理解に努めていると──、

 

「問題はここからやで、皆」

 

 キャスターの目がすっ、と細められて、思わず俺は姿勢を正した。

 

「その戦闘後、ランサーが仙天島の主に襲い掛かった。理由は知らんが、あの槍兵は尋常じゃなく強い。戦況は完全に彼に傾き、ライダーと金髪女を同時に相手取りながらも勝ちを収める──と、思われたんやが」

 

「「が?」」

 

「ランサーは敗れ、金髪女は勝利した。唐突に現れた、もう一騎のセイバーの手によって……な」

 

 キャスター以外の俺を含めた三人に衝撃が走る。

 バーサーカー、アーチャー、アサシン……とくれば七騎全てのクラスにもう一騎のサーヴァントが存在する事は予想できたのだが──、

 

「待ちなさいよ、その言い方ってヘンだわ。まるでもう一騎のセイバーが、そのライダーのマスターの手中にあるみたいじゃないの」

 

「ご名答。その通りやで楓ちゃん」

 

 俺が言いたいことをそのまま言った楓に、キャスターは異性なら誰でもどきりとしてしまいそうな笑顔で笑いかけた。

 

「……………………」

 

 その知らせに、何故かセイバーが深刻な表情で押し黙る。自信家のセイバーにしては実に珍しい表情だった。

 

「この事態は正直、極めてまずい。あの女が聖杯戦争を始めた下手人やとすると、自分が聖杯を確実に獲れるように、基幹システムに細工をしとってもおかしくないからなぁ。たとえば、自分の操れるサーヴァントの数を誤魔化して増やしたり……とか」

 

「魔力の問題は? いくら魔術師として優秀でも、サーヴァントを複数騎使役するなんて芸当は難しいはずよ」

 

「ほぼ無尽蔵の魔力を持つ大聖杯になんらかの形でリンクして、そっから魔力を吸い上げてると考えると説明はできる。ともあれ、あの女は間違いなくサーヴァントを複数使役して、意のままに戦況を操ろうとしとるっちゅうのは確かや。それもセイバーだけじゃない、恐らく姿を確認できてるバーサーカーや、アーチャーにキャスターって連中も」

 

「脱落したアサシン……識別がめんどくさいので影アサシンとでも呼びますけど。そいつを除いたとしても、向こうは最大六騎……正規のライダーを加えて七騎ぶんの戦力を保持している可能性がある、と?」

 

「その通り。となれば──まず、僕たちに勝ち目は無い」

 

 ……素人でも分かる。単純に向こうの戦力が多過ぎるのだ。

 このままじゃ「参加者七人、一人当たり一騎のサーヴァントで戦う」という根底のルールすら覆されて、考えるのも馬鹿らしい戦いを強いられる羽目になってしまう。

 聖杯戦争を開幕させたという女の出来レースになるよう仕立てられているのなら理解はできるが、そのまま敗退してやる気はさらさらない。なんせ聖杯を獲らなければ、俺はそのままお陀仏だ。

 

「そんな、じゃあどうするって──」

 

 楓の口を、キャスターは人差し指で塞ぎ──、

 

「簡単な話や、楓ちゃん。向こうが集団なら、こっちもマスター同士で団結したったらええ。数の有利を無にしたるんや」

 

 そう言って、再びせんべいを口に運んだ。

 

「まあ、理にかなってはいますけど……そう言ったところで、素直に従うマスターが存在します? どうせデタラメを言って背中を刺そうとしてる、なんて思われて終わりですよ」

 

「ぼりばり。……ま、困難な選択肢ではある」

 

 キャスターは、つまんだ二枚目のせんべいを派手に噛み砕く。

 

「というか、アーチャーのマスターに会ってこの聖杯戦争で何が起きているかの確証を得られたのはいいんですけど、当然アーチャーたちとは戦闘になったんですよね? 一度本格的に敵対したんじゃ協力は難しいんじゃないですか?」

 

「いんや、どうかね。あの子は真面目でどこまでも感情を抑え込むような気質やけど、頑固ってわけじゃない。しっかりと状況を説明できれば協力は可能や。……もっとも、怪しまれてる僕じゃあ難しいやろけどな」

 

「このあんぽんたん‼︎ なんで、そこで、私を、連れていかなかったの‼︎ そりゃー胡散臭いアンタだけじゃ信頼されないでしょ、ここは私も出て行って誠意を示すべしでしょー⁉︎」

 

「いや……あん時は楓ちゃんがズタボロ状態やったっちゅうのもあるけど、なにより楓ちゃんそういう駆け引きとか無理っぽいし。ホラ、なんにも考えずこっちが抑えてる秘密とか情報とかを喋っちゃいそうやろ? それはマズイやん。その点僕だけなら見て逃げれば終わり‼︎ チョー簡単」

 

「まぁ……確かに無理だな、楓じゃ……」

 

「ちょっと‼︎ お兄ちゃんは黙ってなさいよ‼︎」

 

 本日二度目の黙っとけ発言を受け、涙を滲ませながら無言でお口チャック。

 

「もっとも、連絡もなしに単独で動いてたんは僕が悪い。現状がだんだんと浮き彫りになって少し焦りすぎたかもや。そこは素直に謝罪するで、楓ちゃん」

 

「次アーチャーのマスターに会うときは私も連れて行って。分かった?」

 

「うーん……楓ちゃんを連れていかんかったんは、あのマスターとキミの相性が最悪やから念のためって理由もあるんやけど……

 

 まぁええか、と呑気に頷いたキャスターは、話の矛先をアーチャーのマスターから移す。

 

「さて。ひとまずアーチャーは保留にしよ。ここで協力できるとなると、一番可能性が高いんは倫太郎クンやろなあ。一度はやむなしとはいえ一緒に戦っとるわけやし」

 

「そうね。あとはバーサーカーか、ランサーだけど……ランサーはセイバーに殺されたの?」

 

「さぁてね。アナスタシアちゃんの記憶によると、セイバーの一撃で島ごと消し飛ばされたようにしか見えんけど」

 

「ランサーは無理……可能性とすればバーサーカーか。話を聞いてくれるかしら」

 

「そりゃー話してみんと分からんな。とりあえず今日の夜は、倫太郎クンに会って現状の説明と停戦の申し入れをするんが一番ええと思う。異論は?」

 

 俺たち三人は、キャスターの言葉に無言で首を振る。

 ……行動に移るのは早ければ早いほどいいという理論から、俺と楓は速やかに外出準備に移った。

 当然ながらタダの準備ではない。楓の顔見知りに交渉をしに行くだけとはいえ、夜に街をうろつけばいつ戦闘になるかも分からない。

 

「……よし、急ぐぞ」

 

 まず、暑いのは我慢してぶ厚い黒ジャケットを羽織る。

 これは後で聞いたことだが、どうもこのジャケットは魔術師の手によって、魔獣とやらの皮で編まれているらしい。俺の父が(非常に数少ない)魔術師の友人兼仕事仲間から貰ったと楓に聞いたが、なんかんやあっておさがりになったとかなんとか。

 ともあれ頑丈さはピカイチだ。ちょっとした魔術くらいなら弾く効果もあるらしいので、そのライオンなんちゃらさんに感謝して役立てるとしよう。

 次に取り出したのは黒光りするベレッタ92に、M84スタングレネードを二つ。まとめて携帯式ポーチに押し込んでおく。

 そして最後は、一度楓に折られたがキャスターのおかげで奇跡の復活を遂げたサバイバルナイフ。これは目立たないようにポーチとベルトの間に差し込み、いつでも抜き放てるようにしておいた。

 

「面倒ですねえ、私がいれば必要ありませんよそんなの」

 

「やかましい。お前が倒れたら、お前を守るのは俺しかいないだろ」

 

「……いや、キャスターとカエデがいますよね?」

 

 ごもっとも、ぐうの音もでない正論だ。

 

「まぁ、それでも手ぶらで行くってのもなんだしさ……ほれ、漫画は片付けて行くぞ。夜が遅くなるほど敵に襲われやすくなるだろうし」

 

 俺が手招きすると、セイバーは不満げにしつつも漫画本を放り投げてついてきた。俺の部屋がどんどん汚れていくことに対する不満は後で直接ぶちまけてやるとして、キャスターと楓が待つ玄関に向かう。

 

「──お兄ちゃん、もう行けるの?」

 

「問題ない。セイバーの方も大丈夫っぽい」

 

 楓の手には、白くてやけにツルツルした籠手がはめられている。

 俺と戦った時も着けてたよな、じゃあアレって何なんだろう、なんて疑問が湧いたがどうせ聞いても魔術関連のことは分からないので黙っておく。

 勝手な予想だが、たぶん楓の強烈パンチがアレをつけると殺人パンチにランクアップするのだろう。楓と戦った夜、あの籠手による一撃であわや両腕粉砕骨折なんて大怪我を負うところだったことを、俺は未だに忘れていない。

 

「よっしゃ、んじゃあ行くで。どうも僕の占いによると、倫太郎クンは今家におらん。あっちの龍脈に向かっとるみたいや」

 

「龍脈っていうと……まさかあのビビリが一人で仙天島に向かうわけないし、となると……廃工場のあたり、かしら」

 

 一瞬楓は何かを思い出したくないように言い淀んで、微かに目線を下げた。

 

「そうやな。……よし、行くで皆。とりあえずは彼に話をつけんことには始まらん」

 

 俺と楓とセイバーは自転車に乗って、キャスターは霊体化してついてくる。

 今宵も天気は良く、月は雲に隠れることなく姿を見せていた。煌々と輝く月は既に半月を過ぎ、日に日に満月へと近づいているのが見て取れる。「月の光を受けるほど強化される」なんて変な特性がある剣の担い手だからか、セイバーも少し嬉しそうだ。

 

「なんだか様子が優れませんね、カエデ。大丈夫ですか?」

 

「えっ? あ、うん、そうかな……そうかもしれない。ごめん、けど大丈夫よ。ちょっと気が乗らないだけだから──」

 

 二人の話し声が風に乗って後ろに流れていく。

 俺も楓が心配なので、並走しながら話は聞いていた。

 

「気が乗らない? アサシンと協力関係を結ぶ事がですか?」

 

「違うわ。まあ確かに気に入らないのは事実だけど許容範囲。ただ、色々あってね。あの場所は苦手なのよ」

 

「あの場所って……あそこ、確か錆びた工場の廃墟があるだけだろ?」

 

 俺は坂道をしゃーっ、と加速して下り降りながら考えて──、

 

「ああ、なんだオバケが怖いのか。たしかにお前、夏場はいつもいつも見なきゃいいのに心霊特集番組とかを見てさ、んでそれから一週間くらいはトイレについて来てとか……今年も繰り返してたろ、そのアホな年間恒例行事。てか、高校生にもなって未だに俺にトイレ同行を頼むのはどうかと思わあ゛ァァァ──ッ⁉︎‼︎‼︎⁉︎」

 

 並走したまま無言で楓の足が飛んできて、俺は自転車の運転バランスを崩して盛大に転倒した。

 

 

 

 

「お、見えてきたぞ」

 

 のんびりと三人でペダルを漕ぎ続け、二十分ほどかけた道のりはようやく終わりを迎えようとしていた。田園地帯の中を真っ直ぐに伸びる一本の農道の脇に、闇に沈む黒々としたシルエットが見える。

 この道はセイバーと会った初日、セイバーとライダーの戦車勝負によって完膚なきまでに破壊された筈なのだが、そこら辺は魔術協会の方々によって修復されたのだろう。走っても違和感は感じない。

 

「ようやくですか。さて、話を聞いてくれるんでしょうかね」

 

「倫太郎なら大丈夫よ。きっとね」

 

 そんなやりとりを交わしながら、自転車を進めていく。

 廃工場まであと百メートルちょっと。田んぼから聞こえてくる虫の音がやけにうるさい。こんな自然の中だからか、虫達の大合奏に放り込まれたような気分だった。

 

「はぁ。これじゃあ蚊除けスプレーとかしてきた方がよかっ」

 

 ──ぞくり、と。

 

 等間隔に設置された街灯をまた一つ潜り抜けた瞬間、俺は奇妙な違和感に襲われた。

 思わず口をつぐむ。

 首筋の毛が逆立つような不穏な感じ。まるでこのまま自転車を呑気に漕いでいたら死ぬぞと、そう身体が訴えかけてくるかのような。何を馬鹿なと首を振ろうとして、俺は──、

 

「ケント‼︎‼︎」

 

 やけに緊迫したセイバーの声が、聴こえて。

 視界がぐらりと揺れ、俺は気がつけばサドルから離れて空を舞っていた。視界の端で、セイバーが片手で俺を突き飛ばしながら、空いた方の手に剣を握りしめているのが見える。

 何かを伝える時間も、何かをする時間も無かった。

 ただ刹那は無情に過ぎ去り、俺は声を上げる暇もなく──、

 

 次の瞬間。

 俺の視界いっぱいに、セイバーの身体から飛んだ鮮血が映った。



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五十一話 氷結の狙撃手、シモ・ヘイヘ

 ──その瞬間。

 その場にいた四人の中で、いち早く私はこちらに迫る危機を察知していた。

 遠方で膨れ上がった魔力はおそらく宝具によるもの。叩きつけられた殺気を感じ取り、そしてそれがケントに向いている事に気付いた私は──、

 

「ケント‼︎‼︎」

 

 可能な限り手を伸ばし、ケントの身体を突き飛ばした。

 自転車から容赦なく吹っ飛んでいく彼を見てよしとし、不敬にもこちらに飛来する"攻撃"を叩き落とさんと睨みつける。

 それを視界に入れたとき、少し驚いた。

 マッハ2に迫る速度で飛んできたその飛翔体は見慣れた矢などではなく、もっと小さな鉄塊──「弾丸」と呼ばれるものだったからだ。

 が、たとえ見慣れていないといえど、飛んでくる攻撃という点で見れば矢も弾丸も同じである。速度に関しても、私を殺したアイツの矢の方がまだ速かった。

 鎧を纏っている暇はないが、今からでも十分に迎撃は間に合う。

 

(フン────甘いですね‼︎)

 

 そう信じて剣を振るった。こちらに飛んでくる弾丸をまともに迎え撃つ剣筋で。たとえ弾丸が直前で曲がろうが跳ねようが、例外なく撃ち落とす自身もあった。

 

 けれど──私は、それを止めることができなかった。

 

 弾丸は軌道を変える事なく。ただただ実体を持たないかのように愛剣をすり抜けて、私の身体に喰らいついたのだ。

 咄嗟に胴体のど真ん中を貫かれるのだけはかろうじて避けたが、脇腹をごっそりと抉られ──同時に体の中で滅茶苦茶に何かが爆ぜて、私はなすすべもなく地面に倒れ込んだ。

 

 

 

 

「セ……」

 

 吹っ飛ばされた身体が、思い切り硬いコンクリートの上に投げ出される。だが、そんな痛みは全く意に介さず、

 

「セイバ────────ッッ‼︎‼︎」

 

 俺は勢いよく飛び起きて、宙を舞った彼女の元へと走った。

 転がるように不恰好に数メートルを走り抜けて、地面を何度か跳ねて動かなくなったセイバーに駆け寄る。その身体を抱え上げた瞬間、どろりとした不気味な感覚が手のひらを襲った。

 

「……くそ‼︎」

 

 これは紛れもなく血だ。彼女の身体から、尋常ない量の血が流れ出している。しかも体温が尋常じゃなく低い。まるで氷を抱いているように錯覚するほどだ。

 傷を確認すると、セイバーは右脇腹のあたりに酷い傷を負っていた。鎧を纏う暇も無かったのか、引き千切られたジャージから覗く抉られたような傷は大きく、本来対象であるはずの腰がアンバランスに見えてしまう。

 

「キャスター、防御‼︎ いけそうなら反撃も‼︎」

 

「ああ、──了解した‼︎」

 

 セイバーの事で頭がいっぱいになっていた俺とは違い、楓とキャスターの二人はどこまでも冷静に対処していた。

 攻撃が放たれた方角をセイバーが吹き飛ばされた方向から瞬時に把握し、キャスターは楓の指示通りに手にした紙片を投擲する。

 紙片防破、三重──。

 影アーチャーによる矢の雨をも容易く防ぎきった、キャスターが用いる最大の守り。

 

 ──だが。

 

 バガンッッ‼︎‼︎ という凄まじい着弾音が楓の鼓膜を震わせた時には、キャスターの首から上が跡形もなく消し飛んでいた。

 

「………………え」

 

 困惑の表情を浮かべることしかできない楓と俺。

 目の前で、キャスターの亡骸はゆっくりと後ろに倒れていった。展開した円状の防壁は、主を失ってなお虚しく浮遊したまま。

 彼方から飛んできた弾丸は、あろうことかそれを受け止めるはずの防壁をすり抜けて、キャスター本体を容赦なく撃ち抜いたのだ。

 

「──チッ。厄介やな」

 

 絶望しかけた楓の頭にぽんと手を置いて、キャスターが背後から現れる。

 

「え、あれ、え? 今、アンタ、死ん」

 

「幻術や。念のため認識位置をズラしといたんが功を奏したかね」

 

 主たる楓を庇うように立つと、キャスターは俺たちの方を振り向いた。

 倒れ伏したセイバーは、ぴくりとも動く様子がない。

 このまま手負いのセイバーをここに放置すればまず間違いなく全滅する──そう踏んだキャスターは、勢いよく扇子を振り払った。

 

「う、お、おおおおおお────⁉︎」

 

「悪ぃな、ちっと隠れといてく──れっ‼︎」

 

 巻き起こった暴風が俺とセイバーをまとめて包み込み、猛烈な勢いで吹き飛ばす。風に乗って飛ぶのは初めての体験だったが、こちらを見つめる楓の目には、「ここは任せろ」と言わんばかりの気概が込められていた。

 みるみるうちに彼らの姿は遠くなっていき、俺とセイバーはもみくちゃにされながら運ばれていく。着地の瞬間に風が弾け、俺とセイバーはそこまで衝撃を受けることなく廃工場の敷地内に着地した。

 

「ぶはあっ、はあっ、はあっ──‼︎」

 

 風で運ばれるというのは初体験だ。だが、休んでいる暇も震えている暇もない。

 遠方からの攻撃が怖いので、顔を苦痛に歪めるセイバーを抱きかかえて走る。工場内までのたった数メートルの距離を走る際、生きた心地がまるでしなかった。

 

「……な、なんとか、振り切ったのか……?」

 

 それとも、攻撃を仕掛けて来た奴が、攻撃目標を俺たちから楓とキャスターに変更したのか。だとしたら、あの二人が狙撃によって殺さないことを祈るしかない。

 工場に入ってすぐのところでセイバーの様子を改めて見るが、やはり脇腹からの出血が尋常ではない。焦りと怒りを無理やり押さえ込んで、着ていたジャケットを可能な限りきつく巻き付けて止血を試みる。

 

「はぁ、はぁ……う……ァ……ぐ……‼︎」

 

 セイバーの顔が死人のように青い。それを見てようやく、俺はセイバーを蝕んでいるのが脇腹の傷によるものだけではないと察した。

 どうしようもないが謝罪の言葉を呟いてから、俺はセイバーの着ているジャージに手をかけた。首元まで閉まっているチャックを一番下まで引き下げ、左右に開いて傷の具合を確認する。

 

「う……クソ、なんだよこれ⁉︎」

 

 露わになったのは、俺が予想していたよりもはるかに酷い傷の跡だった。

 脇腹を食い破った先ほどの傷は言わずもがな、肩や胸ばかりか様々な場所に痛々しい切り傷が刻まれている。その一直線な刀傷を見ていると、俺の記憶に浮上してくるものがあった。

 

「まさか……あのバーサーカーと戦った時の傷か⁉︎ お前っ、こんな身体で今まで戦ってたのかよ⁉︎」

 

 前にセイバーの裸を見てしまった時は、こんなに全身ズタボロの様子はまるでなかった。だが今になって突然露わになったということは、彼女にもう傷を隠す力も残っていないという事なのか。

 ──くそ、何が「私に任せてください」だ。

 こんなに傷ついてるのに、なんでそんな自信満々に無理するんだよお前は……‼︎

 きつく歯を食いしばる。黙っていたこいつもだが、気づけなかった俺が何より一番腹立たしい。

 怒りを振り払って、再び視線をセイバーの身体に向ける。

 よく見ると、刻まれた数多の傷の表面から、細かな氷柱のようなものがいくつも飛び出しているのが見て取れた。それは傷をさらに押し広げ、セイバーの身体を凍てつくような冷気で蝕んでいる。無駄だとわかりながらそれに指先で触れると、途端に鋭い痛みが俺の指を走り抜けた。

 

「くぁっ‼︎ なんだ、この氷……⁉︎」

 

「の……ろい……ですよ……」

 

 俺はその声に驚愕して、セイバーの顔の方を見た。

 顔を歪ませながら、消え入るような声でセイバーは話そうとする。

 

「馬鹿、喋る余裕なんてないだろ⁉︎ いいから大人しくしてろ‼︎」

 

「だめ、なん、です……離れて……くだ、さい。あの、攻撃……には、強烈な呪詛……が、近くに……たら、ケントも……」

 

「うるせえ‼︎ 意地でも離れてなんてやるか、お前は絶対に死なせないからな……‼︎ くそ、ああ本当に俺にはなんにも分かんねえけど、呪いとか魔術とかはさっぱりだけど……‼︎ でもっ、お前を、こんなとこで‼︎ 絶対に死なせなんてしないからな‼︎‼︎」

 

 無知で無力な自分がもどかしく、もう何を言ってるのかわからない中、ただセイバーを失いたくないという気持ちに従って声を張り上げる。

 そうだ、こんなところで死なせてたまるか、俺まだ何もセイバーに──、

 

 と、思っていたその時。

 

「首尾よくかかったもんだね。一日くらいは待ちぼうけかと思ってたんだけど。それに、最初から瀕死で転がり込んでくるとは都合がいい。外で何が起きたかは……まあ、後で調べればいいさ」

 

「うん。……じゃあ、殺そう……か」

 

「ああ。相手はセイバーらしい、手負いでも遠慮はいらない」

 

 カツーン、という反響音が廃工場の中に響き渡って、全身の毛が逆立つ悪寒を感じ取った。

 錆の匂いが漂う薄暗い工場の奥から、二人の人影が姿を現わす。一人は赤銅色の髪をした少年、そしてもう一人は紫陽花色の髪に包帯を巻きつけた少女。

 間違いなく、アサシンとそのマスター。殺意と敵意を滲ませたまま、彼らは俺たちの前に立ち塞がっていた──。

 

 

 

 

「さて……どーしたもんかね」

 

 キャスターが、遥か五キロメートル遠方でこちらを狙っているであろう狙撃手をぎろりと睨みつける。

 どう考えても、状況は最悪だった。

 あたりには田園地帯が広がるばかりで、身を隠せそうなモノは一つも見当たらない。今から廃工場に全速で逃げたとして、果たして撃ち抜かれずに済むだろうか。セイバーに一撃を喰らわせたことで良しとしたのか、アーチャーの狙いは完全にこちらに向いている。

 

(狙いはおっそろしいほどに正確。まず狙われたら終わり、向こうのミスやら回避やらは狙ったとこで無駄……千里眼による擬似的な未来予知でこっちの動きは読まれとるんかな。それに、さっきの弾丸は僕の盾をすり抜けた。恐らくはセイバーがなすすべなく撃たれたのも、「こちらの防御をすり抜けた」からやろ。仕掛けは知らんが、防御も無意味と思って……)

 

 キャスターが思考に耽る中、隣で動きを止めていた楓の上半身に大穴が空いた。その凄まじい威力は彼女の上半身と下半身を引きちぎり、硬いアスファルトの上に彼女の骸をぶちまける。

 が──その後、楓はひょっこりとキャスターの背中から顔を覗かせた。

 

「最悪っ……あんな遠距離で高所を取られてたんじゃ、狙撃手相手にこっちに勝ち目ないわ。キャスター、何か手はない? こっちから反撃するのは難しいの⁉︎ こっちに向かわせてた式神をけしかけてみるとか……」

 

「断言するけど無い。式神は倫太郎クンの同行を追ってたから今こっち側におるし、僕の攻撃でも、あんな位置じゃあ着弾までに数十秒はかかる。そんなんじゃ牽制にはなれど、奴を仕留めるには不足もいいとこや。というか、そんな悠長してたら死ぬ」

 

 話し込んでいる間に再度着弾。三歩ほど離れた場所のアスファルトが爆ぜ散り、思わずびっくりして顔を引っ込める楓であった。

 だいたい、十秒ほどの間隔を空けて弾丸は飛んでくる。

 今はキャスターが張った幻術が作用しており、アーチャーの狙いは彼らから離れた場所に向いている。だが──、

 

「うひぃっ⁉︎ き、キャスター、なんだか向こうの狙いが正確になってきてない⁉︎ さっきよりも着弾点が近づいてるんだけど⁉︎」

 

「どうも千里眼の類か。僕も千里眼ユーザーやけど便利なもんやなあ。さて……こっちの幻術は専門外やし、向こうの眼がだんたんとこっちのズレを把握し始めとる。迷ってる暇は無いで」

 

「れ……令呪であそこまで飛ばすとか、どう⁉︎ できない⁉︎」

 

「あまりに遠過ぎる。「アーチャーの狙撃地点まで飛べ」っちゅうても途中で撃ち落とされるのが関の山や。「アーチャーがいるところまで次元跳躍」とかなら可能かもしれんが、楓ちゃんを守るモンが無くなる。アナスタシアちゃんに僕が一瞬でも抑えられて、その隙にアーチャーが狙撃すれば君はバラバラに……っと」

 

 さらに着弾。さきほど三歩程度は離れた場所に着弾していたアーチャーの魔弾は、今や二歩程度のところまで近づいている。

 

「でも……ふむ。令呪ってのは、悪くないかもなぁ。勝算は低いけども、まだなんとかなるかもしれん」

 

 刻一刻と限界が迫る極限状況の中、キャスターは不敵な笑みを浮かべて楓の方を振り返った。

 そして二、三言楓に囁くと、楓はこれから起こるであろうことに冷や汗を流しながらも頷いた。正直に言えば心の底から嫌だけどやるしかないんなら仕方ないかも、といった絶妙な表情であった。

 マスターの同意を得て、キャスターは再びアーチャーの方に向き直る。

 

「よし。んじゃあ勝負といこか──アーチャー、白い死神(シモ・ヘイヘ)‼︎」

 

 扇子を宣戦布告のようにアーチャーへと向けて、キャスターは瞬く間に数十に及ぶ雷撃を撃ち放った。

 眩いほどの閃光が炸裂し、夜の闇を煌々と照らし出す。まるで照明弾の乱れ打ちだ。それはアーチャーの視界をいっとき光で埋めつくすほどの凄まじい光量だった。

 そうして放たれた無数の槍は紫電を撒き散らしながら、一直線にアーチャーのいるビルの屋上めがけて加速していく。

 

 

 

 

 同時刻──大塚市の中心、ビル街の一番端に位置するオフィスビルの屋上に、二人の影があった。

 一人は代行者の少女、アナスタシア。

 そしてもう一人は彼女のサーヴァント、シモ・ヘイヘ。

 アナスタシアが黙して戦いの趨勢を見守る中、眩い閃光に乗じて逃げようと画策するキャスターの姿を、アーチャーはしかとその目で捉えていた。

 

(攻撃……と見せかけてはいるが、狙いが粗い。閃光での目くらましが目的か。だが──)

 

 アーチャーの目は遥か彼方をも見通す鷹の瞳。白い死神に一度でも目視されれば、いかなる目くらましであろうと意味をなさない。

 眩い光の中で蠢くキャスターのシルエットから、彼が目を離す事はなかった。

 

(着弾までは悠に四十秒はある。それだけあれば充分だ)

 

 空気を震わせて、アーチャーの構えるモシン・ナガンM28の銃身から「宝具」たる銃弾が放たれる。

 

 ──それこそが彼の伝説が形を成し、結実した宝具(モノ)

 その名を、「氷獄を謳うは白き死神(ホワイトリーパー)」。

 

 ありとあらゆる物理的、魔術的干渉を無効化し、着弾と同時に強力無比な呪詛を叩き込む対人宝具。まともに直撃すればサーヴァントといえど即死は免れない。

 彼の魔弾は瞬時にマッハ2に迫る速度まで加速すると、閃光に身を隠すキャスターの身体を貫いた──ように見えた。

 

(やはり手応え無し。幻術の類いだろうが……だんだん目が慣れ始めた。次弾か、もしくはその次で決める)

 

 手が霞むほどの速度でボルトハンドルを引き、次弾を装填。

 宝具の開帳に従って、彼の心象風景が弾倉内という極小空間に展開され、装填される魔弾に戦死者たちの怨念が充填される。そうしてありったけの魔力を込め、狙いを定める──。

 ここまでの一連の動作に五秒。アーチャーの指が軽やかに引き金を引き、五秒間の飛翔を経てキャスターの身体が再び吹き飛ばされる。

 

(……チッ、惜しい。今のはほぼ掠るくらいの距離──)

 

 彼の眼はほぼ完全にキャスターの幻術を看破し、アーチャーは正確に彼の位置を視界の中心に捉えた。

 目くらましは諦めて防御を試みる方針に変更したのか、無駄な足掻きを繰り返しているキャスターの姿に冷笑を浮かべながら、アーチャーは再度宝具の射出準備に移る。今度は外しようがない。アーチャーはいつも通りに息を吐き、隙だらけのキャスターを仕留めようと引き金を──、

 

「……何、だ?」

 

 引き金を引いた瞬間、奇妙な違和感があった。

 何か大切な事を失念しているような気がしてならない。

 覗き込んだスコープの中心に映るキャスターの顔は、確かに笑みを浮かべていた。絶対不利の状況でなお、彼は口の端を歪めてこちらを見ていたのだ。

 しかし、既に魔弾は放たれた。数秒後には間違いなくあそこにはキャスターの骸が転がっている。機動力に欠ける魔術師風情が、彼の狙撃から逃げられるとはとても思えない。

 そう──彼が勝利を確信した瞬間だった。

 

「……っ⁉︎ アーチャー、上です‼︎‼︎」

 

 マスターの声が響き渡り、アーチャーは視線を咄嗟に跳ね上げる。

 そこには──、

 

 

 

 

「うううううううううううううう──────‼︎‼︎」

 

 数十秒前。楓は死に物狂いで姿勢を低く保ち、気を抜いたら口から飛び出しそうな悲鳴を必死で堪えていた。ここで叫んでアーチャーや向こうのマスターに発見されては元も子もない。

 だが──彼女は早くも、こんな無茶な賭けに出た自分の選択を呪わずにはいられなくなっていた。

 楓がいるのは高度六百メートルほどの位置、だいたいスカイツリーの頂点付近くらいの高さである。狭めの大塚市を一望できる絶景だが、残念ながらそんな余裕は一ミリもない。なんせこれは命綱も何もないギャンブルフライトだ。手を離せば当然死ぬ。

 キャスターが懐に入れていた式神、それが姿を変えた紙飛行機に目を血走らせてくっつきながら、顔や身体を叩く暴風に耐える。

 

「ぐぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎいい─────‼︎⁉︎」

 

 加速に加速を重ねていく。速度は既に時速500キロを超えていた。

 キャスターが重ねがけした防御術式と、楓が使う「徒手魔術」が無ければ容易に振り落とされる化け物スピード。そもそも呼吸がまともにできず、楓は早くも死んでいるのか生きているのか分からなくなってきていた。

 だがそんな生と死の狭間で、キャスターから呑気な指示が届く。

 

『よっしゃ楓ちゃん、今や。飛び降りてくれ』

 

(アンタ正気じゃないでしょ馬鹿でしょンなのできるわけないから──‼︎⁉︎)

 

 そりゃあ命綱なしにスカイツリーの頂点から地面に飛び降りたいなんて奴がいるはずもない。そも、急拵えの作戦が成功するかも一か八かなのだ。失敗したら十秒以上はたっぷりと死にゆく絶望を味わってから、地面に激突して挽肉になる未来が待っている。

 だが、己のマスターがビビって手を離さない事を最初から予想していたのか。楓を運んでいた紙飛行機は速やかに姿を変えて──、

 

「ちょっ⁉︎ ひっ、や、いやいやいやいぎゃわあ゛あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼︎⁉︎」

 

 戦闘機のナパーム弾の如く、楓を無理やり地上に向けて射出した。

 とても華の女子高生とは思えぬ迫真の叫び声を上げながら、楓は風にもみくちゃにされながら落下していく。

 その位置はほとんどアーチャーたちの真上。キャスターは目くらましが効いている間に楓をアーチャーの視界外に飛ばしてから、闇に乗じて移動させたのだ。アーチャーとアナスタシアがキャスターに集中していたのが功を奏した。

 楓の悲鳴を聞き取ってアーチャーとそのマスターがこちらを目視するのが見えた気がしたが、もうここに至ってはどうでもいい。

 こんな至近距離まで接近できた以上、楓がやる事はたった一つ。

 

「あ────……っ‼︎ この、来なさいよっ、ばか────‼︎‼︎」

 

 身体をぎゅっと丸めた楓はあらん限りの大声で叫び、キャスターの姿を思い描く。

 瞬間──大塚市の夜空に、真っ赤な閃光が瞬いた。

 令呪の効力は速やかに発揮され、狙撃をその身に受ける寸前だったキャスターの姿が道路上から掻き消える。対象を見失った魔弾は見事に地面に突き刺さり、そして──、

 

「ようやった。お待たせやで、楓ちゃん‼︎」

 

 空中で優雅に楓を抱きかかえたキャスターは、これまで散々された恨みも込めて、アーチャーに全霊を込めた雷撃を降り注がせた。

 それはオフィスビルの天井に突き刺っただけで止まらず、悠に四階層ぶんの床を貫き、屋上がほとんど消し飛ぶほどの大穴を穿った。

 

「はッ──‼︎」

 

 キャスターの護身・破敵が滑らかに空を滑り、体勢を崩したアーチャーの身体に食らいつく。

 彼も応戦を試みたが、やはり近距離は狙撃手の本分から大きく外れている。キャスターの刀のほうが遥かに速く、それはアーチャーの身体をズタズタにする寸前でぴたりと停止すると──、

 

「ほれ、詰みや。動くなよ、アーチャーとアナスタシアちゃん?」

 

「チッ……クソったれ、不覚を取った。すまないマスター」

 

 勝敗は決した。迅速に楓を仕留めにかかろうとしていたアナスタシアは、振りかぶっていた黒鍵を不本意そうに押し留める。

 しかし──アーチャーとアナスタシアの二人は、不意打ちをものともせずに最善の行動に走っていた。キャスターの攻撃があと一秒でも遅ければ、楓の頭蓋をアナスタシアの黒鍵が粉々にしていたほどの紙一重の差。このペアの実力は高い、とキャスターは思いつつ、しかしのんびりとした口調で──、

 

「危ない危ない。やっぱりおっかないなぁ、君は」

 

「キャスター……なんなんですか貴方は‼︎ 今日のお昼過ぎにいきなり私の前に現れたかと思えば、じろじろ眺め回したあと「ほなまた」などと理解不能な事を言って姿をくらます‼︎ そして何故かセイバーと行動を共にしている‼︎」

 

(方言、わからないのね……)

 

 先の刹那の攻防の中、自分がまともに生きている事を確認するしかできなかった楓は、九割がた崩落してしまった屋上の端にぺたんと座り込みながらぼんやり思う。

 

「何がしたいんです。私を殺しますか、キャスター」

 

「ンなわけない。少しばかり話しがしたいんや、なぁ楓ちゃん?」

 

「あ……う、うん、そうよ‼︎ 私たちは争ってる場合なんかじゃないんだっての‼︎」

 

 楓の言葉に、アナスタシアはしばらく悩むような表情を浮かべて。

 それからすぐに、諦めの色が強い溜息を吐いた。

 

「──わかりました。貴方たちの話を聞きましょう。どのみち私たちにはそれしか選択肢がありませんから」




氷獄を謳うは白き死神(ホワイトリーパー)
ランク:B
種類:対人宝具
狙撃において百発百中を誇ったと言うシモ・ヘイヘの伝説、それが昇華されて宝具として結実したもの。
「弾丸の宝具」のようにしか見えないが、理論は「招き蕩う黄金劇場(アエストゥス・ドムス・アウレア)」とほぼ同じ。自分の心象風景を具現した異界を「弾倉内」という極小空間に展開し、込められる魔弾に心象風景からくるありったけの呪詛を装填することで、一撃必殺の魔弾を作り上げる。
彼の心象風景にあるのは、敵味方関係なく雪原に積み重なる戦死者たちの山。かの凄惨な光景は、生涯に渡って彼の心に傷跡を残し続けた。そこから溢れ出さんばかりの怨念は、サーヴァントの霊基さえも容易く破壊し、傷をこじ開けて持続的にダメージを与える。対魔力である程度軽減することは可能だが、その性質上、相手が生前に受けた怨念が強いほど、それらが連鎖爆発することでダメージが跳ね上がる。
同時に、「白い死神の狙撃は百発百中」という伝説が持つ要素から転じて、宝具による強化を受けた彼の弾丸は如何なる物理的・魔術的干渉をも無効化する。その為、途中で撃ち落としたり防いだりと言ったことは不可能、さらに初撃はアサシンに引けを取らないほどの不意打ちを可能とするなど、ロングレンジにおいては破格の性能を持つ。
未だ死後二十年も経っていない彼が、一撃で神代の英霊であるセイバーを瀕死に追い込んだことからも、その規格外さが窺いしれる。


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五十二話 英霊の領域へと

 ……明白すぎてうんざりするくらい、戦況は絶望的だった。

 こちらのセイバーは倒れ、まともに動くこともままならない。対して向こうは万全の状態らしい。こんな状態では、俺の足では逃げ切れるとも思えない。

 だが──そもそも、俺たちは戦いをしに来たわけじゃない。あくまで交渉に、聖杯戦争を覆さんとする敵に立ち向かうために力を借りにここへ来たのだ。

 アクシデントが重なってセイバーは瀕死、楓とキャスターは戦闘中のままという状況に陥ってしまったが、それでもこちらに敵対の意思はない。まずはそれを伝えれば──、

 

「うくッ⁉︎」

 

 反射的に首を振った。まるでセイバーの「直感」が俺に宿ったように、そうすべきと感じたのだ。

 そして直後、額があった場所を銀に鈍く輝く短刀が貫いていった。

 

「ま……待て、こっちに敵対する意思は──」

 

「君たちは最初から最も警戒すべき敵だ。言葉を交わす必要はない」

 

 その、どこまでも平坦な声を聞いて察する。

 この相手は駄目だ。何故かは知らないが、声の端々にこちらに対する不信感が滲んでいる。今俺が声をかけても、瀕死のセイバーでは勝ち目がないから打開策を探している、くらいにしか思われないだろう。

 

「クソ‼︎」

 

(悪いセイバー、ちょっと我慢してくれ‼︎)

 

 後ろ手にポーチを開けると、俺は隠し持っていたスタン・グレネードのピンを外した。

 投擲すると同時に目を瞑り、ぐるんと背を向けて耳を塞ぐ。背後で閃光が炸裂するやいなやセイバーを抱きかかえて、最高速で工場から離脱を試みる。

 

「が────ッ、あ⁉︎」

 

 だが、三歩も走らないうちに肩口に短刀が深く食い込んでいた。

 爆発する激痛、噴き出す血。

 バランスを崩して転倒しそうになりつつ、方向を変えて廃工場の敷地から飛び出すのは諦める。障害物も何もない正面玄関のあたりを走り抜けてここから離脱できるとは到底思えなかった。

 

「……ん、まぶしい……はずしたかも」

 

「──く……そ……魔術師のくせに変な手を使う……‼︎ アサシン、僕はいいから追ってくれ。……ここは僕の領域だ。奴の動きは手に取るように分かる」

 

「りょーかい」

 

 流石に回復が早いアサシンは短刀を新たに構えると、勢いよく工場の外に飛び出していく。

 倫太郎は咄嗟に庇ったとはいえまだ安定しない視界と平衡感覚にうんざりしながら、近くのタンクに手をついて意識を結び直した。

 十秒以上かけると、なんとか霧散しかけていた意識が元に戻ってくる。同時にこの敷地内の構造が頭の中に浮かび上がり、倫太郎はその中で蠢く「異物」の姿をはっきりと捉えた。

 

「────……そこか」

 

 その時、俺はボロボロになった工場の中を闇雲に走っていた。

 工場の敷地内には三つの工場棟が並んでおり、今は真ん中の棟から逃げ出して右側の棟に入ったところ。なにかの組み立て作業でもしていたのか、ベルトコンベアが五つは並列に並んでいる開けたスペースだった。

 と、再び首筋にチリっとした嫌な予感が駆け抜けて──、

 

「っく⁉︎」

 

 足裏を押し付けて急停止した瞬間、目視できない速度で何かが俺の前を駆け抜けていった。

 辛うじて見えたものを無理やり言葉にするなら──"真っ赤なギロチン"とでも言おうか。ただ、それが襲ってきたのは真横から。停止していなければ間違いなく腕と胴体を分離させられていた軌道だった。

 

「────⁉︎」

 

 悪寒は消えず、視界の端で赤い何かが瞬く。

 ほとんど考えずに体を動かし、身体を低くかがめて横に転がる。髪が断たれるほど紙一重のタイミングで、さらに二つのギロチンが俺の居ない空間を切り裂いていった。

 やはり早過ぎる。鋼鉄の機材も切断する切れ味も恐ろしい。当然ながら魔術のことはさっぱりで、あの赤い刃がどこからどう飛んできそうかなんて分かりゃしない。

 だが──神経を極限まで研ぎ澄ませば、それでもなんとかなってくれる。

 

「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ……‼︎‼︎」

 

 発熱した身体の中で何かが蠕動する。俺という殻がすっぽりと脱ぎ捨てられて、まるで脱皮みたいに何かが生まれそうな感覚が臓腑を焦がし続ける。

 気をぬくと思考がバラけそうだ。

 例えば、今を生き延びることではなく、今手の中にいる無防備なセイバーの首筋に意識が持っていかれそうになる。

 

「走れ──いいから、走れっての──……ッッ‼︎‼︎」

 

 全身、指先に至るまでに違和感を感じながらも、可能な限り必死で足を動かす。そうしなければ、一瞬でも気を抜いてしまえば、余分な考えで頭の中が狂いそうだったから。

 そう考えると──この、今にも俺を切り刻もうとする赤の乱舞は実に心地いい。

 それを避けて避けて避けまくっていれば、気も紛れるというものだ。刻一刻と近づく体力のリミットも気にせずに、秒間隔で飛んでくるギロチンの嵐の中を走り続ける。それはサーヴァントが操る剣戟にも似て凄まじい密度と速度、威力を伴う死の嵐だったが、それでも俺に傷を与えるには至らなかった。

 

「ふぅん……キミ……何なの……かな?」

 

 だが、そんな都合のいい逃走劇も長くは続かい。

 天井や床を見事に跳び回って、暗殺者が俺の眼前に降り立った。

 まるで猫のようなしなやかな着地。それとほぼ同時に飛んできた短刀を躱して、俺はセイバーを抱いたまま拳銃を抜き放った。

 

「ぜぇっ、ハァッ、ぜえっ……‼︎‼︎」

 

「そんな無茶な動き、したら……身体も、おかしくなる。……お馬鹿さん、だね」

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺の中で極限まで研ぎ澄まされていた何かがぱっと霧散するような感覚があった。

 そしてアサシンの言葉通り、俺の足から力が抜ける。糸の切れた人形のように倒れ込んだ俺は、そこで初めて自分の体力がとっくに尽きていたことを理解した。

 

「うぐ……ちく、しょ……ッ」

 

 ガクガクと震える足ではまともに立つ事もできない。

 というか、なんでこんなに追い込まれるまで俺はあの攻撃の中を無事に駆け抜けられたのか──と、自分自身が怪しくなってくる有様だ。

 

「しかし、頑張った……ほう。一体どんな……からくりか、知らないけど……キミの動きは、一瞬だけ……英霊のそれに迫るものがあった」

 

 もう答える気力も無かった。そもそも酸素不足で脳がぼーっとするし、言葉を話すための口はさっきから酸素を貪るのに必死で機能しない。

 このままでは、なすすべなく此処で殺されるというのに。

 辛うじて向けているベレッタ92を握る手も震えているし、そもそもサーヴァントに拳銃の鉛玉なんぞが効くとは思えない。

 

「でも、ま──終わりかな」

 

 短刀の切れ味を確かめるように、少女はそれを軽く振るう。ヒュオンッ、という風切り音がやけにはっきりと聞こえた。

 暗殺者の目を覆っていた包帯が外される。その奥から覗いた瞳を見た瞬間に、全身の細胞が恐怖と警鐘に震え上がった。

 見られているだけで、「アレは死をもたらす」と理解できてしまうほどの何かが、あの両目だ。

 楓から聞いたところによると──確かあれの名は、"直視の魔眼"。

 

「…………〜ッッ‼︎」

 

 間違いない。死ぬ。

 俺は恐怖からくる唾を無理やり飲み込んで、手の中のセイバーに一瞬だけ視線を落とした。

 微かに開かれた彼女の碧色の目が、「逃げてください」とでも言いたげに潤んでいる。目尻に溜まった涙はすぐに溢れて、彼女の柔らかな頰を流れ落ちていった。

 セイバーの涙を見たのは俺が死んだ夜以来だが、どうも慣れないもんだと思う。

 

(……この泣き虫さんめ。お前が死んだら俺も死ぬって忘れたのか?)

 

 ──いいや、そもそも。

 俺が生き延びるとか死ぬとか、俺に関する利害を全部度外視しても、俺はセイバーを失うという結末を単純に許せない。

 結局、ありきたりでどこまでもシンプルな感情論なのだ。

 「大切な人を失いたくない」っていう、恥ずかしいくらい素直な気持ちがあるから、俺はここまで全力で突っ走ってこれた。

 

(どうする。セイバーを守るには、俺はどうすればいい)

 

 臆するな。考えろ。「英霊」という最強にして破格の敵を相手にして生き延びる方法を、何としても見つけ出せ──。

 

 時を置かず、思考が再び熱を帯び始める。

 今度は体ではなく脳の方に、さっきまで俺に取り憑いていた何かが移ったようだった。考える事も倫理観も思考回路も、どれもが短絡的でどす黒い方向に染まっていく。

 

(ああ──駄目だ。手を伸ばしたらマズイ。これは、よくない)

 

 その選択肢を視野に入れるだけで心が軋んで悲鳴を上げる。

 精神が歪んで発狂しそうになる。

 魂が穢れて、どうしようもなく黒くなる。

 ロクなことにならないと知りながら、この得体の知れない何かを初めて自分で受け入れる際に襲い来るであろう痛みと恐怖を覚悟の上で、俺は黒い奔流に抗わなかった。

 そうしなければ後ろのこいつを守ることは叶わないと、それだけは理解していたから。言葉も碌に出ない今の彼女の瞳をじっと見つめてから、俺はいい加減に覚悟を決めた。

 きっとセイバーは怒るんだろう。いやもう怒ってるのかもしれないし、もしかしたら悲しむかもしれない。だから──、

 

「………………悪い、セイバー」

 

 絞り出した謝罪の言葉だけを残して、目の前の敵と対峙する。

 そうして、いつしか我が家の屋根の上で告げられた警告を、俺は堂々と真正面から破り捨てた。

 力だ。今はただ、こいつを守れるだけの力を寄越せと願って。

 

 ──そうして、意識が反転した。

 

 

 

 

「……?」

 

 アサシンは、足腰が限界にも関わらず、自然体でふらりと立ち上がった少年を見て奇妙な違和感を覚えた。

 その姿を見ると、完全に同一人物だというのに、まるでガワを同じくしたまま中身だけを取り替えたように思えたのだ。

 首を傾げながら、まあいいやと違和感は捨てる。どうせ"視え"ている黒点に刃を挿し込むだけで、全ては終わってくれるのだから。

 

 ──だが。

 少年の拳銃が跳ね上がってこちらの眉間に向いた瞬間、アサシンの警戒心は最大まで引き上げられた。

 

「つ゛⁉︎」

 

 全力で首を振るのとほぼ同時。空気を震わせて、鈍い銃声が鳴り響く。

 弾丸はアサシンの頰を掠って大気を貫くと、背後の錆びた機械に衝突して大穴を穿った。ただの鉛玉が持ちうる威力をとうに振り切った、まるで大槍をブチ込んだかのような破壊だった。

 軋み、歪み、連鎖的に金属が凹む嫌な音が連続する中──、

 

「こロしてやる」

 

 いつのまにか距離を詰めた少年が、勢いよくサバイバルナイフを振りかぶっていた。

 ゾッ、とするような無表情が顔に張り付いている。

 その刃が振り下ろされる速度はまさしく神速。それをまた神速でもって迎撃しながら、アサシンは驚愕に目を見開く。

 

「なに……キミは、誰……?」

 

「お──お、あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼︎‼︎」

 

 ギガガガガガガガガガッッ‼︎ と、猛烈な勢いで二振りの刃が衝突と離散を繰り返した。

 薄暗い廃工場の中で激しく火花が舞い散り、この工場にかつて溢れていたであろう光景をもう一度蘇らせる。

 

「アサシン⁉︎ なにが起きてる、そのマスターに一体なにが起きた⁉︎」

 

「わから、ない。ただ、なんか……すごく、強くなった」

 

「うんざりするくらいアバウトだな、君って‼︎」

 

 文句を言いながら、倫太郎は離れた場所から遠隔的に術式を次々と作動させる。

 魔法陣に込められた彼の血液が弾丸として作動し、秘められた「切断」の効力を存分に生かす形状をとって少年に襲い掛かるが──、

 

「────邪魔だ、どけ‼︎‼︎」

 

 今度は、もはや回避すらしなかった。

 彼に激突した瞬間、倫太郎の魔術の全ては容易く無効化されたのだ。

 

「な……⁉︎」

 

「……‼︎」

 

 倫太郎とアサシンに動揺が走る。特に何もすることなく触れただけで魔術を無効化するなど、それはまるで──、

 

「ただの人間が対魔力……⁉︎ アサシン、そいつは何か様子がおかしい‼︎ マスターだからって油断するな、サーヴァント同様に最大の警戒をもって相手をしてくれ‼︎」

 

「りょー、かい……‼︎」

 

 一瞬の隙を突いて、アサシンは少年のナイフを思い切り弾き飛ばした。

 彼のナイフを持つ右手が跳ね上がり、無防備の懐にしなやかな脚で強烈な一撃を見舞おうとして──、

 

「っ、また……‼︎」

 

 左手に握られた拳銃から発射された銃弾が、アサシンの腹を軽く裂いた。

 いや──そもそも、彼女が軽傷とはいえ傷つくというのがまずあり得ないことだ。

 サーヴァントにとって、人間が用いる近代兵器など玩具に等しい。神秘を纏わぬ弾丸では彼らに傷をつけられないし、たとえ魔力を弾丸に込めようが、拳銃の銃弾程度では彼らの動体視力からすればあまりに遅すぎる。

 では何故、彼の拳銃はサーヴァントに傷を与えうるものへと変わっているのか──。

 

「自律制御一時停止。狙いを変更、対象を目標から目標上部の構造物にシフト。目標より半径五メートル内の術式を選択、起動準備……」

 

 一進一退の攻防を続ける二人。

 その戦いを、視界の片隅に浮かべた映像で捉えながら──、

 

「うっ、く────全術式、放て‼︎」

 

 息を荒げつつも拒絶反応を抑え込んだ倫太郎の指示に従って、飛び出した血液のギロチンが廃工場の中を縦横無尽に暴れ回った。

 その狙いはセイバーのマスターから逸れ、彼の頭上に向いている。具体的には所狭しと並ぶパイプやゴテゴテしたダクトに加えて天井そのもの、それらが鉄塊の雨となって少年に降り注いだ。

 

「……‼︎」

 

 サーヴァントと戦闘するマスターとはいえ、その耐久力は人間のままのはずだ。単純な質量で押し潰されれば死に至る。

 が──ヒュヒュン、と鉄塊の中に閃光が瞬いたかと思うと、

 

「は、は、はははははッ、あ、あ゛ァぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ‼︎」

 

 それらを例外なく切り裂いて、少年は姿を現した。

 殺意を叩きつけながら咆哮するその姿は、まるで狂気に囚われたバーサーカーのよう。

 手に握られているのは一振りの黒光りする長剣。まるでセイバーが持つものを真似たように、その形状は瓜二つだった。しかしあんなに目立つ長物を、一体どこに隠し持っていたのか──、

 

「……まさか、さっきの……ナイフ?」

 

 首を傾げるアサシンに、少年は疾風じみた勢いで距離を詰める。

 足裏からの魔力放出──加速、加速、先程よりもさらに加速。空気に爆ぜ散る魔力の雷鳴を残像に残して、彼はセイバーに迫る速度にまで到達する。

 

「けど……まあ、残念だったね」

 

 形を変えたからか、先程よりも少年の剣さばきに磨きがかかっている。障害物も術式もおかまいなしに細切れにしていく剣戟を避けながら、アサシンはそう呟いた。

 そう──彼女を相手にする上で、彼が自らの武器を扱いやすいように伸ばしたのは失策だった。

 

「そんな長いんじゃ……こっちとしても、殺しやすい(・・・・・)

 

 形状が全く異なろうが元が同じならば、小さい刃より長い刃の方が、その分死点も多く捉えられる。

 アサシンが短刀を一閃すると、少年が持つ長剣がバラバラに分解されて宙を待った。

 次の攻撃に移る暇も与えず、彼女の拳と脚が次々に少年の体に突き刺さる。瞬く間に骨を数本はへし折って動けなくしたのち──、

 

「うん。……これで、おしまい」

 

 つまらなさそうに呟いて、彼女は倒れた少年の頭を掴み上げた。

 

 

 

 

 その光景を──、

 彼が私をそっと床に置いて立ち上がるのを、私は止めることができなかった。

 

「っ……やめ……それ、は……だめ……で……」

 

 声が掠れてまともに出ない。こんな蚊の鳴くような声では、もう背を向けるケントの耳には届かない。

 私はバカだ。大バカだ。本当の本当にバカだ。敵の攻撃でまんまと大怪我を負って、挙げ句の果てに彼をこんな窮地に追い込んで。

 

「おねがっ……です……から、ケントぉ……‼︎」

 

 サーヴァントとして戦えないことが、無力なまま彼を見守ることしかできないことが、涙が滲むくらいに悔しい。

 私は責められて当然だった。サーヴァントとしての責務を、彼を守り抜くという責務を何一つ果たせない私は、彼の信頼を全て失っても当然だった。

 それでも──役立たずの私を全く責めることなく、逆に死にものぐるいで守ろうとしてくれたケントは、申し訳なさそうな声色で呟いた。

 

「…………悪い、セイバー」

 

 そうして──彼の周囲の空気が、ぞわり、と蠢いて。

 次の瞬間、ケントは敵に向かって容赦なく引き金を引いていた。

 

「……ぐ‼︎ やめて、くだ……さぃ……ケント……‼︎‼︎」

 

 私の声はだれにも聞き届けられることなく、そのまま鮮烈な戦いが始まった。

 常人の限界をはるかに飛び越えてナイフを振るうケントの姿が、私にはひどく痛々しいものに見えて。彼の何を代償としてあんな力を前借りしているのかは、考えたくもなかった。

 

「お──お、あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼︎‼︎」

 

 血反吐をぶちまけるような、痛々しい咆哮が廃工場に木霊する。

 ケントは、見かけ上は、アサシンと互角に渡り合っていた。迫る刃を弾き落とし、逆に踏み込んで攻め込む余裕すら保っていた。

 でも──表面上は見えないところで、彼は確かに追い詰められていく。

 

「やめ……もう、もう……あなたが、そんなに……こころを、軋ませてまで……無理を、しちゃ……だめなんです……‼︎‼︎」

 

 彼が振るう力は、人が手にしていいようなものじゃない。それは私が一番理解している。

 あんなものに魂を穢されながら、それで戦い続けるのは──きっと、死ぬより何倍も恐ろしく苦痛をもたらしてしまう。たとえここを切り抜けられても、彼の魂に消えない傷を刻み込む。

 それは彼も、たぶん理解していたろうに。

 それでも負けられないと、自分なんざどうでもいいから力を寄越せと、彼は自ら地獄の深淵に身を投げた。

 

「う、うぅぅぅぅ…………っ‼︎」

 

 私のせいだ。

 私が万全なら、彼があんな姿を晒さずに済んだだろう。

 私が万全なら、彼があんなに傷つかずに済んだだろう。

 どれもこれも、今となっては意味のないイフ。残酷な現実は、今目の前で繰り広げられる光景となって私の心に突き刺さる。

 

「あ、あ゛ァぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ──‼︎‼︎」

 

 私の剣そっくりにナイフを変えたケントが、さらに速度を増してアサシンに迫る。足裏で瞬いたのは、魔力放出による稲妻の残滓か。

 だが──ありえないはずのケントの奮闘も、そこまでだった。

 いくら強化を重ねたとはいえ、元が市販の武器では限界があったのか。彼が振るう剣は粉々に砕け散り、次の瞬間に勝敗は決していた。

 全身に痛打を叩き込まれて倒れこむケントの髪が強引に掴まれ、アサシンは軽々と彼の身体を持ち上げる。

 既に私はカエデから聞いていた。あのアサシンの瞳は、どれだけ強靭なる存在であろうと、短刀の一刺しで殺してしまう希少かつ強力な魔眼であると。そしてケントはただの人間だ。そんな彼を殺すことなんて、あの目をもってすれば朝飯前もいいところ──、

 

「にげ……っ、ケント……‼︎ うぁ……まって、だめっ、やめ──」

 

 嫌だった。どうしようもなく、嫌だった。

 あれ程、最後の時には分かれるのが定めなのだと語っておきながら、いざ実際に彼が死んでしまうと思うとたまらなく怖かった。

 だけれど、呪詛に蝕まれた私の体はほとんど動いてくれず、微かに数センチだけ血まみれの身体を引きずっただけで──、

 

「じゃあね」

 

 トス、と。

 驚くくらい軽やかな音を立てて、彼の胸にアサシンの刃が吸い込まれていった。

 力を全て失って倒れ込んだケントは、もう、動かなくなった。

 死んだ。

 

「……………………う、そ」

 

 まず、私を容赦なく叩きのめすような絶望があって、私の思考が一度凍り付いた。頭の回転が完全に停止して、現実を認識しようとする脳と認識したがらない心のせめぎ合いがあった。

 そして──。

 言い表せぬほどに心中で膨れ上がった猛烈な憎悪が、この連中を今すぐ八つ裂きにしても気が済まぬほどの憤怒が、私の中をくまなく燃やし尽していった。

 

「マスター……敵は、死んだ。終わったよ」

 

「待ってくれ。まだセイバーが残ってる。もう虫の息だろうけど、念のため消滅を確認してくれ」

 

「はいはーい……」

 

 ああ──黒々とした感情で身体の中が燃え尽きそうだ。

 ぽっかりと空いたような心の中に在るのは憎しみと怒りだけ。

 

 そうして、自分が背負うべき咎の重さをもう一度理解した。

 もう二度と戻らないものを失ったことを改めて思い知った。

 その大切さを、尊さを、手から零れ落ちたが故に教えられた。

 

 そして──。

 

 

「き、さま、らあ゛ああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ───────ッッッッ‼︎‼︎」

 

 

 その激情を、自分の全てを引き換えにする覚悟で爆発させた。

 傷ついた霊基に更にヒビが入る。だが、己に残った魔力の七割を費やした攻撃の威力はそれに見合うものがあった。

 剣を振るえないならば全身全霊の魔力放出でもって吹き飛ばす、という考えのもとにうずくまったまま放たれた私の雷撃は、大雑把な狙いをつけて進路上の全てを粉砕していく。

 極大まで膨れ上がった雷撃は廃工場の八割ほどの敷地を無に帰しただけでなく、そのまま地表を舐めるように縦一線の焦げ跡を刻み込み、最後に湖面に激突して凄まじい水柱を作り出した。一瞬で熱せられた空気は熱風となって駆け抜け、私の涙を拭き取っていく。

 

「うッ……なんて奴だ。魔力を纏めて放出しただけだろうに、威力が並みの対軍宝具なみじゃないか」

 

「さぞかし、名のある英霊……みたい」

 

 瓦礫や燃え滓が落下してくる中。忌々しくもそれから逃れたアサシンとそのマスターが、こちらに敵対心の篭った目を向ける。

 

 ──貴様らだけは、私が出来る限り凄惨に殺してやる。

 

 憎しみしかない目を見開いて、私は覚悟を決めた。まだ私には、「魔王特権」を無理やり当てはめて常時発動を抑制しているもう一つのスキルがある。

 その名は、「無辜の怪物」。人々の認識によって歪められた私は、もはや人間とも魔族ともつかないバケモノとして顕現する。この姿は私は好まないし、何があろうと発動させることはないと思っていた。それでも、今この状況に於いてはそんなくだらない拘りなどどうでもよかった。

 この枷を一度でも外せば私は引き返せない。この身体はあっという間に伝承に知られるとおりの異形へと変貌し、ありとあらゆる破壊を撒き散らすだけの怪物がそこには残されるだろう。

 

「ガ……あ゛、ふふっ、ぁ……ぎ……あはははッ‼︎‼︎ ころし、て、やる‼︎‼︎ きまさらは、めちゃくちゃにして、殺す──‼︎‼︎」

 

 めきめき、ばきばき、と。骨が砕けて肉が裂けて身体が膨張する。

 これ以上進めば引き返せなくなるという一瞬前に、私はさっきから霞んでいる視界の中で、倒れて動かなくなったケントの姿を見た。

 ごめんなさい、と言いたくても、もう遅い。

 

「マズイ、まだ何かしようとしてる──アサシン、今すぐセイバーを仕留めてくれ‼︎」

 

「うん……‼︎」

 

 マスターの迅速な指示を受けて、憎き暗殺者が駆け抜けてくる。

 馬鹿め。お前が間合いに入った瞬間、私はお前ごと巻き込んで異形へと変貌する。

 その時はゆっくりと、マスター共々腹の中で細切れになるまで噛み砕いて殺してやる殺してやる殺してやる──、

 

「────オイ。暗殺者風情が、身の程を知りやがれ」

 

 直後。天空から、一つの稲妻が落下した。

 それは地面に垂直に突き刺さると、アサシンとそのマスターがいた場所を容赦なく破壊し尽くした。轟音と空気が焦げる匂いがボロボロになった廃工場を席巻し、土煙の中から一人の男が姿を現わす。

 

「よォ、セイバー」

 

 眩いほどの閃光を撒き散らしながら黄金の髪を逆だてる、その姿。

 まさしく──二度も戦ったライダーが、私を庇うようにしてそこに立っていた。

 

「らっ……らい、だー……?」

 

「おーおー、テメェ程の英霊でも存外追い込まれるもんだ。が──テメェはここで死なせねぇ。舞台に上がる前にくたばる役者なんざ許せるわきゃねえわな。まあ、前はちと興が乗りすぎたんだが……今は自重してやる。分かったらとっとと逃げろ」

 

「なっ……けど……ケント、が」

 

「馬鹿野郎、よく見やがれ。直視の魔眼だかなんだか知らねえが、アイツはまだしぶとく生きてるぞ」

 

 弾かれたように視線をケントに向ける。

 彼はやはりぴくりとも動かない。だが──それでも、一度冷静になって意識を向ければ、確かにケントとの繋がりを感じ取れた。

 あの魔眼を前に何故生きているのかは分からない。

 とにかく、安堵から思わず力が抜けそうになるのを堪えて、不可解にも私を庇おうとしているライダーに意識を向ける。

 

「あーれ……? 私、殺し損ねたこと、ないんだけどな……」

 

「フン。テメェのその、「直視の魔眼」とやらは確かにどんなモンでも、神だって殺し得る反則級の魔眼だって事は聞いてる。だがな、もう既にくたばってる奴を殺したところで結果は変わらねえだろうが」

 

「……蘇った死者とかなら……ちゃんと、殺せるよ?」

 

「そりゃぁ食屍鬼とかそういう話か? 阿呆、連中は死したまま動いていても、厳密にはヒトとは違う「生きている別生物」ってカテゴリに含まれてんだよ。だからテメェの魔眼は反応する、殺せる。けどそこのソイツは本当にただ死んだまま、別種の化物に変貌する事もなく、ただヒトのまま世界に抗い続けて生き延びてる超レアケースだ。だからお前の魔眼で殺しても、死人が死人になるだけで変化はない」

 

「何だって……? そのマスターは、もう死んでるって言うのか」

 

 問答を繰り返すライダーとアサシン、そしてそのマスターを眺めてていると、視界の端で何かが動いた。少しだけ視線を動かしてそちらを見ると、地面を這うアリの大群のようにこちらに向かってくる無数の影が見える。

 それがキャスターの式神であると気づいた時には、私は数百の紙人形に抱え上げられていた。先程私がアサシンのマスターが張り巡らせた結界を全て破壊したから、ようやく敷地内に入ってこれたのだろう。

 

「とまあ、理屈は置いておいておいて。どうする、テメェらが今すぐ俺と戦いたいってんなら勿論──っと」

 

 ライダーの言葉が不自然に途切れる。

 その理由は私にも理解できた。東から超高速で向かってくる超弩級の魔力反応が一つ、私の壊れかけの感知にも反応している。

 この、尋常ではない存在感を持つものといえば──、

 

「来たな狂戦士。おいマスター、令呪を寄越せ。あの大英雄は一筋縄じゃあいかねぇぞ‼︎」

 

 次の瞬間、遥かな夜空に翠色の閃光が瞬いた。

 令呪による恩恵か、ライダーの身体にまとわりつく紫電がより一層熾烈に膨れ上がる。そしてほぼ同時に、そのサーヴァントは暴威と疾風を伴って姿を現した。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■────‼︎‼︎」

 

 バーサーカーの手にした魔剣が唸りを上げ、ライダーが身を引いた場所を地面もろとも抉り取った。そのまま二騎はもつれ合うように激突を繰り返し、衝撃波と突風が撒き散らされる。

 

「な……っ、バーサーカー ……‼︎」

 

 式神はケントの身体も私同様に持ち上げて、一目散に東へ向かって走り始めた。だんだんと遠くなっていく廃工場の跡地から視線を外さないまま、私はあの衝突の結末と、アサシン陣営の動向を見送ろうとする。

 だが心身ともに、限界が私に追いついてしまった。

 思考はもうまともに保てず、視界は次第に狭まっていき、私はそこで意識を失ってしまう。最後に聞こえてきた激しい戦闘音は、やけにしつこく耳に残っていた──。



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五十三話 魔王さまは甘えたい【9月10日】

「っ……ぐ、う…………」

 

 呻きながら意識を取り戻す。まるで寝過ごした時のように、自分が意識を失っていたことに気づいて慌てて目を開けた。

 最初に飛び込んできたのは──淡い、白い絹のような光。

 それがカーテンを透過して降り注ぐ朝日なのだと気付いて、俺は半覚醒状態のままぼんやりとそれを眺める。窓の外から聞こえてくる鳥のさえずりは、間違いなくあの窮地を乗り越えて戻ってこれたことの証明だった。

 

「……俺は、どうなったん、だっけ……?」

 

 身体にのしかかる気だるさを我慢して、記憶の糸を解きはじめる。

 確か移動中にセイバーが狙撃されて、キャスターに手荒く廃工場まで飛ばされ、そしてそこでアサシンと戦闘になったのだ。

 手負いのセイバーを抱えてではまともに動けるはずもなく、俺はあの暗殺者を前にしてなすすべなく追い詰められ──、

 

 ──そして、そこで何かがあった(・・・・・・)

 

(あの時、あの瞬間、俺は何をしたんだっけ……いや、違う。そうじゃない‼︎ 俺は生きてるにしても、セイバーはどうなった⁉︎)

 

 ふらふらと彷徨うようだった思考が、セイバーのことを思い出した瞬間にきゅっと引き締まった。反射的に体を起こそうとして、全身で炸裂した鈍痛に顔を歪ませる。

 

「あ、ッぐ……‼︎」

 

 ベッドから出る、というより転がり落ちるように被せられた毛布から抜け出すと、俺は這うように自室の扉に向かった。壁とドアノブに手をかけてなんとか立ち上がり、壁に寄りかかりながらずるずると重い身体を引きずって歩く。

 家の中には楓の気配も、キャスターの気配もなかった。しんと静まり返った家の中をたった一人で進む。

 もし俺が担ぎ込まれて自室のベッドに寝かされ、同様にセイバーも同じ処置をされているとするならば──可能性としては楓の部屋だ。

 

「ごめん、勝手に入る……」

 

 言葉を吐くのも苦痛だったので謝罪は手短に済ませつつ、俺は隣に位置する楓の部屋の扉を押し開ける。

 ゆっくりと開かれる扉の向こうから漂ってくる、楓の部屋特有の心地いい香り。それに意識を割く余裕もなく、俺は楓のベッドに横たわる彼女に視線を奪われていた。

 

 ああ。そこに、ちゃんと──セイバーは、いてくれた。

 

 狙撃で腹を破られ、呪詛で全身の傷を開かれる重傷を負った彼女は、それでも楓の部屋のベッドで規則正しい寝息を立てていた。

 

「はあ────なんだ、いるじゃ……ねー、か……」

 

 張り詰めていた全身の緊張が霧散し、力が抜けてへたり込みそうになる。

 それを数歩分は無理やり先延ばしにして、俺はセイバーが横たわる楓のベッドのすぐ側に腰を下ろした。セイバーはさして反応を示すわけでもなく、目を閉じて碧色の瞳を瞼の向こうに隠したままだ。 目を見張るくらい綺麗な顔立ちのセイバーが、いつものようにギャーギャー騒がず目を閉じているとその可愛さが特に強調されて、まるでよくできた人形を見ているような気分になってくる。

 

「寝てんのか……まぁ、あんだけの怪我だったんだし……」

 

 寝ているセイバーの顔に傷の後は見られない。が、見てくれだけならどうとでもなるというのは彼女自身が示している。あれ程の怪我が都合よく一日で治るわけもないし、キャスターが何かしらの対策を講じてくれたのだろうか。

 ……というか、そもそも。

 ずっと目を閉じたままのセイバー見ていると、だんだんと心の中に不安が広がってくる。呪いとかなんとかの影響をモロに受けて、よもやこのまま眠り続ける眠り姫ならぬ眠り魔王になるんじゃないだろうな、なんて俺が焦り始めた頃──、

 

「……………………んぅ」

 

 セイバーの口元がもにょっと動き、唇の隙間から微かな声が聞こえてきた。

 それを合図として、ゆっくりゆっくりとセイバーが目を開ける。

 当然俺とまず目が合って、彼女は何度か目を瞬かせた。それから抜け目なくきょろきょろと周囲を確認し、ここが安全だと理解したのか、もう一度俺に視線を移して──、

 

「……なに、泣いてるんですか……」

 

「え」

 

 おはようでも質問でもないその言葉に、俺は慌てて人差し指を目尻にまで持っていった。すると、確かに溜まった涙の感触がある。

 恥ずかしいので右腕で乱暴に零れ落ちそうな涙を拭き取ると、俺は改めてセイバーを見る。どこかぼーっとしたような表情を浮かべていた彼女は、いつのまにかよく浮かべるニヤニヤ顔に戻っていた。

 

「まったくケントは……泣いちゃうくらい不安だったんですねえ。安心してくださいよ、この私が簡単にくたばるわけありませんから。ほら、それでもまだ心配だと言うのなら、私の胸に顔を埋めて泣いたっていいんですよ? 今くらいは許してあげます」

 

「じゃかあしいわいこの野郎。そもそも何が泣いたっていいんですよ、だ。お前だって昨日は泣いてたじゃんか、え?」

 

「…………そんなの記憶に無いです。どうしてもそう言い張るなら証拠を出してくださいよ、証拠を。どうせ無いんですよね」

 

「お前……言ってることが小学生だぞ。ただてさえ身長中学生のチビで魔王とか言っても説得力ないのに、精神年齢は外見よりずっと幼いんじゃどうしようもねえ。もう取り消せその称号」

 

 残念なものを見る視線とともにセイバーに提案してみると、

 

「あ、あ、あぁーっ‼︎ チビって、チビって……‼︎ ケントは最初に話した時もそんな事言ってましたけど、また言いましたね⁉︎ あれを私は忘れてませんからね、今度はその分も含めてグーパンチしてあげますから‼︎ 覚えておいてくださいよ‼︎」

 

「はいはい。重症のおチビさんは大人しく寝ときましょうね〜」

 

 身体は流石に動かせないのか、手だけをブンブン振って隙あらば痛打を喰らわせようとするセイバーから少し距離を置きつつ、セイバーの乱れた毛布をかけ直す。

 一瞬見えたセイバーの身体には、何やら変な文字が書かれたお札のようなものが数枚貼り付けてあった。恐らくはキャスターのものだろう。動くどころか話すのも困難だった昨日のセイバーを思い出すに、たった一晩でここまで回復したのは十分すぎる成果だ。感謝せずにはいられない。

 

「おーおー暴れよる……そういやさ、体の調子はどうなんだ」

 

「んー、あんまり良くありません。ただの外傷であれば、キャスターの力をもってすれば治癒は可能だったでしょう。しかし、私を貫いたあの弾丸には、強力な呪詛が込められていました。それも、対象が背負う憎悪や敵意に応じて連鎖爆発し、効力を増す系統のもの」

 

 思わず口を閉じ、毛布を押し上げるセイバーの身体に視線を落とす。

 

「要は……私には相性最悪といえる呪詛だったんです。私に着弾した瞬間、アーチャーが撃ち込んだ呪いの効力は約四百倍(・・・)にまで膨れ上がりました。私の対魔力が無ければ、今頃私の身体は粉々に破裂していたでしょうね。キャスターもこの解呪には流石に手間がかかるようです」

 

 あの「夢」のことを思いだした。セイバーが殺してきた者たちの記憶を無数に繰り返し追体験して、彼らの憎しみや怒りを身をもって味わったあの悪夢のことを。

 彼女は一体、その小さな背中に、どれほどの敵意と憎悪と憤怒を背負っているのだろうか。

 

「──それにしても‼︎ なんて奴ですかあのアーチャー‼︎ 私にこんな傷を負わせるとか、もう不敬じゃすまされませんよ‼︎‼︎」

 

「おいこら暴れんな、落ち着け‼︎ ……そういや楓達は無事なのかな?」

 

「私たちがここにいて、処置が施されているってことは、多分無事なんでしょう。よくあの距離からアーチャーを抑えたものです」

 

「ま、言われてみりゃそうか……そうだな」

 

「それにぃ‼︎ あのアサシンも‼︎ 腹立ちますね‼︎ 私が万全であれば闇を抜けた暗殺者風情など、簡単に斬り伏せるというのに‼︎ まったく‼︎ こんちくしょうですよ‼︎」

 

「だから騒がしいっての、さっきから怒ってばっかだなお前‼︎ なんだ、なんでそんな四方八方に怒りを撒き散らしてるんだよ⁉︎」

 

「そっ、それはっ──」

 

 セイバーは視線を外すとあっちにフラフラこっちにフラフラと、視線を見事に泳がせ始めた。それを見て「ああ、また何か都合の悪いことがあるんだろうなあ」とぼんやり察する俺。

 

「私が……その、無力で、どうしようもなく……私は一番、私自身に腹が立っているから……ついつい、といいますか……」

 

「なんだって?」

 

「な、なんでもないですよ‼︎ なんでも‼︎ ええい、この話は終わりです‼︎」

 

 これ以上追求すると身体が動かずともカミナリが落ちる(コイツの場合比喩表現じゃない)ような気がしたので、俺は踏み入ることなく引き下がる。さっきからやたら騒がしいのはセイバーの方だったので、自然、俺たちがいる楓の部屋には静けさが戻ってきた。

 しばらくその静寂を味わった後、ぽつりと──、

 

 

「けど、とにかく──セイバーが無事で、良かった」

 

 

 ぽすん、とセイバーの頭に手を置いて、しみじみと呟いていた。

 

「……………………ん」

 

 蒼色の長い前髪を両側に梳かすように撫でると、セイバーは子猫のように目を細める。フケイやらなんやら言われるかもと思っていたがお咎めはない様子なので、俺はそのままセイバーの髪の触り心地をもう少し長く味わうことにした。

 

「心配したんだぞ」

 

 微かに紅潮した頰といい、うっすらと肌に滲む汗といい、今のセイバーはまるで風邪を引いたように映る。

 だが、こちらを見つめる碧色の瞳に確かな光が灯っているのを見ると、どうも安心してしまうのだった。

 

「俺はもう死んでる身だし、多少の傷は治るんだろ。けどお前は違う。だからもう、あんな無茶すんな。それに、怪我してるんならそう言ってくれ。お前は一人じゃないし、今は楓もキャスターだっているんだからさ」

 

「……それは、こっちの台詞ですよ」

 

 セイバーは薄い毛布を口元までずり上げて、両手できゅっと握る。

 

「ケントこそ、あんな無茶で馬鹿な真似は二度としないでください。あんなケントを見ていると……悲しいし、嫌なんです」

 

「ん? 何の話?」

 

「昨日のことに決まってるじゃないですか」

 

 ──と言われても、何のことやらさっぱり分からない。

 首を捻る俺を見て何を思ったのか、セイバーは眉を顰めて、

 

「そうですか……分からないんですね。いや……けれど、その方が良いのかもしれません。ともあれ、もう一度はっきり忠告します。たとえ窮地に陥っても……手段は選んで下さい。最悪、死ぬよりもひどい結末が、ケントに降りかかるかもしれないんですから」

 

「……よく分からねえけど、気をつける」

 

 神妙に頷いて、セイバーの言葉を受け入れる。

 けれど、俺はやっぱりバカなのだ。俺はともかくセイバーが昨日のように危機に瀕した時、手段を選ぶほどの冷静さが残っているかどうかは、正直なところ自分でも自信がない。

 けどまあ、選択の果てにその結末とやらに至ったとしても──俺は後悔だけはしないんだろう。それで、セイバーを守れるならば。

 

「よっし、俺もなんだか元気が湧いてきたし……日本の定番、お粥でも作ってくるかな。お腹空いてるだろ、セイバー? いや、お前の場合はお菓子とかの方がいいのか?」

 

 身体にのしかかるような怠さと、節々の鈍痛は健在だったが、空元気を動員して俺は立ち上がった。俺を庇ったセイバーがこんなに弱っているというのに、俺まで元気がないんじゃ彼女に示しがつかない。

 「ちょっと待ってろ」と言い残してふらふら部屋を出ようとした俺を、セイバーの声が引き止めた。

 

「ん、どうした?」

 

「あの──その、ですね」

 

 言葉が少しだけ震えている。まるで顔を見られたくないかのように、更に毛布を引き上げたセイバーは目元だけを覗かせたまま──、

 

「…………もう少しだけ、そばにいてください」

 

 そう、どこか恥ずかしそうに言ってきた。

 

「────……ああ、分かったよ。セイバー」

 

 床にもう一度腰を下ろし、セイバーのベッドに背を預ける。

 このワガママ大王がそうする事をご所望ならば、俺は黙して従うのみだ。

 目を閉じて、このまま寝てしまおうかと考え始めた頃、俺と同じく沈黙していたセイバーがぽつりと口を開いた。

 

「あの時。貴方が死んでしまったと、思ったんです」

 

「……うん」

 

「けど……ケントは、生きていて……いや、死んでるんですけど……とにかく、私は、嬉しかった。とてもとても、嬉しくて……でも、まだ、信じられないんです……だから」

 

 セイバーの声はさっきから震えっぱなしで、時折鼻をすするような音が聞こえてくるけれど、俺はベッドに背を預けたまま決して振り返らなかった。そうするべきだと、感じだからだ。

 

「私が貴方のことを、確かに、ここにいると思えるまで……こうして、一緒にいてください」

 

 セイバーの暖かい手が、そっと俺の背中に触れた感触があった。

 俺はもちろん彼女のささやかな願いを許容し、改めて目を閉じる。

 

「ああ──約束する。お前が満足するまで、俺はずっとお前のそばにいるよ。だから安心して、お前はいつものお前に戻れ。な?」

 

 丁度いい具合に設定された空調が吐き出す爽やかな冷風を感じながら、俺はセイバーに言葉を掛ける。彼女はもう何も答えず、俺のシャツに触れる力を少し強めただけだった。

 そうしてしばらくすると、微かな寝息が聞こえてくる。

 安心しきったその寝息は、さっき聞いたものとは確実に違っていた。それを聞いて、俺はもう一度座ったあたりから真っ赤になっているであろう顔をやっとのことで元の表情に戻し──、

 

「──そばにいて、とか。お前って……時々ずるいよな、本当」

 

 恨み言を言いつつも、今更動く気なんておきない。そうして俺は、セイバーが起きるまで一緒にここで眠ることにした。

 疲労が溜まっているのか、意識すれば眠気はすぐにカッ飛んでくる。

 だんだん薄れていく意識の中、俺の背中に触れるセイバーの小さな手のひらの感触だけは、最後までしっかりと残っていた──。



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五十四話 路時裏の吸血鬼/Other side

「…………吸血鬼、だって?」

 

 友人との会話の最中に奇妙な単語が飛び出したことで、前田大雅は目を丸くしてその言葉を繰り返していた。

 

「そうなんだと。駅前のビル街あるだろ、前に半分凍り付いて半分焼き焦げてる死体があがったあたり。今度はあの近辺で、全身の血を抜かれて発見された死体が見つかったんだとか」

 

「おいおい……シャレになってないぞ、それは。最近行方不明者がタダでさえ増えて全国区レベルで報道されてるのに、挙げ句の果てに吸血鬼?」

 

 平時ならばつまらぬ噂だとあしらうところだが、ここ最近の騒動続きを耳にしていては否定しきれない。

 

「どうも警察も手詰まりみたいだぜ? それに、何故かは知らないけど変死体に関しては公表されてないらしいし……まあ、時間の問題だとは思うけどな。これだけ噂になってるんだし、闇に葬るってのも難しいだろ」

 

「一体誰がどんな目的でやってんだかなあ」

 

「よくある愉快犯だろ? まあ、死体を凍らせて燃やして挙げ句の果てに血を抜くってのはよくはいないと思うけど……」

 

「この前近所で会った警察官の人、夜は出歩かないようにってさ。なんだかピリピリしてたなあ」

 

「そういや最近、外国人がやたら多くないか? わざわざこんな地方都市に来る物好きなんてそういないと思うんだけど、なんだか急に外国の人を見かけるようになったぜ。それにだいたい駅前とかじゃなくて地元民しか行かないような場所をうろついてるし、だいたい厳しいツラしてる。うろつく場所も雰囲気も、観光からは掛け離れてるって感じだ」

 

「本当にね。この近辺で花火大会なんてないのに花火が上がったのを見た、とかいう人もいるし」

 

 大雅と友人二人だけの会話にいつしか何人もが加わり、教室の端にいつしか十人以上からなる会話の輪が形成される。

 物騒な事件や噂の類は格好の話のネタになるからか、教室はいつにもまして騒がしい。だがその喧騒も、大塚市を包む不気味な雰囲気を忘れんとする無意識の努力の表れなのかもしれない。皆不安と恐怖を誤魔化して、自分たちの日常は侵食されていないと信じたいのだ。

 

「……むぅ。とにかく気をつけたほうがいいな。警察の方々にも頑張って欲しいが、こういう時は自衛も大切だ。君たちも気をつけろよ」

 

 ここ最近、「異変」と一括りにされる怪異は頻発している。数多い行方不明者や変死体の数々が話題の中心になりがちだが、数日前に学校を襲った謎の轟音や、何者かによって粉々に粉砕されたグラウンドなど、よく考えれば不思議だらけだ。

 不安からちらりと健斗の席を眺めるも、彼は姿を見せていない。これは健斗の出席状況からすると珍しい。そしてあの健斗の隣にいた謎の少女も、言われてみればどことなくミステリアスである。立ち振る舞いはミステリアスどころか暴君のそれだったが。

 

(……まあ、健斗ならばたとえ吸血鬼に襲われようがしぶとく生き延びてくれるだろうが……三浦さんは僕が守らなければな、うむ‼︎)

 

 今日も静かに文庫本を読み耽る姿が似合う三浦火乃香に、大雅はいつも変わらぬ満面の笑みで話しかけた。その笑顔に、得体の知れぬ「何か」への不安が映り込まないように気をつけながら。

 

 

 

 

 ────同時刻。

 

「ハァッ、ハァッ……‼︎」

 

 錆びた鉄の匂いが微かに鼻をつく路地裏を、倫太郎は息を切らせながら疾走していた。

 彼が居るのは大塚市の中心、高層ビルが並ぶ区画のはずれ。まだ夕方にも差し掛からない時間帯だが人気はなく、あたりには倫太郎の口から漏れる吐息と──鎖が奏でる不気味な金属音が響いている。

 

「く────‼︎」

 

 倫太郎の頰を、空を裂いて飛んできた短刀が切り裂いた。

 あと数センチ。たった数センチの差で倫太郎の頭は貫かれる。

 その事実に恐怖しながらも、倫太郎は決して足を止めない。彼に出来ることと言えばただひたすらに走って、動かない的になるのを避けることくらいだったからだ。

 が、走った程度で狙いを外すほど相手は甘くない。遅れて短刀に追従する鎖が蛇のようにうねり、倫太郎を捉えようと襲いかかる。

 

「っ‼︎」

 

 それを、無言で弾く影があった。

 倫太郎のやや後ろで短刀を構えながら、アサシンは迫り来る鎖を迎撃していく。

 鎖と刃、刃と刃の激突は果たして何度交わされたのか。

 アサシンの前髪から覗く褐色の肌にはじわりと汗が浮かび、彼女も体力を消耗している事が見て取れた。

 

「この……‼︎」

 

 アサシンが勢い良く投げ放ったナイフを、敵対者は身体をぐねりと曲げて容易くすり抜けた。逆に放った短刀を引き戻し、鎖をまるで生きているように操りながら、倫太郎たちを切り刻まんとする敵対者は冷酷な微笑を浮かべる。

 ──長髪を風に揺らす、長身の女だった。

 アサシンのように目を覆う眼帯も気になるが、何より露出した白肌と頰を侵食する黒い痣が異様だ。時折無意味に首を捻り、獲物を前にした肉食獣のように舌舐めずりするのが恐怖を煽る。

 

(吸血騒動っていうから実際に調査に来てみれば、人は何人も血を吸われて死んでるし、一体なんなんだよコイツは……‼︎ サーヴァントにしても、前のバーサーカーみたいに様子がおかしい‼︎)

 

 迎撃はアサシンに任せ、倫太郎は路地裏を走り続ける。

 志原のように脚力の「強化」でも使えばもっと速く、もっと長く走り続けられるだろうが、彼の魔術への恐怖心が咄嗟の魔術行使を許さなかった。

 

「く、ぐっ……‼︎」

 

 後方から聞こえてくる苦悶の声に、倫太郎は歯ぎしりする。

 このフィールドはあまりにも不利だった。横に狭く縦に長いこの場所では、あのサーヴァントは水を得た魚のように暴れ回る。

 だからこそアサシンがまだ迎撃できている間に、倫太郎は何が何でも路地裏を抜ける必要があるのだが──、

 

「くそ、出来るわけがないだろうに……‼︎」

 

 街の大通りに繋がる路地を無視して、倫太郎は更に奥まった迷路のような細道へと飛び込んだ。

 理由は明白だ。ここは路地裏とはいえ一歩踏み出せば大塚市の中心、このまま戦闘状態で大通りに飛び出せば大問題になる。学校を破壊して攻撃してきたバーサーカーといい、恐らくこの敵に常識は通用しないだろう。

 市民を守るこの地の管理者としても、奇跡の秘匿を重んじる魔術師としても、このサーヴァントを街に出す訳にはいかない。

 

(このまま逃げ続けてもアサシンが消耗するだけか──)

 

 とはいえ解決策は浮かばず、焦りと消耗だけが募っていく。

 繭村の後継者として鍛えてはいるが、倫太郎の体力も無限ではない。

 決して遠くない終わりが見えてきた。

 死への恐怖か、それとも別の要因か。どっ、と湧き出てくるような冷や汗の嫌な感覚を味わいながら、倫太郎は歯を食い縛る。

 だが──圧倒的な優位に立っていたはずの敵対サーヴァントは、突然俊敏に動いていた足を止め、ぴたりと動きを止めてしまった。長時間の疾走から解放され、倫太郎は転がるように足を止める。

 

「……なんだ、なんで急に」

 

「マスター、離れて‼︎」

 

 言葉を最後まで言う前に、倫太郎は凄まじい衝撃に吹き飛ばされていた。

 それが、あろう事かアサシンによる痛烈な蹴打によるものだったと理解した頃には、数メートルはノーバウンドで飛んだ彼の身体が硬い地面に叩きつけられる。

 最初にあったのは衝撃と困惑。遅れて彼の痛覚が機能した。

 身体中を襲う激痛に顔を歪めて、したたかに蹴り飛ばされた腹部を抑えて激しく咳き込む。ダメージが大きいのか、身体が鉛を詰め込まれたかのように思い。手足を動かすのにも一苦労だ。

 倒れたまま視線を前に向けると、マスターを蹴り飛ばしたアサシンが、もう既に敵対サーヴァントと向かい合っているのが見えた。その手に握られた短刀が頼もしげだが、何故か彼の心に不穏な感情がよぎった。

 

「──────?」

 

 彼女はぴくりとも動かない。

 指先一つ、風にそよぐ髪すらもぴたりと動きを止めてしまっている。

 

「アサシン⁉︎」

 

 やはり彼女は返答を返さない。

 その奥で、眼帯を外した敵サーヴァントの姿が見えた。

 その眼を見て倫太郎は察する。この身体にのしかかるような重圧からしてアレは魔眼の類に違いないが、あれほどの輝きと魔力反応を持つものは世界にもそうそう存在しない。

 これほどの圧を、これだけ距離を離しておきながらこちらにまで与えてくるあの魔眼は一体何なのだ。

 

(まずい……‼︎ アレを喰らえばアサシンはタダじゃ済まない‼︎)

 

 暗殺者である彼女に対魔力などが備わっているはずもなく、恐らく彼女はあの魔眼に対する抵抗力を一切有していない。もう既に指先一本動かせなくなっているのが証拠だ。

 それを見て良しとしたのか、敵サーヴァントは爛々と魔眼を光らせながら余裕の表情を浮かべていた。アサシンの艶やかな頰に舌を這わせ、手に堕ちた獲物を品定めするように、彼女の紫陽花色の髪の毛に触れる。

 

「く……………ぐっ…………‼︎‼︎」

 

 アサシンは舌すらまともに動かない中で、必死に身体を縛る重圧に抵抗しようと試みていた。

 だが、どうやっても彼女の魔眼からは逃れられそうにない。目を逸らしても、目を瞑っても、その重圧は消えてくれなかった。

 力を敢えて抑えているのか、まだ「動けない」だけで済んでいる。

 だが今目の前で身体に牙を突き立てようとしているサーヴァントがその気になれば、恐らく終わる(・・・)。アサシンは直感と悪寒からそれを感じ取り、ほとんど動かない口を歪ませた。

 

「令呪を以って────」

 

 背後で倫太郎が令呪を使おうとするのが聞こえてきた。

 だが次の瞬間、すぐそばにいた敵サーヴァントが勢い良く短剣を投げ放つ。いくら魔術師でも、アレを彼が避けるのは困難だった。アサシンの迎撃があったからこそ、倫太郎はかすり傷程度で迫り来る刃の中を走り続けられたのだから。

 今、彼を守るものはない。

 アサシンは咄嗟に、もう動かない目を瞑ろうとしたが──、

 

 背後で凄まじい爆音が響いたと思うと、隣に立っていたサーヴァントが何かの直撃を受けて吹き飛ばされていった。

 その女はコンクリート製のビルを凹ませる勢いで壁に衝突すると、不気味に身体を痙攣させる。同時に、アサシンは身体を戒めていた重圧から解放され、慌てて後ろを振り向いた。

 

「……あなた……たち、は」

 

「久しぶり。こりゃあまた貸しひとつやなあ、ハサンちゃん」

 

 いけすかない優男と少女のコンビが、そこに立っていた。

 油断した敵サーヴァントを蹴散らしたのは間違いなくこの男だろう。倫太郎も突然のことだったのか、彼らを呆然と眺めるだけでまともに言葉が出てこないらしい。

 

「……‼︎」

 

 言葉を交わしたいのは山々だったが、アサシンは背後でサーヴァントが蠢く気配を感じとり、素早く短刀を構え直す。

 が──そこに見えたのは、前回の謎のサーヴァント同様、ずぶずぶと謎の黒泥に沈んでいく女の姿だった。それはみるみるうちに頭まで吸い込まれると、どぷんと影に潜るように姿を消す。

 そうして、長時間に渡って繰り広げられていた激闘は終わりを迎え、路地裏に元の静寂は取り戻されたのだった。

 

 

 

 

「……って訳で、とんでもない事をしでかしてくれたわけだけど」

 

 数分後。倫太郎は暴風の如く襲来した脳筋少女にずずいと詰め寄られ、早くも両手を挙げて降参の意を示していた。

 アサシンは不満げに頬を膨らませているが、彼らの問答に特に介入する気は無いらしい。二度も窮地を助けられては、流石に文句も言いにくいのだろう。

 

「これ、グー数発程度じゃ済まされないと思うの」

 

「せ、セイバーと協力関係にあるとは知ってたけど、まさか君の兄さんだとは思わなかったんだよ‼︎ というか普通そんなの分からないだろ、ふつうは‼︎」

 

 楓が目に見えて激怒している理由は、倫太郎が昨晩交戦したセイバーとそのマスターにあった。彼らが協力関係にあることを薄々感づいてはいたが、なんとあの少年は志原の義理の兄だったらしい。

 それも本来の参加者ではなく、巻き込まれる形で聖杯戦争に参加した一般人。道理で魔術師ならば避ける志原一族と協力していた訳だ。

 

「分からなくても‼︎ 向こうの話くらいは聞きなさいよ‼︎ アンタのことはもう話してあるし、お兄ちゃんに敵対意識は無かったでしょう⁉︎」

 

 ぐ、と倫太郎は言葉に詰まる。

 確かに、あの少年が何かコミュニケーションを取ろうとしている様子はあった。それを無視して攻撃を仕掛けたのは倫太郎の判断だ。

 

「……君と協力してる、って時点で彼らは怪しさしかなかったんだよ。かの「志原」とわざわざ協力するような魔術師は数少ない。大方裏で君たちを利用しようと企んでるんだろうから、弱ってるうちに仕留めておこうと思ったんだ」

 

 気まずそうに倫太郎はその理由を説明しようとするが、

 

「単に……ヤキモチじゃ……ないのか、な?」

 

「は、はあ⁉︎」

 

 突然飛んで来た核ミサイルの如き言葉に貫かれ、倫太郎は思わず叫びながらぐるりとアサシンの方に顔を向けた。

 僕がそういう馬鹿な気持ちから動いていると思われるのは心外だと言葉ではなく表情で伝えるが、アサシンはアサシンで何故か不機嫌そうにぷいっとそっぽを向く。

 

「………………」

 

 そんなやりとりを見ていた楓はなんとも言えない微妙な表情を浮かべると、長い間考え込んでから振り上げた右手をゆっくりと降ろした。

 

「…………まあいいわ。今は喧嘩してる場合じゃないし」

 

 重苦しい雰囲気のまま、楓はすぐそばの壁に背中を預ける。

 聖杯戦争があろうが学校に欠かさず通っていた彼女だが、平日にも関わらずこうして姿を現していることから、その切迫さは把握できた。

 

「──それは、わざわざ僕たちを助けたのと関係が?」

 

「状況が変わったわ。それも、かなりマズイ状況ね。アンタにも情報を共有するから、率直に頼むけど力を貸して」

 

 そうして楓は壁にもたれたまま、細く切り取られたような曇天を見上げて話し始めた。

 第六次聖杯戦争を開始した謎の魔術師。彼女は仙天島にあると思われる大聖杯を掌握し、騎兵のサーヴァントだけでなく謎のサーヴァント達を使役しているらしい。

 何を企んでいるのかは不明だが、間違いなく彼女は聖杯戦争の基幹となる「一人のマスターに一騎のサーヴァント」という規則を無視し、強引に聖杯を獲得しようと試みている──。

 

「恐らくこの聖杯戦争には七騎じゃなく、合計十四騎が参加してるの。一騎は正規のアーチャーが仕留めたけど、恐らく六騎は向こうの手中よ。アンタたちが交戦してたサーヴァントはまだ制御下にないみたいだけど、それも時間の問題でしょうね」

 

 それを聞いて、無言を保っていたアサシンが割って入る。

 

「それは……あの、バーサーカー……も、なの?」

 

「ええ。私たちが束になっても傷一つつかなかったあの英霊も、おそらく向こうの陣営に属してる。それに聖剣を持つセイバーがいたり、仙人島から学校まで矢を届かせるようなアーチャーもいるみたい」

 

 アサシンはその言葉を聞き、桜色の唇を軽く噛んだ。

 あの狂戦士の暴威は未だ彼らの記憶に鮮明に刻まれている。あの怪物一匹がついただけでも十分過ぎる脅威だが、更に正規のライダーも含めて六騎。加えて神殿まで構築しているとなれば──、

 

「……なるほど、確かにまずいな」

 

「あの女がサーヴァントを集めて何をしようとしてるのは知らない。でも、少なくともまっとうな事をしようとしてるとは思えないわ。それに、各個撃破を狙われたらどうしようもないのはアンタたちも同じでしょう」

 

「だから君は僕らとだけじゃなく、各マスターと共闘関係を結ぼうとしてる、と。ありがとう志原、これで随分と状況がクリアになってきた。前から違和感があったけど、クラスが重複してたとはね」

 

「いいわよ別に。どうせ私は聖杯を獲らなくちゃならない。あの女を倒したら、後はまた争うだけよ。それまでの関係ってやつね」

 

「………………」

 

 倫太郎は、士郎から告げられた「聖杯の汚染」についての忠告を思い出す。

 もし第五次聖杯戦争とまったく同じ大聖杯が今回も用いられているとすれば、今回の聖杯も「この世全ての悪」とやらに汚染されている可能性がある。だが、それを告げる事ははばかられた。

 聖杯戦争に巻き込まれて死亡したという兄を守ろうとする彼女の瞳には強い決意が籠っていて、それは全くの無意味になるかもしれないと断じることは、倫太郎には出来なかったのだ。

 

「……まあ、僕としては聖杯戦争が解決すればそれでいい。君に喜んで力を貸すよ。アサシンは?」

 

「構わ……ない」

 

 楓は、張り詰めていた表情を少し綻ばせて、

 

「ならよかった……。アテにできる戦力がこれで一騎増えたわ。残るは正規のバーサーカーのマスターね」

 

 緊張を解いたようにぐーっ、と背伸びをしてみせる。

 すると丈の短い薄地のシャツが持ち上がり、ホットパンツの上に覗く眩しい素肌が露わになった。倫太郎は思わず頬を赤くして目線を逸らす。

 

「ば、バーサーカーのマスターってのには連絡が取れてるのか」

 

「取れてない。キャスターのおかげでどこに居るのかはある程度、把握出来てるんだけどね」

 

 楓はそう言うとおもむろに背中を壁から離し、路地裏の出口に向かって歩き始めた。少し遅れて倫太郎も続く。

 大塚市のビルは乱雑に建てられているせいで建造物と建造物の隙間が多く、少しばかり脱出に苦労するのだが、楓に迷う様子はなかった。もしかしたら、この場所を魔術の訓練に使っているのかもしれない。

 そうこう考えているうちに、楓は賑やかな大通りに出る寸前の場所で立ち止まる。

 

「バーサーカーについて……アンタ、何か知ってる?」

 

「──いや、詳しくは。ただ、昨晩あのライダーと互角以上に戦っているのを見た。それも向こうは令呪のバックアップを受けてる様子だったのに、それもお構い無しだ」

 

 翠色の閃光を瞬かせながら、咆哮を上げて騎兵に襲い掛かった狂戦士の姿を思い返す倫太郎。

 

「私たちもよくは知らない。一つはっきりしてるのは、バーサーカーはとんでもない強さの大英雄ってことよ。なんせ、万全のセイバーちゃんを正面から圧倒して、前のマスターを殺してる」

 

「……大英雄、か。それなら真名を推察できそうなものだけど」

 

「推察しなくてもいいわよ。ふふ、私のキャスターは一目見ただけで英霊の真名を把握しちゃう最強の陰陽師なんだからね」

 

 車が行き交う大通りを眺めたまま、楓は得意げに笑う。

 だがその一言が色々とやらかしていることに気づいたのは、それから数秒経ってからの事だった。

 

「……陰陽師だって?」

 

 目ざとく反応した倫太郎の言葉で自分の失敗を悟り、自信ありげな笑みを浮かべていた顔が途端に真っ青になる。

 

「あ、ち、違う‼︎ ……私、今そんなこと言った?」

 

「言ったよ。千里眼を持つ最強の陰陽師って。つまり──」

 

「待って待って待って待ちなさいよ‼︎ い、今のは無しで……‼︎」

 

 にわかにわちゃわちゃし始める楓を横目に眺めながら、キャスターは面白そうに声を上げて笑った。室外機に腰掛けて足をぷらぷらさせていたアサシンが、その笑いに応じて口を開く。

 

「あの子って……マスターと、どんな関係なの、かな?」

 

「複雑やなぁ、それは」

 

 キャスターはとうとう倫太郎の襟首を掴み始めた楓を見て再び笑いを漏らしつつ、

 

「かつて倫太郎クンは、楓ちゃんと仲良くなった唯一の魔術師やった。彼は魔術師なら拘りやすい偏見やらに囚われんかったんやな。が……彼とお家の方で一悶着あって、ついに彼は苦渋の決断を下した。楓ちゃんとの関わりを、自らの手で全て焼却したんや」

 

「……………自分から、突き放した? あの、マスターが?」

 

「そう。理由はどうあれ、な。だから──」

 

 キャスターは視線を倫太郎に移して、

 

「彼は未だに後悔の念に囚われとる。自由意志を失った彼に残った最後の人間性がそれ(・・)や。そして楓ちゃんも、二年前の決別の傷から、人と深く親密に関わる事を恐れとるフシがある、と……」

 

「二人とも……悲しいのに、なんで……マスターは、そんなこと……したんだろう?」

 

「──それは、僕の口から語るのは憚られるかなあ。彼の決断をとやかく言う筋合いもないと思うし。ともあれ倫太郎クンは後ろめたさから、楓ちゃんは失う事への恐怖から、共に深いところで言葉を交わそうとせえへん。困りもんですなあ」

 

「私は……できるよ? 信頼関係、あるよ?」

 

 アサシンがむ、と眉を吊り上げたところで、楓のひときわ大きな声がキャスター達の耳に飛び込んできた。

 

「とっ、とにかく‼︎ 今日の夜、この近辺に潜伏してるっぽいバーサーカーのマスターを探して、交渉に持ち込むわよ‼︎ 強力な英霊なら味方につけれただけでもだいぶデカいんだから、気合い入れて‼︎」

 

「昔から気合いとか、そういう根性論ばっかだな志原は……だから見通しも立てずに無茶して体を壊すんだよ。あれから大きな怪我は? 魔力の循環速度は安定するようになったのか?」

 

「なな、なによ急に。アンタに心配されるほどヤワに鍛えてないし、そもそも倫太郎はもう私の師匠じゃないでしょうが」

 

「……ああ、そうだった」

 

 こうした会話を交わしていると、二年前の日々に戻ったかのような気がして、倫太郎はついつい余計なお世話を焼いてしまった。

 彼自身理解している。今更二年前の過去を懐かしんだところで、自分がそれを享受する資格はない。何故ならば、これをかつて切り捨てたのは自分なのだから。

 自分を戒めるいい機会を得れたところで、倫太郎はアサシンの方へと視線を向けた。

 

「アサシン。今日の夜、志原と一緒にバーサーカーのマスターに接触する。万が一の場合は君とキャスターにバーサーカーと戦ってもらう事になるけど、異論は?」

 

「……………………………………まぁ、ないよ」

 

 無いよ、とはとても思えぬ様子であった。

 90度首を回転させて倫太郎から目線を外しつつ、アサシンは本当に心の底から嫌そうな声で返答したのだ。

 

「い、いや良くないだろそれは。なんでそっぽ向いたままなんだよ、声もすごく刺々しいし……文句があるならなんでも言ってくれ、僕にできる事なら改善を……あっこら霊体化するな‼︎」

 

 スゥッと消えていくアサシンに困惑する倫太郎を見て、キャスターはニヤリと口元に笑みを浮かべたのだった。

 

「は──言葉にできん文句もあるっちゅうことや」




【第六次聖杯戦争】
突如として勃発したあり得ないはずの聖杯戦争。進行を取り仕切る聖堂教会による「監督役」が不在のため、聖杯戦争を推し進める上での様々な工作や隠蔽が上手く機能していない。
魔術教会も人員を送り込んではいるものの各員の連携が働かない上に、街を徘徊する「黒化サーヴァント」の格好の餌として日々その数を減らしている。聖堂教会は当初は積極的介入に踏み切ろうとしたが、代行者達を失ったことから慎重な姿勢を見せ、今のところアナスタシア一人に丸投げとも言える様子を見せている。


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五十五話 代行者、溶けゆく心/Other side

「──問う。お前が、俺のマスターか」

 

 霧散していく魔力の霧の中で、彼はその姿を眺めていた。

 自らを呼んだ召喚者。やがては彼の戦友になる定めの、一人の少女の姿を。

 しん、と静まり返ったトンネル。本来ならば使われる筈のない、線路に並ぶ形で作られた避難用通路。滅多に人の立ち入らないその場所で、召喚の儀は執り行われていた。

 

「はい。私が貴方を召喚しました」

 

 平坦で、凍てついたような声が木霊(こだま)する。

 応えた声には英霊を前にした歓喜も畏怖も無く。ただ、事実を事実として述べるだけの作業じみた返答だった。

 

「サーヴァント、アーチャー。真名はシモ・ヘイヘ。お前の召喚に応じ参上した。俺は主人を守る剣になれる訳じゃないが、用心棒くらいなら受け持とう」

 

 ひとまず、どこか頭のネジが飛んでいたり殺人狂のような奴ではなさそうだ、ということに安堵しつつ、アーチャーは掌を差し出す。

 それを少女はしばらく見つめた後、

 

「………………ああ。握手、ですか」

 

 まるで握手という行為が存在する事を今しがた思い出したといった様子で、アーチャーの手をそっと握り返した。

 その様子を見てアーチャーは怪訝な表情を見せる。

 自らを召喚した少女。西洋人と思われる顔立ちに金糸に似て美しいブロンドの髪、身に纏うは漆黒の修道服。

 見かけはまだまとも(・・・)だが、どうも違和感を感じる。

 

「マスター、名前は?」

 

「アナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナです」

 

「そうか」

 

 ……最低限度、必要な事柄のみを伝える返答だ。

 アーチャーは己がマスターに対して好奇心とも警戒ともつかぬ感情を抱きながら、探るように会話を続行する。

 

「──どうして俺を呼んだ?」

 

「私に下賜された触媒が、かつて貴方が用いたという猟銃だったからです。貴方の隠密性が任務遂行に役立つと判断されたのでしょう」

 

「その任務遂行とは何だ? どうもお前は魔術師じゃないな。その服装から察するに教会の人間か」

 

「はい。遅れましたが私は第八秘蹟会所属の代行者であり、今回の聖杯奪取任務を担っています。詳細は後ほど」

 

(これは驚きだな。かの有名な教会のエクスキューター、神の代行者がマスターとは。この違和感もそのせいか?)

 

 生前から奇跡や魔術についてある程度の知識を有していた彼は、その名前に聞き覚えがあった。最も実際に会って言葉を交わしたりした経験はなく、あくまで想像するしか出来なかったのだが。

 

「お前の出自、目的はよく分かった。次は……お前自身の話でもしようか」

 

 誰もいないトンネルの床にどかりと座り込んで、アーチャーは召喚陣の側に置いてあった古い猟銃を手繰り寄せた。

 懐かしい木と火薬の薫りが入り混じった匂い、銃身や木目についた細かな傷。どれもが自らの記憶と合致していて、確かにこれは自身がかつて狩りに用いたものだと確信する。

 

「私についての会話? 必要ありません。貴方が把握すべき事柄は現在の戦況と私からの指示、それのみです」

 

「────やはりお前、どこかおかしいな」

 

 アーチャーは不満げに鼻を鳴らす。

 この少女にはどうも何かが欠落している。

 その"何か"がなんなのかはある程度察しがついたが、アーチャーは鷹の目を鋭くしてアナスタシアに再度話しかけた。

 

「いいから話してみろ。お前は過去に何があって、いまこうして神の代行者とやらを務めている?」

 

「…………それは」

 

 やや口ごもるような素振りを見せたが、アナスタシアは素直に自分の身の上を話し始めた。

 代行者になる道を歩む前は、田舎のありふれた教会の一人娘として生きていたということ。

 そして数年前、いわゆる"魔"などと呼ばれる者らに家族を皆殺しにされ、保管されていた聖典と融合して一人生き延びたこと。

 

「…………語る必要があったとは思えませんが。そののち私は魔の撃滅を命題とする代行者となり、今に至るのです」

 

「ふむ」

 

 手で弄んでいた猟銃を置き、アーチャーは彼女が無意識のうちに握りしめている、首から下げられた小さな十字架を眺めた。

 

(おおかた何もかも失って、復讐に頼るしか無くなったのか。言うなれば心を閉ざした復讐鬼。……そういう奴は、俺も沢山見てきた。戦争の中で敵への憎しみしか持てなくなった奴はごまんといる)

 

 アーチャーは過去の戦争で散っていった者らの姿を思い返す。

 銃声と悲鳴と吹雪の音しか聞こえないようなあの戦場は、そうした連中の恨みで埋め尽くされていた。

 自分はどこかドライで、ただ命じられた事を遂行することに徹しきっていたから、そうした黒い感情に囚われることは無かったが──、

 

(大の大人でも容易く心を喪う。人の心は脆いもんだ。それが、まだまだ何も知らない子供だったってんなら尚更か)

 

 北方の厳寒に震えながら、理不尽に全てを奪われたことへの怒りと憎しみに縋ることしか、幼い少女にはできなかった。

 だから、きっと──その時点で、アナスタシアという人間の心は凍結されたのだ。

 心は冷めきり、感動も喜びも感じない。

 深くに刻まれた傷跡は、アナスタシアの心にそんな暖かさ(よぶん)を許そうとしない。だから、「握手」という、初歩的な友好を示す行為にさえ戸惑いを見せた。

 

「チッ……」

 

 アーチャーは忌々しげに舌打ちする。

 彼は知っている。そうした人間を山ほど見てきた。

 そして──そのどれもを、彼は救えなかった。

 アナスタシアという少女が置かれた境遇が腹立たしいのか。それとも、そう知りながら何も言葉をかける事ができない自分が腹立たしいのか。

 

 ……それが、この二人の出会いだった。

 

 そして、しばらく時間は流れて。

 アーチャーは今日もビルの屋上に陣取ったまま、己のマスターと念話を交わしていた。

 

「──再度確認を取るが。奴らとは共闘はしないがハッキリした敵対もしない、ってことでいいんだな?」

 

『ええ。彼らとの関係は一時的な停戦と、せいぜい情報共有をするくらいに抑えます。目下最大の敵が仙天島の魔術師なのは確かですが、こちらは私達が思うように動く。その方が貴方もやり易いでしょう』

 

「無論だ。深入りしても最終的には敵同士になることを考えれば、確かに妥当な結論だな」

 

 昨晩、キャスターとそのマスターから聞かされたのは、今の大塚市で何が起きているか、という事だった。

 深くは割愛するが──仙天島に潜む魔術師は大聖杯に何らかの細工をしたのか、サーヴァントを推定七騎従えているらしい。ルールを根底から覆す過剰戦力を前に、彼らは共闘を申し出たのだ。

 

"……確かに、その言葉には信憑性がある。私たちがこのまま争っていては各個撃破を招くだけでしょうから、貴方たちとの停戦は必要ですね。そこのサーヴァントに過去を勝手に覗かれた事は不本意ですが、貴方たちの提案を呑むとしましょう"

 

 そう言って、アナスタシアは彼らの提案に応じた。

 そして一晩が経過し今に至る、という訳だ。

 

「まあ、狙撃手の距離を取っておきながらあのキャスターとガキに遅れを取ったことは不本意だが……」

 

『意外と気にするんですね、貴方は。少し意外です』

 

「当たり前だろうが。結果的に良い方向に転んだとはいえ、あの条件で勝利できないようでは「白い死神」の名がすたる」

 

 憂さ晴らしに煙草に火をつけながら、アーチャーは己の油断と慢心を反省する。令呪で正確に瞬間移動を果たした騎兵はどうしようもなかったとはいえ、あのキャスターは倒せる相手だった。

 

『あれは共に戦った私のミスでもあります。それに貴方にはまだライダーにつけられた傷が残っていますから、本調子ではありません』

 

「慰めどうも。次はキチンと仕事を果たすさ」

 

 目を細めて、アーチャーはふと己のマスターと出会った日のことを思い出した。心まで凍て付いた、あの少女と初めて言葉を交わした日のことを。

 

「なあ。マスター、俺を呼んだ日の事を覚えているか」

 

『あ、すみません、今お店の方が忙しく……もう一度お願いします』

 

「……フ。いや、なんでもないさ」

 

 アーチャーは口元に微笑を浮かべて、空に消えていく紫煙を眺めた。

 ……アナスタシアは、この短期間で急激に変わりつつある。

 その理由は決まっている。アナスタシアが下宿している喫茶店の店主の存在、ただ一つだ。

 

「随分と感情豊かになったもんだ。独りになって以来、ほとんどの時間を教会の管理下で過ごしたと言うし、そういう機会が無かったんだろうが」

 

 ──全て失った日から、彼女に安息は訪れなかった。

 最初はありふれた孤児院に引き取られるも、すぐにアナスタシアは教会の者らに引き渡された。

 なんせ詳細不明ながら強い退魔の力を宿した少女など、格好の研究材料だ。

 アナスタシアは結局最後まで自分と融合した聖典のことを話さなかったらしいが、彼女は多感な時期にずっと独り、暗い牢獄のような部屋に閉じ込められるしかなかった。

 かつて家族と築いた暖かい思い出も、思い出せば辛いだけ。

 だから蓋をした。心の深い深いところに沈めて、二度と浮かび上がらないように努めてきた。

 ──だが。長い時を経て、任務を遂行する過程でとはいえ、彼女はついに安寧というものに触れた。

 店内に満ちる平穏。店主の優しさと誠実さ。そういったものがアナスタシアの心に絡みついて、閉じた蓋をこじ開けたらしい。

 つまるところ、今のアナスタシアは、心を喪う前の彼女に着々と戻りつつあるのだ。

 

(ああ、お前はそっちの方がずっといい。叶うならばずっと、そのような心を抱え続けて欲しいものだ)

 

 言葉にはせずとも、彼は高潔なサーヴァントだ。

 自己の幸福よりも、正しき主人の幸福を願っている。

 

「ああ──俺があの男のような善人なら、或いは」

 

 かつての戦場で復讐鬼に堕ちた者らを、もとの道に引き戻せたのだろうか。

 殺し殺される連鎖を、どこかで止める事が出来たのだろうか。

 自ら撃ち殺した者らに対する罪悪感を無視して、言われたことをやるだけの機械になろうとした。そうした連中から「止めても無駄だ」と目を逸らして、自分の役割に没頭した。

 そんな真逆な自分では、無理な話か──。

 

「ふん、今更考えても意味が無いか」

 

 煙草の吸殻を床に押し付けて、アーチャーは二本目の煙草に火をつけた。

 

 

 

 

『アサシン。今日の夜、志原と一緒にバーサーカーのマスターに接触する。万が一の場合は君とキャスターにバーサーカーと戦ってもらう事になるけど、異論は?』

 

 赤毛の少年が自らのサーヴァントと思しき少女に確認を取る姿を、一対の小さな瞳が高みから見つめていた。

 壁面に取り付けられたパイプにぶら下がったコウモリ──の形をとる使い魔は彼らの会話内容をしかと記録し、主たる魔術師の元へと送信する。

 

「────……成る程」

 

 薄暗い部屋の中、一人の男の姿があった。

 西洋人特有の彫りの深い顔立ち。顎には立派な髭を蓄えているものの、顔には若々しい生気が溢れている。二十代後半といった容姿であった。子供でも高級と分かるような灰色のスーツをピシリと着こなし、如何にも貴族然とした風格を漂わせている。

 修道服だったり忍者だったりと、変な連中が揃っている今回の聖杯戦争における参加者の中で言えば、もっとも魔術師らしい(・・・)格好をしている、と言えなくもないだろう。

 

(色々と不可解があったがこれで繋がった。クラスの重複、禁忌とされる多重召喚。第五次の際にもキャスターが英霊を召喚したらしいが、今回のそれ(・・)は比較にもならん)

 

 ──男の名は、マリウス・ディミトリアス。

 時計塔の鉱石科に属する名門生まれの魔術師にして、バーサーカーを使役するマスターの一人である。

 

「既存のルールが覆され始めたか。元より監督も何も無い野蛮な殺し合い、ルールなどあって無いようなものだったが」

 

 志原楓と繭村倫太郎の会話を盗聴し、現在の聖杯戦争が如何に定石を逸脱し始めているかを理解しつつも、マリウスはさしたる驚嘆や困惑を見せなかった。

 彼は聡い。情けや感情に流されて冷静さを失うような者では魔術師は務まらぬと、幼い頃から自らを律しているからだ。

 そのストイックな生き様の成果か、君主の地位に就くまでには至らずとも、未だ三十半ばにしてマリウスはかなりの成果を残している。確実な研究実績、優れた後継者、資金確保も抜かりなく、まさに秀才という言葉が相応しい男だった。

 

「そしてキャスター陣営とアサシン陣営は結託し、共闘を試みている、と……確か第四次の際にそうした指令が出された前例が有ったが、それに近い形になるな」

 

 もっとも、「令呪の獲得」といった分かりやすい報酬も正規の指令もない、曖昧模糊な共闘だが。

 とはいえ志原の魔術師の言葉から察するに、再契約を果たしたセイバーもそんな共闘関係に加わっているらしい。

 残る三騎士の弓兵、槍兵がどう動くかも気にはなるが、やはり最重要はバーサーカーを使役する自分がどう動くか、という事であろう。

 

「さて。この流れに乗るべきか否か──」

 

 男はより一層眼光を険しくし、壁際へと歩み寄った。

 一面ガラス張りとなったそこからは、ビルの最上階ということもあいまって狭い大塚市が一望できる。青く澄んだ湖面に霞む仙天島を一度だけ視界に入れてから、男は口の端を吊り上げた。

 

「愚問だな。他の誰でもない、聖杯は私が奪う。誉れ高きディミトリアスの末裔として、他者の力を借りずとも──私が勝利を収めてみせるさ」

 

 呟いて、視線を肩越しに向ける。

 

「最強を誇る貴様とならば、聖杯に至ることも不可能ではない。暴れてもらうぞ、バーサーカー」

 

 いつの間にか背後に控えていた狂戦士は返答を返さず、凍てついたような眼光を主に向けるだけだった。

 高ランクの「狂化」による影響か、彼の引き締まった筋肉に覆われた肢体はそのままだが、その肌は血に濡れたように赤黒く変色している。それを上から守護する鎧は煌びやかな黄金色に輝き、傷痕ひとつ残さぬ堅牢さを誇示していた。

 手には一振りの長剣が握られ、不気味な黒靄が生物のように蠢いている。

 

「今まで逃げに隠れてを繰り返されてきたが、今回は別だ。あの連中は夜、向こうからこの場所を訪れるだろう──貴様にはこの英霊二騎を殲滅してもらう」

 

 このサーヴァントが言葉を解するのかは未だもって謎なところが多かったが、マリウスは律儀にバーサーカーに状況を語る。

 彼には確信があった。

 この英霊は万夫不当、一騎当千と謳われる英霊の中でも文句無しの"最上位"クラスに位置する男だ。

 英霊が二騎程度(・・)では相手にすらならないと、マリウスはよく理解している。「最優」のクラスと称され、神代の英霊であると同時に同じくトップサーヴァントに名を連ねるであろうあのセイバーを小細工なしに撃破した事からも、その強さは実証済みだった。

 

「存分に暴れろ、魔力ならば問題ない。そこの(・・・)と私の魔力量であれば、十分に供給には足る」

 

 マリウスは視線をバーサーカーから外し、部屋の端で三角座りをしている小さな少女に目線を向けた。

 目が紅く、雪のように白く透き通った肌。

 背丈は短く、十歳かそこらの年齢のように見える。だが実際は更に短く、せいぜい生後三年かそこらといったところであろう。

 

「…………っ」

 

 彼女はマリウスの視線を嫌うようにトコトコと床を走ると、大きなバーサーカーの陰に体を引っ込めた。

 この少女をある者が見れば、こう思っただろう。

 第五次聖杯戦争にて狂戦士を引き連れていたマスター、アインツベルンの最高傑作たる少女に似ている……と。

 

「──……また、戦うの?」

 

 太いバーサーカーの脚から片目だけ覗かせて、小さな少女は小声で尋ねる。

 

「ああ。聖杯戦争という儀式に参加した以上、戦いは避けられない」

 

 さも当然とばかりに、彼は返答した。

 毅然とした声色は空気を震わせ、マリウスの覚悟を彼女に示す。

 

「だが、それをおまえが気に病む必要はない。戦いを担うのは私とバーサーカーだ。それが嫌だと言うのならば、お前はここで待っていろ」

 

「………………気をつけてね」

 

 幼い少女はそれだけ口にして、再びバーサーカーの陰に隠れてしまった。

 勝手に視線避けの障害物にされているバーサーカーはと言えば、特に何かを話す様子もない。彼女もまた主人であると認めているからか、まるで石像のように微動だにしなかった。

 

「陶芸品などと揶揄される割には可愛げのない。それでも構わんが」

 

 若干不満げな言葉を漏らしてから、マリウスは踵を返す。

 その背中を──白い少女は、もう一度顔を覗かせて見守っていた。



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五十六話 お夕飯と楓の涙/Other side

「……………………」

 

 倫太郎は曖昧な表示で沈黙したまま、敷いた座布団の上で正座していた。

 その隣にはアサシンが足を崩して座っており、倫太郎が貸し与えたパソコンでなにやら調べている。どうせ大した事を調べているわけではないと思うが。

 

「〜〜♫ 〜〜〜〜♫」

 

 若干ズレた音程で鼻歌を歌いながら、楓はキッチンに立っている。

 動くのに都合のいい深夜帯まで時間があったため、倫太郎は大塚市の中心区から一度家に戻ることにした。それだけならばいいのだが、何故か楓とキャスターも一緒について来たのである。

 それから紆余曲折を経て、倫太郎の家で楓が料理を作るという謎の状況にもつれ込んでいるわけだ。一体どうしてこうなっているのか、正直倫太郎にもよく分かっていない。

 

「……僕も何か手伝おうか?」

 

 楓とはいえ客に料理をさせるというのは申し訳ないので、倫太郎はおずおずと提言してみる。

 

「いや、いいわよ別に。もうちょっとでできるし、そこで待ってて」

 

 すとーん、と大丈夫だと告げられて、倫太郎はすごすごと姿勢を戻す。

 

「……アサシン。なんで志原は急に料理しだしたんだろう?」

 

「わかんない」

 

 ちょっと前まで敵対し、時に殴られ、時に手榴弾を投げつけてきた彼女が、こうして警戒を解いて料理をしているというのはまったくもって奇怪な状況である。

 まあ──それはともかく。邪魔にならないよう髪をポニーテールに纏め、見慣れないエプロン姿になった楓の姿は、そこそこ長い付き合いながらも倫太郎の目に新鮮に映った。

 

「………………ハッ⁉︎」

 

 思わずぼーっとして彼女の後ろ姿を眺めていると、隣から冷たい視線が突き刺さってくることに気づく。

 倫太郎は慌てて「なんでもありませんよ僕は」と言わんばかりに咳き込んだのち、窓から見える中庭に視線を移した。そうでもしないとアサシンの目線は延々と刺さり続ける気がしたからだ。

 

「はい、できたわよー」

 

 と、タイミングよく楓が料理の乗ったお盆を持ってきて、倫太郎とアサシンの前に置いた。

 

「楓ちゃ〜ん、僕のは?」

 

「ちゃんとあるから安心して。ほら、これ倫太郎のぶん。こっちが貴方のぶん」

 

 いい匂いに釣られたのか、見張りを務めていたキャスターが姿を現わす。ここ最近カップ麺しか口にしていないアサシンもにわかに顔を輝かせて、不慣れながらも箸を持った。

 そんなこんなで、どうも落ち着かない食事が始まった。

 炊いたばかりの白米を口にして、倫太郎は軽く頰を緩ませる。ここ最近インスタント製品しか食べていない生活だったし、久々のまともな食事はありがたい。

 

「……志原、わざわざ作ってくれてありがと。でもなんで僕の家で料理を?」

 

「馬鹿ねえ、そんなの作りたいから作ったんじゃない。どうせアンタ、家の人がいなかったら全部冷凍食品とかカップ麺で済ましてたんでしょ? そんなの身体壊すわよ」

 

「む……まあお察しの通りではあるんだけど」

 

 思わず黙り込んでしまうくらいには、楓が作った夕食は美味しかった。ご飯に汁物、ほうれん草のおひたしに焼き鮭という、何の変哲もない夕食ではあるが、味付けや焼き方に細かい工夫や気遣いが見られる。

 「家庭的な料理」という観点からすれば文句の付け所のない夕食と言えた。何度か楓の弁当を食べた経験がある倫太郎だったが、改めて彼女の料理スキルは高いと実感させられる。というか、この二年でさらに腕を上げたのではないだろうか。

 

「……うまいな、やっぱり」

 

「…………ふ、フン。当たり前よそんなの。小さい時から、 基本うちのご飯は私が預かってるんだからね。分かり切ってることを言う必要はないわ」

 

「またまたぁ、素直じゃないなぁ楓ちゃんは。賞賛は素直に受け取るが吉やで。他の友達と話してるときはそうでもないやろうに、倫太郎クンには必要以上に刺々しくするんやから」

 

「そ、そんなことは……あるかもしれないけど。けどいいもん、私がどう振る舞おうと被害に遭うのはコイツだし」

 

「な、なんだよそれ⁉︎ 全く、君は昔からそうだな……‼︎ 君が何かやらかすたびに基本的に僕が後処理に回されるんだ‼︎ 未だに僕は覚えてるんだぞ、貴重な霊薬のサンプルを君が間違えて粉砕した事とか試験体を逃しちゃって街中探し回った事とかその他諸々とか‼︎」

 

「そそ、それは謝ったし私だって手伝ったでしょ⁉︎ しかも粉砕したって事件の原因は、もともと霊薬を間違えて飲んで酔っ払ったアンタが私を押し倒してきたからであって」

 

「僕が五番の霊薬を持ってくるよう頼んだのに八番を持ってきたのは君だった筈だ‼︎ 元はといえばそっちが悪いじゃないか‼︎」

 

「そもそもあの時は瓶に貼られてたラベルが──‼︎」

 

「あれはたしかに掠れてたけどでも見えないほどじゃ──‼︎」

 

 両者、椅子から腰を浮かせて睨み合う。このまま放っておくと過去のいざこざを全て引っ張り出してどっちが悪いか議論にもつれ込みそうだったので、

 

「ごはん……冷めちゃう、よ?」

 

 アサシンは口元をモグモグさせながら呟き、やんわりとヒートアップしていく口論に割って入った。

 生来のんびりした感じの彼女が口を挟むと、場の雰囲気が急に弛緩する。

 

「ふ、フン。もういい」

 

「僕だってもういい」

 

 会話を打ち切るように楓がお味噌汁に口をつけたので、倫太郎も合わせて夕食を堪能することにした。なんとなく喧嘩してるムードは残っていたが、昔からそういったささいな衝突は日常茶飯事なので、一時間もすればケロッとどちらからともなく戻っているだろう。

 正念場は今日の深夜。

 それまでゆっくり休んで、ここ最近の戦闘で消費した体力を取り戻そう。改めておいしい料理を用意してくれた楓に内心感謝しながら、倫太郎はそう思ったのだった。

 

 

 

 

 ──数時間後、夜。

 まだ深夜帯に入るには少し早い時間だが、既に周囲は闇に閉ざされている。光を失った空は見渡す限り曇に覆われ、今にも降ってきそうな不吉な空模様だった。

 

「……で、セイバーの様子は?」

 

 スマートフォンを手にした楓は、倫太郎家の大きな屋敷の上に座り、無意味に足をぷらぷらさせていた。

 楓は暇になったり、なにか考えたりしようとすると、おもむろに屋根の上に登る癖がある。それは兄の健斗も同様だ。煙とバカは高い所が好き、なんて言うことを楓も承知しているが、屋根の上に登ると気持ちがいいのだから仕方がない。

 もし倫太郎がそんな事を言ってきたら頭を数発はたいてやる、と思いながら、楓は兄との通話に意識を戻す。

 

『いや……あまり芳しくない、と思う。俺にはよく分からないけど、セイバーはまだほとんど動けそうにない。さっきになってやっと体を起こすことができたくらいだ』

 

「……そう、思ったより深刻なのね。セイバーの対魔力でも打ち消せないとなると相当に強力なのか、別カテゴリに属する力なのか、それとも単にセイバーと相性が悪かったのか……」

 

 考え込む楓に、端末越しに健斗は話しかける。

 

『そういや、アーチャーの野郎の真名は分かったのか?』

 

「あ、そうか、まだ言ってなかったっけ」

 

 キャスターの千里眼は、間合いに入ったモノの過去を見通す力を有している。昨晩アーチャーに接近し、そこから彼が読み取った答え(しんめい)は──、

 

「あの男の名はシモ・ヘイヘ。冬戦争っていう近代の戦争で活躍した、伝説級の狙撃手よ」

 

『狙撃手……スナイパーか‼︎ だから飛んできたのが矢じゃなくて銃弾だったんだな。飛んでくる弾を見たとき、変だと思ったんだよ。現代兵器はサーヴァントに効かないって話だったしな。まさか狙撃銃を使うなんて、そんな近代の英霊もいるのか……』

 

「なにバカな見栄張ってるのよ、音速を振り切って飛んでくる銃弾がお兄ちゃんに見える訳ないじゃない。……まあいいわ、とにかくお兄ちゃんはセイバーと一緒に安静にしておいて。バーサーカーとの接触は私達がやる」

 

『なんだか昨日あんだけボコボコにしてくれた連中と協力するってのは癪だけど、力になってくれるんなら……まあいいか』

 

 お兄ちゃんが根に持つタイプじゃなくて良かったなあと、ひそかに一安心。

 

『でも、気をつけろよ。バーサーカーの奴はこっちのセイバーですら敵わなかった強敵だ。もし戦闘になっちまったら無茶はするなよ、あとバーサーカーのマスター狙いに注意すること。セイバーはそこで油断して、前のマスターをまんまと殺された』

 

 最優の称号を誇るセイバーが敗北を喫した、という事実は、今も楓の肩に重くのしかかっている。その事実一つを取っても、これから遭遇するであろう英霊が相当な強敵であることは理解できた。

 

「忠告ありがと。じゃ、切るわよ。明日の朝にはまた連絡する」

 

『おう。セイバーはぐっすり寝ちまってるし、俺も休む。あとは任せるけど、気をつけてな』

 

 楓は通信が切れたスマートフォンを布地の隙間に差し込んで、ほぅ、とため息をついた。

 楓は既に私服を着ていない。纏っているのは、いつぞや健斗と戦った時にも着ていた志原家伝統の黒装束である。

 首から足先まで黒づくめの衣装だが、脇下と太腿のあたりには大きなスリットが入り、可動性と通気性を高めている。首元には季節外れのマフラーに似た長布が巻かれているが、これには他者に対する認識阻害の魔術が掛けられているのだ。

 深い闇の中では彼女を視認することすら難しく、たとえ可能だったとしても、顔を覚えるのは困難となるだろう。闇に溶け込んで迅速に目標を殺害する──という、志原の家が今に至るまで行ってきた汚れ仕事を為す上で、もっとも適していると言える服装だった。

 

(けど、やっぱり恥ずかしい……)

 

 楓は結構大胆にバッサリ開いている太腿のスリットを見るたびに、こうしてゲンナリするのであった。

 

(なんでこんな開いてんのよぅ……クナイ取り出すぶんには役立つけど、こう……慎み、みたいなのは無かったわけ?)

 

 屋根の上で一人煩悶とする楓。

 と、屋敷の周囲を満たす虫の音を遮るように、屋根瓦を踏みしめる足音があった。

 

「…………貴方、は」

 

 楓は驚きとともに言葉を呑み込む。そこに姿を現したのは、彼女のサーヴァントであるキャスターでもなく、既知の魔術師である倫太郎でもなく、彼のサーヴァント……アサシンだったからだ。

 

「わ……私に何の用?」

 

「君……に、聞きたいことが、ある」

 

 包帯越しの目に見つめられ、楓は少し全身を硬ばらせる。

 空気が震えている気がした。目の前の英霊から放たれる殺気じみた緊張感が、屋根の上に充満していくのがありありと分かる。

 少なくとも、世間話をするような様子ではない。

 楓はそれだけ理解すると、無意識のうちにごくりと唾を飲み込んだ。

 

「聞きたい──こと?」

 

「うん」

 

 知らず知らずのうちに毛を逆立てて警戒する猫のようになっている楓に対し、アサシンは無言のままに近付いて──、

 

「君……わたしのマスターのこと、好きでしょ」

 

 そんな、爆弾じみた一言をブン投げてきた。

 立ち上がりかけていた足が思わず屋根の上を滑り、瓦の上を何度か転がって落ちる寸前で停止。しばらくわなわなと体を震わせたあと、楓は勢いよく真っ赤な顔を上げて、

 

「ば、ばっ、バカなこと言わないでよ‼︎‼︎」

 

 ……と、アサシンに向かって声を張り上げた。

 

「うそ。わたし、分かるもん」

 

「う、嘘じゃないし‼︎ いい⁉︎ 私は倫太郎なんて、あんな奴なんて、だいだい大嫌いなんだからね‼︎ そんな馬鹿な事言わないで‼︎」

 

「たしかに……君の言動は……マスターに対してだけ、やけにきびしい」

 

「じゃあ……‼︎」

 

「でもね。わたし……ねっと、で見たよ。そういうのは、"ツンデレ"って……言うの。ぶっちゃけ、それ、もう古いと思うから……やめといたほうがいい」

 

「つつ、つんっ……‼︎⁉︎」

 

 あんまりな物言いに思わず何も言えなくなり、楓は顔を真っ赤にしたり青くしたりを繰り返す。

 

「どうして……そこまで、躍起になって……自分を……自分の気持ちを、否定しようと、するの?」

 

「わ、私はっ……‼︎ 私は、自分を……否定してなんか……」

 

「してるよ、君は」

 

 アサシンの言葉に、楓は強く言い返すことができなかった。

 まるで言葉が短刀となって、自分の心に突き刺さるよう。

 彼女の言葉は、のんびりとした口調で語られながら、しかしどうしようもなく核心を突いてくる。逃げたりはぐらかしたりするのを許さない、直球どストレートな言葉の奔流。

 

「それで、いいの?」

 

「………………っ」

 

 言葉に詰まって、楓は視線を弱々しくアサシンから逸らす。

 ……それで良いのか、とアサシンは聞いた。

 そんなの良いわけがない。自分の気持ちに蓋をして、その蓋が外れないようにわざと変に振る舞うのが、楽しいわけがない。

 楓は目尻に涙を溜めながら、アサシンを睨みつける。

 

「アンタに……たかが倫太郎に召喚されただけのアサシンに、私の何が分かるのよ‼︎ 私の気持ちも知らないで、ふざけた事を言わないで‼︎」

 

「君の気持ちは……理解してる、つもりだよ」

 

 楓は無言を保ったまま、アサシンの言葉の続きを待つ。

 

「君は……ただ、怖いだけ(・・・・)。二年前に、マスターは……君との関係の全てを、焼却しようとした。君はそれで、深く傷ついた。あんな風に……また、全部失うのが怖い。だから自分の気持ちを……かたくなに、認めようとしない」

 

 その言葉は正しい。まるで心を抜き取られて全部丸見えにされたのではないかと思わずにはいられないほど、その言葉は正しかった。

 自分の弱さや情けなさを全部言葉にして指摘されて、楓は唇を噛むことしかできない。

 

「……………………そうよ、その通りよ」

 

 長い沈黙を経て、楓は爪が食い込むくらい硬く拳を握り締めた。

 

「けどね、アンタに分かるの⁉︎ 好きだった人に、「二度と関わるな」なんて言われる気持ちが……‼︎ 他の連中にのけものにされて、差別されるくらいならいい、でも、よりによってアイツにまで拒絶された私の気持ちが‼︎」

 

「…………………」

 

「二年前になんでアイツがあんな事をしたのかは分からない。もしかしたらやむを得ない事情があったのかも、なんて今では思ってる。でもね、それでも、もしそうだったとしても……‼︎ 一度失ってしまったら、「また失うんじゃないか」っていう恐怖は消えてくれないのよ‼︎ そんなの、もう、どうしようもないじゃない……‼︎」

 

 信じたい。信じたいけれど、もう既に、楓は一度裏切られたのだ。倫太郎がその手で楓との記録と思い出の全てを焼却するという、最悪の形でもって。

 そんな相手をどうして心の底から信用できよう。かつての日のように心の底から親しく話しかけることが、どうしてできようか。

 楓は流れ落ちそうな涙を堪えながら、血反吐を吐くように叫び続けた。

 それをアサシンは受け止めて、更に一歩を踏み出しながら言葉を返す。

 

「そうだね。それは、どうしようもない。その心の傷を作ったマスターが悪いってことは、確かだと……私も思う」

 

 それは当然の悲しみであり、嘆きだった。

 だからアサシンは否定しない。彼女の苦しみは当然のことであり、そこに生まれる葛藤もまた当然だった。

 

「でも──……わたしは、きっと、諦めない」

 

 それを知った上でなお、アサシンはそう断言する。

 楓はその言葉の意味が理解できずに、首を傾げた。

 諦めない、と言われても、何を諦めないというのか。

 

「うん。そうだね、わたしがもし、「二度と関わるな」なんてマスターに言われたら……たぶん、おもいきり、ぶっとばすよ」

 

「……は、はい?」

 

「そんなこと言うなんて、女の子に、失礼……だもん、ね?」

 

「い、いや、そうだけど」

 

 たしかに言われてみれば失礼だが──そんな事を感じる以前に、あの時の楓は絶望に打ちひしがれていた。

 この少年もまた他の魔術師と同じように、自分を見ようとしない。

 魔術の世界に於いて、誰も、自分を理解してくれる者はいない。

 そうした事実に叩きのめされて、二年前の楓は何もできなかった。

 

「そんでもって、それから……わたしは、マスターに、聞く。なんでそんな事を言ったのか、そんなこと、しなきゃいけなかったのかを」

 

「それは、アイツは本来わたしと関わっちゃいけない魔術師で……‼︎ それで、正式な後継者になるからって……‼︎」

 

それだけ(・・・・)? 君は……疑問に思わなかったの? 本当に、彼が……それだけの理由で君を突き放すような人間なのか、って」

 

 疑問に思わなかったのか、という言葉を聞いて、楓は二年前の自分を脳内で反芻する。

 確かに妙ではあった。倫太郎の言葉通り、「正式な当主になることが決定したから、これ以上楓の師匠として魔術を教えることはできない」のならば、理解できる。

 だが、なにも工房をぶった斬って、全てを燃やし尽くす必要はなかった筈だ。

 その旨を伝えるだけにとどめておけば、あのような最悪の決別を迎えることもなく、また楓を冷たく突き放す必要もなかった。

 じゃあ、なんで──倫太郎は、あんな事をしたのだろうか。

 記憶を洗いざらいにすれば、自然と疑問は湧いてくる。じゃあ何故、こうして言われるまで、その答えを突き止める気になれなかったのか──、

 

「わたしは……まだ、マスターとは短いつきあいだけど……それでも、彼の人柄は理解してる。マスターは、そんな冷徹になれるような人間じゃ……ないと思う。もっとつきあいの長い君なら、それくらい、分かったんじゃないかな」

 

「でも……私、は…………」

 

「断言するよ」

 

 頭を抑えて首を振る楓に、アサシンの冷徹な言葉が飛ぶ。

 

「君は……弱い。弱っちくて、そのくせ勇気もなかったから、彼を最後まで信じる事ができなかった。「所詮は彼も魔術師だったんだな」って勝手に納得して、一人で打ちひしがれて、泣くことしかしなかった。みっともなくても、最後の最後まで、足掻こうとしなかった」

 

「……〜〜っ‼︎」

 

 図星だった。無意識のうちに避けてきた自分の弱みを、アサシンの言葉という刃でくり抜かれて、晒し者にされた気分だった。

 反射的に激昂した楓は勢いよく太腿に挟んだクナイを引っ掴むと、アサシンの首筋に向かって振り抜く。

 しかし相手はサーヴァント。目視すら難しい速度で抜かれたアサシンの短刀は、震える楓の刃を受け止めて、簡単に弾き飛ばした。

 そのままアサシンの身体がぐるりと回転し、楓の胸に痛烈な掌打を叩き込む。悲鳴をあげる間もなく薙ぎ倒された楓が起き上がろうとすると、その喉元数センチ先に、鋭い刃が突きつけられていた。

 

「…………しかた、ない、じゃない」

 

 カラカラ、と無機質な音を立てて、クナイが屋根の上を滑っていく。

 自分を屋根の上に押し倒して刃を突きつけるアサシンを睨みつけて、楓はなりふり構わず声を張り上げた。

 

「私はずっと弱くて、負け組で、落ちこぼれで……‼︎ そんな私が自信なんて、勇気なんて持てっこないじゃない‼︎‼︎」

 

 魔術師として生きる中で、彼女の生涯は挫折と苦悩と自己嫌悪、そういったもので埋められていた。

 どこまで努力してもほとんど結果は出ない。

 たとえ結果が出たところで、それを認める者はいない。

 それどころか、その存在そのものを否定され、侮辱される。

 そんな人生を送ってきた楓の中に、自信なんてものは一分たりとも無く。代わりにあるのは、折れそうになる心を必死に支える反骨心と、周囲に押し潰されまいとするか弱い自尊心だけだった。

 

「けどね──自信や勇気が持てないのは、なにも、君みたいな人だけじゃ……ないよ。マスターだって、勇気が欲しいと、いつも悩んでる」

 

「え……アイツが……? あの、才能の塊みたいな奴が?」

 

「そう。私が言いたいことは──人は成長できる、ってこと」

 

 アサシンは屋根の上から母屋を見下ろして、今は久しぶりの仮眠を堪能しているであろう倫太郎に想いを馳せる。

 

「マスターはしっかり、自分の道を見極め始めたようだけど……君はまだまだ、未熟だね。前に失敗したのなら……今度はきちんと、その失敗を糧にするべきだと思う。それが、成長のひけつ、だよ?」

 

 楓は言葉を失ったまま、アサシンの言葉を聞いていた。

 倫太郎も自分と同じ悩みを抱え、苦しんでいるというのも驚きだったが、彼女の言葉は何より、失うことを臆する楓にどうすべきかを示してくれた。

 

「君にはまだ、やれることが残っている。──それでもまだ動かないような臆病者なら……君に、マスターはあげないからね」

 

 アサシンはそう言い残すと、屋根の上から姿を消した。

 湿った風が吹き抜けていく。もうじき雨が降るのだろう。

 屋根の上で大の字になって呆然としたまま、楓は曇天の空を眺める。

 

『君にまだ、やれることが残っている』

 

 アサシンが残していった言葉を何度も何度も反芻する。

 これからどうして、どう向き合えばいいのか。

  それはきっと勇気を少し振り絞るだけで、簡単に見つけ出せるのだろう。

 

「どれほど難しいかも知らないで、あいつ」

 

 きゅっと口を引き締めて、楓はぽつりと呟いたのだった。

 

 

 

 

「随分と人間観察がお得意みたいやなぁ、アサシン」

 

 廊下を足音を消して歩くアサシンの前に、霊体化を解いてキャスターが姿を現した。壁にもたれたまま扇子を顎に当て、妖しげな目を細めてアサシンを見つめている。

 

「別に。視覚をある程度制限してると……逆に、人の隠してる部分とか……そういうのに、敏感になるだけ」

 

「成る程ねえ。そりゃ確かにそういうモンや。ま、楓ちゃんにとってもタメになるお話だったもんで、口は挟まんかったけど……」

 

 直後、キャスターの扇子がぴしりとアサシンの額に向けられる。

 ほぼ同時に魔力が唸りを上げ、瞬きの間に彼は戦闘態勢をとった。

 

「──二度と彼女に刃を向けンなよ、アサシン。次は僕が許さんぞ」

 

 眼光を鋭く研ぎ澄ましながら、キャスターは吐き捨てるように忠告する。

 

「自分の主を、傷付けられるのは……嫌い?」

 

「当たり前やろがド阿呆。僕が主に仕える英霊の身である以上、彼女の安全は全てにおいて優先されるってモンや。……ま、楓ちゃんやからこそやる気が出てるっちゅうのは否定せんけどね」

 

 サーヴァント同士が対峙する硬い空気を霧散させるように、キャスターは自分から魔力の放出を中断した。短刀に手が伸びかけていたアサシンは、それをもって力を抜く。

 

「とにかく、喧嘩してる余裕があるような状況じゃあない。忠告だけに収めといたる」

 

「……どうも、ありがと」

 

 二つの影は闇に溶けるように消えていく。刻限まではあと少し、彼らは各々の時間を過ごしたまま、動き出す時を待ち続けた。



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五十七話 憤怒の英雄/Other side

 ──幼い頃、愛しき両親に誓いを立てた。

 

 己は英雄になり、その生涯を駆け抜けると。

 自らが、両親が、人々が思い描く「英雄」。その全ての理想を体現する、完全な英雄にならんと、彼は果てしなき努力と戦いを重ねていった。

 そして立派な戦士として成長した彼は、戦場に於いてめざましい活躍を見せ、着々と名声を集めていく。別段人々からの賞賛が欲しいわけではなかったが、自らが理想へと近づいている事は、彼に確かな歓喜をもたらした。

 英雄として振る舞い、戦い、勝利する。

 誰もが一度は夢見て、その半ばで諦めるか死に絶える理想。それを彼は、しかしその圧倒的なる武勇でもって叶え続けた。

 彼は誰が見ても文句の付け所がない、まさに「英雄」と称されるに相応しい戦士だった。

 

 ──その戦争が、始まるまでは。

 

 ……彼には、唯一無二とも言える友がいた。

 父の王宮に身を寄せたその男は、英雄を目指す彼の良き理解者であり、かけがえのない友であった。彼らの絆は海よりも深く、決して崩れぬ確かな友情がそこにはあった。

 戦場に生きる事を命題とする彼にとっても、決して欠くことはできぬと思える程の深い友情。だが彼らの絆は、思いもよらぬ形で終焉を迎える事となる。

 

 ──◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎が、敵に討たれた。

 

 友の戦死を告げるその言葉を受け、彼は驚嘆と深い絶望を同時に味わった。

 彼は何も考えられないような落胆の中で、それでも英雄として行動せんと立ち上がった。

 何をするのかなど決まっている。

 英雄として、そして一人の友として。友に死をもたらした者への復讐を果たすのみだ。

 彼は勢い勇んで槍を掴み、ろくに休息もとらずに戦場へと駆けつけた。友を討ったという敵の総大将に戦いを挑み、これを打ち倒して亡き友へ捧ぐ。そう考えた彼が戦場で見たものは、予想を遥かに裏切るものであった。

 敵の総大将は、見覚えのある鎧を纏っていたのだ。

 一目で彼は理解した。それはかつて戦場に赴く友に彼が預けた自らの鎧である、と。

 沸騰し始めた脳で、彼はその事実を把握する。

 つまり。あの男は自らの友を討っただけでなく、その死体から鎧を剥ぎ、友の戦士としての誇りを踏みにじり、あまつさえその鎧を自らのものとして周囲に誇示していたのである。

 それは全てその男の計らいであり、彼を挑発するための行為であった。だがそんな事に気付く余裕もなく、彼は男の目論見通りに激昂した。

 

 ──貴様は許さぬ。殺してやる。

 

 彼は激情に駆られながら並み居る雑兵を蹴散らして、その男に一騎討ちを申し出た。

 戦士としての誇りをかけて、正々堂々と打ち倒してくれると考えたのだ。

 が、あろう事か、その男は彼の挑戦にまともに応じなかった。ひたすら逃げ回りながら隙を突いて攻撃し、また逃げ回る。守勢に於いて圧倒的な技術を有していたその男は、冷静さを欠いた彼を、実力差をものともせずに引きつけ続けたのだ。

 

 ──殺す。殺す。殺す。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す‼︎

 

 彼の中で憎悪が膨れ上がっていく。

 もはや英雄として振る舞う事は捨てた。

 誇りも矜持も怒りの前に掻き消えた。

 友の誇りを汚し、自らの誇りをも無視するその男への復讐に取り憑かれ、かつての英雄は一人の復讐者へと堕ちたのだ。

 ……そうして長い戦いを経て、彼はその男を打ち倒した。

 殺しただけでは飽き足らず、彼の剣を奪い、鎧を取り戻したのちに戦車に死体を括り付け、その男が原型を留めなくなるまで引き摺り回した。

 「英雄」と称された彼が生前に犯した、最も理想からかけ離れた行為である。

 そしてこの時の逸話から、彼は「狂戦士」として召喚される資格を有する。かつての敵の剣を握り締め、今なお死した"あの男"の姿を探し求めるバーサーカー。

 故に。彼は今も、その名を狂気と共に叫ぶのだ。

 トロイアの知将にして総大将であり、最後まで国に殉じたもう一人の英雄──"輝く兜"と称えられた男の名を。

 

 

 

 

「さてと」

 

 ビルの上を吹き抜けていく強風が、楓のマフラーを揺らしている。

 楓と倫太郎は大塚市中心に立ち並ぶ高層ビルのうちの一つから、星雲にも似た煌びやかな街並みを見下ろしていた。

 セントラルタワーに取り付けられた巨大な電光掲示板に映し出された現在時刻を見やりながら、楓は隣の倫太郎に告げる。

 

「深夜一時。行動開始時刻よ」

 

「場所の把握はどうなってる?」

 

「……大塚セントラルタワーの地下に、仙天島に比べれば小規模だけど、龍脈が流れてるの知ってるわよね?」

 

 龍脈の把握、管理はこの土地の管理者である倫太郎の役目だ。

 大塚市にもいくつか龍脈たる土地が存在するが、そのうちの一つが大塚セントラルタワーの地下である。

 

「どうもそこの近くから魔力を汲み上げて工房を構築してるっぽいんだけど、その場所がよりによって──」

 

 楓は人差し指をすう、と上げて、高層ビルのうちの一つを指差した。

 

「あそこ。地上13階建てのオフィスビルなんだけど、そこの上層階が丸ごと工房に作り変えられてるみたい。結構厄介よ」

 

 夜の闇の中、黒々とした長方形のシルエットが聳えている。

 明かりが灯っている階は無く、エントランスと思しき場所も真っ暗。

 平時ならば会社員やサラリーマンがすし詰めになって勤務している筈だが、深夜帯に突入した今、彼らは皆姿を消していた。

 しかし──魔術師が工房を構築するのはいたって普通の行為だが、よもやこんな民間人の多い場所に構築しているとは、倫太郎も楓も予想できなかった。

 

「なるほど。あんな場所を独力で突き止めるのは確かに困難だ。確かに厄介だな、あの高さは……」

 

 高所を取られていると単純に潜入が難しくなるし、13階もの階層が存在するのでは、侵入者対策の備えも山のように用意されている事だろう。第四次の際にホテルの上層階を工房にしようと企んだ魔術師がいる、といった情報を耳にしたことがあるが、それに似た形式をとっていると言えるだろうか。

 

「でも、戦いになると決まったわけじゃない。まず僕が正面玄関から堂々と入るから、キャスターと一緒に近くで待機を頼む。君たちには位置の割り出しを担当してもらったし、ここからは僕の役割だ」

 

 楓は自分の格好を見下ろして肩を落とした。できることならついて行きたかったが、一人で漫画やアニメに出てくるくノ一のコスプレをしているようなこの姿ではあまりに目立ってしまう。

 

「ちなみに、バーサーカーが問答無用で襲ってきたらどうするんや?」

 

「その時はもう後に引けない。こっちのアサシンとキャスター、二騎にはバーサーカーと戦ってもらう。その間に、可能なら僕たちがバーサーカーのマスターを追い詰める」

 

「よっしゃ。そん時は真っ当なサーヴァントらしく、狂戦士の相手を務めさせてもらおうかねえ」

 

 ざわざわ、と何かが蠢く音がする。それはキャスターが使役する式神が発する音であり、千体にも及ぶ彼らは一つの群れとなって、彼の背後で主の命令を待っていた。

 

「二人とも、相手はセイバーさえ出し抜いた英霊よ。その疾さにものを言わせて、マスターを直接狙ってくる。二人の力を疑うわけじゃないけど、決して目を離さないよう注意して」

 

「りょうかい」「おーけー」

 

 二騎のサーヴァントから心地いい了承の返事が飛ぶ。

 その言葉をもって、彼らは速やかに行動を開始した。

 

 

 

 

 その頃。

 遥か上空から街中に"糸"を垂らし、人知れず魔力を奪っていたもう一騎のキャスターが、その光景を高みから見つめていた。

 フードの奥に隠した口元を歪ませて、魔女は嗤う。

 

 

 

 

「さて、どう出てくるかな……」

 

「緊張、してる?」

 

「……正直ね。最初に会った時言ったけど、僕はもともと臆病なんだぞ。こうして敵と戦えてるのが、自分でも不思議なくらいだ」

 

「自分の弱さを……認められる時点で、君はもう強いはずだ……よ」

 

「そう言ってくれるとありがたいけどね……まだまだ一流を名乗るには足りないさ」

 

 竹刀袋に入れた木刀の感触を背で確かめながら、堂々と敵の本拠たるオフィスビルに向かって歩いていく。15階建ての建物はそれどけで見上げるような威圧感があったが、負けじと倫太郎は視線を外さない。

 

「……妙じゃないか?」

 

「なにが?」

 

「人が少な過ぎる。いくら深夜とはいえ、ここは大塚駅からすぐ近くだ。普通なら、もっと人がいてもおかしくは──」

 

 目の前には車も通行人も見えない道路。その突き当たりに目標のビルが堂々と鎮座しており、道路はそこでT字に分岐している。彼らの歩みを阻むものは何も無いように見えた。

 が、小声で話しながら足を踏み出した瞬間、倫太郎の首筋に嫌な感覚が走り抜けた。

 「領域を越えた」という事実が感覚になって襲ってきたような得体の知れない悪寒。周りの風景はいたって普通なのに、自分だけが異物にしか思えない気味の悪さ。

 それを感じ取った瞬間、倫太郎は反射的に木刀を引き抜いていた。

 

『歓迎しよう。繭村の若き当主よ』

 

 周囲に響き渡る凛然とした声が、倫太郎の鼓膜を震わせる。

 

「バーサーカーの……マスター、だな」

 

『如何にも。私はマリウス・ディミトリアス、貴殿の言う通り狂戦士(バーサーカー )の英霊を使役している。この地の管理者たる貴殿に御目通りが遅れたこと、ここに謝罪しよう』

 

 もはや姿を隠すのは無駄と悟ったか、アサシンが霊体化を解いて倫太郎の隣に並び立つ。短刀を胸元近くに構え、どの方向からバーサーカーが奇襲してきても迎撃できるように注意を周囲に向けた臨戦態勢である。

 

「……ご丁寧にどうも。こちらも貴方の名は知っている。鉱石科に名を轟かせるかの鬼才にお会いできるとは、僕も光栄だよ」

 

 粛々と謝罪を受け入れつつ、それなりの敬意を示して返答する。その様はいたって冷静沈着といった様子だったが、倫太郎は内心では小躍りしたい気分だった。

 まだ二言しか言葉を交わしていないが、相手に問答無用で襲いかかってくるような素振りはない。この様子ならばスムーズに停戦まで持ち込めるだろう、と倫太郎が交渉に移ろうとしたところで、

 

『──待ちたまえ。貴殿の要求は理解している。一陣営の突出、暴走を諌めるための共闘だろう? 貴殿の後方にキャスターが控えていることも知っている』

 

 開きかけた口を閉じて、倫太郎は小さく舌打ちした。

 この近辺で状況説明を受けたのが悪かったのだろう。大方、使い魔の類から情報を得たのか。大塚駅付近はこの男の縄張りだと考えて、注意深く行動すべきだった──が、今悔いても仕方がない。

 

「……それは話が早くて助かる。なら、単刀直入に聞こう。貴方とバーサーカーの陣営は、どうするつもりなんだ」

 

『答えはノーだ。貴殿らとは協力しない』

 

「そう、残念だ。興味本位の質問で申し訳ないけど、その理由は?」

 

『簡単な話さ。我がバーサーカーは、まごうことなき"最強"。貴殿らと共闘する必要はない、それに』

 

 声しか聞こえないマリウスは視線を倫太郎から外したのか、一度言葉を区切らせて──、

 

『"志原"のような魔術師の風上にも置けぬ連中と手を組むなど、ディミトリアスの名に泥を塗る愚行だ。プライドや名誉は時として確実や勝利よりも優先される。貴殿はもう少し、組む相手というものを選んだ方がいいようだ』

 

「………………………」

 

 木刀を握る手に力が篭る。みし、と強化を重ねられた木刀を軋ませながら、倫太郎は他人に見せたことのないような形相で姿の無い敵を睨みつけた。

 倫太郎とアサシンが侵入したこの結界だが──半径五十メートルはあろうかという半円状の領域には、恐らく人避けや防音といった魔術が施されている。

 だからこそ人気が多い場所でありながら通行人の姿が見えないのだろうが、わざわざそんな事をする理由は一つしかない。

 

『──無駄話はここまで。英霊を率いる魔術師同士、正面きって戦いを始めるとしよう』

 

 マリウスはハナからここで倫太郎たちを消す算段をしていたのだろう。

 そしてこの場所は、街中に作り上げられた決戦場というわけだ。

 ぽつぽつ、と雨が降り始めた。コンクリートを濡らしていく雨粒はすぐに勢いを増し、街を濃い雨霧で包んでいく。

 そんな中。

 15階建てのビルの天辺。約五十メートルの高みに、異様な人影が姿を現した。

 

「◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎──ッ‼︎‼︎」

 

 咆哮が夜の街を引き裂いて、周囲の空気を殺意で埋めていく。

 それを聞いて、奥に姿を隠していたキャスターと楓も駆けつけた。

 ふわりと宙から降りてきたキャスターは楓を地面にそっと下ろすと、咆哮する狂戦士に視線を向ける。

 

「倫太郎っ、交渉は? 失敗したの?」

 

「最初から全部聞かれてた。僕たちに協力する気はない、それどころかここで消すつもりみたいだ」

 

「ま、それならしゃーないやろ。戦うんならこっちも戦うだけやけど……なんや、随分とやる気みたいやん?」

 

「ぶちぎれ……てる、ねえ。何かに、怒ってる、みたい……」

 

 こちらにはサーヴァントが二騎。数の上では一対二、有利だと言うのは簡単だが──時にサーヴァントという連中は、一騎で尋常ではない力を発揮することがある。

 

「この距離なら……キャスター、千里眼は? 戦闘になる前に真名が把握できれば、ちょっとした対策くらいは立てられるでしょ」

 

「使える。ギリギリやけど問題なし、ちょいと待──」

 

 キャスターが最後まで言葉を言い切ることはなかった。

 ビルの屋上からこちらを見下ろしていた狂戦士の姿が、消える。

 そしてほぼ同時、アサシンは真横の地面が砕ける音を聞いた。

 

「つ゛っ‼︎⁉︎」

 

 それが、バーサーカーが着地した音であると。

 それを理解するよりも早く、アサシンに染み付いた暗殺者としての生存本能が彼女の身体を突き動かした。微かに逸らした首元を、黒々とした長剣が一閃する。

 振り抜かれた刃はそれだけで暴風を巻き起こし、紫陽花色の髪を揉みくちゃに弄んだ。

 ──ここまで、僅かコンマニ秒。

 着地によって飛び散った瓦礫が再び地面に落ちるよりもなお速い超神速の攻防が、アサシンとバーサーカーの間で交わされる。

 

「こいつ、はっ──⁉︎」

 

 アサシンが反応できたのはほぼ偶然だった。恐らく次はない。

 攻勢は一撃に留まらず、バーサーカーの脚が膨張する。筋肉が、筋組織が全力で駆動し、彼の姿を再度超神速の領域へと引き上げる。

 

「────……チッ‼︎」

 

 キャスターが割って入り、空間から引きずり出した護身・破敵を最速でバーサーカーに叩きつける。

 が、彼はそれを意にも介さず、素手でその刃を殴り飛ばした。

 英霊の霊基すら細切れにするキャスターの宝剣は、バーサーカーの身体に傷一つ与える事なく、跳ね返されて主たるキャスターに向かって襲い掛かる。彼がそれを避けて態勢を崩したところに、バーサーカーは躊躇なく手にした長剣を振り下ろした。

 

「くッ‼︎」

 

 そこにアサシンが飛びかかった。黒点を狙う暇すらなく、とにかくなりふり構わず抱きつくようにしてバーサーカーの動きを鈍らせる。

 それが幸いして、バーサーカーの長剣は僅かに軌道を変え──、

 

「◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎ッッ‼︎」

 

 ──変えることは、なかった。

 並外れた膂力にものを言わせて、アサシンの妨害ごと剣を振り抜く。

 それは獰猛にキャスターの肩口に食い込み、肺を両断し、臓器を滅茶苦茶に潰して腰から抜けていった。降り注ぐ雨粒に飛び散った鮮血は混じり合い、バーサーカーの赤黒い皮膚を更に毒々しく染め上げる。

 

(うそ……こいつの、強さは……本当に────)

 

  しがみつくアサシンの身体に、異様に重い衝撃が走る。

 彼女は呆然と目線を下げて、見た。自分の鳩尾にバーサーカーの拳が食い込み、それは骨を折るどころか肉を貫通して、背中から拳を生やしているような光景を晒しているのを。

 げぶ、と血を吐く音を遺言に、アサシンの首が撥ねられる。

 残ったマスター達が命を落とすのはもっと早かった。彼らはまとに反応することすら出来ず、たった一太刀で二人まとめて絶命した。

 

「◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎……」

 

 戦闘終了。人の終わりとは呆気ないものだ。

 バーサーカーは物足りぬと唸ったまま、その憤怒をぶつけるように、自ら斃した英霊達の亡骸に何度も剣を振り下ろし続けた──。

 

 

 

「…………成る程ねえ、セイバーを倒すっちゅうからどんな奴やと思うとったけど、こりゃあ確かに破格やわ」

 

 

 

 ざあ、と立ち込める雨霧が晴れていく。狂戦士はぴたりと手を止め、再度姿を現した敵対者を舐めるように睨め付けた。

 その奥から姿を現したのは、無傷のキャスター、アサシン、そして二人のマスターたる倫太郎と楓。

 

「こうも降ってくれると、幻術ってのは成功し易くなる。雨粒やら雨霧やらと利用できるからなぁ。こりゃ天候に恵まれてるで」

 

「けど──アレ相手に……何度も、効かない。そうでしょう?」

 

「当然。弓兵が鷹の目でもって看破したように、奴には戦士としての、英雄としての戦闘感覚(バトルセンス)が残っとる。あと十秒ってとこかねえ」

 

 認識をズラされ、虚像を斬りつけるバーサーカー。その剣は一太刀ごとに暴風を巻き起こし、大地を抉り飛ばし、己こそが最強であると言わんばかりに破壊を撒き散らしていく。

 

「あの英霊……前見た時も少し考えたけど、まさか──」

 

 倫太郎が呟く。自分には、否、アサシンやキャスターですらまともに目視できない神速で剣を振るうあの英霊の正体に、彼は心当たりがあった。

 

「倫太郎クンの想像通り。僕たちサーヴァントですらまともに捉えきれんほどの超神速や、恐らくアイツに追いつける英霊は存在せん。つまるところ、サーヴァント中で見ても敏捷性において頂点に位置する存在が奴の正体」

 

 爆撃じみた剣戟の音を止ませ、バーサーカーは動きを止めた。

 前屈みの、まるで肉食獣のような構えもへったくれもない態勢のまま、彼の首が不気味にねじ曲がる。雨に濡れた緑色の前髪から覗く憤怒に染まった相貌は、確かに四人の正確な位置を見抜いていた。

 

「──奴の真名()はアキレウス。全生物、全英霊の中でも文句なしの最速に位置する、正真正銘の大英雄や……‼︎」

 

 言い終わるか否かといった瞬間、刹那の攻防が交わされた。

 倫太郎と楓には、アキレウスの行動がまるで見えなかった。

 ただ、一瞬にしてバーサーカーの姿が掻き消え、隣に立つアサシンとキャスターが血を流して膝をついていた。もはや戦闘する姿すらも捉えきれないその速度は、まさしく最速の英霊に相応しい。

 

「……くそったれ、やっぱ見えん‼︎」

 

「勝ち目……ない、かも。あれは確かに、少なくともこの聖杯戦争においては……最強の……英霊」

 

 額から一筋血を流して顔を歪めるキャスターは、忌々しげに道路の先を見る。

 路上の信号機の上に着地したバーサーカーは、彼らの血で濡れた刀身を満足げに眺めていた。今まで幻ばかりを相手にしたからか、肉を断つ感触を味わっているのか。

 

「が──アイツが強いってのは最初から予想済みや。楓ちゃん、倫太郎クン、作戦通りに。僕らが勝てん以上、君らが頼みや」

 

「……わかってる。やろう、志原」

 

 楓は頷いて、胸元に刻まれた令呪を確かめるように手を置いた。

 サーヴァント同士の勝負という点で勝ち目がない、というのは明白だ。であれば──、

 

「「令呪を以って命ずる‼︎」」

 

 マスターに出来ることは一つだけ。

 令呪を使った援護によって、その力量差を埋める他ない──‼︎

 

「アイツを倒して、キャスターっ‼︎」

「バーサーカーを倒すんだ、アサシン‼︎」

 

 (ふた)つの真っ赤な閃光が、雨に濡れた街を赤く照らし出した。

 鬱陶しそうに目を細めるバーサーカー。彼が閃光の奥に見たものは、全身から魔力の靄を立ち上らせてこちらを睨む、二騎のサーヴァントの姿だった。

 

「へえ、こりゃ有り難いもんや。今なら奴の神速さえ捉え切れるし、易々と負けはせんやろう……が、残念ながらまだ足りん(・・・)

 

 キャスターは情けなくてすまんなあ、と雨に濡れた艶やかな黒髪をガシガシと掻きながら、バーサーカーの正体について素早く考える。

 

「──奴の真名はアキレウス。かの英雄には特殊な逸話があってなァ、神々の祝福があの全身を……正確には踵以外の全部位を守護しとる。踵を狙わん限り、彼に「神性」を持たぬモンの攻撃は通用せん」

 

 だが、神速を誇るバーサーカーの踵一点を狙うというのがどれほど非現実的な作戦かは、この場にいる誰もが知るところだ。

 

「キミの魔眼ならお構い無しに即死させるやろーけど……ま、踵と同じく的確な攻撃を加えるのは難しかろう」

 

「悔しいけど……その、通り」

 

「だから──僕が宝具を使って、奴と戦う。僕の十二天将はまごうこと無き神霊や、バーサーカーを相手取るには最適やろう。奴をこっちの領域に引きずり込んでる間に、楓ちゃんと倫太郎クンがバーサーカーのマスターを止めてくれ」

 

 楓はこくりと頷いた。令呪による後押しを受けている今、彼女の心もとない魔力供給量でも宝具の発動を令呪の効果が後押ししてくれる。むしろ今使わなければ損、とまで言えるくらいのタイミングだ。

 とはいえ──それでも尚、あの狂戦士は別格だった。

 令呪の行使、宝具の使用、二騎による共闘。

 これら全ての有利条件を重ねても、まだあの英霊一騎の強さを上回るには及ばない。これでようやく互角、と言える程度だろう。

 

「……足止めじゃなくて、倒せたら倒してくれても構わないからね」

 

「努力はするけど、こっちの有効打は限られとる。令呪の支援もずっと続くわけじゃないし、その支援分の魔力量を越えて僕が宝具を使ってたら楓ちゃんが干からびてまう。せいぜい稼げる時間は二時間ってトコか──な‼︎」

 

 キャスターが弾かれたように魔力を手の中で精製し、瞬間的に地面に描かれた陣から陰陽の雷が放たれる。

 それは音もなく──正確にはただ音が到達するよりも速く空を駆けただけだが──静かに襲い掛かってきたバーサーカーを迎撃し、その長剣を押し留める。令呪による援護が無ければそれも間に合っていたがどうかという程の神速であった。

 

「行って、マスター。ここは……私たちが、引き受けるから」

 

「分かった。──勝手に死なないでくれよ、アサシン」

 

 アサシンは言葉を返さず、微かな笑みを浮かべて頷いた。

 倫太郎が彼女に背中を向けると同時に、アサシンは短刀を構えて勢いよく駆け出していく。

 

「行こう、志原。僕たちの敵は──あそこで待っている」

 

 降りしきる雨の中、倫太郎は確かに感じていた。

 自分たちから遠く離れた最上階からこちらに突き刺さる、敵意の篭った鋭い視線を。

 時間はあまり無い。背中を打つ鳴り響く戦闘音を置き去りにして、二人は敵の本拠地たるオフィスビルに向かって走り出した。




【バーサーカー】
真名:アキレウス
「最速の英霊」と称される英雄。通常の霊基状態でもその俊敏性は全英霊中最速に位置するが、更に「狂化」によるブーストが加わっており、その俊敏性はサーヴァントですら捉えられない。
彼とまともに交戦するには優れた「直感」や「心眼」か、それに類似した能力が必須となる。その必要条件を乗り越えたとしても、「狂化」によって強化された彼の剣戟とまともに打ち合えるサーヴァントは数少なく、彼を"最強"と呼ばれる存在たらしめている。
〈ステータス〉
筋力A、耐久A、敏捷EX、魔力C、幸運D、宝具A+
〈保有スキル〉
神性:C

不毀の極剣(ドゥリンダナ)
ランク:A
種別:対人宝具
レンジ:1
最大捕捉:1人
トロイアの英雄、ヘクトールから強奪した不滅の魔剣。
理性を失ったことによってその機能は封じられているが、依然として刃の鋭さは失われていない。
この剣が「不滅の刃」と呼ばれることから、セイバーにとっては致命傷を与えうる剣となる。神性を持つ者に対して絶対の優位権を持つ彼女だが、それでもこの刃の前には破れるしかなかった。

彗星走法(ドロメウス・コメーテース)
ランク:A+
種別:対人(自身)宝具
レンジ:0
最大捕捉:1人
彼の「最速」たる逸話が昇華され、形となった常時発動型宝具。
基本的にはライダーのクラスで召喚された際と同様の効果であり、踵を傷付けられると速度が落ちるのも同様。が、狂化によるブーストが発動しているため、彼の速度はライダーで召喚された時よりも更に速い。まさに最速。

勇者の不凋花(アンドレアス・アマラントス)
ランク:B
種別:対人(自身)宝具
レンジ:0
最大捕捉:1人
彼の全身にかけられた不死の祝福。神性を持つ者、および神造兵装による攻撃以外のありとあらゆる攻撃をシャットアウトする。基本的にはこちらもライダー時と同様の効果。踵を傷付けられれば消滅する。


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五十八話 突入、魔術工房/Other side

「どりゃあーっ‼︎」

 

 長い首布をたなびかせて、楓が正面エントランスに向かって疾駆する。

 いちいちロックの解除を試す余裕はない。

 ここまでくれば強行突破、楓は勢いを殺さずに地面を蹴り、躊躇なくガラス製の自動ドアに向かって飛び蹴りを放った。飛び散る破片と共に楓がビル内部に転がり込み、やや遅れて倫太郎が続く。

 

「……適当過ぎる‼︎」

 

「なによ、じゃあわざわざロックを解除して入れって言うわけ⁉︎」

 

「そんな事は言ってない‼︎ 罠が仕掛けられたりしてる可能性くらい考えてから入れって僕は言ってるんだ‼︎」

 

 例のごとく言い合いながら、倫太郎は素早く照明の落ちたエントランスに視線を巡らせる。

 一見したところでは、いたって普通のオフイスビルといった様子だった。最上階から何階層ぶんかは魔術師の工房として利用されているとはいえ、下の方の階にはオフィスやテナントが入っており、昼間は普通に人々が勤務しているのだから当然か。

 そして、外から聞こえてくる、熾烈にサーヴァント達が戦う轟音が消失している事にも気づく。キャスターが宝具を用い、バーサーカーを世界の裏側に引きずり込んだのだろう。

 

「エレベーター……は、流石にリスクが高過ぎるか。あんな狭い箱の中じゃ抵抗も反撃もできない」

 

「じゃあ階段しかないけど。そっちをわざわざ登るのも、結構勇気がいる選択よね」

 

「魔術師の工房にわざわざ足を踏み入れるなんて、自分から死にに行くようなもんだし……正直なところ、僕だってできれば行きたくない」

 

 が、倫太郎は内心で怒りを感じていた。

 マリウスという男の言動にはカチンとくるものがあった。かつて同じような台詞を吐き捨てた自分がそれに憤るのは筋が通らないとは思うが、それでもだ。

 だから倫太郎は気後れしつつも、決して諦めようという気にはならなかった。

 

「はぁーあ……私が山ほど爆薬を持ってたら、ありったけここの根元に仕掛けてビルごと葬り去ってやるのに。この作戦、高いところに陣取ってドヤ顔かましてる奴に効くわよ。絶対」

 

「爆弾魔かテロリストか、君は……そんな馬鹿げた事をするのは僕が許さないぞ。管理者として、後処理がめんどくさい」

 

「結局自分が面倒なだけじゃないの。……まあ、それくらい自分を大事にした方がいいとは思うけど」

 

 ガイン、と硬い音が響き渡った。

 音源は楓の両腕に嵌められたモノ。艶やかな光沢と薄い板を何枚か重ねたようなフォルムが特徴的な、美しい白籠手だった。

 楓が喧嘩寸前の不良のごとく両手を打ち合わせたので、それらがぶつかり合って大きな音を立てたのだ。

 

「──気になってたけど。それ、何だ?」

 

「ふふ、キャスターが私にくれた私専用の礼装よ。これで私の攻撃力は五割増し。──しかも! 私が注ぎ込んだ魔力量に応じて、ほんの一瞬だけどサーヴァント相当の怪力が発揮できる優れものなんだから」

 

「なるほど、「道具作成」か……」

 

 確か、キャスターのクラスに該当する英霊が持つという能力の一種だ。

 現代では到底再現できない神秘、手の届かない精巧な礼装や式神。そういった物であろうと、英霊たるキャスターの手にかかれば一瞬だろう。

 それはつまり、もうこの時代では失われた筈の幻の超技術を、もう一度蘇らせるキッカケを作れるかもしれないという事だ。これは倫太郎だけに留まらず、魔術界全体の成長発展に繋がるかもしれない。

 

「何でよりにもよってその価値がさっぱり理解できない志原のトコにキャスターが召喚されるのか。……折角だし、良かったら後でウチにちょっと技術協力とか……」

 

「いーやー‼︎ キャスターは私のサーヴァントなの。それに、アイツは基本的に女の子じゃないとやる気出さないもん」

 

「…………豚に真珠っていういい例を見た」

 

「うるさいバカ‼︎」

 

 ぎゃいぎゃいと騒ぐ二人の頭上から、呆れ混じりの声が飛んできた。

 

『何を遊んでいる、繭村の。貴殿にはあまり時間が無いのではなかったかな』

 

「──へえ、よく分かってるじゃない。今からそこに行ってやるから、覚悟して待ってなさいよ引きこもり‼︎」

 

 倫太郎が何か言う前に楓が怒りの矛先を変えるように大声で返すと、姿は見えないながらも、この場所の主たる男が怒りに震える雰囲気が伝わってきた。

 

『ぬかせ、貴様(・・)には言っていないと分からないか低脳が。元から貴様に用はない』

 

 倫太郎に向かって告げられる言葉に比べれば、それはどこまでも冷え切った口調だった。

 

『魔術師の風上にも置けぬもどき風情が我が工房に足を踏み入れるなど、我が人生において最大級の屈辱だ。貴様には敬意も敵意すらも払わぬ、ゴミ同然に処理してくれる』

 

「…………っ」

 

 きゅっ、と楓は唇を噛んだ。魔術師から侮蔑や屈辱的な言葉を吐かれる事には慣れているが、この男のものは特に激しい。

 血筋や地位に拘る、いわゆる"魔術師らしい魔術師"ほど志原のような一族を嫌悪する傾向があるが、この男もまたそういう類の魔術師なのだろう。勝ち気な楓でも、これほど純粋な悪意を包み隠さず叩きつけられると、思わず黙り込むことしかできなかった。

 

「マリウス・ディミトリアス」

 

 と、それまでの沈黙を破り、倫太郎は平坦な口調で敵の名前を呼んだ。

 弱気な倫太郎にしては珍しく、毅然とした態度で見えない敵対者の姿を睨み付ける。

 

「──お前はもう黙ってろ。元より敵同士だ、余計な言葉は不要だろう」

 

 そう言うと、倫太郎は一人で会話を切り上げて歩き出した。向かう先は無論、マリウスの工房に直結している階段である。

 少し遅れて、呆気にとられていた楓も倫太郎の後を追う。

 

「ちょ、ちょっと……」

 

「行こう。時間が無いんだ」

 

 ズカズカと進んでいく倫太郎の背中を追い、歩きながら追い越して、楓はまじまじと彼の顔を見つめた。いつもの気弱な感じの垂れ目がやや吊り上がっていて、どこか不機嫌そうだ。

 階段を並んで登りながら、楓は思った疑問を口にする。

 

「────もしかして、怒ってくれてるの?」

 

「別に怒ってない。そもそも、僕がアイツに憤る権利はない」

 

「それは……倫太郎が、私に同じようなことをしたから? 私との関係を断とうとした時点で、アンタはマリウスって奴と同じだから……そういうこと?」

 

「そういうことだよ。よく分かってるじゃないか」

 

「……ぷふふっ。アンタ、怒ってるのバレバレだし。そんな拗ねたお子様みたいな様子でなにが怒ってないー、よ。お子様ね」

 

「なっ、なんだよ。君だってすぐ怒ったり走り回ったりするとこはお子様じゃないか‼︎」

 

「うぐっ……ゴホン、まあいいわ。今は別に口ゲンカしたい気分じゃないし」

 

 楓はぐぬぬと飛び出しかけた憎まれ口とテンションを抑えてから、ぽつりと呟くように返す。

 

「私は……まだ聞いてない。なんで倫太郎が、あんな事をしたのか」

 

「言ったじゃないか。僕が当主の座を受け継ぐ事が決まって……君と関わることはもう出来なくなったって。元から志原に魔術を教えるなんて事が許されるわけがないことくらい、君だって理解してるだろ」

 

「けど、よく考えてみればそれはおかしいわ。だって私が志原の魔術師と知っていても、後継者っていう大事な身分でありながら、アンタは「別にどうでもいい」って言った。それをわざわざ……当主になるからって急に気にしだすなんて、どう考えても筋が通らない」

 

「それは──……っ」

 

 倫太郎が口にしようとした答えを、楓は右手を口を押し当てるようにして止めた。

 

「その答えは……後で聞かせて」

 

 楓が立ち止まり、倫太郎も遅れて反応する。

 まずおかしな点として──階段が、途切れていた。

 本来ならば最上階まで続いている筈の階段が、不自然に壁に呑み込まれて途中から消失している。ここから先は登れない、という意思表示すら思わせる露骨ぶりだ。

 

「空間の歪曲……随分と手が込んでるな。簡単には登らせてくれないみたいだ。このフロアのどこかにあるだろうから、それを探さないと」

 

「けど、なんだか待ち構えてるみたいよ?」

 

 楓の視線の先には、本来は何らかのテナントが入っているのであろう広大な空間の先で跪くようにして待機する、いくつかの影があった。

 人型をしているが、それらのシルエットはあまりに歪。まともな人体には存在しない凹凸や無機質な瞳、なんらかの岩石や金属で形作られた躰。胸部には動力源と思しき簡易魔力炉が組み込まれている。

 

「あれは……ゴーレムの一種か。鉱石科の連中がいかにも好きそうな手だ」

 

 敵影を感知したのか、楓の接近を合図としてゴーレム達が起動した。

 その身長はいずれも約2メートル程か。待機状態では膝をついていただけに、立ち上がった時の威圧感は相当のものがあった。

 

「それと──結界を感知した。5メートル前」

 

 やはり、と言うべきか。当然ながら魔術師の工房とあって、侵入者を拒む結界の類は見えるだけでも複数個張り巡らされている。

 視覚的には見えにくいが、優秀な魔術師であれば感じ取るのは造作もないだろう。空間を区切るように構築された個人領域。マリウスが認めぬ者を徹底的に拒む、強固な魔力壁の存在を。

 

「け、結界かあ……私じゃ正直、どうしようもない分野なんだけど」

 

「まあ、君は正直脳筋だしね」

 

 ギロリと鬼の形相で睨まれ、思わず今の失言を無かったことにできないかと考えてしまう倫太郎だったが、状況は緊迫している。

 近づいてくるゴーレム数体は明確にこちらを敵対者として認識しているらしい。外部からの侵入を拒む結界も、内部から外へ向かうゴーレムに対しては無意味だろう。

 

「──い、今の失言についてはあとで謝る。とにかく僕が結界破りを担当するから、それまで時間を稼いで欲しい」

 

「それなら簡単ね。要は私があの石人形どもを粉々にしてやればいいって話でしょう?」

 

 自分の活躍の場を見出せたことが嬉しいのか、楓は腕を準備運動とばかりに回しながら笑みを浮かべる。

 そういう可愛らしい見た目に反して物理一択なところが脳筋たる所以なのだと倫太郎は思わないこともないのだが、今は魔術回路に意識を集中させる。迷っている暇も立ち止まっている暇も、彼らには残されていないのだ。

 

「──駆動開始(セット)‼︎」

 

 薄茶色のツインテールを揺らして、楓が弾丸のように飛び出していった。

 その速度はまさしく疾風。黒装束が長く引き伸ばされて見えるほどの加速をもって、楓は瞬く間にゴーレムとの距離をゼロにする。

 

「せぁっ‼︎」

 

 何の捻りもない問答無用の右ストレートが、ゴーレムの胴体に突き刺さった。

 ズゴン、と凄まじい音を立てて石人形の躰に風穴が開くが、それはその程度で動作を止めるほどヤワではない。逆に楓の身体を片手で抱いて捕えようと手を伸ばし──、

 

「志原‼︎ 駄目だ、それは核として機能してる宝石か動力源を破壊しないと、簡単には……‼︎」

 

「分かってるって、の────‼︎」

 

 分かってる。そう、楓は理解していた。

 だってあんなに「核です」と言わんばかりの宝石があれば、そりゃあ狙いたくなるのが人情だ。魔術師として未熟でも、あんな分かりやすい弱点を狙わない選択肢はない。

 しかしそれを堪えて、楓は敢えていびつな胴体を拳で貫いた。

 それは、何故か──、

 

式神跋祇(はっし)‼︎」

 

 それは本来、彼女が使う筈のない詠唱(ことば)

 彼女が使役するサーヴァント──安倍晴明が最も得意とする、彼固有の詠唱である。

 故に、その言葉が働きかけるのは彼女ではない。彼女の両手を華と彩る白籠手が、正確には"籠手の形をとった式神"が、跋祇の言葉に応じて起動する。

 

強化三連(エンチャント・サード)──‼︎」

 

 その式神にして魔術礼装たる白籠手が有する機能はたった一つ。

 楓が唯一行使できる「徒手魔術」の作用。それをほんの一刹那だけ後押しし、数十倍にまで引き上げる──というもの。

 稀代の天才陰陽師たる彼の手によって作られた白籠手は、少女に人の頂点すら飛び越えさせる。

 

「せ、ああああああああああ──っ‼︎」

 

 足腰に力を入れ、思い切りゴーレムを貫いたままの右腕を振り抜く。

 2メートルの身長を有するゴーレムの質量は実に300キロはあろうが、この一瞬のみサーヴァントにすら匹敵する膂力を手にした楓は、問題なくそれを武器として転用した。

 その様はまるで竜巻だ。コマのように回転しながら、迫り来るゴーレム達をゴーレムでもって粉砕していく。

 

「……はは。なんだアレ」

 

 その光景に笑うことしかできなかった倫太郎は、慌てて自身の魔術回路と魔術理論の構築に戻る。

 

(昔に比べると随分安定して……いや、志原の努力を称賛してる暇はない。こっちも為すべきことを為そう。……もう時間が無いことだし、結界にいちいち干渉して対消滅させてるような暇はない。なら──)

 

 真正面からぶち破り、堂々と押し通るのみ。

 当然ながら、一般の魔術師には選択できない選択肢だ。マリウスのような優秀な魔術師が構築した結界は、生半可な魔術では通らない。

 しかし──倫太郎は、厳しく評価される魔術界においても「神童」と評される天才である。

 

(僕の……繭村家の起源は「切断」。そしてそれを、何かを切るということを極限まで突き詰めた結晶こそが──僕の武器)

 

 ……その名を、熾刀魔術。

 魔術は嫌いだし苦手なれど、それが唯一の戦う手段ならば、行使することに迷いはない。

 ただ──少し、苦しいだけだ。

 しかしそれも、志原を守るためであれば吞み込める。そうして自分の事を忘れてしまえば、何故かその苦しみは和らぐ気がした。

 

「剣鬼抜刀。──刀身接続(コネクト)完了」

 

 自らの胸の中心に杭を穿つイメージ。

 張り巡らされた魔力は淡く光る筋となって、腕から木刀の刀身へと伸びていった。

 回路の速度は加速度的に増していく。

 もっと速く、もっと硬く、もっと鋭く。

 魔術刻印から存分に魔力を引き出し、魔術の結実というゴールにひた走る──!

 

「────ふッ‼︎」

 

 次の刹那、渾身の一閃が放たれた。

 繭村の秘奥、熾刀魔術。

 それはただ剣を振るい、モノを斬る剣術にあらず。

 魔術として形態化されたそれが目指すのは、「形のないもの」すら切り落とさんとする境地だ。──それがたとえ魔術の結界であろうと、彼の刃は切り捨ててみせる。

 焔を微かに纏った木刀が振り抜かれた途端、5メートル先に目の前に構築されていた幾重もの結界に、まとめて切れ目が刻まれた。そこを起点として亀裂が走り、行く手を阻む結界が崩壊していく。

 

「……相変わらず何でもかんでも斬ることしか頭にないのね。まったく、どっちが脳筋なんだか」

 

「繭村の武器はどんな代でも「切断」だ。今回のケースだと、得意分野でゴリ押すのが一番効率的だし速かったってだけだよ」

 

 楓は既に戦闘を終え、ゴーレム達の残骸をつま先でつついていた。

 倫太郎の結界破りにかかった時間はだいたい10分といったところだが、これから何階層に渡って結界が構築されているかは未知数。何度かこの作業を繰り返す必要があるだろうし、足を止めている暇はない。

 

「って、そこでかがんで何してんの?」

 

「あ、いや、なんでもない」

 

 こほん、と誤魔化すように咳き込んでから、楓は立ち上がる。

 

「……まあいいか。僕たちでさっさとマリウスのいる最上階にたどり着いて、あのバーサーカーを脱落させよう」

 

「そうね。あんな事言ってくれちゃって、追いつめられてから謝っても許さないんだから」

 

(お金のためにゴーレムの宝石集めてたことは……うん、怒られそうだし黙っとこう)

 

 ゴーレムの核として機能していた宝石をひそかに回収してこっそり懐に入れてから、先に進む倫太郎の背中を追っていった。

 

 

 

 

 キチキチ、と。虫が啼くような音がする。

 サーヴァントたちが姿を消した事で無人となった、オフィスビル前方の路上。

 大規模な人避けの魔術が行使された結果、深夜帯とはいえそこに立ち入るものは誰もいない。誰もいない──筈だった。

 

「──────」

 

 無言でオフィスビルを眺める人影。

 長いローブを翻し、宙に浮遊するその女は、紛れもなくサーヴァント。

 今より十年前、「コルキスの魔女」として召喚され、聖杯戦争においていっときはサーヴァント三騎を従えるまで至った神代の魔術師である。

 

「「「キキッ、キキ……」」」

 

 その下で蠢く無数の影。

 それらは人外の骨片を肉体として形成した、意思を持たぬ骨人形たちだ。

 原理でいえば、今現在楓と倫太郎が交戦している石人形も同じものと言えるが、これらは数があまりにも多い。ざっと数百体、路上を埋め尽くすほどの数が待機し、一様にオフィスビルに突入する時を待っている。

 

「──────」

 

 「泥」に思考を歪められたキャスターの行動は、至ってシンプルに設定されている。

 街に潜み、人々から魔力を吸い上げる。

 言ってみれば前回と同じだ。故にこそ、彼女は大規模な魔術の連続行使に釣られて、この場所に姿を現した。

 思考は歪み、語る言葉は失いつつも、彼女が本来持ち合わせる知略と冷静さは健在だった。だからこそ、あのビルの中で動く複数の大きな魔力反応──それらは魔力を求める彼女にとっては餌に等しい──を見つけ、キャスターはそれらを捕らえんと竜牙兵をけしかけようとしている。

 この数が相手では、如何にマリウスが構築した結界が強固であろうと、数で突破されてしまうだろう。サーヴァントがいない今、この女の存在は、交戦する彼らマスターたちにとって絶体絶命の危機といえた。

 が──彼女は未だ、突入に踏み切ってはいない。

 それは何故か。

 単純なこと。それを阻む強力な障害(・・)が、彼女の進路を塞いでいるのだ。

 

「………………」

 

 その存在は──あまりに、奇怪だった。

 全身を覆い隠す装甲鎧。顔すらもフルフェイスのヘルメットに似た何かに包まれ、その表情は判別できない。

 ただ、その隙間から漏れる狂戦士じみた吐息だけが、雨が路上を打つ音に紛れて聞こえていた。

 

「「──ギィィィィッ‼︎‼︎」」

 

 様子見か牽制か、骨人形が数体飛び出し、その人とも英霊とも判別できない何かに飛びかかる。

 

「ガアッ────‼︎」

 

 それを例外なく迎え撃ったのは、指先に至るまで刺々しい武装で包まれた、その人影の両拳だった。

 一瞬。ほんの一息の動作で、数体の骨人形は粉砕されて活動を停止した。

 

「────フフッ」

 

 魔女は笑った。

 こちらの駒は無限に等しい。

 勇ましいその攻勢が、果たしていつまで続くものかと。

 

「────ハハッ」

 

 その敵対者も笑いを返す。

 敵方の兵が無限だと言うのなら、無限の体力をもって薙ぎ払うまで。

 それにこの数、己が身を焼くものをブチまけるには丁度いい。

 

 雨が降りしきる路上のど真ん中で、数百と一、多数と独りの激突が始まった。




【キャスターの白籠手】
「道具作成」の能力によって作られた、楓専用の魔術礼装。
瞬間的に「強化」の効力を爆発的に高めることで、サーヴァントにすら匹敵する膂力を得る。ただし一度使用すると長時間の冷却を必要とし、また効力を高め過ぎると楓の腕が耐えきれずに破壊される代物。
楓はこの籠手の名前を決めているが、恥ずかしいので誰にも伝えていない。実は健斗と戦った時にも使っている。

【マリウスの結界】
物理的・魔術的な干渉を防ぐスタンダードな魔術結界。若干ケイネス先生の例の工房をイメージしているけれど、彼のものに比べれば複雑さも強固さも遥かに劣る。
平均的な魔術師であれば、一つ解除するのにおよそ一時間は必要になる。単純な超火力か、倫太郎のように概念的な切断や結合崩壊を誘発させることで、押し通ることは可能。それでも多少時間はかかる。


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五十九話 魔石の担い手/Other side

「おーおー。随分と暴れてやがるな、アイツ」

 

 呟いた男の頰を雨に濡れた風が撫でる。

 彼の眼光は鋭く、目線の先で暴れ回るモノをしかと凝視していた。

 

「さてさて、懲りずに魔力を吸い上げてやがる女狐を成敗しに来たはいいんだが……どうもアイツの正体が分からん。敵の敵は味方、ってえ理屈が通じる奴なら楽なんだが」

 

 コォン、と反響音を響かせて、槍兵は手にした槍の穂先を地につける。

 槍兵のサーヴァント……真名をクー・フーリン。

 今回の聖杯戦争に限り、世界からの後押しを受けて特殊な形で現界した英霊である。彼の瞳に映るのは、路上で暴れに暴れる一つの人影だった。

 

「……ん? どうした嬢ちゃん、なんだって? ひとまずアイツは無視して、キャスターの討伐を優先ん? ああ。なあに、要は最初と目標は変わんねえんだろ。なら簡単な話さね」

 

 念話を終わらせた槍兵は獰猛に笑うと、勢いよく駆け出した。

 ビルからビルへと跳躍を繰り返し、雨に沈む夜の街の光の中を走り抜ける。その姿はさながら黒豹のように見えたことだろう。

 そして一際大きく跳躍すると、人ならざるモノらが激しく戦いを繰り広げているそのど真ん中へと──、

 

「どぉ……ラァッ‼︎」

 

 朱色の魔槍を豪快に振り回して、豪快に着地する。

 それと同時、数にして十三の竜牙兵が一瞬で砕け散り、降り立った槍兵の周囲を破片が舞っていった。

 

「──よう。随分と久しぶりな気がするぜ」

 

 ランサーの目が細められ、キャスターのローブに覆い隠された顔を見つめる。

 「久しぶり」と言う彼の言葉に間違いはない。

 彼は"抑止力の介入"という特別な形で、大聖杯に記録された第五次聖杯戦争の情報(データ)を読み込む形で現界した。故に、彼はそっくりそのまま、「前回」の記憶を受け継いでいるのだ。

 

「しかしまあ随分と曇ったもんだ。見ずとも解る、その様はあまりに見るに耐えん。せめてもの慈悲として、お前はすぐに殺してやる」

 

 ランサーの声はどこか悲しげだった。

 大聖杯を奪取した何者かによって自我を喪失し、ただの操り人形と化したキャスターを、戦士として哀れんでいるのだろうか。

 その言葉を餞別として、ランサーが明確な戦闘態勢に移る。

 狙いは空中に浮かぶキャスターの心臓。

 初手で決めんとランサーが宝具の発動準備に入った。キャスターが如何に魔術を操ろうと、射程外に逃げられなければ勝ちは確定する。空間の魔力を根こそぎ奪い取るように魔槍が脈動し、まさに必中の一刺が放たれんとした時──、

 

「ガ、アア゛アア゛アアアアアアアアアアアア────ッ‼︎‼︎」

 

「チッ、やっぱそういう類かテメエ!」

 

 それを許すまじと、謎の人影がランサーめがけて突進した。

 宝具の発動準備に入ったとはいえ、完全に全ての注意をキャスターに向けるほどランサーは愚かではない。即座に迎撃に映り、飛びかかってきた全身黒鎧の男を槍で弾き飛ばす。

 

「やはり言葉は通じんか。狂戦士の類でもあるまいし、例の黒化英霊に比べると別種の邪悪さだ。そもそも連中、どうも前回の記録から召喚されてるみてえだからな。テメエはそれには含まれん」

 

 つまりこの男は、聖杯戦争に介入する黒化英霊に続く、第二のイレギュラー要素である可能性が高い。

 その存在が彼にとって良いか悪いかは未だ判別できないが──少なくとも、その全身から発せられる殺気は、ランサーを敵対者とみなしているようだった。

 

「……テメエ、一体どこの誰だ?」

 

 濡れた路面を数メートル後退して、謎の男は唸り声のみを返した。

 そのやり取りを見て、キャスターはこれ以上の戦闘続行は不利と判断したのだろう。その僅かな隙の間に、彼女は一瞬のうちに体を無数の蝶に変え、夜の暗い空へと消えていった。

 

「答えんならば構わねえがよ。あの魔女めも逃しちまったことだし、ここでお前が俺に挑むってんなら容赦はしねえ。その心臓、代わりに貰い受けるまでだ」

 

 ランサーが改めて槍の穂先を謎の男に向ける。

 対し、全身を黒鎧で覆った男の手には、特に何も握られていない。

 膨れ上がる緊張感。濃厚な殺気を孕んだ、僅かな沈黙。

 合図も無く──次の刹那、両者の姿が掻き消えた。

 

「フッ‼︎」

「ガァァァァッ‼︎」

 

 稲妻じみた二人の激突。その余波だけで地面は砕け、激突する拳と魔槍が激しく火花を舞い散らせる。

 その様はまさに凄絶だった。

 人の目では追いきれない攻撃の応酬。影と影が目まぐるしく位置を変え、尋常ならざる威力を秘めた一撃を嵐のように交わし合う──‼︎

 

「グ……ガ、ハッ‼︎」

 

 頭部を覆うフルフェイス式の奇妙な兜から、苦痛に呻く声が漏れる。

 戦況は圧倒的にランサーが優位だった。

 槍と素手。単純な獲物の有利差もあるが、何より男の技量は槍兵のソレに遠く及ばない。

 実際、既にランサーは五度は殺したと、そう確信できるほどの刺突を放っている。彼の魔槍は男の鎧を砕き、その奥の肉を裂いていく。その度に鮮血が噴き上がり、二人の姿を赤く彩った。

 ──だが、そこまでだ。

 鋼鉄すら容易く引き裂くはずの魔槍が、急所を貫いたはずの穂先が、しかし男の肉を完全に断ち切れない。

 激突の瞬間に威力が減衰し、致命傷を致命傷に至らせていないのだ。

 

(硬い(・・)。またなんかの加護か宝具か? あのセイバーみたく攻撃が通らないって訳じゃあねえが、少なくとも七割減ってトコか。こいつはちと面倒な相手だな)

 

 それでもランサーの優位に揺るぎはない。「無効化」ではないのなら、攻撃が致命傷に至るまで攻めて攻めて穿ち貫く。単純明快、彼の攻勢の裏にあるのはそれだけだ。

 しかしここで、謎の男が奇妙な攻撃に出る。振り上げた手をランサーに振り下ろすのではなく、何もない地面に叩きつけたのだ。

 

「────うおっ⁉︎」

 

 咄嗟に下がったランサーの足元のコンクリートが、歪む。

 それはまるで、地面を突き破ってくる巨大な長槍だった。

 謎の男の力によるものか、地面が波打って槍のように変動し、それが意思を持ったかのようにランサーに迫ってくる──‼︎

 

「地面を動かすたあ大した技だ。面白え‼︎」

 

 間断なく鋭利に尖って突き上がる地面。地面を操る男の眼前がまるで剣山じみた惨状を晒す中、槍兵はなおも健在だった。

 そも、ランサーの武器は手にした魔槍一つではない。地面そのものを敵に回そうと攻撃を避け続けることを可能とする恐るべき俊敏性も、彼が持つ立派な武器だ。

 そのまま、ランサーは勢いよく地面を踏みしめ──、

 

「フンッ‼︎」

 

 手にした魔槍を、全力でもって投擲した。

 その速度は瞬時に音速に達し、なおも加速して雨の中を突き抜けていく。突然ながらその穂先の先に居るのは、彼と相対する謎の男だ。

 

「────ッッ‼︎」

 

 敵対者はかろうじて首をひねり、その穂先を寸前で避けた。

 掠めた魔槍がフルフェイス型の兜を砕き、その奥の肌がほんの僅かに露わになる。

 

「ハ、よく避けた。だがまだまだってとこかねえ」

 

 朗々と響く声。反射的に視線を戻した男が見たのは、ほんの至近距離で足を振り上げるランサーの姿だった。

 直後、槍兵の健脚が男の腹部に突き刺さり、ついで自動的に手の中に戻った槍が振るわれる。それは横殴りに敵の頭蓋を打ち据え、男の身体を数十メートル離れたビルの二階まで弾き飛ばした。

 常人ならば頭蓋が砕けるどころか、あまりの衝撃に首を捩じ切られてもおかしくない一撃──。

 

「一丁上がり……と。さて、どうすっか。コイツをここで生かすか殺すか、どう思うよ? 聞こえてんだろ、嬢ちゃん」

 

 二階ぶんの高さを難なく飛び越えると、瓦礫の中で沈黙する敵対者の姿があった。動く気配はなく、放たれていた殺気の類も消えている。

 さっきまで死闘を繰り広げていたとは思えぬ軽口で、ランサーは念話を再開する。

 

「んー……ひとまず拘束するか。まあ妥当なトコだが……むっ?」

 

 と、無意識に窓の外を眺めていたランサーは変な気配に首を捻って──、

 

「あ。……やべえ」

 

 目線を戻した時、やっちまった、と頰を掻いたのだった。

 視線の先には散乱するガラス片と崩れ落ちたコンクリート片、ぶちまけられたデスクトップや照明の類。

 そして──そこにさっきまでいたはずの男の姿が、跡形もなく掻き消えていた。

 

「殺気まで消してあっさりトンズラとは、さっきまで暴れ狂ってやがったくせに分からん奴だ。あー、悪い嬢ちゃん、こっちも取り逃がしちまった。ん? まだ本調子じゃないんだから無理もない? ハッ、俺に余計な気遣いは要らねえよ。こりゃ俺の失敗だ」

 

 やれやれと肩を落として、槍兵はビル群から離脱する。

 むろん、彼はすぐそばのオフィスビル内で繰り広げられている戦いについても知っていたが──彼が手出しをするつもりはなかった。

 あくまで抑止の代行者として、この聖杯戦争にあってはならない「異物」……黒いサーヴァントらと、大聖杯の主か、可能であれば「セイバー」のサーヴァントを殺すことに尽力する。それが彼の、此度の現界に際して与えられた役目だからだ。

 

(しかし……いくら硬えとはいえ、あんだけ俺の槍を喰らえばすぐには動けん。そのくせ逃げる力は残すか、あの野郎)

 

 まったく呆れるくらいしぶとい奴だ、とランサーは嘆息した。

 そもそも前回の聖杯戦争において、そのしぶとさを発揮して起死回生を生んだのは彼なのだが。

 

 

 

 

 そうして、謎の男と槍兵の戦いが繰り広げられていた頃と時を同じくして──。

 楓は走っていた。照明がまばらについた、無骨なコンクリート柱しか存在しない広大な空間を、ただひたすらに走っていた。

 息を切らして肩越しに後ろを振り返った瞬間、

 

「ひうっ⁉︎」

 

 すぐ後ろに、猛然と鋭い爪が振り下ろされる。

 それは楓という標的から外れて空を切り、轟音を立ててビルの床にめり込んだ。

 

「こ、この──……っ、バケモノ‼︎」

 

 すぐさま反転し、その"敵"を睨みつける。

 凄まじいほどの巨躯だった。

 そして──それは、石人形(ゴーレム)よりも異形だった。

 相対するは猛る獅子の貌。が、その背からは山羊の頭がこちらを凝視し、さらに後方から蛇が不気味に舌をちらつかせている。

 一体でありながら三体もの頭を持つ、魔術師によって作られた複合型人造生命体──いわゆる、合成獣(キメラ)と呼ばれる怪物だ。

 

「り、倫太郎‼︎ 私じゃ無理よ‼︎ こんなのムリ‼︎」

 

 外見の異形さに若干押されて、楓は顔を青くして叫ぶ。

 

「ごめん、ほんと悪い、けどあと十秒‼︎ それまで頼む‼︎」

 

「てっ、天才でしょ、アンタは神童なんでしょ⁉︎ なんでそんなにモタモタしてるのよー⁉︎」

 

 倫太郎はその言葉に唇を噛み締めた。

 そうはいっても、こちらには事情があるのだ。

 魔術に対する拒否感情が集中を乱し、咄嗟に魔術を使えないという、魔術師としては失格ともいえる欠点が──。

 

「くそっ、こうなったらっ‼︎」

 

 再び襲い掛かってくる爪牙を、楓は急加速と軽やかな跳躍でもって躱してみせた。

 着地した楓は、そのまま猛烈な勢いで後退。当然ながらキメラはそのまま獲物を追いかけ、猛然と唸りながら床を蹴り飛ばすが──、

 それを阻むように発生した爆風が、キメラの頭蓋を粉々に消しとばした。

 

「……死んだ、かな? はぁー、まだコイツが手榴弾が効く範疇のバケモノで助かったわ……」

 

 高速で走り回りながら手榴弾をばら撒くという爆弾魔戦法は楓の得意とするところだが、今回もそれが上手くいった。

 所詮は獣か、ヤツは獲物が隙を見せればまっすぐ襲ってくる。自分の目の前に放り投げられた手榴弾が持つ危険性にも気づかずに──だ。

 

「ちょっと倫太郎。なにしてんのよ、こっちは一人で片付いちゃったじゃないの」

 

 楓が呆れた顔で倫太郎の方を振り向いた瞬間、

 

「っ‼︎」

 

 勢いよく地面を駆けた倫太郎が、振り上げた木刀を渾身の力で振り下ろした。

 その、「振り下ろす」という動作が最後の鍵となって──。

 概念切断に特化した繭村の魔術、「熾刀魔術」が完成を迎える。

 

「ギ、ガアッッ⁉︎」

 

 焔が舞った。

 崩れ落ちる怪物の陰から飛びかかってきた蛇の首が、焔を纏った一閃で断ち切られる。

 

「……はぁっ、はぁっ。こういう類の奴はね、他の頭を潰しても残りが生きてる事は多いんだ。歪な人工生命だからこそ、簡単には死ねな……」

 

 倫太郎の言葉を遮るように、楓が勢いよくクナイを投げ放つ。

 それらは三本まとめて、この合成獣が持つ最後の頭──山羊の頭蓋に突き刺さった。倫太郎を背後から押し潰そうと前足を振り上げていたキメラが、今度こそ活動を停止する。

 

「……なるほどね。あと、今ので貸しは無しだからね?」

 

 ズン、と完全に動作を停止した巨体が斃れたのを見て、楓は少しだけ得意げな声色で言ってやった。いつも差を感じてしまう倫太郎に勝った気がしてご満悦なのだ。嬉しいのだ。

 

「あ、ありがとう。今のは見えてなかった」

 

「うんうん、素直でよろしい。こんな奴に奥の手を使っちゃったのは失策だったけど……まあ、無傷でくぐり抜けられたから良しとするか」

 

 持ち込んできた手榴弾はかさばるのもあって、今のが最初で最後だ。

 「強化」しか魔術を使えない楓としては、ただピンを抜くだけで一流魔術師にも相当するほどの爆発を引き起こせる現代兵器の存在は心強い。できればマリウスとやらとの対面まで取っておきたかったというのが本音だ。

 

「君はどうも、自分の魔術に兵器やら武装やらの類を絡ませるのが好きみたいだけど……なんで、いつも中途半端にグレネード系だけなんだ? 拳銃とか機関銃とか、もっと極端にそういうのを使えばいいじゃないか」

 

「分かってないわね。私はね、忍びの末裔である志原の血筋に誇りを持ってるの。だからわざわざこんな格好してるし、武器だってそういうイメージからかけ離れないものしか使わない」

 

 楓はキメラの死骸から三本のクナイを引き抜き、それらを倫太郎に向けて見せる。

 

「そりゃあ、こんなの投げるより銃の方が強いのは明白だけど……単に銃をぶっ放す奴なんて、ただの殺し屋かテロリストじゃない。それはもう「志原の魔術師」じゃないの。ここまで築き上げてきた志原のイメージを私がぶっ壊したら、ご先祖様に申し訳が立たないわ」

 

「僕にはピンとこないけど、志原には志原なりの矜持があるんだな」

 

「簡単な話よ。アンタの魔術も剣術じみたところがあるでしょ? それを急に「やっぱ剣とか格好悪いから魔道書にしまーす!」なんて言ったら当然怒られるはずよ。それと同じ」

 

 存外分かり易い答えに、なるほど、と頷く倫太郎。

 

「ちなみに、携行型の爆弾とかは私が思い描く忍者像にギリギリ入ってるんじゃないかな……と思うから、あれはセーフよ」

 

 コミックじゃあるまいし、江戸時代にわざわざ目立つ爆発物を君のようにポンポン投げていく忍者がいるかい。

 倫太郎は内心そうつっこんだが、志原のイメージを残酷な現実でぶち壊すのは忍びないので言葉にはしなかった。

 ちなみに──実際には"忍者"にも色々あり、かつては爆発物どころかミサイルを乱射するロボ忍者まで存在したことは、倫太郎も楓も知らないことだ。

 

「ってか、私のことはどうでもいいの。問題はアンタの方よ、倫太郎」

 

「え……僕?」

 

「そう。アンタ……顔が真っ青じゃない。さっきも魔術行使に手間取ってたみたいだし、まさかここまで上がってくるのがキツかった?」

 

 楓の瞳には、色々な感情が揺れているようだった。

 魔術師としての才に恵まれた倫太郎が、これ程のことで根を上げるわけがないのに──という疑問と。

 そんな彼にだって限界はあるし、彼が担当する結界破りは自分が想定するより困難で過酷な作業だったのかもしれない──という不安と。

 得意げで、若干勝ち誇ったように言っているけれど、楓の奥底で揺れているのはその二つ。何だかんだ言って、彼女は誰にでもお人好しなのだ。

 

「別に、ちょっとくらいなら休んだって……」

 

「いや、問題ない。どうせいつか言うんだろうと思ってたし。君にも話しておいた方がいいかもしれない」

 

 それとも、ずっと昔に話しておくべきだったのだろうか。

 自分が抱える最大の悩みにして弱点を。

 思い切って、信頼できる誰かにそれを告げてしまえば──魔術を嫌う自分は変わることができるのだろうか。そもそも「自分」というものが希薄な倫太郎には、答えを出そうとしてもよく分からなかった。

 

「何を? それがアンタの不調と関係あるの? まさか、今の今までの強行突破で魔力が切れちゃったとか?」

 

「まあ正直、魔力の消費も馬鹿にならないんだけどね……。ここまで八十二の結界を破るのに、既に魔力の半分以上を持ってかれてるし。でも、それは大元の原因じゃないんだ」

 

 魔力の約五分の三を失ったとはいえ、倫太郎の魔力貯蔵量は他者と比べても群を抜いている。

 数多の結界に対して適切な正攻法を無視し、時間をかけないゴリ押しの突破を許すほどに、その貯蔵量は底無しだ。若干心もとないが、それでも殆ど使用しない予備タンクまで動員すれば、少なくとも並みの魔術師十人分程度の魔力を使えるだろう。

 

「一番問題で、厄介なのは──」

 

 倫太郎が、忌々しげに自らの弱みを語ろうとした時だった。

 

「……待って。誰かいる」

 

 倫太郎がフロアの端で動く小さな影を見つけた。階段付近にいるその影も同様にこちらを見ているらしく、向こうからの視線を感じる。

 敵か、と身体を叱咤して構えかけた倫太郎だったが、その視線に殺意や敵意といったものは含まれていなかった。

 それに少し呆気にとられて、倫太郎は木刀を握る力を抜く。

 

「ねえ。あれ、子供じゃない?」

 

 たしかにそのシルエットは小柄だった。同年代と比べても背丈が小さめな楓だが、それよりももっと背が低い。

 

「まさかこんな所に……でも、確かに……」

 

 その影は何を思ったのか、突然こちらに向かって歩いてきた。

 ぺたぺた、と床を踏みしめる音。その音から察するに靴やサンダルは履いておらず、素足なのかもしれない。そんなことを考えているうちに、その少女はその姿を彼らの前に晒してみせた。

 

「「……………………」」

 

 二人とも、何を言えばいいのか分からなかった。

 銀の髪に、赤い瞳を持つ少女だ。患者衣に似た、白く透き通るような服を着ている。袖の先から覗く肌は雪のように白く、まるで冬の妖精か何かのように思える可憐さがあった。

 

「この子、なんだと思う?」

 

 楓が思わず倫太郎の方を向いて尋ねる。

 

「分からない。けど、結界内にいるってことは間違いなくマリウスの関係者なんだろうけど……でも、敵ってわけでもないみたいだし」

 

 少女は若干の距離を置いて、こちらに必要以上に近寄ろうとはしない。遠巻きに観察している、というのが正しい距離感だ。

 もっとも観察しているのはこちらもであり、互いに互いをじっと見つめ合うという、なんとも言えない状況が続く。

 

「……ね、ねえ、どうしよ。このままあの子と見つめ合ってても時間が無くなるだけよ」

 

「ぼ、僕だって分からないよ。もしかしたら保護すべきかも」

 

「保護ったってそんな余裕、今は……」

 

 ちょっと混乱した二人が、思わずひそひそ話を始めた時だった。

 怪音があった。何かが軋むような、響くような音が連続する。

 音源は彼らの頭上から。それはまるで何かを力いっぱい殴りつけるような、そんな荒々しいもので──、

 

「──志原っ、上だ‼︎」

 

 悪寒を感じた倫太郎が咄嗟に上を見上げた瞬間、それは来た。

 凄まじい轟音と共に天井が破壊され、現れた何かが倫太郎たちと少女の間に着地する。ズン、という重々しい音は、まず間違いなく敵対者が床を踏みしめた音だろう。

 新手か、と距離をとって体制を整える二人。

 

「次から次へと! 今度は一体何……」

 

「──大馬鹿が‼︎ お前にはじっとしていろと言ったはずだ、なのに何故こうしてわざわざ敵の前に出てくる⁉︎」

 

「「へ?」」

 

 戦闘態勢にあった倫太郎が驚いたのも当然だろう。何故なら、立ちこめる砂塵の奥に霞むその人影は倫太郎たちに背を向けて、その少女を叱りつけたからだ。

 

「……ちょっと、気になったんだもん……」

 

「気になったからなどで済ませるな、たわけ‼︎ 知的探究心の求道は魔術師の性だが、お前は魔術師ではないだろうに……‼︎ ええい、とにかくお前は上に引っ込んでおけ。いいな⁉︎」

 

「ひえっ」

 

 いつも盾にしているバーサーカーがいないので、少女はおろおろと目線を彷徨わせつつ、男の言葉に従って階段の方へと走っていった。

 ぺたぺたぺた……という足音が遠ざかっていき、倫太郎たちがいるフロアに静寂が訪れる。

 

「──お前が、バーサーカーのマスターなのか」

 

 静寂を破ったのは、倫太郎の一言だった。

 狂戦士を使役するマスター、「魔石の担い手」たる異名を持つ男。

 その名をマリウス・ディミトリアス。この結界内にいる男とくれば、まず間違いなくそれを構築した彼に他ならないだろう。

 しかし、倫太郎はそれを確認せざるを得なかった。

 何故なら──彼の身体が、その脳天から爪先に至るまで、SFのロボット兵士じみた金属鎧で覆われていたからだ。ヘルメット風の兜に入った細い切れ込みの奥に、生気に溢れた双眼が覗いている。

 魔術師にしては登場する世界観を一つ二つ勘違いしているような、そんな奇妙な風体だった。

 

「如何にも。些細なトラブルはあったが……歓迎するよ、繭村倫太郎」

 

 倫太郎は木刀を油断なく構えつつ、

 

「随分と魔術師らしくない格好だ。かの"魔石の担い手"が得意とする魔術系統に、近代工学なんて無かった筈だけど」

 

「ハッ、これはれっきとした魔術礼装(・・・・)だとも。たしかに、側から見れば近代のパワードスーツ……アレに酷似している事は認めよう。だがその頑強さも出力も、現存の科学などとは比べ物にならんと自負しているさ」

 

 マリウスの出身は鉱石科だ。そして彼の一族であるディミトリアスは、古来より金属加工を主とする一族と聞いている。

 その魔術の研鑽が、天才たるマリウスの代で飛躍的に進み──このような未知なる魔術礼装を生み出した可能性はあるだろう。魔術も科学も、合理性と実用性を付き詰めれば、終着点や結果は似通ったものになる……そんな学説をどこかで読んだことを思い出した。

 とにかく。マリウスが虎の子の魔術礼装を持ち出して姿を見せたとなれば、起こりうる事はただ一つだ。

 

「貴殿ら繭村一族が極めし熾刀魔術。──英国にさえその名を轟かせるその魔術、是非とも体験したく。ここは英霊を率いる魔術師同士、潔く決闘を始めるとしよう」

 

「お前は色々と気に食わないけど……礼を重ねてそこまで言われれば無視できない。繭村の魔術師として、その決闘を受諾しよう」

 

 マリウスの背丈は倫太郎より15センチほど高く、さらに全身を金属の塊で覆っているだけあって、その威圧感は尋常ではない。

 あれ程の強さを誇るバーサーカーを使役しながら、何故これほどの余力を持っているのか。

 かねてよりの疑問が頭をよぎったが、倫太郎はそれを無視する。

 そんな事を考えている暇はない。

 この男は強敵だ。時計塔に名高き「魔石の担い手」の異名は伊達ではない。全身全霊でマリウスとの魔術戦を制し、暴れ狂うバーサーカーを止める。

 そんな事を考えながら、倫太郎は一歩前に踏み出す。

 

「ちょっと。勝手に盛り上がってんじゃないわよ魔術師ども」

 

 そこに、イライラした口調の楓が口を挟んだ。

 

「なにが決闘よ古ぼけた騎士の真似事かっての。魔術師としてそういうしきたりに従うのは分かるけどね、私はそういうの無視するから。だってそいつの言い分だと、私は魔術師ですらないらしいし?」

 

 魔術師同士の決闘は、ロンドンなんかじゃ今でもたまに起こったりするらしい。そういう時は、お互いに家名を名乗り合い、そののちどちらかが破れるまで互いの魔術で競い合うのがセオリーとされる。

 とはいえ──それは昔からの風習にうるさい魔術師が勝手に守っている、暗黙の了解のようなもの。

 当然、楓のようにそんなのどうでもいいと思っている者もいる。

 本音を言えば、倫太郎もそういう堅苦しい儀礼や形式は苦手とするところだ。繭村の当主として振る舞う上では、どうしても避けては通れぬ道ということは理解しているが。

 

「当たり前だろうが半端者。決闘ののち、貴様は問答無用で殺す。貴様がこの場所にいる事が既に、私に対する最大限の侮辱と知れ」

 

「……いい加減にあたまにくるわねアンタ。いいわ、泣いて謝るまでボコボコにしてあげる。倫太郎、アンタも手伝うのよ」

 

 さも当然のようにこちらを振り向くので、倫太郎は苦笑してしまった。

 

「結局そうなると思ったよ。──別に僕は口出ししない。君は好きなように動いて、好きなように暴れなよ。そんでもって、君の拳であいつの奥の鼻っ面を凹ませてやればいい」

 

 こんな状況でありながら、倫太郎は久しぶりに笑った気がした。

 今までのように争わず、楓と肩を並べて戦うのが──どうにも、倫太郎には楽しく思えたのだ。



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六十話 魔術式強化外骨格(オリカルクム・フルアーマー)/Other side

 倫太郎と楓が床を駆けて、左右から同時に襲いかかる。

 マリウスの眼はそのさまをしかと捉えていた。魔力による動体視力の強化だけではない。彼の全身を包む礼装は、単なる運動能力だけではなく、使用者の神経伝達速度さえも引き上げてみせる。

 全身を魔術で形成した特殊合金の鎧で包むという、いかにもな外見の重々しさに反して、マリウスは軽やかに初動へ移る。

 その、まず最初の狙いは──、

 

「っ……⁉︎」

 

 こちらの右手から回り込んでくる楓だった。

 身体を並みの人間には再現できない速度で反転させ、右の拳を振り上げる。重々しい外見に反し、そのあまりの俊敏性──楓はおろか、倫太郎にすら予想できなかった。

 驚愕に楓の目が見開く。回避が間に合うのか否かという事が脳裏によぎった瞬間には既に、彼女の頭上に拳が振り下ろされていた。

 

「が────ッ、ぎ⁉︎」

 

 凄まじい金属音。楓の口から押し殺したような悲鳴が漏れる。

 楓が咄嗟に頭上で交差させた両腕、そこに嵌められていた白籠手と、想像もつかない威力を誇るマリウスの鉄拳が激突したのだ。

 その衝撃は彼女の小さな身体を伝播し、特に両の腕に甚大なダメージを刻み込んだ。たった一撃で骨が軋み、強化しているはずの腕がへし折られそうな激痛が走る。

 

「志原────‼︎」

 

 想像以上の可動性に冷静さを欠いた倫太郎は、マリウスの背後から木刀を叩き込む。

 だが、しかし──。

 

「う、ぐ……⁉︎」

 

 倫太郎の木刀は──"概念切断"に特化した倫太郎の熾刀魔術は、強固なマリウスの礼装を破ることができなかった。焔を纏って振り払われた木刀はしかし、甲高い音を立てて弾かれる。

 いくら武器が強化を施しただけの木刀とはいえ、倫太郎の才覚は常軌を逸している。それだけでコンクリート塊を容易く両断する事が可能とされるほどだ。

 それでも、この鎧は──……あまりにも硬すぎる。

 

「バカな。それがあの熾刀魔術だと? 我が珠玉の結界を切り裂いた、あの? ──ふふ、はははは‼︎ 未だもって我が礼装とディミトリアスの家名を愚弄するか、繭村‼︎」

 

 マリウスの言葉には怒りと失望が込められていた。彼は知っていたのだ。自らの結界を切り裂いた、かの倫太郎の剣の切れ味を。

 しかし、これはどうだ。

 魔術回路の励起も中途半端、定められた動作も不十分。熾刀魔術が持つ本来の性能を、まるで引き出せていない不出来な魔術。

 私はこんなものが見たいのではない──という激昂の一声とともに、マリウスは腰をひねって器用に後ろ蹴りを放つ。

 

「ぐがっ⁉︎」

 

 それは咄嗟に防御に回した木刀ごと倫太郎を吹き飛ばし、痛烈な衝撃を叩き込んだ。

 

「うぐ……ぁ……、く……っ‼︎」

 

「チ、まだ潰れていないか。無駄にしぶといところも害虫に似る」

 

「や、かま、しいっ……私を、あんまり、舐めるな……‼︎」

 

 回路の回転数を上げて、四肢の「強化」の精度を引き上げる。

 その強化精度は瞬く間に危険域に達した。少しでも集中を緩めて魔力の制御を手放せば、四肢の筋繊維がめちゃくちゃに引き裂かれるだろう。例えるなら、強化に失敗したガラスが粉々に砕け散るのと同じことが自分の身体で発生する。

 が──そんな失敗、もう何十回と繰り返している。

 倫太郎が成功を積み重ねる魔術師なら、楓は失敗の果てに成功を掴む魔術師だ。もはやそんな危険性は無いに等しい。勝つ為に強化精度を可能な限り引き上げていく。

 

「あ、あ、ううああああああああああああああ……‼︎」

 

 上からの圧力でまともに動かなかった足が、辛うじて動き始める。

 ギギギ……と、楓の動きを止めさせていたマリウスの腕が、少しづつ上がっていく。単純な力比べにおいて、楓の膂力がかすかにマリウスの礼装機能を上回ったのだ。

 

「小癪な。貴様如きが我が礼装の自律強化性能を上回るか」

 

 だが──上からの圧力により動けない楓と違って、マリウスは自在に動ける。

 それが何を意味するのか、楓は次の瞬間に思い知らされた。

 動けない楓に、マリウスは容赦のない前蹴りを叩き込んだのだ。

 小さな身体がくの字に折れ曲り、楓は悲鳴すら上げられずに床を何回か転がって停止する。

 

「お、ま、えェェェェェっ────‼︎‼︎」

 

 再度、倫太郎が床を蹴り飛ばしてマリウスに肉薄する。

 魔力回路の回転率はどうあがいても30パーセント以下。ぎり、と歯を食いしばって魔術への嫌悪感を噛み殺し、繭村の熾刀魔術を組み上げる。

 二度目の攻撃に際し、倫太郎は己の攻め口を変えていた。

 繭村の起源である「切断」。それが通用しないとなれば、頼れるのは自らが持つ「属性」──彼の場合は火、すなわちは(ほのお)である。

 彼が熾刀魔術を行使する際に発生する焔は、一流魔術師の火焔にすら相当するものの、どれもが副産物に近しいものだ。「切断」という結果を発生させる過程で生じる、彼が持つ属性の発露。

 熾刀魔術を行使する上で本来重要視するべきは「属性」ではなく彼の起源であるため、普段はさして気に留めない。

 しかし──この時においては、それがもう一つの武器になる。

 

「むっ……⁉︎」

 

 突発的に膨れ上がった火焔が、マリウスの体を呑み込んだ。

 金属の塊に全身を包まれたままそんなことをされれば、中の人間は蒸し焼きだ。

 だが──、

 

「この私を甘く見たな、繭村の」

 

 赤い火焔を引き裂いて、倫太郎に伸ばされた腕があった。

 それは倫太郎の頭をむんずと掴み、宙に吊り上げる。掴むといっても、その握力はもはや常人のそれではない。ヒトの頭蓋骨すら容易く砕く、圧搾機じみた握力だ。

 

「ぐが、あ゛ぁぁあ゛ぁぁぁぁぁぁ……っ⁉︎」

 

 楓が痛みを無視してはね起き、倫太郎に向けてひた走る。

 それを視界の端で捉えたマリウスは、片手で掴んだ彼の身体を勢いよく投げ飛ばした。倫太郎の身体が楓に激突し、彼らはそろって後のない壁際まで転がっていく。

 

「ゲホッ、ゴホッ‼︎ 悪い、志原……」

 

「だ、大丈夫……それよりあの変な鎧、なんなの……⁉︎」

 

 恐らくは特殊鉱石の一種だろう。門外不出とされる数百に及ぶ工程と、材料となる数十種の金属を積み上げて、ようやく数グラム抽出できるかといった超希少魔金属。

 "魔石の担い手"……マリウスの手によって作り上げられたそれは、通常の自然法則では生み出されない頑健さを誇る。

 

これ(・・)の完成には、我がディミトリアス家の全財産の実に半分を注ぎ込んだ。更に費用だけでなく、各方面の優れた礼装技師から技術提供も受けて完成させた逸品だとも。魔術師とはいえまだまだ青い子供二人、容易く破れるとは思わないことだ」

 

 正式名、魔術式強化外骨格(オリカルクム・フルアーマー)

 ディミトリアス家秘蔵中の秘蔵──これが時計塔の学議で公表されれば、鉱石科における礼装開発の次元が一つ二つ跳ね上がるだろう。

 神代の神鉄の名を冠するにふさわしく、この礼装はマリウス自ら作成した特殊合金で形成されている。鋼鉄の数倍に及ぶ堅牢さに加え、随所に仕込まれた対属性ルーンが魔術や呪詛の類すらも無効化する。

 まさに歩く人間城塞を作り出す、鉄壁の礼装と言えただろう。

 

「……成る程、ディミトリアスの一族がそれほど情熱を傾けた礼装とはね。ソレが堅牢なのも頷けるよ。素晴らしい技術だ」

 

「フ。あまりそう褒めたものでもない。いくら硬いとはいえ、私が敬愛したケイネス氏の傑作……「月霊髄液」の利便性と自律防御には及ばないだろうから、な」

 

 ゴキン、ゴキン、と金属の鎧を唸らせて、マリウスは笑う。

 

「倫太郎、このままじゃジリ貧よ。一度体制を立て直さないと……」

 

 蹴りを叩き込まれた脇腹を抑えながら、楓は苦しげに顔をしかめて提案する。

 倫太郎もそれには同意だ。一度退いて何か対策を練らないと、打開策なんて出てきそうにない。このまま嬲り殺されるのが関の山だろう。

 

「だがな、勘違いしてもらっては困るぞ。私がこの礼装を組み上げる上で焦点を置いたのは、そもそも「防御性能」ではないのだから」

 

 そんな焦燥に駆られる中、マリウスが動いた。

 すう、と彼の両手が掲げられる。倫太郎は同時に発せられたマリウスの言葉を聞いた瞬間に、何か嫌な予感を感じ取っていた。

 

「防御性能はあくまで二の次。私が真に求めたものは至極単純でね。敵対者を問答無用に屠り去る……」

 

「まずい志原っ、こっちに──‼︎」

 

「──……絶対的な「火力」だよ」

 

 

 倫太郎の言葉が言い終わらないかといったタイミングで、マリウスの掲げた両掌が光を放った。

 閃光が瞬いた瞬間──。

 銃弾に等しい速度で、高密度に圧縮された魔力弾がマシンガンのように撃ち放たれる。色とりどりの光弾はそれだけが壁を穿つ威力を誇り、倫太郎たちが立っていた壁際に残らず着弾した。

 

「………………」

 

 瞬く間に蜂の巣にされた壁面は砕け散り、灰煙が膨れ上がる。

 だが、マリウスは手応えを感じていなかった。煙の向こうに霞むのは瓦礫の山だけで、倒れ伏す人影はなく──。

 

 

 

 

「「はあっ、はあっ、はあっ……‼︎」」

 

 荒い呼吸が二人ぶん、照明がまばらについた薄暗闇の中に響いている。

 倫太郎が咄嗟に床を破壊し、下のフロアに転がり出た彼らは、そこから更に数階ぶんの階段を下っていた。

 辺りには数多のデスクが配置され、楓が読んでもちんぷんかんぷんな書類やらパソコンの類やらが散乱している。彼らは結界が構築されていた空きテナント階のさらに下、昼間は普通の会社員が詰めているフロアにまで撤退してきたのだ。

 

「くそッ、無茶苦茶だあんなの。個人使用の礼装にしては性能が高過ぎる‼︎ まるで戦車じゃないか……‼︎」

 

「あ、アンタっ、んなことより傷は……」

 

 楓が目線を向ける倫太郎の肩口には、うっすらと血が滲んでいる。

 避けきれなかった魔弾の一発が、倫太郎の肩肉を抉り取ったのだ。

 

「……こんなのかすり傷だよ。べつに、君が無傷ならいい」

 

「バカ。そんな顔でよく言えたわね。根がビビりなんだから強がってんじゃないわよ、こんな時まで……ほら、ちゃっちゃと見せて」

 

「大丈夫だよ、刻印があれば勝手に塞がるし後で治療だって……いででででわかった見せる見せる見せるから無理やり引っ張るな‼︎」

 

 血で張り付いたようなTシャツの袖をめくり上げ、楓は懐から取り出したハンカチを傷を抑えるようにぐるぐると巻きつける。その手つきは慣れたもので、止血の応急手当はすぐに施された。

 彼女の鍛錬には昔から傷が絶えなかったため、楓はこういった処置が得意なのだ。当の本人はそれが得意であることを悲しく思っているが、なんにせよ今はその経験が役に立った。

 

「つつ……ありがとう志原、助かったよ」

 

「別にどうってことないわよこれくらい。た、助けてもらったのはこっちもだし」

 

 素っ気なく呟いて、首元のマフラーをなんとなく弄ってしまう楓。

 照れたりすると口調がぶっきらぼうになるところは兄によく似ているのだが、本人は未だに気づいていない。

 

「それより倫太郎、アンタ一体どうしたわけ? 全然魔術回路が働いてないじゃない、自慢の魔術はどうしたのよ?」

 

「そ、それは……だね……」

 

 倫太郎は「やっぱりそう来るよなあ」と内心でげんなりしつつ、どうせ言わなきゃならない事だったし、と顔を上げる。

 自分が魔術に対して嫌悪感と恐怖を覚えてしまう、という事実。

 倫太郎が聖杯に勇気を願うきっかけになったその問題を、とうとう彼女に告白するときがやってきたのだ。

 

「────はぁ? 魔術が、苦手……?」

 

「だ、だから言ってるだろ。どうも、魔術を使うのが僕は大の苦手なんだ。そういう人種なんだよ、無理に拒否反応を抑えつけようと何度も試みたけど無駄だった。アレルギー反応みたいなものさ」

 

 そうして打ち明けた彼の悩みに対し、楓は思わず大声で素っ頓狂な声を出してしまった。

 何度か聞き直して聞き間違いの類ではないことを確認したあと、楓はじいっと倫太郎の瞳を覗き込む。てっきり笑われるか馬鹿にされると思っていた倫太郎は、逆に呆気にとられてしまった。

 

「びっくりした。まさか、よりにもよって魔術の神様の大のお気に入りみたいなアンタが、その実魔術が大の苦手だったなんて……」

 

 楓はぶつぶつと呟いたあと、倫太郎の顔にずいと自分の顔を近けけ、

 

「そもそも、なんでアンタは魔術を嫌うわけ?」

 

 それだけが分からない、と言った顔で聞いてきた。

 

「なんで僕が、魔術を嫌うか……?」

 

 そのあっけらかんとした問いは、何故か自分に一つの光明を与えてくれるような気がして、倫太郎は無意識のうちに拳を握りしめた。

 思ってみれば、そう確固とした理由があるわけではない。

 ただ、魔術を習った頃から、この感情はずっと胸の奥で燻っていた。

 いついかなる時も、魔術を使う事への恐怖が倫太郎の背筋に潜んでいた。

 その理由は──彼自身にもよく分からない。だから分からないなりに考えて、仮説じみた結論を出してみることにする。

 

「……ああくそ、ちょっと待ってくれ。頭がこんがらがる……ええと、まず僕が担う魔術は「熾刀魔術」。ありとあらゆるモノ、形のないものさえ切り捨てる物騒な魔術だ」

 

「そうね。単なる物理的な破壊に留まらない、いわゆる"概念切断"。それが倫太郎のもっとも得意とする魔術」

 

「けど、僕は同時に……その、認めたくはないけど臆病なんだ。さっきも君が言ってた通りだよ」

 

 自虐的な、どこか諦めたような声色で、倫太郎は続ける。

 

「僕はたぶん、僕自身の力が怖いんだと思う。どんなモノも容易く斬り伏せて、場合によっては命さえも斬り捨ててしまう、この抜き身の刃みたいな魔術が怖いんだ。これを極めた果てに、僕自身だけが食い潰されるくらいならまだいい。でも、僕が少し扱い方を間違えれば……こいつは、他人を容易く傷付ける」

 

「……ええ、そうね」

 

「それは」

 

 倫太郎は、無意識のうちに険しい表情を浮かべて呟く。

 

「それだけは……嫌なんだ。自分のため、家名のためにこの力を使って、自分じゃない他人を傷つけるのは。でも僕は魔術師だから、そうして生きていかなきゃならない」

 

 そもそも「魔術師」とは、ある種究極の自己中心的生物だ。

 自らの探求のために全てを費やす。その為ならば、どんな犠牲も被害も厭わない。ただ自分自身とその家系が良ければそれで良し、とする非人間の集団。

 そういった存在が、本来魔術師と呼ばれる人間なのだ。

 そして倫太郎は魔術師である。それも凡百の内の一人ではなく、繭村という大家の期待と未来を背負った、まだ若き十九代目当主だ。

 ならば、どうするのか。魔術師でありながら、まっとうな魔術師のように、自分の為にこの力を使いたくないのなら。

 自分は一体、誰のために魔術を使えばいいというのか──、

 

(じゃあ、なんであの日……ってのは、今は聞く時じゃないか)

 

 楓は今の切迫した状況を優先して、倫太郎に告げる。

 

「なによ、それじゃあどうすればいいかなんて決まってるじゃない」

 

「え?」

 

「アンタはね……たぶん魔術師じゃなくて、生まれついての魔術使い(・・・・)なのよ。自分の為じゃなく、他人の為でしか魔術を使えない奴。それを無理して魔術師であろうとするから、アンタは拒否反応に苦しむことになる」

 

 魔術師ではなく、魔術使い────。

 その言葉は、生まれた瞬間から魔術師であることを運命付けられた倫太郎にとって、まさに光明にも等しい一言だった。

 自分の中で何かが震えているのが分かる。この震えは歓喜によるものか、天啓を得た感動によるものなのか。ともあれ凄まじい衝撃と、目が醒めるような感覚を倫太郎が感じていたことは確かだ。

 

「……魔術、使い。そうか、魔術使いか、この僕が……」

 

「いい? とりあえず……これからずっと、とは言わないけど、アンタは今だけ魔術師をやめなさい。そうしたら何かが変わるかもしれないし、魔術を簡単に使えるようになるかもしれない」

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ、今から魔術師をやめる⁉︎ 僕が⁉︎」

 

「だから今だけだっての‼︎ いい倫太郎、アンタはまごう事なき天才なんでしょ。なら全力が出せたらあんな奴なんて怖くない。きっと勝てる、そうよね」

 

「また根性論みたいなコトを……そもそも、あの礼装は完全に規格外だ。個人が使用していいようなものじゃない。動く小型戦車みたいなもんだよ、アレ」

 

 あの性能の礼装を起動させるには相当の魔力を要するだろうに、マリウスに魔力が切れるような様子はなかった。それも奴は、既に魔力消費量の最も大きいバーサーカーと契約を済ませているのに、だ。

 そこに何かカラクリがある……筈なのだが、未だどの考えも仮説の域を出ない。

 

「大丈夫よ。私が太鼓判押してあげるから、アンタは自分の才能と力を信じてればいいの。んでもって、アンタがマリウスを倒せるとっておきの作戦を教えてあげる」

 

「僕が? さっき、僕の攻撃は通らなかったんだぞ」

 

「そりゃあ万全の状態じゃないからでしょ。本気の本気、100パーセントの力をぶつければ、あの礼装を突破できるかもしれないじゃない。んで、アンタが全力で魔術を振るうためには──」

 

 楓はそこで勿体ぶるように一度息を吸い込んで、

 

「とっても簡単よ。合図するから、私を守って(・・・・・)

 

 そう言って、にこりと笑ってみせたのだった。

 

 

 

 

 ゆっくりと階段を下って一階層ずつ敵対者の影を探していたマリウスは、薄暗闇の中に見える一つのシルエットを捉えていた。がらんどうの階層ではなく、平時はオフィスとして使われているのであろう、事務机がある程度規則的に配置された空間。そこに誰かが立っている。

 闇に溶け込むような黒装束。魔力で眼球の強化を施していなければ、恐らく発見は困難だっただろう。別段隠れているわけでもなく、堂々と立っているだけでこれ程の隠密性を発揮するのだから、志原一族の技術も侮れない。

 

「ここに居たか、コソコソ逃げ回るのは羽虫に似て鬱陶しい。いや、この場合はドブネズミといった表現が正しいか?」

 

「だ、誰がドブネズミよこの大ボケ‼︎ アンタ、後で床に頭擦り付けて土下座させてやるから覚えときないよ‼︎」

 

 憤慨する楓の側に、倫太郎の姿はない。

 大方どこかで隙を伺っているのか、志原の力を頼って姿を隠すとは繭村も堕ちたもの……とやや落胆しながら、マリウスは騒ぎ散らす楓に殺意の篭った目線を向ける。

 同時、彼の手のひらがすっ、と楓に向けられて──、

 

「死ね」

 

「うっ⁉︎」

 

 凄まじい面制圧力を誇るマリウスの魔弾が、楓に向かってばら撒かれた。

 驚きつつもそれを予想していた楓は身を翻し、事務机の向こうに姿を隠す。

 

(何を馬鹿なことを。たか机ごときで、我が魔術式強化外骨格(オリカルクム・フルアーマー)の攻撃を受け止められる訳が──)

 

 マリウスの礼装の向こうに覆い隠された眉が、困惑でぴくりと動く。

 彼の礼装は絶大な火力を誇る。膨大な魔力消費量を無視して放たれる掃射は、コンクリート壁ですら容易く穴だらけにするほどだ。

 だが、撃ち続けても、ごくありふれた事務机を破壊できない。

 

「これは、まさか……」

 

 無駄と悟ってマリウスが射撃をやめた瞬間、机の陰から楓が飛び出した。強化は万全に済ませ、目にも留まらぬ速度でマリウスに迫る。

 

「チッ‼︎」

 

 再びの斉射。が、楓は90度進路を変えて机の陰に飛び込み、迫り来る魔弾の雨をやり過ごした。

 ガガガガガガガガガ──‼︎ と弾が机の表面を叩く轟音を聞きながら、楓は我が意を得たりとばかりに笑みを浮かべる。

 

「成る程──ここら一帯の構造物全てに「強化」を施したか。これでは私の攻撃が貫通しない。随分と大それた事をしてくれたが、貴様の手によるものではあるまい」

 

「ええ、その通りよ‼︎」

 

 びゅんっ、と楓が机を飛び越えて、マリウスに迫る。

 

「これ程に障害物が多い中では、私の両掌もその性能を引き出せん。たしかに良い策だ。……だが、貴様は一つ忘れてはいないか──‼︎」

 

 対して、マリウスは立ち止まって掌を向けるでもなく、楓との最短距離を詰めるように床を蹴った。必然的に、二人は真正面から激突していく形になる。

 片や魔術による身体的強化、片や礼装による身体的強化。

 ほぼ同一の力を手にした二人の魔術師は次の刹那、真正面から己の拳を交わし合った。

 

「くう……‼︎」

 

 当然ながら拮抗とはいかない。基礎魔力の差に体躯の差──楓の拳の方が強く弾かれ、彼女は足元をよろけさせながら後退する。

 それは一瞬ながら、あまりにも致命的な隙だった。

 この瞬間に素早く足を踏み出して距離を詰め、マリウスが反対の拳を正確に振るっていたならば、楓はなすすべなく吹き飛ばされていただろう。

 だが、楓は攻撃を受ける事なく態勢を立て直し、再度マリウスに向かっていく。

 

「チ、小賢しい……‼︎」

 

 先程は真正面から向かっていった楓が、今度は攻め方を変えた。

 馬鹿正直な力比べを避け、周囲を跳び回りながら隙を伺う。薄闇に姿を隠しながら目にも留まらぬ速度で動くその様は、まさに本物の忍者のように見えた。今のマリウスが正確に捉えられるのは、彼女の姿の後を追うように揺れる首布くらいのもの。

 

「ふん、やっぱりね。アンタは魔術師であって、本来なら研究職の人間よ。いくら礼装で身体能力を引き上げたって、アンタの動きはただの素人と変わらない……」

 

 闇に潜む声が、挑発するように声を張り上げる。

 楓の目には、マリウスの動きが手に取るように理解できた。確かに速いし膂力も楓より上、しかし洗練されてはいない。そもそもアレが尋常ならざる火力特化で設計されている以上、使用者本人が格闘戦に臨むといった用途は想定されていないのだろう。

 つまりマリウスは、あくまで身体能力や火力に恵まれているだけ。

 動きがズブの素人のままなのであれば、充分に隙はある──‼︎

 

「この機会に教えてあげる。アタマ使ってばっかりで強くなれるほど、魔術師の現実ってのは甘くないのよ‼︎」

 

 振るわれるマリウスの両腕を掻い潜った楓は、瞬く間に敵の懐に潜り込んだ。

 文句なしのゼロ距離で、楓は強く強く脚を踏み出す。

 岩砕、とさえ倫太郎に思わせるほどの楓の拳が紅色の光を纏い、唸りを上げて放たれ──、

 

「随分と言ってくれるな」

 

 その瞬間、楓の顔が戦慄に歪んだ。

 タイミングは完璧、マリウスの技量では対処できるわけがない。

 しかしその右拳は、正面から受け止められて威力を失っている。

 突如として動きの鋭さを増したマリウスが、左手で楓の小さな拳を受け止めたのだ。まるで突然、何らかの武術の達人がマリウスと入れ替わったように、その動きには無駄というものがなかった。

 

「げぶッ⁉︎」

 

 凄まじい音が響いた。それが少女の体に突き刺さった拳が放つ音だと、誰が信じられただろうか。

 楓の身体が紙切れのように吹き飛ばされて、机に叩きつけられる。

 それもただの机ではなく、「強化」を施して硬度を増した物に、だ。

 

「フ。必死の工夫が仇となったか、哀れだな志原の」

 

「あぐ、ぇ……げほ、ごぼっ……‼︎ う、うる、さいっ……‼︎」

 

 胃液がせり上がり、中身をぶちまけそうになるのを寸前で堪える。

 たった一撃受けただけなのに、ダメージは甚大だった。背骨が折れなかったのは幸いだが、肋骨が2本ほどまずいことになっている。全身がバラバラになったような激痛も酷く、目の前がチカチカしたまま正常に戻らない。

 それでも歯を噛み締めて痛みを堪えながら、楓は身体をひきずるように立ち上がった。

 

 

 

 

「あいつ……合図とやらの前に、死んじゃうじゃないか……‼︎」

 

 机の陰の一角に姿を隠した倫太郎は、その様を窺いながら手の中の木刀を握りしめていた。

 マリウスに起こった異変は、倫太郎からも見えていた。

 奴の動きが突然素早くなったかと思うと、楓の攻撃を瞬時に読み切り、ぴたりと受け止めてみせたのだ。そのカラクリに、倫太郎は思い当たるものがあった。

 

(降霊術。あの分野の魔術は、前世の自分を自身に一時的に降霊させて、前世で修めた技術を習得したり……なんてことをするって本で読んだことがある。まさか、そっちの方面から技術提供でも受けてるのか?)

 

 その読みは的中していた。マリウスは今にも倒れそうな楓への死刑宣告代わりに、己が礼装の性能を自慢げに語る。

 

「アタマ使ってばっかり、などと貴様はほざいたな。心外だが、それは認めざるを得まい。我らは武道家にあらず、あくまで探求者にして研究職だ」

 

 どこかフラフラとしている満身創痍の楓に、マリウスは近づいていく。思わず倫太郎は飛び出しそうになったが、彼女の言葉を思い返して踏みとどまった。

 ──……言葉通り、志原は何があろうと守る。

 だが今では駄目なのだ。楓がそのタイミングを作ると断言した以上、倫太郎は彼女を信じて見守るしかない。

 

「だが……我らがディミトリアスを只の研究職と侮るなよ。己が道たる奇跡の探求を極めれば、たとえ常人が数十年を要して習得する技術であろうと、容易く手中に収めることが出来る。それが奇跡の担い手、魔術師というモノだ」

 

「じゃあ、アンタの……動きが、変わったのは」

 

「その通り。これも魔術の一環だとも。この礼装には高名な傭兵や数百年前の武術家といった者らの魂魄、その複製がインストールされている。場合に応じてそれらの魂魄を使用者に憑依させれば、それだけで彼らの技量を用いることができる訳だ。無論、過度に使い過ぎれば自己の魂魄が侵食されかねんというリスクは存在するが……それは今後の課題としよう」

 

 余裕の声色で語りながら、とうとうマリウスは楓の一メートル先まで歩いて来てしまった。礼装のスリットから覗く瞳は、俯いて表情を見せない楓を冷徹に見下ろしている。

 今のマリウスはただの魔術師ではない。

 その気になれば瞬時に最適な挙動を取り、楓の五体を滅茶苦茶に引き裂くだろう。しかし彼はそうしなかった。

 何故なら──、

 

「貴様の技量は高いんだろう。だがしかし、今現在の私の技量は、お前のそれを遥かに上回る。膂力、防御性能、技術、魔力、全てにおいて下回るお前が、私に勝利することはあり得ない(・・・・・)

 

 それはマリウスではなく彼の魂魄と溶け合った歴戦の何者かが判断した、絶対の真実だった。志原楓にはもう、マリウスを独力で倒すような可能性は残されていないのだ。

 だからマリウスは、この少女が脅威ではないと判断し、速やかに命を絶つことをしなかった。

 

 ──この時。

 マリウス・ディミトリアスという男が礼装の特殊機能を用いず、あくまで一人の魔術師として在ったならば、志原楓は今頃死んでいただろう。

 しかし今の彼は、技量と引き換えに、他者の魂魄を半ば憑依させている状態にあった。その冷酷さと合理性が、微かに薄れていたのだ。

 

式神跋祇(はっし)

 

 だからその言葉を──無駄な足掻きと受け取ってしまった。

 

強化(エンチャント)四連(フォース)

 

 "志原楓"は、確かに、マリウスという魔術師に勝てはしないだろう。

 だがその前提は間違っている。

 彼女は魔術師であり、この聖杯戦争におけるマスターだ。

 志原楓は最初から一人きりで戦っているのではなく、力になってくれる兄も魔王を名乗るセイバーも、共に戦う熾刀の魔術師も、陰陽師のキャスターだって存在する。

 だから間違っているのだ。才能も無く、強い弱いで言えば決して強くはない志原楓という少女を、過小評価するのは愚策だった。

 彼女の力を測るのなら、その全てを勘定に入れるべきなのだ──。

 

「ぬ、ここに来て不意打ちとは無駄なコトを……‼︎」

 

 油断を誘った楓が、過去の再現と見まごうほど正確に、体に染み付いた動作で一歩を踏み出す。

 そこから放たれるのは、先とまったく同じ軌道の一撃。

 身体に残るダメージからするに、これが最後の攻撃になるだろう。

 だが同じなのであれば、防げない道理はない。マリウスの防御は正確かつ的確に楓の拳を受け止め、その衝撃を無に帰す──筈だった。

 

 コンマ一秒にも満たない、痛烈なインパクトの瞬間。

 楓が両腕に装着した、マリウスとは異なるもう一つの魔術礼装が、主の警句に合わせて起動した。



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六十一話 魔術師の矜持/Other side

『なんとか工夫を凝らして完成したでえ、楓ちゃん。はいこれ』

 

 聖杯戦争が始まって幾ばくもしない頃。キャスターから突然手渡されたそれを、楓は首を傾げながら受け取っていた。

 見るに、両手に装着して使う類の籠手に見える。

 その色は純白、という言葉が似合うくらい真っ白で、凹凸の無い滑らかな表面が特徴的だった。構築している物体が金属ではないのか、金属光沢のようなものは見られない。

 

『なにこれ? 籠手? 私が使うの?』

 

『その通り。聖杯戦争に参加してもうた以上、君自身が戦う事も避けられんやろ。そういう時のための備えっちゅうわけやな』

 

 扇をぱちんと鳴らして、キャスターはにやりと笑う。

 

『名前はつけんの面倒くさかったから無いけど、性能は自信アリやで。なんと、楓ちゃんの魔術を瞬間的にサポートして、サーヴァント級の筋力を再現するっちゅう代物や』

 

『へえ、なんかすごいのね。……うん? どう使うのこれ?』

 

 「なんやリアクションが薄いなあ」と結構本気で残念がったキャスターだったが、楓は目の前に差し出された自分用の礼装を早速白籠手を嵌めて拳を開閉している楓を見て、なんとか気を取り直す。

 

『使い方自体は簡単や。式神跋祇(はっし)の一言を唱えてから、強化(エンチャント)、◯連……みたいな感じで唱えればええ。そしたら君の拳打はその一撃のみ、サーヴァントにすら匹敵する威力になる。楓ちゃんへの反動(フィードバック)も考えて、一度使ったら三十分はロックがかかる仕様になっとるんで、使い所は考えてな』

 

 礼装が発揮する威力については、詠唱の内容によって変化する。

 例えば一連ならサーヴァントにおける「筋力D」相当、三連であれば「筋力B」相当となる。四連であれば最高ランクともなるAだ。

 

『ただ──……最後に行っておくと、この礼装が再現可能なのは五重(・・)までなんやけど、基本的には四連までしか使わないこと』

 

『な、なんで? 四連ですら、一瞬だけどサーヴァントにおける最高ランクの筋力を再現できるんでしょ? 五連なら……』

 

『だからこそ、や。まっとうな人の身にAランクの筋力を宿す四連ですら、発動すれば相当な負荷が掛かると予想されるんや。その上をいく五連を発動したら、楓ちゃんの腕がどうなるかわからへん。最悪、使った後には腕がグチャグチャに弾けてるかもしれへんねん』

 

『な、なんでそんな物騒な機能付けてるのよ⁉︎ 使えるわけないじゃないそんな自爆じみた攻撃‼︎』

 

『いやね、そこはくりえいたぁ(・・・・・・)の性っちゅうか、耐久度とかを度外視して限界を目指したい男のろまんっちゅうかね、まあそんな感じや。──とにかく、楓ちゃんが覚えとくんは一つだけ。使うとしても四連まで、分かったかいな?』

 

 

 

 

 楓の拳を、マリウスが受け止めたその刹那──。

 キャスターの礼装が効果を発揮し、楓の筋力を向上させている徒手魔術の性能が、ほんの一瞬だけ爆発的に引き上げられた。

 その詠唱に謳われた言葉は、四連。

 サーヴァント中最高ランクに位置する筋力をもって、楓は全身全霊の拳打をマリウスに叩き込む。たとえ防御されるならば、それすらまとめて押し通せばいい──彼女の頭にあるのはそれだけだ。

 

「まだこんなものを隠しッ……お゛お゛ぉぉぉぉぉぉぉッ⁉︎」

 

 ズドン、という大砲をぶっ放したような轟音が炸裂する。

 その一撃はもはや拳打などという威力を振り切っていた。

 自重であれば数百キロにすら及ぶマリウスの身体が、浮く。あまりの衝撃はガード越しに礼装全体を通り抜け、身体中の各所から魔鉄が軋み、ひび割れる破砕音が響き渡った。

 

「……アイツばかり警戒して、私に意識を向けるのを怠ったわね。ここを登ってくるときに何度か、ネタばらしは済ませてあげてるんだけど‼︎」

 

 ビキビキビキビキビキ‼︎‼︎ という耳障りな音を立てて、マリウスの無敵を誇る礼装が砕けていく。

 特に大きな亀裂が走ったのは、楓の拳を受け止めた両腕。

 それは二の腕から肩にまで伝播し、正常に働いていた両腕の機能を機能不全に陥らせる。

 

「……貴様ッ‼︎ しィ、は、らァァァァァァァァァァッッ‼︎」

 

 しかし足りない。マリウスの戦闘力は未だ健在だった。

 楓の決死の攻撃は、魔術式強化外骨格(オリカルクム・フルアーマー)の腕部における動作機能を七割破壊するだけに留まった。

 かの礼装はまだ動く。

 もはや無防備な楓に、マリウスは自慢の礼装を破壊された事に対する激昂を込めて、魔鉄の拳を振り下ろした。

 

「──倫太郎‼︎」

 

 その瞬間。マリウスの防御に亀裂が入り、その意識が怒りから完全に楓に向けられた絶好の瞬間に。

 "合図"を受けた倫太郎が、楓が叩きつけられた事務机の陰から飛び出していた。

 その位置関係は、完全にマリウスの正面。

 最初から想定していた倫太郎と違い、突然目の前の机を飛び越えて姿を現した倫太郎に、マリウスの対処は間に合わない。

 

「剣鬼、抜刀」

 

 空気が熱せられ、渦を巻くように吹き荒れる。

 その熱源は倫太郎の木刀。彼の「熾刀魔術」の完成が成され、灼炎を纏った刀身が煌々と光を放っていた。

 倫太郎は机を蹴り飛ばし、一息でマリウスの懐の中に潜り込む。

 の動きに迷いはない。魔術に対する拒否反応も抑えられている。魔術回路の回転数は七割以上にまで立ち直った。

 

 何故なら倫太郎は、今までしてきたように、「自分のため」に魔術を行使しているのではない。

 この魔術は、後ろの楓の為に振るうものだ。

 

 魔術師であらんとする自分を捨てて、魔術使いとして魔術を使う。その決意だけでこれ程スムーズに魔術行使が行えるとは、倫太郎自身予想していなかった。

 

「繭む──……⁉︎」

 

 言葉すら吐かせない一閃。下から上へと円弧を描いて振り抜かれた強化木刀は、亀裂の入った魔術式強化外骨格(オリカルクム・フルアーマー)の装甲を突破し──鉄壁の向こう、マリウス本人の身体に届いた。

 その傷はほんの微かなもので、致命傷には至らない。

 しかしもう、倫太郎が刀を再び振るうことはなかった。

 

「──終わりだ、マリウス・ディミトリアス。勝負はついた」

 

 切っ先を向けられたまま、マリウスは首を振ろうとする。

 何を馬鹿な、たかがこの程度の傷で勝ったとほざくとは愚かにも程がある。憎き志原の一撃によって腕部の機能はかなり失われたが、まだまだマリウスには戦う意思が残っていた。

 しかし──それを遮るように、彼の礼装が突如として機能を失う。

 がくん、と膝をついた彼は、そのあり得ない挙動不全に愕然として言葉を失った。

 

「……私に、何をした?」

 

 倫太郎はマリウスの眉間に剣先を向けたまま、油断なく語る。

 

「"概念切断"……貴方なら聞いたこともあるだろう。これは物理的な切断じゃない。たとえ見えない対象であろうと、「切断」の起源を押し付けて断ち切る異能の刃。それが繭村の魔術だよ」

 

 繭村の概念切断は物理的な切断と違い、倫太郎にとって「存在する」と判断できるものであれば、刃による干渉を可能とする。

 もっとも、見えないモノに対する切断の難度は非常に高い。起源である「切断」の魔術による発現を何のリスクもなしに行えるのは、倫太郎の類い稀な才覚と努力あってこそだった。

 

「それをもって、貴方の魔術回路の七割を切断した。その礼装が貴方の魔力で駆動しているのなら、もうソレは動かない」

 

「……道理で魔力が正常に回らない訳だ。肉を斬るでもなく、魔術師の生命とも言える回路に狙いを定めたか」

 

 その言葉が正しいと告げるように、マリウスは自ら礼装の最終機能を用い、全装甲をパージした。彼の現魔力量では、まともに礼装を駆動させる事は困難だったのだ。

 蒸気とともに礼装が無数の部品に分かれて分解され、マリウスの周囲に重々しい音を立てて落下する。

 

「知ってはいたが、これが噂に名高き繭村の──ゴフッ⁉︎」

 

 魔鉄の奥から、彫りの深い三十代と思しき茶髭の西洋人が姿を現したかと思うと、彼は突然として血を床にぶちまけた。

 傷は浅い。しかし、彼の全身を貪り喰らうような激痛は、マリウスの肉体と精神を同時に苛んでいた。マリウスはくぐもったような悲鳴を押し殺しつつ、倫太郎と楓を睨みつける。

 最初は突然の吐血に驚いた楓だったが、その様には見覚えが……正確には、実際に経験した記憶があった。魔力残量が足りない状態で無理にサーヴァントが活動する事による、魔力不足症状だ。

 

「今すぐ投降して、バーサーカーを自害させるんだ。今の貴方じゃ、バーサーカーに回す分の魔力は精製できない。ロンドンに帰りさえすれば魔術回路の修復は行えるだろうけど、そのまま契約を続ければ、魔力を搾り取られて死に絶えるんだぞ」

 

「ク、ぐ……魔力が三割以下の状態では……確かに、あの狂犬を従えるのは随分と堪える。やってくれたな、繭村……‼︎」

 

 この事態を最初から予想していた倫太郎は驚くこともなく、どこまでも冷静に、マリウスを見下ろしていた。

 彼にサーヴァントとの契約を断つ事を強要させることが、倫太郎が狙っていた決着の形だったのだ。

 「魔術使い」として魔術を使った倫太郎にとって、他人を自らの魔術で殺めるなど、もっとも許せない行為である。故に彼は単純明解にマスターを殺害してサーヴァントを止めるという、もっとも簡単であろう道を選ばなかった。

 これが正しいのかは、倫太郎にはまだ分からない。

 それでも、魔術をなんの躊躇いもなく行使出来たことは事実だ。それを糧にして、倫太郎はマリウスの答えを待つ。

 

「情けをかけられるとは。全く、力及ばずに加えてこうも恥を晒すとは……グ、ふふ……ははは……魔力不足からも不甲斐なさからも、先程から身体が張り裂けそうだ。ディミトリアスの家名に……泥を塗ったか」

 

「ふんっ、ざまあないわね……いてて」

 

 未だおぼつかない足取りで、楓が倫太郎の隣に歩いてくる。

 その瞬間──倫太郎の背筋に、ぞわりと悪寒が走った。

 

「っ‼︎」

 

 かなり大規模な魔力が、この階層の入り口付近で蠢いた。それを知覚した瞬間、倫太郎は楓を突き飛ばして木刀を構える。

 直後、清廉さを感じさせる真白い刀剣が、倫太郎の木刀にけたたましい音を立てて激突する。

 

「ちょ、何……⁉︎」

 

「これ、は……っ⁉︎ ぐ、う────ッ‼︎」

 

 みしみし、と音を立てて、強化を重ねた木刀の刀身が歪む。

 それは凄まじい威力だった。倫太郎は無我夢中で、今にも木刀を弾き飛ばして体を貫かんとする白剣を抑え込む。

 ──このままじゃ押し切られる。

 咄嗟に判断した倫太郎は、受け止めるのではなく、木刀の刀身をズラして白剣を受け流した。それは適切な判断だったが、精度が甘い。

 勢いを保ったまま軌道を変えた白剣は、倫太郎の肩口を深く抉っていき、決して少なくない血がべしゃりと飛び散った。

 

「がッ‼︎」

 

「倫太郎‼︎ 誰よ一体、こんな時に……⁉︎」

 

 ぼたぼた、と血を床に落としながら、倫太郎は片膝をついて苦悶の声を押し殺す。

 血に濡れて赤く染まった刀剣は幸いにも追撃を止め、主の元へと舞い戻っていった。フロアの入り口であるガラス戸の近くに立つ、かつて見た雪のような少女の元へと。

 

「ぐっ……君は……あの、時の……?」

 

「その人を、いじめないで」

 

 マリウスの結界内をうろついていた、謎の少女。

 彼女の正体は、倫太郎達にも推測できなかった。ただ、彼女と接触した途端にマリウスが無理な攻撃を仕掛けてきた、という事実を知っている程度だ。

 一度顔を合わせた時には敵意を感じなかったため、その幼い容姿も相まって、敵とは認識していなかったのだが──、

 

(あの時子供だからって、敵じゃないと見逃したのは甘かったか……? そりゃそうだよ、結界内にいるんだからマリウスの関係者に決まってる。マズった、これじゃ形成逆転だぞ……)

 

 少女の近くを浮遊する刀剣が、さらに増える。二本、四本。

 しかもアレは単なる刀剣ではない。あれら一つ一つがれっきとした使い魔、しかも自力で魔力精製までしてみせる超高性能を持つらしい。

 ぞわ、と倫太郎の背筋が総毛立った。

 あんなの馬鹿げている。まともな魔術師の次元じゃない。ごまんといる魔術師の中でも最上位クラスの才能を持つ倫太郎でさえ、そう判断せざるを得ない絶対的な力。あんなものを一度に四体使役するなど、あの少女の魔力量は一体どうなって──、

 

(……膨大な、魔力量?)

 

 まるで天啓のように。

 倫太郎の脳内で、浮かび上がってきた記憶があった。

 

(そういや記録によれば、第五次の際に、バーサーカーの英霊を使役したのは……確か、アインツベルンによるホムンクルス。彼女はその圧倒的な魔力量でもって、強力なバーサーカーを使役したと聞く)

 

 バーサーカーとの契約に加え、あの強力な礼装を操ってなお、魔力切れのそぶりを見せなかったマリウスの謎。

 この少女が、マリウスが構築した結界内をうろついていた理由。

 

「まさか……君は」

 

 それらを結びつけて考えられる可能性とすれば、たった一つしかない。

 最初に会った時に無害な少女と判断したが、そもそもその判断から間違っていた。前提がズレていたのだ。

 そもそも──この少女は、人間なのか(・・・・・)

 

「君は、ホムンクルス……そして、本当のバーサーカーのマスターはマリウスじゃなくて……君、なのか」

 

 呆然と呟く倫太郎に対し、少女は何も答えなかった。

 ただ寡黙に、操る四つの刀剣を向けている。

 

「は、は──それは違うな。その言い方には語弊がある」

 

 寡黙な少女の代わりに、横合いから笑いを含んで掛けられた声が、彼の推測を否定した。

 マリウス・ディミトリアスはゆっくりと、四肢を老人のように頼りなく震わせながらも、悠然と立ち上がる。血反吐を吐いて汚した胸元もそのままに、彼は倫太郎に歩み寄った。

 

「待ちなさ……っ、うぐ……‼︎」

 

 楓が割って入ろうとしたが、彼女は既に立っているのが精一杯の身体だ。

 

「バーサーカーのマスターはあくまで、この私だとも。だからこそ、今こうして魔術回路の七割を失い……ぐ、無様を晒しているという訳だ。これでもそこの(・・・)との分割契約を結ぶ事で、私からバーサーカーへの魔力供給量は半分に抑えているんだがね。奴の大喰らいっぷりは底なしらしい」

 

 マリウスは服の袖を捲り上げて、腕に刻まれた三画の令呪を倫太郎に示した。その輝きは、まさしく彼が、大英雄アキレウスを従えるマスターである事の証拠である。

 

「……なんでだ。あの子は恐らく、ホムンクルス……それにあれ程の魔力量を誇るんなら、アインツベルン(・・・・・・・)の手によるものに違いない。なのになんで、ホムンクルスのあの子にバーサーカーとの契約を任せない……? わざわざ大きなリスクを負って、貴方が無理にバーサーカーと契約を結ぶ必要は無い筈だ」

 

 バーサーカー……それも大英雄たるアキレウスを従えるというのであれば、その魔力消費量は想像すらつかない。

 並みの魔術師ではそんな危険な契約を結ぶなどまずあり得ないことだ。魔力量には自信のある倫太郎でさえ、狂戦士との契約は可能な限り避けようと考えていた。

 だというのに、マリウスは非効率を承知で、自分とあの少女との分割契約という形をとっている。その理由が見当たらない。

 

「簡単な事だとも。まだ若い貴殿には分からぬことかも知れんが」

 

 口元を血で濡らした凄惨な光景を晒し、今も魔力を搾り取られる激痛と苦悶の中に叩き込まれてなお──、

 

「他者に己が仕事を丸投げするなど、私の、マリウス・ディミトリアスの矜持が許さぬ。戦うのは私だ。この戦争に挑むのは私なのだ。なれば私は自らの手で、たとえどのような怪物であれ従えてみせよう」

 

 それはマリウスという男の矜持、プライドにして意地だ。

 自分の役割は自分で果たす。時に他者を頼れども、全てを任せはしない。研究も戦いも、全て主となるのは自分でなければ気が済まない。

 そうした、彼自分も認めるほど馬鹿で非効率な考え方が、マリウス・ディミトリアスという魔術師の生き様だった。

 

「マリウス……それは……貴方が、ディミトリアス家を背負っているから? そうあるべしと、定められているから……そんな回り道をしているのか……?」

 

「は、何を言う。この生き方は私の意思(・・・・)だ。私がそうありたいと焦がれたからこそ、私は私の道に殉じているのみ」

 

 背負った家名に相応しいよう振る舞うのが、倫太郎の今までの生き様だった。それはマリウスのものと似ていながら、本質的には全く異なっている。

 彼は自分が「そうしたい」と思うからこそ、ディミトリアス家当主のプライドに恥を塗らぬよう、敢えて困難な道を突き進むのだ。

 倫太郎は思わず言葉を失った。

 マリウスとの魔術戦を制したとしても──倫太郎はもっと大事なところで、この人間に決して勝利できない。それを思い知らされた。

 

「……さて。紆余曲折あったが、この勝負は私の勝ちか?」

 

「んな事──許すわけ、ないでしょうが‼︎」

 

 無言を保っていた楓が突如として叫ぶと、何かを床に目掛けて投げつけた。床に激突した瞬間、何かが砕ける乾いた音が響き渡り、濃い白煙が爆発的に膨れ上がる。

 

「ぬ、煙幕とは小賢しい……‼︎」

 

 その機を逃さず、楓は足を無理やり動かして倫太郎に駆け寄った。数十センチ先すら見通せない煙の中でも直感で動けるのは、平時の訓練の賜物である。

 

「倫太郎‼︎ なにぼさっとしてんの、逃げるわよ‼︎」

 

「志原……」

 

 どこか虚ろな目をしている倫太郎の手を掴んで、楓は階段の方向ではなく、窓があった方向に向けて駆け出す。

 

「階段はどうせあの子に抑えられてる筈よ。倫太郎、アンタなら着地くらいなんとかなるでしょ。任せた」

 

「あ、ああ。確かに刻印の機能には色々あるから、組み合わせれば落下速度を抑えられるとは思うけど……僕を信頼して大丈夫なの?」

 

「さっきも大丈夫だったでしょ。魔術師としてじゃなく魔術使いとしてなら、アンタは力を発揮できるはずよ」

 

 ほとんど視界ゼロの中、楓は苦もなく窓際に辿り着いた。

 鍵を素早く外して窓を開けると、蒸し暑い夜風が吹き込んでくる。煙が晴れるのは時間の問題だ。下を見れば、七階分の高さを挟んだコンクリートの地面が見える。

 

「じゃあ…………その、よろしく」

 

 楓は床に視線を這わせながら、素っ気なく倫太郎に言った。

 

「え? ──何を?」

 

「バカ! 着地任せるんだからアンタが私を抱えないとどうしようもないでしょうが‼︎ それをよろしくって言ってんの‼︎」

 

「あ、そういう事……分かったけど、後で文句とか言わないでくれよ」

 

 何故か顔を真っ赤にしてきゅっと目をつぶっている楓に恐る恐る近づいて、倫太郎はその華奢な身体を抱え上げた。

 膝裏と背中に手を添えた、いわゆるお姫様抱っこのまま、倫太郎は窓のへりに足をかける。煙に包まれていた視界が開け、雨に濡れた道路がかなり下の方に見えた。

 

「……え……ちょっと高くない?」

 

「ほんと変な所でビビりねアンタ‼︎ 時間無いんだからつべこべ言ってないで飛び降りなさいよ⁉︎」

 

「ちょっ、暴れ……おあぁぁ⁉︎」

 

 ズルっ、と前に滑る感じで、倫太郎はかなりの高度から一直線に地面目掛けて投げ出された。

 途端に身を包む不快な浮遊感。どんどん近づいてくる地面を睨みつけて、焦りそうになる心を落ち着かせる。楓の信頼に応えるためにも、倫太郎はこの着地を何としても成功させる。

 

(えー、まずは基本の質量操作……気流制御……優雅さには欠けるけど、万が一の保険として風力操作も……‼︎)

 

 ぐん、と二人の身体が一時的に軽量化され、同時に気流と風力の微調整によって地球の引力を限りなく軽減する。一流の魔術師であれば苦もなく行える作業だ。

 猛烈な勢いで落ちていた二人は羽根のような速度にまで減速し、ふわりと路上に着地した。

 

「ふう、成功」

 

「お疲れさま。ね、できたでしょ?」

 

 楓が我が事のように嬉しそうに言うので、倫太郎は思わず苦笑してしまった。が、状況は笑ってられるほど良くない。

 倫太郎たちが降り立ったのは、丁度ビルの入り口あたり。

 つまり──彼らはマリウスとの激闘を経て、またふりだしの場所に戻ったということになる。

 倫太郎が楓をそっと地面に下ろした瞬間だった。

 ビキビキビキビキ‼︎‼︎ とガラスが砕け散るような不快音が連続して、目の前の空間に亀裂が走る。

 キャスターの宝具による効果が限界を迎え、裏返った世界が元に戻り始めているのだ。その亀裂の奥から、激しく争う三つの影が「こちら側」に躍り出る。

 

「アサシン‼︎」

 

 地面を滑るように着地したアサシンを見て、倫太郎は思わずホッとしてしまった。

 キャスターも近くに降り立ち、怒り狂うバーサーカーは更に奥に着地する。互いに目立った傷は無いようだが、それはキャスターとアサシンが令呪の補助を受け、数の有利で攻めても拮抗に押し留めるのがやっと、というバーサーカーの比類なき戦闘力を表している。

 

「マスター……バーサーカーの動きが、鈍ったみたい。けど、契約が断たれた様子じゃない。……どーなった?」

 

「……説明すると長くなるから、後で話す」

 

 キャスターは宝具の「護身・破敵」を近くに滞空させながら、油断なくバーサーカーから視線を外さない。両者の間に空いた数十メートルの距離も、奴……韋駄天のヘラクレスにとってはゼロ距離に等しいと理解しているからだ。

 空気が震えるような緊張感が張り詰めている。

 直後。目を爛々と輝かせるバーサーカーが、その神速の足を一歩踏み出した。

 

「◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎ッ‼︎‼︎」

 

 アサシンとキャスターが素早く迎撃に移る。が──、

 バーサーカーは彼らを無視して勢いよく跳躍した。倫太郎たちに襲い掛かるのではなく、バーサーカーは彼らの頭上、夜闇に聳えるマリウスの工房に帰還したのだ。

 それは即ち──「ここは痛み分けとする」という、マリウスからの言葉なきメッセージでもあった。

 この夜の戦いは、こうして終結を迎えたのだった。




【熾刀魔術】
繭村一族の多くが覚醒すると言われる起源「切断」の効力を最大限に発揮するための、剣術複合型魔術。この様式には江戸時代以前から連綿と続く、繭村一族の侍としての血筋が大きく影響している。
概念切断の効果は物理的な切断にも長けるが、通常の刃では断てないモノすら断つ事が出来る、というのが最大の特徴。
マリウスの魔術回路を切断した倫太郎の理論は、衛宮切嗣の礼装「起源弾」によるものとほぼ同一。もっともこちらは「切断」のみに留まるため、適切な処置を施せば元どおりの修復も可能。魔力が暴走することもない。

【マリウス・ディミトリアス】
鉱石科における超秀才。魔術だけでなく謀略的な手腕にも長け、一代でディミトリアス家の地位を遥か上位まで押し上げた傑物。
最初から「もし結界を爆破される事もなく、嫁とゴタゴタすることもなく、最初から魔術師としての力を存分に振るえた場合のケイネス先生」をイメージして書いてるところがあります。


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六十二話 抑止力の矛先 【9月11日】

 天を包んでいた雨雲は去り、空は次第に白み始めていた。

 夜から朝へと変化していく際の紺と橙が混じったような空模様は、それだけで見る価値がある。そんな荘厳な朝の輝きに背を向けて、四人は繭村家へと続く道を歩いていた。

 

「……あーっ、疲れたあ」

 

「そりゃ僕の台詞や。なんやあのバーサーカー(バケモン)、なんで神霊四体相手に一人で渡り合っとんねん。しばくで」

 

 キャスターがさぞ疲れたとばかりに肩を鳴らす。

 色々あったが、結局バーサーカーのマスターとの戦いは引き分けに終わった。決着は次の機会に持ち越しといったところか。

 

「てなわけで疲れたんで、ちょいと歩き食いさせてもらうで」

 

「あ‼︎ コラ、またアンタどっかからせんべい盗んできたの⁉︎ 人に迷惑かけるのはやめなさいって言ってるでしょ⁉︎」

 

「まあまあええやんええやん、細かいこと気にせんで。シワが増えるって言うやろ? 怒りんぼな楓ちゃんにも一つあげるから許してえな」

 

「んな事で許すわけなモガモゴ⁉︎」

 

 口に煎餅を丁寧にねじ込まれる楓をどこか遠い目で眺めながら、倫太郎は肩口の傷に意識を向ける。

 流石は繭村家の嫡子といったところか、魔術刻印による自立治療は既に始まっていた。既に出血は止まり、痛みはあれどこれ以上酷くなることはない。

 どちらかというと、自分の血でべっとり濡れた服の方が問題だ。こんな様で歩いていて警官なんかと出くわした日には、色々と面倒な事態になりかねない。

 

「マスター?」

 

 音もなく隣を歩くアサシンが、いつもの調子で倫太郎を呼んだ。

 

「…………ん。どうしたの?」

 

「なんか……考えてるね。何かあった……の?」

 

 アサシンはいつも視覚を制限しているが、他人の機微には敏感だ。

 むしろ制限しているからこそ、目に見えないモノを敏感に捉えるのだろう。彼女の前で隠し事はできないな……と改めて思う倫太郎であった。

 

「マリウス・ディミトリアス……バーサーカーのマスターで、僕たちが戦った魔術師だ。志原と僕が協力して、なんとか戦闘不能に追い込んだんだけど」

 

 マリウスは楓と倫太郎の攻撃によって、全魔術回路のうち約七割を切断された。それこそ、魔術師としては致命的な一撃だ。ホムンクルスの少女による介入こそあれ、あの戦いは倫太郎と楓の勝利であろう。

 しかし──、

 

「……僕はアイツに勝てなかった。たとえ魔術師としてマリウスより優れていようが、実際に戦って勝利しようが、僕は本質的なところでアイツに勝ててない。今のままじゃ、それこそ逆立ちしたって勝てる気がしない」

 

 マリウス・ディミトリアスが体現する、自分の道を自分自身で行くような生き様が、倫太郎には眩しく見えた。

 楓が言ったように、人は自分自身で自分の行く道を決定する。それは本来、何者にも縛られるべきではない。

 しかし倫太郎はそうしてこなかった。自分の道は一本しかないと思い込んでいたから、そうした人生の選択を経験せず、ただ定められた道を邁進するだけの機械じみた人生を送ってきた。

 そういう人間だからこそ、倫太郎は思うのだ。

 たとえ選んだ道がどんなものであれ、自分の思うがままに突き進む人間は、それだけで尊いものであると。

 

「僕に足りないのは「自分の意思」だって言ったね、アサシン。それはしかと理解したさ、志原に殴られたりしたし。けど、僕はまだそれを探している途中だ。そんな中途半端な僕じゃ、もう何十年も自分の意思のままに突き進んできたアイツには……たぶん、勝てない。根本的なところで負けてるんだ」

 

 あの男には魔術師としてではなく、一人の人間として負けていると感じた、あの敗北感。倫太郎が感じたあの感覚はそれが原因なのだろう。

 倫太郎の独白を聞いて、しかし、アサシンは満足げに頷いた。

 無表情な彼女には珍しく、口元に微かな笑みを浮かべている。

 

「それで、いいんじゃ……ない?」

 

「何がさ」

 

「別に負けたって……いいんじゃない? だって……マスターは、まだまだこれからなんだから。負けて、負けて……それから、強くなる。私だって、そんな感じ」

 

 そもそも最初から勝ち続き、成功続きの人間などこの世に存在しない。

 人は誰しもどこかでつまずいて、転んで、それを糧にして強くなる。成長は失敗の成果物だ。非効率だが、人間という生物はそういう風にできている。

 有史人類が、永きに渡って無限ともとれる失敗を積み上げ、やがてここまで発展してきたように。

 倫太郎という人間だって、そうした敗北を糧にできる。

 

「ん……それもそうか。じゃあ、今夜の戦いはいい経験になった……のかも、しれない」

 

「じゃ、次は勝とうね」

 

「いやそれはちょっと断言しかねるというか」

 

 そういうところで弱気になるのが自他共に認めるビビリである原因なのだが、アサシンがそれに言葉を返す時間はなかった。

 朝を告げる陽光が山麓を乗り越えてくる。その輝きに照らされて、彼らを待ち受けている人影があったのだ。繭村の家までもう少しというところで、その二人は道端のガードレールに腰掛け、倫太郎たちに視線を向けていた。

 

「や。無事で何よりだ、倫太郎君」

 

 そうして声をかけてきたのは、かつて繭村の家を訪ねてきた男。

 魔術協会から派遣された──衛宮士郎、その人だった。

 当然ながら楓はこれが初対面になるので、怪訝な顔をして距離を置いている。キャスターはといえば、「こりゃまた面白そうな奴が出てきたなあ」と言わんばかりの表情である。

 

「士郎さん……そちらこそ。連絡が取れなかったから心配しました」

 

「それはすまない。事情があって、なるべく他人と接触してるところを見られず動く必要があったんだが……ま、それについてはゆっくり話そう。オレたちも、ただ何もせずに姿を隠してた訳じゃない。ここらで一度、情報をまとめておく必要がある」

 

 彼の雰囲気は前のままだ。精悍さの中に優しさと微かな幼さを残したような顔立ち、洗練された佇まい。まるで清らかな清流を相手にしているかのような、どこかほっとする気配である。

 

「えと……あの、そちらの方は?」

 

 倫太郎はおずおずと視線を移し、士郎の隣でこちらを眺めている、黒髪の美女に名を尋ねる。

 すると、彼女はにこりと微笑を浮かべてこう言った。

 

「遠坂凛。貴方には初めましてね、繭村……倫太郎君?」

 

「は、はい」

 

 びっくりするほど綺麗な人だ、というのが第一印象だった。

 傍目に見るだけでも目を惹く美貌なのに、実際に話して笑いかけられると、まるで聖母が何かのように思えてくる。声は透き通っていて優しさがあり、それでいて凪いだ水面のように落ち着いている。

 淑やかとか優雅とか、そういう言葉が似合う人だと感じた。

 条件反射的に、やや後方でこちらを眺めている楓をチラ見する。

 

(……志原とは真逆だな。遠坂さんは絶対「くたばれ」だの「バカ」だの言わないし、物理で殴ってきたりもしないんだ……)

 

 その視線に込められた意味を感じ取り、こめかみに青筋を立てる楓だったが、流石に知らない人の前で倫太郎の後頭部を殴打する訳にもいかない。後でたっぷり聞き出してやる、と誓うのだった。

 と、柔和な笑みを浮かべていた凛が、突然として表情を引き締める。魔術も聖杯戦争も関係ないトコロに思考を持っていかれていた倫太郎は、その表情につられて気を引き締めた。

 

「さて……一刻も早く休みたい時に悪いと思うわ。でも、貴方たちの知らないところで、事態はどんどん悪い方向に転がってる。できればセイバーのマスターも交えて、少しお話できないかしら」

 

 

 

 

「ふぁあ……ぁあ……」

 

 早朝。楓からのコールで叩き起こされた俺とセイバーは、並んで自転車を漕いでいた。

 隣から聞こえてきたのはセイバーの大あくび。

 叩き起こされたせいで不機嫌度120%の彼女は、どうも恨めしげに空を睨みつけている。ベッドのシーツを手放そうとしないセイバーを引き剥がすのに、俺がどれほど苦労したことか。

 

「しかし、治って良かったよ。怪我」

 

 しゃーっ、と坂道を下り降りるセイバーの姿はいつも通り。

 アーチャーの魔弾による一撃で呪詛を叩き込まれ、バーサーカー戦での傷を開かれて衰弱していた彼女の姿は、もうどこにもない。体力全快、フルスペックを振るうワガママ大王の再臨である。

 それがまた俺を振り回すのであろうことは置いておいて、またいつものセイバーが見れるというのは素直に嬉しい。

 

「食って寝りゃ治るというのは、昔からの真理なんですよ。まあ私の場合食ったのはお菓子ですし、キャスターによる適切な治療がかなり大きい事は否定しませんが」

 

「本当にキャスターがいなかったらどうなってたか……恥ずかしがらずにちゃんとありがとう言えよ」

 

「な、なんですか私を聞き分けのない子供みたいに! 感謝すべき相手にはしますよ、魔王として不適切なので言葉には出しませんけど」

 

「そういうのが駄目だって言ってんのこっちは‼︎」

 

 風邪じゃあるまいし一日寝たら治る、というのは単にセイバーがバケモンじみてるのか、それともキャスターの力量が優れているのか判別つかない。

 

「はー、しかし呼び出しって何するんでしょうね? どうも魔術協会とやらの連中が絡んでるみたいですけど?」

 

「俺に話を振るなよ、魔術協会どころか魔術がなんなのかも未だにチンプンカンプンなんだから。とにかく楓が呼んでるんだし、行くしかあるめえよ。アサシンのマスターと会うのは気まずいけどな」

 

 そりゃあ一昨日の夜に命懸けで戦った相手と、これから仲良くお茶しながら話そうぜー、なんてのはどだい無理がある。

 そこは双方の知人である楓に期待したいところだが、果たしてあの子にそんな機敏な気配りができるかと問われれば──、

 

「……やっぱ行きたくねえなあ……」

 

 溜息を噛み殺して、俺はペダルを漕ぐ足に力を入れた。

 

 

 

 

 ……で、スマホの地図を頼りに辿り着いた繭村邸。

 その異様な大きさに圧倒されつつ、俺とセイバーは敷地内に足を踏み入れた。門は開いていたので、勝手に入れという事なのだろう。

 セイバーは初めて見る和風邸宅に興味をそそられるのか、せわしなく視線を彷徨わせている。とはいえ俺もこんなにデカい屋鋪は見たことがない。家というより屋敷といったイメージだ。

 

「ようこそ……と、一応言っておくべきかな」

 

 そんな中、母屋の方から姿を現わした人影があった。

 男性用の着物を当然のように着こなした、赤銅色の髪の少年。傍らには目元を包帯で覆ったサーヴァント。

 その姿を見て、思わず背筋のあたりがチリチリと疼く。

 

「……廃工場でしてくれやがった事は忘れてないが、今は個人的なイザコザを優先してられるような状況じゃないんだろ。なら遠慮はいい、水に流した方が身のためだ。とっとと話を始めようぜ」

 

「はい? 私は許しませんけd」

 

「コラッ、せっかく俺が揉めないようにしてんのに台無しにすんな馬鹿!」

 

 咄嗟にセイバーの口を押さえた俺の言葉に、その少年──繭村倫太郎は頷いて、俺たちについてくるよう促す。向けられた背中に警戒の色は無かったので、俺もひとまず肩の力を抜くことにした。

 軋む長い廊下を抜けると、広めの和室に通される。

 開け放たれた障子の向こうには、当然ながら楓とキャスターの姿もあった。それと見たことのない二人組に──、

 

(なんだ、アイツ……?)

 

 一人、異様な男が立っていた。

 座り込みもせず、壁に背を預けてこちらを眺めている男。引き締まった痩躯に獣の如き眼光は、一瞥するだけで常人ならざる者であると判断するには十分過ぎた。

 本能か何かの働きか、全細胞が警鐘を鳴らしている。

 

「ランサー? 何故貴様が此処にいる」

 

 その男の正体は、隣のセイバーが知っていたらしい。

 ランサー……つまりこの男こそが、槍兵のクラスに分類されるサーヴァントなのか。

 

「ハッ。色々あんだよこっちにも。今は大人しく座ってな」

 

 その男はそう言いながらも、俺から視線を外そうとしなかった。

 それもただの視線ではない。

 俺を見ていながら、俺を見ていないような。俺ではなく、俺の奥底まで覗き見て、その全てを隠さずつまびらかにしようとしているような、奇怪でゾッとするものだ。

 その視線があまりにしつこいので、若干緊張しつつも口に出して抗議する。

 

「……なんだよ、ランサーだっけ? 俺が何か気にくわないのか」

 

「いいや? なに、ジロジロ見て悪かったな小僧。別に俺にそのケはないから安心しな」

 

「ンな事心配してねえよ‼︎」

 

 どがん、と大仰な音を立てて座布団の上に腰を下ろす。

 そんな俺を見て、俺から見て対面に座る楓が声をかけてきた。

 

「一人で来ると思ってたから驚いた。まさかセイバーちゃん、もう動けるの?」

 

「ええ、私でしたらこの通り快調ですよ。一晩ぐっすり寝たのでばっちり体力回復です!」

 

「……だってさ。俺も驚いたけど、問題なさそうだ」

 

「そら良かったで。僕の速やかな処置が適切やったっちゅうことやなあ、それは。僕がおらんかったら今頃キミはベッドの上でまだのたうちまわっとるやろうし。ン、そんな功労者たる僕に感謝が足りんのちゃう?」

 

「ケッ。誰が貴様なんぞに礼を言うかこのタコナス」

 

 さっきまでの言葉をガン無視して暴言を吐き始めたセイバーを膝でつつきながら、俺はぐるりと視線を巡らせる。

 この部屋に居るのは実に九名。

 そのうち四名がサーヴァントであり、それぞれ自分達の主の背後に控える、もしくは横に座る形になっているためか、部屋にはじんわりとした緊張感が滲んでいる。敵意は無くともそれだけで威圧感を撒き散らすハタ迷惑な奴らが英霊なのだ。それが四騎も一部屋に集まれば、小動物ならストレス死しそうな環境の出来上がりである。倫太郎が人数分のお茶を持ってきたものの、あんまり空気が和らいだようには思えない。

 とまあ、そんな居心地の悪さは意に介さず。俺たちが席に着いたことで話し合いの場は整ったと判断されたのか、早速見慣れない赤毛の男が口を開いた。

 

「──まずは自己紹介から始めようか。君たちにはお初にお目にかかる。オレが衛宮士郎、こっちが遠坂凛だ。魔術協会から派遣されてる隠蔽役の魔術師とは別に、聖杯戦争の調査を担当している」

 

 そこまで言ってから、彼はちらりと視線を後ろの槍兵に向け、

 

「で、この男がランサー。詳しくは後で話すが、都合がいいって事で今は一緒に行動してる」

 

「そういうこと。私達はちゃんと正規の依頼を受けてるから安心して。信頼できないなら、倫太郎君の方に確認してくれれば正当性は証明できる筈よ。それと……あらかたこっちでも把握しているけれど、念のため貴方達の名前を聞いてもいいかしら?」

 

 この緊張感にありながら落ち着いた声で、士郎と名乗った男性はそう言った。凛という女性に促されて、まず俺が口を開く。

 

「……俺は志原健斗。そこにいる楓の兄です。魔術も何にも知らなかったんですが、諸々あって巻き込まれまして、今はコイツ……セイバーのマスターになってます」

 

「おいおい。どっかの誰かさんみてえな奴だなアイツ」

 

「ぷぷ。ホントね。こっちの情報によると、士郎みたいに魔術回路がへっぽこな訳じゃないみたいだけど」

 

「うるさいよ。今は真面目な話をする時なんだから、二人とも大人しくててくれ。全く……」

 

 ランサーと凛さんが何か面白いものを見る目で士郎さんに何か耳打ちしていたが、俺には聞き取れなかった。

 

「私は志原楓、志原家の後継者。キャスターのマスターよ」

 

 俺に比べると、楓の自己紹介は物凄くシンプルであった。

 何故そんなに不機嫌そうなのかは俺にもわからない。魔術協会とかいう場所から派遣されてきたというこの二人が、何か気に触るのだろうか。

 

「ゴホン……成る程、ありがとう。お互いに自己紹介も済んだところで、時間もない。本題に入ろうか」

 

 士郎さんが手を組み直し、真剣な目つきで一同を見渡した。

 

「オレたちは第五次聖杯戦争の際、マスターとして戦った経験と、大聖杯の解体を経験している。それを見込まれて、今回は「この」聖杯戦争……いわば第六次聖杯戦争の調査を依頼された」

 

 よくよく考えてみると、聖杯戦争という儀式の正体について、俺はほとんど理解していない。

 知ってる事といえば、「マスター」と呼ばれる魔術師七人がサーヴァント七騎を従え、最後に残った一組が聖杯を手にし、願いを叶えられる……という事くらい。その願いを叶えてくれるという聖杯についても、どんな物かと聞かれればさっぱりだ。

 というか、こんな儀式がかれこれ五回も行われていたとは驚きだ。

 

「もともと、冬木市ってトコで聖杯戦争は行われてたのよね?」

 

 未だどこか調子のおかしい楓が、士郎さんに確認を取る。

 

「ああ。そして、聖杯戦争を行うために必須となる「大聖杯」……アレは既に完全な破壊が確認されている。にも関わらず、場所をこの大塚市に移して聖杯戦争は六度目の開催を迎えた」

 

 大聖杯のシステムは奇跡の産物とも言われ、どんなに優秀な魔術師であろうと、再現は不可能に近いとのことだった。

 それを可能にするならば、理屈を捻じ曲げるような天元の力が必要となるらしいが──その方法について論じても事態は変わらないので、会話は「復活した大聖杯と、それを操らんとする仙天島の魔術師をどうするか」という方向へと移っていく。

 

「目下最大の問題は、あの島を丸ごと陣地にしている魔術師だ」

 

 士郎さんがそう切り出すと、それまで沈黙を保っていた倫太郎が言葉を返した。

 

「僕達が今現在掴んでる事といえば、仙天島を抑えてる魔術師は何らかの手段を用いて、ライダー以外にも謎の英霊を更に複数使役してるって事だけです。目的も正体も謎で……」

 

「ああ。奴が使役してる謎の英霊についてだが、こっちでもランサーの協力を得て調査を重ねた。その結論から言うと──」

 

 士郎は何か決意を決めるように一度言葉を切ってから、

 

「あれらの英霊は全て、第五次聖杯戦争で召喚されたサーヴァントだ」

 

 その耐え難き事実を、感情の籠らない声で口にした。

 よく分からない俺は頭に疑問符を浮かべただけに留まったものの、楓と倫太郎は息を呑む。それを見て、難しい話は楓やセイバーに任せ、俺はひとまずお茶を飲んでおこうと決めた。

 

「彼らの真名について共有しておく。キャスター、コルキスの魔女メディア。ライダー、ゴルゴーンの怪物メドゥーサ。バーサーカー 、ギリシャ神話の英雄ヘラクレス……」

 

 単調に読み上げられていく謎のサーヴァント達の真名は、いずれも錚々(そうそう)たる顔ぶれといったところ……らしい。相当の力を持つ英霊達が集ったと評される第五次聖杯戦争を再現しているとなれば、倫太郎や楓の顔が曇るのも無理はなかった。

 

「そして。セイバー……騎士王アーサー・ペンドラゴン。俺が10年前、共に戦ったサーヴァントだ」

 

「騎士王……」

 

 倫太郎の口から、思わずと言った様子で騎士王の名が漏れた。

 

「残るアーチャーについてだが……これは色々とこみ入った事情があって、真名は"無い"ようなものと考えてくれていい。が、決して侮っていい相手じゃないとは覚えておいて欲しい」

 

「それは理解しましたけど……まず、そんな事が可能なんですか? 第五次の英霊を追加召喚して従わせるなんて……まっとうな魔術師じゃ言わずもがな、サーヴァントですら簡単に出来るとは思えない」

 

「バカ正直に真っ向から召喚しようと思えば不可能でしょうね。けれど、例の魔術師が大聖杯のシステムを手中に収めているのなら、あり得ない話じゃないわ。それと、それを裏付ける証拠がもう一つ」

 

 口を開いた凛は、壁にもたれるランサーの方に視線を向ける。

 

「実は、彼にはマスターが存在しない。このランサーはね、世界の「抑止力」によって召喚されたサーヴァントなの。しかも正規の召喚方法じゃない。ランサーは第五次聖杯戦争の記録を再現した連続召喚に介入する形で、10年前に召喚されていた彼もまた再召喚を果たした」

 

 俺が理解を放棄していた頃、セイバーはその意味を受け取っていた。

 抑止力。世界を存続させようとする無形の力。

 それは様々な形でこの世に現れると言われるが、このランサーが召喚されたのも、その抑止力が発動した結果だという。セイバーはランサーと密かに戦った際、その旨を伝えられた事で知ってはいたが、彼も現在猛威を振るっている謎のサーヴァント達のように、第五次の記録の再現体であるとは知らなかった。

 

「なんでそんなに回りくどいやり方で、その抑止力とやらはランサーの召喚に至ったわけ? わざわざ前回と同一の英霊を召喚するより、普通に適した英霊を召喚するのが妥当だと思うんだけど」

 

「そりゃお嬢ちゃん、考えてみな」

 

 ランサーが楓の方に視線を向けて、にやりと笑う。

 

「抑止力が連鎖召喚に割り込まず、普通に槍兵のサーヴァントを召喚していたらどうなると思う? 簡単さ。第五次で召喚された経験のある俺も同様、嬢ちゃん達の敵として牙を剥いちまう結果になる」

 

 そりゃあ嫌だろ? と断言できるのは、彼が自他共に認める強者たる英霊だからなのだろう。士郎さんと凛さんも知るところがあるのか、無言でその言葉に頷く。

 

「話をまとめよう。敵は第五次聖杯戦争におけるサーヴァント達、それに加えて正規のライダー、そしてマスター。これで全てだろう」

 

 士郎の言葉に、一同は無言でもって肯定を返す。

 

「そして、肝要になる"敵"の目的についてなんだが……申し訳ない。こっちとしても掴めていないのが現状だ」

 

 士郎さんは頭を下げたが、それは無理難題というものだろう。

 敵の親玉が仙天島に引きこもったまま顔すら見せないのでは、例え名探偵がこの場に居ようと匙を投げる。圧倒的に、敵の親玉について推測する材料が不足しているのだ。

 

「ただ、分からないことばかりじゃない。一つはセイバー、君だ」

 

「……………」

 

 セイバーは士郎さんから話題を振られて、気まずそうに目線をテーブルに落とす。コイツがこういうそぶりを見せる時は、きまって何か思い当たるフシがある時だ。

 ここからは俺の番だとばかりに、ランサーが口を開く。

 

「──そもそも今回、何故俺が抑止力によって呼ばれたのか。それは未だもって分かんねえままだ。が……例の魔術師とセイバーと直に相見えた事で、直感的に悟った事がある」

 

 それは戦士としての勘なのか、それとも抑止力の後押しを受けている事が影響しているのかは分からない。

 しかし確かな確信を持って、ランサーはこう言い切った。

 

「例の魔術師と、そこのセイバー。この二者を出会わせてしまったが最後、世界が脅かされる程の「何か」が起こる──ってな」




【ランサー】
世界の抑止力によって召喚された。「仙天島の魔術師が第五次聖杯戦争において召喚された七騎の英霊全てを従えた場合、世界が存続する可能性はゼロに等しくなる」と判断されたことから、通常の召喚形式ではなく、女魔術師の手によって行われた「前聖杯戦争における記録の再現」に割り込む形で限界している。
そのおかげで記憶もそのまま。影法師というより、アインツベルンの城で消滅した彼が、そのまま呼び出されたといった感じ。


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六十三話 告白、すれ違い

「例の魔術師と、そこのセイバー。この二者を出会わせてしまったが最後、世界が脅かされる程の「何か」が起こる」

 

 ランサーの口から語られた言葉の意味は、とっくに会話の理解を放棄し、今日の朝ごはんについて考え始めていた俺でも理解できた。

 つまるところ、セイバーとこの聖杯戦争を始めた元凶とされる魔術師が出会えば最後、世界の危機が発生すると──。

 思わず考えるより先に、そんな事を言った槍兵に反論してしまう。

 

「ま……待てよっ。いったい何を根拠に、セイバーがその世界を脅かすような「何か」をするって言うんだ⁉︎」

 

「根拠なんざ無えよ、感覚だ。が、決して外れているとは思えねえ。こうしてる今も、抑止力に招かれた俺の全身が、セイバーは敵だと疼いてやがるからな」

 

 槍兵の目がすっと細められ、セイバーを凝視する。その瞳の奥に隠しきれていない獰猛な色は、間違いなくセイバーを敵として認識している様子だった。

 その様子に思わず言葉を呑む俺の背後で、

 

「フン。貴様が神に連なるモノである限り、貴様に勝ち目はない。それくらいの事も理解できんか」

 

「確かに俺はテメェの加護を相手取るには相性最悪だろうよ。だがな……俺が今から一突きでそこの坊主を殺せば、果たしてテメェはこの現世に留まってられるかな」

 

「──ほざいたな」

 

 ヒュゴゥ‼︎ と、セイバーの全身から暴風が巻き起こる。彼女の怒りがそのまま魔力的な圧となって、空気を掻き回しているのだ。

 それを皮切りに、部屋に充満する緊張感が数段飛びに膨れ上がる。

 セイバーとランサーだけではない。アサシンとキャスターすらも念のための臨戦態勢に移り、あまりの重圧に空気中に火花が舞いそうな程だ。

 

「待ってくれ、二人とも」

 

 が──それを制したのは、この緊迫した空気の中で眉ひとつ動かさずにいた士 衛宮士郎の言葉だった。

 穏やかに、しかし粛然と。

 澄み渡るような声が部屋に響いた途端、硬直していた空気がパッと晴れた。ランサーはその殺気を収め、セイバーも思わず露わにしていた怒気をひっこめる。この問題児がこうも簡単に大人しくなるとは、いったいどんな魔法を使っているのか。

 

「……ヒュウ。サーヴァント同士が相対(あいたい)する空気にさも当然とばかりに口挟むたぁ、全く大した魔術師や」

 

「色々と経験してるだけさ。それ程の事じゃない」

 

 キャスターの言葉に謙遜を返した士郎さんは、改めてセイバーとランサーを交互に眺めた後、

 

「セイバーを倒せば、その災厄は回避できるのかもしれない。が、俺たちが分裂して争えば、それこそ"敵"の思う壺だ。争っているうちに各自制圧され、セイバーは奴らの手に渡る……そうなればもう、俺たちがどうこうできる状況じゃなくなる」

 

「敵は六騎……なんとかするには、私たち四騎だけでも協力しないといけない……だよね?」

 

「ち、ンなこた分かってるっての。ちょいと言ってみただけだ、言ってみただけ‼︎」

 

 ランサーがふん、と不快げに鼻を鳴らして明後日の方向を向いたので、士郎さんは思わず苦笑する。

 セイバーはというと、気まずそうに唇を尖らしていた。そうやって俺の方を見られてもお前のせいなんだから知りません。

 

「ここまでの話を踏まえて、現状と今やるべき事を纏めるわよ」

 

 凛さんがパン、と手を打ち鳴らして、一度停滞しかけた話の流れを元に戻した。

 さっきから観察していると、この二人はどうもこうした作戦会議やらに慣れている様子がある。前回の聖杯戦争を生き残ったというし、彼らもこうして、自分達のサーヴァントと語り合ったのだろうか。

 

「敵はあの人工島……仙天島に結界を構築して、中で何やら企んでる。島を攻めようにも入念な準備が要る事は間違いないわ。なんせあの島に侵入する経路は架かってる橋一本だけで、敵からの迎撃もある」

 

「迎撃が?」

 

 倫太郎がそのワードに反応し、仔細について尋ねる。

 

「ああ。前はそうでもなかったんだが、今はそう簡単に近寄らせてはくれないらしい。向こうには──鷹の目を持つ弓兵が居る」

 

 その言葉を吐いた瞬間、それまで凛然とした雰囲気を保っていた士郎さんの纏う空気が、僅かに変質したような気がした。

 上手く言葉では言い表せないが、どこか、言葉に隠しきれぬほどの剣呑さが混じったというか──、

 

「話を戻そう。タイミングを合わせて、ここにいる全戦力をもって敵に仕掛ける──あの島を攻略するにはそれしかない。第五次の英霊、その群れと真正面から戦うのは得策じゃないが……向こうから出てこない以上、こっちから仕掛けるしかない」

 

「そりゃそうや。いつかは正面衝突は避けられん。が、勝算はどんくらいあるんかいな?」

 

「五分五分がいいとこだ。運が良ければ勝つし、悪ければ押し切られる」

 

「ま、ンなもんやろなあ……。タダでさえ数では負けとるし」

 

 キャスターは残念そうな顔で言うが、まっとうな人間の感性からすると、五割の確率で死亡というのはなかなかに大きな賭けである。

 この二人が言うならば、いくら足掻こうと勝率をそれ以上に引き上げる事は難しいのだろうが──、

 

「ここで、セイバー。魔王たる君の力がどうしても必要になる」

 

 再び話の矛先が向いて、セイバーは俯きげな顔を上げた。

 

「私が?」

 

「ああ。まず、この戦いにおいては、「各自が誰と戦うか」が重要になる」

 

 士郎はどこからともなくポスター大の丸めた用紙を取り出し、それをテーブルの上に広げてみせた。

 そこには敵となるであろうサーヴァント達のクラス、真名、能力あたりがざっと書かれている。サーヴァントの姿とおぼしき絵もおまけ程度に書かれていたが、このなんとも下手極まりない独特な絵は、果たして士郎さんと凛さんのどちらが書いたのだろうか。

 みんな空気を読んでその絵についてはこれといって言及せず、士郎さんが話を再開する。

 

「敵の最大戦力はこの二騎だ。セイバーと、バーサーカー。この二人の対処が最大の難関に違いない」

 

 そう言いながら、彼は二つの絵を指差した。

 確かセイバーの真名は、「アルトリア・ペンドラゴン」。ブリテンの騎士達を束ねた王、聖剣を携えた剣士。

 そしてバーサーカーの真名が「ヘラクレス」。つい数日前に、楓と倫太郎をたった一騎で窮地に追い込んでみせた狂気の英霊だ。

 

「特にバーサーカーは尋常じゃないスペックを持っている。その強さと剛力も常識外れだが、宝具「十二の試練」による十一個の代替生命を持つのが最大の強みだろう。並の英霊じゃ、まず十二回殺し切る前に殺される」

 

「そいつの強さについちゃあ僕とそこのアサシンがようく知っとる。一度戦って敗北した身やからなァ。まさか奴の正体が、かの英雄ヘラクレスとは驚きやけど」

 

「──けどね。そんなバーサーカーにも、付け入る隙はあるわ」

 

 士郎さんと交代するようにして、凛さんがずずいと上半身を乗り出しつつ口を開いた。

 

「ヘラクレスはその出世から主神の血を引いているとされる、半神半人の英雄よ。ゆえにこそ、彼は神々の眷属の一員として扱われる。つまり「神殺し」たるセイバー……貴方は、このランサーを相手にした際同様、バーサーカーに対して優位に戦える筈よ」

 

 セイバーはその提案に許諾も拒絶も示さなかった。ただ、無言で何かを考え込むように黙り込んだだけだ。

 ところで俺はそんな情報は初耳なので、小声で隣のセイバーに耳打ちする。

 

(……えっと、そうなのか? 俺は知らないけど)

 

(そうですよ。別にケントに教えるつもりはありませんでしたけど)

 

 セイバーは「神」の一族、もしくは「神性」を持つものに対して、めっぽう強いという性質があるらしい。だからいつぞやキャスターが操っていた十二天将とやらと戦った際、彼女はああも凄まじい光景を晒しながらかの大蛇を圧倒できたのか。

 

「逆に言えば、他の面子でバーサーカーを完全に抑え込むのは難しいわ。抑止力の補正を受けたランサーでも五分でしょう。だからこそ、バーサーカーの相手はセイバーに努めてもらうしかない」

 

「ええ、分かりました。……神殺しであれば得意中の得意。私がその大英雄を下す役割を果たしましょう」

 

 少し悩んでから出されたセイバーの許諾により、バーサーカーを相手するのは彼女であると決定した。

 

「ありがと。他の敵対サーヴァントだけど……もう一つの難関たるセイバー。これはこちらのランサーが対応するわ」

 

「おうよ」

 

 凛さんの言葉に、ニヤリ、と口の端を吊り上げる槍兵。

 その顔は言外に、かつての好敵手ともう一度殺し合える機会を讃えていた。

 

「そして、アサシン。貴方には「正規の」ライダーの相手を」

 

「りょうかい……した。一度戦ったこと……あるし、ね」

 

 正規のライダーとなると、あの小学生みたいなナリで、雷を嫌という程飛ばしてきたアイツの事だろう。仙天島を根城にしている魔術師が、本来使役しているサーヴァント。

 凛さんに示されたその方針に、倫太郎も無言で頷く。

 

「キャスターには、残るライダー「メドゥーサ」と、キャスター「メディア」。それと──貴方が従える神霊の力でもって、かの島の結界を破る役割をお願いするわ」

 

「ふむ、僕としてはええけど。楓ちゃんはどない思う?」

 

「私としても異論は無いわ。けど神霊を前みたいに操ろうとなると、少し時間が必要になるわよ。私の魔力が十二分に回復するまでと、キャスターの十二天将が今までの戦いの傷を癒すぶんの時間が要る」

 

「それでかの十二神が味方になってくれるなら越したことはないわよ。決戦まで、楓ちゃんはゆっくり身体を休めて頂戴」

 

「………………」

 

 なぜか怪訝な顔をした楓をよそに、記された各敵サーヴァントの欄にこちらの戦力が分かりやすく書き込まれていき、具体的に「誰が誰の相手をするのか」が明瞭に示される。

 ただ一つだけ、不明な点があった。

 敵のセイバー、キャスター、ライダー、バーサーカー、それに加えて正規のライダー。これらの対策を練ったはいいが、あと一騎、敵の側には英霊が残っている。

 

「待ってくれ。この、アーチャーってのは誰が……」

 

 その問いを、遮るようにして放たれた一言があった。

 

「奴は──俺が相手をする(・・・・・・・)

 

 それを口にしたのはこの場に集った英霊の誰でもない。衛宮士郎その人が、サーヴァントの相手をすると言ったのだ。

 それが如何に非常識か、くらいは流石に理解できる。

 英霊と魔術師の間に開かれた差はあまりに大きい。士郎さんがどんなに強かろうと、そう簡単にサーヴァントと戦えるものか。俺の考えは倫太郎も同じだったらしく、彼も目を見開いて反論する。

 

「相手はサーヴァント、英霊です。……それなのに? 魔術師の身で英霊に挑む事が如何に困難か、聖杯戦争を経験したお二人なら僕より知っている筈だ」

 

「……それでも、よ。このバカはたぶん縛り付けてもアーチャーと戦おうとするでしょうから、悪いんだけど許してあげて」

 

 凛さんにそうウインクされると、俺も倫太郎も言葉を飲み込むしかない。なにより士郎さんが放つ空気はほとんど変わっていないようでいて、その裏に有無を言わせぬ凄味が蠢いているのを感じ取った。

 彼は一体何を思っているのか。その表情の裏から僅かに感じ取れるような、この煮えたぎるような感覚は──怒りなのか……?

 

「それに英霊を相手にするったって、大丈夫。人間死ぬ気で頑張れば、意外となんとかなるものよ? ねー士郎〜……ッ⁉︎」

 

 と。なぜかゲロ甘い猫なで声を出した凛さんが、突如として身体をビックーン! と硬直させた。

 ああ、今のは間違いなく──そう、完全に、意図せずふわっと漏れてしまった(・・・・・・・・)類の声だ。それはまさしく、彼女が今の今まで築き上げてきた体裁を根本から破壊するかのような致命の一撃。

 つまりは、このオトナな風格漂う女性が、実は裏では士郎さんにあんな甘えた声で話しかけている……という事が明るみに出てしまった訳で。

 「しまったやばい思わず気ぃ抜けてた〜!」なんて感じの冷や汗だらだら深刻顔を片手で覆い隠した凛さんは、咳を一つ漏らしてから、ようやっと以前の様子を取り戻した。この場に充満する「察してしまった」感じの空気は元に戻らなかったが。

 

「………………と、とにかく。アーチャーの相手は士郎がするわ。だから今やるべきことといえば、キャスターと楓ちゃんの魔力回復待ち。私達は今後もランサーと状況を探るから、貴方たち特に楓ちゃんはゆっくりと休みなさい。決戦はもう間近なんだから」

 

 

 

 

 ──何やかんやあったが、今の時刻は未だ朝八時過ぎ。朝ごはんを食べるには丁度いい頃合いである。

 それを見越していたのか、なんと士郎さんが食材を山ほど持ち込み、繭村の無駄に広大なキッチンを借りて朝ごはんをこしらえてくれた。疲労回復は食事からだとかなんとか。俺とセイバーはたっぷり前日に休養をとったおかげで体力は有り余っていたのだが、折角なので一緒にたいらげた。

 で、残存魔力が心もとなくなってきた楓は布団を借りてとっとと就寝。キャスターも魔力回復の為とか言って姿を消した。

 セイバーはセイバーで、あの作戦会議以来どこか調子がおかしい。

 

(ったく、アイツどこ行ったんだ……)

 

 びっくりするほど長い木張りの廊下をギシギシ言わせて歩いていると、どこからか風が吹いた。

 外に向けていた視線を前に向ける。そこにはまるで俺の進路を塞ぐように、キャスターが姿を現していた。

 

「げっ……キャスターお前何の用だよ」

 

「げっ、とは何やげっ、とは失敬な‼︎ その言い方にはぼかぁ断固として抗議させてもらうで‼︎」

 

「お前がわざわざ楓のそばを離れて俺のとこに姿を見せるって事は、何かしらあるんだろ。どうしたんだ」

 

 立ち止まってキャスターと目線を合わせる。

 この男の目は──いつ見ても、計り知れないものがある。俺が密かにこやつに対して抱いている苦手意識は、おそらくそこを起因としているものだ。

 熱情に昂ぶっているわけでもない。憎悪に燃えている訳でもない。歓喜に輝いている訳でもない。落胆に淀んでいるわけでもない。

 しかし、それらどれもが当てはまらないクセに、その全部をごちゃ混ぜにしてどれとも取れるような目をしている。訳がわからない。

 

 

「──君は、気づいて(・・・・)やっとんのか?」

 

 

 紡がれたその言葉に茶化すような素振りはなく、まるで敵に告げるかのような剣呑さに満ちていた。

 

「それは……何の話だ?」

 

「んー。その様子からすっと、やっぱ意図的ではないんかァ。ンなら僕から言うことは何もない。自分で悟ってしまえば逆に悪化する類やろうしなあ、ソレ。ま、戯言と聞き流しといてぇな」

 

「おい、ちょっと待てよ。お前は何について話してる? 一体俺が何をどうしたって──あ、こら!」

 

 俺が言葉を言い終わらぬうちに、「ばいなら」と言い残してキャスターは霊体化して姿を消してしまった。

 アイツは底が見えないところはあるが、「楓を守る」事だけは徹頭徹尾優先しているらしい。どうせ、ぐっすり寝ているのであろう楓を守護しに舞い戻ったのだろう。

 

「はぁ。なんなんだよ、くそ」

 

 俺は「勝手な奴」と呟いて、またセイバーを探し始めたのだった。

 

 

 

 

「あっ──セイバー!」

 

 見つけた。やっと見つけた彼女は周囲の目線を避けるように、倫太郎家の中庭の隅に植えられた大樹の陰に座り込んでいる。

 俺の声に反応して、セイバーが膝に埋めていた顔を上げた。

 その顔を見た瞬間──、

 

 セイバーやはり おまエ    は  俺   ちが ら 死   サざ ありえな    二者 どうイつの    で  だから駄目だこいつをこのセイバーを殺し殺殺殺ロ殺殺殺サなクては

 

「ケント?」

 

「あ、ああ……なんでもない、ちょっと目眩だ」

 

 理由(ワケ)もなくほっとして、思わず溜息をつく。

 

「ソれよリ、なんデそんなとこに隠れてんだよ。なんだか元気ないし。さっきの話からお前変だぞ」

 

「……なんでもないです」

 

 セイバーが木の陰から動く様子を見せないので、仕方なく繭村家の塀に背を預ける。今日も残暑厳しい夏日和だが、大樹が頑張って葉を広げてくれているおかげで、この辺りはまだ涼しかった。

 

「どうせ、あの「抑止力」とかいうのが関係してるんだろ。えーっと、なんだ……あとあと倫太郎の奴に聞いたんだけど、確か「世界が存続しようとする為に行使する形のない力」、なんだっけ? カウンターガーディアン、世界全体が保有する、滅びの起点を潰す自動装置だとかなんとか……」

 

 とまあ訳の分からぬ専門用語を並べられただけで、正確な理解としては三割くらいしか出来ていないのだが。

 まあ要は、俺たちが生きる世界そのものが、「世界がヤバイ!」って状況に応じて援軍を寄越してくれている──それがあのランサー、という結果でもって現れているそうだ。

 

「……ケントも、これで理解したんじゃないですか」

 

 セイバーは地面に視線を落としたまま、絞り出すように言う。

 

「抑止力……そんなものに介入されるほど、私はこの世界にとって迷惑な存在なんです。しかし私は自分の浅ましさから、その事実をケントに伝えなかった。知っているのに黙っていた。自分で自分を世界の邪魔者と言いながら、その致命的な証拠を隠そうとしたんです。……貴方を、怖がらせたくはなかったから」

 

 ──真名は明かせませんが、私は魔王。

 ──人に、神に、世界に仇なす敵役にして負の象徴。だから今更どう振る舞おうと、私は絶対の悪だと決められているんです。

 ──そんなこの世界にとって、私は邪魔者なんですよ。

 ──こんな存在が留まっては、きっと迷惑になってしまう。だから私が消える事は、ケントにとっても、きっと正しい事なんです。

 

 こんな事を、いつかの夜に彼女は言った。

 この戦いが終われば、自分は邪魔者だから消え去ると。

 ひどく悲しげな顔で、それでも無理に笑みを浮かべている彼女の顔を、今も俺は覚えている。

 

「はは。……私に、失望しないんですか」

 

 乾いた笑いだった。なにかを諦めたような、悲しい笑い声だった。

 それを聞いて、俺は今度こそ──、

 

「セイバー。お前、ふざけてんのか」

 

 堪え切れないほどの怒りを込めて、俯いたセイバーのすぐ目の前まで歩み寄った。

 ざっ、と靴が土を踏みしめる。距離が近づいた事で驚いたのか、セイバーは思わずと言った様子で顔を上げた。波打つように広がる蒼色の髪の奥に、セイバーの顔が露わになる。

 

「失望させた? 俺を怖がらせたくなかった? そんな事、お前はずっと俺に思ってたのか⁉︎」

 

「え……」

 

「だとしたら最悪だ。ああ最悪だよッ‼︎ 抑止力がなんだ、世界がなんだ、ンなこた俺にはぜんぜんこれっぽっちも理解できない‼︎ けどな、そんな訳の分からない力だのが介入しようと何をしようと知ったことかよ‼︎ たかが世界が敵に回った程度(・・・・・・・・・・・・・)で、お前に対する気持ちをやすやすと変えるもんかってんだ‼︎」

 

 ああ腹が立つ。本当に腹が立つ。なんでセイバーってやつは、俺がセイバーに対して恐怖を覚えたりだとか、失望したりなんてすると勘違いしてやがるんだ。

 

「前々から言いたかったんだ、ずっと。だから言ってやる。俺はお前が世界に「いてはならない」なんて、ンな事断じて認めない‼︎ だって、俺はっ──‼︎」

 

 ここまで来ればもう最後まで言い切ってやろう。

 いつか来るであろう離別が怖くて、最初は認められなかった感情があった。でも、もう認める。元から目を逸らし続けることなんて出来なかったのだ。そして、セイバーがその悲しい自己評価を改めないのであれば、この感情をもってその認識を変えてみせる。

 ああ、そうだ。この分からずやには、もっとどストレートで、俺の心を全部伝えられるような言葉じゃなきゃ通らない‼︎

 

「──俺はお前が好きだ‼︎」

 

 だから、そう言った。

 

「聖杯戦争なんて知らん、魔王がどうとか関係ない。ただ、俺はお前とずっと一緒に居たい‼︎ お前に消えてなんて欲しくない……‼︎ いてはならないなんて言うなら、ここにお前に「いてほしい」って願ってる奴がいる‼︎ それでもまだお前は、自分が邪魔者だなんて言うのかよ‼︎‼︎」

 

 俺の心を、思うがままにぶち撒けた。

 

「す……すきっ、え、ちょ……っ⁉︎ な、なな何を言ってるんですかケントは⁉︎」

 

「何を言ってるかってお前、言葉のまんまだよ‼︎」

 

 しばらく口をパクパクさせていたセイバーがくしゃっと表情を歪ませて、泣いてるのか笑ってるのか分からない顔になる。

 

「……っ、違います、ケントは分かっていないんです。かつて私が何をしたのか、私がどんな怪物なのかを‼︎ 分かってないから、そんな事を言えるんですよ‼︎ 私といたって、きっと貴方は不幸になる‼︎」

 

 こっちが全部さらけ出したというのに、まだセイバーは否定しようとする。

 自分は魔王だから。自分は怪物だから。その恐ろしさを知らないからこそ、俺はセイバーを好きになれたんだと。

 そんな見当違いの事をまだ言っているセイバーに対して、思わず俺はカッとなってしまって──そして。

 言うべきではない事実(・・・・・・・・・)を、口にしてしまった。

 

「何をしたのかくらい知ってるさ‼︎」

 

 だが、勢いづいた俺は止まらない。止まれない。

 

「俺は見たぞ。夢だった、けどあれは確かにお前の記憶だった‼︎ 何万っていう兵士を一人で皆殺しにするお前も見た、赤ちゃんですら手にかけるお前だって見た‼︎ それでも──……あ」

 

 俺は続く言葉を呑みこんだ。一瞬のうちに真っ青になったセイバーの顔を見て、俺が致命的な失敗を踏み抜いたと悟ってしまった。

 セイバーがその真名を隠す本当の理由。

 それは抑止力の件を俺に黙っていたように、恐らく、「自分が昔、殺戮を繰り返した、世界を敵に回す怪物である」という事を俺に隠すためだ。魔王を名乗り、自分から嘯いて自虐しようと、それが本当であるという事実を示す証拠だけは、決してみせようとしなかった。

 だが、俺は知ってしまった。盗み見てしまった。彼女の過去を、彼女の記憶を、彼女によって葬り去られた何千何万という骸の山を。

 

「違う、俺が言いたいのはそんな事じゃないっ……俺はそれでも、お前の過去がどうであれ──」

 

「ッ‼︎‼︎」

 

 立ち上がったセイバーの周囲で、激しい蒼雷が巻き起こる。

 それは俺の身体を掠めるようにして飛んでいき、背後の塀に激突して黒煙を噴き上げた。

 

「……そう、ですか。知っていたんですね」

 

 激しく唸りを上げる蒼雷は、蛇のようにのたくってセイバーの周りを取り囲む。それはまるで、俺を拒絶する彼女の意思そのもの──。

 

「……ああ、知ってた。お前が何をしたのかも全部知ってる。その上で俺は、お前の、セイバーの事を好きになったんだ」

 

「そんなの……おかしいです、異常です、正気じゃありません‼︎ 数えきれぬほどの命を奪ったこの私を好きになれるなんて、貴方はどこか狂っています‼︎ そんなこと、あり得るはずが」

 

「人の想いを狂気で片付けてんじゃねえッ‼︎‼︎」

 

 俺は吹き荒れる魔力放出の嵐にも臆さず、セイバーに駆け寄って手を伸ばした。

 が──その手をすり抜けるように、セイバーはひらりと宙に跳ぶ。

 

「……ごめんなさい」

 

 もうセイバーはこちらを見なかった。

 その表情を隠すように背を向けて、俺から目を逸らし続ける。

 

剣士(セイバー)として、最後まで役目は果たします。でも私は、ケントとは一緒にいられません。そうしてしまえば、わたしは魔王(わたし)でなくなってしまう」

 

「セイバー……っ‼︎」

 

 そう言い残して、セイバーは姿を消してしまった。塀の瓦を砕けるほどに強く蹴り飛ばして、その向こうへと消えていったのだ。

 ……やっぱりアイツは、何にもわかっちゃいない。

 お前は魔王なんかじゃないと、そんな肩書きなんぞにとらわれる必要はないんだって。

 俺が一番伝えたいのは、ただそれだけだってのに──。



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六十四話 決意・アナスタシア/Other side

 ゆったりとした時間が流れている。

 洋楽が流れる店内に、金糸のような陽光がカーテンを透過して差し込んでくる。香り立つ珈琲の香りも相まって、椅子に座っているだけでも癒されそうだ。

 そんな、今日も今日とて変わらない雰囲気を保つ喫茶「薫風」の中──、

 

「おい」

 

「はい、なんでしょうか?」

 

 剣呑な声を発する男が居た。短く刈り上げた灰色の髪、剛毅な顔に鋭い瞳。少しでも世界の常識から外れたものが見れば、一目で尋常ならざる男だと判断出来るだろう。

 弛緩していた空気が張り詰める。

 威圧感すら纏ったその男は、手にしたグラスを片手で軽く掲げると、

 

「このコーヒー、悪くないじゃあないか。自信を持っていいと思うぜ」

 

 と言って、ニヤリと笑ってみせた。

 その瞬間に空気が軟化して、槙野も笑顔を見せる。

 

「うちは完全100パーセントアラビカ種使用ですからね。チェーン店なんかに比べれば、まだ価格も良心的だと思いますよ?」

 

「ああ、いい店だ。しかし、こんなに美味いコーヒーがくたばった後に飲めるとはなぁ。本当に、人生というやつは面白い」

 

 側から見ると意味不明なことを呟いている彼に、後方から冷ややかな目線を向ける少女がいた。アーチャのマスターにして代行者、アナスタシアだ。

 戦況が動き始める夜になるまで、彼女はこうしてこの喫茶店で働いているのが常だった。

 

(しかし、なんで貴方が居るんだか……)

 

 アナスタシアは軽く溜息をついて、憂鬱げに窓の外に視線を逸らす。

 聖杯戦争は依然として混沌とした状況だ。

 キャスター達からの接触により、代行者達を殲滅したあの女魔術師が、サーヴァントを複数騎使役していることくらいは把握できているが──、

 

(問題はいつ動くかですね。セイバー、キャスター、アサシンの三騎は協力してあの島を攻略するつもりのようですが……果たして、三騎のみでそう易々とあの島が堕ちるかどうか)

 

 こちらのアーチャーが彼らに協力すれば、多少なりとも勝率は上がるかもしれない。

 が、そもそも魔術師という存在が、アナスタシアのような教会の人間からしてみれば敵なのだ。更に、血縁も家計も異なる魔術師が複数人で協力しようとした場合、大抵の場合上手くいかないというのが定説。

 敵も彼らも予想していないタイミングで奇襲を仕掛け、そのまま優位を掴み取れるような、そんな付かず離れずの距離感がアナスタシアは適していると判断した。

 

(まあ、相応に難しい選択ではありますが)

 

「おーい、アナ? アナスタシア?」

 

 突然ふと我に返って、アナスタシアはびくりと肩を震わせた。

 

「なっ……、ごほごほっ。なんでしょうか、槙野さん」

 

「いや、心ここに在らずなんて顔してたからね。つい気になって」

 

「さ、さっきのお客は……?」

 

「いない。一杯で帰られたよ。なんでも、きりきり働かなくちゃあ煩い上司がいるからとかなんとか……」

 

 内心でイラッとしつつも表情は崩さないアナスタシアは、アーチャーが置いていった空のグラスを流しへと運ぶ。

 それから台拭きと一連の作業を終えて店内を見渡すと、客の姿は一人もなかった。

 最近はこの店も盛況なので、こうした静かな時間は久方ぶりに感じる。

 

「最近、お客さんも多くなってねえ」

 

 と、アナスタシアが思っているのと同じ事を、隣に立ってグラスを拭いていた槙野がぽつりと零した。

 

「アナ。君には感謝しなくちゃあならない。もし君がいなかったら、この店は今でも閑古鳥が鳴いてただろうからね」

 

「そんな事はありません。槙野さん……貴方の腕前が確かだからこそ、着実に人気を得られているんですよ」

 

「はは。そう言ってくれると店主冥利に尽きるけどね……けれど、君はもうすぐここを発つ。留学の期間は、確かもうそろそろ終わる頃だっただろう?」

 

 ──アナスタシアは少し俯いて、床に視線を向ける。

 

「ええ。そうです」

 

「……その顔、何か不満があるのかな? 君にしては珍しい。何かに悩んで、迷ってるような顔だ」

 

 槙野にそう言われて、アナスタシアは思わずぱっと彼の方に視線を戻した。

 そんな事を言われた記憶は一度たりともない。

 いつもいつだって顔色一つ変えずに困難を越え、命を殺め、代行者として生きてきた自分が──そこまで読み取られるなんて。

 

「驚いたかい? ふふ、最初は君の事を知るのに僕も苦労したけどね。最近の君は以前よりもずっと表情豊かになったんだ。もっとも、君自身は気付いてないかもしれないけど」

 

「そ、そうですか」

 

 思わず言葉に詰まって、アナスタシアは咄嗟に考える。

 

 もし、自分の表情から、そんな簡単に己の感情を読み取られてしまうのであれば。

 もし、自分の気持ちが伝えられるのなら。

 もし、このまま、彼をじっと眺めていたら──。

 

「あ……アナ?」

 

 彼は、この胸の高鳴りすらも読み取ってしまうのだろうか。

 ゆったりとしていた時間の流れが変わる。

 どこか緊張感があって、それでいて蕩けるような甘さのある雰囲気。明確に、何かがあると察してしまうような──、

 

「「………………」」

 

 その沈黙は、一体何秒に渡ったのだろうか。

 

「わっ、わた……わたし」

 

 胸の鼓動が爆発的に急加速する。戦闘時でもありないくらいにバクバクと暴れ狂う心臓を必死に無視しながら、アナスタシアはその身体を槙野の体にすり寄せた。

 顔が熱い。目の前の彼と同じくらい、今の自分は顔が真っ赤になっているんだろう、とアナスタシアは自覚する。

 そんな彼女の背中に、槙野の腕が触れた。

 まだ戸惑いが残っているような、恐る恐るといった抱擁。それを無言で受け止めて、アナスタシアは火照った唇を開く。

 

「私、は……っ‼︎」

 

 それを言っては戻れなくなると知りながら、生まれて初めて感じる、心を焦がすような衝動に任せて口を開いた瞬間──、

 

 

「お疲れ様でェす、宅配便お届けに参りましたぁ〜」

 

 

 カランカラン、と軽やかな音を立てて、荷物を抱えた男が入ってきた。

 その瞬間にアナスタシアは代行者の身体能力を遺憾なく発揮し、槙野が何か反応するより早く手の中から抜け出した。

 しゅぱっ! なんて擬音が聞こえそうな速度で元の定位置に戻ったアナスタシアは、いつもの真顔を顔に貼り付けつつも、酔いが覚めたような気分を味わう。

 

(わ、私はっ、私はなんてことを……⁉︎)

 

「あ、ああ、あははは。うん、はい、そういや不足してたナプキンなんて頼んでたね僕。いつもご苦労様、ありがとう」

 

「いえいえェ、ありがとうございますゥ」

 

 槙野は槙野で気が動転しつつも、言葉の端を震えさせながら荷物を受け取っている。

 その様を見つつも、一度ぐるりと店内を見渡してみる。ここに潜伏している期間としては二週間ちょっとだが、随分と馴染んでしまった気がする。この胸の高鳴りも、もう誤魔化せそうにはない。

 

(やはり私は……この場所が、好きです。そして)

 

 印鑑を押して律儀に頭を下げている、丸眼鏡の店主。

 彼に視線を移すと、自然と微笑みが漏れてしまう。

 だから、やっぱり──、

 

(言えなかったけれど、私は……あなたのことが、好きなんです。たとえ、もう一緒にはいられないとしても)

 

 この任務が終わってしまえば、アナスタシアは日本を離れる。

 また様々な異国を駆け巡り、魔を討ち滅ぼし、そしていつかはその道程で力尽きるのだろう。

 死が怖いわけではない。

 ただ、離れることが悲しかった。

 

「……?」

 

 と。アナスタシアは胸元に隠した十字架が微かに反応している事を知り、槙野に電話と断って店を出た。

 外に出た途端、彼女の目つきが一変する。

 それは一喫茶の店員のものではない。魔の撃滅者、神に許されし代行者のみが持つ鋭い眼光だ。

 

『アナスタシア。代行者アナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナ。応答を』

 

「はい。こちらアナスタシア」

 

 緊張感を纏わせたまま、アナスタシアは十字架を通じて頭に響いてくる声に応答する。

 長い沈黙を経て、ついに聖堂教会は動こうというのか。

 

『代行者四人を失う混乱があったが、こちらでもようやく決議が出た。これより任務を言い渡す。速やかに行動に移りたまえ』

 

 こちらから連絡を試みても一向に応答しなかったというのに今更指示を出すとは、と少し腹立たしいのは事実だが、アナスタシアは神妙な表情のまま沈黙を保つ。

 

『代行者、アナスタシアに通告。今すぐその地から撤退せよ。教会はこれ以上の介入を是としない方針で固まった。サーヴァントの処理は任せる。其方が保有している令呪をもって自害させると良いだろう、とのことだ』

 

「なッ……⁉︎」

 

 アナスタシアは思わず声を漏らして、その通告にくってかかるように声を上げた。

 

「このまま──何もせずに私に手を引けと? 我々の被害からも判断できるでしょう、あの女は危険です‼︎ このまま放置すれば何が起こるか……‼︎ この大塚の街も無事で済むとは思えません‼︎」

 

『だからこそ、だ。我々はもう既に四人もの代行者を失っている……君まで失うわけにはいかない。分かるかね? アナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナ。君は評価されているんだよ、その類稀な力量を』

 

「だとしても……‼︎」

 

 アナスタシアは一度後ろを振り返り、静かに佇むような喫茶「薫風」の外観を眺める。

 この場所は大切な場所だ。全てを失ってから完全に止まっていた自分の熱を、もう一度呼び覚ましてくれた場所。大切な人がいてくれる場所。

 ここを見捨てて、自分一人で逃げるなんて──。

 

『不可解だな』

 

 躊躇するアナスタシアに、怪訝な声がかけられた。

 

『何故そこまで拘泥する? 任務の為に訪れただけの地、はるか離れた異郷の地だ。そんな場所で何にしがみついている?』

 

 任務の為、と言われればそれまでだ。

 実際、この場所に転がり込んだのも、任務を遂行するうえで適していたからに過ぎない。少し何かが違えば、アナスタシアはこの場所に居なかったことだろう。

 しかし──、

 

「……私は、とある人に会いました。偽りの身分を通じて、色々な人と話しました。沢山のことを学びました。少なくともこのまま、神の代行者として愚直に生きているだけでは決して得られないものを、私は頂いたんです」

 

『貴様、一体何を考えて……⁉︎』

 

「だからこそ、私には責務がある。この恩を、大塚の人々に返すという責務が。──私は最後までこの地に残ります。例えこの地で命果てたとしても、私はこの場所と、大切な人を守り抜く覚悟です」

 

『馬鹿な、自分の役目を忘れたかッ⁉︎ 応答しろアナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナ‼︎ 神の代行たる我々の一員が、よもや異教徒の猿如きに絆されるなど──』

 

「では」

 

 ぶつん、と通信を切る。

 それはアナスタシアが犯した最初にして最後の命令違反であり、彼女は自らその役割に背を向けた。

 決して褒められたことではない事くらい理解している。それが別の一面から見れば無責任な行動である、という事も。

 でも、どこか清々しい気分だ。

 

 

『貴方は生きて、自分がすべきと思った事を成しなさい』

 

 

 朧げにしかない幼少の頃の記憶の中で、ただ一つ脳裏にこびりついて離れない記憶。

 両親と最期の別れを果たした夜。

 あの日──燃え盛る炎の中で、彼女の母はそう言った。アナスタシアはその言葉と一緒に、正真正銘の聖典をその身に宿し、代行者の資格を手に入れたのだ。

 

「私はようやく、貴方の言葉の通りに生きていける気がします」

 

 ついぞこの地を訪れるまで、すべきと思った事なんて見当たらなかった。

 ただ、全てを奪っていった奴らに対する憎しみがあるだけ。だから、復讐を己が成すべき事に据えて生きてきた。代行者として、感情を押し殺して戦ってきた。

 それでも、今は違う。

 自分が戦うことに変わりはないだろう。けれど、それは相手に一方的に怒りをぶつけるような、子供じみた理由ではない。

 これは、守りたいものを守るための戦いだ。

 

「成すべきことは……もう、決まっている」

 

 アナスタシアは形見である木彫りの十字架を丁寧に胸元にしまい、改めて喫茶「薫風」の扉をくぐる。

 自分が始めて得られた、大切な場所。

 主の代行、なんて畏れ多い行いをするつもりはない。この安寧を壊さないために、アナスタシアという少女は戦いに臨む──。



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六十五話 アインツベルンの少女/Other side

 寒い。──それが始まりの記憶だった。

 「彼女」に名前はない。

 ホムンクルスにして聖杯の器となるべく製造された彼女は、とあるホムンクルスの試作機(プロトタイプ)だった。

 その、「究極のホムンクルス」とも呼ぶべき存在が産み落とされるまでの過程には、様々な失敗が積み重ねられたと云う。何百という命が作られては廃棄され、消えていった。とあるホムンクルスは人間と子供を育むまでに至ったらしいが、そんなのは極々一部の例外だ。

 

 ──そして。この少女も、その廃棄物の中の一人だった。

 

 第五次聖杯戦争。冬木で執り行われたそれにアインツベルンは究極のホムンクルスを投入し、そして、敗北した。

 これを境にアインツベルンの中で何らかの意識の変化が起こったのか、これより彼らは門外秘術としていた奇跡を独占する事なく、他家の交渉や介入を許すようになる。のちにアインツベルンの凋落と語られる出来事だ。

 当然ながら、アインツベルン家の技術を我が物にせんと目論む魔術師らは、屍肉を貪るハイエナのごとくアインツベルンに殺到した。

 

 ──そして。そんな中に、一人の男がいた。

 

 まだ若輩の雰囲気から抜け出せていない、しかしその目は野心で煌々と燃え盛っている、そんな雰囲気の男。

 その名前を、マリウス・ディミトリアスといった。

 彼はディミトリアス家の発展のため、切れるカードの全てを的確に使ってアインツベルンとの交渉、及び他家との競合に望んだ。その様はまさに死に物狂い、なんとしても名声を手に入れんとする鬼の如き姿で。

 しかし彼は決して、自らの頭を下げようとはしなかった。

 アインツベルンの長老を拝み倒す魔術師らに軽蔑の目を向け、あくまでも対等の立場を崩さず交渉を続けたのだ。

 あまりにも非効率。傲慢不遜、愚者の行いと誹られるのはマリウスの方であった。実際プライドを決して汚さんとする彼の姿勢には反対する者も多く、マリウスには内外に敵が多い。

 しかし。幸運にもその様が認められたのか、マリウスはアインツベルンとの協力関係の構築に成功した。

 そして──マリウスがアインツベルンの地下に建設された巨大廃棄場に通された時、彼らはついに初対面の時を迎える。

 

「………………お前は?」

 

 その時、彼女はほとんど活動を停止しかけていた。

 死体のように死体の間を漂いながら、虚ろな瞳で、十年を軽く超える年月を無為に過ごしていただけ。その過程で思考回路も動作回路もガタがきて、まともに動かせはしなかった。

 そんな、動作の9割が正常に働かない状況にあって。

 しかし──その男の顔だけは、やけにはっきりと覚えている。

 プライドに、矜持に、自らの生き様に燃える強欲にして無垢な瞳。

 だからこそかもしれない。半分死んでいるにも等しい生を長い間、とても長い間続けてきた彼女にとって、その生の輝きはあまりにも眩しかった。

 

「決めたぞ、ユーブスタクハイト。私はこれ(・・)を貰い受ける」

 

 その雪の少女は、その言葉をもって、一つの地獄から救い出されることになる。

 

 

 

 

「さて。お前に臨む役割は一つだ、ホムンクルス」

 

 彼はそう言いながら、日本へと発つ準備を進めていた。

 中途で潰えたとされる大儀式、「聖杯戦争」。

 かのシステムは既に破壊され、六度目のそれは永劫に失われたと思われていたが──とある情報筋が、ついに場所を移して「六度目」が執り行われるという情報を掴んだ。

 それを金とコネクションを駆使していち早く掴んだマリウスは、秀才らしい即決即断により参戦を決定。

 かつてマリウス家が「第五次」に参戦しようと試みた際に蒐集するも、無用の長物と化してしまっていた聖遺物。かつて英雄アキレウスが纏ったとされる黄金の鎧、そのごく僅かな欠片。これを触媒として用いることで、彼が最高クラスの英霊であろうアキレウスを従えることは、既に決定しているようなものだった。

 

「私と貴様の二重契約によって、魔力の消費量を分散させる。第四次の際、とあるマスターが編み出した抜け道だな」

 

 ──そこで、少女は疑問を覚える。

 自分の魔力量は、まっとうな魔術師に比べても群を抜いて高い。生存に必要な機能を犠牲に、魔術回路の数を増やしているからだ。

 魔力タンクとしての役割を期待しているのなら、それこそ無理に二重契約を成す必要がない。彼女一人で、バーサーカーを使役する分の魔力は十分に事足りるからだ。

 

「二重契約の理由? 魔力は一人で事足りる? 大馬鹿が。貴様はこのマリウスという人間をまだ理解していないようだな」

 

「…………?」

 

「簡単な事だ。これは「矜持」だよ。プライド、とも云う。貴様に召喚の際に発生しうる苦痛も困難も全て預け、私は何も背負わない? 考えただけでも苦笑ものだ。そんな情けない真似、とても私には許容できん」

 

 マリウスは高らかに述べてから、忘れていたと言わんばかりに、

 

「それと。これは万が一、貴様が離反するという可能性を潰す為のものでもある。増長はしてくれるなよ、ホムンクルス。貴様は私の所有物に過ぎないのだから」

 

 そう付け足して、彼は再び背中を向けてしまう。

 

 ……面白い人だな、と少女は思った。

 

 彼は、一般に云う「いい人」ではないのだろう。いかにも魔術師らしい、非人間にじみた冷徹さを持ち合わせた男だ。

 だが一つだけ、普通の魔術師とは異なるところがある。

 それは、その非効率さ。効率を追求しがちな魔術師の中で、その在り方はあまりにも特異だった。自分の矜持に準じて、自分にふさわしくないと思った行為は、たとえ非効率でも許容しない。

 

(わたしには……矜持なんて、ない)

 

 彼女に、プライドなんてものがあるはずもない。

 元々が失敗作であり廃棄物。アインツベルンに選ばれなかった、あのまま機能停止を待つだけだった少女。

 名前すら持たない彼女には矜持どころか、生きる意味も存在しなかった。

 

(でも、もし、わたしがそんなものを持てたなら……)

 

 この世界は、果たして違って見えるのだろうか。

 まだ何も知らない彼女は、そんなことを思ったのだった。

 

 

 

 

「ゲホ、ゴホッ……‼︎」

 

 ぱたたっ、と吐血が床を濡らす。

 夕日を浴びてオレンジ色に染まる、どこかの小さな発電小屋。その暗がりで壁に背を預けたマリウスは、ずるずると崩れ落ちるように座り込んだ。

 前の魔術工房は廃棄した。どのみち倫太郎によって破壊された廃墟だ、利用価値は無いに等しい。

 さらに魔術回路の七割を失い、今の彼にバーサーカーとの契約を続けるだけの魔力はない。その反動が、今もマリウスを蝕んでいる。

 

「も、もう契約を切るべきじゃ……‼︎」

 

「……大馬鹿、が。そんな辛気臭い顔を向けるな、ホムンクルス。私は決して、自分の道に沿わない手段は取らん。それくらい、もう分かっているんじゃあないか……?」

 

 顔を青くして声をかける少女に、マリウスはそんな事を返す。

 今にも力尽きそうな様子だった。明らかな強がりだった。

 それでも、この男は不敵に笑おうとする。

 自分の矜持に殉じるために。自由に選択する自らの意思で、この人生を生き抜くために──マリウスは喜んで苦難を受け入れる。

 

「まあ、確かに。大馬鹿、大馬鹿と言ってはいるが……その実、私が一番の大馬鹿である事くらいは理解しているさ」

 

 彼にしては珍しく。

 自虐めいた声色で、マリウスはそんな事を呟いた。

 

「だがな。その選択がたとえ非効率で、遠回りで、理にかなっていなくとも……「自分の意思で、自分の選択を決定する」。そんな当たり前の行為を成せるという事は、それだけで尊いものなのだ」

 

 持ち込んだ荷物に彼は手を伸ばし、赤色の液体が注がれた容器を何個か手繰り寄せる。

 それらの名は「魔術髄液」。一時的に魔術回路を増やす、闇市場でしか流通していない非合法品。確かに効果はあるが、その副作用は未だもって解明されていないところがある。頼るにしてはあまりに危険な代物だった。

 それを脊髄に打ち込みながら、マリウスは言う。

 

「なあ、ホムンクルス。お前はどうだ」

 

「わたし……?」

 

「ああ。お前は、まだまだ世界を知らない。もったいない事だ、とは思わないのか。私のように、自分の意のままに、自分の道を歩んでいきたいとは思わないのか」

 

 困惑する。そんな事は、考えた事がなかった。

 ただ、どこまでも自分自身に素直にあろうとするマリウスの姿に、憧れを感じていた事は事実である。

 

「……参った。ただの道具に何を語っているのかな、私は」

 

 マリウスは、己が行為の「らしくなさ」に苦笑する。

 彼自身、どうもこの少女には入れ込むところがあると理解していた。その理由も、薄っすらながら勘付いている。

 だが、その理由を言ったところで、何かが起こるわけでもない。

 マリウスは瞼を閉じて、

 

「意識が重い。少し、眠る……」

 

 そう言い残して、疲労からくる眠りへと落ちていった。

 少女はそれを見守った後、すくりと立ち上がる。

 どうすればいいのだろう。風前の灯めいたマリウスの命を救うには、一体どうしてあげればいいのだろうか。

 胸がざわついて、きりきりと痛む。

 おかしな話だ。自分の機能停止は怖くないのに、他人の死が恐ろしい。マリウスの死が、思考回路をバグらせるほどに大きな重圧となっている。

 

「なんとか、しなきゃ」

 

 自分の手で小屋を出て、開けた外に一歩を踏み出す。

 その途端、当たり前の世界が違って見えた気がした。

 風に揺れて、ざわざわと騒いでいる森。時折吹き抜けていく風。美しい色の移り変わりを見せる夕焼けの空。高みで輝く宙天の月。

 

「なんとか……しないと、いけないんだ」

 

 少女は、初めて自分の意思で行動を起こす。マリウスに教えられたのだ。その行為こそが、尊いものなのだと。

 だが、具体的に何をどうすればいいのか。

 彼女はあまりに世界を知らない。危機に瀕しているマリウスを救うために一体何ができるのか、これっぽっちも分からない。無力な自分では、もがいても何も変えられないかもしれない。

 

 ──それでも。

 かつてのように、何もせずに終わりを待つのは耐えられない。

 

 意を決して、彼女が走り出そうとした時だった。

 

 

「やあ。お困りかな、お嬢さん」

 

 

 再び風が吹いたと思った瞬間、その女はそこにいた。

 風に揺れる金の髪。纏ったローブが、風に揉まれて膨らんでいる。

 その存在を前に、少女はぴたりと立ち止まった。

 敵か、味方か。焦った今では冷静に考えることもままならない。

 

「警戒しなくともいい。(わたし)は、君の味方だ」

 

「え……」

 

 女が顔を近づけて、そっと少女に囁いてみせる。

 甘い声だ。聞くものが聞けば、何かあると感じずにはいられないような蠱惑の声。それでも、少女には圧倒的に経験が足りていない。

 

「助けたいんだろう……? そこにいる男を。それなら、私に任せてくれればいい」

 

「た、助けて……くれるの……本当に?」

 

「勿論だとも。ただし、物事を任せるには対価が必要となる。それは、君とて理解できる筈だ」

 

 女は微かに口の端を吊り上げて、芝居がかかった口調で続ける。

 

(わたし)が彼を救おう。代わりに、君に頼みたいことがある」

 

 少女に向けて、女は一枚の写真を見せた。

 そこに映っているのは一組の男女。魔術師にはとても見えない風体の、いかにも一般人じみた姿をしている二人だった。

 

「なあに、簡単なことさ。君と、君のバーサーカーの力をもってすれば……なんてことはない相手だとも」

 

 

 

 

 それから、一時間ほどのち──。

 学校も終わり、太陽は既に沈んでいる。

 居残り勉強という苦行を課され、健斗もいないものだから夜遅くまで一人で教室に監禁されていた前田大雅は、ようやく下向を許されて校門に向かっていた。

 

「健斗め、また学校をサボりやがって。次登校してきた時が最期だと思いたまえよ全く。どうせあの子とイチャイチャしてるんだろ」

 

 それとは真逆の状態とは知らず、大雅はのんびりと暗くなった校内を歩いていく。

 と、校門のあたりに向かう人影がもう一人。

 

「おや、三浦さん? こんな遅くまで練習かい?」

 

「うん。ついつい熱が入りすぎて」

 

「かーっ、いつも熱心だねえ。いい機会だし一緒に帰るとしよう」

 

 三浦と帰宅できることに内心で喜びの舞を踊りながら、大雅はそれを出すまいと気を引き締め、きりりと表情を固めておく。

 実際はたるんだ顔になっているのだが、暗めの校内が幸いした。

 

「今日も来なかったねぇ、志原くん……」

 

「本当だよ。なーにをやってるんだか、アイツ」

 

 やれやれと肩をすくめて、大雅は茶化すように言う。

 とはいえ、心配しているのは確かだった。風邪を引こうが自動車にはねられようがほとんど休むことのなかった健斗がここまで何日も休むとなると、これは異常事態に他ならない。

 最近大塚市で頻発しているという怪事件の数々。

 それと何らかの関係があるとしたら、果たして──?

 

「まあ、健斗は僕と違ってタフだからね。ピンチになっても、何とか切り抜けるだろうさ」

 

「うん、そうだね。私たちが困ったときも、きっと助けてくれるよ」

 

「おおっと、三浦さんのピンチを助けるのは僕の役目だぞう。何たって君の騎士(ナイト)になってあげると、前に宣言したじゃあないか!」

 

「ふふ。それ、本気だったの?」

 

「ああ本気だとも。僕は間違いはするが嘘はつかないおと……こ……ッ⁉︎」

 

 大雅が、言葉を言い切る前に呑み込んでしまう。

 原因は目の前にあった。

 なにかが、いる。

 「それ」と目を合わせた瞬間、全身の毛が総毛立ったのだ。

 

 ────ヤバイ。

 

 理由も何もない。単なる直感でそうだとはっきり理解できるほど、あの存在は圧倒的に過ぎる。

 隣の三浦も、目の前の男に気づいたのだろう。

 口元を押さえて、漏れかけた悲鳴を必死で押しとどめる。

 

「……おい、おい。なんだ、あれ」

 

 心臓が収縮する。足が震える。汗が止まらない。

 さっきまで、自分たちはのんびりと会話を楽しんでいたのに。

 それがものの一秒で、まな板の上の鯉に早変わり。全身が命の危機に警鐘を鳴らしている、そんな極限状態に放り込まれた。

 

「み、三浦さん……今すぐ、逃げるんだ」

 

 ずし、と音を立てて。その男が歩いてくる。

 手には現代にはあまりに不釣り合いな長剣。身体を包むのは時代を間違えているとしか思えない革鎧。

 そしてその目は、爛々と輝いてこちらを睨んでいる。

 

「言っただろう。僕は、嘘はつかないって」

 

「で、でも、あれは……ッ⁉︎」

 

「いいからッ! 僕に構わずとっとと逃げろぉっ‼︎」

 

 空気が震えるほどの大声で、大雅は振り返らないまま叫んでいた。

 その光景を見た途端、三浦は微かな頭痛を覚えて顔をしかめる。

 覚えていないし、記憶にもない。

 それでも。こんなことが、前にも一度あったような──。

 

「……えっ?」

 

 気がついた時には、男の姿が消えていた。

 三浦も、男から目を離さなかった大雅すらも、彼がどこに消えたのか理解できなかった。

 忽然と姿を消した男。

 幽霊か何かの類だったのか、と三浦が安堵したのもつかの間──、

 

「っ⁉︎ 三浦さん、後ろ──⁉︎」

 

 男が、彼女の背後でゆっくりと剣を振りかぶっていた。

 咄嗟に、ほぼ反射的に大雅が動く。

 後先考えずに彼女の体を突き飛ばし、両者の間に割って入り、

 

 ──そして。

 振るわれたバーサーカーの長剣が、大雅の身体を斬り捨てた。

 

「い……っ」

 

 飛び散る鮮血。血の雫がぴしゃりと彼女の頰を叩く。

 そのまま、ゆっくりと崩れていく大雅の身体。

 路上に倒れ伏した彼は、もう立ち上がることはなかった。

 

「いや……いやああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ‼︎‼︎」

 

 絹を裂くような悲鳴が、夜の大塚に響き渡る。

 助けはなく。希望もなく。

 バーサーカーは、ゆっくりと三浦に手を伸ばして──。




【少女】
アインツベルンにて作られた「失敗作」のうちの一つ。かの「イリヤスフィール」を製造する上で生まれたため、容姿は彼女に酷似している。性能不足の廃棄物だが、魔力タンクとしての役割を担うには十分。マリウスは彼女を手に入れる為に多大な労力と莫大な財産を投入した。
まだ何も知らない、純粋無垢の原石じみた少女。名前はまだない。


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六十六話 神速と蒼雷──Revenge

「はあ……」

 

「なんだよこれ見よがしに。気が滅入るんだけど」

 

 夜も更けてきたが、今のところこれといった動きはない。

 楓はぐっすり和室で熟睡しているし(さっき大きな寝言を言ってるのが聞こえた)、キャスターもアサシンも霊体化して姿は見えないし、士郎さんと凛さん、ランサーは部屋でなにやら話し込んでいるらしい。

 そして肝心のセイバーは、日が暮れるまで探し回ったが姿を見せないまま──。

 必然的に、この屋敷をうろついているのは俺と倫太郎、この二人だけとなってしまう。

 

「……失敗した。やり過ぎた。つい熱くなり過ぎたんだ」

 

「だ、か、ら! 一体全体なんの話さ。まず志原健斗、そもそも君のこともアイツの兄貴ってだけでよく知らないし。セイバーの姿が見えないことと関係があるのか?」

 

 そういうわけで俺と倫太郎の二人は、照明をつけたダイニングに対面で腰掛けて、こうして話し込んでいるというわけだ。

 一人で悩んでいても気が滅入りに滅入るので、ちょうど暇そうにしていたコイツを捕まえて話相手に据えている。

 一度は殺し合った相手とこうして仲良くお話というのもなかなか変な状況だが、俺はあまり根に持たないほうなのだと最近気づいた。

 

「いや……なんというか、言いにくいんだけどな……まあ色々あって、アイツとケンカした。今後は姿を見せないとか言ってる」

 

「はぁっ⁉︎ 仙天島攻略も近いこんな時に⁉︎ 向こうのバーサーカーをセイバーが抑える、って士郎さんたちが考えてくれた作戦は⁉︎」

 

 倫太郎が驚愕して声を張り上げる。そんな驚かれたって、ケンカしてしまったものはしょうがない。

 

「……アイツは、役目は果たすと言ってたんだ。最悪の場合でも、セイバーの力が借りられないなんてことにはならないと思う」

 

「って言ったって……結構やりにくくなるぞ、それじゃあ」

 

 声の調子を落とす倫太郎。確かにこちらでタイミングが掴めずセイバーに任せきりでは、個々の協力が重要視される今回の作戦はやり辛いだろう。

 改めて事の重大さを認識させられて、一人でいた時よりもますますどんよりとした気分になる。それもこれも俺が悪いんだけど──、

 

「とりあえず……こっちで何とかしてみる。つまらん話に付き合ってくれて、ありがと」

 

 倫太郎と別れて、俺は木張りの廊下を渡っていく。

 中庭をふと眺めると、セイバーの蒼雷によって焦げた塀が月明りに照らされて見えた。

 同時に、ここにセイバーがいないという事実を再認識する。

 アイツのやかましい声が無い、という静けさは、これ程までに寂寥感を与えてくるようなものだっただろうか。これほど沈黙が重く感じられたのは、初めてのことかもしれない。

 そんな事を思ってから、自分がおかしくて笑ってしまう。

 

「はは、本当に……」

 

 セイバーもいないのに夜に出歩くのは得策ではあるまい。

 今は大人しく繭村の屋敷で待機して、セイバーを探すのは日が昇ってからにしよう。そう考えて、大人しく割り当てられた和室に戻ろうとした俺だったが──。

 突然、ポケットに入れっぱなしのスマホがけたたましく鳴り響いた。この軽快な音楽は、誰かから通話がかかってきている事の証拠に他ならない。

 突然のことにやや驚きつつも、スマホに表示された字面を見る。

 

(三浦……? アイツ、こんな時間に何の電話だ?)

 

 それは級友にして親友、三浦火乃果の名前だった。

 若干不思議に思いつつ、とにかく電話に出る事にする。

 

『し、志原、くん。忙しいかもしれないんだけど、聞いて』

 

「やっぱ三浦か。珍しいよな、お前が電話なんて。どうしたんだ? また何か大雅がやらかしたのか?」

 

『それは、違……──』

 

 突然、会話の向こうで何かが聴こえて、三浦の声を掻き消した。

 ざわざわ、ごうごう……と。どこかで聞いた事のあるような、不思議と心がざわついてくる音だ。

 

「ん……何だって? 聞こえないぞ?」

 

『……たす、けて』

 

 たった四文字のその声は──とてもまともな人間が発せられとは思えないほど、心の底から怯えていて、憔悴しきった声だった。

 

『前田、くんが、死んじゃう。死んじゃうよ……っ‼︎』

 

「お、おいっ……三浦⁉︎ 一回落ち着け、そっちじゃ何が一体どうなってる‼︎ 今どこにいるんだ、大雅もいるのか⁉︎」

 

『いる……一緒に、いるよ。大塚の森林公園で、志原くんを待ってる。……電話で、あなたを呼び出せって、女の子が』

 

 その声は今にも搔き消えそうだ。

 三浦は今も戦っている。電話の向こうにいるであろう「誰か」に今も殺されそうな恐怖を押し殺して、必死に言葉を紡いでいる。

 

『ごめん、なさい。本当は、志原くんは、来るべきじゃないの。こんな危ない人がいるところに、志原くんを呼んじゃいけないって分かってる……でも、私、私っ……‼︎』

 

 プツン、と。あっけなく電話は切れた。向こうが切ったのか、それとも何者かが切らせたのかは分からない。ただ、まるで大雅の命の灯火のように、呆気なく切れて言葉を発しなくなった。

 怒涛の情報が頭の中を駆け巡る。

 二人に何があった? 疑うまでもない、サーヴァントと聖杯戦争がらみで何かがあったんだ。俺を誘き寄せるために最適の「餌」、クラスメイトの前田大雅、三浦火乃果という人間を拉致して、俺に電話をかけさせたのだろう。

 

「………………」

 

 頭の中が、燃えている。

 脳髄がグツグツに溶けてしまいそうなほど怒っている。

 そのくせして、思考はどこか冷静だ。いつぞやの時と同じ。

 二人を攫ったのは誰か。俺たちを襲うような敵対関係にあるサーヴァントといえば限られてくる。即ち、バーサーカーかライダーだ。

 だが、ライダーの線は薄いだろう。何故ならわざわざ、三浦に話させる必要がない。自分で居場所を名乗ればそれで終わりだし、そもそもあの傲慢なチビはこんな搦め手を使うようなタイプには思えない。

 この聖杯戦争に居るという非正規の英霊だとしても、わざわざ島の外に出てこんなにも面倒な事をする必要性がない。それはライダーにだって言える事だ。

 

 つまり、考えられるのは一つ。

 今も二人を命の危機に晒しているのは、俺の命を奪い、セイバーを瀕死に追い込んだ──あの狂戦士に他ならない……‼︎

 

「バー……サー、カーァァァァァァァァァァァァァァッ‼︎‼︎」

 

 そうと決まった瞬間、俺は怒りと勢いに任せて繭村家の屋敷を飛び出していた。倫太郎やキャスター、アサシンの咎めがなかったことは幸運というほかあるまい。

 門のそばに停めた自転車に勢いよく跨って、ペダルをブチ抜く勢いで加速していく。

 

「くそッ、あの野郎──‼︎‼︎」

 

 スピードが足りない。もっと速く、もっともっと──。

 俺の意思に答えるように、何かが変わっていくような気がする。

 ベキゴキバキバキ、なんて怪音が響いた直後に、俺の自転車が突然限界を振り切った。ペダルが軽い。一漕ぎでどんどん加速する。月夜を引き裂く一陣の風となって、大塚の街を瞬く間に駆け抜けていく。

 

「大雅、三浦……‼︎‼︎」

 

 俺が死んで、セイバーと出会ったあの夜。

 もうこれ以上、この街の人間を死なせたくないと思った。こんな戦争が生む犠牲は、俺で最後にしたかった。

 そんな事がまかり通るほど甘くないことくらい知っている。それでも、ただ俺が知っている、俺の手が届くような連中くらいは巻き込みたくないと。そう強く思ったのだ。

 だからまだ諦めない。

 かつて俺の命を奪ってくれやがったアイツに、もうこれ以上好きにさせる訳にはいかない──もう何も奪わせない。決して。

 

「待ってろ、今行く……‼︎」

 

 その想いすらペダルに乗せて、もっと加速していく。

 気がついた時には田園地帯どころか大塚市の中心部すら振り切って、大塚市東部の住宅街にさしかかっていた。

 目的地はこの先、住宅街の奥にある森林公園。

 全てが始まった9月4日、俺がバーサーカーに殺された場所にして、セイバーと初めて出会った場所。

 

(人質をとったバーサーカー相手に一人で向かったって、こちらの勝算は無いに等しい。でも、アイツがあの言葉通りに、俺と一緒に戦ってくれるのなら──)

 

 そんな事を考えていた時、どこか懐かしい気配を感じ取った。

 強大にして清廉。獰猛にして安穏。

 住宅街の坂道を駆け上りながら、俺は隣に視線を向ける。

 そこには──、

 

「……ああ。やっぱり来てくれたな、お前」

 

 住宅街の屋根を跳びながら並走する、一つの影。

 今日ひたすら街中を探し回っても姿を見せなかったセイバーが、そこにいた。

 

「………………っ」

 

 どこかムスッとしたまま無言を保つセイバー。まあ口を聞いてくれないくらいは想定内なので、それでも良しと声をかける。

 

「お前は剣士(セイバー)としての役目は果たすって言った。じゃあ俺がこうしてバーサーカーに一人で突っ込むような真似をすれば、見るに見かねて付いて来てくれる……んじゃないかとは思ってたけど、本当にこんな考え無しの特攻に付き合ってくれるとは思ってなかった」

 

 我ながら、怒りに任せて随分と無茶をしている自覚はある。倫太郎にも楓にも告げずに家を飛び出して、あのバーサーカーに挑むなんて自殺行為もいいところだろう。

 が。結果として、セイバーは駆けつけてくれた。こんな馬鹿なマスターに付き合って、一緒に戦おうとしてくれている。

 

「……やっぱりさ、いい奴だよ。セイバーは。魔王なんて名乗ってるのが勿体ないくらいに」

 

 セイバーは何か言おうとしたらしいが、結局言うべき言葉が出てこなかったらしい。いつも通りだ。大人しくぷいっとそっぽを向いて、それでも器用にこちらに並走している。

 

「──……敵はバーサーカーなんですか、やはり」

 

「ああ。奴に大雅と三浦が攫われた。理由は知らないけど、俺とセイバーをご指名みたいだ。このままじゃ大雅が危ない」

 

 セイバーと再開して少し緩んだ表情を引き締める。

 バーサーカー、真名をアキレウス。全英霊の中でも頂点に位置する程の神速を持つ、韋駄天の大英雄。セイバーが一度敗北を喫したほどの強敵にして難敵だ。

 森林公園の入口が見え、ブレーキをかけて停止する。

 閉じた鉄の門。それを乗り越えてほとんど照明のない遊歩道に降り立つと、少し前のことだというのに、随分と懐かしい気がした。

 

「……まだ一週間しか経ってないんだな、あれから。もう二、三週間はお前と一緒に戦い抜いてきた気がする」

 

 緊張からか思わずそう呟くと、セイバーが反応した。

 

「一週間って……何からですか?」

 

「初めてお前と会って、バーサーカーに殺された日からだよ。あの時も今日みたいに無我夢中でお前を追いかけて、この門を飛び越えて、あの階段を上っていったんだ。その理由も知らずに、な」

 

 懐かしい。夜の街でバーサーカーと争うセイバーを偶然目撃した俺は、なんとも説明できない衝動に突き動かされて、セイバーの背中を追ったのだ。

 

「そう、ですか……私を追うなんてコトしなければ、ケントが死ぬ事もなかったのに」

 

「バカ。それじゃあお前は独りで消えるだけだろ? そんなのは俺が嫌だ。こうしてセイバーに会えて、一緒に色んなことができたって事を考えると……俺がちょっとの間だけ死ぬくらい、なんでもないさ」

 

 ちょっと恥ずかしい台詞を置き捨てするように、俺は階段に走った。

 森林公園の階段は長い。二人で駆け上りながら、セイバーが言う。

 

「魔力の質が少しおかしい……間違いありません、ここにバーサーカーはいるみたいです」

 

 下手人のバーサーカーの存在が確認できたところで、残る問題は二つだけ。無事にバーサーカーを倒して二人を助けられるか、だ。

 

「セイバー。単刀直入に聞くけど、敵は一度お前のマスターを殺したバーサーカーだ。やれるか」

 

「一度は敗北を喫した身ですが、今度は遅れをとらないつもりです。それにほら、見てください」

 

 セイバーが頭上を見上げる。そこには夜空を煌々と染め上げる、ほぼ円に近い美しい月が浮かんでいた。

 それを見て思い出す。

 セイバーが持つ剣は"月の刃"。夜空に輝く月がその輝きを増すほどに、その力を増幅させる神造兵装──。

 

「以前は月が隠れていたために思うように力を振るえませんでした。しかし、今宵は雲もない晴天です。月も明日か明後日には満月に至るほどの好条件。バーサーカーなんてぶっ飛ばしてやれますよ」

 

 成る程、たしかによく見れば少しだけ月は欠けている。

 一目すると満月に見えるが、正式な満月は明日か明後日の夜──ということなのだろう。しかし、これだけの光量だ。セイバーの月の刃はその力をほぼ全力で振るうに違いない。

 

「はは。いつもの調子に戻ってきたんじゃないのか、セイバー?」

 

 いつものような口調が戻っていることに自覚がなかったのか、セイバーは少し恥ずかしそうに俯いて、

 

「けれど、一つだけ問題があります」

 

 もう既に鎧を纏っていたセイバーは、空間を割るようにして、その手に一振りの蒼剣を取り出す。彼女の宝具たる神造兵装だ。

 月光を吸収する半透明な刀身は、以前にまじまじと見たときに比べても遥かに輝きを増しているように見える。

 

「あの英霊を相手に手加減などは許されません。私の全力をもって応戦してもまだ足りない。奴を確実に仕留めるには、我が宝具……この剣の全力解放による一撃を命中させる必要があります」

 

 セイバーの剣──その全力解放。

 いつぞやのライダー戦において、夜空が真白に染め上げられるほどの魔力をもって放たれんとした一撃。あれこそが、恐らくはセイバーが出しうる窮極の一撃なのだろう。

 そして、それを当てない限り、バーサーカーは倒しきれない。

 最速と呼ばれる神速の足をもつあの英霊に、数秒の「溜め」を必要とするあの一撃を放ち、命中させなくてはならないのだ。

 

「それは……難しそうだな、確かに」

 

 ──あの英霊、アキレウスの強さは次元が一つ二つ違う。

 キャスターとアサシンが令呪の補助を受けた上で共闘し、更に神霊を使役しても数時間拮抗するのがやっと。「神性」を持つ相手に強いセイバーを相手にしても、さも当然のように優勢に立てる程の力量なのだ。

 普通の攻撃を当てるのですら一苦労なのに、宝具による一撃ともなれば、まず普通にぶっ放して当たる確率はゼロに等しい。

 

「……聞いてくれ、セイバー。奴はアキレウスだから弱点の踵を狙って動きを止めろ、なんて無理難題を言うつもりはない」

 

 こっちも黙ってアキレウスという脅威に怯えていたわけではない。

 暇な時を見計らって必死でネットの資料を読み漁り、アキレウスという英雄の成り立ちを知った。

 なぜ、高潔な英霊であるはずの彼が、理性を失ったバーサーカーのクラスで召喚されたのか……その理由も検討はつけてある。

 

「アキレウスは確かトロイア戦争とかいう古代の戦争で活躍した英雄だ。「理想の英雄」として生きた彼だけど、唯一怒りで我を忘れ、英雄に相応しくない行為に走った戦いがある。それが輝く兜のヘクトールとの戦いだ」

 

「お……驚きました。ちゃんと調べてるんですね」

 

「今は英雄でもなんでもスマホでサッと調べられるんだよ、便利な時代なの。……で、彼はヘクトールを殺したのち、その憤怒からヘクトールの死体を戦車で引きずり回した。それがアキレウスが行った、生涯の中でもっとも英雄らしくない(・・・・・)行為なんだと。その逸話を元に、たぶんアキレウスはバーサーカーとしての資格を持ってるんだろうさ」

 

「しかし……それがどうしたんです?」

 

「つまり。バーサーカーとして召喚されたアイツは、今もヘクトールに対する怒りで囚われてるんじゃないのか?」

 

 あの理性を失った叫び声には、しかし確かな感情が込められていた。

 それこそが怒りだ。何者かに対する、堪えきれぬほどの憤怒。

 もしその矛先がヘクトールに向けられたものであり、英霊として召喚された今になっても、その怒りのままに猛威を振るっているのだとしたら。

 

「なら……隙はある。きっと隙は俺が作ってみせる」

 

「相手はあのバーサーカーですよ。そんな無茶が通るわけが」

 

「いや、大丈夫。これはお前より、むしろ俺の方が適任なんだ」

 

 これは危険な賭けだ。

 失敗すれば俺は死ぬ。成功しても死にかける。

 だとしても、そんなリスクは度外視して突っ込む。もう知るものか。もう、同じ相手に二度も負けてなるものかよ──。

 

「……魔力反応、かなり近いです。恐らくはこの先で、バーサーカーが私達を待っている」

 

 俺にも感じられた。歩くたびに空気がざわついている。重く肩にのしかかってくるようなこの緊張感、隠そうともしない強烈な敵意。

 ごくり、と唾を飲み込む。

 これは俺たちのリベンジだ。かつては敗北したとしても、今度は俺とセイバーの全てを動員して、死に物狂いで勝ってやる。

 

「もう今夜で終わりにしよう。アイツは、バーサーカーは俺たちが倒す。今度こそ、あの時の借りを返すんだ」

 

 かつてもそうしたように、俺は自らの足で、俺にとっての死地に飛び込んでいく。

 けれど今は一人ではない。

 頼れる少女が、セイバーが隣にいる。それだけでも心強い。それだけで地獄にだって飛び込めると思えるほどに、俺は奮い立っている。

 

「ええ。ここで決着をつけましょう」

 

 階段を登りきり、すり鉢状の広場に姿を晒す。

 そこには──。



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六十七話 煌々たる月雫の夜刃

 セイバーと俺は、満を持してバーサーカーに対面した。

 生暖かい風が吹き抜けていく。その中に微かに混じる血の匂いを嗅ぎ取って、俺は目を細めた。

 

「…………‼︎」

 

 ──バーサーカーの後ろに、二人ぶんの人影がある。

 血の匂いはそこから発せられているのだ。生い茂る丈の短い草を血でべっとりと濡らして、片方は力なく倒れ伏したまま。ただ、その目を惹く金髪には見覚えがあった。

 

「大雅、三浦‼︎‼︎」

 

 声を張り上げて名前を呼ぶ。すると、もう片方……地べたに呆然と座り込んでいた三浦が、弾かれたように顔を上げた。

 照明があまり設置されていないここでは、詳しい状態までは見通せない。大雅が生きているのか死んでいるのかもハッキリしないままだ。

 ただ、一つわかることは、アイツは生きているにせよ瀕死の重傷を負っているという事。三浦だって何か外傷があるかもしれない。今すぐ何らかの処置をしないと──、

 

「◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎ッッ‼︎‼︎」

 

 と、バーサーカーが猛烈な音圧を伴った咆哮をあげた。

 空気が振動し、木の葉がざわめくほどの絶叫。その声に込められたものは、もういないとある英雄に対する憤怒だろう。

 あるいは、自分が無視されたことに腹を立てたのだろうか。

 

「ケントは二人を」

 

「ああ。そっちは任せる」

 

 戦闘前に交わす最後の言葉にしては、実に短い言葉だった。

 なに、もういちいち長い言葉で指示を出す必要なんてない。

 これまで様々な戦いを救い救われ潜り抜けてきたんだ。その、碧色の瞳を見るだけでいい。それで大体の事は伝えられる──‼︎

 

「……行きますッ‼︎」

 

「◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎ァァァッ‼︎‼︎」

 

 直後。瞬きの間にセイバーとバーサーカーの姿が搔き消え、同時。

 月下に煌めく月の刃と不滅の刃が、真正面から激突した。

 

 

 

 

 私がとった行動は極めてシンプルだ。

 ただ、全力で踏み込み、全力で攻め込む。

 迎え撃つバーサーカーも同様。愚直なくらい一直線に最短距離を駆け抜けて、ふた振りの長剣が猛烈な速度を持って激突する。

 

「はあッ──‼︎‼︎」

 

 激突の際に舞った火花が空気中で搔き消えるまでのほんの僅かな刹那に、私は更に二撃を防ぎきった。

 その超神速に対しては、目で見て防ぐなどは通用しない。

 ただ、研ぎ澄ました直感をもって予測を組み立て、「来る」と感じた場所に剣を置く。そうして防ぎきる。目で見てからの迎撃では、回避も防御も間に合わない──‼︎

 

「◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎ッ‼︎ ◼︎◼︎、◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎──ッッ‼︎」

 

 轟然と迫る斬撃の嵐を迎え撃つ。

 その余波で大地が抉れ、大気は暴風となって吹き荒れた。

 

(その剣……くっ、忌々しい‼︎)

 

 アキレウスは、高ランクの「神性」を有している。

 つまり正真正銘の「神殺し」である私にとっては、負けるはずのない相手だ。私の攻撃は通り易く、敵の攻撃は通り難い。

 その筈なのに──奴の剣は、容易く私の身体を引き裂いていく。

 

「がっ‼︎」

 

 ぶしっ、と肩口から鮮血が飛んだ。アキレウスが交錯すると同時に振るった長剣が、私を確かに斬り裂いたのだ。

 だが、まだ浅い。まだ戦闘力の低下には至らない。

 咆哮とともに大地を蹴り飛ばし、バーサーカーに渾身の一撃を叩き込む。

 轟音が炸裂した。私の剣を受け止めたアキレウスの踵が大地に沈み込み、クレーター状に地面が陥没する。奴が動きを止めたその隙を逃さず──、

 

「魔王特権‼︎」

 

 私の意に恭順し、大地そのものがアギトを開けてバーサーカーに襲いかかる。

 ぐばっ、と地面に肩まで呑まれたアキレウスに傷はない。ただし、その動きはより完全に封じられた。

 

「はあッ‼︎」

 

 全速でもって離れた水平の斬撃は、バーサーカーの喉口に吸い込まれるように迫り──、

 

「……◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎ッ‼︎」

 

 しかし。間一髪で拘束を力技に破り捨てたバーサーカーは、その一撃を手にした長剣でもって迎え撃った。

 甲高い激突音を残して、私の剣は虚しく振り抜かれる。

 一度後退したに見えたバーサーカーだったが、奴が「自分から退く」などという行為に出る訳がない。瞬間奴の姿が掻き消えたと思った時には、第六感が振り返れと告げている。

 

「ぐっ⁉︎」

 

 背後からの一撃を受け止め、私とバーサーカーはぎりぎりと鍔迫り合う。

 

「はあっ、はあっ、はあ……ッ‼︎」

 

 剣を通して放たれた蒼雷が爆発的に放たれ、バーサーカーの身体を雨の如く叩く。それでも奴に傷はつかない。

 神性に対する優位性を持つが故に神性を持たない私では、この男に傷をつけられないのだ。 少なくとも、「神造兵装」たるこの月の刃による攻撃でなければ、バーサーカーにはダメージを与えられない。

 これが、私がバーサーカーを苦手とする第一の理由。

 そして、もう一つの理由が──。

 

(この剣は……神性を持ったものが振るっているというのに、それでも私を傷つける……‼︎)

 

 神話において、アキレウスがこれほどの魔剣を操ったとされる伝承はない。

 ではこの剣は何か。

 今のアキレウスが、ヘクトールを下した直後の彼であるとするならば、その答えも自ずと判明する。

 

 つまり──不毀の極剣(ドゥリンダナ)

 

 アキレウスの仇敵たるヘクトールが使い、後世においてとある騎士に用いられた際、デュランダルという名を得た「不滅の絶剣」。アキレウスは憤怒のまま、自らの鎧を奪われた事への意趣返しの意味も込めて、ヘクトールの名剣を振るっているのだろう。

 それだけならば別に良い。

 ただ──かつての私を屠った剣もまた、「不滅の刃」なのだ。

 この二つが完全な同一存在であるとは言うまい。しかし、その記号的な性質が共通しているだけでも、私は苦戦を強いられる。「私は不滅の刃によって殺された」という逸話が消えて無くなりでもしない限り、この剣は確かに私を殺しうる……‼︎

 

(相性は最悪ですが……それでもっ‼︎)

 

 二つの刃が分かれ、再度激突を繰り返す。それは神の限界すらも振り切る速度、音すら越える超神速の攻防だった。

 

「ふッ‼︎」

 

 一刀では手数で押されると判断し、コンマ数秒で月の刃の形状を変える。

 ぱっ、と両手で握り締めた刀身は(ふた)つ。

 それを翳してバーサーカーの剣戟を受け止め、もう一本の刃で脇を狙う。

 零距離──もう距離が離れることはない。

 大地を踏みしめて、瞬き一つせずに、ただ振るわれる刃のみに意識を全て集中させる。たった一手を誤れば即死が待っている極限状態。今にも殺しそうで殺されそうな感覚のまま、私は剣を振るい続けた。

 

「お、あああああああああああああああッッ──‼︎‼︎」

「◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎ッッ──‼︎‼︎」

 

 ぱっ、ぶしゅっ‼︎ と、首腕脇腹胸太腿足様々な場所から鮮血が飛び散る。それは敵とて同様。流血を敵の血飛沫でもって洗い流すような命の削り合いがそこにあった。

 華美さも勇壮さも存在しない。

 ただ剣を振るい、敵を斬り裂き続けて、最後まで立っている。

 この英霊に対し、私ができるのはそれだけだ。

 取り繕う余裕なんてない。ただ泥臭く、凄惨に斬り合った果てにその存在を凌駕する──それが、小細工の通じない絶対強者たるバーサーカーに対する、唯一にして最善の対処法だった。

 

「が……ぐッ──うああ゛あ゛ッッ‼︎‼︎」

 

 早くも限界が近づいてくる。剣を振るう両腕は重く、血まみれの体の感覚は鈍く、足はガタガタと震え始めている。

 まだなのか。

 まだバーサーカーは倒れないのか。

 まだ、私はこの男を凌駕できていないのか。

 まだ、まだ、まだ──、

 

「こ──の、おぉぉぉぉぉぉぉォ‼︎‼︎」

 

 ならば立つ。傷だらけ、血まみれになっても立ち続ける。

 プライドにかけて同じ相手に二度も敗北するなんて許さない、とかじゃない。私が負ければケントが死ぬ、だから戦い続ける。彼の存在だけを見えない支えにして、私は斬り刻まれながら斬り続ける。

 だが──。

 

「ぎッ……⁉︎」

 

 ──直撃を、もらった。

 

 視界が真っ赤に染まる。飛んで行った鮮血が天高く舞うほどに、まともに不滅の刃の一撃を受けてしまった。

 衝撃と激痛が私を叩く。

 身体に微かに巡っていた力がぐんと抜けていって、もう。

 

(あ……も、意識が……)

 

 ふらり、と崩れていく。双剣と化した月の刃が、血に濡れた両手から滑り落ちる。

 やはり私は勝てないのか。私は魔王であるからこそ、この刃の前には、破れ去るしかなかったのだろうか。

 暗くなっていく視界の中で、そんな事を思った。

 ケントは違うと言うけれど。

 しかし、私はやっぱり、真の英雄には勝てない魔王のまま──、

 

「バーサーカーッッ‼︎」

 

 最後の一閃が放たれんとしたその瞬間。

 震える声で、誰かが敵の名を呼んでいた。

 

 

 

 

「バーサーカーッッ‼︎」

 

 敵の名を呼ぶ。その瞬間、セイバーに向けられていた視線が、ぐるりと回って俺に突き刺さった。

 全身の細胞が震え上がる。

 なんて重圧。なんて殺気。憤怒混じりのその存在感は、こちらは立っているだけだというのに参りそうだ。

 でも俺は──これから、もっと無茶をしなければならない。

 

「お前の敵はこの俺、ヘクトールだ(・・・・・・)‼︎‼︎」

 

 その言葉は、誰が聞いても意味不明のものだっただろう。

 俺はヘクトールなんかじゃない。そもそも英霊ですらないのだ。俺がヘクトールを名乗ったって、一目で違うと分かる。

 

「いいか、俺の名前はヘクトール(・・・・・・・・・)‼︎ お前の友を殺した英雄だぞ‼︎ いいのかよ、セイバーなんて相手にしてる場合じゃあないんじゃないか⁉︎」

 

 ──だが、このバーサーカーはそもそもマトモじゃない。

 かつてアキレウスは激怒した。友を殺めたヘクトールという男に。

 そして彼がバーサーカーとして召喚されたならば、その怒りが冷めることなんてあり得ない。奴はバーサーカーとしてある限り、永遠にヘクトールに対する憤怒に囚われ続ける筈だ。

 

 だとするならば──。

 ヘクトールを名乗る男が、ここにいるならば。

 

「来いよ、アキレウス‼︎ もう一度俺を殺してみせろっ‼︎‼︎」

 

 アキレウスという英雄が取る行動はだだ一つ。

 この男は必ず、この俺を殺しに向かってくる──‼︎

 

「ヘェェェェェェェェクトォォォオォルウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥアァァァァァァァァァァァァァッッッッ‼︎‼︎‼︎」

 

 瞬間。音よりも早く飛んできたその影を、真正面から受け止めた。

 

 ズドン、と重苦しい音があって、世界がぐるりと回っていた。

 何が何だか分からない。ただ、凄まじいまでの衝撃があって、猛烈な勢いで薙ぎ倒された。体はぴくりとも動かない。視界も半分機能してないし、感覚は全く感じられない。

 朦朧としたまま視線を動かすと、血まみれになった地面と変なカタチの肉塊が見えた。

 ああ──あれは、俺の、腕だ。

 がむしゃらに突き出した両手のうちの、左腕。バーサーカーのデュランダルによる一閃を受け止めきれずに身体に滅茶苦茶に破壊されて、そのまま俺は斬り捨てられたのだ。

 

(胴体が、繋がってるぶん、ましか……)

 

 俺はもう再起不能だ。もう、ぴくりとも動けない。そもそも俺がまっとうな人間なら、この傷で死んでいただろう。

 だというのに──まだ、バーサーカーはこちらを向いていた。

 

(あいつ……まだ、俺を…………)

 

 死人を斬った感覚は如何なるものなのだろう。バーサーカーは俺がヘクトールにしてはあまりに弱いことがおかしいのか、不思議そうに自らの剣を眺め回し──そして、こちらに歩いてきた。

 こちらを鬼の形相で睨むバーサーカー。

 それは俺をヘクトールと認識してのものか、それとも仇敵を騙った俺に対する怒りなのか。まあ、どちらにせよ。

 

 

 ──これで、準備は整った。

 ──そうだろう、セイバー。

 

 

 直後。圧となって感じられるほどの莫大な魔力が、バーサーカーの真横で吹き荒れた。

 広大な森林公園の木々が勢いよくざわめき、吹き飛ばされた葉の雨が夜空に舞い散る。まるで一つの台風だ。そしてその中心からは、まばゆいばかりの銀光が溢れ出している。

 その輝きの奥に、一人。

 今にも炸裂しそうな刃を携えた剣士が、狂戦士に狙いを定めていた。

 

「⁉︎」

 

 アキレウスが反応する。──だが遅い。

 もうその時には、セイバーは完全に剣を構えている。

 その距離実に三十メートル。いくら神速を誇るバーサーカーでも、ここから横合いに振り返って突撃するのでは間に合わない‼︎

 

「──()くぞ、英雄」

 

 バーサーカーの姿が消える。彼はまたも一直線に突撃し、ボロボロのセイバーを斬り伏せんと剣を振り上げたのだろう。

 だが。厄介極まりない狂化が、ここにきて仇となった。

 あるいは攻撃ではなく回避を試みたならば、セイバーの一撃を回避できたかもしれない。しかしバーサーカーは憤怒に囚われた英雄。退く、避けるなんて選択肢を、咄嗟の判断で選べるわけがなかったのだ。

 渦巻く烈風とともに、刀身の内部に蓄えられた月光が幾千倍にも増幅され、加速して、収縮を経て──敵を打ち倒す極光に変わる。

 今にも崩れ落ちそうな姿で、それでもセイバーは一歩前に出た。

 大地を砕くほどの強烈な踏み込み。

 それをもって、少女は手にした奇跡を解き放つ。

 

 ……()は、彼女が有する唯一にして最強の武装。

 ……破壊神より賜りし、月光をカタチにした神造兵装。

 

 遙か太古の叙事詩に刻まれた、かの真名は──……‼︎

 

 

煌 々 た る 月 雫 の 夜 刃(チャンドラハース)────‼︎‼︎」

 

 

 全てを覆い尽くさんばかりの光があった。

 神話に謳われる羅刹王の一撃が、全霊をもって解き放たれたのだ。

 

 轟然と振るわれる白銀の渦。それは瞬きすら許さぬ速度でバーサーカーを呑み込み、彼の身体を遥か上空へと打ち上げた。

 バーサーカーは全てを消し飛ばす極光に滅茶苦茶に捻じ曲げられながら、高く、遠く吹き飛ばされていく。その光に触れたが最後、外敵は例外なく蒸発の一途を辿るのみ。

 破壊神シヴァより賜りしかの刃の前には、いくらかの大英雄とて──‼︎

 

「◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎ァァァァァァァァァァ──ッ‼︎‼︎」

 

 宙天に突き刺さるかのような銀光の中で、怒り猛る咆哮がこだまする。

 それすらまとめて消し飛ばさんと、唸りを上げる月の刃。

 双方の轟きは混ざり合って、大塚の夜を地響きとなって駆け巡る。

 その熾烈なせめぎ合いの中で、俺は一人の人影を目にしていた。

 ざわざわと揺れる木々の向こう。

 夜の暗がり。その中に、一際目立つ白の少女があった。

 

(あれ、は……?)

 

 

 

 

 彼女は祈るように、光に呑まれた男を見つめていた。

 

(バーサーカー……‼︎)

 

 敗北の瀬戸際にあって、走馬灯のように彼の顔が思い浮かぶ。

 バーサーカーとは、一度たりとも言葉を交わしたことはない。

 でも。一緒にいれば、分かることはいくつもあった。

 あの狂戦士は──たとえ理性を無くしていたとしても、どこかで「優しさ」を残しているらしい。

 実際、マリウスの回路が機能不全に陥っていた先程まで、彼は極力姿を消して魔力の消費量を抑えていた。それだけではない。彼が戦う時はいつだって、全力を出してこなかった(・・・・・・・・・・・)

 誇り高き戦士である彼が、全力の戦いを自ら禁じた理由。

 それは一つしかない。彼がその全力を引き出せば、マリウスにもこの少女にも、彼の莫大な魔力消費量を賄いきれないからだ。

 

(バーサーカー。狂戦士。その名の通り、いつだって、気を狂わせるくらいの憤怒に焼かれているはずなのに……貴方は、優しい英霊だった。わたしが「彼」に叱られた時は、何も言ってないのにすっと出てきて、大きな背中に隠れさせてくれたもの)

 

 あのセイバーと少年の間に確かなものがあるように、彼女も、自らのサーヴァントに託す願いがある。

 故に。少女は、ただ信じた。

 

 ──彼は、きっと絶対に負けたりなんかしない。

 

 どんな敵が相手でも、その俊足で、瞬く間に倒してみせる。

 たとえ英霊全てが敵に回ったとしても、彼はきっと倒れない。

 故にこそ。彼女は信頼と願いを込めて、その希望を言葉と変える──!

 

「おねがい、バ──サ──カ────っ‼︎‼︎‼︎」

 

 無垢な少女の叫びが、英雄に通じる。

 バーサーカーは今なお全身を灼いている極光に揉まれながら、その小さな叫びを聞き取っていた。

 弱々しく、されど目を離さずこちらを見るものがいる。

 敵ではない。味方だ。あの少女が、こちらをしかと見つめている。

 

 ──その瞳に込められた、願い。信頼。希望。

 

 それを見た途端、アキレウスは、一つだけ思い出していた。

 そうだ。己は、英雄になると決めたのだ。

 では目指すべき英雄とは何か。簡単だ。人々の願いを、信頼を、希望を、全て背負って光となるもの。それが彼の目指すゴールであり、彼は死ぬ時まで愚直に、英雄たらんとあり続けたのだ。

 

 ──ああ、ならば。己は。

 

 力を失い、このまま消滅を待つだけだった四肢に力が戻る。

 硬く、硬く、その拳を握りしめる。

 あらゆる全てを力と変えて、敵たる剣士を睨み付ける。

 

 ──この己が、未だ英雄であるならば。

 

 大英雄アキレウスが、ほんの刹那だけ蘇る。

 敵に向けるのは、剣を握る手ではない。もう片方の掌を、触れた場所から焼け焦げていくのも気にせずに、強引に極光に翳して吼える。

 

 ──かの少女の無垢な願い。

 ──その願いに応えてこそ、()はッ‼︎

 

「◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎ァァァァァァッッッッ‼︎‼︎」

 

 瞬間。緑色の閃光が、大塚の夜空に炸裂した。

 竜巻のように渦巻く魔力。瞬く間に膨張し、重なり合い、アキレウスの前面に展開されていくモノがある。

 

 ──「蒼天囲みし小世界(アキレウス・コスモス)」。

 

 英雄アキレウスが抱く世界を盾として展開する、彼が持つ最後にして最強の防御宝具。

 バーサーカーである今、彼はこの宝具を使用できないとされる。しかし、英雄としての最後の意地が、そして彼を信じる少女の願いが、あり得ざる奇跡を手繰り寄せた。

 

 

 

 

 私の一撃が、あと少しでバーサーカーを倒すはずだった極光が、最後の盾によって受け止められる。

 主を守護するひとつの世界と、神殺しの魔剣。

 それらは熾烈にせめぎ合い、眩い閃光と轟音を撒き散らす。

 

「ぐ、う……あああああァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッッ──‼︎‼︎」

 

「◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎ッッ──‼︎‼︎」

 

 

 ──……拮抗。

 あと一息のところで、あの盾を上回れない。

 莫大な威力を受け止め続けるアキレウスの盾は、我が極光の中ですら輝いて、確かに主人を守り続けている。

 駄目だ。このまま耐えられたら、私たちは負ける。

 こちらは今の一撃にありとあらゆる全てを注ぎ込んでいる。これを出し切ればもう戦えない。

 しかし、バーサーカーは分からない。

 土壇場で切り札を出してくるような底の見えない男だ。そんな奴が、もしもまだ戦う力を残していたのなら、今度こそ私たちに勝ち目はない。

 

(……負け、る?)

 

 じわり、と首の裏に嫌な汗が滲む。

 敗北の直感は確か。私の身体が、急にがくんと重くなる。

 

(このまま負けて……私も、ケント、も……)

 

 怖い。怖い。とんでもなく、数秒後の敗北が怖い。

 戦うことにも、死ぬことにさえ恐怖はなかったのに。

 ここにきて、逃れ得ぬ「敗北」という二文字が、私の身体を恐怖で縛り付けてしまう。

 声が出なくなって、私の心を映すように、燦然と輝いていた銀光も細く鈍くなっていって──、

 

「…………セイ、バー」

 

 その刹那、掠れた声が耳を打った。

 弾かれたように振り返る。そこには、ここまで地面を這ってきたのであろうケントが、倒れそうになりながらも立っていた。

 

「戦うのはお前だけじゃ、ない。二人で……‼︎」

 

 彼はほとんど残っていないはずの力を振り絞って、その右手を、私の震える腕にそっと添える。

 まるで、剣を構える私を支えるように。

 

「二人で、あいつを……倒すぞ──‼︎」

 

 ──どくん、と。

 脈動するように、右手に刻まれたケントの令呪が明滅した。

 僅かな刹那。

 極光がぶつかり合う閃光の中で、私は彼の瞳を見る。

 

「令呪をもって、命ずるッ‼︎」

 

 いつも変わらない、例え数千年を経たって変わることのない、真っ直ぐで純粋な瞳。

 どこまでも懐かしくて愛おしい、その瞳を。

 

 ……それを、一目見るだけで十分だった。

 

 それだけで、自分が守るべきものを理解できた。

 震える手足に力が篭る。

 見えない支えが、私の全身を補強していく。

 決して折れない熱い何かが、私の中心で燃えている。

 

「──負けるな(・・・・)、セイバ────ッッ‼︎」

 

 そうだ、負けられない。

 もう嫌だ。もう目の前で、貴方を失うのは嫌なんだ。

 この奇跡を、貴方とともに在れる奇跡を。

 こんなところで、終わらせてなるものか‼︎

 

「お、あ、あ゛あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ────‼︎‼︎」

 

 微かに消えかかっていた月の銀光が、更に膨張して勢いを取り戻した。

 その様は、まさに神話の一撃だった。

 令呪による威力加算、だけではない。

 それ以外の何か。この胸で燃えるものがある。私が彼から受け取ったものが、今こうして光となり、遥か天の敵を呑み込もうとしているのだ。

 

 ──私が押し切るか。奴が守り抜くか。

 

 その最後の衝突は、実際のところ、ほんの数秒ほどの長さでしかなかっただろう。

 それでも体感は違う。

 地獄のような灼熱の時間が、延々と伸びていく。

 だけど、その時間に共に臨む、ケントが共にいる。

 だから。私は絶対に、決して、この身が燃え尽きようと諦めない‼︎

 

 

「◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎────ッッ‼︎‼︎」

 

 

「 「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお─────ッッ‼︎‼︎」 」

 

 

 次の瞬間。

 何かが砕け散る音が、遠く遠く響き渡った。

 

 ──決着。

 

 狂戦士の咆哮は次第に弱くなり、光が全てを呑み込んでいき。

 奴の咆哮が、決着を告げるように掻き消えた。

 

 

 

 

 遥か高みの月に還るように、その輝きは燦然と宙に登っていった。

 そこで限界を迎えたかのように、月光の柱が霧散する。

 

 彼女が解き放った、窮極の一撃──。

 その名を、「煌々たる月雫の夜刃(チャンドラハース)」。

 

 神代に名高きかの刃は、あの英雄に競り勝ったのだ。

 

(やっぱり……すごいなあ、セイバーは)

 

 まるで雪のように、細かい粒子状になった白銀の光が落ちてくる。

 その荘厳な様を見て、それから、その中に佇む剣士を見た。

 仄かな月の燐光を受けて、こちらを見つめる少女を見た。

 

(────ああ。綺麗だ)

 

 そうとしか言えない。アイツは自分のせいで、この剣は魔剣に歪められていると言うけれど、綺麗なもんは綺麗だとしか言えなかった。

 彼女は確かに強大な力を有している。俺の眼前に広がる途方も無い破壊の傷跡は、まさにその証拠と言えるだろう。

 けれど、それを知ってもなお、アイツは綺麗なままだった。

 つまりはそういうこと。どれほど力があろうと、どんな肩書を背負っていようと、それを帳消しにしてしまうくらい……セイバーは綺麗で、清廉な女の子なんだ。

 

 ──くそ、まだ見ていたいのに。

 もう限界が来たのか、意識が混濁していく。世界が遠くなっていくような錯覚の中、俺は最後まで、降り注ぐ光の中に立つセイバーから目を離せなかった。




煌々たる月雫の夜刃(チャンドラハース)
ランク:A
種類:対軍宝具
羅刹の王、すなわちセイバーが破壊神より賜った神造兵装。「月の刃」の異名通り、その刀身に月光を蓄積し、破壊力に変換して解き放つことで外敵を殲滅する。その性質から、月の満ち欠けによって威力が変動する。
満月時のみの最高(フルスペック)状態では、最強の聖剣に匹敵する威力となる。ただし、新月時、もしくは月が雲に隠れていると出力は満月時の8分の1まで減衰する。

【蒼天囲みし小世界】
アキレウスがバーサーカーのクラスで召喚された際は、使用不可能とされる宝具。
彼は少女の願いに応えてこの宝具を起動させたが、真名解放が行われない非正規の発動プロレスを経て強引に起動したため、その本来の性能は発揮されていなかった。


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六十八話 数千年も昔、初めて君に出逢う

 ──遠い、遠い、昔の記憶だ。

 

 私は、「羅刹」と呼ばれる魔族たちの中に生まれ落ちた。

 その魔族は、かつては栄華を自在のものとしたらしい。

 それでも私が生まれた頃には凋落の一途を辿り、皆が飢餓と憎悪に呻いていた。そんな、苦しみしかないような場所に、私は生まれたのだ。

 父はヴィジュヴェーシュヴァラ、母はカイカシー。

 二人の弟と一人の妹よりも早く産まれた私に期待されたのは、ただ一つ。かつての羅刹族の居城であり、今は異母兄弟であるクベーラ神のものとなっているランカー島を、もう一度この手に奪い返す事だった。

 その為に、敵を殺すために、私は幼い頃から剣を握った。

 でも、私は──。

 

「できません……わたしには、そんなことできません」

 

 戦士にはなれなかった。冷酷になれなかった。

 地を這う虫ですら、殺すのに躊躇ってしまうような有様だった。

 

「わたしは……戦士なんかに、なれません……」

 

 私の言葉を受けて、羅刹たちは考える。

 どうすれば私を、血みどろに呻く魔の者らしい、この世界への復讐に燃える羅刹女に変えられるのだろうか……と。

 そこで、一人の羅刹が言ったらしい。

 

「このラーヴァナを、羅刹らしくさせようとするのが間違っていた。所詮は羅刹女に相応しくもない出来損ない。であれば我らが今一度栄華を掴むため、この女を神に捧ぐ贄としよう」

 

 利用価値がないとされた私は、羅刹族の生贄にされたのだ。

 深い深い地下の牢獄に連れていかれて、それから数年間、私は太陽の光も兄弟たちの顔も、一度も見ないまま過ごすことになる。

 そこで何が行われたのかは……あまり、思い出したくない。

 生贄の役割は一つだけ。ただ、想像を絶する程の苦行を延々と与えられ、あるかもわからない神の恩寵を待ち続ける。神を倒すために別の神の加護を求めるとは、なんとも馬鹿な話だ。

 儀式を遂行する捕虜の人間たちは、羅刹族である私を手際よく、絶命する寸前を保ちながら拷問していった。

 許してなんてくれなかった。ごめんなさいと謝っても誰も聞いてくれなかった。殺してくださいと懇願しても、安寧の死は訪れなかった。誰も私を助けなかった。

 

 私は人間によって、生きる希望を全て失った。

 

 血みどろの拷問に終わりはない。死にかけるたびに別の人間がやって来て、呪術で私の傷を元どおりにする。そしてまた、肉を断ち骨を折り臓器を掻き回すような拷問が繰り返される。

 ──延々と。延々と延々と延々と。

 悲鳴と絶叫に耐えきれず、喉は一日で壊れた。

 体をすり潰されて、何度も何度もバラバラにされて、まともにモノを考える心は三日ももたなかった。

 地下牢には私の血の匂いが充満し、それにつられた蝿や鼠の巣窟と化した。一ヶ月もした頃には、血の儀式の担い手を除き、まともな生き物は近寄らなくなった。

 

 これこそが、羅刹王が臨んだとされる、「十の頭のうち九を斬り落として火にくべる」とかいう苦行である。

 色々と改変されて伝わっているせいで、なぜか私の頭が十個もあることになっているし、そんな馬鹿げた事を私が自発的に行ったことになっているらしいが。

 まあ、とにかく──。

 その終わりが来るとも分からない儀式が、どれ程の間続けられたかは知らない。記憶も擦り切れて、もうまともに覚えていない。

 だが、その永きに渡る血の儀式は、とうとう神に通じてしまった。

 

 とある神がその働きを認め、私に絶対の加護を与えたのだ。

 

 「神仏に対し、必ず敗北しない」ブラフマー神の加護。それを得た私は、同時に天下無双の力をも手に入れた。

 体内で生成する魔力量は抜群に高まり、身体には天性の戦闘技術が備わり、老化による劣化は存在しなくなった。

 神代においてさえ、考えうるところの「最強」がそこにあった。

 

 ……魔王「ラーヴァナ」は、そうして誕生したのだ。

 

 力を得た私は、しかし、何をすればいいのか分からなかった。

 ひとまず掠れ切った記憶を辿り、儀式を担っていた人間たちが私に行った行為を参照する。

 私の五指をすり潰し四肢を切断し肉を削ぎ落とし腑を引きずり出し──それ以上は記憶の再生に失敗した。

 理解したことは、奴らは私にとっての脅威であるということ。

 故に。「人間」という存在は、私を害する害獣であると判断した。

 あとから振り返ってみると、私を「人間、そしてそれらが信仰する神々の敵」にするべく、羅刹族はかの儀式を人間の手によって行わせたのだろう。

 

 ともかく、今日も私に血まみれの鋸を振り上げてきた「人間」を、この手でバラバラに引き裂いた。

 気が済まないので、そこにいた捕虜たちを、私を痛めつけた人間全てを完膚なきまでに皆殺しにした。

 気分は良くない。だが、常人ではとても耐えようがない儀式という名の拷問の中で磨耗しきった私の心は、ほとんど考えるという機能を捨てていた。破綻していたのだ。

 

 だから。

 それが良いことなのか悪いことなのか、よく分からなかった。

 

 そうして誕生した私という魔王を、彼らは嬉々として受け入れた。

 幸い、私の意思や心といったものはとうの昔に砕けていた。だからこそ、「私」という暴威の制御はいとも容易く行えただろう。

 つまるところ、物言わぬ破壊兵器と同じだ。

 私は魔王という座に担ぎ上げられ、羅刹族の猛進の旗印となり、言われるがままにその力を振るって命を奪った。

 一度も敗北した事が無い、というわけではなかったものの、私と羅刹族は戦いを重ねるごとに勢い付き、とうとうランカー島を奪還。かつての栄華に返り咲く事となった。

 

 しかし──。

 一度壊された心は壊れたまま。

 どれほど殺そうが何も感じず、何も考えず、ただ、命令通りに動く人形のようにあり続けた。

 

 斬って。

 潰して。

 焼いて。

 千切って。

 ありとあらゆる全てを殺した。

 それがどんな事かも知らずに、私は延々と殺し続けた。

 

 人間は敵で害獣なのだから、駆除するのは当然の行いだ。

 そうして気がついた時には、もう私を脅かすものはいなくなっていた。

 人間では私に勝ち得ない。神々ですら私には敵わない。例え世界すべてを敵に回したとしても、私は戦い続けられる。敵を永遠に葬り続ける、恐怖の魔王として在り続けられる。

 

(だから、なんだというのだろう?)

 

 分からない。分からない。分からない分からない分からない。

 もうコワレている私には、分からない。

 この鬱屈とした感情はなんなのか。誰かに聞いてみようか、と思ったこともある。でも、誰もが私を畏怖か敵意をもって見つめるものだから、会話なんて出来ないと諦めた。

 そして、一つ諦めてしまえば楽になる。

 

(……もう私は、何も分からないままでもいいや)

 

 どうせ神もヒトも、あらゆる全部が敵なのだ。ならば力尽きるまで月の刃を振るい、善も悪も、何も考えずに死んでいこう。

 

 そうして、一体どれほどの骸を積み上げた頃だったのか。

 その日、私は──運命に出会うことになる。

 

 

 

 

(夢……ああ、これは……セイバーの記憶だ。生まれた時から、あいつが王に至るまでの過程)

 

 身体が重い。まるで水の中にいるような、ふわふわしながらもついに上手く動いてくれないもどかしさを感じながら、俺はその光景を俯瞰していた。

 セイバー……真名を、"羅刹王ラーヴァナ"。

 以前調べた時の情報によると、彼女はインドの叙事詩「マハーバーラタ」に登場する。神代の魔王として君臨したのち、勇者ラーマに討ち取られた魔族の王だ。

 

(ラーヴァナ。羅刹を束ねしもの、羅刹王)

 

 ようやく彼女の本当の名前を知ったのに、それでも、俺はさしたる驚きを感じていなかった。

 はっきりした理由は分からない。ただ、調べている時からなんとなく予感はしていた。その名前を見た途端、何とも言い表せない懐かしさが、俺の胸中いっぱいに膨れ上がったからだ。

 おかしな話だ。「ラーヴァナ」なんて名前、生まれてこのかた聞いたこともなかったのに。

 

(けど……あいつ、今のセイバーとはまるで別人じゃないか。あんなの生きてる、なんて言わない。精神(こころ)が完全に死んじまってる。意味もなく、意思もなく、ただ命令のまま破壊を続けるだけの……人形だ)

 

 玉座に腰かけたセイバーの瞳は、昏い。

 そこには何も映っていないのだ。だから何も考えず、何も感じず、何万という命を容易く手にかけていく。

 そもそも彼女は数年前、既に死んでいた。

 身体が死んで、心は生きている俺とは真逆だ。この少女の身体は生きているのに、肝心の心が死に絶えている──。

 

「……………?」

 

 ゴゴゴ、と重い音を立てて、魔王の間へと至る鉄扉が開く。

 今日もまた、うやうやしく傅く戦士たちによって、彼女はどこかの戦場へと連れていかれるのだろうか。

 だが。その扉を開いたのは、魔族たちではなかった。

 

 そこには一人の、人間が立っていたのだ。

 

「あいつ、は────」

 

 俺は驚嘆に目を見開いた。なんと言うべきか分からなかった。

 

 魔王に相対した黒髪の少年。

 その顔は、俺と瓜二つだったのだ。

 

 

 

 

「……お前を倒しに来たぞ、魔王」

 

 俯いていた顔を上げて、私はその声の主を視界に捉える。

 驚いた。ひ弱な人間が、この場所まで辿り着いたというのか。何千という勇者や無謀者が私を打ち倒さんとして、皆例外なく羅刹族の戦士や、我が兄弟たちによって殺されていったというのに。

 あるいはこの男が、本当の勇者なのか。

 

 ただ──何かが、おかしい。

 飢餓による痩躯には擦り切れた革鎧と、片手には今にも折れそうな鉄剣。

 ……余りに貧弱、余りに無力だ。

 倉庫の隅にあった剣を引っ掴んで駆け出して、万に一つの幸運で此処まで辿り着いてしまったような、そんな姿。

 そんな凡骨が魔王に立ち向かうなど、傲岸不遜にも程がある。

 力の優劣で言えば虫ケラ以下の存在。

 剣を握るまでもない。私の力は絶大だ。手首を右から左に動かすだけで、彼の首はすっぱり綺麗に切断される事だろう。

 

「なぜ……?」

 

「俺がなんでここまで来れたか、を聞いてるのか」

 

 彼は一度構えた鉄剣を下ろすと、

 

「……実のとこ、俺にもわからない。ただ、運があり得ないくらい良かったんだ。本当に笑えるくらいの幸運でコトが進んで、気がついたらここまで辿り着いてた」

 

 声色からするに、本当に驚いているらしい。

 だが、決してあり得ないことではない。今の今まで何千何万という人間が私に挑まんとしたならば、そのうち一人くらいは、小数点以下の天文学的確率を勝ち取って、幸運と勢いだけで私の元まで辿り着いてしまうような人間がいてもおかしくない。

 ただ、それも意味をなさない。

 何故なら私が殺すから。運良く私の居城を突破してきたこの男は、しかしここで私に殺されて死ぬだけだ。

 

「くだらん」

 

 人間は敵である。ゆえに、私はこれからこの害獣を殺す。

 それだけ呟いて、私は手を振り上げて──、

 

「……………?」

 

 それを、振り下ろすことができなかった。

 

 その日──私は、初めて見たのだ。

 

 私に敵意を向けていない人間を。

 私を恐怖とともに見つめていない人間を。

 「お前を倒しに来た」と言っているのに、この少年には、私を殺そうという気概が全くない。

 その矛盾が不可解で、少しだけ、この人間に興味が出た。

 

「貴様は……変だ。おかしい。本当に人間か? なぜ貴様は私に恐怖を向けない、害獣(ニンゲン)らしく敵意を向けない? 私は貴様らの敵だ、羅刹の王だぞ。だというのに、なぜ」

 

 そう問いかける。すると、少年は少し返答に迷ったようだった。

 やや言いにくそうに口をもごもごさせてから、彼は──、

 

「…………それはお前が、すごく綺麗だったから。どんなバケモンかと思ってたもんだから驚いて、怖いなんて感じる暇がなかったんだ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、物事に理解が追いつかない、というのを初めて経験した。

 この魔王が美しいと、この少年はそう言ったのか。

 

「魔王ラーヴァナは頭が十個、腕が二十本。全身岩壁みたいな皮膚に覆われてて、山のごとき巨躯、その貌は獣の如し……と、そういう風に聞いてたんだぞ。全然違うじゃないか」

 

 会った人間は例外なく殺してきたのだから、まともに私の姿形が伝えられる訳もない。私に関する言い伝えに、それくらいの尾ひれはついてもおかしくないだろう。

 

「……だからどうした。お前個人がどう思っていようと、人間は皆、私を痛めつけようとするのだろう」

 

「待ってくれよ。人間が全部お前の敵だって、誰が決めたんだ? そもそも──」

 

 開いた長い距離をゆっくりと歩いて詰めながら、彼はこちらの瞳をまっすぐに見つめる。

 その綺麗な色の瞳を、私は初めて見た気がした。

 どれも殺意が恐怖に濁った目しか向けられてこなかったから、私は思わず何をしていいのか分からなくて、押し黙る。

 

 

「お前はなんで、人間やら神様やらと争ってるんだ?」

 

 

 気がついた時には、数メートル先に彼はいた。

 

 何故なんて……そんなの、理由はない。考えてもこなかった。

 

 ただ、敵だから。人間は全部私をおびやかす敵だから、男も女も老人も子供も、全部全部殺し尽くしてきただけだ。神については色々と込み入った事情があるが、敵対するものには容赦はしない。

 それを伝えると、彼はしばらく黙り込んでから──、

 

「神様とか森の賢者たちについては、知らないから置いておくけどさ。「人間」は例外なくぜんぶ敵で、だから殺す、なんてのは……きっと間違ってるよ。お前は何も知らない、分からないまま、そう思い込んでるだけだ」

 

「……………」

 

「知ってるか? 人間には色々な奴がいるんだぞ。悪い奴だっているけど、いい奴だってたくさんいる。面白い奴もいれば優しい奴もいるし、中には……お前の敵にならない奴だって、きっといる筈だ」

 

 私の胸を襲った疼きから悟った。

 この少年の話をこのまま聞いていたら、私のどこかがおかしくなる。機能不全を起こして、兵器として機能しなくなる。

 だから殺す。今すぐ殺す。──なのに、手が動かない。

 動け、と命令する頭に反して、死んだはずのこころが発熱している。この熱い脈動が私の頭を鈍らせて、どうしても動けない。

 

「人間がどんなものか知って、それでも殺し続けるってんならもう何も言わない。でも、まだ何も知らないのなら──「人間」ってものを、お前が敵とみなしている全部を、殺す前によく知るべきだ。それから、生かすか殺すか決めればいい」

 

 ……そんなの知らない。知るわけがない。

 人間がどんな存在なのか。何のために生きるのか。

 だってそんな事、誰も教えてくれなかったんだから。

 この擦り切れた記憶には、かつての私を地獄に突き落とした人間たちの顔と、私を憎んでいる人間たちの顔しか残っていないのだから。

 

「……馬鹿を言え。どこの誰が、私に人間について説いてくれる? 神々すら敵に回したこの私に、いったい誰がそんなことをする」

 

「いないんなら俺がやる」

 

「………………」

 

 まただ。驚くほど澄んだ瞳にまっすぐに射抜かれて、私は言葉が出せなくなった。

 ──コイツはこの魔王(わたし)を前にして、一体何秒間生存している? 

 ありえない話だ。私を相手にして10秒もった人間などいなかったのに、この少年はゆうに数分間も私の前に立っている。

 それも、真たる勇者などではない。

 何の力もない、ただ運が良かっただけの少年が、だ。

 

「いいか、人間っていうのはな──」

 

 そうして彼が語り始めるのを、私は止められなかった。

 

 

 

 

 そうやって、俺はずっと眺めていた。

 「俺にそっくりな誰か」が、魔王に、人間について話す様を。

 まず話したのは生活のこと。牛を飼う奴、畑仕事をする奴、魚を捕る奴、服を織る奴……とか、色々と話をしていた。ちなみに、ソイツは木こりをしていたらしい。

 が、何故かその口調が悲しげなのが、やけに気になった。

 

(しかし……コイツ。俺にそっくりだな、本当……)

 

 まるで鏡を見ているかのようだ。どこまでもそっくりで、もう一人の俺と言っても差し支えない。

 服を整えて入れ替わっても、外見だけじゃ誰にもバレないだろう。

 

(セイバーは……何を考えてるんだろう。ただ、さっきまでの尋常じゃない威圧感がない。大人しくなって話を聞いてる)

 

 ソイツは、次に人間というものの営みについて話し始めた。

 人は誰かと一緒になり、子供を愛し育んで、次の世代も繰り返す。

 生物としては当たり前のことだけれど、そこには人間がもっとも尊ぶ「恋」という名の感情が介在する……と。

 

「……知らない。そんな概念は、知らない」

 

 と。無言を保っていたセイバーが、ぽつりと呟いた。

 

「我々が子供を産むのは戦士を育てるためだ。交わる相手だって、より強く、より良い血統という観点から決定される。愛する相手と、大切に子供を育てる……なんて知らない。私の子とされる戦士だって、本当は私を元に鋳造された複製(クローン)で……」

 

 セイバーはハッとしたように我に返って、大人しく黙り込む。

 その態度は言外に、続けろと彼に命じていた。

 彼は少し驚いたようだったが、そのまま続けて話し始めた。

 人間全体を説くようなスケールの大きいものから、話は次第に細々とした、彼のありふれた記憶の話へと移っていく。

 

 

 

 

 ……前の月、村の夫婦が子供を産んだ話が始まった。

 それから、お調子者の友人が、この前ついに大物の猪を仕留めて、腹いっぱいになるまで肉を食べれた話。

 自分が伐採した木材が家として組み上げられていくのを見るのが楽しい、なんて話。

 自分の妹が近所の赤毛の少年にお花を渡しているのを見て、なんとなくイラッとした話──、

 

「とまあ、これがありふれた人間ってやつだ。分かったんじゃないか? 人間がどいつもこいつも、剣振り上げてお前を殺すかお前を恐れるしか考えてない連中、なんて認識が間違ってるんだって」

 

 その時の私は、かつてないほどに動揺していた。

 人間はただの獣と同じで、だからいくら殺したって構わない。世界から駆除すべき汚物なのだと思っていた。一人でも殺し漏らしたら、今度こそ私は殺されるとも思っていた。

 だけど。その前提が、そもそも全く異なっていたとしたら。

 嫌な汗が止まらないほどに、私は動揺している。

 その時点で私は致命的な傷を負ってしまっているとも気づかず、私は心の底に湧いた疑問から必死に目を背ける。

 

「違うっ……違う、私はそんなの認めない……‼︎ 人間は駆除すべき獣と同じだ、そんな話は全部でたらめだ‼︎ だって人間は、あんなに、あんなに私を痛めつけたじゃないかっ‼︎‼︎」

 

「でたらめなんかじゃないさ」

 

 彼はしっかりと私の瞳を見据えて──、

 

「それが人間なんだよ、羅刹王」

 

 そう言って、彼は下げていた剣を再び構えた。

 錆びて刃毀れした刃が、鈍く煌めいて私に向けられる。

 

「あ、え……?」

 

 その行動は何度も見てきたはずなのに、私はその意味を理解できなかった。

 たじろぎつつも、反射的に立ち上がる。

 傍にあったチャンドラハースを握る手は、微かに震えていた。

 

「なっ、何をして……いるんだ、貴様はっ⁉︎」

 

「何って、最初に言っただろ。俺はお前を倒しに来たって」

 

「馬鹿なことを‼︎ お前からは闘志も殺気も感じない‼︎ 私に立ち向かおうという気概が、一欠片もないだろうがッ‼︎ 元から戦う気すらない者が何をほざいて……」

 

 そこまで言ってから、私は気付いた。

 彼の瞳から──その輝きが、消えている。

 まるで死人のよう。生を望む者の輝きが、喪われている。

 

「なあ……なんで、俺なんかがここまで来たと思う? 勇者なんて器じゃなければ戦士でもない、ただの人間が」

 

 彼はどこか遠くを望むように視線を上げて、

 

「さっき話しただろ、俺が住んでる村のことを。……あの村はな、もう存在しないんだよ。攻めてきた羅刹の奴らが、俺以外の全員を殺していったからな」

 

「なっ……」

 

「たまたま仕事で森の奥に入ってたから、俺だけは助かった。そうだよ、助かっちまったんだ。皆と一緒に死ねればよかったものを」

 

 私は言葉を失った。

 その安穏とした日々の尊さを、人間が作り上げる営みの美しさを聞かされていたからこそ、その衝撃は大きかった。

 

「だからさ。俺が一人で羅刹王の玉座を目指したのも、要はやけっぱちの気まぐれというか、回りくどい自殺みたいなものなんだよ。どうせ死ぬなら最後に、諸悪の根源(まおう)とやらに恨み言をぶちまけてやる! って。……でもまあ、まさか本当に叶っちまうとは思わなかったけど」

 

 彼は死を求めて、羅刹の居城であるここを目指した。長い道程を乗り越えて、そうしてランカー島まで辿り着いたのだ。

 その幸運に加えて、彼の貧弱さが逆に幸いしたのだろう。

 強者が纏う気配を兵士達に察知される事もなく、魔術的な結界が脅威と判断する事もなく、彼はあり得ない侵入を成功させてしまった。

 

「どうもお前が魔王らしくないから、ついつい変なことを喋っちまったけど……もう前も後もない。ここが俺の終着点だ」

 

「そ……そんな……こと」

 

 だから、この少年には闘志も殺気もなかったのだ。

 彼は最初から、私を殺すことなんて諦めていたのだから。

 むしろその逆。自分が魔王に殺されるためだけに、彼はここまで辿り着いた。

 私は何も言えない。言葉を投げかけられない。

 だって私は羅刹の王なのだ。羅刹族によって全てを失い、生きる希望も無くしたのが彼ならば、私には何かを言う資格がない。

 

「ひき……かえして、ください」

 

 それでも、絞り出すように私は告げた。

 何故そんな言葉が出たのかは知らない。けれど、彼が死ぬということを考えると、胸のあたりがきゅっと締め付けられるような気がした。

 だから。頼むから、この場所を去ってほしい。

 私に貴方を、殺させないでほしい。

 

「引き返すなんてできやしないさ。だって帰ったって何もない。俺の中にすら何もない。もう生きる目的もなにもかも全部、無くなっちまったんだから」

 

 鈍く光る剣先はもうぴたりと静止している。

 まるで、彼の覚悟を示すように。

 

 

「──分かるだろ? 俺は、お前の敵なんだ」

 

 

 その一言で、彼は自分の立場をはっきりと示してみせた。

 

「もう話は終わりにしよう。元よりお前は羅刹を束ねるものだ。な

ら、この俺の最期まで、羅刹王(おまえ)には付き合ってもらう」

 

 「嫌だ」と呟きながら、私は否定しようと首を横に振った。

 目の前に立つのは、あれ程なにも考えずに殺してきた人間の一人。

 しかし、このたった一人を手にかけるのだけは、どうしてもしたくなかった。私に大切なことを教えてくれた、この人間は。

 

「さあ。俺を殺してみせろよ、羅刹王ッ──‼︎」

 

 しかし。少年は素早く駆け出して、剣を大きく振りかぶった。

 その様を見た瞬間、私の身体に染み付いた殺戮兵器としての本能が、私の身体をどこまでも正確に作動させる。

 意思ではなく反射。

 放たれた刺突は正確無比に、彼の心臓を貫いた。

 

「────────あ」

 

 鮮やかな、致命の一撃だった。

 月の刃が、噴き出す血に赤く染まっていく。

 彼は刃に貫かれても無言だった。くぐもった笑いを漏らすと、吐血が口元を赤く濡らす。

 茫然とする私に、脱力した彼は身を任せるように倒れ込んだ。

 

「はは、まあ、こうなる。本当……悪い、な……? 敵にならない人間だって、いるはず……なんて、言ったのに。当の俺は、お前の味方に、なれないんだから……」

 

「そんなのっ……そんなの、当たり前じゃないですか‼︎」

 

「そうだ……な。そうさ、当たり前だよ……実際、こうしてお前と会うまで……魔王なんて、憎い仇敵としか思ってなかったんだ」

 

 彼はおかしそうにくぐもった笑い声をあげながら、最期の言葉を紡いでいく。

 

「でも、一目見たとき……敵とかそういうのが、全部吹っ飛んでた。ただ、「綺麗だ」って思って……もっとたくさん、話してみたかった。お前と一緒にいたいって……思ったんだ」

 

 それは彼にとっても、予想だにしないことだったのだろう。

 勝てないとは思っていただろうが、まさかこんな風に色々な話をして、人間について説く事になるとは思いもしなかったはずだ。

 

「それでも、俺は、お前の味方には……なれない。今からお前の味方を気取る、には……もう、失い過ぎたんだよ」

 

 ──あるいは、その運命が異なるものであったなら。

 彼が何も失わないままに、ラーヴァナという魔王に出会えたなら。

 彼はこの世界で初めて、「魔王に寄り添える人間」になれたのかもしれない。でも、それは想定すら無意味な妄想だ。

 

「だから、ごめん。もう俺は、生きるのを諦めちまったから……この先を生きていく、お前と一緒には……いられない」

 

 冷たくなっていく彼を抱きながら、私はその衝動に抗わなかった。

 目から熱い何かが溢れて、頬を伝って、彼の身体にぽつぽつと落ちる。

 

「…………泣いてるのか、お前?」

 

 彼は少しだけ意外そうに言った。

 泣くなんて、魔王らしくない。涙なんて、兵器には不要のものだ。

 それでも、泣きたかった。悲しいから涙を流したかった。

 みっともなく嗚咽を漏らす私を見て、少年の口元に笑みが浮かぶ。まるで、何かを私の姿から悟ったかのように。

 そして、尽きそうになる力を限界まで振り絞り──彼は、私にしか聞こえないほどの小さな声で、最期の言葉を口にした。

 

 

「──────」

 

 

 名も知らぬ少年の遺言となる、その言葉は──。

 私の魂魄に、例え死後でも消えない傷を刻み込んだ。

 

 そして、完全に力が抜ける。

 生というものが消えた感触があった。

 ただの物言わぬ死体となったひとりの少年。彼が最後に遺した言葉を何度も何度も反芻しながら、私はずっと彼の身体を抱き続けた。

 何故かは知らないけれど。

 溢れてくる涙は、どうしても止まりそうになかった。

 

 ──その日を、私は永遠に忘れないだろう。

 

 死に絶えた心を蘇らせるほどの光に出逢った日。

 そう、まるで一つの流星のように──。

 暗く閉じた世界に彼が切り込んできた、あの運命の日のことを。




【少年】
志原健斗にそっくりな少年。名前は不明。
ごく稀にセイバーが健斗を「貴方」と呼ぶ時、彼女は彼の姿を健斗に重ねて呼んでいる。

【セイバー】
真名:羅刹王ラーヴァナ
剣の英霊。蒼色の長髪が特徴的な、小柄な少女。
インドの二大叙事詩がうちの一つ、「ラーマーヤナ」に登場する羅刹族の王。「神仏に敗北しない」という加護を得た彼女は、神が絶対の上位者として君臨していた神代において、まさに無敵の存在だった。
故にその戦闘能力は超一級。総合的な戦闘力では、もう一つの叙事詩「マハーバーラタ」に登場する英雄にも引けを取らない。
「無辜の怪物」のリミッターを外せば通常時の数十倍に及ぶ絶大な火力を手に入れるが、代わりに伝承通りの、「頭が十に腕が二十」のおぞましい怪物に変貌する。これをセイバーは無理に禁じているため、常に本来の力を発揮できていない。

〈ステータス〉
筋力A、耐久A、敏捷B、魔力A+、幸運C、宝具EX
〈保有スキル〉
ブラフマー神の加護EX
魔王特権A
魔力放出A+
直感B
無辜の怪物A(抑制)

【ブラフマー神の加護EX】
セイバーが苦行という名の拷問の果てに獲得した加護。神性を持つものに対し、絶対の優位権を獲得する。相手の攻撃は彼女に傷一つつけられず、こちらの攻撃によるダメージは数倍に上昇する。

煌々たる月雫の夜刃(チャンドラハース)
ランク:A
種類:対軍宝具
彼女が破壊神シヴァより賜った神造兵装。「月の刃」の異名通り、その刀身に月光を蓄積し、破壊力に変換して解き放つことで外敵を殲滅する。その性質から、月の満ち欠けによって威力が変動する。
満月時のみの最高(フルスペック)状態では、最強の聖剣に匹敵する威力となる。ただし、新月時、もしくは月が雲に隠れていると出力は満月時の8分の1まで減衰する。

耐え難き九の痛酷(ラーマーヤナ)
ランク:EX
種類:対人宝具
羅刹王ラーヴァナが十の頭のうち九を切り落として火にくべた、という歪んだ逸話が昇華され、マントの形となった概念宝具。
「想像を絶する苦行から復活を果たした」という逸話の性質から、この宝具は、使用者に絶大な回復力を与える効果を持つ。他者が使用した場合、近くにセイバーがいるほど効力が高まる。
本来であればCランク相当の宝具。ただし、セイバーすらも知らないもう一つの特異な効果が秘められているが故に、この宝具のランクは「EX」とされている。


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六十九話 運命の夜

このお話を読む前に第一話、および第三話の後半を読み返して頂くと、話の繋がりが分かりやすいかもしれません。


 俺は、その「俺によく似た誰か」が最期にセイバーに何かを伝え、死に絶えた光景を眺めていた。

 永く沈黙しかなかった玉座に、再び沈黙が戻る。

 彼女はこらえようともせずに、ぽろぽろと涙を流して、静かに悔いるように泣いていた。

 その悲痛な泣き声を聞いて、俺はまた思い出す。

 9月4日。俺が死んだ夜、セイバーはこうして泣いていた。

 あの時、あの夜、彼女は何と言っていたんだっけ──。

 

 瞬間、世界がぐにゃりと捻じ曲がる。

 

 周囲の景色が加速的に流れていく。この追憶の世界が動き、また、別の光景を俺に見せようとしているのか。

 目が回りそうになるのを目を瞑って耐えた。

 耐えて、耐えて、何も聞こえなくなる。

 そして、ようやく収まったかと目を開けた瞬間──、

 

「っ⁉︎」

 

 ──凄まじいまでの閃光が、俺の視界を塗りつぶした。

 轟音と衝撃。莫大な光と荒れ狂う魔力の向こうで、神速をもって激突する二つの影が辛うじて見える。

 その様に思わず言葉を呑んだ。

 俺が初めてサーヴァントの戦いを目撃した時、まるで神話の再現だと思い込んだような記憶があるけれど──。

 

「──……これが、本物の神話なのか」

 

 以前の考えを一蹴するほどに、その戦いは熾烈だった。

 何がどうなっているのかさっぱり見えないが、必死で目を凝らすと、辛うじて誰が戦っているのかくらいは理解できた。

 

 戦いの最中にいる二人のうち、一人はセイバー。

 そして二人目は、見たことのない赤髪の男。

 

 正体を掴めるような何かは存在しなかったが、彼が戦場においてさえ纏う高潔な雰囲気と、その清廉な眼光から理解した。

 

 ──間違いなく、アレは勇者だ。

 彼こそが、魔王を打ち倒すものなのだ。

 

 彼らの周囲の地面は抉れに抉れ、木々は一つのこらず吹き飛び、大気中の魔力は残らず消費されている。その様たるや、彼らが争っている場所を中心として、隕石の落下跡じみた幅数十メートルのクレーターが出来上がっているほどだ。

 その「跡」だけでも、この二人の激闘がいかに熾烈かを物語っていた。

 さらに両者は今にも死にそうな顔で、それでも負けられぬといった表情で武器を振るっている。手は震え、足は揺れ、呼吸はまったく安定しない。身体中を血まみれにするほどの無数の傷。勇者の片腕は既にへし折れ、魔王は片脚が捻じ曲がっている。

 ──あの二人は、とうに限界を超えているのだ。

 それでも彼らは倒れない。意地や信念、守りたいもののために、あの二人は限界を超えてなお戦っている。

 叙事詩「ラーマーヤナ」の最後を飾るに相応しい、勇者と魔王の全霊を賭した死闘がそこにあった。

 

「翔べ、シューラヴァタッ──‼︎」

 

 そう叫んだ勇者の周囲には、いくつもの武具が彼を守護するように浮遊していた。

 そのうちの一つ。煌びやかな長槍が超加速してセイバーの側面に回り込み、猛然と襲いかかる。

 

「小賢しいッ‼︎」

 

 それを、セイバーはなんと片手で防いだ。

 数センチ先に迫る槍の穂先を前に瞬き一つせず、片手で柄を握って力づくに停止させたのだ。そのまま掌を通じて膨大な魔力を流し込み、神の武具をまた一つ灰と変える。

 ぱらぱら、と掌から落ちていく武具の残骸。

 それを前に、しかし勇者は臆さない。

 

「フッ──‼︎」

 

 その隙を突いて、勇者は次の攻撃を繰り出している。

 セイバーがハッと顔を上げると、そこには「壁」があった。

 否。壁ではない。ただ、勇者が瞬く間に放った数百に及ぶ矢が、その密度から壁の如く見えただけのこと。

 まさに人を超越した神業。

 しかしその神すらも縊り殺すのが、彼の前に立つ羅刹王だ。

 

「せあァっ‼︎」

 

 ヒュヒュンッ、と風を切る音が連続した。

 刃が姿を消すほどの速度で振るわれた月の刃が、こちらに降り注ぐ矢を一本残らず迎撃する。

 ドガガガガガガガガガッ‼︎ と、マシンガンを壁にばら撒いたような炸裂音があったが、当のセイバーは一歩も動かずにまったくの無傷。矢の雨をくぐり抜けて、勇者を視界の中心に捉える。

 一手先を互いに奪い合うような、神代における最強同士の戦い。

 そこにきて、セイバーがついに攻勢に回った。

 

「……来るか、羅刹王‼︎」

 

 轟、と大気が悲鳴をあげる。

 その威力に軋む空間。爆ぜるように膨張する圧倒的な魔力。

 

 ──その質も、圧も、俺が見たものとは比べ物にならない。

 これが、彼女の本当の全力(・・・・・)なのだ。

 英霊と化したが故に避けられない「マスター」という制限に加えて、自分の力に自ら枷を掛けた今のセイバーでは、その身に秘められた全力を振るうことは叶わない。

 それは生前の羅刹王が放つ、究極無比たる一撃だった。

 

 構えは変わらず。足が折れていようと強引に踏み込み、腰だめに構えた剣に己が全てを叩き込む。

 溢れ出す銀を束ね、セイバーはその極光を解き放った。

 

煌々たる月雫の夜刃(チャンドラハース)‼︎」

 

 ────咆哮。

 凄まじいまでの極光が、全てを白に塗り潰した。

 魔王にあるまじき優美さをたたえた月の光は、甚大なる破壊力を伴って勇者を呑み込んだ。

 その一撃はそこで留まらず、天へと向かっていく。高く、暗い夜の帳を振り払うように。舞い落ちてくる燐光は、魔王の勝利を高らかに讃えているかのように美しい。

 轟音ののち、しん、とした静寂が訪れる。

 戦いの終わり。

 セイバーは苦しげに肩で息をしながら、とうに限界を迎えて倒れそうになる体を、剣を支えにして立ち続けた。

 

 

 

 

「はあ、はあ、はぁッ……!」

 

 私の放った最後の一撃は、間違いなく勇者ラーマに直撃した。最強の敵であるあの男を前に、私はかろうじて競り勝ったのだ。

 満身創痍の全身から力が抜けていく。

 あの男は、かつてない次元の強さを誇っていた。

 それは神々の圧倒的な力とは種類が違う。弱々しいはずなのに、決して折れずに向かってくる不屈の炎。一体どこからそんな力が湧いてくるのか、なにを支えに立ち続けるのか、私にはさっぱり理解できなかった。

 足腰に喝を入れて、ふらふらと立ち上がる。

 

 ──その瞬間。ありえない魔力が、私の前方で膨れ上がった。

 

「な……⁉︎」

 

 巻き上げられた土煙の向こう。

 月の刃をまおもに受けてなお、勇者は生きていた。

 全身から鮮血を流し、全身を極光によって灼かれた死人一歩手前の姿になろうとも、それでも彼は生きていた。

 あり得ない。不可能なはずだ。

 私の刃は、あのズタボロの男一人を仕留められないほど鈍くはない。それなのに──、

 

「──……返して、もらうぞ」

 

 彼は、ただただそう言った。

 その手は、一本の槍──いや、「矢」を構えている。

 滞空するそれは熾烈な閃光を撒き散らしながら、ぴたりと私に狙いを定めていた。それは勇者が生まれ持ったという不滅の刃。私に終わりをもたらすもの。

 動けない。私は先の一撃に全てを注ぎ込んでいる。

 ゆっくり、ゆっくりと、千切れかけた腕が持ち上がっていく。

 勇者が向ける鋭い眼光。そこに込められているのは、ただ一つの感情しかなかった。

 殺意でもない。敵意でもない。恐怖でも高揚でもない。

 

 それは──。

 ただ愛する人に逢いたいという、強烈なまでの願いだった。

 

 

「──……羅刹を穿つ不滅(ブラフマーストラ)

 

 

 私が、私の敗因を理解した瞬間。

 放たれた一条の閃光が、私の胸に風穴を開けた。

 

 

 

 

 ……とある日、私の前に一人の少年が現れた。

 彼は私に人間とは何かを告げると、そのまま私によって殺された。

 

 あの日以来、私は無機質なまでに繰り返してきた人間を殺めるという行為を、そう易々と行えなくなってしまった。

 目の前の命、その一つ一つに家族があり、友があり、大切なものがある。人間は決して、私を憎むことしか能のない獣ではない。それを知ってしまったからだ。

 あの少年の言葉は、完成された「魔王」という殺戮兵器を、不完全なものへと変えてしまったらしい。彼のおかげで私はこころを取り戻すと同時に、自らの罪と向き合わなくてはならなくなったのだ。

 

 ──しかし。私はそれでも、殺戮をやめなかった。

 

 人間が作る営みはたしかに尊いものだと思う。でも、それでも、私は剣を振るって数多の命を奪い続けた。

 何度も立ち止まろうとした。何度もやめようと思った。

 でもそう考えるたびに、私の下に積み上がる死者たちが轟き叫ぶ。

 

『今更、魔王の座から降りられると思うか』

『そんな都合のいいことが許されると思うか』

『死んで償う、なんてことが許されると思うか』

『お前は戦い続け、苦悩し続けろ。その罪悪で潰され続けろ。殺して殺して殺して殺して、最期の時まで殺し続けろ』

 

 ──そう。それこそが、私の最大の罪だ。

 

 私は、あまりに多くを殺しすぎた。

 だからかつての彼と同じように、もう引き返せなかった。

 今更、魂にまで刻まれるほどの在り方を変えるなんて、都合のいいことができるわけがない。血みどろの魔王は魔王らしく、永遠に人を殺し続けるしか道はない。

 

 ──だから、こういう結末を迎える事になる。

 

 決着。不滅の刃に胸を穿たれて、全身から力が抜ける。

 月の刃が掌からこぼれ落ち、音を立てて地面に転がった。

 そのまま前のめりに倒れこむ。七日間にも及ぶ激闘を飾る幕引きにしては、あまりに静かな決着だった。

 冷たい地面の感触を味わいながら体を動かそうと試みたが、指一本すら動かせない。あれほど力に満ち溢れていた身体が、今では糸の切れた人形のようだ。

 

(…………ああ。私はここで、死ぬんだ)

 

 とめどなく溢れていく鮮血の冷たさを感じながら、私は悟った。

 かろうじて動く頭を動かして、勇者の方に目を向ける。

 絶命寸前で私を上回ったあの男に、駆け寄る女の姿があった。

 王女シータ。羅刹王(わたし)が形だけでも婚姻を成しているという事実を作るために、羅刹たちが目をつけて攫ってきた女性だ。

 彼女を奪還するため、勇者ラーマは十四年に及ぶ私との戦争を経て、ついぞ私を超えてみせた。

 

「シータ……シータ……僕は、僕は……‼︎」

 

 十四年もの年月だ。念願の再開に言葉が出てこないのか、勇者ラーマは言葉をつまらせる。そんな彼を、シータは両手で受け止めた。

 言葉はない。ただ、何か言わなくとも想いは伝えられると、優しく彼を抱きしめた。

 

「ラーマ、私の愛しい人。……必ず来てくれると、信じていた」

 

 その囁きと抱擁は、勇者ラーマにとって、どんな名声や富よりも価値のあるものなのだろう。

 涙を流して歓喜に震えるその姿は、眩しかった。

 私は魔王。故にこうして独り、誰にも抱かれることなく息絶える。

 

「────あれ、が」

 

 彼は道理すらもねじ伏せる胆力でもって、私の渾身の一撃を耐えてみせた。あり得ない力を振り絞って私を打ち倒した。

 その力。私にはなく彼にはあり、故に勝敗を決したもの。

 それこそが、「愛する人に逢いたい」という願いだった。

 

「私が負けた、理由。誰かに……ただ逢いたいと、いう……願い」

 

 そのささやかな願いは、しかし、時に魔王の一撃すらも帳消しにしてしまうほどの力となる。

 

 ──……それを知って、私は憧れた。

 

 おかしな事だとは思うけれど、魔王は勇者に憧れた(・・・・・・・・・)のだ。

 愛する人に逢いたいと感じ、そして、その為にゼロの可能性すらも掴み取ってしまう。「愛」という一つの感情のためにそこまでできるのは、この地球上においても、おそらく人間だけなのだろう。

 

 ──けれど、私は独りだ。

 

 誰とも話さず、関わらず、ただ刃を振るい続けただけの魔王だ。

 だからそんな幻想(ユメ)を抱くなんて、誰かを愛することなんて、出来るわけがない。そもそも、そんな相手が存在しない。

 

 ──諦めかけたその時、一人の少年を思い出した。

 

 唯一、私に敵意なく語りかけてきた人間。

 名前すら知らない、私が殺してしまったひと。

 

 

 ──ああ。もし、私が誰かに逢いたいと願うなら。

 ──私はあの人に、もう一度だけ、逢ってみたい……。

 

 

 そんな事を考えながら、私は孤独に死んでいった。

 勇者の英雄譚は終わりを告げ、同時に、私の生もそこで潰えた。

 

 ──そして。私は死してもなお、その純朴な願いを抱き続けた。

 

 ただ一つの奇跡を願って、願って、願い続けた。

 英霊の座に刻まれ、輪廻の輪から外れた存在となったが故に、私はそれだけを願い続けることができたのだ。時間の概念すらも存在しないこの場所では、「待つ」という行為が果たしてどれほどの長さだったのか、それすらも曖昧だけれど。

 それでも私は、その奇跡を待っていた。

 待っているだけでは決して叶うはずがないと知りながら、ずっと。

 

 ──そして、あの夜。

 

 私の目の前で胴体を吹き飛ばされた少年を見た瞬間、私は。

 

「ぁ…………あ、嘘だ、そんなの、ありえ……ない」

 

 時間が飛んだと思うくらいに何も考えられなくなって、ただ、呆然と膝をつくことしかできなかった。

 血に濡れ、朦朧とした表情の彼。

 似ているなどという次元ではなかった。同一だ。魂まで、彼はあの少年と同じであると、私は一目見た瞬間に理解できた。

 私の魂が、共鳴してその事実を叫んでいる。

 

 ──まっとうな生命は死すと輪廻を経て、魂は転生する。

 

 だとするならば。私のように魂が英霊の座に至った例外ではなく、ただの人間だった彼が、転生してこの世に生を受けていたのならば。

 こうしてもう一度出逢うことだって、可能なのかもしれない。

 

 ──もし、その奇跡に名前があるのなら。

 ──人はそれを、きっと「運命」と呼ぶのだろう。

 

「っ……‼︎」

 

 無我夢中で、死にゆく彼を抱きしめた。彼にもう助かるすべはない事くらい、誰の目から見ても明らかだ。

 気がついた時には、涙が溢れていた。

 悔しかった。悲しかった。奇跡に等しい再開があったのに、何も話せないまま、彼はその人生を終えようとしている。そして私は、そんな彼に何一つしてあげることができない。

 

「なんで……もう一度、貴方に会えたのに、なんでっ‼︎ こんなのあんまりじゃないですか……‼︎ お願いです、いやだ、まだ私は、あの時の……‼︎ 私は、何も貴方に伝えられていないのに──‼︎‼︎」

 

 必死に言葉をかけようとしたけれど、気が動転してうまく話せなかった。そうしている間に、彼はゆっくりと目を閉じていく。

 

「待って、いやだ……‼︎ 私は‼︎ 私は、もう……‼︎」

 

 彼は何故か、にこりと笑ってみせた。

 死はすぐそこに迫っている。それはきっと、普通の人間にとっては耐え難い恐怖のはずだ。それなのに、彼は最後に笑顔を浮かべた。

 

「いやああああああああああああ────ッッ‼︎」

 

 彼の胸に顔を埋めて、私は号泣した。

 私には何もできない。何も変えられないままだ。

 

 ──その時。一つだけ、打開策が閃いた。

 

 ただし、浮かんだ案は禁忌に等しい行為だ。成功するかどうかも定かではないし、別の機会に試す事すらままならない。

 こんなものを埋め込んでしまえば、きっと彼のどこかが破綻する予感がある。そうなれば、待っているのは最悪の結末だ。

 でも、やるしかない。

 一つの命。その「死」を、道理を捻じ曲げて先延ばしにする。

 

「……ッ‼︎‼︎」

 

 私は背中のマントを強引に掴み取ると、「魔王特権」を行使して形状を変化させた。可能な限りの極小サイズにまで分解し、粒子レベルにして彼の身体に埋め込む事で、彼の死を押し留める。

 

 かつて、勇者にだって出来たことだ。

 

 あの男は、不可能を可能にしてみせたのだ。

 ならば出来る。

 私だってきっと、この想いを力としてみせる──‼︎

 

「うぐ……ああああああああああああああああ‼︎‼︎」

 

 全身の傷が痛い。指先が霞み始める。

 英霊として召喚された私が、世界から消えかかっている。

 

(間に合わせる……絶対に、絶対に‼︎)

 

 もう私は限界を超えていた。とうに消滅しているはずだった。

 それでも力づくに、たとえ限界を超えているとしても、気力だけで現界を果たし続けながら作業を続ける。

 

 そうして──地獄のような時を経て。

 彼の身体に、私は一つの宝具を埋め込んだ。

 

 かつて乗り越えた拷問(ぎしき)。そしてそれから這い上がった私は、人々からの認識の歪みもあり、一つの宝具を得るに至った。

 その名は、「耐え難き九の痛酷(ラーマーヤナ)」。

 私の誕生こそがとある一つの叙事詩の始まりとなったが故に、この宝具はその名を冠している。

 その宝具を楔として、天に昇ろうとしていた彼の魂は、辛うじて繋ぎとめられたのだ。

 

 

 

 

 それから、運命と出逢った夜が明けて──。

 

「おい。出てこいよ、いるんだろ?」

 

 翌日、夕暮れ時の公園。

 震える声で、彼は姿を隠した私にそう言った。

 

「俺は昨日の事をハッキリ覚えてるぞ……化け物め。生き延びた俺を殺しに来たのか?」

 

 その声は、かつて聞いたものと寸分違わない。精一杯低くしようとしていても、聞き覚えのある、どこか優しい声のままだ。それが無性に嬉しいので、私を「化け物」なんて呼んだ事は許してあげよう。

 そんなことを思いながら、私は近くの屋根から飛び降りる。

 

「それは、違いますよ」

 

 彼の背後に着地した瞬間、彼は私の存在を察知したのか、振り返ってこちらを思い切り殴りつけた。

 少し驚いたものの、私は難なくそれを受け止める。動きを止められた彼は弾かれたように、私の瞳をまっすぐに見つめた。

 

 ──そうして目が合った瞬間、全ての時間が止まった気がした。

 

 この気持ちを、何と言えばいいか分からない。ただ、涙を流すような歓喜ではなく、心があったまるような充足があった。

 

「……………………おまえ、は」

 

 彼は知らない。この私のことなんて、これっぽっちも覚えていない筈だ。

 

 ──けれど、それでもいい。

 ──この胸に、確かなものが残っている。

 

 たとえ彼が覚えていなくたって、私の胸にこの想いと記憶があるのなら、あの過去は決してなくならない。

 それを思うと、悲しくなんてなかった。

 ただただ、再び巡り逢えたことへの歓喜があった。

 だから。満ち足りた感覚のまま、私は──、

 

「このゴミムシ馬鹿愚か不敬者ぉーっ‼︎」

 

「ぶべらっ⁉︎」

 

 さすがに化け物呼ばわりから殴られるのは許せないので、問答無用で彼の横っ面を引っ叩いた。

 

「うお……おおぉ……ビンタが、なにゆえ、右ストート並の威力に……⁉︎」

 

「フンッ。いきなりこの魔王に殴り掛かるとは、いい度胸してるじゃあないですか。本来なら万死に値する愚行です」

 

「お、お前、一体……てか、馬鹿力にも程が」

 

「あっ‼︎ 今馬鹿と言いましたね、馬鹿と‼︎ よろしい、今すぐもう一発追加してあげますよ」

 

 そう言って近づいていくと、目に見えて彼は狼狽する。

 あの時のように、生きる希望も何もない彼ではない。

 話せばこうして色々な表情を見せてくれる。これからきっと、もっと彼と話して、彼のことを知れるのだろう。

 それは、とても嬉しいことだ──。

 

「と、とにかく悪かったのは俺なんだな⁉︎ よし理解した、だから、あー、その、そう‼︎ お詫びはなんでもする‼︎ だからその手を降ろして一回落ち着け頼むって怖いんだよ本当‼︎」

 

「ほう? なんでも、と言うんですね」

 

 それは好都合。私は少し息を整えて、彼に伝える。

 

「では、一緒に来てくれますか。私の……マスター」

 

「……ます、たー?」

 

「貴方のことですよ。そんなきょとんとされても困るんですけど」

 

 と言っても、彼が魔術師だったりするような素振りはない。きっと、何も分からないままこの戦争に巻き込まれたのだろう。

 少し意地悪をしてしまった気もするけれど、説明の手間があるぶん、色々なことを話せるだろうし。多少のわがままは許してもらおう。

 

 ──その言葉を合図としたかのように、沈みかけていた夕日が完全に西の山脈の影へと没した。

 これからは夜、太陽は役割を終えて月が主役に成り替わる。

 

「私の名前はセイバー。貴方のサーヴァントにして──」

 

 手を取って彼を立ち上がらせたところで、一つだけ思い出した記憶があった。

 古い記憶。私に消えない傷跡を刻んだ、とある少年の言葉。

 

『分かるだろ? 俺は、お前の敵なんだ』

 

 ……かつて、彼はそう言った。

 あの人は、私の味方になるには、あまりに多くを失っていた。生きる希望すらも無くした、死に場所を求めるだけの死人だった。

 けれど、今は違う。あの時とは真逆だ。彼の身体は死んでも、まだ精神(こころ)が生きている。ならこれからたくさん話して、きっともっと仲良くなれる筈だ。

 絶対に、今度こそ、私は彼の敵になんてならない。

 だから──、

 

「きっと、私は貴方の味方(・・)です」

 

 そう言って、私は心の底からの笑顔で笑った。

 ……ここは終着点の先。ある筈のない、もう一つの始まり。

 さあ始めよう。

 濃紺の(そら)には、既に薄っすらと半月が浮かんでいる──




【セイバーの願い】
勇者ラーマとシータの再開。その姿を忘れられなかった彼女が聖杯に託す願いは、「あの時に出逢った少年との再会」。
彼と会って、何をしたいのかは彼女自身も分からなかった。それでも無性に会いたかったから、彼女はその願いを抱き続けた。
しかしその願いは、偶然にも運命という名の奇跡によって叶うことになる。転生を経た彼と出逢い、満足したことで、彼女は自らの願いは半分でも叶ったと判断した。今の彼女の望みは、健斗を元の安寧に送り返すことのみである。
ただし。この二人の運命が、必ずしも良いもの(Destiny)であるとは限らない。


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七十話 もう一度、君に伝える

「………………ぅ」

 

 俯瞰していたセイバーの記憶が薄れ、意識が戻ってくる。

 閉じていた目を開けると、こちらを覗き込む碧色の瞳があった。どうやら俺は、セイバーの膝に頭を預けて仰向けに寝ているらしい。

 身体は重りをしこたま詰め込まれたように重い。既に治癒は始まっているだろうが、まともな人間なら即死級の傷だ。相応の時間が必要になるだろう。

 しかし、全身がぐったりと思い癖に、一部分だけやけに軽い……というか、感覚すら感じない箇所がある。

 視線をのったりと下げてみると、そこにあるべき左腕は存在しなかった。

 

「腕が、ない……?」

 

「すみません。私の宝具にも限度があります。表面的な傷を塞いでも、一度切断された腕をもう一度つなぎ直す、なんてことは……」

 

「……ああ、そっか。そうだった」

 

 バーサーカーから一瞬の隙をもぎ取る代償は大きかった。俺は奴の一撃をまともに受け、左腕をもっていかれたのだ。

 思わず呆然としたが、黙っていても始まらない。

 あれから、大雅の方はどうなったのだろうか。

 

「セイ、バー……二人は、どうなった?」

 

「最初の打ち合わせ通り、あの子に救急車を呼んでもらいました。事情の説明はまた後で、ということで。……例の男の子ですが、派手に肩を斬られてはいるものの、命に至るような傷じゃありませんでした。あれなら完治も可能でしょう」

 

「……はは。いや、良かった。あの二人が俺みたいな犠牲にならなくて、本当に良かった……」

 

 ──安心すると、どっと睡魔が襲ってきた。

 バーサーカーの一撃を受け止めたのだ。それを抜きにしても、今日は街中を走り回っている。疲労が随分と溜まっているらしい。

 が、俺は気だるさと眠気を我慢して周囲を見渡す。

 周囲は夜の闇に包まれ、照明といえば数個設置された電灯のみ。家と家との中途半端に余った空間に遊具を詰め込みましたよ、と言わんばかりの狭っ苦しい公園だ。

 金網のフェンスの向こうには、大塚市が一望できる景色が広がっている。色とりどりの光が闇の中に輝く大塚の夜景。

 その光景を見て、俺は思い出した。

 

「ここ……俺とお前が、初めて、会った……?」

 

「ええ。ここで私は、貴方にいきなり殴られそうになったんです。覚えてますか?」

 

「覚えてるよ。それからお前に容赦なく引っ叩かれたこともな」

 

 くすり、とセイバーが笑う。

 笑顔……彼女が、生前に一度も見せなかったもの。

 それを俺がセイバーにあげられているのなら、それはどんなに嬉しい事だろう。そんな事を思いながら、話を切り出す。

 セイバーの過去を覗き見た俺は、それを打ち明ける責任がある。

 

「なあ、セイバー」

 

「なんですか?」

 

「気絶している間に……また、お前の夢を見たよ。お前が生まれてから死ぬまでと……召喚されて、俺に出会うまでの夢だった」

 

「……そうですか。厄介なものですね、契約というのも」

 

 セイバーは少し暗い顔をする。

 そりゃあ、誰だって勝手に自分の過去を覗かれるのは嫌だろう。

 とはいえ、これは俺の意思とは関係なく発生する。だから俺に出来ることといえば、過去を見たという事実を伝えること。

 そして、そこから俺自身が彼女に伝えたいと感じた事を、真っ直ぐに届けることだけだ。

 

「やっと分かったんだ。お前の本当の名前。それと、お前の願い」

 

 セイバーが軽く息を呑んで、こちらを見つめる。

 

「──お前はずっと、「アイツ」に会いたかったんだな」

 

 そんな彼女に、俺はそんなことを呟いた。

 碧色の瞳が、その言葉を皮切りにして微かに潤む。

 それは、セイバーが今の今まで一人で抱え込んできた孤独な願いを、こうして誰かが解してくれたことへの喜びなのだろうか。

 

「いつかの夜にさ、言ってただろ。「私の願いはもう半分叶ってくれたから、もう満足した」……みたいなことを。アレはそのまんまの意味だったんだ。志原健斗はアイツの生まれ変わり。魂が同一だとしても、アイツ自身じゃない。だから、お前は半分叶ったと表現したわけだ」

 

 少しだけ自虐気味な声色になってしまって、少し情けなくなる。

 もしかすると、俺は嫉妬しているのだろうか。生前の彼女に何かを残して死んでいき、また逢いたいとまで思わせた「アイツ」に──。

 

「そんなこと……言わないでください」

 

「えっ?」

 

 ──なんてことを思っていたから、思わず素っ頓狂な声を出してしまった。

 

「私が会いたかった相手は確かに、あの日私が出逢った、あの名も知らぬ少年だった。……でも私は、今を生きようとしているケントのことを、とても大切に想っているんですよ」

 

「そっか。なら、良かった」

 

 軽く目を閉じて、それからゆっくりと体を起こした。

 片腕が無いせいで身体のバランスがおかしくなっているのか、やけにふらつきつつも立ち上がる。セイバーは少しだけ驚いたようだったが、止めることはなかった。俺に応じるように、彼女も腰を上げる。

 期せずして──。

 まるで始めて出逢った時のように、俺たちは向かい合った。

 

「俺は、セイバーに言わなきゃいけないことがある」

 

 その碧色の瞳を見つめて、俺はそう切り出した。

 

「セイバー。お前は自分自身を怪物だの、魔王だのって言うだろ? でも、俺にはそう思えない。どうしたって思えないんだよ」

 

 どうやって彼女の哀しい自己認識を改めるべきか悩んできたが、いい加減にケリをつけるべきだろう。

 やっと言い出せた言葉。まだスタートラインに立ったに過ぎないが、迷いはない。俺は、思いをありのままに伝えるだけだ。

 

「貴方が何度言ったって、私がどういう存在であるかは変わりません。私が犯した罪は、たとえ死んでも消えない。いえ、消えるなんてことが許されるはずがないんです」

 

 それは彼女の覚悟だ。

 自分が殺めた数万に及ぶ命。その人すら殺せそうな重荷を、今も彼女は責任として背負い続けている。決して投げ捨てようともせず、ひたむきに。その罪悪から、決して逃げようとしない。

 最初の夜。俺が見たあの光景は、彼女の心象だった。数万の骸の果てに独りで立つあの姿は、彼女の決意の表れだったのだ。

 

「その通りだと思う。それは、お前が永遠に背負わなきゃならない十字架だ。別に俺は、お前の罪まで否定したいわけじゃない」

 

「じゃあ、貴方は何を言おうと」

 

「俺が話をしてるのは、かつてのお前じゃない。「今の」お前の話をしてるんだよ、セイバー」

 

 雲の切れ間から差し込んできた月明かりが、彼女のジャージを淡く照らし出した。

 

「お前は俺に会ってから、人を一人でも殺したのか?」

 

「それはっ……それ、は」

 

「違う。俺が実際に触れたお前は、人なんて殺しちゃいない。俺を何度も助けてくれて、一緒に戦ってくれるサーヴァントだった。ずいぶんと手を焼かされるけど、強くて、かわいくて、甘いものが好きで、誰かのために泣いてくれる……ただの、どこにでもいるような女の子だった」

 

 それだけだ。俺が彼女を魔王ではないと思えるのは、ただ単純に彼女と接した記憶があるからだ。

 

 ──つまるところ。何千年も昔に何があったかなんて、今を生きる俺にとっては関係ない。

 

 「今の」セイバーと話してみればわかるはずだ。

 確かに世間ズレしているし偉そうなところがあるけれど、彼女は自分から好き好んで殺戮を繰り返すような奴じゃない。不器用だけど、確かな優しさを持った女の子だと、誰もが理解できるに決まってる。

 それなのに。だというのに。

 それでも世界が彼女を「魔王」として爪弾きにしようとするのなら、それこそ世界の方が間違っている。

 

「そんな奴にすら居場所を与えないくらい、この世界は残酷じゃない。それでもお前がまだ自分が怪物だから、この世界にいちゃいけないなんて悲しい勘違いをしてるんなら、俺がお前に気づかせる」

 

 俺はセイバーに詰め寄ると、残る右手でその肩を掴んだ。

 こちらに引き寄せる身体。空いた距離が一気に近くなって、揺れた蒼色の髪が俺を叩く。

 けれど、セイバーは大人しかった。

 ただ無言で、俺の顔を見つめていた。

 ゆっくりと口を開く。ずっと言いたかった、言おうとして何度も何度も失敗してきた言葉を、ついにそのまま口にする。

 

 

「お前は、魔王なんかじゃない」

 

 

 その一言を述べた瞬間。

 セイバーの瞳が、ハッとしたように見開かれた。

 

 

 

 

 私の生涯においてたった一つだけ。

 それこそ永遠に、頭から離れなかった言葉があった。

 

「お前は元から魔王なんかじゃなかった。ただ、自分の道を、あり方を、強引に歪められちまっただけなんだ」

 

 彼の言葉が、胸に突き刺さる。

 いや。突き刺さる、という表現が正しいのかは分からない。

 ずいぶんと穏やかな感覚だった。私という存在を揺るがす確かな衝撃が、彼の言葉には秘められている。

 それなのに、優しく染み渡るように、その言葉は私の胸に広がっていった。

 

「だから、もう……いいんだ。お前は無理をして、魔王なんて似合わない肩書きを背負い続けなくていいんだよ。歪んだきりの道を、そのまま進まなくたって構わない」

 

 彼の瞳を見る。

 今も変わらない、その黒曜石のような瞳を。

 

「お前は、お前の思うがままに生きるべきだ。だってお前は、ずっと最初から、魔王なんかじゃなかったんだから」

 

 かつて、私はひとりの少年に出逢った。

 私と戦い、私が殺した、無力で平凡な少年だった。

 悠久の神話に刻まれることもなく、この世においてあらゆる生命が忘れ去る中で、私の記憶にのみ残り続けた彼。

 そんな少年が、死の間際に残した言葉がある。

 

 

『お前は、魔王なんかじゃない』

 

 

 ──その言葉が、どれほどの衝撃だったことか。

 

 羅刹王ラーヴァナはその一言をもって、完全から不完全へと堕ちたのだ。何も考えないはずの殺戮兵器が、「わたし」という人格を取り戻したが故に。

 とはいえ、それが何かの変化をもたらしたわけではない。

 羅刹王(わたし)はそれでも変わらなかった。「勇者ラーマに倒される」という結末も、彼に出逢っていようといまいと、きっと変わらなかったはずだ。かつての私が、変われなかったように。

 つまり彼の言葉は、この世界になんら影響を残さなかった。

 それでも──。

 

「貴方は」

 

 精一杯、背中に回した手に力を込めて、彼の身体を抱きしめる。

 

「貴方は……いつだって、そう言うんですね」

 

 訳の分からない熱さが、目の奥と胸の奥で暴れている。

 こんな気持ちになったのは初めてだった。

 ただ、どこか安堵のような安らかさが、私を満たしていた。

 

「何度だって言うよ。「俺」がお前に逢ったなら、きっと」

 

 その言葉で、私の中の何がが崩れ落ちていった。

 意固地なくらいに凝り固まっていたそれが崩れた瞬間、私は堪えることをやめて、彼の胸に顔を埋める。

 

「う……わたし、わたしはっ……‼︎」

 

 ぼろぼろと涙が出てきて、まともに話せない。

 それでも必死に話そうとする私の頭に、ぽんと掌が触れた。

 残った片腕で、彼は私を撫でている。それが子供扱いするようでほんの少し気に障ったけれど、今くらいは許してあげよう。

 だから──このまま、満足いくまで泣かせてほしい。

 

「これからもう一度、やり直してみればいい。前は歪んだ道の半ばだったから、もう変わることなんてできなかったかもしれない。でも、今は違う。お前はこれから、他の誰でもない自分の意思で、新しい道を歩んでいける」

 

 私は、その言葉に無言で頷く。

 顔を押し付けたまま何度も何度も首を振ったせいで、ケントのシャツがびよんと伸びた。

 

「わたしは……もう、魔王として生きなくても、いいんですね」

 

 真っ赤になった目を擦って、少しだけ落ち着いた私は顔を離す。

 胸の中でずっと渦巻いていた、葛藤じみた気持ち悪さがない。

 

 私は、ようやく理解したのだ。

 かつて犯した罪は消えない。永劫に、私はこの罪過と向き合い続けなければならない。

 でも。だからといって、さらに罪を重ねるような生き方をしなくたっていい。私が魔王のように振る舞う必要はなく、私は私が正しいと思う在り方で生き続けられる。

 その当たり前の結論を。

 彼が数千年を経て、もう一度教えてくれた。

 

「問題は解決したみたいで何より。……それで、その〜……」

 

 私がどこか晴れ晴れとした気持ちで涙を拭いていると、さっきまで堂々としていたはずのケントが、気持ち悪くモジモジしている。

 それを見て怪訝な顔になった私は、思わず尋ねてしまった。

 ちょっと考えてみれば、分かることかもしれなかったのに。

 

「ケント、いったい何ですか?」

 

「その、俺、前セイバーに色々と言っただろ。あの返事のほうはどうなってるのかな……なんて事をね、ふと思い出した訳」

 

「………………‼︎‼︎」

 

 言葉はなく、私は無言でひっくり返りそうになった。いや、実際数センチは跳び上がっていたかもしれない。

 今までの事で忘れかけていたものの、ケントはとんでもない事を言っていたではないか。

 彼は私に詰め寄って、こう、何というか色々と恥ずかしい言葉を、

 

「……あ、ぁ、あれは……その……」

 

 思考がまとまらない。さっきまで晴れやかに落ち着いていた思考が、今は別の要因で沸騰している。

 がーっと急上昇していく体温。こんな体調の変化は初観測だ。

 よく考えてみれば、こうして抱き合っている今の状況は、傍目から見れば全く違う意味があるようにしか見えないではないか。

 

「そ、その、わたし、私は……ケントの言葉に対して、別に問題は……ない……と、いうか。別に嫌だという理由もないわけでありまして……そのう」

 

「な、何ッ──⁉︎」

 

「うおぁちょ、ちょっと急に顔近づけないでくださいよ‼︎」

 

 血相を変えてケントがこちらを覗き込んできたので、思わず私は顔を左右に揺らして回避する。

 

「バカっ、そこは大ッッ切なところだろ⁉︎」

 

「ば、バカって言いましたね、また‼︎ 怒りますよ⁉︎」

 

 しんと静まり返った夜に、二人して騒いでいると、またいつもの様子に戻ったような実感があった。

 ああ、こんなに楽しいことなんて、今まで一度たりともありはしなかった。彼と過ごしてきた今までが、こんなにも愛おしく思える。

 

 ……いや、これまで、だけじゃない。

 

 「この先」を夢見るくらいは、私にだって許されるはずだ。

 何故なら私は、もう、魔王なんかじゃないんだから──。

 

 

「いいや? 何を言われようが貴様は魔王だよ、ラーヴァナ 」

 

 

 自然と笑みがこぼれた、その瞬間。

 一人の女が、ケントの背後でその手を振り上げていた。



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七十一話 終わりの始まり

 ケントの後ろに音もなく現れた、一人の女がいた。

 女は、まるで蚊でも払うように、その手を上から下へと動かしただけ。それで──、

 

「え?」

 

 すとん、と。まるでロボットの腕が外れるみたいに呆気なく、ケントの右手が血を噴き上げて切断されていた。

 それを、無造作に女が掴む。

 残り一画。最後の令呪が刻まれた、彼の右手を。

 

「ふむ、まだ令呪が残っているなら好都合か。原型が残っていれば複製の手間も省ける。この令呪、有り難く活用させてもらおう」

 

「……ッッ⁉︎」

 

 喉が干上がるような緊張と共に、私はその女に斬りかかろうとした。

 が。横合いに飛んできた「矢」が、私の横腹に突き刺さった。

 どす、と鈍い音を立てて、私は地べたになぎ倒される。

 

「が────ぁ⁉︎」

 

 ぼたぼたぼたぼた、と、右手首から多量の血を溢れさせるケントが、困惑混じりの悲鳴と共に膝をつく。

 それを丸きり無視して、女はいつのまにかケントの右手に刻まれた令呪を奪い取っていた。

 その白い右手の甲に、ケントと同一の令呪が刻まれる。

 やられた。私を律するマスター権は完全に、ケントから目の前の女へと移行してしまったのだ。

 

「き、さ……まぁぁぁぁッ‼︎‼︎」

 

 私は激昂のままに再度剣を振りかぶろうとして──、

 いつの間にか全身にのしかかってきている重圧に、ぴたりと動きを止めていた。

 動かない、のではない。動けない。

 あり得ない筈なのに、現実として感じられる緊張感がある。

 

 ──あり得ないことに。

 ──私たちは突如として現れた英霊たち数騎によって、完全に囲まれていた。

 

 脇腹に突き刺さった矢からどくどくと血が流れ出すのも無視して、私は狼狽を可能な限り抑えながら周囲を見渡す。

 

 木々の向こう。鎖を鳴らして立つ女がいる。

 暗い樹上。弓を矢をつがえた男がいる。

 頭上。浮遊し、複数の魔法陣を展開させた女がいる。

 背後。無言のままそびえ立つ巨人がいる。

 そして眼前。女の横に、漆黒の剣士がいる。

 

 全部で五騎。

 明らかな過剰戦力が、この場所に集結していた。

 

「そん、な……」

 

 思わず、絶望の呻きが漏れる。

 たとえ私が万全だったとしても、この数は相手にできない。先ほどの戦いに全てをつぎ込んだ今ならば、なおさら勝ちの目は薄い。いやそもそも、勝機など、この状況をどうにかする手段なんて存在しない。

 そもそも。一体この英霊たちは、どこからどうやって、魔力を感知させる事もなく現れたというのか。

 

「令呪をもって命ずる。動くな(・・・)、セイバー」

 

「うっ⁉︎」

 

 令呪の煌めきが放たれ、私の身体が完全に止まる。

 まるで、周囲の空気が固体になったようだ。

 私はぎりぎりと歯を食いしばりながら、女を睨むことしかできない。

 

「魔王とて気を抜くことはある、か。油断したな。今のように消耗していなければ、こちらの気配を直感で悟れただろうに」

 

「おまえ……セイバーに、何して……やがるッ‼︎」

 

「ほう? まだ吠えるか。それに、ここに至って自分ではなく他人の心配とは。全く見上げたバカ根性だよ、志原健斗」

 

 冷ややかな目でケントを見つめた後、女は口の端を吊り上げる。

 その表情を見て、一つ思い出したコトがあった。

 

 

『例の魔術師と、そこのセイバー。この二者を出会わせてしまったが最後、世界が脅かされる程の「何か」が起こる』

 

 

 いつぞや、抑止力を受けて顕現したという槍兵が語った言葉。

 もし。この女が、「例の魔術師」なのだとしたら。

 そしてこの女の狙いが、あくまで私一人なのだとしたら。

 

 ……既にマスターではないケントを、このまま生かしておく理由がない。

 

「や……やめろ‼︎ ケントに指一本でも触れてみろ下郎、貴様はどうやってでも、絶対に殺してやる──‼︎」

 

「ふん、何を馬鹿な事を。(わたし)は彼を殺さんよ。そんな事をしたところで、己にはさしたるメリットがない」

 

 その言葉は、思わず拍子抜けしてしまう内容だった。

 私は思わず言葉を飲み込む。今ここに至って、私にも彼にも行動の優位権は存在しない。ただ、女の行動を受け入れることしかできないのだ。

 そう考えると、奴の言葉はまだ救いがある。

 そうだ。私が何をされるのかは知らないが、少なくとも彼は巻き込まれずに済む。

 

「令呪をもって命ず。お前が殺せ(・・・・・)、セイバー」

 

「………………え?」

 

 その瞬間、思考が凍りついた。

 令呪の行使。ありえない。ケントから奪い取った令呪は、最後の一画しか残っていなかったはずだ。もう女の手に令呪は刻まれていなかったはずなのだ。

 なのに。見れば、奴の手にはびっしりと赤の紋様が刻まれている。

 ありえない。魔術師が保有できる令呪は三画が限界のはず。なのにこの女に刻まれた令呪は、ゆうに十を超えている……‼︎

 

「が……あ、あ゛あああああ……っ⁉︎」

 

 令呪の強制力が働き、私の手がカタカタと震える。

 私の手が。私の月の刃が。意思とは関係なしに、彼の首を刈り取ろうと動いている。

 咄嗟に私はもう片方の手で右手を抑え、その衝動を抑え込む。

 

「強情だな。流石はセイバー、対魔力も群を抜いている」

 

「ケント……ケントっ、逃げてください‼︎ 逃げて‼︎」

 

「無駄だよ、魔王。もう既に意識を奪ってある」

 

 ハッとして目線を前に向ける。ケントは既に意識を失い、しかし何らかの力によって糸人形のように直立していた。

 

「重ねて令呪をもって命ずる。そこの男を殺せ」

 

「ぐ、ぐううううううっ────⁉︎」

 

 ぎりぎりぎりぎり、と、無理やり剣を振るおうとする力が増す。

 ……「魔王は彼を殺す。彼は魔王によって死ぬ」。

 またこうなるのか。これが、私たち二人の間に決定された、変えることのできない運命(Fate)だとでもいうのか。

 そんなの、許せない。

 そんな残酷な運命、私は絶対認められない。認められてしまうのなら、それこそ、この世界の方が間違っているに決まっている……‼︎

 

「三画目の令呪をもって命ずる。そこの男を殺せ」

 

 更に命令が上書きされ、三画ぶんの強制力が私を襲う。身体がめきめきと悲鳴をあげ、酷痛が走り抜ける。

 この無茶は、例えるなら、曲がらない方向に無理やり手足をへし曲げているようなものだ。

 道理に逆らうというのは、それだけで想像を絶する痛みを与える。

 それでも耐える。

 意思と気力だけで、三画の令呪による強制力に抗い続ける。

 だが──、

 

「四画目をもって命ずる。そこの男を殺せ、セイバー」

 

 その声と同時に襲い来る衝動が、私を完全に塗り潰した。

 無情にも令呪の輝きが放たれ、そして。

 

 ──ぶしゅっ! という、やけに耳に残る音が聞こえた。

 

 ぱたたっ、と頰を打つ熱い水滴。

 右腕を存分に振り抜いてしまった(・・・・・・・・・)感覚。

 恐る恐る、絶望を予感しながら、私は目の前に視線を戻す。

 

 そこには──、

 

「──────」

 

 首から上がなくなった、ケントの死体があった。

 先も言った通り。私の宝具は傷を塞ぐことはできても、切断された体を元どおりに癒着するような高等な再生機能は有していない。

 それこそ首でも刎ねられれば、それで終わり。

 たしかにさっきまでケントだったものが、呆気なく、私の方に倒れてくる。私の身体にたっぷりと血を擦り付けて、彼の身体は私にもたれるように倒れ込み、そのまま地面に倒れ伏した。

 それはもう、二度と動くことはない。

 

「あ、あ──うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼︎‼︎」

 

 そのまま、死んだ。

 ケントは、もう、死んだのだ。

 私の願いは、結局ところ、まるで意味を成さなかった。

 世界から音も光も、あらゆる全てが消えていく。

 

 ……嫌だ。もう、こんなの、嫌だ。

 ……なにかを考えるのも、もう嫌だ。

 

 わたしは、さいごに、なにかがこわれるようなおとを──……、

 

 

 

 

「ライダー。もう出てきて良いぞ。事は済んだ」

 

「やれやれ、セイバーの魔力感知も面倒臭いものです。貴方が使役する影の英霊たちであれば、いつ何処であっても泥を媒体としてあれ出現しますが……私はそうはいかない」

 

 それまで遠くに潜んでいた騎兵が、雷光とともに姿を見せる。

 彼は正規の英霊だ。以前も前例があるように、セイバーの魔力感知には反応してしまう。

 

「セイバーの方は?」

 

「見ての通り。我が手中に収めた。これより(わたし)は仙天島で魔王の最終調整に入るが、貴様らは例の屋敷を潰してこい」

 

「御意のままに。貴方は平気なんですか? いくら令呪の戒めを持つとはいえ、彼女は魔王。一人きりで扱うのは危険では?」

 

「この女の顔を見てからモノを言え」

 

 茫然と地面にへたりこんで俯いているセイバーの髪を乱暴にひっ掴み、ライダーは面倒臭そうに彼女と目線を合わせる。

 そうして、彼はつまらなそうに溜息を漏らした。

 女の言葉の意味を、一目で理解したからだ。

 

「──この女にはもう、まともに「戦う」などという気概は残ってはおらんさ。己の生を放棄した、ただの壊れた器だよ。少しは気概を削げるかと思ったが、まさかここまで黙りこくってくれるとはな」

 

「理解はしますが、全くもってつまらない。彼女が獰猛なままであれば、私も少しは楽しめたかもしれないのに。やや期待していたんですがね、本当の本当に激昂した、真の魔王とやらを見るのを」

 

 興味を無くした、とばかりに、ライダーは無言で背を向ける。

 常人の精神構造から逸脱している彼にとっては、戦う相手のみが興味対象なのだ。一部の例外を除いて、だが。

 

「行くのか」

 

「ええ。こちらも残党狩りは得意ですので、お任せを」

 

 彼は影の英霊たちを引き連れ、西の空へと跳んでいく。

 その背中を見守って、女魔術師はローブを翻した。

 

「……さて、と。目的は達したが、一つやり残した事があったか」

 

 

 

 

「ご苦労だった、と言っておく」

 

 コツ、コツ、と、冷たい床を踏みしめる音がする。

 薄暗い発電小屋の中。姿を現した女の前には、口元を血で濡らした男と、純白無垢の少女がいた。男の傍には、不恰好に歪んだスーツケースが転がっている。

 少女の方は、彼女を見るなり怯えたように身をすくめる。

 対し、男──マリウス・ディミトリアスは、閉じていた目を少しだけ開いて女を見上げた。

 

「……フン、貴様か」

 

 マリウスは嘆息する。バーサーカーが討たれたということは、既に令呪の消失によって理解していた。

 

「セイバー及びそのマスター、志原健斗の誘い出し。それに加えて、あれ程までにかの魔王を追い詰めてくれた」

 

「下らんな。結局、いいように使われただけだろうに。……全く。少しは組む相手を選べ、お前は」

 

 憔悴しきった今では手を動かすのも億劫なのか、マリウスは視線だけを少女に向ける。

 

「さて」

 

 女が、その豪奢な金髪を搔き上げる。

 それはまるで、サラサラと揺れる金糸のようだ。

 

「既に貴様らはマスターではない。セイバーの確保に貢献してくれた恩もあるし、このまま去ってもいい──が」

 

 ピリッ、と空気が痙攣する。

 少女はそれだけで知覚した。何も混じっていなかった女の瞳に、今の言葉を皮切りに混じったものがある。

 

「魔力回路が不全状態にある貴様は置いておいても……そこのホムンクルスは看過できん。もし仮にサーヴァントでも再召喚されれば、面倒な障害になりうる」

 

「…………‼︎」

 

 少女は、思わず身を縮こませた。その視線に込められた殺気を敏感に感じ取って、思わず頼りになるあの姿を探してしまう。

 しかし、もういない。

 かの狂戦士は、もうこの世界に存在しないのだ。

 

「悪いが、そこのホムンクルスは処分させてもらおう。なに、別段ディミトリアスの血統を絶やすというわけでもあるまい? 備品の一つや二つを紛失したのと同義だよ」

 

「ぁ……」

 

 喉が乾く。形のある死を前にした緊張感。搭載された心が、恐怖という感情でがたがたと震えている。

 思わずマリウスの方を見る。

 だが。

 彼は無言のまま、軽く目を閉じただけだった。

 

「決まりだな」

 

 女がにやりと口の端を吊り上げて、ゆっくりと少女に近づいてくる。両目が煌々と輝き、まるで夜に潜む肉食獣を連想させた。

 その瞳は尋常ならざるもの──すなわち、魔眼。

 不気味な輝きが、一つの事象を結実させる。

 避けられぬ死を前に、少女は勢いよく横に駆け出した。

 逃げよう、と思ったからではない。ただマリウスに縋り付いていては、命が助かるかもしれない彼まで攻撃に巻き込んでしまいそうだったから、あえて自ら離れたのだ。

 

 ──そして。

 

「ああ、決まったよ」

 

 ゴキャッッ‼︎‼︎ という暴力的な轟音が炸裂し。

 顔を歪めた女が、壁をぶち抜いてすっ飛んでいった。

 

「………………え?」

 

 ガラガラ、と、木製の発電小屋の壁が崩れる音が響く。

 少女の眼前。そこに、女魔術師を容赦なく殴り飛ばしたマリウスが立っていた。

 

「フン、少しばかりすっきりした」

 

 派手な音を立てて、右腕を包んだ魔術式強化外骨格(オルカルクム・フルアーマー)が放熱する。

 それは礼装がとるべき完全体ではない。

 前の戦いで破壊されたが故に、礼装の展開が不十分なのだ。いや、そもそも今のマリウスでは、完全に展開された魔術式強化外骨格は使えない。

 

「立て。貴様はこのマリウス・ディミトリアスが叩き潰す」

 

 だが。そんな事は気に介さず、マリウスは悠然と立っている。

 その様に弱々しさは見られない。万全には程遠いコンディションを、気力のみで補っている。

 突然の事に困惑しきりの少女がおろおろしていると、木々の向こうの暗がりで、何かがぞわりと蠢いた。

 それは「影」だ。

 無傷で姿を現した女の背後。一目見ただけで理解できる悪しき何かが、蛇の如く鎌首をもたげている。

 

「理解できんな。貴様程の秀才が、なにゆえ道具の為に命を賭ける?」

 

「たわけ。ホムンクルスは厄介だから殺すが、私は脅威ではないから殺さない、など──それこそディミトリアスの血統への侮辱だろうが」

 

「ハッ。ここにきても矜持(プライド)、か。面白い。「汝の意志するところを成せ、それが全ての法とならん」……すなわち貴様にとって、その一点のみが殉ずべき法という訳だ」

 

 マリウスは礼装を装着した右腕をぐるりと回す。

 制御可能な機能は約四割ほど。魔力量も底をつきかけている。あんまりな状況にやれやれと溜息を漏らして、彼は目の前の敵を睨んだ。

 

「──魔術師、マリウス・ディミトリアス」

 

 毅然とした宣言が、夜の冷えた空気に響き渡った。

 それは宣言だ。敵対者に対し、自らが戦うという証明に他ならない。

 その言葉をもって、この場所は作り変えられる。

 静謐に包まれた森林公園が、一つの決闘場として再定義される。

 

「ほう。名乗りをあげる形式の決闘とは古式だな」

 

「若造には馴染みがないかね?」

 

「莫迦を言え、これでも齢は百を超えている。貴様よりかは慣れているよ」

 

 女魔術師は愉快げに笑って、それから表情を引き締めた。

 矜持、己が意思に生きんとするこの男に敬意を評し──彼女もまた、知られざるその名を高らかに告げる。

 未だもって誰も知らない、その名を。

 

 

「──魔術師、アレイスター・クロウリー」

 

 

 マリウスの目が、驚きからかすかに見開かれる。

 近代の魔術師において、その名を耳にしたことがない者はいない。

 様々な肩書きを持つ「世界最悪の魔術師」。神秘の流出を恐れずにメディアへの顔出しを繰り返し、独自の魔術理論を構成。時計塔も国家も敵に回した、20世紀においてもっとも知られる魔術師である。

 もっとも、正史において、彼は既に死んでいるはずだが──。

 

「……偽名ではあるまい。この21世紀に、未だ生きていたというのか。容姿すらも記録とはまるで異なるが」

 

「日本風に言えば、事実は小説よりも奇なり、だよ。時計塔の連中が下手に情報統制を敷いてくれたおかげで、性別すら異なる歪んだ「アレイスター・クロウリー」の人物像と歴史が構築されてしまったという訳だ。もっとも、己はまだまだこうして存命だとも。色々と敵に回した、孤独な逃亡者の身分だがね」

 

 不敵な笑みを浮かべ、クロウリーは一歩前に出る。

 無言ながら、明確な戦いを始めんとする所作だった。

 それに応えるように、マリウスが一歩を踏み出す。それを見て、少女は思わず付いていこうと足を動かしかけた。

 それを、彼の魔鉄に包まれた右腕が遮る。

 彼はすこしだけ後ろを見て、少女の瞳を見て言った。

 

「大馬鹿が、邪魔になるからとっとと離れろ。できるだけ遠くにだ」

 

 いつものように肩を震わせて、少女は竦むように動きを止める。

 だが決して、この場から離れようとはしなかった。

 

「……ひとつ、言い忘れていた。バーサーカーを失った今、私はもう聖杯戦争の参加者ではない。お前の役割も終わり、という事だ」

 

 大きな背中を向けたまま、マリウスは独り言のように呟く。

 

「行け。自分の思うがまま、好きな所に行くがいい。ああでも、まずは繭村の魔術師を訪ねることだ。駆動時間(じゅみょう)の問題も、彼ならツテがあるだろう。本国の工房もお前にくれてやる」

 

 少女は、無言のまま首を横に振る。

 困惑している中でも、彼が何をしようとして、どうあがいても勝ち目のない敵に挑もうとしているという事実は理解できた。

 

「行け、と言うのが分からんか、あいも変わらん大馬鹿が」

 

「でっ、でも……!」

 

「いいから行け。もう、お前を縛るものは何もない」

 

 とす、と少女の頭に硬い手のひらが置かれる。

 彼女を見下ろすその視線は、見たことがないほど優しかった。

 そう、それは、まるで──……。

 

「これから先、お前の道は自分で切り開く事だ。戻っても回り道をしてもいい。ただ、他の誰でもない、自分の意思で進んでいけ」

 

「──……ありがとう」

 

 最後に。言いたい事を口にできないまま、少女は駆けだした。

 森林公園の出口に向かって走る。ひたむきに走って、決して背後は振り返らなかった。

 

「これでようやく、慣れん子守りからも解放か。全く」

 

 彼女の姿が消えてから、マリウスは漫然と口を開く。

 その声に含まれた感情が、果たしていかなるものなのか。

 それは誰にも分からない。ただ、プライドに生きるマリウスという男のみが、その意味を知っている。

 

「それにしても──律儀に手を出さないとは。驚きだな」

 

「不要な抑圧や束縛から逃れ、真の意思(テレマ)に従って行動するものを己は尊重する。それだけだ」

 

「成る程。実のところ、貴様とは気が合いそうだ」

 

「フ。無意味な仮定だが、確かにそうかもしれん」

 

 それを最後に、しん、と静まり返る夜の森林公園。

 魔力が膨れ上がる。魔術師同士の決闘、それは即ちどちらかの命が尽きるまで行われる、文字通りの死闘に他ならない。

 もう既に、交わされる言葉はなかった。

 数秒間の静寂があり、両者は示し合わせたようにニヤリと笑う。

 そして──。

 

 次の刹那。

 閃光の白と影の黒が、真正面から激突した。

 

 

 

 

 少女は、振り返らずに階段を駆け下り、夜の街を走っていた。

 やや蒸し暑い空気を裂いて、ひたすらに走り続ける。

 行き先は縛られない。どこへだって、自分の望むがままに行ける。

 今までに味わったことのないこの爽やかな気分が、自由というものの味なのだろうか。

 だが。それを楽しむよりも、今は悲しみの方が勝っている。

 

「──────」

 

 もう、マリウス・ディミトリアスに会うことはないだろう。

 あの廃棄場から自分を救い出した、あの男には。

 

「──────」

 

 思い返せば、彼は色々なことを教えてくれた。それこそ自分をただの備品として考えていれば、全くもって必要のないことだ。

 必要もないのに、彼は、彼女と言葉を交わし続けたのだ。

 それはただの気まぐれだったのだろうか。

 あるいは、マリウスという魔術師に残留していた何かが、彼をその無意味な行動に駆り立てたのだろうか。

 

「わたしは…………」

 

 心に、わずかな後悔が残る。

 

「わたしは…………‼︎」

 

 ああ、直接、言葉にして伝えたことはなかったけれど。

 その姿は、あるはずのない父親のようで──、

 

 最後に、彼にその言葉を言えなかった事への悔いを噛み締めて、少女は夜を駆け抜ける。しばらくして、人気のなくなった深夜には珍しく、一台の車が住宅街をこちらに走ってきた。

 それはまるで少女に反応したかのように、すぐ近くで急ブレーキをかける。甲高いブレーキ音とともに停車した車の中から姿を見せたのは、どこかで見た少年の姿だった。

 彼の名前は……確か、繭村倫太郎。

 いったい、なぜ彼がこんな場所にいるのか。

 それを聞く前に、倫太郎が口を開く。

 

「────君、いったいなんでここにいる⁉︎」

 

「バーサーカーが、倒された。わたし達は、負けたの」

 

「…………マリウスは?」

 

「あの女……仙天島の魔術師と、戦ってる。今も」

 

 それを聞いて、倫太郎は状況を把握したらしい。

 彼は無言で目を閉じると、優しく少女の手を掴んだ。

 その瞳が、切迫した状況を告げている。

 

「来るんだ。ここにいたら危ない。……といっても、僕たちも最悪最低の状況に追い込まれてるんだけど。今の大塚を一人であてもなくふらつくよりは、ずっとマシだ」

 

「うん」

 

 手を引かれて、大型の車に乗り込む。

 中にはキャスターとおぼしき英霊に加え、志原楓、それに見知らぬ男女が一組、運転席に座っていた。皆が一様に重苦しい顔で、とても楽しいドライブといった雰囲気ではない。

 少し肩身の狭い思いをしつつ、少女は倫太郎の膝の上に腰かけた。

 

「倫太郎、その子を連れてっても大丈夫なの?」

 

「ああ。彼女はもう、聖杯戦争とは無関係の人間だ。大塚には教会も無いんだし、こっちで保護した方が何かと安全だろ」

 

「倫太郎君の言葉は正しいわ。魔力貯蔵量の多い魔術師やホムンクルスなんて、今の大塚市内じゃ魅力的な餌でしかない。放っておけば、遅かれ早かれ殺されるだけよ」

 

「──……よし、出るぞ」

 

 黒髪の女の言葉を聞き終えた赤い髪の男がアクセルを踏み込み、猛烈な速度で車を発進させる。

 ヘッドライトが不気味な夜闇を裂いて進むのを、少女はしばしの間、無言のままに眺めていた。

 

「突然の事で悪いと思うけど、まずは名乗らせてほしい。僕は繭村家19代目当主、繭村倫太郎」

 

「うん、知ってる」

 

「あ、そ、そう……君は?」

 

 心なしかしゅんとした倫太郎の問いに、少女はふと思う。

 名前。自分がこれからの道を歩んでいく上で必要になる、大切な自己の証。それが今まで、彼女には欠けていた。

 自分を闇の淵から引き上げた男の顔が、脳裏で揺れる。

 決まっている。名前なんて、もうそれしか考えられない。

 少しの沈黙を経て、少女は顔を上げた。

 

「…………ディミトリアス」

 

 小さく、されど確固とした響きが、車内の空気を震わせる。

 その名を告げると、不思議と心が踊った。

 彼女はもう、名も無く、意思も持たない人形ではない。

 

「そう……わたしの名前は、ディミトリアスだ」




【アレイスター・クロウリー】
ライダーのマスター。1800年代から現在まで生存している、正真正銘の本物。幾度もの封印指定と、教会からの異端宣告を受けながらも、100年以上にわたって逃げおおせている。時計塔でも限られたものしかその存在は知らず、彼女の存在は長らく禁忌として扱われてきた。
史実とされるオッサンの写真とは異なり、容姿は金の長髪を持つ美しい女性。容姿は20代の頃に固定してしまったらしい。
黄金色に輝く魔眼を持つ。それについての詳細は不明。ただ、系統に囚われず様々な魔術を無詠唱で使いこなし、聖杯戦争のシステムすら再現、介入して自在に操ってみせる常軌を逸した能力は、間違いなく魔眼の力が関係している。


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七十二話 避けられぬ離別(わかれ)/Other side

「しっかし、本当アイツに似てきたよなあ」

 

「なんだよ、藪から棒に」

 

 バーサーカーとセイバーの激闘が繰り広げられていた、その一時間ほど前。

 繭村の屋敷で、青い槍兵はニヤニヤ笑いを浮かべて士郎に絡んでいた。士郎はといえば、相変わらずげんなりした表情で牽制する。

 

「髪と肌色は違うがよ。背格好とかそっくりじゃねえか。にしても背伸びたな坊主……ってオイ、まさか負けてる?」

 

「どっちだっていいだろ、ンなの」

 

「よかねえよ! おいおい冗談だろ、ちょっと測るからそこ立ってろ。えーっと……」

 

 士郎を直立させて、自分の頭の高さで手を水平に動かし始めたランサーを見て、同室の机に大塚の地図を広げていた凛が呆れたとばかりに溜息をつく。

 

「あのねえ。貴方たち、もうちょっと緊張感を持ったらどうなの?」

 

「何言ってるんだ。俺は元から緊張感持ってる」

 

 憮然として凛に言い返す士郎を見て、ランサーは気持ちのいい笑い声を発した。

 

「お前ら、本当変わんねえんだな」

 

「それはこっちの台詞よ、ランサー。ま、英霊に時間の概念なんて存在しないから、そんなものかもしれないけれど」

 

 そう言う凛の前に、士郎は付き合ってられんとばかりに腰掛ける。

 ランサーは逆に机に直に腰を下ろし、体を捻って地図に視線を落とした。

 

「……こほん。少し真面目な話に移るわよ」

 

 凛が前置きをするので、二人は真剣な眼差しで凛の方に視線を移す。

 

「倫太郎くん達にも伝えた通り、今この聖杯戦争は大きく勢力が二分化され始めてる」

 

「こちらと向こう、仙天島の連中だな」

 

「それ以外に、どちらにも属さず動いているマスターとサーヴァントも存在するけど……でも、私が話したいのはそこじゃない」

 

 凛はランサーの方を一瞥し、確認するように問うた。

 

「まだ、他にもいる。サーヴァントでもマスターでもなく、どちらにも与していない別の何か(・・・・)が。そうでしょう?」

 

 その言葉に、ランサーは頷く。それはつい昨日のこと、珍しく姿を見せた影のキャスターを仕留めるべく、彼が大塚市のビル街へ向かった時に発生した。

 正体不明の──人間とも英霊ともつかない「何か」が、彼らの間に割って入ったのだ。

 

「結局、アイツが何者かっていう話だろ?」

 

「……正直に言うわ。私はアイツの存在が、なんだか訳もなく恐ろしい」

 

 凛は、遠視の魔術を行使して捉えたあの姿を思い返しながら呟く。

 その全身を黒い鎧で覆い隠し、あの戦士は絶叫と殺気を撒き散らしてランサーに襲いかかったのだ。

 幸いにも、猛者であるランサーを倒すほどの力は有していないようだったが──、

 

「これまで色々なものを見てきたけど……それでも奴を見た時、ゾッとした。あれはこの世を力で捻じ曲げてしまうような、そんな計り知れない邪悪を秘めていたわ。貴方だって感じたんじゃない?」

 

「まあ、まともな奴じゃねえ事は確かだ。立ってるだけでおかしくなりそうな、そんな極限の邪悪だったよ、アイツは」

 

 「ああ、それと」とランサーは呟いてから、一つ思い出したことを述べる。

 

「……奴は、戦い方もどこかおかしかった。なんだかな、滅茶苦茶なんだよ。まるで赤ん坊を相手にしてる気分だったぜ」

 

「それ、どういう意味だ?」

 

「そのまんまだよ。アイツは未熟も未熟、戦い方も何も知らない。多分、自分の力がどんなモンかも理解しちゃいねえ。ただ、がむしゃらに力を振り回してるだけの存在だ」

 

 だから倒すのは楽で済んだんだけどな、とランサーは付け加えた。

 裏を返せば、あの「何か」が着実に戦闘の経験を積めば、それは純粋な脅威となり得るということ。敵でもないが味方でもない第三要素は、できれば排除しておきたいが──、

 

「といっても、あれから姿は見せないし」

 

「ま、未だアレは未完成だ。次に出てきた時も、俺一人で下せるだろうさ。そこについては安心していい」

 

 堅苦しい話に疲れたとばかりに、ランサーは座ったまま背中を後ろに倒し、いい香りの畳に寝転がる。

 

「それよか、向こうの弓兵(アーチャー)のことだがよ──」

 

 不意に、彼が言葉を途切れさせる。

 不思議に思った凛が彼にその意味を尋ねるよりもさらに早く──、

 

「来る」

 

 目にも止まらない速さで起き上がったランサーは、次の瞬間、部屋の障子を蹴り倒して廊下へと飛び出していった。

 

「ちょ、ちょっと⁉︎」

 

 素早く反応した士郎が、同様に廊下に駆け出していく。残された凛は突然の事に悪態をつきながら、必要最低限の宝石をポケットに忍ばせて後を追った。

 中庭に躍り出た三人が、そこで見たものは──。

 

 

 

 

 一方、その頃。

 

「………………マスター」

 

 明日に備えて仮眠をとっていた倫太郎の寝室に、アサシンは姿を見せた。薄めの掛け布団をぺらりと持ち上げて、褐色の肢体をその下に潜り込ませる。

 その身体を倫太郎にぎゅっと密着させたところで、ようやく彼は目を覚ました。

 

「ん……ん⁉︎ あ、あさ、アサシンッ⁉︎」

 

「おは……よーう……」

 

 飛び起きて思わず布団から離脱しようとする倫太郎を、アサシンは上から押さえつける。彼の両手を両手で掴み、上から覆いかぶさるような体勢だ。

 

「な、なにしてるんだよ、いったい……⁉︎」

 

「うーん……ご想像に、お任せしよう……かな?」

 

 ふふ、と笑う彼女の顔は、いつもよりもどこか蠱惑的に見える。

 その唇の艶やかさにどぎまぎしつつも、倫太郎は彼女の顔を見た。

 距離が近すぎてくらくらする。数センチ顔を動かしてしまえば、唇と唇が触れるくらいだ。胸板に押し付けられたアサシンの柔らかな胸の感触がやけに熱く、倫太郎は動かない身体をよじった。

 

「こんな事するきもちになるの……きみが、はじめて」

 

 アサシンの手が、硬直する倫太郎の頰をそっと撫でる。

 

「マスター。君がその気なら、いつだって……わたしを自由にしても、よかったんだよ?」

 

 優しく囁くように吐かれた言葉は、甘くとろける蜜のようだ。

 アサシンは彼が抵抗しないのを見て、少しづつその唇を近づけていき──、

 

「アサシン」

 

 触れ合うその寸前で、倫太郎の声が彼女を制止した。

 その言葉で、少女は律儀に動きを止める。少しだけ、不満げに頰を膨らませてはいたが。

 

「……こんなの、君らしくないよ。何があったんだ」

 

 倫太郎の目は、真剣にアサシンを見つめている。

 それを見た彼女は深い溜息を漏らしつつも、どこか満足げだった。

 

「ふふ。やっぱり君は、わたしを……ちゃんと、理解してくれているんだね。なら、よかった」

 

 なら仕方がない、と表情を切り替えて、アサシンは布団を跳ね除ける。途端として立ち上がったアサシンの行為の意味が理解できなかった倫太郎だったが、直後。

 

 ──ズン、と。

 圧として感じられるほどの「何か」が、彼の両肩にのしかかった。

 

「ワンワンッ、キャンキャンキャン──!」

 

 庭で、飼い犬兼使い魔のシロが吠える声がする。

 優秀な番犬である彼は、これほどすぐに吠え立てたりしない。何か繭村の庭に侵入するものがあれば、低く唸るだけで追い返してみせる。それが、声だけで理解できるほど取り乱すとは──、

 

「これは……⁉︎」

 

「いこう。敵襲だよ、マスター」

 

 襖を開けて板張りの廊下を超え、中庭に飛び出す。

 そこには既に、キャスターや楓、ランサーに士郎や凛たちが集合して空を眺めていた。遅れる形になった二人は、彼らのやや背後でその「圧」が発せられている源泉を見上げる。

 

「よォ、キミとは初対面やなあ。にしても揃いも揃って一斉集合たァ仲がよろしいやんけ、ライダー」

 

「黙ってろキャスター。真っ先に潰されてえか」

 

 バチバチ、と紫電を撒き散らす人影が一つ。

 倫太郎の記憶の中で、その姿には見覚えがあった。獰猛な面構えに似合わない幼き容姿は、まさしく「正規の」ライダーのものと合致する。

 彼はその双眸を歪めて、こちらを凛然と睨んでいた。

 

「くそッ……まさか、こっちの動きが読まれてたのか?」

 

 倫太郎は唇を噛む。

 仙天島に引きこもったライダー達は、こちらを警戒する様子どころか外に出ようとする様子もなかったのだ。今となって方針を変えたにしても、この状況はあまりにタイミングが悪い。

 

「ハッ! こちとら、セイバーの奴にはずっと監視を付けてんだ。奴と合流さえしなけりゃあ、テメェらがコソコソ企んでるのもバレなかったろうになァ‼︎」

 

「………………」

 

 饒舌なキャスターが黙している。彼はその千里眼で、いったい何を見通したというのだろう。

 

「まずいわね。こちらの出鼻を潰された。それに──」

 

 一方、凛が珍しく苦々しい顔をする。

 それも当然だ。今は主戦力のセイバーが不在だというのに、タイミングが悪いにも程がある。

 そして、目線の先には一騎のサーヴァントがいる。

 白髪に褐色の肌。見慣れた洋弓を手にした男が、こちらを冷徹無比な目線で見下ろしている。

 

「いや、違う。……こちらのセイバーがいない時に運悪く襲われた、じゃない。向こうにとっては順番が逆なんだ」

 

「ほう? 聡いじゃねえか坊主」

 

「だからそれはやめろって言ったろ。もう坊主なんて歳じゃない」

 

「まあそう言うな。男の成長が見られるってのも、なかなかどうして楽しいもんだ。今さらながら親の楽しみってヤツを知った気がするぜ」

 

 ランサーに慣れないことを言われ、複雑そうな表情になる士郎。

 二人の会話は敵を前にしているとは思えぬ自然体だったが、よく見れば、すでに士郎の両手に干将・莫耶が握られている。ランサーの方も、とうにゲイボルグを握った臨戦態勢だ。秒の合図でもあれば、二人は即座に戦闘に移れることだろう。

 倫太郎が「順序が逆」という言葉の意味を考える前に、キャスターが口を開く。

 

「皆。最悪の状況やが、ことさら最悪の知らせや」

 

「……それは何、キャスター?」

 

「健斗クンが──死んだ」

 

 その言葉が中庭を駆け抜けた瞬間、皆の動揺は様々だった。

 目線を険しくするもの、舌打ちするもの、依然として微動だにしないもの。その中、驚愕に目を見開いたのは倫太郎だった。

 一体いつの間に。数時間前は、この場所で話し合っていた人間が、どうして一人で死なねばならなかったのか。

 ともあれ彼の妹である楓が気になって、倫太郎は彼女の方を見た。

 

「………………」

 

 彼女は微動だにしていなかった。違う。微動だにしないのではなく、あまりの衝撃に指一本動かせなかったのだ。

 しばらくしてから、楓は「そう」とだけ答えた。

 正直な話、志原健斗と繋がりの薄かった倫太郎では、彼女の悲しみや喪失感を推し量ることはできない。

 ただ、そうした感情を、このライダーがまた彼女に抱かせたという事実が、倫太郎の心を沸騰させる。

 

「セイバーの支配権はライダーのマスターに移行した。その後の動向は不明やが、抑止力の代行たる槍兵の言葉が正しいんなら、まあロクな事にはならんやろ」

 

「そういうコト。こっちはセイバーを手に入れる為にバーサーカーの野郎を焚き付けて、首尾よく簒奪させてもらった。こちらの目的がどうだかは……まあ、テメエらには関係ねえことか」

 

 過去を見通す千里眼の前に、隠し事は無駄と悟ったのだろう。

 自分たちがセイバーを最大の目的としていたことを明かしたところで、ライダーが纏う閃光が膨れ上がる。

 

「どうせテメエら全員、ここで殺されるんだからよ」

 

 鮮烈な輝きが夜闇を煌々と照らす中で、槍兵は一人、無言でため息を漏らしていた。

 このあまりの戦力差で真正面から対峙しても、勝つことは不可能だ。絶望的でも不可能に近いでもなんでもない。完全に、勝利の確率はゼロで固定されている。

 ただし──。

 

「オイ、いいか。ここからは退却戦になるが、殿(しんがり)は俺が果たす。まずキャスター、テメエはこいつらを連れて退け。それとアサシン、テメエの動きはそちらに任せる。その方が動きやすかろう」

 

「おいおい。こっちの被害を最小限にするにゃあ、それが最善やろけどな。流石に一騎じゃ殿には足りんやろ。勝算は絶望的やけど、ここは僕も残って──」

 

「いや、いい。私が……いく」

 

 険しい表情を浮かべたキャスターが前に出ようとしたのを遮ったのは、小柄な少女の掌だった。

 アサシンは短刀を抜き放ち、いつもの調子で胸元に構える。

 倫太郎はびっくりして声を上げたが、彼女は彼の唇に人差し指を当てただけで、その意思を変える気はないようだった。

 

「……覚悟は確かみてえだな。ならいい」

 

 アサシンを一瞥し、魔槍を地面に突き立てるランサー。

 その瞳に篭っていたのは、主を守らんとするアサシンへの賞賛か。

 ランサーが纏う魔力が、ぞわり、と蠢き始めた。

 その構えを見て士郎は驚愕する。この空間そのものを捕食せんとするかのような魔力の高ぶりは、間違いなく宝具の開帳、その前兆だ。

 だが、彼は「構え」をとっていない。

 魔槍ゲイ・ボルクの一撃を放つならば、それこそ定まった構えが必要になる。だというのに、彼は地面に槍を突き立てたまま微動だにしない。

 それこそ、まるでその直立が構えと言わんばかりに──、

 

「俺としちゃあ、できればこの宝具は使いたかねえんだが……ま、こんな非常事態だ。こっちの全霊で行かせてもらう」

 

「面白え。このまま数で蹂躙ってのもつまんねえからな、先手はテメエに譲ってやるよ」

 

 ライダーの意思に従っているのか、英霊たちは動こうとしない。

 その間に、槍兵の周囲の空間が歪曲し、法則を無視した力が捻れ暴れる。それは魔術に近い。だが同時に、一つの世界を塗り替える禁忌でもある。

 

「なあ坊主」

 

 そんな力の奔流の中で、ランサーは気楽に呟いた。

 

「──なんだよ、急にどうしたんだ」

 

「いいやぁ? 十年も経ってどんな調子かと思っちゃあいたが、この数日でちゃあんと理解した。お前さんはもう、十分アイツと並べるくらいには成長してるってな」

 

 槍兵は顎を使って、ライダーの背後に立つ弓兵を指す。

 頰を黒き(ひび)で穢した彼の真名は、今更語るものでもあるまい。

 かつて共に争い、ぶつかり、その背中を追い越してみせると誓った男が、十年の時を経てもう一度目の前にいる。

 

「いいか。分かってるだろうが、アイツを倒すのはテメエの役割だ。だから今は俺が受け持ってやる」

 

「ランサー、貴方まさか……」

 

 凛の言葉に、ランサーは清々しい笑みを返した。

 いつとて変わらない。英雄は決して怯えず、むしろ笑顔すら浮かべて、自ら死地に飛び込むのだ。

 

「嬢ちゃん。短い間だったが、お前さんたちと契約の真似事ができて楽しかったぜ。抑止力の代行なんざ面倒臭いと思っちゃあいたが、こうして美人になった顔を拝めただけでも儲けもんだ」

 

「……ほんと。変わらないのは貴方も同じね、ランサー」

 

「はっ、違いねぇ」

 

 そのやり取りを最後にして、彼はその眼光をぴたりと宙に向けた。

 まるで影の英霊たちに、宣戦布告を告げるように。

 そして、尽きない名残を振り払うように。

 その姿を見て、凛はしばしの無言を挟んだのち、この緊張感にそぐわぬ優しい声色で言い放った。

 

「……さようなら。また貴方に会えて良かった」

 

「ああ。ま、なんだ。坊主と仲良くやれよ」

 

 決して振り返らない彼の顔には、おそらく笑顔があったのだろう。

 彼はそう言い残して──次の瞬間、世界が黒に塗り替えられた。

 

 

 

 

 倫太郎の目の前で、ランサーの魔槍を中心として拡大した巨大な「黒」が、まるで濁流の如く、持ち手の槍兵ごと敵の英霊たちを呑み込んでいった。

 影か闇か。それはある程度の大きさまで膨張を続けると、ぴくりとも動かなくなった。

 

「これが、ランサーの宝具?」

 

「今のアイツは以前と同じじゃない。抑止力の後押しで知名度補正が最大に引き上げられているから、まだ俺たちも知らない宝具を使えたんだ。これは……恐らく結界か、それに似た何かを構築している。術者であるランサーが死ぬまで、連中は外に出られないだろう」

 

 自分ごと敵を閉じ込めた黒を眺めながら、士郎がさらりと解説する。

 ただ、時間に猶予はない。あのランサーがその命を賭して時間を稼いでいる。その間に彼らは一刻も早くこの場から逃れて、体制を立て直さなければならない。

 

「移動には俺たちの車を使おう。とりあえず、俺たちが泊まってた山奥のホテルに場所を移す。あそこなら流石にノーマークだろうから」

 

「了解や。と、キミも来たほうがええわなあ」

 

 もさもさした毛並みのシロがキャスターの足をぺろぺろと舐めたので、屈み込んだ彼はその番犬を丁寧に抱え上げた。

 それからアサシンをちらりと一瞥し、しばしの沈黙。

 

「……楓ちゃん、行くで」

 

「あ、うん……わかった」

 

 彼女はこの場に留まろうとするアサシンの方を気にするそぶりを見せていたが、アサシンはひらひらと手を振るので、険しい表情のまま門の外へと駆けていった。

 そして、最後に二人だけが残される。

 倫太郎に「来い」と言わなかったのは、あの二人の優しさだ。

 

「ふう。じゃあ、私は……行くね」

 

 楓たちが門の外に消えたのち、槍兵の結界に向かって歩き出したアサシンの手を、思わず倫太郎は掴んでいた。

 その時に考えていたことは、何もない。

 ただ無意識のうちに、倫太郎は彼女を引き止めていた。

 

「……どうして、止めるの?」

 

「どうしてって……分かってるんだろ⁉︎ ここで止めなきゃ、君は……‼︎」

 

「うん。分かっていて……その上で、私は行くよ」

 

 倫太郎は、ギリ、と固く歯を食い縛る。

 彼は愚者ではない。ここでアサシンを残さず、殿をランサーのみに任せたのでは、そう稼ぐ時間は得られないだろう。そうなれば、追撃を躱しきれずに全滅する確率が跳ね上がることくらいは理解している。

 だが──退却さえできれば、まだ勝ち目はあるかもしれない。

 ただし、それは。

 アサシンをここで「切り捨てる」という選択の上に成り立つ、ほんの僅かな可能性だ。

 

「……君を、ここで死なせろっていうのか」

 

「うん。もともと……わたしたち(サーヴァント)の役割は、主のために死ぬことだから……ね?」

 

 時間がない。ただ、倫太郎は、それでも迷いを捨てられなかった。

 彼女と過ごした時が脳裏に浮かび上がる。

 

 最初に会った時、いきなり殺されそうになったことから──。

 共に様々な戦いを駆け抜けた。僅かな時間が何倍にも感じられるほどの濃密な時間を、倫太郎とアサシンの二人は共有してきた。聖杯戦争という戦いを経て、この二人は、既に確固たるものを築いていた。

 

 それを彼は、自らの判断で切り捨てるしかない。

 

「ねえ、マスター」

 

 俯いたまま葛藤する倫太郎に、アサシンが手を伸ばした。

 暖かい手のひらが、そっと彼の頬を撫でる。

 

「君は……最初に、私に言ったよね。君は、勇気が欲しいって」

 

 ああ、そうだったな、と倫太郎は思い返す。

 彼女に短刀を突きつけられて、倫太郎はおっかなびっくり、自分の望みを答えたのだ。

 今では笑い話な、おかしな記憶。

 

「でも……君は成長した。もう君は、自分の力にすら怯えていた、かつての君じゃない」

 

 アサシンが目元の包帯を外して、放り捨てる。

 白の奥から覗いたのは、清廉な青に赤が混じった両目。

 直死の魔眼と呼ばれる超常の眼だ。それを見て、倫太郎は変わらない懐かしさを覚える。

 

「ほら、ね。もう、私の目を見ても、君は臆さない」

 

 久しぶりに素顔を晒した彼女は、いつも眠そうな顔をしている彼女にしては珍しく、目を細めて笑みを浮かべる。

 

「だから、もう……私がいなくても大丈夫。自分が何を大切にして、何のためにその力を振るうのか。それを理解した君は……もう、弱虫なんかじゃないよ」

 

 アサシンはそう言うと、手にした短刀を軽く掲げた。

 

「だから、マスター……臆さずに、命じてほしい。君が「敵を倒せ」と命じてくれれば……それは、無限の力になる。君の願いを受けて、私はどこまでだって行ける。どんな敵だって、殺してみせる」

 

 倫太郎は、ずっと無言だった。

 ただ、自らその選択を選ばなければならない苦痛に耐えきった。

 ごし、と腕で目を擦って、少し赤くなった目を彼女に向ける。

 

「──……令呪をもって、命ずる」

 

 目を瞑って、その言葉を吐いた。

 左手の令呪が輝いて、紡がれる命令を受諾する。

 

「その力で敵を倒せ、アサシン」

 

 真っ赤な閃光が走り抜ける。そこに勇壮さはなく、ただ、令呪は哀しい光となって霧散した。

 アサシンが纏う魔力が膨れ上がる。バーサーカーと相対した時と同じく、令呪の支援を受け、霊基の性能が格段に跳ね上がる。

 「ありがとう」とだけ言い残して、アサシンは踵を返した。

 彼女は一人、闇へと踏み込んでいく。サーヴァントとしての自らの使命を果たし、倫太郎(マスター)を守るために。

 

「────アサシン」

 

 だが。倫太郎が発した最後の言葉が、アサシンの足を止めた。

 

「君と志原の言葉を聞いてから、僕はずっと考えていたんだ。僕にとっての、ひいては人にとっての正義って何なんだろう、ってさ」

 

 伏せられていたアサシンの瞳が、ハッと見開かれる。

 繭村倫太郎は、「自分自身の意思」とは何であるかを探す中で、様々な敵と対峙してきた。志原楓、マリウス・ディミトリアス……いずれも倫太郎とは違って、他人に流されることなく、自分の意思で聖杯戦争という戦いに足を踏み入れた者たちだった。

 その意思とは即ち、「己の正義」とも言い換えられる。

 自分が何を信じ、何を正義として戦うのか。誰もが戦いの前に定めるソレを、倫太郎は未だに探し続けている。

 

「僕が何を正義と据えるのか。それは、未だに分からないけれど……君が信じる正義は、僕なりに理解しているつもりだ」

 

 倫太郎は、今も覚えていた。

 アサシンの過去と、彼女がなによりも「正義」を夢想したことを。

 けれど、自分は人の命を奪う事しかできない暗殺者で、だから正義の味方なんかになれるはずもない。

 そう考えてきた彼女の根底には、それでも、暗殺によってもたらされる「誰かの幸せ」を願う、ごく当たり前の正義がある。

 その優しさを、倫太郎はすでに理解していた。

 

「君はずっと自分を卑下したままだった。だから、最後に、これだけは伝えておきたかったんだ。──君の正義が誰かにとっての悪だからって、その理想を貶める必要はないって」

 

 結局、難しく考える必要なんてない、と倫太郎は結論を出した。

 この世界がありとあらゆる可能性に富んでいる限り、「万人にとっての正義」なんて都合のいいモノは存在しえない。

 だから人は、自分の信じる正義を貫かんとする。それで対立が起きたとしても、ヒトはそこから多くを学ぶ。ありとあらゆる価値観を吸収して、自分の正義をより強固に固めていく。

 

 つまり、彼女の正義は、誰にも否定できないひとつの輝きだ。

 

 例えそれが、誰かの命を奪い続けるという行為であったとしても。それは魔眼のハサンという少女が信じた、一つの正義のあり方なのだ。

 

「これからは胸を張って、自分は人殺ししかできないアサシン(あくにん)なんかじゃないと笑ってほしい。悪なんてとんでもない、私の信じる正義は「暗殺(これ)」なんだってね」

 

 最後まで言いきれた倫太郎は、その顔に笑顔を浮かべる。

 それは目の前の少女に向けた、最高の信頼たる笑顔で──、

 

「だから、最後の令呪にかけて願うよ」

「君に勝利を。僕の、僕だけの……正義の味方」

 

 そして。その言葉はなによりも、少女の心を撃ち抜いた。

 最後の令呪が消失する。

 倫太郎が「マスター」であるという、目に見える証が消える。

 令呪が剥がれ落ちていく燐光を浴びながら、倫太郎は少女を見た。

 

「君のマスターとしてじゃなく、一人の人間として君に伝える」

 

 倫太郎は、流れ落ちてくる涙をまるきり無視して──、

 

「魔眼のハサン。こんな僕と共に戦ってくれて、ありがとう」

 

 静寂で包まれたような夜の空を、爽やかな風が駆け抜けた。

 その風に乗って、別れの言葉が宙を舞う。

 違いようのない倫太郎の本心が、その言葉には秘められていた。

 背中を向けたまま少しだけ俯いた少女は、肩をぶるりと震わせる。そのまま意を決したように顔を上げ、振り向いて──、

 

「………………!」

 

 駆け寄ると同時に、彼の唇に口づけした。

 倫太郎の頭に手を回して、その熱さをほんの一瞬だけ味わってから、少女は唇を離す。

 倫太郎は表情を崩さずに、もう二度と見る事のないであろう彼女の顔を、最後の一瞬まで記憶に焼き付ける。

 少女の死を視る魔眼は、微かに潤んで揺れていた。

 

「りんた、ろう」

 

 初めて、少女は彼の名を呼ぶことができた。

 それがよほど嬉しかったのか、彼女はにこりと笑って、

 

「あなたに出会えて、よかった」

 

 そうして。

 言葉を残した彼女は勢いよく、闇へと踏み込んでいった。

 もうすっかり見慣れてしまった彼女の髪が、漆黒に呑み込まれる。

 その姿を最後まで見守って、倫太郎は小さく呟いた。

 

「──……ああ。僕もだ」

 

 時間はない。倫太郎はその決別を乗り越えて、既に正門近くで待つキャスターたちの元へと駆けていった。



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七十三話 さよなら、倫太郎/Other side

 倫太郎とアサシンの別れから、時間は少し遡る。

 眼前を埋め尽くす闇に敢えて呑み込まれた騎兵は、ゆっくりと目を開けていた。

 暗く、寒い──。

 静謐な夜空とはまるで違うおぞましい闇が、辺りを閉ざしている。

 

「……ハ。これがテメェの宝具か、ランサー」

 

 ニイ、と口の端を吊り上げて、騎兵は嗤う。

 不本意ながら影の英霊どもを連れて行け、という無粋な命令を受けてしまったことで、およそ大した勝負はできまいと考えていたが──、

 

「面白え。これ程のモンを見せてくれるたァ、俺への献上品にしちゃあ最上級だ」

 

 彼の目の前に聳え立つモノ。

 それを凝視して、騎兵は声が震えるほどの興奮に身を震わせる。

 

「其は我が追憶の城にして、あらゆる生命を破却せし断絶魔境」

 

 ──槍兵、クー・フーリン。

 第五次聖杯戦争において、彼が「城」の宝具を有したという記録はない。

 ただし、今もそうとは限らない。抑止力の加護を受けたこの槍兵は、英霊としての知名度補正が最大に引き上げられ、その全能力(フルスペック)を振るえる状態にあるが故に、だ。

 闇の中、悠然と槍兵の背後に佇む巨影。

 これこそが、彼が保有するもう一つの宝具に他ならない。

 

「即ち是れなるは影の国。その女王が治めし永久不変の城塞」

 

 槍兵は、ゆっくりと魔槍を水平に構えて──、

 

「名を、死溢るる魔境の城(キャッスル・オブ・スカイ)

 

 その名を紡いだ瞬間、ライダーを含む英霊たちの全身に、重力を何倍にも倍加したかの如き重圧がのしかかった。

 影の国の女王。かつての槍兵を導いた、絶対強者たる女戦士。

 この宝具は、今なお世界の外側に在り続ける彼女の城を擬似的に構築し、外敵を例外なく「影の国」へと誘う。

 そしてこの空間において、生命は通常通りの在り方を許されない。

 影の国は死の国と同義。であるならば、生命がまともに活動できる道理が存在しない。

 ──ただ一つ、影の国に認められし勇士を除いては。

 敵対者である騎兵たちとは真逆。槍兵の全身を、熱く滾る血潮の如き力が駆け巡っていく。

 

「待たせたな小僧。恐れずしてかかってこい」

 

 

 

 

 擬似的に再現された影の国に踏み込んだ魔眼のハサンは、視界が開けると同時、眼前の状況把握に努めた。

 聳え立つ巨大な城。その数十メートルはあろうかという門前で、複数の人影が熾烈に争っている。そのうちの一人、痩躯の男がこちらを振り向くと、ほんの僅かな刹那に目配せをした。

 その意を汲み取って、彼女は短刀を構える。

 すると、髪が発生した微風で浮き上がるほどの力が、少女の全身に満ちていった。影の国の城塞が、彼女もまた槍兵が認める勇士であると認識したからだ。

 

「──────」

 

 全身が燃えるように熱い。

 この身を流れる血潮の一滴に至るまでが高揚している。

 ただし、こればかりは、ランサーの宝具によるものではない。

 主が最後にかけてくれた言葉と信頼が、彼女の芯を補強して、その瞳を冴え渡らせている。

 

「本当に、運が良かったなあ」

 

 魔術師といえばだいたいロクでもない連中だ、というのが当初から抱いていた認識だったからこそ、彼女は倫太郎に向かってはじめは刃を突きつけた。

 それが、実際に話してみれば、ここまで自分を認めてくれる人間に巡り会えたのだ。この幸運と倫太郎には感謝してもしきれない。

 だから。この感謝を、別の形で返そうと思う。

 

「……いくよ」

 

 その言葉を合図として、カッ、と両目が見開かれる。

 彼女の力、「直死の魔眼」。

 微かに青く光るそれが、急激にその明度を上げていく。

 曰く。「山の翁」と呼ばれる暗殺者集団の長たちは、各々が奇跡にも等しい秘伝を編み出したと云う。19にも及ぶ歴代当主のうちの一人に名を連ねる彼女とて、もちろん例外ではない。

 山の翁たちは皆、その秘伝をただ一つの宝具名で呼称する。

 それは彼女が保有する唯一の宝具にして、最強を誇る攻撃手段。

 すなわち、その名は──、

 

妄 想 死 滅(ザバーニーヤ)

 

 その言葉を呟いた瞬間──全身が、泡立つように発熱した。

 

「──────が、」

 

 死ぬ。

 頭の中が焦げ付いて、ぶすぶすと音を立てている。

 耐えられない。この熱に、この力に、この身体(うつわ)は耐えられない。

 破裂した目元の血管から血が流れ出す。それはまるで涙のように彼女の頰を伝い、地面へと吸い込まれていった。

 頰に赤い涙を流しながら、彼女は瞳孔の開いた眼を上げる。

 

「は、は──……やっぱり、きついね」

 

 正常に機能していたアサシンの視界が黒く塗りつぶされていく。

 黒、黒、黒。その中に浮かび上がる、ほのかに明るい命の光。

 偶然にも、「この場所」は都合がよかった。

 彼女がこの宝具を使うには、世界にはあまりに生命が多すぎるのだ。それが、この空間にはほとんど存在しない。この場所は生命を破却する、死者の国であるがゆえに。

 だからこそ、満ちる死の中で蠢いている、(いのち)の姿がありありと視える。

 

「ふふ。でも──なんだか、つらくないや」

 

 ヒュオンッ、と短刀を振り払った少女は、勢いよく駆け出した。

 地を這うように身体を低くして、一直線に駆けていく。

 最初に反応を返したのは、セイバー。バイザー越しの視線を新たな敵対者に向けて、黒く染まりし聖剣をすっ、と構える。

 

 そして──。

 空気を震わせる凄まじい轟音と共に、世界を塗り潰さんばかりの膨大無形たる闇が噴き出した。

 

「エクス……カリバー…………!」

 

 唸りを上げて炸裂する魔力に、少女は思わず息を呑む。

 騎士王の聖剣。名には聞いていたが、途方もない威力だ。

 アレに比類する威力を持つのは、星の数にも等しい英霊たちの中でも、ごくごく一部に限られるだろう。

 そして。さらに驚くべきことに、あれはあの騎士王が放つ全身全霊の一撃──などではない。

 聖杯に接続した今のセイバーに魔力切れという欠陥は存在せず、彼女は望むがままにその聖剣を打ち放てる。開戦を告げる様子見の初太刀であろうと、その聖剣は全力をもって牙を剥いてくるのだ。

 

『来い、死神。──その挑戦に応えよう』

 

 光の反転たる膨大な闇は、彼女の剣を中心として収束し、黒い星と化して咆哮する。

 ましてやまともな対軍宝具すら持たぬ魔眼のハサンに、騎士王が放つ一撃を受け止められる道理はなく──‼︎

 

約束された勝利の剣(エクスカリバー・モルガン)────‼︎‼︎』

 

 瞬間。全てを消し飛ばす極光の黒が、少女の眼前に迫っていた。

 彼女は、無銘の短刀を振りかざして迎撃する。

 それは不可能だ。

 聖杯からの供給をもって宝具の連射を可能としたセイバーは、猛者揃いとされるかの第五次聖杯戦争においても、頂点に位置する攻撃力を誇るという。その、大地を割り空を裂く究極の一撃。

 それを、まともに受けれる道理がない。

 

 ──だが。

 

 少女が右から左へ短刀を振り抜いた、次の瞬間。

 全てを呑み込む漆黒が、跡形もなく──消えた。

 

『……!』

 

 堕ちた騎士王が足を止め、興味深そうに敵対者を眺める。

 魔力消費を無視して戦える今のセイバーは、確かに、第五次においては頂点たる攻撃力を誇るサーヴァントだろう。

 しかし、その座は一人きりとは限らない。

 その順位付けでいえば、もう一人「頂点」に至るものが在る。

 

「ずいぶん、明るいね」

 

 暗く閉じた影の世界で、彼女はそんなことを呟いた。

 ──「この」聖杯戦争において、最強たる攻撃力を誇る英霊。

 それは羅刹の王でも、韋駄天の英霊でも、伝説の陰陽師でもない。白い死神でもなければ、主神の槍を振るう皇帝でもなかったのだ。

 

「もう、なんにも見えないけれど。あなたたちの命の輝きだけは、はっきり視える」

 

 余計な言葉を述べる隙を許さず、渾身の魔力とともに放たれた弓兵の矢が、音速を超えて少女に降りかかる。

 空間すらも捻じ切る威力をもって放たれたそれは、セイバーの一撃には遠く及ばずとも、彼女を爆散させるには十分過ぎた。

 しかし。それを、彼女は再び刃の一閃で無力化する。

 相殺ではない。ただ、矢も魔力も悲鳴も上げずに分解され、落ちる。

 

「この世界の万物には……不可避の死が存在する。死を待つのはなにも生物だけじゃない」

 

 ヒュンヒュン、と、掌の中で回る短刀が音を立てた。

 

「モノは朽ち果てるし、大地だって死に絶える。この惑星(ほし)だって、いずれは滅び去る……私は、その結実を視ているだけ。想像もできないでしょう? 私が見ている、この世界は」

 

 その少女に視えている世界は、誰にも分からない。

 周囲すべての死が視える世界。ありとあらゆる全部が、押したら崩れ落ちそうなほどに脆く見えてしまう、終末と隣り合わせの世界。

 

 それはどんなに怖くて、孤独なものなのだろうか。

 

「テメエ……何をした?」

 

 少女には最早「点」と「線」の集合体にしか見えないライダーが、全身に雷光を纏わせながら問いかける。

 直死の魔眼……話には聞いていた。以前に一度交戦した際に、ライダーはその性能についても理解している。

 だが、あそこまでの攻撃性は持っていなかった筈だ。

 生物の死なら分かる。非生物の死もまだ理解の範疇にある。だが、この惑星の死を視るなど、それこそあり得ない。

 もし仮にそんな事があり得るのなら──それはもう、人間の手に余る権能じみた力でしかない。

 

限界(リミット)を外して……この瞳がもつ力を、限界の限界まで発揮させただけ」

 

「ハッ……笑えねえな。その気になりゃあこの星すら殺せると?」

 

「うん……それが、生きているのなら」

 

 ライダーが放ったその言葉に、彼女は平坦な声で返答する。

 

 

「私に殺せないものは────ない」

 

 

 血を涙のように溢れさせながら、アサシンは言葉を切り上げる。

 ここから先は生死を分かつ決戦の地。もはやここに至って言葉は不要、振りかざすべきは己の刃のみ。

 

「アサシン。分かっちゃあいるだろうがここが正念場だぞ」

 

 黒く硬い地面を滑って少女の隣に着地した槍兵が、にやりと笑ってそう投げかける。

 彼女は素直にこくりと頷いて、並び立つように短刀を構えた。

 対し、眼前に並び立つ六騎もの英霊たちは、その挑戦に応えるように武器を構える。実に八騎にも及ぶ猛者たちが放つ闘志と殺気が混じり合い、空間はそれだけで軋みを上げていた。

 立っているだけで気絶しそうな重圧。それに負けじと、少女はその瞳を煌々と輝かせる。

 

「うん……だいじょうぶ。絶対に……ここを通しは、しない」

 

「ハッ、いい意気()だ。背中を預けるには十分さね」

 

 影の城による加護を受けた二騎は、示し合わせたように同時に搔き消え──。

 凄まじい火花と閃光を撒き散らし、英霊たちの戦いは始まった。

 

 

 

 

 ──(けん)が、猛然と喰らいついてくる。

 ──閃光が、その身を穿たんと降り注ぐ。

 ──鉄鎖が、四肢を引き千切らんと絡みつく。

 ──拳が、骨肉を砕かんと掠めていく。

 ──大剣が、暴風と化して唸りをあげる。

 ──漆黒が、全てを消し飛ばさんと振るわれる。

 

「おおおおおおおおおおおおおおおおお────ッ‼︎‼︎」

 

 その全てを、二騎は迎え撃っていた。

 混戦と化した状況を利用し、時に敵を盾にして別の敵の攻撃を防ぐ。そうしてこちらの手数を誤魔化して、なんとか命を繋いでいく。

 魔眼のハサンは脳天を穿つ軌跡で飛来した矢を首を捻って避けながら、限界を超えて輝く魔眼で周囲を見渡し、目の前の「命」に飛びかかる。

 

『────‼︎』

 

 目の前に視える暗く落ちていくような光は、セイバーのものか。

 彼女が無駄のない動作で短刀を振り下ろすのを、セイバーは後退する事で避けた。そう、避けたのだ。その聖剣を振るえば脆い短刀など一太刀で両断し、カタをつけられただろうに。

 それを見て少女は舌打ちする。この英霊たちは、泥の影響によって汚染されようとも、戦士の直感で理解しているらしい。

 

 この少女(しにがみ)と刃を交えるのは、危険であると。

 

「ハッ! 面白くなってきたじゃねえか、なァ‼︎」

 

 目にも留まらぬ俊敏さをもって戦場を駆ける槍兵が、獰猛に笑って咆哮する。 この状況下でなお戦いを楽しむ豪胆さは、彼が大英雄とされる所以であろう。

 厄介なセイバーを少女が押しとどめた事で生まれた隙に、彼は所定の構えをもってその魔槍を起動させた。

 

「──刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)────ッッ‼︎」

 

 閃光と共に放たれた魔槍が、因果を逆転させて心臓を穿つ。

 その餌食となったのは、宙で魔力投射を矢継ぎ早に放っていたキャスターだった。吹き荒れる魔力にたなびくローブを引き裂いて、紅い稲妻がその身体を貫く。

 槍兵が確かな手応えを感じると同時、キャスターの輪郭が溶け落ちる。それは不定形の黒泥に戻ると、もう二度と動くことはなかった。

 まずは一騎。

 それを良しとせず、槍兵は手元に戻ってきた魔槍を更に振るう。

 

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■‼︎』

 

 疾風の如く迫り来る狂戦士。それをなんとかいなして宙に跳ぶと、今度は弓兵の矢が降りかかる。怒涛の攻撃を技倆と加護を併用して避け切るも、今度は聖剣と稲妻、短剣の重ねがけだ。

 流石にこの攻勢は、彼一人でどうこうできる次元を越えている。

 だが──、

 

目を離したな(・・・・・・)

 

 ランサーがそんなことを嘯く。その言葉を敵が解するよりも早く、一騎の背後に回り込んでいる影があった。

 魔眼の少女が握る短刀が、閃光じみた速さで振り抜かれる。

 それだけ。しかし掠めるほどの傷は確かに死点を捉え、背後を取られたライダーの身体が崩れ落ちた。

 

「これで、二騎」

 

 その骸を飛び越えて、少女は眼前の雷帝に勇ましく飛びかかる。

 見開かれた瞳がこちらの「死」を確かに捉えていることを察知し、彼は全身に纏う電圧を引き上げた。影の国から放たれる重圧が彼の動きを縛り付けるが、それを無視して動き続ける。

 とはいえ、今の魔眼のハサンと真正面からぶつかれる者は存在しない。こちらの武器も魔力も宝具も、あらゆる全てが例外なく殺されるが故に。

 

「チッ、この雷帝に攻勢を許さんか──女ァ‼︎」

 

 目にも留まらぬ速度で放たれる短刀の煌めき。

 その全てが、一太刀で命を刈り取りかねない死神の鎌だ。

 いくら雷撃を放とうが、今の彼女の前には搔き消えるしかない。

 

(ああ、不敬極まるが認めるしかねえ。コイツの攻撃力は、俺の「雷帝」を遥かに上回っている。それだけじゃねえ……たとえ俺が主神の槍をぶっ放そうと、この女は易々と殺してみせる──‼︎)

 

 これでアサシンのクラスとは馬鹿げた話だ。こんな怪物を止められる英霊なぞ、三騎士の中でも一握りしか存在しえないだろうに。

 だが──それでも、ライダーは嗤っていた。

 掠めるだけで即死をもたらす刃を掻い潜りながら、彼は呟く。

 

「面白え手品だが……果たして、いつまで続く(・・・・・・)?」

 

「っ……⁉︎」

 

 怒涛の攻撃を続けていた彼女が、微かに焦りの表情を見せる。

 

「星を殺すほどの力? ありとあらゆるモノを殺す異能? 馬鹿が。そりゃあ人ならざる神域の力だ、まっとうなヒトには使えねえ。俺とてあの女の調整があって、ようやくソレの片鱗を行使できてんだ」

 

 ライダーは何より血と殺し合いを好む兇人だ。だが彼は同時に、かつてありとあらゆる無法がのさばった極寒の地を統べた、至高にして原初の皇帝でもある。

 暴君であり賢帝。それがイヴァン雷帝という男なのだ。

 

「ンな力を最大限に使って、まっとうな人間が耐えられるわけがねえ。瞳から溢れてるその血、そして貴様の顔色を見るに……その宝具には、時間制限が存在する」

 

「──────が、ぁ……‼︎」

 

 その言葉に触発されたように、アサシンの身体がぐらり、と揺れた。その眼球は異常痙攣を繰り返し、今にも破裂しそうな様を晒している。

 その隙を逃さんと喰らいつく多種多様な攻撃を、再び彼女は短刀一本で完璧に防ぎきった。

 しかしその身体は今にも折れそうにふらつき、瞳からこぼれ落ちる血の量は加速度的に増加していた。その様は、彼女が先ほどまで絶対的な攻勢に回っていたというのに、まるで無限の責め苦を耐え抜いた後のように弱々しい。

 

「そらな。そうなる事くらい、分かっていたんだろう?」

 

 ライダーの言葉に、ところどころノイズが走る。

 もう、言葉の意味すらも、だんだん分からなくなってくる。

 

「は、はは……そう、その通り……」

 

 彼女の脳は、既にその機能を終え始めていた。

 否。脳を焦がす過負荷に耐え、まだ動いているというのがそもそも奇跡。その身体はもう、とっくに死んでいるべきなのだ。

 

「わたしがこの宝具を使えば、もって3分しか……このわたしの命は、続かない」

 

 ──それでも、彼女は耐えていた。

 脳は過負荷で今にも破裂しそうで、全身の筋繊維は常にどこかがぶちぶちと音を立てて千切れ、眼球は熱した鉄球にでも変わってしまったかのように眼窩を焦がしている。短刀を握る五指にはもうまともな感覚が残っておらず、片耳は既に聞こえない。

 

 ──それでも、だ。

 たとえこの身が死を振りまくものであったとしても、自分を正義と認めてくれた人がいる。

 最後まで、自分を信じてくれた人がいる。

 霞み、まともに分からなくなっていく世界。黒に染まっていく全ての中で、一つ確かに残り続ける言葉がある。

 

 『君に勝利を。僕の、僕だけの……正義の味方』

 

 それだけが、一つの光明のように輝いた記憶。

 もう折れる。もう終わる。もう壊れる。もう戦えない。

 湧き出そうになる弱音を数えたらキリがない。それでも──、

 

「……私は、まだ……立てる」

 

 ──この正義で、彼を救うことができるのなら。

 ──それはどんなに、素晴らしいことなのだろう。

 

「私はまだ、戦える……‼︎」

 

 彼女は素早く視線を動かして、一際巨大な光を捉えた。

 狙うべきは「あれ」だ。

 目の前のライダーも周囲の英霊も無視して、彼女はその敵へとひた走る。その目線の先に捉えていたのは──、

 

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■‼︎』

 

 理性を捨てた狂戦士、ヘラクレス。

 泥に(まみ)れたかの英雄は空気を震わせるほどの咆哮を上げ、小さな死神を迎え撃つ姿勢を見せた。その斧剣が高々と振り上げられ、懐に飛び込まんとする彼女を迎え撃つ。

 その狙いを察したライダーが動くよりもなお速く。

 彼女は死を運ぶ疾風と化して、残る距離を駆け抜けた。

 

 ──予測計算。残存時間、残り十秒。

 

「この命をかけて」

 

 このバーサーカーが保有する宝具、「十二の試練」。

 十一個の代替生命を保有するこの宝具を持つこの英雄がいる限り、セイバーを欠いた倫太郎たちが一丸になろうと勝機はない。

 ただし、彼女だけは例外だ。

 迫り来る絶対の蘇生。対抗するは「直死の魔眼」。

 確実に命を屠る彼女の瞳であれば、その加護すらも貫こう。

 

「あなただけは──ここで、殺し尽くす」

 

 ──残存時間、残り五秒。

 

 踏み出される巨大な一歩。それと間を置かず、轟然と振り降ろされる斧剣があった。

 それを紙一重ですり抜けて、少女は短刀を逆手に構える。

 斧剣が巻き起こした烈風が彼女の髪を弄び、掠っただけの剛刃がその脚を粉砕する。だが、既に魔眼のハサンは止まらない。

 視界の中心に死を据えて、命を賭して敵を討つのみ。

 

 ──残存時間、残り一秒。

 

 最後に頭によぎった光景が、彼女を少しだけ笑わせた。

 その瞳が、限界を迎えて破壊されると同時に──、

 

「バーサーカ────────ッッッ‼︎」

『■■■■■■■■■■■■■■■■ッ‼︎‼︎』

 

 最後の刹那。

 正義を信ず刃が、音速を凌駕する神速でもって放たれた。

 

 

 

 

 カラン、という乾いた音を立てて、短刀が地面に落ちる。

 交差する形で動きを止めた少女と狂戦士。

 僅かな沈黙ののち、鈍い音を立てて、巨人の右腕がぼとりと滑り落ちる。

 

「一歩、足りなかったな」

 

 ライダーは右手で少女の心臓を抜き取ると、無表情のままそれを粉砕した。抜き手によって穿たれた胸の穴から血が噴き出すよりも速く、さっきまで死神だったモノが地面に倒せ伏す。

 ──彼女の最後の攻撃。

 それはほんの少しだけ、数センチ届かなかったのだ。

 死点を貫くはずの刃は届かず、腕の死線を断つに留まった。だからこそ、バーサーカーは腕をもぎ取られつつも存命している。

 

「こりゃあ……トドメを刺すまでもなかったか」

 

 忌々しそうに呟いてから、彼は少女の前面に回り込み、血に濡れたその顔を覗き込む。

 絶対の死を視る異能、直死の魔眼。

 それは過度な使用の反動か、光を失って機能を停止していた。

 そして。機能を止めたのは、また主である彼女も同様だ。

 

 それ以上彼女の身体に触れることなく、ライダーは視線を再び残る槍兵に向けた。

 二騎を失ったが、こちらの勝利は揺るがないだろう。

 セイバー、アーチャー、バーサーカー 。強力な英霊三騎は未だ彼の陣営にあり、状況の優位は覆るべくもない。とはいえランサーのように強力な英霊と手合わせに臨めるのは稀有な機会だ。影の英霊たちがこの場にいなければもっと楽しめたろうになあという無念を呑み込み、ライダーは踵を返す。

 しかし、彼はそこで足を止めた。

 

「………………ほう?」

 

 視線を背後に戻す。そこで、彼は信じられないものを見た。

 立っていた。

 少女が無言のままに立ち上がり、その刃を構えていたのだ。

 もう意識はない。とっくに体も脳も死んだ筈だ。それでも彼女を突き動かす何かが、その身体を再起させている。

 

「まだ立ち上がる、か。見事だ、アサシン」

 

 その様を見て、彼は素直に感嘆する。かつて人の上に立ったモノとして、彼女の忠誠が最上級のものであると理解したが故に。

 

「この雷帝が認めよう。その献身と覚悟は、本物だとな」

 

 それは彼の本心から滲み出た言葉。

 目の前の敵対者に対して述べる、最大の賛辞であった。

 

 ゆっくりと、しかし確実に歩み寄ってくる少女。

 それに彼はそっと掌を押し当て、戦闘時に見せる獰猛な表情ではない、慈悲に満ちた顔のままで呟いた。

 

「だが──もう休め。お前は十分に戦った」

 

 その言葉と同時。

 押し当てられた掌から、熾烈な雷撃が注がれる。

 それはまごう事なき、致命の一撃だった。

 霊基すら破壊する紫電は、その身体を獰猛に食い潰し──そして今度こそ、彼女は力尽きて地面に崩れ落ちた。

 

 

 

 

 ──……身体が、もう、動かない。

 

 もう死ぬだろう。表面上は無傷でも、ナカがぐちゃぐちゃに掻き回されて潰れているのでは元も子もない。五感すらとっくに失われて、あと10秒ともたずにこの意識も死に絶える。

 

 ──……最後の最後で、届かなかった、か……。

 

 彼女は理解していた。最後の一閃、この命を振り絞って放った一撃は、しかしあの大英雄には届かなかったことを。

 内心に「彼」の顔を思い返して、ごめんと呟く。どうせ聞こえる訳もないのだが、それでも謝っておきたかった。

 

 ──……でも。身勝手で、ごめんね。

 

 少女は倒れ伏したまま、別の後ろめたさを謝罪する。死を間際にした今、しかし心の中で渦巻いているのは敵を仕留めきれなかった後悔ではなかった。

 

 ──……私は……貴方と戦えて、楽しかったよ。

 

 自然と思い出されるのは、この戦いを駆け抜けた日々の、輝くような記憶。たった一人で孤独に戦い、最後の最後まで孤独に死んでいった生前の記憶とは、全く異なる暖かい記憶。

 

 ──……ああ、変なの。死ぬのは、寂しいはずなのに……。

 

 その記憶の中にずっといてくれた、倫太郎の顔が浮かぶ。

 こんな自分を最後の最後まで信じてくれた、一人の男の子。

 それを思い出すと、やけに心がぽかぽかする。この先に待つとは思えない冷たい死を待ちながら、彼女はくすりと笑った。二度の死はいつも苦しくて寂しいものだったのに、今度は異なるものだったから。

 

 ──……なんだか、とっても、あたたかいな──。

 

 そうして。

 まるで心地のいい微睡みに落ちていくように、魔眼のハサンはその命を終えた。




妄想死滅(ザバーニーヤ)
ランク:B
種類:対人宝具
魔眼のハサンが保有する奥義。「直死の魔眼」が保有する性能を100%引き出すことで、3分後の脳の自壊と引き換えに、その間のみ絶大な力を振るう自滅宝具。
殺害できる対象は飛躍的に増加し、どんな敵であろうと、どれほど高度に存在する生命であろうと確実に死点を視抜く。この状態の彼女には惑星の死すらも視えており、仮に3分間の制限が存在しなければ、この地球すらも殺すことが可能とされる。

死溢るる魔境の城(キャッスル・オブ・スカイ)
ランク:A
種類:対軍宝具
クー・フーリンが保有する宝具。彼の記憶にある「影の城」を擬似的に構築し、この世界とは断絶された影の国に対象を幽閉する。
この空間に存在する限り通常の生命は破却されるため、敵は常時体を裂くかのような激痛と重圧を課せられ、対象的にランサーが認めた味方には影の国からの補助が与えられる。
この空間でランサーと一騎打ちを行なった場合、彼に勝利できるサーヴァントはほとんど存在しない、とされる。この宝具がなければ、いくらアサシンとランサーの二騎であろうと、七騎を押し留め二騎を打ち倒す戦果は得られなかった。


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七十四話 異形咆哮

 時計の針は既に0時を回っている。

 誰もいなくなった仙天第二浄水場に、姿を現した女があった。

 長い金髪が闇夜に溶けるようにたなびく。この島の主である女魔術師、アレイスター・クロウリーは、無言のまま歩を進めた。

 コツ、コツ、と響く足音は二つ。

 一つはクロウリーのもの。そしてもう一つは、新たなる(あるじ)である彼女に追従する、セイバーの姿だった。

 

「………………………………」

 

 セイバーの瞳に、既に光はない。

 運命は変わらない──自分は大切な人を、一緒にいたいと言ってくれた人を斬り殺した。その事実は彼女の精神をとうに壊している。耐え難い絶望に思考を放棄した彼女は、もう死人も同然だった。

 

「ようやくだ」

 

 そう言って、クロウリーが嗤う。

 浄水場の地下。そこには、冬木の龍洞を簡易的に模して構築された、彼女しか立ち入ることのできない地下空間が広がっていた。

 その中心で、不気味に発光を続ける巨大な陣がある。

 ──……大聖杯。

 10年の時をかけて解体されたはずの、直径数十メートルに及ぶ超弩級魔術炉心。クロウリーは躊躇する事なく、その岸へと歩いていく。

 

「令呪をもって命ず。大聖杯と接続し、受肉をもって再誕せよ」

 

 命令とともに、令呪が行使される。

 彼女の命を受けたセイバーは虚ろな顔のまま、ふらふらと歩き始めた。クロウリーの横を通り抜けて、輝く大聖杯の中心へと向かう。

 

「ランサー、アサシン、バーサーカー……聖杯に吸収された英霊は三騎のみ。元から小聖杯などというモノも存在しないこの戦いに於いては、「願望機」としての機能はのぞむべくもない──が」

 

 元より狂った願望機に用はない、と吐き捨てて、クロウリーは聖杯に身を浸すセイバーの背中を見届ける。

 

「その中のモノで誰かを狂わせる程度のことならば、可能だろう?」

 

 やがて、異変があった。

 凄まじい烈風が巻き起こる。その中心。風に揉まれて揺れる蒼色の髪が、次第にドス黒く染まっていく。

 

「はは……ははははッ‼︎ いいぞ魔王‼︎ そのまま最後まで、聖杯の呪いを汲み上げろ──‼︎」

 

 大聖杯に潜む、この世全ての悪(アンリマユ)

 それはセイバーという粗雑な(いりぐち)を与えられたことで、それを介して現実へ誕生せんと、一斉に蠢いてセイバーの身体へと殺到していた。

 多少の抵抗はできただろうが、セイバーにその意思はない。

 結局──自分は在るだけで災いを振りまく存在であると認めてしまったが故に、聖杯の中身を拒絶するどころか、彼女はアンリマユと同化する方向へと転がっていく。

 

「あ────が…………」

 

 元から下地はあったのだ。

 羅刹王ラーヴァナ。僅かな例外を除き、ほぼ全ての人類から疎まれ恐怖された彼女は、そもそもの性質がアンリマユと似通っていた。

 そこに同系統の力を流し込まれれば、結末は見えている。

 悪は悪を得て更に肥大化し、究極の悪性として誕生するのみだ。

 

「い、あ、あ゛ッ……う゛あああああああああ──────‼︎」

 

 元よりクロウリーに聖杯を願望機として用いる気はなかった。

 

 ──神代に君臨した「羅刹王ラーヴァナ」に、アンリマユという極大の呪詛と無限の魔力を取り込ませ、最悪の魔王として再臨させる。

 

 それこそが、彼女の念願の目的だったのだから。

 セイバーは壊れた理性のまま、身体を掻き毟って抵抗する。鎧を自ら脱ぎ捨てて、服すら破り捨てて白い肌に爪をたてる。ガリガリと爪痕を残すくらいに強く引っ掻いても、身体のナカで蠢く不快な何かは消えてくれない。脳髄にまで侵食する何かの不快感は壊れた理性を更に焼き焦がし、セイバーという存在を侵していく。

 

「──────、けん、と」

 

 やがて、彼女の背中をぶちぶちと裂いて、醜い肉塊が飛び出した。

 それは止まるどころかますます量を増して膨張を繰り返し、瞬く間に広がっていく。

 

「ほう……サーヴァントを器に設定すると、こうしたバグが発生し得るのか。(わたし)としては、アンリマユと魔王の融合が済めばそれで良かったんだがね」

 

 目の前で膨張を繰り返す巨塊を眺め、クロウリーは冷笑する。

 骨肉が捻れる音。潰れてくぐもった、誰かだった者の悲鳴。それを聞きながら、彼女は「魔王」がこの世界にもう一度産み落とされる様を、心ゆくまで眺め続けていた。

 

 

 

 

 離脱した彼らが、バーサーカーのマスターであったマリウス・ディミトリアス……彼が連れていたホムンクルスを偶然にも保護し、それからいくばくも経たない頃。

 

「────…………あ、」

 

 時おり揺れる車の後部座席で、倫太郎はその感覚を感じ取った。

 ……今まで繋がっていた経路(パス)が、途切れた。

 反射的に立ち上がりそうになる。こちらから問いかけてみようとするが、そもそも念話で話しかけることもできない。

 完全に、あの少女との繋がりは絶たれたのだ。

 それが意味するところは、つまり──、

 

「……っ」

 

 魔眼のハサンは、もういない。

 最後の最後まで戦い抜いて、彼女はその生を終えたのだ。

 

 その事実に、倫太郎の顔が険しく歪む。その感情を敏感に察知したのか、楓の膝の上で丸くなっていたシロは身体を起こすと、そのつぶらな瞳で彼の瞳を覗き込んできた。

 楓も心配そうに見守る中、キャスターが口を開く。

 

「アサシンが倒れたんか?」

 

「………………ああ」

 

 倫太郎はなんと言っていいかも分からないまま、硬く歯を食い縛る。

 あの時別れた時から、覚悟はしていたのだ。

 いや──そもそも、サーヴァントとマスターの離別は避けられないものであると、契約を結ぶ前から倫太郎は理解していた。敗北しようが勝者になろうが、それは変わらない結末だ。

 

 ただ一つだけ、予想もできなかったことは──。

 その避けられぬ離別が、こんなにも苦しいものになるということ。

 

「彼女が、僕のサーヴァントで良かった」

 

 窓の外に流れていく景色を眺めながら、倫太郎はそう呟く。

 

「貴方の英霊も……優しい英霊だったの?」

 

「ああ。優しくて強くて頼もしい、そんな英霊だったよ」

 

 膝の上に座る小さな少女がそう尋ねたので、倫太郎は自分の思うがままを口にした。倫太郎が契約する英霊として、彼女は最も適していた英霊だと言えただろう。

 経験者としてその哀しみを解しているのか、前方座席に座る士郎と凛は口を開かない。その沈黙が、今はありがたかった。

 

 ──……戦いは、まだ終わっていない。

 

 たとえサーヴァントを失っても、この戦争は続いている。

 ならば、ここで挫けてなんていられない。彼女ならきっとそう言って、倫太郎を立ち上がらせるのだろう。

 

(いや……もう、大丈夫だよ)

 

 倫太郎は口を閉じて、遠ざかっていく大塚の街を睨んだ。

 別れの時、彼女は確かに言ったのだ。

 「もう……私がいなくても、大丈夫」と。

 思い返すと、そんな言葉を言われてしまうくらいに頼りないマスターだったんだな、と苦笑しそうになる。

 

(わかってる……君が言った通り。僕はもう、君がいなくたって戦える)

 

 この戦いが終わる時まで、戦う。

 もう繭村倫太郎は、何事にも怯えていたかつての彼ではない。

 その覚悟は硬く、心の奥底で燃え盛っている。

 

(……それでも、ね。悲しいものは悲しいんだ)

 

 車は猛スピードで人通りのなくなった道路を駆け抜けて、東へ。

 道中で拾い上げた少女が逃げてきたという森林公園をやや避けて進み、やがて山の方角へと伸びる山道へと突入する。

 ここを20分も進んで山を越えれば隣町に着く。

 隣町の端、山のちょうど反対側の斜面に沿うようにして士郎たちが滞在するホテルは建てられているため、ここまで来ればあと少しだ。

 そう、誰もが安堵しかけていた時だった。

 

「……ブレーキや、止まれェッ‼︎」

 

 キャスターの切迫した声が響き渡る。

 その叫びの意味を理解できたものは、彼以外に存在しなかった。

 

 ────瞬間。

 

 遥か天空から落ちてきた「何か」が、士郎たちが乗る自動車の前方に着弾した。

 急ブレーキをかけたタイヤが絶叫じみた音を響かせる。

 士郎の咄嗟の機転で自動車はなんとか速度を緩め、バランスを崩すことなく停止した。窓ガラスに勢いよく頭をぶつけて、膝の上の少女が吹っ飛ばないよう庇った倫太郎は顔を顰める。

 

「くッ、ライダー達にもう追いつかれ……て……?」

 

 切羽詰まった声は、徐々に疑問の声色へと変わっていった。

 飛び散る土片。アスファルトを踏み砕き、その存在がゆっくりと身体を起こす。

 

 それはサーヴァントなどではない。

 言葉で表すならば──「異形」としか形容できない何か。

 あたりを包む夜闇が明るく見えてしまうほどの、深淵じみた漆黒の鎧で全身を覆い尽くした、人でも英霊でもないモノ。

 

 ぶわっ、と全身に鳥肌が立つおぞましい感覚を覚えながら、倫太郎の膝の上に座った少女(ディミトリアス)は震える口で言葉を紡ぐ。

 

「倫太郎。あれが何か、分かる……?」

 

「わから、ない……ただ──」

 

 続きを言うまでもない。

 見ただけで、この場にいる誰もが本能で悟った。

 まず間違いなく、アレは真っ当な存在ではない、と。

 

「………………っ‼︎」

 

 全身が底冷えするような悪寒に閉ざされる。

 息を呑んだ楓は、手足の末端が恐怖に震えるのを抑えられなかった。

 

(なに。何なの……この、悪寒は)

 

 いや、この場所にいる人間は皆例外なく、誰もがその震えを味わっていた。それはかの雷帝が敵対者に与える、生物的な恐怖とはまた別種のもの。例えるなら幽霊に人々が抱くような、認めがたいモノに対する嫌悪的恐怖だ。

 だが、この場の中で唯一。

 志原楓のみが、別種の違和感を感じ取っていた。

 

(違う。怖い、じゃない。それよりも……もっと恐ろしいこの感覚は……これ、は……)

 

 首を振って、見えた幻視を否定する。

 ……ありえない。

 こんな感覚を最近味わったと思い返しながら、必死で浮かび上がってくる記憶を否定する。

 楓が必死に自分自身の錯覚と戦っている間、凛は微動だにせず、車のヘッドライトに映し出されたそのシルエットを凝視していた。

 

「私達は……アレを知ってる。ランサーが一度撃退した経験があるわ。でも、前の遭遇時とは色んな意味で桁が違う」

 

 凛は無意識のうちに唾を飲み込む。

 この十年間、彼女は様々な物を見てきたという自覚があった。

 だが、あんなものは見たことすらない。

 

「あれは──…………」

 

 似ている、という言葉を士郎は呑み込んだ。

 その脳裏に浮かび上がった光景がある。かつての冬木を焼いた大火災、その原因たる怨嗟の泥。聖杯に巣食う極大の呪い。目の前の存在が放つおぞましい気配は、アレに類似しているものがあった。

 いや──確かに似ているが、聖杯に潜むあの泥とは微妙に異なるか。

 

 あの泥が「形をとった呪詛」であるならば。

 奴はまさしく、「形をとった悪意」だ。

 

 人間の悪意そのものが生物として結実してしまったような絶対の悪、生まれ落ちるべきではなかった忌むべき存在。

 縛り付けられたように動けない倫太郎たちを見て、その存在はぎちり、と身体を蠢かせた。

 その全身から刺すような殺意が立ち上ると同時、莫大な魔力がうねりを上げ──、

 

「────……死ね」

 

 眼前の悪鬼が何かを呟いた刹那。

 全員の視界が、白銀に染め上げられた。

 

 ──極大の閃光が駆け抜ける。

 

 それは触れたものを例外なく消し飛ばす致死の嵐。大塚市東端の森にて放たれたその一撃は数キロメートルに渡って木々を根こそぎ吹き飛ばし、蒸発させ、森林に巨大な轍を刻み込んだ。

 方角が街とズレていたことはただの偶然。

 もしこれが真西に向けて放たれていれば、この破壊は住宅街まで及んだだろう。

 

「違う……バー……を……ろさ……きゃ……」

 

 その異形は、業火に包まれる眼前の光景を虚ろな目で眺めたあと、弾かれたように目線を変えた。

 方角は西。

 その目は遠くに向いている。まるでその先に待っている何かを求めるような、そんな目線が西へと向けられていた。

 ──だが。

 

式神跋祇(はっし)

 

 上からの声。

 宙天から落ちた無数の雷撃が、異形を包む黒鎧に突き刺さった。

 顔すら覆う鎧の奥、くぐもって響く苦しげな声。

 直撃だ。即死ではなかろうと瀕死級の手傷は与えた。

 ソレは肉が焼け焦げる嫌な臭いを振り撒きながら、殺意に満ち溢れた目線を上に向けるも──、

 

「──────、ガ」

 

 ズドドドドドドッッ‼︎‼︎ という凄まじい轟音と共に、轟然と殺到した数十の(しきがみ)が、その異形を貫いた。

 鎧の隙間を縫って放たれた神業。

 瞬きの間に無残な針山と化した異形が、ぐらりと揺れて沈黙する。

 

「あ……キャスター……」

 

「なァに惚けとるんや、楓ちゃん」

 

 ふわり、と宙から降りてきたキャスターは、共に浮遊する倫太郎たちを地面に下ろし、その敵対者を睨みつける。

 常人ならば即死であろう。

 数十の槍に身体中を貫かれては、まず生きていられる道理がない。

 だが。燃え盛る炎に照らされたソレの周囲で、蒼色の火花が何度か瞬くと──、

 

「やってくれたな、陰陽師」

 

 凄まじい轟雷が、身体を貫いた槍のことごとくを塵と変えた。

 全身から血を噴き出しながら、それでも目の前の異形はまだ動く。

 その双眸が、今度こそキャスターを捉えた。

 

「お陰で、はっきりと目が覚めてくれた」

 

 膨大な敵意と共に、ソレの体内で莫大な魔力が練り上げられる。無限の炉心でも有しているのかと錯覚するほどの力の渦は、すぐさま実態を伴って現実に出力され──、

 

「……今度は、外さんぞ」

 

 奴がその腕を振るった瞬間。

 第二波が、轟音を伴って放たれた。

 ただ掌を向けただけ。まともな剣すら持ち合わせていないというのに、対軍宝具にすら匹敵する一撃が襲い掛かる。魔力消費を度外視した極大の魔力放出の連射とは、一体いかなる手品によるものか。

 更に、今度は運悪く街の方角を捉えている。避けるという選択肢が封じられた以上、キャスターに出来ることはただ一つだった。

 

「──青龍‼︎」

 

 空間を破って頭のみを出した巨大な龍が、その口蓋から極大の一撃を解き放つ。

 そこまで僅か一秒足らず。

 神速の迎撃態勢をとって放たれた極寒の竜の息吹(ドラゴン・ブレス)が、迫り来る閃光と激突する──‼︎

 

「うわ……ッ⁉︎」

「う……‼︎」

 

 二者激突。荒れ狂う膨大な力は互いに互いを喰い合って、凄まじい暴風を巻き起こす。

 戦いは既に、人間の領域を超えていた。

 姿勢を低くして、今なお吹き荒れる衝撃波に耐えることしかできない魔術師たち。その中でなお颯爽と立つキャスターは、忌々しげに舌打ちした。

 

「成る程、そうなってまうか」

 

 爆炎と閃光が晴れる。

 鬱蒼と茂っていた森林は根こそぎ刈り取られ、吹き散らされた互いの一撃は周囲を完膚なきまでに破壊し尽くした。

 キャスターの両側には炭化した木々の残骸が転がっている。対し、正面左右に広がる森林と道路は魔すら凍て付く氷に閉ざされていた。見渡す限りで無事なまま残っている場所は、彼と敵の背後のみだ。

 

「しかし……まさか、そこまで育ってまうとはなァ」

 

 キャスターは顎を撫でて、深刻な表情を崩さず嘯く。

 そこまで──育って──しまう?

 楓はその言葉を聞いて、弾かれたように顔を上げた。ただ、頭で思っている言葉と正反対の言葉が、口から勝手に漏れ出してしまう。

 

「ねえ……キャスター、アンタさっきから何言って……」

 

「楓ちゃん」

 

 目の前の敵から目を離さず、キャスターは平坦な声で彼女に問う。

 

「──もう分かっとるんやろ?(・・・・・・・・・・・)

 

 ごくり、と。

 唾を飲み込む音が、木々が燃え盛る音の中でやけに大きく聞こえた。

 攻撃の余波か。硬い音を立てて、異形の兜が割れ落ちる。それはいくつかの破片となって地面に落ち、硬質な音を響かせた。頭を覆うモノが無くなったおかげで、奴の声がより鮮明に聞こえてくる。

 

「ああ、青龍、今のは青龍だろう。思い出した。一回どこかで戦ってる、うざってえ竜種だ」

 

「ハッ、十二天将を「うざったい」だけとは随分高く出るやんけ」

 

 それを聞いただけで、楓は背筋が凍り付くような悪寒を感じ取った。

 ──その奥にある貌を見てはならない。

 見たら最期。今ならまだ、キャスターに命じて、「正体不明の敵」としてあの異形を葬り去る事だって出来る。

 見なくとも分かりきっている。目の前の敵は極大の邪悪だ。ライダーやバーサーカーと比べたって、アレの邪悪さは突き抜けている。きっと、在るだけで殺戮と悲劇を撒き散らす最悪の敵なのだ。

 ──だから、ここで処理する。

 それが正しい。悪寒に反して脳は思考の堂々巡りで加熱していく。

 ──だって、ありえないんだから。

 絶対に見てはならないと感じながら、しかし。

 人間としての理性に負けて、楓は視線を向けてしまった。

 

「────────」

 

 それを見た瞬間の衝撃は、キャスターを除く全員の身体を縛り付けるには十分過ぎた。

 声にならない悲鳴が、楓の喉を震わせる。

 「ありえない」は、ここに裏切られた。

 キャスターはその事実に打ちひしがれた楓に代わって、その異形と相対した。ぴしり、と扇子を突きつけて、彼は眼光鋭くソレを睨む。

 

「そこまで歪んでしまえば、君はもう手遅れや。どう足掻いても君はもう引き返せん。なればこそ、ここで処理させて貰うで」

 

 冷徹な目線の先に在る敵、それは。

 

「──異論は無いよな、健斗クン(・・・・)

 

 その問いに、答えはなかった。

 ただ、その声に応えるように──。

 「志原健斗」だったモノは、凄惨な笑みを浮かべて大地を蹴った。




【セイバー】
「ラーヴァナ」と「アンリマユ」。本人の性質がどうあれ、周囲の人々によって性質を歪められたこの二者は非常に似通った性質を有していたため、「反転」などの結果を引き起こすのではなく、互いに互いを吸収して一つの存在として融合、再臨した。
志原健斗を殺害してしまった事で、セイバーの自己認識はますます悪化しているため、よりアンリマユとの親和性が高くなっている。
融合しきれなかった聖杯の中身はセイバーという器から中途半端に溢れ、彼女の身体を突き破って肉塊という形で体外へと溢れ出している。


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七十五話 遥か先の魔術使い

「ガァァァァァァッ──‼︎」

「シッ────‼︎」

 

 凄まじい轟音を響かせて、刀剣と拳が激突する。

 弾け飛ぶ空気。撒き散らされる破壊の中、楓はその男を見た。

 

 ──かつて、兄だった男の顔を。

 

 渾身の一撃をぶつけ合い、互いに後退する両者。間をおかずキャスターが扇子を振り払うと、龍頭を模した火焔が轟然と襲いかかった。

 それを俊敏に躱して、健斗は宙に跳び上がる。

 

「お……お兄ちゃん‼︎ お兄ちゃんなんでしょう⁉︎」

 

「バカ志原っ、前に出るな──‼︎」

 

 反射的に駆け出そうとした楓の手を掴み、倫太郎は彼女の身体を渾身の力で引き寄せた。

 健斗の前方で火花が散る。

 それはすぐさま触れたものを灰と変える魔雷となり、キャスター達の頭上へと降り注いだ。キャスターは咄嗟に迎撃を放ち、それらを宙で受け止める。逸れた雷は彼の周囲に着弾し、楓のすぐ傍まで貫いていった。

 

「きゃっ……⁉︎」

 

 その衝撃と音にあおられて、楓は尻から倒れ込む。

 顔をしかめた彼女が顔を上げた瞬間、そこに──、

 

「貴様は」

 

 僅か数センチ先に。

 親しく見慣れた兄の顔が、あった。

 

 

「誰の許しを得て、この俺をふざけた名前で呼んでいる?」

 

 

 彼の濁った瞳を見た瞬間に、楓の呼吸が止まる。

 それは目というよりも、貌にぽっかりと空いた空虚な穴のよう。

 それを見ただけで思い出した。

 数日前の夜。双方の誤解から健斗と楓が戦った時、彼女はこのおぞましい瞳に怯んで、その勝機を逃したのだ。あの優しい志原健斗が持つはずのない、邪悪に染まったこの瞳に。

 

「──────おに、」

 

 向けられた手の中で、蒼の閃光が瞬く。

 それは魔力放出の前兆、コンマ秒にも満たない予備動作。1秒を待たずに、彼を不躾に呼んだ不敬者の頭蓋は粉砕される。

 倫太郎が咄嗟に木刀を構えるも間に合わない。

 だがそれよりも尚早く、音すら越える神速をもって──、

 

「おい、健斗クン」

 

 振るわれた護身・破敵が、その腕を断ち切っていた。

 鮮血が楓の顔を濡らす。ずっぱりと絶たれた健斗の右腕は高く高くふき飛んで、数メートル先の焦げ跡の中にぼすんと突っ込んでいった。

 

「君こそ誰の許しを得て、彼女に手ェ出しとるんや」

 

 この声を発しているのは誰か、と楓は思わず視線を向けていた。

 二対からなる霊刀を構えたキャスターが、健斗を睨んでいる。

 だが──これほど怒りの表情を見せたキャスターを、志原楓は今まで一度たりとも見たことがなかった。

 怒気を孕んだ魔力が膨れ上がる。直後、健斗の身体に不可視の衝撃波が突き刺さり、彼の身体をゆうに数十メートルは吹き飛ばした。

 

「待っ……キャスター‼︎ やめて‼︎」

 

 咄嗟に彼の元に駆け寄って抗議する。

 楓が何か意見を言えば、なんやかやと従ってくれるのがキャスターだった。しかし、今は、目線すら合わせずに健斗の方を睨んだまま。

 

「ちょっと……こっち見てよ、アレはお兄ちゃんなのよ⁉︎ 私たちが何度も殺しあう必要なんてないでしょう⁉︎」

 

「君だって分かっている筈や。彼はもう、楓ちゃんが知る志原健斗じゃあないってことくらい、な」

 

「で……でも……‼︎」

 

 たなびく式服の端をぎゅっと掴んで、首を横に振る。

 あれはたしかに兄だ。志原健斗そのものだ。

 例え彼がどう変質していようと、できない。かつて大切なものを失った傷を未だに抱え込んでいる志原楓に、今度は大切な家族を自分から切り捨てる、などという選択が出来るわけがなかった。

 

「お願い……お願いだから、キャスター……」

 

 だから、頼むしかない。頭の中で最悪の想定をして、キャスターが応じないようならここで令呪を切るという選択肢すら視野に入れる。後のことを考える余裕もないほど、今の楓は冷静さを欠いていた。

 自分がどんな無茶を言っているかくらい楓自身理解はしていたけれど、それでもそう言わざるを得なかった。

 

「キミの命令は一つ。あくまで健斗クンを殺すな、ってか?」

 

「……うん」

 

「そうか」

 

 キャスターは目線の険しさを緩めて、優しい表情に戻って彼の主を見下ろした。強気な瞳が、今は子犬のように揺れている。ただ、不安と恐怖の中でも一つ確かに輝いているのは、自分が契約を果たしたサーヴァントへの信頼だった。

 その眩しい目線から、彼は無言で目を逸らす。まるで、そんな目線を向けられる資格を自分は有していない、とでも言いたげに。

 無言を貫いた彼は、楓の首筋に優しく手を添えると──、

 

「──悪いな」

 

 その言葉と同時。

 いかような術式によるものか、楓の身体から力が抜けた。

 

「あ──……きゃす、たー……………」

 

 意識が瞬く間に刈り取られる。最後の瞬間に楓が見たのは、なぜかひどく哀しげな顔をした、キャスターの姿だった。

 眠りに落ちるように意識を失った楓を、彼は無言で倫太郎に託す。

 

「……キャスター、お前……」

 

「ええんや。しばしの間楓ちゃんを頼んだで、倫太郎クン」

 

 ばさり、と風を受けた式服が翻る。

 目線の先。吹き飛ばされた健斗は鬱陶しそうに瓦礫を弾き飛ばし、再度こちらに掌を向けた。

 斬り飛ばしたはずの片腕はとうに再生済み。全てを焼き尽くさんばかりの極光が、引き出した無尽蔵の魔力をもってキャスター達に牙を剥く。咄嗟に迎撃体制を取るキャスターだったが──、

 

投影(トレース)完了(オフ)

 

 その背後から放たれた、一筋の流星があった。

 それは吸い込まれるように健斗の額へと突き進む。どんな敵であれ、単純な物理威力で爆散させるほどの威力をもった一撃。

 だが相手も、とうに一線を超えた猛者だった。身体を捻ると同時にその矢を掴み取り(・・・・)、遠心力を加えて力技に投げ返す。それを、全く同じ軌道を描いて放たれた第二射が迎え撃ち、二つの矢は甲高い音を立てて激突した。

 神業と神業。人ならざる技量のぶつかり合い。

 信じられざる事はただ一つ。この激突を担ったのが、どちらも当代を生きる人間であるという事実のみだ。

 

「──愚か者はそこの陰陽師だけかと思っていたが。魔術師(メイガス)、貴様らも牙を剥くか」

 

 圧となって感じ取れるほどの殺気。あの少年が発しているとは思えない圧倒的存在感をまるで無いかのように受け止めながら、二人の魔術師が颯爽と前に出た。

 このあたりは乗り越えてきた場数が物を言う。まだ若い倫太郎では、英霊クラスの存在が放つ圧を真っ向から受け止められなかった。

 

「キャスター、こちらで援護する」

 

「ええ……理屈はどうあれ、今の彼はもうまともな人間じゃない。放っておけば何人死ぬか分からないし、下手したら私たちだって全滅する」

 

 今の健斗は理性的に見えるが、違う。

 何も考えず、ただ目の前の存在を攻撃しているだけだ。キャスターが受け止めなければ住宅街の一部が消し飛ぶほどの攻撃を躊躇なく放っていることからも、その狂いようは明らかである。

 

「感謝する。──時間もない、一刻も早く彼を仕留める。倫太郎クン、楓ちゃんとそこのディミトリアスちゃんを連れて下がっとき」

 

「あ、ああ」

 

 倫太郎は楓をお姫様抱っこしたまま、まるで熊と遭遇した登山者のように、一歩ずつ慎重に後退する。

 もし背中を向けて駆け出せば最後、まだ距離があるはずの「奴」に貫かれて死ぬ。そんな予感があったからだ。

 

「────そろそろ行くぞ」

 

 だが数歩も退がらぬうちに、健斗が動く。

 彼は無造作に隣に転がる凍りついた樹木に手をつくと、

 

魔王特権(・・・・)

 

 その言葉を呟いたと同時、樹木だったものがバキバキと歪む。

 余計なものを切り捨てて、自然物を、ただ人を殺すためだけの形状へと強引に捻じ曲げる。それはまさしくあらゆる他者を虐げる魔王の所業。

 樹木は、あっという間に先端の尖った破城槌へと姿を変えた。

 あとは単純だ。あり得ざる怪力でソレを片手で持ち上げて、

 

 ──投げる。

 

 彼が木に触れてから投擲まで、およそ0.5秒と無かっただろう。達人の目にすら、彼は木を引き抜くと同時に恐るべき速度でブン投げた、としか映らなかったはずだ。

 だが。その早業の中で、樹木は殺戮に適した形へと変わっている。

 当然ながら威力、殺傷力共に数倍。それを難なくキャスターは受け流し、空を裂いて巨大な槍が山麓に激突する。

 

「チッ……‼︎」

 

 だが、キャスターはもうそんな方向を見ていなかった。

 前方。攻勢がたった一撃で終わるわけがない。健斗は手当たり次第に樹木を掴み取ると、間隙すら与えず片っ端から投げ放った。

 迫り来る数十の巨槍は、まるで雨の如く彼らに降り掛かる。

 

「紙片防破、三重────‼︎」

 

 迎え撃つは、キャスターが展開せし陰陽の盾。

 ドガガガガガガガガガガガガ──‼︎‼︎ と、形容すらできないほどの轟音が響き渡る。雨に等しい密度で降り注ぐ破城槌の猛攻を、しかしキャスターの盾は無傷で防ぎきった。

 

「う、わ、ちょ、嘘だろバカじゃないのか……ッ⁉︎」

 

「サーヴァントといっても……攻撃の規模が、おかしいー‼︎」

 

 もはやなりふり構わず逃げる倫太郎とディミトリアスのすぐそばに、次々と身の丈の何倍もある樹木の槍が突き刺さっていく。

 一度平らになった大塚の森だったが、今度は逆さまに突き刺さった木々によってある程度の外観を取り戻した。そのおかしさが笑えるが、今なお背中から離れない死の予感がヤケ笑いすら許さない。

 ──しかし、それは前座に過ぎなかった。

 前方で極大の魔力が咆哮する。周囲の(きぎ)を残らず消費した健斗は、その僅かな隙に、しかと照準を構えて掌を向けていた。

 彼の掌の奥で、チカリと蒼色の輝きが覗く。

 

「健斗クン……まさかキミ、それは────」

 

 その輝きが何たるかを悟り、キャスターは驚きの声を漏らす。

 宝具使用、青龍の展開──不可。間に合わない。

 後ろの三人を連れて避ける事は可能か。しかし、ここで避ければ背後の街が消し飛ぶ。それでも彼にとって、自らの主を守る事は何物よりも優先された。

 残酷な決断を彼が下さんとしたところで、再度。

 

「…………ぐ⁉︎」

 

 いつの間に側面に回り込んだのか。横から投擲された宝石が輝いたと思った直後、紫色の閃光が彼の身体を包み込んだ。

 数十倍に増幅された重力が、凶器と化して健斗を襲う。

 思わず膝をついた彼は狙いを逸らされ、動きを封じられつつも、渾身の砲撃を妨げた女を異様な眼光で睨む。

 

「女……この俺、に、脚をッ──‼︎」

 

工程完了(ロールアウト)──全投影連続層写(ソードバレル・フルオープン)

 

 凛の隣で響く声。ただ淡々と結果を成す詠唱をもって、ひとつの奇跡が結実する。

 お返しとばかりに、今度は剣の雨が落ちた。

 投影された剣の群れ、その連続射出。多種多様な名剣魔剣が動きの止まった健斗の体を貫き穿ち、瞬く間に血みどろの惨殺死体へと変える。ものの数秒で成された見事なコンビネーションによって、健斗だったものは数多の剣に貫かれて完全に動作を止めた。

 今度こそ致命傷。だが──、

 

「────小賢しい‼︎」

 

 再び、体内からの魔力放出。放たれた蒼雷が突き刺さった剣の群れを残らず燃え滓に変える。

 身体の自由を取り戻した彼はそのうちの一本、やや離れた場所に突き刺さっていた剣を引き抜いた。敢えて雷撃を注ぎ込まなかったソレを手にすると、

 

「我が刃には劣れども……贋作にしては良く出来てる。慣らし運転を終えるまで、代わりの武器には丁度いい」

 

 魔王特権により、そのカタチを望むがままに変えた。

 メキメキ、と元の形を放棄して刀身が歪んでいく。いかなる傷を負ってもすぐさま再生するその様を見て、凛は舌打ちとともにキャスターに問うた。

 

「キャスター‼︎ 彼、本来なら一般人と変わらないんでしょう⁉︎ 何が起きているのか分かる⁉︎」

 

「ああ、恐らく……彼の異常の原因。それは心臓に埋め込まれた宝具にある」

 

 志原健斗の心臓に埋め込まれ、魂を繋ぎとめた楔。

 その名を、「耐え難き九の痛酷(ラーマーヤナ)」。持ち主に強力な再生能力を付与する対個人宝具である。

 

(今の健斗クンはまともな人間じゃあない。かの羅刹王の力(・・・・・)、それすらも彼は手にしとる)

 

 単純な身体能力だけではない。膨大な魔力に加えて、魔王特権、魔力放出といった特殊なスキルの類まで、今の健斗は使用している。

 そればかりは、「再生能力」の範疇から大きく外れていると言わざるを得ない。

 

(僕の千里眼じゃあ、視た対象が経験した主観の過去しか見通せん。重要になるセイバーの方に何があったか、を識るまで確かな事は言えんけど……まあ、確証に迫るくらいは出来るかね)

 

 眼前の敵が放つ異様な気配は、間違いなく邪悪にして極悪。

 しかしそれと同時に、確かに感じたことのある気配でもある。

 その気配こそが、魔王……あのセイバーと同一の気配だった。もっとも彼女はこれ程歪んだ気配を撒き散らすような、そんな品のない行為は行なっていなかったが。

 

「ええか──死した健斗クンの心臓に埋め込まれた宝具の名は、「耐え難き九の痛酷(ラーマーヤナ)」。羅刹王ラーヴァナという存在が誕生するに至った逸話……凄絶な儀式を乗り越えて力を手にしたという、彼女の功績やな。それがマントとして形を成した宝具、とされる」

 

 それはサーヴァントであれば珍しくもない現象だ。

 形を持たない「逸話」という概念が昇華されて形を持ち、一つの奇蹟(ほうぐ)として英霊が振るう。

 セイバーがかつて纏っていたという紫紺の外套も、それに属する宝具だったというだけのこと。体内のそれを楔とする事で健斗は魂の遊離を防いでいる、というのは、全員にとって周知の事実だった。

 

「ソレの効果は単純、伝承に伝わる通り瀕死からの復活……「強力な再生能力の付与」や。だが、これはセイバーすらも知らんかったことなんやろうけど……かの宝具が持つ力はそれだけじゃあなかった」

 

「再生能力だけじゃ、ない?」

 

「ああ。前から気になっとったんや。単純な再生能力を与えるだけの宝具なんざ、かの月の刃に比べれば遥かに低ランクの宝具に過ぎん。なのに彼の体内には、それに類する程の莫大なエネルギーが眠っとった」

 

 それ程のエネルギーがあって効果が単純な再生能力だけというのは、はっきり言ってあり得ないことだ。

 この不可解に、「耐え難き九の痛酷(ラーマーヤナ)」という宝具の成り立ちが関わってくる。

 ──「羅刹王の誕生」という逸話を昇華した宝具。

 ──ソレを埋め込まれ、魔王と同一の力を振るう健斗。

 この二つの要素を合わせると、自ずと答えは明らかになってくる。

 

「最初から、再生能力の付与はただの副次作用に過ぎんかった」

 

「そうか……つまり、「羅刹王の誕生」が宝具として顕れているなら」

 

 士郎が険しい顔のまま漏らした呟きを補完するように、キャスターは目を細めて、健斗だった何者かを睨みつける。

 

「かの宝具を羅刹王以外の者が使用した場合、「羅刹王の誕生という逸話を再現し、第二の羅刹王を誕生させる」。これが「耐え難き九の痛酷(ラーマーヤナ)」っちゅうふざけた宝具に秘められた、本当の力やった」

 

 もっともあのセイバーが他人に宝具を譲渡するなんてあり得んから、彼女自身気づく訳あらへんかったんやろうけどな、とキャスターは付け加える。

 推測だがこれ以外に可能性は考えられない。あの宝具によって、志原健斗は魔王として覚醒しつつあるのだろう。

 

「英霊と同一の存在を生むなんて、そんな事が起き得るのか?」

 

「可能性は低いが無いわけじゃあない。英霊も星の数ほどおるんやし、同系統の能力を持つ宝具だって世界のどっかには存在すると思うで」

 

 無言のままそれを聞いていた健斗は、まじまじと己の手を見つめてから、不可解だとばかりに首を捻った。

 

「第二……俺が……健斗?」

 

「自分が何者か、すら忘却したンか?」

 

「……はは。ははははははははははははははははははは‼︎」

 

 狂ったように天を望み、健斗は笑い声を響かせる。

 天には煌々と輝く月。ほぼ真円に近づいたソレは銀糸のような月光を降り注がせながら、宙天にて輝きを放っていた。

 

「知らん。ンな戯言、どうでもいい……俺が成すべきことは一つ。もう一人の魔王を殺して、俺こそが(まおう)であると証明するのみだ」

 

「同族嫌悪……いや、それよりもタチが悪いか。全てが全く同一の(・・・・・)二者が顔を合わせた時、どんな奴でも自己存在の崩壊を恐れて「自分こそが本物である」と証明したがるらしいが……君のそれは典型例や。セイバーを殺す事のみが、君の唯一無二たる目的に据えられとる」

 

 ずっと昔からそのフシはあった。志原健斗はセイバーに確かな愛情を抱きつつも、同時に、明白な殺意を覚えていたのだ。

 彼はそれを必死に否定し、人としての理性で押し止まり、ずっと一人でその衝動と戦ってきた。

 時に限界が訪れた時は自らセイバーの元を離れ、街で暴れる英霊と一戦交えることで、その衝動を誤魔化していた事さえある。

 キャスターはそれを知っていた。だが、それを伝えれば余計にその殺害衝動が悪化する事を知っており、同時に志原健斗という人間の精神的な強さを信じていたからこそ、その事実を伝えてこなかったのだ。

 

(しかし、健斗クンは羅刹王としての意識に屈してしもうた)

 

 ただの人間に過ぎない志原健斗がセイバーの力を引き出せる理由は解決したが、まだ疑問は残っている。

 

(──……彼がセイバーへの殺害衝動を急に抑えられなくなった理由と、その異常なまでの回復能力はどういう事や?)

 

 彼の強力な治癒能力は、セイバーが近くにいるという事を前提としていた。それでも限界はあり、例えば断たれた肉体を癒着させる事は不可能といった制限があったはずなのだ。

 だが、今はまるで異なる。 

 繭村の屋敷でライダーの過去を視たキャスターは、確かに志原健斗は死亡したと判断した。健斗は両腕を断たれた上で、首まで刎ねられて捨て置かれたのだ。回復能力が追いつかない次元の致命傷だった。

 それが今の健斗には傷一つ見られない。首も腕も繋がり、全身を焼かれても立ち上がり、キャスターや士郎の攻撃で全身を串刺しにされても意に介さない。道理を無視した異常治癒能力が働いている。

 

「考えられるとすれば宝具の暴走……いや。こればかりは考えても仕方がないかね」

 

 キャスターの話にも聞き飽きたとばかりに、健斗が地を蹴る。

 足裏からの魔力放出。アサシンと戦った頃は不慣れなものだったが、健斗は既に慣れ始めている。

 相対するキャスターは無言のまま、空から引きずり出した護身・破敵をもって魔王の一閃を受け止めた。

 

「おおぉッ────‼︎」

「はぁぁッ────‼︎」

 

 空気が震え、舞う木の葉が嵐となって吹き荒ぶ。

 零距離で睨み合う両者。そこに空から降り注ぐ矢の援護があり、健斗は舌打ちしながら顔を上げた。

 

「不敬者が、貴様から殺されたいか──‼︎」

 

 九十度体を捻って、魔王の眼光が士郎を捉える。

 刹那。全身からブースターの如く放たれた蒼雷が、彼の身体を再度音速の領域に引き上げる。

 その様を見て、しかし士郎は動じない。

 投影開始。彼はコンマ1秒と要さずに武器(けん)を握り、

 

「────ッッ‼︎」

 

 刃の速度すら搔き消える超神速で、三つの刃が交錯した。

 振るわれる歪んだ名刀。

 それを、清廉な太刀筋で放たれた剣戟が押しとどめる。

 干将・莫耶。衛宮士郎が最も扱いを得意とする夫婦剣。互いに贋作、であれば押し負ける道理もない。火花を散らしながら刃は離れ、健斗は忌々しげに舌打ちする。対し、士郎はさらに一歩を踏み出し、

 

投影(トレース)停止解凍(フリーズアウト)

 

 地面が、爆ぜる。

 足元に堆積する土塊や焦げた落ち葉。その中にいつのまにか隠されていた投影剣が、(トラップ)の如く牙を剥いたのだ。

 類まれな直感でそれを回避した健斗だったが──、

 

投影(トレース)開始(オン)

 

 視界に影が落ち、健斗は見た。

 術者(しろう)の身体には不釣り合いなほどの巨大な刃。

 それが高々と掲げられ、振り下ろされる時を待っている様を。

 

「────⁉︎」

 

 息を呑むと同時、凄まじい轟音が響き渡る。

 どこかで見た巨大な斧剣が、縦一閃に振るわれて健斗の体を潰しにかかったのだ。

 とてもまともな人間には扱えぬ巨大武装。

 それをいとも容易く振り回し、第二撃が一撃を防いだガード越しに健斗の身体をカッ飛ばす。響いた衝撃はいかほどのものか、健斗は今度こそ驚愕して後退した。そこにキャスターの攻撃が襲い掛かり、健斗は瞬く間に体勢を崩していく。

 

「うッ……嘘だろ、あの人……⁉︎」

 

 同じ剣に類する魔術を行使する者として、倫太郎は息を呑む。

 あり得ないもの、一つの魔術師の結実(きゅうきょく)をそこに彼は見た。

 やっている事がデタラメだ。魔術回路の質を見れば、倫太郎のほうが遥かに衛宮士郎を上回っている。だというのにあの練度、あの魔術の冴え。どれもが倫太郎ではとても真似できない神業だった。

 考えられるとすればただ一つ。

 あの衛宮士郎という男は剣を鍛えるように、己を燃やすように──ただひたすら、才能というものすらも掻き消してしまう程の研鑽を続けた。その果てに、あの次元の力を振るうに至ったのだ。

 

「──────」

 

 倫太郎は絶え間なく巻き起こる閃光と衝撃波に目を細めながら、その姿を最後まで捉え続けようと心に決めた。

 楓の言葉が脳裏に浮かぶ。

 もし自分が魔術師ではなく、生まれついての「魔術使い」であるならば。

 きっとあの衛宮士郎(まじゅつつかい)の背中は、自分の道を選び取る指標となってくれる──そう、確信めいた予感があったのだ。

 

 楓を抱え、少女を傍らに連れたまま、倫太郎は視線を強める。

 目の前の戦いは、ますます激化する一途を辿っていた──。




耐え難き九の痛酷(ラーマーヤナ)
ランク:EX
種類:対人宝具
羅刹王ラーヴァナが十の頭のうち九を切り落として火にくべた、という歪んだ逸話が昇華され、マントの形となった概念宝具。
「想像を絶する苦行から復活を果たした」という逸話の性質から、この宝具は、使用者に絶大な回復力を与える効果を持つ。他者が使用した場合、近くにセイバーがいるほど効力が高まる。現在は宝具の過剰暴走によって治癒揚力が格段に向上している。
また、「この苦行をもって羅刹王が誕生した」という逸話の性質も有しているため、この宝具を埋め込まれた者は第二の羅刹王として覚醒する可能性がある。本来その事象が発生する確率は低く、健斗自身の理性もその発生を押しとどめていた。しかし何らかの原因によって宝具が暴走を起こし、志原健斗を人間ではない魔性へと変貌させている。

【志原健斗】
今の彼は宝具の効果が働き、羅刹王であるセイバーと同等の存在へと変わりつつあり、宝具、スキル、剣技、魔力、どれもがセイバーのものを受け継いでいる。ただしその力は真っ当なものではなく、使えば使うほど魂が壊れ、理性は焼け焦げていく禁忌の類。
常人の精神では扱えず、何も考えずに使えば健斗のように意識を「魔王」に乗っ取られてしまう。以前から彼は無意識下でこの力を使っており、窮地に陥った時はこれらを駆使して死線をかいくぐってきた。


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七十六話 掴めぬ輝き──安倍晴明

「う……」

 

 長い眠りから覚めたような倦怠感の中、目を開ける。

 最初に視界に入ったのは女の子の顔。かわいい黒髪の子だ。その目は心配そうにこちらを見つめていて、前田大雅はほぼほぼ何も考えずに跳ね起きた。

 

「三浦さん‼︎ おはよーうぐえぼッ⁉︎」

「そ、そんな急に起き上がるから……だめだよ」

 

 謎の鈍痛が胸部のあたりを駆け抜けて、思わず再びベッドに倒れる大雅。ゲホゴホと咳き込んでから視線を巡らせ、ここが何処かの病室であると理解する。

 とはいえ心当たりはないのだった。自分はどうしてこんな所にいるのだろう、と狸に化かされたような顔になる。

 

「あっれ〜…? なんで僕、こんな所で寝てるんだ?」

 

「け……怪我したんだよ、斬られたんだよ‼︎ 覚えてない……?」

 

「斬られたってサムライじゃあるまいしさあ、そんな……こ、と……」

 

 あるわけないじゃないか、と言いかけて止まる。

 意識がはっきりするにつれて記憶が戻ってきた。確か突然現れた剣を持つ不審者に襲われ、咄嗟に三浦を庇ったところまで思い出す。意識が朦朧とする中で美しい銀色の輝きを見た気がしたが、それについてはあまり思い出せなかった。

 ともあれ、大雅は彼女の言葉が本物であると理解する。

 

「そう、か──ちくしょう、そうじゃないか。何もできずに倒されるとは不甲斐ない限りだ。あれから……どうなったんだい? 三浦さん」

 

「……ええと、正直色々ありすぎて……本当かどうか疑わしいかもしれないけど、まず──」

 

 三浦火乃香は語った。

 呼び出された健斗が謎の少女とともに男と戦い、人間とは思えない激闘を繰り広げたのち、あの男を打倒したことを。

 

「それで私は、その子が呼んでくれた救急車に運ばれて……「人に斬られた」って伝えるしかなかったから、後で警察の人が来ると思う。その他のことは流石に伝えてないけどね」

 

 この場所で見た事の全ては絶対に他言不要、漏らしてしまえば今度こそ命の保証はできない──そう、あの蒼髪の少女は言っていた。

 今まさにその忠告を無視しているのだが、大雅は例外だろう。あの男に斬り捨てられた彼には、その理由を知る権利がある。

 

「……健斗くんだって大怪我をしてたんだけど、その子曰く「大丈夫だ」とか……」

 

「………………」

 

 大雅は無言のまま、しばし考え込む。明るくてあまり物事を深く考えない彼にしては、とても珍しい表情だった。

 一週間ほど前、健斗が聞いてきたこと。

 意味がわからない質問と大雅は深く考えず答えたが、あれは健斗を逆に後押ししてしまったのだろうか。

 

「健斗め……だからあの時、あんな事を……」

 

 自分を責めるように歯噛みしてから、大雅は三浦に視線を向ける。

 

「三浦さん。ひとまず、君が無事で何よりだ」

 

 前田君のおかげでね、と微笑む三浦ににっこりと笑い返すも、その顔は晴れない。今なお何らかの危機にあるであろう親友のことが、気がかりで仕方がないのだから。

 

「さしあたって健斗に状況を問いただす必要がある。とはいっても、どことなく予感はしていたんだけどね。この街で悪しき何かが起きている、っていう。どうも健斗のヤツ、その中心に巻き込まれてるらしい」

 

 ダメ元で健斗に電話を掛けたが、やはり応答はなかった。

 アイツなら死にはしないさ、という信頼があるのと同時に、しかし大雅の中で悪い予感が渦巻いている。

 志原健斗が遠くに行ってしまうような、そんな予感が。

 楽観的になろうとしても、その予感を振り払えない。

 

「……明日も連絡を続けてみよう。繋がるかもしれない」

 

 頷く三浦。いつもよく一緒にいる自分たちの間にこんな緊張感が張り詰めたのは初めてだな、と苦笑して、大雅は役に立たないスマートフォンを放り出した。

 ベッド横の窓を開ける。

 吹き込んで来る生暖かい風。闇に沈むような不気味な街を眺めながら、大雅は目を細めて呟くのだった。

 

「健斗……君、勝手に一人で死ぬんじゃないぞ」

 

 

 

 

 同時刻。大塚市東端、森林内部。

 煌々と輝く月に照らされる木々。静謐とした静寂と闇に閉ざされる筈のこの自然溢れる地は、今日限り全く異なる様相を呈していた。

 

 ──爆炎と閃光が連続する。

 

 大塚の地に絶え間なく響く地響き。前方をキロ単位で焼き尽くす極光が幾度となく放たれ、木々は面白いように消し飛んでいく。

 そして、それに対抗する巨影があった。

 遠くから見れば黒々としたシルエットしか捉えられないそれらが、破壊の中心地で蠢いている。まるで森を焼き尽くす大怪獣が暴れているが如し光景だが、その破壊を撒き散らしているのは巨影の方ではない。その間を跳び回る健斗(まおう)こそが、莫大な火力を振るう元凶である。

 

「士郎、お願い‼︎」

 

 破壊音に負けじと張り上げられた美しい声と共に、宙空に一つの宝石が投擲される。

 

「────‼︎」

 

 対し、爆炎の中を無傷で駆け抜けていた衛宮士郎が反応した。

 悪い足場を難なく踏み越えて、宙を舞う宝石へと突っ走る。彼が渾身の力で跳ぶと同時に宝石が爆ぜ、瞬間的に半透明の「足場」が構築された。

 それを踏み台として──さらに跳躍。

 空中で身をひねりながら剣をつがえ、弦を引いて狙いを定める。狙いの先は志原健斗。どんな生物であれ死角となる直上からの狙撃が容赦なく牙を剥く。長い時を共にあった彼らだからこそ可能な、再現、回避ともに不可のコンビネーションだった。

 

「ち……‼︎」

 

 健斗は異常なまでの直感でそれを読み切り、辛うじて迎撃を間に合わせた。

 剣と剣の激突。脳天直撃の軌道から弾かれた投影剣は、健斗の身体を浅く抉って地を穿つ。飛び散る血を無視して、健斗は忌々しげに引っ掴み、消滅に先んじて自分の武装へと変えてしまった。

 ギロリと士郎を睨む健斗。

 されど攻めきれないのは、やはりキャスターとの相乗攻撃の甲斐あってか。片方に意識を向ければ片方からの攻撃を防ぎきれない悪循環が、健斗をやや劣勢に追い込んでいる。しかし──、

 

「……駄目だな。どうやら彼、俺の魔術とは相性最悪みたいだ。こっちが攻めれば攻めるほど、向こうの攻め手を増やしちまう」

 

 事実、彼の周囲には既に「魔王特権」の干渉を受けて健斗のモノとなった士郎の刀剣が幾つか浮遊している。

 闇雲に攻めればますます剣を奪われ、じき押され始めるだろう。

 

「じゃあ僕が頑張らんと──なァ‼︎」

 

 キャスターがその間隙を突く。

 一気呵成、舞い散る火花。

 無数の刃が幾度となく交錯し、余波を撒き散らして互いに離れる。

 

「ふうッ……しかしまあ、手を焼かせてくれンなあ」

 

 キャスターは空でぴたりと護身・破敵を静止させつつ、同様に剣を構える健斗に視線を投げた。

 

「極大の邪悪……かの魔王(ラーヴァナ )の紛い物にしちゃあよく出来とる」

 

 焼けついた焦土を踏み締めて、キャスターはそう嘯く。

 以前、キャスターとセイバーは大塚の街が更地に変わるほどの激闘を行ったという。世界の裏側で行われたその光景を目にしたのは当事者たちのみだったが、今目の前にある地獄のような光景を見れば、誰もが事実であると分かるだろう。

 

「キャスター」

 

 無造作に剣を構えつつ、健斗は目を細めてキャスターを見る。

 

貴様(テメエ)こそ人でなし(・・・・)の分際で、他人の邪悪を糾すのか。俺よりも遥かに、その邪悪を包み隠している貴様の方が悪質だろうによ」

 

 ──瞬間、キャスターの表情が強張った。

 それを見てもう一人の魔王が嗤う。まるで哀れな道化を見た王の如き、冷徹かつ残忍な笑みだ。

 

「ずっと気になってたんだよ、その目。何を見てんのかさっぱり分かんねえその目だ。今なら分かる」

 

 邪悪の権化としてあれ、と定められた魔王の力に呑まれた今の健斗は、まさに悪性の頂点に位置する存在と言っていい。そういった無辜の力を忌避し、抑え込んでいたセイバーとは異なる点だ。

 故にこそ彼は、ありとあらゆるモノに潜む悪性を捉え、その歪みをつまびらかに指摘できる。

 

「──いい加減誰かのフリをすんのはやめろよ、陰陽師。見てるこっちが恥ずかしい」

 

「…………‼︎」

 

 少し離れた位置で穿たれた溝に隠れていた倫太郎は、ひょこりと頭を出して静かになった戦いの様子を観察する。

 いかなる理由か、熾烈に争っていたキャスターと健斗の二人は、ぴたりと足を止めて何か言葉を交わしていた。士郎と凛も足を止めて、動かない二人に少し困惑している様子だ。 

 

「見てられねえんだよ、その無理してる様。最初からお前はマスターが望む「安倍晴明」を演じてやっているだけ……そうなんだろう? その振る舞いも、言葉も、行動も、全部が全部紛い物に過ぎん」

 

 ──それは、誰も気づかない筈の歪みだった。

 尊敬の念で若干思い込みが激しい志原楓は当然ながら、繭村倫太郎やアサシンでさえ、彼は「お調子者だが、楓を守る事には全力を掛ける陰陽師」であると認識していたのだ。

 だがその認識は誤っている。

 それはあくまで表層。安倍晴明という人間が故意的に作り出したガワの姿に過ぎない。

 

「貴様はそもそもまともな人間じゃあないからな。妖狐、ヒトならざる怪異との混血児……成り立ちからして歪な生命がヒトの真似事をしているだけの空虚な存在、それが貴様だ。そんな奴が、人間の喜怒哀楽に道徳倫理なんてモンを理解できるわけがない(・・・・・・・・・・)

 

 答えはない。ただ無言のままに殺到した数百の式神が、魔王の剣閃によって切り払われた。

 舞い散る紙吹雪。その奥で、キャスターの歪みを明らかにした健斗は、とても彼とは思えぬ顔で嗤っている。

 

「──君は……気づいたのか、()の歪みに」

 

 キャスターがついぞ口を開く。

 だが、仮にその声を健斗以外の誰かが聞いていたなら、それは別人のものだと錯覚しただろう。

 敢えて使っていた方言は既に捨て去った。彼特有の柔らかな声色も放り捨てた。今の彼が発する声は「安倍晴明」という、人間になろうとしてなれなかった何かが発する、飾らない真の言葉だった。

 

「フン、気付いたとも」

 

「……そうか」

 

 キャスターの変化をきっかけに、周囲の空気が静まり返る。

 

「不本意だが、君の言葉を肯定しよう」

 

 途端に夜の森らしく静寂を取り返したことで、かえって木々の燃え滓が立てるパチパチという音が煩く感じられた。

 

「安倍晴明、つまり私は……かつてヒトと化生の間に生を受けてからずっと、人間と接してきた」

 

 平安の時代を守護した稀代の陰陽師、安倍晴明。

 彼は伝承において、まっとうな人間ではなく、一匹の妖狐とヒトの間に生まれ落ちたとされている。

 「童子丸」と名付けられたその仔は、立派に成長した果てに晴明と名乗り、平安の都にその名を轟かせたのだ。

 

「故にこそ化生ではなく人間であろうと思い、私は人間として生きる道を選んだ。実際、人間のように生きて死ぬ事は出来たと思っている」

 

「へえ」

 

 キャスターは……素の自分を曝け出した安倍晴明は片手を顔に押し当てて、その苦悶を表すように表情を歪ませる。

 

「だが──……どうしても、私には出来なかった」

 

 細められたその目に涙はない。

 そもそも彼は、何かを悲しむといった機能(・・・・・・・・・)を備えていない。

 されど、それは慟哭のように映って見えたことだろう。

 

「全くもって解せぬ。私にはヒトの心が理解できない。誰かの幸福を心から祝福できない、誰かの悲しみに共感できない、どう足掻こうが人間というものに心から寄り添えない。何故なら、心を持たぬが故」

 

 彼の静かな叫びを体現するかの如き熾烈な雷撃が、剣を構える健斗に牙を剥く。

 対し、彼は地面に腕を突き立てた。魔王特権によりめくり上がった岩盤が攻撃を弾く盾となり、それを飛び越えて健斗はキャスターに肉薄。

 刹那、複数の刃が交錯した。

 殺到する無数の剣、対するは護身・破敵。

 滞空していた剣は破敵が迎え撃ち、健斗自身の手で振るわれた曲刀は護身が受け止めた。零距離で火花を散らしながら、健斗とキャスターは魂すら震え上がらせそうな視線をぶつけ合う。

 

「ハッ……貴様、自分の魂の色を見たことあるか? 人の悪意に詳しければ分かるだろうさ。俺に匹敵するくらいのドス黒さ(・・・・)だ、ンな奴が心なんてモンを解せる訳がねえだろうが‼︎」

 

「そう──私は──私には──ヒトの情を、心を、解する機能などありはしない。何者をも理解できぬ無情な半端者。上っ面の言葉しか吐けぬ非人間。それが私、安倍晴明だよ」

 

 自嘲気味に呟いたキャスターは、ほんの一瞬、顔だけ覗かせてこちらを観察する倫太郎の方を見た。

 正確には、その腕に抱かれる少女を。

 ──志原楓。

 彼女と出会った時、彼は様々なものを視て、同時に感じ取った。

 まだ16歳の少女が聖杯戦争という殺し合いに参加しなければならなかった悲しい理由。心に深い傷を残した過去。それとは別に自分(あべのせいめい)に向けられる、強烈で純粋な尊敬の念。

 

 それら全てを、知ってはいたが──。

 同時に、彼は何も感じなかった。

 心を持つべきである人であれば感じるような、尊敬と親愛に対する喜び。他者の不幸に対する悲しみ。それら一切を感じる事なく、キャスターの胸は常に凪いだままだった。

 

 ずっとずっと昔から、キャスターは諦めている。

 自分は心を持たないし、他人のそれを解し、共感することもできない。ならばせめて、「人間らしい架空の自分」を演じることで、心を持った人間のように振る舞おう──そう決めたのだ。

 

「実に生き辛いだろうよ、それじゃあ。いっそのこと全て放り出して、心を持たぬ化生と生きれば良かったものを」

 

 健斗は別種の冷徹さを浮かべる真顔に戻り、全力で大地を蹴る。宙に飛び上がった彼は再度掌を地上に向け、照準を終えた。

 掌の奥。

 ズズ、と引きずり出でるモノがある。

 蒼色の刃。それは魔王が持つという月光を束ねし破壊兵器。かの切っ先は健斗の掌からほんの数センチだけ顔を出して、敵対者を地表ごと灼き尽くさんと輝いた。

 

 

「頃合だ陰陽師。いい加減、ケリをつけようか──‼︎」

 

 

 空気が恭順の意思に震えている。

 十字に煌めく銀光は、更に輝きを増していた。

 尋常ならざる魔力が膨れ上がる。今までとはさらに一線を画す、恐らくかつてのセイバーが見せた宝具解放に匹敵する超弩級の一撃が、もう一人の魔王によって放たれようとしている。

 数秒後に迫るは正真正銘、窮極の一撃。

 キャスターは咄嗟に士郎に目配せすると、それだけで意思を伝えてみせた。彼と凛が素早く倫太郎たちの前面に回り込み、花弁状に開いた異様な盾が形成される。

 

(……あれなら、志原楓は助かるか)

 

 キャスターはそれのみを把握すると、宙天で咆哮をあげる魔力のうねりを睨みつけた。

 

「正々堂々受けて立つ。その夜刃、真正面から折り砕こう」

 

「やってみろ」

 

 溢れ出す銀色の月光。その奥でこちらを睨む魔王と、しかと目線をぶつけ合う。

 互いに全力、次の一手をもって勝敗は決する──無言ながら、健斗は直感的にその結論を導き出す。

 

陰陽跋祇(はっし)

 

 対し、キャスターは全身を駆け巡る回路を総動員し、彼が生前において生み出した最強無類の一撃に備えた。

 

五芒五行雅歌蓮撃砲(ごぼうごぎょうがかれんげきほう)

 

 巨大な五芒星がキャスターの前面に展開される。

 おのおのの頂点が示すは五行の属性。つまりは火、水、木、土、金。現代魔術論においては「五大元素」として扱われる各種の力が、均整のとれた図形を描いている。

 仮に安倍晴明を陰陽師ではなく一人の魔術師として見た場合、五行全てを十全に扱ってみせる彼は、こう評される他にないだろう。

 五大元素全てを併せ持つ希少中の希少種。

 即ち、「アベレージ・ワン」と。

 

「「────行くぞ」」

 

 声が重なった瞬間。描かれた五芒星から彗星の如く放たれた閃光が、かの魔王を撃ち墜とさんと放たれた。

 同時、天より突き刺さる破壊の光。

 迎え撃つは、五行を束ねし虹の極光。

 互いに互いの全力、全てを賭けた一撃同士。それらはブレることなく最短距離を駆け抜けて、刹那。

 

 ──閃光が、爆ぜた。

 

 凄まじい轟音と熱が一呼吸のうちに吹き荒れ、辛うじて残っていた木々の残骸が根元から刈り取られていく。

 あまりの威力。言葉に表せられぬほどの熾烈なせめぎ合い。

 眼前で自分達を守ってくれている士郎がいなければ、おそらく自分達は秒を待たずして蒸発していただろう、と倫太郎は戦慄する。

 これ程の大出力のぶつけ合いだ。

 両者ともに長くは続かない。恐らくはあと数秒で勝敗は決まる。倫太郎はごくりと唾を飲み込んで、その戦いの決着に全神経を集中させた。次第に暴れ狂う閃光は薄れていき、その奥の光景が見え始める。

 そこに、あったのは──、

 

「……………………」

 

 身体の半分以上を消し飛ばされた、キャスターの姿だった。

 (むくろ)がぐらりと揺れて、焦げた地面に崩れ落ちる。

 遠くからそれを見ていた倫太郎は無言の悲鳴を噛み殺した。キャスターと魔王の激突は、魔王の勝利と終わったのだ。

 

「フン」

 

 月の刃による一撃を撃ち終えた健斗が、鼻を鳴らして着地する。

 

「貴様の一撃も中々に強力だったが、今宵は月がよく見える。俺に牙を剥いた不敬を悔い、不運を嘆いて消えるがいい」

 

 ギロリ、と健斗の視線が傍に向けられる。

 その視線が狙うは倫太郎を含む魔術師たち。邪魔者が消えた今、彼を止めるものは存在しない。ゆっくりとここにいる全員を皆殺したのち、彼は今も仙天島の最奥にて生まれつつある、原初の魔王に挑むのだろう。

 魔王が一歩を踏み出す。

 その靴裏が焦げた地面を踏みにじり、乾いた音を立てたその時。

 

「なあ」

 

 誰かの声が。

 キャスターの声が背後から聞こえた時、既に勝敗は決していた。

 ぞぶり、というくぐもった音がする。健斗が弾かれたように視線を下げると、自分の腹を貫いて、一本の光り輝く剣が姿を覗かせていた。

 

「ガ────ッ、は‼︎ テメ、キャス、ター……⁉︎」

 

「まだまだ戦場慣れしてないなァ、健斗クン。相手がセイバーなら、僕なんぞの幻術は看破されてたやろうし。それに言ったはずや、僕は情も心も持たぬ非人間……「正々堂々受けて立つ」なんざ、そんな人間らしいコトする筈ないに決まっとるやろ?」

 

「こ、の────狸がッ……‼︎」

 

「あはははは‼︎ そりゃ惜しい、なんせ僕は半分妖狐の血なんでなあ。言うなら狐と言って欲しいモンや」

 

 元の口調に戻ったキャスターは健斗の背後からぴたりと離れず、光り輝く剣から手を離さない。

 不思議と出血も痛みも健斗は感じていなかった。

 ただ、凄まじい速度で力が抜けていく。志原健斗が使える力の上限を力技に圧縮され、縮められているような不気味な感覚が頭を焦がす。

 

「さて。楓ちゃんの命は一つ、キミを殺すな──や」

 

 キャスターは飄々としたいつもの口ぶりで、誰に告げるわけでもなく呟いてみせる。

 

「残念ながら、僕には君が最悪の敵に回ったと知ったときの楓ちゃんの悲しみも、苦しみも、何一つ理解できん。人に共感することのできん非人間、それが僕やからな」

 

 その目に揺らぐ光は、先程楓に向けたものと同じもの。

 自分にはない、人間しか持ち得ないものへの羨望と哀しみが入り混じった、それでも綺麗な瞳だった。

 

「それでも」

 

 そう前置きして、彼はにやりと笑う。

 

「それは彼女の信頼を、尊敬を、裏切る理由にはならんやろ?」

 

 彼が、志原楓に召喚された夜。

 二人して屋根の上に座り、彼らはこんな事を話した。

 

 ──けど、これで分かった。君は魔術師としては三流、と言っとったが……人がなかなか得られんモンを秘めとると見える。

 

 ──なにそれ。そんなもの、私には無いわ。

 

 ──いや、ある。人を、家族を愛し、その為に弱くとも戦える勇気……例え君が弱くともその気持ちは本物や。それは僕がついぞ持ち合わせなかった、尊いもんやと僕は思う。

 

 生前のように諦めながら、同時に彼は決意した。

 自分が理解できないもの。ひたすら手を伸ばしても、決して、未来永劫手に入れられないであろう尊い輝き。

 自分が心を持たなくとも構わない。ただ、その輝きの為ならば、それを持つひたむきな少女の為ならば、命を賭して戦うのも悪くはないと。

 そして、志原楓が信じる最強無欠の陰陽師であり続けてみせると──そう、彼は一人誓ったのだ。

 

「キャ、ス、タアァァァァァァァァァ──ッ‼︎」

 

陰陽跋祇(はっし)

 

 キャスターが持ち出したのは、ありとあらゆるものが持つ邪気を払い、封じてみせる封魔の剣。

 それが健斗を乗っ取っていた悪性を摘まみ出すのに並行して、キャスターは彼の体内を流れる「気」に手を加えていた。

 

「陰陽反転式・魔性封」

 

 陰陽道を修めるものにとっては初歩中の初歩、陽の気を陰の気として反転させる基本的な術式である。

 もっとも安倍晴明によって編まれた術式ともなれば、その効力は跳ね上がる。それが魔王に潜む悪性であろうと、たとえ「この世全ての悪」に触れたとしても、キャスターは難なく陽の気に変換してみせる事だろう。

 

「お別れや、魔王になりたかった誰かさん。お前の悪性、そりゃあ健斗クンにゃあ不要の長物。今すぐこの身体から立ち去れい」

 

 言葉を述べ終えたと同時に、術式が完全に発動する。

 最後の瞬間、健斗の喉から絶叫が迸った。それは彼の叫びではなく、セイバー宝具を介して健斗に流れ込んだ「何か」が残した、断末魔の悲鳴だったのだろうか。

 ともあれ──。

 健斗が纏っていた邪気が霧散し、彼は意識を失って倒れ伏す。

 

 長く破壊音が連続していた大塚の森に、ようやく真の静寂が訪れた。

 魔王と陰陽師の再戦は、こうして幕を閉じたのだ。




五芒五行雅歌蓮撃砲(ごぼうごぎょうがかれんげきほう)
キャスターが持つ最高火力の一撃。
陰陽道の五行思想に伝わる、木は火、火は土、土は金、金は水、水は木を活性化させるという「相生」のサイクルを五芒星の中で無限に循環、幾万回も繰り返す事で、各属性のエネルギーを莫大なまでに増幅させたのち装填。砲撃として同時に撃ち放つ。
陰陽道を極めた安倍晴明にしか再現できない奥義にして切り札。もっとも彼の強さは純粋な火力のみに頼らず、柔軟な思考と多様な選択肢でもって勝機を見出すことにある。


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七十七話 たった一つの願い 【9月12日】

 目を開けると、目の前に誰かが立っていた。

 蒼色の長い髪が揺れている。もう見慣れたその後ろ姿、間違いなくセイバー本人だ。

 俺はほぼ反射的に、彼女の名前を呼んでいた。

 

「セイバー?」

 

 声はどこまでも反響していく。昏く深いトンネルの中で声を張り上げたような、そんな風に聞こえる不思議な感覚。

 それでも、彼女は振り返らない。

 セイバーは無言のままに歩き出し、俺から離れていく。

 ムッとした俺は焦れったくなって、闇雲に足を踏み出した。動かないかと不安になったがちゃんと動く。そのまま一息のうちに加速して、セイバーの背後に走り寄る。

 

「セイバー‼︎」

 

 声を上げながら無造作にの駆け寄る。

 あと数メートル。

 距離が近くなって、再び、黒い長髪が視界に映る。

 

 ──……黒、だって?

 

 違う。セイバーの髪は、そんな色をしていない。

 ありえないものを見た違和感を覚えた瞬間。

 身体を反転させたセイバーが、手にした剣を閃かせた。

 

「ご、は────……?」

 

 すとん、と、豆腐を裂くような気軽さで、俺の胸に月の刃が突き刺さる。それと同時に奥から奥から溢れ出す生暖かい血がセイバーの頰を濡らし、そこで、俺はようやく彼女の顔を見た。

 黒に染まった髪。光を失った瞳。

 痛みも死にゆく恐怖も忘れて、俺はその顔を脳裏に焼き付けた。

 

「だめ、だ。行くな、セイ、バー…………」

 

 声は掠れ、俺は地面に崩れ落ちる。

 瞬く間に霞んでいく視界。その先で、彼女は赤と黒のナニカにずぶずぶと身を染めていき──そして、完全に呑み込まれていった。

 

 

 

 

「────ッは⁉︎」

 

 飛び起きた。とにもかくにも飛び起きた。

 布団を吹っ飛ばして周囲を確認する。セイバーの姿があるかと辺りを見渡したが見当たらず、代わりに見たことのない部屋が視界に飛び込んできた。

 和室だ。畳の香りが心地いい、広めの寝室。細かな所を見るに、どうも寝室というより旅館か何かの一室のように思える。

 それを見て疑問符を浮かべる。俺はなにゆえこんな所で寝ていたのか、と記憶を探ると──、

 

「確か、セイバー……が、アイツに……」

 

 突然現れた謎の女によって、セイバーを奪われたのだ。

 そして俺は意識を失った。

 ギリ、と歯噛みする。こんな所で呑気に寝ている暇など無いというのに。理屈はわからないが、今もセイバーが助けを求めているのがはっきりと理解できる。なら、立ち止まってなんていられない。

 急いで出口を探し、俺は部屋の扉を勢いよく開いた。

 と──、

 

「「………………」」

 

 丁度扉の前でドアノブに手を伸ばしていた幼い女の子と目が合い、

 

「いきゃあああああああああああああああああああ‼︎‼︎」

「わあ゛あああああああああああああああああああ‼︎⁉︎」

 

 その子がびっくりして特大の悲鳴をあげるものだから、俺も一緒になって悲鳴をあげた。二人分の悲鳴が廊下に響き渡り、隣の部屋、さらにその隣の部屋の扉が開く。

 

「──あら、起きたみたいね。おはよう、健斗君」

 

「お、お兄ちゃん‼︎」

 

「おーう、やっと起きたんかいな」

 

 隣の部屋から顔を覗かせたのは凛さん。キャスターも霊体化を解いて姿を見せる。また、さらに奥の部屋から飛び出してきた楓が血相を変えてこちらに駆け寄ってくるのを、俺は状況を飲み込めないまま呆然と眺めていた。

 楓は俺の身体に体当たりするかの如くタックルをかますと、そのまま頰を両手で挟んでぎゅむぎゅむと揉みしだく。

 

「──どこかおかしいところは? ねえお兄ちゃん、お兄ちゃんは本当にお兄ちゃんしてる? 急に豹変したりしないよね?」

 

「なッ……ひょま、おまへ、なにしへんだ。どうなっへるんはよ」

 

「後で話す……もー、心配させて……でも、よかった」

 

 肩を撫で下ろした、といった様子の楓を見て疑問符をいくつか頭の上に浮かべることしかできない俺。キャスターのほうに視線を移すと、その端正な美貌はそのままだったが、左頬に真っ赤な手の跡が残っている。それが彼の美しさに不釣り合いでシュールだった。

 

「で……お前は、なんだそのほっぺ?」

 

「勝手に気絶させて好き放題した罰やと。体罰反対」

 

 これまたキャスターが意味不明なことを述べる。すると隣の楓の目が険しくなったので、途端に彼は口笛を吹いて無関心を装った。本当に白々しい奴である。

 そういや、さっき驚かせてしまった雪の妖精みたいな女の子のことも気になる。

 その子に視線をちらりと向けると、ひえっ、と再び小さな悲鳴をあげてからキョロキョロと目線を彷徨わせた。なぜこんなにも初対面の幼い少女に怖がられねばならないのか、と不本意な気持ちになっていると、少女は隠れる場所を見つけたらしい。ててて、と廊下を走っていき──、

 

「お……フィム、そんな涙目でどうしたのさ?」

 

 丁度廊下の角を曲がって姿を現した倫太郎の陰に、ひしっとしがみついて隠れてしまった。

 

「あの人、わたしを驚かせた」

 

「……あ、目が覚めたのか。昨夜は散々な暴れっぷりだったけど、元気そうで何よりだよ」

 

 会釈代わりに手を挙げた倫太郎は両手にビニール袋を携えている。見るに何らかの買い出しの帰り、といったところだろうか。

 その緊急時とは思えない落ち着いた顔と、日常感に溢れる庶民的な姿を見て、逆に気が抜けてしまった。

 

「お、おう──倫太郎か。その子誰?」

 

「こっちの子はディミトリアスっていう……名前が無いと不便だから相談の結果「フィム」って名前になったんだけど……それよりも伝えなきゃいけない事は山ほどある。起きたんならさっそく作戦会議といこう」

 

 どうやらフィムという名前らしい女の子は、倫太郎にとてもよく懐いているらしい。彼の背中から離れようとしないので、思わず苦笑してしまってから、俺は表情を引き締めた。

 

「──悪いけど、ンな悠長な事はしてられない」

 

「な、なんだって?」

 

「……聞こえる。セイバーの声が聞こえるんだ。アイツが今、めちゃくちゃに苦しんで助けを求めてるのが分かる」

 

 これは確かな感覚だ。

 止まった心臓の鼓動。それに入れ替わるように、誰かのか細い悲鳴と助けを求める声が聞こえてくる。

 それは間違いなく、セイバーのもので──、

 

「それなら少し待ってくれ」

 

 と、部屋から顔をのぞかせた士郎さんが、俺の肩をぽんと叩いた。

 思わず振り返る俺。彼の顔を見るとなにやらよくない記憶が蘇りそうになったが、結局よく分からなかった。

 

「こういう時はまず腹ごしらえが良い。ほら、腹減ってないか?」

 

「け、けど、セイバーがっ……」

 

 いいからいいから、と士郎さんは笑う。タイミングといい、まるで俺の焦りと怒りを見透かされたかのようだ。その上で俺の気が逸りすぎている、と言外に優しく窘めてくれた気さえする。

 ──衛宮士郎。

 前回の聖杯戦争を勝ち抜いた魔術師としか聞いていないが、底知れぬものを感じてしまう。英霊を目にしているでもあるまいにこの底の見えなさとは、一体どんな人生を歩めば、人はここまで清廉な気配を纏うに至るのだろう。少なくとも俺なんかには想像もつかないものなんだろうな、という事は確信できた。

 

「君の焦りと怒りは正しい。けれど、まだ猶予はある。とりあえず部屋に入ってお茶でも飲んで、のんびり落ち着いていくといい。その間、俺が腕によりをかけるからさ」

 

 倫太郎が買ってきた食材を受け取り、士郎さんはそれを掲げてみせる。ビニール袋からはみ出た長ネギが揺れて、がさりと小さな音を立てた。どうやら彼は料理を得意とするらしい。

 と、料理をすると聞いて目ざとく反応した楓が手を挙げた。

 

「私だって手伝いますよ。これでも料理は得意なので」

 

「じゃあ手伝いを頼もうかな。……凛、後任せた」

 

「はいはい。士郎はとっととご自慢の腕を振るってきなさい。今日も期待させてもらうわよ?」

 

 ひらひらと凛さんが手を振ると、士郎さんと助手役の楓は廊下の角に消えていった。たぶん宿泊者用の共用キッチンか何かを使うのだろう。口を挟む余地のないやりとりを前にして、俺はしばしポカンと立ち尽くすことしかできないのだった。

 

 

 

 

「ごちそうさまでした、と……」

 

 士郎さんと楓が運んできてくれた料理を完食し、俺は心の底から満足して息を吐いた。

 どれも手早く作られたものながら美味いものばかり。

 食事中の話題といえば、もっぱら楓が士郎さんの腕を褒めちぎるか、質問やらコツやらを問いただす事が中心だった。それをなんだか微笑ましい目で眺めつつ、俺はのんびりと舌鼓を打つことができたのだ。

 俺と頃合を同じくして、倫太郎の隣に座ったフィムが小さな両手を合わせ、

 

「ごちそうさまでした」

 

 そう言うと、可愛らしくぺこりとお辞儀をするのだった。

 それを見て目ざとく倫太郎が反応する。

 

「お。分かってるじゃないか、フィム。どこで教わったんだい?」

 

「あの人が……前に、教えてくれた」

 

「へえ。うん……あの男とは敵同士で、相容れないところもあったけれど、僕が見習うべきものもきっとたくさん持っていたんだろうね。もう少しゆっくり、聖杯戦争なんて舞台じゃない場所で、のんびりと話をしてみたかった」

 

「倫太郎ならきっと、彼から色々学べたとおもう。私にだって、色々な事を教えてくれたんだから」

 

「あはは……きっとそうだろうね」

 

 どこか遠くを眺めて呟き、わしゃわしゃとフィムの頭を撫でている倫太郎は、どこか達観しているような雰囲気を纏っていた。

 俺と初めて会い、戦った時とは何かが違う。

 あの頃の彼にはまだ余裕というものが無かったように思える。それが、この聖杯戦争という戦場を経て、繭村倫太郎も急速に成長しつつあるのだろうか。その顔を無言で眺めつつ、そんな事を思う。

 

「──さて、皆も食べ終わったかしら?」

 

 弛緩した空気が、彼女の一声によってぴしりと張り詰める。

 ──遠坂凛。

 もう一人の聖杯戦争勝者。彼女は彼女で、衛宮士郎とは別種の、決して折れない強さを秘めているように思える。瞳を見るだけで感じ取れるほどの気持ちのいい性格をしているのだろうな、と、その強さが少し羨ましい。

 

(……なんか俺、今日は人の性格とか強さの推測ばっかりしてないか? なんで急に、人の機微にこれほど目ざとくなったんだ?)

 

 なんとなく、「わかる」のだ。

 その瞳を見ただけで、その人物が秘める強さというものが。

 それは異変の一つに過ぎない。じつは、今日起きた時から身体中が異変をきたしている。身に余るエネルギーが駆け巡って今にも破裂しそうな、そんな感覚が離れない。

 ひとまず俺の疑問は置いておいて、話題はついに聖杯戦争絡みの内容へと移るらしい。気を引き締めて、俺は凛さんの続きを待った。

 

「これからは真面目な話をするわよ。こんがらがった現状を一度整理するから、各々聞いて」

 

 そうして、現在の混沌とした戦況が、改めて言葉に置き直される。

 

 ──大敵にして元凶は、仙天島に巣食う魔術師。

 奴はバーサーカーとの戦いで疲弊したセイバーを拉致し、俺とバーサーカーのマスターであるマリウス・ディミトリアスを殺し、残る倫太郎たちを皆殺しにせんとサーヴァント複数騎を連れて攻め込んできたらしい。

 結果、ランサーとアサシンが応戦。最終的な戦績は不明ながら二騎ともが消滅。こちらに残るサーヴァントはキャスターただ一騎となったため、計画していた仙天島への攻撃計画は再考せざるを得なくなってしまった。

 

「その後、私たちは宝具の過剰作用によって暴走した健斗君、貴方に遭遇。キャスターがこれを無力化したわ」

 

「……お、俺?」

 

「ああ。君は覚えとらんやろうけどな。君の心臓に埋め込まれた宝具、そりゃあ治癒効果はオマケ、本当は「第二の魔王を生む」っちゅう宝具やったんや。そのせいで君はラーヴァナのまがい物として覚醒するも、意識を失ったまま暴走。これを僕がブチのめした」

 

 ブチのめしたとはなんだこの野郎、と反論しかかったが、その事実に衝撃を受ける形で俺は言葉を詰まらせる。

 その言葉が真実ならば、確かに、この全身を駆け巡る力の説明がつく。もっとも普段よりエネルギッシュになったからといって全く喜んではいない。生存本能が今もこう叫んでいるのだ。

 「この力を使うということは、自分から死に近付くと同義である」と。

 人が触れてはならない禁忌。引きずりだせば出すほど魂が汚染される類の悪しきチカラ。この得体の知れないものこそが、魔王ラーヴァナの力なのだろうか。

 

「それは……悪い、迷惑かけた」

 

「うむ、貸し1な」

 

 ひとまず会話を区切り、凛さんの総括に任せる。

 

「というのが、ここに至るまでに起こったことね。現状を纏めると、仙天島にには恐らく今も複数のサーヴァントが潜んでいて、しかも要のセイバーを奪われてしまった。対するこちらが頼れるのはキャスターのみ。正直なところ、かなり厳しい状況よ」

 

 その言葉に意を唱えるものは誰もいなかった。

 その現状と、何よりセイバーをみすみす奪われてしまった自分への不甲斐なさに歯を食い縛る。

 頭がこのまま爆発しそうなくらい怒っているのを自覚しているが、同時に、いかにセイバーを助け出すかを考えている自分もいる。これは士郎さんが気を利かせて、一度気を落ち着かせてくれたからだろう。起きてすぐにこのことを聞かされていたら、大雅たちの時のように激昂してホテルを飛び出していたかもしれない。それじゃあ何も変わらないままだ。

 

「……それと、悪いニュースがもう一つ」

 

 更に悪くなるのか、とげんなりしつつも、皆はしんと静まり返って凛の言葉を待つ。

 

「フィムちゃんの協力で、仙天島の魔術師、その名前が判明したわ。彼女の名前は……アレイスター・クロウリー(・・・・・・・・・・・・)

 

「あ……アレイスター・クロウリーッ⁉︎」

 

 その言葉を聞いた瞬間、倫太郎がテーブルを叩いて身を乗り出した。

 アレイスター・クロウリー。

 その名前は知らないので、俺には脅威を測るすべがない。楓の方をちらりと見てみたが、楓は楓でよく分からないらしい。無言で首を捻りながら、大声をあげた倫太郎に問う。

 

「ねえ。そのアレ……レ……アレイなんちゃらって誰?」

 

「知らないのか仮にも魔術師のくせして。いいか、アレイスター・クロウリーっていうのは世界中に知られる「最悪の魔術師」だ。時計塔と正面きって争い、神秘の漏洩をこれっぽっちも恐れず、我が道を往くを最低な形で実現し続けた、まさに悪魔みたいな魔術師だよ」

 

 倫太郎の最初の一言で口をへの字に変えた楓は、果たしてきちんと続く説明を聞いていたのだろうか甚だ不安が残る。

 そんな感じで兄として不安になる中、凛さんが補足を加える。

 

「前世紀……20世紀においては、その賛否は置いておいて、世界で最も知られた魔術師といっても過言じゃないほどの超大物よ。正史じゃ死んだ事になってるんだけど、実際はこの21世紀までピンピンしてたみたいね。そんなクロウリーは長い潜伏期間を経て、なぜかこの日本でアクションを起こした……それが、この第六次聖杯戦争」

 

 第六次聖杯戦争を引き起こした張本人は、どうも魔術師の世界では広く知られる伝説級の人物だったらしい。

 それもその異名が「最悪の魔術師」とくれば、嫌な予感しか感じられない。

 

「今、急ピッチでルヴィ……おほん。時計塔の知り合いに書庫(バンク)を探らせてるわ。詳しいことが分かれば伝えるけれど、どうも彼女は高ランクの魔眼を有していた、っていう記録があるらしいの。その力を用いて、今回の聖杯戦争を引き起こしたんじゃないかしら」

 

「俺もその説を推したい。冬木の聖杯の解体に関わったものとしては、あんな奇跡と研鑽の産物を、いくらクロウリーとはいえゼロから再現できるとは思えないからな。なんらかの反則、もしくは裏道を使ってるはずだ」

 

「だからこそ、クロウリーだけが聖杯戦争のルールを弄って好き勝手できてる、とも考えられるかもなァ」

 

「クロウリーの……魔眼、か……」

 

 少し考え込む倫太郎。ただこれ以上の議論は推測の域を出ないので、この場の議題は「如何にクロウリーの企みを阻止し、セイバーを取り戻すか」という方向に切り替わる。

 

「抑止の守護者として顕現したランサーの言葉から、クロウリーとセイバーを引き合わせちゃいけないのは分かってる。このまま何もしないでいたら、恐らくとんでもない大災害が巻き起こるわ」

 

 その大災害、というのがどんなものであるかは、これも推測する事しか出来ない。企みの詳細を知るのはクロウリー当人のみだ。

 しかし俺だけは唯一、その脅威をなんとなく感じ取っていた。

 その理由も薄っすらと分かっている。消沈しかける議論に待ったをかけるように、俺は身を乗り出して手を挙げた。

 

「俺の心臓に埋め込まれた宝具の件なんだけど」

 

「もう一人の魔王を生むマント、やな?」

 

「そうそれ。俺が起きた時からなんだけど、どうも、セイバーと俺が同調(リンク)してるような感覚があるんだよ」

 

 ほう? とキャスターが興味深そうな声を発する。

 他の一同も余計な口を挟まず、俺の言葉を待っている様子だ。

 

「令呪みたいな主従契約はもう失われてるけど、多分この宝具を介して、俺とセイバーはより太いラインで繋がってるんだ。それで……それを通って、俺に流れ込んでくるんだよ。あいつの力と、黒と赤のドロドロしたよくない何か……それと、あいつの消えかけの意識が」

 

 無意識に拳を握り締める。消えかけで瀕死に喘いでいるこの声は、確かにセイバーのものだ。これが宝具というラインを介して俺に伝わり、俺の心臓で響いている。

 

「セイバーとの繋がったパスから、彼女が危機に瀕している事を健斗クンは理解できると。しかし、「よくない何か」っちゅうんは、まさか……」

 

「恐らく、この世全ての悪(アンリマユ)ね」

 

 先取りするように、凛さんが聞きなれぬ単語を口にした。

 アンリマユ……というのは、一体何か。

 知らない単語でありながら、何故か聞いた瞬間に鳥肌がたった。つまるところ、それほどの何か、という事なのだろう。

 

「アンリマユっていうのは、聖杯に巣食う極大の呪詛だ。言ってしまえば世界全ての悪性を凝縮したモノ。まっとうな人間が触れれば狂死するし、英霊でも正気を保てない、おぞましい代物だよ。これが原因で、冬木の聖杯……そして恐らく今回の聖杯も、願望機としての役割を正常に果たす事はない」

 

 それを聞いて絶句したのは俺と楓だった。

 しばし沈黙してから、楓が信じられないとばかりに首を振る。

 

「──ちょ、ちょっと待ってよ‼︎ 聖杯は願望機なんでしょう、なんでも願いを叶えてくれる器なんでしょう⁉︎ それが果たされないなら、私たちは何のために戦ってたの⁉︎」

 

「「「────…………」」」

 

 その悲痛な問いに答えられるものはいない。

 楓は、俺と合流してからずっと、「俺を蘇生させる」という願いのためにセイバーと共闘して戦ってきたのだ。

 それが、この土壇場でその願いが叶うことはないと知らされれば、そのショックは大きいだろう。

 そもそも、その願いを抱いていたのは俺だ。

 この聖杯戦争を終わらせ、死に絶えた身体を元に戻す。

 それが俺が戦うと決めた最初の理由で、変わることのない目標だったのだ。それが急に達成できないと知らされて、俺も少なくとも頭が真っ白になるくらいには衝撃を受けている。

 

「……ごめん、志原」

 

 そんな沈黙の中。

 ぽつりと、倫太郎が言った。

 

「君にこの事実を伝えるべきか迷ってはいた。でも……兄を蘇生させようとする君のひたむきな姿を見たら、どうしても僕には伝えられなかった。これはひとえに僕の責任だ」

 

「……っ」

 

「貴方も知らなかったのかしら。健斗くん」

 

「そう、ですね」

 

 俺たちが求めていた聖杯は、最初から使えない欠陥品だった。

 これで、俺が生きる道は閉ざされてしまったわけだ。

 その事実は理解してるけれど、実感がない。何度も死にかけたのに今もこうしてしぶとく生きているから、死が身近になってしまったのだろうか。

 

「でも……それは、いい。今はセイバーをどう助け出すか、俺たちはそれを考えるべきだと思う」

 

 俺の答えは、本心そのままの答えだった。

 命が危険に晒されているのは許容できないが、それよりも、セイバーが苦しんでいるという現状はその恐怖を無視してでも許せない。

 俺の意見に楓が反論しそうになるのを、キャスターが片手で遮った。

 

「道は無いわけじゃない」

 

「えっ……そうなの? 聖杯は使えないんでしょう?」

 

「それはそうや。けど、セイバーを助け出して、健斗クンたちがこの聖杯戦争の勝者になれば、消えゆくセイバーを現世に留めることが出来る。そうすれば君が死ぬこともないやろ? まだ可能性はあるから、そう簡単に諦めなさんな」

 

 そう言うと、例のごとくキャスターはどこからともなく取り出した煎餅を齧った。楓は可能性が残されている事実に安堵したのか、ほっと胸を撫で下ろした様子だ。

 

「俺なら大丈夫だよ。だから話を進めよう」

 

 誰かさんみたいに鼻を鳴らして、覚悟を決める。

 自分の命については、ひとまず目の前の課題を解決してから考えよう。セイバーを助け出して、クロウリーの企みを阻止して、それから猶予があればゆっくりのんびり対策を考えればいい。

 さて、そうなれば作戦会議の続きだ。

 

「えー、アンリマユ、だよな……そう聞いて納得がいった事がある。伝わってくるセイバーの意識と感覚から察するに、たぶんセイバーは聖杯に巣食う極大の悪意……つまりはアンリマユに呑まれてるんだと思う」

 

「なんだって?」

 

 倫太郎がずい、と上半身を乗り出して話に食いついた。

 自分の胸に手を当てて、俺は続ける。

 

「俺が意識を失ったまま暴れてた理由も分かる。聖杯の中の「アンリマユ」って奴が、セイバーとのパスを逆流して俺に流れ込んだことがきっかけなんだ。キャスターがそれらを封じてくれたおかげで、今はアンリマユの呪詛がせき止められてるけどな」

 

 セイバーと同調した俺にしか理解できないフィーリングの話なので説明が非常に困難だが、なんとか身振り手振りで伝えんとする。

 

「けど本体のセイバーの方は、こうしてる今もアンリマユに侵食されて、悪性を取り込んだ最悪の「魔王」になりつつある……っていうのが、現状なんだと思う。そんな夢も見たしな」

 

「成る程、合点がいった。これで、どうして急に君の「耐え難き九の痛酷(ラーマーヤナ)」が活性化し、健斗クンが突然第二の魔王として目覚めたんかの理由も説明できる」

 

「どういうこと? キャスター」

 

「んー……聖杯っちゅうんはアンリマユを蓄えると同時に、無尽蔵の魔力を秘めた盃でもあるんやろ? なら簡単や。恐らく攫われたセイバーは、聖杯と接続した(・・・・・・・)んやろ。そうして健斗クンの方にも聖杯が持つ「無限の魔力」と「アンリマユ」の二つが逆流し、君はその二つの影響をモロに受けて、強大な力と高次の再生能力を持つ悪鬼と化したんや」

 

 聖杯の持つ莫大な魔力が俺が持つ耐え難き九の痛酷(ラーマーヤナ)に逆流し、その効果を活性化させたことで、俺は首を刎ねられても修復するほどの再生能力と、セイバーと同種の力を手に入れた……ということなのだろうか。

 つまりクロウリーは俺を殺しておきながら、セイバーを聖杯に接続させたことで、かえって俺を生かしてしまったわけだ。

 もっともアンリマユとかいう余計なモノまで押し付けられたせいで大変だったらしいが、それはキャスターが解決してくれた。

 つまるところ──、

 

「今の俺には、聖杯からセイバーを通じて引き出せる無尽蔵の魔力と、羅刹王(セイバー)の力が残ってる。なら、この力を役立てる事ができるはずだ。そうだろ」

 

 そう言うと、俺は軽く掌を掲げる。

 全員の視線が集中する中、俺は手の中に、見慣れた蒼色の火花を散らしてみせた。

 力を引き出すのに苦労はしない。例えるなら自転車に乗るのが当たり前に出来るように、今の俺にとって、彼女の力はごく当たり前のものになってしまったのだと思う。

 

「…………………」

 

 それを見てなお、キャスターは無言を貫いた。渋い顔で、まるで俺がその力を振りかざすのを忌避するような表情だった。

 それでも今は戦力が足りない。

 サーヴァント数騎を相手取るならば、キャスター一騎では限界が来る。せめてセイバーが果たすはずだった役割の半分くらいは、まがい物の俺でも担えるはずだ。

 

「頼むよ。キャスター、教えてくれ。お前なら策の一つ二つあるんだろ?」

 

「……あい分かった。その確固たる意志に免じて、これからどうやってあの島を堕とすか──その作戦を立てるとしよか」

 

 

 

 

 それから、しばらくして──。

 

「んじゃあ、行ってくるよ。キャスター、例のあれ(・・・・)の準備ありがとな。お前のおかげで希望が見えてきた」

 

「構わん、が……」

 

 荷物をまとめた俺は、そうして楓たちに別れを告げていた。

 といっても、持って行くものはほとんどない。なけなしの現金くらいがポケットにねじ込まれているだけだ。

 これから一度家に帰って、武器やらを調達してから、改めて二県ぶんも離れた「とある場所」に向かう。そこから俺は直で仙天島に向かうのだ。いわゆる、単独行動というやつである。

 

「………………」

 

 楓が、弱気な目でこちらを見ている。

 なんでそんな目をするんだよ、と笑ってから、昔のように頭を撫でた。

 

「俺は大丈夫。きっとセイバーを連れて、ごたごたも全部解決して家に帰るよ。俺たちの家にな」

 

「うん。……お願いだから、気をつけて」

 

 楓、倫太郎、キャスター、士郎さん、凛さん、フィム、都合六人に手を振って別れる。

 サーヴァントはキャスターしか残っていないし、クロウリーのそばには数騎のサーヴァントが控えている。この圧倒的劣勢を覆せるかどうかは、キャスターが考えてくれた秘策と、俺の頑張りにかかっているといっても過言じゃない。

 頬を叩いて気合を入れてから、俺は旅館の玄関を出た。

 灰色の曇天の下、タクシーを探しながら思い出す。

 病院に送られた親友の安否を確認するくらいの時間はあるから、お見舞いを先に済ませておこう。アイツのことだから、とびきり豪華なフルーツの詰め合わせなんかを持っていくと喜ぶかもしれない。

 

「健斗クン」

 

 と。

 背後から呼び止める声がして、俺はぴたりと足を止めた。

 

「キャスター?」

 

 振り返って彼の顔を見る。そこに張り付いていた表情はどこまでも真剣な、キャスターらしくない顔だった。

 思わず苦笑して、何の用だと問うてみる。

 

「分かっとるんやろ? その力を使うことの、意味を」

 

 静寂の風が、俺とキャスターの間を吹き抜けた。

 俺は口を閉ざして、答えに詰まる。

 

「楓ちゃんの手前、事実は口にできんかったが……その力は真っ当な人間には御しきれぬモンや。それを使って、わずかな可能性に縋って戦い抜いて、仮にセイバーを救い出せたとしても……君は死ぬ」

 

 ……分かっている。そんな事は、ずっとずっと分かっていた。

 昔、それとなくセイバーに言われたこともある。俺の胸の内で眠る羅刹王の力は、俺に破滅をもたらすもの。それに手を伸ばしたが最後、まともな結末は迎えられないだろう、と。

 実際、もう、魂にガタがきているらしい。

 手足の感覚は恐ろしいほど軽く、身体はカラになったように薄っぺらい。それが逆に恐ろしい。ありあまる力はあるのに、決定的な破滅がすぐそこに待っている感覚がある。果たして俺という人間はあと何日、何時間、こうして動いていられるのだろう。

 考えれば考えるだけ怖い。恐ろしい。けれど──、

 

「いいんだよ、キャスター」

 

 それでも、俺は笑ってそう答えた。

 

「俺はさ、もう決めたんだ。アイツをもう二度と、魔王なんかにはさせないって」

 

 かつて、彼女にかけた言葉がある。

 お前は魔王なんかじゃない──と。

 あの言葉を吐いた以上、俺には責任がある。

 彼女がもう一度、誰かに歪められた道を歩まんとするのなら。他でもない俺がその背を抱きとめて、彼女を止めてやらなくてはならない。

 それは責任でもあると同時に、俺の、たった一つの願いだ。

 

「不思議だよな。死ぬのは怖くて、嫌で、俺はそれでこの聖杯戦争に飛び込んだんだ。でも、いつのまにかゴールがすり替わってた。アイツの哀しい認識を変えることだけが、俺の目標点になってたんだ。だから、今更目標を変えるつもりはない」

 

 キャスターに向けて、そして同時に俺自身が最後の覚悟を決めるためにも、高らかに宣言をする。

 

「俺はアイツをなんとしても救い出す。たとえその果てに、この魂が燃え尽きたとしても構わない」

 

 そう言い残して、俺は彼に背を向けた。

 前を向いて歩き出す。空を覆う曇天は変わりなく、背筋に潜む死の予感は確実。間違いない破滅の前兆を感じながら、それでも折れずに進んでいく。

 こうしている今も、セイバーが助けを求めているのだから。

 

「最後に、聞きたい」

 

 キャスターはもう俺を追うことなく、静かな声でそう問うた。

 

「君は何故、そこまでして彼女を救わんとする?」

 

 変な声だった。まるでキャスターのものではないような、彼の裏に潜む誰かが述べているような、そんな不思議な質問だった。

 その問いについて考えた途端、色々な記憶が、光の速さで頭の中を駆けていった。どれもが満月よりも綺麗に輝いていて、いつもその中に、ひとりの女の子が立っていた。

 わずか一秒と要らずに、振り返ることなく結論を出す。

 考えるまでもない。

 迷う余地なんてありはしない。

 その答えなんて、ずっと前から決まっていた。

 

 

「──……アイツのことが、好きだからだ」

 

 

 それが、俺と彼の間に交わされた最後の言葉だった。

 俺は再び歩き始め、もう振り返ることはなかった。

 やり残した事がない訳ではない。悔いも無念もまだ残っている。それでも、振り向いたらそこで終わりだ。唇を噛み締めて、前へ。

 

「その尊い感情。私が決して抱けないモノ。しかしてその輝きと、純粋にそれを信じんとする君に……心の底から、最高の敬意を表そう」

 

 キャスターの言葉。

 俺にはもう、何を言っているのか分からなかったけれど──。

 

 その言葉は風に乗って、俺の背中を押してくれた気がした。




【志原健斗】
セイバーが聖杯と接続し、その無尽蔵の魔力が逆流して彼が持つ宝具に流れ込んだため、「第二の羅刹王」として目覚めてしまう。
セイバーと同調しているため、基本的にセイバーと同じ力を扱うことができ、セイバーが力を得るほどに彼も力を得る。魔力もパスを通じてセイバーから引っ張り出すため実質無限。
ただし、羅刹王の力は人ならざる魔が担うものであり、純粋な人の魂ではその穢れに耐えられない。力を使えば使うほど死期は近づき、理性は崩れ、やがて魂すらも食い潰されてしまう。


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七十八話 ただ一つの正義/Other side

『夏も終わり、秋が始まりつつある今にぴったりのニュースです。今日の夜にかけて、日本では普段よりも大きく美しい満月、いわゆる「スーパームーン」が観測される見通しで……』

 

 時間は午後二時。普通の人の感覚からすると、お昼過ぎののんびりとした時間帯だ。

 楓はニュースを垂れ流す部屋のテレビを切り、敷いた布団の上で唸りながら背筋を伸ばした。膝の中で猫のように丸まっている同室のフィムは、今はすやすやと寝息を立てている。こんなに幼いのに疲れが溜まっているだろうから、ゆっくりと休んで欲しいと楓は思う。

 

 ──戦いの始まりまで、あと残すところ10時間ほど。

 

 今日の夜遅くにここを発ち、明け方までに決着をつける。

 向こうの戦力は未知数、こちらの戦力はキャスターと不安定な兄のみ。はっきり言って勝ち目のない戦いだ。明日の今頃、自分が生きているという保証はどこにもない。

 

「…………」

 

 それを思うと──手先が、震えそうになる。

 フィムにそっと布団を掛けてあげながら、その恐怖と格闘する。

 魔術師である以上、死はすぐ近くに潜んでいるものだ。それは理解しているし、戦いの中で幾度も楓は絶体絶命の危機を乗り越えてきた。

 それでも、今は違うのだ。

 なまじ死地に赴くまでの時間がある分、自分から進んで絞首台に歩いていくことを強制されているような、じわじわとした恐怖が心に満ちていく。

 

「……駄目よね、こんなんじゃ」

 

 そう呟いて立ち上がる。

 うじうじ怖がっているだけなんて、それでは何も変わっちゃいない。いつかアサシンが言った通り、何もできない弱虫のままだ。それだけは、ずっと逃げ続けるなんて事は、もう許せない。

 

 戦いの前に、為すべきことを為しておこう。

 

 ゆっくりと息を吐いて、顔を上げる。

 迷いも躊躇いも振り切った。

 楓はひとつの覚悟を決めて、そっと部屋の扉を開けた。

 

 

 

 

「ねえ、起きてる?」

 

 布団の中、あまり襲ってこない眠気をなんとか呼び起こさんと足掻いていた倫太郎は、その声を聞いてはっと目を開けた。

 声のあと、ゆっくりた扉が開いた音がする。その奥から聞こえたのは、間違いなく楓のものだろう。それがいつもより少し沈んだ声だったので、倫太郎はやや困惑する。

 

「……寝てる」

 

「起きてんじゃないの」

 

 楓が呆れた声で返すので、倫太郎は微かに口元を緩ませた。

 しん、と静まり返る部屋。一体何の用件なんだろう、と倫太郎が身体を捻って楓の方に向き直ろうとしたその時、素足が畳を踏みつける音が聞こえた。

 それの意味するところを理解する前に、人の気配がすぐ近くに迫る。

 倫太郎が反射的に振り返ろうとするのを、楓は声で静止した。

 

「……そのまま、ずっとそっち向いておいて」

 

 楓が身体をかがめて、布団を持ち上げ、ちょっと手間取りつつその隙間に身体を滑り込ませる。

 その一連の動作を見るまでもなく感じ取った倫太郎は緊張で一言も発せぬまま、楓がぴたりと身体を密着させるまで固まっていた。

 ひとつの布団の中、二人は距離をゼロにしている。

 身体の仄かな熱と柔らかさを同時に感じて、倫太郎は息を呑んだ。咄嗟に何か言おうとしたけれど頭が真っ白になって何も言えないくらいには衝撃を受けて、同時に緊張していたのだ。

 

「……あったかい」

 

「そっ──そりゃ、さっきまで僕が寝てたんだから。当たり前だ」

 

 上ずった声で言葉を返す。

 それを知ってか知らずか、楓はいっそう身体を近づけたようだった。相変わらず口は固まったままで、向こうから何かを言ってくれないと、倫太郎は意味のある言葉を述べれられそうにない。

 

「ねえ、倫太郎」

 

「な、なに」

 

「今日の夜はきっと、最後の戦いになるのよね」

 

 それを聞いて、倫太郎は無言で唾を飲む。

 ──最後の戦い。

 それは正しいだろう。明日には、どんな形であれ、この聖杯戦争が終わりを迎えているであろう事くらい、倫太郎にも予想はできていた。

 

「……私達、生きて帰れると思う?」

 

 ひどく小さな声で、消え入るようなか弱い声で、楓はそんなことを呟いた。

 その表情は見えない。けれど、倫太郎には何となく予想できた。そんな彼の背中に額を押し付けて、彼女は続ける。

 

「そんな事、きっと誰にもわからない。きっとキャスターにだって。だから今のうちに……私と倫太郎が生きている間に、アンタと話がしておきたかった」

 

「……話、って?」

 

「それ、は」

 

 楓が、少し言葉に詰まった様子を見せた。

 喉の奥に言葉が引っかかってなかなか出てこないような、口にするのを躊躇っているような。それでも無理を通して、楓はゆっくりと、いつもの調子で言った。

 

「二年前のこと。倫太郎が、全部を無かったことにした日のことよ」

 

 それを聞いて、倫太郎は無言で目を閉じる。

 きっと、あの裏切りのことだろうと、とうに倫太郎は覚悟していた。そして、その事実と向き合う決意も。

 そんな倫太郎に対し、楓は淡々と言葉を重ねる。

 

「……私は、ずっと倫太郎を憎んでた。恨んでたわ」

 

「それは……僕の責任だ。君に恨まれるには十分過ぎることを、僕はした」

 

 楓は無言で、その言葉を受け入れる。

 

「……そうね。二年前にあんな事があってから、私はアンタのことを……その、例えるならマリウスみたいな魔術師だと思ってた。結局アンタも他の魔術師と同じで、私をゴミみたいに扱うんだって、バカみたいにヤケになったまま。ずぅっとイライラしたまま過ごしてた」

 

 二年前、倫太郎は楓に言ったのだ。

 「二度と僕に関わるな」と。

 繭村の体裁を保つ上で、嫡子である倫太郎が楓との繋がりを持つなど、それこそ芸能人のスキャンダルにも匹敵する一大事だ。それは理解してはいたが、楓は若さゆえか、愚かにも信じていた。

 倫太郎なら、きっと私のそばにいてくれる──と。

 結果は知っての通りだ。倫太郎は楓を突き放し、彼女は絶望に打ちひしがれた。それから二年、この聖杯戦争が始まるまで、彼らは一度たりとも言葉を交わしたことはなかった。

 

「でもね」

 

 楓はそんな前置きをして、続ける。

 

「二年ぶりにアンタと話すうちに、そんな事はないって分かった。……当たり前よね、最初からわかってたはずなのに。繭村倫太郎はそんな奴じゃないって」

 

 それは優しい声色だった。それと同時に、その過去を心から悔いているような、そんな色が滲み出ていた。

 

「たとえアンタが、「繭村家」なんてものの責務に縛られて、自分の意思を持たないロボットじみた奴だったとしても……倫太郎は私を助けてくれた。私に魔術を教えてくれた。それは他の誰でもない、倫太郎の意思だったんでしょう?」

 

 それだけではない。

 この聖杯戦争を戦い抜く中で、倫太郎は楓を倒すどころか、最初から彼女とだけは争う姿勢を見せなかった。繭村の意思に従うだけの倫太郎(ロボット)としては、あまりにも不自然な行為であるにも関わらず。

 つまり。そこにきっと、彼の希薄な意思が秘められているのだ。

 

「い、し……僕に足りない、もの」

 

 アサシンと楓に諭され、マリウスとの戦いを経たことで、倫太郎は既に知っている。

 自分に足りないものは勇気ではない。何を正義として魔術を使うかという、確固たる意思なのだという事を。

 それが一体なんなのか。

 自分が掲げるべきものを掴めそうで掴めないまま、倫太郎は最後の一歩を踏み出せないでいた。

 

「だから、教えてほしいの。なんで倫太郎は自分の意思を捻じ曲げてまで、責務を優先させなきゃいけなかったのか……その理由を」

 

 背中に身体を寄せる楓が、倫太郎のシャツをきゅっと握る。

 その手から伝わってくる、弱々しくもめげずに勇気を振り絞るさまを感じ取って、倫太郎は目を開いた。

 ──明かすべきなのだろう。

 二年前のあの日、なにがあったのかを。自分がなにを思い、そして、これからどうしたいのかを──。

 倫太郎は決意を胸に、前を見つめて口を開いた。

 

 

 

 

 繭村倫太郎。

 繭村家の嫡子に天才児として生を受けた彼には、幼き頃から徹底的な英才教育と、人格形成の調整が行われた。

 その血の一滴に至るまで、全ては繭村家の為に。

 成長するにつれ、彼は次第に意思というものを失い、全ての行動を「繭村家」にとって利か害であるかによって決定するようになっていった。それが悲しい事であるという事実を、認識する自由もないままに。

 

 そして、とある夏の日──。

 黄色いリボンをつけた女の子が倒れるのを見た瞬間、機械的に生きることを定められていた倫太郎の運命は変わったのだ。

 

 その女の子の名前は、志原楓といった。

 知らないはずがない。この大塚に住むもう一人の魔術家系の子にして、かつて倫太郎が傷つけてしまった女の子だ。

 志原の魔術師など、言葉を交わすことすら忌まれる禁忌。生きようが死のうが知ったことではない。このまま捨て置けと、繭村家の総意に沿うよう調整された意識が訴えかけるのにも関わらず、倫太郎は迷う事なく彼女を抱き上げていた。

 

「──おいっ、しっかりしろ‼︎ なにがあった⁉︎」

 

 頭痛がする。ひどい頭痛だ。例えるならありえない異常行動に脳が処理に失敗しているような、そんな痛み。

 それでも無視して、彼は楓を助けた。

 理由なんてない。ただ、とても久しぶりに、身分も生まれも無視して「そうしたい」と感じたから、彼はそうしたのだ。

 

『……なんで、私を助けるのよ』

 

『君には大きな貸しがある。それを返したかっただけさ』

 

 意識を取り戻した楓に、倫太郎はそんな事を言った。

 半分本当で、半分嘘だ。

 たとえ幼い頃の貸しが無くたって、自分は彼女を助けただろう。何故かは分からないが、彼女を見つめていると感じ取れる心の暖かさが、言外にそう告げていた。

 

『あの時はごめん。──うん。今度は守れたみたいで、良かった』

 

 それが、全ての始まりとなった。

 繭村倫太郎にとって大きな存在となる「志原楓」という魔術師との交流は、そうして始まったのである。

 

 

 

 

 ──月日が経っても、倫太郎は楓と会い続けた。

 弟子と師の真似事までして、楓の面倒を見続けたのだ。

 自分に求められる責務とは相反した、許されないことをしている。そんな自覚は常にあって、今すぐ楓との関わり全てを破却しろと歪んだ意識が叫んでいたが、倫太郎は全てを無視した。

 その理由は一つしかない。

 彼女と話し、関わり続けることが、楽しかったからだ。

 

『あーもう、なんだか気がつまってきた。なんかやってよ、倫太郎』

 

『だから毎度毎度僕に無茶振りをするのはやめてくれよ……まあいいけど。これが終わったらイメージ構築だからな』

 

 楓のあんまりな物言いに呆れながら、倫太郎は笑っていた。

 なんかやってよ、だなんて。極東に名を轟かせる繭村、その天才たる跡継ぎにその奇跡を見せてほしいだなんて、普通なら途方もない額の拝見代を積まれるのが当たり前だ。だというのにこの少女は何の気なしに、友達に頼むかのような気軽さである。

 彼には逆にそれが心地よくて、嬉しかった。

 心地よかったのはその時だけでは無い。彼女といると、どんなことだって、経験したこともないくらい素晴らしいもののように思えた。

 奥底に秘められていた本当の自分が、この時だけ、彼女と共にある一瞬だけは表に出せるような気がしたのだ。

 

『………………』

 

 声には出さずとも、倫太郎は感謝していたのだ。

 色を無くしたような日々を、彩りで染め上げてくれた彼女に。

 思い返してみれば、たくさんのことがあった。

 

 ──時には笑いあって、

 

 ──時には取っ組み合いのケンカをして、

 

 ──時には同じご飯を食べて、

 

 ──時には魔術について語り合い、

 

 ──時には心の傷を共有した。

 

 許されない繋がり。ありえない関係。

 それでも彼らは互いに互いを大切に想い、尊敬し、信頼していた。

 倫太郎と楓はそれほど良き友人であり、きっと、それ以上になれるくらいに仲のいい二人だったのだ。

 

『倫太郎、どうしたの?』

 

『なんでもないよ』

 

(あり得なくとも……もし、叶うなら──)

 

 叶うなら、ずっとこのまま。

 この小さな倉庫の片隅で、魔術も繭村のしがらみもぜんぶ捨て去って、共に在ることができればいいのに──。

 倫太郎は純粋に、消えかけの意思で、ただそう願い続けていた。

 

 

 

 だが。その幸せであり得ざるユメは、ついに終わる時を迎えた。

 二年前のある日。倫太郎は久方ぶりに父に呼び出され、そこで通告を受ける運びとなった。

 魔術刻印の移植、及び繭村家当主を継承するにあたる様々な手続きや、各方面への連絡など。面倒な課題が山積みになる中で、倫太郎は一つだけ気になることがあった。

 

「……父上。何故、最終試験が僕には課せられないのでしょうか」

 

 繭村の魔術師が、当主の座を得る際に要する最終試験。

 しかしそれが、倫太郎には与えられなかったのだ。

 理由は簡単だった。繭村倫太郎という少年は、最終試験などする必要すらないほどに、才覚に恵まれた天才だったからだ。

 しかし同時に、そんな倫太郎にも一つの欠点があるということを、彼の父親は見抜いていた。その欠点とはすなわち、本来相容れぬ者にさえ絆されてしまう……繭村の当主には不要な、"甘さ"だ。

 そして倫太郎の父は、彼がひそかに志原の魔術師と密会を重ねていることを、倫太郎に事実として突きつけた。老いたとはいえ慧眼を誇る倫太郎の父の前では、彼の隠し事も意味を成さなかったのだ。

 

「ぐっ……黙ってアイツに会っていたことは……謝罪します。しかし、彼女が志原の一族とはいえ、実情はちょっと魔術をかじったくらいの女の子だ。そこまで忌み嫌う理由もない、出自だけで害だと判断するのは間違って……‼︎」

 

 倫太郎の言葉を遮るように、彼の父は無言で倫太郎を睨みつけた。

 ──わざわざ自分が言わずともいい。

 ──当主になる以上、そんな子供じみた理屈が通用するわけがないと、お前も理解しているはずだ。

 彼の顔は無言のままに、倫太郎にそう告げていた。

 

「………………っ」

 

 倫太郎だって分かっていた。家柄や名声が重要視される魔術の世界において、「志原のような一族と、繭村の当主たる人間が繋がりを持っている」という事実は、なにより繭村家の権威を失墜させる原因たり得る。

 だからこそ志原との関係を悟られぬよう、ここまで立ち回ってきたつもりだったのだが。

 

(まさか筒抜けだったとは……くそ、どこで勘付かれた)

 

 悔いる間もなく、さらに続けて父の口から語られた言葉に、倫太郎は愕然とする。

 

「な……僕が考えを変えないなら、繭村の手で志原を消す(・・)と……⁉︎」

 

 繭村家の権威と勢力を持ってすれば、自らの管理地内における一人二人の殺人など容易いことだ。それが例え魔術師の子息であろうと、彼らの権威の前には関係ない。

 あの少女は人知れず殺され、闇に葬られることだろう。

 

「それが……そんなふざけたやり方が、繭村のやり方だと仰るんですか……?」

 

 怒りに肩を震わせる倫太郎に、父親は言葉を投げる。

 「この処置に不満ならば、私達が手を下すよりも早く、お前自らの手で奴との全てを断てば良い。これをお前に向ける最終試験とする」と。

 選択肢など無いようなものだった。

 

 自らの手で全てを無かったことにするか。

 それとも、あの少女が殺されるのを見送るか──。

 

 それから数時間後。

 倫太郎は無言のまま、廃工場へ向かう農道を、自転車に乗って走っていた。

 木刀をひっつかんで家を飛び出したものの、まだ覚悟は決まっていない。

 彼は魔術を使うことが嫌いだが、今回のそれは、生涯において最低な魔術行使になるであろうことは予想できた。なにより一度志原の顔を見てしまえば、踏ん切りがつかなくなることは目に見えていた。

 だから彼は約束の時間より早く、こうして自転車を漕いでいる。

 

(志原との関係の全てを、断つ……そんなことが、できるのか)

 

 責務と相反する己の意思が、心の内で暴れている。

 

(いや違う。前提として僕は繭村の魔術師だ。だからこそ、たとえどんな事だって……それが僕の責務上必要とされるのなら、僕は絶対に遂行しなくちゃならない。「繭村の魔術師」であろうとする事だけが、僕の存在理由なんだから)

 

 あれこれ考えているうちに、彼は見慣れた廃工場に辿り着いた。

 自転車を止めて、敷地の端にひっそりと立つ小屋に向かう。その扉を開けると、どこか懐かしい香りが鼻腔を刺激して、倫太郎は思わず目を細めた。

 目線を巡らせれば、色々なものが目に飛び込んでくる。

 楓に見せるつもりで積んである魔術書の類。興味本位で持ってきた魔術礼装もどきのガラクタ。床に転がっているのは、もはや魔術など何の関係もないキャッチボール用のグローブとボール。

 そのどれもが、まるで宝石のように、大切な思い出を秘めている。

 

(僕は……僕は、魔術師だ。だから、これを──……)

 

 ……自分には、できそうにない。

 これら全てを燃やし尽くして、大切なひとを裏切ることなんて、自分には到底できそうにない。

 小屋の中で一人もがいた葛藤の末に出した結論は、それだった。

 それが、「繭村倫太郎」という人間の答え(いし)だった。

 

 だが、たとえ不可能でも、やるしかない(・・・・・・)のだ。

 やらなければ、死ぬ。大切な人が死ぬ。

 

 もう少しで志原がやって来るだろう。それまでにケリをつけて、自分は過去を無かったことにしなければならない。

 

(……志原は、怒るかな。そうだよなあ、数十発は殴られても文句言えないよ)

 

 ──ふと、彼女の顔を思い描いた。

 初めて会った時には、ずいぶんと危険に巻き込んでしまって。

 数年後、次に会った時は強烈だった。いきなり路上でぶっ倒れて、目を覚ますなり野良猫じみた警戒ぶり。挙げ句の果てに散々文句を言われるし。

 それが何の因果か、こうして師弟関係を結ぶまでに至った。

 楽しかった。思い出すだけで笑ってしまうくらい楽しかった。

 倫太郎は魔術を使うのが大嫌いだったが、自分ならぬ彼女のためならば、まったく苦にせず魔術を行使することができた。この場所は、辛い魔術の研鑽だけで埋め尽くされた倫太郎の生涯の中で、もっとも暖かさに満ちた場所だと断言できる。

 考えても、考えても、駄目だった。

 限りなく冷静に、どこまでも冷徹にあろうとする思考に反して、脳裏に色々な志原の姿が浮かんでくる。

 

 思えば──志原楓という魔術師は、自分を「繭村の後継者」という肩書きを抜きにして見てくれる、たった一人の存在だった。

 繭村の嫡子でもなければ、稀代の天才でもない。

 「繭村倫太郎」というひとりの人間にあそこまで接してくれた魔術師は、後にも先にも存在しなかった。

 

(だからこそ、このままアイツといたいと願ってしまうのか──)

 

 けれどそれは、決して叶わぬ幻想だ。

 ここで倫太郎が木刀を投げ捨てたとしよう。己が役割を全て放棄し、自分自身の感情に従うとしよう。

 だが──そうして志原を連れて出来る限り遠くに逃げようとしたって、自分たちは所詮、この世界では無力な二人の子供に過ぎない。いつかは限界が来て、繭村の連中に追い詰められる。

 そうなれば二人揃って野垂れ死にだ。

 そんな簡単な予想から目を背けるほど、倫太郎は愚かではなかった。

 

(時間がない。覚悟を決めるんだ、繭村倫太郎。自分の意思なんて切り捨てろ、そうすればアイツだって助かるんだから)

 

 繭村の魔術は"概念切断"。それは目に見えぬモノすら断つ、奇跡の斬撃魔術である。

 志原との間に積み上げてきた、目には見えない大切なものだって。

 繭村の魔術師たる倫太郎の刃ならば──容易く両断してみせることだろう。

 一度深く息を吸い込んで、倫太郎は全てを放棄した。

 

 心は零度よりもなお冷たく。

 鉄のように頑なで、もう揺ぎはしない。

 

「剣鬼、抜刀」

 

 たった一言の詠唱を口にした瞬間、彼の周囲で激しい暴風が巻き起こった。

 凄まじい回転速度で、才能の怪物たる繭村倫太郎の魔術回路が駆動を始める。普段ならばあり得ないほどの回転数。奇跡をなす準備は、ものの数秒を待たずに果たされる。

 この時の倫太郎に、魔術に対する嫌悪感は存在しなかった。

 何故ならこの魔術行使は、決して「自身の為」ではないのだから。

 

(ごめんよ、志原)

 

 ──この一刀は己が為ではなく。

 ──ただ、自分が最も守りたいものに捧げる最後の魔術。

 

 最後に彼は目を閉じた。それが燃え尽きていく様を、出来る限り直視したくはなかったから。

 そうして──。

 轟々と燃え盛る刃を、倫太郎は倉庫に振り下ろしたのだ。

 

 

 

 

 その葛藤の吐露を無言で聞いていた楓は、彼が語り終えてもなお、無言のままで固まっていた。

 なんと言っていいのか分からないので、倫太郎も無言を保つ。

 しばらくしてから。

 長いのか短いのか分からない沈黙の果てに、楓が口を開いた。

 

「……なによ」

 

 言葉の意味が分からずに聞き返そうとする倫太郎を遮って、楓はその両手で、ぎゅっと倫太郎のシャツを握る。

 

「じゃあ……アンタは、責務を優先させてなんかいなかった」

 

 楓は反射的に思い返していた。

 二年前、かつて自分を助けてくれた倫太郎の姿と。

 二年の時を経てなお、命を賭して黒泥のバーサーカーの前に立ち塞がった、彼の姿を。

 

「昔からずっと変わらずに、ただ、私を守っていてくれていただけじゃないの──」

 

 その言葉を聞いた刹那。

 倫太郎の頭の中で、最後のピースが埋まった音がした。

 

「それなのに……私……ずっとアンタを……」

 

 絞り出される声が震えている。倫太郎はその声を聞いて、楓の言いつけも忘れて身体をぐるりと反転させた。

 狭い布団の中で倫太郎がいきなりこちらを向いたので、びっくりして視線を彷徨わせる楓。それに構わず、倫太郎は楓の顔を覗き込んで、そっとその両目に溜まる涙を拭う。

 

「こ、こっち見ないでって言ったでしょっ」

 

「いや見る。君に言わなきゃいけないことがあるから」

 

「な、なによぅ……急にハキハキして……」

 

 しどろもどろのまま、楓はもう参ったとばかりに動くのをやめ、倫太郎と間近で向かい合う。彼の瞳。美しく純朴なそれを、本当に久しぶりに、こうしてまっすぐ見たような気がした。

 そうだ──。

 二年前に、初めてこの綺麗な瞳を見た時。志原楓は、彼を信じてみたいと思ったのだ。

 そんな事を思い出して、思わず言葉を失ってしまう。

 

「ずっと、僕には君が眩しかった。……僕は、誰かに敷かれたレールをなぞってきたんだ。それの良し悪しなんて関係なく、ただ命じられたことだけを成せばいいと言われて」

 

「──────」

 

「だから君が……自分の意思で全てを決められる志原が、僕には眩しく見えた。それを認める事は、最近までできなかったけれど」

 

 才能も、権力も、何も持たない楓。彼女はそれでも闇雲に、何度も折れそうになっても、決して魔術師として生きる道を諦めようとはしなかった。

 その強さ。誰でもない自らの意思で生きんとする、荒地に芽吹く一輪の花のような生き様を、倫太郎は尊いと感じた。

 だがそれを認めてしまえばどうなるかは明白だ。繭村倫太郎という人間が今まで歩んできた道のりは、正しくなかったと否定することになる。彼は信じ、積み上げてきたものが崩れ落ちる事実を恐れて、それを認めまいと心の奥底に閉じ込めた。

 

「でも、学校で『自分のようにしたいように生きろ』……って志原が僕に言った時、やっと気付けたんだ。誰かの言いなりになる人生なんて僕のものじゃあない。僕は繭村の当主である以前に、繭村倫太郎っていう一人の人間だってことを。だから──僕は、僕が成したいことをする」

 

 僕はバカだから、こんな事に気づくのにも時間がかかったけどね、と倫太郎は申し訳なさそうにしゅんとする。

 いつもバカバカ言われていたのは楓の方だったので、逆に変な気分になって、優しく頭を撫でておいた。

 

「それじゃあ……参考までに……聞いてもいい? アンタがやりたいと思うことが、何なのか」

 

 この戦いを通じて彼が得た答えとは、繭村倫太郎という少年が見つけたひとかけらの意思とは、何をどうすることなのだろう。

 そんな事を思う楓は、わずかな距離を間に挟んで、真っ直ぐに倫太郎を見つめ返した。

 視線を交わしながら、倫太郎は口を開く。

 繭村倫太郎がずっと探し続けていたもの。無我夢中にずっと探し続けていたけれど、本当は、最初から心に秘めていた一つの輝き。

 それは──、

 

 

「僕は君を守る。世界全ての脅威から、志原だけは守り通す」

 

 

 そうして言葉に出してみれば、それは簡単なことだった。

 昔も今も、決して変わらないもの。

 初めて出会った時も、二年前の決別の日も、彼女と戦った時も、逆に共闘した時も。全ての時、あらゆる戦いと苦境に立たされても、倫太郎には一つだけ貫き通したものがある。

 つまり──何があろうと志原楓を守るという信念だ。

 

「それが……それだけが。「自分の意思」っていう、当たり前のものをほとんど持たない僕が持つ……ただ一つの正義(いし)なんだ」

 

 しみじみと呟いて、気付くのが遅くなったと頭を掻く。

 当たり前の人間とは異なる環境、歪な教育の中で育ったが故に、倫太郎にはそれを理解することができなかった。けれど分かってしまえば、それは、彼にとっては当たり前のことに過ぎなかったのだ。

 自分が成したいこと。自分が何を正義とするか。

 そんなものは最初から、この戦争が始まる前から定まっていたのに。

 

「……本当に、それでいいの?」

 

 慎重に紡がれた問いに、倫太郎はこくりと頷く。

 すると、なぜか楓は顔を耳まで真っ赤にして、あちこちに視線を彷徨わせた。赤くなっていることの自覚はあるのか、その顔を見られるのを避けるように、楓は布団の奥の方に潜り込むと、

 

「わ、わっ。どうしたんだよ」

 

 倫太郎にしかと抱きついて、顔を胸のあたりに埋めてしまった。

 突然抱き枕と化した倫太郎は頭を掻きつつ、ゆっくりと彼女の背中に手を回して受け止める。

 

「倫太郎」

 

「何さ?」

 

 彼女は小さな声で、彼の名をぽつりと呟くと、

 

「…………今まで、その、ごめん」

 

 目だけをこちらに向けて、そんなことを言った。

 その声が聞いたこともないようなしおらしさだったせいで、倫太郎は思わず笑ってしまう。それがムッとしたのか、楓は今度こそ顔を上げて倫太郎を軽く睨んだ。

 

「ははは……いや、その。こんな時に謝られると、どうしていいか分からなくて」

 

 でも、そうだな、と彼は前置きして、本当にすぐ近くにある彼女の瞳を見つめ返す。

 

「謝らなきゃいけないのは僕も同じだ。二年前……もっと上手いやり方はあったはずなのに、結果的に君を傷付けた。だから、ごめん」

 

「じゃあ、互いに謝ったんだし……これで、おあいこってことにした方がいいかしら」

 

 頰を掻きながら、少し変な声で彼女は言う。

 その変わらぬ不器用さが、何だかとても愛しくて、倫太郎は自然と彼女を抱きとめる力を強めていた。

 

「その方がいい。これでやっと、仲直りだ」

 

 ちょっとのすれ違いと、踏み出せなかった臆病な心が、かつての彼らを引き裂いたけれど──。

 長い時を経てようやく、二人はもう一度、元どおりになることができたのだ。

 

「──……そ、それじゃあ。こ、このまま一緒に寝る?」

 

「ぶッ……⁉︎」

 

 思わず咳き込んで、倫太郎も顔を赤くする。もっとも更に赤くなっているのは楓の方なので、あまり気にはならなかったが。

 何を馬鹿なことを言ってるんだよ、と反射的に言いそうになって踏みとどまる。

 もう時間は残されていない。今くらいは、気分を変えて彼女の言葉に従ってみるのもいいのかもしれない。

 

「……分かったよ、もう」

 

 今更体勢を変えるのも億劫なので、彼女を腕の中に抱いたまま、倫太郎はゆっくりと目を閉じる。

 

「いい? あくまで寝るだけだからね」

 

「も、元からそのつもりに決まってるだろ⁉︎」

 

 その問いに笑いを返した楓はもぞもぞと体を動かすと、彼の腕の中で体を丸めた。その姿がいつもより幼く見えて、倫太郎は苦笑してしまう。

 じゃあ、おやすみ、と言葉を残した楓は、しばらくしないうちに本当に眠り始めてしまった。目が冴えてしまった倫太郎からすると、そのこんな状況で眠れる図太さが羨ましくもある。こんな事を言うと怒られるので、あくまで言葉には出すまいと思うが。

 

「──────」

 

 部屋を包み込む、心地いい静寂。

 その安らかな寝顔を見ていると、胸の奥を満たす、暖かい何かがある。

 これは何なのだろう。この気持ちの名前に気付く時が、いつか彼にも来るのだろうか。感じたことのない何かをしかし確かに受け止めながら、倫太郎は目を閉じようとした。

 と──、

 

「……倫太郎」

 

 楓の口がほんの少し動いて、彼の名を呼んだ。

 まだ起きてたのか、と言いかけた彼を遮って──、

 

「ありがとう。私を、ずっと守ってくれて」

 

 彼女の目尻に光る雫が一筋流れ、頰を伝って落ちた。

 それだけ呟くと、彼女は今度こそ口を閉じる。

 楓の言葉を受けて、倫太郎はぴくりともせずに固まっていた。その言葉の衝撃が、彼の身体を貫いていたのだ。

 

 ──……「ありがとう」と、彼女は言った。

 

 かつて、倫太郎は楓を守ると決めた。たとえそれが苦渋の選択の果て、大切な人に敵視される道であろうと、構わないと決めた。

 だがそこには、迷いも後悔もあったのだ。

 少女の純粋な信頼を裏切り、傷付けなくてはならないという事への悔いは、ずっと倫太郎の内で燻っていた。

 しかし──、

 

「僕は」

 

 たった一言で良かった。

 その言葉一つで、燻っていたものが全て霧散していた。

 後悔した。何度も何度も自分の選択を悔いて、苦しんだ。

 もっと彼女を傷付けない方法はなかったのかと。何も言わずに終わらせようとするのではなく、リスクを無視してでも彼女に全てを告げるべきではなかったのかと、二年に渡って悩み続けた。それでも、

 

「僕はそれでも……正しいことを、したのかな」

 

 ──楓は。その一言をもって、倫太郎の選択を赦したのだ。

 

 気がついた時には、目から涙が溢れていた。

 繭村倫太郎は今初めて、志原楓を守るという、自分の意思(せいぎ)が間違いではなかったという証明を掴んだのだ。

 

「────……明日。生きて帰れるか、って話をしたけど」

 

 その衝撃。自らが信じるものが正しいと認められた衝撃と歓喜を、涙を拭って乗り越えていく。

 

「大丈夫だよ、志原」

 

 安らかな寝息を立てる彼女の髪をそっと撫でて、倫太郎は一人呟いた。

 

「僕は誓った。君は、この命に代えても守ってみせる」

 

 彼の中に一つしかない答えは、もう出された。

 ──繭村倫太郎は、志原楓を守り抜く。

 いついつかなる時も変わらない唯一の誓い。ただ一つの正義を胸に、倫太郎は目を閉じた。

 

 決戦は近い。

 それでも迷いはしない。そう、かつて、己が正義を信じ抜いたアサシンのように──。

 彼もまた、決して躊躇うことも、立ち止まることも無いだろう。




【繭村倫太郎】
十五歳。繭村家19代目当主。
魔術そのものを嫌い、怖がる三流魔術師だと彼は誤解していたが、その魔術への躊躇いは生来の魔術使いとしての気質と、志原楓のように「大切な誰かを傷つけてしまうのではないか」という優しさ/トラウマから来るものだった。
ただし。聖杯戦争という戦いを経て、他の誰でもない自分が何のために戦うのかを見つけた今、倫太郎には迷いも躊躇いもない。


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七十九話 愛しき人に託せし想い/Other side

 大塚の地に夜の帳が降りた頃。

 アレイスター・クロウリーは擦り切れたローブをなびかせて、仙天島の地下……大聖杯の前に立っていた。

 傍に立つは雷帝・イヴァン。

 戦闘時とは異なり、落ち着いた雰囲気を見せるライダーは、さして無駄口を叩くこともなくマスターの「仕上げ」が終わる様を眺めている。対しクロウリーもまた無言のまま、その瞳と常人ならざる集中をもって、儀式の完遂に励んでいた。

 そして、やがてその時が訪れる。

 

「完成だ」

 

 その声に秘められたものは、確固たる歓喜の色。

 己が目指したものを計画通りに成せたという、満ち足りた充足をクロウリーは噛み締めていた。

 

「ふむ……? ある程度の推測は可能とはいえ度し難い。何でしょうか、これは?」

 

 隣に立つライダーが、怪訝な顔をして問いかける。

 といっても、その問いは当たり前のものだった。

 彼らの眼前には、再現された「大聖杯」たる複雑巨大な魔法陣が仄かな燐光を放ちながら鳴動している。それはライダーが召喚された時から変わりない。だが、そのやや上に、物理法則を無視して空に静止している一つの巨塊があった。

 醜く、皮膚をむき出しにしたような色をした、何か。

 それは物音一つ立てず、彼らの前に佇んでいる。

 

()だよ」

 

「繭……とは?」

 

 ライダーはもう一度その肉塊を眺め回してみる。

 そうして見ると成る程、確かに、目の前に浮かぶソレは虫たちの繭、或いは芋虫が空に飛び立つ寸前のサナギのようにも見えた。

 

「あの中で、かつて神代に君臨せし羅刹王ラーヴァナがもう一度作られつつある。それも今度は「この世全ての悪」まで取り込んだ、人類史にも類を見ぬ大災害としてな」

 

 クロウリーはそう言うと、これから生まれ落ちんとする魔王への祝福とばかりに掌を打ち鳴らす。

 

 ──それが何かの合図となったのか。

 時を同じくして、不気味なまでの静寂を保っていた仙天島に、凄まじい轟音が鳴り響いた。

 大地が割れていく。地下大空洞の上に建設されていた浄水場はみるみるうちに崩れ落ち、その残骸を突き破って、純白の巨塔が姿を現した。

 その大きさは直径は50メートルほど。汚れも穢れもない、神々しさすら感じさせる白の歪な円柱が、天に向かって伸びていく。それは高さ200メートル程の位置で動きを止めると、元どおりの静けさを取り戻した。

 その天辺。

 その騒音に起こされたかのように、魔王の繭が不気味な胎動を始める。

 

「魔王の繭。そして玉座たる天月の塔(セフィロト)。ここに準備は全て完了した」

 

 クロウリーの言葉は正しい。

 この白く輝く巨大建造物は、遠目に見れば神々しく輝く樹木、もしくは異様な大きさを誇る塔と見紛うだろう。だがそれは誤りであり、クロウリーの意に即したものではない。

 数時間ののち誕生するであろう魔王。彼女が天高くから世界を睥睨し、全てを滅する際に用いるであろう玉座(・・)こそが、この天月の塔なのである。

 

「始めよう。第六次聖杯戦争の終幕と、我が理想の体現を──!」

 

 その宣言と共に──突如として現れた巨塔を中心として、強力な魔力波が膨れ上がった。

 

 

 

 

 仙天島から発せられた超高出力の魔力波は、凄まじい勢いと威力を誇っていた。それは大塚の街全域を呑み込むまで勢いを止めず、人々を残らず呑み込んでいく。

 魔術への抵抗力を持たない市井の人々は、遅かれ早かれ昏倒を余儀なくされた。元から大多数の人々が寝静まっている時間だった事が幸いだったが、自体はそれだけに留まらない。

 一瞬にして昏倒した大塚の人々、その全員から、生命力に直結する魔力が吸い上げられていく。

 万単位の人間から抽出された魔力の行き先は決まっていた。天月の塔の頂点にそれらは集まっていき、誕生を待つ魔王への贄として消費されるのだ。

 そしてその被害は──当然ながら、健斗がよく知る友人知人にも及んでいた。

 

「──槙野さん‼︎」

 

 カップが床に落ち、不気味な音をたてて割れる。

 ぐらりと体を揺らした「薫風」店主である槙野は、そのまま膝からキッチンの床に倒れこんだ。

 

「……っ? は……ぐ……」

 

 手足が不気味に痙攣し、顔はみるみるうちに白くなっていく。

 アナスタシアは先の魔力波を受けての感覚と、目の前の槙野の容体から速やかに答えを出した。何者かが彼の魔力──言いかえれば生命力を、何らかの方法で強制的に奪っている。

 如何なる力によるものか。そこまでは分からなかったが、アナスタシアはきつく歯軋りする。

 

(これは……無差別攻撃。いや……攻撃じゃない、どちらかというと生物的な「捕食」に近い……‼︎ 先の魔力波が届く範囲に存在するあらゆる全生物から、無差別に魔力を吸い上げている……‼︎)

 

 アナスタシアのように、代行者や魔術師、それらに近いものであれば、体内の魔術回路が自動的に外からの力に反発する。この程度の干渉力であれば抵抗は効くだろう。

 だが一般人は別だ。

 普段から魔術回路を用いることがない彼らの回路は、あったとしても基本的に休眠状態にある。それであれば抵抗(レジスト)が働くこともない。槙野のように昏倒し、魔力、さらには生命力そのものを貪られる。

 

「くッ……‼︎」

 

 これは病気や呪詛の類ではない。攻撃だ。つまりこの捕食を食い止め、彼の命を救うためには、「攻撃をしている大元」を絶たなくてはならない。

 それを理解した時、霊体化を解いて男が姿を現した。

 アーチャー……シモ・ヘイヘは既に愛銃モシン・ナガンを肩に担ぎ、臨戦態勢を終えている。

 

「マスター。機は来たらしい。状況が大きく動くぞ」

 

「この街に一体何が?」

 

「外に出れば分かる」

 

 呻く槙野を寝室に運び、ベッドに寝かせてから、アナスタシアは勢いよく外に飛び出した。屋根の上に一跳びで上がり、夜闇に沈む大塚の街を眺める。

 ──そこで、彼女は見た。

 闇の奥。かつて仙天島という人工島があった場所から、歪な純白の巨樹が姿を現している様を。

 

「……………………」

 

 思わず言葉を失う。

 あれは何なのか、彼女の知識の全てを使っても把握は難しかった。ただ異様に大きく、不気味なまでに白く輝いているという外見把握が出来るのみだ。

 巨樹といっても葉や枝の類はなく、あるのは捻じ曲がった幹のみだ。あるいは「塔」と呼ぶこともできるかもしれないが、それにしては形が歪み過ぎている。なにせ物理工学の観点から見れば、建築家が悲鳴を上げそうな形状だ。

 

「アレが生えてくると同時に、さっきの魔力波がこの街を襲った。見る限り街の人間は全滅だ。この調子じゃ朝まで持たんぞ」

 

「つまり、今夜中に決着をつけなければ──」

 

「ああ。最低最悪の光景が、この街のいたるところに広がることになる」

 

 ふざけるな、と吐き捨てたい気分だった。アナスタシアは上層部の命令を放棄し、最後までこの街を守り抜くと誓ったのだ。こんな虐殺は許すことができない。

 

「次いで報告がある。アサシンのマスター……いや、元マスター達だが、彼らも今夜でカタをつけるらしい。例の屋敷に集まって、島に突撃するまで秒読みといった段階だ」

 

「彼らはアサシンとランサーを失った筈では?」

 

「その筈なんだがな。セイバーとそのマスターの姿も見えん。確認できたのはキャスターだけだ。勝算があるのか、単なるヤケか」

 

 アサシンとランサーが敗退した事実を、アナスタシアとアーチャーの二人は把握していた。繭村の屋敷は最重要警戒対象である仙天島に近く、故に監視が容易だったのだ。

 倫太郎達と一応の停戦関係にあるアーチャーは援護を行うべきと判断したが、その矢先にランサーが宝具を発動。敵もろとも結界内部にのみ込まれたランサーとアサシンには、流石の狙撃手も手出しできなかった。

 

「……どうする、マスター」

 

「既に選択肢はありません。彼らの攻撃に合わせて私も仙天島に向かいます。打ち合わせの通り、貴方は指定ポイントから狙撃を」

 

「だが──本当に? 幾ら代行者とはいえ、あの塔の中に乗り込んで命があると思っているのか?」

 

 アーチャーが視線を険しくする。あの巨塔には今なおアサシンとランサーが倒しきれなかった英霊数騎が待ち構えている筈だ。そこに単身突撃すれば、アナスタシアとて勝ち目はない。

 それを理解しているのはアーチャーだけでなく、彼女も同じだった。

 

「それでも、やります。……私がようやく見つけた、私が成すべきことは、この場所と槙野さんを守ることですから」

 

 それはアナスタシアという人間がこの地で見出した、自分自身の道だった。

 心に空いた空虚を誤魔化し、無為な復讐のために代行者として戦ってきた彼女が、初めて手に入れた願いにして正義。

 その為ならば、どんな敵も怖くはない。

 

「アーチャー」

 

 静かな声で、彼女は告げる。

 

「貴方が私の英霊でよかった、と。先に礼を言っておきます」

 

「おいおい、急にどうした。いまさらコロッと態度を変えられても心情は変わらんぞ。お前はバカがつくほどのド真面目で、遊び心がなく、人使いが荒い女だろうが」

 

「……真面目だから、こうして礼を言ってるんです」

 

 苦虫を噛み潰した顔になりつつも、アナスタシアは声を荒げずに再度述べた。ごほん、と咳き込んで一度仕切り直してから、言おうと思っていた続きを口にする。

 

「この長い戦いも今夜で終わるでしょう。ですから、今のうちに成すべきことを成しておきたいだけです。先の言葉に似せるなら、貴方は不真面目で、遊び心しかなく、常に礼儀を欠いた人間でしたが──」

 

「待て、待て馬鹿野郎」

 

「何です? 全て事実だと思いますが」

 

「あのな。それじゃあまるで遺言だろうが。いいか、その続きは最後に改めて聞かせてもらう。お前はこの戦いに生き残って、この大切な場所に戻ってくるんだろう。その途中で俺に聞かせろ、いいな⁉︎」

 

 戦場でこんな事を書き残す奴を、アーチャーは何人も目にしてきた。

 そいつらは、まるでその行為が運命を決定したかのように、数日と経たず骸になっていたものだ。人間というのは死を予期してしまった瞬間に、死神に取り憑かれる習性でもあるのかもしれない。

 とにかく、そんな行為はさせられまいと、アーチャーは珍しく焦った顔で彼女を止める。

 

「……………」

 

 しばらく呆気にとられた顔をしてから、アナスタシアは微かに笑う。まるで、初めてアーチャーを口喧嘩で狼狽させたことを誇るように。

 その柔和で穏やかな笑顔を見て、彼は思った。

 召喚に応じた時、彼女はこんな表情を浮かべるような人間ではなかった。過酷な戦場ですら見かけないような、凍てついた無の表情に全てを押し込めた、機械のような人間だと感じた。

 それが──こうして、普通の人間のように笑っている。

 アナスタシアはきっと、この場所で、欠けていたものを掴むことが出来たのだろう。そしていつもの律儀さで、彼女がその恩に報いたいと言うのなら──、

 

「そうですか、分かりました。この戦いの後に、また」

 

 ──……この穢れを知らぬ、精錬無垢な少女に仕えることができた誇りを胸に。

 弓兵シモ・ヘイヘは、最期までその「恩返し」に付き合おう。

 

「……先に行くぞマスター。準備してから追ってこい」

 

 改めて狙撃銃を担ぎ直し、アーチャーは遠方を睨む。

 全ての決着を付けるために、彼は一足先に見慣れた喫茶店の屋根を蹴った。

 

 

 

 

 軋んだ音を立てて、アナスタシアは木張りの廊下を歩いていく。

 既に着替えは終えている。着ているのはもう愛着のあるここの制服ではなく、代行者たちが好む戦闘用の修道服だ。戦闘準備と、隠し玉である「不浄」に対する切り札の用意も済ませてある。

 あとは出立するのみ。かつてのアナスタシアであれば、一刻をも惜しんでここを飛び出し、今頃屋根の上を駆けていただろう。

 だが──それでもアナスタシアは、まだここにいた。

 自分が守るべきものを、もう一度だけ見ておきたかったからだ。

 

「……………」

 

 無言で扉を押し開ける。

 だが、その先の光景を見た途端、アナスタシアは驚きから声を漏らした。

 

「ま、槙野さん⁉︎」

 

「あ、ナ……スタシア……?」

 

 なんと、彼は魔力の捕食に晒されてなお意識を保ち、ベッドから這い出ようと身体を起こしていたのだ。

 

「動いてはいけません‼︎ 無駄に体力を使っては死を招きます……‼︎」

 

「ああ……なんだ、ろう。動かないのに、身体が妙に、軽くてね……今にも死んじゃい、そうだよ……ハハハ」

 

「……安心して下さい。今夜、私達が全てを終わらせます。朝が来る頃にはすっかり体調も戻っていますから」

 

 槙野を寝かしつけた後、アナスタシアはその傍に膝立ちで屈み込んで、優しい声で囁いた。

 口調とは裏腹に切迫した彼女の表情と、見慣れぬ姿。

 それを見て、彼は何を思ったのか──、

 

「……そうか。やはり、君は……最初から、留学生なんかじゃあ、なかったんだね?」

 

 それを聞いてアナスタシアは言葉を呑み込む。

 彼女はずっと代行者であるという事実も、聖杯戦争に関する全ても秘匿し、槙野の前では喫茶店の店員であり続けた。彼を欺いているという事実は耐え難いものだったが、彼に不必要な情報を与えて危険に晒すわけにもいかない。そう考え、アナスタシアは嘘をつき続けたのだ。

 

「何故……それ、を」

 

「一応、これでも店の主人……人付き合いを生業にしてる人間だ……僕も馬鹿じゃない。君が、誰にも言えない何かを……成そうと、していることくらい……知っていたとも」

 

「じゃ、じゃあっ、なんで」

 

「なんで問いつめなかったか、って……?」

 

 子供のように言葉に詰まる彼女を見て、槙野は笑う。

 

「簡単だよ。アナ……君は、悪い子じゃ……ない。だから、信じたんだよ。君が成そうとしている事は……正しい事だと、ね」

 

「それだけで……? それだけで、私を、得体の知れない私を、この場所に置いてくれていたんですかっ……⁉︎」

 

「そう、だとも。信じるには、十分過ぎる理由だ」

 

 目頭の奥が熱くなったのを感じて、アナスタシアは反射的に顔を背けた。

 この涙は許されないものだ。槙野を欺き続けた罪は、彼が許そうともアナスタシア自身が許していない。それなのに、彼の言葉で許された気になるのは、真面目な彼女には許容できなかった。

 

「それでも──私は、貴方の善意を利用したんですよ……‼︎」

 

「そんな、こと。君はここで……よく、働いて、くれた……そう考えると、僕だって、君を利用していたんじゃあないのかな?」

 

「労働の対価は頂きました‼︎ でも、私は……私は、貴方に、何も返せないままで……」

 

「いいんだよ、アナ」

 

 辛うじて動く手をゆっくりと上げて、槙野はこちらを見ようとしないアナスタシアの頭を優しく撫でる。

 

「君がいるだけで、僕は十分に……十分すぎるくらいに、嬉しかった。報酬はもう、お釣りがくるくらいに受け取ってる。それでも、君が……自分を許せないのなら……他の誰でもない、僕が許すよ。だから、もう、そんなに自分を責めないでくれ」

 

「……う、く……‼︎」

 

 感極まったのか、彼女は表情を歪ませて、今度こそ頬を伝っていく涙を見せる。その嗚咽はもう隠されることもなく、ずっとずっと久しぶりに、アナスタシアは声をあげて泣いた。

 この時こそが、長きに渡って凍り付いていた彼女の心が、完全に溶けてほぐれた瞬間だったのかもしれない。

 

「ごめんなさい……ありがとう……ございます……」

 

 彼は、アナスタシアを赦した。

 その事実は、罪の意識は依然として消えないままでも、アナスタシアの心に染み渡っていく。

 身体がふっと軽くなり、四肢に力がみなぎっていくような感覚をその言葉だけで感じてしまうことに、彼女は少しばかり驚いていた。ひとしきり泣いてから、アナスタシアは涙を拭って立ち上がる。

 ──もう、行かなくては。

 

「また、君は……行くのかい?」

 

 槙野の瞳が、無言のままに彼女を引き止める。

 何が起きたのかは分からずとも、アナスタシアの顔を見れば一目で分かったのだ。彼女は何か大切な事を成そうとしている。それでも、今夜も今までと同じように、この店に戻って来るとは限らない。

 だが、アナスタシアは無言で頷いた。

 

「行きます。この命に代えても、貴方を……守りたいんです」

 

「そう、か──」

 

 目を閉じて、槙野は古ぼけた天井を見つめる。

 何もできずに彼女を見送るしない、無力な自分へのもどかしさ。それが胸中で渦を巻いているが、このざまでは見送りもできない。

 だからせめて、何がどうなろうとも変わらないことを、彼女に言葉で伝えようと思った。

 

「アナスタシア。君に、ひとつだけ伝えておくよ」

 

「はい」

 

 溢れ出す涙を拭い、元の煌めくような瞳に戻った彼女が、こちらを見ている。

 いつからだろうか。この少女と、叶うならば、ずっとこの店を続けていきたいと夢想するようになったのは。毎日多くも少なくもない来店客をもてなし、時折暇ができれば、また二人で珈琲を淹れる。

 そんな馬鹿な空想をしながら、しかし、彼は予期していた。

 いつかこんな日が来ることになるのではないかと、恐れていた。

 そして。その時になったら、言おうとしていたことも──ずっと前から決まっていた。

 

「君が何者であれ、僕はずっと……ここで、君を待っている」

 

「……‼︎」

 

「だから……全てが終わったら、きっと、帰ってくるんだ。それで……僕に、「おかえり」を……言わせてほしい。それだけが、僕の……願いだ」

 

 わかったね、と優しく告げる槙野に、アナスタシアは無言で頷いた。

 それを見て気が緩んだのか、彼の意識が途絶する。そうなってもしばらくアナスタシアは側を離れず、彼の手を握っていた。

 暫くして。その暖かさを惜しむように、そっと絡んだ指が離れる。

 

「……ごめんなさい。槙野さん」

 

 それは、それだけは、約束できません──。

 俯いたままそう呟いて、アナスタシアは唇を噛む。

 必ず生き残る保証はない。今この街を襲っている大災害を食い止める為には、文字通り、アナスタシアの命を賭ける必要があるだろう。

 最後の最後に、また彼に嘘を()いた。

 最低だ、と内心で思いながら、それでも踵を返す。戦うと決めたからには、これ以上ここに留まってはいられない。

 だが──、

 

「こんな事を言い残したとバレたら、またアーチャーに叱られるかもしれませんが。……これだけは、言っておかないと」

 

 その時の彼女の顔を見るものは誰もいなかった。

 ただ、彼女はゆっくりと屈みこんで、槙野の閉じた瞳を覗き込む。

 あらゆるものが欠けていたはずの心に、色々なものがよぎってくる。離別を惜しむ引き裂くような痛みも、それと真逆の、太陽のように暖かい充足も。

 それを数秒かけて感じてから、彼女は。

 

「槙野さん。貴方を……愛しています」

 

 その言葉が宙に舞い、夜風に揺れるカーテンに弾かれるよりも尚速く、彼女は姿を消していた。

 少女は刹那の後に転身を終える。

 外に飛び出したのは涙に震える少女ではなく、何者をも寄せ付けぬ、人を凌駕せし魔の撃滅者(だいこうしゃ)だ。

 ただただ全速力で、最短距離を駆けていく。もう迷いはない。彼女の足を掴んで止めることは、誰にだって叶わない。

 見慣れた店の影が霞んで見えなくなるまで──アナスタシアは、決して振り返ろうとしなかった。



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八十話 体は剣で出来ている/Other side

 大塚の地を魔力波が襲う、その僅か数十分前。

 凛の車に乗った倫太郎達は、最後の準備を終える場所として、仙天島にほど近い繭村家の屋敷を訪れていた。

 あたりは田畑が多いとはいえ、不気味なまでに静まり返っている。

 空を見上げても月はなく、一面に広がる昏い雲海が見えるのみ。何か不吉な事が起こる、そんな前兆を予感させる夜だった。

 

「時間もあまり無いことだし、ちゃっちゃと進めるわよ。楓ちゃんとフィムちゃんは私について来て。倫太郎君、奥の間を借りるわ」

 

「分かりました。僕は刀蔵に」

 

「俺は……ふむ、屋根の上で見張りでもしておこうか。クロウリーの奴も、こんな俺達を脅威と認識してるか怪しいが」

 

「いや、それは僕がやろう。君は倫太郎クンについてってくれ」

 

 屋根に上がろうとした士郎を止めて、キャスターはそんな事を頼む。

 とはいえ士郎は己に向いている魔術のみを極めた人間で、かの天才児にさしたるアドバイスができるとも思えない。そういう役回りは凛の方が──、と言いかけたところで、キャスターはにやりと笑った。

 

「ええからええから。倫太郎クンには君が適役や」

 

 その声に押されるように、士郎は倫太郎の背中を追っていった。

 一方、楓とフィムも速やかに移動を済ませる。凛に連れられて畳が一面に敷かれた殺風景な一室に入ると、彼女はしっかりと襖を締め切り、くるりと二人の方に振り返った。

 

「さて。手短に済ませましょうか」

 

 凛の言葉に、力強く頷く二人。

 

「じゃあまずは二人とも、今すぐ上に着てるものを脱いで」

 

「……や、やっぱり、そうなるんですか?」

 

「精神と身体の融合には、地肌で触れ合うのが一番効率がいいから。それにいいじゃない、女同士なんだし。ほら、フィムならもう脱いでるわよ?」

 

「楓は恥ずかしいの? なんで?」

 

「うっ……いや、その、場所が……」

 

 楓がぱっと横を見ると、フィムは着ていた患者服風の紐を解き、するすると脱いでしまった。瞬く間に大きめのソレが床に落ち、人間とは思えぬ神々しさすら感じさせる、真白な肌が露わになる。髪の色も合わせて、フィムは本当に雪の精といった雰囲気があった。

 幼さゆえか、知識の無さゆえか、とにかく彼女に躊躇いはなかった。それを見て、若干もたついていた楓も上着に手をかける。

 

「普通の更衣室とかなら良かったんだけど……ええい、気にしてる場合じゃないわね」

 

 よりによって半裸になる場所が倫太郎の家である、という事実が、少なからず羞恥のブレーキになっていたらしい。

 とはいえこんな事で諦める訳にはいかない。意を決した楓は上に着ていたものを全て脱ぎ捨てて、むしろ堂々と胸を張った。

 

「ありがとう。じゃあなるべくくっついて、目を閉じて。あとは私が執り行うわ」

 

「……こう?」

 

「わ、わひ……つべたっ」

 

 無邪気に抱きついてきたフィムの冷たい体温を受け止めて、楓は言われた通りに目を閉じる。

 その小さな身体が冷えたままでは可哀想なので、しっかりと体を密着させて。楓の優しさは功を奏し、肌と肌の密着面積が拡がったことで、二人の親和性を上げていく。

 

「目を閉じたまま、よく聞いて。……説明した通り、これからフィムの魔術回路と楓ちゃんの魔術回路を繋ぐパスを作る。そうすれば、楓ちゃんとキャスターはそのパスを通じて、フィムの魔力まで動員して戦う事が出来るようになるわ」

 

 サーヴァントはマスターからの魔力供給によって現界し、戦う。

 これは誰もが知る大原則だ。凛がこれから行おうとしているのは、フィムと楓の間に魔力供給を行うパスを繋ぐ、という、原理だけで言えば英霊との主従契約にも等しい行為だった。

 

「本当に……そんなこと、できるの?」

 

「昔の私だったら難しかったでしょうね。でも魔術も日進月歩、やれる事だってちょっとずつ広がってるの」

 

 凛に疑問をぶつけたフィムはもともと、アインツベルンにて聖杯戦争の為に鋳造され、その過程で廃棄されたという過去を持つ。故に彼女は、最高傑作と謳われるかのイリヤスフィールには遥かに劣れども、魔術師とは次元の違う魔力を貯蔵しているのだ。

 そんなフィムと楓の間にパスが繋がれば、楓を介し、キャスターは思うがままにフィムの莫大な魔力を振るって戦う事が出来る。

 サーヴァントが一騎しか残っていない今、キャスターの戦力強化は必須と言えた。故に、この案が実行に移されようとしている。

 

「ただ……これはかなりの大仕事になる。その中でも、最も負担がかかるのは楓ちゃん、貴方よ。キャスターだけじゃなく、フィムとまでパスを繋ぐんだから。魔力が流れる方向が逆とはいえ、貴方の魔術回路にかなりの負荷が掛かることは想像に難くない」

 

 フィムの魔力をキャスターが消費する場合、楓はその間に挟まれる、いわば開きっぱなしのコックのようなものだ。

 あまりにも莫大な魔力の流出入に晒される彼女の魔術回路は、相応の負荷に晒されることになる。

 

「あらかじめ言っておいたけれど……このパスを繋げれば楓ちゃんの魔術回路は間違いなく損傷する。最悪の場合、二度と機能しなくなる可能性も考慮しなくちゃならない」

 

 神妙な面持ちのまま告げられた言葉に、楓は思わず息を呑んだ。

 

「つまり、貴女は魔術を使えなくなるかもしれない、って事よ」

 

 その事実は最初に明かされていた。

 倫太郎のように強靭な魔術回路であれば違ったかもしれないが、楓のそれはその負荷に耐えられないがしれない。

 そうなれば彼女の体内から魔力を巡らせる機能は失われ、志原楓という魔術師は、この世界に存在しなくなる。治療できる腕のいい魔術師との繋がりがあればまだ希望はあるが、いずれにせよ彼女にそうしたコネクションは望めない。

 

「もっとも、それはあくまで最悪のケースね。回路が完全に断線するまで損傷する確率はかなり低いし……一応、他の方法が無いわけじゃないわ」

 

「他の方法、って……?」

 

「士郎の力を借りて、楓ちゃんとキャスターの契約を破棄するの。それからフィムとキャスターの間で再契約を成せば、貴女にかかるリスクは避けられる。もっとも、キャスターは嫌がるかもしれないけれど」

 

 ──破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)という宝具がある。

 第五次聖杯戦争において召喚された英霊が所持していた、魔術破りの短刀だ。十年前、この宝具は様々な局面において用いられ、士郎と凛を窮地に追い込んだという過去がある。

 そして、衛宮士郎には、その短刀を「投影」する力がある。

 かの宝具の力をもう一度借り受け、楓とキャスターの契約を破棄し、フィムと契約を結び直す──士郎の力があれば、そういった力技も可能になるだろう。

 

「──…………」

 

 その提案を受け、楓は迷っていた。

 賢い選択をするべきだ。自分が無理をして契約を続ける必要はない。リスクを孕んだ手段をわざわざ選ぶ必要は、どこにもない。

 そう考えるたびに、けれど、と止める自分がいる。

 

「楓、どうしたの?」

 

「……うん、なんでもない。もう決めた」

 

 閉じていた目を開けて、楓は凛に返答する。

 

「契約は破棄しません。私を介して、このまま経路を開いて下さい」

 

「本当に、いいの?」

 

 再度意思を確認する問いかけに対し、力強く頷く楓。その答えに凛は笑顔を浮かべる。

 十年前──もし、かつての遠坂凛があの弓兵と契約を切るべきだと言われようと、彼女もまた同じ回答をしただろう。英霊とマスターという関わりは、時に道理を無視して切り離せないものを生むものだと、彼女は知っていた。

 施術が始まる。凛の処置に合わせ、煌々と輝きだす両者の魔術回路。その淡い光が部屋の中を照らし出す中、楓はキャスターと契約を結んだときのことを思い返す。

 

(アイツは……)

 

 キャスター・安倍晴明。

 遥かなる平安の時を生きた、伝説の陰陽師。

 楓は一人の魔術師として、彼に憧れを抱いてきた。だからこそ、英霊召喚の儀に際して、彼女は安倍晴明の姿を思い描いたのだ。

 そして、今──。

 戦友として共に聖杯戦争を駆け抜けて、心の内にあるもの。まずはっきり言えるのは、「憧れ」の類に分類される気持ちは、以前よりも弱まったということだ。

 

(だってアイツ、想像してたよりもお調子者で、色々と残念なところがあるし……)

 

 楓が勝手に脳内で構築していたクールな性格の「安倍晴明」とは、かなりかけ離れているが多かった。憧れも萎むというものだ。

 ただ、それは悪いことでは決してない。

 憧れは、ある意味、対象からかなり心的な距離を置いた感情とも言える。その点からすると、楓の中から憧れが消えたのは当たり前かもしれない。

 

(……それでも、キャスターは私に応えてくれたサーヴァントで……何だかんだ、ちゃんと今まで私を守り抜いてくれた。私みたいな魔術師、途中で見限られても仕方がないのにね……)

 

 キャスターには迷惑をかけ続けてきた、と楓は思う。自分の脆弱な回路では、キャスターは全力の三割すら引き出せなかった。その状態でなお彼は高潔に戦い抜き、主である楓を今日まで守り続けてきた。

 その過程。二人で戦いを駆け抜ける中で、憧れは信頼へと変わっていた。

 キャスターは志原楓が誇る、最高のサーヴァントだ──と。

 今ならきっと、胸を張ってそう言えるだろう。

 

(キャスターのマスターは、この私)

 

 目は閉じたまま。当たり前の事実を、もう一度認識する。

 

(それだけは何があったって変えたくない。私の手で変えてはいけない。だってそれは……今まで私に付き合ってくれた、キャスターへの裏切りと同じだから)

 

 ──そう決意した時、ふと。

 聞き慣れた彼の笑い声が、楓の鼓膜を震わせた気がした。

 

 目をうっすらと開けて、まさかキャスターでもこんな時に覗き見はしていまい、と思いつつも──否定しきれない。楓が契約したのは、そういう英霊だったのだ。

 少し笑いながら、まあいいや、ともう一度目を閉じる。

 楓は決意を新たに、魔術回路が溶け合いゆく感覚に身を投げた。

 

 

 

 

「…………ここ、は」

 

 重苦しい音を立て、ゆっくりと開いていく巨大な鉄扉。

 そこに踏み込んだ士郎が見たものは、墓標だった。

 青白い炎に照らされて、いくつもの日本刀が妖しく光を放つ。壁面に並べられたそれらは、一目見るだけで分かるほどのエネルギーを放ちつつも、同時に言い表せない寂しさを纏わせていた。

 

「これがかの有名な……繭村の刀蔵か」

 

「ええ。もっとも、僕の刀はまだありませんが」

 

 ぐるりと視線を巡らせて、倫太郎が紹介する。

 繭村の刀蔵といえば、日本の魔術師で知らないものはいない。古いものでは聖遺物に匹敵する魔力を蓄えた、魔刀の保存庫だ。

 

「繭村の魔術師は二十歳になると、自分自身の刀を与えられ、それに生涯をかけて魔力を注ぎ続けます。その過程で身体を刀剣と一体化させ、渾然一体の極地に至るのを目的とする……まあ、その極地に立った者は、まだ確認されていないそうですが」

 

 つまりこの場所は、歴代の刀を貯蔵する保管庫であると同時に、奇跡を追い求めた繭村の一族の墓標でもあった。

 話しながら、倫太郎は、目の前に飾られた刀剣のうちの一本に手を伸ばす。

 が──その指先が触れる寸前で、彼は動きを止めてしまう。まるで、それに触れるのを嫌うように。

 

「……それを、使わないのか?」

 

「使おうにも……僕は自分の刀すら持っていませんから、どうにもこれらを使うイメージが湧かないんです」

 

 倫太郎は才能の傑物だが、今まで本物の日本刀に触れたことはない。繭村の魔術師が生涯を共にする刀は常に一本と定められており、それ以外のものに触れることは禁じられているのだ。

 故に成人を迎えるまで、倫太郎は木刀のみを振るってきた。

 しかし、今ここに至って、そんな禁則に縛られている場合ではない。ありとあらゆるものをかき集めなければ、仙天島で待つクロウリーに勝ち目はないだろう。

 倫太郎本人は気づいていないことだが──そうした柔軟な思考を行なっている時点で、彼は立派に成長していると言えた。

 

「成る程、そういうことか」

 

 士郎はそう呟いて、しばし思案する。

 

「それなら、力になれるかもしれないな」

 

「士郎さんが?」

 

「ああ。君に対して魔術の先生を名乗るには不足もいいところだが……剣の講師には向いているらしい」

 

 剣の講師、と言われてもピンと来ない。まさかこれから剣術の稽古をするわけでもあるまいし、倫太郎にはさっぱり予測がつかなかった。

 

「今すぐ始めよう。これに関しては言葉より感覚だ。倫太郎君、魔術回路を開けるか」

 

「は、はい」

 

「それじゃあ、回路を開いたまま俺に触れるんだ。そうだな……心臓のあたりが手っ取り早いか」

 

 士郎の言葉に従って、倫太郎は彼の胸の中心に掌を押し当てる。

 伝わってくる力強い鼓動。それを感じ取って息を呑む。その力強さときたら、地を割って芽吹く大樹のようだ。

 そうしている間に、士郎は目を閉じて意識を集中し始めた。慌てて倫太郎もそれに合わせ、可能な限り精神を鎮めていく。一人ではなく、二人で行うある種の瞑想に近い形になるのだろうか。

 

「よし……これから一度、俺と君の魔術回路を同調させる。肉体を無視して精神だけに絞った融合、みたいなものかな」

 

「魔術回路の……同調?」

 

「やってみれば判る。大したことじゃない」

 

 あくまで精神鍛錬の延長だ、とこともなさげに言ってみせた士郎が、その身に駆け巡る魔術回路を起動する。それと同時に、士郎が聞き慣れぬ単語を口にした。

 ドイツ語かなにかの詠唱らしい。すらすらと述べている訳ではないので、士郎本人が編み出した詠唱ではないらしい。何処かで、誰かに教えてもらったものといった感じだ。それに耳を傾けて、倫太郎はその時を待つ。

 ──唐突に。ぐらりと、意識が揺らいだ。

 目を閉じているのに暗くなっていくような感覚。あるはずの意識が希釈されて細くなり、自分が遠く離れていく。

 

「雑念を振り払うんだ。意識を束ねて、平坦(クリア)に」

 

 詠唱の途中に挿し込まれた言葉をなんとか聞き取って、倫太郎は加熱しそうな心を落ち着かせる。

 

「始めるぞ」

 

 暗く閉ざされた視界。

 その果てから、輝く何かが迫ってくる。

 全身を暴風が叩く。速い。速すぎる。光にすら迫る速度をもって、倫太郎は光の回廊を突き進む。

 恐怖はなかった。ただ、何かを考えるよりもずっとずっと早く、倫太郎はその境界を突破した。

 

「──────、あ」

 

 世界が反転する。

 ベクトルは逆になり、周囲の世界が逆しまに螺旋を描く。

 カラダは形を保っていない。繭村倫太郎のガワは全て剥ぎ取られ、ここに漂うのは四肢すら持たない精神体だ。それでも、はっきりと、自分が何者かの内部に潜ったのだという事実は理解できた。

 速度を緩めて、穏やかに堕ちていく。

 魔術回路を通して、衛宮士郎という人間の精神、その最奥へと落下していく。

 

「──────」

 

 周りを取り囲む木の根じみた回路は、決して多くはなくとも、どれもが力強く脈動していた。

 その輝きは仄かな青。邪悪も汚れも妥協も後悔も介在しない、清廉無垢そのものの輝きである。

 倫太郎は思わず、無意味と化した息を呑んだ。

 ──人とは。

 人とはここまで、綺麗な在り方を貫けるものなのか、と。

 

「──、────」

 

 感嘆のまま、緩やかな沈下を続けていく。清流のような魔術回路の奔流を通り抜けて、奥へ。

 時間の概念があやふやだ。その綺麗な輝きに打ちのめされていた時間は一瞬か永劫か、倫太郎には判別できない。ともあれ、遂に終わりが見えてきた。

 目線の先。堕ちてゆく先の最下層に、終点がある。

 それは魔術回路の大元にして、衛宮士郎という魔術師の、たったひとつの心象風景──。

 倫太郎は何をすることもできず、ただ、墜落の果てにその中へと飛び込んでいき、そして。

 

「──────っ‼︎」

 

 そこで、倫太郎は確かに見た。

 無限に広がる荒野。

 そこに突き刺さる、数えきれない剣の群れ。

 頭上に広がる空は、雲一つない蒼を浮かべ──、

 

「──────、が⁉︎」

 

 内部に堕ちた、その瞬間。

 反応も回避も出来なかった。

 速度の概念すら振り切って放たれた無数の剣が、倫太郎の身体を容赦なく串刺しにした。

 

 ── / は   で 出    い  。

 

 遥かなる地表から放たれ続ける剣の雨。

 幾千の、幾万の、果ては無限の剣に貫かれる。

 痛覚は瞬く間に消し飛んだ。身体すら持たないはずなのに、四肢を、頭蓋を、胸を、ありとあらゆる名剣魔剣が吹き飛ばしていく感覚が叩きつけられる。

 

 ── 体 は ■ で 出  / い  。

 

 絶叫した。

 無限の致命傷を味わい続ける苦痛苦悶に、倫太郎は吼えて意識を途切れさせんとした。

 だが──、

 

「──、──ッ‼︎」

 

 違う、と無声の咆哮をあげる。

 無いはずの目を見開いて、無限の剣戟を真正面に捉える。

 この場所に、精神を競いにきたのではない。

 むしろ逆だ。この場所から、衛宮士郎という魔術師の深層から何かを得るために──そして、志原楓を守るという、ただ一つの正義を果たすために。倫太郎は自ら、この場所に飛び込んだのだ。

 ならばするべき事は一つだけ。

 この剣の濁流を、逆らう事なく受け止める。

 

 ── 体 は ■ で 出 来 て い る。

 

 何度も、ジジ、と、脳の奥で何か響いている。

 意識を刃のように研ぎ澄まして、その声に耳を傾ける。

 浮遊落下は続き、体は今も、飛来する剣に貫かれていようと──荒波の中で一つの光明を目指す船乗りの如く、倫太郎は意識を集中させ、

 

 ── 体 は 剣 で 出 来 て い る。

 

 遂に、この世界の言葉(おと)を聞いた。

 それだけで十分だった。倫太郎はこの世界の全てを、理論ではなく、感覚をもって理解する。

 倫太郎は貫かれているのではない。地表から飛来する刃が、全身を抉り飛ばしているのではない。

 全ては最初から逆だった。

 剣の全ては倫太郎の身体を突き破って放たれ、一直線に、無限の荒野へと突き刺さっていたのだ。

 

「──────」

 

 言葉を、失う。

 驚嘆と感動、畏怖に、あるはずのない身体が総毛立つ。

 繭村の魔術師が数百年をかけて至ろうとした遥かなる到達点。剣と己を合一のものとした、渾然一体のあり得ざる極地。

 しかし、それを。

 この衛宮士郎という魔術師は、既に。

 

「……体は、剣で出来ている……」

 

 その言葉を聞くたびに、倫太郎は痛感した。

 剣を振るうということの意味。

 剣と自分を一体化させ、戦う方法。

 教科書を読むような行儀の良さはない。ただ、野ざらしの苦痛と精神を削る苦行の果てに、倫太郎はその極地の、ほんの僅かな片鱗を掴んだ。

 

 無限の剣。それを内包する世界。

 

 倫太郎にはとても真似できない。体を剣として変えるその覚悟も、誰も持ち合わせないその美しい在り方も、倫太郎には模倣できない。

 それでも。

 彼の姿から、学ぶ事は山ほどあった。

 ぎゅんっ! と、身体が急浮上して荒野を離れる。荒れ狂う剣の波は静まり、静謐をたたえた剣の荒野は、倫太郎の手が届かぬ場所に離れていく。

 それを──彼は最後の最後まで、敬意とともに見守っていた。

 

「──────は⁉︎」

 

 浮上を経て、光速を振り切った果てに、倫太郎は覚醒を終えた。

 目を開いて荒い呼吸を繰り返す。目の前には、けろりとした士郎がこちらを覗き込んでいた。精神同調の負担など、まるで感じさせない自然体で。

 

「さて、どうだったかな」

 

「あ、どうだったかな、と言われると……」

 

 凄まじいものを見た、としか言えなかった。

 衛宮士郎。名の知れた遠坂凛に比べると、その正体について、倫太郎は詳しい事をほとんど知らない。

 だが、その内面を見て思い知った。

 これほどの、あらゆる意味における怪物が、遠坂凛のパートナーなのだと理解した。

 

「貴方は……僕達が目指すべき剣戟の極地に、もう立っている」

 

「繭村家の嫡子にそう言われると面映いな。……けど、俺の力は、何百年もの研鑽の果てに掴んだものじゃない。たまたまとあるモノを有していて、そこから裏技じみた方法で手に入れただけさ」

 

「そ、それでも……‼︎」

 

 彼の魔術回路、そして精神の奥深くにまで触れた倫太郎には判る。

 彼の力は、それこそ常人では計り知れない鍛錬と研鑽によって編み出されたものだ。その言葉は謙遜だと、倫太郎は確信をもって言える。

 

「ま、俺のことはいいのさ。問題は、君がいかにして、この剣の群れを使いこなすか……だろ?」

 

 その言葉に、素直に頷く。

 

「元々、君には素質がある。繭村の後継者である君が、これらを使えないわけがないんだ。だから、問題があるとすれば一つ……精神に関係するもの」

 

「使えないわけが、ない……僕が?」

 

「おそらく君は、剣を魔術の基礎とするには、あまりにも優しすぎる。つまり、性格的に向いてないんだろう。優しさのあまり、誰かを傷つける事を恐れて……最初の一歩が踏み出しきれない」

 

 でも、と士郎は前置きして、落ち着いた風格の笑みを浮かべる。

 

「俺にも、その一歩を踏み出す手伝いくらいはできた。さっきの同調で、剣を魔術とすることの意味を、掴めたんじゃないか」

 

「ほんの少し……だと、思いますが」

 

「それでいい。最初の一歩さえ踏み出せれば、あとは君自身の力で歩んでいける。なんせ君は、繭村の天才だからな」

 

 彼に言われると、それは正しいような気がしてくるから不思議だ。あまり自分に自信がない倫太郎でも、自分を信じてみる気分になる。

 そうして、頷きかけて──ふと、倫太郎は一つの疑問をぶつけてみたくなった。

 

「──……体は剣で出来ている。貴方の魔術回路と同調する最中に、この言葉を聞きました。あれは……」

 

「ああ、それか」

 

 士郎は少し困ったような顔をすると、引き締まった片腕で頭を掻く。

 

「I am the born of my sword。俺が魔術を使う際に、核とする言葉だよ。ただ……この詠唱(ことば)は、君にはきっと似合わない。体を剣と変えるには、君はあまりに優しすぎる」

 

 詠唱というのは、あくまで本人が、本人に働きかけるために編み出すものだ。

 衛宮士郎の詠唱は衛宮士郎のもの。倫太郎がそれを真似ても、さしたる成果は望めない。

 

「──それじゃあ最後に、一つだけアドバイスをしておこう。要らぬ世話なら、聞き流してくれて構わない」

 

 真剣な表情で聞き入る倫太郎に、士郎はどこか遠く、昔の戦いを思い出すような瞳で呟く。

 

「なんでもいい。どこかに、君が信じたいものがあるはずだ。戦いを臨むのなら、それを信じて剣を握れ。たとえ戦う事に迷いがあろうと、これだけは譲れるものかと、心の底から叫べばいい。そうすれば……君ならきっと、剣戟の極地に辿り着ける」

 

 その言葉に、倫太郎は無言で頷いた。

 以前ならきっと、ここで立ち止まっていただろう。

 自分が信じたいものなんて、分からないままもがくだけだった。

 それでも、今は違う。繭村倫太郎のたった一つの願いは、志原楓を守ることであると、とうに結論は出されている。

 その為なら、きっと──、

 

「────剣鬼、抜刀」

 

 ズオッッ‼︎‼︎ という凄まじい轟音を立てて、倫太郎の周囲に暴風が吹き荒れた。壁に立てかけられた十八の刃が共鳴現象を起こしたかの如く振動を始め、吠え叫び、空気を震わせている。

 彼らは、讃えているのだ。

 正統なる繭村の血統を持つ男が、今一度、己を握らんとしている喜びを。

 

「ありがとうございます。これで、準備は出来ました」

 

「そうみたいだな」

 

 魔力の発露を抑え、倫太郎は躊躇うことなく刀の柄を握り締める。

 第六次聖杯戦争における最後の戦いは──こうして、静かに幕を開けようとしていた。




【魔術回路の接続】
凛が楓とフィムに行った処置。両者を同調させ、肉体的ではなく精神的な魔力のパスを結ぶ事で、一方からもう一方への魔力の移し替えを可能とする。
士郎と凛が10年間タッグを組んで活動する中、士郎の魔力を補うために凛が編み出した技術。遠坂家の特性である「転換」を用いるため、他の魔術師が再現するのかもは難しい。


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【現時点における登場人物紹介と、ここまでのあらすじ その2】

物語も佳境に入ってきたということで、ここまでのあらすじ及び登場人物設定をもう一度掲載しておきます。八十話までの内容が含まれますのでご注意ください。
よろしければ感想、評価などしていただくととても励みになります。


〈第六次聖杯戦争の時系列〉

 

【8月26日】

・繭村倫太郎が令呪を獲得、聖杯戦争の勃発が明らかになる。

 

【9月1日】

・聖杯戦争の緒戦、セイバーvsライダー。決着付かず。

 

【9月2日】

・志原楓がキャスターを召喚、同時刻に繭村倫太郎がアサシンを召喚。

・合計七騎が揃い、聖杯戦争が本格的に始まる。

 

【9月4日】──運命の夜。

・セイバーvsバーサーカー。→セイバーは敗北。マスターも失う。

・運悪く、志原健斗もバーサーカーに殺害される。

・健斗とセイバーが契約を結ぶ。

 

【9月5日】

・志原健斗、セイバーと再会。

・セイバーvsライダー。→決着寸前で戦闘中断。

 

【9月6日】

・倫太郎、楓による宣戦布告を受ける。

・健斗が誤って令呪を一画使用。

・セイバーvsランサー。→ランサーは撤退。

・キャスターと志原楓、アナスタシア、及びアーチャーに初遭遇。→戦闘は起こらず。

・夜、窮地に陥った健斗をセイバーが救出。

・セイバーvs十二天将「勾陳」。→セイバーの勝利。

・セイバー、聖杯に託す願いを健斗に話す。

・倫太郎、アサシンが掲げる正義を認める。

・倫太郎&アサシンvs十二天将「天空」。→アサシンの勝利。

 

【9月7日】

・衛宮士郎が倫太郎を訪ね、聖杯の汚染や今回の調査について報告。

・セイバーと健斗がお祭りに行く。

・アナスタシア&アーチャーvs黒化アサシン。→黒化アサシン消滅。

・セイバーvsキャスター。→キャスター苦戦、決着付かず。

・健斗vs楓。→健斗の辛勝。

・健斗、敵対するマスターが己の妹であったと知る。

・セイバー陣営とキャスター陣営、休戦。兄が死亡しているために聖杯を求めている事を知り、楓は協力を誓う。

・健斗はセイバーの笑顔を見たことで、自身の恋心を自覚する。

 

【9月8日】

・自身の変化に戸惑うアナスタシアと、それを肯定するアーチャー。

・健斗とセイバー、映画館に行く。

・自分を悪と断じるセイバーを見て、彼女の自己認識を変えてみせると健斗は決意する。

・楓、学校の屋上でアーチャー(?)による攻撃を受ける。

・倫太郎の根本的な歪みがアサシンによって看破される。

・楓と倫太郎が遭遇し、戦闘。→楓の勝利。

・二人の前に黒化バーサーカーが襲来。→アサシンとキャスターは敗北。が、運良くバーサーカーは姿を消す。

・仙天島の女魔術師vs代行者たち。→女魔術師の勝利。

・仙天島の女魔術師&ライダーvsランサー。→女魔術師の勝利。

・衛宮士郎&遠坂凛vs黒化セイバー。 →ランサーの力を借り、撤退。

・アーチャーvsライダー。→ライダーの勝利。が、アナスタシアを見逃す。

 

【9月9日】

・健斗、悪夢の中でセイバーに何度も殺される。

・召喚される英霊達が重複している事実が明らかになる。

・セイバー、アーチャーの狙撃の前に倒れる。

・キャスターvsアーチャー。→キャスターの勝利。

・アナスタシアと楓たちが停戦する。

・健斗vsアサシン。→決着付かず。

 

【9月10日】

・セイバー、キャスターによる治療を受ける。

・アサシンvs黒化ライダー。→楓とキャスターが窮地を救う。

・楓の精神的な弱さがアサシンによって看破される。

・バーサーカーvsアサシン&キャスター。→決着付かず。

・マリウスvs楓&倫太郎。→マリウスは重傷を負うも、決着付かず。

 

【9月11日】

・セイバー、ランサー、キャスター、アサシンの主従および士郎と凛が繭村家に集まり、情報を共有する。

・セイバーと健斗のすれ違いから、セイバーが姿を消す。

・アナスタシアが命令を無視し、自分の意思で戦うと決意する。

・健斗の友人がバーサーカーに攫われる。

・セイバー&健斗vsバーサーカー。→バーサーカー消滅。

・セイバーの過去と願いが明らかになる。

・仙天島の女魔術師が令呪を奪い、セイバーを攫う。

・アサシン&ランサーvs仙天島の英霊六騎。→アサシン、ランサー、黒化ライダー、黒化キャスター消滅。

・セイバーと大聖杯がいびつな形で融合する。

・暴走する健斗vsキャスター。→キャスターの勝利。

 

【9月12日】

・健斗が目覚める。

・倫太郎が何を信じて戦うか、決める。

・楓とフィムの魔力供給リンクが確立。

・クロウリーが計画を最終段階に移し、天月の塔が出現。

・アナスタシアとアーチャーが仙天島へ。

 

 

〈登場人物、及びサーヴァント〉

 

 

【志原健斗&セイバー】

 

志原健斗(しはらけんと)

 

 一般人、17歳の少年。ボサボサの黒髪に若干悪い目つきが特徴。特に親しい友人に前田大雅(まえだたいが)三浦火乃果(みうらひのか)がいる。

 不運にも聖杯戦争に巻き込まれて殺害されるも、瀕死のセイバーと契約を結ぶことで死を免れる。「身体は死亡したが魂が離れない」という生と死があやふやな状態で活動しているため、セイバーが消滅して宝具の効果が切れれば死に至る。よって、聖杯に託す願いは自己の蘇生。……それとは別に、「自分を絶対の悪として捉えるセイバーを否定したい」という強い思いを持つ。また、実は良家の魔術師の「余りもの」として産まれており、魔術回路の質は倫太郎に次いで高い。

 内心ではセイバーを大切に思い、自覚するくらいには強く惹かれている。

 体内に埋め込まれた宝具の真名は「耐え難き九の痛酷(ラーマーヤナ)」。大元のセイバーに異常が発生したことでこの宝具の効力が暴走し、健斗を第二の魔王として目覚めさせた。セイバーと同等の力を振るうことが出来るが、それは魂を蝕む類の呪いでもあり、遅かれ早かれ健斗は死に至る。すぐそこに迫る死神に追いつかれるよりも早く、彼はセイバーを助け出そうとしている。

 

・セイバー(真名:羅刹王(らせつおう)ラーヴァナ)

 

〈筋力A、耐久A、敏捷B、魔力A+、幸運C、宝具EX〉

 蒼髪が美しい小柄な少女。外見は健斗の一、二歳下くらいのイメージ。かなりの童顔なので中学生に間違えられたりするが、本人は「魔王」を自称している。ワガママかつ甘いもの好き、自由奔放な行動で健斗を振り回す独裁者。

 ただし戦闘能力は非常に高く、敵に対しては容赦のない冷酷無比な一面を覗かせる。特に「神性」を持つものに対しては無敵とも言える強さを発揮し、クー・フーリンの槍を皮膚のみで弾き、神霊級かつ各々が英霊数騎ぶんの力量を誇る十二天将を相手に、たった一騎で圧倒してみせた。「魔王特権」による物体の変革により、さまざまな武装やクラス的に所持しない宝具でさえも再現可能と、戦術の幅が広いのも彼女の強み。

 真名はインドの叙事詩「ラーマーヤナ」に登場する魔王、ラーヴァナ。凄まじい力を持つ勇者ラーマの全盛期に並ぶ力を持つため、その力はサーヴァント全体で見てもかなりの上位に立つ。 特に愛剣である煌々たる月雫の夜刃(チャンドラハース)による一撃は、大塚の森を根こそぎ消し飛ばすほどの威力を誇り、英雄アキレウスの盾さえも貫いた。

 聖杯に託す願いは、「かつて出逢った少年にもう一度会うこと」。しかし、志原健斗がその少年の生まれ変わりであると知り、セイバーは今度こそ彼を守ると誓った。しかし、その誓いは最悪の形で破綻することになる。

 

 

【繭村倫太郎&アサシン】

 

繭村倫太郎(まゆむらりんたろう)

 

 16歳にして繭村家十九代目当主を継いだ天才魔術師。容姿は髪を長くして、気弱な感じにした士郎というイメージ。魔術回路の質は非常に良質で、単純な貯蔵量だけなら遠坂凛をも上回る(起源や属性を考慮すると、総合的には凛の方が優秀)。

 魔術師でありながら魔術が苦手という致命的な欠点があり、自分を三流だと感じている。また、自己よりも「繭村家」総体を優先すべきだと教え込まれてきたため、自己の目的や願いといったものが非常に稀薄。一見普通の少年のように見えても、その思考回路には自分というものが存在せず、完全に歪んでいる。アサシンと楓の言葉で、ようやく自分の歪みと向き合う覚悟を決めた。

 彼が用いる魔術は熾刀魔術(しとうまじゅつ)。起源である「切断」を刀を媒介として発現させることで、不可視のモノすら断ち切る概念切断を引き起こす。

 倫太郎が魔術を心底嫌い、苦手意識を持つ原因は、彼が生来の魔術使いであるということと、志原楓を傷つけてしまったトラウマが深く関係していた。が、長い戦いを経て、彼は自分の願い/正義は昔も今も変わらず、「志原楓を守り続ける」ことだという答えに辿り着く。答えを得た今の倫太郎は、天才の異名に相応しい奇跡を手繰ってみせる。

 

・アサシン(真名:魔眼のハサン)

 

〈筋力D、耐久D、敏捷A+、魔力C、幸運D、宝具EX〉

 目元にボロボロの包帯を巻きつけた、山の翁の名を継ぐ暗殺者。

 紫陽花色の短髪に褐色の肌が特徴。実にマイペースで、話し方は非常にゆっくりとしている。かつて「正義」に憧れながらも、人を殺す事でしか己の正義を成せなかったため、暗殺者である自分をなにより嫌悪している。「気配遮断」などに頼らず真正面から戦おうとするのは、その自己否定の表れ。そんな自分を認め、「僕の正義の味方だ」と言ってくれた倫太郎に対しては、非常に良い感情を抱いている。

 彼女の最大の武器は、神ですら死に至らせる「直死の魔眼」。

 普段は包帯である程度抑えているが、本気の戦闘時には包帯を解いて戦う。唯一の宝具名は「妄想死滅(ザバーニーヤ)」。「直死の魔眼」のリミット制限を意図的に外すことで、ありとあらゆる事象、存在の死を読み解く真の死神に変貌する。ただしこの状態で戦うことが出来るのは数分間に限られ、その後は脳が破壊される。

 黒化英霊の群れに殿(しんがり)として立ち向かい、消滅。その最期は生前とは異なり、笑顔を浮かべるほどには暖かいものだった。

 

 

【志原楓&キャスター】

 

志原楓(しはらかえで)

 

 志原の家に生まれた魔術師。容姿は髪を短く、茶髪に染めてツインテールに変えた凛のイメージ。魔術回路の質は悪く、量で比較すると士郎にも普通に負ける。

 また、使えるのは「徒手魔術(としゅまじゅつ)」という強化魔術の延長のみで、士郎でもできた魔力による視力強化すらできないというぽんこつっぷり。一応運動神経と料理には自信がある。

 一見すると気が強くて明るい少女のようだが、内側では大きなコンプレックスと劣等感、魔術師への嫌悪を抱えている。メンタルが超人クラスの凛に比べると、楓は嫌なことがあったら盛大に凹むし泣く。若干卑屈なので慎二っぽいところもある。過去に色々あった倫太郎には特に強烈な敵意を向けるも、彼の歪みと苦悩を知って、なんとも言えない複雑な感情を抱いている。倫太郎の決断の裏に隠された決意を知って、彼女もまた、弱気な自分に負けない強さを身につけようとしている。

 戦闘時には自分が使える唯一の魔術である「徒手魔術」を活かせるよう、もっぱら徒手空拳で戦う。

 

・キャスター(真名:安倍晴明)

 

〈筋力E、耐久D、敏捷C、魔力A+++、幸運B、宝具A〉

 人外の美貌を持った和装の優男。平安時代に君臨した都の守護者にして、最強の陰陽師。強力なサーヴァントだが、楓が大好きな映画のパッケージを触媒に召喚されるという適当っぷり。本人の性格も気楽かつ能天気で、聖杯に託す願いはなく、ただ「楽しそうだし、かわいい声が聞こえたから」という理由で召喚に応じた。マスターである楓をよくからかったりするものの、彼女を守る為には全力を尽くす。

 知名度補正が最大に働くこともあいまって、その実力は非常に高い。千里眼による過去把握や真名看破に加えて、多種多様な術を用い、小型の式神を最大千体まで使役する。また、一匹一匹がサーヴァント1〜5騎ぶんの力を持つ「十二天将」を使役できるため、本来の戦力では最強を誇る。ただ、マスターの魔力量の関係から全力で戦うことは難しい。

 健斗に看破された事で、キャスターは「本当の彼」を僅かな間のみ、彼の前に晒してみせた。妖狐との混血児である安倍晴明は、かつて化生ではなく人間として生きる道を選択したが、彼は人間の精神や感情、道徳倫理といったものを理解する能力を持たなかった。それは今なお変わることはなく、本質的には生物よりも機械に近い。安倍晴明は作り出した「仮想の人格」、つまり「方言で話すお調子者の男」という仮面を常に演じることで、あたかも感情を持つ一人の人間として振舞っているに過ぎない。ただ、それでも善き人間として生きようとする意思はあるため、楓には最上の忠誠を尽くす。

 

 

【アナスタシア&アーチャー】

 

・アナスタシア

 

 本名はアナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナ。ロシア出身の、白い肌にブロンドの髪を持った少女。大学の留学生という身分を偽りながら、喫茶店「薫風(くんぷう)」に居候している。

 その正体は聖堂教会から送り込まれた代行者見習いであり、別働隊による聖杯奪取が失敗した際にマスターとして聖杯を掴む役割を与えられている。幼い頃に教会非公認のNo.13、「第十三聖典」と融合して代行者の力を手に入れてから、復讐を果たすためだけに生きてきたという過去を持つため、初めて享受する平穏に戸惑いながらも、それに対して悪くないと感じている。特に最近は店主の槙野が気になるらしいが、常に仏頂面なのでそれを知る者はアーチャーくらいしかいない。

 代行者だけあって身体能力はかなり高い。キャスターの式神を素手で握りつぶしたり、アーチャーと共にビルからビルへと高速移動したりと人間離れした動きを見せる。「黒鍵」と呼ばれる代行者の武装を用いることが多い。

 喫茶店で短くも濃い時間を過ごしたことで、彼女は次第に変化を遂げていった。空虚で凍てついた心のまま、無為に復讐を繰り返していた頃の彼女は既にいない。代行者としての役割も捨て、彼女は母の遺言の通り、彼女が成すべきと思った事をやり遂げようとしている。

 

・アーチャー(真名:シモ・ヘイヘ)

 

〈筋力D、耐久B、敏捷B、魔力B、幸運A、宝具B〉

 灰色の短髪に軍服を着た剛毅な男性。武器のモシン・ナガンが示している通り、真名は「白い死神」と呼ばれた狙撃手、シモ・ヘイヘ。

 皮肉屋だが仕事屋、戦場に慣れているので常に冷静さを失わない。アナスタシアの真面目気質には若干うんざりしているものの、何だかんだ望まれた役目はきっちり果たす。叶えたい願いは「戦争で失った戦友たちに再開する」というものだが、第三次聖杯戦争の顛末を把握しており、得体の知れない聖杯という願望機に頼る気は無い。召喚に応じた理由は、もう一度かつての愛銃と戦いたいという願いから。

 アナスタシアとは火に油、まさに対照的といった性格嗜好だが、それでも内心では悪くないと感じ、その心象的な変化を祝福している。

 

 

【ランサー(マスター無し)】

 

・ランサー(真名:クー・フーリン)

 

〈筋力A、耐久B、敏捷A+、魔力C、幸運C、宝具A〉

 おなじみクー・フーリン。抑止力の後押しによって、前回の聖杯戦争の記録からサルベージする形で限界している(帝都聖杯奇譚におけるライダーの形に近い)。特殊な召喚の影響によって、前回の記憶(UBWルート)をそのまま引き継いでいる。

 抑止力ブーストによって全体的にステータスが引き上げられ、槍の宝具だけでなく地元でしか使えない「城の宝具」を行使可能。マスターが世界も同然のために実質的な魔力無限も加わり、並みのサーヴァントでは相手すらならない。スキルや加護を無視した純粋な戦闘能力を比較すると、魔王を名乗るセイバーすら上回っている。

 彼もアサシンと同様、黒化英霊達に挑み消滅。彼の第三宝具によって、倫太郎達は辛くも全滅を免れた。

 

 

【アレイスター・クロウリー&ライダー】

 

・アレイスター・クロウリー

 

 長い金髪に黒いローブを纏った女性。仙天島に大聖杯を模倣した基幹システムを敷設し、大塚の龍脈を乱用することで、第五次聖杯戦争から十年という短期間で第六次聖杯戦争を実現させた。

 ライダーが「魔術師(メイガス)の極地」と呼んだように、魔術師としての力量は非常に高く、無詠唱・無動作で様々な魔術を発現させる、致命傷を瞬く間に治す、令呪を瞬きの間に「再生」させるなど、その力量は計り知れない。代行者四人を容易くあしらった事からもその力量は伺える。また、セイバー・オルタと「聖杯の泥」の支配権を手中に置いており、それらを全て動員することでランサーにも勝利した。

 目的は「魔王を再誕させる」ことらしいが、その理由は未だ不明。セイバーの存在が密接に関わっているらしく、予想外の強敵によりセイバーが脱落しかけた際には、ライダーを遣わして存命を確認させていた。

 9月11日時点において、策を弄することでセイバーを手中に収めた。彼女と大聖杯の「中身」を融合させ、着々と最後の準備を進めている。

 

・ライダー(真名:イヴァン雷帝)

 

〈筋力B、耐久C、敏捷A、魔力D、幸運C、宝具A〉

 金髪に白肌の少年。見た目は常に荒っぽい子ギルみたいなイメージ。

 真名はイヴァン雷帝。子供の姿でも、広く知られる彼の残虐性は確かに残っている。むしろある程度成長すると「狂戦士」のクラスに振り分けられてしまうため、「騎兵」のクラスで召喚された際は必ず子供の姿で現界する。

 宝具「雷帝」による肉弾戦を好むが、「三界滅す神話の終局(ケラウノス・ティーターノマキア)」という切り札をも持っている。これは主審ゼウスにのみ許された神の雷であり、本来ならば人の皇帝に過ぎない彼には使えないものの、マスターの卓越した手腕と幸運によって可能となった。これは皇帝(ツァーリ)という存在が当時の人にとって「神」に等しい威光を持つものであり、同時にイメージ的な「雷」が彼に付与された結果として、彼がサーヴァント中もっとも主神ゼウスに近い存在だったというのが大きい。この宝具を行使する際、彼の霊基は僅かな間世界から神のものであると誤認され、雷霆による一撃を放つ事が可能となる。

 暴君のイメージで知られる彼だが、その凶暴性は確かな叡智に裏付けされたものであり、必要とあらば退くことも惜しまない。また、賞賛に値すると感じた敵対者に対しては、素直に尊敬の念を口にする一面も持つ。

 

 

【マリウス・ディミトリアス&バーサーカー】

 

・マリウス・ディミトリアス

 

 30前後と思しき風貌の西洋人。「魔石の担い手」の異名を持つ鉱石科の秀才にして、バーサーカーのマスターでもある男。

 基本的に一般的な魔術師同様、冷酷に効率のみを求める性格。ただ、己のプライド、魔術師としての矜恃を何よりも重視する傾向がある。そのため自分が頭を下げる、他者にへりくだるといった行為は何よりも嫌い、矜恃を守るためであれば非効率的な行為も厭わない。

 第六次聖杯戦争においてはオフィスビルの上部数フロアを工房とし、かの「月霊髄液」をモデルに作り上げた「魔術式強化外骨格(オリカルクム・フルアーマー)」を自ら用いて、倫太郎と楓を窮地に追い込んだ。

 倫太郎によって魔術回路の七割を機能停止に追い込まれ、撤退。フィムを逃してクロウリーとの一騎打ちに臨み、死亡した。

 

・フィム

 

 マリウスの傍にいるホムンクルスの少女。どこかイリヤスフィールと呼ばれるホムンクルスに似ているが、これは製造元と製造目的が同じだから。第五次聖杯戦争で活躍したイリヤスフィールが深刻な動作不良を起こした場合に備えて鋳造された、無数の劣化スペアのうちの一人。アインツベルンの廃棄場にてマリウスと出会い、聖杯戦争に使う駒として彼に引き取られる。その後はバーサーカーとの分割契約を結ぶなどして彼を補助していたが、クロウリーに命を狙われ、マリウスによって逃がされる。その後は倫太郎達と行動を共にし、キャスターとの契約を補助することで、彼が全力を出すためのサポートに徹する。

 マリウスとの離別に際して受け取った言葉から、彼女も彼のように、自分の意思で生きていくことを決意した。その現れとして、現在、彼女は「ディミトリアス」を名乗っている。フィムという名は倫太郎がつけてくれた。

 

・バーサーカー(真名:アキレウス)

 

〈筋力A、耐久A、敏捷EX、魔力C、幸運D、宝具A+〉

「最速の英霊」と称される英雄。通常の霊基状態でもその俊敏性は全英霊中最速に位置するが、更に「狂化」によるブーストが加わっており、その俊敏性はサーヴァントですら捉えられない。

彼とまともに交戦するには優れた「直感」や「心眼」か、それに類似した能力が必須となる。その必要条件を乗り越えたとしても、「狂化」によって強化された彼の剣戟とまともに打ち合えるサーヴァントは数少なく、彼を"最強"と呼ばれる存在たらしめている。

セイバーを一度退け、令呪支援を受けたアサシンとキャスターを同時に相手しても一歩も譲らないなど、悪夢のような強さを見せる。ただし僅かながら弱点もあり、理性を失ったことによる冷静な戦略眼の喪失などが挙げられる。

セイバーとの再戦の際も彼女を致死寸前まで追い込んだが、健斗の機転によって「狂化」の弱点を突かれ、煌々たる月雫の夜刃(チャンドラハース)による一撃を受ける。フィムの声に応えて「蒼天囲みし小世界(アキレウス・コスモス)」を発動させるも、僅差で競り負けて消滅した。



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八十一話 天翔ける輝舟

諸事情からタイトルが変わりました。内容に変更はありません。


 倫太郎は無言で着慣れた服を脱ぎ捨て、襦袢の上から代わりの裾に腕を通した。

 ──小さく白の家紋が刺繍された、黒染めの和服だ。

 それは繭村に伝わる伝統の一品。繭村の魔術師が着用した場合、様々な攻撃、呪詛、魔術干渉から身を守ってくれる。有り体に言えば、着物の形をした防護型魔術礼装だ。

 まるで元服を迎える武士の如く、倫太郎は粛々と、定められた手順をもって和装に身を包んでいく。帯を結び、羽織を着用する。風圧で羽織が羽のように広がり、荘厳な光景を作り出した。倫太郎がこれを着るのは初めての事ではないが、今回ばかりは身の引き締まるような思いがして、弱気になりそうな心を鼓舞してくれる。

 

「──────」

 

 それとまったく同じ頃、楓はいつもの黒装束を着終わり、苦無と手榴弾を懐に忍ばせていた。

 動作に支障なく、万全の体制と言えること、太腿のスリットから武装がいつでも取り出せることを確認し、頬を叩いて気合いを入れる。

 最後にキャスターの白籠手。両腕ともに機能を確認して、楓はゆっくりと部屋を出る。

 

「──────」

 

 すると、ちょうど隣の部屋から倫太郎が出てくるのだった。

 長い木張りの廊下でばったり出くわし、楓は思わず立ち止まる。

 目の前の彼は、どう表現すべきか彼女には分からなかったが、まるで別人のようだった。和装をした倫太郎を見たことがなかったので、最初は誰かと思った程だ。

 纏う雰囲気すら、いつもの彼とは異なっている。まるで、いつか見た、一つの剣と自分を変えているような鋭さがある。

 

「倫太……郎」

 

「ん?」

 

 声をかけられ、くるりと倫太郎が振り向く。

 こちらを見つめる瞳に先の険しさはなく、楓はわけもなく安堵してしまった。

 

「……なんでもない。行こ」

 

「ああ、分かっ……──⁉︎」

 

 本能が危機を察知した瞬間だった。

 目に見えない魔力の津波が、家ごと彼らを飲み込んだのは。

 二人は閉口して身体を屈め、暴風に抗うようにして対処する。

 

「──……志原、大丈夫?」

 

「ええ……何とかね。頑丈さには自信あるし」

 

 体を揺らすような衝撃はあったが、常日頃から魔術に親しんでいる魔術師にとっては、強烈な魔力波を受けても多少の目眩を引き起こす程度で済んだらしい。

 だが、嫌な予感を感じて倫太郎は冷や汗を拭った。

 二人して廊下を走る。士郎たちがいる部屋に飛び込むと、彼らは顔を付き合わせて早くも相談している最中だった。

 

「二人とも。まずい事態だ」

 

「どうしたんです?」

 

「今のを君達も感じ取ったと思うが……これは単なる余波の類いじゃない。明白な、人間に向けた呪詛の類いだ。攻撃と言い換えてもいい」

 

 そう述べた士郎が顔を顰める。その表情から察するに、彼もこうした魔術を行使する敵と交戦した事があるのかもしれない。

 そう言われてみれば、確かに身体が重い。

 魔術師は多かれ少なかれ魔術に対する耐性を持つ。それが今の魔術波にも発揮され、倫太郎たちには実害があまり感じ取れないのだろう。

 

「吸血行動……? 違うな。もっと強引な方法だ。無理やり他者を従わせて、魔力を吸い上げている……? このままじゃ、大塚市内の人間は全滅するぞ」

 

「多分、セイバーの魔王特権(・・・・)やろ」

 

 と。姿を見せたキャスターが、さらりと答えを述べた。

 それを聞いて楓は疑問を抱く。セイバーは確かに「魔王特権」なるスキルを持つとは聞いていたが、その効果は基本的に無機物に向いていた筈だ。生物である人間から魔力を吸い上げる、といった芸当は難しいのではないか。

 そんな主の疑問もお見通しとばかりに、キャスターは朗々と続ける。

 

「健斗クンの推測が正しければ……聖杯と融合したセイバーの力は計り知れん。そんな今のセイバーなら、「魔王特権」の効力が拡張されていても不思議じゃあない。それに、時間が経てば経つほどセイバーの力は増してくみたいやし」

 

「で、でも、セイバーちゃんは人から無差別に魔力を奪うような子じゃないわよね」

 

「つまり、彼女の意思によるものではないのか……もしくは、健斗クンよろしく彼女も邪悪に染まったか。どちらにせよロクでもない状況や」

 

 キャスターは目線を険しくして、仙天島を睨みつける。

 時間に猶予はない。今夜中に全ての決着をつけ、この聖杯戦争を終わらせる──これは、この場にいる誰もが抱える決意だった。

 

「全員、準備はええよな?」

 

 静かに、いつもの陽気さを捨てた厳格な口調で投げられたキャスターの問いに、各々は無言で返答する。

 

 ──衛宮士郎は回路の調子を見るように腕を回し、

 ──遠坂凛は宝石の残弾を改めて確認し、

 ──繭村倫太郎は背負ったゴルフバックを担ぎ直し、

 ──志原楓は両手の籠手を今一度付け直した。

 

 唯一返答を返さなかったフィムが、少し不満げに倫太郎を見上げている。

 

「………………む」

 

 その無言の抗議は、流石に無視するわけにはいかなかった。

 倫太郎は苦笑しながら、フィムの頭を優しく撫でる。

 

「フィム。君は魔力量に長けるといっても、戦いには向いてない。だから僕らが帰ってくるまで、ここでお留守番、ね」

 

 フィムは製造過程で廃棄されたホムンクルスであり、生来の魔術回路を持ち得ても、それを自発的に使う術をほとんど知らない。

 ある程度簡単な攻撃魔術は使えるだろうが、戦い慣れしているとはとても言えないのが現状だ。そんな少女まで向かうべき死地に駆り立てるべきではない、というのが全員の総意だった。

 

「みんな──」

 

 不満は感じながらも、彼らの優しさは十分に理解しているのだろう。頬を膨らませつつも、フィムは大人しく全員の顔を見上げて、

 

「……みんな、帰ってきてね。私はもう、誰かに置いていかれるのは……いやだから」

 

 その瞳が微かに潤む。声の震えは、確かにこの小さな少女が、二度目の死別を恐れていることの証だった。

 それを見て、倫太郎は無言でその小さな身体を抱きしめた。

 冷たい身体を温めるように、力強く。

 

「僕らは帰ってくる。だから、安心して」

 

「……うん」

 

 小さな頭を倫太郎の胸に埋めたまま、彼女は頷く。

 いい子だね、と呟いた倫太郎は、名残惜しそうに立ち上がった。

 フィムの瞳をもう一度見て頷いてから、踵を返す。慣れ親しんだ屋敷を出て、決戦の地に向かうために。他の四人も同様に、皆がひと時の別れを告げて外へと出た。

 

「……士郎、時間は?」

 

「丁度いい。今から向かえば、爆撃(・・)が始まる」

 

「オーケー。じゃあ作戦通り、その混乱に乗じるとしましょう」

 

 凛が新しいレンタカーの扉を開け、倫太郎、楓、キャスターに中に入るよう促す。士郎は助手席かと早合点した倫太郎だったが、彼は一向に乗り込む様子を見せない。

 

「行くわよ。かなーり飛ばすからしっかり掴まってね」

 

「え、あの、士郎さんは?」

 

「ああ……アイツなら、」

 

 凛が最後まで言い切る必要はなかった。

 車体上部から鈍い音が響く。車外で黒い洋弓をどこからともなく手にした士郎は、人間離れした跳躍で地面を蹴り、なんと車の上に着地したのだ。

 言葉を失う倫太郎と楓をよそに、開いた窓から士郎がひょっこり顔を覗かせる。

 

「──いくら陽動があるとはいっても、こちらにも攻撃は飛んでくる筈だ。特に向こうの弓兵は間違いなく俺たちを警戒している。だから、俺がここから奴の攻撃全てを撃ち落とそう」

 

「ん、そんなら僕が担当してもええけど?」

 

「いや、キャスターは魔力の温存に努めてくれ。こちらのサーヴァントは貴方一騎のみだ、使わないでいいなら温存しておきたい」

 

 といっても、相手取るのはサーヴァント。それも遠距離攻撃に長けた、弓兵(アーチャー)の英霊である。

 魔術師が対抗できるものなのか、という疑問はよぎるところだが、最初から士郎がアーチャーの相手をすることは告げられていた。それに、彼はキャスターと共に、サーヴァント級の戦いぶりを見せる健斗と互角以上に戦った実績もある。

 当然ながら、彼の意見に反対するものは誰もいなかった。

 

「出るわ。皆、覚悟はいい?」

 

 首を横に降るものは、誰一人として居ない。

 そうして各々が決意を固めたまま、仙天島に向け、凛はアクセルを思い切り踏み込んだ。

 

 

 

 

 それから、少し前のこと──。

 既に楓たちの準備が整った、という連絡を受けた俺は、一人暗闇の中で目を光らせていた。

 目の前には高い塀と等間隔に設置された蛍光灯が見える。塀の上部には有刺鉄線が隙間なく張り巡らされ、侵入者は許さぬといった様子が言外に伝わってくる有様だ。

 それもそのはず。この場所は一般人では立ち入りの許されない特別区域。俗に言う、自衛隊駐屯地である。

 

「そろそろだな」

 

 時間も頃合い。電車を乗り継いで2時間、わざわざ二県隣の自衛隊駐屯地までやって来たので軽い疲労はあるが、文句も言っていられない。

 が──ここからが本番とはいえ、これからしでかす事を考えるとやはり抵抗はある。

 

「……それでも、やるしかないんだ。ここでアイツを止めなきゃ、何が起きてもおかしくない」

 

 それはともかくすいません、とあらかじめ小声で謝っておいて、そうして余計な雑念は振り払った。

 すう、と息を吸い込んで、跳ぶ。

 地面を蹴り飛ばす轟音。基地周囲の塀なんて、今の体感的にはハードルを跳ぶよりも簡単だ。瞬く間に基地内への侵入を果たすと同時、闇の中照らし出される立ち並ぶ倉庫へと目を向ける。

 ここからは迅速さが肝心となる。立ち止まるのはこれで最後だ。

 仙天島にて待つセイバーの場所まで、ノンストップで駆け抜けてやる。

 

「──────!」

 

 事前に潜り込んでいたキャスターの式神が、俺の目当ての場所をとうに探り当ててくれている。彼らの小さな影を道しるべとして、俺はだだっ広い自衛隊基地内を走り出した。

 それにしても本当に広い。滑走路も併設しているから当たり前なのだが、目当てと思しき倉庫までの距離が異様に長い。

 負けじとアスファルトを踏みしめる足に力を込め、再度加速。

 微かに散る蒼雷の残滓で闇を照らしつつ、俺はフルスロットルで残る距離を駆け抜けた。キャスターの式神が両手を上げて待っていたのは、体育館みたいに広い倉庫の扉の前だ。

 

「……っ‼︎」

 

 どうせ鍵があるわけもないので、巨大な門扉を蹴り飛ばす。

 俺が元のままなら、必死こいて押さないと開かなかっただろう。そもそも鍵がなければ手詰まりだった。期せずして手に入れたセイバーの力に感謝しつつ、俺は暗闇に慣らしておいた目でブツを探す。

 

「…………これだ」

 

 探し当てるのに時間は必要なかった。

 それは隠されるわけでもなく、ただその勇姿を見せつけるかの如く、鉄の翼を揃えて倉庫の中に並んでいた。

 ──その名を、F15J/イーグル。

 言わずと知れた、日本国の航空自衛隊が誇る主力戦闘機である。

 聞いたことはあったが実際に見たのは初めてだ。幅13メートルにもなる巨大な異様にごくりと唾を飲み、俺は現代の科学が誇る巨大兵装へと駆け寄っていく。いつでも飛べるようにしてあるのか、パッと見たところではこのまま俺が搭乗しても問題は無いと見える。

 

(いや、問題しか無いけどな……)

 

 ふと、セイバーが自転車を勝手に盗んでいたのを思い出す。

 今と状況が似ているが、俺の方が遥かに色々とマズイ。

 これはセイバーに再会しても偉そうな事は言えないな、とため息をつきつつ、俺は操縦席に伸びるタラップを駆け上った。

 

「ええと……開け」

 

 こういう時、セイバーの力は便利だ。

 イメージを直接魔力として飛行機に流し込み、ハッチを開けるのではなく「開けさせる」。開け方が分からなくても、ロックがあろうと問題ない。

 独特な音をたてて開いた操縦席に飛び込むと、俺はその光景と、頭に流れ込んできた膨大な情報の波に、思わず言葉を失った。

 

(びっくりだ。理解(わか)る……俺はこいつを、飛ばせる)

 

 癪だがキャスターの言葉通りだ。セイバーの「騎乗」の能力はきちんと引き継がれているらしく、俺はまったくの素人だというのに、この機体の動かし方が直感的に理解できる。

 あとはコレを借りて空へ飛び立つのみ。

 ここからだ。ここから、この第六次聖杯戦争において最後となり、同時に世界の命運すら左右するであろう戦いが始まる。

 そう思うと肩にのしかかる重荷は際限なく増すばかり。なので、俺は考えることをたった一つに絞った。

 

 ────セイバーを、なんとしても助け出す。

 

 それだけ。それだけを見つめて突っ走るべきだと、壊れかけた、それでも動く志原健斗の魂は声高に叫んでいる。

 それに気付くと多少は気が楽になった。

 目を閉じて一度深呼吸をしたのち、俺は勢いよく操縦桿を握る。

 

「待ってろ、セイバー」

 

 スロットル・オン。

 無意識に言葉が漏れると同時に、鉄鷲はエンジンの咆哮をあげて、勢いよく滑走路へと飛び出していった。

 

 

 

 

 突如として保有する戦闘機のうち一騎が突然滑走路に飛び出し、とうに閉じていた基地の管制塔は慌ただしさを取り戻していた。

 自衛官達は困惑しきりだ。一体誰が何の目的で、無断で戦闘機を飛ばすなんて馬鹿を行なっているというのか。誰もが疑問に答えを出せない中、戦闘機は着々と滑走路から離陸する体制を整えつつある。

 

「パイロットに呼びかけは⁉︎」

 

「応答ありません‼︎ 正体不明‼︎」

 

「当基地のパイロット全員に連絡取れました‼︎ 全員該当なし‼︎ 恐らく部外者が操縦しているものと思われます‼︎」

 

「誰がンな馬鹿な事を……‼︎」

 

 正体不明の人間に戦闘機を奪われたとあっては、自衛隊史に残るほどの大事件だ。防衛省の沽券にも関わる一大事といっていい。自衛官達は冷や汗を垂らしつつ各々の仕事を果たしているが、流石にもう離陸寸前の戦闘機を止められる者はいなかった。

 

「再三の問いかけ駄目です‼︎ イーグル03、発進します‼︎」

 

 悲鳴じみたオペレーターの声が管制塔に響き渡った。

 エンジンからありったけの熱量を噴出し、鉄鷲が急加速して夜空へと舞い上がっていく。

 今日の空は一面の雲。黒を塗りつぶしたような雲海にイーグルは勢いを緩めず突っ込むと、瞬く間にその姿を消してしまった。

 

「──今すぐ他のイーグルを発進させろ‼︎ 敵味方の判別ができない以上、最悪の場合に備えてあのイーグルは堕とさざるを得ん‼︎ 捕捉は抜かりなく、絶対に逃すなよ‼︎」

 

 叩き起こされたパイロット達に指示が伝えられ、同時に発着誘導を行う自衛官達が滑走路に飛び出していく。正体不明者が戦闘機でもって市街に攻撃を加えるという可能性が否定しきれない以上、アレは既に日本国に牙を剥く敵対者として認識されていた。

 その緊張は管制塔を包み込み、慌ただしさの中にも張り詰めた空気が漂い始める。

 そんな中、管制塔のレーダーによってイーグルの機影を追い続けていた自衛隊が、隣の自衛官の肩を叩いた。

 

「どうした⁉︎」

 

「……おかしい、あり得ない‼︎ 対象のイーグル、とうに機体の限界速度を突破しました‼︎ ま……マッハ4に到達してます‼︎ それにさっきから飛行軌道がめちゃくちゃで……‼︎」

 

 日本航空自衛隊が誇るF15の限界速度は、基本的にマッハ2〜2.5とされる。だが彼が目視するレーダーに映る機影の移動速度はその限界をとうに超え、尋常ならざる速度へと突入していた。

 と、唐突に反応が消失する。

 当たり前だ。そんな速度を出そうとすれば機体は負荷に耐えきれず、限界を超えて空中分解する。もしくは人間の身体がGに耐え切れず絶命するか、だ。いずれにせよ、空に飛び立ったイーグルは消息を絶った。

 後に残された自衛官達は、電撃のように消え去ったイーグルの謎に、しばし呆然とせざるを得なかったのだった。

 

 

 

 

 ──当然ながら、イーグルは空中分解したのではない。

 

 鉄鷲を駆って雲の上に飛び出すと、美しい光景が広がっていた。

 今宵は「スーパームーン」と呼ばれる、普段よりも更に大きく映える満月の夜だ。月の光に照らされた雲海はどこまでも広がり、ひどく幻想的な光景を俺に見せてくれている。

 あまりの美しさに、一瞬何をしようとしたのか忘れた。

 冷静に集中を取り戻す。再度気を取り直して操縦桿に力を込め、

 

「魔王……特権────‼︎‼︎」

 

 操縦桿を硬く握る両手で火花が散る。

 こうして戦闘機を強奪してまで俺が目指したのはたった一つ。

 遥かなる神代、かつて羅刹王ラーヴァナが騎乗したという大いなる戦車──それを再現することが、今の俺の役割だ。

 

(大丈夫……セイバーの記憶は全て、今の俺にも思い描ける‼︎)

 

 俺ものではない記憶。俺と溶け合った羅刹王の記憶から、目標の姿を投影(トレース)する。

 羅刹王の戦車──その記憶を探ってその形状と武装を考えるにあたって、現世でもっとも近しいのはこの戦闘機をおいて他にない。セイバーは自転車を起点としたが、こいつを起点として再現すれば、かなり真に近付けるだろう。

 最後の決め手となるのはイメージの力。

 どれだけ元の理想形を思い描き、真に近付けるか。

 つまるところ、俺が為すべきことはたった一つだけだ。

 

(集中しろ……一片たりとも不処理領域を残さずに、常に全てを隈なくイメージして……神代を駆けた、最強の武装を思い描け……‼︎)

 

 何ら問題はない。工程も完成形も、とうに思い描ける。

 そのイメージの想起に合わせ、回路を回し、魔力を込める。今までだって「特権」は何度か使ったのだ、原理はそれらと変わらない。

 そして、それを使った(・・・)瞬間。

 

「────────あ?」

 

 ばつん、という音がして、目の前が真っ赤に染まった。

 

 理由はすぐに分かった。

 頭のどこかが、風船を針でつついたみたいに、ぱーんと割れた。

 即死だ。力の前に、(ようき)のほうが耐えきれずに破裂した。生暖かい感触と共にずるりべちゃべちゃとこぼれ落ちて行くのは脳漿か何かか。当然、力を失いぐらりと上体を傾けて、操縦桿に突っ伏すように意識を途絶させ──、

 

 それでも、意識は途絶えない。

 再生する。胸の奥で宝具が脈動し、即死の傷を塞ぎにかかる。

 

「ウ゛──が、ッ、ア゛ぁぁぁぁあァァァァァあ‼︎‼︎⁉︎」

 

 脳が膨張と縮小を繰り返して、全身の筋肉は暴れまわって、あらゆる組織が悲鳴を上げている。呼吸すらままならない。衝動にまかせて口から胃液と大量の血反吐を垂れ流す。

 宝具がなければ死んでいる。

 ただ、それは言い換えれば、死ねない(・・・・)という事でもあったのだ。

 スローモーションの世界に放り込まれたような状態で、一つ一つ、身体がコワレていく感覚を咀嚼する。

 

(────! ──、────‼︎)

 

 頭が真っ白にトんだ。

 羅刹王の力は、真っ当な人間には御しきれない。

 言葉では理解していたのに、たかを括っていた。感覚では1パーセントも理解出来ていなかった。

 これが、本当の彼女の力。大きな力を振るおうとすれば、当然、それに見合うだけの反動(フィードバック)が飛んでくる。今しようとした事は、間違いなく、俺という人間の限界を振り切っていた。

 人の身で易々と振るうことなど許されない。それが、セイバーが背負っていたものの重さなのだ。

 

「ガ、ぁ──あァァァ──ァァァア゛ァァァ──ッッ‼︎」

 

 無形の魔力を回すだけで熱が身体中を灼いていく。負荷に千切れ、飛び、瞬く間に再生していく全身。こんなのふざけてる。体の芯を糸鋸でガリガリと削るような、あるいは稲妻に絶え間なく身体を細切れにされているかのような、痛みで人を殺さんばかりの苦痛だ。

 

(ギ────あ、オれ、は──セイバーを、助ケ、殺────)

 

 死ぬ。間違いなく、この調子で続ければ魂のほうが焼き切れる。

 生き延びたいのなら選ぶ道は一つだ。いつかのように、全部裏返しにして身を任せればいい。魂の奥底で蠢く黒い感情に、そのまま従ってしまえば楽になれる。

 さあ、そうして、セイバーを殺せ。

 そうだ。それだけが、最初からずっと、俺の唯一無二の目標で、

 

(────…………セイ、バーを、殺ス?)

 

 そうして、完全に正気を失う寸前。

 殺したい相手の顔を思い浮かべた刹那、僅かに。

 

『ケント』

 

 俺は、その少女が笑う声を聞き取った。

 がちりと歯車が噛み合う。薄っぺらい意識に芯が通る。

 殺し、違う、殺したいじゃない、俺は、そうだ、決めただろう。

 

(そう。オれが、したイ事は、ンなことじゃない……俺は────‼︎)

 

 セイバーを、二度と、魔王なんかにさせるものか。

 かつて固めた決意が戻る。

 身体の奥で蠢くナニカに相対し、舐めるな、と目に炎を灯した。砕かんばかりの力で歯を食い縛って、死にかけの魂に喝を入れる。

 口にすべき名は、既に頭の中に浮かんでいた。

 

「羅刹王──たる、俺が──命ずる‼︎」

 

 鉄の巨体が、蒼の雷に包まれて搔き消える。

 全身の魔術回路が絶叫する。

 臓腑を焼き焦がす衝動の中、しかと完成点を見つめ続け。

 そうして俺は、あらんかぎりの大声をもって──、

 

「来い──────『ヴィマーナ』‼︎‼︎」

 

 その名(・・・)を、魔雷と共に叩きつけた。

 

 ──瞬間。

 ──周囲の全てが崩れ去り、そして全てが再生した。

 

 鉄の翼は金とエメラルド製の飛膜へ。幾重にも重なった金の装甲が鉄の装甲に取って代わり、少し魅力的だった計器やレバーの類の一切が失われていく。不要な天蓋(キャノピー)は取り払われ、吹き付ける暴風が俺の髪をもみくちゃにした。魔術的な防護が薄い皮膜を貼り、それも直ぐに収まっていく。

 

 ────……完成だ。

 

 ヴィマーナ。またの名をプシュパカ・ラタとも云う、羅刹王が騎乗した飛行戦艦(オーパーツ)。遥かなる神々とも戦える弩級兵器だ。

 これ以上の再現は、セイバー本人ではない俺には不可能だろう。

 だが十分。頭の中のイメージは忠実に再現され、羅刹王の戦車が長い時を経て蘇る。

 

「はっ……はっ……‼︎」

 

 今ので残り少ない寿命がかなり飛んだ。軋む魂の強度は豆腐みたいに頼りない。死がすぐそこに見えている。おそらく、今みたいな無理をするのは、もってあと二回が限度になるだろう。

 冷や汗を流しながら、目線を落とす。

 手元に残ったのは少し形の変わった操縦桿だけ。

 新たなる操縦者を前に、無機質な操縦桿が、しかし確かに応答を返した気配があった。神代の戦車というのは、それ自身すら意思を持つのだろうか。

 

「…………行こう、お前の本当の主のところに」

 

 まるで、俺の声に応えるように。

 ヴィマーナは無音の咆哮を上げ、翠の彗星と化して天を裂いた。




【ヴィマーナ】
羅刹王ラーヴァナが騎乗したとされる空中戦艦。様々な機能を備えてとり、物理法則を無視した速度で空を飛び、大気圏を易々と突破し、莫大な火力で敵を殲滅する。
形状は英雄王ギルガメッシュが所持していたものとほとんど変わらない。ただ、こちらは健斗が再現しただけの劣化コピーなので、速度や強度の面において劣っている。
かつてセイバーは自転車をこのヴィマーナに改造しようとしたが、流石に自転車では限界があったため、飛行戦艦ではなく戦車の形で使用した。彼女が騎兵(ライダー)のクラスで召喚された場合、月の刃に加え、この宝具を有して現界する。


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八十二話 それぞれの戦い

『──────』

 

 それ(・・)は、その時まで、まるで石像の如く微動だにせず佇んでいるのみだった。

 しかし、何かを感じ取ったのか。男はゆっくりとした所作で立ち上がり、複雑に枝分かれした巨樹の先端から、闇に沈む大塚の街を一望して顔を顰める。

 

弓兵(アーチャー)

 

 その男を、背後から呼び止める声があった。

 黒の騎士。ぞぶりと影を割って現れた彼女は、バイザーの奥にその表情を隠したまま、暗雲に覆われた空を仰いで彼に話しかける。

 

『──……来る。敵だ』

 

『理解しているよ、セイバー。が……空の敵は君に任せよう』

 

『では、貴殿は?』

 

 さしたる返答もせず、無言でアーチャーは黒の洋弓を投影(トレース)した。ひび割れた顔に、なんとも言えぬ表情を浮かべたまま。

 その顔を見て、セイバーは僅かに疑問を抱く。

 ありえないはずのもの。今の自分たちが抱くはずのないものを、しかし、この英霊は未だ残しているのではないかと。

 

『その手腕に疑いの余地はない。しかし、貴殿は……』

 

『言わずとも良いよ、セイバー』

 

 セイバーの言葉を遮って、アーチャーは再度投影を終わらせた。

 その手の中に現れた剣をつがえて、狙いを定める。

 視線の先の標的は闇に沈み、シルエットすらも判別つかない。されど、彼の前には無防備に等しくその姿を晒していた。

 

『──どうあれ、今の私に求められているモノは理解している。奴が戦おうと言うのならば容赦はせん。自分の仕事には全力を尽くすさ』

 

 その言葉に、セイバーが言葉を返そうとしたその時だった。

 ズン、と空気を揺るがすような衝撃が、仙天島と天月の塔を地面から揺るがす。同時、形容しがたい凄まじい存在感が、彼らの頭上から殴りつけるように襲いかかった。

 ここまで来れば、どんな人間でも理解するだろう。

 ──何かが来る(・・・・・)、と。

 しかし顔一つ変えず、セイバーは黒雲に覆われた空を見上げる。敵対者の巨大な気配は、もうすぐそこに迫っていた。

 

『そうか。では……アーチャー、貴殿の健闘を祈る』

 

『──────』

 

 再び影に潜るように姿を消したセイバー。その残滓をもう一度長い間見つめてから、アーチャーは振り払うように前を向いた。

 

 

 

 

 ガオン、と自動車のエンジンが唸り、速度制限をハナから無視した速度を叩き出して疾走する。

 周囲に人影はなく、家などの構造物もない。仙天島、および湖岸の近くには広く田園地帯が広がっているためだ。攻撃を受けても二次災害をもたらす危険は無いが、同時に、それは身を隠す遮蔽物に頼ることができないという事実も意味している。

 

「皆、聞いて。アレイスター・クロウリー……あいつの魔眼に関する情報が、少しだけ掴めたみたい」

 

 そんな中、運転しながら器用に携帯電話で通話を終えた凛が、目線を前方から外さずにそう述べた。

 乗員の倫太郎、楓、キャスターは、無言のままに耳を傾ける。

 アレイスター・クロウリー。最悪の魔術師と呼ばれた女にして、この第六次聖杯戦争を引き起こした元凶。

 倫敦(ロンドン)の知り合い(というより敵に近いかもしれない)になりふり構わず頼み込み、奴についての情報を探らせていた凛だったが、時計塔深部に秘匿された情報を暴くのはそれなりに危険な賭けとなる。とはいえ、なんとか間に合わせてくれたらしい。

 

「分かったのはひとつだけ。彼女が持つ魔眼について、よ」

 

「クロウリーは黄金の魔眼を持つ。それはフィムから聞いていましたけど……分かったのはその力とか、そういうものですか?」

 

「ええ。端的に言うと、アレは便宜的に「複製の魔眼」と名付けられているわ。そして現時点に至るまで、彼女以外の保有者は確認されていない……」

 

 ────複製の魔眼。

 

 それが、全ての元凶(クロウリー)が持つという、唯一無二の力だった。

 

「複製……ってどういう事なんです?」

 

「ハッキリとした情報は記載されてなかったらしいんだけれど……なんでもクロウリーは、一度視た魔術であれば、どんな大魔術であろうと、準備も詠唱もなしに再現する事が出来たらしいわ。恐らくはそれこそが、「複製の魔眼」の力」

 

「視た魔術を全て、そのまま模倣(コピー)する……」

 

「そ。……ほんと、魔術師としては頭にくるくらいの反則よね。アイツは「視る」だけで、どんな魔術であってもその全てを解して、行使できる。しかも準備や詠唱も無視できるから、複製元(オリジナル)と勝負しても簡単に勝利できる」

 

 ハンドルを手繰りながら、凛はそう呟く。

 それに対して、しばらく考え込んでいた楓は、

 

「そう考えると、その……クロウリー? とかいう奴が聖杯戦争を始める事ができた理由も説明できるんじゃないかしら。視るだけで全てを模倣できるのなら、聖杯戦争そのものだって模倣できるんじゃないの?」

 

「……聖杯戦争も、大きな区分けで見ればひとつの魔術儀式だ。もし仮に、クロウリーが十年前かそれ以前の冬木で、聖杯戦争の基幹システムにあたる大聖杯を盗み見ていたとしたら……魔力さえ調達してしまえば、簡単に聖杯戦争は再現できる。そういう事か?」

 

「そういうこと」

 

「驚いた。珍しく賢いじゃないか」

 

「やかましいわね! 私だってたまには口を挟むわよ」

 

 ──非現実的な仮定ではあるが、クロウリーが「視る」という行為だけで根幹たる大聖杯の構成理論を把握できたのであれば、それらをある程度調整し、自らの有利に働くよう仕掛けられるだろう。

 それが、彼女に従う第五次聖杯戦争のサーヴァント達、という形で現れているのではないか。

 

「案外、その説が濃厚なんじゃないかしら。大聖杯の鋳造方法なんてそれこそ失われた技術だし。それくらいの反則でもなきゃ、御三家でもない余人に聖杯戦争なんて起こせっこないわ」

 

 もっとも、ただ一人で聖杯戦争の基幹システムを模倣できるとして、それの起動に必要な魔力はクロウリーだけでは足りまい。

 故にクロウリーは密かに仙天島の地下に潜み、そこの龍脈から十年間魔力を吸い上げることで、今ようやく聖杯戦争の開始にこぎつけた……と、いうことなのだろうか。このゴタゴタが終わったら、繭村家の龍脈管理体系のずさんさを改善せねばならないだろう。

 ともかく、倫太郎はそんな考察もよそに、一つの単語に気を取られていた。

 

「複製の魔眼……視ただけで、あらゆる魔術を模倣する……」

 

「どしたんや、倫太郎クン?」

 

「少し考えがある。僕の考えが正しいなら、その魔眼にもできないことはあるし……勝算があるかもしれない」

 

「今からそいつに挑もうっていう私達が言うのもなんだけど……相手は前世紀から生きてて、それも時計塔と敵対してるとんでもない魔術師なのよね? そんな奴に弱点が存在するの?」

 

「多分ね。もっとも、その弱点をさらけ出せるのは──」

 

 倫太郎は無意識に声を小さくして、揺れる車内で考えを述べる。

 しかし、その瞬間だった。

 

 

「──────ッ‼︎」

 

 初めて。

 車の上で微動だにしなかった士郎が、動く。

 魔術回路の起動を一息で終え、投影。選択する武装は向こうに合わせた赤原猟犬(フルンディング)。かの英雄ベオウルフが振るいし名剣を、今一度蘇らせる。

 

「──……っ、来た‼︎」

 

 数秒の差をおいて、ハンドルを握る凛が放たれた赤の輝きを目視する。それと間を置かず、車の屋根で赤の閃光が瞬いた。

 躊躇いもなく、迎撃の一矢が放たれる。

 高空を裂きし二条の閃光。鏡写しの如く同一の射線を描く(ふた)つの閃光は、音速すら越える神速をもって肉薄し──、

 

「「「…………‼︎」」」

 

 同一の(せんこう)が、大塚の夜空で激突した。

 

 膨れ上がる爆炎、撒き散らされる轟音。闇に沈む大地が赤く照らし出され、吹き抜ける空気に微かな熱が混じる。

 

 ──そして。

 その激突を開戦の銅鑼と受け取ったかのように、ひとつの彗星が空を割って姿を現した。

 それはまるで翠色の落雷。黒雲を突き破って仙天島に肉薄する飛行戦艦(ヴィマーナ)は既に、標的に対する照準を終えている。

 

「あれ……お兄ちゃん‼︎」

 

 反射的に楓が叫ぶ。その叫びに応えるように、戦艦内部で無限に等しい加速と凝縮を繰り返した蒼雷の束が、雨の如く放たれた。

 空間が軋みをあげる。

 あらん限りの魔力を注ぎ込んだ、と言わんばかりの大火力が、惜しげもなく降り注ぐ。

 対象は逃げる事も隠れる事も出来ない。ただ、仙天島は静謐を保ったままにその砲撃を迎え撃ち──大気を震わせて、その全弾が仙天島へと突き刺さった。

 再度、規模を増して撒き散らされる超高熱と暴風。それは未だキロ単位の距離を挟む凛たちの自動車にすら襲いかかり、順調に加速していた自動車ががくん、とバランスを崩す。

 それを巧みなハンドルさばきでいなしながら、凛は爆炎に飲み込まれていく島のシルエットを凝視した。

 

 ────無傷(・・)だ。

 

 聳え立つ純白の巨樹には、一片の焼け焦げすら見られない。

 流石は神代の魔女が築きし結界。いくら羅刹王の戦車であれど、そう簡単には破れない。黒煙が立ち込めた事で、仙天島と天月の塔を覆う無色透明の魔力壁が、倫太郎達の目にも微かに見えた。

 

「…………ッ‼︎」

 

 その間にも、前哨戦は熾烈さを増し始めていた。

 空に放たれ続ける無数の閃光。その全てが正確無比にこちらを穿たんと降り注ぐ致死の雨。それも単調ではない。弓兵(アーチャー)は幾度となく鏃の種類を変え、息もつかせずに撃ち放つ。

 まるで士郎(こちら)の限界を測るような不気味な攻勢。

 考えている暇はない。

 理屈に従っている猶予もない。

 全ては直感と反射だ。迫り来る光の雨に対し、それらを瞬時に読み取り、形にして、これまた正確無比な照準を終え、撃ち放つ──。

 一つ一つが再現すら困難な守勢。

 しかし、彼はその神業を瞬き一つせずに終わらせ、

 

「舐めるなよ、アーチャー……‼︎」

 

 全く同一の(けん)をもって、その全てを叩き落とした。

 

 断続的に周囲で巻き起こる迎撃の爆発。

 轟音に混じり、剣が砕ける破砕音がこだまする。

 その中。舞い落ちる火花と剣の破片の中を、しかし決してスピードを緩めず、乗用車は駆け抜けていく。躊躇いはない。衛宮士郎はこの車を守り抜けると、運転手に確固たる自信があるがゆえに。

 

 

 

 

 ──俺が仙天島に放った全力の砲撃は、しかし、結界を破壊するには不十分だったらしい。

 島から聳え立つ高さ数百メートルの巨樹、それよりもさらに高い場所にいても、あの島と塔に傷一つ付いていないことくらいは分かる。

 舌打ちをして、大きく旋回。音速をとうに超えた速度でもって、再度仙天島への爆撃を試みる。

 しかし──、

 

「ッ⁉︎」

 

 ぞくりと背筋が総毛立つ。その感覚に従って、俺は全力でヴィマーナの進路を捻じ曲げた。物理法則を無視した挙動で、ほぼ直角に進路を折り曲げる。

 直後。地上にて、凄まじい魔力が咆哮した。

 そこから放たれたのは巨大な闇だ。天を貫く巨槍のように、それは俺を狙って縦横無尽に振るわれる。僅かでも触れれば蒸発は間違いない。こちらを叩き落とさんと唸る闇の奔流を、紙一重で避け続ける。

 

「ぐ……くッ────オぉぉぉぉぉッ‼︎」

 

 僅かに右翼が掠り、急激にバランスが崩れる。

 それでも耐えた。その傷を代償として仙天島に肉薄し、再度スロットルを全開にしてこちらが持てる全火力を注ぎ込む。

 二撃目。それらも、外しようがなく全てが命中した。

 瞬間的に膨れ上がる爆炎。それに伴い、島と巨樹を覆う結界に大きな亀裂が入るのが見て取れた。

 

「あと一撃、与えられれば……‼︎」

 

 しかし、剣士(セイバー)と思しき英霊の猛攻は続く。

 この恐るべき威力は、チャンドラハースによる一撃すらも凌ぐだろう。前に聞いた話では、敵のセイバーの正体はかの円卓の王。つまり、あの剣の正体は「約束されし勝利の剣(エクスカリバー)」。聖剣という区分において頂点に座す神造兵装だ。

 そんなものと真正面から戦う勇気はない。

 今は全神経を操縦に傾けて、こちらを捉えんと放たれ続ける闇の奔流を避けて、避けて、いつか来ると信じて攻撃の機会を見計らう。

 しかし──、

 

「うッ……⁉︎」

 

 眼下にもう一つ。最強の聖剣に匹敵する莫大な魔力の渦が、こちらに照準を合わせているのが見えた。

 

「ライダー…………ッ⁉︎」

 

 空気が揺れる。聖剣とはカテゴリの違う、人類全てを粛清せんとするかの如き神がかった「圧」が、俺の両肩にのしかかる。

 これは知っている。

 セイバーの記憶を参照せずとも、この気配は記憶にある。

 ライダーと始めて交戦した時に見たものだ。尋常ならざる圧をもった、獰猛に蠢く三叉の雷槍。アレが今、こちらに放たれようと蠢いている。

 セイバーはアレを、「神の武器」と呼んでいた。

 今ならその正体が、そのデタラメさが理解できる。あの槍は間違いなく、主審ゼウスが振るったとされる神の武器──すなわち、「雷霆」と呼ばれる究極の破壊兵器であると。

 聖剣と雷霆の二重攻撃。慈悲も情けも油断もなく、こちらを跡形もなく消し飛ばさんとする気概が伝わってくる。

 

(ま、ず──い……ッ)

 

 雷霆の方なら耐えられるかもしれない。だがヴィマーナの方が耐えられないし、その後に聖剣を受ければ、俺は跡形もなく消滅する。

 とはいえ、どちらも回避するのは至難の技だ。向こうの二騎はどちらも強力な英霊だ、それほど甘くはないと直感で判別できる。

 そもそも──「結界を破る」という俺の仕事が、まだ果たせていないままだ。

 僅かな時間の逡巡が命取りとなった。

 閃光と闇、相反する二つが牙を剥く。魔力も大気もかき混ぜて、それらは俺を飲み込まんと放たれて──‼︎

 

「………………っ‼︎」

 

 もう駄目か、と目を瞑ろうとした瞬間。

 攻撃が、消えた。

 巻き起こっていた超規模の魔力。その二つのうちの一つが、ぴたりと止んだのだ。

 

「な────」

 

 放たれたのは、騎士王が持つ聖剣のみ。

 これなら回避は間に合う。思考と同じ速度で動くヴィマーナは再び物理法則を無視した挙動を見せ、機首をありえない方向に捻じ曲げて、黒の濁流を間一髪回避する。

 時間はない。

 ただ、己がするべきことのみを、頭の中に思い描いた。

 刹那の肉薄を経て、ヴィマーナが三度目の絶叫を放つ。放たれた蒼雷は迷うことなく一直線に、仙天島を覆う結界に突き刺さり──、

 

 

「これで、潰れろ────ッ‼︎」

 

 その閃光は、確かに壁を突破した。

 

 開いた亀裂を中心とした破壊は断続的に広がり、無色透明の「壁」が、確かに崩れ落ちていく。今や仙天島に張り巡らされた結界は消失し、本丸はここにその全容をさらけ出した。

 今こそ勝機と、セイバーの直感(カン)が告げている。

 ぐん、と魔力を回して加速する。旋回ももどかしく、縦に天を回るアクロバット飛行を経て、機首を再度島の中枢へと向ける。

 砲撃準備完了。体を前のめりに、俺は全火力を叩きつけてやると操縦桿を握りこんだ──が。

 

 その寸前。

 視界の横に、ありないものを見た。

 

 機体側面に強い衝撃。進路が横に逸れ、放たれた蒼雷は湖面に着弾して爆炎と途方もない水量を打ち上げる。

 俺は慌てて機体の進路を修正しつつ、首を捻って後方を確に、

 

「な」

 

 そこに、今度は迫り来る剛刃があった。

 

 ほとんど何も考えずに体を前へ。間一髪のところで断頭は避けるも、逃げ遅れた髪がその一閃に巻き込まれ、寸断されて宙を舞う。

 前に屈んだ勢いのまま飛び起きるように身体をひねり、座した状態から、その敵対者に向かい合う。

 しかし、その威容に、俺は言葉を飲み込んだ。

 

「………………オマエが、」

 

 それは巨人だった。

 全身を爛れた黒に染め上げた、隻腕の巨人がそこにいた。

 

「邪魔をするか、バーサーカー……‼︎」

 

 ──あり得ない、と思う。

 なんせ、この巨人は純粋な筋力によって空に跳び上がり、神速で飛び回るこのヴィマーナを捉えたのだ。いかに俺の意識外だったとはいえ、言葉に表すとそのふざけた身体能力がよく分かる。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ッッ‼︎‼︎」

 

 バーサーカーがつんざくような咆哮をあげる。

 赤熱したかのように膨れ上がる四肢。巨獣は唸りながら、残った片腕で大剣を振り上げる。

 

「う、く…………」

 

 あまりの音圧に震える肌、力の抜ける手足。

 

 その圧だけで、怯みそうになった。

 この敵に標的にされたという事実に、気絶しそうになった。

 勝てるわけがないと、自分で死を選びそうになった。

 

 それでも、歯を食いしばって睨み返す。負けられない。何が何でも退くわけにはいかない。この大英雄(てき)を越えない限り、俺はセイバーのもとに辿り着けはしないのだから。

 ならば立て。

 覚悟は揺るぎなんてするもんか。俺は、絶対に──、

 

「────そこを、どけえッ‼︎」

 

 震える手足を叩き、全身の回路を全開に。

 せめて気持ちだけは負けまいと、俺はバーサーカーに向かって勢いよく走り出した。

 

 

 

 

「いける……‼︎」

 

 仙天島に続く唯一の橋へと、自動車は全速力で向かっていた。空を駆けるヴィマーナの砲撃により、行く手を阻むものは消滅している。

 戦場へと伸びる橋へと差し掛かる。しかし──、

 

『踏み込み過ぎだ』

 

 そんな呟きを聞いた気がした。

 天高く聳える白の巨樹。その枝先にて弓を構えるアーチャーの狙いは依然として変わらぬまま、ただ一本。標的から大きく逸れた(・・・・・・)矢が放たれる。

 降り注ぐ連射の中に本命の一射を隠す必殺。

 士郎はアーチャーの意図を読み取るも、こちらに降りかかる矢の雨が、その僅か一射を覆い隠す。そうして、それは狙いを外して士郎たちの眼前へと着弾し──、

 

「ぐ──……ッ⁉︎」

 

 橋の中心へと突き刺さり、刹那。

 既に橋の基部へ仕掛けてあった爆薬に着火し、何倍もの爆風となって橋を揺るがす。爆発は連鎖的に広がっていき、橋に差し掛かっていた凛達の自動車すらも巻き込んでいく。

 それがアーチャーの用意した策。

 こちらの攻撃を向こうが防ぎきる事を予期し、敢えて左右への逃げ場の無い橋へと誘導してから、必殺の一撃で橋もろとも消し飛ばす。たとえそれを予測しようと、連続射撃によってそれを妨げる周到さも備えている。

 直撃。爆炎は間違いなく、士郎達が乗る乗用車を粉砕した。

 

 そして──、

 

「────白虎‼︎」

 

 唸る炎熱を切り裂いて。

 五人全員を乗せた純白の巨虎が、颯爽と姿を現した。

 

『…………‼︎』

 

 キャスターの十二天将が一。白虎は力強く跳躍し、崩落した橋をたやすく飛び越えて、ついに仙天島への侵入を果たす。

 速度は緩めない。

 そのまま木立の間を駆け抜けて、白の巨樹へとひた走る。

 

「見えた……目指すはあの頂上よ‼︎」

 

 近くに肉薄すると、その巨大さを皆が一様に感じ取った。天を衝くような超巨大構造物は、その威圧感のままに聳え立っている。

 幅は50メートル、高さは200メートルを超えている。

 この、樹木に酷似した歪な光塔を登りきった先に、この戦いの黒幕が控えているのだろうか。

 

「セイバーのもとに向かうのは彼‼︎ 残る連中に正面から挑んでも勝ち目はないわ、私達は健斗君がセイバーに接触するまでの時間を稼ぐことに注力するわよ‼︎」

 

 全員が頷く。敵のサーヴァントはアーチャーを除いて可能な限りキャスターが抑え込むが、それでも戦力は絶望的に不足しているのが現状だ。真っ向から勝利できる可能性はかなり低い。

 そして──鬱蒼と茂る木立を越えた先。

 天月の塔を登る入口が見えた瞬間、全速力で走っていた白虎が、初めて大地を蹴り飛ばして回避行動をとる。

 

「うわ……ッ⁉︎」

 

 その直後。さっきまで彼らがいた場所を、極黒の一撃が駆け抜けていく。木立を消しとばし、島そのものを半壊させんばかりの一撃が、様子見とばかりに放たれたのだ。

 

「エクスカリバー……セイバーか‼︎」

 

 闇色の瘴気が立ち込める中、塔の前に門番の如く立つ騎士の影を、白虎に乗る士郎は確かに目視した。

 少し離れた場所に五人を降ろし、白虎は勇ましく騎士王へと飛びかかる。させまいと降りかかる矢の雨は、しかし士郎の迎撃によって弾き返された。

 

「────確認できるサーヴァントは⁉︎」

 

「セイバー……アーチャー……それだけだ‼︎」

 

 士郎が返答する。

 門番として待ち構える英霊の影は一騎。そして先の援護射撃からするに、アーチャーも頭上に控えている。

 

「残っとるんが二騎と思わんほうがええ、まだまだ隠れとる可能性もある‼︎」

 

 猶予など与えぬとばかりに、腹に響く凄まじい爆音を撒き散らして、再び騎士王の聖剣が放たれる。

 地面が融解していく嫌な音。エクスカリバーの二連発により、既に踏みしめることができる足場はかなり狭まっている。強固なはずの大地が揺れているのを感じ取って、倫太郎は舌打ちした。

 

「っても……アイツ、この島ごと僕らを沈めんばかりの勢いだけど‼︎」

 

「……キャスター‼︎ 今すぐ宝具でセイバーを封じ込んで‼︎ このままあのバカ火力をここに放置したら、私達ここで全滅する‼︎」

 

「しかし、せめて二騎くらいは僕が──」

 

「いいからっ‼︎ ここで悠長してたら全滅する‼︎」

 

「むっ……‼︎」

 

 協議を重ねる時間は残されていなかった。

 眼前で、熾烈に激突を繰り返していた白虎の右前足が、黒の聖剣による一太刀をもって断ち切られる。

 しかし、白虎は神霊に名を連ねる程の使い魔だ。万全には程遠いとはいえ、それだけで地に倒れ伏すほど脆弱ではない。右前足を犠牲にセイバーの胴に食らいつき、そのまま地面に叩きつける。

 

「────了解や。かの騎士王は僕に任せえ」

 

 ざっ、と地面を踏みしめて、キャスターは一歩前に出た。

 

「楓ちゃん。僕の方が上手くいけば事もなし、ただ、ちと手間取った場合は……打ち合わせ通りに。ええな?」

 

 神妙な顔で頷く楓の、ほんのすこしの翳りを見て、キャスターは困ったような笑顔を浮かべた。

 

「なに、君が気に病むことはない」

 

「…………!」

 

 楓は何かを言いかけようとして、やめる。

 それを言ってはならない。ここで変な事を言えば、彼の足を鈍らせる。故に彼女は、その言葉を飲み込んでから──、

 

「キャスター」

 

 声が空気を震わせる。

 小さな声で、しかし彼に届くようにはっきりと、彼女は告げた。

 

「アンタこそ遠慮はいらない。こっちは気にせずに、私の全てを使っていい。だから……負けたりしたら、許さないからね」

 

「んじゃ、勝ったら何かしてくれるかいな?」

 

「おせんべいを好きなだけ買ってあげる。嬉しいでしょ?」

 

「はは。十分や」

 

 そう言って、キャスターは少しだけこちらを振り返った。

 目と目が合い、その奥に映るものを見た、その瞬間。

 

「その願い、確かに承った。この全霊をもって、我が主(きみ)に勝利を捧げよう」

 

 ──その瞬間、楓は信じられないものを見た。

 そこにいたのは、こちらを見て微笑を浮かべたのは、確かにキャスターであってキャスターではなかったのだ。

 意味が分からない、と自分でも思ったけれど、あの瞳は絶対に、楓がよく知る彼のものではなかった。

 

 そして──、

 それでもなお、「彼」と同じ優しさをたたえた瞳だった。

 

式神跋祇(はっし)

 

 白虎に喰らい付かれたセイバーは、強引に聖剣を構え、その口腔に向けて解き放った。頭蓋から腹部にかけてを闇の奔流が駆け抜けて、白虎の身体が粉々に四散する。

 しかし、その隙をキャスターは確かに捉えた。

 宝具が起動する。それは術者と対象を丸ごと「世界の裏側」へと引きずりこむ、陰陽術というカテゴリの最高到達点。その名は──、

 

「陰陽ノ極────‼︎」

 

 そして、世界が裏返った。ほとんど無音のままに、眼前のキャスターとセイバーの姿が搔き消える。

 見えざる世界の裏側へと、彼らは転移を果たしたのだ。

 

 

 

 

 人のいない空間を、生ぬるい風が吹き抜けていく。そこにいたはずのサーヴァントの姿は、もうどこにもない。

 楓は唇を噛み締めて、誰もいなくなった塔の入り口を睨む。

 

「────上だ‼︎」

 

 と。楓が反応できない角度と速度をもって、頭上から飛びかかる一つの影があった。

 黒混じりの赤い外套がたなびく。振るわれる一対の夫婦剣は、しかし、楓を突き飛ばした士郎によって防がれた。

 甲高い金属音が響き渡る。

 夫婦剣に対抗するは夫婦剣。二対となった干将・莫耶が、零距離で噛み合い火花を散らす。その先に対峙する男は、間違いなく──、

 

「アー……チャー……‼︎」

 

 褐色の肌には亀裂が走り、赤の外套はところどころが黒に染まっている。されど、その顔は、眼前に向かい合う衛宮士郎とほぼ同一。

 思わず、凛の口からその名が漏れた。

 アーチャー。十年前、彼女と最後まで聖杯戦争を駆け抜けた英霊。

 それが時を経て、こうして今一度姿を見せた。今度は凛の味方ではなく、考えられる限り最悪の敵として──。

 

「──……文句は後だ。まずはお前を打ち負かす」

 

『フ……』

 

 重なる双影。

 それ以上の言葉は不要とばかりに、四つの刃が激突離散を繰り返す。熾烈に争い始めた二人を前に、凛は冷静さを保ちつつ、

 

「二人とも、アイツは私たちが引き受ける。巻き込まれる(・・・・・・)から、二人は出来る限り距離をとって」

 

 倫太郎と楓にそう警告した。二人は何に巻き込まれるのか、という疑問はあったものの、素直に距離をとって離れる。

 助力する気にはなれない。あの二人に余人の介入を許さぬ因縁があるという事は、言葉にせずとも伝わってきた。

 

「ありがと。貴方たちも気をつけて」

 

「──……そちらも、気をつけて」

 

 お互いに頷きあって、凛と倫太郎、楓の二人は互いの方向に踵を返す。倫太郎たちが向かうのは、門番の消えた塔の中だ。

 後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、二人は勢いよく駆け出した。

 

 

 

 

 ……石狩仙天島。

 ここは浄水施設と運動公園を備えた龍神湖のほとりに浮かぶ人工島、という認識が一般にはなされているが、それは違う。正確には、この地下に存在する龍脈を保護する目的で作られたのだ。

 こそれほど大規模な保護を必要とする程に巨大で、かつ繊細な龍脈が、この島の地下深くに眠っている──それは、倫太郎にも楓にとっても周知の事実だ。

 

「手早く済まそう。時間をかければかけるほど目立つ」

 

 倫太郎と楓の役割はただ一つ。

 この天月の塔を登るのではなく下ることで、敷設されているであろう大聖杯の基盤システムへと向かい、それを破壊することだ。

 当然ながら、倫太郎にその力はない。大聖杯は聞くところによれば超抜級の魔術炉心だ。そんなものに一撃でカタをつけるのなら、せめて対軍宝具に匹敵する宝具が必要になるだろう。

 

「……幸い、キャスターが必死に用意してくれた秘密兵器(ばくだん)があるからね。仙天島の地下空洞は冬木のそれに比べれば小さめだから、今の装備だけでも崩落させられると思う」

 

「アイツの目測は完璧よ。できないことはできない、ってキャスターは言うし」

 

 キャスターの「道具作成」の技術は、英霊達に遠く及ばない倫太郎達にとって大きな武器になる。

 用意した陰陽札を残らず起爆させれば、大聖杯が眠る地下空洞ごと、全てを終わらせることができる筈だ。

 慎重かつ素早く、二人は木陰から木陰へと身を移し、少しずつ人の消えた塔の入口へと進んでいく。しかし──、

 

「「──……‼︎」」

 

 ──ぴたりと足が止まる。

 前に動かんとする足が、生存本能から停止する。

 あと塔の入り口まで数十メートルもない。

 それなのに、喉が渇いて息すらも止まりかけた。

 

「歓迎しよう。大塚の主よ」

 

 ゆっくりと、荘厳さすら感じさせる歩調で姿を現した一人の女が、その黄金の瞳でこちらの木陰を視ていた。

 仙天島の主、アレイスター・クロウリー。

 顔を見たことがなくとも直感で判る。全身の細胞が危機回避にざわめく感覚が、その事実を明確に伝えてくる。

 これだけは間違いない。

 確実に、この女は危険である、と。

 

「とはいえ──貴様には悪いが、もてなしをする時間も余裕もない」

 

 擦り切れたローブをたなびかせて、女は歩みを止めずに語り続ける。ぞっとして、倫太郎は咄嗟に腰の木刀に手をかけた。しかし、

 

彼女(まおう)の目覚めは近い。これ以上、邪魔はしないで貰おうか」

 

 直感的な絶望が脳裏をよぎる。

 煌々とクロウリーの両眼が輝いた。それは確かに倫太郎へと標準を終えていて、その事実は死の予感となって背筋を駆け抜ける。

 

(────ま、ず)

 

 そこまで考えるのが精一杯だった。

 平凡な人の身で、迎撃も回避もできるはずもなく──音速を超えて放たれた閃光が、彼の身体を貫いた。



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八十三話 この世全ての悪/Other side

 絶え間無く響き渡っていた爆音が止んだ頃。

 代行者アナスタシアは、崩落した橋を跳び越え、瘴気渦巻く人工島に足を踏み入れていた。

 

「……アーチャー、敵の姿は?」

 

『いるようだ。が、既に一騎は仕留めた(・・・・・・・)

 

 その言葉を聞いて、少女はぴくりと肩を震わせる。

 

『ライダーだ。あの飛行物体が結界に亀裂を入れてくれたお陰で、その隙間から狙う事が出来た』

 

「……流石ですね、アーチャー。そのまま、可能であれば狙撃を続行してください。攻撃はあなたに任せます」

 

『ああ。散開した連中はここからじゃ狙えんが、互いに違う場所で争っていると見える。少なくとも、お前の進路を阻むものは何もない。が……気を付けろよ、マスター』

 

 念話を打ち切って、後ろめたい気持ちにかられる。

 アーチャーは「ライダーを仕留めた」と言ったが、彼女はライダーに返していない恩がある。弓兵の狙撃に口を挟まない約束とはいえ、恩を仇で返す形になってしまったのは少し心が痛い。

 無論、アーチャーから見ればライダーはかつて深手を負わされた怨敵だ。アナスタシアはともあれ、アーチャーが隙を見せた騎兵に容赦する理由はない。

 

 ──無理に道理を呑み込んで、ぐるりと周囲を見渡す。

 立っているのは島の中心まで続く一本の道。この周囲には、前まで鬱蒼と茂る木立があったはずだ。しかし今はその大半がなぎ倒され、融解した地面の中で木々の燃え滓がくすぶる、地獄のような光景が広がっている。

 思わず頰に冷や汗を流しながら、アナスタシアは唾を飲み込んだ。

 

「……行かないと。私は必ず、あの人を守るんだから」

 

 怯みそうになる心を奮い立たせて、アナスタシアは走りだす。

 ゴールは明らかだった。目の前に聳え立つ、超巨大な白い巨塔。

 そこに侵入して、今なお続けられている「捕食」を止める。誰かがそれを成さなければ、この街の人間が生きて朝を迎えることはない。無論、あの喫茶店の店主も死に絶える。

 それは嫌だ。

 だから、出来るか出来ないかなんて関係なく、アナスタシアは無我夢中に走り続ける。

 

「…………っ、く⁉︎」

 

 と。空を裂くような轟音に、アナスタシアは天を見上げた。

 一瞬で迫りくる危機を認識する。

 ほぼ反射的に彼女は飛び退いて、姿勢を低くして地面に伏せた。

 それと同時。眼前に、さっきまで宙を飛び回っていた謎の飛行戦艦が、全く速度を緩めずに墜落する。

 その爆発たるや、凄まじいものがあった。

 なんせ音速すら振り切った速度で、航空機並みの大質量が地面に激突したのだ。破壊痕(クレーター)のできた地面に、じわりじわりと炎が拡がっていく。

 

「げほっ、ごほっ……何、が──?」

 

 飛び散った飛行戦艦の残骸は、いくつか彼女の近くにも突き刺さっていた。黄金色のそれらは役目を果たしたと言わんばかりに、細かな粒子となって消えていく。

 しかし、そちらに目を奪われている場合ではない。

 その残骸に紛れて、二つ。黒焦げの燃え滓となった歪な肉塊(したい)が炎の中から転がり落ち、目の前でくすぶっていた。

 そして。

 

「……■、■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■‼︎‼︎」

 

「──お、オ゛ォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ‼︎‼︎」

 

 同時、二つの咆哮が炸裂した。

 歪な肉塊が蠢く。それらは炭化した肌を元に戻し、欠損した肉体を取り戻して、みるみるうちに元通りとなって蘇った。

 確実に、誰が見ても死んだと分かるような傷を受けようと、しかしこの二人は斃れない。完全な死には至らず、死ぬ、もしくはそれに値する傷を負おうと立ち上がる。

 そんな、死に嫌われた怪物二匹の激突。彼らの眼中に、はなからアナスタシアは存在しないようだった。

 激しい旋風が巻き起こったと感じた直後、バーサーカーの巨躯が搔き消える。

 

「────、く‼︎‼︎」

 

 獰猛な気配は背後。

 右から左に振るわれる大剣を、少年は間一髪で回避する。そのまま縦の振り下ろしを紙一重で躱し、地面すら穿つ勢いをもって、その刀身を踏みつける。

 

「■■■■■■ッ‼︎」

 

 それを見たバーサーカーは、刀身を蹴って宙に跳んだ少年を睨みつけ、握りしめていた刀の柄を潔く手放した。

 地面にめり込んだソレを引き戻すのでは間に合わない、という刹那の判断。狂戦士らしからぬ戦士の直感は確かに的中し、バーサーカーが上体を逸らすや否や、放たれた蒼雷が空いた空間を焼き焦がす。

 

「彼は……」

 

 空を飛び回る謎の飛行戦艦が結界を破壊したという事実はアーチャーの報告で聞いてはいるし、実際に見てもいる。しかし、その正体は分からぬままだった。

 だが、あの破壊兵器を操っていたのが、よもや英霊ですらなかったとは──。

 彼は確かセイバーのマスターだったはずだ。それがどうして破壊兵器を駆り、バーサーカーと戦うだけの力を行使しているのか、アナスタシアには想像もつかない。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ァ‼︎」

 

 再度剣を握り直した隻腕の巨人が、嵐の如く暴れ狂う。

 その破壊をかいくぐる少年。二つの影は離れる事なく、互いに手を伸ばせば触れ合えるような至近距離で、凄惨な殺し合いを続けていた。衝撃波と飛び散る土塊、蒼雷を見て、アナスタシアは判断する。

 

(あれは自分が手出しできる戦いではない。いえ、そもそも、私がやるべき事はきっと別にある)

 

 理屈ではなく、感覚があった。

 為すべきことがある(・・・・・・・・・)、という、何故か、魂に訴えてくるような想いが。

 体の中が燃えている。為すべきことを為せ、と、全身の細胞が叫んでいる。

 

「そう。立ち止まってなんて、いられない」

 

 アナスタシアは、再度立ち上がって走り出した。

 鼓膜を破らんばかりの轟音と咆哮。すぐ目の前を二つの影が駆け抜けて、アナスタシアの髪が烈風に揺れる。飛び散る土くれが頰を裂いたが、それでも彼女は止まらない。

 そうして、アナスタシアは死と隣り合わせの激戦区を抜けた。

 背中に戦闘音を聞きながら、まっすぐに塔の入り口を目指す。

 すると──、

 

「…………⁉︎」

 

 右前方で爆炎が膨れ上がり、彼女の顔を朱く照らし出した。

 辛うじて破壊を逃れた木々に遮られて、交戦しているのが何者なのかは判別できない。だが、炎の赤の中を飛び交う無数の剣を、彼女は確かに見た。

 さっきのバーサーカーと少年に負けぬほどの気迫が、遠く距離をおいても伝わってくる。

 そして、更に──、

 

「また……‼︎」

 

 今度は左。

 そちらからは閃光と紫電が連続し、空気を焦げつかせる嫌な音が響いている。

 こちらも、誰が戦っているのかは分からない。矢継ぎ早に放たれる多種多様の魔術攻撃はもはや爆撃に等しく、そちらは眩い白光で埋め尽くされていた。

 その中を駆け抜けていく人影は敵か味方か。どちらにせよ、アナスタシアがやる事は他にある。熱風に全身を叩かれ、今にも膝をつきそうになりながら、這ってでも前へと進む。

 

「はっ、はっ……ここ、ですね……‼︎」

 

 そして──ついぞ足を止めることなく、塔の入り口へと辿り着いた。

 巨樹に空いたうろのようなそれに足を踏み入れると、樹木のような外見に反し、内部にはだだっ広い空洞が広がっていた。壁面には直径数メートルの根が幾重にも絡みつき、複雑な模様を描いている。目に見える人工物は、塔の天辺まで続いていると思われる、巨大な螺旋階段のみだ。

 白く輝く壁面に手を触れながら、アナスタシアは注意深く周りを見渡した。

 

(敵の気配はありませんか。この階段を登れば、上に向かう事は出来そうですが──)

 

 焦って上に向かいそうになる気持ちを抑えて、冷静に考える。

 ──自分は何をするべきか(・・・・・・・・・・)

 直感が告げている。必ずあるはずだ。自分にしかできない事が。

 この樹木に酷似した塔の構造さえ理解できれば、何かが掴めるかもしれない。ひとまず中心に向かって、半径30メートル、高さ約200メートルの巨大な空間を歩いていく。

 

「これは……下にも、道が?」

 

 少しだけ歩いたことで、見えてくるものがあった。

 空間の中心には巨大な螺旋階段があり、200メートル上へと真っ直ぐに続いている。しかしその背後に、まるで大地に穿たれた亀裂の如く、巨大な縦孔が空いていたのだ。

 じりじりと近づいて、少しだけ頭を傾け、その下を覗き込む。その瞬間──、

 

「────う゛っ‼︎⁉︎」

 

 下から吹き付ける生暖かい風が頰を撫でた瞬間、言葉にできない不快感から、アナスタシアは思わず嘔吐しそうになった。

 身体の中で、何かが拒否反応を起こしたように暴れ狂い、臓器をめちゃくちゃに掻き回されるような錯覚さえする。

 しばらく肩で息をして、アナスタシアはその縦孔を睨んだ。

 

「こ、れは……っ」

 

 考えるまでもなく直感で悟った。

 よくないものが、この先にある。

 再び、身体の中心で誰かが叫ぶ。お前が為すべきことが待っているぞと、この先に進めと訴えてくる。

 迷いはあった。この、昏く何も見えない孔に身を投げてしまえば、戻ってこれなくなるのではないかと。

 けれど──、

 

「……それが、何だと言うんでしょう」

 

 躊躇うことなく、彼女はその孔に身を投げた。

 生暖かい風が全身に吹き付ける。体内で再び暴れ狂い、現出しようとする「何か」。それを宥めながら、短くて長い落下を終える。

 それはどれほどの深さなのだろう。潜れば潜るほど、落ちれば落ちるほど、全身を駆け巡る悪寒は増していく。

 やがて底が見えた。着地の衝撃をなんとか殺しきって、ゆっくりと立ち上がる。

 そこに、広がっていたのは──、

 

「これが……大聖杯……こんなものが」

 

 眼前に広がる巨大な地下空洞。その中心に座した、蠕動しながら赤の燐光を放つ超抜級魔術炉心。

 そこに、異形があった。

 見るだけで嫌悪感を催すような、泥と肉塊。

 それが魔法陣に絡まるように拡がり、中心で積み重なり、地下空洞の天井へと伸びている。規則的に収縮を繰り返すそれは、まるで何かを咀嚼し、呑み込んでいるかのようにも見えた。

 

(こんな悪しきモノを、私は見たことがない。形を得た呪詛なんてものが、この世に存在していいはずが……‼︎)

 

 それは、世界に在ってはならないモノ。

 この世界を生きる生物としての本能が、彼女にそう告げていた。

 

「ああ、その通りだ」

 

 聞き覚えのある声が、地下に反響して響き渡る。

 アナスタシアは弾かれたように横を向いた。暗がりに、倒れた小さな人影がある。

 それを凝視して、彼女は思わず驚きの声をあげた。

 

「……ライ、ダー……?」

 

 金髪を逆立てた少年は、しかし動こうとしなかった。

 否。動けないのだ。倒れた彼の周りには、べっとりとした血がこびりついている。今も出血は続いているのか、ライダーは地下空洞の壁に背を預けたままだ。

 

「ハッ……やってくれ……やがったな、女」

 

「アーチャーの狙撃を受けて、上からここまで落下しましたか」

 

「ああ……クソッ、いつぞやの借りを返された。これからが……楽しいって、時だってのに」

 

 ギリ、と歯を噛み締め、鬼の形相でアナスタシアを睨むライダー。

 それはそうだ。アーチャーのマスターは彼女なのだから。

 その猛獣が如き視線を受け止めながら、彼女はゆっくりと彼に近づいていく。

 

「フン……つまらん閉幕だ。最後の戦いを前にして……この……俺が、こんなところで、テメエ風情に……とは」

 

「いいえ。違います」

 

 ライダーの予想に反して、アナスタシアは、瀕死の彼にトドメを刺そうとはしなかった。その側にかがみこみ、穿たれた傷跡へと触れ、魔術回路を起動させる。

 

「な……ッ」

 

 ぽう、と柔らかい光がライダーの体を照らしだす。回復魔術により、アナスタシアはその傷を塞ごうと試みていた。

 

「何してやがる、テメエ」

 

「貴方には一度、見逃して頂いた借りがありますから」

 

「……あのな。大体、それなら最初からアーチャーの狙撃を止めさせろ。弓兵はテメエのサーヴァントだろうが。なんだ? テメエ見た目に反して馬鹿なのか? マッチポンプって言葉は知ってるか?」

 

 容赦なく放たれるライダーの口撃が、アナスタシアにぐさぐさと突き刺さる。

 

「そっ、そ、それは……私は狙撃術に関しては完全に門外漢ですし、アーチャーの狙撃には口を出さないようにしていまして……」

 

「ケッ。自分のサーヴァントくらい自分で制御しとけ、間抜け」

 

 忌々しそうに唾を吐き捨てるライダー。アーチャーが戦いやすいように気を遣った結果とはいえ、正論だ。言い返しようがない。

 バツが悪くて俯いたまま、アナスタシアは傷の治癒を続行する。

 

「ハァ。まあ、テメエが俺を助けんとする理由は理解したが。分かってるよな? ──この後俺に殴り殺されようと、文句は言えんぞ」

 

「それは……困ります。私にもすべき事がありますから。そうなれば、貸し借りもなくしたうえで、もう一度戦うしかありません」

 

 自分自身、何をしているのだろう、と疑問に思う。

 少なくとも「この地を訪れる前の」自分であれば、敵であるライダーは、有無を言わさずここで処分していただろう。こんな情に流されるような弱さは、きっと持ち合わせていなかった。

 けれど……それは、弱さなのだろうか?

 アナスタシアは少し考え込んで、目の前のライダーの瞳を見る。

 

「なんだ。やっぱり気が変わったか? そうしといた方が身の為だぞ……というか、女に助けられるなんざ羞恥の極みだ。早く殺せ」

 

「やはり尊大ですね、貴方は」

 

「当たり前だ、誰に口きいてると思ってる。皇帝(ツァーリ)だぞ、俺は」

 

「ええ。イヴァン4世……かつてわたしの故郷を治めた、雷帝と呼ばれた無二の皇帝。それが貴方」

 

 それを告げると、ライダーは少し意外そうな顔をした。

 冷徹、残忍、暴君。彼が背負う「雷帝」の異名には、そんな人々からの畏れが込められている。その名を知ってなお平然と接する彼女に、ライダーも驚いたのだろうか。

 ぽつりぽつりと呟いて、アナスタシアは続ける。

 

「ずっと、貴方に聞きたいことがありました」

 

 ライダーとアナスタシアが、初めて戦った夜。

 問答の果てに、彼はアナスタシアを殺さなかった。この街を去れと忠告して、殺せたはずの敵対者を見逃したのだ。

 

「ライダー、貴方は……あの魔術師がしようとしている事を、知っているんですか?」

 

「当たり前だ。マスターの望みくらい理解している。そしてそれが、世界を壊すユメだという事もな」

 

「では何故それに従うんです。貴方とて、かつては人を統べた皇帝。この世界を守護せんとする意思はあるんでしょう」

 

「ああ──当然、俺は皇帝だからな。それがただただ、世界を壊すだけのモノだったなら、俺は奴に反旗を翻しただろうさ」

 

 力を抜いて、ライダーは遠くを眺めるように呟いた。

 

「……けど、マスターはそれだけじゃねえ。巫山戯(ふざけ)たことに、奴は世界を愛するが故に(・・・・・・・・)、この世界を壊そうとしているのさ。だから、まあ、その結末に少し興味が湧いた」

 

「この世界を愛するが故に、壊す……?」

 

「矛盾しているようだが、正しい。世界を壊すのは悪意ではなく善意だ。あの女は誰よりもこの世界を愛し、慈しみ、憂いている。……少し何かが違えば、奴も聖人とやらの一人になれたのかもな」

 

 分からない、とアナスタシアは首を振る。

 あの魔術師は世界を愛しているが故に、世界を壊すという結論に至った。それは理解できても、理屈が分からない。

 しかし、それでも──、

 

「そう、ですか」

 

 アナスタシアは、ほっとしたように、少しだけ笑っていた。

 それを見て、ライダーは怪訝な顔をする。

 

「なんでテメエが笑ってる」

 

「いえ。これまで貴方のマスターは、不倶戴天の敵としか思っていませんでしたが──」

 

 あの女魔術師が、その感情を戦う理由にするのなら。

 それは、ここまで辿り着いたアナスタシアと、何も変わらない。

 

「それなら私と同じです。自分ではない誰かの、何かのために戦うのなら、それは進む道が異なっていただけ。きっと、根本は同じなんでしょう」

 

「ハッ、馬鹿言うな。一度俺のマスターと話してみろ、テメエとは考えも好みも性格も厭らしさもまるで違うぞ。同じなのは性別くらいだ」

 

「いいえ。目に見えないところで、きっと同じなんです」

 

 アナスタシアが立ち上がる。ライダーの治癒を終えたのだ。

 とはいえ、アーチャーの弾丸は呪詛を孕んだ一撃である。その道を極めた術者でもない、回復魔術に関しても少しかじった程度のアナスタシアでは、完全に傷を塞ぐには程遠い。

 せいぜい外見を整えて、これ以上の出血を止めるくらいが限界だった。

 

「……ライダー、その」

 

「チッ……謝る必要はねえ。元々期待してねえからな」

 

 う、と言葉に詰まるアナスタシア。それを尻目にライダーはだるそうに立ち上がり、四肢の調子を確かめる。

 出血は止まったため、このまま消滅するのは免れた。しかし、身体に刻み込まれたダメージは健在だ。万全には程遠く、四肢の感覚は鈍い。得意の殴り合いも封じられた。本気で戦えば、この代行者にすら勝てないかもしれない。

 萎えた表情のまま、彼はアナスタシアを眺める。

 

「俺からも聞こう。どうしてテメエはこんな地の底に現れた?」

 

「……この戦いを、終わらせに来ました」

 

 迷いなく放たれたその言葉に、ライダーは失笑を返した。

 

「ハ……思い上がるなよ代行者。サーヴァントですらねえテメエ一人に、聖杯の呪いを何とか出来るとでも?」

 

「無理だとしても退くわけにはいきません。聖杯の呪い……恐らく、この黒泥が全ての元凶なのでしょう?」

 

 アナスタシアは、振り返ることなく、黒々としたタールの海に歩いていく。

 その不用心さが癪に触り、ライダーは思わず声を上げてしまう。

 

「その無謀さが分かってねえようだから教えてやる。……それはこの世全ての悪(アンリマユ)と呼ばれる、ヒトが持つ全ての悪性が形を持った極大の呪詛だ。見りゃ分かるだろう。聖職者一人がどうこうできる次元のモンじゃねえ」

 

 この世全ての悪、その異名に偽りはない。

 つまるところ、アナスタシアがこの黒泥にその善性をもって立ち向かうというのは、文字通り世界を敵に回す所業である。

 ──70億 対 1。

 それは無謀と言うのすら憚られる、敗北に身を投げるだけの戦いだ。

 

「ヒトが持つ、全ての悪性、ですか」

 

 彼女は理解する。

 この黒泥が何なのか。それがあり得ざる、許されざる、人の悪意全てが形をもってしまった、目に見えるほど濃密な呪いであると。

 そしてそれが、人間に打倒できるはずのないものであることも。

 

「ありがとうございます、ライダー。わざわざ忠告して頂いて」

 

「……何だって俺がテメエの身を案じなきゃならん。今のはあまりにテメエが無知蒙昧ゆえ、上位者として哀れに思っただけだ。自殺するなら勝手にしろ」

 

 ライダー自身、自分がおかしいのは自覚していた。

 この少女を前にすると、その獰猛さを上手く発揮できなくなる。かつての伴侶に名前が似ているだけの、顔もまるで違う少女だというのに、どうにもやりづらいと感じてしまう。

 それを彼女は理解しているのかいないのか。

 無防備に背中を向けたまま、アナスタシアは一歩、黒泥の海へと足を踏み出し──その瞬間。

 

「──────なにッ⁉︎」

 

 騎兵の口から驚嘆の声が漏れる。

 ありえない事が、起きた。

 海のようにたゆたうだけの意思を持たぬ黒泥が、まるで敵意を持ったかのように牙を剥き、彼女を一口のうちに喰らい潰したのだ──。



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八十四話 この魂に憐れみを/Other side

 ──視界が、一瞬にして黒に染め上げられた。

 

 聖杯の泥。形を持つほどの呪詛の海。

 それに呑まれたと気づいた時には既に、彼女の命運は決まったようなものだった。

 

「──────っ‼︎‼︎‼︎」

 

 最初に感じたのは、全身が火だるまになったかの如き熱さだった。

 皮膚が爛れて焦げ落ちて、ナカまで真っ黒に焼き溶かされる。

 無我夢中で腕を、足を振り回して、全身を染め上げる黒泥を払いのけようとした。でも無理だ。この手の中に武器はない。黒すらも斬り祓うような、精錬無謬の武器さえあれば、まだ分からなかったのに。

 

「あ────っ、が────」

 

 ささやかな抵抗どころか、呼吸すらもままならない。

 この泥の呪いは人すらも呑み込み、喰らい、貪り尽くす。

 触れるだけで命が削られるソレを、しかし彼女は全身に浴びたのだ。まともな人間が、その致死性に耐えられるわけがない。

 

 ──死ね、と。

 

 その二文字だけが、壊れかけの頭に響いている。

 全身に絡みついた泥は彼女を離さず。身じろぎもできぬまま、ひたすらにその闇をまざまざと眺めさせられる。

 

 目の前のこれら全てが、何なのか。

 

 信じられないが、答えは一つしかなかった。

 蠢き、悶え、暴れ狂う黒の嵐。脳に響き続ける怨嗟の声。これら全ては間違いなく、この世全てにある、人の罪業と呼べるものだ。

 それを理解した瞬間、アナスタシアはがくんと膝から崩れ落ちそうになった。

 だって、こんなものは認められない。世界がこんな醜いものに満ちているという事実と、それを自分も持っているという事実が、絶望と嫌悪の刃となって自分を簡単に刺し殺す。

 

 この闇が人を殺すのではない。

 この闇に呑まれたものは、自分で自分を食い潰すのだ。

 

「────────」

 

 既に、唇すらも動かない。

 瞳に映る光は、この世全ての罪業の前に消え失せた。

 

『アナスタシア、貴方は逃げなさい』

 

 この時始めて、彼女は走馬灯というものを見た。

 けれど、そんなものを今更見返したところで、自分の醜さがより一層浮き彫りになるだけだ。

 かつての全てを奪い去っていった連中。それらへの復讐のためだけに、アナスタシアは生涯を生きてきた。全て喪った心はもう機能しなかったから、復讐の炎だけを原動力として、彼女は生きてきたのだ。

 

『君には素質がある。我らが主の代行を成すに相応しい力が』

 

 ざざ、と、記憶の海が色彩を変える。

 ずっと手放さなかった十字架は、お守り以外の意味なんてなかった。聖職者を名乗りながら、信仰心すらも消えかけていた。

 魔を滅ぼす力を得られるのであれば、聖職者であろうと復讐鬼であろうと、何に成り果てても良かったのだ。

 

『……死ね……‼︎』

 

 記憶の中の自分が、咆哮して武器を振りかざす。

 

『死ね……死ね、死ね死ね死ねぇっ──‼︎』

 

 殺す。殺す。殺す。殺して殺して殺し尽くす。

 自分から全てを奪った魔を、この世界から全て駆逐してやる。

 馬鹿な話だ。

 眩むほどの血を浴びながら、疑問に思ったことはなかったのか。

 もし仮に。全てを駆逐して復讐を終えたとして、その先に、自分が生きていく意味はあるのかと。

 

『…………………………………』

 

 心はずっと枯れたまま。

 ただ、血と悪意に染まった道を、ひたすらに歩むだけ。

 

 ────「死ね」。

 

 そう、死んでしまえばいい。

 死ぬべきは自分だった。そんなものでしか生きられない人間など、最初からあの時に死ぬべきだったと、なぜ分からなかったのか。

 彼女は全身の力を抜いた。

 何かをする必要もないし、その気力もない。数瞬後、アナスタシアという人間は溶け落ちて絶命する。最初から生きるべきではなかった命が、あるべき死を受け入れるだけ。

 

 それでいい。

 それがきっと、正しいあり方なのだから──……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『アナスタシア』

 

 その刹那。

 誰かの声を、彼女は幻の中で聞き取った。

 

 

(────────あ)

 

 どくん、と。

 冷え切って感覚の消えた身体に、心臓の鼓動を感じ取る。

 じわじわと拡がっていく仄かな熱。

 この感情の名前を、彼女はすでに知っている。

 

『僕は槙野和也、未熟ながらこの店の主人だ。これからよろしくね』

 

 流れていく走馬灯は当然のように、つい最近の記憶を呼び起こす。

 その顔を見た瞬間に、何故か涙が溢れそうになった。

 あたり全てを閉ざしてしまった闇の中で、ただ一つ。眩く光り輝くその光景が、眼前の黒を斬り開いていく。

 

『驚いたかい? ふふ、最初は君の事を知るのに僕も苦労したけどね。最近の君は以前よりもずっと表情豊かになったんだ。もっとも、君自身は気付いてないかもしれないけど』

 

 以前の彼女なら、きっとこの闇に耐えられなかった。

 でも今は違う。復讐の念に頼るしか生きる道を見つけられなかった弱い少女は、もうここには存在しない。

 

『君がいるだけで、僕は十分に……十分すぎるくらいに、嬉しかった』

 

 そう言ってくれた人を、守りたいと。

 かつての自分は、そう願ったはずだ。

 

『貴方は生きて、自分がすべきと思った事を成しなさい』

 

 母の最期の言葉が、今一度蘇る。

 

 ──自分の醜さに耐えられないから、死ぬ?

 

 ふざけるな、と彼女は歯を食いしばった。

 確かに人は醜くて、あらゆる所に、どんな人間にも悪意は潜んでいる。自分自身がかつて悪意に取り憑かれていたのだから、言い訳なんてできるはずもない。

 そう考えると、確かにこの世界は地獄にも等しいのかもしれない。

 けれど。それでも、彼女はあの店で学んだのだ。

 

 ──この世界には、悪意を溶かすだけの善意もあることを。

 

『僕はずっと……ここで、君を待っている』

 

 その声を聞いた瞬間、アナスタシアの全身に十全の力が戻った。全身の回路は唸りを上げ、胸の奥に眠っていたモノが、覚醒の時を迎えて咆哮をあげる。力の使い方は、この身体が憶えている。

 やるべき事は一つだけ。

 必ず守ると誓ったのなら、立つ。

 瞳に確かな光を灯し、少女は闇を突破する──。

 

 

 

 

 

 言葉を失い、ライダーはその凄惨な光景を傍観することしかできなかった。

 この世全ての悪(アンリマユ)

 大聖杯に取り憑いた、形を持つほどに濃密な呪詛の海。しかしそれはあくまで在るだけの存在であり、それ自身は意思など持たぬ類の力──の筈だった。

 しかし。

 

「馬鹿な……っ」

 

 代行者の少女が近づいた瞬間、ソレは明白な攻撃行動を見せ、彼女を一息に呑み込んでしまった。

 ありえない。

 聖杯の泥は災厄を振りまくものとはいえ、それ自身が特定の誰かに対して攻撃を行う、といった性質は有していない。

 クロウリーは聖杯の泥を上手く手繰ることで攻撃手段にしていたが、それも彼女の介入あっての攻撃だ。泥自体に攻撃意思などない。決して。

 

「何がどうなってる、クソが……‼︎」

 

 聖杯の泥はアナスタシアを呑み込んだだけに留まらず、暴走したかのように暴れ始めていた。

 さっきまで物音一つ立てずに凪いでいたタールの海は、今や飛沫をあげて荒れ狂っている。地下空洞のそこかしこに亀裂が走り、落ちてくる小さな瓦礫がライダーの肩を叩いた。

 

「──────チッ」

 

 急激に活性化し、こちらに拡がってくる聖杯の泥に触れぬようじりじりと後退しながら、ライダーは代行者の即死を悟る。

 自分でも、呑まれれば正気を保っていられるとは思えない。

 ましてただの人間など、この呪詛に喰われて終わりだ。

 ライダーは何故自分がこんなにも狼狽しているのか、苛ついた頭で考える。だが、ゆっくりと頭を回している暇はないらしい。今も暴れ回る黒泥は、今にもライダーの足元に届きそうだ。じき、この地下空洞は黒泥によって完全に沈むだろう。

 

「……退くか。今更、この体では楽しめそうにもないが──」

 

 悪態をつきながら、彼が数十メートル上の巨大な亀裂を見上げた、その瞬間。

 

「──────‼︎⁉︎」

 

 ただ、閃光が炸裂した。

 

 あまりの衝撃。音も視界も消え去って、やがて眼前の光景が明らかになる。

 神々しい光が、黒泥を振り払って放たれていた。

 それは黒の真逆、あらゆる穢れを寄せ付けぬ無垢の白。

 その中心。

 凛然と立つ少女は、硬く両手を組んで握りしめている。

 

「テメ、エ……一体、何をした……?」

 

 ライダーの問いは、しかし言葉を吐いた彼自身によって否定される。

 

「違う。そもそもテメエは、何者だ──⁉︎」

 

 人ならぬ英霊である彼ですら、目の前の存在を理解できない。

 アナスタシアは既に元の姿を保っていなかった。

 ブロンドの髪は閃光と同じ白に染まり、身体を覆っていた修道服は消し飛んで、代わりに不思議な紋様が全身に刻まれている。

 その様はまるで神話の天使か女神か。確かに人間でありながら、その存在感の端々に、神が有するソレが混じっている。

 

「ライダー」

 

 傍で暴れ狂う黒泥すらも意に介さず、アナスタシアはライダーの方を振り返った。

 

「ここから離れて下さい。今ならまだ、間に合います」

 

 その瞳を見て、ライダーは全てを悟る。

 事情が全て分かった訳ではない。その姿が何なのか、何故黒泥を跳ね除けるほどの力を持つのか、分からないことばかりだ。

 それでも、目を見れば理解できた。

 彼女は命すらも使い尽くす覚悟をもって、この泥と対峙する気だと。

 

「何を、する気だ」

 

「私は代行者ですから。主の代行(・・・・)を、果たすだけです」

 その覚悟に揺るぎはないらしい。そうこうしている間にも、活性化した黒泥は更に地下空洞を侵食していく。じきにこれらは空洞を満たし、地上に溢れ出して災厄を振りまくだろう。

 もう時間はない。

 言うべきことも、時間に迫られてしまって出てこない。逡巡の末、ライダーは今一度その姿を見て、最後の問いを投げかけた。

 

「────それが、テメエの選んだ答えなのか?」

 

 しん、と、周囲全ての音が消えた気がした。

 以前として灼熱する黒泥の海は気泡を弾けさせ、不快な熱と瘴気を振りまいている。それでも、二人には気にならなかった。

 アナスタシアは、その問いを受けて微かに笑みを浮かべ──、

 

「ええ。これは、私がなすべき事ですから」

 

 そう、迷いなく言い放った。

 なすべき事。

 手段に違いはあれ、大元は揺るがない。愛する人を守るために、この命をかけて戦い抜く事だけだ。闇を抜けてなお抱き続けたその覚悟は、決して途中で折れはしない。

 

「……そうか」

 

 ライダーは顔を背け、無言のままに黙り込んだ。

 その表情は分からない。雷帝と呼ばれた少年が、何を思って言葉を失っているのか、アナスタシアには想像できない。

 やがて、騎兵は顔を上げてこちらを向いた。

 その口から、離別の言葉を告げるために。

 

「俺はもう行く。さらばだ、代行者」

 

 何度か壁面を蹴って、瞬く間に彼は亀裂の向こうへと消える。

 だが、その直前。

 完全に姿を消すその前に、彼は一つの呟きを残していった。

 

「──為すべきことがあると言うのなら、やり遂げてみせろ。決して、無為に命を散らすなよ」

 

 その様を僅かな笑みと共に最後まで見守って、アナスタシアは改めて眼前を睨みつけた。

 依然として黒泥は暴れ狂い、ますますその量を増している。

 しかし、そんな危機の中にあっても落ち着いたまま、アナスタシアは最後の念話を開始する。

 

「アーチャー、聞こえますか?」

 

『マスター……‼︎ おい、何が起きてる⁉︎ こっちに流れてくる魔力量が異常だぞ‼︎』

 

 口早に告げられるアーチャーの問い。

 彼女自身、この現象の理屈を一から十まで理解しているわけではない。故に、今話すべきはそれではなかった。

 

「時間がありません。なので、最後の頼みを聞いて下さい」

 

 そう言って、彼女は刻まれた令呪に薄くなった感覚を向ける。

 残り二画。その二つ全てを使って、彼に最後の願いを託す。

 

「残りの令呪をもって命じます。アーチャー、──────」

 

 その願いは、確かに言葉になって届けられ、残りの令呪は真っ赤な閃光を散らして消滅した。

 念話の奥。今も長大な距離を置いた場所に居るであろう狙撃手は、その願いに息を飲んで沈黙する。

 

『……お前は、どうする気だ?』

 

「聖杯の因縁(のろい)を、終わらせます」

 

 ぎり、と歯を食い縛る音が、念話越しにすら伝わってくる。

 それでもアーチャーは何も言わなかった。

 マスターの声色から、その思いの固さを悟ったのだろう。ならば、止めても彼女の決意を鈍らせるだけ。そう考えて、狙撃手は唇に血が滲むような沈黙を保つ。

 

「……ありがとうございます、アーチャー……」

 

 感謝の意を告げたころ、ひときわ大きく唸りをあげた黒泥が光の壁を乗り越え、僅かばかりアナスタシアの頰に触れる。それはじゅうっ、という肉の焼ける嫌な音をたてて皮膚を抉り、アナスタシアは思わず顔をしかめた。

 

「あぐっ……う‼︎」

 

 そろそろ念話に割く余力もなくなってきた。

 ここからは全身全霊、命を最後の一滴まで振り絞る渾身をもって相手せねば、世界全ての悪意に呑み込まれる。

 じりじりと距離を詰めてきた黒泥は次第に光の壁を侵食し、アナスタシアの体に僅かながらも降りかかった。泥を浴びた箇所が焼け、感覚すら死に絶えたように消え失せる恐怖に、歯を食いしばって耐えながら──、

 

「アー……チャー……、約束を、守れず……ごめん、なさ……」

 

『……っ、マス──……‼︎』

 

 そこで、念話を打ち切らざるを得なかった。

 体力の消耗が激しい。このまま悠長にしていれば、黒泥に呑まれて呪い殺される前に、自壊して潰れてしまう。苦しげに肩で息をして、再度光の壁に力を込める。

 ゴウ、と烈風が荒れ狂って、活性化した黒泥を再度押し返した。

 

「はあ、はあ……はあ……っ」

 

 アナスタシアは、死に物狂いで70億の悪意を受け止めながら、何をどうすればいいかを改めて考える。

 

 ──これが、彼女がかねてより用意していた対「不浄」への剣、隠し持つ唯一の切り札。第十三聖典の覚醒である。

 

 聖典の正式な保有者だった母親の形見である十字架を鍵として、アナスタシアの体内で休眠状態にある聖典にアクセスし、その概念的機能を起動させる。

 言葉にしてみれば簡単だが、その肉体への負荷は想像もできない。

 長くはもたない、と改めて認識する。

 

「アンリマユ……この世、全ての、悪……でしたか」

 

 今にも崩れ落ちそうに体をふらつかせて、それでも立ちながら、アナスタシアは嘯くように呟いた。

 聖典を起動させたとはいえ、所詮は一人。

 70億人の悪意に対抗するには、全くもって足りていない。

 たった一人の善意など、気を抜けば嵐の前の木の葉のように揉み捨てられる。

 

「罪業、悪意とは。この世界を生きる誰もが持ち、そして同時に……一人一人が向き合い、克服すべきものです。決して、誰か一人に押しつけていいものではありません」

 

 彼女はそう言った。

 この世全ての悪。そんな都合のいいものを認めて、自分自身の弱さを見知らぬ誰かのせいにするなんてことを、決して許すわけにはいかない。それを、彼女は学んだのだから。

 故に──、

 

「その在り方は間違っている。それら全ての誤ちを、主の憐れみをもって正します」

 

 この世全ての悪(アンリマユ)という、在るべきではない存在そのものを、アナスタシアは打ち砕く。

 やってみろ、と吼えんばかりに、黒泥の海が沸騰した。

 アナスタシアは十字架を握ったまま、地に跪いて目を閉じる。

 

 そして、彼女は軽やかに口を開いた。

 

 

「────"私が殺す。私が生かす。私が傷つけ私が癒す"」

 

 

 刹那。その警句と共に膨れ上がった白が、黒泥の海と噛み合った。

 ──洗礼詠唱。

 それは、教会が唯一公式に習得を認めし奇蹟。

 考えるまでもなく、世界全土に広まった神の教えは、存在する魔術基盤の中でも最強最大の対霊性能を持つ。

 目の前の黒泥は濃密な呪詛、言い換えれば膨大な悪しき思念の塊。これら全てを相手取るに、これ以上相応しい武器はない。

 

「"我が手を逃れうる者は一人もいない。我が目の届かぬ者は一人もいない"」

 

 だが、アナスタシアの顔には苦悶の表情が浮かぶ。

 当然だった。いくら教会が誇る洗礼詠唱といえど、アンリマユほどの呪詛を無条件に消滅させられるほどの力は持たない。

 ──しかし。

 

「"打ち砕かれよ。敗れた者、老いた者を私が招く。私に委ね、私に学び、私に従え"」

 

 ここには、それを成し得る可能性を持つ人間がいる。

 アナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナ。

 彼女のみが最初から例外だった。この世全ての悪を単身で相手にできる、世界を見渡してもただ一人の特異点。

 その理由は、ただ一つしかない。

 

「"休息を。唄を忘れず、祈りを忘れず、私を忘れず、私は軽く、あらゆる重みを忘れさせる"」

 

 彼女が融合した第十三聖典に刻まれし文言。

 それこそが──「原罪からの解放」だ。

 生まれた時から人が背負わなければならぬ悪性。神が「原罪」と呼んだそれらは誰のせいでもないと赦す、唯一無二の概念武装。

 それが、アナスタシアが宿す聖典だった。

 

「"装うなかれ。許しには報復を、信頼には裏切りを、希望には絶望を、光あるものには闇を、生あるものには暗い死を"」

 

 つまるところ、世界全ての悪意を前に、彼女は世界最大の「悪意に対する神の教え」をもって抗おうとしている。

 それはこれ以上ない、まさに最善の方法だった。

 並の聖職者の言葉は届かない。聖言を用いても全く足りない。

 それでも、この第十三聖典だけは──アンリマユの存在、それ自体を揺るがす(・・・・・・・・・)強力な「意味」を持っている……‼︎

 

「"休息は私の手に。貴方の罪に油を注ぎ印を記そう"」

 

 この世界において、考えられる中で最悪とも取れる相手。

 それを前にして、アンリマユは積極的にその排除を試みていた。

 依然として放たれ続ける白光と、確固たる意志と信仰の力は、穢れたる黒泥を寄せ付けない。されど、穢れぬならば壊れるまで穢すのみ。もはやアンリマユは大海にも似た様相を呈し、その膨大な質量をもって、少女を亡き者にせんと暴れ狂った。

 

「"永遠の命は、死の中、で"……うあっ‼︎」

 

 やがて──放たれ続ける白光を食い破って、ついに黒泥が代行者へと辿り着く。

 教会の洗礼詠唱、「この世全ての悪」に対する特攻作用を持つ第十三聖典、これら反則級の武器を存分につぎ込んでなお、世界最大の呪詛を食い止めることは叶わなかった。

 

「あ──が、ぐ────⁉︎」

 

 光のうちへと潜り込んだ黒泥は、耳障りな詠唱を止めるため、彼女の口蓋へと殺到した。

 

「────っ、──‼︎⁉︎ ──、─────〜〜っっっ‼︎‼︎‼︎」

 

 言葉を紡ぐどころか、息すらもままならない。

 痛い。痛い。痛い。喉が焼けて、体の中からめちゃくちゃに破壊されていく。発狂せんばかりの激痛が喉笛を引き千切る。絶叫すら許されず、アナスタシアは必死でその泥を引き剥がそうとした。

 けれど、腕を動かすわけにはいかなかった。

 この両手で握りしめた十字架は最後の盾だ。これから少しでも手を離せば、きっと折れてしまう。何が何でも──、

 

「──────ア゛、ぎ、があっ‼︎」

 

 だから、彼女は最後の手段に出た。

 思い切り顎を閉じて、口に殺到した黒泥を、決死の覚悟で噛み切った(・・・・・)のだ。

 残りを喉奥に呑み込んで、今一度祈りを込め直し、こびりついた灼熱の泥を消しとばす。

 

「ぜはっ、ぜえっ、ッ……"永遠の、命……は‼︎ 死の中で……こそ、与えられる‼︎"」

 

 無茶なことをしでかしたらしい。呑み込んだ黒泥が胃の中で暴れまわり、出口を求めて臓腑を焼いた。ごぶ、と口から血を零して、しかしアナスタシアの眼光は怯まない。

 

「が、ごぼっ……"許し、は……ここに"……っ‼︎」

 

 間に合うか。

 最後の攻勢に出たアンリマユが、地下空洞をすべて満たすほどに膨れ上がったマグマの海が、一斉に彼女の元へと殺到する。

 壊れる寸前の頭を、無理矢理にでも駆動させる。

 せめてあと五秒、いや、三秒だけでもいい。

 それだけでいいから保てと、自分自身を叱りつける。

 

「"受肉……し、た……"」

 

 意識が遠い。もう、全てが終わるその寸前にある。

 周りでこちらを発狂死させんと渦巻く悪意の嵐。それでも彼女が、善なるものを信じて言葉を紡げているのは、きっと。

 

『────────』

 

 暖かな記憶の中で笑う、あのひとがいるからだ。

 微かに笑う。この思い出さえあれば大丈夫、と。

 どんな悪意に襲われたって、どんな罪業を見せつけられたって、この世界には善意もあると信じられる。その最後の信頼は魔力の暴風と化して、ほんの僅かに黒泥を押しとどめた。

 そして──、

 

「"私が、誓う"……────‼︎‼︎」

 

 ついに洗礼詠唱が完成を迎えゆく。既に力尽きた身体は、意志の力だけで動かした。紫電の如く走り抜ける魔力が、瞳の中で火花を散らして燃え盛る。

 何かが砕け散る不快な音。最後の守り、白光の壁が決壊したのだ。泥の大顎は障害を突破して殺到し、聖なるものを砕き潰す。

 

 しかし、その寸前。

 少女は祈りを捧ぐように、十字架を握る両手を天に掲げ──‼︎

 

 

 

 

 

「"こ の 魂 に 憐 れ み を(キリエ・エレイソン)"────‼︎‼︎」

 

 

 

 

 

 ──その声は、確かに世界を震わせた。

 

 瞬間。あらゆる全てを埋め尽くしていたはずの黒が、一瞬にして眩い白に染め上げられた。

 その爆発的な閃光は、前よりも更に勢いを増し、巨大な天月の塔すらも呑み込んで、黒雲立ち込める空へと突き刺さる。

 その日、最後の戦いに臨んでいたものは例外なく──そして彼女のサーヴァントも同様に、その光景を目にしていた。

 

 ──燦然と立ち上る光の柱。

 ──人の善性を感じさせる、その暖かな輝きを。

 

 「この世全ての悪」の直接指令によって行われていた、街の人々から魔力を吸い上げる捕食行動は、それを以って完全に停止していた。

 この夜に消える筈だった何千、何万の命は、大量殺戮を前に食い止められたのだ。それには勿論、彼女が守ろうとした、とある男も含まれている。

 彼女は確かに、すべきと決めた事を成し遂げた。

 

「……………………マスター」

 

 アーチャーは口を閉じて、その輝きに沈黙を捧げる。

 美しかった。

 ただ、善性の証明たるその光は、涙が出るほどに美しかった。

 

「お前の光は、確かに……世界の闇を祓ったよ」

 

 経路(パス)は途切れた。

 それが何を意味するのか、アーチャーは深く考えるのをやめた。

 迷うことはない。

 

 ──ただ、あの少女が遺した願いを、ひたむきに果たすだけだ。




【アナスタシア】
本名、アナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナ。
代行者見習いにして、未公認のNo.13、第十三聖典およびその守護精霊と融合した少女。
本来代行者としての素質は持っていなかったが、聖典と融合したことで「聖なる者、神に仕える者」としての属性が強化され、代行者たりうる素質を獲得した。

【第十三聖典】
儀礼用ながら強力な概念武装としての性質も持つが、アナスタシアの身体と融合しているために実体はない。
刻まれた文言は「原罪からの解放」。アナスタシアが以前より準備していた対・不浄への切り札とは、これを起動させる事にあった。

【第十三聖典の解放】
聖典が持つ概念武装としての機能を揺り起こし、使用する。聖典が形を保っていたならば武装の形をとるが、アナスタシアの場合は身体と融合していたため、彼女自身が武器として変容した。
「罪を赦す」武装としての概念的性質を強く持つため、悪霊や怨念、人間の罪業といったものには無敵とも言える浄化性能を発揮する。ただし、それ以外のものにはあまり効果をもたらさない。


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八十五話 無限の剣製 : Unlimited Blade Works

 ──幾つ、迫り来る剛刃をすり抜けたのだろう。

 

 鼓膜を揺るがす咆哮は絶えず。

 こちらを粉砕せんと唸る大剣を、紙一重で避け続ける。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■‼︎‼︎」

 

 憤怒の巨人──大英雄、ヘラクレス。

 それを前に、俺は勝機の見えない戦いを続けていた。

 

「お──ああああああああああああああああッッ‼︎‼︎」

 

 敵は隻腕だ。だというのに、その攻勢に付け入る隙がない。

 言葉にするのも馬鹿らしいほどの膂力と速度が混在する猛攻。気を少しでも緩めた瞬間、致命的な一撃が心臓を粉砕しかねない。

 歯をくいしばって、振るわれる大剣に手を合わせ、

 

「──……く‼︎」

 

 ──その一撃を、いなしきった。

 セイバーは剣士である以前に武を極めた戦士だ。素手での格闘とて、彼女は超一流の次元でこなしてみせる。その力を借りているだけの俺でも、なんとか模倣は可能らしい。

 とはいえ──こんな無茶が通用しているのは、セイバーの「加護」あってのものだ。

 神性を持つものによるダメージを大幅に軽減するこの恩寵でもなければ、今ので俺の肉体は挽肉になっている。

 

「■■■■■ッ⁉︎」

 

 一歩踏み出して拳を握り、初めてこちらから攻撃に出る。

 セイバーの加護は防御のみならず攻撃にも適用される。であれば、この巌のごとき巨体にも、こちらの攻撃が通じるかもしれない。

 やることは一つ。

 獰猛に吠える蒼雷を纏わせて、一直線にバーサーカーを打つ‼︎

 

「──────」

 

 驚くくらいにすんなりと、その結果は明らかとなった。

 拳は硬い胸筋に阻まれて止まっている。

 効いていない。

 俺の攻撃など無いかのように、巨人はこちらを睨んでいた。

 

「つ゛⁉︎」

 

 ゴバン‼︎‼︎ という凄まじい音とともに、俺の腹に強靭な右脚が突き刺さる。まるで人間でサッカーボールするかのようにそいつは俺を振り回すと、空中に向けて思い切り蹴り飛ばした。

 内臓が破裂して血が口から溢れ出し、視界は衝撃のあまり壊れかけの蛍光灯みたいにちかちかと点滅する。

 

「──ぎっ、あ────‼︎」

 

 百メートルはぶっ飛ばされて、固い土すら抉って墜落した。

 背中がめちゃくちゃに裂けて血が噴き出す。激痛に失いかける意識を繋ぎとめ、血反吐を吐いてでも立ち上がった。

 前に視線を向ける。

 狂戦士は健在だ。ヴィマーナを用いた自爆攻撃で一回は殺せたものの、それ以上、あんなバケモノを素手で殺せる気がしない。

 

「くは……はっ、はっ……」

 

 口元の血を拭って考える。

 確かに殺せる気はしない。けれど、まだ何かある。

 戦士としての直感が、まだ手はあると告げている。

 

「……武器。アイツを倒す、武器さえあれば」

 

 否、最初から分かっていた。分かっていたけれど、最後まで「この手段」は温存しておきたかったからこそ、選択肢に入れまいとしていた。

 もし、この考えを実行に移したのなら。

 俺の魂にかかる負荷は加速度的に増し、きっと、生きて明日を臨むことはなくなるだろう。元より彼女に救われた命、それでセイバーを助けられるのなら構わない。けれど、あの塔の頂上に辿り着くより速く、俺は燃え尽きるかもしれない。

 その「もしも」を考える頭が、実行に移そうとする体を押し止める。

 それでも現実は明白だ。

 後先考えるようじゃ、到底この大英雄は打倒できない。

 全身全霊を賭けなければ、奴には届かない。

 

「……ああ」

 

 目を閉じて、覚悟を定めた。

 血濡れの片手をだらりと上げ、心臓で脈打つもう一つの「魔王」に全ての意識を集中する。魔力は全開に、残量は気にしない。ただ、己が全てを懸けてあの男を打倒する。

 自殺行為だ。

 一際強く心臓が跳ね、脳裏がどろりと湧いて出た真っ黒な感情に埋め尽くされる。うるせえ何が自分だ知ったことかとにかく殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せこの男を殺せ今すぐに、

 

「だま────れ────……‼︎」

 

 自己が希釈されていく感覚に抗って、奔流の奥へと進んでいく。

 

 必要となる武器。英雄を倒すための剣。

 

 そんなもの、最初の最初から決まっている。

 

「其、は────」

 

 バーサーカーが大地を蹴る。見上げるような巨体に似合わぬ、疾風のごとき敏捷性だ。筋肉の塊は瞬く間に最高速へと達し、一直線に、俺を叩き潰さんと迫ってくる。

 それを見て、なお俺は掌に一層の魔力を注ぎ込んだ。

 過剰暴走した魔力は溢れ出し、蒼雷となって空間を焼く。

 俺の身体のところどころが耐えきれずに崩壊し、そして、以前の傷ごとまとめて再生していく。

 

「破壊神より賜りし、月の刃────‼︎」

 

 羅刹王(おれ)の蒼雷が炸裂した。

 右腕が痙攣し、その掌の先に一振りの長剣が顕現する。

 

 ──艶やかな幅広の刀身。その色は蒼。

 

 命を賭して、到達した。

 それは偽銘。もう一振りの月の魔剣。

 持っているだけで右腕から黒に染まる。この剣は危険だ。彼女の、セイバーの背負うものが全て籠められている。視覚もおかしくなり始めたのか、腕を伝って何か黒い靄が這い上がってくるのが見える。

 

「が────ッ、はっ──は──……」

 

 今すぐにでも暴れ出そうとする利き腕を左手で押さえ込み、かつて見た彼女と同じように立つ。

 左足は前に、右足は半歩後ろに。

 こうしている今も、凄まじい力が内臓背骨脳髄神経の中で全てを破壊し尽くさんと荒れ狂っているのが分かる。

 「人の身で宝具を使用する」禁忌の反動。ヴィマーナを模倣した時と同じだ。ぞわぞわと這い上がる狂気は幾万の蟲の如く、俺の右腕を突き破って体内を侵食し、精神を乗っ取ろうと蠢いている。

 一寸先か、それとももう少し先か。

 少なくともすぐそこにある限界点を超えれば、俺という存在を定義付けている魂そのものが壊れ、俺は死に絶える。

 こんな無茶ができるのは、きっと、あと一回限り。

  

 ならば解決策は一つしかない。

 こちらが死ぬ前に、敵を殺して乗り越えるのみ。

 

 ──この剣は偽にして真。

 

 「羅刹王」が召喚される際、その手には必ず「月の刃」が握られている。否、握られていなければならない。

 この剣が彼女の象徴武器である限り、「召喚された羅刹王には必ず月の刃が付属される」という因果関係が成立する。

 そして、この身は今や彼女と同質だ。

 つまり。羅刹王(おれ)が、この剣を握っていない筈がないという因果が成立する。

 限りなく禁忌に近い裏技。それでも、名前を呼ぶだけでこの剣は完成を迎える。俺という存在を主人と認め、その力を解き放つ。

 

 千切れそうな意識の中。張り裂けそうな狂気の中。

 叩きつけるように、懐かしむように──、

 

 

 

 

偽銘(イミテーション)煌々たる月蓋の夜刃(チャンドラハース)‼︎」

 

 

 

 

 其の真名()を謳い、

 言葉を以って、我が力と成す──────‼︎‼︎

 

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■────ッッッッ‼︎‼︎』

 

 疾風の岩塊と化した狂戦士が跳び、手にした大剣を大上段に振りかぶる。迫り来るは大地をも殺す神の一撃(ギガントマキア)

 重量、速度、加速度。全てが存分に乗った渾身の一撃。

 それを受け止める。

 否。受け止めた上で、真正面から越えてみせる──‼︎

 

「ぅ、おおお──おおおおおおおおおおおッッ‼︎」

 

 震える唇で咆哮を上げる。神話の英雄に、真っ向から挑戦する。

 ボロボロの右足を踏み出すと同時、その足裏に全体重を預け、

 

「らあぁぁぁぁぁぁッッ──‼︎」

 

 全身全霊の力で、手にした奇跡を振り上げた。

 

 激突があった。撃滅があった。

 この世全ての物理エネルギーを掻き集めてきたのかと錯覚する程の莫大な力が空間一点、剣と剣が交わされる箇所のみに注がれる。

 軋む身体、微かな破砕音と共に砕ける腕。

 だが──其処止まり。

 停止する。負けない。押し潰されたりなんてしない。煌々と輝く月の刃は、確かに英雄の一撃に拮抗している──‼︎

 

「ぐ──ぁ、は──ッッ‼︎‼︎」

 

 刃を滑らせ、受け止めた大剣を横に流す。

 力の矛先を失い、重力に従い落下してくる巨体。

 対し、此方は剣を振り上げ、その到来を待ち望む。

 

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■‼︎‼︎』

 

 だが、大剣から手を離したバーサーカーは俺の反撃を避けるように体を捻り──、

 

「ッ……⁉︎」

 

 対空を切り裂いた俺の一撃は宙を斬り、

 ボウリングの球みたいな巨大な拳が、俺の顔面を粉砕した。

 

「が──────」

 

 鼻が折れた。

 目が潰れた。

 頰が砕けた。

 

 意識が遠のく。最後の刹那、事を急いで油断した。

 だがそれくらいは覚悟の上だ。最初から上手くいくなんて思ってはいない。

 たとえ犠牲を払ってでも、無理矢理にこの剣を叩き込む──‼︎

 

「が……ぁ──おぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ‼︎‼︎」

 

 潰れた視界は無視し、渾身の力で、目の前の敵を斬り伏せた。

 凄まじい烈風が渦巻き、岩より硬い何かを断つ感触を受け止める。

 

 ────殺した。

 

 腕から脳髄を駆け抜ける感覚。

 再生していく眼球が、確かに崩れ落ちる巨人を視界に映す。

 そして──、

 

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■‼︎‼︎』

 

 こちらも再生する。肩口から一太刀で斬り捨てたはずの巨人が、再び目に光を灯して立ち上がる。

 

「ごは……ひゅ、ぜえ、ぜえっ……」

 

 ──もし、奴が全快の状態で立ち上がってくるのなら。

 それこそ勝ち目はない。反則に反則を重ねた今でさえ劣勢なのだ。きっと俺はなすすべなく潰されて、心臓の宝具も破壊されているだろう。

 だが、そうはならない。

 如何なる武器によるものなのか。綺麗な断面を残して切断された右腕(・・)だけは、決して再生しようとしない。

 

 誰かの遺した傷は、確かに俺の命を繋いでいる。

 

「────おあああああああああッ‼︎‼︎」

 

 その事実で心を鼓舞して──残り9つの命すら削り取らんと、俺は見慣れた蒼刃を握り締めた。

 

 

 

 

 ──重苦しい剣戟の音は、絶え間無く響き渡っていた。

 大地を踏みならして、二つの影が離散と激突を繰り返している。周囲を飛び交う無数の剣はいずれもが贋作にして必殺。剣と剣が激突するたび、熾烈な爆風が撒き散らされる。

 

「『投影(トレース)開始(オン)──‼︎』」

 

 二人の回路に紫電が走り抜け、同時。全くの誤差もなく、彼らは赤と黒の入り混じった長剣を振り抜いた。

 卓越した技量で噛み合う刃と刃。

 無数の火花が飛び散って、士郎の方が圧されてやや後退する。

 さらに踏み込む弓兵。大上段の一撃をもって、迎撃の一刀もろとも叩き斬らんと長剣が唸りを上げる。しかし──、

 

『──────‼︎』

 

 地面を蹴って距離を置きなおす。優位を自ら捨てるような愚行だが、それには意味があった。

 

Es last frei(解放),Eis,Hammer(氷の槌)‼︎」

 

 飛び退いた場所に落ちた蒼の宝石が、爆ぜる。

 それはギリギリのところで弓兵を捉え損ね、赤の外套が風を受けて膨らんだ。靴底で地面を削って速度を落とし、彼はもう一人の敵対者に目を向ける。

 

「────おおおおおおッ‼︎」

 

 そこに、間髪入れず士郎が飛びかかる。

 握られる武器は干将・莫耶、放たれたのは目視すら困難な四連撃。

 いずれも渾身、四肢を断つには十分な威力。

 しかしそれを、アーチャーは同一の剣技をもって弾き返した。火花を越え、零距離で鍔迫り合う二人は、額と額をぶつけ合わんばかりの距離で睨み合う。

 

「テメエ──────‼︎‼︎」

 

 士郎の背後から立ち上る怒気は、目を凝らせば見えそうなほどだ。

 しかし弓兵は意にも介さず、押し込まれる双剣を受け流す。生まれた僅かな隙間に前蹴りをねじ込み、蹴り飛ばすのではなく、士郎の身体を足場にするようにして彼は宙へと舞い上がった。

 投影──目にもつかせぬ早業であった。

 僅かな滞空時間の間に、黒の洋弓と直剣が握られる。着地と同時、士郎が開けられた距離を詰めるよりもなお早く、冷酷無比な射撃が牙を剥いた。

 

「か──ぐ────……‼︎」

 

 脳天めがけて放たれたそれを、士郎は重ねた干将・莫耶で受け止めた。

 しかし重い。重過ぎる。弓から放たれたことで威力を増したその一撃は、白黒の刀身をたやすく砕いた。咄嗟に首を全力でひねり、即死だけは免れる。

 

「────つ゛、あ‼︎」

 

 そこに一撃。

 がら空きの胴を薙ぐ形で、今度は日本刀を手にしたアーチャーが一閃を放った。

 同じ刀、同じ刃の投影を辛うじて間に合わせる。

 回路が限界を超えて駆動する苦痛。顔を歪めるも、斬り捨てられはしていない。じんと痺れる腕に力を込めて、鍔と鍔を噛み合わせる。

 

「はっ、はっ、はっ……‼︎」

 

『未だもって未熟だな』

 

 舞うように日本刀を操るアーチャーが、笑みを浮かべてそんなことを嘯く。

 

「うる──せえ……‼︎」

 

 その剣戟の嵐を防ぎながら、士郎は沸騰する頭で吐き捨てた。

 この男と斬り結ぶと、十年前の死闘を思い出す。どちらも譲れぬと泥臭く斬り合い、信じるものをぶつけ合った。かつての自分に立ち返っているのか、士郎の言葉遣いにも荒々しさが増している。

 

(集中を弛ませるな──可能な限り──全ての神経をもって、コイツを今度こそ斬り伏せろ──‼︎)

 

 舞い散る土塊の中、幾度刃はぶつかり合ったのか。

 手繰る武器は刀から神鉄のロング・ソード、天使の加護を得たレイピアへと変わり、やがて最も馴染む干将・莫耶へと戻っていた。

 弓兵の「未熟」という評は、しかし確かに正しい。十年の時を経た衛宮士郎でも、全力を振るうアーチャーとの間には、まだ埋められぬ僅かな差が存在する。こうして真正面から斬り合っていると、その僅差は、しかしありありと士郎の劣勢に現れていた。

 凛の援護が、その僅かな差を辛うじて埋めている。

 ここに彼女がいなければ、 今頃勝敗は決していただろう。

 

『ふッ‼︎』

 

 一息の間に振るわれる剣閃。二対の干将・莫耶がひときわ強く激突し、刀身を半ば残して砕け散る。

 ──攻めるアーチャーが動きを変えた。

 双剣の残滓を振り抜いたままに投げ捨て、再度「投影」。大きな横薙ぎの勢いを殺さずに身体を回し、こちらに一瞬背を向ける。

 

(────しまっ、)

 

 その隠された意図を悟る。

 だが遅い。翻った体が戻り、振るわれたのは絶世の名剣"デュランダル"。士郎の足元深くに踏み込んで放たれた回転斬りは逃すことなく、彼の身体を引き裂いた。

 

「が、あッ────⁉︎」

 

 初めてモロに受けた一撃に、視界が赤く明滅する。

 だが、その痛みに参るよりも、アーチャーの卓越した戦闘技術の方に参りそうになった。

 士郎とアーチャーの戦い方は全くの同一。しかしそこに僅かな差が存在する以上、士郎は守勢に追い込まれる。「弓兵の投影した剣を士郎が僅かに遅れて投影し、同軌道で迎え撃つ」という激突が、既に幾度となく行われてきた。

 それを悟り、アーチャーは策に打って出たのだ。身体を翻し、投影した剣を攻撃の寸前まで隠すことで、士郎の解析を封じ──投影よりもなお早く斬り伏せた。

 それは冷静な戦略眼と、卓越した──今の衛宮士郎であっても追いつけぬほどの──腕前を、アーチャーが有していることの証拠にほかならない。

 

「く、このっ──‼︎」

 

 凛が焦りの表情を浮かべ、追加の宝石を投擲する準備に映る。

 しかし、それを見て咄嗟に士郎は叫んでいた。

 

「ダメだ凛、伏せろ‼︎」

 

 ほぼ反射だった。その声に弾かれるように、彼女は駆け出す勢いそのままに地面に伏せる。伏せるというより顔から突っ伏すような格好だったが、しかしそれが功を奏した。

 甲高い金属音が響き渡る。

 それはいつのまにか投擲された干将・莫耶が円弧を描き、凛の首を左右から落とさんと激突した音だった。

 

「──────っ‼︎」

 

 数本後退するも、まだ手足は十全に動く。

 バネのように地面を蹴り飛ばし、再度、目の前のアーチャーに立ち向かう士郎。

 しかし──凛に警告を飛ばしたその僅かな刹那、彼から意識を逸らしたことが致命的だった。

 影が落ちる。

 弓兵に不釣り合いなほどの異様、眼前に高く構えられた巨大な斧剣が放つは、間違いなく──、

 

投影(トレース)……ッ⁉︎」

 

投影(トリガー)装填(オフ)

 

 遅い、と言外に嘲笑うかのような声色。ズン、と地響きすら聞こえるような重い一足の踏み込みをもって、アーチャーが予備動作を終える。

 

全工程投影完了(セット)──是、射殺す百頭(ナインライブズブレイドワークス)

 

 容赦なく。

 瞬きの間に、英雄の絶技が放たれた。

 射殺す百頭。人体急所九つを瞬きの間に打ち砕く、超神速の九連撃。

 迎撃は間に合ったようでいて、そうではなかった。

 斧剣を無理矢理に形にして、なんとか士郎は九つの破壊全てを迎え撃ったが、その強度は本物に遠く及ばない。衝撃はたやすく剣を砕き、そして使用者である士郎すらも吹き飛ばす。

 

「が、────‼︎」

 

 伝播した衝撃は、確かに彼の両腕を破壊した。

 ゴキン、という嫌な音とともに、尺骨に亀裂が走る。

 そのままかなりの距離をカッ飛ばされて、着地すらできずに転がった。地面が柔らかい腐葉土だったことがまだ救いだ。木の根に頭をぶつけつつも、士郎は息も絶え絶えでなんとか停止する。

 しかし──、

 

全投影連続層写(ソードバレルフルオープン)

 

 攻撃はまだ終わっていない。

 ゾッ、という悪寒が首筋を駆け抜けて、士郎はその光景を見た。

 弓兵の頭上。滞空する無数の剣は既に照準を終え、放たれるその時を待っている。

 

「く、が──あ゛あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ‼︎‼︎」

 

 警句を叫ぶ暇すらなかった。

 ただ無我夢中で、軋みをあげる回路を回す。

 全ては無理だ。折れた腕を無理やり掲げ、可能な限りの剣を投影し、それらを全霊で撃ち放つ。

 剣と剣が交錯した。

 ドドドドドドドド──‼︎‼︎ という、鼓膜が機能しなくなるくらいの爆音が地面を揺らす。その中、迎撃が間に合わなかった数本の剣が、爆炎を越えて士郎の身体を切り刻んだ。

 

「ッ、ぎ──────」

 

 太腿、肩、腹、複数箇所から血が噴き出した。

 地面にぼたぼたと血をこぼしながら、士郎は顔をしかめて膝をつく。

 満身創痍。それでも、まだ命はある……‼︎

 

「はっ……はっ……‼︎」

 

 足りないのは理解させられた。

 投影。己の武器にして奴の武器。

 どちらにもこれしかない。同種同一の力を振るう以上、そこに開いた差を覆すのはより困難だ。

 ──そして、それを受け入れた上で考えろ。

 その不足をどう補い、どう凌駕するか。何をどうすれば目の前の敵を打倒できるのか。加熱する頭を回転させて、あるかも分からぬ答えを必死で探し出せ。

 

「────士郎!」

 

 声とともに、膝をつく士郎に凛が駆け寄る。

 だが駄目だ。

 アーチャーの攻勢には容赦がない。それより早く無理やり足腰に喝を入れ、大地を蹴って迫る刃を迎え撃つ。

 

『鬱陶しいくらいにしぶといのは今も変わらずか。だが、それだけでは私は倒せんぞ──‼︎』

 

 ──ギリギリギリギリ、と、力技に握りしめた干将・莫耶が押されていく。

 ダメージは酷い。気を抜けば今にも最後の守りを突破されそうで、地面を靴底が滑っていく。

 

「…………ああ。分かってるじゃないか、アーチャー」

 

 それでもなお、士郎はそう嘯いた。

 当たり前だ。

 十年前よりも、今の弓兵は尚強い。かつてと変わらないのであれば、あの戦いを僅差で乗り越えた士郎に勝てる道理はない。

 しかし──それは逆も然り。

 かつての自分よりも強くなったのなら。その理想を、より一層強く鍛え上げられたのなら。

 そこにはきっと、勝てる道理だって存在する‼︎

 

「────凛‼︎‼︎」

 

「ええ、任せなさいっ‼︎」

 

 士郎の声に応えて、彼女が最適の攻撃を放つ。

 それは弓兵の頭上で閃光を放つと同時、身体すら軽々と浮かせる暴風を解き放った。睨み合う二人はその中間点にあり、互いの体が弾かれて距離を置く。

 それによる外傷はない。

 しかし、この距離を取るということが、間違いなく最適の選択だった。

 

 

 

「────"体は剣で出来ている"」

 

 

 

 手を掲げ、囁くように紡がれた言葉。

 それは誰にも聞こえないほどの、小さな小さな音だったはずだ。

 しかし。直後、鼓動じみた音が周囲全てを揺るがした。

 それを聞いてアーチャーは悟る。そしてそれを知って尚、面白いと口の端を吊り上げた。

 或いは──この男の全てを見るのも悪くあるまい、と。

 

 

 

『────"I am the bone of my sword."』

 

 

 

 詠唱は二つ。

 同種にして異なる言葉が、空間に紫電を走らせる。

 

 

「"血潮は鉄で、心は硝子"」

『"Steel is my body, and fire is my blood. "』

 

「"幾たびの戦場を越えて不敗"」

『"I have created over a thousand blades."』

 

 

 回路全てに光が満ち、溢れて、この世界に注ぎ込む。

 身体を駆け巡る魔力。

 解放を目前に控え、それらは唸りを上げて昂ぶっている。

 

 

「"ただ一度の敗走もなく、ただ一度の勝利もなし"」

『"Unknown to Death. Nor known to Life."』

 

 

 慣れたものだ。身体の傷も、暴れ狂う魔力も、一切が意識の外に追いやられて、士郎の全ては一つの結実を成す為に駆動する。

 

 

「"担い手はここに独り、剣の丘で鉄を鍛つ"」

『"Have withstood pain to create many weapons."』

 

 

 ジ、ジ、ジ、と、耳障りな音を立てて堰が決壊した。

 限界を超えても、やる事は変わらない。

 目を閉じて、己の世界を形と変えるのみ。

 

 

「"ならば我が生涯に意味は不要ず"」

『"Yet, those hands will never hold anything."』

 

「"この体は" ────」

『"So,as I pray, "────』

 

 

 炎は世界を壊し、余白領域は心象で塗りつぶされる。

 固有結界。世界に数少ないソレの術者が、しかし、ここには二人存在している。どちらも譲らず、空間はヒビ割れるように歪み始めた。

 詠唱が完成を迎え、最後の警句が紡がれる。

 それは衛宮士郎という人間を表し示す言葉、つまり──、

 

 

 

 

「"無限の剣で出来ていた"────‼︎」

『"UNLIMITED BLADE WORKS."────‼︎』

 

 

 

 

 そして、周囲の全てが蘇る。

 それは衛宮士郎に許された、たった一つの魔術。

 

 その名を、「無限の剣製」────。

 

 どこからか響いていた爆発音や、地面が揺れる重苦しい音も掻き消えて、荒野を駆け抜ける風の音のみが残される。

 互いに互いから視線を離さず、両者は敵の背後に広がる景色を見た。

 弓兵の背後には、巨大な歯車が蠢く昏い銅色の空。

 士郎の背後には、どこまでも澄み渡る夕焼けの空。

 その差異が、同一のはずの彼らを分かつものだ。同じなのは、どこまでも広がっていく荒野に突き立てられた、墓標じみた剣の群れ。

 固有結界同士の衝突により、世界を塗りつぶすはずのそれらはちょうど中間点で鬩ぎ合い、停止していた。世界二つが接する歪な空間で、士郎はすっ、と手を掲げる。

 

「────行くぞ、アーチャー」

 

 瞬間。

 無言を保っていた無数の剣が、地面をえぐり飛ばして空に浮いた。

 

『来い。かつての妄言の真贋、この極地で見極めてやろう‼︎‼︎』

 

 

 アーチャーも同様。

 背後に浮かび上がる剣の群れが、士郎と同時に火を噴いた。




偽銘(イミテーション)煌々たる月蓋の夜刃(チャンドラハース)
バーサーカーとの死闘にあたって、健斗が作り出したもう一本の「月の刃」。しかし、セイバーの力と無尽蔵の魔力を借りているとはいえ、これを握るのに健斗は多大な犠牲を払った。
性能としてはオリジナルのものに及ばないが、ラーヴァナではなく健斗が振るうからこそ得られるものもある。


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八十六話 理想の終着点/Other side

 剣の荒野にて繰り広げられる激闘は、今──まさに佳境を迎えていた。

 殺風景な世界を吹き抜ける爆風が、二人の魔術師の前髪を弄ぶ。

 

『────、ク』

 

 弓兵は舌打ちする。

 今なお彼の背後から放たれ続ける多種多様の剣は、全てに必殺の狙いと威力を込めている。

 威力、精度、あらゆる面から見ても、まだこちらに分があるだろう。

 しかし現実は違う。当たり前のはずの事実、覆しようのないはずの差が、確かに縮まって上回りつつある。それが何よりも不快であり、そして──、

 

『おァァァァァァァァッ‼︎』

 

 垂直に落ちるような軌道で、士郎の身体を潰さんと剣が疾る。

 それを紙一重で避けながら、士郎は必死に魔力回路を回していた。

 十年前とやっていることは同じだ。此度も士郎は凛の刻印を右腕に借り受けている。そこから魔力をありったけ搾り取り、力と変えて撃ち放つ。

 劣勢だとか、優勢だとか、そんなものは頭から消えた。

 それらを排して心に残ったもの。そこにあるのは、ただただシンプルな感情だけだった。

 負けられない、という、たった一つの意地だけ。

 お前(じぶん)自分(おまえ)で。ならば、どんなに姿も理想も変わろうと、「正義の味方」を志したのならば──、

 

「ア────チャ────────ッッ‼︎‼︎」

 

 お前はそこで何をしている。

 そんな姿を晒し、霊長の敵として振る舞うなんて事を弓兵(ヤツ)が許したのだとしても、衛宮士郎は許せない。

 きっと立場が逆だったのなら、あの弓兵とて同じ憤慨に駆られた事だろう。

 つまり。士郎の中で渦巻く意地の根底にあるのは、

 

"今のオマエなんかに負けるなんて、それは"

"それ自体が、オマエに対する最大の侮辱だ"

 

 なにより、もう一人の自分──愚直に理想を信じ続けた自分に対する、最大の敬意と賛辞に他ならない。

 魔力は加熱する。限界を突破して、なお速く。

 後先なんて考えない。衛宮士郎はその持てる全てをもって、他の誰でもない、目の前の男のために彼を討つ──‼︎

 

『ぬ……ッ⁉︎』

 

 穿った。

 初めて、互角と思しき剣のぶつかり合いを乗り越えて、士郎の放った剣が弓兵の腹を裂いた。

 

「────はあッ、はあッ……」

 

 使える魔力は限界が近い。

 いくら凛の莫大な魔力を借りているとはいえ限度はある。対して、アーチャーは聖杯から無限の魔力を受け取っている状態だ。持久戦になれば、まず勝ちの目はなくなるだろう。

 それを踏まえて、士郎は更に攻め立てんと複数本の剣を浮かび上がらせる。しかし──、

 

「…………な、に?」

 

 アーチャーの様子が、おかしい。

 剣を撃ち放つ様子もなく、ただ。何かを待つかのように、右腕を高く天に掲げている。

 ぞわ、と士郎の直感が告げる。

 このままでは、確実に死ぬ、と。

 

『衛宮、士郎』

 

 奔る稲妻。

 掲げられた右掌の奥から、黄金の光が溢れ出す。

 

『今ここで見せてみろ。お前が私より先へと至れたか否か、その確かな結実を──‼︎』

 

 烈風が荒野を駆け抜けて、剣の群れを震わせる。

 目の前に投影(つく)られるモノ。

 黄金の輝きを放ちし、かの騎士王が振るいし聖剣。

 アーチャーの身体、その輪郭が崩れていく。無茶の代償、あり得ざる奇跡を成し得た反動は、確実にアーチャーを亡き者とするだろう。しかし、それよりも早く、士郎と凛は聖剣の一撃で蒸発する。

 アーチャーは言っているのだ。

 この一撃を越えてなお生き延びてみせなければ、今の貴様を認めることなどできはしまい、と。

 

「あれ、は」

 

 エクスカリバー。

 あの剣は投影すら許されない究極の剣だ。

 この世界にあるすべての剣をぶつけようとも、究極の一には決して叶わない。それを知って、如何にしてあの一撃を受け止めるのか──。

 結論なんて無いように思える。

 士郎の全てを賭けたって、心象の全てを使い潰したって、あの剣は越えようがないのだから。

 

「────ああ、そうか」

 

 その道理くらいは呑み込んだ。そうして今、自分が何をすべきかを理解した。

 掲げるは同じ右手。

 されど、振るうのはかの聖剣などではなく、

 

「いいぜ。お前がそれ(・・)を使うのなら、こっちの全てをぶつけてやる」

 

 

 その瞬間、世界が、揺れた。

 

 

 みるみるうちに亀裂を生む大地。龍の咆哮の如き凄まじい音を立てて、剣の荒野が割れ砕ける。

 その奥から現れたのは、何千、何万。まさしく無限と形容するに相応しい剣の群れだった。

 全ての剣を束ね、一度に撃ち放つ最後の切り札。相対する弓兵からすれば、それは全てを飲み込む大津波のようにすら見えたことだろう。

 

『フ』

 

 それでもなお、アーチャーは失笑を返した。

 目の前に迫る壁の如き剣の群れ。

 されど、この手の中には無敵の聖剣が在る。

 命を捨てて手にしたその輝きは究極の一。偽にして偽にあらず、いくら他の贋作を積み重ねようと辿り着けない真の極致。彼女の聖剣の威力は、眼前に立つ衛宮士郎と同様に、彼自身が一番よく解している。

 この程度の障壁など、如何様にでも破ってみせる。

 大上段に構えた剣は、僅かな静寂を経て振り下ろされ──、

 

 

 

永 久 に 遥 か 黄 金 の 剣(エクスカリバー・イマージュ)‼︎‼︎』

 

 

 

 眩き閃光が、目の前全てを呑み込んだ。

 

 荒れ狂う暴風と魔力。大気は張り裂けるように咆哮し、剣の群れは片端から弾かれて蒸発していく。

 

「く──ぐ……あああああああああ────‼︎」

 

 士郎の全身を、すぐそこに迫る死への恐怖が叩く。

 こうしている今も、ありとあらゆる剣を全て使って、全身全霊の力で撃ち続けている。

 しかし聖剣は止まらない。こちらの剣は次々に蒸発していく。拮抗には程遠く、黄金の輝きは今やすぐそこにまで迫っている。

 

「──投影(トレース)──開始(オン)ッ──‼︎」

 

 ぎり、と奥歯を潰さんばかりの勢いで噛み締め、言い慣れた警句を口にする。

 いくら剣をぶつけようと勝ち目はない。

 まだ可能性があるとしたら盾だ。記憶の中にある最強最硬の盾、それを引っ張ってきて形とする。時間は無い、工程なんてすっ飛ばして結果を手繰り寄せ──、

 

 

 

熾 天 覆 う 七 つ の 円 環(ロー・アイアス)‼︎‼︎‼︎」

 

 

 

 展開される花弁の障壁。

 7枚重ねのそれは、一枚一枚が古の城壁にすら匹敵する対物理・魔力性能を発揮する。

 そして──剣の群れを蹴散らして、ついぞ聖剣と盾が噛み合った。

 ズゴアッッッ‼︎‼︎ という爆音を撒き散らし、士郎の周囲の地面が消滅する。その黄金に触れた瞬間、花弁の盾のうち四枚が瞬く間に消し飛んだ。

 

「が────────‼︎‼︎」

 

 盾を掲げる右腕に、凄まじい圧力が襲い来る。

 魔力はさっきから最大速度だ。

 両者ともに限界は近い。アーチャーの身体が朽ち果てるか、士郎の身体が光に呑まれるか。どちらが先に限界を迎えるかを競う、命懸けの我慢比べ。

 

『オォォォォォォォォォッ──‼︎‼︎』

 

 アーチャーの咆哮が大地を揺らす。ひときわ威力を増した黄金の光は、吠え立てて花弁の障壁を突破した。

 あと一枚。

 最後の障壁を残し、士郎はがくんと膝をつく。

 

「が、────かッ、は────」

 

 息が続かない。

 盾を掲げる右腕はズタボロに折れ砕け、無理やり左腕で押さえつける。

 びし、びし、と嫌な音を立てて、こちらの骨と最後の障壁が壊れていく。

 アーチャーの限界ラインはまだ先だ。間に合わない。黄金の一閃は、間違いなく士郎を消しとばす。

 その結末は、誰が見ても明らかだった。

 

「──────────は、は」

 

 それでもなお。力強く笑って、黄金の奔流の奥に居るであろう弓兵を睨みつける。

 彼の唇がかすかに動いた。

 その時紡がれた言葉はなんなのか。アーチャーはそれを知ることなく、約束された勝利へとひた走り──、

 

 

 直後。

 放たれた一つの黒弾が、アーチャーの胸に風穴を開けた。

 

『────────……』

 

 弓兵は、ゆっくりと視線を下に向ける。

 崩壊寸前、対魔力どころか輪郭すらも崩壊を始めている死に体に最後のとどめを刺したのは、なんの変哲もない一つの魔術だった。

 

『ガ、ン……ド……』

 

 それを解した瞬間、アーチャーの全身から力が抜ける。

 仰向けに倒れて、赤銅に染まる歯車の空を見た。

 全く、と皮肉っぽく笑う。士郎は最初からエクスカリバーを受け切ろうなどとは思っていなかった。最初の最初から、彼は自分のパートナーに全てを託していたのだ。

 と、何者かが近く足音を聞き、アーチャーは閉じかけた瞳を開けた。

 

「アーチャー」

 

 遠坂凛。10年前のマスターが、そこにはいた。

 彼の朧げな記憶にある彼女の容姿からは随分と違う。あの頃は猫をかぶっても隠しきれない活発さがあったが、今は年相応の落ち着きを纏わせた、立派な淑女に成長している。

 

「っ……待って、待ちなさい! まだ沢山、話したいことが……」

 

『何を言う……凛。私は君の敵だぞ?』

 

 唇の端から血が流れ落ちていく。

 消滅までに残された時間は如何ほどか。

 僅かな時間を惜しむように、凛は悔しげな顔をする。が、その表情には10年前と変わらないので、アーチャーは苦笑した。

 

『フッ……悪は……正義に、破れる。当たり前だ』

 

 悪をくじく正義の味方。自分が目指したもの。

 その道理が正しいと、自分自身をもってして証明できたのだから、アーチャーには安堵があった。

 

「いいえ、貴方は悪なんかじゃない。気づかないとでも思ったの?」

 

 その言葉に、アーチャーは意外そうな顔をする。

 

「恐らくはこの戦いが始まった時から……いえ、いつからかは島の外にいた私には判別できないけれど。貴方、私達に勝機が残る組み合わせになるよう(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)に、こっちの戦力と貴方達の戦力を意図してかち合わせたでしょう」

 

『……馬鹿を言うな。私は君達を、私の全力をもって殺そうとした。それは確かだぞ』

 

「それくらいでもしなくちゃ欺けない敵なんでしょう。私達を見逃そうとして何かされたセイバーみたいにね。そもそも、私達を確実に殺すのなら私達にバーサーカーかセイバーをぶつけていればよかった。それくらい分からない貴方じゃないでしょう」

 

 事実、特に強力なセイバーを唯一残るキャスターの迎撃に向かわせたのは、アーチャーの誘導あってのことだ。

 ため息をつく凛に、アーチャーは諦めたように空へと視線を向ける。

 

『十年の月日というのは、恐ろしいものだ』

 

「あいにく、勝手に裏切られたと勘違いして落ち込むのはもうこりごりなの。それくらいの洞察力は身につけたわ」

 

『全く……あとできっちりとお返しするのは変わらんな』

 

 最初から信頼はあった。あの衛宮士郎には彼女がついている。ならば、きっと、独りで戦い続けた自分を超えてくれるだろうと。

 その予想は正しかったようだ。

 時間はもう残されていない。アーチャーは霞んでいく掌をそっと凛の頭に乗せ、微笑んだ。

 

「……ねえ、アーチャー」

 

『何、だ?』

 

「貴方の願いを、今も私は果たせているかしら?」

 

 涙を堪える彼女は、最後にそう問いかけた。

 アーチャーの願い。

 十年前、消滅する赤の弓兵は、最後にこう言い残した。

 

 ──私を頼む。知っての通り頼りないヤツだからな。

 ──君が、支えてやってくれ。

 

 その言葉を、十年間ずっと曲げることなく、彼女は愚直に守り続けてきた。その願いに、信頼に、応えられているのか。それも分からないまま、それでも、衛宮士郎と共に歩んできた。

 その答え合わせに、アーチャーはすんなりと答える。

 

『勿論だ。まだ嫌気が指していないようなら、今後も付き合ってやってくれ』

 

「っ……当たり前よ、最後まで離してなんてあげないんだから」

 

 最後まで、と彼女は言った。

 随分と幸せなヤツだ、と笑う。

 成長した彼らを見て、その言葉が聞けただけでも、うんざりする役回りを果たした甲斐はあった。最後に、彼は凛の頭をそっと撫でて、

 

 

『ああ────安心したよ、遠坂』

 

 

 その瞬間。

 眩い閃光と共に世界が崩れ、そして──アーチャーの姿は、跡形もなく掻き消えていた。



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八十七話 信念と信念/Other side

「────……っ‼︎‼︎」

 

 一筋の閃光が、彼の身体を貫いた。

 それを脳で理解した時には既に、楓の目の前で倫太郎が薙ぎ倒されていた。

 吹っ飛ばされて地面に叩きつけられる身体。うつ伏せになった倫太郎はぴくりとも動かず、楓は震えを噛み殺して倫太郎に駆け寄る。

 

「倫太郎、倫太郎っ⁉︎」

 

 焼けた服と、その奥の皮膚が痛々しい。

 だが、それだけではない。何か嫌な予感を感じて楓は屈み込む。

 恐る恐る胸に耳を当てても、心臓の鼓動が聞こえてこなかった。

 

「…………‼︎‼︎」

 

 思わず心肺蘇生を始めようとして、楓は動きを止める。

 背中に突き刺さる視線は、間違いなく自分に狙いを定めている。

 粘りつく殺気。背中を死神の鎌で撫でられているかのような感覚。

 ぜえ、ぜえ、と、呼吸の荒さが増していく。

 勝てない。こんな怪物に、自分一人で勝てるわけがない。

 

「どうした、娘。最初から脅威には入れていないが、私に挑まんとする気概も無いか」

 

「……アンタ、は……」

 

 つう、と頬を伝った汗が地面に落ちる。

 心臓の鼓動は痛いくらいに騒がしい。

 そんな人も殺せそうな緊張感の中、楓は必死に考えていた。

 倫太郎の魔術刻印に施された治癒能力は心臓を再び動かすだけの力を持つのか否か。持っていなければおしまいだ。持っていたとしても、恐らく倫太郎の覚醒にはそれなりの時間を要する。それまで、自分一人で彼を守らなければならない。

 とはいえ──相手は、楓一人に倒せるような魔術師ではない。

 戦えば死ぬ。それが当たり前の以上、いかにして戦わずに、倫太郎を守り抜くかが肝要になる。

 

「なんで、こんなことをしているの」

 

 楓は意識を全身の回路に残したまま、そう問いかけた。

 

「この街で聖杯戦争なんてモノを起こして……セイバーを攫って……あんなバカでかい塔まで作って、街の人間を巻き込んで。一体何が目的なのよ?」

 

「目的など一つしかない。魔王を再誕させるだけだ」

 

「魔王を、再誕、させる?」

 

 地面に届きそうなほどの豪奢な金髪を搔き上げて、クロウリーはすぐ近くに聳え立つ白の巨塔、その頂きを見つめる。

 どくん、どくん、と脈打つ「何か」が、そこにはあった。

 これだけ離れていても聞こえてくるほどの脈動。この街の人間から魔力を奪い続けている、災厄の根源である。

 

「魔王ラーヴァナ。遥か太古の神代に世界を蹂躙した、最悪の反英雄。セイバーの正体がそれ(・・)であることくらい、お前は理解しているだろう。(わたし)は奴に過去の残虐性を取り戻させ、今一度、彼女にこの世界を蹂躙させる。その為に三流魔術師に聖遺物を掴ませ、あのセイバーを召喚させたのだ」

 

「でもっ……何のために⁉︎ どうしてそんなことをする必要があるの⁉︎」

 

「────どうして、だと?」

 

 その言葉を言ってしまった瞬間、楓は自分の失敗を悟った。

 ──ズドン、と。

 銃声じみた轟音が響いたと思った時には、身体がぐるりと回っていた。

 

「────────、が⁉︎」

 

 吹き飛ばされて地面を転がる。

 だが死んではいなかった。四肢はくっついているし、傷も今ので擦りむいた箇所くらいのものだ。ふらふらとおぼつかない視線を腕に向けると、キャスターの白籠手が、やや焼け焦げて煙を上げていた。

 咄嗟に両腕で防ごうとしたのが偶然にも功を奏したらしい。

 とはいえ、あの神速の攻撃を防ぐのは、倫太郎が受けた一度目を見ていなければ不可能だった。

 

「は、はっ……はっ……⁉︎」

 

「ぬるま湯の中で育ったお前には分かるまいよ、娘」

 

 声が鋭く楓を貫いた。

 仙天島の主、アレイスター・クロウリーは、その貌に怒りを乗せて楓を睨みつけている。

 

「百余年にかけて世界を歩き、(わたし)は学んだ。この世界は相互の憎しみ、絶えぬ争いで満ちている。否、争うことこそが人間の本質だと誰もが心の底で理解しているからこそ、この世界は永久に闇の中に()る」

 

 静かながらも叩きつけられるような言葉は、楓に反論を許さない。

 

「──これくらいは貴様でも理解できるだろう。世界の恒久平和、なんて願いは、最初から叶うはずのない夢物語だと」

 

 ごくり、と唾を飲みこむ。

 確かにそれは正しい、と楓は思う。

 そんな理想を素直に追い求められるほど、楓は純粋ではない。

 

「だけど……それと、あの子を魔王にすることと何が関係あるってのよ⁉︎」

 

「知れたこと。前例を作る(・・・・・)んだよ」

 

 前例、という言葉の意味がわからずに、楓は言葉に詰まった。

 

「言ったろう。人間というものは決して争いを止めん。どんなに良き人間であろうと、心の底では「分かり合えない者もいる」と諦め、70億の人類全てと仲良くなれる、などとは考えないからだ」

 

 人間全ての相互理解など、それこそ叶うはずのない夢物語だ。

 場合によっては親友、家族同士でも争いかねないのが人間である。全世界の人間が、誰もいがみ合うことなく平和に過ごす、なんてことが実現できるわけがない。

 

「それでも、前例があれば何かが……何かが変わるかもしれん。この世界全ての人間が強固に団結しなければ乗り越えられないほどの、神すらも超越した絶対脅威。全生物にとって共通にして最大の「悪」が在れば、人間全てが繋がれるかもしれない」

 

「だ……だからっ、世界をひとまとめにするために、セイバーちゃんを世界にとっての悪者にしようって言うの⁉︎」

 

 とある集団の中で、より強固な人間関係を築くためにはどうすればいいか、という問いに対して、確実な答えがある。

 それが、「共通の敵を作る」という事だ。

 嫌な上司や教師がいれば、それを元に社員や生徒たちは団結を深めることができる、といった具合に、人間の集団は共通の敵に際して団結しようとする習性を持つ。

 クロウリーが提唱するのはその理論の延長だ。

 集団を「世界」に据え、全ての人間がもれなく力を合わせなければこの世界が滅ぼされるほどの絶対の敵を作り上げれば──或いは、未だ誰も見ぬ「全人類の団結」を成し得るかもしれない。

 そうした前例を作れば、人間は認められるのではないか。

 例え困難であろうと、人間は全て繋がれるのだと。

 

「そんなの、うまくいきっこない‼︎ 神代の魔王なんてものが本当に君臨したら、それこそ今の人類なんて……」

 

「そこで人類が滅びれば、人類はそこまでだった、という事だ」

 

 あまりにも冷静に言い返され、楓は何も言えなかった。

 この女は。この女は本気で、「世界の平和」を望んでいるのだ。

 ただ、見出した手段が、何十億もの犠牲すらも厭わぬほどに狂っているだけで。

 ただし、その根底にあるものが正義の心だというのなら──果たして、楓にその考えを、アレイスター・クロウリーが百余年をかけて出した結論を糾弾できるのだろうか。

 

「さて。そろそろ終わりにしよう」

 

 唐突に、クロウリーは会話をぴたりと打ち切った。

 

「話し過ぎた。(わたし)にもやる事があるんでな」

 

「っ!」

 

 時間稼ぎはここまでか、と腹をくくる。

 そう決めてからは早かった。楓はいつのまにやら用意していた煙幕を思い切り地面に叩きつけると同時、

 

駆動開始(セット)‼︎」

 

 倫太郎を抱えて地面を蹴り、思い切り後ろに向かって駆け出していた。

 とにかく距離をとる。木立の中に紛れて、倫太郎が意識を取り戻すのを信じて待つ。それしかない。

 だが、楓の予測は甘かったと言わざるを得ないだろう。

 ものの一秒もなかった。

 クロウリーが何らかの魔術を射出した瞬間、そのあまりの風圧によって、楓の煙幕は跡形もなく吹き散らされた。

 

「くッ⁉︎」

 

 背中を向けて走る楓。

 宙を舞いながら追従するクロウリーは、その視線をもって狙いを定め、第二撃を撃ち放つ。

 

「う、らぁぁ────ッ‼︎」

 

 倫太郎を抱えたまま、楓は思い切り右腕を振り抜いた。

 三度も見れば、楓にもギリギリ射線を読むくらいはできる。

 だが衝撃までは殺せない。地面を転がり、倫太郎を傷つけないように抱えたまま、凸凹のある斜面を転がっていく。

 

「うああああっ‼︎」

 

 相当強く弾かれたのか、地面に叩きつけられる衝撃は相当のものだった。鋭い枝が深く肩に食い込み、激痛をこれでもかと与えてくる。

 歯を食いしばって痛みをこらえ、再度駆け出す。

 

(……お願い、だから……死なないでよっ‼︎)

 

 心臓はまだ動いていないのか。否、そもそも、魔術刻印に自己の心肺蘇生を果たすほどの力はないのかもしれない。自分の必死の努力は、最初から意味のないあがきなのかもしれない。

 それでも知るか、と走り続ける。

 意味なんてなくても、守られるだけではいたくない。

 倫太郎が自分を守ると、そう言ってくれたのなら、楓だって倫太郎を守る。何が何でも絶対に、それこそ命をかけてでも。

 

「はあ、はあ、はあッ……うっ⁉︎」

 

 露出した木の根につまづいて、楓は加速した勢いのままに倒れこんだ。

 手から離れた倫太郎をもう一度抱え上げようとして、背後に何者かが降り立つ音を聞く。

 しゃり、と落ち葉を踏みしめる音。

 背中を刺す視線はまるでレーザーポインターだ。もう逃げられない、と暗に伝えているつもりだろうか。

 

「────さらばだ、女」

 

 魔眼が輝く。

 咄嗟に楓は両腕を交差して防ごうとした。さっきの一撃であれば、直線上に籠手を置けば防ぎきれる。

 

 けれど、ふと、楓はクロウリーの魔眼が何であるかを思い出した。

 

 複製の魔眼。見た事がある魔術であれば、一切の儀式や詠唱を必要とせずに再現できる反則の異能。

 それならば──わざわざ、一種類の攻撃にこだわる必要がない。

 

「…………‼︎‼︎‼︎」

 

 瞬間、牙を剥いたのは、目に見えないほど速く鋭い稲妻ではなく。

 壁じみた巨大な閃光が、楓の視界を塗りつぶした。

 

 

 

 

 ──ドガァッッッッ‼︎‼︎ と、仙天島を揺るがすほどの轟音が響き渡り、落ち葉や太い木々の幹が面白いように吹き飛んでいく。

 クロウリーが放った魔術は大爆発をもって眼前を呑み込み、敵対者もろとも地面を消し飛ばした。

 純粋な破壊力であれば、クロウリーの目に記録されたものの中でも三指に入る魔術だ。立ち込める黒煙を眺めながら、その直撃を確信する。

 

「──……さて、残る敵は」

 

 ざっ、と落ち葉を踏みしめて踵を返そうとする。

 しかし、直前で彼女は思いとどまった。

 あり得ない。しかし煙の向こうで、何かが動いた、ような。

 

「な、に?」

 

 今度こそ驚きだった。

 煙の向こうに、立っている人影がある。

 今の一撃をまともに受けて、生身で五体満足に立っている魔術師がいる、というのか。信じられない。ヒトの人体はそれほど強靭にできていない。あり得るはずがないというのに、しかし。

 

「────…………私に……は、わかる」

 

 志原楓は、健在だった。

 両腕の籠手で頭と胸を隠す事で致命傷を避けたらしい。しかし籠手で防げた箇所以外──脚や腹はそのままだ。吹き飛んだ土砂が散弾と化して抉ったのか、火傷や骨折以外にいくつもの箇所で出血している。本当なら、今すぐ崩れ落ちてしかるべき重症。

 

(「強化」をくまなく全身に張り巡らせ、構造強度を上げて自分自身を盾に……⁉︎ 強化(エンチャント)は特定の物体、箇所に行うのが基本だ! (わたし)とて出来るか分からぬ神業だぞ⁉︎)

 

 或いは、それだけを続けてきたからこそ、彼女は土壇場でそれを可能としたのだろう。

 それでも道理を捻じ曲げるほどの強靭さと執念だった。

 爆風に吹き飛ばされず、ただ。後ろの、生きているかもわからない少年を守るためだけに、致死の火焔を全て一身に浴びたというのだから。一体どこから、そんな離れ業を可能にする力を手繰ったのか。

 

「私は……穢れた、血。魔術師として許されない存在だから……今までだって、色々な悪意に触れてきた。世界を回ったアンタなら……きっと、もっと、たくさんの……人間の悪い部分を、見たんでしょう」

 

 重ねた腕の奥で、傷ついても揺るがない視線がクロウリーを貫く。

 その目を見た瞬間、クロウリーの中で、何かが……とうの昔に忘れてしまった何かが、微かに動いたような気がした。

 

「それでも……私は、人間を諦めたくは……ない」

 

 少女の言葉は、上っ面だけの浅薄な言葉などではない。

 その身に刻まれた経験をもって紡がれる、芯の通った言葉だ。

 人の意思を尊重するクロウリーは、そうした言葉は蔑ろにしない。

 

「だって、私が……そうなんだから。弱さから他人(ひと)を憎み、妬んで、一方的に決めつけて……それでも、どんなに離れたって、謝ることができる……もう一度、手を取ることが……できる」

 

 アレイスター・クロウリーが、どんな途方もない道を歩んで、どんな葛藤の末にその結論に至ったなんて関係ない。

 志原楓が信じるのはただ一つ。自分が選んで、自分が歩んできた道の最中に獲得したものだけだ。

 

「だから。それを知った以上……私は……アンタが考えて出したその結論を、簡単に受け入れるわけにはいかない……絶対にっ‼︎」

 

「……そうか……」

 

 呟いて、クロウリーは魔眼を今一度起動した。

 今度こそ終わらせる。意識が続くかもわからぬようなあの死に体ではもう盾にはなるまい。

 さしたる時間は必要ない。魔眼の輝きは確実に機能を果たし、魔術という結果のみを手繰り寄せる。

 

「…………、っ」

 

 楓は動けないまま、目を閉じて死の予感を迎え入れ──、

 

 そして。

 放たれた一撃は、しかし彼女を殺すことはなかった。

 

 放たれるはずの爆風が、縦に割れて霧散する。

 そこに在ったのは、一本の刀だった。

 天から地へと垂直に突き刺さったそれは、爆風を受け止めるでもなく散らすでもなく、最初からなかったかのように消滅させていく。

 

「な……に?」

 

 驚きよりも──先に、困惑がやって来た。

 クロウリーは不可解な現象に息を呑む。

 何が起きたのか。あの刀は何をしたのか。相殺にしては、こちらとあちらのエネルギーに釣り合いが取れていない。目の前の現象が不可解に過ぎる。百余年の知識と経験に、こんな攻撃は存在しない。

 そしてこれは何だ。

 何かが断たれてしまったような、この不快な感覚は──⁉︎

 

「ありがとう」

 

 限界を迎えて倒れる楓を、差し出された腕が優しく抱きとめる。

 意識が朦朧としていた楓は、その感覚だけを受け取って、

 

「……りん、た、ろう……」

 

「君の叫び(こえ)を聞いて、戻ってこれた」

 

 弱々しく笑う楓の頰にそっと触れて、倫太郎は言う。

 

「情けないな。守ると言ったはずなのに、僕は守られてばっかりだ」

 

「いい……の。守られるばかりじゃ、悔しいから──……」

 

 ギリ、と歯を食い縛る音がする。彼は優しく楓の体を寝かせると、体に手をかざして回路を起動させた。

 回復魔術だ。楓の身体、外内問わずに刻み込まれた重症を和らげるために、倫太郎は魔術を使っている。敵の前であろうが関係なかった。人のため、特に彼女のためならば、一切の恐怖など存在しない。

 

「……貴様、何をした?」

 

 倫太郎は答えない。

 ただ無言で、楓の傷を癒している。

 

「答えろ、繭村倫太郎ッッ‼︎‼︎」

 

 激昂したクロウリーが、複製の魔眼を起動させる。

 妖しい輝きと同時。先程も倫太郎を貫いた、目にも留まらぬ雷光が宙を駆けた。

 こちらを見てすらいない倫太郎にむかってそれはひた走るも、

 

(やかま)しい」

 

 倫太郎は目線すらも寄越さなかった。

 代わりに、地に突き刺さっていた刀が紫電の如く浮き上がり、その一撃を斬り払う。

 バチュンッ──‼︎ というけたまましい音を立てて、やはり魔術が相殺される。否、やはり相殺にしては互いの魔力に差があり過ぎる。

 クロウリーの魔力は倫太郎と比較してもなお絶大だ。相殺できる程の魔力はあの刀にはない。百の魔力は百の魔力で打ち消すが道理のはず。だというのに、あの刀が纏う魔力は精々五十程度しかない。

 

「アレイスター・クロウリー……」

 

 ゆらり、と立ち上がる倫太郎は、魔眼と視線をぶつけ合うことも厭わず、真正面から彼女を睨みつける。その目に籠っているのは、確かに燃える怒りの炎だ。

 

「お前は、何を求めてるんだ」

 

「そこの女には伝えたぞ。人類が持つ不和の抹殺、それだけだ」

 

「志原にこんな事をして、そんな理想を語る資格があると思うか」

 

「無論。理想に犠牲は必要となる」

 

 再び、クロウリーは魔術を発動させようとし、不快な違和感の正体を突き止めた。

 魔眼が起動しないのだ。参照に失敗している。複製したはずの魔術は、何故か最初からなかったかのように現出しようとしない。

 

「──……な、に?」

 

「無駄だ。今の魔術は、もうお前には使えない」

 

 見えない手でも伸びているかのように、浮遊する日本刀を自在に操り、倫太郎は両手に握りしめた。

 構えを取り、切っ先がクロウリーの喉を射抜く。

 

「お前の魔眼……それは、一度見た魔術をそのまま再現できるらしいな。そこで僕は考えた。その魔眼の機能には、どこかに付け入る隙があるんじゃないかと」

 

 付け入る隙。黄金色の魔眼が持つ隙。

 そんなものは無いとクロウリーは知っている。数多の敵を屠り、いくつもの窮地を超えた己が最大の武器に、信頼はあれど不安はない。

 しかし事実として、この魔眼は機能を阻害されている──‼︎

 

「原則として……魔術師は、魔術基盤に回路を接続させることで魔術を用いる」

 

 どんな反則を用いたって、この世界に魔術を現出させるための仕組みは変わりようがない。

 

「そしてお前の魔眼は、そこに介在する「学習、把握」の過程をすっ飛ばすんだ。ただ見るだけで魔術基盤に強引に接続し、結果を引きずり出すことができる」

 

 誰もがそう簡単に魔術基盤に接続できるわけではない。最初は学ぶことから始まり、着実に反復練習を重ね、少しづつ魔術を自分のものにしていく。それこそ才能がモノを言う世界だ。

 そうした倫太郎や楓のような魔術師からすると、やはりその力は強力だ。十年をかけて使いこなせるようになった術式でも、彼女は一秒もかからずに再現してしまう。

 

「ただし、それは魔術なんかじゃない。誰かの成果に相乗りして借りているだけの偽物だ」

 

 分かるか、と倫太郎は言った。

 見ただけであらゆる魔術基盤に接続し、その力を振るう複製の魔眼。

 しかしその力の本質は複製ではない。もっと正確に言うのならば、魔術の複製のみに焦点を絞ったその魔眼の真の性質は──「接続」。

 つまり、倫太郎が最も得意とする「切断」の真逆にある概念である。

 

「だから僕はその接続を断った。お前が使った魔術に「概念切断」を押し当てることで、魔眼が維持していた魔術基盤との繋がりを切断したんだ。もし、お前がさっきの魔術をもう一度使いたいのなら、改めて本物をもう一度見るしかない」

 

「出鱈目を……ッ‼︎」

 

「かもしれない。概念切断だって万能じゃない、普通の魔術師に同じことをしても意味がなかっただろうさ。鍛錬を重ねるほど、術者の回路と基盤は重なり合って同一になる。……最初から共に在るものを、断つことなんてできやしないんだ」

 

 しみじみと呟いて、倫太郎は言い放つ。

 

「ただ──お前だけは例外だ。お前の魔術が不安定な贋作である以上、僕の刃はその間隙を断てる」

 

 彼女の頰を汗が伝う。感じているのだ。悪寒を。この少年に対して、アレイスター・クロウリーは今とてもとても久しぶりに、最大限の警戒がもたらす悪寒を感じている。

 

(不安定要素の存在は認めるが……魔術基盤との接続など、それこそ目に見えぬ、(わたし)の魔眼の中でのみ行われている事象だぞ⁉︎ そんなものにまで干渉できる魔術など……‼︎)

 

 それも当然だ。クロウリーは幾度となく強敵と対峙し、死線を潜り抜けてきた猛者である。才覚に恵まれているとはいえ、所詮は魔術師の一人である倫太郎より遥かに強い敵を、数え切れないほど下してきた。

 しかしこの繭村倫太郎は驚異のベクトルが異なる。

 概念切断。魔眼の接続能力を断つことで複製魔術を無効化し、眼に貯蓄された魔術のストックを削り取る魔術。魔術師アレイスター・クロウリーにとっての「最強」には至らずとも、「最悪」の敵がそこにいる。

 

「──……僕は、最後まで迷ってたんだ。自分が何のために戦うのか、自分にとっての正義は何なのかと」

 

 けれど、と前置きして、倫太郎は続ける。

 

「もう分かってる。魔術使いである僕の正義は、志原を守り抜くことだけだ。クロウリー、お前がどれだけ崇高な理念を掲げていて、その根底に正義があったのだとしても……それを認めることはあれ、僕らは決して相容れない」

 

 クロウリーがあくまで正義を目指すのならば──その手段がどんな方法であったとしても、倫太郎はその正しさを認めるだろう。

 それは、愚直に正義を信じていたのに、人を殺すことしかできなかったあの少女と同じだからだ。

 しかし。

 それと同じように、倫太郎にも信じる正義(モノ)がある。

 クロウリーの正しさを認め剣を収めれば、志原楓は守れない。それは自分が信じる正義に反する行いだ。

 ──決して、決して許される事ではない。

 

「ならばどうする、繭村倫太郎?」

 

 先ほどまで使っていた術式は断たれた。

 しかし、彼女の魔眼には未だ千を軽く超える数の術式が眠っている。一つや二つを使用不能に追い込まれようと、その実力に少しも陰りはない。

 魔眼の明度を上げていく。順次展開していく魔法陣は10を超えた。それらは倫太郎をぐるりと取り囲むように輝くと、矢継ぎ早に火を噴いて閃光を放つ。

 全てが全て致死の威力。先のように防ごうと、一本の剣では防ぎきれまい──‼︎

 

「全刀、解放」

 

 倫太郎は、ただそれだけを呟いた。

 刹那、彼の肩にひっかかっていたゴルフバックが弾け飛ぶ。

 一瞬だった。

 爆音は一瞬にして止み、しん、とした静寂が訪れる。全ての攻撃は、ほんの刹那に斬り払われて消え失せていた。

 

「────…………繭村の、刀か」

 

 目視困難なほどの速度でゴルフバックから飛び出し、倫太郎と楓を守ったのは──刀だ。

 それも一本ではない。複数……十を超える日本刀が、倫太郎の周囲を円陣を組むように取り囲んでいる。彼が右手を振ると、それらは群体のようにざあっ、と形を変えてクロウリーに切っ先を向けた。

 

「どちらも両方正しくて、同時に相容れないのなら……どっちが本当に正しいかなんて、きっと言葉だけじゃ結論は出ない」

 

「……フ、面白い。つまり貴様は」

 

「ああ。だから、僕はお前に勝つ。お前とお前の正義を倒し、僕の正義を押し通す‼︎」

 

 ゴアッ、と、魔力の暴風が渦を巻く。宙に滞空する全ての刀……歴代の繭村当主たちがその生涯をかけて鍛え上げた十八の刃が、後継者たる倫太郎の魔力に共鳴しているのだ。

 未だかつて誰も見たことがない、繭村倫太郎(てんさい)の全力全霊がそこにあった。

 その様は神々しさすら感じるほどに堂々としており、最早魔術に怯えるようなかつての面影はない。倫太郎は知ったのだ。何を信じ、何のためにその力を振るうのかを知ったのだ。

 迷いは切り捨てて、キッ、と敵対者に宣言する。

 

「……いくぞ贋作者(フェイカー)。お前の全てを、僕の全てで凌駕する‼︎」

 

 対するは生ける伝説。

 十八の剣は、倫太郎の覚悟を示すように一斉に唸りを上げ、

 

「吠えたな青二才。ならば見せてみろ、その覚悟を‼︎」

 

 真正面。逃げも隠れもせず、クロウリーはその挑戦を受け止めた。

 同時、魔眼を煌めかせる女の背後で数十の陣が展開し、

 

 ──信念と信念のぶつかり合いが、今ここに始まった。



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八十八話 わたしの憧れ/Other side

約束された勝利の剣(エクスカリバー・モルガン)──‼︎‼︎』

 

「青龍、頼む‼︎」

 

 この世界を喰らい尽くすかのように獰猛な魔力が、闇と化して吠え猛る。

 それを押しとどめんとするは、キャスターの背後でとぐろを巻く竜の一撃。全てを芯まで破壊する獄氷の吐息が、正面から闇の奔流を受け止めた。

 地面を揺るがしながら、互いの一撃は中間点で拮抗する。

 否、拮抗ではない。じりじりと押されつつあるのは青龍だ。一体どんな冗談なのか、神霊に近い竜種の一撃をもってしてもあの聖剣は止められない。青龍の口蓋に亀裂が走り、氷の息吹は勢いを緩めていく。

 

「──────天、空‼︎‼︎」

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■‼︎」

 

 その声に応え、空間を割って二匹目の「天将」が顕れる。

 吹き荒れる砂塵。最初に腕を覗かせたそれは、天を衝くような巨人だった。瞬く間に地面に降り立つと、刃渡りだけで10メートルすら越える大剣を勢いよく振り上げる。

 

『……‼︎』

 

 それを見、セイバーは咄嗟に聖剣の解放を止めた。

 同時に振り下ろされてくる刃。大きさの比率からすればもはや壁に近しいが、セイバーは難なくその一撃を受け止め、力技に弾き返す。

 ブースターのごとく放出された魔力は踏みしめる地面を灼き、直径数メートルのクレーターを刻み込んだ。

 さらに跳躍。息つく暇を与えず、巨兵の膝、胸と瞬きの間に駆け上がって、宙返りしながらぎろりと巨兵の頭部に狙いを定める。

 

「■■■■■■■ッ……!」

 

『フン』

 

 巨兵の迎撃。横に振るわれる体験の一撃は、小さな山ならそのまま刈り取りかねない威力を誇る。

 しかし、セイバーはその上をいっていた。

 ぐるん、と体を回して刃を押し当て、ほとんど力を込めずにその一撃を受け流す。先程の力技からは信じられない繊細さと優美さが共存する剣技だ。そのまま彼女は剣を振りかざし、勢いよく巨兵の頭部に突き立てる。

 

『消え────』

 

 キュオン、という不気味な振動音が空気を揺らし、

 

『────失せろ‼︎‼︎』

 

 瞬間、突き立てられた刃はそのままに、セイバーは聖剣の一撃を解き放った。

 頭部を強引に削り取る闇の奔流。瞬く間に頭蓋は消滅し、残骸が地響きを立てて倒れゆく。そこに、

 

「■■■■■■■■■■■‼︎」

 

 目にも留まらぬ速度で取り囲んだ黄金の蛇が、セイバーを捉えた。それは着地の隙に彼女をその身体で絡みとり、圧搾すべく締め付けていく。

 

『────……‼︎』

 

 ギリギリギリギリ、という音を立てて、漆黒の鎧にヒビが入る。普通の英霊なら潰されていてもおかしくない圧力だ。されど、このセイバーはありとあらゆる点で通常のサーヴァントと一線を画す。この程度では致命傷たり得ない。

 故に、黄金の大蛇は更なる攻勢に打って出た。

 口蓋を開き、その奥から灼熱の火焔を浴びせかける。塵すら燃え尽きんばかりの超超高熱は余波だけで地面を黒焦げにしたが、セイバーはその奔流の中ですら臆すことなく、

 

『ッ‼︎』

 

 ズドン、と、全身から魔力を放出してその拘束を振り払った。

 そのまま距離を詰めて一閃。大蛇の身体を真っ二つに断つだけでは飽き足らず、そのまま頭蓋に渾身の拳を叩き込む。ゴシャッ、という鈍い音ともに、大蛇は沈黙して潰れた頭を投げ出した。

 しかし、そこにさらに猛攻が迫る。

 背後に回り込んだのは、「人」……それに似た形をとる何かだった。発光する身体にところどころを覆う金色の結晶体、西洋の天使に近い異様な姿。それがすう、と手を垂直に振り下ろした瞬間、

 

『──────‼︎‼︎』

 

 ドゴァッッッッ‼︎‼︎ という凄まじい音を立てて、地面が割れた。

 手刀の一閃は、それを受け止めたセイバーを吹き飛ばすだけでなく、その衝撃を緩めずに仙天島を真っ二つにカチ割ったのだ。人工島とはいえ島を割る、というデタラメな力に、セイバーは遠く遠く吹き飛ばされ、龍神湖の湖面に激突する。

 だが、セイバーがそのまま沈むことはなかった。

 余波を受けて荒ぶる波を乗りこなし、湖の上に着地(・・)する。とはいえ気は抜けない。先ほどの異様な生物、否、神霊は──、

 

『っ⁉︎』

 

 セイバーが直感に従って飛び退いた瞬間、水中から、セイバーの喉を指し穿つ軌道で手が伸びた。

 間一髪でそれを躱し、返す刀で受け止める。

 その衝撃は暴風となって吹き荒れ、湖面が大きく揺れ動いた。

 

『お──おおおおおおおおおおおおお‼︎‼︎』

 

 怯まず、放出される魔力が吹き荒れる。

 ゼロ距離で睨み合うその神将ごとセイバーは空を駆け、急降下して湖面へと激突した。高い高い水しぶきが舞い上がり、二人の姿が水の中へと搔き消える。

 僅かな静寂──。

 それを唐突に破ったのは、地面を揺るがす轟音だった。

 大噴火のごとき黒が湖から噴き出したかと思うと、その中心からセイバーが飛び出してくる。

 

「…………チ、」

 

 そして、セイバーはキャスターの目の前に着地してみせた。

 血に濡れた聖剣を振り払い、セイバーは彼に切っ先を向ける。

 十二天将はまだ残っているが、その実、セイバーと少しでも渡り合えるような戦闘力を有しているものは意外と少ない。キャスターは数字以上にじわじわと追い詰められていた。

 無尽蔵の魔力によって放たれ続けるエクスカリバーの圧倒的な攻撃力に加え、多少の攻撃では傷すらつかない防御力。更にセイバー自身の高い技量──想定を遥かに上回る強さに、キャスターの頰に汗が浮かぶ。

 

式神跋祇(はっし)!」

 

『無駄だ』

 

 鋭く放たれた雷撃を、セイバーは防ごうとすらしなかった。

 けたたましい音を立てて消える稲妻。セイバーが纏う対魔力が、キャスターの攻撃を無効化したのだ。

 舌打ちするキャスターに、セイバーは容赦なく距離を詰めていく。

 

「────式神跋祇(はっし)‼︎」

 

『無駄だと……言っている‼︎』

 

 再び迫る稲妻を片手で振り払い、セイバーは上段に構えた聖剣を振り下ろした。

 神速をもって放たれる斬撃。

 キャスターの身体が咄嗟に翻り、宙を舞う紫衣が綺麗な断面を残して断ち切られる。それにも構わず地面を蹴り、キャスターが引きずり出したのは、

 

「護身・破敵──式神跋祇(はっし)、朱雀纏成ッ‼︎」

 

 超高熱を纏った二振りの長剣が、不可視の腕に振るわれるかのように立ち塞がる。

 刹那、聖剣と双剣は無数の激突を交わし合った。

 弾き受け止め逸らし避け、されどセイバーの猛攻に翳りはない。迫る炎をものともせず、鮮やかにキャスターの剣を後退させ続ける。

 

式神跋祇(はっし)──……‼︎」

 

『小賢しいっ──‼︎』

 

 振るわれる双剣の奥、放たれるキャスターの稲妻が幾度かセイバーを打ち貫く。

 されど無意味。セイバーの歩みは止まらず、開いた距離は再びじわじわと縮まっていく。

 

「ぐ、く……おおおおおおおおお‼︎‼︎」

 

 細い目を見開いて、キャスターが吼える。

 何度も降り注ぐ攻撃は対魔力に阻まれ、致命傷には届かない。

 それでも僅かに歩みを止められればと、キャスターはひたすらに同じ言葉を繰り返し、幾度も陰陽の雷を撃ち続ける。

 が、振り下ろされる双剣を一刀で弾き返したセイバーはぐん、と残りの距離を詰めきって、

 

『オォっ‼︎‼︎』

 

 ゴシャッ、という鈍い音が炸裂した。

 黒の籠手に覆われたセイバーの小さな拳が、キャスターの体に深々と突き刺さったのだ。

 爆発的な魔力推進を得たその衝撃たるや凄まじい。キャスターの霊核にすら亀裂を入れる一撃に、吐血して彼は吹き飛ばされる──が、

 

急急如律令(こい)、青龍──……‼︎」

 

 動きの止まるその時を待っていた、とばかりに、セイバーの上空に穿たれた亀裂から、再度のたうつ巨龍が姿を現した。

 反応が遅れる。

 セイバーが斬り払うよりも早く、それはセイバーの身体に喰らい付くと、一気に天空へと昇っていく。

 

「ぶちかませ──────‼︎」

 

 竜の吐息(ドラゴン・ブレス)

 幾らセイバーの聖剣が馬鹿げた威力を誇ろうと、それを撃たれる前に直撃させれば、いかに彼女といえど致命傷たり得る。

 そして、セイバーは見た。己の身体に食い込む牙は問題ですらない。その奥、口蓋からせり上がってくる蒼の輝きが、今か今かと放たれる時を待っている。

 

『────⁉︎』

 

 瞬間、天を裂いて蒼の輝きが放たれた。

 あらゆるものを芯まで凍らせ、破壊し尽くす龍の一撃。

 高く吹き上げられたその奔流は、宙から地へと、細かいダイヤモンドダストの粒子を降り注がせる。季節外れの冬が、今この世界を覆っているかのようだった。

 ごは、と血を口から噴き出して、キャスターは地面に膝をつく。

 隙を作り出すためとはいえ、敢えてあの剣士の一撃を貰うのは賭けが過ぎた。あの聖剣を受けていたならば、敗北は必至だったかもしれない。

 震える足腰に喝を入れ、キャスターは立ち上がる。

 

 ──しかし。

 

「なッ……⁉︎」

 

 キャスターは驚嘆して空を見上げた。

 

 降りしきる白銀の粒。そのさらに奥、超高度にまで上り詰めたその先で、一つの彗星が黒々とした闇をぶちまけている。

 

 信じられない。もう幾度となく、霊基が砕けんばかりのダメージを与えているはず──それなのに。

 彼が不死身かと錯覚するほど、騎士王の鉄壁は健在だった。

 

約束された(エクスカリバー)……』

 

 溜めるように紡がれる言葉。

 青龍は、再び口蓋に絶対零度を装填し──、

 

勝利の剣(モルガーン)──────‼︎‼︎』

 

 それが放たれると同時。全てを食い尽くす聖剣の黒が、青龍の吐息を真正面から迎え撃った。

 裏側の世界に衝撃が駆け抜ける。

 長い距離を挟んだキャスターの紫衣がたなびき、ばさばさと目障りな音を立てた。拮抗はしていない。先ほどと同じように、青龍の一撃は、それでもあの聖剣には届かない。

 

「ク、青龍…………‼︎」

 

 ついに黒の本流が、青龍の身体を呑み込んだ。

 瞬く間に蒸発する巨体。更に聖剣は勢いを緩めず、キャスターの立つ地表に向かって振るわれる。

 咄嗟にキャスターは紙片を放り投げ、鋭く叫ぶ。

 

式神跋祇(はっし)──紙片防破、三重──‼︎」

 

 そして、凄まじい──高さ数百メートルまで爆炎を撒き散らすほどの超爆発が、裏の世界を揺るがした。

 視線を下に向けるセイバーは見る。ゆっくりと晴れていく黒煙の奥、跡形もなく消滅した「裏側」の仙天島と、溶けた地面を剥き出しにした巨大なクレーターを。

 無言のまま、セイバーはその中心に着地した。

 そこにあったのは静寂だけ。生きる者の存在を全く感じさせない、どこまでも寂しい静けさだけだ。

 

『──────』

 

 ざざ、と世界が揺れ動く。

 裏側にあった存在が、表側へと戻りつつあるのだ。

 無言のままセイバーはその様を見送った。動く気にはなれない。ここに至るまで──「十二天将」の面々をこの剣一本で斬り伏せる戦いの中で、彼女はかなりの手傷を負っている。普通のサーヴァントなら三、四回は死んでいるほどの攻撃を全身に浴びてきた。それでも彼女が立っていられるのは、聖杯からの無限の魔力と、彼女自身のずば抜けた強さあってのことだ。

 世界、取り巻く風景はちぐはぐになり、やがて元通りに復元されていく。裏側から表へと現出したのを感じ取り、セイバーは軽く息を吐いた。

 

「──────ッ‼︎」

 

 その瞬間。

 セイバーの気が緩んだ最後の隙をついて、土塊を丸ごと消しとばし、キャスターが勢いよく背後から襲いかかる。

 振り下ろされる双剣。それは寸分違わず対の円弧を描き、セイバーの首を切り落とす軌道をもって──、

 

『遅いな』

 

 首が飛ぶ前に、セイバーは渾身の力で聖剣を振り抜いていた。

 ごッッッ‼︎ という、凄まじい暴風が巻き起こる。

 たった一太刀。それだけで双剣は根元から両断され、返す刀が、キャスターの霊核を深々と貫いた。

 

「────……、く」

 

 ぐり、と胸元を貫通して背中から刀身を露出させた聖剣が抉られる。それは致命傷だった。キャスターの口と胸から噴き出した血が、バイザーの奥の少女の顔を汚していく。

 

『…………』

 

 血しぶきをあげて聖剣が引き抜かれる。

 キャスターは無言のまま、それでも距離を取るように後退し、

 

「式神、跋祇」

 

 バチン‼︎‼︎ という甲高い音を立てて、放たれた雷撃は弾かれる。

 防御する必要はなかった。何度繰り返そうが答えは変わらない。セイバーの対魔力の壁は高く、キャスターの攻撃は届かない。

 

『──……私の、勝ちだ』

 

 ぼたぼたぼたぼた、とこぼれ落ちる血はキャスターの紫衣を瞬く間に紅く染め上げていった。

 ざり、と前に踏み出した足が地面を擦る。

 ゆっくりとした歩み。最早立っているのすら困難なのか、キャスターの上体は揺れ、歩みは真っ直ぐに定まらない。

 ──ふらふらと、おかしな歩調で近づいてくる。

 

「……ああ、くそ……確かに、僕は──」

 

 顔を伏したまま、こちらに歩み寄ろうとするキャスター。

 その瞬間、彼女の中には何もなかった。

 ただ、敵を討ち倒すという入力されたシンプルな思考のみが取り憑き、消滅したはずの身体を十年越しに動かしていて。

 そして──空のはずの思考に、不可視の稲妻(ちょっかん)が走り抜けた。

 第六感からもたらされる危機信号。セイバーの昏い瞳がその反応に見開かれ、

 

『……‼︎⁉︎』

 

 しかし、もう既に術は起動していた。

 キャスターを中心として、地面を蜘蛛の巣状に駆け抜ける閃光。

 それはセイバーの下半身に絡み付いて動きを止めた。今まで機能していた対魔力が作用していないわけではない。それすらねじ伏せるキャスターの力をもって、セイバーは動きを止められている。

 

「……「兎歩」。陰陽術は、歩くだけでも奇跡を紡ぐ……侮ったな」

 

 陰陽術師に伝わる独自の歩法だ。決まった場所に足を置き、その軌跡に意味を持たせることで術を行使する。それによって、キャスターはセイバーに強い拘束を押し付けていた。

 動きの止まったセイバーにそっと手をかざし、彼は言う。

 

「二十二」

 

『貴様……何を』

 

「それが……君が浴びた、術式の数や」

 

 セイバーの脳裏に、彼がずっと放ち続けていた雷撃が浮かび上がる。

 あの攻撃はセイバーには届かなかった筈。だが、しかしそもそも、最初から攻撃する事を目的としていなかったとするならば──……、

 

「式神跋祇・重ね石火……キミに刻んだそれら全てを一転収束して起爆する」

 

 瀕死なのはキャスターだけではない。あとひと押し、高い対魔力の壁を乗り越える渾身の一撃さえ与えることができれば、セイバーは倒れる。

 だが、キャスターは動かない。

 セイバーはその姿を見て察する。何故、キャスターは動かないのか……否、動けないのかを。

 

『……成る程。私をこうして拘束するのが、貴様が出せる全力だ』

 

 数多の攻撃を耐えてきたバイザーが剥がれ落ち、セイバーの素顔が露わになる。その眼光は、窮地にあってもなお、どこまでも冷徹にキャスターを射抜いていた。

 

『貴様は私を止めるのに全てを割いている。「最後のひと押し」に賭ける余力は、もう存在しない』

 

 しん、と凍てついたように静まり返る空気。

 遠くから響いてくる爆音が、微かに両者の鼓膜を打つ。

 

「……チ、その通りや」

 

 キャスターが血に濡れた顔を歪める。

 勝利への道筋は作り上げた、けれど。それを実行に移すだけの余力が、もうキャスターには残されていない。

 そして霊核は破壊されており、このまま彼は時を待たず消滅する。互いに動けない以上、先に消滅するのはキャスターであり、

 

「確かに負けやった──僕に、あの子(マスター)がいなかったならな」

 

 その瞬間。

 どくん、という脈動とともに、キャスターの全身から凄まじい魔力が立ち昇った。

 

『な、に……⁉︎』

 

 セイバーが目を見開く。キャスターの使用できる魔力の目星はつけていた。しかしそれを振り切って、彼の全身に漲るものがある。

 その理由を知っているのは、彼と──他の誰でもない、彼のマスターたる少女だけだった。

 

 

 

 

「…………う……」

 

 朦朧とした意識を引っ張り上げて、楓は目を開けていた。

 意識がはっきりとした瞬間、目の前の光景が、否が応でも自分のおかれた状況を伝えてくる。

 熾烈に放たれ続ける絨毯爆撃じみた魔術の嵐。彼女に見えるのはその余波たる爆炎くらいのものだ。その中心に、恐らく倫太郎がいる。

 

「倫太郎……」

 

 力の入らない脚に力を入れようとして、失敗した。

 灼けた四肢はもう限界だった。頭から地面に崩れ落ちて、悪態を吐く。

 

「……あれ、これは……」

 

 そこで楓は気づいた。自分の眼前──15センチくらいの紙人形が、こちらを無貌の瞳で見つめていることを。

 それを見た瞬間に理解する。

 決戦の前、キャスターが言い残したこと……それを、すべき時が来たのだと。

 

「………………、ああ」

 

 ギリ、と奥歯を噛み締めて、土に汚れた手を握りしめる。

 

「そう……やっぱり、そうなのね」

 

 キャスターと別れる前、僅か数十分前の事を思い出す。

 「この全霊をもって、我が主(きみ)に勝利を捧げよう」と、彼は言った。楓がまだ見たことのない、何かを想うような顔で。

 そして、これは合図だ。

 頭にくるくらい、最初からこうなると知ってたんじゃないかと思うほどに打ち合わせ通り(・・・・・・・)。キャスターが手間取った場合に備えて、楓はするべき事を聞いている。念話での口頭合図すらも無い以上、恐らく、それほどに彼は追い詰められている。

 

「──…………」

 

 息を吐き、胸元に手をやった。

 そこには、この戦いに挑む資格たる証……令呪が刻まれている。

 

「令呪……」

 

 彼の姿が、今ここにはないからだろうか。

 その言葉を述べることが、キャスターとの最期の別れになるであろうことは、知っていても実感が湧かなかった。

 ──託すべき言葉は一つだ。

 キャスターが追い詰められた時。楓が「セイバーを倒せ」と令呪に命ずることで、最後の切り札として莫大な魔力を供給する。

 

 それが、事前の打ち合わせで定められた作戦だった。令呪を源とする魔力であれば、フィムから楓を関してキャスターに供給される魔力とは違い、楓の回路を傷つけることもない。

 だが。それを言いかけて、楓は口を閉じた。

 

(回路の調子は……さっきからずっと良好)

 

 この戦いに際し──生来の魔力不足を補うため、楓はホムンクルスのフィムとパスをつないで魔力を受け取っている状況にある。

 事実上、楓に加えてフィムの膨大な魔力まで使用できる今のキャスターは、まさしく最強の陰陽師の名に相応しい力を誇るだろう。

 だがその代償として、両名の間に挟まれる魔力供給弁の役割を果たす楓の回路は、間違いなく(・・・・・)損傷する。

 最悪の場合、回路は完全に断線し──二度と魔術は使えなくなるだろう。

 

(そう言われてるのに、あまり回路に負担がかかってる感覚はない)

 

 身体は少し動くのも困難なほどだが、存外、魔術回路が損傷したりするような気配はなかった。

 ただし、忠告を残した凛の言葉が間違っていたとも思えない。

 とすると、考えられるのは一つだけだ。

 

(……あいつ……まだ、私に気を遣ってるの……?)

 

 全力を出し、フィムの魔力を容赦なく消費すれば、間に挟まる楓の魔術回路が破損することをキャスターは知っているのだろう。

 だから彼は全力を出し尽くせない。

 主を守る。その、どんな戦いを経ても揺るがない信念を完璧に守り抜くために、キャスターは自らに枷をして戦っている。

 

「…………っ、」

 

 それを知った途端。堰を切ったように、目の奥から涙が溢れそうになった。

 決して真面目な英霊ではなかったし、気分屋で、よく振り回されたけれど──最初から最後まで、キャスターはその全霊で楓を守ろうとしている。

 それはきっと、こんな自分を認めてくれたからだ。

 キャスターには不便ばかり押し付けてしまった。無茶もした。それでも、揺らぐことなく一直線に、キャスターは付いてきてくれた。その過去と事実が、実感となってのしかかる。

 

「ありがとう……本当に、ありがとう。キャスター……あなたと戦うことができて、うれしかった」

 

 聞こえているはずがなくとも、楓はそう呟いた。

 

「けどね、もういいの。言ったでしょう、私の全てを使っていいって」

 

 心の中にあるのは、決して変わることのない自らのサーヴァント……安倍晴明に対する尊敬と、信頼と、感謝だけだ。

 恐れなんてあるはずもない。

 迷惑ばかりかけてきたから、せめて。最後くらいは、自分の全てを賭けないと割に合わない。

 

「この令呪ごと、全部託す」

 

 胸の令呪をなぞり、楓は目を閉じて、

 

「もう、遠慮なんてしないでいい。だから存分に、その力を使いなさい」

 

 言葉が命令となって受諾される。

 走り抜ける真紅の閃光。それはまるで「強化」の光のように彼女を包み込み、弾けるように霧散した。

 

 

 

 

「は……全く、無茶なことを……」

 

 ざり、と焦げた地面を踏み込んで、キャスターが歩む。

 一歩一歩、その腹わたからとめどなく血を零しながら、まだ消えるわけにはいかないと歩いていく。

 

「命は確かに受け取った。──約定を果たそう、志原楓(わがあるじ)

 

 素を見せたキャスターが、眼光鋭く手を掲げる。

 その先には動きを止めたセイバーがいる。もはや残された時間は十秒とないが、この一撃で相打ちにはもつれこめよう。

 魔力は十全、不可視のそれは唸りを上げてキャスターに従い、

 

式神跋祇(はっし)────‼︎‼︎」

 

『う、ッ────……‼︎』

 

 その言葉と同時、刻み込んだ二十二の印が一斉に炸裂した。

 両者の視界を閃光が塗りつぶす。

 凄まじい速度で吹き飛ばされ、曇天の夜空へと消えていくセイバー。一点収束によって対魔力の壁を穿ち、彼女の霊核を破壊した感覚は確かにあった。

 視線を落とすと、粒子となって消え失せていく指先がある。

 口からも吐血しつつ、しかしキャスターは安堵した。己が役目は、しかと果たしてみせたのだから。

 

「………………、ふ」

 

 ……思えば、なかなか無いことのように思う。

 生まれた時から物事に何も感じぬ化生が、こうして忠を貫けたのは。

 それも、邂逅の夜に、彼女の本質を捉えられたからだ。

 

 『けど、これで分かった。君は魔術師としては三流、と言っとったが……人がなかなか得られんモンを秘めとると見える』

 

 『なにそれ。そんなもの、私には無いわ』

 

 『いや、ある。人を、家族を愛し、その為に弱くとも戦える勇気……例え君が弱くともその気持ちは本物や。それは僕がついぞ持ち合わせなかった、尊いもんやと僕は思う──』

 

 誰かのために心から行動することは、彼にはできない。そもそも「心」と人間が呼ぶものを安倍晴明は有していないのだから。

 故にこそ、心から誰かを想うことのできる楓を、自分が持たぬ輝きを秘めた彼女を──尊敬した。そして、ただ一人の主と認めたのだ。

 

「……ああ、くそ……」

 

 夜空を見上げて嘯いた。

 

「私にヒトの心があれば……君に出逢えたこの事実を、「喜ぶ」ことができただろうに」

 

 最後まで、自分が人でなしであるとは告げられなかった。

 学んだ人間としての倫理観に照らし合わせると、それは悪しき行為だ。しかし、それに対して罪悪感すら覚えることのできない自分を思うと、何か言葉にして謝罪したくなる。

 といっても、もう時間はなく。

 

「君は何を思うのか……「悲しみ」か、別れも告げられぬ私に対する「怒り」か。どちらにせよ、すまない事をしたなあ──」

 

 消滅していく感覚を受け入れながら、キャスターはそっと目を閉じた。

 

 

 

 

『────……約束された(エクスカリバー)

 

 

 

 が。

 聞こえるはずのないその声を聞き取った瞬間、キャスターは思わず顔を上げていた。

 

 ゴァッッッッッ‼︎‼︎ という、地響きじみた暴風が吹き荒れる。

 破壊跡から覗く草木は揺れ、キャスターの黒髪がぱっと広がった。

 

「………………‼︎‼︎‼︎」

 

 極黒の聖剣が、天の黒すら塗りつぶして掲げられる。

 認識が甘かった。

 キャスターが、霊核を破壊されてもなお死力を振り絞ったのと同じ。この英霊もまた、比類なき力を誇る騎士の王。例え霊格を潰されようと、まだ出し尽くすモノがある──‼︎

 思わず背後に視線を向けた。

 ここは「世界の裏側」ではない。あの聖剣はこの島程度ならば軽々と消しとばす威力があるのだ。そうなれば、ここを決戦地とする魔術師たち……志原楓も、跡形もなく死に絶える。

 

「──……まだ。もって、くれ……‼︎」

 

 単純な令呪の消費だけでなく──遠慮せずに魔力を使え、と楓が命令したのが功を奏した。

 消えかけの両足で地面を蹴り、一気に上昇していく。

 大気を身体で裂きながら、目線は外さない。こちらに落下してくる窮極の一撃を捉え、両手を勢いよく広げてみせる。

 

勝利の剣(モルガーン)──────‼︎‼︎』

 

 高空より闇が落ちる。正真正銘、これが最後の一撃だった。

 折れ砕けていく黒の聖剣が、その事実を物語る。

 

「式神……跋、祇……‼︎」

 

 対し、キャスターは小さな紙片を膨張させて盾とする。否、それだけには留まらない。「紙片防破」程度では受け止めきれないという事実は、既に裏の世界で実証されている。

 宙に描かれる五色の陣が、盾を基準として展開された。

 それはキャスターが放つ最大火力たる一撃。

 限界ならとっくりに振り切った。それでもまだ、気合と意地だけで持ちこたえてみせる。それが、心からの忠義など出来ない欠陥品の自分にできる、最大限の「形だけ」だ。

 血反吐を吐きながら、キャスターは天轟くように叫ぶ。

 

五芒五行雅歌蓮撃砲(ごぼうごぎょうがかれんげきほう)──‼︎」

 

 直後──描かれた五芒星から照射された虹の極光が、黒の濁流に真正面から激突した。

 

 

 

 

 島の上空で繰り広げられる虹と黒の激突を、楓は朧げな視界で見守っていた。

 回路は既に全開だ。それでも足りない。楓が一度に送れる魔力を100としたら、常にフィムから1000を超える魔力が送りつけられる。そして、楓はそれを全てキャスターの方に流しているのだ。無理の代償としてとっくに回路には亀裂が走り、いつ断線してもおかしくない。

 

「キャス……ター……‼︎」

 

 身体が壊れていく喪失感と激痛に耐えながら、楓は捉えた。

 虹の光、その中にいる、小さな人影。

 

「おねがい、わたしの……サーヴァント(あこがれ)……‼︎」

 

 消えていく。

 人影(キャスター)の輪郭が、この戦いを共にした戦友の姿が、次第に端から崩れていく。

 それでも未だ虹の極光は絶えず、聖剣の一撃を押しとどめていた。

 涙が溢れる。儚く、しかし力強いその背中が、もう一度楓に力をくれた。痛みを無視して、灼けた手足でもう一度地面を踏みしめる。

 立った。今なお抗っているキャスターに声を届けるために。

 

 頑張れ、負けないで──。

 あなたはずっと、私の──‼︎

 

「キャスタ────────────────っっ‼︎」

 

 その声が響いた瞬間、僅かに。天を貫く虹の奔流が、その勢いを取り戻した。

 聖剣の一撃に食らいつき、闇の濁流を押し返す。

 その最中。

 

 ────ありがとう────……。

 

 そんな幻聴が、かすかに楓の耳朶を打った。

 消えていく影は、確かに、こちらを見て笑った気がして──、

 

「っ‼︎」

 

 瞬間。凄まじい大爆発が、仙天島の上空で巻き起こった。

 虹の残滓を零しながら、爆煙はもうもうと立ち込める。

 

 ……仙天島は無傷を保っていた。

 

 僅かに逸らされた聖剣の一撃は、湖岸に着弾して巨大な破壊跡を残すに留まった。

 それを見て、楓は理解する。

 キャスターは最後まで、従者(サーヴァント)としての使命を果たしたのだ。

 さっきまでの、回路が軋む激痛がない。それが、この世界にもう彼が存在しないという事実をありありと示していて、楓は歯を食いしばった。

 

「………………こっちこそ、言い足りないのに」

 

 けれど、まだ泣く時じゃない。

 籠手で涙を拭いて振り返る。

 楓からやや距離を置いて、絶え間ない閃光と爆風が連続していた。二人の魔術使いたち──倫太郎とクロウリーの戦いは、今なお繰り広げられているのだ。

 

「私は、私がやるべき事をする」

 

 キャスターがくれた籠手をそっと撫でて、楓は眼前を睨みつけた。

 喪ったものに涙を流すのは、すべてを終わらせてからでいい。

 

 崩れ落ちそうな足腰に気合を入れて、楓は勢いよく駆け出した。




【キャスター】
真名:安倍晴明
魑魅魍魎渦巻く平安時代、京の都を守護した伝説の陰陽師。志原楓が魔術師として憧れる存在であり、彼女のサーヴァントとして召喚される。
陽気な振る舞いを好むように見えるが、それはあくまで人間の真似をしているに過ぎない。化生として生まれた彼は、生まれつき人間のような「心」を持たず、目の前の事象に対して感情を抱くことはほとんどない。それでも、それが尊いものであるという事は理解しており、清らかなものには素直に誠意と尊敬を評する。最後には楓と主従関係を結び、
色々なところで大きく異なるあべこべな主従だったが、結果的に、もっとも互いを尊敬し合っていたのがこの二人だった。


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八十九話 決着・とある魔術使いへの挽歌/Other side

 巻き起こった爆発に、倫太郎は地面を削りながら後退した。

 勢いよく右手を払うと、全身を駆け巡る回路に意識を向ける。

 出力は最初から全力だ。緩める余裕などない、倫太郎が有するすべての回路を以て、目の前の敵を打ち倒す。

 

「──────おおおおッ‼︎」

 

 ドン、と地面を踏み砕き、倫太郎は再び駆け出した。

 脚部の「強化」は済ませている。楓に匹敵する速度で疾駆する彼の周囲を、刀の群れが取り囲む。

 対し、クロウリーの動作はごくシンプルだった。

 目を見開き、放つ。

 背後で展開された陣から放たれる無数の閃光は、どれも凄まじい威力を秘めた致死の雨だ。対し、倫太郎は無言で掌を掲げ、

 

「ッ‼︎」

 

 真正面。動きを変えた刀の群れが、重なり合って閃光を受け止める。

 擬似神経と接続した繭村の霊刀は、いまや倫太郎にとって手足に等しい。この程度の動きは朝飯前だ。が、倫太郎の動きが止まったその瞬間を狙い澄ますように、足元の地面に亀裂が走る。

 

「──────、‼︎」

 

 倫太郎は咄嗟に地面を蹴った。直後、地面を割って噴出した無数の焔が、倫太郎の立っていた空間を喰らい尽くす。

 宙返りしながら剣を手繰り、その魔術を斬り払った。

 概念切断。これでクロウリーは今の魔術をもう使えない。しかし、倫太郎の着地を狙って、怒涛の攻撃が迫り来る。

 今度は土塊だ。地面がそのまま津波となって迫るようなデタラメに、倫太郎は歯軋りして剣を向かわせる。土壁にいくつもの剣が突き立ち、その魔術を無効化した。

 ──まだだ。

 そんな悪寒を感じた直後。その壁を自らブチ抜いて、レーザーじみた弾幕が飛んでくる。

 刹那、ほとんど何かを考える間も無く倫太郎は傍に滞空する剣をひっ掴み、一切の無駄なしに斬り払ってみせた。考えるより先に身体が動いたのは、嫌悪を押し殺して必死に続けてきた鍛錬の成果か。

 

「ふうッ……」

 

 再び剣から手を離し、鋭く息を吐く。

 倫太郎にできることは一つだ。ただただ前進して、クロウリーとの距離を詰め、この刃を届かせる。

 ……一撃でいい。

 一撃でもいいからこの刃をぶつければ、それで倫太郎は戦いを終わらせることができる確信がある。この刀が秘めた概念切断の力は、クロウリーにとって最悪の敵だ。

 それでも、長い。

 二人の間に開いた距離は僅か30メートルほどか。しかし、汗で襦袢が張り付くほどに激闘を繰り広げても、この距離は僅かしか縮まっていない。

 そして、十八本あった倫太郎の刀は、今や十五にまでその数を減らしていた。倫太郎による酷使と怒涛の攻撃に耐えきれず、神秘がもっとも薄い先代の刀から順に、限界を迎えて折れ砕けたのだ。

 

「………………」

 

 だが、クロウリーの方も徐々に追い込まれていた。

 既に100を超える多種多様な魔術で倫太郎を屠りにかかったが、大小様々な傷を刻めども、未だ勝負を決めるには至っていない。

 徐々に心底で湧き上がる焦燥感。

 あとどれくらいの魔術が動かせる?どうすればあの概念切断を超えられる?リスクを無視してでも、この四肢で奴を潰す方が確実なのではないか?奴が限界を迎えるのはいつだ?それよりも先に、己の魔眼が限界を迎えるのではないか──、

 

「フン……」

 

 それくらいの迷いは、鼻息ひとつで搔き消した。

 迷い、戸惑い、そんなものが何になるのか。

 この戦いは至って単純だ。しがらみも因縁も憎悪も悲しみもない。

 ただ、互いの全力を出し尽くし、持てるもの、信じるもの全てを賭けてぶつかって、最後に立っていたものが「正しい」。これほどすっきりとした戦いを、果たして経験したことがあっただろうか。

 

「おォ、ああああああああッ────‼︎」

 

「懲りず飽きずに一直線か。良かろう‼︎」

 

 両者の魔術回路が吼えたてる。

 倫太郎の意思に応じ、十五の剣は一斉に広がると、多角度からクロウリーに襲いかかった。

 それを、彼女は引っ張り出した「魔術」で迎撃してみせる。

 広範囲、彼女の周囲を包み込むように巻き起こる爆風。それに煽られ、さらに一本の剣に亀裂が走る。

 

「ぐううっ……‼︎」

 

「四本目、残るは十四か‼︎‼︎」

 

 剣が折れようと構わない。それを犠牲に、今までにないくらいの至近距離まで駆け抜けて、十四になった剣を殺到させる。

 それを受け止めたのは空間固定の魔術か。

 すぐに倫太郎の概念切断が作用し、無力化するものの──全ての刀が止まった僅かな刹那、倫太郎の身を守るものは消え失せる。続いて魔眼が輝きを放ち、倫太郎の胸、その中心に狙いを定めた。

 

「──────がふっ⁉︎」

 

 ごば、と、倫太郎の口から鮮血が溢れる。喀血は呼吸困難を引き起こし、倫太郎は必死にそれら全てを吐き出そうとした。

 これも、複製魔術──それも直接的な攻撃ではない。

 恐らくは呪詛の類だ。だが、ここで退けばさっきの二の舞を喰う。硬直し始める四肢を、せりあがる吐き気を無視して、倫太郎は更に一歩前に踏み出した。

 

「なにッ……‼︎⁉︎」

 

 その捨て身の行動はやや想定外だったのか。クロウリーは目を見開き、勢いよく地を蹴って後退してみせる。

 僅かに遅れて、倫太郎の剣が次々に地面を穿った。

 惜しい。あと僅かにクロウリーが遅れれば、それで決着はついていたというのに──、

 

「ごはっ、が、ア゛……あああああ‼︎‼︎」

 

 自らの回路に魔力を込め、「強化」の応用で自らの身体に概念切断を誘発させる。魔力の火花が全身から飛び散り、倫太郎の体を仄かに照らし出した。

 そうして身体を破壊し始めていた呪詛を断ち、倫太郎は口元の血を苦しげに拭う。

 

「……まだまだ、こんなもの……‼︎」

 

 爛々とした瞳で、魔眼の視線を受け止める。そこに恐怖や怯えといったものは一切存在しない。かつての彼を知るものならば、それだけで驚嘆に値しただろう。

 ──と、その時だった。

 彼らの遥か上空で、凄まじい「何か」が炸裂したのは。

 

「「────⁉︎」」

 

 本能的な危機感から、倫太郎とクロウリーは同時に天を見上げる。そこに見えたのは、黒々とした彼方まで広がる雲海……そして、その中心で瞬く黒の彗星。

 両者ともに見覚えがあった。

 あれはこの世界における最高の聖剣、惑星が鍛え上げた神造兵装。

 

「奴め、この島ごと……⁉︎」

 

 セイバーは彼女が有する中でも最大最強に位置する戦力だ。故にこそ自由に暴れさせていたが、まさか島ごと消し飛ばす勢いで宝具を使用するとは──、

 否。違う、それほどにセイバーは追い詰められているのだ。あの最強無敵の剣士を追い詰めることのできる手練れがまだ一騎、敵の陣営には存在している。

 

「く────」

 

 咄嗟にクロウリーは退避するべく動いた。

 当然である。正規のものではないとはいえ、自らのサーヴァントに殺されるなど笑えない。

 だが、その逡巡と、逃げを考えた思考が仇となった。

 

「──────ッ⁉︎」

 

 喉が干上がるような感覚を感じ、視線を前に向ける。

 そこに、いた。

 頭上から、仙天島ごと全てを消し飛ばす確実な「死」が迫っていようと、倫太郎は知っている。キャスターを信じている。だからこそ、最初からアレイスター・クロウリー以外の全ては見えていなかった。

 掴んだ剣が低く構えられる。放たれるのは居合術にも似た神速の一撃。クロウリーは咄嗟に魔眼を起動し、全身に強化の魔術を張り巡らせる。

 選択した魔術は「固有時制御(タイムアルター)」。

 かつて、下見として観察していた第四次の聖杯戦争において、とある男が使用していたモノだ。

 

「おお──ぉぁあああああッ‼︎」

 

 倫太郎の一撃は、埒外の速度で上体を逸らしたクロウリーによって回避された。

 しかしまだ終わらない。

 倫太郎の背後から、巨大なアギトのごとく襲い掛かる残り十三の刃が、一斉に殺到して貫きにかかる。

 

「ッッ‼︎‼︎」

 

 固有時制御(Time alter)三倍速(triple accel)──彼女が魔術の複製を操る贋作屋(フェイカー)でなければ、そう叫んだことだろう。

 心臓の鼓動、筋組織の脈動、神経組織の伝達速度。

 体内の「時間」が三倍速にまで加速され、クロウリーは糸を針に通すほどの神業をもって、迫り来る刃の雨を回避。そのまま一息のうちに距離を詰めると、

 

「ご、────⁉︎」

 

 凄まじい衝撃音とともに、倫太郎の胸、そのど真ん中に掌底を打ち込んだ。

 めきめき、という鈍い音と、骨を砕く手応えが伝わってくる。

 肺に凄まじい衝撃を受けた倫太郎は、叫び声も上げられずに吹き飛んで地面を転がった。段差で跳ね、背中から落ちて動きを止める。

 

「ごッ、……はあ、はあ、はあ……」

 

 クロウリーの息は荒かった。体内時間を加速させる「固有時制御」は、術が完全に作用したのち、世界からの干渉力によって術者そのものにダメージが及ぶ。

 いつもなら、他に様々な魔術を組み合わせることでそのダメージすらも無効化するのだが──繭村倫太郎という強敵を前にした今、そんな余裕は無かった。

 ゆえに彼女は傷を負う。つう、と口の端からこぼれる血はそのまま地面に吸い込まれていった。魔眼の機能で即座に体内の傷を塞ぎつつ、クロウリーは口内に溜まった血を吐き捨てる。

 

「………………」

 

 目の前で。ゆらりと、薙ぎ倒された倫太郎が起き上がる。

 その周囲にはすでに彼の剣が滞空しており、立ち上がると同時、十四の全てが群体じみた規則正しさで剣先を向けた。

 

「ぜえ、ぜえっ……………」

 

 それは倫太郎の覚悟、戦う意思の表れだ。

 あの剣が最後の一本まで残っている限り、決して彼の闘志をへし折ることは能わない。どれだけ傷を負ったとしても、どれだけ地面に倒れ伏しても、繭村倫太郎は何度でも立ち上がって挑んでくる。

 

 ──アレイスター・クロウリーは理解した。

 

 やはり、この男は強い。単純な強さだけに留まらない、精神の強靭さがその強さを補強している。

 

「──……繭村倫太郎」

 

 なんだ、と絞り出すように返そうとして、倫太郎は思わず口をつぐんだ。

 ばさり、と黄金の髪が宙にたなびく。

 その呼びかけをきっかけに何かが変わった。それまでが緩かったとか、そういう話ではないけれど……クロウリーの雰囲気、放たれるモノが確かに剣呑さを増した。

 

「認めるよ。貴様の剣、覚悟、不屈……その全てを」

 

 ギン────‼︎‼︎ と。

 クロウリーの魔眼が、かつてないほどの光量をもって輝いた。

 

「故に、(わたし)も全てを見せてやろう──‼︎」

 

 見たこともないほど膨大な量の魔法陣が、彼女の背後に展開されていく。

 紫のそれらを見た瞬間、倫太郎は息を呑んだ。

 

(……まさか)

 

 悪寒が背筋を駆け抜ける。

 頭に浮かんだ予想が正しくないことを祈るも、目の前の事実は残酷だった。

 

(まさかッ……⁉︎)

 

 滞空する魔法陣、その一つ一つがありえざる膨大な魔力を有している。

 一流の魔術師が干からびるまで魔力を注ごうとも、せいぜいあれらの魔法陣のうち、一つか二つを再現するのが精一杯だろう。

 しかし、目の前に展開された数はゆうに五十を超える。

 この意味を倫太郎は理解した。あんなデタラメを、たかたがこの百年程度で成し得た魔術師がいるとは思えない。クロウリーが記録できるとは考えられない。

 ならば、考えられる答えは一つしかなかった。

 

「あれはっ……神代の、術式……‼︎⁉︎」

 

 一体いつ、どこでそんな術式を魔眼に記憶させたのか。その疑問を考えている暇はない。

 こちらを見るクロウリーは、その言葉が正しい、とばかりに笑みを浮かべていた。その黄金に輝く両眼からは、つう、と鮮血が流れ落ちている。

 向こうも限界なのだ。

 神代の魔術は「複製の魔眼」の機能を大幅に超越している。どんな剣をも投影する魔術師にも限界があるのと同じ。あの魔術は、クロウリーの限界を超えている。

 それでも彼女がそれを使うのは、きっと。

 

「────神言(マキア)

 

 そうでもしなければ、倫太郎を倒し、自らの正しさを証明することなど不可能だと、そう考えたからなのだろうか。

 「生ける伝説」に、そうまで思わせた男──繭村倫太郎は全身の回路を爆発させる。

 アクセルを全開に踏み抜く感覚。稲妻が走り、倫太郎の剣、その全てが踊るように陣形を組む。

 

 ──こい、と倫太郎は小さな声で呟いた。

 

 空間が軋む音を立てながら、魔法陣に蓄えられた神代の閃光が、今。全てを灼かんと解き放たれる──‼︎

 

魔術式・灰の花嫁(ヘカティック・グライアー)‼︎‼︎」

 

 瞬間、倫太郎は全身全霊の力で、十四の剣を叩きつけた。

 

 ──衝突し、一瞬のうちに結果は訪れる。

 

 砕ける音が聞こえた。折れる音が聞こえた。

 倫太郎の剣は、ほとんど全てが一秒と保たずに塵と消えた。

 

「──ガ、っ──……」

 

 回路がショートしかけて火花を散らしているのが分かる。刀を操るコンソールである身体にかかる圧力は、彼の四肢を無理やり捩じ切らんばかりだ。

 残った剣は僅かに三本。これらが砕けた瞬間、倫太郎は死ぬ。

 

「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ────‼︎‼︎」

 

 これでも押し留めているのが奇跡だ。

 これが贋作でなく本物だったなら、倫太郎はとっくに死んでいる。

 「贋作」ゆえの相性の良さ、概念切断という彼の特性が働いているおかげで、倫太郎はデッドエンドすれすれの拮抗を保っている。

 だがそれも、いつまでもつか。

 三代目の刀に亀裂が走り、砕け、吹き飛ばされた破片が倫太郎の頰を裂いた。鋭い痛みとどろりとした血の感触は、頰だけでなく、体のあちこちから伝わってくる。

 一度は心臓が止まっていたのだ。身体はとっくに限界で、崩れ落ちてもおかしくない。それでも、あいつを倒すまでは、自分の信念を果たすまでは──、

 

(負け、られ、ない)

 

 びしり、と二本目の剣に亀裂が走る。

 絶えることなき光の奔流は、軽々とそれを破壊した。

 残り一本。倫太郎の生命線はそれだけしか残されていない。目の前、掲げる両手の先で果敢に光を受け止め続けるそれが消えた時が、倫太郎の死ぬ時だ。

 

(負けられ、ないんだよ……‼︎)

 

 あたり全てを破壊の光に包まれ、もはや突破する以外に逃げ場などない、あの世と現世の境界線じみた地獄。

 倫太郎はそこに立っていて、それなのに。

 ……背後に、誰かが立っている感覚があった。

 振り返っている余裕はない。それでも分かった。理解できた。今自分の背後には、きっと──、

 

「──おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおオオオオオオオオオオッ‼︎」

 

 それを知って、倫太郎は腹の底から吼えた。

 あの剣が折れたら、背後の彼女も消え失せる。

 なら折れるな。まだ、あと一撃でいい、奴に届くまでは決して屈するな。

 無情にも、最後の刀身にヒビが走り始める。

 それでも諦めはしない。「概念切断」、どんなものでも、形の見えない繋がりですら断ってしまう諸刃の力。

 己の未熟さから使い方を誤って、かつては彼女との全てを断ってしまったけれどけど──今は違う。

 彼女を傷つけるのではなく、彼女を、志原楓を守るためだけに使い切ってみせる──‼︎

 

「断、ち、切れェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ────ッッ‼︎」

 

 ────ぱっ、と。

 光に塗りつぶされた視界が、一瞬のうちにクリアに開けた。

 一瞬のことに困惑しかけるも、伝わってくる手応えが全てを理解させる。

 断てた。概念切断によって、あの術式を魔眼から切り離し、跡形もなく霧散させた。──賭けに勝った。

 敵影を捉える。道は目の前に開けている。

 ほとんど何も考えずに、倫太郎は地面を蹴っていた。

 

「くっ……‼︎⁉︎」

 

 クロウリーの顔に焦りが浮かぶ。

 最大最強の魔術まで越えられたとあっては、もはや手段を選んでいる余地はない。

 彼女は自らの背後、影の中に意識を向けた。

 そこに眠るは「この世全ての悪」。ランサーと交戦した際のように、この泥はけしかけるだけでで凶悪無比な兵器として機能する。同じ魔術使いとしての矜持から使いはしなかったが──ここで出し惜しみすれば死を招く。なりふりは構っていられない。

 そう考え、クロウリーが「この世全ての悪」を放とうとした刹那、

 

「っ⁉︎」

 

 まさにその瞬間、奇跡と言わんばかりのタイミングだった。

 天にそびえ立つ天月の塔が、まばゆい純白の閃光に包まれたのだ。

 何者によるものなのか、それが何の意味を持っていたのか。それを理解することは能わず、しかし、なぜか地面を通って地下からたぐり寄せていたはずの「この世全ての悪」が消えていく。機能しない。

 

「な──、う、ぐァ────っ⁉︎」

 

 最後の切り札まで封じられ、クロウリーは歯噛みした。

 すぐそばで煌々と放たれる純白の光すら無視して、倫太郎は駆け抜ける。

 時折地面を手で弾いて、ぜえぜえと肩で息をしながら、肉食獣じみた姿勢で突貫する。

 反撃は最早なかった。クロウリーは血が溢れる目を抑えて苦悶に悶えている。きっと、あれだけの魔術を使った反動が彼女を襲っているのだ。

 勝機は今しかない。することは一つ、魔眼をもう一度使われる前に斬り伏せるのみ……‼︎

 

「こい────剣鬼、抜刀‼︎」

 

 宙に残った一振り。繭村家一代目の、もっとも神秘性、魔術的強度において優れた霊刀を握りしめる。

 彼の声に剣は応じた。

 灼熱を纏い、折れかけの刀身が咆哮する。

 

「終、わ、り……だあああああああ──────ッ‼︎‼︎」

 

 クロウリーの華奢な指の隙間から、魔眼がこちらを捉えていた。

 簡単には終わらない。終わらせない。

 残り僅か三メートル、剣の間合いに踏み込む寸前に、「複製の魔眼」が輝きを放つ。

 

「舐めるなよ、小僧ォォォォォォッ──‼︎‼︎」

 

 彼女がたぐり寄せた魔術は、倫太郎の予想とは異なっていた。

 クロウリーの右手。掲げたそれに、瞬く間のうちに見覚えのある「日本刀」が現れる。

 

(あれは……僕の刀っ、投影魔術……⁉︎)

 

 馬鹿な、と倫太郎は思った。

 投影魔術はあくまで物体のガワだけを作る魔術に過ぎない。この土壇場で使うには、あまりに頼りない切り札だ。

 まさか、それでこちらの剣を受け止めるつもりなのか──と考えて、倫太郎は一層強く踏み込んだ。

 

「ッ──────‼︎」

 

 ガワのみを作り出したところで、その強度は倫太郎のものに遠く及ばず、またクロウリー自身が倫太郎を上回る剣技を持つとも思えない。

 間合いに踏み込んだ倫太郎が、研ぎ澄まされた一撃を解き放つ。

 円弧を描く剣閃。それは寸分たがわず、クロウリーの体へと吸い込まれていき──、

 

「「おおおおおおおおおおおッッ‼︎‼︎」」

 

 ──……遠く、肉を断つ鋭い音が響き渡った。

 

 決着を示すように、鮮血が飛び散って空を汚す。

 くるくる、くるくる、と回る何かがあった。

 それは腕だ。断ち切られた右腕が、不気味なほど無音を保って地面へと落ちる。それが墜落すると同時に、握られていた日本刀が呆気なく転がり落ちた。

 ぐらり、と揺らいで身体が倒れていく。

 

 ──……倒れたのは、倫太郎のほうだった。

 

 鮮血の向こう、刀を振り抜いたのは倫太郎ではなくクロウリーであり、剣士はゆっくりと崩れ落ちていく。

 

「「本物」と、慢心したのが貴様の敗因だ」

 

 彼女の目の前で、倫太郎が力なく膝をつく。

 

「『偽物が本物に敵わないという道理はない』……たしかに正しい言葉だったな」

 

 「投影魔術」そのものは、たしかに効率の悪い、戦いの役にも立たぬ魔術かもしれない。

 しかし、追い込まれた彼女が「複製」したのは、通常の投影魔術ではなかった。

 とある魔術師しか用いることのできない、剣ごと使い手の戦闘経験・技術すらも投影する──埒外の投影魔術。それを彼女は使ったのだ。

 それを……他人の固有結界を使うことの意味と代償を知りながら、それでも。自分の正しさを証明するために、倫太郎を越えるためだけに。

 

「さらばだ、倫太郎」

 

 投影した繭村の霊刀が、高々と掲げられる。

 倫太郎の伏せられた顔は見えない。遺言といったものもなく、クロウリーは粛々とそれを振り下ろそうとし、

 

 ──そこで、ふと目の前を見た。

 

 目の前に飛び込んでくる、漆黒の影を確かに見た。

 

式神跋祇(はっし)

 

 振り下ろされた霊刀が、素早い足蹴りを受けて真横に吹き飛ばされる。倫太郎を庇うように目の前に現れた人影は、ぎりぎりと力を貯めるように右拳を後ろに引いていて、

 

強化・四連(エンチャント・フォース)──‼︎‼︎」

 

「貴様──⁉︎」

 

 風を裂く荒々しい音をたてて放たれた鉄拳は、しかし。

 すんでのところで間に合った魔術障壁によって、クロウリーを貫く前に止められていた。

 轟くような炸裂音。サーヴァントに匹敵する膂力で放たれた拳と、多層防護障壁が真正面からぶつかり合う音だ。楓の靴が地面にめり込み、装着された白籠手が放電しながら障壁にめり込んでいく。

 

「はあああああああああああああああああああああっ‼︎」

 

 クロウリーは戦慄した。この女は倫太郎の背後、彼女にとっての死角から飛び出してきたが、どこから彼の背後についていたのか。

 確実なのは、あの「神言魔術式・灰の花嫁(マキア・ヘカティック・グライアー)」を放った時にはすでに、倫太郎の背後にいたということ。

 ありえない、と思う。

 神代の閃光によって倫太郎ともども消滅する可能性の方がはるかに高かっただろうに。この不意打ちを成功させるためだけに、繭村倫太郎を信じ抜き、最後まで共にあったと言うのか。

 

「小娘、が…………あまり、図に乗るなァァァッ‼︎」

 

 キャスターの置き土産の効果は絶大だった。とても三流の魔術師には出せない出力が障壁に加えられている。しかし、まだ破壊されるには至らない。魔眼と魔術回路に流れる魔力全てを注ぎ込む必要はあるが、この拳打は抑え込める。

 

「ふ……」

 

 だが、楓はほくそ笑んでクロウリーを睨み返した。

 右の白籠手が機能を終え、排熱しながら変形していく。だが、それにも構わず、楓はぐるりと体を回転させた。

 

全供給魔力(セット)──集中(コンセントレート)完了(オールクリア)

 

 右の一撃、「四連」では砕くに至らなかった。

 それなら更にそれを上回る力で、真正面からぶち抜くしかない。どこまでも単純な理論だが、最初から楓にはそれしかないのだ。

 

式神跋祇(はっし)……強化(エンチャント)五連(リミテッド)‼︎‼︎」

 

 旋風を巻き起こし、楓の左腕にありえないはずの魔力が集中していく。キャスターの籠手による機能だけでなく、フィムからもらった潤沢な魔力、楓が他人から受け取った全てを次の一撃に注ぎ込む。

 今にも腕が潰れそうな凄まじい負荷が、彼女の左腕を痙攣させた。

 ふと、キャスターの言葉を思い出す。

 「強化・五連」は禁じ手だ。使ったなら、楓の身体に何が起きるかわからない。それでも──、

 

「知る、もん、かあああああああああああああああァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ‼︎‼︎‼︎‼︎」

 

 ここで全力を出せないのならば、自分が魔術師として生きてきた意味が、永遠に失われるような気がした。

 だから打った。全身全霊をこめた、超常の一撃を。

 今度こそ、空気すら弾き飛ばさんばかりの勢いをもって、障壁に楓の左拳が激突する。

 その威力は絶大だった。

 瞬く間に障壁がひび割れていく。──英霊の筋力ランクで表すならば、そのほんの刹那の膂力は、最高ランクすらも超越した「A +」にすら相当した。キャスターとフィムの力が後押しし、人間には成しえぬ力をたぐり寄せたのだ。

 

「貫けぇぇぇっ‼︎‼︎」

 

 亀裂が広がり、みしみしと嫌な音を立てて──崩れる。

 突破された最後の護り。

 黄金の魔眼、その再発動は間に合わない。

 血が溢れてなお酷使した反動か、頭蓋が割れんばかりの痛みがクロウリーを襲っている。

 

「がっ、ぐ………………‼︎‼︎」

 

 顔を歪ませ、目の前に迫る拳を見た。

 止めようがない。英霊ですら容易くは真似できぬ圧倒的な膂力の前には、いかにクロウリーといえど止めようがない。

 楓はさらに踏み込んで、致死の一撃を食らわせる。

 しかし、その寸前、今度は奇跡が向こうに傾いたと言わんばかりのタイミングで──、

 

「あ──────?」

 

 ばん、という、風船が割れるような音がした。

 

 何かが破裂したらしい。楓は呆然として、自分の左腕を見る。

 けれど、見えなかった。視界いっぱいに広がった血煙が、楓の視界を完全に遮っていた。

 腕の感覚が、消える。

 途端に平衡感覚を失って、地面に身体が吸い込まれていく。

 

「は、は……ははは‼︎ 当たり前だ、サーヴァントですら限られたものにしか与えられぬ筋力など……‼︎ 再現すれば、それこそ腕の方が粉砕されるッ‼︎‼︎」

 

 血煙の隙間から楓が見たのは、内側から破裂し、肉と骨が滅茶苦茶にねじ切れて枯れ枝のようになってしまった、自分の左腕だったモノ。

 倒れていく。

 もう立ち上がれない。瀕死の体は、もう動いてはくれないらしい。あと一歩のところ、あと一秒もってくれれば、きっとクロウリーを倒せたのに。

 そう考えて。それでも、楓はクロウリーを睨みつけた。

 

「……っ?」

 

 二人の目が合う。黄金の目を見て、楓は不敵に笑っていた。

 クロウリーにはその笑みの理由を理解できず、不愉快な感情のまま少女を素足で潰そうとして──、

 

「剣」

 

 ──……そして、その呟きを聞き取った。

 いかなる困難にも揺るがない、小さくて大きな呟きを。

 

「鬼」

 

 ゾッとして、咄嗟、弾かれたように顔を上げた。

 崩れ落ちていく少女の、向こう。

 血煙そのものを煙幕として、剣鬼は既に立ち上がっている。

 瞳を爛々と輝かせ、こちらをしかと見据えている。

 

「抜」

 

 その僅か四文字の詠唱は、極限状態の連続で引き伸ばされた時間の中では、ひどくゆっくりしたものに思えた。

 クロウリーは不可解に口元をひきつらせる。

 あり得ない。敗北は、もう遠ざかったはず。とうに奴の剣は全て砕いた。もう十八本の刃はない。さらには右腕すらも断ち切ったのだ。あの剣士に、もう戦う手段も意思もあるはずが──‼︎

 

「刀──ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッッ‼︎」

 

 その甘い考えを消し飛ばすように、クロウリーの眼前で凄まじい炎熱が巻き起こった。

 倫太郎は、果たして何代目の繭村家当主だったのか。

 答えは一つ、「十九代目」だ。つまり彼自身の剣は、彼の分身たる剣はまだ残っている。宙を舞う十八の剣に気を取られて忘れていたが──最初からずっと、彼の腰には一振りの木刀が挿されていた。

 

「十九本、目……」

 

 絞り出したような声が喉から漏れた。

 崩れ落ちる楓と入れ替わるように飛び出し、倫太郎が残った左腕を大きく振りかざす。

 構えも何もない、ただ刃を届かせればいいと言わんばかりのがむしゃらな剣が、勝敗を決める最後の一撃が迫ってくる。

 

「ッッ‼︎」

 

 限界を超えて、複製の魔眼を起動させる。

 魔術を選択している余裕なんてない。がむしゃらなのはクロウリーも同じで、最後の一撃を絞り出す。

 

「──繭村、倫太郎ォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ‼︎‼︎」

 

 脳天めがけて射出された一条の閃光。

 それを睨みつけ、倫太郎は渾身の力で最後の剣を振り抜いた。

 

 

 

 

 どさり、という音がして、立っている人影はいなくなった。

 血生臭い風が荒地を駆け抜け、その不気味な静寂を際立たせる。

 

「────…………」

 

 クロウリーは、呆然として天を眺めていた。

 彼女は動かない。動けないのではなく、単純に動く気になれないのだった。倫太郎が死に物狂いで届かせた傷は浅く、決して致命傷には至らぬものだったが──魔眼の機能と彼女の魔術回路は、見事に全てが両断されていた。

 これでは戦えない。事実上、敗北したのは倫太郎ではなく、アレイスター・クロウリーの方であった。

 

「アレイスター……クロウリー……」

 

 そんな事を思っていると、自分を呼ぶ声がする。

 視線をそちらに向けると、二人……肩を支え合って、よろよろと立ち上がる人影があった。

 

「……僕の、いや……僕たちの、勝ちだ」

 

「ああ……お前は「(わたし)の全てを、貴様の全てで凌駕する」と言った。その「全て」には、最初からそこの小娘も含まれていたわけだ」

 

 全てと全て、互いが持てるものを限界まで注ぎ込んだ戦いだった。

 そう考えると、この決着に不満はない。

 クロウリーにはなかったもの、最初から諦めてしまったものを倫太郎は頑なに信じていたからこそ、あの土壇場で彼女は敗北した。

 

「………………」

 

 何を言っていいのか分からないのか、楓も、倫太郎も口をつぐむ。

 その姿を見て苦笑した。華やかなる勝利に際してどう振る舞えばいいかも知らぬ青二才どもに負けたとは、死んでも悔やみ続けるしかないだろうな、と。

 

「ごふッ……がはっ」

 

 と、突然クロウリーが盛大な量の血を口からぶちまけた。それだけではなく、体のあちこちから穿たれたような血が溢れ出す。

 倫太郎も予想外のことだったのだろう。思わずといった様子で駆け寄ろうとするが、そんなことをする体力はない。二人で立っているのが精一杯だ。それを知って、クロウリーは目線だけで制止した。

 

「……お前、いったい何をしたんだ」

 

「分からない……か。己は、あの時……普通の魔術ではない、他人の固有結界を模倣(コピー)したんだよ。その結果が……これだ。己は、心象と相容れない固有結界を取り込んでしまったことで自己矛盾を引き起こし……内部から、崩壊する」

 

 彼女が引きずり出した、とある男が用いる投影魔術。

 それは本来投影魔術ではなく、術者の「固有結界」を起因とする魔術であり──結果的に、彼女は自分の体内に、他者の固有結界を構築してしまうことになったのだ。

 その無茶無謀の結果が今、現れている。

 身体中から剣が飛び出して、クロウリーの全身をあますことなく切り裂いていた。臓器も、四肢も、あらゆる箇所が寸断される。

 

「そんなになるって知ってて、なんで……」

 

「理由など、一つしかない……負けたくなかったんだよ、己は」

 

 楓の問いに、クロウリーは観念したような顔で答える。

 

「己は、長き探索と旅路の果てに「この答え」を見出したが……それでも、これが正しいのかどうかは……己自身には分からなかった。だから、愚直にこれしかないと信じて進んできた」

 

 クロウリーの願い。神代の魔王をもう一度蘇らせ、全人類にとっての絶対脅威を作り上げる事で、かつてない世界全ての繋がりを作り出すこと。

 その願いはどこまでも無垢で、そして、その方法はどこまでも非情だった。

 

「だから、負けられないと思った。己とは対極の考えを持つ貴様らに……勝てたのならば、「きっと己は正しい」という確証を得られると思ったのさ。……魔王は、既に動き始めている。あとは……この答え(けつろん)が正しいという答え合わせができたのなら……もう、生きている必要すらも……ない」

 

「だから捨て身の剣を使ってでも、お前は……僕に」

 

 倫太郎は、今なお剣に全身を穿たれ続けるクロウリーを見下ろして、無言のままに木刀を構えた。

 手が震える。

 けれど、自分の手で終わらせてやったほうがいい、と倫太郎は思った。もはや彼女は手遅れだ。生きたまま全身を切り刻まれ、ゆっくりと死に向かうよりは、ここで命を絶つほうがずっといい。

 だが、その顔は、やはり苦悶に満ちていたらしい。クロウリーはそんな倫太郎に向かって口を開く。

 

「やめて、おけ。貴様が、無理に……手を汚す必要は……ない。間違った答えを選択したらしい、己には……相応しい、末路だよ」

 

 決着の刹那、倫太郎はクロウリーを確実に殺せていた。

 それでもそれをしなかったのは、彼の根底に根付いた優しさであり、それを捻じ曲げる必要はない、とクロウリーは思う。

 だってそれは、ずっと昔に彼女が世界に溢れていればいいのにと願った、尊くて輝かしいモノなのだから。

 

「………………お前は、間違ってなんかないよ」

 

 倫太郎は、クロウリーにそう呟いた。

 

「最初に言っただろう。お前の根底にある願いはきっと正しい。だからどっちが正しくて、どっちが間違ってる、なんて考えは意味がないんだ」

 

 その言葉に、クロウリーは輝きの消えた黄金の瞳を見開く。

 これは、倫太郎が、アサシンと戦う中で学んだことだ。

 正しさには様々な形がある。それを一律に善悪で切り分けることはできない。だから、真正面からぶつかり合って、どちらが正しいかを強引に決めるしかない。これは、そういう話なのだ。

 

「……思っても、みなかった。青二才に……諭されるとは……な」

 

「ふん……悪かったね、だいたい──……」

 

 倫太郎がその言葉に反論しようとして口を開き、そして、彼は続く言葉を発することなく口を閉じた。

 死んでいた。

 アレイスター・クロウリー。生ける伝説と呼ばれた魔術使いは、全人類の幸福を夢見た理想家は、もうとっくに絶命していた。

 

「「………………」」

 

 無言のまま、二人はその死を悼むように立ち尽くす。

 なにを言うべきか、よく分からない。

 ただ、勝ったという実感は湧かず、勝利への喜びもなく。大激闘を制したにしては、あまりに寂しい幕切れだった。

 

「倫太郎……私たちは、勝ったのかな」

 

「さあ、どうだろう……僕には、心の奥で人間を信じたがってたアイツが僕たちに勝ちを譲ってくれたような、そんな気もする」

 

「……そう、かもね……」

 

 へたりこむように、二人は寄り添ったまま地面に座り込んだ。

 繭村家の魔術刻印は優秀だ。右腕を失う大怪我だが、既に出血は止まりつつある。が、倫太郎が剣を再び存分に振るう機会は、永遠に失われてしまったのだろう。

 それはきっと、楓も同じだ。破裂した左腕は、きっともうまともに動かせるようにはなるまい。互いに大きなものを犠牲にして、そうしてようやく自分達の正しさを押し通せる、そんな死闘だった。

 

「血が止まってない。軽くだけど、治癒魔術をかけておこう……いい?」

 

「うん、お願いする……」

 

 倫太郎のほうが重傷だろうに、他人を優先するのはやはり彼らしい。その優しさに甘えることにして、楓は向き合うように身体を向ける。

 時間を置かず、柔らかい光が二人を照らし出した。

 それを覗き込むようにすると、こつん、と、二人の額がぶつかる。自然と抵抗感とか恥ずかしさはなくて、彼らはずっと、その姿勢のまま暖かな光を受け止める。

 

「「………………」」

 

 自然、残った右手と左手を重ね合わせ、硬く繋いでいた。

 

 戦いの報酬として得られた温もりを、掌で確かめるように。

 そして、人間は繋がることができると信じたクロウリーに、それは正しいと伝えるかのように────ずっと。



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九十話 最期の(いかずち)

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■‼︎‼︎』

 

 凄まじい威力を秘めた一撃が、大地を砕く。気概を削ぐ。

 

「ぜえっ、ぜえっ、ぜえっ…‼︎」

 

 四肢が重い。息が荒い。頭が割れそうに痛い。

 もう一振りの「月の刃(チャンドラハース)」を握る手が、だんだんと下がってくる。

 そんな俺とは対照的に、目の前の巨人になんら変わったところはない。顔の輪郭がわからなくなるほど泥で汚染されながらも、凶星の如くぎらめく双眸だけがこちらを睨んでいる。

 バーサーカーが突進するのに合わせて、俺は月の刃を握り直した。

 

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■──ッ‼︎』

 

「おォああああああああああああああああああ‼︎‼︎」

 

 突っ込んできたバーサーカーの剣戟を受け流せず、俺は地面に深く足をめり込ませながら、押し込まれつつある剣を支える。

 ガガガガガガガッ、と地面を抉る轟音を立てながら、俺はバーサーカーに押される形で一気に十メートル以上は後退した。

 呼吸が荒い。無理して魔力に意識を集中し、それらを全て足元に回す。

 

「ッ‼︎」

 

 爆発音を立てて炸裂したのは魔力放出の雷。

 それは俺の体を運び、瞬く間にバーサーカーの懐へと移動させた。ぐるんと体を回し、剣を振り抜いた姿勢のバーサーカーに一撃を見舞う。

 思い描いたとおりの、寸分違わぬ軌道。

 それはバーサーカーの胸板へと吸い込まれ、そして──見事にそのど真ん中へと激突し、まるで岩壁に斬りかかったかのように弾かれていた。

 

『■■■■■■■■■■■■■‼︎』

 

 それにも構わず、バーサーカーがその剛腕を振り回す。

 咄嗟の防御は間に合ったが、剣越しに、凄まじい衝撃が俺の身体を駆け抜けた。

 

「ぎっ、あ────────‼︎⁉︎」

 

 カッ飛ばされて、地面を削りながら停止する。

 裂けた皮膚も、ヒビが入った骨も、あらゆる傷は立ち上がった頃には治癒されていた。だが、失われた体力までは回復してくれない。

 息荒く、握りしめる月の刃を杖代わりにして、俺は巨人を赤く点滅する視界の中心に据える。

 

「こい、つ、は……どこ、まで……」

 

 果たして何度死にかけて何度殺すことができたのか、それすら数えている余裕はなかった。

 消耗戦は、向こうの圧倒的な優勢で進んでいる。

 神性を有するものに対する圧倒的な有利条件があってなお、この劣勢は覆し難い。なにせ──、

 

(やっぱり剣が通らない……こいつ、死ぬたびにこっちの攻撃に対する耐性を得てるのか……‼︎⁉︎)

 

 最初、ヘラクレスを初めて「殺した」時──チャンドラハースの刃はいとも容易く巌の肉体を断ち、その命を奪ってみせた。

 それが今や、弾かれるばかりで僅かな傷もつけられない。

 しくじった、と心から後悔する。複数の攻撃手段を用意できない以上、何度も攻撃するのではなく──最初から全力をかけた一撃を見舞えば、或いは十三の命全てを一息のうちに削り切ることができたのかもしれない。セイバーなら、早い段階でそれを悟り、もっと違う方法を考えていたはずだ。

 やはり力を借りているだけでは──彼女にも目の前の敵にも、遠く及ばないという事なのか。

 

(せめて、空が晴れていたら…………‼︎)

 

 歯噛みする。セイバーの剣、チャンドラハースは強力な神造兵装だが、同時に月の満ち欠けによって威力が左右される特性も持つ。

 が、今宵はせっかくの満月──最大出力を振るうことのできる稀有な機会だというのに、空は一向に暗雲を敷き詰めたまま。一筋の月光すらも確認できない。

 

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ッ‼︎』

 

 そんな劣勢を読み取っているのかいないのか、バーサーカーは隻腕をかざして吠え猛る。

 その大地すらも揺るがす威圧感に、圧倒されかけて俺は歯を食いしばった。

 迫る巨刃。

 ほとんど考えるよりも早く、研ぎ澄まされた直感が最適な回避行動を選び取る。

 

「ッ‼︎」

 

 空気を断ち切る轟音が耳を打つ。バク転と宙返りを繰り返して、高々と振り抜かれた大剣の刀身を蹴り、勢いよく巨人の頭上へと躍り出た。

 「魔王特権」──瞬く間に月の刃は膨張し、バーサーカーの巨躯、その更に三倍以上の超大剣となって振りかざされた。

 

「──────‼︎‼︎」

 

 真一文字にそれを振り下ろす。バーサーカーの額と大剣は寸分違わず激突し、地面が大きく陥没した。

 しかし、バーサーカーは尚も怯まない。

 黒泥に塗り潰された貌の中心、赤き双眸がこちらを見据える。走り抜ける緊張感。そして──、

 

「……なんッ……⁉︎」

 

 バーサーカーが反撃を繰り出さんとしたその瞬間、巨人の背後で、凄まじい光量が爆発した。

 視界が途切れる。白に塗り潰された視界で、俺は思わず目を細めた。

 しまった、と、全身の細胞が警告する。

 この巨人を眼前にして、僅かな時間であろうと、視界を潰されたのは致命傷に繋がる。ぎり、と歯を食いしばって次の攻撃に備えるが、

 

「……………攻撃が、止ん……だ?」

 

 セイバーがいるであろう塔から放たれる爆発的な光の奔流は、高く高く宙へと伸びていき──黒々とした雲海に突き刺さって、光の粒子を振りまいていた。

 そして。

 バーサーカーは、何らかの機能にエラーを起こしたロボットみたいなぎこちなさで、がくんと巨大な膝をついている。

 

(…………──‼︎‼︎)

 

 ほぼ何も考えずに、俺は月の刃を高々と掲げていた。

 身体も頭も、とうに壊れる寸前だ。空中戦艦(ヴィマーナ)を作り、月の刃(チャンドラハース)を作り……都合二回の無茶によって、ただでさえほとんど失われていたタイムリミットはもうほとんど残っていない。

 

 無茶ができるのは、あと一回──。

 

 だがここであと一回限りの「無茶」を切るわけにはいかない。セイバーの所に辿り着く前にくたばれば、それこそ俺がここにいる意味が失われるのだから。

 

「は──あ──ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁァ……‼︎‼︎」

 

 蒼雷を束ねて、一点収束──刀身へと預ける。

 活路は一つ。俺が死ぬ限界寸前まで火力を振り絞って、この大英雄を一撃で突破する他ない。

 幸い、バーサーカーは動かない。

 掲げられた月の刃が震え出し、空気を揺るがして烈風を生む。ぶちぶちぶち、と頭の中で致命的な何かが千切れていく音がした。視界はいつからか赤く染まって治らない。それでもまだ保つ。保たせる。

 

「ア゛──あ──あああああああああッ‼︎‼︎」

 

 そして、その時が来た。

 僅か数秒後、このまま力を振り絞り続ければ死ぬと確実に理解できたその瞬間──月の刃を、渾身の力で振り下ろした。

 

 ──音が消え、全てが白く塗り潰される。

 

 その威力は、果たしてどれほどのものだったのか。

 放たれた蒼雷がバーサーカーを呑み込み、そのまま背後の塔へと激突したのは理解できた。

 

「はっ…………はっ、はっ……」

 

 眼前に広がる光景を意味のある情報として理解するのに、なぜか、五秒以上はかかってしまった。

 何かを考えるのも億劫で、だから、目の前だけを見ることにする。

 上半身の七割を欠損した巨人が、黒焦げになった身体を晒して石像のように沈黙していた。最早ぴくりとも動かないそれは、機能を終えたようにゆっくりとこちらに倒れてきて──、

 

 その瞬間、世界が逆に回っていた。

 

 ぐるぐると加速していく世界。洗濯機の中に放り込まれたみたいだな、と何かを考えるのもおぼつかなくなった頭で思っていた。長い長い滞空時間を経て、俺は思い切り地面に叩きつけられる。

 

「ご……、ッ」

 

 不気味に痙攣する指を引きつらせて、俺は地面をつかんで立ち上がろうとした。

 何故立ち上がろうとするのか、それもよく分からなかったが。

 しかし一向に再起できる気配はなく、俺はごろん、と仰向けになる。

 そこで、初めてわかった。反転する視界に移ったのは、剣を水平に振り抜いたまま息絶えたバーサーカーの姿と──地面に転がる誰かの両脚。

 

「…………あ、が…………」

 

 太ももあたりから下がなくなっている。

 それなのに、何も感じないのが怖かった。

 目眩を覚えるほどの血が今も垂れ流しになっているのに、痛みどころか感覚もない。いや、ずっと前から感覚なんて消えていたし、嗅覚も、聴覚もほとんど動いていなかった。

 着実に、元の「死体」に戻りつつある。

 そんな死に損ないを眼前に殺し切らんと、更なる蘇生を果たした巨人が迫ってきた。

 そう、蘇生。単純な話だ。一度死んでも蘇る怪物と、死ぬのを寸前で押しとどめているだけの怪物。──どちらが強いかなんて、最初から明らかだった。

 

(だめだ……再生…………が、間に…………合わ、な)

 

 ふらつく視界に大剣が映る。

 躊躇う理由も理性もなく、それは十全の力をもって振り下ろされ──、

 

「──────、……?」

 

 目をゆっくりと開けて、生きていることを理解する。振り下ろされたはずの大剣は、しかし、俺の身体を潰すことはなかった。

 何者かが放った攻撃によって、バーサーカーの攻撃は僅かに逸らされたのだ。怪物の赤黒く燃ゆる双眸が、その闖入者を睨みつける。

 対して。

 その闖入者は、聞き覚えのある雷鳴を轟かせ、その小さな身体を堂々と晒していた。

 

「見てられんな、そのザマは」

 

 それが、俺が全く予想のしなかった人物だっただけに、手放しかけていた意識が醒めていくような気がした。

 

「お前……ライ……ダー……?」

 

「足があろうがなかろうがとっとと立て、ガキ。……俺とは違って、テメエにゃ「なすべき事」があるんだろう」

 

 獰猛な紫電は、いつ見ても変わることがない。

 しかし、その衣装には既に大量の血がこびりついており、かなりの傷を負っているのであろうことは理解できた。

 それでも彼の気迫は揺るがず、上位者然とした視線がこちらを見据えている。

 

「なんで、お前」

 

「ンの──つべこべ言ってる暇があると思うかッ……‼︎」

 

 はっ、とした時には、バーサーカーの巨躯が弾丸じみた速度でライダーに襲いかかっていた。

 それを迅雷じみた素早さで避けながら、ライダーはこちらを確かに睨みつける。

 

 

「──────いいから走れ、間抜けェッ‼︎」

 

 

 その声が、壊れかけた脳に突き刺さる。

 そう、それはまさに、不可視の稲妻だった。

 彼の言葉に弾かれたように、再生の終わった両脚に力を込める。着々と近づく死は確かだが、全身に漲る魔力は衰えることがない。

 走れる。

 

「────……………悪い‼︎‼︎」

 

 疑問も言葉も全部飲み込んで、俺は駆け出した。

 道は開けた。もう立ち塞がる障害はない。

 

 走り、目指すは聳え立つ巨塔の(いただき)

 そこできっと、セイバーは待っている──。

 

 

 

 

 

 

 ……はあ、とライダーは嘆息した。

 勢いよく駆け出していった少年を見て、ついで、やや放たれたところで息を荒げる巨人を見やる。

 彼は、地面に半ばめり込む形で止まっていた。

 バーサーカーの拳を受け流しきれず、ここまで吹き飛ばされたのだ。実のところ、ライダーにもうまともな戦闘をこなせる体力は残っていない。アナスタシアの治癒のお陰で体は動くが、それ止まりだ。

 

「あ〜……………あ」

 

 なんでこんなことをしているんだか、と自問自答して、ライダーは汚れた金髪を掻き上げた。

 

「テメエのせいだぜ、マスター……」

 

 繋がっていたはずの経路(パス)は既に絶たれており、もう、彼の四肢は光の粒子となって消え始めていた。

 それが意味することは一つだけだ。

 あの女(マスター)は死んだ。歪ながらもヒトの未来を願ったあの魔術使いは、もう死んだのだ。

 

「──……テメエがくたばったら、俺は何をすればいい?」

 

 ぼんやりと、月の見えない夜空を見上げた。

 そうして、初めて言葉を交わした時のことを、思い出す。

 

 

『……あの魔王ラーヴァナを……この現世にもう一度蘇らせる、ですって? 本気ですか?』

 

『ああ。その為に貴様を喚んだのだ、騎兵(ライダー)

 

 

 何から何まで、ふざけているとしか思えなかった。

 自分をかの「雷帝」と知りながら、なおも使役せんとするその傲慢。成功するかも分からぬ計画を果たさんとする愚かさ。そして、誰もが諦めるような馬鹿げた理想を信じ抜く覚悟。

 故にこそ、ライダーは凡百の魔術師に付き従うよりは何倍も面白そうだと──彼女のサーヴァントとして、その働きを果たしてきた。

 

 

『……ああ、そうして己は長い間世界を放浪した。色々なものを見た。人々の美しさにも触れたが、もっと多くの悪意にも触れた。まあ、そうしたものが多い場所に好んで向かっていたことは否定できないが』

 

『そうして、テメェは一つの結論に至ったと?』

 

『その通り。──人種性別倫理宗教、数多のバックボーンが生み出す"差異"はどこまでいっても人間の結びつきを拒み、否定する。故に人間の中から悪意は消えず、世界から争いが消えることはない……』

 

『闘争は人間の根底にあるものの一つだ。そりゃあそうだろうな、「争いの無い平和な世界」なんざ所詮は幻想だ』

 

『だが、己は見てみたかったのだ。全ての人間が争うことなく、くだらぬ悪意を捨てて支え合えるような世界を。その世界が一瞬でも構築されれば、一度でも「前例」を作ってしまえば、人間はその可能性をより拡げることができる……そう思った』

 

 

 珍しく酔った彼女がそう零したことを、彼はまだ覚えている。

 

 その時は、捻じ曲がってる、とだけ返しておいたが。実のところ、ライダーはその言葉に、アレイスター・クロウリーという人間の覚悟を見た。

 ──いつからだろう。

 最初は「馬鹿の妄言」だと思っていた彼女の理想に、本気で付き合うのも悪くない、なんて気になっていたのは。

 皇帝としての自分を忘れ、一人の従者(サーヴァント)として、マスターの手足となって戦うことに楽しみを感じていたのは。

 

「ッたく、それなのに……楽しくなってきたところで、よ」

 

 しかし、彼女は死んだ。

 彼には分かる。あの女は素直にくたばるような人間ではない。もしそうだったなら、戦いと血にまみれた長い人生のどこかで、とうの昔に死んでいたはずだ。

 それが、そんな女が戦いの中で死を選んだという事は──つまり、「自分が誤っていた」と、彼女自身が認めたという事だ。

 

「……勝手に答えを出して、勝手に満足して、勝手に死にやがって。この暴君(おれ)以上の勝手とは笑わせてくれる」

 

 軽く舌打ちして、ライダーは思う。

 マスターが死んだことで、自分はほとんど猶予を残さずに消滅する。その最後の僅かばかりの時を、ただ何もせずに過ごして消えるのもいい、悪くはあるまいと思った。

 

 ────だが、見てしまったのだ。

 

 勝ち目はなく、体は着実に死んでいくというのに、愚直にも巨人(ヘラクレス)に挑み続ける男を。

 目を逸らそうとしたが、できなかった。

 彼の瞳には、「なすべき事」とやらを果たすために一人で世界全ての悪を打ち破った女と、同じように、自分の理想を信じて長い時を歩み続けた女の姿が焼き付いてしまっていた。

 

 ────だから、これはただの気まぐれだ。

 

 「なすべき事」などではない。皇帝は誰にも縛られない。

 だから、自分が望んだことだけをする。義務感とか使命感ではなく、ただ、己が欲求を満たすためだけに動く。

 

「真名固定。認識置換、神格設定完了」

 

 伸ばした手の先。

 天から堕ちた落雷が、一直線に彼の身体を貫いた。

 荒れ狂う暴威。それは荒れ狂いながら収束すると、長く水平に伸びていき、やがて一つの形に落ち着いた。

 

 神槍、「雷霆(ケラウノス)」。

 マスターの智略と神業あってようやく彼が扱う権利を与えられた、本来ならば使用できないはずの宝具(ぶき)である。

 

 

「なあ、クロウリー」

 

 

 振りまかれる膨大な神威にヘラクレスが反応する。

 そう、これはかの主神ゼウスの槍だ。格落ちを重ねた紛い物であろうと、その威力は数多の宝具の中でも頂点の領域に位置する。ギリシャの英霊であれば、例え理性を失っていようと、その脅威は理解できよう。

 体が消えていく速度が加速する。

 構わず、ライダーは力強く地面を踏みしめた。

 

「楽しかったよ、お前と戦うことができて。……そこそこな」

 

 その危険性を察知したバーサーカーが、跳ぶ。

 天空で独楽のように縦に回転すると、そのまま傷一つない大剣を構え、こちらを一刀両断せんと迫ってくる。

 全体重、全エネルギーを乗せた渾身の一撃だ。

 

「だから、存分に暴れさせてもらった恩くらいは返してやる。テメエの勝手の代償は、俺が始末をつけておくさ」

 

 対して、ライダーはゆっくりと槍を構えた。

 遠投げの構え。

 この聖杯戦争において、ついぞ一度も使用されなかった最強無比たる主神の槍が、膨張して閃光を撒き散らす。

 

「ああ──文句は言うなよ。元より俺は暴君だ……素直さ器用さなんて、ハナから求めちゃいなかっただろう?」

 

 そう言って、彼は笑った。

 その笑い声は、雷霆の炸裂音に揉まれて消えたが──確かに、世界を震わせていた。

 

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■──────ッッッッッ‼︎!』

 

 吠え猛る狂戦士。その双眸に、最後まで畏れはなく。

 かの勇士の姿に敬意を評しながら──、

 

三 界 滅 す(ケラウノス)神 話 の 終 局(ティーターノマキア)‼︎‼︎」

 

 ライダーは、その命を賭した最後の一撃を解き放った。

 

 その一撃は、サーヴァントの宝具という範疇にすら収まらぬであろう圧倒的破壊力をもって、狂戦士の身体を包み込み、噛み砕き、残存ストックの全てを一息のうちに消滅させた。

 

 ゴッッッッッッッ──‼︎‼︎‼︎‼︎ と、世界が揺れる。

 

 現世に蘇った神の一撃は、バーサーカーを打ち砕くだけに留まらない。神威を忘れた大地に、草木に、空気に、この惑星そのものにその余波を刻み込みながら、一直線に天へと向かっていく。

 そして、天空へと到達してようやく、神の雷はその暴威を解放した。大塚市近辺の上空を覆っていた暗雲が、一欠片も残らずに吹き散らされる。空は晴れ渡り、星の瞬く夜空が姿を見せる。

 降り注ぐ黄金のベール。黄金の満月が、遂にその姿を現したのだ。

 しかし、その下に立っているものはもういない。

 狂戦士の咆哮も、暴君の雷鳴も聞こえない。

 

 既に──彼は、この世界から消滅していたのだった。

 

 

 

 

 その月光を浴びて、一人。

 遥かなる塔の頂点で、ゆっくりと瞼を開けた少女がいた。

 

「──────、────」

 

 心地のいい微睡みから目覚めたように、彼女はゆっくりと頭を振ると──自分を包み込む不快な肉の塊を瞬きだけで消し飛ばし、悠々と世界へ歩き出した。

 その長髪は、闇よりもなお深き漆黒。

 絶対零度を閉じ込めたかのような碧色の瞳が、眼下に黒々と広がる大地を睥睨する。セイバーと呼ばれた少女は、最早その頃の全てを忘却し、同時にかつての全てを獲得していた。

 

 煌々と輝く黄金の満月は、まるで彼女の再誕を讃えるかのように、その月光を降り注がせる──。




【ライダー】
真名:イヴァン雷帝
初代かつ原初の皇帝ツァーリにして、雷帝と畏れられた男。
アレイスター・クロウリーのサーヴァントとして召喚され、様々な曲面で健斗達と戦った。
代行者アナスタシアを見逃すなどの命令違反こそ行ったものの、「雷帝」たる彼にしては、あり得ぬほど従順にクロウリーの命令を聞き、遂行してみせた。彼が非凡であるからこそ、非凡の極みたるクロウリーには興味深く思うところがあり、結果的に相性は良かったと言える。もっとも、ライダー自身がマスターとの交流を深める中で彼女の信念を認めたという点はもっとも大きく、彼が最後まで彼女のサーヴァントとして戦う気になった最大の理由はそこにある。


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九十一話 運命(さだめ)の果て

 白い燐光に照らされて、天への回廊を登っていた。

 一歩、さらに一歩を踏み出すことに、まだ自分が生きていることに安堵する。

 ゴールはもうすぐそこだ。残りわずかな命を振り絞るように、這うように進んでいく。

 

「はッ、はぁッ、はぁッ……」

 

 身体の奥、胸の中心、動きを止めた心臓がある箇所が、苦しいくらいに発熱して疼いている。セイバーのところに近づいているのだと、理屈ではなく感覚で知る。

 あともう少しだ。

 もうほんの少し登れば、あともう少しだけ頑張れば、きっとセイバーに逢える。

 

「ッ、げほっ、ごほ……」

 

 何かを吐き出して、それを無視して上を向いた。

 空気が強張っている。総毛立つような悪寒が全身を刺す。

 自ら怪物の大顎の中へと走っているような、すぐそこに開いた奈落へと堕ちんと歩みを進めているような気分だった。

 

「……あいつ、もう……」

 

 塔の頂上から放たれる威圧感は、足を踏み出すたびに濃密になり、こちらの体を絡め取る。

 邪気、とでも言うべき黒々としたそれは、きっと世界にとっての敵対者が纏う類のもの。さっきの白い閃光のおかげでだいぶ薄れてはいるが、まともなままではきっと踏み込めない。

 

 ──歯を食いしばって、強引に足を動かした。

 

 それくらいは何とかなる。

 気合いで誤魔化せば、足はまだ前に進んでくれる。

 

「……………………………、」

 

 ──いや。

 正直に言えば、そんなことはどうでもよかった。

 肌を刺すほどに濃密な魔力も、身体の(うち)を穢す何かも、一歩ごとに遠ざかる生の実感も。辛くたって、我慢できるくらいの障害(モノ)だった。

 

 ──じゃあ、なんで。

 ──なんでこんなにも、進もうとする足は重いのだろう。

 

 壁に手をつきながら考えて、考えて、気づく。

 

 ──きっと俺は、終わってほしくない(・・・・・・・・・)んだ。

 

 そう理解した時、思わず声が出てしまった。

 どこまでも単純で簡単な理由で、同時に、笑えるくらいに矛盾してしまっている答えだった。

 最初は、聖杯戦争なんていうふざけた儀式を終わらせるため、セイバーに協力すると決めたのに。

 それが、なんだ。

 この戦いがようやく終わろうとしている今、俺は清々しい達成感などではなく、心を握り潰されるかのような寂寥を感じている。

 

 ──そう、まだ終わってほしくないと。

 ──まだセイバーと泡沫の時を過ごしていたいと。

 

 そんな夢物語を、強く願ってしまっている。

 最初から覚悟はしていたはずだった。いつか、離別の時が来るのだと。それなのに、俺はまだ、そんな想いを諦めきれていない。

 

「……諦められるわけが、ない…………」

 

 バーサーカーに殺された、あの日。

 彼女に出逢ったあの刹那から、今までの俺の人生は終わり、同時にもう一度始まったのだと思う。それくらいに鮮烈で、魂を突き動かされるような邂逅だった。そして、分からないことだらけの俺に、セイバーは問うた。「私と一緒に戦ってくれますか」と。

 俺は迷いもせずに、「当然だ」と答えて──、

 

 

 ──そうして、俺たちの戦いは始まったのだ。

 

 

 階段を登りながら、その想い出を蘇らせる。

 雷帝との戦いを超え、黄金の大蛇を打ち倒し。マスターとサーヴァントのコンビを同時に相手したりもした。

 弓兵の狙撃に彼女が倒れた時は、死に物狂いでアサシンの手から逃げ延びて、力を合わせて狂戦士を打ち破った。

 

 ──いや、戦いだけなんかじゃない。

 

 僅かな時の間に、色々なところに行った。色々なことをした。あいつは甘い物が大好きだから、一緒に歩き食いしたり、時には遊びに出かけたりもした。映画に熱中していた彼女や、ちょっとズレた怒り方をする彼女の姿を思い出すと、可笑しくて笑顔になってしまう。

 彼女と共に戦うことができた今までの時間は、あまりにも濃密で、輝いていて──或いは、俺はこの時を駆け抜けるためだけに生まれてきたのではないかと思ってしまうくらいには──尊いものだった。

 

 

 ──……はっ、として、途絶えかけた意識を取り戻す。

 

 

 危なかった。暖かな記憶に浸りすぎると、それに囚われて戻ってこれなくなる。意識を手放してしまえば、もう、そこで終わってしまう。俺はそのまま、眠るように死んでいくだろう。

 揺れる心を叱咤して、必死で階段を登っていく。

 

「……、…………?」

 

 そのとき、何か凄まじい音が聞こえた気がした。

 のろのろと顔を上げて、塔の外周をなぞるように天へと向かう階段から、横を見る。

 

「あれ、は……」

 

 どこかで見たような、見たこともないような、そんな稲妻が一直線に天へと昇っていき──爆ぜた。

 まるで花火みたいだな、と思う。

 あれが何の輝きで、いったい誰によるものなのかも、よくわからない。今の俺には、前しか向いている余裕がなかった。

 だから、再び上へと登っていく。

 

「…………つ、き?」

 

 そうして、思わずそう呟いた。

 感じる。さっきまでの、肩にのしかかるような閉塞感がない。

 ふと目線を上げて、俺は理解した。

 一面の空を覆っていた黒々とした雲海が吹き散らされ、星の瞬く夜空が顔をのぞかせている。やや白み始めた空の中心には、いつもよりも更に煌々と月明かりを振りまく、黄金の満月が堂々たる様で鎮座していた。

 全身に漲る魔力の質が、さらに数段階上へと跳ね上がる。

 月の光。月の刃を振るう羅刹の王ラーヴァナにとって、それはもっとも尊き祝福だ。今であれば、その性能の全てを引き出すことができるだろう。こちらの身体が保てば、の話になるが。

 

「…………」

 

 そんな事に気を取られている場合じゃない。もう、残された時間はほんの僅かなのだから。

 足を動かして、登る。それだけの動作を、何度も何度も繰り返す。

 登るごとに感じるのは、セイバーが近づく感覚だ。

 それは、この戦いの終わりが、俺たちの明確な「終わり」が近づいているということに他ならない。

 

 ──それでも、進む。

 

「……セイ、バー……」

 

 無意識のうちに、その名前を呼んでいた。

 進みたくはない。この泡沫の日々を、今日で終わりにしたくはない。

 いっそこのまま、幻想と記憶の中で終わってしまいたい。

 

「セイバー……‼︎」

 

 ──それでも、進む。

 

『わたしは……もう、魔王として生きなくても、いいんですね』

 

 あいつが、泣きじゃくりながらそう言ったのを覚えている。

 それはきっと、セイバーという少女が、自分も周りも全てを殺して魔王として生きた彼女が、やっと漏らすことのできた本心だ。

 その言葉を聞けたことが何よりも嬉しくて、だから、こうしてセイバーが再びその役割を押し付けられようとしているのは、何よりも許せない。絶対に、認められはしない。

 もう彼女を血に汚したくはないと、強く願う。

 

 ────だから、進む。

 

「セイバー……ッッ‼︎」

 

 叫んで、脚に十全の力を込めた。

 長い長い道程を経て、ついに頂上が見えてくる。

 不安も、迷いもない。

 彼女と相対し、自分が悪い奴だと思い込んでいるあいつの目を覚ます。それはきっと、俺に刻まれた至上の命題だ。「志原健斗」ではない、いついかなる時であれ、この魂が果たすべき責任だ。

 ならば、揺らぐことなんてあり得ない。

 

『『お前は、魔王なんかじゃない』』

 

 そう、何千年も前に、初めてあいつに逢ったときのように。

 そして、現世(いま)においてもまた、あいつに伝えた時のように。

 

 何度だって、俺は「魔王」を否定する。

 それが──きっと、俺と彼女のFate(運命)なのだから。

 

 息を吸って最後の数段を駆け上り、天辺へと躍り出る。

 そうして、ついに。

 

「────…………、よう」

 

 そこには、彼女が待っていた。

 

 黒く染まった髪をそよ風に揺らしながら、黄金の燐光を全身に浴びて、少女は月を眺めていた。

 すぐにはこちらを向かない。しばらくしてから、世界から興味をなくしたかのように、セイバーはようやくこちらに視線を向ける。その無機質な瞳には、およそ感情や意志といったものが介在していなかった。

 あのセイバーを、俺は見たことがある。

 記憶の中で見た、かつての彼女そのものだ。

 「魔王」という役目に囚われた、元の少女を殺されたままの、自由意思すらも歪められた存在だ。

 

 ──大丈夫、わかっている。

 

 やることは一つだけだ。「魔王」なんて呪い(モノ)に囚われた彼女を、その軛から解き放つ。

 だから、俺はこわばる肩の力を抜いて──、

 

 

「お前を迎えに来たぞ、セイバー」

 

 

 そう、いつも通りに話しかけた。

 

 

 

 

 私は、それを不可解に思った。

 この世界に誕生してから、自分を「なにか」が突き動かそうとしている。今すぐに、この世界を破壊し尽くし、全てにとっての敵になれと──そう、誰かに強制されている気がする。

 別に、それ自体はどうでもよかった。

 元から、私は魔王ラーヴァナだ。

 だからこそ、別に今すぐこの世界を壊しにかかってもよかった。その気になれば、眼下に広がる人間の街を、ここから動かずとも焦土と変えることもできた。

 それなのに、そうする気になれなかった。

 その理由は、きっと一つしかない。

 

 ──もう一つの「なにか」が、私を押しとどめている。

 

 その「なにか」を、うまく言葉で表すことはできない。

 ただ、胸を焦がすドロドロとした黒いものに比べると、それは鬱陶しいくらいに白く、清廉で。

 誰かを待ちたくなるような、そんな「なにか」だった。

 

 故に、私は待っていたのだ。

 その誰かが、「なにか」を満たすものが、こうしてやって来る時を。

 

「お前を迎えに来たぞ、セイバー」

 

 その少年は、不遜にも開口一番そう言ってきた。

 

『──お前を倒しに来たぞ、魔王──』

 

 混濁する記憶に、砂嵐(ノイズ)が混じる。

 不快だった。思い出せない。かつて、誰かが、目の前の少年と同じ目をした敵対者が、私の前に現れた気がする。

 けれど、彼は私に敵意を向けていない。

 それどころか、その逆の何かに満ちた瞳で私を覗き込む。

 ひどく頭痛がした。

 不愉快、不可解、これ以上私を見るなと、そう言いたくなる。

 

「貴様は、誰だ」

 

 苛立ちを覚えて、私は短くそう告げる。

 瞬間、一切の躊躇をせず、私は右腕を振り抜いた。

 

 極大の閃光が炸裂する。

 

 山一つくらいは軽々と吹き飛ばす程の天文学的な魔力を、無造作に今の一撃に込めた。空間すらもめちゃくちゃに捻じ切る絶大な火力をもって、目の前の不敬者を塵も残さず葬り去る。

 

 が、結果はそうはならずに──。

 その少年は、なおもこちらを見つめていた。

 

 何らかの方法で弾かれた閃光はそのまま彼の背後へと消えていき、遥か彼方の黒々とした山麓に激突して大爆発を引き起こす。

 ゴゴン…と揺れる地面を無視して、少年は悠然と立っていた。

 

「──────、」

 

 思わず、目を見開く。

 その身体は、誰がどう見ても限界寸前だった。

 外部、内部、精神的なものに至るまで、あらゆる場所に亀裂が入っている。あの少年が生きてこの朝を迎えることは、ない。

 それなのに。

 その敵対者が有する魔力と闘志は、あまりにも膨大だった。

 それだけではない。この私に匹敵するだけの力を有している、という時点で既にあり得ざることなのに──この少年のソレは、私と全く同一(・・)のものだ。

 羅刹王ラーヴァナの力。私だけが振るうことのできるはずのそれを、この少年は手にしている。

 

「俺が誰か、なんて、どうでもいいさ」

 

 その少年は臆することなく、私へと足を踏み出した。

 その踏み込みは、魔王を前にしているとは思えぬほどに軽く、親しみすら感じるほどに柔らかく。

 

「やめようぜ、セイバー。お前はそんなやつじゃないだろう」

 

 故に。私は、その少年の全てに更なる苛立ちを覚えた。

 私は私だ。「魔王」にして羅刹の王、ラーヴァナだ。

 誰の許しで、なんの理由があって、貴様は私を否定する。

 

「ほざくな、偽者(フェイカー)風情が」

 

 破壊神より賜った月の刃を、握る。

 すらりと輝く蒼色の刀身は、降り注ぐ黄金の月光を内部に蓄えて美しく輝いていた。その斬れ味は、天の満月によってかつてないほどに高められている。

 私は、それを掴む右手に力を込め──、

 

「私は私だ。貴様に定義される道理はない──‼︎」

 

 全霊の力で、それを水平に振り抜いた。

 世界が断たれる。

 無限に等しい魔力と、受肉による肉体の強制的神代回帰。かつての全盛期に匹敵する今の私の一太刀は、そのまま宝具級の威力に匹敵した。巻き起こる烈風と衝撃波は先の比ではない。

 しかし、それを──、

 

「──……いいや。悪いけど、まだ死ねないな」

 

 敵対者は逃げることなく、真正面から迎え撃っていた。

 いつの間に手にしたのか──我が愛剣による一撃は、全く同一の姿形をした剣によって迎撃された。

 

「貴様──……」

 

「言ったんだよ。お前は魔王なんかじゃないってな」

 

 その言葉に思わず息を呑んで、私は勢いよく背後に跳んでいた。

 動悸が荒くなる。その言葉は何かを狂わせる、と、私の直感が鋭く叫んでいる。

 

「だから、お前が魔王(・・)とやらに呑まれそうになったら、死に物狂いで助け出してやる。セイバー(おまえ)を、もう魔王なんかに染めさせはしない。その為に、俺はここに立っている」

 

 その言の葉。その瞳。

 あらゆる全てが類似する。

 目の前の少年に、かつて私を倒した勇者が被って見える。

 かつて私が勇者に敗れた理由。「ただ愛する人に逢いたい」というだけの、輝くほどに強烈なまでの願い。

 それを原動力にして、この敵対者は私の前に現れた。

 

 まるでそれが、私の宿命であると言わんばかりに。

 

「……理解が、出来ん。私は「魔王」ラーヴァナだッ‼︎」

 

 殺さなくては。慢心も油断もなく、己が全てを賭けてこの男を葬り去らなくては。

 少しでも油断をすれば、揺らぐ。奴の全ては、「魔王ラーヴァナ」という存在そのものを根本から揺るがしてしまう。

 そんな焦りと共に、私が地面を蹴ろうとした瞬間だった。

 

「ッッッ⁉︎」

 

 ──それは、まさに炸裂だった。

 

 刹那。爆発的に凄まじい魔力が膨れ上がる。咄嗟に月の刃を構え、迫る白の閃光を力技に打ち払った。

 そうして、目の前を睨む。

 戦いの前とは思えぬほど落ち着いた雰囲気に変わりはない。こちらの隙に攻撃を加えるでもない。

 バチ、バチ、と雷が弾ける音を時折立てながら──、

 

 少年は、変わらずそこに立っていた。

 

 しかし、違う。

 さっきまでとは、何もかもが全て異なっている。

 

「──……お前が相手だ。加減は出来ない」

 

 その全身を覆う黒鎧、どこかで見たような紫紺の外套。

 

 黒だったはずのその髪は、全て蒼色(・・)へと染まっていた。

 

 こちらに叩きつけられる膨大無比な魔力と剣圧を見れば、誰だろうと、私と奴の差異になど気づけないだろう。

 

 ──今この瞬間。

 ──あの少年は完全に、私の領域に到達した。

 

「いくぞ、セイバー。これが最後の戦いだ」

 

 蒼雷が唸る。大嵐を極小に押し込めたような暴威が、彼の周囲を取り囲む。

 それは私も同じだった。否、身を包む魔雷の嵐だけではない。剣を握れば自然と取る構えに至るまで、あらゆる全てが同一に為され、

 

「お前の中にこびりつく魔王(かげ)を──芥も残らず消し飛ばす‼︎」

 

 二人の羅刹が大地を蹴る。

 この瞬間、刹那──あらゆる全てを決する、最後の戦いが始まった。




【セイバー】
「この世全ての悪」と融合し、人類に仇なすものとしての性質が強化されたことで、暴走状態に陥ったセイバー。
髪は泥を吸い上げたことで漆黒に変化し、精神状態は感情を封殺されていた頃のものへと立ち返っている。汚染の影響によって記憶は曖昧になり、「魔王」ではない、「彼女」の自意識を覚醒させた出逢いのことも忘却している。
聖杯から無限の魔力を得ることで受肉と神代回帰を果たしており、その戦闘能力は通常のサーヴァントを遥かに凌駕し、(性質ではなく単純なエネルギー量であれば)災害の獣にすら並び立つ。世界を滅ぼす火に相応しい、最大にして究極の「人類の敵」。

【志原健斗】
セイバーの(元)マスター。セイバーと宝具で繋がっていることにより、彼女が操るものを全てその身に引き受け、同様に行使することができる。宝具の効力はセイバーに近づくごとに増していくため、彼女の元へとたどり着いたその時、ついに全ての力を解き放った。
髪色に至るまでセイバーと同一のものになった健斗は、まさに「もう一人の羅刹王」と称するに相応しい力を持つ。ただし、力を振るうことによる魂の限界はすぐそこに迫っており、その奇跡を手繰ることが出来る時間は残り少ない。
その終わりが訪れるよりも早く、彼はセイバーを救おうとしている。


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九十二話 FATAL BATTLE

 ──9月13日。惑星(ほし)が揺れた日。

 

 ある者は、その異変を感じ取って目を細めた。

 ある者は、忍び寄る終末を感じ取り、面倒臭そうに溜息をこぼした。

 ある者は、しかし愉快そうに空を見上げた。

 

 それは全て同じタイミングだった。世界中のあらゆる人々が、個々人によって大小様々な違いはあれど、明確な「不穏」を感じ取った。

 様々な生物が何かの前兆を告げるかのように奇怪な行動に走り、吠え、ざわめいた。

 地面が物理的に揺れたわけでも、何かが目の前に現れたわけでもない。それでも、あらゆる生物の根幹にある本能が敏感に感じ取ってしまうほどの「何か」が起きている。

 

 その時間は、英国グリニッジ天文台にて観測された世界標準時刻で表すならば、未だ日を跨がぬ19時30分ごろ──震源地たる日本の時刻では、午前4時30分をまわった頃合いだった。

 

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁ──────ッッッ‼︎‼︎」

 

「おおおおおおおォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ──────ッッ‼︎‼︎」

 

 日の出があと少しのところに迫ったことで、次第に色彩を取り戻しつつある朝焼けの空。

 

 ──そこで、最後の戦いは始まっていた。

 

 あらゆる物理法則を振り切る超神速で、二つの光が天空を舞う。両者ともに外套のカタチを捻じ曲げ、双翼として飛行を可能としているのだ。

 その攻防は、最早何人にも理解できぬものだった。

 剣と剣が激突する。蒼雷が互いにせめぎ合う。

 言葉にすれば至極単純だが、目の前の凄絶な光景を表すには、あまりにも不足過ぎた。

 その一太刀は空間をも凪ぎ、その雷撃は容易く山麓を更地と変える。天変地異のぶつかり合い。英霊(サーヴァント)の次元などとうに超越した、神々の激突に等しい超次元の争いがそこにはあった。

 

「………………、っ」

 

 士郎と凛の助けで崩落する仙天島からの脱出を果たした倫太郎は、空を見上げて歯噛みしていた。

 

「お兄ちゃん……セイバー……」

 

 足元を通して響いてくる戦闘音は、かなり長大な距離を置いてなお大地を揺るがしている。

 

「……あの少女は既に、七つの災害(けもの)にすら匹敵するだけの力を手にしてしまった。俺たちに出来ることは……現状、もう残されていない」

 

「そうね。……ああなってしまえば、それこそ世界の抑止力、カウンターガーディアンの顕現にでも期待するか……彼が、あの子をなんとか止めてくれる可能性に賭けるしかないわ」

 

 目を細める二人に、倫太郎は問うてみる。

 

「あいつに……志原健斗に勝算はあるんですか?」

 

 その言葉に、士郎はやや考え込んだあと、

 

「無いわけじゃない。……セイバーはもう、俺たち魔術師がどうこうできる次元の存在じゃない。サーヴァントでも太刀打ちできないだろう。けど、まだ彼にだけは可能性が残されている」

 

「ええ。彼の胸に埋め込まれたという宝具……あれが機能している限り、健斗君は概念的に「セイバーと同一の存在」になる。つまり、彼女が力を得れば得るだけ、同じ存在である健斗君も強化されることになる……理論上は、セイバーがいくら強かろうと、彼はそれと同等の力を使うことが出来るのよ」

 

 主従契約の経路は既に断たれているが、ひとつだけ、健斗とセイバーの間には未だ途切れていない経路が存在している。

 それが、「耐え難き九の痛酷(ラーマーヤナ)」と呼ばれる宝具であり、健斗に羅刹王の力を授けている原因だ。この宝具が機能している限り、健斗はセイバーに匹敵する力を行使することが出来る。

 

「ただし、それはあくまで理論上の話だ」

 

 それを知り、士郎は続ける。

 

「あの次元のエネルギーを、サーヴァントでもないただの人間に押し込められるはずがない。間違いなく、その関はいずれ決壊する。今までもっているのが奇跡みたいなものなんだ──」

 

 流星じみた二つの閃光は、さっきまで湖面の上を滑るように交錯していたかと思うと、瞬きの間に彼方の山脈を削りながらぶつかり合う。

 あまりにもそれは速すぎて、彼らの目には遅れて炸裂する爆炎の海しか捉えることはできなかった。

 

「まずいっ、伏せて‼︎」

 

 と、凛が鋭く叫んだ。その声に応じて、四人は何かを考えるまでもなく地面に伏せる。

 次の瞬間、殺人的な暴風と爆音が地面を根こそぎ削りながら吹き抜けていった。

 

「……っ、危なかった。ここに留まるのは危険だ、もう少し離れて様子を見よう」

 

 士郎の言葉に他の三人も頷く。

 今のは、彼らの戦いの余波で撒き散らされる衝撃波(ソニックムーブ)だ。島から脱出できたとはいえ、まだまだ彼らの主戦場と化した龍神湖の上空からはほど近い。呑気に立っていれば戦いの余波だけでも命を落としかねない。

 

「「…………………」」

 

 最後にもう一度振り返って、楓は宙に瞬く閃光を見やる。

 遠くに行ってしまった兄と、そのサーヴァントであるセイバーが争わなければならない残酷を恨むように、その目線は険しかった。

 

 

 

 

 彗星の如く空を駆けるセイバーを追って、俺は背後の翼を力強く羽ばたかせた。

 

「────ッ‼︎‼︎」

 

 手にした月の刃(チャンドラハース)を放り投げ、間をおかずに魔王特権の力を叩きつける。

 一振りの刀身は瞬く間に分裂し、意志がままに動いて先行するセイバーへと襲いかかる。

 

「無駄、だ‼︎」

 

 多角度から迫る刃を睨み、セイバーは速度を落とさずこちらに反転、その剣を振り抜いた。

 キンッ────‼︎‼︎ という金属音が高々と響き渡った次の瞬間、こちらの小刃が纏めて吹き散らされる。ほとんど反射的に上体を逸らした瞬間、不可視の一閃が空間ごと全てを切り裂いていった。

 剣閃はそのまま一直線に地面へと向かい、波打つ湖面に激突。その時初めて、俺は「海が割れる」という事がいかなるものなのかを理解した。大量の水はその衝撃に両側へと追いやられ、露出した湖底に深々と傷跡が刻み込まれる。まさに、天変地異じみた一閃だ。

 

「こ……のッ……‼︎」

 

 上体を逸らした勢いのままぐるんと縦回転し、再構成した月の刃を掴み直す。

 休む暇はない。今度はセイバーが大きな円弧を描きながら速度を増し、剣を構えて迫り来る。

 

「うう──おおおおおおおおおおおおおおおおおッ‼︎」

 

 ドバンッッッ────‼︎‼︎ という轟音を立てて、受け止めた剣ごと俺は弾き飛ばされていた。

 そのまま堕ちる。真っ二つに割れた湖底まで吹き飛ばされ、力強く硬い地面を踏みしめた。途端、あまりの衝撃に大地が幾重にも陥没と隆起を繰り返す。

 天を睨み、こちらを見下ろすセイバーの元へと羽ばたこうとしたところで、

 

「なッ……⁉︎」

 

 両側から、無音のままに膨大なまでの水が襲いかかってきた。

 当然ながら、セイバーによって割られた湖がそのままになることはない。物理法則に従って、湖水はその空白を再び埋めんと迫ってくるのだ。慌てて湖底を蹴り飛ばし、呑まれる寸前で龍神湖を脱出する。

 

「はぁぁ──ああああああ──ぁぁぁぁぁぁッ‼︎」

 

 二段、三段跳びに魔力を爆発させて、音速をはるかに振り切って加速。こちらの全力、容赦なく命を取るくらいの覚悟で剣を構え、雷鳴ごと振り下ろす。

 空を割る一撃は、同様の一撃によって弾かれた。

 月の刃と月の刃。それを互いに噛み合わせ、額と額がぶつかりそうなくらいの零距離で、俺とセイバーは睨み合う。

 

「久しぶりな気がするよ。こんな風に睨み合うのはな‼︎」

 

「ほざくな、下郎が‼︎」

 

 斬撃の応酬が交わされる。

 聖杯と融合したセイバーが操る魔力はそれこそ無限だ。さらに彼女であれば、一度に放出できる魔力量も桁違いに高い。まともな魔術師が何人も一瞬で息絶えるほどの魔力を無造作に放つため、その一撃一撃はサーヴァントの宝具による一撃にすら匹敵する。

 

(これが、最盛期のセイバーの力……‼︎)

 

 彼女のあり方と精神を歪め、無限の魔力を供給している「聖杯」とやらが最大にして諸悪の原因だ。逆に言えば、彼女から穢れた聖杯を切り離すことさえ出来ればいい(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 と、セイバーがこちらに剣先を向けた。

 反射的に首を振って、放たれた蒼色のレーザーを回避する。それはそのまま大塚の田園地帯に一直線の焼け跡を刻んだかと思うと、きのこ雲が出来るほどの大爆発を引き起こして大地を揺るがした。

 

「ッ‼︎」

 

 だが、そんなものは見てすらいない。

 月の刃を突撃槍(ランス)へと変えて、膨大な魔力を推進力に突貫する。空気はその勢いに螺旋を描いてねじ曲がり、竜巻のごとく背後を裂いた。

 

「ふッ──‼︎」

 

 甲高い音を立てて、全力で突き出した一撃は背後へと受け流される。

 それくらいは織り込み済みだ。膨大な魔力を逆噴射して、セイバーの背後で身体を回し──、

 

「は──がっ……⁉︎」

 

 尋常ではない轟音を立てて、回し蹴りがセイバーの後頭部に炸裂する。その一撃たるや、自分でもゾッとするくらいの威力が出た。今なら高層ビルだろうが蹴りだけで倒壊させられるかもしれない。

 今度はセイバーが地上にかっ飛ばされて、湖岸に大きなクレーターを生む。

 

「……貴、様……‼︎ この私を、足蹴にするかァッッッ‼︎」

 

 たちこめる土煙を無茶苦茶に裂いて、激昂したセイバーがこちらを睨みつける。

 だが怯んでいる余裕もない。蹴りと同時に距離を詰めていた俺は、渾身の力で元に戻した月の刃を叩きつけた。

 割れた地面が更にひび割れ、悲鳴をあげるようにメキメキと音をあげる。

 

「おおおおぉぉぉぉぉアアアアアッ‼︎‼︎」

 

 正面からの力比べ。こうなったら結果は互角だ。

 時間の無駄と悟った俺とセイバーは同時に離れ、勢いよく狭い地上を飛び出した。秒を待たずに最高速に達し、一瞬で大塚市の上空を突破して、成層圏にまでたどり着く。

 

 太陽が昇りつつある宇宙とソラの境界線。

 

 色彩入り混じる幻想的な光景の中で、俺とセイバーは再び激突を繰り返した。

 

「「────────‼︎‼︎」」

 

 気温の低さも、空気の薄さも気にならない。

 牙剥く自然現象すら正面からねじ伏せるだけの力が、俺にも彼女にも宿っている。

 

「目を覚ませ、バカ! いつまで「この世全ての悪(アンリマユ)」なんかに染められてんだッ‼︎ お前は──」

 

「煩い‼︎ 喧しい……不快、不快、不快だ‼︎ その瞳で覗き込むな、これ以上私に干渉するなァッ‼︎」

 

 感情的な咆哮と共に、空一面を穿つほどの剣戟と蒼雷が一息の間に放たれる。

 雨の如く降り注ぐ攻撃をかわしきり、俺は身体を上下反転したままセイバーを視界の中心に据えた。剣を握り、直に斬り合って感じた感覚を思い出す。

 

(セイバーの調子が最初に比べておかしい。……やっぱり、あいつは完全に「この世全ての悪」に呑まれてないんだ。手がつけられなくなっても不完全(・・・)なままなら、まだ勝ちの目は……‼︎)

 

 一撃一撃、俺と言葉を交わすごとに、セイバーは感情的になっている。

 それはつまり、元の原型を──「セイバー」としての自我を取り戻しつつあるということだ。

 恐らく、バーサーカーと戦っていた時に見た、あの塔を包み込んだ浄化の光が原因だ。中途半端なところで「この世全ての悪」がまとめて断たれてしまったせいで、セイバーは本来の目論見よりかなり不完全な状態で顕現した。つまりは、悪意に染まりきっていない。

 ならばこちらの言葉は届く。

 そこからきっと、彼女を止める道を切り開ける。

 

「お前は──魔王として生きたくなんてなかったんだろう、セイバー(・・・・)ッ‼︎」

 

「っ、う……‼︎」

 

 その名前を呼ぶ。

 今の彼女が、「セイバー」ではない「魔王」が知らないはずの名に、しかし彼女は確かに反応を返した。

 

(今だッ……‼︎)

 

 頭を抑えて、不快な頭痛に抗うような彼女の元へと、薄い空気を裂いて突撃する。

 

(──────これで‼︎)

 

 懐に突っ込んだ紙切れを握り締め、目を見開く。

 あと少し。セイバーに紙切れを握った手が激突するその寸前──、

 

 パン、という軽い音を立てて、体のどこかが炸裂した。

 

「ごば、はっ……⁉」

 

 それは最早爆発だった。体内に埋め込まれた時限爆弾が、ついに起爆したかのような衝撃だった。

 美しい光景の中に、鮮血の赤が混じりゆく。

 不覚を悟る。もうとっくにガタがきていたのだ。魂と身体の限界は近く、しかし内側で暴れ回るエネルギーは無くならない。壊れたロボットに過剰なまでの電力を流しこもうと余計壊す結果になるのと同じだ。自分の武器(まりょく)が、今は自分を殺す脅威となる。

 

 ──はっ、として目線を前に向けた。

 

 その隙。動きが止まった一瞬の間に、セイバーは必殺の用意を整えていた。

 

「遅い……‼︎」

 

 彼女が後ろに構えるは、刃渡り十メートルを超えるまでに膨張、巨大化を繰り返した月の刃(チャンドラハース)

 刹那、空を裂く轟音が炸裂した。

 咄嗟に引き寄せた刀身ごと身体に伝わる莫大な衝撃に、恐らく身体中のあらゆる箇所の骨が粉々になった。

 剣を手放さなかったのは奇跡に近い。悲鳴をあげる余裕すらなく、渾身の一撃によって成層圏から一息に地上まで吹き飛ばされる。

 意識が飛びそうになった頃、何かに激突する新たな強い衝撃で強引に目を覚ました。伸びきった四肢を投げ出したまま、俺は呆然と朝焼けの空を見上げる。

 

「か……はっ……あ…………」

 

 身体が、感覚が、俺を構成するありとあらゆるものがもうダメだと言っている。

 四肢の感覚がほとんどない。音は聞こえないし、痛みもないし、飛び散った血の匂いを感じ取る嗅覚も消えた。視覚がまだ残っているのが幸いだが、それもぼんやりと歪み始めている。

 稼働時間が、もう残されていないのだ。

 それでも、まだ手は動いてくれた。「動かしている」という感覚も無いが、思い通りに動作した。

 

「ぜえ、ぜえ……っ」

 

 ────ここで、決めるしかない。

 

 猶予はなかった。戦いを長引かせては勝ち目がない。まだ動ける内、次の攻防に全てを賭ける。

 幸い、セイバーの気配は濃密に感じ取れるが、彼女は塔の頂上に降り立ったまま動く気配を見せていない。こちらを屠った、と侮っているなら僥倖だ。

 視線を上げる。

 今自分は地上の何に突っ込んで動きを止めたのか。見れば答えは明らかだった。めちゃくちゃに捻じ切れた鉄骨、そこら中から覗く断線したケーブル、破片となって転がるコンクリート片。俺が落ちてきたことで隕石が貫通したかのような傷を受け、傾いてしまった巨大な看板の電子時計は、間違いなく高さ五十メートルを誇る大塚ランドマークタワーのものだ。

 

「…………………ここ、は」

 

 申し訳なさと共に、懐かしさを感じた。

 セイバーと俺が深夜に街に飛び出した時は、市内であれば大体の場所から確認できるこのランドマークタワーの時計を見て、まだ動くには早いだの遅いだのを相談したものだ。

 頭はぼんやりして、あらゆるものを忘却し始めているのに、こういうことは鮮明に覚えている。

 

「……悪いけど、全部まとめて……借りる」

 

 そう言って、俺は半ばから傾いたランドマークタワーの鉄骨にそっと触れた。

 莫大な量の魔力を、一点。掌と鉄骨が触れる箇所に注ぎ込み、そこからランドマークタワー全体へと通電させるように拡散させる。

 蒼雷を纏い、朝靄の中に佇むソレは眩く発光した。

 時間はない。頭の中に計算は立った。セイバーが先に攻撃してくるよりもなお早く、確実に作り上げる。

 

「は、あ……ああああ……ああああああああああッ‼︎」

 

 魔王特権。

 この力を使って何かを作るならば、ある程度元の形状をイメージできるものを元型に据えるのがいい。空中戦艦ヴィマーナを戦闘機から作ったが如く、だ。

 けれど、いま思い描いている武装(・・・・・・・・・・・)に似通ったものなど存在しない。

 だから後は単純かつ強靭な物量(リソース)をつぎ込んで、無理やり形にするしか道はなかった。幸い、ここには莫大な質量と硬度を誇る「モノ」がある。これら全てをつぎ込めば、形くらいにはなってくれるだろう。

 

「おおおおおおおおッ──────‼︎」

 

 バキバキベキゴギゴギッ‼︎‼︎ なんて鋼鉄の咆哮を轟かせて、物理法則を無視した変換と圧縮が行われる。

 半ばぶち抜かれたランドマークタワーの上半分、何十トンにもなるであろう巨塊がみるみるうちに圧縮され、さらなる収縮を経て、僅か二メートル前後の長細い何かへと形を整えていく。

 それは「その形」を持った瞬間、眩い光を撒き散らして大塚の街を照らし出した。

 

 完成したものは、光の矢。

 

 俺がセイバーの知識を参照する中で文句なしの「最強」を誇る武装。それは当然、彼女を殺めた勇者の矢(・・・・・・・・・・)に他ならない。

 勇者の怨敵たる魔王として振る舞う以上、セイバーには決して使うことのできない偽物(こちら)の切り札だ。贋作とはいえ、この矢は間違いなく彼女にとっての脅威となりうる。

 

 ゆっくりと、確実に右腕で閃光を構え──、

 

「……其は、羅刹王すら屈した、不滅の刃──……‼︎」

 

 左手は、照準を合わせるように塔へと向けた。

 

 セイバーはとっくに気づいている。その上で、自信満々にも受け止める気なのだ。

 ならば、と、迷いなく渾身の力を右腕に込める。

 収束、加速を繰り返す光の渦。此れなるは勇者の矢、かつて一度彼女(らせつおう)を屠った必殺の一撃。

 その名は──、

 

 

羅 刹 を 穿 つ 不 滅(ブラフマーストラ)────ッ‼︎」

 

 

 瞬間。

 

 天空の黎明を、一筋の閃光が両断した。

 

 

 

 

 その一撃は、まさに世界を貫く流星だった。

 

 回避は無意味。運命、因果のレベルであの矢は私を確実に捉えるだろう。

 あらん限りの魔力を一点収束し、不退転の覚悟で月の刃を正面に構える。膨大な距離を挟んでおきながら、それの射出から塔の頂上に着弾するまでの時間は3秒となかった。

 

 刹那、牙剥く閃光を受け止めた。

 

 ゴッッッッッッッ────‼︎‼︎‼︎ という、魔獣の咆哮を千は重ねたかのような爆音が響き、剣を抑える両手に凄まじい負荷が襲う。爆ぜ散る閃光は容赦なく、私を貫かんと猛っている。

 

「が──くううううううっ────……‼︎‼︎」

 

 靴底が床を削る。押し込まれる。

 森羅万象、世界すら貫く一撃であろうと、跳ね返せぬ私ではない。

 それでも押されつつあるのは、きっと、この矢が「私を殺したもの」だからだ。混濁している記憶でも、この矢が最悪の武装であることくらいは理解できる。

 

「ううおおおおァァァァっ──────‼︎」

 

 舐めるな、と咆哮(こえ)を張り上げる。

 あの偽物に格の違いを分からせるため、あえて全霊の一撃を正面から受け止めたのだ。この程度、ねじ伏せずして何が真たる羅刹の王か。

 死を目前とした緊張感。

 恐れはない。私の第六感は冷静に勝利への道筋を捉えた。押し込まれ、塔の頂点から落下するよりも早く、全力の力で剣の角度を僅かに傾ける。

 

「────…………ッッッ‼︎‼︎」

 

 同時に、全力で首を振った。

 紙一重。頰を浅く裂かれたが、逸らされた閃光の矢は標的を失って背後へと飛んでいく。

 

 次の瞬間、あらゆる音と光が消え去った。

 

 勇者の矢による一撃は、私が立つ天月の塔、その背後に佇む大きな湖の湖面に激突した。矢に込められた膨大なエネルギーはその途端に解放され、天まで揺るがす大爆発となってあらゆる全てを消し飛ばす。

 天高く打ち上げられた多量の水は時間を置いてから降り注ぎ、豪雨となって私の黒鎧を濡らしていった。

 

「……………………ふ、ふふ」

 

 無言のままに、背後を見下ろした。

 もうもうと立ち込め、高く高く立ち上る白煙。

 あったはずの湖は跡形もなく消滅していた。残されているのは荒れた地面を晒した大きな窪みだけだ。今の一撃によって、広大な湖の水は残らず蒸発してしまったのだ。

 

「はははははははははっ‼︎ どうだ、不敬なりし我が贋作‼︎ 貴様の言葉も、刃も、命を賭した一撃も‼︎ 真たる(まおう)を殺すには能わない‼︎」

 

 奴が全霊をもって放った先の一撃は、確かにこの私を殺す上では最も適した攻撃ではあった。しかし、魔王と勇者は正反対にして相容れぬモノ。その力の全てを引き出せるわけがない。

 大方、無茶をした向こうの方が自滅している頃合いだろう──とまで思ったところで、ふと。

 

「──……ッ⁉︎」

 

 悪寒を感じて、私は目を見開いていた。

 

 違う、と戦士としての本能が叫んでいる。

 考えてみれば違和感がある。最初から一貫して、奴は自分にあるはずの殺意を向けていなかった(・・・・・・・・・・・)。それが最後に放つのが、自分を殺すために最も適した攻撃だという矛盾には、どこか違和感を覚えてしまう。

 

「────まさか」

 

 反射的に呟いて、私は魔力感知に集中する。

 結果はすぐに明らかとなった。

 上、だ。

 素早く顔を上げて空を睨む。秒を重ねるごとに色付いていく空、太陽が昇る寸前にある朝靄の中。

 

 それでも、しがみつくように天に座す満月を──、

 黄金色から透明色へと移りつつある正円のそれを──、

 

「そこに、いたか────‼︎‼︎」

 

 私は、叫ぶとともに睨みつけた。

 そして、その瞬間。

 

 空すらも塗りつぶすほどの膨大無比なる黄金の閃光が、この世界を覆い尽くした。

 

 

 

 

 破壊された大地が、蒸発した龍神湖が、沈みつつあった仙天島の成れの果てが、あらゆる世界の全てが、その暖かな光を浴びていた。

 その漲るような魔力の量は尋常ではない。

 「無限」をそのまま表したかの如き、表現するのも馬鹿らしい魔力量。エネルギーにして核融合兵器数発分にすら匹敵する超絶火力。

 それがこの大塚市上空に集まり、台風の目のごとく渦を巻いている。その燐光はきっと、宇宙からでも観測できたことだろう。

 

「……………セイバー。いや、ラーヴァナ 」

 

 その、中心。

 桁違いのエネルギーを放ち続ける剣、それを高々と天に掲げている少年は、少女の名前を呟いた。

 

「運命ってのが本当にあるとしたら……やっぱり俺は、お前と生きることは出来ないのかもしれない。こうなることが、俺たちの運命なのかもしれない」

 

 偽銘(イミテーション)煌々たる月雫の夜刃(チャンドラハース)

 そう呼ばれたその剣は今や蒼色の魔剣ではなく、黄金に輝く聖剣(・・・・・・・)と化して唸りを上げていた。

 

「それでも、俺に出来ることはある。俺にしか出来ないことがある。ずっと前に、誰かが成し遂げたことのように」

 

 以前彼女が説明したように、セイバーが握る剣が魔剣に変質しているのは、彼女が血に塗れ過ぎた結果に過ぎない。魂まで定義付けられるほどの殺戮の結果、もはや彼女が聖剣を握る資格は失われた。

 しかし、彼にはまだ「資格」があったのだ。

 羅刹王のものと混同され、一度は暴走しながらも、助力によって穢れを払い除けた清廉無垢なる魂。その持ち主たる志原健斗が、殺意や敵意といった負の感情を一切有さずにその剣を振るったが故に、この奇跡は手繰り寄せられた。

 かの剣の真たる銘、「聖剣チャンドラハース」。

 それは満月色、黄金を振るう聖剣である。

 

「──……セイバーは返してもらうぞ、魔王」

 

 決着の時だ。

 健斗は剣をやや後ろに構え、背後の翼を勢いよく羽ばたかせた。

 

 

 

 

 対し、地上。あらゆる全てを睥睨できるはずの塔の頂点に立ちながら、こちらを見下ろされるという屈辱を味わったセイバーは、怒気を強めて黄金を構える剣士を見据えていた。

 

(勇者の矢は囮。私が迎撃に要した時間を利用し、あの超高度まで一気に移動──可能な限り月に近付き、ありったけの月光を刀身に充填(チャージ)することで、聖剣のカタチを取り戻した……⁉︎)

 

 きっと、今の彼女には理解できなかっただろう。

 彼が、セイバーと共に戦い抜いてきた健斗が何よりも信頼する武器は、決して勇者の矢などではない。相棒にして戦友たる少女の剣こそが、健斗が最強無比と信じるただ一つの武装だったのだ。

 

「う、…………く──」

 

 天より惑星を鷲掴みにするかのような絶対の力。

 自らにも真似できぬ「聖剣」による一撃ともなれば、こちらの全力をもって応じるしか道はない。

 退路はなく、さらなる脅威は眼前にある。

 それくらいなんてことはなかった。これしきの脅威、数えられないほどに跳ね返してきた。

 けれど──、

 

「──────、っ」

 

 脅威でもなんでもない、殺意ですらない暖かさが、彼女の言葉を詰まらせ、焦燥を感じさせている。

 こちらとぶつかる視線に混じるもの(・・)を感じて、セイバーは顔を歪めて目線を落とした。

 

「……不愉快、だ……貴様の、目……‼︎」

 

 ──違う。違う。違う。違う。

 

 人間は全て敵だ。殺戮すべき害悪だ。それを成すことが己にとっての正義だと、他でもない自分の中から聞こえてくる。

 それなのに、何故手は震え出す?何故、心が吼え叫ぶ?

 

 何故、何故、何故、なんでっ────、

 

「うるさい……うるさいっ‼︎ 私は魔王ラーヴァナ‼︎ 人類に、生あるものに、あらゆる世界全てに叛逆する──そう生きる事を定められたモノ‼︎‼︎」

 

 感情の昂りに呼応するように、激しい蒼雷が彼女の周りをのたうちまわる。

 

「だから──私を、その目で──……見るなあああああああああああああああああああああああああああああああああッッ‼︎‼︎」

 

 思わず、そう叫んでいた。

 キュゴッッッッッ‼︎‼︎ と、頭上の黄金に匹敵する莫大なエネルギーが火を噴いた。

 魔剣チャンドラハースを中心として、銀色の閃光が世界を灼く。

 鏡合わせように構えられる月の刃。

 その構えは見据える少年と全くの同一だった。魔力の放出と同時に荒々しく地面を蹴り飛ばし、音すら振り切る最高速度で黄金の彗星へと突撃する。

 

 ────黄金と、白銀。

 

 それらを纏った流星は(ふた)つ、天と地を挟んで向かい合う。

 

 少年は、その柄を次第に崩れゆく指で握りしめた。

 少女は、きらりと揺らぐ瞳で敵の閃光を睨みつけた。

 

 互いに信じる武器(えもの)は一つ。

 同時、放たれる閃光を高々と振りかざして、二人の王は口を開く────‼︎

 

 

 

「「煌 々 た る 月 雫 の 夜 刃(チャンドラハース)‼︎‼︎‼︎」」

 

 

 

 そして。

 世界を割る二つの極光が、真正面から激突した。




【偽・羅刹を穿つ不滅(ブラフマーストラ)
「魔王特権」の力により、大塚ランドマークタワーが持つ体積の大半を魔力変換して健斗が作り出した、かつて魔王を殺した勇者の矢、その偽物。偽物とはいえその威力は絶大無比であり、一撃で龍神湖そのものを跡形もなく蒸発させた。セイバーにも理論上は作り出せるものの、健斗と違って羅刹王としての自分にプライドを持つ彼女が仇敵の武器を再現することは決してない。
【聖剣チャンドラハース】
セイバーがチャンドラハースを魔剣にしてしまう前、破壊神から賜った際の姿。月の刃チャンドラハースは、魔王として殺戮を繰り返した彼女によって魔剣と歪められてしまったが、健斗の魂は清廉なままだった。使用者の魂に呼応して在り方を変える月の刃は、「スーパームーン」と呼ばれる今宵限りの満月による後押しもあり、新たな使用者である健斗に合わせ、黄金の聖剣の形を取り戻すことができた。


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九十三話 Fate/crescent 蒼月の少女

 ──よし、決めた。

 ──もし倒されるのが、悪として在るのが魔王(かのじょ)の役割だっていうのなら。

 ──今なお生きている俺の存在をかけて、その認識を否定しよう。

 

 

 そう決めたのは、自らの生きる道を見出したのは、一体いつだったのだろう。

 もう、ほとんど、何もかも思い出せないけれど。

 それでも、彼女の笑顔を見てそう思ったことだけは、あらゆる全てを忘れたって覚えている。

 だから、志原健斗はここまで突っ走ってこれた。

 後は、その言葉通りに──俺の存在全てを以って、自分の願い(ユメ)を貫くだけだ。

 

 ──その高空を、金銀の光華が瞬く間に染め上げていく。

 

 比類なき次元にまで上り詰めた二者の衝突。

 すぐそこにある終末を前にして、世界はただ震えることしかできなかった。

 ただ、最中に在りながら、俺にかかる負荷や痛みといったものはほとんど存在しなかった。

 実際は、もうそれらを感じる事が出来なかった、というだけ。感覚も音も感じられないのでは、目の前で渦巻き、膨張し、互いに喰らい合う金と銀の嵐を見たところで、そんな映像を無為に見させられているような、現実感に欠けた印象を抱いてしまう。

 剣を握る手から、何かがぼろぼろ、と崩れていった。

 手の一部、もしかしたら指だろうか。それは困る。もし全ての指がなくなってしまったら、剣を振るうことができなくなってしまう。……いや、きっとこれが最後の一撃になるだろうから、要らぬ心配だったかもしれない。

 そんなことを考えている間にも、身体のあちこちが崩壊していく。

 限界をとうに迎えていた身体(うつわ)が、機能を終えて土に還っていく。

 

 ──……でも、まだだ。

 

 あと、少し。

 この手を彼女に届かせるその刹那まででいい。

 だから、あと少しだけ、この世界にしがみつかせてほしい。

 

 だが、目の前に在る現実が、俺の生存を否定する。

 最後までもつかもたないか、の話じゃない。

 放ち続ける黄金色の煌めきは、次第に迎え撃つ銀光に押されていき、呑まれつつあった。このままでは押し負けて、俺は塵も残さず消滅する。

 当然の帰結だった。

 この剣は贋作。いくら形を変えて力を増したところで、正面からの力比べでは、決して真たる刃には敵わない。

 その差が、いくら高めようとも埋められないほんのごく僅かな差異が、ここに来て勝敗を決する要因となる。

 

「──贋作の身で、ここまで上り詰めたことは認めてやろう……だが終わりだ。貴様の剣が、私を上回ることは決してない──‼︎」

 

 セイバーが、何かを言っているような気がした。

 もう分からない。その言葉を、その声をもう聴けないことが、心の底から残念だった。

 そうして、銀光はますます盛んに吠え猛る。

 「贋作は真に敵わない」。それがこの世界における絶対の法則、覆しようのない道理(ルール)なのだとしたら、この二つを馬鹿正直にかち合わせてしまった時点で、俺の敗北は確定する。

 

「………………魔王、特権──‼︎‼︎」

 

 ──それこそ、知ったことじゃない。

 

 奮い立つ。そんなくだらない道理は踏み倒せ。

 俺では彼女に決して勝てない、それくらいは想定の内だ。常識や道理くらい捻じ曲げずして彼女を救えるだなんて、最初から思っちゃいない。

 困難を打ち破るための道は一つ。こちらが贋作であるならば、贋作にしか出来ぬ手段をもって、真の一撃を凌駕するまでだ。

 

「──……たの、む……チャンドラ……ハース……」

 

 掠れる声でその銘を呼ぶ。それだけで聖剣は応えた。碌に喋ることのできない俺の意を汲み取って、残存する全てを使い尽くし、黄金の奔流を加速させる。

 それこそ、自分を犠牲にせんばかりの勢いで。

 やがて限界点を突破した。びしりと刀身に亀裂が走る。それらは瞬く間に広がり、黄金の欠片を雫のようにこぼしながら、俺の手の中で粉々に砕け散った(・・・・・)

 

 ────その瞬間。

 

 消えかけの黄金は、更なる暴威と威力を伴って、再び世界を席巻した。

 

「な──に──…………ッ⁉︎」

 

 金と銀が正面から混じり合い、世界そのものをかき乱す衝突の奥で、確かにセイバーが驚く気配を感じ取った。

 チャンドラハースそのものを構成する膨大な魔力、それすらもエネルギーと変えて出力に加算したのだ。いわば愛刀を捧げた一度限りの自爆攻撃、この月の刃が贋作故に踏み切れる最後の手段。

 威力を増したこの一撃にセイバーが抗うには、それこそ俺と同じように、その刃を犠牲にするしかない。

 だが、その刃は本物だ。

 果たして彼女に決断できるのか。自分より劣る偽物を打ち倒すためだけに、自らの象徴でもある神造兵装を永劫に手放す覚悟が、今の揺らぐ彼女には存在するのか。

 

 もう幾ばくもない。

 あと数瞬の後、きっと決着は付くだろう──。

 

 

 

 

 最早死にかけと思われた黄金の息吹が、再びその勢いを取り戻して吠え猛った。

 驚嘆と共に、歯噛みして月の刃を握り締める。

 

「は────ぐ────……ッ‼︎‼︎」

 

 身体を襲う莫大な圧力が、こちらに押し寄せようとする黄金が、すぐそこに迫る敗北を予感させる。

 あの男。

 私の贋作である「奴」は、ここで全て終わっていいとばかりに、月の刃そのものを起爆剤としてこの一撃に込めたのだ。魔王特権による「壊れた幻想」の応用か。

 そして、真贋の出力差は、元からほんの僅かしか開いていなかった。

 それこそ、奴が剣そのものを捨てて全霊を出し尽くした時、出力の優劣が逆転してしまうほどに。

 

「────舐めるなァァァァッ‼︎‼︎」

 

 ならば、と私は手にした月の刃に命令する。

 逆転したエネルギー量は問題ない。こちらも奴と同じように月の刃を折り砕き、全てを破壊力へと変換してやれば、勝敗は元に戻る。

 迷っている暇はない。己の直感が、身体全ての細胞が、それ以外に勝利への道はないと叫んでいる。

 

「全てまとめて──私の、前から────‼︎‼︎」

 

 消えろ、と。

 そう感情的に叫びながら、魔剣と化した月の刃を自壊させ、目の前の黄金を消し飛ばそうと。

 

 そうしようと、思ったはずなのに──、

 

 びきり、と脳髄に酷痛が走り抜ける。まるで何かを拒否するかのような、この生き様を否定するかのような不可視の閃光が、私の中を貫いていく。

 この感情を私は知らない。

 あの外敵に剣を向けることを、私の知らない私が否定する。

 

「あ、ぐ……ううううっ‼︎」

 

 痛みも苦しみも関係ない。強引に決着を付けようと、自壊を命じたチャンドラハースに視線を向ける。

 

 しかし。

 

 我が生涯の愛剣たる月の刃は、命じた筈の自壊を押し留め、変わらずそのままの姿を保っていた。

 まるで、そうすることが正しいのだと、私自身が認めてしまっているかのように。

 

「な──なん、で────…………」

 

 自分自身に裏切られたような衝撃。思わず全身から力を抜いてしまうほどに愕然として、そんなことを呟いた時。

 ふと、誰かの声が聞こえた気がした。

 

 ────「セイバー」と。

 

 私が聞いたことのない筈の名前を、私ではないのに私と信じられるその名前を、どこまで傷付いても呼び続けてくれる誰かの声を聞いていた。

 或いはそれが理由だったのか。

 はっ、として目線をあげる。

 迫る黄金は迎え撃つ白銀を抜け、吹き散らしながらも押し進み、ついぞ我が一撃を喰らい潰す。ほんの一瞬、気を取られたその刹那に、全ての決着は果たされていた。

 

「しま────…………‼︎」

 

 次の瞬間、私を黄金の燐光が包み込む。

 回避も防御も間に合わない。最早何かをする余地もなかった。咄嗟、目を閉じてその衝撃を受け止める。

 

「──うああああああああああああああああっ‼︎‼︎」

 

 肉骨をめちゃくちゃに捻じ切らん衝撃が全身を叩き、悪性を滅ぼす閃光は身体を灼き払う。手の中から、月の刃が吹き飛ばされて飛んでいった。

 瞬間ごとに遠くなる意識の中で、ああ、と諦めじみた呟きを漏らした。

 

 

 ────……「私の、負けだ」。

 

 

 きっとここが終着点になる。聖剣の光に浄化されて、魔王ラーヴァナ は滅ぼされて消え失せる。きっとそれは、この世界が敷くシナリオとしては至極当たり前の結末で、私が抗うことのできる余地なんてない。

 それが、いつかは打ち倒されるのが、魔王たる私の運命なのだろうから。

 そうと分かって、それでもその生き方を変えられなかったのは、誰かに手を取ってもらわねばならなかったのは、きっと私が弱いからなのだろう。

 

 せめて、私があとほんの少しだけ強ければ。

 或いはきっと、違う生き様を選ぶことだって出来たかもしれないのに──、

 

 目を閉じて、そんなことを思う。

 音も何もかも消えていく世界の中、しかし、

 

 

 

「セイバ──────────────ッッ‼︎‼︎」

 

 雷鳴じみた力強い声が、私の諦念を引き裂いた。

 

 

 

 

「セイバ──────────────ッッ‼︎‼︎」

 

 その一撃を放ち終える瞬間、彼はほとんど何も考えずに空を疾駆して、セイバーの元へと向かっていた。

 地表になだれ込む黄金の閃光に自ら特攻し、呑まれた彼女の姿を探す。

 たとえ感覚が薄くなったって、その気配だけは忘れなかった。

 手を伸ばす。過去をなぞることなんて許さない。ところどころ崩れ落ちた腕で奔流を掻き分けて、ついぞその手を掴み取った。

 

 ──もう離しはしない。絶対に。

 

 その華奢な身体を引っ張り上げて、ボロボロになった双翼で空を蹴る。セイバーを抱き上げたまま安全圏まで離脱して、健斗はずっと取っておいた紙片を取り出し、硬く右手で握り締めた。

 倫太郎達と別れる前、彼がキャスターに頼んでおいたものがこれだ。

 かつて健斗の体内からあらゆる穢れを締め出し、彼を救ったキャスターの陰陽術。セイバーを救い出すには彼の力を借りるしかない。

 この呪符には彼の術式が封じ込まれ、今か今かと起動の時を待っている。

 

「式神、跋祇……‼︎」

 

 細かな調節は道具作成に長けたキャスターが請け負ってくれている。

 あとは、ただ教えられた言葉を言い放つだけでいい。

 少年は握り込んだ紙片をセイバーの胸の中心に押し当てたまま、その体を強く抱きしめて、

 

「陰陽反転式・魔性封────‼︎‼︎」

 

 その警句を、ありったけの声を振り絞って言い放つ。

 爆発があった。

 セイバーが絶叫する。体内に蠢いていたモノ、「この世全ての悪」の残りカス全てが跡形もなく消し飛ばされ、彼女と融合した不純物(せいはい)が体内へと弾き出されたのだ。

 彼女の背中から抜け落ちるようにして、少女の体に収まりきるはずのない体積と質量を持った肉塊が飛び出していった。小山ほどのそれはそのまま重力に囚われると、遥か下の地面めがけて墜落していく。

 それと同時に、漆黒に染まっていたセイバーの髪は元に戻り──いつもの、優しさすら感じさせる蒼色を取り戻していた。

 変化が終わって、セイバーはぐったりとして力を失う。

 呼吸はしている。多少の傷はあるが、いずれも命に至るほどのものではない。

  健斗は、それを見て何を言うでもなく、無言で大きく息を吐き出した。

 ついに彼は辿り着いたのだ。その存在をかけて「魔王」を否定するという、彼が見出した答えに。

 

 ────戦いの終わり。

 

 セイバーを助け出したもう一人の魔王は、翼を羽ばたかせて地面へと向かい──黄金の一撃によって巨大な傷跡(クレーター)を刻み込まれた湖の跡地に着地する。

 その虚ろな目線の先。山麓から姿を見せた朝日が、傷ついた二人を爽やかに照らし出していく。

 

 その黎明は、まるでこの戦いの終わりを告げるかのように、燦々と光を振り撒き続けた。

 

 

 

 

「……う……、っ……?」

 

 どれくらい長い間、眠っていたのだろう。

 何かに取り憑かれていたような意識が急にクリアになり、私は何かに急かされるようにして目を開けていた。

 ぼんやりとした視界に誰かが映る。

 何度か瞬きをして、ようやく鮮明な視界を手に入れた。身体中が痛くて、何故か指先一本動かせないほどに消耗していたが、そんな事は気にならなかった。

 

「ケ……ン…………ト?」

 

 私を抱き上げたケントは、どこか遠くを見るように視線を前に向けていた。

 それにつられて前を見る。

 そこには、傷痕と残骸のみが残されていた。傷つきひび割れた大地には、白くくすんだ何かの残骸がいくつか突き刺さっているだけで、ほとんど何も存在していなかった。

 

「────……あ、」

 

 それを見た瞬間に、忘却していた記憶が蘇る。

 他でもない私が、この惨状を生み出したということを。

 

 そして──私を止めるために、ケントが戦い抜いてきたことを。

 

 その瞬間に私を襲ったものは、罪の意識や、悲しみや、自分への怒りや、言葉にできないくらいの嵐じみた感情の群れで、私は思わず言葉を失った。

 この掌が覚えている。

 彼と戦い、剣を交えた感覚を。

 決して取り返しのつかないことを、私はしてしまったのだ。

 

「────……ケン、ト、私……は」

 

 こんな罪過を、どう謝ればいいのだろう。

 魔王ではないと信じてくれた彼を裏切った。それだけに飽き足らず、自らの弱さから剣を振るい、彼をこの手で傷つけた。

 言葉に迷いながらふらふらと視線を彷徨わせる。いつもなら、こういう時は何かケントの方から言ってくる頃合いだ。

 

 ……しかし、彼は何も言わなかった。

 

 視線を彷徨わせて、彼の身体を眺め回した時、ケントはぴくりとも──まるで彼一人だけ時を止めてしまったかのように、動こうとしなかった。

 

 動かなかった。

 

 

「…………………………………………ケント?」

 

 

 思わず、彼の名を読んでいた。

 それは石像のようだった。私を抱き上げたまま、彼は動きを止めている。微動だにせず、夜を追いやる太陽を見つめている。

 そして、気づく。

 

「………ねえ、ケント……いつもみたいに……返事、を…………」

 

 返事はない。

 結論が、かちりと頭の中で導き出される。

 だが──ちがう、絶対に──その答えを認めるわけにはいかず、私は弱々しく首を振った。

 

「お、っ……お願い…………ですから…………」

 

 そこには鼓動も呼吸も、暖かさもない。

 叫び出したくなる。

 頭が真っ白になって、現実を認識することを拒んでいる。

 

「……返事をっ……返事を、して…………くださいよ…………」

 

 ──彼の生は、もうどこにもない。

 

 びゅう、と強めの風が吹いた。

 彼の蒼色に染まった髪の毛が揉まれて、こちらから見えなかった瞳が露わになる。

 そこには、もう何も映っていなかった。

 朝日を臨む瞳はもう二度と何かを映し出すことなく、昏い闇をたたえて沈黙していた。

 

 かつて共に在ったケントという人間は。

 けれど、もうそこにはいなかった。

 

「あ──……………、あ」

 

 それが、私が背負う最大の罪だった。

 取り返しなどつくはずがない。

 私は、結局。

 再開というやり直しの奇跡を手に入れたところで、この手で彼を殺めるという運命そのものは、変えることができなかったのだ。

 

「う……あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ─────────‼︎‼︎」

 

 声にならない慟哭が天を震わせる。

 私は、ずり落ちるように空の手の中から抜けると、ケントだったものを強く抱き締める。

 今さら何もできない。

 彼はもう遠いところに消え失せた。あとに残されたのは、元どおりの死体が一つだけ。

 風が吹き抜けるたび、彼のどこかが崩れ落ちていくのが、たまらなく悲しかった。

 

「…………っあ、…………ぐ」

 

 毅然と立ち尽くす亡骸の前で、地面に拳を叩きつける。

 私はきっと間違えたのだ。

 「ラーヴァナによって志原健斗(このひと)は殺される」。

 それが、前世から世界に決定された私達の運命であったとするならば、最初から彼との再会を望み、喜ぶことが間違っていた。

 そんな──変えようのない運命が果てに横たわっているも気付かずに、私は、また彼を殺めてしまった。

 

「うぅ、う゛………………‼︎」

 

 溢れる涙が、露出した地肌に突き刺さる。

 その時。

 

 ──ズシン、と。

 

 両手両足をついた地面が、揺れる。

 地震ではない。泣きながら振り返ると、小山じみた大きさの肉塊が地面を割って起き上がり、こちらに這ってくる様子が見えた。

 

 ────受肉した、聖杯。

 

 その成れの果てがアレだ。

 ケントによって私の中から弾き出されたそれが、諦め悪く蠢いている。

 この世全ての悪(アンリマユ)の汚染は消えているようだが、今の聖杯はただの聖杯ではない。「魔王」という概念と一体化してしまったことで、己をはっきりと定義できなくなり、不安定な存在と化している。故にこそ、自らを再定義できるほどの強力なエネルギーを求め、蠢いているのだ。

 そこに意味はないだろう。たとえエネルギーを取り込んだとて、あの壊れかけた願望期は遅かれ早かれ自壊する。

 

「──────■■■■、■■」

 

 声を上げて、醜悪な肉塊がこちらに向かってくる。ずりずりと、ゆっくりした歩みながらも、巨大なソレは着実に距離を詰めてくる。

 まるで執念か妄執か。可能性がなくとも、それでも足掻かずにはいられないらしい。

 

「─────、う───」

 

 それを見て、私は咄嗟に月の刃を握ろうとし、それが最早出来ないことを理解した。

 力が消えている。身体の中を駆け巡る魔力も、超常の身体能力も、一切が失われていた。

 私を「魔王」たらしめていた神々の加護は、あの聖杯に引っ張られて私の身体から抜け落ちたらしい。

 

「■■■■■■■■■■……ッッ‼︎」

 

 今の私はただの少女と大差ない。つまるところ、奴が奪い取ろうとしているのは無力な私ではない。

 死して尚、第二の羅刹王であったケントの亡骸だ。彼の有する膨大なエネルギーに惹かれ、聖杯は歩みを進めている。

 力を振り絞って、ふらりと立ち上がった。

 せめて。ケントをこれ以上、勝手にさせはしない。

 命を賭けた彼の亡骸を、無為に使い潰させなどしない……‼︎

 

「貴様に……ケント、は……渡さない……‼︎」

 

 ぎゅっ、と右手を握りしめる。

 今の自分に何ができるのか。きっと何もできないだろう。立ち向かったってあの肉塊に轢き潰されるしかない。

 でも、ここで動かないと、私は永遠に弱いままだ。

 地面を蹴る。馬鹿みたいにゆっくりした動きで、視界を埋め尽くす赤黒い肉塊に掴みかかろうと──、

 

 

 

「大丈夫」

 

 

 

 ぽん、と、後ろから頭を撫でられた。

 

 思わず背後を振り返る。しかしそこに、立ったまま絶命していた筈のケントの亡骸は無く。

 代わりに、眼前から凄まじい爆音がこだました。

 つられて再び視線を前へ。

 眩い蒼雷を激しく散らせながら、ケントが渾身の力で、壁じみた肉壁を押し留めている。その後ろ姿が、傷だらけになった黒鎧とたなびく紫紺の外套が、照らされて淡く輝いていた。

 

「ケントっ────⁉︎」

 

 放たれる雷が肉塊を抉り、掘削機じみた勢いでその肉壁を削り続ける。そんな嵐の中で、ケントは確かにこちらを振り返り、口を開いた。

 

 ──その時、彼は何を言ったのだろう。

 

 理解できるより早く、彼の魔力放出が地面を砕いた。強烈な推力が発生し、ケントは自分の身体ごと、小山のような肉の巨塊を易々と宙にかち飛ばす。

 彼は瞬く間に逆向きの流星と化して、一直線に天へと上昇していく。

 

 

 

 

 その流星を────、

 天へと向かう蒼の星を、あらゆる人々が目にしていた。

 

 暁の空を見上げていた、彼のただ一人の妹も。

 繭村家嫡男たる、とある魔術師も。

 かつての聖杯戦争を切り抜けた二人も。

 病院で目を覚ました彼の親友も。

 同じく目を覚まし、外に飛び出した喫茶店の主も。

 この街に集い、水面下で工作に奔走していた魔術師達さえ。

 また、奇跡に関わらぬ大塚の人々だって──、

 

 全ての視線がそこに集約していく。

 

 空を駆け抜け。

 天を貫き。

 一直線に何処かを目指す──蒼く輝く彗星を。

 

 

 

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ッ‼︎」

 

 無貌の咆哮が体を震わせる。

 それでもこの手を緩めはしない。無尽蔵の魔力を使えるだけ使い切って、肉塊(せいはい)ごとはるか高みへと登っていく。

 

「おおぉぉォォォォォォォォォォォォッ──‼︎」

 

 握りしめた右拳は深々と肉の壁に突き刺さり、蒼雷は絶えずそれらを灼き続けているが、まだこいつを仕留めるには火力が足りない。

 それこそ月の刃が手の中にあれば、この程度の肉塊など、一薙で跡形もなく消し飛ばせただろうに。

 それを理解しているのか。

 肉塊となった聖杯は、その身を灼かれながらも身体を蠢動させ、瞬く間にこちらの四肢をぶ厚い肉で拘束してみせた。圧搾機じみた莫大な圧力をもって、強引にこちらを封じ込めにかかったのだ。

 

「──、ッ────‼︎」

 

 全力で、全身から蒼雷を無造作に爆発させる。

 それでも聖杯の質量は莫大だ。一瞬は動きを取り戻せても、すぐに奥から奥から迫り来る肉塊がこちらを呑み込み、更なる質量で押し潰す。

 

「がっ……────‼︎」

 

 こうなってしまえば優勢は向こう側に傾く。聖杯は、存在の核となるセイバーを失ったことで、代わりに俺を吸収して核にでもする魂胆なのだろう。

 それには口も鼻も無いはずなのに。

 俺は、確かに聖杯が肉壁を歪めて笑っている気がした。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■‼︎‼︎」

 

 やがて推進力を失い、重力に導かれて落下を始めながら、聖杯は勝利の雄叫びともとれる声を上げた。

 俺はもうほとんど動ける余地がないし、時間もない。このままでは簡単に呑み込まれる。

 だが。

 

「────…………「魔王」」

 

 ぽつりと。

 

「神様の身勝手で生まれ落ちて、二度もセイバーを塗りつぶした、あいつの影に潜むもの……ずっと「お前」に会いたかった」

 

 その名前を呼んで、そう呟いた。

 周囲すべてを閉ざす肉の牢獄に向けて、途切れかけの意識を繋いで話しかける。

 

「これからお前を殺し尽くす。あいつが、これから先、自分の道を自分の意思で歩いていけるように。もう、自分以外の誰かに歪められないで済むように」

 

 肉塊が不服げに蠢き、吠え猛る。

 その全てを無視した。俺は、活性化したあまり心臓を飛び出し実体化している背中の外套──「耐え難き九の酷痛」に手を伸ばし、強引にそれをひっぺがす。

 

「──……安心しろよ。お前が邪魔だと言うのなら、それはもう一人のお前(おれ)だって同じことだ。だから」

 

 外套に魔力を注ぎ込む。途端、紫紺のソレはそれ自体が小型の太陽と化したかのように輝き始めた。

 その光を捉えた瞬間、周囲を閉ざす肉壁は勢いよく距離を取り、俺から逃げようともがき出す。危険性を察知しただろうが、もう遅い。

 

「せめて一緒に消えてやる。さあ、ここが俺たちの終着点だ」

 

 ありったけの魔力をただ一点、右手で握りしめた宝具に注ぎ込む。

 月の刃による一撃で容量は覚えた。迷うことなんてない。ソレが砕け散って爆散(・・)してしまうほどに膨大な魔力を、問答無用で叩きつければいい。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■ッ……‼︎⁉︎」

 

 臨界点を超えた外套は自壊を始め、真白に輝き、宙天を今一度塗り潰した。

 

(────────、あ)

 

 びきり、と己の脳髄が潰れる音を聞いて。

 刹那、幻を見た。

 壊れきった頭が、いつかの少女を映していた。

 

(ああ……最後に謝ったの、聞こえてた……かな)

 

 焼き切れたはずの頭が走馬灯を見せつける。

 最初に出逢った時の顔、戦うあいつの顔、何かを食べるあいつの顔、泣き出しそうなあいつの顔、心の底から笑う──あの少女(セイバー)の顔。

 後悔はない。

 あいつが望んだ生き方を叶えてやるためなら、最初から死んでいたはずのこの命が砕け散っても構わない。

 だけど、少しだけ胸が痛かった。

 最後の瞬間、振り返って見た時の彼女の顔は、くしゃくしゃに歪んでいて。

 それが、強く心を締め付ける。

 

(あいつは……怒る、かな……)

 

 俺は、きっと、あいつが歩んでいく道を見守ることができない。

 あいつが求めていた居場所になれることは、できない。

 ああ──後悔はない、けれど。

 そうせざるを得なかったことが、少しだけ──いいや、心の底から恨めしい。

 

(身勝手なのは分かってる。それでも、せめて、あいつが)

 

 体が真っ二つに割れて砕け散る。すぐにバラバラになって、それでも最後まで右手は外套を握り締め、終わりの言葉を口ずさむ。

 

(あいつが、泣かなくてもいい世界になりますように──……)

 

 強く、強く、天に願う。

 どうか、彼女に、今までは得られなかったぶんの幸せを、と。

 

 

 そして。

 

 

 

壊 れ た 幻 想(ブロークン・ファンタズム) ────」

 

 

 

 

 

 それは宝具そのものを爆弾として起爆する最後の手段。

 新たな羅刹王を生むほどのエネルギーを秘めた外套、「耐え難き九の痛酷」はその瞬間に砕け散り、壊れかけの願望期を跡形もなく消し飛ばす。

 セイバーの中に巣食っていた「魔王」という名の怪物は、聖杯ごと塵も残さず灼き尽くされ──その存在を、この世界から消失させた。

 

 

 

 20■■年、9月14日、午前6時13分。

 大塚市に顕現した第二大聖杯、その反応は消滅。

 

 

 第六次聖杯戦争は、ここに終結を迎えることとなった。




【魔王】
セイバーに与えられた神々の加護は、当の神々達ですら手がつけられなくなってしまう程に強力なモノだった。あまりに強大なソレは、強力な呪詛がカタチや意思を持つのと同じように、過酷な試練によって脳の活動をやめた──いわば心が壊れてしまった少女(ラーヴァナ )の中で活動を始める。やがて主人の精神を塗り潰し、少女の思考を自らの意のままに歪め、操るようになるが、これが魔王ラーヴァナの誕生だった。
その後、心を取り戻したセイバーによって体の支配権を失うものの、第六次聖杯戦争において再び支配権を奪い返す。が、以前よりも様々な経験を得たことでより強い自我を獲得していたセイバーを支配するのに苦戦し、その隙を突かれて敗北する。
また、宝具を介してセイバーと繋がった健斗にも体内から働きかけており、彼が時おり耳にしていた誰かの声はこの「魔王」によるもの。
最終的に、聖杯と共に彼女の体外へと弾き出された「魔王」という名の怪物は、健斗の「壊れた幻想」による一撃によって消滅するのだった。


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エピローグ これからの未来 

 「第六次聖杯戦争」──。

 そう呼ばれた、小さな戦争が終結してからはや一週間。

 戦場となった大塚の地は未だ慌ただしく、人々は形容しがたい不安に駆られながら過ごしている。半ばからねじ切れるように消滅した歪な形のランドマークタワーや、一夜にして蒸発してしまった広大な龍神湖の跡地を見れば、そう思ってしまうのも無理はない。今日も、ニュースやワイドショーは大塚市の話題で持ちきりだった。

 そんな中。

 とす、とす、と乾いた地面を踏み締めて、だだっぴろい平地のそば──かつては「湖岸」だった場所を足を引きずって歩く少女がいた。彼女は、志原楓。この戦争に参加した魔術師の生き残りだ。

 夕焼けに染まる空の下、彼女は何かを探すように視線を彷徨わせ、ひび割れた龍神湖の跡地を眺めまわす。それでも、目に映るものはどこまでも皆無だった。唇を噛んで、彼女は目を閉じる。

 

「……………………」

 

 楓は探していたのだ。

 この一週間、もうずっと見ていない兄の姿を。

 乾いた地面に腰を下ろして、楓は茫然と目の前の景色に圧倒される。

 それくらいは分かっていた。それでも諦めきれずに病院を抜け出して、傷だらけの体を引きずってここまで歩いてきたのだ。それでも、ここまで何もない景色を見せられては、諦めざるを得なかった。

 

 ──志原健斗は、死んだ──。

 

 すっ、と楓はその答えを受け入れた。受け入れてしまったし、受け入れるしかなかった。

 あの日、煌々と天を照らしたあの流星を見た時から、本当は分かっていた。兄はその命を燃やし尽くしてしまったのだ、と。

 それが、他でもない健斗が最後に選んだ答えならば、楓には何も言うことはできない。

 

「──……志原‼︎」

 

 そうして座り込んで、どれくらい経ったのだろう。

 抱え込んだ両膝に顔を埋めていた楓は、自分を呼ぶ声に気付いて顔を上げた。

 遠くから走ってくる人影。ぱたぱたと、空になった右袖を風に揺らしながら、彼はこちらに駆け寄ってくる。

 

「倫太郎!」

 

 はあ、はあ、と 息を切らした彼は左手で額の汗を拭い、怖い顔で楓の瞳を覗き込む。

 

「何やってるんだよ、こんなところまで……探したんだぞ。志原は傷の治りが遅いんだから、退院までは無茶できないって言われただろう」

 

 優秀な魔術刻印のお陰で人外じみた回復力を持つ倫太郎と違って、楓のそれは人並みだ。彼女が今いるべきがここではなくベッドの上、という事実くらい、彼女自身よく理解していた。

 ごめん、悪かったわ、と倫太郎に謝罪して、楓はまた視線を前に戻す。その妙に気の抜けた声に何か感じたのか、倫太郎は無言のまま楓の隣に腰を下ろした。

 

「まあ、君が来るならここしか無いとは思ってたけど」

 

「よく分かってるじゃない。……大丈夫、もう納得したから」

 

 納得した、か。

 倫太郎はそんなことを口の中で呟いて、前をまっすぐ見つめる楓の横顔をちらりと眺めた。

 この戦争が終わり、あらゆるものが喪われたという事実を受け止めるためには、もう一度この景色を見るしかなかったのだろう。

 

「……君の……兄さんのことは…………残念だった。僕がもう少し、しっかりしていれば──……」

 

 言葉を選んで謝罪しようとした倫太郎の声を、楓は「いいわ」という一言で遮った。

 

「あの人は自分で自分の生き方を見つけて、それを最後まで貫いた。他でもない本人がそれでいいって決めたんだから、誰かが謝ることじゃないわ」

 

「そう、か……」

 

 しばしの沈黙。

 志原楓の義理の兄にしてセイバーのマスターであった志原健斗については、「死亡」という形で結論が出された。言葉にしてみれば呆気ない、腹立たしいくらいに空虚な二文字で終わってしまうその結末には、それでも多大な功績が伴っている。

 

「セイバーの様子は?」

 

「アンタが前にお見舞いに来た時と変わらないわ。ずっとふさぎこんでて……」

 

 昏い表情で楓は語る。受肉した上にサーヴァントとしての力を失い、普通の少女と変わらない存在となったセイバーは、倫太郎の隠蔽工作によって「ただの被害者」として普通の病院に担ぎ込まれた。これは、彼女が「元サーヴァント」という特異な存在であることが広く発覚した場合に起こるであろう厄介ないざこざを回避するための処置である。

 とはいえ、セイバーの憔悴ぶりは倫太郎もよく知るところだ。

 

「色んなものが傷付いて、色んなものが喪われた。それでも前に進まなくちゃ。時間をかけて、取り戻せるものだけを少しずつ、取り返していくしかないんだろうさ」

 

 目を伏してそう願う。とはいえ、きっと取り返しがつかないものだって色々あるんだろう。

 そんなことを、倫太郎は自分の欠けた右腕を見つめて思った。

 

「……君はこれからどうする気なんだ?」

 

 しばらくしてから、倫太郎は楓に問うてみた。

 聖杯戦争が終わってからというもの、諸々の後処理や報告に追われていた倫太郎はなかなか時間を確保できず、こうしてゆっくり話すのも久しぶりに思える。

 せっかくの機会に、志原楓という人間はこの先どうしていくのか、それを聞いておきたかった。

 

「──……」

 

 楓は白い喉を見せて天を仰ぎ、困ったように声を漏らしてから、

 

「とりあえず、魔術師はもうやめようと思う」

 

 なんでもないコトを言うかのように、一つの終わりを倫太郎に告げた。

 とはいえ、予想していなかった訳ではない。むしろあまりに予想通りだったので、少し拍子抜けしたくらいだった。

 

「左腕はリハビリである程度まで回復するそうだけど、今までみたいな激しい運動は出来なくなった。それに、そもそも「やらなくてもいい」って言われてたところを意地になって続けてただけだから、丁度いい辞めどきというか……」

 

「そうか。これから寂しくなるね」

 

「大丈夫。別にどこか遠くに行くわけじゃないしね。魔術師を続けるべきではなかった人間が、あるべき形に収まるだけ。……ああ、言葉にしてみると最後の踏ん切りがついた。魔術師の志原楓は、今日をもって終わりよ」

 

 魔術師をやめる、なんてことは、普通の魔術師にとってはそれこそあり得ない発言だ。魔術師とは生まれた時から魔術師なのであり、その双肩には一族の重みと誇りがかかっている。簡単にやめるなんて許されない。

 けれど、志原家は特殊な家系だ。

 元から正式な魔術師ではなかったが故に、そうした慣習や考えからは距離を置いてこれた。だからこそ、楓の言葉は叶えられる。叶えることができる。

 

「……倫太郎こそ、これからどうするの?」

 

「僕はひとまず後処理のごたごたを終わらせる。それから、フィムの身の振り方も考えないと……あ、知ってた? あの子、やっぱり英国に帰ってディミトリアス家の正式な後継者になるんだってさ。マリウスには子供も養子もいなかったらしいから、彼女に後を任せたんだろうね」

 

「あいつ、そういえば歳の割にまだ婚姻してなかったんだっけ。なんか意外ね」

 

「マリウス・ディミトリアスといえば他を顧みずに研究ばかりしている怪人で有名だったし……それか、最初から後継はフィムに決めてたのかもしれない」

 

 マリウス・ディミトリアスの遺言によって、フィム改めフィム・ディミトリアスは晴れてディミトリアス家の全てを有する後継者となった訳だが、事はそう簡単ではない。

 まずフィムはホムンクルスであり、短い寿命の問題を第一に解決する必要がある。また、まだ幼いフィム一人にディミトリアス家の膨大な資産運用や対外交渉を任せるのは無理な話だ。それに、引き継ぎの際に発生する利権問題などにかこつけて金をふんだくろうと群がってくる連中の対処もあるだろうし、やるべき事は山のように多い。少なくともフィムが独り立ちできる歳になるまでは、繭村家が惜しみなく援助を続けていこうと考えている。

 

「まあ、マリウスはまだ若い方だったし、ここで死ぬ予定なんてなかったんだろうさ」

 

 マリウスが時をかけて少しづつ消化していこうと考えていたであろう事柄が、彼の突然の死によって怒涛の如く押し寄せてきているわけだ。死してなお困らせる奴だな、と倫太郎は呆れたため息をついた。

 

「で……まあ、つまり、まだまだ「魔術師」の繭村倫太郎はいなくなったりしないよ。やる事も多いしね。それに」

 

 そこで言葉を区切って、倫太郎は楓の方に向きなおり、真剣な瞳で楓の両眼を覗き込んだ。

 

「ど、どっ……な、なに、どうし──……?」

 

 思わず体を硬直させた楓は、続きを言うことが出来なかった。

 ふわ、と赤銅色の髪が頬を撫でたと思った時には、倫太郎の左腕が自分の体を抱き締めていた。

 頭が真っ白になる。

 どくん、どくん、という心臓の鼓動のみが鼓膜を揺らす。考えられるものは何もなく、ただ体温の暖かさだけを感じていた。

 

「ありがとう。君のおかげで、僕は救われた」

 

 その、心からの感慨を込めて紡がれた一言に、楓は肩をぴくりと震わせる。

 

「なんせ、僕が何であるかを思い出させてくれたんだから。もう辛くはない。迷うこともない。表向きは「魔術師」だとしても、僕は「魔術使い」として生きていくことを決めた。これがたとえ繭村の理念に反するものだとしても、この先曲げるつもりはない」

 

「っ………」

 

 顔を真っ赤にしたまま、楓は返答に困った。すぐに何かを答えられるような精神状況ではなかった。それでも、倫太郎の言葉をゆっくり頭の中で噛み砕いて、その意味を理解する。

 魔術使いとして生きることを、決めた──。

 その一言を紡ぐのが、「魔術師」として己の意思を封殺されてきた倫太郎にとって、どれほど難しいことだったのか。楓には推し量ることしかできない。

 それでも、それでも──、

 

「……よかった。本当に、よかった」

 

 彼が、自分の意思と決意を見つけることが出来たという事実は、心の底から喜ばしい。

 繭村倫太郎はもうロボットではなく、確固たる一人の人間として、これからの道を歩んでいけるのだから。

 それだけでよかった。

 その結果だけで、楓は自分が戦ってきた全てが報われたような気がして、自然と笑顔と涙を溢していた。色々な感情がごちゃ混ぜになって、自分が泣きたいのか笑いたいのかも分からなかった。

 

「……本当はね。私は、何もかもを亡くしてしまったようで怖かった……‼︎ 結局、この戦いで獲得できたものは何もなくて、ただただ失っただけじゃないかって……‼︎」

 

 自分の感情を、内に秘めていたかった弱さを、強がらずに吐き出していく。

 

「それでも……それでも倫太郎が、アンタがそう言ってくれるのなら、「救われた」と言ってくれるなら! それは、きっと何も残せなかった「志原楓」っていう魔術師の意味を、存在を、それだけで救ってくれる……‼︎」

 

 何を言っているのか自分でもよくわからなくて、それでも楓はそれだけを言い切った。

 倫太郎は何も言わずに、ただ抱きしめる腕の力を強めて、溢れそうになる涙を堪えきった。

 オレンジ色に染め上げられた空と大地の狭間で、志原楓という魔術師の最期の言葉が、乾いた風に溶けていった。

 

 

 

 

「……落ち着いたかな、互いに」

 

「うん…………帰ろう……」

 

 しばらくして。人気はないとはいえ、外で長時間抱き合っていた二人は少々気恥ずかしそうにしながら立ち上がり、あたりをキョロキョロと見渡していた。

 楓の身体を考慮して、遠く離れた病院までは歩くのではなくタクシーを使おう、という倫太郎の判断のもと、人の寄り付かなくなった湖岸道路の端に座り込む。自然、手持ち無沙汰な時間を潰すべく、二人はたわいのない会話に話を戻していた。

 

「……で、多分一ヶ月くらいは時計塔の方で報告とかディミトリアス家の家督整理とかをしないといけないんだ。しばらくは日本を出てイギリス暮らしだねえ」

 

「大変ね色々と……時計塔といえば、あれから士郎さん達の姿を全然見てないわね。あの人ら、時計塔の誰かさんの指示でこっちの調査に来てたんでしょう?」

 

「あ、そう、それがちょっと謎で……僕も気付かないうちにふらっといなくなって、連絡が一切取れないんだよ。まるで幻だったみたいに消えちゃって、いくら探させてもどこにいるのかすら分からない」

 

「黙っていなくなるような人たちじゃあなかったと思うけど……何かそうしなきゃいけない理由があったんじゃないの?」

 

「けどなあ……そんな理由ったって──……」

 

 倫太郎が困ったように首を傾げた瞬間、

 

「それが、あったのよ」

 

「「どわああああああああああああ‼︎‼︎」」

 

 その気配を微塵も悟らせず二人に近づいていたとある人影が、いきなりそんな事を言い放ったものだから、倫太郎と楓は心臓が止まるかと思うほどの衝撃を受けた。

 楓は数センチ物理的に跳ねてから、倫太郎の方は転がるように前のめりになってから、慌てて背後を振り返る。

 遠坂凛──。

 彼女はいつも通りの雰囲気で、毅然とした雰囲気を纏わせながらそこに立っていた。未だに心臓をばくばく言わせながら、倫太郎はやや上擦った声で彼女の名を呼ぶ。

 

「連絡ができなくてごめんね、二人とも。色々あって、完全に姿を隠さなきゃいけなかったものだから」

 

「と、とりあえず心臓に悪い登場の仕方は! 置いておいてですね! 姿を隠していた、って……一体何からですか? もう聖杯戦争は終わったんだし──……」

 

「だからこそ、ね。私達が雲隠れしていた理由は、貴方達も話していた──時計塔(・・・)にある」

 

 意外な単語が飛び出してきて、倫太郎はともかく楓も目を白黒させた。時計塔のツテで送られてきた彼女達が、時計塔に姿を捉えられないように動いている。これが一体何を意味するのか。

 

「本当はまだ人前に姿を見せるのも危ないから、これからほとぼりが冷めるまで中東あたりに逃げようと思っているんだけど──その前に、貴方達だけには伝えておかないと。とびきりの良いニュースをね」

 

 そう言って、凛は二人にとびきりの笑顔で笑いかけた。

 そして──それ(・・)の内容を聞いた倫太郎と楓の二人は、今度こそ先の数倍は大きく張り裂けるような声を上げることになる。

 

 

 

 

 その夕暮れ時。その男は、ぼんやりとした表情で何もない空間を眺めて時間を無為に潰していた。

 住宅街と大通りの中間点、なんともいえない場所に面した喫茶店の店主である槙野は、人のいない店内を見回してため息を漏らす。入り口の看板は今も「CLOSED」のままだ。定休日という訳でわないが、何事も手につかない今の状態では、どうも店を開ける気にはなれなかった。

 考えているのはたった一つだけだ。

 アナスタシア……ほんの最近までこの店で働いていたその人物を、槙野は何度も頭の中で思い描く。

 一週間前。無知な彼ですら察してしまうような、死を振り撒く「何か」が起きていた夜。彼女は朦朧とした槙野のため、この店を飛び出していった。

 

 ──そして、帰っては来なかった。

 

 思い返せば、まるで自分が夢を見ていたような、そんな現実感の欠けた記憶が浮かび上がる。アナスタシアという人間は自分が見ていた幸せな幻で、本当は何もかも最初から存在しなかったのではないかと、そう思う。

 

「……………………」

 

 からん、と扉が開いて鈴が爽やかな音を奏でた。

 思わずばっと顔を上げて、槙野は店の入り口を見やる。

 

「よう」

 

 だが、そこにいたのは見慣れた少女ではなかった。

 代わりに、正体不明ながらもよく彼女のそばに姿を現していた謎の外国人が、扉にもたれるようにして立っていた。

 

「貴方、でしたか」

 

「久方ぶりだな」

 

 彼は大股でカウンターの方へと歩いてくると、どかっと椅子に座り込んで息を漏らした。

 この男は、アナスタシアのことを何か知っているに違いない。

 槙野は開口一番、彼女を知らないかと問おうとして──しかし、彼が片手でカウンターの上に差し出した物を見て、思わず口をつぐんだ。

 

「……これは……」

 

 そこにあったもの。

 それは少しだけ古ぼけた、小さな木彫りの十字架だった。

 

「最初から話そう」

 

 男はそれをじっと見つめたまま、口を開いた。

 彼女の生い立ちに身分と、自らの正体。彼らが戦っていた「戦争」のこと、それがどういった経過を辿って、どういう結末を迎えたのか。

 

「あいつは……アナスタシアは「この世全ての悪」を相手にたった一人で戦い抜いた。街の人々を、そして他でもないお前を守るためにな。そして──その役目を果たして、二度と帰って来なかった」

 

 アーチャーの顔が苦々しく歪む。彼自身、彼女を生きてここに帰すと決めていたのに、それは結局叶わなかった。

 

「あいつが、最後に俺に託した願いがある」

 

「……それは?」

 

「『この戦いが終わったら、あの人のところに、私がいたという証だけでも連れて帰ってあげてほしい』──……と、あいつは言い残した。あいつの、最初で最後の命令(わがまま)だ」

 

「………………」

 

 あの時、残りの令呪全てを費やして紡がれたその命令は、聖杯が消滅したのちもアーチャーの長期活動を可能とした。

 それ故に、彼はマスターという魔力供給源を失ってからも現界を続け、聖杯が消えたことでがらんどうとなった大空洞に辿り着き──そこで、この十字架を見つけ出したのだ。

 それをこの場所に届けた今、その願いは叶えられた。

 

「──すまなかったな。あいつを、護れなかった」

 

「いえ。それは……」

 

「良い。あいつがそれを望んだとしても、俺の役目は違ったんだ」

 

 沈黙が二人の間を流れていく。

 何を言うべきか迷ったところで、槙野は思わず目を剥いた。

 目の前に座る男の輪郭が、空気に乗って溶け始めている。

 

「……お前にそれを届けた以上、俺の役目もここまでだ」

 

 差し出した十字架をじっと見つめて、アーチャーは呟く。

 

「最後に聞きたい。お前は、これから──……」

 

 ことり、と小さな音を立てて、湯気の立つカップがアーチャーの眼前に差し出される。

 最期の一杯。

 手向けとなるそれを差し出した槙野はにこりと笑って、

 

「貴方が見つけ出したのはこの十字架だけで、彼女の死体は存在しなかった(・・・・・・・・・・・・・・)。そういうことで間違いはありませんよね?」

 

「ああ。しかし……なにせ契約が途切れているからな。普通ならば、マスターの死亡という形でしか発生しない現象だ」

 

「ですが、彼女は普通(・・)ではなかった。なにせアーチャーさん自身、彼女の最期に何が起きたか把握しきれていない」

 

「まあ、その通りだ。聖典との融合体なんざ、この世界広しといえどそうそう存在し得るものではないだろうさ。確かに死体が存在しないというのも不自然ではある」

 

 ずず、と熱く苦い珈琲を流し込むアーチャーの言葉に、槙野はそう言ってくれるのを待っていたと手を叩いた。

 

「つまり、彼女に並大抵の常識は通用しない。……もしかしたら、アナはまだ生きているかもしれないわけです。それが分かっただけで十分ですよ」

 

「だから、待つと?」

 

「ええ……ここは彼女の帰る場所です。何度季節が巡ろうと、どんな月日が経とうともそれは変わりません。日々を細々と生きながら、この十字架と一緒に待ち続けますよ」

 

「は……残酷かもしれんが、悪くはないか……」

 

 アーチャーが立ち上がる。消えかけの身体は、今にもその存在を跡形もなく霧散させてしまいそうだった。

 いや、消える。もう数秒も経てば彼はこの世界から消え失せる。

 それを知って、アーチャーはしかと槙野の瞳を見つめ──、

 

「じゃあな。お前達にとっての幸福を、願っておく」

 

「さようなら、あの子の戦友。後は任されますよ」

 

 風のないはずの店内を、一陣の風が凪いでいく。

 瞬きの後に目を開くと、そこには誰も立っていなかった。

 

 ……かくして、店主は今日も待ち続ける。

 「おかえり」と言える唯一の人が、少し気恥ずかしそうに洒落た扉を押し開けて、その顔を覗かせるその日まで──。

 

 

 

 

「…………………………」

 

 私は、まるで人形のように空虚な手足を動かして、人気のない街の中を無言のままに歩いていた。

 いや、歩いていた、というのには少し語弊がある。

 この歩みの先に目的地はない。目指す場所はもうどこにもない。だからこれはきっと、ただただ徘徊しているだけだ。どこまでも空虚な、何も意味のない行為に過ぎない。

 

「…………………………」

 

 誰かと話したいのに、何も話す気にならない。それはきっと、隣にいつもいたはずの誰かがいないからだ。

 やけに腹が立った。

 けれど、腹を立てたって何の役にも立たない。今ここにいない人間を呼び戻すことはできない。今の私では、せいぜい、そこらの電柱を蹴飛ばすくらいしかできることがない。そうしてコンクリートの塊に激突したつま先は、じんと鈍い痛みを発していた。その痛みが、もう、私がかつての私ではないことを知らせてくる。

 

「…………………………」

 

 改めて、この歩みに目的地はない。

 それでも私は歩き続ける。かつて、もういない少年と共にこの街を駆け抜け、戦い抜いた記憶をなぞるために。もう戻れない過去の時間を慈しむために。

 虚しい。意味がない。時間の無駄だ。

 頭の中でそんな正論ががんがんと響く。黙れ、分かっている、そんな事は誰よりも私が、あの少年を殺めた私が一番良く分かっている。今にだって、私は罪悪感と憤怒から今すぐ自分を殺してしまいたい。ふざけた運命に弄ばれて、結局彼を守ることができなかった私を、私は終生許さない。

 

 ……でも、死を選ぶ訳にはいかない。

 

 そうしてしまったら、命を使い果たして私を救ってくれたケントの意思が、意味を失ってしまう。

 何もかも失った私が最後までしがみつけるのは、守り通すことができるものは、きっとそれしかない。

 私は自らを呪い、そして生きながらえることで、彼の望みを叶え続ける。それがきっと、かけがえのないひとを殺めた愚か者(わたし)への罰なのだ。

 

「……………………………」

 

 懐かしむ心と、自らを糾弾し憎悪する心で頭の中をごちゃ混ぜにしたまま、私はふらふらと彷徨い続ける。

 どれくらいの時間歩いていたのだろう。

 ふと、私は行き止まりにぶつかって足を止めていた。目の前に道はなく、無言のままに身を翻えそうとする。けれど、私は目の前の光景に吸い込まれていった。

 

 それは、住宅街の最中にぽつんと佇む寂れた公園だった。

 

 言い表せない懐かしさに吸い寄せられて、私は公園の奥、壁のように聳える高いフェンスに両手を這わせる。ここは高台だ。その奥には、眼下に広がる大塚の街を彼方の山麓まで見通すことができる。

 ああ、と声が漏れた。

 見覚えがあるのは当たり前だった。ここは、私とケントが、初めて互いに言葉を交わした場所だったのだ。あの日もこんな夕焼けの下だったのを覚えている。鮮烈で、どこかユーモラスな……彼にとっては2度目の、私にとっては数千年ぶりの再会だった。

 

『このゴミムシ馬鹿愚か不敬者ぉーっ‼︎』

 

『うお……おおぉ……ビンタが、なにゆえ、右ストート並の威力に……⁉︎』

 

『フンッ。いきなりこの魔王に殴り掛かるとは、いい度胸してるじゃあないですか。本来なら万死に値する愚行です』

 

 映像を投映するかのように鮮明に、その記憶を思い出せる。

 彼の顔も、声も、姿も……全てを。

 諦めが悪く、私は思い返してしまう。

 

『では、一緒に来てくれますか。私の……マスター』

 

『……ます、たー?』

 

 ついぞ、彼をマスターなんて呼んだ事はこの時くらいだったように思う。

 それも当たり前だった。

 私は、ずっとずっと知りたかった彼の名前を知ることができて、そんな野暮ったい呼称を使うのは嫌だったから。だから、彼を名前で呼ぶことにした。サーヴァントとしては不出来だと分かりつつも。

 

「……………………………」

 

 思わず、その名前を呟いていた。

 返事はない。

 風が、狂ったように私の髪を揉んでいく。

 

「………………………、ぐ」

 

 誰かの声が聞こえた気がした。それはきっと自分の声だ。耐えきれなくなって、私は思い切り両手を目の前のフェンスに叩きつけ、めいっぱいの力で握り締めた。

 

「うう……っ、あ……あ……‼︎‼︎」

 

 なにもない。ここにはもう、なにも。

 理解してはいた。けれど、それを実感と共に把握してしまった瞬間、もう私は限界だった。

 ガシャン、と音を立ててフェンスが揺れる。

 額をそれに押し当てて、目の前に広がる絶景に目もくれず、私は叫んでいた。意味のない声を、何にもならない慟哭を、ただただ天に響かせた。

 

「ああああっ……っう…………‼︎‼︎」

 

 会いたい。

 そう思ってしまう自分が、情けなくて、恨めしい。

 私がそんな事を願ったのが過ちだったのに。私が彼と再会したとしても、そこに横たわる運命は、きっと私が彼を殺める事を摂理とする。それだけの話だったのに。

 それでも、会いたい。

 まだ伝えていないことも、やり残したことも、謝りたいことも……数え切れないくらいに残っている。

 だから、あなたに会いたい。

 

「ケント……ケント…………ケントっ……‼︎‼︎」

 

 身体を震わせて、その名前を呼んだ。

 この世界でたった一人。私と共にあろうとしてくれた人の、その名前を。

 意味がないのに、何度もその名前を繰り返す。

 怖かった。そうしていないと、彼が存在したという事実が、嘘になってしまうようで怖かった。

 自分に幻滅する。また、懲りずに彼を望んでしまう下衆な自分を、どこまでも殺してやりたい。

 でも、止められない。

 止められるわけがなかった。

 誰かに会いたいと願う気持ち。誰かを愛しむ気持ち。そんなもの、きっと神にだって制御しきれない。だから、私はまた彼の姿を夢想する。

 

「………………………っ」

 

 泣き疲れて、私は冷たい金網に身体を預けてずるずると座り込んだ。

 私は生きている。だから、生きていく。

 例えこの世界に、たった一つ望んだものが無くなっていたとしても。残酷な運命が変わることはなかったとしても。それがきっと、私にできる唯一の贖罪になるのだから。

 

「ケン、ト」

 

 そうして。

 絞り出したような声で、無意識にその名を呼んだ時。

 

 

 風が、吹いた。

 

 

 それは私の背中を軽やかに撫でて、前へ前へと抜けていく。まるで、私が立ち止まるのを許さないと言っているかのように。

 ぴくり、と勝手に肩が跳ねた。

 気配を感じる。あり得ないはずの何かを、己の背後に感じている。

 

「………………え、」

 

 ほぼ反射的に、私は後ろを振り向いた。

 涙で霞んだ視界が、誰かのシルエットを映している。慌てて私は涙を拭い、その人影をしかと見た。

 黒曜石のような黒い髪と、やや鋭い瞳。変わらない人のいい笑顔を浮かべて、「彼」は立っている。

 

「……は、はは。はは…………」

 

 あり得ない、と乾いた笑いを漏らした。

 自分はおかしくなっているらしい。こんな幻覚を見てしまうほどに、私は追い込まれて、彼のことを想っていたのだ。笑えるくらいに、自覚するのが遅すぎた。

 だが──、

 彼がこちらに歩いてきて、その両手が私の体を抱きしめた瞬間。

 今度こそ、私の頭の中は真っ白に漂白されてしまった。

 

「え……と……おかしい、ですね、なんで……」

 

「…………バカ。夢だとでも思ったのか」

 

 彼の声が、私の鼓膜を久しぶりに震わせる。

 

「よく見ろ。お前が見てるのは本物だ。確かにこの世界に生きている志原健斗だよ、セイバー」

 

 その身体の温もりと、彼の胸越しに伝わってくる確かな心臓の鼓動が、その事実を言外に示していた。

 

「な──そ、そんなっ……け、ケント、なぜ……⁉︎」

 

 抱き締める力が緩められたので、思わずぱっと離れて今一度その姿を眺め回す。頭の先からつま先まで、ケントは確かにケントだった。

 けれど、まだ私の心は拒絶する。目の前の光景が、瞬きすれば消え去る幻想のように思えてならない。ただ、私はもう彼を失うことに耐えられない。だからこそ、信じられない。

 

「……俺にも、よく分かってはいないんだけどな。あの時、俺は確かに聖杯もろとも死んだはずだった」

 

 ケントは目を細めて、彼方に見える龍神湖の跡地に視線を向ける。

 

「ただ……あの決着の瞬間、聖杯を汚染していた「この世全ての悪」は誰かの手で綺麗さっぱり除去されていた。つまり、あんな肉の塊に成り果ててはいたけれど、願望機はちゃんと願望機として機能する状態にあったんだ。それで──」

 

 死の間際、閃光が全てを消し去るその寸前に、彼は願った。

 

 「どうか、セイバーが、泣かなくてもいい世界になりますように」と。

 

 壊れかけの願望機は、しかしその願いを確かに受け止めていたのだ。

 そして、その願いを叶えるために最も必要とされた事柄──「志原健斗の存命」は、奇跡に等しい可能性をくぐり抜けて叶えられた。

 

「──そういうわけで、俺は6日ほど前にあの跡地で目を覚ました。完全に蘇生した状態でな。実はもっと早くお前に会いに来たかったんだけど……完全な死亡からの蘇生者なんて前例がほとんどないし、魔術師達に目をつけられると困るとかで、士郎さんと凛さんの二人に極秘で匿われてたんだよ。志原健斗という人間が、完全に死亡したとみなされるまで──な」

 

 その後も、カエデ達の方には今頃凛さんから連絡がいっているとか、みんなには心配をかけたとか、聖杯も最後には役に立つもんだとか、ケントはそんな話をしていた気がするが、正直私はそのうちの1割も理解していなかった。

 ただ、目の前の事実に現実感が感じられなくて、目を丸くして茫然とすることしかできなくて──、

 

「え、セイバー、何……ごぼえっ⁉︎」

 

 私は何をしたいのかも不明なまま、頭から彼の身体に突進していった。くぐもった声を上げながら、腹に頭部の直撃を受けたケントは咳き込む。

 

「お、お前なあ、何を……」

 

 不満を漏らそうとしたであろうケントは、何かを悟ったかのように口をつぐんだ。

 私は今度こそ両の腕で彼の身体を抱きしめて、決して離さないと力を込める。上を向いて彼の顔を見つめることは、できなかった。今の私はきっとひどく泣き腫らした顔をしているから、あまりそれを見せる気にはなれなかった。

 

「────……ごめんなさい……」

 

 ケントの肩が、ぴくりと震えた気がした。

 

「私が……私が、弱かったせいで……あなたを、今度までも……っ」

 

 漏れ出す嗚咽が、頭の中でめまぐるしく渦を巻く感情が、私の言葉を阻害する。それでも強引に声を絞り出して、私は言葉を紡いでいく。

 

「……嬉しいんです。本当に、信じられないくらい……あなたが、生きていてくれたことが。でも……私には、あなたに合わせる顔が……ない」

 

 すっ、と体を離して、俯いたまま後ろを向く。

 この奇跡に、私は心から感謝している。

 正直なところ、今だってまだ現実感を感じられずに、嬉しさのあまり足元が浮ついているような感覚がある。それでも、私には彼に触れる資格はない。彼を二度も殺めようとした──私には。

 

「いいや。謝るのは俺もだよ、セイバー」

 

 だが。

 背中からそっと回された腕が、私の体を抱きしめた。

 

「……なん、でっ……なんで、謝るんですか……」

 

「俺が弱かったから、あの時お前をちゃんと守れなかった」

 

 優しく、大きな手が私の頭を撫でた。

 蒼色の髪の毛が弄ばれる感覚に身を任せつつ、私は嗚咽を噛み殺した。

 それは謝るべきことじゃない、と叫びたい。私は守られる側ではなく、明白に守る側だったのだから。それでも、彼が言葉にして謝る以上、それはケントにとって謝罪しなければならない事実だったのだ。

 

「……わたし、」

 

 ぐいっと身体を反転させられて、顔を覗き込まれる。

 思わずぱっと視線をずらした隙に、ケントは人差し指を私の口に押し付けた。その顔が少しだけ朱い。何かを誤魔化すように、ケントはやや早めの口調で告げる。

 

「もういい。もうおしまい! 俺たちは互いに謝った、だからおあいこだ。もうお前が俺に対して申し訳なく思う必要はないし、謝る必要だってない‼︎」

 

「でもですね…‼︎」

 

「──……っ、ああ、もう‼︎」

 

 口調が双方に熱を帯び、大声になりかけた頃合だった。

 ガッ、とケントの両腕が私の肩を掴み、距離がなくなって──、

 

 次の瞬間、時間が──飛んだ。

 

 何を言いたいのか、何をしたいのか、全部めちゃくちゃで分からなくなっていた頭の中が、その僅か数秒の間に真っ白に漂白されて、綺麗さっぱり凪いでしまった。

 ほのかに暖かな、柔らかい体温が離れていく。

 無限とも思えた一瞬は終わった。

 怒っているのか恥ずかしがっているのか分からない顔をしたケントが、再び私の眼前に顔を寄せて、やや上擦った声で言う。

 

「……俺は、嬉しいんだ」

 

「へ、……あ……」

 

「正直なところ、ずっと諦めていたんだ。俺とお前、死者と英霊。どんなに想っていようが、俺たちが共に生きていく未来なんてあり得ないって、ずっとどこかで思ってた」

 

 いつになく真剣で、それでいてどこか泣き出しそうな瞳で、ケントは私の瞳を覗き込んでいる。

 目は、もう離せなかった。

 

「でも、俺たちは生き残った。生きて、これから先の未来に、一人じゃなく一緒に踏み出していける。それが、俺は、本当に嬉しい」

 

 だからさ、とケントはどこまでも自然な笑顔を浮かべた。

 

「泣かないで、笑ってくれよ。俺があの時願ったのは──セイバーが、もう泣かないでいい世界なんだから」

 

 その瞬間、私の中のどろどろが、つっかかえていたものが、跡形もなく消し飛んでいくのを自覚した。

 願い。ただ誰かの幸福を願う、純粋無垢な祈りの形。

 それを明確な言葉として聞いたことで、私は、自分が何をすべきか理解した。

 

「……………………ああ。そう、だったんですね」

 

 ひとつの覚悟を決める。

 涙をぐじぐじと彼の服で拭く。例の如く健斗はちょっと嫌そうな顔をしている気がしないでもないが、止めないのだから問題ないということにする。

 そうして、私はぱっと顔を上げた。

 

「もう大丈夫か、セイバー」

 

 そう言った彼の瞳を見て、私はこくりと頷く。

 私達は生きている。この世界を、今も一緒に生きている。

 今はそれが分かっただけで手一杯だ。その幸福をちゃんと受け止めきるだけで、言葉を考えている余裕なんてない。

 

「はい。ケントのおかげで、すっきりしました。……ちょっと、強引でしたけど」

 

「そ、それはいいだろ。あんまり蒸し返すな」

 

 勢いで流してしまいたかったのか、ケントは恥ずかしそうにそっぽを向く。

 それを見てくすりと笑ってから、私は髪を染め上げる夕焼けを見た。

 ケントも、目を細めて同じものを見ている。

 数千年の時を経て、また動き出した時と。

 手繰り寄せた奇跡を経て、これから動き出す時。

 不安はない。残酷な運命を乗り越えた今、たとえどんな困難がこの先に立ち塞がっても乗り越えていけると、そう信じられる。

 それが、とても──身震いするほど誇らしかった。

 

「あの日も、始まりはこんな空でしたね」

 

「ああ。今度はきっと、長い道になる」

 

「そう、ですね……でも」

 

「……でも?」

 

「その前に、あらゆる全てを始める前に……これだけは伝えないと」

 

 夕日が沈む。

 彼方にまで広がる地平線と霧に沈む山麓、鮮やかな夕焼けを背にして立つ。

 それを見て、彼は何を思うのだろう。

 この先に続く未来に、何を願うのだろう。

 

 そんなことを思いながら、私は心の底からの笑顔を浮かべて──、

 

 

 

 

「私は──ずっと、あなたを────……」

 

 

 

 

 私達は生きている。

 生きているからこそ、自分の道は自分で決める。自らの生における意味を、目的を決定することは、生者にのみ許された特権だ。

 私はもう、誰にもその道を決めさせることはない。

 これから先、どんな困難があったとしても、私は憶えているのだから。二度にわたって、自分の生き方を決めることを、当たり前を当たり前と許してくれた人がいたことを。

 

 だから、もう大丈夫。

 私はこれから先の未来に、力強く踏み出していける。

 

 

 空に瞬く月は、その旅路を煌々と照らしてくれることだろう──。

 

Fate/crescent 蒼月の少女       ──完



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あとがき+各キャラクター設定集

【あとがき】

ここまでのご愛読ありがとうございました。

思い返すと色々至らぬ面もあり、どうすれば面白くなるかなあという試行錯誤と足踏みの繰り返しでしたが、どうにかこうにか完結させることができました。長編の二次創作小説は初めての挑戦でしたが、ひとつの作品を完結させることができた、という嬉しさと喜びは得難いものだなあとしみじみ感じております。こうして更新を続けられたのも、読者様の評価や励みになる感想あってのことです。それら一つ一つに心からお礼を申し上げます。本当に支えになりました。

ここでは本編で採用されなかった設定や、登場人物の一人一人を描写する上で気を付けたことなどを、2年前から残存しているメモを元にまとめてあります。あくまであとがきのおまけ、私の自己満足に近いものですので、気楽に流し読んでいただくだけでも結構です。

 

改めて、ご愛読ありがとうございました。

 

 

 

【登場人物ごとの諸設定】

 

・セイバー

 

 このお話のメインヒロイン。真名は「羅刹の王ラーヴァナ 」であり、「月の刃を操る、童顔の小さめな女の子」というイメージは構想段階からほぼ不変でした。イメージカラーは分かりやすさから「蒼」になりました。セイバーは最初に考えつき、ほとんど何も設定を弄らずとも動いてくれたキャラクターですので、書いていて一番楽しく、スムーズに動かすことができる人物でした。これは対となる主人公である健斗にも言えます。

 このお話は、根幹に「迷いながらも、自分の道を自分で定める」ことをテーマとして設定…しようとしていたフシがあるので、登場人物はだいたい自分の信念、生きる目標、正義といったものを見失っています。セイバーは信念が定まっていない人その①。彼女は幼い頃に「魔王」という存在に成り果て、以後は感情を封殺して殺戮兵器として生きてきた過去を持つため、そもそも「自分の道を定める」以前の時間に精神は置き去りにされています。そのため、健斗と絡む中で子どもっぽい面を目立たせたり、他の英霊に比べてもメンタル的な弱さ、未熟さが際立つように描写しようと努力しました。ただちょっと過剰だった気もするなあと反省しています。また、数千年をかけた恋(自覚はない)ゆえにセイバーから健斗への好意は物凄いものがあります。唯一のヒロインながら最初から好感度がメーターを振り切っているという…。それを踏まえて、ケントにだけは雰囲気が変わったり、話し方ががらりと変わったりと、初期からセイバーからの好意を多めに描写しました。ただし時間をかけすぎたせいで彼への好意は変にねじくれている、という設定もあったので、自分は決して健斗の隣にいるべきではない、という自戒を前提とした控えめなアクションが多いです。が、終盤になるにつれて想いの方が強くなってしまい、同時に健斗の言葉で素直さを取り戻していくため、そこの細かな描写が物凄くハードだった印象があります。

 セイバーと健斗を中心として展開する設定とお話については、こちらもほぼ構想段階と変わりませんでした。数千年前における健斗(前世)が、ただ一人だけ、セイバーに「お前は魔王ではない」と告げる。その後再開した健斗(現代)とセイバーが一蓮托生の契約を結んで聖杯戦争が始まり、その後色々なあれこれを乗り越えるも、セイバーが最後にして最強の敵として立ち塞がる。最終的に、主人公である健斗は今一度「魔王ではない」と彼女を救い出す「勇者」、ヒロインであるセイバーは救われるべき「姫」のポジションに据え、セイバーが救われる形で幕を閉じる……というのが概要です。特に、かつて勇者ラーマに滅ぼされる「魔王」であった彼女が、羨望の対象であった勇者に対する「姫」の役回りを(意図せずとも)演じるという展開はずっと書きたいと思っていたシーンなので、ある程度綺麗にまとめられることができて安心しています。また、最後の展開は「長い階段(森林公園/塔)を上る→健斗が死ぬ→はじまりの公園で二人が再開する」という、冒頭の流れを繰り返す形になっています。

 最終話ののち、セイバーは迷うこともなく、何かに囚われることもなく、あたりまえの人(力はもう失っているものの一応羅刹族、非人間ではあります。ほとんど人間とは変わりはありませんが)として生きていきます。当然ながら、この奇跡はこの時間軸に限定されるものであり、「英霊の座」に刻まれたセイバーが魔王でなくなる、なんてことはありません。ただし、この記録を得たことによって大きく成長したセイバーは、もう自分の力に呑まれることもなく、何を信じるかも自分で決めることができる一人前のサーヴァントに変貌します。

 

 

・志原健斗 

 

 このお話の主人公。ヒロインとなるセイバーが非常識と非日常の塊のようなキャラクターなので、それとうまく対比構造が作れるように、それと後半における非常識・異質な存在へ変化していく過程が引き立つように、なるべく平凡でどこにでもいるような存在として書き始めました。名前は「シロウ」と同じように、三文字のカタカナ呼びで親しみやすさが感じられる名前がいい、という観点から色々な候補が上がり、その中から「ケント」に決まりました。構想段階では「健斗」ではなく「絢斗」。

 言動も普通、倫理観も普通、体力も普通(展開の関係で魔術回路の質はかなり高いですが)と、基本的には「ただの一般人」な健斗ですが、他人と比べて一つだけ異常に飛び抜けている点があります。それが、だいたい道に迷っているこのお話の登場人物達の中で、彼は「セイバーが魔王ではない、ただの優しい女の子であることを証明する」という自分なりの信念を最初から最後まで貫いていることです。倫太郎や楓どころか、セイバーやアサシンといった英霊達まで迷いに迷っているこのお話の中で、健斗ははっきりとした意思と強固な信念を持っています。その芯の通った揺るがなさが彼の最大の特色だと思っていたので、たとえ悪夢の中で何回殺されようが実際に殺されようが、決してそこだけはブレさせまいと思っていました。これは、自分の生き方に迷うセイバーとの対比を際立たせたかったという理由が根底にありますが、後々考えてみるとどうしても無個性気味な健斗のいい特徴になってくれたので、これで良かったなあと思います。

 また、健斗は生かすか殺すかで迷ったキャラの一人です。聖杯もろとも消滅する、という結末は中盤あたりから考えていましたが、その後の健斗の扱いについては終盤まで未定だったために苦労しました。最終的に、セイバーが奇跡を乗り越えて健斗と再開したというのに、再び彼を殺めてしまって終わりでは過去の焼き直しをした意味がない、という結論に至り、同時に健斗が生きていない限り決してセイバーは救われないなとも思ったため、健斗はセイバーの元に戻ってくることになりました。

 ちなみに、健斗はセイバーのことを「理屈は抜きに信頼できる、安心できる」と直感的に悟っており、その相性の良さはこの聖杯戦争における主従関係の中でもダントツのトップを誇ります(主従といえるような厳格な関係かは相当怪しいですが)。

 

・繭村倫太郎

 

 倫太郎は、このお話における「もう一人の主人公」として誕生しました。魔術に関して無知である主人公の健斗のみでは、聖杯戦争の状況や、魔術絡みのあれこれなどを描写できないため、そういった面から物語を組み立てるために生まれたのが倫太郎です。SNにおける凛に近い立ち位置なので、この土地の管理者であり、優等生でありと、似せた要素をいくつか配置しておきました。逆に士郎に似た要素として、剣を使う、魔術使い、精神に歪さを抱えている、といった点があります。実は髪も赤銅色。

 倫太郎は信念が定まっていない人その②です。序盤の倫太郎は自分の生きる意味を見出せず、繭村家のために自分の意思すらも犠牲にしている、いわば出力(命令)で動くだけの機械として生きています。また、魔術そのものが苦手という弱点もあって、繭村家のために完璧に行動する「完全なロボット」になるために、倫太郎は魔術への苦手意識克服(=聖杯に託す願いは「勇気」)を目指します。アサシンはそれが僅かに残った「自分らしさ」すらも消し去ろうとしている自滅願望であると見抜きながらも、彼を導くために契約を結ぶ…という流れで彼らの戦いは始まりました。

 倫太郎のこうした歪な精神構造を書くのは本当に本当に難易度が高く、正直なところ最も手を焼かされました。なんとか形にはしたものの、あまり上手く描けなかったなと後悔するばかりです。健斗と違って、事前に設定を固め切れていなかったのも原因ですね…。ただ、信念を定めて吹っ切れた後の倫太郎に関しては、健斗と同じくすらすらと書いていくことができたように思います。せっかく成長した士郎が登場するので、彼には「剣」を使う先達の魔術師として少しばかり世話を焼いてもらいました。「体を剣と変えるには、君はあまりに優しすぎる」という士郎の言葉は、似た記号を持つ士郎と倫太郎の差異を象徴する台詞だと思っています。

 倫太郎が口にする「剣鬼抜刀(けんきばっとう)!」なる詠唱は、士郎における「投影開始(トレース・オン)」のような、お決まりの詠唱が欲しいというところから考えつきました。とはいえ英語の詠唱はとことん和風な倫太郎に似合わないと感じたため、あくまで日本語の剣鬼抜刀という形で落ち着きました。FGOにおける宮本武蔵の宝具口上 も参考にしています。

 

・アサシン

 

 倫太郎サイドのヒロイン(一人目)にして、実は信念が定まっていない人その③です。早い段階で敵側にバーサーカー(ヘラクレス)が立ち塞がることは決まっていたので、「十二の試練」vs「直視の魔眼」という夢の対決が見たいなあ、というかなり安直な理由で魔眼の保有が決まったような記憶があります。あとはそこから広げていき、両眼を覆い隠す包帯をぐるぐる巻いた痩せぎすの少女、という形で完成しました。

 最初、弱気な倫太郎を引っ張っていく役として、モードレッドのように男勝りな口調でキャラを作っていました。ただ、そうすると楓と役割が被ってしまうため、同じ目線で一緒にもがき、背中を押してくれる楓に対して、一歩先のところから常に見守り、その手を引っ張ってくれるようなキャラとして振る舞うことになりました。アサシンの言葉は倫太郎の本質や核心を突きつつも、彼(あと楓)に成長を促すような言葉が多く、人生の先達者としていくつもの助言をしてくれます。

 しかし、人を殺すことに対して何も感じない、という暗殺者らしい特徴を有してはいるものの、根っこのところで正義を信じており、自分の行いに矛盾と疑問を抱えながら生きているという点で、彼女も迷っている一人です。信念が定まっていないというよりも、その信念の正しさを信じられていない、といった感じ。物語の終盤、今まで導いてきた倫太郎に逆に教えられる事で、彼女もまた成長する…という展開は自然と湧いてきたもので、倫太郎との別れ、そしてライダー戦〜消滅までの展開は、本編中でもかなり気に入っている箇所の一つです。

 ちなみに、最初はヒロインとして描写するつもりはなく、あくまで楓と倫太郎の関係を見守る従者として描くつもりでした。それがいつの間にか倫太郎の唇を奪うまでに至ったのは、書いた自分でも驚いています。実は楓よりも遥かにボディタッチが多い…!ちなみにハサンの一人ではありますが、例の髑髏のお面はつけていません。

 宝具「妄想死滅」の能力は、「生きているものならば〜」と言われる「直視の魔眼」の力をどこまでも拡大させていけばどうなるのだろう?という考えから捻り出した宝具です。この惑星すらも殺せるのかどうか、という問いに対して本人は「それが生きているのなら」と答えていますが、これは理論上可能であるというだけで、仮に星を殺そうとした場合、殺し切るよりも早く彼女の脳が機能を停止してしまいます。そこまでの力を持ってしまうと、それは英霊の一宝具に留まる次元の力ではないように感じるので…。

 

・志原楓

 

 倫太郎サイドのヒロイン(二人目)、かつ信念が定まってない人その④。「主人公の義妹で魔術師」という設定は最初から決まっていましたが、倫太郎の設定がなかった頃は健斗に対する二人目のヒロインにする案もありました。結果的に倫太郎と因縁のあるヒロインとして完成し、そこから倫太郎同様士郎と凛の要素を組み込んでいった感じです。具体的には「強化魔術しか使えない」「落ちこぼれ」であるところは士郎、髪型や口調はやや凛に寄せてみました。初期の倫太郎に対するやさぐれっぷりは、ボツになった健斗の不良設定をやや受け継いでいるような気もします。もうちょっと優しめに書いてあげてもよかったかもしれません。「忍者の末裔」という設定がありますが、これは「侍」とか「武士」のようなイメージを持つ倫太郎と真逆になるように調節した結果です。

 魔術に関しては、宝石を使い捨てられるような家柄でもなかったため、「強化」一本でひたすら頑張る魔術師という形になりました。魔術をなんでも使える倫太郎との対比を描く意味もあります。

 彼女の内面は倫太郎ほど歪に形成されてはいませんが、置かれた境遇と思春期の不安定さもあって、崩れてしまいそうな脆さを有しています。倫太郎と楓の過去に関する構想は最初から決まっていて、すれ違いから二人の距離は大きく断絶してしまう、というものでした。ただ、学校での戦いやマリウスとの戦いについては詳しく決まっておらず、プロットから発展させる形でなんとか決まっていきました。

 彼女の武器であるキャスターの籠手は、徒手魔術だけではインパクトに欠けるな、と思ったところから生まれたものです。最終話のあと、吹っ切れた楓が魔術師をやめることは一つの終わり方として決まっていたため、引退の理由を作りやすくするために負荷を無視した五段階の出力調整機能が付けられました。

 キャスターとの関係性は一貫していて、「伝説の陰陽師」であるキャスターに憧れた楓と、自分にはない心の輝きを持つ楓に憧れるキャスターという、実は互いに互いをリスペクトしている関係性です。名前を最後に告げて締める、という契約の夜の描写は、凛とアーチャーのやり取りをオマージュさせて頂きました。逆に、決戦の前に他人から魔力を借り受ける、という展開はUBW√の士郎をオマージュしています。

 

・キャスター

 

 楓のサーヴァント。彼はその特殊な内面ゆえ、生き方に迷ったりといったことはありません。そのぶん倫太郎よりも遥かに内面が普通の人間とは異なる、非人間のサーヴァントです。最初から「心がない」という

設定はありましたが、もう少し序盤からそうした描写を挟んでおいても良かったかな、と思います。セイバーがキャスターを苦手としていたり、信用できないと言っていたのはこれが理由です。

 あの安倍晴明ということで、最高位のキャスターの証である「千里眼」を持っています。が、「過去を見通せる」という千里眼は私が書き切るにはあまりに反則で強力過ぎたため、作中で最も扱いに困ってしまいました。なにも考えずに強い能力を与えてしまうとかえってその設定に振り回されてしまう典型ですね…。その他、英霊に匹敵する強さを持つ神将を何体も使役したり、式神を操ったり、莫大な数の陰陽術を操ったり、道具を作って補助をしたり、回復役もこなせたりと、総合力であればほとんどの英霊を上回ることができるのがキャスターです。最初から楓の魔力量が低いために全力を出せない、ということは決まっていたので、そこから本来はものすごく強い、さらに少ない魔力量でも器用に立ち回れる、という設定になりました。セイバーを救うための手段を供給してくれたりと、逆に物語を作るうえで彼の万能さに助けられたところも多いです。

 

・アナスタシア

 

 アーチャーのマスターであり、信念が定まってない人その⑤です。マスターの中に一人くらいは代行者がいてほしいというところから始まり、金髪の異国人、高校生〜大学生の中間くらいの女の子という形で収りました。少女と呼べるギリギリくらいの容姿をイメージしていたので、地の文で少女と呼んでいいのか否か、自分で決めたことながら本編を通じてずっと迷っていた記憶があります。性格は「真面目」とプロットの頃から書いてあったため、最初は冷徹・機械的な「真面目」→柔らかさと明るさが共存する「真面目」という風な変遷を描こうと決めました。

 彼女の最も特徴的な面としては「聖典」との融合体であることですが、これは物語の終盤に「この世全ての悪」を今度こそ地表から消し去る必要があり、そのために必要なものを考える中で「悪と罪を赦す聖典」、忌み数であるNo13の構想が決まりました。人が等しく背負う原罪を赦す、という行為は、アンリマユの存在の成り立ちそのものを否定するものであり、この世界で唯一アンリマユに対する特攻作用を持つ概念武装になり得る……という内容ですが、聖典まわりの設定は難解で未だにこれで良いのか自信がなかったりします。

 実は最も生死に関して迷ったキャラクターであり、最後の最後まで決めぐあねたものの、結果的には生死不明という形で締めくくることになりました。

 

・アーチャー

 

 アナスタシアのサーヴァント。健斗や楓と異なり、マスターの戦闘力が純粋に高いため、バランスを取る意味でもある程度強さは抑え、かつ前衛(前に出る)タイプのアナスタシアに対する後衛ポジションに収まる英霊にしよう、ということで狙撃手シモ・ヘイヘに決まりました。

 アナスタシアの心を溶かす役割は槙野が担当するため、彼はその変化を見守りつつ、時折アドバイスをしたりからかったりする良き戦友という役回りになっています。アナスタシアとの真面目←→不真面目な凸凹関係も描きたかったのですが、根が軍人なのであまり不真面目感は出せませんでした。本編を通じて、予想よりアナスタシアに振り回されていたなあという印象もあります。

 戦闘能力のほぼ全てを狙撃能力に割いている、ひたすら尖った能力値をしているタイプ。その分遠距離で相手をした時の強さは破格で、格上の存在であるセイバーを一撃で沈めたりと、当初の「弱め」という方針の割に強力な英霊になっていました。近距離に近づかれるとほぼ「詰み」ですが、その分遠距離戦においては無敵に近いため、安全地帯から一人一人と処理していけばあっさり優勝できてしまいそうなサーヴァントでもあります。その分、前に出てある程度戦えるアナスタシアとの相性は(性格的な差異を除けば)抜群です。

 

・マリウス・ディミトリアス&フィム

 

 バーサーカーのマスター組。楓の悲惨な境遇を目立たせるためにも、一人は「英国の典型的な魔術師タイプ」が欲しいというところから、健斗を簡単に殺害できるバーサーカーのマスターに決まりました。

 構想時点ではフィムの存在はなく、マリウスはあくまで途中退場するバーサーカーのマスターという設定しかありませんでした。ただ、それだけでは味気ない敵役で終わってしまうなあということで、逆にこのお話のおけるテーマ(信念に生きる)を示す役割を任せることになりました。結果的には求められていた敵役としてだけでなく、倫太郎に道を示すきっかけになってくれたりと、構想以上に色々なことをしてくれたキャラになってくれました。

 バーサーカーといえば傍に少女がいてほしいということで、マリウスに同行するキャラクターになったのがフィムです。バーサーカーの魔力消費問題を解決する役割と、マリウスの人柄を掘り下げる役割を担ってくれています。聖杯戦争という過酷な戦いを通じて成長していく健斗やセイバー、楓や倫太郎、アナスタシアといった登場人物の中で、彼女の物語は「マリウスとの出会い〜マリウスとの死別」で全て完結しています。聖杯戦争と距離を置いたところで展開〜完結する話が一つくらいはあると新鮮かな、という思いから、マリウスとフィムのお話は今の形になりました。生きていく道を決める最中で迷う作中の登場人物たちに対して、フィムはなんとかその道のスタートラインに立つまで、というイメージで描写しています。

 

・バーサーカー

 

 バーサーカー、アキレウスの役割は最初からずっと決まっていて、中盤で立ち塞がる巨大な壁(中ボス)の立ち位置です。この聖杯戦争におけるマスターの存在を無視した単独戦力としては文句なしのNo1であり、セイバーをも僅差で上回ります(本当に僅差ゆえ、令呪ひとつの切り方で勝敗が変わってしまいますが)。

 言うまでもなくこれはFate/Stay nightにおけるバーサーカーをイメージしており、「強い部類に入るセイバーを圧倒できるほどにひたすら強い英霊」ということで、狂戦士適正も持つアキレウスに決定しました。健斗とセイバー、両者ともに一度敗北を喫した因縁の相手であり、そういう意味でも彼らの成長を描く良き敵役になってくれたなあと思います。セイバーとの決着戦は個人的にかなり気に入っている戦闘の一つです。

 

・アレイスター・クロウリー

 

 この作品における黒幕。最後の敵。「聖杯戦争を模倣してしまう、規格外の魔術師」という設定から発展していき、色々な肉付けがされていったように思います。実は彼女の名前が決定したのは設定段階の終盤で、これだけの魔術師なのだから歴史上の人物と紐付けたいという考えから、かのアレイスター・クロウリーの正体、という設定になりました。

 全てを裏から操る黒幕、絶対強者にあたる彼女の設定には、Fate/SNにおいて最強の敵として君臨するギルガメッシュをイメージしたところが多いです。複製の魔眼を元にさまざまなコピー魔術を乱射するという戦法は「王の財宝」から考えついたものですし、「(わたし)」という特殊な一人称もギルガメッシュの「(オレ)」をイメージしています。他には髪色、自信満々かつ不遜な態度なども。それゆえ、物語の終盤における倫太郎との会話もUBWにおける士郎とギルガメッシュの会話をやや踏襲しています。倫太郎のみが彼女の弱点を突くことができる、というところも同様にオマージュしてあります。唯一にして最大の差異は、彼女が「本物」ではなく「贋作者」であることでしょうか。立ち位置まで士郎とギルと同じでは面白くないため、そこだけは逆転させて描きたい、という思いが執筆前からあったため、ちっぽけな「本物」と最強の「贋作」の戦いを描き切れて良かったと思います。

 死を偽って手にした放浪生活の中で心が荒み切り、魔王を再誕させるという手段に走った彼女ですが、根の部分は人類の幸福を願う優しい魔術使い(=誰かのために魔術を使う魔術師)です。また、しっかりアレイスター・クロウリーでもあるので、史実に残る面白エピソードを実行したくらいには奇抜で面白い女性でもあります。といった設定はあるのですが、最大の敵という立場上、そういったユニークな面をほとんど書く余裕が無かったのが残念ですね…。

 

・ライダー

 

 アレイスター・クロウリーが使役するサーヴァント。彼女が単体で反則級に強いため、そこまで強いサーヴァントを設定する予定はありませんでしたが、結果的にだいぶ強い英霊になっていました。

 クロウリーと同じく敵役であることから、ある程度それっぽい英霊で、ということから冷酷・非道なイメージの強いイヴァン4世に決定した記憶があります。皇帝かつ雷という分かりやすいイメージがあったため、性格や能力に関してはほぼ迷わずに決めることができました。

 作品の更新中にFGOで実装されてしまったサーヴァントでもあります。当時は設定の粗さなんかが浮き彫りになってしまうのでは…と戦々恐々でした。

 揺るがぬ敵のポジションは守りつつも、妻の名前を持つ少女、アナスタシアとの関係性を描きたいという思いがあり、物語が収束し始める中盤からは彼女との絡みが増えていきます。が、敵でありながら敵にしたくない、好意とも嫌悪ともつかないライダーの特殊な感情を描写するのは思ったよりも難しく、彼らのシーンを描くのは難易度がとても高かったです。結果的には悪態はつきつつも彼女を助けてしまう、好きな子に対して素直になれない小学生男子のようなムーブを貫くことになりましたが、これはこれで悪くないかなあとそこそこ気に入っています。

 本編を通じてヴィラン的な振る舞いが似合っていますが、根の部分は人民を守護し信仰に生きる皇帝、ということは忘れずに描写しようと心がけました。アサシンに対する称賛であったり、マスターであるクロウリーやアナスタシアに対する真摯な想いなどでそれを描けていればと思います。振る舞いと根の部分に大きなギャップがあるあたり、マスターと似たもの同士なところがあるので、結果的に彼女のサーヴァントに彼を選んで良かったなあと感じます。

 

・ランサー&士郎&凛

 

 唯一誰が何を召喚するか決まらず、オリジナルのキャラクター二人(マスターと英霊)を一から考えるのにも限界があったため、原作からお借りしてしまった例外的なポジジョンの三人です。

 原作であるFate/SNが好きだからこそ、その登場人物を自分勝手に作るこの小説に登場させるのはプレッシャー的な面で抵抗があったのですが、上記の流れで登場することになりました。彼らのドラマや成長、魅せ場はきっちり最後まで原作で描かれているため、この作品ではあくまで少しだけ登場する程度にしよう…と最初に決めたのですが、熟練した目線と観点から未熟な健斗たちをリードできるだけでなく、その知識から分析・解説も行える「大人」な士郎と凛の立ち位置がとても動かしやすく、結局この三人にかなり頼ることになってしまいました。恐れ多い…。



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