真・恋姫†無双~程遠志伝~ (はちない)
しおりを挟む

第1章 黄巾党編 黄巾党編 第一話

はじめまして、はちないと申します。
この作品には原作とは異なる展開が多くあります。オリジナルキャラもかなり出てきますので、お気を付けください。


 

 

 

 

 そろそろやるか、と程遠志が言った。程遠志の隣にいる鄧茂はにやにやしながら頷き、妙に堂々と立っている張曼成も「応」と返した。目の前にいる口元に髭を蓄えた男は、これから起こることを夢にも思っていないだろう。程遠志の両手が、自然と頭に伸びた。黄巾を、ぎゅっと主張するように、強く締める。

  緊張していないのは、程遠志だけだった。鄧茂は余裕そうに振舞いながらも頰から汗が噴き出していたし、張曼成の野太い声は自らの心中を察せられないためだ。

  それらを全て程遠志は理解していたが、敢えてそれに対して何も言わなかった。激励も指摘もしない。

  いずれ慣れる、とだけ、心で呟いた。慣れれば、誰でもできるようになる。仕事や、戦闘や、性交と同じだ。迷いや緊張はいつの間にか取り外されて、残るのは機械的で事務的な冷たい動作だけになる。それを、彼らもそろそろ知る頃だろう。

  程遠志は立ち上がり、歩き出した。それに合わせて、二人も続く。

 

「止まれよ」

 

  程遠志は何気なく言った。

  怪訝そうに振り向いた男は、程遠志の顔を見て、出し抜けに殴られたような表情になった。程遠志の容姿が五割、頭に付けた黄巾が五割と言ったところだろう。その後ろに、さらに二人の男が続いているのを見て、一気に逃げ腰になった。

 

「おまえなあ、この娼館に誰の許可を持って入ってんだよ。ちゃんと料金、払ってる?」

「り、料金は、中の受付で払った」

「なんだよ受付って。知らねえよ。いちゃもんつけられた、とか思ってんのかよ。喧嘩でも売ってんのか」

「ち、違う」

 

  程遠志の顔には、二本の大きな傷がある。ただでさえ人相が悪いというのに、その傷によってひどく強調されてしまい、黄巾の仲間内でも彼に気安く話しかけられる者は多くない。それが一般人ならば、言わずもがなである。

  髭を蓄えた気障な男は、呆然と固まっていた。

 

「逃げる気なの」

「顔、覚えたからな」

 

  鄧茂と張曼成も、程遠志の後ろから言葉を飛ばした。こいつら演技下手だな、と一瞬、程遠志は笑ってしまう。

 

「娼館の受付の人を呼んでほしいんだが」

「おまえは、俺を疑ってるのか?」

「そう言うことじゃない!  一回、一回、確認のためだ」

「あのなあ」

 

  程遠志は、男へさらに一歩踏み出した。それは逃げ腰の男を硬直させ、さらに緊張させた。

「娼館の女がよ、黄巾と関係してます、なんて正直に言うわけねえだろ。ただでさえお上に届け出もしてねえ店なんだ。裏に俺たちみてえなのがついてねえわけねえだろ」

「それは……」

「別に、おまえを中に戻してもいいが、素直に金を払ったほうがいいぜ。中に戻ったところで、受付嬢に無視されて、出禁になって、泣きながら出てくることになるだけだ。その時は店に迷惑かけた代金も、追加で払ってもらうことになる」

「…………」

 

  鄧茂がにやにやしながら手を前に出した。財布を出そうか出すまいか逡巡している男だったが、後ろにいる張曼成が刀に手を掛けたのが目に入ると、慌てて財布を取り出した。

  少しだけ、程遠志は顔をしかめる。

 

「金、全然ねえじゃねえか」

「必要以上のものは、危ないことに巻き込まれない対策として、持ち歩かないんだ」

「嫌味かよ。まあ、それだけでいいや。寄越せよ」

 

  仕方なさげに、男は財布から金を取り出した。おいおい、と程遠志はそれを制止する。

 

「違えよ馬鹿。そんな端金いらねえよ」

「え?」

「財布寄越せよ。売るから」

 

  男は顔を固くした。

  問答無用、とばかりに鄧茂が財布を奪い取る。相手はもう、それに逆らう度胸も勇気もないらしかった。「対策するなら、もっと安物の財布を持つことにしろや」と程遠志が言葉をぶつけると、男はかなり、落ち込んだ様子を見せた。

 

 

 

 

 

「なあ、案外簡単だろ」

 

  程遠志は、馬を巧みに操りながら怒鳴るような言った。馬上での会話は、ぼそぼそとした小さい声ではお互いに聞き取れず、普段は声を荒げることのない彼も、仕方なく叫ぶように言う。

 

「まあ、確かに、楽だったけど。程遠志が適当なことを堂々と言うから、ちょっとビビっちゃったよ」

 

  鄧茂は、悪戯っぽい笑みを頰に貼り付けて言った。「ビビった」や「ブルった」という言葉を滅多に使わない彼が言うのだから、多分ちょっとではないのだろう、と程遠志は思った。

 

「あの娼館と、なんも繋がりなんてないんでしょ?」

「そりゃ、当たり前だ。ハグレ者の俺たちにそんなコネなんて存在しねえよ」

「それでよくあんなこと言えるなぁ」

「言うだけタダだ。迷惑受けるのはあの娼館なんだから、どうだっていい」

「流石、性格悪いねあんた」

「あの娼館だってお上に隠れて営業してる悪質な店だし、そこを利用する客も客だ」

 

  正当化するなあ、と鄧茂は軽口を叩いた。

 

「ああ、そうだ、張曼成。お前よ、刀抜くのはやめてくれよな。思わず顔しかめちまったよ」

「駄目だったか?」

「あくまでイチャモン程度だったらよ、見て見ぬ振りして誰もお上に届け出を出そうともしねえけど。刀抜いたら周りの注目浴びて顔も覚えられるし、流石に問題にもなるよ。もうあの村には行けねえな」

「それは、悪い」

「別にいいよ。あのおっさんから奪った財布が思ったより高値で売れたからよ。当分はこんなことしなくていい」

 

  程遠志はゆっくりと馬に体重をかけた。馬の鳴く声が、木霊する。

 

「なんで、仲間たちに声かけなかったの?  そのほうが楽じゃない?  程遠志も、僕もある程度の軍を動かす権限くらいあるんだし」

「馬鹿。三人だからいいんだよ。百人、二百人も集めて行ったら、流石にまずい。黄巾をしないで行くのも面子的にできないし、発見されて待ち伏せされるかもしれない」

「大人数なら待ち伏せされても蹴散らせるんじゃ」

「おまえらはよ、黄巾党を強く見過ぎだよ。お上の軍勢になんて、そう簡単によ、勝てるもんじゃねえからな。少人数で正解だよ。それも、三人ってのがいい」

「どうして三人?」

 

  鄧茂は不思議そうに首を捻った。

  女みてえな顔してるな、と程遠志は思う。自分の顔とは正反対もいいところだ。

 

「二人なら、最悪の事態に備えられない」

「最悪の事態?」

「狙った獲物に護衛がいたとか、実は強かったとか。要するに、不慮の事態だな。二人じゃ生き残れるかどうか怪しい」

「それだから三人がいいって?  四人じゃ駄目なの?」

「縁起が悪いだろ、四ってのは」

 

  当たり前だろ、と程遠志が言うと、鄧茂と張曼成は少し笑った。合理的で冷徹な彼が時たま、風水や縁起を気にするのは、とても人情味溢れていてどこか可笑しい。

 

「五人は駄目なの?」

「五人以上はよ、致命的な欠陥があるんだ」

「なに?」

「俺にはそんなに、友達がいねえんだ」

 

  肩をすくめて言うと、鄧茂は噴き出した。張曼成も程遠志に合わせるように「俺もだ!」と言うと、その笑いはさらに大きくなった。

 

 

 

 

 

  と、上機嫌だったのは少し前のこと。

  嘘だろ、と程遠志は言った。なぜこのような状況になってしまったのか、殆ど彼は理解できていなかった。唯一理解できたのは、金が入ったからちょっと高い店でも入ろう、なんて考えた、自分の浅はかさが原因だった、ということだけだ。

  兵士募集、と書かれたチラシの下で、背筋を伸ばして飯を食べている青髪の女がいた。その女こそが、程遠志の体を震えさせている原因である。

 

「強いのか、あの女」

「強い、なんてもんじゃねえよ、張曼成。化け物だ化け物」

「でも、僕たち三人だよ。最悪、さっきのことがバレても逃げるくらいはできるんじゃ」

 

  鄧茂の言葉に、程遠志は目をぎょろりと剥いた。彼のその容貌は、友人の鄧茂をも少し後退るほどの迫力があった。

 

「五秒だな。俺たちがここで、剣を抜いて襲いかかったとして、全員五秒で死ぬ」

「冗談だろ」

「間違いないと言い切れるね。それがわかったら、もうあの女に目を合わせるのはやめろ」

「俺たちと目が合うくらい大丈夫だろう」

「昔、あの女と戦場で会ったことがあるんだよ。俺は木っ端みたいなもんだったが、もし覚えられてなんていたら、怪しまれるだろ」

 

  目を大きくさせて言うには、随分と臆病な言葉だった。鄧茂と張曼成は少し驚き、苦笑する。先ほどまでの、指導者面をした程遠志はもうここにおらず、怯えた人相の悪い男がいるだけだった。

  程遠志は昔のことを思い出している。青い髪の女―――名を、夏侯淵といったか。黄巾をつけた仲間たちを、弓で容易く撃ち抜いていた。縦横無尽というか、鎧袖一触というか。その姉はさらに強い、なんて噂を聞いたとき、程遠志は武における自信を喪失したものである。

  そんな女が、目の前にいるのだ。落ち着けるわけがない。

 

「お前ら、早く飯食え。帰るぞ。もう二度とこの店には来ねえ」

「折角のご馳走なのに?」

「鄧茂、黙れ。俺はよ、あの女と同じ空気を吸ってるってだけで、気が滅入っちまうんだよ」

「アンタ、意外と臆病なんだね」

「好きに言えよ」

「おい、程遠志」

 

  そこで、張曼成が少し慌てた様子で話しに入ってきた。

 

「あの女、見てる」

 

  何を、とは聞かなかった。程遠志がとった行動は非常に簡単で、簡素なものだった。まだ残っている膳を前に突き出し、立ち上がって、自然と外へ歩き出す。

  つまり、逃走した。

  逃走、しようとした。

 

「おい」

 

  重心が後ろに倒された。転ぶ、と程遠志は思ったが、気づけば、何故か元どおり椅子に座っていた。

  横を向くと鄧茂、張曼成が阿呆面を晒していた。しまった、見る方が逆だ―――こんなことを考えている、程遠志自身も見るに耐えない程顔を歪ませている。横に誰がいるのか、誰が自分の身体を操ったのか。予想はできたし、声からも確信を抱いていたものの、それを信じたくはなかった。

 

「怪しいな、なんだ貴様らは」

 

  やはり、夏侯淵だった。

  ちらり、とそちらを窺って、程遠志はすぐさま目を逸らした。嘘だろ、やめてくれよ。泣きそうな顔になる。

 

「……そう言われましても」

「どうして逃げようとした」

「逃げようとなんてしてないですよ。ちょっと、その、なんていうかな。気分が悪くなって」

「気分が悪くなったら、逃げるのか」

「逃げてないですって。本当です」

「なら、どうした。疾しいことでもあるのか」

「―――いやいや。僕たちはなんも関係ないでしょ。絡まないでくださいよ」

 

  そこで、隣から鄧茂がそう助け舟を出すように言った。すると、程遠志はすぐに「お前は黙ってろ」とたしなめるように返した。

 

「わかりました」程遠志はそこで、何かを決意したような顔になった。「正直なことを話してもいいですか」

「なんだ」

「俺、一目惚れしたんです」

「はあ?」

 

  動物が鳴いたような、素っ頓狂な声が店内に響き渡った。夏侯淵も、鄧茂や張曼成も、全てが同じような顔をしていた。唖然、呆然。何を言い出したのだ、こいつは。

  驚くことに、先ほどまで泣きそうな表情を浮かべていた程遠志は、当たり前のようにいけしゃあしゃあとしていた。それは不正が露わになる寸前の政治家のような、ある一定限度を越えた時に現れる余裕にも見えたし、全く別のものにも見えた。

 

「それで、目が合ったと早合点して、焦って逃げようとしちゃったんです。すいません」

「一目惚れ、というのは……」

「貴女にです」

 

  程遠志の左腕、つまり夏侯淵からは見えない左半身は、ぶるぶると震えていた。それが武者震いのようなものではなく、単なる怯えなのだ、と鄧茂は理解した。理解すると、今の抱腹絶倒するような状況が、なにやらとても勇気溢れる場面に見えてきた。

 先ほど、髭を蓄えた男から金を奪った時などよりも、数倍以上、強面のこの男は緊張しているのだ。

 

「それを、どうして私に言う」

「言わねば、斬られたかもしれません」

「問答無用でそこまでする気などない」

「そうですか。それに、他にも理由はありますし」

「なんだ」

「疑われたくなかったからです、他ならぬ貴女に」

 

  程遠志はどこまでも続ける気らしかった。危ない状況下に置かれると、彼は暴走してしまう気があるのかもしれない。

  鄧茂は真っ直ぐ前を見る程遠志と、困惑した表情になっている夏侯淵を見て、口元を押さえた。程遠志の中では決して笑ってはならない、緊張する状況なのはわかっているが、なんとも可笑しい。

 

「とにかく」夏侯淵は外を指差した。この惚気じみた会話を早く終わらせたいらしい。「外に出て、話を聞かせてもらう」

「勿論です。何も怪しくないってこと、証明しますよ」

 

 

  堂々と胸を張って、程遠志は店から外へ出て行った。もう、逃走することなど一欠片も考えていない。このまま流れに身を任せることが、今の自分にできる最善の策だと、彼は確信していた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黄巾党編 第二話

 

 

 

 

 黄巾を軍馬の鞍に隠しておく習慣を持っていたことを、程遠志は神に感謝した。夏侯淵が彼らの持ち物を精査しても、出てくるのは財布に詰まった金だけだった。何故こんなに持っているのか、とも問われたが、給金を豪勢に使おうとした、と平然と返せた。

  それ以上怪しいものが出てこないのなら、夏侯淵も引き下がるしかない。念のため、と名を尋ねられたので、程遠志たちは本名をそのまま告げた。偽名を名乗るべきか、とも思われたが、唐突に偽名が思いつくほど彼らは頭が良くはなく、そこで変に黙り込んで再び怪しまれるほど馬鹿でもなかった。

  さて、それで、である。

  程遠志はむっつりと黙り込んでいた。帰りの最中、鄧茂と張曼成は突然告白した彼を揶揄ってやろうか、と企んでいたが、何も喋らなくなった程遠志の表情は、如何にも不機嫌である、と主張するようで、話しかけられなかった。

  馬上、三人の会話はない。鄧茂、張曼成が話しかけることができず、程遠志が黙り込むのだから必然的にそうなる。

 

「なんというか、まあ。不幸な出来事でしたね」

 

  口火を切ったのは、鄧茂だった。そろそろこの沈黙を破るべきであり、それは自分の役目だろうと考えていた。

  程遠志はその言葉に、ピクリと反応した。もしかしたら、あの何も喋らず黙り込んでいたのは、誰かに話しかけられるのを待っていたのかもしれない、と鄧茂は思った。面倒くさいやつだな、とも思ったが、それは言わない。彼らしい、ともいえる。

 

「本当に不幸だよ。なんでよ、あんな目に俺が遭わなきゃいけねえんだ」

「悪いことをした罰なんじゃない?」

「違法の店に入った男を取り締まっただけじゃねえか」

「取り締まって、お金を盗んだでしょ」

「必要経費だろうよ」

「無茶苦茶だ」

 

  鄧茂は笑いながら言った。程遠志も、それを見てようやく顔を綻ばせた。

 

「でも、言っても告白しただけじゃん。そんなに緊張した?」

「したよ。軽く殺されるかもしれない人間にあんなことを言うなんて、よくやったと思うね俺は」

「告白する必要あったか?」

「当たり前だろ。何もしないで外に連れ出されたとして、怪しいものを身につけてなかったとしても、結局、なんで逃げようとしたんだ?  って聞かれる羽目になる。そこで言うよりも、最初に言った方が効率がいいだろ」

 

  それでも、別の方法があったのでは、と張曼成は思う。目が合って怖かっただとか、急ぎの用を思い出したとか。他の方法は様々ある。そこで告白する、となるのは論理の飛躍があるように思えた。

  程遠志とは、本来そういう人間なのかもしれない。頭が良いようで、追い込まれると、おかしくなる。張曼成は、鄧茂と違い、程遠志との付き合いはそこまで長くない。そのため、いまいち性格を計りかねる部分もあった。

 

「これからどうする」

「久しぶりに黄巾の砦に帰ろうぜ。適当な村に泊まるのは飽きちまった」

「明日」

「あ?」

「明日、砦で大規模な演習が行われることは、知っているか、程遠志」

「初耳だよ。それがどうした。俺は参加しねえぞ、そんな面倒臭そうなやつ」

「砦に帰るなら、お前は参加することになると思うが」

 

  張曼成の言葉に、程遠志は目を瞬かせた。

 

「なんでだ」

「黄巾党の将軍を決める演習でもあるからだ。恐らく、砦にいる武将全てを集めて、次の出兵に向けた会議が行われる」

「全員集めて、誰を大将にするか決めるってことかよ」

「まあ、そういうことだ」

「面倒くせえな」

「当たり前だ。世の中は、面倒臭い事と面倒臭くない事で溢れている。いずれは、面倒臭いことにぶつかるものだ」

 

  格言のようなことを言うので、程遠志は少しだけ驚いた。冷静で、言い換えればいつもむっつりとしている張曼成にしては、その言葉だけ熱を持っていた。

 

「誰かの受け売りか?」

「さあな」

「自分で考えた言葉なら、笑えねえぞ」

 

  ひゃっ、と妙な笑い方を程遠志はした。

  張曼成は穏やかに微笑んだ。それでこの話は終わりだ、と言うようで、すぐさま話を元に戻した。

 

「それで、どうする。砦に帰るか」

「鄧茂はどうしたい」

「僕は別にどっちでも。めんどくさいことになるのは勘弁だけど、砦に帰ったら気楽に昼寝できるのはいいね」

「それに、ここら一帯は曹操の街だ。宿を取れば面倒なことになる」

「間違いねえな。砦に帰るか」

 

  程遠志はそう結論づけた。一度決めると、その決定を覆さないのは彼の長所でもあり、短所でもある。

 

 

 

 

 

  砦に着く頃には、もう既に日が暮れていた。いつも通り三人で酒でも飲み、周りにいた一兵卒に絡みでもしていると、夜中になった。彼らは特に何も考えず、笑い合いながら寝た。

  翌日、当たり前のように、鄧茂と張曼成は二日酔いで会議を休んだ。彼らは下戸というわけではない。原因は、程遠志の飲む速さにある。

  程遠志もまた、二日酔いということにして会議を休むつもりだったが、黄巾党の仲間は彼の酒の強さを知っている。簡単に見破られ、強引に連れてこられた。そのため、程遠志は少し不機嫌な顔になっていた。

 

「途中から連れてこられたけどよ、今の会議はどんな様子なんだよ」

「八割は終わったのですが、そこからがどうも長くなっていまして」

「残りの二割はなんなんだ」

「この砦に残る将と、出陣する将をどうするかです」

 

  傍にいる、腰の低い男に程遠志は問いかけると、明瞭な答えが返ってきた。成る程な、と思いながらも、前を見る。

  前方に、黄巾党の将軍たちが集まっていた。その中にいる最も背が高く、最も臆病そうな男を、程遠志も知っていた。厳政という、張宝の親衛隊に任命されたその男は、厳しいわけでも政を卒なくこなすわけでもなく、どことなく名前負けが目立つ人間だった。最近ツイてない、なんで愚痴を、よく零しているらしかった。

 

「誰が出陣するのか、で揉めてるのか」

「というよりも、誰が砦に残るかです」

「戦意ねえなあ。そんなんで勝てるのかよ」

「どうなんでしょう。程遠志さんは、出陣しないんですか?」

「するわけねえだろ。というか、どこに向けて出兵するかも知らねえし」

「曹操へ、ですよ」

 

  はあ?  と程遠志は返した。胸中が、なぜか少しざわざわとした。勝てるわけがねえだろ、と吐き捨てたくなる。

  目の前の男も同意見らしい。はぁ、とため息を吐き、憂鬱そうな顔になっている。

 

「そもそも、なんで厳政がここにいるんだ。張宝様の付き人は?」

「この一戦で曹操と雌雄を決するらしいので、めぼしい将は大抵集められてるんですよ。程遠志さんもそうでしょう?」

「いや、俺はこの会議があることを昨日知ったんだけど」

「嘘だ。絶対連絡行ってますよ」

 

  そうだったかな、と程遠志は思う。そもそもこの砦に最近はあまり顔を出していなかった。そのため、偶然連絡がこなかったのではないか、とも考えたが、忘れてしまっていた可能性も十分に存在する。

  しかし、そんなことよりも、である。

  雌雄を決する戦いだというのに、この戦意の低さはどういうことなのだろう。程遠志は少し訝しんだ。兵士の質はあまり高くないとはいえ、士気だけは非常に高かったはずなのだが。そろそろ見限りどきかもしれない、と胸中でひっそり考えた。

 

「お、程遠志」

 

  すると、向こうから声がした。厳政の隣にいる男が、程遠志へ向けて手を振っている。誰かは分からなかったが、微妙な笑みを返すとこちらへ来い、と手招きしてくる。

  面倒くせえな、と思いながらも、程遠志は自分を連れてきた男の元から離れ、前方へ向けて歩き出した。意外にも顔は売れているらしく、ああ、これがあの程遠志か、というような空気が彼を取り囲んだ。

 

「程遠志さん、ですか」

「そうだけど」程遠志は少し目を細めた。「あんたは厳政でいいんだよな」

「はい、大丈夫です。ぼくが、今回の戦の大将を務めさせて頂くのですが、よろしいですか」

「よろしいも何も、俺がそれに文句なんて唱える資格はねえよ。頑張ってくれ」

「ありがとうございます」

 

  自信なさげに笑う厳政を見て、いい奴だな、と思う反面、万に一つも今回の戦いは勝てないだろうな、と程遠志は思った。覇気だとか、闘気だとか、そういった曖昧な表現は好みではなかったが、曹操配下の人間たちとは明らかに比べ物にならない。

  黄巾を脱ぐ日も近いな、と程遠志が考えていると、厳政はこちらの手を取ってきた。なんだ、と目を白黒させる。

 

「程遠志さんも、できれば出陣して頂きたいのですが」

「いや、俺は」

「兵卒を指揮できる将軍が、恥ずかしながらあまり集まっていないんです」

「俺はそこまで兵を指揮したことなんてねえよ。精々、数百人が限界だ」

「それでも構いません」

 

  何しろ、人手が足りないので、と厳政が付け加えるように言った。周りの人間が、こぞって目を逸らす。砦に残る将が大多数らしい。

  程遠志は握られた手を振り解こうとしたが、厳政の力は存外に強く、縋るように指を絡めてきたので戸惑ってしまった。動きが少しだけ、固まる。

 

「参加してやってもいいんじゃねえのか、程遠志」

 

  そこで、ぽつり、とそんな声がした。何を無責任なことを、と思い、程遠志が声のした方を向くと、顎に手を当てた男が口を歪めていた。

  顎髭の濃い、狗鷲に似た顔をした男だ。頰は痩け、目は鋭い。昔話ならば小悪党を見事に演ずる役柄だろうが、これは現実である。お互い、じっと睨み合った。

  最中、程遠志はあれ、と呟いた。誰かを思い出させる顔だ。一瞬、そこで時間を置き、ああと頷いた。こんな具合に猜疑心の強そうな男が俺の知り合いにもいたな、と思い出した。

 

  黄巾党に入る前―――鄧茂にも出会う前のことである。故郷の村に、やけに程遠志に張り合ってくる、裴元紹という男がいた。村の中で腕っ節が飛び抜けて強かった彼のことが気に食わなかったのか、何をするにも張り合ってくる男だった。

  故郷の村から程遠志も煙たがられていたが、裴元紹はそれ以上に嫌われていた。と、いうよりもどの派閥も彼を受け入れなかった、というべきか。程遠志は不良の纏め役をやっていたが、そこにも裴元紹は入れなかった。

  原因といえば、裴元紹の性格にある。喧嘩っ早く、人の話を聞かず、その癖陰湿な気があった。喧嘩の腕はそれなりに優れていたが、それだけである。誰からも嫌われていたし、誰からも相手にされなかった。目を合わせるのが損と思われていたのだ。

  程遠志も、また、同じだった。不良仲間にも「裴元紹には手を出すな、無視しろ」と伝え聞かせていた。それは、手を出せば後々面倒くさいことになる、と理解していたからなのだが、結果的にその忠告は無駄になった。面倒くさいことに、なったのだ。

  程遠志の仲間の不良たちが、夜中、一人一人裴元紹に襲撃されたのである。三人目の仲間がやられるところに、偶然、程遠志が通りかかったので発覚した。「何してやがるんだ」と威圧すると、裴元紹は怯えながらも「不良の癖に、大して強くねえから、俺が本当の強さってのを教えてやってるんだ」と返した。

  程遠志は怒らなかった。不良の纏め役をしているだけで、元来情に熱い性格をしているわけではない。そのため、裴元紹に対する怒りなどはそう大して湧かなかったが、ここでこのような暴挙に出た輩を見逃してしまえば、自分の求心力はひどく落ちてしまうことだろうな、と冷静な思考で判断した。ぱくぱくと口を動かす裴元紹に向けて、次の瞬間、程遠志は全力で殴りかかっていた。

 

「そこで、全力で叩き潰すところが程遠志らしいよね」

 

  その話を程遠志から聞いた鄧茂は、そう返した。そこまですることではない、軽く怒ったふりでも見せれば纏め役としての責務は果たせるのではないか。そのようなことを言った。

  確かにその通りだ。程遠志は自分が意図しない状況に追い込まれると、突飛な行動に出るきらいがある、と分析した。直すべき悪癖だ、とは思ったが、決して直ることのない癖に違いないとも思った。

  何しろ、程遠志は気がつけば裴元紹の意識がなくなるまで殴り続けていたのだ。別に意識が飛んでいたというわけではなく、そうすべきだと思って行動してしまっていたのだ。不良仲間たちから見放されぬよう、纏め役としての責務を果たすべきだ、ということしか考えられず、他のことが疎かになっていた。

  慌てて裴元紹に水を掛け、意識を取り戻させると、泣いて、脚を引き摺りながら彼は何処かに消えた。その明日、裴元紹は村からいなくなっていた。それっきり、会っていない男である。

 

  その裴元紹と、目の前にいる狗鷲のような顔をした男は、よく似ている。もう別れてから五年は経ったに違いないが、彼が成長したからこのような姿になるのではないか、と思わせるほどだ。

  程遠志はよく似た男もいるものだな、と少し笑みを浮かべたが、狗鷲が「久しぶりだな」などと言うので笑みを凍らせた。え、と思わず声に出す。この男が裴元紹本人だと、そこで気がついた。

 

「懐かしいな、おい。俺のこの傷、覚えてるか。思い出させてやろうか」

「別にいらねえよ、そんな気遣い。だいたいなんでてめえが黄巾党にいやがるんだ」

「俺もその一員だからに決まってんだろ、間抜け」

 

  まじかよ、と程遠志は眉を潜める。「お知り合いですか」なんて聞いてくる厳政の呑気な声すら億劫に感じるほど、彼は面倒くさく思っていた。

 

「探したんだよ、程遠志。いずれこの借りを返してもらおうと思ってな」

「てめえに借りなんてねえよ」

「生意気言ってんじゃねえよ。ここであの時の続きを始めてえのか、ああ?」

 

  目を血走らせて裴元紹が言う。これはまずいな、と程遠志は胸中で頭を抱えた。こんな奴も黄巾党に在住してやがったのか。

  いっそ、喧嘩を買ってここで殺してしまうか―――いや、待て、思考が過激化している。程遠志は頭を軽く指で突いた。追い詰められた時に追い詰められた思考のまま事をなせば、前と同じことになる。裴元紹を記憶がなくなるまで殴った時も、結局、周りから怯えた目で見られることになった。同じことを繰り返しはならない。

  一つ、息を吐いて程遠志は口を開いた。

 

「わかった、わかった。お前は俺にどう借りを返して欲しいんだ」

「だから、言ったろ。参加してやれよ、今回の曹操との戦いによ」

「嫌だよ。砦に俺も篭る」

「弱気だな腰抜け。夏侯淵にビビった話を聞いたぜ。随分と臆病風に吹かれる性格に様変わりしたものだな、おい」

「どうしてそれを」

「てめえらが昨日、砦で騒ぎ回ってたらしいじゃねえかよ。言伝に聞いたぜ」

 

  そう言えば、昨日、笑い話にでもしたような気がする。裴元紹に嘲笑われて、程遠志は若干不快になった。落ち着け、と自らに言い聞かせる。こんな奴など無視してしまえばいい。

  しかし、そう思う反面、程遠志はそれは間違っているのではないか、とも思った。落ち着いたからこその考えだった。逆に、この状況では砦に篭ることこそが下策なのではないか。

 

「夏侯淵にビビって、曹操にビビって。お前は一体なんなんだよ。俺が借りを無くしてやるって言ってるんだからよ、これ幸いって塩梅で出陣しろよ」

 

  その挑発は、いつの間にか周りの空気も変えてしまっていた。裴元紹の強気な言葉と、周りの人間の砦から出たくないという欲望。それらが、彼らをあたかも砦に篭る将の人数が規定に達したかのように振舞わせた。

  程遠志は仕方ない、と思った。思うがまま、言った。「仕方ない」

  それを聞いて、裴元紹は目を光らせた。「仕方ないってのは、つまり?」

 

「お前の借りを無くすためにも、俺は出陣するよ」

 

  程遠志は、真っ直ぐ裴元紹を見てそう言った。言わざるを得ない、と思った。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黄巾党編 第三話

お気に入り登録11件もありがとうございます! 作者の励みになります(^^♪


 

 

 

 

「曹操と戦うだってぇ?」

「嘘だろ?」

 

  鄧茂と張曼成は、程遠志の言葉を聞くと一息で酔いが覚めたようだった。精々、面倒な会議に対する愚痴を聞かされる程度のことしか考えていなかった彼らにとって、程遠志の決意はまさしく青天の霹靂とも言うべきものであった。

 

「残念ながら、嘘じゃない。俺は一端の軍を率いて、出兵する」

「なんでまたそんなことに」

「色々事情があってよ、そっちの方が後々楽になりそうなのよ」

「事情?」

「裴元紹ってやつのこと、覚えてるか?」

 

  鄧茂は少し首を捻り、「裴元紹、裴元紹……」と何度か唱えて、手を打った。

 

「昔、程遠志と喧嘩した人だよね」

「まあ、そんなとこだな。そいつがよ、黄巾党の中にいた」

「へえ。向こうはお冠だったんじゃないの」

「お冠というより、怒髪天だな。俺に、砦に篭るなと一丁前に命令してきやがった」

「程遠志はそれに従うってこと?」

「従うしかねえわな」

 

  二、三度頷きながら言う程遠志に、鄧茂も張曼成も何も言わなかった。何故、と思ったのかもしれない。怒られ、命令されたから、易々と従うような人間に程遠志は見えない。

 

「俺はよ」程遠志はポツリと言った。「黄巾党からここで抜けるよ」

「何?」

「おさらばってことさ。このままダラダラここに留まっても、いいことなんて一つもない。寝床の為にもう少しくらいは居座っておこうと思ってたが、裴元紹なんて馬鹿もきやがった。あんな奴がこの砦にいるんなら、落ち着いて昼寝もできやしねえ」

「逃げるってことか」

「ああ、そういうことだね」

 

  張曼成の鋭い言葉に、程遠志は犬歯を見せて威嚇しながら返した。

 

「意味がわかんない。程遠志が黄巾党から抜けるのはわかったけど、なんでそれで曹操と戦いに行くのさ」

「ちょうどいい機会だからだよ。俺はよ、天涯孤独の身なんだ。黄巾党に身を寄せた理由だってやることがなかった、ってのが一番の理由だ」

「知ってるよ。それで?」

「軍ごと曹操に降伏する」

 

  何、と張曼成と鄧茂は再び驚く。

  程遠志の瞳に迷いはなかった。裴元紹を殴ったときと、夏侯淵に告白したとき。その二つの出来事を思い出させるような瞳だった。行動が飛躍している。

  迷いがないからこそ危うい、と鄧茂は思った。迷わない程遠志は頭脳が冴え渡り、英雄的な行動を起こすことができるが、前だけしか見えていない。止めるべきか、とも思ったが、こうなったら止まらないことも理解している。

 

「黄巾の情報は、曹操も必要としてるはずだ」

「それを売り込めば、悪いようにはならないってわけね」

「そういうことだ。黄巾で得たこの地位ともおさらばになるのは、なんとも悲しいけどな」

「程遠志は、まあまあ顔も知られてたのにね」

「おまえにも悪いな。お前もそれなりの地位だっただろ」

「あれ」鄧茂は悪戯っぽく笑った。「僕は程遠志と一緒に行くなんて言ってないけど?」

 

  え、と程遠志は馬鹿みたいな顔になる。「来てくれないのか?」と弱気が声に出たように言う。

  にひひ、と鄧茂は笑う。

 

「冗談だよ。程遠志が逃げるなら、僕も逃げないわけがないじゃないか。付き合うよ」

「だよな」程遠志は胸を撫で下ろした。「びっくりさせるなよ、怖えな。来てくれると信じてたぜ」

「程遠志に一生付いてく、って昔約束しちゃったからね」

 

  そう言われて、程遠志はそういえばそんなこともあった、と思い出す。そんな軽い約束を後生大事に覚えていたなんて、女みたいな奴だな、と思ったが、鄧茂の場合冗談にならない。初対面の人間が彼を男と見抜くことなど中々できないし、程遠志自身、たまにふと間違えることがあった。

  さて、と程遠志は張曼成の方を向く。真っ直ぐな瞳が、二つ、ぶつかり合った。どちらも逸らさない。

 

「張曼成は、どうする。無理強いはしねえぞ」

「程遠志は、どうしてこの場で話した?」

「なに?」

「俺がもし、黄巾党に伝えたらどうするんだ」

「なんだよ。そんな詰まんねえことを考えてやがったのか」

「大事なことだと思うが」

「まったく大事じゃねえよ。だって、そんなことしねえだろ、お前は」

「どうして言い切れる」

「どうしても何も、お前はそういう奴だ。俺はわかってんだよ」

 

  理不尽なほどまでに決めつけが混じった言葉だった。だが、張曼成は、その言葉を受けて突き抜けるような爽快感を覚えた。

  信用だとか、信頼だとかではない。こうであるに違いない、という鋳型に流し込んだような自己中心的な偏見が、底抜けた程遠志という人柄を表していた。

 

「俺も抜ける」

「お、マジか。安心した。なんたってよ、俺はお前たちしか友達がいねえんだ。断られたらどうしようかと思ったぜ」

 

  程遠志は自嘲した後、ぱん、と手を叩いた。

 

「よし、それならこれから作戦会議だ」

「作戦会議?」

「曹操軍に降伏するんなら、俺の率いる兵士はあんまり黄巾党に忠誠心を持ってないやつの方が嬉しいんだよな。どの兵を率いるかの裁量権は、なんとか認めてもらったから、今から演習している兵士の様子を見に行くぞ」

「あー、そういうことね。誰か当てはあるの」

「俺が友達少ねえこと知ってるだろ?」

「だよね」

 

  小憎たらしい笑みを浮かべる鄧茂を見て、あ、と程遠志は思い出した。

  会議の時に、程遠志の傍にいた腰の低い男。戦意はなく、曹操軍に勝てる未来はないと考えている様子だった。あの会議に参加している程度の地位にいる人間なのだろうが、それでも、人手にはなる。

 

「いや、一人いたわ」

「え。誰?  友達?」

「友達ってほどじゃねえよ。単に、当てになりそうな奴が一人いるってだけだ」

「程遠志に友達ができるんなら僕にまず教えてよね。正式に審査するし」

「どんだけだよ。女の嫉妬じゃねーんだから」

 

  お前は冗談にならねーんだよ、と程遠志が言うと、鄧茂はまた、悪戯っぽい笑みを浮かべた。本当に洒落にならねえ。程遠志は、一つ溜息を吐いた。

 

 

 

 

  兵士が集まったのか、集まってないのかで言えば、確かに集まった。しかし、程遠志の顔は今一冴えていない。その原因は、彼の楽観視にあった。

  戦意のない者も大体三百人はいるだろう、と考えていたが、その実。蓋を開けてみたら集まったのは二百人にも満たなかった。厳政にはそれだけでいいのかと心配され、裴元紹には鼻で笑われた。別段、降伏する以上兵の数にそこまで必要性は感じられなかったが、こうも自分の人望の無さを感じると流石に苦笑を抑えきれない。程遠志は、そう嘯いた。

 

「いよいよだな。鄧茂、張曼成、緊張はしてないか」

「してないよ。戦争は割と慣れてるし」

「俺も、初めてではない」

「よし、それならいい」

 

  これから、厳政の演説が始まる。それから砦を出て、曹操の街を襲い、軍を誘き寄せて一戦する。どこで降伏するかが重要だ、と程遠志は思った。機会を見誤れば、黄巾党の中で孤立し、嬲り殺される。

 

「そういえば、程遠志」

「どうした」

「疑問だったんだけど、裴元紹って人はなんで程遠志をこの戦いに行かせたの?」

「あいつも馬鹿じゃねえ。この戦いで曹操に俺らが負けることを理解してるのさ。そこで死んだら万々歳、逃げ帰ってきたら適当な理由をつけて殺す気なんだろう」

「なるほどねー。でも、程遠志が黄巾党を裏切ることまでは読めなかったわけだ」

「そこまでは無理だ。頭が悪くねえって言っても、別にいいわけじゃねえ。あいつは精々俺が帰ってくるのを指くわえて待ってるのが関の山だ」

 

  その言葉を聞き、ふうん、と鄧茂は気のない返事を返した。彼の中で疑問は解決したらしい。

  そして、気がつけば厳政が演説を始めていた。おや、と程遠志は思う。会議の時に見た頼りない印象は鳴りを潜め、多少生真面目すぎるきらいはあるものの、壇上から力強い言葉をこちらへ投げかけていた。演説の才は文句のつけようもない。

 

「中々、弁が立つ人だね」

「それが理由で張宝様の付き人に任命されたのかもな」

 

  兵士たちも、直立不動で厳政の言葉を聞いている。程遠志は認識を改める必要を感じた。

  曹操との決戦の大将を押し付けられたのではなく、彼が適任だった、と言ってもいいかもしれない。少なくとも、出陣前の演算によって兵卒たちの手綱をしっかりと握られるのは、この砦において厳政しかいないだろう。

 

「程遠志、俺たちはどこの村を襲うんだ?」

「知らねえよ。黄巾党なんて行き当たりばったりな奴らが多いんだ。少なくとも、前の会議では決まってなんていなかった」

「随分と、適当な作戦だな」

「曹操の軍を誘き出すのが目的なんだろ。どこを襲うかは大した問題じゃねえ」

「だとしても、だ」

「まあ安心しろよ。少なくとも、今はもう決まってるだろうしな」

 

  少し張り詰めた様子の張曼成とは対照的に、余裕綽々と程遠志は笑っていた。笑いながら、厳政の方を軽く窺っている。

 

「お、丁度いい。今からどこに向かうのか教えてくれるらしいぜ」

 

  演説はいよいよ終局を迎えていた。厳政の口から流れ出る熱は、兵卒に移り、砦に残る臆病な男たちにも移っているようだった。まるで曹操との戦いが既に決したような、もう勝ちを収めたような多幸感が出ている。

  厳政は胸を張って言った。「北西の村へ向けて、攻め込む」淡々とした言葉だったが、それを受けて、兵卒たちは雷のように咆哮した。

 

「北西の村って、随分と適当な」

「別にいいだろ。現に、北西方面の村なんて一つしかないんだし」

 

  そこまで言って、程遠志はあれ、と首を捻った。何か忘れているような気がする。なんだったかな、と考えていると、鄧茂も、張曼成も同じように首を傾けていた。

  その数秒後、同時に思い出した。程遠志は肩をビクつかせ、鄧茂は目が泳ぎ、張曼成は頰から汗を流した。

  先日、夏侯淵と遭遇した村ではないか。程遠志は何か嫌な予感が、胸の中でむくむくと育ってきているのを感じた。そして、その予感が育ちきるのを待つことなく、壇上の厳政は、自分の演説に酔ったように叫んだ。

 

「曹操軍の大将は、恐らく夏侯淵。我が軍の方が兵力は優勢である!  一揉みに叩き潰すのみだ!」

 

  嘘だろ、と程遠志は零した。

  嘘じゃない、と鄧茂が呆然とした。

  張曼成は何も喋らない。喋れない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黄巾党編 第四話

評価をつけてくださった方、お気に入り登録をしてくださった方、本当にありがとうございます! 励みになってます!(^^)!


 

 

 

 

 

「程遠志、これまずくない」

「まずくねえよ。夏侯淵が俺の名前を覚えてようが、覚えてなかろうが、問題なんてねえ。黄巾の情報を持ったまま降伏するのに、文句なんてつけられてたまるか」

「まあ、それはそうだけど……」

「曹操は知りたがってるはずだ。黄巾の情報を、間違いなく。夏侯淵ってのは曹操の部下なんだから、それを無下にはできないんだ。そうだろ?」

「そうかもしれない」

「そうだ。間違いねえ」

 

  程遠志は意固地になっている。これはまずいな、と鄧茂は苦笑した。こんな具合の彼が何かを成功させたことなどない。博打でも、女関係でも。拗れに拗れ、最終的に追い込まれ、そこでようやく動き出し、程遠志らしい突飛な行動でなんとか丸め込む。よくある展開だ。

  夏侯淵の時と同じだ。意識をしすぎて怪しまれ、追い込まれて、告白した。最終的に意味のわからない行動に出ることで、お茶を濁すのが彼の行動原理になっている。不思議なことにその突飛な行動は英雄的なものを帯びることがあり、今まではなんとかうまく丸め込めているが、果たして今回はどうなるだろうか。

 

「程遠志、もう村に着くぞ。どうする」

「どうするも何も、変わっちゃいねえよ。一回どうするかを決めたら、それに身を任せることが俺の人生哲学だ。降伏することは、変えねえ」

「分かった。腹を括る」

「そうしろ。俺もとっくに覚悟を決めた」

 

  程遠志は自分に言い聞かせた。問題なんて、何もない。何もあるはずがないのだ。

  しかし、言い聞かせれば言い聞かせるほど、何かが間違っているのではないか、という疑念に襲われる。もう後戻りはできないのだ。そう自分を一喝する。

 

「あれ」

 

  唐突に、間の抜けた声がした。あまりにも大きな声だったので、少し程遠志は驚き、その声の主であろう鄧茂へ向けて注意を飛ばそうとした。

  しかし、それは半分正解で、半分不正解だった。声の主は、確かに鄧茂だったが、鄧茂だけではなかった。一般兵も、鄧茂の隣の張曼成も、また、短い嘆息にも似た声を発していたのである。

  何事か、と前を見て、程遠志も声を発した。それは鄧茂たちの溜息じみた声ではなく、絶叫と呼ぶべきものだった。村の中から、大勢の人が出てきている。民ではない。武装している。兵士たちだ。

  それはつまり。

 

「曹操軍?」

 

  嘘だろ、とどこからともなく情けない声が程遠志の耳に入ってきたのと同時に、矢が飛んできた。

  程遠志は確かに見た。村から出てきた武装した兵士たちの、一番前にいる女。凛々しく弓を構えて、放った女。数日前に見た、恐怖の対象になり得る女。夏侯淵だ。夏侯淵だ!

  矢は程遠志たちの方角へ飛んできた。兵士の悲鳴と、矢が土に突き刺さる音が、木霊した。

  黄巾党の兵士が、皆、混乱した。状況の把握ができず、指揮系統が混乱した。その間にも弓は絶え間なく飛んでくる。二射、三射、四射。相当の距離を苦ともせず飛んでくる弓は、風の抵抗と減速から兵士たちを傷つけることはなかったが、黄巾党の軍の各所に、降ってきた。

 

  どういうことだ、と程遠志は呆然となった。一瞬にも満たない間に、脳内を単語が駆け巡る。「罠」「夏侯淵」「曹操」「厳政」「何故ここに」「裴元紹」「裏切り」それらは最終的に全て繫がり合い、「これはまずい」という誰しもが思いつくような感想になった。

  慌てて、辺りを見渡す。弓矢が近くに落ちていた。夏侯淵が今さっき射掛けてきたものだ。はっとする。その鏃に、なにかが刺さっていた。

  小走りで弓矢の元へ向かい、土から一気に抜いた。刺さっているのは手紙だった。矢文だ。くしゃくしゃになったそれを、無造作に開く。

  程遠志はそこに光明があるのではないか、と期待していた。敵が夏侯淵だと少し前に知らされて、街に来てみたら待ち伏せをされ、いきなり弓を射掛けられた。そろそろ、報われてもいい頃ではないか、なんて、理屈ではない期待をしてしまう。

 

「程遠志」気がつけば隣には鄧茂がいた。「なんて書いてある?」

「……読んでみるか?」

「口で言ってよ」

 

  程遠志は笑い出しそうになった。愉快だからではない。捨て鉢になる気持ちが、むくむくと胸から湧いてくる。

 

「降伏は認めない、だってよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

  流れ、というものは、どのような事柄にも存在する現象だ、と程遠志は思っている。博打においても、戦争においても、一騎打ちにおいても。運、と言い換えれるような、言い換えれないような。そのようなものは、必ず存在しているのだ。

  だから、今の状況はその流れというものが非常に悪いに違いない、と理解した。捨て鉢になりそうだったが、ぐっ、と我慢する。

  これからどうする、と自らに問いた。夏侯淵に降伏することはできない。あたかも脳内を覗き込んだような矢文のせいで。ならば別の手を打つしかない。別の手なんて、そうあるものではない。数ある選択肢の中から、どれか一つを選ばなければならない。

 

 

  夏侯淵と戦うか、一目散に逃げるか。

  ぱっと思いつく選択肢はこの二つだ。

 

 

  前者はあり得ない。黄巾党はこの戦いに負ける。それは決定事項だと言ってもいい。曹操軍の兵数は把握できていないが、武装から練度まで黄巾とは比べ物にならない。勝つ術がない。ただ、戦場に屍を晒すだけだ。

  ならば、逃げるか。鄧茂はついて来てくれるはずだ、と程遠志は思う。張曼成もついて来てくれるかもしれない。だが、逃げてどうする。その先は?

  逃げた末に辿り着いた場所が、黄巾党だ。そこから逃げて、野盗にでも身をやつして、それからは?  真っ当な未来などないはずだ。

  この二つでは駄目だ、と切り捨てる。他の選択肢が必要だ。絞り出すように脳を捻る。普段使わない細胞の一つ一つが活発に動き回り、頭が掻き回される。その濁流に、程遠志は自ら飛び込んだ。

 

 

  数秒、あるいは数十秒かもしれない。なんにせよ、夏侯淵が弓を放ち、黄巾の軍が悲鳴を上げ、その余韻がまだ覚め切らぬ間である。程遠志は蹲るような姿勢で黙りこくっていた。

  立ちあがる。頭の中の靄は晴れていた。どうすればいいか、はわからない。どうするべきか、もわからない。こうしよう、と程遠志は正しいか正しくないかわからない案を決めた。決めたら迷わない。そういう男である。

 

 

「程遠志、どうするか決めたんだね」

「わかるか、鄧茂」

「何年の付き合いだと思ってんのさ」

「俺がなにするか聞いたら、お前は仰天するかもしれねえぞ」

「するよ。程遠志がすることは、いつも突飛で馬鹿らしいことだ。今回も、そうなんだろ?」

「失礼なやつだな―――まあ、間違っちゃいないけど」

 

 

  そう言って、程遠志は大笑した。その左腕はぶるぶると震えている。武者震いではない。緊張を隠しきれないのだ。

  張曼成は、黙って程遠志を見ている。その瞳は心配そうで、不安そうだった。

 

 

「何をするんだ」

「俺にできるのは、流れに身を任せることだけだ」

「お前の人生哲学か」

「そうさ。俺は当初の目的を変えねえ。曹操に降伏する」

「矢文を見たんだろ?」

「あんなものは、知らねえ。どうにでもなる」

「無抵抗で降伏して、縛られて、曹操の元に運ばれて、首を切られる未来しか見えない」

「そんな未来にはならねえから安心しろよ」

「どうして言い切れる」

「抵抗はするからだ」

 

 

  は?  と張曼成は目を丸くした。

 

 

「曹操の性格を聞いたことあるか?  有能な人間は、身分を問わず雇っているらしい」

「それがどうした」

「俺たちが有能だと曹操に知らしめてやれば、降伏も受け入れられると思わないか?」

「何を言っているんだ?」

「夏侯淵に一泡吹かせてやれば、証明できるってことだよ」

 

 

  何を、と張曼成は少し後退った。

  鄧茂も顔を強張らせている。

  程遠志は顔色を変えなかった。

 

 

「黄巾党では、曹操軍に勝てないんじゃなかったのか」

「黄巾では無理だ。兵の練度が違う」

「なら―――」

「俺たちだけで、の話だ。黄巾の話じゃない。俺たち二百人で、夏侯淵と戦う。そしてその後に、降伏する」

 

 

  張曼成と鄧茂の身体が硬直するのが、鎧の上からでもわかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黄巾党編 第五話

 

 

 

  荀彧は氷のような無表情だった。眼前には、彼女が予想した通りの光景が広がっている。

  数時間前に、戦闘が始まった。味方左翼と敵右翼の衝突。それに次いで中央と、味方右翼、敵左翼の衝突が起こった。

  単純な兵力を比較してみると、黄巾党と曹操軍にそう大した差はない。寧ろ、黄巾の方が兵士の数は上回ってすらいた。兵の練度を鑑みて、ようやく互角。そのような戦力差だった。

  だからこそ、曹操は夏侯淵と荀彧に敵軍を打ち破るのではなく、負けるな、としか命じなかった。前もって黄巾党から漏れていた出陣計画から、どれくらいの兵士が出陣するかはわかっている。押し留める程度でよかったのだ。

 

「でも、それでは」

 

  それでは華琳さまは本当の意味で喜ばないだろう、と荀彧は考えた。戦力的に同じならば、後は将の力量のみ。黄巾などの将に自分が劣るはずもない。彼女はそう自負している。

  そして、この結果だ。曹操軍左翼は黄巾党の右翼を崩壊させた。散り散りに逃げる黄巾党に、もはや戦意は見られない。

 

「桂花、完璧だったな」

「当たり前よ。こんなやつらに遅れをとるはずもないわ」

「兵士の数ではこちらの方が劣っていた故、ここまで早く終わるとは思わなかった」

「相手が弱すぎたわ。左翼に置いておいた隠し予備を使うまでもなかったし」

 

  そう言いながらも、荀彧はどことなく不満そうな顔だった。

  彼女らしい、と夏侯淵は思った。才のある者はそれを相手に求める傾向がある。主である曹操が強敵を求め、人材を集めるように。手応えがない、と荀彧は感じているのだろう。黄巾軍が弱すぎて、これでは自分の実力を華琳さまに認めてもらえない、という恐れも勿論あるのだろうが。

 

「ただ、問題があるとすれば、こちらの軍の統制も今ひとつ取れていないことか」

「そうね。黄巾の敗散に釣られてる。深追いしてる軍が要所要所にあるはず。逃げるんなら、逃しておけばいいのに。華琳さまに到底見せられた様ではないわ」

「砂煙の所為で戦場全体の把握も未だにできていない。恐らく、一過性の混乱だろうが、練度の底上げがまだまだ必要だな」

「一応、伝令は全体に向かわせたわ。もう半刻もすれば元どおりになるでしょうよ」

「そうか。ならば、後は待つだけだな」

 

  夏侯淵は静かにため息を吐いた。華琳さまに叱られることはないだろう。寧ろ、押し留めるだけでよかったところを完勝したのだから、褒められるに違いない。そう理解していたが、それでも、彼女の胸中から漂う憂鬱な思いは消えなかった。

  課題はまだ大きい。大陸に覇を唱える軍としてみると、この混乱は到底見逃せるものではない。志願兵の割合が高い所為か、まだ訓練が足りぬだけか。

  今回の戦いから、ほとんど収穫はなかった。ある程度までの練度の確認と、予想外の事態に指揮系統が混乱する危険性があることのみ。相手が正規軍ならば、ここまで容易く勝てなかっただろう。

 

「夏侯淵さま、伝令が参りました」

 

  本陣前の警護をしている男が大声を発した。

  ほお、と夏侯淵は溜息にも似た声を漏らす。荀彧は眉を少しだけ潜めた。

 

「通せ」

「かしこまりました」

 

  夏侯淵がそう言うと、三人の者が入ってきた。頭を深く下げ、にじり寄るように動いている。夏侯淵はそれを見て、何か見覚えを感じた。

  当たり前のことだ。曹操軍の人間なのだから、見たことぐらいあってもおかしくはない。そうは思ったものの、なかなかその疑問は解けなかった。

  何か変だ。

  何が変なのかはわからないが、そう思った。

  疑念を感じているのは荀彧も同じなのか、彼女も首を傾げながら口を開いた。

 

「随分と早いわね。他の伝令は、まだ帰ってきていないわよ」

「存外早く混乱は鎮まりました。他の伝令ももうそろそろ帰ってくる頃でしょう」

「早すぎるわよ。あんた、ちゃんと役目を果たしたんでしょうね」

「勿論」

「他の伝令を送ってもいいのよ」

「構いませんとも」

 

  妙に堂々とした伝令だった。荀彧は軍師であり、曹操軍の中枢に位置する少女である。命令一つで首が飛ぶ、たかが伝令がよくもそんな態度を取るものだ。夏侯淵は少し呆れた。

  荀彧は勿論良い顔をしていない。伝令は丁寧な言葉を使ってはいたものの、どことなく横柄で、尊大な内心が透けて見えていた。

 

「あんた―――」

「此度の作戦、お見事ですね」

 

  荀彧の言葉を遮って、伝令は口を開いた。

  何を急に。場の全員はそう思ったことだろう。唐突で、意味のない讃美だった。

 

「あんた、私の策を理解でもしたつもり?  調子に乗らないでくれる」

「勿論、理解できていません。俺にわかったのは、黄巾党が簡単に負けちゃったな、ってことくらいですし」

「そりゃそうよね。伝令の、それも男が。理解なんてできるはずない」

「―――斜行陣」

 

  ふっ、ともう一人の伝令が呟くように声を漏らした。夏侯淵も、荀彧も、伝令二人も。合わせて彼の方を見る。

 

「ただの横陣と見せかけ、左翼に兵を集中させて、一瞬で打ち破った。希臘(ギリシア)のエパメイノンダスが取った策に似ているな」

「はあ?」

「俺なりの考察だ。合っているか」

「……私はあんたの言っている人間を知らないし、知る気もない。これは私が独自で決めた策よ。それで、左翼騎兵の存在には気づいたの」

「それは知らなかった」

「なら、この策の本質を理解できたとは言えないわ。それで理解したつもりになるなんて、男風情がなんと烏滸がましい!」

 

  荀彧は目を怒らせて声を荒げた。

  夏侯淵はそれと対照的に、静かに辺りを見回した。脳が彼女に告げている「何かおかしい」という異変はどんどん加速している。最初の慇懃無礼な男。敬語を使わない男。何も喋らずニヤニヤしている女。伝令たちが、こんな態度を取るはずがない。

 

「貴様ら、何者だ?」

「伝令ですよ」

「嘘をつくな。桂花、伝令はこんな顔をしていたのか」

「数十人は送った伝令の顔なんて覚えていないわよ」

「とにかく、顔を上げろ」

「顔を上げて、いいのかよ」もう伝令の男は敬語を使う気もないらしかった。「それなら上げるけど、驚くなよ」

「早く上げろ」

「言われなくても」

 

  そこで、ようやく三人の伝令の顔を、夏侯淵は見た。「あっ」と彼女は声を上げる。

  どこかで見た顔だった。そのどこかが一瞬思い出せず、固まった。取るに足らない出来事だ、と記憶の隅に置いたものが、再び現れてくる。名前は。そうだ、確か名前は!

 

「貴様、程遠志!」

 

  夏侯淵が叫んだ途端、陣の向こうから鬨の声が上がり、どっと兵士が流れ込んできた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黄巾党編 最終話

これで黄巾党編は最後で、次からは黄巾討伐編になります!
感想等お待ちしています(^^♪


 

 

 

 

  鄧茂は流れというものを信じている。いや、信じざるを得ない、というべきか。程遠志と共にいると、流れというものがまるで目に見えているように感じられるのだ。

  程遠志という男は、両極端だった。失敗が続くときは失敗し続け、意味のわからぬことをして、それが成功に転ずると、成功し続ける。まさに今回は良い例だと思った。

  程遠志が曹操軍と戦うと決めた途端、鄧茂の目には見えぬはずのものが見えた。空気、雰囲気、熱気。それらこそがつまり、流れなのだと思った。理屈ではない。程遠志の無茶苦茶な作戦は、必ず成功するのだ、と確信できた。

  それからは、説明するのも愚かしく、馬鹿馬鹿しい現実があった。

 曹操軍は黄巾党を打ち破ったため、何故か、混乱した。その混乱の渦に紛れ、曹操軍に擬態した程遠志ら二百人は本陣まで容易く辿り着いた。その道中に出会った伝令を捕まえ、服を奪う余裕もあった。これらのうち、どれだけが程遠志の「流れ」によって引き出されたものだろうか。

 そして、最も恐ろしいものはその「流れ」というものを盲信して、一度言ったことを翻すことなく、敵陣に突貫した程遠志という男だ。

 

「覚えてくれてありがたいぜ、夏侯淵」

 

  程遠志は弓を構える兵士を従え、くく、と声を上げて笑った。

 

「どういうこと、陣前の警護は!」

「案外緩いもんだな、警護なんて。ないに等しかったぜ」

「本陣まで、そんな兵士達が簡単に入れるはずはないわ!」

「現実に、入れてるだろ。それが答えだよ」

 

  荀彧はそこで唇を噛み、押し黙った。あり得ないことである。本陣前には数百人の警護が付いているはずだ。今、この陣の中にも兵士がいるが、二百人の敵兵が入ってきて、ようやく武器を取り出して構えていた。遅すぎる。それまで誰一人にも怪しまれなかったと言うのか。

  それに、仮にできる確率が存在していたとして、何故そのような行動に移れるのか。二百人で敵軍の真っ只中に飛び込むなど、正気の沙汰ではない。荀彧は戦慄する。

 

「程遠志、お前は黄巾党だったのか」

「そうだな。あんときは焦ったよ。殺されるかと思った」

「あのとき、捕らえておかなかった私の落ち度か」

「流石に無理だろ。俺が黄巾だって察するなんてさ」

「無理だとしても、せねばならなかった。華琳さまに従う以上、それは当然のことだ」

「難しい話だな。俺にはわからねえことだ」

 

  程遠志は少し笑いながら言った。

 

「で、これで勝ったつもりか?」

「なかなか悪くねえ指揮だったと自負してるぜ。もう詰めはかかってるだろ?」

「よくこれで勝ち誇れたものだな。ここにはまだ十分な兵士がいる。貴様らの脆弱な兵士などとは比べ物にならない戦力だ。それに、少しすれば伝令も帰ってくるし、怪しんだ警護の者たちが戻って来るやもしれん」

「その前に終わらせればいいんだろ」

「それだけならば、そうだな」

「まだあるってのか」

「私がいる。私が、黄巾賊なぞに負けるはずがない」

 

  屹立した夏侯淵から、曹操の僕である自分が負けるはずない、という強烈な自負心が発せられていた。

  程遠志は苦笑いを隠せない。見たことがあるのだ。鄧茂も、張曼成も見たことのない、夏侯淵の戦う様を。この二百の兵士では到底勝てないと、彼もまた理解している。

 

「そうかもしれないな。それでも、曹操にとって痛手になるのは間違いないだろう」

「どういうことだ」

「俺たちは今にでも弓を射かけれるんだぜ。俺の行動一つで、だ。夏侯淵、お前はそれを避けることができるかもしれないが、横の軍師はどうだ。他の兵士はどうだ。こんなとこで無駄な犠牲を払うことは、避けるべきことなんじゃないのか」

 

  夏侯淵からの返答はなかった。

  ちらり、と彼女は荀彧の方を見た。先ほどまで怒りを浮かべていた荀彧は、弓の狙いが自分であることを理解しても、怯まなかった。気強い目を、程遠志に向ける。

 

「やれるものなら、やってみなさいよ。私の命のために負けるくらいなら、死んだ方がマシよ。華琳さまに言い訳もできないわ」

「とのことだ。程遠志、人質でも取ったつもりだったか」

「随分と、威勢のいい女だな」

「こそこそと軍の隙間を掻い潜って来た臆病な男からしたら、そう見えるのかもしれないわね」

「そう言われると何も言い返せねえな」

 

 

  そこで、程遠志は言葉を切った。彼が喋るのをやめれば、自然と場は静まり返り、殺意に満ちた空間に変わる。

 

 

「よし」と呟くように程遠志が言った。彼の顔から、汗が一、二滴垂れ落ちた。もうここが限界だ、とも言った。それが、彼ら三人の間で取り決められた合言葉だった。

  これ以上夏侯淵や荀彧を刺激するのは、得策ではないと程遠志は思った。もう十分危ないのでは、という危惧もあったが、それは仕方のないことだ。言ってしまったことは返らないし、戻らない。

  程遠志は、弓を構えた時点である種の恐慌が起こると想定していた。それが夏侯淵の横にいる荀彧なのか、他の非戦闘員なのかはともかくとして、死の恐怖から多少の怯えが見えるはず。そんな予想を立てていた。

  そこから、優位を持って降伏する予定だった。

  だが、これまで全てが思い通りにいったというのに、最後の最後で思惑とは外れた。流れが切れた。ここが辞めどきだ、と程遠志は確信した。欲をかくべきではない。ここで戦いが始まったら、自分たちは全て死んでしまうのだ。

 

「弓を降ろせ」

 

  程遠志がそう言うと、重石を持たされた奴隷が、それから解放されるように兵士たちは弓を下げた。急になんだ、と夏侯淵は思考が止まる。立ち上がっていた程遠志たちは、たちまち膝をついて頭を下げた。

  驚くほどの早業だった。

 なんだ、と夏侯淵、荀彧が問いを投げかける前に、程遠志は叫んだ。

 

「降伏するから許してください!」

 

  はあ?  と声がした。もしかしたら、それは曹操軍の全員が言ったのかもしれなかった。

 

 

 

 

 

 

「程遠志、無抵抗で縛られちゃったけどこれからどうなるんだろうね」

「降伏して、縛られて、曹操のとこまで運ばれるのは俺の予想通りだったな」

「うるせえ。これでいいんだよ」

 

  程遠志はそっぽを向いて言った。彼ら三人は足と手を縛られ、広間に座らされていた。曹操が来て、どのような裁定を下すのかを待っている。そんな時間だった。

 

「もう少し、降伏まで時を遅らせても良かったのではなかったか」

「どういうことだよ、張曼成」

「あの猫耳軍師が殺されることは、明らかに向こうからしても損だ。降伏を認める確約を貰ってからでもよかったのではないか」

「あれ以上長引かせたら、ダメになる予感がしたんだよ」

「勘か?」

「勘だよ。悪いか」

「悪くない。お前の勘であそこまで行けたのだから、最後まで信じるさ」

 

  さっぱりと張曼成が言ったので、犬歯を見せて威嚇していた程遠志は逆に毒気を抜かれたようになった。なにも言えなくなって、変にむず痒い気持ちになって、舌打ちした。

 

「でも、程遠志、完璧だったじゃん」

「だろ。たぶん曹操も聞いてびっくりしてやがるんだろうな」

「程遠志ってそんなに戦の経験なかった気がしたのにな。僕とおんなじくらいでしょ?」

「頭のいいやつは、少ない説明でも十二分に理解できんだよ。戦もそれと同じだ」

「字も書けないのによく言うよ」

「地頭が良い、ってやつだ」

「そうだとは到底思えないけど、まあ、今日は信じざるを得ないかもね」

「中々格好良かっただろ?  惚れんなよ」

「うん。惚れちゃいそう」

「冗談にならねえな、マジで」

 

  程遠志は愉快そうに笑いながら、そんな軽口を叩き、すぐに真顔になった。「でもよ、ひょっとしたら殺されるんじゃねえか?」急に目を泳がせてそう言った。

  唐突に強面の顔を歪ませ、不安げな様子を見せるので鄧茂と張曼成は思わず笑ってしまった。さっきまでの威勢はどこへいったのか。

 

「曹操様も」いつのまにか程遠志は呼び捨てから様付けに変えていた。「あんま怒ってねえと嬉しいんだけどな」

「でも、僕たち結果的に見たら、僕たち誰も殺してないじゃん。それどころか二百人の兵士を持って来たわけだし」

「それで許してくれんのかな」

「大丈夫だよ、たぶん」

「鄧茂。お前なんでそんな余裕なんだ」

 

  怪訝な目で程遠志は鄧茂を見る。

 

「そりゃそうだよ。だって間違いないもん」

「なにが」

「程遠志が流れに乗って行動したんだから、全部上手くいくよ。僕はそう信じてる」

「……お前らはよ、なんだ、俺をむず痒くさせてなにがしてえんだ?」

 

  程遠志はまた、軽く舌打ちをした。それを見て鄧茂と張曼成は大笑する。いかつい顔をした彼が嫌そうな顔をして照れているのが、なんとも可笑しかった。

  そこで、こつりこつり、という音がした。

  ついにきたな、と程遠志が漏らすのと同時に、金髪の少女が入ってきた。夏侯淵と、それに似た黒髪の女を引き連れている。金髪が、曹操だ。程遠志はすぐさま確信した。漂う雰囲気が、常人とは明らかにかけ離れている。

 

「貴方が程遠志ね」

「はい。程遠志です」

 

  程遠志はすぐさま平伏した。くく、と鄧茂は誰にも気取られないように笑う。明らかに固くなっている。

  曹操もまた、程遠志が自分に気圧されていることに気がつき、薄く笑みを見せた。

 

「随分と怯えているじゃない。秋蘭、聞いていた様子とはだいぶ違うけれど?」

「私見ですが、平時はこういう人間なのだと思います。戦場に出れば何かが変わる類の人間かと」

「成る程。なかなか面白い話じゃない。それで程遠志、貴方は降伏すると言ったそうだけど、それはこの私に仕えるという意味で良いのかしら?」

「はい。そういうことです。身分は下の下からでよろしいので、どうか」

「そう。構わないわよ。降伏を認めるわ」

「え、本当ですか!」

 

  程遠志は思わず顔を上げて叫んだ。目を丸くして嬉しそうにする様子は、彼の容貌にひどく似合わず、滑稽に見えた。

 

「本当よ。何、私が嘘をついたとでも?」

「い、いえいえ。そんなことはないですとも。ただ、降伏は許さない、という矢文が飛んでいましたので」

「あれは黄巾の戦意を下げるための策だ」

 

  夏侯淵がぼそりと言った。雷に打たれたように程遠志は身体を震わせ、そこで彼女に対して怒りの眼を向ける……などということはなく、身体を震わせたまま「そうだったんですね」と呟くだけだった。

  徹底的に下手に出ているな、と夏侯淵は思った。保身に徹しているのだろう。つまらない、と彼女は思った。個人的に彼に対して恨みがあるわけではないが、飯屋と戦場で上手くしてやられた悔しみはある。軽くからかってやろう、と決めた。

 

「……華琳さま」

「なに、秋蘭?」

「実は、私、その男と少し因縁がございまして」

「因縁?」曹操の顔が少し変わる。「何かこの男が過去にしでかしたと?」

「いいえ、そのような大きい出来事ではないのですが、数日前に別件でこの男と会ったことがあります」

「夏侯淵、その話は言わなくてもいい……んじゃないですか」

 

  崩れかけた敬語で、頰から汗を流しながら程遠志は止める。鋭い目で夏侯淵を睨めつけるように見たが、彼女は意にも返さない。

  面白くなってきた、と夏侯淵が笑うと、何が言いたいのか察したのか、鄧茂も張曼成も共に笑っていた。その笑みを見て、曹操も先を促した。

 

「それで?」

「飯屋で偶然、こちらを見てくる野蛮で不審な男がいるな、と思い、怪しんで声をかけたのが、この程遠志でした」

「ふうん。何か抵抗したわけ」

「いえ。特に抵抗されることもなかったです。ただ、そこの男はとても驚くような行動に出ました」

「驚くような行動?」

「はい。私に告白してきました」

 

 は? と曹操は一瞬固まった。固まって、すぐに破顔した。「飯屋で、急に? 何の前触れもなく?」「はい」そう夏侯淵が答えると、愉快そうに大笑した。

 隣に座る黒髪の女は目を白黒させている。唐突な「告白」という単語に一瞬戸惑い、たちまち顔を真っ赤にして怒った。「貴様、どういうつもりだ……っ!」

 

「い、いや、その、それはですね。実際のところ、ただの冗だ―――」

「……冗談、などとは言わないだろうな、程遠志。私に告白し、やきもきさせ、それで実は冗談でした、と言うなど男のやることではないぞ」

「な、お前」程遠志は面食らった。「絶対やきもきなんて」

「確かにそうね。そんな男は雇う価値もないわ」

「曹操様―――!?」

 

 曹操も、夏侯淵も。いうまでもなく告白が嘘であったことなど既に察している。知っていて言っている。そういう性格なのである。

 鄧茂も張曼成も知っているので、知らぬのは黒髪の少女だけだった。「嘘だったら殺す」「本当でも殺す」そんな瞳で見つめてくる彼女を見、程遠志は背から脂汗を流した。

 

「本当なら、ここで正式に宣言してもらいたいわね」

「せ、宣言とは……」

「言葉のままよ。あなたの気持ちをそのまま率直に述べてくれればいいわ」

 

 意地の悪い笑みを浮かべて曹操は言う。

 針の筵。蛇に睨まれた蛙。そんな言葉が程遠志の頭の中に浮かんできた。言うしかないのか、と自問自答する。すぐに答えは出た。筵の上に座り続け、蛇に睨まれ続けることができるのか。それと同義だ。

 そこまで精神力が強かったら、俺はこんな無様な格好になってねえな。程遠志は苦笑いをしながらそう思った。

 それならば、堂々と宣言してやろう! 曹操を感心させ、黒髪の女に認められ、夏侯淵を恥ずかしがらせるほどに。程遠志はそう思い、背筋を伸ばし、胸を張って言った。

 

 

「俺は―――夏侯淵に一目惚れしました。大好きです!」

 

 

 

 ―――この言葉が果たして、曹操ら三人に響いたのかは、言うまでもないことである。

 このような感じで、程遠志たちは曹操軍に加入した。この後、荀彧に罵倒を受けたり、許褚から存在を無視されたりと散々なことがあるのだが、まあ、大体はこんな感じだ。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2章 黄巾討伐編 黄巾討伐編 第一話

多数のお気に入り、感想、評価すべて励みになっています!!!
久しぶりに恋姫をPSPでやったら桂花と秋蘭のことがもっと好きになっちゃった(''ω'')


 

 

 

 

 今年の夏は特別に暑いらしい、と曹操が言っていた。どうしてそんなことがわかるのか、と程遠志は不思議に思ったが、現に確かに暑い。これじゃやってられないよ、と鄧茂は会うたびに不平を漏らしてきた。

 

「今日が休みの日でよかった!」鄧茂は叫ぶように言った。

 

 程遠志からすれば別に休みの日であろうがなかろうが、熱いものは嫌なのだが、鄧茂は違うらしい。

 艶めかしい姿で横になっている鄧茂と、そこから微妙に目を離している張曼成を尻目に、程遠志は溜息を吐いた。

 

「お前らさ、休みの日になったらぜってえ俺の部屋に来るよな」

「暇なんだもん。程遠志ぐらいしか友達いないし」

「右に同じく」

「それならよ、作る努力をしろよ。張曼成はともかく鄧茂は休日どころか仕事が終わったらすぐに俺のところ来るじゃねえか」

「来ちゃダメ?」

「別にいいけどよ、もっと新たな人間関係を構築したらどうだ、って話だ」

「そういう程遠志はどうなのさ」

 

 それを言われると二の句が継げない。程遠志は目を逸らすしかなかった。

 彼もまた、生まれながらの強面が祟ってまだ誰とも打ち解けられていなかった。ほら、と勝ち誇る鄧茂に、苛立ち紛れに拳骨を落とす。

 

「なにすんのさ!」

「得意げな顔が気に食わなかった。俺の部屋に入り浸りになって友達出来てねえ奴が勝ち誇ってんじゃねえ」

「だからって暴力振るわないでよね」

「昨今の、むやみやたらに暴力は振るわないほうがいいです、って風潮が俺は嫌いなんだよ」

「なにそれ」鄧茂は馬鹿馬鹿しいものを見た、という顔になる。「それに、僕が程遠志のよく行ってるのは、友達が少ないからだけじゃないんだよ」

「じゃあほかに何があるんだよ」

 

 鄧茂はいったい何を言うのだろうか、と程遠志は考える。「程遠志のことが好きだからだよ」と真顔で言う鄧茂の姿を幻視し、どきりとした。

 あり得ない。いやいや鄧茂ならばあり得るやも―――と考えていると、鄧茂は割と深刻そうな顔で言った。

 

「僕が男だってこと、まだ曹操様とか気づいてないみたいなの」

「ああ―――そのことね」

「そう。このままだと、すっごくまずいことになりそうなんだよね」

「それなら早く言えばいいじゃねえか」

「今の時点でも割とまずいことになってる気がするんだよね……」

 

 鄧茂の口ぶりは軽かったが、顔は笑っていなかった。曹操に同性愛の気があることを理解したのは最近で、鄧茂に対してちょっかいを駆けだしたのもまた、最近である。加えて言えば、大の男嫌いの荀彧が程遠志ら三人の中で鄧茂に対してだけ普通に話すようになったのも最近である。

 ここで本来の性別を明かしたらどうなるだろう。考えたくもねえな、と程遠志は零した。

 

「いいじゃねえかよ。好意的に見ようぜ。唯一お前だけが曹操様とか、荀彧様とかと仲良くできてんだからよ」

「その『仲良く』が問題なんじゃないか。それで程遠志のとこに逃げ込んでるんだしさ」

「まあ、そうなんだろうけどよ。深く気にしすぎるのも問題だぜ。明るく前向きに考えていこうや」

「適当な言葉だなぁ……」

 

 苦笑しながらも、鄧茂は本当に悩んでいる様子だった。ふむ、と程遠志は顎に手を当てる。人間関係というか、そういった類のことで鄧茂がここまで神経をすり減らしているのは、初めて見た。

 軽口でもたたいて気を休めてやろう、と程遠志にしては珍しい気を使ったことを考えた。

 

「でもよ、俺は安心したぜ」

「安心?」鄧茂は首をひねった。「なんでさ」

「てっきりお前がこう言うんじゃないか、って思ったんだ―――俺のことが好きだから、部屋に入り浸りになってるんだよ、って」

「ああ、確かに。よく考えたらそれが一番だね」

 

 笑わせてやろう、と程遠志が軽く吐いた言葉に、鄧茂は軽々と頷いた。

 

「冗談だろ?」

「本気だよ、確かめてみる?」

 

 何をだよ、と程遠志が彼らしくもない少し焦った声で言った。

 俺のいないとこでやれよな、と張曼成も少し嫌そうに言った。

 

 

 

 

 

 飯でも食いに行こうぜ、と程遠志が呟くように言ったときには、もう、既に陽が落ちてしまっていた。

 こんな夜になるまで、彼ら三人は何も食わず、時に馬鹿話をし、時に睡眠を貪り、各自思いのままの行動をしていた。休日とはそうあるべきものだ、という認識は、この三人の等しいものだった。

 

「まだ暑くない? 程遠志」

「流石によ、腹が減りすぎちまった。これ以上は無理だ。そうだろ?」

「まあそうだけど―――僕は暑いほうが嫌だな」

「悪い。俺も限界だ」

「ほら、張曼成もこう言ってら。多数決で二対一だ。いいよな、こういうとき友達が三人だと。二で割り切れねえのがいい」

 

 それなら別に五人でも七人でも同じじゃん、という鄧茂の声を無視して、程遠志は外に出る。張曼成も続けて立ち上がると、鄧茂も渋々それに続いた。

 

「どこに食べに行くのか決めてるの?」

「いや。何にも決めてねえ。歩きながら決めればいいだろ」

「それなら、中でまだ涼みながら決めればよかったじゃないか」

「結局面倒くさくなって何も決められなくなる気がしたんだよ。こういうのはよ、恋愛とかと一緒なんだ。やれるときにはやる。動くときには動く、だ」

「そんな風に恋愛を語る程遠志は、夏侯淵さまに告白して、何か進展があったのかい?」

 

 鄧茂がそう問いかけると、程遠志は一瞬苦い顔になり、すぐに両手を挙げた。

 

「ずりーぞ、最低だ。そんな答えのわかってることを聞いてくるなんて。張曼成、お前もなんか言ってやれよ」

「あの時の程遠志は面白かったからな。どうしようもない」

「ひでえな、お前ら。最低だよ。俺はあれから夏侯淵に会うたびに笑われるし、夏侯惇に会うたびに絡まれるのに」

 

 程遠志はつい先日黒髪の少女―――夏侯惇にひどくやられたことを思い出した。「お前みたいなやつが、秋蘭に釣り合うわけがない。私と勝負しろ!」と、激烈に詰め寄られ、夏侯惇の気性を理解している程遠志は、子供の相手をする様に適当に話を逸らせばいいとわかってはいたものの、その勝負を受けた。

 今思えば阿呆らしいことだったが、ふと、「夏侯惇とは夏侯淵と比べてどれほど強いのだろう?」と程遠志は疑問になったのだ。

 軽く試してみよう、と思ったのが運の尽き。夏侯惇の軽くは軽くで終わらない、ということをそこで学べた。学ばされた。

 

「そう考えると、僕らも割合と曹操様の家臣と話してるんだね」

「とは言っても全く話さないやつもいるだろ。許褚、だっけか。あの小さいガキとか。張曼成、お前も話しかけられたことないだろ」

「ないな。一度たりとも」張曼成は静かに首を振った。

「だって、あれはまた別でしょ。黄巾に対して敵意を持ってるんだから、そりゃまあ僕らを受け入れ難いのは当たり前だよ」

「に、してもだ。無視されるならともかく俺たちがそこにいないみたいに扱ってくるじゃねーか」

「僕には気持ちがわかるけどなあ。そうでもしないと、多分ぶん殴りたくなっちゃうんだよ」

 

 ふうん、と程遠志は適当に返した。自分にはわからない感情だな、とも思った。生まれだとか、育ちだとか。もともとの土壌が違う程遠志とは考え方が正反対と言ってもいいのだろう。

 

「お前ら、何が食いたいとかあるか?」

「なんでもいいよ。お腹に溜まれば」

「がっつり食えればなんでもいい」

「適当だな―――お、ここなんてどうだ」

 

 程遠志が指をさした先は、如何にもな高級志向の料理店があった。店の前にかかっている料理表からも、その強気な値段設定が見て取れる。

 鄧茂と張曼成は、見るからに狼狽えた。夏侯淵に最初に出会った時の飯屋よりも、遥かに値段は高い。

 

「こ、こんなに程遠志ってお金持ってたっけ」

「持ってねえけど、経費で落ちるんじゃねえの」

「落ちるわけないでしょ」

「黄巾のときは、割と誤魔化せたんだけどな。それなら無理か」

 

 ままならねえもんだ、と程遠志が溜息を吐いた。それとほぼ同時に、料理店の扉が開く。

 中から三人の人間が出てきた。あ、と程遠志は固まる。見覚えのある人間、というか、毎日見ている人間だった。

 

「あら、程遠志。偶然ね」

「……ホント、すごい偶然ですね。曹操様」

 

 曹操と、夏侯惇と、夏侯淵。

 程遠志は頭が痛くなる思いだった。嘘だろ、と心の中で嘯く。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黄巾討伐編 第二話

 

 

 

「立ち話もなんだから、店の中に入りましょう」

 

 曹操はそう言うと、今出てきた料理店に再び入り直した。え、と程遠志は思わず叫ぶ。こんな高い店に入るのか。 

 

「心配しなくても、お金くらいは私が持ってあげるわよ」

「華琳さま、このような輩どもにそこまでしてやる必要は―――」

「いいのよ、春蘭。彼、彼女らには頼みたいことがあるのだから」

 

 彼女、と呼ばれ、流し目で見られて、鄧茂は一瞬肩をビクつかせた。

 

「頼み事って何ですか?」

「そのことは中で、料理にでも手を伸ばしながら話しましょう」

 

 程遠志は嫌な予感がした。どうにもきな臭い。

 すぐにでもこの料理店から出るべきなのだろうが、悲しいかな、それはできない。曹操に逆らう気には、どうにもなれないからだ。

 

「おい、程遠志」夏侯惇がすっ、と寄ってきた。「お前、ちゃんと鍛えているか」

「ああ。鍛えてるよ」

「前みたいな酷い有様じゃ、お前のことを一生認めてなんてやらないからな!」

「前って。あの、お前と勝負した時のことか」

「そうだ。私から一本も取れなかった、あの時だ」

「お前には、俺は一生勝てない気がするんだけど」

「そんな思いでどうする! やる前から諦めるな!」

 

 夏侯惇はそう言ったかと思うと、程遠志の背中をばん、と叩いた。

 まるで飛び上がるような衝撃―――というか、実際に飛び上がった。人一人分くらいの距離を程遠志はその勢いのまま跳躍し、着地してつんのめった。

 くすくす、と夏侯淵が笑っている。こんな奴に勝てるわけねえだろ、と程遠志は呆れながら思う。

 

「まあよ、善処するよ」

「ゼンショ?」

 

 夏侯惇はその単語の意味が分からないらしく、その分からないことを察せられることも嫌らしく、微妙な顔のまま二、三度頷いた。

 

「うむ。ゼンショしろ」

「ああ」

「程遠志、お前も随分と姉者と仲良くなったな」

 

 小さな声で、背後から夏侯淵が話しかけてくる。

 夏侯惇にその言葉を聞かれれば「この男などと仲良くなんてない」と猛烈に否定し、程遠志に迷惑がかかるのではないか、と危惧してくれる程度には気を使ってくれていた。

 

「どこがだよ」

「私と同じで、姉者にも敬語を使っていないじゃないか」

「……お前と同じことを言われたんだよ」

「私と同じ?」

 

 夏侯淵は首を傾げる。こいつ、もう忘れたのか、と程遠志は少し腹を立てた。

 少し前―――程遠志が曹操に仕えるようになった初期に、夏侯淵は彼に一つ文句をつけてきた。「お前の敬語は気味が悪い」「もっと、自然に話すようにしろ」と。

 それと全く同じことを、夏侯惇にも言われた。ただそれだけの話である。

 夏侯淵に程遠志がそう伝えると、「ああ」と言って手を打った。心なしか顔が笑っている。

 

「姉者と同じ、というのはいいな」

「何がだよ」程遠志は呆れた顔になる。「俺からしてみたら、お前ら姉妹に敬語をケチつけられただけだぞ。なんもよくねえ」

「姉者は可愛いからな。それに免じて許してやってくれ」

「どういうことだっつーの」

 

 程遠志は、にやにやと笑う夏侯淵を尻目に軽く肩をすくめた。

 そんなことをしながらも、料理店の店員に案内され、席につく。鄧茂と張曼成は明らかに舞い上がっていた。

 程遠志も店の中に通されて、実際に料理が目の前に並んでくるのを見ると、少しずつだがこんなのも悪くはねえな、と思うようになってくる。

 落ち着け、と頭を振る。鄧茂や張曼成みたく、料理で釣られては駄目だ。

 

「それで、曹操様。頼みたいことって何ですか」

「そうね。でも、その前に賭けをしない?」

「は?」程遠志は一瞬、素になった。「あ―――いや。どういうことです?」

「そのままの意味よ。私たちと、対決しない?」

「対決」

 

 いい響きの言葉だった。対決。言葉の勢いのまま、すっと胸に入ってきそうになって、程遠志はまたハッとする。

 

「と、いうと」

「簡単な、なんてことのない勝負よ。そこの料理を、早く平らげた方が勝ち。私たち、と言っても、勝負するのは春蘭だけどね」

「その対決に、何の意味が」

「勝った方は、負けた方に言うことを一つだけ聞かせられる、というのはどう。私は貴方に少し無理難題を言うわ」

 

 無理難題を少し言う、とは。程遠志は苦笑した。どこに、少しの要素があるんだ。

 鄧茂と張曼成は、料理に魅かれていた目を、いつの間にか程遠志の方へ不安げに向けていた。

 

「俺が勝ったら、何言ってもいいんですね」

「勿論よ。ここの料理店を一生無料にしてもいいし、貴方の給料を二倍にしてもいい」

「休みを増やしてくれ、なんて願いでもいいんですか」

「あら、不満があったの」

「別にそういうわけじゃないですけど」

「いいわよ。なんだって、言うことを聞いてあげる」

 

 ふうん、と程遠志は溜息に似た声を漏らす。おい、と横で声がした。鄧茂と張曼成が、まるで大事な何かを伝えたいと言わんばかりに、両の手でバツ印を作っていた。小さく、ばれないように。

 彼らがあくまで小さく遠慮しがちに行動しているのは、勿論曹操らに対する遠慮もあるのだろうが、程遠志はこんな挑発に乗らないだろうという信用も多かった。

 いくら相手が主の曹操とは言えど、あくまで冗談の範疇に入る提案だ。拒否することは不可能でない。

 だというのにもかかわらず、程遠志はにやりと笑った。「いいっすね。受けますよ」勝ちを確信した表情で、そう言う。

 そこで初めて鄧茂は「程遠志!」と悲痛な声で言ったが、程遠志の表情は変わらない。

 それどころか彼は鄧茂の腕を静かに引いて、自分の方へ引き寄せた。耳元で囁く。

 

「俺よ、昨日見ちまったんだよ」

「見たって何を」

「夏侯惇の、食べるのが遅いところをだよ。それに、曹操様たちはさっきまで飯を食ってたんだ」

「だから勝てるって?」鄧茂は軽く首を振る。「根拠が薄すぎる」

「負けねえよ。それに、お前も曹操様に難儀してたんだろ。ここで俺がしっかり勝って、絶対に怒らないって条件を受け入れてもらって、お前の性別を言いやすくしてやるよ」

「程遠志、そのために……?」

「ああ。ここで俺が負けるとすれば、夏侯惇が昨日の飯を食う姿を俺に見せることも、曹操様がこの店から出てきたことも、計画のうちってことになる。そんなことあり得るか?」

 

 あり得る、と鄧茂は言いたかった。曹操ならばやりかねない。夏侯淵の悪戯っぽい笑みも、夏侯惇の得意げな表情も。すべてがそれを裏付けるようであった。

 しかし、鄧茂は程遠志を止めることができなかった。考えすぎだろうという思いと、程遠志が自分のことを心配してくれていた嬉しさから、何も言えなくなっていたためだ。

 

 

 

 

 程遠志は簡単に負けた。彼は捨て鉢になったのか、それとも負けるのならば高級な料理を味わって食ってやろう、と画策したのか、最後の方はえらくゆっくりと箸を進めていた。

 夏侯惇の飯を食べる姿は美しく、その上早かった。それに動揺した程遠志は焦り、そのせいでいつもよりもかえって遅くなってしまい、惨敗した。

 

「程遠志。私たちの勝ちね」

「もしかして、ですけど。俺って仕組まれました?」

「ええ。ごめんなさい、と謝った方がいいかしら」

「それは、まあ、いいですけど」程遠志はどうも釈然としなかった。「こんな賭けをする必要なかったじゃないですか」

「どうして?」

「賭けなんてしなくても、命令されたら俺は何でもしますよ。なんでも、ね」

 

 その程遠志の言葉は、完璧に掌で踊らされたことからくる不満の感情なのか、負けたからこそ曹操への忠誠心を見せてやろうという媚びなのか。

 恐らくそのどちらもだろう、と鄧茂は思った。やめればよかったのに、と思いながらも、真剣に止められなかった自分が言えたことではないな、と思った。

 

「あら。それはありがたいことね」

「ええ。何でもおっしゃってください」

「今現在の、我が軍の情勢を知っているかしら」

「黄巾に対して圧倒的に押してる、ってのは知ってますよ」

「そうね。凪たちが、向こうの主力軍を撃破した後、逃げ込んだ城を包囲しているわ」

「順調ですね」

「順調すぎたのが、失策だったかもしれないわね」

 

 え、と程遠志は小さく漏らすように言う。順調ならばいいではないか。

 凪―――というのが誰を指すのか、まだ程遠志は知らない。恐らく真名なのだろうから復唱することを避けたが、彼女が城を包囲しているならば何も問題ないのではないはずでは。

 

「どういうことですか」

「今、黄巾党の総指揮を取っているのは、誰かご存知かしら」

「張角様―――」程遠志はそこで、慌てて手を振る。「張角ですよね。そう。張角」

「名目上は、そうね。ちなみに貴方はその張角の顔を知っているの?」

「知らないですね。俺は、元々ある黄巾党に便乗して入った口だったので」

「じゃあ、張角が何をやっているのかも知らないの?」

「いや、それは聞いたことがあります。確か、旅芸人をやっていた―――」

「数え役萬しすたーず、という名前で活動しているのでしょう?」

 

 そこまで知られているのか、と程遠志は驚く。流石に情報量が違うな、と感心していると、彼の隣で張曼成がぼそりと呟くように言った。

 

「しすたぁず、です」

「?」

「しすたーず、ではなく、しすたぁず」

「……そこは、重要な部分なの?」

「その読み間違いで、一度刃傷沙汰になりました」

「……そ、そう」

 

 曹操も流石に面食らった様子で黙り込んだ。嘘ではない。実際にあったことである。

 

「とにかく。名目上の指揮官は張角でも、実際に軍を動かすのは、また別の将がやることでしょう? それは誰かわかる?」

「実際の、大将」

 

 程遠志は首を捻った。彼は、黄巾党で人付き合いを精力的にしてはいない。思い当たる人間はそう簡単に出てこなかった。

 

「あら、わからないの。今の総大将は、厳政という男が務めているそうよ」

「ああ! あの男か。覚えていますよ」

「その男なんだけど、先日、張角の身柄を捕えて我が軍に降伏したい、という書状を送ってきたわ」

「ええ!? ……真面目そうなやつに見えたんですけどねえ」

「あら。我が軍に降ることは不真面目だと?」

「い―――いやいや。そういう意味じゃなくて。忠義を尽くす類の人間に見えたっていうか」

 

 しどろもどろになる程遠志を楽しそうに観察しながら、曹操は言った。

 

「まあ、そこまでは順調だったのだけれど、それから少し、問題が起きたの」

「問題?」

「少し前から、厳政から送られてくる書状が届かなくなったのよ」

「……降伏するのを、取りやめにしたとか?」

「いいえ。私は黄巾の間にも疑心暗鬼が生じた所為だ、と踏んでいるわ。城内から城外へ連絡を取る手段が消えたのでしょう」

「それは困りましたね」

「ええ。私としては、張角を生け捕りにしたいのよ。彼女にも何らかの才があるはずだわ。それを生かせる場を用意できれば、私の覇道の原動力となるかもしれない」

 

 曹操は力強く言った。

 この大乱を巻き起こした張角を生かすことは難しいのではないか、と程遠志は思ったが、その一方で曹操ならばどうとでもするんだろうな、という畏怖を持った。容易くやりかねない。

 

「今のままいけば、中で内乱が起こり、張角が死ぬかもしれない。かといって、漢王朝に不満を持つ人間が多いからなのか、そう容易くは降伏しない」

「今のままでは、手詰まりですね」

「そこで、貴方にお願いをしたいのよ」

「……俺が何をすれば」

「貴方が黄巾を抜けた、という知らせはあまり広がっていないはず。運のいいことに、秋蘭があの戦いで『降伏は認めない』という矢文も射ていた。おまけに、貴方は黄巾の中では中々の有名人だったらしいじゃない」

「つまり」

「貴方に、その城へ潜入してほしいの」

 

 確かに、中々の無理難題である。程遠志は重々しく唸った。

 程遠志が黄巾から曹操のもとへ身を移してから、黄巾党は連戦連敗を繰り返している。恐らく城の中は重苦しい空気が漂っているはずだ。

 すぐさま斬り殺される、なんてことは流石にないと思うが、危ないことに変わりはない。狗鷲に顔が似た、裴元紹の問題もある。

 

「黄巾の警戒が強まっているのなら、城内に自然と忍び込むのも難しいんじゃ」

「それはこちらで何とかするわ。そろそろ凪に任せっきりにするんじゃなくて、私も出陣する。私の歓待で少し包囲が緩み、その隙に忍び込めたことにしましょう」

「なるほど―――でも、そもそもこの作戦って、かなり難しいですよね」

「あら」曹操はにっこりと笑う。「なんでもするんでしょう? 命令すれば」

 

 う、と程遠志が言い淀む。何も言い返せない。

 

「まあ、心配することはないわ。張角、厳政と会うことが難しいなら、何もしないでくれても構わないし。危険を冒してまで助けに行ってくれ、とまでは頼らない。貴方が城に入って七日。その間になにも音沙汰がなければ、張角は諦めるわ」

「諦める、ってことは」

「力攻めに切り替える。張角の身柄を考えなければ、黄巾なんて簡単に滅ぼせるわ」

「……城の中にいる俺もろとも、なんてのは止めてくださいよ」

「安心しなさい。貴方の顔は一兵卒にも覚えさせるわ。―――どう、やってくれる?」

 

 やってくれる、も何も。やらなければならないだろう。程遠志は一瞬顔を歪ませ、苦笑した。

 

「やりますよ。やるしかないんでしょう?」

「ありがとう。成功の暁には、貴方に長い休息日を送るわ」

 

 随分と疲れが溜まっているらしいし、と曹操は嘯く。

 永遠の休みにならなければいいですけど、と程遠志が皮肉っぽく言うと、彼女はまた笑った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黄巾討伐編 第三話

一度、厳政視点からの話を挟みます!


 

 

 最近、どうにもツイてない。厳政は自分の靴についた犬の糞を見て、情けない顔になった。この一週間で、似た不幸に三度は遭遇した。もうこれは偶然ではなく必然と呼ぶべきである。それはつまり、今のこの不幸は起こるべくして起こったことなのか、と考えると、いやな気分になった。

 張宝に「付き人、お願い」と頼まれた時は、舞い上がったものだ。その時の高揚は既に冷めている。彼女ら三姉妹に対する忠誠心は今でも変わらないつもりだが、それは曹操へ内通書を送った自分が声を大にして言えることではないか、と諦めにも似た感情を持った。

 

「厳政、これからどうするの?」

「……城に籠っておれば、暫くは安全かと」

「それからは?」

「私がどうにかします。張宝さまは、心配なさらないでください」

「本当に大丈夫なんでしょうね」

 

 不安げな表情になる張宝を見て、厳政は少し悩みを持った。今のままでいいのだろうか。

 このまま戦えば負ける。この城に籠り続ければ、中から崩れる。それは間違えようのないことだ。だから、張角、張宝、張梁三人の身柄とともに降伏する。曹操からは彼女らを助命するという約定も受け取っている。

 それこそが彼女らを救う最もいい方法だと考えていた。

 その考えは、間違っていない。

 何が間違っていたかと言えば、黄巾党の内部が予想よりも脆かったことだろう。

 

 数日前、大規模な内部反乱が起きた。張角に対する反乱。黄巾党に後から入った、野党同然の者たちだった。

 厳政らによってそれは鎮圧されたが、その影響から中から外への脱出は難しくなり、曹操への連絡手段も消えた。

 今すぐ城を開門し、降伏するべきだ、とも思ったが、黄巾党の張角に対する信仰は、危うさを含む程までになっている。下手に曹操に降伏するなんて言えば、殺されかねない。

 

「なんでこんなことになっちゃったのかしらね」

「張宝さまが、大陸を獲る、なんて言うからじゃ……」

「うっ」張宝は胸を押さえた。「あ、あれは歌で獲る、って意味だったのよ」

「皆には、冗談には受け取られなかったみたいね」

 

 はあ、と張梁は一つ息を吐いた。その隣にいる張角も、張宝に苦笑を零しつつも少し焦った様子を見せている。

 彼女らを守らなければならない。張角も、張宝も。高い管理能力を有している張梁でさえも、元は旅芸人に過ぎないのだ。こんな状況に免疫があるはずもない。

 厳政は静かに決心した。今の黄巾党に、信用できる人間はいない。自分しかいない、と思った。彼女らを守れる人間は。

 そんな悲壮な決意を抱いたからか、厳政は昔のことを思い出した。一年前。張宝たちと出会った、一番最初の頃のことである。

 

 

 

 厳政は、昔、小さな村で小さな役職に就いていた。毎日毎日、ある程度決まった仕事を片付ける。それだけの日々だった。

 特に不平不満を覚えることはない。仕事は安定している。そんな毎日を暮らすことは人間誰しもができることではなく、自分はまだ恵まれている人間なのだ、とは理解できた。理解できたが、詰まらなかった。

 不平不満がないことが、不満だった。矛盾している言葉ではあるがそれが真理であった。要するに、退屈だったのだ。

 とある日、退屈な毎日に嫌気がさして、仕事を無断で休んだ。それが何か変わる切っ掛けになると思った。遊び惚けてやろう、とも思った。そんな日が必要なのだ。そう心底信じ込んだ。

 だが、どれだけ遊んでも大して楽しくはなかった。夜中まで乱恥気騒ぎをする予定だったのに、体が持たず吐きそうになって陽が沈む頃には切り上げた。切り上げて、外に出てから、ハッとした。陽の沈み方がいつもの帰り道と同じだった。仕事から解放されてもなお、憂鬱さが残る、帰り道と。

 仕事に行く時間に起き、大して楽しくもない時間を送り、仕事の終わる時間に帰る。

 同じではないか。無駄ではないか。叫びだしたくなった。

 決められた道を、決められたように歩かされているような束縛感だった。そして、この束縛からは一生逃れられないのではないか、という恐怖が身を襲った。自然と、歩く速さが落ちていく。

 

 だからこそだろう。急いでいる時ならば気づかなかったし、普通に歩いていれば目にも留めなかった。遅い足だからこそ、気が付いて、目に留まった。

 小さな村の、その中でも端っこの方で、張角たちは楽しそうに歌を歌っていた。ちらほらと立ち止まって見ている人はいたが、長くそこに留まる人間はいなかった。だというのに、彼女たちはまるで自暴自棄になったみたいに、歌って踊り狂っていた。

 足を止める人間が少ないわけはすぐわかった。こんな人口も少なく年寄りの多い小さな村で、煌びやかな格好をして踊ることは、非効率的で無駄なのだ。物珍しさから人が集まることはあれど、長く滞在するわけもない。

 彼女らにもそれはわかっているはずだ。それでも止めなかった。挑戦的で、目に見えない何かと対決しているかのようだった。

 それを見て、厳政は少し立ち止まってみると、彼女たちは嬉しそうになった。厳政は無性に腹が立った。まるで真逆な人生だ。自分と比べられている。そんな幻想を持った。

 仕事から逃げ出した自分と、何からも逃げ出さない彼女ら。安定した職業と不安定な旅芸人。不自由と自由。束縛と解放。

 歌が終わると同時、「気に入らない」と厳政は呟いた。馬鹿なことだ。八つ当たりにしても迷惑極まりない。わかっていても止められなかった。ぽかん、としている彼女らに、喧嘩腰で歩み寄った。

 

「誰も客がいないのに、そんな元気にやる意味なんてあるのか」

「何よ」厳政の喧嘩腰な態度に、張宝が噛みついた。「何か文句でもあるわけ」

「文句を言いたいんじゃない。ぼくは教えてあげてるんだ。人がいないのに、そんなに楽しそうにやる意味なんてないだろ」

「楽しそうにやらないと、駄目なのよ」

「どうして」

「対決に、負けるのよ」

 

 なんだって、と厳政は聞き返した。「対決」と言葉が返ってくる。対決、対決。何故か耳に残る言葉だった。

 

「自分自身と対決してるとでも言うのか」

「違うわ。この世界のすべての旅芸人に、よ」

 

 規模の大きすぎる話だった。あり得ない、と思いながらも、厳政は不思議と頷いてしまった。彼女らの歌は挑戦的で、好戦的だった。

 言葉を失った厳政に、張宝は一言だけ言った。「次が最後だから、全部聞いてね」

 もう帰る、と跳ね除けることはできなかった。足は棒になったように動かない。歌が始まる。目が離せない。

 彼女たちの歌と踊りが、最高に素晴らしい、というわけではない。旅芸人としての技術がもっと優れている団体は他にもあるだろう。

 だが、何か思いを伝えるということに限れば。挑戦する、対決する。大陸一の旅芸人になる。そういった、自分たちの気持ちを相手に素直に伝える能力ならば、誰よりも優れているのではないか。

 

 厳政は挑戦しよう、と思った。対決するのだ。自由だとか、安定だとか、束縛だとかに。それが世間一般からしたら正しい選択ではないとしても。

 それで、彼女たちについていこう。大陸一の旅芸人になる瞬間を見るために。

 

 歌が終わった。「どう?」と張宝が聞いてくる。意外にも、不安そうな表情を浮かべながら。

 

「好きだ」厳政は自然と口から声が滑り落ちた。「これ以上ないほど、好きになった」

「よかった」張宝は胸をほっと撫でおろしながら言う。「その言葉が欲しかったのよ」

 

 そんなわけで、厳政は仕事を辞め、張宝ら三姉妹についていくことになった。当時の彼女らにそれを伝えると、同情だの憐憫だの散々な目で見られたが、厳政は今でもその選択が間違いでなかったと信じている。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黄巾討伐編 第四話

 

 

 程遠志は、黄色い巾を頭に巻いた男たちから突き刺さる視線に身じろぎした。居心地悪いな、なんて思う。元同僚に向ける目じゃねえだろと一喝してやりたくなった。

 彼の後ろを歩く張曼成にも、同じような視線が突き刺さっている。その後ろの鄧茂には同種の視線と同じくらい、好色な視線が降り注いでいたので、程遠志はうげ、と吐きそうになった。

 

「お前らよ、別に俺についてこなくてもよかったんだぜ」

「程遠志を一人で行かせるっていうのもね。なんとなく目覚めが悪いっていうか、さ」

「死んでもらっては、数少ない友人が一人減ってしまう」

「……それはありがたい話だけどよ。曹操様との賭けは俺が無鉄砲だったのが悪いんだから、ついてこられても恐縮しちまうよ」

 

 そうは言いながらも程遠志の腰が低くなることはなかった。いつも通りの、いけしゃあしゃあとした振る舞いである。

 

「それに」鄧茂は少し目を泳がせた。「程遠志と張曼成が一週間もいなくなったら、僕が大変なことになるよ」

「あ? 大変なことって―――ああ、成る程」

「うん、そういうこと」

 

 程遠志は料理屋での顛末の、その後あったことを思い出していた。

 彼が賭けに負けた後、鄧茂と張曼成は「程遠志とともに行く」と言った。その時それに合わせるように、というか、食い気味で曹操も言葉を発していた。

 

「あら。貴方たちは無理をして行かなくてもいいのよ?」

 

 ―――曹操の瞳は、鄧茂を見ていた。

 鄧茂は額から脂汗を流していた。取って食われるような、そんな気がしたのである。

 

「あれは本当に怖かったなぁ……」

「お前、マジでそろそろ本当の性別を伝えた方がいいぞ」

「言っても信じてくれない気がするんだよね。本当に確かめられて、大惨事になる気がする」

「だからって、言わなかったらどんどん洒落にならなくなるだろ」

「このまま最期までばれない可能性を信じるって手もあるんじゃ……」

 

 鄧茂の思考がどんどんと危ない方向にいっていた。

 

「もうこの際女ってことにして程遠志と付き合ってる設定にしようかな」 

「おい馬鹿。俺を夏侯惇に殺させる気か。洒落にならねーよ」

 

 程遠志は身体をぶるりと震わせた。夏侯惇に勝負という名目で徹底的にしごかれたのを思い出したのである。

 夏侯淵に告白しておきながら他の女と付き合っていた、だのそんな話になったらとんでもないことになるに違いない。少なくとも夏侯惇は止まらないだろう。

 

「とにかく、だ」程遠志はその話はここまでだ、と打ち切るように言う。「これから、俺たちは厳政に会いに行く」

「直接聞くのか? 張角たちを連れて、どうやってこの城から抜け出し、曹操様のところに向かうのか」

「いや、俺はそもそも厳政に曹操様の名前を出していいのかな」

「いけないも何も、厳政はこちらに内通の書を記したのだろう」

「それはあくまで数日前の話だ。案外数日で気分が変わって、そもそも寝返るのを辞めました、ってだけの可能性があるだろ。そんな奴に俺たちは曹操様の部下です、早く寝返ってくださいなんて言ってみろ。口封じに殺されるんじゃねえか」

「流石に考えすぎだと思うけどなあ。曹操様だって、厳政は城の警戒から連絡が取れなくなっただけ、って考えてたじゃん」

 

 鄧茂が二人の間に割って入り、程遠志にそう言っても、彼は頑ななままだった。「いや」とか「でも」という言葉を何度も用い、逡巡した様子を見せている。

 ああ、これは駄目だな、と鄧茂は直感的に思った。空気と雰囲気がすべてを物語っている。厳政が内通しているのか、その実していないのか。そのどちらが正しいのか鄧茂にはわからない。

 わからないが、程遠志はその間違った方へ進むだろう。そんな流れが漂っていた。理屈ではないし、根拠もない。だが、そうなるのだ、と確信できた。

 

「結局のところ、二者択一なんだろう。厳政が黄巾を裏切ったか、裏切ってないか。そのどちらかに賭けるしかない」

「いいや、それは違うぜ張曼成。すべてを投げ出して、曹操様が力攻めしてくる一週間後まで隅っこの方でブルってる、って手もある」

「ブルってるのは嫌だな」鄧茂は嫌悪感を顔いっぱいに広げた。「でもさ、程遠志。僕のわかることは一つだけだよ」

「なんだよ」

「二者択一か、三者択一かは知らないけど。程遠志が選ぶ選択肢が外れになる、ってことだけはわかる」

 

 鄧茂が一人でうんうん、と何度も頷くと、張曼成も笑いながら同意を示してきた。

「怖えこと言うなよな!」と程遠志は泣きそうな顔で大きく嘆いた。

 

 

 

 

 なにはともあれ、一度厳政に会ってから決める、ということで話はまとまった。

 厳政に会うことはそう難しいことではないようだった。特定の部屋でふんぞり返っている類の人間ではなく、寧ろ兵卒の士気を上げるために城内をよく歩き回っているらしい。

 ならば、と思い、程遠志も周りの不審がる目を無視して歩き回っていると、簡単に厳政は見つかった。

 

「あ」厳政は信じられないものを見た、という顔になった。「程遠志、さん」

「おう。厳政だよな。久しぶりだ」

「久しぶり、ていうか。何でここにいるんですか」

「外で混乱があったんだよ。その隙に入ってきた」

「よく入れましたね」

 

 よく入れたな、という称賛の感情よりも多分に、どうして入れたのだ、という疑念が混じった言葉だった。程遠志は肩をすくめる。

 

「運がよかったんだよ」

「どうして戻ってきたんですか」

「忍びねえだろ。簡単に黄巾が潰れちまうってのも」

「そういう性格には、見えませんけど」

 

 おや、と程遠志は思う。厳政の性格をある程度まで理解しているつもりだったが、ここまで猜疑心が強い男だっただろうか?

 城内の混乱などから、若干の変化があったと見てもいいかもしれない。

 程遠志は厳政に対する見方を変えるべきか、と顎に手を伸ばして、そこで気がついた。厳政の靴の先に、何か汚れが付着している。

 

「厳政、なんかついてるぞ」

「え―――ああ、おい、嘘だろ」

 

 厳政は自分の足元を見て、茫然と言った。

 靴に付いていたのは、犬の糞だった。「まただよ」そう、自嘲する声が響いた。

 

「なんだよ。犬の糞でもよく踏むのか、最近」

「これで四度目ですよ。ここ一週間で。他にもよく不幸な出来事に遭遇するし」

「まあ、そういうこともあるよな」

「ありますか? こんなにも不運が立て続けに続くことなんて」

 

 あるよ、と程遠志は言った。流れが来てないんだ、とも言う。いまいちピンときていない曖昧な顔で、厳政は首を傾げた。

 

「張宝さまの付き人を務めるようになってから、不思議と不運が続くんです。これも流れ、なんですかね」

「そうだよ。流れだ」

「はぁ……」

「それにしても、随分と傍迷惑な話だな、そりゃ―――張角様への忠誠もなくなって黄巾から抜けたくなっちまうか?」

 

 程遠志はここだ、とばかりに強気な質問をした。後ろにいる張曼成、鄧茂は顔色を少し変える。唐突すぎるのではないか。

 いずれはしなければならない問いかけだ、と程遠志は思う。判断するならば早い方がいい。

 厳政の顔色が変わった。じっ、と程遠志は彼を見つめる。

 張角たちを曹操に引き渡す代わりに、降伏する、なんて言った男ならば、その言葉にも多少は頷けるところがあるに違いない。黄巾への忠誠が消えているならば。

 しかし、厳政は一瞬後、破顔したかと思うと、胸の前で手をひらひらと振った。

 

「ぼくの中では、張角様、張宝様、張梁様への忠誠は消えませんよ。多分、一生」

「……ふうん」

 

 これは空気が怪しくなってきたぞ、と程遠志は冷や汗をかいた。もしや、曹操様の見立ては外れ、厳政は張角への忠誠を取り戻し、黄巾とともに玉砕する気なのかもしれない。

 だとすれば自分だけで張角たちを捕まえなければならない。どこにいるのかもわからず、会ったこともない女三人を、だ。そしてその後、黄巾の連中に気取られることなく城から抜け出さなければならない。

 ほとんど不可能なことだろう。これは、第三の選択肢を取る可能性が高くなってきたぞ―――程遠志は小さくそう思った。

 

「まあ、立ち話もこんなもんにするか」程遠志は逃げ腰になった。「この城に入ったばっかで、まだ構造もよくわかっちゃいないんだ」

「歩き回るのはいいですけど。士気向上の手助けも、できればしてほしいです」

「おう。できたらするよ」

 

 程遠志は「行くぞ」と二人に声を飛ばし、厳政から目を切って歩き始める。

 軽く歩いて、そこで足を止める。くるり、と振り返り、思いついたように厳政へ問いを投げかけた。

 

「最後に一つだけいいか」

「なんです」

「張角様たちって、普段はどこにいるんだ」

「……なんで、そんなことが気になるんですか」

「一度も会ったことがないから。この機会に見てみたいな―――なんて思って」

 

 厳政は明らかに不審そうな顔になった。まずったかな、と程遠志は思う。何気なく聞いた言葉だったが、厳政は過敏に反応した。

 数秒黙ったかと思うと、「教える義理はないですよ」と今まで出したことのないような冷たい声を出し、厳政は歩き去っていった。

 まずったかな、じゃねえな。完全にまずった。程遠志は一つ、溜息を落とす。

 なんか面倒くせえことになる気がする。ほとんど確信に近い思いが、胸の中を駆け巡った。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黄巾討伐編 第五話

 

 

 

 

 面倒くさいことが起こったのは、思ったよりも早かった。

 程遠志たちは配給の握り飯に齧りつきながら、「まあ、酒でも飲んで明日考えようぜ」と言い合っていると、気配がした。

 程遠志は後ろを振り向く。素知らぬ顔をした黄巾の男が一人、こちらを何気なく見ていた。

 苛立ちから、舌打ちが漏れる。

 

「おいおい」

 

 尾行されてるのかよ。だれの指示だ? 考える必要もなく、程遠志はわかった。厳政だろう。

 彼の張角たちに対する忠誠は本物らしい。無遠慮にその居場所を聞いてきた程遠志を怪しんだのか、危ぶんだのか。

 失敗したな、と鄧茂、張曼成に零す。「やっぱり、僕の言った通り程遠志の選択は外れになったね!」と妙に嬉しそうな顔で鄧茂が言ってきたので、程遠志は一発頭を平手ではたいた。

 なんにしても、面倒くさい事態になった。自由に城内を動き回れるはずが、これである。

 程遠志はつくづく運がねえな、と呟く。厳政に言ってやりたかった。ついてねえときは、俺の方がついてねえぞ、と。

 

「どうする、程遠志」

「どうするったって、どうしようもねえだろ。なんだ、怒鳴りつけてやれってのか。男に尾行される趣味なんてねえんだよって」

「そういうことじゃない。三つの選択肢から、どれを選ぶべきか、ということだ」

 

 厳政にもまだ黄巾を裏切る気があると考えるか。

 厳政は裏切らぬと考え独力で張角を捕まえるか。

 それとも曹操が来るまで隅っこで震えているか。

 張曼成の言う三つの選択肢とは、おおよそこれらのことだろう。程遠志は少し、顔を引きつらせた。

 

「今の状況で、もう一回厳政に黄巾を裏切れ、なんて言う勇気は俺にねえよ」

「じゃあ、曹操様が来るまで待ってるのか」

「その選択が一番現実的になってきやがったな」

「やめといたほうがいいよ。今の程遠志が決めた選択肢が外れな気がする」鄧茂はそこまで言って、「いや」と思い直した。「あ、けど、やめないほうがいいのかな。程遠志がやめたらやめたで、そっちの方が失敗する気がしてきた」

「お前はホントに素直に言うなぁ」

 

 程遠志は呆れたように声を上げる。この無神経さはもはや美徳と称すべきだろう。

 

「なんにしても、だ。まだ俺のやることは変わらねえよ。悪い流れだろうが良い流れだろうが、人間ってのはそれに身を任せるしかねえんだ」

「どうするの」

「酒でも飲んで、考えるのは明日にしようぜ」

 

 程遠志はあっけらかんと言った。考えるのが面倒くさくなった、ともいえる。

 

「そんな呑気にしてていいのか」

「今焦ったってしょうがねえさ。悠長に見えるくらいがちょうどいい塩梅なんだよ。ふざけてるわけじゃねえんだ」

「俺にはそう思えない、が」張曼成も、そこでにっと笑う。「正直、俺も考えるのが面倒くさくなってきた」

「だろ! そういうもんだよ。大体、俺とかお前とかに複雑な思考なんて無理なんだよ」

 

 嬉しそうに程遠志は二、三度頷いた。

 

「でも、尾行はどうするの。お酒飲んでるときに警戒した目で見られたら、それはそれで気味悪いんだけど」

「確かにそうだな」程遠志は真顔になり、すぐに両の掌をぱん、と打った。「ならよ、簡単ないい手がある」

「手?」

「ああ。あいつも酔わしちまえばいいじゃねえか」

 

 そう言うが早いか、程遠志はくるり、と後ろを振り向いたかと思うと駆け出して行った。

 びくり、と黄巾の兵士は固まる。逃げるか、逃げまいか。それを考えているうちに、程遠志は目の前まで迫っていた。強面の男が、上から見下ろしてくる。腰から下げた刀に思わず手をかける。

 程遠志はにやり、と悪辣な笑みを浮かべた。「酒でも飲もうぜ。ついてくるんだろ?」そこでまた、ぽかん、と男は固まってしまう。

 張曼成と鄧茂は呆れ半分、感心半分といった様子だった。先ほどまで尾行にせわしなく苛立っていた男の姿とは思えない。とんだ変わり身の早さだよ、と鄧茂が苦笑しながら漏らした。

 

 

 

 

「やっぱりよ、酒を飲んでる時がいっちゃん幸せってわけよ」

 

 程遠志はそう言いながら黄巾の男に絡んでいた。それは、まるで娼館でべろべろに酔っぱらってしまい、助平な動きで女に縋りつく中年男のようだった。

 違うのは抱きついている相手がどこにでもいるような男であるということと、程遠志はちっとも酔っぱらっていないということだ。

 なんとも趣味の悪いことに、彼は酒を飲むと酔ってもいないのに酔ったふりをする。「酔っているんだから仕方ないよな」と相手から思われる心理を利用して、昔から女によく使っていた戦法が治らなくなってしまったらしい。

 

「程遠志は相変わらずだなぁ」

「相変わらずすぎて、何も言えない」

 

 呆れかえっている二人を尻目に、程遠志は饒舌に舌を動かしていた。「お前はよ、酒はいける口なのか」「最近会った嫌なことを教えろよ」「正直、張角様をどう思ってんだ」

 時折どきり、とする質問を混ぜて飛ばしていた。計算ではない。アルコールで満たされた脳が、ここまでなら大丈夫だ、という一線を誤認させ、踏み込んだ質問を程遠志にさせていた。

 黄巾の男もそこまでいい顔をしていない。面倒くさいのに巻き込まれた、とでも思っているのかもしれなかった。

 それでも、彼も酒が回り、人並み程度には酔っているので、気軽に答えてはいた。「酒は飲めます」「上司に怒られた時くらいかな」「張角様は、ほんとに可愛いです」

 

「あれ」程遠志は小首を傾げる。「お前、張角様の顔を知ってんのか」

「当たり前じゃないですか。黄巾っていうのは、旅芸人の張角様たちを支えるためにあるんです。知らないわけないでしょ」

「俺は知らねえけどな」

「え、どうして知らないんですか」

「さあな。張角様たちがよく、そういう催しをやってるとは聞いたけど。なんか見に行く気が起きなかったんだよな。もともと、俺は純粋な黄巾の面子じゃねえし」

「勿体ないですよ、人生が」

 

 ひでえこと言いやがる、と程遠志は大笑した。

 酔っている時の彼は、基本的に悪口におおらかである。それは、美徳でもあり欠点でもある。人にもそれを強要してくるからだ。

 

「そういえばだよ、張曼成。お前よ、あれはどういうことだよ」

 

 すすす、と黄巾の男から離れ、程遠志は張曼成のもとへにじりよってきた。

 

「あれってなんだ」

「随分と前のことだけどよ、覚えてるか。前の戦いの時だよ」

「前の戦い?」

「馬鹿。なんでわかんねえのかな、夏侯淵との戦いだよ」

 

 はあ、と張曼成は叫びだしたくなった。どうしてこの状況でそんな話になるんだ。

 黄巾の男が近くにいるのに、何考えてるんだ。睨みつけるように程遠志を見るが、彼は意にも返さなかった。もともと俺たちが曹操と戦ったことは知られてるんだから、いいだろ。そんな堂々とした開き直りっぷりだった。

 

「確かよ、お前は荀彧の策を見破ってただろ」

「見破ったって、何の話だ」

「言ってたじゃねえか。ご丁寧に例なんか出して。なんだったか、おい」

「斜行陣。希臘のエパメイノンダスのことか」

「そう、それだよ。なんなんだよそれ。ぎりしあのえぱいめんどす? 俺はあれかと思ったよ、今流行りの洋服の銘柄かと」

「阿蘇阿蘇?」

「それ!」程遠志は如何にも正解、というように指をさした。「違いがわかんなかったぜ」

「全然違うだろ」

 

 苦笑しながら言う張曼成に、程遠志は頬を膨らませた。「笑い事じゃないっての」

 まるで、大事なものを取られた、と主張する子供のようだった。そんな純真さを持った瞳で、強面の程遠志が迫ってくる。気持ち悪いな、と張曼成は悪意抜きに思った。

 

「お前はよ、俺と同じで頭悪い系の人間じゃなかったのかよ」

「そう思ってるのは、お前だけだったということだな」

「ひでえこといいやがる」

 

 程遠志は愉快そうに笑った。ひひひ、という下品な笑い声は、まるで一生続くかのような長さで広間に響き続けた。

 

 しかし、その笑い声は唐突に止むこととなる。広間の扉ががらり、と開いた。誰もいない広間を我がもの顔で貸し切り、誰も入るなと張り紙をした場所を、である。

 謎の闖入者がいた。程遠志はなんだ、飲みたい奴でも来たか、と喜色満面で立ち上がり、固まった。

 知った顔があった。決して会いたくない男だった。鄧茂は会ったことがなかったが、その容貌が程遠志から伝え聞いたものと一致したので「あ」と声を漏らした。張曼成はただただ首を傾げた。

 

 よお、と闖入者は声を上げる。狗鷲に似た男だった。

 裴元紹が、そこには立っていた。

 

「程遠志、お前帰ってきたのかよ」

「……んだよ、テメエ」

「お前が何を考えてここに来たのか、当ててやろうか? 俺には全部オミトオシなんだよ」

 

 ぎゃはは、と裴元紹は笑う。なにやら怪しい空気になってきたな、と鄧茂は思った。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黄巾討伐編 第六話

多くの感想、お気に入り、評価本当にありがとうございます! めっちゃモチベーション上がってます笑笑
恋姫革命今買うか悩み中………………('ω')


 

 

 

 裴元紹は不気味な笑顔を浮かべていた。何を考えているのかわからない、猜疑心の強い表情。それが引き攣るように笑っていて、なんとも気味が悪い。

 ひょっとしたら、と程遠志は思う。何の根拠もない勘ではあるが、厳政と別れた時に感じた面倒くさいこととは、こいつとの遭遇だったのではないか。

 

「おい」黄巾の男は、唐突な闖入者に慌てながらも、ハッとした顔になった。「どうして程遠志が戻ってきたか、わかるだと」

 

 厳政から課された使命を思い出したのか。酒で足元が覚束ないながらも、ふらりふらりと裴元紹へ向けて歩み寄っていく。

 少し、小首を傾げながら、裴元紹は男を見た。誰だ、とでも思ったのかもしれない。「まあ、いいか」何気なく、彼は呟くように言ったかと思うと、たちまち腰から剣を抜いた。

 

「え」

「馬鹿がよ」

 

 脅しではなかった。この瞬間で、動く者は裴元紹しかいなかった。

 剣が振るわれる。動く者がいないのならば、それを防ぐ者も誰もいない。正規の軌道を描いたまま進んだ剣尖は、正確に黄巾の男の心臓を穿ちぬいた。

 あっという間のことだった。現実感がない。鄧茂も、張曼成も、程遠志でさえも呆然としていた。裴元紹は、程遠志の顔が僅かながら青褪め、強張ったのを見逃さなかった。「そんな顔もできんじゃねえか」そう、軽く嘯く。

 

 程遠志は静かに髪をかき上げた。血痕が飛び散らばり、自分の額にも僅かに当たった。落ち着け、と念じる。みっともなく狼狽している場合じゃない。

 しばらくして、彼は口を開いた。酔っぱらう演技はいつの間にかなくなり、目線は裴元紹を捉えて離さない。

 

「お前もよ、いつの間にか大人になっちまってたんだな」

「ああ?」

「そんな簡単に人を殺せんなら、一人前だよ。俺に泣かされたのは遠い昔か」

「てめえ」

 

 肩をすくめて程遠志がそう言うと、血を剣から滴らせながら裴元紹は顔を真っ赤にした。

 怒ったのだろう。これでいい、と程遠志は思う。冷静でなくなるのは、俺じゃなくて向こうの方だ。

 いつでも剣を抜けるように、程遠志は腰に手をかける。負ける気がしない。夏侯惇に鍛えられたことに、僅かな間―――とは言っても本当にほんの少しの間だったが―――感謝した。

 

「どうすんだよ、まったく。とんだ大迷惑だ」

「なんだよ。友達だったわけでもねえだろうに」

「そういうことじゃねえ。よりにもよって、一番殺してほしくねえ奴に手をかけやがって。厳政に疑われるなんて程度じゃ済まねえな、これは」

 

 程遠志の目からは憐憫の感情も一応は見られた。それでも、それは砂漠の中に存在するオアシスのように少なく、彼の考えていることの殆どは自分たちにこれから待ち受ける面倒なことについてだった。

 殺された人間が、今俺の後ろで木偶のようになっている鄧茂や張曼成だったらどうだろう。ふと程遠志は思う。こいつらも同じような場所で、同じように酒を飲んでいた。可能性はあった。身体の芯が、ぴくり、と震える。

 幻視した。鄧茂が、張曼成が、目の前で死んでいる男と差し替えられた姿を見た。

 それを思うと心をまるで槌で叩き割られるようで、砕かれたその隙間から熱々とした感情が湧き上がってくるのを感じて、驚いた。憤怒の感情だ。

 その間、程遠志は裴元紹から目を切っていたので、いつの間にか裴元紹の後ろに見知らぬ二人の男がいて、瞠目した。

 

「人数は同じだな」程遠志はあえて余裕ぶって口を開く。「いい勝負ができそうだ」

「酒に酔ってるてめえらが、勝つ気かよ」

「俺がどれだけ飲んでも酔わねえことを、お前が忘れたのか?」

「ほかの二人は違えだろ」

「一対三で、お前は俺に勝てると思ってんのか」

 

 程遠志は裴元紹の後ろに立つ男二人を睨みつけた。二人の男は大した者ではない。人相の悪い彼に鋭い目で威圧されると、たちまち怯えた。

 

「まあ待てよ程遠志。俺はお前と戦うために、ここに来たわけじゃない」

「よくもこんな状況で言えるもんだな」

「寧ろ感謝しろよな。その男、お前のことをこそこそ嗅ぎまわってた奴だろ」

「だから斬ってくれ、だなんていつ頼んだよ、俺が。大体お前、人斬って堂々としてやがるが、俺が厳政にチクるぞ」

「この城にいなかったお前は知らないだろうが、少し前に内部で大規模な反乱があったんだよ。それから城の中はピリピリしてる。人一人くらい手違いで死ぬことは少ないことじゃねえんだ」

「だから斬り殺しても罪には問われません、ってか。馬鹿じゃねえの」

 

 程遠志は馬鹿にするように嘲り笑った。偶然諍いが起こって、程遠志の見張りを命令した人間が死にました、なんてのを信じるほど厳政は阿呆じゃない。

 問題は、見張りを斬り殺したのが頭のおかしい裴元紹という男だ―――と、確信できるような、厳政は透視能力がある男じゃないということだ。

 この殺人を目撃しているのは場にいるこの面子だけだ。裴元紹側の人間が正しい証言をするはずもなく、凶器であるあの剣を上手く隠蔽してしまえば、証拠もなくなる。残った人間はこの男を殺す理由がない裴元紹たちと、程遠志たちだけ。

 

 それ故、程遠志が厳政に告げ口をすることなんてあり得ない、と裴元紹は高を括っているのだろう。

 

「俺がここに来たのはよ、お前の手助けをしてやるためだよ」

「手助けだと?」

「ああ。お前が帰ってきた理由なんてお見通し、って言ったろ。逃げてきたんだろ、曹操軍から」

「ああ?」

 

 全くの的外れな言葉だった。程遠志はそのため怪訝な顔になったが、それは内心の動揺を誤魔化すためだ、と裴元紹には思われたらしく、愉快そうな顔になった。

 

「お前がよ、よく曹操の街で強請り集りをしてたってことは知ってんだよ。それがバレてお尋ね者にでもなって、野盗にもなれず手詰まりになって、ここに逃げ帰ってきたわけだ」

「……だとしたら、なんなんだ?」

「生き残る方法を教えてやろうってんだ」

 

 裴元紹の表情を見て、程遠志は呆れた顔になった。そんな悪い笑みを浮かべた男の言葉を、誰が信じるというのだろう。

 

「言ってみろよ」

「言ってください、だろ。媚びてみろよ」

「……話がよ、進まねえだろ。つまんねえこと言ってねえで、早く教えてみやがれ」

「立場ってのがわかってねえらしいな、程遠志」

「あのなあ」程遠志は目を薄めた。「お前が何を思うのも勝手だけどよ、それ以上焦らすんなら叩き斬るぞ。それでその血に染まった刀と、後ろの二人を厳政にそのまま送ってやる」

 

 冗談を言っているわけではない。その方がいいのではないか、と程遠志は次第に思い出していた。思考がまずい方向に向かっている、と危惧しながらも、止められない。

 裴元紹もその事実に遅蒔きながら気がついた。程遠志に敬語を使わせるか使わせないかだけで彼を怒らせると、とんでもないことになる。どのようなことでも本当にやりかねない恐怖がある。

 

「わかったわかった。俺が悪かったよ。素直に教える。簡単なことなんだよ」

「……言ってみろ」

「俺たちでよ、厳政を殺そうぜ」

 

 なに、と程遠志は顔色を変える。

 その表情を見れたことが、裴元紹にとっては堪らないほど嬉しいことであるらしかった。にんまりと笑い、馴れ馴れしげに近寄ってくる。

 

「厳政の首を獲れば城内は混乱する。今、この城から脱出するのは難しいが、そうなれば容易く抜け出せる。万が一バレた時の保険に、張角たちは殺さず生け捕りにして、曹操の前に引きずり出す。そこまでやれば流石に俺もお前も生き残れるはずだ」

「どうやって、厳政を殺すんだ。張角がどこにいるかは知っているのか」

「厳政は不意を打てば簡単に殺せるさ。俺とお前、それ以外も含めれば六人いる。張角たちの場所は知らねえけど、適当に探し回ってもいいし、厳政を脅してもいい。見つからねえんなら、厳政の首だけ持って逃げる」

「随分とまあ、行き当たりばったりな作戦だな」

「でも、黙ってこの城で震えているよりは生存率が上がる。そうだろ?」

 

 そうではない。程遠志たちが単に生き残る確率を上げたいのならば、城のどこかで隠れ、曹操が攻めてくるのを待つ方がいい。裴元紹の考えはまるで的外れだった。

 

「………………」

 

 しかし、とも程遠志は思う。まったくの的外れにもかかわらず、偶然なのか、必然なのか。裴元紹の提案は曹操の命令と似ている部分があった。

 張角たちの生け捕り。曹操の命令の大部分はそこにある。厳政という存在はそのための手段に過ぎない。生死なんて特に問われてもいなかった。

 張角さえ捕らえられるのならば、協力する価値はあるのである。

 

 ……程遠志は迷った。刹那のような時間、彼の中の天秤はぐらつき、裴元紹の方へ傾きかけもした。捨て鉢になる思いだった。

 張角たちの居場所は、結局、裴元紹も理解していない。彼の計画には穴が多く、普段の程遠志ならば迷いもしなかっただろう。

 その迷いの根底には、曹操たちの命令から、張曼成や鄧茂への思いなどが入り混じって存在した。曹操などに従わず黄巾にいたころの程遠志ならば、曹操に従っても一人で城を訪れた程遠志ならば。一顧だにしなかっただろう。

 程遠志は大きく首を振った。わからねえ。グラついて傾きかけた天秤は少しずつ戻っていき、どちらが正解かを示すことなく、釣り合った状態を保った。「受け入れる」「受け入れない」どちらの選択肢が正しいんだ?

 

 程遠志の頭の中にいる鄧茂が「どちらを選んでも外れるよ」と静かに述べた。うるさい、と叫びたくなる。

 裴元紹の顔が近づいてくる。早く答えを出せ、と言わんばかりだった。一度決めたら迷わない。そんな程遠志も、流れが圧倒的に悪く、自分の選択がすべてを左右してしまうような現状況に、困り果ててしまっていた。

 

「まずはよ」程遠志は掠れた声で言った。「その死体をどうにかしようぜ。話はそれからだ。俺やお前だって、それが公になったら困るだろ」

 

 結局、「受け入れる」も「受け入れない」も選べず、程遠志はそんなことを言った。頭が痛い、といった風に顔を歪ませながら。

 裴元紹はそれを見て、また、堪らなく嬉しそうに笑った。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黄巾討伐編 第七話

 

 

 

 裴元紹が死体を隠すために用いた方策は、単純明快で、残虐で、普通の人間には決して行えないようなことだった。

 まず、割れた西瓜のように顔を潰した。他にも、身体的な特徴からその死体の身元がバレるのではないか、という部位を積極的に破壊して、破棄した。

 残ったのは惨たらしくなった死体だけである。それを、適当な場所に野晒しのまま捨てた。いずれ発見されるだろうが、大した問題にはならない、と裴元紹は高を括っていた。

 ……そこから、張曼成は目を背け、鄧茂は明らかに狼狽えて、混乱した様子を見せた。

 生き死にに慣れているだとかそういう問題ではない。生命の冒涜。規律の違反。非現実的なことである。考えが及んでも、普通の人間ならば決してできないようなことを、裴元紹は容易くやり遂げた。

 場にいる人間の中で、程遠志だけが無表情を保っていた。一人だけ黙りこくっていた。ただ、余裕を持てていたわけではない。

 

 程遠志は喋らなかった。いや、喋らなかったというよりも、喋れなかったと言うべきか。考えなければならないことが、多くあった。

 死体を惨たらしくしたことによって、身元が割れることは十中八九なくなった。あの状態では誰も判断なんてできないだろう。

 しかし、厳政は一日もあれば異常に感づくはずだ。遣わせたものが帰ってこず、連絡もつかないどころか見当たらない。始末されたと考えるはずだ。そこで、異常なまでに頭部が破損した死体が見つかればどうなるか。

 それらを結びつけることなど造作もない。程遠志たちは殺される。路傍の花を踏みつけるような手軽さで、簡単に。張角に忠誠を誓っている彼ならば、そうするはずだ。

 

「よお、程遠志。死体の偽装は済んだぜ。それで、どうするんだ」

「…………ああ」

 

 程遠志は答えてしまいそうだった。「受け入れる」「受け入れない」その二つの選択肢のうちから、最もあり得ないほうに傾きかけた。「受け入れる」声に出かけた。適当な感じで選択肢を決めてしまいそうになった。

 口を開こうとしたところで、程遠志は何かに躓いて、尻もちをついた。おいおい、と思う。どれだけ焦っているんだ。裴元紹も「怖いのかよ、臆病者」と野次を飛ばしてきた。

 地面を見た。何も存在しない。躓いたはずの箇所には、何一つものなんてなかった。

 

「お前、どんだけ動揺してるんだぁ?」

 

 裴元紹は嘲り笑った。その通りだと程遠志も思う。そして、きまり悪く立ち上がろうとして、ハッとした。

 流石におかしくはないだろうか。こんな状況で、こんな一世一代の選択が迫られた最中で、急に、何もないところで足を滑らせるなんてことがあり得るのか。偶然ではないのではないか。

 理屈ではない。程遠志は自分の頭が急に働き出すのを感じていた。それは、かつて夏侯淵に二百の兵士で挑んだ時を思い出させるようだった。

 

 例のように、思考の濁流に自ら程遠志は飛び込んだ。偶然でないのならば、必然だ。足が滑ったのは必要なことだったのだ。そう考えるべきだ。

 なぜ足が滑ったのか。答えさせないためだ。裴元紹の誘いに「はい」と答えないため。答えさせないために足が滑った。

 意味の分からない妄想に思えるかもしれない。馬鹿馬鹿しい空想のような考えだった。だが、と程遠志は思う。今までの経験が、彼に語り掛けていた。

 流れが変わったのだ、と。

 あとは、自分がその流れに乗るだけだ。迷わず、自分の思ったことを貫くべきなのだ。

 

「裴元紹、俺は決めたよ」

「言ってみろよ」

「お前になんて従わねえよ、馬鹿が」

 

 なに、と裴元紹は口を開いた。程遠志は胸がすく思いになった。その顔が見たかった、そう言ってやりたかったのだ。

 

「どうしてだよ。それしかねえだろうが、テメエの生きる道は」

「勝手に決めつけんな。お前みてえな奴に命を預けるだなんて、俺はごめんだね」

「……急に強気になったじゃねえか。なんだよ。頭がおかしくなりやがったのか」

「おかしいのはテメエだろ。一緒にしてんじゃねえよ、汚らわしい」

 

 程遠志は軽く身体を震わせてみせた。目に見えた挑発だったが、裴元紹はたちまち顔を赤くする。

 裴元紹は剣を抜いた。「殺す」それが冗談ではないことを、剣から滴る赤い血痕と彼の血走った赤い瞳が言っていた。

 だからこそ、できない、と程遠志は確信した。尋常ではないほどの殺意は持てているだろうが、裴元紹は自分に向かってくることなんてできない。単純な武においてならば、程遠志と裴元紹の間に大きな力の差がある。

 それは裴元紹も理解できているはずだ。短慮な男だが、それくらいはわかるはずだ。あえて、程遠志は余裕そうに頷いてみせた。

 

「消えろ。もうお前に用なんてねえ」

 

 互いに視線が合い、強く混ざり合う。程遠志と裴元紹。余裕と憤怒。剣を抜かぬ男と抜いた男。様々な相違点があった。やがて、「ぐ」と呟くように言って、裴元紹は目を逸らした。

 

「は」裴元紹は、おもむろに笑い声を上げる。「はは、はははは―――行くぞ、もう俺も用なんてねえ」

 

 程遠志はその後ろ姿を口を歪めながら見送った。裴元紹の頬からは汗が流れていて、目は泳いでいた。

 やはり、と思う。やはり、あの男では俺に斬りかかってなんてこれなかった。それが限界なのだ、と程遠志は嘯いた。

 

 

 

「だ、大丈夫、程遠志」

「ああ。もうどうにでもなるさ」

 

 鄧茂の心配そうな声を聞いて、不意に程遠志は懐かしさを覚えた。昔はこんなもんだったな、と思う。

 今では程遠志のことをよくからかって遊ぶ鄧茂だったが、昔はよく心配されたものだ。

 

「大丈夫ってことは」

「ここからは俺の番だ。今までの不運をよ、全部取り戻してやらねえとな」

「大丈夫なのか」張曼成も、心なしか顔が不安そうだった。「あの男を、行かせてしまって」

「一旦、だよ。あいつを怒らせて、三人で話せる状況が作りたかった。ただそれだけだ」

「話し合う状況?」

 

 話し合ってどうするのだ、と鄧茂は首を傾げる。

 程遠志はまっすぐな瞳をしていた。決して迷わず、今の自分が失敗をするはずもない、と確信している表情。雰囲気、闘気というものが、程遠志の背中から巻き上がっていた。

 流れだ、と鄧茂は確信した。ならば、それに従うのみだ。

 

「お前らの意見もよ、一応は聞いておきたかったんだ」

「意見とはなんだ」張曼成は戸惑ったように言った。「どうしてそんなに余裕なんだ」

「今の俺は正直なところ負ける気がしねえ。流れがきた、と俺が理解できた時点で、この状況は昼寝の時間だとか、宴会の時間だとかのようなもんだ。あとは俺がどう張角を捕まえ、曹操様の前に連れていくか。それだけを考えればいい」

「もう間違いなく、成功するというのか」

「ああ。今大事なのは、確定した結果じゃない。過程だ。どういう過程で、張角を捕まえるか。それだけを考えればいい」

 

 自信をたっぷりと持っている程遠志だったが、その理由が張曼成にはわからない。いや、なぜ持っているかというのが「流れ」に対する盲目的な信頼だとは想像できるのだが、どうしてそこまで信じられるのか。

 常識的に考えれば、張曼成の方が正しい。一度程遠志の「流れ」を見たからとはいって、それをここまで信じることはできない。

 

「お前の信じる『流れ』が何故、今自分に来たと考えたのだ」

「俺にもわかんねえよ。強いて言うならば、裴元紹の提案を断った時だ。あれが何かの分岐点で、分水嶺だった。あれをみすみすと受け入れていたのならば、まだ流れは真逆を向いていたはずだよ」

「裴元紹に従わなかったことが、その流れを引き寄せたと」

「そうだな。でもよ、それはあそこまでの話だ。流れがなかった俺が、裴元紹に対して断固たる拒否を見せたことによって、変わった。もう今の俺は少し前の俺じゃねえ。俺が言いたいのは、ここなんだよ」

「どういうことだ」

「さっきのは嘘ですすいません、なんて裴元紹に謝れば、多分それでも通用するんだ。今の俺ならば、裴元紹の提案に乗って、厳政を殺し、張角を奪える。それで曹操様も喜ばれる。そういう結末にもできる」

 

 はっきりと程遠志は言った。確信を抱いた言葉だった。

「まさか」と張曼成は言えなかった。程遠志の「流れ」は信じられぬ。だが、程遠志と鄧茂はそれを当たり前のように確信していた。そのような理不尽なものに憑かれているのだ、と信じていた。

 

「お前らはよ」うってかわって、冗談交じりな雰囲気で、程遠志は言った。「厳政をどう思う?」

「はあ?」

「ついてねえ、だとか。不運だとか言いまくってるあいつのことを、俺は悪くねえ奴だななんて思ってるんだ」

「どういうことだ」

「殺すには惜しいってことだよ」

 

 程遠志は、はは、と笑いながら続ける。

 

「もうよ、選択肢は二つに絞られた。あの死体を厳政が見れば、黄巾の男と結び付けて俺らに対する疑いがもっと強くなるに違いない。だから城のどこかで隠れて震えてるわけにはいかねえ」

「裴元紹の提案に乗るか、乗らないか?」

「それはつまり、厳政を殺すか殺さないか、ってことだ。俺はあいつを殺したくねえ。多数決だよ。いいよな、こういう時に三人だと。一発で結果が決めれちまう」

 

 どうする、と程遠志は問いかけた。張曼成は目を瞑って、開かぬまま、考えた。この多数決についてではない。程遠志の無謀とも思える「流れ」に、付き合うか、付き合うまいか。

 一瞬後、目を開ける。程遠志は張曼成を見ていた。あれほど自信気だったのに、多数決で意見が割れても一発で決まると言い切ったのに、不安げにこちらを見ていた。強面の顔に全く似合わず、妙に人間くさい。、

 ふ、と笑う。それもいいかと思った。程遠志の「流れ」に流されてみよう。そう思ってしまった。

 

「程遠志」

「おう。どうする」

「お前の流れを、信じてみるよ」

「―――そうか。そうか! いやよかったよ。鄧茂は?」

「僕は程遠志と、程遠志の流れに従うだけだよ」

「だよな」

 

 程遠志は表情を戻す。自信を除くすべてが消えたような顔。元に戻った。すぐさま口を開く。

 

「平和的に終わって満足だ」その表情のまま、自嘲交じりで言った。「なんたってよ、まだ今はお前たち以外に友達がいねえんだ―――」

 

 そんな様子を見て、鄧茂は小さく笑った。張曼成も、こんなのも悪くないな、なんて思った。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黄巾討伐編 第八話

 

 裴元紹は、程遠志の姿を思い浮かべて、顔を憤怒に染めた。許せねえ。虚仮にしやがって。

 昔の、忌々しい思い出が脳内に蘇ってくる。程遠志に不意打ちされ、殴り倒され、地面を這いずり回った。泣きながら家に戻り、二度と故郷には戻れなかった。

 ふざけるな、と吐き捨てたかった。首を振って、嫌な思い出から目を逸らす。

 

 代わりに、これからのことを考えた。

 暗い愉悦の笑みが裴元紹の口から漏れる。厳政に告げ口をしよう。程遠志が見知らぬ黄巾の男を殺すのを見た、と。

 厳政でも結び付けられるはずだ。調べてみようとは思うはず。顔が潰された死体を見たならば、さらに怪しむはずだ。

 程遠志は、捕えられる。少なくとも軟禁はされる。そうなればこちらのものだ。殺せる、殺し得る。

 鄧茂、と程遠志が呼んでいた女のことを裴元紹は思い出した。あの女が程遠志に対してどういった感情を抱いているのかも、それが友愛なのか、恋愛なのかも、彼にはわからない。

 ただ、鄧茂は程遠志が死ぬのを見たら泣くだろうな、とは確信できた。目の前で縊り殺してやろう。裴元紹の口角が釣りあがった。

 

 昔からそういう人間だった。どれほど昔からかはわからない。人が幸福になるのが馬鹿らしく、祝福するのが阿呆らしく、成功するのが妬ましかった。その逆になればいいと思った。

 それこそが、彼の―――裴元紹の原動力だった。そういう男であることに、彼は誇りすら持っていた。

 

「お」裴元紹はふと偶然、視界の端に動くものを見た「いるじゃねえか」

 

 厳政だった。なんという幸運だろう、と裴元紹は笑う。

 城内を定期的に巡回していて、その終わり際だったのか、溜息を吐きながら早足で歩いていく。

 その背中を追いかけた。右に曲がり、左に曲がり、さらに左へ―――厳政は誰かに見られないように警戒した足取りだったが、何故か一度も振り向かず、尾行している裴元紹たちにはまったく気がつかない。

 最後に右に曲がったかと思うと、そこには小さな隙間があった。迷路のように入り組んだ中にある、しっかりと見なければ気がつかないほどの大きさの隙間。それを潜り抜けた先には、小さな部屋があった。

 厳政は気がつかない。彼は頭を押さえて、何かをぶつぶつと呟きながら部屋に入っていった。

 

 裴元紹は半ば、確信していた。あの隙間の向こうに何があるか。いるか。今のこの城で、最も隠さなければならないもの。

 張角たちがいるのだろう。とんとん拍子に話が進んでいく。運命が自分に味方しているのではないか。裴元紹は、自分の隣にいる二人にそう嘯くと、彼らも総じて笑った。

 

「行くぞ」

 

 厳政の動いたように、裴元紹たちも動く。思ったよりも隙間は小さく、手こずったものの、潜り抜けるのに大した時間はかからなかった。

 隙間を潜り抜け、部屋の扉を開く。中にはほとんど、裴元紹の予想した光景があった。

 呆然とした顔の厳政。怯えた目で見つめてくる女三人組。その側に控えている四、五人の兵士たち。

 どれが張角だ、と裴元紹は思い、すぐに理解した。どれを敬っているか。どれが一番上の者なのか。張角三姉妹がどれかは、配置からも、人数からも簡単に察することができた。

 

「どうして、裴元紹さんがここに」

「後をつけたんだよ。声をかけようと思ったけど、何かぼうっとしてたからかけれなかった」

「後を……?」厳政はあり得ない、という顔になった。「どうして尾行に気づかなかったんだ。いつもは、いつもは必ず確認しているのに」

「いつも通りじゃなかったんだろ。そんだけのことだ」

 

 適当に裴元紹は言葉を返す。

 張角の側で待機している兵士たちが、明らかなほどの警戒心を剥き出しにした。尾行した、ってのは言い方が拙かったかな、と裴元紹は思う。

 

「なんで、後をつけたんですか」

「言いたいことがあっただけだよ。そんな警戒することじゃねえ」

「言いたいことって」

「程遠志のことだ」

 

 ぴくり、と厳政の眦が動く。何を言いたいんだ、とその目が問いかけていた。

 

「厳政。お前、程遠志に尾行をつけてただろ」

「……見てたんですか」

「見てた、ってよりも見つけた、って感じだ。人選が間違ってたぜ」

「…………」

 

 厳政は何も喋らない。ただ、張角三姉妹たちを守るように佇んでいる。

 気に食わねえな、と裴元紹は思った。何やら、暗い感情がむくむくと、胸の底から湧いて出てくる。

 

「その尾行、死んだぜ」

「なに」厳政は目を大きくした。「どういうことですか」

「言わなきゃわかんねえのか。程遠志に殺されたよ」

「どうして」

「知らねえよ。俺が見たのは、酒に酔った程遠志がその男を殺すとこだけで、理由なんかわかんねえ」

「それは、本当ですか」

「嘘だと思うんならよ、程遠志を尾行してたやつを探してみろよ。もうこの世の中のどこにもいねえからさ」

 

 厳政は、そこでまた黙り込んだ。目が明後日の方向を向いている。裴元紹は嘘をついていない、と思ったのだろう。

 尾行が死んだ、というのは嘘ではない。殺されたというのも本当だ。違うのは、自分が殺したということだけ。裴元紹はにやりと密かに笑った。

 厳政は混乱している。城を守り、張角たちを守り、それ以外の人間に猜疑心をもって当たっていた。だからこそ、脆い。

 

「何かよ、早いうちに手を打った方がいいんじゃないのか」

「そうですね―――程遠志たちがどこにいるのか、裴元紹さんはわかりますか」

「知らねえ。さっきまではどこかの広間にいたが、もう移動しただろう。探しに行け、ってのは面倒くさいから嫌だぜ。そいつらに頼むんだな」

 

 裴元紹がそう言ってみると、驚くほど容易く厳政は頷いた。猜疑の感情が程遠志一人に向いているからこそ、他の警戒が疎かになっていた。兵士たちに命令する。

 

「程遠志たちを、見つけてきてください」

「見つけたら、どうしますか」

「どこかに、軟禁してください」

「抵抗されたら」

「……多少強引な手を使っても構いません」

 

 ―――おいおい、と裴元紹は喝采を胸中で叫んだ。何もかもが自由自在。思ったように動いている。

 兵士たちは後ろの隙間を抜けて、走り去っていった。残ったのは裴元紹ら三人と、厳政と、張角三姉妹のみ。

 あの数人の兵士などに、程遠志は負けないだろう。裴元紹にもそれは理解できた。その程度の人間ではない。容易く切り抜けることも、皆殺しにすることもできるはずだ。

 だが―――それをすれば、本格的に程遠志は吊るし上げられる。黄巾の兵士たちに囲まれ、少なくとも軟禁、もしくは鎖に繋がれてどこかに閉じ込められるかもしれない。

 そうなればこちらのものだ。後はどうとでもなる。鄧茂に見せつけて殺してやる、と思うと、裴元紹は笑みを堪えることができなかった。

 

 そういう人間だったからこそだろう。裴元紹はふと思った。今の状況は、自分に何かを示しているのではないか。

 それは奇しくも程遠志の閃きと似たようなものだった。程遠志が少し前、何もない場所で転んだのは何かを暗示しているのではないか、と確信したように。それと同様に、今自分が置かれているこの状況は、偶然ではないのではないかと思った。

 

 厳政と、張角三姉妹と、自分たち。張角三姉妹は戦えない。裴元紹は見るからにわかった。ただの踊り子のようなものだ。

 ならば、ここで厳正を殺してしまえば―――先ほど程遠志に提案した策と同じような状況になる。その後に張角たちを脅し、自分たちの言いなりにさせ、厳政の死に焦る城内から脱出して曹操に雌伏する。

 捕まった程遠志を殺す時間くらいはあるはずだ。それを愉しみ、安全に脱出しろ。天からそんな声が舞い降りてきたような、そんな錯覚に裴元紹は囚われた。

 

 そうだ。そうしよう。剣を抜いた。急な行動に、厳政も、張角三姉妹も、裴元紹の後ろにいる二人も驚く。だが、裴元紹が目配せをするとすぐに理解できたのか、後ろの二人も下卑た笑みを零した。

 

「裴元紹さん!?」

「お前からしたらよ、意味がわかんねえんだろう。ちょっとは同情するぜ」

「何を、何をする気ですか―――」

「お前を殺して、曹操に降伏するよ。そこの張角たちを連れて行けば、曹操も許してくれるだろう」

「そんな馬鹿な」

「馬鹿な話じゃねえ。そうなるんだよ」

「待ってください!」厳政は、すべてをかなぐり捨てて言った。「あの、ぼくはもう既に曹操へ書状を送っているんです。降伏の手紙です。脱出の手はずは、整っているんです。一緒に行きましょう」

「厳政―――!?」今まで怯えて黙っていた張宝が、そこで叫んだ「ちょっと、どういうことよ!?」

 

 唇を噛んで、厳政は黙っている。へえ、と呟くように裴元紹は言ったが、感情は変わらない。

 

「どっちにしても、お前は不要だろうが。むしろ邪魔だよ。今の城から抜け出すのが難しいから、お前はやらなかったんだろ?」

「それは裴元紹さんでも同じでしょう」

「お前が死ねば状況は変わるよ。この城の指揮を取っていたお前が死ねば、多少は城内が混乱する。数人が抜け出せる時間はできるんだ」

 

 抜き身の剣を片手に裴元紹は歩き出す。目線はまっすぐ揺らぐことなく、厳政を捉えている。後ろにいる二人も続いた。

 厳政は何かを諦めた顔になって、剣を抜いた。その側にいる張角たちは、怯えた顔になっている。勝てるのか、負ければどうなるのか。そんな単純な疑問もあったが、その目は、単純に厳政を心配する色も帯びていた。

 負けるはずがない、と裴元紹は思う。相手は程遠志のような男ではない。構えからしてもわかる。そう大した腕ではない。一対三ならば、確実に殺せる。

 それに、と思う。ここまでうまくいっている自分ならば最後までうまくいくはずだ。そんな、自分に陶酔した考えを裴元紹は持っていた。

 

 裴元紹は、そう考えていた。

 ―――その時。

 

 

「よお」

 

 

 ―――後ろの扉が、唐突に開かれた。

 

 

 

 その場にいる誰もが、固まった。裴元紹たちも、厳政も、張角三姉妹も。

 現れるはずがない人間だった。ここにいることがあり得ない。目を疑うような光景だった。

 なんで、と厳政が呟くように言った。彼は登場した男が自分の味方なのか、敵なのか、何なのかわからない。ただただ混乱した様子で呟いた。

 すべての人間が、同じ思いだった。

 

「なんで、って言われたらよ、そりゃまあ一つだけだわな」

「珍しいよね、こんな役回り。大抵僕たちの方がさ、人を脅かして、奪って、逃げる側なのに」

「たまにはいいだろ、たまにはよ。善人が気まぐれで悪事に手を染めたら問題だけどよ、悪人はいいんだよ、気まぐれで善行を積んでもさ」

 

 それとはちょっと違くない、と女のような顔をした男が言う。後ろに控えるもう一人の男は、その会話にただただ微笑を浮かべていた。

 裴元紹は厳政から目を離した。男の方を向く。その目は剥かれ、顔は青褪めている。先ほどまでの勢いは、「流れ」はどこにいった? 脳内に浮かんだ疑問に答えられず、まるで自分が誰かの掌の上で転がされていたような心地になり、たちまち青褪めた顔が赤くなった。

 怒りのままに咆哮する。

 

「てめえ―――程遠志!!」

「うるせえな」程遠志はその勢いに顔を顰め、厳政の方を向いて言った。「助けに来てやったぜ、なあ、厳政?」

 

 

 

 ―――状況は、まさに佳境を迎えようとしていた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黄巾討伐編 第九話

 

 

 

 今の状況下では、ただただ立っているだけでは意味がない。すぐさま動かなければならない、と程遠志は確信していた。

 剣を抜く。自分の登場に呆けている、裴元紹の後ろにいる男に向けて、何も言わずに斬りかかった。人が死ぬ、という光景を張角たちにこんな目の前で見せるべきではないかもしれないが、そんなことを考えている余裕はない、と程遠志は思った。

 嫌な音が場に響き渡る。その直後に安っぽい悲鳴も響いた。だが、致命傷ではない。踏み込みが浅かった。

 しかし、別に殺す必要があるわけではない。出鼻はくじいた。剣を握りながら、返り血を浴びた状態で、程遠志は小さく笑う。

 

「どうして」裴元紹は悲痛ともとれるような声を上げた。「どうやってテメエが、ここにいやがんだよ」

「お前の後をつけただけだよ。厳政が気がつかねえことに浮かれてたお前は、自分が尾行されてることに気がつかなかったんだな」

「お前を探しに行った兵士たちは!?」

「ここまでの道は、入り組んでいて迷路みたいだったろ。やり過ごすことくらいわけもねえよ」 

 

 いけしゃあしゃあと程遠志は言う。

 あり得ない、と裴元紹は思った。そんなに容易く、簡単に行えることのはずがない。

 そもそも、どうして後をつけたのだ。まるで、裴元紹の向かう先に厳政がいて、張角たちも隠れていると知っているかのような動きじゃないか。

 先ほどまでの幸運は、この男に操られたものなのか。裴元紹は顔を強張らせ、戦慄した。そこまでか。そこまでの男なのか、程遠志は!

 ひい、と喉から震えた声を出し、口をわなわなとさせて、裴元紹の側にいるもう一人の男も腰を抜かして倒れこんだ。

 

「これで一人消えた。もう一人も戦意を失ったみたいじゃねえか。裴元紹―――三対一で、お前は勝てるつもりかよ」

 

 裴元紹は顔を赤くしたり青くしたりしていた。黙らせてやりたい、と思っているのだろうが、戦えば死ぬ、とも理解している。

 憤怒の表情のまま、裴元紹は剣を収めた。程遠志を睨みつけながらも、両の手を上げて降伏の意思を見せているその様子は、なんとも滑稽だった。

 

「程遠志。俺を殺すのか」

「別に。放置しておいたらまた邪魔をしてくるだろうから、鎖にでも繋いでおくが、命まで取る気はねえよ」

「……随分と優しいじゃねえか」

「最初から眼中にねえんだよ。一生かかっても、お前じゃ俺に敵わねえ、ってことも理解できただろ?」

「――――――」

 

 また、裴元紹の顔が赤くなる。程遠志は縛っとけ、と興味なさそうに言った。彼の後ろにいる張曼成が音もなく忍び寄り、どこからか取り出した縄で、裴元紹を縛りつける。

 さあさ、ここからが本番だ。程遠志は服の袖で顔に付いた血と汗を拭った。

 目線は張角たちに向いている。ひ、と張角は怯えた様子を見せた。それを守るように厳政は立っている。おいおい、と程遠志は思った。悪者みてえな立ち位置じゃねえか。折角、柄にもないことをしているというのに。

 

「程遠志さん。どうしてここに」

「さっき裴元紹に説明したじゃねえか。もう一度言わせる気かよ」

「そういうことじゃなくて、なんで、ここに来たんですか」

「それも言ったぜ。お前をよ、助けに来てやったのよ」

 

 意味が分からない、といったように、厳政は目を見開く。

 

「何もかもが、わけがわかりません」

「まあなあ」程遠志は苦笑を浮かべる。「俺もよ、正直説明してやることが多すぎて、一気に伝える気にはならねえんだ。一個ずつよ、わかんねえことを聞いてみろよ」

「尾行した男を殺したっていうのは本当ですか」

「いいや、嘘だね。殺したのはそこの、狗みてえな顔をした男だ」

「……じゃあ、そもそも。程遠志さんはなんでこの砦に来たんですか。黄巾が潰れるのを助けるため、っていうのは嘘でしょう?」

「ああ。嘘だ。それはお前と同じだよ。そこの三姉妹を、曹操様に引き渡すためだ」

 

 ひ、と誰かが怯えたように言った。張角三姉妹のうちの誰かだろう。

 程遠志と厳政が組んで、自分たちの身柄を盾にし、助かるつもりなのだと誤解したのかもしれない。

 

「違う」厳政は、重々しく言った。「ぼくは、引き渡すんじゃない。既に曹操さまからは助命の約定を貰っている。送り届けるんだ」

「そうだろうな。多分だけどよ、俺もお前はそういうやつだと思うよ」

 

 だから助けてやろうと思ったんだ、なんて、程遠志は笑いながら言った。

 

「……ぼくを助ける、っていうのはどういう意味ですか」

「そこの裴元紹の味方をしてやればよ、俺はもっと楽にことを為せたんだ。お前を尾行して、この部屋を見つけて、三姉妹を確保する。それで降伏すれば、さ。でもそれじゃ、お前は死ぬことになるだろ。それは嫌だったんだよ」

「どうして」

「人を助けてえって思うのはよ、変なことか?」

 

 真顔で程遠志は言った。

 如何にもそれが真に迫った様子だったので厳政は信じかけたが、逆に迫りすぎていたので、怪しんだ。

 

「本当ですか?」

「嘘だよ」程遠志はひゃっ、と妙な声をあげて笑った。「本当のことを言えば、お前に教えてやりたかったんだ」

「教えるって、なにを」

「そこまでよ、悲観的になるもんじゃねえんだ、ってことをだよ。お前―――ツイてねえ、っていうのが口癖なんだろ」

「はい」

「それは、そういう時期に直面してるってだけで、ずっと不運が続くってわけじゃねえんだ。流れがくる、って言ってもわかんねえんだろうけど。いずれいいことはあるんだよ」

「そんなことを教えるためだけに、ここまで」

「そんなことじゃねえよ。お前は明日、明後日と続くに従って、吃驚することになる。この城だって簡単に抜け出せるし、曹操さまに降伏するのだってつつがなくいくし、そこの三姉妹だって無事になる。お前の中ではよ、それはそんなことなのか?」

 

 厳政は黙り込んだ。すべての物事がとんとん拍子に進んだ経験など、彼にはない。何かが邪魔をするはずだ、なんて不安を持ちながら、毎日を過ごしている。

 

「……程遠志さんは、張角さまたちを引き渡すためにここにきた、と言いましたよね」

「ああ。言ったな」

「そのためだけにこの城に帰ってきたんですか。程遠志さんが張角さまたちを連れてくるのを見て、顔も見たことのない曹操さまに上手く出会って、よくやった、と褒めてくれて部下にしてくれるかもしれないと信じて」

 

 ああ、と程遠志は軽く頷く。自分が曹操様に仕えていることをまだ言ってなかったな、と気がついた。

 そういえば、と思い出す。ここまでの長い通り道で、一番の最初の最初。城に入って、鄧茂と張曼成と話していたことがあった。厳政に曹操の名前を出すか、出さないか。二者択一の選択肢。

 あそこで、厳政に伝えていれば。「曹操様の指示でここまで来ました」と言えていれば、それで終わっていた。こんな面倒くさいことにはならなかった。程遠志は苦笑する。流れの悪い時に何をしてもうまくいかないな、と自嘲した。

 

「俺はよ、そもそも前の戦いで曹操様に降伏してんだよ」

「え」厳政は身体を引き攣らせた。「前のって、夏侯淵と戦った」

「ああ。それだよ」

「降伏は許さない、って矢文が来てたはずじゃ」

「そういう策なんだってよ。詳しいことは俺もわかんねえ。張曼成は頭がいいらしいけど、俺と鄧茂は馬鹿だからよ。考えるのは向いてねえんだ」

 

 一緒にしないでよね、と鄧茂は程遠志を小突いた。

 

「………………」

 

 厳政は、暫く黙り込んだ。どうしよう、という迷いがあるのだろう。信じるか、信じないか。猜疑心が強くなっている彼には難しい問題なのだ。

 もしかしたら、と程遠志は思う。厳政の、何もかもが不運に繋がるかもしれない、という考え方ならば、この俺たちこそが不運に見えているのかもしれない。仲間に見せかけて、張角を攫い、張宝を殺し、張梁を凌辱する。そういった存在に見えているのかもしれないと感じた。

 だとしたら、なんとも勿体ない。すべての判断がつかなくなっているのか。

 黙ったまま動かない厳政に、程遠志は口を開いた。

 

「素直に頷けねえか」

「……ぼくの今までからして、ここまで上手くいくことはおかしいと思うんです。偶然、曹操様に仕えた程遠志さんが、偶然この城にきて、偶然ぼくを気に入って助けてくれるなんて、あり得ますか」

「それが俺の幸運だとは思えねえのか」

「ぼく一人ならば、そう思ってもよかったです」

 

 でも、と厳政は言う。その目線の先には怯える張角たちがいた。自分の不運に彼女たちを巻き込むことは、どうしても避けたいことだった。

 程遠志は「だよな」と呟くように言った。そして、また「だからこそ、教えてやりてえ」とも言った。

 

「でもよ、俺の言うことが荒唐無稽だとしてもよ、お前はずっとこの城に居座るわけにもいかねえだろ」

「…………そうですね」

「ならよ、話は簡単だ。賭けをしようぜ」

「賭け?」厳政は見るからに戸惑った。「どういうことですか」

「俺が勝ったら、言うことを聞いてもらう。一緒にこの城を抜け出して、曹操様のところまで行ってもらう」

「もし、僕が勝ったら」

「連れてくのを諦めるし、なんだって言うことを聞いてやるよ」程遠志は鼻で笑った。「正直、もう俺は何をしないでもいいんだ。この城であと一週間何もしなくて、曹操様の総攻撃を待ってもいい。褒美が少なくなって、長い休暇が貰えねえのが玉に瑕だけど」

 

 厳政には、最後の方で程遠志の言っていることがほとんどわからなかった。わかったのは賭けの内容だけだ。

 

「拒否権は、ないんですよね」

「まあ、そりゃな。いいじゃねえか、受けてみろよ」

「先に、賭けの内容を教えてください」

「対決するんだよ。俺と、お前で。殴りあう、って言い換えてもいい」

 

 対決、と程遠志は曹操の言葉を借りて言った。

 ふと、厳政は昔のことを思い出した。対決。昔、張宝に言われた言葉だった。黄巾に入る切っ掛けになったような、言葉だった。それがこの場で、この機会で用いられたのは、偶然だろうか。

 やってみろよ、と程遠志は言う。不思議なことに、断られるとは微塵も思っていない顔だった。そういうものだ、と。すべてうまくいくと確信しているような表情。

 

「ぼくが腕力で程遠志さんに勝てるとは思えないんですが」

「ああそうだな。じゃ、俺は両腕両足を使わなくてもいい」

「……それで、どうやって殴りあうんですか?」

「さあな。俺にもわかんねえ。それでも、勝つんだよ。それぐらいやれば、お前も信じるだろ? 俺がどれだけ幸運を持ってるか」

 

 確信した表情は消えない。対決に対する異常な自身、自負。厳政は、何故かそこに惹きつけられた。

 かつて黄巾に入るため、すべてを投げ出した時の記憶が蘇る。あれと同じだ、と思った。程遠志に備わっている謎の自信は、一種の将器と言ってもいい、と感じた。やってみろ、という言葉に、やってもいいんじゃないか、なんて気になってくる。

 ここでじっとしていても始まらない。両手両足を失った相手との殴り合いに負ける道理なんてない。勝てば、言うことを聞かせられる。

 ―――もし、負けたら。確かに。

 程遠志という男の幸運を信じていいかもしれないな、なんて、厳政は思った。

 

「やります」思った瞬間に、厳政は声が出ていた。「勝ちますよ、勝つ気で行きます」

 

 そう言いながら、両腕両足を使わない人間に負けるわけないだろ、なんて考えながらも、負けるかもな、なんて厳政は思った。自分の不幸がそうするのかもしれない。負けを誘うのかもしれない。

 だけど、もしそれが程遠志の幸運のものならば、素晴らしいな、なんて思った。それで張宝さまを、張角さま、張梁さまを救えるならば、どうしようもないほど幸運だ。

 信じてもいいかもしれない。そう思った。

 

「じゃあよ、かかって来いよ。俺は動かねえからよ」

 

 程遠志はそう言って、両の腕を頭の後ろで組んだ。

 厳政は剣を捨て、殴りかかる。負けるかもしれない。負けてもいいかもな。なんて、考えながら―――

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黄巾討伐編 最終話

 

 

 程遠志は簡単に勝った。呆気ないほど容易く、数秒で勝負は決まってしまった。厳政が殴り掛かり、それを程遠志が半回転して避けた際、その回転とともに動いた肘が厳政の顎を正確に捉えた。

 見てすらいなかった。そういうものだ、と確信した動き。

 厳政は顎をしたたかに打たれ、軽い脳震盪を起こして動けないながらも程遠志の幸運に呆れ、信じてみようと決めた。

 

 そして、である。

 厳政の信頼をある程度まで勝ち取り、張角三姉妹に多少怯えられながらもこの城から脱出することに同意は得た。

 急ぐべきだ、と程遠志は思った。自分のモノにした「流れ」がそう簡単にどこかへ消えてしまうことはない、と確信してはいたが、この城の中でただただ怠けているだけではならないだろう。

 すぐさま行動を起こさねばならない。曹操の命令でこの城に入ったのが今日の昼で、酒を飲んだのが夕方過ぎ。もういつの間にか日は落ちて夜になっていた。抜け出すにしても、ちょうどいい時間帯だ。

 

「どうやって、この城から脱出する気ですか」

「理由なんて適当につければいいさ。このままじゃ勝機はないから、他の黄巾軍に援軍を求めに行く、みたいな感じでいい」

「この、完全に包囲されている状況で? 信じてもらえますかね」

「信じてもらえるさ。包囲されているこの状況で外に出るなんて、馬鹿な奴だ、なんて哀れまれるかもな。うまくいくんだよ」

「どうしてそこまで―――」

 

 自分のことを信じられるのか、と聞こうとして、厳政は口を噤んだ。己の幸福を、「流れ」を信じて、成功してきたからだろう。

 それを信じると決めたのだから、もはや言葉はいらない。静かに頷いた。

 

「じゃあ行くぞ。こんなところにいても始まらねえ」

 

 程遠志はすぐさま歩き出した。振り向きもせず、前だけを見て進む。

 そこからはとんとん拍子に事が進んだ。裴元紹を連行し、適当な場所に軟禁した。適当な台車を見繕い、兵士たちに見られてはまずい張角三姉妹を入れた。台車を曳きながら城の門を目指し、ぎりぎりのところで厳政も台車の中へ入った。

 あとは程遠志たちが台車を引いて門を超えるだけだ。張角たちは誰にも発見されることなかったし、怪しまれることもなかった。

 

「ねえ、程遠志」鄧茂がひそひそと言う。「流石に、この台車を曳いたまま出るのは難しいんじゃない?」

「食糧を持っているとでも理由をつければいいさ。他の黄巾軍へ運んでやるだの、曹操軍を掻い潜っていくためには必要なことだの言えばいい」

「台車を検められないかな」

「検められても、大丈夫さ」

 

 そういうもんだ、と程遠志は笑いながら言った。

 そうして、程遠志たちは門の前に辿り着く。そこには無数の門番と警戒している兵士たちがいた。

 いよいよだ、と程遠志は思う。

 動悸がした。必ず成功すると確信していても、何度やってもこの感覚は変わらない。

 

「どこに行く気だ」

「援軍を、求めに行く」

「どこへ」

「隣に存在する、黄巾の村だ。厳政様の許可は取ってある」

 

 程遠志は張曼成に喋るのを任せていた。初対面の人間に対して自分の容貌や、喋り方が威圧感を与えるような気がしたからだ。

 それは確かだったようで、生真面目に見える張曼成は少なからず門番に好印象を与えていた。

 

「その台車は、なんなんだ」

「食糧が入っている」

「どうして食糧を入れた」

「仲間への援軍要請の手付と、曹操軍の包囲を抜けていくためだ」

「そんなもので包囲を抜けられると思うのか?」

「ならば、この城に籠っているだけで勝てると思うのか?」

 

 門番の人間は黙り込んだ。一理ある、と思ったのだろうか。思ってくれ、と台車の中に隠れている厳政は願った。

 数秒、沈黙が場を支配した。誰も喋らない。静止した時間が存在した。

 

「……とにかく」門番の男が、長い沈黙を破った。「その台車の中身は、検めさせてもらう」

 

 その言葉に鄧茂は小さく動揺を見せ、張曼成は一瞬固まった。台車がかたり、と揺れた気がする。それが気のせいか気のせいでないか、彼らにも理解できない。

 止めるべきか、と張曼成は一瞬迷った。彼はその勢いに従って、口を開こうとして。

 

「いいじゃねえか」程遠志は余裕そうな顔で口を挟んだ。「見せてやれよ、中身を―――」

 

 ほらよ、と程遠志は軽く顎で促す。中を見てみろ、と。

 その態度に多少門番は苛立ちながらも、台車を覆っている布を勢いよく剥ぎ取った。はらり、と視界が晴れる。

 

 そこには―――厳政や張角たちの姿はなく、大量の食糧が置かれていた。

 

 なに、と門番は驚いた。張曼成も、鄧茂も驚いた。程遠志だけは、平然と立っていた。

 いつの間に、こんな数の食糧が。張曼成は思い返したが、台車の中に程遠志が食糧を詰めていた様子は見受けられなかった。

 恐らく、この食糧の下に厳政たちが隠れているのだろう。台車は半分で区切られていて、上が食糧で、下に厳政たちが隠れている。

 この台車の中に厳政がいる、と理解できている張曼成だからこそ、そう考えることができたが、普通ならば気がつくことなどできないはずだ。上の食糧に気を取られしまうはず。

 程遠志は飄々としていた。こうなることを確信していたような顔だった。「どうだ?」なんて、門番に聞いてみる。

 

「……少々、多くないか。食糧の数が」

「そう言われると思って、見せたくなかったんだよ。いいじゃねえか。この城にはまだまだ食糧の余りはあるんだろ」

「…………」

「厳政様の許可ももらってるよ。この状況をどうにかするには藁にも縋るしかない、って言ってたぜ」

 

 程遠志がそう言うと、門番はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、黙り込んで道を開けた。門を開けるように、部下に命じる。

 そういうものだ、と程遠志は思う。高を括っていた、と言ってもいい。「流れ」に乗っているのだ。自分がこの状況でしくじるはずもない。

 

 そこから、である。様々な出来事が、立て続けに起きた。

 

 まず、程遠志たちが門をくぐった。そのまま曹操の元へ歩いていき、役目は終えたと告げるだけでいい。そうなると彼は信じていた。

 門をくぐると同時に、門番は通常ならば門を閉じるはずだ。それで、彼らからは程遠志の姿を追うことができなくなり、もうどうしようもなくなる。

 そうなるはずだった。

 しかし、程遠志の後ろから聞こえてきた音は、閉門の軋んだ音ではなく「ひい」だとか「うわあ」だとかいう、人間の悲鳴だった。

 

 どういうことだ、と程遠志は後ろを振り返るため、足を横に曲げた。そこで、躓きそうになる。身体を少し傾かせ、おっとと、とふらついた。

 足元を見た。今度は何もない場所で転びそうになったわけではなかった。

 自分の足の下を見て、驚く。茶色の物体。

 犬の糞を、踏んでいた。

 

「おいおい、ツイてねえな」

 

 言ってから、ハッとする。今の俺がついてない? そんな馬鹿な。どういうことだ。

 少しの間程遠志は呆然としていた。だからだろう。門番たちが悲鳴を上げた理由を理解するのが遅れた。

 気がついたら、ぶん、という音が程遠志の耳元でしていた。なんだ、と飛び上がりそうになる。横を見る。

 そこには、蜂がいた。

 

「――――――」

 

 なんでこんな夜に、蜂が飛んでいるんだ? 意味が分からなかった。木偶になっている程遠志や鄧茂、張曼成には目もくれず、蜂は台車の方へ飛んで行った。

 食糧に惹きつけられたのか、と程遠志は一瞬思った。一瞬後、いや待てよ、と思い直す。最悪の想像をしてしまった。流石に―――流石にそこまでじゃねえよな。はは、と引き攣った笑いが漏れ、冷や汗が出る。

 台車の中にいる人間を程遠志は思い浮かべた。張角、張宝、張梁―――そして、厳政。日頃から不運だ、なんて言っている彼が、まさか、蜂を? その不運で引き寄せた?

 鄧茂と顔を見合わせた。「まさか」「あり得ないよね」お互いに言い合う。言い合いながら、笑い合いながらも、ひょっとすれば、と思った。

 

 

 

 ―――その数秒後、台車の中から姦しい悲鳴が木霊した。

 

 

 

 台車がひっくり返る。中の食糧がすべてぶちまけられ、上と下で仕切ってある板も取れた。すべてが露になる。

 すなわち、それは中にいた人間も同義である、ということで。

 

「どうして、蜂が」目の下を腫らし、半泣きになった厳政が叫ぶように言った。「なんで蜂が入ってくるんだよぉ」

 

 その隣で張角三姉妹たちが転んでいた。台車は既に粉々に壊れ、食糧は散乱し、目も当てられない。

 程遠志は滑稽にすら見える表情で呆然としていた。はは、と笑ってしまう。笑うしかなかった。自分の幸運が、厳政の目に見えない不運で塗り替えられていくような、そんな実感があった。

 

「な―――なんで、張角さまが」

 

 そして、それは勿論。

 門が開いている、ということは、門番たちにも目撃されている。

 

「おい、お前ら」言いたいことはあったが、とりあえず程遠志は叫んだ。「逃げるしかねえ!」

 

 その言葉に鄧茂も、張曼成も泡を食って走り出した。

 厳政は、蜂に目の下を刺されながらも、張角ら三姉妹を強引に担ぎ上げ、走り出した。

 

 目の前に見えるのは曹操の旗。夜の静かなこの時間帯でも、兵士たちはちゃんと仕事をしているようで、城前で起こったこの騒動もしっかりと目撃していた。こちらを援護するように、近づいてくる。

 程遠志は目をぎょろぎょろと左右に動かしながら、旗を探した。あれでもない、これでもない。数秒かけて血走った目であたりを見回して、ようやく目標物を見つけた。

 最早、恥だのなんだのを気にしている時間じゃない!

 程遠志はそちらへ向けて、全力で叫んだ。

 

「おい、夏侯淵! いや、夏侯淵様、助けてください―――っ!!」

 

 

 ―――その旗の下で、青髪の弓使いが悪戯っぽい笑みを浮かべている気が、程遠志はした。多分、気のせいではない。

 

 

 

 

 このような塩梅で、程遠志の潜入任務は終わった。この後、程遠志は夏侯淵に散々揶揄われ、夏侯惇に「修行が足りない!」なんて理不尽なことを言われたりもするのだが、まあおおよそは、こんな感じだ。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

息抜き編 ちょっと休憩

 

 

 

 

 程遠志は昇進した。元黄巾賊の男がこうも早く昇進することに、さまざまなところから罵倒や文句が出て、これは一波乱あるか―――と思われるほどまでであったらしいが、彼は気にしていなかった。

 貰えるものは貰うし、他の人間からの評価などは気にならない。嘘偽り抜きでそう考えている男だった。

 それに。

 今現在の程遠志には、そんな悪評などよりも気にしなければならないことがあった―――

 

「……なあ、いったいどうしてよ、俺はお前と仲睦まじく街を練り歩いているんだ?」

「さて、な」夏侯淵はしれっとした顔で言う。「お前、なんて呼び方は好きじゃない」

「夏侯淵」

「おや。あの時みたいに夏侯淵様、と呼ばないのか?」

「その話はやめろ。やめてください」

 

 程遠志は引き攣った顔になる。あの時が、黄巾の城から脱出した時のことを指しているのは自明の理だった。

 途中までは完璧だったんだよ、と言い訳気味に呟く。はは、と夏侯淵は愉快気に笑った。

 

「お前は本当に両極端な男だな」

「知らねえよ。……てか、夏侯淵、普通に俺のことをお前って呼んでるじゃねえか」

「私の名を呼ばせて、揶揄って、楽しみたかっただけだ。他意はない」

「めっちゃ他意あるじゃねえか」

 

 程遠志がそう突っこむと、また夏侯淵は笑った。

 ひとしきり笑って、そこで、ようやく夏侯淵は程遠志に口を開いた。

 

「黄巾党を撃破し、秘密裏に張角たちを仲間にした祝賀会のようなものだ。その材料の買い出しを私とお前が担当する。今街を歩いている理由なんて、それだけの話だ」

「買い出しなんてもっと下々の奴がやることじゃねえの」

「祝賀会の料理は華琳さまも食べる。一つ一つの物事から手を抜くわけにはいかぬ」

 

 それなら毒見役でも作ればいいだけじゃねえのか―――なんて程遠志は思ったが、それでは興が削がれるということなのだろう。少しずつ、彼にも曹操という人間の人となりが理解できていた。

 

「その祝賀会ってのは、俺も出んのか?」

「当り前だろう。ある意味、お前が主役だと言ってもいい」

「はあ?」

 

 主役? と程遠志は首を傾げる。生まれてこの方、自分がそんな位置に立ったことなんてなかった。

 なんでわからないんだ、と夏侯淵は少し呆れた顔になった。

 

「黄巾を攻め滅ぼした勲功があるだろう」

「それはそうだけどよ、俺は、昔から主役なんて柄じゃねえんだよな。悪役だとか、敵役だとか。そっちに慣れちまってんだ」

「気に入らないのか?」

「そういうわけじゃないんだけどな」

「それなら気にせずどんと構えていればいい―――まあ、一部の人間からお前が嫉まれたり、嫌われたりしていることは、事実だが」

「そういう悲しいことをイイ顔で言うなよ……でも、やっぱそうだったのか。ほら、あれだよ。なんかでかい鉄球持ってるチビ。よく睨まれるんだよな。この前まで無視だったのに」

「季衣はな」夏侯淵は、初めてそこで表情を曇らせた。「あれは、また、特別な事情があるんだ。気になるなら私からも言っておくが」

「別によ、気にはならねえよ。鄧茂も仕方ねえことだって言ってたしな」

 

 程遠志はさらり、とそう流した。睨まれることに慣れているというのもあったし、どうだっていいことだとも思っていた。

 嫌われたものは、どうしようもない。放っておけば後々時間が解決してくれるかもしれない。そんな楽観的な考えが後々また面倒くさい事態を巻き起こすのだが―――まだ、今はその時ではない。

 

「で、今日振る舞われる料理ってなんだ?」

「麻婆豆腐、が主だったはずだ。何から何まで最高品質のものを取り揃えてきて、と頼まれている。肉や、豆腐から、唐辛子まで」

「お、いいね。俺、酒に合うから辛いの好きなんだよな」

「そうなのか」

「料理の辛みを楽しめねえ奴は、人生損してるぜ―――まあ、余程のお子ちゃま舌なら同情するけどよ」

 

 得意げにそう言った程遠志に、夏侯淵が「それを華琳さまに言ったら多分殺されるだろうな」と言うと、すぐさま怯えて顔を真っ青にした。

 

 

 

 夏侯淵は頼まれていたものをテキパキと注文し、さあ会計だ、という時になって唖然とした。店主から言われた金額は、寡黙で冷静な彼女の感情を震わす程度に衝撃的だった。

 あまりにも暴利だったのではなく、その逆で、驚くほど安価だった。想定していた値段の、三分の一ほど。

 最高級の品質で揃えたため、それでも普通の人間からすれば高い買い物なのだろうが、流石におかしいだろう。

 夏侯淵はそれに得したな、なんて能天気に思うような人間ではない。何か不備があるのか。ないならばなぜこんなに安いのか。問い詰めねばならぬ、と思い、顔が若干厳めしくなって。

 

「お、なんだ。思ったよりしねえな」程遠志が横から口を挟んだ。「まただよ」

「また?」

「『流れ』に乗ってる俺からしてみれば、よくあることだよ―――なあ、店主。当ててやろうか。俺たちが都合、千人目の客だからとかだろう」

「いいや。わしの娘がな、今日嫁いだのだ」

「ああそっちか。惜しいじゃねえか」

 

 ち、と舌打ちする程遠志を、夏侯淵は呆れ半分、感心半分といった表情で見る。

 

「それも、偶然だというのか」

「偶然っていうか、流れだな」

「それを言えば何でも解決すると思っていないか?」

 

 仕方ねえだろ、実際に解決してんだから。程遠志はそうボヤいた。

 

「流れに乗ってる最中はよ、何をしても成功するんだよ。間違いねえ」

「なら、どうして黄巾から逃げてくる時、私に泣き叫びながら助けを求めたんだ?」

「いや。あれはよ、特別だ」程遠志は苦々しげな顔になる。「そもそも、泣き叫んでねえし。特例だよあんなの」

「特例?」

「ああ。厳政ってお前も知ってるだろ。あそこまで不運な人間他にいねえよ」

 

 程遠志はふと、あの時のことを夢想する。あり得ないような出来事だった。夜に活発に飛び回るはずのない蜂が飛び、台車の中にある食糧を狙うならばまだしも、厳政の目を狙って動いた。

 そんなことが起きる確率はどれほどだろうか、と思うと、多少同情したくもなった。

 

「厳政自身は最近喜んでいるらしいがな」

「喜んでる? なんで?」

「曹操軍に来てから、不運が心なしか減りました、なんて言っている。張宝とも仲良くやれてるし、お前のおかげだとも言っていたぞ」

「ざけんな馬鹿。俺の幸運、絶対あいつに吸われてるっつーの」

 

 ひょっとしたら俺の天敵になるような人間を仲間にしちまったんじゃねえか―――なんて、程遠志は今更になって気がついた。特にだからどうしようとも思わなかったが。

 

「しかし、それなら困った。貰った金が思わず余ってしまった」

「山分けにしねえか?」

「馬鹿、公金だぞ。……まさか本気で言ったんじゃないだろうな?」

「あ、ああ。勿論だ。勿論冗談だぜ? わかってるに決まってんだろ!」

「……お前に金関係の仕事を任せるべきじゃない、ってことはわかった」

 

 はあ、と夏侯淵は一つ溜息を吐く。

 

「まあ、それなら追加で何か見繕うか。時間はまだまだ多くある」

「それならよ、適当な酒と、酒に合うものを追加しようぜ」

「それはお前の都合だろう―――と言いたいが、まあ、構わない。大酒飲みも我が陣営には多くいる」

 

 今回の戦の第一戦功なのだから、それくらいは聞いてやるか、という思いも夏侯淵にはあった。

 

 ―――程遠志が酒を飲むとどうなるのかをわからなかった故、である。

 

 

 

 

 そして、時間は流れ。

 祝賀会は始まった。曹操が堅い挨拶を終え、これからは無礼講だ、という言葉に多少場が沸き立ち、乾杯の音頭が取られる。

 各々酒を飲み、飲めぬものは広間の各所に置かれている取り分けられた料理に精を出し、各自で様々な行動をとっていた。その中には鄧茂もいるし、張曼成もいた。

 ―――そんな中、程遠志はといえば。

 

「よお、夏侯淵、酔ってるかぁ」

 

 夏侯淵はぐるり、と広間の中を微笑しながら回っていて、隅の方で固まった。

 あ、失敗したな。程遠志の姿を見てすぐに思う。一つくらい我儘を聞いてやるか、なんて思いで酒とつまみを買い与えたことに、後悔すら覚えた。

 程遠志は椅子に座り、食事に手を伸ばすことなく酒だけを飲んでいた。どこで捕まえたのかその右隣には名も知らぬ兵士が絡まれていたし、左隣には何故か楽進が目を白黒とさせて座っていた。

 

「……これは、一体全体どういうことだ? 程遠志」

「楽しく飲んでるだけだよ。お前も混ざるか、夏侯淵」

 

 なあ、と呼びかけ、あたかもさりげなくといった素振りで、左隣にいる楽進の肩へ手を伸ばした。明らかに焦った様子の彼女はその手をぱん、と払いのける。

 痛えな、と程遠志は悶絶しながらも、まったく懲りない様子だった。楽進は悲鳴にも似た声を上げる。

 

「秋蘭さま! 助けてください!!」

「どういう状況だ」

「私が黙々と食事をしていたら、唐突にこの男が現れて酒を飲みだしたのです。気を使って全力で殴ってもいいですか!」

「いや、流石にそれは」

 

 胸中で、少しだけ殴ってしまっても構わないか、と夏侯淵は過激的な思考になりかけた。どこまで酒癖が悪いのだ。

 この祝賀会全体に迷惑をかけているわけではなく、寧ろ殆どの人間には気づかれていないので、そう大した問題にはならないだろう。そんな打算的で小悪党な考えを程遠志は持っていた。言うまでもなく、彼の酒癖の悪さは演技のようなものである。

 これ幸い、とばかりに程遠志は誘いをかけた。右隣に座っている男を開放し、とんとん、と席を叩く。

 

「こいよ、夏侯淵。対決しようぜ」

「なんのだ」

「飲み比べの、だよ。負けた方が一つ言うことを聞くってのでどうだ?」

「…………」

 

 はあ、と一つ夏侯淵は溜息を吐く。戯言だ、と吐き捨ててどこかに行こう、とも思ったが、楽進がこちらに助けを求めていた。

 程遠志はもうほとんど酔いつぶれる寸前に見えた。潰してしまうか。夏侯淵は一瞬、そうしようか、と思いかけ―――

 

「おい、程遠志! なかなか調子に乗ってるじゃないか」

 

 夏侯惇が現れた。楽進を横に侍らせ、酒に溺れている(ように見える)彼が気に食わないらしい。

 説教をしてやろう、と歩いてくる夏侯惇。いつもならば程遠志は話でも逸らしてやり過ごすところだが、今は違う。気分のまま、軽く挑発してみせた。

 

「お、夏侯惇。お前でもいいや。俺と対決しねえか?」

「聞いていたぞ。飲み勝負だろう。そんな馬鹿らしいことを私が受けるわけ―――」

「んだよ、逃げんのか。臆病者がよ。いつもの気勢はどこいった?」

「―――やってやろうじゃないか!!」

 

 夏侯惇は酒も飲んでいないのに顔を真っ赤にし、誘われるまま程遠志の右に座った。

 程遠志の右腕が夏侯惇の肩に伸びる。彼女は拒まない。寧ろ、それよりも強い勢いで程遠志の左肩に左手を伸ばし、ばん、と組むのではなく平手で叩いた。

 それは楽進の一撃よりも遥かに強力なものだったらしく、程遠志は小さく悲鳴を上げて演技を忘れて痛がった。

 

「……飲み比べで、先に潰れた方が負けでいいのか?」

「おう。そうしようぜ。夏侯淵は審判でもしててくれ」

 

 夏侯淵は自分の姉を見た。顔は赤いが、酔っているわけではない。酒に驚くほど強いというわけでもないが、弱いということもない。勝てる。今の、潰れかけの程遠志にならば勝てる。

 ……この場において、程遠志の悪癖を知っている人間は鄧茂と張曼成だけだった。彼らは理解している。豪勢な料理が振る舞われるこの場で程遠志に絡まれれば、必ず満足のできない結果になると理解している。別行動をとっていた。

 

「――――――」

 

 

 結果。

 程遠志の酒を呷るペースは速く、それに夏侯惇はついていこうとして、潰れた。殆ど時間が経っていないというのに、である。

 

 

 

 夏侯淵は程遠志を見る。最初と様子は変わらない。机に突っ伏して寝ている夏侯惇を指でつついて馬鹿笑いをしている。明らかに酔った様子だ。だというのに、である。

 

「おう、次は誰だ」程遠志は左隣を見る。「お前も参加するか?」

「ひ、ひい」楽進は悲鳴を上げた。「秋蘭さま―――!」

「おう。夏侯淵。お前もやるかよ?」

 

 どういうことだ、と夏侯淵は混乱する。

 そこに、仕方ないなあ、といった様子の鄧茂が通りがかった。 

 

「付き合わないほうがいいですよ」

「……どういうことだ」

「女の子に悪戯するため演技をしてるんです。酒を飲むとあんなんになるんですよ、昔から」

「………………つまり、なんだ。酔ってないのか?」

「ちっっっとも酔ってません」

「…………………………」

 

 

 

 夏侯淵は、長い長い溜息を吐いた。程遠志はそれを聞きながら楽しそうに笑っている。

 

 

 

「凪」

「は、はい。秋蘭さま」

「全力で殴っていいぞ。ていうか殴れ。この場を収める唯一の方法だ」

「――――は!」

 

 

 ―――楽進は気を内包した拳で、死なない程度に程遠志を殴った。そこで、程遠志の記憶は途切れている。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3章 董卓包囲網編 董卓包囲網編 第一話

 

 

「董卓包囲網?」

 

 程遠志は阿呆面を浮かべながら寝転がっていた。

 向かい合う形で、鄧茂はだらりと姿勢を崩している。何か言いたいことがあったんだよなぁ、なんてしきりに首を捻っていたが、忘れてしまったらしく違う話題を程遠志に振っていた。

 いつもいるはずの張曼成はここにはいない。用がある、と言って、ふらふらとどこかに出かけてしまっていた。ごくごくたまにあることだったので、二人は気にしていない。

 

「袁紹って人の使いが来たらしくてさ。董卓を倒せーっていう書状を持ってきたんだって」

「ふうん。まず俺はよ、その董卓を知らねえ」

「割と街とかで噂になってる気がしたけどなぁ。暴虐の限りを尽くしてるってさ」

「へえ、そりゃ大悪人だ。で、曹操様は受けたのか、それ」

「うん。程遠志にもそろそろ働いてもらうわ、って曹操様が言ってたよ」

「……まあな、ちょっと休みすぎちまったしなぁ」

 

 程遠志は黄巾討伐の報酬として、昇進は勿論のこと、長い休息日も実際に貰っていた。

 休めるのならば、と程遠志は遠慮を一切することなく酒を飲んで寝るだけの日々を費やしていた。それももう一週間弱が経ち、流石の程遠志も、そろそろ働くかな、なんて殊勝な考えにもなりつつあった。

 

「包囲網なんて言うからには、多分すげえんだろうな。袁紹と、曹操様と、あと他にも二、三くらいか? どんだけ参加するんのかな」

「そんなもんじゃないよ。小さい勢力もいれたら十、二十に及ぶと思うし。袁紹だけでも三万以上の兵を率いてくるだろうから、とんでもない規模になる戦だよ」

「はぁ」程遠志は口をぽかんと空けた。「俺にはよ、想像もできない話だ」

 

 程遠志が率いたことのある軍勢なんて、精々二百人や三百人がやっとである。鄧茂の話からすると、この包囲網すべての兵力は十万だの、二十万だのになりそうだった。気が遠くなる。

 

「でもさ、袁紹の書状が届いたのって、確か一昨日より前だった気がするんだけど。初耳なの?」

「初耳だよ。そういやちょっと前、なんか騒がしかったな」

「多分その時じゃない。袁紹のかなり大事な部下が二人くらい来てたから、こっちも皆集まってたし」

「俺も呼んでくれればいいのによ」

「夏侯淵さんが、休暇中に呼び出すのも忍びないって言ってたよ―――あと、今いてもそんなに意味がないって」

「酷えこと言いやがるよ」

 

 はは、と程遠志は苦笑する。まあ確かにその通りかもしれない、とも思った。

 

「まあ、よくよく考えたら当り前か。程遠志は友達少ないもんね」

「んだよ藪から棒に」

「包囲網の話が伝わらなかった、ってのも頷けるなって。それならさ、今一番噂になってる、どこかに天の御使いが来たらしいってのも知らないでしょ?」

「まず、そもそも。天の御使いってなんだよ」

「管輅が言ってた占いのこと知らないの!?」

 

 鄧茂は半ば絶叫のような声を上げた。

 占いね、と程遠志は若干興味を持つ。現実的な考えを持つ彼も、風水などが嫌いだというわけではない。

 

「東方より飛来する流星は、乱世を治める使者の乗り物。その使者こそが、天の御使いって呼ばれてる存在だよ」

「ふうん。要するにだ、そいつはこの大陸に平和をもたらすわけだ。すげえじゃねえか」

「それが、どこかの勢力に来たらしいの。名前忘れちゃったけど」

「成る程なあ」

 

 まあ、頭の片隅には入れておくか、なんて程遠志は考えた。占いはある程度まで信じるが、自身のことではない限り大して興味が湧かない。

 その規模が中華全土まで覆われてしまうと、程遠志はこの大陸がどうだの世界がどうだの、だと言われたような遠い話に思えてしまう。

 

「でも、僕が言わなかったら危なかったね。出陣は割ともうすぐだよ」

「あ?」程遠志は目を瞬かせた。「なんだよ、そんな早く集まるのか」

「当り前じゃん。明後日か、明々後日には程遠志も軍を率いて出ることになってたよ。僕と張曼成は、その副将だってさ」

「わりかし危なかったな。教えてくれて助かったぜ。俺の友達はお前と張曼成と―――ああ、そうだ。厳政もそうだな」

「そうだ、それだ!」

 

 鄧茂は唐突に程遠志を指さした。なんだよ、と程遠志が少し眉をひそめながら返すも、彼はその勢いのまま続ける。

 

「厳政を助けるのは知ってたけどさ、友達になるのは僕聞いてないんだけど」

「はあ? なに、俺が友達増やすたびにお前に言わねえといけねえのか? どんな面倒くさい仕組みだよ、束縛してくる妻かよ」

「言ったじゃん、黄巾抜けるときに! 友達が増えるときには教えて、って。これでもう、程遠志含めたら僕たち四人になっちゃったよ」

「知らねえよ」そう言いながらも、程遠志は四という数字が気になった。「けどな、縁起悪いなあ、四ってのは」

「ほら、いろいろ問題出てくるじゃんか」

「多数決もできねえしな―――いっそのこと、さっさともう一人増やして五人にすっか?」

 

 できもしないことを簡単に、程遠志は冗談めかして言ったが、鄧茂が真顔になったので閉口した。冗談にならねえな、なんて胸中で呟く。

 

 

 

 

 ほとんど曹操軍の全力とも呼べる軍勢、総勢三万。練度は黄巾との戦でさらに底上げされて、他のどの勢力をも超えている、と曹操は確信していた。

 その三万が、出陣の声を上げた。鬨の声である。気負い、緊張、葛藤。それらすべてを吹き飛ばすような怒声が、あたり一帯に響き渡る。

 そして―――その中には当然、程遠志の姿もあったし、鄧茂と張曼成も、厳政もいた。

 

「すげえな。一気に士気が上がっちまった」

「こんな演説聞いたことないね」

「そうだな鄧茂―――でも、まあ。厳政、確かお前も演説上手かったろ」

「え!? い、いやいや、とんでもない。ぼくなんかまだまだですよ」

「そりゃ曹操様に敵うわけもねえけどさ、俺たちとかと比べたらよ、格が違うよ。この軍の演説担当はお前だから頼んだぜ」

「そういうのって、普通程遠志さんがやるんもんじゃないんですか?」

「馬鹿。俺は人のやる気をださせるだとか、そういう才能は皆無だよ。鄧茂じゃ締まらねえし、張曼成が大声出すのも想像できねえ。お前しかいねえのさ」

 

 黄巾にいた時、程遠志たちは一度だけ厳政の演説を聞いたことがあった。黄巾兵たちの手綱をしっかりと握り、士気を上げていた。

 

「でも、いいね。なんか僕たちの軍がしっかり整備されてきたじゃん。程遠志が流れで、張曼成が軍の指揮、厳政が演説。各自それぞれ担当を持ててるし」

「お前は何担当なんだ、鄧茂」

「僕? ……幼馴染担当とか?」

「俺限定じゃねえか。具体的に何するんだよ?」

「何してもいいの?」

「今の俺の疑問にどういう思考回路したらそういう答えになるんだ?」

 

 程遠志はなんとも言えない微妙な顔になる。

 厳政は恐る恐る、といった感じで手を上げた。

 

「程遠志さんと鄧茂さんって付き合ってるんですか?」

「はあ?」

 

 程遠志は目を瞬かせる。鄧茂は当たり前だよ、というように頷いた。ぱこん、と隣の程遠志に頭を叩かれる。

 

「夏侯淵様と懇ろだとか、いろいろ噂されてたので、何が本当なのかわかんないんです」

「どれも嘘だよ。誰とも付き合ってなんかいねえし」

「え、意外です」

「んだよ、俺が特定の人間と不埒な行為ばかりしてる不潔な人間に見えるのか?」

「そ、そこまでは言ってないですけど」

「俺は不特定多数の人間に手を出すことがあるかもしれねえが、特定の人間にかかりっきりにはならねえよ。安心していい」

「……いや、そっちの方が不潔なんじゃ」

 

 厳政は横から口を挟んだが、程遠志は無視して言葉を続けた。

 

「まずはな、厳政。俺の女性遍歴だとか、張曼成が一月に一回必ず単独行動を取ることが怪しいだとか、そういう話は置いといてだ」

「おい」張曼成は顔をしかめた。「お前らの猥談に俺を巻き込むな」

「とにかくだ。お前が知らねえといけねえのは、鄧茂が俺と付き合うのはそもそもあり得ないってことだよ」

「え」厳政は首を捻る。「何でですか?」

「あれ」鄧茂もそれを真似る。「何で?」

 

 程遠志は呆れた顔になる。どうしてお前が聞いてくるんだよ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

董卓包囲網編 第二話 群雄割拠

 

 

 ―――劉備。

 

 関羽は笑っていた。とんとん拍子に物事が進んでいる。自分と、張飛は元より、孔明と龐統。そして天の御使い様まで―――劉備の理想としている、「誰もが笑って暮らせる世界」の構築は近い、と思えた。

 民草が泣いているから。劉備が兵を挙げるの理由は、ただのそれだけである。他の諸侯からすれば考えられぬことであろう。

 民を思う人間はいようとも、それがすべてだと断ずる人間は、彼女しかいない。関羽は確信していた。

 その性格だからこそ、人が集まった。伏龍、鳳雛と呼ばれた軍師たちも。天の御使いこと、北郷と名乗った青年も。

 この連合軍で、必ず名を上げることだろう。そうせねばならない。

 関羽は奮起した。張飛も同じ思いだろう。そう、確信も持てた。

 

「あれ、愛紗ちゃん」

「桃香さま!」

 

 関羽がそう考えていると、劉備がにっこりと笑うながら現れた。隣には張飛と、孔明がいる。

 劉備の目は輝いていた。理想に焦がれる瞳。董卓の暴虐に対して立ち上がらなければならぬ。そんな使命感を、帯びていた。

 

「もう、出陣なさいますか」

「そうだね。ご主人様が来たら、出ようかな」

「ええ。此度の反董卓連合では、必ず我々の名を轟かせてみせます」

「あはは……でも、そうだね。相手の軍を打ち破って、洛陽の人たちを救いに行かないと」

 

 いろいろ協力お願いね、と劉備は軽く頭を下げた。関羽はそれに慌て、張飛はにゃははと笑い、孔明は小さく微笑んだ。

 

 勝てる、と関羽は確信した。今回の連合軍こそが自らの主の名が高まる一世一代の好機だと信じて疑わなかった。

 

「朱里。軍師はお前と雛里に一任する」

「はわわ……責任重大ですね」

「なにか、今回の戦いにおいて言うべきことのようなものはあるだろうか」

 

 関羽はそう言ってから、顔を顰めた。抽象的過ぎたな。いうべきこと、と言われても急には思いつくまい。

 現に孔明は少し困った顔になった。ひょっとすれば、自分も今回の規模の大きな戦いに緊張しているのかもしれない。関羽はふう、と息を吐いて、孔明に対して軽く侘びでも入れようとして。

 

「―――そうですね。言うべきこと、とは違うかもしれませんけど、心構えのようなものならあります」

「心構え?」

「いつも通りにやる、ってことです。私と雛里ちゃんが策を作り、愛紗さんと鈴々さんが動けば、必ず勝利を導く自負はあります」

「変に動揺などするな、ということか」

「動揺もですし、勇み足を踏まず、短慮を出さないようにしましょう―――勝てそうだから、勝てる『流れ』だから、などを信じず、前に出すぎないように。私も気をつけます」

 

 孔明は少し笑いながら言った。流れなどはない、と断言するように。

 

 

 

 

 

 ―――張邈。

 

 張超は喋らなかった。自分の姉を見て、何も言うことなく黙りこくっている。

 見惚れている、というわけではない。姉の張邈は美しく、街の往来で初見の人間の目を必ずと言ってもいいほど引く人間だったが、妹の張超からしてみればもう数十年とみてきた顔である。そうではない。

 張邈は無表情だった。顔色をぴくりとも変えず、均整の取れた顔を保っている。それは彫像のようで、美術作品のようで、人間味がなかった。

 

「………………」

 

 普段の彼女はよく顔色を変える。愉快な時は笑い、悲痛な時は歪める。その感情の変化こそが、人を動かす原動力となり、人を従える力になると確信しているからだ。

 しかし、いや、だからこそだろうか。張邈は一人きりの場所、もしくは張超と同じ場所にいるとき、表情をまったく変えなかった。普段動かしている分の釣り合いを取るようであった。

 

「姉上、出陣の準備が整いました」

「そう」

「後は姉上が号令をかけるだけです」

「わかったわ」

 

 その秘密を知っているのは張超だけである。他にも知っている者はいたはずなのだが、いつの間にか、全員死んでしまった。なぜ死んだのか。病死、事故死などが殆どであったが、張超は疑っている。

 姉に対する疑念が浮かび上がったからか、張超は昔のことを思い出した。

 

 ―――かなり昔のことである。張邈がまだ子供で、張超も子供だった頃のこと。快活な少女として知られていた張邈は、その時点で将来が嘱望されていた。名家である張家の跡取りとして、誰も文句を言う人間はいなかった。その時はまだ、張超の前でも無表情でいることはなかった。

 市井に遊びに出ていた時、ごくたまに張邈は行方を眩ませていた。お供の人間を撒き、張超にも何も言わずにどこかへ消える。毎度騒がれたが、多少時間が経過すれば戻ってきていたし、たかだか十にも満たぬ少女のお守りもできぬのか、と責められるのが容易に予想できたので、お供の人間は父親へ報告しなかった。

 何をしているのか。張超は幼い故の好奇心がよく疼いた。ある日のこと、また行方を眩ました張邈を慌てて探しに行くお供を見て、さりげなく彼女も逃げた。そして、闇雲に探し回った。

 偶然、であろう。何かの確信があったわけではない。

 この街を訪れるとき、姉はよくあそこを見ていたな―――なんて思い、適当にその周辺を歩き回った。

 見つかるとは思っていなかった。それ故、張邈の姿が街の隅っこにある森の中に見つけた時、張超は手を叩いて喜んだものである。「なにやってるんですか、姉上」「ちょっと一人になりたかったのよ」そんな会話をし、自分に微笑みかけてくる張邈の姿を張超は幻視した。その幻想が、現実になると疑わなかった。

 しかし、その一瞬後。

 張超の目に映った光景は、そもそも張邈に声をかけることを躊躇わせた。

 

「――――――」

 

 張邈は無表情だった。

 無表情で地面を踏んでいた。最初、何をしているのかわからず、張超は戸惑った。しかし、一秒、二秒と経つに従って彼女も理解できた。

 

 

 張邈は、蟻を踏み潰していた。

 執拗に、何度も、何度も。

 

 

 張超は身体が震えた。その行為についてではない。幼いころならば、そのような残酷なことに興味を持っても不思議ではない。当時の張超にも経験があった。

 気になったのはそこではなく、表情。

 その時にも無表情だったのだ。

 感情がなかった。蟻を踏み殺すのに、何の興奮も、興味も、嫌悪もない。ならば何を思って行動していたのか。

 皆から抜け出し、一人になったのだ。誰にも見られてはならない、それでも止めることのできない秘密があったはず。それが蟻を殺すことならば、何故楽しんでいないのだ。逆に怖かった。快活で、明け透けに思えていた姉が何を考えているのかが何一つ読み取れなかった。

 

 かち、と張超の足元で音がした。枯れ木を踏んだ音。あ、と声が漏れる。

 

「あら」張邈は、その音を敏感に聞き取った。「いたの、非水」

 

 初めてそこで張邈は笑った。純粋な笑みだった。彼女の心からの笑みを見たのはこれが初めてで、それ以降見たことがない。

 

「どうして、姉上は。そんなことを」

「さあ。何故でしょう。私にももうわからなくなったわ」

 

 最初は意味があったんだけどね、と笑いながら張邈は言った。その意もわからず、問い詰めることも怖くてできず、張超は黙り込んで喋らなくなった。

 

 

 ―――それ以降、姉は張超の前でのみ笑わなくなった。無表情を保つようになった。

 快活な少女を装うのをやめ、本来の姿を見せたのか。それともその無表情もまた殻に閉じこもっただけで、本来の姿ではないのか。何を考えているかも、どのような人間なのかも、張超には張邈のことが理解できなかった。

 そして、それは今もまだ、わからない。

 

 

 

 

 

 ―――袁紹。

 

 顔良は少し困っていた。今回の戦は、必ずしも主の袁紹に利をもたらすのだろうか。

 軍師の田豊は此度の連合軍にあまり賛成ではない様子だった。逢紀、郭図は賛成したが、個人的な観点からすれば、顔良は後二人よりも田豊を信頼していたため、不安が残った。

 簡単な戦ではない、と顔良は思う。一当てして終わり、などという話ではない。血みどろで、凄惨な戦いになることが予想できた。

 

「―――おう、斗詩」

「あ、文ちゃん。何してるの」

「見りゃわかんだろ、鍛錬だよ……っ」

「いやぁ……見てもわかんないよ」

 

 顔良は下を見つめながら苦笑いした。文醜の顔は顔良の膝元に位置している。

 逆立ちの姿勢。その姿勢から腕立て伏せをし、文醜は地面を支えていた五本指を一本ずつ外していき、汗をかいていた。

 

「今回の戦はでっけえんだろ、これくらいはしないとな」

「効果あるのかなぁ……」

「あるぜ。淳于瓊のやつがさ、これが戦の生死を分ける、って教えてくれたんだ」

「絶対嘘だよそれ」

「斗詩は疑り深いなぁ」

「文ちゃんが信じ込みやすいんだって!」

「でも、嘘だとしても、この姿勢だと斗詩の下着も見えそうだしいいや!」

「もう……」

 

 はあ、と顔良は息を吐く。大丈夫かなぁ、なんて言いながらも、顔は笑っていた。

 守りたいな、と思う。自身の力のみで袁家を守る、なんて烏滸がましいことは言えないが、目に見える範囲だけでも守りたい。文醜と、袁紹。とりあえずはその二人を。

 当然袁家も守らなければならない。

 だが、袁家を守るのは自分だけではないのだ。

 文醜と、田豊。沮授、淳于瓊、郭図、審配、逢紀。それらすべての力を合わせる。これだけの武人、智人がいて守り抜けぬなどあろうか。

 

 反董卓連合は、守れるか守れないかを分ける、大きな壁の一つだった。どこの勢力も考えていることは同じだろう、と顔良は思う。董卓の暴挙に憤る感情はあるだろうが、自身の名を大陸に轟かせる、ということが主目的なはずだ。今のところ盟主である袁紹が最も先頭に立っていると言えたが、それもいつまで続くかわからない。

 袁家を守るのならば、此度の戦いは袁紹を中心に動かねばならない。他の勢力に手柄を上げられ、帝を助ける武功を容易く挙げられては困る。それは他勢力の拡大を招き、袁家の影響力の低下を招く。それはすなわち袁家の没落と言ってもよく、到底守れたとは言い難い。

 大陸に名を響かせるのは袁本初でなけらばならないのだ。他の者では能わない。

 

 反董卓連合にて、最大の武功を上げれば、袁家はまた大きくなるだろう。大きくなればなるほど。肥大化すればしていくほど、守るのは難しくなる。苦労するなぁ、と顔良は苦笑いしながらも、その瞳は鋭く輝いていた。

 負けられぬ。この連合に、何も持たず「名を上げてやろう」などという意気込みだけで来た人間には。最初から大きな守りたいものがある我々が、負けるはずがないのだ。顔良は、静かに息を吐いた。

 息は、まるで彼女の気炎を表しているようだった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

董卓包囲網編 三話

 

 

 

 程遠志はしまったな、と思った。別段として何か失態を犯したわけではない。ただ、この場所にいること自体が失策だったな、と後悔した。

 反董卓連合軍。その軍議が自らの目の前で行われていた。鄧茂、張曼成を従え、程遠志は下座ながらも出席していた。近くに李典、楽進、于禁がいて、遥か遠くに、曹操と夏侯惇、夏侯淵がいる。それをぼんやりと、あまり何も考えずに彼は見ていた。

 

「なあよ、鄧茂」

「なに」鄧茂もまた、眠そうに目を擦っていた。「どしたの」

「全然話進んでねえよな。誰が先陣を切るだの、誰が後詰をするだので揉めて、終いには総大将は袁紹では相応しくないんじゃないか、なんて言ってる奴もいる始末だ」

「人が多すぎるのが問題なんじゃない」

「それに加えて」張曼成が口を挟む。「各勢力の利権が絡んでいる。汜水関、虎牢関を超えても、その先には本隊が控えている。まだこんな序盤に誰も先陣などやりたがらない」

「なんでもいいからよ、早く決めちまおうぜ」

 

 程遠志は頬を苛立たしげに掻いた。かといって、この状況で挙手をして発言しようともしない。そのようなことをする勇気も、元気も、彼には備わっていないからだ。

 会議は膠着していた。袁紹は焦れ、曹操も苛立ち、袁術の後ろに控える孫策も溜息を吐いている。公孫瓚が欠伸をかみ殺しているのが見えた。顔色一つ変えず、低迷した会議の中でも快活に発言を繰り返している張邈の方が珍しかった。

 このままでは、いつまで経っても決まらないだろう。こんな無駄な時間を過ごすんならふて寝でもしてやろうか。程遠志がそんな、この場に相応しくないことを考えた、そのとき。

 

 ぱっ、と手が挙げられた。

 

 上座ではない。程遠志よりも少し前に位置している、四、五人の友を連れ添っている少女は、周りの視線を一身に集めた。おいおい、と程遠志は口笛を吹きそうになる。真打登場だ。

 

「……どなたですか」

 

 袁紹は、少し冷たい反応を見せた。

 下座の人間だったからか、単純に苛々していたからか。それか、そのどちらともか。

 

「劉備、と申します」

「桃香!?」

 

 公孫瓚が慌てて立ち上がった。手を前に出して、所在なくうろうろとさせている。

 

「劉備さん、ですね。何か言いたいことでもあって?」

「先陣をどなたも引き受けないご様子なので、私が引き受けてもよろしいでしょうか」

「な――――――」

 

 袁紹は言葉を失った。

 劉備の左右の者は顔色を変えていない。密かに話し合って決めたのだろうか。皆、一様に覚悟の表情を浮かべている。

 

「し、失礼ですが。兵士はどの程度率いていらっしゃって?」

「五千程」

「五千でこの初戦の先陣を切ると!」

「よろしかったら、総大将の袁紹様から多少兵士を融通してくれると嬉しいです」

 

 総大将の、を強調して劉備は言った。如何にもあからさまで、そうあるべきだ、と周りに主張するような言い方である。袁紹に媚びているようで、媚びていない。

 その言い方に、曹操は微かな英雄の資質を見た。退屈に感じていた会議が、徐に色を持ったように思えた。よく見れば隣にいる黒髪の女も、一回りは小さい少女も、只者ではない様子を醸し出している。これに気がつかなかったとは。彼女は自分の高いはずの審美眼を恥じた。

 

「……一つだけ、聞いてもよろしくて?」

「なんでしょうか」

「最も少ない兵士で、最も危険な先陣を何故切ろうと思ったんですの?」

「我慢できなかったんです」

 

 劉備の瞳が輝いた。その瞳は理想に燃えていた。

 

「董卓が都で暴虐の限りを尽くしている、と聞きました。見過ごすわけにもいかず、私は白蓮ちゃんと一緒に、この連合軍に参加させてもらいました。今、この一秒にも民衆は怯えていることだと思います。それを、どうしてここで待っていられましょうか」

「それだけですの」

「そのためだけに、私はこの連合軍に参加したんです」

 

 その言葉は綺麗で、透き通っていた。嘘がない故の言葉。お為ごかしやまやかしではない心からの言葉である、と場の誰もが理解した。

 袁紹は少し、胸中がざわついた。なんだこの感覚は。隣に座る、顔良、文醜、田豊を見る。少し離れた審配、淳于瓊も見た。皆一様に困惑を隠しきれていない。嘘偽り抜きで、このようなことを言う人間がいたとは。心が震え、熱くなる。

 

「よ―――よろしいですわ。兵士だけではなく、兵糧も貸しましょうとも。見事にその実力を見せ、逆賊を討ち果たしなさい!」

「わかりました!」

 

 劉備は深々と頭を下げる。伏せた顔の下で、にっこりと微笑んだ。

 

 

 

 ―――劉備の名乗りから、軍議は飛躍的に進みが早くなった。

 

 先陣を切るものが決まり、袁紹が総大将であることは事実上確定した。各自の持ち場決めはそう大した時間を要することなく終わった。

 あと決めねばならないことは、各部隊の連携や、協力のみ。まだこの初戦において大して重要なことではない。各自で決めるようにしましょう、という袁紹の一言から、長く続いた軍議はいったん解散することとなった。

 

 解放されたな、なんて言って鄧茂、張曼成と笑い合っていた程遠志だったが、すぐさま彼に呼び出しがかかった。主の曹操から、である。

 

「来たわね、程遠志」

「はぁ……」

 

 場の面々を見て、程遠志は身が引き締まる思いだった。緊張と、困惑。こんなところに自分は相応しくないのではないか、なんて普段の彼ならば絶対に考えないような弱気も出た。

 曹操の右隣には、先ほど先陣を申し出た劉備がいる。左隣には軍議で雄弁を振るっていた張邈がいる。そして、その隣にはこの連合の総大将である袁紹もいた。他にも彼女たちの部下、幕僚が所狭しと並んでいて、一様に程遠志を舐めるように見ていた。

 

「貴方が、程遠志さんですわね」

「はい」

「当然知っておられるでしょうが、袁家が頭領、袁本初と申しますわ」

 

 胸を張って袁紹は堂々と宣言した。程遠志はどう反応すればいいのかわからず、とりあえず、頭を下げた。

 

「ご武運を期待していますわ」

「……いや、その。俺はまだ何でここに呼び出されたのかわかってないんですが」

「あら」袁紹は目を瞬かせた。「華琳さん、説明していなかったの?」

「伝令に説明は頼んだはずだけれど……」

 

 曹操は首を傾げ、目を少しだけ怒らせた。部下の怠惰を軽く済ませるような人間ではない。

 

「……まあ、いいわ。程遠志、貴方に劉備の援軍を頼みたいの」

「援軍?」

「ええ。麗羽が劉備に兵を貸す、というのは聞いていたと思うけれど。あまりにも寡兵では、ということで各勢力から兵を集めることになったの。兵を千人ほど率いて、一旦劉備の指揮下に入ってもらうわ」

「俺が、ですか」

「なあに、不服?」

「不満なんてないすよ。俺は、命じられたら従う限りです。ただ、そんな任務を俺が引き受けていいものかと」

「貴方が適任よ。この曹孟徳が断言してあげるわ」

 

 真剣に目を見つめられ、正面から曹操に言われたので、程遠志は言葉を失った。

 胸が熱を持つのを感じる。ああ、そうかと理解した。自身が高揚していることを理解して、困惑した。

 

「そこまで華琳が言うなんて、珍しいわね」

 

 張邈が興味津々、といった様子で会話に入ってきた。

 

「程遠志は素直に褒めた方が伸びるのよ、香水」

「それは貴方の見立て?」

「ええ」曹操はにっこりと笑う。「どう、程遠志、じーんときたでしょ」

「……いや、まあ、そりゃ少しはね、きましたよ」

 

 もごもごと程遠志は言う。その通り多少感じ入るものがあったので、途切れ途切れの言葉になり、それを見て曹操と張邈は愉快そうに笑った。

 ひでえことしやがる、と思いながら程遠志が苦笑していると、張邈の後ろに控える妹の張超がクスリとも笑っていないのが見えた。寧ろ、何かを恐れるように自分の姉を見ている。程遠志は誰かわからなかったものの、おおよそで親族に違いないと推測した。どうしてそんな怯えた顔になっているのだ? 一瞬疑問に思ったが、すぐにまあいいかと考え直した。

 

「私も、衛茲に行かせるわ。兵士は数百人程度しか貸せないけど。よろしくね―――程遠志さん?」

「あ―――はい。こちらこそよろしくお願いします」

 

 張邈は軽く頭を下げると、にっこりと笑って張超を引き連れて下がった。快活な人だな、と程遠志は素直に思う。

 

「あの」代わるように、劉備が現れた。「程遠志さん、ですよね」

「ええ、そうですが……」

「ご助力ありがとうございます!」

 

 言葉の勢いのまま、ぺこり、と劉備は頭を下げる。張邈のような会釈ではなく、お辞儀と呼べるほど深々と。

 程遠志もそれに合わせて頭を下げる。随分と腰が低いな、と思って―――ふと、劉備の隣を見ると、こちらを凝視している男がいた。

 目が合う。逸らされた。なんだ、と程遠志は疑問になる。こちらを不思議そうな瞳で見ていたと思えば。

 

「どなたでしょうか。何か、気になることでも?」

「い、いや……」

 

 男は少し怯えた様子を見せた。程遠志は何故だ、と思い、すぐに気がつく。単純に、自分の顔にビビってるだけか。曹操軍で慣れすぎていた。胆力のある人間が多く、外見などで怯みもしなかった。寧ろ、この男の方が正しい反応だと言えた。

 後ろから少女が近づいてきた。怯えた様子の男を守るように、そっと近くに寄り添ってくる。黒髪の女。先ほどの軍議で劉備の近くにいた控えていた者だ。

 

「ああ」劉備がにっこりと笑う。「ご主人様、です。天から授かった」

 

 その言葉を聞いて程遠志は思い出す。鄧茂が言っていた。天の御使い、とはこの男か。

 普通の人間にしか見えねえな、と思う。中々顔立ちはいいが、そこいらの一般人と左程雰囲気が変わらない。

 

「それは失礼した。これからよろしくお願いします、御使い様」

「あ、ああ―――こちらこそよろしく。そんな堅苦しく呼ばなくていいよ」

「では、なんと呼べば」

「北郷、とかで大丈夫だよ」

 

 多少表情に緊張は残っていたが、そう言って北郷は笑った。

 呼び捨てでいいのか、と程遠志は思ったが、後ろに立つ黒髪の少女は不満そうな顔になっていた。このままの勢いならタメ口でもいけるんじゃないか―――なんて考えていた程遠志は、ままならねえな、と苦笑する。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

董卓包囲網編 四話

 

 

 

「劉備と合流か」

 

 程遠志の「劉備のとこに派遣された」という言葉を聞いて、鄧茂、厳政などが声を上げて驚く中、張曼成は毛ほども動揺を見せなかった。二度三度頷いてみせて、それで終わりだった。

 その余裕そうな態度に、程遠志はなんだよ、と言いたくなる。

 

「驚けよな、もっと」

「いやな」張曼成は静かに笑った。「種明かしをすると、知っていたんだ」

「どういうことだよ」

「お前のところに来た伝令が、陰でこそこそ言い合ってたのが、聞こえた」

「はあ? じゃあなんでそれを俺に伝えねえんだよ」

「そこまでは知らん。ただ、そいつも必死そうな顔だったが」

 

 必死そうな顔? と程遠志は戸惑う。それならば伝えればいいじゃないか。意味が分からなかったが、すぐにまあいいか、と思い直した。小難しいことを考えるのは彼の性分ではない。

 

「さっさと準備しようぜ。遅れたら笑えねえし」

「僕たちはいつでも動けるけどさ、連れてく兵士にも伝えないと」

「それだよ。何しろよ、曹操様から兵士千人率いろ、なんて言われちまった」

「千人!」鄧茂は如何にも驚いた、というようなジェスチャーをする。「出世したもんだねえ」

 

 黄巾では多くても三百人。少なければ百人にも満たない数しか指揮したことがない。程遠志からしてみれば大出世と言ってもいいだろう。

「まあな」と程遠志は得意げな顔になる。しかし、そこですぐに不安そうに顔を歪めた。「大丈夫だよな。これで何もできませんでした、とか言ったら笑えねえよな」得意げだった顔が、一転して不安に変わる。その落差に鄧茂たちはくすくすと笑った。

 

「ああ、そうだ、鄧茂。お前が言ってた、御使い様ってのを見てきたよ」

「え、ホント! ど、どうだった。やっぱすごかった?」

「俺にはあんまわかんねえな。いい奴そうだったけどよ」

「……程遠志の審美眼じゃなあ。あんま当てになりそうにないし」

「おいコラ。本当だっての。お前も見たら幻滅―――はしないだろうけど、なんだこんなもんか、って思うよ」

「ふーん」

 

 あからさまに信じていない様子だった。なんだこの野郎、と軽く頭を叩いてやろうかと思ったが、自重する。劉備の陣にどうせ今から行くのだ。そこで否が応にもわかることだろう。

 

「でも、先陣ですか。危険そうですね、程遠志さん」

「なんだ厳政。ビビったか?」

「ビビるのは格好悪いよ」鄧茂も追従する。

「違いますよ。言っちゃったんです、張宝様たちに。無事に帰るって」

「見せつけてくれるね」

「そういうんじゃないですよ」

 

 たはは、と厳政は笑う。満更でもない笑みだった。

 

「まあ、行こうぜ。こんなとこでのんびりしてても始まんねえし」

「僕たちも向こうの人に挨拶とかした方がいいかな」

「そりゃ、した方がいいだろうな。協力するんだし」

「緊張するね、知らない人と話すのは珍しいな―――友達少ないから」

「右に同じく、だ」

 

 張曼成、鄧茂ともに微妙な顔になっていた。厳政は平気そうである。

 一時的なものとはいえ、黄巾を率いていただけあって、そう大した動揺はないらしい。人と話すことにそう大した抵抗なんてないようだった。まるで正反対だな、と程遠志は笑う。

 

「でもよ、それならお誂え向きなことに、今から宴会を行うらしいぜ」

「宴会?」

「ああ。もう夜になるだろ。本格的に攻め込むのは明日だし、決めることも決めた。先陣を切る劉備軍を祝福する、って名目で、軽い料理が振る舞われるらしい。劉備軍以外の持ち回りで夜襲も警戒してくれるそうだしな。立食形式になるだろうからよ、そこで挨拶でもいけばいいんじゃねえか」

「へえ、本当にお誂え向きだね―――」

 

 そこまで言って、鄧茂は程遠志の顔がだらしなく垂れさがっていることに気がついた。遅れて、あ、と気がつく。張曼成も溜息を吐いていた。事情を知らぬ、厳政だけがぼんやりとしていた。

 

「宴会って、まさか」

「そりゃな、酒も出るわけよ。本当にお誂え向きってわけだ」

「…………程遠志、気をつけてよ」

「何がだよ。俺がよ、その程度の酒で酔いつぶれる輩に見えんのか?」

「違うよ!」鄧茂は呆れたような顔になる。「……ほら、劉備のおっきい胸とか触ろうとして、後ろに控えてる黒髪のおっかない人に斬り殺される、とかはさ」

「ははは。まあよ、気を付けてやるよ」

 

 気を付けて何をやるのだ、と鄧茂は呆れた。そもそも、触るな。酒を飲むな。

 

 

 

 宴会にいたのは、劉備軍の者だけではなかった。孫策、張邈、曹操なども、顔見せ程度ではあるものの、出席していた。その側には夏侯惇、張超なども控えている。劉備軍に含まれている兵士たちの中には、各勢力から分けられた兵士たちもいる。先陣という危険な役割を引き受けた手向けのような意味合いもあるのだろう、と鄧茂は察した。

 場は、思ったよりも厳かな雰囲気に包まれていた。自分らの主君が見ているからだろう。宴会とは言っても羽目を外しすぎることができない。劉備軍の兵卒や、武将たちは普段通り楽しんでいたが、他の勢力の兵士たちは多少の遠慮をもって箸を動かし、杯を交わしていた。

 だというのに。

 鄧茂は、はあ、と溜息を吐く。

 視線の先には―――程遠志がいた。劉備に悪絡みし、何やら問題を起こすのではないかと思っていたが、その予測は外れた。外れたが、今絡んでいる相手も、大概だった。

 

 

「なあ、北郷―――酒はうめえだろ!」

「あ、ああ……そうだね」

 

 

 なんでそこにいくかなあ、と鄧茂は微妙な顔になっていた。御使いである。御使いに絡んでいた。

 最初天の御使いを見たとき、確かに鄧茂は少し拍子抜けのような気分になっていたが、今はそんな気分も抜けてしまっている。ただただ可哀そうに、と合掌したくなる心地だった。まるで嫌な上司に絡まれている部下のようである。酒に酔い果て、倒れるのを待っているのだろうが、程遠志に限ってそんなことはない。寧ろ自分の方が酔わされて、前後不覚になって、倒れることになるはずだ。

 黒髪の少女―――名を関羽というらしい―――は、程遠志を無礼な奴め、と言わんばかりの目で睨んでいる。彼女が短慮を起こさないのは程遠志が曹操軍の大将だからと、悪意を持って絡んでいるわけではないからだろう。遠慮なく、殺さない程度にぶっ飛ばしちゃっていいですよ―――鄧茂はそんな物騒なことを考えた。

 

「……あら、程遠志」

「曹操様!」

 

 すると、そこに曹操が現れた。どういう状況だ、と不思議に思っている様子だった。

 程遠志は何を思ったか、曹操を自分の側へ案内しようとした。一緒に酒を飲もう、とでも誘うのだろうか。面白そうに、曹操も笑っている。彼女は程遠志の悪癖と、酒の強さを知らない―――鄧茂は顔を引き攣らせた。流石にそれはまずい。冗談になっていない。

 そこで、一陣の風が吹いた。

 夏侯淵だった。すぐさま程遠志の側に行った、と思うと、軽くない力で彼の頭を叩いた。「いてえ!」野太い程遠志の声が響く。

 

「……華琳様、この男と酒を飲むのはご自愛ください」

「あら、秋蘭。嫉妬?」

「違います。今の程遠志は、危険です。大変なことになります」

「危険って。酔うと剣を抜く悪癖があるとか?」

「そもそも程遠志は酔っていません。酔ったふりをしているのです」

「え?」曹操は口元を引き攣らせた。「どういうことよ」

「酔ったふりをして、それにかこつけて、女に抱きつく癖があるらしいのです―――なあ、程遠志。酔ってないのだろう?」

「ああ、勿論」

 

 程遠志はそう言ったと思うと、酔って赤かったはずの頬と、朦朧とした瞳を、すぐに元のものへ戻した。一瞬の早業である。隣にいる北郷は嘘だろ、と言葉を漏らし、曹操も僅かながら衝撃を受けた。

 夏侯淵も、そう簡単に戻せるものだとは思っていなかったのか、目を丸くさせた。程遠志はその隙に、と言わんばかりの速さで、夏侯淵の脇に手を入れようとした―――が、届く前に捻り上げられ、組み伏せられる。「いてえ!」と先ほどよりも大きな悲鳴を程遠志は上げた。

 

「つまりは、こういうことです」

「成る程ね」

 

 曹操はかわいそうなものを見る目で程遠志を見た。

 

「―――ああ、そうだった。秋蘭、香水の場所を知っているかしら?」

「張邈さまは、先ほど自陣に帰られたかと」

「残念ね。軽く話したいと思ったのだけれど―――まあ、仕方ないわ。私も戻るわ」

「御意」

 

 曹操はそう言うと、歩き去っていった。夏侯淵は程遠志の左腕を捻り上げたまま「羽目を外しすぎるなよ」と一言耳元で囁き、帰っていった。程遠志は二人の後ろ姿をぎりぎりまで見送り、「災難だぜ」と呟いた。いや、自業自得でしょ、と鄧茂は胸中で呟くように言う。恐らく、北郷も同じ思いだったはずだ。

 

「……さて、再開だ。復活だぜ。」

 

 そう言い、程遠志はまた、酒を口に含む。顔はみるみるうちに上気し、目はとろんとしていった。それが演技だと、もう既に北郷も気がついている。このまま酔い潰されてしまうのか―――と、彼が小さく覚悟を決めた時。

 

 

「程遠志殿、でしたか?」

 

 

 顔を薄く上気させた、青髪の少女が近づいてきた。手には何か、酒のつまみのようなものを持っている。鄧茂の瞳は、それを正確に捉えた―――メンマだ。

 不敵な笑みに、どことなく蠱惑な雰囲気だった。程遠志はにやりと笑った。「ああ、間違ってねえよ」

 

「酒を飲む相手に困っているご様子」

「その通り、大変難儀しててな―――で、どうだ。一献」

「一献とは詰まらない。どうです、飲み比べなどは―――」

「面白い」程遠志の笑みが、深くなった。「でもよ、飲み比べだけ、ってのもつまんねえよな」

「と、いうと」

「先に潰れた方は、潰した方の言うことを何でも聞く、というのはどうだ。何でもだぜ」

「面白い」

 

 少女の顔が、悪戯っぽく微笑んだ。何を聞かせてやろう、という嗜虐の微笑み。

 

「名前を教えてくれよ」

「趙雲。字は子竜」

「いい名だな」

「程遠志殿こそ」

 

 にやり、と互いに笑い合う。趙雲も、程遠志も。

 どちらも自分が負けるなど、まったく思っていない様子である。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

董卓包囲網編 第五話

 

 

 

「――――――」

「――――――」

 

 熱戦であった。

 酒を飲み、メンマを食べる。それをひたすら繰り返す。最初の頃は程遠志が肩や胸に手を伸ばし、趙雲がそれを払う、などという動きがあったものの、いつの間にかお互いに酒とメンマを食べ続ける機械になっていた。

 程遠志の動きはどんどん速くなっている。相手を潰す飲み方。攻めの酒である。鄧茂は彼の顔を見て、驚いた。いつも通りの上気した頬、酩酊した瞳ではあるが―――耳まで赤くなっている。それが彼が本当に酔っていることを表す様であるのかは定かでないが、いつも通りの程遠志でない、というのは確かだった。

 趙雲も程遠志についていっている。彼女も必死である。強い、と自称してきた男たちを何人も潰してきた趙雲でさえ、驚愕するような酒の強さだった。

 負けられない、という思いがお互いにある。同時に、余計な賭けなどしなければよかった、とお互いに思った。

 

「星ちゃん、凄い速さで飲んでるよ!」

「ど、どうなっているんだ……」

「はわわ……」

「あわわ……」

 

 劉備と関羽も、いつの間にか程遠志と趙雲の周りに来ていた。北郷も真剣勝負が始まったあたりから、彼女たちの元へ避難している。諸葛亮と龐統も、気がつけば集まっていた。

 

「そ―――そろそろ止めにするか?」

「逃げるのか、程遠志殿?」

「バーカ。俺はまだ十杯はいけるっつーの」

「ほう。それなら私は二十だ」

 

 趙雲は得意げに笑い、立ち上がろうとして―――ふらり、と身体を揺らした。

 

「おいおい」程遠志は安堵したような表情になった。「随分足にきてるじゃねえか」

 

 ぬかせ、と言って趙雲は酒を飲み干す。次はお前の番だ、と言わんばかりに、程遠志へ杯を渡した。程遠志の顔が少し変わり、口元が歪む。

 

「どうした、もう終わりかな?」

「……アホが、舐めんなよ」程遠志は悔しげな顔になり、その表情のまま頬から汗を垂らして言う。「でもよ、やっぱり賭けは止めねえかな。俺はまだいけるけどよ、お前もそろそろきついだろ」

「私はまだ余裕さ」

「言うじゃねえか。じゃあ俺もまだ余裕だよ」

 

 程遠志は強がっている。そして、それは趙雲も同じだろう。いつの間にか張曼成も、厳政も鄧茂と合流し、彼らの周りに集まっていた。

 

「程遠志さんって、あんなにお酒強かったんですね」

「なんだ、厳政。知らなかったのか」

「ぼくは昔からお酒が強くなかったので、あまり黄巾の中でも宴会に参加していなかったんですよ」

「でも、さ」鄧茂は小さく言う。「程遠志にあそこまでついてける人、初めて見た……」

 

 程遠志は演技もあるだろうが、趙雲はそうではない。最初の頃薄赤かった頬は朱が差したように真っ赤になって、目もとろんとしている。明らかに酔っていて、倒れる寸前なのだが―――それでも、杯を傾けるのを止めようとはしなかった。

 

「そろそろ、止めないとまずいかな」

 

 鄧茂は呟くように言う。経験上、程遠志がこういった場合で先に倒れるとは考えづらかったが、明日には戦が待っている。酒が後を引くとは思えないが、趙雲の方がどうなるかはわからない。

「ですよね」そこで、ひょっこりと劉備が会話に入ってきた。「星ちゃん無理してる感じだし、そろそろ止めるように言わないと……」そう言い、後ろの北郷をちらりと見るが、彼は顔を引き攣らせていた。程遠志がどういう人間かわかって、絡みづらい、なんて思っているのかもしれなかった。

 鄧茂と張曼成は唐突な劉備の登場に戸惑った。元来、程遠志たち三人は人見知りをしやすい性格である。厳政だけが平然と言葉を返していた。

 

「劉備さんは、止めないんですか?」

「お酒とメンマのことになると、星ちゃん目の色が変わっちゃうから、私の言葉が届くかどうか……」

 

 酒が入ると性格が変わる類の人間なのか、劉備は少しまごまごしていた。しかし、すぐに「よし」と自分に宣言するように言うと、頬を軽く自分で叩いて程遠志、趙雲の元へ歩いていく。

 

「星ちゃん、程遠志さん!」

「む」趙雲は唇を尖らせた。「桃香殿、止めないでください」

「でもこれ以上は危ないよ~」

 

 心配そうな顔で劉備が趙雲を見る。趙雲は少し迷いながらも、程遠志の顔をじっと見ていた。

 

「お」そこで、程遠志の目が光った。「劉備様じゃねえか。一緒に飲まねえか」

 

 それは、趙雲との勝負の時間稼ぎが目的だったのかもしれない。

 程遠志は自分の隣を掌で叩いて勧める。「え、い、いやぁ……」とまごつく劉備をさりげなく椅子に座らせて、どこからか取り出した杯に酒を注いで渡した。「ぐっといこうぜ、劉備様」

「あ、あれぇ?」と劉備は可愛らしい声を上げた。

 鄧茂はまずい、と思う。思うと同時に、近くにストッパーになる夏侯淵がいないことを確認して、走り出した。頬から汗が流れ出た。最初に危惧した状況になりつつあった。酒が入った程遠志は、酔ってもいないのに饒舌になり、悪口に寛容な代わりに口が汚くなる。手だって出るかもしれない。そして、今の彼がまったく酔っていないとは鄧茂にも断言できなかった。顔がちょっと、引き攣る。

 距離は遠くない。すぐさま辿りつく。はあ、と息を乱しながら現れた鄧茂に劉備は目を丸くした。

 

「今の程遠志は危ないから、離れてください」

「え、ええ?」劉備はさらに困惑する。「危ないって……?」

 

 それ以外に程遠志を表す言葉はない。危ない、危ないと鄧茂は連呼する。

 すると、劉備は何かを察した顔になった。ははん、と気を利かせるような仕草。絶対勘違いしてる、と鄧茂は確信したが、その勘違いを利用しようと決めた。「そういうことです」

 

「私、お邪魔?」劉備は呟くように言って、にっこり笑った。「お邪魔だね、了解! ほら、星ちゃん、そろそろ止めにしよう!」

「いやしかし―――」

「そこらへんで止めておけ、星」

「鈴々もそう思うぞー? 顔が真っ赤なのだ」

 

 関羽、張飛が畳みかけるように言うと、趙雲も少し唸った。唸って、まあそうか、と思った。ここらが言い切り上げ時なのかもしれない。

 

「どーしたどーした、降参か?」

「む」趙雲は眉をひそめた。「誰が降参など―――」

「程遠志!」鄧茂が怒ったように言う。「僕が回収してくんで、楽しんでてください。ほら行くよ―――あっちで張曼成とか厳政とかと飲もう」

 

 ずるずると引きずって、鄧茂は程遠志を連れて行った。そちらめがけて趙雲が叫ぶように言う。「この勝負は、また戦が終わってから、だな」

「望むところだよ」と程遠志も返す。

 

 

 

 

 

 

 朝になった。程遠志はまったく、昨日の酒など残っていない様子である。鄧茂や張曼成のように、翌日の戦に備えて酒を控えたわけでもないというのに。すごいですね、と酒を一滴も飲まなかった厳政が、どこか羨ましがるように言った。

 

「昔からよ、酒で困ったことがねえんだ」

「趙雲さんに負けそうだったのに?」

「馬鹿。負けそうになんてなってねえよ。あのままやってたらな、あの女は目を剥いて倒れてたぜ」

「よく言うよ」

 

 鄧茂は苦笑した。一時は賭けの中止を自分から申し出ていた癖に。

 

「まあな、厳政と同じように、俺も負けられない理由ができちまったよ」

「趙雲さんと飲む、って約束?」

「そうそう。俺も簡単に死ぬわけにはいかなくなったよ」

「死ぬ心配はそこまでしなくてもいいんじゃないの。物見からの報告通りなら、あの砦に籠ってるのは四、五万の兵士だけ。いくら先陣を切ると言っても僕たちだけが戦うわけじゃないし、さ」

「そうかもしれねえ」程遠志は、微妙な顔になっていた。「でもよ、嫌な予感がするんだよな。流れが悪い」

 

 唐突な言葉だった。嫌な予感。程遠志はぶるり、と身を震わせた。何かを感じているようだった。

 そこから、彼ら四人は黙り込み、道を急いだ。程遠志の率いる兵士千人と、元からいる劉備軍五千人。他の軍から融通してもらった兵士を合わせれば、全兵で一万を超えている。後ろには約二十万の大軍が控えていることもあり、一万の兵士たちは足音を響かせて大きく歩いていた。

 

「程遠志殿」横を見れば、関羽がいた。「もう敵城に到着します。これから城攻めに移りますが、攻城方法は伝わっているでしょうか」むっつりとした表情で、聞いてくる。

「勿論。土嚢を積む、だったか」

「ええ。上からの矢を耐えながら、堀に土嚢を流し込み、埋め立てをお願い致します。敵軍が開門し、妨害してこれば逃げていただいて構いません。私たちが一当てし、下がって後詰の軍と包囲します。もし、堀の埋め立てを敵軍が無視するならば―――」

「無視するなら?」

「こちらの攻城兵器を出します」

 

 関羽はそこでようやく表情を崩した。獰猛な笑み。戦場に慣れた、猛将がする笑みである。

 劉備軍には、袁紹から借り受けた衝車がある。孔明と龐統が頼み込み、田豊、審配も賛成したことで、袁紹も貸すことを止む無しと考えた。城門に取りつけることができれば、大きな効果が見込める。

 劉備軍は性急だった。それが劉備の思う洛陽の民草を救いたいからなのかは定かでないが、包囲して、長丁場の戦をする雰囲気ではない。天下に聞こえる関であるこの汜水関を、まるで数日で越えてやる、というような意気込みが見えた。

 

「それでは、健闘を祈ります」

「ああ。一つ、聞いてもいいか?」

「なんでしょうか」

「なんかさ、嫌な流れがしないかな」

 

 ぶるり、と程遠志は身体を揺らして見せた。冗談のようなそぶりである。

 鄧茂は関羽に呆れられるのではないか、と思った。「流れ」というものを普通の人間は信じない。それ故、馬鹿にされるのではないか―――と考えていたが、関羽は少し、無表情になった。

 

「同じようなことを、孫策殿もおっしゃっていました」

「嫌な流れだって?」

「嫌な予感がする、と」

「気が合うな。戦場では良い流れと悪い流れを感じることがあるが、間違いなく、今は悪い流れだ」

「ちなみに、根拠はおありですか」

「俺の経験則と、勘だ。こういう時の俺はよ、百発百中よ」

 

 何を調子に乗ってるんだ、と鄧茂は思った。しかし、関羽はそこまで気を悪くしてはいない。

 寧ろ、面白いことをいう、という表情になっていた。

 

「程遠志殿―――」関羽はふ、と笑いを零した。「面白いお方ですね」

「そうかな」

「酒癖が悪い様子を見なければ、印象がもっとよくなったかもしれません」

「それは残念だ」

「こちらの軍師の朱里とは正反対の考え方ですので、信じることはできませんが」

 

 そう、言葉を軽く言い捨て、関羽は帰陣していった。

 強い風が吹いてきた。戦乱の前触れがする。程遠志は、もう一度身震いした。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

董卓包囲網編 第六話

 

 

 

 堀に土嚢を流し込むのは、そう大して難しい作業ではなかった。汜水関の上から雨のように矢は降り注いできたし、それによって劉備軍は少なくない被害を受けていたが、あくまでそれは前線に出ている兵卒の話である。程遠志自ら土嚢を掴み投げ入れることはしていない。

 程遠志や、衛茲や、その他の軍が土嚢を積もうとも、開門する気配はなかった。孔明はそれを見て、衝車を出すように指示した。

 地鳴りのような音が、あたりに響き渡る。

 袁紹軍が二つの関を落とすためにわざわざ持参した兵器である。通常のものなど及ぶにもつかない大きさだった。数百人もの兵士が、その衝車を抱えるように持っていた。程遠志たちは、その巨大な攻城兵器が城壁へ向けてのしのしと歩みを進めていくのを、ぼんやりと見つめていた。

 

「でけーな」程遠志は小さく呟く。「こんなん、初めて見たよ」

「弓矢や落石への対策も取られている。湿った布のようなもので天井が覆われているのを見るからに、火矢で燃えることもないようだ。城内に残ったままでは、あの衝車を破壊することは叶わないだろう」

「張曼成。じゃあ、敵兵はあの兵器を破壊するために今から開門して出てくると?」

「恐らく、それ以外に対策はない」

 

 そして、と張曼成は続ける。巨大な衝車を見た興奮からか、普段の彼よりも口数が多かった。

 

「門を開いた時点で、我らの役割は十二分に果たしたと言えるだろう」

「どういうことだ?」

「あの衝車を破壊することは、少数の兵士ではできない。開門して、少なくとも万単位の兵士が出てくるはずだ。それを一身に受け止める必要などない」

「衝車だけ壊され、一目散に逃げられ、また閉門されたらどうする?」

「不可能だ。我らはともかく、劉備軍五千は出てきた兵の足止めをするはずだ。ある程度までの乱戦になる。そこから撤退しようとすれば、後詰の軍と劉備の軍がその背から喰らいつく。入り乱れて城門に向かう状況になれば、敵は閉門の機会を逸することになるだろう。それで、門は突破できる」

 

 滑らかな弁舌だった。程遠志は張曼成の言葉の意味が半分ほどわからなかったが、おおよその流れは理解した。敵と劉備軍がごっちゃになったら、門が閉めれなくなるってことだな、と問いかける。張曼成は微笑しながら頷いた。

 堀に土嚢を埋め立てる作業や、袁紹軍から借り受けた衝車はあくまで陽動。敵軍を城から引き釣り出すことが目的である、と張曼成は言った。この作戦で、汜水関に籠る董卓軍はかなり困っているだろう、とも。まるで連合軍の勝ちが決まったような言い草だった。

 それほどまでに良い作戦なのだろう。程遠志は一つ息を吐いた。彼には戦略だとか、戦術の理解はない。それ故聞いただけでは何故それで詰めになるのか、そう簡単に勝ちが決まるのかと疑問が残ったが―――張曼成が戦略面に長けていることは、彼も理解している。そういうものなのだろう、と強引に納得した。

 

「…………」

 

 しかし、と程遠志は思う。口には出さなかった。根拠があるわけではないからだ。

 何か、嫌な流れがする。その程度では終わらないぞ、これから待ち受けるのは苦境だぞ、と呪いをかけるような声が聞こえた。こんな簡単に、終わるはずがない。

 

 そんな程遠志の思いとは裏腹に、汜水関の城門が開くことはなかった。ただただ、上から弓矢を降らせるのみである。衝車に時たま命中するものの、びくともしない。それでも動く気配はなかった。

 これには程遠志のみならず、張曼成や鄧茂―――劉備軍の軍師である孔明も眉をひそめた。衝車を止めに来ない? このまま、城壁を壊してもいいというのか。門が破壊できるのならば、結局のところ出てこようが出てこまいが変わらないが、何か妙だ。

 

 程遠志は思った。董卓軍も、何か専用の兵器を持っているのではないか。あの衝車に対抗する兵器。それを隠し持っているのではないか―――そう幻視した。

 いやいや、とすぐに否定する。それはあり得ないか。あれほどの巨大兵器を壊す、もしくは押し止める兵器があるとすれば、それもまた巨大でなければならない。そんなものを城内に置く空間があるだろうか。あるとして、どうやってそれを城壁外に持ち出すのだ。

 董卓軍は動かない。まだ、城内から出てこない。

 先ほど程遠志の間近にあった衝車は、もう既に前へ前へ進んでいき、小さくなって見えた。そろそろ城壁へ到達することだろう。腕のように太い丸太が、城壁、城門に突き刺さり、轟音を響かせるはずだ。険しい顔になっていた張曼成も、不安げだった鄧茂も、巨大兵器が前へ進んでいくのを見て、次第に表情が和らいでいった。これは勝ったな、成功したな、というどこか余裕のある、柔らかな表情に変化していった。

 

 程遠志もいけるのではないか、と思った。百発百中。外れたことのない勘も、そろそろここで年貢の納め時か。

 先陣に存在する人間の中で、柔らかな表情―――すなわち油断を顔に浮かべていないのは、孔明と龐統だけだった。戦場全体を見ても、数十人程度。それ以外の人間は油断、あるいは喝采の笑みを浮かべていた。

 

 轟音が響き渡る。

 衝車の丸太が、城壁を打った。

 

 凄まじい音だった。破壊音が木霊した。一撃で城壁を破壊してしまうのではないか、と疑問を抱くほどの音量。それは先陣の兵卒たちを鼓舞し、将軍たちを叫ばせた。見たか、どうだと言わんばかりだった。

 

「これは、すげえな」

「こんなの初めて見たよ、僕」

「決まった」

「あと十数回打ち付ければ、城壁も壊れてしまいそうですね」

 

 鄧茂も、張曼成も、厳政も。

 そして、程遠志も確信した。これは決まった。背筋を寒くしている「流れ」を吹き飛ばすような音だった。負けるはずがない。

 

 

 油断の笑み、快哉の叫びを漏らして―――そこで、程遠志は見た。

 

 

 城壁の上。弓を射下す董卓の兵卒たちが巨大な衝車に怯えている隣。

 不思議な瞳をした少女が立っていた。赤髪で、大きな戟を持っていた。豆粒のようにしか見えない。それほどの距離があったが―――程遠志はそこから目が離せなかった。

 なぜ目が離せないのか。それはわからない。わからないが、程遠志の顔から笑みが消えた。代わりに頬から汗が流れ出てくる。どういうことだよ、と呟くように言った。

 

 赤髪の少女は表情も変えず、単身で飛び降りた。城壁の上から、である。嘘だろ、と程遠志は叫んだ。真っ逆さま。良くても骨折。悪ければ死亡。それを覚悟しなければならぬほどの高さ、距離である。

 両の足で少女は着地した。

 凄まじい破壊音が辺りに響き渡る。

 それでも、少女はびくともしなかった。地面は陥没し、少なくない衝撃が少女を襲ったはずだが、顔色一つ変えない。どこからか声がした。「呂布だ」「化け物だ」程遠志は小さく、胸中で何度も名前を唱えた。呂布、呂布。

 呂布の近くには衝車がある。城壁、城門を破壊するための兵器なのだから、城壁の上から落ちてきた彼女の近くにあって当然である。それへめがけて、戟を振った。

 先ほどの着地などとは比べ物にならない破壊音が、木霊した。程遠志は思わず目を瞑り、開けた時には巨大な衝車は粉々になっていた。一振りである。一振りで、あの巨大な兵器が消えた。中に乗っている兵士たちもまた、数百人が切り裂かれた。

 

 先陣の、すべての人間が動きを止めた。信じられないことだった。あり得てはならないことだった。

 まるで、それこそが悪い流れのようだ。完璧な作戦、完璧な戦術。それを打ち消す理不尽で、馬鹿馬鹿しい存在。「流れ」に似ている。程遠志は身震いした。これだ、これこそが―――自分の怯えていたものだ。

 開門、と声がした。呂布の登場を待っていたように、汜水関の門が開いた。怒号が聞こえる。門の向こうから、董卓軍の兵士たちが飛び出してきた。

 孔明の策は、この門を開かせることである。すなわち作戦は成功した。土嚢、衝車をもって為した陽動戦術であるとも言えた。だというのに、どの陣からも歓声が上がることはなかった。

 

 呂布、である。衝車を単身で粉々にした女の存在が、士気を著しく下げていた。

 

「ふざけんな」程遠志は滑稽なほどの声を上げた。「そんなのありかよ!」

 

 鄧茂も、張曼成も、厳政も。

 先陣の人間すべてが、同じ思いであった。

 

 

 

 

 

 

 




感想と評価ほんっとに励みになってます( ;∀;)



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

董卓包囲網編 第七話

 

 

 

 先陣に異変が起きた。連合軍には曹操、張邈、袁紹、袁術、公孫瓚、馬超など―――様々な群雄がいたが、先陣の異常を最も最初に察知したのは、袁術旗下の孫策だった。

 

「祭、準備した方がいいわね」

「準備?」黄蓋は少し、顔を歪めた。「どういうことじゃ」

「先陣が崩れるわ。思ったよりも早く、ね」

「なぜ言い切れるのじゃ」

「先陣の、劉備の旗が揺れているわ。彼女の軍の動揺が、少し見て取れる」

「それだけか」

「後は、勘よ」

 

 勘か、と黄蓋は唸る。孫策の勘は神掛かったような的中率を見せる。信じる価値はあるな、と彼女はすぐさま決意した。孫策への絶大な信頼、信用がある故の決断の速さである。

 

「では、後詰に出るか」

「そうね―――と言いたいのだけど、これだけじゃない気がするのよね」

「これだけじゃない?」

「私の悪い勘は、先陣のことだけじゃないと思うの。今からまた、もう一つ大きなことが起きる気がする」

 

 孫策は顎に手を当てて何か思案している様子だった。その体勢のまま、数秒固まり、いくら考えても答えが出ないことを察して苛立った。

 黄蓋は彼女が何を危惧しているかを理解できない。それでも、と思う。わからなくとも、孫策についていくべきだ。

 

「公瑾を呼ぶか」

「そうね。冥琳の意見も聞きたいし」

 

 孫策は二、三度頷いた。周瑜を呼び、軍全体に準備をさせる。戦の時は近い、と彼女は確信した。

 いつの間にか、その口元には笑みが浮かんでいる。悪いことが起こる気もするが、それを乗り越えれば反転し、良い流れになる気もする。そうなるはずだ。

 

 それは―――奇しくも、程遠志の考えと似ていた。

 

 

 

 

 

 

 そして、孫策の次に先陣の異変に気がついたのは、曹操と荀彧だった。

 

「華琳さま」

「ええ」曹操は小さく頷く。「まずいわね。劉備軍に異変があるわ」

「ただ敵が打って出ただけ―――ではないですね。明らかに浮足立っています」

「今すぐ後詰を出さなければ、崩れるわね」

「何が起こったのでしょう。衝車、土嚢による陽動作戦は、悪い策ではないと思ったのですが」

 

 先陣で何が起こっているか―――それは、曹操、荀彧ともに想像がつかなかった。呂布という少女が現れ、衝車を一振りで破壊した。そのようなことは、流石の彼女たちにも察知することができない。

 

「……失敗した、ということだけがわかればいいわ。すべきことは一緒よ」

「後詰、ですね」

「ええ。今すぐ劉備軍を援護しに―――」

 

 と、そこまで言って。曹操は言葉を止めた。待て。本当にそうか? すべきことは同じか?

 前方の砦に籠る董卓軍の数が大して多くないことは、袁紹軍で飼っている優秀な物見の情報から確定している。何故その少ない兵士で出てきたのか。兵士数が少ない劉備軍が先陣だったからよかったものの、これが他の軍ならば混乱することなく押し留め、包囲殲滅されていたかもしれない。

 董卓軍に優秀な人間がいる、ということを曹操は知っている。優秀な者が、このような策を取るはずもない。

 

「桂花。優秀な董卓軍の将校の名は」

「優秀な軍師の賈詡、陳宮。猪武者の華雄、才気煥発の張遼。一騎当千の呂布―――それに、陥陣営の高順」

「賈詡は恐らく、董卓と共に洛陽に籠っているでしょう。華雄、張遼、呂布も、策を考える類の人間ではない。陳宮と、高順。このどちらか―――あるいは両方が、この汜水関で策を練っている」

「彼らの策が、我々を後詰に誘っていると?」

「その可能性もある、と思うわ」

 

 曹操は顎に手を当てた。数秒考えこみ、すぐに結論を出す。この状況において、ただ悪戯に時を費やすべきではない。

 

「兵の半分を、劉備の救援へ回すわ」

「軍を分けるのですか」

「上策ではないわね」曹操は小さく笑った。「でも、連合軍に兵卒の余裕はある。麗羽は全力で援軍を送るだろうし、香水もそうするはず。下策でもないわ」

「残りの半分はどうしましょう」

「いつでも動けるように準備させておくわ」

「一時的に、遊軍になりますね」

 

 荀彧は惜しい、というように言葉を発した。目的を持たぬ軍―――遊軍を作ることは、戦術上あまりよろしくないことだと言えた。

 曹操は微笑を見せた。彼女もそれは理解している。それでも、警戒しなければならないものが背後に存在する、と確信していた。孫策の勘のような、抽象的な考えではなく、敵の将軍の、実力を見抜いた実利的な考え方だった。

 

 一万強の兵士を残し、夏侯惇、夏侯淵を中心にした二万弱の兵士が、劉備軍へ救援に向かう。

 その判断が正解でもあり、間違いでもあったことを曹操、荀彧が知るのはもう少し後―――袁紹からの伝令が来てから、である。

 

 

 

 

 若干時が過ぎ、そこで、曹操と荀彧の次に異変に気付いたのは、袁紹配下の田豊、審配、逢紀などの軍師たちだった。しかし、それは先陣の異変ではなく、もっと別のナニカだった。

 彼、彼女らは独自の情報網を構築している。どの群雄よりも資金を潤沢に保持しているからこそである。物見、偵察の人間の質ならば、他のどの勢力も及ばぬほどであった。各勢力が砦へ中心的に偵察を派遣する中、袁紹軍は汜水関のみならず戦場全体に偵察を放っていた。それをするだけの余裕が、袁紹軍にはあったのである。

 その偵察網に、引っ掛かるものがあった。戦場の外である。現在、連合軍が兵を置いている場所から少し離れた平野―――そこに敵影あり、との一報が入った。最初に発見した偵察は殺され、その伝言を受け継いだ偵察兵も殺され、三人目がようやく、本陣へ情報を持ち帰ってきた。

 田豊、審配はその知らせに驚愕した。あり得ないことである。こちらの索敵から逃れ続けていたというのか、これだけの間。

 

「どういうことですの、それは!」

 

 その知らせを顔良、文醜と共に聞いた袁紹も、驚愕を隠せなかった。

 

「え―――ええと」その三人の中で、最も冷静なのは顔良だった。「どれくらいの兵士ですか、審配さん」

「四万弱程度、と予測される。偵察兵の多くは殺され、正確な兵士数は把握できていない」

「そこまでの数が、丸一日こちらの情報網にかからなかったと?」

「そうらしいな。淳于瓊に、他の諸侯へ伝令を送らせているが―――全体が情報を共有するまでには、まだ時間がかかる。逆方向からの攻撃に備えるには、そこからまた時間が必要になるはずだ」

「まったく」袁紹は唇を尖らせて、田豊を見た。「もっと早く、華麗に美しく察知することができなかったのかしら?」

「いくらなんでも無茶言わないでくださいよ、麗羽さまぁ!?」

 

 田豊は悲鳴にも似た叫び声をあげた。生真面目な真直らしいな、なんて口笛を吹くように文醜が言う。

 

「兎にも角にも、全体に連絡が行き渡る前に、我が軍は戦闘準備を完了させねばならない」

「陣形の変更が必要ですね、審配さん」

「そういうことだ―――早く董卓軍の別動隊を発見できて、助かった」

 

 我が軍が発見できなければ、他のどの諸侯も不可能だったはずだ。審配はそう漏らした。それはつまり、汜水関に目がいっている連合軍の背後から、逆落としに奇襲されていたことに他ならない。反包囲的な形になり、大混乱に陥っていたことだろう。

 策自体は単純なものである。だが、四万という兵を開戦以前に関から外へ出し、丸一日存在を隠し通すとは。田豊、審配は戦慄し、疑問に囚われた。

 別動隊の大将は、誰なのだ―――?

 

 

 

 

 さらに時間が過ぎて―――そこでようやく、張邈も先陣の異常を察した。孫策のように絶大的な勘や、曹操のように無限の能力があるわけでもない。袁紹軍のような情報網も持っていない彼女が察することが遅れるのも、仕方のない話であった。

 さて、どうするか。思案する彼女に、袁紹からの伝令が届いた。「別動隊アリ」と、一報を受け、彼女は決断する。

 張超を引き連れ、張邈は兵士の前へ姿を現した。彫像のような無表情ではなく、快活で雄弁に、演説を行った。

 

「我らは全軍をもって、背後の董卓軍へ当たる!」

 

 張邈は、そのようなことを婉曲に遠回しな表現を多用して叫んだ。それはすなわち、自らの軍から先陣へ派遣した衛茲への援兵を出さない、と宣言することに他ならない。

 それを察した兵士たちは最初の方こそざわついたものの、やがて収まり、熱狂的な怒号へと変わった。張邈の軍は彼女への盲目的な信頼で成り立っている。表情を悲痛げに、あるいは快活にコロコロと変えて行う張邈は、普段から洗脳じみた演説を行っていたのである。

 ……演説を終え、兵たちに手を振りながら張邈は陣に下がると、表情をすぐさま無表情なものへ戻した。

 もう、この場には張超しかいない。

 

「姉上、よろしいのですか。このままでは」

「衛茲が死ぬ、と?」

「……他にも、数百の兵卒が、です」

「構わないわ」

「構うでしょう! 背後の軍には袁紹殿も当たるとのこと。軍を分けるか、もしくは袁紹殿へ任せて先陣の後詰に向かうべきでは―――」

「私はね、非水」張邈は、そこでにこりと笑った。「戦う気なんてないの」

 

 張超はぞくりとした。この、二人しかいない場において、彼女が表情を崩したのは久方ぶりだった。彫像のような美人が、嫋やかに微笑む。画になる光景のはずが―――どこか、張超は吐き気を催した。

 

「戦う気がない、とは」

「背後の董卓軍にも、全力をもって当たる必要はないわ」

「それではほかの連合に名目が立ちませぬ」

「乱戦になるわ」張邈は断言した。「どこがどれだけ真剣に戦った。誰が誰を打ち取った、なんて見分けがつかなくなるほどに。誰も私たちの働きなんて気にしない」

「……だとしても! ここで怠ける意がありましょうか!」

 

 張超は姉が錯乱したのか、と思った。明らかに異常だった。何を考えているかわからない姉は、いつだって不可思議な行動をしたが、それには納得できるだけの動機があった。今回には、まったく意図が読めぬ。

 そうだ。まるで、これは―――十数年前の、無表情で蟻を踏み潰していたときの彼女のようだ。

 

「意なんてものは、ないわ。最初からね。私は気になるだけよ」

「……気になるとは」

「先陣へ兵を出そうとも、後方の董卓軍へ全力で当たろうとも、私は何をしても成功すると思うの」

「ではなぜ」

「私が怠けたら、この連合はどうなるのか。それが気になるだけよ」

 

 そこで、張邈は言葉を切り上げた。無表情になる。いつもの顔だ。

 張超は一瞬考えた。ここで、姉を殺すべきではないか。いてはならない。この連合にも、この大陸にも、彼女はあってはならない存在である。何か災いを起こすに違いない。剣に手をかけ、自らの姉を見た。見て、ぎょっとした。無表情で、張邈は見返していた。やれるものならやってみろ、と宣言するようにも見えたし、好きにしろと諦観しているようにも見えた。張超は手が震え、剣を持つことができず、柄に収めた。

 

 一生、自分は姉に逆らうことができぬ。そんな妙な敗北感が、全身に流れた。

 

 

 

 

 ―――張超が、そんな風に悔やんでいるのと、ちょうど同時期。

 

 連合軍の端に駐屯している韓馥の軍へ、近づいてくる影があった。

 先頭には男と女。どちらもにやにやと笑っている。後ろには数万の兵卒たち。

 ばっ、と、旗を掲げた。「高」の旗である。大きな旗であった。韓馥軍の誰もが、それを目撃していた。

 ……韓馥に不幸があったとすれば、袁紹の軍と距離が離れすぎていて、うまく連携が取れなかったことだろう。まだ伝令が来ていなかった。あの旗は誰だ、何だ、と警戒することはあれど、それが敵だと確信することはできなかった。弓の有効射程距離に入ろうとも、韓馥が思ったのは、偵察と使者を送ろう、という呑気なものだった。

 凄まじい速さで軍は接近してくる。

 先頭の女が笑いながら叫び、男が咆哮した。

 その時になって、韓馥は兵士たちに戦闘準備を命じたが、明らかに遅かった。

 

 

 最初の激突で、韓馥軍は砕け散った―――小半時も持たず、敗走したのである。

 

 

 韓馥が最期に聞いたのは、どこかの誰かが叫んだ言葉だった。「陥陣営」「陥陣営!」味方が悲痛に叫んだのか、敵が武名を誇るために放ったのか。それは定かではない。ただ、私を打ち取ったのは高順だったのか、と理解して、韓馥は死んだ。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

董卓包囲網編 第八話

 

 先陣は混乱の渦中にあった。まともな軍としての体裁を保っているのは劉備軍と曹操軍のみ。袁術や、袁紹が出した援兵は、呂布が現れたことや、汜水関の門が開いたことで戦意を喪失し、逃げ腰になっていた。

 抑えきれない。劉備軍の孔明はすぐに察した。張飛、関羽の力があれば奮戦はできるが、状況が状況だ。味方の援兵はもうすぐ逃走するに違いない。圧し潰される。敵ではなく、味方の逃散の所為で、だ。前線に残って、戦えば戦うほど、馬鹿を見るだけだ。

 しかし、ここで劉備軍が逃げれば、先陣の完全な崩壊を招くことになる。為すすべもなく敵に背を向ければ、その背を喰らいつかれるだろう。

 

 ―――この汜水関からの突撃が、長く続くはずもない。孔明はそう判断した。

 

 呂布の武は、恐らくこの戦場において誰よりも強いであろう。だとしても、である。張飛、関羽、趙雲の三人がかりならば、辛くも抑えることはできる。あとは、兵力の差と、士気の差を如何とするかだ。

 後詰を待てば、両方の問題は解決する。恐らく、袁紹の本隊が到着するだけでも互角で、曹操、袁術、張邈などの軍が到着すれば圧倒的に上回るはずだ。そこまで耐え凌げば、敵は撤退するだろうし、退き際を誤ったのならばその圧倒的兵力で包囲すればいい。

 孔明は少し悩み、決断した。四半時ほどでいい。完全に抑えきることは不可能だろうが、この戦場に留まるべきだ。

 無駄になってしまう。先陣に名乗りを上げ、敵兵が現れたら戦うことなく逃散した。そのような悪評が、主である劉備の名のもとに広まってしまう―――何たる恥辱だろう! そのような恥を、孔明、龐統はともかく関羽が認めるはずもない。

 

 留まるならば、目下の目標は二つ。

 当然、一つは呂布を中心とした董卓軍の攻撃をただひたすらに耐えること。

 二つ目は、逃走してくる味方から我が軍を守ることである。

 

 孔明は考え、すぐに決断した。彼女もまた、この場に置いて長考することの愚を弁えている。

 

「桃香さま」孔明は、こちらを不安そうに覗き込んでくる劉備に、堂々と宣言した。「程遠志さんと、合流しましょう」

 

 

 

 

 劉備軍から使者が来ている。程遠志はその伝令を聞いて、若干混乱した。

 程遠志は、よく軍を指揮していた。彼らしからぬ忠実さと勤勉さで、呂布に怯える兵士を慰撫し、時には持ち前の荒っぽさで脅し、戦意を保ったままにした。

 しかし、それはこの場に留まり戦うためではない。撤退するためだ。戦意を保ち、秩序を維持し、逃げる。そのためだけだった。

 

「なんでよ、この時期に伝令が来るんだ」

「頼みに来たんでしょ。逃げないで、って」

「俺たち千人だけ留まっても飲まれるだけだろうがよ」

「あるいは」張曼成は汗を流しながらも冷静だった。「また、別の頼み事かもしれない」

 

 事実、張曼成の言葉通りであった。

 伝令、と称して、数十人兵士たちに守られて、劉備軍から現れたのは孔明と劉備だった。まだ乱戦にはなっていないとはいえ軍と軍の間を渡ってくるとは。程遠志の混乱は、そこでさらに高まり、劉備が口にした「一旦、軍を合流させませんか?」という問いかけで、最高潮に達した。

 

「ちょ―――ちょっと待ってください。俺たちは逃げてもいいんじゃ?」

「この状況では、厳しいです」孔明は冷静に言った。「秩序を維持して撤退すればするほど、逃散する味方に踏み潰されるだけです。被害なく逃げるならば、軍を解体して各自散り散りに逃げるべきですが―――逃げた味方が戻ってこない恐れがあります」

 

 ならば、ここで耐え凌いだ方が被害が少ない。まさにそう言わんばかりであった。

 程遠志は周りを見回す。鄧茂、厳政はわからぬ、というように首を振った。張曼成を見る。彼もまた、思案しているようだった。

 

「どうだ、張曼成」

「理には適っている。適ってはいるが、危険だ」

 

 全滅の恐れがある。後詰の軍が先陣の混乱に気づき、来ることは間違いないだろうが―――それがいつになるかはわからない。

 程遠志が決めるべきだ、と張曼成の表情は言っていた。孔明の提案にも一長一短がある。どちらが正しいか、正しくないか。乗るか、乗らないか。逃げるか、逃げないか。無茶言うなよ、と程遠志は叫びだしたかった。今の、流れに乗ってねえ俺が決めたら、真逆のことが起きるぞ。そう言いたかったが、口を紡ぐ。鄧茂や張曼成、厳政の前で泣き言をいうのは兎も角、劉備たちの前で言うわけにはいかない。曹操軍から派遣された一つの軍の大将として、ある程度まで毅然と務める必要があった。

 

「―――よし、わかった」

 

 程遠志はすぐさま決断した。長考している時間はない、と程遠志も本能的に理解した。

 

「受け入れていただけるでしょうか」

 

 孔明は怜悧な瞳で見ていた。あどけない表情と、矮小な体躯。程遠志とまさに正反対であるが―――どこか薄ら怖くなるような迫力を彼女は有していた。

 程遠志は怖気を催した。逆らいたい、という、天邪鬼な心も出た。それでも今、考えるべきは軍全体のことである。曹操軍、という全体を見なければならない。どうすれば生き残れるか。どうすれば手柄を立てれるか。黄巾の時にはこんなこと思いもしなかったな、と苦笑した。

 

「受け入れる。ここに残り、援軍を待つ」

「あ―――ありがとうございます!」

 

 程遠志の言葉に、劉備は身体全体で喜びを表現した。頭を大きく下げ、顔を綻ばせる。

 孔明もまた「緊張しましゅた」と噛みながら年相応の笑顔を見せた。先ほどまでの迫力ある姿とはまるで別人で―――程遠志は毒気が抜かれる思いになった。

 

 

 

 

 張邈配下の衛茲が死んだ、との一報が入った。軍をまとめながらも、董卓軍右翼徐栄の猛攻を受け、張邈への忠誠を貫いて死んだ。宴会の折、程遠志たちも、劉備たちも一度見たことのある人間だった。それ故悼む心はあったが、今の状況はそう易々と感傷に耽ることを許さなかった。

 早々に劉備軍と合流したことにより、六千の兵士が強固な陣を引くことには成功した。伸びた横陣を止めて包囲の危険性もある方陣を敷いたことで、先陣の中でも隔絶した軍となり、董卓軍を受け止めることは適わないながらも味方の逃亡兵に踏みつけられることもなくなった。

 それでも、である。圧倒的な兵力差がある。呂布もいる。隔絶した軍というのは、すなわち孤立した軍ということでもあり、状況が芳しいわけでもなかった。先陣全体を、俯瞰的な目線から見れば、明らかに崩壊していたことだろう。その崩れた軍の中に、六千の殿を務める隊があるような状況だった。

 

「耐えろ!」程遠志は叫んだ。「もうそろそろ、後詰が来る。それまで耐え忍ぶのだ」

 

 明らかな嘘だったが、程遠志は叫び続けた。「援軍は来る」「後詰が来る」と。時間を稼ぐことが必要なのだ。ある程度までの詐称は許されるはずだ。

 程遠志自身、まだかまだかと切望していた。来てもおかしくはない頃合である。横陣を敷いて突撃してきた董卓軍は一部が劉備軍に当たり、残りは張邈、袁紹、袁術などの敗残兵を追い討ちしている。その軍隊が、この戦場に残り続ける劉備軍へ目を向けるのも時間の問題であった。そうなれば包囲の憂き目に遭うことは、容易に想像できる。

 それと対照的に、孔明は涼しい顔を浮かべていた。彼女の怜悧な頭脳は、先陣の崩壊と、それに合わせて動く諸侯の動きをまるで見ているかのように予測した。恐らく、最も早く動く者は、曹操のはずだ。そして、最速で動いたとすればもうそろそろ到着してもおかしくない――――――

 

 両者の顔色は真逆に等しかったが、願うことは同じだった。「早く来い」後詰を切望する思いは、どちらも変わりはしない。

 ―――そして、それに応えるように。

 程遠志と孔明の視界の端から、現れる軍があった。

 

 旗は「夏」。それが二つ。程遠志と孔明は同時に察した。曹操軍だ。後詰が来た。

 一瞬で、士気が上がった。劉備、曹操軍共に、である。曹操軍は夏侯惇、夏侯淵姉妹の強さを皆知っている。めざましい怒号を上げる者もいた。程遠志も叫んだし、鄧茂も歓声を上げた。張曼成は微笑を浮かべ、厳政も小躍りしそうになった。

 

 ―――それ故、最も気がつくのが早かったのは、曹操軍の人間ではなかった。

 

 まず、劉備軍の関羽が小首を傾げた。それに続いて孔明、龐統があれ、と思った。曹操軍総勢三万。主目標であるこの包囲作戦に、兵を温存する意味などない。だというのに、いささか兵士の数が少なく感じた。

 近づくに従って、それは誰の目にも明らかになった。二万いるか、いないか。本体である「曹」の旗は見えず、曹操軍の中でも多少のざわめきが起きた。

 ……何か、異常があったに違いない。孔明は気を取り戻した。問題ない。二万だろうが、一万だろうが、守勢に回ることは可能である。曹操が動き、次に張邈か袁紹が動くはずだ。陣が遠い袁術、孫策も、ここまで駆けつけるには時間がかかるだろうが、来ないはずもない。耐えられる兵力があれば、何の問題もないのだ。

 

 曹操軍は、圧倒的な速さで劉備軍へ近づいてきた。先頭にいるのは夏侯淵、夏侯惇。董卓軍や逃散する味方を歯牙にもかけず、合流を優先しようとした。

 何故か、夏侯姉妹の表情は、少しだけ強張っていた。なんだ、と程遠志は思う。いつも自信満々の夏侯惇。不敵な笑みを絶やさない夏侯淵。その二人がこのような顔になるなんて、一体どういうことだ。

 

「夏侯淵殿!」劉備軍の簡雍は手勢を率い、曹操軍を迎えに行った。「どうぞ、こちらへ」

 

 その誘導に従い、曹操軍は劉備軍の方陣に付き従う形で陣形を組んだ。董卓軍は新手だ、とばかりにいきり立ったが、まだかかってこない。張邈、袁紹の残党兵をしつこく追いかけていた。

 

「程遠志」夏侯淵は、その隙に程遠志の陣へ忍び込んだ。「どうだ、状況は」

「よくねえけど、この後詰でだいぶ楽になりそうだ」

「それについてだが、あまりよろしくない情報がある」

「よくない情報?」いつの間にか、孔明も程遠志の陣へ来ていた。「どういうことでしょう」

 

 孔明だけではない。龐統もいるし、夏侯淵を誘導した簡雍もいた。劉備軍の軍師を担当しているであろう人間たちが、程遠志の陣へ集まっていた。目当てが彼というわけではなく、夏侯淵とこれからの策について話し合いたいのだろう。その場が、この陣になっただけだ。

 夏侯淵は沈痛そうにも見える表情だった。程遠志も―――孔明も、龐統も、その真意が理解できなかった。守りながら後詰を待てばよいだけではないのか。

 

「つい先ほど、袁紹殿から報告が入った―――連合軍の背後から奇襲されたとのことだ」

「奇襲!?」程遠志は目を大きくする。「どういうことだ、汜水関に敵は集結してたんじゃ」

「前もって、外に待機していたんですね」孔明は冷静に頷いた。「汜水関の敵の動きから、何かあるのではないかとは警戒していました」

「うむ。華琳さまは、一万強の兵士を率いてそちらへ向かわれたらしい」

「成る程。二手に分かれたのですか」

 

 孔明は理解できた。良い判断だ。何の問題もない。

 ならば、何故夏侯淵はこんなにも微妙な表情を浮かべているのだ―――?

 

「私と姉者は他の袁紹、張邈軍とともにこの場へ向かう予定だったが―――そうはならなかった」

「ならなかった?」

「袁紹殿も、張邈殿も、こちらへは一兵たりとも回していない」

 

 な、と孔明はそこで初めて表情を変えた。どういうことだ? 背後の軍へ警戒するより、この先陣の方が距離が近いはず。何故来ないのだ。

 

「そればかりではない」夏侯淵は言葉を続けた。「その後ろにいる鮑信も、孔融も、劉岱も―――殆どの諸侯をもが、背後への援護に夢中になって先陣へ兵力を回していない」

「あり得ません―――どういうことですか」

「わからない。不条理で、不可思議だが、事実だ」

 

 どう考えてもおかしい、不幸な出来事だった。常識的に考えてあり得ない。

 二者択一である。前に行くか、後ろに行くか。前に距離が近い袁紹も、張邈も、鮑信も、孔融も、劉岱も。皆が後ろを自主的に選択した。まるで操られたかのようだった。

 

「流れだ」程遠志が呟くように言った。「明らかに、流れが悪い」

 

 流れ、など。孔明はそれこそあり得ないと思った。しかし、ならばこの状況はどう判断すればいい? 合理的で、冷静な思考を持つ彼女だからこそ。知でもって生きている彼女だからこそ、僅かな時間固まって、混乱した。

 どう考えてもおかしい、と吐き捨てた。龐統もまた、同じ思いであった。

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

董卓包囲網編 第九話

 

 

 

 董卓軍五万と、先陣二万強。二倍を超える兵力差と、呂布。六千で堪えていた時より幾分かは楽であるものの、状況は決して良くなったわけではない。

 孔明は混乱の渦中にあって尚、まだ冷静だった。最初の方針は変えるべきではない。後詰の兵が来るのを待つべきだ。袁紹、袁術の逃散兵を狩っていた董卓軍も、戦場に残り続けている劉備軍へ目標を変えつつある。今逃げれば、背中を喰らい潰される。決めたことを覆すべきではないのだ。

 夏侯淵、夏侯惇を主軸に、方陣を組み直す。既に会戦の最中であり、万全な陣形を構築することは困難であったが、それでも、孔明の巧みな指揮とそれを信頼した夏侯姉妹の手によって、成功した。この戦時下にあって、互いの能力を疑うべきではない、と両者ともに理解している。

 

 では、いつ後詰が来るのだろう。今、前面にいる董卓軍の数から、孔明は我が軍の後背を突いた董卓軍別動隊の数を推測した―――三万強から四万弱のはず。その予測はピタリと一致していた。奇しくも、実際に目撃している袁紹軍偵察と、即興で予測した孔明は同じ目算であった。

 先陣の劉備、曹操軍を除いても、連合軍は優に二十万程の軍隊を有している。この平野で軍隊が十全に展開できるわけではなく、当然遊軍も出るだろうが―――それでも、十数万対、四万だ。負ける道理がない。曹操も、孫策も、張邈も、袁紹も、決して無能ではない。別動隊の大将が高順でも、張遼でも、陳宮でも。誰だろうとも、負けることはあり得ない。

 しかし、一蹴できるかといえば、また話は別である。高順でも張遼でも陳宮でも。自身の軍へ連合軍の殆ど総力が向かってきていることに感づけば、時間を稼いで先陣が崩れ、挟み撃ちの様相を呈して来ることに望みを託すはずだ。

 

 すなわち、これは耐久戦である。先陣が崩れるか、董卓別動隊が崩れるか。五万と二万。二十万と四万。兵力比で見れば先陣の方が長く持ちそうであったが、連合軍には遊軍が多数あり、不意を突いた奇襲で浮足立っている隊があり、先陣が相手取る敵には飛将軍―――呂布がいる。果たしてどちらが崩れるのが先だろうか。

 

「微妙なところだよね、雛里ちゃん」

「うん。でも朱里ちゃん……そもそも、まだ、董卓の別動隊にすべての諸侯が向かった、とは限らないよ」

 

 龐統は言う。孔明も頷いた。夏侯淵の言う通り、袁紹や張邈、鮑信、孔融、劉岱など、ほとんどの諸侯が動いていないのかもしれない。だからとはいえ、誰も来ないと考えるのは早計だ。二十を超える諸侯の中から、どの軍かは先陣へ向けて動くのではないだろうか。

 希望的な観測ではない。寧ろ、誰も来ないと考える方が、悲観的な観測である。前か、後ろか。闇雲に決断しようとも、利をもって決めようとも。どの諸侯もが後ろを選択する確率など、天文学的な数字になるはずだ。

 それに合わせた策も用意した。方陣を組み、味方の後詰の登場に合わせて包囲する。殲滅するための包囲ではなく、相手の士気を下げ、退却を促すためのもの。今の兵力でできる最大限の策を、二人は考えついていた。

 

 後詰は来る。必ず。

 

 

 ―――小半時後、その予測が恐ろしいほど鮮明に外れるとは、今の孔明にも龐統にも予想できていなかった。

 

 

 

 

 

 小半時が過ぎた。程遠志は自ら剣を振るい、董卓軍に対抗しなければならない状況になったことに、苦笑を漏らした。

 状況は、どんどんと悪化の一途を辿っている。方陣の中央部を曹操軍、両翼を劉備軍が担当しているが、その中央の軍は押し込まれ、方陣は真ん中のみが凹み、安っぽい横陣のようにひしゃげてしまっていた。

 曹操軍が弱いからではない。寧ろ強いからこそ、董卓軍の主力―――すなわち呂布や徐栄など―――の突進を一身に受けていた。耐えきれぬ。持たぬ。そんな弱音を吐くことなく、程遠志は夏侯惇、夏侯淵共に奮戦していた。

 後詰は来なかった。小半時が経過して尚、来る気配はない。それは即ち、すべての諸侯がこの先陣ではなく後ろの軍へ向かったことを連想させた。少しずつ、それに気がついているのか、練度の高い曹操軍、士気の高い劉備軍も戦意を喪失しつつあった。

 孔明の策はまだか、と夏侯淵は思う。時期になれば、両翼の劉備軍が策をもって動きます―――とのことだったが、その号令がかかる気配はない。

 

「夏侯淵!」程遠志は叫んだ。「援護を頼む」

 

 目の前には董卓軍の兵士が五名ほどいた。そこに、一度に五本の矢を夏侯淵が放つ。すべて命中。若干混乱する董卓軍。穴が開いた、とばかりに、程遠志は十名ほどを連れて突貫し、その穴をさらに広げた。

 俺たち、中々相性が良いかもしれねえな、なんて程遠志が軽口を叩いたが、その頬からは汗が流れている。夏侯淵もまた、微笑を浮かべながらも頬が少しこけている。集中力、精神力、気力。そのようなものが削ぎ落されていく。まさしく死線であった。

 どれだけ耐えればいいのか。この耐久戦に活路はあるのか。将もそれを思ったし、一兵卒も疑問に思うことだろう。それを誤魔化し、戦意をギリギリのところで保たせる。耐久戦はそれが肝であり、夏侯惇も、夏侯淵も。あるいは程遠志も、上手く働いた。

 崩れそうで、崩れぬ。耐え続けていた。

 

「あ」そこで、鄧茂が呆然と呟いた。「やばいよ」

 

 目の前には「呂」の旗が近づいてきていた。呑気にも聞こえる鄧茂の声は平淡で、絶望の感情が含まれていた。練度の高い曹操軍も、「呂布だ」「飛将軍だ」と騒めく。そこに、突撃した。

 呂布は戟を振るうだけである。それで十分だ、というような立ち回りだった。一振りで、戦意を保った、練度の高い曹操軍が、十人は死んでいく。為すすべもなかった。努力や、あるいは生半可な才能でも届かないような、そんな差を見せつけられた。

 勝てない。兵士たちは心底恐怖した。負ける。負けてしまう。逃げだしたくなった。誰もが理解しただろう。勝てぬ。人間業ではない。夏侯淵も、一瞬躊躇し、腕を震わせた。

 

「来い」それでも、夏侯惇は逃げなかった。「来い、呂布ッ!!」

 

 彼女も理解していたのではないだろうか。呂布には勝てぬ、と。なぜ逃げず、腰が引けることもなかったのか。それが彼女の性質なのか、武人としての誇りなのかはわからない。それこそが夏侯元譲なのだ、と主張するようだった。

 夏侯淵が叫んだ。姉者、と言おうとしたのだろうが、言葉になっていなかった。すぐさま弓を構え、五本同時に射る。彼女の動揺とは裏腹に、それは正確に飛んだが―――そのうち一本は董卓軍の兵士が身をもって庇い、三本は付き従う徐栄に撃ち落され、一本は徐栄の左腕に命中した。兵士は死に、徐栄は苦悶の表情を浮かべた。しかし、呂布の動きを妨げることは適わなかった。

 呂布が戟を振り上げる。あれが振り下ろされれば、死ぬ。自然とそう皆理解できた。まずい、と張曼成は唸った。夏侯惇の存在は、この軍の大黒柱のような役割を果たしている。なくなれば崩れる。夏侯淵でも代替できるような存在ではない。死んでしまえば、この戦はその時点で終わってしまう。厳政は泣きそうになり、この状況は自分の不幸が招いたのではないか、とあり得ぬ妄想をした。

 鄧茂は周りの人間とほぼ同様の反応を示したが―――やがて、近くにあの男がいないことに気がついた。気がついて、そこで強く悲鳴を上げた。

 

 

 その男―――程遠志は、夏侯惇が呂布へ向けて足を止めた瞬間、走り出していた。

 

 

 不思議と、その一歩を踏み出したのは彼が一番早かった。

 脳内が暑かった。激しく回転している。走りながら様々なことを考えた。鄧茂のように「これはやばい」とも思ったし、張曼成のように変に冷静になって「崩れるかもしれない」とも考えた。厳政のように「自分の不幸の所為だ」などとは考えなかったが「辺りの流れの所為だ」と他に責任を擦り付けた。要するに、混乱していた。混乱しながらも、走らねばならないと思った。

 夏侯惇に武の修業をつけて貰ったことを思い出す。あの、誰よりも強く見えた女が、呂布の前には形無しだった。背中が小さく見えた。走馬灯のようなものだ、と理解しながらも、その妄想に程遠志は耽っていた。

 その後に考えたのは、夏侯惇のことでも、自分のことでもなかった。夏侯淵。いつも微笑を浮かべている、掴み処のない青髪の弓兵。彼女は夏侯惇が死んだら泣くだろう、と思った。そんな姿は見たくねえな、なんて、不意に感傷が込み上げてきた。柄じゃねえ。そう理解しながらも、程遠志は走り、咆哮した。

 

 呂布の近くの兵士が夏侯惇へ向けて矢を放つ。辛くも避ける彼女に、呂布は戟を振り上げた。狙いは頭部。左目。まるでその部位を狙うことが当たり前と、ここで夏侯惇の左目がなくなることが当然のことだと言わんばかりの一撃だった。ふざけるな、と程遠志は思う。

 走り始めが早かった。程遠志は間に合う、と確信して、飛んだ。避けるのは難しいことではない。呂布の戟が届く領域から、夏侯惇を引っ張りだせばいいのだ。

 夏侯惇を掴み、自分の方へ引き寄せ、呂布から遠ざけるように投げた。腕の中にいた刹那、夏侯惇の顔が困惑で包まれる。程遠志自身、驚くほどの膂力だった。火事場の馬鹿力だ。この緊急時の状況が、自分に奇跡を起こしたのだ―――と、一瞬、彼は興奮し、すぐに呆然となった。

 呂布の戟が、伸びていた。

 見誤ったはずもない。適正距離をある程度まで見抜き、その距離を保てていたはずだ。だというのに、程遠志のそんな下らない計算など無駄だ、と吐き捨てるように、呂布の無感情な一撃は呆然とする程遠志の身体に振り下ろされた。

 

「程遠志―――!?」

 

 鄧茂の甲高い声が、曹操軍全体に木霊した。

 

 

 

 

 呂布は戟を振り下ろし、小首を傾げた。それはこの凄惨な戦場に似つかぬほど、可愛らしいものだった。

 が、すぐにその表情は消える。十本の矢が飛来した。それを見て、呂布は僅かに目を見開いた。速い。すぐさま戟を振るい、その矢の殆どは叩き落しながらも、一本は彼女の頬を掠めた。初めて、この戦いで呂布が負った傷であった。

 

「呂布―――」夏侯淵が目を血走らせていた。「よくも」

 

 呂布は夏侯淵を見て、すぐさま馬首を返した。湿っぽいのは嫌いだった。敵討ちだの、弔い合戦だの。そのような目をした人間を斬るのは不快だったし、そういった隊長のいる軍がしぶといことも、よく理解していた。

 しかし、夏侯淵は止まらなかった。程遠志に投げられた夏侯惇、地面に倒れて動かない程遠志を真っ先に回収しながらも、執念深く、血走ったその瞳は遠ざかっていく呂布を見つめていた。逃がさない。

 

「お、おい、秋蘭」

「姉者、止めるな。呂布を追う」

「僕もです」いつの間にか、鄧茂も近くにいた。「追わないといけません、命に代えても」

 

 敵討ちだ、と互いの瞳は言っていた。中でも鄧茂は、死など怖くない、寧ろ生きる意味を失った―――などと考えていることが傍目にも読み取れた。夏侯惇は小さく怖気が走った。殆ど武官ではない鄧茂がここまでの殺気をもって呂布へ向かえるとは。

 だからこそ、止めねばならなかった。違うのだ、という必要があった。

 

「そうではない」夏侯惇は誰の耳にも聞こえるように言った。「程遠志は、生きている」

 

 夏侯淵と鄧茂は、一瞬ぽかんとした顔になった。そして、地面に倒れ伏す程遠志がぴくりと動いたのを見て、激しく動揺した。

 夏侯淵はうつ伏せで倒れる程遠志を慌ててひっくり返す。纏っていた鎧は壊され、中に着た服は解け、逞しい大胸筋からは血が滴っている。しかし―――それでも。その瞳は空いていた。「よお」と、程遠志は、自分を見てくる夏侯淵と鄧茂に呟く。「心配したか?」

 夏侯淵の手を払い、ふらふらと程遠志は立ち上がった。目は虚ろだったし、腹からは血が滴り落ちていたが、問題なく動ける。大丈夫だ、と示した。

 

「呂布の一撃を受けて―――無事なのか」

「ギリギリのところでよ、後ろに跳躍したんだ。寧ろなんでこんなに血が出るんだよ。完全に避けたはずだぞ」

 

 割に合わねえ、と青褪めた顔で程遠志は言った。確かに避けてたはずだろ、と情けない声で言う。

 ははは、と夏侯惇が笑った。引き攣った笑みだったが、それは兵卒たちにも移った。死に体だった夏侯惇が死なず、それを救った程遠志は生き延び、呂布は退いた。まだ耐えられる。まだ勝負はわからない! そんな意気込みを感じられる笑い声だった。その笑い声は曹操軍全体を包み込み、戦意を向上させ、劉備軍にも伝播した。目に見えた、士気向上だった。

 

「こ、これは」厳政は呟くように言った。「まさか」

「流れが変わった、と程遠志ならば言うのだろう」

 

 ―――張曼成が微笑しながら言った途端、である。

 

 けたたましい喚声が、遠くから飛んできた。それは次第に大きくなり、兵卒たちが耳を塞がねばならぬ程の音量となって、戦場に木霊した。なんだ、と夏侯惇は笑いを止めて見る。夏侯淵も振り返り、程遠志も虚ろな瞳で見た。誰もかもが―――程遠志を呆然と見守る鄧茂以外は―――そちらに目を吸い寄せられた。

 山の上で、旗が翻っていた。ぱたぱたとせわしなく動くその様子は、軍の戦意の高さを表すようだった。先頭にいるのは妖艶な笑みを零す女。その隣には眼鏡をかけた女がいて、紫髪の女が場の状況を驚きをもって見ていた。その兵士たちは今にも山を下らんとする長蛇の陣を引き、敵兵を睨み殺さんとばかりである。

 その旗に書かれた文字は「孫」。真紅の旗は雌伏する竜虎を表すようであった。先頭にいる女―――孫策は口を大きく広げて叫んだ。「吶喊!」

 

 それに合わせて、劉備軍、曹操軍の士気は更に高まった。来た、後詰が来た。反比例するように、鰻登りだった董卓軍からは動揺の声が漏れる。その隙を、劉備軍にいる軍師―――孔明は見逃さなかった。「今です!」と、叫び、策を起動する。劉備軍の担当する右、左翼が持ち上がった。

 

 

 

 ―――ここから、長かった『汜水関の戦い』も、ついに佳境を迎える。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

董卓包囲網編 第十話

 

 

 

 孫策は興奮していた。瞳は爛々と輝き、怪しい光を持っていた。

 彼女は悪癖を持っている。戦場に長く留まり、返り血を浴びれば浴びるほど興奮する。それは戦場に長く滞在すればするほどひどくなり、興奮が抜けるまでの時間が長くなる。

 しかし今の興奮はただ戦場にいるから、というだけではなかった。彼女の瞳は敵だけではなく、味方の劉備、曹操軍も見つめていた。そこに、目標の何かがあると言わんばかりだった。

 

「冥琳、あの中にいるわ」

「お前のお眼鏡に適った人間が、か?」

「ええ、いるわ―――必ず」

 

 孫策は少し前のことを思い出していた。誰よりも先に先陣が崩れるのに気づき、後ろからの奇襲があることも薄々勘づいていた頃である。それから暫くして袁紹からの伝令が届いた時も、やはりと思ったものだ。これが自分の恐れていた悪い予感か、と考え、そちらへ向けて出陣しようとして、固まった。

 先陣の空気が変わっていた。何が、という明確な答えは出ないが、抽象的に言えば漂っていた雰囲気が変化しつつあった。なんだ、と小さく気になり、袁紹が見つけた別動隊へ向けて出陣するのではなく、そちらにも兵を分けて送ろうか―――なんて考えると、不自然に頭が痛くなった。そちらへ行くな、後ろへ向かえ、先陣は助けるな。誰かが念じているようだった。場の空気が、流れが何かを操っているかのように。

 面白い、と孫策は笑った。先陣は既に、目に見えるほど崩れている。放っておいても誰かが向かうに違いない。先陣と遠く離れている我が軍が向かっても無駄足だ。そう冷静な部分が呟いたが、意図的に無視した。逆に、歯向かってやりたくなった。それならば、今ある全軍で、先陣に向かってやろう。そう思った。

 

 そう決め、周瑜や黄蓋の反対を押し切り、先陣へ向けて出陣すると様々な妨害があった。何故か袁術軍にいちゃもんをつけられ、動かぬ張邈軍が邪魔になり、先陣にいたのであろう袁紹軍の逃散に巻き込まれかけた。すべてが偶然の産物であろうが、だからこそ、孫策は愉快になった。

 悪いことが起こる気もするが、それを乗り越えれば反転し、良い流れになる気もする。最初に孫策が思ったことである。自らの信ずるべき勘である。ならば、この不運が翻れば、我が軍にどんな幸運が降ってくると言うのだろう。それを考えると笑みが止まらなかったし、先陣にいる人間が、恐らくこの妙な「流れ」を作り出しているのだろうという推測も立てられた。会ってみたい、と妙な胸のざわめきが起こった。

 会ってどうするのか。英傑ならば種でも貰うのか―――なんて考えて、孫策は自分自身が予想外なほど逸っていることに気がついた。流石に気が早すぎる。どうしてこんなにもその人間を気にしているのか。

 わからぬが、会えばわかるだろう――――――

 

 

 孫策は回想するのを止めて、前を見つめた。先ほどまで崩れていたはずの先陣は、何が起こったのか異常なほどの速さで立て直し、甦ろうとしていた。中央の軍が押された代わりに、両翼が持ち上がり、いつしかその陣形は鶴翼にも似た挙動を描いて反包囲的な陣形を築きつつある。驚くほどまでに綺麗な戦術機動だ。

 

「あり得ぬ」黄蓋は呻くように言った。「あの状況から、巻き返したじゃと」

「真にあり得ないのは、この先陣を誰もが見捨てかけたことよ。恐らく、曹操と私以外のすべての諸侯は、一兵たりともこの先陣―――劉備へ軍を送っていない」

「驚くほどの、不運じゃな」

「その不運が、今、翻った」

 

 翻ったとはなんじゃ、と黄蓋が問いかけてくる。祭にはわからないことよ、と孫策が返すと、黄蓋はむ、と唇を尖らせた。意地悪をしているわけではない。説明をしようとも誰からも信じられないし、そもそもうまく言葉にもできない「勘」である。

 これを、この「流れ」を、すべて自由自在に操れているわけではないだろうが―――仮に。先陣にいる人間がこの流れを完全に掌握したのならば、恐らく誰もが敵わないだろう。孫策は確信をもってそう言い切れた。

 

「まあ今は、とりあえず。この戦を終わらせてしまいましょう」

 

 そして、すべてが終わった後、戦勝の宴会の折にでも訪ねよう。誰が、先陣の肝なのか、と―――

 

 

 

 孔明は驚愕していた。恐らく、それは自らの隣にいる龐統も同じに違いない。

 策を実行に移す機会を、彼女らは今か今かと待ちわびていた。後詰が来たら、それに合わせて実行する。そう考えていた。

 策とは言っても単純なものである。最も負担がかかる中央に攻撃を集め、劉備軍両翼は陣形を保たせたまま、中央の軍が後退する。必然的に両翼のみが場に残り、自ずから挟撃する態勢になる。合図に合わせて、関羽、張飛を主とした将軍が、中央の軍と協力して三方向から包み込む。

 圧倒的に兵士の数が足りないこの状況で、包囲をしてもたかが知れていた。後詰が来て、それをこの三方向からの半包囲の最後の楔―――四方向目とする。結果、半包囲が完全包囲となる。それが作戦の肝であり、最も重要な部分だった。

 

 だというのに、いつまで経っても後詰は来なかった。天から見放されたのではないか、なんて不安を慮るほど、孔明は焦っていた。その途端、である。

 孔明は見ていた。右翼後方で、策の機会を龐統と議論していた最中、偶然にも押し込まれる中央に目をやっていた。呂布が暴れ、夏侯惇が立ち向かい、夏侯淵が焦りを浮かべているのを。そして、そこに程遠志が乱入し、夏侯惇を助けるのを。それによって士気が向上し―――図ったかのように援軍が来たのを。

 まるで一つの流れのようだった。演劇だの、舞台だの、物語だので取り決められた流れに従って進行しているような、そんな気分にさせられた。

 

「朱里ちゃん、これって」

「どう考えてもおかしいよね」

 

 だとしても、と孔明は切り替えざるを得ない。士気が上がり、この状況を覆すには今しかない。

 両翼の主攻である関羽、張飛はすでに動き出している。手を緩めている暇はない。ようやくできた勝機である。

 

 ……孔明の頭には、一人の男の顔が浮かんでいた。程遠志。昨日の酒宴で絡み回り、趙雲と勝負し、痴態を晒していたかと思えば、今日夏侯惇を助けるために命を張った、よくわからぬ男である。「流れ」というものをよく口にする、面白い男だ、と関羽が言っていた。気難しいともとれる気性の彼女が褒めるとは、と孔明自身驚いていたのでよく覚えている。

 程遠志は顔を青褪めさせながら立っていた。ふらふらと足元はおぼつかず、目は虚ろながらも、確かに両の足で屹立していた。その瞳は鋭く、口元は笑みで歪んでいる。これで決まった。もう負けはない。上手くいった、という笑み。この戦場を、まるで今すべて支配した、と言わんばかりの表情だった。

 

 あり得ない、という否定が孔明の身体のうちから流れ出てきた。それは、知に生きる者ならば誰もが持つべき感情だろう。流れのような抽象的なものが戦場を自由自在に動かせるならば、軍師というものの存在価値とは何なのか。何だというのか。

 そんな、激流のような否定の感情が湧き出てきて、少しずつそれは収まり、やがて純粋な興味になった。会ってみたい。もう一度会い、話してみたい。

 

「程遠志さんに、会ってみたい」

 

 自然と、孔明の口からそんな言葉が零れ落ちていた。

 あ、と慌てる孔明に、龐統も微笑を浮かべて「私も」と返した。

 

 

 

 

 高順は苦笑いを浮かべた。そんな表情も画になるような、そんな男だった。

 韓馥を殺し、その後ろの第二陣、第三陣も踏み潰した。そこまでは完璧な、まさしく「陥陣営」としての立ち回りだったが、そこで、正面から万全の袁紹軍とぶつかった。袁紹軍は連合軍の中でも最も多い兵力を有しており、独力で高順の董卓別動隊を凌ぐほどであった。猛将の文醜、顔良から、軍師の田豊、審配。兵の質も、将の質もかなり高い。それを相手取って、高順と張遼は五分以上の戦いをしていた。

 

 ―――そこに、左から曹操。右から馬超の突進を受けるまでは、だが。

 

 完全に勢いを殺され、騎兵は足が止まり、無用の長物となった。兵力差は、二倍、やがて三倍へと変化していくことになるだろう。最初の奇襲が袁紹に読まれていた瞬間から、そもそもこの作戦は無理があったのだ。兵卒たちの士気は下がり、軍団長も動揺した。

 それでも、そこから高順は半刻持ち堪えた。まだわからぬ。こちらに曹操、袁紹、袁術、馬超などの殆どの諸侯が向かってきているのならば、先陣にいる呂布を止められるものなどいないはずだ。背後からの奇襲は読まれても、先陣を崩した董卓軍本隊が連合軍の背を突ければ同じことができる。そう確信し、耐え続けた。

 ……しかし、その考えは、今しがた陣に訪れた伝令によって、真っ向から否定されてしまった。

 

「董卓軍本隊、先陣を打ち破れず汜水関へ後退! そのまま籠城せず、汜水関、函谷関を捨てて洛陽に撤退します!」

「なんやて」張遼が目を剥いた。「恋がいて、主力がこちらに多くいて打ち破れんのか!」

「明らかにおかしいな。何があったかは、オレにもわかんねえが」

 

 高順はぽつりと呟く。これでは、ここで連合軍を相手取り、耐久戦をやった意味がない。

 逃げるか、とすぐに彼は決断した。今の伝令の声は軍全体に聞こえている。援軍が来ないと知れ渡った現状では、今以上に士気が落ちることになるだろう。

 

「にしても、本隊は函谷関も捨てたんか」

「仕方ないさ。姫の危機だ」

 

 高順が姫、と呼ぶのは董卓のことである。数日前、汜水関に籠る董卓軍に連絡が来ていた。大部分の軍隊が不在の洛陽で、十常侍の抑えがきかない、早めに戻ってきてくれ、とのことであった。

 それ故、元々董卓軍は汜水関に長居することができなかったのである。短期決戦を高順は望んでいた。

 取るべき手は三つあった。汜水関、函谷関を捨てるか。汜水関、函谷関に滞在する軍を分け、一部を洛陽へ戻すか。汜水関から打って出るか。高順と華雄は最後の案を強く熱望し、微妙な顔をする張遼も高順の考えた策を聞いて頷いた。陳宮は最後まで反対したが、多勢に無勢であった。無謀な別動隊には付き合わぬ、とばかりに汜水関から呂布と打って出ることになった。

 彼女の言うとおりだったな、と高順は苦笑いを浮かべた。確かに無茶だった。無茶をしたからには責任を取らないとな、なんて口笛を吹くように言う。

 

「霞」高順は笑いながら言った。「オレが殿をするよ」

「はあ!? 死ぬ気かアンタ!」

「この作戦を考えたんだから、責任を取るのもオレがいい」

「何格好つけてんねん!」

「良い格好つけるのが男の美学だろ?」

 

 高順が破顔したまま言う。

 なんや、と張遼は顔を厳しくして、一瞬後、表情を一転させて笑い出した。

 

「それなら」張遼も笑って言う。「ウチも残るわ」

「はあ? お前は別だろ」

「賛成したのはウチも一緒や。それに―――恰好つけるのは女がしても悪くないやろ?」

「死ぬかもしんねえぞ」

「そのまま、その言葉返したる」

 

 互いに見合って、笑い合う。覚悟はできている。戦場に出ているのだから、当然のことだ。

 

「もし」そこで、高順は奇妙な顔になった。「もし生き残ったらよ、会いに行こうぜ」

「会いに行く? 何にや」

「呂布の猛攻を受けて生き残った先陣の奴らに、だよ」

「は―――そりゃええな。生き残ったらだけどな」

「生き残るよ。オレとお前ならな、そうなるさ」

 

 高順は片目を瞑って言った。その、そうなるとどこまでも確信している表情は、とても彼に似合っていた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

董卓包囲網編 最終話

董卓包囲網編完!!
評価、お気に入り、感想は勿論のこと、誤字報告をいつもしてくださって本当に感謝の念が堪えません<(_ _)> もうちょい誤字減らさないと……汗


 

 

 

 既に、董卓軍本隊は汜水関へ退却する動きを見せていた。孫策軍に背後を突かれ完全に包囲されるよりも、籠城して時間を稼ぐ方を選んだのだろう。張曼成はそう、冷静に分析したが―――その考えは間違っている。董卓の危機から、本隊は洛陽へ向かうために汜水関どころか函谷関も捨てる勢いだった。

 傍らの程遠志を見る。ふらり、ふらりと揺れながら、馬の手綱を必死に操っていた。

 

「程遠志」鄧茂は心配そうに彼を見ている。「大丈夫なの?」

「大丈夫じゃねえけどよ、死ぬほどじゃねえ」

「もう戦いはひと段落したんだし、休んでてもいいんだよ」

「ちっとは余韻に浸らせてくれよ―――そういえば、夏侯惇と夏侯淵はどこだ?」

「董卓軍を適度に追い討ちした後、劉備さんのところに行って軽く会議をするらしいですよ」

 

 厳政も、心配そうに程遠志を見つめながらそう言う。

 

「そんな会議なんてあんのかよ。夏侯淵め、俺も呼べってんだ」

「休んで、っていう気づかいですよ。そうに決まってます」

「なんだ厳政、妙に確信的じゃねえか」

「案外、女性の気持ちには敏感なんです、ぼく」

「言いやがる」

 

 程遠志は喉を掠れさせながら笑った。

 身体から流れ出る血は、既に止まっている。元々致命傷ではない。完全に避けた一撃を、ここまでのものとした呂布こそが異常なのである。「流れ」に囚われない人間がいるとすれば、彼女こそその部類に入るのだろう、と程遠志は思った。

 

「まあ、俺なんかがそこの会議に出ても、意味なんてねえだろうけどさ」

「どういうことだ?」

「連合の一番最初の会議で、俺は話の流れにまったく興味が持てなかったしな。戦力にならねえし、そもそも、劉備軍の軍師の奴らだって興味ねえだろ。俺がいても」

「それは違うな。お前は、多分今回の件であの軍師たちに興味を持たれたよ」

「なんでだよ」

「さあな」張曼成は微笑を浮かべた。「お前の妙な人徳というやつかな?」

「お前らしか友達がいねえのに?」

「友達が増えそうでよかったじゃないか」

 

 やだよ、と程遠志は笑う。孔明と龐統。あれと俺が手をつないで友達だ、なんて言ってるのを見られたら、牢屋に入れられてもおかしくねえだろ? なんて言うと、張曼成と厳政は噴出した。確かに、それは衝撃的過ぎる光景だ。

 しかし、鄧茂だけはその冗談にも反応しなかった。なんだよ、と程遠志が小突いても、微妙で心配そうな顔を崩さないでいる。目線は言うまでもなく、程遠志の胸元から離れない。

 ああ、そうだったな、と程遠志は頷いた。目立った刀傷を鄧茂の前で負うのは初めてだった。もう会ってから長いことになるし、それなりの戦場を超えてきた。その中で大した手傷を負うことなく生きてこられたのは度過ぎた幸運だったのだろう。その跳ね返りが、今鄧茂を襲っているのだ。

 

「悪かったな、心配かけてよ」

「それならあんな危ない真似しないでよ」

「身体がよ、勝手に動いてたのよ。夏侯惇を救うために。中々格好良かっただろ?」

「格好良かったけど、死んじゃうのはやだよ」

 

 冗談めかした程遠志の言葉に、鄧茂は真顔で返した。

 おいおいと程遠志は思う。「冗談にならねえな」なんて呟き、彼も真顔になる。真剣な表情、と言い換えてもいい。そのまま、真っ直ぐな瞳で目線を合わせた。

 

「俺はよ、死なねえんだよ」

「どうして」

「そういうものだからだ。そりゃよ、土壇場で『死ぬかもしんねえ』とか『これはやべえ』とか思うことはあるけど、流れに乗ってるときの俺は無敵だ。夏侯惇を救った、救えた時点で俺が死なないのは確定してた。俺に間違いはねえのさ」

「だからって、無茶していいわけじゃないでしょ」

「ああそうだな。自重するよ。するけど、俺の流れをお前は誰より理解してる。そうだろ?」

「そうかもしれない」

「そんな流れに乗ってる俺は死なねえから、どーんと安心してみてくれよ」

 

 ははは、と程遠志は笑う。鄧茂はそれを聞きながらも黙っていた。黙ったまま、一、二秒が過ぎた。やがてその黙りこくったままの無表情な真顔が、笑顔になった。「僕」と呟くように言う。「僕は、そんな程遠志だから、一生ついてこうって思ったのかも」引き攣ってながらも、いつもの悪戯っぽい微笑みだった。

 

「一生って」厳政がちょっと冗談めかした感じで言った。「随分重たい発言ですよね」

「それがいい」張曼成も微笑を浮かべながら言う。「重いのが、鄧茂のいいところだ」

「しつれーな。重いんじゃなくて、愛がある言葉だって言ってよね」

 

 鄧茂は笑いながらも、無茶をしている。まだ程遠志に対する心配の感情を隠しきれていない。厳政、張曼成は笑いながらも、場の空気、雰囲気を取り成すような趣旨の言葉だった。無茶ではないが、取り繕った感じであると言っていい。程遠志だって、そんな三人の言葉を聞きながら、「おう、そうだな」と偉そうに腕を組んでいたが、顔は青褪めている。こんな怪我など楽勝だ、と余裕を見せながらも、実は早く身体を横にしてぐったりと寝たかった。皆を安心させるため無茶をしていたし、取り繕ってもいた。

 だが、それでもいいな、と程遠志は思った。無茶だからなんだ。取り繕ったからなんだ。こういった、互いに無茶をしあって意地を張り合ってる状況も捨てたもんじゃねえな、なんて思う。

 

「俺たちだけだから、いいんだよ」といつしか言ったことがあった。まさしくその通りで、こうして男四人でお互いに嘘や欺瞞を交えながらも、真に信頼して笑い合える友人がいることは大事なことだな、なんて今更になってしみじみとなった。

 

「あ、程遠志」鄧茂が、向こうの方を指さした。「夏侯淵さん来てるよ」

 

 程遠志はその言葉に釣られて、そちらを見つめる。

 

 青髪の弓兵が軽く手を振っていた。四、五人の従者に囲われて、こちらへ向かってくる。まだこの地は戦場なのだからもう少し護衛を付ければいいのに、と思う程遠志に、「汜水関から敵が逃げて行ったぞ」なんてことを言いながらだった。「おお!」と程遠志たちは互いに顔を見合わせ合って、驚き、喜び、感動など、四者四様の表情を浮かべ合った。

 そんな中、ふと程遠志は夏侯淵の方を見つめてみる。彼女は程遠志から目を逸らさなかった。僅かな心配の色が、瞳の中に浮かんでいる。程遠志に気取られないためだろう。意識的に心配などしていない、と言わんばかりの、どこ吹く風と言った感じを保とうとしながらも、消しきることはできず、目の端が赤くなっていた。

 少し、程遠志は驚きつつも、笑った。愉快な感情と、素直な嬉しさが胸中に浮かんできて、広がった。あの夏侯淵に心配された。黄巾にいたころの自分が聞いたらどう思うだろうか。驚くのは間違いないか―――いや、そもそも、信じてもらえないか。劉備との会議に行ったばかりだというのに早々とこちらへ帰ってきた彼女は、もしかしたら自分の顔が見たかったんじゃねえのかな、なんて自惚れた推測を立てたりもした。

 

 ひとしきり笑った後、夏侯淵をからかってやろう、と程遠志は思った。弄られているばかりではなく、たまにはやり返してやろうと考えた。馬を操り、夏侯淵の元へ行き、「目の端が赤くなってるじゃねえか」とでも言ってやればいい。普段通りを装う彼女のことだ、多少は動揺するだろう。「もしかして泣いてくれたのか」なんて付け加えれば、恥ずかしくて顔から火が吹くんじゃねえのか―――そんな想像すると、先ほどよりも愉快になった。

 

 早速、とばかりに程遠志は馬の手綱を握り直して、「あれ」と呟くように言った。するり、と手から離れていく感覚。油断したな、なんて気の抜けるようなことを思った。馬が小さく嘶いた。暴れだす。これはまずい、だなんてのんきなことを程遠志は思った。

 意図的に感情を殺していた夏侯淵が、そんなことはどうでもいいとばかりに顔いっぱいに心配を詰め込んで、馬を上手に操って程遠志の元へ素早く駆け寄ってきた。程遠志の後ろからは鄧茂が真っ先に、それにほんの僅かに遅れながら張曼成が、それに次いで厳政が走る。四人はほぼ同時に、馬から落馬しそうになった程遠志を抱き留めた。

 真正面で、程遠志と夏侯淵は向かい合う。

 

「は、ははは」程遠志は誤魔化すように笑った。「いやな、夏侯淵、これは何と言えばいいか」

「馬鹿め」夏侯淵も、心配そうにしながらも笑った。「まったく、締まらない奴だな、お前は」

 

 本当だよ、と後ろで鄧茂がため息を漏らす。

 こんな幕引きも悪くねえな、なんて程遠志が言うと、「悪いよ!」と鄧茂が怒ったように言った。

 

 

 

 

 

 

 このような様子で、汜水関の戦いは幕引きになった。この後、夏侯惇から感謝の言葉を受けて戸惑い、夏侯淵からそれ以上に感謝されて疑心暗鬼に程遠志は陥るのだが、まあ、大体はこんな感じだ。

 

 

 




次回に息抜き編で酒宴を挟む……予定です!




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大 宴 会

 

 

 董卓軍は二つの関を捨て、洛陽へ戻った。洛陽に巣食う十常侍たちを倒し、すわ洛陽の市民を巻き込み、一大決戦を行う―――と思いきや。連合軍が洛陽についてみても、略奪された跡も凌辱された跡もない、平和な街がそこにはあった。董卓軍は故郷の涼州へ帰っただの、自然に軍を解体しただの、どこかへ落ち延びただの様々な風説が立った始末だったが、一つ確かなことは市民を巻き込む戦争を良しとしなかったことであろう。

 それを見て、曹操は肩透かしを食らわされた思いになった。孫策は董卓なき洛陽で何かを見つけ、密かに微笑んだ。劉備は大変喜び、部下すべてを合わせて慈善事業と貧困層に対する援助を行った。公孫瓚は劉備に苦笑いをしながら付き合い、袁紹、袁術は帝に会いに行くと宣言し、張邈はただただ笑うだけで何もすることはなかった。

 とにかく、戦は終わったのである。反董卓連合は解消し、今からは群雄割拠の時代がやってくる。今味方のものが敵へ移り変わり、また味方になるかもしれないし、敵同士のまま終わるかもしれない。どちらかの勢力の滅亡、という形によって。それこそが群雄割拠であり、乱世の始まりである。

 

 ……が、ともかく。

 この、歴史に残る英雄たちの参加した連合が、はい終わり、というのも味気ない。

 本日のみは皆味方だ、という形をもって、大宴会が開かれることとなった。

 

 

 

「宴だよ。宴ですよ」

 

 程遠志が慣れぬ敬語を使い、はしゃいでいた。その左には趙雲がいて右にはお目付け役とばかりに夏侯淵が座っている。両手に花だな、なんて呟きながらお互いの肩へ手を伸ばし、同時に払われる。鄧茂は遠くでそれを見ながら少しだけ嫉妬心が湧いたりもしたが、まあいいかと思い直す。今日くらいいいか、という余裕のある心境だった。

 趙雲との飲み勝負が再び開始される―――ということはなかった。お互いにその勝負が自分たちへ様々な負荷をかけて、その結果次第ではどちらかの自信や誇りが打ち砕かれるやもしれぬと危惧していた。周りにいる悪戯気を持つ人間たちも、勝負を煽ろうとはしなかった。酒を飲んだ程遠志に巻き込まれるのが面倒くさかった、というのが本音であろう。

 

「いいのかよ、夏侯淵。俺についてばっかりで」

「なんだ、邪魔かな?」

「別によ、邪魔じゃねえ。ずっといてくれてもいい」

「惚気るのお」趙雲が茶々を入れた。「夏侯妙才もお年頃かな?」

「さあな」

 

 涼しい顔で夏侯淵は杯を軽く進めた。その表情はいつもの無表情を崩さず、なんだつまらぬと趙雲は唇を尖らせる。程遠志は小さく笑った。俺が落馬しそうになった時はあんなに動揺してやがったのによ―――と口を開いてやろうとして、むんずと口を掴まれた。

 目を白黒させる彼に、「黙れ」と小さく夏侯淵は言う。まだ何も言ってねえよ、と程遠志は思ったが、その迫力がかつて黄巾を頭に被って戦った時を思い起こさせたので、素直に口を閉じた。何を言おうとしたかなんでわかったんだよ、と小さく思う。

 

「程遠志殿は、中々今回の戦でご活躍されたご様子」

「おう。我ながらかなりの活躍だったと思うぜ」

「あの呂布の一撃を受けて生き残った人間は、恐らく程遠志殿だけだろう。何か私にもその武について伝授願えるかな」

「お、いいね。教えてやるよ」

 

 程遠志はそういうと思うと、何やら妙な構えをして武について語りだした。それは中々に頓珍漢なものだったのだが、趙雲はニコニコとしながら酒を片手に聞いている。夏侯淵は少し口元を綻ばせた。あの、常山の趙子龍によくもまあ堂々と「武」を披露するものだ。その無謀さはある種の勇敢さにも見えた。

 そんな風にしていると、不意にかつかつ、と足音がした。程遠志は趙雲の方に身体を向けながら顔だけそちらを向く。趙雲も同じようにしながらも、その主が誰かわかると、すっと居住まいを正した。

 そこには、劉備と北郷一刀が立っていた。劉備は快活な様子で笑っていて、北郷は程遠志に対して小さい苦手意識でもあるのか、顔を困らせている。なんだなんだ、とばかりに程遠志は膝を叩き、無作法にそちらへ顔を突き出した。無礼だ、と夏侯淵に頭をぱしんと叩かれる。そこでようやく姿勢を直した。

 

「程遠志さんと、夏侯淵さん。汜水関ではありがとうございました!」

「おう、劉備様。宴会だしよ、飲まないか」

「え、えーと」劉備はちょっとだけ困ったように笑った。「私はこれから他の人にも挨拶しにいかないとなんで、遠慮しときます」

「そりゃ残念だ」

「程遠志さんこそいいんですか、向こうに行かなくて」

 

 劉備は宴会の奥の方―――張曼成や、厳政、鄧茂がいる方を見ていた。彼らはいつものように仲良く話しながらも、程遠志の方へちらちら視線も寄越している。劉備はその中でも、鄧茂を強く見つめ、程遠志の隣に座る趙雲に「お邪魔かもしれないよ……」なんて耳打ちしていた。夏侯淵に対しても、鄧茂と見比べるように何度も見つめている。

 明らかに何か勘違いをしていやがるな、と程遠志は気がついたが、放っておいた。そもそも鄧茂のことについては曹操軍の中でも大部分が勘違いをしている。今、この場でそれを説明するのは大変なことで、面倒なことだった。

 

「いいさ。そもそも、今の酒を飲んだ状態の俺が行っても、あいつらだって困るだろう」

「酒癖の悪い自覚はあったのか」夏侯淵はため息を吐く。「あるんなら、直せ」

「残念ながら直らねえなこれはもう」

 

 胸を張って言う程遠志へ、堂々と言うことじゃないと夏侯淵は呆れたように言った。

 北郷は、劉備と同様に遠くの鄧茂たちを見ていた。「昔を思い出すな……」と、小さく呟くように言う。

 

 

「なんだ、昔のことって、天の世界のことか」

「ああ―――まあ、そうだね」

「意外じゃねえか。天の世界にもよ、鄧茂とか張曼成とか厳政とか―――つまり、俺たちみてえな奴らがいるのか?」

「程遠志みたいなのは稀だけど」北郷は苦笑しながら言った。「似たような関係の奴らは、俺にもいたよ」

「へえ。捨てたもんじゃねえじゃねえか、天の世界も」

 

 そう言いながら程遠志は高く笑い声をあげた。北郷は小さく彼方を見上げていたが、すぐに気を取り直し劉備の方を向いた。「桃香、そろそろ」「あ、そうだね」と、二人の間で軽い会話が挟まれる。

 

「それじゃ、そろそろ他の人たちのとこに行かないと」

「おう」

 

 そう言って、劉備たちはどこかへ歩いて行った。

 それと入れ替わる形で、二人の女が程遠志の方へ近づいてくる。誰だ、と程遠志は一瞬不思議に思い、すぐに気がつく。見たことがあった。

 

「孫策様、だっけか」

「あら」孫策は大きく目を広げる。「私のこと知ってたの?」

「そりゃまあ、流石に」

「じゃあさ、何でここに来たのかも、わかる?」

 

 程遠志は顎に手を伸ばした。僅かな時間考え、すぐに諦める。わかるわけもない。答えの出ない問いかけのようなものだ。適当に「俺と酒が飲みたくなった、とかかな」と言ってみると、孫策は愉快そうに笑った。

 

「全然違うけど、それも悪くないかもね」

「雪蓮」周瑜が、窘めるように言う。「そんな時間なんてないぞ」

「少しくらいいいじゃない―――と言いたいけど、確かに今回は冥琳の言う通りかもね」

「ほう」夏侯淵は、何かを探るように言った。「連合軍の宴の日も気を抜けないとは、そこまで重要なことを抱えているのか」

「抱えているわよ。何かは言わないけどね」

 

 孫策の顔は赤く、少し酩酊した様子を見せていたが、その瞳はぎらぎらと輝いていた。夏侯淵は思い出す。孫策という女は戦場に出た興奮が平時でも取れぬことがある、と。それが今なのか、と小さく危惧した。

 

「で、何でここに来たんだ?」

「貴方たち、汜水関にいた曹操軍の中枢だったでしょ。顔でも見たいな、って」

「中枢というならば、姉者だろう」

「うーん。まあ、そうだけど、あの中には入りづらいかな」

 

 孫策は少し向こうを見つめていた。曹操、袁紹、張邈。幼馴染である彼女らは、多少いがみ合いながらも仲睦まじく話している。うずうずとしている夏侯惇と、楽しげに見ている文醜、何故か顔を強張らせている張超と―――その護衛は三者三様だった。

 確かにあの中には入れないわな。程遠志はそう思うが、その外にいる夏侯惇になら話しかけれるのではないか、とも思った。どうしてそうしないのだと孫策を見ると、彼女もまた程遠志を見ていた。強い瞳。戸惑い、酒を飲んでいることも忘れ、彼は一瞬真顔になる。

 

「私はね、思うことがあったのよ」

「思うこと?」

「というよりも、勘というべきかな―――貴方が、汜水関の戦いの肝だったんじゃないか、って」

「俺が?」程遠志は目を瞬かせ、笑った。「それを知ってよ、何になるんだ」

「それは貴方の言葉次第よ」

「もし、汜水関の戦功はすべて俺が担ってる、なんて言ったら?」

「子種でも貰おうかな」

 

 程遠志は酒を持つ手を震わせ、杯を取り落とした。夏侯淵は小さく、しかし確かに、目を泳がせ、趙雲は「ほお」とにやにやしながら孫策と夏侯淵を見比べた。周瑜だけ、一人ため息を吐いている。

 

「あら、驚いた?」

「……そりゃよ、驚いたよ」

「まあ、半分は冗談だから本気にしないでね」

 

 だったら残りの半分は何なんだよ、と程遠志は孫策を見る。ごほん、と何かを取り繕うような席払いが程遠志の隣―――すなわち夏侯淵から漏れた。

 孫策はただただ笑っている。自分の疑問に答える気がねえな、と程遠志は察した。

 

「それだけのために、ここに来たのかよ」

「ええ。私の勘は、貴方が汜水関で何かをした、と言ってるの。戦況にかかわる、重大な」

「呂布から夏侯惇を庇ったことじゃねえの」

「本当に、本当にそれだけ?」

「本当だよ。なんでよ、そこまで俺が気になるんだ」

「うーん」孫策は小さく首を捻る。「貴方は、私とどこか似ている匂いがするのよね」

「孫策様と俺が?」

「正確に言うならば、私の勘と、貴方の何かが」

 

 孫策の瞳が程遠志を貫いた。熱を持った、鋭い瞳だった。

「気になるな」と冗談めかして趙雲が言う。「程遠志殿の武よりも、遥かに」笑ってはいたが、彼女も見極めるように程遠志を見ていた。

 程遠志は少し困ったような顔になる。孫策の言いたい何かとは、十中八九「流れ」のことだろう。彼にもそれは理解できた。それを素直に言ってもいいのか、いけないのか。機密事項などというほど大きなものでもないだろ、と夏侯淵を見ると、彼女は好きにしろと言わんばかりに首肯した。

 

「俺がやったことって言うのはよ、本当に呂布から夏侯惇を庇ったことだけだ」

「ふうん」少しだけ、孫策は詰まらなそうな顔になる。「そうなんだ」

「だけど、抽象的な言葉を使ってもいいんなら『流れ』に従って行動した、って感じだな」

「流れ?」

「俺の人生哲学で、何よりも信じてるもんだ。それに従ったから、俺は今回の戦に勝てたんだと信じてる」

 

 程遠志は孫策の瞳を真っ直ぐに見返した。自信に溢れた表情だった。一瞬、視線が交差し、どちらかが逸らし、再び見つめ合った。

 趙雲も「本当に抽象的だな」と茶々を入れつつも、真剣な表情になっていた。程遠志という人間の一端を見れたような心地だった。

 少しの間、場に沈黙が訪れる。ああ、酔ったふりを少しの間忘れちまったな、なんて程遠志は今更になって思った。誰かが喋るのか、喋らないのか。この大きな宴の中で、まるでこの場だけが静まり返り、明らかに異質な空間になっていた。

 

 

 興が覚めた―――とばかりにこのまま解散になるか、と程遠志が小さく思った、瞬間。

 

 

「あり得ませんでしゅ!!」

 

 

 その締まった空気を緩いものに変えたのは、そんな後方から来た言葉だった。

 程遠志は後ろを見る。見えない。誰もいねえ、とばかりに見渡すと、下から「変でしゅよ!!」という違う声が聞こえてくる。

 下を向いて、ああ、と程遠志は思い、苦笑いになった。孔明と龐統。劉備軍の軍師である。それが、如何にも酔ったという状態でふらふらとこちらを見ていた。誰だよ飲ませたの。なんかいろいろまずい感じになってんじゃねえか。

 

 そもそも、何で劉備軍の軍師がここにいるんだ。程遠志は張曼成が言っていた言葉を思い出す。「お前は、多分今回の件であの軍師たちに興味を持たれたよ」マジかよ、と程遠志は笑う。

 本当に俺と友達になりに来たのか―――と彼女らを見つめるが、どうやら違うらしかった。彼女らは敵愾心―――というほど大袈裟ではないが、何やらの対抗心をもって来たようだった。

 孫策はふ、と笑みを零した。周瑜も同様だったし、趙雲も「これでは何も聞けぬな」と肩をすくめる。空気が一気に弛緩した。

 

「どうだ、朱里、雛里。もっと酒を飲もうではないか」

「お前か勧めたの」程遠志は半目で趙雲を見る。「どう考えてももうまずいだろ。やめとけ」

「おや、中々良心的なことも言うのだな、程遠志殿?」

「お前の中で俺はどんな扱いなんだよ。俺だって、こんな幼子に酒を飲ませない方がいいってのはわかるわ」

「失礼でしゅよ、私たちはもう十八を超えてます!」

「え、そうなの」程遠志は真顔になった。「ならいいか―――いや、流石に絵面的にきついか?」

「失礼でしゅ! 失礼!」

 

 孔明と龐統は更に酒を呷った。ああ、と程遠志は溜息を吐く。

 彼女たちは林檎のように顔を真っ赤にして、程遠志に舌戦でも挑むかのように言葉を続けていた。おいおいこれいつまで続くんだ、なんて程遠志は苦笑しながら思った。

 

「いつも悪酔いして他の人に絡むバツだよ」と、どこからか鄧茂の声がした。

 

 

 

 こんな感じで、連合軍の宴は終わった。後に孔明から正式な謝罪が来て、龐統から恥ずかしそうに謝られることになるのだが―――それは、またの機会である。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第4章 張邈決戦編 張邈決戦編 第一話

 

 

 

 袁紹が、少しずつ勢力を伸ばし始めている。張曼成は真面目な顔で静かにそう語った。

 ―――とは言っても、それを聞く鄧茂と程遠志はまともに人の話を聞く姿勢ではない。程遠志は半分夢の中にいたし、鄧茂はうつ伏せで甘味を食している。厳政だけがまともにうんうんと頷いていた。

 別に、それを見ても張曼成は不快になどならない。彼らの間では、寧ろその態度こそが正常であり、厳政の態度こそが異常だった。好きな時に好きな話をして、好きなようにそれを聞く。それだけのことだった。

 

「公孫瓚もどうやら袁紹に追い詰められているらしい。兵力的に見ても、将の力量差を鑑みても、もう一月と持つまい」

「随分と、早いですね」

「その次には、曹操様との決戦が待ち受けていることだろう」

「へえ」そこで、程遠志は、目を擦りながら起き上がった。「曹操様と袁紹は昔馴染みじゃねえの?」

「それを気にする方ではないだろう。あくまで、俺の主観では、だが」

 

 張曼成は静かに言い、程遠志は「まあそうか」と頷き、そこで、何かを思いついたように「そういえば」と続けた。

 

「もしそうならよ、もう一人の昔馴染み―――張邈って人は、どう動くんだろうな」

「わからん。曹操様にも、袁紹にも同じように接する人だった、としか覚えていないな」

「俺も、一回話したけど快活な人だとしか分からねえや。隣にいる妹の張超? はいつも苦虫を噛み潰してそうな顔だったが」

「あれ」鄧茂もそこで、話に入ってくる。「僕が話した時は良い感じの人だったけどな、張超さん」

 

 程遠志と鄧茂は顔を見合わせる。

 そうだったかな、と程遠志は思い返してみるが、彼の脳内の張超はいつも張邈の近くに侍り、いつも顔を引き攣らせていた印象である。

 

「程遠志の顔が怖かったんじゃないの?」

「馬鹿、俺は喋ったことねえよ。張邈の近くにいる時しか見てねえし」

「姉妹間の仲が悪いとか?」

「そんな噂は聞かねえけど―――まあいいか。考えても仕方ねえ話だな」

「僕たちの馬鹿話なんて、八割は考えても無駄な話だからねえ」

 

 張曼成は、一緒にするな、と小さくぼやいた。程遠志の話は女と酒が殆どだし、鄧茂は甘味か程遠志に関わる話題が大半を占めている。厳政は基本的に聞き役に回るし、この中で真面目な話を好むのは張曼成だけだった。

 

「ああ、そうだ。つーかよ、俺にも話したいことがあったんだった」

「なんだ」張曼成が微笑しながら言う。「また酒か?」

「なに」鄧茂がしかめっ面になる。「女の子のこと?」

「ちげえよ。俺の話題だって他にもあるわ。新しくよ、我が曹操軍に入った軍師のことだよ」

 

 誰だっけ、と鄧茂は小さく思う。少ししてすぐにその顔が浮かんだ。飴を舐めている小柄な少女と、眼鏡をかけた真面目そうな少女。む、と顔を固まらせる。

 

「女の子のことじゃん」

「好いた惚れたの話じゃねえっての。その二人―――程昱と郭嘉によ、俺のことを知られてたんだよ」

「どこかの戦場で見られてたの?」

「や、趙雲の知り合いらしくてよ、なんか俺のことを知ってたらしい」

「へえ。あの飲み比べのこと知られちゃったんだ」

「そう、それだよ」程遠志は身体を乗り出して喋り続ける。「だからよ、二人にも一応今度飲もうぜって誘いをかけたんだよ」

「……?」厳政が微妙な表情を浮かべる。「何が、だから、なのかよくわからないんですが」

「とにかく、だ」程遠志は意にも返さない。「そうしたらだよ」

 

 程遠志はそこで言葉を止めて、息を吸い込んだ。溜めるね、なんて横から茶々を入れられるが、それすら無視する。

 十分に間隔をあけて、どれだけ時間を取るのだ、と張曼成が呆れだした頃に口を開く。

 

「俺の顔がよ、血だらけになった」

 

 はあ? と張曼成は珍しくも茫然とした顔になった。厳政は意味が分からないと呟き、鄧茂に至っては程遠志の心配をし始めた。

 程遠志はその反応の良さに少し笑い、言葉を続ける。

 

「郭嘉の方がよ、俺がそう言うや否や鼻血を吹きだしたんだよ」

「鼻血? なんでさ」

「俺と酒を飲むことが、そっくりそのまま破廉恥なことに変換された、だそうだ」

「それは確かに間違いじゃないけどさ」

「おい」程遠志は真顔になる。「間違いだろ」

「でも、鼻血を出すほどってのは面白いね」

 

 だろ、と程遠志は愉快そうに笑いながら続ける。

 

「もう一人の程昱の方はそれを当たり前みてえな顔で見てるしよ、中々の変わり者だぜ」

「よく飴を舐めてる人ですよね」

「そうそう。程昱は、なんか俺の流れに興味津々って感じだったな」

「嬉しそうだね、程遠志」

「そりゃな。あんな子供によ、俺の顔を見て怯えられなかったからよ」

 

 そう言いながらも、孔明と龐統。許褚や荀彧―――様々な、程遠志から見て子供の者が、自分に怯えず平然としていることに気がついた。

 曹操軍に入ったからだろうか。出会う人間も、話す人間も、皆胆力のある者ばかりだ。黄巾の頃とはまるで比べものにならない。

 

「……程遠志は、最近よく子供と絡んでる気がする」

「そうか? 言っても孔明だとか龐統だとかとだろ」

 

 あれも、絡んだっていうよりかは絡まれたって言うべきだしな、と程遠志は続ける。

 

「だとしても、さ」鄧茂はどことなく心配そうになった。「程遠志の好みが歪まないか心配だよ」

「心配してくれて何よりだけどよ、俺の好みはいたって普通だよ。一般的だ」

「ですよね」厳政が口を挟んだ。「ぼくから見てもわかります―――程遠志さんの好みは夏侯淵さんとか、鄧茂さんとかですよね」

 

 三人の目線が厳政に集まる。

 張曼成は微笑を浮かべながら、程遠志は目を瞬かせ、鄧茂はにっこりと微笑んだ。

 それが本心からなのか、あるいは鄧茂の気持ちでも忖度して、気を利かせたのか。

 程遠志には判断がつかなかったが、前に厳政が言っていた「案外、女性の気持ちには敏感なんです」というものは嘘なんだろうな、と察した。そもそも、性別がわかってねえじゃねえか。張角三姉妹と上手くやれているのか、小さく心配になる。

 

「……あのな、厳政」程遠志は溜息を吐きながら言った。「俺からすればよ、そっちのが数倍歪んでるよ」

 

 

 

 

 取り留めのない話は、続けば続くほど楽しくなるものである。眠くなったら各自で眠り、起きている人間は話続ける。

 誰かに強制されるわけでもなくそんな風に過ごし、楽しい休暇を満喫していた四人が気がつくと、外はとっくに陽が落ちていた。そろそろ飯でも食いに行くか、と程遠志は言う。

 

「えー、僕割と、お腹膨らんじゃったな」

「甘いもんばっか食ってるからそうなるんだよ。俺はもー限界だ。お前らもだろ?」

 

 張曼成と、厳政もその言葉に二、三度頷いた。鄧茂はむ、と口を膨らませる。

 

「多数決でも勝てなそうだね」

「四人で多数決はしたくねえな。二対二になったらよ、何にもできなくなっちまう」

「いいよ。それじゃ、軽くご飯食べようかな。どこ行く?」

「それなら」厳政が、軽く手を上げて言った。「最近できた、ちょっと高めの料理屋に行きませんか?」

 

 どこだ、と疑問を唱える者はいなかった。街の中央にできた大きな料理屋は、誰もが見た場所である。

 

「いいけどよ、なんか行きたい理由でもあんのか」

「張宝さまに、今度美味しい料理屋に連れてけ、って頼まれたんです。その下見を兼ねてどうかなって」

「羨ましいね。でもよ、この時間なら空いてるかもしれねえけど、俺はそんな金を持ってねぞ」

「奢りますよ。ぼくの都合に付き合ってもらうんですから」

 

 お、まじかと程遠志は小躍りする。金がねえ、とよく彼がぼやいていることは、他の三人も言うまでもなく知っている。そんな、如何にもな反応に厳政は小さく噴き出した。

 

「善は急げだ。満員です、なんて言われたら最悪だし、さっさと行こうぜ」

 

 気分よさそうに程遠志は笑いながら、外に出ようとする。てくてくと扉の方へ歩いていき、鄧茂たちもそれに続く。

 飯を食って、有意義な休日を過ごし、明日からまた働く活力をつけねえとな。程遠志はそう呟いた。後ろに続く三人も、そうなるだろうと疑わなかった。

 

 扉を開けた途端、程遠志は固まった。目の前に人がいたのである。見たことのある顔、人間だった。向こうも彼がまさかこんなに扉の近くにいたとは思いもしなかったようで、少し戸惑った様子を見せた。

 楽進だった。黄巾を平定し、その宴で程遠志が絡んだ相手。

 嫌な顔でもされるかな、と程遠志は思ったが、楽進はそれどころではない、という様子だった。

 

「程遠志殿。緊急だ。急ぎ、集まってほしい」

「緊急? なんだ、会議でもするのか」

「そうだ。臨時で開かれることになった。他の用事もあるだろうが、申し訳ない」

「まあ、いいけどよ―――料理屋は中止だな、厳政?」

「不幸ですね」厳政は肩を落とした。「今日くらいしか行けなかったんだけどな」

「無駄話をしている時間はない!」

 

 楽進は怒りよりも、焦燥が強く含まれた声色だった。なんだ、と程遠志らも真剣な表情になる。

 楽進は扉の外に出て走り出した。程遠志たちがついてこられるような、配慮した速さではあったものの、そもそも駆けていかねばならないという状況に程遠志は違和感を覚えた。そこまでの緊急事態が、起きたというのか。

 

 

「一体全体よ」程遠志は走りながら聞く。「何があったってんだ」

「華琳様の―――父親が、殺された」

「なに?」

 

 

 程遠志は動きが固まった。混乱し、一瞬足が止まる。

 屋敷の中だというのに、誰の耳にも風の音が聞こえた。それは、この場の誰もが抱いた動揺や、狼狽に似た音だった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

張邈決戦編 第二話

 

 

 

 徐州の牧、陶謙と曹操の間には小さな因縁がある。少し前、陶謙が兵を集め、曹操の領地である兗州に攻め入ったことがあった。曹操は軍を二つに分けて、従妹の曹仁に別動隊を率いさせ、散々に叩き潰した。

 それ以降、陶謙が怯えたのかは定かでないが、曹操に対して一切の接触をなくしていた。

 ―――それは、あくまで今日までであったが。

 曹操の父親が殺された。それを為したのは陶謙配下の者だ、という連絡が他ならぬ陶謙自身から曹操の元へ入ったのは、つい今しがたのことであった。自分の所為ではない、という抗弁とともに。

 

 大広間には曹操軍旗下の武将がすべて揃っていた。どの人間も皆、一様に緊張の色が隠せていない。程遠志たちも慌ててその端に座り、背筋を伸ばした。

 一番前には曹操がいる。この場にて、皮肉なことに最も普段と変わらない様子を見せていたのは彼女だけだった。

 

「徐州を攻めるわ」

 

 程遠志が来たのを皮切りに曹操は口を開いた。

 無感情でいて、変に激情を押し殺しているわけでもない。普段通りの態度は逆に周りの者を動揺させた。

 

「華琳さま―――それは、陶謙を攻め滅ぼすと」

「いいえ。陶謙を完全に攻め滅ぼすには我が軍の全力を出す必要があるわ。仮に全力を出したとして、兵糧が持つかと言えば微妙なところ。徐州の中心地である澎城国の陥落が第一目標よ」

 

 程遠志から見ても―――恐らくこの状況の誰が見ても、曹操は怒っていなかった。仮に内心が激情で煮えくり返っているのならば、その隠匿は恐ろしいほどまでのものだろう。

 

「桂花、風、稟。陶謙に援軍を出す勢力は、予想できるかしら」

「恐らくですがー」程昱が口を挟む。「袁紹、公孫瓚は正面から戦っている真っ最中。他の勢力は、そう積極的に関与してくることはないかとー」

「成る程。稟は?」

「援軍はないかと思いますが、陶謙の陣に、劉備という女がいる、という情報が入っています。生半可な援軍よりも、私は彼女の力の方が恐ろしく思います」

「へえ」曹操は微笑んだ。「ずいぶんと高評価ね」

「張飛に関羽、軍師の孔明と龐統。それに―――常山の趙子龍がいます」

 

 郭嘉は小さく汗を流していた。付け加えるように、それでいて勝気な瞳のまま、言った。「劉備はあくまで民衆のことを考えている人間だと聞きます。徐州の民へ、何卒怒りを向けぬよう、お願い致します」

 笑顔だった曹操の顔が、ぴくりと震える。徐州の民へ、自らの父の死の怒りをぶつけるのではないか。そんな心配は無礼だとも言える。「馬鹿な」と叫ぼうとした夏侯惇を、曹操は手で制した。

 

「勘違いをしている者がいるのならば、訂正させてもらうわ」

 

 曹操はそこで一呼吸を置いて、郭嘉を―――そして、全員を見つめた。

 迷いのない瞳だった。現実的で実利的であり、感情が欠落しているわけでもなく、飽和しているわけでもない。

 程遠志は怖いな、と微かに思った。安定しすぎている。

 

「徐州を攻めるのは、すべきことだからよ。感情に動かされているわけじゃない。父が殺され、それを許しては曹孟徳の名に傷が付くわ。この大陸に覇を唱える以上、しなければならないことなのよ」

 

「すべきこと」と「すべきでないこと」で世界は二分されている、というような言葉だった。

 水を打つような冷静さである。郭嘉は平伏し、失言を詫びた。曹操はそれを微笑で受け止め、怒りを見せようともしない。すぐさま、話を進める。

 

「徐州攻めにすべての兵力を割くわけにはいかないわ。徐州を攻める人間と、その隙を守る人間。その配置を考える必要があるわね」

「私見ですが」荀彧が軽く手を震わせながら挙げた。「公孫瓚、袁紹が動かないのならば、防よりも攻を重視すべきかと」

「そうね。兵力は、おおよそ二万五千程度かしら。後は連れて行く将軍なのだけれど、これは、私の独断で決めさせてもらうわ」

 

 少し逡巡するように、曹操は手を顎に当て、すぐに元へ戻した。

 

「桂花、風―――そして、程遠志。貴方たちに守を任せるわ」

「お」程遠志は小さく声を漏らす。「わかりましたよ」

「華琳さま」荀彧が目を泳がせた。「その理由を、お聞かせいただいてもよろしいでしょうか」

「桂花。私は貴女を蔑ろにしているわけではないわ。陶謙との戦いは力攻めが主で、軍師が多く必要になる戦場ではないように思えるのよ。董卓残党などの思わぬ反乱、扇動に臨機応変に対応できる人材が、守には必要よ」

 

 ちらり、と曹操は程遠志を見る。その視線に身体を固くする彼に、くすりと彼女は笑った。

 荀彧はすべて納得したわけではない様子である。男と留守番など、と平時の会議ならば主張したかもしれないが、今は厳粛な空気が場を包んでいる。華琳さまが言うのなら、と小さく頭を下げた。

 程昱は何を考えているかわからぬ表情で二、三度頷き「わかりましたー」と気の抜けた声を発した。

 

「残りはすべて、徐州攻めに回す―――これで一通り、決めねばならぬことは決めたかしら」

 

 すべての人間が頭を小さく下げる。それを見て、曹操は大きく口を開けた。

 

「では、解散。出陣は明後日。兵全体にある程度の休養を取らせ、戦に備えさせなさい。以上!」

 

 いつも通り。何も変わらぬ曹操の姿だった。

 

 

 

 

 

 

 

「華琳は徐州を攻めるでしょうね」

 

 ―――ほぼ、同刻。陳留国。

 張邈は確信を持って、妹へ向けて言葉を発していた。

 

「………………」

 

 張超は自らの姉を、昔から観察している。幼子の頃、姉が自分に対して無口で無表情な姿を見せるようになってから。姉という人間が掴めなくなってから、注意深く見守るようにしていた。

 それ故、気がついたことがあった。自分以外の誰に対しても仮面を被り、快活な姿を演じている姉。そんな彼女も、すべての人間に同じような姿を見せているわけではないと。

 袁紹と曹操。張邈の昔馴染み。彼女たちには、仮面を被りながらも、僅かにだが警戒を緩めて話している。

 

 曹操には小さく弱気を出すように。

 袁紹には大きく意地を見せるように。

 

 快活で、誰とも円満な関係を築くには、変な意地も無駄な弱気も必要ではない。

 人間離れしている姉も、昔からの朋友には人間らしい一面を見せるのだな―――なんて、張超は思わない。寧ろ、その姿を見るたびに怖気が走った。

 あえて弱みを見せているようにしか見えなかった。完璧な水晶玉に小さく傷を入れるような。彼女の彫像のような美しさに欠点を持たせるような。

 それをすることで、姉はさらに相手からの信頼が増すと確信している。そう、張超は思っていた。

 

「姉上、は。曹操さまのことをどう思っているのでしょうか」

「友人よ」張邈は迷わない。「昔からのね」

「嘘です。私は知っています。ならばなぜ、反董卓連合の際にあのようなことを?」

 

 張超の瞳が張邈を貫いた。

 反董卓連合の折、先陣の劉備へ曹操が兵を貸す場面があった。張邈も部下の衛茲に兵を持たせ、救援に向かさせたが―――彼女は他にも動いていた。

 曹操の伝令に、一人部下を潜り込ませていた。その男に命令をし、曹操が程遠志という男へ先陣へ向かうよう伝令を飛ばした際、敢えて彼に何故曹操が自分を呼んでいるかの説明をさせなかったのである。

 結果、程遠志は僅かに混乱し、劉備の先陣へ援軍に行くよう命令されたのだ、と気がついたのは劉備や曹操に会ってからだった。

 曹操は、部下の怠慢を見逃すような人間ではない。

 張邈に命令された伝令が殺されたのか、追放されたのかは定かでないが、厳罰を下されたことは間違いない。あれは何のために行ったのか。曹操を混乱させるためか、程遠志とかいう将の忠誠心を下げるためか。張超には判断できなかったが、どちらにしても。曹操に対してまともな友誼を感じているようには見えなかった。

 

「華琳は、ね」張邈は張超の疑問に答えない。「強い人間なの」

「………………」

「父親とはそう会わなかった、とは聞いているけど、不仲だったわけじゃない。精神的な衝撃は強く圧し掛かったはずよ。それでも顔色一つ変えなかったでしょうね」

「……曹操さまが思慮深い人間だとはわかっていますが、そこまで感情を見せない方でしょうか」

 

 それは、姉上ほどではない、と暗に批判したものだったが、張邈は無表情を保ったままである。だからどうした、と思っているのか。好きに言えばいい、と諦めているのか。姉の感情が読み取れず、張超はやきもきとした。

 

「華琳が感情を見せるのは私と同じよ。それこそが人を動かす原動力となる、と理解しているから。父の死に怒り狂い、弔い合戦をする、と感情のまま言えば、少なからず反感を持つ人間が現れるでしょう。覇道を進む華琳からすれば、それは許容できることではないわ」

「曹操さまは、だから、感情をすべて押し殺すと?」

「華琳は弱みを見せないわ。隠匿するの」

 

 妙に確信したような言い草だった。

 張超は唐突に、背筋に寒気が走った。もしか、と思ってしまったのである。あり得ない疑問ではなかった。

 

 ―――曹操の父親を殺したのも、自らの姉ではないか?

 

 曹操軍に手の者を派遣できる程度には、張邈は各所に情報網を張り巡らせている。不可能ではなかった。理屈は合ってしまう。陶謙が自らが命令したわけではない、と曹操に抗弁しているのも。この状況で様々な情報が張邈の元へ届きすぎていることも。何もかも、辻褄が合う。

 張超は姉を見た。問い詰めねばならない、と思う。思いながらも自分はそのようなことなどできない、という諦観も脳の隅から出てきた。何年も一緒に過ごすにあたって、自分の性格も、姉の人間性も、それに対して抗う術がないことも身体に染み込んでしまっていた。

 

「そういえば」ふと張邈が呟くように言う。「面白い者を拾ったわ」

「拾った?」

「臣下にした、というべきかしらね。董卓包囲網以降、さまざまな出来事が我が軍に起こり、大きな軍容の変更があったことは非水も知っているだろうけど―――また、違う男を仲間にしたわ」

「どのような男ですか」

「最低の男よ。私と正反対の性格をしているわ。恨みやすく、嫉妬深い。人の幸福よりも不幸の方が昔から好きだった、なんて自棄になりながら言っていたわ」

「何故、そのような男を」

 

 張超は目を瞬かせた。張邈軍は連合軍以降、他の勢力に気取られることなく、とある事情により大幅な軍隊の強化が為された。だから、というわけではないが、別段として新しい人間を採用することについては大した不満などない。しかし、そのような気狂いを仲間にする意味などないだろう。

 姉は安っぽい冗談でも言っているのか。そう張超は思ったが、張邈の表情は変わらない。

 

「面白かったのよ。それに、正反対でいて、少しだけ共通点もあった」

「……それだけですか」

「人が隠していた本音を曝け出す瞬間が、私は好きなの。華琳の、隠匿している感情も、いずれ見たいものね」

 

 噛みしめるように張邈は言った。その瞳はぎょろり、と蠢き、どこか虚空を―――すなわち曹操のいる城の方を―――向いているように見えた。何を考えているのか。皆目見当がつかず、張超は少し怯えた。

 

「そ―――その」張超は少し、焦りながら問い掛けた。「その男の、名は?」

「名前? ええと、なんだったかしらね」

 

 数秒、張邈は考え込む。無表情を僅かに崩し、逡巡した様子を見せ、すぐに晴れやかなものにした。

 そのまま、口を開く―――

 

「確か、裴元紹、という男だったわ」

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

張邈決戦編 第三話

 

 

 

 曹操軍が徐州目掛けて出陣して、三日が過ぎた。

 

 程遠志は、鄧茂、張曼成、厳政と共に兗州の上部に位置している鄄城の守護についていた。おおよその兵士数は五、六千人。荀彧と程昱に政務を任せ、彼らは主に街の警護、治安維持活動に努めていた。普段受け持っている仕事と似たようなものではあったが、人手が足りぬ分より辛く感じられた。早く本隊が帰ってきてくれないと、僕の体が休まらないよ―――とは、鄧茂が最近よく漏らす弱音である。

 昼休みの時間になり、程遠志は適当な料理屋に入った。その隣に、いつもいる鄧茂らはいない。偶然、警護の関係で別行動をとることになり、昼休みになっても顔を合わせることがなかったのである。

 

「お」程遠志は料理屋に入るなり、声を漏らす。「なんだよ、いたのか」

 

 彼の目に入ってきたのは、鄧茂や張曼成ではなかった。程昱。頭に人形のようなものを乗せ、それを保ったまま綺麗に飯を食べている。彼女も、程遠志が店に入ってきたのに気づいたらしく、無表情のまま軽く頷いた。

 

「偶然ですねー」

「そうだな。まあ良かったよ、一人で食べるよか二人のがいいわな」

「私は全然一人でも平気ですけどー」

「ひでえこと言いやがる」

 

 はは、と程遠志は笑い、程昱の隣に何気なく腰かけた。「何食ってんの?」「店長のお勧め定食です」「旨そうだな、それにすっか」と適当に二、三言葉を交わし、注文する。

 

 程昱は小さく程遠志の顔を見た。彼女の脳内には、少し前の出来事が思い出されている。反董卓連合の後、劉備に仕えている趙雲から聞いた言葉である。

 

 

「程遠志、という不思議な男が曹操軍にはいた」

 

 

 夏侯惇、夏侯淵、曹操。他にも荀彧や許褚。そのような面々を語るにあたって、趙雲は雄弁な様子を見せたが、程遠志という男の話になると多少困ったようだった。「酒が強い」だの「多少無謀ではあるが勇気はある」だの「武は一線級ではない」だの様々なことを言うが、いまいち要領を得ない。それのどこが不思議なのか、と程昱とともにいる郭嘉は問い詰めたものだ。

 趙雲は少し、苦笑いしながらも閉口した。言うか言うまいか少し迷った様子を見せ、やがて、諦めたように言葉を口から吐き出した。

 

「程遠志は、流れというものを信奉している」

 

 流れ。運。抽象的な言葉である。軍師という職を務める程昱、郭嘉からすれば、そう容易く受け入れることはできないものだとも言える。だからどうした、というのが本音だった。

 運を頼りに動く武将は多く存在する。自分が他の人間とは違い、特別な人間なのだと確信する者。神からの宣託を受けたと言い張り、それを盲信する者。様々な類があるが、その殆どは荒唐無稽な妄想である。孫策、という女が持つ勘は信憑性が高い、と噂になっているが、程昱自身完全に信じてはいない。郭嘉は、彼女よりも疑いを強く持っていて、理屈をもって趙雲へ舌戦を仕掛けた。「だから言いたくなかったのだ」と溜息交じりで趙雲は漏らしたものである。

 ……程昱と郭嘉が程遠志の持つ運に懐疑的になったのは事実だが、趙雲という一人の人間を信頼していることもまた、事実だ。真名を交わし合った仲であり、安っぽい冗談を呟くことはあったが、詰まらぬ嘘偽りを述べるような女ではない、と理解している。そのため郭嘉が厳しい言葉になったのは趙雲が騙されているという危惧からであり、最初は「星は間違っている!」と鋭い言葉だったのが、最後には「星は騙されている……」と心配そうな様相を呈してきて、程昱や趙雲を少し愉快にさせた。

 

 そんな程遠志に対して、程昱は少し興味を持っていた。曹操という主を選んだ理由の中に―――米粒ほどではあるが紛れ込んだ程度には。郭嘉も、主を選んだ理由の中には含まれていないのだろうが、程遠志に対して個人的な興味は間違いなく持っていることだろう。

 それ故、初対面で「流れ」について問い詰める、と郭嘉は鼻息荒くしていたのだが―――結果。いつものように鼻血を噴き出してしまいそれどころではなくなった。それ以降鼻血をかけた後ろめたさからか郭嘉は中々程遠志に寄り付かなくなり、程昱も彼と話す機会に恵まれなかった。

 

「程遠志さんは、流れを信じてるんですよねー」

「ああ、そうだな。信じれねえ感じか?」

「そうですね。疑ってますー」

「まあ仕方ねえわな。中々よ、嘘くせえ話に聞こえるか」

「でも」程昱は流し目で程遠志を見た。「曹操軍の中でも、信じている人はそれなりにいたので、ただの嘘偽りではないとも思っていますが」

「俺の流れを確かめてえなら、私生活から戦場まで全部くまなく観察してくれればすぐに理解できるさ」

 

 お、とそこで程遠志は声を上げる。店主が定食を運んできた。その腕は僅かに震えている。程昱の隣にいるからか、それなりの役職の者だと思われているらしい。一人で来た時や、鄧茂たちと来た時にそんな反応をされたことなんてねえのにな、と程遠志は苦笑を漏らした。箸を掴み、定食を一口食べる。うめえ、と小さく呟くと、店主は少しだけ嬉しそうになった。

 数秒、あるいは数十秒。沈黙が二人の間を訪れる。黙々と飯を食うだけの時間。

 それを先に打ち破ったのは、程遠志の方だった。

 

「気になることはよ、それだけか?」

「気になること?」

「初対面の時、興味津々って感じで俺の方見てきたじゃねえか。何か聞きたいことでもあったんだろ」

「へえ。程遠志さん、聡いんですねー」

 

 程昱は小さく感嘆の声を漏らした。程遠志も悪い気はせず、「そうかな」とわざとらしく首を傾げ、「そうだろ」と最終的には自分で自分を褒めだした。

 

「流れについて、あの時は詳しく聞くつもりでしたー」

「今聞かねえのか」

「流れを信じてるか、信じてないかの確認だけで十分です。また次、稟ちゃんと一緒の時にしますー」

「ふうん、気になったことはよ、流れだけか? 俺の酒の強さとか―――」

「それはまったく興味がないです」

 

 バッサリと斬られて、程遠志は小さく苦笑いを浮かべた。

 

「あと―――気になることといえば、どうして真名で呼ばないんですか?」

「あ?」程遠志は微妙な顔になる。「教えられてねえんだよ。察しろな」

「春蘭さんと、秋蘭さんから許可されたって聞きましたよー?」

「……どっから聞いたんだよ」

「兵士たちが噂してましたよ。秋蘭さんがそれに悲しんでるとも」

「あいつはそんな女じゃねえよ。寧ろそのことで散々からかわれたわ」

「ということは、本当に教えてもらったんですかー」

「……人の噂ってのはよ、怖えもんだな。あの場には誰もいなかったと思ってたのによ」

 

 程遠志はそっぽを向きながら言う。

 反董卓連合が解散された翌日、程遠志は夏侯惇、夏侯淵に真名を許す、と告げられた。その代わりとしてお前の真命を教えてほしいとも言われた。呂布から夏侯惇を庇ったこと。汜水関の采配などを判断して、信頼できる人間だと判断したらしい。ありがたい話である。その言葉に、程遠志は心底嬉しかった。だからこそ、多少の罪悪感が生まれた。自分の真名を教えることは、絶対的に不可能だったからである。

 

「まあよ、俺にも複雑な事情ってやつがあるのよ。鄧茂も、張曼成も。長い付き合いのあいつらでも、俺は真名で呼べねえのさ」

「呼ばない、じゃなくて、呼べないと」

「俺はよ、真名なんてものが生まれつきねえのさ」

 

 程遠志は呟くように言った。それは悲しそうにも見えたし、普段通りにも見えた。

 

「……悪いこと聞いてしまいましたかねー」

「別によ、どうだっていいことだ。人の生まれなんてものは選べねえし、第一俺の過去なんて鄧茂以外には言う気もねえしな。そんな価値のある話でもねえ」

 

 軽く、程遠志は肩をすくめた。どうでもいいと所作に示したらしかった。

 再び場に沈黙が訪れる。程遠志は飯を食べ、程昱は頭に載せている人形を弄りだした。その人形はなんでそこにいるんだ、なんて彼は小さく聞きたくなったが、そんな雰囲気ではない。どうやってこの微妙な空気を打破しようかな、なんて程遠志が考えていると、外から野蛮な足跡が響いてきた。

 互いに、手を止めて外を見る。

 

「失礼します!」

 

 突然の闖入者だった。曹操軍の兵士である。

 なんだ、と程遠志は目を瞬かせ、程昱は不審そうな目になる。

 

「なんだよ。休憩時間だぜ、今」

「緊急の連絡です。兗州内で反乱が起こりました!」

「まじかよ」程遠志は小さく声を漏らした。「そりゃな、休んでる暇はねえか」

 

 程遠志は店主に目を移す。すまねえな、と小さく謝り、食べかけの料理を下げる。

 

「それで、敵は誰だ。董卓の残党か? 黄巾の残党か?」

「どちらもです」

「はあ? なんだよ、黄巾、董卓の残党が同時に湧きやがったのか。そりゃ急がねえとな」

 

 急いで立ち上がる程遠志に、兵士は微妙な表情になる。程昱は真顔になった。

 

「ただの黄巾、董卓残党ではないのですかー?」

「はい」兵士は体中から汗を噴き出していた。「明らかに、統率が取れた動きを見せています」

「敵の正体は、把握できていますか?」

 

 程昱は鋭い瞳で兵士を見た。程遠志もそこで気がつく。何か嫌な予感が、彼の背筋を走った。

 兵士は小さく言い淀んだ。数秒が経過し、程遠志が明らかに焦れた頃、信じられぬ、という表情のまま兵士は口から言葉を吐き出した。

 

「張邈軍です。董卓の部下である華雄と、元黄巾党の裴元紹という男を連れ、この鄄城に向けて迫ってきています!」

 

 どういうことだ、と言わんばかりの表情。程昱も僅かに混乱した。張邈。曹操様の知己と聞いている。この状況で、何故反乱を起こしたというのだ?

 兵士と程昱がそんなことを考えている中、程遠志は別のことを考えていた。昔からの腐れ縁。黄巾の砦でその縁を確かに切った、と思っていた男。そんな馬鹿な、と小さく口を開く。

 

「―――裴元紹だと?」

 

 呆然と、その名が口から漏れた。脳内には、あの、狗鷲のような猜疑心の強い表情が浮かんでいる―――

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

張邈決戦編 第四話

 

 

 

 

 ―――張邈の、曹操への反乱。

 

 この出来事は、後世の人間たちを大いに困らせた。何故張邈がこの状況で曹操を裏切るのか。その真相を正確に理解できた人間はおらず、歴史家たちの分析も推測が多くなった。

 曹操は徐州攻略の前に張邈へ手紙を送っている。兗州にて反乱が起きた際には助力求む―――短文ではあったが、彼女らの懇ろな関係を明確に表している。張邈と曹操。そして、袁紹の関係は古くからの知己として知られており、曹操と袁紹が決裂することはあれど、張邈はそのどちらとも戦うことはない。そう、誰からも思われていたのだ。

 張邈の反乱を起こした理由として、曹操による徐州虐殺が挙げられることがある。結論から言えば、曹操軍による虐殺は存在した。「無辜の民衆が泗水に投げ込まれ、川はそのために流れなくなった」という記述もあるし、その蛮行に対して于禁が怒り、罪を責めかけたことも書かれている。

 

 しかし、それで解決とはいかない。張邈の行軍は明らかに速すぎた。

 曹操が徐州目掛けて進軍を開始して、三日。まだ徐州には到着していないうちに兵を挙げている。徐州虐殺に憤り、それで兵を挙げた、というのは時系列に合わない。張邈軍が反乱を起こしてから曹操軍が虐殺をしたのだ。他に張邈が兵を起こした理由が存在するはずだ、と後世の歴史家、司馬光は分析する。

 宋の歴史家である鄭樵はそれに対して、張邈が反乱を起こす前に董卓軍、黄巾賊残党の反乱が起きたことを主張した。曹操の頼みを聞き、それらの残党を討伐する最中、徐州の虐殺を知って変心したのではないか。そんな疑問を問いかけた。快活で義に熱く、誰からも好かれた張邈が理由もなく曹操を裏切ることはない。鄭樵は、そう判断したのである。後世の歴史家である彼女がそう強く思ったのだから、当の曹操は他にも及ばぬほどの衝撃を受けたに違いない。

 

 兎に角、張邈軍は、本来討伐されるはずだった黄巾、董卓軍と交わりさらに強大になった。その数はおおよそ三万。兗州の様々な城は、彼女の名声とその兵力を恐れ、降伏した。兗州に存在した七十の城のうち、およそ六十七の城は曹操を裏切って張邈に付いたのである。

 無理もない話である。曹操軍の本隊は徐州へ向けて出陣してしまっていた。残る主兵力は鄄城に居残る五、六千人のみ。五千と三万では、勝負にならない。誰しもがそう思った。思わぬものは残りの三城に居残った人間のみである。荀彧、程昱―――そして、程遠志。

 

 彼らが何故張邈軍へ頑強な抵抗を続けられたのか―――それもまた、後世の歴史家を悩ませた。

 

 

 

「どういうことですか!」

 

 張超は我を忘れて怒鳴った。目の前には姉がいる。不気味な表情を浮かべた彼女は、いつも以上に何を考えているかわからなかった。

 場には彼女たち二人だけではない。裴元紹もいる。彼もまた、張邈と同種の笑みを浮かべていた。

 

「華琳は、私の反乱を聞いてどう思うでしょうね」

「怒るに決まっています!」

「それは違うわ。彼女はまず一笑に付すでしょうね。その次に来た知らせで真顔になり、その次でようやく信じ、その次で怒る」

「結局変わらないじゃないですか」

「判断が遅れる、ということよ。陶謙から背後を突かれる危険性もあるし、すぐに退却する、と決めるわけにもいかない」

「つまりは、だ」裴元紹がにやにやと笑いながら口を挟んだ。「鄄城にいる程遠志の首は、確実に獲れるってことだよなあ」

 

 張超はあからさまに顔を顰めた。この、最近姉が雇い入れた黄巾上がりの男がどうにも気に入らない。この張邈軍の一将に相応しいとは思えないのだ。

 性格は下品で、粗野。常日頃元黄巾賊の程遠志という男に粘着的な行動を取り続け、「いずれ殺す」と口癖のように喚いているらしい。その執着は明らかに異常であり、張邈の圧倒的な信奉で成り立っているこの軍の中でも多少の疑問が出ている。何故、あの男が一軍の将をやっているのか―――と。

 姉は何かを裴元紹に見出している。張超にもそれは理解できた。明らかに妙な目のかけようをしている。ただし、どこが気に入ったのか皆目見当がつかなかった。「隠匿していた感情が面白かった、私と共通点があった」と張邈は語っていたが、どこにも面白い部分なんてないし、共通点も見当たらない。裴元紹のことを、ただの嫌な奴だとしか思えなかった。

 

「そうね。鄄城は完全に孤立した。他にも二城降伏していない城があるみたいだけれど―――そこは粗方無視してしまっても構わないわ。程昱と、荀彧。恐らく曹操軍の頭脳となるべき存在を討ち取れれば十分」

「程遠志と鄧茂は、捕まえたら俺にくれねえか。鄧茂の目の前であの男を殺してやらねえと、気が済まねえ」

「ふうん。好きにしていいわよ」

「ありがてえ」

 

 嫌らしい笑みを裴元紹はさらに深くした。その脳は既に捕えた程遠志を拷問にかけることや、鄧茂をどうやって辱めるかを考えることでいっぱいだった。張超はそれを見て本能的な嫌悪感を覚え、張邈はただただ笑うのみだった。

 

「……そもそも姉上、これでは世間の信望を得られませんよ」

「信望?」

「曹操は徐州を父が殺されたというある種正当な理由で攻め込んでいます。その隙を突き、領土を掠めとるなんて真似は信義に反しています」

「どうでもいいだろうが、そんなこと」裴元紹が口を挟む。「詰まらねえ奴だな」

「貴方は黙っていなさい!」

「非水」張邈は静かに妹を見る。「信望は、必ずしも得られないとは限らないわ」

「どういうことですか」

「華琳は―――いえ、曹操軍は、徐州で略奪と虐殺を行うわ。無辜なる一般人に」

 

 馬鹿な、と呟くように張超は言う。言ったではないか。曹操は自身の感情を隠匿する、と。ならば虐殺など起きるはずがない。

 

「曹操さまが錯乱すると?」

「華琳は何も命じないわ。命じるのは私よ」

「何を―――何を言って」

「既に紛れ込ませているわ。華琳の軍に、私に忠誠を誓った数十人の兵士を。彼らには闇夜に乗じて陣を抜け出し、怯える民衆を殺して、略奪して回るわ。陶謙軍に派遣した間者もそれに呼応して動き、触発されて二次的、三次的な被害も出るでしょうね」

 

 張邈は平然とした顔で言った。曹操軍の兵士に紛れ込ませていた? 馬鹿な、と張超には容易く否定できなかった。脳内によぎることがあった。反董卓連合の間に、張邈が曹操軍の使者の中に間者を紛れ込ませていたことを。自分の姉が他の勢力へ盛んに間者を送っている、という事実がある以上、あり得ない話ではない。

 そこで、張超はつい先日思ったことが再び脳内の蘇ってきた。張邈が今言った「陶謙軍に派遣した間者」という言葉とその妄想は絡み合い、一つの真実のようになって脳内に帰ってきた。つまり―――張邈が曹操の父親を殺したのではないか、ということである。疑惑ではなく、半ば確信した。そうだ。そうに違いない。

 ……それでも、尚、張超は動けない。自分の姉を止めることができない。

 

「まあ、とりあえず。鄄城を主で攻めるのは董卓の残党よ。私子飼いの兵士をそう簡単に消耗する必要はないわ」

「前線を、彼らに張らせると」

「ええ。この兗州を制圧し、戻ってきた華琳を打ち破れば、董卓の残党なんて目障りなお払い箱になる。その時に私の兵力と董卓軍残党の兵力差を上回っていれば上回っているだけいいの」

「しかし―――それでは姉上が董卓軍に恨みを持たれることになりますよ」

「あのね、非水」張邈は、そこでようやく表情を変えた。「恨まれるなんて、別にどうでもいいことなのよ」

 

 なんとも形容しがたい表情だった。今まで見たことのない顔である。張超は思わず戸惑い、次に浮かんだ感情は恐怖だった。怖い。怖い! 裴元紹もその豹変に気づき、慄いていた。どうして、急に姉は表情を豹変させたのだ? そう思った時には、既に張邈の顔は元に戻っている。

 何があったのだ、と張超と裴元紹は思う。

 張邈は、ただただいつものように能面じみた顔を維持するばかりだった。

 

 

 

 

 華雄は張邈のことが嫌いだった。彼女だけではない。董卓軍に所属している兵士たちの殆どは、張邈という女のことを憎み、嫌っている。残党の軍はおおよそ三千人。その中に、一人たりとも好意を持っている人間は存在しなかった。

 張超のように張邈に二面性のあることを知っているわけではない。快活で、誰からも愛され、世間から信望の高い女だ、ということは理解している。それでも、嫌いなのだ。

 何故か、と問われれば簡単である。

 

 

 ―――張邈は、密かに董卓の身柄を確保していた。

 

 

 ことの顛末は、汜水関の戦いの頃まで遡る。汜水関から出てきた呂布と、背後を突いた高順。連合軍は挟撃の危機に陥ったものの、先陣の奮闘によって何とか凌ぎ切った。

 そのような状況下の折、洛陽では大きな政変が起こっていたのである。董卓、賈詡に反乱すべく立ち上がった十常侍や王允、鄭泰。彼らは私兵を持って密かに董卓を襲い、これを捕獲した。その数日後、怒涛の如く帰ってきた董卓軍によって彼らは誅されることとなったが―――董卓は見つからなかった。

 董卓、賈詡を密かに確保していたのは、鄭泰の親友である何顒という気の小さな男だった。反董卓派を気取ってはいたものの、彼女のその幼い姿を見て、これを弑するのは不可能だと諦めた。かと言って、無罪放免と解き放つ勇気もなく、官軍に連れて行く非情さもなかった。

 悩んだ末、何顒は友人に董卓を引き渡すことにした。誰かに押し付けよう、と考えたのである。彼には二人の候補がいた。若い頃に私塾で親友として誼を結んだ袁紹か、その袁紹の友人である張邈か。袁紹に渡せば董卓はきっと殺されるだろう、と彼は考え、張邈に引き渡すことにした。してしまった。

 

 結果、董卓は張邈の手に落ち、何顒は殺された。董卓がどこにいるのか知られるわけにはいかない。そのような安い理由で虫のように殺された。張邈からすれば、それだけの男だった。

 

 

 華雄はそのような事情は知らない。理解しているのは、董卓が囚われの身にあるということだけだ。その下手人は張邈。それ故許せぬ―――という単純な思いを、董卓軍残党は皆共有していた。

 

「華雄っち」

 

 ふ、と呼ばれて華雄は右を見る。そこには張遼がいた。偃月刀を肩に背負い、猫のような表情を浮かべている。

 華雄は理解している。平然とした様子の彼女が誰よりも今の不自由を嫌い、苛立っていることを。張邈の傘下に収まっている現状へ激しく文句を言っていた張遼、高順の姿を彼女はよく覚えている。

 

「張邈に言われたぞ。鄄城を先陣で攻めろ、だそうだ」

「けったくそ悪い話やな。結局、ウチらを捨て石にする意図がミエミエや」

「月様が囚われている現状、従う他ないだろう」

「……まあ、せやな。仕方ない」

 

 張遼は口惜しげに舌打ちした。

 

「なあ」華雄は小さく囁くように言う。「私たちは、これでいいのか?」

「あと少しの辛抱や。月と詠が自由になれば、こんなとこからさっさとおさらばできる」

「どうやって自由にするんだ」

「それは、あの男に任せや」

「高順、か」

「せや。あいつにすべて託した」

「信頼できるのか」華雄は、目に疑惑を込めて言う。「私はあの男のことをよく知らん」

「自信家で、気障な男やけど―――実力は確かや。張邈の隙を突くんなら、全力で曹操を攻めてる今しかないんや」

 

 張遼の目は遠くを見ていた。陳留国。そこで牢に入れられているであろう董卓。彼女を高順が助ける姿―――それを幻視していた。

 

「仮に、高順が月様を助けられたとして。その知らせが来る頃には、張邈も逃げられたことを察するだろう。そうなれば私たちはここで誅されるのではないか」

「鄄城が落ちる前やないと、キツイな。いくらウチと華雄っちでも独力で張邈軍には勝てん」

「ならば、私たちは城攻めを怠けた方がいいのか」

「いいや」張遼は静かに首を横に振る。「月をウチらが奪還する狙いを気取られるかもしれん。城攻めは、普段通り行うしかないんや」

「馬鹿な。このまま普通に攻めれば、鄄城などそう長く持ちこたえられるはずもない」

 

 華雄はそう言い、張遼を見る。

 張遼は何かを考えているようだった。彼女の脳内に一つの言葉が蘇る。汜水関決戦の折、高順と笑いながら話した言葉である。「生き残るよ。オレとお前なら」彼の自信ありげな言葉が彼女の勇気を後押しした。

 

「……様子を見て、ウチは曹操軍に寝返るかもな」

「はあ?」華雄は目を見開いた。「どういうことだ!」

「あくまで、秘密裏にや。表立ってやない。最悪バレたら嫌気がさして出ていったとでも言ってくれや。そうでもしないと、曹操軍が持ちこたえられるかわからん」

「私たちと殺し合うというのか?」

「せやな。月を守るためや。恨まれても構わん。他に代案でもあるか?」

「……いや、ない。だが―――下手をすれば、お前も死ぬぞ」

「は」張遼はそこで、ようやく笑った。「格好つけて死ねるんなら、大満足や」

 

 

 

 ―――これから、一日後。

 張邈の裏切りから始まった、音に聞く「鄄城の戦い」が、幕を開ける。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

張邈決戦編 第五話

 

 

 

 

 鄄城に程昱、程遠志が戻ると、既に荀彧が焦った顔で全体に命令を出していた。

 籠城の準備をせねばならぬ。彼女は一人奔走し、程昱や程遠志に「遅すぎる」と罵声を取ばした。この緊急時にもいつも通りだな、と程遠志は少し考えつつも、いや違うかと思い直す。そもそも、程昱と自分を同じように叱り飛ばしている時点で平時の荀彧とは様子が変わっているのだ。男に対してまともな苦言を呈すだけ、彼女は余計な物事に目がいかなくなっている。

 

「どうしましょうねー」

「籠城するのは決定事項ね。伝令は既に送ったし、華琳さまが来るまで耐えきる以外の勝利はないわ」

「何日かかると思います?」

「……早くて、十日。遅ければ一か月程度。徐州で完璧に軍を纏められていれば、それほどの時間はかからないと思うけど」

「つまり、だ」程遠志は口を挟む。「徐州で軍の混乱なんてことがあれば、その分援軍が遅れるってことか」

 

 荀彧は小さく程遠志の方を見る。嫌悪感に満ち溢れた表情。ようやく、そこで男と自分は話している自覚が湧いてきたらしい。しかし、この状況で余計な罵倒など飛ばしている暇はない。吐きそうな気持ちを彼女は何とか抑えて、「……ええそうよ」と言葉を返した。

 程遠志は小さく鄧茂がいればよかったな、と思った。彼が女と誤解されていることだけが、今の荀彧と互いに不満なくコミュニケーションを取れる唯一の手段だった。鄧茂や張曼成、厳政とはまだ出会えていない。この城の中にいるはずなのだが、どこにいるのだろう。

 

「風」荀彧は小さく、喘ぐように言った。「何か、策は思いつく?」

「あるとすれば、河川の渡しを破壊し、張邈の行軍速度を落とすことですかねー」

「……時間は、稼げて数日でしょうね」

「十分とは言い難い時間ですが、ないよりはましかと」

 

 程昱、荀彧の表情には、焦りが浮かんでいる。具体的な策、というのはこの籠城戦において提示し難いものであった。考えねばならぬことが多くある。張邈がここにきて反旗を翻した理由がわかれば、説得することが可能やもしれない。それに、説得が失敗しても付けこんで離間の計を狙えるかもしれない。

 だが、わからない。張邈の裏切りも、何故黄巾と董卓軍残党が仲間になっているのかも―――そして、それを探る人夫も足りない。

 多くのことが不足していた。

 考えねばならぬことは、それに反比例するように山積みになっている。

 

「……すぐさま、鄄城周りの河川の渡しを破壊するよう兵を向かわせるわ」

「桂花ちゃんは、他に何かいい策を考えていますかー?」

「董卓軍か黄巾賊。どちらかにこちらへ内通する武将がいないか。その確認をしたいわね」

「……厳しいと思いますよ」

「わかっているわ。でも、やるしかない」

 

 荀彧は程昱からゆっくりと視線を外した。その先は程遠志。顔を嫌そうにしながらも、問いかけなければならないことがあった。

 

「あんた、黄巾党に知り合いはいる?」

「いる。敵の将軍の一人、裴元紹とは腐れ縁だ」

「―――その男を、裏切らせることとかって」

「不可能だな。あいつは俺を恨み切っている。この城が狙われた遠因も、俺の所為かもしれねえ」

 

 すまねえな、と程遠志は軽く侘びる。

 荀彧は顔色も変えなかった。彼女からの罵声を待っていた彼には意外なことだった。「使えない」「これだから男は」と怒涛のように罵倒される予感があった。

 荀彧は長い溜息を吐きながらも、程遠志を真っ直ぐに見つめた。

 

「……十分よ。敵の中枢に位置する人間があんたを恨んでる、っていうのは、まったく使えない情報じゃない」

「へえ」程遠志は心のままを口にした。「俺を責めないのか」

「もっと余裕を持てる状況なら、あんたを心の済むまで罵倒したわよ」

 

 荀彧は頭を自分の指先で何度も叩いた。状況は切迫しており、彼女はそちらへ頭脳をすべて回すため私怨や嫌悪に使う力を何とか抑制しようと努めているらしい。普段からそうしてくれればもっといいのによ、と程遠志は軽口を叩こうとして、自重した。荀彧が、程遠志の方を見ていたのである。 

 

「でも」荀彧は一つ、小言を言うように呟いた。「これからで、いいけど」

「なんだよ」

「私と話すときは、鄧茂を介すようにして。このまま自制を続けていると戦いの前に憤死するわ」

 

 その荀彧の瞳は―――今までの、懐かしい悪感情が多量に含まれたものだった。平時の彼女の表情と同じだ。何故かその視線を受けて、程遠志は何故か苦笑を隠しきれなかった。この猫耳は、いつもこんな顔を浮かべているのが普通だったよな、なんて今更になって思う。「俺もその方がいいと思うぜ」と程遠志はその表情のまま、返した。

 

 

 

 

 敵の行軍速度が殆ど落ちぬまま、鄄城に向かってきている。

 そんな知らせが届いていた。半日ほど前に、河川の渡しを破壊したのに、である。程昱と荀彧はそれを受けても尚、冷静だった。

 

「風、どんな手を使ったと思う?」

「予備の渡しを即座に作ったか、それ以外の方法か―――いろいろと候補はありますが、このままでは思ったような時間は稼げないですねー」

「そうね―――あと、どれくらいで張邈は来るかしら」

「もう来るはずです。数日どころか、半日しか時間は稼げませんでしたねー」

「おいおい」程遠志は頬から汗を流した。「大丈夫なのかよ。このままだとまずいんじゃねえの」

「あんたは黙ってて」

 

 荀彧は程遠志の方を見ようともせずぴしゃりと言った。程遠志は不機嫌になることもなく、ああそうだった、と思い隣を見る。半日前。昼の段階ではいなかった鄧茂が、そこにはいる。

 程遠志は軽く肩をすくめてみせる。鄧茂はその意を得た、とばかりにオウム返しで言った。

 

「このままじゃ、まずいんじゃないの?」

「問題ないわ。鄄城に籠れば、これだけの兵力でも一月は持たせる自信がある。半日で、完璧な籠城の用意は全て整えてあるもの」

 

 荀彧は鄧茂の方を見て二度三度頷いた。タメ口を許される程度にはこいつら仲いいんだな、と程遠志は小さく驚き、その性別を猫耳軍師に伝えてやろうか―――なんて夢想したが、流石に自重する。

 荀彧は程遠志がそんなことを考えているとも知らず、胸を張って得意げにしていた。半日前、程昱と程遠志、鄧茂や張曼成、厳政は外に出ていていた。張邈の反乱を知り、総指揮を取って籠城の準備を完成させた彼女の手腕は称賛されるべきものだろう。そう自負していたし、誰もがそう思っていた。

 

「僕たちにできることはない?」

「あんたたちは、兵士の士気向上に努めてくれればいいわ。恐らく、私や風がやるよりも効果が出るでしょうしね」

「だってさ、程遠志」

「それはわかったが―――そもそも張曼成と厳政は今どこにいるんだ?」

「市民の避難を進めてる。その中でも戦えそうな人は民兵として組み込むって」

「へえ。一万弱くらいにはなるか」

「いいえ」荀彧が、鄧茂の方を向いて言った。「多くても八千程度になるわね。直接ぶつかるには、全然足りていないわ」

 

 籠城しかない、と荀彧は続ける。後詰が確実に来ると断言できる以上、無為に野戦を仕掛けるべきではない。程昱もそれに賛成だった。

 

 城の中を、何者かが走ってくるような音がした。荀彧と程昱は小さくそちらを見て、すぐに察する。来たのだ。張邈軍が。そのことを伝えに、外にいた兵士が駆けてきたのだろう。

 問題などどこにもない。荀彧と、程昱は確信している。半日前に焦り、慌てて準備をしたことが功を奏した。河川の渡しを破壊できるから、と悠長に時間を浪費していれば、ここまでの余裕とゆとりは持てなかったに違いない。

 

 軍師二人が泰然としているのに対して、程遠志と鄧茂は頬から汗を流していた。

 程遠志は嫌な予感がしていた。ただそれだけ。いつもの前触れにも似た―――曹操軍に加入してから頻度が急増したように思える、この感じ。流れ。嫌な流れだった。

 程遠志が汗を流しているのを見て、鄧茂もまた嫌な予感がした。単なる同調行動ではない。彼は理解している。程遠志という人間と誰よりも長くいたから。彼の信奉する「流れ」が冗談や嘘の類でなく、今から何か曹操軍にとって不利益なことが起こるのではないかと危機感を抱いた。

 

「し、失礼します! 火急の用にて!」

「張邈軍が来たのでしょう。わかってるわよ」

「はい、ですが……」

 

 ですが? と荀彧は眉を顰める。程昱もまた、小さく首を傾げた。

 程遠志と鄧茂は、さらに不安になる。

 

「と―――とにかく、下を」

「下?」荀彧は伝令を睨みつけ、城から下を見た。「なにを―――」

 

 固く閉じられた門の向こうに、まだ遠くではあるが張邈軍が見えた。まだ理解できることである。目下に入るほどまで近づかれているとは思わなかったが、変なことではない。

 違和感があるとすれば、張邈軍の先頭に―――謎の縛られている男がいた。磔のようなものに繋がれ、運ばれている。なんだ、あれは。荀彧は理解できず言葉に詰まり、後ろからひょっこり首を出した程昱もまたわからない。程遠志も、同じである。

 気がついたのは鄧茂だけだった。「あ、あれ」目を大きく開け、声を震わせて言う。「徐州攻めに行ったはずの、兵士だ」

 

「はあ!? どういうことよ!」

「張邈軍に裏切ったってことか!?」

「いやー」程昱は冷静に、程遠志の言葉を否定する。「状態から見て、何か事情がありそうですね」

「そ、それが、まだここまでは声が届かないのですが、先ほどからあの兵士が何か叫んでいまして」

 

 何を、とばかりに程昱が眠そうな瞳を真剣にして見る。荀彧もまた、伝令を見る目が鋭くなった。

 伝令は二人の軍師に鋭い瞳を向けられ、明らかに動揺した。言うべきか、言わぬべきか。迷っているようでもあった。しかし、何を悠長な時間を、と荀彧が目に見えて苛立ったのを察して、慌てて口を開いた。

 

「じ、実は」伝令は、身体を震わせながら言う。「曹操さまが、徐州にて虐殺を行った故、逃げてきたと」

「馬鹿な。戯言よ。あんたはそれを信じてるの―――これだから男は愚昧なのよ」

「私もそう思います、しかし」

「なにか」程昱は目を素早く動かした。「信じなければならないようなことが、他に?」

「はい―――その。徐州攻めに配属されたはずの者は、あの男だけではないのです。張邈軍の各場所に数十人、同じように拘束されたまま、徐州の虐殺について叫んでいます!」

 

 しん、と場が静まった。

 あり得ないことだった。三日、四日前に徐州へ向かったはずの者が、どうしてここに戻ってきている?

 それに、もし仮にあの者が正しいことを述べているのだとすれば―――曹操は徐州に到着するや否や即座に虐殺を敢行したことになる。あの恐ろしく冷静で、怒りを隠していた彼女が? 曹操を激烈に信奉している、荀彧以外の人間は、微かにその可能性を探った。探りつつも、あり得ないと思った。

 

 

「少なくとも、これじゃ」程遠志は呆然と言う。「徐州で何か一悶着あったとしか思えねえ」

「一悶着あったら」鄧茂も続けて言う。「曹操さまの徐州からの援軍は遅れることになる、よね」

 

 

 一か月は持つ、と豪語した荀彧。しかし、そもそも一月以内に曹操は帰ってこられるのか?

 そして、逃げてきた男たちが叫ぶ「徐州虐殺」という言葉を聞いて、この城に籠る人間は士気を保てるのか?

 

 程遠志と鄧茂には判断できなかったが、荀彧の頬から僅かに汗が零れたのは、見えた。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

張邈決戦編 第六話

 

 

「まずいな」

 

 荀彧、程昱と別れ、程遠志と鄧茂はいつもの面子で集まった。即ち、張曼成と厳政を含めた四人である。

 張曼成は静かに呟いた。その声色は、悲壮感や焦燥が僅かに混ざっていた。平時では何事も落ち着き払って行動することを務めているこの男も、いつも通りとはいかなくなっていた。

 

「このままじゃ、この城が落ちるってことか」

「それもあるが、このまま時が流れれば、恐らくお前は殺されるか幽閉されることになる」

「はあ?」程遠志は目を瞬かせた。「どういうことだよ」

「あの号令を聞いて、逃げだすものは確実に表れる。元曹操軍の兵士を、あれほどどうやって集めたのかはわからぬが、兵士たちには動揺が広がるだろう」

「それで、どうして俺が殺されることにつながるんだ」

「兵士たちの逃走は、そこまでの問題でない。しかし、それが将軍の裏切りとなったら話は別だ。恐らく、その兵士の逃亡が続けば、お前が寝返ることを警戒されるようになる」

「荀彧や、程昱がか。寝返る気なんてさらさらねえぞ。向こうに言ったら裴元紹に殺されるっての」

「彼女らは、恐らく二番目に合理的な方策を取るだろう。この状況で最も合理的な手は、降ることだ。程昱―――そして、何より荀彧は、曹操さまに絶大な忠誠心を持っている。その手は使えない」

「つまり、その二番目ってのが」

「お前を含めた、俺たちを先に反乱分子として処罰することだ」

 

 張曼成は、程遠志を真っ直ぐ見つめた。どうするのだ、と問いかけるようだった。

 

「俺たちを殺して、それで城を持たせれるのかよ」

「俺でも十日は持たせられる。共通の敵を作ることは、城内の人間を一時的に麻痺させ、同調圧力を持たせることができるだろう。俺でそこまでできるのだから、彼女たちならば二十日は持たせられるはずだ」

「それならよ、俺たちが協力すればもっと持ちこたえられるんじゃねえのかよ」

「そう変わらないさ。俺たちがいて疑心暗鬼に包まれているのと、俺たちがいなくなって歪んだ信頼関係が生まれるのでは、大して変わらない。恐らく、この城はどちらにしても二十日程度で落ちる―――だから、荀彧はより合理的な判断をするはずだ。俺たちが本当に裏切るか、裏切らないか。それがわからない現状、いなくなっても戦力が変わらないのならば、斬り捨てるに違いない」

 

 あと二日、三日としてからだろう。荀彧が動くのは。そう、張曼成は続けた。

 程遠志は小さく悔やんだ。程昱はともかく、荀彧。彼女とは満足のいく信頼関係を結べていない。夏侯惇、夏侯淵がこの場にいれば、と意味のない後悔が頭の中に浮かんできた。今から話しかけに行くか―――と、一瞬強引な考えが浮かんだが、首を振る。それこそ、変だ。怪しまれる。

 

「そもそも」厳政は小さく手を挙げた。「二十日間で曹操さまが来るとも限りませんよね」

「曹操さまを裏切ることができない、というのが彼女たちの弱点だろう。もしかすれば、俺の見立てとは違って何か秘策があるのかもしれないが、どちらにしてもこの城は二十数日しか持たないはずだ」

「ならよ、張曼成。お前はどうしたらいいと思う?」

「簡単なことだ。俺たちが、最も合理的な手を取ればいい」

「はあ?」

「この城を抜け出すのならば今だぞ、程遠志」

 

 程遠志は張曼成をまじまじと見つめた。何を言ってやがるんだ、と殴りかかるような、そんな勢いだった。

 張曼成は揺らがない。彼は自分のために言っているのではない。全員―――すなわち、この四人が、確実に生き残ることを重視している。曹操軍、という括りではない。

 

「裴元紹に殺されるだろ」

「降るわけじゃない。逃げだすんだ。すべてを捨てて。張邈は、逃げだす兵士を決して殺すことはないだろう。他の兵士の逃亡を助長させるために、放置するに決まってる」

「その中に紛れ込むってのか」

「不可能ではない。寧ろ、この包囲がまだ完了していない今ならば、成功する確率の方が遥かに高い」

 

 張曼成と程遠志は数秒の間、睨み合った。どちらもが一度は逸らし、再び目を合わせ、また逸らした。

 その交錯は、まるで永遠に続くかのようだった。

 

 

 

 

「程遠志を殺すべきかしら」

 

 荀彧は小さく呟いた。張曼成は彼女が兵士たちの脱走が始まる二日、三日から動く、と考えていたが、それは大きな見誤りであった。彼女の利発さと、苛烈さ。そして、曹操への忠誠心は旧くからの付き合いである夏侯姉妹に及ぶほどであった。

 彼女の隣には程昱がいる。眠そうな瞳で、頭には不思議な人形が乗っていたが、その目は笑っていない。

 

「程遠志さんたちを殺して、城を保てますかねー」

「兵士は多少混乱することになるでしょうね。程遠志を慕っている者もいるようだし」

「それでも、大丈夫だと?」

「慕っている者もいれば、慕っていない者もいる。それだけの話よ。私のように男を毛嫌いする兵士もいるし、賊上がりは決して認めないなんて凝り固まった兵士もいる。そちらを扇動し、多数派にすれば同調圧力を全体に浸透させることはできる」

「彼らを殺しても、二十日か、もう少ししか持たないかとー。徐州で何が起こっているかはわかりませんが、華琳さまがこちらへ戻ってくるには、混乱する大軍を鎮め、劉備や関羽、張飛―――それと趙子龍がいる陶謙軍を煙に巻く必要がありますし」

 

 程昱は言外に難しい、と言った。勿論そのことは、荀彧も理解している。理解して尚、である。

 

「二十日では、厳しいと思う?」

「三分七分かと」

「的確ね。私も、その程度の確率だと思うわ―――それでも、それ以外の方法ではもっと稼げる時間は少なくなる」

 

 三分七分に賭けることが、最も勝率が高いのではないか。

 即ち、程遠志らをすべて始末してしまい、彼らに悪事を背負わせることが。

 

「――――――風は、少し様子を見たいですね」

「まだ、程遠志らを殺すべきではない、と? 程遠志らをこのまま放置しておけば、逃げだす可能性があるわ。逃げだされるのと、殺すのではわけが違う。粛清した、という言い訳ができなくなれば、兵士たちを同調圧力で包むこともできなくなる」

「ええ、それでもー」

「理由を聞いてもいいかしら」

「趙子龍―――星ちゃんに、聞いたことが、気になるんです」

 

 程昱は趙雲が言っていたことを思い出していた。「程遠志という不思議な男がいた」そんな一言が、どうしても気になってしまう。「流れ」というものを信じているわけではなく、ただ、気になる。こんな簡単に殺していいのか? と自分の中で、踏ん切りのようなものがつけられなかった。

 程遠志という男に、興味を持っていた。趙雲は騙されている。郭嘉のそんな意見に、程昱は賛成でも反対でもなかった。流れを信じてはいないが、趙雲はそこいらの輩に騙されるような女ではない。ならば、何か他の要因があるはずだ。それを見つけるまでは彼に対しての観察を止めたくなかった。

 

「それだけで、程遠志を見逃すと?」

「逆に」程昱は、小首を傾げて荀彧を見た。「桂花ちゃんは、程遠志さんのことを何か知らないんですかー?」

 

 荀彧は少しの間、黙り込んだ。知らないわけではない。曹操軍の中で、戦場で最初に程遠志という男に会ったのは、荀彧と夏侯淵だ。その時のことを、暫しの間回想した。

 軍を摺り抜けられ、本陣を奇襲された時のことである。思い返すだけで憤怒の感情が浮かんでくる。男にいいようにされた、というだけで荀彧には屈辱だった。許せないことであった。当時は少し、思い悩みもした。あのような男の奇襲を許すとは、どこかに自分の怠慢があったのではないか。そんなことも考えたが、当時の自分に落ち度は見受けられなかった。

 

「私は、一度。程遠志に負けたことがあるわ」

「というと」

「言い訳になるけれど、あの時の程遠志は神憑っていたように感じたわ」

「神、がかる?」

 

 程昱は少し、困惑したようだった。抽象的な言葉だった。またか、とも思う。程遠志という人間について尋ねると、どの人間もあやふやで、曖昧な答えになる。趙雲も、荀彧も。夏侯淵や夏侯惇だって。程昱は様々な人間に程遠志という男のことを尋ねたが、結局、満足な回答は得られなかった。

 言葉では表すことができない人間だ、ということなのだろうか。いまいち納得はできない。

 

「風、あんたが弱兵を二百人を率いて、私が率いる五、六千の兵と戦う状況になったら、どうする?」

「逃げますねー」程昱は小さく笑った。「勝てないです、それじゃ」

「そこで、勝ちではないけど引き分けに持ち込んだのが程遠志よ」

「どうやって、ですか」

「奇襲をしたのよ。本陣だけを狙って」

「本陣に辿り着くまで、他の兵士たちがいるでしょう」

「誰一人として、気づかなかったわ」

「どうして? その日の天候か、兵の不調でも?」

「どちらもない。ただ、廻り合わせが悪かっただけ、としか言えないわ」

 

 不愛想に荀彧は言った。程昱はそれを聞き、背に寒気にも似たものが走った。

 自分が兵士を指揮し、完璧を為したとして。廻り合わせなどという抽象的なもので負けたとしたら。偶然兵士が敵を見つけられず、無防備な本陣を陥られるとすれば。どうしようもない。程昱は思わず、「それが、流れ?」と声に出していた。荀彧はその言葉を聞き、顔を顰める。「流れ」などというものを、認めたくはない。軍師として当然の表情だった。その表情を固くしたまま―――あるいは、もっと険しくして、再び口を開く。

 

「流れというものは」荀彧は苦々しく言う。「あの野蛮な男に限れば、あるのかもしれない」

 

 信じられない言葉だった。程昱は少し驚く。それを言えた、ということに心底敬服した。

 軍師にしか分からない感情だろう。流れだの、運だの、勘だの。それですべて上手くいくなど、そう簡単に受け入れられるものではない。程遠志もそうだし、噂に聞く孫策もそうだ。軍師という職業の存在に関わるのではないか。そんな、一種の蕁麻疹のような発作が胸から沸いてくるのだ。

 

「だから―――それでも、程遠志さんを殺した方がいいと?」

「程遠志が逃げれば、終わりなのよ。流れが何にしろ、それは変わらない事実でしょ」

「仮に、あくまで、仮にですが」程昱は何度も前置きをした。「流れが存在するとすれば、それを生かしてこの状況を逆転できるとは?」

「程遠志の起こす流れがどのようなものかなんて誰にも理解できないわ。すべてがあの野蛮人の上手くいったとして、それが張邈への降伏に繋がる流れかもしれないし、私たちが死ぬ代わりに程遠志たちが生き残るだけかもしれない。我が軍全体の利益になる、とは、必ずしも言い切れないのよ」

 

 荀彧は、言葉言葉で詰まったり、唇を噛んだりしていた。「流れ」を彼女自身すべて受け入れたわけではない。仮に存在するとして、その仮定が存在したとして、尚、合理的な判断を下そうとしている。曹操のため、滅私奉公の精神で。

 程昱がまず感じたのは、小さな不満だった。流れなどは存在しない。そう言い切りたかった。しかし、その胸から沸いてきた不満を、彼女は易々と抑え込んだ。それよりも気になることがあった。

 荀彧がここまで「流れ」を受け入れようとしている。すべてを曹操に捧げた彼女が、男は死ねと公言して憚らない彼女が、である。夏侯惇や、夏侯淵や、趙雲。武に生きたものだけではない。曹操軍の知を司る彼女が、男であるという偏見に耐え忍びながら認めたのだ。ある意味、誰よりも信用が置ける。程昱は程遠志に対する関心がさらに増した。ここで死なせてはならぬ、と胸にどこかにある感情が声を上げた。

 

「ではー」程昱は、その感情を抑えて言う。「一度、程遠志さんに対する監視を大々的に行えば?」

「そんなことをすれば、あの野蛮人だって警戒するでしょ」

「多少怪しまれたとしても、あからさまな監視を行えば逃げだすことはできなくなるでしょう」

「……殺してしまえば、そんな無駄は省けるけれど」

「まだ早計である、と愚考しますがー?」

 

 程昱と荀彧は、そこで見つめ合った。数秒、数十秒と経過する。

 最初に目を離したのは、荀彧だった。程昱の瞳にはある種の必死さが見えた。気圧された、と言ってもいい。

 

「……わかったわ。確かに、今すぐ殺す必要はないかもね」

「ありがとうございます」

「でも、あまり長引かせると兵士たちが疑心暗鬼になるわ。誰かを生贄にするか、何か他の手でも見つけなければ、二十日どころか十日も持たなくなる」

「それは、その通りですねー」

 

 程昱は素直に頷いた。程遠志を早く殺す、という荀彧の判断は、二十日城を持たせるという観点からすれば何一つ間違ってはいない。事実、遅れれば遅れるほど兵士の掌握が難しくなるだろう。

 お互いに、そこで黙り込んだ。話すことはもうない。外から鬨の声がした。張邈軍が仮初の包囲を半ば完成させたらしい。

 

 ―――ここから、戦いが始まる。

 

 荀彧と程昱は、額から汗を流した。恐怖や困惑ではない。

 このどこへ向かうかわからぬ戦場の状況に、極度の集中と緊張から汗が噴き出したのである。

 

 

 

 

 

 

 ――――――鬨の声が、外から漏れた、その時。

 

 程遠志と厳政は不細工な表情で手を挙げていた。鄧茂と張曼成は、手を挙げていない。

 

「ぼくは」厳政が口を歪めて言う。「張宝さまたちを置いて、この城からは出られません」

「俺はよ」程遠志は苦み走った顔で言う。「曹操さまを信じてやりたいってのが本音だな」

「僕は」鄧茂は涙ぐみながら言う。「この城で程遠志が殺されるのだとしたら、耐えられない」

「俺は」張曼成は汗を流して言う。「この四人が生き残るには、逃げだすのが一番いいと思う」

 

 

 綺麗に分かれていた。二対二。多数決が、叶わなかった。

 喧嘩になったわけではない。ただ、この四人それぞれに譲れぬものがあった。誰が間違っているわけでも、正しいわけでもなかった。

 

 どうすりゃいいんだ、と誰かが言った。

 この四人の総意でも、あった。

 

 

 

 

 




最近恋姫の作品で面白いの増えてきてない……?
めっちゃうれしい(*'▽')





目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

張邈決戦編 第七話

 

 

 張邈軍の攻撃が、始まった。程遠志も、鄧茂も、張曼成や厳政も、考えることを一時的に中断することを止む無く受け入れた。そしてそれは、荀彧と程昱も同じである。程昱の策から程遠志に対してあからさまな監視をつけることは決まったものの、そちらに集中するあまり、この城が落とされては何の意味もない。

 すべての籠城準備は荀彧が済ませている。各部署の持ち場から、兵士の配置まで。それは恐ろしいほどの正確さ、精密さが含まれた的確な采配だったが―――その的確さにも、影が見えていた。張邈軍の元にいる、かつて曹操軍の兵士だった人間たち。その中のすべてが見知った者であるというわけではない。知らぬ人間もいる。ただ、元曹操軍の者が張邈の元へ住処を変え、曹操の虐殺を声高らかに叫び、流布するその姿は兵卒たちの胸を打った。

 

 結果、兵卒たちが十全の力が発揮できることは殆どなかった。

 

 荀彧と程昱は、最も籠城の最難関であり、激戦区である正門を請け負った。普段後方で軍師の仕事を為す彼女らが戦場に足を踏み入れたことは、兵卒たちの士気を上げたが―――それで、やっと本来と同程度。十全の力を発揮できたのはこの正門にいる部隊のみだった。

 程遠志ら四人は、俾倪と門楼をせわしなく駆け回り、張邈軍に矢の雨を降らせた。それによってある程度までの侵入は防げたが、そこまでである。最初の一日目から、難攻不落であるはずの鄄城に、敵兵士が乗り込みかける様子がちらほら見受けられた。

 そこまで追い込まれて尚、この鄄城に陽が落ちた現在まで敵兵士が一人たりとも侵入することが能わなかったのは、荀彧や程昱の正確な采配や、程遠志たちの奮戦。それに敵前線で揺れる「董」の旗以外の軍が緩慢な動きを見せていたことに他ならない。張邈はそこで妙な潔さを見せるように全軍を一里程退かせ、休養を取らせた。その余裕を見せることが相手の士気を落とす切欠になると考えたのかもしれないし、実際問題曹操軍の兵士の戦意は少しずつ喪失していったこともまた、事実である。

 

 

 

 程遠志たちは鄄城の中の一室に集まっていた。一日が終わった。張曼成の言葉が確かならば、この城の寿命は後二十日を切ったことになる。だが、果たして二十日も持つのだろうか。そんな弱気が、鄧茂や厳政の胸の内に溢れ出てきていた。

 

「張曼成、状況をどう思う」

「まずいな。兵士の士気がいまいち上がり切らない。厳政に演説させれば、一定の向上は見込めるが、それでも付け焼刃程度だ」

「すみません」厳政は頭を小さく下げた。「もう少し、上手くできればと思うんですが」

「お前よりうまく喋れる奴はこの城にいねえっつーの」

 

 程遠志は彼特有の乱暴な言い回しで褒めたが、厳政の顔は浮かないままである。その程遠志の言葉に反駁しようとしているのか、していないのか。結局何を言うこともなく、口をもごもごとさせて押し黙った。

 張曼成はそんな厳政を見て、やがて程遠志に目を移した。

 

「そろそろ、決断の時が近づいてきたぞ、程遠志」

「……なんのことだ、なんてすっとぼけるわけにはいかねえようだな」

「勿論だ―――この城から、早く抜け出すべきだ」

 

 ぼそり、と張曼成は呟くように言った。一室を貸し切り、誰も他の人間を入れていない。それでも、扉一枚挟んだ向こうには隠れてこちらを窺う兵士がいることは、この場の誰にも理解できていた。それを使わせたものが荀彧や程昱だとも、わかる。

 程遠志は苦い顔になった。それでも張曼成から目は離さない。

 

「どうしても、か」

「今日で理解できただろう。この城は、このままいけば二十日どころか十日持つか、持たないか。そして、それは荀彧や程昱も理解できたはずだ。彼女らが何故俺たちへあからさまな偵察をつけるだけ、なんていう中途半端な温いことをしているかは理解できないが―――今日が、分水嶺だぞ。良くて明日の夜。悪ければ明日の朝一番に、俺たちの首は野晒しになる」

「そんなことを、あの猫耳が本当にやるのかよ」

「この城が落ちれば、兗州における拠点はすべて消えたも同然だ。どれだけの大軍を率いているとしても、補給路が消えた状態では、曹操さまですら厳しい戦いになる。荀彧は、それは許せないのだろう」

 

 程遠志らを無断で処分すれば、必ず問題になる。二十日間兵士たちを盲目にさせ、騙くらかすことができたとしても、必ず最終的には露見する。それを曹操がどう決めるか。緊急時の判断だから仕方ない、と許すか。夏侯惇も、夏侯淵も。厳罰に処すべきだと発するはずだ。

 どういう判断をするのかは曹操にしか分からない。だが、仮に殺されるとしても、荀彧はそれを受け入れているのだろう。だからこその滅私奉公なのだろう、と張曼成は言った。自らが死に、曹操だけが生き残る。程遠志を悪人に仕立て上げた後は自分が悪人になればいい。

 

「馬鹿馬鹿しい」程遠志は、小さく吐き捨てる。「そんなの認められるかよ」

「だから、逃げるべきだというのだ―――そうだろう、鄧茂」

「うん。今ならまだ、間に合うかも」

「間に合わせる」張曼成は言い切った。「俺が、間に合わせてみせる」

 

 彼の額にも汗が噴出していた。鄄城から逃げる、というのも簡単なことではない。見張りを躱す必要がある。それでも、張曼成は脂汗を掻きながら言い切った。

 

「他の手も考えるべきだ。厳政、お前もそう思うだろ?」

「ええ」厳政は、何かを覚悟したような表情になった。「他の手だって、ぼくにもまだあります」

「だよな―――で、どんな手だ」

「ぼくが囮になります」

 

 場がしん、と静まった。外の人間に気取られる恐れからではない。驚愕、唖然、憤怒、悲嘆。様々な感情がごちゃ混ぜになった沈黙だった。

 

「たぶん、あの兵士たちはぼくたち四人を見張れ、という言付けを受けているはずです。雰囲気からして、外の兵士たち以外はぼくたちへの警戒心なんてもってないでしょう」

「……だから?」

「ぼくがここに一人で残るので、程遠志さんたちは逃げてください―――できれば、張宝さまたちも連れて。中に一人ぼくがいて、話してるふりでもすれば多少は誤魔化せるはずです」

「いつまでも気づかれねえわけがねえだろうが」

「気づかれたら、ぼくが死ぬだけです」

「馬鹿が」程遠志は口汚く怒鳴る。「意味がねえだろ、それじゃ!」

 

 すぐさま張曼成は目配せをした。声を大きくするな。

 程遠志は「わかってるよ」と言いながらも、続ける。「俺たちは、俺たちだろうが。誰も欠けるわけにはいかねえんだよ。そうだろ?」

「それは、そうだな」と張曼成も言う。鄧茂も頷いた。この一点に関してだけ言えば、長い付き合いの張曼成も、さらにそれより長い付き合いの鄧茂も、呼吸と同然のようにわかっている。必要だから斬り捨てるとか、諦めるだとかの、淡泊さや非情さなどいらない。程遠志の言う友人とはそういうものなのだ、と理解している。

 

「早々に、決断するべきだ。何をするにしても今のままここで黙りこくっていては死ぬしかない」

「そうだな、張曼成。何度も聞くが、お前はこの城から抜け出すべきだってんだな」

「ああ。それが最良だ」

「だったらよ、厳政は死ぬことになるぜ」

「なに」張曼成は目を瞬かせる。「どういうことだ」

「さっきの言葉を忘れたのかよ。厳政は張角三姉妹を見捨てれねえんだ。あの姉妹を連れて、黄巾の砦の時みたいに逃げ出すってのか? 今の、まったく流れが読めない俺に」

 

 張曼成は目を見開き、黙り込んだ。この四人で鄄城を逃げ出す算段は建てられても、その中に非戦闘員である張角たちを含めることは、非常に困難なことだった。ならば見捨てるか、とはいかない。厳政を見捨てない、という程遠志の方針は、誰もが理解していたし、共有すべき感情だった。

 厳政は小さくなって頭を下げた。自分の所為だ、とまた不運を感じているのかもしれない。

 

「―――そもそも、だ。多数決が割れた時点で、どちらかが譲らない限りこの議論は平行線を辿るよな」

「当り前だが、そうだな」

「俺が強引に残ると決めても、お前が強引に城外に俺たちを連れだしても、どちらにしても何らかの遺恨が残りそうで嫌だな」

「程遠志」張曼成は肩をすくめた。「それはない。俺たち四人に、遺恨なんて残りはしない」

「……なら、いいけどよ」

 

 程遠志がそっぽを向きながら言った。彼は、向こう見ずで豪放磊落な性格をしている一方、弱気や怯えが誰よりも敏感に表れる性格でもあった。

 張曼成は少しだけ、その様子を見て笑った。何かが吹っ切れたようだった。突き抜けた爽快感が身体を訪れた。この男には、不思議な将器がある―――と、厳政がいつしか思ったことを彼も考えた。「流れ」こそが自分の持ち味だ、と程遠志は考えているのだろうが、張曼成はそれだけではないと思っている。友達が少ない、と嘆いている彼は、その実誰よりも仁徳溢れる男なのではないか。そう妄想した。妄想ではあれど、見当違いなことを考えているわけではないと確信も持てた。そのまま、口を開く。

 

「程遠志。お前が何を選択しようとも、俺は恨みなんてしないさ」

「はあ?」

「最後に決めるのは、お前だ。この四人の選択を統合するもよし、強引に決め切るのもいい」

「ちょ―――ちょっと待てよ。お前は、城を出たいんじゃ」

「それが最良だ、という判断を変えるつもりなんてない。ただ、この時点で最悪なのは何も決め切ることができず、味方に捕まり、殺されることだ。何か、最終決定をするということは、必ず必要なことだ」

 

 そう言い、張曼成は黙り込んで程遠志を見た。厳政もまた、同じである。

 鄧茂だけは黙らなかった。「僕が―――僕は、程遠志に死んでほしくない」改めて、そう言った。僕が死ぬとしても程遠志は死んでほしくない。そう、彼は言いたかったのだろうが、程遠志の前でむやみに自分が死ぬなどとは言えず、「僕が」を「僕は」に入れ替えて言葉を発した。自己犠牲的な思考を、程遠志が好まないことは先ほどの厳政の例からも伺える。しかし、その程遠志自身は他の仲間のためならば命を張ってもいい、とよく考えることが何とも皮肉で、自己中心的だった。そういう男なのだ。

 

 程遠志は目を瞑り、黙り込んだ。その頬からは滝のような汗が流れていたが、やがてその発汗はなくなり、水を打つような静けさが場を包んだ。

 程遠志は追い込まれている。場の誰もがそれを理解できた。追い込まれると、程遠志は飛躍する。思考が突飛なものとなる。鄧茂と張曼成は黄巾にいた時のことを思い出した。荀彧、夏侯淵と戦った時。あの時もまた、降伏が認められず追い込まれた程遠志は、突飛な案を導き出した。どうすればいいか。どうするべきか。その二つは程遠志にはわからない。こうしよう、と決めるだけである。

 そして―――鄧茂だけは程遠志の身に纏う雰囲気が、少しずつ変容していくの気がついた。流れが変わっている。少しずつだが、確かに。今までよりも困難で、難解な状況に、程遠志の持つ「流れ」でさえも完全に場を掌握することができていない。誰よりも彼の近くで過ごしてきた鄧茂だからこそ、程遠志の変化が理解できた。

 

 少しして、程遠志は目を開いた。汗はもう掻いていない。彼は物事を決めると、梃子でもそれを譲ろうとはしない。流されるままなのが自分の行動理念、人生哲学であった。

 

「決めた。俺が―――俺たちが、どうするか」

「そうか」

 

 口数少なく、張曼成は返した。厳政も頷いたし、鄧茂は黙って程遠志を見つめた。

 

 

「―――荀彧に会う。今からだ。会って、話をつける」

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

張邈決戦編 第八話


文章量が多くなりすぎちゃいました<(_ _)>



 

 

 

 夜中である。時刻は子の刻を優に周り、曹操軍の兵士たちもおよそ七割が睡眠をとっていた。夜襲に備える者、話をして恐怖を紛らす者、単に眠れぬだけの者。三割の中にも様々な者がいた。

 そして、その三割の中に荀彧もまた、入っている。

 彼女はこれからの戦場の移り変わりを頭に描き、図に記していた。このままでは、まずい。張曼成や鄧茂が思ったことは、彼女の聡明な頭脳ならば既に導き出せている。その対処策も無数に浮かんでいる。そのうちの一つに、彼女は固執していた―――すなわち、程遠志を殺す、ということに。それが己の身をいずれ危うくし、滅ぼす可能性すら内包していることに彼女は気づいている。それでいい、と思った。それで、曹操様が救われる可能性が一分でも上がるのならば、何を惜しむことがあろうか。

 荀彧は、先の攻防で張邈軍の中の董卓軍の強さを理解した。しかし、理解したのはそれだけではない。この状況の打開策。それに似たものを導き出していた。

 董卓軍は強く、戦意が旺盛に見えるが、その姿には強迫的な色が伺えた。何かに怯えているのか、押さえつけられているのか。どちらにしても、この戦いに主体的に動いているようには見えなかった。その真逆の、受動的で従属的な動きが目に見えた。単に張邈の命令を受けたから、などという様子でもない。

 しかし、主体的でないというのに、董卓軍の攻めは苛烈であった。矛盾が生じている。主体的に動いていないはずの董卓軍が、張邈軍全体の中で、この初戦で最も戦った軍なのである。この矛盾を突くことこそが、曹操は来るまで持ち堪えるために役立つはずだ。すなわち、打開策になる。

 

 ―――この矛盾は、董卓軍の元へこちらの手の者を侵入させることで露見する。

 

 荀彧はそれが難しいことも、時間がかかることもわかっていた。張邈が敷いた、この不完全な包囲と暗夜を利用して、城から何名も使者を派遣したが、果たしてそう簡単に董卓軍へ侵入できるか。本日中には不可能だし、後一日、二日と経ってもまだ難しい。四、五日して張邈軍の警戒が緩んだ頃、ようやく成功するか否か、といった計略だ。今日送った使者が一人も帰ってこないことを、彼女は非情さを持って受け入れていた。その中には普段から仲良くしていたものもいる。戦争だから仕方ないことだ、なんて容易く言える決断ではなかった。

 だからこそ、程遠志を殺してでも、一時的にでも城内の結束を固める必要があった。董卓軍と張邈軍の間に不和を生じさせてこの籠城戦を長丁場の者へするために、その時間を稼ぐための時間が、今は必要なのだ。

 

 そう考え。

 荀彧は、静かな殺意を身に纏い始めた時―――彼女の部屋に慌ただしい音が轟いてきた。兵士の足音である。

 荀彧は眉を顰めてそちらを見る。こんな夜分にそのような足音を立てれば、眠れぬ兵士たちが増える。焦ろうとも表面上は穏やかに動け、と言いたくはなったが、我慢した。そのようなことは兵士だってわかっているはず。それでも焦りを隠せないような出来事が起こったに違いない。

 

「し、失礼します」

「入りなさい。要件は?」

「監視中の程遠志殿が、四人でこちらへ向かっているとの報告が入りました」

「な」荀彧は、一瞬唖然とした。「まさか」

 

 様々な可能性が脳を掠めた。裏切り、私を殺しにきた? いや、それは恐らくないはずだ。敵軍にいる裴元紹という男と、程遠志の中が悪いことは既に把握している。他ならぬ、程遠志自身が言っていた。それを発言したのはまだ張邈がこの城を完全に包囲する前である。すなわち、嘘だとも思えない。

 それに、そもそもそのようなことになれば城内がここまで静謐を保てているはずがない。

 

「どうしましょうか」

「……今、程遠志はどこにいるの」

「先ほど部屋を出たばかりです。まだ、余裕はあるかと」

「起きている兵士をここに呼びなさい―――あと、風は?」

「既に声をかけています。程遠志殿よりも早く、こちらに着くはずです」

「わかったわ。ご苦労」

 

 ならば、問題はない。一つ、荀彧は深呼吸をした。

 城の外をぼんやりと見つめる。風が吹いてきた。何かが変わる、予感がした。

 

 

 

 

 程遠志が無作法に扉を開けると、中には荀彧と程昱、それに武装した兵士たちが二十人ほど立っていた。それを見て、一瞬、厳政は顔を歪める。鄧茂も大丈夫なのか、と不安そうな顔になり、程遠志の前を盾になるように動こうとした。

 それを、自然と程遠志は手で遮る。顔には先ほどまで滝のように流れていたはずの汗は霧散しており、その表情は平時のものと遜色なくなっていた。何も問題はない、といった雰囲気で、「流れ」がまだ来てはいないのに、妙に堂々としていた。その姿こそが、流れを引き寄せると言わんばかりだった。

 

「よう、荀彧」程遠志は、軽く右手を挙げた。「相談があるんだが」

「私はないわよ。それに、話すときは鄧茂を介しなさいって―――」

「悪いが、これは俺の口から言いたいんだ。頼む」

 

 荀彧は、僅かな間確かに殺意の籠った瞳で程遠志を睨みつけた。死が濃厚に感じられる。それでも彼は視線を外さず、怯えた様子を見せなかった。

 やがて、荀彧は頭を軽く振った。譲歩する、ではなく我慢する、といった感じで「好きにしなさい」と吐き捨てた。程遠志は一つ息をつく。この状況が逆に功を奏した。二十人の兵士に囲まれ、四人では明らかに太刀打ちができない状況。だからこそ、荀彧は程遠志に対して微塵も恐怖を抱いておらぬのだろう。

 程遠志自身、この場で荀彧や程昱に危害を加える気はない。だが、そう誤解された時点で、詰む。この相談が破談に終わっても詰む。どうせ明日殺すのならば、今でもいいだろうと思われて、虫のように殺される。現実的なそんな未来が確かに見えた。

 

「時間も勿体ねえからよ、正直に言うぜ―――俺たちを信じてくれ」

「……へえ。誰の入れ知恵よ」

「……どういう意味、とは聞かないんだな」

「時間がもったいない、ってあんたの言葉に乗ってあげたんじゃない」

 

 荀彧はふん、と鼻を鳴らした。

 

「男のくせに、中々頭が回ったじゃない」

「考えたのは俺じゃないさ。張曼成だ」

「へえ。その木偶の坊が」

「木偶の坊じゃない」張曼成が小さく言う。「沈毅と言え」

 

 その訂正はこの緊張した場に似合わず、小さな滑稽さがあった。

 程遠志は苦笑を浮かべたが、目の前にいる荀彧や程昱は笑わない。おや、と程遠志はそこで思った。彼女たちが笑わないことに驚いたのではない。程昱の観察的な視線が、頑なに彼へ飛んできていた。警戒ではなく、観察。何を見極めているんだ?

 

「単刀直入に言うわ。あんたを殺すことが、この城を持たせる策よ」

「他にもあるだろうが」

「でも、この策ほどの効果は見受けられない」

「状況は日々変わっていっている」張曼成が口を挟んだ。「俺たちを殺して、後々でまったく後悔しないとなぜ言い切れる」

「状況が変わったからこそ、私はあんたたちを早く殺すべきだと踏んだのよ。張邈は何故か、董卓軍の残党を使うだけで本気で攻めてはきていない。明らかに何かおかしいし、全軍が動かないのならば想定した二十日以上城で耐え凌ぐことも可能になるかもしれない。そのためには、兵士たちを完全に掌握する必要があるの」

「だから、殺すのかよ。簡単に」

「簡単ではないわ。私は恐らく、この城を保ったとしても何か罰を受けることになるでしょう」

「それなら」

「それでも、私は華琳さまにこの城を守るように命じられたの。私がどうなるにしても―――死ぬにしても、それは絶対に果たさないといけない命令だわ」

 

 荀彧の考えは、張曼成の予想した通りだった。滅私奉公。程遠志は溜息を吐き、黙り込む。

 

「私の言いたいことはわかったかしら」

「……どうしても、その策に固執してるってことは、わかった」

「今の状況は、その選択が最も合理的だと考えているだけよ」

「ふうん」

「逆に聞くけれど―――あんたは、今のままで張邈に勝てるとでも?」

 

 荀彧の瞳は「不可能だ」と言っていた。このままでは連鎖的に兵士たちの士気が下がる。その影響は兵士長にも伝播するだろうし、そこで止まるというわけではない。全体の士気が下がり、城に避難した市民も怯える。それが恐慌のまま反乱を起こす確率もある。単純に力攻めで落とされる確率も十二分に存在する。

 そんな状況を覆せるのか。

 荀彧は、そう程遠志に問いかけて。

 

 

「勝てる」

 

 

 程遠志は緊張することもなく、虚勢を張るわけでもなく、そう言い切った。

 

 ……次に黙ることになったのは、荀彧の方だった。程遠志の底知れぬ自信に思わず言葉を失った。「どうして、よ」と喘ぐように、ようやく喋った。

 

「理屈じゃねえんだ。勘でもねえ。俺には確信がある」

「……どういうことよ」

「馬鹿馬鹿しい、って思うかもしれねえが。俺は流れってのを信じてる。荀彧、お前は感じねえか。空気がひりつくこの感じだ。何かが、変わってるんだ。もうすぐ何かが起こる。起こるはずだ」

 

 荀彧は不意に思い出した。先ほど、城内で風を浴びた時、そのようなことを思ったような。何かが今から変わりそう、なんて。すぐ、彼女は否定する―――馬鹿なことを考えるな! もっともらしいことや、誰しもが思うことを言って煙に巻いているだけだ。この不安定な戦況では、誰しもが超常的で希望的な未来を幻視する。その感情を利用しているに過ぎない。

 程昱は、何かを堪えるかのような表情になっていた。無言のまま、静かに佇む。

 

「滅茶苦茶よ。意味が分からないわ」

「意味がわからなくても、そうなるんだ」

「誰がそれを信じるとでも!」

「荀彧」程遠志は両の目をしっかりと見開いた。「思い出せよ。俺たちが最初に会った時だ。お前は俺が起こした奇跡を、流れを見ただろ」

「あ―――あれは全くの偶然のことで」

「―――偶然で、お前は負けたのかよ」

 

 しまった、と思った。荀彧ではない。程遠志が、言ってからそう思った。

 

 荀彧の眦が震えた。瞳がびくん、と上がり、眉が吊り上がる。腰は屈辱からかぶるぶると震えていた。明らかな怒りの感情の発露である。彼女の怒りの臨界点。それを大幅に超えたことが、誰の目にも理解できた。

 まずい、と思ったのは程遠志だけではない。張曼成も鄧茂も厳政も。すぐさま理解した。元々、荀彧の中で彼らを殺すことは確定していたのだ。だというのに程遠志の話を聞いてくれたのは、彼女が彼の「流れ」をある程度まで認めていたからや、程昱の唱えた慎重論への配慮、それにある種の僥倖もあるし、様々な理由が絡み合っている。それらを統合した糸がぶつりと切れた音がした。踏み込み過ぎたのだ、程遠志は。どうせ殺すのだから、今殺しても同じだ。そんな思考に荀彧がなれば簡単に終わる命だということを、一瞬失念してしまった。

 荀彧は程遠志を見た。最初に持っていた殺意が復活し、さらに純度を強くしていた。そのまま口を開けて、何かを言おうとする。何を言うのか、それが自分にどのような影響を招くのかをすぐさま程遠志は理解して、恐怖した。自分の思った「良い流れ」はまだ来ていなかったのか。そう、疑いそうにもなった。

 

 その、荀彧の言葉は。

 

 

「ちょっと、待ってくださいー」

 

 程昱によって、遮られた。

 荀彧は、程昱を鋭い瞳で見る。それでも程昱は顔色一つ変えない。

 

「風、なに」

「桂花ちゃんの言葉を止めようと思ってー」

「どういうことよ」

「落ち着いてください。程遠志さんには流れが本当にあるのかもしれない、って言ったのは桂花ちゃんですよ。感情的にならないでくださいー」

「う…………」

 

 荀彧は再びそこで黙り込む。それに代わり、程昱が程遠志の方を見つめた。

 どこか、気の抜けた瞳だった。程遠志を見定めるような、観察するような様子はもう既にない。肩の力を抜き、だいぶ楽にした姿勢をとっていた。程遠志は少し、戸惑った。先ほどまでの雰囲気とは明らかにかけ離れている。

 

「程遠志さん」

「な、なんだよ」

「私は、今でも『流れ』というものに懐疑的ですー」

「だったらどうした」

「それでも、あくまで少しだけですが、すべてを否定するのもどうなんだろう、と思うようになりました」

「俺を信じてくれるってことか」

「違いますー」程昱は微笑んだ。「意味もなく否定することはしませんが、肯定もしません。先ほどにも言ったように、私は本心ではまだ程遠志さんの流れに懐疑的です」

 

 じゃあどうするんだよ、と程遠志は犬歯を出して言った。それに対しても程昱は怯まない。

 

「唐突ですがー」程昱はそう前置きして、本当に急なことを言った。「公孫瓚という人間を知っていますか」

「反董卓連合の時に見たけど、それがどうしたんだよ」

「彼女は少し前、劉虞という女性と領土を争っていました。公孫瓚が勝ち、劉虞は結果的に死ぬことになりましたが、このことをご存知ですかー?」

「知らねえよ」

「知っている」張曼成が横から口を挟んだ。「だから、どうした」

「では、捕えられた劉虞と、公孫瓚の問答は?」

「それは知らない」

「公孫瓚―――その軍師の関靖は、劉虞に向けてこう言いましたー。『雲一つない真夏の今日に、雨を降らせてみせよ』と。『そうすれば助ける』と。結果、降らせることはできず、劉虞は死にました。民衆に崇められ、全てを司ると称された彼女も、真夏の晴天に雨を降らせることはできませんでした」

「当たり前だろ。無茶苦茶だ」

「そうでしょうかー」程昱は、少し微笑んだ。「私は、その軍師の気持ちもわかります」

「どこがだよ」

「劉虞は自らを神に選ばれた人間だと考えている節がありました。それを信じるのは、民衆だけに及ばず武将や軍師たちにも及んでいました。それに半信半疑だった関靖は、超常的なものを理解するには、超常的な力を実際に見なければならないと考えたのでしょう。だから、劉虞に奇跡を起こさせようとして、奇跡が起こらなかったから、信じることを止めた―――この関靖と、今の私は同じ気持ちです」

 

 程昱の瞳は、そこでようやく程遠志を真正面から捉えた。

 

「真夏に雨を降らせてみろ、って言うのかよ」

「真夏に雨を降らせてみませんかー?」

「冗談だろ」程遠志は引き攣った笑みを見せた。「大体、今は真夏じゃねえ」

「比喩表現です。つまり、程遠志さんの信じる流れを、今この場で起こしてほしい。信じさせてほしい」

 

 程昱の瞳と、程遠志の瞳がぶつかった。それに合わさるように、荀彧もまた睨みつけるような視線を飛ばしている。ふ、と程遠志は彼女らから視線を離した。勢いに押されたからでも、自信を喪失したからでもない。妙な感情が胸から湧いてきた。彼の頬に、不自然な歪みができる。それは笑みだった。

 程遠志は自分の「流れ」というものを誰よりも信じている。狂人や馬鹿者だと思われることは多々あった。碌な生まれをしていないから、と哀れまれることさえあった。それに対して彼自身が何も思っていなかったわけではない。元々、豪放磊落に見えて繊細緻密な精神をしているのが、程遠志という男である。鄧茂と張曼成。黄巾時代の程遠志は、その二人以外に自分の流れを信じる人間は現れないだろう、とすら思っていた。

 だが結果はどうだろう。曹操軍に入ってから厳政という新たな友が増えた。夏侯惇や夏侯淵に信頼されるようにもなったし、一兵卒からもある程度の信頼を勝ち取ることができていた。そして、今。荀彧や程昱も、懐疑的ではあるものの、信じようとしていた。程遠志の流れを、である。それが処刑のための建前だとしても構わない、とすら思った。

 

「おもしれえな」

 

 程遠志はぼそりと呟くように言った。流れが変わりかけている、と言ったのは彼自身である。程昱の言葉を拒否することはできなかったし、する気もなかった。実際に、何かが起こるはずだ。そういった確信も持てた。

 

「それは、つまりー?」

「見せてやるさ。流れが変わる、ってことを。今日中に」

「それじゃ遅いわ」荀彧は厳しく言う。「朝までよ、待てても」

「それなら、それでもいいさ。間違いなんてねえんだからよ」

 

 程遠志は静かに言った。荀彧は睨み、程昱は冷静に彼の顔を窺った。後ろにいる鄧茂は心配そうにしている。

 それらすべてを受け、それでも堂々と彼は屹立していた。

 

 

 

 

 

 ―――そして、時刻は大きく経過していく。

 子の刻から卯の刻へ。少しずつ太陽が昇り始めている。程遠志の言う流れは、まだ起きない。

 

「程遠志、大丈夫なの」

「鄧茂」程遠志はそれでも、体勢をぴくりとも変えなかった。「間違いなんてねえよ、俺には」

「流れの変わる感じが、僕にはまだしないんだけど。このままじゃ、まずいんじゃ」

「このまま終わり、なんてことにはならねえ。どーんと黙って構えてな」

 

 そんな程遠志とは裏腹に、鄧茂は心底恐怖していた。自身だけではない。このままでは程遠志が殺されてしまう。そんなこと許すわけにはいかない。静かに、彼は胸元に忍ばせた匕首を身に寄せた。荀彧さえ、彼女さえ人質に取れれば、まだ可能性がある。

 いつもの流れが変わる感じがしなかった。黄巾の時も、反董卓連合の時もわかったのに。何かが変だ、と叫びたかった。

 程遠志はそんな鄧茂を見て、軽く笑った。彼には無限の自信があった。それによって流れとは切り開かれるのだという確信も持っていた。

 

 ―――そして。

 荀彧が軽く欠伸をし、「そろそろ時間ね」なんて口を開こうとした、その時だった。

 

 

「――――――来た」

 

 

 外から僅かにした異音。それにいち早く気がついたのは程遠志だった。

 張邈軍はまだ動いていない。十分に休憩を取らせ、十全の力を持って攻める気なのだろう。それ故、城へ向かう人間は誰もしないはずである。だというのに、馬の駆ける音がする。遅れて「敵襲!」という声が城中に響いた。目の下に大きな隈を作っていた荀彧も、人形を頭の上に載せて立ちながら寝ていた程昱も、すぐさま真剣な顔になる。目は、下の城外を見た。

 一人の女が、馬に乗って駆けてきている。その女の正体が誰かわかる者はこの時点ではまだいなかった。胸にさらしを巻き、鋭い目を城へ向け、愉快そうに笑っている女だった。荀彧はその女を目を細めてみた後、程遠志に向き直った。程昱も同じことをした。これが程遠志の言う「流れ」なのか、と問いかけるようだった。静かに程遠志は頷いた。

 

「あれ―――まさか」一番最初に気がついたのは、目の良い鄧茂だった。「張遼?」

「張遼って、董卓軍の?」

「うん。宴会の時に、曹操さまが話していた人間の特徴に、似てる。瓜二つだ」

「だとしても、その張遼が、どうして」

「降伏しに来たんだろ」程遠志は訳知り顔で言った。「この状況を覆すにはそれしかあり得ねえ」

 

 それとほぼ同時に、その女が叫んだ。「張文遠や! 降伏する!!」

 奇しくも、それは程遠志の言葉と同じだった。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

張邈決戦編 第九話

 

 

 

「反乱を起こした―――香水が?」

 

 曹操がそう、茫然とした顔で呟いたのは、鄄城が包囲されてから七日も経過した頃であった。

 兗州と徐州の垣根の役割を果たすはずの城が、真っ先に張邈の反乱に呼応した。そのため、荀彧が曹操に飛ばしたはずの伝令は殆どが捕まり、殺された。本来ならば三日前後で辿り着いたはずの時が、七日まで延びてしまった。

 

 現在、曹操は主目標の徐州にある澎城国を既に落としていた。その最中で一部の兵士が徐州にて虐殺を行い、半日ほど軍が混乱する事態に追い込まれることもあったが―――彼女は冷静だった。起きてしまったことはどうしようもない。覆水盆に返らず。すぐさまその兵士を于禁や楽進に命じて処分した。徐州の一部の民から恨まれたり、憎まれたりすることもあったが、それに対してある一定の慰撫と陳謝を行いながらも、手を緩めることなく澎城国を攻め続けた。

 氷のような冷静さと、緻密さを持って動いていたと言っても過言ではない。

 そんな曹操が、一瞬、完全に無防備な表情を見せた。予想もできぬことであった。張邈が? 言葉を反芻し、脳がそれを拒んだ。あり得ぬ、という感情が放流してくる。夏侯惇や、夏侯淵も、旧くから側にいる彼女らだからこそ曹操と同じ気持ちになった。

 張邈と曹操は、私塾時代やそれ以外の私生活でも仲が良かった。袁紹との喧嘩の仲裁をするといった役割を快活に勤めていたこともあり、袁紹とも朋友だった。いずれ起こるであろう袁紹の正面対決の際、彼女は必ず反対するだろう。それをどう言い包めるか―――そんなことを曹操は夢想することさえあった。

 

 結果、曹操はその報告を一笑に付し、その後に来た第二の伝令で真顔になった。ここまでは張邈の思い通りであったが、その次に新たな伝令が訪れた時、曹操は怒りを見せることもせずすぐさま行動を起こした。

 

「澎城国を放棄し、兗州に戻るしかない」

「華琳さま!」夏侯惇は慌てて言う。「まだ、誤報の可能性も……」

 

 夏侯惇は曹操の次に、張邈と親しかった人間である。その妹の張超のこともよく知っていた。この状況で反乱を起こすはずがない、とある種の信頼を持っていた。

 それでも、そうではない、と曹操は首を振った。

 

「この状況は、いち早く兗州に戻ることを優先するべきよ。仮に誤報や偽報だったとしても、その時は再び軍備を整え、徐州に戻ってこればいいだけのこと」

「半分を澎城国に残す、というのはどうでしょうか」

「いいえ、秋蘭。全軍でなければならないわ。この城に残すのが半分の兵士だけでは、劉備たちの攻撃を耐えられない。ならば、残そうが残すまいが何の意味もない。香水が反乱を起こした可能性が一分でもある以上、すぐさま全軍で城へ戻る必要があるの」

「張邈は―――香水は」夏侯惇は、小さく呟いた。「本当に反乱を起こしたのでしょうか」

 

 その言葉には、曹操も黙り込まざるを得なかった。感情を隠匿する、と張邈に称された彼女も、旧くからの付き合いである夏侯惇、夏侯淵の前ではある程度まで素の表情を見せる。

 様々な感情の入り混じった表情だった。三人の伝令が同じ情報と、同じ荀彧の文を持っていた。だから間違いない、という理性的な部分と、それでも張邈が裏切るわけがあるか、という感情的な部分が対決していた。感情を強引に抑え込み、理性を選んだ曹操は冷静ではあったが、その顔はかなり険しいものになっている。

 

「とにかく、ここでじっとしている暇はないわ。春蘭は稟を呼んできて頂戴。早く戻らなければ、桂花や風―――それに程遠志も危なくなる」

 

 その言葉に、ぴくりと夏侯淵は反応する。僅か一瞬のことではあるが、曹操は確かに見逃さなかった。心配しているのか。彼女の強張った顔が一瞬だけ緩まり―――また、すぐに険しくなった。

 四人目の伝令が走ってきた。張邈の反乱を伝える者がこれだけ多くなれば、流石に信じざるを得ないか。曹操は自分の感情をそこで完全に抑え込んだ。張邈が予想し、張超が恐れた激憤を曹操は起こすことなく、溢れ出る感情を完全に内心に留めた。

 しかし。

 いや、だから、と言うべきだろうか。

 四人目の伝令が告げた言葉は曹操自身が予想したものとはまるで違うもので―――彼女はそこでまた、自身の感情と戦う羽目になるのだった。

 

 

 

「―――陶謙軍の新手が、こちらへ向けて出陣中! 兵力はおおよそ二万五千。先鋒は関羽、趙雲です!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 鄄城を包囲して、十日が経過した。

 張邈は鄄城を攻めあぐねているように見えた。三日目までは殆ど董卓軍の独力で攻めていたというのに、四日からは黄巾、本隊も動き出していた。それでも落ちない。その原因は、さまざまなところにあった。

 まず初めに、張遼が初日で裏切ったことにある。初日の城攻めでは頑強に抵抗する将はいたものの、人並み外れた武勇を持つ者は存在しなかった。明確な武官と呼べるものがいなかったのである。董卓軍の華雄に張遼が裏切った訳を詰問したが―――彼女は脅しても賺しても「知らん」の一点張りだった。

 そして二つ目に、曹操軍の異常な士気向上がある。張邈は意図的に力を緩め、余裕を見せることで、士気を下げて早く落城させようと考えていた。それは初日だけを見れば成功だったし、決して間違った作戦ではなかったはずだが―――張遼が裏切り、城内の奮戦が目立つにつれて妙な一体感が城を包みつつあった。勝てるのではないか。城を持たせることは可能なのではないか。明確な勝機が見えたことで、曹操軍の士気は十全を取り戻し、さらに向上しつつあった。

 

 まずい、と十日目にして裴元紹は焦った。このままでは程遠志を殺せない。焦りのまま近くの小机を蹴り飛ばし、荒く息を吐いた。血走った眼は左右に揺れ、やがて一つの目標を捉えた。張邈のいる本陣。戦場での指揮を副将に任せて放棄し、彼はそこへ向かう。

 

「おい」目を鋭くしながら本陣に裴元紹が入ると、女の悲鳴がした。「なんだよ」

 

 にこやかに笑う張邈と微妙な表情の張超。それに文官と思わしき少女が数名―――少女たちは息を荒くする彼を見て姦しく悲鳴を上げた。

 

「あら、裴元紹」

「まず、この喧しい女どもを退けてくれ」

「ええ」張邈は素直に頷いた。「貴女たち、少し外して頂戴」

 

 文官の少女は少し逡巡した。裴元紹の悪評は軍の中にも既に轟いている。張邈を誑かす、気狂いの野蛮人。風采と行動から彼はそんな風に思われており、少女たちは張邈の言葉を聞いても易々と動かず、裴元紹の方を怯えた目ながらも睨みつけた。出て行け、と言わんばかりだった。

 だが、裴元紹が忌々しげに舌打ちをし、張邈が「大丈夫よ」と笑うと、身体を持ち上げざるを得なかった。彼女たちは殆ど非戦闘員のようなものだ。裴元紹の怒りを受けて怯まぬ精神力など持ち合わせていないし、張邈の命には従わなければならないという刷り込みもされている。そうずっと躊躇っていることもできない。

 

 少女二人が去り、張邈と張超と裴元紹だけが場に残った。途端、張邈の顔から快活な笑みが消え、無表情に包まれる。「それで、何の用かしら?」彫像を思わせる仏頂面だった。

 少しだけそれに怯みながらも、裴元紹は語気を荒げる。「このままじゃ、まずいだろ」

 張邈は小首を傾げた。「まずい」まるで、食べ物が美味しいのか、不味いのかを答えているようだった。その表情に一切の悲壮感は見当たらない。もう一度、語尾を上げて同じように繰り返した。「まずい?」

 

「まずいだろ。あの城を落とす前に、曹操が本隊を率いてやってくるかもしれねえ」

「どうかしら。私の見立てでは、期限すれすれのところまでは追い込まれても、華琳が来る前に鄄城は落ちるはずだわ」

「あり得ねえ。俺だってわかる。今のままじゃ、どう考えてもまずい」そこで、裴元紹は張邈の後ろに隠れて見えない彼女の妹を見た。「そうだろ、張超」

 

 張超は裴元紹と目を合わせなかった。それは彼女が彼を嫌っているから、ではない。合わせることもできず、視線をふらふらとさせていた。

 なんだ、と裴元紹は思う。張邈が大勢の前で快活な様子を装っていることは既に知っている。だが、張超のこんな奇妙な様子は、彼も見たことがなかった。

 

「落ち込んでいるのよ、非水は」

「落ち込んでる?」

「冷静さを欠いてる、と言ってもいいわね。私の妹とは、本当に思えない」

 

 張邈は無表情のまま言う。その、挑発じみた言葉にようやく張超は目の色を変えた。顔をさっと朱に染めて姉を睨みつける。

 

「姉上が―――姉上がそれを言いますか!」

「私と違って、非水は本当に律儀だわ」

「恨まれますよ、絶対」

「恨まれることなんて、どうでもいいことだって言ったじゃない」

「おい」そこで、裴元紹が話に割って入った。「意味がわかんねえよ」

「非水、説明してあげなさい」

「…………鄄城は、落ちる。恐らくあと五、六日以内には。姉上の仕込みは、既に完了している」

 

 張超は苦悶の表情で口を開いた。その内容は吉報にしか聞こえなかったが、彼女の口はなんとも言えないように歪んでいた。どういうことだよ、と裴元紹は瞬く。

 

「危ないところだった」張邈は他人事のように言った。「鄄城が士気を取り戻したのは、正直な話予想外よ。もう少しで、二十日を超えるところだったわ」

「……曹操は、二十日以内に来るってのか」

「間違いないわ。恐らく、この戦場で華琳のことを誰よりも理解しているのは私でしょうね。あの城に籠る軍師の荀彧や程昱―――それに、誰だったかしら」

「程遠志のことかよ」

「そう。その男でも理解できないでしょう。彼や彼女は、華琳たちが戻るのに良くても二十日強はかかる、と踏んでるのでしょうね。それは違うわ。徐州で兵士が暴れて虐殺が起き、私の反乱を伝える使者が遅れ、劉備と陶謙の大軍に背を向けられず、すぐに退却できなくなろうとも。華琳は―――曹孟徳は必ず二十日以内にこの場に辿りつく」

「どうして言い切れる」

「それが、曹孟徳だから」

 

 張邈の言葉は、少しだけ自嘲的だった。何か恨み言を述べているかのようで、大衆の前のような快活さや、張超に見せる無表情さのどちらもなく、ただただ陰鬱な雰囲気を漂わせていた。彼女自身が言い終わり、初めてこのような声色になったと目を少し白黒させたりもした。

 

「なんで、あの城が落ちるのかを説明しろよ」

「言う必要もないでしょう。もうそろそろ、自然にわかるわ」

「勿体ぶるなよ」

「一つだけ言うとしたら、状況を利用したとでも言うべきかしら」

「状況を?」裴元紹は怪訝な顔になる。「状況は日々変わってんだろ。張遼とかいう女が裏切ってから、今のとこまでいいとこなしだ。明らかに流れが悪い」

「状況が変わっているからこそ」張邈はそう言った。その前置きは奇しくも、九日前に荀彧が程遠志に投げかけた言葉と同じものだった。「私は、その裏切りを利用できると踏んだのよ」

 

 張邈はそう言って、無表情を崩して笑った。

 頭の中に浮かぶものがあった。反董卓連合で、開かれた大宴会での時のことであった。程遠志という男が真面目な顔で言っていた。「流れに従って行動した」と。遠くだったので一部分しか聞こえなかったが、裴元紹が偶発的に言った「流れ」という言葉が、その記憶を深層心理から呼び起こさせた。

 流れというものを、張邈は信じていなかった。存在するはずのないもの。群集心理が働いて生まれた幻想。そうだと確信していた。

 張遼の裏切りから、群集心理がうまく働き、「流れ」というものを上手く誤認しているのだろう。そのようなものはきていない。誤解しているだけだ、と張邈は思う。そのおかげで士気は上がり、城を保つことが今の今まで可能となったが―――それは、ここまでだ。流れなどきていないし、存在しない。それを思い知ることになるだろう。

 

 

 

 張邈は鄄城の方を窺うように見た。城内から上がる鬨の声や、怒号。それが少しずつ小さくなっているように思えた。始まったか、と笑う。ここからが、本当の戦いになるのだ。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

張邈決戦編 第十話

 

 

 

 勝てる、という実感が、程遠志の身にはっきりと湧いてきた。

 張遼が曹操軍に加わってから、状況は格段に良くなったと言えた。武官の不在。張邈の予期せぬ裏切りから、武に長けた将は皆徐州攻めに向かっており、鄄城には一人たりとも残っていなかった。その大きな穴が、張遼という女将軍一人で綺麗に埋められた。

 前線で実際に矛を振るって戦う将軍は何よりも兵士たちの士気向上となる。そして、士気が増せば増すほど、城は落ち難くなり、兵士たちはそれを見てさらに奮起する。それが繰り返されることで、雪だるまのように兵士たちは力を増していき、十全以上の能力を発揮していく。

 

 すべてが、上手くいっていた。

 

 ―――だと、いうのに。

 程遠志の隣にいる鄧茂だけは、何とも言えぬ不安げな表情が解けなかった。

 

「鄧茂?」

「あ、うん、程遠志。何か、変じゃない」

「変って何がだよ」

「いつもと違う感じがするの」

 

 抽象的な言葉に、程遠志は思わず苦笑した。理論的な言葉を張曼成は好み、鄧茂もそれに迎合することが多々ある。そこに「流れ」という抽象的な考えを程遠志が持ち込むのだが―――今回はどうやら違うらしかった。張曼成や厳政も、どういうことだ、というように首を捻っている。

 

「程遠志はわからないの? いつもと違わない?」

「何も感じねえよ」

「そもそも」張曼成がそこで口を挟んだ。「いつもとは何のことだ」

「流れが来てる時のことだよ。流れが来てるときはいつも、程遠志から出る雰囲気とか、空気とかが変わるの。それがまったく皆無というわけじゃないんだけど―――まだ、完全に出てない気がする」

「俺にはわかんねえな。流れを掴んだ、とは思うんだけどよ」

「今の流れがこっちにきてるのは間違いないけど、何か変な感じがするの」

 

 鄧茂が物憂げな表情でそう言う。彼の萎れたその姿は、活気づく曹操軍の中でも異彩を放っており、程遠志たちも伝染して少し不安そうな顔になる。

 

 ―――その時だった。

 

 

 

 城内で、自らの士気向上を表すように、叫んでいる男がいた。

 その男が、唐突に声を潜めたかと思うと、目を大きく広げて口から血を吐いた。

 

 

 

「はあ!?」程遠志は、慌てて走り、駆け寄る。「おい、どうしたよ!」

 

 答えは返ってこない。目を見開いて、呼吸をしていない。

 意味が分からねえ。どうして急に。

 程遠志は、そう叫ぼうとして、留まった。自重したわけではない。異変を感じた。何かが身体の奥底から這い上がってくるような、喉を掻き毟りたくなるような激痛が、遅れてやってくる。張曼成の焦る顔が、厳政の呆然とした顔が、鄧茂の泣きそうな顔が、程遠志の視界の端に映って、消えた。目を開けていられなかった。その代わりに、口が開いた。何かを吐き出した気がした。

 

 

 ――――――その兵士と同様に、程遠志も血を吐いて倒れた。

 

 

 

 

 

 

 その異変に、荀彧は素早く気がついた。

 十数人に一人程度の割合で、口から血を吐いて突然倒れる者が続出していた。荀彧が目にしたのは一、二人で、凡将ならばただの疲労や過労だ、と見過ごしてしまう可能性もあった。しかし、彼女は曹操軍を司る軍師である。すぐさま異変を察知し、顔色を変えた。正門をともに守る程昱にも伝令を飛ばし、すぐに状況を整理しようとする。

 そこから、情報はどんどんと増えていった。声を大きく叫んでいた者から、優先的に身体を折って倒れていった。各部署で均等な数が倒れているわけではなく、一点において集中的に被害が出ている箇所がある。そしてその被害者の中に、程遠志の姿もあった―――最後の報告を聞いて、荀彧は顔を僅かに顰めた。今なお、張邈軍は攻めてきている。その防衛の最中で倒れられるのはまずい。

 荀彧の守る部署で倒れた兵士は比較的少なく、まだ全体に動揺は波及していない。士気も十全を保てている。彼女はすぐさま程遠志の方へ兵士を派遣した。

 

「桂花ちゃん」そこで、少し離れた場所で士気をしていた程昱が戻ってきた。「どういうことですかー」

「突然、倒れだす兵士が続出してる」

「……どういうことでしょう」

「毒よ」荀彧は断言した。「毒が盛られているわ」

 

 ―――荀彧は、限りなく少ない思考で答えを導き出した。

 事実、張邈は毒を仕掛けている。兵士たちが意味も分からず倒れ、動揺する最中、荀彧だけがその答えに辿りついた。「だけど」と、荀彧は続ける。「どこで盛った?」

 

「集中的に被害が出ている場所がありますから、そこの兵士が裏切ったのでしょうか」

「……集中的とはいえ、私のところでも、他のところでも被害が出てる。その一点の兵士が裏切っただけではこの惨状は引き起こせないはず」

「ならば、全体で内応者が出たと?」

「それも変ね―――」荀彧は、そこで閃いた。「いや、そうじゃない! 董卓軍だわ」

「董卓軍?」

「張遼の裏切りから、董卓軍の内情は筒抜けになった。董卓が張邈に捕まっていることから、兵士たちが嫌々従っていることも明らかになった。こちらから伝令や偵察を安全に潜り込ませることもできたし、城を持たせるため張遼が連れてきた兵士や、張遼に従いたいと訴える者もいた」

「その兵士の中に―――」

「董卓軍を装って、張邈の手の者が侵入していた」

 

 これもまた、的を射ていた。張邈の思考を完全に読み切っている。

 だが、と荀彧は思う。城に入ってきた人間は、十人いるかいないかである。皆、武に自負を持つ人間ばかりであり、その顔を張遼自身知っていた。それ故信用して中に迎え入れたのである。

 つまり、その人間が裏切っていたのだとすれば、張邈は前もって董卓軍に手の者を潜入させていたことになる。張遼や華雄が疑念を持たない程度の期間を。周りの董卓軍兵士に同族意識を持たせる程度の期間を。それがひょっとすれば反董卓連合の折まで遡るのではないか、と考えると荀彧の背に寒気が走った。董卓軍に潜入させる余裕があるならば、当然知己である曹操の元や、隣国の陶謙の元へ潜入させる余裕もあるはずだ。徐州で行われたとする虐殺も、その前の徐州攻めも―――延いては曹操の父の殺害も張邈が絡んでいるのではないか。そして今なお、曹操が徐州で足止めを喰らっている理由も。

 計画的だ、と荀彧は確信した。戦慄が走ったと言ってもいい。董卓軍に潜り込ませた兵士の中には、この戦いの前に死んだ者もいるだろう。策が策として起動せず、無駄死にとなったものも多くあるはずだ。それでもいい、と思ったのだろうか。曹操を兗州から押し退けるためには、必要なことと割り切ったのか。

 では、その原動力は何なのだ。張邈のことを曹操は信頼し、友情以上の感情を持っていた。そのことを荀彧は知っている。「いずれ、身も心も手に入れるべき存在」と、閨で囁くように呟いていたことを嫉妬とともに記憶している。それほどまでに想われる女が、何故敵意と執拗さを剥き出しにして攻めてきているのだ。

 

「桂花ちゃん?」

「あ―――」荀彧は思考の海に溺れかけていた。「な、なに?」

「董卓軍の兵士が犯人だったとして、どこで毒を混入させたのでしょうか」

「それは、そうね。恐らく、兵士へ作らせている配給のご飯の中ではないかしら」

「私もそう思いますー。一部に被害が出たのはその部分に多く毒を混入したためで、他の部署にも一応の被害が出たことも理解はできます」

 

 荀彧の言葉に程昱も頷いた。軍師二人が導き出した答えは一致していた。

 

 

 ―――しかし、これは間違っている。的を射ていない。

 

 

 張邈の手の者は、決して料理に対して毒など持ってはいない。もっとより容易い手段であった。

 井戸である。各所の井戸の中に、毒を投げ入れただけのこと。この簡単な事実に荀彧や程昱が辿りつかなかったのは、井戸に見張りを配置していたことにある。人体に悪影響をもたらす程度の毒を、配置した人間の目を欺いて設置することなどは物理的に不可能だと思っていたのだ。

 

 ―――彼女たちは見誤っていた。

 張邈の作戦が計画が長期に渡るものだと見抜いた荀彧も、その陰湿さと執拗さを大きく見誤っていた。

 

 鴆、という鳥がいる。史記や漢書にも記された鳥であり、江南地方に主に生息するとされていた。その羽を使った毒は鴆毒と呼ばれ、無味無臭で透明の液体であり、僅かな量で数千人の人間を殺したという伝承が残っている。それがあくまで伝説的なもので、少々大袈裟な表現ではあるものの、この毒に対する脅威を表す明確な逸話だと言えるだろう。

 この妖鳥は、晋から唐の時代の間程で絶滅する。時の権力者である司馬炎や劉裕が徹底的に駆除し、後顧の憂いを絶ったことが原因である。そして、この後漢の時代においても数は少なく、殆どの人間は目にすることなく一生を終える程度の存在であった。荀彧や程昱も、あくまで文献上でしか存在を理解していなかった。

 それを張邈が前々から用意しており、この鄄城という城を落とすために用いたとは―――彼女たちには想像もできなかった。それに、そもそも井戸を汚染させるほどの毒を盛れば多くの人間から恨みを買うことになるだろう。占領後の治世にも明らかな影響があるはずだった。

 

 そこまでの狡猾さと、執拗さ。もし程遠志が知れば目を大きく開けて驚き、その卑怯さに息もできなかっただろう。或いは、その姿に裴元紹を連想したかもしれない。黄巾に身を窶してまで程遠志を追いかけ、餓死しかけてながらもその恨みを胸に生き残り、張邈に拾われるまでに至った。

 

 そんな彼と、この張邈はどこか近しい部分がある。

 もしかすれば、そう思ったかもしれないが―――程遠志がこのことを知る機会はない。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

張邈決戦編 第十一話

 

 

 

 張邈の策は、さまざまな影響を両陣営にもたらした。味方陣営の中にも当然動揺が伝わった。張超は動揺を通り越して顔色が土気色になっていたし、裴元紹以外の張邈を慕う将たちの誰もが真意を疑った。すぐさま離反するものが誰一人としていなかったのは、ここまでの彼女が高めていた名声あってのことだろう。毒を―――鴆毒を使うということは、それほどまでのことだった。

 大陸に名声を響かせていた張邈も徐州で虐殺を行ったとされる曹操同様に悪評をばら撒かれることにいずれなる。誰しもがそう理解した。

 それでも、張邈は揺らがなかった。この戦いにすべてを賭けている。何がそこまで彼女を動かすのか。曹操に対する因縁も、鄄城に対する思いも何もないはずだというのに。それは、彼女以外の誰にもわからないことである。

 

 そして当然、張邈軍の士気が下がったのと同様に―――それ以上に、曹操軍の士気も下がった。被害の総勢は百人足らずに留まったものの、恐るべき程の精神的衝撃が襲い掛かった。毒が盛られ、その場所がわからない。自分も毒を飲んでしまっているかもしれない。

 結局、その日の張邈軍の攻撃を凌ぎ切り、毒が井戸に盛られたことを荀彧が遅れながら察することはできても、十全以上に保たれていた士気が元に戻ることはなかった。将軍の中でも、程遠志は倒れ、意識を取り戻したもののいつものように身体を動かすことはまだ叶わない。

 そして、城内の井戸は確実に汚染されていないといえるもの以外九割は打ち壊した。必要なことではあったが、かなり余裕のあった水量は激減した。井戸以外に確保している水瓶も存在したが、それを合わせてもおおよそ、もって十日強。城の包囲が始まってから二十数日後には水が完全に確保できなくなる。

 

 二十数日後には、確実に曹操はこの城へ辿りついている。荀彧はそう信じていたし、敵方の張邈は確信している。それ故この水不足も本来ならば心配することではないのだが―――それを一兵卒が確信することはない。水がなくなり、残り残量もほぼ絶望的だとわかれば当然戦意を喪失する。

 

 

 鄄城は、ほとんど絶望的な様相を呈していた。

 

 

 その城の中で、未だ諦めていない者がいる。

 

 

「風」荀彧は汗を流しながら言った。「華琳さまは、どれくらいで戻ってくるでしょうね」

「早くて、二十日ほどかとー」

「あと十日近くは、持たせる必要がある」

「しかし。今のままでは、明日明後日と持たせることも厳しいでしょう」

「兵士の士気向上を、何よりも優先しなければならない」

 

 荀彧は顎に手を当て、少し考えこんだ。

 その時、扉が開いた。荀彧と程昱は警戒心を露にしてそちらを見る。この時間帯に敵が侵入したとは考えづらいが―――今のこの戦況では敵以外も警戒しなければならない。

 が、現れたのは敵でも、反乱を起こした兵士でもなかった。三人の人間。程遠志と鄧茂と張曼成。

 

「よお」程遠志が声を上げた。「元気かよ」

「今のあんたが、それを言うの」

 

 皮肉なことに、その言葉を喋る彼が一番不健康そうな顔色をしていた。土気色の表情で、鄧茂に肩を借りている。荀彧は心配するような素振りを見せることなく呟いた。

 

「勝ったと思ったんだけどな、このざまだ」

「運が悪かったわね。毒が仕掛けられたのは、あんたの持ち場が大部分だった」

「流れを見誤った。張遼がこっちにきて、完全に掴んだと思ったが―――掴み切れていなかった。何の毒を喰らったのかは知らねえが、かなり強烈な奴なのは確かだな。俺と同じ状況で喰らった人間はさっき死んじまったよ」

「……致死性の毒物。それに見張りの人間は、どうして気がつかなかったの」

「知らねえよ。というか、それを考えるのも億劫なほど頭が痛え」

「あんたに死なれては困るわ、今」

「お前が言うか、他ならぬお前がよ」

 

 力なく程遠志は笑った。ふ、と声がした。荀彧も一瞬だけ意地の悪い笑みを浮かべ、すぐに元の無表情に戻した。

 

「まあ、だ。とりあえず、今日は耐えきったわけだ」

「そうだな」張曼成は顎に手を当てた。「今日、どうして張邈は夜襲をかけて徹底的に攻めなかったのか。徹底的に攻めれば今日中に落とせたかもしれない」

「下手に強行できない程度には、相手の兵士の士気も落ちてるんだと思いますー」

「相手の士気が低いならば、このままでも耐えることは可能だろうか」

「いいえ」程昱は首を振った。「張邈軍の士気低下は、毒を使ったからです。使われた側の我々よりも明らかに状況は上です。張邈本人が演説を続け、兵士に適切な休みを取らせれば、この戦場に限れば数日で士気を回復させることが可能でしょうー」

 

 程昱の言葉に荀彧も頷いた。

 ならば、である。結局のところ兵士の士気回復が最優先である。今のままでは現状維持も難しいだろう。張邈軍の兵士が董卓軍を装って侵入した可能性がある、として張遼に連絡を取り、怪しい者は既に処分した。すなわち、恐らく新たな毒物が井戸や食事に混入することはないはずである。

 それでも、それを今の兵士たちは簡単に信じられない。士気が低下すれば、戦意も喪失する。戦意が喪失すれば疑心暗鬼も生まれる。そして、疑心暗鬼が生じやすい土壌はすでに出来上がっている。兵士の数を増やすため、城内に民兵を招き入れたことは今の鄄城において完全に裏目となっていた。何もかもがうまくいかぬ状況。程遠志の方へ来ようとしていた流れが反転し、悪くなっている。

 

「演説と言えば」荀彧は小首を傾げる。「厳政はどこへ行ったの?」

「兵士への演説を任せたらよ、消えた」

「……大丈夫なんでしょうね」

「厳政は逃げねえよ。あいつはそういう奴だ」

 

 顔を真っ青にしながらも、程遠志は決めつけて言った。鋳型に嵌め込んだような言葉だった。程遠志らしい、とかつて抱いた感想を再び思い、張曼成は小さく笑う。

 鄧茂は笑わなかった。程遠志が怪我を負ったところを彼は少し前まで見たことはなかった。呂布にそれを止められ、今度は毒を身体に入れられた。この毒で死んだ人間もいる。平静でいれるはずがなかった。

 

「とにかく、だ。流れをもう一回引き寄せなければならねえ」

「程遠志、一回休まないと」

「鄧茂」程遠志は首を振った。「休んでる時間なんてねえよ。今はこの状況を覆さねえと」

「覆す策は、何か考えているんですかー?」

「策はよ、全部任せるよ、お前らに。最初から俺にできることは一つだけなんだ」

「流れ、ですかー」

「そうだ。それを変えることが俺に唯一できることで、この状況を覆すことにつながるはずだ」

 

 程遠志は程昱を、そして荀彧を見た。策はあるかと問いかけるようだった。

 荀彧は目を逸らさなかった。「あるわ」程昱もまた、同じだった。「あります」

 

「……えらく即答するじゃねえか」

「舐めないで。董卓軍を装った張邈に嵌められたのは事実だけど、それを利用できるのも確かだわ。張邈軍が動揺している今こそ、董卓軍へ使者を送り、軍自体を遅延させることもできるはず」

「そんなこと、できるのかよ」

「できます。ですが、それでも、恐らく時間延ばしにしかならないでしょう。華琳さまが辿りつくまで間に合わず、無駄に終わってしまう程度の時間ですー。それまでの間に」

 

 荀彧と、程昱はそこで程遠志を見た。

 彼は小さく、口の中で呟くように「それまでに」と程昱の言葉を真似て発した。

 

「それまでに、流れを引き寄せて、兵士の士気を上げて」

 

 どこか唇を噛んで、悔しそうに荀彧は言った。

 

「なんだよ」程遠志は目を大きく開け、驚いた。「俺の流れを信じるのか」

「……ええ、そうね。信じるわ」

「軍師のお前が、か」

 

 程遠志は口が開いたままになった。荀彧や程昱が自身の流れを少しずつ信じてくれていることは彼にも理解できていた。それでも、公の場で荀彧が断言するとは思わなかった。程昱は何も言わないが、荀彧の言葉に否定をせず、ただ程遠志の方を向いていた。それだけで内心は十分に察せられた。

 妙な感情が湧いてきた。正反対な感情だった。今まで認められることのなかった流れ。それが堂々と認められたことに対する嬉しさと、素直になれぬ悪戯心が湧き出てきた。嬉しさの方が割合が大きく、それを恥ずかしがるように悪戯心が湧き出てくる。何だこの感情は、と程遠志は目を白黒とさせた。同時に、この感情に身を任せてみようとも思った。

 

「お前と俺は、多分、そこまで仲良くなることはねえだろうな」

「そうね。そもそも、男と私が仲良くなることなんてないわね」

「処刑もされかけたしよ」

「……それについては謝るわよ。貸しだと思っていいわ」

「それに、この戦いだって、生き残れないかもしれねえよな」

 

 荀彧は急に何を言うのだ、と鋭い目になった。程遠志は涼しい顔である。「だから」と言葉を続けた。

 

「言い残すこと、みてえなのはねえか」

「別に、ない」

「具体的なことを言うんなら、誰にも言えず隠していた秘密とか」

「ないわよ。脈絡なく、急に何を言うの」

「俺はある。というか、俺らにはだけどよ」

 

 なあ鄧茂、と程遠志は横を向く。急に話を振られて鄧茂も固まった。固まって、何を言いたいか察した。

 程遠志には様々な思惑があった。場の空気を和らげるためという理由も、無駄な会話を続けるべきだという理由も。しかし、そのような企み以外にも、単純に素直な嬉しさを隠すための悪戯心が鎌首を上げている、というだけの可愛らしい理由もあった。毒を喰らい、自分の弱さを知ったからこその感情かもしれない。自身の心の嬉しさを、誤魔化すように程遠志は意地悪く笑いながら言う。

 

「鄧茂はよ、実は男なんだよ」

「――――――はあ?」

「誰にも言うなよな。特に、曹操さまには」

「こんな土壇場で、何を急にそんな詰まらない嘘を」

「嘘じゃないよ」鄧茂はそこで、ようやく笑った。「実は、だけど」

「はあ?」

 

 荀彧は固まったまま、動かない。程昱は片眉を上げ、鄧茂の方へ行き、胸を触った。「ち、ちょっとぉ!?」と鄧茂は妙に色っぽく喘ぎ、程遠志を閉口させたが、程昱の顔は驚きに包まれた。「本当ですねー」と、少し掠れた声で程昱は言う。「嘘でしょ」と荀彧は言い、鄧茂に手を伸ばして―――触らず戻した。「風、嘘でしょ?」「本当ですよー」と会話を交わし、鄧茂にも問いかけた。「嘘でしょぉ?」「本当だよ」

 ―――すぐさま、程遠志の方に涙目で向き直った。

 

「なんでこんな時にあんたはそんなことを言うの!?」

「こんな時だからだろうが。あ、さっきの貸し使っていいからよ、これは曹操様には言わないでくれ。普通に怒られそう」

「言えないわよ! 言ったら多分とんでもないことになるわ!!」

 

 荀彧は絶叫し、程遠志の脛を二、三度蹴る真似をした。鄧茂の肩を借りている程遠志に流石に暴力は振るいづらかったらしい。

 程昱はその姿を見て少し笑った。この鄄城に籠る面子で、このように団欒とした会話をしたのは初めてだった。張曼成も微笑し、鄧茂も引き攣った表情ながらも笑みを零した。そして、睨み合っていた程遠志も、荀彧もやがて何かを皮切りに笑い出した。程遠志が大笑で、荀彧は失笑にも似た笑いではあったが、笑ったことには他ならない。皆笑った。

 

 

 

 兵士たちの士気は下がっている。毒を入れられ、疑心暗鬼が生ずる一歩手前である。

 それでも。

 それでも―――この城の中で、未だ諦めていない者たちがいた。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

張邈決戦編 第十二話


めっちゃ難産でした(;'∀') お待たせして申し訳ありません<(_ _)>
皆さまからの感想、本っっ当に励みになってます!!!!!



 

 

 流れを引き寄せる、ということを、今の状況から引き起こすのがどれだけ難しいか。程遠志にはよくわかっている。

 流れとは一度傾けば傾き続けるものである。彼の人生哲学が「流れに流されること」というように、悪い流れをそう容易く自発的にいい流れにはできない。

 孫策は言った。程遠志が流れを完全に掌握したのならば、恐らく誰もが敵わないだろう。それを行おうとしていた。誰もが敵わぬほどの高みに上らねば、この状況を覆すことはできない。程遠志はそう考え、この戦場の流れを完全に掌握しようとした。

 董卓軍は動きを止め、張邈軍全体がまだ士気の低下が続いていることから、満足な攻勢に出られていない。荀彧と程昱が攪乱して時間を稼いでいる。新しく加入した張遼は董卓軍と戦うことは本意じゃないだろうが、それでも戦っている。程遠志が動けぬから、鄧茂と張曼成はいつも以上の力を放って奮起している。厳政が何をしているのか程遠志にはわからなかったが、彼がこの城のために動いているのだということは、理解できた。そのために自分は何ができるのか。何をしなければならないのか。それもまた、理解しているつもりだった。「流れを操ること」こそが自分にできる唯一無二の才能なのだ。

 

 

 

 流れを自発的に引き寄せた、ということは程遠志にはまだあまりない経験である。

 黄巾の砦に侵入したときは偶発的に転んだことからだった。董卓軍と戦った時だって、夏侯惇を守ろうとしたのは本能的で、反射的なものだった。かつて黄巾に属していた際の夏侯淵、荀彧との戦いは、自発的と言えば自発的ではあったが、今回の戦況とはかけ離れている。あの時は「逃げる」という選択肢もあったが、もう今その選択肢は存在しないと言ってもいい。そもそも、今の状況に「流れ」が変わるような前兆は見当たらなかった。

 全くの無の状態から、流れを作り出さねばならない。

 程遠志の人生の中で、最も苦境に立たされていると言ってもよかった。この苦戦を引き起こした相手に裴元紹が混ざっているということは何とも皮肉なことだ、と程遠志は思う。黄巾の砦で殺しておくんだった。厳政や張角三姉妹に遠慮をするべきではなかったのだ。

 

「………………」

 

 後悔しても仕方がない。

 程遠志は息を吸い込み、瞳を閉じた。思考を活発化させ、どんどん奥深くまで潜っていく。外では刀と刀がぶつかる衝突音、味方から漏れ出る悲鳴が響いているが、それはいつの間にか彼の耳に入らなくなった。無音の世界が、程遠志の周りで構成されたのである。

 ―――いつにもなく集中できている。気負っているのだ。体中の穴という穴から汗が噴き出している自覚があった。荀彧や程昱。一流の軍師である彼女らが選んだ策は「遅延」だった。それも、曹操が間に合わぬでしかできない期間である。そして、その期間を程遠志に託した。

 信頼されたのだ。それを考えると、気負いや緊張をしないはずがなかった。元々、このような場に自分は力不足もいいところだ。程遠志は心底そう思っている。そのような人間に、この城の未来を頼むという選択を軍師たちはした。それが正しいか間違っているか程遠志にはわからない。信じられている。自分の流れが、この瞬間において言えば信用されているのだ、ということだけ理解できた。

 

 

 役に立たねばならない。

 程遠志はそう思い、いつも以上に集中した。痛む頭を無理に動かし、身体を痙攣させた。その姿は傍目から見れば物笑いの種になるようなものだったかもしれない。そうだとしても、外見などどうでもいいと言わんばかりで彼はこの状況を変えるために粉骨砕身した。

 

 粉骨砕身した、が。

 

 ――――――その努力を嘲笑うように、未だ流れが変わる気配はない。

 

 

 

 

 

 程遠志は焦燥感を持った。明らかに流れが掌握できていない。何かが変わるような感覚すら掴めない。

 自分が空回りしているわけではない、と思った。状況が悪すぎるのだ。自分の能力を超えている。程遠志は何か言い訳をするようにそう思い、すぐさま自分を殴りつけたくなる衝動に駆られた。満足に身体を動かすことができれば迷わず行動に移していただろう。

 

「馬鹿が」程遠志は、代わりに吐き捨てた。「俺が弱音を零したら、一番駄目だろうがよ」

 

 言葉はそこで打ち切り、再び目を瞑る。

 外の音が耳に戻ってきた。戦闘音や、悲鳴。様々な環境音が耳朶を打つ。先ほどまでは聞こえなかったはずの音や声である。集中が途切れてきている。焦燥は強まり、汗はさらに強く流れる。それでも、それら全部を無視して程遠志は痛む脳を強引に動かし続けた。

 俺が。俺がこの状況を変えなければならない。託されたのだから。その使命があるのだから。

 

 ……程遠志がそこまで思い込んで、自分を追い込んでも状況は変わらない。

 先ほどまでの集中していた無音の世界にすら辿りつけない。集中力が途切れている。

 あとどれだけ荀彧の策は戦況を保てるのだろうか。董卓軍の遅延が限界に達し、張邈軍が今まで通りの士気を取り戻せばすべてが崩れる。その時が二日後なのか。半日後なのか。半刻後なのか。それよりも短いのか。誰にもわからない。

 

 この世に、何もかもを掌握できる都合のいい「流れ」が存在するのか。曹操は一考はするに違いないが、やがて否定するだろう。劉備だってそう容易くは受け入れられないだろう。孫策は肯定するかもしれないが、全てを受け入れるわけではないだろう。或いは、この鄄城を囲む張邈からすれば、詰まらない群集心理だと断ずるに違いない。城の中に籠る荀彧や程昱は、程遠志が盲目的に信じる「流れ」というものに中てられ、存在しないものを幻視しているに過ぎないのだ、と。

 誰だってそうだ。殆どの諸侯が、武将たちが、軍師たちがそう思うことかもしれない。

「流れ」や「運」は、この詰み切った状況を覆せるはずもない。誰もが、そう思うに違いない。

 

 だが、それでも。

 程遠志は愚直に、諦めることなく流れを引き寄せようと励み続けた。

 

 

 そして。

 そこで。

 

 

 程遠志は、世界が再び無音に包まれた、ように思えた。

 しかし、それは間違っている。

 例えるならば、大きな光を目に浴びた際、僅かな間視界が完全に眩まされたと感じるのに似ている。無音に包まれたのではない。あまりの大音量に耳が麻痺し、一瞬ではあるもののすべての音が掻き消されたのである。耳を潰すか、と疑わしいほどの声がしたのである。遅ればせながら、程遠志はそのことに気づく。あまりの轟音に顔を顰め、なんだよと文句を言いたげな顔になる。

 迫力のある音で、何かに挑戦していくような感じだった。そこに至ってようやく、この轟音が歌であることに程遠志は気がついた。可愛らしい歌声に勝気な旋律。信じられないほど大きな音量。それらすべてが非調和的でアンバランスだったが、不思議とそれが持ち味なようにも思えた。

 程遠志はそのように考え、ハッとする。意識を奪われていた。それどころではないというのに。音源の方を彼は睨みつけるようにして見て―――そこでまた固まった。

 

「……張角、三姉妹?」

 

 城の中。一部の傷兵や、農民を保護する場所。そこの一角から、三人の少女が姿を見せていた。

 歌っているところを見るのは初めてだった。程遠志も、鄧茂も。彼女たちが旅芸人をしていたということは知識として知っていたが、それ以外のことは何も知らない。

 

「綺麗じゃないですか?」

 

 ふと隣を見ると、厳政がいた。

 程遠志は「そうだな」と思わず口から零れ落ちた。偽らざる本音だった。慌ててそれを打ち消すように首を振る。

 

「お前、今までどこに」

「大変だったんです」厳政は泣き出しそうな顔をした。「張宝さまたちに助力を頼もうとしたら、民兵たちが反乱を起こそうとしてて。張宝さまが人質に取られてそれを何とか奪い返して。どうにかして懐柔して、説得して。今までで一番自分の不運を恨みました」

「お、おう」

「でも―――どうにかしてここまでこぎつけました」

 

 厳政は泣き出しそうであったが、誇らしげでもあった。

 張角たちが歌い、踊るのは城の中でも最も安全な、傷兵を寝かせる場所である。それでも、今、戦場に立っていることに違いはない。程遠志は思い出した。黄巾の砦に潜入した折、自分が裴元紹の一味を一人斬った時である。三姉妹は噴き出す血や崩れ落ちる兵士に怯えるばかりで何もできなかった。そのような彼女らが戦場の一端に立つ、というのは、非常に為しがたい決断だったことだろう。また、それを懇願する厳政も、彼女たちとの交渉に難儀したはずなのだ。

 その結果が、ここにある。

 

「でも」程遠志は顔を引き攣らせる。「なんで、歌を」

「言ったじゃないですか。ぼくの演説じゃこの状況は変えられないって」

「言ったかもな」

「ああ言った後、ぼく以外の人間なら変えられるかもって思ったんです」

「それが」

「それが、張宝さまです」

 

 厳政は胸を張った。彼が平時からここまで堂々としているのは、初めてかもしれない。

 

「どういうことだよ」

「だから、張宝さまならこの状況を覆すきっかけになると」

「歌を、歌ってるだけじゃねえのか」

「程遠志さん」厳政は真面目な顔になった。「あまり抱え込みすぎないでください」

 

 はあ? と程遠志は言葉を返そうとしたが、声が出なかった。厳政の表情が今までにないほど真面目だったし、彼の言っていることが胸にスッと入ってきた。

 気負っている。そんな自覚があった。しかし、それは責任感とも言い換えられるもののはずだ。そのまま程遠志は厳政へ言葉を吐いたが、彼は小さく首を横に振った。

 

「周りを、見てください」

「周り?」

 

 程遠志はゆっくりと、しかし精一杯身体を動かした。

 歌を歌う張角三姉妹の近くでは、民兵たちが必死ながら、どこか楽しそうに付き従っていた。傷兵たちも、同じように笑顔を浮かべている。

 

「楽しそうにしてるな。でも、それだけだろ?」

「ぼくに対して、半狂乱で挑んできた民兵たちや、完全に戦意を失っていた傷兵たちが、楽しそうに笑っているんです。それは、それだけのことですか?」

「――――――」

 

 程遠志は黙り込んだ。不意に、耳に怒号が飛び込んできた。思わず耳を抑える。

 

「民兵たちが、戦意を盛り返してるんです。他の―――外で戦う兵士たちも、変わるはずです」

「あの民兵や、傷兵みたいに上手くいくのか」

「歌が、この状況を変えるんです」

「歌がこの状況を覆すってのかよ」

「そこまでは無理かもしれません」

 

 厳政はたはは、と笑った。それでも、と続ける。

 

「何かは変わったし、覆すきっかけにはなると思うんです。士気が完全に元に戻るわけでも、軍が蘇ったわけでもない。それでも、向かい風を変える程度のことは、できたはずです」

「………………」

 

 先ほどまで、程遠志は何も聞いていなかった。だから気がつかなかったのだろう。

 味方が外で戦っている声がした。最初は悲鳴だったそれが、いつしか怒号に変わっていた。逃亡する兵士が減っている。そんな妙な確信が持てた。

 それでも、この歌がもたらす効果は、今のままでは一時的なものだ。いずれは冷めてしまう。だから厳政は「この状況を変える」と言ったものの、「この状況を覆す」とは言わなかったのだろう。それをするのは自分ではない。役割分担だ。荀彧と程昱が頭を使い、張遼が矛を振るい、鄧茂や張曼成が奮起するのと同様に、彼は自分のしなければならないことをしっかりとこなした。 

 

「程遠志さん。流れを掌握する、っていうのは難しいことだと思います」

「そうだな」

「正直、一人だけでは無理難題なことかもしれません」

「そうかもしれない。それでも」

「それだからこそ、ぼくたちも流れの一部だと思ってください。程遠志さんの役割の中に、ぼくたちも含まれてるんだと。そう思ってくれたら、覆ります」

「言い切るじゃねえか」そこで、程遠志は初めて笑った。「どうしてそう思う」

「ぼくの不運を覆したのも、程遠志さんじゃないですか。だからわかるんです」

 

 理屈になってねえな、なんて言って程遠志はまた笑った。だからいいとも思った。そもそも、流れなんて理屈の対義語みたいなものだ。そんな自分が理屈と常識を軸に考えることこそが間違っている。そう、破顔しながら考えた。

 

 そこから言葉はなくなった。厳政は程遠志から目を切り、張角三姉妹の方を見つめた。程遠志は静かに目を瞑り、先ほどの続きともいえる姿勢になった。

 無音の世界は訪れない。それでいい。先ほどの逆のような状況だった。怒号を飛ばす男。鬨の声を上げて味方を鼓舞する女。何もかもが聞こえてくる。そのような幻覚に囚われた。それは、いつの間にか懐かしい声になった。

 

 

『程遠志はまだなの!』と荀彧が言っている。

 

『どうでしょうー?』と素知らぬ顔で程昱が言っている。

 

『あいつならば』と張曼成が意味ありげに微笑む。

 

『大丈夫―――大丈夫だよね?』と鄧茂は心配そうに、それでも信頼を瞳に浮かべて戦っている。

 

 

 幻覚だとしても、現実でもこのような状況になっているに違いない。

 程遠志は目を開けた。もう閉じる必要はないと素直に思えた。

 

 

 

 いつの間にか、前兆は訪れていた。流れが変わるきっかけ。蝋燭の炎の揺らめきほどの小ささだったが、確かに存在していた。程遠志に見えていないだけだった。

 あとはこれを掌握するだけだ。前のように張遼が降伏したからと油断してはいけない。完全に、掌握する。厳政が言ったように容易いことではない。しかし、それでも、まったく不可能なことにも思えなかった。先ほどまでの気負いも消え、責任感は残ったものの嫌な感じはしなかった。

 

「俺ならば、できる」

 

 程遠志は、そう呟くように言った。

 

 

 

 

 ――――――流れや運が、この詰み切った状況を覆せるはずもない。

 誰もがそう思うに違いない。

 偶然だとか、奇跡だとか。そのようなものがこの状況に降り立ってくることはない。何かを祈るだけで、拝むだけで世の中の物事がそう容易くは変化しない。不可能なものは不可能なのだ、と超常現象を信じる人間にはいずれ気づく時が来る。

 

 

 しかし。

 それでも。

 

 

 軍師たちが策を練り、武官たちが戦い、旅芸人が鼓舞した。

 祈るだけでも拝むだけでもなかった。誰もが全力を、人事を尽くしていた。

 偶然が何かを変えるわけではない。奇跡が舞い降りてくるわけではない。やるべきことはやり終えていた。

 

 

 すなわち。

 

「きた」

 

 

 すなわち、この瞬間が来ることは、偶然などではなく。

 必然、と呼ぶべきものである。

 

 

「―――完全に、掌握した」

 

 程遠志は叫ぶように、そう断言した。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

張邈決戦編 第十三話

 

 

 

「城が、士気を取り戻した……?」

 

 張邈は不可解な思いにさせられた。毒を撒き、士気を落とした。まだこちらの軍の士気も戻っていないことから今日中に落とすことまでは望んでいない。それでも、明らかに今の現状は異常だった。

 張邈軍と曹操軍は共に士気が低下している。どちらも毒が原因であったが、互いの状況が等しいわけではない。仕掛けた側と仕掛けられた側。時間が回復させてくれる張邈軍と、毒の疑心が蔓延る曹操軍では置かれている立場が違う。その差は時間が経つにつれてだんだんと開いていき、明日、明後日にはもうどうしようもなくなる。最初は「いずれ来る援軍」という時間を味方につけていたはずの曹操軍が、その時間が原因で負けるとは何とも皮肉なものだ。張邈はそう思っていた。

 そう思っていた、というのに。

 

 城に籠る曹操軍が、張邈軍の攻撃を弾き返し始めていた。

 張遼の奮戦、荀彧、程昱の防戦。彼女らの力があれば不可能なことではない。しかしそれは、戦場で実際に戦う大部分の兵士たちが士気を取り戻すことが必要不可欠なはずだ。すなわち、今の現状では不可能なことのはずだった。

 だというのに、目の前の現実はそれを否定している。

 不可解で、不快だった。張邈は無表情をそれでも崩さなかったが、裴元紹は焦れて暴れていた。張超も理解ができぬとばかりに顔を歪めている。

 

「おかしいだろ、どういうことだよ」

「姉上」張超は汗を額から垂らしていた。「士気が、戻っているのでは」

「あり得ない。あの状況から兵士の士気を一瞬で戻すなんて、馬鹿げているわ」

「しかし……」

 

 現実で、その馬鹿げた現象が起こっていた。張邈にも説明ができない現象である。

 

「流れが、変わったってのか」

 

 裴元紹が呟くように言った。かつて程遠志との砦での小競り合いを思い出し、臍を噛んだ。

 張邈はそれを聞いて、即座に否定した。「あり得ない」「流れなど存在しない」体中から奔流のように否定する感情が流れ出てくる。それでも無感情、無感動でいられたのは彼女だからだとしか言えない。

 

 

 

 

 

 

 そして―――数日が経過したが、未だ城は落ちない。

 

 曹操軍の士気が上がったとはいえ、それでも問題はない。張邈はそう強引に思い、強引な攻めを繰り広げていた。動きの悪い董卓軍を強引に動かし、士気の下がる自らの軍を鼓舞し続けた。

 流れに逆らうように、張邈は藻搔いていた。何が彼女をそこまで突き動かすのか。それはわからないが、この戦いの後のことなど考えぬ、というような戦い方だったことは間違いない。城に籠る曹操軍の士気が戻ろうとも、まだ間に合う。間に合わせる。執拗で執念じみた感情の奔流がそこには見えた。

 事実、程遠志が流れを掌握して今でも、楽観的な思考をする曹操軍の人間はそこまで多くなかった。未だわからない。荀彧は曹操がこの城に到着するにはまだもう少しかかると予想した。力押しに切り替えて、必ず落ちぬとは言い切れない。格段に状況が良くなったとはいえど、安心できるほどではない。

 

「まだ」張邈は、小さく言う。「まだわからないわ」

「そうだ、わからねえ。十分落ちる可能性がある」

 

 裴元紹とそれに同意した。彼の目は血走り、まだ無表情を維持する張邈とは真逆の容貌になっていた。

 

「あと、華琳が来るまで五日程度。それまでに落とす」

「しかし、姉上。具体的な方策は」

「ないわ。最早、この状況に策や戦術など必要じゃない。やるべきことは、一日中、兵士を酷使して力攻めを続けることだけよ」

「それでは、兵士から脱走者も出てしまいます!」

「そうね」張邈は首肯した。「それでも、この城は落とす必要がある。華琳が居ぬ間に兗州を完全制圧しなければ、すべてが水泡に帰すわ」

 

 例え、何もかもに恨まれたとしても。張邈は小さく漏らすようにそう続けた。

 

「……これまで、私たちは夜襲を一切かけてきませんでしたよね。それは相手の士気を落とすだけではなく、こちらの軍に十全の働きを期待する効果もありました」

「失策だったわ。相手の士気が完全に元に戻った今、完全に裏目となった」

「それならば、夜襲を行うのではなく、これまでと同じように攻め続けましょう。仮に曹操が帰ってきたとしても、万全のこちらの軍で勝ってから、兗州を制圧すれば良いではないですか。今の軍には休養が必要です、この城に全力を尽くす意味など」

「ふざけるな」裴元紹は言葉を挟んだ。「それじゃ、程遠志を倒せねえだろうが」

「お前は黙っていろ」

「いいえ、黙るのは貴女よ。張超」

 

 な、と張超は言葉を失う。何故だ、どうして。そう瞳で問いかけるも、張邈の表情は変わらずいつも通りのままだった。

 無表情の奥に見え隠れする、謎の執着の理由がわからなかった。裴元紹が程遠志に執着しているのは張超にも理解できるし、彼を知る人間ならば誰だってわかっていることだろう。だが、自らの姉である張邈がこの城に、この戦いに、ひいては曹操軍にここまで執着する理由がわからない。

 

「力で攻めるわ。華琳が来る前に、どうにかして落とさなければならない」

 

 自分に言い聞かせるような言葉だった。無感動だった声質が、多少変化していた。気負いか緊張か。張り詰めたような感情がその声に残っている。それ以外にも、仄かに別の感情も伺えた。激怒、怨嗟、諦観。さまざまな、普段の張邈ならば絶対に抱かないであろう感情たちだった。

 

 果たして、張邈軍は鄄城へ総攻撃をかける手筈になった。「流れ」に逆らい、歯向かう選択肢を選んだのである。

 裴元紹は程遠志の流れを知っているから、嫌な予感はした。張超は程遠志という男のことなど知らないが、それでも謎の、言葉にできない寒気を感じていた。おそらく張邈軍全体に言えることだろう。負けるのではないか、という絶望感が充満しつつある。演説などでなんとか誤魔化してはいたが、それがいつまでも持つわけではない。

 真の意味で動揺していないのは、張邈だけだった。感情の発露が見られないわけではないが、それでも動揺や絶望をしていない。怨みを買うことなどどうでもいい。流れなど存在しないと断ずる彼女の強さがそこにはあった。

 

 まだ、戦いが決まったわけではない。

 全てが終わったわけではないのだ。

 

 張邈はそう思いながらも、どこか諦観した横顔が見せていた。無表情だった顔が、物憂げな色を帯びている。付き合いの短い裴元紹にはそれに気が付けなかったが、張超はすぐに気がついた。姉の無表情が崩れることは稀にあったが、そのような表情を見たことはなかった。今まで何を考えているのかわからなかった姉が、本心を露にしている。拍子抜けのような、見てはいけないものを見てしまったような気分になり、若干戸惑う。

 姉の本意がわからぬ、というのが悩みだった。だというのに、その一端を掴んでみれば謎の感情が胸から湧き出てくる。この感情は何なのだ、と目を瞬かせた。

 

 

 

 ……張邈は必死に藻搔いていた。

 

 その姿を曹操軍の人間が見ればどう思うだろうか。敬意のような感情を抱く者はいないだろう。荀彧は曹操をこの時期に裏切った彼女を許すはずもない。程昱も、元董卓軍の張遼もそれは同じだ。抱く感情があるとすれば、それは「警戒」だろう。まだ勝負を諦めていない。何が起こるかわからぬから、気を引き締めねばと考えるはずだ。

 しかし、城に籠るほとんどの曹操軍の人間はそうだろうが、程遠志の見解は違う。仮に彼が張邈の姿を見ても敬意を持ったり警戒をすることはない。彼は何の感情も抱くことはないだろう。

 黄巾の砦の時と同じである。程遠志は、今、完全に流れを掌握している。厳政を助け、裴元紹の手を逃れて、張角三姉妹を救い、五体満足で砦から抜け出さねばならなかった。その時でも彼は余裕綽々としていた。『流れがきた時点で、この状況は昼寝の時間だとか、宴会の時間だとかのようなもんだ』その考えは、張遼の内応から流れを誤認したことがあっても、変わっていない。流れに身を任せることが行動原理の彼は、この状況にも笑っていられる明確な自信があった―――流れが運命を変えるのだ、という自信が。

 

 そして、その時が来ようとしていた。

 

 

「―――申し上げます!」

 

 

 丁度、城を取り囲んでから十五日目のことだった。

 張邈の陣に怒声にも似た声が木霊する。その声色からは多大な焦りと恐怖が窺えた。

 

「うっせーな。どうしたってんだ」

「わ、我が軍の背後から他軍が……!」

「お」裴元紹は、そこで目の色を変えた。「援軍か? そうだよな」

 

 ―――裴元紹の考えは、愚かなものではない。

 只今の兗州に敵は殆どいない。他州から敵がこの状況を見て領土を掠め取りに来る可能性は存在したが、それでも、この張邈軍本隊が存在する鄄城を標的にはしないだろう。そう状況を鑑みれば、こちらへ向かってきている軍は兗州に存在する民兵か、他の州から来た張邈への援兵に思える。

 別段、変な考えではない、が。

 

「……どこの所属なの」

 

 張邈は嫌な予感がした。その寒気は彼女の信じていない「勘」や「流れ」にも似たもので、小さく嫌悪感を抱きながらも問いかけざるを得なかった。

 その様子を見て、張超は背筋に寒いものが走った。謎の感情が身体から溢れ出てくる。裴元紹も、遅蒔きながら綻ばせていた表情を元のものへ戻す。

 伝令の兵士はその三者三様の様子を見てすらいなかった。張邈軍ならば誰もが抱いている、張邈に対する敬意すらも揺らぎ始めている。それは今回の戦いで使った毒の影響でもあった。張邈に対する信頼感の低下が原因でもあった。しかし―――それよりも圧倒的に多大に、単純な自分の身が危機に瀕しているという恐怖が伝令の表情には存在していた。

 

 伝令は、叫ぶように言う。

 

「え、援兵ではありません……軍勢の旗は『曹』! 曹操軍本隊が、後ろから猛追しています!!」

 

 ―――そこで、遂に。

 張邈の大きく崩れることがなかった表情が、美しい彫像を毀損するように度を失った。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

張邈決戦編 第十四話

 

 

 

 誰もが予測できない速さだった。

 張曼成は、曹操は運が悪ければ城が囲まれてから三十日は来ないと危惧した。荀彧はそれでも曹操ならば二十数日には来ると信頼した。張邈は誰よりも曹操を理解しているから、二十日以内には来ると警戒した。

 その誰もの予想をぶち抜いた。十五日で、曹操は到着した。張邈に限って言えば全くの外れではないが、彼女自身ここまで迅速な対応が為されるとは考えてもいなかった。

 

 

 曹操は冷めた瞳で戦場を睥睨していた。

 彼女の脳内は、この戦場にいる誰よりも活発に活動している。考えねばならぬことも、思わねばならぬことも多く存在した。今の鄄城の状況。荀彧や程昱、程遠志の生存確認。そして―――知己である張邈が裏切った理由。常人ならば圧し潰されるほどの重圧が彼女を包んでいた。それを考えながらも、曹操は違う部分へ思考を回していた。考えねばならぬことがまだ他にもあった。

 

 ―――数日前まで、その重圧に耐えながら陶謙、劉備連合軍と戦っていた。徐州虐殺から敵軍の士気は高く、容易く曹操は退却することができなかった。実際のところ、ここまでの早い帰還は、曹操自身望めぬと考えていたのである。

 何が迅速な帰還をもたらしたのか。夏侯惇、夏侯淵の奮戦や、郭嘉の策もある。曹操自身前線の兵士を鼓舞し続けたことで、退却戦ながら有利に戦況を進めることができていた。

 

 それも、一種の理由である。しかしそれ以外にもある―――天運である。

 

 戦いの最中であった。劉備、陶謙軍の圧力がにわかに弱まり、及び腰になった。曹操はそれを見逃さず、即座に攻撃を仕掛けた。退却を捨て、すぐさま直接的な戦闘に移れたのはかねてからの軍の強化の賜物であり、前線の指揮官にある程度までの裁量性を持たせたことも理由である。結果、敵軍を打ち負かすことができ、機能を完全停止させるまでに至った。動きを止めた劉備たちに目もくれず、曹操は兵士たちを叱咤して兗州へ急ぎ―――今がある。

 どうして劉備、陶謙軍の動きが弱まったのか。曹操は行軍の最中伝令から報告を聞いていた。陶謙の死去、である。病を無視し、老体に鞭打ってまで出陣したことが、彼の身体へ止めをさした。劉備と、その配下の者がいくら有能であろうとも、陶謙軍なのだから主君が死ねば動揺する。動揺を治めることは能わず、敗走した。

 曹操はその知らせを聞き、兗州へ向けて進みながらも考えた。これがただの偶発的な出来事だろうか。

 あまりにも都合が良すぎる。仮に、陶謙が死ななかったとしても負けることはなかっただろうが、確実にこの行軍速度を維持することはできなかった。鄄城に辿り着くまでの時間が二、三日遅れ―――張邈の予期した時期と同じくらいに到着していたことだろう。

 しかし、偶発的でなければなんだというのだ。奇跡や神を曹操は信じない。張邈のような徹底的な現実主義者ともまた違ったが、努力をせず祈るのみの人間を彼女は嫌悪していた。この出来事がまるで天から授かったもののようで、一瞬そう思ってしまったことに曹操は激しい自己嫌悪を抱いたが、その感情をも隠匿した。すぐさま利用すべきだと思い立ち、軍全体に陶謙の死を伝え、「我が軍に流れが来ている」と鼓舞した。厳しい行軍に音を上げさせぬため、その情報を士気向上に用いたのである。

 

 

「―――どうにか、辿り着きましたね。華琳さま」

 

 いつしか曹操の隣には夏侯淵と夏侯惇が控えていた。

 

「そうね」曹操は小さく言う。「陶謙の死には、助けられたわ」

「戦場の状況は?」

「恐らく、まだ城は落ちていない。間に合ったのよ」

 

 ふう、と夏侯淵は安堵の吐息を口から出した。彼女自身そのことに気づいていないようで、自然なものだった。

 

「香水は―――どうしてこのようなことを」

 

 夏侯淵は痛ましげな瞳になっていた。傲岸不遜な猛将の姿はそこになく、ただ一人の悲しみに打ちひしがれる少女の姿だけだった。その悲嘆が自分自身だけのものではなく、曹操の内心を忖度したものだと、他の二人も理解している。

 曹操は敢えて表情を崩さなかった。負の感情は隠匿しなければならない。夏侯惇のように悲嘆の表情を漏らしたり、夏侯淵のように安堵の溜息を容易に吐いてはならない。様々な禁足事項を自分に課すことが、乱世に覇を唱える主君の務めだと考えているからだ。

 

「香水にも何か考えることがあったのでしょう。この戦いが終わり、彼女を捕らえればわかることよ」

「そうですね……」夏侯淵は目に力を籠める。「そのためには」

「すぐさま香水を―――張邈軍を殲滅する」

 

 応、と夏侯淵も、夏侯惇も吠えた。曹操は彼女たちの―――とりわけ夏侯淵の表情に少しだけ焦りが存在しているのを理解している。城がまだ落ちてはいないとはいえ、城内の人間の安全が確保されたわけではない。程遠志。流れを信奉する男。彼もまた、城内で戦っているのだろう。

 夏侯淵が程遠志を憎く思っていないことを、曹操は早い段階から知っていた。告白された、と彼を責めた時。黄巾の砦から逃げてくる彼を救う時。そして、その極めつけが自らの姉である夏侯惇を助けた時なのだろう。少しだけ妬く気持ちは存在したが、主君とは配下の感情までもをすべて掌握するような存在ではない。自由にすればいい、と放任していた。

 

 曹操は程遠志の持つ流れを信じていない。夏侯惇と夏侯淵の言葉を閨で聞いて、単なる嘘偽りごとではないと理解しながらも完全に信じたわけではなかった。嘘でないというのに、信じない。矛盾のような言葉ではあったが、そこには曹操のささやかな抵抗が存在していた。

 その感情はこの戦場においても変わらない。変わらないが、城内に籠って奮戦しているであろう程遠志の姿を脳内に描くと、不思議と愉快な気持ちになった。隠匿する感情は負のもののみで、笑顔を旧くからの親友たちに隠す必要はない。曹操はくすり、と笑い、気負った様子の二人へ言葉を投げかけた。

 

「貴女たちは程遠志の流れを信じているのでしょう。それならば―――この絶好の状況で、彼が生きていないわけがないと思うようになさい」

 

 

 

 

 

 

 

 張超は曹操が到着して、すぐに判断した。分岐点は過ぎた。敗北である。

 張超は姉に隠れているものの無能ではない。寧ろ敗北への嗅覚というものは、多くの経験から姉よりも優れたものになっている。「姉上、退却しましょう」と、茫然自失の張邈へ謎の感情を抱きながらも、それを無視してすぐさま声をかけた。

 張邈はしばし、いつもの無表情を崩して様々な感情を表情に出していた。なぜ負けたのだ、というようで、やはり負けた、というどこか諦観にも似た矛盾した思いがそこには見られた。「ええ、そうね」と絞り出すように言葉を吐く。精神的に不安定だからとはいえ、退き際は心得ている。

 張邈軍は毒を使い、士気を回復させることを放棄してここ数日強攻を続けていた。それは鄄城の攻略という短期的な視点からすれば正しかったかもしれないが、長期的に見れば愚策としか言えなかった。その結果として、曹操本隊の登場に明らかな動揺と確かな士気低下が軍を包んでいる。張邈がいくら知恵を絞っても、既にどうしようもないところまで状況は変化していた。

 

「おい、ふざけんなよ。何言ってんだ」

 

 その姉妹の会話に、押し入ってくるものがあった。裴元紹である。

 彼の目的は曹操などではない。初めから―――張邈軍に所属する以前から、彼は程遠志以外の人間に興味など持っていなかった。恨みを晴らす、という名目がある。それを果たさずして退却などできるか、と言わんばかりだった。

 

「このままでは、我が軍は崩れるわ」

「ふざけんな! この軍に入れば、程遠志を殺せると言ったのはお前だろうが」

「そうね」張邈は素直に頷く。「それは間違いだったわ。諦めなさい」

「テメエ―――」

 

 裴元紹はすぐさま張邈へ襲い掛かった。張邈は剣の心得がある。そのため、裴元紹の闇雲な攻撃を避けることなど容易いことであったが―――そうしなかった。

 裴元紹の太い腕が張邈の喉に伸び、絡みついた。「ぐッ」と、彼女は悲鳴を漏らし、顔を歪めた。

 しかし、それも一瞬のことだった。「貴様」という声がしたかと思うと、裴元紹の脇腹に掌底が抉り込むように放たれた。張超の瞳が爛々と輝き、姉の危機に動いていた。裴元紹は目を白黒させ、張邈の喉から手を放し、横向きに倒れる。

 

「殺しましょうか」

「いいえ。そもそも私の責任よ。何をされようと受け入れるつもりだった」

「自暴自棄にならないでください。とにかく、戻りましょう」

「どこへ」

「我らが故郷へ」

 

 迂遠な喋り方をする張超に、張邈は笑みを零した。無表情の仮面を取り払った姿。張超の見たい、と熱望していた姿である。曹操の登場から精神的に不安定になり、一時的に錯乱している。張超はそう判断し、役得だなと考えた。幼いころから知りたかった姉の感情が今では容易く見ることができる。

 

 しかし、と張超は思った。何故だろうか。見てしまえばこんなものか、とも思う。

 見なければよかったという感情―――すなわち失望が、胸元から音を立てて膨れ上がっていた。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

張邈決戦編 第十五話

 

 

 

「可能なことを可能だと理解し、不可能なことを不可能だと見抜く」能力に、生まれつき長けていた。人の考えていることが手に取るようにわかり、行動を操ることすらできた。五歳程度の子供が政を為す様を見て、誰もが噂した。「あのお方こそ―――張邈様こそが、天才と呼ばれる人種なのだろう」と。

 張邈本人もそう思っていた。

 曹操、という女に出会うまでは。

 

 

 張邈は決して忘れることがないだろう。人生の中で最も色づいていて、華やかで、妬ましかった私塾時代を。曹操に挑む袁紹の姿を微笑ましく見守っていた彼女こそが、誰よりも曹操へ対抗意識を持っていた。

 きっかけは、曹操が時の権力者である張譲という男の家に押し入り、暴れまわった時だった。理由は定かではないが、曹操は十常侍の張譲に激怒し、彼の豪邸に忍び込み、大立ち回りを演じた。張邈はそれに対して素直に驚き、疑問に思った。曹操が処罰されないことに対して、である。

 殆どあり得ないことだった。張譲の権力がどれほどのものなのか、など語るまでもないことである。

 不可能を可能に変えた。果たしてそれは自分にできることだろうか。張邈はすぐさま理解した。できない。可能を可能、不可能を不可能と見抜くことに長けている彼女でも、不可能を可能にはできない。初めて、そこで自分が曹操に劣っていることを自覚し、激しく嫉妬した。

 そこから彼女は大きく修練に励んだが―――曹操の背中は遠く、離されるばかりだった。

 

 

 張邈が小動物を殺し、性格に二面性を持ちだしたのは、この時期からである。

 曹操への嫉妬が彼女をそんな凶行に走らせた。無表情の仮面を被るようになった。しかし、そのころの彼女はまだ人間らしかったのかもしれない。あくまで、その後の張邈と比べればではあるが。曹操への悪感情が向かう先が小動物となり、理不尽で歪んだ感情が芽生えてはいたものの、嫉妬や屈辱は誰しも抱いたことのあるものだと言えよう。

 その凶行はやがて習慣となった。初めの頃に感じていた嫉妬や屈辱は薄れていき、習慣は神に操られるように日常になり、日課となった。最初は意味のあったはずの殺生は完全に無駄なものと化し、それでも止められぬものとなった。

 或いは、その行為は自らに対する称賛の目を変えさせたかったのかもしれない。曹操との差を張邈は理解することができたが、民衆は理解できない。最初の頃から変わらぬ目で彼女のことを見ている。それを失望に変えてしまいたい、という一種の自暴自棄的感情があったのかもしれないが―――唯一それを知っている張超は誰にも告げることなく自分の中で隠匿した。それも、拍車をかけたのかもしれない。

 

 今回の鄄城決戦は不可能を可能に変えるための最後の機会だった。張邈自身が不可能だと理解できてしまっている「曹操に勝つ」ということを、可能にする。そのためにあらゆる策を練り、あらゆる手を尽くした。

 

 ―――その策が、今。粉々に砕かれようとしていた。

 

 

「何者かに操られるように、不可能を、可能に変えたいと思ったのよ」

 

 張邈は、張超へ向けてそう独白した。彼女が初めて漏らした長い本音を聞いて、張超は大きく溜息を吐いた。

 姉の心境を、完全に理解した。長い時間だった。張超は沈黙を保った。生まれてからずっと自分よりも優れていた姉が、そのようなことを考えていたのだ。そのようなことで悩んでいたのだ。かける言葉が見つからず、黙るほかなかった。しかし―――その一方で張超は「この程度か」とも思っていた。そのようなちっぽけな悩みで、彼女は苦心し、苦労していたのか。

 心が痛くなった。自らよりも圧倒的に優れていたはずの姉が、自分と同じ領域まで堕ちてきたような、そんな気分にさせられた。胸の奥から謎の感情が叫んでいる。「解放してやれ」と、小さく耳元で誰かが囁いたような気がした。

 

「姉上―――これから、どうしましょう」

「……貴女の言うように、故郷へ帰りましょう。そこで再起を図り、曹操に一泡を吹かせる」

 

 張邈の瞳はまだ死んでいない。寧ろ、爛々と輝いていた。

 だからこそ、張超は思った。「これでは勝てない」「曹操に負け、捕らえられ、今自分にした独白を曹操にもすることになるに違いない」張邈の強みは冷静さと未来を見るが如き俊明さである。「気迫」や「熱意」などではない。そのようなものに頼る彼女では、曹操に負けてしまう。それでいいのだろうか? 曹操という女は、張邈の真意を理解すればすぐに自分の中で処理できてしまうだろう。今回の父の死も、徐州虐殺も、張邈という女についても。彼女には呑み込んでしまえるだけの大器があるのだ。

 

 曹操に一泡吹かせることは、今の張邈ではできない。

 

 張超は肩を震わせた。右腕が動いた。いつもは動かなかったはずの、右腕である。驚くほど容易く動き、剣へ手が伸びていった。どうして今までは動かすことができなかったのだろう。張超はふとそう思い、すぐさま答えを出すことができた―――そうだ。私は、姉上の策をめぐらす姿が堪らないほどに好きだったのだ。姉上のことが好きだったのだ。綺麗ごとをいいながらも、姉上と同じ血を継いでいたのだ。

 曹操に対する、張邈がすべてを費やした策が未遂に終わろうとしている。それが何よりも許せないのだ。

 張超はすぐさま剣を抜き、構え、振った。

 

「――――――ッ!?」

「姉上―――そうではありません」

 

 張邈の腹部に、剣は容易く刺さった。鮮血が飛び、張邈は目を大きく見開いて絶叫する。

 

「非水、なに、を」

「姉上、よく考えてください。曹操にはもう武力では勝てません。姉上ならばわかるでしょう」

 

 張超は剣を引き抜いた。致命傷だ、と誰にでも理解できる量の血が、辺りに流れ出る。

 張邈はそれを呆然と見ていた。彼女は無様に泣きわめくようなことはしない。すぐさま張超に向き直る。

 

「私の首を取って、曹操に降伏するのね。やはり、私は曹操には勝てなか―――」

「違います。まだ終わってはいません」

「……なに?」

「姉上が捕まることが敗北です。策の全容を曹操が理解し、この程度のものかと吐き捨ててしまえば、彼女に楔を打ち込むことは適わないでしょう」

「――――――」

「姉上も、そして、私も。すべてを知る者はこの世に必要ありません。曹操や夏侯惇、夏侯淵なども一生知ることはなく、後世の歴史家の誰もが疑問に思うでしょう。『なぜ張邈は曹操を裏切ったのか?』私たちはそれを墓までもっていきましょう。姉上は曹操の脳内に一生残り続け、夢に登場し、悩ませることでしょう。そして、その答えは一生出ることはない―――これは、紛れもない姉上の勝利です。姉上は不可能を可能にしたのです」

 

 張超はいつにもないほど熱意を持った口調で言った。

 張邈はそれを黙って聞いていた。彼女の荒い息は、いつしか穏やかなものへと変わっていった。それは感情が落ち着いたからではない。寧ろ、張邈の感情は張超の言葉を聞き、荒く激しいものになりつつあった。

 ただ、死が目前に迫ってきたというだけの、ことである。

 

「私が―――曹操に勝ったですって」

「ええ。生き残った者が勝ち、などと誰が決めたでしょう。私たちこそが、真の勝者です」

「強引なこじつけだわ」

「こじつけをして何が悪いのです」

「真の勝利とは言えない」

「では、真の勝利とは何ですか。曹操を一泡吹かせる、と姉上は言いますが、それは恐らく不可能です。仮に可能だったとしても、いずれは曹操に滅ぼされ、捕まってしまいます。もう完全に詰んでいるのです。ならば―――あとはどれだけ曹操の後味を悪くさせるかのみ」

 

 張超は粘っこい笑みを浮かべた。彼女がそのような嫌らしい顔を浮かべるのは人生で初めてのことだったが、不思議とその表情はよく似合っていた。張邈の無表情とはまるで正反対のものなれど、どことなく面影を感じ、姉妹であることの証左であった。

 張邈は驚いた様子を見せ、やがて、少し口元を歪めた。小さく喘ぐように笑う。

 

「それでも、私は曹操に勝ってはいないわ」

「姉上」

「でも―――貴女のおかげで、確かに曹操の後味を悪くさせることはできるかもね」

 

 張邈はにやりと笑った。意地悪く笑うと張超と瓜二つだった。曹操の不幸が嬉しい、誇らしい、と笑いながら死んでいく。改心することも、死の間際から偽善的な人間になることもない。張邈は張邈のまま死んでいく。張超はその姿を美しいと思った。そうでなければならない。姉上の死とは、こうあるべきなのだ。

 

 

「……非水」少し、間を開けて張邈は言った。「今、気づいたわ」

「なんですか」

「―――貴女はやはり、私の妹よ」

「…………その言葉を、恐らく私はずっと聞きたかったんだと思います」

 

 

 張邈は、そのまま目を閉じた。再びその瞳が開かれることはない。そう、張超にも理解できた。心残りが何もないわけではない。ようやく姉を完全に理解し、自身が姉に似ていることも確信できたのだ。姉と語り合いたい気持ちは誰よりも強くある。「私も、直ぐ逝きます」と彼女は虚空に言葉を飛ばしてみる。「待ってるわ」という言葉が返ってきたのは、幻聴か、それとも―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 昔から、そのような人間だった。

 どれほど昔からかはわからない。或いは、生まれてからかもしれない。

 人が幸福になるのが馬鹿らしく、祝福するのが阿呆らしく、成功するのが妬ましかった。

 裴元紹という男はそうして生きてきた。誰とも明確な信頼関係を築くこともできず、愛情を受けることもなくこれまでを過ごしてきた。

 ―――しかし。

 とは言えど。

 裴元紹という男は、何が正しいことで何が間違ったことかを理解できないわけではない。幸福や成功が素晴らしいことで、不幸や失敗が唾棄すべきものだと理解できている。つまり、彼は正常な思考を持ちながら異常な判断をしているのだ。

 

 裴元紹は目を血走らせていた。張邈と張超は敗色濃厚を察知して逃げた。それでも彼は逃げない。逃げられない。

 妙な確信があった。張邈軍はここで壊滅する。張邈は逃げるが、もうどうしようもない。曹操軍はさらに勢力を伸ばすことになる。それはつまり、程遠志は更に出世することに他ならない。ここを逃せば、もう彼を追いかけることも、殺すこともできなくなる。

 

「そんなことを―――認められるか」

 

 裴元紹は目を鋭くした。鋭く辺りを睥睨した。張邈が逃げたことから、軍全体に動揺が広がっている。裴元紹のように軍の中に立ち止まり、戦意を明らかにしている人間は殆どいない。

 くそ、と彼は呟くように言葉を吐き出して、目を疑った。馬鹿な、と漏らす。信じられない光景が、人間がそこにはいた。

 曹操軍が近づいてきている。城は開門し、前後から挟撃される形になった。それ故、あり得ることではあったが奇跡的で僥倖的なことだった。張遼が矛を振るっている姿もあったが、裴元紹はそんなところを見てすらいない。彼が見ている人間はいつでも同じである。彼を引き寄せる行動原理というものは、ずっと同じものだったのだ。

 

 

「程遠志」

「裴元紹」程遠志が、顔を青くしていつの間にか近くにいた。「決着を、つけにきたぜ」

 

 

 

 

 程遠志の顔色は、病人を思わせるほど青かった。裴元紹にも一目でそれはわかり、何がそれを招いているのかも一瞬で察した。毒だ。数日前の鴆毒だ。

 今ならば、殺せる。裴元紹は笑った。笑いながら吠えた。

 

「どうした。調子でも悪いのか?」

「見ての通りさ。身体に毒を入れられた」

「その状態でどうして出てきたんだよ」

「言っただろ。お前と決着をつけにきてやったんだよ」

「舐めやがって」

 

 裴元紹はそこで、不意に笑うのを止めた。

 程遠志は何の表情も浮かべていない。顔を青くしながらも、淡々と裴元紹のことを見つめている。

 

「俺はよ」程遠志は小さく言った。「多分だけど、何度も失策を犯してるんだ」

「何のことだよ」

「お前のことをよ、殺す機会は何度もあったんだよ。どうして殺さなかったのかな、なんてたまに思うことがあるんだ。黄巾の砦だってそうだし―――そもそも。遡れば、俺たちがガキだったあの時だってそうだ」

「テメエ」裴元紹は顔を引き攣らせた。「ガキの頃ってのは、つまり」

「俺がお前を半殺しにした時だ。当時はどうしてあんなことをしたんだろう、だとか。頭に血が上りすぎた、なんて考えたが、今になってみればわかるよ。そうじゃなかった。俺は『どうしてお前を殺さなかったんだろう』って悩むべきだったんだな」

「わけのわかんねえこと言いやがって」

「お前には、到底わからないだろうな」

 

 程遠志が無感動な声でそう言うと、裴元紹はまるで棒に打たれたように大きく顔を歪めた。「は……はは」と、口から声にならないナニカが漏れる。

 それは、笑い声にも嗚咽にも聞こえた。

 裴元紹は奇怪な表情になっていた。狗鷲を思わせる独特な容貌が崩れ、さらに人間離れした顔立ちになった。「ふざけんなよ」と、蚊が鳴くような声で言う。

 

「じゃあよ―――お前にはわかんのかよ、程遠志」

「はあ?」

「俺の……気持ちがよ、お前にわかんのかよって言ってんだ。神様に操られるみてえに、考えがころころ変わる俺のことをよ」

「意味がわかんねえ」

「最初の頃はよ、俺はお前に憧れてたんだよ。俺と同じようなゴロツキで、故郷の村でハブられて、それでも不良仲間とたむろってるお前に。仲間になりてえ、友達になりてえ、なんて考えたんだ」

「それならそう言えばいいじゃねえか」

「無理だよ」裴元紹は肩をすくめた。悲しい素振りだった。「そういう人間なんだ、俺は」

 

 裴元紹は、そこで一度息を吐いた。身体の内から出てくる嗚咽を止めるような様子だった。

 

「俺にだってよ、素晴らしいことと唾棄すべきことの違いなんてわかってんだ。人のことを信じたり、好きになったりすることの方が、まともな人生だなんて知ってるのによ、どうしてもそれができねえ。まるで神様に操られてるみてえに、人の不幸せを喜んで、願って生きてきちまった」

「………………」

「お前にわかるか? 鷲のように気高くも、狗のように従順にもなれねえ。正しいことをする機会を得ても、操られるみてえに間違った道に進んでっちまう。そんな俺のことをよ、お前には到底わからねえだろうよ!」

 

 少しだけ、裴元紹の目の端には涙が溜まっていた。

 昔からそうだった。彼は何が正しいことで何が間違ったことかを理解できないわけではない。幸福や成功が素晴らしいことで、不幸や失敗が唾棄すべきものだと理解できている。正常な行動を取ろうとして、何故か、操られるように異常な行動を取っていた。

 直したいと思っても直らなかった。自分の意志が弱い所為だ、と裴元紹は理解できる。正常な人間だからこそそれを理解することができ、さらに苦悩した。

 

 故郷の村で程遠志の仲間を闇討ちした時も。

 黄巾の砦で程遠志らを執拗に狙った時も。

 程遠志を追って張邈軍に加入した時も。

 

 すべて理解できていた。自分の中の冷静な部分が言っていた。「正しい行動ではない」「大人しく、程遠志などという人間から手を引くべきだ」裴元紹が人並みの幸せを手に入れるには、それしかなかった。正しい行動というものを理解できていたのだ。

 それでも裴元紹は、その選択肢を選ぶことができなかった。程遠志のことが忘れられなかった。故郷の村で半殺しにされた恨みを―――そして、自分と同じゴロツキが、自分の望む「正しい道」を歩んでいることへの嫉妬が、何よりも許せなかった。

 

「そうだな、わかんねえよ。お前のことなんて」

「……程遠志、俺はよ、思うことがあるんだよ」

「なんだよ」

「―――きっと、俺はよ、お前たちみてえな奴らと友達になりたかったんだ」

 

 裴元紹は独白するように言った。程遠志の方を、じっと見つめる。鄧茂や張曼成。それに厳政。その一味になりたかった。裴元紹が程遠志らを追いかけたのは、或いはそういった願望があったからかもしれない。彼はその事実に思い当たり、打ち明けるように話した。

 ふっ、と程遠志はそこで無表情を崩した。小さく、確かに笑った。

 

「それを俺に言って、どうするんだよ」

「素直に、嘘をつかず、自分の思うことを言いたかったんだ。言われてみて、どうだ?」

「さあな。間違いねえのは、お前は俺の友達には相応しくねえってことだろうな」

「だよな」裴元紹もそこで笑った。「そりゃそうだ」

 

 狗鷲に似ていない、人間らしい顔だった。程遠志は少しだけ驚き、笑う。

 

「お前、素直に笑えたんだな」

「どういう意味だよ」

「その笑みが故郷の村でもできりゃ、俺以上に人から嫌われることはなかっただろうによ」

「これからの教訓にするよ」

「……それは無理だな。お前は、ここで俺が殺すよ」

「言いやがって」

 

 程遠志は、話は終わりだとばかりに刀を構えた。

 裴元紹は薄々と理解できた。自分は今日、ここで死ぬ。顔を青くした、今にも倒れそうな男に何故か勝てる気がしなかった。程遠志がここで自分を見逃す道理もない。死ぬことは必定である。それと同じことを程遠志も思っているだろうと確信できた。

 しかし、不思議と爽快感が身体からは流れ出てきた。死を受け入れたわけではない。膝は笑い、腰は引けていた。それでも彼は迷わない。

 裴元紹は初めて自分の内心を人に吐露した。自分とどこか似ている片鱗を見せていた張邈にも告げなかったことである。故郷の村からも親からも迫害され、誰も信用せず、誰からも信用されなかった男が、である。「案外悪くねえじゃねえか」と呟くように言った。口は素直な笑みで綻んでおり、頬は緩い曲線を描き、目は程遠志の振り上げる刃を捉えていた。黙って潔くそのまま死ぬような男ではない。裴元紹も刀を抜き、振り上げた。

 

 二つの刃が交わり、片方が折れ、折れた方が倒れた。もう片方の人間は、倒れた男の狗鷲のような顔を眺めるように見ていた。静かに、言う。「故郷の村でその素直な言葉を聞いたらよ、鄧茂の前にお前と友達になってたかもな」

 

 誰の耳に収まることもなく、その言葉は風に流れて消えた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

張邈決戦編 最終話

張邈決戦編、完!!!!
これで大体本編の半分くらいが経過したと思います(*'▽')
年内までには完結させる……はず!笑




 

 

 程遠志は、裴元紹を斬った後すぐさま城へ戻った。彼自身、体力の限界が近づいていたのである。

 毒による弱体化、単純な肉体疲労、それに流れを掌握したことによる頭脳的な疲労まで。あらゆる面において疲れきっていた。それでも、裴元紹が死ぬところだけはこの目で見なければ安心できない。そのような思いから追撃の軍に混ざり―――予想外の裴元紹の言葉はあったものの―――ほぼ狙い通りにことを為した。

 城に入ると、彼に向けて視線が突き刺さった。程遠志はうげ、と思わず吐きそうになる。荀彧、程昱、張曼成、厳政、そして鄧茂―――様々な感情を秘めた視線が様々な角度から飛んでくる。そのどれにも共通して言えたのは、心配の感情だった。このような無駄なところで命を危機に晒すなど! と馬鹿にするような荀彧の視線にも、どうしてそのようなことをしたのだ、と涙目になっている鄧茂の視線にも、大小の差はあれそのような感情の色が宿っていた。

 

「おう」程遠志は、それらを無視して言った。「まあよ、勝ったな」

「そうね―――董卓軍も、完全にこちらへ寝返った。もう負けはないわ」

「そんな状況なのに、よく程遠志さんはその身体で追撃にいきましたねー」

「自分でつけなきゃならねえ落とし前ってのが、あったのよ」

 

 程遠志が少し胸を張って言うと、鄧茂が横から「程遠志」と少し怖い顔になって言った。びくり、と身体を震わせる。張曼成はその姿を見て苦笑していた。

 鄧茂は程遠志が裴元紹を斬りに言ったのだと理解している。程遠志が彼に直接伝えたわけではないが、薄々感じとれるだけの関係が構築されている。それ故程遠志の気持ちも理解はしているが―――理解していても納得できるわけではない。

 

「程遠志、言ったよね。『無茶しない』『自重する』って。連合の終わりに、僕に向けて言ったよね」

「言ったかもしれない」

「言ったよ!」鄧茂は叫んだ。「どうしてそれを守らないのさ」

「確かにな、俺も軽率だったよ。でも鄧茂、確かその時に言ったろ。俺の流れは無敵だってよ。流れが来てるときは誰にも負けねえんだ、俺は」

「そうだとしても―――それなら、僕たちにも声をかけてよね」

「はあ?」

「僕だけじゃなくて、今回は張曼成も度を失って心配してたんだから」

「度を失ったのか」程遠志は驚き、張曼成を見つめた。

「まあ」張曼成は鼻の頭を掻いた。「だな」

 

 程遠志は眉を顰める。あの、いつも余裕そうで無口な張曼成が? 心配ならばわかるが度を失うとは思えない。思えないが、彼がそんな無駄な嘘をつく人間にはもっと思えない。病み上がりで戦場へ向かった程遠志をずっと心配していたのだ、と面と向かって言われると罪悪感が湧いてきた。小さく、頭を下げる。

 

「そりゃ、悪かった」

「いいよ」鄧茂は小さく笑う。「いいけど、程遠志はどうせまた無茶するでしょ?」

「しないように善処するよ」

「絶対嘘だぁ」

 

 鄧茂は笑いながらも少し表情が引き攣っている。連合の時と同じだった。程遠志は流石に心配をかけすぎているな、と反省しながらも、鄧茂の言う通りだとも感じた。恐らく、曹操軍全体に危機が生じ、それを自分が力を尽くせば解決できるならば、程遠志はまた無茶をすることだろう。

 それを何とかするには、程遠志が無茶をしなくてもいい状況にするしかない。

 即ち―――それは、曹操による大陸制圧である。

 

「俺もよ、より曹操さまのために働かねえとな」

「ふん。男のくせにわかってるじゃない。狗みたいに忠誠を誓いなさい」

「おうよ。狗みてえに、べろんべろん働きますよ」

「いや」荀彧はそこで真顔になった。「べろんべろん華琳さまに奉仕するのは私の役目よ」

「お、おう―――そうか。そ、それはすげえな」

 

 程遠志はそこで口ごもって、何も喋れなくなった。

 そういう意味で言ってんじゃねえよ、と心の中だけで言ってみる。

 

 

 

 張遼が董卓軍と合流したのは、張邈軍を完膚なきまでに霧散させ、敗走させた後だった。華雄から「お前の所為で城攻めの際に酷い被害が出た」と咎められ、口笛を吹いて誤魔化していた張遼だったが、華雄の後ろにいる男の顔を見て目を見開いた。身体の数か所に傷を作りながらも、余裕そうな表情を敢えて崩さず佇んでいるその男は、高順であった。

 

「アンタ」張遼は驚きのまま聞く。「どうしてここに」

「姫と詠を救ってきたからさ、戻ってきたんだよ」

 

 当然のように高順は言った。董卓と賈詡を救い、安全な場所に確保したと。それが容易いことなどでは到底ないことなど、話に聞くだけでもわかるし、彼の身体の傷を見れば一目瞭然である。それでも高順は痩せ我慢をするように「簡単だった」「欠伸が出るくらいだったな」と主張した。そんな、どのような状況においても気障な自分を演出しようとする彼に張遼は苦笑を隠せない。

 曹操が鄄城に十五日で帰ってきたように、高順も同じような期日で董卓と賈詡を助けて戻ってきた。そんな曹操に対して荀彧が感激していたように、高順に対して感激した人間がいてもおかしくはないのだが、不思議と董卓軍の中で彼に対して信奉のような感情を抱く者はいなかった。

 高順が気障な性格だということもあるし、自信家な部分も仇となっているのだろう。誰しもが董卓を救った高順に感謝をしているがその痩せ我慢からか心底の感謝をしている人間は見られなかった。張遼は少しだけ悲しくなり、彼の肩に手をぽんと載せる。

 

「ウチはアンタの頑張りを理解しとるからな……」

「んだよ、気色悪ィな」高順は邪険にその腕を払った。「で、どうだったよ、曹操軍は?」

「どうだったって?」

「なんか、凄ェ奴はいたのか?」

「色々いたで。猫耳百合軍師と、頭に人形を乗せてる軍師とか」

「……すげえってそういうことじゃねえよ。軍師として凄い奴を教えてくれってことだっつーの」

「いや、そいつらも凄いねんて! 詠並みの天才や」

「本当かよ」意地悪そうに高順は笑う。「オレより頭の悪い霞の言葉は信用できねえな」

「誰がアンタ以下や。戦以外能がないくせに―――って、それはウチもか」

 

 む、と唇を尖らせると高順は大笑した。何やら一本取られたようで腹が立ち、張遼はそこで思い出した。

 曹操軍にいる人材で、面白い人間がいた。鄄城では敢えて彼に会わないようにしていたが―――それは高順を驚かせるにはもってこいの話だった。反董卓連合の折を思い出しながら、張遼は口を開く。

 

「他にも、面白い人間が曹操軍にはおるで」

「へえ、誰だよ? 夏侯惇とか、そこら辺か」

「ちゃうちゃう。まだ夏侯惇とはウチも会っとらんわ。程遠志、ってアンタは知っとるか?」

「程遠志?」高順は思案するように顎に手を伸ばした。「聞いたことねえな」

「やろ! こいつがすごいんよ」

「なにがだよ?」

「戦の空気を怖いくらいに読めるんよ。程遠志をそれは流れとか言っとるらしいが」

「偶然だろ?」高順はにべもない。「流れが存在しないなんて言わねえが、到底信じられねえな」

 

 高順は武官であり、頭はよくないが、ある程度までは現実的な思考回路をしている。「流れ」や「勘」が時には戦場で大きく活躍することを経験で理解はしていたが、意図的に読み切ることができる、とまでは信奉していない。懐疑的な心境になるのも当然のことだった。

 しかし、それを聞いても張遼はにやにやと笑っていた。確実に高順を驚かせることができる、と確信したような笑み。

 

「その程遠志のおかげで、今回の戦いは勝てたらしいで」

「そう思ってるのはお前だけ、ってオチじゃねえよな」

「ちゃうちゃう! さっき言った軍師二人も、程遠志の実力は認めてるんや」

「へえ」高順は軽く笑った。「流れは信じねえけど、なかなか面白そうなやつじゃねえか」

「やろ」張遼も同様の笑みを見せた。「それに、ウチらは程遠志と前から繋がりがあるで」

「はあ?」

 

 高順は小首を傾げた。程遠志、という名前を頭の中で唱えて見るが、心当たりはない。

 張遼は変わらず意地の悪い笑みを浮かべ続けている。高順は焦れ、苦笑を口の端から漏らして、降参を表現するように両手を上げた。

 

「わかんねえ。会ったことなんてあったっけか」

「直接会ったことも、名前を聞いたこともなかったが、ウチらが会いたがってた人間や」

「会いたがってた?」

「鈍いなぁ。あの、汜水関の時やん」

「汜水関―――」高順はそこで、目を大きくした。「あの、呂布と戦った先陣の奴か!」

 

 ようやく思い出した。汜水関の戦いの折、我が策を打ち破った先陣の人間であったのか。高順は驚き、張遼を見る。張遼も見返すように高順に目を合わせていた。

 呂布が率いる猛攻を耐え凌いだ男。会いたい、と胸から感情が飽和してくる。「流れ」だのなんだのはどうだっていい、とすら思った。生き残ったら一緒に会いに行こう、と張遼と約束していたのを思い出す。「先に会いやがって、ズリいな」と高順が漏らすと、張遼はその言葉を待っていた、というように目を光らせた。

 

 

「まだ、ウチは殆ど会ってないで」

「……なに?」

 

 

 ぽかん、と高順は目を丸くする。張遼は得意げに言った。

 

「アンタと一緒に会いに行く、って約束したやろ。だからまだ、会ってない」

「……そうかよ」高順はぽかんとしてからすぐに破顔した。「馬鹿な奴だな」

「意外と健気な女やろ、ウチ?」

 

 高順はそれを聞いて大笑した。張遼もまた同じように笑った。そういう二人だった。

 華雄だけが、そんな彼らを苦笑交じりに見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 ―――そんなわけで、曹操軍は張邈軍を大きく打ち破った。大勝である。

 後世の歴史家である司馬光や鄭樵も、この戦から曹操独力の実質的な兗州支配が始まったとしている。張邈の反乱は領内に大きな混乱を巻き起こしたが、長期的な視点からすれば曹操にとって必ずしもマイナスになったというわけではなかった。董卓軍の一部が曹操軍に加入したことを考えると、どちらかと言えばプラスだと言えよう。

 曹操にとってこの戦は、実利的な面ではなく心情的な面での衝撃が強かった。張超が死ぬ直前の張邈に語った言葉は、必ずしも間違いではない。曹操が自身の感情を隠匿することがいくら上手かろうとも、その隠匿された心中が無傷で済んでいたわけではないのだ。

 ……しかし、曹操はその程度で立ち止まる人間ではない。覇道を進む彼女は、自身の部下のためにも決して弱みを外に出さず、「完璧な自分」を演出し続ける。彼女はこの戦によって受けた衝撃も、傷も、誰にも相談することなく自分で呑み込んでしまうことだろう。

 

 

 つまり、心情的にも、実利的にも長期的に見ればマイナスではない。

 張邈軍と曹操軍の戦いは、曹操軍の完全勝利だったのである。

 

 

 ―――ただ、仮に一つだけ問題があるとするならば。

 張邈の親友だった、もう一人の人間のことである。

 

 

 

 

 

 

「香水さんが、死にました」

 

 一人、誰もいない部屋で声が響いた。

 いつも閨で共に過ごしているはずの緑髪の少女も、青髪の少女もいない。ただの一人で、部屋に籠っていた。名家の当主である彼女が一人になるなど、極めて稀なことだった。誰よりも多人数を好む彼女が、初めて孤独を望んだのである。

 ……未来を見ていた。曹操が自分と戦い、張邈はそれを止める。彼女の言葉を無視して曹操を倒し、呆れられながらも曹操と張邈を自分の臣下にする。そうなると信じていた。それこそが天下を取るための第一歩であり、彼女の夢と言っても良かった。

 

 しかし、それはもう現実になることはない。

 

 彼女―――袁紹は三日三晩泣き腫らしていた。何故張邈が曹操を攻めたのか。張邈は何故死ななければならなかったのか。兗州における今回の戦いは謎も多く、すべてを袁紹が理解できたわけではない。理解できないことも多く存在していた。

 初めのうちは曹操を恨んだが、その気持ちは少しずつ薄れていった。元来「怨恨」や「厭悪」に侵されるような邪悪な人間ではない。そのような悪感情は「勇気」や「挑戦心」などのような抽象的な感情に変わっていき、最後には「決意」の色一色に染まった。

 

「華琳さんは―――私が倒します」

 

 公孫瓚に手間取っている時間はない。すべての兵力を持って、曹操を叩き潰す。

 袁紹は決意した。今までのような余裕は見せない。全力を持ってすべてを為す。それこそが張邈の弔いになるのではないか、とどこかで思っていた。曹操を倒すことによって、兗州の戦いの一端を知ることができるだろうと考えたのである。

 袁紹の目からはまだ涙が零れている。悪感情は消えようとも、単純な悲嘆はどうしようもない。

 熱を持った顔、赤くなった頬から零れる涙の雫も、同じような熱を持ち続けていた。

 

 ―――袁紹の思う通り、全力を持って曹操に挑むことは張邈の弔いになるのかもしれない。

 仮に黄泉の国というものがあって、そこで張邈が一人で泣き腫らす袁紹を見たとすれば、必ず喜んでいることだろう。彼女がこれから曹操を苦しめる難敵となる未来を見て、愉快に笑うに違いない。

 

 

 

「三国志」の作者である陳寿はこう記している。「忽然、擊破瓚于易京、幷其衆。出亲戚譚、爲青州」たちまち公孫瓚を撃破し、残党を吸収し、親戚の袁譚に青州を治めさせた、との意である。

 

 袁紹は公孫瓚を撃破後、すぐさま曹操へ弾劾状を送った。

 内容は張邈との戦いの詰問で、実質的な開戦の手紙である。

 

 

 

 このような感じで、張邈との決戦は終結した。今後、この戦いがまだ序章のようなものであったのだと理解し、程遠志は再び苦労することになるのだが―――まあそれは、今からの話である。

 

 

 

 

 




次回は息抜き編を挟むかも……(未定)



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

息抜き編 荀彧の奔走

 

 

 

「こ―――これは、どうすれば」

 

 荀彧は、壁に隠れながら身体を震わせていた。これまでにない危機が迫ってきている。

 彼女は曹操軍を支える筆頭軍師である。これまでにも多くの迫りくる危機を解決し、主に対する危険を排除してきた。その数ならば誰にも負けていない自信がある。その自信は圧倒的な実力からもたらされるものであり、決して過信などではない。

 そんな彼女が混乱していた。絶望と言い換えてもいい。どうしようか、どうすればいいのか、と考えるも、答えが頭の中に浮かんでこない。

 再び、荀彧は前方を見つめた。

 

「ねえ鄧茂」そこでは、曹操が微笑を浮かべている。「今夜、私と閨で少しお話しない?」

「い、いや、そのぉ……」

 

 

 ―――鄧茂が、曹操に口説かれていた。

 

 閨でのお話がお話で終わるはずがない!

 いよいよ恐れていたことが起きてしまった、と荀彧は頭を抱えた。曹操の近くに侍っている夏侯惇と夏侯淵は困った顔をしながらも、主である曹操のことを想ってか強く止めようとはしていない。

 張邈が何者かに殺された、と一報が入ったのが昨日のことである。それに対して曹操は顔色一つ変えず「そう」と漏らしただけだったが、その心中がどう荒れ狂っているのかは誰にもわからない。その整理がつくまで、主の機嫌を損ねないようにすべきだ、というのが夏侯姉妹の考えなのだろう。

 気持ちはわかるけど! 私も同じ立場ならそうするけど! 荀彧は歯噛みしながら地団駄を踏んだ。鄧茂が男だと理解できているのはこの場で荀彧だけなのである。余計なことを教えられた、と程遠志に対する彼女の苛立ちは一瞬高まり、すぐに鎮まった。それは違う、と思い直したのである。

 

 ―――私が知らなければ、この状況を止めることができなかったのだ。

 

 荀彧は寧ろ胸を撫で下ろしたくなる心境になった。曹操と男が同衾するなんて、もってのほかである。いくら顔が女にしか見えない鄧茂であっても、駄目なことは駄目なのだ。程遠志に教えられていなかったら、これを防ぐことなどできず、あの馬鹿姉妹と一緒に不干渉を貫いていたかもしれない。危なかった、と荀彧は思う。

 そうこうしている間に、曹操は夏侯姉妹を連れ従って歩き去ってしまった。「待っているわよ」「秋蘭、閨の護衛は任せたわ」という曹操の言葉が荀彧の耳にも届き、絶望しそうになった。

 すぐに荀彧は気を取り直す。鄧茂を呼び止めて、絶対行くんじゃない、と止めなければならない。

 しかし、鄧茂は顔色を青くして彼方に走り去っていった。「ちょ、ちょっと、鄧茂―――!」と荀彧が叫んでも、聞く耳持たずそのまま走り抜けていく。追いかけようとしたが、荀彧の足が一端の武官である鄧茂に敵うはずもない。

 場には曹操も夏侯惇も夏侯淵も鄧茂もいなくなり、荀彧だけになった。

 

「どうすればいいの……?」

 

 辺りに荀彧の掠れた声が響き渡った。

 

 

 

 

「それで、俺のところにきたのか」

 

 荀彧が訪れたのは程遠志―――ではなく、張曼成だった。

 

「鄧茂の居場所が知りたいの。あんたは仲がいいんでしょ」

「まあそりゃ、仲はいいが。俺のところには来ていない。……というか、一番仲がいいのは程遠志なんだから、先にそちらへ行くべきだろう」

「……顔を合わせづらいのよ」荀彧は唇を歪める。

「あいつはもう気にしていないと思うけどな」

 

 張曼成は苦笑を浮かべながらそう言った。

 荀彧は珍しくも、男と話しているというのに嫌悪感を顔に浮かべていなかった。それだけ現状に困惑してしまっていた。今度、この珍しい姿を酒の肴として程遠志に話してやろう、と密かに張曼成は胸の中で決める。

 荀彧は彼のそんな心中など考える余裕もなく、苛立たしげに地面を蹴っていた。

 

「曹操様に言わないのか? 鄧茂は女じゃありません、って」

「言えるわけないでしょ。言ったらとんでもないことになる」

「そりゃそうだ」

「それに、張邈のことがあったのだから、今曹操さまに大きな衝撃を与えたくはないわ」

「でもな」張曼成はまた、苦笑を漏らす。「言わずに止める、って結構難しくないか?」

「だから鄧茂を探しているのよ。血迷って本当に閨に行ったらもっと大変なことになる」

 

 荀彧はそう言い、「鄧茂を見つけたら私に連絡頂戴」と言い残して駆けて行こうとする。

 その背中に、張曼成は言葉を投げかけた。「いい言葉を教える」

 

「はあ?」荀彧は振り向くこともなく、聞き返す。「何よ、急に」

『起こるかもしれないことを恐れ、何もしないなら、たとえ良くない結果に終わったとしても、大胆になって危険を冒す方がいい』張曼成は歌を歌うように言葉を続ける。「希臘のヘロドトスの、言葉だ」

「藪から棒に何を言い出すのよ」

「世の中は面倒くさいことと面倒くさくないことで溢れているのだから、何も考えずに進んだ方がいい。程遠志に会いたくないだとか、そういう感情を捨てて、他人のことを考えず自分の思った通りに突き進んだ方が成功する。俺の経験則だ」

「……珍しく、長々と語るじゃない」

「そういう気分だったんだよ」

「まあ―――わかったわ、とりあえず前に進んでみる」

「おう」

「で、あんたの言うように、あんたのことなんて何も考えずに突き進むわ」

 

 え、と真顔になる張曼成を尻目に、荀彧は駆けだしていった。次に会うべき人間は決まっている。

 程遠志以外で、鄧茂と仲のいい人間は、もう一人しかいない。

 

 

 

 

「それで、ぼくのとこに来たんですか……」

「ちぃたちの歌練習の邪魔をしないでほしいんだけど」

 

 汗をかく厳政と、半目になる張宝が荀彧を迎え入れた。

 

「それで、鄧茂は来なかったかしら?」

「鄧茂さんは来ませんでしたよ。ぼくらはここでずっと休憩してました。今日の夜、ぼくは急遽、城の警護任務を任されたので、それまでゆっくりしてるんです」

「……歌の練習をしてたんじゃないの?」

「こ、言葉の綾よ。とにかく、用は済んだでしょ!」

 

 やけに慌てる張宝を見て、荀彧は肩をすくめた。ひょっとしたら自分は彼らの邪魔をしたかもしれない。

 このまま邪魔をするのも悪いな、と荀彧は珍しく殊勝な気持ちになった。そもそも鄧茂を探すのだから、ここに長居するわけにもいかない。「それじゃ、鄧茂を見つけたら声をかけて頂戴」と言い残し、急いで走り出そうとする。

 その背中に声がかけられた。「荀彧さん!」言うまでもなく、声の主は厳政である。またか、と少しうんざりしながらも足を止めて、振り向くことなく荀彧は言葉を返した。「何よ」

 

「言い忘れてました、鄧茂さんはこっちにきてないですけど、姿なら見ましたよ」

「本当!?」荀彧は慌てて振り向く。「どこで!」

「ええと」厳政は頭に手を当てた。「確か、向こうの方の家に入っていきました」

「向こうって、どこよ」

 

 思わぬ形で長居することになりそうだ。張宝がむ、と少し頬を膨らませているが、荀彧はもうそのことなど考えていない。すべてにおいて曹操を優先するのが彼女である。そして、厳政もまた張宝の機嫌が悪くなっていることにも気づかず、「ええと」と言葉を漏らしながら首を何度も捻っていた。「確か、あそこだったか、その隣だったか」

 荀彧は焦れながら「どっちよ」と尋ねると、「多分右です」と厳政は自信なさげに答えた。まあどっちも見ればいいかと荀彧は思い直し、走り出そうとして、足を止めた。

 

「色々助かったわね。それと、邪魔して悪かったわ」

「い―――いえ!」厳政は恥ずかしそうに頭を掻く。「どうせ、別に大したことをしていませんでしたので、全然迷惑じゃないし、邪魔じゃなかったですよ。寧ろ歓迎です」

「え」荀彧は厳政の隣を見る。張宝が目を鋭くしていた「ま、まあ。それならいいわ」

 

 厳政は女心というのがわかっていないらしい。この後で厳政が張宝に怒られる姿が容易に想像できたが、荀彧はすぐに考えるのを止めた。そこまで自分が関与する必要なんてないだろう、なんて思い直し、すぐに駆けだす。

 背中から「何度も―――何度も!」と張宝の怒声が聞こえたが、荀彧は足を止めることなく走り続けた。

 

 

 

 

 右の家に行くと、完全に空き家だった。厳政の言葉は間違っていて、どうやら左の家が正しかったらしい。程遠志たちが彼のことを不幸だ不幸だ言う理由が荀彧にも僅かに理解できた。不幸は人に移るのだろうか、と馬鹿馬鹿しいことを少しだけ考えてしまう。

 左の家に入ると、そこは道具屋だった。何でも屋、というべきだろうか。様々な珍品が置いてある、と噂されている店である。荀彧も人伝いで町外れにそのような店があると聞いたことがあった。

 

「あ」そこで、荀彧に声が駆けられた。「桂花さま」

 

 楽進が、きょとんとした顔で屹立していた。その手には何やら赤々しい物体が握られている。

 どうしてここに、と思いながらも、荀彧はちょうどいいとばかりに話しかける。

 

「貴女、鄧茂を見なかったかしら」

「はい、見ました。先ほどまでこの店にいました」

「……今は、どこに?」

「さあ」楽進は申し訳なさそうに眉を曲げる。「桂花さまが現れるほんの少し前までは、この店の中にいたのですが、買い物を済ませたら慌てて駆けだして行ってしまいました」

 

 入れ違いになったのか。荀彧は思わず歯噛みしてしまう。今から追いかけても、前の二の舞になるだけだろう。武官と軍師では足の速さが違う。

 はあ、と荀彧は一つため息を吐く。「不幸」という漢字二文字が頭にちらつきながらも、落ち着け、と自分に言い聞かせた。まだ夜までは時間がある。止められないわけではない。

 

「鄧茂はこの店に、何しに来たのかしら」

「ここは珍しい店ですので、他にはないものを多く売ってるんです。たまに安物とか、外れの製品が混ざっているのが難点ですけどね。例えばこの激辛熟成唐辛子とかは絶品で―――」

「鄧茂が何を買ったか、見た?」

「あ、ええ」楽進は二、三度頷く。「確か、縄を買っていましたよ」

「な、縄?」

「縄です。どんなことがあっても絶対に千切れない縄、らしいです。強度に自信の一品、って店主が勧めていましたけど、何か縛りたいものでもあったのでしょうか」

 

 荀彧は楽進の言葉を満足に聞けてはいなかった。「閨」「曹操」「縄」「鄧茂」と様々な単語がごちゃ混ぜになり、脳内が混乱する。鄧茂が何をする気なのか、どんな思惑なのかはわからないが、これはまずいのではないかと思えてくる。荀彧は涙目になった。どうしてこうなった!

 本当に厳政の不幸が移ったのではないか。荀彧は嘘偽りなくそう思い、とにかく急がねば、と謎の勢いに駆られて道具屋を飛び出し、駆け出して行った。

 

 

 

 

 それから、さまざまな場所を巡ったが、鄧茂を見つけることは叶わなかった。道具屋から完全に行方を眩ませてしまい、苦肉の策として程遠志のところへ荀彧も向かおうとしたが、彼は今休暇をとっているらしく、この街にいないとのことだった。

 当てもなく彷徨ううちに、日は暮れて夜になりつつあった。どうするか、と思い、こうなれば曹操さまにすべてを打ち明けるしかないか、とも考えた。縄を持った何を考えているかわからぬ男と同衾するよりかは、数倍マシなはずだ。そうしようと決心して、曹操のいる城へ歩を進めようとして、荀彧は固まった。何かが頭に引っ掛かった。

 

 そういえば、とふと思う。厳政が「急遽城の警護任務が入った」と言っていた。急遽、で決まることなのだろうか。誰かが不意に彼に頼みに来たのではないか。厳政のところから離れる際、張宝が「何度も」と叫んでいたことを思い出す。断片的な部分しか聞き取れなかったが、あれは「何度も私たちのところに邪魔が入って」とのような内容ではないだろうか。だとすればやはり、厳政のところへ荀彧より前に誰かが来たことに他ならない。

 

 張曼成の言葉が頭に蘇ってきた。『大胆になって危険を冒す方がいい』荀彧は彼の意見に賛成でも反対でもなかったが、それと同じ意見を他の誰か―――張曼成の仲間たちが持つ可能性は十分にあるよう思えた。本質を言えば、張曼成や厳政や鄧茂や―――程遠志は、同じ穴の狢なのだから。

 

 次に、鄧茂が買ったという縄のことを思い出した。鄧茂が縄を持って曹操を襲う。そのようなことは果たしてあり得るのだろうか。妄想ではないか。もっと、「決して千切れることはない」縄の正しい使い方があるのではないか。

 

 そして―――最後に。先ほど唐突に聞いた「程遠志が休暇を取っている」という知らせを思い返した。最初に張曼成を荀彧が訪れた時、彼は「程遠志にところへ向かうべき」と言った。つまり、張曼成はあの時点で程遠志がいないことを理解していなかったのである。それは程遠志の休暇を偶然知らなかっただけなのか―――それとも、程遠志の不在は、厳政の言葉と同様に「急遽」で決められたことで、嘘偽りの類ではないか。

 では、何故そのような嘘を吐いたのか。

 

 それらを頭の中で整理し、荀彧はすべてを察した。結びついたというべきだろうか。

 荀彧は、大きく目を広げて驚いた。

 

「お、愚かすぎる」荀彧は思わずそう言ってしまう。「あいつは何を考えてるの……」

 

 厳政の急な任務や、鄧茂の謎な行動がすべて説明できた。そんなことを本当にするのだろうか、とも一瞬疑問に思ったが、張曼成の言葉が、彼らの性格を裏付けている。黙って何もしないよりも、危険でも大胆に動く類の人間たちなのだ。

 

「こんな無茶な策、本当に成功すると思っているのかしら……」

 

 荀彧は頭を抱えた。仮に彼らが荀彧の思ったように動くのならば、どう考えても失敗するとしか思えなかった。

 それに、そもそもこんな大それたことをする意味が分からない。

 一人で勝手に失敗するならいいが、下手をすればこの無茶な策は様々な問題を招きかねない。そして、恐らくその事実に彼らは気がついてもいないだろう。

 止めるべきだ、と荀彧は思いつつも、今からでは程遠志に会うことはできないだろうとも思った。その気になれば張曼成や厳政に会うことはでき、計画の邪魔はできるが、それでは何の意味もない。寧ろ、それは逆効果だろう。程遠志は止まらず、計画は実行されるのだ。彼らの策の失敗率を上げ、その癖策自体を阻止できないのなんて、それこそ愚策だ。

 

 ならば、と思う。荀彧は唇を軽く噛んだ。

 ―――私が彼らの手助けをすれば、どうだ?

 

 この愚かな策をしっかりと完成させる。

 彼らの手助けをする。男の助けをする。その部分に荀彧の身体は大きな拒否感と忌避感で包まれ、膝から崩れ落ちそうになったが、なんとか堪えた。

 現状の解決策は、曹操にすべてを打ち明けるか、彼らの手伝いをすることの二つに一つだった。前者の方が遥かに楽で、荀彧からしても歓迎すべき選択肢なのだが、曹操が鄧茂の性別を知ってしまった時にどれだけの衝撃が来るかが計り知れなかった。後者であれば、鄧茂の性別が曹操に知られることもなく、比較的衝撃を薄めることができるかもしれない。

 

 しかし、だからといって。

 素直に後者を選べるか、という話でもない。

 後者を選ぶことは―――最悪曹操の寝室に程遠志が忍び込むことに繋がるかもしれないのだ。

 

 ……要するに、これは程遠志を信頼できるか、できないかの選択である。

 荀彧が手助けをすれば、彼らの策を完遂させることは可能である。前者で挙げられた問題点もすべて解消できる。ただ―――程遠志が曹操の寝室で変なことをしないか、どうか。仮に程遠志が何もしないとして、荀彧がその行為を黙認することができるか、どうか。そして、程遠志が些細な失策を犯さないか、どうかである。

 即断を是とする荀彧が、完全に硬直した。凡人のように狼狽えた。狼狽えながらも、曹操様のためになる選択肢とは、後者であることを彼女自身理解できてしまっていた。

 

 

「私がここまでするのだから」荀彧は苦し紛れに、信頼とは思えない暗い感情を両瞳に宿らせて言った。「成功させないと呪い殺すわよ―――程遠志!」

 

 

 そして無論―――程遠志はそんなことを露ほども知らない。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

程遠志の奮闘


めちゃ長くなりました<(_ _)>



 

 

 

「た―――助けて、程遠志!」

 

 部屋で寝転んでいた程遠志は、悲鳴にも似た声に「うお」と驚かされる。声の主は鄧茂。急になんだよ、と彼は腰を抜かしそうになった。

 

「お前よ、急に扉を開けるなよな。入る前に『失礼します』ぐらいは言うようにしろよ」

「僕たちの間柄で何言ってんのさ。て、てか、そんなことよりだよ」

「そんなことより?」

「ついに、ついに曹操さまに閨に呼ばれちゃったの!」

「…………おぉ、そうか」程遠志は目を擦った。「それはよ、大変だな。一大事だ」

「一大事も一大事だよ。夏侯淵様が護衛してるらしいから、逃げるにも逃げ出せないし。ね―――ねえ、どうすればいいのかな?」

「どうしようもなくないか?」

 

 程遠志は「なんだ、そんなことか」というように再び横に寝転がった。ごろり、と一つ寝返りを打つ。

 

「む」鄧茂は少し目を細めた。「なんで無関心なのさ、一大事だよ、大問題だよ!?」

「いやいや。大問題なのは俺じゃなくてお前だっつーの。前にも言ったじゃねえかよ、『明るく前向きに考えてこう』ってよ。前向きに考えろな」

「むむ」鄧茂はまた顔を歪める。「じゃあ何さ、程遠志は僕がどうなってもいいってわけ」

「よくねえよ。当たり前だろ。お前のことは誰よりも信頼してるさ」

「だよね程遠志! 流石!!」

「でもよ、俺は曹操様のことも信頼してるんだよな、安心していってこい」

「む、むむむ―――!」

 

 鄧茂は獣みたいな唸り声を上げた。涙目になりながらも程遠志を睨みつける様子はとても可愛らしく、本当は女なんじゃねえの、と疑ってしまうほどである。程遠志はそう思いながらも軽く首を振った。こいつが男だってことは間違いないことである。悲しいことに。

 すると、急に鄧茂はにやり、と荀彧の笑みにも似た悪戯っぽい笑みを浮かべた。なんだ、と程遠志は目を瞬かせる。

 

「……本当に行ってもいいんだね?」

「おう。好きにしろな」

「本当の本当に、行って色んなことを言ってもいいんだね?」

「おう―――て待て? 行って言う? 何をだ、おい」

「閨に行って、曹操様に『程遠志に止められたんで無理です。僕とそういう行為がしたいのなら程遠志を倒してからにしてください』って言ってもいいんだね?」

「まずはどうやって曹操さまを止めるか考えるべきだな」

 

 

 

 

「思いついた」

「はや」鄧茂は瞳をぱちくりとさせた。「大丈夫、適当じゃないよね」

「かなり自信があるぜ。どうやら今日の俺は冴えてるらしい。この策を聞いたら普段眠そうにしてる程昱は目を大きく見開いて、俺の悪口しか言わない荀彧は口を大きく広げて何も言えなくなること間違いなしよ」

「程遠志、流石!」

「でもよ、この策はお前にも動いてもらうことになるが、大丈夫か?」

「勿論。曹操様の閨に行く以外なら、なんだってするさ」

 

 鄧茂は二、三度首を頷かせた。早く説明して! と見えない尻尾をぶんぶんと振って、程遠志に続きを催促してくる。

 

「この策の最終目標は、俺が曹操さまの閨に辿りつくことだ」

「え?」鄧茂は首を傾げた。「どういうこと?」

「お前が行かないんだから、俺が行くしかねえだろ?」

「そう……なのかな?」

「流石によ、無視はできねえだろ。つまりは誰かが曹操さまに会わないといけないわけだ」

「でも、程遠志、指名された僕ならともかく程遠志が曹操様の閨を訪れるのは普通に不可能だと思うけど―――」

「まあまあ」程遠志は余裕そうに軽く笑った。「落ち着いてよ、俺の話を聞いてみろよ」

 

 程遠志はそこで一度言葉を切り、さらにまた続ける。

 

「まずはだ、俺が厳政のところに行って、今日の夜の見回り任務を任せるだろ」

「任せる、って。決定権は程遠志にないでしょ?」

「いや。今日は確か俺が担当のはずだ。任せるってかよ、代わってもらうっていうべきかな」

「ふんふん、それで?」

「その間に、鄧茂は道具屋に行って縄を買ってきてくれ」

「縄?」

「そう、縄」

 

 鄧茂は口を軽く開く。程遠志が何を言っているのかよく理解できていないらしい。

 程遠志は僅かに唇を歪めていた。彼が頭を使って何かに取り組むというのは非常に珍しいことで、彼自身それに対して密かな高揚感を抱いているのか、「簡単なことなんだよ」と、いつも以上に得意げに話し始めた。

 

「縄を結ぶんだ。曹操様の部屋の窓とかに、外から。それで、登るんだ」

「あ!」鄧茂は手をポンと打った。「そうか、それで外からなら忍び込める―――!」

「そうだ。厳政が警備って名目で誤魔化している間に、俺が忍び込む」

「でも、曹操様そんなことして怒らないかな……?」

「大丈夫だよ、大丈夫。俺の『流れ』がよ、そう言ってる」

「……まあ、程遠志が、そう言うなら信じるけど」

 

 密かな心配で顔を染めながら、鄧茂は程遠志を見た。本当に大丈夫なのか、と聞くように。

 

「だってよ」程遠志は軽く肩をすくめた。「お前が閨に行くわけにもいかねえだろ?」

「そ―――それは、そうだけど」

「で、俺がなんとかしねえと曹操様にチクるんだろ?」

「ま、まあ、それは言葉の綾っていうか。ホントに程遠志が嫌なら求めないっていうか」

「とにかく、だ。ここまで俺が考えたんだから、折角だしやってみようぜ」

「う、うーん……あ! そもそも、曹操様の部屋にどうやって縄を引っ掛けて、結ぶの?」

「むむ」今度は程遠志が唸った。「ま、まあ、それはよ、後で考えようぜ。張曼成とかに聞いたらもっといい案を出してくれるかもしれねえしな、うん」

 

 大丈夫かなぁ……と、また鄧茂は不安そうに言葉を漏らす。

 程遠志だけが、謎の自信を胸に堂々と立っていた。

 

 

 

 

 全部の仕込みが終わった。程遠志は厳政の元に向かい、鄧茂は少し離れた店に行き、縄を買ってきた。その縄は程遠志の手に渡り、仕込みを厳政に任せるという名目の元、最終的に厳政に渡された。

 その道中、程遠志は自分が今から休暇を取り、暫く城下から離れるという噂を流していた。鄧茂が閨に招かれたことから、程遠志がその邪魔をすると思う人間がいてもおかしくない。変に警戒されないためにも、その効果は高いのではないか、と思い、彼自身が考えたことである。

 すべては終了した。もうすべきことはなにもない。夜を待つだけである。

 

「と、いうわけで」程遠志は欠伸をかみ殺した。「後半刻ほど暇になっちまったな」

「でも、ここまで」鄧茂は苦笑を浮かべる。「手の込んだことする必要あったかな」

 

 ―――程遠志と鄧茂は町外れの空き家で、息を潜めていた。

 

「俺はもうこの街にいないってことになってるからな」

「それにしてもここまでするかな……。これじゃビビってるみたいじゃない?」

「失敗したくねえし、慎重にいったほうがいいだろ?」

「まあ、確かに」

「問題があるってんなら、暇すぎるってことかな。まだまだ時間が有り余っちまってるよな」

「なら大丈夫」鄧茂はにっこりと笑った。「程遠志と一緒なら、暇すぎるなんてあり得ない」

「……そういうことを自然に言えるのはよ、女だけの特権だろうよ」

「なら僕も問題ないかな?」

「問題アリアリだっつーの」

 

 程遠志が少し呆れたように言うと、鄧茂は快活に笑った。

 

 

 

 

 夜になった。

 程遠志は少しうとうとしたり、鄧茂と話したり―――要するに、いつも通りに時間を浪費していた。最近は鄧茂と二人で話すこともなく、たまには何か気の利いたことでもしてやろうかとも思ったが、鄧茂自身「いつも通りにだらけようよ」と甘えたような声で言うものだから、程遠志もそれに従ったのである。

 そして、夜になったのだから、行かなければならない。

 名残惜しそうにする鄧茂に「後でな」と一言だけ残し、程遠志はゆっくりと歩きだした。

 

 曹操の部屋に忍び込む算段は既についていた。

 外の警護隊長をしている厳政に、ある時間には曹操の部屋の真下に兵士を配置しないでもらう。その隙を突いて縄をどうにかして結び付け、それによじ登る。

 最大の難関は、そこに辿り着くまでに誰に対しても顔を見られてはいけないことである。

 今、程遠志はこの街にいないことになっている。ここで存在が知られれば逆に怪しまれるだろう。程遠志は自分が休暇をとった、なんて情報を広める必要はなかったかもしれない、と少しだけ後悔した。見返りと代償が釣り合っていない気がした。

 まあ、やってしまったことは仕方がない。程遠志は目深に帽子を被り、自身の傷跡を隠すように振る舞った。ただでさえ印象の強い顔立ちだ。それだけ隠せば、体格などでは気づかれないはずだ、と謎の自信を持っていた。

 

 そして―――本当に、誰にも気づかれることなく。

 程遠志は曹操の部屋の真下に辿りついていた。ここからあそこに縄を結びつけ、登っていくだけだ。図ったように兵士は誰もいない。思い通りだ、と考え、程遠志はすぐに思い直した。変だ、おかしい。

 文字通り、誰もいなかった。即ち厳政も、である。どうやって縄を結ぶか。登るか。それを考えるために彼に縄を預け、任せていた。厳政がいなければ登ることも儘ならない。どうなってんだ、と辺りをきょろきょろと見まわし、「あ!」と程遠志は叫んでしまった。慌てて自分の手を塞ぎ、慌てて辺りを再び見る。なんとも滑稽な姿だったが、彼の視界に他の人間が映ることはなかった。

 縄が、かかっていたのである。

 程遠志の少し先に、縄が垂らされていた。厳政に渡したものである。それは一直線に曹操の部屋まで伸びており、結びついていた。厳政が既に準備してくれたのか、と程遠志は狂喜し、それでも彼がこの場にいないのはやはり変だよな、と疑問に思った。縄が結びついているならば用はない、と考えたのかもしれないが、そもそも彼は今晩の警護任務を司っているのである。他にやることもないはずだ。

 わけがわからない、と彼も首を捻った時である。

 音がした。こつ、こつ、と静かな音で、すぐに足音だと程遠志も気がついた。慌てて辺りを見、隠れる場所がないことを理解し、完全に混乱した。そして、咄嗟に思いついたのか、整備されている地面に這いつくばった。意識が関与しない反射的な行動だった。そんな行動が意味をなすはずもなく、足音はどんどんと近づいてくる。「人払いはしてあったんじゃないのか」「策が失敗してしまうのか」様々なことを程遠志は考え、恐る恐る顔を上げた。

 すると、そこには。

 

「あんたって、本当に間抜けなのね」

「…………荀彧?」

「その無様な姿を見られたことだけが、この一連の騒動で一番の収穫で、満足だわ」

 

 そう言う荀彧の表情はちっぽけも満足そうではなく、疲労の色が濃く見えた。

 

 

 

 

「こんなくだらない策に付き合わされる、こちらの身にもなってくれない?」

 

 曹操の部屋に縄を垂らし、辺りから人を消し、厳政に口利きをしてくれたのは荀彧だったらしい。程遠志はそれを知り、彼女に対して素直に感謝する気持ちが湧きながらも、少しだけむっとした。俺の策のどこがくだらないのだ、と鋭く死線を飛ばすと、それよりもさらに剣呑な視線が返ってきたので、慌てて目を逸らす。

 

「まず、私がいなかったらどうやって縄を華琳さまの部屋に結びつけたのよ」

「それは、厳政とか張曼成とかと話し合って」

「話し合って?」

「……なんとかできたんじゃねえかな?」

「できるわけがないでしょ。あんたたちの馬鹿さ加減でものを申さないでくれるかしら」

 

 荀彧の瞳がさらに鋭くなった。ひょっとしたら本気で怒ってるのかもしれない。

 

 程遠志が二、三度頭を下げると、荀彧は溜息を吐いた。「それに」と言葉をぶっきらぼうに吐く。「仮に、あんたたちが何とかできたとして」

「できちゃうのか」

「ええ、できちゃったとして。それに何の意味があるの?」

「意味?」程遠志は下げた頭を横にこくりと倒す。「そりゃ、曹操様に会えるだろ。会って、鄧茂の件について俺が代わりに謝るんじゃねえか」

「……なんでそのためだけに、ここまで苦労をする必要があったのよ」

「はあ? 曹操様を無視して謝らないなんてわけにはいかねえだろ」

「そういう意味じゃなくて、なんで夜前のご飯時とかに、華琳さまに会おうって考えなかったの? 私が仮に―――あくまで仮にだけど、あんたと同じ立場なら、そうするわ」

 

 程遠志は呆然となった。

 そういえばそうである。そもそも、なんで閨に忍び込もうなんて考えたのだ? 夜になる前に、普通に曹操に会って話せばよかったではないか。そうすれば縄を使う必要も、厳政に代わってもらうこともなく完遂できた。ここまでやったことはすべて無駄だったのではないか、と思うと程遠志はがっくりときた。腑に落ちねえ!

 

「じゃあ、なんだよ」程遠志は自棄っぱちで言う。「もう曹操様に全て言ってくれたのか」

「え」荀彧は、そこで初めて目を白黒とさせた。「ど、どういう意味よ」

「俺の計画に色々付き合ってくれたんだろ? 曹操様に言ってくれたら、そもそも縄を登る必要も何もなくなるだろ」

「…………ええ、そうね。華琳さまに、言ったわよ」

「マジかよ。じゃあ俺もう何もしなくても―――」

「『夜に、程遠志が縄を登って窓から入ってきます』って、言ったわよ」

「はあ?」

 

 どういうことだよ、と程遠志は混乱する。

 そういえばそうである。曹操の部屋に縄をかけてくれたのも、この場における人払いを済ませたのも荀彧なのだ。それで疲れを蓄積し、程遠志に嫌味を言っているのだ。そもそも、曹操に「鄧茂は来ません」と言葉を続けるだけで良かったというのに、どうしてそこまで無駄なことをしたのだろうか。

 

「言えるわけないでしょ」それに答えるよう、荀彧は言う。「言えば、華琳さまは必ず疑問に思うわ。それで、『どうして来ないの?』と聞かれたら、私はすべてを話さざるを得なくなる。そんなことを話したらアレよ。大変なことになるわ」

「なるかもしれないけどよ、言わなきゃいいじゃねえか」

「自慢じゃないけど、華琳さまに熱っぽい目で見られたら、何も考えがまとまらなくなるのよ」

「本当に自慢じゃねえな!」

 

 

 

 

 結局、登らないといけないらしい。寧ろ、荀彧が曹操に予告をしたのだ。

 これで「はいやめます」なんて言えるはずもない。

 

 ―――程遠志は荀彧を背中に負ぶって縄を登っていた。

 

「華琳さまの部屋に男をのこのこと行かせるのは、やはり気に食わない!」とのことである。男の背中と接触することも許せないらしく、荀彧は専用の籠のようなものをわざわざ持参していた。そのため、程遠志が荀彧を負ぶった、という表現は正しくないかもしれない。正確には、荀彧の入った籠を背負う、と言うべきだろうか。

 中々重労働だったが、夏侯惇に普段から鍛えられていることもあって、程遠志の握力や体力は格段に向上していた。縄の各所に結び目があって、掴みやすいことも幸運だった。程遠志は落下する恐怖に身を包まれることはあれど、それが現実になることなく、曹操の部屋の窓まで辿り着いた。勢いよく窓を開け、身体を中に捻じ込ませる。

 倒れるようにして中に入ると籠の中からも悲鳴が上がった。籠と一緒に投げ出されて曹操の部屋に入った荀彧は、程遠志の方を射殺さんばかりの視線を向けている。

 それを見て、愉快気に笑う声がした。程遠志と荀彧は這い蹲りながらその声を聞き、慌てて起き上がった。声の主など、二人には言うまでもなくわかっている。

 

「随分と」曹操は、笑いながら言った。「仲良くなったものじゃない」

「こ、こんな蛮人と仲良くなった覚えはありません!」

「ひっど。流石に言いすぎじゃねえか?」

 

 程遠志は肩をすくめるも、荀彧はそれに対して猫のように唸って威嚇した。

 

「それで」曹操は口元に笑みを絶やさず言う。「程遠志、何か用があったんでしょう?」

「あ―――そうですね。一応、言わないといけないことが」

「まあ、大体はわかるわ。鄧茂じゃなくて、貴方がここに来たことから、大体わね。……ここまで無駄なことをする意味があるのかは、謎だけど」

「それは何も言い返せないっすけど、そうですね。鄧茂から言伝を貰ってます。『行けない』だそうです」

「理由を聞いてもいいかしら?」

 

 断られたというのに、不思議なほどまでに曹操の表情は柔らかかった。その中に一握り程、悪戯っぽい感情が紛れているのが程遠志にも見て取れた。表情を隠していない。

 ……しかし、一体全体なんと返せばいいのだろうか。「鄧茂は男だ」などと言うわけにもいかない。荀彧がわざわざここまで面倒をしてくれた意味がなくなる。適当な言い訳を考えてこればよかったな、と今更になって思った。頭の中の鄧茂が言っている。「追い詰められてからが、程遠志の真骨頂だよ」そういえばよく、あいつはそんなことを言っていたな、なんて呑気に思い返した。

 その数瞬後、こういえばいいんじゃねえか、と程遠志に閃くことがあった。勢いのまま、口を開く。

 

「多分ですけど、ね」

「ええ」曹操は笑っている。「多分?」

「あいつは、俺のことが好きなんじゃないですかね」

「―――だから、ここに来なかったと?」

「そういうことなのかもしれませんね」

 

 程遠志は妙に胸を張って言った。一度言葉を吐き出せば、もう取り返すことはできない。ならば最後まで堂々としていた方が人から評価されるはずだ、と予測ができていた。

 曹操はにやにやと笑っている。程遠志はそこであれ、と思った。自分の言葉に何か驚きだとか、困惑だとかが生まれると思ったのである。それがまるで予想通りの言葉が来たように曹操は笑っており―――よく見ればいまだ籠の中でちょこんと座っている荀彧も曹操の数十倍は意地悪く笑っている。何か変だ。二人してにやにやと俺のことを見てやがる。

 

 程遠志は何気なく視線を辺りに向けた。曹操や荀彧から目を離すのが目的だったが、偶然目に入ってくるものがあった。かたかた、と曹操の部屋の扉が揺れていた。風かな、と思うほど緩やかな揺れだったが、すぐに違うと思い直す。今日は殆ど無風だし、軽い隙間風などこの城ならば通さない。

 護衛が、扉にもたれかかっているのだろうか。そこまで考えて、程遠志の頭に閃くことがあった。鄧茂の言葉を思い出したのである。「閨の護衛は、夏侯淵様がやるみたいだよ」と、最初に一部始終を話した時、鄧茂がぼそりと言っていたではないか。つまり、あの揺れは夏侯淵が巻き起こしたものであるはずだ。

 夏侯淵が程遠志の話を聞いて、嫉妬で身体を揺らしている―――いや、そうじゃない。そんなタマじゃない。

 扉にもたれながら、肩を揺らして笑っているのではないか。

 そこから、曹操と荀彧が笑っている理由も、自ずと程遠志は理解できた。これから曹操たちは彼に質問をするのだろう。「鄧茂をどう思っているのか」「鄧茂に対してどんな感情を抱いているのか」それを十分に聞いた後、夏侯淵が登場するという段取りなのではないか。「私に告白しておきながら」と詰る―――というか、弄るつもりなのだろう。

 程遠志はそこまで一息に考えて、驚いた。どうやら本当に今日の自分は冴えているらしい。

 ここまで瞬時に考えられるなんて今まではあり得ないことである。

 

 曹操は程遠志の視線を見て、そこで初めて表情を変えた。扉の後ろにいる夏侯淵に気がついたのか、と言わんばかりの驚きの表情を見て、程遠志は更に確信する。その手は食わねえぞと程遠志は妙に意気込んだが、曹操は荀彧を見、やがて扉にも視線を向け、そこでさらに深く笑みを零したので、え、と動揺した。

 

「程遠志」曹操はその表情のまま言う。「貴方は、どう思っているの?」

「……鄧茂のことすか」

「それも、だけど。貴方自身は他に誰か好きじゃないの?」

 

 程遠志はその言葉にさらに動揺した。聞いてくるだろうと予想した質問と僅かに違っている。

 扉の揺れが止んでいた。荀彧の浮かべていた笑みも、そこで消失していた。夏侯淵も荀彧も想像していなかった質問。段取りにはないものである、と程遠志は思った。

 

 程遠志は曹操の顔を見た。先ほどと変わらない、悪戯っぽい笑みが口の端に浮かんでいて、その視線は先ほど程遠志が見ていた扉に合わさっていた。つまり、夏侯淵の方を見ていた。程遠志はそこで、遅蒔きながらも気づく。曹操はこう言っているのではないか。夏侯淵をからかおう、と。それに合わせてくれ、と。

 程遠志も悪辣な笑みを浮かべる。ならば、答えは一つである。

 

「ああ―――俺はそうですね。他にも好きな人がいますね」

「へえ、誰?」

「言うまでもないっすね。夏侯淵です」

「―――――っ」

 

 程遠志は横目で扉を見ている。かたかた揺れていたそれは、いつの間にかぴくりとも動かなくなっていた。向こうで彼女がどんな表情を浮かべているのか、気になる。

 曹操は程遠志の言葉が随分とお気に召したらしく、口元を歪めてくつくつと笑っていた。荀彧も、曹操の狙いに程遠志よりも早く気がついたらしく、同じように笑っている。

 

「へ、へえ。ちなみにどこが好きなの?」

「美人なことすね」

「ふ、ふうん」

「それでいて強いし、お淑やかな一面もあるし」

「……それで?」

「心配していないように見せてめっちゃ心配してくれる優しさも好きです。後他には―――」

「ふ、ふふ。ま、まだあるの?」

「まだまだいっぱいありますよ」

 

 息も絶え絶えと言った様子で笑う曹操と、荀彧。

 ぴくりとも動かなかった扉は、そこでようやく震えるように動いた。

 

「華琳さま」夏侯淵が中に入ってきた。「もうそこまでにしましょう」

 

 顔を困らせながら、頬の端をうっすらと赤く染めながら、である。

 

「どうして」曹操は意地悪く笑う。「ここからが面白いところでしょう?」

「そうだよ」程遠志も真面目な顔で言った。「ここからが本番なんだけど」

「お前は黙ってろ!」夏侯淵は小さく吠えた。「射てもいいですか、この男」

 

 

 

 

 恥ずかしがる夏侯淵とは、珍しいものが見られた。

 程遠志は確かな満足感を胸に、曹操の部屋から出て行こうとしていた。行きと同じように縄を用いて、である。扉から帰れば夏侯淵以外の護衛に出会うかもしれない。重労働だとは彼も思ったが、仕方のないことでもある。

 その背中に、籠は背負われていない。荀彧は曹操の寝具の上で寝転がっており、その側には曹操と夏侯淵がいた。今から伝令を飛ばして夏侯惇も呼ぶらしい。女四人で、閨で何が行われるのか。程遠志には―――というか、誰にでも予想がつくことだろうが、敢えて彼はそれについて深く考えることはしなかった。非生産的だ、なんてここで大手を振って主張することが、もっと非生産的で無駄な行為に思われた。そんなことをしても曹操たちが考えを変容させることはないし、彼自身にそんなことをする気もないのである。

 程遠志は「それでは」と一言残し、縄に手をかけた。曹操は微笑を浮かべ、荀彧は曹操に夢中で、夏侯淵は顔をまだ赤くして睨みつけていた。ひょっとしたら明日、何か復讐をされるかもしれねえ、と本当にありそうな危惧を抱いたが、明日のことは明日考えようと彼はすぐに思い直した。

 

 縄を下っていく。荀彧がいない分、するすると身軽に下りていくことができた。曹操の部屋が段々と遠ざかっていく。

 そこから、脳を動かす余裕が生まれた。そういえば、と程遠志は思う―――今日の曹操さまはどこか違ったな。

 何が違うのだろうか。ゆらゆらと揺れる、曹操の部屋の灯りを見つめ、そこで程遠志は閃いた。感情の揺らめきが、いつも以上に多彩だったのではないか。程遠志を弄ろうとし、荀彧と夏侯淵を見つめ、標的を変えて夏侯淵を弄った。彼女のからかい癖をよく知らないだけかもしれないが、平時よりも多く思える。それで、今からは夏侯惇も呼んで姦しく楽しむのだろう。

 もしかすると、曹操は寂しかったのではないか。王とは孤高なものである、と夏侯淵から聞いたことがあり、それを彼女も良しとしているらしい。そこから解放されたい、という邪気のない思いが、彼女の本質を守りながらもそのような行動を起こさせたのではないか。あくまで王ではなく、一人の少女として。程遠志はそう考えた。

 無論、推測である。根拠もなければ証拠もない。唯一の可能性と言えば、今日の程遠志が冴えている、と言うことだけである。このようなことは誰に伝えても信じられないだろう。例え張曼成でも、厳政でも―――鄧茂でも。妄想だと馬鹿にされるに違いない。

 信じるのはただ一人だけ。俺自身である、と程遠志は思った。

 

「俺の推測は、どうですかね?」程遠志は曹操に向けて言葉を飛ばしたが、勿論返事はない。

 

 

 

 

 

 考えるうちに、地上が随分と近づいていた。ふう、と息を吐き、程遠志は下を見る。荀彧を抱えて登っていた時に感じた恐怖感を、もう感じはしない。

 下には厳政と張曼成がいた。鄧茂がいないことに違和感を覚えながらも、すぐにああ、と程遠志は気がついた。あの空き家で、彼は程遠志の帰りを待っているのだろう。早く帰って、今日のことを肴に酒でも飲むか。

 

 程遠志がそう思った瞬間である。唐突に、強い風が吹いた。今日は殆ど無風だったというのにである。彼の身体は風に絡み取られ、面白いように揺れた。下から息を呑む声が聞こえてくる。程遠志も少し動揺しそうになり―――すぐに落ち着きを取り戻した。

 前述したように、程遠志の握力は夏侯惇との修行によって鍛えられている。昔ならば尻から落ち、悶絶するような失態を演じたかもしれないが、今の彼にそんなことはあり得ない。強く縄を握り軽々と耐えた。ひょっとしたらこれが厳政の不幸なのかもしれねえな、と少し笑いながら考えた。

 程遠志の上から視線が降ってくる。流石に今の強風は城の中にいる曹操たちも感じ取ったのか、夏侯淵が真っ先に、それに次いで曹操と荀彧がひょっこりと窓から顔を出し、すぐに安心した表情になる。程遠志が今いる位置を見て、大事に至ることはないとすぐに気づいたのだろう。程遠志は縄に揺られながらも、片手を放して手を振る余裕すらあった。

 

 しかし、そこで途端に荀彧の顔がむ、と曇った。荀彧の視線は、縄の真ん中辺りに合わさっていた。それに釣られて程遠志も見て、今度こそ完全に動揺した。縄が千切れそうになっている! 絶対に千切れない縄じゃないのか!?

 

 上から程遠志を見ている荀彧は思い出していた。楽進と、道具屋であった時である。彼女はあの時に何と言っていたか。「たまに安物とか、外れの製品が混ざっているのが難点ですけど」それを思い返し、程遠志のさらに下にいる厳政を視界に捉えた時、完全に理解した。彼女は既に厳政の不運というものを知っている。それが風邪のようにうつることも知っている。あの縄が楽進のいう不良品で、これから程遠志にどのような結末が待ち構えているのかを、寸分違わず確信した。確信して、意地悪く笑った。

 

 ―――ぶちん、という音が響くと同時に程遠志は落ちた。

 悲鳴を上げて、尻から落ち、悶絶した。

 

 

 

 

 

 このような結末で、鄧茂の依頼は幕を閉じた。この後、程遠志は張曼成と厳政に肩を貸してもらい、鄧茂に散々からかわれることになるのだが、厄日であった、という他ない。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第5章 官渡会戦編 官渡会戦編 第一話

 

 

 

 袁紹の動きは神速と呼ぶに相応しかった。

 公孫瓚が長く持たない、という予想を持つ者は多くいた。曹操や荀彧も理解していたし、張曼成だって早々と気がついていた。よって、公孫瓚を倒すまでの速度が速かったのではない。その後、である。

 公孫瓚を倒し、袁紹はそこで小休止を取らなかった。曹操に書状を送り付け、そのままの強行軍で軍を動かした。それが兵士の疲弊を招くことは袁紹自身理解していたし、将軍たちもわかっている。兵士たちからの反発を招くのではないか、との声もあったが、袁紹はその声を自らの実力で蹴散らした。大々的な演説と、具体的で実利的な褒賞を兵士に示し、士気を落とすことなく強行軍を理解させたのである。

 

 大多数の兵士が理解したのならば、この強行軍に失敗はない。

 結果、袁紹軍は公孫瓚を倒した翌々日に―――曹操軍に対して攻撃を仕掛けた。

 

 この神速とも思われる強行軍に対して、まったくの反対がなかったわけではない。軍師である田豊は難色を示し、沮授は明確に反対した。それらを説き伏せたのも、袁紹である。

 押し通したのではなく、説き伏せた。田豊や沮授の献策をすべて取り入れたわけではないが、ある程度までは受け入れる姿勢を見せた。田豊や沮授は袁紹が闇雲な会戦を望んでいるのではない、とそこで理解した。袁紹は何事にも本気で取り組むようになっており、また、この短期間で確かな成長をしていたのである。

 そして、この強行軍に対して、曹操軍は序盤明確な抵抗ができなかった。書状を送り付けると同時に攻め込み、不意を突かれたということもあるが、他にも要因はある。袁紹軍の侵攻は、公孫瓚の滅亡から二日後のことで、曹操軍からしてみれば張邈との戦いが終わった五日後のことである。

 

 曹操軍もまた、袁紹軍と同様に、休めてはいない。

 それを袁紹が狙っていたかどうかは、定かでない。

 

 確かなことは一つだけである。

 曹操軍は黄河南岸の白馬という地を放棄し、敗走した。曹操はすぐさま兵士をまとめ、追尾してくる袁紹軍に追いつかれる前に、軍備を整え直した。

 袁紹軍は多くの軍勢を吸収し、本拠に守兵を置きながらも、総勢十五万の大軍。

 曹操軍は張邈軍をあまり吸収することはできず、全ての兵士を連れて総勢四万。

 

 その両軍は官渡にて、対峙した。

 

 

 ―――そして、その最中、各地の情勢はめまぐるしく変化していた。

 陶謙の死んだ後、徐州は劉備の手に移った。しかしながら、劉備は何かに導かれるように西進し、徐州を捨てて益州へ向かっていく。孔明、龐統の献策から、との声もあるが、定かではない。

 そして、その劉備と早くから同盟を結んでいたのが、孫策である。彼女の軍勢は少しずつ肥大化していき、確かに牙を研ぎ始めていた。その牙が向く袁術は、未だその事実に気が付けていない。

 各地の遊牧民族の動きも、活発化しつつあった。五胡、と呼ばれる非漢人の集団は力を増し、各地の勢力は融和策を取ることが多くなった。融和ではなく、正面から打ち破ることができる勢力は、この時点では袁紹以外に存在しなかった。

 

 

 

 

 

「官渡、ね」程遠志は、笑いながら言った。「初めて来たよ、俺」

 

 曹操軍全体が疲弊している中でも、彼は特段気負った様子を見せていなかった。鄄城における戦の間も、つかの間の休息の間もほとんど休めなかったというのに、である。隣にいる鄧茂、張曼成は表情を少しだけ強張らせながらも、程遠志同様に張邈との戦の折ほど緊張はしていない。

 

「袁紹が、ここまで早く来るとは思わなかった」

「それに十五万だってか。驚きだよな」

「それにしては、随分と油断しているじゃないか、程遠志」

「いや」程遠志は小さく笑った。「油断じゃねえよ。曹操さまがいて、夏侯淵の奴も、夏侯惇もいる。軍師だってすべて揃ってる。万全を期してるだろ」

「万全だからって、勝てるわけじゃない」

「それによ、袁紹って奴には、俺は近くで会ってんだよな」

 

 へえ、と張曼成は相槌を打った。程遠志はふと、その時のことを思い返す。

 反董卓連合の折である。先陣の援兵として命じられて、そこで袁紹の顔と振る舞いを見ていた。露骨なほどまでの自負と、油断。これほどの大軍を指揮すれば、彼女はまた油断し、慢心するだろう。それがこの官渡における決戦にどれほどの影響を招くかまでは不明だが―――曹操軍全体として見れば有利になるはずだ。

 圧倒的不利な状況で、張邈に攻められ、井戸に毒を入れられた時よりかは、まだ状況は悪くない。

 

「袁紹って」鄧茂は首を傾げる。「どんな感じの人だったの?」

「美人だったよ」

「程遠志」

「冗談だよ、冗談。本当のことを言うとよ、あんな大軍を率いたら油断しそうだな人だなって思ったんだよ」

「ふうん、でも」鄧茂は流し目で程遠志を見る。「程遠志が言うなら、逆のことが起きそうだ」

「お前ってよ」程遠志は顔を引き攣らせた。「本当に怖えこと言うよな!」

「でも、事実でしょ。で、今の『流れ』はいいの?」

「わかんねえけど、悪くねえんじゃねえかな」

 

「それによ」と程遠志は続ける。「鄄城で、流れを引き寄せるコツみてえなのを俺は掴んだ気がするんだよな。最悪流れが来なくても、俺の手で引き戻せる気がする」

 その変な自信も怖いんだよね、と鄧茂は少しだけ舌を出すと、程遠志も少し身体を震わせた。

 

 

 

 

 

 曹操が軍議に割いた時間は非常に少なかった。

 行軍中に彼女は軍師と策を練り、既に勝つための策を導き出していた。その意思を統一し、全ての将軍に策を教える程度の時間で十分だったのである。軍議が紛糾するなどということは、まったくなかった。

「奇襲と、内通」と、曹操は短く言った。「緒戦は相手の出方を見る」とも言い、慎重な姿勢を見せつつも「短期決戦で決めるしかない」と続けた。一見矛盾しているような言葉で、程遠志は少し首を捻ったが、近くにいた荀彧が見下すような視線で「ここまで速く動く袁紹を一旦警戒してるのよ」と付け加えたので、一応の納得はした。

 ここまでの袁紹の動きは速かった。程遠志は再度、前に会った時のことを思い出す。あのように余裕を見せ、常に優雅な様子を崩さなかった彼女が強行軍を仕掛けている。確かに変で、警戒はするべきかもしれない。

 ならば、本当に鄧茂の言ったように、逆のことが起きるのだろうか。やめてくれよな、と程遠志は微妙な顔になる。本当になりかねない。

 

「袁紹はよ、どう動くのかな」

 

 軍議が終わり、独り言のように程遠志は言った。「さあ、どうでしょうねー」と、それに言葉が返ってきたので、程遠志は目を見開いてそちらを見た。

 

「あれ」そこには、程昱がいた。「今、風に話しかけたんじゃなかったんですかー」

「おう。独り言のつもりだったよ」

『うっかり勘違いしちまったよ、すまねえな兄ちゃん』

 

 程昱の頭に乗っている人形が喋った、気がした。いやいや、と程遠志は首を振る。

 視線をそのまま下にずらし、程昱の能天気そうな顔を見た。

 

「……なに、腹話術?」

「宝譿です」程昱は無表情のまま言う。『宝譿だぜ』と頭の上の人形が揺れた。

「初めて聞いたよ。頭においてるのそういう意図があったのか」

「そうですね、宝譿も初めて自己紹介したと思いますしー」

「自己紹介……?」

 

 腹話術じゃないか、と程遠志はもう一度言うも、程昱は意にも返さない。「だからなんだ」と開き直ることも「そうじゃない」と否定することもせず、ぼんやりと彼を見返した。

 

「とにかく」程遠志は話を変えた。「袁紹がどう動くのかはまだ皆目見当がつかねえわけか」

「皆目、ではないですが、ほとんどわかりませんねー」

「なんだ、少しはわかるのかよ」

「彼女の性格を加味すれば長期的な戦を望むとは思えませんし、ここまでの進軍の速さを考えると、いきなり襲い掛かってきてもおかしくはありません。短期戦になる、と思いますねー」

「お誂え向きじゃねえか。曹操様も短期戦を望んでたしな」程遠志はそこまで言い、「あれ」と首を傾げた。「でもなんで、短期戦なんて望むんだ。こちらの方が兵力が圧倒的に少ないんだから、そこまで焦ったらまずいんじゃねえの」

「兵糧が足りないんです」

 

 程昱はそう言ってから、顔色を曇らせた。「むぅ」と言葉を漏らし、辺りを二、三度見る。誰もいないことを確認して、「失言でした」と彼女は少しだけバツの悪そうな表情になった。「程遠志さんになら言ってもいいんですけど、他の人に発覚すると、まずいので」

 辺りに誰もいないことなんて間違いないだろ、と程遠志は言いたくなったが、それよりも発言の内容が気にかかった。

 

「どういうことだよ」

「ついさっきまで、本隊は徐州へ出陣していたので、備蓄の兵糧の集まりがよくないんですー」

「枯渇してるのか」

「そこまでではないですけど、長期戦は望めません」

「短期決戦しか、選べない」

「そうです。ですが、袁紹軍が愚直に攻めてくるだけならば、勝機はあります」

「その策をもう考えてある、ってわけか」

「ええ」程昱は自信ありげに彼を見る。「ですので、他の方には内密にしてください。袁紹軍の偵察兵が格段に多いことは、反董卓連合の際に確認できていますので」

 

 ふうん、と程遠志は唸り、適当に頷いた。その情報を伝えようにも、伝える相手なんて殆どいない。

 鄧茂や張曼成、厳政の顔も浮かんだが、彼らがその情報を聞いても碌な反応をしなそうだった。鄧茂はまた心配そうな顔になり、張曼成はよくわからない国のよくわからない名言を引き出し、厳政に至っては「不幸だ」と嘆くに違いない。言う必要もねえな、と程遠志は確信する。

 

「まあよ、黙っとくよ。でもなんで、俺には言ってもよかったんだ?」

「他の軍師にも、夏侯惇さんや、夏侯淵さんにも既に伝えていますよ」

「それでも、その面子は曹操様の重臣で信頼されてる奴らじゃねえか」

「程遠志さんも、信頼してます」程昱はにっこりと微笑む。「それでいいですかー?」

 

 真っ直ぐな瞳で言われて、程遠志は戸惑い、目を逸らさざるを得なかった。

 自分はあけすけな言葉に弱いな、と今更になって自覚する。「お前、流れは信じてないんじゃねえのかよ」「程遠志さんを信じてるんですよー?」そう言う程昱の顔が、一瞬だけ鄧茂に似て見えたので、程遠志はさらに動揺して、たたらを踏んだ。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。