白雪姫の指し直し (いぶりーす)
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プロローグ

 奨励会三段に上がったあの日から今日までの二年という歳月はとても長く感じた。

 あの地獄の三段リーグで、私は何度も躓き、心を砕かれた。敗北の恐怖に指す手は震え、プレッシャーに圧し潰されそうになって対局前には吐くことすらあった────でも、諦めなかった。最後まで、足掻き続けた。

 その無様な足掻きを見てくれたのか、将棋の神様は私の願いを聞き入れてくれた。

 

「お久しぶりです姉弟子。なんだか不思議な気分ですよ。昔から姉弟子とは何度も盤を挟んで向かい合っていたのに、今日はとても新鮮に感じます」

 

 和服を着こんだ八一が盤を挟んで向かい合う私に、懐かしむように微笑えんだ。

 昔と変わらない子供のような無垢な笑顔。将棋のことしか考えてない将棋馬鹿で、私のことなんてちっとも見てくれなくて、大嫌いで────大好きな人の笑顔。

 

「ええ、久しぶりね、八一」

 

 対局者同士が対局前の数日間は互いに接触を避けるのはプロ棋士としてよくあることだけど、私たちがこうして面と向かって話すのは、随分と久方ぶりだ。

 なぜかというと、三段リーグで躓いていた私はある一つの決心をしたからだ。それは、プロになって八一と対局するまで、あいつとの接触をなるべく断つこと。

 成績の振るわない私を八一は何度も励まし、そばにいてくれた。でも、それじゃいつまで経っても私はあいつの優しさに甘えてしまう。だから、私は八一との直接の接触を絶った。

 もちろん、竜王と練習ができる貴重な環境を無下にする訳ではなく、ネットや電話で研究会をしていたが、直接会えないのは……やっぱり寂しかった。

 だけど、その決心が実ったのか、私は今こうして八一と同じ場所にたどり着いた。 

 

「まさかプロになって指したい相手が俺だとは思いませんでしたよ」

「意外だった?」

「ええ。それに最近は俺と指したいって言う人、あまりいませんし」

 

 さっきの笑顔とは違って苦笑しながら頬をかく八一。

 でも、それは仕方ないことだと思う。私がプロに上がろうと必死に足掻いていた二年の間、未だに竜王に君臨する八一は次期永世竜王とすら噂されている。

 本当なら、例え私がプロになってもタイトルホルダーの八一と対局するにはもっと時間がかかる筈だった。今日こうして八一と盤を挟んでいるのは、これが公式戦ではなく、雑誌の企画した対局だからだ。

 公式戦ではないと言っても、かつて八一と清滝師匠が対局をした時と同じ大手雑誌が企画した対局だ。その重みは公式戦と比べても何ら遜色ない。

 史上最年少竜王対史上初の女性プロの対局。しかも同門同士。メディアがこんな対局を見逃す筈もなく、集まった記者は普段と比べ物にならない。

 

「今日は邪悪なロリ王を討伐しに来た」

「なんですか、邪悪って……歩夢みたいな言い回し止めてくださいよ。あとロリコンじゃないですから!」

 

 こんなにも注目されてる中で指すのは、私の四段昇級がかかった対局以来だろうか。でも、心はあの時よりもずっと落ち着いていて、こうして冗談を言えるのはきっと、目の前に八一がいるから。

 

「……一応言って置くけど、手加減なんかしたら殺す」

 

 確かに今日の対局は公式戦ではなない。私の目標は八一と公式戦で指すこと。だけど、プロとして本気で指すのには違いない。

 

「手加減なんてする訳ないじゃないですか。俺たちは同じプロなんですから」

 

 そう言って勝負師の目で私を見抜く八一。その視線が、その言葉が、たまらなく嬉しかった。

 あの八一が、遥か遠くにいた八一が、将棋しか頭にない八一が、やっと、やっと私に振り向いてくれた。私を見てくれたんだ。

 ずっと遠くで焦がれて、眺めてるだけしかできなかった私の将棋星の王子様。そんな八一が私と今、こうして向かいあっている。

 

「あの、さ……八一」

「なんですか?」

「対局が終わった後に、大事な話があるんだけど……」

 

 告白しようと決めていた。ずっと溜め込んでいたこの想いを、やっと向き合ってくれた今日に。

 

「奇遇ですね、実は俺も姉弟子に大事な話があるんです」

「っ!?」

 

 照れ臭そうに笑う八一。そんな姿にドクン、とさっきよりも胸が大きく高鳴った。全身が熱くなる。ま、まさか八一も? というより、八一から?

 いやいや、あの八一が、そんな事ある筈がない。冷静になれ。何を期待しているんだろう私は

 

「そ、そう……なら対局後にね」

「ええ、話はその後に。今は……盤の上で語り合いましょう」

 

 思わぬ盤外戦術に動揺するも、すぐに頭を切り替える。今は八一の言う通り、盤の上で語り合わなければ。

 思考を棋士としてのものに切り替えようと深呼吸をして、その時だった。

 

「…………えっ?」

 

 懐から対局用の眼鏡を取り出す八一の左手の薬指に、銀色に輝く何かが私の眼に写った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 対局に集中するのは当たり前のことだ。私たちは棋士で、勝つ為に指しているのだから。

 でも、ここまで集中したのは初めてだと思う。息を忘れ、瞬きすらせず、時間間隔は消え、視界に入れるのは盤上に広がる駒の描く世界のみ。

 

 ────────まるで、現実から逃避するかのように。

 

 気づけばすべて終わっていた。対局も、感想戦も、記者たちのインタビューも。

 

「今日はありがとうございました。姉弟子」

 

 全てが終わり、将棋会館を出てただ茫然と歩いていると、隣にいた八一に話しかけられた。その時になって、ようやく思考が対局時の極限状態から戻ってきた気がした。対局が終わった後なのに、ここまで集中した状態が続いたのは初めてかもしれない。

 あたりを見回すといつの間にか駅前に着いていた。

 

「……ありがとうって、何が?」

「対局ですよ。こんなにも甘美な将棋を指せたのは、本当に久しぶりです」

 

 未だに対局時の意識が抜けきらないのか、あまり実感はないけど、どうやら八一を満足させる将棋を指すことはできたらしい。

 八一と本気の将棋を指す。今日の対局は公式戦ではなかったけど、それでも確かに夢は叶った。

 

 なのに、なんで私の心はこんなにも苦しいんだろう。

 

「ところで姉弟子。対局後に話しがあるって言ってましたけど」

「……っ!」

 

 背に冷や水を浴びせられたような気がした。一気に現実が押し寄せてくるような錯覚に陥る。

 

「それは、その……」

 

 うまく言葉が出ない。でも、決めていた筈だ。こうして八一と向かいあった今日、想いを伝えると。

 

「や、八一」

「なんです?」

「わ、私は……っ!」

 

 言葉を必死に繋ごうとして、息が止まった。

 八一の左薬指に輝く銀色。

 対局前に見てしまった“あれ”が、見間違いじゃないと分かってしまったから。

 

「……やっぱり、やめとく」

「ええ? なんですかそれ。気になりますよ」

「いいから……それよりも、それ」

「ああ、これですか?」

 

 照れくさそうに笑ってその手を掲げる八一。

 

 やめて……どうして、そんな顔をするの?

 そんなに幸せそうで、嬉しそうな顔なんて、私には全然見せてくれなくなったのに。

 

「今日、姉弟子に話したいことがあるっていいましたよね? これのことなんですよ」

 

 聞きたくない、聞きたくない! そんなこと……

 やっと、八一と同じ場所に立てたのに、

 やっと、八一と向かい合う事ができたのに、

 

 

 

「俺、好きな人ができました」

 

 

 

 ────────やっと、八一に好きって言おうとしたのに。

 

 

 

「そ、そう……なんだ」

「はい、姉弟子には最初に言っておきたくて。実はまだ誰にも言ってないんですよ」

 

 後頭部をガツンと殴られたような衝撃がした。足元がふらつきそうになって、胸元が締め付けられるように痛くて、吐き気と寒気がこみ上げてきた。

 

「あ、相手は……だれ、なの……」

 

 本当はそんなこと聞きたくないのに、でもこのまま何も言わないと涙があふれそうで……私はなんとか声を出した。

 

「あの小童? それとも黒いほう? 月夜見坂燎? 万智さん? それとも……」

 

 心当たりのある名前を必死になって挙げる私に八一は首を振って答えた。

 

「いえ、姉弟子は知らない人ですよ。というか、なんでそこであいや天衣が挙がるんですか」

「……えっ?」

 

 知らない、人? ……私が?

 

「彼女、元々は俺のファンだったんです。何度か手紙を出してくれてたみたいで、最初は俺も気づかなかったんですが」

 

 照れくさそうに話す八一の言葉が理解できなかった。

 意味が、分からない……ファン? 女流棋士でもなんでもないただの素人が?

 

「最近は俺も将棋の交流イベントの依頼が来てまして、まあ姉弟子ほどじゃないですけど。そこで何度か出会って話していくうちに知り合った感じですね」

 

 話を聞いてる内に、手のひらに爪が食い込むほど拳を握りしめていた。歯を食いしばり、心の底からこみ上げてくる色々なモノを混ぜ合わした黒い感情をなんとか抑えようとしたけど、ダメだった。頭がどうにかなりそうだった。

 

 そんな、そんな女に……将棋で八一と本気で向き合えないような女に、私の八一が……?

  

「や、八一は……将棋が恋人だって、好きな人はいないって言ってたのに……」

「それは、まあ、そうなんですが……」

 

 私の言葉に八一は言い辛そうに頬を掻いた。

 その様子を見て確信した。きっと何か理由があるんだ。

 本気で将棋と向き合う事もないような女を八一が好きになる筈がない。

 竜王の地位だけを見て摺り寄るような女を八一が好きになる筈がない。

 八一の苦しみを見てこなかったような女を八一が好きになる筈がない。

 もしかしたら、その女に八一は何か弱みでも握られているのかもしれない。なら私が確かめなきゃ。

 

 八一に追及しようとして、言葉を続けようとしたその時、何かを決心したような目で八一が先に口を開いた。

 

「すみません、姉弟子。実はあの時、嘘ついてました」

「……嘘?」

 

 頭に上っていた沸騰するかのように熱かった血が一瞬で冷えたように感じた。まさか、あの既に八一は誰かのことを……

 理解の追いつかない私に八一はさらにとんでもない言葉を続けた。

 

 

 

「俺、姉弟子が好きでした」

 

 

 心臓が止まるかと思った。

   

「正確には、あの時は自分の気持ちに気づいてすらいなかったんですが……いまの人に告白された時、最初に姉弟子の顔が思い浮かんだんですよ」

「それで、その時になってようやく気が付いたんです。ああ俺って姉弟子が、銀子ちゃんが好きだったんだなって」

 

 目の前にいる真剣な眼差しで話す八一の言葉を、ただ茫然と聞いていた。

 何か言葉を発しようにも、頭の中がぐちゃぐちゃでうまく言葉がまとまらなくて。

 

 八一は将棋しか見てないじゃなかったの?

 八一は私のことを見てくれていたの?

 私たち、両想いだったの?

 

 ……なのに、なんで八一はそんな女の指輪をしているの?

 

「でも今更なんですよね。好きだって自覚して同時にあの時、姉弟子は俺のことを嫌いって言ってたことを思い出して……俺って失恋してたんだな、って気づいて」

「あっ……あれは」

 

 違う、って言おうとして、声が出なかった。

 だって、気づいてしまったから。もう、何もかもが手遅れだって。

 ただ無性に、あの時の自分を絞め殺したくなった。

 

「姉弟子との繋がりをあの時の俺は将棋以外に望んでしまった。今にして思えば贅沢でしたよ」

 

 贅沢なんかじゃないのに。私はその繋がりをずっと、求めていたのに。

 

「でも今日、姉弟子と指して改めて思いました。あんな将棋を指せるなら、俺たちの関係はそれで十分だって」

 

 全然、十分なんかじゃない。私は八一ともっと色んな事がしたい。

 昔みたいにずっと手を繋ぎたい。そのまま一緒にお出かけして、一緒にご飯を食べて、キスをして、一緒の布団で寝たい。

 何よりも、私は大好きな八一と大好きな将棋をずっと二人で指したかった。

 

「だから、これからも今まで通りよろしくお願いします。姉弟子」

 

 昔と何一つ変わらない八一の笑顔を、私は直視することができなかった。気づけば私は八一を背にして走って逃げだしていた。

 

 

 

 

 

 あのまま八一の目の前で泣いてしまいたかった。

 あの時、嫌いって言ったのは全部ウソだって、言いたかった。

 抱き着いて、無理やりにでもキスをして、本当は大好きだって伝えたかった。

 

 でも、全部、なにもかも、遅かった。

 

「私、せっかく八一と同じところに立てたのに……」

 

 駅の近くにあった人気のない知らない公園まで逃げて、そのままベンチに倒れこんだ。

 

「こんなの、いやだよ……八一」

 

 我慢していた涙が後悔と共にあふれ出してきた。

 素直になれなかった自分への嫌悪と、悔しさと、悲しさで吐き気がした。

 ただでさえ体が弱く、体力もないのに全力で走ったせいか、意識が朦朧とする。

 

 

 もし、あの時にホテルで嫌いって言わなければ。

 もし、あの時に八一をちゃんと励ませて喧嘩せずに済んでいたら。

 もし、もっと最初から素直に好きだと伝えれていたら。

 

 とめどなく溢れる『もし』に自分が嫌になる。プロの将棋指しが『待った』を望むなんて、恥知らずにもほどがある。

 

 だけど、願わずにはいられない。『待った』を……いや、『指し直し』を。

 将棋の神様はこんな私を許さないだろう。それなら、どんな神様でもいい。悪魔だって構いやしない。誰か、どうかお願いします。素直になれなかった愚かな私にもう一度チャンスをください。

 

 もし、『指し直し』が許されるなら私は────────

 

 

 

 

 

 




初小説ですので、至らぬ点が多々あると思いますが、ご指摘ご感想をお待ちしております。
※誤字及び一部台詞を修正しました。


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一話

 懐かしい匂いと、手に暖かなぬくもりを感じた。

 鼻腔をくすぐるのは畳の匂い。昔、清滝師匠の家で過ごした、あの日々を思い出した。

 毎日、どこに行く時もずっと八一と一緒で、一日中将棋を指して、おなかが空いたら桂香さんが作ってくれたご飯を二人で食べて、お風呂に入った後は八一が髪を乾かしてくれて。

 そのまますぐには眠らずに、その日に師匠に教えてもらったことを試したくて、また二人で将棋を指した。私が先に寝落ちすると八一はいつも布団をかけてくれて、一緒に寝てくれた。

 そういえば、あの時の私はよく体調を崩して熱を出していたんだっけ。そんな辛い時に八一はいつもそばにいて、ぎゅっと手を握ってくれた。

 

 そう、今みたいに手を……

 

「………ッ!」

 

 霞がかった意識が急に鮮明になって目が覚めた。

 直ぐに起き上がろうと体に力を入れたけど、ダメだった。

 何故か体が気怠い。上半身を起こすことすら億劫だけど、その見覚えのある天井を見てここがどこだか直ぐに分かった。

 

「師匠の、家……?」

 

 どうりで懐かしい匂いがした訳だ。

 ここは昔、私たちが使っていた部屋だ。そこに敷かれた布団にどうやら寝かされていたようだ。

 でも、どうして私は師匠の家にいるんだろう。

 私は確か……

 

「おはようございます、姉弟子。体調はどうですか?」

「や、八一……?」

 

 さっきから感じていた手のぬくもりの正体が分かった。

 八一が私の手を握っていてくれたんだ。昔みたいに。

 もう戻れないあの日々のように。

 

「あ、ああっ……!」

 

 八一の声を聴いて、あの光景が一気に蘇った。

 好きな人ができたと私に告げた八一。

 私が好きだったと言ってくれた八一。

 

 ……そして、すべて遅すぎたと悟って悲しみと後悔であの場から逃げ出した私。

 

「わ、私は……」

 

 多分、あの後に倒れた私を後から追いかけてきた八一が見つけて師匠に連絡したんだろう。そしてそのまま、ここに運ばれて寝かされた。

 実に想像しやすい光景だ。

 

 本当に……何を、やっているんだろう私は。

 

 自分が余りにも情けなさ過ぎて歯を食いしばった。

 恥ずかしくて、まともに八一の顔が見れない。

 長年の想いすら告げられず、逃げ恥を晒して挙句の果てに迷惑までかけるなんて。

 

 きっと呆れられている。いつまで経っても子どもみたいだって。

 きっと困惑している。訳の分からない女だって。

 

 自分でもそう思う。

 今まで、私は何をしてきたんだろう。

 ずっと素直になれなくて、それを全部、八一が悪いんだって、子どもみたいに駄々をこねて。

 プロになれば八一が私を見てくれる、振り向いてくれる、好きになってくれる……そんな都合のいい幻想を抱いて。

 

 その結末があれなんだ。

 

「……まだ辛そうですね。昨日のこと、憶えてますか?」

 

 今は誰とも会いたくない。話したくない。特に八一とは。

 だから一人にして欲しい。

 一人で思いっきり声をあげて泣きたい。

 そしてそのまま消えて無くなってしまいたい。

 

 でも、そんな思いとは裏腹に、八一は心配そうに優しい声をかけてくれた。

 

 私は、彼の言葉に頷くことすらできなかった。

 昨日の事を憶えている。

 それを肯定するのが嫌だった。

 あの出来事が本当のことだって、認めるみたいで。

 

 本当に子どもみたい。さっきあんなに自己嫌悪したのに……馬鹿だな、私。

 

「昨日の俺と師匠の対局の後、急に倒れたんですよ、姉弟子」

「……えっ?」

 

 想像していたモノと違う八一の言葉に強烈な違和感がした。

 八一と師匠の対局? 私と八一の対局じゃなくて……?

 その時になって、私ははじめて八一の顔を見た。

 

 違和感が更に強まった。

 

「八一、その顔……」

「顔? 俺の顔に何か付いてます?」

 

 ぺたぺたと自分の顔を触る八一に私は声が出なかった。

 

 ……幼くなってる? 

 私と対局した八一はもっと凛々しくなってたのに。まるで、昔みたいな……

 

 そこまで考えて、今度は自分の異変に気付いた。

 

「な、なんで、私、制服なんて……」

「服はそのままですよ。さすがに着替えさせる訳にはいかないですし」

 

 違う、そうじゃない。私が聞きたいことはそんな事じゃない。

 どうして、私が中学の制服を着ているの?

 中学なんて卒業して二年も経つのに。当時の服なんてもう残ってない。

 それにあの時の私は着物を着ていた筈だ。

 

「やっぱり顔色があまりよくないですね。とりあえず師匠を呼んで……っ」

 

 妙な焦燥感に駆られる。何か、何かがおかしい。

 自分が今、どうなっているのか分からない。怖い。

 助けを求めるように立ち上がろうとした八一の手を、ぎゅっと握りしめた。

 

「……置いていかないで」

「姉弟子……?」

「お願い、八一……」

「……わかりました」

 

 八一の手を逃がさないように、握る手に力を入れる。

 八一は少しだけ抵抗して、でもすぐに諦めて、そのまま握り返してくれた。

 自分に何が起きているのか、わからない。

 でも、こうして八一と手を繋いでると、不安も恐怖も薄れて、心が落ち着いた。

 

 例えその指に他の女の指輪をしていたとしても、今は……今だけは昔のようにいさせて。

 

「えっ!? ちょっ……姉弟子?」

 

 もっと八一のぬくもりをもっと感じたくなって、指を絡める。

 八一の方も驚きながら、でも離さないで指を絡めてくれた。

 その様子に、あの時のハワイの夜を思い出す。

 

 そういえば、あの時のパーカー、結局貰っちゃったな。

 今でも部屋着としてしっかりと愛用している。

 

 八一のパーカーを羽織って一緒に夜のハワイの街を出歩いた。

 指を絡めながらお店を回って、

 アイスを買って二人で食べて、

 

 ……そのままキスしそうになって。

 

 もしもあの時、無理やりにでも八一にキスしてたらどうなってたのかな。

 鈍い八一でも、私の想いに気づいてくれたのかな。

 そして、八一は私に好きって言ってくれたのかな。

 

 ……なんて、考えるだけ無駄か。

 

 そんな妄想はただ虚しいだけ。

 

 簡単に割り切る事はできないと自覚はしている。

 でも、今はそんな妄想をするよりも目の前に確かにいる彼のぬくもりをこの手で感じていたい。

 

 近い将来、私は八一の手をこうして握る事すら許されなくなるのだから。 

 

 そんな事を思いながら絡めた指で八一の薬指に嵌められているであろう、あの忌々しい銀色の指輪に触れようとして……ふと、疑問が浮かんだ。

 

「ねえ、八一、指輪は……?」

「指輪? なんの事です?」

 

 思わず口にした疑問に八一は不思議そうに首を傾げた。

 

「なんの事って……左薬指につけてた指輪」

 

 忘れもしないあの光景。八一は確かに指輪をつけて、私に見せていた。

 見間違える筈がない。今でも瞼の裏で鮮明に思い出せる。

 

「左薬指って、それじゃまるで婚約指輪じゃないですか」

 

 戸惑う素振りを見せる八一に私は腹が立った。

 今更、とぼけるつもりなの?

 繋いだ八一の手を強く握りしめながら彼の顔を睨みつけた。

 

「実際、そうなんでしょ? 最年少竜王は結婚も最速狙い?」

 

 あんなに、嬉しそうに、幸せそうな顔をして見せつけた癖に。

 ……その後に、私に好きだったって、言った癖に。

 

 『俺、姉弟子が好きでした』

 

 あの言葉まで誤魔化すのだけは、許せなかった。

 

 

「いやいや、何言ってるんですか! そもそも俺、指輪なんて持ってないですし」

「まだしらを切るつもり?」

 

 こんなのは自分への惨めな慰めでしかない。

 でも、確かに八一は言った。私を好きだって。

 あの時は頭の中ががぐちゃぐちゃだったし、今もあの光景を思い出したくなんかないけれど……

 

 あの言葉だけは、今思い返すと嬉しかったんだと思う。

 

 八一は私を見てくれていたんだ。

 今は違うのだろうけど、でも……私たちは確かに両想いだったんだから。

 

「そもそも十六歳の俺が結婚できる筈ないじゃないですか!」

 

 

「………えっ?」

 

 その言葉を聞いて、冷や水を浴びせられたような気になった。

 八一が……十六歳?

 

 何を馬鹿な事を……そう思ったけど、ようやく自分の置かれた状況に気づかされた。 

 

 八一と師匠の対局

 十六歳の八一

 中学のセーラー服を着た私

 

 ……そんなの、有り得ない。

 夢か何かだ。こんなのは。

 でも、握った手から感じる暖かさが、これが夢だという説を否定している。

 

 夢じゃない。もしそうなら考えられるとしたらそれしかない。

 

 

 私、過去に戻ってる……?

 




感想、誤字指摘ありがとうございます。
感想への返事は後程させていただきます。

2018/4/24 描写追加修正しました。


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二話

 過去に戻っているだなんて、普通に考えればそんな事はありえない。

 真っ先に夢か何かだと考えるのが自然だと思う。

 きっとこれは八一を他の女に盗られて絶望した私が望んだ都合の良い夢なんだろう。

 こんな夢は直ぐに醒めて、あの名前もしらない公園のベンチで惨めな自分を嘆くのが現実なんだろう。

 

 ────でも、それが何だというの?

 

 例え夢でも、いま、この手から感じる八一のぬくもりは本物なんだ。

 いま、目の前にいる八一はまだ他の誰にも盗られていない私の八一なんだ。私だけの、八一なんだ。

 なら、それでいい。それだけで十分。

 これが都合の良い夢だと云うのなら、私は目醒めるまでその夢を見続けたい。

 

 それに夢だと云うなら、前よりも少しくらいは素直になれる筈だ。それなら、

 前よりもっと八一と話そう。

 前よりもっと八一に触れよう。

 前よりもっと八一に甘えよう。

 前よりもっと八一を支えよう。

 

 もっと、もっと、もっと、もっと

 

 必要だと云うならなんだってやる。

 前より早くプロになれと云うのなら、なってやる。あの椚創多すら倒してみせる。

 

 雛鶴あいでもなく、夜叉神天衣でもなく、桂香さんでもなく、

 この私が、空銀子が九頭竜八一にとっての一番になってみせる。

 

 

 

 

 

 

 

「あっ、もうこんな時間か。すみません、姉弟子。俺そろそろ時間なんで」

 

 腕時計を確認しながら、八一は申し訳なさそうに私の手を離した。

 ようやく現状を理解できたけど、だからと言って今直ぐに何かした訳でもなくあのまま八一と手をずっと繋いでいた。

 手を離すのは名残惜しいけど仕方がない。昨日が師匠と八一の対局の日だったのなら、今日はあの日の筈だ。

 

「神鍋先生との対局、だったよね」

「はい。歩夢は手強い相手ですよ。それに今期は連敗中の俺と違ってかなり調子がいいみたいですし」

 

 そうだ。この時の八一は竜王になって以降、スランプに陥り、十一連敗をしていた。

 そして今日が、そのスランプから無事に抜け出した日。

 今思えば、あの時の八一は自分の将棋を完全に見失っていた。

 竜王というタイトルを背負うには八一は若すぎたんだ。

 竜王として相応しい将棋を指そうと、タイトルホルダーとして恥のない将棋を指そう、そんな考えが八一の将棋を鈍らせていた。

 

 そう言えば『前回』はあの弟子の存在でスランプから抜け出せたと八一自身がインタビューで答えていた記憶がある。

 弟子の前では負けられないと、だから竜王としてではなく、一人の棋士として勝ちを狙い、あの粘り強さを思い出せたと。

 

「八一、目にクマができてるけど大丈夫なの? まさか昨日ずっと私を」

「えっ!? あ、いえ、別に姉弟子のせいじゃないですよ! ちょ、ちょっと今日の対局に備えて色々と考え込んでて……」

 

 目元にうっすらクマを浮かべる八一に不安が募る。

 『今回』は、どうなんだろう?

 師匠との対局後に八一が家に帰ると、あの内弟子が八一の家に無断で入り待ち構えていたのが出会いの経緯だと聞いている。

 だけど『今回』は私が倒れたせいで、八一はそのまま家に帰っていないみたいだから、小童にはまだ出会っていないはず。

 

 認めたくないけど、八一の中での雛鶴あいの存在は大きい。

 もし、あの弟子が不在で八一はあの時と違ってスランプから抜け出せなかったら……。

 

「八一」

「なんです?」

 

 前は八一の家の前で言いそびれたけど、今度はちゃんと伝えよう。八一が勝てない原因を。

 そうだ八一を救うのは雛鶴あいじゃない。今度は私なんだ。

 

「八一は弱くなんかないよ。八一が連敗しているのは……」

「分かってます」

 

 途中で言葉を遮られた。私がよく知る勝負師の目をした八一に。

 

「……えっ?」

「大丈夫です。今日は勝ちますよ」

 

 そう言い切った八一の言葉は自信に満ち溢れたものだった。

 おかしい。この時の八一は、こんな感じじゃなかった気がするけど……。

 

「そ、そう。ならいいけど」

「ええ。だから姉弟子は見ててください」

 

 その言葉に、胸が高鳴った。

 見ていてと八一は私に言った。言ったんだ。雛鶴あいではなく、この私に。

 この場に雛鶴あいはいないし、そもそも出会ってすらいないのだから当たり前なんだけど、

 でも、嬉しかった。

 

「うん、ちゃんと見てるから」

 

 きっと『今回』も八一はあの二人を弟子に取るんだろう。

 それは構わない。あの二人が八一の中で大きな存在だったというのは分かっているから。

 だけど、今は違う。今は私だけが八一を見ている。

 その優越感が心地良くて、八一に感じていた僅かな違和感はいつの間か私の中で消えていた。

 

 

 その日、八一は宣言通り、神鍋先生に勝利し、連敗更新を止めた。

 前と同じように午前三時を回る長時間に及んだ戦後最長手数による対局。

 師匠譲りの粘り強く最後まで諦めない、八一の将棋が前と同じように戻っていた。

 

 この時はまだ、前回と違うのは自分だけだと思っていた。

 動く駒が変われば、他の駒も動きが変わり結果が異なるなんて、当たり前の事なのに。

 

 

 

 

 

 

 

 ─────────

 ──────────

 ────────────

 

 姉弟子が倒れたのは師匠との対局が終わって直ぐの事だった。

 下半身が悲惨な事になった師匠と急に倒れた姉弟子に俺と桂香さんは慌てふためきながらも、なんとかタクシーを捕まえて師匠の家に着いた。

 興奮して聖水をぶちまけた師匠もさすがにパンツを履き替える頃には落ち着いていて、倒れた姉弟子のご両親に連絡を入れていた。

 話し合った結果、時間も遅かったため今日はとりあえず師匠の家で姉弟子を預かることになった。

 

 一通り事を見届けてから帰ろうとしてたけど、桂香さんに泊まっていくように勧められた。桂香さん曰く、

 

 「八一くんが傍にいてくれた方が銀子ちゃんも安心するから」 

 

 だそうだ。あの姉弟子が俺なんかが傍にいて安心するなんて普段の姿から想像できなけど。

 でも、心配なのは確かだったので桂香さんの言葉に甘えて師匠の家で泊まることにした。

 

「やっぱり懐かしいな、この部屋は」

 

 二つ並んで敷かれた布団の片方に姉弟子が寝かされていた。空いたもう片方の布団に腰を下ろす。

 幼い時は一緒に寝てたとはいえ、流石にこの年で一緒に隣で寝るのはどうかと思ったけど、文句を言う前に桂香さんが布団を敷いて姉弟子を寝かせてしまったので諦めた。

 

 部屋を見渡して、昔を懐かしむ。

 二人で寝て起きて、将棋を指した、俺の人生で一番思い出深い場所だ。

 そういえば姉弟子は昔は今より体が弱かったっけ。

 少し日に浴びるだけでも肌が赤くなって、体調を崩していたな。

 

「やい、ち……」

 

 目が覚めたのかと思ったけど、違うようだ。

 呼吸は乱れ、辛そうに、何かにうなされるような声だった。

 その声を聴いて、無意識に姉弟子の手を握っていた。

 

 昔、体調を崩して辛そうにしてる姉弟子の……銀子ちゃんの手をこうやって握ると落ち着いたんだっけ。

 今起きたら殴られるんだろうな、なんて考えながら銀子ちゃんの手を強く握った。

 これで少しでも楽になってくれればいいんだけど。

 

「置いて、いかないで……」

「大丈夫、置いていかないよ。銀子ちゃん」

 

 その消えそうな声に思わず返事をしてしまった。

 何やってるんだ、俺。起こしちゃいけないのに……

 

 だけど、何故か言葉を返さないと彼女がどこかに消えてしまいそうな気がした。

 

 しばらく握っていると、ようやく落ち着いたのか呼吸が正常に戻った。

 とりあえず一安心かな。

 もう離してもいいかと思い握る力を緩めてみるけど……

 

「あれ……?」

 

 動かない。

 どうやら今度は銀子ちゃんが強く握ったままで、離してくれそうにない。

 これは諦めた方が賢明のようだ。

 

「……手、綺麗だな」

 

 なんとなく繋いだ手を眺めた。

 透き通るような白く小さな女の子の手。

 皮膚が固くなった人差し指と中指を触らなければ、とても棋士の手には思えないほど綺麗で、繊細な手。

 

 昔はこの手を繋いで二人で色んな所に行って将棋を指した。

 銀子ちゃんが生石先生に殴り込みに行った時もそうだったかな。

 他にも新世界で真剣をしたり、東京まで行って将棋を指したり……あの時は二人でならどこまでも強くなれると思っていた。

 

 ────けど、そんなのは幻想だった。

 

 いつからだろう? 俺たちが手を繋がなくなったのは。

 

 何か特別なきっかけがあった訳ではなかったと思う。

 ただ、自然と繋ぐことがなくなっただけ。

 幼い時の子ども同士の関係なんだから、そんなものだ。

 例え手を繋がなくなっても、俺たちの関係はずっとあのままだ。何も変わっていない。

 

 だけど、次は手だけではなくこの関係まで離れてしまう予感がした。

 

 十一連敗を晒すような、まぐれで竜王を取れたとまで言われるような俺と、目の前で眠る美しい白雪姫との関係が。

 

 そう考えるだけで、何かおぞましい寒気のようなモノがした。

 

 

「……勝ちたい」

 

 唇から洩れた言葉に、自分自身驚いた。

 勝ちたい、なんて勝負師として、棋士として当たり前の事を俺はわざわざ口にしたんだ。

 ……それがどういう事か。

 

「なんだ、そんな事だったのか」

 

 こんな単純なことに今日まで気づけなかった情けない自分に笑ってしまう。

 俺はいつの間にか忘れていた。見失っていたんだ。大事なモノを。

 

 勝利への執着と渇望を。

 

 竜王に相応しい将棋を指す。

 タイトルホルダーとして恥のない将棋を指す。

 

 なるほど。それは確かに大事な事だ。

 竜王という重い称号を背負う者に求められる責任だ。

 

 けど、俺はそんなものを背負って竜王になれた訳じゃない。

 

 勝利への執着、渇望。

 俺が憧れた清滝師匠は、今の俺が指してるような小奇麗な将棋じゃない。

 最後まで諦めず、泥臭く、どんなに醜く足掻いてでも勝利を勝ち取る。

 

 だから勝てたんだ。

 だから竜王になれたんだ。

 

 明日は勝とう。

 

 相手はあの歩夢だ。もちろん簡単に勝てる相手じゃない。

 でも勝つ、勝ってみせる。

 どんなに汚い棋譜を残したって構わない。

 どんなに醜く指しても構わない。

 

 何時間でもかけて、何百手でも指して、そして勝つ。

 

「……ありがとう、銀子ちゃん」

 

 ようやく、自分に欠けたナニかを取り戻せた気がする。

 こんな時に不謹慎だと思うけど、お蔭で大切なものを思い出せたのは事実だ。

 隣で眠る銀子ちゃんに礼を言って布団に寝転んだ。そろそろ明日に備えて寝よう。

 

「やいち……」

 

 瞼を閉じてそのまま眠ろうとした時、また小さな声が聞こえた。

 眠気が押し寄せて、さっきのように言葉は返せそうにない。

 だから、返事の代わりに彼女の手をぎゅっと握り、そのまま寝ようとして─────

 

「すき」

 

 

 眠気が吹き飛んだ。

 

 

 

 

 




2018/04/24描写追加修正しました。


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三話 雛鶴あい

多くの感想、評価をしていただきありがとうございます。
日間ランキングにも入ることができ、驚いております。
感想を書いていただいた皆様には、まだ返信できておりませんが、後日まとめて返させていただきます。
これからも、どうかよろしくお願いします。


 師匠に自宅へ帰された後、自分の部屋で神鍋先生と八一の対局をネット中継でずっと見守っていた。

 深夜にまで長引いた対局が終わり、無事に勝利を収めた八一を見て胸を撫で下ろした。良かった……勝てたんだ。

 八一の勝利に高揚感が抑えきれず居ても立ってもいられなくなった私は、家から抜け出して真っすぐに将棋会館へと向かった。

 一応は病み上がりで、しかもこんな深夜帯に出かけるなんて普段は放任主義の両親でも流石にバレたら怒られるかな。

 

 でも、今は無性に八一に会いたかった。

 

 関西将棋会館に入って、一階の出入り口付近で八一を待つことにした。

 電話で連絡でもしようかと何度も悩んだけど、どうせ忙しくて出れないだろうし、何より直接会って話したかったので、結局待ち続けることにした。

 そして約一時間半後。午前五時を過ぎた辺りでようやく八一が降りてきた。

 

「姉弟子? どうしてここに……」

 

 私を見つけた途端、八一は驚いた顔をして小走りで近づいてきた。

 まあ、驚くのも無理はないか。こんな時間だし。普通なら対局後なら何人もの記者たちも一緒に降りてくるけど、八一の他には見知った女記者一人しかいない。

 

「どうしてって、見ててって言ったのは八一でしょ?」

「言いましたけど……でも病み上がりなんですから、あまり無茶しないでくださいよ。あと、流石にこんな時間に歩いてると補導されますよ?」

「別に無茶なんかしてない。もう平気よ」

「なら、いいんですが」

 

 呆れたような声だけど、八一は私を気遣ってくれているんだ。

 確かに起きた直後は体の気怠さを感じていたけど今は調子がいい。

 それに補導されないように普段の制服ではなく、わざわざ私服を着てきたし問題はない……筈だ。

 

「……どうしたの?」

「あっ、いえ……」

 

 さっきから八一がずっと私を見つめてくるので、問いかけた。

 すると慌てたように八一は視線をそらす。

 どしたんだろう。もしかして……この服、変だったかな。

 普段は制服ばかり着てるせいか、気づかずにおかしなコーディネートになってるのかも。

 私的には無難なモノを着てきたつもりなんだけど、こういう時に流行に疎い自分を恨んでしまう。

 

「姉弟子が制服以外を着てる姿なんて、珍しいなって思って」

「そう?」

「ええ、最初見たとき姉弟子だと直ぐには分からなかったですよ」

 

 もしかして、私=制服だと認識されているんだろうか。失礼な奴だ。

 ……でも、事実だし否定はできない。

 それに、この時期の八一は間違いなく私のことをただの姉弟子の関係としか思ってないのだろう。異性としてではなく、家族に対する服装の認識なんてそんなものなのかな。むかつくけど、仕方がない。

 だって八一だもん。

 

「えっと、その……すごく、似合ってますよ」

「なんか言った?」

「い、いえ、何でもないです!」

 

 ぼそりと八一が何か呟いたようだったけど、声が小さすぎて言葉が聞き取れなかった。私の気のせいだろうか。

 

「それより、これからどうします? 時間も時間ですし帰るなら送りますよ?」

「そうね……」

 

 一応悩む素振りは見せているものの、どうしたいか聞かれた時点で既に思い浮かんでいる。

 

「今の時間なら少し待てば始発の電車が……」

「八一の家」

「は?」

「八一の家」

 

 私の言葉に間抜けな顔をしながら茫然とする弟弟子にもう一度同じ言葉を言う。

 

「いやいや、でも俺も対局後だし、姉弟子も病み上がりですし流石に今からは……」

「八一の家」

「で、ですよねー」

 

 有無など言わせない。八一が私を異性だと見てくれないんだ。なら、その間は存分に姉弟子としての立場を利用させてもらう。

 

 

 

 

 将棋会館を出て、二人で並んで歩く。

 八一に会いたかっただけで、最初はその後の事なんて考えてなかったけど、せっかくだし八一の家で泊まることに決めた。この時期の私は八一の家にいつでも泊まれるように着替えや歯ブラシを八一の部屋に常備させていたので抜かりはない。

 隣でゲンナリとした顔でとぼとぼ歩く八一は今から私と指すと勘違いしているんだろうけど、流石に対局後で疲労した相手にそんな事は求めない。

 それに、今回の対局に備えて寝不足だって言ってたし。まだ目元にクマが残ってる。

 

「春とはいえ、この時間だと冷え込みますね」

「そうかしら」

「そりゃ、姉弟子はそんな暖かそうな恰好してるからいいですけど」

 

 マフラーと手袋をした私を吐息を手に吐いて両手をこすり合わせながら八一は羨むような目で見てきた。

 確かに今の八一は寒そうだ。……うん、それなら、いい考えがある。

 私は手袋を外して、八一の手を掴んだ。ひんやりとした手が温まった手を程よく冷やし、妙に心地よかった。

 

「えっ、あ、姉弟子!? な、な、何を」

 

 急に手を握られて驚いたのか、挙動不審になる八一。私相手にこんな反応をするなんて珍しいかも。ちょっと可愛い。

 気分を良くした私はそのままぎゅっと八一の手を握りしめた。 

 

「なに? 寒いんでしょ?」

 

 倒れた私の手を握ってくれたのは、八一が優しいから。

 あんな状況じゃないと、きっと今の八一は昔のように手を繋いでくれないと思う。

 もう子どもじゃないんだし、とか言って。

 今はまだ私を異性としては見てくれない、ただの姉弟子と弟弟子の関係。

 『前回』の八一は私の事を好きだと言ってくれたけど、それはもう少し未来の話だ。少なくとも今の時期はまだ、そういう目で私を見てくれてはいない。

 そんな私がいま仮に告白したって、八一はきっと困惑するだけ。下手をすればフラれてしまうかもしれない。

 ────それだけは絶対にいやだ。

 

「いや、でも」

「いいから、言う事を聞きなさい」

「は、はい……」

 

 だから、今だけは口実さえあればいい。手を温めるためという理由で、姉弟子として命じて。

 それなら、姉弟子に逆らえないこの愛おしい弟弟子は今でもこうして私と手を繋いでくれるから。

 

「あの、姉弟子」

「なに?」

 

 手を離せというなら全力で拒否する。その意思を伝えるように手を握る力を強めた。

 少し爪が食い込んでしまったかもしれない。

 

「ちょ、離しませんから! そんな強く握らないでくださいよ! 痛い! 痛いから!」

「……それで、なに?」

「えっと、その……今日はありがとうございました」

 

 急にそんな事を言われて、思わず言葉が詰まった。

 その言葉は、あの日。人生で一番聞きたくない告白をされた時と同じ言葉だったから。

 

「……あ、ありがとうって、何が?」

 

 まさか、あの日と同じやり取りをするとは思わなかった。

 これで八一の指にあの吐き気を催す銀色の指輪がはめられていたら、完全な再現になってしまう。

 不安になって繋いだ手を恐る恐る確かめてみたけど……そこに指輪の感触はなかった。

 ほっと息を吐き、もう一度八一が離れてしまわないように握る力を強めた。

 

「今日の対局ですよ」

「……対局?」

 

 今回も私は特に八一になにかしてあげた記憶はない。

 スランプの原因を指摘しようとしたけど、八一は自力で切り抜けてしまったし。

 寧ろ、私が倒れたせいで余計な心配までさせてしまったかもしれないのに。

 どうしてお礼なんて……。

 

「今日、俺が勝てたのは姉弟子のお蔭なんです」

「私は、なにもしてないけど……」

「そんな事ないですよ。ずっと見てくれてたんですよね? 俺の対局」

「……うん」

「対局中、今日は姉弟子がずっと見てくれてるって思ったから、だから今日は最後まで指すことができました」

 

 頬が熱くなるのが自分でも分かった。

 私が見てる。そんな、そんな些細な事で……。

 私が、力になれている。支えになれているんだ、私が、あの八一の。

 八一にとっては姉弟子として、なんだろうけど、それでも信頼されているんだと、知ることができた。

 ああ、なんで、こんな簡単なことが前はできなかったんだろう。

 

「……だから、これからも俺を」

 

 八一は何かを言おうとしたけど、首を振って途中でその言葉を止めた。

 恥ずかしそうに頬をかいている。八一は何を言おうとしたのだろう。

 

「八一?」

「いえ……とりあえず言いたかったのは、それだけです」

 

 それだけ言って、八一は黙ってしまった。

 さっきの言葉の続きが気になったけど、この様子だとこれ以上は話してくれないらしい。

 でも、とりあえずは──。

 

 

「八一が勝ててよかった」

 

 その後は特に会話もなくただ静かに歩いて帰った。いつもなら、弾む将棋の話すらなく、ただ黙々と歩幅を合わせて歩くだけ。

 言葉はなかったけど、それが気まずい沈黙なんかじゃなくて、ただ心地よい時間で、まるで私達だけで昔に戻ったようで。

 繋いだ手は家に着くまでずっと離れず、朝焼けに吹く冷たい風は火照った私の頬に心地よかった。

 隣にいる八一の顔も、ほんのりと赤みが指しているように見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おかえりなさい。師匠」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 八一と手を繋ぎながら家の扉を開けると、真っ暗な玄関で正座をした幼女がいた。

 

「「ひいいいいいいいいいいい!!」」

 

 こ、怖かった……正直、心臓が止まると思った。

 私はもともとホラーが大の苦手なのに、誰もいない筈の部屋の扉を開けたら玄関で幼女が待機しているなんて、あまりにも心臓に悪すぎる。

 普段はホラー映画を見て怖がる私をおちょくってくる八一もさすがに、暗闇の玄関で待機する幼女の不意打ちには耐えられなかったのか、私たちは互いに抱き付きながら悲鳴を上げていた。後々思うと中々恥ずかしいことをしている。

 

 そんな私たちを無視するかのように、幼女は自己紹介を始めた。

 

「お久しぶりです。約束通り私を弟子にしてください。九頭竜八一先生」

 

 純粋無垢な笑顔を浮かべ、八一にぺこりと頭を下げたその子は、とても小学生とは思えない言葉使いで挨拶をした。このホラー幼女の名を、私は知っていた。

 

 

 雛鶴あい。

 

 八一の一番弟子となる子。内弟子になって私と八一の間に急に割り込んできたクソガキ。将棋の神様に愛された白い天才。

 こいつの事を忘れていた訳じゃないけど、まさかずっと部屋で待機していたなんて、想像できなかった。

 小学生とは思えない行動力を発揮する雛鶴あいを眺めていると、下げていた頭を急にぐるりと上げ、私を見た。

 

 

 

「それと……“はじめまして”、空先生」

 

 

 

 先ほど浮かべた笑顔と違う、黒く濁ったその目を見て、私は先ほどとは違う別の恐怖心を覚えた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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四話

「……なるほど。君の話はわかった。約束は守るよ」

 

 雛鶴あいから弟子を取る約束をした経緯を聞き終えた八一はそう答えた。

 やっぱり、八一は『今回』も雛鶴あいを弟子を取るのかな。

 以前の私なら、八一が小学生を弟子に取るなんて言い出したらその場で口を挟んだと思うけど、今はしない。

 この憎たらしい小童の存在が、名人から竜王防衛を果たすという快挙を成し遂げた大きな要因の一つだと知っているから。

 

 私が八一にとっての一番の存在となる。そう決めた。そこに妥協しようなんて気は更々ない。

 でも、八一には『前回』と同じ将棋を指してほしい。たとえ追いつけないと分かっていても、私の大好きなあいつの将棋を。

 自分だけ変わろうとしてる癖に相手には以前と同じモノを求める、なんてエゴなのかな。

 

「ほんとうですか!?」

 

 雛鶴あいは嬉々とした様子で二つに別れたその長い髪を揺らした。

 

「ただし弟子を取るかどうかは君の棋力を見てからだ。本当なら、今から指したいところなんだけど……」

「いえ、お疲れのようですし、今日は挨拶だけでもと思い伺いました! ししょーが先ほどまで対局されていたのは知ってします。全部見てましたから」

「そう言ってくれると助かるよ。眠気が限界でね。あとまだ弟子に取るって決めた訳じゃないから師匠って呼び方はやめてね」

「はい! ししょー!」

 

 このやり取りだけを見れば、ただの小学生との微笑ましい自然な会話に見える。

 だけど、私はさっきからこの小童に対して何かおぞましい不気味さを感じていた。

 なんだろう、何か、言葉では言い表せないような胸騒ぎがする。

 

「そういう事なら、この小童は私に任せなさい八一」

「姉弟子?」

「このまま小学生を家に連れ込むのも、外に放り出すのもマズいでしょ? とりあえず師匠の家に連れて行って相談してくるわ」

 

 流れは違うが前回は清滝師匠に相談に行った。

 あの時はこの小童の両親と連絡が既に付いていて事がスムーズに運んだ記憶がある。

 とりあえず今は前回の経験に基づいて行動しよう。

 

「それなら俺も……」

「あんたは大人しく寝ときなさい」

「いや、でも病み上がりの姉弟子にそんな……」

 

 深夜まで対局をしてた八一にこれ以上、負担はかけれない。

 前日の寝不足だって八一は誤魔化してたけど倒れた私のせいだろうし。

 それに……。

 

「いいから。命令よ」

「……わかりました」

 

 雛鶴あいをじっと見つめる。

 ……少し、確かめたいこともある。

 

「…………」

 

 私たちにの会話を雛鶴あいが、最初に私を見たときと同じ濁った黒い眼で見ていた。

 その目を見る度に寒気のようなものを感じる。

 けど、その目をしていたのは一瞬で直後には無垢な子供の笑みを浮かべた。

 

「今からししょーのししょーのところに行くんですか? わぁー! 楽しみですぅ!」

「だから、師匠はやめてって。すみません、姉弟子」

「気にしなくていい、任せなさい」

「あいちゃん。せっかく来てもらったのにごめんね。少し休んだら俺も行くから」

「いえ、お気になさらずししょーはゆっくり休んでください!」

 

 無邪気にはしゃぐ小童を頭を微笑ましそうに八一は撫でた。

 ……会ったばかりの小学生の頭を撫でるなんて、やっぱり八一にはロリコンの気がする。

 それとも、この小童の仕草に誘導されてそうしているのか。

 どっちにしろ危険だし、後でちゃんと矯正しないと。

 どうせ周りをうろつく小学生が今後も増えるんだろうし。 

 

「それにしても『雛鶴あい』か……この子も”あい”なのか」

「えっ?」

 

 欠伸を噛み殺しながら呟いた八一の言葉を、聞き取ることはできなかった。

 

「いえ、なんでもありません。すみませんが、この子のこと、よろしくお願いします」

 

 今にも寝落ちしてしまいそうな八一に見送られ、私は小童を連れて八一の部屋を出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 駅に向かう道中。

 私たちの間に言葉はなく、ただ沈黙が続いていた。

 八一と二人で歩いた時とは違い、その沈黙は固く重苦しく感じた。

 

「……私のこと、知っていたのね」

 

 先に沈黙を破ったのは私だった。

 確かめたかった。この時の雛鶴あいが何故、私を知っていたのか。

 この小童と最初に出会った時の事はよく覚えている。

 というか、忘れる筈がない。八一が裸の小学生を押し倒している、だなんてとてつもなく印象に残る出会いをしたのだから。

 その後の会話も記憶に残っている。

 

「はい。もちろんですよ。だって有名じゃないですか空先生」

 

 くすくすと笑う雛鶴あいの表情は、さっきの無垢な笑顔とはかけ離れていた。

 そうだ。この小童は私の事すら知らなかった筈だ。

 将棋を知らなかった、ただの小学生が八一の指す姿に魅せられ、憧れて、焦がれて八一の元に訪れた。

 そんな純粋な当時の雛鶴あいの瞳に、八一以外を映す事はなかったのだから。

 

 

 

「───”初の女性プロ棋士”なんですから」

 

 小童の放った言葉に思わず息を飲んだ。

 

 ああ。理解した。

 同じなんだ。こいつは、私と。

 私と同じように『都合の良い夢』を見ているのだ。

 

「……どうして、私があんたと”同じ”って気づいたの?」

 

 私が雛鶴あいが自分と同じような『指し直し』をした人間だと気づいたのは、こいつがわざとらしいサインを発したから。

 カマかけのようなものだ。まんまと乗せられた。

 だけど、私はこいつに対して何もしていない筈だ。

 それなのに、なんで……

 

「そんなの、分かりますよ。あんなに幸せそうな顔して師匠と二人で手を繋いで帰ってくるなんて……前の空先生ならあり得ないです」

「…………」

 

 認めたくないけど、その通りだと思う。

 自覚してないけど、どうやら顔にも出てたらしい。

 ……八一に気づかれてたらどうしようかな。

 でも、八一なら気づいてないよね。八一だし。

 

「それで、どういうつもりなんです?」

「どうって……なにが?」

 

 質問の意図はだいたい予測できている。

 大方、嫉妬しているんだろう。私に。

 雛鶴あいが八一を師弟関係以上に慕っているのは知っているから。

 でも、続く言葉は私が予測していた以上に感情の込められたものだった。

 

 

「────自分の想いすら伝えられなかった空先生が、いまさらどういうつもりなんですかって聞いたんです」

「……っ!」

 

 腹の底から搾りだしたような、黒い感情を乗せた鋭利な言葉。

 その言葉は私の胸に深く突き刺さった。

 雛鶴あいは言葉を続ける。

 

「あいはちゃんと、伝えましたよ。気持ちを。感情を。想いを。全て」

「ししょーの指す将棋が好きって、将棋を指すししょーの姿が好きって、あいにたくさんの事を教えてくれたししょーが好きって」

「全部、全部伝えました」

 

 

「……でも、フラれちゃいました」

 

 

「気持ちは嬉しいって。でもそれに答えることはできないって」

 

 言葉の途中でその大きな瞳から涙をこぼしながらも、私をしっかりと睨みつけていた。

 

「空先生は言ったんですか? ししょーが好きって。言ってないですよねっ!」

「それは……」

「言ってるはずないですよね。だって、想いを伝えて、フラれちゃったら……あんな顔して手を繋げるはずないもん!」

 

 咄嗟に何か言い返そうとしたけど、言葉が出なかった。

 この子の言っている事が正しいと思ってしまったから。

 最後まで想いを伝えれなかった私と、自分の想いをはっきりと伝えた雛鶴あい。

 どちらが正しいかだなんて、考えるまでもない。

 そして想像できてしまったから。

 

 ────八一に想いを伝えて、それを拒絶された時の虚無感と絶望感を。

 

「どうして、そんなあなたがまたししょーの隣にいるんですか?」

「また同じように、ししょーに付きまとうんですか? 他の(ひと)に盗られるまで」

「違う! 私は、今度こそ八一に」

「伝えられるんですか? ずっとししょーの傍にいて、何もしてこなかった空先生に」

 

 何もしてこなかった? 私が? ふざけるな。

 何を知ったような事を言ってるんだ。 

 私にとって八一がどんな存在か、知らないくせに。

 私がどんな思いで将棋を指してきたか知らないくせに。

 急に、私たちの間に割り込んできたくせに。 

 

「あんたに私の何が……何が分かるっていうの!?」

 

 気づけば叫んでいた。

 自分でも、大人げないと思う。

 相手は小学生で、私と違って八一と素直に向き合ったのに。

 でも、「何もしてこなかった」という言葉が許せなくて。

  

「分かりませんよ、そんなの! ……分かる筈、ないじゃないですか」

 

 帰ってきた言葉はさっきと違って、力のない悲しみと無力感を滲ませたような声だった。

 

「凄く綺麗で、ししょーと同じ場所で将棋を指せるくらい、強い人なのに……」

「ずっと、ししょーと過ごしてきた人なのに……どうして……他の(ひと)なんかに盗られちゃってるんですか」

 

 どうして、だなんて……そんなの決まっている。

 私がただ、どうしようもなく不器用で、素直じゃなくて、弱い女だったから。

 

 

「あいが、もっとししょーと年が近かったら……あいが、ししょーと同じ場所で指せるくらい強かったら……」

「あいが……空先生だったら、ししょーは選んでくれたのに……」

 

 雛鶴あいはその場で崩れ落ちて、泣いた。

 子供のように……いや、この子はまだ子どもなんだ。

 私なんかより、ずっと純粋で、素直で、強い子。

 この場に八一がいたら、優しい彼はきっと涙を流す彼女を抱きしめてあげるんだろう。

 だけど、私は八一のように優しくはないから、その場でただ泣き止むまで雛鶴あいを見ていた。

 彼女もきっと、私なんかに慰められるのは望んではいないだろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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五話

「あいは、もう一度ししょーの元で将棋を指したいだけです」

 

 ようやく泣き止んだ雛鶴あいは、涙でぐちゃぐちゃになった顔で呟くように言った。

 流石にこんな人目の付く場所で目を腫らして顔をびしょびしょに濡らした小学生は目立つので、ハンカチを貸してあげた。

 

「ぐすっ……ありがとう、ございます」

 

 雛鶴あいは一言礼だけ言って私からハンカチを受け取った。

 そのまま顔を拭いて……あろう事か鼻までかんだ。

 この小童ァ! あのハンカチ、お気に入りだったのに……

 

「ししょーは、告白する前にもあいに言ってくれました。これからは自分の世界を持って欲しいって……自分の盤を持って、多くの人と世界を広げて欲しい、って」

 

 私の貸したハンカチを胸元で握りしめながら、雛鶴あいは懐かしむような笑みを浮かべた。

 

「だけど、あいにはまだそんな勇気がなくて……だから、もう一度だけ、ししょーに教わりたいんです。将棋ことや、他のいろんなことを、もう一度」

「……そう」

 

 改めて、この子は強いと思った。

 しっかりと前を向いている。どんなに涙を流しても、前に進もうとしている。

 そういう所は、やっぱり八一の弟子なんだと認めてしまう。

 

「……少しだけ安心しました」

「安心?」

「だって、夢みたいじゃないですか。こんな、やり直しができるなんて」

「…………」

「だから、きっとこれはあいだけが見てる夢なんだって思って……でも、空先生も同じって知って、ちょっとだけ安心しました」

 

 私も、夢だと思っていた。いや、心のどこかでは今もこれが夢なんかじゃないかと疑っている。

 でも、直ぐ傍に八一がいてくれたから、きっと冷静でいられたんだ。

 こんな訳の分からないことが起きて……怖かった。八一が、手を握ってくれたから、安心できた。

 

 雛鶴あいはどうだったんだろう。

 独りで、耐えていたんだろうか。

 だから、待っていたんだろうか。

 あの暗い玄関で、八一をずっと。

 

 そんなあの子が、私と八一が手を繋いで帰ってきたらどう思うのか。

 もし私と雛鶴あいの立場が逆だったら、きっとあんな言葉を浴びせるだけじゃ済まなかったと思う。

 

「空先生は、どうしたいんですか?」

 

 今度の問いかけは、先程の黒い感情が込められたものと違ってただ純粋に疑問を投げかけるだけのものだった。

 

 私のしたいこと──そんなの、決まっている。

 

「私は、八一が好き……今度こそ八一に想いを伝える。あいつに振り向いてもらう」

 

 『前回』みたいな、曖昧な態度は取らない。

 だから、もう待たない。待つだけじゃ、ダメなんだ。

 

「その為に、今度は何でもするって決めた。素直になるって、八一の支えになるって」

 

 王子様が来てくれるまで、待たなきゃいけない『白雪姫』なんて、もう御免だ。

 

「今は言っても、あいつにはきっと想いは伝わらないだろうけど……でも必ず、八一を手に入れる」

 

 しっかりと、雛鶴あいの眼を見て宣言した。

 この想いが、決意が、本物だって事をこの子には伝わって欲しかったから。

 

「……空先生も意外と鈍いんですね」

「えっ?」

「なんでもないです……空先生のしたいことはわかりました」

 

 そう呟いて口を閉じた。

 雛鶴あいは何かを考えるようにしばらく黙り込み、やれやれと肩をすくめてため息を吐いた。

 

「はぁ……仕方がないですね、少しだけ、ゆーよをあげます」

「……猶予?」

 

 いきなり何を言い出すんだろう、この小童は。

 

「あいの体がもう少し成長するまで、待ってあげます。それまでに空先生が心も体もししょーを堕とせたら認めてあげます」

「え? あんた、そもそも八一を諦めたんじゃ」

「? あい、そんな事言いましたか?」

「は?」

 

 何を言ってるんだこいつ、みたいな目で雛鶴あいが私を見てきた。

 こいつの事をちょっとは認めようとしたけど、やっぱりムカつく。

 

「あんたは八一にもう一度教わりたいって、それがやりたい事だって……」

「それとこれとは別ですよ。何言ってるんですか、このおばさんは」

「小童ァ!」

 

 思わず掴みかかりそうになったけど、ここが駅に向かう途中の人通りの多い道だって事を思い出して堪えた。

 

「ししょーは十五歳の貧相な体付きの空先生にこーふんしてました。まあ、二年経っても貧相でしたけど……それはともかく、あの程度の体型ならあいは、あと三年もすればなれる筈なんです! つまり、あと三年待てばあいはししょーをこーふんさせられる事ができるんです!」

「後で泣かす」

 

 将棋で泣かす。八一の前でボロ雑巾にしてやる。

 

「だから、それまでは空先生がししょーに前みたいな悪い虫が付かないように見張ってください。その間だけは少しだけ、待ってあげます」

 

 からかうような口調から、急に真面目な声に変わる。

 そして、雛鶴あいは私の眼をしっかりと見据えながら、静かに宣言した。

 

「でも、もしそれでも空先生がもたもたしてるようなら……」

 

 

「──────九頭竜八一師匠はあいが貰います。どんな手を使ってでも」

 

 本気の眼だ。勝負の世界で生きる私たちが放つ、冷徹な、勝負師の眼。

 そんな眼をされてどう返すか、だなんて決まっている。

 

「舐めるな、小童」

 

 そう返すと雛鶴あいは子供のように笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……凄まじいな、これは」

「あの、弟子にしていただけますか?」

 

 八一が驚愕した様子で目を見開いて盤を眺めていた。

 同じ部屋で二人の将棋を眺めていた桂香さんと師匠も驚いた様子だ。

 八一と向かい合って座る雛鶴あいは、膝の上で拳をぎゅっと握りしめ八一の顔を伺っている。

 

 清滝師匠の家に雛鶴あいを連れて行くと、前回と同じように既に雛鶴あいの両親から連絡があったようで特に説明もなく師匠は雛鶴あいを快く出迎えた。

 前回と違って、雛鶴あいが無断で家を出たのではなく両親に承諾を得た上でこっちに来たという話らしい。

 小童曰く、

「ちゃんと『説得』したら分かってくれました」

 との事だが、どういった説得を行ったのは聞いてないし、聞きたくなかった。

 

「……君は、誰かに将棋を教えてもらっていたね? それもプロ相当の実力を持った人に」

「えっ……?」

「指し方を見れば分かるよ。定跡の理解、そして崩された時の対応、終盤力の読み……とても素人が指せる代物じゃない」

 

 やっぱり、バレるか。

 今の雛鶴あいが初心者を名乗るにはあまりにも完成されすぎている。

 当たり前だ。この小童は三年間も竜王に師事して己の棋力を磨き上げたんだから。

 

「はい。おじいちゃ……祖父に少し教わって」

「その方はアマチュア棋士なのかい?」

 

 首を振り、雛鶴あいは八一の瞳を見る。

 

「いえ……もう一人、わたしに将棋を教えてくれた人がいました」

 

 哀愁と懐古を混ぜ合わせたような声だった。

 

「なるほど。その人が……でも、君のために言うけど、君はその人の元で将棋を指したほうがいいと思う。その方が、確実に強くなれる」

「……それはできないんです」

「どうして?」

 

「その人はもう、いないから……」

 

「「………」」

 

 気まずい沈黙が流れた。

 確かに雛鶴あいに将棋を師事したのは未来の八一だし、『いない』という表現は正しいのかもしれないけど……これじゃまるで死んだみたいだ。

 

「ご、ごめんね? さすがに無神経な質問だった」

「い、いえ……それよりも、弟子にしてくれますか?」

「それは……」

 

 何故か渋るように言いよどむ八一。

 おかしいな。確かにこの雛鶴あいは前よりも、強いかもしれないけど……そこまで渋るものなのかな。

 

「八一が決める事だし私は別にどっちでもいいと思うけど……何か渋る理由でもあるの?」

 

 別にあの小童に助け舟を出したつもりはない。ただ単純に疑問に思っただけ。

 だから、小童。そんなきらきらした目で見るな。

 

「ええっと……正直、この子の才能は本物ですし、育ててみたい気持ちはあります」

「なら……」

「ただ……才能がありすぎる。この年齢でこれは明らかに異常だ」

 

 なるほど。私はこの小童の事情を理解してるし、どんな将棋を指すか知っているから驚かないけど、何も知らない八一からすれば異常に見えるのは頷ける。

 最初に雛鶴あいを見た時ですら、あの才能に脅威に感じたんだ。今のこの小童なら更に別格だ。

 

「俺にこの才能を導ける自信がない」

「わたしはししょーに将棋を教えて欲しいんです!」

「でも……」

 

「八一、その子の才能云々やない。大事なんはお前がその子をどうしたいんかや」

 

 必死に訴える小童と渋り続ける八一に声をあげたのは清滝師匠だった。

 

「俺が、どうしたいか……?」

「せや。その子はお前に憧れてわざわざ大阪まで来たんや。ご両親をちゃんと納得させた上でな」

「あいちゃんはお前に弟子入りしたい。じゃあお前はこの子をどうしたいんや?」

 

 懐かしいやり取りに心が温かくなる。

 あの時も弟子を取るか悩む八一に師匠が背中を押したんだっけ。

 やっぱり、師匠は師匠なんだ。

 

「まあ、急に弟子を取れ言われてその直ぐ後にまた弟子入り希望の子が現れて戸惑うお前の気持ちも分かるけどな」

 

「「…………は?」」

 

 雛鶴あいと私の声が重なった。

 

 

 

 

 

 



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六話 夜叉神天衣

 別に、彼にとって一番でなくても良かった。

 もちろん一番に想ってくれるなら嬉しいけど、それはありえないと分かっていたから。

 私が彼と初めて出会った時、彼には既に弟子がいた。自分と同じ年で、同じくらい将棋が強くて、とても優しい女の子が。

 

 最初はなんで自分が一番弟子じゃないのって思った。

 幼い時から彼の事をずっと聞かされて育った私は、彼の一番弟子になるのが当たり前だと信じていたから。

 でも現実は違った。彼と実際に会う頃には遅かった。私は彼にとっての一番になれる機会を失っていたんだ。

 

 それだけじゃなかった。彼はお父さまのことすら憶えてなかった。

 私を弟子にしてくれる約束も、あの時の将棋も。

 彼が幼い時にした口約束なんだし、仕方がないと思うけど、それでも堪らなく悔しくて、もどかしくて、悲しくて……涙があふれそうになった。

 

 だけど、彼は私に言ってくれた。私に、師弟(かぞく)になって欲しいって、幸せにしてあげるって、そう約束して手を取って抱きしめてくれた。

 嬉しかった。過去の約束なんて、関係なかったんだ。そんなのがなくても、私と彼との繋がりを築くことはできたんだ。

 抱きしめてくれた彼の暖かさを感じながら、私はそう思った。

 

 だから、一番でなくても良かった。

 

 彼は私と違ってたくさんの人に囲まれている。彼の放つ異才の光に、きっとみんな惹かれてしまうんだろう。

 そんな彼に惹かれたたくさんの人の中で、私はきっと一番になれないと感じていた。

 

 彼にとって、一番の弟子は雛鶴あいだ。

 彼と一番長く時間を過ごしたのは空銀子だ。

 

 それで構わない。

 

 彼との繋がりがあるなら、彼と師弟(かぞく)でいられるなら、それでいい。

 お父さまとお母さまを失った私に再びぬくもりをくれた彼の傍にいられるなら、それで十分。

 例え一番になれなくても……その次くらいに、大事にしてくれるなら、それで良かった。それだけで、満足だと思ってた。

 

 現に、充実した日々だった。

 時に優しく、時に厳しく将棋を教えてくれた彼。

 他人に対して壁を作っていた私に隔たりなく接してくれたあいとその友達。

 格上の空銀子を相手に、持ちうる全てを出し切ったあの熱い対局。

 

 楽しかった。満たされていた。幸せだった。

 誰かが傍にいてくれるのが、こんなにも暖かいんだって、忘れていた。

 友達と話すのが、こんなにも楽しいなんて、知らなかった。

 また、気づいたら笑えるようになっていた。

 このままずっと、こんな日々が続くんだって思っていた。

 

 

 彼が私の知らない女に対して、あんな笑顔を向ける姿を見るまでは。

 

 

 彼が誰かと結ばれるなら、それはあいか空銀子のどちらかだと思っていた。

 まあ、他にも彼の傍にどこまでも付きまとうストーカー女に一人心当たりがあるけど……

 

 とにかく、彼女たち二人の存在は彼にとっては間違いなく大きな存在だったと思う。

 だから彼はいつの日か、そのどちらかと結ばれる。

 私はきっと表向きはツンケンしながらも祝福して、裏ではひっそり泣いて───それから、また元の日々に戻るんだって、そう確信していた。

 

 

 実際は違った。

 

 

 彼はあいでも、空銀子でもなく、他の人を選んだ。

 私の知らない、急に現れたその女を。

 

 一番弟子の雛鶴あいでもなく、

 一番長く時間を過ごした空銀子でもなく、

 その女が彼の一番になってしまった。

 

 その時に気づいてしまった。

 

 彼にとって一番大切な人は、その女になるんだろう。

 その次に大切なのは、あいか、それとも空銀子か。

 

 ────なら、私はどうなるの?

 

 そう思った時に、私は自分の立っている世界が急に崩れ去るような錯覚がした。

 途端に怖くなった。

 あいや、空銀子ですら彼の一番になれなかった。

 それなら、私はどうなの?

 一番弟子でもなくて、一緒にいた時間も二人より短い私は、もう彼の中で大切な存在じゃなくなってしまうの?

 

 優しい彼が、恋人やそれ以上の存在ができたところで私を蔑ろにするような事はないって分かってる。

 

 でも、それでも、彼の中で、私という存在が薄れて消えてしまうような、そんな気がした。

 彼のくれた暖かさや、幸せが、この手から全てこぼれ落ちていくようで───

 それがまるで、お父さまとお母さまを失ったあの日を思い出させた。

 

 今更になって、分かった。

 

 ────ああ、そうか。一番じゃなくてもいいだなんて、ウソだったんだ。

 

 こんなのはただの強がりで、ほんとはもっと彼に見て欲しかった。

 ただ、怖かったんだ。一番大切な人をまた失ってしまうんじゃないかって。

 だから、素直になれなかった。どこかで、一線を引いてしまっていた。

 だから、自分の気持ちにウソをつき続けてしまった。

 恐怖が、私に虚勢の魔法をかけてしまったんだ。

 

 魔法(うそ)がかかっている間の私は、ただ幸せだった。

 自分の本当の気持ちをしまい込んで、ただぬるま湯に浸かったような日々を過ごして。

 

 あいになら一番弟子を譲っていいなんて、ウソだ。

 私のほうが、あいよりもずっと先に彼の弟子になりたいって願ってた。

 

 空銀子なら、彼と結ばれてもいいなんて、ウソだ。

 彼には師弟(かぞく)としてだけじゃない。ほんとの家族になって欲しかった。

 

 そんな自分を、全て押し込めてしまっていた。

 それを、今更になって自覚してしまった。

 

 こんな気持ちに、気づかなければ良かった。

 そうすれば、こんなに苦しい思いをしなくて良かったのに。

 後悔なんて、しなくて済んだのに。

 

 自分の気持ちを自覚してしまった、あの日。

 悲哀と後悔に満ちて、涙を流しながら私は現実から逃避するかのように眠りについた。

 

 

 ───そして、夢を見た。

 

 

 なんとも馬鹿らしい、自分に都合が良すぎる夢。

 夢の私は彼と出会った時の年齢だった。

 巻き戻っていた。しかも、彼がまだ弟子を取る前の時間に。

 自分でも、女々しいと思う。

 こんな夢を見るほど後悔してただなんて、思ってなかったから。

 でも、せっかくの夢なんだ。それなら、今度は自分の想いのまま、素直に行動しようと思った。

 

 まずは、真っ先に彼に弟子入りをしようと思った。

 おじいさまにお願いして、彼に今すぐ弟子入りしたいと頼み込んだ。

 すると、直ぐにおじいさまは動いてくれて、翌日には彼が訪問してくれる事になった。

 

 翌日、私は彼と出会った。

 幼さが僅かに残る十六歳の懐かしい彼。

 夢だと分かってしても、嬉しかった。

 感極まって、思わず泣きながら抱きしめてしまった。

 彼は戸惑った様子だったけど、どうせ夢だし私は気にしなかった。

 

 私は、今度は最初から全て話した。

 私が彼に弟子入りを希望した理由。

 お父さまとの約束。

 今まで、私がずっと彼の棋譜を見て指してきた事を。

 包み隠さず全てを。

 

 

 すると、彼も私の話を聞いて少しだけ思い出してくれたのか、納得してくれた。

 

 ───いける。

 

 彼の反応に確かな手応えを感じた。第一印象は上々。あとはゆっくりと二人の関係を深めていくだけだ。

 そしてそのまま私は彼の師弟(かぞく)になってゆくゆくは夫婦(かぞく)になるんだろう。

 いまの内に家事の練習でもしておこうかしら。あいみたいに器用にやれるかわからないけど。

 

 そんな風にその時は未来への妄想を膨らませていたけど……現実はそう甘くなかった。夢なのに。

 

 なんと彼は私の弟子入りを保留させてほしいと申し出た。

 予想外の言葉に私は泣きそうになった。というか泣いた。

 もうわんわん泣いた。そんな私を見た晶が彼の首を締め上げていた。

 

 訳が分からなかった。彼なら、きっと今すぐにでも弟子にしてくれると思ったのに。

 

 なんで? どうして!? って涙目で迫ると彼は素直に理由を話してくれた。

 

『言いづらいけど、今の俺は絶不調の連敗中だ』

『そんな俺が、今、君のお父さんとの約束を果たす訳にはいかない』

『だから、少しだけ返事を待ってほしい』

 

 それを聞いて、どこか安心した。やっぱり変わらないなって思った。

 彼らしい誠意だ。

 

 だから、そんな彼に私はこう返した。

 

『なら、次にあなたが公式戦で勝ったら、その時にまた返事を聞かせて』

 

 彼は頷いて答えてくれた。

 私は知っていた。彼が、この一週間後の神鍋六段との対局で勝利を収めることを。

 だから、確信していた。

 次の対局後に、彼は私を弟子にしてくれる。

 あいも確かこの時期に彼の弟子になったって聞いていたけど、流石に今回は直接、彼と約束をしたんだ。

 今度は私が一番になれる。

 悪いわね、あい。今回は譲らないわ。

 

 

 彼が次の公式戦を行うまでの間、私は彼との前とは違うと予測される師弟(かぞく)生活のプランを構築していた。その間にこれが夢だって事は頭の隅から消えていた。

 そして、彼は私の知る通り勝利した。

 その対局の翌日の今日。午後に彼から連絡があり、直接会ってくれることになった。

 返事を貰えるんだ。

 

「お嬢様。先生がお見えになりました」

「入って」

 

 私が返事をすると、襖が開けられ昌に連れられた彼の姿が見えた。

 やっとだ。やっと私は……

 

「こんにちは天衣ちゃん。この前の返事を」

「九頭竜くんっ!」

 

 彼の名前を呼んで、すぐさま抱きしめる。

 前は師匠(せんせい)って呼んでたけど、ずっとお父さまから九頭竜くん、九頭竜くんって教え込まれてたから、実はこの呼び方が一番言いやすい。

 前は一度もそう呼んだ事がなかったし、今回も弟子になったらそう呼べないだろうから今の内だけはそう呼んでみたかった。

 自分でも分かるくらい、甘ったるい声が出た気がする。

 

「やっと私を弟子にして……くれ…る…えっ?」

 

 直ぐに彼を抱きしめに行ったから気付かなかった。

 彼の後ろに何故かいた、見知った顔に。

 

「だ、誰よ、こいつ……」

「て、天ちゃん……?」

 

 私を見てドン引きする雛鶴あいと空銀子がいた。

 

 

 

 

 



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七話

 夜叉神天衣に対してどんなイメージを持っているかと聞かれると、真っ先に思い浮かぶのは口の悪い小生意気なガキというのが第一印象だ。

 ある意味では雛鶴あいよりも子どもらしい、素直じゃない女子小学生。

 

 正直、私は夜叉神天衣とはあまり関わりはない。

 

 もちろん棋士としての彼女の実力は実際に直接対局したこの身を持ってよく知っている。

 彼女との対局は私が指してきた将棋の中でも特に印象に残るものだった。

 

 彼女もまた、雛鶴あいと同様に将棋の神様に愛された棋士だ。

 

 だけど、どんな人柄かと聞かれると答えにくい。

 彼女はあの小童ほど八一の傍にずっと一緒にいた訳じゃないから、必然と彼女と私が出会う機会も少ない。

 一応は同門なのに、あの時のマイナビで対局するまで実際に会話した事すらなかった気がするほどに。

 その後も似たような関係性が続いた。だから私は彼女が実際にどんな子なのか詳しくは知らない。

 

 

 だけど、そんな夜叉神天衣をよく知らない私でもこれだけは断言できる。

 

「”はじめまして”知ってると思うけど、そこの”九頭竜くん”の姉弟子の空銀子よ」

 

 少なくとも私の知る夜叉神天衣は、八一に抱き着いて媚を売るような猫なで声で名前を呼ぶような少女じゃなかった。

 

 ───同じなんだ、夜叉神天衣も。私や、雛鶴あいと同じように『指し直し』を願ってしまったんだ。

 雛鶴あいのような二人目がいるなら、別に三人目がいたっておかしくない。

 むしろ四人目や五人目すらいる可能性だってある。もう今更驚いたりはしない。

 

 ……いや、まあ、流石にないか。

 

「”はじめまして”天ちゃ……天衣ちゃん。ししょーから聞きました。わたしと同じ名前なんだね。九頭竜せんせーの”一番”弟子になる予定の雛鶴あいです」

 

 未だに八一の腰に抱き着きながらこちらを見て固まる夜叉神天衣にとりあえず自己紹介を済ませる。

 一応、私たちは初対面なのだから。

 私に続いて小童もにこやかに挨拶した。

 間違いなく目は笑っていなかったが。

 

 ふん、まったくこいつは相変わらず子どもね。そんな露骨に威嚇したら八一に不審に思われるだろうに。

 私みたいにもっと自然体に振舞えないのかしら。

 

「ちょ、ちょっと二人ともなんでそんな怖い顔してるの!?」

「は? してないし」

 

 失礼ね。自然に自己紹介をしただけなのに。

 

「いやいや、何言ってるんですか。獲物横取りされた獣みたいな目で睨んでたじゃないですか!」

 

 ………。

 

「そんなのはどうでもいい。それより、いつまで引っ付いてるつもり?」

 

 とりあえず今は変な言い掛かりをしてくる弟弟子を無視する事にした。

 固まっていた夜叉神天衣が、ようやく状況を飲み込めたのかワナワナと体を震わせた。

 

「な、なんで、ど、どういうこと!? 説明しなさいよ! 師匠(せんせい)!?」

「どうって言われても……あと、まだ師匠(せんせい)じゃないからね?」

 

 焦った様子で夜叉神天衣は抱き着きながら問いただすように、八一の彼を体を揺さぶる。

 

「なんでこの二人がここいるのよ!」

「この二人って……姉弟子は有名だからともかくあいちゃんの方は初対面だろ?」

「ちょ、ちょっと言葉を間違っただけよ……とにかく、どういうことか説明して」

 

 さっきの媚びるような声はどこにいったのやら。夜叉神天衣は私の知る話し方に戻った。未だに八一に抱き着いたままだが。

 

 ……話し方を戻す前にまずは八一に抱き着くのをやめろと言いたいが、とりあえずここは我慢する。

 

「えっと、実は……」

「いい。私から話す」

「姉弟子?」

 

 一歩前に出て、八一にひっつく夜叉神天衣を見下ろす。

 別に睨み付けてるわけではない。

 

「弟弟子が生意気にも弟子を取るなんて言い出したから、どんな弟子を取るのか見に来たのよ」

「わたしはししょーの一番弟子として、どんな妹弟子ができるのか見に来ました!」

 

 同じように、小童も一歩前に出て夜叉神天衣と同じ目線で言い放った。

 さすがの夜叉神天衣も、威圧する小童と私に気圧された……筈もなく、鼻で笑った。

 それどころか、更に見せつけるように更に八一を抱きしめる腕の力をぎゅっと強めた。

 どこか、勝ち誇ったような顔をしている。

 

 ……このガキぃ

 

「なんだ。要はただの付添人って訳ね。なら部外者は出て行ってくれないかしら? 私は彼とこれからの生活を決める大事な話があるの」

「確かに空先生はただの部外者かもしれないけど、わたしには関係あるもん!」

「小童ァ」

 

 後で憶えていろよ。あと夜叉神天衣、あんたも絶対泣かす。

 二人まとめて八一の目の前で泣かす。

 

「関係あるって”今の”あなたはまだ彼の弟子じゃないんでしょ?」

「そ、それは……」

「なら、あなたも部外者よ。私は彼と既に弟子にしてもらう約束をしてるのよ? まあ、あなたが私の妹弟子になるなら、構わないけど」

「ストップ! ストップ! 二人とも!」

 

 ぐぬぬ、と歯軋りをする小童に勝ち誇った顔をする夜叉神天衣。

 そんな二人に見かねたのか、八一が止めに入った。

 

「なんで初対面でそんな喧嘩腰なんだよ全く……天衣ちゃん、いいかな?」

「……私のことは天衣でいいわ」

「じゃあ、天衣」

「なあに、九頭竜くん」

 

 天衣と呼ばれ、上機嫌に甘い声を出した。

 腰に引っ付いていた夜叉神天衣の手を八一は優しく引き離し、しゃがみ込んで目線を合わして彼女の頭を撫でた。

 そんな八一に夜叉神天衣はぱあっと顔を綻ばせる。

 

 ……余りに自然な流れだった。幼女の扱いに手慣れすぎている。

 多分、無意識で頭を撫でた。あの(ロリコン)

 

 やっぱり、後でちゃんと矯正しないと。

 

「前に、弟子にして欲しいと言った君に俺が保留にした理由は憶えているよね?」

「ええ」

「俺は……ようやく取り戻せたんだ。見失っていたもの、大事なものを思い出せた」

 

 優しい声で夜叉神天衣に語りかける。

 その八一が、一瞬だけ私のほうを見た。

 ずっと八一を見ていた私とは当然、目が合って……そのまま笑みを浮かべられた。

 その笑みを見て、今朝の出来事がフラッシュバックした。

 二人で、ただ手を繋いで帰ったあの光景を。

 

 ……。

 

 頬が紅潮していくのが、自分でも分かる。

 あいつは昔から無自覚でそういう事を急にしてくるからタチが悪い。バカ八一。

 

 ……さすがに自分でも自覚してるつもりだけど、私ってちょろい女だと思う。

 

「……だらぶち」

 

 隣からぼそりと聞こえた小童の聞きなれた悪口は、八一に向けられたのか、それとも。

 

「だから、今日果たそうと思う。君のお父さんとの約束を」

「なら、私があなたの弟子に」

「ただ、もう一つ。俺は果たさなきゃいけない約束があるんだ。俺を竜王にしてくれた大事な恩人との約束が」

「……っ!?」

 

 小童が目を大きく見開いて八一の顔を見た。

 

「ししょー、わたしもいいんですか? ししょーの弟子になっても」

 

 恐る恐るといった様子で小童が八一の顔を伺う。

 

「正直に話すと、最初は弟子にする気はなかった」

「えっ?」

「天衣との約束もあったし、弟子を取ったことのない俺が、いきなり二人も弟子を取るなんて無理だと思ってたしね」

 

 前に八一が二人目の弟子を取ったのは小童が弟子入りしてから暫く経ってからだった記憶がある。

 あの時と違い、今回は同時に、しかも前回よりも棋力の高い二人だ。

 断ろうとする気持ちはわかる。

 

「だけど、君と指して育てたいと思った。この異質とも呼べる才がどこまで伸びるか見てみたいと感じた」

「師匠の話を聞いて、自分がどうしたいか分かった」

 

「それに、『なんでも言うことを聞く』……そう約束したんだろ?」

「はいっ!」

 

 感極まった様子で、小童は涙をこぼしながら八一に飛びついた。

 

 ……きっと不安だったんだろう。

 雛鶴あいは八一にもう一度、傍にいて学びたいと望んだ。

 

 あの子にとって、前と流れが違う今回の出来事は怖かった筈だ。 

 

「ちょっ……こら、危ないだろ?」

「えへへー」

 

 緊張の紐が解けたのか、小童は子犬のように八一にじゃれつく。

 八一も言葉では叱りながらも小童を優しく受け止めていた。

 普段なら止めに入るけど、今は好きにさせてやってもいいか。

 

「あの、ししょー。いいですか?」

「なんだい? あいちゃん」

「わたしも、あいって、呼び捨てにしてください」

「わかったよ。あい」

「えへへっ」

 

 いや、やっぱり止めよう。

 ここで止めないと八一の異常性癖に拍車がかかる気がする。

 

「……はあ、仕方ないわね」

 

 私がべたべたとひっつく小童と八一を引きはがそうとした時、二人を眺めていた夜叉神天衣が見かねたように、大きなため息を吐いた。

 

「いいわ。認めてあげる」

 

 でも、と私と小童を睨みつけながら言葉を紡ぐ。

 

「でも、”一番”を譲る気はないわ」

「一番? 一番弟子のことか? それなら正式な形だと二人のどちらかが先に」

「それもあるけど……それだけじゃない」

「えっ?」

 

 首を傾げる八一を無視して夜叉神天衣は一歩づつ私に近づいてくる。

 

「今度は妥協なんてしてあげない……あいにも、誰にも」

 

 それは私にしか聞こえないような、小さな囁きだった。

  

 

「───特に、どこの馬の骨とも分からないような女に盗られたあんたなんかにはね」

 

 

 だけど、そこに込められた想いは強く、大きく、重いものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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八話

 八一が雛鶴あいと夜叉神天衣を弟子に取って一週間が過ぎた。

 前回と同様に、雛鶴あいは八一の内弟子としてあいつの家に転がり込み、夜叉神天衣は定期的に八一が出向いて指導を行うことになったらしい。

 八一と小童が一緒に暮らしながら将棋を教え、時折、夜叉神天衣も交えて将棋を指す。

 一見すれば、前と何も変わらない関係性に見える。

 

 だけど違う。そう断言できる。特に夜叉神天衣に関しては。

 

 雛鶴あいの望みはもう一度、八一の元で将棋を指すことだと自身で口にしていた。

 その言葉の通り、今回も八一の傍で甲斐甲斐しく働いている。

 彼女にとって、それが幸せの形であり、望んだ夢なんだろう。

 あの小童に対して煩わしさを感じないと言えば嘘になる。

 雛鶴あいがいなければ、もっと私が八一の傍にいられる時間が増えたのだから。

 

 だけどあの日、私の目の前で涙をこぼしながら吐き出した彼女の言葉を聞いて、少しくらいなら八一の傍にいさせてやってもいいかと思ってしまった。

 それは、あの小童が八一と結ばれることはないと信じている私の傲慢さからなのか、それとも憐みからなのか、自分でも分からない。

 少なくとも、八一に自分の思いを伝える事の出来た雛鶴あいは、私なんかよりもずっと彼と向き会えていたんだと思う。

 同じ人を好きになった者として、そんな彼女の行動は素直に尊敬できる。

 

 だからなのか、私はあの小童に対して不思議と前ほど悪い感情を抱いてはいない。

 

 

 そんな雛鶴あいと比べ、夜叉神天衣は全く違った。

 

 夜叉神天衣とは余り関わりのなかった私でも、彼女が前から八一に対して特別な感情を抱いているのは知っていた。

 けど、その特別な感情は、あくまでも家族に対してのようなモノだと思っていた。

 八一から彼女が弟子になった経緯は前回の時に聞いた事がある。その経緯から、彼女は八一に対して向けるそれは家族愛のようなものだと、そう思っていた。

 

 けど、違った。

 

 夜叉神天衣の八一に対するそれは、家族愛なんてモノじゃなった。

 私と同じ、異性に向ける特別なモノ。

 強く、深く、重い、愛情と独占欲の混じりあった黒い感情。

 

 彼女はどこか私と似ている気がする。

 

 八一に対して素直になれない、不器用な少女。

 もしかしたら、前は私と違って自分自身でも八一に対する感情すらを自覚していなかったのかも知れない。

 でも、今回は違う。

 しっかりと自分の感情を理解している。

 今の夜叉神天衣が、八一との関係を前回と同じまま過ごすとは到底思えない。

 

『今度は妥協なんてしてあげない……あいにも、誰にも』

『───特に、どこの馬の骨とも分からないような女に盗られたあんたなんかにはね』

 

 あの時に囁くように言われた言葉はずっと耳から離れなかった。

 あれには私に対する侮蔑と敵意が確かに込められていた。

 

 きっと、夜叉神天衣は私を嫌悪しているんだろう。

 ……いや、夜叉神天衣だけじゃない。

 

『凄く綺麗で、ししょーと同じ場所で将棋を指せるくらい、強い人なのに……』

『ずっと、ししょーと過ごしてきた人なのに……どうして……他の(ひと)なんかに盗られちゃってるんですか』

 

 雛鶴あいも、そうだ。

 あの時、向けられた感情は夜叉神天衣と同じものだった。

 もし、あの二人以外にも八一に好意を向けていた人がここに居るのなら、同じ事を言うだろう。

 

 ”ずっと一緒にいた癖に、どうしてお前は八一を他の女に盗られたんだ”

 

 本当に、自分でもそう思う。

 幼い時からあんなに一緒だった。

 過ごした時間なら、誰よりもあった。

 告白する機会なら、いくらでもあった。

 それなのに、どうして、

 

 ───どうして私は、八一と向き合えなかったんだろう。

 

 きっと、心のどこかで慢心していたんだ。

 

 喧嘩をしても、直ぐに八一から謝って、仲直りできる。

 他の女に嫉妬して殴っても八一なら許してくれる。

 八一なら、ずっと私の傍にいてくれる。

 いつか、私の気持ちに気づいてくれる。

 そして、八一から好きだと言ってくれる。

 

 

 ……とんだ思い上がりだ。馬鹿馬鹿しいにも程がある。

 

 確かに八一は異性に対して鈍い。何度アピールしても全然気づいてくれない。

 だけど、それなら自分から直接告白すれば良かっただけの話だ。

 雛鶴あいのように、私から八一を奪ったあの女のように。

 それに、八一は私を好きだったって言ってくれた。両想いだったんだ、私たちは。

 なら、告白するだけで、全て解決していた。

 

 それができなかったのは、結局のところ私が素直になれなかったから。子どものままだったから。

 

 幼い時から何も変われていない。成長していない。

 成長したのは棋力と体だけ。心は何も変わっていないんだ。

 プロになれば、八一が振り向いてくれると思っていた。

 将棋だけ指していれば、八一がずっと傍にいてくれると思っていた。

 

 そんな事がある筈ないのに。

 

 

 雛鶴あいと夜叉神天衣を見て、改めて思った。

 変わらなきゃいけない。成長しなきゃいけない。

 いくらやり直すチャンスを貰っても、私自身が変わらなければ、きっと前と同じ結末になるだけだ。

 

 今度こそ、今度こそ、私は八一を───

 

 

「───姉弟子、姉弟子? 聞いてます?」

「……えっ?」

対局時計(チェスクロック)、鳴ってますよ」

 

 八一の言葉で思考世界の海から現実世界に引き戻された。

 そういえば、練習将棋してたんだっけ。確か、持ち時間は十五分、切れたら三十秒の。

 どうやら、いつの間にか時間を使い切っていたらしい。

 慌てて対局時計の警告音を止めた。

 

「……もしかして、また体調が悪いんですか?」

「別に。ちょっと集中しすぎていただけよ」

 

 心配そうな顔をする八一にそう答えると、安心したように息を吐いた。

 

「それなら良かったです」

「……大袈裟よ」

 

 安堵の笑みを浮かべる八一にちょっと複雑な気持ちになる。

 あの日、私が倒れて以来、八一からよく体を心配されるようになった。

 ここ最近なんかはわざわざ電話で毎日、連絡してくれている。

 前の時は全然連絡してくれなくて、たまにしてくれたと思ったら小学生絡みの話ばっかだったのに。ちょっと過保護な気がする。

 ……もちろん嬉しいけど。

 

「それにしても、どういう風の吹き回しですか?」

「なにが?」

「姉弟子がわざわざ振り飛車を指すなんて、珍しいじゃないですか」

 

 そう言えば、この頃の私はまだ居飛車ばかり指していたっけ。

 私は三段リーグを抜けるために、結局八一から受けたアドバイスを取り入れた。

 振り飛車もその一つだ。

 あの時、八一は簡単に言ってくれたけど、改めてこいつが将棋星人なんだと思い知らされた。

 

「なりふり構ってられないから」

 

 将棋も、あんたの事も。

 

「先を見据えているんですね……あいや天衣も、いつかは姉弟子のような棋士になってほしいですよ」

 

 私のような、か。

 あの二人なら、私なんかを目指す必要はないと思うけど。

 

「そういえば、あの弟子二人は結局どうなの?」

「二人ですか? ええ、まあ……」

「……?」

 

 頬を掻いてどこか言いづらそうに言葉を濁す八一。

 何かあったのだろうか。

 

「正直言って、出来が良すぎますね。あいも天衣も」

「……でしょうね」

 

 あの二人は見た目はただの九歳だが中身は完全に別物だ。

 教える、と言っても逆に苦労するだろう。

 まあ、中身が別なのは私もだけど。

 そういえば、精神年齢で言えば今の私と八一ってほとんど同い年になるのかな。

 

「二人とも既に基礎が出来上がっている。教えるよりも、色んな相手とひたすら指し続けて経験を積ませた方が良さそうなんですよね」

「才能があっても経験を積まなきゃ意味ないしね」

 

 まあ実際は経験も積んであるけど。そんなことは八一は当然知らないだろう。

 

「なので、姉弟子。そこで折り入ってお願いがあるんですが……」

 

 申し訳なさそうに八一が頭を下げる。

 大方、あの二人と指して欲しいって事だろう。

 そんなの、どう答えるかなんて決まっている。

 

「あの小童どもの相手を私にして欲しいんでしょ?」

「す、すみません。無理なお願いなんですが……」

「別に、いいわよ」

「ほんとうですか!?」

 

 あの二人は八一の目の前で泣かすと決めてある。

 ちょうどいい機会だ。二人まとめてボロ雑巾にしてやる。

 

「ありがとうございます、姉弟子!」

「もちろん、タダじゃないわよ?」

「えっ」

 

 八一の顔が満面の笑みから一気に引き攣った笑みに移り替わる。

 失礼な。どんな要求をされると思っているんだこのバカは。

 

 

「別に無茶な頼みじゃない。私と付き合って欲しいだけ」

「ッ!!!?」

 

 

 引き攣った顔から今度は目を見開いて驚愕した表情で固まった。

 今日の八一はずいぶんと表情豊かだ。見てて楽しい。

 

「つ、つ、付き合うって……そ、その……姉弟子と?」

「他に誰がいるの?」

 

 私が頼んでいるんだから、相手は私に決まっている。

 何をおかしなことを言ってるんだろう。

 

「い、いえ……そ、そうですよね、はい」

「……?」

 

 さっきから八一が挙動不審だ。目もキョロキョロしてるし、こっちに顔を合わせてくれない。よく見ればズボンの膝を強く握りしめている。対局時に見せる癖だ。

 

「……嫌なの?」

 

 ……ちょっと強引だったかな。

 普通に頼めば良かった。ついつい姉弟子としての立場で物を言ってしまう。

 こういうところは前と、ちっとも変ってない。気を付けないと。

 

「えっ、いや、その……いやとか、そんなんじゃなくて、即答できないというか……」

「なら予定が空いてる日、教えなさい。その時に付き合ってもらうわ、私の用事に」

 

 これから来る三段リーグに向けて、今から体力作りをしておく。

 体力作りも八一から受けたアドバイスの一つだ。結局、中身があの時と同じでも体は過去のモノなのだから、今から準備をしておいて損はない。

 八一が言っていたように、室内プールとかなら目立たないし……プールなら水着で八一と過ごせるし。

 

「えっ、用事……? あっ、そうかそうか、そうですよね、はは……な、何を勘違いしてるんだ俺は……

「どうかした?」

「いえ、なんでもないです……分かりました。次の日曜日なら空いてると思うので、その時で」

 

 これで、八一と一緒に出掛ける口実ができた。今は少しでも、彼と二人で過ごせる時間が欲しい。

 

 私の想像だけど、八一が私を意識してくれるようになったのは、東京で釈迦堂さんのお店で服を着て大阪まで一緒に帰った時辺りだと思う。

 あの時、繋いでいた八一の手は火がついたように熱かった。

 私のことを見てくれていた。姉弟子としてじゃなくて、だぶん、女の子として。

 

「わかった。じゃあ日曜日ね。約束、破ったら殺すから」

「こ、怖いこと言わないでくださいよ……」

「冗談に決まっているでしょ」

 

 今すぐに、八一があの時と同じように私を見てくれる事はないだろうけど、

 こうして二人でいる時間をちょっとでも増やしていって、そしたら───

 

 あなたは、私を意識してくれるかな。

 

 

 



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感想戦①

 誰かと対局している夢を見るのは別に珍しくない。

 小さい時は和服を身に纏って師匠と対局する夢を何度も見たし、月光会長や名人と言った将棋界の錚々たる棋士達と指す夢を見た事もあった。

 今見ているのも、きっと夢なんだろう。

 

 見慣れた対局部屋だった。

 駒を指す音と、棋士の吐き出す唸るような呼吸が支配する俺たちの戦場。

 たぶん、公式戦か或いはそれに準じた対局だろうか。

 

 今回は珍しい事に直ぐに夢だと自覚できた。

 確か、明晰夢っていうんだっけ? 夢だと自覚している夢の事。

 なんで夢だと分かったのか。単純だ。

 俺の対局相手が女性だったから。

 別にプロの棋士が女流棋士と対局する機会が全くないという事はない。公式戦ではないイベントや企画じゃそういう機会もあるけど、タイトルホルダーの俺はそういう企画じゃまず呼ばれないし間違いなく夢だ。

 

 俺の視界に盤の向こうにいるその人が映った。

 着物姿をした女性……いや、少女と言った方がいいかもしれない。

 夢のせいなのか、顔が霞みかかって彼女がどんな顔をしているのか分からない。

 だけど見えない筈なのに、彼女はきっと綺麗な顔をしているんだろうな、となんとなく思った。

 

 彼女の姿はどこか幻想的だった。

 紺の振袖と緋色の袴は現実離れした彼女の美しさを引き立てている。

 駒を持つ手が透き通るように白く、綺麗な手をしていた。

 まるで、将棋を指す妖精のようだ。

 

 今度は盤上に並ぶ駒が目に入る。

 既に局面は終盤に入っており、俺が彼女の『銀』を取ればそのまま詰みに入る。

 それにしても夢の筈なのに、やけにリアリティのある対局だ。

 並んだ駒から、見えない顔の彼女がどんな棋士なのか伝わってくる。

 その美しい見た目からは想像できないような、泥臭く、粘り強い指し方。

 まるで、清滝師匠のような、最後まで諦めない意地を感じる。

 

 そして、同時にもう一つ感じ取れるものがある。

 

 この対局を終わらせたくない。

 このままずっと指し続けたい。

 

 ───そんな、悲痛の叫びが。

 

 彼女のその叫びを踏みにじるかのように、夢の俺は彼女の『銀』を取った。

 どうやら体は動かせないようで、この夢はただ見ていることしかできないらしい。

 ……まあ、例え体を動かせたとしても、俺は彼女の駒を取ったけど。

 相手にどんな事情があっても、どんな想いで指していても、それらを盤上で否定し勝利をもぎ取らなければいけないのが俺たちの生き方だから。

 

 

 駒を取ると同時に場面が捻じ曲がるように急に変わった。

 バラバラに切り取られたフィルムを順不同に無理やりくっつけたような映画を見ている気分だ。

 夢なんだし荒唐無稽なのは当たり前なんだけど。

 

 今度は外を歩いていた。どうやらさっきの対局が終わった後のようで、駅に向かって歩いているらしい。

 俺の隣にはさっき対局していた顔の見えない彼女がいる。

 彼女は、どこか上の空のような気がした。

 顔が見えない筈なのに、何故かそう思える。

 きっと、さっきの対局が尾を引いているんだろう。

 対局後に思考が覚束ないのは将棋指しならよくある事だ。特に負けた後は。

 そのまま夢の俺と彼女は駅前まで歩き、そこで俺が立ち止った。

 

『今日はありがとうございました。───』

 

 俺が口にした彼女の名前はノイズのようなモノで掻き消された。

 随分と距離が近いから、彼女と俺は仲のいい関係のようだ。

 

 それにしても変な夢だ。

 将棋を指す夢なら割と見るけど、大抵は対局が終わるか、その途中で目が覚めてしまう。

 対局が終わっても目覚めないなんて初めてかもしれない。しかも相手は女の子だ。

 それに何故か知らないけど俺、左薬指に指輪なんかしてるし。

 夢って深層心理の表れって聞くけど、今のところ結婚願望なんてないんだけどな。そもそも結婚できる年齢じゃない。

 

 ……というかこれ、いつ終わるんだ?

 

 その後も、彼女との会話が続いたが、内容は聞き取れなかった。

 だけど会話が続く内に、いつの間にか霞がかっていた彼女の顔が口元の辺りまではっきりと見えるようになっていた。

 よく見てみると、歯を食いしばるようにして、口を閉じていた。手も震えながら強く握りしめている。

 その姿はまるで何かに耐えているかのようだった。

 

 一体どうしたんだろう、彼女は。

 夢の中の俺が何か酷いこと言ったのかな?

 そうだとしたら夢とはいえ、あまり良い気分ではない。

 

 そして、更にとんでもない事が起きた。

 

『俺、───が好きでした』

 

 急に会話が聞き取れるようになったと思ったら、その子に夢の俺が告白していた。

 何を言っているのか分からないかもしれないが、俺にも分からない。

 いやいや……いくらなんでも急展開すぎるでしょ、なんなのこの夢。

 というか好きでしたって、過去形かよ。

 あ、いや、指輪してるし多分俺、この夢じゃ結婚してる設定だろうから過去形の告白で問題ないのか。

 それにしても、なんでこんなドロドロした展開なんだ。

 

 案の定、告白をされた彼女は動揺した様子で固まっている。そりゃそうだ。

 そんな彼女に夢の俺は言葉を続けるが、うまく聞き取れない。

 

 ……早く目が覚めて欲しい。

 どうせ見るならもっと良い夢が見たかった。桂香さんとか桂香さんとか、あと桂香さんの夢とか。

 自分の意志とは関係なしに続く目の前の光景をぼんやりと眺めていると、ある事に気づいた。

 

 口元しか見えなかった彼女の顔から靄が取れ、確認できるようになっていた。

 

 その顔を見て、一瞬、思考が止まった。

 

 空のように澄み渡る宝石のような蒼い瞳。

 銀のように輝く美しくきめ細かな白い髪。

 この世のものとは思えないほど整った天使のような顔立ち。

 

 考えてみれば、直ぐに分かる筈だった。

 俺と将棋を指す女の子なんて、真っ先に思い浮かべる人物は一人しかいない。

 ずっと一緒だった彼女しか。

 

 けど、分からない。

 どうして、そんな顔をしているんだ。

 

 普段の不機嫌そうな顔は何度も見た。

 俺に負けて悔しがる顔は何度も見た。

 喧嘩して怒りに狂う顔は何度も見た。

 

 たまにしか見せないドキリとさせられる笑顔も見た。

 

 だけど、いま目の前の彼女のその顔は見たことがなかった。

 そんな、今にも泣きそうで消えてしまいそうな顔は。

 

 

 ……見たことがない? いや、違う、気がする。

 どこかで見たんだ。彼女のあの顔を。

 

 暗い部屋だった。

 その時の俺は、余裕がなかった。追い詰められた。

 このままだと彼女と一緒にいられなくなると焦燥感に駆られていた。

 一人になりたかった。

 一人で強くなる必要があったから。

 だから、彼女に酷いことを言ってしまった。

 せっかく、俺を心配して来てくれたのに。

 二人でまた強くなろうと言ってくれたのに。

 ずっと一緒にいると言ってくれたのに。

 

 俺はそんな彼女の手を振りほどいた。

 

 そしたら彼女は、今のような顔をしていた。

 目に溢れそうな涙を貯め込んで。

 

『だから、これからも今まで通り、よろしくお願いします』

 

 彼女は、俺の目の前から逃げるように走り去った。

 その時になって、初めて夢の中で自分の意志で体が動いた。

 

 理由が聞きたかった。

 なんで、あんな顔をしたのか。

 どうして、俺から逃げるのか。

 

 待って。

 待ってくれ。

 行かないで。

 

 このままだと彼女が消えてしまう。そんな確信があった。

 それだけは嫌だ。

 あの時は追いかける事すらしなかった。けど、今度は、今度こそは……

 俺は走り去る彼女の後ろ姿に手を伸ばそうとして──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい。聞いてンのかクズ」

「えっ?」

「チッ、だからバニーとメイド、どっちがいいかって話だ」

「なんや、心ここにあらずって感じやなぁ。どないしたん?」

 

 メイド服を着た月夜見坂さんに睨まれ、バニー姿の供御飯さんに首を傾げられた。

 連盟の将棋室に顔を出したらコスプレ姿の二人がいて、イベントで着る衣装を決めるために二人が指していた。

 二人の将棋を眺めていた筈だったけど……どうやら深く考え込んでしまっていたようだ。

 気づけば二人とも指す手が止まっている。盤を見ると持将棋になっていた。

 

「いや、ちょっと考え事を……」

「考え事ねぇ……お前が最近取ったっていう弟子の事か?」

「小学生をしかも同時に二人も。そら妄想が捗るわなぁ」

「ンだよ、そういう事かよ。ロリ王」

「違いますよ!」

 

 俺が弟子を取った事が既に将棋界では広まっている。

 最年少竜王がいきなり弟子を取ったとなれば話題性は高い。

 しかも小学生を二人同時に。更には片方は内弟子。

 お陰で不名誉な噂まで流れている。マジで勘弁して欲しい。

 

「別にあい達の事じゃないですよ」

 

 あの優秀すぎる弟子二人をどう指導すればいいのか悩んでいるのは事実だけど。

 それに関しては今度、清滝師匠に相談してみようかと考えている。

 

「今朝ちょっと変な夢を見てしまって……それで少し考え事を」

「なるほど。夢なら小学生相手でも合法だしな」

「さすがは竜王サン。実物に手を出さず夢の中で好き放題やるなんて紳士どすなー」

「だから違うから! あんたら俺を何だと思ってるんだよ!?」

「ロリ」

「コン」

 

 二人の息の合った言葉に頭が痛くなる。

 そりゃあ、弟子たち二人はかわいいよ。

 あいは家事を何でもしてくれるし、料理だって上手い。

 指導中に褒めてあげると子犬のように甘えてくる。

 

 天衣は三人で指導している時は割とぶっきらぼうな態度だけど、しっかりと教えは守る。

 それに二人きりの時はまるで別人のように甘えてくる。まるで子猫のようだ。

 

 だけどあくまで父性的なものを擽られてかわいいと感じているだけで、俺は断じてロリコンなんかじゃない。

 

「それで、実際はどんな夢見たん?」

「それが俺も殆ど憶えてないんですよ」

「ハァ? なんだそれ」

「いや、なんか誰かと指してた夢って事は憶えてるんですけどね」

 

 目が覚めた直後は夢の事を憶えていたんだけど……直ぐに記憶があやふやになった。

 夢ってそういうモノらしいけど、なんかもやもやする。

 誰かと指していた。だけどその誰かが思い出せない。

 たぶん俺の知っている人だと思うけど……

 

「別に将棋指す夢なんて珍しい話じゃないだろ」

「そうなんですけどね。あ、あと何故か俺、夢の中で結婚してました」

「ハッ! なんだよクズ。その年で結婚願望でもあんのか?」

「いやいや、ないですって流石に! それに指輪付けてただけで相手とか出てこなかったし!」

 

 そんなどうでもいい事は憶えているのに、肝心の対局相手が思い出せない。

 いや、別に夢の事なんだし誰と指していようがどうでもいい話なんだけど。

 ……それでも何故か気になってしまう。

 

 と、そんな事を考えるとさっきから黙ってこちらを見ている視線が気になった。

 というか見ているというより睨まれてるに近い。怖い。

 

「………」

「ど、どうしたんです? 供御飯さん」

「……ちょっと考え事どす」

 

 にこやかな笑みで返されたけど、目は笑ってなかった気がする。

 な、なんだろ。俺なにかしたのかな?

 

「それよりもクズ。結局どっちなんだよ?」

「えっと、バニーかメイド服か、でしたよね」

「そうだよ。さっさと決めろ。あと、決まった方は銀子の奴にも着てもらうからな」

「はあ!? 聞いてないですよそんな事! 無理に決まっているじゃないですか! あの姉弟子ですよ!?」

 

 こんなの着て欲しいって言ったら殴られるのは目に見えている。

 というか間違いなく殺される。罵倒されながら殺される。

 

「無理なことあらへんて。最近は銀子ちゃんと随分と仲ええみたいやし」

「はあ? 何言って」

「歩夢との対局終わりに手繋いで帰ったらしいじゃねえか」

「!!!?」

「あんな遅い時間にわざわざ迎えに来てくれるなんて一途やなぁ」

「な、なんでそれを」

 

 いや待て。そう言えばあの時の対局、鵠さんもいたのか。

 まさか見られてたなんて……

 

「ここ最近やと室内プールに行って二人で遊んだみたいやね」

「デートじゃねえか」

「!!!!!!?」

 

 いやいやいや、待ておかしい。

 なんでそれを知ってんだよ! 

  

「せやからいけるって竜王サン」

「お前ならやれる。オレはそう信じてる」

 

 結局、あの後二人に押し切られて姉弟子用の衣装を預かった。

 選んだのはメイド服だ。特に理由はない。

 人前に出るイベントで露出の多いバニーを姉弟子に着させるのが嫌だったとか別にそういった理由は断じてない。ほんとだよ?

 

 



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九話

一部、原作の描写ではなく漫画版の描写を採用しています。


 今日は『女王』のタイトル保持者としての五番勝負の第一局が静岡の浮月桜で行われた。

 相手は『女流玉座』のタイトル保持者であり、『大天使』の異名を持つ月夜見坂燎。

 とは言え、今の私にとっては特に問題のない相手だ。

 

 盤外戦術のつもりなのか対局前に月夜見坂さんに、

「あのメイド服はどうだった」

 とか、

「クズの奴、喜んでたろ。オレに感謝しろよ」

 とか言われたけど無視して前回と同じように完封した。前と違ったのは持ち時間を一切使わなかった事だろう。

 対局後、月夜見坂さんは口から魂が抜けだしてしまったかのような抜け殻になっていた。

 

 今更だけど、私や小童達のような前回の経験者は将棋指しとして狡い存在だと思う。

 私たちは云わば、二年も先の未来から来た将棋指しだ。

 今回は前と同じ勝ち方をしたけど、例え月夜見坂さんが前回とは別の定跡を使ってきたとしても、私たちはそれに対して有利を取れる。

 まあ、それが通用するのは相手が『地球人』の場合に限るのだろうけど。

 

 対局をすぐさま終わらせた私は静岡から大阪に真っすぐに帰ってきた。目的地はもちろん八一の家。

 ちなみに月夜見坂さんが言っていたメイド服はまだ着てない。

 あれを着てイベントに出て欲しい等とふざけた事をほざいた弟弟子には拳で拒絶を示した。

 そう言えば前はバニーだったのに、なんで今回はメイド服なんだろ。八一の趣味?

 

 ……まあ、イベントに出るのを拒否しただけで着るの自体は別にいいんだけど。二人きりなら。

 前回の経験から、八一は私がコスプレするとすごく喜んでくれると知っている。

 普段は全然そんな事言ってくれない八一が、あの『研究会』の時は何度もかわいい、かわいいって褒めてくれたし、写真も撮ってくれた。

 あそこまでハイテンションな八一は珍しかったかもしれない。

 それが嬉しくて私も恥ずかしいポーズを取ったりとか普段は絶対口にしないような台詞とか言ってみたりしたけど……あれは若気の至りというか、色々と暴走してしまった。というか、ちょろすぎだ私。

 

 とりあえず、預かったあの服を着るなら二人きりの時にしよう。流石に前のように桜ノ宮のホテルで、という訳にもいかないし着るなら八一の家が適所だ。

 それにはまず準備が必要だ。今日はそのために来たのだから。

 

 今日、八一は夜叉神天衣の指導のため彼女の住む神戸へと出向いている。

 八一の家に今居るのは、あの小童と八一から小童の世話を頼まれた桂香さんの二人。

 用があるのは小童の方だ。

 内弟子の小童がいる以上、どうしても八一の部屋で二人きりという状況は難しい。

 ならば、どうするか………簡単だ。

 

 その内弟子をどうにかしてしまえばいい。

 

 

 私は合鍵を使って八一の部屋に踏み入れた。

 

 

 

 

  

  

 

  

「えっと、なんでこんな事になってるか説明してもらってもいいですか……?」

 

 夜叉神天衣の指導を終え、お土産と思われる寿司折を持って帰ってきた八一が困惑した様子で頬を掻きながら尋ねてきた。

 

 苦笑いを浮かべる桂香さん。

 布団に顔を突っ込み、意気消沈する小童。

 そして将棋盤の前で着物姿のまま座る私。

 

 確かに八一からしたら意味不明な光景だと思う。そもそも私がここに居ることも想定外だろうし。

 

「女子会、かな?」

「こんな殺伐とした女子会なんて嫌だよ桂香さん……というかなんで姉弟子がここに? その服でここ居るってことはまさか」

「終わった」

 

 桂香さんにスマホを見せてもらい、私の対局を確認する八一。

 しばらく画面を見つめ口元に手を当て少し考える素振りをした後、なるほど、と呟いた。

 

「横歩取りからの研究勝負か、決着が早い訳だ」

 

 正直なところ研究勝負と言っていいのかも怪しい。答えをただ示したようなものだ。

 

「『知識』での勝利ですね。月夜見坂さんの研究が少し古かったのかな? それにしても持ち時間を使わず勝負を決めたなんて、中々思い切りがいいですね」

「………」

 

 確かに前回は持ち時間を使って少しだけ悩んだ記憶がある。

 流石に注目度の高いタイトル戦で棋力ではなく知識での勝利を収めるのは、どうだろうかと。

 だから二分だけ持ち時間を使って持久戦に持ち込むか迷った。

 

 結局、私はそのまま決着を付ける事を選択した。そんな私に前回の八一は賛同してくれた。

 今回は、どうなんだろう。

 伺うように八一の目を見た。

 

「姉弟子は正しいですよ、俺たちは常に最善手を指すべきだ。厳しい言い方ですが今回は月夜見坂さんが甘かっただけです」

 

 変わらない彼の返答に安堵した。

 例え私や小童たちが変わっても、八一は私の知る八一なんだ。

 

「あと、姉弟子がここに来た理由も何となく察しましたよ」

 

 八一は持っていた寿司折を開封して、割り箸でお寿司を一つ摘み、私に差し出してきた。

 今更になって気付いたけど静岡から大阪に直ぐに戻ったから何も食べてなくて、少しだけおなかが空いてた。 

 

「欲求不満なのは分かりますけど、あまりうちの弟子を虐めないでくださいよ?」

「んっ」

 

 八一の差し出してくれたお寿司を口にする。

 はまちを食べさせてもらったけど、正直ドキドキして味はよく分からなかった。

 長い付き合いからか、八一は私の気持ち以外は割と察してくれる時がある。

 でも、私が何も言わずに八一の方から食べさせてくれるのは中々なかった気がする。

 小さいときは姉弟子としての権限で八一に食べさせてもらった事もあったけど、この年でやってみると結構恥ずかしい……嬉しいけど。

 

「……虐めてないわよ。それに八一が言ったじゃない。あの小童の相手して欲しいって」

 

 赤くなっているであろう顔を見られたくなくて、誤魔化すように呟いた。

 

「確かにそうですけど……でも、まさかあそこまで打ちひしがれるとは思ってなくて」

  

 八一が帰ってきたにも拘らず、あの小童は未だに布団に顔を突っ込んだままだ。

 さっき私に負けたのが相当堪えているんだろう。

 というか、あの小童寝てるんじゃないの?

 

「銀子ちゃん相手に平手で指したあいちゃんも凄かったんだけどね……」

「は? 平手で指したんすか!?」

 

 桂香さんの言葉を聞いて、八一は信じられないといった表情で私の顔を見た。

 

「別に驚くことはないでしょ。あの小童の実力はあんたも知っている筈よ」

 

 あの小童が前回と同じように『才能を持った小学生』程度の相手なら流石に平手で指すような真似はしなかった。

 けど、今の小童はあの時とは違う。

 見た目はただの九歳児だけど、こいつの中身は駒落ちで指せるような甘い相手なんかじゃない。手を抜けばこちらが殺される。

 

「……そうですね。本気で相手をしてくれて、ありがとうございました姉弟子。この敗北はきっとこの子の糧となる筈だ」

 

 布団から顔をださない小童に八一は見守るような優しい視線を送った。

 まあ、確かに糧になるだろう。投了した小童の目は次に指す時は必ず殺してやるという決意を秘めていたから。

 

 私が勝てば一日、八一と八一の部屋を借りる。

 

 そう宣言して小童と指した。

 小童は最初、私が何を言っているのか分からないと首を傾げ、次に言葉を深読みして顔を赤くし、そして目をどす黒く濁らせて威圧してきた。

 

 小童が何を想像したのか知らないけど、別に私はこのマセガキが思っているような事をするつもりは断じてない。

 あの服を着て八一と一日将棋を指して健全に過ごすつもりだ。

 

 ……ただ、私にそのつもりはなくても八一が我慢できなくなってどうしても、と言うなら話は別だけど。

 弟弟子の我儘をたまに聞いてあげるのも、姉弟子の役目だ。役目なのだから、仕方がない。

 まだ想いは伝えてないし、そういう事は順序が必要だと思うけど、八一はまだ十代のケダモノだし何か過ちが起こっても不思議じゃないし仕方がない。

 

 その時は素直に八一を受け入れようと思う。うん。

 

 そのままだと勝負に乗りそうになかったので、私が負けたら小童の言う事をなんでも一つ聞くと言ったら年相応のにこやかな表情で対局を挑んできた。

 

 流石に一筋縄ではいかない相手だったが、勝利を収めたのは私だ。

 対局を見ていた桂香さんが少しばかり引いていたけど、気にしてはいけない。

 これでとりあえず、小童には借りを返した。次はあのクソ生意気な夜叉神天衣だ。

 

「八一」

「なんです?」

「また今度VSやるから」

「姉弟子の防衛戦が終わってからですよね? それは構いませんけど場所はいつも通り将棋会館でいいですか?」

「違う。八一の家」

「なるほど。それならあいも交えてできますし効率的ですね。どうせなら天衣も呼んで清滝一門研究会でも開きます? 桂香さんも来てくださいよ!」

 

 思わず舌打ちをしそうになったけどなんとか我慢した。

 この男の頭の中は将棋かロリが大半を占めてるんじゃないだろうか。

 いや、今の八一は私の事なんてちっとも意識してくれてないだろうし当然の反応なのかもしれない。

 それなら二人きりになりたいからって伝えればいいけど、今の八一にそれを言っても……

 

「違うわよ八一くん。銀子ちゃんは八一くんと二人で指したいのよ」

「え?」

「そうでしょ? 銀子ちゃん」

 

 救いの手を差し伸ばしてくれた桂香さんの顔を見るとウインクして答えてくれた。

 昔から本当に頼りになる人だ。

 ありがとう、桂香さん。

 

「え、えっと、そうなんですか?」

「……うん」

 

 前なら、桂香さんにこうして背中を押して貰っても素直にそう言えなかったと思う。

 でも、今は違う。ちゃんと言えるんだ、八一に。

 

「でも、あいが……」

「あいちゃんならうちで預かるわ。お父さんも喜ぶだろうし」

「……わ、分かりました。じゃあまた今度、やりましょうか。俺の家で」

「うん」

 

 八一は少しだけ照れたように、私から目を逸らした。

 ……もしかして、少しは意識してくれてるのかな。

 

「とりあえず、今は防衛戦に専念してください。俺も応援してますから」

「……すぐに終わらしてくるから」

 

 月夜見坂さんには悪いけど、残りの防衛戦も速攻で終わらそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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十話

「指し方、ずいぶんと上手くなったな天衣」

 

 ぱちん、と小気味良く駒を鳴らした私に彼は満足気な表情をしながら彼も私と同じように駒を鳴らした。

 巻き戻ってから少しの間は二年前の小さな体に違和感を感じて上手く駒を指せなかったけど、最近になってようやく慣れてきた。

 彼から文字通り、手を取り合って丁寧に指し方を教わったお陰だ。

 

 今日は東梅田にある将棋道場に来て、彼と二人っきりで指していた。晶も付添として来てたが、今は車の駐車場を探してこの場にいない。

 新世界の道場と違って清潔感があるこの道場は前回にも来たことがある場所だ。そう言えばあいとはここで初めて出会ったんだっけ。

 弟子入りしたての頃はわざわざ神戸の家まで出向いてくれていた彼だったけど、最近は大阪で指す機会が増えてきた。

 彼曰く、色んな環境で指すのも棋士として重要な経験だからだと。

 今の私は、それこそ様々な場所や多くの人の前で指した経験があるけれど、彼のこの教えが無駄だとは決して思わない。

 一度目の時に教えてもらった事を今改めて聞くと、あの時の自分では見つけれなかった新たな発見や、過去の自分と今の自分との対比ができた。

 やり直してから二度目となる彼の指導は、棋士としての私をまた一歩、成長させてくれたと実感する。

 

「……ありません」

 

 ただ、それでも彼にはまだまだ敵わない。

 先手を貰って、あの時と同じように得意の角交換で誘導してみたけど簡単に押し潰された。

 

「お疲れさん。うん、平手でここまで指せるなら十分だ」

「……差が縮まる気が全くしないわ」

 

 当然だけど、彼は将棋に関しては一切容赦しない。

 前回も負けた。それも大差で。

 完膚なきまでにボッコボコにされた。

 でも、まさか今回も同じように負けるとは思わなかった。

 自惚れている訳ではないけど、今の私は強い。

 当然だ。二年間も女流棋士として指してきたのだから。

 それこそ、この時期の空銀子なら勝てると言い切れるほどに。

 ……私と同じように中身が別物の今のあれに対してはそう断言できないけど。

 

 だから、勝てないにしても前よりはもっと善戦できると思っていた。

 もっと近づけていると思っていた。

 私がずっと見て指してきたあの将棋に。

 

 ────彼と同じ場所にたどり着いたあの空銀子のように。

 

 けど、現実は違った。遠かった。彼の背中は。

 私の想像よりもずっと遠くて、まるで違う星に住んでる住人のように思えた。

 あの時よりも強くなった筈なのに、全く近づけていない。

 それどころか、今の彼との距離は……

 

「ねえ、九頭竜くん」

「だから師匠なんだから九頭竜くんは止めろって……で、なんだ? 天衣」

 

 いつの間にか、二人きりの時はこの呼び方で定着していた。

 流石に晶やあいがいる時はちゃんと師匠(せんせい)って呼んでるけど。

 まあ、今はそんなことはどうでもいい。それより気になる事がある。

 私は彼と指して感じた違和感を投げかけた。

 

「あなた、なにかあった?」

 

 九頭竜八一という棋士が今まで指してきた棋譜を全て並べて彼の将棋の歴史を紐解くと、いくつかの『波』が読み取れる。

 彼が初めて竜王をもぎ取った対局。

 戦後最長手を指した神鍋六段との対局。

 一手損角換わり使い同士の戦いとなった月光会長との対局。

 奇跡の三連続限定合駒を見せた山刀伐八段との対局。

 そして、あの名人相手に竜王防衛を果たしたあの対局。

 

 『波』が現れる度に彼の将棋は変化していった。

 その中でも特に大きかったのが、あの名人との竜王防衛戦だ。

 彼はあの七戦を経て、変異した。

 

「急にどうしたんだ?」

「いいから答えて」

 

 首をかしげる彼に催促するように返した。

 私は、他の誰よりも彼の将棋を見てきたと自負している。誰よりも彼の将棋を知っている。

 あいや空銀子の二人よりも、ずっと。

 だから、さっき指した時に彼の変化……いや、違和感に気づいた。

 

 前回、今日と同じように彼と平手で指した時は私の指す手を一手一手を持ち時間を使ってじっくりと読み、それから最善手を指し続けて押し込まれた。

 ところが、今回は違った。

 前ほど持ち時間を使っていなかった。あの時よりもずっと強くなっている筈の私が指した手を、前回よりもずっと早く読み切って最善手を指し続けた。

 

 それはまるで、あの防衛戦を終えて変異した彼のような読みの鋭さだった。 

 

「特に変わったことはないけどな…………あっ」

「なに?」

「いや、別に大したことじゃないけど」

「聞かせて」

 

 言い淀む彼の瞳をじっと見つめた。

 私は知りたい。

 あなたの変化を、あなたの将棋を、あなた自身を、もっと。

 

「そ、そんなに睨まないでくれよ。実は最近ちょっと変な夢を見ることが多くて」

「変な夢?」

「変な夢って言っても別に将棋指しなら珍しくない夢だよ。俺が知り合いと指す夢だ」

「たとえば誰と?」

「そうだな……今朝も見たんだが、その時は確か月光会長だったかな? なんか俺も和服きてかなり気合い入ってたみたいだった」

「えっ………?」

 

 何故か、妙な胸騒ぎがした。

 

「他には山刀伐さんや生石さん、あとは名人や蔵王先生、あと帝位の於鬼頭さんとかも出てきたかな」

「………」

「まっ、指したことない相手もいたし、肝心の盤面もぼやけて覚えてなかったけどな」

「そ、そう……」

 

 指したことがない? いや、違う……これから指すんだ(・・・・・・・・)

 彼は、その人たちと。これから先の二年の間に。

 私はそれをずっと近くで見てきた。

 

「ただ、その夢見た日は妙に調子がいいんだよな。なんていうか、読みの力が増してるといか、指してる最中の思考が普段より加速してる感じがしてさ。見たら調子が良くなるって変な夢だろ?」

 

 まあ、気分の問題だろうけど、と彼は苦笑した。

 

 私はあの読みが、気分云々のものではないと確信していた。

 将棋は精神力が重要な要素の一つでもある。彼からそう教わった。

 だけど、それだけで本当にあそこまで変わるとは思えない。

 なら、思い当たる原因は一つしかない。

 

 ────もしかして、彼も、巻戻っているの? 私やあい、空銀子と同じように。

 

 ただ、私たちと違って記憶はなく本人も自覚していない。

 残っているのは、無意識の中で浮かべる彼が未来で描く予定だった棋譜だけ。

 もしそうだとしたら、かつて彼が言っていた将棋の神様とやらは九頭竜八一という棋士を随分と愛しているようだ。

 彼が今、二年後の指し方を完全に思い出したらどうなるか。

 前回よりも強い状態で、前回よりも多く指す経験が増える。

 

 そうなると間違いなく、彼は強くなる。前よりもずっと。

 

 そんな彼に対して、空銀子は今回も変わらずに彼と同じ場所を目指すのだろうか。

 私じゃ届かない、彼の住む星に。

 

「その事は誰かに話したの? あいや空銀子とかには」

「いや二人には話してないよ。ただの夢だし」

「ふーん、そう」

 

 つまり、この事を知っているのは私だけなんだ。

 気づいていないのなら、今はまだ黙っていよう。

 一応はまだ憶測の域を出ないし。

 

「それにしても羨ましいわね。夢見るだけで調子上がるなんて」

「実際、夢なんて不安定な要素で調子が変わるって不便だと思うぞ?」

 

 普通ならそうだけど彼の場合、正確には『調子が上がる』のではなく『実力が底上げされる』なのでその恩恵を考えたらやっぱり羨ましいと思う。

 私が将棋を指す夢を見てもこうはならない……彼との夢を見たら別だろうけど。

 

「調子の上げ方は自分でコントロールできる方法がいい。その方がルーティーンを組みやすいからな」

「ルーティーン、ねえ。私はそこまで効果があるとは思わないけど」

「自分独自のルーティーンやジンクスを作り上げるのもプロの技術だよ。天衣も何か作ってみたらどうだ?」

 

 急にそう言われても困る。

 自分自身、盤面を読む時に片目を手で覆う仕草というか癖があると自覚しているけど、それがルーティーンやジンクスかと言われたら頷けない。

 

「あなたは何かそいうのはあるの?」

「俺か? そうだな、俺は姉弟子をコスプ……あれ?」

「……?」

 

 彼の口から急に空銀子の名前が出て首を傾げる。

 あの女が彼のルーティーンに関わっているんだろうか。

 

「あなたの姉弟子がどうかしたの?」

「あ、いや……おかしいな、なんでルーティーンの話題で姉弟子が出てくるんだ?」

「私に言われても知らないわよ」

 

 彼自身、何故か自分で口にした言葉に不思議そうにしている。

 もしかして、僅かながら前の記憶が残っているんだろうか。

 

 ……だとしたら、厄介だ。

 

「まっ、あなたと空銀子ってずっと一緒だったみたいだしルーティーンに組み込まれても不思議じゃないんじゃない? 例えば対局前に一緒に過ごしたら勝てたとか」

「ああ、なるほど。確かにその可能性はあるな」

 

 適当な言葉を並べて誤魔化せたけど、どうやら納得して貰えたようだ。

 もし、彼が前回の記憶を取り戻してしまったら、彼はあのどこぞの馬の骨とも分からない女の元に行ってしまう。

 ─────それだけはダメだ。

 

「でも、そういうのがアリなら私も一つルーティーンを思い付いたわ」

「……? 天衣?」

 

 私は彼の手を取ってそのまま握りしめた。

 私よりもずっと大きくて、私に家族のぬくもりを与えてくれた優しい手。

 今度は絶対に離したりはしない。

 

「これからは私の対局前に、こうして私の手を取ってくれる? そしたら、私は誰にも負けないから」

 

 あいにも、空銀子にも。誰にも負けない。誰にも譲らない。

 あなたが私の手を取ってくれるなら、私はもっと強くなってみせる。

 もっと、輝いてみせる。だから──

 

「ああ、もちろん」

 

 彼は私に微笑んで、手を握り返してくれた。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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十一話

 その日、女王戦五番勝負の第二局を明後日に控えた私は夕方まで次の対局の研究に時間を費やしていた。いくら未来の記憶があるからと言って慢心する気は更々ない。

 それに、タイトル戦の後は八一との約束も控えている。万が一にも五番勝負が長引かないためにも、迅速かつ確実に月夜読坂さんを仕留めるつもりだ。

 とは言え明日は現地への移動日となっているので一日中研究をして過ごす訳にもいかない。ある程度、納得したところで研究を切り上げた。

 

 その後は特に予定を入れてなかったので、また八一の家にでも行こうかと思ったけど今日も夜叉神天衣と出かけていると聞いたので仕方なく自宅に戻った。

 自分の部屋でベッドに寝転がりながらスマホを弄って時間を持て余していた時だった。スマホを眺めているとメッセージアプリの通知が届いた。

 

『いまのところ不審な手紙は来てません』

 

 小童から送られてきたグループメッセージを目にして、ほっと息を吐く。

 そのままスマホの画面に指を滑らせて一言だけ返した。

 

『了解』

『何かあったら直ぐに知らせなさい』

 

 私が返信するとほぼ同時に夜叉神天衣からもメッセージが流れた。

 それを確認してスマホの画面を閉じ、目を瞑った。

 

 ……今のところ動きはない、か。

 

 八一を巡って基本的には対立してる私たちだけど、現在ある一点に関してだけ協力体制を取っている。

 

 それは私たちから八一を奪った“あの女”に関して。

 

 あれは私たちの共通の敵だ。

 私たちから、いや、私から、私の大切な八一を奪った泥棒猫。

 

 小童はあの女の顔も名前も知らないらしい。私もそうだ。

 唯一、夜叉神天衣だけは八一とその女が一緒にいるところを目撃したと話した。

 私自身もその女について知っている事は少ない。けど、一つだけ大きな情報を手にしている。

 それは八一自身が話してくれた、あの女と八一の接点だ。

 あの時の光景は脳裡に焼付いて今でも鮮明に思い出せる。八一の仕草、表情、言葉、全てを。

 

『彼女、元々は俺のファンだったんです。何度か手紙を出してくれてたみたいで、最初は俺も気づかなかったんですが』

 

 いつの時期からか分からないが、あの女は八一のファンだった。手紙を出すほどの。

 私が提示した女の情報を聞いて小童は満面の笑みでこう言った。

 

『それなら、ししょーに届くお手紙をあいが全部チェックしてたら大丈夫ですね』

 

 その提案に私も夜叉神天衣も二つ返事で了承した。

 八一に他の虫が付かないように監視する点で言えば、やはり内弟子の小童が一番行動しやすい。

 それに加え、今は夜叉神天衣の指導の関係で八一が家を留守にする機会が多い。その間に小童は八一に不審に思われる事なく自由に近辺を調べる事ができる。

 そして小童が八一の傍にいない間は、ほぼ確実に私か夜叉神天衣のどちらが八一と一緒に行動してる。

 家では小童が監視し、外では私たち二人が虫を払う、我ながら隙のない完璧な囲いだ。今なら『嬲り殺しの銀子』と名乗れるかもしれない。

 仮に私たちがいない間に一人で誰か他の女と会っていたとしても、どうせ相手は桂香さんか月夜読坂さんと供御飯さんの二人組だ。

 この時期の八一の交友関係、特に女性に関してはほぼ網羅してる自負がある。

 桂香さんは家族だし、あの二人組も八一にちょっかいはかけているけど本気じゃない筈。見知った相手なら問題ない。

 

「それにしても……」

 

 あの女は八一のファンだそうだが、それなら自分の身を弁えてほしい。

 だって私こそが幼少期からずっと九頭竜八一を傍で見てきた最初で一番のファンなのだから。

 

 そんな事を考えながら、そろそろ明日の準備でもしようかとベッドから起き上がると、スマホが電話の着信を示す音楽を鳴らした。

 誰からだろう、と画面に表示された電話相手の名前を見てすぐに電話を取った。

 

『あ、よかった姉弟子。いま大丈夫ですか?』

「……なに?」

 

 素っ気ない返事をしてしまったが、普段通りを装うには仕方がない。

 やっぱりまだ慣れないな、八一からの電話。

 最初は倒れた私の体調を心配しての事だったけど、最近は会ってない日の近状報告のような形で連絡をしてくる。

 弟子の事だったり、将棋の事だったり、わざわざ電話で話すような内容じゃない。

 でも、その他愛のない会話が昔を思い出して楽しくて、嬉しくて、つい浮つきそうになる声を抑えるのに必死だ。

 

『ちょっと聞きたいことがあって、姉弟子なら詳しいかなって……』

 

 話を聞くと、梅田かもしくはその近くで何かお勧めのスイーツ店を知らないか、との事だった。

 聞いてる途中で前にも八一が同じ事を聞いてき事を思い出した。

 確かあの時は、あの小童のためにお土産を買って帰るためだっけ。

 あの時の私はデートの誘いと勘違いして電話中に服を脱いで着替えようとしてしまった。

 今思えば恥ずかしい勘違いだ。あの時の八一が私をデートに誘ってくれる訳ないのに。

 

「そうね、梅田なら……」

 

 前のような勘違いはしていないから、会話に余裕がある。前回と同じように思いつくスイーツ店を挙げていった。

 いつか八一と一緒に食べに行くのを想像して、雑誌やネットで必死に情報をかき集めていたのが懐かしい。

 結局、無意味に終わったけど……

 でも、今回こそはいつか、必ず一緒に行く。

 

「……そんなところかな。まあ、八一の奢りなら今からなら少しだけ時間もあるし? 別に一緒に行ってあげてもいいけど?」

 

 なんて、前と同じ事を言ってみる。

 これも余裕があるからこそだ。

 まあ、どうせ小童に買うためだし無駄だろうけど。

 

『そ、そうですか……なら、今から一緒にどうですか?』

「えっ?」

 

 想定外の返答に思わずスマホを落としかけた。

 

 えっ、いいの……?

 私と?

 というか、八一と、デート?

 今から!?

 

『あいへのお土産を買うつもりだったんですが、時間があるなら、お店を教えてくれたお礼もしたいですし……姉弟子? 聞いてます?』

「う、うん」

『じゃあ、集合場所はとりあえず駅の辺りでいいですかね? 近くまで来たらまた連絡をし』

「すぐいくから」

 

 これ以上、八一の声を聴いていると冷静になれそうになかったので電話を切った。

 冷静に、うん冷静にならなきゃ。

 

 ど、どういう風の吹き回しなんだろ。

 八一はお礼って言ってたけど、前はそんな事してくれなかったし……

 あ、でも前は私にもケーキを買ってきてくれたっけ。

 でも、それでもおかしい。あの八一が、私を……

 

 ……とりあえず着替えよう。

 

 無難にいつもの制服? でもせっかくのデートなのにそれはどうかと……そもそもデートなの? 

 いやデートだろう。八一が誘ってくれたんだし、世間一般から見れば男から誘ってきたのなら立派なデートだ。間違いない。

 なら真剣に考えなければならない。

 デートは二人で行うもの……つまりは将棋のようなものだ。

 それなら今見える盤面だけじゃなくて終盤を見極めないと。

 

 序盤は戦型を選択し、その定跡をなぞることになる。

 戦型はスイーツ店でのデート。定跡は過去に読み漁った雑誌やネットをなぞるしかない。

 経験がないのが些か不安だけどこればかりは仕方ない。臨機応変に駒の動きを読んで何とか対応するしかない。

 

 そして、デートなんだし当然それだけでは終わらない。

 

 二人の対局はそのまま中盤に入る。

 スイーツだけで夕食を済ませる筈もなく、私たちは日の落ちた梅田の街を手を繋いで歩いてデートを楽しむ。

 そして雰囲気の良いお店を見つけ、そこでディナーだ。

 ここでの一手一手の会話が終盤へと繋がる。ある意味で最も難しい盤面だ。慎重に指さなければ……

 上手く流れを掴めばあとは一気にリードできる。そうなれば後は簡単だ。

 

 序盤、中盤で作り上げた流れ。優れた大局観を持つかの竜王でさえ、ここまで来れば覆す事はできない。

 意識は流され、理性は消え去り、背徳を欲望に身を任せ、そして二人は終盤へ……

 

「……見えた」

 

 私にも盤が見える。流れが見える。勝利の棋譜が見える。そうか、これが将棋星人(あなた)が見ていた景色なんだね八一。

 

 だけど制服だと遅い時間まで二人で居たら補導される可能性がある。そうなれば終盤に持ち込む前に頓死だ。

 なら補導されないように私服で行くのがベスト?

 いや、そんな安易に指してはダメだ。

 確かに私服なら補導されないかもしれなけど、果たしてそれが最善手と言えるのか。

 どうせなら、八一を意識させたい。

 神鍋先生との対局後の八一を迎えに行った時は私服だったけど、物珍しそうに八一は見てただけで特に効果があるとは思えない。

 

 もう少し大人っぽい服でもあれば……

 基本的な服装が制服のせいで、私服は前に着たのと似たような物しか持っていない。

 ずっと制服だった自分を恨めしく思う。

 こんな事なら、釈迦堂さんに頼んであの服のカタログを送ってもらえば良かった。

 あの服なら、八一も喜んでくれたし……

 

 クローゼットを開けて、手持ちの服をベッドに並べてみるたけど、いまいち手応えのある服がない。

 時間もないし、このまま無難な私服で行こうかと思った、その時だった。

 

「……これは」

 

 私の視界にあるモノが映りこんだ。

 部屋の片隅に放置された、紙袋。

 以前、八一から手渡され一度だけ部屋で試着してみて意外と悪くなかった『あの服』。

 

「いや、流石にこれは……」

 

 ない。あり得ない。

 これを着て出歩く女が居たら間違いなく引く。

 こんな服を外で見かけるとしたら日本橋くらいだ。

 

「……でも」

 

 一見すれば、悪手。それも大悪手だ。

 だけどその大悪手こそが最善手だった、なんて将棋じゃよくある事だ。

 かつての清滝師匠の対局を思い出す。

 師匠が好手と判断して指した一手が、自らを敗北に向けた大悪手の一手となり、そのまま頓死したのを憶えている。

 

 今回はそれに似ているかもしれない。

 普段通りの制服で行けば、八一と自然に接する事ができる。だけど遅くまで一緒にはいられない。

 私服で行けば、その心配はない。けれど、果たしてその安定した一手が正解なのか。

 平穏か、安定かそれとも……

 思考がループし、汗が流れる。

 巻き戻ってから、ここまで頭を使わされたのは初めてかもしれない。

 ただ、このまま時間を無為に消費する訳にはいかない。八一が待っているんだ。

 そうだ、悩む必要なんてない。無難でいい。

 

 私はベッドに並べた服に手を伸ばそうとして……

 

 ふと、私の脳裏であの『研究会』の出来事が再生された。

 

『うん! めっちゃかわいいよ姉弟子! かわいいかわいい!!』

 

 

 

 

 私は紙袋を手に取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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十二話

『いまそっちに向かってるから』

 

 姉弟子からの連絡に「分かりました」と一言返してスマホをズボンのポケットにしまった。

 梅田周辺のスイーツ店に行くので、待ち合わせ場所はグランフロント大阪になった。

 人通りが多いこの場所で有名人の姉弟子と待ち合わせするのはどうかと思ったけど、最近はよく一緒にいるし今更気にしても仕方ない。

 ベンチに腰かけて目の前の止むことのない人の流れを眺めながら、これから会う姉弟子のことを思い浮かべた。

 

 

 最近、姉弟子の様子がおかしい。

 優しいというか、しおらしいというか……とにかく違和感を感じる。

 

 第一に殴ってこない。

 

 これがまずおかしい。あり得ない。何かの間違いだ。

 肉体言語は姉弟子が俺に対して最も得意とする戦型だった筈。

 それをほとんど使ってこない。そして何故か代わりにスキンシップがやたらと増えた。

 妙に距離が近いというか……何かと理由を付けてベタベタと触ってくる。

 例えば二人で歩く時は互いに触れそうなくらい近い。日が出てる時は俺が代わりに日傘を指すほどだ。

 姉弟子曰く、『傘を持つのが疲れるから』だそうだ。

 流石にそこまで貧弱な人じゃなかったと思ったけど、つい最近倒れたばかりだったので俺も納得した。

 ただ、曇ってる時や日が落ちてる時みたいな日傘が必要ない時に手を握ってくるのは謎だ。

 理由を聞いても答えてくれた事は一度もないし、姉弟子はずっと沈黙を貫いている。

 それどころか手を握る際は指まで絡めてくる。

 俺も最近では諦めて黙って手を繋ぐ事にした。

 

 けど、全く殴ってこないという訳ではない。

 この間、月夜見坂さんと供御飯さんに押し通されて無理矢理渡されたメイド服を着て欲しいと頼んだ際は久しぶりに姉弟子の拳が俺のボディーを貫いた。

 切れのあるストレートに、どこか懐かしさと共に安堵した。

 断じて俺がドMという訳ではない。

 

 そして、暴力もそうだが言葉もおかしい。

 姉弟子と言えば暴力暴言の暴君だ。

 あの人は怒らせると手が先に出るとかじゃなくて、手と口が同時に出る。隙のない二段構え、ではなく同時攻撃だ。

 それが最近ではすっかりと身を潜めてしまっている。これまたおかしい。

 優しい……と言えばそうなんだろうけど、表現するとしたら余裕がある、と云った方がいいかもしれない。

 そのお陰か、弟子たちとも意外な事にそれなりに仲良くやってるようで、この前もあいが姉弟子と連絡を取り合っている姿を目撃した。ただ、ちょっとその時の雰囲気が怖かったけど。

 やはり会話に棘が前よりもなくなったのが原因なのか。いや、今でも俺に対しては頓死しろだの、クズだの、ロリコンだのと罵倒はしっかり飛んでくるけど。

 でも不思議と優しさが込められている……歩夢との対局前に、俺を励まそうとしてくれたし。

 というか優しい罵倒ってなんなの。

 

 あと、棋風も随分と変わった。

 洗練された、というより別物になった。

 短期間であそこまで棋風がガラリと変わるものなのかと疑問に思ったけど、俺と練習で指した振り飛車も決して付け焼き刃ではなかった。

 それに、前から思っていた姉弟子の弱点である体力面も克服もしようとしている。

 これに関しては素直に良い傾向だと思う。

 

 

 いつからこうなったのかと考えてみると、間違いなく倒れたあの日からだ。

 

 最初は、体調不良が影響だと思っていた。

 体が弱ると気も滅入る事はよくある。姉弟子も、きっとそうなんだろうと、考えていた。

 だから気遣って毎日電話で連絡を取って体調を確認したけど、どうやら今はもう問題ないらしい。

 それで安心はしたけど、電話をする習慣がすっかり付いてしまって今でも特に用事がなくても連絡をするようになった。

 いや、それはどうでもいいけど。

 

 ただ、体調不良が原因ではないとすると何でこうなったのかが分からない。

 変わったのはあの日で間違いない筈だ。

 なら、あの日に何があったかと思い返してみれば原因を突き止められる。

 

 あの日は俺と師匠の対局があって、

 終わった直後に姉弟子が倒れて、

 倒れた姉弟子の傍で一晩過ごす事になって、

 そこで……

 

 

『やいち』

 

『すき』

 

 

 ………。

 

 本当は分かっている。おかしくなったのは姉弟子だけじゃない。

 あの言葉を聞いてからずっと、俺自身もどこかおかしくなっている。

 

 あんなのはただの寝言だ。

 本人の意思で言った言葉じゃない。

 気にする方がどうかしてる。

 

 それに仮に『すき』と言っても、俺たちの関係なら複数の意味合いがある。

 家族として、とか。

 棋士として、とか。

 

 ……なんて言い訳をあの日以来ずっと自分にしてきた。けどダメだった。

 

 結局あの言葉の真偽がどうであれ、俺は今まで通り姉弟子と接することができなくなった。

 

 昔は自然に繋いでいた手が今では緊張して鼓動が高まる。

 見慣れた筈の彼女の顔が意識してしまうと直視できない。

 傍にいると鼻孔を擽る彼女の甘い香りに軽く眩暈がした。

 何度も聞いた彼女の声が俺に安堵以上のナニかを与える。

 

 姉弟子に対いて五感で感じる全てがおかしくなっている。

 こんな感情は初めてだ。

 憧れている桂香さんにも、こんな感情を抱いた事はないかもしれない。

 俺は本当に、どうなってしまったんだろう。

 当たり前のように過ごしていたあの感覚が今では思い出せない。

 常にもやもやとした何かが心の中を漂っている。

 もしかしたら、姉弟子が変わってしまったのは俺が姉弟子に対して今まで通りに接する事ができないのが原因なのか?

 そんな事を考えてしまうほど、俺は自分が姉弟子の前で自然体ではなくなっていると自覚していた。

 

 姉弟子の事を尊敬してる。傍で見てきた棋士として。

 姉弟子の事を信頼してる。長く過ごした家族として。

 

 胸の中で渦巻く言葉にできないこの感情が尊敬や信頼の延長にあるのモノなのか、それとも別の何かなのか。

 俺にはまだ判断できない。だって、初めて感じる感覚だから。

 不思議と悪い感覚ではない気がする。ただ、このままだと間違いなく影響がでる。将棋や日常生活に。

 

 だから、もう少しだけ傍に居たい。

 姉弟子の、銀子ちゃんの傍に。昔みたいに。

 今日、誘ったのもそれが理由だ。

 

 彼女の傍にいれば、そうすればきっとこの感情の正体もいずれは……

 

 

 

 

「おい、なんやあれ」

「コスプレか?」

 

 ふと、周りの人たちがざわついているのに気付いた。

 いつの間にか目の前にさっきよりも大勢の人だかりが出来ている。

 いかんいかん、思考に没頭すると周りが見えなくなるのは棋士の悪い癖だ。

 姉弟子はまだ来てないのかな?

 

 周りを見渡しても人、人、人で特定の人間を見つけるのは難しい。

 まあ、あの人なら目立つし来たら直ぐに分かるか。

 

「あれ? どっかで見たことある顔やな」

「あの子ってもしかして……」

 

 一瞬、最年少竜王である俺に周りが気付いてサインでも求められるのかと思ったけどどうやら違うらしい。ちくしょう。

 

 周りの声を拾ってみると何やら有名人が居たようだ。

 芸能人でもいたのかな? この辺りだと珍しくないか。

 けど、ちょっと気になるかも。

 どんな人がいるのかと、ベンチから立ち上がろうとした、その時だった。

 目の前の人だかりが突如、モーゼの十戒のように割れてその先の人物が俺の目に映った。

 

 そこに居たのはメイドだった。

 しかもやたらとスカートが短い。日本橋で見かけそうな明らかにコスプレだと分かるメイド服だ。

 メイドは誰かを探してるようで、辺りをキョロキョロと見回してる。

 注目されて恥ずかしいのか、彼女の頬はほんのりと赤く染まっていた。

 なるほど、確かに注目を集めるのも頷ける。

 メイド服を着れば確かに目立つかもしれないが、ここ大阪じゃたまにそういった奇天烈な服装をした人間を見かけるから、ここまで人目を集めないだろう。

 

 あれは、ただのメイドではない。

 とんでもない美少女メイドだった。

 

 髪は銀のような光沢を放つ美しい白。

 眼は空のように……

 

 いや、要は姉弟子だ。

 空銀子だ。

 浪速の白雪姫だ。

 銀子ちゃんメイドVerだ。

 流石は姉弟子。完璧に着こなしてるぜ。

 うん! めっちゃかわいいよ姉弟子! かわいいかわいい!!

  

 

 ………。

 

 いや、いやいやいやいや。

 待て、待って。

 なに、あれ?

 なんでメイド?

 なんでそんな服着てんの!?

 もしかしてあの服着て欲しいって言ったことまだ根に持ってんの!?

 それで俺を社会的に抹殺するためにわざわざ着てきたの!?

 恥を捨ててでも相手を殺す、姉弟子らしいぜ!!

 

「やいちっ」

 

 割れた人だかりから俺を見つけた姉弟子は小走りで俺の所まで来て、そのままぎゅっと手を握られた。

 周りの人達の視線もそれに釣られて俺の方へと向き、そして大きくどよめいた。

 なんだろう。なにか、こう……嫌な予感がする。

 それも途轍もなく嫌な予感が。

 

「やっぱり浪速の白雪姫や」

「ってことは男の方は……」

「『あの』竜王や」

「JS二人を同時に弟子したっていう『あの』……」

「あれがロリ王……」

「自分の姉弟子をコスプレさせてデートするやべー竜王……」

「あの竜王サン、山城桜花にも手ぇ出しているって噂や。怖いなぁ」

「年齢一桁にしか手を出さんのやなかったんか?」

「性癖オールラウンダー……」

 

 辺り一帯からとんでもない誹謗中傷が飛び交う。

 なんだよ性癖オールラウンダーって!

 誰だよ供御飯さんに手を出してるって根も葉もないこと話してるの!?

 ロリコンは……まあ、小学生内弟子にしてるから百歩譲ってそういう風に見られるかもしれないけど。

 でも断じてロリコンではない。だいたい年齢一桁にしか手を出さないってなんだよ。

 あとコスプレさせてねえし!……で、デートでもねえし。

 

 というか、俺って今、そんな言われ方してるの?

 

 最近エゴサしてなかったけど、もうこれじゃネット見れないよ……ネット怖い。

 いや、今はそんな事はどうでもいい。

 とりあえず優先すべきはここからの脱出だ。

 

「姉弟子! 行きましょう!!」

「えっ? 八一?」

 

 戸惑う姉弟子の手を無理矢理取った。

 いや、普通は戸惑うのは俺のほうだからね? 待ち合わせしてそんな恰好で来られて戸惑わない人いないよ?

 口に出したら殴られそうなそんな事を思いつつ、俺は逃げ去るようにその場から離れた。

 あのままあそこに留まっていたら間違いなく死ぬ。社会的に頓死してしまう。

 

 いやもう既に遅い気がするけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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十三話

「……なんでそんな恰好で来たのか教えてもらっていいっすか?」

 

 テーブルを挟んで向かい合った八一が手元でアイスコーヒーをストローでぐるぐるとかき混ぜながら、呆れた声でそう言った。

 

 私の手を取り、集まった人だかりから逃げ出すように走り出した八一は途中で個室のあるカフェを見つけて一目散に駆け込んだ。

 当初の目的とは違うお店だけど、これはこれで中々良かった。

 店内は落ち着いた雰囲気で客層はカップルが多く、私たちが入っても違和感はない。

 八一はとりあえず一息つきたいからとアイスコーヒーだけを注文し、私はこのカフェが売りにしているパンケーキのセットを注文した。

 

「八一が着て欲しいって言ったから」

「そりゃ言いましたけど……やっぱ俺のせいですよねぇ」

 

 流石に八一にかわいいって言って欲しかったから、なんて言えない。

 咄嗟に思い付いた言い訳を口にした。着て欲しいと言われたのは本当なのでウソではない。

 

 ちなみに今は八一から借りたパーカーを羽織っているので、駅で騒ぎになったほど目立たない筈だ。

 パーカーはカフェに入って席に着くなり、八一が有無を言わさぬ様子で差し出してきた。

 せっかく八一のために着てきたのに……でも流石にこの恰好だと目立つ。

 勿体ないなと感じつつも、私はそれを受け取った。

 受け取ったパーカーは偶然にも前回のハワイの時に八一から借りた時と同じモノだった。

 懐かしい着心地と八一の匂いに包まれてる感覚に今もちょっとドキドキする。

 

「でも着てくれたって事はイベントでもそれを」

「は?」

「ですよねー」

 

 あくまで八一のために着たのであって、イベントにこれを着て参加する気なんて更々ない。

 そんなイロモノはあの二人組だけがやればいい。

 はあ、と大きなため息を吐いて八一はストローでちびちびとコーヒーを飲みだした。

 それを眺めながら、私も先に運ばれてきたセットドリンクのカフェラテを口にした。うん、悪くない。

 

「ロリ王だのロリコンだのは慣れてきたけど、コスプレプレイ楽しむ変態扱いはなあ……」

 

 テーブルに頭をこてんと置きながらブツブツとぼやく八一を見て、自分の服装を改めて考えてみる。

 

 これを着て外に出た時はおかしなテンションになっていたお陰か、そのまま駅まで来れた。けど電車に乗った辺りで少し冷静になって恥ずかしくなった。

 乗ってる最中は羞恥で顔を上げれなかった。というか後悔してた。

 駅に降りてからも更に増えた周囲の視線を無視してなんとか待ち合わせ場所で八一を見つけた時は思わず小走りで近づいて手を握り締めてしまった。

 

 ……やっぱり悪手だったかな、これ。

 八一も喜ぶどころか、ちょっと引いてるし。

 

 でも、せめて何か一言くらい感想を言って欲しい。

 せっかく着てきたんだし。

 

「服」

「えっ?」

 

 私の言葉にピクリと反応して八一が顔を上げた。

 

「どうだった?」

「どうって……」

「八一が着てって言ったのに」

「そりゃ言いましたけど、……って、ちょ、何でパーカー脱ぐんですか!? せっかく貸したのに!」

 

 煮えたぎらない様子の八一にムカついて羽織っていたパーカーを脱いだ。

 こんな恰好をして来たのに感想戦もなしじゃ、気が収まらない。

 

 

「どう?」

「どうって……そりゃ、似合ってますよ」

「だけ?」

「だけって言われましても……」

「他は?」

 

 似合ってるって言われて、もちろん嬉しいけど……

 でも、もっと他にも言って欲しい。

 催促するように睨みつけた。

 すると八一は恥ずかしがるように頬を掻きながら小さく呟いた。

 

「……あとは、まあ、その……かわいい、です……すごく」

「ッ!?」

 

 心臓が飛び跳ねそうになった。

 八一のセリフが桜ノ宮での”あの研究会”を意識させた。

 顔が紅潮するのが自分でも分かる。

 

「ほんと?」

「……はい」

「ウソじゃない?」

「ウソじゃないですって! ……恥ずかしいんで、もうこれくらいで勘弁してくださいよ」

 

 よく見ると八一も頬が少し赤くなってる。

 気がする。たぶん。

 こんな反応をしてくれるのは中々なかったと思う。

 あの八一が、私に……。

 

 これはチャンスだ。

 畳み掛けるなら今しかない。

 

「ウソじゃないならもう一回言って」

「えっ」

「言って」

「……もう十分でしょ?」

「命令」

 

 普段はこの姉弟の関係で異性として意識してもらえなくてモヤモヤするけど、こういう時は便利だとつくづく思う。

 だって八一は(あね)の命令には絶対だから。

 

「ああ、もう! だからかわいいですって! めっちゃかわいいよ姉弟子!」

「!!!」

 

 半分ヤケクソ気味の八一の叫びに思わず固まった。

 さっきよりも更に心臓の鼓動が高鳴る。

 ……ほんとうに”あの研究会”みたい。

 もしかして、あの時の再現をしようと言うの? ここで?

 お、落ち着け、私! そんな事はあり得ない。あの事を憶えてるのは私だけだし。

 そもそもこんな場所で…… 

 

 いや、憶えているかなんて関係ない。

 場所なんて関係ない。

 

 八一が今、そう望んでいるんだ。

 なら、私もあの時と同じように八一に答えてあげなきゃ。

 

 だってそれが『あねでしのおしごと』だから。

 

「ね、ねえ八一」

「なんです? 気が済んだなら早くパーカーを」

「良かったら、その……ポーズとか取ってあげようか?」

「!!!?」

 

 今度は八一が全身に衝撃が走ったように固まった。

 しばらく硬直状態が続き、そして視線を上下に動かして私を体を見てきた。

 信じられないモノを見た、とその表情が強く語っている。

 対局時、八一が相手に思わぬ一手を打たれた時や想定外の新手を打たれた時よりも驚いた顔をしてる気がする。

 

「ま、マジですか?」

「……うん」

「ほ、ほんとに?」

「うん」

「後で怒ったりしません?」

「……しない」

「……そう、ですか」

 

 念入り確認する八一に全て頷いて返事をする。

 すると八一は黙り込んで考え込むように顎に手を当てた。

 私はこの顔をよく知ってる。

 何千、何万と盤を挟んで向かい合って見てきた彼の思考時の表情だ。

 私の仕掛けた一手に、どう応えるのか。

 

 私にはそれが読めていた。

 将棋ではまだまだ彼の領域には達してはいない。

 けれど、いまこの盤面だけは読める。

 八一を読み切ることができる。

 

 ……というか、さっきから視線がスカートの方に向けられたままだからなんて言うかだいたい分かってる。

 

 やがて八一は恐る恐ると云った様子で口を開いた。

 

「なら、その……スカートの裾をつまんで挨拶するポーズを」

「……こう?」

 

 言われた通りのポーズを取る。

 椅子から立ち上がって、言われた通りスカートの裾をつまんだ。

 確か、カーテシーっていう挨拶だっけ?

 前回の時に八一と何度か繰り返し行った”あの研究会”の中で今と同じような服を着てポーズを取って欲しいと言われた時に少し調べた記憶がある。

 

 スカートが短いから正直かなり恥ずかしい。

 

「こ、これは……!」

 

 八一の目が張り裂けんばかりに見開かれた。

 

 ──いける。

 

 うん。やっぱり悪手なんかじゃない。着てきて正解だった。

 悪いわね小童たち。八一は私が堕とすんだ。今日、ここで。

 

 八一の反応に確かな手応えを感じながら更に追い打ちをかけた。

 

「お、お帰りなさいませ、ご主人しゃま」

「ッ!!!!!?」

 

 だ、ダメだ。肝心なところで噛んでしまった。やっぱり慣れない言葉なんて急に使えないか。

 でも、八一は喜んでくれたみたいで……

 

「あ、あの……よ、よかったらもう一回」

「ご、ご主人さま」

「もう一回!」

「ご主人さまっ!」

「いい! いいよ! 銀子ちゃん!!」

「ッ!!?」

「今日は俺が銀子ちゃんのご主人さまッ!!」

「八一が私のご主人さま!?」

 

 調子が乗ってきたのか、八一は”あの研究会”を彷彿させるテンションで叫んだ。

 

 八一が私のご主人さま……

 

 つまり私は八一のモノになってしまったの?

 これはいけない。

 いけないわ八一。駄目よ。

 姉弟子が弟弟子のモノになるなんて。

 そんな事は許されない。

 それにさりげなく私を昔みたいに名前で呼ぶなんて、姉弟子に対しての敬意がない。

 

 ……でも仕方ないのか。

 今の私はメイドで、メイドはご主人さまのモノなのだから。

 なら八一が私を名前で呼ぶのは何も問題がないし、私が八一のモノになるのも全く問題ない。

 そうか、何も問題ないんだ。

 

「せっかくだし写真撮っていい? ていうか撮ろう!!」

「ご、ご主人さまがそう言うなら」

 

 普段の私なら拒否するであろうふざけた八一の言葉に、今は拒否できない。

 メイドはご主人さまの命令には絶対だからだ。

 決して私が撮られることを望んでるわけがないし、八一のスマホを弄って中身を確認するであろうあの小童たちの牽制とかでもない。

 

「ならまずはさっきと同じポーズを」

「こう?」

 

 八一にポーズを強制され、私は仕方なくさっきと同じポーズをした。もはや恥じらいはない。

 だって今の私はメイドだから。

 さっきよりもスカートの袖を持つ手を少しだけ上げるサービスも忘れない。

 すると思った通り、八一は更にテンションを上げた。

 

「そう! それ!! いい!! かわいい!!」

 

 これくらいはメイドとしては当然だ。

 だってご主人さまのニーズに答えるのが『めいどのおしごと』だから。

 

「かわいい? かわいく撮れてる?」

「うん! めっちゃいいよ! かわいい!!」

「そ、そう……えへへ」

 

 連射モードになった八一のスマホから連続したシャッター音が流れる。

 

 本当に、あの桜ノ宮での出来事をそのまま再現しているようだ。

 実は八一も記憶が戻っていたりとか……いや、さすがにないか。

 

 しかしこの九頭竜八一竜王、実にノリノリだ。

 八一のこんな場面を仮に鵠さんにでも見られたら一生おちょくられるだろう。

 ……もちろん人の事は言えないけど。

 

「ご、ご主人さま、次は?」

「次は上目遣いで……」

 

 一息つき、次のポーズに移ろうとしたその時だった。

 

 

 

「あの、お客様。ご注文のパンケーキをお持ちしたのですが……」

 

「「あっ」」

 

 店員の言葉で二人揃って頭がどうかしていたテンションからようやく現実に戻った。

 私たちはご主人様やメイドの前に、ここに来た客だったのをすっかり忘れていた。

 ドン引きして手早くパンケーキをテーブルに置いて戻っていった店員の顔が忘れないまま、私は運ばれてきたパンケーキを味わった。

 

 うん、おいしい。……けど、もう来れないかな、ここ。

 

 

 

 

 



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十四話

 結局、あの光景を店員に見られてドン引きされてからも私たちは店に居座った。開き直った、と言ってもいい。

 店を変えるにしても人通りの多い梅田じゃ移動中にまた騒ぎになるだろうし、それなら個室で店員以外に顔を見られることのないこのカフェにいた方がマシだと判断したからだ。

 流石に見られた後は二人で冷静になって自分たちの行動を思い返し、ちょっと……いや、かなり気まずくなったけどそこは長年の関係だ。直ぐにいつもの調子で話し合えるようになっていた。

 

「……すみません姉弟子。ちょっといいですか?」

 

 最近、小童が将棋連盟に届いてる八一のファンレターを興味津々に見たがるとか。

 今日、黒い方の小童がルーティーンと称して八一にベタベタと触ってきただとか。

 そんな取り留めのない近状報告を聞いている時だった。

 テーブルに置いていた八一のスマホが電話の着信を示すように振動した。

 

「別にいいけど」

「ありがとうございます」

 

 申し訳なさそうにこちらを伺う八一に姉弟子として寛大な心で許した。

 私と一緒にいる時に他人からの電話を取るなんて普段なら言語道断だが、メイド服着てご主人さま呼びした後ではイマイチ威厳を示しにくい。

 それに、どうせ電話の相手はあの小童辺りだろう。

 帰りの遅い八一を心配して……いや、八一が他の女と一緒にいないか確認するために連絡をしたと安易に予想できる。

 そう言えばもう随分と時間が経った気がする。明日は移動日だしそろそろ帰らなきゃ。

 

 今思えば、明後日はタイトル防衛戦なのに八一とのデートで終盤云々を考えた自分がどれだけ頭がピンク色に染まっていたのかと痛感する。浮かれすぎた。

 

「もしもし……珍しいな、わざわざ電話かけてくるなんて。どうしたんだ?」

 

 ……? 小童じゃない? なら誰からなんだろう。

 それに八一がこんな砕けた口調で話す相手なんて限られてると思うけど。

 

 そんな疑問を浮かべながら怪しまれないように追加で注文したロイヤルティーを口に運びつつ八一の会話に耳を立ててると、次にとんでもない言葉が飛びてできた。

 

「なんだ、そんな事か。うん……そうだな、最近会ってなかったし。いいよ、今度会おうか」

「ッ!?」

 

 思わずティーカップを落としそうになった。

 会う? 誰と? 

 ま、まさか、”あの女”?

 既に八一に魔の手が迫っていたというの!?

 

「場所はいつも通りでいいよな? 日程はまた後で連絡するよ。うん、じゃあな……っと、すみません、姉弟子」

「誰?」

「えっ」

 

 短い通話を終えた八一を問いただすように睨みつけた。

 聞かねばならない。吐かせなければならない。なんとしても。

 

「いや、誰って」

「誰?」

「な、なんで睨むんですか……そ、創多ですよ、椚創多」

「創多?」

 

 なんだ、男か。

 

「ええ。最近、弟子が出来てから会えてなかったんで、今度久しぶりに指しませんかって、誘われて……それだけですよ」

「……そう」

 

 相手が男子小学生だと聞いてほっと胸をなで下ろした。

 どうにも、最近少し神経質になってるかもしれない。

 よくよく考えてみれば、流石にこの時期に”あの女”と八一に何か関係があったのなら当時の私が気付いていた筈だ。

 少し頭を冷やさなきゃ。心を落ち着かせるようにカップの中身を飲み干した。

 

 ……それにしても椚創多、か。

 

 その名前を聞いて二年前を思い出す。

 当時、史上初の小学生棋士誕生なるかと噂された天才。

 八一に肩を並べる才能を持った将棋星人。

 近い将来、私の前に立ち塞がる大きな壁。

 

 "あの女”が私にとって恋の障害なら椚創多は将棋での障害だ。

 間違いなく今回も三段への昇段、そしてその先の三段リーグで当たることになる強敵。

 

 ……けど、今は気にしても仕方ないか。

 それに、今の私ならこの時期の創多相手なら十分に戦える筈だ。

 

「そ、そういえば明後日は月夜読坂さんとのタイトル戦ですよね。一戦目であんな負けた方したし、きっと今度は粘ると思いますよ?」

 

 私が不機嫌そうだと感じ取ったのか、八一はあからさまに話題を変えようと思い出したかのようにそう言った。

 

 確かに、前回は月夜読坂さんに穴熊を使われて対局が長引いた。

 あの時は本来のあの人の棋風とは真逆の戦法にほんの少しだけ驚いた記憶がある。

 恐らく今回も同じように秘策の穴熊を使ってくるだろう。けど、

 

「何をしようが潰す」

 

 それならやる事は変わらない。同じ手を指すなら同じように殺せばいい。

 攻め駒全て潰して前回同様に嬲り殺しだ。

 万が一にも備えて研究も念入りにしてきた。

 慢心はしない。私はただ全力で叩き潰すのみ。

 

「まあ、姉弟子が負けるとは思ってませんけどね」

「そういう八一はどうなの? 確か次の対局って」

「帝位リーグ最終戦、相手はあの会長ですよ。お互いに消化試合みたなものですけど」

 

 八一は苦笑いを浮かべた。

 

 以前の連敗で八一は既に帝位リーグの敗退が確定しているし、会長の方も帝位への挑戦権には届かない。

 八一の言うとおり互いに消化試合。

 

 そうは言っても、八一はあの月光会長と指すんだ。

 永世名人であり、生きる伝説とも呼ばれるあの月光聖市と。

 その現実が改めて私と八一の距離を感じさせた。

 

 ……遠いな、八一は。

 

 二年分の記憶があっても、今の八一すら遠くに思える。

 そしてその距離はこれからもどんどんと離れていく。

 一度は八一と指せた。

 けど、私はあくまでスタート地点に立てただけ。それに指せたと言ってもあくまで非公式戦での対局だ。

 目的だった彼との公式での対局は、二年経っても果たせていない。

 焦がれ、愛おしい彼のその背中は、まだ遠い。

 

 だからこそ、今度はもっと早くあなたに近づきたい。

 

「……でも消化試合とはいえ、勝ちに行きますよ、俺は」

 

 闘志の宿った勝負師の眼だった。

 そういえば、前回もわざわざ和服を着て対局に挑んだと聞いた。

 夜叉神天衣を自らの弟子にする為に、彼女と師弟(かぞく)になる為に。

 でも、今回は既に夜叉神天衣は八一の弟子になっている筈だ。

 その瞳に宿る闘志の理由は別にあるんだろうか。

 

「随分とやる気満々じゃない」

「そりゃそうですよ。あの会長と指せるなんて誰でも浮かれます。それに……」

「……それに?」

「”恩返し”もしたいですしね」

「……?」

 

 八一の言葉に首を傾げた。

 弟子が師匠に勝つ事を恩返しと呼ぶけど、私たちの師匠は清滝師匠だ。

 なんで会長に恩返しだなんて……

 

 そんな私の疑問に気づいたのか、八一は言葉を続けた。

 

「実は俺、会長の弟子になってた可能性があったんですよ」

「どういうこと?」

「天衣を弟子にする時に清滝師匠から聞いたんですが……」

 

 話しを聞くと、師匠は八一の才能を見抜き自分よりタイトル保持者である会長に、八一が奨励会に入るタイミングで弟子入りをお願いしたそうだ。

 しかし会長は本人の意思を尊重した方がいいと仰って、師匠は八一をそのまま弟子にする事にしたらしい。

 

「そうだったんだ」

 

 この話は初めて聞いた。前回の八一はそんな事を話してくれた事はなかったと思う。

 

「俺が一手損角換わりを指すようになったのはあの人に憧れたからなんです。それに会長は天衣が俺に弟子入りするきっかけとなった人でもありますし……何か運命のようなものを感じますよ」

「運命……」

「だからこそ、勝ちたい。憧れたあの人に。最高の弟子を巡り合せてくれた月光会長に」

 

 八一の声はどこか嬉々としたものだった。

 その姿を見て、月光会長に理不尽な嫉妬心を抱いた。

 

 こんな八一を見るのは、もう何度目だろうか。小さい時からずっとそうだ。

 頭の中は将棋ばかりで、他の事なんて全く見えなくて。

 だから、今の彼には目の前にいる私なんて視界に入っていない。

 私がどんなにアピールしても振り向いてくれないのに、ただ指すだけで八一の視線を釘付けにする将棋星人たちは本当にずるい。

 

「でも、八一が会長の弟子になんて想像できない」

 

 話を逸らすようにそう切り出した。このままだと、八一が私を見てくれない気がして。

 

「俺自身も想像できないですね。仮に俺が会長の弟子になってたらどうなってたんだろ」

「少なくとも、プロになった初対局でぼろ負けして泣きながら逃げ出すような事はしなさそうね」

「ちょっ! あれは黒歴史なんで忘れてくださいよ!」

「無理ね、そのプリン頭見ると思い出すし。サーファーになるとかほざいて髪まで染めて」

「もう勘弁してくださいよ……」

 

 項垂れる八一を見て気分がよくなる。

 八一に素直になるとは決めたけど、やはり姉弟子としての立場も重要ではある。

 たまにこうして分からせておかないと。

 

「でも、月光会長に弟子入りしてたら人間関係も大きく変わってたと思いますよ」

「そう? 供御飯さんと月夜見坂さんの二人とはどの道つるんでそうだけど」

「まあ、あの二人は小学生名人大会での付き合いですしね。歩夢もそうだけど、この辺りは会長に弟子入りしても今と変わってないかも」

 

 もし八一が清滝師匠にではなく月光会長に弟子入りしていたら。

 

「ただ、姉弟子とは今こうして話すような仲にはなってなかったでしょうね」

「……ッ」

 

 八一が清滝師匠の弟子のままで良かった。

 月光会長の弟子になっていたかもしれないと聞いて、心の底からそう思った。

 

 八一が傍にいない……それこそ想像できない。

 八一がいなきゃ、きっと私はここまで強くなれなかった。

 もしかしたら、途中で将棋を止めていたかもしれない。

 八一がいたから、八一が一緒の歩幅で歩いてくれたから、八一が私に笑顔を向けてくれたから、今の私がいるんだ。

 

 だからこそ、誰にも渡さない。誰にも譲らない。

 その為に指し直しを望んだんだ。

 

 ───八一のいない私なんて、それはもう空銀子ではない。

 

「……もしも、だけど」

「なんです?」

「もし、過去に戻れたら……八一は清滝師匠じゃなくて、月光会長の弟子になる?」

 

 多分、そうなれば今よりも風格ある棋士になってたと思う

 永世名人である会長からタイトル保持者としての振舞いを学べただろうし、そうすればタイトルを取った後の環境の変化に戸惑う事もなく連敗する事もなかっただろう。

 もしかしたら竜王防衛戦でも、あそこまで精神的に追い詰められる事もなかったかもしれない。

 

 才能ある八一にとっては、その方がきっと良い。

 

「まさか。そりゃあ月光会長の弟子になんて光栄ですけど、俺は清滝師匠に憧れて弟子入りしたんですよ? 何回過去に戻れても絶対清滝師匠がいいですよ」

 

 即答だった。

 それに、と八一は言葉を続ける。

 

「姉弟子達と一緒に居たいですしね」

 

 その言葉に込められた意味はきっと家族としてのものだ。

 それに私だけに向けられたものじゃない。桂香さんや、あの小童たちの事も含めて指した言葉なんだろう。

 そんな事は分かっている。でも……

 

 一緒に居たい。

 

 私と同じように、八一もそう思ってくれている。

 それだけで心の中が暖かい何かで満たされるような気がした。

 

「まあ、もしもの事なんて考えても意味ないですね。過去に戻れる訳でもないですし」

「……そう、ね」

 

 流石に目の前で実際に過去に戻ってきた人間がいるとは思わないだろう。

 

 

「でも、実際に過去に戻れるとしても」

 

 

 

「俺たち棋士が一度指した手のやり直しを願うなんて、将棋の神様に見捨てられてしまいますよ」

 

 

 冗談交じりに八一は笑った。

 何気なく言ったんだと思う。

 特に深い意味なんてない。

 八一は私が戻っているなんて、知らない筈だ。

 なのに、まるで核心を突かれたようで、

 過去に戻ってやり直しを望んだ卑怯な自分を見透かされたようで、

 その言葉は、私の胸に深く突き刺さった。

 

 

 その後、八一も私も前回と同じようにそれぞれの対局に勝利した。

 八一は永世名人である月光会長を破り、私はタイトルの防衛に成功。

 結果だけ見れば順調だ。

 前と同じ結果で、前と違って私は素直になって八一に近づけて。

 今の所は何もかもが上手く行っている筈なのに。

 

 

 あの日、八一が言った言葉がずっと心の奥底に残ったままだった。

 



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感想戦②

 最近、よく夢を見るようになった。

 

 いつからだろうと思い返せば、きっとあの変な夢を見てからだ。顔を思い出せない、誰かと指したあの夢を。

 今回は夢だと判断するのに一瞬だけ悩んだ。だってもの凄く現実味があったから。

 なんたって、俺が防衛戦で名人相手に三連敗したんだ。夢だとはとても思えない。

 その後の光景も、実にリアリティ溢れるものだった。

 見知った顔の記者たちがどいつもこいつも好き放題に俺の陰口を叩いてやがる。

 夢の中の俺は、そんな彼らに物申すことなく、だだ茫然と立ち尽くしていた。

 その姿は勝負師としては間違っている。直ぐに彼らに言い返すべきだ。

 

 そんな風に思えるのは、夢を見ている俺が負けた当事者ではないからだろうか。

 そのままずっと、夢の中の俺は立ち尽くしているだけかと思ったけど、ある記者の言葉に反応して、ピクリと体が動いた。

 

 そして、そのまま逃げ去るよう走っていった。

 

 夢のせいか、俺にはその記者の言った言葉がはっきりと聞こえなかった。

 けど、どういう意味合いの言葉を口にしたのかは、だいたい想像できる。

 

 きっと、彼女の事だろう。

 だからこそ、これ以上聞きたくなかったんだ。

 

 俺には逃げだした夢の中の自分が痛いほど理解できる。

 

 当たり前のように隣に居たのに、いつの間にか俺にとって遠い存在になってしまった。

 俺なんかが一緒にいてはいけない人になってしまった。

 

 だから、一緒にいても許される証明をもぎ取った。

 

 ようやく対等の存在になれたと思っていた。

 傍に居てもいい棋士になれたと思っていた。

 

 なのに、もしもその存在証明を失ってしまったら、俺は──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうどす? こなたの運転」

 

 慣れた手付きでハンドルを握る供御飯さんが隣の助手席に座る俺に訪ねてきた。

 走り抜いていく無数の街頭に照らされたその表情はにこやかで上機嫌のようだ。

 

「車買ったばかりの人の運転とは思えませんよ」

 

 人に車乗せて貰う機会がそんなにないから断言できないけど、素直に上手いと思う。ブレーキとかめっちゃスムーズだし。

 昔から思ってたけど多才な人だ。大学生をしながら女流棋士に観戦記者、なんでもそつなくこなしてしまう。俺なんて将棋以外はてんでダメなのに。

 

「せやろせやろ」

 

 俺の返事に気分を良くしたのか、鼻歌まじりに供御飯さんは運転を続けた。

 

 どうして俺が供御飯さんとドライブをしているかと言うと今日の昼の会話がきっかけだった。

 今朝から目覚めの悪い夢を見た俺は気分転換をしようと、いつもの将棋会館へと出向いた。

 そして棋士室で対局室モニターを眺めていた供御飯さんとたまたま顔を合わせて世間話をしていると、彼女が車を買ったという話題が上がった。

 どんな車か見てみたいと好奇心から出た俺の要望に、なんと供御飯さんは見せるどころか、ドライブに誘ってくれたのだ。しかも夜の。

 夜。そう夜だ。どうやら目的地は少し遠い場所らしく、帰りは朝になってしまうとか。

 つまり朝帰りである。……いや、流石にそういう意味ではないけど。

 というか最近、俺が弟子たちや姉弟子だけではなく、供御飯さんにまで手を出しているとかいうあらぬ噂が流れているらしくて誤解されるような真似は絶対に避けたい。

 ……避けたいけど、せっかく誘われたんだ。もちろん行く。バレなきゃいいんだ。バレなきゃ。

 

 まあ、軽はずみな行動をしないように気を引き締めてはいる。ただでさえ先日の姉弟子のコスプレで社会的評価がヤバいのに、数日後に供御飯さんと朝帰りしてるところを見られたら評価が下がるどころか地に埋まる。

 そうなると社会的に死ぬし、弟子達と姉弟子の手によって物理的にも死ぬ。頓死してしまう。

 

 最近になって気付いてきたけど、弟子達二人がほんとに怖い。

 

 年齢不相応の棋力とメンタルも怖いが、それはまだいい。並外れた才能というのは見る人全てに畏怖と羨望を抱かせるのだから。

 問題はあの二人の俺に対しての時折見せる眼だ。

 

 最初にそれに気づいたのは、あいが友達を……JS研と名付けられた研究会の三人の子ども達を俺の家に招いた時だった。

 自分で言うのもなんだけど、俺は棋士を目指す子どもたちからは割と好かれている。

 流石にド派手な格好と言動で子ども心を鷲掴みする歩夢ほどではないが、最年少竜王という肩書のおかげで俺を目標にしてくれる子どもたちは多い。

 創多なんかは会う度に早く棋士になって俺と指したいと言ってくれる程だ。

 あいの連れてきたJS研の子たちも例に漏れず、特に水越澪ちゃんは俺と会うなり興奮した様子で握手を求められた。俺もそれに快く応じて澪ちゃんの手を握った、その時だった。

 

 あいに睨まれた。ドス黒く濁った冷めきった眼で。

 

 しかも、あいだけじゃない。天衣の方でも似たような事があった。

 以前に将棋道場で天衣を他の客と打たせてる間に俺が付添の晶さんに軽く将棋のルールを教えている時だった。

 手取り足取り教えても中々ルールを憶えれない晶さんに四苦八苦して最中に、ふと背中に視線を感じ振り返った。

 

 天衣が見ていた。獲物を盗られた獣のような眼で。

 

 最初は俺に構ってもらえなくて拗ねてしまった、子どもらしさから来る反応だと思っていた。

 いくら将棋に関してずば抜けた才能を持ち、勝負に対しての強靭なメンタルを持っているとはいえ、あの子たちはまだたった九歳の子どもなのだから。

 けど、その目で睨まれる回数が増えるに連れて俺は当初のその考え方を改めた。

 あいも、そして天衣も、俺に対してぶつけてくる眼に宿した感情は子どもらしさから来る可愛らしいものでは決してない。

 独占欲のような、執念のような、そんな強い感情が混ぜ込まれた黒いモノ。

 過去に祭神雷(さいのかみ いか)に求められた時を思い出す。あの時と同じ異様さを俺はたった九歳のあの子たちに感じてしまった。

 

「また考え事どすか?」

「えっ?」

「さっきからずーっと黙り込んで。また変な夢でも見はったん?」

 

 どうやら深く考え込んでしまっていたようだ。せっかくのドライブなのに供御飯さんに申し訳ない。

 窓の外に映る真っ黒の景色が、あい達二人の眼の色と重なって見えたんだろうか。

 眺めていた外の景色はいつの間にか街頭のある街並みから木々が覆う山道へと姿を変えていた。

 

「いえ、ちょっと弟子達の今後の方針を考えてまして」

 

 今朝も夢を見たのは確かだけど、別に変な夢という訳ではない。

 よくある夢だ。嫌なほど現実味のある……近い将来、在り得る未来を想像した夢。

 

「そう言えば、月夜見坂さんはいないんですね。てっきりあの人も一緒だと思ってたのに」

 

 夢の話題から離れようと話を変えた。

 今日は珍しい事に供御飯さんいつも一緒に居る月夜見坂さんの姿は見えない。

 

「お燎も誘ったんやけどなあ……ほら、この前の女王戦で」

「ああ、なるほど」

 

 姉弟子が防衛に成功した女王を巡ったタイトル戦。ストレートで決めたあの対局を一言で表すなら正に『大虐殺』だ。

 

「……お陰で前と違って二人きりでドライブなんて、想定外や」

 

 ぼそりと供御飯さんが何か呟いたようだったけど、小さすぎて聞こえなかった。

 きっと対局後の月夜見坂さんの抜け殻のような姿を思い出して哀れんだんだろう。

 正直、あれは酷い。

 

「……にしても銀子ちゃん、容赦ないのは昔からやけど今度のはほんま、えげつないなぁ」

「秘策で出した穴熊をあんな綺麗な姿焼きにされたら、誰でも直ぐには立ち直れないですよ」

 

 月夜見坂さんの事だ。今頃バイク乗り回して風になっているんだろう。荒れてる時のあの人と接触するのは悪手だし、当分はそっとしておこう。

 多分会ったら俺に八つ当たりしてくるだろうし。

 

「銀子ちゃん随分と苛立っとったけど竜王サン、またいらんことしたん?」

「はあ? なんで俺なんですか。俺が姉弟子をイラつかせるような事する筈が……」

 

『いい! いいよ! 銀子ちゃん!!』

『今日は俺が銀子ちゃんのご主人さまッ!!』

『せっかくだし写真撮っていい? ていうか撮ろう!!』

 

「あ」

 

 あれ、タイトル戦前にメイド服着た姉弟子にポーズ取ってもらって写真撮ったりしたな。

 いや、でもあれは姉弟子からちゃんと許可貰ってたしセーフ、だよね?

 もしかして後から冷静になってブチ切れの? 後だしとかズルいよ銀子ちゃん。

 それで、その苛立ちを月夜見坂さんにぶつけたんじゃ……

 

「なんや。やっぱり心当たりあるんや」

「な、ないですよ、はい」

「ほんまぁ?」

「ホ、ホントデスヨ」

 

 月夜見坂さんには今度あった時には何かお詫びでもしよう。

 目的地に着くまでの間、にこにこと追及してくる供御飯さんに笑って誤魔化し続けた。

 

 

 

 

 

 

「ここどす」

 

 着いてからのお楽しみ、と目的地を隠していた供御飯さんに連れてこられた場所は京都の山の上にある展望台だった。

 デートスポットとして有名なようで、俺たちのように車できた男女の姿が辺りに何組か見かける。

 別に俺たちは彼らのような関係ではないが。

 

「おおっ……すげえ」

 

 一面に広がる淡いオレンジの光を放つ京都の街並みに思わず息を飲む。

 頭上を照らす天然の星の光と人が創り出した京都の人口の光はまるで二つの星空に挟まれたような気分になる。

 

「夜の京都もなかなかええやろ?」

「ええ。こんな夜景を見たの、俺初めてかも」

 

 途中で立ち寄ったコンビニで買ったコーヒーを飲みながら、目の前の景色にしばらく見惚れていた。

 

「こうしてお星様に照らされたら、暗い気持ちも明るうなりまっしゃろ?」

「えっ?」

「見てたら分かりおす」

 

 そう言って供御飯さんは逃がさないと俺の目をじっと見てきた。

 ……流石は山城桜花。大した観察眼だ。

 

「今朝に見た夢でちょっとナーバスになってまして」

「前に見た言うてた変な夢?」

「いえ、前のとは違いますよ。あれより現実味がありますし」

「現実味?」

「俺が次の竜王戦で三戦連続で負けて、記者の人たちにボロカスに陰口叩かれてる夢ですよ。俺が結婚してるのよりよっぽど現実味がある」

「……」

 

 冗談交じりに笑みを浮かべて残っていた缶コーヒーを飲み干した。

 舌に残った苦みが、妙に後味が悪い。

 

「俺たち棋士は結局のところは勝たなきゃ意味がない。負けて何を言われようともしても仕方ないと割り切っていたつもりなんですがね」

 

 あんな夢を見る程度には、無意識の内に今の自分に危機感を抱いているらしい。

 確かに俺は月光会長に勝てた。勝てはしたが、相手のミスに救われただけだ。実力で勝てたとは思えない。あの人が全盛期だったら、あの人の盲目のハンデがなければ、俺は負けていた。

 そして、夢の中で俺が負けた相手はあの名人だった。もし夢と同じように今度の竜王戦での相手があの名人なら、今の俺では今朝の夢が現実になってしまう。

 ……今のままではダメだ。

 最近は、妙に調子がいい時がある。あの変な夢を見た日はそれこそ誰が相手でも勝ててしまうような自信が。

 その不安定さが余計に苛立った。大事な対局でそう都合よく調子が良くなるとは限らない。

 何故、天衣と平手で指した時のような鋭い読みと湧き水のように溢れる一手が会長との対局で指せなかったんだ。

 最善手を指せない自分の不甲斐なさともどかしさに、より一層苛立った。

 

「別に、負けて俺自身が何言われようが構わないんですよ」

 

 それ自体は別に構わない。覚悟はできている。

 俺が恐れるのは、俺の周りの弟子達や姉弟子が……

 

 

「心が折れなければ負けじゃない」

「……えっ?」

 

 どこかで、聞いた事がある言葉だった。

 供御飯さんは茫然とする俺の顔を見て微笑んだ。

 いつもの、からかうような笑みじゃなくて、こちらを安心させるような……そんな優しい笑みだった。

 

「……供御飯さん?」

「その夢はたぶん続きがあったんやと思うんどす」

 

 そう言って供御飯さんは俺の腕にしがみ付き、肩に頭を預けてきた。

 急な出来事に体がすぐさま反応できなかった。

 ぎゅっと抱きしめられた二の腕に伝わる、柔らかい感覚に思わず後退りする。

 

「な、なにをっ!?」

「ええからええから。ほら、周りのカップルさんらもみんなそうしてはるやろ? こなたらも空気読まな」

「だ、だからって」

 

 俺の抵抗を無視して、供御飯さんは更に腕を抱きしめる力を強めた。

 これじゃあ抜け出せそうにない。

 抵抗するのを諦めて彼女に身を任せた。

 

「きっとその後に四連勝してタイトル防衛に成功。そんでハッピーエンドや」

「名人相手に四連勝って……さすがに現実味無さすぎじゃないですか?」

「夢やねんから現実味なんて必要ないどす」

「それはそうですけど……」

 

 

「──それに夢やなくても、八一くんならできるよ」

「……っ」

 

 急に昔の呼び方で名前を呼ばれてドキリとした。

 不意打ちはやめて欲しい。

 腕を抱きしめながら上目遣いでこちらの顔を覗き込む供御飯さんに、赤くなった顔を見られたくなかったので咄嗟に顔を逸らす

 そんな俺の反応に満足したのか、彼女はクスクスと笑った。

 

「何を根拠に……」

「ずっと見てきたから」

 

 そう言われたら、何も返事ができない。

 彼女にそう言われたら、納得するしかない。本当に、ズルいと思う。

 

 だって、彼女はずっと俺の将棋を近くで見てきたのだから。

 

 そんな彼女の言葉を聞いて不思議とさっきまで感じていた不安や苛立ちは収まり、気持ちはずいぶんと落ち着いていた。

 

「……万智ちゃんがそう言うなら、きっとそうなんだろうね」

 

 からかわれてばかりじゃ癪なので、俺も昔のように彼女の名前を呼んだ。

 

 

 

 

 

 

 



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十五話

 少なくとも調子は悪くなかった。見れば常勝の例の夢を今朝は残念ながら見れていないが、それでも今日こそはと気合を入れて対局に臨んだ。

 相手は山刀伐尽(なたぎり じん)八段。A級序列第四位でトッププロの一人に数えられるほど実力を持つ棋士。

 居飛車、振り飛車を指しこなし受け手も攻め手もいけるオールラウンダー。《両刀使い》の異名は決して伊達ではない。

 ちなみに俺の方も周りの年上、年下の女性を食い散らかし受けも攻めもこなす《性癖オールラウンダー》なんてふざけた異名が世間から根付いてきたが、そちらは事実無根の出鱈目である。

 

「今日の九頭竜くんしゅごいのおおおおおおおおお!! 攻めがしゅごい!! 絡み合ってる! ボクたち深く交じり合って溶け合ってるッ! もっと、もっとぉおおおおお!!!」

 

 山刀伐さんの盤外戦術とも取れる言葉にドン引きしながらも、俺は気を引き締めて盤面に集中した。

 今日はいける。あの山刀伐さん相手に食らいついている!

 序盤は先手を引いた山刀伐さんに誘導されて優位を築かれた。流石はあらゆる最新定跡を網羅する棋界有数の研究家だ。

 だが、中盤に入って序盤で築かれたアドバンテージをなんとか巻き返せた。これも最近取り入れたある研究方法のお陰だ。”あいつ”には感謝しなきゃな。

 そして既に終盤に入った。このままこっちが攻め続ければ!

 

 山刀伐さんは俺に取っては特別な相手だ。

 プロデビュー戦で大敗し、そして竜王獲得後の第一戦でも負けた。連敗の始まりも彼との対局だ。

 俺にとっては絶対に越えなければならない壁だ。

 今日はこの壁を越えて見せる!

 

「ねえ、九頭竜くん」

 

 耳元でこそばゆい声がした。

 互いに盤にのめり込むように前傾していたせいか、ふと顔を上げると思ったより顔が近かった山刀伐さんが俺に囁くように呟いていた。

 

「対局って恋愛に似てると思いませんか? こうして二人で向かい合って……まるでお見合いみたい」

「そ、そうっすね」

 

 息を荒げる山刀伐さんの言葉を流すように相槌を打つ。仮にも大先輩なんだし、とりあえずは答えておこう。

 

「昨日から……ううん、もっと前からボクはキミのことで頭がいっぱい」

 

 なんてこった。あの山刀伐さんから一目置かれていただなんてコウエイダナー。

 その期待に応えるためにも今は集中しないと。

 

「キミが今日どんな戦型で来るのか、ボクのためにどんな素敵な将棋を指してくれるのか。ワクワクして、ドキドキして眠れなかった」

「初めてボクたちが指した時の事を憶えてる? あの時の九頭竜くんはまだ中学生だったね。可愛かったなあ。制服着て初々しくて」

「嬉しかったなあ。九頭竜くんの棋士としてのハジメテを貰えて。こんな才能ある子と指せて」

「あの時も、そしてその次の対局も、ボクが勝ったけど、確かに才能を感じたよ。キミの全てをボクは全身で感じた感じちゃった」

「そして今日もキミはボクとこうして指している。あの時よりもずっと強く、ボクをイカせようとしている」

「こうして何度もキミと指せるなんてボクは幸せだよ。もしかしたらボクたち、運命の赤い糸で結ばれていたのかも」

「そうか、ようやく理解したよ。キミに対するボクの感情。この気持ち、まさしく──」

 

 山刀伐さんが何かとんでも無い事を言おうとした気がしたので会話を断ち切るようにバチンと駒を大きく鳴らした。

 大先輩相手に失礼かもしれないが、このままあの毒電波を流されるよりは多少の無礼を働いた方がマシだ。

 というかヤバイ。ヤバイよこの人。《両刀使い》ってそっちの意味もあるの!?

 

「九頭竜くん」 

 

 熱の籠った吐息を吹きかけるように山刀伐さんはまたしても耳元で俺の名前を呟く。

 それにしても、距離が近い。顔が近い。もうちょい離れて!

 というか、まだ話しかけるのか。そろそろ盤で語りましょうよ。

 それに、さっきの山刀伐さんの呟きで寒気がしたせいか急にトイレに行きたくなった。

 けど今この場でお手洗に向かうすると山刀伐さんも付いてくる気がする。何故だか分からない。けど、俺の棋士としての直感がそう告げている。

 それだけはマズい。絶対に避けなければ。あの人と一緒にトイレだなんて何が起きるか想像もしたくない。

 その為にもこの人との対局を終わらせなければ。

 

 これ以上、山刀伐さんの毒電波に付き合う必要もないと、眼鏡の位置をくいっと直し対局に集中しようとして──

 

「好きな人とか、いる?」

 

 もはや将棋とは関係ない話題を振ってきた山刀伐さんに体が思わず硬直してしまった。

 

 その言葉を聞いて、ある人が脳裏に浮かんでしまったから。

 今まで、そんな感情を抱いた事がない筈の彼女を。

 

「そう……ふふ、ごめんね。満足したよ。今は盤で語り合わないと」

 

 俺の反応にどこか満足そうにそう言って山刀伐さんは口を閉ざし、パチンと駒を鳴らした。

 彼の鳴らした駒の音にハッとした。

 そうだ、早く指さないと。ただでさえ持ち時間が惜しいのに。

 

 そうやってに頭では盤面を考えているつもりなのに、山刀伐さんの言ったその一言が、俺の心と思考を想像以上に乱していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────────

 ──────────

 ────────────

 

 

 

 

「あ"あ"っ、生き返りますぅううううう!! ほああああああ!!」

 

 雛鶴あいから放たれた実に小学生らしくない雄たけびが広い浴場に響き渡った。前回はもう少し可愛いらしい声をあげた筈だったけど今回のはただの大阪のおっさんだ。

 大声を出してはしゃぐ小童に注意しようと思ったけど、開店直後のためか私たち以外に人がいないので大目に見た。

 今日は清滝師匠の家のすぐ近くにある古い銭湯に来ていた。ここに来た経緯は前回と概ね同じだ。

 ほぼ毎日に渡る八一に対して行っている監視によるストレスと大きい浴槽に入れないフラストレーションが溜まりに溜まったのか、雛鶴あいは泣きながら八一に銭湯に行きたいと頼み込んだそうだ。

 それに驚いた八一は前回同様に桂香さんに同伴をお願いして、私もそれに付き添った。

 よっぽど鬱憤が溜まっていたのだろう。さっきの叫びがその証拠だ。小童は湯船にぷかぷかと浮かんで幸せそうな顔をしている。前回とは少し異なる光景だ。

 そしてもう一つ、前回は違う点がある。それは……

 

「ふーん。意外と悪くないわね」

「……ほんと、なんであんたまで居るのかしら」

 

 私の隣で体を洗いながら浴場を見渡す夜叉神天衣を睨みつけた。

 まさか、こいつまで付いてくるなんて。

 聞いた話によると、どうやら小童が銭湯に行きたいと泣き喚いた場でこいつも偶然居合わせたらしく、その時に八一が誘ったそうだ。二つ返事で付いてきたらしい。

 

「弟子が師匠の傍にいるのは当たり前じゃない。何言ってるの? お・ば・さ・ん」

「泣かす」

 

 このクソガキ、あろうことか最初は自分の幼さを利用して八一のいる男湯の方に入ろうという企みをしていた。

 それに察知した私はすぐさま夜叉神天衣をつまんで女湯へと無理矢理引きずり込んだ。

 今の男湯には八一しかいない事も全て把握した上での行動だ。全くなんてガキだ。

 その計画を妨害された腹いせなのか、さっきからおばさん、おばさんと連呼してくる。

 

 ちなみに、夜叉神天衣の行動を見た小童が『なるほど、その手があったんだ』と呟いていたが今後はあの小童に対しても注意しておかなければ。

 

「ふん、やれるものならやってみなさいよ! 白髪ババア!!」

「ああん!?」

「ぎ、銀子ちゃん、落ち着いて」

「お、お嬢様! すみません、空先生、桂香さん」

 

 思わず掴みかかろうとしたが、桂香さんに止められた。

 このガキィ……だいたい私とあんたじゃ五歳しか違わないじゃない。ババア呼ばわりされる筋合いはない。

 クソガキの付き人、確か晶さんと言ったか、彼女は頭を下げてくるが夜叉神天衣は態度を改める様子もなく鼻を鳴らした。

 このクソ生意気な黒い小童は後でたっぷりと料理してやろう。小童はこの前、泣かしたがこいつはまだだ。

 

「こら天衣。口が悪いぞ」

 

 どうやら先ほどのやり取りは男湯の方まで届いていたらしく、八一の咎めるような言葉が響いた。

 流石に師匠として弟子のクソ生意気な言動を看過出来なかったのだろう。

 まったく弟子の口の利き方くらいはしっかりと指導してほしい。

 

「はーい、気を付けます師匠(せんせい)

 

 それに対して夜叉神天衣は先ほどの私に対しての態度とは真逆に素直に返事をした。

 カマトトぶりやがって。

 

「天ちゃん、流石にさっきのは酷いよ」

「なによ、あい。そいつの味方するの?」

 

 驚いたことに小童が私を擁護してきた。

 この小童もようやく私に対して敬意を払うということを覚えたらしい。

 

「おば……空先生、まだつるつるのぺたぺたなんだよ? おばあさんじゃなくて私たちと同じお子様なんだから、仲良くしなきゃ」

「小童ぁああ!!」

「銀子ちゃん! 駄目よ!」

「桂香さん、どいて! そいつ泣かせない!!」

 

 こいつ、よりにもよってまた八一の前でそれをバラすなんて!

 立ち上がり桂香さんの制止を無視して湯船でニコニコと笑みを浮かべる小童を捕まえようとして……夜叉神天衣が立ち上がった私の身体のある一点を凝視してる事に気が付いた。

 そして、ニヤリと笑った。

 

「あら、そうだったの。ごめんなさい、大人気なかったわ」

「そうだよ、天ちゃん。大人気ないよ。空先生、つるつるのペタペタなんだから」

「でも十五でつるつるペタペタだなんて……ねえ、あい。空銀子ってもしかして二年後も?」

「うん、つるつるペタペタのままだよ」

「……そう」

 

 ひそひそと、私にしか聞こえないくらい小さな声で会話をする小学生二人。

 一見すれば微笑ましい光景だが、会話が私に対してのなめ腐った内容なので全く可愛らしくもない。

 小童から話を聞いいる内に浮かべていた笑み消え、憐みの表情を向けてくる夜叉神天衣にとうとう堪忍袋の緒が切れた。

 

「二人まとめて沈めてやる」

 

 そうだ。私が間違っていた。ぬるかった。

 将棋で泣かそうしたのが間違っていた。物理的に泣かそう。

 

「銀子ちゃん抑えて! むしろいいじゃない! 八一くん的にはポイント高いよ!」

「そうですよ空先生! 堂々とアピールしましょう! きっと喜びますよ!」

「そんなポイントいらないしアピールもしないッ!!」

 

 桂香さんも晶さんも何とか私を宥めようとしているんだろうけど、むしろ逆効果だ。

 二人とも大声を出してるせいか絶対八一に聞こえてる。

 

「ちょっと八一! 今の聞こえたでしょ!?」

 

 反射的に前と同じように桶を投げ込みかけたが、なんとか抑えた。

 危ない危ない。こんな些細なことで八つ当たりしていたから異性として中々意識して貰えなかったんだ。ここは冷静にならないと。

 

「と、とにかく八一。今のは忘れなさい。命令よ!」

 

 こう言っておけば、とりあえず何とかなるだろう。

 今はあの生意気な小童どもを捕まえないと。

 

 ……。

 あれ、おかしい。八一からの返事がない。

 

「うわっ! 大丈夫か兄ちゃん!」

「えらい鼻血出してどないしだんや!」

「とりあえず運び出さな!」

 

 男湯の方から、声が響いた。どうやら私たち以外の客が入ってきたらしい。

 

 ……。

 

「ほら、銀子ちゃん。やっぱり八一くん的にポイント高かったでしょ?」

「良かったですね! 空先生!」

「……エロやいち」

 

 ちっとも嬉しない二人の励ましに顔を赤くした。

 そして姉弟子の裸体を想像して倒れた変態の弟弟子には後でたっぷりとお仕置きしてやると誓った。

 

 

 

 

 

 

 

 



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十六話

「へんたい」

「だから、誤解ですって……」

「なにが誤解よ」

 

 畳敷きのロビーで仰向けで横たわる八一に吐き捨てる。

 八一はすぐさま反論してきたが、その声はどこか気怠そうだ。

 

「じゃあなんで鼻血出したのよ」

「そ、それは……」

「変な妄想したんでしょ」

「違いますよ! 湯船に浸かりながら今日の対局を考えてて、それでのぼせたのが原因ですって! 裸想像して興奮はしても鼻血なんて出るわけ無いじゃん、漫画じゃないんだし……」

 

 そう言い張る八一は今も扇風機の風に当たりながらぐったりとしている。顔にはタオルがかけられ、表情は伺えない。

 確かにのぼせたという主張は本当のようだ。今日の山刀伐先生との対局を思い返していたのも嘘ではないだろう。

 だが、この弟弟子はいま墓穴を掘った。

 

「やっぱり想像したんだ、裸」

「あ、いや、それは……」

 

 顔にかけれらたタオルを剥ぎ取って八一の目をジッと見つめる。

 八一は私に視線を合わせず、目を逸らした。

 

「興奮したんだ」

「……すみません、直ぐに記憶から消去します」

 

 土下座する勢いで謝ってきた。まったく最初から認めればいいのに。

 そう思いながらのぼせて火照った八一の頬をつついた。

 それにしても、のぼせるまで将棋の事で頭がいっぱいだなんて相変わらずだな八一は。

 

「まあいい。特別に許してあげる……それよりどうだった? 山刀伐先生の対局」

「ええ、まあ……今日はいけると思ったんですがね。性格や言動はともかく、やっぱり強いですよあの人は」

 

 そう言って苦笑いを浮かべながら八一は頬を掻いた。今日の山刀伐先生との対局は前回と同様に八一が敗北した。

 あまり表情には出さないけど、内心ではすごく悔しいんだと思う。ずっと八一の傍に居た私だからこそ、今のこいつの気持ちはよく分かる。

 

「敗因は研究ですね。俺の得意戦法はもちろんだけど、持ち時間の使い方や癖まで完璧に調べられている。今のままじゃあの人を乗り越えれない」

「でも、途中で巻き返したじゃない。山刀伐先生の誘導した戦型も中盤で崩せてたし」

 

 今日の対局で一番気になったのはそこだ。確か、前回は山刀伐先生の最新の戦型に誘導されて一方的に八一が攻められ続けていた筈だったのに今回は対応して見せている。

 別に対局相手が同じとはいえ、前回と全く同じ棋譜を描くとは思ってはいないけど、それでも何故か嫌な予感がした。

 

「あれは最近取り入れた研究のお陰ですよ。と言ってもまだまだ煮詰めれていないんで不完全なんですが」

「研究?」

「まあ、それはまた今度姉弟子にも披露します。とりあえず、山刀伐さん対策の研究をしないとな。後であの生石さんに頼み込もうかな……」

 

 ……露骨にはぐらかされた気がする。

 まあいいか。八一とはどうせ直ぐに指すし、その時に分かる事だ。

 

「自分の研究も大事だろうけど、弟子の教育もちゃんとしときなさいよ」

 

 これ以上は八一も自身の研究は話してくれないだろうから話題を変える。思い浮かべるのはあのクソ生意気な小童ども。

 散々追いかけ回したが結局、逃げ切られてた。まさか二人とはいえ九歳の体のあいつら相手に翻弄されて体力を切らすなんて不覚だ。今まで以上に体力作りも力を入れないと。

 

「……すみません、後で二人には言っておきますよ。普段はいい子たちなんだけどなあ」

 

 ため息を吐く八一を見てあの小童どもが普段どれだけ猫を被っているのか簡単に想像できる。

 特に夜叉神天衣が八一に対する接し方は前回と完全に別物だろう。

 

「そう言えばあい達はどうしたんです?」

「小童どもならまだ脱衣所にいるんじゃない? あいつら髪長いから乾かすのに時間掛かるだろうし。桂香さん達はあそこで話してるわ」

 

 私たちのいる場合から少し離れたところで楽しそうに談笑する桂香さんと晶さんの方向を指さす。年齢が近い事もあって、知り合ったばかりだと言うのに二人は随分と仲良げだ。

 やっぱり大人同士だと私や八一にはできない話とかもあるのかな。私の知らない桂香さんを見てしまったようで、どこか一抹の寂しさを感じてしまった。

 

「銭湯に誘ったのはあいの為だったけど、桂香さんにも良いガス抜きになったかな」

 

 桂香さんと晶さんを眺める八一の顔は安堵の表情を浮かべていた。

 

「そうかもね。最近はちょっと張り詰めてたみたいだし」

 

 ふと、前回の記憶を呼び起こす。この時期の桂香さんは焦燥に駆られていた。

 敗北が重なり、年齢制限も近づき、女流棋士の夢を断つか否かの瀬戸際に立たされていた。一門(かぞく)である私に頭を下げて教えを乞う程に。

 私はもう一度、あの光景を目にする事になるのだろうか。大好きな桂香さんのあんな姿を。

 正直、あんな桂香さんはもう見たくはない。

 

「……姉弟子も、少しは気分転換できましたか?」

「私?」

 

 あの時のことを思い浮かべ、考えに耽っていると気遣うような声でそう投げ掛けられた。

 八一は起き上がりと、私と隣り合うように畳に座る。

 

「何かに悩んでるように見えましたけど」

「そんなこと……」

 

 ない、とは言い切れないか。自分でも自覚しているつもりだ。

 あの日、八一が口にした言葉を思い返す。

 

『俺たち棋士が一度指した手のやり直しを願うなんて、将棋の神様に見捨てられてしまいますよ』

 

 あの言葉がずっと心の奥底に残り、そしてある疑問を抱くようになっていた。

 もし、私が全ての事情を話したら八一はどう思うのだろうか、と。

 拒絶するのだろうか。重い女だと。

 軽蔑するのだろうか。狡い女だと。

 

 ──────それとも、

 

 憎悪するのだろうか。一度は結ばれた(ひと)と引き離し、傍にいようとする卑怯で傲慢な私を。

 本当にどうしようもない馬鹿だ。八一に言われて今更になって自分が何をしようとしているのかに気付かされた。

 

「ねえ、八一」

「なんです?」

 

 他の誰から罵られても構わない。拒絶されてもいい。戻ってきたあの日、私は八一の傍に居る為なら何でもするって決めたのだから。

 だけど、もし……もしも八一本人から拒絶され、軽蔑されてしまったら、私は……。

 

「叶えたい夢があって、でもそれが卑怯な手でしか叶えれなかったら……八一はその夢を諦める?」

 

 私の言葉を聞いて目を丸くする八一に構わず言葉を続ける。

 

「私にはあるの。どうしても叶えたい夢が」

「姉弟子の叶えたい夢……プロ棋士になる事、ですか?」

「ううん、違う。プロになるのは通過点。私の夢は……」

 

 ──プロになり同じ場所に立って、大好きなあなたと指したい。対等な立場になってずっと傍にいたい。

 

 そう言ってしまいたかった。胸の内に秘めた夢を、想いを。

 でも、言えない。八一に拒絶されるのが怖いから。

 気付けば顔を伏せて、手は震えていた。

 話している最中に八一の顔を見ることが出来なかった。

 

「──俺なら諦めませんよ、その夢を」

「えっ?」

 

 顔を上げると八一が微笑みかけてくれていた。

 

「卑怯な事、というのがどういったものか分からないけど、姉弟子が将棋に対してそんな事をするような人じゃないって知ってるんで多分、心情的な問題ですよね」

「それは……」

「例えばその夢自体に何か罪悪感のようなものを抱いてる、とか」

「……」

 

 私の想い以外は何でも感づいてくるこの弟弟子が今は恨めしい。

 八一の言葉に何も返答できなくて、沈黙で答えた。

 

「なら俺はいいと思う。姉弟子がそこまでして叶えたい夢なんだから尚更だ」

「でも……」

「叶えたいんですよね、その夢」

「……うん」

「なら、いいじゃないですか。悩んだりするのは夢を叶えてからだって遅くないですよ」

「やいち……」

 

 そう言って八一は震えていた私の手を取り優しく握ってくれた。

 その言葉に、八一の優しさに、甘えたくなった。彼を抱きしめ、そのまま身を委ねたくなる衝動に駆られた。

 

「……っ」

 

 けれど、何とか踏みとどまった。このまま八一に甘えてしまっては前回と変わらない。そんな気がしたから。

 ──それじゃダメなんだ。

 

「……もし、私の夢が叶ったら八一に話してあげる」

「夢のことですか?」

「……全部」

 

 八一に想いを伝えたら全て話そう。

 信じてもらなくてもいい。それでも、卑怯で傲慢な私が望んだ指し直しを八一には知ってもらいたい。

 対等になるために。ずっと傍に居るために。

 

 

 

 

 

 

 

 ─────────

 ──────────

 ────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「天ちゃん、髪乾かしてあげる」

 

 脱衣所で着替えてタオルで髪を拭いていると、ドライヤーと櫛を持ったあいが私の傍にやってきた。

 あいに視線を向けると私と同じくまだ髪は乾いていないようで、タオルを巻きつけている。

 脱衣所にいるのは私たちだけだった。晶と清滝桂香は先に脱衣所を出て外で待ってもらっている。二人と違って髪の長い私たちは色々と時間がかかる。

 

「別にいいわよ、一人でできるし。それより先に自分の髪を乾かしたら?」

「いいから、いいから」

 

 そう言って一応断ってみたものの、この子が見た目に反して意外と強情なのは決して短くない付き合いから分かってはいた。結局、押し切られるように湿った髪をあいに委ねた。

 洗面台の椅子に座り、その後ろにあいが立つ。鏡に映るあいの表情を伺うと楽しそうに笑みを浮かべていた。

 本当に好きでやっているんだなと感じ取れる。彼に対してもそうだけど、基本的には面倒見のいい子だ。

 

「あいも本当はししょーに乾かしてもらいたかったんだけどなぁ」

「今は無理でしょうね」

 

 あの後、私たちは空銀子の猛追から何とか逃げ切ることができた。

 目を蒼く輝かせ追いかけてくる空銀子に涙目になりながらも、なんとか振り切った。あの攻撃的な性格とは真逆の虚弱な肉体のあの女から逃げるのは九才の私たちでもどうにかできたようだ。最近はプールに通って体力を付けているらしいから、今後は油断できないけど。

 覚えていろ、と散々追い掛け回した挙句に肩で息をしながら捨て台詞を吐いて先に浴場を出ていった空銀子は想像以上に怖かった。軽くトラウマになりそう。

 今頃は鼻血を出して倒れた彼の元に行って鬱憤を晴らしているだろうか。

 ちなみにその後で割とキツめに晶と清滝桂香から叱られた。流石に少しからかいすぎたか。二人は先に脱衣所を出て外で待って貰っている。

 

「……天ちゃんは優しいね」

 

 私の長い髪を慣れた手つきで丁寧に梳きながらドライヤーで乾かすあいが、突如そんなことを言い出した。

 

「はあ? なによいきなり」

 

 急に投げ掛けてきた訳の分からない言葉に思わず眉をひそめる。

 そんな私を気に止めず、あいはドライヤーの熱風を根本から毛先に移動させてながら優しく私の髪を撫でた。

 

「最近のおば……空先生、少し変だったもんね」

「……」

 

 あいの言う通り、最近の空銀子の様子は少し変だった。

 特に彼と一緒にいる時。何とか普段通りを装っているつもりなんだろうけど、私には分かった。

 もしかしたら、長い付き合いの彼も空銀子の異変に気づいているのかもしれない。

 最近あの女は彼に対して、どこかぎこちない。

 

「将棋でもそうだけど、理由があるよね天ちゃんがあんな風に挑発する時って」

「……なんのこと?」

「空先生を元気付ける為にわざとちょっかい出したんだよね」

「べ、別に、そんなつもりは」

「桂香さんにも気を使ってくれたんだよね。晶さんとお話させるようにって先に外で待ってもらって」

「……ッ!」

 

 まるで心の中を見透かされたような気分だ。

 そう言えば、この子は人の癖や仕草を見抜くのが得意だったっけ。

 かつて弟子になったばかりの頃、彼の口からそんな話を聞いた事を思い出した。

 

「そんなんじゃない! 晶が居たら色々とうるさいから先に出てってもらっただけ!」

 

 清滝桂香は前と同じなら近い内に指す筈だ。どうせ指すなら少しでもマシな状態の方がいいと思っただけだ。あのばばあの為だなんて……

 

「空先生は?」

「あいつは……気に食わなかっただけよ」

 

 何が原因でウジウジとしているかは知らないが、どうせ下らない理由だろう。

 こうしてやり直しをして、前回よりもあの女を話す機会が増えて分かったことがある。

 

 私は空銀子という女がどうにも好きになれないという事だ。

 

「一人でウジウジしてるなともかく、彼の傍であんなのが居たらこっちが堪らないわ」

 

 空銀子を見ているとまるで前の自分を思い出す。

 素直になれなくて、不器用で、去勢を張っている女。

 

 ──私と違って、彼の”一番”近くにいた女。

 

 私が越えなければならない壁。だからこそ、あの女がくだらない事で悩んでいるのが許せなかった。

 そして、もう一人。許せない奴がいる。

 

「……代わるわ」

「えっ?」

「乾かすの。ほら、ドライヤー貸しなさい」

「でもまだ乾いて……」

「いいから!」

 

 無理矢理ドライヤーを奪い取って私の座っていた椅子にあいを座らせる。

 そのまま頭に巻いていたタオルを取ってドライヤーのスイッチを入れた。

 

「あい、前に私があんたに言ったこと憶えてる?」

「……?」

「妥協なんてしてあげない。そう言ったのよ」

「うん、言ってたね」

 

 絹のようにきめ細かい綺麗な髪を梳きながら、洗面台の鏡ごしにあいの目を見つめる。

 

「あんたは彼の弟子としてもう一度、将棋を指すのが目的って言っていた」

「うん。でもししょーの事は別だよ? もう少し体が大きくなったらししょーを」

「ウソね」

「えっ?」

「大きくなったら? なんで私が妥協しないのに、あなたはそんな言い訳して妥協してるの?」

「……ッ!」

 

 あいの表情がこわばるのが分かった。それでも私は言葉を続ける。

 

「私は”一番”になりたいの」

「一番?」

「ええ。”一番”弟子の雛鶴あいよりも、”一番”長く傍にいた空銀子よりも……彼にとって大事な一番になりたい」

「天ちゃん……」

「あいが消極的な理由は知っている。あなたは前に告白してるんでしょ、彼に」

「……うん。振られちゃったけど」

「だけど、彼への想いをそれだけで断ち切れるような潔い女でもない筈よ」

「……っ!?」

 

 そもそも潔い性格ならこんなやり直しを出来てはいないだろう。

 私もあいも空銀子もまとめてみんな執念深くて面倒な女だ。

 

「だからあんたも妥協なんてやめなさい。譲られた一番に興味はないわ」

 

 敵に塩を送るなんてどうかしてる。あいは強力なライバルなのに。

 だけど、ライバルであり同時に友達だ。だからこそ妥協なんて許せない。

 

 空銀子の想いも、あいの想いも全て上回って私が彼の一番になる。そうじゃないと納得できないから。

 

 

「……ありがとう、天ちゃん」

 

 薄っすらと涙を浮かべて笑み浮かべるあいに釣られて私も笑った。

 

 

 

 

 



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十七話

「弟子を取ったとは聞いていたが、ここまでとんでもないとはな……」

 

 どこか呆れたような声をしながら生石さんは飛車を振った。彼の前のテーブルの上に二つの将棋盤が並んでいて、それぞれ対面するのは弟子のあいと天衣。生石さんが指す度に二人の表情はだんだんと険しいものになっていった。

 ここは京橋の商店街の奥に構える銭湯、ゴキゲンの湯。その二階で今日は《捌きの巨匠(マエストロ)》の異名を持つ生石玉将に会いに来ていた。

 その目的は言うまでもなく、次の山刀伐さんとの対局に向けた対策だ。

 

「……ありません」

「……私も」

 

 あいと天衣が二人揃って拳をぎゅっと握りしめ、悔しそうに頭を下げた。そんな二人の表情を見て自然と笑みが浮かぶ。勘違いしないでもらいたいが、負けて悔しがる幼女を見て喜んでいる訳では断じてない。

 相手がタイトル保持者だったから負けて当然、なんて思うようでは本当に強い棋士にはなれない。誰が相手だろうとも、例えあの名人が相手でも敗北の悔しさと勝利への飢えを忘れてはいけない。

 そういう意味では負けず嫌いのこの子たちは勝負師としての素質がある。そして何よりもずば抜けた将棋の才能がある。

 もしかしたら将来、この子たちは第二、第三の空銀子に為り得るかもしれない。そう思うだけで高揚感が抑えきれなかった。

 

「…弟子が負けてニヤニヤするなんて変態よ」

「ししょー……」

「ごめんごめん、二人が負けて笑ってたんじゃないんだ。生石さん、どうでした?」

 

 口を尖らせるあいと天衣。普段は大人びた二人だけど、たまに見せるこういった子どもらしい反応は本当に可愛らしい。いつもこうならいいが、最近は割とガチで小学生とは思えないような目つきで睨んでくるから怖い。さっきも飛鳥ちゃんと話してただけで睨まれたし。怖い。

 弟子達を宥めながら生石さんに投げ掛けた。

 すると生石さんは煙草を懐から取り出そうとして……ふと俺の弟子達を眺め、そのまま煙草をしまって大きくため息を吐いた。

 

「……軽く見てやる程度だったんだがな。これだけ指せるなら最初に言えよ八一」

「すみません、生石さんならどう捌くか見てみたくて」

「ったく、お前は……」

 

 ここに来た目的は俺の研究の為だったけど、俺以外のタイトル保持者と指せる貴重な機会なんて滅多にないし先にあい達の相手をお願いした。

 生石さんには二面打ちというハンデはあるが、平手で二人と指してもらった。

 最初は平手で指す事に眉を顰めた生石さんだったけど、指している内にだんだん目の色が変わっていったのが分かった。

 

「この子たち、何歳だ?」

「九歳ですよ。今年で十歳になりますが」

「九歳でこれか。怖いもんだ」

「ええ、将来が楽しみですよ」

 

 そう言った瞬間、さっきまであい達の将棋を見ていた振り飛車党のギャラリー達がざわついた。

 えっ、なに、なんなの。

 

「やっぱり九頭竜って噂通りの……」

「いや、女ならなんでもいいって聞いたけど……」

「将棋はちっちゃい時から居飛車一筋やのに性癖はオールラウンダーなんや」

 

 ……。

 最近もう否定するのも面倒になってきた気がする。

 というかこの先、俺がロリコン疑惑が晴れる日は来るのだろうか。もういっそ開き直ってロリコンだと宣言した方がいいのかな。ロリコンじゃないけど。

 

「まっ、才能があるのは分かったよ。女流棋士になるどころか、タイトルも狙えるかもな」

「ふん、当然よ」

「ありがとうございますっ!」

 

 生石さんの言葉を天衣は当然のことのように、あいは嬉しそうに笑いながら受け止めた。

 正直、この人がここまでべた褒めするとは思わなかったけど、俺も同じ意見だ。この子たちならそこまで到達し得る。

 

「……しかしだ、八一。この子たちに才能があっても師匠のお前が山刀伐なんかに負けてたら格好もつかんだろ」

「うっ」

「ったく、竜王(タイトルホルダー)が負けてくれるなよ。それも山刀伐みたいな才能ない奴に」

 

 随分と痛いところを突かれた。

 棋士同士には相性の良し悪しがあるとは言われているけど、流石にそれを言い訳に何度も負けていい筈はない。

 だからこそ、今日はここに来たんだ。山刀伐さんに勝つ為に!

 

「全くよ。私の師匠(せんせい)なんだから」

「ししょーなら大丈夫です! 次なら必ず勝てます! だってししょーは最強なんだもん!」

 

 天衣には呆れられ、あいは純粋に勝利を信じてくれている。全く、だらしない師匠ですまない。

 中々のプレッシャーだけど、俺はこの子たちの師匠なんだ。あいの信じる最強にならなくちゃな。 

 

「あの生石さん、今日は折り入って頼みがあるんです」

「お前の言おうとしてる事は大方、検討付いてるよ。俺に振り飛車を習おうって寸法だろ?」

「もちろん、ただでという訳じゃないです。ギブアンドテイクのつもりですよ。研究パートナー、という形で」

「パートナーねえ、山刀伐に勝てないようなお前がか? お前の居飛車の最新戦法でも提供するつもりか?」

 

 揶揄うような言い草にムカッとくるが、生石さんの言う事も分かる。それにこの人は元々一匹狼で研究会やVSすらしない人だ。口でいくら言っても簡単に頷いてはくれないだろう。

 だが、彼が食いつきそうな餌は用意してきたつもりだ。

 

「それを今から証明します」

 

 棋士が自分の価値を示す方法なんて一つしかない。

 あい達が座って席を代わってもらい、正面の生石さんを見据える。

 

「……面白い。見せてみろよ八一」

 

 対峙する生石さんも唇を釣り上げて不敵な笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────────

 ──────────

 ────────────

 

 

 

 

「ごめんね。今日は私に付き合ってもらって」

 

 清滝師匠の家の和室で盤を挟んで対面してる桂香さんが申し訳なさそうに苦笑した。

 八一達と銭湯に行った数日後、私は桂香さんに呼び出されていた。要件はきっと前回と同じだろう。私は二つ返事で師匠の家に出向いた。

 

「ううん、いいよ。だって桂香さんのためだもん」

 

 それに家族なんだし。ありがとう、といつのも優しい笑みを浮かべる桂香さんを一瞥して盤に視線を落とした。

 そこに広がるのは前回見た定跡を表面的になぞるだけの芯のない『着せ替え人形』だった彼女の将棋……ではなかった。

 

「どう、だったかな。少し思い切った指し方をしてみたんだけど」

 

 不安そうに顎に手を当てて私の顔を伺う桂香さん。そんな彼女に対して私は前と同じように素直な意見を述べた。

 

「正直、甘い。自分の将棋をまだ煮詰めきれてない」

「……そうよね」

「けど、悪くないと思う。定跡を外された後も一手一手、ちゃんと考えられてた」

「っ!!」

 

 指していた時の桂香さんからはあの時のような焦りがなかったように思えた。もっと単純な子どものような手探りの一手。そこには強い意志が込められていた。

 強くなりたい、もっと指したい。そんな強い想い。あの時の小童と桂香さんの対局が脳裏に浮かんでいた。

 

「そっか、ありがとう。銀子ちゃん」

「……私は素直な感想を言っただけだよ」

 

 いい傾向だと思う。将棋はメンタル状態の影響が非常に大きい。負けが続いたこの時期の桂香さんは自身の実力を発揮できていなかった。

 

「……」

「銀子ちゃん? どうかしたの」

 

 だけど解せない。前回の事を知っていなければ私は素直に喜べた。

 けど違う。私は知っている。これからの事を、この時の事を。だからこそ分からなかった。

 なんで、前回とこんなにも違うのだろうか。

 桂香さんになにかあったの? 前に晶さんと話して精神的に楽になったから? でもそれだけでここまで変わるとは思えない。

 

 変わる? 急な指し方の変化、まさか……いや、流石にない、と思う。

 今のところ私の知る限りでは『指し直し』をしてきたのは八一に対して並々ならぬ想いを抱いた人間だけ。桂香さんも八一の事は好きなんだろうけど、それは異性ではなく家族としての愛情だ。私たちの抱くそれとは違う。桂香さんの変化には何か他に原因がある筈だ。

 

「……桂香さん、聞いていい?」

「なにかしら? 銀子ちゃん」

「何かあったの?」

「えっ?」

「えっと、その……指し方、変わったから」

「ああ、うん。実は私ね、この前の研修会でBが付いたの」

 

 この時期の桂香さんが降級点が付いたのは知っていた。前も、そして今回も。

 だからこそ、焦っていた。追い詰められていたんだ。家族の私に首を垂れて教えを乞うほどに。

 

「C2に上がったころは勝ちと負けが交互してたんだけど最近は全く勝てなくてね……」

「……」

「銀子ちゃんに相談しようか悩んでた時に、うちに八一くんが訪れたの」

「……八一が?」

 

 意外な人物の名前に思わず首を傾げる。確か、この時期の八一は生石さんのところで小童と一緒に研究をしていた筈だ。銭湯の仕事も手伝っていたようだったし、わざわざ師匠の家に出向く暇なんてなかったと思うけど……。

 

「八一くん、研究に使うから昔の八一くんが指した時の棋譜を見たいって言ってね」

「棋譜を? あいつならそんなのを見なくても奨励会時代のも憶えてると思うけど」

「奨励会の時のじゃなくて、もっと古いの。お父さんに弟子入りした時くらいのだったかな」

 

 もっと古い? そうなると小学生名人大会か、それとも弟子入りした当初の頃?

 

「なんでそんな古いのを……」

「私もそう思って聞いてみだんだけど、八一くんこう言ったの。”定跡も何も知らなかった昔の自分が指した一手にどんな意図があったのか思い返したくなって”って」

「そう、だったんだ」

 

 もしかしたら私が知らないだけで前回もそんな事があったかもしれない。何も四六時中ずっと八一と一緒に居た訳ではない。当然、私が知らない行動を取っていてもおかしくなはい。

 

「八一くんの言葉を聞いて、私も何となく昔書いてた研究のノートを手に取ってみたの」

「そしたらね、出会ったんだ。昔の自分に。私がどうしたいのか、思い出せた」

 

 懐かしそうに、愛おしそうに。桂香さんは足元に置いていた古びたノートを抱きしめた。

 そっか。今回の桂香さんは前よりも早く気づけたんだ。自分の武器に。桂香さんだけの将棋に。

 きっかけは、こんなにも些細な事なんだ。たまたま八一と桂香さんがそんな会話をしたから、こうなったんだ。

 

「私、もっと指したい。もっと強くなりたい。だから、銀子ちゃん……私とこれからも指してくれる?」

「……うんっ、もちろんだよ」

 

 銀は桂の隣にいるから。私は桂香さんに抱き着いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな中、桂香さんが話した八一の事が頭の隅で引っかかっていた。

 昔の八一が指していた将棋。それを聞いて真っ先に思い浮かべるのはあいつが私と共に内弟子をしていた時に指していた『右玉』の構えだろうか。今ではソフトによって有用性が証明されて評価された当時はゲテモノ扱いだった変態戦法。

 そして、八一の指していたその『右玉』をソフト以外で評価していた人間が一人いる。

 

『あんな天才いませんよ!』

『ぼくにとって史上最強の棋士は九頭竜八一です』

『現代将棋は八一さんを弱くしました』

 

 

『わかりますよ───少なくとも、あなたよりは』

 

 あの天才の言葉を私は思い出して、何故か八一が前よりも遠くに行ってしまうのではないかという予感がした。

 些細なきっかけで事は大きく変わるんだ。今は前よりも八一との距離は近い。でも、逆に前よりも離れてしまう可能性だってあるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




更新が随分と遅れてしまいました。


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十八話

 棋士という人種は一般の人たちが思う以上に実は肉体を酷使している。

 というのも長時間に及ぶ正座の状態で将棋盤を上から見下ろすという体勢はかなり負荷がかかるからだ。それが原因で腰や肩を痛め、引退を余儀なくされた年配の棋士たちが今までどれほど居たか。関西将棋の大重鎮たる《ナニワの帝王》の異名をもつ蔵王九段も最近では体の調子が悪いと聞く。

 そんな先人達の姿を見て、俺たち若手棋士は今の内から体のメンテの重要性を学んだ。

 

 つまり、マッサージという行為が棋士にとって必要不可欠な要素なのである。

 

「ししょー、気持ちいいですか?」

「ぅん、ぃぃ……きもちいぃよ、あい」

 

 あいの小さな足が俺の凝り固まった腰部や臀部に沈み込む。我慢できずに口から情けないを通り越して気色悪い声を上げていた。だって気持ちいいんだもん。仕方ないよね。

 こうして幼女に踏まれているのには訳がある。間違っても趣味や性癖などではない。

 マッサージには一般的には指圧をイメージすると思うが、それとは別に足圧というものがあるそうだ。臀部や腰部、肩といった深層部分の筋肉を解すのには指圧よりも足圧の方が適している、というのをあいから教えてもらった。

 流石はあい、温泉旅館の娘だけあってそういう知識も持ち合わせている。家事もそうだが、将棋以外のスペックも高いとつくづく思う。

 

「あいばっかり。私もマッサージしてるんだけど?」

「もちろん、天衣も気持ちいいよ、ああ最高だっ!」

 

 拗ねるような口調で俺を睨みつけて、背中に跨り踏むのではなく体重をかけて両腕で俺のカチコチに硬くなった肩を圧す天衣。流石に踏むよりは圧が少ないが、それでも程よい力加減だ。何より手が暖かくて気持ちいい……いかんいかん。これじゃまるで変態じゃないか。

 

 この弟子達二人によるマッサージは生石さんのところで研究を始めてから直ぐに日課となった。

 無事に生石さんとの研究を取り付けたが、研究だけではなく、話の流れで銭湯のお手伝いもする事になった。銭湯を手伝いながら指導対局をするのは中々体を酷使する。そんな俺を見てあいがマッサージを申し出てくれたのだ。

 最初は弟子にそんな事は頼めないと断ったものの、とりあえず一回だけでもと言われ、踏んでもらった。てっきり揉んだり押したりするのかと思ってた俺は驚いたが、これが想像以上に効いた。以来、あいにマッサージを定期的にしてもらい、それを見た天衣が自分もやると言い出して今に至る。

 

「……ねえ、あい。大丈夫なの? 前はこうしてマッサージしてたら空銀子に妨害されたんでしょ?」

「心配ないよ天ちゃん。空先生がここに来たの、前はもっと後だったし。澪ちゃんたちが遊びに来た時だったから、来週くらいの筈だよ」

「そっ。なら遠慮なくやらせてもらうわ」

「うん。今のうちにししょーを骨抜きにしてあげよ」

「私たちなしじゃ生きていけなくしてあげるわ」

 

 俺の上で弟子たちが何やらひそひそと密談してるが、マッサージが気持ち良すぎて二人の会話が頭に入らない。まあ、どうせJSらしいガールズトークに花を咲かせいるのだろう。それなら聞き耳を立てるのも野暮だな。

 二人とも初対面の時は何やら険悪な雰囲気が漂っていたように感じたがどうやら杞憂だったようだ。

 

 しかし、改めて考えてみると今の俺の姿は傍から見ればもう言い逃れのできないただのロリコンだ。幼女二人に踏まれ、跨がれ、気色悪い声を漏らす竜王……鵠さん辺りに見つかったら即ネタにされた挙句、数か月はおちょくられるな。

 流石にこの子達の純粋な好意に下劣な感情を抱くような事は間違ってもないけど。

 というか、周りの人間や本人にも何度も言っているけど俺の好みは桂香さんのような大人の女性なのだ。こんな年端もいかない子どもではない。

 そうだ。俺の好みは桂香さんなんだ。それは昔から変わらない。なのに……。

 

「こんな事で悩む日が来るなんて……」

 

 弟子達に踏まれ揉まれながら先日、師匠の家を訪れた際に桂香さんと交わした会話を思い出した。

 

 

 ─────────

 ──────────

 ────────────

 

 

「あの、八一くん。前から少し気になっていた事があるんだけど……」

 

 師匠の家での用事を済ませ、俺は居間で桂香さんと世間話をしていた。

 あい達の様子とか、今は生石さんのところで研究をしているとか、姉弟子の事とか、他愛ない会話だ。そんな中、桂香さんは話の途中で覚悟を決めたような顔をしてそう切り出した。

 

「気になっていた事?」

 

 なんだろう。桂香さんが俺に……はっ!? もしかして、愛の告白!? 

 そうか、ようやく俺の熱い想いに応えてくれる決心が付いたんだ。長かった。だけど俺のアピールは無駄じゃなかったんだ!

 やっぱり竜王夫人になるのは貴女しかいないよ桂香さん! でもそうなると師匠とは物理的に殴り合いになりそうだな。うん、暴力はいけない。ここは平和的に将棋で決着を付けよう。今なら負ける気がしない。ボッコボコにしてやるぜ。

 そうやって勝手に一人で妄想して盛り上がっていると、

 

 

 

「その……八一くんって銀子ちゃんと付き合ってるの?」

 

 桂香さんはとんでもない爆弾を投げ掛けてきた。

 

「…………へっ?」

 

 一瞬、言葉の意味が分からなくて思考が止まり、そして理解した途端に胸の内から戸惑いと焦りが同時に湧き出した。

 

「二人の事だし聞くのも野暮かなって思ってたんだけどね。でもやっぱり気になって……二人のこと、ずっと見守ってきたから」

「いやいやいや、何てこと言い出すの!?」

「……? えっ、違うの?」

「違うよ! 俺が姉弟子と付き合ってるだなんて……」

 

 ありえない。そう口にしようとした時。

 姉弟子が倒れたあの日、寝ている彼女の口から零れた言葉が脳裏をよぎった。

 頬が赤くなるのを感じ、雑念を払うように首を振った。

 

「でも最近、よく一緒にいるでしょ?」

「そんなの、昔からじゃん。俺と姉弟子が一緒にいるだなんて」

 

 世間じゃ俺たちがよくそういう関係だと疑われる事がある。疑われるだけならまだいいが、なんか既に付き合ってる事にされてたりもするから恐ろしい。

 まあ、そんなのはゴシップ関係のマスコミ連中が騒ぎ立ててるだけで……いや、一部の将棋関係者の記者も一緒に騒いでるな。ともかく、そんな事実はない。断じてない。

 その手のあらぬ誤解のせいで何度姉弟子のファンから脅迫まがいの手紙が届いた事か。掲示板で俺のスレを荒らしていたのも彼らじゃないだろうか。最近はもう見てないけど。

 

 確かに昔から姉弟子と一緒にいる事は多いし、何度も周りに勘違いされる事もあった。だけどその度に姉弟子が慌てた様子で否定してたし、そんな姉弟子に助け舟を出そうと俺も便乗して全力で否定した。

 ……何故かその後に姉弟子に殴られ、理不尽な姉弟関係を幼い時から身に染みて味わってきたけど。

 

「だいたい俺たちの関係なんて桂香さんが一番わかってるでしょ? なんでそんな事を今更……」

 

 尋ねながら、姉弟子の姿を思い浮かべた。そういえば最近の姉弟子とはさっき挙げたようなやり取りをしなくなった気がする。俺に弟子ができて二人でいる時間が減ったからなのか、それとも何か姉弟子の中で変化があったのだろうか。

 

「でも最近の二人を見てると……ちょっと」

「最近の?」

 

 何か変わった事でもしただろうか、と最近の出来事を思い返す前に桂香さんが困った様子で口を開いた。

 

「ほら、ここ最近の銀子ちゃんと八一くん、一緒にいると凄く距離近いでしょ? この前も銭湯に行った時なんて二人で手なんて繋いでたし」

「あっ」

「それだけなら昔もしてたから私もそこまで気にならなかったんだけどね? ほら、指まで絡めて……まるで恋人同士みたいに」

「ち、ちがっ…」

「最初はてっきり銀子ちゃんが八一くんにそうさしてるのかなって思ったけど、八一くんも自然に手を繋いでいたし」

「そ、それは」

「私も二人が小さい時からずっと見てきたからどんな関係かだなんて分かっているつもりよ。でも流石に目の前で日傘で相合傘しながら指を絡めて手を繋いでいるのを見たら……ねえ?」

「………」

 

 疑いの眼差しを向ける桂香さんの顔を正面で受け止める事が出来なかった。というより途中で恥ずかしくて首を垂れていた。

 正直、何も言い返せねえ……。

 姉弟子が倒れた日から、桂香さんの言う通り確かに距離が近くなったと思う。主に物理的に。

 だって姉弟子、俺と出かける時必ず手を握るもん。弟子が見てる前だとか、将棋会館の前だとか、時も場所もそんなのお構いなしに。ここ最近は元気が無さそうだったけど、それでも銭湯に行く時の道中も手はしっかり握られたし。

 もしかして天衣があの日、不機嫌だったのはそれが原因なのか? 普段大人ぶっているけど、やっぱり年相応に構ってほしかったんだろうな。

 

「た、確かに距離が近いのは認めるけど……でも、別に付き合ってるとか、そんなの……ないよ」

 

 俺自身、あの日から姉弟子に対して少し過保護に接してると自覚している。しているつもりだけど……そうか、第三者の目から見ると俺たちはそう見えるのか。今度から手を繋ぐ時はなるべく人目に配慮しなければ。

 いや、俺も指絡めて手を繋ぐのはどうかと思ってたけど………………まあ、思ってただけで、止めなかったのは俺自身だ。

 

「ふ~ん。そっか、そうなんだ」

 

 言葉では納得してるように言うが、絶対に疑ってる。というかニヤニヤして俺の顔を見るのはやめて! 恥ずかしいから!

 桂香さん絶対楽しんでる! 俺をからかって遊んでるよこの人!

 

「か、勘違いしないでよ桂香さん!! それに昔から言ってるでしょ! 俺が好きなのはッ」

 

 桂香さん、と続けようとして言葉が出なかった。何故か、姉弟子の……銀子ちゃんの姿が思い浮かんで、彼女の姿が頭から離れなかったから。

 

「……ッ!?」

 

 な、なんで俺は……これじゃまるで俺が銀子ちゃんを……。

 だ、だめだ。感情の整理ができない。将棋以外でこんなに頭を悩まされたのは初めてかもしれない。

 今思えば、山刀伐さんとの対局中にも今と似たような事を聞かれて冷静さを失っていた気がする。

 マズイな、これは。忌々しき事態だ。棋士たる者がこんな事で心を乱すなんて。

 

「うんうん。わかってるよ、八一くん……そっか、ようやく八一くんも。よかったね、銀子ちゃん」

「だ、だから……」

 

 微笑ましそうに笑みを浮かべる桂香さんに今度はもう否定の言葉すら出なかった。

 これ以上、桂香さんに言っても無駄そうだし、何より自分自身を誤魔化しきれなかったから。

 正直、自分でも分かってはいるつもりだ。大よその予測はついているんだ、この感情に。この想いに。

 だけど、予測は付いても確信が持てない。一緒にいた時間が長すぎて、素直にそうだと断定できない。そして気付く事によって俺達の関係が変わってしまうのが……怖い。

 

 

 頭を悩ませる俺に構わず、その後もテンションの上がった桂香さんに「いつでも相談に乗るから」とか「ちゃんと報告はしてね」とか、散々弄られる羽目になった。 

 

 

 ─────────

 ──────────

 ────────────

 

「………はあ」

 

 師匠の家でのやり取りを思い出して深く溜息を吐いた。

 正直、姉弟子の事に関してはもう少し後で時間を掛けてゆっくりと考えるつもりだった。

 そもそも俺自身、どうしたいのかすら分からないんだ。どうしようもない。それにタイトル防衛戦も控えているし、弟子達のマイナビ戦もある。悩む時間がないんだ。

 だから今は表面的だけでも、昔と変わらないように接して全てひと段落してから向き合う予定だった。

 

 だけど、その計画が狂った。桂香さんにあんな事を言われたせいで嫌でも意識してしまう。

 

 今のところは姉弟子とスマホで連絡を取り合ってるだけで直接は会っていないけど、これからどんな顔をして会えばいいのやら……。

 

「どうしたんです? ししょー。まだどこか凝ってるところあります?」

「いや、体の方はあい達のおかげですこぶる元気だよ」

「なに? じゃあ悩み事でもあるの?」

「そ、そんなんじゃないよ。でもありがとう、心配してくれて」

 

 俺が大きなため息を吐いたせいか、弟子達二人がマッサージを中断して心配そうに俺を見てくる。

 まあ、流石に好みの女性と気になる女性って違うんだね、なんて九歳相手に話す内容ではない。

 言葉を濁して弟子達二人の気持ちに感謝した。

 

「べ、別に心配なんて……か、かぞくなんだし当然じゃない」

「何か悩んでいるのでしたら、いつでもあいに相談してください! ししょー!」

 

 天衣は照れ臭そうに、あいは微笑みながらそう言ってマッサージを再開した。

 ああ、本当にいい子たちだ。目に入れての痛くないとはまさにこの子たちの為に存在している言葉なのではないだろうか。

 そうだ。今この場で悩んでも仕方がない。姉弟子の事は後で考えればいいんだ。今はただ、この子たち二人に身も心も委ね、体のケアに専念しよう。そうだ、それがいい。

 

 天衣が揉み、あいが踏む。

 交互に発生する心地よいい圧力に、いつしか眠気が訪れてきた。ああ、このままゆっくりと眼を瞑れば……。

 

 ゲシッ!!

 

 重くなった瞼が、突如後頭部に加えられた衝撃によって一気に開かれた。

 えっ、なに? あいが間違って俺の頭を踏んじゃった? 

 確認しようと顔を上げると、黒のストッキングが目に入った。あいはストッキングなんて履いてないし天衣か? でも天衣は俺に跨っていた筈じゃ……。

 

 

「随分と気持ちよさそうね、八一」

 

 久しぶりに聞いた、心の底から絞り出したかのような冷たい声だった。

 最近は、割と優しく接してる彼女。その声を聴き間違える筈がない。

 

「お、お久しぶりです、姉弟子……」

 

 色んな意味で今、一番会いたくない人がそこに居た。

 

 




誤字脱字、修正しました。


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十九話 

 桂香さんの件が気になって八一に会いに京橋にあるゴキゲンの湯へと足を運んだ。来週、研究会でお世話になる生石さんと飛鳥さんへの挨拶も兼ねての事だ。

 前回、ゴキゲンの湯に出向いた際はいきなり弟弟子の特殊性癖を目の当たりにして思わず踏みつけてしまったけど今回はそんな事はしないと思う。あのJS研究会の子たちが来るのは来週だった筈だし、流石に今は小童たちと共に真面目に生石さんの下で指しているのだろう。

 

 

 ……そう思っていた。

 

「ロリコン」

「ち、違います! 誤解ですよ! これはただのマッサージ! 姉弟子も分かるでしょ!? 俺たち将棋指しは凝り固まった体のメンテナンスが必要だって!」

「だから女子小学生に揉んだり踏んだりしてもらってるの? 頭の方もメンテナンスが必要みたいね」

「興奮なんてしてねえし! それじゃあ俺がまるで変態みたいじゃん!」

「変態よ。私も踏んで直してあげる」

「ぐええええ」

 

 踏みつぶされたカエルのような鳴き声が響き渡った。足元の八一を一瞥し、私の八一を悪しき道へと誘おうとした諸悪の根源どもを強く睨み付けた。どうやら私の姿を見て二人とも戸惑いを隠せないようだ。抜け目のないこいつらの事だ。どうせ私がいない間に八一に誤った性癖を植え付ける算段だったんだろう。そうはいくか。

 

「な、なんで、あんたがここに……あい! 話が違うじゃない!」

「そんな、空先生が来るのは来週の筈だったのに……何しに来たんですか! おばさん!」

「私は八一に用があって来たのよ。ちょっと二人で話がしたいからあんた達は適当にどっか行ってなさい」

 

 しっしっ、と八一に跨る生意気なクソガキ共に手で掃う。こいつらとは連絡を取り合って八一に悪い虫が付かないよう共に監視する同盟ではあるが、あくまで一時的に組んでるだけに過ぎない。それ以外に関してはむしろ敵だ。こいつらのせいで八一に特殊な性癖が芽生えてしまってはたまったものじゃない。

 

「え、その、ふ、二人で、ですか……? 別にあい達がいてもいいんじゃ……」

「そうですよ! 私たちが居て何か困ることでもあるんですか!」

「人前で話せないようなやましい事でもあるわけ!?」

 

 何故か大きく動揺している様子の八一と責め立てるように騒ぐ小童共。

 小童達はともかく、なんで八一もそんなに驚いているんだろう。別に二人で話すなんていつもの事なのに。

 それにさっきから様子がおかしい。そわそわしているというか、私と目を合わせてくれない気がする……気のせいかな。

 

「桂香さんの事でちょっと聞きたい事があるの」

 

 これ以上、このガキ達に騒がれるのも面倒なので素直に要件を言う事にした。

 

「桂香さんの……?」

「なるほど、そういう事ですか」

「なんだ、あいつの事ね」

 

 怪訝そうな顔をする八一とは正反対に前回の桂香さんの事情を知っている小童達はすんなりと納得してくれたようで、さっきまで威圧していた表情から一気に毒気が抜けた。

 どういでもいいけど、八一が絡むと直ぐにこんな殺気立った顔をする今回のこいつらをあのJS研究会の子たちは怖がらないのかしら。

 

待てよ……ま、まさか桂香さん、姉弟子に余計な事言ったんじゃ……

「何?」

「いえ……なんでもないです」

 

 ぶつぶつと何か呟く八一を見て首を傾げる。やっぱり今日の八一は少し変だ。

 まあいい。気にはなるけど今は目的を果たそう。

 

「とりあえずこいつは借りていくわ。ついでだし久しぶりに軽く指すわよ、八一」

「ちょ、分かりましたから、引っ張らないで!」

「あっ! ずるいです!」

「話すだけって言った癖に!」

 

 ギャーギャーと後ろで喚く小童達を無視して八一の手を取り、そのままゴキゲンの湯の二階にある将棋道場へと向かった。

 散々八一を独占したんだ。今度は私の番だ。

 

 

 

 

 軽く指す、と自分で言ったがもちろん全力で殺しに行った。私が目指す場所は八一と同じ場所なんだ。手加減など有り得ない。持てる全てをぶつけたつもりだった。

 ただ、それだけで勝てるほど私と八一との距離はまだ近くはなかった。

 ……当たり前か。『指し直し』の前から、あの背中にはこの手が届いてはいなかったのだから。

 

「八一、どうかしたの?」

「えっ?」

「顔、赤いけど」

 

 指し終えて軽く感想戦を経てから、八一に尋ねた。

 やはり今日の八一はどこか変だ。対局中もこちらの顔をチラチラと伺ってきて私が見つめ返すと慌てて目を逸らすのを何度繰り返しただろう。

 それに駒が浮ついている、とでも言えばいいのだろうか。悪手とまでは言わないものの八一らしからぬ際どい手が多くて、そのお蔭でいつもよりは長く粘れた。

 今の八一を見ているとあの時の事を思い出す。八一の目の前で釈迦堂さんと指した、かつての私の姿を。

 ……まあ、私と違って浮ついた状態でも私程度には勝ってしまうのが、最年少竜王たる九頭竜八一の才能なのだろう。

 

「……っ! そ、そうですか? ちょっと集中しすぎたのかも」

 

 苦笑いを浮かべたその言葉が誤魔化す為の嘘だとすぐに分かった。本当に集中していたなら、八一はあんな甘い手は決して指さない。それはずっと見てきた私が一番よく知っている。

 もちろん、八一自身もそれに気づいて後から気を引き締めて指していたようだけど……なんというか、指す為に集中していたのではなくて、何か雑念を払うように没頭していたように見えた。

 単純に手を抜かれたのなら、怒るけどそうじゃない。本当に今日の八一はどうしたんだろう。

 もしかして、体調でも悪いのかな? 銭湯の手伝いと生石さんとの研究、さらに前と違って二人の弟子の指導と確かにハードな仕事量だ。うん、その可能性も十分にあり得る。

 咄嗟に私は八一の額に手を伸ばした。

 

「あ、姉弟子? 何を……」

「いいから、じっとしてて」

 

 黒と茶色の混じった八一の前髪を指で払い、額にそっと触れる。八一のぬくもりが掌からジワリと伝わってきた。

 そういえば、昔も私が体調を崩した時も八一は同じように額に手を当てて心配してくれたな。

 

「熱はないみたいね」

「……っ」

 

 もう片方の手で自分の額を触りながら体温を比較したけど発熱している訳ではなさそうだ。でも頬は少し赤いかな。やっぱり少し疲れてるのかもしれない。

 

「な、なんなんですか、一体……」

「今日の八一、変だったから熱でもあるのかと思った」

「変、ですか?」

「指してる時もずっとそわそわしてたし。何かあったの?」

「……何もないですよ」

「ならいいけど。次の対局も近いんだし気を付けなさいよ?」

「わ、分かってます……ほら、大丈夫ですから」

 

 慌てた様子で八一は額に触れていた私の手をそっと引き離した。

 少し残念だ。もう少し触れさせてくれても良かったのに……。

 

「ところで姉弟子。桂香さんの事って何です? 俺もこの前、師匠の家に用事で行った時に桂香さんと軽くしか話してないんですが、もしかして更に調子が……」

 

 そういえば、本来の目的はそれを聞きに来たのだった。少し脱線しすぎたか。

 

「逆よ。ようやく一皮剥けたみたい」

「そう、なんですか?」

「ええ。案外、今の桂香さんならあの小童たちと当たっても勝てるかも」

「そ、それは流石に言い過ぎじゃ……」

 

 別に冗談でも何でもない。あの小童たちが私と同じように『指し直し』をしてなければ、十分にあり得た。現に、前回はあの二人相手に戦えていたのだから。

 ……残念ながら、今のあいつらは隙のない化け物だけど。

 

「まあでも……良かった」

 

 ほっと胸をなで下ろす八一を見て思わず笑みを浮かべてしまった。

 変わらないんだな。今はこんなにも遠くに行ってしまった彼と私でも、桂香さんを、家族を想う気持ちは。

  

「桂香さん、言ってたよ? 八一のお陰だって」

「俺の? でも俺、何もしてませんよ? ただ話して帰っただけだし、指した訳でもないのに」

「八一、昔の棋譜を取りに帰ってたんでしょ? それを聞いて桂香さんも昔付けてたノートを掘り起こして自分の将棋を見直せたみたい」

 

 ただ他人の将棋をなぞるだけだった桂香さん。それを早い段階で脱ぎ捨てて昔の自分と向き合えるようになったのは、大きな進歩だ。

 それに前回と違って今の段階で立ち直れたのなら、あの小童どもと当たる前に他の相手に勝ちを稼げる可能性だってある。それなら例え前回と違い仮に夜叉神天衣に負けたとしても問題は無さそうだ。

 私は桂香さんが本当ならもっと強い人だって知っている。だけど流石に今のあの小童ども相手では分が悪い。

 

「そうでしたか。自分自身の為だったんですけど、意外なところで影響してたんですね」

「……それで、気になってたんだけど何で古い棋譜なんて持ち出したの?」

「それこそ桂香さんと同じです。昔の自分と今の自分を比べて見つめ直すため、ですよ」

 

 そう言いながら八一はおもむろに鞄を漁り、タブレットを取り出して画面に指を滑らせながら、その画面を私に見せた。

 そこに表示されていたのは偶然にもこのゴキゲンの湯で生石さんと一緒に見た、棋譜を示した文字列だった。

 

「この前、言いましたよね? 取り入れた研究があるって。それがこれです」

「これって……」

「ええ、ソフトを使った研究です。これは先日、生石さんと指した時の棋譜を読み込ませたものですよ。振り飛車を学ぶ為に直接指しながら感覚を掴み、平行してソフトに読み込ませて数字を出し、精度を上げる。中々効率的だとは思いません?」

「な、なんで……」

 

 驚き、よりも戸惑いの方が大きかった。なんで、この時期の八一がソフトを使った研究なんて……あれは防衛戦を経てから始めた筈なのに。それに生石さんとは振り飛車を指す為の研究をしていたんじゃなかったの?

 戸惑う私を気に止めず、八一は言葉を続ける。

 

「以前から少しは使っていたんですけどね。ほら、ソフトの示す最善手って少し異質なのは姉弟子も知ってますよね?」

「……確か、角や桂の価値が低く見られてるから人間と違って躊躇なく切る傾向にあるのよね」

 

 歩を高く評価した相対的な結果だと八一は前回の時に話していたのを思い出した。

 

「ええ。ですから、そのまま人間が取り入れようとしても簡単にはいかない。人間より遥かに優秀な演算能力を持ったコンピュータだからこそ示す最善手は人間が扱う事はできない……でもそれって逆に言えば人間側の演算能力が上がれば、利用できるんですよ」

「えっ?」

「実は最近、妙に調子がいい日があるんです」

「調子がいい?」

「なんていうか説明しにくいんですが。読みが冴えているというか、ほら脳内将棋盤ってあるじゃないですか。あれが全く消えなかったり、冴えすぎてちょっと気分が悪くなったり」

 

 どこか聞き覚えのある話に何故か悪寒がした。まるで八一が、私の知らない誰になってしまったような。

 いや、違う。

 知ってる(・・・・)八一になってしまったような、そんな錯覚なんだ。私の知る、かつての八一に。

 

「その話をこの前、久しぶりに会った創多としたら勧められたんですよ。このソフトを使った研究を」

「創多が?」

「なんかやけに強く推されちゃって。八一さんなら絶対そっちの方がいい、とか。それで半信半疑で取り入れてみたら意外としっくりきて。創多が言ってたように、昔の俺って結構ソフト寄りの指し方してたんだなって自分の棋譜見て思いましたよ」

 

 そう言えば八一がこの前、創多から連絡を貰って会う約束を電話越しに私の目の前でしていたのを思い出した。

 あいつはソフトを使った研究に長けていた。八一がそれでソフトを使った研究を取り入れたのも辻妻は会う。

 でも、そんな偶然があるのだろうか?

 まるで、誰かが八一を意図的に強くしようとしてるような……。

 

「……八一は、もっと強くなりたいの?」

 

 自分でも馬鹿らしい質問だと思う。棋士なんだから、そんなの決まっている。

 

「そりゃあ、そうですよ。俺達はみんなそうでしょ? 今のままでいいなんて自惚れは誰もしていない。常に勝利と強さを求めている。あの頂点に立つ名人でさえも」

「でも、そんな……」

「コンピュータみたいに、ですよね。言いたい事は分かりますよ」

 

 思わず口に出た前回と同じ八一にした言葉。それを言い切る前に遮られた。

 

「ソフトを使うのはあくまで効率的に研究を行うだけですよ。俺自身が別にコンピュータになった訳じゃない。それに俺がコンピュータならこんな事に悩みなんてしないですよ」

 

 八一は私の顔を見ながら、そして何かに観念したような苦笑いを浮かべた。

 

「悩み?」

「ええ。将棋とは関係ないものだと思っていたんですけど、思った以上に影響が出るものだと今日、思い知りました。こればかりはソフトじゃどうしようもない」

「……?」

 

 何の事だろう……。もしかして今日、様子が変だったのはその悩みのせい? 

 私はそのまま八一の言葉を聞いた。

 

「それに、自分を誤魔化すのも限界があるって知ることもできた」

「案外、認めてしまえばモチベーションに繋がるかもしれない。でも伝えるのは今はできない。それは全部終わってから。だから……」

「……何の話よ」

「姉弟子」

 

 いまいち要領を得ない八一の話につい口を出そうとしたが、止められた。

 何か、強い意志を秘めた眼だった。その眼が私をじっと見つめ────やがて意を決したように八一は口を開いた。

 

「俺、好きな人ができました」

 

 八一の放ったその言葉に、思考が停止した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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二十話

「凄いね、八一くんって」

「……うん」

 

 隣にいた桂香さんが遠い目をしながら言葉を漏らした。

 再び出向いた師匠の家。桂香さんの自室で二人でモニターに映る八一の姿を眺めていた。

 彼と対峙する山刀伐先生は項垂れた様子で、まるで目の前の光景が信じられないかのように盤を食い入るように見つめている。先ほど、投了したばかりだ。この前の対局とは違う、一方的な展開だった。

 この光景を私は以前にも見た記憶がある。竜王防衛戦の後、本人曰く読みの力が増した八一が再び山刀伐先生と行われた対局は今モニターの向こうで映る光景と重なった。

 

「届くのかな、私……」

 

 想いも、将棋も。

 画面の向こうにいる彼と、ここにいる私。手も声も届かないこの物理的な距離が、まるで今の私達の距離を示しているように思えた。

 今の私は以前のこの時の私よりずっと強い。それは間違いないと断言できる。当然だ。未来の記憶があるのだから。でも、それと同じように、八一もまた前回の時よりも強くなってしまっている。

 ……見えない。彼の背中にこの手が届く光景が。彼と対峙する自身の姿が。

 かつて八一と指したあの『指し直し』直前の対局。ようやく手が届いたと思ったあの日。あれも、もしかしたら私の脳内が勝手に描き出した妄想ではなかったのかと疑ってしまう。

 それほどまでに、今の八一が強くて遠い。そんな現実を改めて突き付けられた。

 

 八一の勝利に喜びよりも恐怖を感じて、私はただ茫然と彼の映る画面を眺めていた。

 

「大丈夫。銀子ちゃんなら、きっと八一くんに届くよ」

 

 まるで私の心を見透かしたかのように、優しい言葉と共に桂香さんが私の肩を抱き寄せてくれた。

 昔からずっと大好きだった、桂香さんの香りが鼻孔をくすぐる。

 ほんの少しだけ、沈んだ気持ちが安らいだ気がした。

 

「でも」

「最近の銀子ちゃんが以前よりもっと強くなったのは私でも分かるもの。それに変わったのは将棋だけじゃない。ちゃんと八一くんも銀子ちゃんの事を見てくれてるよ」

「桂香さん……」

 

 その暖かさに、優しさに、思わず涙が溢れそうになったけど、なんとか堪えた。

 ここで泣いてしまっては、きっと前回と変わらないから。

 でも、涙は堪えてもこの胸の中に溢れて広がり続ける悔しさはどうしようもなかった。

 本当に悔しい。

 八一に未だ届かない自分が。

 そしてまた、他の誰かに(・・・・・)八一の心を奪われた自分が。

 

「桂香さん、私ね……八一のことが好き」

「……うん。知ってる」

 

 私の言葉に桂香さんは特別驚いたりはしなかった。

 当然か。私の周りで私の想いを知らないのはきっと、八一本人だけだ。

 でも、今から話す内容はきっと桂香さんも驚くだろう。だって……。

 

「でもね、八一。私に言ったの」

「言ったって、何を?」

「好きな人ができたって」

「……………へ?」

「私、また八一を他の女に盗られちゃった……」

「は?」

 

 私の思った通り、桂香さんは目を見開き、驚愕の表情を浮かべていた。

 

 ─────────

 ──────────

 ────────────

 

 

 

 銀子ちゃんがぽつりと漏らした言葉を理解するのに数秒の間が必要だった。

 余りにも唐突で、そして余りにも理解しがたい内容だったから。

 

 最近、八一くんと銀子ちゃんの仲がもの凄い勢いで進展していっているのは傍で見守ってきた私には直ぐに分かった。

 銀子ちゃんは八一くんに前よりももっと素直に甘えるようになったし、八一くんもそんな銀子ちゃんを家族としてではなく、一人の女の子として意識するようになっている。二人がデートをしている噂を最近よく耳にするし、仲良さげに指を絡めて手を繋ぐ光景もこの目で直接見た。

 

 おそらく変化があったのは銀子ちゃんの方だろう、と女の勘が告げる。銀子ちゃんに一体どんな心境の変化があったのか分からないけど、きっかけとなったのは銀子ちゃんが倒れたあの日だろう。私の想像でしかないけど、あの時に二人の仲を進展させるような出来事があったのは明白だ。

 あの日、帰ろうとした八一くんを引き留めて彼の布団を銀子ちゃんの横に敷き、一緒に過ごさせたのは我ながら会心の一手だったと思う。

 その後も、銀子ちゃんがタイトル戦を終え、袴姿のまま八一くんの家を訪れた際には、彼と二人きりになる機会を欲していた銀子ちゃんをフォローしてあげた。

 ……その数日後に二人がコスプレデートをした噂を耳にした時は、変な方向に関係が進んでしまったのではないかと心配したけど。

 

 やはり二人が幼い時から見守ってきた保護者としては銀子ちゃんと八一くんには結ばれて欲しいという想いがある。あいちゃん達には悪いとは思っているけど流石に相手が小学生は……ねえ。

 それに万が一、あいちゃんか天衣ちゃんのどちらかと結ばれるような事があれば色々と不味いでので、全力で銀子ちゃんを応援したい。自分の兄弟子が小学生に手を出して社会的に抹消されるのは洒落にならない。

 

 そもそも今まで進展がなかった方が不自然なんだ、あの二人は。

 銀子ちゃんは不器用ながらも事あるごとにアピールを続けていたし、八一くんは八一くんで口では愚痴をこぼしながらも本心では銀子ちゃんを本当に大切に思ってる。

 将棋に関しては私なんかよりもずっと凄いのに、それ以外の事は不器用すぎて見てられない二人。

 そんなあの子たちがようやく、そのもどかしい関係に終止符を打ったのだと、八一くんが家を訪ねた際に交わした会話で私はそれを確信した。

 銀子ちゃんが素直になって、八一くんが自身の想いを自覚する。こんなのは誰にでも分かる『詰み』だ。互いの駒がどう動こうかが結ばれるに決まっている。

 

 二人が無事、結ばれた暁にはお父さんと一緒に、いや一門総出でお祝いをしよう。あいちゃんや天衣ちゃんは拗ねるだろうけど、それでもあの子達なら最後は祝ってくれる筈だ。将棋界隈でも進展しないあの二人の関係にもどかしさを覚えながら見守ってきた人も多い。彼らもみんな知れば祝福するだろう。

 

 そう思っていたのだけれど。この子は一体、何を言ってるの……?

 

「えっと、銀子ちゃん。少しだけいいかな?」

「……なに?」

 

 私にしがみつきながら震えた声で返事をする銀子ちゃん。その眼には涙が浮かんでいるけど、必死に堪えているみたい。

 この可愛らしいお姫さまは、どうやらとんでもない勘違いをしているのではないのかと思う。とりあえず今はそれを確かめなきゃ。

 

「その、八一くんは本当に言ったの? 好きな人ができたって」

「……言った。私の目の前で、前みたいに」

 

 前みたい、という言葉に引っ掛かりを覚えたけど今はスルーしよう。

 銀子ちゃんの髪を撫でながら、さらに質問を続ける。

 

「その好きな人が誰かは八一くん言ってた?」

「ううん、それは言ってない。今は言えないって……これしか。また私の知らない女なのかな……それともあの女……? でも、悪い虫が付かないように監視してたのに……」

「監視? 悪い虫……?」

 

 何だか怪しげな言葉が聞こえた気がするけどこれも無視しよう。

 

「ほ、他には何かなかった? 言葉だけじゃなくて様子とか」

「……そういえば、あの日の八一、少し変だったかな」

「変?」

「うん。二人で指してたんだけど、指してる最中ずっとソワソワしてたり、私の事ジロジロ盗み見たり、目が合ったら慌てて逸らしたり……」

「そ、そう……」

「あとは……自分を誤魔化すには限界があるとか、認めてしまえばモチベーションに繋がるとか、言ってたかも……それと、全部終わったら伝えるって」

「……」

 

 だんだんと涙声になっていく銀子ちゃんを宥めながら、聞いた話を頭の中でまとめた。

 一、八一くんが銀子ちゃんと一緒に居る時、緊張した様子だった。

 二、自分の気持ちを誤魔化すのを止めるという旨を銀子ちゃんに伝えた。

 三、それらの上で銀子ちゃんに向けて好きな人ができたと言った。

 

 ………。

 

 ……何なんだろう、これは。

 頭痛がして思わず額を押さえ、話をややこしくした原因のあの年下の兄弟子を脳裏に浮かべて恨んだ。

 

 なんで八一くんは、こうも紛らわしい言い回しをしたのよ!?

 それに気付かない銀子ちゃんもなんでそんなにも鈍いの!?

 ここに来て擦れ違いってどれだけ不器用なのよこの二人は!!!?

 

「……? 桂香さん? どうかしたの?」

「あ、ううん。何でもないの」

 

 唖然として固まっていた私を不審に思ったのか銀子ちゃんが上目遣いで尋ねてきたが、何とかはぐらかした。

 ……少し落ち着こう。そうよ、ここで私が冷静にならなきゃダメ。

 将棋と同じだ。序盤で盤面を荒らされても、中盤で落ち着いて対処すれば何とか巻き返せる。

 

 まずは状況を整理しよう。

 

 銀子ちゃんの話を聞く限りでは、八一くんはほぼ確実に銀子ちゃんへの想いを自覚している。

 うん。それはいい。あの鈍い八一くんがようやく気付いたんだ。間違いなく大きな進歩だ。

 だけどなぜ、そんな言葉を濁すような告白をしたんだろう。いや、そもそも告白なのかしら。

 

 もしかしたら、八一くんなりに何か理由があったのかもしれない。考えてみれば八一くんはまだ十六歳とはいえタイトル保持者の棋士だ。対局以外にも仕事を頼まれる事もあるだろうし、最近では弟子を二人も取っている。そして更には防衛戦まで控えている。中々に多忙の身だ。

 そんな忙しい今の彼が、想い人だと自覚したばかりの相手に告白するかと訊かれてたら恐らくないだろう。それに相手はあの銀子ちゃんだ。本人にとっては色々と複雑な心境だろうし、想いを伝えるなら落ち着いてからと考えるのが自然だと思う。

 八一くんが『今は言えない』『全部終わったらちゃんと伝える』と言ったのはそういう事だろう。 

 恐らくこれが、八一くんが曖昧な言葉で濁した理由。

 

 次に、そんな八一くんの指した手の意味を何故銀子ちゃんが読み取れなかったか、だ。

 これに関しては正直、ある程度予想が付いている。ずっと傍でこの子達を見てきた私には分かる。

 

 それは単に銀子ちゃんが八一くんから好意を向けられる事に慣れていないからだ。

 

 普段でも八一くんから冗談で好意を伝えられただけでテンパる子だ。真剣に好意を伝えられた事なんてなかっただろうし、向こうから自分に告白してくるなんてないと思い込んでいる可能性が非常に高い。

 だから今回も八一くんの言った『好きな人』という言葉は銀子ちゃんにとって自身を対象にしていないと思い込んでしまっている。

 

「はあ……」

 

 無意識に大きな溜め息が出てしまった。

 

 幼い時から銀子ちゃんは八一くんにアピールするも、銀子ちゃんが不器用すぎて素直になれずに想いが伝わってないし、八一くんはそもそも鈍すぎて伝わらない。

 ようやく八一くんが自覚して想いを伝えたかと思えば、その伝え方が曖昧で、おまけに相手の銀子ちゃんはその言葉を自分に向けられたものだと考えていない。

 

 ……。

 ……どうしてこうなったのかしら。なんて拗らせた関係なのよ、この子たち……。

 今回の二人の立場が逆だったとしても同じような事が起きたと思う。

 例えば、銀子ちゃんが前のように素直になれず、勢いで八一くんの事を嫌いだって言えば、八一くんはその言葉を真に受けて振られたと勘違いし、そのまま他の女の子の元に走っていたかもしれない。そんな想像が容易に考え付くほど酷く拗らせた関係だ。

 

 私のせい、なのかな? 二人のことだし余り口出ししないようにしていたけど……でもまさか、ここまで関係が縺れているなんて。こんな事ならもう少し口を挟んでおいた方が良かった。

 私も決して人様の恋愛事情に文句を言えるほど経験があるとは言えないけど、でもこれは余りにも……。 

 

「銀子ちゃん」

「……なに?」

 

 とりあえず、まずは落ち込んでいる銀子ちゃんを立ち直らせなきゃ。

 でも、八一くん本人が考えがあって言葉を濁している以上、私からはあまり余計な事は言えない。

 想いを告げるのはちゃんと本人の口からでないと。

 

「私から見てだけど、最近の八一くんはきっと銀子ちゃんの事も気になっていると思うよ?」

「えっ?」

 

 今にも涙が零れ落ちそうな空色の瞳が私を見た。

 

「そうじゃなきゃ手なんて繋がないよ。前までなら八一くん、人前でそんな事するの絶対に嫌がってるだろうし」

「それは……」

「それに、その好きな人に八一くんはまだ何もしてない。そうでしょ?」

「──ッ!!」

 

 疑似的な告白はしているけど、本人は気付かないのなら意味はない。

 私の言葉に、まるで電撃が走ったかのように銀子ちゃんははっと顔を上げた。

 

「そっか、そうだよね。桂香さん」

 

 さっきまで見せていた弱弱しい態度から一転して、何かやる気……いや、闘志のようなものが銀子ちゃんの瞳に宿ったような錯覚がした。

 

「八一はまだ盗られてない。『誰かを好きになった』、ただそれだけなんだ。まだ誰のものにもなってない」

「え、ええ」

「駒を取られたのなら取り返せばいい。まだ『詰み』じゃない。『好きな人』から私が八一を寝取ればいいんだね、桂香さん」

「そ、そうね」

 

 自分自身から八一くんを奪うというよく分からない宣言をする銀子ちゃんに本当の事を告げたくなったけど、ぐっと我慢する。たぶん、真相を知ったら紛らわしい告白をした八一くんに銀子ちゃんは間違いなく襲い掛かるだろう。

 

「ありがとう、桂香さん……私、頑張るね」

 

 何とか銀子ちゃんを立ち直らせる事ができてほっと息を吐いた。

 つい先日までは自分の将棋についてあんなにも苦しんでいたのに、今は可愛い兄姉弟子達の恋愛事情に頭を悩ませているなんて、人生は分からないものだとつくづく思う。

 さて、これからが大変だ。自身の夢も。二人の関係も。

 私は両方をこなせるほど器用でもなければ、才能もない。

 だけど、私を立ち直らせてくれた二人を支えたい、そう心から思う。

 

「頑張ってね、銀子ちゃん」

 

 とりあえず、今度八一くんに会ったら今回の鬱憤を少し晴らさせてもらおう。

 

 

 

 

 

 

 

 



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感想戦③

 こういった夢を見るのはもう何度目だろう。

 夢の中の筈なのに、何故かこうして意識がはっきりと残っている不思議な夢。最近になって見る機会が随分と増えた。

 ただ、今はこうして夢だと自覚できているのに、起きると何故か記憶が霧がかったように鮮明には思い出せなくなるのは少しもどかしい。今日はどんな夢なんだろうか。

 

 そんな事をぼんやりと考えながら、俺は目の前の光景を眺めていた。

 

 気付くと薄暗い部屋に居て、そこにあるベッドの上だった。何故か横たわっているのではなくて、まるで誰かに押し倒されたかのような、尻餅を着いたような体勢だった。相変わらず体は動かせない。

 少なくともここは俺の家じゃない。家にあるベッドはシングルベッドだ。こんな二人で寝れそうなダブルベッドじゃない。

 今この時のように、()()()()()()上に乗れるほど大きなものじゃないんだ。

 

 目と鼻の先にあった銀色の髪が揺れる。

 その白雪の頬には朱色が差し、空色の瞳はどこか潤んでいるようにも見える。

 彼女にしては珍しく、いつもの見慣れた制服姿ではなくて、よく似合うカジュアルな私服姿。

 見知らぬ部屋と普段とは違う彼女。その二つの要因が、非日常的な雰囲気を醸し出していた。

 

 俺はこれが夢だという事を忘れ、酷く動揺していた。

 何がなんだか分からない。何だこれは。

 

 視界に映る鏡張りの天井と、ベッドの傍に備え付けられた台の上に見える如何わしい小物類。

 ここが所謂、普通の宿泊施設ではない事に気付き始めていた。

 どうして俺はこんなところに。なんで、よりにもよって彼女と一緒なんだ。

 

 俺の戸惑いなどつゆ知らず、夢はそのまま展開していく。

 

 目の前に居た彼女はいきなり俺の襟首を掴んだかと思えば、そのまま力一杯に引き寄せ、なんと頭突きを食らわせてきた。

 

 ゴツンと鈍い音が鳴る。

 夢の筈なのに、まるで本物のような衝撃が走った。

 よく見ると彼女の方も額を押さえ、痛そうにしている。彼女の意図が分からない。そもそもどういう状況なんだ、これ。

 夢の中の俺はそんな彼女に何かを言っているようだが、会話の内容はノイズが走ったようにかき消されて上手く聞き取れない。

 二人がノイズ混じりの会話をしている中、俺はさっきの彼女の行動を考えていた。

 間違っても頭突きが目的ではなさそうだ。いくらすぐに手の出る彼女でも、あんな自滅するような真似はしないだろう。

 だけど顔を引き寄せてするなんて、他に考えられる事と言えば……。

 

『だからこんなことはやめてください。こんな……好きでもないような相手と、そういうことをしようなんて……』

 

 夢の中の俺が、興奮した様子の彼女を諭すかのように言った。

 突如聞き取れるようになった会話に、俺は考え事を中断してそちらに意識を向ける。

 

 すると、その言葉に彼女は顔を歪め、内に秘めた溢れんばかりの己が感情を勢いのまま言葉に乗せた。

 

『……………きらい』

 

 最初、彼女が何を言ったのか分からなかった。

 あまりにも小さくて、そして聞きたくない言葉だったから。

 無意識に、聞き間違いだと思い込みたかったのだろう。

 

 だけど、彼女は更に声を強めてもう一度言い放った。

 

『八一なんて、だいっきらい!!』

 

 今度ははっきりと聞こえた。否が応でも聞かされてしまった。

 まるでナイフで胸をえぐられたかのような衝撃。一瞬で血は冷え、脳が、思考が止まったような錯覚に陥る。

 今この瞬間は、きっと夢の中の俺と思考も肉体も同調していたと思う。

 

 ――落ち着け。そうだ夢。これはただの夢なんだ。実際に俺が言われたんじゃないんだ。

 

 

 何度も自分にそう言い聞かせて、止まっていた思考を無理矢理に動かした。

 切り替えの速さは棋士にとって必須項目だ。こういう時に、人よりも多少は頭の回る頭脳を持てた事は幸福だと実感した。

 

 どうやら今回も酷い夢のようだ。悪夢と言っても過言ではない。やけに現実感がある分、余計にタチが悪い。

 

 前までの俺なら、きっと彼女から嫌いだと言われてもここまでの衝撃は受けなかったと思う。

 寂しいと感じながらも、だけどそれなら仕方ないと、そういう関係でも構わないと、割り切る事ができた。俺と彼女を繋ぐものは将棋だけでいいと、それだけで満足できた筈だった。

 なのに今の俺は、夢だというのにこんなにも動揺してしまっている。

 ああ、分かっている。それほどまでに恐ろしいんだろう。彼女に嫌われる事が。彼女が自分から離れる事が。

 

 ……当然か。先日、ついに認めてしまった彼女への感情はそういう類いのものだ。

 夢の中ですら自覚させられる自分の厄介な感情に自嘲する。これじゃあ、まるで恋に恋する思春期の女の子だな。

 

 呆然とする夢の俺に彼女は『きらい』という言葉を更に続ける。

 

 昔からきらい。だいきらい。

 将棋バカなところがきらい。

 将棋が強いことがきらい。

 ずっと将棋ばかり考えているからきらい。

 泥臭いところがきらい。

 絶対に心が折れないところがきらい。

 鈍感で誰にも優しくして優柔不断でフラフラしているところはほんとにきらい。

 

 随分と嫌われたものだと、まるで他人事のように思った。

 夢の俺は今もなお、彼女の言葉に傷ついている様子だ。その一方で俺自身は彼女の事をずっと観察していた。

 不思議だった。こうして冷静になって第三者として見聞きすると、彼女の放った言葉の意味がまるで違うもののように聞こえてしまう。

 夢の俺は多分気付いていないだろうけど、『きらい』と口にする彼女の表情は本当に嫌いな人に向けられたものなのかと疑問に思ってしまう。

 

 彼女は顔に感情が出る人だ。

 本当に嫌いならもっと敵意を込めた表情をしていてもおかしくない。なのに、今の彼女の顔に浮かべるそれは敵意というよりは、むしろ……。

 

 ――もしかして、『きらい』という彼女の指した手には、何か別の意味が込められているのではないのだろうか?

 

 なんて、考えるのは都合が良すぎるのかな。悪い癖だ。相手の指した手を最初に自分にとって最も都合がいい風に読んでしまう。

 読み手を間違えれば火傷では済まないなんて、分かっている筈なのに。

 

 ……でも、いいか。どうせ目覚めたら思い出せないんだ。

 それならいっその事、多少願望の混ざった解釈をしてもいいだろう。夢なんだし。

 

 そうだな。例えば、彼女の言った『きらい』は実はただの照れ隠しで、本当は逆に――

 

 

 

 ─────────

 ──────────

 ────────────

 

 

「今日の竜王サン、えらいまたへこんではるなぁ」

「ったく、辛気臭せえ空気出すなよクズ。てめぇのせいで気分転換にすらならねえじゃねえか!」

 

 いつもの将棋会館の棋士室。

 女流棋士は対局が少ないとぼやき愚痴をこぼしていた月夜見坂さんと供御飯さんが、雑談を中断して俺を見てきた。月夜見坂さんに至っては見るというよりは睨み付ける……いや、ガンを飛ばしている。怖い。今にもシメられそう。

 

「いや、別にへこんでいる訳じゃないんですよ。ちょっと自己嫌悪というか……黒歴史というか……」

「はあ?」

「……」

 

 月夜見坂さんは訝しむように眉を顰め、供御飯さんは顎に手を当てて何やら考えている。

 

「まあ、ちょっと色々とありまして」

 

 額に手を当て、嘆息した。

 まさか、今回は夢の内容を鮮明に覚えているとは思わなかった。朝目覚めた瞬間、思わず枕に顔を埋めて足をジタバタさせてもがいた。その様子をあいに見られて、ちょっと引かれたのはショックだった。

 なんで、よりにもよってあんな夢を見た時に限って全部覚えてるんだよ!

 想い自覚した途端に相手とラブホに行ってフラれるってどんな夢だよ!?

 しかもフラれた相手の言葉を都合よく解釈してニヤニヤ妄想してたなんてッ!!

 

 ここに来たのも、気分転換が目的だった。家に居てもなんだか落ち着かないし、それなら誰かと会って雑談でもしながら夢を忘れようと外に出た。

 気分転換に外に出たのに、結局行く場所が将棋会館な辺り俺の交友関係の狭さに虚しくなってしまう。

 

 正直、今日は姉弟子と会う予定がなくて良かった。あんな夢を見た後では恥ずかしくて前に会った時以上に気まずくなってしまう。これで夢と同じ言葉を投げられたら立ち直れない自信がある。

 でも、珍しいな。いつもなら今日みたいな予定のない日は午後からVSを誘ってくる事が多いけど、そういった連絡がなかった。

 姉弟子の方も今日は特に予定はなかったと思うけど、桂香さんと一緒にいるのかな? 最近どうやら二人でいる機会が多いみたいだし。研究会でもしてるのだろうか。

 

 そう言えば桂香さんで思い出したけど、この前に会った時に少し冷たかったのは何でだろう。気のせい、じゃないと思う。

 もしかして俺、何か桂香さんに嫌われるような事しちゃったかな……? 

 でも、全く心当たりがないんだけど。

 

「竜王サン、ちょっと」

「……?」

 

 ひょいひょいと手招きをする供御飯さんに気付いた。何だろうと近づくと、急に供御飯さんに顔を近づけられて、そのまま耳元で囁かれた。

 

「……夢って前みたいなん?」

「えっ?」

 

 耳に吹きかけられるようなこそばゆい感覚と、彼女からほんのりと漂う甘い香りに思わず緊張する。

 

「この前、言うてはった、あんな夢?」

「い、いえ、あんなんじゃないです。もっと下らない内容で……でも、ありがとうございます、心配してくれて」

「ええんよ。いつでも相談に乗るから」

 

 そう言って供御飯さんは顔を離していつもの笑みを浮かべた。どうやら前回のドライブの件で俺がへこんでいたのを思い出してくれたのだろうか……少し、気を遣わせちゃったかな。

 

 ふと、あの時の光景が脳裏に浮かんだ。目の前に広がった京の夜景と、腕に伝わった柔らかい感触。そして供御飯さんの──万智ちゃんの優しい微笑みを。

 

「どうしたんだ? 万智」

「なんでもあらへんよ。それより竜王サン、最近は随分と調子ええみたいやなあ」

 

 自然な流れで話題を変えた供御飯さんは視線を俺に向ける。

 釣られるように月夜見坂さんも俺の顔を見て愚痴をこぼした。

 

「見たぜ、この前の中継。んだよあれ」

「何って言われましても……」

「この前は苦戦してた山刀伐先生相手にあそこまで圧倒するって、どうなってんだよお前」

「まっ、これでも竜王なんで」

「チッ」

 

 決め顔で言ったら舌打ちされた。ひどいや。

 

「ほんま絶好調やな。ズバリその秘訣は?」

「秘訣、か……うーん、なんだろ」

 

 変な夢みたら調子が上がりますよ! なんて言ってもまあ、信じないだろうな。

 

「あっ、でも前に比べて食生活や家庭環境が改善されたのは大きいかも。あいが料理や洗濯みたいな家事全般できるお陰で健全な生活できてるし」

 

 単純に肉体を健康的に維持できるのはパフォーマンスの向上に繋がるのは間違いない。

 

「それにあいだけじゃくて、天衣の方も……あ、いえ何でもないです」

 

 マッサージをしてもらっていると口に仕掛けたけど、その光景を姉弟子に見られてボコられたばかりだ。二人に話したらドン引きされるだろうし、言わないが吉だ。危ない危ない。

 

「へえ、お前の弟子がねえ」

「随分と師匠想いの可愛いお弟子さんやなあ」

「ええ。本当にあの子達には助けてもらってますよ」

 

 実際、弟子を取ってから夢云々は抜きにしても好調なのは間違いない。

 あいが家事をしてくれるお陰で対局に集中できるという点はかなり大きい。

 それに、あの驚異的な才能を持った弟子達の前では簡単に負けられないと、奮起できるのも一つの理由かもしれない。

 

「ただ、山刀伐さんに勝てたのは……多分吹っ切れたから、かな」

「吹っ切れた? なんだそれ」

「実は最近、将棋とは関係ない事に少し頭を悩ませてまして……それが思った以上に影響してたんですよね。でも、ようやく自覚できたお陰で全部吹っ切れて、それで思うように指す事ができたんだと思います」

 

 ただ、自覚しただけでちゃんと相手に伝えてないからまだ根本的には解決はしてない。

 ……いや、でも流石に本人の前であんな風に言ったんだし察してるとは思うけど。

 それも含めて、次に彼女に会う時が少し怖い。

 

「……そうどすか」

「供御飯さん?」

 

 どうしたんだろう。供御飯さん、急に俯いて。

 それに何だか、ちょっと雰囲気が怖いような……。

 

「せや、竜王サン。話変わるけど、ちょっとええ?」

「え? なんです?」

 

 顔をパッと上げ、いつもの笑みを浮かべる供御飯さん。

 さっきのは何だったんだ? 様子が変だったけど俺の気のせいかな。

 

「今度、銀子ちゃんに会ったらお茶でもせえへんかって伝えといてくれへん?」

「姉弟子に?」

「最近、ちゃんと会ってなかったからなあ。積もる話もあるやろうし。女子会でもしようと思って。お燎も来る?」

「パス……銀子の奴の顔は当分見たくねえ」

 

 どうやらこの前の女王戦でのトラウマは相当深いみたいだ。月夜見坂さんの表情は少し青ざめているように見える。

 まあ、容赦なかったもんね、姉弟子。仕方ないよね。

 

「分かりました。とりあえず姉弟子に伝えておきますよ」

 

 おおきに、と供御飯さんはにこりと笑みを浮かべた。山城桜花の彼女がいつも浮かべる笑みだ。

 

 だけど俺はその時、見てしまった。

 

 

「………そろそろ、こなたも動かなあかんなあ」

 

 供御飯さんの表情が、その時だけは何故か無表情に見えた。

 

 

 

 

 

 



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二十一話

少しだけ九巻の内容に触れる部分がありますので、注意してください。


 ネット中継が映し出されたスマホの画面を自室のベッドで寝転がりながら、ぼんやりと眺めていた。

 淡路島で行われている棋帝戦第三局。あの名人と篠窪棋帝との対局だ。画面の向こうでは女流棋士の鹿路場珠代が聞き手を務め、その隣に立つ八一に解説を求める形で進行している。

 八一は慣れた様子で解説している。ちょうど八一が名人の着手をピタリと当て、その才能を称賛するコメントが画面を流れていた。

 

「……やいち」

 

 ぽつりとあいつの名前が口から零れた。

 気付けば、随分と八一とは会っていない気がする。電話での連絡は相変わらず取ってはいるけど、直接会うと会わないのとでは、やはり違う。

 ここ数日は弟子二人と桂香さんと一緒に東京に行ってマイナビ戦への付き添い、そして今日は解説の仕事か。明日は私も東京に行って八一と合流して前回と同様に釈迦堂さんのお店に行く予定だ。

 前みたいなデート、と呼べるかも怪しいけど、一緒に手を繋いで、ドキドキしながら帰ったあの一日をまた過ごせるのかな。

 少しだけ、不安だ。たった一つの、大きな懸念事項が出来てしまったから。

 

『俺、好きな人ができました』

 

 脳裏に浮かぶのは、八一から告げられた告白。奇しくも私が『指し直し』を望んだあの日と同じ言葉で告げられたそれは、いつまで経っても私の頭蓋の奥から消える事はなかった。

 桂香さんは、八一は私の事を意識してくれていると言ってくれた。桂香さんが言うんだ。その言葉に間違いはないんだろう。それに、私自身も前よりは八一と距離を詰める事が出来たと実感している。

 だけど、それだけだ。どんなに手を握っても、どんなに甘えてみても、八一は私から離れてしまう。

 

「どうすればいい」

 

 前回はいらないものを切り捨てた。無駄を捨て、届かないこの手を必死に伸ばして、無理矢理にでもその背に触れようとして。

 

「どうすれば、八一は私を見てくれるの?」

 

 ただ力だけを求めた。吐いて、もがいて、這いつくばって。そしてようやく願いが叶ったあの日。夢の一歩へと踏み出せたその足は、思わぬ形で躓いた。

 

「教えて、やいち……私はその為なら何だって……」

 

 スマホを放り出して枕に顔をうずめた。

 最早、何が正しいのか分からなかった。今度は間違わないようにと指したつもりだった。なのに、なんだこれは。

 なんで、八一は好きな人ができただなんて、そんな事を言うの……?

 今度は前よりも素直にって、支えになるって、八一の一番になるって、誓った筈なのにッ……!

 

「……はあ」

 

 ダメだ。一人で居ると、どうにも思考がネガティブな方向へと向かってしまう。

 最近は桂香さんと一緒にいる機会が増えて、八一の事を相談してガス抜きが出来ていたけど、ここ数日は桂香さんとも会えていないから、余計にストレスが溜まってしまったのだろう。

 

 少し落ち着こう。

 体を起こし、目を閉じて大きく息を吐いた。

 ──そうだ、仮にもプロ棋士になる女がこんな簡単に心を乱すなんて情けない。

 それに桂香さんの前でも宣言した筈だ。その『好きな人』とやらから八一の心を奪い取ると。

 なら、下らないネガティブ思考は捨てて先の事を考えるべきだ。

 

「でも、八一の好きな人って誰なんだろう……」

 

 顎に手を当て、この時期の八一の人間関係という名の将棋盤を脳裏に浮かべる。駒に当てはめるのは八一の周りの女達。

 八一の人間関係、特に女性関係についてならあの小童どもに負けない程の情報があると自負している。伊達に十年以上も姉弟子として八一の傍に居てない。

 

「まず、前のようなイレギュラーはない筈」

 

 今回は小童達と協力して虫が付かないように徹底した。八一宛てに届く手紙もスマホの中身も全て把握している。メールやメッセージアプリの履歴の中には私の知らない女との接点らしきものは見当たらなかった。とりあえずは安心できる。

 脳内に浮かべた将棋盤から『歩』の駒を取り除く。

 

「一番ありそうなのは桂香さんだけど、これはないかな」

 

 桂香さんから八一への想いは家族に対するものだけど、八一からすれば憧れの人なのは間違いない。桂香さんのような大人で綺麗な人にそう言った感情を向けるのは理解できる。私だって桂香さんが好きだし。

 だけど、それならわざわざ好きな人が出来た、なんて私に報告する必要はない筈だ。八一が昔から桂香さんに対して好きだ好きだと散々言っているのは私だって知っている。

 だから桂香さんでもない筈。盤から『桂』と取り除く。

 

「そうなるとあの二人のどちらか?」

 

 思い浮かべるのは月夜見坂燎と供御飯万智の二人。彼女たちは私ほどではないにしろ、八一とは昔ながらの長い付き合いだし、八一が二人と定期的に会っているのは知っている。二人とも中身はともかく見た目は美人だし、気の知れた仲だ。八一が惹かれるという可能性は十分にある。

 加えて八一が自称する異性の好みである年上の女性というのにも二人とも該当する……けど、これはあまり信用できないか。自覚はないし本人は間違いなく認めないけど、あいつは絶対年下好きだ。ロリ王だ。それに証拠もある……だって私の事、前は好きって言ってたし。

 ……とりあえず、この二人は保留にしておこう。

 

「あのJS研とやらの子ども達は……いや、ないない。有り得ない」

 

 あんな純粋そうな子たちに欲情するほど私の弟弟子は腐ってはいない……筈。

 確か、あの子たちはまだ九歳だ。中には六歳の子もいた。流石にそんな子ども達を本気で好きになるような変態ではない。

 ……まあ、年不相応の純粋ではないどこぞの小学生二人に対してはどうだか分からないけど。

 それにしても、今までどれだけの幼女をたぶらかしてきたのやら。あのJS研究会もそうだけど、それを除いても八一は男女問わずに年下から慕われてる。椚創多に至っては最早、崇拝に近い。

 まあ、最年少竜王なんだし憧れるのは当然ではあるけど……。

 それが憧れだけで収まるなら私もきっと苦労していないだろう。

 

「他は……祭神雷? ふん。ないわ。絶対ない」

 

 あの女も八一に強い執着を見せていたけど、八一があの女に好意を向けるのは正直想像できない。あの女の実力は評価しているようだけど、それ以外に関してはむしろ苦手意識すらあったように見える。

 だいたい勝手に自分の部屋に上がり込んだり、無理矢理八一と指そうとするような非常識な女をあいつが好きになる筈がない。

 そう言えば、もうすぐか。あの女が小童と指すのは。前はあの小童が勝てたのは奇跡に近いが、今の小童ならあれの駆除は出来るだろう。

 

「他に八一に周りにいる女……鹿路場珠代? でも接点が少ない。後は飛鳥さんとか、夜叉神天衣の付添の確か、晶さんだったかな。あの人とか……」

 

 次々と浮かび上がる女性達にだんだん腹が立ってきた。

 よくよく考えたらあいつの周りは女が多すぎる。内弟子時代にあいつに近付く女は私がこの手で掃除したつもりだけど、そのせいで濃い女だけが残った気がする。どにでも湧いて出るストーカー女とか、関東所属の癖にわざわざ月二回のペースでこっちにくる女とか。

 そう言えば、この前に八一と電話で話した時にあのストーカーが私とお茶をしたいと言ってたらしいが、何の企みがあるんだろう。ただ世間話をしたいだけ、だとはとても思えない。記者としての取材なら最初からそう言う筈だし、何かある。

 私だって長い付き合いなんだ。それくらは分かる。

 

「最後に残る候補となると……」

 

 一通り候補を絞り、脳内に浮かべた将棋盤には大きな駒が二枚。

 雛鶴あいと夜叉神天衣。

 やっぱりこいつらが残ったか。

 

「考えたくはないけど、二人のどちらか……?」

 

 いくらなんでも現在九歳のあの二人を本気で好きになるとは思えない……と断言できるのならどれだけ良かったか。

 この前のマッサージを目の当たりにして確信した。あいつの性癖は間違いなく前回よりも歪んできている。徐々に、だけど確実に。このままでは取り返しのつかない事態になり兼ねない。

 異性云々は抜きにしても八一はあの二人を深く溺愛してる。師弟という関係でありながらも、妹、或いは娘のような、本当の家族のような存在に既になっている。

 将来的には本当に異性として意識する可能性は十分にある。それが性癖を歪められた事によって早まったとしたら……やはり危険な存在だ。あの小童どもは。

 あいつらがただの九歳ではないのは承知している。将棋も、その想いも、九歳が持つそれではない。

 

 小童の方はまだ前回の経験からある程度の指し手は読める。今回は前回のような強い独占欲はある程度は潜めているようだけど、だからと言って安心はできない。

 もし仮に八一が小童の事を異性として好きだと言えば、あのガキはそのまま勢いで八一を実家に持って帰る可能性だってある。そうなれば家族ぐるみで、いや旅館ぐるみで穴熊を組まれて終わり。数年後には九頭竜八一という駒は雛鶴八一に成る。

 相手の戦型はバレているが、手を誤れば即詰みか。

 

 確かに怖い。だが私が警戒するのはどちらかと言えば、雛鶴あいよりも夜叉神天衣の方だ。

 

 あの生意気なクソガキは一体どんな一手を指すのか、それが読めない。八一から聞く限り、今回は相当甘えまくっているようだが、それ以外は特に大きな動きを見せていない。だからこそ油断できない。何をしでかすか分からないんだ。

 

 夜叉神天衣と指したあのタイトル戦が脳裏に蘇る。

 憎たらしいが、あいつの棋風は私の知る誰よりも八一に似ている。師弟だから似るなんて事は将棋界では殆どない。では何故、似ているのか? 単純な話だ。

 棋士にとって棋風はその人が歩み刻んできた魂だ。それが似る、という事は八一が刻んだ歴史を夜叉神天衣も同じように、或いはそれ以上に己の身に刻み込んだという事。

 そこに至るまで一体、どれだけ八一の棋譜を並べ、指したのかは分からない。

 

 ──ただ言えるのは、夜叉神天衣のその魂は、九頭竜八一によって構成されている。

 

 想いが時間と必ず比例するとは言わない。雛鶴あいのように、僅かな間で深く想いを募らせてた少女を知っているから。

 だけど、想いというモノはナマモノだ。時間を掛ければ掛けるほど、それは熟成する。熟成した想いは行動に現れる。

 

 私のように対等の立場になる為に力をただひたすらに追い求めるようになったり、或いはただ傍にいる為に後を追い続けるあの女狐だったり。

 

 なら、夜叉神天衣の取る行動は──

 

『──邪魔するわよ』

 

 ネット中継を流していたスマホから、突如聞き覚えのある声が聞こえた。自信に満ち溢れた、強く通った声。

 放り出していたスマホを慌てて手元に引き寄せ、画面を食い入るように見る。そこには前回のようにJS研の子ども達はおろか、小童の姿もない。いるのは、ただ一人。

 

 流れるコメントは動揺を示す言葉、或いは可愛い、などといったものが大量に流れている。

 聞き手を務めていた鹿路場珠代は目を大きくして驚き、八一は情けなく口を大きく開けてぽかんと立ち尽くしていた。

 

 

『宣戦布告をしに来たわ』

 

 

 そこには腕を腰に当て、堂々と立つ夜叉神天衣の姿があった。

 

 

 

 



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二十二話 夜叉神天衣の宣戦布告

「ししょー、また鹿路場先生にプリン食べさせてもらってる……」

 

 あいを含めたJS研の四人とその付添の清滝桂香。そして私に付き添う晶と共に前回と同じく、東京の将棋会館近くにある煉瓦作りの小洒落たレストランで食事をしていた。

 値段相応の味のまあ悪くはないステーキを食べ終えて食後のデザートを待っている中、スマホを持つ手をわなわなと震わせながらあいの口から怨念のような声が漏れた。

 

「あれ? でも前よりはデレデレしれないような……あっでも目がなんかやらしい! やっぱりあいが行かないと!」

「落ち着きなさい、あい」

 

 椅子から立ち上がり今にも飛び出しそうになるあいを制止する。

 どうにもこの子は彼の事となると冷静さを失う傾向がある。ただ、その執着こそがこの子の持つ強さにも繋がるから、一概に悪いとは言えない。

 流石に前回に比べるとまだ落ち着いているだろうけど、やはり彼が他の女にそういった視線を向けるのは我慢ならないようだ。

 

 ……まあ、私も面白くはないけど。 

 

「……天ちゃん?」

「あなた、前に突撃してどうなったか覚えてないの?」

 

 首を傾げるあいに嘆息する。どうやら気付いていないようね。

 私たちにとってはある意味、あの空銀子以上に脅威になりえるのに。

 

「ほらあの子よ、あの子が全部かっさらって行ったじゃない」

 

 今も無邪気に口元にソースを付けてお肉を食べる金髪の外国人ロリ。シャルロット・イゾアールを指す。

 脳裏に浮かぶのはあの子が彼の頬に口付けをしたあの光景。

 当時は呆れて見ていたけど、今の私があれを見て平静でいられる自信は正直あまりない。

 

「ッ!?」

 

 あいも同じようにあの光景を思い出したのか、ハッとした表情で我に返った。

 今にして思えば、ネット中継の中であんな真似をするなんて無邪気というのは本当に恐ろしい。

 お陰で私の師匠はあの日を堺にネットじゃ異常性癖の疑いが更に強まった。

 ……本当に無邪気なのかしら。まさか、わざとやってないわよね? 

 

「前みたいに下手に全員で攻め込むのは悪手よ」

「た、確かに……」

「それに、あなたはそんな事に時間を割いてる暇はないでしょ」

「……分かっているよ天ちゃん」

 

 最初は多少の変化があると踏んでいたけど、結局マイナビ戦の対局相手は前回と全く変わらなかった。

 なら、これから私が当たる相手も恐らくは同じ。

 そしてあいがこのマイナビ戦で当たる相手も。

 

 《捌きのイカズチ》──祭神雷(さいのかみ いか)

 

 才能だけなら、あの空銀子をも上回るのではないかと噂された異才。

 時にはプロ棋士すらも下すあの怪物は、今の私たちでも……いや、今の私たち(・・・・・)だからこそ、脅威となる存在だ。

 祭神雷は相手が強ければ強いほど、その才能の真価を発揮するとかつての時に彼から聞いたことがある。

 あの当時のあいが勝てたのは、私から見ても本当に奇跡だと思う。

 奇跡は二度は起きない。将棋の神様とやらがいたとしても、そいつの起こす気まぐれはきっと一度きりだ。

 今のあいは、あの時に比べて遥かに強い。

 だからこそ、あの女は慢心せず今度はその牙を惜しみなくこの子に振るうだろう。

 

「彼へ捧ぐ”贈り物”は今回も同じ。そうでしょ?」

 

 そう訪ねると、あいは闘志を宿した眼で静かに頷いた。

 あの時の、私たちが初めて指した時を思い出す、強い意志の籠った眼だ。

 

「そうだよね。ししょーの為の、最高のプレゼントを贈らないと」

 

 もうすぐ十七才の誕生日を迎える彼に向けた、私たち弟子が用意できる最高の誕生日プレゼント。

 東京に来る前にあいと二人で話し合ったけど、やっぱりプレゼントは前と同じものを贈る事になった。

 これから訪れる厳しい戦いで、彼が安心して指せる為の私たちのエールを。

 だから、あいには万が一にも負けてもらっては困る。

 

「……行くわよ、晶」

「天ちゃん?」

「お嬢様? 行くってどちらに……」

「天衣ちゃん、まだデザートは来てないわよ?」

 

 立ち上がった私をあいと晶が怪訝そうに首を傾げ、清滝桂香は困ったような表情を浮かべる。

 席に残るJS研の子たちとも似たような反応だ。

 

「間抜け面を晒す師匠の元によ。安心しなさい、あい。彼には私が言ってくるわ」

 

 彼に贈る勝利を絶対のものにする。その為には手段は選ばない。

 祭神雷を確実に仕留める為に、もう少しだけあなたにお節介してあげるわ、あい。

 きっとこの方法が、あなたを一番焚き付けられるでしょう? 

 

 ──あとはついでに宣戦布告も、ね。

 

 

 

 

 

 

 

 どんなに甘えても、どんなに触れ合っても、私は彼にとって空銀子のような存在にはなれない。

 

 あの女と彼の繋がりの深さというモノを、同じ時間をやり直して改めて実感させられた。

 私と同様にやり直したあの女が前回以上に彼と深く接しているのもあるのだろうけど、でも根本的にやはり違うのだ。あの女と、私を含めたそれ以外は。

 彼のあの女を見る目も、あの女と話す時の仕草も、あの女と手を繋ぐ時の表情も、何もかもが私の時とは違う。

 

 私はあの美しい白雪姫には決してなれはしない。

 

 嫉妬や羨望がないと言えば嘘になる。

 でも彼とあの女がああいった関係なのは仕方がないと頭の隅では理解していた。

 私にとっては物心付いた時から両親から知らされていた憧れの九頭竜くんだけど、彼にとって私は最近になって取ったばかりの弟子なのだから。

 それに、今の私は前の記憶もある。やはりそこに彼と私の互いの認識の差、或いは想いのズレがあるんだと思う。

 だけど、あの女は違う。私やあいと同じようにやり直しているのに、互いに認知し過ごした多大な時間のおかげで、私たちのような想いのズレは生じないんだのだろう。

 幼い時から二人で育ち、ずっと一緒に過ごし、切磋琢磨して指してきたあの女が他と違うのは当たり前だ。文字通りの家族なんだ、あの二人は。

 その過ごした時間の差は、そう簡単には埋め難い。

 

 ──もしかしたら、私はまた彼の一番になれないのだろうか。

 

 前以上に空銀子と仲睦まじい姿の彼を見てそう思う事が何度もあった。

 前は名前も知らないあの女を。

 そして今度は空銀子の手を彼は取ってしまうのか。

 私が手を伸ばしても、無駄なのだろうか。

 

 彼にとって私はまだ子どもで、弟子で、妹や娘のような存在で。

 だから、空銀子と同じようには見てくれないのだろう。

 

 何故、もっと早くに彼と出会わなかったのだろう。

 そうすれば、過ごした時間でも空銀子に負けなかったのに。

 どうせやり直すならいっその事、彼がプロ棋士になったその瞬間にお父様との約束通り、弟子にしてもらいたかった。

 

 そんな身勝手な我儘ばかりが頭をよぎった。

 余りにも都合のいい妄想だ。馬鹿馬鹿しい。

 そもそも、本来なら彼が名前も知らないあの女と結ばれた時点で、私は彼の一番になれなかった筈なのに。

 

 こんな想いをするなら、いっその事、彼の事なんて……。

 

 そう諦観しかけていた自分がいた。

 

 でも、そんな私の背中を押したのは、またしても彼だった。

 

 弱気になり、無意識に足を運んだのはお父さまとお母さまが眠るあの場所。

 だけど、そこには先客がいた。

 あの時と同じように彼がいた。

 お父さまとお母さまの眠る場所で、彼は私の事をどこか楽しげに話していた。

 

 将棋の事はもちろん、日常生活のことや、私と交わした些細な会話まで。

 ただただ、ずっと語り掛けていた。まるで本当にそこにお父さまとお母さまがいるかのように、ずっと。

 

 彼が時折、この場所に訪れていたと知ったのは、前回の時はもっと先の事だった。

 今でも脳裏に鮮明に残る、彼の姿とあの時の言葉。それが、目の前で重なって見えた。視界がぼやけて、気付けば涙を流していた。

 

 ──ああ、そうか。変わらないんだ。

 

 空銀子にばかり気を取られて、私はいつの間にか忘れてしまっていた。

 そうだ。確かに私は白雪姫になれはしない。空銀子と同じように見てはもらえない。

 

 でも構わない。そんなのは最初から必要なかったんだ。

 

 彼が私と話している時に見ていたのは何時だって私だ。夜叉神天衣だ。空銀子じゃない。私なんだ。

 だから、彼が私を見る目も、話す時の仕草も、手を繋ぐ時の表情も、違って当たり前なんだ。

 彼はまた、私に対して本気で家族として接してくれていた。

 想いを注いでくれていた。家族のぬくもりを与えてくれた。

 私たちが過ごした時間なんてまだ僅かだけど、そんなものはこれから積み上げていけばいい。

 空銀子と彼は確かに長い時間を過ごした家族なんだろう。

 

 だけど、私も九頭竜八一と家族なんだ。

 彼が幸せにすると誓って、抱きしめてくれた家族なんだ。

 

 ──だったら、私が成すべき事は決まっている。

 

  

「あ、天衣……?」

 

 私の姿を見て呆然と立ち尽くす彼に向かって堂々と歩き、そしてそのまま彼の傍に立つ。

 その間、カメラは私の姿をずっと捉えたまま放送を続けていた。

 

「えっと、この子は……?」

「夜叉神天衣、九頭竜八一先生の弟子よ」

 

 動揺した様子で疑問を零した鹿路場珠代に答えるように、カメラに向かって名乗りを上げ、同時に見せつけるように彼の腕に手を回した。

 その瞬間、モニターに映し出された中継映像は溢れんばかりのコメントが流れ、文字で埋め尽くされた映像は最早、生放送の機能を果たしていなかった。

 

「な、なんでここに……というか、宣戦布告ってなんだよ」

「私の師匠がネット中継で情けない顔を晒していたから我慢できずに来たのよ」

「えっ?」

「……視線よ、視線。バレてるから」

「なっ……」

 

 絶句する彼の脇腹を肘で軽くつつく。

 今はこれくらいで許してあげるけど、後であいの分までみっちりと話を聞こう。

 

「その、九頭竜先生? どうしたら……」

「な、なんかゲストって事でこのまま進行するみたいですね。えっとどうしようかな」

「私も聞き手を務めるわ。せっかく師匠が解説しても、それを理解できる人がいなきゃ意味がないしね」

「ッ!?」

 

 鹿路場珠代が一瞬だけ鬼のような形相で私を睨んできたが無視する。

 この女の本性は前の時に知っている。さっさと化けの皮を剥げばいいのに。

 それに事実を言ったまでだ。彼の解説の聞き手、というならばこの場で、いや棋士の中で私が一番適していると自負している。

 

 別に彼に色目を使ったこの女を煽ったようなつもりは決してない。

 

「え、えっと、そうだ天衣! 名前だけ名乗るだけじゃあれだし、ちゃんとした自己紹介をしようか!」

 

 私と鹿路場珠代の間に険悪な雰囲気が漂ったのを感じたのか、彼は誤魔化すように私にマイクを向けた。

 自己紹介、か。ちょうどいい機会が回ってきたものね。

 彼からマイクを受け取り、そしてカメラに向かって正面を向く。

 

「さっきも言った通り、私は九頭竜八一先生の弟子。そう、”一番”弟子よ」

 

 敢えて強調するように言い放つ。今頃、あの子はスマホを握る手をさっきよりも震わせているだろう。

 

「そうね……自己紹介、と言っても何を話していいのか正直分からないわ。だから、最近抱えているある悩みでも話そうかしら」

 

 口元に指を当て、悩む素振りをする。

 自分でしておいてあれだけど、かなりわざとらしいと思う。

 だけどそれでいい。これは所謂ただの前振りだ。

 

「悩み?」

 

 首を傾げる彼に頷きながらマイクを強く握りしめた。

 

「ええ。なんでも最近、私の師匠がネットで根も葉もない噂で勘違いをされているのよ」

「えっ、俺?」

「そうよ。例えば、あなたの姉弟子の空先生とお付き合いをされている、とか」

「!?」

「あとは山城桜花にも手を出している、とか」

「!!?」

「ついでに小学生の内弟子にも毒牙をかけた、とか」

「!!!!?」

 

 彼もどうやら噂に心当たりがあるのか、言葉を失っている。

 鹿路場珠代なんて最早ドン引きだ。モニターに投げるコメント欄も阿鼻叫喚となっている。

 

「そんな根も葉もない噂があると、正直弟子の私が困るの。あんな噂、全部出鱈目よ」

「そ、そうだよな天衣! そうだ! 良くぞ言ってくれた!」

 

 呆然としていた彼だったが、私がネット上の誤解を晴らそうとしていると分かった途端に活気づいた。

 

 そんな油断しきった彼の腰に手を回して、思い切り抱きしめた。

 

「えっ」

 

 呆けた彼の声が聞こえたが、そんなものは関係ない。

 

 空銀子、聞こえてるかしら。見ているかしら。

 あんたの事だから、どうせこの放送を今もどこかで見ているんでしょ?

 

「だから、今日この場ではっきりと言わせてもらうわ」

 

 きっと彼の心は、”今は”あんたが掴んでいるんでしょうね。でも構わないわ。

 今だけは特別に預けておいてあげる。あんたが座すその頂も、彼も。私が奪い取る日まで。

 だから、それまでせいぜいお姫さまを演じてなさい。

 

 今度こそあんたを斃す。今度こそ彼の一番になる。けど、それはもう少しだけ未来の話。

 だからこれは予言だ。いつの日か迎える事になる、私のハッピーエンドに向けた宣言だ。

 

「私の師匠は空銀子でも、山城桜花でも、内弟子のあの子のモノでもない」

 

 意地の悪い叔母がいようが、嫉妬深い姉妹がいようが、関係ない。

 シンデレラはね、最後は王子さまと結ばれるのよ。

 

「────九頭竜八一は私のものよッ!!」

 

 私は決して諦めない。将棋も、想いも。今回だけは絶対に。 

 だって、この諦めの悪さは、粘り強さは、

 

 ──私が初めて恋した師匠譲りのものだから。

 

 




随分と更新が遅れてしましました。


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二十三話

 目の前の光景が、ただ信じられなかった。

 

「よくやったな……本当に、よくやったよ」

 

 八一の声がした。溢れ出る熱を抑える事なく、ただ感情のままに絞り出した嗚咽混じりの声。

 人前でこんなに感情を顕わにする八一の姿に動揺を隠せなかった。

 あの時の、蔵王先生に負けた時の八一の姿を思い出す。まるで内弟子時代の時みたいに私を銀子ちゃんと名前で呼んで、泣きついたあの時を。

 

 ただ、あの時と違うのは、その涙の理由が悔しさから流したものではなく歓喜によって流れた事と、

 

 ────そして泣きつく相手が私ではない、という事。

 

「……天衣っ」

 

 八一が彼女の小さな体を包み込むように、両腕を回してぎゅっと抱きしめていた。

 あの日と同じ、純白を纏ったシンデレラは八一の抱擁をそのまま受け入れた。

 

 いや、同じなのはそれだけじゃない。

 この神戸の街を一望できる式場も、周りに集まった見知った顔触れも、そして私自身も、あの日と同じだった。

 シンデレラと白雪姫が互いに殺しあった、あのタイトル戦と。

 

「私が勝てたのはあなたのお陰よ──師匠(せんせい)

 

 夜叉神天衣も目に一粒の涙を浮かべながら、そっと八一を抱きしめ返していた。

 大事そうに、愛おしそうに、優しく彼の背中を握る夜叉神天衣は私が見たことのないような、愛情の籠った笑みを浮かべていた。

 

 ……なんだ、これは。

 

 目の前に広がる光景を脳が処理しきれなかった。

 頭がおかしくなりそうだ。これは、一体、なに?

 

 勝て、た……?

 何を、何を言っているの? こいつは。

 確かにあの日、私は夜叉神天衣の実力を認めた。その底力を。その才能を。

 彼女もまた、並大抵の女流棋士とは違う、才ある者だと。

 

 だけどそれだけだ。結局、勝ったのは私だ。勝ったんだ私は。

 なのに、なんで? なんで八一はそいつを抱きしめているの?

 なんで、そんな表情を浮かべているの?

 私にしか向けていなかった、その暖かな笑みをあいつに。

 

 まさか私が、負けたとでも、そう言うの……?

 あり得ない。そんな事、あり得る筈がない。

 私が、こんな、八一の前で、他の女に負けるなんて、そんな事……ッ!

 

「私の中に、あなたの将棋があったから、あなたの想いがあったから、最後まで指す事ができたの」

 

 未だに抱き合い、夜叉神天衣は八一の胸に額をこすり付けながら体を預けている。

 八一も、そんな彼女の頭を愛おしそうに、優しく撫でていた。

 

「ねえ、師匠(せんせい)、あの日の事、覚えている? 私が宣戦布告をしたあの日のこと」

「もちろん忘れる筈がない。衝撃的だったよ、あれは……正直、やりすぎだ」

「嫌だった?」

「最高だったよ」

 

 八一と夜叉神天衣はクスクスと二人して笑った。互いに微笑み合うその様子は、ただの師弟関係にはとても思えない。妹や娘と接するような、家族に向けるものとも違う。

 

 ああ、そうだ。私は、八一のこの暖かな笑みを見た事がある。

 

 あの日だ。私が八一と指した、夢の第一歩を踏みしめたあの日。

 そして同時に、私に好きな人ができたと告げたあの忌々しい日。

 

 あの時、八一が私に見せた、私がずっと追い求めていたあいつの笑顔だ。

 

「私の想い、伝わったでしょ?」

「ああ、それはもう十分に」

 

 何で、それを八一はまた他の女に見せるの?

 私じゃなくて、そいつに、夜叉神天衣にッ!

 

 これは、これじゃまるで……。

 

「俺も、同じ気持ちだ」

 

 そうか。分かった。これは夢だ。

 全部、全部、悪い夢なんだ。吐き気がするほどのふざけた悪夢なんだ。

 

 夢だから、目の前の八一はあんなふざけた事を言っているんだ。

 それなら納得がいく。私の八一がそんな事、あり得る筈がない。

 

 あんな想いを秘めた眼で私以外を見つめる筈がない。

 あんな熱の籠った声で私以外の名前を呼ぶ筈がない。

 あんな眩しい笑顔を私以外の誰かに向ける筈がない。

 

「天衣、聞いてくれ。俺も」

 

 だからお願い。夢なら早く醒めて。

 さっきから視覚が、聴覚が、全ての五感が、この夢をまるで現実かのように訴えてきている。

 そんな事はあり得ない。これは夢なんだ。

 拳を握りしめて手のひらに爪が食い込む痛みも、視界をぼやけさせる涙も、全部幻想なんだ。

 だから、だから、早く目を醒まして。

 

「俺も、お前が────」

 

 でないと、私は、私は……。 

 

 ─────────

 ──────────

 ────────────

 

 

「……えっと、何かありました?」

 

 前回と同じく私は釈迦堂先生と、八一は神鍋歩夢と研究を目的に、釈迦堂先生のお店へと出向くために原宿の駅で待ち合わせをしていた。予定の時間より少し遅れて現れた八一は申し訳なさそうな顔をして開口一番に尋ねてきた。

 どういう意味かと聞くと、不機嫌そうだとか、少し顔色が悪いだとか、そういった言葉が返ってきた。

 どうやら、顔に出ていたらしい。

 必死に忘れようとしていた今朝の夢が、八一の顔を見て再び鮮明に脳裏に蘇った。

 夜叉神天衣を愛おしそうに見つめ、抱きしめる八一の、あの悪夢が。

 

 あれを下らない夢だと吐き捨てるのは簡単だった。あんなものは所詮はただの夢。

 昨日の馬鹿げた騒ぎを見て、脳が勝手に描きだした荒唐無稽な幻想だと。

 だけど、何故か、あれをただの夢だと割り切れない自分がいた。何か、妙な引っかかりのようなものを感じる。

 思い返すだけで悪寒がするあの夢はただの幻想ではないと、そう告げている自分がいる。

 

 ──あれは、本当にただの夢だったの?

 

 まるで目の前で本当に起きているかのように展開された現実味を帯びた光景。

 あの時、五感で感じたモノを果たして夢だと切り捨てていいのだろうか。

 もしかしたら、夢なんかではなくてこれから本当に起こりうる未来の──

 

「姉弟子?」

「……なんでもない。行くわよ」

 

 馬鹿な妄想をしそうになった私を八一の声が引き留めた。

 私の顔を覗き込む八一に思わず素っ気ない返事をしてしまい、誤魔化すように彼の手を取って目的地へと向かって歩き出した。

 

 

「あの、もしかして怒ってます? 昨日のあれ」

「……」

 

 互いに無言が続く道中。痺れを切らしたのか、不安そうな表情を浮かべながら隣で私の手を握る八一は立ち止まって私を見た。

 八一が指すあれ、とは何の事か直ぐに分かった。同時に今朝の夢がまたリフレインする。

 何とかそれを振り払おうと、八一の手を握る力を少しだけ強めた。

 こうして八一の手の温もりを直接感じていれば、あの光景をただの夢だと思う事ができる気がして、実際に少しだけ落ち着けた。

 

「あれはその、なんというか……天衣なりの冗談というか」

「八一はあの顔が冗談に見えた?」

「……まさか」

 

 肩を竦めるようにして八一は大きく息を吐いた。

 そういった異性の想いに対して鈍い八一とはいえども、どうやら昨日の夜叉神天衣の宣言に込められた並々ならぬ決意には思うところがあるようだ。今も複雑そうな顔をする八一を見ると、少なくともあのガキの言葉に戸惑いを隠せていない。

 無理もないか。九歳の弟子に自分のモノだと堂々とネット中継で宣言されたんだ。ある意味では前回以上に衝撃的だっただろうし。

 

「随分と大口を叩く生意気な弟子を育てたものね」

「き、棋士はそれくらいの気概があってこそなんで。それにほら、姉弟子もあれくらいの年齢で生石さんに殴り込みに行ったじゃないですか」

「憶えてない」

「ええ……絶対憶えてますよね? ほら。今みたいに手を繋いで京橋のゴキゲンの湯に堂々と殴り込みして二人揃って返り討ちに……」

「憶えてない」

「まあ、そういう事にしておきます」

 

 思わず出た内弟子時代の話題に暖かな懐かしさを感じた。八一も私と同じようにかつての頃を懐かしんでいるのか、口元を綻ばせている。

 その表情が、二人で一緒ならどこまでも強くなれると信じていたあの時に私に向けた無垢な笑顔と重なって見えて、さっきまで感じていたあの夢への不安は、気付けば胸の内から消えていた。

 

「それにしても、昨日のあれであんたも一気に有名人になったね、ロリ王」

 

 気分が軽くなったので、今日遅刻してきた弟弟子の制裁としてからかう。

 繋いだ手を離すのは嫌だったので、肘で八一の横腹を軽くこずいた。

 

「や、やめてくださいよ。その呼び名、マジで最近は洒落にならなくなってきてるんですから。それに一応、竜王なんで元から有名人ですよ」

「ロリコンとしての方が知名度高そうだけど」

「そ、そんな筈は……」

「あんなのを見せつけられたら誰でもそう思うわよ」

「ぐっ……」

「だいたい何よ、山城桜花にも手を出したって。あんた、まさか万智さんにも……」

「違いますよ! あれは根も葉もない出鱈目だから!」

「あれは、って事は内弟子に毒牙をかけたのは本当って事?」

「だから違うって! 揚げ足取りは止めてくださいよ!」

「どうせ小童からも追求されたんでしょ? 昨日のあれ」

 

 あの小童の事だ。昨日のあれを見せつけられたら、怒り狂って八一を問いただす姿が簡単に想像出来る。それどころか、夜叉神天衣にも激しい嫉妬心と敵意を剝き出しにするだろう。

 ところが、私の予想は真逆の答えが八一から返ってきた。

 

「いや、俺もそうなると思ったんですけど……なんか昨日は意外と大人しくて。俺が東京にまだ残るって伝えても素直に返事して、先に戻って次の対局に備えるって言ってましたね」

「えっ?」

「まあ、あいなりにマイナビ戦に集中しているって事なんだと思いますよ。出来れば俺も傍に居てあげたいんですけどね」

 

 どういう風の吹き回しだろうか。あの小童が動きを見せないなんて。

 八一の言う通り、大会に集中しているのだろうか。小童なら今回のマイナビ戦でも難なく勝ち進める事は出来るだろうけど前回通りに進めば、あの祭神と当たる事になる。小童も全力で迎え撃つ準備をしている可能性はある。あれは今の小童でも決して油断できない相手だ。

 

「そうだ、今日戻る時は何かあいにお土産でも買って帰えろう。あいなら何が喜ぶかな。どうせなら天衣にも何か買ってあげるか」

 

 口元を緩めながら呟く八一の姿は本当に楽しそうに見える。

 改めて思ったけど、今回の八一は前以上に弟子馬鹿になっている気がする。何かと甘いというか甘やかしているというか。将棋の指導は勿論、手を抜く事はないのだろうけど、それ以外の部分に関しては随分と骨抜きにされている。指し直しをしたあの二人の策略がここに来て盤面に現れてきているのか。

 思わず、ある懸念を抱いてしまった。

 

「八一」

「なんです? あっ、そうだ。姉弟子ならお土産に貰ったら何がいいです? 大阪なら豚まんが割と安定なんですけど、東京のお土産となると中々……」

「……あんたが前に言ってた好きな人って、まさか本当に小学生じゃないでしょうね」

 

 内心、緊張しつつも疑惑の目を向けて尋ねると八一は吹き出した。

 

「そ、そんな訳ないでしょ!! あの子達まだ九歳ですよ!?」

「でも八一ってロリコンじゃない」

「違うって言ってるでしょ!? なんであんたはそう、人をロリコンにしたがるんだよ」

 

 ……どうやら違っていたらしい。とりあえず弟弟子が異常性癖でないと分かり、ほっと安堵に胸をなで下ろした。ここまで全否定だと逆に怪しい気もするけど、今は八一の言葉を信じてあげよう。

 けど、一つ疑問が解けると更なる疑問が湧いてくる。

 ここで聞いてしまうか一瞬、躊躇ったがそのまま続けて問いただした。

 

「……じゃあ、誰なの」

「誰って?」

 

「八一の……好きな人」

 

 八一は目を丸くして私の顔を見た。

 まるで、信じられないものを見たと言わんばかりの顔だ。

 当然か。今の八一からしたら、きっと私がこういった質問をする事自体が意外だとでも思っているだろうし。

 

「えっと……」

「誰?」

「ま、マジで言ってるんですか?」

「どういう意味よ」

 

 冗談でこんな事を聞いているとでも言うのだろうか。

 そう尋ねると、そうではなくて、と言葉を濁しながら八一は首を横に振った。

 

「いや、その……分かりませんか? 前に言ったあれで」

「何言ってるの。あんた、好きな人が出来たしか言ってないじゃない」

「……」

 

 八一はさっきよりも目を見開きながら、一瞬だけ固まった。

 まるで対局時に相手に想定外の手を指されたかのような表情だ。

 

「……まさか伝わってないの? ぼかし過ぎたか? いや、でもあんな露骨に本人に言って気付かないなんて、そんな……でもこれじゃ……」

 

 棋士らしい思考の切替の速さなのか、固まった後に瞬時に口に手を当てて何やらブツブツと呟きだした。

 どうやら八一からすればあの言葉だけで私が八一の好きな人が誰か察せる事が出来ると思っていたようだけど、さっぱり見当もつかない。

 いくら長年の付き合いとは言え、あれだけで察しろなんて無茶がある。八一の考えが読めないのは将棋だけで十分なのに。

 

 その後も釈迦堂さんのお店に着くまで八一に何度も問いただしたが、返ってきたのは困ったような顔をしながら放った濁した言葉ばかりだった。

 

 

 

 



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二十四話 雛鶴あいは火を灯す

「珍しいな、銀子が時間より遅れて来るとは」

 

 竹下通りから入ったアンティークショップの並ぶ静謐とした脇道。

 石畳が敷かれたその道を進み、暫くしてたどり着いた協会に似た古い建物の扉を開けると釈迦堂先生が玉座の思わせるような仰々しい装飾のされた椅子に腰掛けながら俺たちを出迎えてくれた。

 そんな釈迦堂先生に慌てて頭を下げた。道中、何度もしつこく『俺の好きな人』について問いただしてきた姉弟子にどう答えたものかと四苦八苦している内に予定の時間よりも遅れて到着してしまったのだ。

 遅刻の原因は姉弟子ではなく俺にある。

 

「釈迦堂先生、姉弟子のせいじゃないんです。初めて来た俺が一緒だったせいで少し遅れてしまって……」

「ふむ。確かに大通りから離れた場所だからな。初見では迷うのも致し方あるまい」

「すみません……」

 

 別に道に迷った訳じゃない。だけど道中の出来事を馬鹿正直に話すと揶揄われるのが目に見えているで黙っている事にした。

 

「よい。若き竜王よ。それよりどうかな? 我が城に訪れた感想は」

「歩夢から聞いてはいたんですけどなんて言うか……凄いですね。想像以上というか」

 

 普段は服やアクセサリーを販売したりファッションショーのイベントやカタログ用の写真撮影などの会場として幅広く展開している服屋だと聞いてはいたけど、正直想像以上に凄かった。服屋というよりは釈迦堂先生の言うように『城』という表現の方がしっくりくる。

 若者向けの賑やかな竹下通りから一つ道を逸れるだけでこんな『城』が佇んでいるのは何とも不思議な感じだ。そんな場所に違和感なく溶け込んでいる釈迦堂先生も流石は『エターナルクィーン』と言ったところか。普段は派手派手しい恰好をしている歩夢もここでなら様になるかもしれない。

 

「気に入ってくれたようで何よりだ。今度は店の客人として是非とも訪れてほしい」

 

 店の客として、か。でもここのファッションってゴスロリ系か歩夢が着てるような派手な服ばっかなんだよな。服装にこだわらない俺でも流石にに似合わないくらいは自覚しているし、もし行くならあいを連れてかな。姉弟子は流石にここの服は着そうにないし。というか普段私服殆ど着ないもんな姉弟子。

 そんな吞気な事を思い浮かべているとクツクツと釈迦堂先生が喉を鳴らしていた。何だろう。妙に嫌な予感がする。

 

「別に服だけではないさ。此処は色んなイベント会場としても貸出をしていてね。例えば───結婚式場とか」

「「ッ!?」

 

 気付いた時にはもう遅い。楽しそうに笑う釈迦堂先生の視線は未だに繋がれたままの俺たちの手に向いていた。 

 

「え、あ、その……これは」

 

 何とか言い訳をひねり出そうとしたけれど上手く言葉にできない。

 迂闊だった。ここ最近はあまりにも姉弟子と手を繋ぐ事が多いせいか繋ぐのが自然になっていた。それが店に入ってからもそのままだったんだ。

 指摘されて顔が赤くなる。隣の姉弟子の顔を覗き見ると俺と似たような反応だ。むしろ肌が白雪のように白い姉弟子の方が頬が赤くなる様が目立っている。

 もう手遅れだけど流石にこのままでは不味いと慌てて離そうとしたけど指を絡めていたせいで咄嗟に離す事が出来なかった。

 

「あ、姉弟子?」

「…………」

 

 というか姉弟子がさらにぎゅっと握ってきて離してくれなかった。え、な、なんで……。

 

「うむ。二人の良好な関係も知れたところで、そろそろ本来の目的に移るとしようか。」

 

 満足そうに頷く釈迦堂先生を直視できない。俺達は赤くなった顔を逸らした。

 

 ◇

 

 雛鶴あいは将棋盤の前に正座をしながら静かに瞼を閉じていた。

 普段は愛しの師匠と盤を挟み小気味のいい駒を鳴らす音を耳にしながら指していた畳部屋に今は一人でぽつりと盤に向き合っていた。

 決して広いとは言い難いこの部屋も一人では何故か普段よりも広く感じた。いつも二人だったから。いつも傍にいてくれたから。二人での生活が当たり前で、それが日常だったから。

 師匠がいない。それだけでこの部屋はこんなにも静かなのだ。

 師匠がいない。それだけで雛鶴あいはこんなにも孤独なのだ。

 憧れの人がいない。愛しの人が傍にいない。それはあまりにも冷たく心細く寒気がするほど恐ろしい。

 ああ、この孤独こそがあの『結末』なのだ。どこの馬の骨とも分からない女に彼を簒奪されたおぞましい未来がこの孤独なのだ。

 

 故にこの孤独は雛鶴あいの闘争心を研ぎ澄ます。もう二度と手放さないと牙と研ぐ。

 

 雛鶴あいにとって九頭竜八一は眩い太陽だ。只々、己にとって変わる事のない絶対的な存在だった。

 あの日の事を雛鶴あいは今でも鮮明に思い浮かべる事ができる。九頭竜八一が最年少竜王という棋界にとって歴史的偉業を成し遂げた姿を、太陽の如き存在を。

 瞼の裏に映るのは己が師匠となる当時の彼の姿。歯を食いしばり、必死になって盤に向かう僅か十六歳の少年にあいは心打たれた。

 

 人は、ああも何かに熱中できるのか。

 人は、ああも何かに夢中になれるのか。

 人は、ああも何かに己を捧げられるのか。

 

 盤上に刻まれた線と駒が描き出した自分の知らない未知の世界。

 その世界に命を、魂を賭す九頭竜八一の姿は、あまりにも眩かった。あまりにも熱かった。

 彼の照らす熱は幼いあいの心に小さな、だけど確かに燃える火を灯した。

 

 ────この火こそが、恋なのだと知った。

 

 私もあの人のように成りたい。私もあの人のように在りたい。

 火を宿したあいの行動力は凄まじかった。

 

 親元を離れ、遠く離れた地に住む彼に一人で会いに往き、そして弟子入りを果たした。

 嬉しかった。彼が自分を認め、弟子にしてくれた事が。

 自分を連れ戻しに来た両親に頭を下げ、己の人生を賭してまで説得してくれた事が。

 認めてくれたのだ。恋焦がれた彼が、まだ何も持たない小さな自分を。それが堪らなく嬉しかった。

 九頭竜八一にとって唯一の弟子。

 九頭竜八一が認めてくれた己の才。

 それらは雛鶴あいにとって自信でもあり、同時にアイデンティティへと変異していった。

 そして彼もまた、自分が必要だと言ってくれたのだ。あいのお陰だと彼は笑って頭を撫でてくれた。嬉しかった。堪らなく満たされた。

 その時から、雛鶴あいは彼にとって自分は特別な存在なのだと思うようになった。心に宿した火は更に燃えあがった。

 幸運な事に将棋の神様が自分に授けてくれた才能は他よりも抜きん出たものだった。

 眩い彼の元に自分と同じように熱に当てられ、引き寄せられた人間がいるのは至極当然のことである。九頭竜八一の周りには強く輝く才を持った者があまりにも多すぎた。

 それこそ生半可な才能では塗りつぶされてしまうような極彩色の輝きを持つ天才たちが彼に集っていたのだ。

 

 多くの天才たちとの出会いがあった。その中でも雛鶴あいにとって大きく衝撃を与えたのが二人。

 

 自分と同じく彼の弟子で同じ年で自分と同等以上の才能を持ち、そして同じように彼に想いを寄せる少女、夜叉神天衣。

 彼女は憧れであり、友人であり、ライバルであり、同門という名の家族でもある。あいにとって夜叉神天衣は『負けたくない』棋士だ。

 

 そしてもう一人。どれだけ追いかけても追いつけない。どれだけ手を伸ばしても掠りもしない。自分達の先を征く少女。師匠と同じく場所に並び立とうとする唯一。

 雛鶴あいが『勝ちたい』と願う相手。自分の愛する師匠にとって特別な人。

 

 空銀子。彼女に抱く感情は出会った時から今に至るまで何も変わっていない。

 

 狡い。ずるい。ズルい。只々、溢れんばかりの嫉妬心だ。

 彼と年が近く産まれた事に。彼と幼少期からの幼馴染である事に。彼とずっと指し続けてきた事に。彼と同じ場所に征ける才能に。

 そして何よりも、異性として彼に愛されている事に。

 なんて妬ましい。なんて羨ましい。自分が欲するものを彼女は最初から全て持っていたのだ。その居場所を関係性を信頼を。

 本当は分かっていた。分かっていて、だけど見ない振りをしていたんだ。彼が向ける言葉や仕草、表情が自分とは違う事に。特別な人に向ける其だととっくに気付いていた。或いは出会った時から分かってたのかもしれない。

 それなのにあろう事か当事者たちは何も気付かなくて、だから自分も気付かない振りをしたんだ。このままが続けばとりあえず師匠は自分の傍にいてくれると信じて。

 そうして道化を演じている内に胸に宿っていた火がいつの間にか小さく弱々しいものになっていた。

 諦観していた。どうせ彼女が選ばれると、心の何処かで思っていた。

 だからこそ、あの結末は受け入れられなかった。受け入れられる筈がなかった。

 

(……目が醒めたよ。天ちゃん)

 

 哀れな道化が願った拒絶を酔狂な誰かが聞き届けてくれた想像もしなかった二度目。

 再び彼の傍で過ごせる微温湯のような環境で雛鶴あいは大事な物を忘れていた。それを夜叉神天衣が先日の宣戦布告によって思い出させてくれたのだ。

 

 勝ち取りたいと願うただ純粋な闘争心。

 

 白雪姫へ叩きつける挑戦状。だが、その前に乗り越えなければならない障害がある。必ず勝たなければならない女がいる。

 

(あの人は強い。多分、今の私よりも)

 

 当時、祭神雷(さいのかみ いか)に勝てたのは奇跡だ。あの時は彼女が慢心をしていたから。自分を嘗めていたからだ。

 今度はどうだろうか。必ずしもあの時と同じ歴史を繰り返すとは限らない。

 付け入る隙を見せず、あの異才の牙が今度は最初から容赦なく襲い掛かるかもしれない。

 

 ───だけど、それがどうした。

 

 自分より才能がある人を知っている。遥か遠くの星に征こうと藻掻く人を知っている。

 苦難の道を自ら選び歩んだ白雪姫。最初に指した時は、ただ強い人だとしか思わなかった。

 だけど、己が強くなればなるほど彼女の才を否が応でも思い知らされた。そして師匠と指す度に彼女が目指す先の途方のない道程に恐怖した。

 師に打ち勝つ事が師匠に対する最大の恩返しだと、かつての頃に彼から聞いた事がある。

 それを聞いて、自分にはきっとその恩返しをする事はできないと諦観していた。

 全く思い浮かばないのだ。あの憧れの彼に勝つ自分の姿が。

 空銀子のような卓越した才能と狂気とも呼べる想いがあって、ようやく踏み入る事が許されるその場所に自分は辿り着ける気がしない。

 

 だが、それでも。それでも勝ちたいのだ。空銀子に。

 

 棋士としては当然のこと、それは女としての意地だ。あの美しい白銀に食らいつく為にもう諦めない。

 その為に牙を研ぐ。その為に祭神雷(さいのかみ いか)『程度』には負けられない。こんな所で立ち止まる訳にはいかない。

 

「こう、こう、こうこうこうこうこう……」

 

 瞼の裏に描く無数の棋譜。九頭竜八一と指してきた全てを読み解き吸収し己が糧としてきたそれを最適化していく。

 

 不安にならなくてもいい。何も変わらない。今度も勝利を師のために捧げよう。大きな戦いを控える彼を安心して送り出せるように。

 あの日、己を魅してくれたような将棋を、大好きな彼に届けよう。

 それが雛鶴あいにとってできる最大の師への恩返しであり、想いの告白なのだから。

 

 もう一度、九頭竜八一の元で将棋を指したい。

 空銀子に言った『指し直し』をした自分の目的。

 

 心に再び、火が宿った。

 今度は決して消えはしない、強く、熱く燃え上がる炎。

 

 

 

 

 



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