真・恋姫†無双~程遠志伝~ (はちない)
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第1章 黄巾党編 黄巾党編 第一話

はじめまして、はちないと申します。
この作品には原作とは異なる展開が多くあります。オリジナルキャラもかなり出てきますので、お気を付けください。






 そろそろやるか、と程遠志が言った。程遠志の隣にいる鄧茂はにやにやしながら頷き、妙に堂々と立っている張曼成も「応」と返した。目の前にいる口元に髭を蓄えた男は、これから起こることを夢にも思っていないだろう。程遠志の両手が、自然と頭に伸びた。黄巾を、ぎゅっと主張するように、強く締める。
  緊張していないのは、程遠志だけだった。鄧茂は余裕そうに振舞いながらも頰から汗が噴き出していたし、張曼成の野太い声は自らの心中を察せられないためだ。
  それらを全て程遠志は理解していたが、敢えてそれに対して何も言わなかった。激励も指摘もしない。
  いずれ慣れる、とだけ、心で呟いた。慣れれば、誰でもできるようになる。仕事や、戦闘や、性交と同じだ。迷いや緊張はいつの間にか取り外されて、残るのは機械的で事務的な冷たい動作だけになる。それを、彼らもそろそろ知る頃だろう。
  程遠志は立ち上がり、歩き出した。それに合わせて、二人も続く。

「止まれよ」

  程遠志は何気なく言った。
  怪訝そうに振り向いた男は、程遠志の顔を見て、出し抜けに殴られたような表情になった。程遠志の容姿が五割、頭に付けた黄巾が五割と言ったところだろう。その後ろに、さらに二人の男が続いているのを見て、一気に逃げ腰になった。

「おまえなあ、この娼館に誰の許可を持って入ってんだよ。ちゃんと料金、払ってる?」
「り、料金は、中の受付で払った」
「なんだよ受付って。知らねえよ。いちゃもんつけられた、とか思ってんのかよ。喧嘩でも売ってんのか」
「ち、違う」

  程遠志の顔には、二本の大きな傷がある。ただでさえ人相が悪いというのに、その傷によってひどく強調されてしまい、黄巾の仲間内でも彼に気安く話しかけられる者は多くない。それが一般人ならば、言わずもがなである。
  髭を蓄えた気障な男は、呆然と固まっていた。

「逃げる気なの」
「顔、覚えたからな」

  鄧茂と張曼成も、程遠志の後ろから言葉を飛ばした。こいつら演技下手だな、と一瞬、程遠志は笑ってしまう。

「娼館の受付の人を呼んでほしいんだが」
「おまえは、俺を疑ってるのか?」
「そう言うことじゃない!  一回、一回、確認のためだ」
「あのなあ」

  程遠志は、男へさらに一歩踏み出した。それは逃げ腰の男を硬直させ、さらに緊張させた。
「娼館の女がよ、黄巾と関係してます、なんて正直に言うわけねえだろ。ただでさえお上に届け出もしてねえ店なんだ。裏に俺たちみてえなのがついてねえわけねえだろ」
「それは……」
「別に、おまえを中に戻してもいいが、素直に金を払ったほうがいいぜ。中に戻ったところで、受付嬢に無視されて、出禁になって、泣きながら出てくることになるだけだ。その時は店に迷惑かけた代金も、追加で払ってもらうことになる」
「…………」

  鄧茂がにやにやしながら手を前に出した。財布を出そうか出すまいか逡巡している男だったが、後ろにいる張曼成が刀に手を掛けたのが目に入ると、慌てて財布を取り出した。
  少しだけ、程遠志は顔をしかめる。

「金、全然ねえじゃねえか」
「必要以上のものは、危ないことに巻き込まれない対策として、持ち歩かないんだ」
「嫌味かよ。まあ、それだけでいいや。寄越せよ」

  仕方なさげに、男は財布から金を取り出した。おいおい、と程遠志はそれを制止する。

「違えよ馬鹿。そんな端金いらねえよ」
「え?」
「財布寄越せよ。売るから」

  男は顔を固くした。
  問答無用、とばかりに鄧茂が財布を奪い取る。相手はもう、それに逆らう度胸も勇気もないらしかった。「対策するなら、もっと安物の財布を持つことにしろや」と程遠志が言葉をぶつけると、男はかなり、落ち込んだ様子を見せた。





「なあ、案外簡単だろ」

  程遠志は、馬を巧みに操りながら怒鳴るような言った。馬上での会話は、ぼそぼそとした小さい声ではお互いに聞き取れず、普段は声を荒げることのない彼も、仕方なく叫ぶように言う。

「まあ、確かに、楽だったけど。程遠志が適当なことを堂々と言うから、ちょっとビビっちゃったよ」

  鄧茂は、悪戯っぽい笑みを頰に貼り付けて言った。「ビビった」や「ブルった」という言葉を滅多に使わない彼が言うのだから、多分ちょっとではないのだろう、と程遠志は思った。

「あの娼館と、なんも繋がりなんてないんでしょ?」
「そりゃ、当たり前だ。ハグレ者の俺たちにそんなコネなんて存在しねえよ」
「それでよくあんなこと言えるなぁ」
「言うだけタダだ。迷惑受けるのはあの娼館なんだから、どうだっていい」
「流石、性格悪いねあんた」
「あの娼館だってお上に隠れて営業してる悪質な店だし、そこを利用する客も客だ」

  正当化するなあ、と鄧茂は軽口を叩いた。

「ああ、そうだ、張曼成。お前よ、刀抜くのはやめてくれよな。思わず顔しかめちまったよ」
「駄目だったか?」
「あくまでイチャモン程度だったらよ、見て見ぬ振りして誰もお上に届け出を出そうともしねえけど。刀抜いたら周りの注目浴びて顔も覚えられるし、流石に問題にもなるよ。もうあの村には行けねえな」
「それは、悪い」
「別にいいよ。あのおっさんから奪った財布が思ったより高値で売れたからよ。当分はこんなことしなくていい」

  程遠志はゆっくりと馬に体重をかけた。馬の鳴く声が、木霊する。

「なんで、仲間たちに声かけなかったの?  そのほうが楽じゃない?  程遠志も、僕もある程度の軍を動かす権限くらいあるんだし」
「馬鹿。三人だからいいんだよ。百人、二百人も集めて行ったら、流石にまずい。黄巾をしないで行くのも面子的にできないし、発見されて待ち伏せされるかもしれない」
「大人数なら待ち伏せされても蹴散らせるんじゃ」
「おまえらはよ、黄巾党を強く見過ぎだよ。お上の軍勢になんて、そう簡単によ、勝てるもんじゃねえからな。少人数で正解だよ。それも、三人ってのがいい」
「どうして三人?」

  鄧茂は不思議そうに首を捻った。
  女みてえな顔してるな、と程遠志は思う。自分の顔とは真反対もいいところだ。

「二人なら、最悪の事態に備えられない」
「最悪の事態?」
「狙った獲物に護衛がいたとか、実は強かったとか。要するに、不慮の事態だな。二人じゃ生き残れるかどうか怪しい」
「それだから三人がいいって?  四人じゃ駄目なの?」
「縁起が悪いだろ、四ってのは」

  当たり前だろ、と程遠志が言うと、鄧茂と張曼成は少し笑った。合理的で冷徹な彼が時たま、風水や縁起を気にするのは、とても人情味溢れていてどこか可笑しい。

「五人は駄目なの?」
「五人以上はよ、致命的な欠陥があるんだ」
「なに?」
「俺にはそんなに、友達がいねえんだ」

  肩をすくめて言うと、鄧茂は噴き出した。張曼成も程遠志に合わせるように「俺もだ!」と言うと、その笑いはさらに大きくなった。





  と、上機嫌だったのは少し前のこと。
  嘘だろ、と程遠志は言った。なぜこのような状況になってしまったのか、殆ど彼は理解できていなかった。唯一理解できたのは、金が入ったからちょっと高い店でも入ろう、なんて考えた、自分の浅はかさが原因だった、ということだけだ。
  兵士募集、と書かれたチラシの下で、背筋を伸ばして飯を食べている青髪の女がいた。その女こそが、程遠志の体を震えさせている原因である。

「強いのか、あの女」
「強い、なんてもんじゃねえよ、張曼成。化け物だ化け物」
「でも、僕たち三人だよ。最悪、さっきのことがバレても逃げるくらいはできるんじゃ」

  鄧茂の言葉に、程遠志は目をぎょろりと剥いた。彼のその容貌は、友人の鄧茂をも少し後退るほどの迫力があった。

「五秒だな。俺たちがここで、剣を抜いて襲いかかったとして、全員五秒で死ぬ」
「冗談だろ」
「間違いないと言い切れるね。それがわかったら、もうあの女に目を合わせるのはやめろ」
「俺たちと目が合うくらい大丈夫だろう」
「昔、あの女と戦場で会ったことがあるんだよ。俺は木っ端みたいなもんだったが、もし覚えられてなんていたら、怪しまれるだろ」

  目を大きくさせて言うには、随分と臆病な言葉だった。鄧茂と張曼成は少し驚き、苦笑する。先ほどまでの、指導者面をした程遠志はもうここにおらず、怯えた人相の悪い男がいるだけだった。
  程遠志は昔のことを思い出している。青い髪の女―――名を、夏侯淵といったか。黄巾をつけた仲間たちを、弓で容易く撃ち抜いていた。縦横無尽というか、鎧袖一触というか。その姉はさらに強い、なんて噂を聞いたとき、程遠志は武における自信を喪失したものである。
  そんな女が、目の前にいるのだ。落ち着けるわけがない。

「お前ら、早く飯食え。帰るぞ。もう二度とこの店には来ねえ」
「折角のご馳走なのに?」
「鄧茂、黙れ。俺はよ、あの女と同じ空気を吸ってるってだけで、気が滅入っちまうんだよ」
「アンタ、意外と臆病なんだね」
「好きに言えよ」
「おい、程遠志」

  そこで、張曼成が少し慌てた様子で話しに入ってきた。

「あの女、見てる」

  何を、とは聞かなかった。程遠志がとった行動は非常に簡単で、簡素なものだった。まだ残っている膳を前に突き出し、立ち上がって、自然と外へ歩き出す。
  つまり、逃走した。
  逃走、しようとした。

「おい」

  重心が後ろに倒された。転ぶ、と程遠志は思ったが、気づけば、何故か元どおり椅子に座っていた。
  横を向くと鄧茂、張曼成が阿呆面を晒していた。しまった、見る方が逆だ―――こんなことを考えている、程遠志自身も見るに耐えない程顔を歪ませている。横に誰がいるのか、誰が自分の身体を操ったのか。予想はできたし、声からも確信を抱いていたものの、それを信じたくはなかった。

「怪しいな、なんだ貴様らは」

  やはり、夏侯淵だった。
  ちらり、とそちらを窺って、程遠志はすぐさま目を逸らした。嘘だろ、やめてくれよ。泣きそうな顔になる。

「……そう言われましても」
「どうして逃げようとした」
「逃げようとなんてしてないですよ。ちょっと、その、なんていうかな。気分が悪くなって」
「気分が悪くなったら、逃げるのか」
「逃げてないですって。本当です」
「なら、どうした。疾しいことでもあるのか」
「―――いやいや。僕たちはなんも関係ないでしょ。絡まないでくださいよ」

  そこで、隣から鄧茂がそう助け舟を出すように言った。すると、程遠志はすぐに「お前は黙ってろ」とたしなめるように返した。

「わかりました」程遠志はそこで、何かを決意したような顔になった。「正直なことを話してもいいですか」
「なんだ」
「俺、一目惚れしたんです」
「はあ?」

  動物が鳴いたような、素っ頓狂な声が店内に響き渡った。夏侯淵も、鄧茂や張曼成も、全てが同じような顔をしていた。唖然、呆然。何を言い出したのだ、こいつは。
  驚くことに、先ほどまで泣きそうな表情を浮かべていた程遠志は、当たり前のようにいけしゃあしゃあとしていた。それは不正が露わになる寸前の政治家のような、ある一定限度を越えた時に現れる余裕にも見えたし、全く別のものにも見えた。

「それで、目が合ったと早合点して、焦って逃げようとしちゃったんです。すいません」
「一目惚れ、というのは……」
「貴女にです」

  程遠志の左腕、つまり夏侯淵からは見えない左半身は、ぶるぶると震えていた。それが武者震いのようなものではなく、単なる怯えなのだ、と鄧茂は理解した。理解すると、今の抱腹絶倒するような状況が、なにやらとても勇気溢れる場面に見えてきた。
 先ほど、髭を蓄えた男から金を奪った時などよりも、数倍以上、強面のこの男は緊張しているのだ。

「それを、どうして私に言う」
「言わねば、斬られたかもしれません」
「問答無用でそこまでする気などない」
「そうですか。それに、他にも理由はありますし」
「なんだ」
「疑われたくなかったからです、他ならぬ貴女に」

  程遠志はどこまでも続ける気らしかった。危ない状況下に置かれると、彼は暴走してしまう気があるのかもしれない。
  鄧茂は真っ直ぐ前を見る程遠志と、困惑した表情になっている夏侯淵を見て、口元を押さえた。程遠志の中では決して笑ってはならない、緊張する状況なのはわかっているが、なんとも可笑しい。

「とにかく」夏侯淵は外を指差した。この惚気じみた会話を早く終わらせたいらしい。「外に出て、話を聞かせてもらう」
「勿論です。何も怪しくないってこと、証明しますよ」


  堂々と胸を張って、程遠志は店から外へ出て行った。もう、逃走することなど一欠片も考えていない。このまま流れに身を任せることが、今の自分にできる最善の策だと、彼は確信していた。


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黄巾党編 第二話





 黄巾を軍馬の鞍に隠しておく習慣を持っていたことを、程遠志は神に感謝した。夏侯淵が彼らの持ち物を精査しても、出てくるのは財布に詰まった金だけだった。何故こんなに持っているのか、とも問われたが、給金を豪勢に使おうとした、と平然と返せた。
  それ以上怪しいものが出てこないのなら、夏侯淵も引き下がるしかない。念のため、と名を尋ねられたので、程遠志たちは本名をそのまま告げた。偽名を名乗るべきか、とも思われたが、唐突に偽名が思いつくほど彼らは頭が良くはなく、そこで変に黙り込んで再び怪しまれるほど馬鹿でもなかった。
  さて、それで、である。
  程遠志はむっつりと黙り込んでいた。帰りの最中、鄧茂と張曼成は突然告白した彼を揶揄ってやろうか、と企んでいたが、何も喋らなくなった程遠志の表情は、如何にも不機嫌である、と主張するようで、話しかけられなかった。
  馬上、三人の会話はない。鄧茂、張曼成が話しかけることができず、程遠志が黙り込むのだから必然的にそうなる。

「なんというか、まあ。不幸な出来事でしたね」

  口火を切ったのは、鄧茂だった。そろそろこの沈黙を破るべきであり、それは自分の役目だろうと考えていた。
  程遠志はその言葉に、ピクリと反応した。もしかしたら、あの何も喋らず黙り込んでいたのは、誰かに話しかけられるのを待っていたのかもしれない、と鄧茂は思った。面倒くさいやつだな、とも思ったが、それは言わない。彼らしい、ともいえる。

「本当に不幸だよ。なんでよ、あんな目に俺が遭わなきゃいけねえんだ」
「悪いことをした罰なんじゃない?」
「違法の店に入った男を取り締まっただけじゃねえか」
「取り締まって、お金を盗んだでしょ」
「必要経費だろうよ」
「無茶苦茶だ」

  鄧茂は笑いながら言った。程遠志も、それを見てようやく顔を綻ばせた。

「でも、言っても告白しただけじゃん。そんなに緊張した?」
「したよ。軽く殺されるかもしれない人間にあんなことを言うなんて、よくやったと思うね俺は」
「告白する必要あったか?」
「当たり前だろ。何もしないで外に連れ出されたとして、怪しいものを身につけてなかったとしても、結局、なんで逃げようとしたんだ?  って聞かれる羽目になる。そこで言うよりも、最初に言った方が効率がいいだろ」

  それでも、別の方法があったのでは、と張曼成は思う。目が合って怖かっただとか、急ぎの用を思い出したとか。他の方法は様々ある。そこで告白する、となるのは論理の飛躍があるように思えた。
  程遠志とは、本来そういう人間なのかもしれない。頭が良いようで、追い込まれると、おかしくなる。張曼成は、鄧茂と違い、程遠志との付き合いはそこまで長くない。そのため、いまいち性格を計りかねる部分もあった。

「これからどうする」
「久しぶりに黄巾の砦に帰ろうぜ。適当な村に泊まるのは飽きちまった」
「明日」
「あ?」
「明日、砦で大規模な演習が行われることは、知っているか、程遠志」
「初耳だよ。それがどうした。俺は参加しねえぞ、そんな面倒臭そうなやつ」
「砦に帰るなら、お前は参加することになると思うが」

  張曼成の言葉に、程遠志は目を瞬かせた。

「なんでだ」
「黄巾党の将軍を決める演習でもあるからだ。恐らく、砦にいる武将全てを集めて、次の出兵に向けた会議が行われる」
「全員集めて、誰を大将にするか決めるってことかよ」
「まあ、そういうことだ」
「面倒くせえな」
「当たり前だ。世の中は、面倒臭い事と面倒臭くない事で溢れている。いずれは、面倒臭いことにぶつかるものだ」

  格言のようなことを言うので、程遠志は少しだけ驚いた。冷静で、言い換えればいつもむっつりとしている張曼成にしては、その言葉だけ熱を持っていた。

「誰かの受け売りか?」
「さあな」
「自分で考えた言葉なら、笑えねえぞ」

  ひゃっ、と妙な笑い方を程遠志はした。
  張曼成は穏やかに微笑んだ。それでこの話は終わりだ、と言うようで、すぐさま話を元に戻した。

「それで、どうする。砦に帰るか」
「鄧茂はどうしたい」
「僕は別にどっちでも。めんどくさいことになるのは勘弁だけど、砦に帰ったら気楽に昼寝できるのはいいね」
「それに、ここら一帯は曹操の街だ。宿を取れば面倒なことになる」
「間違いねえな。砦に帰るか」

  程遠志はそう結論づけた。一度決めると、その決定を覆さないのは彼の長所でもあり、短所でもある。





  砦に着く頃には、もう既に日が暮れていた。いつも通り三人で酒でも飲み、周りにいた一兵卒に絡みでもしていると、夜中になった。彼らは特に何も考えず、笑い合いながら寝た。
  翌日、当たり前のように、鄧茂と張曼成は二日酔いで会議を休んだ。彼らは下戸というわけではない。原因は、程遠志の飲む速さにある。
  程遠志もまた、二日酔いということにして会議を休むつもりだったが、黄巾党の仲間は彼の酒の強さを知っている。簡単に見破られ、強引に連れてこられた。そのため、程遠志は少し不機嫌な顔になっていた。

「途中から連れてこられたけどよ、今の会議はどんな様子なんだよ」
「八割は終わったのですが、そこからがどうも長くなっていまして」
「残りの二割はなんなんだ」
「この砦に残る将と、出陣する将をどうするかです」

  傍にいる、腰の低い男に程遠志は問いかけると、明瞭な答えが返ってきた。成る程な、と思いながらも、前を見る。
  前方に、黄巾党の将軍たちが集まっていた。その中にいる最も背が高く、最も臆病そうな男を、程遠志も知っていた。厳政という、張宝の親衛隊に任命されたその男は、厳しいわけでも政を卒なくこなすわけでもなく、どことなく名前負けが目立つ人間だった。最近ツイてない、なんで愚痴を、よく零しているらしかった。

「誰が出陣するのか、で揉めてるのか」
「というよりも、誰が砦に残るかです」
「戦意ねえなあ。そんなんで勝てるのかよ」
「どうなんでしょう。程遠志さんは、出陣しないんですか?」
「するわけねえだろ。というか、どこに向けて出兵するかも知らねえし」
「曹操へ、ですよ」

  はあ?  と程遠志は返した。胸中が、なぜか少しざわざわとした。勝てるわけがねえだろ、と吐き捨てたくなる。
  目の前の男も同意見らしい。はぁ、とため息を吐き、憂鬱そうな顔になっている。

「そもそも、なんで厳政がここにいるんだ。張宝様の付き人は?」
「この一戦で曹操と雌雄を決するらしいので、めぼしい将は大抵集められてるんですよ。程遠志さんもそうでしょう?」
「いや、俺はこの会議があることを昨日知ったんだけど」
「嘘だ。絶対連絡行ってますよ」

  そうだったかな、と程遠志は思う。そもそもこの砦に最近はあまり顔を出していなかった。そのため、偶然連絡がこなかったのではないか、とも考えたが、忘れてしまっていた可能性も十分に存在する。
  しかし、そんなことよりも、である。
  雌雄を決する戦いだというのに、この戦意の低さはどういうことなのだろう。程遠志は少し訝しんだ。兵士の質はあまり高くないとはいえ、士気だけは非常に高かったはずなのだが。そろそろ見限りどきかもしれない、と胸中でひっそり考えた。

「お、程遠志」

  すると、向こうから声がした。厳政の隣にいる男が、程遠志へ向けて手を振っている。誰かは分からなかったが、微妙な笑みを返すとこちらへ来い、と手招きしてくる。
  面倒くせえな、と思いながらも、程遠志は自分を連れてきた男の元から離れ、前方へ向けて歩き出した。意外にも顔は売れているらしく、ああ、これがあの程遠志か、というような空気が彼を取り囲んだ。

「程遠志さん、ですか」
「そうだけど」程遠志は少し目を細めた。「あんたは厳政でいいんだよな」
「はい、大丈夫です。ぼくが、今回の戦の大将を務めさせて頂くのですが、よろしいですか」
「よろしいも何も、俺がそれに文句なんて唱える資格はねえよ。頑張ってくれ」
「ありがとうございます」

  自信なさげに笑う厳政を見て、いい奴だな、と思う反面、万に一つも今回の戦いは勝てないだろうな、と程遠志は思った。覇気だとか、闘気だとか、そういった曖昧な表現は好みではなかったが、曹操配下の人間たちとは明らかに比べ物にならない。
  黄巾を脱ぐ日も近いな、と程遠志が考えていると、厳政はこちらの手を取ってきた。なんだ、と目を白黒させる。

「程遠志さんも、できれば出陣して頂きたいのですが」
「いや、俺は」
「兵卒を指揮できる将軍が、恥ずかしながらあまり集まっていないんです」
「俺はそこまで兵を指揮したことなんてねえよ。精々、数百人が限界だ」
「それでも構いません」

  何しろ、人手が足りないので、と厳政が付け加えるように言った。周りの人間が、こぞって目を逸らす。砦に残る将が大多数らしい。
  程遠志は握られた手を振り解こうとしたが、厳政の力は存外に強く、縋るように指を絡めてきたので戸惑ってしまった。動きが少しだけ、固まる。

「参加してやってもいいんじゃねえのか、程遠志」

  そこで、ぽつり、とそんな声がした。何を無責任なことを、と思い、程遠志が声のした方を向くと、顎に手を当てた男が口を歪めていた。
  顎髭の濃い、狗鷲に似た顔をした男だ。頰は痩け、目は鋭い。昔話ならば小悪党を見事に演ずる役柄だろうが、これは現実である。お互い、じっと睨み合った。
  最中、程遠志はあれ、と呟いた。誰かを思い出させる顔だ。一瞬、そこで時間を置き、ああと頷いた。こんな具合に猜疑心の強そうな男が俺の知り合いにもいたな、と思い出した。

  黄巾党に入る前―――鄧茂にも出会う前のことである。故郷の村に、やけに程遠志に張り合ってくる、裴元紹という男がいた。村の中で腕っ節が飛び抜けて強かった彼のことが気に食わなかったのか、何をするにも張り合ってくる男だった。
  故郷の村から程遠志も煙たがられていたが、裴元紹はそれ以上に嫌われていた。と、いうよりもどの派閥も彼を受け入れなかった、というべきか。程遠志は不良の纏め役をやっていたが、そこにも裴元紹は入れなかった。
  原因といえば、裴元紹の性格にある。喧嘩っ早く、人の話を聞かず、その癖陰湿な気があった。喧嘩の腕はそれなりに優れていたが、それだけである。誰からも嫌われていたし、誰からも相手にされなかった。目を合わせるのが損と思われていたのだ。
  程遠志も、また、同じだった。不良仲間にも「裴元紹には手を出すな、無視しろ」と伝え聞かせていた。それは、手を出せば後々面倒くさいことになる、と理解していたからなのだが、結果的にその忠告は無駄になった。面倒くさいことに、なったのだ。
  程遠志の仲間の不良たちが、夜中、一人一人裴元紹に襲撃されたのである。三人目の仲間がやられるところに、偶然、程遠志が通りかかったので発覚した。「何してやがるんだ」と威圧すると、裴元紹は怯えながらも「不良の癖に、大して強くねえから、俺が本当の強さってのを教えてやってるんだ」と返した。
  程遠志は怒らなかった。不良の纏め役をしているだけで、元来情に熱い性格をしているわけではない。そのため、裴元紹に対する怒りなどはそう大して湧かなかったが、ここでこのような暴挙に出た輩を見逃してしまえば、自分の求心力はひどく落ちてしまうことだろうな、と冷静な思考で判断した。ぱくぱくと口を動かす裴元紹に向けて、次の瞬間、程遠志は全力で殴りかかっていた。

「そこで、全力で叩き潰すところが程遠志らしいよね」

  その話を程遠志から聞いた鄧茂は、そう返した。そこまですることではない、軽く怒ったふりでも見せれば纏め役としての責務は果たせるのではないか。そのようなことを言った。
  確かにその通りだ。程遠志は自分が意図しない状況に追い込まれると、突飛な行動に出るきらいがある、と分析した。直すべき悪癖だ、とは思ったが、決して直ることのない癖に違いないとも思った。
  何しろ、程遠志は気がつけば裴元紹の意識がなくなるまで殴り続けていたのだ。別に意識が飛んでいたというわけではなく、そうすべきだと思って行動してしまっていたのだ。不良仲間たちから見放されぬよう、纏め役としての責務を果たすべきだ、ということしか考えられず、他のことが疎かになっていた。
  慌てて裴元紹に水を掛け、意識を取り戻させると、泣いて、脚を引き摺りながら彼は何処かに消えた。その明日、裴元紹は村からいなくなっていた。それっきり、会っていない男である。

  その裴元紹と、目の前にいる狗鷲のような顔をした男は、よく似ている。もう別れてから五年は経ったに違いないが、彼が成長したからこのような姿になるのではないか、と思わせるほどだ。
  程遠志はよく似た男もいるものだな、と少し笑みを浮かべたが、狗鷲が「久しぶりだな」などと言うので笑みを凍らせた。え、と思わず声に出す。この男が裴元紹本人だと、そこで気がついた。

「懐かしいな、おい。俺のこの傷、覚えてるか。思い出させてやろうか」
「別にいらねえよ、そんな気遣い。だいたいなんでてめえが黄巾党にいやがるんだ」
「俺もその一員だからに決まってんだろ、間抜け」

  まじかよ、と程遠志は眉を潜める。「お知り合いですか」なんて聞いてくる厳政の呑気な声すら億劫に感じるほど、彼は面倒くさく思っていた。

「探したんだよ、程遠志。いずれこの借りを返してもらおうと思ってな」
「てめえに借りなんてねえよ」
「生意気言ってんじゃねえよ。ここであの時の続きを始めてえのか、ああ?」

  目を血走らせて裴元紹が言う。これはまずいな、と程遠志は胸中で頭を抱えた。こんな奴も黄巾党に在住してやがったのか。
  いっそ、喧嘩を買ってここで殺してしまうか―――いや、待て、思考が過激化している。程遠志は頭を軽く指で突いた。追い詰められた時に追い詰められた思考のまま事をなせば、前と同じことになる。裴元紹を記憶がなくなるまで殴った時も、結局、周りから怯えた目で見られることになった。同じことを繰り返しはならない。
  一つ、息を吐いて程遠志は口を開いた。

「わかった、わかった。お前は俺にどう借りを返して欲しいんだ」
「だから、言ったろ。参加してやれよ、今回の曹操との戦いによ」
「嫌だよ。砦に俺も篭る」
「弱気だな腰抜け。夏侯淵にビビった話を聞いたぜ。随分と臆病風に吹かれる性格に様変わりしたものだな、おい」
「どうしてそれを」
「てめえらが昨日、砦で騒ぎ回ってたらしいじゃねえかよ。言伝に聞いたぜ」

  そう言えば、昨日、笑い話にでもしたような気がする。裴元紹に嘲笑われて、程遠志は若干不快になった。落ち着け、と自らに言い聞かせる。こんな奴など無視してしまえばいい。
  しかし、そう思う反面、程遠志はそれは間違っているのではないか、とも思った。落ち着いたからこその考えだった。逆に、この状況では砦に篭ることこそが下策なのではないか。

「夏侯淵にビビって、曹操にビビって。お前は一体なんなんだよ。俺が借りを無くしてやるって言ってるんだからよ、これ幸いって塩梅で出陣しろよ」

  その挑発は、いつの間にか周りの空気も変えてしまっていた。裴元紹の強気な言葉と、周りの人間の砦から出たくないという欲望。それらが、彼らをあたかも砦に篭る将の人数が規定に達したかのように振舞わせた。
  程遠志は仕方ない、と思った。思うがまま、言った。「仕方ない」
  それを聞いて、裴元紹は目を光らせた。「仕方ないってのは、つまり?」

「お前の借りを無くすためにも、俺は出陣するよ」

  程遠志は、真っ直ぐ裴元紹を見てそう言った。言わざるを得ない、と思った。




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黄巾党編 第三話

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「曹操と戦うだってぇ?」
「嘘だろ?」

  鄧茂と張曼成は、程遠志の言葉を聞くと一息で酔いが覚めたようだった。精々、面倒な会議に対する愚痴を聞かされる程度のことしか考えていなかった彼らにとって、程遠志の決意はまさしく青天の霹靂とも言うべきものであった。

「残念ながら、嘘じゃない。俺は一端の軍を率いて、出兵する」
「なんでまたそんなことに」
「色々事情があってよ、そっちの方が後々楽になりそうなのよ」
「事情?」
「裴元紹ってやつのこと、覚えてるか?」

  鄧茂は少し首を捻り、「裴元紹、裴元紹……」と何度か唱えて、手を打った。

「昔、程遠志と喧嘩した人だよね」
「まあ、そんなとこだな。そいつがよ、黄巾党の中にいた」
「へえ。向こうはお冠だったんじゃないの」
「お冠というより、怒髪天だな。俺に、砦に篭るなと一丁前に命令してきやがった」
「程遠志はそれに従うってこと?」
「従うしかねえわな」

  二、三度頷きながら言う程遠志に、鄧茂も張曼成も何も言わなかった。何故、と思ったのかもしれない。怒られ、命令されたから、易々と従うような人間に程遠志は見えない。

「俺はよ」程遠志はポツリと言った。「黄巾党からここで抜けるよ」
「何?」
「おさらばってことさ。このままダラダラここに留まっても、いいことなんて一つもない。寝床の為にもう少しくらいは居座っておこうと思ってたが、裴元紹なんて馬鹿もきやがった。あんな奴がこの砦にいるんなら、落ち着いて昼寝もできやしねえ」
「逃げるってことか」
「ああ、そういうことだね」

  張曼成の鋭い言葉に、程遠志は犬歯を見せて威嚇しながら返した。

「意味がわかんない。程遠志が黄巾党から抜けるのはわかったけど、なんでそれで曹操と戦いに行くのさ」
「ちょうどいい機会だからだよ。俺はよ、天涯孤独の身なんだ。黄巾党に身を寄せた理由だってやることがなかった、ってのが一番の理由だ」
「知ってるよ。それで?」
「軍ごと曹操に降伏する」

  何、と張曼成と鄧茂は再び驚く。
  程遠志の瞳に迷いはなかった。裴元紹を殴ったときと、夏侯淵に告白したとき。その二つの出来事を思い出させるような瞳だった。行動が飛躍している。
  迷いがないからこそ危うい、と鄧茂は思った。迷わない程遠志は頭脳が冴え渡り、英雄的な行動を起こすことができるが、前だけしか見えていない。止めるべきか、とも思ったが、こうなったら止まらないことも理解している。

「黄巾の情報は、曹操も必要としてるはずだ」
「それを売り込めば、悪いようにはならないってわけね」
「そういうことだ。黄巾で得たこの地位ともおさらばになるのは、なんとも悲しいけどな」
「程遠志は、まあまあ顔も知られてたのにね」
「おまえにも悪いな。お前もそれなりの地位だっただろ」
「あれ」鄧茂は悪戯っぽく笑った。「僕は程遠志と一緒に行くなんて言ってないけど?」

  え、と程遠志は馬鹿みたいな顔になる。「来てくれないのか?」と弱気が声に出たように言う。
  にひひ、と鄧茂は笑う。

「冗談だよ。程遠志が逃げるなら、僕も逃げないわけがないじゃないか。付き合うよ」
「だよな」程遠志は胸を撫で下ろした。「びっくりさせるなよ、怖えな。来てくれると信じてたぜ」
「程遠志に一生付いてく、って昔約束しちゃったからね」

  そう言われて、程遠志はそういえばそんなこともあった、と思い出す。そんな軽い約束を後生大事に覚えていたなんて、女みたいな奴だな、と思ったが、鄧茂の場合冗談にならない。初対面の人間が彼を男と見抜くことなど中々できないし、程遠志自身、たまにふと間違えることがあった。
  さて、と程遠志は張曼成の方を向く。真っ直ぐな瞳が、二つ、ぶつかり合った。どちらも逸らさない。

「張曼成は、どうする。無理強いはしねえぞ」
「程遠志は、どうしてこの場で話した?」
「なに?」
「俺がもし、黄巾党に伝えたらどうするんだ」
「なんだよ。そんな詰まんねえことを考えてやがったのか」
「大事なことだと思うが」
「まったく大事じゃねえよ。だって、そんなことしねえだろ、お前は」
「どうして言い切れる」
「どうしても何も、お前はそういう奴だ。俺はわかってんだよ」

  理不尽なほどまでに決めつけが混じった言葉だった。だが、張曼成は、その言葉を受けて突き抜けるような爽快感を覚えた。
  信用だとか、信頼だとかではない。こうであるに違いない、という鋳型に流し込んだような自己中心的な偏見が、底抜けた程遠志という人柄を表していた。

「俺も抜ける」
「お、マジか。安心した。なんたってよ、俺はお前たちしか友達がいねえんだ。断られたらどうしようかと思ったぜ」

  程遠志は自嘲した後、ぱん、と手を叩いた。

「よし、それならこれから作戦会議だ」
「作戦会議?」
「曹操軍に降伏するんなら、俺の率いる兵士はあんまり黄巾党に忠誠心を持ってないやつの方が嬉しいんだよな。どの兵を率いるかの裁量権は、なんとか認めてもらったから、今から演習している兵士の様子を見に行くぞ」
「あー、そういうことね。誰か当てはあるの」
「俺が友達少ねえこと知ってるだろ?」
「だよね」

  小憎たらしい笑みを浮かべる鄧茂を見て、あ、と程遠志は思い出した。
  会議の時に、程遠志の傍にいた腰の低い男。戦意はなく、曹操軍に勝てる未来はないと考えている様子だった。あの会議に参加している程度の地位にいる人間なのだろうが、それでも、人手にはなる。

「いや、一人いたわ」
「え。誰?  友達?」
「友達ってほどじゃねえよ。単に、当てになりそうな奴が一人いるってだけだ」
「程遠志に友達ができるんなら僕にまず教えてよね。正式に審査するし」
「どんだけだよ。女の嫉妬じゃねーんだから」

  お前は冗談にならねーんだよ、と程遠志が言うと、鄧茂はまた、悪戯っぽい笑みを浮かべた。本当に洒落にならねえ。程遠志は、一つ溜息を吐いた。




  兵士が集まったのか、集まってないのかで言えば、確かに集まった。しかし、程遠志の顔は今一冴えていない。その原因は、彼の楽観視にあった。
  戦意のない者も大体三百人はいるだろう、と考えていたが、その実。蓋を開けてみたら集まったのは二百人にも満たなかった。厳政にはそれだけでいいのかと心配され、裴元紹には鼻で笑われた。別段、降伏する以上兵の数にそこまで必要性は感じられなかったが、こうも自分の人望の無さを感じると流石に苦笑を抑えきれない。程遠志は、そう嘯いた。

「いよいよだな。鄧茂、張曼成、緊張はしてないか」
「してないよ。戦争は割と慣れてるし」
「俺も、初めてではない」
「よし、それならいい」

  これから、厳政の演説が始まる。それから砦を出て、曹操の街を襲い、軍を誘き寄せて一戦する。どこで降伏するかが重要だ、と程遠志は思った。機会を見誤れば、黄巾党の中で孤立し、嬲り殺される。

「そういえば、程遠志」
「どうした」
「疑問だったんだけど、裴元紹って人はなんで程遠志をこの戦いに行かせたの?」
「あいつも馬鹿じゃねえ。この戦いで曹操に俺らが負けることを理解してるのさ。そこで死んだら万々歳、逃げ帰ってきたら適当な理由をつけて殺す気なんだろう」
「なるほどねー。でも、程遠志が黄巾党を裏切ることまでは読めなかったわけだ」
「そこまでは無理だ。頭が悪くねえって言っても、別にいいわけじゃねえ。あいつは精々俺が帰ってくるのを指くわえて待ってるのが関の山だ」

  その言葉を聞き、ふうん、と鄧茂は気のない返事を返した。彼の中で疑問は解決したらしい。
  そして、気がつけば厳政が演説を始めていた。おや、と程遠志は思う。会議の時に見た頼りない印象は鳴りを潜め、多少生真面目すぎるきらいはあるものの、壇上から力強い言葉をこちらへ投げかけていた。演説の才は文句のつけようもない。

「中々、弁が立つ人だね」
「それが理由で張宝様の付き人に任命されたのかもな」

  兵士たちも、直立不動で厳政の言葉を聞いている。程遠志は認識を改める必要を感じた。
  曹操との決戦の大将を押し付けられたのではなく、彼が適任だった、と言ってもいいかもしれない。少なくとも、出陣前の演算によって兵卒たちの手綱をしっかりと握られるのは、この砦において厳政しかいないだろう。

「程遠志、俺たちはどこの村を襲うんだ?」
「知らねえよ。黄巾党なんて行き当たりばったりな奴らが多いんだ。少なくとも、前の会議では決まってなんていなかった」
「随分と、適当な作戦だな」
「曹操の軍を誘き出すのが目的なんだろ。どこを襲うかは大した問題じゃねえ」
「だとしても、だ」
「まあ安心しろよ。少なくとも、今はもう決まってるだろうしな」

  少し張り詰めた様子の張曼成とは対照的に、余裕綽々と程遠志は笑っていた。笑いながら、厳政の方を軽く窺っている。

「お、丁度いい。今からどこに向かうのか教えてくれるらしいぜ」

  演説はいよいよ終局を迎えていた。厳政の口から流れ出る熱は、兵卒に移り、砦に残る臆病な男たちにも移っているようだった。まるで曹操との戦いが既に決したような、もう勝ちを収めたような多幸感が出ている。
  厳政は胸を張って言った。「北西の村へ向けて、攻め込む」淡々とした言葉だったが、それを受けて、兵卒たちは雷のように咆哮した。

「北西の村って、随分と適当な」
「別にいいだろ。現に、北西方面の村なんて一つしかないんだし」

  そこまで言って、程遠志はあれ、と首を捻った。何か忘れているような気がする。なんだったかな、と考えていると、鄧茂も、張曼成も同じように首を傾けていた。
  その数秒後、同時に思い出した。程遠志は肩をビクつかせ、鄧茂は目が泳ぎ、張曼成は頰から汗を流した。
  先日、夏侯淵と遭遇した村ではないか。程遠志は何か嫌な予感が、胸の中でむくむくと育ってきているのを感じた。そして、その予感が育ちきるのを待つことなく、壇上の厳政は、自分の演説に酔ったように叫んだ。

「曹操軍の大将は、恐らく夏侯淵。我が軍の方が兵力は優勢である!  一揉みに叩き潰すのみだ!」

  嘘だろ、と程遠志は零した。
  嘘じゃない、と鄧茂が呆然とした。
  張曼成は何も喋らない。喋れない。

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黄巾党編 第四話

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「程遠志、これまずくない」
「まずくねえよ。夏侯淵が俺の名前を覚えてようが、覚えてなかろうが、問題なんてねえ。黄巾の情報を持ったまま降伏するのに、文句なんてつけられてたまるか」
「まあ、それはそうだけど……」
「曹操は知りたがってるはずだ。黄巾の情報を、間違いなく。夏侯淵ってのは曹操の部下なんだから、それを無下にはできないんだ。そうだろ?」
「そうかもしれない」
「そうだ。間違いねえ」

  程遠志は意固地になっている。これはまずいな、と鄧茂は苦笑した。こんな具合の彼が何かを成功させたことなどない。博打でも、女関係でも。拗れに拗れ、最終的に追い込まれ、そこでようやく動き出し、程遠志らしい突飛な行動でなんとか丸め込む。よくある展開だ。
  夏侯淵の時と同じだ。意識をしすぎて怪しまれ、追い込まれて、告白した。最終的に意味のわからない行動に出ることで、お茶を濁すのが彼の行動原理になっている。不思議なことにその突飛な行動は英雄的なものを帯びることがあり、今まではなんとかうまく丸め込めているが、果たして今回はどうなるだろうか。

「程遠志、もう村に着くぞ。どうする」
「どうするも何も、変わっちゃいねえよ。一回どうするかを決めたら、それに身を任せることが俺の人生哲学だ。降伏することは、変えねえ」
「分かった。腹を括る」
「そうしろ。俺もとっくに覚悟を決めた」

  程遠志は自分に言い聞かせた。問題なんて、何もない。何もあるはずがないのだ。
  しかし、言い聞かせれば言い聞かせるほど、何かが間違っているのではないか、という疑念に襲われる。もう後戻りはできないのだ。そう自分を一喝する。

「あれ」

  唐突に、間の抜けた声がした。あまりにも大きな声だったので、少し程遠志は驚き、その声の主であろう鄧茂へ向けて注意を飛ばそうとした。
  しかし、それは半分正解で、半分不正解だった。声の主は、確かに鄧茂だったが、鄧茂だけではなかった。一般兵も、鄧茂の隣の張曼成も、また、短い嘆息にも似た声を発していたのである。
  何事か、と前を見て、程遠志も声を発した。それは鄧茂たちの溜息じみた声ではなく、絶叫と呼ぶべきものだった。村の中から、大勢の人が出てきている。民ではない。武装している。兵士たちだ。
  それはつまり。

「曹操軍?」

  嘘だろ、とどこからともなく情けない声が程遠志の耳に入ってきたのと同時に、矢が飛んできた。
  程遠志は確かに見た。村から出てきた武装した兵士たちの、一番前にいる女。凛々しく弓を構えて、放った女。数日前に見た、恐怖の対象になり得る女。夏侯淵だ。夏侯淵だ!
  矢は程遠志たちの方角へ飛んできた。兵士の悲鳴と、矢が土に突き刺さる音が、木霊した。
  黄巾党の兵士が、皆、混乱した。状況の把握ができず、指揮系統が混乱した。その間にも弓は絶え間なく飛んでくる。二射、三射、四射。相当の距離を苦ともせず飛んでくる弓は、風の抵抗と減速から兵士たちを傷つけることはなかったが、黄巾党の軍の各所に、降ってきた。

  どういうことだ、と程遠志は呆然となった。一瞬にも満たない間に、脳内を単語が駆け巡る。「罠」「夏侯淵」「曹操」「厳政」「何故ここに」「裴元紹」「裏切り」それらは最終的に全て繫がり合い、「これはまずい」という誰しもが思いつくような感想になった。
  慌てて、辺りを見渡す。弓矢が近くに落ちていた。夏侯淵が今さっき射掛けてきたものだ。はっとする。その鏃に、なにかが刺さっていた。
  小走りで弓矢の元へ向かい、土から一気に抜いた。刺さっているのは手紙だった。矢文だ。くしゃくしゃになったそれを、無造作に開く。
  程遠志はそこに光明があるのではないか、と期待していた。敵が夏侯淵だと少し前に知らされて、街に来てみたら待ち伏せをされ、いきなり弓を射掛けられた。そろそろ、報われてもいい頃ではないか、なんて、理屈ではない期待をしてしまう。

「程遠志」気がつけば隣には鄧茂がいた。「なんて書いてある?」
「……読んでみるか?」
「口で言ってよ」

  程遠志は笑い出しそうになった。愉快だからではない。捨て鉢になる気持ちが、むくむくと胸から湧いてくる。

「降伏は認めない、だってよ」








  流れ、というものは、どのような事柄にも存在する現象だ、と程遠志は思っている。博打においても、戦争においても、一騎打ちにおいても。運、と言い換えれるような、言い換えれないような。そのようなものは、必ず存在しているのだ。
  だから、今の状況はその流れというものが非常に悪いに違いない、と理解した。捨て鉢になりそうだったが、ぐっ、と我慢する。
  これからどうする、と自らに問いた。夏侯淵に降伏することはできない。あたかも脳内を覗き込んだような矢文のせいで。ならば別の手を打つしかない。別の手なんて、そうあるものではない。数ある選択肢の中から、どれか一つを選ばなければならない。


  夏侯淵と戦うか、一目散に逃げるか。
  ぱっと思いつく選択肢はこの二つだ。


  前者はあり得ない。黄巾党はこの戦いに負ける。それは決定事項だと言ってもいい。曹操軍の兵数は把握できていないが、武装から練度まで黄巾とは比べ物にならない。勝つ術がない。ただ、戦場に屍を晒すだけだ。
  ならば、逃げるか。鄧茂はついて来てくれるはずだ、と程遠志は思う。張曼成もついて来てくれるかもしれない。だが、逃げてどうする。その先は?
  逃げた末に辿り着いた場所が、黄巾党だ。そこから逃げて、野盗にでも身をやつして、それからは?  真っ当な未来などないはずだ。
  この二つでは駄目だ、と切り捨てる。他の選択肢が必要だ。絞り出すように脳を捻る。普段使わない細胞の一つ一つが活発に動き回り、頭が掻き回される。その濁流に、程遠志は自ら飛び込んだ。


  数秒、あるいは数十秒かもしれない。なんにせよ、夏侯淵が弓を放ち、黄巾の軍が悲鳴を上げ、その余韻がまだ覚め切らぬ間である。程遠志は蹲るような姿勢で黙りこくっていた。
  立ちあがる。頭の中の靄は晴れていた。どうすればいいか、はわからない。どうするべきか、もわからない。こうしよう、と程遠志は正しいか正しくないかわからない案を決めた。決めたら迷わない。そういう男である。


「程遠志、どうするか決めたんだね」
「わかるか、鄧茂」
「何年の付き合いだと思ってんのさ」
「俺がなにするか聞いたら、お前は仰天するかもしれねえぞ」
「するよ。程遠志がすることは、いつも突飛で馬鹿らしいことだ。今回も、そうなんだろ?」
「失礼なやつだな―――まあ、間違っちゃいないけど」


  そう言って、程遠志は大笑した。その左腕はぶるぶると震えている。武者震いではない。緊張を隠しきれないのだ。
  張曼成は、黙って程遠志を見ている。その瞳は心配そうで、不安そうだった。


「何をするんだ」
「俺にできるのは、流れに身を任せることだけだ」
「お前の人生哲学か」
「そうさ。俺は当初の目的を変えねえ。曹操に降伏する」
「矢文を見たんだろ?」
「あんなものは、知らねえ。どうにでもなる」
「無抵抗で降伏して、縛られて、曹操の元に運ばれて、首を切られる未来しか見えない」
「そんな未来にはならねえから安心しろよ」
「どうして言い切れる」
「抵抗はするからだ」


  は?  と張曼成は目を丸くした。


「曹操の性格を聞いたことあるか?  有能な人間は、身分を問わず雇っているらしい」
「それがどうした」
「俺たちが有能だと曹操に知らしめてやれば、降伏も受け入れられると思わないか?」
「何を言っているんだ?」
「夏侯淵に一泡吹かせてやれば、証明できるってことだよ」


  何を、と張曼成は少し後退った。
  鄧茂も顔を強張らせている。
  程遠志は顔色を変えなかった。


「黄巾党では、曹操軍に勝てないんじゃなかったのか」
「黄巾では無理だ。兵の練度が違う」
「なら―――」
「俺たちだけで、の話だ。黄巾の話じゃない。俺たち二百人で、夏侯淵と戦う。そしてその後に、降伏する」


  張曼成と鄧茂の身体が硬直するのが、鎧の上からでもわかった。


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黄巾党編 第五話




  荀彧は氷のような無表情だった。眼前には、彼女が予想した通りの光景が広がっている。
  数時間前に、戦闘が始まった。味方左翼と敵右翼の衝突。それに次いで中央と、味方右翼、敵左翼の衝突が起こった。
  単純な兵力を比較してみると、黄巾党と曹操軍にそう大した差はない。寧ろ、黄巾の方が兵士の数は上回ってすらいた。兵の練度を鑑みて、ようやく互角。そのような戦力差だった。
  だからこそ、曹操は夏侯淵と荀彧に敵軍を打ち破るのではなく、負けるな、としか命じなかった。前もって黄巾党から漏れていた出陣計画から、どれくらいの兵士が出陣するかはわかっている。押し留める程度でよかったのだ。

「でも、それでは」

  それでは華琳さまは本当の意味で喜ばないだろう、と荀彧は考えた。戦力的に同じならば、後は将の力量のみ。黄巾などの将に自分が劣るはずもない。彼女はそう自負している。
  そして、この結果だ。曹操軍左翼は黄巾党の右翼を崩壊させた。散り散りに逃げる黄巾党に、もはや戦意は見られない。

「桂花、完璧だったな」
「当たり前よ。こんなやつらに遅れをとるはずもないわ」
「兵士の数ではこちらの方が劣っていた故、ここまで早く終わるとは思わなかった」
「相手が弱すぎたわ。左翼に置いておいた隠し予備を使うまでもなかったし」

  そう言いながらも、荀彧はどことなく不満そうな顔だった。
  彼女らしい、と夏侯淵は思った。才のある者はそれを相手に求める傾向がある。主である曹操が強敵を求め、人材を集めるように。手応えがない、と荀彧は感じているのだろう。黄巾軍が弱すぎて、これでは自分の実力を華琳さまに認めてもらえない、という恐れも勿論あるのだろうが。

「ただ、問題があるとすれば、こちらの軍の統制も今ひとつ取れていないことか」
「そうね。黄巾の敗散に釣られてる。深追いしてる軍が要所要所にあるはず。逃げるんなら、逃しておけばいいのに。華琳さまに到底見せられた様ではないわ」
「砂煙の所為で戦場全体の把握も未だにできていない。恐らく、一過性の混乱だろうが、練度の底上げがまだまだ必要だな」
「一応、伝令は全体に向かわせたわ。もう半刻もすれば元どおりになるでしょうよ」
「そうか。ならば、後は待つだけだな」

  夏侯淵は静かにため息を吐いた。華琳さまに叱られることはないだろう。寧ろ、押し留めるだけでよかったところを完勝したのだから、褒められるに違いない。そう理解していたが、それでも、彼女の胸中から漂う憂鬱な思いは消えなかった。
  課題はまだ大きい。大陸に覇を唱える軍としてみると、この混乱は到底見逃せるものではない。志願兵の割合が高い所為か、まだ訓練が足りぬだけか。
  今回の戦いから、ほとんど収穫はなかった。ある程度までの練度の確認と、予想外の事態に指揮系統が混乱する危険性があることのみ。相手が正規軍ならば、ここまで容易く勝てなかっただろう。

「夏侯淵さま、伝令が参りました」

  本陣前の警護をしている男が大声を発した。
  ほお、と夏侯淵は溜息にも似た声を漏らす。荀彧は眉を少しだけ潜めた。

「通せ」
「かしこまりました」

  夏侯淵がそう言うと、三人の者が入ってきた。頭を深く下げ、にじり寄るように動いている。夏侯淵はそれを見て、何か見覚えを感じた。
  当たり前のことだ。曹操軍の人間なのだから、見たことぐらいあってもおかしくはない。そうは思ったものの、なかなかその疑問は解けなかった。
  何か変だ。
  何が変なのかはわからないが、そう思った。
  疑念を感じているのは荀彧も同じなのか、彼女も首を傾げながら口を開いた。

「随分と早いわね。他の伝令は、まだ帰ってきていないわよ」
「存外早く混乱は鎮まりました。他の伝令ももうそろそろ帰ってくる頃でしょう」
「早すぎるわよ。あんた、ちゃんと役目を果たしたんでしょうね」
「勿論」
「他の伝令を送ってもいいのよ」
「構いませんとも」

  妙に堂々とした伝令だった。荀彧は軍師であり、曹操軍の中枢に位置する少女である。命令一つで首が飛ぶ、たかが伝令がよくもそんな態度を取るものだ。夏侯淵は少し呆れた。
  荀彧は勿論良い顔をしていない。伝令は丁寧な言葉を使ってはいたものの、どことなく横柄で、尊大な内心が透けて見えていた。

「あんた―――」
「此度の作戦、お見事ですね」

  荀彧の言葉を遮って、伝令は口を開いた。
  何を急に。場の全員はそう思ったことだろう。唐突で、意味のない讃美だった。

「あんた、私の策を理解でもしたつもり?  調子に乗らないでくれる」
「勿論、理解できていません。俺にわかったのは、黄巾党が簡単に負けちゃったな、ってことくらいですし」
「そりゃそうよね。伝令の、それも男が。理解なんてできるはずない」
「―――斜行陣」

  ふっ、ともう一人の伝令が呟くように声を漏らした。夏侯淵も、荀彧も、伝令二人も。合わせて彼の方を見る。

「ただの横陣と見せかけ、左翼に兵を集中させて、一瞬で打ち破った。希臘(ギリシア)のエパメイノンダスが取った策に似ているな」
「はあ?」
「俺なりの考察だ。合っているか」
「……私はあんたの言っている人間を知らないし、知る気もない。これは私が独自で決めた策よ。それで、左翼騎兵の存在には気づいたの」
「それは知らなかった」
「なら、この策の本質を理解できたとは言えないわ。それで理解したつもりになるなんて、男風情がなんと烏滸がましい!」

  荀彧は目を怒らせて声を荒げた。
  夏侯淵はそれと対照的に、静かに辺りを見回した。脳が彼女に告げている「何かおかしい」という異変はどんどん加速している。最初の慇懃無礼な男。敬語を使わない男。何も喋らずニヤニヤしている女。伝令たちが、こんな態度を取るはずがない。

「貴様ら、何者だ?」
「伝令ですよ」
「嘘をつくな。桂花、伝令はこんな顔をしていたのか」
「数十人は送った伝令の顔なんて覚えていないわよ」
「とにかく、顔を上げろ」
「顔を上げて、いいのかよ」もう伝令の男は敬語を使う気もないらしかった。「それなら上げるけど、驚くなよ」
「早く上げろ」
「言われなくても」

  そこで、ようやく三人の伝令の顔を、夏侯淵は見た。「あっ」と彼女は声を上げる。
  どこかで見た顔だった。そのどこかが一瞬思い出せず、固まった。取るに足らない出来事だ、と記憶の隅に置いたものが、再び現れてくる。名前は。そうだ、確か名前は!

「貴様、程遠志!」

  夏侯淵が叫んだ途端、陣の向こうから鬨の声が上がり、どっと兵士が流れ込んできた。



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黄巾党編 最終話

これで黄巾党編は最後で、次からは黄巾討伐編になります!
感想等お待ちしています(^^♪






  鄧茂は流れというものを信じている。いや、信じざるを得ない、というべきか。程遠志と共にいると、流れというものがまるで目に見えているように感じられるのだ。
  程遠志という男は、両極端だった。失敗が続くときは失敗し続け、意味のわからぬことをして、それが成功に転ずると、成功し続ける。まさに今回は良い例だと思った。
  程遠志が曹操軍と戦うと決めた途端、鄧茂の目には見えぬはずのものが見えた。空気、雰囲気、熱気。それらこそがつまり、流れなのだと思った。理屈ではない。程遠志の無茶苦茶な作戦は、必ず成功するのだ、と確信できた。
  それからは、説明するのも愚かしく、馬鹿馬鹿しい現実があった。
 曹操軍は黄巾党を打ち破ったため、何故か、混乱した。その混乱の渦に紛れ、曹操軍に擬態した程遠志ら二百人は本陣まで容易く辿り着いた。その道中に出会った伝令を捕まえ、服を奪う余裕もあった。これらのうち、どれだけが程遠志の「流れ」によって引き出されたものだろうか。
 そして、最も恐ろしいものはその「流れ」というものを盲信して、一度言ったことを翻すことなく、敵陣に突貫した程遠志という男だ。

「覚えてくれてありがたいぜ、夏侯淵」

  程遠志は弓を構える兵士を従え、くく、と声を上げて笑った。

「どういうこと、陣前の警護は!」
「案外緩いもんだな、警護なんて。ないに等しかったぜ」
「本陣まで、そんな兵士達が簡単に入れるはずはないわ!」
「現実に、入れてるだろ。それが答えだよ」

  荀彧はそこで唇を噛み、押し黙った。あり得ないことである。本陣前には数百人の警護が付いているはずだ。今、この陣の中にも兵士がいるが、二百人の敵兵が入ってきて、ようやく武器を取り出して構えていた。遅すぎる。それまで誰一人にも怪しまれなかったと言うのか。
  それに、仮にできる確率が存在していたとして、何故そのような行動に移れるのか。二百人で敵軍の真っ只中に飛び込むなど、正気の沙汰ではない。荀彧は戦慄する。

「程遠志、お前は黄巾党だったのか」
「そうだな。あんときは焦ったよ。殺されるかと思った」
「あのとき、捕らえておかなかった私の落ち度か」
「流石に無理だろ。俺が黄巾だって察するなんてさ」
「無理だとしても、せねばならなかった。華琳さまに従う以上、それは当然のことだ」
「難しい話だな。俺にはわからねえことだ」

  程遠志は少し笑いながら言った。

「で、これで勝ったつもりか?」
「なかなか悪くねえ指揮だったと自負してるぜ。もう詰めはかかってるだろ?」
「よくこれで勝ち誇れたものだな。ここにはまだ十分な兵士がいる。貴様らの脆弱な兵士などとは比べ物にならない戦力だ。それに、少しすれば伝令も帰ってくるし、怪しんだ警護の者たちが戻って来るやもしれん」
「その前に終わらせればいいんだろ」
「それだけならば、そうだな」
「まだあるってのか」
「私がいる。私が、黄巾賊なぞに負けるはずがない」

  屹立した夏侯淵から、曹操の僕である自分が負けるはずない、という強烈な自負心が発せられていた。
  程遠志は苦笑いを隠せない。見たことがあるのだ。鄧茂も、張曼成も見たことのない、夏侯淵の戦う様を。この二百の兵士では到底勝てないと、彼もまた理解している。

「そうかもしれないな。それでも、曹操にとって痛手になるのは間違いないだろう」
「どういうことだ」
「俺たちは今にでも弓を射かけれるんだぜ。俺の行動一つで、だ。夏侯淵、お前はそれを避けることができるかもしれないが、横の軍師はどうだ。他の兵士はどうだ。こんなとこで無駄な犠牲を払うことは、避けるべきことなんじゃないのか」

  夏侯淵からの返答はなかった。
  ちらり、と彼女は荀彧の方を見た。先ほどまで怒りを浮かべていた荀彧は、弓の狙いが自分であることを理解しても、怯まなかった。気強い目を、程遠志に向ける。

「やれるものなら、やってみなさいよ。私の命のために負けるくらいなら、死んだ方がマシよ。華琳さまに言い訳もできないわ」
「とのことだ。程遠志、人質でも取ったつもりだったか」
「随分と、威勢のいい女だな」
「こそこそと軍の隙間を掻い潜って来た臆病な男からしたら、そう見えるのかもしれないわね」
「そう言われると何も言い返せねえな」


  そこで、程遠志は言葉を切った。彼が喋るのをやめれば、自然と場は静まり返り、殺意に満ちた空間に変わる。


「よし」と呟くように程遠志が言った。彼の顔から、汗が一、二滴垂れ落ちた。もうここが限界だ、とも言った。それが、彼ら三人の間で取り決められた合言葉だった。
  これ以上夏侯淵や荀彧を刺激するのは、得策ではないと程遠志は思った。もう十分危ないのでは、という危惧もあったが、それは仕方のないことだ。言ってしまったことは返らないし、戻らない。
  程遠志は、弓を構えた時点である種の恐慌が起こると想定していた。それが夏侯淵の横にいる荀彧なのか、他の非戦闘員なのかはともかくとして、死の恐怖から多少の怯えが見えるはず。そんな予想を立てていた。
  そこから、優位を持って降伏する予定だった。
  だが、これまで全てが思い通りにいったというのに、最後の最後で思惑とは外れた。流れが切れた。ここが辞めどきだ、と程遠志は確信した。欲をかくべきではない。ここで戦いが始まったら、自分たちは全て死んでしまうのだ。

「弓を降ろせ」

  程遠志がそう言うと、重石を持たされた奴隷が、それから解放されるように兵士たちは弓を下げた。急になんだ、と夏侯淵は思考が止まる。立ち上がっていた程遠志たちは、たちまち膝をついて頭を下げた。
  驚くほどの早業だった。
 なんだ、と夏侯淵、荀彧が問いを投げかける前に、程遠志は叫んだ。

「降伏するから許してください!」

  はあ?  と声がした。もしかしたら、それは曹操軍の全員が言ったのかもしれなかった。






「程遠志、無抵抗で縛られちゃったけどこれからどうなるんだろうね」
「降伏して、縛られて、曹操のとこまで運ばれるのは俺の予想通りだったな」
「うるせえ。これでいいんだよ」

  程遠志はそっぽを向いて言った。彼ら三人は足と手を縛られ、広間に座らされていた。曹操が来て、どのような裁定を下すのかを待っている。そんな時間だった。

「もう少し、降伏まで時を遅らせても良かったのではなかったか」
「どういうことだよ、張曼成」
「あの猫耳軍師が殺されることは、明らかに向こうからしても損だ。降伏を認める確約を貰ってからでもよかったのではないか」
「あれ以上長引かせたら、ダメになる予感がしたんだよ」
「勘か?」
「勘だよ。悪いか」
「悪くない。お前の勘であそこまで行けたのだから、最後まで信じるさ」

  さっぱりと張曼成が言ったので、犬歯を見せて威嚇していた程遠志は逆に毒気を抜かれたようになった。なにも言えなくなって、変にむず痒い気持ちになって、舌打ちした。

「でも、程遠志、完璧だったじゃん」
「だろ。たぶん曹操も聞いてびっくりしてやがるんだろうな」
「程遠志ってそんなに戦の経験なかった気がしたのにな。僕とおんなじくらいでしょ?」
「頭のいいやつは、少ない説明でも十二分に理解できんだよ。戦もそれと同じだ」
「字も書けないのによく言うよ」
「地頭が良い、ってやつだ」
「そうだとは到底思えないけど、まあ、今日は信じざるを得ないかもね」
「中々格好良かっただろ?  惚れんなよ」
「うん。惚れちゃいそう」
「冗談にならねえな、マジで」

  程遠志は愉快そうに笑いながら、そんな軽口を叩き、すぐに真顔になった。「でもよ、ひょっとしたら殺されるんじゃねえか?」急に目を泳がせてそう言った。
  唐突に強面の顔を歪ませ、不安げな様子を見せるので鄧茂と張曼成は思わず笑ってしまった。さっきまでの威勢はどこへいったのか。

「曹操様も」いつのまにか程遠志は呼び捨てから様付けに変えていた。「あんま怒ってねえと嬉しいんだけどな」
「でも、僕たち結果的に見たら、僕たち誰も殺してないじゃん。それどころか二百人の兵士を持って来たわけだし」
「それで許してくれんのかな」
「大丈夫だよ、たぶん」
「鄧茂。お前なんでそんな余裕なんだ」

  怪訝な目で程遠志は鄧茂を見る。

「そりゃそうだよ。だって間違いないもん」
「なにが」
「程遠志が流れに乗って行動したんだから、全部上手くいくよ。僕はそう信じてる」
「……お前らはよ、なんだ、俺をむず痒くさせてなにがしてえんだ?」

  程遠志はまた、軽く舌打ちをした。それを見て鄧茂と張曼成は大笑する。いかつい顔をした彼が嫌そうな顔をして照れているのが、なんとも可笑しかった。
  そこで、こつりこつり、という音がした。
  ついにきたな、と程遠志が漏らすのと同時に、金髪の少女が入ってきた。夏侯淵と、それに似た黒髪の女を引き連れている。金髪が、曹操だ。程遠志はすぐさま確信した。漂う雰囲気が、常人とは明らかにかけ離れている。

「貴方が程遠志ね」
「はい。程遠志です」

  程遠志はすぐさま平伏した。くく、と鄧茂は誰にも気取られないように笑う。明らかに固くなっている。
  曹操もまた、程遠志が自分に気圧されていることに気がつき、薄く笑みを見せた。

「随分と怯えているじゃない。秋蘭、聞いていた様子とはだいぶ違うけれど?」
「私見ですが、平時はこういう人間なのだと思います。戦場に出れば何かが変わる類の人間かと」
「成る程。なかなか面白い話じゃない。それで程遠志、貴方は降伏すると言ったそうだけど、それはこの私に仕えるという意味で良いのかしら?」
「はい。そういうことです。身分は下の下からでよろしいので、どうか」
「そう。構わないわよ。降伏を認めるわ」
「え、本当ですか!」

  程遠志は思わず顔を上げて叫んだ。目を丸くして嬉しそうにする様子は、彼の容貌にひどく似合わず、滑稽に見えた。

「本当よ。何、私が嘘をついたとでも?」
「い、いえいえ。そんなことはないですとも。ただ、降伏は許さない、という矢文が飛んでいましたので」
「あれは黄巾の戦意を下げるための策だ」

  夏侯淵がぼそりと言った。雷に打たれたように程遠志は身体を震わせ、そこで彼女に対して怒りの眼を向ける……などということはなく、身体を震わせたまま「そうだったんですね」と呟くだけだった。
  徹底的に下手に出ているな、と夏侯淵は思った。保身に徹しているのだろう。つまらない、と彼女は思った。個人的に彼に対して恨みがあるわけではないが、飯屋と戦場で上手くしてやられた悔しみはある。軽くからかってやろう、と決めた。

「……華琳さま」
「なに、秋蘭?」
「実は、私、その男と少し因縁がございまして」
「因縁?」曹操の顔が少し変わる。「何かこの男が過去にしでかしたと?」
「いいえ、そのような大きい出来事ではないのですが、数日前に別件でこの男と会ったことがあります」
「夏侯淵、その話は言わなくてもいい……んじゃないですか」

  崩れかけた敬語で、頰から汗を流しながら程遠志は止める。鋭い目で夏侯淵を睨めつけるように見たが、彼女は意にも返さない。
  面白くなってきた、と夏侯淵が笑うと、何が言いたいのか察したのか、鄧茂も張曼成も共に笑っていた。その笑みを見て、曹操も先を促した。

「それで?」
「飯屋で偶然、こちらを見てくる野蛮で不審な男がいるな、と思い、怪しんで声をかけたのが、この程遠志でした」
「ふうん。何か抵抗したわけ」
「いえ。特に抵抗されることもなかったです。ただ、そこの男はとても驚くような行動に出ました」
「驚くような行動?」
「はい。私に告白してきました」

 は? と曹操は一瞬固まった。固まって、すぐに破顔した。「飯屋で、急に? 何の前触れもなく?」「はい」そう夏侯淵が答えると、愉快そうに大笑した。
 隣に座る黒髪の女は目を白黒させている。唐突な「告白」という単語に一瞬戸惑い、たちまち顔を真っ赤にして怒った。「貴様、どういうつもりだ……っ!」

「い、いや、その、それはですね。実際のところ、ただの冗だ―――」
「……冗談、などとは言わないだろうな、程遠志。私に告白し、やきもきさせ、それで実は冗談でした、と言うなど男のやることではないぞ」
「な、お前」程遠志は面食らった。「絶対やきもきなんて」
「確かにそうね。そんな男は雇う価値もないわ」
「曹操様―――!?」

 曹操も、夏侯淵も。いうまでもなく告白が嘘であったことなど既に察している。知っていて言っている。そういう性格なのである。
 鄧茂も張曼成も知っているので、知らぬのは黒髪の少女だけだった。「嘘だったら殺す」「本当でも殺す」そんな瞳で見つめてくる彼女を見、程遠志は背から脂汗を流した。

「本当なら、ここで正式に宣言してもらいたいわね」
「せ、宣言とは……」
「言葉のままよ。あなたの気持ちをそのまま率直に述べてくれればいいわ」

 意地の悪い笑みを浮かべて曹操は言う。
 針の筵。蛇に睨まれた蛙。そんな言葉が程遠志の頭の中に浮かんできた。言うしかないのか、と自問自答する。すぐに答えは出た。筵の上に座り続け、蛇に睨まれ続けることができるのか。それと同義だ。
 そこまで精神力が強かったら、俺はこんな無様な格好になってねえな。程遠志は苦笑いをしながらそう思った。
 それならば、堂々と宣言してやろう! 曹操を感心させ、黒髪の女に認められ、夏侯淵を恥ずかしがらせるほどに。程遠志はそう思い、背筋を伸ばし、胸を張って言った。


「俺は―――夏侯淵に一目惚れしました。大好きです!」



 ―――この言葉が果たして、曹操ら三人に響いたのかは、言うまでもないことである。
 このような感じで、程遠志たちは曹操軍に加入した。この後、荀彧に罵倒を受けたり、許褚から存在を無視されたりと散々なことがあるのだが、まあ、大体はこんな感じだ。






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第2章 黄巾討伐編 黄巾討伐編 第一話

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久しぶりに恋姫をPSPでやったら桂花と秋蘭のことがもっと好きになっちゃった(''ω'')






 今年の夏は特別に暑いらしい、と曹操が言っていた。どうしてそんなことがわかるのか、と程遠志は不思議に思ったが、現に確かに暑い。これじゃやってられないよ、と鄧茂は会うたびに不平を漏らしてきた。

「今日が休みの日でよかった!」鄧茂は叫ぶように言った。

 程遠志からすれば別に休みの日であろうがなかろうが、熱いものは嫌なのだが、鄧茂は違うらしい。
 艶めかしい姿で横になっている鄧茂と、そこから微妙に目を離している張曼成を尻目に、程遠志は溜息を吐いた。

「お前らさ、休みの日になったらぜってえ俺の部屋に来るよな」
「暇なんだもん。程遠志ぐらいしか友達いないし」
「右に同じく」
「それならよ、作る努力をしろよ。張曼成はともかく鄧茂は休日どころか仕事が終わったらすぐに俺のところ来るじゃねえか」
「来ちゃダメ?」
「別にいいけどよ、もっと新たな人間関係を構築したらどうだ、って話だ」
「そういう程遠志はどうなのさ」

 それを言われると二の句が継げない。程遠志は目を逸らすしかなかった。
 彼もまた、生まれながらの強面が祟ってまだ誰とも打ち解けられていなかった。ほら、と勝ち誇る鄧茂に、苛立ち紛れに拳骨を落とす。

「なにすんのさ!」
「得意げな顔が気に食わなかった。俺の部屋に入り浸りになって友達出来てねえ奴が勝ち誇ってんじゃねえ」
「だからって暴力振るわないでよね」
「昨今の、むやみやたらに暴力は振るわないほうがいいです、って風潮が俺は嫌いなんだよ」
「なにそれ」鄧茂は馬鹿馬鹿しいものを見た、という顔になる。「それに、僕が程遠志のよく行ってるのは、友達が少ないからだけじゃないんだよ」
「じゃあほかに何があるんだよ」

 鄧茂はいったい何を言うのだろうか、と程遠志は考える。「程遠志のことが好きだからだよ」と真顔で言う鄧茂の姿を幻視し、どきりとした。
 あり得ない。いやいや鄧茂ならばあり得るやも―――と考えていると、鄧茂は割と深刻そうな顔で言った。

「僕が男だってこと、まだ曹操様とか気づいてないみたいなの」
「ああ―――そのことね」
「そう。このままだと、すっごくまずいことになりそうなんだよね」
「それなら早く言えばいいじゃねえか」
「今の時点でも割とまずいことになってる気がするんだよね……」

 鄧茂の口ぶりは軽かったが、顔は笑っていなかった。曹操に同性愛の気があることを理解したのは最近で、鄧茂に対してちょっかいを駆けだしたのもまた、最近である。加えて言えば、大の男嫌いの荀彧が程遠志ら三人の中で鄧茂に対してだけ普通に話すようになったのも最近である。
 ここで本来の性別を明かしたらどうなるだろう。考えたくもねえな、と程遠志は零した。

「いいじゃねえかよ。好意的に見ようぜ。唯一お前だけが曹操様とか、荀彧様とかと仲良くできてんだからよ」
「その『仲良く』が問題なんじゃないか。それで程遠志のとこに逃げ込んでるんだしさ」
「まあ、そうなんだろうけどよ。深く気にしすぎるのも問題だぜ。明るく前向きに考えていこうや」
「適当な言葉だなぁ……」

 苦笑しながらも、鄧茂は本当に悩んでいる様子だった。ふむ、と程遠志は顎に手を当てる。人間関係というか、そういった類のことで鄧茂がここまで神経をすり減らしているのは、初めて見た。
 軽口でもたたいて気を休めてやろう、と程遠志にしては珍しい気を使ったことを考えた。

「でもよ、俺は安心したぜ」
「安心?」鄧茂は首をひねった。「なんでさ」
「てっきりお前がこう言うんじゃないか、って思ったんだ―――俺のことが好きだから、部屋に入り浸りになってるんだよ、って」
「ああ、確かに。よく考えたらそれが一番だね」

 笑わせてやろう、と程遠志が軽く吐いた言葉に、鄧茂は軽々と頷いた。

「冗談だろ?」
「本気だよ、確かめてみる?」

 何をだよ、と程遠志が彼らしくもない少し焦った声で言った。
 俺のいないとこでやれよな、と張曼成も少し嫌そうに言った。





 飯でも食いに行こうぜ、と程遠志が呟くように言ったときには、もう、既に陽が落ちてしまっていた。
 こんな夜になるまで、彼ら三人は何も食わず、時に馬鹿話をし、時に睡眠を貪り、各自思いのままの行動をしていた。休日とはそうあるべきものだ、という認識は、この三人の等しいものだった。

「まだ暑くない? 程遠志」
「流石によ、腹が減りすぎちまった。これ以上は無理だ。そうだろ?」
「まあそうだけど―――僕は暑いほうが嫌だな」
「悪い。俺も限界だ」
「ほら、張曼成もこう言ってら。多数決で二対一だ。いいよな、こういうとき友達が三人だと。二で割り切れねえのがいい」

 それなら別に五人でも七人でも同じじゃん、という鄧茂の声を無視して、程遠志は外に出る。張曼成も続けて立ち上がると、鄧茂も渋々それに続いた。

「どこに食べに行くのか決めてるの?」
「いや。何にも決めてねえ。歩きながら決めればいいだろ」
「それなら、中でまだ涼みながら決めればよかったじゃないか」
「結局面倒くさくなって何も決められなくなる気がしたんだよ。こういうのはよ、恋愛とかと一緒なんだ。やれるときにはやる。動くときには動く、だ」
「そんな風に恋愛を語る程遠志は、夏侯淵さまに告白して、何か進展があったのかい?」

 鄧茂がそう問いかけると、程遠志は一瞬苦い顔になり、すぐに両手を挙げた。

「ずりーぞ、最低だ。そんな答えのわかってることを聞いてくるなんて。張曼成、お前もなんか言ってやれよ」
「あの時の程遠志は面白かったからな。どうしようもない」
「ひでえな、お前ら。最低だよ。俺はあれから夏侯淵に会うたびに笑われるし、夏侯惇に会うたびに絡まれるのに」

 程遠志はつい先日黒髪の少女―――夏侯惇にひどくやられたことを思い出した。「お前みたいなやつが、秋蘭に釣り合うわけがない。私と勝負しろ!」と、激烈に詰め寄られ、夏侯惇の気性を理解している程遠志は、子供の相手をする様に適当に話を逸らせばいいとわかってはいたものの、その勝負を受けた。
 今思えば阿呆らしいことだったが、ふと、「夏侯惇とは夏侯淵と比べてどれほど強いのだろう?」と程遠志は疑問になったのだ。
 軽く試してみよう、と思ったのが運の尽き。夏侯惇の軽くは軽くで終わらない、ということをそこで学べた。学ばされた。

「そう考えると、僕らも割合と曹操様の家臣と話してるんだね」
「とは言っても全く話さないやつもいるだろ。許褚、だっけか。あの小さいガキとか。張曼成、お前も話しかけられたことないだろ」
「ないな。一度たりとも」張曼成は静かに首を振った。
「だって、あれはまた別でしょ。黄巾に対して敵意を持ってるんだから、そりゃまあ僕らを受け入れ難いのは当たり前だよ」
「に、してもだ。無視されるならともかく俺たちがそこにいないみたいに扱ってくるじゃねーか」
「僕には気持ちがわかるけどなあ。そうでもしないと、多分ぶん殴りたくなっちゃうんだよ」

 ふうん、と程遠志は適当に返した。自分にはわからない感情だな、とも思った。生まれだとか、育ちだとか。もともとの土壌が違う程遠志とは考え方が正反対と言ってもいいのだろう。

「お前ら、何が食いたいとかあるか?」
「なんでもいいよ。お腹に溜まれば」
「がっつり食えればなんでもいい」
「適当だな―――お、ここなんてどうだ」

 程遠志が指をさした先は、如何にもな高級志向の料理店があった。店の前にかかっている料理表からも、その強気な値段設定が見て取れる。
 鄧茂と張曼成は、見るからに狼狽えた。夏侯淵に最初に出会った時の飯屋よりも、遥かに値段は高い。

「こ、こんなに程遠志ってお金持ってたっけ」
「持ってねえけど、経費で落ちるんじゃねえの」
「落ちるわけないでしょ」
「黄巾のときは、割と誤魔化せたんだけどな。それなら無理か」

 ままならねえもんだ、と程遠志が溜息を吐いた。それとほぼ同時に、料理店の扉が開く。
 中から三人の人間が出てきた。あ、と程遠志は固まる。見覚えのある人間、というか、毎日見ている人間だった。

「あら、程遠志。偶然ね」
「……ホント、すごい偶然ですね。曹操様」

 曹操と、夏侯惇と、夏侯淵。
 程遠志は頭が痛くなる思いだった。嘘だろ、と心の中で嘯く。

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黄巾討伐編 第二話




「立ち話もなんだから、店の中に入りましょう」
 
 曹操はそう言うと、今出てきた料理店に再び入り直した。え、と程遠志は思わず叫ぶ。こんな高い店に入るのか。 

「心配しなくても、お金くらいは私が持ってあげるわよ」
「華琳さま、このような輩どもにそこまでしてやる必要は―――」
「いいのよ、春蘭。彼、彼女らには頼みたいことがあるのだから」

 彼女、と呼ばれ、流し目で見られて、鄧茂は一瞬肩をビクつかせた。

「頼み事って何ですか?」
「そのことは中で、料理にでも手を伸ばしながら話しましょう」

 程遠志は嫌な予感がした。どうにもきな臭い。
 すぐにでもこの料理店から出るべきなのだろうが、悲しいかな、それはできない。曹操に逆らう気には、どうにもなれないからだ。

「おい、程遠志」夏侯惇がすっ、と寄ってきた。「お前、ちゃんと鍛えているか」
「ああ。鍛えてるよ」
「前みたいな酷い有様じゃ、お前のことを一生認めてなんてやらないからな!」
「前って。あの、お前と勝負した時のことか」
「そうだ。私から一本も取れなかった、あの時だ」
「お前には、俺は一生勝てない気がするんだけど」
「そんな思いでどうする! やる前から諦めるな!」

 夏侯惇はそう言ったかと思うと、程遠志の背中をばん、と叩いた。
 まるで飛び上がるような衝撃―――というか、実際に飛び上がった。人一人分くらいの距離を程遠志はその勢いのまま跳躍し、着地してつんのめった。
 くすくす、と夏侯淵が笑っている。こんな奴に勝てるわけねえだろ、と程遠志は呆れながら思う。

「まあよ、善処するよ」
「ゼンショ?」

 夏侯惇はその単語の意味が分からないらしく、その分からないことを察せられることも嫌らしく、微妙な顔のまま二、三度頷いた。

「うむ。ゼンショしろ」
「ああ」
「程遠志、お前も随分と姉者と仲良くなったな」

 小さな声で、背後から夏侯淵が話しかけてくる。
 夏侯惇にその言葉を聞かれれば「この男などと仲良くなんてない」と猛烈に否定し、程遠志に迷惑がかかるのではないか、と危惧してくれる程度には気を使ってくれていた。

「どこがだよ」
「私と同じで、姉者にも敬語を使っていないじゃないか」
「……お前と同じことを言われたんだよ」
「私と同じ?」

 夏侯淵は首を傾げる。こいつ、もう忘れたのか、と程遠志は少し腹を立てた。
 少し前―――程遠志が曹操に仕えるようになった初期に、夏侯淵は彼に一つ文句をつけてきた。「お前の敬語は気味が悪い」「もっと、自然に話すようにしろ」と。
 それと全く同じことを、夏侯惇にも言われた。ただそれだけの話である。
 夏侯淵に程遠志がそう伝えると、「ああ」と言って手を打った。心なしか顔が笑っている。

「姉者と同じ、というのはいいな」
「何がだよ」程遠志は呆れた顔になる。「俺からしてみたら、お前ら姉妹に敬語をケチつけられただけだぞ。なんもよくねえ」
「姉者は可愛いからな。それに免じて許してやってくれ」
「どういうことだっつーの」

 程遠志は、にやにやと笑う夏侯淵を尻目に軽く肩をすくめた。
 そんなことをしながらも、料理店の店員に案内され、席につく。鄧茂と張曼成は明らかに舞い上がっていた。
 程遠志も店の中に通されて、実際に料理が目の前に並んでくるのを見ると、少しずつだがこんなのも悪くはねえな、と思うようになってくる。
 落ち着け、と頭を振る。鄧茂や張曼成みたく、料理で釣られては駄目だ。

「それで、曹操様。頼みたいことって何ですか」
「そうね。でも、その前に賭けをしない?」
「は?」程遠志は一瞬、素になった。「あ―――いや。どういうことです?」
「そのままの意味よ。私たちと、対決しない?」
「対決」

 いい響きの言葉だった。対決。言葉の勢いのまま、すっと胸に入ってきそうになって、程遠志はまたハッとする。

「と、いうと」
「簡単な、なんてことのない勝負よ。そこの料理を、早く平らげた方が勝ち。私たち、と言っても、勝負するのは春蘭だけどね」
「その対決に、何の意味が」
「勝った方は、負けた方に言うことを一つだけ聞かせられる、というのはどう。私は貴方に少し無理難題を言うわ」

 無理難題を少し言う、とは。程遠志は苦笑した。どこに、少しの要素があるんだ。
 鄧茂と張曼成は、料理に魅かれていた目を、いつの間にか程遠志の方へ不安げに向けていた。

「俺が勝ったら、何言ってもいいんですね」
「勿論よ。ここの料理店を一生無料にしてもいいし、貴方の給料を二倍にしてもいい」
「休みを増やしてくれ、なんて願いでもいいんですか」
「あら、不満があったの」
「別にそういうわけじゃないですけど」
「いいわよ。なんだって、言うことを聞いてあげる」

 ふうん、と程遠志は溜息に似た声を漏らす。おい、と横で声がした。鄧茂と張曼成が、まるで大事な何かを伝えたいと言わんばかりに、両の手でバツ印を作っていた。小さく、ばれないように。
 彼らがあくまで小さく遠慮しがちに行動しているのは、勿論曹操らに対する遠慮もあるのだろうが、程遠志はこんな挑発に乗らないだろうという信用も多かった。
 いくら相手が主の曹操とは言えど、あくまで冗談の範疇に入る提案だ。拒否することは不可能でない。
 だというのにもかかわらず、程遠志はにやりと笑った。「いいっすね。受けますよ」勝ちを確信した表情で、そう言う。
 そこで初めて鄧茂は「程遠志!」と悲痛な声で言ったが、程遠志の表情は変わらない。
 それどころか彼は鄧茂の腕を静かに引いて、自分の方へ引き寄せた。耳元で囁く。

「俺よ、昨日見ちまったんだよ」
「見たって何を」
「夏侯惇の、食べるのが遅いところをだよ。それに、曹操様たちはさっきまで飯を食ってたんだ」
「だから勝てるって?」鄧茂は軽く首を振る。「根拠が薄すぎる」
「負けねえよ。それに、お前も曹操様に難儀してたんだろ。ここで俺がしっかり勝って、絶対に怒らないって条件を受け入れてもらって、お前の性別を言いやすくしてやるよ」
「程遠志、そのために……?」
「ああ。ここで俺が負けるとすれば、夏侯惇が昨日の飯を食う姿を俺に見せることも、曹操様がこの店から出てきたことも、計画のうちってことになる。そんなことあり得るか?」

 あり得る、と鄧茂は言いたかった。曹操ならばやりかねない。夏侯淵の悪戯っぽい笑みも、夏侯惇の得意げな表情も。すべてがそれを裏付けるようであった。
 しかし、鄧茂は程遠志を止めることができなかった。考えすぎだろうという思いと、程遠志が自分のことを心配してくれていた嬉しさから、何も言えなくなっていたためだ。




 程遠志は簡単に負けた。彼は捨て鉢になったのか、それとも負けるのならば高級な料理を味わって食ってやろう、と画策したのか、最後の方はえらくゆっくりと箸を進めていた。
 夏侯惇の飯を食べる姿は美しく、その上早かった。それに動揺した程遠志は焦り、そのせいでいつもよりもかえって遅くなってしまい、惨敗した。

「程遠志。私たちの勝ちね」
「もしかして、ですけど。俺って仕組まれました?」
「ええ。ごめんなさい、と謝った方がいいかしら」
「それは、まあ、いいですけど」程遠志はどうも釈然としなかった。「こんな賭けをする必要なかったじゃないですか」
「どうして?」
「賭けなんてしなくても、命令されたら俺は何でもしますよ。なんでも、ね」

 その程遠志の言葉は、完璧に掌で踊らされたことからくる不満の感情なのか、負けたからこそ曹操への忠誠心を見せてやろうという媚びなのか。
 恐らくそのどちらもだろう、と鄧茂は思った。やめればよかったのに、と思いながらも、真剣に止められなかった自分が言えたことではないな、と思った。

「あら。それはありがたいことね」
「ええ。何でもおっしゃってください」
「今現在の、我が軍の情勢を知っているかしら」
「黄巾に対して圧倒的に押してる、ってのは知ってますよ」
「そうね。凪たちが、向こうの主力軍を撃破した後、逃げ込んだ城を包囲しているわ」
「順調ですね」
「順調すぎたのが、失策だったかもしれないわね」

 え、と程遠志は小さく漏らすように言う。順調ならばいいではないか。
 凪―――というのが誰を指すのか、まだ程遠志は知らない。恐らく真名なのだろうから復唱することを避けたが、彼女が城を包囲しているならば何も問題ないのではないはずでは。

「どういうことですか」
「今、黄巾党の総指揮を取っているのは、誰かご存知かしら」
「張角様―――」程遠志はそこで、慌てて手を振る。「張角ですよね。そう。張角」
「名目上は、そうね。ちなみに貴方はその張角の顔を知っているの?」
「知らないですね。俺は、元々ある黄巾党に便乗して入った口だったので」
「じゃあ、張角が何をやっているのかも知らないの?」
「いや、それは聞いたことがあります。確か、旅芸人をやっていた―――」
「数え役萬しすたーず、という名前で活動しているのでしょう?」

 そこまで知られているのか、と程遠志は驚く。流石に情報量が違うな、と感心していると、彼の隣で張曼成がぼそりと呟くように言った。

「しすたぁず、です」
「?」
「しすたーず、ではなく、しすたぁず」
「……そこは、重要な部分なの?」
「その読み間違いで、一度刃傷沙汰になりました」
「……そ、そう」

 曹操も流石に面食らった様子で黙り込んだ。嘘ではない。実際にあったことである。

「とにかく。名目上の指揮官は張角でも、実際に軍を動かすのは、また別の将がやることでしょう? それは誰かわかる?」
「実際の、大将」

 程遠志は首を捻った。彼は、黄巾党で人付き合いを精力的にしてはいない。思い当たる人間はそう簡単に出てこなかった。

「あら、わからないの。今の総大将は、厳政という男が務めているそうよ」
「ああ! あの男か。覚えていますよ」
「その男なんだけど、先日、張角の身柄を捕えて我が軍に降伏したい、という書状を送ってきたわ」
「ええ!? ……真面目そうなやつに見えたんですけどねえ」
「あら。我が軍に降ることは不真面目だと?」
「い―――いやいや。そういう意味じゃなくて。忠義を尽くす類の人間に見えたっていうか」

 しどろもどろになる程遠志を楽しそうに観察しながら、曹操は言った。

「まあ、そこまでは順調だったのだけれど、それから少し、問題が起きたの」
「問題?」
「少し前から、厳政から送られてくる書状が届かなくなったのよ」
「……降伏するのを、取りやめにしたとか?」
「いいえ。私は黄巾の間にも疑心暗鬼が生じた所為だ、と踏んでいるわ。城内から城外へ連絡を取る手段が消えたのでしょう」
「それは困りましたね」
「ええ。私としては、張角を生け捕りにしたいのよ。彼女にも何らかの才があるはずだわ。それを生かせる場を用意できれば、私の覇道の原動力となるかもしれない」

 曹操は力強く言った。
 この大乱を巻き起こした張角を生かすことは難しいのではないか、と程遠志は思ったが、その一方で曹操ならばどうとでもするんだろうな、という畏怖を持った。容易くやりかねない。

「今のままいけば、中で内乱が起こり、張角が死ぬかもしれない。かといって、漢王朝に不満を持つ人間が多いからなのか、そう容易くは降伏しない」
「今のままでは、手詰まりですね」
「そこで、貴方にお願いをしたいのよ」
「……俺が何をすれば」
「貴方が黄巾を抜けた、という知らせはあまり広がっていないはず。運のいいことに、秋蘭があの戦いで『降伏は認めない』という矢文も射ていた。おまけに、貴方は黄巾の中では中々の有名人だったらしいじゃない」
「つまり」
「貴方に、その城へ潜入してほしいの」

 確かに、中々の無理難題である。程遠志は重々しく唸った。
 程遠志が黄巾から曹操のもとへ身を移してから、黄巾党は連戦連敗を繰り返している。恐らく城の中は重苦しい空気が漂っているはずだ。
 すぐさま斬り殺される、なんてことは流石にないと思うが、危ないことに変わりはない。狗鷲に顔が似た、裴元紹の問題もある。

「黄巾の警戒が強まっているのなら、城内に自然と忍び込むのも難しいんじゃ」
「それはこちらで何とかするわ。そろそろ凪に任せっきりにするんじゃなくて、私も出陣する。私の歓待で少し包囲が緩み、その隙に忍び込めたことにしましょう」
「なるほど―――でも、そもそもこの作戦って、かなり難しいですよね」
「あら」曹操はにっこりと笑う。「なんでもするんでしょう? 命令すれば」

 う、と程遠志が言い淀む。何も言い返せない。

「まあ、心配することはないわ。張角、厳政と会うことが難しいなら、何もしないでくれても構わないし。危険を冒してまで助けに行ってくれ、とまでは頼らない。貴方が城に入って七日。その間になにも音沙汰がなければ、張角は諦めるわ」
「諦める、ってことは」
「力攻めに切り替える。張角の身柄を考えなければ、黄巾なんて簡単に滅ぼせるわ」
「……城の中にいる俺もろとも、なんてのは止めてくださいよ」
「安心しなさい。貴方の顔は一兵卒にも覚えさせるわ。―――どう、やってくれる?」

 やってくれる、も何も。やらなければならないだろう。程遠志は一瞬顔を歪ませ、苦笑した。

「やりますよ。やるしかないんでしょう?」
「ありがとう。成功の暁には、貴方に長い休息日を送るわ」

 随分と疲れが溜まっているらしいし、と曹操は嘯く。
 永遠の休みにならなければいいですけど、と程遠志が皮肉っぽく言うと、彼女はまた笑った。


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黄巾討伐編 第三話

一度、厳政視点からの話を挟みます!




 最近、どうにもツイてない。厳政は自分の靴についた犬の糞を見て、情けない顔になった。この一週間で、似た不幸に三度は遭遇した。もうこれは偶然ではなく必然と呼ぶべきである。それはつまり、今のこの不幸は起こるべくして起こったことなのか、と考えると、いやな気分になった。
 張宝に「付き人、お願い」と頼まれた時は、舞い上がったものだ。その時の高揚は既に冷めている。彼女ら三姉妹に対する忠誠心は今でも変わらないつもりだが、それは曹操へ内通書を送った自分が声を大にして言えることではないか、と諦めにも似た感情を持った。

「厳政、これからどうするの?」
「……城に籠っておれば、暫くは安全かと」
「それからは?」
「私がどうにかします。張宝さまは、心配なさらないでください」
「本当に大丈夫なんでしょうね」

 不安げな表情になる張宝を見て、厳政は少し悩みを持った。今のままでいいのだろうか。
 このまま戦えば負ける。この城に籠り続ければ、中から崩れる。それは間違えようのないことだ。だから、張角、張宝、張梁三人の身柄とともに降伏する。曹操からは彼女らを助命するという約定も受け取っている。
 それこそが彼女らを救う最もいい方法だと考えていた。
 その考えは、間違っていない。
 何が間違っていたかと言えば、黄巾党の内部が予想よりも脆かったことだろう。

 数日前、大規模な内部反乱が起きた。張角に対する反乱。黄巾党に後から入った、野党同然の者たちだった。
 厳政らによってそれは鎮圧されたが、その影響から中から外への脱出は難しくなり、曹操への連絡手段も消えた。
 今すぐ城を開門し、降伏するべきだ、とも思ったが、黄巾党の張角に対する信仰は、危うさを含む程までになっている。下手に曹操に降伏するなんて言えば、殺されかねない。

「なんでこんなことになっちゃったのかしらね」
「張宝さまが、大陸を獲る、なんて言うからじゃ……」
「うっ」張宝は胸を押さえた。「あ、あれは歌で獲る、って意味だったのよ」
「皆には、冗談には受け取られなかったみたいね」

 はあ、と張梁は一つ息を吐いた。その隣にいる張角も、張宝に苦笑を零しつつも少し焦った様子を見せている。
 彼女らを守らなければならない。張角も、張宝も。高い管理能力を有している張梁でさえも、元は旅芸人に過ぎないのだ。こんな状況に免疫があるはずもない。
 厳政は静かに決心した。今の黄巾党に、信用できる人間はいない。自分しかいない、と思った。彼女らを守れる人間は。
 そんな悲壮な決意を抱いたからか、厳政は昔のことを思い出した。一年前。張宝たちと出会った、一番最初の頃のことである。



 厳政は、昔、小さな村で小さな役職に就いていた。毎日毎日、ある程度決まった仕事を片付ける。それだけの日々だった。
 特に不平不満を覚えることはない。仕事は安定している。そんな毎日を暮らすことは人間誰しもができることではなく、自分はまだ恵まれている人間なのだ、とは理解できた。理解できたが、詰まらなかった。
 不平不満がないことが、不満だった。矛盾している言葉ではあるがそれが真理であった。要するに、退屈だったのだ。
 とある日、退屈な毎日に嫌気がさして、仕事を無断で休んだ。それが何か変わる切っ掛けになると思った。遊び惚けてやろう、とも思った。そんな日が必要なのだ。そう心底信じ込んだ。
 だが、どれだけ遊んでも大して楽しくはなかった。夜中まで乱恥気騒ぎをする予定だったのに、体が持たず吐きそうになって陽が沈む頃には切り上げた。切り上げて、外に出てから、ハッとした。陽の沈み方がいつもの帰り道と同じだった。仕事から解放されてもなお、憂鬱さが残る、帰り道と。
 仕事に行く時間に起き、大して楽しくもない時間を送り、仕事の終わる時間に帰る。
 同じではないか。無駄ではないか。叫びだしたくなった。
 決められた道を、決められたように歩かされているような束縛感だった。そして、この束縛からは一生逃れられないのではないか、という恐怖が身を襲った。自然と、歩く速さが落ちていく。

 だからこそだろう。急いでいる時ならば気づかなかったし、普通に歩いていれば目にも留めなかった。遅い足だからこそ、気が付いて、目に留まった。
 小さな村の、その中でも端っこの方で、張角たちは楽しそうに歌を歌っていた。ちらほらと立ち止まって見ている人はいたが、長くそこに留まる人間はいなかった。だというのに、彼女たちはまるで自暴自棄になったみたいに、歌って踊り狂っていた。
 足を止める人間が少ないわけはすぐわかった。こんな人口も少なく年寄りの多い小さな村で、煌びやかな格好をして踊ることは、非効率的で無駄なのだ。物珍しさから人が集まることはあれど、長く滞在するわけもない。
 彼女らにもそれはわかっているはずだ。それでも止めなかった。挑戦的で、目に見えない何かと対決しているかのようだった。
 それを見て、厳政は少し立ち止まってみると、彼女たちは嬉しそうになった。厳政は無性に腹が立った。まるで真逆な人生だ。自分と比べられている。そんな幻想を持った。
 仕事から逃げ出した自分と、何からも逃げ出さない彼女ら。安定した職業と不安定な旅芸人。不自由と自由。束縛と解放。
 歌が終わると同時、「気に入らない」と厳政は呟いた。馬鹿なことだ。八つ当たりにしても迷惑極まりない。わかっていても止められなかった。ぽかん、としている彼女らに、喧嘩腰で歩み寄った。

「誰も客がいないのに、そんな元気にやる意味なんてあるのか」
「何よ」厳政の喧嘩腰な態度に、張宝が噛みついた。「何か文句でもあるわけ」
「文句を言いたいんじゃない。ぼくは教えてあげてるんだ。人がいないのに、そんなに楽しそうにやる意味なんてないだろ」
「楽しそうにやらないと、駄目なのよ」
「どうして」
「対決に、負けるのよ」

 なんだって、と厳政は聞き返した。「対決」と言葉が返ってくる。対決、対決。何故か耳に残る言葉だった。

「自分自身と対決してるとでも言うのか」
「違うわ。この世界のすべての旅芸人に、よ」

 規模の大きすぎる話だった。あり得ない、と思いながらも、厳政は不思議と頷いてしまった。彼女らの歌は挑戦的で、好戦的だった。
 言葉を失った厳政に、張宝は一言だけ言った。「次が最後だから、全部聞いてね」
 もう帰る、と跳ね除けることはできなかった。足は棒になったように動かない。歌が始まる。目が離せない。
 彼女たちの歌と踊りが、最高に素晴らしい、というわけではない。旅芸人としての技術がもっと優れている団体は他にもあるだろう。
 だが、何か思いを伝えるということに限れば。挑戦する、対決する。大陸一の旅芸人になる。そういった、自分たちの気持ちを相手に素直に伝える能力ならば、誰よりも優れているのではないか。

 厳政は挑戦しよう、と思った。対決するのだ。自由だとか、安定だとか、束縛だとかに。それが世間一般からしたら正しい選択ではないとしても。
 それで、彼女たちについていこう。大陸一の旅芸人になる瞬間を見るために。

 歌が終わった。「どう?」と張宝が聞いてくる。意外にも、不安そうな表情を浮かべながら。

「好きだ」厳政は自然と口から声が滑り落ちた。「これ以上ないほど、好きになった」
「よかった」張宝は胸をほっと撫でおろしながら言う。「その言葉が欲しかったのよ」

 そんなわけで、厳政は仕事を辞め、張宝ら三姉妹についていくことになった。当時の彼女らにそれを伝えると、同情だの憐憫だの散々な目で見られたが、厳政は今でもその選択が間違いでなかったと信じている。





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黄巾討伐編 第四話



 程遠志は、黄色い巾を頭に巻いた男たちから突き刺さる視線に身じろぎした。居心地悪いな、なんて思う。元同僚に向ける目じゃねえだろと一喝してやりたくなった。
 彼の後ろを歩く張曼成にも、同じような視線が突き刺さっている。その後ろの鄧茂には同種の視線と同じくらい、好色な視線が降り注いでいたので、程遠志はうげ、と吐きそうになった。

「お前らよ、別に俺についてこなくてもよかったんだぜ」
「程遠志を一人で行かせるっていうのもね。なんとなく目覚めが悪いっていうか、さ」
「死んでもらっては、数少ない友人が一人減ってしまう」
「……それはありがたい話だけどよ。曹操様との賭けは俺が無鉄砲だったのが悪いんだから、ついてこられても恐縮しちまうよ」

 そうは言いながらも程遠志の腰が低くなることはなかった。いつも通りの、いけしゃあしゃあとした振る舞いである。

「それに」鄧茂は少し目を泳がせた。「程遠志と張曼成が一週間もいなくなったら、僕が大変なことになるよ」
「あ? 大変なことって―――ああ、成る程」
「うん、そういうこと」

 程遠志は料理屋での顛末の、その後あったことを思い出していた。
 彼が賭けに負けた後、鄧茂と張曼成は「程遠志とともに行く」と言った。その時それに合わせるように、というか、食い気味で曹操も言葉を発していた。

「あら。貴方たちは無理をして行かなくてもいいのよ?」

 ―――曹操の瞳は、鄧茂を見ていた。
 鄧茂は額から脂汗を流していた。取って食われるような、そんな気がしたのである。

「あれは本当に怖かったなぁ……」
「お前、マジでそろそろ本当の性別を伝えた方がいいぞ」
「言っても信じてくれない気がするんだよね。本当に確かめられて、大惨事になる気がする」
「だからって、言わなかったらどんどん洒落にならなくなるだろ」
「このまま最期までばれない可能性を信じるって手もあるんじゃ……」

 鄧茂の思考がどんどんと危ない方向にいっていた。

「もうこの際女ってことにして程遠志と付き合ってる設定にしようかな」 
「おい馬鹿。俺を夏侯惇に殺させる気か。洒落にならねーよ」

 程遠志は身体をぶるりと震わせた。夏侯惇に勝負という名目で徹底的にしごかれたのを思い出したのである。
 夏侯淵に告白しておきながら他の女と付き合っていた、だのそんな話になったらとんでもないことになるに違いない。少なくとも夏侯惇は止まらないだろう。

「とにかく、だ」程遠志はその話はここまでだ、と打ち切るように言う。「これから、俺たちは厳政に会いに行く」
「直接聞くのか? 張角たちを連れて、どうやってこの城から抜け出し、曹操様のところに向かうのか」
「いや、俺はそもそも厳政に曹操様の名前を出していいのかな」
「いけないも何も、厳政はこちらに内通の書を記したのだろう」
「それはあくまで数日前の話だ。案外数日で気分が変わって、そもそも寝返るのを辞めました、ってだけの可能性があるだろ。そんな奴に俺たちは曹操様の部下です、早く寝返ってくださいなんて言ってみろ。口封じに殺されるんじゃねえか」
「流石に考えすぎだと思うけどなあ。曹操様だって、厳政は城の警戒から連絡が取れなくなっただけ、って考えてたじゃん」

 鄧茂が二人の間に割って入り、程遠志にそう言っても、彼は頑ななままだった。「いや」とか「でも」という言葉を何度も用い、逡巡した様子を見せている。
 ああ、これは駄目だな、と鄧茂は直感的に思った。空気と雰囲気がすべてを物語っている。厳政が内通しているのか、その実していないのか。そのどちらが正しいのか鄧茂にはわからない。
 わからないが、程遠志はその間違った方へ進むだろう。そんな流れが漂っていた。理屈ではないし、根拠もない。だが、そうなるのだ、と確信できた。

「結局のところ、二者択一なんだろう。厳政が黄巾を裏切ったか、裏切ってないか。そのどちらかに賭けるしかない」
「いいや、それは違うぜ張曼成。すべてを投げ出して、曹操様が力攻めしてくる一週間後まで隅っこの方でブルってる、って手もある」
「ブルってるのは嫌だな」鄧茂は嫌悪感を顔いっぱいに広げた。「でもさ、程遠志。僕のわかることは一つだけだよ」
「なんだよ」
「二者択一か、三者択一かは知らないけど。程遠志が選ぶ選択肢が外れになる、ってことだけはわかる」
 
 鄧茂が一人でうんうん、と何度も頷くと、張曼成も笑いながら同意を示してきた。
「怖えこと言うなよな!」と程遠志は泣きそうな顔で大きく嘆いた。




 なにはともあれ、一度厳政に会ってから決める、ということで話はまとまった。
 厳政に会うことはそう難しいことではないようだった。特定の部屋でふんぞり返っている類の人間ではなく、寧ろ兵卒の士気を上げるために城内をよく歩き回っているらしい。
 ならば、と思い、程遠志も周りの不審がる目を無視して歩き回っていると、簡単に厳政は見つかった。

「あ」厳政は信じられないものを見た、という顔になった。「程遠志、さん」
「おう。厳政だよな。久しぶりだ」
「久しぶり、ていうか。何でここにいるんですか」
「外で混乱があったんだよ。その隙に入ってきた」
「よく入れましたね」

 よく入れたな、という称賛の感情よりも多分に、どうして入れたのだ、という疑念が混じった言葉だった。程遠志は肩をすくめる。

「運がよかったんだよ」
「どうして戻ってきたんですか」
「忍びねえだろ。簡単に黄巾が潰れちまうってのも」
「そういう性格には、見えませんけど」

 おや、と程遠志は思う。厳政の性格をある程度まで理解しているつもりだったが、ここまで猜疑心が強い男だっただろうか?
 城内の混乱などから、若干の変化があったと見てもいいかもしれない。
 程遠志は厳政に対する見方を変えるべきか、と顎に手を伸ばして、そこで気がついた。厳政の靴の先に、何か汚れが付着している。

「厳政、なんかついてるぞ」
「え―――ああ、おい、嘘だろ」

 厳政は自分の足元を見て、茫然と言った。
 靴に付いていたのは、犬の糞だった。「まただよ」そう、自嘲する声が響いた。

「なんだよ。犬の糞でもよく踏むのか、最近」
「これで四度目ですよ。ここ一週間で。他にもよく不幸な出来事に遭遇するし」
「まあ、そういうこともあるよな」
「ありますか? こんなにも不運が立て続けに続くことなんて」

 あるよ、と程遠志は言った。流れが来てないんだ、とも言う。いまいちピンときていない曖昧な顔で、厳政は首を傾げた。

「張宝さまの付き人を務めるようになってから、不思議と不運が続くんです。これも流れ、なんですかね」
「そうだよ。流れだ」
「はぁ……」
「それにしても、随分と傍迷惑な話だな、そりゃ―――張角様への忠誠もなくなって黄巾から抜けたくなっちまうか?」

 程遠志はここだ、とばかりに強気な質問をした。後ろにいる張曼成、鄧茂は顔色を少し変える。唐突すぎるのではないか。
 いずれはしなければならない問いかけだ、と程遠志は思う。判断するならば早い方がいい。
 厳政の顔色が変わった。じっ、と程遠志は彼を見つめる。
 張角たちを曹操に引き渡す代わりに、降伏する、なんて言った男ならば、その言葉にも多少は頷けるところがあるに違いない。黄巾への忠誠が消えているならば。
 しかし、厳政は一瞬後、破顔したかと思うと、胸の前で手をひらひらと振った。

「ぼくの中では、張角様、張宝様、張梁様への忠誠は消えませんよ。多分、一生」
「……ふうん」

 これは空気が怪しくなってきたぞ、と程遠志は冷や汗をかいた。もしや、曹操様の見立ては外れ、厳政は張角への忠誠を取り戻し、黄巾とともに玉砕する気なのかもしれない。
 だとすれば自分だけで張角たちを捕まえなければならない。どこにいるのかもわからず、会ったこともない女三人を、だ。そしてその後、黄巾の連中に気取られることなく城から抜け出さなければならない。
 ほとんど不可能なことだろう。これは、第三の選択肢を取る可能性が高くなってきたぞ―――程遠志は小さくそう思った。
 
「まあ、立ち話もこんなもんにするか」程遠志は逃げ腰になった。「この城に入ったばっかで、まだ構造もよくわかっちゃいないんだ」
「歩き回るのはいいですけど。士気向上の手助けも、できればしてほしいです」
「おう。できたらするよ」

 程遠志は「行くぞ」と二人に声を飛ばし、厳政から目を切って歩き始める。
 軽く歩いて、そこで足を止める。くるり、と振り返り、思いついたように厳政へ問いを投げかけた。

「最後に一つだけいいか」
「なんです」
「張角様たちって、普段はどこにいるんだ」
「……なんで、そんなことが気になるんですか」
「一度も会ったことがないから。この機会に見てみたいな―――なんて思って」

 厳政は明らかに不審そうな顔になった。まずったかな、と程遠志は思う。何気なく聞いた言葉だったが、厳政は過敏に反応した。
 数秒黙ったかと思うと、「教える義理はないですよ」と今まで出したことのないような冷たい声を出し、厳政は歩き去っていった。
 まずったかな、じゃねえな。完全にまずった。程遠志は一つ、溜息を落とす。
 なんか面倒くせえことになる気がする。ほとんど確信に近い思いが、胸の中を駆け巡った。






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黄巾討伐編 第五話





 面倒くさいことが起こったのは、思ったよりも早かった。
 程遠志たちは配給の握り飯に齧りつきながら、「まあ、酒でも飲んで明日考えようぜ」と言い合っていると、気配がした。
 程遠志は後ろを振り向く。素知らぬ顔をした黄巾の男が一人、こちらを何気なく見ていた。
 苛立ちから、舌打ちが漏れる。

「おいおい」

 尾行されてるのかよ。だれの指示だ? 考える必要もなく、程遠志はわかった。厳政だろう。
 彼の張角たちに対する忠誠は本物らしい。無遠慮にその居場所を聞いてきた程遠志を怪しんだのか、危ぶんだのか。
 失敗したな、と鄧茂、張曼成に零す。「やっぱり、僕の言った通り程遠志の選択は外れになったね!」と妙に嬉しそうな顔で鄧茂が言ってきたので、程遠志は一発頭を平手ではたいた。
 なんにしても、面倒くさい事態になった。自由に城内を動き回れるはずが、これである。
 程遠志はつくづく運がねえな、と呟く。厳政に言ってやりたかった。ついてねえときは、俺の方がついてねえぞ、と。

「どうする、程遠志」
「どうするったって、どうしようもねえだろ。なんだ、怒鳴りつけてやれってのか。男に尾行される趣味なんてねえんだよって」
「そういうことじゃない。三つの選択肢から、どれを選ぶべきか、ということだ」

 厳政にもまだ黄巾を裏切る気があると考えるか。
 厳政は裏切らぬと考え独力で張角を捕まえるか。
 それとも曹操が来るまで隅っこで震えているか。
 張曼成の言う三つの選択肢とは、おおよそこれらのことだろう。程遠志は少し、顔を引きつらせた。

「今の状況で、もう一回厳政に黄巾を裏切れ、なんて言う勇気は俺にねえよ」
「じゃあ、曹操様が来るまで待ってるのか」
「その選択が一番現実的になってきやがったな」
「やめといたほうがいいよ。今の程遠志が決めた選択肢が外れな気がする」鄧茂はそこまで言って、「いや」と思い直した。「あ、けど、やめないほうがいいのかな。程遠志がやめたらやめたで、そっちの方が失敗する気がしてきた」
「お前はホントに素直に言うなぁ」

 程遠志は呆れたように声を上げる。この無神経さはもはや美徳と称すべきだろう。

「なんにしても、だ。まだ俺のやることは変わらねえよ。悪い流れだろうが良い流れだろうが、人間ってのはそれに身を任せるしかねえんだ」
「どうするの」
「酒でも飲んで、考えるのは明日にしようぜ」

 程遠志はあっけらかんと言った。考えるのが面倒くさくなった、ともいえる。

「そんな呑気にしてていいのか」
「今焦ったってしょうがねえさ。悠長に見えるくらいがちょうどいい塩梅なんだよ。ふざけてるわけじゃねえんだ」
「俺にはそう思えない、が」張曼成も、そこでにっと笑う。「正直、俺も考えるのが面倒くさくなってきた」
「だろ! そういうもんだよ。大体、俺とかお前とかに複雑な思考なんて無理なんだよ」

 嬉しそうに程遠志は二、三度頷いた。

「でも、尾行はどうするの。お酒飲んでるときに警戒した目で見られたら、それはそれで気味悪いんだけど」
「確かにそうだな」程遠志は真顔になり、すぐに両の掌をぱん、と打った。「ならよ、簡単ないい手がある」
「手?」
「ああ。あいつも酔わしちまえばいいじゃねえか」

 そう言うが早いか、程遠志はくるり、と後ろを振り向いたかと思うと駆け出して行った。
 びくり、と黄巾の兵士は固まる。逃げるか、逃げまいか。それを考えているうちに、程遠志は目の前まで迫っていた。強面の男が、上から見下ろしてくる。腰から下げた刀に思わず手をかける。
 程遠志はにやり、と悪辣な笑みを浮かべた。「酒でも飲もうぜ。ついてくるんだろ?」そこでまた、ぽかん、と男は固まってしまう。
 張曼成と鄧茂は呆れ半分、感心半分といった様子だった。先ほどまで尾行にせわしなく苛立っていた男の姿とは思えない。とんだ変わり身の早さだよ、と鄧茂が苦笑しながら漏らした。




「やっぱりよ、酒を飲んでる時がいっちゃん幸せってわけよ」

 程遠志はそう言いながら黄巾の男に絡んでいた。それは、まるで娼館でべろべろに酔っぱらってしまい、助平な動きで女に縋りつく中年男のようだった。
 違うのは抱きついている相手がどこにでもいるような男であるということと、程遠志はちっとも酔っぱらっていないということだ。
 なんとも趣味の悪いことに、彼は酒を飲むと酔ってもいないのに酔ったふりをする。「酔っているんだから仕方ないよな」と相手から思われる心理を利用して、昔から女によく使っていた戦法が治らなくなってしまったらしい。

「程遠志は相変わらずだなぁ」
「相変わらずすぎて、何も言えない」

 呆れかえっている二人を尻目に、程遠志は饒舌に舌を動かしていた。「お前はよ、酒はいける口なのか」「最近会った嫌なことを教えろよ」「正直、張角様をどう思ってんだ」
 時折どきり、とする質問を混ぜて飛ばしていた。計算ではない。アルコールで満たされた脳が、ここまでなら大丈夫だ、という一線を誤認させ、踏み込んだ質問を程遠志にさせていた。
 黄巾の男もそこまでいい顔をしていない。面倒くさいのに巻き込まれた、とでも思っているのかもしれなかった。
 それでも、彼も酒が回り、人並み程度には酔っているので、気軽に答えてはいた。「酒は飲めます」「上司に怒られた時くらいかな」「張角様は、ほんとに可愛いです」

「あれ」程遠志は小首を傾げる。「お前、張角様の顔を知ってんのか」
「当たり前じゃないですか。黄巾っていうのは、旅芸人の張角様たちを支えるためにあるんです。知らないわけないでしょ」
「俺は知らねえけどな」
「え、どうして知らないんですか」
「さあな。張角様たちがよく、そういう催しをやってるとは聞いたけど。なんか見に行く気が起きなかったんだよな。もともと、俺は純粋な黄巾の面子じゃねえし」
「勿体ないですよ、人生が」

 ひでえこと言いやがる、と程遠志は大笑した。
 酔っている時の彼は、基本的に悪口におおらかである。それは、美徳でもあり欠点でもある。人にもそれを強要してくるからだ。

「そういえばだよ、張曼成。お前よ、あれはどういうことだよ」

 すすす、と黄巾の男から離れ、程遠志は張曼成のもとへにじりよってきた。

「あれってなんだ」
「随分と前のことだけどよ、覚えてるか。前の戦いの時だよ」
「前の戦い?」
「馬鹿。なんでわかんねえのかな、夏侯淵との戦いだよ」

 はあ、と張曼成は叫びだしたくなった。どうしてこの状況でそんな話になるんだ。
 黄巾の男が近くにいるのに、何考えてるんだ。睨みつけるように程遠志を見るが、彼は意にも返さなかった。もともと俺たちが曹操と戦ったことは知られてるんだから、いいだろ。そんな堂々とした開き直りっぷりだった。

「確かよ、お前は荀彧の策を見破ってただろ」
「見破ったって、何の話だ」
「言ってたじゃねえか。ご丁寧に例なんか出して。なんだったか、おい」
「斜行陣。希臘のエパメイノンダスのことか」
「そう、それだよ。なんなんだよそれ。ぎりしあのえぱいめんどす? 俺はあれかと思ったよ、今流行りの洋服の銘柄かと」
「阿蘇阿蘇?」
「それ!」程遠志は如何にも正解、というように指をさした。「違いがわかんなかったぜ」
「全然違うだろ」

 苦笑しながら言う張曼成に、程遠志は頬を膨らませた。「笑い事じゃないっての」
 まるで、大事なものを取られた、と主張する子供のようだった。そんな純真さを持った瞳で、強面の程遠志が迫ってくる。気持ち悪いな、と張曼成は悪意抜きに思った。

「お前はよ、俺と同じで頭悪い系の人間じゃなかったのかよ」
「そう思ってるのは、お前だけだったということだな」
「ひでえこといいやがる」

 程遠志は愉快そうに笑った。ひひひ、という下品な笑い声は、まるで一生続くかのような長さで広間に響き続けた。

 しかし、その笑い声は唐突に止むこととなる。広間の扉ががらり、と開いた。誰もいない広間を我がもの顔で貸し切り、誰も入るなと張り紙をした場所を、である。
 謎の闖入者がいた。程遠志はなんだ、飲みたい奴でも来たか、と喜色満面で立ち上がり、固まった。
 知った顔があった。決して会いたくない男だった。鄧茂は会ったことがなかったが、その容貌が程遠志から伝え聞いたものと一致したので「あ」と声を漏らした。張曼成はただただ首を傾げた。

 よお、と闖入者は声を上げる。狗鷲に似た男だった。
 裴元紹が、そこには立っていた。

「程遠志、お前帰ってきたのかよ」
「……んだよ、テメエ」
「お前が何を考えてここに来たのか、当ててやろうか? 俺には全部オミトオシなんだよ」

 ぎゃはは、と裴元紹は笑う。なにやら怪しい空気になってきたな、と鄧茂は思った。






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黄巾討伐編 第六話

多くの感想、お気に入り、評価本当にありがとうございます! めっちゃモチベーション上がってます笑笑
恋姫革命今買うか悩み中………………('ω')





 裴元紹は不気味な笑顔を浮かべていた。何を考えているのかわからない、猜疑心の強い表情。それが引き攣るように笑っていて、なんとも気味が悪い。
 ひょっとしたら、と程遠志は思う。何の根拠もない勘ではあるが、厳政と別れた時に感じた面倒くさいこととは、こいつとの遭遇だったのではないか。

「おい」黄巾の男は、唐突な闖入者に慌てながらも、ハッとした顔になった。「どうして程遠志が戻ってきたか、わかるだと」

 厳政から課された使命を思い出したのか。酒で足元が覚束ないながらも、ふらりふらりと裴元紹へ向けて歩み寄っていく。
 少し、小首を傾げながら、裴元紹は男を見た。誰だ、とでも思ったのかもしれない。「まあ、いいか」何気なく、彼は呟くように言ったかと思うと、たちまち腰から剣を抜いた。

「え」
「馬鹿がよ」

 脅しではなかった。この瞬間で、動く者は裴元紹しかいなかった。
 剣が振るわれる。動く者がいないのならば、それを防ぐ者も誰もいない。正規の軌道を描いたまま進んだ剣尖は、正確に黄巾の男の心臓を穿ちぬいた。
 あっという間のことだった。現実感がない。鄧茂も、張曼成も、程遠志でさえも呆然としていた。裴元紹は、程遠志の顔が僅かながら青褪め、強張ったのを見逃さなかった。「そんな顔もできんじゃねえか」そう、軽く嘯く。

 程遠志は静かに髪をかき上げた。血痕が飛び散らばり、自分の額にも僅かに当たった。落ち着け、と念じる。みっともなく狼狽している場合じゃない。
 しばらくして、彼は口を開いた。酔っぱらう演技はいつの間にかなくなり、目線は裴元紹を捉えて離さない。

「お前もよ、いつの間にか大人になっちまってたんだな」
「ああ?」
「そんな簡単に人を殺せんなら、一人前だよ。俺に泣かされたのは遠い昔か」
「てめえ」

 肩をすくめて程遠志がそう言うと、血を剣から滴らせながら裴元紹は顔を真っ赤にした。
 怒ったのだろう。これでいい、と程遠志は思う。冷静でなくなるのは、俺じゃなくて向こうの方だ。
 いつでも剣を抜けるように、程遠志は腰に手をかける。負ける気がしない。夏侯惇に鍛えられたことに、僅かな間―――とは言っても本当にほんの少しの間だったが―――感謝した。

「どうすんだよ、まったく。とんだ大迷惑だ」
「なんだよ。友達だったわけでもねえだろうに」
「そういうことじゃねえ。よりにもよって、一番殺してほしくねえ奴に手をかけやがって。厳政に疑われるなんて程度じゃ済まねえな、これは」

 程遠志の目からは憐憫の感情も一応は見られた。それでも、それは砂漠の中に存在するオアシスのように少なく、彼の考えていることの殆どは自分たちにこれから待ち受ける面倒なことについてだった。
 殺された人間が、今俺の後ろで木偶のようになっている鄧茂や張曼成だったらどうだろう。ふと程遠志は思う。こいつらも同じような場所で、同じように酒を飲んでいた。可能性はあった。身体の芯が、ぴくり、と震える。
 幻視した。鄧茂が、張曼成が、目の前で死んでいる男と差し替えられた姿を見た。
 それを思うと心をまるで槌で叩き割られるようで、砕かれたその隙間から熱々とした感情が湧き上がってくるのを感じて、驚いた。憤怒の感情だ。
 その間、程遠志は裴元紹から目を切っていたので、いつの間にか裴元紹の後ろに見知らぬ二人の男がいて、瞠目した。

「人数は同じだな」程遠志はあえて余裕ぶって口を開く。「いい勝負ができそうだ」
「酒に酔ってるてめえらが、勝つ気かよ」
「俺がどれだけ飲んでも酔わねえことを、お前が忘れたのか?」
「ほかの二人は違えだろ」
「一対三で、お前は俺に勝てると思ってんのか」

 程遠志は裴元紹の後ろに立つ男二人を睨みつけた。二人の男は大した者ではない。人相の悪い彼に鋭い目で威圧されると、たちまち怯えた。

「まあ待てよ程遠志。俺はお前と戦うために、ここに来たわけじゃない」
「よくもこんな状況で言えるもんだな」
「寧ろ感謝しろよな。その男、お前のことをこそこそ嗅ぎまわってた奴だろ」
「だから斬ってくれ、だなんていつ頼んだよ、俺が。大体お前、人斬って堂々としてやがるが、俺が厳政にチクるぞ」
「この城にいなかったお前は知らないだろうが、少し前に内部で大規模な反乱があったんだよ。それから城の中はピリピリしてる。人一人くらい手違いで死ぬことは少ないことじゃねえんだ」
「だから斬り殺しても罪には問われません、ってか。馬鹿じゃねえの」

 程遠志は馬鹿にするように嘲り笑った。偶然諍いが起こって、程遠志の見張りを命令した人間が死にました、なんてのを信じるほど厳政は阿呆じゃない。
 問題は、見張りを斬り殺したのが頭のおかしい裴元紹という男だ―――と、確信できるような、厳政は透視能力がある男じゃないということだ。
 この殺人を目撃しているのは場にいるこの面子だけだ。裴元紹側の人間が正しい証言をするはずもなく、凶器であるあの剣を上手く隠蔽してしまえば、証拠もなくなる。残った人間はこの男を殺す理由がない裴元紹たちと、程遠志たちだけ。

 それ故、程遠志が厳政に告げ口をすることなんてあり得ない、と裴元紹は高を括っているのだろう。

「俺がここに来たのはよ、お前の手助けをしてやるためだよ」
「手助けだと?」
「ああ。お前が帰ってきた理由なんてお見通し、って言ったろ。逃げてきたんだろ、曹操軍から」
「ああ?」

 全くの的外れな言葉だった。程遠志はそのため怪訝な顔になったが、それは内心の動揺を誤魔化すためだ、と裴元紹には思われたらしく、愉快そうな顔になった。

「お前がよ、よく曹操の街で強請り集りをしてたってことは知ってんだよ。それがバレてお尋ね者にでもなって、野盗にもなれず手詰まりになって、ここに逃げ帰ってきたわけだ」
「……だとしたら、なんなんだ?」
「生き残る方法を教えてやろうってんだ」

 裴元紹の表情を見て、程遠志は呆れた顔になった。そんな悪い笑みを浮かべた男の言葉を、誰が信じるというのだろう。

「言ってみろよ」
「言ってください、だろ。媚びてみろよ」
「……話がよ、進まねえだろ。つまんねえこと言ってねえで、早く教えてみやがれ」
「立場ってのがわかってねえらしいな、程遠志」
「あのなあ」程遠志は目を薄めた。「お前が何を思うのも勝手だけどよ、それ以上焦らすんなら叩き斬るぞ。それでその血に染まった刀と、後ろの二人を厳政にそのまま送ってやる」

 冗談を言っているわけではない。その方がいいのではないか、と程遠志は次第に思い出していた。思考がまずい方向に向かっている、と危惧しながらも、止められない。
 裴元紹もその事実に遅蒔きながら気がついた。程遠志に敬語を使わせるか使わせないかだけで彼を怒らせると、とんでもないことになる。どのようなことでも本当にやりかねない恐怖がある。

「わかったわかった。俺が悪かったよ。素直に教える。簡単なことなんだよ」
「……言ってみろ」
「俺たちでよ、厳政を殺そうぜ」

 なに、と程遠志は顔色を変える。
 その表情を見れたことが、裴元紹にとっては堪らないほど嬉しいことであるらしかった。にんまりと笑い、馴れ馴れしげに近寄ってくる。

「厳政の首を獲れば城内は混乱する。今、この城から脱出するのは難しいが、そうなれば容易く抜け出せる。万が一バレた時の保険に、張角たちは殺さず生け捕りにして、曹操の前に引きずり出す。そこまでやれば流石に俺もお前も生き残れるはずだ」
「どうやって、厳政を殺すんだ。張角がどこにいるかは知っているのか」
「厳政は不意を打てば簡単に殺せるさ。俺とお前、それ以外も含めれば六人いる。張角たちの場所は知らねえけど、適当に探し回ってもいいし、厳政を脅してもいい。見つからねえんなら、厳政の首だけ持って逃げる」
「随分とまあ、行き当たりばったりな作戦だな」
「でも、黙ってこの城で震えているよりは生存率が上がる。そうだろ?」

 そうではない。程遠志たちが単に生き残る確率を上げたいのならば、城のどこかで隠れ、曹操が攻めてくるのを待つ方がいい。裴元紹の考えはまるで的外れだった。

「………………」

 しかし、とも程遠志は思う。まったくの的外れにもかかわらず、偶然なのか、必然なのか。裴元紹の提案は曹操の命令と似ている部分があった。
 張角たちの生け捕り。曹操の命令の大部分はそこにある。厳政という存在はそのための手段に過ぎない。生死なんて特に問われてもいなかった。
 張角さえ捕らえられるのならば、協力する価値はあるのである。

 ……程遠志は迷った。刹那のような時間、彼の中の天秤はぐらつき、裴元紹の方へ傾きかけもした。捨て鉢になる思いだった。
 張角たちの居場所は、結局、裴元紹も理解していない。彼の計画には穴が多く、普段の程遠志ならば迷いもしなかっただろう。
 その迷いの根底には、曹操たちの命令から、張曼成や鄧茂への思いなどが入り混じって存在した。曹操などに従わず黄巾にいたころの程遠志ならば、曹操に従っても一人で城を訪れた程遠志ならば。一顧だにしなかっただろう。
 程遠志は大きく首を振った。わからねえ。グラついて傾きかけた天秤は少しずつ戻っていき、どちらが正解かを示すことなく、釣り合った状態を保った。「受け入れる」「受け入れない」どちらの選択肢が正しいんだ?

 程遠志の頭の中にいる鄧茂が「どちらを選んでも外れるよ」と静かに述べた。うるさい、と叫びたくなる。
 裴元紹の顔が近づいてくる。早く答えを出せ、と言わんばかりだった。一度決めたら迷わない。そんな程遠志も、流れが圧倒的に悪く、自分の選択がすべてを左右してしまうような現状況に、困り果ててしまっていた。

「まずはよ」程遠志は掠れた声で言った。「その死体をどうにかしようぜ。話はそれからだ。俺やお前だって、それが公になったら困るだろ」

 結局、「受け入れる」も「受け入れない」も選べず、程遠志はそんなことを言った。頭が痛い、といった風に顔を歪ませながら。
 裴元紹はそれを見て、また、堪らなく嬉しそうに笑った。
 



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黄巾討伐編 第七話




 裴元紹が死体を隠すために用いた方策は、単純明快で、残虐で、普通の人間には決して行えないようなことだった。
 まず、割れた西瓜のように顔を潰した。他にも、身体的な特徴からその死体の身元がバレるのではないか、という部位を積極的に破壊して、破棄した。
 残ったのは惨たらしくなった死体だけである。それを、適当な場所に野晒しのまま捨てた。いずれ発見されるだろうが、大した問題にはならない、と裴元紹は高を括っていた。
 ……そこから、張曼成は目を背け、鄧茂は明らかに狼狽えて、混乱した様子を見せた。
 生き死にに慣れているだとかそういう問題ではない。生命の冒涜。規律の違反。非現実的なことである。考えが及んでも、普通の人間ならば決してできないようなことを、裴元紹は容易くやり遂げた。
 場にいる人間の中で、程遠志だけが無表情を保っていた。一人だけ黙りこくっていた。ただ、余裕を持てていたわけではない。

 程遠志は喋らなかった。いや、喋らなかったというよりも、喋れなかったと言うべきか。考えなければならないことが、多くあった。
 死体を惨たらしくしたことによって、身元が割れることは十中八九なくなった。あの状態では誰も判断なんてできないだろう。
 しかし、厳政は一日もあれば異常に感づくはずだ。遣わせたものが帰ってこず、連絡もつかないどころか見当たらない。始末されたと考えるはずだ。そこで、異常なまでに頭部が破損した死体が見つかればどうなるか。
 それらを結びつけることなど造作もない。程遠志たちは殺される。路傍の花を踏みつけるような手軽さで、簡単に。張角に忠誠を誓っている彼ならば、そうするはずだ。

「よお、程遠志。死体の偽装は済んだぜ。それで、どうするんだ」
「…………ああ」

 程遠志は答えてしまいそうだった。「受け入れる」「受け入れない」その二つの選択肢のうちから、最もあり得ないほうに傾きかけた。「受け入れる」声に出かけた。適当な感じで選択肢を決めてしまいそうになった。
 口を開こうとしたところで、程遠志は何かに躓いて、尻もちをついた。おいおい、と思う。どれだけ焦っているんだ。裴元紹も「怖いのかよ、臆病者」と野次を飛ばしてきた。
 地面を見た。何も存在しない。躓いたはずの箇所には、何一つものなんてなかった。

「お前、どんだけ動揺してるんだぁ?」

 裴元紹は嘲り笑った。その通りだと程遠志も思う。そして、きまり悪く立ち上がろうとして、ハッとした。
 流石におかしくはないだろうか。こんな状況で、こんな一世一代の選択が迫られた最中で、急に、何もないところで足を滑らせるなんてことがあり得るのか。偶然ではないのではないか。
 理屈ではない。程遠志は自分の頭が急に働き出すのを感じていた。それは、かつて夏侯淵に二百の兵士で挑んだ時を思い出させるようだった。

 例のように、思考の濁流に自ら程遠志は飛び込んだ。偶然でないのならば、必然だ。足が滑ったのは必要なことだったのだ。そう考えるべきだ。
 なぜ足が滑ったのか。答えさせないためだ。裴元紹の誘いに「はい」と答えないため。答えさせないために足が滑った。
 意味の分からない妄想に思えるかもしれない。馬鹿馬鹿しい空想のような考えだった。だが、と程遠志は思う。今までの経験が、彼に語り掛けていた。
 流れが変わったのだ、と。
 あとは、自分がその流れに乗るだけだ。迷わず、自分の思ったことを貫くべきなのだ。

「裴元紹、俺は決めたよ」
「言ってみろよ」
「お前になんて従わねえよ、馬鹿が」

 なに、と裴元紹は口を開いた。程遠志は胸がすく思いになった。その顔が見たかった、そう言ってやりたかったのだ。

「どうしてだよ。それしかねえだろうが、テメエの生きる道は」
「勝手に決めつけんな。お前みてえな奴に命を預けるだなんて、俺はごめんだね」
「……急に強気になったじゃねえか。なんだよ。頭がおかしくなりやがったのか」
「おかしいのはテメエだろ。一緒にしてんじゃねえよ、汚らわしい」

 程遠志は軽く身体を震わせてみせた。目に見えた挑発だったが、裴元紹はたちまち顔を赤くする。
 裴元紹は剣を抜いた。「殺す」それが冗談ではないことを、剣から滴る赤い血痕と彼の血走った赤い瞳が言っていた。
 だからこそ、できない、と程遠志は確信した。尋常ではないほどの殺意は持てているだろうが、裴元紹は自分に向かってくることなんてできない。単純な武においてならば、程遠志と裴元紹の間に大きな力の差がある。
 それは裴元紹も理解できているはずだ。短慮な男だが、それくらいはわかるはずだ。あえて、程遠志は余裕そうに頷いてみせた。

「消えろ。もうお前に用なんてねえ」
 
 互いに視線が合い、強く混ざり合う。程遠志と裴元紹。余裕と憤怒。剣を抜かぬ男と抜いた男。様々な相違点があった。やがて、「ぐ」と呟くように言って、裴元紹は目を逸らした。

「は」裴元紹は、おもむろに笑い声を上げる。「はは、はははは―――行くぞ、もう俺も用なんてねえ」

 程遠志はその後ろ姿を口を歪めながら見送った。裴元紹の頬からは汗が流れていて、目は泳いでいた。
 やはり、と思う。やはり、あの男では俺に斬りかかってなんてこれなかった。それが限界なのだ、と程遠志は嘯いた。



「だ、大丈夫、程遠志」
「ああ。もうどうにでもなるさ」

 鄧茂の心配そうな声を聞いて、不意に程遠志は懐かしさを覚えた。昔はこんなもんだったな、と思う。
 今では程遠志のことをよくからかって遊ぶ鄧茂だったが、昔はよく心配されたものだ。

「大丈夫ってことは」
「ここからは俺の番だ。今までの不運をよ、全部取り戻してやらねえとな」
「大丈夫なのか」張曼成も、心なしか顔が不安そうだった。「あの男を、行かせてしまって」
「一旦、だよ。あいつを怒らせて、三人で話せる状況が作りたかった。ただそれだけだ」
「話し合う状況?」

 話し合ってどうするのだ、と鄧茂は首を傾げる。
 程遠志はまっすぐな瞳をしていた。決して迷わず、今の自分が失敗をするはずもない、と確信している表情。雰囲気、闘気というものが、程遠志の背中から巻き上がっていた。
 流れだ、と鄧茂は確信した。ならば、それに従うのみだ。

「お前らの意見もよ、一応は聞いておきたかったんだ」
「意見とはなんだ」張曼成は戸惑ったように言った。「どうしてそんなに余裕なんだ」
「今の俺は正直なところ負ける気がしねえ。流れがきた、と俺が理解できた時点で、この状況は昼寝の時間だとか、宴会の時間だとかのようなもんだ。あとは俺がどう張角を捕まえ、曹操様の前に連れていくか。それだけを考えればいい」
「もう間違いなく、成功するというのか」
「ああ。今大事なのは、確定した結果じゃない。過程だ。どういう過程で、張角を捕まえるか。それだけを考えればいい」

 自信をたっぷりと持っている程遠志だったが、その理由が張曼成にはわからない。いや、なぜ持っているかというのが「流れ」に対する盲目的な信頼だとは想像できるのだが、どうしてそこまで信じられるのか。
 常識的に考えれば、張曼成の方が正しい。一度程遠志の「流れ」を見たからとはいって、それをここまで信じることはできない。

「お前の信じる『流れ』が何故、今自分に来たと考えたのだ」
「俺にもわかんねえよ。強いて言うならば、裴元紹の提案を断った時だ。あれが何かの分岐点で、分水嶺だった。あれをみすみすと受け入れていたのならば、まだ流れは真逆を向いていたはずだよ」
「裴元紹に従わなかったことが、その流れを引き寄せたと」
「そうだな。でもよ、それはあそこまでの話だ。流れがなかった俺が、裴元紹に対して断固たる拒否を見せたことによって、変わった。もう今の俺は少し前の俺じゃねえ。俺が言いたいのは、ここなんだよ」
「どういうことだ」
「さっきのは嘘ですすいません、なんて裴元紹に謝れば、多分それでも通用するんだ。今の俺ならば、裴元紹の提案に乗って、厳政を殺し、張角を奪える。それで曹操様も喜ばれる。そういう結末にもできる」

 はっきりと程遠志は言った。確信を抱いた言葉だった。
「まさか」と張曼成は言えなかった。程遠志の「流れ」は信じられぬ。だが、程遠志と鄧茂はそれを当たり前のように確信していた。そのような理不尽なものに憑かれているのだ、と信じていた。

「お前らはよ」うってかわって、冗談交じりな雰囲気で、程遠志は言った。「厳政をどう思う?」
「はあ?」
「ついてねえ、だとか。不運だとか言いまくってるあいつのことを、俺は悪くねえ奴だななんて思ってるんだ」
「どういうことだ」
「殺すには惜しいってことだよ」

 程遠志は、はは、と笑いながら続ける。

「もうよ、選択肢は二つに絞られた。あの死体を厳政が見れば、黄巾の男と結び付けて俺らに対する疑いがもっと強くなるに違いない。だから城のどこかで隠れて震えてるわけにはいかねえ」
「裴元紹の提案に乗るか、乗らないか?」
「それはつまり、厳政を殺すか殺さないか、ってことだ。俺はあいつを殺したくねえ。多数決だよ。いいよな、こういう時に三人だと。一発で結果が決めれちまう」

 どうする、と程遠志は問いかけた。張曼成は目を瞑って、開かぬまま、考えた。この多数決についてではない。程遠志の無謀とも思える「流れ」に、付き合うか、付き合うまいか。
 一瞬後、目を開ける。程遠志は張曼成を見ていた。あれほど自信気だったのに、多数決で意見が割れても一発で決まると言い切ったのに、不安げにこちらを見ていた。強面の顔に全く似合わず、妙に人間くさい。、
 ふ、と笑う。それもいいかと思った。程遠志の「流れ」に流されてみよう。そう思ってしまった。

「程遠志」
「おう。どうする」
「お前の流れを、信じてみるよ」
「―――そうか。そうか! いやよかったよ。鄧茂は?」
「僕は程遠志と、程遠志の流れに従うだけだよ」
「だよな」

 程遠志は表情を戻す。自信を除くすべてが消えたような顔。元に戻った。すぐさま口を開く。

「平和的に終わって満足だ」その表情のまま、自嘲交じりで言った。「なんたってよ、まだ今はお前たち以外に友達がいねえんだ―――」

 そんな様子を見て、鄧茂は小さく笑った。張曼成も、こんなのも悪くないな、なんて思った。




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黄巾討伐編 第八話


 裴元紹は、程遠志の姿を思い浮かべて、顔を憤怒に染めた。許せねえ。虚仮にしやがって。
 昔の、忌々しい思い出が脳内に蘇ってくる。程遠志に不意打ちされ、殴り倒され、地面を這いずり回った。泣きながら家に戻り、二度と故郷には戻れなかった。
 ふざけるな、と吐き捨てたかった。首を振って、嫌な思い出から目を逸らす。

 代わりに、これからのことを考えた。
 暗い愉悦の笑みが裴元紹の口から漏れる。厳政に告げ口をしよう。程遠志が見知らぬ黄巾の男を殺すのを見た、と。
 厳政でも結び付けられるはずだ。調べてみようとは思うはず。顔が潰された死体を見たならば、さらに怪しむはずだ。
 程遠志は、捕えられる。少なくとも軟禁はされる。そうなればこちらのものだ。殺せる、殺し得る。
 鄧茂、と程遠志が呼んでいた女のことを裴元紹は思い出した。あの女が程遠志に対してどういった感情を抱いているのかも、それが友愛なのか、恋愛なのかも、彼にはわからない。
 ただ、鄧茂は程遠志が死ぬのを見たら泣くだろうな、とは確信できた。目の前で縊り殺してやろう。裴元紹の口角が釣りあがった。

 昔からそういう人間だった。どれほど昔からかはわからない。人が幸福になるのが馬鹿らしく、祝福するのが阿呆らしく、成功するのが妬ましかった。その逆になればいいと思った。
 それこそが、彼の―――裴元紹の原動力だった。そういう男であることに、彼は誇りすら持っていた。

「お」裴元紹はふと偶然、視界の端に動くものを見た「いるじゃねえか」

 厳政だった。なんという幸運だろう、と裴元紹は笑う。
 城内を定期的に巡回していて、その終わり際だったのか、溜息を吐きながら早足で歩いていく。
 その背中を追いかけた。右に曲がり、左に曲がり、さらに左へ―――厳政は誰かに見られないように警戒した足取りだったが、何故か一度も振り向かず、尾行している裴元紹たちにはまったく気がつかない。
 最後に右に曲がったかと思うと、そこには小さな隙間があった。迷路のように入り組んだ中にある、しっかりと見なければ気がつかないほどの大きさの隙間。それを潜り抜けた先には、小さな部屋があった。
 厳政は気がつかない。彼は頭を押さえて、何かをぶつぶつと呟きながら部屋に入っていった。

 裴元紹は半ば、確信していた。あの隙間の向こうに何があるか。いるか。今のこの城で、最も隠さなければならないもの。
 張角たちがいるのだろう。とんとん拍子に話が進んでいく。運命が自分に味方しているのではないか。裴元紹は、自分の隣にいる二人にそう嘯くと、彼らも総じて笑った。

「行くぞ」

 厳政の動いたように、裴元紹たちも動く。思ったよりも隙間は小さく、手こずったものの、潜り抜けるのに大した時間はかからなかった。
 隙間を潜り抜け、部屋の扉を開く。中にはほとんど、裴元紹の予想した光景があった。
 呆然とした顔の厳政。怯えた目で見つめてくる女三人組。その側に控えている四、五人の兵士たち。
 どれが張角だ、と裴元紹は思い、すぐに理解した。どれを敬っているか。どれが一番上の者なのか。張角三姉妹がどれかは、配置からも、人数からも簡単に察することができた。

「どうして、裴元紹さんがここに」
「後をつけたんだよ。声をかけようと思ったけど、何かぼうっとしてたからかけれなかった」
「後を……?」厳政はあり得ない、という顔になった。「どうして尾行に気づかなかったんだ。いつもは、いつもは必ず確認しているのに」
「いつも通りじゃなかったんだろ。そんだけのことだ」

 適当に裴元紹は言葉を返す。
 張角の側で待機している兵士たちが、明らかなほどの警戒心を剥き出しにした。尾行した、ってのは言い方が拙かったかな、と裴元紹は思う。

「なんで、後をつけたんですか」
「言いたいことがあっただけだよ。そんな警戒することじゃねえ」
「言いたいことって」
「程遠志のことだ」

 ぴくり、と厳政の眦が動く。何を言いたいんだ、とその目が問いかけていた。

「厳政。お前、程遠志に尾行をつけてただろ」
「……見てたんですか」
「見てた、ってよりも見つけた、って感じだ。人選が間違ってたぜ」
「…………」

 厳政は何も喋らない。ただ、張角三姉妹たちを守るように佇んでいる。
 気に食わねえな、と裴元紹は思った。何やら、暗い感情がむくむくと、胸の底から湧いて出てくる。

「その尾行、死んだぜ」
「なに」厳政は目を大きくした。「どういうことですか」
「言わなきゃわかんねえのか。程遠志に殺されたよ」
「どうして」
「知らねえよ。俺が見たのは、酒に酔った程遠志がその男を殺すとこだけで、理由なんかわかんねえ」
「それは、本当ですか」
「嘘だと思うんならよ、程遠志を尾行してたやつを探してみろよ。もうこの世の中のどこにもいねえからさ」

 厳政は、そこでまた黙り込んだ。目が明後日の方向を向いている。裴元紹は嘘をついていない、と思ったのだろう。
 尾行が死んだ、というのは嘘ではない。殺されたというのも本当だ。違うのは、自分が殺したということだけ。裴元紹はにやりと密かに笑った。
 厳政は混乱している。城を守り、張角たちを守り、それ以外の人間に猜疑心をもって当たっていた。だからこそ、脆い。

「何かよ、早いうちに手を打った方がいいんじゃないのか」
「そうですね―――程遠志たちがどこにいるのか、裴元紹さんはわかりますか」
「知らねえ。さっきまではどこかの広間にいたが、もう移動しただろう。探しに行け、ってのは面倒くさいから嫌だぜ。そいつらに頼むんだな」

 裴元紹がそう言ってみると、驚くほど容易く厳政は頷いた。猜疑の感情が程遠志一人に向いているからこそ、他の警戒が疎かになっていた。兵士たちに命令する。

「程遠志たちを、見つけてきてください」
「見つけたら、どうしますか」
「どこかに、軟禁してください」
「抵抗されたら」
「……多少強引な手を使っても構いません」

 ―――おいおい、と裴元紹は喝采を胸中で叫んだ。何もかもが自由自在。思ったように動いている。
 兵士たちは後ろの隙間を抜けて、走り去っていった。残ったのは裴元紹ら三人と、厳政と、張角三姉妹のみ。
 あの数人の兵士などに、程遠志は負けないだろう。裴元紹にもそれは理解できた。その程度の人間ではない。容易く切り抜けることも、皆殺しにすることもできるはずだ。
 だが―――それをすれば、本格的に程遠志は吊るし上げられる。黄巾の兵士たちに囲まれ、少なくとも軟禁、もしくは鎖に繋がれてどこかに閉じ込められるかもしれない。
 そうなればこちらのものだ。後はどうとでもなる。鄧茂に見せつけて殺してやる、と思うと、裴元紹は笑みを堪えることができなかった。

 そういう人間だったからこそだろう。裴元紹はふと思った。今の状況は、自分に何かを示しているのではないか。
 それは奇しくも程遠志の閃きと似たようなものだった。程遠志が少し前、何もない場所で転んだのは何かを暗示しているのではないか、と確信したように。それと同様に、今自分が置かれているこの状況は、偶然ではないのではないかと思った。

 厳政と、張角三姉妹と、自分たち。張角三姉妹は戦えない。裴元紹は見るからにわかった。ただの踊り子のようなものだ。
 ならば、ここで厳正を殺してしまえば―――先ほど程遠志に提案した策と同じような状況になる。その後に張角たちを脅し、自分たちの言いなりにさせ、厳政の死に焦る城内から脱出して曹操に雌伏する。
 捕まった程遠志を殺す時間くらいはあるはずだ。それを愉しみ、安全に脱出しろ。天からそんな声が舞い降りてきたような、そんな錯覚に裴元紹は囚われた。

 そうだ。そうしよう。剣を抜いた。急な行動に、厳政も、張角三姉妹も、裴元紹の後ろにいる二人も驚く。だが、裴元紹が目配せをするとすぐに理解できたのか、後ろの二人も下卑た笑みを零した。

「裴元紹さん!?」
「お前からしたらよ、意味がわかんねえんだろう。ちょっとは同情するぜ」
「何を、何をする気ですか―――」
「お前を殺して、曹操に降伏するよ。そこの張角たちを連れて行けば、曹操も許してくれるだろう」
「そんな馬鹿な」
「馬鹿な話じゃねえ。そうなるんだよ」
「待ってください!」厳政は、すべてをかなぐり捨てて言った。「あの、ぼくはもう既に曹操へ書状を送っているんです。降伏の手紙です。脱出の手はずは、整っているんです。一緒に行きましょう」
「厳政―――!?」今まで怯えて黙っていた張宝が、そこで叫んだ「ちょっと、どういうことよ!?」

 唇を噛んで、厳政は黙っている。へえ、と呟くように裴元紹は言ったが、感情は変わらない。

「どっちにしても、お前は不要だろうが。むしろ邪魔だよ。今の城から抜け出すのが難しいから、お前はやらなかったんだろ?」
「それは裴元紹さんでも同じでしょう」
「お前が死ねば状況は変わるよ。この城の指揮を取っていたお前が死ねば、多少は城内が混乱する。数人が抜け出せる時間はできるんだ」

 抜き身の剣を片手に裴元紹は歩き出す。目線はまっすぐ揺らぐことなく、厳政を捉えている。後ろにいる二人も続いた。
 厳政は何かを諦めた顔になって、剣を抜いた。その側にいる張角たちは、怯えた顔になっている。勝てるのか、負ければどうなるのか。そんな単純な疑問もあったが、その目は、単純に厳政を心配する色も帯びていた。
 負けるはずがない、と裴元紹は思う。相手は程遠志のような男ではない。構えからしてもわかる。そう大した腕ではない。一対三ならば、確実に殺せる。
 それに、と思う。ここまでうまくいっている自分ならば最後までうまくいくはずだ。そんな、自分に陶酔した考えを裴元紹は持っていた。

 裴元紹は、そう考えていた。
 ―――その時。


「よお」


 ―――後ろの扉が、唐突に開かれた。



 その場にいる誰もが、固まった。裴元紹たちも、厳政も、張角三姉妹も。
 現れるはずがない人間だった。ここにいることがあり得ない。目を疑うような光景だった。
 なんで、と厳政が呟くように言った。彼は登場した男が自分の味方なのか、敵なのか、何なのかわからない。ただただ混乱した様子で呟いた。
 すべての人間が、同じ思いだった。

「なんで、って言われたらよ、そりゃまあ一つだけだわな」
「珍しいよね、こんな役回り。大抵僕たちの方がさ、人を脅かして、奪って、逃げる側なのに」
「たまにはいいだろ、たまにはよ。善人が気まぐれで悪事に手を染めたら問題だけどよ、悪人はいいんだよ、気まぐれで善行を積んでもさ」

 それとはちょっと違くない、と女のような顔をした男が言う。後ろに控えるもう一人の男は、その会話にただただ微笑を浮かべていた。
 裴元紹は厳政から目を離した。男の方を向く。その目は剥かれ、顔は青褪めている。先ほどまでの勢いは、「流れ」はどこにいった? 脳内に浮かんだ疑問に答えられず、まるで自分が誰かの掌の上で転がされていたような心地になり、たちまち青褪めた顔が赤くなった。
 怒りのままに咆哮する。

「てめえ―――程遠志!!」
「うるせえな」程遠志はその勢いに顔を顰め、厳政の方を向いて言った。「助けに来てやったぜ、なあ、厳政?」



 ―――状況は、まさに佳境を迎えようとしていた。



 

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黄巾討伐編 第九話




 今の状況下では、ただただ立っているだけでは意味がない。すぐさま動かなければならない、と程遠志は確信していた。
 剣を抜く。自分の登場に呆けている、裴元紹の後ろにいる男に向けて、何も言わずに斬りかかった。人が死ぬ、という光景を張角たちにこんな目の前で見せるべきではないかもしれないが、そんなことを考えている余裕はない、と程遠志は思った。
 嫌な音が場に響き渡る。その直後に安っぽい悲鳴も響いた。だが、致命傷ではない。踏み込みが浅かった。
 しかし、別に殺す必要があるわけではない。出鼻はくじいた。剣を握りながら、返り血を浴びた状態で、程遠志は小さく笑う。

「どうして」裴元紹は悲痛ともとれるような声を上げた。「どうやってテメエが、ここにいやがんだよ」
「お前の後をつけただけだよ。厳政が気がつかねえことに浮かれてたお前は、自分が尾行されてることに気がつかなかったんだな」
「お前を探しに行った兵士たちは!?」
「ここまでの道は、入り組んでいて迷路みたいだったろ。やり過ごすことくらいわけもねえよ」 

 いけしゃあしゃあと程遠志は言う。
 あり得ない、と裴元紹は思った。そんなに容易く、簡単に行えることのはずがない。
 そもそも、どうして後をつけたのだ。まるで、裴元紹の向かう先に厳政がいて、張角たちも隠れていると知っているかのような動きじゃないか。
 先ほどまでの幸運は、この男に操られたものなのか。裴元紹は顔を強張らせ、戦慄した。そこまでか。そこまでの男なのか、程遠志は!
 ひい、と喉から震えた声を出し、口をわなわなとさせて、裴元紹の側にいるもう一人の男も腰を抜かして倒れこんだ。

「これで一人消えた。もう一人も戦意を失ったみたいじゃねえか。裴元紹―――三対一で、お前は勝てるつもりかよ」

 裴元紹は顔を赤くしたり青くしたりしていた。黙らせてやりたい、と思っているのだろうが、戦えば死ぬ、とも理解している。
 憤怒の表情のまま、裴元紹は剣を収めた。程遠志を睨みつけながらも、両の手を上げて降伏の意思を見せているその様子は、なんとも滑稽だった。

「程遠志。俺を殺すのか」
「別に。放置しておいたらまた邪魔をしてくるだろうから、鎖にでも繋いでおくが、命まで取る気はねえよ」
「……随分と優しいじゃねえか」
「最初から眼中にねえんだよ。一生かかっても、お前じゃ俺に敵わねえ、ってことも理解できただろ?」
「――――――」

 また、裴元紹の顔が赤くなる。程遠志は縛っとけ、と興味なさそうに言った。彼の後ろにいる張曼成が音もなく忍び寄り、どこからか取り出した縄で、裴元紹を縛りつける。
 さあさ、ここからが本番だ。程遠志は服の袖で顔に付いた血と汗を拭った。
 目線は張角たちに向いている。ひ、と張角は怯えた様子を見せた。それを守るように厳政は立っている。おいおい、と程遠志は思った。悪者みてえな立ち位置じゃねえか。折角、柄にもないことをしているというのに。

「程遠志さん。どうしてここに」
「さっき裴元紹に説明したじゃねえか。もう一度言わせる気かよ」
「そういうことじゃなくて、なんで、ここに来たんですか」
「それも言ったぜ。お前をよ、助けに来てやったのよ」

 意味が分からない、といったように、厳政は目を見開く。

「何もかもが、わけがわかりません」
「まあなあ」程遠志は苦笑を浮かべる。「俺もよ、正直説明してやることが多すぎて、一気に伝える気にはならねえんだ。一個ずつよ、わかんねえことを聞いてみろよ」
「尾行した男を殺したっていうのは本当ですか」
「いいや、嘘だね。殺したのはそこの、狗みてえな顔をした男だ」
「……じゃあ、そもそも。程遠志さんはなんでこの砦に来たんですか。黄巾が潰れるのを助けるため、っていうのは嘘でしょう?」
「ああ。嘘だ。それはお前と同じだよ。そこの三姉妹を、曹操様に引き渡すためだ」

 ひ、と誰かが怯えたように言った。張角三姉妹のうちの誰かだろう。
 程遠志と厳政が組んで、自分たちの身柄を盾にし、助かるつもりなのだと誤解したのかもしれない。

「違う」厳政は、重々しく言った。「ぼくは、引き渡すんじゃない。既に曹操さまからは助命の約定を貰っている。送り届けるんだ」
「そうだろうな。多分だけどよ、俺もお前はそういうやつだと思うよ」

 だから助けてやろうと思ったんだ、なんて、程遠志は笑いながら言った。

「……ぼくを助ける、っていうのはどういう意味ですか」
「そこの裴元紹の味方をしてやればよ、俺はもっと楽にことを為せたんだ。お前を尾行して、この部屋を見つけて、三姉妹を確保する。それで降伏すれば、さ。でもそれじゃ、お前は死ぬことになるだろ。それは嫌だったんだよ」
「どうして」
「人を助けてえって思うのはよ、変なことか?」

 真顔で程遠志は言った。
 如何にもそれが真に迫った様子だったので厳政は信じかけたが、逆に迫りすぎていたので、怪しんだ。

「本当ですか?」
「嘘だよ」程遠志はひゃっ、と妙な声をあげて笑った。「本当のことを言えば、お前に教えてやりたかったんだ」
「教えるって、なにを」
「そこまでよ、悲観的になるもんじゃねえんだ、ってことをだよ。お前―――ツイてねえ、っていうのが口癖なんだろ」
「はい」
「それは、そういう時期に直面してるってだけで、ずっと不運が続くってわけじゃねえんだ。流れがくる、って言ってもわかんねえんだろうけど。いずれいいことはあるんだよ」
「そんなことを教えるためだけに、ここまで」
「そんなことじゃねえよ。お前は明日、明後日と続くに従って、吃驚することになる。この城だって簡単に抜け出せるし、曹操さまに降伏するのだってつつがなくいくし、そこの三姉妹だって無事になる。お前の中ではよ、それはそんなことなのか?」

 厳政は黙り込んだ。すべての物事がとんとん拍子に進んだ経験など、彼にはない。何かが邪魔をするはずだ、なんて不安を持ちながら、毎日を過ごしている。

「……程遠志さんは、張角さまたちを引き渡すためにここにきた、と言いましたよね」
「ああ。言ったな」
「そのためだけにこの城に帰ってきたんですか。程遠志さんが張角さまたちを連れてくるのを見て、顔も見たことのない曹操さまに上手く出会って、よくやった、と褒めてくれて部下にしてくれるかもしれないと信じて」

 ああ、と程遠志は軽く頷く。自分が曹操様に仕えていることをまだ言ってなかったな、と気がついた。
 そういえば、と思い出す。ここまでの長い通り道で、一番の最初の最初。城に入って、鄧茂と張曼成と話していたことがあった。厳政に曹操の名前を出すか、出さないか。二者択一の選択肢。
 あそこで、厳政に伝えていれば。「曹操様の指示でここまで来ました」と言えていれば、それで終わっていた。こんな面倒くさいことにはならなかった。程遠志は苦笑する。流れの悪い時に何をしてもうまくいかないな、と自嘲した。

「俺はよ、そもそも前の戦いで曹操様に降伏してんだよ」
「え」厳政は身体を引き攣らせた。「前のって、夏侯淵と戦った」
「ああ。それだよ」
「降伏は許さない、って矢文が来てたはずじゃ」
「そういう策なんだってよ。詳しいことは俺もわかんねえ。張曼成は頭がいいらしいけど、俺と鄧茂は馬鹿だからよ。考えるのは向いてねえんだ」

 一緒にしないでよね、と鄧茂は程遠志を小突いた。

「………………」

 厳政は、暫く黙り込んだ。どうしよう、という迷いがあるのだろう。信じるか、信じないか。猜疑心が強くなっている彼には難しい問題なのだ。
 もしかしたら、と程遠志は思う。厳政の、何もかもが不運に繋がるかもしれない、という考え方ならば、この俺たちこそが不運に見えているのかもしれない。仲間に見せかけて、張角を攫い、張宝を殺し、張梁を凌辱する。そういった存在に見えているのかもしれないと感じた。
 だとしたら、なんとも勿体ない。すべての判断がつかなくなっているのか。
 黙ったまま動かない厳政に、程遠志は口を開いた。

「素直に頷けねえか」
「……ぼくの今までからして、ここまで上手くいくことはおかしいと思うんです。偶然、曹操様に仕えた程遠志さんが、偶然この城にきて、偶然ぼくを気に入って助けてくれるなんて、あり得ますか」
「それが俺の幸運だとは思えねえのか」
「ぼく一人ならば、そう思ってもよかったです」

 でも、と厳政は言う。その目線の先には怯える張角たちがいた。自分の不運に彼女たちを巻き込むことは、どうしても避けたいことだった。
 程遠志は「だよな」と呟くように言った。そして、また「だからこそ、教えてやりてえ」とも言った。

「でもよ、俺の言うことが荒唐無稽だとしてもよ、お前はずっとこの城に居座るわけにもいかねえだろ」
「…………そうですね」
「ならよ、話は簡単だ。賭けをしようぜ」
「賭け?」厳政は見るからに戸惑った。「どういうことですか」
「俺が勝ったら、言うことを聞いてもらう。一緒にこの城を抜け出して、曹操様のところまで行ってもらう」
「もし、僕が勝ったら」
「連れてくのを諦めるし、なんだって言うことを聞いてやるよ」程遠志は鼻で笑った。「正直、もう俺は何をしないでもいいんだ。この城であと一週間何もしなくて、曹操様の総攻撃を待ってもいい。褒美が少なくなって、長い休暇が貰えねえのが玉に瑕だけど」

 厳政には、最後の方で程遠志の言っていることがほとんどわからなかった。わかったのは賭けの内容だけだ。

「拒否権は、ないんですよね」
「まあ、そりゃな。いいじゃねえか、受けてみろよ」
「先に、賭けの内容を教えてください」
「対決するんだよ。俺と、お前で。殴りあう、って言い換えてもいい」

 対決、と程遠志は曹操の言葉を借りて言った。
 ふと、厳政は昔のことを思い出した。対決。昔、張宝に言われた言葉だった。黄巾に入る切っ掛けになったような、言葉だった。それがこの場で、この機会で用いられたのは、偶然だろうか。
 やってみろよ、と程遠志は言う。不思議なことに、断られるとは微塵も思っていない顔だった。そういうものだ、と。すべてうまくいくと確信しているような表情。

「ぼくが腕力で程遠志さんに勝てるとは思えないんですが」
「ああそうだな。じゃ、俺は両腕両足を使わなくてもいい」
「……それで、どうやって殴りあうんですか?」
「さあな。俺にもわかんねえ。それでも、勝つんだよ。それぐらいやれば、お前も信じるだろ? 俺がどれだけ幸運を持ってるか」

 確信した表情は消えない。対決に対する異常な自身、自負。厳政は、何故かそこに惹きつけられた。
 かつて黄巾に入るため、すべてを投げ出した時の記憶が蘇る。あれと同じだ、と思った。程遠志に備わっている謎の自信は、一種の将器と言ってもいい、と感じた。やってみろ、という言葉に、やってもいいんじゃないか、なんて気になってくる。
 ここでじっとしていても始まらない。両手両足を失った相手との殴り合いに負ける道理なんてない。勝てば、言うことを聞かせられる。
 ―――もし、負けたら。確かに。
 程遠志という男の幸運を信じていいかもしれないな、なんて、厳政は思った。

「やります」思った瞬間に、厳政は声が出ていた。「勝ちますよ、勝つ気で行きます」

 そう言いながら、両腕両足を使わない人間に負けるわけないだろ、なんて考えながらも、負けるかもな、なんて厳政は思った。自分の不幸がそうするのかもしれない。負けを誘うのかもしれない。
 だけど、もしそれが程遠志の幸運のものならば、素晴らしいな、なんて思った。それで張宝さまを、張角さま、張梁さまを救えるならば、どうしようもないほど幸運だ。
 信じてもいいかもしれない。そう思った。

「じゃあよ、かかって来いよ。俺は動かねえからよ」

 程遠志はそう言って、両の腕を頭の後ろで組んだ。
 厳政は剣を捨て、殴りかかる。負けるかもしれない。負けてもいいかもな。なんて、考えながら―――




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黄巾討伐編 最終話



 程遠志は簡単に勝った。呆気ないほど容易く、数秒で勝負は決まってしまった。厳政が殴り掛かり、それを程遠志が半回転して避けた際、その回転とともに動いた肘が厳政の顎を正確に捉えた。
 見てすらいなかった。そういうものだ、と確信した動き。
 厳政は顎をしたたかに打たれ、軽い脳震盪を起こして動けないながらも程遠志の幸運に呆れ、信じてみようと決めた。

 そして、である。
 厳政の信頼をある程度まで勝ち取り、張角三姉妹に多少怯えられながらもこの城から脱出することに同意は得た。
 急ぐべきだ、と程遠志は思った。自分のモノにした「流れ」がそう簡単にどこかへ消えてしまうことはない、と確信してはいたが、この城の中でただただ怠けているだけではならないだろう。
 すぐさま行動を起こさねばならない。曹操の命令でこの城に入ったのが今日の昼で、酒を飲んだのが夕方過ぎ。もういつの間にか日は落ちて夜になっていた。抜け出すにしても、ちょうどいい時間帯だ。

「どうやって、この城から脱出する気ですか」
「理由なんて適当につければいいさ。このままじゃ勝機はないから、他の黄巾軍に援軍を求めに行く、みたいな感じでいい」
「この、完全に包囲されている状況で? 信じてもらえますかね」
「信じてもらえるさ。包囲されているこの状況で外に出るなんて、馬鹿な奴だ、なんて哀れまれるかもな。うまくいくんだよ」
「どうしてそこまで―――」

 自分のことを信じられるのか、と聞こうとして、厳政は口を噤んだ。己の幸福を、「流れ」を信じて、成功してきたからだろう。
 それを信じると決めたのだから、もはや言葉はいらない。静かに頷いた。

「じゃあ行くぞ。こんなところにいても始まらねえ」

 程遠志はすぐさま歩き出した。振り向きもせず、前だけを見て進む。
 そこからはとんとん拍子に事が進んだ。裴元紹を連行し、適当な場所に軟禁した。適当な台車を見繕い、兵士たちに見られてはまずい張角三姉妹を入れた。台車を曳きながら城の門を目指し、ぎりぎりのところで厳政も台車の中へ入った。
 あとは程遠志たちが台車を引いて門を超えるだけだ。張角たちは誰にも発見されることなかったし、怪しまれることもなかった。

「ねえ、程遠志」鄧茂がひそひそと言う。「流石に、この台車を曳いたまま出るのは難しいんじゃない?」
「食糧を持っているとでも理由をつければいいさ。他の黄巾軍へ運んでやるだの、曹操軍を掻い潜っていくためには必要なことだの言えばいい」
「台車を検められないかな」
「検められても、大丈夫さ」

 そういうもんだ、と程遠志は笑いながら言った。
 そうして、程遠志たちは門の前に辿り着く。そこには無数の門番と警戒している兵士たちがいた。
 いよいよだ、と程遠志は思う。
 動悸がした。必ず成功すると確信していても、何度やってもこの感覚は変わらない。

「どこに行く気だ」
「援軍を、求めに行く」
「どこへ」
「隣に存在する、黄巾の村だ。厳政様の許可は取ってある」

 程遠志は張曼成に喋るのを任せていた。初対面の人間に対して自分の容貌や、喋り方が威圧感を与えるような気がしたからだ。
 それは確かだったようで、生真面目に見える張曼成は少なからず門番に好印象を与えていた。

「その台車は、なんなんだ」
「食糧が入っている」
「どうして食糧を入れた」
「仲間への援軍要請の手付と、曹操軍の包囲を抜けていくためだ」
「そんなもので包囲を抜けられると思うのか?」
「ならば、この城に籠っているだけで勝てると思うのか?」

 門番の人間は黙り込んだ。一理ある、と思ったのだろうか。思ってくれ、と台車の中に隠れている厳政は願った。
 数秒、沈黙が場を支配した。誰も喋らない。静止した時間が存在した。

「……とにかく」門番の男が、長い沈黙を破った。「その台車の中身は、検めさせてもらう」

 その言葉に鄧茂は小さく動揺を見せ、張曼成は一瞬固まった。台車がかたり、と揺れた気がする。それが気のせいか気のせいでないか、彼らにも理解できない。
 止めるべきか、と張曼成は一瞬迷った。彼はその勢いに従って、口を開こうとして。

「いいじゃねえか」程遠志は余裕そうな顔で口を挟んだ。「見せてやれよ、中身を―――」

 ほらよ、と程遠志は軽く顎で促す。中を見てみろ、と。
 その態度に多少門番は苛立ちながらも、台車を覆っている布を勢いよく剥ぎ取った。はらり、と視界が晴れる。

 そこには―――厳政や張角たちの姿はなく、大量の食糧が置かれていた。

 なに、と門番は驚いた。張曼成も、鄧茂も驚いた。程遠志だけは、平然と立っていた。
 いつの間に、こんな数の食糧が。張曼成は思い返したが、台車の中に程遠志が食糧を詰めていた様子は見受けられなかった。
 恐らく、この食糧の下に厳政たちが隠れているのだろう。台車は半分で区切られていて、上が食糧で、下に厳政たちが隠れている。
 この台車の中に厳政がいる、と理解できている張曼成だからこそ、そう考えることができたが、普通ならば気がつくことなどできないはずだ。上の食糧に気を取られしまうはず。
 程遠志は飄々としていた。こうなることを確信していたような顔だった。「どうだ?」なんて、門番に聞いてみる。

「……少々、多くないか。食糧の数が」
「そう言われると思って、見せたくなかったんだよ。いいじゃねえか。この城にはまだまだ食糧の余りはあるんだろ」
「…………」
「厳政様の許可ももらってるよ。この状況をどうにかするには藁にも縋るしかない、って言ってたぜ」

 程遠志がそう言うと、門番はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、黙り込んで道を開けた。門を開けるように、部下に命じる。
 そういうものだ、と程遠志は思う。高を括っていた、と言ってもいい。「流れ」に乗っているのだ。自分がこの状況でしくじるはずもない。

 そこから、である。様々な出来事が、立て続けに起きた。

 まず、程遠志たちが門をくぐった。そのまま曹操の元へ歩いていき、役目は終えたと告げるだけでいい。そうなると彼は信じていた。
 門をくぐると同時に、門番は通常ならば門を閉じるはずだ。それで、彼らからは程遠志の姿を追うことができなくなり、もうどうしようもなくなる。
 そうなるはずだった。
 しかし、程遠志の後ろから聞こえてきた音は、閉門の軋んだ音ではなく「ひい」だとか「うわあ」だとかいう、人間の悲鳴だった。

 どういうことだ、と程遠志は後ろを振り返るため、足を横に曲げた。そこで、躓きそうになる。身体を少し傾かせ、おっとと、とふらついた。
 足元を見た。今度は何もない場所で転びそうになったわけではなかった。
 自分の足の下を見て、驚く。茶色の物体。
 犬の糞を、踏んでいた。

「おいおい、ツイてねえな」

 言ってから、ハッとする。今の俺がついてない? そんな馬鹿な。どういうことだ。
 少しの間程遠志は呆然としていた。だからだろう。門番たちが悲鳴を上げた理由を理解するのが遅れた。
 気がついたら、ぶん、という音が程遠志の耳元でしていた。なんだ、と飛び上がりそうになる。横を見る。
 そこには、蜂がいた。

「――――――」

 なんでこんな夜に、蜂が飛んでいるんだ? 意味が分からなかった。木偶になっている程遠志や鄧茂、張曼成には目もくれず、蜂は台車の方へ飛んで行った。
 食糧に惹きつけられたのか、と程遠志は一瞬思った。一瞬後、いや待てよ、と思い直す。最悪の想像をしてしまった。流石に―――流石にそこまでじゃねえよな。はは、と引き攣った笑いが漏れ、冷や汗が出る。
 台車の中にいる人間を程遠志は思い浮かべた。張角、張宝、張梁―――そして、厳政。日頃から不運だ、なんて言っている彼が、まさか、蜂を? その不運で引き寄せた?
 鄧茂と顔を見合わせた。「まさか」「あり得ないよね」お互いに言い合う。言い合いながら、笑い合いながらも、ひょっとすれば、と思った。



 ―――その数秒後、台車の中から姦しい悲鳴が木霊した。



 台車がひっくり返る。中の食糧がすべてぶちまけられ、上と下で仕切ってある板も取れた。すべてが露になる。
 すなわち、それは中にいた人間も同義である、ということで。

「どうして、蜂が」目の下を腫らし、半泣きになった厳政が叫ぶように言った。「なんで蜂が入ってくるんだよぉ」

 その隣で張角三姉妹たちが転んでいた。台車は既に粉々に壊れ、食糧は散乱し、目も当てられない。
 程遠志は滑稽にすら見える表情で呆然としていた。はは、と笑ってしまう。笑うしかなかった。自分の幸運が、厳政の目に見えない不運で塗り替えられていくような、そんな実感があった。

「な―――なんで、張角さまが」

 そして、それは勿論。
 門が開いている、ということは、門番たちにも目撃されている。

「おい、お前ら」言いたいことはあったが、とりあえず程遠志は叫んだ。「逃げるしかねえ!」

 その言葉に鄧茂も、張曼成も泡を食って走り出した。
 厳政は、蜂に目の下を刺されながらも、張角ら三姉妹を強引に担ぎ上げ、走り出した。

 目の前に見えるのは曹操の旗。夜の静かなこの時間帯でも、兵士たちはちゃんと仕事をしているようで、城前で起こったこの騒動もしっかりと目撃していた。こちらを援護するように、近づいてくる。
 程遠志は目をぎょろぎょろと左右に動かしながら、旗を探した。あれでもない、これでもない。数秒かけて血走った目であたりを見回して、ようやく目標物を見つけた。
 最早、恥だのなんだのを気にしている時間じゃない!
 程遠志はそちらへ向けて、全力で叫んだ。

「おい、夏侯淵! いや、夏侯淵様、助けてください―――っ!!」


 ―――その旗の下で、青髪の弓使いが悪戯っぽい笑みを浮かべている気が、程遠志はした。多分、気のせいではない。




 このような塩梅で、程遠志の潜入任務は終わった。この後、程遠志は夏侯淵に散々揶揄われ、夏侯惇に「修行が足りない!」なんて理不尽なことを言われたりもするのだが、まあおおよそは、こんな感じだ。




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息抜き編 ちょっと休憩





 程遠志は昇進した。元黄巾賊の男がこうも早く昇進することに、さまざまなところから罵倒や文句が出て、これは一波乱あるか―――と思われるほどまでであったらしいが、彼は気にしていなかった。
 貰えるものは貰うし、他の人間からの評価などは気にならない。嘘偽り抜きでそう考えている男だった。
 それに。
 今現在の程遠志には、そんな悪評などよりも気にしなければならないことがあった―――

「……なあ、いったいどうしてよ、俺はお前と仲睦まじく街を練り歩いているんだ?」
「さて、な」夏侯淵はしれっとした顔で言う。「お前、なんて呼び方は好きじゃない」
「夏侯淵」
「おや。あの時みたいに夏侯淵様、と呼ばないのか?」
「その話はやめろ。やめてください」

 程遠志は引き攣った顔になる。あの時が、黄巾の城から脱出した時のことを指しているのは自明の理だった。
 途中までは完璧だったんだよ、と言い訳気味に呟く。はは、と夏侯淵は愉快気に笑った。

「お前は本当に両極端な男だな」
「知らねえよ。……てか、夏侯淵、普通に俺のことをお前って呼んでるじゃねえか」
「私の名を呼ばせて、揶揄って、楽しみたかっただけだ。他意はない」
「めっちゃ他意あるじゃねえか」

 程遠志がそう突っこむと、また夏侯淵は笑った。
 ひとしきり笑って、そこで、ようやく夏侯淵は程遠志に口を開いた。

「黄巾党を撃破し、秘密裏に張角たちを仲間にした祝賀会のようなものだ。その材料の買い出しを私とお前が担当する。今街を歩いている理由なんて、それだけの話だ」
「買い出しなんてもっと下々の奴がやることじゃねえの」
「祝賀会の料理は華琳さまも食べる。一つ一つの物事から手を抜くわけにはいかぬ」

 それなら毒見役でも作ればいいだけじゃねえのか―――なんて程遠志は思ったが、それでは興が削がれるということなのだろう。少しずつ、彼にも曹操という人間の人となりが理解できていた。

「その祝賀会ってのは、俺も出んのか?」
「当り前だろう。ある意味、お前が主役だと言ってもいい」
「はあ?」

 主役? と程遠志は首を傾げる。生まれてこの方、自分がそんな位置に立ったことなんてなかった。
 なんでわからないんだ、と夏侯淵は少し呆れた顔になった。

「黄巾を攻め滅ぼした勲功があるだろう」
「それはそうだけどよ、俺は、昔から主役なんて柄じゃねえんだよな。悪役だとか、敵役だとか。そっちに慣れちまってんだ」
「気に入らないのか?」
「そういうわけじゃないんだけどな」
「それなら気にせずどんと構えていればいい―――まあ、一部の人間からお前が嫉まれたり、嫌われたりしていることは、事実だが」
「そういう悲しいことをイイ顔で言うなよ……でも、やっぱそうだったのか。ほら、あれだよ。なんかでかい鉄球持ってるチビ。よく睨まれるんだよな。この前まで無視だったのに」
「季衣はな」夏侯淵は、初めてそこで表情を曇らせた。「あれは、また、特別な事情があるんだ。気になるなら私からも言っておくが」
「別によ、気にはならねえよ。鄧茂も仕方ねえことだって言ってたしな」

 程遠志はさらり、とそう流した。睨まれることに慣れているというのもあったし、どうだっていいことだとも思っていた。
 嫌われたものは、どうしようもない。放っておけば後々時間が解決してくれるかもしれない。そんな楽観的な考えが後々また面倒くさい事態を巻き起こすのだが―――まだ、今はその時ではない。

「で、今日振る舞われる料理ってなんだ?」
「麻婆豆腐、が主だったはずだ。何から何まで最高品質のものを取り揃えてきて、と頼まれている。肉や、豆腐から、唐辛子まで」
「お、いいね。俺、酒に合うから辛いの好きなんだよな」
「そうなのか」
「料理の辛みを楽しめねえ奴は、人生損してるぜ―――まあ、余程のお子ちゃま舌なら同情するけどよ」

 得意げにそう言った程遠志に、夏侯淵が「それを華琳さまに言ったら多分殺されるだろうな」と言うと、すぐさま怯えて顔を真っ青にした。
 


 夏侯淵は頼まれていたものをテキパキと注文し、さあ会計だ、という時になって唖然とした。店主から言われた金額は、寡黙で冷静な彼女の感情を震わす程度に衝撃的だった。
 あまりにも暴利だったのではなく、その逆で、驚くほど安価だった。想定していた値段の、三分の一ほど。
 最高級の品質で揃えたため、それでも普通の人間からすれば高い買い物なのだろうが、流石におかしいだろう。
 夏侯淵はそれに得したな、なんて能天気に思うような人間ではない。何か不備があるのか。ないならばなぜこんなに安いのか。問い詰めねばならぬ、と思い、顔が若干厳めしくなって。

「お、なんだ。思ったよりしねえな」程遠志が横から口を挟んだ。「まただよ」
「また?」
「『流れ』に乗ってる俺からしてみれば、よくあることだよ―――なあ、店主。当ててやろうか。俺たちが都合、千人目の客だからとかだろう」
「いいや。わしの娘がな、今日嫁いだのだ」
「ああそっちか。惜しいじゃねえか」

 ち、と舌打ちする程遠志を、夏侯淵は呆れ半分、感心半分といった表情で見る。

「それも、偶然だというのか」
「偶然っていうか、流れだな」
「それを言えば何でも解決すると思っていないか?」

 仕方ねえだろ、実際に解決してんだから。程遠志はそうボヤいた。

「流れに乗ってる最中はよ、何をしても成功するんだよ。間違いねえ」
「なら、どうして黄巾から逃げてくる時、私に泣き叫びながら助けを求めたんだ?」
「いや。あれはよ、特別だ」程遠志は苦々しげな顔になる。「そもそも、泣き叫んでねえし。特例だよあんなの」
「特例?」
「ああ。厳政ってお前も知ってるだろ。あそこまで不運な人間他にいねえよ」

 程遠志はふと、あの時のことを夢想する。あり得ないような出来事だった。夜に活発に飛び回るはずのない蜂が飛び、台車の中にある食糧を狙うならばまだしも、厳政の目を狙って動いた。
 そんなことが起きる確率はどれほどだろうか、と思うと、多少同情したくもなった。

「厳政自身は最近喜んでいるらしいがな」
「喜んでる? なんで?」
「曹操軍に来てから、不運が心なしか減りました、なんて言っている。張宝とも仲良くやれてるし、お前のおかげだとも言っていたぞ」
「ざけんな馬鹿。俺の幸運、絶対あいつに吸われてるっつーの」

 ひょっとしたら俺の天敵になるような人間を仲間にしちまったんじゃねえか―――なんて、程遠志は今更になって気がついた。特にだからどうしようとも思わなかったが。

「しかし、それなら困った。貰った金が思わず余ってしまった」
「山分けにしねえか?」
「馬鹿、公金だぞ。……まさか本気で言ったんじゃないだろうな?」
「あ、ああ。勿論だ。勿論冗談だぜ? わかってるに決まってんだろ!」
「……お前に金関係の仕事を任せるべきじゃない、ってことはわかった」

 はあ、と夏侯淵は一つ溜息を吐く。

「まあ、それなら追加で何か見繕うか。時間はまだまだ多くある」
「それならよ、適当な酒と、酒に合うものを追加しようぜ」
「それはお前の都合だろう―――と言いたいが、まあ、構わない。大酒飲みも我が陣営には多くいる」

 今回の戦の第一戦功なのだから、それくらいは聞いてやるか、という思いも夏侯淵にはあった。

 ―――程遠志が酒を飲むとどうなるのかをわからなかった故、である。




 そして、時間は流れ。
 祝賀会は始まった。曹操が堅い挨拶を終え、これからは無礼講だ、という言葉に多少場が沸き立ち、乾杯の音頭が取られる。
 各々酒を飲み、飲めぬものは広間の各所に置かれている取り分けられた料理に精を出し、各自で様々な行動をとっていた。その中には鄧茂もいるし、張曼成もいた。
 ―――そんな中、程遠志はといえば。

「よお、夏侯淵、酔ってるかぁ」

 夏侯淵はぐるり、と広間の中を微笑しながら回っていて、隅の方で固まった。
 あ、失敗したな。程遠志の姿を見てすぐに思う。一つくらい我儘を聞いてやるか、なんて思いで酒とつまみを買い与えたことに、後悔すら覚えた。
 程遠志は椅子に座り、食事に手を伸ばすことなく酒だけを飲んでいた。どこで捕まえたのかその右隣には名も知らぬ兵士が絡まれていたし、左隣には何故か楽進が目を白黒とさせて座っていた。

「……これは、一体全体どういうことだ? 程遠志」
「楽しく飲んでるだけだよ。お前も混ざるか、夏侯淵」

 なあ、と呼びかけ、あたかもさりげなくといった素振りで、左隣にいる楽進の肩へ手を伸ばした。明らかに焦った様子の彼女はその手をぱん、と払いのける。
 痛えな、と程遠志は悶絶しながらも、まったく懲りない様子だった。楽進は悲鳴にも似た声を上げる。

「秋蘭さま! 助けてください!!」
「どういう状況だ」
「私が黙々と食事をしていたら、唐突にこの男が現れて酒を飲みだしたのです。気を使って全力で殴ってもいいですか!」
「いや、流石にそれは」

 胸中で、少しだけ殴ってしまっても構わないか、と夏侯淵は過激的な思考になりかけた。どこまで酒癖が悪いのだ。
 この祝賀会全体に迷惑をかけているわけではなく、寧ろ殆どの人間には気づかれていないので、そう大した問題にはならないだろう。そんな打算的で小悪党な考えを程遠志は持っていた。言うまでもなく、彼の酒癖の悪さは演技のようなものである。
 これ幸い、とばかりに程遠志は誘いをかけた。右隣に座っている男を開放し、とんとん、と席を叩く。

「こいよ、夏侯淵。対決しようぜ」
「なんのだ」
「飲み比べの、だよ。負けた方が一つ言うことを聞くってのでどうだ?」
「…………」

 はあ、と一つ夏侯淵は溜息を吐く。戯言だ、と吐き捨ててどこかに行こう、とも思ったが、楽進がこちらに助けを求めていた。
 程遠志はもうほとんど酔いつぶれる寸前に見えた。潰してしまうか。夏侯淵は一瞬、そうしようか、と思いかけ―――

「おい、程遠志! なかなか調子に乗ってるじゃないか」

 夏侯惇が現れた。楽進を横に侍らせ、酒に溺れている(ように見える)彼が気に食わないらしい。
 説教をしてやろう、と歩いてくる夏侯惇。いつもならば程遠志は話でも逸らしてやり過ごすところだが、今は違う。気分のまま、軽く挑発してみせた。

「お、夏侯惇。お前でもいいや。俺と対決しねえか?」
「聞いていたぞ。飲み勝負だろう。そんな馬鹿らしいことを私が受けるわけ―――」
「んだよ、逃げんのか。臆病者がよ。いつもの気勢はどこいった?」
「―――やってやろうじゃないか!!」

 夏侯惇は酒も飲んでいないのに顔を真っ赤にし、誘われるまま程遠志の右に座った。
 程遠志の右腕が夏侯惇の肩に伸びる。彼女は拒まない。寧ろ、それよりも強い勢いで程遠志の左肩に左手を伸ばし、ばん、と組むのではなく平手で叩いた。
 それは楽進の一撃よりも遥かに強力なものだったらしく、程遠志は小さく悲鳴を上げて演技を忘れて痛がった。

「……飲み比べで、先に潰れた方が負けでいいのか?」
「おう。そうしようぜ。夏侯淵は審判でもしててくれ」

 夏侯淵は自分の姉を見た。顔は赤いが、酔っているわけではない。酒に驚くほど強いというわけでもないが、弱いということもない。勝てる。今の、潰れかけの程遠志にならば勝てる。
 ……この場において、程遠志の悪癖を知っている人間は鄧茂と張曼成だけだった。彼らは理解している。豪勢な料理が振る舞われるこの場で程遠志に絡まれれば、必ず満足のできない結果になると理解している。別行動をとっていた。

「――――――」


 結果。
 程遠志の酒を呷るペースは速く、それに夏侯惇はついていこうとして、潰れた。殆ど時間が経っていないというのに、である。



 夏侯淵は程遠志を見る。最初と様子は変わらない。机に突っ伏して寝ている夏侯惇を指でつついて馬鹿笑いをしている。明らかに酔った様子だ。だというのに、である。

「おう、次は誰だ」程遠志は左隣を見る。「お前も参加するか?」
「ひ、ひい」楽進は悲鳴を上げた。「秋蘭さま―――!」
「おう。夏侯淵。お前もやるかよ?」

 どういうことだ、と夏侯淵は混乱する。
 そこに、仕方ないなあ、といった様子の鄧茂が通りがかった。 

「付き合わないほうがいいですよ」
「……どういうことだ」
「女の子に悪戯するため演技をしてるんです。酒を飲むとあんなんになるんですよ、昔から」
「………………つまり、なんだ。酔ってないのか?」
「ちっっっとも酔ってません」
「…………………………」



 夏侯淵は、長い長い溜息を吐いた。程遠志はそれを聞きながら楽しそうに笑っている。



「凪」
「は、はい。秋蘭さま」
「全力で殴っていいぞ。ていうか殴れ。この場を収める唯一の方法だ」
「――――は!」


 ―――楽進は気を内包した拳で、死なない程度に程遠志を殴った。そこで、程遠志の記憶は途切れている。







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第3章 董卓包囲網編 董卓包囲網編 第一話



「董卓包囲網?」

 程遠志は阿呆面を浮かべながら寝転がっていた。
 向かい合う形で、鄧茂はだらりと姿勢を崩している。何か言いたいことがあったんだよなぁ、なんてしきりに首を捻っていたが、忘れてしまったらしく違う話題を程遠志に振っていた。
 いつもいるはずの張曼成はここにはいない。用がある、と言って、ふらふらとどこかに出かけてしまっていた。ごくごくたまにあることだったので、二人は気にしていない。

「袁紹って人の使いが来たらしくてさ。董卓を倒せーっていう書状を持ってきたんだって」
「ふうん。まず俺はよ、その董卓を知らねえ」
「割と街とかで噂になってる気がしたけどなぁ。暴虐の限りを尽くしてるってさ」
「へえ、そりゃ大悪人だ。で、曹操様は受けたのか、それ」
「うん。程遠志にもそろそろ働いてもらうわ、って曹操様が言ってたよ」
「……まあな、ちょっと休みすぎちまったしなぁ」

 程遠志は黄巾討伐の報酬として、昇進は勿論のこと、長い休息日も実際に貰っていた。
 休めるのならば、と程遠志は遠慮を一切することなく酒を飲んで寝るだけの日々を費やしていた。それももう一週間弱が経ち、流石の程遠志も、そろそろ働くかな、なんて殊勝な考えにもなりつつあった。

「包囲網なんて言うからには、多分すげえんだろうな。袁紹と、曹操様と、あと他にも二、三くらいか? どんだけ参加するんのかな」
「そんなもんじゃないよ。小さい勢力もいれたら十、二十に及ぶと思うし。袁紹だけでも三万以上の兵を率いてくるだろうから、とんでもない規模になる戦だよ」
「はぁ」程遠志は口をぽかんと空けた。「俺にはよ、想像もできない話だ」

 程遠志が率いたことのある軍勢なんて、精々二百人や三百人がやっとである。鄧茂の話からすると、この包囲網すべての兵力は十万だの、二十万だのになりそうだった。気が遠くなる。

「でもさ、袁紹の書状が届いたのって、確か一昨日より前だった気がするんだけど。初耳なの?」
「初耳だよ。そういやちょっと前、なんか騒がしかったな」
「多分その時じゃない。袁紹のかなり大事な部下が二人くらい来てたから、こっちも皆集まってたし」
「俺も呼んでくれればいいのによ」
「夏侯淵さんが、休暇中に呼び出すのも忍びないって言ってたよ―――あと、今いてもそんなに意味がないって」
「酷えこと言いやがるよ」

 はは、と程遠志は苦笑する。まあ確かにその通りかもしれない、とも思った。

「まあ、よくよく考えたら当り前か。程遠志は友達少ないもんね」
「んだよ藪から棒に」
「包囲網の話が伝わらなかった、ってのも頷けるなって。それならさ、今一番噂になってる、どこかに天の御使いが来たらしいってのも知らないでしょ?」
「まず、そもそも。天の御使いってなんだよ」
「管輅が言ってた占いのこと知らないの!?」

 鄧茂は半ば絶叫のような声を上げた。
 占いね、と程遠志は若干興味を持つ。現実的な考えを持つ彼も、風水などが嫌いだというわけではない。

「東方より飛来する流星は、乱世を治める使者の乗り物。その使者こそが、天の御使いって呼ばれてる存在だよ」
「ふうん。要するにだ、そいつはこの大陸に平和をもたらすわけだ。すげえじゃねえか」
「それが、どこかの勢力に来たらしいの。名前忘れちゃったけど」
「成る程なあ」

 まあ、頭の片隅には入れておくか、なんて程遠志は考えた。占いはある程度まで信じるが、自身のことではない限り大して興味が湧かない。
 その規模が中華全土まで覆われてしまうと、程遠志はこの大陸がどうだの世界がどうだの、だと言われたような遠い話に思えてしまう。

「でも、僕が言わなかったら危なかったね。出陣は割ともうすぐだよ」
「あ?」程遠志は目を瞬かせた。「なんだよ、そんな早く集まるのか」
「当り前じゃん。明後日か、明々後日には程遠志も軍を率いて出ることになってたよ。僕と張曼成は、その副将だってさ」
「わりかし危なかったな。教えてくれて助かったぜ。俺の友達はお前と張曼成と―――ああ、そうだ。厳政もそうだな」
「そうだ、それだ!」

 鄧茂は唐突に程遠志を指さした。なんだよ、と程遠志が少し眉をひそめながら返すも、彼はその勢いのまま続ける。

「厳政を助けるのは知ってたけどさ、友達になるのは僕聞いてないんだけど」
「はあ? なに、俺が友達増やすたびにお前に言わねえといけねえのか? どんな面倒くさい仕組みだよ、束縛してくる妻かよ」
「言ったじゃん、黄巾抜けるときに! 友達が増えるときには教えて、って。これでもう、程遠志含めたら僕たち四人になっちゃったよ」
「知らねえよ」そう言いながらも、程遠志は四という数字が気になった。「けどな、縁起悪いなあ、四ってのは」
「ほら、いろいろ問題出てくるじゃんか」
「多数決もできねえしな―――いっそのこと、さっさともう一人増やして五人にすっか?」

 できもしないことを簡単に、程遠志は冗談めかして言ったが、鄧茂が真顔になったので閉口した。冗談にならねえな、なんて胸中で呟く。

 


 ほとんど曹操軍の全力とも呼べる軍勢、総勢三万。練度は黄巾との戦でさらに底上げされて、他のどの勢力をも超えている、と曹操は確信していた。
 その三万が、出陣の声を上げた。鬨の声である。気負い、緊張、葛藤。それらすべてを吹き飛ばすような怒声が、あたり一帯に響き渡る。
 そして―――その中には当然、程遠志の姿もあったし、鄧茂と張曼成も、厳政もいた。

「すげえな。一気に士気が上がっちまった」
「こんな演説聞いたことないね」
「そうだな鄧茂―――でも、まあ。厳政、確かお前も演説上手かったろ」
「え!? い、いやいや、とんでもない。ぼくなんかまだまだですよ」
「そりゃ曹操様に敵うわけもねえけどさ、俺たちとかと比べたらよ、格が違うよ。この軍の演説担当はお前だから頼んだぜ」
「そういうのって、普通程遠志さんがやるんもんじゃないんですか?」
「馬鹿。俺は人のやる気をださせるだとか、そういう才能は皆無だよ。鄧茂じゃ締まらねえし、張曼成が大声出すのも想像できねえ。お前しかいねえのさ」

 黄巾にいた時、程遠志たちは一度だけ厳政の演説を聞いたことがあった。黄巾兵たちの手綱をしっかりと握り、士気を上げていた。

「でも、いいね。なんか僕たちの軍がしっかり整備されてきたじゃん。程遠志が流れで、張曼成が軍の指揮、厳政が演説。各自それぞれ担当を持ててるし」
「お前は何担当なんだ、鄧茂」
「僕? ……幼馴染担当とか?」
「俺限定じゃねえか。具体的に何するんだよ?」
「何してもいいの?」
「今の俺の疑問にどういう思考回路したらそういう答えになるんだ?」

 程遠志はなんとも言えない微妙な顔になる。
 厳政は恐る恐る、といった感じで手を上げた。

「程遠志さんと鄧茂さんって付き合ってるんですか?」
「はあ?」

 程遠志は目を瞬かせる。鄧茂は当たり前だよ、というように頷いた。ぱこん、と隣の程遠志に頭を叩かれる。

「夏侯淵様と懇ろだとか、いろいろ噂されてたので、何が本当なのかわかんないんです」
「どれも嘘だよ。誰とも付き合ってなんかいねえし」
「え、意外です」
「んだよ、俺が特定の人間と不埒な行為ばかりしてる不潔な人間に見えるのか?」
「そ、そこまでは言ってないですけど」
「俺は不特定多数の人間に手を出すことがあるかもしれねえが、特定の人間にかかりっきりにはならねえよ。安心していい」
「……いや、そっちの方が不潔なんじゃ」

 厳政は横から口を挟んだが、程遠志は無視して言葉を続けた。

「まずはな、厳政。俺の女性遍歴だとか、張曼成が一月に一回必ず単独行動を取ることが怪しいだとか、そういう話は置いといてだ」
「おい」張曼成は顔をしかめた。「お前らの猥談に俺を巻き込むな」
「とにかくだ。お前が知らねえといけねえのは、鄧茂が俺と付き合うのはそもそもあり得ないってことだよ」
「え」厳政は首を捻る。「何でですか?」
「あれ」鄧茂もそれを真似る。「何で?」

 程遠志は呆れた顔になる。どうしてお前が聞いてくるんだよ。

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董卓包囲網編 第二話 群雄割拠



 ―――劉備。

 関羽は笑っていた。とんとん拍子に物事が進んでいる。自分と、張飛は元より、孔明と龐統。そして天の御使い様まで―――劉備の理想としている、「誰もが笑って暮らせる世界」の構築は近い、と思えた。
 民草が泣いているから。劉備が兵を挙げるの理由は、ただのそれだけである。他の諸侯からすれば考えられぬことであろう。
 民を思う人間はいようとも、それがすべてだと断ずる人間は、彼女しかいない。関羽は確信していた。
 その性格だからこそ、人が集まった。伏龍、鳳雛と呼ばれた軍師たちも。天の御使いこと、北郷と名乗った青年も。
 この連合軍で、必ず名を上げることだろう。そうせねばならない。
 関羽は奮起した。張飛も同じ思いだろう。そう、確信も持てた。

「あれ、愛紗ちゃん」
「桃香さま!」

 関羽がそう考えていると、劉備がにっこりと笑うながら現れた。隣には張飛と、孔明がいる。
 劉備の目は輝いていた。理想に焦がれる瞳。董卓の暴虐に対して立ち上がらなければならぬ。そんな使命感を、帯びていた。

「もう、出陣なさいますか」
「そうだね。ご主人様が来たら、出ようかな」
「ええ。此度の反董卓連合では、必ず我々の名を轟かせてみせます」
「あはは……でも、そうだね。相手の軍を打ち破って、洛陽の人たちを救いに行かないと」

 いろいろ協力お願いね、と劉備は軽く頭を下げた。関羽はそれに慌て、張飛はにゃははと笑い、孔明は小さく微笑んだ。

 勝てる、と関羽は確信した。今回の連合軍こそが自らの主の名が高まる一世一代の好機だと信じて疑わなかった。

「朱里。軍師はお前と雛里に一任する」
「はわわ……責任重大ですね」
「なにか、今回の戦いにおいて言うべきことのようなものはあるだろうか」

 関羽はそう言ってから、顔を顰めた。抽象的過ぎたな。いうべきこと、と言われても急には思いつくまい。
 現に孔明は少し困った顔になった。ひょっとすれば、自分も今回の規模の大きな戦いに緊張しているのかもしれない。関羽はふう、と息を吐いて、孔明に対して軽く侘びでも入れようとして。

「―――そうですね。言うべきこと、とは違うかもしれませんけど、心構えのようなものならあります」
「心構え?」
「いつも通りにやる、ってことです。私と雛里ちゃんが策を作り、愛紗さんと鈴々さんが動けば、必ず勝利を導く自負はあります」
「変に動揺などするな、ということか」
「動揺もですし、勇み足を踏まず、短慮を出さないようにしましょう―――勝てそうだから、勝てる『流れ』だから、などを信じず、前に出すぎないように。私も気をつけます」

 孔明は少し笑いながら言った。流れなどはない、と断言するように。





 ―――張邈。

 張超は喋らなかった。自分の姉を見て、何も言うことなく黙りこくっている。
 見惚れている、というわけではない。姉の張邈は美しく、街の往来で初見の人間の目を必ずと言ってもいいほど引く人間だったが、妹の張超からしてみればもう数十年とみてきた顔である。そうではない。
 張邈は無表情だった。顔色をぴくりとも変えず、均整の取れた顔を保っている。それは彫像のようで、美術作品のようで、人間味がなかった。

「………………」

 普段の彼女はよく顔色を変える。愉快な時は笑い、悲痛な時は歪める。その感情の変化こそが、人を動かす原動力となり、人を従える力になると確信しているからだ。
 しかし、いや、だからこそだろうか。張邈は一人きりの場所、もしくは張超と同じ場所にいるとき、表情をまったく変えなかった。普段動かしている分の釣り合いを取るようであった。

「姉上、出陣の準備が整いました」
「そう」
「後は姉上が号令をかけるだけです」
「わかったわ」

 その秘密を知っているのは張超だけである。他にも知っている者はいたはずなのだが、いつの間にか、全員死んでしまった。なぜ死んだのか。病死、事故死などが殆どであったが、張超は疑っている。
 姉に対する疑念が浮かび上がったからか、張超は昔のことを思い出した。

 ―――かなり昔のことである。張邈がまだ子供で、張超も子供だった頃のこと。快活な少女として知られていた張邈は、その時点で将来が嘱望されていた。名家である張家の跡取りとして、誰も文句を言う人間はいなかった。その時はまだ、張超の前でも無表情でいることはなかった。
 市井に遊びに出ていた時、ごくたまに張邈は行方を眩ませていた。お供の人間を撒き、張超にも何も言わずにどこかへ消える。毎度騒がれたが、多少時間が経過すれば戻ってきていたし、たかだか十にも満たぬ少女のお守りもできぬのか、と責められるのが容易に予想できたので、お供の人間は父親へ報告しなかった。
 何をしているのか。張超は幼い故の好奇心がよく疼いた。ある日のこと、また行方を眩ました張邈を慌てて探しに行くお供を見て、さりげなく彼女も逃げた。そして、闇雲に探し回った。
 偶然、であろう。何かの確信があったわけではない。
 この街を訪れるとき、姉はよくあそこを見ていたな―――なんて思い、適当にその周辺を歩き回った。
 見つかるとは思っていなかった。それ故、張邈の姿が街の隅っこにある森の中に見つけた時、張超は手を叩いて喜んだものである。「なにやってるんですか、姉上」「ちょっと一人になりたかったのよ」そんな会話をし、自分に微笑みかけてくる張邈の姿を張超は幻視した。その幻想が、現実になると疑わなかった。
 しかし、その一瞬後。
 張超の目に映った光景は、そもそも張邈に声をかけることを躊躇わせた。

「――――――」

 張邈は無表情だった。
 無表情で地面を踏んでいた。最初、何をしているのかわからず、張超は戸惑った。しかし、一秒、二秒と経つに従って彼女も理解できた。


 張邈は、蟻を踏み潰していた。
 執拗に、何度も、何度も。


 張超は身体が震えた。その行為についてではない。幼いころならば、そのような残酷なことに興味を持っても不思議ではない。当時の張超にも経験があった。
 気になったのはそこではなく、表情。
 その時にも無表情だったのだ。
 感情がなかった。蟻を踏み殺すのに、何の興奮も、興味も、嫌悪もない。ならば何を思って行動していたのか。
 皆から抜け出し、一人になったのだ。誰にも見られてはならない、それでも止めることのできない秘密があったはず。それが蟻を殺すことならば、何故楽しんでいないのだ。逆に怖かった。快活で、明け透けに思えていた姉が何を考えているのかが何一つ読み取れなかった。

 かち、と張超の足元で音がした。枯れ木を踏んだ音。あ、と声が漏れる。

「あら」張邈は、その音を敏感に聞き取った。「いたの、非水」

 初めてそこで張邈は笑った。純粋な笑みだった。彼女の心からの笑みを見たのはこれが初めてで、それ以降見たことがない。

「どうして、姉上は。そんなことを」
「さあ。何故でしょう。私にももうわからなくなったわ」

 最初は意味があったんだけどね、と笑いながら張邈は言った。その意もわからず、問い詰めることも怖くてできず、張超は黙り込んで喋らなくなった。


 ―――それ以降、姉は張超の前でのみ笑わなくなった。無表情を保つようになった。
 快活な少女を装うのをやめ、本来の姿を見せたのか。それともその無表情もまた殻に閉じこもっただけで、本来の姿ではないのか。何を考えているかも、どのような人間なのかも、張超には張邈のことが理解できなかった。
 そして、それは今もまだ、わからない。





 ―――袁紹。

 顔良は少し困っていた。今回の戦は、必ずしも主の袁紹に利をもたらすのだろうか。
 軍師の田豊は此度の連合軍にあまり賛成ではない様子だった。逢紀、郭図は賛成したが、個人的な観点からすれば、顔良は後二人よりも田豊を信頼していたため、不安が残った。
 簡単な戦ではない、と顔良は思う。一当てして終わり、などという話ではない。血みどろで、凄惨な戦いになることが予想できた。

「―――おう、斗詩」
「あ、文ちゃん。何してるの」
「見りゃわかんだろ、鍛錬だよ……っ」
「いやぁ……見てもわかんないよ」

 顔良は下を見つめながら苦笑いした。文醜の顔は顔良の膝元に位置している。
 逆立ちの姿勢。その姿勢から腕立て伏せをし、文醜は地面を支えていた五本指を一本ずつ外していき、汗をかいていた。

「今回の戦はでっけえんだろ、これくらいはしないとな」
「効果あるのかなぁ……」
「あるぜ。淳于瓊のやつがさ、これが戦の生死を分ける、って教えてくれたんだ」
「絶対嘘だよそれ」
「斗詩は疑り深いなぁ」
「文ちゃんが信じ込みやすいんだって!」
「でも、嘘だとしても、この姿勢だと斗詩の下着も見えそうだしいいや!」
「もう……」

 はあ、と顔良は息を吐く。大丈夫かなぁ、なんて言いながらも、顔は笑っていた。
 守りたいな、と思う。自身の力のみで袁家を守る、なんて烏滸がましいことは言えないが、目に見える範囲だけでも守りたい。文醜と、袁紹。とりあえずはその二人を。
 当然袁家も守らなければならない。
 だが、袁家を守るのは自分だけではないのだ。
 文醜と、田豊。沮授、淳于瓊、郭図、審配、逢紀。それらすべての力を合わせる。これだけの武人、智人がいて守り抜けぬなどあろうか。

 反董卓連合は、守れるか守れないかを分ける、大きな壁の一つだった。どこの勢力も考えていることは同じだろう、と顔良は思う。董卓の暴挙に憤る感情はあるだろうが、自身の名を大陸に轟かせる、ということが主目的なはずだ。今のところ盟主である袁紹が最も先頭に立っていると言えたが、それもいつまで続くかわからない。
 袁家を守るのならば、此度の戦いは袁紹を中心に動かねばならない。他の勢力に手柄を上げられ、帝を助ける武功を容易く挙げられては困る。それは他勢力の拡大を招き、袁家の影響力の低下を招く。それはすなわち袁家の没落と言ってもよく、到底守れたとは言い難い。
 大陸に名を響かせるのは袁本初でなけらばならないのだ。他の者では能わない。

 反董卓連合にて、最大の武功を上げれば、袁家はまた大きくなるだろう。大きくなればなるほど。肥大化すればしていくほど、守るのは難しくなる。苦労するなぁ、と顔良は苦笑いしながらも、その瞳は鋭く輝いていた。
 負けられぬ。この連合に、何も持たず「名を上げてやろう」などという意気込みだけで来た人間には。最初から大きな守りたいものがある我々が、負けるはずがないのだ。顔良は、静かに息を吐いた。
 息は、まるで彼女の気炎を表しているようだった。





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董卓包囲網編 三話




 程遠志はしまったな、と思った。別段として何か失態を犯したわけではない。ただ、この場所にいること自体が失策だったな、と後悔した。
 反董卓連合軍。その軍議が自らの目の前で行われていた。鄧茂、張曼成を従え、程遠志は下座ながらも出席していた。近くに李典、楽進、于禁がいて、遥か遠くに、曹操と夏侯惇、夏侯淵がいる。それをぼんやりと、あまり何も考えずに彼は見ていた。

「なあよ、鄧茂」
「なに」鄧茂もまた、眠そうに目を擦っていた。「どしたの」
「全然話進んでねえよな。誰が先陣を切るだの、誰が後詰をするだので揉めて、終いには総大将は袁紹では相応しくないんじゃないか、なんて言ってる奴もいる始末だ」
「人が多すぎるのが問題なんじゃない」
「それに加えて」張曼成が口を挟む。「各勢力の利権が絡んでいる。汜水関、虎牢関を超えても、その先には本隊が控えている。まだこんな序盤に誰も先陣などやりたがらない」
「なんでもいいからよ、早く決めちまおうぜ」

 程遠志は頬を苛立たしげに掻いた。かといって、この状況で挙手をして発言しようともしない。そのようなことをする勇気も、元気も、彼には備わっていないからだ。
 会議は膠着していた。袁紹は焦れ、曹操も苛立ち、袁術の後ろに控える孫策も溜息を吐いている。公孫瓚が欠伸をかみ殺しているのが見えた。顔色一つ変えず、低迷した会議の中でも快活に発言を繰り返している張邈の方が珍しかった。
 このままでは、いつまで経っても決まらないだろう。こんな無駄な時間を過ごすんならふて寝でもしてやろうか。程遠志がそんな、この場に相応しくないことを考えた、そのとき。

 ぱっ、と手が挙げられた。

 上座ではない。程遠志よりも少し前に位置している、四、五人の友を連れ添っている少女は、周りの視線を一身に集めた。おいおい、と程遠志は口笛を吹きそうになる。真打登場だ。

「……どなたですか」

 袁紹は、少し冷たい反応を見せた。
 下座の人間だったからか、単純に苛々していたからか。それか、そのどちらともか。

「劉備、と申します」
「桃香!?」

 公孫瓚が慌てて立ち上がった。手を前に出して、所在なくうろうろとさせている。

「劉備さん、ですね。何か言いたいことでもあって?」
「先陣をどなたも引き受けないご様子なので、私が引き受けてもよろしいでしょうか」
「な――――――」

 袁紹は言葉を失った。
 劉備の左右の者は顔色を変えていない。密かに話し合って決めたのだろうか。皆、一様に覚悟の表情を浮かべている。

「し、失礼ですが。兵士はどの程度率いていらっしゃって?」
「五千程」
「五千でこの初戦の先陣を切ると!」
「よろしかったら、総大将の袁紹様から多少兵士を融通してくれると嬉しいです」

 総大将の、を強調して劉備は言った。如何にもあからさまで、そうあるべきだ、と周りに主張するような言い方である。袁紹に媚びているようで、媚びていない。
 その言い方に、曹操は微かな英雄の資質を見た。退屈に感じていた会議が、徐に色を持ったように思えた。よく見れば隣にいる黒髪の女も、一回りは小さい少女も、只者ではない様子を醸し出している。これに気がつかなかったとは。彼女は自分の高いはずの審美眼を恥じた。

「……一つだけ、聞いてもよろしくて?」
「なんでしょうか」
「最も少ない兵士で、最も危険な先陣を何故切ろうと思ったんですの?」
「我慢できなかったんです」

 劉備の瞳が輝いた。その瞳は理想に燃えていた。

「董卓が都で暴虐の限りを尽くしている、と聞きました。見過ごすわけにもいかず、私は白蓮ちゃんと一緒に、この連合軍に参加させてもらいました。今、この一秒にも民衆は怯えていることだと思います。それを、どうしてここで待っていられましょうか」
「それだけですの」
「そのためだけに、私はこの連合軍に参加したんです」

 その言葉は綺麗で、透き通っていた。嘘がない故の言葉。お為ごかしやまやかしではない心からの言葉である、と場の誰もが理解した。
 袁紹は少し、胸中がざわついた。なんだこの感覚は。隣に座る、顔良、文醜、田豊を見る。少し離れた審配、淳于瓊も見た。皆一様に困惑を隠しきれていない。嘘偽り抜きで、このようなことを言う人間がいたとは。心が震え、熱くなる。

「よ―――よろしいですわ。兵士だけではなく、兵糧も貸しましょうとも。見事にその実力を見せ、逆賊を討ち果たしなさい!」
「わかりました!」

 劉備は深々と頭を下げる。伏せた顔の下で、にっこりと微笑んだ。



 ―――劉備の名乗りから、軍議は飛躍的に進みが早くなった。

 先陣を切るものが決まり、袁紹が総大将であることは事実上確定した。各自の持ち場決めはそう大した時間を要することなく終わった。
 あと決めねばならないことは、各部隊の連携や、協力のみ。まだこの初戦において大して重要なことではない。各自で決めるようにしましょう、という袁紹の一言から、長く続いた軍議はいったん解散することとなった。

 解放されたな、なんて言って鄧茂、張曼成と笑い合っていた程遠志だったが、すぐさま彼に呼び出しがかかった。主の曹操から、である。

「来たわね、程遠志」
「はぁ……」

 場の面々を見て、程遠志は身が引き締まる思いだった。緊張と、困惑。こんなところに自分は相応しくないのではないか、なんて普段の彼ならば絶対に考えないような弱気も出た。
 曹操の右隣には、先ほど先陣を申し出た劉備がいる。左隣には軍議で雄弁を振るっていた張邈がいる。そして、その隣にはこの連合の総大将である袁紹もいた。他にも彼女たちの部下、幕僚が所狭しと並んでいて、一様に程遠志を舐めるように見ていた。

「貴方が、程遠志さんですわね」
「はい」
「当然知っておられるでしょうが、袁家が頭領、袁本初と申しますわ」

 胸を張って袁紹は堂々と宣言した。程遠志はどう反応すればいいのかわからず、とりあえず、頭を下げた。

「ご武運を期待していますわ」
「……いや、その。俺はまだ何でここに呼び出されたのかわかってないんですが」
「あら」袁紹は目を瞬かせた。「華琳さん、説明していなかったの?」
「伝令に説明は頼んだはずだけれど……」

 曹操は首を傾げ、目を少しだけ怒らせた。部下の怠惰を軽く済ませるような人間ではない。

「……まあ、いいわ。程遠志、貴方に劉備の援軍を頼みたいの」
「援軍?」
「ええ。麗羽が劉備に兵を貸す、というのは聞いていたと思うけれど。あまりにも寡兵では、ということで各勢力から兵を集めることになったの。兵を千人ほど率いて、一旦劉備の指揮下に入ってもらうわ」
「俺が、ですか」
「なあに、不服?」
「不満なんてないすよ。俺は、命じられたら従う限りです。ただ、そんな任務を俺が引き受けていいものかと」
「貴方が適任よ。この曹孟徳が断言してあげるわ」

 真剣に目を見つめられ、正面から曹操に言われたので、程遠志は言葉を失った。
 胸が熱を持つのを感じる。ああ、そうかと理解した。自身が高揚していることを理解して、困惑した。

「そこまで華琳が言うなんて、珍しいわね」

 張邈が興味津々、といった様子で会話に入ってきた。

「程遠志は素直に褒めた方が伸びるのよ、香水」
「それは貴方の見立て?」
「ええ」曹操はにっこりと笑う。「どう、程遠志、じーんときたでしょ」
「……いや、まあ、そりゃ少しはね、きましたよ」

 もごもごと程遠志は言う。その通り多少感じ入るものがあったので、途切れ途切れの言葉になり、それを見て曹操と張邈は愉快そうに笑った。
 ひでえことしやがる、と思いながら程遠志が苦笑していると、張邈の後ろに控える妹の張超がクスリとも笑っていないのが見えた。寧ろ、何かを恐れるように自分の姉を見ている。程遠志は誰かわからなかったものの、おおよそで親族に違いないと推測した。どうしてそんな怯えた顔になっているのだ? 一瞬疑問に思ったが、すぐにまあいいかと考え直した。

「私も、衛茲に行かせるわ。兵士は数百人程度しか貸せないけど。よろしくね―――程遠志さん?」
「あ―――はい。こちらこそよろしくお願いします」

 張邈は軽く頭を下げると、にっこりと笑って張超を引き連れて下がった。快活な人だな、と程遠志は素直に思う。

「あの」代わるように、劉備が現れた。「程遠志さん、ですよね」
「ええ、そうですが……」
「ご助力ありがとうございます!」

 言葉の勢いのまま、ぺこり、と劉備は頭を下げる。張邈のような会釈ではなく、お辞儀と呼べるほど深々と。
 程遠志もそれに合わせて頭を下げる。随分と腰が低いな、と思って―――ふと、劉備の隣を見ると、こちらを凝視している男がいた。
 目が合う。逸らされた。なんだ、と程遠志は疑問になる。こちらを不思議そうな瞳で見ていたと思えば。

「どなたでしょうか。何か、気になることでも?」
「い、いや……」

 男は少し怯えた様子を見せた。程遠志は何故だ、と思い、すぐに気がつく。単純に、自分の顔にビビってるだけか。曹操軍で慣れすぎていた。胆力のある人間が多く、外見などで怯みもしなかった。寧ろ、この男の方が正しい反応だと言えた。
 後ろから少女が近づいてきた。怯えた様子の男を守るように、そっと近くに寄り添ってくる。黒髪の女。先ほどの軍議で劉備の近くにいた控えていた者だ。

「ああ」劉備がにっこりと笑う。「ご主人様、です。天から授かった」

 その言葉を聞いて程遠志は思い出す。鄧茂が言っていた。天の御使い、とはこの男か。
 普通の人間にしか見えねえな、と思う。中々顔立ちはいいが、そこいらの一般人と左程雰囲気が変わらない。

「それは失礼した。これからよろしくお願いします、御使い様」
「あ、ああ―――こちらこそよろしく。そんな堅苦しく呼ばなくていいよ」
「では、なんと呼べば」
「北郷、とかで大丈夫だよ」

 多少表情に緊張は残っていたが、そう言って北郷は笑った。
 呼び捨てでいいのか、と程遠志は思ったが、後ろに立つ黒髪の少女は不満そうな顔になっていた。このままの勢いならタメ口でもいけるんじゃないか―――なんて考えていた程遠志は、ままならねえな、と苦笑する。




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董卓包囲網編 四話




「劉備と合流か」

 程遠志の「劉備のとこに派遣された」という言葉を聞いて、鄧茂、厳政などが声を上げて驚く中、張曼成は毛ほども動揺を見せなかった。二度三度頷いてみせて、それで終わりだった。
 その余裕そうな態度に、程遠志はなんだよ、と言いたくなる。

「驚けよな、もっと」
「いやな」張曼成は静かに笑った。「種明かしをすると、知っていたんだ」
「どういうことだよ」
「お前のところに来た伝令が、陰でこそこそ言い合ってたのが、聞こえた」
「はあ? じゃあなんでそれを俺に伝えねえんだよ」
「そこまでは知らん。ただ、そいつも必死そうな顔だったが」

 必死そうな顔? と程遠志は戸惑う。それならば伝えればいいじゃないか。意味が分からなかったが、すぐにまあいいか、と思い直した。小難しいことを考えるのは彼の性分ではない。

「さっさと準備しようぜ。遅れたら笑えねえし」
「僕たちはいつでも動けるけどさ、連れてく兵士にも伝えないと」
「それだよ。何しろよ、曹操様から兵士千人率いろ、なんて言われちまった」
「千人!」鄧茂は如何にも驚いた、というようなジェスチャーをする。「出世したもんだねえ」

 黄巾では多くても三百人。少なければ百人にも満たない数しか指揮したことがない。程遠志からしてみれば大出世と言ってもいいだろう。
「まあな」と程遠志は得意げな顔になる。しかし、そこですぐに不安そうに顔を歪めた。「大丈夫だよな。これで何もできませんでした、とか言ったら笑えねえよな」得意げだった顔が、一転して不安に変わる。その落差に鄧茂たちはくすくすと笑った。

「ああ、そうだ、鄧茂。お前が言ってた、御使い様ってのを見てきたよ」
「え、ホント! ど、どうだった。やっぱすごかった?」
「俺にはあんまわかんねえな。いい奴そうだったけどよ」
「……程遠志の審美眼じゃなあ。あんま当てになりそうにないし」
「おいコラ。本当だっての。お前も見たら幻滅―――はしないだろうけど、なんだこんなもんか、って思うよ」
「ふーん」

 あからさまに信じていない様子だった。なんだこの野郎、と軽く頭を叩いてやろうかと思ったが、自重する。劉備の陣にどうせ今から行くのだ。そこで否が応にもわかることだろう。

「でも、先陣ですか。危険そうですね、程遠志さん」
「なんだ厳政。ビビったか?」
「ビビるのは格好悪いよ」鄧茂も追従する。
「違いますよ。言っちゃったんです、張宝様たちに。無事に帰るって」
「見せつけてくれるね」
「そういうんじゃないですよ」

 たはは、と厳政は笑う。満更でもない笑みだった。

「まあ、行こうぜ。こんなとこでのんびりしてても始まんねえし」
「僕たちも向こうの人に挨拶とかした方がいいかな」
「そりゃ、した方がいいだろうな。協力するんだし」
「緊張するね、知らない人と話すのは珍しいな―――友達少ないから」
「右に同じく、だ」

 張曼成、鄧茂ともに微妙な顔になっていた。厳政は平気そうである。
 一時的なものとはいえ、黄巾を率いていただけあって、そう大した動揺はないらしい。人と話すことにそう大した抵抗なんてないようだった。まるで正反対だな、と程遠志は笑う。

「でもよ、それならお誂え向きなことに、今から宴会を行うらしいぜ」
「宴会?」
「ああ。もう夜になるだろ。本格的に攻め込むのは明日だし、決めることも決めた。先陣を切る劉備軍を祝福する、って名目で、軽い料理が振る舞われるらしい。劉備軍以外の持ち回りで夜襲も警戒してくれるそうだしな。立食形式になるだろうからよ、そこで挨拶でもいけばいいんじゃねえか」
「へえ、本当にお誂え向きだね―――」

 そこまで言って、鄧茂は程遠志の顔がだらしなく垂れさがっていることに気がついた。遅れて、あ、と気がつく。張曼成も溜息を吐いていた。事情を知らぬ、厳政だけがぼんやりとしていた。

「宴会って、まさか」
「そりゃな、酒も出るわけよ。本当にお誂え向きってわけだ」
「…………程遠志、気をつけてよ」
「何がだよ。俺がよ、その程度の酒で酔いつぶれる輩に見えんのか?」
「違うよ!」鄧茂は呆れたような顔になる。「……ほら、劉備のおっきい胸とか触ろうとして、後ろに控えてる黒髪のおっかない人に斬り殺される、とかはさ」
「ははは。まあよ、気を付けてやるよ」

 気を付けて何をやるのだ、と鄧茂は呆れた。そもそも、触るな。酒を飲むな。



 宴会にいたのは、劉備軍の者だけではなかった。孫策、張邈、曹操なども、顔見せ程度ではあるものの、出席していた。その側には夏侯惇、張超なども控えている。劉備軍に含まれている兵士たちの中には、各勢力から分けられた兵士たちもいる。先陣という危険な役割を引き受けた手向けのような意味合いもあるのだろう、と鄧茂は察した。
 場は、思ったよりも厳かな雰囲気に包まれていた。自分らの主君が見ているからだろう。宴会とは言っても羽目を外しすぎることができない。劉備軍の兵卒や、武将たちは普段通り楽しんでいたが、他の勢力の兵士たちは多少の遠慮をもって箸を動かし、杯を交わしていた。
 だというのに。
 鄧茂は、はあ、と溜息を吐く。
 視線の先には―――程遠志がいた。劉備に悪絡みし、何やら問題を起こすのではないかと思っていたが、その予測は外れた。外れたが、今絡んでいる相手も、大概だった。


「なあ、北郷―――酒はうめえだろ!」
「あ、ああ……そうだね」


 なんでそこにいくかなあ、と鄧茂は微妙な顔になっていた。御使いである。御使いに絡んでいた。
 最初天の御使いを見たとき、確かに鄧茂は少し拍子抜けのような気分になっていたが、今はそんな気分も抜けてしまっている。ただただ可哀そうに、と合掌したくなる心地だった。まるで嫌な上司に絡まれている部下のようである。酒に酔い果て、倒れるのを待っているのだろうが、程遠志に限ってそんなことはない。寧ろ自分の方が酔わされて、前後不覚になって、倒れることになるはずだ。
 黒髪の少女―――名を関羽というらしい―――は、程遠志を無礼な奴め、と言わんばかりの目で睨んでいる。彼女が短慮を起こさないのは程遠志が曹操軍の大将だからと、悪意を持って絡んでいるわけではないからだろう。遠慮なく、殺さない程度にぶっ飛ばしちゃっていいですよ―――鄧茂はそんな物騒なことを考えた。

「……あら、程遠志」
「曹操様!」

 すると、そこに曹操が現れた。どういう状況だ、と不思議に思っている様子だった。
 程遠志は何を思ったか、曹操を自分の側へ案内しようとした。一緒に酒を飲もう、とでも誘うのだろうか。面白そうに、曹操も笑っている。彼女は程遠志の悪癖と、酒の強さを知らない―――鄧茂は顔を引き攣らせた。流石にそれはまずい。冗談になっていない。
 そこで、一陣の風が吹いた。
 夏侯淵だった。すぐさま程遠志の側に行った、と思うと、軽くない力で彼の頭を叩いた。「いてえ!」野太い程遠志の声が響く。

「……華琳様、この男と酒を飲むのはご自愛ください」
「あら、秋蘭。嫉妬?」
「違います。今の程遠志は、危険です。大変なことになります」
「危険って。酔うと剣を抜く悪癖があるとか?」
「そもそも程遠志は酔っていません。酔ったふりをしているのです」
「え?」曹操は口元を引き攣らせた。「どういうことよ」
「酔ったふりをして、それにかこつけて、女に抱きつく癖があるらしいのです―――なあ、程遠志。酔ってないのだろう?」
「ああ、勿論」

 程遠志はそう言ったと思うと、酔って赤かったはずの頬と、朦朧とした瞳を、すぐに元のものへ戻した。一瞬の早業である。隣にいる北郷は嘘だろ、と言葉を漏らし、曹操も僅かながら衝撃を受けた。
 夏侯淵も、そう簡単に戻せるものだとは思っていなかったのか、目を丸くさせた。程遠志はその隙に、と言わんばかりの速さで、夏侯淵の脇に手を入れようとした―――が、届く前に捻り上げられ、組み伏せられる。「いてえ!」と先ほどよりも大きな悲鳴を程遠志は上げた。

「つまりは、こういうことです」
「成る程ね」

 曹操はかわいそうなものを見る目で程遠志を見た。

「―――ああ、そうだった。秋蘭、香水の場所を知っているかしら?」
「張邈さまは、先ほど自陣に帰られたかと」
「残念ね。軽く話したいと思ったのだけれど―――まあ、仕方ないわ。私も戻るわ」
「御意」

 曹操はそう言うと、歩き去っていった。夏侯淵は程遠志の左腕を捻り上げたまま「羽目を外しすぎるなよ」と一言耳元で囁き、帰っていった。程遠志は二人の後ろ姿をぎりぎりまで見送り、「災難だぜ」と呟いた。いや、自業自得でしょ、と鄧茂は胸中で呟くように言う。恐らく、北郷も同じ思いだったはずだ。

「……さて、再開だ。復活だぜ。」

 そう言い、程遠志はまた、酒を口に含む。顔はみるみるうちに上気し、目はとろんとしていった。それが演技だと、もう既に北郷も気がついている。このまま酔い潰されてしまうのか―――と、彼が小さく覚悟を決めた時。


「程遠志殿、でしたか?」


 顔を薄く上気させた、青髪の少女が近づいてきた。手には何か、酒のつまみのようなものを持っている。鄧茂の瞳は、それを正確に捉えた―――メンマだ。
 不敵な笑みに、どことなく蠱惑な雰囲気だった。程遠志はにやりと笑った。「ああ、間違ってねえよ」

「酒を飲む相手に困っているご様子」
「その通り、大変難儀しててな―――で、どうだ。一献」
「一献とは詰まらない。どうです、飲み比べなどは―――」
「面白い」程遠志の笑みが、深くなった。「でもよ、飲み比べだけ、ってのもつまんねえよな」
「と、いうと」
「先に潰れた方は、潰した方の言うことを何でも聞く、というのはどうだ。何でもだぜ」
「面白い」

 少女の顔が、悪戯っぽく微笑んだ。何を聞かせてやろう、という嗜虐の微笑み。

「名前を教えてくれよ」
「趙雲。字は子竜」
「いい名だな」
「程遠志殿こそ」

 にやり、と互いに笑い合う。趙雲も、程遠志も。
 どちらも自分が負けるなど、まったく思っていない様子である。






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董卓包囲網編 第五話




「――――――」
「――――――」

 熱戦であった。
 酒を飲み、メンマを食べる。それをひたすら繰り返す。最初の頃は程遠志が肩や胸に手を伸ばし、趙雲がそれを払う、などという動きがあったものの、いつの間にかお互いに酒とメンマを食べ続ける機械になっていた。
 程遠志の動きはどんどん速くなっている。相手を潰す飲み方。攻めの酒である。鄧茂は彼の顔を見て、驚いた。いつも通りの上気した頬、酩酊した瞳ではあるが―――耳まで赤くなっている。それが彼が本当に酔っていることを表す様であるのかは定かでないが、いつも通りの程遠志でない、というのは確かだった。
 趙雲も程遠志についていっている。彼女も必死である。強い、と自称してきた男たちを何人も潰してきた趙雲でさえ、驚愕するような酒の強さだった。
 負けられない、という思いがお互いにある。同時に、余計な賭けなどしなければよかった、とお互いに思った。

「星ちゃん、凄い速さで飲んでるよ!」
「ど、どうなっているんだ……」
「はわわ……」
「あわわ……」

 劉備と関羽も、いつの間にか程遠志と趙雲の周りに来ていた。北郷も真剣勝負が始まったあたりから、彼女たちの元へ避難している。諸葛亮と龐統も、気がつけば集まっていた。

「そ―――そろそろ止めにするか?」
「逃げるのか、程遠志殿?」
「バーカ。俺はまだ十杯はいけるっつーの」
「ほう。それなら私は二十だ」

 趙雲は得意げに笑い、立ち上がろうとして―――ふらり、と身体を揺らした。

「おいおい」程遠志は安堵したような表情になった。「随分足にきてるじゃねえか」
 
 ぬかせ、と言って趙雲は酒を飲み干す。次はお前の番だ、と言わんばかりに、程遠志へ杯を渡した。程遠志の顔が少し変わり、口元が歪む。

「どうした、もう終わりかな?」
「……アホが、舐めんなよ」程遠志は悔しげな顔になり、その表情のまま頬から汗を垂らして言う。「でもよ、やっぱり賭けは止めねえかな。俺はまだいけるけどよ、お前もそろそろきついだろ」
「私はまだ余裕さ」
「言うじゃねえか。じゃあ俺もまだ余裕だよ」

 程遠志は強がっている。そして、それは趙雲も同じだろう。いつの間にか張曼成も、厳政も鄧茂と合流し、彼らの周りに集まっていた。

「程遠志さんって、あんなにお酒強かったんですね」
「なんだ、厳政。知らなかったのか」
「ぼくは昔からお酒が強くなかったので、あまり黄巾の中でも宴会に参加していなかったんですよ」
「でも、さ」鄧茂は小さく言う。「程遠志にあそこまでついてける人、初めて見た……」

 程遠志は演技もあるだろうが、趙雲はそうではない。最初の頃薄赤かった頬は朱が差したように真っ赤になって、目もとろんとしている。明らかに酔っていて、倒れる寸前なのだが―――それでも、杯を傾けるのを止めようとはしなかった。

「そろそろ、止めないとまずいかな」

 鄧茂は呟くように言う。経験上、程遠志がこういった場合で先に倒れるとは考えづらかったが、明日には戦が待っている。酒が後を引くとは思えないが、趙雲の方がどうなるかはわからない。
「ですよね」そこで、ひょっこりと劉備が会話に入ってきた。「星ちゃん無理してる感じだし、そろそろ止めるように言わないと……」そう言い、後ろの北郷をちらりと見るが、彼は顔を引き攣らせていた。程遠志がどういう人間かわかって、絡みづらい、なんて思っているのかもしれなかった。
 鄧茂と張曼成は唐突な劉備の登場に戸惑った。元来、程遠志たち三人は人見知りをしやすい性格である。厳政だけが平然と言葉を返していた。

「劉備さんは、止めないんですか?」
「お酒とメンマのことになると、星ちゃん目の色が変わっちゃうから、私の言葉が届くかどうか……」

 酒が入ると性格が変わる類の人間なのか、劉備は少しまごまごしていた。しかし、すぐに「よし」と自分に宣言するように言うと、頬を軽く自分で叩いて程遠志、趙雲の元へ歩いていく。

「星ちゃん、程遠志さん!」
「む」趙雲は唇を尖らせた。「桃香殿、止めないでください」
「でもこれ以上は危ないよ~」

 心配そうな顔で劉備が趙雲を見る。趙雲は少し迷いながらも、程遠志の顔をじっと見ていた。

「お」そこで、程遠志の目が光った。「劉備様じゃねえか。一緒に飲まねえか」

 それは、趙雲との勝負の時間稼ぎが目的だったのかもしれない。
 程遠志は自分の隣を掌で叩いて勧める。「え、い、いやぁ……」とまごつく劉備をさりげなく椅子に座らせて、どこからか取り出した杯に酒を注いで渡した。「ぐっといこうぜ、劉備様」
「あ、あれぇ?」と劉備は可愛らしい声を上げた。
 鄧茂はまずい、と思う。思うと同時に、近くにストッパーになる夏侯淵がいないことを確認して、走り出した。頬から汗が流れ出た。最初に危惧した状況になりつつあった。酒が入った程遠志は、酔ってもいないのに饒舌になり、悪口に寛容な代わりに口が汚くなる。手だって出るかもしれない。そして、今の彼がまったく酔っていないとは鄧茂にも断言できなかった。顔がちょっと、引き攣る。
 距離は遠くない。すぐさま辿りつく。はあ、と息を乱しながら現れた鄧茂に劉備は目を丸くした。

「今の程遠志は危ないから、離れてください」
「え、ええ?」劉備はさらに困惑する。「危ないって……?」

 それ以外に程遠志を表す言葉はない。危ない、危ないと鄧茂は連呼する。
 すると、劉備は何かを察した顔になった。ははん、と気を利かせるような仕草。絶対勘違いしてる、と鄧茂は確信したが、その勘違いを利用しようと決めた。「そういうことです」

「私、お邪魔?」劉備は呟くように言って、にっこり笑った。「お邪魔だね、了解! ほら、星ちゃん、そろそろ止めにしよう!」
「いやしかし―――」
「そこらへんで止めておけ、星」
「鈴々もそう思うぞー? 顔が真っ赤なのだ」

 関羽、張飛が畳みかけるように言うと、趙雲も少し唸った。唸って、まあそうか、と思った。ここらが言い切り上げ時なのかもしれない。

「どーしたどーした、降参か?」
「む」趙雲は眉をひそめた。「誰が降参など―――」
「程遠志!」鄧茂が怒ったように言う。「僕が回収してくんで、楽しんでてください。ほら行くよ―――あっちで張曼成とか厳政とかと飲もう」

 ずるずると引きずって、鄧茂は程遠志を連れて行った。そちらめがけて趙雲が叫ぶように言う。「この勝負は、また戦が終わってから、だな」
「望むところだよ」と程遠志も返す。
 





 朝になった。程遠志はまったく、昨日の酒など残っていない様子である。鄧茂や張曼成のように、翌日の戦に備えて酒を控えたわけでもないというのに。すごいですね、と酒を一滴も飲まなかった厳政が、どこか羨ましがるように言った。

「昔からよ、酒で困ったことがねえんだ」
「趙雲さんに負けそうだったのに?」
「馬鹿。負けそうになんてなってねえよ。あのままやってたらな、あの女は目を剥いて倒れてたぜ」
「よく言うよ」

 鄧茂は苦笑した。一時は賭けの中止を自分から申し出ていた癖に。

「まあな、厳政と同じように、俺も負けられない理由ができちまったよ」
「趙雲さんと飲む、って約束?」
「そうそう。俺も簡単に死ぬわけにはいかなくなったよ」
「死ぬ心配はそこまでしなくてもいいんじゃないの。物見からの報告通りなら、あの砦に籠ってるのは四、五万の兵士だけ。いくら先陣を切ると言っても僕たちだけが戦うわけじゃないし、さ」
「そうかもしれねえ」程遠志は、微妙な顔になっていた。「でもよ、嫌な予感がするんだよな。流れが悪い」

 唐突な言葉だった。嫌な予感。程遠志はぶるり、と身を震わせた。何かを感じているようだった。
 そこから、彼ら四人は黙り込み、道を急いだ。程遠志の率いる兵士千人と、元からいる劉備軍五千人。他の軍から融通してもらった兵士を合わせれば、全兵で一万を超えている。後ろには約二十万の大軍が控えていることもあり、一万の兵士たちは足音を響かせて大きく歩いていた。

「程遠志殿」横を見れば、関羽がいた。「もう敵城に到着します。これから城攻めに移りますが、攻城方法は伝わっているでしょうか」むっつりとした表情で、聞いてくる。
「勿論。土嚢を積む、だったか」
「ええ。上からの矢を耐えながら、堀に土嚢を流し込み、埋め立てをお願い致します。敵軍が開門し、妨害してこれば逃げていただいて構いません。私たちが一当てし、下がって後詰の軍と包囲します。もし、堀の埋め立てを敵軍が無視するならば―――」
「無視するなら?」
「こちらの攻城兵器を出します」

 関羽はそこでようやく表情を崩した。獰猛な笑み。戦場に慣れた、猛将がする笑みである。
 劉備軍には、袁紹から借り受けた衝車がある。孔明と龐統が頼み込み、田豊、審配も賛成したことで、袁紹も貸すことを止む無しと考えた。城門に取りつけることができれば、大きな効果が見込める。
 劉備軍は性急だった。それが劉備の思う洛陽の民草を救いたいからなのかは定かでないが、包囲して、長丁場の戦をする雰囲気ではない。天下に聞こえる関であるこの汜水関を、まるで数日で越えてやる、というような意気込みが見えた。

「それでは、検討を祈ります」
「ああ。一つ、聞いてもいいか?」
「なんでしょうか」
「なんかさ、嫌な流れがしないかな」

 ぶるり、と程遠志は身体を揺らして見せた。冗談のようなそぶりである。
 鄧茂は関羽に呆れられるのではないか、と思った。「流れ」というものを普通の人間は信じない。それ故、馬鹿にされるのではないか―――と考えていたが、関羽は少し、無表情になった。

「同じようなことを、孫策殿もおっしゃっていました」
「嫌な流れだって?」
「嫌な予感がする、と」
「気が合うな。戦場では良い流れと悪い流れを感じることがあるが、間違いなく、今は悪い流れだ」
「ちなみに、根拠はおありですか」
「俺の経験則と、勘だ。こういう時の俺はよ、百発百中よ」

 何を調子に乗ってるんだ、と鄧茂は思った。しかし、関羽はそこまで気を悪くしてはいない。
 寧ろ、面白いことをいう、という表情になっていた。

「程遠志殿―――」関羽はふ、と笑いを零した。「面白いお方ですね」
「そうかな」
「酒癖が悪い様子を見なければ、印象がもっとよくなったかもしれません」
「それは残念だ」
「こちらの軍師の朱里とは正反対の考え方ですので、信じることはできませんが」

 そう、言葉を軽く言い捨て、関羽は帰陣していった。
 強い風が吹いてきた。戦乱の前触れがする。程遠志は、もう一度身震いした。







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董卓包囲網編 第六話




 堀に土嚢を流し込むのは、そう大して難しい作業ではなかった。汜水関の上から雨のように矢は降り注いできたし、それによって劉備軍は少なくない被害を受けていたが、あくまでそれは前線に出ている兵卒の話である。程遠志自ら土嚢を掴み投げ入れることはしていない。
 程遠志や、衛茲や、その他の軍が土嚢を積もうとも、開門する気配はなかった。孔明はそれを見て、衝車を出すように指示した。
 地鳴りのような音が、あたりに響き渡る。
 袁紹軍が二つの関を落とすためにわざわざ持参した兵器である。通常のものなど及ぶにもつかない大きさだった。数百人もの兵士が、その衝車を抱えるように持っていた。程遠志たちは、その巨大な攻城兵器が城壁へ向けてのしのしと歩みを進めていくのを、ぼんやりと見つめていた。

「でけーな」程遠志は小さく呟く。「こんなん、初めて見たよ」
「弓矢や落石への対策も取られている。湿った布のようなもので天井が覆われているのを見るからに、火矢で燃えることもないようだ。城内に残ったままでは、あの衝車を破壊することは叶わないだろう」
「張曼成。じゃあ、敵兵はあの兵器を破壊するために今から開門して出てくると?」
「恐らく、それ以外に対策はない」

 そして、と張曼成は続ける。巨大な衝車を見た興奮からか、普段の彼よりも口数が多かった。

「門を開いた時点で、我らの役割は十二分に果たしたと言えるだろう」
「どういうことだ?」
「あの衝車を破壊することは、少数の兵士ではできない。開門して、少なくとも万単位の兵士が出てくるはずだ。それを一身に受け止める必要などない」
「衝車だけ壊され、一目散に逃げられ、また閉門されたらどうする?」
「不可能だ。我らはともかく、劉備軍五千は出てきた兵の足止めをするはずだ。ある程度までの乱戦になる。そこから撤退しようとすれば、後詰の軍と劉備の軍がその背から喰らいつく。入り乱れて城門に向かう状況になれば、敵は閉門の機会を逸することになるだろう。それで、門は突破できる」

 滑らかな弁舌だった。程遠志は張曼成の言葉の意味が半分ほどわからなかったが、おおよその流れは理解した。敵と劉備軍がごっちゃになったら、門が閉めれなくなるってことだな、と問いかける。張曼成は微笑しながら頷いた。
 堀に土嚢を埋め立てる作業や、袁紹軍から借り受けた衝車はあくまで陽動。敵軍を城から引き釣り出すことが目的である、と張曼成は言った。この作戦で、汜水関に籠る董卓軍はかなり困っているだろう、とも。まるで連合軍の勝ちが決まったような言い草だった。
 それほどまでに良い作戦なのだろう。程遠志は一つ息を吐いた。彼には戦略だとか、戦術の理解はない。それ故聞いただけでは何故それで詰めになるのか、そう簡単に勝ちが決まるのかと疑問が残ったが―――張曼成が戦略面に長けていることは、彼も理解している。そういうものなのだろう、と強引に納得した。

「…………」

 しかし、と程遠志は思う。口には出さなかった。根拠があるわけではないからだ。
 何か、嫌な流れがする。その程度では終わらないぞ、これから待ち受けるのは苦境だぞ、と呪いをかけるような声が聞こえた。こんな簡単に、終わるはずがない。

 そんな程遠志の思いとは裏腹に、汜水関の城門が開くことはなかった。ただただ、上から弓矢を降らせるのみである。衝車に時たま命中するものの、びくともしない。それでも動く気配はなかった。
 これには程遠志のみならず、張曼成や鄧茂―――劉備軍の軍師である孔明も眉をひそめた。衝車を止めに来ない? このまま、城壁を壊してもいいというのか。門が破壊できるのならば、結局のところ出てこようが出てこまいが変わらないが、何か妙だ。

 程遠志は思った。董卓軍も、何か専用の兵器を持っているのではないか。あの衝車に対抗する兵器。それを隠し持っているのではないか―――そう幻視した。
 いやいや、とすぐに否定する。それはあり得ないか。あれほどの巨大兵器を壊す、もしくは押し止める兵器があるとすれば、それもまた巨大でなければならない。そんなものを城内に置く空間があるだろうか。あるとして、どうやってそれを城壁外に持ち出すのだ。
 董卓軍は動かない。まだ、城内から出てこない。
 先ほど程遠志の間近にあった衝車は、もう既に前へ前へ進んでいき、小さくなって見えた。そろそろ城壁へ到達することだろう。腕のように太い丸太が、城壁、城門に突き刺さり、轟音を響かせるはずだ。険しい顔になっていた張曼成も、不安げだった鄧茂も、巨大兵器が前へ進んでいくのを見て、次第に表情が和らいでいった。これは勝ったな、成功したな、というどこか余裕のある、柔らかな表情に変化していった。

 程遠志もいけるのではないか、と思った。百発百中。外れたことのない勘も、そろそろここで年貢の納め時か。
 先陣に存在する人間の中で、柔らかな表情―――すなわち油断を顔に浮かべていないのは、孔明と龐統だけだった。戦場全体を見ても、数十人程度。それ以外の人間は油断、あるいは喝采の笑みを浮かべていた。

 轟音が響き渡る。
 衝車の丸太が、城壁を打った。

 凄まじい音だった。破壊音が木霊した。一撃で城壁を破壊してしまうのではないか、と疑問を抱くほどの音量。それは先陣の兵卒たちを鼓舞し、将軍たちを叫ばせた。見たか、どうだと言わんばかりだった。

「これは、すげえな」
「こんなの初めて見たよ、僕」
「決まった」
「あと十数回打ち付ければ、城壁も壊れてしまいそうですね」

 鄧茂も、張曼成も、厳政も。
 そして、程遠志も確信した。これは決まった。背筋を寒くしている「流れ」を吹き飛ばすような音だった。負けるはずがない。


 油断の笑み、快哉の叫びを漏らして―――そこで、程遠志は見た。


 城壁の上。弓を射下す董卓の兵卒たちが巨大な衝車に怯えている隣。
 不思議な瞳をした少女が立っていた。赤髪で、大きな戟を持っていた。豆粒のようにしか見えない。それほどの距離があったが―――程遠志はそこから目が離せなかった。
 なぜ目が離せないのか。それはわからない。わからないが、程遠志の顔から笑みが消えた。代わりに頬から汗が流れ出てくる。どういうことだよ、と呟くように言った。

 赤髪の少女は表情も変えず、単身で飛び降りた。城壁の上から、である。嘘だろ、と程遠志は叫んだ。真っ逆さま。良くても骨折。悪ければ死亡。それを覚悟しなければならぬほどの高さ、距離である。
 両の足で少女は着地した。
 凄まじい破壊音が辺りに響き渡る。
 それでも、少女はびくともしなかった。地面は陥没し、少なくない衝撃が少女を襲ったはずだが、顔色一つ変えない。どこからか声がした。「呂布だ」「化け物だ」程遠志は小さく、胸中で何度も名前を唱えた。呂布、呂布。
 呂布の近くには衝車がある。城壁、城門を破壊するための兵器なのだから、城壁の上から落ちてきた彼女の近くにあって当然である。それへめがけて、戟を振った。
 先ほどの着地などとは比べ物にならない破壊音が、木霊した。程遠志は思わず目を瞑り、開けた時には巨大な衝車は粉々になっていた。一振りである。一振りで、あの巨大な兵器が消えた。中に乗っている兵士たちもまた、数百人が切り裂かれた。

 先陣の、すべての人間が動きを止めた。信じられないことだった。あり得てはならないことだった。
 まるで、それこそが悪い流れのようだ。完璧な作戦、完璧な戦術。それを打ち消す理不尽で、馬鹿馬鹿しい存在。「流れ」に似ている。程遠志は身震いした。これだ、これこそが―――自分の怯えていたものだ。
 開門、と声がした。呂布の登場を待っていたように、汜水関の門が開いた。怒号が聞こえる。門の向こうから、董卓軍の兵士たちが飛び出してきた。
 孔明の策は、この門を開かせることである。すなわち作戦は成功した。土嚢、衝車をもって為した陽動戦術であるとも言えた。だというのに、どの陣からも歓声が上がることはなかった。

 呂布、である。衝車を単身で粉々にした女の存在が、士気を著しく下げていた。

「ふざけんな」程遠志は滑稽なほどの声を上げた。「そんなのありかよ!」

 鄧茂も、張曼成も、厳政も。
 先陣の人間すべてが、同じ思いであった。









感想と評価ほんっとに励みになってます( ;∀;)



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董卓包囲網編 第七話




 先陣に異変が起きた。連合軍には曹操、張邈、袁紹、袁術、公孫瓚、馬超など―――様々な群雄がいたが、先陣の異常を最も最初に察知したのは、袁術旗下の孫策だった。

「祭、準備した方がいいわね」
「準備?」黄蓋は少し、顔を歪めた。「どういうことじゃ」
「先陣が崩れるわ。思ったよりも早く、ね」
「なぜ言い切れるのじゃ」
「先陣の、劉備の旗が揺れているわ。彼女の軍の動揺が、少し見て取れる」
「それだけか」
「後は、勘よ」

 勘か、と黄蓋は唸る。孫策の勘は神掛かったような的中率を見せる。信じる価値はあるな、と彼女はすぐさま決意した。孫策への絶大な信頼、信用がある故の決断の速さである。

「では、後詰に出るか」
「そうね―――と言いたいのだけど、これだけじゃない気がするのよね」
「これだけじゃない?」
「私の悪い勘は、先陣のことだけじゃないと思うの。今からまた、もう一つ大きなことが起きる気がする」

 孫策は顎に手を当てて何か思案している様子だった。その体勢のまま、数秒固まり、いくら考えても答えが出ないことを察して苛立った。
 黄蓋は彼女が何を危惧しているかを理解できない。それでも、と思う。わからなくとも、孫策についていくべきだ。

「公瑾を呼ぶか」
「そうね。冥琳の意見も聞きたいし」

 孫策は二、三度頷いた。周瑜を呼び、軍全体に準備をさせる。戦の時は近い、と彼女は確信した。
 いつの間にか、その口元には笑みが浮かんでいる。悪いことが起こる気もするが、それを乗り越えれば反転し、良い流れになる気もする。そうなるはずだ。

 それは―――奇しくも、程遠志の考えと似ていた。






 そして、孫策の次に先陣の異変に気がついたのは、曹操と荀彧だった。

「華琳さま」
「ええ」曹操は小さく頷く。「まずいわね。劉備軍に異変があるわ」
「ただ敵が打って出ただけ―――ではないですね。明らかに浮足立っています」
「今すぐ後詰を出さなければ、崩れるわね」
「何が起こったのでしょう。衝車、土嚢による陽動作戦は、悪い策ではないと思ったのですが」

 先陣で何が起こっているか―――それは、曹操、荀彧ともに想像がつかなかった。呂布という少女が現れ、衝車を一振りで破壊した。そのようなことは、流石の彼女たちにも察知することができない。

「……失敗した、ということだけがわかればいいわ。すべきことは一緒よ」
「後詰、ですね」
「ええ。今すぐ劉備軍を援護しに―――」

 と、そこまで言って。曹操は言葉を止めた。待て。本当にそうか? すべきことは同じか?
 前方の砦に籠る董卓軍の数が大して多くないことは、袁紹軍で飼っている優秀な物見の情報から確定している。何故その少ない兵士で出てきたのか。兵士数が少ない劉備軍が先陣だったからよかったものの、これが他の軍ならば混乱することなく押し留め、包囲殲滅されていたかもしれない。
 董卓軍に優秀な人間がいる、ということを曹操は知っている。優秀な者が、このような策を取るはずもない。

「桂花。優秀な董卓軍の将校の名は」
「優秀な軍師の賈詡、陳宮。猪武者の華雄、才気煥発の張遼。一騎当千の呂布―――それに、陥陣営の高順」
「賈詡は恐らく、董卓と共に洛陽に籠っているでしょう。華雄、張遼、呂布も、策を考える類の人間ではない。陳宮と、高順。このどちらか―――あるいは両方が、この汜水関で策を練っている」
「彼らの策が、我々を後詰に誘っていると?」
「その可能性もある、と思うわ」

 曹操は顎に手を当てた。数秒考えこみ、すぐに結論を出す。この状況において、ただ悪戯に時を費やすべきではない。

「兵の半分を、劉備の救援へ回すわ」
「軍を分けるのですか」
「上策ではないわね」曹操は小さく笑った。「でも、連合軍に兵卒の余裕はある。麗羽は全力で援軍を送るだろうし、香水もそうするはず。下策でもないわ」
「残りの半分はどうしましょう」
「いつでも動けるように準備させておくわ」
「一時的に、遊軍になりますね」

 荀彧は惜しい、というように言葉を発した。目的を持たぬ軍―――遊軍を作ることは、戦術上あまりよろしくないことだと言えた。
 曹操は微笑を見せた。彼女もそれは理解している。それでも、警戒しなければならないものが背後に存在する、と確信していた。孫策の勘のような、抽象的な考えではなく、敵の将軍の、実力を見抜いた実利的な考え方だった。

 一万強の兵士を残し、夏侯惇、夏侯淵を中心にした二万弱の兵士が、劉備軍へ救援に向かう。
 その判断が正解でもあり、間違いでもあったことを曹操、荀彧が知るのはもう少し後―――袁紹からの伝令が来てから、である。



 
 若干時が過ぎ、そこで、曹操と荀彧の次に異変に気付いたのは、袁紹配下の田豊、審配、逢紀などの軍師たちだった。しかし、それは先陣の異変ではなく、もっと別のナニカだった。
 彼、彼女らは独自の情報網を構築している。どの群雄よりも資金を潤沢に保持しているからこそである。物見、偵察の人間の質ならば、他のどの勢力も及ばぬほどであった。各勢力が砦へ中心的に偵察を派遣する中、袁紹軍は汜水関のみならず戦場全体に偵察を放っていた。それをするだけの余裕が、袁紹軍にはあったのである。
 その偵察網に、引っ掛かるものがあった。戦場の外である。現在、連合軍が兵を置いている場所から少し離れた平野―――そこに敵影あり、との一報が入った。最初に発見した偵察は殺され、その伝言を受け継いだ偵察兵も殺され、三人目がようやく、本陣へ情報を持ち帰ってきた。
 田豊、審配はその知らせに驚愕した。あり得ないことである。こちらの索敵から逃れ続けていたというのか、これだけの間。

「どういうことですの、それは!」

 その知らせを顔良、文醜と共に聞いた袁紹も、驚愕を隠せなかった。

「え―――ええと」その三人の中で、最も冷静なのは顔良だった。「どれくらいの兵士ですか、審配さん」
「四万弱程度、と予測される。偵察兵の多くは殺され、正確な兵士数は把握できていない」
「そこまでの数が、丸一日こちらの情報網にかからなかったと?」
「そうらしいな。淳于瓊に、他の諸侯へ伝令を送らせているが―――全体が情報を共有するまでには、まだ時間がかかる。逆方向からの攻撃に備えるには、そこからまた時間が必要になるはずだ」
「まったく」袁紹は唇を尖らせて、田豊を見た。「もっと早く、華麗に美しく察知することができなかったのかしら?」
「いくらなんでも無茶言わないでくださいよ、麗羽さまぁ!?」

 田豊は悲鳴にも似た叫び声をあげた。生真面目な真直らしいな、なんて口笛を吹くように文醜が言う。

「兎にも角にも、全体に連絡が行き渡る前に、我が軍は戦闘準備を完了させねばならない」
「陣形の変更が必要ですね、審配さん」
「そういうことだ―――早く董卓軍の別動隊を発見できて、助かった」

 我が軍が発見できなければ、他のどの諸侯も不可能だったはずだ。審配はそう漏らした。それはつまり、汜水関に目がいっている連合軍の背後から、逆落としに奇襲されていたことに他ならない。反包囲的な形になり、大混乱に陥っていたことだろう。
 策自体は単純なものである。だが、四万という兵を開戦以前に関から外へ出し、丸一日存在を隠し通すとは。田豊、審配は戦慄し、疑問に囚われた。
 別動隊の大将は、誰なのだ―――?




 さらに時間が過ぎて―――そこでようやく、張邈も先陣の異常を察した。孫策のように絶大的な勘や、曹操のように無限の能力があるわけでもない。袁紹軍のような情報網も持っていない彼女が察することが遅れるのも、仕方のない話であった。
 さて、どうするか。思案する彼女に、袁紹からの伝令が届いた。「別動隊アリ」と、一報を受け、彼女は決断する。
 張超を引き連れ、張邈は兵士の前へ姿を現した。彫像のような無表情ではなく、快活で雄弁に、演説を行った。

「我らは全軍をもって、背後の董卓軍へ当たる!」

 張邈は、そのようなことを婉曲に遠回しな表現を多用して叫んだ。それはすなわち、自らの軍から先陣へ派遣した衛茲への援兵を出さない、と宣言することに他ならない。
 それを察した兵士たちは最初の方こそざわついたものの、やがて収まり、熱狂的な怒号へと変わった。張邈の軍は彼女への盲目的な信頼で成り立っている。表情を悲痛げに、あるいは快活にコロコロと変えて行う張邈は、普段から洗脳じみた演説を行っていたのである。
 ……演説を終え、兵たちに手を振りながら張邈は陣に下がると、表情をすぐさま無表情なものへ戻した。
 もう、この場には張超しかいない。

「姉上、よろしいのですか。このままでは」
「衛茲が死ぬ、と?」
「……他にも、数百の兵卒が、です」
「構わないわ」
「構うでしょう! 背後の軍には袁紹殿も当たるとのこと。軍を分けるか、もしくは袁紹殿へ任せて先陣の後詰に向かうべきでは―――」
「私はね、非水」張邈は、そこでにこりと笑った。「戦う気なんてないの」

 張超はぞくりとした。この、二人しかいない場において、彼女が表情を崩したのは久方ぶりだった。彫像のような美人が、嫋やかに微笑む。画になる光景のはずが―――どこか、張超は吐き気を催した。

「戦う気がない、とは」
「背後の董卓軍にも、全力をもって当たる必要はないわ」
「それではほかの連合に名目が立ちませぬ」
「乱戦になるわ」張邈は断言した。「どこがどれだけ真剣に戦った。誰が誰を打ち取った、なんて見分けがつかなくなるほどに。誰も私たちの働きなんて気にしない」
「……だとしても! ここで怠ける意がありましょうか!」

 張超は姉が錯乱したのか、と思った。明らかに異常だった。何を考えているかわからない姉は、いつだって不可思議な行動をしたが、それには納得できるだけの動機があった。今回には、まったく意図が読めぬ。
 そうだ。まるで、これは―――十数年前の、無表情で蟻を踏み潰していたときの彼女のようだ。

「意なんてものは、ないわ。最初からね。私は気になるだけよ」
「……気になるとは」
「先陣へ兵を出そうとも、後方の董卓軍へ全力で当たろうとも、私は何をしても成功すると思うの」
「ではなぜ」
「私が怠けたら、この連合はどうなるのか。それが気になるだけよ」

 そこで、張邈は言葉を切り上げた。無表情になる。いつもの顔だ。
 張超は一瞬考えた。ここで、姉を殺すべきではないか。いてはならない。この連合にも、この大陸にも、彼女はあってはならない存在である。何か災いを起こすに違いない。剣に手をかけ、自らの姉を見た。見て、ぎょっとした。無表情で、張邈は見返していた。やれるものならやってみろ、と宣言するようにも見えたし、好きにしろと諦観しているようにも見えた。張超は手が震え、剣を持つことができず、柄に収めた。

 一生、自分は姉に逆らうことができぬ。そんな妙な敗北感が、全身に流れた。




 ―――張超が、そんな風に悔やんでいるのと、ちょうど同時期。

 連合軍の端に駐屯している韓馥の軍へ、近づいてくる影があった。
 先頭には男と女。どちらもにやにやと笑っている。後ろには数万の兵卒たち。
 ばっ、と、旗を掲げた。「高」の旗である。大きな旗であった。韓馥軍の誰もが、それを目撃していた。
 ……韓馥に不幸があったとすれば、袁紹の軍と距離が離れすぎていて、うまく連携が取れなかったことだろう。まだ伝令が来ていなかった。あの旗は誰だ、何だ、と警戒することはあれど、それが敵だと確信することはできなかった。弓の有効射程距離に入ろうとも、韓馥が思ったのは、偵察と使者を送ろう、という呑気なものだった。
 凄まじい速さで軍は接近してくる。
 先頭の女が笑いながら叫び、男が咆哮した。
 その時になって、韓馥は兵士たちに戦闘準備を命じたが、明らかに遅かった。


 最初の激突で、韓馥軍は砕け散った―――小半時も持たず、敗走したのである。


 韓馥が最期に聞いたのは、どこかの誰かが叫んだ言葉だった。「陥陣営」「陥陣営!」味方が悲痛に叫んだのか、敵が武名を誇るために放ったのか。それは定かではない。ただ、私を打ち取ったのは高順だったのか、と理解して、韓馥は死んだ。




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董卓包囲網編 第八話


 先陣は混乱の渦中にあった。まともな軍としての体裁を保っているのは劉備軍と曹操軍のみ。袁術や、袁紹が出した援兵は、呂布が現れたことや、汜水関の門が開いたことで戦意を喪失し、逃げ腰になっていた。
 抑えきれない。劉備軍の孔明はすぐに察した。張飛、関羽の力があれば奮戦はできるが、状況が状況だ。味方の援兵はもうすぐ逃走するに違いない。圧し潰される。敵ではなく、味方の逃散の所為で、だ。前線に残って、戦えば戦うほど、馬鹿を見るだけだ。
 しかし、ここで劉備軍が逃げれば、先陣の完全な崩壊を招くことになる。為すすべもなく敵に背を向ければ、その背を喰らいつかれるだろう。

 ―――この汜水関からの突撃が、長く続くはずもない。孔明はそう判断した。

 呂布の武は、恐らくこの戦場において誰よりも強いであろう。だとしても、である。張飛、関羽、趙雲の三人がかりならば、辛くも抑えることはできる。あとは、兵力の差と、士気の差を如何とするかだ。
 後詰を待てば、両方の問題は解決する。恐らく、袁紹の本隊が到着するだけでも互角で、曹操、袁術、張邈などの軍が到着すれば圧倒的に上回るはずだ。そこまで耐え凌げば、敵は撤退するだろうし、退き際を誤ったのならばその圧倒的兵力で包囲すればいい。
 孔明は少し悩み、決断した。四半時ほどでいい。完全に抑えきることは不可能だろうが、この戦場に留まるべきだ。
 無駄になってしまう。先陣に名乗りを上げ、敵兵が現れたら戦うことなく逃散した。そのような悪評が、主である劉備の名のもとに広まってしまう―――何たる恥辱だろう! そのような恥を、孔明、龐統はともかく関羽が認めるはずもない。

 留まるならば、目下の目標は二つ。
 当然、一つは呂布を中心とした董卓軍の攻撃をただひたすらに耐えること。
 二つ目は、逃走してくる味方から我が軍を守ることである。

 孔明は考え、すぐに決断した。彼女もまた、この場に置いて長考することの愚を弁えている。

「桃香さま」孔明は、こちらを不安そうに覗き込んでくる劉備に、堂々と宣言した。「程遠志さんと、合流しましょう」




 劉備軍から使者が来ている。程遠志はその伝令を聞いて、若干混乱した。
 程遠志は、よく軍を指揮していた。彼らしからぬ忠実さと勤勉さで、呂布に怯える兵士を慰撫し、時には持ち前の荒っぽさで脅し、戦意を保ったままにした。
 しかし、それはこの場に留まり戦うためではない。撤退するためだ。戦意を保ち、秩序を維持し、逃げる。そのためだけだった。

「なんでよ、この時期に伝令が来るんだ」
「頼みに来たんでしょ。逃げないで、って」
「俺たち千人だけ留まっても飲まれるだけだろうがよ」
「あるいは」張曼成は汗を流しながらも冷静だった。「また、別の頼み事かもしれない」

 事実、張曼成の言葉通りであった。
 伝令、と称して、数十人兵士たちに守られて、劉備軍から現れたのは孔明と劉備だった。まだ乱戦にはなっていないとはいえ軍と軍の間を渡ってくるとは。程遠志の混乱は、そこでさらに高まり、劉備が口にした「一旦、軍を合流させませんか?」という問いかけで、最高潮に達した。

「ちょ―――ちょっと待ってください。俺たちは逃げてもいいんじゃ?」
「この状況では、厳しいです」孔明は冷静に言った。「秩序を維持して撤退すればするほど、逃散する味方に踏み潰されるだけです。被害なく逃げるならば、軍を解体して各自散り散りに逃げるべきですが―――逃げた味方が戻ってこない恐れがあります」

 ならば、ここで耐え凌いだ方が被害が少ない。まさにそう言わんばかりであった。
 程遠志は周りを見回す。鄧茂、厳政はわからぬ、というように首を振った。張曼成を見る。彼もまた、思案しているようだった。

「どうだ、張曼成」
「理には適っている。適ってはいるが、危険だ」

 全滅の恐れがある。後詰の軍が先陣の混乱に気づき、来ることは間違いないだろうが―――それがいつになるかはわからない。
 程遠志が決めるべきだ、と張曼成の表情は言っていた。孔明の提案にも一長一短がある。どちらが正しいか、正しくないか。乗るか、乗らないか。逃げるか、逃げないか。無茶言うなよ、と程遠志は叫びだしたかった。今の、流れに乗ってねえ俺が決めたら、真逆のことが起きるぞ。そう言いたかったが、口を紡ぐ。鄧茂や張曼成、厳政の前で泣き言をいうのは兎も角、劉備たちの前で言うわけにはいかない。曹操軍から派遣された一つの軍の大将として、ある程度まで毅然と務める必要があった。

「―――よし、わかった」

 程遠志はすぐさま決断した。長考している時間はない、と程遠志も本能的に理解した。

「受け入れていただけるでしょうか」

 孔明は怜悧な瞳で見ていた。あどけない表情と、矮小な体躯。程遠志とまさに正反対であるが―――どこか薄ら怖くなるような迫力を彼女は有していた。
 程遠志は怖気を催した。逆らいたい、という、天邪鬼な心も出た。それでも今、考えるべきは軍全体のことである。曹操軍、という全体を見なければならない。どうすれば生き残れるか。どうすれば手柄を立てれるか。黄巾の時にはこんなこと思いもしなかったな、と苦笑した。

「受け入れる。ここに残り、援軍を待つ」
「あ―――ありがとうございます!」

 程遠志の言葉に、劉備は身体全体で喜びを表現した。頭を大きく下げ、顔を綻ばせる。
 孔明もまた「緊張しましゅた」と噛みながら年相応の笑顔を見せた。先ほどまでの迫力ある姿とはまるで別人で―――程遠志は毒気が抜かれる思いになった。


 

 張邈配下の衛茲が死んだ、との一報が入った。軍をまとめながらも、董卓軍右翼徐栄の猛攻を受け、張邈への忠誠を貫いて死んだ。宴会の折、程遠志たちも、劉備たちも一度見たことのある人間だった。それ故悼む心はあったが、今の状況はそう易々と感傷に耽ることを許さなかった。
 早々に劉備軍と合流したことにより、六千の兵士が強固な陣を引くことには成功した。伸びた横陣を止めて包囲の危険性もある方陣を敷いたことで、先陣の中でも隔絶した軍となり、董卓軍を受け止めることは適わないながらも味方の逃亡兵に踏みつけられることもなくなった。
 それでも、である。圧倒的な兵力差がある。呂布もいる。隔絶した軍というのは、すなわち孤立した軍ということでもあり、状況が芳しいわけでもなかった。先陣全体を、俯瞰的な目線から見れば、明らかに崩壊していたことだろう。その崩れた軍の中に、六千の殿を務める隊があるような状況だった。

「耐えろ!」程遠志は叫んだ。「もうそろそろ、後詰が来る。それまで耐え忍ぶのだ」

 明らかな嘘だったが、程遠志は叫び続けた。「援軍は来る」「後詰が来る」と。時間を稼ぐことが必要なのだ。ある程度までの詐称は許されるはずだ。
 程遠志自身、まだかまだかと切望していた。来てもおかしくはない頃合である。横陣を敷いて突撃してきた董卓軍は一部が劉備軍に当たり、残りは張邈、袁紹、袁術などの敗残兵を追い討ちしている。その軍隊が、この戦場に残り続ける劉備軍へ目を向けるのも時間の問題であった。そうなれば包囲の憂き目に遭うことは、容易に想像できる。
 それと対照的に、孔明は涼しい顔を浮かべていた。彼女の怜悧な頭脳は、先陣の崩壊と、それに合わせて動く諸侯の動きをまるで見ているかのように予測した。恐らく、最も早く動く者は、曹操のはずだ。そして、最速で動いたとすればもうそろそろ到着してもおかしくない――――――

 両者の顔色は真逆に等しかったが、願うことは同じだった。「早く来い」後詰を切望する思いは、どちらも変わりはしない。
 ―――そして、それに応えるように。
 程遠志と孔明の視界の端から、現れる軍があった。

 旗は「夏」。それが二つ。程遠志と孔明は同時に察した。曹操軍だ。後詰が来た。
 一瞬で、士気が上がった。劉備、曹操軍共に、である。曹操軍は夏侯惇、夏侯淵姉妹の強さを皆知っている。めざましい怒号を上げる者もいた。程遠志も叫んだし、鄧茂も歓声を上げた。張曼成は微笑を浮かべ、厳政も小躍りしそうになった。

 ―――それ故、最も気がつくのが早かったのは、曹操軍の人間ではなかった。

 まず、劉備軍の関羽が小首を傾げた。それに続いて孔明、龐統があれ、と思った。曹操軍総勢三万。主目標であるこの包囲作戦に、兵を温存する意味などない。だというのに、いささか兵士の数が少なく感じた。
 近づくに従って、それは誰の目にも明らかになった。二万いるか、いないか。本体である「曹」の旗は見えず、曹操軍の中でも多少のざわめきが起きた。
 ……何か、異常があったに違いない。孔明は気を取り戻した。問題ない。二万だろうが、一万だろうが、守勢に回ることは可能である。曹操が動き、次に張邈か袁紹が動くはずだ。陣が遠い袁術、孫策も、ここまで駆けつけるには時間がかかるだろうが、来ないはずもない。耐えられる兵力があれば、何の問題もないのだ。

 曹操軍は、圧倒的な速さで劉備軍へ近づいてきた。先頭にいるのは夏侯淵、夏侯惇。董卓軍や逃散する味方を歯牙にもかけず、合流を優先しようとした。
 何故か、夏侯姉妹の表情は、少しだけ強張っていた。なんだ、と程遠志は思う。いつも自信満々の夏侯惇。不敵な笑みを絶やさない夏侯淵。その二人がこのような顔になるなんて、一体どういうことだ。

「夏侯淵殿!」劉備軍の簡雍は手勢を率い、曹操軍を迎えに行った。「どうぞ、こちらへ」

 その誘導に従い、曹操軍は劉備軍の方陣に付き従う形で陣形を組んだ。董卓軍は新手だ、とばかりにいきり立ったが、まだかかってこない。張邈、袁紹の残党兵をしつこく追いかけていた。

「程遠志」夏侯淵は、その隙に程遠志の陣へ忍び込んだ。「どうだ、状況は」
「よくねえけど、この後詰でだいぶ楽になりそうだ」
「それについてだが、あまりよろしくない情報がある」
「よくない情報?」いつの間にか、孔明も程遠志の陣へ来ていた。「どういうことでしょう」

 孔明だけではない。龐統もいるし、夏侯淵を誘導した簡雍もいた。劉備軍の軍師を担当しているであろう人間たちが、程遠志の陣へ集まっていた。目当てが彼というわけではなく、夏侯淵とこれからの策について話し合いたいのだろう。その場が、この陣になっただけだ。
 夏侯淵は沈痛そうにも見える表情だった。程遠志も―――孔明も、龐統も、その真意が理解できなかった。守りながら後詰を待てばよいだけではないのか。

「つい先ほど、袁紹殿から報告が入った―――連合軍の背後から奇襲されたとのことだ」
「奇襲!?」程遠志は目を大きくする。「どういうことだ、汜水関に敵は集結してたんじゃ」
「前もって、外に待機していたんですね」孔明は冷静に頷いた。「汜水関の敵の動きから、何かあるのではないかとは警戒していました」
「うむ。華琳さまは、一万強の兵士を率いてそちらへ向かわれたらしい」
「成る程。二手に分かれたのですか」

 孔明は理解できた。良い判断だ。何の問題もない。
 ならば、何故夏侯淵はこんなにも微妙な表情を浮かべているのだ―――?

「私と姉者は他の袁紹、張邈軍とともにこの場へ向かう予定だったが―――そうはならなかった」
「ならなかった?」
「袁紹殿も、張邈殿も、こちらへは一兵たりとも回していない」

 な、と孔明はそこで初めて表情を変えた。どういうことだ? 背後の軍へ警戒するより、この先陣の方が距離が近いはず。何故来ないのだ。

「そればかりではない」夏侯淵は言葉を続けた。「その後ろにいる鮑信も、孔融も、劉岱も―――殆どの諸侯をもが、背後への援護に夢中になって先陣へ兵力を回していない」
「あり得ません―――どういうことですか」
「わからない。不条理で、不可思議だが、事実だ」

 どう考えてもおかしい、不幸な出来事だった。常識的に考えてあり得ない。
 二者択一である。前に行くか、後ろに行くか。前に距離が近い袁紹も、張邈も、鮑信も、孔融も、劉岱も。皆が後ろを自主的に選択した。まるで操られたかのようだった。

「流れだ」程遠志が呟くように言った。「明らかに、流れが悪い」

 流れ、など。孔明はそれこそあり得ないと思った。しかし、ならばこの状況はどう判断すればいい? 合理的で、冷静な思考を持つ彼女だからこそ。知でもって生きている彼女だからこそ、僅かな時間固まって、混乱した。
 どう考えてもおかしい、と吐き捨てた。龐統もまた、同じ思いであった。







 

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董卓包囲網編 第九話




 董卓軍五万と、先陣二万強。二倍を超える兵力差と、呂布。六千で堪えていた時より幾分かは楽であるものの、状況は決して良くなったわけではない。
 孔明は混乱の渦中にあって尚、まだ冷静だった。最初の方針は変えるべきではない。後詰の兵が来るのを待つべきだ。袁紹、袁術の逃散兵を狩っていた董卓軍も、戦場に残り続けている劉備軍へ目標を変えつつある。今逃げれば、背中を喰らい潰される。決めたことを覆すべきではないのだ。
 夏侯淵、夏侯惇を主軸に、方陣を組み直す。既に会戦の最中であり、万全な陣形を構築することは困難であったが、それでも、孔明の巧みな指揮とそれを信頼した夏侯姉妹の手によって、成功した。この戦時下にあって、互いの能力を疑うべきではない、と両者ともに理解している。

 では、いつ後詰が来るのだろう。今、前面にいる董卓軍の数から、孔明は我が軍の後背を突いた董卓軍別動隊の数を推測した―――三万強から四万弱のはず。その予測はピタリと一致していた。奇しくも、実際に目撃している袁紹軍偵察と、即興で予測した孔明は同じ目算であった。
 先陣の劉備、曹操軍を除いても、連合軍は優に二十万程の軍隊を有している。この平野で軍隊が十全に展開できるわけではなく、当然遊軍も出るだろうが―――それでも、十数万対、四万だ。負ける道理がない。曹操も、孫策も、張邈も、袁紹も、決して無能ではない。別動隊の大将が高順でも、張遼でも、陳宮でも。誰だろうとも、負けることはあり得ない。
 しかし、一蹴できるかといえば、また話は別である。高順でも張遼でも陳宮でも。自身の軍へ連合軍の殆ど総力が向かってきていることに感づけば、時間を稼いで先陣が崩れ、挟み撃ちの様相を呈して来ることに望みを託すはずだ。

 すなわち、これは耐久戦である。先陣が崩れるか、董卓別動隊が崩れるか。五万と二万。二十万と四万。兵力比で見れば先陣の方が長く持ちそうであったが、連合軍には遊軍が多数あり、不意を突いた奇襲で浮足立っている隊があり、先陣が相手取る敵には飛将軍―――呂布がいる。果たしてどちらが崩れるのが先だろうか。

「微妙なところだよね、雛里ちゃん」
「うん。でも朱里ちゃん……そもそも、まだ、董卓の別動隊にすべての諸侯が向かった、とは限らないよ」

 龐統は言う。孔明も頷いた。夏侯淵の言う通り、袁紹や張邈、鮑信、孔融、劉岱など、ほとんどの諸侯が動いていないのかもしれない。だからとはいえ、誰も来ないと考えるのは早計だ。二十を超える諸侯の中から、どの軍かは先陣へ向けて動くのではないだろうか。
 希望的な観測ではない。寧ろ、誰も来ないと考える方が、悲観的な観測である。前か、後ろか。闇雲に決断しようとも、利をもって決めようとも。どの諸侯もが後ろを選択する確率など、天文学的な数字になるはずだ。
 それに合わせた策も用意した。方陣を組み、味方の後詰の登場に合わせて包囲する。殲滅するための包囲ではなく、相手の士気を下げ、退却を促すためのもの。今の兵力でできる最大限の策を、二人は考えついていた。

 後詰は来る。必ず。


 ―――小半時後、その予測が恐ろしいほど鮮明に外れるとは、今の孔明にも龐統にも予想できていなかった。





 小半時が過ぎた。程遠志は自ら剣を振るい、董卓軍に対抗しなければならない状況になったことに、苦笑を漏らした。
 状況は、どんどんと悪化の一途を辿っている。方陣の中央部を曹操軍、両翼を劉備軍が担当しているが、その中央の軍は押し込まれ、方陣は真ん中のみが凹み、安っぽい横陣のようにひしゃげてしまっていた。
 曹操軍が弱いからではない。寧ろ強いからこそ、董卓軍の主力―――すなわち呂布や徐栄など―――の突進を一身に受けていた。耐えきれぬ。持たぬ。そんな弱音を吐くことなく、程遠志は夏侯惇、夏侯淵共に奮戦していた。
 後詰は来なかった。小半時が経過して尚、来る気配はない。それは即ち、すべての諸侯がこの先陣ではなく後ろの軍へ向かったことを連想させた。少しずつ、それに気がついているのか、練度の高い曹操軍、士気の高い劉備軍も戦意を喪失しつつあった。
 孔明の策はまだか、と夏侯淵は思う。時期になれば、両翼の劉備軍が策をもって動きます―――とのことだったが、その号令がかかる気配はない。

「夏侯淵!」程遠志は叫んだ。「援護を頼む」

 目の前には董卓軍の兵士が五名ほどいた。そこに、一度に五本の矢を夏侯淵が放つ。すべて命中。若干混乱する董卓軍。穴が開いた、とばかりに、程遠志は十名ほどを連れて突貫し、その穴をさらに広げた。
 俺たち、中々相性が良いかもしれねえな、なんて程遠志が軽口を叩いたが、その頬からは汗が流れている。夏侯淵もまた、微笑を浮かべながらも頬が少しこけている。集中力、精神力、気力。そのようなものが削ぎ落されていく。まさしく死線であった。
 どれだけ耐えればいいのか。この耐久戦に活路はあるのか。将もそれを思ったし、一兵卒も疑問に思うことだろう。それを誤魔化し、戦意をギリギリのところで保たせる。耐久戦はそれが肝であり、夏侯惇も、夏侯淵も。あるいは程遠志も、上手く働いた。
 崩れそうで、崩れぬ。耐え続けていた。

「あ」そこで、鄧茂が呆然と呟いた。「やばいよ」

 目の前には「呂」の旗が近づいてきていた。呑気にも聞こえる鄧茂の声は平淡で、絶望の感情が含まれていた。練度の高い曹操軍も、「呂布だ」「飛将軍だ」と騒めく。そこに、突撃した。
 呂布は戟を振るうだけである。それで十分だ、というような立ち回りだった。一振りで、戦意を保った、練度の高い曹操軍が、十人は死んでいく。為すすべもなかった。努力や、あるいは生半可な才能でも届かないような、そんな差を見せつけられた。
 勝てない。兵士たちは心底恐怖した。負ける。負けてしまう。逃げだしたくなった。誰もが理解しただろう。勝てぬ。人間業ではない。夏侯淵も、一瞬躊躇し、腕を震わせた。

「来い」それでも、夏侯惇は逃げなかった。「来い、呂布ッ!!」

 彼女も理解していたのではないだろうか。呂布には勝てぬ、と。なぜ逃げず、腰が引けることもなかったのか。それが彼女の性質なのか、武人としての誇りなのかはわからない。それこそが夏侯元譲なのだ、と主張するようだった。
 夏侯淵が叫んだ。姉者、と言おうとしたのだろうが、言葉になっていなかった。すぐさま弓を構え、五本同時に射る。彼女の動揺とは裏腹に、それは正確に飛んだが―――そのうち一本は董卓軍の兵士が身をもって庇い、三本は付き従う徐栄に撃ち落され、一本は徐栄の左腕に命中した。兵士は死に、徐栄は苦悶の表情を浮かべた。しかし、呂布の動きを妨げることは適わなかった。
 呂布が戟を振り上げる。あれが振り下ろされれば、死ぬ。自然とそう皆理解できた。まずい、と張曼成は唸った。夏侯惇の存在は、この軍の大黒柱のような役割を果たしている。なくなれば崩れる。夏侯淵でも代替できるような存在ではない。死んでしまえば、この戦はその時点で終わってしまう。厳政は泣きそうになり、この状況は自分の不幸が招いたのではないか、とあり得ぬ妄想をした。
 鄧茂は周りの人間とほぼ同様の反応を示したが―――やがて、近くにあの男がいないことに気がついた。気がついて、そこで強く悲鳴を上げた。


 その男―――程遠志は、夏侯惇が呂布へ向けて足を止めた瞬間、走り出していた。


 不思議と、その一歩を踏み出したのは彼が一番早かった。
 脳内が暑かった。激しく回転している。走りながら様々なことを考えた。鄧茂のように「これはやばい」とも思ったし、張曼成のように変に冷静になって「崩れるかもしれない」とも考えた。厳政のように「自分の不幸の所為だ」などとは考えなかったが「辺りの流れの所為だ」と他に責任を擦り付けた。要するに、混乱していた。混乱しながらも、走らねばならないと思った。
 夏侯惇に武の修業をつけて貰ったことを思い出す。あの、誰よりも強く見えた女が、呂布の前には形無しだった。背中が小さく見えた。走馬灯のようなものだ、と理解しながらも、その妄想に程遠志は耽っていた。
 その後に考えたのは、夏侯惇のことでも、自分のことでもなかった。夏侯淵。いつも微笑を浮かべている、掴み処のない青髪の弓兵。彼女は夏侯惇が死んだら泣くだろう、と思った。そんな姿は見たくねえな、なんて、不意に感傷が込み上げてきた。柄じゃねえ。そう理解しながらも、程遠志は走り、咆哮した。

 呂布の近くの兵士が夏侯惇へ向けて矢を放つ。辛くも避ける彼女に、呂布は戟を振り上げた。狙いは頭部。左目。まるでその部位を狙うことが当たり前と、ここで夏侯惇の左目がなくなることが当然のことだと言わんばかりの一撃だった。ふざけるな、と程遠志は思う。
 走り始めが早かった。程遠志は間に合う、と確信して、飛んだ。避けるのは難しいことではない。呂布の戟が届く領域から、夏侯惇を引っ張りだせばいいのだ。
 夏侯惇を掴み、自分の方へ引き寄せ、呂布から遠ざけるように投げた。腕の中にいた刹那、夏侯惇の顔が困惑で包まれる。程遠志自身、驚くほどの膂力だった。火事場の馬鹿力だ。この緊急時の状況が、自分に奇跡を起こしたのだ―――と、一瞬、彼は興奮し、すぐに呆然となった。
 呂布の戟が、伸びていた。
 見誤ったはずもない。適正距離をある程度まで見抜き、その距離を保てていたはずだ。だというのに、程遠志のそんな下らない計算など無駄だ、と吐き捨てるように、呂布の無感情な一撃は呆然とする程遠志の身体に振り下ろされた。

「程遠志―――!?」

 鄧茂の甲高い声が、曹操軍全体に木霊した。




 呂布は戟を振り下ろし、小首を傾げた。それはこの凄惨な戦場に似つかぬほど、可愛らしいものだった。
 が、すぐにその表情は消える。十本の矢が飛来した。それを見て、呂布は僅かに目を見開いた。速い。すぐさま戟を振るい、その矢の殆どは叩き落しながらも、一本は彼女の頬を掠めた。初めて、この戦いで呂布が負った傷であった。

「呂布―――」夏侯淵が目を血走らせていた。「よくも」

 呂布は夏侯淵を見て、すぐさま馬首を返した。湿っぽいのは嫌いだった。敵討ちだの、弔い合戦だの。そのような目をした人間を斬るのは不快だったし、そういった隊長のいる軍がしぶといことも、よく理解していた。
 しかし、夏侯淵は止まらなかった。程遠志に投げられた夏侯惇、地面に倒れて動かない程遠志を真っ先に回収しながらも、執念深く、血走ったその瞳は遠ざかっていく呂布を見つめていた。逃がさない。

「お、おい、秋蘭」
「姉者、止めるな。呂布を追う」
「僕もです」いつの間にか、鄧茂も近くにいた。「追わないといけません、命に代えても」

 敵討ちだ、と互いの瞳は言っていた。中でも鄧茂は、死など怖くない、寧ろ生きる意味を失った―――などと考えていることが傍目にも読み取れた。夏侯惇は小さく怖気が走った。殆ど武官ではない鄧茂がここまでの殺気をもって呂布へ向かえるとは。
 だからこそ、止めねばならなかった。違うのだ、という必要があった。

「そうではない」夏侯惇は誰の耳にも聞こえるように言った。「程遠志は、生きている」

 夏侯淵と鄧茂は、一瞬ぽかんとした顔になった。そして、地面に倒れ伏す程遠志がぴくりと動いたのを見て、激しく動揺した。
 夏侯淵はうつ伏せで倒れる程遠志を慌ててひっくり返す。纏っていた鎧は壊され、中に着た服は解け、逞しい大胸筋からは血が滴っている。しかし―――それでも。その瞳は空いていた。「よお」と、程遠志は、自分を見てくる夏侯淵と鄧茂に呟く。「心配したか?」
 夏侯淵の手を払い、ふらふらと程遠志は立ち上がった。目は虚ろだったし、腹からは血が滴り落ちていたが、問題なく動ける。大丈夫だ、と示した。

「呂布の一撃を受けて―――無事なのか」
「ギリギリのところでよ、後ろに跳躍したんだ。寧ろなんでこんなに血が出るんだよ。完全に避けたはずだぞ」

 割に合わねえ、と青褪めた顔で程遠志は言った。確かに避けてたはずだろ、と情けない声で言う。
 ははは、と夏侯惇が笑った。引き攣った笑みだったが、それは兵卒たちにも移った。死に体だった夏侯惇が死なず、それを救った程遠志は生き延び、呂布は退いた。まだ耐えられる。まだ勝負はわからない! そんな意気込みを感じられる笑い声だった。その笑い声は曹操軍全体を包み込み、戦意を向上させ、劉備軍にも伝播した。目に見えた、士気向上だった。

「こ、これは」厳政は呟くように言った。「まさか」
「流れが変わった、と程遠志ならば言うのだろう」

 ―――張曼成が微笑しながら言った途端、である。

 けたたましい喚声が、遠くから飛んできた。それは次第に大きくなり、兵卒たちが耳を塞がねばならぬ程の音量となって、戦場に木霊した。なんだ、と夏侯惇は笑いを止めて見る。夏侯淵も振り返り、程遠志も虚ろな瞳で見た。誰もかもが―――程遠志を呆然と見守る鄧茂以外は―――そちらに目を吸い寄せられた。
 山の上で、旗が翻っていた。ぱたぱたとせわしなく動くその様子は、軍の戦意の高さを表すようだった。先頭にいるのは妖艶な笑みを零す女。その隣には眼鏡をかけた女がいて、紫髪の女が場の状況を驚きをもって見ていた。その兵士たちは今にも山を下らんとする長蛇の陣を引き、敵兵を睨み殺さんとばかりである。
 その旗に書かれた文字は「孫」。真紅の旗は雌伏する竜虎を表すようであった。先頭にいる女―――孫策は口を大きく広げて叫んだ。「吶喊!」

 それに合わせて、劉備軍、曹操軍の士気は更に高まった。来た、後詰が来た。反比例するように、鰻登りだった董卓軍からは動揺の声が漏れる。その隙を、劉備軍にいる軍師―――孔明は見逃さなかった。「今です!」と、叫び、策を起動する。劉備軍の担当する右、左翼が持ち上がった。



 ―――ここから、長かった『汜水関の戦い』も、ついに佳境を迎える。
 




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董卓包囲網編 第十話




 孫策は興奮していた。瞳は爛々と輝き、怪しい光を持っていた。
 彼女は悪癖を持っている。戦場に長く留まり、返り血を浴びれば浴びるほど興奮する。それは戦場に長く滞在すればするほどひどくなり、興奮が抜けるまでの時間が長くなる。
 しかし今の興奮はただ戦場にいるから、というだけではなかった。彼女の瞳は敵だけではなく、味方の劉備、曹操軍も見つめていた。そこに、目標の何かがあると言わんばかりだった。

「冥琳、あの中にいるわ」
「お前のお眼鏡に適った人間が、か?」
「ええ、いるわ―――必ず」

 孫策は少し前のことを思い出していた。誰よりも先に先陣が崩れるのに気づき、後ろからの奇襲があることも薄々勘づいていた頃である。それから暫くして袁紹からの伝令が届いた時も、やはりと思ったものだ。これが自分の恐れていた悪い予感か、と考え、そちらへ向けて出陣しようとして、固まった。
 先陣の空気が変わっていた。何が、という明確な答えは出ないが、抽象的に言えば漂っていた雰囲気が変化しつつあった。なんだ、と小さく気になり、袁紹が見つけた別動隊へ向けて出陣するのではなく、そちらにも兵を分けて送ろうか―――なんて考えると、不自然に頭が痛くなった。そちらへ行くな、後ろへ向かえ、先陣は助けるな。誰かが念じているようだった。場の空気が、流れが何かを操っているかのように。
 面白い、と孫策は笑った。先陣は既に、目に見えるほど崩れている。放っておいても誰かが向かうに違いない。先陣と遠く離れている我が軍が向かっても無駄足だ。そう冷静な部分が呟いたが、意図的に無視した。逆に、歯向かってやりたくなった。それならば、今ある全軍で、先陣に向かってやろう。そう思った。

 そう決め、周瑜や黄蓋の反対を押し切り、先陣へ向けて出陣すると様々な妨害があった。何故か袁術軍にいちゃもんをつけられ、動かぬ張邈軍が邪魔になり、先陣にいたのであろう袁紹軍の逃散に巻き込まれかけた。すべてが偶然の産物であろうが、だからこそ、孫策は愉快になった。
 悪いことが起こる気もするが、それを乗り越えれば反転し、良い流れになる気もする。最初に孫策が思ったことである。自らの信ずるべき勘である。ならば、この不運が翻れば、我が軍にどんな幸運が降ってくると言うのだろう。それを考えると笑みが止まらなかったし、先陣にいる人間が、恐らくこの妙な「流れ」を作り出しているのだろうという推測も立てられた。会ってみたい、と妙な胸のざわめきが起こった。
 会ってどうするのか。英傑ならば種でも貰うのか―――なんて考えて、孫策は自分自身が予想外なほど逸っていることに気がついた。流石に気が早すぎる。どうしてこんなにもその人間を気にしているのか。
 わからぬが、会えばわかるだろう――――――


 孫策は回想するのを止めて、前を見つめた。先ほどまで崩れていたはずの先陣は、何が起こったのか異常なほどの速さで立て直し、甦ろうとしていた。中央の軍が押された代わりに、両翼が持ち上がり、いつしかその陣形は鶴翼にも似た挙動を描いて反包囲的な陣形を築きつつある。驚くほどまでに綺麗な戦術機動だ。

「あり得ぬ」黄蓋は呻くように言った。「あの状況から、巻き返したじゃと」
「真にあり得ないのは、この先陣を誰もが見捨てかけたことよ。恐らく、曹操と私以外のすべての諸侯は、一兵たりともこの先陣―――劉備へ軍を送っていない」
「驚くほどの、不運じゃな」
「その不運が、今、翻った」

 翻ったとはなんじゃ、と黄蓋が問いかけてくる。祭にはわからないことよ、と孫策が返すと、黄蓋はむ、と唇を尖らせた。意地悪をしているわけではない。説明をしようとも誰からも信じられないし、そもそもうまく言葉にもできない「勘」である。
 これを、この「流れ」を、すべて自由自在に操れているわけではないだろうが―――仮に。先陣にいる人間がこの流れを完全に掌握したのならば、恐らく誰もが敵わないだろう。孫策は確信をもってそう言い切れた。

「まあ今は、とりあえず。この戦を終わらせてしまいましょう」

 そして、すべてが終わった後、戦勝の宴会の折にでも訪ねよう。誰が、先陣の肝なのか、と―――



 孔明は驚愕していた。恐らく、それは自らの隣にいる龐統も同じに違いない。
 策を実行に移す機会を、彼女らは今か今かと待ちわびていた。後詰が来たら、それに合わせて実行する。そう考えていた。
 策とは言っても単純なものである。最も負担がかかる中央に攻撃を集め、劉備軍両翼は陣形を保たせたまま、中央の軍が後退する。必然的に両翼のみが場に残り、自ずから挟撃する態勢になる。合図に合わせて、関羽、張飛を主とした将軍が、中央の軍と協力して三方向から包み込む。
 圧倒的に兵士の数が足りないこの状況で、包囲をしてもたかが知れていた。後詰が来て、それをこの三方向からの半包囲の最後の楔―――四方向目とする。結果、半包囲が完全包囲となる。それが作戦の肝であり、最も重要な部分だった。

 だというのに、いつまで経っても後詰は来なかった。天から見放されたのではないか、なんて不安を慮るほど、孔明は焦っていた。その途端、である。
 孔明は見ていた。右翼後方で、策の機会を龐統と議論していた最中、偶然にも押し込まれる中央に目をやっていた。呂布が暴れ、夏侯惇が立ち向かい、夏侯淵が焦りを浮かべているのを。そして、そこに程遠志が乱入し、夏侯惇を助けるのを。それによって士気が向上し―――図ったかのように援軍が来たのを。
 まるで一つの流れのようだった。演劇だの、舞台だの、物語だので取り決められた流れに従って進行しているような、そんな気分にさせられた。

「朱里ちゃん、これって」
「どう考えてもおかしいよね」

 だとしても、と孔明は切り替えざるを得ない。士気が上がり、この状況を覆すには今しかない。
 両翼の主攻である関羽、張飛はすでに動き出している。手を緩めている暇はない。ようやくできた勝機である。

 ……孔明の頭には、一人の男の顔が浮かんでいた。程遠志。昨日の酒宴で絡み回り、趙雲と勝負し、痴態を晒していたかと思えば、今日夏侯惇を助けるために命を張った、よくわからぬ男である。「流れ」というものをよく口にする、面白い男だ、と関羽が言っていた。気難しいともとれる気性の彼女が褒めるとは、と孔明自身驚いていたのでよく覚えている。
 程遠志は顔を青褪めさせながら立っていた。ふらふらと足元はおぼつかず、目は虚ろながらも、確かに両の足で屹立していた。その瞳は鋭く、口元は笑みで歪んでいる。これで決まった。もう負けはない。上手くいった、という笑み。この戦場を、まるで今すべて支配した、と言わんばかりの表情だった。

 あり得ない、という否定が孔明の身体のうちから流れ出てきた。それは、知に生きる者ならば誰もが持つべき感情だろう。流れのような抽象的なものが戦場を自由自在に動かせるならば、軍師というものの存在価値とは何なのか。何だというのか。
 そんな、激流のような否定の感情が湧き出てきて、少しずつそれは収まり、やがて純粋な興味になった。会ってみたい。もう一度会い、話してみたい。

「程遠志さんに、会ってみたい」

 自然と、孔明の口からそんな言葉が零れ落ちていた。
 あ、と慌てる孔明に、龐統も微笑を浮かべて「私も」と返した。




 高順は苦笑いを浮かべた。そんな表情も画になるような、そんな男だった。
 韓馥を殺し、その後ろの第二陣、第三陣も踏み潰した。そこまでは完璧な、まさしく「陥陣営」としての立ち回りだったが、そこで、正面から万全の袁紹軍とぶつかった。袁紹軍は連合軍の中でも最も多い兵力を有しており、独力で高順の董卓別動隊を凌ぐほどであった。猛将の文醜、顔良から、軍師の田豊、審配。兵の質も、将の質もかなり高い。それを相手取って、高順と張遼は五分以上の戦いをしていた。

 ―――そこに、左から曹操。右から馬超の突進を受けるまでは、だが。

 完全に勢いを殺され、騎兵は足が止まり、無用の長物となった。兵力差は、二倍、やがて三倍へと変化していくことになるだろう。最初の奇襲が袁紹に読まれていた瞬間から、そもそもこの作戦は無理があったのだ。兵卒たちの士気は下がり、軍団長も動揺した。
 それでも、そこから高順は半刻持ち堪えた。まだわからぬ。こちらに曹操、袁紹、袁術、馬超などの殆どの諸侯が向かってきているのならば、先陣にいる呂布を止められるものなどいないはずだ。背後からの奇襲は読まれても、先陣を崩した董卓軍本隊が連合軍の背を突ければ同じことができる。そう確信し、耐え続けた。
 ……しかし、その考えは、今しがた陣に訪れた伝令によって、真っ向から否定されてしまった。

「董卓軍本隊、先陣を打ち破れず汜水関へ後退! そのまま籠城せず、汜水関、函谷関を捨てて洛陽に撤退します!」
「なんやて」張遼が目を剥いた。「恋がいて、主力がこちらに多くいて打ち破れんのか!」
「明らかにおかしいな。何があったかは、オレにもわかんねえが」

 高順はぽつりと呟く。これでは、ここで連合軍を相手取り、耐久戦をやった意味がない。
 逃げるか、とすぐに彼は決断した。今の伝令の声は軍全体に聞こえている。援軍が来ないと知れ渡った現状では、今以上に士気が落ちることになるだろう。

「にしても、本隊は函谷関も捨てたんか」
「仕方ないさ。姫の危機だ」

 高順が姫、と呼ぶのは董卓のことである。数日前、汜水関に籠る董卓軍に連絡が来ていた。大部分の軍隊が不在の洛陽で、十常侍の抑えがきかない、早めに戻ってきてくれ、とのことであった。
 それ故、元々董卓軍は汜水関に長居することができなかったのである。短期決戦を高順は望んでいた。
 取るべき手は三つあった。汜水関、函谷関を捨てるか。汜水関、函谷関に滞在する軍を分け、一部を洛陽へ戻すか。汜水関から打って出るか。高順と華雄は最後の案を強く熱望し、微妙な顔をする張遼も高順の考えた策を聞いて頷いた。陳宮は最後まで反対したが、多勢に無勢であった。無謀な別動隊には付き合わぬ、とばかりに汜水関から呂布と打って出ることになった。
 彼女の言うとおりだったな、と高順は苦笑いを浮かべた。確かに無茶だった。無茶をしたからには責任を取らないとな、なんて口笛を吹くように言う。

「霞」高順は笑いながら言った。「オレが殿をするよ」
「はあ!? 死ぬ気かアンタ!」
「この作戦を考えたんだから、責任を取るのもオレがいい」
「何格好つけてんねん!」
「良い格好つけるのが男の美学だろ?」

 高順が破顔したまま言う。
 なんや、と張遼は顔を厳しくして、一瞬後、表情を一転させて笑い出した。

「それなら」張遼も笑って言う。「ウチも残るわ」
「はあ? お前は別だろ」
「賛成したのはウチも一緒や。それに―――恰好つけるのは女がしても悪くないやろ?」
「死ぬかもしんねえぞ」
「そのまま、その言葉返したる」

 互いに見合って、笑い合う。覚悟はできている。戦場に出ているのだから、当然のことだ。

「もし」そこで、高順は奇妙な顔になった。「もし生き残ったらよ、会いに行こうぜ」
「会いに行く? 何にや」
「呂布の猛攻を受けて生き残った先陣の奴らに、だよ」
「は―――そりゃええな。生き残ったらだけどな」
「生き残るよ。オレとお前ならな、そうなるさ」

 高順は片目を瞑って言った。その、そうなるとどこまでも確信している表情は、とても彼に似合っていた。





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董卓包囲網編 最終話

董卓包囲網編完!!
評価、お気に入り、感想は勿論のこと、誤字報告をいつもしてくださって本当に感謝の念が堪えません<(_ _)> もうちょい誤字減らさないと……汗





 既に、董卓軍本隊は汜水関へ退却する動きを見せていた。孫策軍に背後を突かれ完全に包囲されるよりも、籠城して時間を稼ぐ方を選んだのだろう。張曼成はそう、冷静に分析したが―――その考えは間違っている。董卓の危機から、本隊は洛陽へ向かうために汜水関どころか函谷関も捨てる勢いだった。
 傍らの程遠志を見る。ふらり、ふらりと揺れながら、馬の手綱を必死に操っていた。
 
「程遠志」鄧茂は心配そうに彼を見ている。「大丈夫なの?」
「大丈夫じゃねえけどよ、死ぬほどじゃねえ」
「もう戦いはひと段落したんだし、休んでてもいいんだよ」
「ちっとは余韻に浸らせてくれよ―――そういえば、夏侯惇と夏侯淵はどこだ?」
「董卓軍を適度に追い討ちした後、劉備さんのところに行って軽く会議をするらしいですよ」

 厳政も、心配そうに程遠志を見つめながらそう言う。

「そんな会議なんてあんのかよ。夏侯淵め、俺も呼べってんだ」
「休んで、っていう気づかいですよ。そうに決まってます」
「なんだ厳政、妙に確信的じゃねえか」
「案外、女性の気持ちには敏感なんです、ぼく」
「言いやがる」

 程遠志は喉を掠れさせながら笑った。
 身体から流れ出る血は、既に止まっている。元々致命傷ではない。完全に避けた一撃を、ここまでのものとした呂布こそが異常なのである。「流れ」に囚われない人間がいるとすれば、彼女こそその部類に入るのだろう、と程遠志は思った。

「まあ、俺なんかがそこの会議に出ても、意味なんてねえだろうけどさ」
「どういうことだ?」
「連合の一番最初の会議で、俺は話の流れにまったく興味が持てなかったしな。戦力にならねえし、そもそも、劉備軍の軍師の奴らだって興味ねえだろ。俺がいても」
「それは違うな。お前は、多分今回の件であの軍師たちに興味を持たれたよ」
「なんでだよ」
「さあな」張曼成は微笑を浮かべた。「お前の妙な人徳というやつかな?」
「お前らしか友達がいねえのに?」
「友達が増えそうでよかったじゃないか」

 やだよ、と程遠志は笑う。孔明と龐統。あれと俺が手をつないで友達だ、なんて言ってるのを見られたら、牢屋に入れられてもおかしくねえだろ? なんて言うと、張曼成と厳政は噴出した。確かに、それは衝撃的過ぎる光景だ。
 しかし、鄧茂だけはその冗談にも反応しなかった。なんだよ、と程遠志が小突いても、微妙で心配そうな顔を崩さないでいる。目線は言うまでもなく、程遠志の胸元から離れない。
 ああ、そうだったな、と程遠志は頷いた。目立った刀傷を鄧茂の前で負うのは初めてだった。もう会ってから長いことになるし、それなりの戦場を超えてきた。その中で大した手傷を負うことなく生きてこられたのは度過ぎた幸運だったのだろう。その跳ね返りが、今鄧茂を襲っているのだ。

「悪かったな、心配かけてよ」
「それならあんな危ない真似しないでよ」
「身体がよ、勝手に動いてたのよ。夏侯惇を救うために。中々格好良かっただろ?」
「格好良かったけど、死んじゃうのはやだよ」

 冗談めかした程遠志の言葉に、鄧茂は真顔で返した。
 おいおいと程遠志は思う。「冗談にならねえな」なんて呟き、彼も真顔になる。真剣な表情、と言い換えてもいい。そのまま、真っ直ぐな瞳で目線を合わせた。

「俺はよ、死なねえんだよ」
「どうして」
「そういうものだからだ。そりゃよ、土壇場で『死ぬかもしんねえ』とか『これはやべえ』とか思うことはあるけど、流れに乗ってるときの俺は無敵だ。夏侯惇を救った、救えた時点で俺が死なないのは確定してた。俺に間違いはねえのさ」
「だからって、無茶していいわけじゃないでしょ」
「ああそうだな。自重するよ。するけど、俺の流れをお前は誰より理解してる。そうだろ?」
「そうかもしれない」
「そんな流れに乗ってる俺は死なねえから、どーんと安心してみてくれよ」

 ははは、と程遠志は笑う。鄧茂はそれを聞きながらも黙っていた。黙ったまま、一、二秒が過ぎた。やがてその黙りこくったままの無表情な真顔が、笑顔になった。「僕」と呟くように言う。「僕は、そんな程遠志だから、一生ついてこうって思ったのかも」引き攣ってながらも、いつもの悪戯っぽい微笑みだった。

「一生って」厳政がちょっと冗談めかした感じで言った。「随分重たい発言ですよね」
「それがいい」張曼成も微笑を浮かべながら言う。「重いのが、鄧茂のいいところだ」
「しつれーな。重いんじゃなくて、愛がある言葉だって言ってよね」

 鄧茂は笑いながらも、無茶をしている。まだ程遠志に対する心配の感情を隠しきれていない。厳政、張曼成は笑いながらも、場の空気、雰囲気を取り成すような趣旨の言葉だった。無茶ではないが、取り繕った感じであると言っていい。程遠志だって、そんな三人の言葉を聞きながら、「おう、そうだな」と偉そうに腕を組んでいたが、顔は青褪めている。こんな怪我など楽勝だ、と余裕を見せながらも、実は早く身体を横にしてぐったりと寝たかった。皆を安心させるため無茶をしていたし、取り繕ってもいた。
 だが、それでもいいな、と程遠志は思った。無茶だからなんだ。取り繕ったからなんだ。こういった、互いに無茶をしあって意地を張り合ってる状況も捨てたもんじゃねえな、なんて思う。

「俺たちだけだから、いいんだよ」といつしか言ったことがあった。まさしくその通りで、こうして男四人でお互いに嘘や欺瞞を交えながらも、真に信頼して笑い合える友人がいることは大事なことだな、なんて今更になってしみじみとなった。

「あ、程遠志」鄧茂が、向こうの方を指さした。「夏侯淵さん来てるよ」

 程遠志はその言葉に釣られて、そちらを見つめる。

 青髪の弓兵が軽く手を振っていた。四、五人の従者に囲われて、こちらへ向かってくる。まだこの地は戦場なのだからもう少し護衛を付ければいいのに、と思う程遠志に、「汜水関から敵が逃げて行ったぞ」なんてことを言いながらだった。「おお!」と程遠志たちは互いに顔を見合わせ合って、驚き、喜び、感動など、四者四様の表情を浮かべ合った。
 そんな中、ふと程遠志は夏侯淵の方を見つめてみる。彼女は程遠志から目を逸らさなかった。僅かな心配の色が、瞳の中に浮かんでいる。程遠志に気取られないためだろう。意識的に心配などしていない、と言わんばかりの、どこ吹く風と言った感じを保とうとしながらも、消しきることはできず、目の端が赤くなっていた。
 少し、程遠志は驚きつつも、笑った。愉快な感情と、素直な嬉しさが胸中に浮かんできて、広がった。あの夏侯淵に心配された。黄巾にいたころの自分が聞いたらどう思うだろうか。驚くのは間違いないか―――いや、そもそも、信じてもらえないか。劉備との会議に行ったばかりだというのに早々とこちらへ帰ってきた彼女は、もしかしたら自分の顔が見たかったんじゃねえのかな、なんて自惚れた推測を立てたりもした。
 
 ひとしきり笑った後、夏侯淵をからかってやろう、と程遠志は思った。弄られているばかりではなく、たまにはやり返してやろうと考えた。馬を操り、夏侯淵の元へ行き、「目の端が赤くなってるじゃねえか」とでも言ってやればいい。普段通りを装う彼女のことだ、多少は動揺するだろう。「もしかして泣いてくれたのか」なんて付け加えれば、恥ずかしくて顔から火が吹くんじゃねえのか―――そんな想像すると、先ほどよりも愉快になった。

 早速、とばかりに程遠志は馬の手綱を握り直して、「あれ」と呟くように言った。するり、と手から離れていく感覚。油断したな、なんて気の抜けるようなことを思った。馬が小さく嘶いた。暴れだす。これはまずい、だなんてのんきなことを程遠志は思った。
 意図的に感情を殺していた夏侯淵が、そんなことはどうでもいいとばかりに顔いっぱいに心配を詰め込んで、馬を上手に操って程遠志の元へ素早く駆け寄ってきた。程遠志の後ろからは鄧茂が真っ先に、それにほんの僅かに遅れながら張曼成が、それに次いで厳政が走る。四人はほぼ同時に、馬から落馬しそうになった程遠志を抱き留めた。
 真正面で、程遠志と夏侯淵は向かい合う。

「は、ははは」程遠志は誤魔化すように笑った。「いやな、夏侯淵、これは何と言えばいいか」
「馬鹿め」夏侯淵も、心配そうにしながらも笑った。「まったく、締まらない奴だな、お前は」

 本当だよ、と後ろで鄧茂がため息を漏らす。
 こんな幕引きも悪くねえな、なんて程遠志が言うと、「悪いよ!」と鄧茂が怒ったように言った。






 このような様子で、汜水関の戦いは幕引きになった。この後、夏侯惇から感謝の言葉を受けて戸惑い、夏侯淵からそれ以上に感謝されて疑心暗鬼に程遠志は陥るのだが、まあ、大体はこんな感じだ。





次回に息抜き編で酒宴を挟む……予定です!




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大 宴 会



 董卓軍は二つの関を捨て、洛陽へ戻った。洛陽に巣食う十常侍たちを倒し、すわ洛陽の市民を巻き込み、一大決戦を行う―――と思いきや。連合軍が洛陽についてみても、略奪された跡も凌辱された跡もない、平和な街がそこにはあった。董卓軍は故郷の涼州へ帰っただの、自然に軍を解体しただの、どこかへ落ち延びただの様々な風説が立った始末だったが、一つ確かなことは市民を巻き込む戦争を良しとしなかったことであろう。
 それを見て、曹操は肩透かしを食らわされた思いになった。孫策は董卓なき洛陽で何かを見つけ、密かに微笑んだ。劉備は大変喜び、部下すべてを合わせて慈善事業と貧困層に対する援助を行った。公孫瓚は劉備に苦笑いをしながら付き合い、袁紹、袁術は帝に会いに行くと宣言し、張邈はただただ笑うだけで何もすることはなかった。
 とにかく、戦は終わったのである。反董卓連合は解消し、今からは群雄割拠の時代がやってくる。今味方のものが敵へ移り変わり、また味方になるかもしれないし、敵同士のまま終わるかもしれない。どちらかの勢力の滅亡、という形によって。それこそが群雄割拠であり、乱世の始まりである。

 ……が、ともかく。
 この、歴史に残る英雄たちの参加した連合が、はい終わり、というのも味気ない。
 本日のみは皆味方だ、という形をもって、大宴会が開かれることとなった。



「宴だよ。宴ですよ」

 程遠志が慣れぬ敬語を使い、はしゃいでいた。その左には趙雲がいて右にはお目付け役とばかりに夏侯淵が座っている。両手に花だな、なんて呟きながらお互いの肩へ手を伸ばし、同時に払われる。鄧茂は遠くでそれを見ながら少しだけ嫉妬心が湧いたりもしたが、まあいいかと思い直す。今日くらいいいか、という余裕のある心境だった。
 趙雲との飲み勝負が再び開始される―――ということはなかった。お互いにその勝負が自分たちへ様々な負荷をかけて、その結果次第ではどちらかの自信や誇りが打ち砕かれるやもしれぬと危惧していた。周りにいる悪戯気を持つ人間たちも、勝負を煽ろうとはしなかった。酒を飲んだ程遠志に巻き込まれるのが面倒くさかった、というのが本音であろう。

「いいのかよ、夏侯淵。俺についてばっかりで」
「なんだ、邪魔かな?」
「別によ、邪魔じゃねえ。ずっといてくれてもいい」
「惚気るのお」趙雲が茶々を入れた。「夏侯妙才もお年頃かな?」
「さあな」

 涼しい顔で夏侯淵は杯を軽く進めた。その表情はいつもの無表情を崩さず、なんだつまらぬと趙雲は唇を尖らせる。程遠志は小さく笑った。俺が落馬しそうになった時はあんなに動揺してやがったのによ―――と口を開いてやろうとして、むんずと口を掴まれた。
 目を白黒させる彼に、「黙れ」と小さく夏侯淵は言う。まだ何も言ってねえよ、と程遠志は思ったが、その迫力がかつて黄巾を頭に被って戦った時を思い起こさせたので、素直に口を閉じた。何を言おうとしたかなんでわかったんだよ、と小さく思う。

「程遠志殿は、中々今回の戦でご活躍されたご様子」
「おう。我ながらかなりの活躍だったと思うぜ」
「あの呂布の一撃を受けて生き残った人間は、恐らく程遠志殿だけだろう。何か私にもその武について伝授願えるかな」
「お、いいね。教えてやるよ」

 程遠志はそういうと思うと、何やら妙な構えをして武について語りだした。それは中々に頓珍漢なものだったのだが、趙雲はニコニコとしながら酒を片手に聞いている。夏侯淵は少し口元を綻ばせた。あの、常山の趙子龍によくもまあ堂々と「武」を披露するものだ。その無謀さはある種の勇敢さにも見えた。
 そんな風にしていると、不意にかつかつ、と足音がした。程遠志は趙雲の方に身体を向けながら顔だけそちらを向く。趙雲も同じようにしながらも、その主が誰かわかると、すっと居住まいを正した。
 そこには、劉備と北郷一刀が立っていた。劉備は快活な様子で笑っていて、北郷は程遠志に対して小さい苦手意識でもあるのか、顔を困らせている。なんだなんだ、とばかりに程遠志は膝を叩き、無作法にそちらへ顔を突き出した。無礼だ、と夏侯淵に頭をぱしんと叩かれる。そこでようやく姿勢を直した。

「程遠志さんと、夏侯淵さん。汜水関ではありがとうございました!」
「おう、劉備様。宴会だしよ、飲まないか」
「え、えーと」劉備はちょっとだけ困ったように笑った。「私はこれから他の人にも挨拶しにいかないとなんで、遠慮しときます」
「そりゃ残念だ」
「程遠志さんこそいいんですか、向こうに行かなくて」

 劉備は宴会の奥の方―――張曼成や、厳政、鄧茂がいる方を見ていた。彼らはいつものように仲良く話しながらも、程遠志の方へちらちら視線も寄越している。劉備はその中でも、鄧茂を強く見つめ、程遠志の隣に座る趙雲に「お邪魔かもしれないよ……」なんて耳打ちしていた。夏侯淵に対しても、鄧茂と見比べるように何度も見つめている。
 明らかに何か勘違いをしていやがるな、と程遠志は気がついたが、放っておいた。そもそも鄧茂のことについては曹操軍の中でも大部分が勘違いをしている。今、この場でそれを説明するのは大変なことで、面倒なことだった。

「いいさ。そもそも、今の酒を飲んだ状態の俺が行っても、あいつらだって困るだろう」
「酒癖の悪い自覚はあったのか」夏侯淵はため息を吐く。「あるんなら、直せ」
「残念ながら直らねえなこれはもう」

 胸を張って言う程遠志へ、堂々と言うことじゃないと夏侯淵は呆れたように言った。
 北郷は、劉備と同様に遠くの鄧茂たちを見ていた。「昔を思い出すな……」と、小さく呟くように言う。


「なんだ、昔のことって、天の世界のことか」
「ああ―――まあ、そうだね」
「意外じゃねえか。天の世界にもよ、鄧茂とか張曼成とか厳政とか―――つまり、俺たちみてえな奴らがいるのか?」
「程遠志みたいなのは稀だけど」北郷は苦笑しながら言った。「似たような関係の奴らは、俺にもいたよ」
「へえ。捨てたもんじゃねえじゃねえか、天の世界も」

 そう言いながら程遠志は高く笑い声をあげた。北郷は小さく彼方を見上げていたが、すぐに気を取り直し劉備の方を向いた。「桃香、そろそろ」「あ、そうだね」と、二人の間で軽い会話が挟まれる。

「それじゃ、そろそろ他の人たちのとこに行かないと」
「おう」

 そう言って、劉備たちはどこかへ歩いて行った。
 それと入れ替わる形で、二人の女が程遠志の方へ近づいてくる。誰だ、と程遠志は一瞬不思議に思い、すぐに気がつく。見たことがあった。

「孫策様、だっけか」
「あら」孫策は大きく目を広げる。「私のこと知ってたの?」
「そりゃまあ、流石に」
「じゃあさ、何でここに来たのかも、わかる?」

 程遠志は顎に手を伸ばした。僅かな時間考え、すぐに諦める。わかるわけもない。答えの出ない問いかけのようなものだ。適当に「俺と酒が飲みたくなった、とかかな」と言ってみると、孫策は愉快そうに笑った。

「全然違うけど、それも悪くないかもね」
「雪蓮」周瑜が、窘めるように言う。「そんな時間なんてないぞ」
「少しくらいいいじゃない―――と言いたいけど、確かに今回は冥琳の言う通りかもね」
「ほう」夏侯淵は、何かを探るように言った。「連合軍の宴の日も気を抜けないとは、そこまで重要なことを抱えているのか」
「抱えているわよ。何かは言わないけどね」

 孫策の顔は赤く、少し酩酊した様子を見せていたが、その瞳はぎらぎらと輝いていた。夏侯淵は思い出す。孫策という女は戦場に出た興奮が平時でも取れぬことがある、と。それが今なのか、と小さく危惧した。

「で、何でここに来たんだ?」
「貴方たち、汜水関にいた曹操軍の中枢だったでしょ。顔でも見たいな、って」
「中枢というならば、姉者だろう」
「うーん。まあ、そうだけど、あの中には入りづらいかな」

 孫策は少し向こうを見つめていた。曹操、袁紹、張邈。幼馴染である彼女らは、多少いがみ合いながらも仲睦まじく話している。うずうずとしている夏侯惇と、楽しげに見ている文醜、何故か顔を強張らせている張超と―――その護衛は三者三様だった。
 確かにあの中には入れないわな。程遠志はそう思うが、その外にいる夏侯惇になら話しかけれるのではないか、とも思った。どうしてそうしないのだと孫策を見ると、彼女もまた程遠志を見ていた。強い瞳。戸惑い、酒を飲んでいることも忘れ、彼は一瞬真顔になる。

「私はね、思うことがあったのよ」
「思うこと?」
「というよりも、勘というべきかな―――貴方が、汜水関の戦いの肝だったんじゃないか、って」
「俺が?」程遠志は目を瞬かせ、笑った。「それを知ってよ、何になるんだ」
「それは貴方の言葉次第よ」
「もし、汜水関の戦功はすべて俺が担ってる、なんて言ったら?」
「子種でも貰おうかな」

 程遠志は酒を持つ手を震わせ、杯を取り落とした。夏侯淵は小さく、しかし確かに、目を泳がせ、趙雲は「ほお」とにやにやしながら孫策と夏侯淵を見比べた。周瑜だけ、一人ため息を吐いている。

「あら、驚いた?」
「……そりゃよ、驚いたよ」
「まあ、半分は冗談だから本気にしないでね」

 だったら残りの半分は何なんだよ、と程遠志は孫策を見る。ごほん、と何かを取り繕うような席払いが程遠志の隣―――すなわち夏侯淵から漏れた。
 孫策はただただ笑っている。自分の疑問に答える気がねえな、と程遠志は察した。

「それだけのために、ここに来たのかよ」
「ええ。私の勘は、貴方が汜水関で何かをした、と言ってるの。戦況にかかわる、重大な」
「呂布から夏侯惇を庇ったことじゃねえの」
「本当に、本当にそれだけ?」
「本当だよ。なんでよ、そこまで俺が気になるんだ」
「うーん」孫策は小さく首を捻る。「貴方は、私とどこか似ている匂いがするのよね」
「孫策様と俺が?」
「正確に言うならば、私の勘と、貴方の何かが」

 孫策の瞳が程遠志を貫いた。熱を持った、鋭い瞳だった。
「気になるな」と冗談めかして趙雲が言う。「程遠志殿の武よりも、遥かに」笑ってはいたが、彼女も見極めるように程遠志を見ていた。
 程遠志は少し困ったような顔になる。孫策の言いたい何かとは、十中八九「流れ」のことだろう。彼にもそれは理解できた。それを素直に言ってもいいのか、いけないのか。機密事項などというほど大きなものでもないだろ、と夏侯淵を見ると、彼女は好きにしろと言わんばかりに首肯した。

「俺がやったことって言うのはよ、本当に呂布から夏侯惇を庇ったことだけだ」
「ふうん」少しだけ、孫策は詰まらなそうな顔になる。「そうなんだ」
「だけど、抽象的な言葉を使ってもいいんなら『流れ』に従って行動した、って感じだな」
「流れ?」
「俺の人生哲学で、何よりも信じてるもんだ。それに従ったから、俺は今回の戦に勝てたんだと信じてる」

 程遠志は孫策の瞳を真っ直ぐに見返した。自信に溢れた表情だった。一瞬、視線が交差し、どちらかが逸らし、再び見つめ合った。
 趙雲も「本当に抽象的だな」と茶々を入れつつも、真剣な表情になっていた。程遠志という人間の一端を見れたような心地だった。
 少しの間、場に沈黙が訪れる。ああ、酔ったふりを少しの間忘れちまったな、なんて程遠志は今更になって思った。誰かが喋るのか、喋らないのか。この大きな宴の中で、まるでこの場だけが静まり返り、明らかに異質な空間になっていた。


 興が覚めた―――とばかりにこのまま解散になるか、と程遠志が小さく思った、瞬間。


「あり得ませんでしゅ!!」


 その締まった空気を緩いものに変えたのは、そんな後方から来た言葉だった。
 程遠志は後ろを見る。見えない。誰もいねえ、とばかりに見渡すと、下から「変でしゅよ!!」という違う声が聞こえてくる。
 下を向いて、ああ、と程遠志は思い、苦笑いになった。孔明と龐統。劉備軍の軍師である。それが、如何にも酔ったという状態でふらふらとこちらを見ていた。誰だよ飲ませたの。なんかいろいろまずい感じになってんじゃねえか。

 そもそも、何で劉備軍の軍師がここにいるんだ。程遠志は張曼成が言っていた言葉を思い出す。「お前は、多分今回の件であの軍師たちに興味を持たれたよ」マジかよ、と程遠志は笑う。
 本当に俺と友達になりに来たのか―――と彼女らを見つめるが、どうやら違うらしかった。彼女らは敵愾心―――というほど大袈裟ではないが、何やらの対抗心をもって来たようだった。
 孫策はふ、と笑みを零した。周瑜も同様だったし、趙雲も「これでは何も聞けぬな」と肩をすくめる。空気が一気に弛緩した。

「どうだ、朱里、雛里。もっと酒を飲もうではないか」
「お前か勧めたの」程遠志は半目で趙雲を見る。「どう考えてももうまずいだろ。やめとけ」
「おや、中々良心的なことも言うのだな、程遠志殿?」
「お前の中で俺はどんな扱いなんだよ。俺だって、こんな幼子に酒を飲ませない方がいいってのはわかるわ」
「失礼でしゅよ、私たちはもう十八を超えてます!」
「え、そうなの」程遠志は真顔になった。「ならいいか―――いや、流石に絵面的にきついか?」
「失礼でしゅ! 失礼!」

 孔明と龐統は更に酒を呷った。ああ、と程遠志は溜息を吐く。
 彼女たちは林檎のように顔を真っ赤にして、程遠志に舌戦でも挑むかのように言葉を続けていた。おいおいこれいつまで続くんだ、なんて程遠志は苦笑しながら思った。

「いつも悪酔いして他の人に絡むバツだよ」と、どこからか鄧茂の声がした。



 こんな感じで、連合軍の宴は終わった。後に孔明から正式な謝罪が来て、龐統から恥ずかしそうに謝られることになるのだが―――それは、またの機会である。






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第4章 張邈決戦編 張邈決戦編 第一話




 袁紹が、少しずつ勢力を伸ばし始めている。張曼成は真面目な顔で静かにそう語った。
 ―――とは言っても、それを聞く鄧茂と程遠志はまともに人の話を聞く姿勢ではない。程遠志は半分夢の中にいたし、鄧茂はうつ伏せで甘味を食している。厳政だけがまともにうんうんと頷いていた。
 別に、それを見ても張曼成は不快になどならない。彼らの間では、寧ろその態度こそが正常であり、厳政の態度こそが異常だった。好きな時に好きな話をして、好きなようにそれを聞く。それだけのことだった。

「公孫瓚もどうやら袁紹に追い詰められているらしい。兵力的に見ても、将の力量差を鑑みても、もう一月と持つまい」
「随分と、早いですね」
「その次には、曹操様との決戦が待ち受けていることだろう」
「へえ」そこで、程遠志は、目を擦りながら起き上がった。「曹操様と袁紹は昔馴染みじゃねえの?」
「それを気にする方ではないだろう。あくまで、俺の主観では、だが」

 張曼成は静かに言い、程遠志は「まあそうか」と頷き、そこで、何かを思いついたように「そういえば」と続けた。

「もしそうならよ、もう一人の昔馴染み―――張邈って人は、どう動くんだろうな」
「わからん。曹操様にも、袁紹にも同じように接する人だった、としか覚えていないな」
「俺も、一回話したけど快活な人だとしか分からねえや。隣にいる妹の張超? はいつも苦虫を噛み潰してそうな顔だったが」
「あれ」鄧茂もそこで、話に入ってくる。「僕が話した時は良い感じの人だったけどな、張超さん」

 程遠志と鄧茂は顔を見合わせる。
 そうだったかな、と程遠志は思い返してみるが、彼の脳内の張超はいつも張邈の近くに侍り、いつも顔を引き攣らせていた印象である。

「程遠志の顔が怖かったんじゃないの?」
「馬鹿、俺は喋ったことねえよ。張邈の近くにいる時しか見てねえし」
「姉妹間の仲が悪いとか?」
「そんな噂は聞かねえけど―――まあいいか。考えても仕方ねえ話だな」
「僕たちの馬鹿話なんて、八割は考えても無駄な話だからねえ」

 張曼成は、一緒にするな、と小さくぼやいた。程遠志の話は女と酒が殆どだし、鄧茂は甘味か程遠志に関わる話題が大半を占めている。厳政は基本的に聞き役に回るし、この中で真面目な話を好むのは張曼成だけだった。

「ああ、そうだ。つーかよ、俺にも話したいことがあったんだった」
「なんだ」張曼成が微笑しながら言う。「また酒か?」
「なに」鄧茂がしかめっ面になる。「女の子のこと?」
「ちげえよ。俺の話題だって他にもあるわ。新しくよ、我が曹操軍に入った軍師のことだよ」

 誰だっけ、と鄧茂は小さく思う。少ししてすぐにその顔が浮かんだ。飴を舐めている小柄な少女と、眼鏡をかけた真面目そうな少女。む、と顔を固まらせる。

「女の子のことじゃん」
「好いた惚れたの話じゃねえっての。その二人―――程昱と郭嘉によ、俺のことを知られてたんだよ」
「どこかの戦場で見られてたの?」
「や、趙雲の知り合いらしくてよ、なんか俺のことを知ってたらしい」
「へえ。あの飲み比べのこと知られちゃったんだ」
「そう、それだよ」程遠志は身体を乗り出して喋り続ける。「だからよ、二人にも一応今度飲もうぜって誘いをかけたんだよ」
「……?」厳政が微妙な表情を浮かべる。「何が、だから、なのかよくわからないんですが」
「とにかく、だ」程遠志は意にも返さない。「そうしたらだよ」

 程遠志はそこで言葉を止めて、息を吸い込んだ。溜めるね、なんて横から茶々を入れられるが、それすら無視する。
 十分に間隔をあけて、どれだけ時間を取るのだ、と張曼成が呆れだした頃に口を開く。

「俺の顔がよ、血だらけになった」
 
 はあ? と張曼成は珍しくも茫然とした顔になった。厳政は意味が分からないと呟き、鄧茂に至っては程遠志の心配をし始めた。
 程遠志はその反応の良さに少し笑い、言葉を続ける。

「郭嘉の方がよ、俺がそう言うや否や鼻血を吹きだしたんだよ」
「鼻血? なんでさ」
「俺と酒を飲むことが、そっくりそのまま破廉恥なことに変換された、だそうだ」
「それは確かに間違いじゃないけどさ」
「おい」程遠志は真顔になる。「間違いだろ」
「でも、鼻血を出すほどってのは面白いね」

 だろ、と程遠志は愉快そうに笑いながら続ける。

「もう一人の程昱の方はそれを当たり前みてえな顔で見てるしよ、中々の変わり者だぜ」
「よく飴を舐めてる人ですよね」
「そうそう。程昱は、なんか俺の流れに興味津々って感じだったな」
「嬉しそうだね、程遠志」
「そりゃな。あんな子供によ、俺の顔を見て怯えられなかったからよ」

 そう言いながらも、孔明と龐統。許褚や荀彧―――様々な、程遠志から見て子供の者が、自分に怯えず平然としていることに気がついた。
 曹操軍に入ったからだろうか。出会う人間も、話す人間も、皆胆力のある者ばかりだ。黄巾の頃とはまるで比べものにならない。

「……程遠志は、最近よく子供と絡んでる気がする」
「そうか? 言っても孔明だとか龐統だとかとだろ」

 あれも、絡んだっていうよりかは絡まれたって言うべきだしな、と程遠志は続ける。

「だとしても、さ」鄧茂はどことなく心配そうになった。「程遠志の好みが歪まないか心配だよ」
「心配してくれて何よりだけどよ、俺の好みはいたって普通だよ。一般的だ」
「ですよね」厳政が口を挟んだ。「ぼくから見てもわかります―――程遠志さんの好みは夏侯淵さんとか、鄧茂さんとかですよね」

 三人の目線が厳政に集まる。
 張曼成は微笑を浮かべながら、程遠志は目を瞬かせ、鄧茂はにっこりと微笑んだ。
 それが本心からなのか、あるいは鄧茂の気持ちでも忖度して、気を利かせたのか。
 程遠志には判断がつかなかったが、前に厳政が言っていた「案外、女性の気持ちには敏感なんです」というものは嘘なんだろうな、と察した。そもそも、性別がわかってねえじゃねえか。張角三姉妹と上手くやれているのか、小さく心配になる。

「……あのな、厳政」程遠志は溜息を吐きながら言った。「俺からすればよ、そっちのが数倍歪んでるよ」




 取り留めのない話は、続けば続くほど楽しくなるものである。眠くなったら各自で眠り、起きている人間は話続ける。
 誰かに強制されるわけでもなくそんな風に過ごし、楽しい休暇を満喫していた四人が気がつくと、外はとっくに陽が落ちていた。そろそろ飯でも食いに行くか、と程遠志は言う。

「えー、僕割と、お腹膨らんじゃったな」
「甘いもんばっか食ってるからそうなるんだよ。俺はもー限界だ。お前らもだろ?」

 張曼成と、厳政もその言葉に二、三度頷いた。鄧茂はむ、と口を膨らませる。

「多数決でも勝てなそうだね」
「四人で多数決はしたくねえな。二対二になったらよ、何にもできなくなっちまう」
「いいよ。それじゃ、軽くご飯食べようかな。どこ行く?」
「それなら」厳政が、軽く手を上げて言った。「最近できた、ちょっと高めの料理屋に行きませんか?」

 どこだ、と疑問を唱える者はいなかった。街の中央にできた大きな料理屋は、誰もが見た場所である。

「いいけどよ、なんか行きたい理由でもあんのか」
「張宝さまに、今度美味しい料理屋に連れてけ、って頼まれたんです。その下見を兼ねてどうかなって」
「羨ましいね。でもよ、この時間なら空いてるかもしれねえけど、俺はそんな金を持ってねぞ」
「奢りますよ。ぼくの都合に付き合ってもらうんですから」

 お、まじかと程遠志は小躍りする。金がねえ、とよく彼がぼやいていることは、他の三人も言うまでもなく知っている。そんな、如何にもな反応に厳政は小さく噴き出した。

「善は急げだ。満員です、なんて言われたら最悪だし、さっさと行こうぜ」

 気分よさそうに程遠志は笑いながら、外に出ようとする。てくてくと扉の方へ歩いていき、鄧茂たちもそれに続く。
 飯を食って、有意義な休日を過ごし、明日からまた働く活力をつけねえとな。程遠志はそう呟いた。後ろに続く三人も、そうなるだろうと疑わなかった。

 扉を開けた途端、程遠志は固まった。目の前に人がいたのである。見たことのある顔、人間だった。向こうも彼がまさかこんなに扉の近くにいたとは思いもしなかったようで、少し戸惑った様子を見せた。
 楽進だった。黄巾を平定し、その宴で程遠志が絡んだ相手。
 嫌な顔でもされるかな、と程遠志は思ったが、楽進はそれどころではない、という様子だった。

「程遠志殿。緊急だ。急ぎ、集まってほしい」
「緊急? なんだ、会議でもするのか」
「そうだ。臨時で開かれることになった。他の用事もあるだろうが、申し訳ない」
「まあ、いいけどよ―――料理屋は中止だな、厳政?」
「不幸ですね」厳政は肩を落とした。「今日くらいしか行けなかったんだけどな」
「無駄話をしている時間はない!」

 楽進は怒りよりも、焦燥が強く含まれた声色だった。なんだ、と程遠志らも真剣な表情になる。
 楽進は扉の外に出て走り出した。程遠志たちがついてこられるような、配慮した速さではあったものの、そもそも駆けていかねばならないという状況に程遠志は違和感を覚えた。そこまでの緊急事態が、起きたというのか。


「一体全体よ」程遠志は走りながら聞く。「何があったってんだ」
「華琳様の―――父親が、殺された」
「なに?」


 程遠志は動きが固まった。混乱し、一瞬足が止まる。
 屋敷の中だというのに、誰の耳にも風の音が聞こえた。それは、この場の誰もが抱いた動揺や、狼狽に似た音だった。




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張邈決戦編 第二話




 徐州の牧、陶謙と曹操の間には小さな因縁がある。少し前、陶謙が兵を集め、曹操の領地である兗州に攻め入ったことがあった。曹操は軍を二つに分けて、従妹の曹仁に別動隊を率いさせ、散々に叩き潰した。
 それ以降、陶謙が怯えたのかは定かでないが、曹操に対して一切の接触をなくしていた。
 ―――それは、あくまで今日までであったが。
 曹操の父親が殺された。それを為したのは陶謙配下の者だ、という連絡が他ならぬ陶謙自身から曹操の元へ入ったのは、つい今しがたのことであった。自分の所為ではない、という抗弁とともに。

 大広間には曹操軍旗下の武将がすべて揃っていた。どの人間も皆、一様に緊張の色が隠せていない。程遠志たちも慌ててその端に座り、背筋を伸ばした。
 一番前には曹操がいる。この場にて、皮肉なことに最も普段と変わらない様子を見せていたのは彼女だけだった。

「徐州を攻めるわ」

 程遠志が来たのを皮切りに曹操は口を開いた。
 無感情でいて、変に激情を押し殺しているわけでもない。普段通りの態度は逆に周りの者を動揺させた。

「華琳さま―――それは、陶謙を攻め滅ぼすと」
「いいえ。陶謙を完全に攻め滅ぼすには我が軍の全力を出す必要があるわ。仮に全力を出したとして、兵糧が持つかと言えば微妙なところ。徐州の中心地である澎城国の陥落が第一目標よ」

 程遠志から見ても―――恐らくこの状況の誰が見ても、曹操は怒っていなかった。仮に内心が激情で煮えくり返っているのならば、その隠匿は恐ろしいほどまでのものだろう。

「桂花、風、稟。陶謙に援軍を出す勢力は、予想できるかしら」
「恐らくですがー」程昱が口を挟む。「袁紹、公孫瓚は正面から戦っている真っ最中。他の勢力は、そう積極的に関与してくることはないかとー」
「成る程。稟は?」
「援軍はないかと思いますが、陶謙の陣に、劉備という女がいる、という情報が入っています。生半可な援軍よりも、私は彼女の力の方が恐ろしく思います」
「へえ」曹操は微笑んだ。「ずいぶんと高評価ね」
「張飛に関羽、軍師の孔明と龐統。それに―――常山の趙子龍がいます」

 郭嘉は小さく汗を流していた。付け加えるように、それでいて勝気な瞳のまま、言った。「劉備はあくまで民衆のことを考えている人間だと聞きます。徐州の民へ、何卒怒りを向けぬよう、お願い致します」
 笑顔だった曹操の顔が、ぴくりと震える。徐州の民へ、自らの父の死の怒りをぶつけるのではないか。そんな心配は無礼だとも言える。「馬鹿な」と叫ぼうとした夏侯惇を、曹操は手で制した。

「勘違いをしている者がいるのならば、訂正させてもらうわ」

 曹操はそこで一呼吸を置いて、郭嘉を―――そして、全員を見つめた。
 迷いのない瞳だった。現実的で実利的であり、感情が欠落しているわけでもなく、飽和しているわけでもない。
 程遠志は怖いな、と微かに思った。安定しすぎている。

「徐州を攻めるのは、すべきことだからよ。感情に動かされているわけじゃない。父が殺され、それを許しては曹孟徳の名に傷が付くわ。この大陸に覇を唱える以上、しなければならないことなのよ」

「すべきこと」と「すべきでないこと」で世界は二分されている、というような言葉だった。
 水を打つような冷静さである。郭嘉は平伏し、失言を詫びた。曹操はそれを微笑で受け止め、怒りを見せようともしない。すぐさま、話を進める。

「徐州攻めにすべての兵力を割くわけにはいかないわ。徐州を攻める人間と、その隙を守る人間。その配置を考える必要があるわね」
「私見ですが」荀彧が軽く手を震わせながら挙げた。「公孫瓚、袁紹が動かないのならば、防よりも攻を重視すべきかと」
「そうね。兵力は、おおよそ二万五千程度かしら。後は連れて行く将軍なのだけれど、これは、私の独断で決めさせてもらうわ」

 少し逡巡するように、曹操は手を顎に当て、すぐに元へ戻した。

「桂花、風―――そして、程遠志。貴方たちに守を任せるわ」
「お」程遠志は小さく声を漏らす。「わかりましたよ」
「華琳さま」荀彧が目を泳がせた。「その理由を、お聞かせいただいてもよろしいでしょうか」
「桂花。私は貴女を蔑ろにしているわけではないわ。陶謙との戦いは力攻めが主で、軍師が多く必要になる戦場ではないように思えるのよ。董卓残党などの思わぬ反乱、扇動に臨機応変に対応できる人材が、守には必要よ」

 ちらり、と曹操は程遠志を見る。その視線に身体を固くする彼に、くすりと彼女は笑った。
 荀彧はすべて納得したわけではない様子である。男と留守番など、と平時の会議ならば主張したかもしれないが、今は厳粛な空気が場を包んでいる。華琳さまが言うのなら、と小さく頭を下げた。
 程昱は何を考えているかわからぬ表情で二、三度頷き「わかりましたー」と気の抜けた声を発した。

「残りはすべて、徐州攻めに回す―――これで一通り、決めねばならぬことは決めたかしら」

 すべての人間が頭を小さく下げる。それを見て、曹操は大きく口を開けた。

「では、解散。出陣は明後日。兵全体にある程度の休養を取らせ、戦に備えさせなさい。以上!」

 いつも通り。何も変わらぬ曹操の姿だった。







「華琳は徐州を攻めるでしょうね」

 ―――ほぼ、同刻。陳留国。
 張邈は確信を持って、妹へ向けて言葉を発していた。

「………………」

 張超は自らの姉を、昔から観察している。幼子の頃、姉が自分に対して無口で無表情な姿を見せるようになってから。姉という人間が掴めなくなってから、注意深く見守るようにしていた。
 それ故、気がついたことがあった。自分以外の誰に対しても仮面を被り、快活な姿を演じている姉。そんな彼女も、すべての人間に同じような姿を見せているわけではないと。
 袁紹と曹操。張邈の昔馴染み。彼女たちには、仮面を被りながらも、僅かにだが警戒を緩めて話している。

 曹操には小さく弱気を出すように。
 袁紹には大きく意地を見せるように。

 快活で、誰とも円満な関係を築くには、変な意地も無駄な弱気も必要ではない。
 人間離れしている姉も、昔からの朋友には人間らしい一面を見せるのだな―――なんて、張超は思わない。寧ろ、その姿を見るたびに怖気が走った。
 あえて弱みを見せているようにしか見えなかった。完璧な水晶玉に小さく傷を入れるような。彼女の彫像のような美しさに欠点を持たせるような。
 それをすることで、姉はさらに相手からの信頼が増すと確信している。そう、張超は思っていた。

「姉上、は。曹操さまのことをどう思っているのでしょうか」
「友人よ」張邈は迷わない。「昔からのね」
「嘘です。私は知っています。ならばなぜ、反董卓連合の際にあのようなことを?」

 張超の瞳が張邈を貫いた。
 反董卓連合の折、先陣の劉備へ曹操が兵を貸す場面があった。張邈も部下の衛茲に兵を持たせ、救援に向かさせたが―――彼女は他にも動いていた。
 曹操の伝令に、一人部下を潜り込ませていた。その男に命令をし、曹操が程遠志という男へ先陣へ向かうよう伝令を飛ばした際、敢えて彼に何故曹操が自分を呼んでいるかの説明をさせなかったのである。
 結果、程遠志は僅かに混乱し、劉備の先陣へ援軍に行くよう命令されたのだ、と気がついたのは劉備や曹操に会ってからだった。
 曹操は、部下の怠慢を見逃すような人間ではない。
 張邈に命令された伝令が殺されたのか、追放されたのかは定かでないが、厳罰を下されたことは間違いない。あれは何のために行ったのか。曹操を混乱させるためか、程遠志とかいう将の忠誠心を下げるためか。張超には判断できなかったが、どちらにしても。曹操に対してまともな友誼を感じているようには見えなかった。

「華琳は、ね」張邈は張超の疑問に答えない。「強い人間なの」
「………………」
「父親とはそう会わなかった、とは聞いているけど、不仲だったわけじゃない。精神的な衝撃は強く圧し掛かったはずよ。それでも顔色一つ変えなかったでしょうね」
「……曹操さまが思慮深い人間だとはわかっていますが、そこまで感情を見せない方でしょうか」

 それは、姉上ほどではない、と暗に批判したものだったが、張邈は無表情を保ったままである。だからどうした、と思っているのか。好きに言えばいい、と諦めているのか。姉の感情が読み取れず、張超はやきもきとした。

「華琳が感情を見せるのは私と同じよ。それこそが人を動かす原動力となる、と理解しているから。父の死に怒り狂い、弔い合戦をする、と感情のまま言えば、少なからず反感を持つ人間が現れるでしょう。覇道を進む華琳からすれば、それは許容できることではないわ」
「曹操さまは、だから、感情をすべて押し殺すと?」
「華琳は弱みを見せないわ。隠匿するの」

 妙に確信したような言い草だった。
 張超は唐突に、背筋に寒気が走った。もしか、と思ってしまったのである。あり得ない疑問ではなかった。

 ―――曹操の父親を殺したのも、自らの姉ではないか?

 曹操軍に手の者を派遣できる程度には、張邈は各所に情報網を張り巡らせている。不可能ではなかった。理屈は合ってしまう。陶謙が自らが命令したわけではない、と曹操に抗弁しているのも。この状況で様々な情報が張邈の元へ届きすぎていることも。何もかも、辻褄が合う。
 張超は姉を見た。問い詰めねばならない、と思う。思いながらも自分はそのようなことなどできない、という諦観も脳の隅から出てきた。何年も一緒に過ごすにあたって、自分の性格も、姉の人間性も、それに対して抗う術がないことも身体に染み込んでしまっていた。

「そういえば」ふと張邈が呟くように言う。「面白い者を拾ったわ」
「拾った?」
「臣下にした、というべきかしらね。董卓包囲網以降、さまざまな出来事が我が軍に起こり、大きな軍容の変更があったことは非水も知っているだろうけど―――また、違う男を仲間にしたわ」
「どのような男ですか」
「最低の男よ。私と正反対の性格をしているわ。恨みやすく、嫉妬深い。人の幸福よりも不幸の方が昔から好きだった、なんて自棄になりながら言っていたわ」
「何故、そのような男を」

 張超は目を瞬かせた。張邈軍は連合軍以降、他の勢力に気取られることなく、とある事情により大幅な軍隊の強化が為された。だから、というわけではないが、別段として新しい人間を採用することについては大した不満などない。しかし、そのような気狂いを仲間にする意味などないだろう。
 姉は安っぽい冗談でも言っているのか。そう張超は思ったが、張邈の表情は変わらない。

「面白かったのよ。それに、正反対でいて、少しだけ共通点もあった」
「……それだけですか」
「人が隠していた本音を曝け出す瞬間が、私は好きなの。華琳の、隠匿している感情も、いずれ見たいものね」

 噛みしめるように張邈は言った。その瞳はぎょろり、と蠢き、どこか虚空を―――すなわち曹操のいる城の方を―――向いているように見えた。何を考えているのか。皆目見当がつかず、張超は少し怯えた。

「そ―――その」張超は少し、焦りながら問い掛けた。「その男の、名は?」
「名前? ええと、なんだったかしらね」

 数秒、張邈は考え込む。無表情を僅かに崩し、逡巡した様子を見せ、すぐに晴れやかなものにした。
 そのまま、口を開く―――

「確か、裴元紹、という男だったわ」







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張邈決戦編 第三話




 曹操軍が徐州目掛けて出陣して、三日が過ぎた。

 程遠志は、鄧茂、張曼成、厳政と共に兗州の上部に位置している鄄城の守護についていた。おおよその兵士数は五、六千人。荀彧と程昱に政務を任せ、彼らは主に街の警護、治安維持活動に努めていた。普段受け持っている仕事と似たようなものではあったが、人手が足りぬ分より辛く感じられた。早く本隊が帰ってきてくれないと、僕の体が休まらないよ―――とは、鄧茂が最近よく漏らす弱音である。
 昼休みの時間になり、程遠志は適当な料理屋に入った。その隣に、いつもいる鄧茂らはいない。偶然、警護の関係で別行動をとることになり、昼休みになっても顔を合わせることがなかったのである。

「お」程遠志は料理屋に入るなり、声を漏らす。「なんだよ、いたのか」

 彼の目に入ってきたのは、鄧茂や張曼成ではなかった。程昱。頭に人形のようなものを乗せ、それを保ったまま綺麗に飯を食べている。彼女も、程遠志が店に入ってきたのに気づいたらしく、無表情のまま軽く頷いた。

「偶然ですねー」
「そうだな。まあ良かったよ、一人で食べるよか二人のがいいわな」
「私は全然一人でも平気ですけどー」
「ひでえこと言いやがる」

 はは、と程遠志は笑い、程昱の隣に何気なく腰かけた。「何食ってんの?」「店長のお勧め定食です」「旨そうだな、それにすっか」と適当に二、三言葉を交わし、注文する。

 程昱は小さく程遠志の顔を見た。彼女の脳内には、少し前の出来事が思い出されている。反董卓連合の後、劉備に仕えている趙雲から聞いた言葉である。


「程遠志、という不思議な男が曹操軍にはいた」


 夏侯惇、夏侯淵、曹操。他にも荀彧や許褚。そのような面々を語るにあたって、趙雲は雄弁な様子を見せたが、程遠志という男の話になると多少困ったようだった。「酒が強い」だの「多少無謀ではあるが勇気はある」だの「武は一線級ではない」だの様々なことを言うが、いまいち要領を得ない。それのどこが不思議なのか、と程昱とともにいる郭嘉は問い詰めたものだ。
 趙雲は少し、苦笑いしながらも閉口した。言うか言うまいか少し迷った様子を見せ、やがて、諦めたように言葉を口から吐き出した。

「程遠志は、流れというものを信奉している」

 流れ。運。抽象的な言葉である。軍師という職を務める程昱、郭嘉からすれば、そう容易く受け入れることはできないものだとも言える。だからどうした、というのが本音だった。
 運を頼りに動く武将は多く存在する。自分が他の人間とは違い、特別な人間なのだと確信する者。神からの宣託を受けたと言い張り、それを盲信する者。様々な類があるが、その殆どは荒唐無稽な妄想である。孫策、という女が持つ勘は信憑性が高い、と噂になっているが、程昱自身完全に信じてはいない。郭嘉は、彼女よりも疑いを強く持っていて、理屈をもって趙雲へ舌戦を仕掛けた。「だから言いたくなかったのだ」と溜息交じりで趙雲は漏らしたものである。
 ……程昱と郭嘉が程遠志の持つ運に懐疑的になったのは事実だが、趙雲という一人の人間を信頼していることもまた、事実だ。真名を交わし合った仲であり、安っぽい冗談を呟くことはあったが、詰まらぬ嘘偽りを述べるような女ではない、と理解している。そのため郭嘉が厳しい言葉になったのは趙雲が騙されているという危惧からであり、最初は「星は間違っている!」と鋭い言葉だったのが、最後には「星は騙されている……」と心配そうな様相を呈してきて、程昱や趙雲を少し愉快にさせた。

 そんな程遠志に対して、程昱は少し興味を持っていた。曹操という主を選んだ理由の中に―――米粒ほどではあるが紛れ込んだ程度には。郭嘉も、主を選んだ理由の中には含まれていないのだろうが、程遠志に対して個人的な興味は間違いなく持っていることだろう。
 それ故、初対面で「流れ」について問い詰める、と郭嘉は鼻息荒くしていたのだが―――結果。いつものように鼻血を噴き出してしまいそれどころではなくなった。それ以降鼻血をかけた後ろめたさからか郭嘉は中々程遠志に寄り付かなくなり、程昱も彼と話す機会に恵まれなかった。

「程遠志さんは、流れを信じてるんですよねー」
「ああ、そうだな。信じれねえ感じか?」
「そうですね。疑ってますー」
「まあ仕方ねえわな。中々よ、嘘くせえ話に聞こえるか」
「でも」程昱は流し目で程遠志を見た。「曹操軍の中でも、信じている人はそれなりにいたので、ただの嘘偽りではないとも思っていますが」
「俺の流れを確かめてえなら、私生活から戦場まで全部くまなく観察してくれればすぐに理解できるさ」

 お、とそこで程遠志は声を上げる。店主が定食を運んできた。その腕は僅かに震えている。程昱の隣にいるからか、それなりの役職の者だと思われているらしい。一人で来た時や、鄧茂たちと来た時にそんな反応をされたことなんてねえのにな、と程遠志は苦笑を漏らした。箸を掴み、定食を一口食べる。うめえ、と小さく呟くと、店主は少しだけ嬉しそうになった。
 数秒、あるいは数十秒。沈黙が二人の間を訪れる。黙々と飯を食うだけの時間。
 それを先に打ち破ったのは、程遠志の方だった。

「気になることはよ、それだけか?」
「気になること?」
「初対面の時、興味津々って感じで俺の方見てきたじゃねえか。何か聞きたいことでもあったんだろ」
「へえ。程遠志さん、聡いんですねー」

 程昱は小さく感嘆の声を漏らした。程遠志も悪い気はせず、「そうかな」とわざとらしく首を傾げ、「そうだろ」と最終的には自分で自分を褒めだした。

「流れについて、あの時は詳しく聞くつもりでしたー」
「今聞かねえのか」
「流れを信じてるか、信じてないかの確認だけで十分です。また次、稟ちゃんと一緒の時にしますー」
「ふうん、気になったことはよ、流れだけか? 俺の酒の強さとか―――」
「それはまったく興味がないです」

 バッサリと斬られて、程遠志は小さく苦笑いを浮かべた。

「あと―――気になることといえば、どうして真名で呼ばないんですか?」
「あ?」程遠志は微妙な顔になる。「教えられてねえんだよ。察しろな」
「春蘭さんと、秋蘭さんから許可されたって聞きましたよー?」
「……どっから聞いたんだよ」
「兵士たちが噂してましたよ。秋蘭さんがそれに悲しんでるとも」
「あいつはそんな女じゃねえよ。寧ろそのことで散々からかわれたわ」
「ということは、本当に教えてもらったんですかー」
「……人の噂ってのはよ、怖えもんだな。あの場には誰もいなかったと思ってたのによ」

 程遠志はそっぽを向きながら言う。
 反董卓連合が解散された翌日、程遠志は夏侯惇、夏侯淵に真名を許す、と告げられた。その代わりとしてお前の真命を教えてほしいとも言われた。呂布から夏侯惇を庇ったこと。汜水関の采配などを判断して、信頼できる人間だと判断したらしい。ありがたい話である。その言葉に、程遠志は心底嬉しかった。だからこそ、多少の罪悪感が生まれた。自分の真名を教えることは、絶対的に不可能だったからである。

「まあよ、俺にも複雑な事情ってやつがあるのよ。鄧茂も、張曼成も。長い付き合いのあいつらでも、俺は真名で呼べねえのさ」
「呼ばない、じゃなくて、呼べないと」
「俺はよ、真名なんてものが生まれつきねえのさ」

 程遠志は呟くように言った。それは悲しそうにも見えたし、普段通りにも見えた。

「……悪いこと聞いてしまいましたかねー」
「別によ、どうだっていいことだ。人の生まれなんてものは選べねえし、第一俺の過去なんて鄧茂以外には言う気もねえしな。そんな価値のある話でもねえ」

 軽く、程遠志は肩をすくめた。どうでもいいと所作に示したらしかった。
 再び場に沈黙が訪れる。程遠志は飯を食べ、程昱は頭に載せている人形を弄りだした。その人形はなんでそこにいるんだ、なんて彼は小さく聞きたくなったが、そんな雰囲気ではない。どうやってこの微妙な空気を打破しようかな、なんて程遠志が考えていると、外から野蛮な足跡が響いてきた。
 互いに、手を止めて外を見る。

「失礼します!」

 突然の闖入者だった。曹操軍の兵士である。
 なんだ、と程遠志は目を瞬かせ、程昱は不審そうな目になる。

「なんだよ。休憩時間だぜ、今」
「緊急の連絡です。兗州内で反乱が起こりました!」
「まじかよ」程遠志は小さく声を漏らした。「そりゃな、休んでる暇はねえか」

 程遠志は店主に目を移す。すまねえな、と小さく謝り、食べかけの料理を下げる。

「それで、敵は誰だ。董卓の残党か? 黄巾の残党か?」
「どちらもです」
「はあ? なんだよ、黄巾、董卓の残党が同時に湧きやがったのか。そりゃ急がねえとな」

 急いで立ち上がる程遠志に、兵士は微妙な表情になる。程昱は真顔になった。

「ただの黄巾、董卓残党ではないのですかー?」
「はい」兵士は体中から汗を噴き出していた。「明らかに、統率が取れた動きを見せています」
「敵の正体は、把握できていますか?」

 程昱は鋭い瞳で兵士を見た。程遠志もそこで気がつく。何か嫌な予感が、彼の背筋を走った。
 兵士は小さく言い淀んだ。数秒が経過し、程遠志が明らかに焦れた頃、信じられぬ、という表情のまま兵士は口から言葉を吐き出した。

「張邈軍です。董卓の部下である華雄と、元黄巾党の裴元紹という男を連れ、この鄄城に向けて迫ってきています!」

 どういうことだ、と言わんばかりの表情。程昱も僅かに混乱した。張邈。曹操様の知己と聞いている。この状況で、何故反乱を起こしたというのだ?
 兵士と程昱がそんなことを考えている中、程遠志は別のことを考えていた。昔からの腐れ縁。黄巾の砦でその縁を確かに切った、と思っていた男。そんな馬鹿な、と小さく口を開く。

「―――裴元紹だと?」
 
 呆然と、その名が口から漏れた。脳内には、あの、狗鷲のような猜疑心の強い表情が浮かんでいる―――






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張邈決戦編 第四話





 ―――張邈の、曹操への反乱。

 この出来事は、後世の人間たちを大いに困らせた。何故張邈がこの状況で曹操を裏切るのか。その真相を正確に理解できた人間はおらず、歴史家たちの分析も推測が多くなった。
 曹操は徐州攻略の前に張邈へ手紙を送っている。兗州にて反乱が起きた際には助力求む―――短文ではあったが、彼女らの懇ろな関係を明確に表している。張邈と曹操。そして、袁紹の関係は古くからの知己として知られており、曹操と袁紹が決裂することはあれど、張邈はそのどちらとも戦うことはない。そう、誰からも思われていたのだ。
 張邈の反乱を起こした理由として、曹操による徐州虐殺が挙げられることがある。結論から言えば、曹操軍による虐殺は存在した。「無辜の民衆が泗水に投げ込まれ、川はそのために流れなくなった」という記述もあるし、その蛮行に対して于禁が怒り、罪を責めかけたことも書かれている。

 しかし、それで解決とはいかない。張邈の行軍は明らかに速すぎた。
 曹操が徐州目掛けて進軍を開始して、三日。まだ徐州には到着していないうちに兵を挙げている。徐州虐殺に憤り、それで兵を挙げた、というのは時系列に合わない。張邈軍が反乱を起こしてから曹操軍が虐殺をしたのだ。他に張邈が兵を起こした理由が存在するはずだ、と後世の歴史家、司馬光は分析する。
 宋の歴史家である鄭樵はそれに対して、張邈が反乱を起こす前に董卓軍、黄巾賊残党の反乱が起きたことを主張した。曹操の頼みを聞き、それらの残党を討伐する最中、徐州の虐殺を知って変心したのではないか。そんな疑問を問いかけた。快活で義に熱く、誰からも好かれた張邈が理由もなく曹操を裏切ることはない。鄭樵は、そう判断したのである。後世の歴史家である彼女がそう強く思ったのだから、当の曹操は他にも及ばぬほどの衝撃を受けたに違いない。

 兎に角、張邈軍は、本来討伐されるはずだった黄巾、董卓軍と交わりさらに強大になった。その数はおおよそ三万。兗州の様々な城は、彼女の名声とその兵力を恐れ、降伏した。兗州に存在した七十の城のうち、およそ六十七の城は曹操を裏切って張邈に付いたのである。
 無理もない話である。曹操軍の本隊は徐州へ向けて出陣してしまっていた。残る主兵力は鄄城に居残る五、六千人のみ。五千と三万では、勝負にならない。誰しもがそう思った。思わぬものは残りの三城に居残った人間のみである。荀彧、程昱―――そして、程遠志。

 彼らが何故張邈軍へ頑強な抵抗を続けられたのか―――それもまた、後世の歴史家を悩ませた。



「どういうことですか!」

 張超は我を忘れて怒鳴った。目の前には姉がいる。不気味な表情を浮かべた彼女は、いつも以上に何を考えているかわからなかった。
 場には彼女たち二人だけではない。裴元紹もいる。彼もまた、張邈と同種の笑みを浮かべていた。

「華琳は、私の反乱を聞いてどう思うでしょうね」
「怒るに決まっています!」
「それは違うわ。彼女はまず一笑に付すでしょうね。その次に来た知らせで真顔になり、その次でようやく信じ、その次で怒る」
「結局変わらないじゃないですか」
「判断が遅れる、ということよ。陶謙から背後を突かれる危険性もあるし、すぐに退却する、と決めるわけにもいかない」
「つまりは、だ」裴元紹がにやにやと笑いながら口を挟んだ。「鄄城にいる程遠志の首は、確実に獲れるってことだよなあ」

 張超はあからさまに顔を顰めた。この、最近姉が雇い入れた黄巾上がりの男がどうにも気に入らない。この張邈軍の一将に相応しいとは思えないのだ。
 性格は下品で、粗野。常日頃元黄巾賊の程遠志という男に粘着的な行動を取り続け、「いずれ殺す」と口癖のように喚いているらしい。その執着は明らかに異常であり、張邈の圧倒的な信奉で成り立っているこの軍の中でも多少の疑問が出ている。何故、あの男が一軍の将をやっているのか―――と。
 姉は何かを裴元紹に見出している。張超にもそれは理解できた。明らかに妙な目のかけようをしている。ただし、どこが気に入ったのか皆目見当がつかなかった。「隠匿していた感情が面白かった、私と共通点があった」と張邈は語っていたが、どこにも面白い部分なんてないし、共通点も見当たらない。裴元紹のことを、ただの嫌な奴だとしか思えなかった。

「そうね。鄄城は完全に孤立した。他にも二城降伏していない城があるみたいだけれど―――そこは粗方無視してしまっても構わないわ。程昱と、荀彧。恐らく曹操軍の頭脳となるべき存在を討ち取れれば十分」
「程遠志と鄧茂は、捕まえたら俺にくれねえか。鄧茂の目の前であの男を殺してやらねえと、気が済まねえ」
「ふうん。好きにしていいわよ」
「ありがてえ」

 嫌らしい笑みを裴元紹はさらに深くした。その脳は既に捕えた程遠志を拷問にかけることや、鄧茂をどうやって辱めるかを考えることでいっぱいだった。張超はそれを見て本能的な嫌悪感を覚え、張邈はただただ笑うのみだった。

「……そもそも姉上、これでは世間の信望を得られませんよ」
「信望?」
「曹操は徐州を父が殺されたというある種正当な理由で攻め込んでいます。その隙を突き、領土を掠めとるなんて真似は信義に反しています」
「どうでもいいだろうが、そんなこと」裴元紹が口を挟む。「詰まらねえ奴だな」
「貴方は黙っていなさい!」
「非水」張邈は静かに妹を見る。「信望は、必ずしも得られないとは限らないわ」
「どういうことですか」
「華琳は―――いえ、曹操軍は、徐州で略奪と虐殺を行うわ。無辜なる一般人に」

 馬鹿な、と呟くように張超は言う。言ったではないか。曹操は自身の感情を隠匿する、と。ならば虐殺など起きるはずがない。

「曹操さまが錯乱すると?」
「華琳は何も命じないわ。命じるのは私よ」
「何を―――何を言って」
「既に紛れ込ませているわ。華琳の軍に、私に忠誠を誓った数十人の兵士を。彼らには闇夜に乗じて陣を抜け出し、怯える民衆を殺して、略奪して回るわ。陶謙軍に派遣した間者もそれに呼応して動き、触発されて二次的、三次的な被害も出るでしょうね」

 張邈は平然とした顔で言った。曹操軍の兵士に紛れ込ませていた? 馬鹿な、と張超には容易く否定できなかった。脳内によぎることがあった。反董卓連合の間に、張邈が曹操軍の使者の中に間者を紛れ込ませていたことを。自分の姉が他の勢力へ盛んに間者を送っている、という事実がある以上、あり得ない話ではない。
 そこで、張超はつい先日思ったことが再び脳内の蘇ってきた。張邈が今言った「陶謙軍に派遣した間者」という言葉とその妄想は絡み合い、一つの真実のようになって脳内に帰ってきた。つまり―――張邈が曹操の父親を殺したのではないか、ということである。疑惑ではなく、半ば確信した。そうだ。そうに違いない。
 ……それでも、尚、張超は動けない。自分の姉を止めることができない。

「まあ、とりあえず。鄄城を主で攻めるのは董卓の残党よ。私子飼いの兵士をそう簡単に消耗する必要はないわ」
「前線を、彼らに張らせると」
「ええ。この兗州を制圧し、戻ってきた華琳を打ち破れば、董卓の残党なんて目障りなお払い箱になる。その時に私の兵力と董卓軍残党の兵力差を上回っていれば上回っているだけいいの」
「しかし―――それでは姉上が董卓軍に恨みを持たれることになりますよ」
「あのね、非水」張邈は、そこでようやく表情を変えた。「恨まれるなんて、別にどうでもいいことなのよ」

 なんとも形容しがたい表情だった。今まで見たことのない顔である。張超は思わず戸惑い、次に浮かんだ感情は恐怖だった。怖い。怖い! 裴元紹もその豹変に気づき、慄いていた。どうして、急に姉は表情を豹変させたのだ? そう思った時には、既に張邈の顔は元に戻っている。
 何があったのだ、と張超と裴元紹は思う。
 張邈は、ただただいつものように能面じみた顔を維持するばかりだった。




 華雄は張邈のことが嫌いだった。彼女だけではない。董卓軍に所属している兵士たちの殆どは、張邈という女のことを憎み、嫌っている。残党の軍はおおよそ三千人。その中に、一人たりとも好意を持っている人間は存在しなかった。
 張超のように張邈に二面性のあることを知っているわけではない。快活で、誰からも愛され、世間から信望の高い女だ、ということは理解している。それでも、嫌いなのだ。
 何故か、と問われれば簡単である。


 ―――張邈は、密かに董卓の身柄を確保していた。


 ことの顛末は、汜水関の戦いの頃まで遡る。汜水関から出てきた呂布と、背後を突いた高順。連合軍は挟撃の危機に陥ったものの、先陣の奮闘によって何とか凌ぎ切った。
 そのような状況下の折、洛陽では大きな政変が起こっていたのである。董卓、賈詡に反乱すべく立ち上がった十常侍や王允、鄭泰。彼らは私兵を持って密かに董卓を襲い、これを捕獲した。その数日後、怒涛の如く帰ってきた董卓軍によって彼らは誅されることとなったが―――董卓は見つからなかった。
 董卓、賈詡を密かに確保していたのは、鄭泰の親友である何顒という気の小さな男だった。反董卓派を気取ってはいたものの、彼女のその幼い姿を見て、これを弑するのは不可能だと諦めた。かと言って、無罪放免と解き放つ勇気もなく、官軍に連れて行く非情さもなかった。
 悩んだ末、何顒は友人に董卓を引き渡すことにした。誰かに押し付けよう、と考えたのである。彼には二人の候補がいた。若い頃に私塾で親友として誼を結んだ袁紹か、その袁紹の友人である張邈か。袁紹に渡せば董卓はきっと殺されるだろう、と彼は考え、張邈に引き渡すことにした。してしまった。

 結果、董卓は張邈の手に落ち、何顒は殺された。董卓がどこにいるのか知られるわけにはいかない。そのような安い理由で虫のように殺された。張邈からすれば、それだけの男だった。


 華雄はそのような事情は知らない。理解しているのは、董卓が囚われの身にあるということだけだ。その下手人は張邈。それ故許せぬ―――という単純な思いを、董卓軍残党は皆共有していた。

「華雄っち」

 ふ、と呼ばれて華雄は右を見る。そこには張遼がいた。偃月刀を肩に背負い、猫のような表情を浮かべている。
 華雄は理解している。平然とした様子の彼女が誰よりも今の不自由を嫌い、苛立っていることを。張邈の傘下に収まっている現状へ激しく文句を言っていた張遼、高順の姿を彼女はよく覚えている。

「張邈に言われたぞ。鄄城を先陣で攻めろ、だそうだ」
「けったくそ悪い話やな。結局、ウチらを捨て石にする意図がミエミエや」
「月様が囚われている現状、従う他ないだろう」
「……まあ、せやな。仕方ない」

 張遼は口惜しげに舌打ちした。

「なあ」華雄は小さく囁くように言う。「私たちは、これでいいのか?」
「あと少しの辛抱や。月と詠が自由になれば、こんなとこからさっさとおさらばできる」
「どうやって自由にするんだ」
「それは、あの男に任せや」
「高順、か」
「せや。あいつにすべて託した」
「信頼できるのか」華雄は、目に疑惑を込めて言う。「私はあの男のことをよく知らん」
「自信家で、気障な男やけど―――実力は確かや。張邈の隙を突くんなら、全力で曹操を攻めてる今しかないんや」

 張遼の目は遠くを見ていた。陳留国。そこで牢に入れられているであろう董卓。彼女を高順が助ける姿―――それを幻視していた。

「仮に、高順が月様を助けられたとして。その知らせが来る頃には、張邈も逃げられたことを察するだろう。そうなれば私たちはここで誅されるのではないか」
「鄄城が落ちる前やないと、キツイな。いくらウチと華雄っちでも独力で張邈軍には勝てん」
「ならば、私たちは城攻めを怠けた方がいいのか」
「いいや」張遼は静かに首を横に振る。「月をウチらが奪還する狙いを気取られるかもしれん。城攻めは、普段通り行うしかないんや」
「馬鹿な。このまま普通に攻めれば、鄄城などそう長く持ちこたえられるはずもない」

 華雄はそう言い、張遼を見る。
 張遼は何かを考えているようだった。彼女の脳内に一つの言葉が蘇る。汜水関決戦の折、高順と笑いながら話した言葉である。「生き残るよ。オレとお前なら」彼の自信ありげな言葉が彼女の勇気を後押しした。

「……様子を見て、ウチは曹操軍に寝返るかもな」
「はあ?」華雄は目を見開いた。「どういうことだ!」
「あくまで、秘密裏にや。表立ってやない。最悪バレたら嫌気がさして出ていったとでも言ってくれや。そうでもしないと、曹操軍が持ちこたえられるかわからん」
「私たちと殺し合うというのか?」
「せやな。月を守るためや。恨まれても構わん。他に代案でもあるか?」
「……いや、ない。だが―――下手をすれば、お前も死ぬぞ」
「は」張遼はそこで、ようやく笑った。「格好つけて死ねるんなら、大満足や」



 ―――これから、一日後。
 張邈の裏切りから始まった、音に聞く「鄄城の戦い」が、幕を開ける。





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張邈決戦編 第五話





 鄄城に程昱、程遠志が戻ると、既に荀彧が焦った顔で全体に命令を出していた。
 籠城の準備をせねばならぬ。彼女は一人奔走し、程昱や程遠志に「遅すぎる」と罵声を取ばした。この緊急時にもいつも通りだな、と程遠志は少し考えつつも、いや違うかと思い直す。そもそも、程昱と自分を同じように叱り飛ばしている時点で平時の荀彧とは様子が変わっているのだ。男に対してまともな苦言を呈すだけ、彼女は余計な物事に目がいかなくなっている。

「どうしましょうねー」
「籠城するのは決定事項ね。伝令は既に送ったし、華琳さまが来るまで耐えきる以外の勝利はないわ」
「何日かかると思います?」
「……早くて、十日。遅ければ一か月程度。徐州で完璧に軍を纏められていれば、それほどの時間はかからないと思うけど」
「つまり、だ」程遠志は口を挟む。「徐州で軍の混乱なんてことがあれば、その分援軍が遅れるってことか」

 荀彧は小さく程遠志の方を見る。嫌悪感に満ち溢れた表情。ようやく、そこで男と自分は話している自覚が湧いてきたらしい。しかし、この状況で余計な罵倒など飛ばしている暇はない。吐きそうな気持ちを彼女は何とか抑えて、「……ええそうよ」と言葉を返した。
 程遠志は小さく鄧茂がいればよかったな、と思った。彼が女と誤解されていることだけが、今の荀彧と互いに不満なくコミュニケーションを取れる唯一の手段だった。鄧茂や張曼成、厳政とはまだ出会えていない。この城の中にいるはずなのだが、どこにいるのだろう。

「風」荀彧は小さく、喘ぐように言った。「何か、策は思いつく?」
「あるとすれば、河川の渡しを破壊し、張邈の行軍速度を落とすことですかねー」
「……時間は、稼げて数日でしょうね」
「十分とは言い難い時間ですが、ないよりはましかと」

 程昱、荀彧の表情には、焦りが浮かんでいる。具体的な策、というのはこの籠城戦において提示し難いものであった。考えねばならぬことが多くある。張邈がここにきて反旗を翻した理由がわかれば、説得することが可能やもしれない。それに、説得が失敗しても付けこんで離間の計を狙えるかもしれない。
 だが、わからない。張邈の裏切りも、何故黄巾と董卓軍残党が仲間になっているのかも―――そして、それを探る人夫も足りない。
 多くのことが不足していた。
 考えねばならぬことは、それに反比例するように山積みになっている。

「……すぐさま、鄄城周りの河川の渡しを破壊するよう兵を向かわせるわ」
「桂花ちゃんは、他に何かいい策を考えていますかー?」
「董卓軍か黄巾賊。どちらかにこちらへ内通する武将がいないか。その確認をしたいわね」
「……厳しいと思いますよ」
「わかっているわ。でも、やるしかない」

 荀彧は程昱からゆっくりと視線を外した。その先は程遠志。顔を嫌そうにしながらも、問いかけなければならないことがあった。

「あんた、黄巾党に知り合いはいる?」
「いる。敵の将軍の一人、裴元紹とは腐れ縁だ」
「―――その男を、裏切らせることとかって」
「不可能だな。あいつは俺を恨み切っている。この城が狙われた遠因も、俺の所為かもしれねえ」

 すまねえな、と程遠志は軽く侘びる。
 荀彧は顔色も変えなかった。彼女からの罵声を待っていた彼には意外なことだった。「使えない」「これだから男は」と怒涛のように罵倒される予感があった。
 荀彧は長い溜息を吐きながらも、程遠志を真っ直ぐに見つめた。

「……十分よ。敵の中枢に位置する人間があんたを恨んでる、っていうのは、まったく使えない情報じゃない」
「へえ」程遠志は心のままを口にした。「俺を責めないのか」
「もっと余裕を持てる状況なら、あんたを心の済むまで罵倒したわよ」

 荀彧は頭を自分の指先で何度も叩いた。状況は切迫しており、彼女はそちらへ頭脳をすべて回すため私怨や嫌悪に使う力を何とか抑制しようと努めているらしい。普段からそうしてくれればもっといいのによ、と程遠志は軽口を叩こうとして、自重した。荀彧が、程遠志の方を見ていたのである。 

「でも」荀彧は一つ、小言を言うように呟いた。「これからで、いいけど」
「なんだよ」
「私と話すときは、鄧茂を介すようにして。このまま自制を続けていると戦いの前に憤死するわ」

 その荀彧の瞳は―――今までの、懐かしい悪感情が多量に含まれたものだった。平時の彼女の表情と同じだ。何故かその視線を受けて、程遠志は何故か苦笑を隠しきれなかった。この猫耳は、いつもこんな顔を浮かべているのが普通だったよな、なんて今更になって思う。「俺もその方がいいと思うぜ」と程遠志はその表情のまま、返した。




 敵の行軍速度が殆ど落ちぬまま、鄄城に向かってきている。
 そんな知らせが届いていた。半日ほど前に、河川の渡しを破壊したのに、である。程昱と荀彧はそれを受けても尚、冷静だった。

「風、どんな手を使ったと思う?」
「予備の渡しを即座に作ったか、それ以外の方法か―――いろいろと候補はありますが、このままでは思ったような時間は稼げないですねー」
「そうね―――あと、どれくらいで張邈は来るかしら」
「もう来るはずです。数日どころか、半日しか時間は稼げませんでしたねー」
「おいおい」程遠志は頬から汗を流した。「大丈夫なのかよ。このままだとまずいんじゃねえの」
「あんたは黙ってて」

 荀彧は程遠志の方を見ようともせずぴしゃりと言った。程遠志は不機嫌になることもなく、ああそうだった、と思い隣を見る。半日前。昼の段階ではいなかった鄧茂が、そこにはいる。
 程遠志は軽く肩をすくめてみせる。鄧茂はその意を得た、とばかりにオウム返しで言った。

「このままじゃ、まずいんじゃないの?」
「問題ないわ。鄄城に籠れば、これだけの兵力でも一月は持たせる自信がある。半日で、完璧な籠城の用意は全て整えてあるもの」

 荀彧は鄧茂の方を見て二度三度頷いた。タメ口を許される程度にはこいつら仲いいんだな、と程遠志は小さく驚き、その性別を猫耳軍師に伝えてやろうか―――なんて夢想したが、流石に自重する。
 荀彧は程遠志がそんなことを考えているとも知らず、胸を張って得意げにしていた。半日前、程昱と程遠志、鄧茂や張曼成、厳政は外に出ていていた。張邈の反乱を知り、総指揮を取って籠城の準備を完成させた彼女の手腕は称賛されるべきものだろう。そう自負していたし、誰もがそう思っていた。

「僕たちにできることはない?」
「あんたたちは、兵士の士気向上に努めてくれればいいわ。恐らく、私や風がやるよりも効果が出るでしょうしね」
「だってさ、程遠志」
「それはわかったが―――そもそも張曼成と厳政は今どこにいるんだ?」
「市民の避難を進めてる。その中でも戦えそうな人は民兵として組み込むって」
「へえ。一万弱くらいにはなるか」
「いいえ」荀彧が、鄧茂の方を向いて言った。「多くても八千程度になるわね。直接ぶつかるには、全然足りていないわ」

 籠城しかない、と荀彧は続ける。後詰が確実に来ると断言できる以上、無為に野戦を仕掛けるべきではない。程昱もそれに賛成だった。

 城の中を、何者かが走ってくるような音がした。荀彧と程昱は小さくそちらを見て、すぐに察する。来たのだ。張邈軍が。そのことを伝えに、外にいた兵士が駆けてきたのだろう。
 問題などどこにもない。荀彧と、程昱は確信している。半日前に焦り、慌てて準備をしたことが功を奏した。河川の渡しを破壊できるから、と悠長に時間を浪費していれば、ここまでの余裕とゆとりは持てなかったに違いない。

 軍師二人が泰然としているのに対して、程遠志と鄧茂は頬から汗を流していた。
 程遠志は嫌な予感がしていた。ただそれだけ。いつもの前触れにも似た―――曹操軍に加入してから頻度が急増したように思える、この感じ。流れ。嫌な流れだった。
 程遠志が汗を流しているのを見て、鄧茂もまた嫌な予感がした。単なる同調行動ではない。彼は理解している。程遠志という人間と誰よりも長くいたから。彼の信奉する「流れ」が冗談や嘘の類でなく、今から何か曹操軍にとって不利益なことが起こるのではないかと危機感を抱いた。

「し、失礼します! 火急の用にて!」
「張邈軍が来たのでしょう。わかってるわよ」
「はい、ですが……」

 ですが? と荀彧は眉を顰める。程昱もまた、小さく首を傾げた。
 程遠志と鄧茂は、さらに不安になる。

「と―――とにかく、下を」
「下?」荀彧は伝令を睨みつけ、城から下を見た。「なにを―――」

 固く閉じられた門の向こうに、まだ遠くではあるが張邈軍が見えた。まだ理解できることである。目下に入るほどまで近づかれているとは思わなかったが、変なことではない。
 違和感があるとすれば、張邈軍の先頭に―――謎の縛られている男がいた。磔のようなものに繋がれ、運ばれている。なんだ、あれは。荀彧は理解できず言葉に詰まり、後ろからひょっこり首を出した程昱もまたわからない。程遠志も、同じである。
 気がついたのは鄧茂だけだった。「あ、あれ」目を大きく開け、声を震わせて言う。「徐州攻めに行ったはずの、兵士だ」

「はあ!? どういうことよ!」
「張邈軍に裏切ったってことか!?」
「いやー」程昱は冷静に、程遠志の言葉を否定する。「状態から見て、何か事情がありそうですね」
「そ、それが、まだここまでは声が届かないのですが、先ほどからあの兵士が何か叫んでいまして」

 何を、とばかりに程昱が眠そうな瞳を真剣にして見る。荀彧もまた、伝令を見る目が鋭くなった。
 伝令は二人の軍師に鋭い瞳を向けられ、明らかに動揺した。言うべきか、言わぬべきか。迷っているようでもあった。しかし、何を悠長な時間を、と荀彧が目に見えて苛立ったのを察して、慌てて口を開いた。

「じ、実は」伝令は、身体を震わせながら言う。「曹操さまが、徐州にて虐殺を行った故、逃げてきたと」
「馬鹿な。戯言よ。あんたはそれを信じてるの―――これだから男は愚昧なのよ」
「私もそう思います、しかし」
「なにか」程昱は目を素早く動かした。「信じなければならないようなことが、他に?」
「はい―――その。徐州攻めに配属されたはずの者は、あの男だけではないのです。張邈軍の各場所に数十人、同じように拘束されたまま、徐州の虐殺について叫んでいます!」

 しん、と場が静まった。
 あり得ないことだった。三日、四日前に徐州へ向かったはずの者が、どうしてここに戻ってきている?
 それに、もし仮にあの者が正しいことを述べているのだとすれば―――曹操は徐州に到着するや否や即座に虐殺を敢行したことになる。あの恐ろしく冷静で、怒りを隠していた彼女が? 曹操を激烈に信奉している、荀彧以外の人間は、微かにその可能性を探った。探りつつも、あり得ないと思った。


「少なくとも、これじゃ」程遠志は呆然と言う。「徐州で何か一悶着あったとしか思えねえ」
「一悶着あったら」鄧茂も続けて言う。「曹操さまの徐州からの援軍は遅れることになる、よね」


 一か月は持つ、と豪語した荀彧。しかし、そもそも一月以内に曹操は帰ってこられるのか?
 そして、逃げてきた男たちが叫ぶ「徐州虐殺」という言葉を聞いて、この城に籠る人間は士気を保てるのか?

 程遠志と鄧茂には判断できなかったが、荀彧の頬から僅かに汗が零れたのは、見えた。






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張邈決戦編 第六話




「まずいな」

 荀彧、程昱と別れ、程遠志と鄧茂はいつもの面子で集まった。即ち、張曼成と厳政を含めた四人である。
 張曼成は静かに呟いた。その声色は、悲壮感や焦燥が僅かに混ざっていた。平時では何事も落ち着き払って行動することを務めているこの男も、いつも通りとはいかなくなっていた。

「このままじゃ、この城が落ちるってことか」
「それもあるが、このまま時が流れれば、恐らくお前は殺されるか幽閉されることになる」
「はあ?」程遠志は目を瞬かせた。「どういうことだよ」
「あの号令を聞いて、逃げだすものは確実に表れる。元曹操軍の兵士を、あれほどどうやって集めたのかはわからぬが、兵士たちには動揺が広がるだろう」
「それで、どうして俺が殺されることにつながるんだ」
「兵士たちの逃走は、そこまでの問題でない。しかし、それが将軍の裏切りとなったら話は別だ。恐らく、その兵士の逃亡が続けば、お前が寝返ることを警戒されるようになる」
「荀彧や、程昱がか。寝返る気なんてさらさらねえぞ。向こうに言ったら裴元紹に殺されるっての」
「彼女らは、恐らく二番目に合理的な方策を取るだろう。この状況で最も合理的な手は、降ることだ。程昱―――そして、何より荀彧は、曹操さまに絶大な忠誠心を持っている。その手は使えない」
「つまり、その二番目ってのが」
「お前を含めた、俺たちを先に反乱分子として処罰することだ」

 張曼成は、程遠志を真っ直ぐ見つめた。どうするのだ、と問いかけるようだった。

「俺たちを殺して、それで城を持たせれるのかよ」
「俺でも十日は持たせられる。共通の敵を作ることは、城内の人間を一時的に麻痺させ、同調圧力を持たせることができるだろう。俺でそこまでできるのだから、彼女たちならば二十日は持たせられるはずだ」
「それならよ、俺たちが協力すればもっと持ちこたえられるんじゃねえのかよ」
「そう変わらないさ。俺たちがいて疑心暗鬼に包まれているのと、俺たちがいなくなって歪んだ信頼関係が生まれるのでは、大して変わらない。恐らく、この城はどちらにしても二十日程度で落ちる―――だから、荀彧はより合理的な判断をするはずだ。俺たちが本当に裏切るか、裏切らないか。それがわからない現状、いなくなっても戦力が変わらないのならば、斬り捨てるに違いない」

 あと二日、三日としてからだろう。荀彧が動くのは。そう、張曼成は続けた。
 程遠志は小さく悔やんだ。程昱はともかく、荀彧。彼女とは満足のいく信頼関係を結べていない。夏侯惇、夏侯淵がこの場にいれば、と意味のない後悔が頭の中に浮かんできた。今から話しかけに行くか―――と、一瞬強引な考えが浮かんだが、首を振る。それこそ、変だ。怪しまれる。

「そもそも」厳政は小さく手を挙げた。「二十日間で曹操さまが来るとも限りませんよね」
「曹操さまを裏切ることができない、というのが彼女たちの弱点だろう。もしかすれば、俺の見立てとは違って何か秘策があるのかもしれないが、どちらにしてもこの城は二十数日しか持たないはずだ」
「ならよ、張曼成。お前はどうしたらいいと思う?」
「簡単なことだ。俺たちが、最も合理的な手を取ればいい」
「はあ?」
「この城を抜け出すのならば今だぞ、程遠志」

 程遠志は張曼成をまじまじと見つめた。何を言ってやがるんだ、と殴りかかるような、そんな勢いだった。
 張曼成は揺らがない。彼は自分のために言っているのではない。全員―――すなわち、この四人が、確実に生き残ることを重視している。曹操軍、という括りではない。

「裴元紹に殺されるだろ」
「降るわけじゃない。逃げだすんだ。すべてを捨てて。張邈は、逃げだす兵士を決して殺すことはないだろう。他の兵士の逃亡を助長させるために、放置するに決まってる」
「その中に紛れ込むってのか」
「不可能ではない。寧ろ、この包囲がまだ完了していない今ならば、成功する確率の方が遥かに高い」

 張曼成と程遠志は数秒の間、睨み合った。どちらもが一度は逸らし、再び目を合わせ、また逸らした。
 その交錯は、まるで永遠に続くかのようだった。




「程遠志を殺すべきかしら」

 荀彧は小さく呟いた。張曼成は彼女が兵士たちの脱走が始まる二日、三日から動く、と考えていたが、それは大きな見誤りであった。彼女の利発さと、苛烈さ。そして、曹操への忠誠心は旧くからの付き合いである夏侯姉妹に及ぶほどであった。
 彼女の隣には程昱がいる。眠そうな瞳で、頭には不思議な人形が乗っていたが、その目は笑っていない。

「程遠志さんたちを殺して、城を保てますかねー」
「兵士は多少混乱することになるでしょうね。程遠志を慕っている者もいるようだし」
「それでも、大丈夫だと?」
「慕っている者もいれば、慕っていない者もいる。それだけの話よ。私のように男を毛嫌いする兵士もいるし、賊上がりは決して認めないなんて凝り固まった兵士もいる。そちらを扇動し、多数派にすれば同調圧力を全体に浸透させることはできる」
「彼らを殺しても、二十日か、もう少ししか持たないかとー。徐州で何が起こっているかはわかりませんが、華琳さまがこちらへ戻ってくるには、混乱する大軍を鎮め、劉備や関羽、張飛―――それと趙子龍がいる陶謙軍を煙に巻く必要がありますし」

 程昱は言外に難しい、と言った。勿論そのことは、荀彧も理解している。理解して尚、である。

「二十日では、厳しいと思う?」
「三分七分かと」
「的確ね。私も、その程度の確率だと思うわ―――それでも、それ以外の方法ではもっと稼げる時間は少なくなる」

 三分七分に賭けることが、最も勝率が高いのではないか。
 即ち、程遠志らをすべて始末してしまい、彼らに悪事を背負わせることが。

「――――――風は、少し様子を見たいですね」
「まだ、程遠志らを殺すべきではない、と? 程遠志らをこのまま放置しておけば、逃げだす可能性があるわ。逃げだされるのと、殺すのではわけが違う。粛清した、という言い訳ができなくなれば、兵士たちを同調圧力で包むこともできなくなる」
「ええ、それでもー」
「理由を聞いてもいいかしら」
「趙子龍―――星ちゃんに、聞いたことが、気になるんです」

 程昱は趙雲が言っていたことを思い出していた。「程遠志という不思議な男がいた」そんな一言が、どうしても気になってしまう。「流れ」というものを信じているわけではなく、ただ、気になる。こんな簡単に殺していいのか? と自分の中で、踏ん切りのようなものがつけられなかった。
 程遠志という男に、興味を持っていた。趙雲は騙されている。郭嘉のそんな意見に、程昱は賛成でも反対でもなかった。流れを信じてはいないが、趙雲はそこいらの輩に騙されるような女ではない。ならば、何か他の要因があるはずだ。それを見つけるまでは彼に対しての観察を止めたくなかった。

「それだけで、程遠志を見逃すと?」
「逆に」程昱は、小首を傾げて荀彧を見た。「桂花ちゃんは、程遠志さんのことを何か知らないんですかー?」

 荀彧は少しの間、黙り込んだ。知らないわけではない。曹操軍の中で、戦場で最初に程遠志という男に会ったのは、荀彧と夏侯淵だ。その時のことを、暫しの間回想した。
 軍を摺り抜けられ、本陣を奇襲された時のことである。思い返すだけで憤怒の感情が浮かんでくる。男にいいようにされた、というだけで荀彧には屈辱だった。許せないことであった。当時は少し、思い悩みもした。あのような男の奇襲を許すとは、どこかに自分の怠慢があったのではないか。そんなことも考えたが、当時の自分に落ち度は見受けられなかった。

「私は、一度。程遠志に負けたことがあるわ」
「というと」
「言い訳になるけれど、あの時の程遠志は神憑っていたように感じたわ」
「神、がかる?」

 程昱は少し、困惑したようだった。抽象的な言葉だった。またか、とも思う。程遠志という人間について尋ねると、どの人間もあやふやで、曖昧な答えになる。趙雲も、荀彧も。夏侯淵や夏侯惇だって。程昱は様々な人間に程遠志という男のことを尋ねたが、結局、満足な回答は得られなかった。
 言葉では表すことができない人間だ、ということなのだろうか。いまいち納得はできない。

「風、あんたが弱兵を二百人を率いて、私が率いる五、六千の兵と戦う状況になったら、どうする?」
「逃げますねー」程昱は小さく笑った。「勝てないです、それじゃ」
「そこで、勝ちではないけど引き分けに持ち込んだのが程遠志よ」
「どうやって、ですか」
「奇襲をしたのよ。本陣だけを狙って」
「本陣に辿り着くまで、他の兵士たちがいるでしょう」
「誰一人として、気づかなかったわ」
「どうして? その日の天候か、兵の不調でも?」
「どちらもない。ただ、廻り合わせが悪かっただけ、としか言えないわ」

 不愛想に荀彧は言った。程昱はそれを聞き、背に寒気にも似たものが走った。
 自分が兵士を指揮し、完璧を為したとして。廻り合わせなどという抽象的なもので負けたとしたら。偶然兵士が敵を見つけられず、無防備な本陣を陥られるとすれば。どうしようもない。程昱は思わず、「それが、流れ?」と声に出していた。荀彧はその言葉を聞き、顔を顰める。「流れ」などというものを、認めたくはない。軍師として当然の表情だった。その表情を固くしたまま―――あるいは、もっと険しくして、再び口を開く。

「流れというものは」荀彧は苦々しく言う。「あの野蛮な男に限れば、あるのかもしれない」

 信じられない言葉だった。程昱は少し驚く。それを言えた、ということに心底敬服した。
 軍師にしか分からない感情だろう。流れだの、運だの、勘だの。それですべて上手くいくなど、そう簡単に受け入れられるものではない。程遠志もそうだし、噂に聞く孫策もそうだ。軍師という職業の存在に関わるのではないか。そんな、一種の蕁麻疹のような発作が胸から沸いてくるのだ。

「だから―――それでも、程遠志さんを殺した方がいいと?」
「程遠志が裏切れば、終わりなのよ。流れが何にしろ、それは変わらない事実でしょ」
「仮に、あくまで、仮にですが」程昱は何度も前置きをした。「流れが存在するとすれば、それを生かしてこの状況を逆転できるとは?」
「程遠志の起こす流れがどのようなものかなんて誰にも理解できないわ。すべてがあの野蛮人の上手くいったとして、それが張邈への降伏に繋がる流れかもしれないし、私たちが死ぬ代わりに程遠志たちが生き残るだけかもしれない。我が軍全体の利益になる、とは、必ずしも言い切れないのよ」

 荀彧は、言葉言葉で詰まったり、唇を噛んだりしていた。「流れ」を彼女自身すべて受け入れたわけではない。仮に存在するとして、その仮定が存在したとして、尚、合理的な判断を下そうとしている。曹操のため、滅私奉公の精神で。
 程昱がまず感じたのは、小さな不満だった。流れなどは存在しない。そう言い切りたかった。しかし、その胸から沸いてきた不満を、彼女は易々と抑え込んだ。それよりも気になることがあった。
 荀彧がここまで「流れ」を受け入れようとしている。すべてを曹操に捧げた彼女が、男は死ねと公言して憚らない彼女が、である。夏侯惇や、夏侯淵や、趙雲。武に生きたものだけではない。曹操軍の知を司る彼女が、男であるという偏見に耐え忍びながら認めたのだ。ある意味、誰よりも信用が置ける。程昱は程遠志に対する関心がさらに増した。ここで死なせてはならぬ、と胸にどこかにある感情が声を上げた。

「ではー」程昱は、その感情を抑えて言う。「一度、程遠志さんに対する監視を大々的に行えば?」
「そんなことをすれば、あの野蛮人だって警戒するでしょ」
「多少怪しまれたとしても、あからさまな監視を行えば逃げだすことはできなくなるでしょう」
「……殺してしまえば、そんな無駄は省けるけれど」
「まだ早計である、と愚考しますがー?」

 程昱と荀彧は、そこで見つめ合った。数秒、数十秒と経過する。
 最初に目を離したのは、荀彧だった。程昱の瞳にはある種の必死さが見えた。気圧された、と言ってもいい。

「……わかったわ。確かに、今すぐ殺す必要はないかもね」
「ありがとうございます」
「でも、あまり長引かせると兵士たちが疑心暗鬼になるわ。誰かを生贄にするか、何か他の手でも見つけなければ、二十日どころか十日も持たなくなる」
「それは、その通りですねー」

 程昱は素直に頷いた。程遠志を早く殺す、という荀彧の判断は、二十日城を持たせるという観点からすれば何一つ間違ってはいない。事実、遅れれば遅れるほど兵士の掌握が難しくなるだろう。
 お互いに、そこで黙り込んだ。話すことはもうない。外から鬨の声がした。張邈軍が仮初の包囲を半ば完成させたらしい。

 ―――ここから、戦いが始まる。

 荀彧と程昱は、額から汗を流した。恐怖や困惑ではない。
 このどこへ向かうかわからぬ戦場の状況に、極度の集中と緊張から汗が噴き出したのである。






 ――――――鬨の声が、外から漏れた、その時。

 程遠志と厳政は不細工な表情で手を挙げていた。鄧茂と張曼成は、手を挙げていない。

「ぼくは」厳政が口を歪めて言う。「張宝さまたちを置いて、この城からは出られません」
「俺はよ」程遠志は苦み走った顔で言う。「曹操さまを信じてやりたいってのが本音だな」
「僕は」鄧茂は涙ぐみながら言う。「この城で程遠志が殺されるのだとしたら、耐えられない」
「俺は」張曼成は汗を流して言う。「この四人が生き残るには、逃げだすのが一番いいと思う」


 綺麗に分かれていた。二対二。多数決が、叶わなかった。
 喧嘩になったわけではない。ただ、この四人それぞれに譲れぬものがあった。誰が間違っているわけでも、正しいわけでもなかった。

 どうすりゃいいんだ、と誰かが言った。
 この四人の総意でも、あった。







最近恋姫の作品で面白いの増えてきてない……?
めっちゃうれしい(*'▽')





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