時よ止まれ、お前は美しい (クトゥルフ時計)
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第一話

 多分大体の人は初めまして。もう小説書き始めて三年経つのに日常を書いたことがないから、最近ハマってるバンドリで何か書こうと思い立ったので書きました。ここからは少し長い前書きだよ。いらないって人は飛ばしてね。

 一つ。作者は日常を書いたことないからどんなことを書けばいいのかよくわかってないよ。
 一つ。作者はこれまで狂気にまみれた残酷な物語しか書いてこなかったから日常がよくわかってないよ。
 一つ。ついでに作者は恋愛がよくわかってないよ。だから恋愛を期待してる人は期待はずれかもしれないよ。
 一つ。作者はこれまでシリアスしか書いたことないから今回は頑張ってコメディに寄せてみるよ。
 一つ。キャラクターの喋り方とかが違ってもそれは作者がよく特徴を捉えられてないだけだよ。変だなーと思ったら教えてね。
 一つ。以上のことを踏まえて、出来れば批評はご遠慮願うよ。

 それでは前書きはこの辺にして、本編どうぞ。


 泣いていた少女がいた。煌めくようなパステルイエローの髪は水に濡れ、その瞳から流れる涙と共に水滴を地に落としている。

 

 否、髪だけではない。その全身は等しく濡れていた。頭から足の先に至るまで、余すところなく。しかし雨は降っていない。なら何故、少女はそんな惨状に見舞われたのか。下手人は、少女の前に立つ少年らだ。

 

 人数は三人。少女と同じ程の、ランドセルを背負った如何にも悪ガキといった風貌の彼ら。その一人の手にはバケツが握られていて、中には少量の水滴がついている。

 

〝おまえ、生意気なんだよ!〟

〝そうだそうだ!〟

〝げーのーじんだからって調子乗るな!〟

 

 次々と少女に浴びせられる身勝手な罵声。悪意が込められた彼らの言葉が少女を責め立てる。少女は萎縮し泣くばかり。無理もない。まだ幼い彼女に、大人数を相手にして立ち向かう勇気などあるはずがないのだから。

 

 そんな変わらない少女の反応に嫌になったのか、少年の一人がバケツを振りかぶる。狙いは勿論少女だ。いくら中身が空とはいえ、それが当たれば怪我は免れない。

 

 振り下ろされるバケツ。恐れから固く目をつむる少女。人の身体を硬いものが叩く嫌な音が響いた。

 

 しかし、何時になっても少女に痛みが降りかかることはない。恐る恐る目を開けば、そこには彼女よりも幾らか年上と思える少年が、彼女を庇うように立っていた。その頭からは血が流れていて、足元を見れば角が赤く染まったバケツが転がっている。

 

〝大丈夫、◾️◾️◾️?〟

 

 彼は優しく微笑んで少女に語りかける。自分たちより年上の者が来て分が悪いと判断したのか、三人の悪ガキ達は一目散に逃げ出した。

 

 安堵からか、それとも別の要因か。少女の瞳からより大きな涙が溢れ出す。それを見た彼は一転慌てて、

 

〝ああっ、えっと泣かないで! もうあいつらはどっか行ったから、ね?〟

 

 しかし少女の涙は止まることはない。少年は困ったように苦笑する。

 

〝うーん、こういうときなんて言えばいいんだっけ……あ、そうだ〟

 

 そうして、彼は少女の前に膝をついた。これから言うのは、最近覚えたばかりの言葉だ。意味はよくわからないけど、多分大丈夫。

 

〝◾️◾️◾️◾️◾️、◾️◾️◾️◾️◾️◾️〟

 

 告げた彼のその声色は、誰よりも優しかった。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「――――くん。――せくん。逢瀬くん!」

 

 誰かが自分を呼ぶ声で眼が覚める。顔を上げると、そこにいたのは一人の妙齢の女性だった。如何にも〝仕事ができる女〟といった雰囲気を醸し出す彼女が、机に突っ伏していた青年を見下ろしている。

 

「まーた徹夜で台詞覚えてたの? その意気込みは認めるけど、自分の身体のことも考えてね」

「ん……ああ、すまないマネージャー。襲いくる睡魔にはどうも勝てなくてね。君の心に要らぬ陰を落としたようだ」

「心配かけてる自覚あるなら楽屋で寝るな! あと一時間で撮影始まるから、準備だけしておいてね」

 

 此処は楽屋。俗に芸能人と呼ばれる人種が、撮影前に待機する場所として有名だろう。即ち、此処で居眠りして説教を食らっていた彼も、例に漏れず芸能人ということに他ならない。

 

 誰が呼んだか〝貴公子〟。テレビを点ければ見ない日は無いとまで言われる人物。

 

 名を瀬田逢瀬。歳は十九。腰まで靡く紫紺の髪と誰もが振り向く容貌を備えた、今をときめく俳優である。

 

 して、その実情は――――

 

「了解した。今日も今日とて、僕の声を数多の子猫ちゃん達に届けようではないか。それが僕の為すべき使命、果たすべき責務だからね」

 

 まるで劇中から飛び出した王子様のような、生来の演者である。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 撮影後、逢瀬は楽屋に戻るべくマネージャーと共に廊下を進んでいた。

 

 今日の撮影はバラエティ番組。様々な芸人やアイドルタレントなどが一堂に会すアレだ。そこに逢瀬もゲストとして呼ばれていた。

 

「お疲れ様、逢瀬くん。今日もすごい歓声だったわね。相変わらず女性ファンの多いこと。もう聞き慣れたわ」

 

 乾いた笑いとともに皮肉を溢すマネージャー。しかし当の逢瀬は特に気にする様子もなく、大仰に手を広げた。

 

「ふふっ、さもありなん。ああ、僕は罪な男だ。そこにあるだけで誰もを魅了してしまう! かのゲーテもこう言っているだろう。『神は移ろいやすい物だけを美しくしたのだ(Macht ich doch, sagte der Gott, nur das Verg?ngliche sch?n.)』と!」

「それ、使い方あってるの? というか移ろうな。移ろわれたら困るわ」

 

 頭を抑えて、マネージャーは一つため息を吐いた。

 

 この彼の芝居がかった喋り方は、業界やファンの間では〝逢瀬節〟と呼ばれている。ファンを〝子猫ちゃん〟と呼んで憚らなかったり、何処かの国の偉人の名言を引用したり。テレビを通して見る分には格好良く見えるのだろうが、毎日聞かされる立場にしてみればたまったものではない。

 

 それに今回は引用したモノがモノだ。ルックスで判断されることも多い俳優なんて職に就いている者が〝移ろいやすい〟だとか、縁起が悪いにも程がある。小野小町だって嘆くだろうに。

 

 と、そのとき逢瀬が不意に立ち止まった。廊下の向こう、こちらへ歩いてくる誰かを見つめている。

 

「……あれは?」

 

 マネージャーは逢瀬の視線の示す方を見た。

 

 それは五人の少女だった。白を基調とし、そこに各々別の色をあしらった衣装に身を包む、うら若き乙女達。すれ違いざまこちらへ会釈し、皆一様に一言挨拶をして去っていく。逢瀬の目はその様をじっと見つめていた。

 

「知らない? Pastel*Palettes、略称はパスパレ。この前結成が発表されたばかりのアイドルバンドよ。というか、事務所同じでしょ?」

「普段あまり事務所には寄らないものでね。そういえば、以前そういった噂話は聞いたかもしれない」

 

 数日前、ドラマで共演した同じ事務所の人間が「なんかウチで新しいプロジェクトやるみたいですよ」といった内容のことを話していた。その時は自分には関係ないものとして聞き流していたが……。

 

「そうか……彼女が」

 

 小さく呟く逢瀬に、マネージャーが茶化すように言う。

 

「何よ、気になる娘でもいたの? 隅に置けないわね、逢瀬くんも」

「そういうわけじゃないさ。ただ見知った顔があったからね。少々驚いた」

「あらそうなの。見知った顔……もしかして白鷺千聖かしら?」

 

 その言葉に逢瀬は首肯する。

 

 〝白鷺千聖〟――――テレビを見る人間なら、恐らく知らない者はいないであろう女優だ。元子役という経歴も相まって、その演技力には目を見張るものがある。

 

 そして、他ならぬ逢瀬にとっても妙な縁で結ばれた少女であり、

 

「幼馴染なんだっけ? それが同じ事務所で、共演作多数で、しかもお互い美男美女。まるでドラマか映画の中の話みたいよね」

 

 マネージャーの言う通りである。白鷺千聖、瀬田逢瀬、そして芸能人ではないが()()()を含めた三人は幼馴染だ。家も近く、昔はよく互いの家に出入りしていたとは逢瀬の言。

 

 が、それも昔の話。今ではその関係性は多少変化した。世間の目というものもある。いつまでも子供ではいられないのだ。

 

 閑話休題(それはともかく)。とにかく、逢瀬にとっては千聖がアイドルバンドなるものに参加しているという事実こそが驚愕に値するものであった。

 

 彼女はアイドルなんていう柄じゃないだろう。真っ先に思ったことはそれだ。人前に立つのは慣れているだろうが、ステージの上に立つような少女とは思えない。

 

 何か心境に変化でもあったのか、それとも――――

 

「何か思惑でもあるのか……」

「なんか言った、逢瀬くん?」

「ああいや、なんでもない」

 

 どうやら声に出ていたようだが、幸いにもマネージャーには聞こえていなかったようだ。

 

 とにかく、たとえどんな事情が絡んでいようと他人の道は邪魔するものではない。それは何であれ彼女の選んだ道だ。軽々しく踏み入っていいものではないだろう。

 

 が、それでもこう思わずにはいられないのだ。如何なる運命の悪戯か、白鷺千聖というストイックの化身と組むことになってしまった四人の少女達の後ろ姿を思い浮かべる。

 

 ――――苦労しそうだな、これから。

 

 何事もなければいいけれど、と。この心配が杞憂であることを願いながら、逢瀬は再び廊下を進み出した。

 

「ところで、彼女らはこれから何を?」

「たしか、初お披露目ライブとかそんなんじゃなかったかしら。大勢の観客を集めてね」

「へぇ……」

 

 そこで逢瀬は顎に手を当て思案する。

 

「ねえマネージャー。この後、撮影の予定は無いはずだね?」

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 Pastel*Palettesお披露目ライブの開始予定時刻まで、あと二十分を切った。特設ステージの裏側、スタッフ達が入り乱れる中を逢瀬は進む。本来ならば、いくら同じ事務所の者とはいえそうそう入ることは出来ないような場所であるが、そこはマネージャーが掛け合ったらしい。おかげで彼は誰にも邪魔されず目的の場所を目指すことができた。

 

 辿り着いたのはステージ袖。何故こんなところに来たのかと言えば、単純に興味があったからだ。

 

 同じ事務所の後輩たちがバンドを組んでステージに上がる。直接の知り合いは千聖しかいないとはいえ、多少気になりはするだろう。

 

 と、そんなことを考えていた逢瀬の背後から、五人の少女が現れた。その中の一人、パステルイエローに煌めく雰囲気を纏った少女が口を開く。

 

「……そんなところで何してるんです、()()()()

 

 逢瀬はその声に応えて振り向いた。そこにいたのは間違いなくPastel*Palettesの面々。そして白鷺千聖その人だ。

 

「いや何、大したことではないよ()()()()。ただ、少しだけ君たちより長く業界(ここ)にいた先達として、後輩の晴れ舞台くらいは見ておきたいと思ってね。あと心ばかりの激励を」

「そうですか。それはどうも」

 

 淡々とした会話だった。逢瀬の方には多少大仰な身振り手振りが入っているが、そうだとしても彼らの言葉には〝一介の仕事仲間〟以上の感情を見出すことが出来ない。

 

 が、内容を紐解く限り悪い話ではないようで、五人の内の一人、丸山彩は逢瀬に尋ねる。

 

「えっと……あなたはあの、瀬田逢瀬さんでいいんですよね?」

「そうだとも子猫ちゃん。僕があの瀬田逢瀬だ。以後、お見知り置きを」

 

 そう言って逢瀬は彩にウィンクを飛ばす。現実でやれば、たとえ誰がやろうと酷く絵にならない絵面だろうが、そこは天性の役者根性と美貌故だろう。彼の自己紹介は確かな手応えと共に彩の中に刻み込まれた。その証拠に彩は顔を赤くしてあたふたと慌てふためいている。

 

 そんな茶番劇を面白くなさそうに見ていた千聖が、

 

「で、結局何しに来たんですか貴方は。用がないならウチのメンバーにちょっかいかけないでください」

「これは手厳しい。さっきも言った通り、激励だよ。応援と言い換えてもいい。緊張しすぎないで、落ち着いて、あとは()()()()()()に。そうすれば万事うまくいくものさ」

 

 逢瀬の言葉に、一瞬だが少女たちが硬直した。動揺から来るものだろうか。そして、それを見過ごす逢瀬ではない。

 

 ――――これは、また妙なことになりそうだ。

 

 一体何故そのような反応をするのか、彼には理解が及ばない。緊張が表に出ただけ、とは考えにくいだろう。

 

 その時、奥の方からPastel*Palettesを呼ぶ声が聞こえた。予定時刻まであと十分を切ったようだ。衣装や段取りの最終チェックでもするのだろう。

 

「時間を取らせてすまなかったね。お行きなさい、子猫ちゃんたち」

「えっ……ああはいっ! 失礼します!」

 

 硬直していた彩が姿勢を正してお辞儀をし、去っていく。他のメンバーも同様に呼ばれた方へ向かっていった。そしてその最後尾は千聖だ。

 

「待ってくれ白鷺さん。一つだけ聞いても?」

「……なんですか」

「君、()()()()()()()

 

 核心を突く一言。この時ばかりは、いつもの貴公子然とした振る舞いをやめる。目線は千聖の瞳のみを射抜いていた。

 

「っ……失礼します!」

 

 その問いにあからさまな戸惑いを見せて、千聖は語気を強めた。そして逃げるように、焦るようにメンバーの後を追う。

 

 そして、その反応で逢瀬は確信する。

 

「成る程。これは大変なことになりそうだね」

 

 少女らの動揺の種。スタッフ達が調整している機材とステージに置かれた楽器を交互に見遣って、逢瀬は天井を仰いだ。

 

 開始予定時刻まであと僅か。波乱の時は、すぐに(きた)る――――。




 これが作者の書ける限界の日常。芸能界とかよくわかんないね。
 感想とか高評価が来ると作者は喜ぶよ。ついでに更新速度がナメクジから亀くらいには上がるかも。


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第二話

 まずは御礼を。第一話を閲覧してくださった皆様に感謝を。さらには25件を超えるお気に入りまでいただき、皆様の期待に添えるかどうか半ば戦々恐々としながら第二話書いてました。

 あと今回は最初に報告を。このまま書き続けると流石に内容が引っかかるかと思って、タグにアンチ・ヘイトを追加しました。


 音が止んだ。弦を弾く音も、歌声も、そして歓声までもが一瞬にして停滞する。それはまるで、時が止まったかのように。

 

 ステージからは驚愕が、客席からは困惑が見て取れる。無理もない。こんな事態、誰一人として予期していた者はいないのだから。

 

「……っ、……あ……」

 

 ステージ上の彩が何かを言おうとして口を開く。が、声はいつになっても出ることはない。息が詰まったように開閉を繰り返すだけだ。

 

 客席から野次が飛ぶ。恐らくは、ここにいる観客のほぼ全てが把握したのだろう。今日のお披露目ライブは、全部ヤラセだったのだと。

 

 その全容を、ステージ袖から逢瀬は眺めていた。後ろを振り返ればスタッフ達が慌ただしく蠢いている。聞こえてくる言葉の端々から察するに、原因は機材トラブルだろう。

 

 誰が悪いだとか、何が悪いだとか、そういう話ではない。ただ運が悪かった。それだけの話だ。

 

 これでパスパレの評判は地に落ちた。挽回するには相当の苦労が付き纏うということは想像に難くない。

 

 ポケットからスマートフォンを取り出し、SNSアプリを起動した。検索窓にパスパレと打ち込んでみれば、リアルタイムで多数の呟きが上から下へ流れていく。その中に彼女らを庇う意見は少数だ。

 

 かねてより注目されていた一大プロジェクト。可愛さ余って憎さ百倍、とは少し違うだろうが、得てしてこういうものの失敗というのはマイナスイメージが大きくなりやすい。それら全てを払拭するのはどんな手を駆使しようとも困難だ。

 

 それに、本当に大変なのはここから。どこの国にも、有名人の失敗という火種を見つけたら、そこに油を注がなければ気が済まない卑しい人種がいるものだ。ネットニュースや個人ブログの運営者は、今嬉々として記事を書いていることだろう。

 

 そして、これは逢瀬にとっても他人事ではない。事務所が同じなのだから、これから行く先々で身内としてのこの件についての所感を聞かれることだろう。その度に当たり障りのない返答をしていかなければならないと思うと……。

 

 あとは少しばかりの火消しの手伝いだろうか。SNSのオフィシャルアカウントか何かでパスパレを庇う発言をすれば多少はマシになると思うが、それで収まるのはほんの一部だろう。

 

 スマートフォンが振動と共にメッセージの着信を知らせた。広く連絡用に使われる別のSNSアプリだ。開いてみれば、その送り主はマネージャーだった。

 

『大変みたいね。こっちも大騒ぎよ』

『それはそうだろうね。こんなのは前代未聞だ』

『今からどうやって後始末つけるかの緊急会議が開かれるわ。とりあえずあなたにもやってもらいたいことがあるんだけど、いい?』

『なにかな?』

『ブログとかSNSとかでパスパレのことを庇って。内容は任せるから。と、全部私の上司に言われた』

 

 ……予想的中。火消しに駆り出されるようだ。マネージャーだって社会人。上司命令には逆らえない。その割を食うのはいつだって逢瀬達タレントなのだが、それを当の上司連中はわかっているのだろうか。

 

 ため息を吐いてスマートフォンの電源を落とす。何かしら上手い文言を考えなければならない。露骨すぎず、パスパレへの攻撃をやめてもらえるよう暗に伝わるような丁度いい文句を。

 

 ステージを見る。既にパスパレの面々は撤収した後のようで、跡には使われることなくその役目を終えた楽器がひっそりと佇むのみだった。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 ――――Pastel*Palettes楽屋。ステージから逃げるように撤収してきた少女達は――一人を除き――皆沈鬱な面持ちでそこにいた。空気が重い。喉が詰まりそうだ。

 

 ドラム担当の大和麻弥の弁によれば、今回の騒動の原因は機材トラブル。電圧の問題が、などと麻弥は言っていたが、正直、専門外なこともあって誰も理解はできなかった。言うなれば不幸な事故。言葉にすれば単純なことだ。

 

 だが、彩はそんな単純な言葉でこの問題を済ますことを是としなかった。詰まる所、今回の事故は本来防げたはずのものなのだ。きちんと練習して、録音した音声なんかに頼らずに正々堂々やっていれば――――。

 

 そんなもしもが頭を過る。その中で思い出されたのは、ステージ袖で出会った瀬田逢瀬の言葉だ。

 

 ――――〝緊張しすぎないで、落ち着いて、あとは練習した通りに。そうすれば万事うまくいくものさ〟

 

 テレビが好きな女の子なら誰もが一度は憧れる大スター。王子様だなんて大袈裟な文句だと思っていたけれど、いざ目にしてみればそれはなんの脚色もない言葉だとわかってしまうほどのオーラを持っていた。

 

 そんな人からの応援さえも裏切ったのだと、彩は改めて理解する。同じ事務所というのなら、今後も顔を合わせる可能性は無いわけではない。そんなとき、一体どんな顔をすればいいのだろう。

 

 また憂鬱の種が増えてしまった。彩は顔を暗くして俯く。こういう時ばかりは、今も一切ネガティブな感情を表に出さないギター担当の少女が羨ましく思える。

 

 氷川日菜。常に明るく振る舞う稀代の天才少女。名は体を表すというが、それに則るなら彼女の為人(ひととなり)は間違いなく太陽のようだと言える。

 

 そして、日菜ほどではないが彩ほどネガティヴでない少女といえばもう一人。日菜の正面で何か話しているのは、モデルの若宮イヴ。日本人離れしたその容姿からも察せられるように、彼女は日本とフィンランド出身の両親を父母に持つハーフだ。

 

 彼女達の間で話題に挙がっていたのは、先程から彩が憂いている瀬田逢瀬のことだった。

 

「そういえばさ。ライブの前に会ったあの()()()()()って人、多分こうなること気づいてたよね」

 

 ……何だと?

 

 日菜の発言は、この場にいる誰しもが聞き流すことの出来ない言葉だった。

 

 気づいていた? この失敗を予期していたというのか、あの男は。

 

 困惑の最中、メンバーの中で唯一、千聖はそれらしき発言を彼から投げられていたことに気づいた。

 

 ――――〝君、楽器の経験は?〟

 

 まさか、全てわかっていた上で? ステージで歌う気なんて無いことをハナから見抜いていて?

 

 恐るべき観察眼と言うべきか。その推察の答え合わせは、あの場、ステージの上で明確に示された。

 

 面々がその結論に行き着いたとき、不意に楽屋の扉が開かれる。視線が一斉に集中した。

 

「さて、何やら此処から僕の名を呼ぶ子猫ちゃんの声が聞こえたが……どうやらタイミングは完璧だったようだね」

 

 そこに立っていたのは、艶めく紫紺の髪を靡かせた瀬田逢瀬だった。不敵な笑みを浮かべて楽屋に入る。

 

「……瀬田さん」

「おっと、そんなに睨まないでくれよ白鷺さん。何も、僕は君達を責め立てに来たわけじゃない」

 

 逢瀬に千聖が鋭い目を向ける。彼はそれを肩を竦めて諫めた。

 

「あ、あのっ!」

 

 次に口を開いたのは、誰よりも暗い面持ちの彩。まるで意を決したかのように拳を握り、逢瀬の正面まで歩み出る。

 

 逢瀬は誰もが見惚れるような笑顔で彩を見る。そして「何かな?」と問いかけようとした、その刹那。

 

「本当に、申し訳ありませんでした!」

 

 彩が頭を下げた。それはそれは見事なまでの謝罪だった。突然の事態に逢瀬は固まる。

 

「あの……こんなので許してもらえるだなんて思ってないんですけど、本当にごめんなさい! せっかく応援までしてもらったのにあんなこと……」

 

 途中から声に嗚咽が混じる。彩は泣いていた。アイドル研究生としての三年間を、最初で最後のデビューのチャンスを、そして天上人にも等しい大先輩からのエールも、その全てを無駄にした。そんな、言葉ではとても言い尽くせないような重圧が、彼女の細身を押し潰しているのだ。

 

 雫が足元に落ちていく。その様を、逢瀬はただ眺めているだけなんて出来なかった。

 

 片膝をついて、下を向く彩を覗き込んで、涙を拭う。

 

「泣かないでおくれ、子猫ちゃん。大丈夫。君達の道は、まだ途絶えていない」

 

 その言葉は、一体どれほどの慈愛に満ちていたことだろう。口に出せば陳腐な慰めではあるが、しかしそれでも、彩の涙を一時的に止めるには充分だった。

 

「たしかに、今回の件は今後の活動に大きく影響するだろう。どれだけ時が経とうとも、いつまでも付き纏う汚名になるかもしれない」

 

 続いて突き付けたのは容赦のない現実。彩を含め、楽屋の雰囲気は再び沈鬱に暮れる。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()。相応の苦労は必要になる。苦難だって幾つもあるだろう。それでも、たった一回の失敗で全て台無しになるほど世の中ってのは鈍色ではないんだよ」

 

 そう言って逢瀬は優しく微笑んだ。

 

 諦める必要はない。悲嘆に暮れる必要はない。前を向け。止まるな、進め。その思いを込めた激励だった。

 

 果たしてその意図が正確に伝わったかはわからない。それでも、彩の顔にもう涙は無かった。

 

「瀬田さん……」

「いい顔だ、それでこそアイドルだよ」

「……はいっ!」

 

 呼応するように彩も精一杯の笑顔を返す。他のメンバーにもその思いが伝播したのだろう。絶望的な空気はほぼ払拭されている。

 

 これで終わりではない。希望は残されている。それだけでいいのだ。それだけわかれば、歩んでいける。

 

 が、逢瀬の言葉で一致しかけた空気に異を唱える者が一人。

 

「綺麗事ですね」

 

 全員の視線がその人物の元に集中した。その先にいたのは白鷺千聖。

 

「そんなに上手くいくものですか。夢物語じゃないんですよ、これは」

 

 それは現実主義の彼女らしい意見と言えるだろう。その考えも尤もだ。何せ、逢瀬の言ったことは所詮全て理想論でしかないのだから。

 

 たしかに汚名を濯ぐことは不可能ではないだろう。だが、確実に出来るとも限らない。もしかしたら今回の件で再起不能にまで追い込まれる可能性だって零ではないのだ。

 

 千聖はそのことを逢瀬に向けて語った。

 

 だが、それを聞いた彩は一つ違和感を抱く。

 

 未だ千聖とは短い付き合い。その為人(ひととなり)の全てを知っているわけではない。だがそれでも、千聖はこのような文言を誰かに()()()()吐くような少女ではないことくらいは理解している。これではまるで、逢瀬に〝過剰なまでの現実〟を突き付けているような――――。

 

「夢物語に綺麗事……いいじゃないか。綺麗事を語って夢を見せて、それが僕たち芸能人の仕事だろう?」

 

 それに、と逢瀬は目を閉じた。それは何かを思い返すような仕草。記憶の底にある何かを現出させるかのような、そんな。

 

 その時だけ、少女達はたしかに感じた。逢瀬の纏っていた〝貴公子〟のオーラが、その一瞬だけ消え失せたのを。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「――――ッ」

 

 まるで見えない何かに気圧されるかのように、千聖は息を呑んだ。それは他のメンバーも同じだ。普段テレビを通して見るのとは違う、瀬田逢瀬の中に潜むナニカを垣間見た。そんな感覚。

 

 しかしそれも一瞬。直ぐにいつもの〝貴公子〟オーラを纏い直した逢瀬は、まるで何も無かったかのように少女達に向けて微笑む。

 

「まあそういうことだよ子猫ちゃん達。君達にはまだ道が拓けている。茨に覆われていても、傷つくことを恐れなければ進めるはずだ。

 お邪魔してしまって悪かったね。それでは、僕はこれで」

 

 光あれ(Levis est)――――。

 

 そう言って、逢瀬は踵を返し去って行った。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「お疲れさま、逢瀬くん。後輩への指導は終わりかしら?」

 

 Pastel*Palettesの楽屋を出ると、道の角にマネージャーが立っていた。ああ、と逢瀬は返す。

 

「心の底から傷心中、という少女は如何せん一人しかいなかったが、それでも僕が行った意味はあると思いたいね」

「それって彩ちゃんのこと? 流石王子様、女の子の扱いは手慣れてるわね」

「そういうわけではないさ。ただ、泣いてる女の子を放っておくのは()()()()()()()()()だろう?」

「そうね。その通りだわ」

 

 淡々と繰り返される会話。その〝らしくない〟の意味を()()()()()()()()マネージャーは、頭を押さえて息を吐く。

 

「それ、呉々も誰かに聞かれないようにね」

「わかっているとも。抜かりはないさ」

 

 そう言って、逢瀬は不敵に笑った。




 ありがとうございました。あまり後書きとか長くしすぎるとクドイので簡潔に。

 第一話にも関わらず感想やお気に入りを下さった皆様、ありがとうございます。そして光栄にも10評価を入れて下さったkuufe様に、最大級の感謝を。

 それではまた次回。高評価や感想くださると更新速度がナメクジからダイオウグソクムシくらいに上がります。


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第三話

 こんなに早いペースで投稿したの初めてですよ。まさか自分でもここまでモチベ高いと思ってなかった。

 あ、まずは御礼を。第二話を閲覧してくださった皆様、ありがとうございます。あとお気に入りが60を超えました。これまでの三年間でもかつてない伸び。次は目指せ日間ランキング。


 あの事件から数日後。逢瀬は羽沢珈琲店にいた。紫の縁の伊達眼鏡をかけ、紫紺の長髪を簡素に首の後ろで縛った変装用の格好でだ。

 

 手元に置かれたコーヒーカップから上る湯気に混ざる芳ばしい香りが鼻先を撫で、店内を流れるクラシック音楽に耳を楽しませる。普段のように〝貴公子〟として振る舞うのも悪くはないが、こうして一人静かに珈琲を飲むのも逢瀬は好きだ。

 

 謂わば安らぎの時間。普段が公ならこちらは私。貴族の息子がお忍びで出かけるようなものだ、とは逢瀬の言。

 

 しかし、安らぎの時間というには逢瀬の表情は固かった。その原因は左手に持つスマートフォンの画面に映る文字。

 

『新進気鋭のアイドルバンド〝Pastel*Palettes〟、活動自粛を発表』

 

 表示されていたのは一つのニュースサイト。やはりこうなったか、と逢瀬はコーヒーカップに口をつける。あれほどの騒ぎになったのだ。これから先、下手な動きは出来ない。早々に活動自粛の判断を下した上層部はむしろ有能と言うべきだろう。

 

 口を離すと熱を帯びた吐息が漏れた。再び画面に目を戻す。下にスクロールしていくと、憶測混じりの編集者の意見やユーザーコメントが並んでいた。

 

 今回の件に関して、まだ事務所からの公式の見解は発表されていない。それがますます世間の想像を膨らませているのだ。暴走した空想が尾ひれをつけて有る事無い事騒ぎ立てる。つくづく嫌になる国民性だと逢瀬は嘆息した。

 

 更に下へと指を進める。そこから先は延々と同じような内容が続くばかり。見ていて気分の良いものではないし、有益なことが何か書かれているわけでもない。ブラウザーを切ろうと指をホームボタンの直上まで動かしたとき、店の入り口付近から声が聞こえた。

 

「あら、オーセじゃない!」

 

 視線をそちらへ向ける。そこでは、宛ら陽光の如き煌めく黄金を湛えた少女が笑顔でこちらに手を振っていた。その横ではダウナーな雰囲気を醸し出す少女が軽く会釈している。

 

 二人とも逢瀬の知り合いだ。弦巻こころと奥沢美咲。〝ハロー、ハッピーワールド!〟というバンドのメンバーで、以前とある縁から知り合った少女たち。

 

 〝弦巻〟ーーーー人として生活を営むのなら知らない人はいないであろう大財閥の名だ。弦巻こころという少女はその名の示す通り、この財閥の血縁。自由奔放純粋無垢を体現したような少女である。平々凡々、如何にも普通といった奥沢美咲とは何故共に行動しているのか些か疑問ではあったが、それは彼女らの手に提げられた紙袋が示していた。

 

 大方、こころが「買い物というものをしてみたいわ!」などと言って美咲を振り回したのだろうな、と推察する。大変そうだね、と言いたげに美咲を見れば、彼女は乾いた笑いで肩を竦めた。どうやら正解のようだ。

 

 そんな逢瀬と美咲のやり取りを知ってか知らずか、こころが逢瀬のテーブルに近づく。

 

「相席してもいいかしら?」

「勿論だとも、弦巻嬢。こちらからお願いしたいくらいさ」

「ならよかったわ。美咲ー、こっちよー!」

「はいはい、聞こえてますよー」

 

 本当に正反対の少女たちだと思う。

 

 ふと窓から外を見れば、三人ほどのサングラスをかけた黒服が電柱や建物の陰から様子を伺っていた。その内の一人とサングラス越しに目が合う。表情は読み取れなかったが、取り敢えず変なことはしないという意味を込めて軽くウィンクを送っておいた。意図が伝わったかは不明だ。

 

 こころと美咲は並んで逢瀬の正面に座り、寄ってきた店員の少女に各々の注文をして逢瀬に向き直った。

 

「それで、君たちはどうしてここに?」

「あー、さっきこころと一緒に出かけてまして。まあご想像の通りですよ」

「それでお茶でもしようかとここに寄ったらあなたがいたのよ!」

 

 ……数奇な偶然だ。たまたま出かけた先に知り合いがいる確率なんて、街があまり広くないことを加味してもたかが知れているというのに。

 

 しかも会ったのが彼女(こころ)とは。これだけの笑顔に充てられては、先ほどまでの沈鬱な気持ちは最早消え去る他ない。

 

 こころの魅力はまさにそこだろう。いるだけで空気を明るくする。つられて笑顔がこみ上げる。太陽とでも形容すればいいのだろうか。そういった人格性なのだ。

 

「あ、やっと笑ったわね、オーセ」

 

 と、こころがそんなことを言った。当の逢瀬にしてみれば何を言われたのかわからない。頭に疑問符を浮かべた。

 

「だってオーセ、さっき笑顔じゃなかったもの。何かあったのかしら?」

「……君は人をよく見ているね、弦巻嬢」

 

 どうやら先の沈鬱な気持ちというのは顔にまで出てしまっていたらしい。そこをこころに見つかったということだ。本当に偶然というのは恐ろしい。

 

「僕本人に何かあったわけではないさ。ただまあ、これを見てくれればわかるかな」

 

 逢瀬は左手のスマートフォンを器用に指で弾いてこころと美咲の前に滑らせた。それを受け取った彼女らは暫く画面を眺めていたが、ある程度スクロールしたところで逢瀬に返却した。その顔は、先の逢瀬と同じく少しの翳りを見せている。

 

 最初に口を開いたのは美咲だった。

 

「なるほど。たしかに、見てて面白くはないですね」

「そういうことだよ奥沢嬢。仕方のない糾弾とはいえ、愉快なものではない。特に僕みたいな者からしてみればね」

「そういえば瀬田さん、事務所同じなんでしたっけ。先輩ってのも大変なんですね」

 

 まったくだ、と逢瀬と美咲は二人合わせて息を吐く。

 

 美咲にしてみれば、このニュースサイトに列挙された意見だって理解できなくはない。逢瀬の言う通り、これは仕方のないことだ。どんな言葉で取り繕おうと、大勢を騙したのは事実なのだから。

 

 が、それでも人の悪意の塊というのは見てて面白くない。それだけは確固たる彼女の意見だ。それがわかっているから、逢瀬は美咲に同調する。

 

 そういえば、と逢瀬は美咲の隣に座るこころの方を見た。こういうとき一番何かを言いそうな彼女が、これまで全く会話に入ってこないことに違和感を覚えたからだ。

 

 こころは珍しく神妙な顔をして、コップに入った水に浮かぶ氷を眺めていた。

 

「……すまない弦巻嬢。気分を害してしまったのなら謝らせてくれ」

 

 もしや先のモノを見せたことでこころに嫌な気分を味わわせてしまったかと憂いた逢瀬はすかさず謝罪を述べた。それを聞いたこころは一瞬困惑の表情を浮かべたが、すぐに逢瀬は悪くないと告げる。

 

「違うわ。別にあなたのせいじゃないわよ。ただ、ちょっと思ったの。そこに載ってた人たち、きっと笑顔じゃないんだわ、って」

 

 こころは言う。何故誰かを責める必要があるのだろう。何故誰も幸せにならない悪口を言うのだろう。そんなことをしても何にもならないのに、と。

 

 〝世界を笑顔に〟

 

 初めて会った時、逢瀬はこころからそんなことを告げられたのを思い出した。なんて無茶なことを、と思いもした。事実その通りだ。それは無茶なこと、実現するのにどれほどの夢物語を重ねればいいのだろう、と。

 

 それでも、逢瀬はその時そう告げなかった。

 

 夢物語を魅せるのが僕の仕事だと言って憚らない彼は、その夢を語るこころを否定したくなかったから。そして、それに加担する()()()の笑顔を否定したくなかったから。

 

 誰よりも笑顔に拘る弦巻こころという人間は、他者の笑顔をも尊ぶ。故に、彼女は誰かを責めるという行為を是としない。それは何の生産性も無いと、思考の何処かが理解しているから。

 

 だからこそ、こころが次のような結論に至るのは自明の理と言えるのだ。

 

「そうだわ! ここに書き込んだ人を皆集めてライブを開きましょう! そうすれば、この人たちも笑顔になれるはずよ!」

「それは流石に無理がある」

 

 それでも、この発言は否定させてくれ。

 

 いや、だって、無茶だろう?

 

「瀬田さんの言う通りだよこころ。流石に無理がある」

「美咲までそんなことを言うの!?」

「言う。第一、どうやってコメントした人を探し出すの。それに、一体何人が書き込んでると思ってるのさ」

 

 こういうときばかりは、良くも悪くも常識的に過ぎる美咲の言葉が刺さる。

 

 ネットの海から不特定多数の特定個人を見つけようとすることがまず問題であるし、よしんば出来たとしてその全てにライブを見せることなど……。

 

 チラリと窓の外を見る。黒服たちが各々何処かに連絡を取っているようだ。やめろ、洒落にならない。

 

 弦巻とはそういうものだ。不可能を可能に、不可逆を可逆にする。彼らに覆せないものなど人の死くらいなのではないだろうか。

 

 美咲は諦めの悪いこころを何とか収めようと必死の説得中だ。本当に、どうして一緒に行動出来るのだろう。このままでは美咲の胃に穴が開くのも時間の問題と思える。

 

 暫くその様を眺めていると、どうやら漸くこころが引き下がったらしい。渋々ながら、といった様子だが。黒服たちもそれに応えるように連絡を取り止める。よかった、これでまた一つ弦巻の起こす事件の火種は潰えたようだ。

 

「まあなんだ、弦巻嬢。君たちがこれからも活動を続けるなら、いずれ彼らとも出会う日が来るだろうさ。彼らに笑顔を届けるのはその日までおあずけ、というだけだよ」

「……そうね。そうよね。世界を笑顔にするんだもの。いつかきっと、この人たちも私たちの力で笑顔になれるわ」

 

 納得してくれて何より。見れば、美咲もやれやれと言いたげに息を吐いている。

 

 弦巻こころはブレない娘だ。彼女がやると言えば、本当に、いつかきっと成し遂げる。どんな無茶だとしても。そして、彼女はそれを信じて疑わない。

 

 いい子、なのだろうが……。

 

 ーーーー()()()()()()

 

 いつの日か、彼女は全てを置き去り先に行ってしまいそうな、そんな空気がある。というより、既に美咲は彼女の勢いに着いて行けてないのではなかろうか。

 

 そう考えると、なんだか暴走する犬と握った手綱に振り回される飼い主のように見えてきた。好き勝手動く(こころ)を追いかけて、それでも手綱を離さないと躍起になっている飼い主(美咲)。それでも愛想を尽かさないのだから、それはこころの人徳の為せる技というわけだ。

 

「あっ……」

 

 そんなことを考えていると、こころが店内の時計を見て声をあげた。見れば、長針は彼女らが此処を訪れてからとうに一周を過ぎている。想像以上に長居してしまったらしい。

 

 逢瀬もそろそろ引き上げる時かと荷物をまとめる。逢瀬は元から大荷物は持ってないので身軽だが、少女たちはそうではない。持ってきていた紙袋はそれなりの大きさがあるし、いくら楽器を操る腕力があろうと、少女の細腕にそれを持って歩かせるのは酷だろう。

 

 美咲は普段から着ぐるみの中で動ける程度の体力はあるので心配は無いだろうが、こころはボーカルだ。まず楽器を持っているわけでもなかった。運動は得意と聞いたが、まあそれとこれとは話が別。〝王子様〟は、女の子に余計な苦労をさせることを是としない。

 

「それは僕が持って行こう。この後特に用があるわけでもないしね」

「いいんですか瀬田さん?」

「勿論だ。責任を持って、君たちと共に送り届けよう」

「そういうことならまあ、お言葉に甘えて。こころー、瀬田さんが荷物持ってくれるってさ」

「本当? ありがとう、助かるわ!」

 

 花の咲いたような笑顔で、こころは礼を述べる。二人の荷物を両手に抱えた逢瀬は流れるような動作で三人分――こころと美咲の分も含めて――の会計を済ませ店を出た。出たところで二人から「代金を払わせろ」といった内容の抗議を受けたがそれを受け流す。

 

「ここで会ったのも何かの縁、君たちのような見目麗しい乙女と茶の席を共に出来たんだ。むしろ足りないくらいさ」

「瀬田さんって、よくそんな歯の浮くような台詞がポンポン出てきますよね」

「本心だよ」

 

 ふふ、と目を伏せ逢瀬は笑う。

 

 事実、こうして彼女らに尽くす理由の()()()その言葉の通りだ。控えめに言い表しても美少女と呼んで差し支えない少女たちと時を過ごす。世の男が羨むそんな幸せを享受させてくれた少女たちへの小さな礼。

 

 そして、もう半分は。

 

「それに、普段妹が世話になっているからね」

 

 彼の妹に大きな楽しみを与えてくれた少女たちに対しての、兄としての礼だ。自らを表現するのは演技だけではない、音を以ってして誰かを笑顔にすることが出来る。そしてそれは、きっと自らも幸せにしてくれるのだと。そう彼の妹に教えてくれたから。

 

 些細なお返しだけれど、これが僕の気持ちだから、と。彼はそう伝えたい。

 

 どれほど歩いていただろうか。太陽が美しい橙を湛え始めた。黄昏時に差し掛かる。彼らの眼前に、巨大な門が見えた。弦巻邸だ。

 

 こころと美咲の弁によれば、彼女らはこれから少しばかり此処で練習をしていくらしい。なら付き添いはもういらないだろうと、逢瀬は持っていた紙袋を手渡した。

 

「ありがとうオーセ。おかげで助かったわ」

「ふふ、お安い御用だ弦巻嬢。こちらこそ、素敵な時間をありがとう」

 

 黄昏の中にいても翳ることないこころの笑顔に、逢瀬も同じく笑顔で返した。

 

「それでは、僕はこれで失礼するよ。さようなら、子猫ちゃん。いつかまた会う時まで」

 

 そう告げて、逢瀬は黄昏に背を向け歩き出す。

 

 ――――願わくば、どうか。

 

 逢瀬は願う。どうか、彼女たちの歩む未来に、妹の姿があればいい、と。

 

食べろ、飲め、遊べ、死後に快楽はなし(Ede, bibe, lude, post mortem nulla voluptas.)

 

 君たちは君たちの道を共に進め。ともに生きよう、ともに愛し合おう(Vivamus mea Lesbia, atque amemus)。それが、逢瀬が望む幸福だ。

 

 世界を笑顔にする日を、僕は見てみたいから、と。




 第二話で感想やお気に入りを下さった皆様に感謝を。そして、光栄にも9評価を下さったブーーちゃん様、Sounds様に最大限の感謝を。たいへん励みになります。本当に。

 感想や高評価を下さると、更新速度がナメクジからシャクトリムシくらいに上がります。それではまた次回。


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第四話

 日間ランキングに載っていました。最高36位。さらにお気に入り300超え、UA5500超え、評価バーは真っ赤に。期待してくれる爪牙の皆様が予想以上に多くて戦々恐々するとともに大変歓喜しております。

 今回はコメディ回。


 ――――某月某日、朝七時。週末の穏やかな朝に、その声は響き渡った。

 

「さあ起きたまえ我が敬愛する兄よ! 小鳥が歌い木々が陽の光を浴びる健やかなる朝だ! 起きない理由など何処にもない!」

 

 勢いよく扉を開き部屋に入ってきたのは一人の女性。中性的な容姿を湛え、紫紺の髪を後ろで縛り、宛ら歌劇を歌うかのように話すその姿。言われなければ男か女かの判断さえ難しいであろう人物だ。

 

 瀬田薫。〝ハロー、ハッピーワールド!〟のギター担当にして、羽丘女子学院において多くの女生徒からの羨望と憧憬を一身に集める麗人。そんな人物が今、こんな朝早くから呼びに来る者とは果たして誰なのか。

 

「さあ、温もりの中に微睡む時間は終わりだぞ我が兄! その纏った布団(ペルソナ)を破り、外の世界へ羽ばたく時だ!」

 

 大仰な身振り手振りを演じながら、部屋の窓際に鎮座する盛り上がったベッドへと大股で歩を進める。その横へと辿り着いたとき、彼女がペルソナと呼ぶもの――ただの掛け布団である――の縁へと手はかけられた。

 

 無慈悲にも引き剥がされるただの掛け布団(ペルソナ)。薫はその下にいたであろう人物の驚いた顔を想像してほくそ笑み、そして直後に固まった。その引き剥がされた掛け布団の下、白いシーツの上には誰もいなかったからだ。その代わり、まるで人の形を形成するかのように幾つかの枕が並べられていた。

 

 ――――まさか、嵌められた!?

 

 その結論に至った瞬間、開け放たれた扉の向こう、廊下から感じた気配。瞬時に彼女は振り返り、そこにいた人物を見た。

 

「まだまだだな、我が妹よ。僕は此処だ、此処にいる」

 

 その人物こそが、薫が〝敬愛する兄〟と呼び慕い、他ならぬ今呼び求めていた男。

 

 瀬田逢瀬。誰が呼んだか〝貴公子〟。誰もが思い描く〝白馬の王子様〟の具現化。そして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 紫紺の髪に美麗な容姿。非常に似通った見た目をしている二人であるが、似通っているのは見た目だけではない。

 

 この二人の共通点を表すのに、たしかに見た目も重要なファクターだ。しかし、それは表面上のもの。真に重要なのはその内面。言動にこそある。

 

「フッ……なるほど、寝ている貴方を起こしに来たと思っていた私だが、その実寝惚けていたのは私の方か。ああ、なんて儚い……」

「気に病むことはないぞ、我が妹。ただ僕の方が一枚上手(うわて)だったというだけさ」

 

 そう、この二人、喋り方がお互いよく似ている。芝居がかっており、気障で、まるで物語からそのまま飛び出して来たような。

 

 果たして先にやり始めたのはどちらだったか――――兎にも角にも、彼ら彼女らはどちらも生来の演者で、そして普段からこの喋りをすることに一切の抵抗がない。

 

 するとどうなるか。

 

 目立つ? ぬるい。注目されることなどとうの昔に慣れている。

 

 引かれる? 甘い。これを受け入れられない者はまず近づかない。

 

 過去にこの二人と共に同じ場所に居合わせたことのある人物は皆一様にこう語る。「二人だけで独特のフィールド作って、なんかよくわからないこと言って、勝手に納得して会話が終わるけど、正直何言ってんだか全く理解できない」と。

 

 つまりそういうことだ。誰も理解出来ないような話を勝手に展開する。そして、二人だけの場合はそれを止める人物が他にいないのだ。詰まる所、ツッコミ不在の恐怖である。

 

「それで、僕に何か用かな妹よ」

「おお、そうだ兄よ。貴方に共に来て欲しい場所があるのです」

「ほう? 聞こうじゃないか。僕は何処へ行けばいい」

「それを語るのは朝食を摂ってからでも遅くはない。用意は済ませてあるよ。早速向かおうじゃないか」

 

 先の敗北感は何処へやら。飄々と薫は逢瀬の前に立ち、朝食の並んだリビングへと連れて行く。その最中、ふと薫は疑問を口にした。

 

「そういえば、今日はやけに早起きだったようだが……何かあったのかな?」

「ふふ、何、大したことではないさ。ただ――――〝予感〟がしたから。寝ていられるわけもないだろう?」

「〝予感〟……それは一体?」

「君が来るという予感さ、我が麗しの妹よ。それを感じては、起きずにはいられない。妹の来訪を万全の状態で迎えてこそ兄だ。どうだい? 僕の演じた喜劇(サプライズ)は喜んでもらえたかな?」

 

 大仰に手を広げ語る逢瀬。それを薫は「流石は我が兄……」などと呟きながらしみじみと聞き入っている。

 

 実を言えば先の話は大体嘘だ。真実はただ珍しく早起きした逢瀬が二度寝しようとしたが眠れなくて、折角だからとシャワーを浴び戻ってきたところで薫が部屋に突撃していくのを見かけただけである。よく見れば、その紫紺の髪の端々がまだ湿っているのが確認できたが、雰囲気に陶酔する薫がそんなことに気づくはずもなく。

 

 そんなことはさて置いて。二人は共にリビングへと辿り着いた。テーブルの上には薫の用意したという朝食が置いてある。椅子に座り食前の常套句を告げると、逢瀬は小麦色に焦げ目のついたパンに手を伸ばした。

 

 共に無言で食を進める。その間、点けっ放しになっていたテレビから聞こえたアナウンサーの声を頭の中で反復する。

 

 曰く、昨日の国会は何を言っていただとか。曰く、今度博物館がどういった展示をするだとか。曰く、隣の県に通り魔が出ただとか。

 

 特にいつもと変わらない。何処かで聞いたことあるような既知感を与えただけだ。故にその反復は三回もせずに終了した。しかしそれでも時間は進むようで、いつの間にやら、手元にあった朝食は全て口へと入り咀嚼された後だった。

 

 それは薫も同様。ナプキンを手に取り口を拭いている。逢瀬は薫に、一体どういった用があったのか尋ねた。

 

「共に来て欲しいところがあるのだ、我が兄。一人で行っても良いのだが、私としても、貴方がいてくれた方が心強い」

「ほう? つまりは同伴の誘いということだね。しかし、こんな朝早くから呼びに来るというのだから、それは何か急ぎの用ということなのかな」

 

 もしくは余程の緊急事態か。どちらにせよ厄介ごとでは無ければいいと逢瀬は思った。

 

 リビングの空気が張り詰める。お互いの心音が聞こえそうなほど静かな空間だ。窓から照る朝日が二人の表情に影を与えた。

 

 そして、薫の返した答えは――――、

 

「いや、特にそんなことはない」

「……それ、僕を呼ぶ必要あったかい?」

 

 その言葉に、逢瀬は目に見えて肩を落とした。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「それで、行きたい所というのが楽器店とはね」

 

 時は午前の十一時を過ぎた辺り。大袈裟な前置きを数時間前に終えた彼が薫に連れられて訪れた先で見たのは、店内に多数の楽器が並び立つ光景だった。

 

 江戸川楽器店。街を歩いているときに看板程度は見たことがあったが、逢瀬が楽器に触れない生活を営んできた関係で中まで入ったことはなかった。ギターやドラムといった有名な楽器の他にも、名前すらわからない、どう使うのか考えもつかない道具まで多様な物が並んでいる。

 

「それで、ここに何をしに来たのだい妹よ」

 

 棚にあった商品を一つ手に取って眺めながら、逢瀬は傍らに立つ薫に問うた。楽器店に来たからには買い物なのだとは思うが、しかし何を買うのだろう。

 

「ピックを買いにね。先日保育園でライブをしたときに欠けてしまったんだ。スペアはあるが、足りなくなった分は補充しなくては」

「なるほど、ピックか……」

 

 頷く逢瀬。一見納得したような仕種を取っているが、内心では「ピックって手に持つアレだっけ?」程度にしか理解していない。

 

 顎に手を当て棚を見渡す。視線を今立っている場所より少し右上にズラせば、そこには薫の言うピックらしきものがあった。成る程、思っていたより小さいな、と逢瀬は的外れな感想を抱く。ギターを三味線か何かと勘違いしているのだろう。

 

 が、それと同時に疑問も抱く。何故薫は、自らの足でピックを買いに来たのだろう?

 

 薫の所属するバンドの〝ハロー、ハッピーワールド!〟は、弦巻こころが中心となって成立しているものだ。あの弦巻である。ピックの一つや二つ、その財の全貌と比べれば芥子粒にも満たない程度でしかないはずだ。

 

 故にこそ解せない。

 

「なあ妹よ。そのピックというのは、自分で買わなければダメなのだろうか?」

 

 言外に〝弦巻を頼ってはいけないのか?〟という意味を込めて逢瀬はそう問うた。

 

 別に彼は妹の私財を惜しんでいるわけではない。むしろ自ら動くというのならそれは素晴らしいことだとさえ考える。その意思は、間違いなく与えられたものだけで満足する愚物よりも尊いものであるが故に。

 

 ただ、使えるものをどうして使わないのかが不思議なのだ。

 

 きっと薫にも、逢瀬の疑念が伝わったのだろう。少し思案して、

 

「……それは自分でやらなくてはいけないのだ、兄よ。与えられることだけに甘んじるのは、弦巻こころ(我等のプリンセス)の意思に反するからね」

 

 その言葉に、逢瀬は今度こそ真実の理解を得た。

 

 きっとこれはこころの意向だ。家に頼るだけではなく、自分たちだけでも成せることを成す。彼女の性格上それを他のメンバーに強制するとは思えないが、生憎ここにいるのは瀬田薫。格好つけることを何よりも好む正真正銘の演者なのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とでも考えているのだろう。

 

「そうか。それはおかしなことを聞いてしまったね、すまない」

「謝る必要は無いさ。私だって似たようなことを思ったことはある。それに、今だってそんなに上手く財と私情を切り離せているわけではないよ。不本意ではあるけどね」

 

 曰く、まだやはり自分たちだけでバンドをやっていくのは難しいようで、姿の見えない援助というものはそういう形で施されているらしい。

 

 練習場所の提供、ライブの設営、その他挙げればキリがない。いずれはそれらも自らの手ですべきであると決意してはいるものの、まだ彼女らは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だから、誰かの手を借りる必要性からは逃れられないのだ。

 

 薫が今日ここに来たのはそのためだ。未熟なのはわかっている。支えられないと立てないことも知っている。それでも、少しくらいの意地は張らせてくれと。差し伸べられた手を振り払うことは出来ずとも、自分の力で立ち上がる気概くらいはあるのだと証明したいから。

 

 実に美しい信念だと、逢瀬は薫に心からの賞賛を贈る。薫以外の少女達も同じように思えているのなら、それはきっと素晴らしいことだ。その聖性は、たとえどれほどの苦難と時が道を阻もうと輝く道しるべとなることだろう。

 

「いつかは成してみせるさ。〝ハロー、ハッピーワールド!〟のギターは私なのだからね」

 

 そう、笑みを浮かべて薫は言って、棚から一つピックのパッケージを取って会計に向かっていった。

 

 この時ばかりは、逢瀬が代金の肩代わりをすることはなかった。格好つけるのにもやり方があるのだ。誰かの意思を無視するやり方と、誰かの意思を尊重するやり方。以前のこころと美咲の件は前者に当たり、今回の件は後者に当たる。

 

 やがて戻ってきた薫に出口を示すと、わかっていると言いたげに隣に並んで歩き出した。店内の時計を見れば丁度昼過ぎ程度。このまま二人で何処かへ昼食でも食べに行こうかと逢瀬が提案しようとした瞬間、薫のポケットに入っているスマートフォンが振動と音を彼女に届けた。

 

 何かと思い見てみれば、それはメッセージアプリの新着だった。開いて文面を読み、薫は笑みを溢す。

 

「誰から?」

「まあ見ればわかるさ」

 

 そう言われ、差し出された画面を覗き込む逢瀬。そこに映っていたのはメッセージアプリのグループトークで、名前は〝ハロー、ハッピーワールド!〟。彼女らのバンドの連絡用グループといったところだろうか。

 

 一番下、即ち最新の投稿が先の通知の内容だ。差出人は弦巻こころ。

 

『突然だけど今日は練習したいわ!』

 

 本当に突然だなオイ。

 

 そのツッコミをすんでの所で飲み込む。もう少しその決断が遅かったら喉を通り過ぎていたところだ。

 

 いやしかし、普通は事前にスケジュールの確認等をしておくものではないのだろうか。まさかこの少女はその時の気分と感情のまま動いているとでもいうのだろうか?

 

 まさか、と思う心を抑えて有り得そうだと考えてしまう。こころは制御の効かない暴走列車のような少女だ。多少の自制心は流石にあるだろうが、その時の気分によって生み出された提案が少しでも自らの益になるのならそれすら振り切ってしまいそうな気がする。

 

 再び通知の音が鳴った。次なる差出人は奥沢美咲。

 

『まだお昼食べてないし、皆さん予定合うんですか?』

 

 正論である。紛うことなきド正論である。

 

 事前に確認を取っていないのなら、こんな突然の事態に咄嗟に全員が集まれることなどあるだろうか。ましてや彼女らは花の女子高生。青春を謳歌している真っ最中だ。こんな天気のいい休日なのだから、誰か仲のいい友達と出掛けてる、なんてこともあり得なくはないはずだ。

 

 逢瀬はそう思い、続け様に鳴らされた通知を見る。

 

『はぐみは大丈夫だよ!』

『私も予定は無いから行けるよ』

『まあ皆さんがいいならいいですけど』

 

 上から北沢はぐみ、松原花音、奥沢美咲の順である。お前ら暇か。もしや暇なのか。

 

 仲がいいに越したことはないが、それでいいのか女子高生。

 

「……そういうことだ」

 

 スマートフォンを操作して『私も行かせてもらおう』と書き込んだ薫が言った。彼女はこのままの足でこころの元へ向かうのだろう。言われずとも伝わった。

 

「昼はどうするつもりだい?」

「途中で何か買っていくさ。もしくは――――」

 

 そこで再び通知音が鳴る。

 

『皆来るのね! お昼用意して待ってるわ!』

 

「こころの所で食べてくる」

「無茶苦茶だな弦巻」

 

 急遽決まった練習の為に集まる人数分の食事をこれから用意するというのか。普通ならそんなことそうそう出来ないだろう。

 

 それでも弦巻なら出来るのだろうなという、根拠のない確信が逢瀬の中に生まれていた。不可能を可能に、不可逆を可逆にする彼らならきっとやる。たとえ用意する食事がビュッフェでも満漢全席でも恐らく短時間で作る。最早時空でも捻じ曲げているのだろうか。

 

「というわけだ、兄よ。同席できなくて済まない。それでは私は行ってくるよ」

「ああ、行っておいで妹よ」

 

 手を振り、弦巻邸の方へ歩いていく薫を逢瀬は見送った。去り際に薫が呟いていた「しかしミッシェルからの返事が無いが……まあ彼女も忙しいのだろう」という言葉の真意に気付いて苦笑していたが。

 

 いや、美咲(ミッシェル)いるじゃん。まさかまだ気付いてないのかあの妹、と。これでは美咲から三バカ呼ばわりされるのも納得というものだ。

 

 薫の背中が見えなくなった頃、逢瀬は漸く動き出した。特に食べたいものの指定はない。ただ手軽に食べるならコンビニ弁当かジャンクフードでいいだろうと考え、折角外に出たなら店で食べようとジャンクフード店に向かう。

 

 そして、その先で、逢瀬は彼女に出会ったのだ。

 

「あの……この後少し、お話ししませんか?」

 

 Pastel*Palettesボーカル、丸山彩に。




 ここからは少々長めの後書きです。まずは評価してくださった皆様に感謝を。

☆10 ルリオルター様
☆9 サボ天様、アイリP様、ヘイ!ゼエン!様、怠惰な奴様、ローニエ様、暁桜様、リュー@受験生様、黒の太刀様、勇気の願渡@アルト様、塩あめ様、ハハッ( ´∀`)様、逆立ちバナナテキーラ添え様、ぱんぐらす様、ガチャで大爆死をする男様、ヤーナムのやべー奴様、てるまち様、断空我様
☆8 いわいわ丸様、マルクマーク様、痴漢者トーマス様
☆7 提督さん様

 以上の方々に最大限の感謝を。本当に励みになりました。本当にありがとうございます。

 高評価、感想など下さると更新速度がナメクジからウミウシくらいに上がります。それではまた次回。


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第五話

 日間ランキング12位、UA8500突破、お気に入り400突破、総合評価1000突破……すごい。私の過去作の最高順位が11位だったのですが、まさか四話で迫れるとは思ってなかったです。本当にありがとうございます。


 こころの気紛れに付き合うために弦巻邸へと向かった薫と別れた逢瀬は、江戸川楽器店から少しだけ歩いた先にあるファストフード店に足を向けた。

 

 ファストフードは好きな部類だ。煩雑、粗野、大いに結構。何処に行っても同じ味が出てくるということそのものがまず褒められる快挙である。当たり外れが存在しない。

 

 こういうことを誰かに告げると、まず一番に言われることがある。「他の、もっと高級なモンの方が美味いだろ?」などだ。勿論、一流ホテルで出されるような物は美味であろう。当たり前だ、そういうように作られている。

 

 だが違うのだ。まず比べることが間違っている。立たされる舞台、魅せるべき大衆の範囲が違う以上、真の意味での比較は成り立たない。

 

 美味い物が食べたいなら高級店にでも行けばいい。店によって異なる拘りが料理から垣間見えることもあるだろう。それは確かな風格を伴ってその者を至上の幸福へと導いてくれるはずだ。

 

 それを求めていないなら手軽さを求めていいのだと、逢瀬は語る。均一に均された味も、片手で食べれる簡単さも、その全ては効率に収束する。

 

 詰まる所は層の違いだ。普段から素晴らしい物ばかり口にしている舌の肥えた者たちは、どうぞ素晴らしい物を食べたまえ。その間、小市民たる我々は、このような店で小さな幸せを噛み締めていよう。

 

 何だかんだと語ってきたが、実際そんな大したことは言ってない。逢瀬はこう考える。「たまにはこういう雑なの食べたいじゃない?」と。普段立席パーティーなどに招待されることもままある立場上、こういったものが恋しくなるときもあるのだ。

 

 閑話休題(そんなことはどうでもいい)

 

 暫く歩くと、目的の店が見えてきた。別に店頭にピエロが立っていたり、山と海と太陽から頭文字を拝借していたりするわけでもない、ごく普通のチェーン店。

 

 しかし時間は太陽が真上に差し掛かるお昼時。その行列は店の外まで長く伸びている。もう少しくらい遅く来ればよかったな、なんて思いながら、逢瀬はその最後尾に並んだ。

 

 さすがと言うべきか、長かったはずの列は瞬く間に捌けていく。そこは店員の手際に因るものだろう。ピーク時の対応もお手の物ということか。

 

 ……ところで、前に並んでいる人々の頭の隙間から、何やら見覚えのある桜色の髪が揺れている気がするのは気のせいだろうか。

 

 時間にして十分にも満たない間に、逢瀬はレジの前まで通される。あらかじめ決めていた注文を言おうと店員の顔を見たときに、それが見知った人物であること、そして先の予想の通りだったという事実に驚きを露わにした。そしてそれは店員の方も同じだったようで、その顔には驚愕が貼りついている。

 

「……お、お久しぶり、です……? 瀬田さん……?」

「……ああ、久しぶりだね丸山嬢」

 

 そこにいたのは丸山彩だった。俄かに世間を騒がせているPastel*Palettesのボーカルで、同じ事務所の後輩。例の事件の後、泣きながら謝ってきた姿は記憶に新しい。

 

 仮にも芸能人としてデビューを果たしたはずの彼女が何故ここにいるのか。そもそもこんなところにいて大丈夫なのだろうか。というか、ウチの事務所はバイトとか許可してただろうか?

 

 疑問はそれこそ幾つも湧き上がるが、それらが声に出るのをなんとか抑えて逢瀬は注文を口にする。彩は一瞬呆けた後に慌てて言われたことを打ち込み、逢瀬からその代金を受け取った。レシートと共に番号の書かれた感熱紙を渡され、逢瀬はレジの横に移動する。

 

 なんだか街中で知り合いに会うというのを最近も経験した気がする。偶然とは恐ろしい。

 

 横目で彩を見遣る。次から次へと押し寄せる客の波を捌くため、桜色の髪──以前見たツインテールと違う、サイドポニーテールと呼ばれる髪型──が忙しなく揺れていた。

 

 大変そうだ、とは思わない。思わないが……少し疲れているようにも思える。このアルバイトのせいでなく、何か、もっと()()()()によって。

 

「レシート番号63番でお待ちの方ー!」

 

 その思考は他ならぬ彩の声によって中断される。手元の番号を見れば、そこに書かれていたのは63の文字。呼ばれているのは逢瀬だ。

 

 盆に乗せられたメニューを流し目で確認して、不備がないことを軽く確かめる。

 

 そして、応対してくれた彩に、少し気になったことを問うてみた。

 

()()()()()()

 

 そう口にしてすぐ、しまったと思った。何の前触れもなく、ただ己の直感のみを頼りにして出た言葉なのだ。投げかけられた本人にしてみればきっと理解不能だろう。

 

 そう思っていたのだが、彩の反応は、少なくとも逢瀬の予期していたものではなかった。

 

「あはは……わかります、かね?」

 

 どうやら逢瀬の直感は当たっていたようで。

 

 彩は頼りなさげに苦笑して、店内の時計に視線を移した。

 

「……瀬田さん。私、あと少しで上がりなんですよ」

 

 再び彩は逢瀬に顔を向ける。その顔を、その表情を見た彼は、内心で彼女をこう評した。

 

「あの……この後少し、お話ししませんか?」

 

 ひどく、磨り減っている――――。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 店内席の端、壁際の最奥に逢瀬は座していた。

 

 時は先の彩の発言から三十分ほど。とうに頼んだ物は食べ終わり、昼時のピークも過ぎている。入店した時は座るところを探すことさえ一苦労だったのが嘘のように、今では誰も人がいない。空席だらけだ。

 

 そんな中、一人逢瀬は腕を組み、いずれ(きた)る彩を待っていた。考えるのは、先の彼女の表情。

 

 心に多大な負荷がかかっているのは目に見えている。恐らく平時は何事も無いように振舞っているのだろうが、そんなところに逢瀬──一度()()を見せた相手──が現れたから、その堤防が決壊したのだろう。

 

 そう、決壊。

 

 逢瀬が思う彩のイメージとは〝強い女の子〟だ。三年間、実るかどうかもわからないアイドル訓練生なんてものをずっと続けて、そして夢の舞台への切符を掴み取った。挫折しそうになったことも、諦めそうになったこともあったはずだ。

 

 それでもここまで登り詰めた。その身体を傷だらけにして、数多の逆風に逆らって。彼女の強さとは、その中で培われたものだ。硬く、固く、堅く、どこまでも強く。

 

 だが、()()()()()()()()()()()()。鋼だって打てば曲がる。穿てば穴が空くものだ。そして、一度壊れれば、容易くは直らない。

 

 問題は、彼女の強さを挫くほどの何かがあったということ。

 

 例の事件があったのは今から約二週間前。その時見た彼女の表情は、まだ折れてはいなかった。まだ光に進むための力に満ちていたはずだ。

 

 故に彼は光あれ(Levis est)と言い残した。まだ道は続く。止まるな、進め。その意味を込めて。

 

 そんな彼女が、二週間で打ち拉がれた? 

 

 何をされた。有り得ない。答えが出ない。頭の中で問いを繰り返す。

 

「……すみません。お待たせしました」

 

 力のない声が逢瀬に投げられる。顔を上げると、そこには私服に着替えた彩が立っていた。

 

「気にすることはないさ。誰かを待つというその時間さえ、(きた)るべき子猫ちゃんが君ならば刹那に感じるというものだよ」

「そう……ですか、ありがとうございます」

 

 彩が逢瀬の対面の席に座る。その表情は、相も変わらず曇ったまま。

 

 逢瀬は何も話さない。この対話を持ち掛けてきたのは彩だ。まずは、彼女が口を開くのを待つ。急かす必要はない。

 

 時間にして数分か、それとも数十分か。どれほど向かい合っていたのかはわからない。何度も何か言おうとして口ごもり、そして意を決したかと思えばまた口を閉ざし。そんなことを何度も繰り返す彩を、逢瀬はただ静かに見つめていた。

 

 しかし、それをいつまでも続けているわけにもいかないのだ。それは彩が一番わかっている。停滞は、時間を割いてまで付き合ってくれた逢瀬の好意を無為にする。だから、少しだけ、勇気を出して。

 

「……あ、あの……」

 

 ようやく出てきた言葉はたったの一言。否、一言未満。しかし、それでも逢瀬にとっては充分だ。声を出してくれたことに意味がある。

 

「大丈夫だよ、丸山嬢。焦らなくてもいい。君のペースでいいから」

 

 言葉によって相手の内面を引き出すのは役者の特権だ。声音、話し方、その他自らの全てを道具として()()のだ。

 

「安心して。僕は何処にも行かない」

 

 甘い言葉も、(ぬる)い言葉も、幾らでも吐いてやる。それが役者()だ。それが演者()だ。それくらい、息をするより容易く遂行できる。

 

 そしてそれは功を奏したようで。

 

 彩の顔にあった不安は、この言葉を脳が咀嚼し呑み込んだとき、幾分か晴れていた。

 

「えっと……聞いて、くれますか?」

「勿論だとも」

 

 ああ、聞いてあげよう。それで君の心が晴れるなら。

 

 逢瀬は彩を包み込むように、無窮の慈愛を湛えた笑顔を浮かべた。

 

 その優しさに後押しされるように、彩は途切れ途切れに、拙い言葉で語り始める。

 

 その話を簡単に纏めると、要するに彩の好奇心の発露によるものだった。

 

 〝エゴサーチ〟

 

 言葉の詳細な意味はわからずとも、この言葉を聞いたことがないなんていう者はきっと少数だろう。意味はそのもの自己検索(ego search)。自分の本名やハンドルネームなどをインターネットを使って調べ、自分の評判などを見る行為のことだ。

 

 彩はこの二週間でそれを行なっていた。自分が世間からどう思われているか、それを知りたいと願ってしまったが故に。

 

 原因は彩にある。それは間違いない。だが、それを責めることなど誰が出来ようか。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「なるほど……」

「あっ、でも違うんです! 学校の友達とかは皆普通に接してくれて、学校では気にしなくていいんですけど……その……」

「学校の外では、ということだね」

 

 彩は自分を肯定してくれる誰かが欲しかったのだろう。学校の友達といられるのは学校にいる間だけ。家にいたり、外にいたり、そういう日常生活の中で彼女は心の空白を誰かに埋めて貰いたかったのだ。

 

 だから、探した。肯定的な意見を。誰か私を認めてくれ、そう願って。

 

 その結果がこれだ。こればかりは、彼女の諦めの悪さが裏目に出た。

 

 探せども探せども、出てくるのは否定の言葉。人の悪意の塊だ。中には彩本人を恐怖させるようなつぶやきもあったことだろう。彼女は贔屓目を使うまでもなく美人だ。どんな下種が彼女に劣情を抱くかは想像に難くない。

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そう信じて、この二週間、学校にいられない間はずっとそうしていたのだろう。それが彼女を苦しめ、疲弊させ、摩耗させた。

 

 なんという悪循環。肯定を求め、否定され、その苦しみを和らげるためにまた肯定を求め────。

 

 それでも彼女がまだこうして完全に心を閉ざしていないのは、ひとえに彼女の理解者たちの功績と言える。友達選びに関しては、彩は間違いなく天才だ。

 

 しかしこれは想像以上に難しい問題だ。何せ、彼女は求める場所を間違えている。これ以上は文字通りの自殺行為。追い詰められるだけの袋小路なのだ。

 

 ならばどうするか。

 

 簡単だ。()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……丸山嬢。僕は、君の苦悩がわかるだとか、君を理解するだとか、そんなことを言うつもりはないけどね」

 

 彼女が求めている意見。言い換えれば〝拠り所〟。空を飛ぶ鳥が疲れたら休むように、偶像(アイドル)には止まり木が必要なのだ。

 

 劣情も、下心も、打算も、その全てを捨てて止まり木としての役割を担える人物。それは世間一般では仲間と呼ぶのかもしれないし、もしかしたら偽善者と呼ばれるのかもしれない。

 

「君の努力は誰かがきっと知っている。君の流した汗と涙は無駄にならないと誰かが────()()()()()()()

 

 ────()()()()

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「だから、これだけは言わせてくれ。()()()()()()()()()()()

「────あ……」

 

 それは、彩がずっと求めていた言葉。

 

 否定の中で、誰かが認めてくれると信じて探していた言葉。探して、見つけられなかった言葉。

 

 それが今、こんなに近くで、憧れだった人から告げられた。

 

「……瀬田さん」

「……うん」

「私、頑張ったんです」

「……うん」

「歌も、踊りも、MCの台詞も、全部頑張って覚えたんです」

「……うん」

「ずっとなりたかったアイドルになれるって、そう思ったら夜も眠れなくて、それでもお客さんに元気な姿を見せれたらいいなって」

「……うん」

「そうやって頑張って頑張って頑張って頑張って……それでようやくアイドルになれたんです」

「わかってる。君はすごいよ。その努力は、並大抵の人間じゃできないことだ」

「……それ、でもぉ……!」

 

 声に嗚咽が混ざる。涙が流れて手の甲を濡らす。

 

「私は色んな人を裏切って……皆私に酷いこと言って……、それで、私……」

 

 限界だった。自分の夢は結局夢でしかなかったのだとも思った。起きたら消える意識の雲霞に過ぎないのかとも思った。

 

 それでも、諦めたくなかったから。憧れを憧れのままで終わらせたくなかったから。

 

 だから、求めたのだ。拠り所を。止まり木を。安心できる居場所を。

 

「……うん、わかってる。前も言っただろう。それは取り返せる失敗だ。君の努力が覆せる風評なんだよ。苦難も苦痛も、それは乗り越えられる」

 

 そう、だから、安心してと逢瀬は言う。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 お人好しと笑いたければ笑うがいい。偽善者と嘲りたければ嘲るがいい。これが瀬田逢瀬の人間性だ。どこまでも役者で、どこまでも演者で、それ故に人の内面を理解しているから。

 

 これが今、彩にかけるべき最大限の言葉(肯定)だ。

 

「……瀬田、さん……」

 

 彩はとめどなく溢れる涙を袖で拭う。それはきっとこれまで我慢していた涙なのだろう。自分の罪だとわかっていても、決して割り切れなかった感情の発露。

 

「私、これからも頑張っていいんですよね……? また、あのステージに立ってもいいんですよね……?」

「ああ。君なら出来る。だから、泣かないで、笑って。君には笑顔が似合うから」

 

 逢瀬自身、無責任なことを言っているのは理解している。所詮綺麗事に過ぎない夢物語だ。

 

 でも、その夢物語が輝かしいから、人は惹きつけられるのだ。アイドルも役者も、そこは変わらない。

 

 彩が一際激しく目元を拭った。そして上げた顔は、誰よりも眩しい笑顔。

 

「ありがとうございました、瀬田さん。何だか全部吹っ切れました」

「それは何より。僕もそう言ってもらえれば幸いだよ、丸山嬢」

 

 綺麗事で人が救えるなら、それに越したことはない。逢瀬はそう考える。

 

 成し遂げんとした志を(You shouldn’t abandon your will by which we assumed)ただ一回の敗北によって捨ててはならない(that it wasn’t accomplished by once of defeat freely.)。シェイクスピアの引用の一節が、この状況にはよく似合う。

 

 もう助言は必要ないと判断し、逢瀬は席を立った。ただ昼食をとるためだけに来たはずが、想定外に時間を使ってしまった。だが、それで誰かの役に立てたのならそれも悪くない。

 

 そのまま店を後にしようと逢瀬は出口に向かう。しかし、

 

「あ、あのっ、瀬田さん!」

 

 彩が突然後ろから呼び止める。何かと思い振り向けば、彩はひどく狼狽えているような様子で何か逡巡していた。

 

「えーっとー、えーっとー、そう、連絡先ください!」

 

 ……なんて?

 

 逢瀬は素でそんなことを考えてしまった。急いで取り繕い、彩に問う。

 

「それはまた唐突だね丸山嬢。しかし何故に? 連絡なら事務所を通せばいいじゃないか」

「うっ……その、そういうのじゃなくてですね……。そう! 瀬田さんは私の味方なんですから、連絡先くらいは必要ですよ!」

 

 言ってる意味がわからないぞ、とツッコミそうになったが堪える。まあ彼女がそう言うならそうなのだろう。うん、きっと。

 

 逢瀬はポケットからスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを起動する。彩も同じくだ。二人はお互いのアカウントの追加の手続きを踏み、交換できたことを確認した。

 

「これでいいかな? ふふっ、毎日のモーニングコールは必要かな、子猫ちゃん?」

「やってくれるんですか?」

「……冗談だよ、丸山嬢。これでもう用は無いかな?」

 

 彩は頷く。ならばよしと逢瀬はやっとの思いで退店した。なんだか今日は薫の買い物に付き合ったり彩の相談に付き合ったりと濃密な休日だったな、などと考えながら。

 

 そして、逢瀬が去った後の店の中。

 

「……えへへ」

 

 逢瀬の連絡先の入ったスマートフォンを握り締めて、彩は幸せそうにはにかんだ。




 彩はこんなこと言わない、って思った方はごめんなさい。なんか私の中のイメージこんな感じなので……。

 ここからは少し長い後書き。

☆10 薬袋水瀬様、すくすくLv.X様、ルシエル様
☆9 red36様、里芋の煮物様、kaura様、mos,様、ひとりアリス様、ティガー様、ayin様、ジャック@読み専様、ketsu様
☆8 水蒼様、春茄子様
☆7 玲央さん様
☆6 和麻♯様

 以上の方々に最大限の感謝を。身に余る光栄です。

 ではまた次回。感想や高評価などいただくと更新速度がナメクジからナマケモノくらいには上がります。


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第六話

 伏線いっぱい張る回。最初に謝っておきます。今回めっちゃ読みにくいですごめんなさい。


 黄昏。青かった空は橙に染まり、白い雲を鮮やかに色づかせる。その中を、逢瀬は一人歩いていた。

 

 その足取りは少々覚束ないものだった。顔色も悪く、滲む汗で前髪が額に貼り付いている。医者が見れば十人中十人が不健康だと診断を下しそうな有様だ。

 

 今すぐにでも倒れてしまいそうなほどフラつきながらも、逢瀬は自宅の前まで辿り着く。寄りかかるようにして扉を開け、中に入った。

 

 帰宅した逢瀬を待っていたのは、立っていられないほどに強く襲い来る激しい頭痛だった。

 

 場所は玄関。扉を潜ったすぐ先。靴を脱ぐことすら出来ず、彼はその場で膝をつく。

 

 視界が廻る。吐き気がする。頭が割れそうだ。

 

 色が混ざる。景色が歪む。世界が軋む。

 

 頭の中身をぐちゃぐちゃに掻き回されたかのような地獄。凡そ人らしい苦痛とは言えぬそれに、彼の世界は侵される。

 

 マトモに働かない思考を無理矢理回転させて、逢瀬は必死に考えた。

 

 ()()()()()()()()() ()()()()()()()()()()()

 

 喉元まで胃液が込み上げ、慌てて彼は口を抑えた。そのまま顔を上げ吞み下す。ここで汚物をぶち撒けるわけにはいかない。

 

 実を言えば、彼がこのような状態に陥るのは今回が初めてではない。不定期に、彼自身もわからない()()を契機としてこの苦痛はやってくる。

 

 その()()が今日あったのだ。問題は、一体それが何なのかということ。

 

 逢瀬は今日一日の行動の全てを思い返す。その中で、頭痛が始まる兆候があった箇所がないかを探した。

 

 しかし、無上の痛みがそれを妨げる。思い出そうとする度に痛みがその情景を切り裂いて、また一から探せと嘲笑う。まさに賽の河原、ちゃぶ台返しも良いところだ。形容するなら永劫回帰とでも言おうか。

 

 と、そこで逢瀬の後ろから声がした。

 

「ただいま──と、我が兄!? どうしたんだいそんなところで!?」

「……ああ、君か我が妹よ。悪いが肩を貸してくれ。一人では立てそうにない」

 

 〝ハロー、ハッピーワールド!〟の練習を終えた薫が帰宅したのだ。扉を開けたら目の前に病魔に侵されたかのような状態の兄がいた、などという状況に遭遇した彼女は、普段のような口調を演じることも出来ず狼狽した。

 

 慌てながらも言われた通りに肩を貸す。間近で見た逢瀬の顔は、やはり蒼白。

 

「……まさか、また?」

「そのまさかさ。全く、困った体質に()()()ものだね」

 

 靴を脱ぎ捨てリビングのソファまで進み、倒れるように座り込む。薫は置いてあった薬箱から頭痛薬を取り出し、コップ一杯の水とともに逢瀬に渡す。

 

 それを飲むと、心なしか靄がかかっていた思考が晴れた気がした。真に効果を発揮するにはまだ時間がかかるだろうが、今はプラシーボ効果に頼る他ない。

 

 思考の再開だ。逢瀬は目を閉じ、一日の行動を思い返す。

 

 朝、珍しく早く目が覚めた。それで眠れなくてシャワーを浴びたら、薫が自分の部屋に突撃していくのが見えた。この時点で、頭痛はその兆候すら見せてはいない。

 

 午前。薫と共に江戸川楽器店へ。薫からハロハピの方針などを聞いて、感心したのを覚えている。この時点でも何か起きたということはない。

 

 午後。昼食を食べに寄ったファストフード店で彩と遭遇。その後、彼女の感情の全てを打ち明けられた。この時点で頭痛の兆候は────、

 

 あの時どんな話をしていた? 何か、明確な契機はなかったか?

 

〝気にすることはないさ。誰かを待つというその時間さえ、来るべき子猫ちゃんが君ならば刹那に感じるというものだよ〟

〝そう……ですか、ありがとうございます〟

 

〝……あ、あの……〟

〝大丈夫だよ、丸山嬢。焦らなくてもいい。君のペースでいいから〟

 

〝あっ、でも違うんです! 学校の友達とかは皆普通に接してくれて、学校では気にしなくていいんですけど……その……〟

〝学校の外では、ということだね〟

 

 違う。違う。違う。どれもそれらしき兆候を齎すには至らなかった。ならばその先。

 

〝だから、これだけは言わせてくれ。お疲れ様、よく頑張ったね〟

 

〝わかってる。君はすごいよ。その努力は、並大抵の人間じゃできないことだ〟

 

〝……うん、わかってる。前も言っただろう。それは取り返せる失敗だ。君の努力が覆せる風評なんだよ。苦難も苦痛も、それは乗り越えられる〟

 

 違う。違う。違う。ここでもない。その会話の中に、契機となるべきものは見つからない。ならば、次。

 

 あの時、逢瀬が次に吐いた言葉は────

 

〝たとえ世界の全てが君を否定したとしても、僕だけは君の味方で────〟

 

 その時だった。再び激痛が頭蓋の中を駆け巡る。苦悶の呻きが喉から絞り出され、正常に見えてきた視界が再び歪曲の渦に呑まれる。

 

 これが契機だ。間違いない。それだけは確信できる。この言葉に、何か逢瀬を苦しめる要因が含まれている。

 

 だが、彼にわかるのはそこまでだ。何かがある。その何かを突き止めることは出来ない。

 

 もどかしくも届かない手がかり。探せば探すほどにその強さを増していく頭痛。『もうやめろ』『考えるな』と、まるで身体がその思考に警鐘を鳴らすかのようだ。

 

 記憶の深淵が嗤う。お前では到達出来ないと、そう告げるかのように。

 

 一旦思考を打ち切った。これ以上痛みと向き合えば気が狂ってしまいそうだったからだ。漸く頭痛薬が効いてきたのか、すぐに痛みは引いていった。クリアになっていく視界を知覚すると、薫が心配そうに逢瀬の顔を覗いている。

 

「心配するな、と言うのは無理な話か。大丈夫だ妹よ。死ぬほど痛いが、死にはしない」

「貴方がそう言うならいいが……」

 

 そう言う薫の手には濡れたタオルが握られていた。受け取り、額に乗せる。広がる冷たさが心地いい。

 

「そろそろ日が沈むが、夕食はいるかい?」

「いや、今日はいらない。食欲が無いんだ」

 

 それに、今のまま食べたところで吐き出してしまいそうだったから。そう続けようとして、態々言うべきことでもないと口を閉じる。

 

 そうか、と薫は一言述べて逢瀬の隣に座った。

 

「明日、仕事は?」

「新作ドラマの打ち合わせが一つ。午前には終わるさ」

「くれぐれも無理はしないでくれ、兄よ。なんなら休んでもいいと思うが……」

「今までだって、この頭痛が翌日まで続いたことはないだろう。大丈夫さ」

 

 逢瀬は額からタオルを退けた。その顔にはいつもと同じく軽い笑みを浮かべており、既に彼がそれなりの状態まで回復したことを示している。

 

 それでも、身体にはまだ多少の怠さというものが残っている。一刻も早く部屋に戻りたい。何より、彼には一つ急拵えでも()()()()()()()ことが出来た。その旨を伝えようと逢瀬は身体を起こす。

 

「僕は部屋に戻るよ。来客は……無いと思うが、誰か来たら君が対応してくれ」

「……()()?」

「そう。今の頭痛で幾らか()()()()とマズイし、()()()()()()()()()()()()()からね」

 

 やらねばならぬこと。薫が〝復習〟と呼んだそれを肯定して、逢瀬は部屋に戻った。

 

 リビングに静寂が降りる。その後五分ほどその静けさに身を浸していたが、何となく何もしないのはいたたまれなくなって、薫は茶でも淹れようかとポットの電源を入れた。

 

 その時、家中に響く電子音。こんなときに限って来客とは間が悪い、などと思いながら外との通話用機器の前に立つ。宅急便か、もしくは新聞の勧誘だろうかと思っていたが、その予想は程なくして裏切られることになる。

 

 その画面に映っていたのは、パステルイエローの一人の少女。

 

「……千聖……?」

『こんばんは薫。入れてもらっていいかしら?』

 

 来客の正体は、白鷺千聖だった。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 間が悪いにも程がある。

 

 リビングまで千聖を通し、取り敢えずお茶でも出そうかとティーバッグに手をかけた薫が思ったことはそれだった。

 

 千聖が家を訪れることは別に構わない。平生からドラマや何かで共演することも多々ある仕事柄、その打ち合わせの為に二人が話すことは珍しくない。

 

 問題はタイミングだ。普段なら何も問題は無いのだが、今逢瀬は()()の最中。この行為を誰かに────ましてや()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そして彼女が此処を訪れた目的も恐らくは逢瀬であろうと薫は推測する。薫自身、普段千聖に話しかけたときにされる対応から自分がどのように思われているかくらいはわかっている。なら、必然的に残ると候補は一人なのだ。

 

 今こそ私の演技力が問われるときだ、と薫は意気込む。考えていることを悟られぬよう、演者としての仮面を被れ。

 

「待たせたね子猫ちゃん。紅茶でよかったかな?」

 

 紅茶を注いだティーカップを、ソファに座る千聖の前に置いた。奇しくもそこは先程まで逢瀬が苦痛に呻いていた場所。偶然、だと信じたい。

 

 千聖の対面に薫も座る。一口カップに口をつけ、千聖の様子を伺った。表情は読めない。

 

「……ねえ、薫」

「何かな?」

「瀬田さん……()()()はどこ?」

 

 心臓が跳ねる。咳き込みそうになるのを辛うじて抑え込み、何でもないという雰囲気を装った。

 

 やはり目的は兄か、と薫は自分の推測が当たったことに歯噛みする。不幸中の幸いか、彼は今自室。そこまで千聖を通さなければいいだけの話だ。

 

「我が兄は今具合が悪いようでね。一過性のものではあろうが、大事を取って今日はもう寝ると言っていた」

 

 嘘は言ってない……はずだ。寝るとまでは言ってないが、具合が悪いというのは事実に違いない。

 

 流石に病人の元に突撃するほど千聖は非常識ではないだろう。薫はそう考えた。よく大人びていると評される彼女なら、きっと逢瀬のことを慮ってくれるはずだ。

 

 しかし、その薫の思いは裏切られることとなる。他ならぬ、〝大人びている少女〟の言葉によって。

 

「なら起こしてくるわ」

「ストップ、ストーップ」

 

 君はいつからそんな非常識な女の子になったんだい?

 

 ソファから立ち上がろうとする千聖の手をテーブルの対面から掴み、何とかして食い止め座らせる。まさか彼女がこんなことを言い出すなんて誰が予想できただろうか。少なくとも薫には無理だった。

 

 千聖は不機嫌そうに薫を見る。

 

「なんで止めるのよ」

「なんで止められないと思ったんだい?」

 

 まるで今の千聖は子供のようだ。ひどく身勝手でひどく自分本位。寝てる病人を起こしに行くなど言語道断だろう。普段の彼女からは考えられない暴挙。

 

 それとも、それほどまでに大事な用事なのだろうか?

 

「何か用があるなら私が伝えておこう。それで文句は無いだろう?」

 

 これでこの場は収まるはず。そう薫は考えた。というか収まれ。頼むから収まれ。何としてでも千聖が逢瀬の部屋に入るのだけは阻止しなくてはならないのだ。

 

 千聖はそれを聞いてまた不機嫌そうな目を向けるも、仕方がないと言いたげに息を吐いて、

 

「わかったわ。流石に私も今のは非常識でした。伝言を頼むわね」

 

 よし、と薫は内心でガッツポーズを取った。これで千聖に()()を見られることはない。

 

「それで、今日はどんな用があって?」

「少し、お礼を言いに来たのよ」

「……礼?」

 

 礼とは何のだろうか。逢瀬が千聖に何か施しでも与えたのか、それとも他の? 薫にはわからない。

 

 そんな薫をよそに、千聖は話を続ける。

 

「今日の昼間、彩ちゃんがお世話になったみたいだから。一応私もパスパレのメンバーだし、それくらいはね」

 

 ……あの兄はまた女の子を勘違いさせたのか?

 

 薫は千聖の発言からそう考え嘆息した。千聖の言う〝彩ちゃん〟とは、十中八九Pastel*Palettesの丸山彩のことだろう。逢瀬と彼女の間に昼間何があったかは薫にはわからないが、また貴公子ムーブでもしてしまったに違いない。

 

 実際はそんな簡単な話ではないのだが、残念ながらこの場に昼間の詳細を知っている者はいない。千聖は彩から来たメッセージで彼女が立ち直ったことを知っただけだ。具体的に何を話したかまでは聞いていない。

 

 逢瀬が女の子を勘違いさせることはままある。薫の記憶の限りでは、確か一番最初は小学生の時だったか。その頃から今のような奇抜な言動が目立ち始めた。彼が生来のお人好しということもあり、さらにはなまじ外見が整っているせいで、誰かが困っているのを見つければ助け、その言動で勘違いさせ、ということを繰り返してきた。「この人いつか刺されそうだな」と思ったことも一度や二度では済まない。

 

 そんな兄が今度はアイドルまで引っ掛けてきた。

 

「……うん。それで、用はそれだけかい?」

 

 これはもう一生ついて回る呪いなんだろうな、などと考えながらも薫は問う。出来ればこれで帰ってくれると助かるなー、と淡い期待を持ちながら。

 

 千聖は少し逡巡して、

 

「本当は明日の事とかについても話したかったのだけど、具合が悪いなら仕方ないわよね。伝えたい事はそれだけだし、もう帰るわ」

「明日……というと?」

「あら、逢瀬君から聞いてない? 私たち、製作中の新作ドラマの主人公とヒロインよ。明日はその打ち合わせ」

 

 ……ああ神よ、いるならどうか教えてください。この二人、運命か何かで繋がってないですよね?

 

「主演じゃないか。おめでとう」

「ありがとう。それじゃ、私はこれで」

「ああ。気をつけて」

 

 家近いけどね、とは敢えて言わないでおく。

 

 玄関まで千聖を見送った後、薫は脱力しきったようにソファに身体を預けた。途端に腑抜けた身体に、睡魔が眠ってしまえと囁いた。

 

 家に帰ったら兄が死にそうな顔で倒れてて、その難を凌いだら次は幼馴染が襲来した。この二人を鉢合わせないように気を張り詰め、そして漸くその緊張が解けたのだ。演技の仮面を投げ捨てたくもなる。

 

「今日は……厄日だ……」

 

 そう呟いて、薫は襲い来る睡魔に抗うことなく眠りに落ちた。

 

 夕食を食べていないことに気づいたのは、翌朝だった。




 この小説はDies iraeの詠唱流しながらバンドリしてたら思いついて、そのままノリと勢いと深夜テンションのみで書き始めたので、タイトルとか主人公の台詞がアレなのは仕様です。結末は既に決まってるけどプロットとか無いです。

 以下、評価してくださった方々。

☆10 シュガーstep♪様、戦犯マン様、ブラックティガ様
☆9 豆助様、ちよ祖父様、ATORI HINA様、二流ペロリスト様、西郷龍馬様、Exist様、༺K⃣íşśՏħoŧ༻様、エクスダリオ様、爆祭様、まっp様
☆8 芝 ロク様、風林様、ワッタン様

 本当にありがとうございました。高評価が新しく入る度狂喜乱舞していました。

 それではまた次回。感想、高評価いただけると更新速度がナメクジからシーラカンスくらいには上がります。


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第七話

 前回に引き続き、伏線張る回。


 泣いていた少女がいた。その手には無惨にも切り刻まれた何かの残骸が握られており、その断片に描かれた文字や絵から、それが元は教科書だったのだとわかる。

 

 下手人は、例の悪ガキ。少し目を離した隙に、少女の机の中にあった教科書の全てを切り裂いた。防ぎようのない悪意に、少女はただ涙するしかない。

 

〝どうしよう◾️◾️◾️……お母さんに怒られちゃうかな〟

 

 ◾️◾️◾️と呼ばれたのは、少女より幾分か年上に見える少年。不安そうに俯く少女と切り裂かれた残骸を交互に見遣り、暫し考え込んだ後、名案が浮かんだかのように手を叩く。

 

〝まだウチに同じものが残ってたはずだから、それをあげる〟

〝……いいの?〟

〝いいよ。だから泣かないで〟

 

 ね? と少年は少女に笑みを向ける。

 

 少女は少年の笑顔を見て、涙を流すことすら忘れた。次いで浮かんだのは、同じく笑顔。目元が赤くなって少し不格好ではあるけれど、少女が泣き止んでくれたことが、彼にとっては何よりも嬉しかった。

 

〝ねえ◾️◾️◾️?〟

〝何かな◾️◾️◾️〟

〝あなたは、いつまでも私の◾️◾️でいてくれる?〟

 

 少女は少年に問う。一つの疑問、ある意味では、彼女が抱いていた漠然とした不安の現出とも言えるものを。

 

 この前だって、自らが傷つくことすら厭わずに助けてくれた。痛かったはずだ。まだ幼い子供である彼が、血を流すことを嫌わないはずがない。それでも、彼は助けてくれたのだ。傷ついてまで。

 

 いつか見捨てられるんじゃないか。少女には上手く言葉に出来ない感情ではあるが、それは少女の心に住み着いて離れない悪魔のようなものだ。その〝もしも〟を考えるだけで胸が痛む。

 

 止まっていたはずの涙がまた流れた。

 

〝……変なこと聞くね、◾️◾️◾️。そんなの決まってるじゃないか〟

 

 そう言って少年は、少女の目から滴る雫を拭う。

 

〝◾️◾️え◾️◾️◾️全◾️◾️◾️◾️◾️◾️し◾️◾️、◾️だけ◾️◾️の◾️◾️◾️◾️る◾️◾️◾️◾️◾️。◾️は◾️◾️、◾️◾️◾️◾️て◾️◾️◾️だよ〟

 

 それは、優しい言葉だった。少女の心を曇らす悪魔を滅ぼすには十分な程に。

 

 少年と少女を結ぶ誓いの、その一つ。かつてした優しい約束の残滓。幾星霜の時を経ても、決して滅びることはないと信じていた、いつかの真実。

 

 そう、信じていたのだ。

 

 ────()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 窓から差し込む朝日で目が覚めた。明かりに慣れない瞳を細め、逢瀬は今見た夢の内容を回想する。

 

 よくわからない少年。よくわからない少女。よくわからない言葉。何故あんな夢を見たのだろう。軽く思考を巡らせるも、それが一番解せなかった。

 

 寝惚け眼で時計を見た。時は朝の七時。出来ればもう少し寝ていたいが、仕事がある以上それは出来ない。だが、事務所に行く時刻までに、せめてシャワーくらいは浴びておかなければならないだろう。

 

 そう判断し、起き上がろうとシーツに手を置く。ふと、指先に何か当たった。

 

 そういえば、昨日は()()の途中で寝てしまったのだったな、と逢瀬は思い至った。ならばこれはその名残、片付け損ねた残滓だ。どうやらそのまま共に一夜を過ごしていたらしい。誰かに見られる前に片付けなければ。

 

 頭痛は治まっていた。身体に怠さも残っていない。健康体そのものだ。これならば誰かに怪しまれることもないだろう。

 

 そうして、〝復習の残滓〟を片し終えた逢瀬はバスルームへと向かうため、ドアノブに手をかけた。

 

 ……かけたのだが。

 

「おはよう我が兄! 今日は仕事だろう、さあ起きたまえ! 昨日の夕食を食べ損ねているのだから、朝食には少し豪勢な物を用意したぞ!」

 

 盛大な音を立てて扉を開けた薫によって、逢瀬は部屋の中へ弾き飛ばされた。薫がそれに気づき「あっ……」と呟いたのを、後頭部を強打した逢瀬は聞くことができなかった。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「本当に済まなかった兄よ。まさかこうまで間が悪いとは思っていなかったのだ」

「気にすることはないぞ妹よ。別に怒ってはいないのだから」

 

 その後、何事も無かったかのようにシャワーを浴びた逢瀬は、テーブルを挟んで謝り倒す薫にそう返した。

 

 偶々そういう風になってしまったのだから仕方ないだろうと彼は言う。故意であれば当然注意程度はするが、そうでないなら責め立てる必要もあるまい。

 

「貴方がそう言うのならば……」

 

 その空気にあてられた薫も、これ以上謝罪を繰り返しても無意味だと直ぐに悟った。この埋め合わせはまたその内別の形でしようと決意する。

 

 このように誰かを責めたりせずに許せる辺り、やはり逢瀬はお人好しなのだろう。そのお人好しも度が過ぎると悲劇を招きかねないので、彼には早急に程度というものを覚えてほしいと薫は願う。

 

 ()()()から少しは収まったとは思うのだが、それでも度々彼は誰かの困難に介入してしまう。魂に根付いた宿業か何かだろうか。

 

 お人好しと言えば、と薫は昨夜の千聖の来訪を逢瀬に伝えた。

 

「昨日千聖が来ていたよ。なんでも、礼がしたかったそうだ」

 

 曰く、丸山彩に関してのことだそうだ、と告げると、逢瀬は逡巡することもなく嗚呼と納得した。

 

「律儀な娘だね。なら、昨日出れなかったのは悪かったかな」

「とは言え仕方ない。訳を話したら帰ってくれたから、多分今日にでもまた言われるんじゃないかな」

 

 実際は部屋に突撃しようとした千聖を何とか踏み留まらせただけなのだがそれはさて置き。同じ事務所で顔を合わせるなら、千聖の性格を鑑みてもそれは必定だろう。

 

 会話はここで打ち切りかな、と薫は箸を手に取った。

 

「それよりも、だ。取り敢えず食べれるだけは食べてしまおう。朝を抜くと頭が働かないからね」

 

 それに、昨夜はゴタゴタ続きでただでさえ空腹が酷いのだから、さっさと食べてしまいたい。その思いが伝わったのか、それとも単に逢瀬も薫と同じ心境なのか。二人はどちらともなく食前の定型句を言って、朝食に手を着けた。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「あら、逢瀬くん?」

 

 時は午前八時三十分。所属する事務所の前で逢瀬はマネージャーと偶然にも鉢合わせていた。

 

 打ち合わせの予定時刻まであと三十分。逢瀬は時間をしっかりと守るタチなので少々早めに事務所に着いたが、それはマネージャーも同じだったようだ。そこは最低限の社会人のルールと言うべきか。

 

「おはよう、マネージャー。こんな朝から君と出会えるなんて、きっと今日はいい日に違いない」

「逢瀬節はいいからさっさと中に入りなさい。目立つわ」

 

 いつものように貴公子然とした口調で話す逢瀬だったが、マネージャーにあっさりと両断される。それにショックを受けた様子も無く言われた通り彼は事務所に入り、指定された会議室へと向かった。

 

 此度製作されるドラマは、前情報によれば在り来たりな学園モノだ。主人公がいて、ヒロインがいて、クラスメイトがいて、教師がいて。彼らの周りに起こる様々な問題を解決していく。もう散々やり尽くされたんじゃないかとも思ったが、どうやら脚本家にはまだ引き出しがあるらしい。

 

 主人公の配役は逢瀬。クラスメイトや教師役にも見知った顔は大勢いる。中でも逢瀬の事務所からの選出が多く、今回はその面々を集めての打ち合わせだとか。

 

 そして、ヒロイン役は白鷺千聖。これまでの経歴や本人の技量を考えると当然の選出と言うべきだろう。

 

 が、逢瀬には一つ不安材料があった。

 

「ねえマネージャー。白鷺さんは出しても大丈夫なのだろうか?」

「この前のパスパレの騒ぎの事言ってるの? なら大丈夫なんじゃない。まだ鎮静化はされてないけど、放送されるのなんてどうせ数ヶ月先なんだし」

 

 当然ながら、物を作るのには一定の制作期間を要する。ドラマに関してでも、撮影やら編集やら、その他権利や様々な分野との兼ね合いなど必要な工程など幾らでもある。役者が関わるのは撮影のみで、あとは見えない大勢の裏方がその全てを組み上げるのだ。

 

 このままパスパレが消滅、なんて末路を辿らなければ、事態が収束した後に世間にお披露目という形になるだろう。その点では逢瀬の心配は杞憂というものだ。

 

 ならよかった、と逢瀬は胸を撫で下ろす。

 

「それならいいんだ。安心した」

「後輩思いな先輩ねえ。逢瀬くんにそう言ってもらえるならあの娘たちも報われるわね」

「僕の言葉なんかでいいのなら、幾らでもあげるさ」

 

 逢瀬は薄く笑った。演者は言葉を吐くもの。その程度、息をするより容易い行為だ。

 

 そんなことを話していれば、いつのまにか二人は会議室の前に辿り着いていた。時間にはまだ余裕があるが、先に席についていて損はない。そう思い、逢瀬は扉を開けた。

 

 中にいたのは一人だ。多数の椅子が並べられた長机の端に、誰も連れずにポツンと座っている、パステルイエローの少女。白鷺千聖に他ならない。

 

「おはよう、白鷺さん」

「おはようございます、瀬田さん」

 

 その対面になるように逢瀬は座った。マネージャーは書類を取ってくるといって席を外している。この会議室にいるのは逢瀬と千聖の二人のみ。

 

 会話はない。千聖は公私を使い分ける人間だ。ただの仕事仲間を装っているように()()()()()彼にこの場で親しく話しかけようとはしない。

 

「あの……」

 

 それでも、公として言わなければならないことがあった。それは彼女の同僚である丸山彩についてだ。

 

 千聖自身、一体彩に何があったのかの詳細は知らない。ただ、見るたびに背負う空気が重くなっていった彼女が、昨日突然元の明るさを取り戻したかのようなメッセージを送ってきたのが不思議で堪まらなかったのだ。

 

 『心配かけてごめんね皆!』と、何の変哲もない文章だった。だが、千聖は気になって問うたのだ。『何かあった?』と。

 

 返ってきた返信は『バイト先で瀬田さんに会ったんだ!』だった。そこで千聖は確信したのだ。彼が彩という少女を救ってくれたのだと。

 

 何を言ったのかはわからない。それでも、彩が救われたのは確固たる事実なのだ。なら、礼を述べねばなるまい。

 

「彩ちゃんのこと、本当に、ありがとうございました」

 

 そう言って、千聖は対面の逢瀬に向かって頭を下げた。逢瀬は特に驚いた様子は無い。事前に薫から事の次第を聞いていたからだ。

 

「頭を上げて、白鷺さん。僕は特別なことは何もしてないんだからさ」

 

 瀬田逢瀬という人間にとって、先日の彩との対話は何ら特別なことではない。そう彼は告げた。事実、彼にとってはそうなのだ。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そう本心から信じているからこそ、逢瀬はそう言える。

 

 お人好しだ、と千聖は思った。彼は何処までも演者で、何処までも役者で、何処までも人に対して善性を捨てきれない。

 

 だから、彼は()()()も────

 

 それをここで口に出すのは憚られた。それは公私の私に値する部分だ。〝白鷺千聖〟が軽々しく言っていいことではない。

 

 それでも、ほんの少しだけ〝私〟が顔を出した。

 

 我儘な自分。子供っぽい自分。昨日彼の家に行った時、彼が具合を悪くして寝ているというのに、直接顔を見たいと思ってしまった。それと同じような幼児性が、理性の狭間から顔を覗かせる。

 

 公私の切り替えはしなくてはならない。だが、それでも。

 

「あ、あのっ、この後────」

「はァい、お待たせお二人さん。今回の書類持って来た……って、あれ?」

 

 千聖の言葉を遮るように扉を開けたのは、先程書類を取りに行った逢瀬のマネージャーだった。すぐさま会議室内の空気に気づいたのか、口を開けたまま固まってしまった千聖と神妙な顔の逢瀬を交互に見遣り、一言。

 

「えっと……もしかして、お邪魔だった?」

「いえ、その……お気になさらず」

 

 千聖はそう返すのが精一杯だった。

 

 その後、続くように他のタレントやマネージャー達が会議室に入り、打ち合わせが始まる。特筆すべき内容ではない。ただの確認事項や演じる役のキャラクター性を述べ連ねるだけの作業だ。

 

 時間にして約三時間ほどだったろうか。時計の針は正午を回り、腹の虫が不機嫌を訴える頃、漸く全ての事項が終了した。

 

 議長を請け負った事務所の所長の一声で各々が解散する。仲のいい者同士がこの後何処で昼食をとるかなどの算段を立てて会議室を出て行く中、千聖は一人、それに紛れて会議室を出た逢瀬の後を追っていた。

 

 逢瀬は会議室のすぐ近くの廊下にいた。幸運なことに他の者たちは既に何処かへ行ったのか、付近には誰もいない。これなら、〝私〟を出しても構わないだろう。

 

「あのっ、()()()!」

 

 そう呼べば、彼はすぐさま振り向いた。紫紺の髪が宙に靡く。

 

「この後……時間ある、かしら?」

 

 その問いに返って来た答えは、肯定だった。




 千聖のオリ主に対する好感度が高いのには勿論理由があります。そして度々出てくる〝四年前〟という言葉。果たして何があったのかは追々。

 ここからは評価して下さった方々のご紹介。

☆10 スノー。様、屍姫赫様、蜜柑音様
☆9 石幻果様、勇者4649様、しにあく様、アテヌ様、中スキピオ様、月影零士様
☆8 マイペース系様、蜘蛛簾桜酒様

 以上の方々に最大限の感謝を。依然この更新ペースを保っていられるのは皆様方のおかげです。本当にありがとうございます。

 それではまた次回。感想、高評価いただけると更新速度がナメクジからオウムガイくらいには上がります。


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第八話

 エイプリルフールは今年もTwitterでジル・ド・レェの真似してました。去年も一昨年もやった気がします。

 そういえば日間ランキング10位に入ってました。ありがとうございます。

 今回も伏線張る回……なんですが、慣れない日常の場面書いたのでとても書きにくかったです。どれだけ困難を極めたかは文章の乱れ具合でわかりますね。


 瀬田逢瀬にとって、白鷺千聖とは仕事仲間だ。

 

 同じ事務所の同僚で、芸歴も同じ程度に長く、歳も近いだけの、ただの仕事仲間。特筆すべき関係でもなく、よく外野からは幼馴染という属性も相俟ってその間柄を疑われることもあるが、それでも特段逢瀬は千聖に好意的な感情を向けているというわけではない。

 

 ()()()()()()以来、むしろ距離を置いているとさえ言える。だから彼女に対してだけ呼び名が〝嬢〟ではなく〝さん〟なのだし、外面的には仲が良さそうに映る彼らも、一度(ひとたび)カメラが止まればお互いに言葉を交わすことはほとんどないと言っていい。

 

 そうなるように、この四年間接してきたのだ。他ならぬ逢瀬自身が。とある()()によって。

 

 故にこそ、彼は今心の内でこう叫ぶのだ。

 

 ────どうしてこうなった。

 

 そう思うのも無理はない。何故なら今、彼は千聖の自宅にいるのだから。視線を横に流せば、そこでは千聖が台所で料理を作っている。その表情は普段の彼女よりも何倍も嬉しそうで、上機嫌に鼻歌まで歌っている。

 

 もう一度言おう。どうして、こうなった?

 

 その発端は一時間前、逢瀬が事務所から帰ろうとしていた時にまで遡る。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「あのっ、逢瀬君!」

 

 打ち合わせ終わりの帰り。マネージャーは仕事があると言って別れてしまったので、特に誰かとつるむ予定もない逢瀬は一人で帰宅しようとしていた。

 

 そんなとき、後ろから聞こえた呼び声。聞き覚えのある声に何かと思って振り向けば、そこにいたのは白鷺千聖。

 

「この後……時間ある、かしら?」

 

 投げられたのはそんな問いだ。その問いを脳が咀嚼し飲み込んだとき、逢瀬は言い様のないデジャヴに襲われた。否、デジャヴとは少々意味合いが違うが、なんだか最近もこんなことを経験した気がするのだ。具体的には昨日、ファストフード店で。

 

 僕の周りの女の子は言葉の最初に〝この後〟とつけるのが好きなのだろうか、という的外れな思考を頭から追い出し、逢瀬はその問いに肯定を返した。

 

 たしかにこの後予定が無いのなら、それは時間があるということになるのだろう。先の打ち合わせで何か不明点でもあったからそれを確認しに来たのだろうか、などと逢瀬は千聖の行動の理由を推察するが、当の千聖から与えられた答えはそれとは全く別のものだった。

 

「もしよかったら、お昼ウチで一緒に食べない?」

 

 待て、何故そうなった。

 

 逢瀬は疑問と驚愕に揺らされる脳髄を何とか頭蓋に押し留め、千聖の言葉の意味の解釈を開始する。

 

 昼食の同席というならまだわかる。同僚同士がそうするのは常識の範囲内であるし、それが男女であっても特段不思議なことではないだろう。傍目から見れば逢引のようにも思えるかもしれないが、それは逢瀬自身が否定する。

 

 だが、それでも普通男を自宅に呼ぶだろうか。何かと物騒な世の中だ。噂によれば、以前ニュースで報道されていた通り魔もまだ逮捕されていないというし、隣の御宅が実は、なんてケースも有り得なくはない。人の内に潜む魔性なんてものはわからないのだから、千聖にはその辺りの危機感をどうにかしてほしいのが本音だ。

 

 それとも、と逢瀬はまた別の可能性を考えてすぐに振り払った。まさか千聖が()()()()()()()()()()()()()()で逢瀬を家に呼びたがっているのだとしたら────否、そうではないはずだ。逢瀬と千聖の関係は()()()に決定づけられている。少なくとも、逢瀬はそう思っている。故にその可能性は排除された。

 

 ならば何故。人の内面を見つめることは得意な彼であるが、この時ばかりは()()()()()()()()()()()()()ことが裏目に出た。千聖の真意がわからない。

 

 思考が渦を巻く。解釈が不明すぎる。答えは何だ。

 

「えっと……逢瀬君、どうかした?」

 

 逢瀬をその思考の螺旋から引きずり出したのは、不安そうな瞳でこちらを覗き込む千聖の声だった。

 

 その瞳の色を見たとき、逢瀬は内心嘆息した。千聖に対してではない。その対象は、他ならぬ逢瀬自身。

 

 千聖の今の表情を端的に表すならば〝捨てられた子犬〟とでも言おうか。不安そうに、それでも健気に、何かを訴えようと潤んだ瞳が揺れる。そんな顔をされたら、このお人好し(瀬田逢瀬)は断れない。

 

 元より千聖の誘いに乗るか乗らざるかの選択肢など与えられていないのだ。演技派女優と呼ばれる千聖のことだから、それさえももしかしたら計算され尽くしたものなのかもしれない。だが、その表情が演技であろうとなかろうと、既に彼は千聖のペースに乗せられてしまっているのだ。

 

「……わかったよ。お言葉に甘えさせてもらおう」

 

 故に、こう言うしかない。こんなだから薫にもお人好しと言われるのだろうな、などと自らの浅慮を省みるが、そこはやはり生来の気性。そうそう簡単に治るなら苦労はしない。

 

 だが、それでも一定の成果はあったらしく。

 

 千聖の表情は先の不安の色は何処へやら、一転して明るいものへと変わっていた。

 

「そう、わかったわ! それじゃあ、行きましょう」

 

 そう言うと、千聖は全身から喜悦に滲ませながら逢瀬を引っ張るように歩き出した。果たしてその時の表情は演技か、はたまた素か。その判断はつかない。

 

 たったこれだけのことで、何故君はそうまで喜べるのだろうな。

 

 解せぬ感覚だ。彼女をここまで突き動かす情動は何処から生まれる? 何故それが僕に向く? ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 直ぐ様逢瀬はその思考を無意味なものだと切り捨てた。今必要なのはこれではない。そうだろう瀬田逢瀬。求めるべきは()()()()()()()()()だ。

 

 らしくあれ。そうしてきたのはお前自身だ。斯く在れかし。仮面を被るのは得意だろう? この状況で動じるほど、お前は甘くなかったはずだ。

 

 ……だが、それにしても、この状況だけはなんとかしたい。

 

「ねえ、白鷺さん」

「何かしら?」

「……手、離してもらえるかな?」

「えっ? ……あっ」

 

 逢瀬の視線が示すのは、彼の左手。先程歩き出した千聖が勢いで──さらに恐らくは無意識で──握り締めた、繋がれた互いの手だった。

 

 流石に往来の中で芸能人が手を繋ぐのはまずいだろう。その意図が伝わったのか、千聖は慌てて手を離す。その顔が羞恥に染まっていたのは、きっと見間違いではないはずだ。

 

 そのまま家に着くまでの間、二人は何となく気まずい雰囲気で道を歩いて行った。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 そんなこんなで、彼は今此処にいるというわけである。先程さりげなく薫を呼んでもいいか聞いてみたが拒否された。両親は出払っているということなので、この家には正真正銘逢瀬と千聖の二人しかいない。

 

 普通こんな状況なら身の安全でも警戒すべきだろうに、千聖はそれでも尚嬉しそうにしている。危機管理が甘いと言うべきだろうか。しかしそれを男の方から告げるのも憚られる。

 

 そんなことを考えていたのも束の間、千聖が出来上がったものをテーブルに並べ始めた。彼女の料理の腕は見たことがなかったが、どうやら人並み以上にはあるようだ。

 

 食前の定型句を告げ、並べられたもののうち一品を口に運ぶ。味は言わずもがなだろう。

 

 そして、食べることもせずじっと逢瀬が食べる様を見つめる千聖。これはアレだろうか。感想を聞かせろと言っているのだろうか。視線がそう訴えている。

 

「うん、美味しいよ白鷺さん」

 

 そう告げれば、千聖はまた輝くような笑顔を浮かべた。安心半分喜び半分、そんなに大それたことは言っていないはずなのに。

 

「そう、よかった」

 

 そうして、二人の時間は過ぎていく。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 それで、何故僕はこんなことをしているのだろう。

 

 千聖の家で昼食を食べ終え、一言礼を言って帰ろうとしていたのにも関わらず、今現在リビングにいる逢瀬はふとそんなことを考えていた。

 

 といっても、帰ろうとしていたのはもう三十分も前の話。今彼は千聖と並んでソファに座りながら二人で映画を観ている。それも、とびきり空気が甘くなるようなラブロマンスを。

 

 もう一度言おう。何故僕はこんなことをしているのだろう。

 

 その原因は、現在彼の隣に座す千聖に他ならない。帰ろうとした逢瀬を無理矢理引き留め、リビングまで引き戻したのだ。『観たい映画があるから一緒に観てほしい』という大義名分を引き連れて。

 

 断ることは出来なかった。またあの不安そうな瞳で見つめられてしまえば、彼にはどうすることもできないのだ。逢瀬としては一刻も早く()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を望むのだが、それは彼のお人好しの(さが)が許さない。

 

 一回映画が始まってしまえば逃げ出すことは不可能になる。誰かを長時間拘束するにはもってこいの方法だ。それに、先程千聖の持っていたパッケージを見たが、この映画はなんと三時間以上ある。長すぎだろう。どれだけラブとロマンスを求めるつもりだ。

 

 映画の内容としては、これまたよくあるものだ。好き合う男女が数多の障害に直面するも、時には手を取り合い時には反発し合い、そして時には互いに愛を囁きながら微睡みへと溶け、そして最後に結ばれる。端的に言えば濡れ場なんていうものも用意されている作品だ。こんなものを二人きりで観ようとするその神経が知れない。気まずくなるとか考えないのだろうか。

 

 まだこの上映会が始まって三十分しか経っていないからかそういったシーンには差し掛かっていないのが現在の救いである。しかし、前述の通り抜け出すことはほぼ不可能。気まずくなるのはもう諦めろということか。

 

 そして、この空間を作った元凶である千聖はと言えば。

 

「……」

 

 胸元にパステルイエローのクッションを抱き寄せ、画面に映る恋人同士のやり取りを頰を赤くして眺めていた。演技派と呼ばれる女優であろうと、その実態は年頃の少女。恋の物語に胸をときめかせるその姿に一切の虚飾を見出すことはできない。

 

 本当に、そういうところが()()()()。それは逢瀬には()()()()()()()()だから────彼にはその恋人同士のやり取りを見て何かを感じ入るということがないのだ。

 

 その後も映画は進行した。主人公に嫌味を言い、ヒロインにいい態度を取るライバルも、世間を騒がす一大事件も、その他彼らを阻む幾多の困難を乗り越えて、二人の愛は一つとなる。そして、ホテルの一室で彼らの影が重なり────

 

 むず痒い。甘く染まった空気に息が詰まりそうだ。嫌気が顔に出そうになるのを堪え、恋人の影が重なる画面を見つめる。対照的に、隣の千聖は時折熱のこもった吐息を漏らしながらロマンスに瞳を輝かせていた。彼女のクッションを抱きしめる手に力が篭る。

 

 しばらくして、映画がエンドロールに差し掛かった。下から上へと流れて行く名前を眺めていたが、もう付き合う必要はないと判断し席を立つ。

 

「あっ……」

 

 千聖が名残惜しそうな声をあげる。もう帰ってしまうの? とその視線が訴える。

 

「楽しい時間をありがとう、白鷺さん」

 

 その視線から逃げるように、逢瀬は玄関へと向かった。彼のお人好しが顔を出す前に、一刻も早くここを抜け出さなくては。そうしなければまた囚われてしまうことを、彼自身わかっていたから。

 

 リビングを出ればすぐそこが玄関だ。ただ数歩進むだけでいい。その数歩で、彼の目的(逃げ)は達成される。

 

 だが、それが叶うことはなかった。阻まれたのだ。リビングを出ようとした瞬間、それは起きた。

 

 背中に感じる柔らかな圧と、腹に回された細腕。それが千聖のものだと気づくのに一秒とかからなかった。

 

 千聖が逢瀬の背中に抱きついたのだ。逃がさないとでも言うように。多少身体を捻れば解けるような緩い拘束であったが、生憎とそれを無理矢理振り払えるような無慈悲さを逢瀬は持ち合わせていなかった。

 

「……今日あなたを呼んだのはね、この前のことを謝りたかったからなの」

「この前って……」

「私達のお披露目ライブのとき、逢瀬君、あの後励ましに来てくれたでしょ?」

 

 背中に貼り付いたまま、千聖は言う。

 

 二週間前、彼女たちの初動は失敗に終わった。これ以上ないほどに最悪の形で。だからこそ逢瀬はパスパレの面々が立ち直れるように激励を与えに行ったのだ。

 

 千聖が言っているのはその時のこと。

 

「あなたが折角くれた言葉に、酷いことを言ってしまって……謝りたかったのに、なんだか顔を合わせづらくて……」

 

 そう言われて漸く逢瀬は千聖の言いたいことを理解した。

 

 あの時、千聖は逢瀬の言葉に異を唱えた。綺麗事、夢物語、それが実現する保証などどこにあるのかと。千聖はこの二週間、そんなことを言ってしまった後悔を胸に秘めていたのだ。

 

 実際、千聖には千聖の思いがあった。逢瀬がお人好しで綺麗事を好きなことを知っているからそう告げたのだともわかっていた。だが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、彼の綺麗事を認めたくないのだ。

 

 だが、それでも。千聖という少女は恐れていた。これを契機に彼に嫌われてしまうのではないか。()()()深まり続けた溝が、これで決定的なほど分かたれてしまうのではないか。そう思ったから、今日という日に意を決した。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 悲壮な声だ。これが彼女の素の姿であろうことは疑うべくもない。

 

 逢瀬は自分が此処に呼ばれた理由を、何か仕事に関してのことだと思っていた。プライベートでの接触を四年間極力絶ってきたのだから、彼女が自分に個人的な面を見せることはないだろうと。そう思っていた。

 

 思えば、ヒントは最初からあったのかもしれない。事務所で逢瀬を呼び止めたときの彼女の様子からも、ある意味ではそれは明らかだった。

 

 焦ったような表情も、やけに切羽詰まったような声音も、そして何より逢瀬に対する()()()が、千聖がどうしようもなく個人的な理由で逢瀬に話をしたがっていたことを示していたのだろう。

 

「私、今日はどうしてもあなたと話がしたくて……だから頑張ったのよ? あなたが昔好きだと言ってくれた料理も作ったし、長い映画だって見つけてきて……でも勇気が出なくて」

 

 弱々しい。女優としての〝白鷺千聖〟しか知らない人間が見れば、これが本当に同一人物なのか目を疑うだろう。

 

「白鷺さん……」

「これだけ言っても、まだあなたは()()()みたいに呼んでくれないのね」

 

 あの頃。その言葉が脳に届いた瞬間、逢瀬の頭に激痛が走る。『思い出すな』『考えるな』と脳内の誰かが警鐘を鳴らす。

 

 昨日に引き続き今日もか、などと思いながらその頭痛をおくびにも出さないよう堪える。どうやらその甲斐あってか千聖に異変は気づかれていないようだった。

 

「……なんでもないわ。忘れて」

 

 言いたいことは言い尽くしたとでも告げるように、千聖が背中から離れた。微かな重みから解き放たれた身体が前へつんのめる。

 

 振り向いて千聖の顔を見た。その表情は、どこか悲しそうに笑っていた。

 

「引き留めてごめんなさい。でも、それだけ言いたかったから」

 

 そう言うと、千聖は玄関まで見送りに来てくれた。どこか物憂げな空気を忌むように逢瀬が外と繋がる扉を開けると、千聖がまたねと手を振る。

 

 外に出て、扉を閉める。内側から鍵のかかる音が聞こえた。

 

 ────僕は。

 

 逢瀬は痛む頭に手を当てて空を仰いだ。その空は、彼の苦悩を嘲笑うかのようにどこまでも紺碧で、どこまでも澄み渡っていた。

 

「……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 その呟きは誰にも聞き届けられることはなく。

 

 髪を揺らすそよ風が、今はどうしようもなく鬱陶しく感じられた。




 最後の2000文字を書きたいが為に用意したお話。下手なことするもんじゃないですね。幾つも伏線張った中に一つだけ明確に矛盾してる記述があるんですが、わかりましたかね?

 ここからは評価してくださった方々のご紹介。

☆10 αναγνώστης様、ようやくサラダの逆様、Ryusei様、snow2002様
☆9 refl様、森の人様、以来気光様、赤茄子 秋様、あっつ様、いとしゅ様、逆立ちバナナテキーラ添え様、ガチャ男様、そんだい様
☆8 久住大河様

 また、ひとりアリス様、再評価ありがとうございます。

 以上の方々に最大限の感謝を。皆様のおかげで総合評価2000が目前となって参りました。本当にありがとうございます。

 それではまた次回。感想、高評価いただけると更新速度がナメクジからナポレオンフィッシュくらいには上がります。


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第九話

 先日、このハーメルン内でのバンドリSSの総数が300件を超えたらしいです。そしてその記念すべき300件目に輝いた小説は『私は総てを愛している』ってタイトルらしいです。わー誰なんだろうなーこんな獣殿が出てきそうな小説書いたのはー(棒読み)。私だよ。

 そんなこんなで、投稿遅れましてすみません。今回からはコメディが続きます。慣れないものも練習あるのみですね。


 ────瀬田家。時は既に日が落ち、逢魔時(おうまがとき)を超えた辺り。窓からは宵の明星が顔を覗かせ、中にいる二人を見守っていた。

 

 リビングの一角で向き合い深刻な顔をしているのは、双方ともに紫紺の二人。即ち、瀬田兄妹である。

 

 その片方、薫は神妙な顔で兄である逢瀬へ語った。

 

「……これは貴方にしか頼めないことだ。どうか聞いてほしい」

 

 女性にしては低めな声が空気を揺らす。時計の針が動く音が、緊張の糸を張り詰める。

 

 薫が懐から取り出したのは一枚の紙片。それを逢瀬の前に差し出した。逢瀬はそれを手に取り、怪訝な表情を浮かべる。

 

「これは────」

「貴方なら言わずともわかるはずだ。しかし私は勿論、こころやミッシェルたちが力を貸すことは出来ない。残念ながらね」

 

 薫は万策尽きたとでも言うようにテーブルの上の拳を握った。既に尽くせる手は尽くした。それでも尚、この紙片にはそれを上回るほどのことが書かれているのだ。

 

 彼女の表情は心底悔しそうだった。己が力が及ばない。それがどうしようもなく煩わしい。そう言いたげに。

 

 だが、と薫は続ける。

 

「貴方ならそれが出来る。否、貴方にしか出来ないのだ、兄よ。どうか()()()()()を救ってほしい。私たちが出来ないことでも、貴方なら。……どうだろうか」

 

 いつになく真剣な表情。逢瀬を映す紫紺の瞳は揺らぎなく、ただ真っ直ぐと彼を見つめている。

 

「リスクは?」

「ない……とは言い難い。何せ同行者は()()だ。その意味がわからない貴方ではないだろう」

「ああ、巻き込まれ体質だからね、彼女」

 

 その通りと薫は目を伏せ頷く。

 

 逢瀬は紙片と薫の間で数度視線を行き来させ、仕方ないと息を吐いた。

 

「わかった、請け負おう。そうまで言われては断れない」

「やはり貴方に頼んだ私の目は間違っていなかった。感謝する、兄よ」

 

 安堵の色を声の端々に滲ませ薫は言った。他に適任者がいないのなら僕が出張るしかないだろう、と逢瀬は手に持った紙片を薫の前に置きながら考えた。

 

 その紙片の表面、小さな表面積のあちこちに打ち込まれた細かい文字の中に、一際目立つ大きさと配置でこう書かれていた。

 

 ────◯◯水族館・ペアチケット、と。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 事の発端は商店街の福引きだった。少女・松原花音はそう語る。

 

 ちょっとした買い物のときに一緒に貰った三回分の福引券。折角だからと回してみれば、その三回目で二等の水族館ペアチケットを当ててしまった──ちなみに他の二回はポケットティッシュとミッシェルのお面だった。

 

 当然ペアチケットなので誰かを誘って行こうとしたのだが、誰も予定が合わなかったのだ。

 

 こころは弦巻主催のパーティーに出席。はぐみは店の手伝い。美咲はテニス部、薫は演劇部の活動があった。最後の望みを託して、彼女と別ベクトルで遠出が下手な親友に聞いてみても、申し訳なさそうに仕事があると断られてしまった。

 

 日を改めようとも思ったが、チケットをよく見たら使える期間が定められていることに気づいた為それも出来なくなってしまった。しかしペアチケットを一人で使うのも勿体無いし、まず一人で水族館まで辿り着ける気がしない。

 

 八方塞がり、どうするかをハロハピの面々に相談したところ、薫からこう提案された。

 

『なら兄に頼もうか』

 

 瀬田逢瀬。以前に何回か花音も会ったことがある人物。花音の三つ上の男性で、薫の兄。テレビで何回も見たことがあるほどの超有名人。実際に会ったことのある花音から見た彼の人物像を一言で表すならば、()()()()()()()()()()()()だ。

 

 言葉遣いは変だし、行動だって何処か大袈裟。しかしそれでも道理は弁えてるし、荒唐無稽な事を言い出すこともない。ノリと勢いのみが原動力のこころやはぐみを普段から見ているということもあってか、見ていて安心できる人物というものがより一層際立ってしまう。

 

 そして何より、(はた)から見てわかるほどのお人好し。きっと今回だって、薫から頼んで貰えれば簡単に了承してくれるであろうことは想像に難くない。

 

 善意を利用するようなやり方になってしまって申し訳ないけれど、と少しばかりの罪悪感を胸に抱いて花音は薫にそれを頼んだ。「あの人なら利用するとかそんなの気にしないだろう」と薫は言っていたが、それでも思うところはあるわけで。

 

 いつも何かしらの形で誰かに迷惑をかけてしまうことが多いから、せめて今回はしっかりしなければいけない。花音はそう決意した。

 

 ……決意した、のだが……

 

「ふえぇ……ここ、どこぉ……?」

 

 松原花音、絶賛迷子中である。

 

 逢瀬との待ち合わせに指定された駅に向かう途中、気がついたら知らない路地にいた。事の顛末を纏めるならばこうなる。

 

 水族館に逢瀬の同行が決まった際、「一人で電車に乗らせて知らない駅に行かせるのも酷だから」という理由で彼が近場の駅を待ち合わせに指定した。其処ならば花音だって行ったことが何度かある。故に迷うことはない。そう思っていたのだが、結果はこれだ。

 

 どこか見知った道に出れないかと恐る恐る花音は路地を進む。普通に考えれば来た道をそのまま戻るのが賢い選択なのだが、それが出来ないからこその方向音痴。わからないことをわからないまま突き進む。地図を見ない。よしんば見ようとして地図アプリを開いてもスマートフォンを何回転もさせるなど、典型的な方向音痴のやらかす失敗を花音は散々してきた。

 

 多分こっち、と己の勘に従い歩を進める。彼女の持つ胆力が間違った方向で発揮されてしまうとこうなる。いざ、と意気込み踏み出したその時、花音の肩に手が置かれた。

 

「ひっ……あ、瀬田さん」

 

 突然の事態に小さな悲鳴が漏れる。しかし誰かと後ろを振り向けば、そこにいたのは待ち人である逢瀬その人だった。多少の怯えを含む表情を向けられた彼は困ったように苦笑する。

 

 だが彼が何故ここにいるのだろう。待ち合わせ場所は駅で、ここはどう見ても駅ではないただの路地。その疑念を読んでいたかのように、逢瀬は口を開く。

 

「妹がね、〝きっと花音はまた変な所に行くだろうから、まず彼女の家に向かって駅から反対方向へ行ってみてくれ〟と言っていた。まさかそんなはずは、と思っていたけど……」

 

 言葉を切り、辺りを見回す。どこを見ても住宅が続く住宅街。方向音痴極まれり、と逢瀬は花音に対する認識を〝方向音痴〟から〝超方向音痴〟に改めた。

 

「そのまさかだったね。迎えに来たよ、松原嬢」

 

 その言葉に、花音は申し訳なさそうに「すみません」と返す他なかった。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 二本ほど電車を乗り継ぎ、逢瀬と花音は目的の駅へ到着した。改札を抜けた先にあるベンチに腰を下ろし、先程買った飲み物のペットボトルを額に当てて息を吐く。まだ水族館には到達していないはずなのに、逢瀬の顔には既に疲労の色が見て取れた。

 

 それもそのはず、花音はここに辿り着くまでにも何度か迷子になりかけているからだ。最初の乗り継ぎ駅で目的の路線とは反対方向へ行こうとしたところを逢瀬が引き留め、次の駅では逢瀬が飲み物を買いに行くと言って離れたところでまたはぐれた。ようやく見つけ出し電車に乗ったかと思えば、次は満員電車の中で分断され花音が違う駅で人波に流され押し出された。逢瀬は次の駅で急いで折り返し花音を探すも見つからず、途方に暮れたところで薫を経由して連絡してきた花音から現在位置を聞き漸く合流出来たというわけである。

 

 そうして、当初の予定では一時間もかからずに辿り着けるはずだったこの駅に二時間かけて二人は到着した。次に誰かと出かけるときはきちんと連絡先を聞いてから出かけようと逢瀬に決意させた出来事である。

 

「すみません……私のせいで」

「気にしなくていいさ。元よりこうなることは覚悟の上だ」

 

 そうだとも、花音と出かけるということはそれ即ち何か厄介事の種が隣にいるということと同義。迷うことなど初めからわかっていたのだから、対策は出来ずとも覚悟は出来る。対策しようとするならそれこそリードでも着けるしかない。しかしそれは流石に無理なので、精々可能な限り目を離さないことくらいしか出来ることがないのだ。

 

 動かなければ平穏な彼女であるが、一度動いてしまえば最後、こころに次ぐ程のトラブルメーカーであると逢瀬は考える。それも無自覚に様々なトラブルを呼び寄せるタイプのもので、彼女自身に何か落ち度があるわけではない分余計にタチが悪い。

 

 少し……否、かなり先が思いやられるが、一度役目を請け負った以上投げ出すことなど彼自身が許さない。

 

 ペットボトルの中身を飲み干しベンチから立つ。行こうか、と促せば花音も頷き席を立った。

 

 逢瀬は花音に向き直り、恭しく一礼する。

 

「僭越ながら、エスコートは僕が務めさせてもらおう。それでいいかな、松原嬢?」

 

 時は午前十一時。次に花音がトラブルに巻き込まれるまで、あと二時間。

 

「ああそれと、連絡先貰えるかな?」

 

 トラブル防止は大切である。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 ペアチケットを係員に渡し、二人は揃って水族館に入館した。足を館内へ一歩踏み入れるだけで、まるで世界が海の底に沈んだかのような独特の雰囲気を二人は味わった。

 

 今日が休日である故からか、親子連れやカップルの男女が非常に多い。ほんの少しでも目を離せば、比較的背の低い彼女は直ぐ様人波に流されてしまうだろう。それだけを危惧して、彼は花音を先導すべく前に立った。

 

 まだ入り口だが、展示されている生物は既に数え切れないほどだ。その中でも特に目を引くのが、彼らから見て右手側にある背の低い扇型の水槽。上面には何も無く、中に手を入れられるようになっている。そしてその中には多数のヒトデやナマコなど、棘皮動物と呼ばれる種別の中で触っても安全な種類のモノが入れられていた。

 

 多くの人間が、あちらでは恐る恐る、こちらでは興味津々と十人十色の反応を見せながら水槽に手を浸している。

 

 そして、どうやら花音も興味津々なようで。未知の感触への憧憬と恐怖が一緒くたになった瞳で逢瀬を見上げる。

 

「いいよ。荷物は僕が持っているから行ってくるといい」

 

 逢瀬がそう言えば、花音は一言の礼を言うと持っていた鞄を逢瀬に預けその水槽に近寄った。指先を水に沈め、一番近くにいたヒトデにそっと触れる。表面を軽く撫で、意外な感触に驚き、花音は感嘆の声をあげる。

 

「わぁ……結構硬い……」

 

 図鑑などで見る写真ではわからない生の感触。きっと沈み込むように柔らかいのだと思っていたヒトデのイメージが覆された瞬間だった。

 

 ヒトデから手を離しナマコに触れる。こちらは予想通りの柔らかさだった。慎重に持ち上げてみると、手から溢れたナマコの肉が重力に従い下を向く。水に戻しその先端をつつくと、何か他の部位より硬い場所を見つけた。なんだろうと花音が思っていると、後ろから逢瀬が彼女の手元を覗き込み言った。

 

「それは口だね。ナマコの」

「口……ですか?」

「そう。ただ、見るのはオススメしないよ」

 

 それはまた何故だろうか。花音の頭に疑問符が浮かぶ。

 

 逢瀬が珍しく真剣な表情で告げた警告。この口ぶりから察するに、彼はナマコの口を見たことがあるのだろう。何処かその口調からは苦々しさが滲む。故の警告。しかし、そう言われてはむしろ気になってしまうのが人の(さが)。彼女の中で好奇心が勝ってしまった。

 

 その警告を無視し、ナマコをひっくり返して先端を自身に向ける。……そしてそっと水の中に戻した。うん、アレはヤバイ。

 

「はい、松原嬢」

 

 水から手を出した花音に、逢瀬はハンカチを差し出した。受け取り手を拭く。花音は預けていた鞄を返してもらい、二人はそっとそのコーナーを後にした。

 

「……瀬田さん。私、もう二度とナマコの口なんて見ません」

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 水族館で一番見たいものといえばなんだろうか。

 

 日本の南端にある水族館ならジンベイザメがいる大水槽が有名だろうし、東京にほど近い水族館にあるクロマグロの回遊する水槽も名高いスポットだろう。事実、それを見に訪れる客は数多い。

 

 松原花音にとって、水族館に来て一番心踊る展示はクラゲだ。……そう、クラゲである。あのふわふわした、海水浴の天敵のクラゲである。

 

 何故、と聞いても明確な答えを花音が返すことはない。「ふわふわしてる」「なんか癒される」など、曖昧な返答を頑張って絞り出すのが精一杯だ。

 

 ただ、クラゲを眺めているときの花音は普段よりも何割増しか嬉しそうで、普段よりも目が輝いている。それをわかっているからこそ逢瀬は何も言わずに目を離さないことだけに気をつけつつ花音の後ろについて回っているのだ。たとえそれが、クラゲコーナーに三十分間居座るような結果を生もうとも。

 

 そう、三十分である。花音がクラゲの水槽に貼り付いて三十分が経過した。それだけ経っても尚、花音は全く動かない。ただふわふわと泳ぎ回るクラゲを目で追って、それがガラスの前から消えたらまた別のクラゲを目で追って……。

 

 今日水族館に来たのは花音が福引で当てたペアチケットが要因だ。元より彼女がどのようなルートで館内を回ろうが苦言を呈すつもりはなかったが、さすがの逢瀬もこれには飽きる。

 

 初めは「綺麗なクラゲだな」などの感想を抱いていたのが、大体十分を超えた辺りから「乾燥させてキュウリと和えたら美味しいかな」という方向に思考がシフトしているくらいには飽きている。水族館の水槽は生簀(いけす)ではない。

 

「松原嬢、そろそろ次の所に行ってもいいんじゃないかな?」

 

 若干引き攣った笑顔で逢瀬は提案した。楽しんでいるのを邪魔するのは心苦しいが、せっかく水族館に来たのにひたすらクラゲを眺めて時間を潰すのは勿体ないだろう。

 

 逢瀬に声をかけられ時計を確認した花音は、自分たちがクラゲの前に辿り着いてから既にそれだけの時間が経過していたことに驚きつつ彼に謝る。夢中になるとはかくも恐ろしい。

 

 気を取り直して次の水槽に向かおうと二人が足先を揃えた、その時のことである。前置きのように電子音が流れ、スピーカーを通した女性の声が響き渡った。

 

『この後十三時より、館内の大水槽で餌やりを行います』

 

 あっ、嫌な予感がする。逢瀬がそう感じた時には既に遅かった。

 

 人が一斉に動き出す。一日に数回しか行わない、この水族館の中でもメインを張れるイベント。それが大水槽の餌やりだ。当然これを目当てで来ている者も多い。

 

 故に、これは予定調和なのだろう。多くの来館者が大水槽の方に向かう、方向の定められた人波。ただクラゲの水槽の前で突っ立っていただけの逢瀬と花音はあっさりと分断された。

 

「松原嬢────」

 

 逢瀬は急いで手を伸ばす。しかしそれは虚しく(くう)を切り、掌になんの感触も残さない。

 

 ……さて、大変なことになった。




 この話は元々、私がこの前の☆4交換券でかのちゃん先輩を交換した記念として書いたものなんですよ。めっちゃ長くなりましたけど。なので彼女が今後のヒロインレースに参加する予定はありません。あんまり動かすキャラ増やすと対応しきれないってのも理由ですけど。

 ここからは評価してくださった方々のご紹介。

☆10 リューヱン様、ジュン様、雨曝し髑髏様、フラットライン様、Image'Tkz様
☆9 しろねぎ様、☆トミー☆様、オンドル語様、ガムシュー様
☆8 ignorant people様、神埼遼哉様、柊蒼月様

 本当にありがとうございました。皆様のおかげで評価数95、夢の100人まであと少しとなりました。これからもよろしくお願いいたします。「評価したのに紹介されてない!」という方がいらしたら教えてください。

 それではまた次回。実は二話目は既に書き上がっているので、今から六時間後、凡そ二十時ほどを目安に投稿します。


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第十話

 この話は第九話から日を跨がずに投稿されています。第九話をご覧になっていない方はそちらからお楽しみください。

 前話を読んでナマコの口を調べてしまった人は素直に手を挙げなさい。


 流される。抵抗も出来ず、戻ることも出来ない。一つの館内放送を契機として起きたそれに、花音は何かアクションを以て反応することが出来なかった。

 

 我先にと人々が大水槽の前へと殺到する。さすがにこの中を走り抜けるような非常識な輩はいなかったが、しかしそれでも、巻き込まれた一人の少女が困惑の表情で流されていくのを気に留めるような者がいるわけでもない。

 

 逢瀬とはぐれてしまった。方向音痴の彼女が一人で道を戻り再び彼に合流することは不可能に近い。元より水族館は薄暗く、それが更に不安を加速させている。

 

 どうしよう、どうしようと思考を回す。しかし何か案が浮かぶわけではなく、その間にも人波がやむことはない。

 

 その時、鞄の中に入れていたスマートフォンから軽快な通知の音が響いた。花音は人にぶつからないよう細心の注意を払いながらそれを取り出し、画面を見る。そこにはメッセージアプリのポップアップと逢瀬の名が書かれていた。

 

『今何処にいる?』

 

 わからない。それがわかれば彼女は方向音痴などになっていない。

 

『わかりません』

『なら、そこから何が見える?』

 

 具体的な質問だ。恐らくはそれを目印にでもして探すのだろう。花音は辺りを見回す。何か目印になるようなものは……

 

『水槽が見えます!』

 

 水族館なんだから水槽くらいあるだろう。直感だが、今どこかで逢瀬がずっこけた気がした。直ぐ様次のメッセージが届く。

 

『他には何かないかな?』

『人が沢山います!』

 

 水族館なんだから人くらいいるだろう。またどこかで逢瀬がずっこけた気がした。

 

 漫才のような遣り取りを繰り返していく内に、花音は人波の進行が止まったのを認識した。スマートフォンから目を上げると、そこには(くだん)の大水槽があった。大勢の人が餌やりが始まる瞬間を今か今かと待ち構えている。

 

『大水槽の前に着きました』

 

 そう明確な位置を伝えれば、逢瀬からすぐに『了解』という一言が送られてきた。やはり連絡先を知ることは大事だと、彼女は誰に向けるでもなく安堵の息を漏らした。

 

 スマートフォンを仕舞って大水槽を見上げる。ガラス一枚隔てた向こう側で悠々と泳ぐ魚たちを見ていると、楽しそうだと思うと同時に窮屈だと感じてしまう。所詮彼らに先は用意されていない。閉じられた楽園で好奇の目に晒されるだけの生を全うするのみだ。

 

 ……こんな魚相手に何を考えているのだろうと、花音はその思考を放棄した。一人でいるのが心細いからだろうか。だとすれば、一刻も早くこんな状況が終わってくれるのを願うのみ。自分からも逢瀬を探しに行くべきだと思い立ち踵を返そうとするも、その時再びスマートフォンが震えた。

 

『絶対そこから動かないでね』

 

 行動パターン、読まれてた。

 

 念押しされては仕方ない。言われた通りその場に踏み留まる。確かに方向音痴が好き勝手動いてしまえばどうなるかは自明。花音は肩を落とし反省した。

 

 再び大水槽を見上げる。薄い青が眩しい。そして暫く経った後、花音の手に別の手が触れた。軽く引っ張られる感触。逢瀬かと思い花音はその方向へ目を向けた。しかし、

 

「……えっと、君は?」

 

 そこにいたのは、逢瀬ではなかった。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 大変なことになった。まず頭に浮かんだのはその一言だった。

 

 人波に流され見えなくなった花音を探す為、逢瀬は彼女が消えた方向に歩みを進めていた。彼女は比較的背が低い。更に明かりも乏しい館内だ。ただ闇雲に探して見つかる可能性などゼロに近い。

 

 ぶつかりそうになる人影を避け続け、その隙間を縫うように進む。その間、すれ違い目に入る全ての人間を花音の特徴に照らし合わせて判別するが、当然そう簡単に花音が見つかるはずもなく。

 

 放っておいたらまた彼女は何かしらのトラブルに巻き込まれる可能性がある。故に監視の目として自分が同行したはずだ。しかし現にその役目を果たせていない。なんたる体たらくかと逢瀬は自らを叱責する。

 

 そういえば。逢瀬は立ち止まってスマートフォンを取り出した。駅に着いたとき、今後のことを考えて花音の連絡先を聞いていたことを思い出す。彼女本人から居場所を聞けば全てが解決する。そう思い至った逢瀬は画面に指を走らせた。

 

『今何処にいる?』

 

 送った数秒後、メッセージの吹き出しの横につく既読の文字。しかし返ってきたレスポンスは『わかりません』という言葉。方向音痴である彼女に直接居場所を聞くことは出来ないと彼は判断し、聞く内容を変えメッセージを送る。

 

『なら、そこから何が見える?』

 

 これならどうだ。目立つ展示か何かがあればそれでいい。それを目印にして彼女の足跡を追える。そう思っての発言だった。この場においてこれこそが最適解であることは疑うべくも無い。

 

 が、しかし。花音は彼の予想を超えていく。

 

『水槽が見えます!』

 

 うん、水族館だからね。そりゃあ水槽くらいあるよね。

 

 危うく漫画のように転んでしまうところだった。もう少し普通の返答を期待していたのだが、花音もやはり〝ハロー、ハッピーワールド!(変人集団)〟の一員ということか。肝心なところでポンコツが顔を出した。

 

 しかしこの程度で驚いてもいられない。常と違う人間など今まで何度も見て来ただろう。そう自分に言い聞かせて気を取り直し、逢瀬は他に何か手掛かりがないか問う。

 

『他には何かないかな?』

『人が沢山います!』

 

 うん、水族館だからね。そりゃあ人くらいいるよね。

 

 だが違う。聞きたいのはそういうことではないのだ。せめてもう少し明確なモノを教えてほしい。花音から送られる内容はどれもこれもが抽象的に過ぎる。

 

 何か他にいい聞き方はないものか。花音がポンコツを発揮しないほどに具体的な答えを出させるようなものは。そう逢瀬が頭を巡らせ唸っていると、手の中でスマートフォンが震えた。

 

『大水槽の前に着きました』

 

 そのメッセージを目にして彼は思い至る。そういえばこの人波は皆大水槽の餌やりを目当てに移動を続けているのだから、それに流されていった彼女は最終的にそこに辿り着くはずなのだ。考えてみれば単純な話だった。

 

 逢瀬は早歩きで大水槽へと向かった。薄暗い館内で、走らないとはいえ速度を出すのは危険なのだが、それよりも花音を一人で放置する方が圧倒的に危険である。彼はそう判断した。

 

 その最中、花音に向けとあるメッセージを送る。

 

『絶対そこから動かないでね』

 

 先の乗り継ぎ駅での経験。花音と満員電車で分断されるという現在と似たような状況を既に味わっている彼は、こういうとき何より重要視すべきことをわかっていた。

 

 即ち、すれ違いの回避。花音のことだから、どうせ自分からも探しに行かないとなどと考えて好き勝手動くことだろう。それをされてしまうとお互いがお互いを見つけにくくなってしまう。それだけはなんとしても避けねばならない。

 

 そして、彼のその考えは実に正しかった。彼が大水槽の前に到着したとき、人混みの中で揺れるスカイブルーの少女を発見することは、きっとそのメッセージが送られていなかったら相当難しかったことであるからだ。

 

 やっと見つけた、と逢瀬は花音に近寄った。どうやら彼女は逢瀬に背を向ける形でしゃがんでいるようで、その視点は逢瀬の腰ほどしかない。何故彼女がこんなところでそのような行動に至ったかはわからない。それはまるで小さな子供に目線を合わせているかのような行動だ。

 

 いや、待て、子供?

 

「何をしているんだい、松原嬢?」

 

 声をかけつつ花音の横から彼女の正面を覗き込む。そこにいたのは────

 

「……いや、本当に何をしているんだい、君は」

 

 凡そ六、七歳ほどの子供だった。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 手を引いていたのは小さな少年だった。

 

 歳は小学校低学年になるかならないかほど。大きな瞳に涙を滲ませ、潤んだ瞳で花音を見上げている。

 

 この子も迷子だろうか。ならば不安に違いないはずだ。きっと親とはぐれてしまって途方に暮れていたところを、同じく一人でいた──更に言うなら同じく迷子でありそうな──花音を見つけ、子供心で危険ではないと判断した彼女の手を引いたのだろう。たしかに花音からは思春期特有の刺々しさというものが感じられない。『この人なら安全だ』と思い、宛ら誘蛾灯に惹かれる蟲の如く近づいたのだ。

 

 困ったことになったと、時と場所は違えど逢瀬と同じようなことを花音は考えた。この手を振り払うわけにはいかない。それは流石に人としてどうかと思われる。しかしこのまま手を握って突っ立っていても解決はしない。どうしたものかと思案しながらじっと見つめていると、少年の瞳に溜まる涙の粒が大きくなっていく。

 

 これはまずいと直感した。花音は慌て、何か泣き止ませることができるようなものがないかと鞄をまさぐる。そう都合のいいものなど入っていないと半ば諦めながらの所業であったが、どうやらいるかもわからない神は花音に味方をした。指先に軽い感触が齎される。摘んで引き出す。それは以前水族館のペアチケットと同じく福引で当てたミッシェルのお面だった。

 

 それを見た花音の行動は早かった。直ぐ様お面を頭に着け、目線を子供に合わせ、とびきり明るく振る舞って、

 

「み、ミッシェルだよー」

 

 正直な話、恥ずかしさで死にそうだった。穴があったら入りたい。

 

 しかし花音の恥は無駄にはならなかったようで、少年の瞳から零れそうだった涙は落ちる寸前でその質量を増すことを停止した。よかった、と一息。

 

 だがこれからどうしようか。彼女一人ではどうすることもできない。せめて逢瀬がいてくれたら相談することも出来たのに。そう願わずにはいられない。

 

 そして今度も、神は花音の味方をした。

 

「何をしているんだい、松原嬢?」

 

 後ろから聞こえてきたのは逢瀬の声。彼は花音の横から顔を出し、子供と花音を交互に見比べ、

 

「……いや、本当に何をしているんだい、君は」

 

 それは私が聞きたいです。羞恥に顔を赤らめ、頰を膨らませて逢瀬を可愛らしく睨む。なんの迫力もないそれだったが、それでも逢瀬に少しばかりの罪悪感を感じさせるには十分だった。すまないと一言謝り、再び視線を子供に移す。

 

「それで、この子は? 見たところ迷子のようだけど」

 

 花音はこれまでの経緯を説明した。大水槽の前まで流されたこと、そこで子供に手を引っ張られたこと、……そしてミッシェルのお面を着けている理由も。聞き終えた逢瀬は顎に手を当て思案顔をする。

 

「とりあえず迷子センターまで連れて行こう。館内放送で親を探してもらえるはずだ。それが最善────」

「いやっ!」

 

 最善だと思うよ、と言う逢瀬の言葉を遮り、これまで黙っていた少年が叫んだ。突然の事態に逢瀬と花音の動きが止まる。

 

「それはまた何故?」

「いやなものはいやなの!」

 

 どうあっても拒絶の意思を曲げない少年の言葉に、逢瀬は一種の真剣さを見出した。言葉は幼稚だが、この声に込められた感情は本物だ。何か言いたくない理由があると見るのが妥当だろう。

 

 ならば捨て置くか。否、それが出来ないのが逢瀬という人間性である。彼はその場にしゃがんで片膝を突き、少年に目線を合わせる。

 

「そう、わかった。ならそこには行かない。僕が君の親御さんを探してあげよう」

 

 人の良さそうな笑みを浮かべて、逢瀬は少年にそう告げた。少年は少し複雑そうに俯きながらも、小さく「わかった」と答える。

 

 腰を上げ、逢瀬は花音に向き直る

 

「なら決まりだね。ごめん松原嬢。勝手に決めて」

「大丈夫ですよ。私も放ってはおけないです」

 

 でも、と花音は苦笑した。

 

「お人好しですね」

「……うん、自覚はしてる」

 

 逢瀬は目を伏せ花音の言葉を受け止めた。気を取り直し、再び少年へ目を向ける。

 

「君、名前は?」

 

 短く発せられた質問。その問いに少年は一瞬、果たして正直に告げていいものかと迷いを見せる。きっと自己防衛に関しての教育の賜物だろう。

 

 しかしそのままでは状況が進まないと彼も何処かで理解しているのだ。直ぐ様それを断ち切ったように頭を振って、意を決したかのように己の名前を告げた。

 

「……()()藤井蓮(ふじい れん)、です」

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 歓声と感嘆。大水槽の前に集まった人々は皆一様にその青を見上げ声をあげる。彼らの視線の先に見えるのは、水槽の上方から降ってくる餌の断片と、それに食らいつき泳ぎ回る無数の海洋生物達だった。

 

 そんな神秘的とも言える光景を、花音は瞳に映し脳裏に刻んでいた。視界の端から端を移動する魚達。水の青に照らされたそれらの光が目を刺激していく。

 

 こういった海洋生物の捕食シーンなど滅多に見られるものではない。これが見れただけでも相当に貴重な体験だと言える。人波に流されてここまで来てしまったのも無駄ではなかったと、花音は不運から生まれた幸運に感謝した。

 

「みーえーなーいー」

「なら肩に乗るかい?」

「乗るー!」

 

 そんな花音の横で、大水槽が見えないと文句を言う蓮を、逢瀬が肩車していた。逢瀬は花音に比べ頭一つ程度身長が高い。そんな彼が子供とはいえ蓮を持ち上げれば、蓮の視点は人々の中でも突出する。嬉しそうに目を輝かせる蓮を見上げ、花音は逢瀬に言った。

 

「なんだか親子みたいですね」

「そんな歳じゃないんだけど……そう見えるのかな」

 

 困ったように彼は笑う。興奮した蓮が「おおー」などと騒ぎながら彼の紫紺の髪を叩き掻き乱す。整った逢瀬の頰に冷や汗が一筋流れた。苦労人だなあ、と花音はその様子を眺め思う。

 

 アナウンスが流れる。今大水槽内ではどのような魚がどういったモノを食べているのかなどの内容だ。投下された餌が見る見るうちに消えていく。ぼんやりと見ていただけでも既に佳境は過ぎ、そろそろこれも終わりの時間だと告げる女性の声が拡声器越しに響く。

 

 人が散っていくのが見えた。時間にすれば凡そ五分ほどのショーではあったが、それでも有意義な時の過ごし方だったと思える。

 

「楽しかった?」

 

 逢瀬が蓮に向けてそう問うのが聞こえた。逢瀬の肩の上にいる蓮は、まだ余韻が残っているのか口が半分閉じていないながらも、直ぐにその顔を笑顔の色に染めた。

 

「うんっ!」

 

 快活な返答。たった一言ではあるが、その声に含まれた喜色が、蓮が今どのような気持ちでショーを眺めていたのかを物語っている。

 

「そう、よかった」

 

 逢瀬も短くそう返し、蓮を降ろす。楽しんでもらえたならそれで良いとばかりに彼も微笑んだ。

 

「さて、まだ終わりじゃないよ」

 

 逢瀬は蓮に手を差し出す。蓮はその意味を理解出来ていないのか、頭の上に疑問符を浮かべ首を傾げていた。

 

 逢瀬は微笑みの中でウィンクを飛ばし、告げる。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 その言葉の意味を蓮は正しく理解した。つまり逢瀬はこう言っている。〝一緒に水族館を楽しもう〟と。

 

「今日だけは、少し悪い子になってしまおうか」

 

 そうして、蓮は逢瀬の手を取った。




 私、基本的にサブキャラやモブキャラに名前つけない主義なんですよ。だから度々登場するマネージャーにも名前が無いんです。ですが彼にだけはつけないといけないと思った。だって思いついてしまったんだもの。

 そしてまた増える文字数と話数。まさかここまで伸びると思ってなかった。次の話はまだ書いてないので予定は未定です。

 ここからは評価してくださった方のご紹介。

☆9 ソウソウ様、ナルカミトオル様

 投稿から六時間しか経っていないのに二人の方が評価してくださいました。嬉しいことです。小躍りしてますもの、私。

 それではまた。感想、高評価いただけると更新速度がナメクジからエチゼンクラゲ程度には上がります。


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第十一話

 ※ここは諏訪原市ではありません※
 ※ここでスワスチカは開かれません※

 何故前回『藤井蓮』という名前が出てきたのかわからない方は、是非『藤井蓮』で検索して、その流出の詠唱を見て下さい。そしてその後もう一度この小説のタイトルを見て下さい。理由がわかると思いますから。


 なんなのだろう、この人は。少年・藤井蓮は瀬田逢瀬という人間を前にして、そう考えた。

 

 親と(はぐ)れた。迷子になった。言葉にすればそれだけの単純な事実が、齢六という小さな子供には何よりも大きな棘となって襲いかかる。元はと言えば蓮の()()()()()()()()が原因でそうなってしまったのだけれど、でも彼はそれを認めたくなくて。ムキになって親に背を向け走り出したら人波に流され、気づけば周りには知らない人ばかりだった。

 

 恐怖した。今にも泣き出しそうなほどだった。何か頼れそうなもの、縋れそうなものを探すも、視界を埋め尽くすのは人、人、人。蓮の低い視点では、周りを取り囲む全ての人間は自らを押し潰すほどの巨人に等しく、凡そ悉くが天魔、或いは波旬の如き恐怖の象徴でしかなかった。

 

 そんなとき、巨人の中でも一際縮こまっているスカイブルーの少女を見つけた。その刹那、彼の足は少女へ向け歩き出し、その手を力無く引っ張った。他意があるわけでも悪意があるわけでもない。ただ同類(迷子)を見つけ安心した子供がそれへと縋っただけのこと。

 

 困ったような表情で蓮を見下ろす彼女は、子供の目から見てもひどく狼狽えていたように思えた。頼りないその姿に彼の不安も掻き立てられて、堰き止めていた涙が瞳から溢れそうになる。それを見た彼女は一層慌て、何を思ったかクマのようなお面を額につけて蓮に笑いかけた。頰が赤い。恥ずかしいのだろう。しかしそれでも、その行動は蓮の涙を止めるには十分だった。

 

 そして、その後ろから逢瀬が現れた。蓮の心に再び昏い恐怖がへばりつく。

 

 小さな子供にとって、〝大人の男性〟とはただそれだけで畏怖の対象だ。自らより強いものを恐れる、至極当然な心理現象。霊長と名乗る種においては大抵の場合雌や幼体より雄の方が生物的に力で勝り、それは人間とて例外ではない。

 

 故に、蓮の目から見て、逢瀬は恐ろしかった。

 

 見下ろすその瞳に融けた紫紺が恐ろしかった。

 

 自らを押し潰そうとする水底のような空気が恐ろしかった。

 

 それでも、その恐怖を振り払ってでも反抗しなければならないことがあったのだ。

 

 『迷子センターに連れて行こう』。その発言は看過できなかった。それをされてしまえば、折角張った意地が意味を為さなくなってしまうから。

 

 酷い我儘だというのは承知している。面倒な子供だと思われることだって理解している。それでも、子供だからこそ、決めたことを曲げるという処世術を知らないのだ。

 

 普通の大人なら有無を言わさずセンターまで連れて行くか、事なかれ主義に則って放置するか、そのどちらかを選択するだろう。連れて行かれるわけにはいかない。故に、蓮は喉元から込み上げる衝動のまま、拒絶を叫んだ。

 

 それに対する逢瀬の返答は、同調だった。『わかった』と、蓮の我儘に付き合うと、そう告げたのだ。その最中(さなか)で親を探すと言うが、迷子センターに連行されないだけ僥倖だったと言うべきだろう。

 

 なんなのだろう、この人は。そのまま共に大水槽の餌やりを見た。見えないと主張すれば、肩に乗せて持ち上げてくれた。その頃には既に先の恐怖など消え失せ、代わりに楽しさが心を満たしていた。

 

 そして、それらも過ぎ去った話。

 

 今彼らは大水槽から離れ、屋外にあるイルカの水槽前の椅子に座っていた。

 

 何故ここにいるのかと言えば、簡単な話、この場所でイルカショーが開催されるからである。

 

 時は時計の針が十五時を示す直前。遭遇から凡そ二時間と少しを館内で共に過ごした彼らは、パンフレットに載っていたイルカショーに興味を示した蓮の「見てみたい」という一声により、一時(ひととき)を此処で過ごすことを決定した。

 

 興奮を抑えきれないと言いたげに足をパタパタと動かす蓮を挟むように逢瀬と花音が座り、開始の時刻を今か今かと待ちわびている。席は水槽の正面で、イルカショーを見るには絶好と言ってもいいポジションだった。

 

 大水槽の餌やりと並ぶ大きなイベントということもあり、席は後ろの方まで殆ど人で埋められている。中には蓮と同じかそれ以下とみられるような子供もおり、彼らも皆一様にその小さな身体を興奮に浸していた。

 

 逢瀬や花音も、それほど露骨ではないが内心昂ぶっていないといえば嘘になる。それは恐らく誰もが同じで、きっと皆純粋な興味と子供心を持ってこの場所にいるのだろう。

 

 しばらくすると時計の長針が真っ直ぐ上を指し示し、水槽の奥にある足場の袖から係員と見られる女性が現れる。

 

『皆さん、こんにちはー!』

 

 (にこや)かな笑顔と弾むような声で観客に語りかけると、逢瀬たちの後ろや横から一斉に「こんにちはー!」と元気のいい返事が飛ぶ。その殆どは子供のもので、中には逢瀬の隣に座る蓮の声も混ざっていた。

 

 その返事に満足したように女性が礼を返し、次いでショーの説明を入った。曰くここにいるイルカはオスかメスのどっちなのか、曰く名前はなんと言うのか、得意な技は何かなど、ショーの理解を円滑に進める為のものだ。

 

 その説明が全て終わり、ショーが始まった。口の先でボールを操ったり、トレーナーを背に乗せ泳いだり、イルカの高い知能と身体能力を見せつけるように繰り広げられる数々の演目に、数多の観客は勿論、花音も、そして逢瀬も魅せられていた。

 

「わあ……」

 

 花音が感嘆の声を漏らす。その視線の先では、吊るされたリングをジャンプで潜り抜ける一匹のイルカ。着水し、その後を追うようにまた別のイルカが跳び上がる。

 

 その流線型の身体から散る水の軌跡も、煌めいて目を灼く太陽も、全ては彼らの為の舞台装置だ。観客を魅せる為の技の粋は、今ここに。

 

 さて、しかし魅せるだけでは終わらないのが常というもの。彼らの座っている席は水槽の正面最前列。それはつまり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()わけで────。

 

 イルカショーには演出の為に観客を巻き込む場合がある。それは例えば登壇してもらいイルカに触れるだとか、そういう平和的なものだけでなく、()()()()()()()()()()()()()()()ということも普通に有り得るのだ。そしてこの場では、選択された演出はそれだった。

 

 破裂音。それがイルカが尾で水面を叩いた音だと気づくのに時間は必要なかった。大量の水が花音たちに降りかかる。咄嗟に蓮の肩を抱いて、(きた)るべき冷たさに備えて目を瞑る。しかし、

 

「……あれ?」

 

 何もない。冷たさも、衝撃も、花音を襲うはずだった全ては何も彼女まで到達していなかった。恐る恐る目を開くと、花音と蓮の眼前には、遮るように逢瀬の上着が広げられていた。

 

 すぐに理解した。イルカが水を此方に向けて飛ばしたその刹那、逢瀬は咄嗟に彼女たちを庇ったのだ。花音は視線を横にずらして逢瀬を見る。濡れずに済んだ花音と蓮に対し、彼は全身を濡れ鼠にしていた。髪や服の端から滴る水が、彼が被った水の量を物語っている。

 

「寒くはないかな、二人とも」

 

 広げていた上着を下ろし、逢瀬は花音と蓮に問うた。二人が頷くと、逢瀬は「それならよかった」と薄く笑った。

 

 周りからは濡れた観客の阿鼻叫喚が絶えず響いている。花音は鞄からハンカチを取り出し逢瀬に差し出す。彼はそれを受け取ると、誰も自分を見てないことを確認してから変装用の伊達眼鏡を外しレンズを拭いた。

 

「あの……大丈夫ですか?」

「案ずることはないさ。濡れている者は雨を恐れない(Mokruj nje dozhdya boitsya.)。むしろこれから濡れることを考えなくていいのだからね。それに、水も滴る良い男と言うだろう?」

 

 心配する花音に気障ったらしく答え、逢瀬は伊達眼鏡を着け直す。

 

「と言っても、もう終わりだけどね」

 

 そう言って視線で前を指し示す。見れば演目も終盤、最初の挨拶をした女性がイヤホンマイクを通して終わりの口上を並べている。

 

 イルカ以外に興味は無いと言いたげな観客は(まば)らに席を立ち始め、一人、また一人と姿を消す。蓮も余韻に浸っていて口上など聞いてはいない。

 

「そろそろ行こうか」

「わかりましたけど、服、どうするんですか?」

 

 花音が言う。その答えとして、逢瀬は近くの壁に貼られた貼り紙に指を向けた。そこに書かれていたのは、『乾燥機あります』の文字。

 

 花音は納得したように「あぁ」と漏らした。

 

「そういうことさ。松原嬢、彼のことは頼んだよ」

 

 そうして逢瀬は蓮を花音に預け、濡れた足跡を残して乾燥機へと向かった。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 ゴゥンゴゥンと一定の音を立てて回る乾燥機を、逢瀬は椅子の上で見つめていた。

 

 この水族館に備えられた乾燥機のスペースは相当に大きく、一つのそれに対し仕切りで区切られたほぼ個室と言ってもいいほどの区画が設けられている。()()()()()()()()()()()()()()()()する逢瀬にとって、それは想定外の幸運だった。

 

 コインランドリーと同じようなシステムで稼働するこの乾燥機は、使用するコインの枚数により乾燥にかかる時間が変動する。逢瀬が選んだのは最短のコースで、時間は約十分ほど。

 

 既に乾燥機を回し始めてから十分近くが経過していた。その停止を確認し、服の熱が飛ぶのを待っていると、外から声がかけられた。

 

「お兄さん、今入っていい?」

 

 声の主は、花音と一緒にいるはずの蓮だった。

 

「えっ、ああ、ちょっと待ってくれ」

 

 逢瀬は慌てて乾燥機の蓋を開け服を着る。()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そう思っての行動だった。しかし服からはまだ熱が飛び切っておらず、思わぬ熱さに声を上げそうになるが、逢瀬は気合でそれを抑え込んだ。それと同時に、蓮が個室の扉を開けて中に入ってくる。

 

 何か言いたいことがあるのだろう。(しき)りに口をまごつかせては顔を上げ、その度に俯くということを繰り返している。逢瀬がその様を眺めていると、やがて蓮は意を決したように瞳を逢瀬に合わせた。

 

「……ちょっと、聞いてほしいことがあるんだけど……」

 

 蓮の口から出てきた言葉は相談だった。それは蓮がここに来るまでの経緯、即ち迷子となるに至った理由である。

 

 纏めてしまえば、それは蓮の小さな意地が原因であった。

 

 二人の幼馴染とその母親、そして自分の母親を含めた六人で水族館に来ていたこと。その幼馴染と些細なことで仲違いして、親の仲裁も聞かず飛び出してきてしまったこと。そして気づいたら迷っていたこと。

 

 ぽつぽつと拙い言葉で語られるそれを、逢瀬は何も言わず聞いていた。蓮が全て話し終えた後、漸く口を開く。

 

「それで、どうして君はその幼馴染とケンカなんてしたのかな?」

「……ナマコ」

 

 一瞬の沈黙。「は?」と、逢瀬の脳が状況の理解を拒む声が喉から飛び出た。

 

「だから、ナマコ。ナマコの口。お母さんには止められたけど見ちゃって、香純(かすみ)司狼(しろう)にも見せようとして、それで……」

 

 香純、司狼。恐らく、その名こそ、彼の幼馴染の名前なのだと逢瀬は推察する。その幼馴染たちに見せようとして親に止められ、そこで癇癪でも起こしてしまったのだろう。

 

「しかし何故そんなもの見せようと? アレは好き好んで見るものでもあるまいに」

「だって、誰も見なかったもの見たらカッコいいじゃん。でも、二人とも『大したことないんじゃないの』って言うし、だったら見せてやろうと思ったんだもん」

 

 ────ああ、納得した。

 

 逢瀬は蓮の言いたいことを理解した。()()()()()、たしかにそれは男の子が意地を張るに値するものだ。

 

「なるほど、要するに君は格好つけたかったわけだ」

 

 なんだ、()()()()()()()()()()()()()。そう言いたげに逢瀬は微笑んだ。

 

 蓮は表情を曇らせる。

 

「やっぱり、そういうのはダメなのかな」

「ダメなんてことはないさ。むしろもっとやりたまえ。格好つけることは悪いことじゃないんだ」

 

 それは誰よりも格好つけることに全力を賭してきた逢瀬だからこそ言える言葉だった。蓮は不思議そうな顔で逢瀬を見上げる。

 

 そうだとも、たとえそれが見栄だとしても、男の子はそれを貫き通す権利がある。

 

「そうやってカッコよく生きたいって思うことは、男の子の特権だ」

 

 でもね、と逢瀬は付け足す。

 

()()()()()()()()()()()()()()。これが難しいものでね、加減を間違えがちなんだ」

 

 逢瀬は語る。

 

 格好つけるのにもやり方があるのだ。誰かの意思を無視するやり方と、誰かの意思を尊重するやり方。格好つけるのは自分でも、それを見て評価するのはいつだって他人だ。他人から良く思われなければ、それは失敗でしかない。

 

 彼から言わせて貰えば、蓮のそれは間違いなく失敗だ。相手が望まないことを望まない形で為してはならない。誰かの意思を無視するやり方を取ったとしても、それが誰かの益にならなければ無意味なのだ。

 

「じゃあ、どうすればいいのかな」

「謝ればいいさ。格好つけるのは、もう少し後でいい。友達なんだろう? なら、まずは素直にならなくちゃね」

 

 蓮は露骨に難しい顔をした。当然だ、格好つけようとした手前、おいそれと『自分が悪かった』などと言えるはずがない。

 

 だが、今ここで決心せねば、次はいつ彼に考える機会が訪れるというのだろう。子供心に後悔して、己のプライドに向き合って、答えを出せるのはここしかないのだ。

 

 出来る限り早く受け取れ。利益の機会は短い(Accipe quam primum: brevis est occasio lucri.)

 

 逢瀬は蓮にそう伝えたい。今この一瞬を有意義に。その刹那に見いだせるものも何かあるはずだ。

 

「覚えておくといいよ、少年。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そう、故に。君は向き合えるはずだ、少年。

 

 その言葉は蓮の心に深く染み入った。結ばれた氷を溶かすように、その内に秘められた本心を露出させていく。

 

 もう一度、二人の幼馴染と話したい。もう一度なんて言わず、これからも、ずっと。つまらない(わだかま)りはいらない。仲良しだったんだ、これまで。だったら、また仲良くできるはずだ。

 

「そうだよ。君なら出来るさ。僕が保証しよう」

「……うん。ありがと、お兄さん」

 

 蓮の瞳に決意が宿る。それを見て、逢瀬は安心したような笑みを浮かべた。

 

 もう心配はいらない。覚悟は蓮の中で決められた。あとは、彼を幼馴染と引き合わせるだけだ。蓮から見えないように、後ろ手でスマートフォンを取り出し花音にメッセージを送る。

 

『迷子センターに彼を連れて行く』

 

 もう躊躇う必要はないだろう。逢瀬はスマートフォンを仕舞って蓮に目を向ける。

 

「さて、行こうか」

 

 個室の扉に手をかける。そして開こうとした時、足元にいた蓮が「あっ」と声を上げた。

 

「そういえばお兄さん。もう一つ聞いていい?」

「ん? ああ、いいとも。何かな」

「えっとね……」

 

 そして、次に発せられた言葉は、逢瀬を凍りつかせるのに十分だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()




 傷だらけの身体。一人の少年が暴いた事実は、果たして何を意味しているのだろうか。

 ここからは評価者様のご紹介。

☆10 ゆゆにゃ〜様
☆9 森の人様、しまたく様、天魔・雪風様、レジスタ_001様、ホモ・サピエンス様
☆7 chatnoir

 また、柊蒼月様、マイペース系様、再評価ありがとうございます。

 皆様のおかげで評価数が100を突破致しました。実は夢の一つだったりしてました。まさか本当にこの目で拝めるとは……皆様本当にありがとうございます。これからもどうかよろしくお願い致します。

 それではまた。感想、高評価頂けると更新速度がナメクジからクリオネくらいには上がります。


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第十二話

 全肯定ハム太郎見てたら、なんでも「素晴らしい!」って返してくれる全肯定瀬田薫を思いつきました。元気になれそう。でも私のところに新しい薫君は来てくれなかった。

 そういえば、お気に入りが800を超えました。ありがとうございます。


 時が凍った。あらゆる万象が動きを止め、響くはずの心音すら静寂の支配に呑まれる。そのような感覚を、逢瀬は味わっていた。

 

 ()()()()

 

 心を埋めたのは焦燥。次いで、虚飾。溢れ出しそうな焦りの感情を理性と善性のペルソナで覆い隠し、凍った己とその時間を解凍する。

 

 逢瀬が自らを評して『素肌を晒すと色々面倒な事案が発生する』と言うのはこれが原因だ。全身に走った傷跡。恐らく蓮は理解できていなかったのだろうが、その殆どは惨い()()()だ。それこそ、彼がその身に刻んだ()()()()()()に他ならない。

 

「……君、今何歳?」

「六歳……だけど」

「そうか、六歳か。なら()()は二歳なんだね。知らないのも無理はないか」

 

 不思議な質問だった。蓮にはその真意を推し量ることができない。しかしその口ぶりは、まるで四年前に起きたことなど、皆知っているものだと示すかのようなものだった。

 

 どう誤魔化すか。逢瀬は思考を巡らせる。このことは、知らないのなら知らない方が幸せな事柄だ。〝貴公子〟の罅。かつて刻まれた唯一の、それでいて特大の汚点。綺麗事と夢物語を語る〝瀬田逢瀬〟という偶像の、決して綺麗とは言えない闇。それこそが、この傷跡なのだ。

 

 言うなれば、それはタブーというものだ。公然の秘密と言い換えてもいい。誰もが知っている。しかし口に出してはいけない。それに触れることは禁忌に等しいのだから。

 

 蓮がそのことについて口にしてしまったのは、ひとえに彼が幼いが故のことだ。四年前の出来事を知らず、また、人の踏み込んではいけない領域を見定めることがまだ出来ない年齢。あと歳が十もあれば少しは違ったのだろうか。蓮にはまだその判別がついていなかった。

 

 ならばどうするか。別に四年前の出来事を知られるくらいなら何も支障はない。ただ、傷跡に関しては少々都合が悪いのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 傷とは、ただそこにあるだけで見る者に何かしらの印象を抱かせる。同情、憐憫、嫌悪。そこに負の感情は数あれど、正の感情はないに等しい。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 らしくあれ。そうしてきたのはお前自身だ。斯く在れかし。仮面を被るのは得意だろう? この状況で動じるほど、お前は甘くなかったはずだ。

 

 逢瀬は蓮に視線を合わせ、己の唇に人差し指を当てる。

 

「いいかい。これから僕の言うことをよく聞いて」

 

 虚栄で塗り固めた、己の口という拡声器を言葉が通過する。声帯に脚本()を読ませ、(道具)を美麗に震わせる。

 

 それが言葉、演者()の言葉だろう。

 

「これは僕と君だけの秘密だ」

 

 一種の賭けだった。相手は子供。それも善悪の区別がはっきりとしていないような年齢の、である。人の口に戸は立てられないと言うが、それが小さな子供なら尚更だ。彼が何かの拍子に口を滑らせてしまう可能性はなきにしもあらずだろう。

 

 それでも、無理矢理口を塞ぐなどということが出来るはずもない。であればこそ、分が悪いとわかっていても、このようなギャンブルに身を投じるしかなかった。

 

 その勝率を引き上げるのが、言葉なのだ。

 

「僕は君を信じよう。君はきっと、この秘密を君の中だけに留めていてくれるはずだと」

「うん、わかったけど……()()()()()

 

 蓮は不思議そうに首を傾げる。事実、彼にとっては不思議でならない。何を隠す必要があるのか。どうして秘密などと言うのか。傷を晒して、何がいけないのか。わからないのはその道理だ。

 

 どうしてと聞かれ、逢瀬はフッと笑う。

 

「覚えておくと良い。男にはね、少しくらい秘密があったほうがカッコいいのさ」

 

 ────そうしてまた一つ、嘘を()く。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 笑顔の仮面の下に隠した秘密(それ)を、誰よりも自分自身が理解しているくせに。

 

「わかったかな、少年。だからもう一度言うよ。────これは、僕と、君だけの、秘密だ」

 

 一つずつ、言葉を区切って詠うように告げる。それは画布に絵の具を垂らすようなもの。(たま)となり、定着し、侵食し、染みを広げる。その比喩の通りに、蓮の中に逢瀬の言葉はいとも容易く染み入った。

 

 言葉を吐くなど、息をするより簡単なことだ。いつか悩める桃色の少女に告げたものとは異なるが、それも彼の持つ能力の発露。演者(瀬田逢瀬)は言霊の魔力を以って、世界の魂を支配する。

 

 その魔力に抗えるわけもなく、蓮は了解を示した。逢瀬の真意は言葉の裏に隠され見えなくとも、それを蓮が察することはない。完璧に、逢瀬は蓮の疑問を封じ込んだのだ。

 

「さあ、行こうか。向き合う時が来たんだよ」

 

 何事もなかったかのように逢瀬は立ち上がり、蓮と合わせていた目線の高さをズラす。扉を開け外に出れば、(さき)の凍りついた空気は霧散し、溶けた時間が再び澄んだ水のように流れ出す。

 

 向かうはこの水族館の一角。入り口のほど近くにある場所だ。乾燥機置き場の外で待機していた花音を回収し、三人で足並みを揃えそこへ向かう。

 

 近づくにつれ、蓮の足取りは着々と重くなる。覚悟を決めたとはいえ、まだ少々の後ろめたさと怯えは消えない。そんな蓮の肩を軽く叩き、「大丈夫だよ」と逢瀬は告げる。それを三度ほど繰り返せば、いつしか彼らは目的地である迷子センターに辿り着いていた。

 

 逢瀬は花音に指示し、そこから一番近い水槽の前に待機させた。絶対に動かないでね、と再三の念押しを済ませ、蓮に最後の確認を取る。

 

「行ける?」

 

 一言、それだけを問う。そこに込められた意味は様々だ。恐怖はあるか。友達の為にプライドと向き合えるか。逃げ出したいと思う臆病な自分を抑え込めるか。幼い心に渦巻く複雑な感情は、この土壇場でパニックを起こしたりしないか。先の問いはそれらの確認を内包していた。

 

 迷子センターの扉は目の前。あとはそれを開けるだけでいい。それだけで、蓮の覚悟がどのような形であれ結実する。

 

 ここから先は、蓮にとっての完全な未知だ。未だかつて知らぬ、大切な友人との仲違い。それは果たしてどのように終結するのか────円満な仲直りか、それとも覆しようのない決別か。

 

 ()()()()()()。心の渦から這い出た怯えという悪魔(メフィストフェレス)を、蓮は斬首し切り捨てた。臆病者(おまえ)はいらない、覚悟(おれ)の邪魔だ。だからそこをどけ、弱い藤井蓮の残骸(おくびょうもの)。震え、拒絶することしか出来ない弱者は()()()()()()()から────。

 

 彼はじっと扉を見つめ、そしておもむろにノブに手を掛けた。逢瀬はその様を後ろから見守っている。そう、あと一押し。あとほんの少しの勇気があれば、それで良いのだ。

 

 数秒の硬直の後、意を決して蓮は扉を開いた。瞬間、集中する視線。聖人の脇を穿つ血染めの槍の如き不躾なそれは、ただ一点、蓮にのみ注がれていた。

 

 突然の注目にたじろぐ蓮。当然であろう、人前に立つことに慣れているような人種でもなければ、大勢の人間に一斉に見られるなどということをその年齢で体験することなどほぼないのだ。

 

 形成される奇妙な空気。その均衡を破ったのは、とある一つの声だった。

 

「蓮!」

 

 そう呼びかけたのは妙齢の女性。その容貌の中には心配と憤怒がそれぞれ半分ほどの割合で混在しており、纏う雰囲気や声音から、彼女こそが蓮の母親なのだろうと逢瀬は推測した。

 

 彼女の気持ちは痛いほど理解出来る。愛すべき我が子とこのような場所で分かたれたのだ。親としてどれほどの焦燥に苛まれたかは語るべくもない。

 

 それを蓮も理解しているのだろう。烈火の如く浴びせられる説教に、意地になって何か言い返すようなことはない。しかしその言葉を真っ直ぐに聞いているかと問われればそうでもなく、彼の視線は何処かにいるはずの幼馴染をずっと探していた。

 

 そして見つけた。迷子センターの奥、それぞれの母親の後ろに隠れ、蓮をじっと見つめている二つの影を。

 

香純(かすみ)! 司狼(しろう)!」

 

 叫び、駆け寄る。その後ろで蓮の母親が困惑したような声をあげているが構わない。蓮にとっては二人の幼馴染と向き合うことこそが至上命題だ。

 

 話はまだ終わっていないと、蓮の母親が彼を連れ戻そうと立ち上がる。しかし、それでは意味がない。踏み出した彼の足を止めるわけにはいかないのだ。逢瀬は傍観者の立場をやめ、迷子センターに踏み込んだ。

 

「まあ待ちたまえマダム。これは彼の戦いだ。覚悟を決めた者の足を我々が引っ張っていいものではない」

 

 その声に、蓮と幼馴染二人を除く誰もが振り向いた。突如として声を上げた第三者たる逢瀬の存在に、蓮の母親は露骨に眉をひそめる。

 

 向けられたのは猜疑の視線。しかしそれでも逢瀬が臆すことはない。注目されることなどとうに慣れている。それがどのような視線であれ、人の目を集めてやまない立場にある彼にとって、それは等しく愛すべき光そのものである。

 

 この世は舞台(All the world's a stage,)人はみな役者(And all the men and women merely players.)

 

「僕はあの少年をここまで連れてきた者だ。怪しい者ではないよ」

 

 ────いや、怪しい。

 

 逢瀬に視線を向ける全ての人間がそう思った。それもそのはず、彼の格好は服装こそ普通であるものの、変装用の伊達眼鏡と、屋内にも関わらずモナコハンチングの帽子を着用している。マスクでもしていれば完全なる不審者だ。

 

 自分に向けられる疑いの目が強まったのを感じ、逢瀬は漸く「ああ」とその原因に思い至る。

 

「そうだね、素顔を隠すような男が信頼に値しないのは当然か」

 

 そう言って、逢瀬は伊達眼鏡と帽子を外し、首の後ろで結んでいた髪を(ほど)く。芸能人として、軽々しく己の顔を他所(よそ)で晒すのは褒められた行為ではないが、この際仕方がない。不審者として通報されるよりは余程マシだと自分に言い聞かせ、変装を解いた。

 

 瞬間、変質する空気。

 

「えっ……もしかして、瀬田────」

「お静かに、マダム」

 

 今にも叫び出しそうな蓮の母親に向け、逢瀬は「しー」と唇に手を当てるジェスチャーをする。

 

 その反応は予想済み────否、その反応をこそ待っていた。過大評価でもなんでもなく、逢瀬の知名度は相当なものだ。余程世間に疎い人間でもない限り、その名前と顔を見たことがないという者はほぼいないことだろう。

 

 それが女性なら尚更だ。逢瀬のルックスやキャラクター性は際立って個性的で、それに魅了された人間は数多い。彼女もその例外ではなかった。〝貴公子〟の一声に撃たれ、彼女から発せられようとしていた物音は静寂に圧殺された。

 

 全ての視線を自分に向けることで、蓮への注意を逸らす。ここから先は彼と幼馴染達の三人舞台だ。誰かに邪魔はさせない。

 

 逢瀬は蓮の方を見遣る。そこでは蓮が二人の幼馴染に向け謝っている姿があった。それに対する幼馴染達の反応は好意的なもので、どうやら彼の勇気は無駄にならなかったようだと逢瀬は安堵の息を漏らした。

 

 これで逢瀬の役割は終了だ。蓮は己の矜持を超越した。逢瀬はその超越の物語を見届けた。背中を押す者として、それ以上すべきことはない。

 

 逢瀬は踵を返そうとし────直前で止まった。このまま立ち去ってはならない。何故なら立つ鳥跡を濁しまくっている。迷子センター内のほぼ全ての視線を集めておいて何事もなかったように立ち去れるわけもない。幾ら蓮のためとはいえ、顔を晒すのはやはりやりすぎだった。

 

 〝瀬田逢瀬がここにいる〟という事実は隠蔽されなくてはならない。主に、放置してしまったら今後の対応に追われることになるであろうマネージャーの胃の為に。

 

 故に、逢瀬は踏みとどまった。なんとかして彼女らの口を塞ぎ、上手くこの場を切り抜ける策を考える。

 

 最終的に辿り着いた結論は、()()()()()()()()()()だった。

 

「いいかい、マダム。これから僕の言うことをよく聞いて」

 

 即ち、〝貴公子〟の名の通りに。数多の者を魅了した輝きを以って、彼はこの場にいる者たちの心を支配する。

 

「今ここで起きたことは、全て儚いユメだ。水底の妖精(ルサルカ)が見せた泡沫の残影だ。だから、貴女の前にいる僕は幻影に過ぎず、本当は何も、誰もいなかったと思ってくれ」

 

 そう、つまりは。

 

()()()()()()()()()()。ここには迷子になった子供を迎えに来ただけで、それ以外に何も起こらなかった。子供は一人で帰ってきて、再会を果たした貴女たちは水族館を楽しみ何事もなく日常を過ごしたんだ。

 ────わかったかな、子猫ちゃんたち?」

 

 有無を言わせることなどしない。考える暇など与えない。気づかれぬように相手を自分の舞台に引きずり込み、魅せつけろ。それこそ演者()の成すべきことである。

 

 そして、その目論見通りに、蓮の母親たちは逢瀬の言葉に魅せられていた。遥かな日に過ぎ去った過去の乙女のように瞳を逢瀬に向け、今にも叫び出しそうな口を彼の言いつけ通りに塞いでいる。それを確認した逢瀬は、一言、

 

「────いい子だ」

 

 それだけ言い残し、伊達眼鏡と帽子を着けると迷子センターから退去する。その扉を閉める直前、「あの!」と奥から声がした。振り向けば、蓮が逢瀬をじっと見つめていた。

 

「あのっ……ありがとうございました!」

 

 告げられたのは礼。逢瀬は笑い、言葉を返す。

 

天は自ら助くるものを助く(God helps those who help themselves.)。頑張ったね、少年」

 

 その言葉を最後に、彼はそこから立ち去った。扉を閉め、ある程度離れると、迷子センター内から驚愕とも取れる声が響き渡る。出来れば彼女たちが口の硬い人間でありますようにと、逢瀬は人知れず心の内で祈った。

 

 直ぐに花音を待機させていた水槽の前まで行き、彼女を回収する。

 

「終わりました?」

「ああ。ごめんね松原嬢、待たせてしまって。だが安心してくれ。迷える少年は仲間の中へ再び戻り、その心にかかっていた雲を晴らした。であればこそ、僕たちのこの一時(ひととき)を阻むものなど他には────」

「あっ、それなんですけどね」

 

 逢瀬の言葉を遮り、花音は鞄から水族館のパンフレットを取り出し逢瀬に見せる。指差しているのは閉館時間の欄だ。彼が時計を確認すると、今の時刻はその十五分前。

 

 詰まる所、帰る時間である。

 

「……わかりました?」

「……ええー」

 

 気の抜けた返事しか出来なかった。何故だろうか、今日ゆっくり見られた展示が三十分のクラゲ鑑賞しかなかったように逢瀬には感じられた。帰ったら夕食には乾燥クラゲのきゅうり和えをメニューに加えようとひっそり決意する。

 

「どうします?」

「帰ろうか」

 

 閉館時間が迫っている以上、長居しても仕方がない。館内放送でも退出を促すアナウンスがされている。ならばそれに従うのが筋だろう。

 

 そう考え、逢瀬と花音は出口へ向かった。その最中(さなか)、彼は迷子センターから出て来る団体に目を向ける。その中には、楽しそうにはしゃぐ三人の子供が。

 

 素直な気持ちをぶつけ、再び集った仲間たち。それを見て、逢瀬の胸にとある思いが去来する。

 

「────ああやって……」

「どうかしたんですか?」

 

 逢瀬の歩みが遅くなったことに疑問を持った花音の声で現実に引き戻される。「なんでもないよ」と答え、花音に続いて出口から退館した。

 

 帰りは特に何も起こらなかった。行きのように花音が迷うようなこともなく、花音が満員電車に流されるようなこともなく、花音が自分勝手に動くようなこともなく、彼らは無事に地元へ帰ることが出来た。

 

 また迷われては堪らないと、逢瀬は花音を家まで送り届けた。そうして自らも帰路につく。乾燥クラゲはここまでの道で買ってきていた。

 

 帰宅し、ただいまと告げても返事がないことから、家の中に誰もいないことを知る。薫は演劇部だろうかなどと考えながらリビングに行き、荷物を置いて────。

 

 ガン、と音が響くほど、逢瀬は強く自らの頭を壁に叩きつけた。

 

「……僕はさっき、何を考えた」

 

 思い出されるのは水族館から出る直前のこと。自分が後押しした蓮とその幼馴染たちの様子を見て、逢瀬は一つのことを考えた。考えてしまった。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 何を言う、ふざけるな。そんなことが許されないのは誰よりも自分がわかっているだろう。子供の戯れを見て羨ましくなったとでもいうのか。そんなことはない、そんなはずはない。

 

 これはただの疲労だ。心労だ。休めば治る一時(いっとき)の迷いだ。だから、そんなことを考えた事実など消し去ってしまえ。

 

 壁から頭を離す。一度息を吸い、吐いた。仮面を被れ。そうしてきたのはお前自身だろう。

 

 その時、玄関から声がした。薫の声だ。逢瀬は顔に笑顔を貼り付け、出迎える。

 

「おかえり、妹よ。今日の夕食はクラゲだ」




 那由多に至る永劫の繰り返しの中で、在りし日の超越する人の理(ツァラトゥストラ)と同じ名を持った少年が、出先の水族館でとある青年と出逢う。そんな回帰もあったのかもしれない。母親いる時点で別人ですけどね。

 今回原作キャラの出番が少ない。次回からはもっと出番増やしたい。

 そして段々と明らかになっていく彼の闇。彼の身体に刻まれた傷は縫合痕とのことですが、果たして四年前に何があったのか────書けるのはいつになるだろう。

 ここからは評価者様のご紹介。

☆9 Fiona Glint様

 あなたに感謝を。ホント、評価と感想が来るだけで小躍りする単純な作者なので、いつもそういったものをくれる方には足を向けて寝れませんよ。

 それではまた次回。感想・高評価など頂けると更新速度がナメクジからプラナリアくらいには上がります。


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第十三話

 とある諸事情により、私の書いていた作品全てを一ヶ月ほど全編非公開にしておりました。ご心配をおかけしてしまった方々がいらっしゃれば、この場を借りて謝罪致します。

 今回はコメディ。コメディだよ。コメディの練習なんだから本来全編こうあるべきなんだよ。わかってるかおい私。シリアス好きだから仕方ないね。


 インクの染みた紙。描かれた過去の断片は鮮やかに、どこかの時代に起きていたはずの情景を写し出す。

 

 頁を捲る。想起せよ、そこに在る過去を。

 

 頁を捲る。回起せよ、かつて見た過去を。

 

 頁を捲る。喚起せよ、いつか居た過去を。

 

 潮騒のように走るノイズを、◾️◾️◾️◾️として定着させよ。

 

 喧騒のように響くノイズを、◾️◾️◾️◾️として固定させよ。

 

 ◾️◾️◾️◾️は健在である。◾️◾️◾️◾️は健在である。◾️◾️◾️◾️は健在である。

 

 そう示せ。そう顕せ。それこそが、◾️◾️◾️◾️の成すべき至上命題である。

 

 演劇を踊れ。歌劇を謳え。◾️◾️◾️◾️という理想は、◾️◾️(理想)を舞ってこそ美しい。

 

 故に、さあ────舞台装置の糸を引こう。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 とある日の昼下がり。テレビ局の楽屋の一室。逢瀬はワイドショーの撮影を終え帰路に就こうとしていた。

 

 その日出演したのは料理番組、そのゲスト枠である。『毎週違うゲストを呼んでその人物に料理人の助手をやらせる』といったコンセプトの番組で、今週白羽の矢が立ったのが逢瀬だったのだ。

 

 中々上手くできたと、逢瀬は先の己の手際を思い出す。料理人本人よりも目立っていたと撮影終了後にディレクターから苦笑いで言われたが、逢瀬という個性故にそれは仕方ないことだと勝手に納得されていた。

 

 いつもは行く先々に同行するマネージャーは今日はいなかった。行きまでは一緒だったのだが、片付けなければならない急な要件があるとのことで一足先に事務所に戻ったのだ。

 

 予定を書き込んである手帳を開いてこの後特に何も予定がないことを確認する。荷物を纏めて楽屋を出ようとしたとき、ポケットに入れていたスマートフォンが着信の振動に震えたことがわかった。

 

 見ると、送り主は以前連絡先を交換した丸山彩であった。

 

『今時間ありますか?』

 

 端的な文章。彩からこうしてメッセージが送られてくるのは初ではなく、また、さして珍しいことでもなかった。

 

 最初に電子上の言葉を交わしたのは連絡先を交換した二日後。その日のレッスンを終えたのであろう彼女から、パスパレの面々がそれぞれの練習に打ち込んでいる様子の写真が送られてきたのが始まりだった。

 

 以来、逢瀬と彼女は度々言葉を交わしている。彼の方から送ることは少ないが、何か向こうから話しかけられればそれに返答する程度のことなら日常的にやっていた。その中で、彩から「時々瀬田さんの公式アカウントの方に間違えて送っちゃうんですよね」と言われたことをよく覚えている。

 

 再びメッセージのポップアップが画面上に飛び出す。

 

『お時間があるなら私たちの練習見てもらえませんか?』

 

 逢瀬はスマートフォンの画面上方に記されている時間表示に目を向けた。時は十四時半ほど。事務所内のホワイトボードに書かれていたレッスンルームの予定表によれば、たしかこの時間帯はパスパレがそこを使用すると記されていた。

 

 その記憶通りならば、彩を含むパスパレの面々は今現在練習中なのだろう。

 

『勿論いいとも。子猫ちゃんの頼みとあらばね』

 

 断る理由もなかったため、逢瀬は二つ返事で了承した。すぐに既読の文字がつけられ、『事務所で待ってます』との返信が届いた。

 

 スマートフォンを仕舞い楽屋を出る。窓の外に立ち込める暗雲を見上げ、一雨来そうだと嫌な感慨を抱いて、逢瀬は事務所の方へ足を向けた。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 暫し電車に揺られ、事務所の中と外を隔てる自動ドアを(くぐ)る。結局ここに至るまでに雨に降られることはなかった。その幸運に感謝して、彼は右手にコンビニのビニール袋を提げて事務所の廊下を進む。

 

 季節は未だ六月下旬であるが、どうやらこの島国の気候というものは最近になって四季と加減という概念を忘れたらしい。梅雨明けの宣言が為されていないにも関わらず外の空気は蒸すように熱されていて、その対策の為か、事務所内の空調はこの時期にしては珍しくフルで稼働していた。

 

 彼の持つビニール袋の中に入っているのは数本のスポーツドリンクだった。楽器の演奏には体力も神経も日常生活以上に酷使されることは想像に容易い。そこに何か栄養源となるものを注がなければ疲労とストレスが溜まる一方である。

 

 レッスンルームの前まで辿り着き、扉を叩く。返事はなかったが、間隔を空けずに中から──恐らく日菜のものと思われる──笑い声が聞こえてきた。

 

 きっと何かに気を取られて気づいていないのだろうと判断し、逢瀬は扉を開いた。そしてそこで見たものは────

 

「……あっ」

 

 人差し指を一方向へ向け、手を胸の前に掲げ、片足を挙げてウィンクする謎の姿勢を取った彩であった。

 

 先の『ヤバイ、見られた』というような音色を含む声を発したのは、逢瀬の方を向いて微動だにしない彩だった。その横では日菜が腹を抱えて大笑いしている。更に視線を横に動かせば、どのように反応したらいいのか困っているであろう麻弥と、何故か目を輝かせて彩を見つめているイヴの姿があった。

 

 逢瀬はそれぞれに視線を巡らせる。最後に彩に目を固定し、僅かな空白の時間の後、逢瀬は己の胸に左手を当て、キザに微笑みながら告げた。

 

「ああ、実によく君の魅力が表現されているポーズだ。それは君というアイドルをこれ以上なく愛らしく魅せるものに他ならない。ミロやボッティチェッリがこの世に(あらわ)したヴィーナスでさえ、僕の心にここまでの印象(しるし)を刻むことはなかったとも。

 ……うん、だから、その……その顔をやめてくれないか」

 

 普段通りの歯が浮くような台詞だったが、最後の言葉尻は困ったような声音だった。そして、逢瀬がこのような声を出したのには当然理由があるわけで。

 

 その発端たる彩は現在、顔色をわかりやすく赤や青に塗り替えながら、恥ずかしさと混乱の最中(さなか)にいた。

 

 研究生時代からずっと改造と改変を繰り返してきた己の必殺ポーズを見られた。それ自体にさして問題は無いはずなのだ。事実、パスパレメンバーに披露した時は──各々に妙な反応をされたとはいえ──恥ずかしさなど微塵も感じなかった。

 

 それが今は違う。ただ見られたのが逢瀬であるというだけなのに、心の中には先程までは全く存在しなかったはずの〝恥〟という概念が渦巻いている。その理屈がわからなくて、彩は余計に混乱してしまう。

 

 彼の顔が真っ直ぐ見れない。何故自分はいつも、憧れの人に恥ずかしい一面を見せてしまうのか。そんな一寸の後悔が飛来し思考の暗黒に消える。

 

 最終的に、彩の目の端に浮かんだ涙が導いた結論は、現状からの逃避だった。

 

「うわああああああああん!!!」

「丸山嬢────!?」

 

 火を吹きそうなほどに熱を持った顔を覆って、逢瀬の横を通過し彩はレッスンルームの扉を飛び出した。その背中を逢瀬の困惑の声が追いかける。だが、それを大人しく聞き届けるだけの余裕は、残念ながら今の彩には存在しなかった。

 

 走り去る彩の背中を眺め、逢瀬は唖然とした表情で立っていた。果たして自分は何かしてしまっただろうか。疑問の答えは脳内で決議されることはなく、それでもきっと自分が原因なのだろうという確信だけが、逢瀬の中に募っていた。

 

「あー、泣かせたー」

「人聞き悪いこと言わないでくれるかな!?」

 

 日菜から茶々が飛ばされる。彼女は先と同じくとても楽しそうに笑っていて、今眼前で行われている不定形な茶番劇を外野から眺めて野次を飛ばすことを至上の喜びとしているように見えた。それらしく言うなら「るんっ♪ てきた!」というところだろうか。

 

「なるほど! これがサナダノブユキとサナダユキムラの涙の決別ですね!」

 

 そう言って、一人少々別の方向性で興奮しているのが若宮イヴである。外国人特有のズレた日本かぶれを内に宿す彼女には、彩が混乱の末走り去っていったこの構図が、第二次上田合戦に至るまでの真田兄弟の葛藤にでも見えているのだろう。

 

 それは少し……否、だいぶ違うのではないかとその場にいる誰もがイヴに対しそう思った。逢瀬は一度息を吐き、ビニール袋からスポーツドリンクを一本取り出すと、残りを日菜に渡した。

 

「僕は丸山嬢を探してくるから、君たちはそれでも飲んでいてくれ。根を詰めるのも悪いとは言わないが、それで君たちの身に何かがあれば僕の心が痛む。休息は必要だよ」

 

 告げ、逢瀬はレッスンルームを出た。彩がどこに行ったかは定かではなくとも、精々が屋内である。近場から(しらみ)潰しに探せばいつかは巡り会うだろう。たとえそうではなくとも、彼女から自発的にレッスンルームに戻ってくれれば御の字だ。

 

 通路を右へ。階段を上へ。通路を左へ。階段を下へ。行ったり来たりを繰り返し、歩き回ること凡そ十分ほど。レッスンルームの存在する階層の二階上の自販機スペースのベンチに彩は座っていた。その顔は何処と無く暗い。

 

「見つけた。人を惑わせるのが得意な子猫ちゃんだね、君は」

 

 近づき、スポーツドリンクを差し出す。彩は一瞬それと逢瀬の間に視線を彷徨わせた後、おずおずと受け取った。

 

「走って疲れただろう。栄養補給は重要だよ」

「あ、ありがとうございます」

 

 礼を言い、彩はペットボトルに口をつけた。細い喉を上下させ、渇いた身体に生命の潤滑油を流し込む。わざわざ己を探してこれを持って来てくれたという彼の優しさが、彩の心に少しばかりの軋みを齎す。

 

 逢瀬が彩の隣に座った。本来ならレッスンルームを飛び出して来てしまった彩を連れ戻すのが彼の目的であるのだが、その行動を見るに、恐らくは自分が落ち着くまで待ってくれるのだろうと彩は推測する。

 

 本当に、人がいい。他人の身勝手にすら付き合おうとするなど、少々献身的が過ぎるのではないか。ペットボトルを両手で握る。少し(ぬる)くなった冷たさが心地いい。

 

「ああそうだ。一つ聞かせてくれないかな」

「なんですか?」

()()だよ。練習を見てほしいから来てくれ、とのことだったけど、どうして僕なのかな」

 

 逢瀬から投げられた疑問。先のメッセージは、客観的にはただリスナーを欲しているだけにも見える。それならコーチで事足りるだろうし、それでダメなら事務所内を歩いている暇そうな誰かを捕まえればいい。

 

 それが彼には疑問だった。

 

「えっと、それはですね……」

 

 彩の説明によれば、どうやら事の発端は逢瀬のマネージャーらしかった。

 

 彩が偶然事務所の廊下でマネージャーと遭遇し、世間話がてらそういった話をしたところ、「ならそろそろ撮影終わる頃だし、逢瀬くんに頼んでみたら?」と言われたらしい。

 

 彩としては、こんな駆け出しアイドル──というよりアイドル未満──の我儘に超有名人を付き合わせていいのか恐れ多い気持ちだったが、考えてみれば弱音を吐いたり連絡先を聞き出したりと、割と我儘はやらかしていた。

 

 ならば後は、その我儘の数が二から三になるだけである。彩だって、()()()()()()()()()()()()()()()()出来ることなら見てもらうのは逢瀬がよかった。もっとも、それは口には出さないけれど。

 

 あとはそう、もう一つ。

 

「瀬田さん、ダンスお得意だって聞いたので。マネージャーさんが言ってました」

「……彼女は随分僕の個人情報を漏らしてくれるね」

「あははっ。それで、迷惑でなければ私にも教えてほしいなー、なんて……」

「昔取った杵柄だが、僕に教えられることなら喜んで教えよう」

 

 彼のマネージャーが言っていた一つの事実。逢瀬は過去にとあるPVでダンスを披露する機会があった。その時に鍛えたテクニックが彼には身についているとのことだ。

 

 逢瀬の運動神経は悪くなく、むしろ相当いい方だ。流石にアスリートには及ばないが、一介の成人男性と比べればその身体能力は飛び抜けているといえる。

 

 多大な私情が混ざっているとはいえ、彩が逢瀬を呼び出す大義名分はそれで十分だった。

 

「それじゃあ、戻ろうか、丸山嬢」

 

 逢瀬が席を立つ。彩もそれに続いた。

 

「ああ、それと、まだ聞きたいことはあったんだ」

 

 レッスンルームに向かう途中、思い出したように逢瀬が言った。

 

「結局、君はどうして逃げたんだい?」

「……聞かないでください」

 

 言えない。「必殺ポーズを見られたのが恥ずかしくて逃げました」などと、口が裂けても言えるものか。

 

 失態の記憶が二度目の恥ずかしさを再来させる。気まずい沈黙を保ったまま、彩は顔を赤くして、早くレッスンルームに辿り着くことを願うしかなかった。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 彩を引き連れレッスンルームへの入室を果たした逢瀬は、彩への指導に先立って羽織っていた上着を備え付けの椅子に放り投げた。続いてポケットからヘアゴムを取り出し、(なび)く長髪をポニーテールの形に纏める。最後に髪を指で流して頭を軽く揺らす。その動作だけで、まるで洋画のワンシーンのように辺りの空気が輝いたかに思えた。

 

「いやー、あの人本当にすごいっスね。ジブンと同じ人間なのか、なんだか信じられなくなりそうです」

 

 逢瀬の準備を見てそう(こぼ)したのは麻弥だ。物語の中から飛び出してきたかのようだ、という前評判に違わぬのは以前の接触で既に確認済みだったが、何度見てもそのオーラというものには目が()かれる感覚が拭えない。

 

 その麻弥の発言を知ってか知らずか、逢瀬は彩の前に立った。どこか熱っぽい視線を輝く雰囲気の中心に居る逢瀬に送り、心此処に在らずといった風体(ふうてい)の彼女と逢瀬の対比は、逢瀬自身の堂々とした態度も相まってひどく格差があるように見えた。

 

「さあ、呆けている時間は終わりだよ、丸山嬢」

 

 その一言で彩の意識が現実に引き戻される。そこで漸く逢瀬が目の前にいることに気づいたのか、「はわっ!?」と間抜けな驚愕の声を放って後ろへ飛び退いた。

 

「ふふ、そう逃げないでおくれ。何も取って食おうというわけではないよ」

「あっ……す、すみません」

「謝らなくてもいいさ。まずは深呼吸とリラックスからだ。精神状態とパフォーマンスはリンクしているからね。

 さあ、瀬田逢瀬のダンスレッスンの始まりだ!」

 

 大仰に両手を広げ、逢瀬はそう宣言した。

 

 彼が彩に最初にやらせたのは、普段コーチの(もと)でやっている基礎の練習からだった。まずは相手がどこまで出来ているか確認する。それは誰かに物事を教えるという行為においての最優先事項であったからだ。

 

 それを繰り返させること、凡そ数分ほど。

 

 彩がいつものメニューをこなし終えて逢瀬に目を向けると、彼は困ったような顔で眉間を揉んでいた。

 

「丸山嬢……言いにくいんだけど、君実はそんなに運動得意じゃないね?」

「……やっぱり、わかっちゃいます?」

 

 あはは、と苦い笑いを浮かべる彩。彼女の身体能力は、実を言えばそれほど高くない。

 

 跳び箱を例に挙げるとすれば、彼女は小学生でも跳べるような段数で引っかかる。足が速いわけでもなく、年度初めのスポーツテストの五十メートル走では、並走する出席番号が隣同士の友人に置いていかれることもしばしばだった。

 

 決して輝かしいとは言えない、己が過去に積み重ねてきた失態を思い返し、彩は少しばかりの沈んだ感情に支配される。

 

 しかし逢瀬が何よりも目についたのはそこではなく、彩の身体の柔軟性についてであった。

 

「身体が硬い。そうなると五体を動かせる範囲も限られるし、他人の目に映る君の見栄えも悪くなる」

 

 運動全般に言えることだが、こういったものは一朝一夕で改善できるものではない。

 

 日々の反復。出来ていないなら出来るようになるまで、癖がついていればそれを矯正するまで、有効な改善策を講じ続けることが最も重要な事項である。彩とてこれまで全く何もしなかったということはないだろうが、それでも不得意を覆すほどの〝回数〟が足りていない。

 

「今日からでも出来ることとして、とりあえず風呂上がりに十分くらい柔軟体操をしてみるといいよ。身体を柔らかくする方法としては有名だろう。すぐに効果はわからないだろうけど、繰り返してれば(じき)に何かが変わるはずだ」

 

 ならばまずは回数(それ)を増やす。闇雲にやればいいというわけではないが、かと言って動かなければ進展など望むべくもない。

 

 彩もそれは承知の上なのだろう。露骨にではないが、僅かな悪感情が表情から滲んでいる。

 

「じゃ、じゃあ、一つだけ! ……お願い、聞いてくれませんか」

 

 その悪感情の苦味を吹き飛ばすように、彩は逢瀬に迫った。彼女の心臓がその脈動を早める。顔が熱を持ち、喉を締められるような緊張が彼女の決意を縛り付ける。

 

 その全てを振り払い、彩は意を決して言葉を紡いだ。

 

「その……毎日、私にそのことを言ってください! 連絡してください! そうすれば絶対忘れないので!」

 

 言ってすぐ、彩はハッとした。ひょっとして、自分は今とんでもなく無礼なことを口走ってしまったのではないか? 

 

 また我儘を重ねてしまう。かつてした身勝手と同じように、また頼りたくなってしまう。先程感じていた恐れ多さはどこへ行ったと己の浅慮を恥じた。

 

 急いで謝ろうと思った。誤魔化すように手を振って「違うんです!」と要領を得ない弁明を繰り返す。

 

 しかし、それに対する逢瀬の反応は、彩の予想の中で行われていたものとはかけ離れていた。

 

「なんだ、それくらいなら喜んで役目を背負わせてもらおう」

 

 一瞬の逡巡すらなく、逢瀬は二つ返事で了承した。「へ?」と、彩の口から状況理解を成し得なかった脳が発したメッセージが漏れ出る。

 

「え、えっと、いいんですか?」

「いいとも。シンデレラに定刻を告げる鐘の役だ。責任を持ってやり遂げるさ」

 

 頼まれたことはただ連絡をするだけなのだが、逢瀬が『する』と言うだけで、それがまるで運命を左右する重大な出来事かのように彩には思えた。

 

 シンデレラ云々はよく理解出来なかったが、要するに請け負ってくれるということだけははっきりと理解出来た。そしてすぐにそれが意味するところを察する。

 

 それはつまり、憧れの人と毎日遣り取りができるということで────

 

 それに気づいた瞬間、彩は本日何度目になるかもわからない赤面を晒した。涼しい屋内にいるというのに、熱中症にでもなったかと思うほどの見事な赤だった。

 

 燃え上がる。混乱と情念が渦を巻いて、茹で上がる意識の中で炎の螺旋を描いて混ざる。

 

 もう限界だった。脳がオーバーヒートを起こして沸騰し、早まる脈動が全身を駆け巡る。彩は遂に己の重みを支えることすら困難になり、(もつ)れた足が子鹿の如く奇怪なステップを踏む。

 

 そして最後、とうとう耐え切れなくなって床に倒れ────

 

「おっと、大丈夫かい?」

 

 ────そうになったところを、逢瀬が抱き留めた。自然と近くなる物理的な距離。かつて眺めることしか出来なかった美貌が、今、自分と密着して顔を覗き込んでいる。

 

 紫紺の瞳が桃色の瞳と交わる。その刹那に満たない視線の交差を、彩は永遠に等しく感じていた。

 

 早くなる鼓動。渦巻く思考。この場を切り抜ける最適な方法を脳が検索する。どうしよう、どうすればいい、どうするべきだ。無限に繰り返される果てなき(まわ)灯籠(どうろう)の回帰が導いた結論は一つだった。

 

 即ち、

 

「……きゅう」

「丸山嬢? ……丸山嬢────!?」

 

 意識を手放し、思考を放棄する。詰まる所、気絶だった。




 私が〝人間〟を書くと、誰かしら何処か振り切れてしまう。すまんな丸山。

 ここからは評価者の方々。
☆10 百式短機関銃様、フンババ様
☆9 暁ネズミ様、まさに外道様、黒鵜様、Alan=Smitee様
☆8 梅屋様、アオン様

 あなた方に最大の感謝を。

 感想、高評価などお待ちしております。来ると作者が喜びます。

 次の更新は私がゲッテルデメルング終わらせてからです。


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第十四話

 ゲッテルデメルング終わったので初投稿です。実は前回投稿から二日後には終わってました。投稿遅いのはデフォなのです。

 今回はちょっとエロいよ。


 雨が降っていた。

 

 雨。空の涙。神の嘆き。そんな表現があることを思い出して、昔の人は自然に作為的な何かを見出そうとしていたのだろうかと、逢瀬は黒い雲に覆われた空を見上げて考えた。

 

 手に持っているのは傘。遥か上空から雫が叩きつけられ、小さな破裂音とともに散っていく。

 

 ひどい雨だった。梅雨がそろそろ明ける頃だからか、空が最後の大盤振る舞いだとでも言わんばかりに涙を流す。

 

 逢瀬は今、雨空の下で立っていた。その表情は何処と無く物憂げで、まるでこれから起きることに対して大きな拒絶の意思を抱いているかのようだった。

 

 ────君も随分意地の悪いことをする。

 

 ────運命の悪戯か。それとも仕返しのつもりかな、丸山嬢?

 

 ふと、足元の水溜まりに映った己を見た。そこにはいつもの瀬田逢瀬がいる。落ちる雫が波紋となって、そのシルエットを掻き乱して混ざる。

 

 逢瀬は溜め息を吐いた。嗚呼、ひどく憂鬱だ。出来れば()()()には進みたくない。その思いが彼の心に一筋の光芒となって尾を引く。

 

 彼が今何処にいるのか。果たして何を思って其処にいるのか。その全ては、彼の表情が物語っていた。

 

 彼は今、白鷺家の玄関扉の前に立っていた。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 時は雨が降り始める前、逢瀬が事務所内にいた頃にまで遡る。

 

「白鷺さんが来ない?」

 

 気絶から回復した丸山彩は、逢瀬に一つの相談を持ちかけていた。

 

 場所は事務所の一角に備え付けてあるカフェテリアの端の席。手元には逢瀬のコーヒーと彩のスムージー。既に彩は練習着から普段着に着替え、逢瀬も結んでいた髪を下ろしたいつも通りの格好で相対(あいたい)していた。

 

 彩の相談事というのは白鷺千聖のことであった。Pastel*Palettesのベース担当、仮にも仲間と呼べるはずの間柄の少女。そんな彼女が、例の一件以来何度も行われていたパスパレの練習に()()()()()()()

 

 メッセージアプリで連絡を交わすことはあっても、それだって『明日は別の仕事がある』などの業務連絡のみで、練習への参加に好意的な反応を示されたことはない。そういうこともある、千聖ちゃんだって忙しいんだから。そう自分に言い聞かせて、日に日に心に食い込む疑心の棘を誤魔化すのも、少し辛くなっていた。

 

 故、縋ろう。この人に。自分ではどうにもできない問題なら、その解決に最も近い人間の力を借りるべきだ。彩がその結論に至るのに、さして時間はかからなかった。

 

「つまり君は、僕に彼女の説得を任せたいということだね」

 

 その結論は間違っていない。それは誰でも辿り着く最良の帰結だ。逢瀬とて、彩の真意に気づかなかったわけではない。

 

 だがそれでも、逢瀬はいつものようにキザに快く了承することを躊躇っていた。

 

 白鷺千聖に近づく。それは、彼が何よりも避けるべき()()()()である。それこそ、最近は接触の機会が多くなったとはいえ、己の〝最奥〟に触れさせるには至っていない。それほどまでに、逢瀬はその接触を忌避している。

 

 それは彼なりの〝矜持〟の問題だ。()()()から現在まで、途絶えることなく続いてきた〝歌劇〟を、イレギュラーで終わらせない為の、高潔でドス黒い〝矜持〟。それが今、彩から告げられた願いを承諾することを良しとしていないのだ。

 

 お人好しな善性と()()()()()()()()()()()()が鬩ぎ合う。彩の願いの根底にあるものは、仲間たる千聖を思いやり、居場所たるPastel*Palettesの存続を求める生粋の善意だ。それをわかっているからこそ、迷う。

 

 夢物語、綺麗事、それを為すのは今のはずだ。()()()()()()()()()()────お人好しの原則が、逃げようとする逢瀬の足を引っ張る影となる。

 

 その葛藤に終止符を打ったのは、対面に座る彩だった。

 

「ダメ……ですか?」

 

 不安。僅かな寂寥を滲ませた表情。迷惑なことを言ってしまったかと、恩人を苛むようなことをしてしまったかと。その思いを、彼女の顔が物語る。

 

 ────ああ、ダメだ。

 

 ────その顔は、ズルいよ。

 

 困ったように微笑んで、彼は「いいよ」と口にした。

 

「請け負った。君の願いは必ず僕が遂げるとも」

 

 目の前で誰かにそういう顔をされてしまえば、このお人好しは断れない。彩にそこまでの意図と策謀が無いことはわかっていても、その顔を曇らせることを、逢瀬は是とすることが出来ないのだ。

 

 果たしてそれは強さか弱さか。その気性を嫌悪したことも後悔したことも無いが、時々薫から難色を示されるのは確実にそれが原因だろう。自覚はしている。

 

 残っていたコーヒーを飲み干して、逢瀬は席を立った。彩が慌てて付いて行こうとスムージーのストローに口をつけるのを優しく制し、あとは任せておけと言わんばかりの笑みを浮かべる。

 

 気の進まない事案ではある。しかしそれでも、一度首を縦に振った以上やり遂げる他に道はない。

 

「……ああ、雨だ」

 

 気まぐれに目を向けた窓の外は、雨模様だった。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 インターホンに手を伸ばし、奥へ押し込むことを躊躇う。そんなことを既に三回繰り返していた。雨音が反響して傘の内側を駆け抜ける。ただ数センチ手を動かすだけの単純な動作を、他ならぬ逢瀬自身が拒んでいた。

 

 思い出されるのは以前あった出来事。千聖に昼食に誘われた時のこと。此処に来るのはそれっきりだと思っていたが、まさかまた来ることになるとは思ってもみなかった。

 

 あの時、背後から抱擁した千聖の言葉がフラッシュバックしそうになって、それを急いで抑え込む。またあの頭痛に見舞われては彩からの頼まれ事を果たせなくなりそうだったからだ。

 

 一言だけ要件を伝えて早く帰ろう。逢瀬は覚悟を決めてインターホンに指を当て、力を込めた。

 

 十秒待った。二十秒待った。三十秒待った。返事はない。外出中だろうか。それならそれで日を改める必要が出てくる。また覚悟を決め直すのは手間だった。

 

 もう一度押す。瞬間、ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。誰かからの電話の着信だと気づくのに時間はいらなかった。表示されていた名前は、白鷺千聖。

 

「……白鷺さん」

『開いてるわ。入って』

 

 その一言で電話は切れる。言われた通りドアノブに手を掛けると、僅かな抵抗感すら無く扉が開かれた。

 

 不用心な、と心の内で呟く。まさか普段から開けっ放しではないだろうとは思うが、それでも玄関に並ぶ靴の数を見る限り、今この家にいるのが千聖一人であることは明白だった。そんな状況で鍵を掛けないのは果たしてどういう心境か。

 

 玄関を上がり、千聖の部屋を目指す。案の定家中の電気は消えていて、空間に満ちたその仄暗さが、今彼女が一人だということを指し示していた。

 

 そこで、はて、逢瀬は困った。()()()()()()()()()()

 

 思えば記憶の中に彼女の部屋の様相というものは残っていなかった。当然、場所も。というよりも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 近くの扉を一つ一つ叩いていく。それを繰り返す内、階層としては二階の奥、そこでようやくそれらしき部屋を発見した。部屋の中から僅かな物音が聞こえる。衣擦れと呼ぶには少し鈍い音。けれど、何か布が擦れているということを明らかに指し示すような音だった。

 

 二回、叩く。

 

「白鷺さん?」

「入って」

 

 既に一度聞いた端的な一言。それに少しだけ、逢瀬はたじろいだ。

 

 千聖の部屋。即ち彼女の居城。そこに踏み込むのは、彼には(いささ)か以上に難しい問題だった。

 

 ────否、否、否。

 

 その困難を、呼吸一つと共に噛み砕く。白鷺千聖の部屋に入る? これまで拒んできた彼女の居城に踏み込む? その上で彼女を説得する? ああ、それは確かに難題と云えよう。

 

 だが────()()()()()()()()()()()()()

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 否である。今求められるべきは、少女達を繋ぐ橋渡し。そこに瀬田逢瀬の()()()()()が果たして必要なのか。そうではない。そんなもの、誰も求めていないだろう。

 

「それじゃあ、入るよ」

 

 扉を押し開く。そこにあった光景は、ある種歪とも云えるものだった。

 

 散らかった部屋だった。床にはシーツや服が散乱し、普段の整然とした〝白鷺千聖〟らしさというものをまるで感じさせない。視線を前へズラせば、そこにはベッドの上でシーツにくるまり逢瀬を見つめる千聖の姿があった。

 

 部屋の隅には机。その横に立てかけられるようにして置かれているベース。埃を被ったような様子は見られず、表面の光沢から見える手入れの跡が、それがただのインテリアになっていないことを暗に示していた。

 

 彼がこの部屋を歪と評したのはそれが原因の一つだ。酷くちぐはぐ。例えば床を見れば一面に広がる布の絨毯があるのに、そんな中でも、本棚や逢瀬を映して煌めく姿見は整然と俯瞰するようにそこにある。噛み合わない、空気から浮くような配列。僅かな違和感が視覚となって脳裏を入り込んだ。

 

 部屋に一歩踏み込む。足の下で、踏まれたシーツが軋みのように衣摺れを奏でた。

 

「白鷺さん。話があって来たんだけど、いいかな」

「知ってるわ。彩ちゃんから聞いたもの」

 

 ベッドの上から千聖は返す。その(げん)から察するに、彩は既に千聖に連絡の一本でも入れていたようだった。

 

 わざわざ『これからあなたを説得しに向かわせます』と当の本人に伝えるのは、果たして良いことなのか悪いことなのか判断がつかないが、それでも本題に入る前の状況説明を省略出来たのは嬉しい誤算だった。

 

「それなら話は早い。言いたいことはわかっているんだろう? 君もそろそろ、彼女たちの前に顔を出したらどうかな」

 

 それに、と逢瀬はベースを指差す。

 

「君だって、Pastel*Palettes(あそこ)から逃げてるわけではないんだろう?」

 

 もしも千聖が、ただPastel*Palettesという居場所を見限っただけだとしたら、彼女のベースは埃を被っているはずだ。

 

 千聖は限りなくリアリストな精神性を持っている。やるべきことを精査し、やらねばいけないことをこなし、そしてやる必要の無いことを徹底的に排除する。千聖が〝Pastel*Palettesのベース〟という役割を〝必要の無いこと〟だと判断したなら、彼女はそれを徹底して排除しようとするだろう。それが起きていないということは、まだ千聖はそこに価値があると考えているということだ。

 

「君が何を選ぶかは自由だけど……それでも、君を待っている人がいることは覚えておいた方がいいと思うよ」

「一つ、聞かせて」

 

 彼の言葉は、果たして千聖に届いたのか。逢瀬の言葉尻に重なるようにして、千聖は一つの問いを投げる。

 

「あなたがここに来たのは、彩ちゃんに頼まれたから?」

 

 その言葉は、どことなく悲しげで。

 

 身体に纏ったシーツの端を握り締め、千聖はそう口にした。

 

 逢瀬は閉口した。ここで返すべき最適解を見失ったからだ。それを千聖もわかっているのか、「そうよね」と続けた。

 

「わかっているの、私も。あなたお人好しだもの。頼まれたら断りきれない。彩ちゃんに頼まれたから、こうして私の部屋まで来てる」

「それは……」

「そうでないと、あなたがここに来る理由にならないわ」

 

 全て正解だった。お人好しだから。断れないから。丸山彩という少女の瞳に悲嘆を感じたから。それが全て。彼の行動原理、お人好しの原則に、白鷺千聖という少女は一切介入していない。

 

 千聖にとって、それは鋭利な剣のような事実だった。千聖の前にいる瀬田逢瀬という人間は、逢瀬の前にいる白鷺千聖を見ていない。狭い部屋に二人きりでいるのではなく、一人と一人が同じ空間にいるだけ。二人を隔てる()()()という確たる壁がそこにはあった。

 

 千聖にはそれがひどく悲しい事実に思えた。ああどうして。()()()()()()()()()()()()()

 

「だから、ごめんね、逢瀬君」

 

 ────私があなたに触れるには、こうするしかないから。

 

 その独白が逢瀬の耳に届くより早く、千聖は握っていたシーツの端を思い切り引っ張った。瞬間、そこから繋がる()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()白い布────即ち、逢瀬が足を乗せているシーツが宙を舞った。

 

 上と下が逆転する。前を向いていたはずの視界は一瞬で天井へと移され、重力の楔から解き放たれた身体がその刹那のみ地を離れる。それを認識する前に、背中に走った衝撃が、今自分の身に何が起きたかを如実に彼に伝えていた。

 

 肺が圧迫され、中の空気を残らず吐き出す。危険を感じた本能が咳き込むように呼吸を繰り返し、血液が酸素を求めて血管を駆ける。ようやく脳が現実を理解した時、彼は己のすぐ(そば)にある影を視認した。

 

「──何、を」

 

 それは千聖だった。身に纏っていたシーツはベッドの上に投げ捨てられ、乱れた髪を直すこともせず()()()()()()()()()()()()()。その吐息は僅かな熱を帯びており、瞳は何かを決意したかのように据わっている。

 

「ごめんなさい。出し抜くみたいな真似をして。でも仕方ないの。こうしないと、私はあなたに触れられない」

 

 千聖の髪が逢瀬の胸に落ちた。彼女の手が逢瀬の頰に添えられ、吐息に籠もった温度がより一層の熱を纏う。

 

「……私、何か間違ったのかしら。わかってるのよ、全部。この四年間、あなたが私を避けていることも、その理由も。胸が痛いわ。すごく、痛い。あなたが近くにいないことが、すごく(つら)い」

「白鷺さん……」

「どうしても、ダメなの? 私はもうあの頃の()()()じゃない。()()()()()()()()()()()()()()()()()ような女じゃないのよ」

 

 悲痛な声が雨音に溶ける。彼女の瞳から雫が流れ、逢瀬の横へ落ちた。

 

「ねえ、だから……もう一度、◾️◾️◾️って呼んで?」

 

 ◾️◾️◾️────その音が響いた瞬間、逢瀬の脳を激痛が駆け抜けた。聞くな、聞くなと頭の中の誰かが告げる。あまりの痛みと不意打ちに、彼は表情を取り繕うことすらままならなかった。

 

 千聖はそれをどう解釈したのだろうか。一際悲しそうな顔をして、空いていたもう片方の手も逢瀬の頰に添えた。

 

「白鷺さ────」

「黙って」

 

 二本の親指が口に捻じ込まれた。下の歯を押さえつけられ、口を閉じることを封じられる。言葉にならない唸り声が喉から漏れた。

 

 その時、口に何か熱いものが流れ込んできた。甘い匂いがして、脳が染められていくような、粘性のある液体。それが、同じく対面で口を開けた千聖から滴る()()()()()だと気づくのに時間はいらなかった。

 

 信じられない行為だった。互いの口を繋ぐ銀の橋。彼女の舌を伝って落ちるそれを躱そうとしても、逢瀬の顔は千聖の両手で固定されていて逸らす事が出来ない。彼にはそれを受け入れる以外の選択肢は用意されていなかった。

 

 そして、それだけでは終わらず────

 

「んっ……」

 

 千聖が直接唇を押し当てた。柔らかい感触と、眼前を埋めるように広がる千聖の表情(カオ)。それが逢瀬を侵食していく。現状の理解を脳が拒んでいる。

 

 何が起きた(Error)わからない(Error)認めない(Error)認めたくない(Error)

 

 それは果たしてどれほどの時間続いていたのか。機能を停止していた脳が漸く現状(イマ)を理解する。大急ぎで逢瀬は千聖の肩を掴んで彼女を引き剥がし、酸素不足と頭痛で揺らぐ思考を回した。

 

「白鷺さん……なんでっ、こんな……」

 

 逢瀬の息は荒い。嫌な汗が全身を伝う。その表情(カオ)は紛れもなく病人のそれに違いない。

 

 対する千聖に慌てた様子は無かった。ただ『やはりこうなったか』と、抵抗される未来を予めわかっていたかのように逢瀬の瞳を見つめている。その()から逃れる為に、彼は上に乗る千聖をどかしてその体勢から抜け出した。

 

「ここ最近の君は君らしくない。前まではこんなことしなかっただろう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()。どうしてこんなことを……」

「……ただの幼馴染?」

 

 逢瀬の言葉を契機とするように、千聖の声音が変わった。そこに含まれるのは悲しみだけではない。僅かだが、怒りがあった。

 

「そう。そうなのね。あなた、()()()()()()()()にするつもりなのね」

 

 ────これは、まずい。

 

 逢瀬は直感する。今、確実に己は何か触れてはならない領域に触れた。言うなれば逆鱗。無意識に踏み入った過去の残滓のようなナニカ。

 

 千聖が立ち上がり、逢瀬の胸を軽く押す。さして力の入ってないそれではあったが、逢瀬はまるで見えない力に引かれるかのように部屋の外へと押し出された。

 

「練習には次から参加するわ。曲は一通り弾けるようになってるから心配しないでって、皆に伝えておいて」

 

 その一言とともに部屋の扉が閉められる。「ちょっと」と、逢瀬の上げようとした抗議の声は行き場を失い、誰もいない廊下に虚しく響いた。

 

 兎にも角にも、『千聖を説得する』という当初の目的は達成された。意図せぬハプニングと紆余曲折を経てもそれは変わらぬ事実である。扉越しに「お邪魔したね」と告げ、痛む頭を押さえて彼は外へと向かった。

 

 雨音は、どこまでも響く────。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 閉められた扉の内側。千聖は扉に(もた)れるようにして座り込んだ。

 

 〝やってしまった〟。彼女の心を支配するのは後悔だった。どのような経緯であろうと、彼が来ると聞いた時。嬉しかった。どうしようもなく嬉しかった。

 

 だからだろうか。どうしても気持ちの内側に渦巻く感情を抑えきれなくて、出し抜くような真似をしてまで触れたいと願ってしまった。それが許されないことだとわかっていても、どうしても。

 

 自分の唇をなぞる。まだ感触が残っているような気がした。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。その思いが脳内で免罪符を生み出して、恋情という罪悪感を消していく。

 

 残ったのは一つの思い。先の会話の最中(さなか)、彼の言葉を聞いて生まれた気持ち。

 

 即ち────

 

「絶対に、なかったことになんてさせないんだから」

 

 響く雨音はどこまでも。

 

 彼らの運命を、嘲笑う。




 千聖さん別に病んでないです。ただ愛が重いだけです。……病んでないよね?

 ここからは評価してくださった方々。
☆9 輪廻転生様、*SeTO*様、Cペンギン様、小傘様
☆6 Bibaru様

 以上の皆様に感謝を。

 そういえばお気に入りが900を突破致しました。ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。


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第十五話

 お気に入り1000件、総合評価3000を突破いたしました。本当にありがとうございます。

 十五話。中々話数も増えてきた。


 時間が止まればいいと思っていた。

 

 今が永遠に続けばいいと思っていた。

 

 この先を見たくない。その結末を見たくない。いつか終わるとわかっているから、縋りつこうと手を伸ばす。

 

 届かない。伸ばした手は空を切る。その刹那は、皮肉にも引き伸ばされたように鮮やかで、しかし停滞するには至らない。

 

 どうかお願い、その手を伸ばして。そんな穏やかな表情(カオ)で笑わないで。どんな声でもいいから、少しでも自分の為に嘆いてよ。

 

 あなたの腕に嵌められた、その時計の針を抜いてしまいたい。そうすれば、それはきっと、時を刻むのをやめてくれるのだろうから。これ以上、その先を見なくて済むのだろうから。

 

 眼下に広がる紅蓮の華を見て、悲痛な声であの女(わたし)が叫んでいる。なんで。どうして。あの女(わたし)は何か間違えましたか?

 

 ────その日。黄昏の輝きが皮肉なほど眩しかった、運命の日(Dies irae)

 

 ────あの女(わたし)はもう、弱くては許されないのだと知った。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 ────痛い。

 

 雨が降っていた。慈愛の雫は天高く、見下すように空を覆う黒雲が、嘲笑うかのように地上の者共へ涙の如きそれを叩きつける。

 

 ────痛い。

 

 頭の中を、狂ったように痛覚が駆け巡る。自分ではない誰かが、先刻起きた事象の全てを否定すべきだと叫んでいる。

 

 ────痛い。

 

 唇に残る感触など何も無かった(あれは嘘だ)

 耳に残る言葉など何も無かった(あれは嘘だ)

 眼に残る光景など何も無かった(あれは嘘だ)

 お前は何も見ていない(だから全てを忘れ去れ)

 

 誰か(◾️◾️)がそう叫んでいる。その声の示す通りに、先の白鷺千聖との接触を〝嘘だ〟と認めず記憶の悪意で塗り潰してしまえば、たしかに少しは楽になれるのかもしれない。

 

 しかし────

 

 〝ねえ、だから……もう一度、◾️◾️◾️って呼んで?〟

 

 〝あなた、全部無かったことにするつもりなのね〟

 

 その言葉が、どうしても脳裏に焼き付いて離れない。熱い唾液と甘い口づけの味をも焦がして塗り替えるほどの鮮烈な疑惑が、その言葉たちによって与えられた。

 

 果たして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 実の所、その疑問を抱いたのは今日が初めてではなかった。逢瀬の記憶では、初めてそう思ったのが四年前。()()()()()()()()()の時だった。

 

 あの時に見た千聖の瞳に映る感情は、明らかに────

 

「グッ……ぁガ……っ!」

 

 瞬間、これまでとは比べ物にならないほどの激痛が逢瀬を襲った。土砂降りの雨の中だというのに、傘を持つことすら忘れるほどの痛み。頭の中を幾多もの拷問器具が暴れ回っているような、そんな感覚。

 

 両手で頭を押さえて、覚束ない足で何とか体勢を整えようと地を踏みしめる。しかしその努力すら嘲笑うかのように平衡感覚は仕事を放棄し、ゆらめく身体はすぐ(そば)にあったコンクリートの外壁に激突した。

 

 左肩に走る鈍い衝撃。叩きつける雨粒は一層激しさを増し、自らの重みを支えることすら不可能になった足が半ばから(くずお)れた。左肩を擦らせて逢瀬は地面に膝をつき、乱れた息を整えようと深呼吸を繰り返す。

 

 ────今のは……?

 

 最近になって、逢瀬はこのように痛みに見舞われることが多くなっていた。〝契機〟の条件は相も変わらず不明だったが、それでも記憶している限りではここ一ヶ月程度の間に三回それは起こっている。

 

 一度目。丸山彩の相談を受けた帰り道。いつものように、誰かの味方でいると宣言したあの日。その中で告げた一つの言葉が〝契機〟。

 

 覚えている。苦痛に呻きながらも〝復習〟を為し、しかしながらその最中に寝てしまったことも。奇妙な夢の中で、少年少女が不可解な約束を交わしていたことも。

 

 二度目。白鷺千聖による謝罪の後。彼女の弱々しい抱擁を受けたあの日。その中で告げられた一つの言葉が〝契機〟。

 

 覚えている。逃避を求めながらも逃げられず、彼女の言葉に耳を傾けてしまったことを。〝あの頃〟という言葉に打たれ、()()()()()()()()()()()を語られたことを。

 

 三度目。白鷺千聖の独白と暴走。粘膜と粘膜の接触を味わったその時。その中で告げられた一つの名が〝契機〟。

 

 ────その名前を、僕は知らない。

 

 逢瀬はそれを()()()()()()。千聖の言葉の全ては、彼の中で意味を為さない、像として結びすらしない乱雑な光の集合体のようなものだった。

 

「◾️◾️◾️……ギッ……ガァ……っ!」

 

 口に出すだけで、再び脳の拷問器具が暴れ出す。凡そ中世の罪人であろうと味わうことのなかったであろう苦痛の連鎖に、詰まるような苦悶の呻きが喉から絞り出される。

 

 逢瀬は不思議でならなかった。何故、たった三文字を口に出すだけでここまで己が苦しめられるのか。果たしてそこに何の意味が込められている?

 

 それは何の変哲も無いただの〝名〟だ。千聖が口にした、恐らくは彼女の言う〝あの頃〟に付随する呼び名。しかし知らない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 震える足と揺れる視界を無理矢理世界の照準に固定し、逢瀬は壁を支えにして立ち上がる。地面に膝をついたときに服や長髪の端が汚れたが、それは洗い流せば済む話だ。気にする価値のあるとは思えない些事でしかなかった。

 

 近くに転がっていた傘を拾う。もう全身濡れ鼠に等しい状態で差す意味があるとはお世辞にも言えないが、それでもそうやって雨の日にすべき行為をなぞることが、逢瀬には不思議と大切なことに思えた。

 

 ────帰ろう。

 

 陰鬱な雨に濡れて、過去の痛みはどこまでも遠く鳴り響く。

 

 ────ああ神よ。いるならどうか教えてください。

 

 ────この痛みは、いったいどこから来たものですか?

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「ああ、おかえり兄よ……って、どうしたんだい。そんなに濡れて、傘を持っていなかったのかな?」

 

 逢瀬が玄関のドアを潜ると、リビングから出てきた薫が開口一番そう言った。「ちょっと子猫ちゃんの戯れに付き合っていてね」と逢瀬は返し、濡れた身体を引きずるようにバスルームへ向かう。

 

 重い衣服を脱ぎ捨てて、濡れた身体に惜しげもなく熱い雫を打ち付ける。雨に打たれて冷えた肉体に熱を与え、沁み渡らせていくような感覚。重力に引かれて広がる髪を見下ろして、逢瀬は曇った鏡を掌でなぞった。

 

 蒸気が取り払われた後に覗く鏡面。そこに映るのは傷だらけの五体。逢瀬は左胸にある縫合痕の一つに指を這わせる。指先に感じるのは、僅かな凹凸(おうとつ)の肌と、張るような違和感。

 

 この身体になってからもう四年。今日のような雨の日は、全身に走ったこの傷を、無数の(うじ)が這いずるような感覚が覆う。古傷が疼くといえば響きは格好がつくが、本人にとってみればそんなに良いものでもなかった。

 

 唯一傷のついていないのは陰部くらいだが、それももう使()()()()()()()()。思い出されるのは先の出来事。白鷺千聖という花のような少女に迫られて尚()()()()()()()に、逢瀬は生物としての欠陥を意識せざるを得なかった。

 

 死せる獅子の前に肉を吊り下げても生き返るわけではないように。枯れた大木に水を注いでも生き返るわけではないように。既に朽ちた彼の身体に、燃やすべき情欲は残っていなかった。

 

「……本当に、おかしな身体だよ」

 

 小さく呟く。そう思わなかった日はない。しかしそれも〝仕方のないこと〟なのだろうと、彼は己を納得させる。そもそも()()()()()()()()()()()の身だ。多少の欠陥を抱えようと、それすら飲み干せなくてどうするというのか。

 

 逢瀬は〝自分に残された時間〟を認識する。現在の年齢は十九。今年で二十になる。とすれば、

 

()()()()()()()()()()()()か……大丈夫、その程度、演じ切ってみせるさ」

 

 ────何も、問題などありはしない。

 

 ────たとえこの身体にどんな無理を強いようとも、何も。

 

 その決意擬きを繰り返すのも、この四年間で飽きるほどやってきた。この傷が疼く度、身体の異常を認識する度、かつて告げられた〝タイムリミット〟を思い出す。

 

 その時、バスルームと外とを隔てる扉の向こうから気配と声が逢瀬に届いた。薫だ。

 

「兄よ、着替えを持って来た。ここに置いておけばいいだろうか」

「ああ、そうしてくれ。

 ……それと妹よ。一つ、質問をしていいか」

 

 扉の向こうの人影が動く。「何かな?」と返す薫に、逢瀬は先程降って湧いた疑問をぶつけた。

 

「四年より以前────()()()()の前、僕は白鷺千聖をなんと呼んでいた?」

「千聖を?」

 

 千聖から告げられた◾️◾️◾️という名。それは逢瀬にとっては覚えの無い、〝過去の記録〟に残っていない異形の名だ。

 

 彼の予測が正しければ、薫はそれを()()()()。そしてそれはまさしく的を射ていて、突如投げられた疑問に薫が返した答えは、まさに彼の予測通りであった。

 

「他と同じく〝白鷺嬢〟と呼んでいたはずだが……それがどうかしたのか?」

 

 ────ああ、やはり。

 

 逢瀬は嘆息した。薫の知っていた事実と、知らなかった事実。それはまさしく、◾️◾️◾️という名に逢瀬の〝歌劇〟を看破する危険因子が含まれていることに他ならなかった。

 

「……何か、あったのだろう?」

 

 ふと、憂うような口調で薫がポツリとそう零した。

 

「千聖の家にでも行ったのだろう? 理由はわからないが、貴方が苦しむ時はいつも彼女絡みだ」

「……わかるかい?」

「伊達に四年間〝瀬田逢瀬〟を見てきていないよ。貴方はその頭痛に襲われている時だけ、少しばかり声音が変わる」

「そう。僕もまだまだだね」

 

 反省するような逢瀬の声は、僅かな自嘲を含んでいた。血を分けた妹とはいえ、己の演技を見破られたという事実は、彼にとって無視出来ない失態であったからだ。

 

「────なあ、兄よ。そろそろいいんじゃないか?」

「いい、というのは?」

 

 流していたシャワーの栓を止める。ノズルに残っていた水滴が、歌うように床へと落ちる。

 

 僅かな静寂。薫の逡巡が、その沈黙の時間から感じ取れた。何か、と逢瀬は優しげに聞き返そうとする。しかし、その次に薫から投げられた言葉は、逢瀬の余裕を打ち破るのに、十分すぎる力を持っていた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() もう貴方は十分苦しんだだろう。()()()()()()()()()()……そんなこと、貴方はずっと昔に理解して────」

「黙れ」

 

 瞬間、音が響く。人の肉が何か硬いものに衝突した鈍い音。突然のそれに薫の肩が跳ね、すぐにそれがバスルームの中、即ち逢瀬から発せられたものだとわかった。

 

 逢瀬が拳で壁を叩いたのだ。苛立ち。そのようにも取れる確かな怒りを込めて。

 

「わかっているよ、そんなこと。正しいことが痛いことだなんて、四年前のあの日からずっとわかっている」

 

 ────だが。

 

 逢瀬は逆接を謳う。理解しているのだ、そんなことは。周りから見て自分がどんな生き方をしているかなど。

 

()()()()()()()()()()()()()。この正しさ(痛み)を背負うのは、他ならない僕でなくちゃいけない。

 白鷺さんに全て教えれば、たしかに楽にはなるだろう。でも、僕の背負うべき痛みを彼女に分け与えるなんて、そんなの僕自身が許すものか」

 

 逢瀬が千聖に〝真実〟を教えない理由は、大別して二つある。

 

 一つは真実を知る人間を絞る為。現状、彼の抱えるモノを知る人間は両手の指で数えられる程しかいない。秘密を守る為にもっとも重要なことは、その認知の規模を狭めることだ。それが少なければ少ないほど、秘密の管理は容易で堅固になる。

 

 逢瀬はその中に千聖を入れるべきではないと判断した。ただそれだけのこと。

 

 そして、もう一つは────。

 

 思い出されるのは四年前のとある病室。そこで見た、瞳の輝き。

 

「……だから、ダメなんだ」

 

 表出した怒りを心の最奥に封じ込めて、逢瀬は言葉を締めくくる。

 

 薫も彼がこれ以上話を続けることを望んでいないことをわかっているのだろう。余計なことを口走るようなことはせず、「無理はしないでくれ」とだけ告げて戻っていった。

 

 残された逢瀬を襲ったのは、奇妙な沈黙。水滴の音が反響し、バスルームに唯一の物音を齎す。

 

 次いで彼に訪れたのは、耐え難いほどの強烈な吐き気だった。

 

「うっ……ヴ……ガは……」

 

 食道を胃酸が逆流する。喉元を焼くような熱と痛みが這い回り、口内に酸性の異味が充満していく。

 

 咄嗟に口を押さえても間に合わない。呑み下すことは叶わず、掌と指の隙間から大量の吐瀉物が流れ出る。胃酸による異臭が足下から立ち上り、昼間に飲んだコーヒーの黒が、黄土色の中で混ざり合って激しく自己主張していた。

 

 頭痛による吐き気。いつもは人の目と場所を考え我慢していたが、幸いにも此処はどれだけ汚れても洗い流せるバスルーム。見られる心配も無いというのが唯一の救いだった。

 

 荒い息と垂れる冷や汗。汚物の付着する口元を荒っぽく手の甲で拭い、広がる吐瀉物と汚れた身体を一度は止めたシャワーで流していく。

 

 ────本当に、難儀な身体だ。

 

 その独白は、誰にも聞き届けられることはなく。

 

 残酷な運命の足音に気づく賢者は、世界の何処にも有り得なかった。




 正しいことは痛いから。シルヴァリオを代表する名言ですよね。自分の正しいと信じたことを突き進むって意味では、あの全肯定キザ太郎にはちょっと光の奴隷っぽさがあるのかもしれない。

 今回の話で、読者様の中でも彼の身体に何が起きているのかわかる方が増えてくるのではないかなと思います。

 以下、評価者様方。

☆10 ビタミンB様、C18H27NO3様
☆9 徐公明様、リキヤ様、なんちゃって提督様、mocca様、jack@霧雨様、モンテベロ侯爵様、甲子エノキ様、びだるさすーん様
☆8 MinorNovice様
☆7 慶和様

 感想、評価など大変励みになっています。正直めっちゃ嬉しい。


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第十六話

 ハロウィンに襤褸切れ着てニートのコスプレする話を投稿しようと思ったけどできなかった悲しみ。

 話を進めるためとはいえ、あんまり原作キャラ出せなかった。


 流血は、とうの昔に受け入れた。

 

 あの日。黄昏が彼らを照らす、皮肉なほどに美しかった運命の日(Dies irae)。その五体に数多の醜態(キズ)を刻んだあの時には、既に己が傷つくことなど気にしていなかった。

 

 彼の歪み。思えば、運命の日(Dies irae)以前から、彼に己を労る心なんていうものは備わっていなかったのだろう。だからこそ、()でさえ、自分の傷に目を向けることはしなかったのだ。

 

 だがしかし。彼にとって、運命の日(Dies irae)は多くの傷を刻んだ汚点であると同時に、一つだけ益を齎した日でもあった。それは一般的には異常な事柄であるし、常人であれば治療すべき欠陥だとして直ぐ様病院にでも連れ込まれるものだ。それを益として享受することこそ、彼の歪みの証左とも言える。

 

 己が五体に傷を刻むことを躊躇わない。己が血流を流出させることを恐れない。元より彼の中に存在していた歪み────否、その言い方は適切ではない。本来あるはずのもの、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を助長させたもの。それこそが、彼が〝益〟と称するものだった。

 

 そう、だからこそ。()というこの時を、彼は平然と過ごしていた。傷を負い、血を流し、()()()()()()()()()()()()()()()()()()とでも告げるように。

 

 一人の女がその傷を見た。そしてかけられた言葉に、彼はあっけらかんとこう返す。

 

「……ああ、本当だ。気づかなかったよ」

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 中天の太陽。季節は七月に入り七夕を目前に控えた初夏。加減を忘れた日輪は容赦なく地上を()き、アスファルトの上で蠢く人類に、さながら火炙りのような灼熱を与えていた。

 

 彼、瀬田逢瀬は神妙な面持ちでその中を事務所に向かって進んでいた。何故彼がそのような表情をしているのかは、ちょうど今事務所の扉の先に見える妙齢の女性が知っている。

 

 逢瀬がマネージャーと呼ぶ人物。彼女からの連絡が、彼をここまで呼ぶ理由となっていた。

 

「緊急の要件。さっきメッセージで送った通りのこと。実物を見てもらった方が早いかもね」

 

 そう告げて、マネージャーは逢瀬を事務所の一室まで招き入れた。そこにいたのは複数の人物。それも一介の俳優や女優といったような役者達ではなく、事務所内でも相当高位の地位を握る権力者達であった。そしてその中には、(くだん)のPastel*Palettesの運営に携わるスタッフの姿もいくつか確認することができた。

 

「ほら、これ」

 

 人の波を引かせて、マネージャーは長机の上に置かれた、口の締められる袋に包まれた紙片を逢瀬に見せた。それを見た逢瀬は、「ああ、やっぱり」と、少し苦々しそうな表情をして。

 

 その紙片は、そこに書かれた宛先は────そこに綴られた悪意の文字列は、人の心を死に至らしめる刃に他ならない。

 

()()()、か」

 

 それは紛れもなく、白鷺千聖に宛てられた脅迫状だった。

 

「『多くの人間を騙した演技派女優白鷺千聖。今すぐに芸能界から消えろ。そうしなければお前を殺す』。……なんとなくこんな気はしていたけどね。拗らせたファンというのは厄介だ」

 

 脅迫状をマネージャーに渡し、逢瀬は語る。彼に言わせれば、何もこういったことはそう珍しいことでもない。

 

 例えば世間に切り込むような物言いをするご意見番だったり。

 

 例えば人に嫌われるようなネタでウケを狙うお笑い芸人だったり。

 

 例えばアイドル性を求められるようになった声優だったり。

 

 例えば不祥事を起こした芸能人だったり。

 

 そういった人の目につくような職業の人間に、このような脅迫じみた言葉は日常茶飯事だ。偶像の聖性への盲信を抱いた者共の落胆、可愛さ余って憎さ百倍、とは少し違うだろうが、反転した人の感情というものは制御のままならない暴君と成り果てる。

 

 昨今はSNSの普及もあって、かつては天上人にも等しかった〝画面の向こうのあの人〟という存在は、諸人に手が届くと勘違いさせてしまえるほどに近くなりすぎてしまった。その果てが、履き違えた感情の発露であるこの脅迫状である。

 

「白鷺さんには、まだ?」

「パスパレのスタッフを迎えに行かせたわ。車でここまで連れてきてもらって、それから伝えるつもり」

「そう。それで、」

 

 逢瀬は言葉を切り、視線をマネージャーから外す。それを向けた先は部屋の中、付近にいる関係者たち。

 

 一瞬、一瞬だけ。誰にも気づかれないほどの刹那だけ。

 

 逢瀬は瞳に暗い色を滲ませて。その表情に、〝貴公子〟以外の()()()の色を孕ませて。

 

 過去の罅から溢れる泥が、彼の仮面を蝕んでいく。

 

「場所を変えようか。僕らが話すのに、ここではギャラリーが多すぎる」

 

 微笑。或いは、苦笑。

 

 その一言で、マネージャーは彼の言わんとすることの凡そ全てを理解した。ここから先をするにあたって聴衆は排斥される。否、排斥されねばならない。逢瀬は軽くスタッフ達に断りを入れ、マネージャーと共に別室へ向かった。

 

 (しつら)えられていた椅子に腰かけ、二人は対面する。瀬田逢瀬とそのマネージャー。そこにいる二人はどちらも美男美女と称して差し支えない人物であるはずなのに、その空間が内包する雰囲気は、(さなが)ら深淵の底と呼んでいいほどに粘ついていた。

 

「なんで僕にアレを見せたのかな、君は」

 

 先に口を開いたのは逢瀬。その声音は無機質な、ともすれば機械的とも言えるようなものだった。

 

 ただの確認。既に答えはわかりきっているのに、一応だけでも相手の口から答えを吐かせたいという意図が、演者(逢瀬)にしては珍しく一切の気障(キザ)ったらしいヴェールに隠されずに伝えられた。

 

 アレ、とは勿論脅迫状のことである。いつかはマスコミにも公表され、世間の目に触れることになる事案であろうと、今はまだ水面下で真実の追求に奔走すべき段階であることは誰の目にも明白であるはずだ。それにも関わらず、マネージャーは(いち)タレントに過ぎないはずの逢瀬にそれを伝えた。ならば、その裏に何か特別な思惑があるのでは、と考えるのはなんら不思議な事柄ではなかった。

 

「四年前……いえ、時期的には三年前かしら」

 

 それに対するマネージャーの反応は、過去の記憶の反芻から始まった。

 

 数年の時を遡った先にあった出来事。それを、彼女は思い返す。

 

「ねえ逢瀬君。あなたは三年前、何通の〝()()()()()()〟が送られてきたか覚えてる?」

「……ファンレター、ね」

 

 その言葉に逢瀬は少しばかり眉間に皺を寄せた。〝ファンレター〟。本来は善意と羨望を表す単語であるが、この場に於いてのみ、それはもう一つ、全く別の意味を持つ。

 

 一つは本来の意味のファンレター。応援や激励、あらゆるプラスの感情が込められたメッセージ。そして、もう一つは────

 

「『()()()()()()なんて覚えている暇があったら次のドラマのセリフを覚えなさい』。三年前、僕にそう言ったのは君だろう?」

「それもそうね。たしかに私、あの時そんなこと言ったような気がするわ」

 

 ちなみに、とマネージャーは付け足す。

 

三年前(あの時)君が受け取った脅迫状(ファンレター)は三十四通よ。脅迫まではいかなくても、アンチのような意見も含めれば百や二百は軽く超えるかしら」

「そうかい。ゾッとしないね」

 

 淡々と告げられた悪意の数に、逢瀬は同じく淡々と返した。そこに恐怖など存在していない。

 

 (はた)から見れば、それはある種異常とも受け取れる会話内容だ。悪意や害意に晒されて、それでも尚気にする素振りなど見せなくて。そしてそれは慣れなどではなく、ただ目を向ける必要などないと断じているに過ぎないだけの、ともすれば無関心とも言えるような反応。

 

 それを、その反応こそを求めていたのだと、マネージャーは笑った。

 

「だからこそあなたを呼んだのよ、逢瀬君。過去に()()()()()()()()()()()を残し、沢山の脅迫状を受け取ったあなたこそ、白鷺千聖を慰めるのに最適だと思わない?」

 

 それを聞いた途端、逢瀬は露骨に表情を変えた。

 

 白鷺千聖。ここ最近よく聞く名前だと、彼は頭を押さえて溜息を吐く。

 

「わかっていたよ、そういう要件だとね。たしかに、それに関しては演者()が一番適しているとは思うが……相手が彼女だというのは少しね」

「でもどうせ、あなたは断れないでしょう?」

「……悪い(ヒト)だ」

「何年マネージャーやってると思ってるの」

 

 彼女が続いて浮かべたのは、企みが成功した子供のような悪い笑み。「勝てないな、君には」と、逢瀬もつられて同じ表情(カオ)をする。

 

 マネージャーとは長い付き合いになる。それこそ、遡れば彼が子役としてデビューを果たしたあの日────つまり、十五年前、彼がまだ五歳の誕生日を迎える以前からの縁だ。

 

 それだけ長く共にいれば、お互いの性格など知り尽くしているも同然で。故にこそ、彼は勝てないと宣うのだ。

 

 閑話休題(それはそれとして)

 

 マネージャーは「もう一つ」と、見せつけるように右の人差し指を立てた。

 

「パスパレ関連で伝えておきたいことはまだあるのよ。これ、なんだと思う?」

 

 一度下げた右手を懐へ潜り込ませ、取り出したのは一枚の紙片。カラフルなパステルカラーで彩られたそれは、何かのチケットのようにも見えた。そこに書かれていたものは────

 

「Pastel*Palettesのライブチケット?」

「そういうこと。彼女たち、やり直す機会を貰えたみたいね」

 

 へえ、と逢瀬は驚いたような声を漏らした。

 

 かつて、彼女たちの名声は失墜した。アイドルの世界に羽ばたこうとした淡い彩色の少女たちは、その翼に泥を塗られて墜落した。それを間近で見たからこそ、逢瀬の反応は当然のものといえる。

 

 (くだん)のお披露目ライブが終わった後、かけた激励の言葉の一つを覚えている。光よ、あれ。神が創世の日に世界に齎した言葉を、彼は彼女たちに告げた。彼女たちのPastel*Palettes(世界)はまだ始まっていなかったのだから、あの日、あの場所で、また始めればいいのだと。

 

 折れかけていた丸山彩にかけた言葉を覚えている。肯定と否定。求めることの危うさを。絶望に堕ちようとした彼女に救いの手を差し伸べたことを。

 

「……そうか。彼女たちは、もう一度」

 

 お人好し(逢瀬)は少しの回想の後、優しげに呟いた。

 

 俳優とアイドル。形はどうであれ、同じ事務所に所属する先輩として、後輩の躍進を願う心に偽りはない。湧いたのは心からの安堵と歓喜だった。

 

 マネージャーが差し出したチケットを受け取る。その右上には小さく〝関係者席〟の文字が。

 

「行くか行かないかはあなたに任せるわ。でも、まあ、行ってあげたら喜ぶんじゃない?」

 

 ────それじゃ、あとはお願いね。

 

 マネージャーはそう言い残し、逢瀬を一人置いて部屋から退出した。

 

 お願い。それが千聖に関することだというのは自明だった。果たしてどうやって言葉をかけるべきかと逢瀬は思案する。

 

 脅迫状は唾棄すべきモノ。再ライブの決定は祝福すべきモノ。人からの悪意との付き合い方ならオマエが手慣れているだろうと託された大任だが、それでも相手くらいは選びたいのだと、彼は既に背中の見えなくなった己の理解者(マネージャー)に向けて叫びたかった。

 

 ────何を考えているのだろうね、君は。

 

 逢瀬としては、その思考の深奥にあるものを察することこそが難題だった。

 

 彼女は知っているはずなのに。過去(かつて)も、現在(イマ)も、瀬田逢瀬という()()を縛る呪いを見てきたはずなのに。

 

 ────ああ、わかってる。わかっているのだ、そのようなこと。

 

 難題であろうと、解けないモノではない。その疑問が難題たりえたのは、単に彼がその答えから目を背けていたいと願ったから。その答えに向き合うことは、彼の矜持と、これまでの四年間の否定を意味するから。

 

 ふと、部屋に硬質な音が響いた。発信源は廊下と室内を隔てるドア。その後ろにいる人物の正体を、逢瀬はすぐに理解した。

 

「入りなよ、白鷺さん」

 

 微かに軋む蝶番。どうかその音が鳴り止まないでほしいと、逢瀬は願う。その扉に開いてほしくはないから。君にはもう、向き合いたくないんだよ。

 

 そんな願いも虚しく、蝶番は小さな慟哭をやめ押し黙る。その先に立っていたのは、白鷺千聖。

 

「……本当に、いた。マネージャーさんの言う通りなのね」

「そうだとも、本当に僕はここにいるのさ。お姫様を悪い魔女の声から解き放つためにね」

 

 椅子から立ち上がり、逢瀬は千聖の正面に立つ。

 

 千聖の瞳に怯えは見えない。ただ隠しているだけか、それとも眉唾と断じて気に留めてなどいないのか。その真意は定かではない。

 

 だが、こうして並んで改めて見ると、千聖の体躯の小ささがよくわかる。同年代のPastel*Palettesの面々と比べても一回り小さなその身体に、果たしてどれだけの重圧をかけてきたのか。此度の脅迫状で折れてしまわぬだろうか。要らぬ心配かもしれなくても、彼はそう思わずにはいられなかった。

 

「まずは、ライブの決定おめでとう。それが、君たちが新たな世界へと踏み出す第一歩となるよう祈っている。立つ舞台は違えど、同じ事務所の先輩として応援させてもらうよ」

 

 最初の言葉は激励と祝福。かつての汚名を濯ぐときは今来たれり。

 

神々が望むことはすぐに成就する(Cito fit, quod di volunt.)。大丈夫、君たちならできるさ」

「そう……だと、いいのだけど」

「不安に思うことはないよ。スタッフ達も頑張ってくれてる。君たちだって成功の為にこれまで練習してきたのだろう。だから────」

 

 一瞬、逢瀬は迷った。果たしてその先を言っていいものか。それをおいそれと口に出すことは許されないのではないだろうか。僅かな葛藤。打ち勝ったのは、口先だった。

 

「……それ以外のことは、誰かに任せてしまえばいい」

「知っているのね、脅迫状のこと」

「僕が知っていることを知っている上でここに来たのだろう? 今回の件について、僕から言えることは一つだけ。あまりこういうことは言いたくないのだけど、時には誰かの声を無視することも必要だということさ」

 

 人前に出るということは、名前も知らない誰かに見られるということ。その〝名前も知らない誰か〟に含まれるのは、当然の如く()()()()だけではない。

 

 悪意を持つ者。悪意を拗らせた者。人の皮を被った性悪説。それらは少なからず世間を跳梁跋扈していて、恥じることも悔いることもなく害を吐く。

 

 その在り方は無慙無愧。己の言葉が誰かを傷つけることを知っていようと知っていなかろうと、それらに誰かを思い遣るという性善説は通用しない。

 

 そんなもの、掃いて捨てるべき悪徳だろう。それに気を遣る必要がどこにあるというのか。

 

 自他共に認めるお人好したる逢瀬にしても、それだけは理解のしようがないほどにどうしようもない者たちだった。

 

 だから、目を逸らせばいい。

 

「君は目の前のことだけに集中すればいい。僕からはそれだけだよ」

 

 言い終えた。人から向けられた悪意との付き合い方の絶対不変の真髄────即ち、辛いのならば逃げればいいという真理。

 

 こんなことを言わせるだなんて、マネージャーも酷な人だ。逢瀬はそう考えた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なのだと、それを誰よりわかっているのは彼自身なのに。

 

 千聖の横を通り過ぎて、部屋から出ようとドアノブに手をかける。

 

「ねえ、逢瀬君」

 

 ────逃してはくれない。

 

 千聖の声に逢瀬は振り向く。彼女はこちらを見ず、部屋の奥をジッと見つめて背中を向けていた。

 

「今回のライブのために、私だって頑張ったのよ。スタッフさんたちもそうだけど、私だっていろいろやっていたの、あなたは知ってる?」

 

 ポツリポツリと彼女は呟く。それは間違いなく逢瀬に向けられた言葉。しかし、どこか虚空へ吐き出すかのような色のない言葉。

 

「出演できそうなライブを探して、スタッフさんたちに交渉して、それを何度も繰り返してきたわ。だからね、」

 

 千聖の瞳が逢瀬を捉える。僅かに潤んだ、紫紺の視線が交差する。

 

「少しくらい、ご褒美をもらってもいいと思うの」

「……それは」

「ええ、わかってるわ。これはきっと、わがままね」

 

 どこか悲しそうに、「忘れて」と千聖は告げた。

 

 そんな空間にいるのが嫌になって、逢瀬は扉をくぐる。後ろで閉まるドアの音を聞いて、緊張の糸が切れたようにそこに(もた)れかかる。

 

 その時、ポケットから軽快な電子音が鳴り響いた。メッセージアプリの着信。送り主は、マネージャー。

 

『いつまでそうしているつもり?』

 

 突き刺さるような一文。一瞬逢瀬は息を呑み、しかし慌てず返答する。

 

『永遠に』

 

 思い出されるのは先日の出来事。妹である薫からの言葉。

 

 〝もう千聖には全て教えてしまってもいいんじゃないか? もう貴方は十分苦しんだだろう。正しいことは痛いから……そんなこと、貴方はずっと昔に理解して────〟

 

 変われと、そう言われている。わかっている、こんな生き方が歪んでいるだなんて。その真相を知る者たちの目に、どれだけ痛々しく映っているのかも。

 

 それでも、変わるわけにはいかないから。()()()()()()()()()()()()()()()()()()。逢瀬はずっと、演じ続ける。()()()()()()()()()()()()

 

『聞くまでもないことだと思うけどさ、なんで?』

 

 送られてきたのはそんな問い。彼女が聞くまでもないことだと言うように、逢瀬にとっても、その答えは言うまでもないことだった。

 

 その真実(答え)はたった一つ。

 

『亡くしてはならない刹那があるから』

 

 かつての刹那よ永遠なれ。瀬田逢瀬は、幻想(永遠)になりたかった。




 だんだん天魔・夜刀みたいなこと言うようになってきたなお前な。

☆10 ちょこテラス様、つみれ@インド産様、万屋よっちゃん様
☆9 夜刀神 愛里紗様、明日野 邇摩様、世繋様、セツナの旅様、yajue様、天草シノ様、うるみー様、Sama L様
☆8 ボルケリーノ様、縦書きまちまち様、いろ様

 以上の方々に感謝を。ここ最近リアルが立て込んでいましてあまり書けていなかったのですが、なんとか完結させられるよう頑張ります。Twitter見てる人は毎日元気に生きてること知ってると思いますけどね。

 感想、評価などがありましたら是非とも。


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第十七話

 この前フォロワーと通話してたら一周忌とか言われてさすがにヤバイと思ったので初投稿です。


 ────ずいぶん、楽しそうに笑うものだ。

 

 湧き上がる聴衆と、色めき立つ歓声。視界の端では棒状の光がチラつき、華やかな音に合わせて揺れている。

 

 ライブハウス、CiECLE。その地下。ステージの上で光と音楽を振り撒く知人たちの姿を見て、逢瀬の心にはそのような思いが飛来した。

 

 〝ハロー、ハッピーワールド!〟のライブ。普段は幼稚園や病院などでの活動を行なっている彼女らも、やはりバンドの名を冠しているからなのか、こういったライブハウスでのステージも珍しくはないらしい。

 

 ────まさか、僕がこういう場所に来るとはね。

 

 辺りを見渡し、住む世界がまったくもって一致しないと思しき聴衆たちの姿を確認する。何故逢瀬がこんなところにいるのかと問われれば、それは先日、妹である薫から渡されたライブのチケットが原因であると答えざるを得ない。

 

 『一度だけでも、私たちのライブを見に来てはくれないか』。言葉にしたらそれだけだったが、その中に込められた妹の思いは、果たして如何程のものか。

 

 それを断るなどという選択肢は、逢瀬の中に存在していなかった。だって、そうだろう? 当たり前のことじゃないか、と。逢瀬は誰に告げるでもなく弁明する。

 

 自分の新しい居場所を見つけたのだと、かつて嬉しそうに告げた彼女の表情(カオ)は、紛れもなく真実だったのだから。その居場所を見てほしいと、一切の悪意なく願ったその思いを断るなんてこと、きっと誰にもできないはずだ。

 

 爆音が響こうとも、それは不快ではなく。むしろ華々しい凱歌のように心地よく。世界を笑顔にすると謳った歌は、逢瀬の中に染み込んでいく。

 

 曲は終わってもステージは終わらず。続く第二第三の音の波が、エンドロールを許さない。

 

 今ここに、逢瀬と聴衆の間に存在する壁は取り払われた。身分制度が消滅して尚消えることのない人民間のヒエラルキー。その一切は芸術の前に無力になり、音によって押し流されていく。

 

 ああ、認めよう。君たちは紛れもなく世界を笑顔にするのだと。

 

 永遠に思えるような時間はしかし、一曲一曲の着実な終焉とともに過ぎていく。ライブをするのは彼女たちだけでなく、次もその次も控えている。自分たちだけの世界を繰り返すわけにはいかないのだ。

 

 気がついたら、逢瀬の手は何度も拍手をしていた。

 

 ああ、すごいなと。これが彼女たちの世界か、と。熱狂するのも納得だ。これは熱に狂わざるを得ない。

 

 ステージで飛び跳ねる太陽のような少女が、もう終わったから帰るよと、宥める熊のキグルミに袖へと連れ去られていく。冷めやらぬ観客たちを置き去りにして、五人の舞台は終幕を迎えた。

 

 叩き続けて少し赤くなった手を下ろして、逢瀬は踵を返す。向かった先は出口────ではなく、関係者以外立ち入り禁止の札が貼られた連絡通路。

 

 そこに、彼女らはいた。待っていた。

 

「素晴らしいライブだった。賞賛させてくれ」

 

 〝ハロー、ハッピーワールド!〟の面々に向かい、逢瀬はニコリと微笑んで言葉を贈った。

 

 それに対し、弦巻こころは誇らしげに胸を張る。それも当然のこと。『世界を笑顔に』を掲げる彼女にとっての最大の賛辞は、また笑顔そのものである。

 

 笑って。ただそれだけでいいのだから。そうすれば、私たちの目的は完遂される。そんな婉曲的な物言いがこころの中にあるかは別として、彼女が目指す世界はそんな幸せな世界だ。

 

 〝ハロー、ハッピーワールド!〟のメンバーの親族が生まれて初めてライブを見たという。そして、その結果楽しんでくれた。ならそれでいいのだ。喜ぶべきことだろう。弦巻こころはそれだけを願う。

 

「来てくれてありがとう、兄よ。私の見せたかったもの、わかってもらえただろうか?」

「ああ。実に有意義な時間だった。……君は、本当にいい友を見つけたようだね」

 

 わかった、なんてものではない。わからされた、なんて強いられたものではない。それは紛れもなく彼の中に(ほど)けるようにして染み入り、妹の伝えたかったことをあるがまま受け入れさせた。

 

 即ち、新たな居場所と己の在り方。

 

「本当に素晴らしかったよ。あの感動は僕の人生の中でも未だ二度目、初めてニーチェを読んだとき以来だとも。到達された自由のしるしは何か?(What is the seal of liberation?) もはや自分自身に対して恥じないこと。(Not to be ashamed in front of oneself.)君たちは今、まさに自由を謳歌しているのだね」

「ありがとうオーセ! きっとそのニーチェも喜んでるわ!」

「こころさんこころさん、ニーチェはもう亡くなってるからね」

「なら天国で喜んでるわね!」

「ふふ、ロマンチストだね、弦巻嬢は」

 

 さて、と逢瀬は話を区切る。

 

「僕はここでお(いとま)しようか。あとは君たちだけで楽しむといい」

「帰るのかい? 兄よ」

「あまり長居して水を差すのもね」

 

 ああ、仲睦まじきことは良きことかな、と逢瀬が大仰に天井を仰いでみせる。その一挙手一投足ですら()()になるのだから、肉親である薫をしても流石と評する他ない。

 

 言いたいことは言い尽くしたとばかりに少女たちの輪から引き下がり、いざ帰ろうと彼女らに背を向けドアに向かう。そのとき、逢瀬のポケットから軽い電子音が響いた。

 

「失礼」

 

 ひとこと断って彼がスマートフォンを見ると、メッセージアプリのポップアップがロック画面に輝いていた。送信者はマネージャーだった。なにやら内容は、文章ではなく何かのリンクだ。

 

 リンクから飛んだその先にあったものを見て、彼の動きが一瞬止まる。暫し固まり、スマートフォンを仕舞う。どうかしたのか、と薫が近寄れば、彼は神妙な面持ちから一転。(うっす)らと思案顔と笑顔が混ざった表情(カオ)を浮かべた。

 

「ねえ、我が親愛なる妹よ。君、〝Pastel*Palettes〟に興味はないかい?」

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 雨が降っている。もう七月も終わりだというのに、梅雨かと見紛(みまご)う天気雨が降っている。

 

 矛盾した空の下を、逢瀬は早足で駆けていた。その髪は何も纏められておらず、普段から持ち歩いている伊達眼鏡も着けていない。イメージを変えるアクセサリーや帽子の(たぐい)すら無しに、逢瀬は街にくり出している。つまるところ、変装の一つもしていないということだった。

 

 向かう先は、彼の所属する事務所が運営する劇場。差した傘に雨粒が弾ける。ズブ濡れとまではいかずとも、走っているために半分意味を成していないそれを律儀に頭上に掲げて、彼は先のメッセージを思い返していた。

 

 添付されていたリンクはとあるSNSのもの。青い鳥が目印の、140文字の呟きを共有するアレだ。その中の一つの呟きが、マネージャーから送られてきた。

 

 そこにあったのは『マジかwwww』という軽薄な文章と、二分ほどの動画。見覚えのある少女たち────〝Pastel*Palettes〟の丸山彩と白鷺千聖が、雨の中ライブのチケットを自らの手で配っている光景だった。

 

 それを見た瞬間、逢瀬は()()と強く頭を殴打されたかのような錯覚を覚えた。それほどまでに衝撃的だったのだ。彼のそれまでの偶像(アイドル)に対するイメージを揺るがす二人の姿が。雨に濡れる様を惜しげもなく晒す泥臭さが。努力を見せつける彼女らの勇気が。彼の善性に訴えかけた。

 

 マネージャーが何を思ってそれを送ってきたのかは、逢瀬には推し量ることはできない。単なる気まぐれかもしれないし、彼に対する()()()()()かもしれない。もしかしたら意味なんてないのかもしれない。だとしても、ひたむきに声を張り上げる少女たちに心が動かされなかったかといえば、それは断じて否である。

 

────『幸いなことに、ここに〝Pastel*Palettes〟の関係者席のチケットがある。僕が貰ったものだが、今急に通常観覧席のチケットが欲しくなってね』

 

 故に、彼はマネージャーから渡されたチケットを薫に譲渡した。既にその旨はマネージャーに話を通してある。逢瀬とて、芸能界に入って長い身だ。今に至るまでの付き合いの中で、薫とマネージャーに面識がないわけではない。何かと工面(くめん)はしてくれるだろう。

 

 そうして薫にチケットを押し付けるようにして渡し、彼は雨の中飛び出してきたのだ。変装を解いたのもあえて。()()()()()()()()()()()()

 

「あ、あの……もしかして瀬田逢瀬さんですかっ!?」

「ん?」

 

 投げかけられた一つの声に反応して足を止める。そこにいたのは五人の少女だった。その内の一人が、まるで真理を発見した哲学者のように煌めく瞳で逢瀬を見つめていた。或いは風呂に入ったアルキメデス。今にも「エウレーカ!」とでも叫び出しそうなほど口元をあわあわと震わせている。

 

 その後ろでは他の少女が四者四様の様相を浮かべていた。黒髪に赤メッシュを一本差し込んだ少女は呆れた様に息を吐く。気怠げな少女は「ミーハーだねぇ」とニヤニヤ笑っている。そこらの男より男前な少女は「知ってる人?」と疑問に隣の少女に問いかけ、茶髪が明るい真面目そうな少女が「有名な俳優さんだよ」と答えている。

 

 そして(とう)の彼女はといえば、声をかけたはいいがその先のことを考えていなかったようで。これからどうしよう、何も考えてなかった、迷惑に思われてないかなという不安がありありと顔に出ていた。

 

 逢瀬はその姿に迷子の子猫を連想した。なんだか途端に可愛らしくなって──実際容姿のレベルはかなり高かったのだが──一歩踏み出し少女たちに歩み寄る。

 

「そうだよ。僕が瀬田逢瀬だとも、子猫ちゃんたち」

 

 名乗ると、少女の内の一人が「なんかこの人薫さんと同じ気配がするな」と細々と口にした。突然妹の名前が聞こえたことに彼は少し驚くが、たしかに彼女らの見た目は高校生前後のように見える。となれば、

 

「もしかして君たち羽丘かい?」

「ひえっ、なんであの瀬田逢瀬さんが私たちの学校の名前を……!?」

「ああいや、妹の名前が聞こえたものでね。彼女も羽丘なんだ。もし知っているなら、これからも仲良くしてあげてほしい」

 

 にこりと、年代問わず数々の女性の心を射殺(いころ)してきた笑みを浮かべる。これをなんの意識もせずに自然にやってのけるのだから恐ろしい。それだけで煙が出そうなほど顔を紅潮させた眼前の彼女は「は、はぃ〜!」と上擦った声で返事をした。

 

「ふふ、いい子だ」

「ふわっ……あっあ……」

「やばいひまりが壊れた」

 

 よろけて傘を取り落としそうになるひまりと呼ばれた少女を、赤髪の少女が支える。ミーハーここに極まれり。突然奇行に走った少女により、彼は一層の視線を集めて再び駆け出す。

 

「すまない。僕は今、少し急いでいるんだ。子猫ちゃんとの時間が少ないのが心苦しいし名残惜しいけれど、これでお別れだ。また会おう!」

 

 くるくると雨で濡れたアルファルトの上を器用にステップしながら、逢瀬は少女らに別れを告げた。まるで異世界の住人みたいな人だな、と赤メッシュの少女は逢瀬を表すのに月並みな感想を抱く。

 

「はぅ……作画が……作画が違う……顔がいい……」

「……とりあえずどっか入ろうよ。恥ずかしいから」

 

 未だにトリップから抜け出せていない幼馴染の一人を無理矢理立たせ、五人組は視線の中をそそくさと抜け出した。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 劇場前は異様な雰囲気だった。舞台の上演が終わったのか、劇場からは続々と高揚した人々が雪崩出てくる。しかしその目がとある一点に向いたとき、彼らの心は一瞬にして別の感情に支配される。

 

 それは憐憫である。それは嘲笑である。それは嫌悪である。しかしそればかりでなく、それらは好意的な認定でもある。

 

 丸山彩と白鷺千聖。ほんの少し前、お披露目ライブで盛大なヤラセを晒したとして一躍注目を浴びた、偽装アイドルバンド〝Pastel*Palettes〟の二人だ。

 

 その彼女らが、雨の中傘も差さずにチケットを配っている。その表情(カオ)に偽りは見られない。真剣そのものであることは誰の目から見ても明らかであった。

 

 しかし、人の悪意はとどまらない。

 

 貼りついたレッテルと、固定化されたイメージ────即ち、一度大衆を騙したという前科が、彼女らのひたむきさに先入観を植え付ける。

 

 〝どうせまた騙される〟

 〝あれも嘘なんだろ〟

 〝必死になっちゃってまあ〟

 〝少しは期待したんだけどなあ〟

 〝誰もお前らのことなんて信じてない〟

 〝嫌なモン見ちゃったよ〟

 〝話題性だけはあったんだけどね〟

 

 〝いやでも頑張ってるし〟

 〝少しは認めてあげても〟

 〝本気なのかな〟

 〝嘘っぽくは見えない〟

 〝反省してるなら〟

 

 時折聞こえるその声が、彩と千聖を揺らがせる。声が枯れそうなほど叫んで、嘘ではないと主張して。それでも届かない人は沢山いる。身体が冷たい。頰に流れるのは、打ち付ける雨か別の雫か。

 

 届かないのかな。そんなことない。本当に? 本当だよ。でも、みんなお前を笑ってる。でも、誰かは私を認めてる。

 

 ────一番届いて(応援して)ほしい人は、これを見てなんて思う?

 

 彩の中の悪魔がその問いを発したとき、彼女の思考が停止する。味方でいると誓ってくれた彼。壊れる直前まで追い詰められた自分を、頑張ったと認めてくれたあの人。今の姿を見たら、果たしてどう思われるのか。

 

 否定はされない。そのはずだ。でも、身の程知らずとは思われるのではないか。喉からひゅうと声が消える。途端に怖くなった。悪意に晒され続けた身体が震え上がる。奇異の目で向けられたカメラのフラッシュが、ギロチンの煌めきのように見えた。

 

「……大丈夫。大丈夫よ」

 

 そっと、千聖が肩を寄せる。こういうとき、彼女はとても頼もしい。人前に立つのに慣れている。人から視線を向けられるのに慣れている。長い芸歴が成せる業だ。気持ちが落ち着いていく。ブレた視界が色を取り戻す。

 

 しかし、それで現状が変わるわけではない。彼女らに向けられる視線の多くは未だ不躾なもの。怖いことに変わりはない。

 

 雨はまだ止まない。止んでくれない。()()と降りしきる雫が、世界で彼女ら二人だけを閉じ込める壁のように見えてしまう。

 

 誰も助けてくれない。そう、誰も────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「傘をどうぞ、子猫ちゃんたち」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────否、僕だけは助けるとも。

 

 声が聞こえた。その瞬間だけ、雨音の全てが消え失せた。

 

 雨が止んだ。そう錯覚した。顔を上げれば、そこには傘を差し出す一人の青年。自分が濡れるのも厭わず、彩と千聖の頭上に影を広げている。

 

 見間違いや人違いなんかじゃない。(たが)えるものか。それは間違いなく、瀬田逢瀬その人だった。

 

「瀬田、さん……どうして」

「きっと運命さ。女神が僕たちを引き合わせたのだよ。なんという幸運だ、この雨の日に感謝しよう」

 

 いつものようにキザったらしい台詞を恥ずかしげもなく口にして、彼は傘を彩に手渡した。そして彼女の手に握られたチケットと彩の間で視線を往復させて、

 

「それ、ライブチケットだよね」

「は、はいっ。今度やるパスパレの……まだ誰にも渡せてないですけど」

「そう。ということは、僕はやはり女神に愛されているらしい」

 

 優しく微笑んで、彼は右手を彩へと差し出す。

 

「それ、一枚貰おうか」

「えっ? で、でも」

「言っただろう。僕は君の────〝Pastel*Palettes(きみたち)〟の味方だ。君たちがこれまでどれだけ努力してきたかは知っている」

 

 再起をかけた一世一代の大勝負。今度はヤラセじゃなくて本物を。がっかりさせないような、本当の〝Pastel*Palettes(わたしたち)〟を見せる。その思いを、逢瀬は先入観なんてつまらないもので無為にはさせたくない。

 

「ほら、ボーッとしてないで。()()()()()()が待ってるよ。君はアイドルなんだから、こういうときはどうするんだっけ?」

 

 彼は知っているから。彩に毎日送っている、ストレッチのメニューの連絡、それに時折返ってくる彼女の近況報告を。

 

 今日はダンスをコーチに褒められた。歌はこういうところを改善した方がいいと言われた。いつかお渡し会というものをやってみたいから、ファンの方と一対一で話す練習をしてみたい。パスパレのみんなは、今度のライブに向けて前向きです。

 

 君には笑顔が似合うから。いつだったかそう言った。なら今は俯くときじゃないだろう。

 

 その思いは彩だって同じだった。故に彼女は精一杯を込めて、誰もを魅了するような表情(カオ)で、笑った。

 

「今度のライブ、精一杯頑張るので、よろしくお願いしますっ!」

 

 ────ああ、よく言った。

 

 チケットを受け取った逢瀬はその言葉を聞き届け、その場でくるりと向きを変える。彼の眼に映るのは、いつのまにか集まっていた無数の大衆。

 

 逢瀬は変装の一つもせずにここに現れた。ある少女がその姿を街中で見かけた程度でわかるのだから、雑踏の中にいても目立つことこの上ない。

 

 そんな彼が一箇所に留まって、尚且つそれが人目を引くような状況であったのなら────どうなるかは想像に難くない。

 

「聞いたな、君たち!」

 

 雨音さえも掻き消して、逢瀬の声が響く。

 

 さながらそこはステージの上。数多の人々を魅了してきた彼のスキルが、惜しげも無く振るわれる。

 

「たしかに〝Pastel*Palettes〟は、一度は君たちに不信感を抱かせただろう。だが、それで終わりにしてほしくはない! どうか考えてはみてくれないか! 彼女たちの姿を見て、もう一度! この懸命な少女の声が、果たして本当に嘘なのかどうか!」

 

 響く。響く。それは単純な空気振動の話ではない。彼の声は、()()()()

 

 それまで〝Pastel*Palettes〟を非難していた者にも。見た目だけだと断じて聞く耳を持たなかった者にも。どれだけ凝り固まった思考だったとしても、耳から侵入した逢瀬の言葉が解きほぐして囁くのだ。もう一度期待してみないか、と。

 

 誰かが一歩前に踏み出した。誰かがその後を追うように手を伸ばした。その瞳にあるのは悪意ではない。選定。再び見定める、新たなスタート。

 

 よかった、と逢瀬は二人の方へ向き直る。

 

「さあ、ここからは君たちの出番だ。頑張りなよ、可愛い後輩たち」

 

 役目は終えた。そう言いたげに、彼は二人の前から去った。途端に、雪崩れ込むように人が彼女らのもとへ集まった。チケットはもれなく満員御礼となることだろう。

 

 大衆が群がる少女たち二人を一瞥し、流動する人の群れを見渡す。その中で一人だけ、()()()を見つけた。少女たちに殺到する群衆を、純然たる狂気と悪意の瞳で見つめる男。

 

 街中でこれだけの騒動になったのだから、きっと()()だろうとは思っていた。予想外なほど簡単に見つかったので、彼としては少しばかり拍子抜けではあるが。

 

 ふと、それと目が合った。やはり濁っている。逢瀬はふっと笑うと視線を外す。やがて男の姿は街の雑踏に紛れ、消えていった。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「……ああ、僕だ。これでいいんだろう?」

 

 誰もいなくなった路地の奥で、逢瀬は誰かと話していた。耳に押し当てられているのはスマートフォン。

 

「これが君の目的かい? だったらしてやられたと言うしかないね。どうやら僕は、後輩のことを放っておけなかったらしい。

 ────それと、もう一つ。()()()()()

 

 彼の声音が変わる。今度は如何なる仮面を被ったのか、それは普段の優しさなどとはかけ離れた表情(カオ)で。

 

「ああ、そうだ。当日の十六時から十七時、西館の従業員通用路。警備員は近くで待機させておいてほしい。()()()()()()()。彼らにはその後始末を任せたいんだ」

 

 〝Pastel*Palettes〟が再起をかけた大勝負に出る裏で、彼もまた、一つの勝負に臨もうとしていた。

 

「心配ないよ。可愛い後輩は、僕が必ず守るから」




 キザ太郎の書き方これであってたっけ。多分あってる(自問自答)

☆10 うしゃんか様、Takami提督様
☆9 annsoni925様、ちびベビル様、ネコカフェ様、翠の人様、暁夜猫様、M.Y snow様
☆8 軍政ヒッタイト様

 流石に次は一年空けないようにしたい。感想とか評価くれると私が喜びます。あと3人で評価150人なんですよ。ヒエッ(戦慄)


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第十八話

 この話について言えるのは、今回の作業用BGMはLohengrinで、私は結構神世界へ翔けよ黄金化する白鳥の騎士(Vanaheimr Goldene Schwan Lohengrin)の詠唱が好きだってことです。

 まあ、あれだ。Dies iraeを何も知らない人は正田崇作品@ウィキを開いてから読もう。


 転機なんてものは、そう大それたものではない。なにか些細なきっかけ、サイコロを振って六を出す程度の幸運。それさえあれば、簡単に掴める小さな光の束。往々にして、革命家と呼ばれる偉人はほんの僅かな幸運を頼りに生きてきた。

 

 転んだ者が再び立ち上がるのに必要なものは、また転ぶことを恐れない勇気。上を向いて歩き出すのに、それ以外に必要なものはありはしない。

 

 眼下で輝く少女たちを、逢瀬は微笑ましい瞳で見つめていた。

 

 そこは煌びやかなライトが照らすステージの上。パステルカラーの光が駆ける、少女たちの晴れ舞台。大々的な告知の末に行われた、〝Pastel*Palettes〟のライブだった。

 

 先日、劇場前で行われたライブチケットを巡る一件は、結果として〝Pastel*Palettes〟のイメージ向上に繋がった。雨の中で声を張り続けるメンバーの姿がSNSやネットニュースを通じて大々的に拡散され、その本気具合ともいうべき姿勢が嘘ではないと世間から評価されたのだ。

 

 それに加え、逢瀬の乱入がその話題性に拍車をかけている。彼がいてもいなくても、最終的に彼女らの評価は上がっていたことに変わりはないだろうが、女性人気の高い彼が突然街中に現れて〝Pastel*Palettes〟を応援したという事実はたしかに存在している。それがアイドルに興味のない層にまで『瀬田逢瀬が応援しているグループは何なのだろう』と耳を傾けさせることを可能とさせているのだ。

 

 此度のライブは数多の偶然が重なった末のもの────なんて、逢瀬は言いたくなかった。偶然なんて言葉で彼女らの努力を形容したくなかった。かといって、いつものように運命などと言ってしまっては、それこそ冒涜というもの。泥臭い努力を表すのに、着飾った言葉はいらないのだ。

 

「……本当によく頑張ったよ。君たちは」

 

 ふと、関係者席に目を向ける。そこには彼の妹である薫が、何か訳知り顔をしてうんうんと頷いていた。特に珍しくもないいつもの彼女だった。渡したチケットは無駄にならなかったらしい。それに少しだけ安心した。

 

 既に会場の盛り上がりは絶頂に達し、進行全体として佳境に差しかかろうとしている。……一人観客が消えたところで、気にする者はいないだろう。

 

 ────さて、そろそろ時間かな。

 

 逢瀬は腕時計を確認し、その短針が四を指し示すのを確認して、会場を出た。向かうのは関係者専用通路の先。西館と銘打たれた区域だった。

 

 ────すまないね。できることなら、最後まで見ていたかったんだけど。

 

 惜しいな、という一抹の寂寥が脳裏をかすめる。それまで努力を重ねてきた〝Pastel*Palettes〟の集大成を全て見ることができないというのは、ファン第一号を自称する逢瀬にとってわずかな心の揺らぎを与えた。

 

 そして、それでもなお彼が歩みを止めない理由も、また強く。

 

 辿り着いたのは一つの扉。付近には誰もいない。()()()()()()()()()()

 

 逢瀬が此処にいるのは、単に彼の個人的な感情によるものである。降りかかる火の粉を払う役目。他者を危険に晒すことを良しとしない自己満足。お姫様(Pastel*Palettes)を守る騎士(せんぱい)として、恐怖すべき敵に立ち向かうもの。彼がその内側に抱えた歪みこそが、彼に立ち止まることを決して許さない。

 

 遠くから足音が近づいてくる。一歩、また一歩と揺るぎなく。それは強靭な決意を持った人間特有の音。何かを失う覚悟を持ってでも、目的を成し遂げたいと願う、狂人特有の音。奇しくも、それは逢瀬の音とよく似ていた。

 

 蝶番が軋む。四角い影が形を変える。その奥からゆらりと現れた男に、逢瀬は薄れた笑みを向けて、言葉を投げる。

 

「待っていたよ。────ヴァレリア・トリファ」

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 歌っている。夢の舞台に自分が立っている。立って、精一杯歌っている。それだけで胸がいっぱいになるほど、丸山彩は満たされていた。

 

 何度も夢見て、挫折して、それでもまた立ち上がって走り出す。そんな七転八倒を繰り返して辿り着いた夢の先。四人の仲間とそこに立っている。涙が出そうな感慨を、今はまだそのときじゃないと胸の奥にそっとしまって、マイクに向かって高らかに叫ぶ。この思いを歌に乗せよう。

 

 ────私は今、生きている。

 

 冷たい視線はない。罵るような視線はない。あの日見たような、凍りつくような紅蓮地獄は消え失せた。ペンライトの光。最前列で瞳を輝かせている女の子がいた。後ろではしゃいでいる男の子がいた。誰も彼もが楽しんでいる。心の底から「来てよかった」と思ってくれたら、それだけで満足だと、彩はピースを作った指先を会場のどこかにいる恩人に向ける。

 

 見てくれていますか。あなたの目に、私はどう映っていますか。可愛く見えてるかな。もしかして、また何かドジをしないかハラハラしてる?

 

 夢を取り戻させてくれた人。前を向かせてくれた人。……彩にとっては少し気恥ずかしい表現だけど、太陽のような人だった。

 

 会場のどこかにいる逢瀬を、パフォーマンスの隙間で探す。渡したチケットの番号までは確認していなかったのが悔やまれた。逢瀬がどこの席を取ったかという情報までは、プライバシーの観点で関係者から教えてもらうことはできなかった。

 

 それでも問題はない。終わりが近づいている。やることは何も変わらない。きっと、この晴れ姿が輝かしいものとして逢瀬の目には映っているはずだと、彩は信じている。

 

 セットリストは終盤。盛り上がりは最高潮。並んで演奏する四人の仲間に────ようやく手にした〝Pastel*Palettes(ゆめのぶたい)〟に視線を向けて、全員と頷きあい、マイクに声を吹き込んだ。

 

「みなさん! 今日は集まってくれてありがとうございました! 名残惜しいけど、次が最後の曲です!」

 

 躓いたっていい。また歩き出せるのなら。そんな当たり前を教えてくれた恩人と、横に並んで一緒に歩いてくれた少女たち。全員の道の集大成を、今。

 

「聴いてください────〝パスパレボリューションず〟!」

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「さて、どうやら次が最後の曲らしい」

 

 響いて聞こえたかすかな声だけを、逢瀬は捉えていた。対峙するのは〝Pastel*Palettes〟のライブではなく、息も荒く血走った目で恨めしく見つめてくる一人の男だ。

 

 どうやらもう曲には間に合いそうにないなと、逢瀬は一人、心の内に生まれた名残惜しさを押し殺す。あとで彼女らと話す機会があれば話を合わせなければいけなさそうだ、などと、ひどく場違いなことを考えながら。

 

 心の所在(ありか)を現実に引き戻す。思考を向けるべきは今なのだと、あらかじめ用意していた罠を紐解いていく。

 

「これ、見覚えがあるだろう?」

 

 取り出したのは小さな袋に入れられた紙。白い型紙に無数の新聞紙の切り貼りがされたそれは、以前白鷺千聖宛に届いた脅迫状に他ならない。

 

「ベタな手法を使うね、君も。でも抜かりない。やたら準備が入念なせいで、君という個人の特定が非常にやりにくくなっている」

 

 袋を裏表と回し、光に透かす。

 

「新聞の文字の切り抜き。まさに脅迫状のテンプレートといった感じだけど、この紙はどれも全て指紋が検出されなかった。勿論型紙からもね」

「……」

 

 男────ヴァレリア・トリファと呼ばれた不審者は何も答えない。逢瀬は最初から返答など期待していなかったのか、淡々と言葉を続ける。

 

「新聞というのは当然、表だけでなく裏にも記事がある。その表から見ればたった一文字でも、裏には数十文字と記事が書かれている。その内容から照らし合わせると、これらの切り抜きは、ほとんど全ての文字が別の会社の別の日付のものなんだ。

 新聞は、印刷された時間帯によって記事の差し替えが行われる場合がある。そして、場合によっては地域によって配られる内容に多少の差異が出るんだ。大方犯人は、自身の住んでる地域が特定されることを恐れたんだろう。だから、別々の場所、別々の日に材料として新聞を集めた」

 

 逢瀬は脅迫状を仕舞う。次いでヴァレリア・トリファに視線を向け、

 

「このことから、犯人は非常に用心深い性格をしている、というのが簡単に推察できる。脅迫状を出すほどの強い執念を持ちながらも、冷静に、自分へ辿り着く足跡を断つ……普通に考えれば厄介な相手だ」

 

 このように徹底的に自身への道筋を隠蔽されてしまえば、本来逢瀬たちにできることは何もなかった。実際、彼もこの事実に気づいたときには頭を抱えたものだ。

 

 だが、彼は────()()はそれを良しとしなかった。

 

「ならどうするか。簡単な話だよ。出て来ざるを得ないような極上の餌を垂らせばいい」

 

 逢瀬はスマートフォンを取り出し、SNSアプリを起動する。画面に映し出したのは、あの日、彩と千聖が二人でチケットを配っている動画のツイートだ。それを見たヴァレリアの目の色が僅かに変わる。

 

 逢瀬はその目を見るやいなや、予想通りとでも言いたげに軽く口を歪めた。

 

「瞬く間にネット上に広がったこの動画……おかしいとは思わなかったのかい? ()()()()()()()()()()()()()()()()って。

 早いのも当たり前だよね。このツイートしたの、僕のマネージャーなんだ」

 

 それは罠。顔も名前もわからない犯人について唯一わかっている、白鷺千聖への執念というただ一つだけを頼りに仕組んだ、大きな罠だった。

 

「マネージャーがこれを投稿して、ウチの事務所の職員たちに協力して拡散してもらう。他にも、ウチの現役俳優やアイドルにも協力をお願いした。当然、一個人が拡散するよりずっと早いペースで動画は広まっていく」

 

 そして、最後の仕上げを演じたのは────

 

「そこで僕が出るのさ。雨の中、ひたむきに頑張っている少女たちに手を差し伸べる瀬田逢瀬。ドラマ性としては最高だったんじゃないかな?

 そこで犯人はどう考えるか。あんな不祥事をやらかしたのに、尚も表舞台に立ち続ける身の程知らずの白鷺千聖。せっかくの警告を無駄にしたという怒り。冷静さを失った彼は怒りに身を任せて直接その現場を見に行くだろう。

 どうかな? 多分当たってると思うんだけど。伊達に十五年も俳優なんてものやってなくてね。誰かの気持ちまで演じるのは得意なんだ。それこそ、狂気的な執念を心に抱える危険人物役とか」

 

 説明の最中(さなか)、段階的に移り変わっていくヴァレリアの顔色を見ていた逢瀬は、自らの推理が的中したことを悟っていた。

 

 当事者である〝Pastel*Palettes〟の誰も知らない壮大な計画。ネットの海すら利用した大規模な罠を、逢瀬は、そして事務所の面々は、ただ一人の人間のためだけに用意していた。

 

 最初からヴァレリア・トリファという犯人に勝ち目はなかった。相手が悪かったとしか言いようがない。彼が敵に回したのは、よりにもよって日本有数の演劇の化け物(はいゆう)なのだから。

 

 推理するときは、〝自分が相手の立場だったときどのように考えるか〟を考える────その一点において、瀬田逢瀬の右に出るものはそういない。

 

「とはいえ、ここから先は結構アドリブが多くてね。いくら他人の感情を読むことがある程度かできるとはいっても、もし犯人がそういう感情を表にあまり出さないタイプだった場合、見ただけではわからない可能性もあった。どうやら杞憂に終わったようだけどね」

 

 犯人を感情的にさせるために、逢瀬は一つ、本来の計画にはなかったことを行なっていた。

 

 彩と千聖に接触を図る直前、名も知らぬ一般人の少女に声をかけられたことで閃いたその案は、半ば博打のようなものではあった。しかし、それが有効であることを確信した彼は、それを実行に移すことに躊躇いは微塵も感じていなかった。

 

 しかし、逢瀬には一つだけ不安要素があった。逢瀬はこれまで変装を解いて外出したことがなかった。自身が目立つ存在だと理解してはいたが、果たしてそれがどの程度人の目に留まるのかは彼自身測れていなかったのだ。

 

 しかし、その懸念は早々に打ち砕かれることになる。ただ街ですれ違っただけの少女が一目で自身の正体を見抜いてきたのだ。これにより、逢瀬は自身に向けられる注目が想定以上であったことを十全に理解した。

 

「だから、()()()()()()()()()()ことにした。何も言わずにチケットだけ受け取って、もしかしてアレは瀬田逢瀬だったんじゃないかって匂わせる程度に終わらせようと思ってたんだけどね。せっかく注目を浴びているんだったら、徹底的にやってやろうと思ったんだ。あの演説、全部あそこで考えたんだよ。サマになってただろう?」

 

 それまで自身の足取りを一切掴ませなかった犯人だ。雪崩のように人が集まれば、どれだけ怒りに脳が支配されている人間でも白鷺千聖に害を加えるのは躊躇うだろう。かと言って、白鷺千聖が表舞台に立つことを良しとしない人間が大人しくチケットを受け取って帰るとも思えない。

 

 そのような状況下に置かれた人間がどのような行動をとり、どのような表情を浮かべるか。その答えを瞬時に導き出した逢瀬は、少女二人を囲む群衆を遠巻きに見つめる珍しいもの見たさのギャラリーに目を向けた。その中で逢瀬の推理に当てはまる人物を見つければいいだけの話である。

 

 彼はさも簡単なことのように語るが、それは半ば人外の所業だ。シチュエーションを演じることで人の内心を推理するなんて芸当が出来るのは、彼が()()()()()()()()であるからに他ならない。

 

「……ならば、どうやって私のことを調べたのです」

 

 ヴァレリア・トリファが固く引き結んでいた口を開いた。人の良さそうな声だった。それでいて、狂気を孕んだ声だった。

 

「ああ、簡単なことだよ。君、パスパレのお披露目ライブにいただろう?」

「……?」

「最近のライブはすごいよね。転売対策やセキュリティーのために顔写真の登録までするなんてさ」

 

 まさか、と思った。ヴァレリアには到底逢瀬の言おうとしていることを信じるなどできなかった。

 

 だが、逢瀬が彼のことを知っているということは、つまりその〝まさか〟が現実だということで────

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()調()()()。事務所の内側からね。名前、席番号、大雑把な職業や年代くらいまではわかるよ。その中でこの間のチケットを配っていた場にいたのは────ヴァレリア・トリファ。君だけだ」

 

 ────この男は。

 

 ────この瀬田逢瀬という怪物は。

 

 ────〝Pastel*Palettes〟を守るためだけに、他人のプライバシーまで侵したのか。

 

「ああ、安心していい。勿論どこにも口外する気はないし、全てが終わったら記憶から消すさ。どれもこれも、全ては君とここで対峙するための策に過ぎない。君が予定通りこの場に現れた時点で、僕の目的は達成されている。

 あれだけ入念な準備をする犯人なら、警備の穴くらいすぐに見抜けるだろう。だから、十六時から十七時までの間だけ、あえてここの警備を手薄にしてもらった」

 

 何もかもが仕組まれていた。執念も、感情も、その全てはパズルのピースに過ぎなかったのだ。

 

 あの脅迫状が届いた日から、全て、全て、全て────ヴァレリア・トリファという犯人は、瀬田逢瀬の掌で踊り続けていたということだ。

 

 背筋が凍った。冷や汗すら出ない悪寒が全身を駆けた。果たして眼前の紫紺の男は、本当に人間なのかという疑念すら湧き上がるほどだ。

 

「さて、ここで一つ提案がある」

 

 そんな怪物から、ヴァレリアへ向けて差し伸べられた手があった。

 

「できれば、今日はもう帰ってくれないかな」

「……私を見逃すと?」

「そうだよ。僕としてもね、あまり事を荒立てたくはないんだ。君がここで大人しく身を引いて、今後白鷺千聖に関わらないと誓ってくれさえすれば、僕は何も見なかったことにするよ」

 

 それはきっと、魅力的な提案だった。

 

 先の逢瀬の推理は大方正しい。脅迫状から自身の正体が特定されないよう入念に証拠となりそうなものを取り除き、白鷺千聖が街中でチケットを配っていると聞いたときは我慢できず飛び出した。ある時間だけどういうわけか一つの出入り口の警備が薄くなることに気づいた日には、これこそが天恵だと小躍りさえしたものだ。

 

 それさえも、逢瀬から与えられた餌だと気づかずに。

 

「さっき言った推理ってさ、正直なところ物的証拠としては何もないんだ。だから、僕が君を然るべき機関に突き出そうとするなら、それはこの場においての不法侵入だとか────君が右ポケットの中でずっと握り締めてる小さなナイフを摘発するくらいしかない」

 

 逢瀬の目がわずかに細められる。それはさながら蛇のように鋭く、獲物を見つめる捕食者のような色を持っていた。

 

 ヴァレリアは白鷺千聖を襲撃するための凶器を隠し持っていた。折りたたみ式の小型ナイフだ。逢瀬の言う通り、それはずっと右ポケットの中に潜んでいる。

 

 しかし、慎重すぎる性格が災いしたのだろう。彼は〝どこかで落としてしまったらいけない〟という不安から、それを握り締めてこの場に立っていた。逢瀬がつらつらと言葉を並べている間も、変わらず。その様子を見逃すほど、逢瀬は人を見る目を著しく欠いてはいない。

 

 殺す、とまで言った人間が持っているもの。ポケットに入るくらいには小さくて、尚且つ落としでもして他人に見られたらマズイもの。そこまで条件が揃っているなら推測は容易い。実際、本当にそれがナイフかどうかはある種賭けのような不確かなものであったが、もし逢瀬がその立場にいたのなら、きっとナイフを選んでいた。刺すことも斬ることもできる。傷つけるには便利な道具だ。

 

「どうかな。悪くない話だとは思うんだけど」

 

 逢瀬の(たた)えた微笑みは、誰もが見惚れるほどに美しく、芸術のような完成度を誇っていて────そして何より、恐ろしかった。

 

 恐怖を覚えるような顔つきをしていたわけではない。見ているだけで胸が高鳴るような美麗な表情(カオ)なのは疑いようもない事実である。しかし、そこに一切の悪意を感じないのだ。

 

 瀬田逢瀬はお人好しである。自己犠牲と献身と奉仕の心が服を着て歩いているような人間である。故に、彼は脅迫犯であるヴァレリアにさえ慈悲を与えている。その行為に裏表は存在しない。

 

 刃物を持った人間と対峙して、なおもその姿勢を崩さない。ヴァレリアは、そんな瀬田逢瀬(ばけもの)に言いようもない恐怖を感じていた。

 

 故に、ヴァレリアの行動は早かった。罠に嵌められた屈辱と、眼前の芸術のような男に抱いた恐怖から冷静さを失った彼は、ポケットの中に隠していたナイフを乱暴に取り出すと、逢瀬に向けて突進した。

 

 実際、もしヴァレリアが逢瀬の提案を呑んだとして、逢瀬がそれを守るという保証はどこにもない。もしかしたら既に通報は終わっていて、外に出た途端に警察が待ち構えている可能性だって十分に考えられた。

 

 その可能性まで考慮するなら、ここで逢瀬を行動不能にした上で予定通り白鷺千聖を襲撃する方が、罪を重ねるにしても本懐を果たせると考えた。それはただの妄執だったが、元より彼はそのつもりでここに訪れていたのだ。結果は何も変わらない。

 

 しかし────

 

「そうかい。残念だよ」

 

 逢瀬は身体をわずかにずらし、突き出された凶刃を回避した。勢いのままヴァレリアの身体は突き進み、壁に当たる。ナイフとコンクリートが触れ合う不快な音が響いた。

 

 そして、血走った眼を見開いてヴァレリアが振り返ると、何かを視認する暇さえ与えられず、側頭部に鋭い衝撃が駆け抜けた。

 

 よろめく五体を支えることはできない。糸が切れたかのように身体中から力が抜ける。意識が混濁し、視界が揺らめいた。それは俗に脳震盪と呼ばれる症状だった。

 

 横になった世界の端。ヴァレリアが最後に見たのは、今まさに回し蹴りを放ったかのような体勢で片足を振る瀬田逢瀬の姿だった。




 例のごとく、この作品はDies irae要素を多分に含みますので、キザ太郎以外で名前がついてるやつはみんな向こうに元ネタがいるやつで別に私の考えたオリキャラではないことをご理解した上でお楽しみください。

 キザ太郎、きちんと考えてんだか考えてないんだかよくわかんない行動するよね。手口を解説するのは負けフラグだってそれ一。

☆10 D-generation S様
☆9 ゲーム中毒様、あるぱっか様、shinp様、グエン様、雨季同家様、リュー@様、ピスケス23様
☆8 餅大福様、k1ntAma様
☆5 眠り男様

 感想とか評価くれると私が喜んだり投稿が早くなったりします。次の投稿は多分きっとmaybe早いよ。


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第十九話

 ほら、早かった。だって前回と今回元は一話のつもりでやってたのを想像以上に長くなって分割したやつだから既に書き終わってたんだからね。


「さて、あとは任せていいかな」

 

 床にだらりと横たわる不審者を見下ろし、逢瀬は一つ息を吐いた。

 

 正直なところを言えば、彼としてはこの展開は避けたかった。誰にも不幸にはなってほしくないという彼の(さが)からしてみれば、警備員に余計な仕事を増やし、人間一人の人生を破滅させかねないというこの展開は、心を痛めるに余りあった。

 

 故に、彼はヴァレリアに大人しく帰ってほしかったのだ。それが理想の未来だったのだが、結果が眼下の現状である。ため息の一つも吐きたくなるというものだ。

 

 廊下の向こうから複数の足音が聞こえてきた。近くで待機してもらっていた警備員が駆け付けてきたのだろう。事実その予感は当たっていて、逢瀬は青みがかった制服に身を包んだ幾人かを目に捉えると、

 

「何人かの警備員が、ナイフを持って暴れ始めた不審者を拘束した。警察にはそう言っておいてくれないか。勿論、僕の名前は出さないでおいて」

 

 それだけ言い残し、返事も聞かずにその場を後にした。背後では、困惑した警備員が何か呼び止めるように声を発しているが、それに対して彼は背中越しに手を振り返すだけで応じる。

 

 その現場に瀬田逢瀬はいなかった。彼の名前は、ライブの裏で起きていた一つの事件に登場することはない。逢瀬はその〝設定〟を遵守することにした。

 

 瀬田逢瀬は〝Pastel*Palettes〟のライブに一般の参加者として臨席していた。もしも犯人の口から彼の名前が出てきたとして、それは錯乱した犯人が口走った妄言である。そう世間から受け取られるのが関の山だろう。

 

「どうやら、結構派手にやったみたいね」

 

 ふと、聞き馴染みのある声に意識を引かれた。逢瀬の眼前にいたのは、彼のマネージャーだった。

 

「来ていたんだね」

「そりゃ、関係者だし。ちょうど今パスパレのライブが終わったところよ。間に合わなかったわね」

「それは残念だよ。……本当にね。後輩の晴れ舞台くらい、最後まで見たかったんだけど」

 

 肩を(すく)める逢瀬。どうやらそれが本心であるとマネージャーもわかっているのか、それ以上余計な口を挟むことはしなかった。

 

 しかし、言わなければならないことはまだある。瀬田逢瀬をそのまま外に出すことは防がなければならない理由があった。それは、彼の身体に起きていた異変によるものだった。

 

「それで、貴方まだ気づいてないの?」

 

 マネージャーが指差した先。それは逢瀬の左腕だ。呆れたような顔をするマネージャーの言葉を少しばかり訝しんだ逢瀬は、そこでようやく自身の身に起きていたことを知った。

 

「……ああ、本当だ。気づかなかったよ」

 

 逢瀬の左腕は、真っ赤な流血に(まみ)れていた。

 

 傷は上腕。横一筋に走った線が、服を切り裂き皮膚まで到達している。恐らくはあのナイフを完全に避け損ねたのだろうと、逢瀬はどこか他人事(ひとごと)のように考えていた。もしかして警備員たちがやたらと困惑していたのもそのせいだったのだろうか、なんてことを考えられる程度には余裕がある。

 

 事実、彼が傷ついたという実感に乏しいのも当然だ。()()()()()()()()()()()()()()()。多分普通だったら結構痛いんじゃないかな、などとマネージャーに対していつも通りの軽口を叩けるほどだ。

 

「来なさい。事務室に救急箱くらいはあるから。血、垂らさないように気をつけてよ」

「ああ、ありがとう。君がいなかったら大変なことになっていただろうね」

「当然よ。天下の瀬田逢瀬が左腕血まみれで歩いてたらそれこそ大騒ぎになるわ。ここまで誰にも騒がれずに来れたのが奇跡みたいなもんよ」

 

 言って、逢瀬の右腕を引っ張るようにしてマネージャーは進む。彼はそれに抗うこともなく、ただ従順に後を追った。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「カーディガンまで借りてしまった……。本当、彼女には頭が上がらないな」

 

 事務室から救急箱を拝借したマネージャーにされるがままに応急手当てを受け、「きちんとこの後病院に行くのよ」と釘を刺された逢瀬は、関係者用通路の真ん中で唸っていた。

 

 羽織っているのは薄手のサマーカーディガンだ。さすがに左腕に包帯を巻いた状態で出歩くのは見栄えが悪いとのことで、黒地の透けないものをマネージャーから貸し与えられている。

 

 して、彼が何故唸っているのかといえば、それは〝Pastel*Palettes〟に起因する。彼は、先輩として彼女らに会いに行くべきか悩んでいるのだ。

 

 彼には後ろめたさがある。あの雨の日、ファン第一号だとか宣っておきながら、結局そのラストを見ることができなかったという後ろめたさが。それを抱えたまま彼女らに相対するのを、彼は躊躇っていた。

 

 勿論、途中で退出したことを察されてもいけない。それを知れば、きっと悲しむことになる。それがたとえどのような理由だろうと、会場にいなかったことに変わりはなく、そもそも「君達を守るためにナイフを持った脅迫犯に立ち向かっていた」などと言えるはずもない。彼は苦境に立たされていた。選択を迫られていた。

 

「どうするかな……難しい」

 

 先輩としては、あの日から見事大逆転を果たした後輩たちを褒め称えたいところではある。それはきっと彼女たちも望むところではあるのだろうし、最初に激励と称して道を示した先達としての責務であるとも逢瀬は考えている。

 

 しかし、万が一にもライブの最後にいなかったことがバレてしまった場合────どんな表情(カオ)をされるかは想像に難くない。頼れる先輩という像を崩したくない彼にとっては、割と死活問題であった。

 

「瀬田さんっ!」

 

 どうしよう、どうしようと眉間に皺を寄せる逢瀬であったが、その煩悶は、息も絶え絶えにかけられた声によって中断されることになる。

 

 逢瀬は神を恨んだ。この巡り合わせはなんの悪戯かと、運命の性格の悪さを呪った。一瞬にして表情(カオ)を取り繕い、完璧な〝瀬田逢瀬〟を用意して、ゆっくりと振り返る。

 

 そこにいたのは、やはりと言うべきか、予想通りの人物だった。

 

「やあ、丸山嬢」

 

 きっと、逢瀬を探し回っていたのだろう。肩は(かす)かに上下し、呼吸は荒い。

 

 ライブ終わりで疲れているだろうに、そうまでさせてしまったのは申し訳ない、と彼は「探させてしまったかな」の言葉とともに僅かな謝意を示した。

 

 彩は頭をぶんぶんと勢いよく横に振り、そんなことはないと否定した。ツインテールが慣性に置き去りにされて揺れる。

 

「パスパレのみんなは?」

「楽屋で休んでます」

「そう。いいのかい? 抜け出してきて」

「あとはやることもないですし。みんな疲れてるし、反省会はまた今度やろうってことになったんです」

 

 彩の言葉に、逢瀬は逃げ道を塞がれたような感覚を覚えた。どうやら、彼女は逃してくれるつもりはないらしいと、恐らく彩本人にそんなつもりはないだろうが、彼は理解した。

 

「ところで……瀬田さん長袖なんですね」

「ん? ああ、これか」

 

 サマーカーディガンの胸の辺りを摘まみ、彩の小さな疑問に応える。季節は夏。七月も半ばだ。昨今の地球温暖化もあって、とても長袖なんて着ていられないほどの気候となっている。

 

「いやなに、少し冷房が肌寒くてね。知り合いから借りたんだ」

 

 わずかに圧迫感を感じる左腕には目も向けず、逢瀬はあっさりと嘘を吐いた。彩は簡単に「なるほど」と言うと、疑うことなくそれを信じる。ほんの一瞬の逡巡すら感じさせない即答具合に、この男がどれだけ嘘をつき慣れているかがわかるというものだ。

 

「それで、何か用件でもあったのかな?」

 

 そんなに急いでいたのなら、何か緊急の案件でもあったのだろうか。逢瀬はそう考えた。しかし彼女の話を聞く限り、〝Pastel*Palettes〟の面々に何かがあったようには思えない。

 

 彩はハッとしたように顔を強張らせた。ツインテールが揺れる。逢瀬には、それがなんだか犬の尻尾のように思えて仕方なかった。ツインテールってそういう意味だっけ、と下らない思考が脳裏をよぎる。丸山彩を犬に例えるなら、恐らくは臆病者のチワワにでも当たるのだろう。

 

「そう、そうです! 私言いたいことがあって────」

 

 言いたいことがあって、言葉に詰まった。悪い癖だ。咄嗟のところで言葉が出ない。大切な言葉を用意しているのに、いざその場になってみると喉が詰まったように動かなくなる。

 

 だが、今彼女の前にいるのは瀬田逢瀬だ。

 

「大丈夫だよ、丸山嬢。焦らなくてもいい。君のペースでいいから」

 

 ────ああ、その言葉は。

 

 深呼吸して、少し止めて、在りし日の出来事に想いを馳せる。丸山彩が罅割れたとき。堰き止めていた涙が溢れ出したとき。その優しい声に救われた。その優しい言葉に救われた。あの日と同じ言葉を、彼は今、口にした。

 

「なんだか、前にも言ってましたよね、それ」

「そうだったかな。ああでも、もしかしたら言ったかもしれない。うん、そんな気がする」

 

 くすくすと、自然と笑みが溢れた。ああ、今なら言える気がする。今日を迎えるまで、何度も言おうと思って、その度に今日まで取っておこうと思っていた、大切な言葉。

 

「瀬田さん。私、ずっとお礼が言いたかったんです」

 

 胸元に手を当てて、(あふ)れる想いを声に乗せる。

 

「あなたがいたから、私は立ち直れた。私のワガママで練習に何度も付き合ってもらって、それでもあなたは嫌な顔一つしないでくれた」

 

 ────あなたはそれが、どれだけ誰かの救いになっているか、知っていますか?

 

 知っていてもいなくても、それが彩の心の支えとなっていたことに変わりはない。ひどく身勝手な願いにも、逢瀬は必ず応えた。応えてくれた。それが彩を絶望の淵から引っ張り上げた責任感によるものなのか、それとも別の要因によるものかは、彩には推し量ることができない。

 

 だが、そんなのはどうだっていい。結果として彩は救われ、逢瀬の前に立っている。ただの力ない少女ではなく、〝Pastel*Palettes〟ボーカル、丸山彩として。

 

 ああ、ならば、言うことはたった一つ────

 

「あの日、私を見つけてくれて、ありがとうございました」

 

 お披露目ライブで向けられた失望と落胆の目。その中で、逢瀬だけが変わらぬ瞳で見てくれた。どんな状況でも、諦めなければどこかの誰かは本当の姿を見てくれているのだと、その時知った。

 

 壊れかけていたときも味方でいてくれた。壊れかけていたことを見抜いてくれた。それはきっと、彼が人を見る目に長けていたから。大衆に紛れたその他大勢ではなく、たった一人の〝丸山彩〟として見つけ出してくれたことが、どうしようもなく嬉しかった。

 

 その言葉を告げられた逢瀬の表情(カオ)は、どことなく呆気にとられたように固まった。しかしそれも一瞬のこと。すぐに(うっす)らと綻んで、

 

「僕はきっと、世界一幸運だ」

「それは……どうしてですか?」

「君のような素晴らしいアイドルと、こうして言葉を交わすことができるから」

 

 それはきっと本心からの言葉だったのだろう。彩はそう受け取った。少し気障(キザ)ったらしく、飾ったような、素直な賞賛。

 

「本当に……今日、この日を迎えられて、よかった」

 

 感慨。応援し続けてきた数ヶ月が報われたという実感が、逢瀬からひしひしと伝わってくる。

 

 幾多もの思いを裏切ったその果て。衝突、逆境、苦難を全員で乗り越え、辿り着いたスタートライン。〝Pastel*Palettes〟は、ようやく此処に花開いたのだ。

 

「お礼を言いたいのは僕の方さ。君たちの再起はどんなドラマにも負けない、輝かしい物語だった。夢物語を実現してみせた。……そんな少女たちの生き様を、特等席で見ることができた。それだけで……」

 

 言いかけて、逢瀬は口を噤む。どうかしたのかと彩がわずかな不安に苛まれると、彼は目を伏せて頭を振った。

 

「……いや、こういう言い方はやめよう。ドラマだとか物語だとか、批評家のような陳腐な言葉は、君たちに似合わない。僕の思いはもっと単純だ。

 ────要するに、好きなんだよ、〝Pastel*Palettes(きみたち)〟が。今までも沢山アイドルを見てきたけど、あんなに応援したくなったのは初めてだ」

「すっ……!?」

 

 動揺が彩を襲った。すき。すき。すき。口の中でたった二文字を幾度となく反復し、()()()()()()ではないと理解しつつも、飲み込んだ言葉は脳内を駆け巡る。

 

 ────ズルイですよ、そんなの。

 

 きっと今、自身の顔色は林檎と見紛うほど真っ赤になっているのではあるまいか。ああ、ほら、突然の奇行に彼もキョトンとした表情で首を傾げているではないか。彩は急いで後ろを向いてしゃがみ込み、落ち着け落ち着けと自己暗示を試みる。

 

「どうかしたかな?」

「いいいいいいいいえなんでもっ!?」

「ならいいけど……」

 

 突然話しかけないでほしい。ビックリするから。口には出さないながらも、その願いは逢瀬にとってなんとも理不尽なものだった。

 

 深呼吸を繰り返すこと数回。顔の火照りも少し収まり、やっと人に見せられる表情になった彩が逢瀬に向き直る。

 

「と、とにかくです! あなたのおかげで私は立ち直れたんです! 今日はそのお礼を言いに来ました!」

「ふふ、ならありがたく受け取っておこうかな。大切にするよ」

 

 口許に手を当て、悪戯っぽく笑うその顔から、どうしてか目が離せなかった。

 

 いつもこうだ。彩のアルバイト先で出会った日よりずっと、その微笑みから目が離せない。最近、それがどんどんひどくなっている気さえしている。

 

 逢瀬に返すように、彩もまた微笑んだ。幸せだった。ナニカが満たされていく心地がした。いつまでもこんな暖かい時が続いてほしいというのは、独りよがりなワガママだろうか。

 

「ねえ、瀬田さん」

「何かな、可愛い子猫ちゃん」

「これからもずっと、ファンでいてくれますか?」

 

 再起の物語は幕を閉じた。これから始まるのは、輝かしい夢の舞台。光差すその未来に、彩には一つだけ不安があった。

 

 もしかしたら、逢瀬はこれを機に〝Pastel*Palettes〟を見限るのではないか、という漠然とした不安。聞けば、世間にはアンダードッグ効果なるものがあるという。逆境に立たされているものを応援したくなるという心理。逢瀬がずっと〝Pastel*Palettes〟を気にかけてくれるのは、もしかしてその立場に同情したからではないか。

 

 このお人好しに限ってそんなことはないと言われれば、きっとそれはそうなのだろう。しかし、どうしてもそれだけは確かめておきたかった。下らない質問だろう。馬鹿にされているとさえ感じるかもしれない。だけど、それでも。

 

「ああ。なんだ、そんなことが聞きたいのかい?」

 

 そして、その不安は杞憂に過ぎないことも、また理解している。そして、心にこびりついた泥のようなその感情は、他ならぬ逢瀬が取り除く。

 

「当然だとも。僕はずっと、君たちのファンだ。先輩も後輩も関係なく、世界のどこにいても、僕の心には君たちがいる。それは変わらないし、変わらせない。だから、そんな不安そうな()をしないでくれ」

 

 ────やっぱり、あなたは優しい人だ。

 

 ────そして、やっぱりズルイ人だ。

 

 求めれば欲しかった言葉をくれる。それが甘く心を満たす。一番最初に丸山彩を認めてくれた彼は、いつだって味方でいてくれる。依存してしまいそうな心地よさ。世界中を探したって、これに勝る安心感は存在しない。

 

「と、そろそろいい時間だね。君ももう戻るといい。僕が言えたことじゃないが、仲間と余韻を楽しむことも、為すべき事を為した人間の責務だよ」

 

 腕時計に目を向けて、逢瀬は彩に諭した。見れば、たしかに時刻は十八時をゆうに越している。あまり此処に長居しすぎれば、置いてきた他のメンバーに要らぬ心配をかけるかもしれない。それがわからないほど、彩は子供ではなかった。

 

「それでは、僕はもうお暇するかな。ありがとう。ライブ、楽しかった」

 

 告げて、逢瀬は踵を返した。今にも歩き出しそうな彼を、彩は見つめることしかできない。

 

 ああ、いや。これで終わりではなかった。最後に聞きたかったことがあったのを思い出して、彼女は叫ぶ。

 

「あ、あのっ!」

 

 そう、彩には疑問があった。

 

「……あなたはどうして、私たちを助けてくれたんですか?」

 

 それだけがずっと疑問だった。彼が同情で動かないのなら、果たして彼を動かすものはなんなのか。

 

 責任感? 先輩としての矜持? 否、逢瀬はそんなもののために動かない。彼が抱いた思いは、今も昔もたった一つしか存在しない。

 

「枯れゆく花をただ眺めているのは趣味じゃない。花は咲き誇ってこそ美しい────なんて、当たり前のことだろう?」

 

 即ち────君たちは、美しいのだから。

 

 これは再起の物語。一度は蕾のまま枯れた〝Pastel*Palettes〟が、再び花開くまでの輝かしい軌跡。

 

 花が咲くにはいくつか条件がある。土壌、水、光。他に瑣末なものは多々あれど、多く知られるのはその三つだろう。

 

 丸山彩を育てた土壌は、居場所となった〝Pastel*Palettes〟。水の役割を果たしたのはたゆまぬ努力。

 

 そして何より、光となっていたのは────

 

 遠ざかる背中、誰よりも綺麗な紫紺の彼。その姿が見えなくなったとき、彩はぬるま湯のような静寂の中で、そっと言葉をこぼす。

 

「本当に……あなたはズルい人です。キザで、それでいて誰よりもお人好しで……私を助けてくれた。こんなの、好きにならない方が無茶ですよ」

 

 鼓動が早い。とくんとくんと、暖かい気持ちが心に巡る。

 

 ああ、故にこそ。胸に灯るこの気持ちを、誇らしく叫びたい。

 

 ────私はあなたに、恋をしています。




 こんな如何にも理解者ぶったこと言ってるけどこいつライブの最後会場にいなかったんだよね……

 キザ太郎のアリバイは完璧です。何せ関係者全員味方につけて証言させますから。誰に何言われても「彼はその時ここにいました」って周りが証人になるという。

 丸山は何やってもヒロインみたいになるからすごいよ。お前がナンバーワンだよ。

 投稿当初の予定ではここまで十話もかからないと思ってた。なんかいい話風に終わってるけどまだまだ完結は先という。

 感想とか評価をくれるともしかしたら次の話が出るかもしれない。


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