真・這いよれ!ニャル子さん 嘲章 (黒兎可)
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01.ネクロノミコン計画
第五種接近遭遇(偽)


 

 

 

 

 

 八坂真尋の目から見て、空は赤かった。なにもこれは時刻が夕方というわけでもなく、ましてや彼が疲れ目、かすみ、充血しているわけでもない。ならば何かと言えば、純然たる事実として彼の視界の光景はそれ以外の何物でもない。

 住宅街、息を切らせながら走る真尋。何をそんなに急いでいるのかといえば、ときおり彼が振り返る背後にある。彼から一定距離を保ち、何かが、彼に接近している。それはおおむね大人の男性ほどの体躯の大きさをほこり、四肢と頭を持つシルエットをしていたが、根本的な造形からして人間のそれではない。詳細なシルエットこそ赤い夜空のせいで見えないまでも、どこか悪魔的なそれを連想させる、頭蓋から生えた角と背部から生えた翼である。

 直視してはいけない――――、真尋の中の本能的な何かが警告する。それが何を指し示すか連想することができるほど、今の彼に余裕はない。夜道、突如として現れた「それ」に接近された時点で、彼は全力疾走をしていた。それの顔に目など確認こそできなかったものの、しかし何故か「それ」が自分の存在を狙いすましたように見たことに、真尋は自覚的であった。

 

「なんだよ、なんなんだよアレ! 今どきライダーの怪人とかでも、もっとかっこいいデザインしてるだろって!」

 

 卑近な言葉を上げることで現実感のなさと危機感に混乱した自分を落ち着けようとしているのか、しかし真尋の言葉に呼応するかの如く、背後で声が上がった。それは一言でいえば何かしらの獣の声であったが、音が複数重なり合った、何か人体の重要な器官と共鳴して破裂でもさせかねないような叫び声であった。恐怖感にかられる。一瞬振り返り、背後に「それ」の影を確認したまま真尋は走る。

 再び声が上がる。上がった声に、真尋の脳裏には何故かふたたび「それ」の姿が見えた。一瞬しか見ていなかった「それ」の姿が、なぜかこと克明に、徐々にその真価を顕にしていく。己自身が「それ」を見たとき、全容そのすべてを把握するよりも前に逃げ出したと真尋は思っていた。何故逃げ出したのかということについては、得体のしれない怪物のようなものが目の前に現れたからだと、その程度の認識でいた。だが実態は違う。彼は「それ」を見て、あまりの風体の有様にその姿を瞬間的に忘却していたのだ。

 それの姿は、ある意味で悪魔よりもひどい有様である――――人間でいう顔があるはずの個所はかつてそれが存在したかのようなへこみ(ヽヽヽ)があるが、ただそれだけだ。こめかみから頭頂部にかけてまるで皮膚の内側から裂けるかのごとき有様で角が這い出ており、「それ」の呼吸に合わせて微々動く。皮膚の質感は海洋生物を連想させる深い色をしており、そして明らかに、先端が三又の槍のように分かれた尾を持っていた。時折びちゃびちゃと「それ」から垂れる何かが飛び散る音が真尋にとってなぜか不快でしかない。まるで大きな虫でもにちゃにちゃと噛み潰して砕くようなその音が、たいそう耳障りで冒涜的なそれだ。

 

「この、くそッ」

 

 脳裏に焼き付いたそれを思い出してしまったせいか、足を縺れさせながらバランスを崩しかけた真尋は、しかしてそのまま直進せず横の狭い路地に入った。単純に道が狭ければ自分を追う「それ」を撒けるかという判断があったわけではない。混乱しているため判断に全く余裕がなく、直感的、反射的にそう動いてしまっただけだ。だからこそその進行方向が行き止まりであることに悪態しか出てこない。眼前の単なるコンクリートの壁を殴り飛ばすが、出血と激痛に顔をゆがめる。いや、その痛みのせいでむしろ真尋は多少冷静さを取り戻した。

「なんでだ……! なんでオレがこんな目に――――ッ」

 そしてついに、真尋は「それ」を直視してしまった。己の背後にいるだろうそれを振り返った瞬間、真尋は動くことさえできなくなって、そのまま後ろに倒れこんだ。完全に腰が抜け、ぱくぱくと、水中の魚が地上で呼吸をできずもがくように声も出せない。真尋にはわかってしまったからだ。さきほどまで真尋が不快に感じていた音の正体が「それ」の咀嚼音であったことに。人間の顔の輪郭のみをそったような溝のある顔のようなそれが、縦に開き、捕食動物らしい鋭い牙をのぞかせ玉虫色の唾液を飛ばし叫ぶその有様は、とうてい一介の男子高校生が許容できる域にない。

 

「――――――――――――」

 

 絶叫を上げる。誰か助けてくれと声を上げる。しかし彼の意に反し、体は言うことを聞いてくれない。もはや真尋に抵抗するすべはない。いや、そんなもの初めからなかったに等しい。一体何がどうあればこのような狂気的な名状しがたき怪物を前に平静でいられるものか。霊長類を騙る人類という種族が実際のところ単なる宇宙の塵芥が一つであると再認識させるに十分すぎるその異様たる威容を前にもはや真尋はただの畜生でしかない。振り上げられた長い爪も、びちびちと表面の痙攣する筋繊維が固まりのごとき腕も、もはや彼は正常に認識することが出来ないほどに混乱し、そして正気を失っていた。

 空を見上げる。赤く正常な判断を失った狂った世界を前に、這いずることさえかなわず彼は叫ぶ。いや、吠える。そこにはもはや感情も理性的な判断も何も乗っていない、ただただ恐怖からの絶叫に他ならない。未知なる眼前の「それ」に対する恐怖。それそのものに対する恐怖と、それに何かされる恐怖とが折り重なったそれは、しかし誰にも聞き届けられることなく――――――――――。

 

「"Where there is Cosmos, Chaos lurk and fear reigns――――, But by the insanity story have been told ferret ,mankind was given hope of fake..."」

 

 何事か呪文のごとき女性の声が聞こえると同時に、肉を割き骨を陥没させたような音が鳴った。はっとしてみれば、眼前の「それ」が縦に裂けた口を大きく開き絶叫を上げている。それも一目で原因を納得させられた。「それ」の頭頂部からは、明らかに紫色の、おそらく血液に該当するだろう何かが噴水もかくやという程に溢れ噴出し続けていた。あふれ出た血液のようなそれが天高くマグマ噴火のごとく舞い散り真尋にも降り注ぐ。鼻をつく濃縮された乳製品のごとき匂いで鼻をやられながも、真尋は見た。

 ぐらりと体を傾けて倒れ伏した怪物の向こうに居たその相手は、一目でおそらく十人が見て十人とも美しいと形容することが出来るだろう容姿の女性だった。年は二十代後半だろうか。首に赤いマフラーを巻き、黒い革のライダースーツをまとった姿。身長は真尋より高くシルエットはグラマラス。左腕肘より下に無数の時計めいた装置をつけ、腹部には中央のバックルが淡く輝くベルトには懐中時計のようなものがチェーンでつながれている。膝まで届くほどに長く艶やかな形容しがたいほどに美しい髪。まるでこちらを見下すような無表情が印象的で、そして非人間的な恐ろしさを真尋に抱かせた。

 

「語るに及ばず言うに及ばず、仕込みは十全にはしているものの中々スリリングなことになってしまっている感じですねぇ」

 

 ふとその超越者がごとき表情に人間的な色が灯り、にこりと向けられたほほ笑みはたいそう可愛らしいと形容できるだろう。少なくとも真尋の趣味の顔形ではある。しかしてそれに何かしらの反応も返せず、ぱくぱくと、やはり声が出せない彼。

 

「まぁ、ちょっと待っててください。――――ほら、逝っていいよ」

 

 真尋に向けていた笑みをすぐさま非人間的なそれに変貌させ、彼女は怪物の頭上に刺さっていた何かしらの金属のそれ――――一般的に言えばバールであるが、それを抜き、振り上げた。紫色の血液とともに先端になにかしら、怪物の角の根元が刺さったのか共に抜き放たれる。それを気にせず容赦なく、彼女は怪物の頭部に振り下ろし続けた。あまりの光景に声が出ない真尋であるし、しかしてそれ以上に胸元にこみあげてくる嘔吐感を抑えようがない。

 やがて、直接的な表現を回避するのであるならば、くちゃくちゃに、ぐちゃぐちゃに、ズタボロにされたその肉片を蹴り飛ばし、腕時計のような装置を外して真尋の左腕に取り付ける彼女。ひんやりとした年上の女性の指の感触に一瞬気が動転しそうになるが、しかしそれ以上に取り付けられた装置が気になった。それは一言でいえば小さな十面ダイスを二つ並べたものを円盤状のそれに取り付けたような道具である。そのダイスが、突如からからと回転を始めた。やがて何周かすると、真尋の脳裏に、96、という数値が思い浮かぶ。それと同時に、ぜいぜいと今まで出ていなかった声がいきなり発声できるようになった。まるで金縛りが突如解けたようなその有様に愕然としながら、目の前の有様を視界から外しつつ彼女を見上げる。

 

「あ、アンタは――――?」

 

 その問いかけに彼女は少し思案するような顔になって。

 

「きざまれた時計、夢まぼろしの霧に消える――――うん、夢野霧子とでもお呼びください」

 

 にっこりと笑いウィンクしたその彼女は、しかしどうしても偽名を名乗っている印象がぬぐえなかった。

  

 

 

 

 



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名状しがたき美女のような何か

本作での声イメージ
 八坂真尋:鈴村健一
 ニャル子:浅野真澄



 

 

 

 

 

「やぁ、どうもおはようございます」

「――――え、」

「どうかされました?」

「あ、いや、なんでもない。おはようございます」

「おじゃましてもいいですか? 外で話すようなことでもないと思いますし」

「あ、あー……、まぁ、どうぞ」

 

 冒涜的かつ忌まわしき昨晩の出来事もそうそうに翌日の朝。あまりの事件に茫然自失とすることも一種のショック状態に陥ることもなく、ただただ普段通り朝食の準備をし終えたころ、八坂真尋の前に再び彼女が現れた。まぁごくごく当たり前というか、家のインターホンを押して家主が出てくるのを待つ程度には普通の来客としてだ。何故真尋の家の住所を知ってるのかという謎はあったものの、そんな疑問は一瞬消し飛んだ。

 こうして扉を開けた真尋が一瞬思考停止するくらいには、彼女はやはり美人といえた。

 夢野霧子――――明らかに偽名なのはわかりきっているのだが、呼び名がないのでとりあえずそう仮称しよう。長い髪、愛らしい容姿、グラマラスなスタイルでかつ背は真尋と同じか少し上。おおむね二十代中頃くらいに見える女性である。ただ服装は昨日と大きく異なる。黄色の肩だしセーター、ストライプのネクタイ。黒チェックのミニスカートにニーソックスと、明らかに私服、オフの日といった格好だ。いや、しかして妙齢の美人の女性が、しかもスタイル抜群の女性がこんな格好をしているのだから、真尋からすればたまったものではない。思わず赤面するのを隠しながら、彼は家の中に霧子(仮)を案内した。

 

「朝食ですか。いいですねー、料理のできる男の子は嫌いじゃないですよ?」

「良かったら何か食べるか? ご飯とみそ汁くらいしか出せないけど」

「はいよろこんで! やっぱジパング民はお味噌汁ですよね~」

 

 何か果てしない違和感を感じはするが、それの正体がいまいちわからない真尋と、そんな彼の様子を気にすることなく対面の席に座る彼女である。

 丁寧に手を合わせて朝食を食べる彼女。特に変わった様子もないといえばないのだが、なぜか不思議とまじまじ相手を見てしまう真尋。彼女は彼女でそれを気にしてる様子もなく、白米、みそ汁、あとたくわんを平らげた。

 

「ふぅ、ごちそうさまと。じゃあお話しますか。たぶんもう『SAN値』は戻ってると思いますから」

 

 人心地つく間もなく、彼女は咳ばらいをしてにこりと笑った。

  

「あー、夕べのこと詳しく話してくれるって言ってましたっけ? っていうかなんで昨日あの後すぐにとかじゃなくって今日なのか……。オレを助けた後、そのままどっかいっちゃったよな」

「それは、『真尋さん』が連鎖的にSANチェックに失敗しそうな勢いだったので、多少日常回帰してあげてからの方が良心的かなーと。自然精神分析ですねー」

「いや、あの、言ってることがよくわかんないっていうか。……って、あれ、オレ、名前言いました? なんで知ってんだ?」

「そこは、ほら。企業秘密ってやつですよ」

 

 満面の笑みで指を立ててそう言い切る彼女。なんだろう、美人なのだがその仕草は異様に胡散臭い。ただ「冗談ですよ」とくすくす笑いながら、霧子(仮)は話を続けた。

 

「まぁまず質問事項を整理しましょうかね。おおむね予想はつきますが。

 ①昨日真尋さんを追ってたあの化け物は何か。

 ②それを退けた私は何者か。

 ③SAN値って何か」

「いや、最後のは知ってる。アレだろ、海産物になみなみならない恐怖心を抱いた人間が書いたような類の……」

「おっと、予備知識があるのなら話は早そうですね。ことクトゥルフ神話がここから重要になってきますので、そこお忘れなく。

 ……っというより、意外と真尋さん、口が悪いです? 友達いなかったりするんじゃ……」

「うるさいっ、っていうかほぼほぼ初対面の相手に心配されることではないわっ」

 

 つい反射的に悪い口をきいてしまった真尋であったが、しかし霧子(仮)は特に怒らずにこにこしている。これが大人の女性の包容力というものか、あるいは単に話を適当に受け流しているとみるべきか。いまいちこの女性そのものについて、その存在自体に胡散臭さを覚えている真尋であるからして、そのあたり判然としない。

 

「ちなみにクトゥルフ神話的な知識として、どれくらい知ってるか聞いてもいいですか?」

「大体、原作者がかかわってる範囲は知ってると思うぞ。深く海で眠り続ける巨大なタコ頭の邪神クトゥルフとか、割と人類守ってくれるけど憑依されたら骨なくなるハスターとか、大体こいつが黒幕といっても過言じゃないかもしれないニャルラトホテプだとか――――」

「あー、結構です。十分っぽいですね。というより、普通に読んでるレベルの知識っぽいですね。高校生の読書としては中々重いものだと思ってますが……」

「そんなことはどうでもいいから。……っていうか、なんでオレの名前知ってるんだ」

「では丁度良いので、①から順当に説明していきましょう」

 

 やはりにこにこ笑う彼女。だんだんとこれがアルカイックスマイルなのではないかと疑い始める真尋である。

 ともあれ彼女の話をまとめればこうである。彼女が所属するとある秘密機関(名前を出すと消されるとか言っていたので無理には聞き出していない)とやらが、これまた別な秘密組織(なおこっちは表向きの名前として挙げられたものを知っているレベルらしく逆に教えられないとか)が企てた人身売買の情報をキャッチする。相手組織に潜入していたスパイが入手したそのリスト。

 

「で、その人身売買のリストにオレの名前があったってわけ?」

「そうなりますね。情報が正しければ真尋さんをさらうこと、何かの儀式の時間が書かれていました」

「儀式?」

「まぁ平たく言ってしまえば、いけにえってやつですね。選定条件は向こうにしかわからないのですが、それでも相手はちゃんと真尋さん個人を狙ってきてるってことです。いやー、危なかったですね昨晩は」

「マジかよ……」

「マジもマジ、大マジですよ。ちなみに私はそのリストに載っていた真尋さんの個人情報のおかげで、真尋さんのご両親が結婚十七年目にして十七回目の新婚旅行に出かけてることとかも知ってたりします。ご愁傷様です」

 

 正直その情報を知られていることに関しては、返す言葉もなかった。情報を知られているという事実からして相手の言っていることの信憑性について、というよりも、年頃の息子一人をおいてTPOをわきまえずいちゃつくあの両親が長期で出かけていることについてだ。

 気を取り直して頭を左右に振る。真尋はふと、重要なことを思い出し、そして気づいた。

 

「……なぁ、まさかとは思うけど、その敵対組織とかって、クトゥルフ神話とかに関係してたりするのか?」

「おぉ、アイデア! なかなか想像力がおありですね」

「いや順当に考えればそういう話にならないか? この流れ的に。……でも、っていうか、そもそもそれってマジなの? 本当に?」

「おおむねマジです。さっきからたいがいマジしか言ってない気がしてますがマジです。まー、しいて言えば邪神同士は属性があったり敵対関係が直接存在してるって訳じゃないみたいってくらいですかねー。いうなれば全員、潜在敵と言いましょうか。敵の敵は味方に一時的になることはありますが、基本最後は蹴落とす姿勢ですね」

「なんだか邪神から直接聞いたようなこと言うなアンタ」

「って、発狂した友達がげらげら笑いながら言ってました♪」

「穏やかじゃないなぁ」

 

 いや、だがその話が実際真実なら、ある程度説明がついてしまう事柄がある。昨晩の真尋の身に起きた異常についてだ。怪物に追われているさなか、突如明らかに自分で自分の肉体や衝動が制御できなくなるタイミングがあった。そのいずれもが怪物の声や姿をとらえたときに起こっていた出来事ならば、それは怪物の有様がまぎれもなくこちらの正気度合――――すなわちSAN値をダイレクトに削っているということだろう。

 

「クトゥルフって創作じゃないのかよ」

「んー、ほら、御大のお弟子さんみたいな人にXXXXって居たじゃないですか。彼がもう本当にそっちの秘密結社の人間で。体系化されるまでは予想してなかったと思いますが、世に知らしめることで彼らが目的とする神の存在を広く知らしめるのが目的だったみたいですかね。そもそも御大が海の手のものに強い恐怖心を抱いていたからこそ、あっちのチャンネルが受信できたんじゃないかと私は思ってますけど」

 

 筋が通っているようないないような。しかしやはり、どっかで実際見てきたようなことを言う女性だ。

 ともあれ、と彼女は胸を張りながら続ける。

 

「このままいけば日曜日か月曜日、つまり明日あさってのうちどちらかで儀式を決行するような算段みたいですので、真尋さんがそんなつまらないことでコロコロされてしまわないよう、私が誠心誠意ボディーガードするっていう話ですね!」

「コロコロいうなコロコロ。って、なんでそんなとこだけ無駄にテンション上がってるんだ……」

 

 軽く頭を押さえる真尋に、彼女はきょとんとした後、こう言ってのけた。

 

「だっていくら化け物とはいえ、合法的に、物理的にいたぶることが出来るじゃないですか」

 

 このセリフを聞いた瞬間、ああ昨晩みたあの非人間的というか、冷血を極めたみたいな顔は見間違いじゃなかったんだなと、謎の納得を得た真尋であった。

 

 

 

 

 

 



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この世ならざる奇怪なデートのようなもの

※本作だと彼女は別にその手のものが大好きだったりしません。そもそも本作では、邪神共にエンタメ的世界観は通用する世界ではないのです
※描写の関係上、デートの場所変更しました


 

 

 

 

 

 とりあえずプレゼントです、と、霧子(仮)は突如どこからか腕時計めいた装置を取り出した。十面ダイスのような何かが盤の上に二つ埋め込まれており上下それぞれの頂点が軸となっている。そのまま上を軽く撫ぜればころころと回転しそうなものだが、しかし実際にやってみると異様に硬い。不可思議そうな顔をする真尋に、霧子(仮)は「自分でやるんじゃないですよー」と言った。

 

「その道具、SANチェッカーっていうんですが、それは自分で使うものじゃなくって、自動的にダイスロールが行われるものです」

「自動的に……? っていうか、昨日もこれ使ったよな。なんなんだこれ」

「簡単に言うと、スケープゴートというか、予備バッテリーというか。そんな感じのものになります」

 

 いまいち要領を得ない説明のようであったが、しかし霧子(仮)の説明を真尋はなんとなく把握した。おそらくこれは、正気度、すなわちSAN値が削れる場合に自動的に稼働して、こちらのダメージを引き受けてくれるという道具なのだろうと。そしてその事実に思い至った瞬間、からからとその装置が回転したあたりでその認識が間違いではないだろうことに納得する。どう考えてもTRPGでいうところのクトゥルフ神話技能に相当する知識の獲得だ、SAN値が削れてなんらおかしくはない。そして回転が止まっても昨晩のように数値が脳裏に浮かんでこないあたり、今回は正気度が削れなかったということか。

 ともあれそのあたりの予想を話すと、霧子(仮)は「ははぁ、やっぱりアイデア良いですねぇ」と心配そうな顔を浮かべた。

 

「いえね? ほら、TRPGでもアイデア、つまり想像力が高いプレイヤーキャラクターって結構簡単に発狂しちゃいかねないところがありますので、なかなか注意するべきところですかねぇ護衛するとき」

「そんなに想像力豊かでもないと思うぞ?」

「いえいえ、でもそこの調整はしておかないと。この果てのない荒野のような名状しがたき現実には、探索者に優しいキーパー、神秘の守り手たるGMは存在しませんから。死ぬときは死にます」

 

 ごもっとも、と、これには真尋も納得の理由だった。

 

「肌身離さず、そのSANチェッカーをお忘れなく。一度に一般人が使用できるSANチェッカーは1つが限界ですし、上限値を越したら一発でぶっ壊れますから。壊れたら容赦なく逝きます」

「了解。……って、その言い方だと一般人でないなら複数使えるみたいに聞こえるんだが」

「使えますよ? 私なんかは7つ使えますし。まぁそうするためには、神話的改造人間になるしかないんですが」

「なんだそのパワーワード」

「アイデア高めの真尋さんなら、なんとなく予想つくんじゃないですか?」

「いや、別にオレ想像力そんな豊かでもないんだが……」

 

 しかし癪なことに、霧子(仮)の言わんとしているあたりのことについて、真尋はおおむね見当がついてしまった。厳密な情報を聞くとおそらくまたSANチェッカーが稼働することになると思うのであくまで想像の範囲に留めておくが、要するに神話生物とされるあたりの存在とか、あるいは神話的アーティファクトだとか、そういうものを埋め込まれたり、あるいは生物的に組み込まれたり、混合されたりといったところか。どちらにせよ人間のキャパシティを破壊する操作が必要になるということだろう。これ以上考えるとさらに危険な領域に足を踏み入れそうだったので、とりあえず現時点で重要な情報のみを整理する。現時点で真尋が所持できるSANチェッカーは1つ。上限値を超えた場合に破壊され、それ以上のSAN値喪失を肩代わりはしてもらえなくなる。

 

「……って、あれ、とするとコイツの上限値ってどれくらいなんだ?」

「99ですね」

「高いな」

「それでも逝くときは逝きますから」

 

 なんとも非常に悲しい話だった。さすがにこれが現実の世界であるというだけのことはあるのか。

 ともあれ、一通り真尋が欲しかった情報については入手できたといえる。

 

「ともあれ、まぁ真尋さんにはお邪魔かもしれませんが、しばらくは周辺をうろちょろさせていただきます」

「あー、そうかい。聞きたいことはあらかた聞いた訳だが、オレはこのまま自宅に引きこもっていればいいのか? 平日にしろ休日にしろ、どう考えたってこっちの方が安全だし」

 

 とりあえず今後の方針について聞けば、霧子(仮)はむむぅと思案顔になる。

 

「確かに室内に入っておくというのは間違いではないですが、いいんですか?」

「何が?」

「いえね? もしここで襲われた場合、自宅の居間がひどいことになりますよね」

「なるな」

「その場合、正気度喪失は昨晩のような遭遇と比べてはるかにひどいことになります。というかそういう傾向が出てます」

「……なんで? あ、いや、わかった」

 

 そうか、確かにそうだ。自宅に突如神話生物なり何なり、口にするのもはばかられるほどに冒涜的な怪物が自身の住み慣れた日常に侵入し蹂躙する。いや蹂躙されるかもしれないという程度だが、これはたいそう拙いだろう。たとえるなら自宅に突然ジェット旅客機のエンジンが落下してくるようなものだ。どう考えても単なる日常風景以上に酷い正気度喪失を経験しそうではある。

 そして同情するように微笑む霧子(仮)に言われるまでもなく、だんだんと自分が本当に想像力豊かなのではないかと思い始めてきた真尋であった。

 

「やっぱりアイデアいいですよねぇ。というわけで、私としてはここでたむろするのはあまりお勧めしませんかね。すわっ! って感じです」

「何だ、その感嘆句……」

「ともあれ、そんなわけで私のアジトにご招待しようかと思います。これから数日間は私の自宅で過ごしていただこうかと。四六時中、ずっと防御態勢になりますが、それについてはあしからず。私はソファとかで寝ます」

「えっ」

 

 そして、真尋がその言葉に固まってしまったのは言うまでもない。何か問題でも? という風にほほ笑みながら小首をかしげる彼女に、

 改めて目の前の、夢野霧子(仮)を見やる。日本人離れした端正な顔立ちにすっと通った鼻筋。一見するとクールに見えるものの微笑むと不思議と幼さがそこに見え隠れするような不思議な印象を抱くが、総じて可愛らしさの残る大人の女性である。外見だけなら文句なしで、口調が時折おかしなことになっているが、いわゆる妙齢の美女というやつであろう。いわく外見的には魅力的な女性に映る(内面までは彼には察しきれていないが)わけで、そんな相手と数日間櫃屋根の下で一緒という状況は、たいそう宜しくない。間違いでも起きたら責任をとれないということを踏まえて、どうしても首肯することが出来ない真尋だった。

 

「あ、赤くなってますねぇ……。ん、ん? あ、なるほどぉ」

「その好事家みたいなにやにやした面持ちを止めてくれ」

「いえいえ、まぁそういう『視点』も初体験というわけではなかったですが、ティーンエイジャー相手に抱かれるとは思ってなかったので、なかなかこそばゆいですね。照れちゃいます」

「わざわざ口にするなっ」

 

 こっちの方が照れるわ、という内心をさすがに口にはせず、真尋は眉間を軽く抑えた。

 しばらく両者ともに思案顔になる。どうでもいいことだが、想像力豊かと指摘された真尋の方はさっぱりアイデアが出ないが、おそらくこれは想像力の種類の違いだろうと判断した。クリエイティブな想像力ではなく、連想力というべきか。今回相手にしている潜在敵に対しては、むしろ弱点をさらけ出しているに等しく、甚だ遺憾な真尋である。そういう意味では確かに、一番最初にSANチェッカーを用意した霧子(仮)の判断は十分優秀といえ、おそらくその判断を成すだろうだけの経験値を伺わせた。

 やがてしばらくすると「アイノゥ!」と突如手を打つ彼女。

 ただし発された言葉は、間違いなく真尋にとって予想外のそれであったが。

 

「真尋さん。デートしませんか?」

「……は?」

 

 どうしてそんな結論になったと回答を急ぐまでもなく、霧子(仮)は返答する。

 

「要するに外に出ていればいいのですよ。昨晩の真尋さんが襲われている状況からして、敵方もある種の結界みたいなのを張って自分たちの存在を外界に認識させないようにしているみたいですし。となれば、これが妥協案としてベストかなと」

「まぁ、言われれば確かに妥当な気はしてくるんだが……。デートっていったって、オレ、そういう経験ないから全然それっぽいコースとか用意できないんだが」

「のんのんのん! そこまでマジなデートとか求めてはいませんよ。外に出てればいいので最悪近所のスーパーで買い物を一緒にするとかでもいいですから。まぁその場合、半日以上スーパーでつぶす必要がありますが」

「さすがに無理だな。あー、そうなるとどうしたものか……」

 

 外に出て時間をつぶすといっても、そもそも基本はインドア派である。わざわざ古い本を探すためだけに区間五千円以上もかけて駅から駅で途中下車したり、大型本屋を目指して県を三つまたぐとか、そんなすっ飛んだ行動力とかもないインドアである(※編注:筆者は何度かやらかしました)。となると必然提示できるコースは彼が普段めぐっているあたりの趣味が中心となるので、要するにまぁまぁ、軽めのオタクなコースである。こんな美人を連れ込んで良いものかとかいろいろ思案するところはあるのだが。

 

「真尋さんが用意してくれたルートだったら、特に何も問題ありませんよ?」

 

 こう満面の笑みで言われてしまっては、いち男子高校生としては断りづらいところがあった。

 

 

 

 

 

  ***

 

 

 

 

 

「ほえー、ほえー、ほえー」

「さっきからずっとそんな反応ばっかだなアンタ」

「いえ、そりゃほえーっともなりますとも。なるほど、真尋さんの豊かな理解力とか想像力とかは、日本のサブカルチャー的文化によって育まれた感じなんですね」

「っていってもオレだってここは初めてだけどなぁ」

 

 一概に否定できないところではあるが、しかしそれを肯定するのも何か釈然としない。やはり一緒に行くのは失敗だったかと思いはしたが、しかし存外目の前の女性は楽しそうに周囲の本を手に取ってみている。片手に買い物かごをしてはいるが、おっかなびっくりという様子で漫画本を手に取ったりしている。

 端的にいえば、真尋たちは専門店に来ていた。いわゆるコミック・アニメ専門店というやつである。表紙にはかわいい女の子が虎耳もっていたり、あるいは線が太く男らしい兄貴が店長やっていたり、しかしともあれ駅で言えば2、3かそこら、都心でいば電気街とかにもある何階建てかの建物に来てるこの二人。「外国人とかいないわけではないですし、私の容姿でも案外目立たないかもしれませんかねぇ。うまいこと考えましたね真尋さん」と軽く頭を撫でられたりといったことはあったが、それはさておき。デートということで、普段絶対に行かないサブカルチャー坩堝の一つへ行ってみようと思い、なんだかんだ実行に移して現在、軽く後悔している真尋であった。来はしたものの、ぶっちゃければそんなに買うものがない。わざわざウィンドウショッピング的なことをするためだけに紙幣一枚使用するのはそれはそれで癪なのだが、いかんせん現状が現状だった。まぁもっとも、隣の彼女は彼女で意外と楽しそうではあるが。

 

「うわ、これは……。えっちぃのはいけないと思いますよ、私」

「って、さも当然のように対象年齢18歳以上のゲームソフトを手にするなって」

「だって私、18歳未満じゃありませんし」

「オレがまだ15だっての」

「それは真尋さんの事情ですし。それに、結構こういうの好きなんじゃないんですか? ほらよく小学生くらいの男の子とかにありがちな、誰も見ていないことを確認してから、えっちな写真集とかを手に取って、ポロリ写真をチラ見してるように見せかけてガン見したりしてぇ」

「他人の過去を捏造するなっての」

「いえいえ。そういう衝動があっても、男の子ですから問題ないですよ。むしろないといろいろ問題があるんじゃないでしょうか」

「ジェンダー周りの問題は最近色々うるさいから止めるぞ」

「そうなんですか? う~ん、地球のことは難しいですねぇ」

 

 アンタも地球人だろ、という突っ込みも面倒なので真尋は流すことにした。というかこんな美人とする会話でもないし、そもそも妙齢の美女がこんな得体のしれないものを手に持って平然とけらけら笑っている時点で目立つ目立つ。周囲はチラチラとしかこちらを見てこないのもまた、真尋の胃に悪い。

 丁度そんなときであった。

 

「あ、いますね」

「は? ――――――――ッ」

 

 唐突に霧子(仮)が腕を振り上げたかと思えば、その手の先には某宇宙大河活劇映画の光る剣がごとき何か(なお根元に風車が象られているあたりからして、元ネタは特撮番組に依存していそうだが)が握られていた。そしてその腕を、ぶぅん、と猛烈な速度で振り切った次の瞬間、はるか外の方角で、聞き覚えのある怪物のような絶叫がこだました。

 

「いきますよ?」 

 

 そのまま真尋の手をとり、突如走り出す霧子(仮)。何をやったのか、と問いただすよりも先に、真尋は一つ違和感を覚える。眼前、店の中にいる周囲の人間の誰一人として突然の彼女の暴挙に見向きもしなければ、外の怪物の声にさえ驚いている様子もない。否、それどころか、カゴを適当に放り出して棚を蹴散らしながら走る彼女と自分に、だれも見向きさえしないのは明らかにおかしい。そしてここで、外に出る前に霧子(仮)が言っていた言葉を真尋は想起した。結界、結界とかいっていたか?

 ふと左手に巻いたSANチェッカーを見れば、猛烈な勢いで回転を始めている。どうやらまたぞろ、余計な知識を身に着けてしまったようだ。

 表に出ると真尋の手を放し、霧子は突然セーターの胸元を大きく手前に引いた。と、そこに腕を突っ込み、大きく見えるようになった胸の谷間の間から、何やら取り出そうとしている。

 

「ちょっと待っててください」

「あ、アンタ何やってんだこんな時に!?」

 

 果たしてそこから現れ出たのは、懐中時計めいた装置の取り付けられた、中央のバックルが淡く輝くベルト。帯は革なのか、それがずるずると胸の間から出てくる。ときおり地肌にこすれるのか「やンっ」とかそんな嬌声を出しやがるからに、真尋の下腹部的には大層悪い。ともあれ取り出したそのベルトを腰に巻くと、彼女は指で、眼前に五芒星でも描くかのごとく動かした。

 

「だから何やってるんだって……」

 

 ふとみれば、空は赤い。昨晩と比べれば明らかに昼間という明るさで、赤というよりはどちらかといえば赤紫という色味ではあったが、なるほど、これが結界内にいるという証左ということか。

 そして視線を彼女に戻すと――――昨晩見たライダースーツ姿、赤いマフラーに大量のSANチェッカーという姿。意味がわからない。何故一瞬であの私服からこの姿に変化したのか。

 

「……は? 変身でもした?」

「んー、形態変態次――――ああ、だいたいそんな感じです。これ、かみくだくと変身ベルトみたいなものです。”自ずから輝く疑似球多面体(シャイニングトラペゾヘドロン)”っていうんですけど」

 

 真尋は混乱している。が、そんな彼を、もっと言えば彼のSANチェッカーを見て、霧子(仮)は表現を選んだ。

 

 

 

 

 

 



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冒涜的戦闘と冒涜的数の暴力

※がりがりSANチェッカーが回ってます


 

 

 

 

 

「夜鬼ですかねぇ、あのビジュアルは。昨日の今日で相手が同じ種族となると、勢力は一つに絞れそうです」

 

 とかなんとか言っている霧子(仮)の横で真尋のSANチェッカーは高速回転中。脳裏に浮かんだ数字が「87」なあたり、一気に削られた気がする。

 それもそのはずと言っていいのかどうか。昨晩、暗がりの中で見た空を舞う怪物のそれを、正面からとらえてしまったからに相違ない。真尋のイメージでは慣れが発生するだろうと考えていたのだが、しかし日中、細部のディティールがよく見えるような光の中での神話生物の直視は、あまりに真尋にもダメージが入っているらしい。姿かたちは昨晩見た範囲と相違ないものの、脈動する筋肉、呼吸音など昨晩まったく気にしていなかった部分などが視界に入り、ほとほと頭を抱えている。ちなみにそんな真尋をかばうように前に出ている霧子(仮)のSANチェッカーは、二秒ほど回転して止まっている。慣れているのだろう。

 ともあれその夜鬼、ナイトゴーントとも呼ばれるその怪物は、地面で苦しむようにのたうち回っている。

 

「どうしたんだ、アレ」

「ちょっとした魔法を使いまして、多少ダメージを与えましたうまくいってれば羽根のあたりが多少切れてると思うので、昨日ほどすばしっこくは動いてこないと思いますよ」

 

 言われてみれば、見るもおぞましい紫色の体液とおぼしき液体が、顔料か何かのごとくものすごい勢いで地面を染め上げている。そしてそれに気づいた瞬間すぐ目をそらしたものの、残念ながらSANチェッカーの起動は止めることはできなかった。

 80。

 なるほど、わずかに冒涜的光景を見るだけでも正気度を削られるというのなら、99などという上限値はあっという間に消し飛ぶのも頷ける。そんな真尋の様子を理解してか「手短に済ませますかね」と肩をすくめる霧子(仮)。大通りへ向けて走り、歩行者天国の中心に落下しているそれに向けて、彼女はライトセイバーのごとき特撮番組のヒーローが使っていそうな武装のおもちゃを向ける。ちなみにこれは、道中で彼女が興味を惹かれて真尋が買ったものだ(平然と万単位の金額が飛んだ)。

 

「興味本位でも、こっちを見ないでくださいね? あっという間にチェッカー壊れますから」

 

 首肯したものの、彼女が何をするのかくらいは見ようとしたのがまずかった。

 突如彼女は手に持っていたそれで、空中に何やら模様のようなものを描いた(当然その軌跡は空中で何も描いている訳ではないので、何が描かれているかはわからない)。がわずかその操作で、ステッキの先端から黒い粘液を滴らせた軟体動物の複数ある足ないし触手のような、巨大なそれが出現。ぬめぬめと音を立てながらぶんぶん振り回され、そして地面で今にも立ち上がろうとしていたその動物の首にぶつかり。ぶちん、とかぶちゅん、とか、そんな音が鳴るのと同時に、何かが空の彼方まで飛んで行った。飛び去ったそれは遥か高くを舞い、市中を走る列車に激突しただろう、遠く見える範囲でいう、あたり一面に紫色のシャワーをまき散らす。と数秒遅れてまるで忘れものでも思い出したかのように、胴体、「なぜか頭一つ分だけ背が低くなった」化け物の首あたりから、噴水のごとく周囲に体液がまき散らされた。

 からからとSANチェッカーが回転する。触手の正体について考えるまでもなく、なんらかの魔術なのだろうとかそういう他の推測を抱くも、目撃してしまった時点でその発想に意味はない。

 72。

 

「…………」

「ふぅ、いい汗かいちゃいました。――――って、あれ、どうしました?」

 

 既に光るステッキの先端には、先ほどあった物体は存在しない。というか、その触手が「大きく口でも開くように広がって」、残った怪物の身体を丸ごと覆いつくして消失したあたりからして、すでにSANチェッカー再起動と同時に、現在68である。早すぎる。あまりに早すぎる。一日経たずに50近く正気度が削られそうなこの状況に、早くも真尋は絶望感を覚えていた。

 

「な、なんでもないや」

「なら構わないんですが……。まぁいいでしょう。今後は忠告を聞いてくださいね?」

 

 嫌でも首肯してしまう真尋であったが、そのまま「じゃあデートの続きと行きますか!」と全く調子が崩れていないあたり、やはりこの女性と自分とは生きる世界が違いすぎると再認識したのだった。なお空は青空に戻っているので結界が解除されたのだろうが、どう見ても紫色の液体についてはフォローがされてなかった。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

「いやー、今日はありがとうございました! なかなか楽しめた一日でしたね。この本とか!」

「ああそうかい。……って、アンタはオレが夕食を作るのを手伝ったりするつもりは全くないってことでいいのか?」

「私、海外生活が長くて、おそらく一般的な日本の文化にはなじんでいないですよ」

「名前、霧子とか名乗ってなかったか。日本人の名前だろ」

「え? あ、それはですねー、えー、まぁ日本人でも私、秘密組織のエージェントですし!」

 

 最後の方で急に慌ててわたわたとしていたが、まぁもともと真尋の認識でも彼女は偽名を名乗っていただろうということで、詳しく追及するのは止めた。デートが一通り終わって自宅、日もくれ夕食の時間帯。準備に追われる真尋と、興味深げにテレビをかけながら本日買ってきた本を読んでいる霧子(仮)である。何が面白いのか、手元のその美少女ばっかり出てくる小説群をみて「んー、これはなかなか」など謎の寸評をしている。

 

「何か気に入ったのがあったのか?」

「いえね? この、最後の最後でヒロインの正体が判明して、それで主人公のとなりにいられないってなってるのに、最後の最後でクラスに転校してきて『これからも一緒ですね♪』ってエンディングが、なかなか悪夢的だなぁと」

「悪夢的なのか……?」

「トラブルから主人公が一生逃げられないっていう死刑宣告でもされてるみたいで、なかなか楽しいじゃないですか♪」

「そういう感想を抱いたことと、その感想をして楽しそうとか言えるアンタの神経が俺にはわからん……」

 

 たとえどれほど見てくれが綺麗でも、基本的に彼女は危険人物であると真尋は理解している。理解しているが、わずかばかりSANチェッカーがからっと動いてしまったあたり、あまり深く考えるのを止めた。深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ。狂気と戦い続けているだろう彼女への理解に踏み込むことは、すなわちこちらも狂気の世界へ足を踏み込むことなのだろう。

 

「おお、普通に和食ですね。焼き魚焼き魚と」

「楽し気なところ悪いんだが、これっていつまで続くんだ?」

「ほぇ? あー、そうですねぇ。おおむね『私の仕事』としては『月曜日まで』で終わりかなと」

「それはつまり、儀式の発動タイミングまでオレを守り切れれば勝ちってことでいいのか?」

「おおむねそうなります。そうじゃないパターンもありますが、私が真尋さんから離れられないということと、SAN値を減らさない前提で考えるならほかに選択はないでしょうねぇ」

 

 うなづきながらみそ汁をすする彼女に、真尋は肩をすくめる。

 

「察するに、相手と直接対決するっていうのは難しいってことか」

「そうなりますね。……やっぱりアイデア良すぎじゃありません? 真尋さん。説明が早くて助かりますが」

「アンタと会ってわずか一日も経ってないけど、なんだか自分でもそうじゃないかと思い始めてるよ。すでにSANチェッカー、60切りそうだし」

「やばいですねぇ。私も本腰入れてどうにかしないといけませんか……」

 

 言いつつ食事をしながらも、彼女の視線はテレビに向けられている。当然のように市中で紫色の液体が飛び散った光景について、まったく報道されている気配はない。いったいあれだけで何人のSAN値が喪失されたのかということについて、真尋は積極的に考えるのを放棄していた。自分の責任もないわけではないだろうが、時に身を守るためには人間は利己的にならないといけない。というかこの調子で続いたら、間違いなく自分は廃人コース一直線なので、何とかしてほしいところだ。もっともそのあたり、霧子(仮)にどうこうできる問題でもないだろうことは真尋にもわかってはいるのだが。

 

「やっぱり、その、オタクっぽい女の子の方が好きだったりしますか? 真尋さん」

「は、はぁ? なんだよ急に」

「いえね? 単なる情報収集ですよ、情報収集。護衛対象の」

「なんでそんな話聞きたがるのかがさっぱりわからんのだが……」

「私が護衛しているときに都合よくそんな女の子が現れたら、別な邪神か何かの姦計かなと疑うべきかと」

 

 というかそれは、相手方の方がこちらの好みのタイプを把握しているということになりかねないのだが。積極的にそのことについて、真尋は考えるのを放棄する。ここ一日二日で考えることを放棄するくせがつき始めているのではないかとおもわなくもないが、なにごとも身を守るためには必要不可欠である。

 

「別にそういうわけでもないぞ? まぁ突っ込みを入れ続けるのも疲れるから、落ち着いた女の子の方が好みではあるが」

「でも共通の話題があったほうがいいんじゃないですか? 自分の趣味を認めてもらうこともあるでしょうし」

「あのな、一つ言っておくけどオレそこまでマニアックじゃないからな? せいぜい特撮とかアニメとか、適当に流し見するくらいで」

「それでも十分マニアック扱いされそうな昨今だとは思いますが……。まぁいいでしょう。あ、ちななみにちなみに、容姿とかはどうです? 例えば私とか」

「…………」

「なんで目をそらしたんです?」

 

 割とタイプの顔をしていたから、とはさすがに正面きっては言えない真尋であった。

 さすがにこの話題が続くのは思春期の男子高校生としては色々辛いので、すぐさま話題をそらす。

 

「そ、それはともかく。アンタ、昼間襲ってきたアイツのこと、夜鬼とか言ってたよな」

「言ってましたっけ? あ、言ってたかもしれませんね」

「なんでそんな重要情報忘れるんだよ。……夜鬼って、あれだろ? ナイトゴーント。レッサ・オールド・ワン」

「その分類自体、私からすればナンセンスな気もしますが、カテゴリー的には間違っていないんじゃないですかね?」

 

 ナイトゴーント。やせ細った人型をベースにした生物で、全身が黒い海洋生物のような皮で覆われ、顔はのっぺらぼう。コウモリのような巨大な羽と長い尻尾、牛のような大きな角を持っている、とかだったか。確かにおおむねその特徴には合致した姿かたちをしていたように思う。そして重要なのは、その種族が何に仕えていたかということだ。

 

「オレの記憶が正しければ、アレってノーデンスとか、這い寄る混沌に仕えてなかったっけ?」

「いやだなぁ、真尋さん。そんなマッチポンプするわけないじゃないですかぁ」

「は?」

「あ、いえ失敬こっちの話です。んー、まぁどっちかといえばノーデンスの方が一般的ですかね。ニャルラトホテプがナイトゴーントを使うのは、あくまでも間借りみたいな関係かなと」

 

 はぁんと、そういうものかと軽く頷く真尋。思えばノーデンスとニャルラトホテプとは、間接的に呉越同舟する間柄だったかとも書籍知識から思いだす。

 そもそもノーデンス。故ダーレス氏、ラブクラフトの弟子のひとりであるが、彼の四台元素分類での解釈においては、クトゥルフと敵対、対応する水、海の神とされる。実際そういった要素を含んではいるが、直接的にクトゥルフと対応する神であるかは置いておくとして、旧き神とされる存在の最高神とも言われる。この神が何であるかといえば、比較的人類には友好的な神であるということだ。それが人さらいを企むというのが、よくわからない。

 

「いえいえ、なにもノーデンスが直接真尋さんをさらうと考えているかは別ですよ? ほら、彼らって一応利害関係があるっぽい相手であれば、時に力を貸したりもしますし」

「とはいえど、ノーデンスと利害関係がある何者かっていうのが、それ自体あんまりイメージがわかないというか……。まだしもニャルラトホテプが悪だくみしてるとかの方が現実味があるっていうか……」

「どうしました?」

「……いや、ひょっとしてアンタ、ニャルラトホテプだったりするか?」

「一体どうしてそんな結論になりましたか」

 

 軽く頭を押さえ視線を逸らす霧子(仮)に、真尋は半分くらい冗談めかして言った。

 

「この状況、もし本物のニャルラトホテプが存在するのなら、一番ライブな感じでオレの右往左往する様を楽しめるのはアンタのポジションかなと」

「何を馬鹿なことを……。大体、そうだったら私が真尋さんを助けるわけないじゃないですか」

「まぁそういう裏付けがあるから、冗談半分で言ったんだが」

 

 すく、と立ち上がると、霧子(仮)は両手にアイドルゲーム発のキャラクターぬいぐるみを装備し、そのままぽこすかぽこすかと真尋にパンチを繰り出した。

 

「てい、ていていっ! きりこぱんち! だぶる!」

「ちょ、止めろって、どうしたいきなり!」

「人を冗談半分で這い寄る混沌扱いしておいて、何平然と笑っていやがりますですか真尋さん! さすがに懐の広さと母性に定評のある私でもとさかにきましたです! はいはい! ひだりひだり! みぎ!」

「わ、悪かったって、さすがに……」

 

 確かに言われてみれば、これは真尋が一方的に悪いといえるかもしれない。素直に謝るも、しばらく霧子の機嫌は直る様子がない。

 

「まったく、どうしたら許してくれるってんだ……」

「んー、じゃあそうですね。何か一つ、真尋さんが私の言うことを聞いてくれるのでしたら――」

「却下」

「なんでですか、いきなり!」

「会って一日二日の、得体の知れない相手に、そんな全権移譲めいた空手形渡せるかッ!」

 

 しごくまともな真尋のセリフであるが、むむぅ、と何か諦める様子のない霧子(仮)である。大体からしてこの女性、真尋と相対しているときのこのキャラクターと本性とが別なのでは、と彼は疑ってかかってる。大体からしてSANチェッカー七つも使えるとはいってるが、逆に言えば「7も使わざるを得ないだけSAN値が減っている」人間なのではないかとも推理、解釈できるわけで。そんな相手がまともな人間であるかというと、果たして。どれだけ美人で見た目は好みのタイプでも、一線を譲るつもりはない真尋だ。

 

「むむぅ、仕方ないですね。それじゃ一旦この話は保留しましょう。保留ですよ、保留」

「忘れるつもりは毛頭ないのかよ……」

 

 と、そうこう話していると。びたり、と居間の窓に何かがたたきつけられるというか、張り付くような音が聞こえた。一瞬、テレビの映像にノイズが入り、二人の視線が窓に向き。

 

「――――――――」

「きゃっ! 真尋さん!?」

 

 

 

 窓一面を覆いつくす複数体のナイトゴーントと、その奥に見える犬と人間を混ぜ合わせたような汚らしい人型の生物群を前に、SANチェッカーが一気にうなりをあげた。

 

 

 

 

 

 




夜鬼の数:1D6+2
食屍鬼の数:1D100+10


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吐き気を催す大戦争

夜鬼:6
食屍鬼:78

※すみません、久々すぎて原作舞台がどこだか忘れていたので過去話含め描写変更しました。


 

 

 

 

 

 ささやくような男の声が聞こえる――――。ダイ、とかデッド、とか聞こえたそれは、しかし言い終えた後にぐるるとうなり声のような響きを伴っていた。

 窓の外に見た夥しい光景の直後、電気が消灯。窓の割れる音と共に真尋の耳に届いたそれを察知してか、霧子(仮)は「目を閉じて耳ふさいでください」と叫んだ。瞬間、地面に投げつけられた閃光。猛烈な光と音が窓向こうに投げられる。その効果は意外と大きく、犬のような声がひるんだのがわかる。数秒後、蹲る真尋の手を取り霧子(仮)は入り口の方へ駆け出した。

 

 「……窓に! 窓に! ってならなかったことを喜ぶべきか、そうでないか……」

「それだけ言えるなら余裕がありますね、真尋さん。いや、ちょっとあの数はさすがにないですね……」

 

 既に臨戦態勢の服装に変貌している霧子(仮)であるからして、状況はかなりやばいのかもしれない。いや、明らかにやばい。あれだけの怪物群がのどかな街の一角を覆いつくしていたことも問題だし、そんな街でスタングレネードが炸裂したという事象そのものも色々と問題がある。入り口を出た瞬間、こちらの姿を視線にとらえたのか背後で犬のうなり声のようなものが上がる。うっはー! と軽く驚いたような声を出しながらも、霧子(仮)は走る速度を遅くすることはなかった。

 

「なんだよアレ。いや、ナイトゴーントはわからんでもないが」

屍人(ゾンビ)、いえ食屍鬼(グール)といった方が差し支えないですかね」

「そういや連中、仲良いって設定とかあったっけ。ドリームランドだかなんだったか」

「おお、アイデア! じゃなくて図書館ですかね。リアル読書知識があるおかげで、少しはSANチェッカーの減りが軽いと良いんですが……」

「そうでもないって。もう50切った。41」

「あ、これ気を抜くと直葬されるやつですね」

 

 やりとりこそ余裕があるようであるが、霧子(仮)は笑みすら浮かべず冷や汗をかいている。状況はやはりまずいらしい。

 

「いや、今までの減り具合からして直葬はされないんじゃないか?」

「とはいえど、どうせ最後の最後は神様出てくると思いますので、もう一つくらいSANチェッカーあげましょうかね」

 

 言いながら、霧子(仮)は左腕のSANチェッカーを一つ外し真尋に手渡す。と、それをつけようとした彼の腕を止めて、真剣な声で言い含めた。

 

「いいですか? 必ず、今つけているSANチェッカーが0になってから取り付けてください。じゃないとかなりやばいことになりますよ」

「やばいって……?」

「…………脳みそが、破裂します」

「あ、うん、わかった」

 

 冒涜的事件に対するチートアイテムじみたものではあるが、その実やはりクトゥルフ神話のアーティファクトの類ではあるらしい。とてもじゃないが試す気にもなれず、真尋はそれをポケットに入れた。それを確認してから、霧子(仮)はここに来て少しだけ微笑んだ。

 

「まぁでも少し時間はとれますかね。さっきのスタングレネードで結界の効力が切れたはずなので、彼らもおいそれとすぐには活動できないでしょう」

「結界が切れた……? 結界って、アンタが作ってたわけじゃないのか?」

「ええ。わたしももちろん作れなくはないですが、基本、あれは襲う側が張るものです。自分たちの行動を外部に知らせず、こっそりロクでもないことを行って、何事もなかったかのように日常の闇に紛れる。そういった目的のため、ニャルラトホテプの信奉者団体が作り上げた術式で、現代では広く使われているものになります」

「ロクでもないな這い寄る混沌」

「いえ、ロクでもないのは団体の方ですよ。ほら、ニャルラトホテプ自身はそんなこと関係なくなんにでも変身できますから、気にする必要ありませんし」

「そうでなくったって、自分の信奉者たちくらい管理できないのかよ……」

「んー、ほら、宗教ってそういうものですし? 拡大解釈、職権乱用、なんでもありありです。儒教とか正直ヤバい類のものですよ?」

「そういう話、全然詳しくないけど昨今怖いからスルーするぞ」

「えぇ~……」

 

 なぜにそんな不満そうな顔をしているのか。まるで痴漢冤罪で捕まったサラリーマンがごとき、己の無実でも証明しようとして失敗したかのような落胆顔である。それを追及する意味を感じなかったので真尋はとくに聞かず、さきほどの霧子(仮)の言った話の続きを促した。

 

「こう言うと変かもしれませんけど、表ざたに神話生物とか魔術師とかが活動しようとすると、周囲の別組織とかからつぶされるんですよ」

「あ……? なんでだ、関係ないんじゃないのか?」

「いくつか理由はありますし、組織によっても理由は異なる場合もありますが、まぁ端的に言ってしまえば『自分たちの情報漏洩』にもつながりかねないからですかね」

「自分たちの? つながらないだろそれ」

「どうしてです? 例えば大パノラマの手前、都心とかで冒涜的映像が流されたとしたとき、その中で発狂していない人間がいたとすれば、結構な確率で『こっちの』業界関係者ってことになりますし。そういう可能性がある情報がぽろりと出てくるだけでも、裏で色々企んでいる相手からすれば厄介なことになりかねないというのもありますから。まぁもろもろ『俺たちの邪魔になるから止めろや』ってところあたりなんでしょうかね」

 

 そういえば、と。「アーカム計画」なる小説など例にもれず、基本的に狂信者やらなにやらは、最終的な計画実行時まではこそこそ隠れて動いているのが常である。当たり前と言えば当たり前だが、一歩間違えれば核ミサイルをぶち込まれて終了というのも十分にありうるわけで、そういう意味では自己防衛のために関係する情報各所をふさぎまくるというのも、方法論としてないわけではないのかもしれない。そして少しだけSANチェッカーがカラカラ回るあたり、真尋からすれば本当どうにかしてもらいたいところである。今回は判定が成功したのか減少しなかったのでまだマシだが、いいかげん頭が痛い。SAN値が減って痛いというより、SAN値が減るのを阻止する方法が思いつかないのが痛いのだ。だが耳をふさぐ、目を閉じるというのは間違いなくホラー映画の死因の一種であるからして、真尋に真実との対峙から逃げるという選択肢は存在しない。ともあれしばらく走った先、歓楽街を抜け鉄道をまたぎ、どうにか広い公園に足を止めた。桜は散りすでに青葉が生い茂っており、なにより池だか川だかが凍っていない。それでも妙に肌寒いあたり、立地的な事情を嫌でも思い出させた。

 さすがに疲れたのか、池沿いのベンチに腰を掛ける霧子(仮)。真尋も同様に疲れていたので、隣にお邪魔した。

 

「さっきの数だと、さすがにアンタでも勝てないのか?」

 

 落ち着いたころに、思わず真尋はそう尋ねた。対する霧子(仮)の返答はシンプル。

 

「真尋さんを守りながら戦うのは難しいですね。さすがに周囲すべてを覆い囲まれた状態で、両方に注意をもっておくのは難しいかと」

「そういうものなのか?」

「そういうものです。私の使える魔法というか能力というか、その関係でいっても、こちらが一撃成功させれば勝てるかもしれませんけど、同様に私も相手から何発かもらったらその場でジエンドですから」

 

 どんなに強化したところで、人間の限界値は神話生物とかには及びません、と。苦笑いを浮かべる霧子は、どこからかカプセル錠剤を取り出した。

 

「ところで真尋さん、お薬水なしでも飲める人です?」

「出来なくはないが、率先してやりたくはないが……。なんだそれ、飲めってか?」

「ええ。万が一真尋さんがさらわれた場合も想定して、発信機です」

 

 嫌に本格的というか、現実的になってきたなと真尋は嫌な汗をかいた。敵もなりふり構ってきていないのは察していたが、どうやら霧子(仮)もなりふり構っていられる状況でもないらしい。数日で体外に排出されるという説明にとりあえず納得し、そのモノトーンカラーのカプセルを無理やり呑む。うえっとなったところ、軽く背中を霧子に叩かれて飲み込んだ。

 

「保険もかけたところで……。う~ん、しかしやっぱり動機面がさっぱりわからないですよ」

「うぅ……、まだ喉に違和感が……」

「泣き言いわない。男の子じゃないですか」

「そういう男女差別、良くないと思うんだが……。で、何だって、動機?」

「ほら、真尋さん言ってたじゃないですか。ナイトゴーント使役する以上はノーデンスだって」

「もしくは這い寄る混沌な」

「ノーデンスだって! とはいえど、実際ノーデンスの可能性を真尋さんが除外したのと同じ理由で、確かに真尋さんをさらう理由が相手にはないんですよね。別にアブダクトされやすい体質とか、宇宙人受けする顔立ちとか、そんな人間基準の価値観とかもないでしょうし」

「なんだアブダクトされやすい体質って。並の不幸体質どころの騒ぎじゃないなそれ……。っというかアンタ、這い寄る混沌の可能性を除外してるが、何か理由でもあるのか?」

 

 真尋の至極妥当な問いに、彼女は確信をもって首肯した。

 

「ええ。ありえないといえます。もし本気でニャルラトホテプがその類のことに手を出していたなら、そもそも今頃真尋さん正気じゃないでしょうから」

「え゛っ」

 

 嫌な断定のされ方だった。

 

「直接相手に聞こうにも、そもそも襲撃している時点でこちらの話など聞く気はないでしょうし、まっとうなコミュニケーションに持ち込めるだけの状況を作らないといけないわけですが……。とてもじゃないですが、思いつきませんね。いっそ、県外に逃げちゃいましょうか? 数日くらいなら行方をくらませられるでしょうし」

「行方くらましたくらいでどうにかなるのか? それって」

「場合によっては私以外のエージェントも派遣されるでしょうし、そちらと協力ならば、といったところですかねぇ。ともあれ時間は稼がないと――――――今みたいにですね」

 

 今みたいに、という言葉の真意を、真尋が問いただすよりも先に、霧子はそばに落ちていた木の枝を拾い、どこかに構える。そして周囲を警戒するように首を左右に振っていた。嫌な予感を覚えた真尋が立ち上がると、その瞬間に月光は青から赤に。そして周囲には、明らかに人間の原型を残し、しかし顔の形が犬を思わせる形に変形しているそれを目撃した。数にして周囲一帯を埋め尽くす勢いのそれは、ゆうに五十は超えるだろう。やや姿勢が悪く、ぎょろりとした鏡面のような目が真尋を見据える。わずかにゆがむ自らの姿を直視し、一瞬頭痛を覚えると同時にSANチェッカーがからからと回りだす。37。まずまずの数字だ。

 

「全力出すわけにもいかないですからねぇ。メリーポピンズするには傘が必要ですし……。おーい! あのー、一応聞いておきますけど、何か取引できる話とかはありますかねー? さすがに皆殺しとか、人さらいされる前に事情くらいは聞いておきたいんですけど。一、探索者的には」

 

 霧子(仮)もやけっぱちなのか、そんなまともな返答が返ってはこないだろうセリフをのたまう。ところが意外なことに、この一言は功を奏した。がやがやと食屍鬼たちが顔を見合わせ、なにごとか話し合い始める。おや? と二人して頭をかしげていると、上空からナイトゴーントが一体下りてくる。とっさに霧子(仮)が真尋の頭を押さえて上を見させないようにしたので、おそらくそこにはやはりうじゃうじゃと化け物どもが闊歩(滑空?)していることだろう。

 

『That's not what I was agreement』

 

 聞こえてきたのは、なぜか英語だった。発声器官自体は彼らに存在するのだろうか、案外と普通に聞き取れるもので、SANチェッカーが回らないくらいだ。一瞬真尋に目配せした後、霧子が上空に苦笑いをする。

 

「Can you speak Japanese? It's very important for us」

『Sorry, but We cannot do』

「Oh……, Oh well……, Screw it. 真尋さんには私が翻訳して話します」

 

 なんとなくだが、どうやら日本語がしゃべれないらしいことだけは真尋にもわかった。

 そして何言か霧子(仮)が上空の夜鬼とやりとりしていると――――背後の水面から、何かが立ち上がったような音が聞こえる。聞こえた音は一つどころではない。複数の何かが水面から立ち上がるような音。それと同時に食屍鬼たちが明らかに狼狽えている。この時点で真尋はなんとなく状況というか自分たちの背後の様子を察しはしたが、しかし想像することもなく思わず霧子の手を握った。

 

「ふぇ? ま、真尋さん?」

 

 何も言わずに、くい、くいと背後を指さすと、霧子はそちらをちらりと見て軽く眉間を抑えた。

 

「あー、完璧インスマスな感じですね――――って、おっとと!」

 

 いきなり真尋をお姫様抱っこすると、霧子はそのまま前方に走る。食屍鬼たちはなぜかそれを避けるように移動した、そして真尋たちの背後、池の方に向かって走り出す。空中からも、ごう、ごうという音を立てて池の方めがけて降下していく連中が多かった。この時点で、背後からびちゃびちゃというか、びたびたというか、まるで大型魚が地面に打ち上げられてうごめているような音と、引きちぎられる肉や折られる骨や飛び出る血の音などが聞こえたりしている。背後を振り返らずとも、真尋の豊かな想像力は核心的にその情景を描き出していた。おそらく水面から上がってきたものは半魚人の類である。細かいビジュアルは想像することさえできないしするつもりもないので割愛するが、それに向かって冒涜的な生物群が戦闘を仕掛けているのだろう。

 

「逃げますよ真尋さん。わかってると思いますが後ろは決して振り返らないことです。たぶん、SANチェッカー壊れます」

「そうかい、そうかい! 嗚呼、まったく散々だなこんなタイミングになって! なんだこの理不尽な状況!」

 

 理由もわからず得体のしれない怪物群とかにさらわれそうになって、なおかつなんらかの儀式の生贄にされかかっている。この状況自体訳が分からないところではあるが、事態が転々としているのも真尋の認知コストを大いに削っていることだ。突然の魚人の乱入の意味も解らないが、さきほどまで真尋たちを襲おうとしていた連中が彼らを妨害する側に回っているのも意味が解らない。

 そうこう走っているうちに空の色が青に戻った。とりあえず結界からは抜けたのだろうが、まったく安心できる余地がない。しかしこうして走っていても、霧子(仮)の手はほんのり冷たく、しかし外気よりはいくぶん暖かく、生きている人間の感触と熱を真尋に伝えてくる。心臓が張り裂けそうなほどに混乱を極めている状況もあってか、そして相手が異様に美人だということもあってか、彼の正気な部分は「あれ、これってつり橋効果とか働いてるんじゃないだろうか」と冷静な分析を下していた。実際、わずか2日ほどしか面識のないこの女性に、真尋はかなり好感情を抱いている。相手のことをそもそもほとんど知らないにも関わらずだ。さすがにそこまで軽い人間に育てられてはいないと彼自身が自負していることもあって、状況が特殊すぎるのが原因だろうと結論づけた。

 

「どうしましたか? 真尋さん」

 

 そしてちらりと真尋を振り返る霧子(仮)に、やはり心臓が一段と脈打つ。漫画とかだったら顔が赤らんでいるだろうが、あいにく現実世界では単に挙動不審になったり、異様に汗をかいたりするだけである。そんな様子を見かねてか、彼女は一度速度を落とし「どこかで休憩しますかねぇ」ときょろきょろ周囲を見渡した。

 立地を考えれば、この場は繁華街。何かの小説で探偵がバーに居たりする土地柄であるが故にか、休憩所と呼べるあたりからはどことなくピンク色な雰囲気が漂っており、「ないない」と、ぼんやりしはじめる頭を左右に振る真尋だった。

 

「ァイア・ァイア・ク()ゥルー・フタグン」

「は?」

 

 そんなタイミングで、突然聞こえた言葉である。変なアクセントと濁った声、妙ななまりに、思わず反射的に背後を振り返ってしまったのがまずかった。そこに立っていた2メートル近いシルエットは、鈍器のようなもので霧子(仮)の頭部を殴り飛ばした。理解が及ばず、真尋は一瞬反応が遅れ、そしてSANチェッカーが回転する。

 

「えっ」

 

 その一言だけを言い、目を見開いたまま霧子(仮)は地面に横倒れになった。

 

「――――な、お、おい! アンタ、しっかりしろ、おい!」

 

 膝をつき霧子を揺さぶるものの、彼女は驚愕したかのように大きく目を見開いたまま、びくとも動かない。まるで死んでしまったかのようなその有様に真尋は気が動転。脈をはかるよりも先に彼女のスーツ胸部に耳を当てる。胸の感触などより、ちょっと速度が速いものの一定のリズムで脈打っていることに安堵。だが、安堵したと同時に真尋は腹を蹴り飛ばされた。ごろごろと転がり、仰向けになり、そして、目撃した。

 霧子(仮)を襲ったシルエットは、トレンチコートにシルクハットを着用した何かだった。それはまるでがま口財布のように横に広がった口を持っており、2メートル近いその体系はわずかに小太りと形容できるかもしれない。いや、小太りという形容は正しくない。おそらくそれは「生物種として正しく」、首が太く頭とつながっているのだ。ぬめりけのある地肌がネオンの街頭に照らされ、てらてらと乱反射している。一歩一歩真尋に向けて歩くごとに、ひたりひたり、という、薄い皮膜がこすれるような音が聞こえる。

 

「これが、か()ぎか」

 

 そしてシルクハットをはずし、その容貌の全容を顕にした。

 左腕から電子機器が爆発するような音が鳴り、そして、そこから真尋の記憶はない。

 

 

 

 

 




インスマス面からおそらくアイデアクリティカル、幸運ファンブルして、クトゥルフ様の御姿までたどり着いた模様。
 
バッドエンドっぽいけど、まだまだ続きます。


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夢見るままに待ち、至る

※ゆっくり(グロ)注意


 

 

 

 

 

 真尋が我に返った瞬間真っ先に行ったことは、上着のポケットからSANチェッカーを取り出してすぐさま左腕に装着することだった。そしてそこまでほぼ咄嗟に行ったせいか、回転するSANチェッカーとともに正気を取り戻した。いや、本当に取り戻せたかはわからない。なにせ、真尋の声は出なくなっていたからだ。まるで喉の筋肉だけ金縛りにでもあったかのような、そんな不気味な感覚である。ともあれ彼は周囲の状況を確認する。体全体が寒い。室内が寒いということであろうか。上着らしきものが地面に転がされているのが、まるで誂えられたかのようで不気味な印象を与える。腕、足ともに拘束されていなかったことから、状況としては軟禁されているに等しいのだろう。扉には潜水艇にでもついているような大型のハンドルがされており、室内の雰囲気や、妙に生臭い空気も含め、まるでここが潜水艇か何かのようでもある。咳ばらいをしたところで吸い込んだ空気は汚れているのか、むせる真尋。ともあれ落ち着くために外の空気を吸おうと、ハンドルを回して外に出た。

 潜水艇という推測は間違っていたが、どうやら大きく外れているという訳でもないらしい。廊下らしきところに出た真尋。空を見上げれば赤い月であり、いまだに彼が何らかの結界にとらわれているだろうことを示している。周囲に音がないせいかみょうに脈拍だけが彼の耳を打つ。呼吸を乱しながらも、彼は廊下を一歩一歩進む。やがてドーム状の何かに覆われたデッキに出た段階で、おおむね彼は自分の所在地の推測が立てられた。クルーザーとまではいかないが、大型船に違いはないらしい。問題は、外に見える光景が一面海原であることである。いまだに海上を進むこの船が、何を目指しているのかが真尋にはわからない。

 

「――――きが、つ()いたか」

 

 びくり、と。独特の、皮膜がこすれる様な音をまといながら、妙な訛りのある声に真尋は体が硬直する。だが眼前に迫る恐怖と相対するべきか、そうでないか。なぜか脳裏に一瞬、笑顔の霧子(仮)の姿を幻視して、気合を入れ、しかし恐る恐る背後を振り返る。

 果たしてそこにいた者は真尋の想像通りのそれだった。シルクハットこそしていないものの、トレンチコート姿には見覚えがある。てらてらとした皮膚、たるみ脂肪とえらのある首。ぎざぎざとした肉食らしい前歯と、澄んだ色をした両目。果たしてそこに居た者は、半魚人としか言いようのないそれである。SANチェッカーの回転が止まると、脳裏には80の数値。なかなかどうして、気絶直前は大量に消し飛ばされたと見える。そして片方の手には、真っ赤に染まったビニール袋。メロンかスイカか、それくらいのサイズの球状の何かが入っているのがわかるが、真尋はそちらから全力で意識を逸らす。

 喉を鳴らせば、どうやら声は出そうであった。

 

「こぉとぅを、きておけ。じき、なぁんきょくだ」

「……あ、コート? というよりも南極って」

 

 いや、そういえばと。この魚人を前に、真尋は思い至る。南緯47度9分、西経126度43分。通称で太平洋到達不能極。その場所には、いわゆる彼らが崇め奉るところの「神」たる存在が眠りうごめいているはずだ。

 

「なるほど。で、おたくらオレに何の用だよ」

「はなすひつぉうは、な()い」

「話す必要はないと言われたってな……」

 

 生贄とか言われていたかと、真尋は頬が引きつる。状況からみて邪神、おそらくはクトゥルフ神話で最も有名だろう邪神クトゥルフに対して、なんらかのアクションを起こすための儀式のいけにえとして使われるのだろうと予想は出来るが、しかして問題はそこにない。

 

「ぁいっておくが、にげよう、とぅぁ、かんがえるな」

 

 そう言うと、魚人はビニール袋を放り投げる。真尋の足元にごろごろとそれが転がる。明らかに血が流れ出ているそこから全力で目を逸らしていた真尋だったが、しかしその口から、はらりと零れた髪の毛には見覚えがあった。………………見覚えしかなかった。

 からからと音を立ててSANチェッカーが回転する。いや、この最悪の想像を確かめる必要はない。何かの見間違えの可能性だってある。目の前の魚人は何かを言うこともない。ただ思わず膝をついた真尋を見下ろすばかりで、彼が何をしようともそれを止めるつもりはないと見える。だが、真尋の想像力はその対応から真実のにおいを如実に感じ取っていた。見下ろすばかりで何もしないということは、それはつまり「何を確認されたところでどうでもよい」という事実に等しい。SANチェッカーが破損していないにも関わらず、がたがたと真尋の両手が震える。そして、袋を手に取った瞬間。ぬめりとした血の感触と共に、袋の口がずり落ち、その中のものの、右上のみを露出させた。驚愕に見開かれたような目。それでいて瞳孔の開ききった目。付着した血液で赤く黒く染まった前髪と、あきらかに抉られたような鼻の頭。骨が折れているのか、全部が見えないまでもその顔面がややひしゃげているということは想像だに難くない。真尋からすれば必要十分以上の情報量だ。美しい顔は見るも無残な有様なのだろう。そして袋の中でぷらぷらと揺れているシルエットは、コの字を描いたそれと、そこからいくつか抜け落ちた白いピースの破片に違いあるまい。

 震えながらも、真尋は袋の中に手を入れ、その目を閉じた。指先の感覚がない。まるでミイラの中にでも入って、それを遠隔で操っているかのような錯覚を覚える。やがて震えは全身に伝播し、袋を置いた時点で真尋の両腕は大きくぶれていた。

 

「アンタ、なんで、そんな――――、なんでだよ!」

 

 真尋の叫びに、魚人は肩をすくめる。

 

「ぁいちぞぅに、とぁりこまれるのを、きょぁひしとぅあ。かぁだも、やっかぁいだった。だから、ねじぁきった」

 

 霧子(仮)が、彼ら「深き者ども」の血族に取り込まれるのを拒否したから? その肉体がなんらかの改造手術を受けていたから? 処分に困ったとでもいうのか。だから首をねじ切って殺したというのか。明らかのそれだけで説明がつかないだろう、このズタズタにされた人体の一部は何だ。SANチェッカーの回転が止まる。72。なんとも示し合わせたかのように、中途半端に不吉な数値である。

 嗚呼、真尋は両手を握り震わせる。この、気絶できないことのなんともだえ苦しむほどの悲しみと怒りよ。なまじSANチェッカーにより狂気へと走るのを妨害されてしまっているせいか。だが彼には分っている。己が所詮は無力な只人でしかないことを。何をどうしたところで眼前の怪物相手に太刀打ちできないだろうことを。

 

 それでも怒りをもって拳を振り上げた瞬間、怪物は真尋の顔面にスプレーを吹きかけた。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 次に真尋が気が付いたのは、壁一面に何らかの模様、陣が描かれた箱の中に寝かされていた時だった。げほげほとむせるが、そんな彼にはお構いなしに周囲からは声が聞こえる。

 

 ――――ァイア・ァイア・ク()ゥルー・フタグン――――

 ――――ァイア・ァイア・ク()ゥルー・フタグン――――

 

 複数の声に繰り返されるそれは、一体何を目的としたものなのだろう。いや、その声からして実際のところはおおむね真尋にも予想が立っている。おそらく自分の周囲には複数の魚人がいることだろう。声の方向からして四方を囲まれているのか。少なくとも一匹だけしかいないということは決してあるまい。それだけの膨大な数のディープワンがいて、しかも自分がこうして身動きを全くとれない状況にあるということは、必然これは儀式がすでに始まっているからということに違いあるまい。なんらかの声や呪文の詠唱めいたものが飛び交うのが、真尋の耳に嫌にこびりつく。言葉の指示している意味がわからないまでも、段々と儀式の熱が、場の緊張状態が上昇していることが、音からでも十分に判断できたからだ。

 この時点において真尋は完全に詰みだった。まず箱から逃げられないし、そもそも両腕が縄か何かで縛られている。口もさるぐつわがされており、動くことが出来ない。仮に箱から脱出したところでその場には数十はいるだろう半魚人。どうあがいても人間が勝てる要素がない。

 こうなってくると逆にやることもなく、一周回って冷静になった真尋である。殺されてしまった霧子(仮)のことが脳裏をよぎるが、しかし、だからこそどうにかして生き延びねばと、そういう思いも湧き上がってきた。どうしようもないなら、今自分にできることは何か。考えることだ。豊富な想像力をもってして、奴らが何をやろうとしているかを想像するべきだ――――。

 そんなタイミングで真尋を拘束していた箱の蓋が外され、数人の魚人が中から真尋を担ぎ上げる。

 やがて転がされたのは、船のデッキの上である。なんらかの魔法陣めいた文様がデッキに描かれており、その中心、つまり真尋のすぐ横には、魚人ではない一人の男が立っていた。

 

「はかせ、さぁ、ぁぎぃしきぁを」

「――――――ッ」

 

 真尋は確信した。これこそが自分が拐された原因であると。

 

「“秩序あるところ、漆黒の混沌ありき。古来よりヒトはそれを恐れた”――――」

 

 眼前に立っていた男は、黒い闇だった。黒いコート、白い神父服。髪は長く目元が隠れているがぎらぎらと光っているその眼光を隠しきれるものではない。

 

「――――“しかし探索者たちの語る狂気の物語から、ヒトはそこに仮初の希望を見出したのだ……”」

 

 眼前、この状況。男の正体に真尋は心当たりがあった。だが彼がその名前を口走るよりも先に、男が深々と真尋に頭を下げた。

 

「やあ、八坂真尋くん。私は――――無涯(むがい)だ。ちょっとした研究者だね」

 

 無涯。むがい。Mがい。ン=ガイか? どちらにせよその正体を想起させるには十分すぎる情報量である。にこりと口は笑っているが目は完全に据わったまま。明らかに正気の人間ではなく、そしておそらく人間でさえないだろう相手。ただ周囲をちらりと見れば、魚人共はこれの正体を知っているだろう風の素振りではない。彼の原典たる小説群よろしく、おそらくかなり巧妙な手段で取り入ったのだろう。少なからず正体を察せられない程度には。そしてそれができるだけの存在であることも、真尋は知っている。嗚呼、知らないはずはない。

 すなわち、これこそが――――這い寄る混沌。異邦の神々の代弁者、世をつかさどる夢の播神。すべてを嘲笑う滅びを遊ぶ闇。千変万化の邪神であると。

 

「状況は飲み込めているかな? 嗚呼、首だけで表現してくれて結構。さすがに私もさるぐつわを外すつもりはないからね。自死されても困る」

「――――っ?」

「うん。まぁ彼らに説明を期待は初めからしていなかったからね。では、良いかな? 知るということは、すなわち『そちら側に出向く』ということだ。これから私が語る論理が、すなわちそれを君が聞くことが、聞いて自覚することが、この魔術の根幹を成す。たとえ我々矮小なヒトガタがどれだけ足掻いたところで、そこには限界以外は何もあるまい。だからこそ我々は外なる宇宙の英知を頼り、我々の閉塞を打ち破らんともがき続けるのだ」

 

 彼の言葉に、魚人共がオーディエンスかのごとく色めき立つ。

 

「えー、話を続けましょう。時に八坂真尋くん。貴方、ヨグ=ソトスなる神性をご存知か? ご存知でない? いえいえ、どちらにせよ一度おさらいしておきましょう。かの神はありとあらゆる場所への門! ありとあらゆる場所へとつながっている肉を持つ、強大なるもの! その形は空間的な横軸のみならず時間的な縦軸にもかかずらっている。彼は多くの子を外に産ませ、自らの扉としての範囲をいまだに拡張し続けている。それはおそらく、この宇宙の外の、さらなる別宇宙においてさえも!」

  

 そのあたり、言われずとも真尋とて承知している。

 

「そう! そしてこの結界。この結界が有用なのか、知っていますか? ――――これは、その神にかかわる魔術。時空間を人為的にずらす魔術だからです。だからこそこの世界に一般人が紛れ込んだところで、人間は認識することさえできない。せいぜいなんら日常と変わらない毎日を送るばかりでしょう。なんらかのアーティファクト抜きに、ここにおいて己の正気のまま活動することは不可能だ」

 

 突然の新情報に、真尋は頭をかしげる。神話関係の遺物を持つなり、あるいは魔術師だったり神話生物だったりでなければ、結界の中で活動できないということか? いや、だとすれば何かがおかしい。くしくもその理由を、男は続けた。

 

「ところが。彼らディープワンたちの集めた情報によれば。君はそも最初の段階、つまり『彼らと敵対する夜鬼が』『彼らに儀式をさせないために攫おうとしていた』時点で、正確に情報を認識していた」

 

 そうだ。そもそも霧子(仮)に最初に助けられた時点では、真尋はなんらそういった話に関わってはいなかったはずだ。にもかかわらず動けたということは。ある種、最悪に近い想像が真尋の中に浮かぶ。いや、それ以前にだ。あのナイトゴーントたちは、ディープワンズに儀式を行わせないため、真尋を攫おうとしていた? とすれば霧子は敵対する相手を間違えていたということか。

 だとすれば、あの場において食屍鬼やら夜鬼やらが一瞬足を止めたのも、まるで真尋と霧子(仮)をかばうように前に出ていたのもある程度納得がいってしまう。だが、そもそもなぜ真尋にこだわらなければいけないのだ? そう考えれば考えるほど、ひどく最悪な想像が脳裏をよぎった。

 

「――――そう! つまり。そもそも君はただの人間ではないということだ。それも、我々の調査が正しければ、恐ろしくそれこそ人間と形容するもおぞましいだけの存在であるということを」

 

 いや、それはないと。少なくとも真尋の過去の記憶において、そういったことに関係するだろう事態には遭遇したこともない。生まれてこの方、ラブラブな両親のもとで育てられてきて。とくに大事故を起こすこともなく、誘拐されることもなく、平々凡々と言えばありきたりではあるが、それでも大した事件もなく今日まで過ごしてきているのだ。それが何をもってしてクトゥルフ神話に関係しているというのだろうか。

 いや、真尋には嫌な予感がしている。そもそも最初にヨグ=ソトスの名前を挙げた時点で。そして無涯は、真尋にとって決定的な言葉を語った。

 

「ここまで言えばもうおわかりかな? ――――八坂真尋。君は、ヨグ=ソトスの落とし子だ。特異点(ポータル)と呼ばれる、ね?」

 

 突きつけられた事実は、真尋にとって最悪に近いものであった。

 

 

 

 

 




本作での声のイメージ
 無涯博士:野島裕史


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第五種接近遭遇(真)

※前話、衝撃的事実? をお読みになってからお願いします


 

 

 

 

 

 ヨグ=ソトスという神性について語る際に言えることは、かの神はクトゥルフ神話の中でも多くの存在に自らの子を産ませていることである。自身同様(いや存在規模でいえば自身より下にあたるが)の神性しかり、人間しかり。大概の場合、それは母親の形質と怪物的な形質を併せ持ち、具体的に姿かたちが固定されて断定できるものではない。生まれ方、状況によってかなりのバリエーションを誇る。そこをいけば、自身のような、おそらく「9割以上人間のような」落し子が生まれても間違いはないのだろうと、真尋は頬が引きつった。それと同時に、盛大に自殺したい衝動にかられる。舌を噛みちぎろうとしてもさるぐつわのせいで不能。腕は拘束されており、足もまた同様。と、みれば左腕に着けていたはずのSANチェッカーが外されている。この衝動的な感情は、いわゆる一時的狂気のそれであろうか。冷静な判断を下している一方で、真尋の身体はさるぐつわを親の仇のようにかみちぎろうとしていた。

 自分が、そんな得体のしれない神の子供? 人間の、あれほど仲の良い父親と母親との子供でなく? ただただその事実だけで、真尋の正気はがりがりと削れているのだろう。彼自身の頭の中のどこかが、そう冷静な分析を下していた。そもそも自分が生まれる直前、母が大病して母子共に命の危険にあったという。自分が両親にいたく可愛がられるのはそれが理由というのもあっただろうと思っていたのだが、事前情報が変われば、解釈も変わる。ひょっとしたら――――その病気自体、クトゥルフ神話に依存することが原因なのではないか。だとするならば、自分は、自分というこの生命体は。それが生きるのがなんと、ひどく冒涜的な現実か――――!

 そんな真尋にお構いなく、無涯と名乗った男は続ける。

 

「一般にあまり多く知られてはいないが、ポータル、日本語的には特異点かな? ふふ。ともあれ特異点とされる落し子らが帯びている使命は、ひとえにかの神性が干渉できる領域の拡張にある。認識し調べ、『新たな時代を見聞きしそこに生きる』ことで、ヨグ=ソトスの侵入できる領域を増やすということだ。くしくもそう、君や、君のような特異点の存在こそが、かの神々が物語に語られるほどに万能な存在でないと証明してくれたことにもつながるのだが、それは一度置いておこう。ともあれ、君は人間でない。その身は末端なれど、『ヨグ=ソトスとつながっている』ということだ」

 

 顎の力がだんだん抜けてくる真尋。筋肉の運動量的に、単純に体力切れのようなものか。ともあれその疲労と疲弊とが真尋を多少は正気に戻した。コイツらの言っていることが本当に正解なのかどうかはわからない。わからないが、それでも、自分を助けて気にかけてくれていた女性が一人、殺されている。おいそれと、彼らの思い通りになってやるつもりは、真尋には毛頭なかった。にらみ返す勢いで無涯を見ると、彼は「実に結構」と心底楽しそうにくつくつ笑った。

 

「そう! つながっているから。つながっているからこそ、君たちを私たちは逆に『利用することが出来る』。わざわざアーティファクトを探し、作り、頼らずとも。我々は君たちを介することで、かの神性の力の一端を引き出すことができるのだ」

 

 それ故に私は彼らに協力した――――無涯の言葉に、真尋の想像力はある種の答えを導き出した。それにはいくらかの論理的な飛躍があったが、しかしなぜか彼には、その考えが正解であるということが「わかってしまった」。言葉ではない。単なる直感でもない。何かしらの確信が真尋の中にある。

 

「さすがに君一人を使って、彼らの神を呼び起こすことは出来ない。星はそろわず、時も止まらず。だがこの時代において、この、かの神殿の真上においてなら。かの神性の精神に、ふたたび揺さぶりをかけることも可能だろう!」

 

 大振りに腕を振る彼の腕には、真尋がつけていたSANチェッカーと思われるものが取り付けられていた。そこで違和感を覚える真尋。そもそもニャルラトホテプ本人であるならば、そんな道具は必要ないだろう。カモフラージュか何かの可能性が高いのだが、しかし真尋はなぜかそれに妙な引っかかりを覚える。だがその答えが出るよりも先に、男はしゃがみこみ、真尋の顔をかなりの至近距離で覗き込んだ。どろどろと濁った光を帯びた目が、真尋の姿を射抜く。

 

「そう。だから君には、ここで生体ユニットになってもらおうと思っているんだ。かつてクリスチャンの大学で行っていた、私の、『神との交信』を科学的に解明するという実験の延長のそれをね!」

「――――」

 

 そんな研究どうせ総スカンくらったのだろうと、なんとなくだが真尋は察した。察したが、だからといってどうしたものかというところだ。これから男らが何をするのかまではさっぱり想像がつかないが、生体ユニットと言っている以上、まっとうな人間らしい扱いはとうてい望めまい。だが反抗するにもどうしようもなく。とするならば、もはや何かの運に頼るばかりか、それくらいしかできることはあるまい。自らが何らかの神性の一部のような存在であるにしても、その能力そのものを振るうことができないし、間違いなく振るえば己は正気のままではいられまい。

 嗚呼、だが現実はそこまで彼らに甘くはない。魚人たちが真尋を囲み、そして無涯が何らかの装置を取り出して真尋の頭に取り付ける。まるで古いバーチャルなゲームボーイのような道具だが、それを見ながら、彼は何らかの呪文を唱え始める。耳まで覆われる関係で音がこもっていてわかりづらいが、「ふんぐるい」だの「くとぅるふ」だのといった言葉が聞こえる時点で、もうおおむねどういった類のものなのかは分かりきっていた。だが、果たしてもうどうしようもない――――。

 異変はそこで起きた。どしん、と大きく船体が揺れる。何事か、という声が飛び交い、ガラスが砕け散るような音。そして突如空間全体が寒くなる。

 

「な、ナイトゴーント! なぜこの場所まで追ってこれた! ここに来るまでにはハイドラが――――」

「――――あんなモンで押さえつけられると思ったか?」

 

 全く聞き覚えのない第三者の声が聞こえる。と同時に、真尋の両手両足を拘束していた縄がちぎられた。頭につけられていた装置も乱暴に外され、軽く額が痛い。

 

「ッ……! って、は?」

 

 状況が全く読めない真尋。だが、眼前には二人の人物が新たに追加されていた。

 一人は少女。真尋よりも年下に見えるワンピース姿の赤毛の少女は、半眼のまま真尋のことを見ている。見れば、彼の両腕を拘束していた縄が「黒く焦げて」千切られている。と同時に真尋の体感温度が急激に上がり、嫌な予感を覚える。

 

「少年。もう問題はない」

 

 見た目通り少女らしい声だというのに、なぜか真尋には猛烈な嫌な予感がする。この焦燥感が何に由来しているものなのか彼には理解ができないが、しかしさきほど語られた異形の出自からして、おそらく神話関係の恐怖感なのだろう。とりあえずそれだけ納得し、もう一人の人物を見る。

 立つ男は彫の深い顔をした老人であった。長い白髪をしたスーツ姿。あごひげは適当に切りそろえられており、不敵に眼前の相手を笑い飛ばす様がどこかヴァンパイアハンターとかそういったイメージを起こさせる。ただし右手に持っているものはどう見ても海産物を挿す銛の類なので、いまいちビジュアルとして閉まらないのだが。

 上空には無数の夜鬼。それがヒットアンドアウェイを繰り返すように魚人と戦闘を繰り広げている。中には海中に投げ飛ばしたり、はたまたこちらデッキの上で格闘をしあっているところもあったり、乱戦といったところだ。そんな中で老人は銛を無涯に向けている。

 

「ハッ! 意外と頑張って隠蔽していたみたいだが、最終目的地が割れれば大して意味はなかったなぁ」

 

 老人とは思えない声の張りと、飄々とした口調である。

 

「ば、馬鹿な……、とはいえど、正確な座標が割れるはずはないだろ! 結界発生の座標なんて一体『何百』あると思ってるんだ!」

「そうか? お前、肝心なことを見落としているだろ。いや、見落としているのはお前のところの魚人か。“星の知恵派”のプロテスタントん所の一人、ぶっ殺してるだろ。それがまずかったなぁ。アレ、改造人間であると同時に体内に『輝くトラペゾヘドロン』入れられてるんだ。知ってるだろ?」 

 

 トラペゾヘドロン。そういえばと真尋は思い出す。霧子(仮)のベルトがそんな名前だったはずだ。端的に変身ベルトと要約されはしたが、やはりそれは本物のトラペゾヘドロンであるということだろうか。所持者の肉体の変容。あるいは這い寄る混沌が化身の一つを呼び寄せるなど、色々と問題のある機能が多かったはずだが。

 

「……なんだ、この新設定ラッシュ」

「少年、案外余裕」

「アンタに比べたらオレの方が上に見えるがな。」

 

「馬鹿なことを。あれは、そもそも人間が扱える代物では――――」

「あー、だから『自ら輝く』って性質にしたモンにしたんだろ。そうすりゃバケモンも寄ってこないだろうしな。むしろなんでお前がわかってないんだ……? で、重要なのはだ。そもそもアレそのものは、よく一般的に言われてるオリジナルから作ったレプリカに過ぎないが、そもそもアレ自体、『這い寄る混沌を呼び寄せうる』機能を帯びているってことだ。それはつまり、どういうことか。――――アレそのものが一種のGPSみたいなモンなんだよ。つまりは座標計って訳だな。つまり、必要があれば調べることができるって訳だ。俺くらいになればな」

「――――――――は?」

 

 老人の言葉に、無涯は唖然としたような顔をする。そんな彼らの間に、胴体が半分になった魚人が一体転がる。

 どうやら戦況は夜鬼側が有利に動いているらしい。魚人は徐々に徐々に殺され、数を減らしている。それでも船の奥から湧いて出てくるように来るディープワンの数は未だに膨大だ。老人はあくびを一つすると、視線を少女と、真尋に向けた。

 

「お前は……、いえ、貴方はもしや――――」

 

 無涯の言葉など聞こえないように、老人は鼻で笑う。 

 

「少年、がんば」

「は? ――――っ!」

 

 少女がなぜかサムズアップした直後、真尋の身体は猛烈な速度で襟から引っ張られた。いや、正確ではない。襟をもって引きずられているが正解だ。そして眼前の光景からして、どうもその引きずっている相手は無涯と相対していた老人に他ならない。そして老人は、バラバラに引き裂かれた生臭い半魚人の死体を踏みつけ蹴り上げ走り、夜鬼たちが侵入してきたと思われるドームの穴めがけてジャンプした。跳躍はゆうに身長の倍を超える勢いである。絶叫する真尋。外は極寒の海にほかなるまい、そんな中に当然のように落下しかねない勢いの老人は何を考えているのか、という世界だが、しかし老人は特に問題ないように、ちらりと背後を振り返り。

 

「――――んがあ・ぐあ・なふるたぐん。いあ! くとぅぐあ! いあ! くとぅぐあ!」

 

 

 そして早口言葉か何かという速度でそれを老人が口走った瞬間。真尋に見えていた赤毛の少女のシルエットが光り、まるで解けるように消え、次の瞬間には船そのものが大炎上、大爆発した。

 絶叫が声にならない。寒さに喉をやられてむせかえる真尋。と、ちらりと背後、自分たちが落下しかけている方向をみれば、そこには「巨大な貝の殻」が口を開いていた。またその殻からは鎖が引かれており、海を覆わんばかりに巨大な、潮を吹いたシルエットにつながれているではないか!

 真尋たちが乗り込んだ瞬間、貝の口が閉じる。と同時に、猛烈な熱風と潮が閉じた貝の隙間からびたびたと侵入してくる。あまりの熱に大声を上げる真尋に、老人はかかと笑った。貝の内部はうすらぼんやりと緑に光っており、視界がないわけではない。また貝の一部からは、なぜか外界の光景が透けて見えた。

 

「大炎上だなぁ」

 

 老人の言葉通り、船は焼き尽くされていた。もうこれでもかってくらい大爆発し、原型が残っていない。うっ、と思わず口を押える真尋。

 

「まぁ、これならいくら『混沌』であろうとも、しばらくは手を出してきまい。命拾いしたな少年」

「あ、あなたは……?」

「あン? 知識にはあるんじゃないか?」

 

 いや、確かに。こういう場合で多少親人間的で、かつ夜鬼を従えている存在など一人くらいしか思い当たらないのだが。しかしてこの老人の姿はいくらか真尋が想像するかの神のそれではない。察してか老人は苦笑いを浮かべた。

 

「嗚呼。これは、化身(アバター)してるだけだ」

「アバター?」

「化身を作ってるんだ。こうでもしないと、お前らの基準に合わせて行動するのが難しいからなぁ」

 

 どうやら彼本人の弁を信じるのならば。どうやら本当にこれは、ノーデンス、すなわちき旧き神の一柱のようである。化身というのは、身を窶すことを言う。己が姿を変え、あるいは能力を制限するなどしてこの世界に姿を顕す場合に呼ばれる呼称だ。だが、とするならば。真尋の脳裏に疑問がよぎる。

 

「……いや、ちょっと待て。アンタが仮にノーデンスだとしてもだ。さっきの女の子。アレ、なんだ?」

「なんだって? クトゥグアの化身に決まってるだろ」

「…………なんでそう平然と言うんだアンタ」

 

 頬が引きつる真尋だが、すでに腕からはSANチェッカーが失われているので、どれだけ正気度喪失しているかは不明である。だがもっとも、このノーデンスの化身らしい老人が一切包み隠さずぼろぼろと話をするせいか、逆に一周回って現実感が薄い。そしてなにより、決定的にSAN値が減りそうなことを言わないのだこの老人。そのせいか、意外と正気のままでいる真尋だった。

 

「さすがにニャルラトホテプ相手に化身で戦闘を挑むのは無謀だからなぁ。こっちも『実績』があるやつを引っ張ってきたってところだ」

「へぇ、はぁ……。おいそれと力貸してくれるものなんですか? それって」

「阿呆。だから人間の化身が必要になるんだよ。人間の形で召喚しなきゃ、奴らも応じちゃくれないんでな」

 

 よく這い寄る混沌が人間の姿をとって、召喚儀式に立ち会うのと理由は一緒だ、と半笑いを浮かべる。と、ノーデンス老人はヤンキーみたいな座り方をして、真尋の顔を見る。

 

「しっかし、お前も災難だったなぁ。単なる人間が、よく巻き込まれたものだ」

「いや、単なる人間って……。オレ、聞く限りだと、『門』の落し子みたいなんだが」

「ん? 嗚呼、それは勘違いだぞ。大した情報じゃないから教えておいてやる。特異点なんてモンは、『病気』みたいなモンだ。わざわざ自分の情報収集のために、自分を増やすのもコストが悪いだろうからなぁ」

「は?」

「おおかた、お前が母親の胎内にいるうちに母親が病気にかかったんだろうよ。実態、それは病気ではなく『ヨグ=ソトス』の端末の一部が入り込んで、拒絶反応を示していたってことだ。そして運悪く、当時赤子だったお前にそれが遺伝した。だから、そんな出自に悩むほどの話でもないんだよ。お前は偶発的に、一般的な人間の胎児に『門』の欠片が混じってしまったって程度の存在だ。お前に怪物的な形質がないのはそれが理由だろうよ」

 

 半笑い。やや馬鹿にした風な態度のノーデンス老だったが、しかしその言葉は、いくぶんか真尋を正気の世界に引き戻すことに成功した。明かされた事実は、いわゆる精神分析というやつに等しい。

 だが――――。真尋はふと、胸元に拳をやり、握る。頭だけを見せられた、夢野霧子を名乗ったかの女性の姿が脳裏に浮かぶ。色々行き違いがあったとはいえ、彼女は死んでしまったのだ。殺されてしまったのだ。その事実だけはどうにも拭いようがなく――――その女性に対して、単なる自分を守ってくれる人間であるという以上の、妙な親近感と好意を抱いていたという事実自体が、彼の中に滞留していた。

 

「あン? どうした」

「…………アイツ、あの、オレを守っていた女がいたよな。助けたりしなかったのか? できなかったのか?」

 

 真尋の言葉に、老人は鼻で笑った。

 

「なんで自らすすんで異形の神々を信奉するようなヤツ、助けなきゃならないんだ」

「でも――――」

「そもそも俺が、お前を助ける気になったのは――――――ん?」

 

 と、突然老人が真尋の顔を見て、いぶかし気な表情になる。突然彼の目を覗き込む。あまりの病的な近さと、青い、まるで海底でも思わせるほどに深すぎるその瞳の色に、まるでこちらの自我でも溶かされ取り込まれてしまうのではという恐怖心が真尋に走った。老人を突き飛ばすようにして離れると、彼は立ち上がり、眉間を抑えた。

 

「マジかよ、なんだよコイツ。前提条件が間違っていたってことか? あン? だとすれば、そもそも……」

 

 唐突にぶつぶつ言いだした老人は、いつの間にか再び手に銛を構えていた。そしてそれを真尋の眉間に向ける。

 

「気が変わった。お前、殺すぞ」

「――――は?」

 

 真尋が反応するよりも先に、獲物の先端が真尋の眉間に振り下ろされる。と、幸運にも貝殻全体が一度大きく揺れ、老人はバランスを崩した。その瞬間に真尋はごろごろと転がり老人から大きく距離をとる。突然の言葉と殺意も感じさせない挙動。しかし一切躊躇いなく振り下ろされたそれに、真尋は気が動転していた。

 

「は? え? いや、アンタ、なんで、なんでだ?」

 

 ノーデンス老は、ひどく面倒そうな顔をして。

 

「――――そうか。つまりアレは偽物か。まんまと騙されたって訳だ」

 

 そういいながら、やはり真尋に向けて刃を構え、走り出した。もはや老人は、真尋と会話をかわすつもりさえないようだった。

 

 

 

 

 

 




本作での声のイメージ
 クー子:堀江由衣
 ノーデンス:島田敏



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あなたは逃がさない

今回ちょっと短め



 

 

 

 

 

 ノーデンスは真尋を即座に追いかけることはなった。ただ一歩一歩彼に向けて歩くばかりだ。慌てた真尋は立ち上がり叫び走るのだが、それでもノーデンスから逃れることは出来ない。いや、それは明らかにおかしい。この貝の中で彼と老人との距離は明らかに5メートル以上開いていておかしいくらいに、移動速度に違いがある。にもかかわらず、ノーデンスが2、3歩踏むだけで真尋の全力疾走程度の距離が稼がれてしまうのだ。理不尽にもほどがある。

 

「ここは、こっちの空間だ。何が起きてもこっちの自由だ」

 

 無駄な抵抗だと言いつつも、ノーデンスが真尋を決定的に追い詰める気配はない。それが逆に不気味であるが、定期的に銛を真尋に向けてくるのでまったくもって油断が出来るわけでもなかったりする。なんにしても気を抜けば串刺し。死ぬことは確定なのだ。相手が殺すと言った以上、神性がそれを人間相手に言った以上、その意志は絶対であろう。真尋の想像力が決定的なまでに、彼にその事実を教える。

 いや、と。真尋は少し不信に思う。そういえば、なぜそんな確信を自分が持っているのだろうかという点に。持てるのだろうかという点に。そして本来なら恐怖で身動きできなくなるだろうところを、何故それでも身体が必死に逃げようとしているのかという点に。

 

「オレがなんで、なんで、アンタ、オレを殺そうとするんだアンタ!」

「言葉、乱れまくりだな。だがまぁ、知らない方が幸せだろ。ほらよっと」

 

 足を薙ぎ払うよう銛を振るうノーデンス老。ふくらはぎに熱を感じ、真尋は体のバランスが崩れ倒れる。熱はじくじくと痛みに変化、伝播していき、涙と嗚咽が真尋から漏れる。ただ、それでも真尋は匍匐、這いつくばるように腕だけでじりじりと、ノーデンスから離れるように前進する。

 嗚呼、そんな大した理由じゃない。この期に及んで意味が解らないまでも、それでも必死に生きぎたなく生き延びようとしている理由なんて、一つくらいしかないじゃないか。

 

 真尋さん――――♪

 

 あの綺麗な女性が。霧子を名乗っていた得体のしれない彼女が。自分を守って死んでしまったからという。ただ彼女に守られて、その結果、今生きているという。最後の最後で彼女が自分を守り切れず死んだのだとしても、それでも最初の段階で彼女がいなければ、遅かれ早かれ殺されることに違いはなかったろう。現に今、己を攫おうとしていた夜鬼の主たる老人が殺そうとしているのだから、その事実だけは変わらないはずだ。だからこそ、真尋はそもそも最初の段階で彼女に助けられたのだ。

 嗚呼、声こそ出なかった。あの赤い月を背景に飾った彼女は、名状しがたき美女のような何かは、それはそれは美しく、尊く真尋の目には見えた。つり橋効果だって構うものか、俗っぽいだのチョロいだの、なんとでも罵りやがれ。痛みと混乱の中、真尋は開き直る。あんな美しい――――もっと一緒にいたかった女性が、つないでくれた命なのだ。こんなところで、訳も分からず殺されてたまるか。ただそれだけの理由が、今の真尋を、生死の境という狂気から現実に引き留めていた。

 

「よくやるな。それもこれも、全部アレが仕組んだことだろうに」

「は? ……アレって、這い寄る混沌か?」

「ほーぅ、想像力は中々あるみたいだな。さぞ生きにくかろうに。だが、まぁそうだ。お前の今の状況も、おそらく今俺がお前を殺そうとしているこの状況も、全部アレのせいだ。『語るまでもなく』最初から最後までアレの掌の上で、全部が全部アレの『完璧な仕込み』だ。お前が今そんな『スリリング』な状況に陥っているのも、そもそも全部が全部、お前の自由意志が介在していない」

 

 そもそも俺自身が今はほぼ人間でしかないからなぁ、とノーデンスは忌々しそうに吐き捨てる。

 

「正直に言えば、アレの掌の上で転がされるのは癪に障る。が、お前を放置しておくのは後々のためにならん」

「オレがなんだっていうんだよ、アンタ」

「『奇妙な歳月』って小説があるんだが、知ってるか? 人類がアレの策謀の前に完全敗北する物語だ。お前が生きてる状況っていうのは、ちょっと誰かが手を加えれば、すぐソレと同じになるって話だ」

 

 真尋の想像力は、それだけの情報でなにがしかの答えを導き出している。そして、その結論に対する違和感に真尋はついに自分自身のこの認識の異常さに気づいた。想像力があるというには、明らかに彼の予想は現実のそれを射抜きすぎている。霧子(仮)との会話におけるリアルクトゥルフ神話小説群の知識から導き出されたろう予想とはわけが違う。いや、あれももしかしたら実際のところは違ったのかもしれないが、それはともかく。少なくともノーデンスの言葉が正しければ。おそらく、自身は「這い寄る混沌により改造されたヨグ=ソトスの落し子」なのだろう、という予想だ。そしてノーデンスの顔を見るまでもなく、彼に確認をとるまでもなく、それが事実であろう確信があった。その確信がやけに絶対的なものであるという認識が、まるで刷り込まれたかのように真尋の中に沸き立っている。そしてほぼ間違いなく、自分をとらえたダゴン秘密教団のような組織の連中は、己の使い方を間違ったのだろうということも。

 あれ、この被害妄想のような誇張の入った刷り込みめいた強迫観念のようなそれは、これって不定の狂気にでも入ってるんじゃないのだろうか、と疑いはすれど、彼の認識自体が大きく錯乱状態にないことから何かが違うという理解もある。ただし現状、どうあがいても真尋自身の正気を真尋が証明することは不可能である。すでにSANチェッカーは存在しない。この狂気の世界に、真尋一人で立ち向かうしかないのだ。

 

「わかるか? お前が生きているとまずいってことが。じゃあ、わかったら死ね」

 

 そしてそれだけ言って、今度こそノーデンス老は銛を構えて投擲した。投げ槍の要領で放たれたそれは、明らかに速度を増していく。真尋の身体が動くよりも何よりも、既に彼の目の前、刺さる直前の位置だ。このタイミングに至り、真尋の中の時間が静止する。徐々に徐々に近づいてくる銛の先端をかわそうとすれど、彼自身の身体はびくとも動かない。状況に違和感を覚えると同時に、嗚呼、これはいわゆる死に際に世界がスローモーションになるというアレだと納得した。脳裏に数々の映像がよぎる。冒涜的な映像だったり、母親や父親、学校の友人たちの顔やスピーカーフォンのような声も脳裏をよぎる。そして不思議と、最後に脳裏をよぎったのは、やはりというべきなのか、霧子(仮)の姿だった。記憶の中の霧子(仮)は、ひどくおかしそうに、それでいていつくしむような眼をして真尋を見ていた。

 

「――――――――」

 

 こんなところで死んでたまるかと。だが、すでに真尋にはどうしようもない。そして刃そのものは、もはや真尋には決して止めることができない。

 

 そんな時だった。

 

 

 

『さ ど く え し じ る む 』 

 

 

 

 

 真尋の声でない、聞き覚えのない声。男の声が、どこからか聞こえた。いや、どこからか? ――――それは間違いなく真尋の、喉から聞こえた声である。次の瞬間、銛が急激に錆びついた。真尋に激突すると同時にぼろぼろと原型をとどめないほどに崩れ去る。それに目を見開いたのはノーデンス。何事か、という顔を前に、真尋の方が意味がわからない。だが、わずかに真尋の視界の端にゼリー状の大型の楕円形の、牙のようなものを持った何かが見えたような、見えなかったような。

 おそるおそる周囲を見ると、しかし、それらがまるで気のせいだったように、まるで子供向け漫画にでも出てくるような星型をした黄色いマスコットキャラクタのような、顔のついたナニカが二つ。成人男性ほどの大きさを誇るそれらが真尋の両側に立っていた。わずかにその体が震えると共に、くすくす、という声が聞こえる。

 

星から訪れた者(ヴィジター)か。……また気色の悪いバケモノ呼び出しやがって」

 

 ノーデンスの言葉に、真尋は理解した。どうやら自分は本格的に狂ってしまったようだ。星から訪れた者。星の精と呼ばれるそれは、一番最初に真尋が見たときのシルエット通りの姿をしているべきである。つまり半透明のゼリー状に血液を滴らせ、ぎちぎちと牙のようなものを持っている怪物だ。だというのに今目に見えるこの『子供向け番組のフィルターでもかかったのような』、逆に不気味な光景こそが、すでに真尋の脳みそが異常動作を起こしている何よりの証拠だろう。

 いや、それよりも待て。さきほど自分から発された声は何だ。いや、あの超加速された認識の中で、そもそも「普通に聞こえるだけの速度で」声帯を動かせるものか? 自分の口は絶対に動いていない。喉も動いていない。だというのに何故そんなことが――――。

 次の瞬間、真尋は呼吸が出来なくなった。

 

「!? ――――――ッ、っ、っ!」

 

 次の瞬間、真尋は「強制的に」上を向かされ、口を大きく開かされた。感覚的には、まるで喉に向けて巨大な太い棒でも突っ込まれたかのような、そんな得体のしれなさだ。だが事実は違う。事実はより冒涜的なことに、真尋の「体の中から」、口を出口として、一本の、黒い、太い触手が這い出てきていた。うねうねと蠢き、そのたびに真尋の口から黒い吐しゃ物があふれ出る。ぎょろり、と、触手に三か所亀裂が入り、そこから目玉のような器官が出現する。と同時に、真尋に見えている光景に「フィルターがかかった」。触手は木の幹「のように見え」、目玉はまるで瘤のようである。と、木の頂点に花のつぼみのようなものが生まれた。それが徐々に、だんだんと、そして木全体を覆う程に強大なつぼみとなる。色は桃色、桜の花弁のようだが、おそらく現実に繰り広げられている光景ははるかにおぞましいだろう。吐き気と恐怖が真尋を支配し、彼は身動き一つとれず、だんだんと酸素が失われていく。

 木の大半を覆いつくすほどに育った花弁は、一切ためらうことなく開かれた。果たしてその中から現れたのは――――――――。

 

 

 

「――――せっかく気づかれないように色々苦心していたというのに。『私の』真尋に何をしてるんだい?」

 

 

 

 夢野霧子を名乗っていた女性。――――姿かたちは、彼が初めて会った時のそれであったが。だが、浮かべている表情は明らかに異なっていた。どこか楽しそうに、どこか残念そうに、そしてどこか退廃的に。超然とした笑みを浮かべ、口調、声音ともに『涼やかな男性の声』を発したそれは。

 もはやそこに立っていたのは、真尋が恋した女性ではなかった。

 

 

 

 

 

 




本作での声のイメージ
 ニャルラトホテプ:井上和彦

次回、一応決着? クー子もたぶん再登場


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世界は闇色暗黒の園

すべてはそれの掌の上に――――


 

 

 

 

 

 ニャルラトホテプ。ナイアルラトホテップ、ナイアーラトテップなど呼び名は様々だが、総じて意味合いは「這い寄る混沌」を示す。ヘラジカのような神性を庇護しただの妻にしただの色々と言われてはいるが、その実態についてはおおむね謎に包まれている。人類の文明に出れば魔術や科学に秀でた存在として。あるいは世にも奇怪なこの世のすべてを嘲笑う圧倒的な怪物として。ともあれその神は、非常に性質が悪い存在であるとされる。趣味趣向は言うに及ばず、多くの運命をもてあそび、世界を混沌と破滅の渦に叩き込まんとふるまうことも多い。たいてい背後に回り裏から糸を引き、邪悪な企みを成就させんと行動しているのだ。

 さて、この神の特徴として、さまざまな姿かたちを持つことが挙げられる。黒い神父をはじめ、顔のない獣、天にそびえたつ触手の頭を持つ怪物などなど、バリエーションはあまりに多岐にわたる。そもそもそういった姿が描写されることが多いだけであり、本当のところはかの神性がなにがしかに変状した場合、見分けることは難しいのだろう。そう、今この瞬間、真尋の目の前に立つ彼女のように――――。

 

「ニャルラトホテプ――這い寄る混沌か。また悪趣味な姿しやがってなぁ」

 

 ノーデンス老の言葉に、特に彼女は、夢野霧子を名乗っていた彼女は態度を変えない。現れ出たと同時に周囲にうすらぼんやりとした黒い霧を帯び、どこか超然とした、神様めいた微笑みはしかして見ているものを不安にさせる。そして開かれた口から発されるそれは、どこか愛らしさの残った女性のそれではなく、涼し気な男性のそれである。

 彼女が出現すると同時に、真尋の喉より這い出ていた名状しがたい奇怪な何かは影も形もなく姿を消している。唖然として、そして茫然とする真尋だが、しかし状況については冷静な分析を行っている。そう、おそらく彼女に飲まされたあのモノクロのカプセル錠剤。あれこそが、自分から這い出た何かの正体であろうと。

 眼前に立つ霧子――――ニャルラトホテプは、ごくごく自然体のまま続けた。

 

「だから言ってるじゃないか。『仕込みは十全』だとね。それよりも、おいノーデンス。君もまた、中々趣味が良い化身(アバター)してるじゃないか。いぶし銀だねぇ。どうしたんだい?」

「はッ! 特に理由はねぇな」

「まあ、私も興味があるわけではないからこれ以上追及はしないさ。問題があるとすれば、真尋を殺そうとしたことだね」

 

 肩をすくめる這い寄る混沌に、真尋は言い知れぬ薄ら寒さを感じる。その言葉、登場時の発言をふまえ、真尋の脳が導き出した結論によれば、這い寄る混沌は彼を己の所有物か何かのようにみており、事実そう扱っている節があるということだ。夢野霧子として接していたときの彼女からその気配は感じ取れはしなかったものの、実際、一体そのときからこんな視線を、こんな内心でいたのかと。その事実だけで、十分に背筋が凍る。ニャルラトホテプはそんな真尋の様子に全く目もくれず、ノーデンスに向かって薄く微笑んだままだろう。対するノーデンスは舌打ち一つ。明らかに面倒そうに、忌々しそうに眉間にしわを寄せている。

 

「まさかあれだけお膳立てされた舞台で、お前が立っていそうな場所に化身でさえおいていないとは思っていなかった。おかげで無駄なところにクトゥグアを使ってしまった」

「ははっ。今回は君が動きそうなのは読めていたからね。私も代役を立てさせてもらった。知ってるだろ? 君が面倒を嫌って実績のある相手を用意したように、私も面倒は基本的に嫌う性質なんだ。しっかし、無涯博士は真尋と違って想像力が貧困でねぇ。今日のためとはいえ、こっちの世界に走らせるのに『五年も』かかってしまった」

 

 無涯? さきほど真尋を何らかの装置――――おそらく邪神との「交信装置」の生体ユニットにすると言っていた、あの男。真尋自身、当初は彼がニャルラトホテプの化身なのではと感じていたのだが、だがその口ぶりからすれば全く違うということになる。ニャルラトホテプの手によって狂気の世界に引きずり込まれた人間であるかのように語っているが、いや、まて。五年、五年だと。真尋はもはや、眼前の存在を直視することさえできない。一体いつから、いつから今日という日を予見し行動していたというのだ。そしてどこからどこまでが、この存在の語った何から何までが真実で、何がこの存在の仕込みだというのか。己の生まれも、その存在も、家族も、人生も、すべてが、すべてがこれの掌の上で踊らされていただけだとしたら? 頭上から垂らされた糸で適当に操られていただけだとしたら? 思考を放棄することが真尋にはなぜかできない。すでに自身はいくらか発狂しているだろうにも関わらず、しかしそれでもなお思考の一部がクリアに、正常に場を分析しようとしているのだ。

 ニャルラトホテプの横で、星の精がふわふわと揺れる。挙動からしてニャルラトホテプに召喚され、彼に追従しているといったところか。

 

「わかってるとは思うが」 

 

 そしてそんな彼女(?)たちに向けて、ノーデンス老は軽く右手の指を向けた。

 

「ここは、こっちの空間だぞ?」

 

 次の瞬間、星の精に猛烈な速度で銛が複数突き刺さる。四方から放たれたそれらは、妙な具合にそのシルエットをゆがめさせ、全身から真っ赤な血液を噴出させた。ごひゅー、ごひゅー、とでも形容できようか。そんな悲鳴とも破裂音ともいえない奇怪な音を鳴らし、地面に落ちる星の精2体。そして、ニャルラトホテプはやはり余裕の表情。みれば、彼女の身体にもその銛は突き刺さっているではないか――――。四肢を拘束するように貫通し、さらには胴体を貫いたそれ。まるで地面にはりつけにされているかの如く。だが彼女は全く堪えた様子もなく、自分のこめかみに刺さった銛を一つ引き抜いた。

 

「――――っと。死ななくても痛いし、喉の発声器官にひっかかるから頭狙いは止めてもらいたいんだよなぁ。しかし、そっちこそ解ってるのかな。私はそもそも君たちと違い『化身という概念が根本から異なる』から、この程度で殺すことは出来ないのだよ」

「嗚呼、わかってるさ。だから()を焼かれた時のように、直接的に大打撃を与えることが有効にもなるって寸法だ」

「わかっていて使い魔を殺すくらいだから、もう対策は打ってあるのかな?」

「生憎、これからだ」

  

「――――少年、さっきぶり」

 

 いつの間にやらか、ノーデンス老のもとに、赤毛のワンピース姿の少女が再び現れていた。現れた、ではない。いつの間にか現れていたが表現としては正しいだろう。ともあれ、そもすでに真尋はそれに返答することが出来るだけの正気度を持ってはいないのだが。しかしそれでもクトゥグアの化身たる彼女は、真尋を一つの意志ある生命体として尊重でもしているのか、ひらひらと手を振っている。こころなし、無表情であるがちょっと楽しそうに見えないこともない。大してニャルラトホテプは、相も変わらず表情も変わらずである。

 

「まあ、そう来るのは読めているけどね。それで? 後何回『本体を召喚できる』んだい? その化身の耐久度もあるだろう。TRPGでいうところの、SPあたりかな? 人間という形態を伴って魔術を行使するんだ。それくらいのリスクは負ってるだろうからね」

「ハッ。お前のせいで1回無駄になっちまったが、何、焦ることはない。もう一回撃てれば上々だ」

 

 既に会話は真尋の常識の外側にある。クトゥグアの化身たる少女は、ぼんやりとニャルラトホテプを見上げ、頭をかしげる。そんな様子を一瞥して、ノーデンス老はなにがしかの呪文を唱え始めた。

 

「フングルイ・ムグルウナフ・クトゥグア・ホマルハウト・ウガア=グアア・ナフル・タグン! イア! クトゥグア! イア! クトゥ――――っえっくしょいッ!?」

 

 そして、呪文の最後で盛大にくしゃみをして、咳き込んだ。げほげほと、喉を抑える老人に、少女はやはり不可思議そうな顔を向ける。真尋の正気の部分は気づいた。この薄明りの中、つまりノーデンスの貝の中。いつの間にか霧子だったものが出現したときに現れ出た、黒い霧のようなものが充満している。そしてノーデンス老の挙動は、明らかに異常だ。すくなくとも神が身を窶した存在であるはずのあの肉体が、この場、このタイミングで、こんなありきたりなミスを犯すはずはない。ともすれば――――ちらりと、ここで霧子だったものは真尋に向けて、わずかにほほ笑む。嗚呼とするならば。この霧こそが、ニャルラトホテプが仕掛けた罠に違いない。

 

「ダメじゃないか。クトゥグア召喚、招来の呪文は、間違えると『面倒なものが』来てしまうのだよ? いくら君とはいえ、『一次元に近い世界に生息する肉食獣』がごとき何かを相手にできるほど、余裕はないんじゃないのかい?」

「――――っ、げほっ、馬鹿が! お前、正気か!? いくら威力がそこのクトゥグアに比べて弱いからと言えど、無事で済むわけないだろうが、全部消えるぞここら一帯のものが!」

 

 大声で叫ぶノーデンス。真尋の正気は、わずかに思い出す。クトゥグア、生ける太陽を超える恒星がごときかの神性は、呼び出すのが危険である。それは神性そのものの性質はもとより、失敗時において現れ出る「別な神性」が、ことごとく邪悪極まりない性質を秘めているからだ。

 そう、そして。やがてクトゥグアの化身たる少女が立ち上がると、そのシルエットが解ける。今度は真尋も真正面からその有様を見た。古い昔、怪獣王の映画で見たその最期の様、メルトダウンのような情景を思い起こさせる。そのシルエット自体が輝き、マグマのようにドロドロとした何かに変色し変貌し、骨と共に崩れ落ちる。それだけでも十分にひどい有様であるのだが、今回はそこから続いた有様が更にひどかった。

 それは、はじめ点から始まった。崩れ落ちたクトゥグアの溶解物が一点に収束したかと思えば、それがまるで排水溝にでも流されたかのように、その点、否、穴に集中していく。そしてごぽごぽと、不可視のその奥から音を立て、原型もとどめない程の勢いを伴い、炎がほとばしった。ほとばしった炎は形を持たない。否そうではない、「この空間では炎の全容を示すだけの空間が存在していない」というだけだ。

 猛烈な勢いのままに、ノーデンス老を飲み込む炎。たとえるなら、そう、どう猛な獣。飢えたケダモノ。だてに「星々から宴に来たりて貪るもの」とは呼ばれていない。そして当然のように、その炎にニャルラトホテプの化身もまた巻き込まれた。ごうごうと燃えるそれは、彼女の全身のシルエットを消し炭に変容させていく。

 

「じゃ、今のうちだ。こっちも準備しよう。せっかくだからね」

 

 そして、同時にありえないことが起こっている。目の前で焼かれているのは霧子だったものだが、その霧子だったものと全く同一の姿かたちをした存在が、真尋の背後に現れ、彼を抱きしめるように立ち上がらせた。その感触は曰く、人間の柔らかさではなく、ゼリー状、ゲル状の物体がまとわりついているような妙な柔らかさだ。だがそれがだんだんと固くなり、固まり、真尋が一度くらい体感した霧子(仮)の、人間らしいしなやかさと冷たさを帯びていく。

 

「呪文とか唱えたほうが『それらしい』んだけど、正直時間がないからね。あんまり余裕な態度でいると、真尋まで焼かれてしまう。というわけで一応謝っておこう。ごめんね?」

 

 全く人間らしい反応もできない、人形がごとき真尋に、這い寄る混沌は軽くウィンクして舌を出した。そしてそのまま目を閉じて、真尋の唇に自分の唇を重ねた。真尋の正気の部分が、これによって一瞬完全に機能を停止した。様々なことがありすぎる。様々な事象がありすぎる2日において、これほど悪夢的なこともあるまい。具体的に形容するのもはばかられるほどの不快感と悲しみが彼の脳内で分泌されるが、それが彼の全身に伝播することはない。この場において、彼はすでに廃人と化しているのだから。

 重ねた唇から、霧子だったものは舌を伸ばし、丹念に真尋の口の中を蹂躙する。と、それが離れると同時に、真尋と彼女の口の間に、唾液ではない「糸を引く」何かが存在した。真尋の目はそれを正確に映し出す。と同時に、その意味合いについて理解することができた。上位の神性、より巨大な神性の一部に自らを偽装ずることで火の獣を退散させる、そういった文言。空中に浮かぶその文章を、霧子だったものは指先で書き換える。神性に偽造する個所を「自らが神性であり」「相手を取り込む権利がある」と変更すると、彼女はその文章を「どろどろとした液体とも触手ともつかない何かに変形させた右手」でつかみ取り、前方に掲げた。

 効果は劇的だった。ボロボロと炭化した霧子だったものが崩れ落ちた丁度その瞬間。なにがしかの意志がこちらに標的を変更したのを真尋の正気が感じ取った瞬間。その瞬間にニャルラトホテプが行動し、そして向けられた敵意はとたんに消し飛んだ。そしてまるで、ニャルラトホテプの化身と真尋を裂けるように炎が隙間を開ける。

 

「――――やっぱりそいつ、アル・アジフの原本か」

 

 さすがに海の神の化身というべきか。ノーデンス老の身体は、案外と霧子だったものと異なり、この炎の中でいまだ原型を保っていた。だがもう長くはもつまい。霧子だったものは、「人間の姿かたちに戻った」右手の指を鳴らす。と、貝の上部が爆散した。否、外部からなにがしかの生命体が、こちらに向けて突貫してきたのだ。天井にあいた穴を見て、ノーデンス老はため息を深くついた。

 

「全く。こちとらお前のように、ホイホイ化身できねぇんだぞコラ」

「だから、それも狙いなんだよね。ともあれ私も真尋も、君には用事はない。退散させてもらうよ」

 

 落下してきた生命体――――真尋にはコウモリのような羽根を持つ何かにしか見えないが、霧子だったものは真尋をつれて、それに乗った。羽根が大きく躍動し、この場を離れる。上空に飛ぶ。すでに貝は後方。いったいどれだけの速度が出たのかさえ分からない真尋。ただ視界の端でノーデンス老の貝が原型も留めないほどに燃え散ったことと、その日が飛び火したのか海中にいるクジラが猛烈に暴れているのだけが見えた。

 

「さて、色々済まなかったね。本当はこういう形で巻き込むつもりはなかったんだけれど」

 

 言いながら、霧子だったものは自分の腕のSANチェッカーを一つ外し、真尋につける。

 からからと猛烈な速度で回転。さながら暴走したモータか何かのような音をたて、それはすぐさま爆発した。

 かまわずふたたびSANチェッカーをつける。爆発。装着。爆発。装着。爆発。装着、爆発――――。

 

 

 

「――――はい、これで7つ目。さすが私、さっすがきりこちゃん、計算もばっちりですね~」

 

 

 

 やがて最後のSANチェッカーの回転が止まり、真尋の脳裏に「95」と数字が浮かんだ。それを見越して霧子だったものは、いや、そのまま彼女は再び霧子(仮)の時と同様に、「愛らしさの残る女性の声で」得意げな顔を浮かべた。真尋は愕然とした。眼前の相手に対してもそうだが、どうやら今までのSANチェッカーの破損をふまえて、体の自由が返ってきていたからだ。

 震える手を見つめ、霧子だったものを見つめ。なにごとか口走ろうとして。

 

 

 

「――――――寒ッ!?」

「おお、アイデア! って訳じゃないですけど、確かに寒いですかね。ささ、真尋さんこれをお召しくださって……」

 

 

 

 思い出したかのように体を襲う猛烈な寒波に叫ぶ真尋と、それを受けてどこからともなく「真っ黒な修道服めいた」上着を着せる霧子(仮)であった。

 

 

 

 

 

 




次回、ネタばらし編。真尋のSANチェッカーがまたからから回転する……!


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太陰曰く下手な真実

※今回、次回は共に霧子(仮)の壮大なバックポーンが明かされる回となります。要は答え合わせ回みたいなものなので、まだ前を見ていないお方は一通り事件収束までをご覧になってからどうぞ


 

 

 

 

 

「あ、どうもどうもです~。ありがとうございます、真尋さん♪」

 

 公園のベンチに座り、にこにこと微笑みながら真尋の手から缶を受け取る――――夢野霧子(仮)。まるで今日一日が何事もなかったかのように楽し気なその様子に、真尋は軽く頭痛を覚える。ただ左腕にとりつけられたSANチェッカーが回転することはなかった。霧子は缶の口を開け、無糖のブラックをちびちびと飲む。猫舌か何かなのだろうか。いや、特にそんな設定はなかったはずだ。単純に気まぐれなのだろう。そしてそんな彼女の口元、うすくも潤を帯びた唇やら舌やらを見た瞬間、真尋は自分の脳天にチョップを入れた。瞬間的に脳内に描かれた映像そのものを否定し忘却するためだったが、そんな彼の様子をちらりと見て、彼女は口元を押さえ、楽しそうだった。

 これにはたまらず、真尋も口を開いた。

 

「……いや、なんでアンタそんな平然としてんだよ」

「平然とはしてませんよ? さすがに北国、昼もそうでしたが夜も寒いですよねぇ。まだ春先だっていうのに……。というわけで、コーヒーが美味しい頃合いなのですよ」

「そういう問題じゃないだろ。オレはなぁ……」

 

「――――なんだったら、こういう私の方が良いかい? 真尋」

 

 とたん、彼女の声は「涼し気な男性」のものになる。異様なまでに落ち着いた声と超然とした微笑み。ほんのわずかな表情の作りの違いでしかないというのに、与える印象は大きく異なり、またその男性の声には言いようのない薄ら寒さを覚える。そんな風にして硬直した真尋を見て、霧子(仮)は再び声を戻して笑った。

 

「そんなに怯えないでくださいよ~。こうして終始、有言実行で真尋さんのことお守りしたじゃないですかぁ」

「それ以前の問題だろっ。大体、ほとんどアンタのせいなんじゃないのか? ――――ニャルラトホテプ」

 

 真尋の言葉に、少しだけ目を見開く霧子(仮)。表情こそ彼女のままであるが、その中はひたすらに闇である。本来白目が見えるところまで含めて黒一色に染まった眼を向けられては、さすがに真尋も現実を直視せざるをえないところだ。ただやはり理不尽なことに、神性らしさを発揮されていない時の方がやはり話しやすくはあるのだ。彼女もそれを察しているのか、すぐキレイな目に戻った。

 ノーデンスから脱出した霧子(仮)と真尋は、そのまま謎の怪生物(真尋はあえて直視を避けていたが、おそらくシャンタク鳥と呼ばれる類の名状しがたい神話生物)に乗ったまま、あっというまに元の家まで帰ってきた。惑星の極から日本までの帰還にわずか十分もかからなかったという事実だけでSANチェッカーが破損しかねないとも思うが、幸か不幸か現実感がなかったせいか、そこでの減少は発生せず。そしていつの間にやら家自体は何事もなかったかのように修復されており、唖然とする彼に霧子(仮)は言った。デートしましょうと。だが時刻はすでに深夜三時を回って、一歩間違えずとも補導される時間帯を過ぎている。しかし当然のように霧子は微笑んだまま。とくに例の結界とやらの中にいるわけでもなく、真尋としては反抗することしかりであったが。

 

「なんだったら、真尋さんが聞きたいことなんでも答えてあげますよ? 私のスリーサイズから、この世の狂気の果てまですべて」

 

 最初のやつ必要ないだろ、と突っ込みを入れども、さすがに真尋も事実を話すというのなら聞いてやろうじゃないか、という心境であった。彼は眼前の相手が、例の這い寄る混沌であることを正確に認識していた。だがそれと同時に、彼女が言った通りに、一応は真尋自身のことを守ったのだということも理解していた。……それが盛大なマッチポンプだろうが何だろうが、それはひとまずおいておいて。一応ではあるが、ニャルラトホテプも物語の後半、謎解きの解答編では饒舌になるときもある。それゆえ、今回の事件もおそらく収束したのだろうという前提で、その話を聞こうと判断した。コンビニでスパゲッティとサンドウィッチ、飲み物の缶を購入。

 真尋から受け取った缶コーヒーを、霧子(仮)はやはりちびちびと飲んでいた。

 

「さて、じゃあ何が知りたいですか? たいがいのことには『SANチェッカーが壊れる直前まで』答えてあげる所存ですけど、話の整理もなしにいきなり衝動のままに質問したりすると、話がこんがらがっちゃいますからね」

「最初からだ最初から。全部。具体的に言えばオレのことと、今回の事件のあらましと、あとアンタについてだ」

「私について?」

「アンタ死んでただろ。オレは、その……」

 

 視線を逸らしながら落ち込んだ様子の真尋に、嗚呼、と納得したように霧子(仮)は微笑んだ。

 

「真尋さん、私が死んじゃったと思って、落ち込んでくれたんですね?」

「…………」

「大丈夫ですよ~、真尋さん。私が何だかご存知ですか? 世界終末のラッパを吹きならす獣、嘲笑う播神、這い寄る混沌ですよ? 殺されたくらいで死ぬわけないじゃないですかぁ」

「そういわれると意味不明ながら納得の理由だが、釈然としねぇ」

 

 気持ちはわかります、と霧子は楽しそうに笑った。わかるんだったら態度を改めろと思いはしたが、所詮は邪神の化身でしかないのだ、そんな彼の思いは無駄どころかちり芥に等しいことだろう。しばらく笑ってから、霧子は指を三つ立てて数える。

 

「では、①私のこと②今回の事件のこと③真尋さんのこと、という順番でお話しますかねぇ。まあ知っての通り、真尋さんの隣にここ二日ほどニコニコ這い寄っていたのは、わたくし、這い寄る混沌ニャルラトホテプに相違ありません。あ、ちなみに夢野霧子っていうのは『幻夢の時計』って本からとりました。あれ、私最後に霧になって逃げてましたからね。名前っぽくすると語感、悪くないかなーと思いまして」

 

 なんともまぁロマンチックさの欠片もない由来である。

 

「まさかいきなり正解を引かれるとは思ってなくて、あのときはびっくりしましたよ~。さすがのアイデア! ですね」

「って、やっぱりアンタ、オレの様子見ながら嘲笑ってたんじゃないのか? 単に」

「いえいえ。真尋さんを守るというのも私の目的でしたし、そのためにけっこう手間をかけて、私も組織に所属してましたから」

「はぁ……? あー、まぁ、なんかの組織から派遣されてるとかいってたか。それはマジだったのか……」

「ええ。星の智慧派ってわかります? よく私を崇め奉ってる組織筆頭に数えられるアレですが。あれ、実は2000年代初頭あたりから分裂しはじめてですね。いわゆる原理主義と革新派みたいな割れ方ですね。ノーデンスの言葉を借りるなら、カトリックとプロテスタントみたいなものです。このSANチェッカーはそのプロテスタント側が作った道具で、真尋さんをお守りするには是非ともほしい! チートアイテムだったので、まぁ、そんなわけで、化身すること早二十数年でしたよ」

 

 無涯博士のときも五年かけたとか言っていたが、この邪神、もしかしてそういう仕込みのようなことは、案外ちゃんと時間をかけてやる相手なのだろうか。いや、わざわざ自分が目指す一瞬、一日かそこら程度のためだけに数十年かけられるその精神性は間違いなく人類のキャパシティを超えたそれなのだろうが。認識のスケールの違いに軽く眩暈を覚える真尋と、ちょっとだけ回転するSANチェッカー。

 

「まあ、あの私の死体は、あっちで海の藻屑と消えているので大した問題ではないんですが。あとできちんと発見されることでしょうし」

「って、そこもそういえば突っ込みたかったぞ。なんでそんな、死んでるのに生きてるんだアンタ」

「そりゃ、あれもこの私も『化身(アバター)』だからですよ」

「わかる言葉で話せ」

「そりゃ、もちろん♪ んー、とはいえど化身の基本的な意味というか、ニュアンスというかは知ってますよね? ノーデンスの場合は、あえて真尋さんと接触するにあたり『人間規模のスケールでの世界の俯瞰の仕方』とかも含めて獲得するために、ああして化身してたような気がしますけど、ともあれあっちは能力を制限されています。なんでだかわかります? ――――本来、化身っていうのは、その神性本体からすれば『夢のようなもの』でしかないからです。目的をもって造り操りはすれど、おおもとの神性すべての認識、人格、能力が反映されない状態で活動する以上、まぁ、ほぉ~ん? って感じなんですよ」

「その擬音から俺は何を理解すればいいんだ……?」

 

 だが理解できないまでもSANチェッカーは回転を続ける。いまだに数字が出ず回転しっぱなしというのがあまりに不気味だが、少なくとも霧子(仮)のことを真尋は多少信用していた。ニャルラトホテプ相手に何をと彼自身思いはすれど、まぁ実際命を助けられているのもあってか、敵対心が思いのほか強くないのも理由の一つか。だからといって目の前の相手が、人類全般に親し気な存在でないことだけは明らかなのだが。

 

「ですが、私は違います。私の化身は基本的に私の身体を『分裂させ』、使用しての変身、原子レベルからの形態変化になりますから。つまりですね、仮想的な人格の作成とか、作成した人格に対してニャルラトホテプが対応して演じる、『変心する』必要があるわけです。そこのところいくと、ニャルラトホテプほどこの宇宙のありとあらゆる知性体を観察してきた存在もいないというわけですね。霧子ちゃんというパーソナルくらいなら、お茶の子さいさいなわけです」

「おもちゃにしてきたの間違いじゃないのか? 観察じゃなくて」

「真尋さん、小学生のころにアルコールランプとか使いませんでしたか? 理科の実験とかで。ライターに火をつけてランプに移す感じの。ニャルラトホテプからすれば、私がやっていることはそれくらいの感覚なんですけどねぇ」

 

 やはり人類と邪神とで、判り合うのは無理があるらしい。やはりわかってはいても胸と頭が痛む真尋である。いくらなんでも初恋の女性が世界崩壊をもくろむ邪悪なる意志を体現した神性であったとか、しかも性別自体存在しない疑惑さえあるとか、あんな良い男の声したラスボス然とした状態でファーストキス奪われたとか、もはやその事実だけをもってしてもSAN値が不定の狂気に落ちるほど削られてしまいそうなところだった。吐き気を催す、とはこういう状況を言うのだろう。だが真尋はそれでもめげずに会話を続けた。

 

「……えっと、つまり、結局アンタはニャルラトホテプ以外の何物でもないってことでいいんだな」

「んー、ちょっとだけニュアンスが。夢野霧子を演じてるニャルラトホテプは夢野霧子以外の何者でもありませんし、それ以上にニャルラトホテプが素を出せばニャルラトホテプそのものだということです」

 

 じゃあ次に移りますか、と霧子(仮)は指を一つ折りたたんだ。

 

「今回の事件についてですが、まぁ、おおむね大きな流れは察してるかと思ってます。真尋さん答え合わせしようかと思いますが、どうです?」

「あー、要するにアレだ。クトゥルフとか、そこら辺の神性とかとディープワンズが精神的な交信とか、そんなことをしようとしたと。そのためには特異点(ポータル)が必要で、オレが狙われた。ノーデンスは、理由わからんがそれを止めようとして。で、その相手の中枢にはニャルラトホテプが当然いると判断していた。だからクトゥグアの化身をつれていっていたが、結局アンタに出し抜かれていた、と」

「うわぉ……。んー、アイデア! すぎて私の話すことがほとんどないんですが……」 

 

 ええー、みたいな、ちょっと引いたような声を上げる霧子(仮)。半眼の真尋に「ち、違うんですよ」となぜか釈明のごとき言い訳をはじめるが、一体何に対する釈明なのかは本人同士わかってはいないに違いない。

 

「いえ違うんですよ。そういうことじゃなくてですね? その、そう! そこまであらましに予想がついているなら、今更真尋さんは何を聞きたいのかなーと」

「事件の根本的原因のところとかがすっぽり抜けてるじゃねぇか。大体、それに対してアンタが結構な年数、仕込みをしてきたっていうのも説明になってないぞ」

「あー、それ言っちゃいます? 言っちゃいますかぁ、……。ええぃ、女は度胸! この名状しがたき夢野霧子のようなもの、誠心誠意解説してあげようじゃありませんか!」

 

 そして双方、深夜のテンションなのか微妙に声のトーンが高いような。大変に近所迷惑であるが、誰一人として公園に人影は現れない。

 

「とはいっても大したことじゃありませんね。ああいう組織の動きっていうのは、めいめいあることだったので。問題はノーデンスに、真尋さんの存在を感づかれることだったので。わざわざ化身まで出してきていた以上、私も適当に対応していたら色々と大変なことになった感じですので」

「ノーデンスが出てくるっていうのは、いつわかったんだ?」

「いやだなぁ真尋さん、そんなの二十数年前からに決まってるじゃないですかぁ」

 

 こいつぶん殴ったほうがいいんじゃないだろうか、とニコニコ顔の霧子(仮)を前に、真尋の脳裏に誘惑めいた衝動が走る。

 

「なんでわかるのか、とか聞かないでくださいよ? 真尋さんからすれば、中空にあった雨粒が、そのまま重力に従って地面に落ちるっていう程度の認識に近いことなので。こればっかりは生物的なスペックの差ですかね」

「認知機能の差ってことか? ……なんだかラプラスの悪魔じみてるな」

 

 いわく、すべてのものに働くエネルギー情報と、それを観測し処理しうるだけの知性が存在しうるならば、おおよそその知性にとっては世の中のすべては完全に予想することができるだろう、という感じのことらしい。俗にラプラスの悪魔と呼ばれる物理学の超越概念である。真尋のそんなセリフを受けて、霧子は胸を張った。

 

「そりゃ、一応これでも神ですし」

 

 まぁ確かに、ニャルラトホテプレベルであればそれも可能だと言い切られてしまえばそれまでである。少なくとも、真尋は彼女が本来持ちうる価値観や概念、スケール感を全く感じ取ることが出来ないのだから。逆に彼女が真尋たちに合わせることができるのは、いわば「大は小を兼ねる」という理屈だろう。GBAでGBのソフトが遊べたり、あるいは初期型DSでGBAのソフトが遊べたり、NewDSでDSのソフトが遊べたりと言ったレベルの話だ。

 

「まあおおよそ二十数年前に今日、というかさっきまでの簡単な展開の予想が立ったので、これはまずいなぁと。せっかく『準備してきていた』真尋さんをみすみす殺されるのも面倒だったので、まあ、画策したわけです。『私』に変身して例の組織に出入りして。でだんだんと条件が確定していったので、十年くらい前にクー子(ヽヽヽ)に私が燃え散らされるイメージも予想が立ったから、無涯博士も狂気の世界に引き入れて、行動を起こしそうな場所に接触させましたし。いやぁ、『論文に化身(アバター)した』のは久々で、案外大変でしたよー」

「もはや俺には、その化身っていう概念がわけわからなくなってきてるんだが……。っていうか、クー子?」

「クトゥグアの女の子バージョン、ってことで、略してクー子」

「安直……」

「あら、では御大のごとき品詞ごてごての解説文じみた名称の方がよかったですか?」

「いや、それもそれで面倒だからいい」

 

 既に眼前の相手自体、霧子(仮)だの霧子だったものだの散々に内心で形容してる真尋のセリフである。と、そんなことを知ってか知らずか、霧子は「しかし中々真尋さんもたくましくなりましたねぇ」と嬉しそうに笑った。

 

「何がだ?」

「いえね? だって、今真尋さんと話してるのって、這い寄る混沌ですよ? 私のした所業、しうる所業、絶対知ってるじゃないですか。御大の原作読者な訳ですし」

「それは……」

「ま、あんまり興味ないんで別に問い正したりすることでもないんですけどね~。じゃ、三つ目の疑問、真尋さんについてですね」 

 

 真尋の内心を知ってか知らずか、霧子(仮)は軽い調子で話を続け。

 

 

 

 

「ノーデンスもいってましたが、真尋さん――――あなたは特異点でありますが、それ以上に。私が13世紀くらいかけて作り上げた、死者の書(アル・アジフ)の原本。現代において唯一といえるでしょう、一切の欠損なき、完全な魔導書です」

 

 

 

 ここにきて、真尋のSANチェッカーは再び回転数が爆発的に跳ね上がった。

 

 

 

 

 

 



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昔々あるところ未来の物語

タグにウソ偽りなし

※今回、前回は共に霧子(仮)の壮大なバックポーンが明かされる回となります。要は答え合わせ回みたいなものなので、まだ前を見ていないお方は一通り事件収束までをご覧になってからどうぞ



 

 

 

 

 

 アル・アジフ。一般的な呼び名を使うならばネクロノミコンというべきか。世界一有名な魔導書の一つとして数えられる代物であると同時に、いまだその全容が知られていないという曰く付きの代物である。8世紀初頭、狂気に堕ちたとあるアラブ人によって書かれたかの書物は、記述者が読者に対してある種の魔術でも仕掛けたのではと思えるほど読者の精神を狂わせるとされ、大きく世紀をまたぐ前に禁書となる。だが裏ではその膨大な魔術の知識を求むる者たちの手により幾度となく表の世に出ては消されを繰り返し、現在残っている書物はたいがいが写本、ないしページの部分部分が欠損した不完全品であるといえる。

 ともあれ、この書物の何が問題かといえば、記載されている魔術全般にわたるものが恐ろしく神話的狂気と隣接していることにある。読者が発狂するというのは、すべからく書かれている呪文、召喚されるだろう神性や神話生物、発動に用いられる宇宙的規模の概念などが人間のキャパシティを容易に消し飛ばすためであろう。完全版のそれが現代に残っていないのが一つの救いなのかどうかは定かではないが、少なくとも残っていたところでまともな代物でもあるまいという予想が真尋にはあった。

 

「つまり、オレはまともな奴じゃないってことか」

 

 そしてそうつぶやいた瞬間、猛烈な速度でSANチェッカーがうなりを上げる。詳細を霧子(仮)から聞く以前の問題として、真尋の想像力はここ2日、いやもう3日となるか、その分すべての「嫌な予感」が直列で接続されたかのごとき悪寒を感じ取っていた。なにせ霧子(仮)は少女らしく笑いながら、こんなことを言い放ったのだ。十三世紀くらいかけて真尋を作ったと。十三世紀……、十三世紀? 百三十年とかじゃなく、千三百年? 邪神からすれば大したスケールではないのかもしれないが、もういっそ殺してくれといわんばかりに真尋の精神は疲弊しはじめていた。それでも倒れず立ち続けられるのは、SANチェッカーがひたすらに彼の狂気を請け負っているためなのだろうが、もはや一種の拷問である。と、そんな真尋の内心に対して、霧子は楽し気に笑った。

 

「そう落ち込まずにですねぇ。……あ、ちなみにSANチェッカーでお辛そうにしてますけど、実際間違ったことではありませんよ? SANチェッカー、ハスターあたりの信仰組織はMADロッカーとか読んで拷問具として使ってますし」

「は? いや、何だそれ。SAN値直葬されるのを防ぐ道具じゃないのか、これ」

「だってSANチェッカーが肩代わりするのは正気度だけですから。精神的な疲弊とか、脳の負担とかまではみてもらえません。んー、たとえば、SANチェッカーをつけた状態で私の上司(ヽヽ)の前にいったとしましょう。すると……」

 

 おそらくアザトースあたりのことだろうと、あえて上司なんてもったいつけた言い回しをとった霧子(仮)から察する真尋。

 

「すると、どうなんだ?」

「脳みそが破裂します。頭がパーン! ですね」

 

 複数つけても破裂するとかいう話ではなかったろうか。

 

「んー、こう言うと変かもしれませんけどね。狂ってしまうっていうのは、人体の作用としてはある意味で正しい挙動なんですよ。人格を負担する器官たる脳に、無茶をさせ続けてそれでもなお停止させることもなく動かし続けると、挙動そのものがおかしくなり正常に機能しなくなります。しかし、これはその状態に適応しようとするからこその動きですので、狂うことで狂う以前の状態からは解放されてる部分もあるわけです。SANチェッカーによって精神を安定させられると、そんなことおかまいなしに常に正常稼働となりますので、結果、物理的に人体が破損します」

「しれっと何言ってるんだアンタ」

「大丈夫♪ 真尋さんの場合は他の人よりはSANチェッカーと相性が良いので、そのままで大丈夫だと思いますよ。なにせアル・アジフですから」

「だから、なんでオレが魔導書なんだよ。っていうか完全版って……、あー」

 

 そういえば、クトゥグア召喚をおそらく意図的に失敗させて召喚させた、ヤマンソだったか。ノーデンス老と別な体の霧子(仮)に対して襲い掛かったかの炎の邪神を、退ける何かを真尋から取り出した霧子(仮)だ。ということはつまり、彼女の言っている言葉の正式な意味合いはともかく、実際それを成せるだけの魔術が記載されていたのだろう。確かにそんな話をちらっと見た覚えがあるような、ないようなという真尋である。霧子は一度咳ばらいをすると、超然とした微笑みを浮かべる。

 

「――――――ことの始まりはそう、ちょうどあのアラブ人が、かの戯曲を書いている時だったかな」

 

 霧子(仮)では回想しきれる範囲にない情報だからか、声、態度ともにおそらく「ニャルラトホテプ」の状態になった。一歩後ずさる真尋に微笑む、霧子(仮)の姿をしたニャルラトホテプ。おそらくそのアラブ人とやらは、アル・アジフ原作者だろう。ニャルラトホテプは何が楽しいのか、思い出し笑いのように目を細める。

 

「そうだね。私が彼と出会った頃。丁度その頃、私は何をしていたか……。中国のあたりで水銀をすすめて為政者を何人か裏から暗殺していたかな? そんな私の様子を、彼は『窓を作って』見ていた」

「窓? ……当然、普通の意味合いじゃないよな」

「ああ。時空間に穴をあけていたわけだ。彼は本来、イスラーム圏ないしアラブ圏の人間だったからね。そちらの人間として神々に帰依するべきであったのだが、どういう訳かヨグ=ソトスに帰依したらしくてね。そんな彼は何を思ったのか、ヨグ=ソトスの力の一端、というか『肉片の一部』だろうね。それを通してあらゆる時代、あらゆる時空間の観察をしていたようだった」

 

 最初の水銀の話を聞いた時点でロクでもなさ満載のニャルラトホテプであったが、邪神の肉片を使って魔術を行使していたそのアラブ人もアラブ人である。

 

「彼も私に後ろを向かれるとは思っていなかっただろうが、ふと気になってね。そしてついアドバイスしてみたわけだ。せっかくだから記録をつけてはいかがかとね」

「記録……?」

「そう。最初はちゃんとした記録として書いていたようだったが、少なくともその記録を私が改めて目にした時には、もはやまともな代物ではなかった。彼はあらゆる時代の『私たちの側の』神話や魔術を集め始めていた。彼が何を思ってそんなことをしていたかはまぁ知ってはいるが、それさえ無駄だと知っていてもやらざるを得なかったのだろうね」

「……んー、性善説にのっとれば、アンタらに対する対抗策として残したってことか?」

「さすがの理解力だ、と言っておけば『霧子っぽい』かな? まあそれを残したからと言って、後世、とくに私の目に留まった時点で彼が予定していた通りの使われ方をするとは限らなかっただろうが」

 

 戯曲、戯曲といっていたか。つまりそのアラブ人は、あらゆる時代における邪神たちが起こしうる物語と、それに対抗するための魔術を集め記載していたということか。ただそれが後世正しく理解されることはない。当たり前だ、著者自身が狂ってしまうような内容のそれが読者に正しく理解されるわけはないだろう。またおそらくその紛失したページについても、この眼前の相手が一枚どころでなく絡んでいるに違いないと真尋は半眼でにらんだ。

 

「そう怖い顔をしていると、将来的にモテないぞ? 女の子っていうのは、たいがい見た目が九割だ。怖い顔、不細工な顔、挙動不審な顔がモテるには別なステータスを足さなければならない。意外と面倒なんだぞ? 真尋」

「そんなことはどうでもいい。どうでもいいが……、さてはアンタ、その戯曲から魔術以外をにおわせる記述のところだとか、戯曲として成立しうる部分とかを適当に紛失させたんだろ」

「…………いやぁ、さすがにわかるよね。ただ、真尋はその直感が『どこに端を発するものなのか』を十分に理解しているのかな?」

「何に端を発するって――――えっ」

 

 真尋の想像力は、ニャルラトホテプのその一言により、結論に到達した。

 

「まあ、その話はあとに回そう。ともあれそれが一度世に出回りかけたとき、私は直感したのだ。嗚呼、これ原本残したいけど残せないなぁ、と」

「アンタの都合でな。いわば、攻略本みたいなものだってことだろ」

「嗚呼、そんなところだ。パワーバランスが滅茶苦茶なところで人間が抗うからこそ、それはキラキラして、はかなく、せわしく、美しく、そして悲しくて、どんな結末を迎えても大爆笑できるのに。攻略本を見られたら面白みが半減以下じゃないか」

「なんで大爆笑する必要があるんだ」

 

 どう考えても人間の感性にないニャルラトホテプである。真尋のそんな反応を受けて、霧子(仮)の身体のまま楽しそうに笑った。いや、嗤ったが正解か。

 

「勘違いしてもらっては困るが、私は案外、人間という知性を高く評価しているんだよ。ショゴスの例にもれず、人間のような存在が安定して私たちに立ち向かうっていうのは、この宇宙全体でみると結構珍しい方でね。だからこそ記録として残しておきたいと思う私の心理が、わかるかなぁ、わからないかなぁ。……まあともかくだ。そして私は、その記録を残す方法を考えた。物質的な書物として残すことはできない。というか、あらかた私が手を加えてしまったからね。写本してる背後から油をかけて火をつけたり、ずたずたに切り裂いたり」

「つまり原本残ってないのはアンタのせいだろ」

「ああ、私のせいだ。そして丁度そのあたりで、かのアラブ人がいかにして死んだかを思い出したんだ。端的に言えば時空間を覗きすぎて、『猟犬』の目に留まってしまったわけだね。一度狙いすまされれば、よほど優れた魔術師でもなければ太刀打ちすることは難しいが故に、最後は影も形も三次元には残らなかった。血痕くらいは残ったかもしれないが。ともあれ、そう。彼はヨグ=ソトスを使用して時空間に穴を開け、私たちを観察していたのだ。だとすれば――――同様の方法をとり、完全版の内容にアクセスし、その知識を引き出せば良いとね」

 

 だがそこからが大変だったと、ニャルラトホテプはスケール感の違いすぎる苦労話を始める。

 

「肝心のヨグ=ソトスはなかなかこういうことに理解のある存在ではないからね。コミュニケーションも取り辛いし、そもそもアレの手前に立つご老公は私のことをいたく毛嫌いしてるから話さえ取り合ってもらえない。となるとあれが産み落とさせたものに手を加えるなり、アレが関係したアーティファクトを改良するなりという方法を考えるべきになったのだが、これも中々集まらない。さらに言うと、大概のアレが関係したものは、知識欲こそあれど自分の特異性を利用しようという腹積もりを持たない上に、初めから正気じゃないのが多かったからね。化身するにしても私とて中々それに合わせるのも大変だし、『取り込んでみはしたが』意外とアレに近い能力を持っている個体と遭遇しなかったというのもあって、割と八方手詰まりになってしまった」

「……なあ、オレ、すごく嫌な予感がするんだが。もしかして、アンタそれ理由に――――」

 

 真尋の続く言葉に、ニャルラトホテプは首肯した。

 

「ああ。だからこう考えた――――『そうだ、都合よくヨグ=ソトスの能力を継承した存在を作ろう!』とね。というわけで、生まれた存在が特異点(ポータル)だ」

「って結局それもアンタのせいかっ!」

「ああ、私のせいだ」

 

 平然と言ってのけるからに、やはりこれは霧子(仮)の元になる存在には違いあるまい。いや、むしろ自然体で言ってのけるあたり、こっちの方がより性質が悪いかもしれない。

 

「半分がアレの遺伝子であると、アレそのものが様々な領域に接続しているせいか、形質性質共に一定じゃなくなってしまった。だから後付けにして性質を安定させるように決めたのだが、これも意外とうまくいかない。いうなれば特異点とは、時間から干渉を受けないかわりにそれ自体が時空に空いた一種の『穴』だ。時間の奥底に封印された存在に干渉する触媒にもなりうるが、私の意図としては、その穴がどこに繋がるかが問題だ。しかしこれ、調整が難しくて難しくて……。人種に関係するってことに気づいたときは、日本にもキリスト教が伝播していた頃になっていた」

 

 そういえば織田信長が這い寄る混沌ではないか、とか提唱していた話がどっかにあったようななかったような。平然と戦国時代の日本についても知識を持っているあたりからして、いや、まさかそんなはずは。

 

「他にも色々遊びながらではあったが、まあおおむねアジア人に対応させることには決定したのだが、そこで目を付けたうちの一つが、八坂の家のご先祖だ」

「いや、まったくつながりが見えないんだが……。なんでだ、たまたまか?」

「いや、理由はいくつかあるよ。一つは真尋のご先祖のさらに先祖がかつて海賊をしていた折、異邦より来たりし月面の獣相手に、ノーデンス指揮の元、槍を手に立ち向かっていたというのがね。ちなみにその後発狂して、海を渡り隣国へ略奪行為をしたりもしてる」

「変な新説を作るな、新説をっ! 本気にしたらどうする本気にしたらっ! っていうか、え? 何、そんなところで縁があったのか」

「ああ。ノーデンスが君を助けに来たのは、そのあたりが理由ではないかと私は踏んでいる」

「……っていうか、月面の獣? ってアレだよな。ムーンビースト。結局それもアンタのせいじゃないか」

「ああ、私のせいだ」

 

 ムーンビースト。詳細は省くがニャルラトホテプの代表的な眷属のようなものである。

 そしてどうでもいいことだが、SANチェッカーがずっと回りっぱなしで止まることを知らない。いい加減その回転音で、耳がちょっと痛くなってきた真尋であるが、安易に外すのはためらわれる。

 

「とにかく、君の家系はその時の役割のせいか、ノーデンスの加護を受けていた。これが意外と特異点作成と相性が悪くなかった。うまく説明はできないのだが、ノーデンスの加護を基準とすることで、どれくらいの時間と時代とを接続先としてずらし調整するかということが、かなり簡単にできるようになった。あとちょっと、あとちょっと、ということで、そのままずーっと、君の家系の結婚相手を調整してきたんだ。いやー、ああいう色々化身して人間関係を円満に進めさせて祝儀までこぎつけるような経験、なかなか他の神性ではできないだろう貴重な経験だったねぇ。おかげで人間の好意について、色々学習できた」

「おい、ちょっと待て――――」

「そして、そう。ちょうど君の母親だね。彼女を見たときに、電流が走るようなひらめきを覚えた。彼女は自覚こそなかったが、いわゆる『探索者』と呼べる存在だった。それも私が多少関わった案件のね。そして、この散々に調整してきた八坂の家と、君の母親と。これが合わさったとき、まさに私が望む形で、意図したとおりの特異点を発生させられると」

 

 真尋の静止など聞かず、ニャルラトホテプは嘲笑うかのように平然としゃべり続ける。そしてその言葉が続いた時点で、真尋の顔面は土色だった。

 今言われたことが正しければ、戦国時代からこの眼前の相手は、自分という存在を生み出すためにいわば「品種改良」を繰り返し続けたということになる。真尋一人が生まれてくるまで、その運命の背後に介入して手を加えていたというレベルならまだ理解できる。いや、理解したくもないがそのくらいならギリギリ人間の手で把握できる年代だ。百年は超えまい。だが今言い放たれた情報は、とてもじゃないが理解を拒むどころか、むしろ一周回って笑いが零れるくらいだ。ただし、頬が引きつってしまうのは当然と言えば当然だった。

 いや、それどころか――――ニャルラトホテプは、そうやって手を加えた家系を真尋だけだとは言っていないのだ。それはつまり、彼同様に運命を翻弄された血が、いまだ無数に存在するかもしれないということである。

 

「特異点の作り方について、まだ話してなかったね。といっても大して難しいことではない。以前、アレの召喚を物理的に防いだ探索者がいた。その探索者はなんとね、驚くことに液体窒素とダイナマイトでアレを退散させたのだ! で、丁度その時の破片を私が回収しておいたのが残っていたから、それを『人体に溶かし込めば』、完成と相成る」

「――――――」

「準備は着々と進めた。完成度を高めるために、今回は母体にまず溶かし込んだ。異物であるそれを母体が撃退するよりも先に、それは君の中に溶けてくれた。そして病院で『君を取り上げその産声を聞いたとき』、私はこう、圧倒的な勝利の余韻に包まれたんだ。………………ん、どうしたんだ?」

 

 明かされる情報がことごとくひどすぎて、もはや真尋は頭を抱えて蹲っていた。

 

「どうしろっていうんだよ、これ」

 

 魔導書アル・アジフが世に生誕した理由(イコール)アル・アジフが写本しか現存しない理由(イコール)特異点なる特殊なヨグ=ソトスの落し子が存在する理由(イコール)八坂の家が現代まで続き、真尋が生まれた理由(イコール)ニャルラトホテプ。

 看板に偽りなく、大体ニャルラトホテプのせいである。

  

「……となると意味がさっぱりわからんが、やっぱりオレの直感とかの元になってるものは、アル・アジフの、戯曲部分ってことか?」

「戯曲に限らず、魔術的な部分についてもだ。そうだね、せっかくだからTRPG的な説明にしてみようか。いうなれば真尋は潜在的に、クトゥルフ神話知識の技能を最大値獲得している状態にある。ただ普段からその領域の知識に接続されている状態にはない。あくまでも真尋自体はただの人間だ。特異点であるというものは考慮に値しない」

「まあ、聞いてる限りだと時空間に対して特殊であるって点以外、変わった能力とかはなさそうだしな……。現に、オレも肉体的には単なる人間だし」

「それに、基本的には私がロックをかけてるから普通はまず気づかれまい。だからこそ家系に加護を与えたノーデンスだから気づいたともいえるのだけれどね」

「っていうか、そもそも自分が加護を与えた一族にアンタがつきまとっていたら、それこそ気づきそうなものだが」

「そこは私が巧妙だというだけだね。自慢じゃないが、私が本気で化身した場合は『上司』以外見破れないだろうさ。ましてや私と違って人間スケールに合わせて物を考えることが苦手なノーデンスにはね」

 

 圧倒的な説得力である。

 慣れてきたわけではないが、蹲りながら苦笑いを浮かべる真尋。しかしそんな平和な状態は長くは続かない。

 

「まあそうだね。後は―――――私が君を取り込めば、それですべて完了だ。目論見通り、わたしはいつでも、かの記録を読むことが出来るようになる」

 

 その一言は、非常識な経験に翻弄され続けたとはいえ、十五歳ぽっちの少年の精神を揺さぶるに十分な威力を持っていた。

 

 

 

 

 




やっぱりラスボス。
そして次回エピローグ。果たして珠緒ちゃんに出番はあるのか・・・?



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アイ つクる

〆とエピローグ
さて、幾人がこのオチを予見できたものか・・・


 

 

 

 

 

 真尋は悟った。たとえどれだけ自分が眼前の相手のことを想っていたところで、結局のところそれは夢幻。彼女が名乗ったとき同様、その事実はすでに霧に消えている。蹲っていた体勢から視線を変えれば、そこに霧子(仮)の姿はなかった。かわりというにはあまりに異様な、身長の高い男の姿が一つ。スーツはくたびれているが元が上質なものであるのが一目でわかり、それに身を包む男は長身痩躯。いや、あまりに長身すぎるともいえる。ゆうに2メートルは超えようというその身の丈に反してシルエットは華奢。頭部にシルクハットをかぶっており、顔面、手先は包帯で覆われている。そこからわずかに覗く肌は白く、いや、肌なのだろうか。皮膜のような何かに覆われた人体のごとき何かと形容するのが正しいと、真尋の想像力は正解を導き出していた。

 

「どこへ行くんだい?」

 

 声は変わらず涼やかな男性のものだが、すでに真尋はその姿を視界に捉えていない。立ち上がりすぐさま全力で駆け出したのだ。先ほどの会話を振り返り、真尋の想像力は、否、彼に接続されているだろう魔術戯曲は、彼にある種の真実を伝えていた。そもそも真尋がある程度育ち切らなければアル・アジフへの接続がままならなかった。だから彼が育つのを待った。そして真尋がある程度の神話的知識を獲得することで、その想像力がアル・アジフへ接続するための鍵になるのだと。結果的にその目論見はうまくいき――――ニャルラトホテプが危惧した真尋が殺されかねない事象さえも巧みに使い、真尋をついにかの神性が望む状態に仕立て上げたのだと。もはやここに至り、神性にためらう必要は微塵もない。ゆえに真尋は逃げた。いや、逃げてしまった。彼自身気が付いたら、体が勝手にニャルラトホテプから逃走を図っていた。

 だが、数秒とかからず眼前にかの長身が回り込む。瞬間的に視界がぶれ、目の前に現れた姿は先ほどの姿と異なっている。どうやら変貌途中だったのかもしれないが、眼前のそれは完全に、いわゆるスレンダーマンとかいうあたりのそれだ。のっぺらぼう、髪もない人体の表面に白い皮膜のごとき何かで覆ったかのごとき異様、2メートルどころか3メートルにも届きかねないほどの威圧感を感じさせる長身、仕立ての良い黒いスーツ、そして服のほつれなど、シルエットが時々「複数の触手が重なり合ったような動き」をしてぶれる。その姿をとらえた時点で、SANチェッカーが熱を帯びた。熱いと叫び外そうとするが、しかしその腕をニャルラトホテプに捕まれる。ざらざらと乾いた冷たい感触は、まるで死体のそれだ。

 真尋は直感する。眼前の相手の顔を正面から見てしまったことでか、すでにSANチェッカーは限界を振り切りかけているらしい。ご多分に漏れず、創作都市伝説たるスレンディの性質である「見たら死ぬ」ないし狂うというそれを受け継いでいるらしい。いや、それはともかくSANチェッカーである。そもそも霧子(仮)からのネタ晴らしにおいてさえ数値の判定が発生していなかったので、この状況はかなり危険なのではないかと真尋は焦っていた。何かとてつもなく嫌な結末が起きそうで、そんな直感を抱きながら、自分の腕を持ち上げたニャルラトホテプをにらみつける。勢いで投げ出され、足元に散乱したコンビニで購入したスパゲッティやら何やら。買いはしたが食べる気にならなかったそれらが、ニャルラトホテプの影に触れた瞬間、その姿を消した。……食べられでもしたのだろうか。

 

「真尋。そんなに怖い顔をする必要はないぞ。何も君という存在が消えるわけではない。ちょっとだけ『自分の定義が広がる』というだけだ。人間なら誰しも一度は最期に通る道だ」

「全く意味が解んねぇんだよ、アンタ! っていうか最期って言ってる時点で死んでるだろ!」

 

 長身の腕を振り払い、真尋はとっさに、転がっていたプラスチックのナイフとフォークを手に取る。武装としては貧弱どころの騒ぎではないが、もはや真尋がつかえる武器はその程度しかない。おまけに左腕はSANチェッカーによって焼かれている。状況は最悪どころの騒ぎではないだろう。

 

「真尋――――これは運命だ。君が生まれるはるか昔から、そう、前世よりもずっとはるか先から定まっていた運命だ。受け入れろ。そして、『私となるんだ』」

 

 スレンダーマンらしくというべきかニャルラトホテプらしくというべきか、その背後から全身にかけて、黒くうごめく触手がわらわらと現れる。そして体の中心部。胸の中央には大きな穴と、霧子(仮)がつけていた「自ら輝く疑似球多面体(シャイニングトラペゾヘドロン)」だろう物体が存在した。穴は徐々に広がり、その入り口には牙のようなものと、向こうにはさらに膨大な数の、何かしらの虫の幼虫のようなシルエットがひしめきあっている。生理的な嫌悪から、真尋の口に吐しゃ物が上がってきた。だがそれを吐き出さず飲み込む真尋。軽く頭痛を覚えるが、それさえ無視してプラスチック食器を覆うビニールをはがす。そのまま両手を下段に構える、いうなれば宮本武蔵でいうところの「無構」のような体勢に。そのまま中腰にナイフとフォークを構え、真尋は全力で走った。絶叫。気合いで恐怖心を押し殺し、眼前の相手に特攻する。

 真尋はなぜか確信していた。いや、おそらくこれも魔導戯曲よりの知識なのだろう。あの穴の中心にある多面体。発光するそれを破壊することができれば、真尋はこの這い寄る混沌を退けられると。球体自体はただの結晶体ゆえ、ある程度の衝撃で破壊することが出来る。だが逆に失敗すれば、それは自らの腕を相手の「口にさらしているに等しい」。すぐさまあの向こうにある名状しがたき口にするのも憚られる体内に取り込まれるだろうことは目に見えていた。勝負は一度きり――――真尋は自分の想像力に、あるいはアル・アジフにかけていた。直前であれ、この状況を打破しうるその直感に!

 

「俺は、運命なんて信じない。だから――――アンタの願望に付き合わされるのも、これっきりだ!」

「真尋がどう思おうが、すべては、かく、あるべしだ。私がなんでわざわざ『身体を開けた』と思う?」

 

 次の瞬間、ニャルラトホテプの胸部は閉じ、最初のスーツ姿のそれに戻った。

 声が出る。困惑と衝撃と、はめられたという絶望感が真尋の脳裏によぎる。だがそれでも、すでに走り出した真尋は止まらない。それはつまり、ナイフとフォークがニャルラトホテプに激突した瞬間が真尋の負けということで――――――。

 

「――――――――っ」

 

 運命は、決した。

 

 

 

 

 

『――――嗚呼、お前の負けだ。ニャルラトホテプ』

 

 

 

 

 

「「!?」」

 

 プラスチックのナイフは、ニャルラトホテプの胴体にぶつかった瞬間に「熔けていた」。だが、フォークだけは、その胸部を貫き、結晶に突き刺さっていた。まるで意味がわからないとばかりの真尋と、表情こそわからないまでも真尋と似たような心境なのか慌てた様子のニャルラトホテプ。真尋を突き飛ばすと、すす煙か黒い霧かを散らしながら、胸を押さえて周囲を見渡している。

 

「ノーデンスの声……? そうか。それは、失念していた。なるほど、最後に出し抜かれたのは私だったということか」

「……は?」

 

 見れば。真尋の持っていたフォークは、プラスチック製だったはずのそれは、鈍く銀色に輝く金属のような色を帯びていた。だが珍しいことに、この事象に「全く理解が及ばない」真尋である。と、そんな場に聞き覚えのある声が――――ノーデンスが化身していたあの老人の声が聞こえる。

 

『お前らの一族、戦士に与えた俺の加護だ。お前らが持った『又の分かれた穂先の槍』は、総てまごうことなく『邪神を穿つ』破魔の属性を帯びる』

 

 どろどろと煙を立てながら、体が崩れ落ちていくニャルラトホテプ。ノーデンスの声もそれきり聞こえなくなり、やがて朝日が昇り始める。ニャルラトホテプだったものは、その日の光に焼かれじわじわと、その姿かたちを消した。

 

「は、は……」

 

 息も絶え絶え。SANチェッカーの回転が落ち着いてきているが、いまだに数値をはじき出してはいない。しかし、彼も意図せぬところで、少なからず命の危機は去った。これが一時的なものであるにしろ、真尋にとってはとりあえずの安心材料に――――。

 

 

 

 

 

「――――という訳で、真尋さんは意外と戦闘力があるってことですね。わかりましたか?」

「う、うわあああああああああああああああああああああああああああああっ!?」

 

 

 

 

 

 突如真尋を背後から抱きしめた声の主のそれを聞き、邪神の化身たる夢野霧子(仮)の声を聞き。倒したはずのその存在を前に、真尋の腕に巻かれたSANチェッカーは完全に壊れた。

 

「大丈夫ですって。別にとって食べはしませんから。ほら、深呼吸してください?」

 

 混乱の極みに陥ったせいか、にこにこと、まるで先ほどまでの光景が何事もなかったかのようにほほ笑む霧子(仮)に介抱される真尋。諸悪の根源がこんな美しい、ともすれば他者を安心させるような微笑みを浮かべるのだからとんだマッチポンプである。いや、そもそも今日日、真尋が遭遇した神話的事象そのすべてがニャルラトホテプによる自作自演なのだから一切合切笑えない話であるが。しかし、それでも真尋は霧子(仮)のことをなぜか嫌えないでいる。そのせいか、呼吸を整えられ、汗を拭かれ、そして茫然としたままの真尋は軽く唇を奪われた。

 

「ッ、って、な、な、何してんだアンタ!?」

「んー? ほら、ご褒美的な。『がんばっていきのこりましたで賞』って感じですかねぇ」

「なんのご褒美だ、どれだけオレは趣味が悪いと思われてるんだッ」

 

 楽し気にくつくつ笑う彼女は、介抱のついでにやっていたのか、その手に先ほどのプラスチックのフォークを握っていた。それをあらぬ方向に投げると、真尋の手を引いて立ち上がった。反射的に腕を振り払う真尋と「もう、つれないですねぇ」と少し残念そうな霧子(仮)。

 

「さっきまで人のことどうにかしようとかしていた相手が、何やってんだ。っていうか、アンタさっき倒されたばっかりだろ」

「いえ、ですから先ほど言ったじゃないですか。私、化身するのは本当に簡単なので、こう、ぽこじゃか出てくるの得意なんですよ」

 

 胸を張るとその豊かな胸部が強調されるが、それはともかく、嗚呼と真尋は嫌でも納得させられた。実際彼は、眼前で彼女が焼かれたほぼ次の瞬間、自分の隣に新たな霧子(仮)が発生していたのをこの身で体験しているのだ。もうどうにかしてくれと言わんばかりに、真尋は腰が抜けた。

 だが、霧子(仮)はとくに何もする様子はない。

 

「……?」

「あ、心配しなくてもいいですよ? 最初から真尋さん、取り込むつもりはありませんでしたから」

「…………は? いや、なんでだ、訳わからないんだが」

 

 いまだ思い出すだけで震えそうになる状況と、ちらちらと不定期に襲う頭痛に顔をしかめながら、真尋は問いただす。と、霧子はあっさりと。

 

「真尋さんが持っている武器の性能について、一応把握しておいてもらおうかなぁと」

「……ひょっとして、それ目的であんなことしたのか?」

「ええ。日本に帰る途中も言いましたけど、私、こんな形で真尋さんを巻き込むのは本意でなかったことは事実なので」

「こうなることを予見していたのに?」

「予見していたからといって、真尋さん個人に対してどう思ってるかは別でしょ?」

 

 いまいち要領を得ない真尋に、霧子(仮)は楽し気に、そして少し寂し気に微笑んだ。そしてそのまま、真尋の後ろに回り、その肩をつかみながら、ささやく。

 

「私という人格は、真尋さんに対して不快感をあまり抱かれないようデザインされてます。もちろんこの姿かたちも同様に。だから、ニャルラトホテプが演じている人格であるのだとしても、夢野霧子である以上は、真尋さん程とは言いませんが、そういう普通の常識とか認識とか、あるいは感情とかもあるにはあるんですよ」

「何が言いたいのか結論を言え」

「そうですね。言い換えれば――――――私、真尋さんのことが好きなんですよ。それこそ私が発生した二十数年前から、あなたをお守りするためだけに生まれたこの化身にとって、あなたは何より大事な存在であるべきでしたから。だから、私がニャルラトホテプの中に生まれた時点で、ニャルラトホテプは真尋さんを取り込むことをやめました」

「…………」

 

 状況が状況である。そして語られた事情も事情であるし、正体も正体である。素直に喜ぶこともできずに、真尋は困惑を顔に表した。霧子もそれは当然わかっているのか、やはり表情は寂し気なままなのことがわかる声音で。続けた。

 

「だから、これでいいんです。ニャルラトホテプは探索者に退けられた。今私が出てきているのは、気の迷いです。SANチェッカーが壊れた、真尋さんが発狂して見ている、単なる夢幻です。だから、私が言うことなんて本気にしないでくださいよ?

 ――私、私が生まれた理由が、真尋さんでよかったって、本当に良かったって思います」

「――――」

「これにて私の物語は終わり。貴方は貴方の物語が、これからも続いていくのです。きっと学校に通って、おモテになるかどうかは知りませんが、きっとそこで知り合った女の子と添い遂げることになるんじゃないですかね。そして、きっとこれからも色々巻き込まれることにはなるんでしょうが、今日あったことを忘れず、武器を持って、一人の尊厳ある人間として、あらん限りに常識とその豊かな想像力を武器に戦っていってください」

「……発狂してる割には、言ってることが妙に生々しい気がするぞ。アンタ」

 

 ただ、それでも。最後に真尋は力の抜けた笑みを浮かべた。浮かべることが出来た。

 

「では、さようなら。お元気で」

「……アンタもほどほどにしておけよ」

 

 真尋の言葉が言い終わらないうちに、彼の肩に乗っていた体重は重みと感触を消した。慌てて振り向いた真尋だが、そこには彼女の影も形もない。登りはじめた太陽が彼の視界を照らし始めている。ちゅんちゅんと鳥の鳴き声が聞こえ、どこからともなくジャージ姿の中年男性が走り込みをしているのが見えた。

 帰ってきた、といえるのかもしれない。この光景は彼が見たことのないものでも、彼が住んでいる世界でありふれた一幕のそれに過ぎない。その一幕がどれほどに重要なのか。重大なのか。大切なのか。

 

「…………」

 

 左腕に残った火傷を一瞥し。真尋は無理やり立ち上がる。

 

「今日は月曜日か。……いや。弱音は吐くものじゃないな」

 

 拳を強く握り。わずかに一瞬うつむいたものの、それでも顔を上げて、前を向いて。狂気の世界に背を向け、日の当たる日常の風景へと足を踏み出したのだった。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

「おはよう、八坂君。……何か疲れてそうだね」

「おはよう。あー、睡眠不足だ」

「珍しいね。昼休みはよく昼寝してるけど、朝からその調子だっていうのは」

 

 高校の教室。朝のホームルーム前の時間にて、読書が終わった後のがやがやとした空気の中である。真尋は級友の余市健彦に、疲れたように返答した。いや、実際に疲れてはいるのだが、詳細を語れない以上は苦笑いくらいしか浮かべることができない。クラス委員たる彼に心配をかけないようにというのもあるが、もっともそんな状況下であっても、きっちり宿題の英文翻訳をこなすあたりは、真尋もなかなかどうして無茶をしがちではあった。

 やがて眼鏡の教師、クラス担任が入ってくると、あわただしく生徒たちが蜘蛛の子を散らすように座席へと帰っていく。女子生徒たちは相変わらずそれでも小声で話を続けたり、あるいは携帯端末をいじったりしている。男子は男子で堂々と話したりゲームをしたりして、教師から正面だった注意を受けたりしている。

 普段通りの風景といえば風景だ。帰ってきたと言えば大げさであるかもしれないが、実質それが二日を超過する程度の時間でしかなかったのだとしても、真尋にとってその冒険は、狂気の山脈は何物にも代えることはできないほど、濃密で、衝撃的な出来事だった。眠気を覚える頭という普段とは違う状況もあり、真尋はホームルームくらいは寝てしまおうかと腕を組み、背もたれに体重をかける。と。

 

「えー、前々から言っていたことだが、今日からみんなに新しい仲間が増えることになる。みんな、仲良くしてやってくれ」

 

 そういえばそんな話もあったな、と真尋は一週間前の話を思い出す。なんでも姉の仕事の都合か何かでこちらに来るらしい。女の子である、というくらいの情報しか真尋は知らない。教室に入ってきた彼女の姿も、目を半分以上閉じているから見えるわけもない。かわいい、だの、モデルさんみたい、だの、そんな声が聞こえるような気がするが、あいにく今はそんな気分ではないのだ。

 だからこそ、そのまま意識を手放そうとしていたのだが。黒板の前に現れた少女が、名前を書き終え、声を発した瞬間にその考えはもろくも打ち砕かれた。

 

 

 

 

 

「――――姓は二谷(にたに)、名は龍子(りゅうこ)。お気軽に、ニャル子とでもお呼びください」

 

 

 

 

 立ち上がりこそしなかったが、それでも椅子から転びかける真尋であった。果たして衝撃に目をひん向いた彼の視界に居た少女は、ひどく見覚えがある容姿をしていた。いっそ日本人離れしたようなきれいな顔も、長い髪も、その声も。しいて言えば、それは真尋が知る彼女の姿から十年くらい時間を差っ引いたような、それくらいのスケールダウンが行われている。容姿には幼さが残り、声もまだ多少わんぱくな色がある。なによりスタイルが、高校生基準でみればかなりグラマラスではあるが、彼の知るほどに大きくはない。

 そして、真尋の脳内で結論が出た。すぐさま走り出した想像力が導き出したそれは、以前聞いたようなセリフである。

 

「これからよろしくお願いしますね? ――――――末永く♪」

 

 ――――いえね? この、最後の最後でヒロインの正体が判明して、それで主人公のとなりにいられないってなってるのに、最後の最後でクラスに転校してきて『これからも一緒ですね♪』ってエンディングが、なかなか悪夢的だなぁと。

 

 ――――トラブルから主人公が一生逃げられないっていう死刑宣告でもされてるみたいで、なかなか楽しいじゃないですか♪

 

 

「そんな伏線、覚えてる訳ねぇだろ……」

 

 この世の終わりのような声を出して頭をかかえた真尋であったが。しかし、その表情は意外と嬉しそうなものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

  【真・這いよれ!ニャル子さん 嘲章】

  【プロジェクト・オブ・ネクロノミコン】

  【END】

 

 

 




以上で完結となります。正確には次回予告? 的なのを更新したら、正式にいったん終了です。

続きがあるかについては、ここまでの評判、感想の状況と、あとは冒涜的天啓が再び降ってきたらになるかと思います; とはいえネタがないわけではないのですが、さて・・・

それではまた深淵に\ドロップ/\ドロップ/

 
 


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 次章予告

 

(ノイズ交じりの視界)

 

(電気的な砂嵐が晴れると、無数の壊れた機械が散らばっている場所)

(歯車や巨大な針が地面に刺さっている)

(かさかさとそのうちのどこかしらがうごめき、くすくすという声が聞こえる)

 

(ぽつり、とその中でランプが灯るマシンが一つ)

(ノイズまじりの音を鳴らすそれは、一つのカセットテープレコーダー)

 

(外装はほぼはげ、基盤も一部露出している)

(上から降ってきただろう大型の時計が刺さっており、半壊している)

 

(カラカラとから回る音が鳴っている)

(内部にはテープが入っていないらしい)

 

(一瞬、暗転し視界が回復する)

(二三度、空回りする音を鳴らしたあと、レコーダーはがたがたと震えて静かになる)

(内部に真っ黒なテープが、いつの間にか挿入されている)

(テープが巻かれる音がなり、時計の針が、かちり、と進む)

 

(レコーダーの再生音)

 

 

 

 

ニャルラトホテプ(CVイメージ:井上和彦)

「あー、あー、テステス。本日は晴天なり本日は晴天なり、ただし所により血の雨が降るでしょう――――それはきっと、貴方の血です。信じるか信じないかは、貴――」

 

(再び一瞬ノイズが走り音声の具合が変わる)

 

ニャル子(CVイメージ:浅野真澄)

「ニャル子とクー子の、予言のごとき未来リポートのようなものッ!」

 

クー子(CVイメージ:堀江由衣)

『どんどんぱふぱふ、ぬめぬめぬるぽ』

 

ニャル子 

「ガッ!

 さてさて一体どうなっちゃうんでしょう、真尋さんを囲うニャルラトホテプの魔の手。

 あなたはもう、この深淵の底なしの底から目を逸らせない逃げられない!

 さて、そちらの状況はどうでしょうか! 現場のクー子レポーター!」

 

クー子

 

 朝日は昇り

 踏み出した場所はもはや過去も知れず

 

 あたたかな日差しは狂気の鎖を解き放ち

 混沌は空のむこう 遥か彼方の海を見上げる

 

 己が居場所さえ知らぬ探索者がたどり着くのは 果てのない悪意と空虚な神殿

 

 そして――――偽りの火は踊る。

 

 

ニャル子 

「さて、一難去ってまた一難。生生流転、森羅万象。英語で言えばユニバァァァスッ!

 次回の見どころは、真尋さんの冴えわたる名推理と、ニャル子の突撃!隣の人生ゲームです。

 借金地獄でウンメイノー! 一家離散でウンメイノー!」

 

クー子

『次回、真・這いよれ!ニャル子さん嘲章。「ドゥエラー・イン・アフェクション」』

 

ニャル子

「次回もまた深淵に?」

 

ニャル子&クー子

「『ドロップドロップ♪」』

 

ニャル子

「えっ、何々? 続きはない? 序章は序章で切られるウンメイノー?」

 

クー子

「ニャル子、陳情案件」 

 

ニャル子

「クー子ぉぉ! まだだ! まだ終わってな――――」

 

 

 

 

 

(ぶつり、と音声記録はここで途切れている)

 

 



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02.虚飾に棲むもの
未知なるカナンに真実は求めない


まことご好評いただきまして、ありがとうございました。需要ほぼ0近いだろうと思い始めさせていただきまして、このたび。

というわけでお待たせいたしました。
前よりはゆっくり目だと思いますですが、第二章「虚飾に棲むもの」スタートです。

そしていきなりの、ゆっくり(グロ)注意警報


 

 

 

 

 

 八坂真尋は迷子になっていた。いや、当然ながらそれは彼が今いる場所が既知の場所ではないからに他ならない。見知らぬ森をほぼ直感で抜けた際、巨大な落とし穴のようなスライダー状の何かに落とされ、気が付けば石造りの遺跡が跋扈するこの領域に落とされた訳である。

 時折ささやき声というか、何か生き物がうごめいているような音が聞こえる――――。真尋はひどく慎重に足運びをしていた。これは彼自身がすでに体感しているいくつもの不条理な経験に基づく判断力からくる行動である。抜き足、差し足、忍び足。真尋自身、思えばこういった行動もだいぶ慣れてきたと思い始めていたが、しかして考えてみればそういうあれこれは一週間、二週間も経過していなかったのだという事実が口を開けている。もはや考えるだけ無駄という世界の話ではあるが、世は中々不条理に満ち溢れていた。あるいは狂気が跳梁跋扈しているといえるかもしれないが、あいにくとそれを考える余裕は彼にはない。左腕に巻かれた腕時計状の道具、十面ダイスが二つ取り付けられたような装置の動作に気を配りながら、真尋は壁伝いに足を運んでいた。

 

「いやいや夢だよな、これ」

 

 俗に夢の中において、それが夢であると当事者が自覚的である夢のことを明晰夢と呼び、当事者の想像力によりある程度の統制が可能であるとか言われているが、しかし残念なことに真尋の眼前に広がる遺跡からは、とてもそんな生易しい気配を感じ取ることが出来ない。というか、そもそも真尋の身体もどうかしている。声も違うし、視界はほんのり緑色のフィルターがかかっており、皮膚はざらついた感触。こころなしか爪先は玉虫色の輝きを帯びている。現実には決してありえまいこの状態であるが、しかして八坂真尋という存在の実態、真実について考えた際はあながち的外れでもないかもしれない状況でもあり、それが彼の中に嫌な感触を覚えさせる。

 

「これ地下鉄か? ……妙に人類文明を想起させるんだが、ここ」

 

 最初の落とし穴こそ土だの石だのといった作りではあったが、しかし抜ければ抜けるほど、地下に行けば行くほど、どんどんとその場所は鉄やらコンクリートやらで出来た、れっきとした文明を感じる造形へと変貌していく。そんな中を、真尋は「得体のしれない何か」と遭遇しないよう注意しながら足早に、かつ音を立てないよう動いていた。と、生物らしき足音がこちらに向かってくる音が聞こえる。とっさに入った曲がり角は行き止まりで、下の方に横穴があいている。人間一人程度が入ることができそうではあるが、それがどれくらいの長さを誇っているかまではわからない。

 とっさにしゃがみ込んだ真尋。横穴は開けた場所には続いていないが、すぐに壁伝いの棒梯子が下に続いている。横を見れば、どこか人間らしからぬ獣のような尾をもった影が見え、真尋にとって判断する時間はなかった。すぐさま穴に入り、足を踏み外さないよう慎重に梯子を下る。

 梯子は異様に長く、下方に明かりが転々としているがとても底が見える範囲にない。だが、下に降りれば下りるほど逃げ場はそこにないのだが、しかしなぜか真尋は下方に向かうべきであるという直感があった。そこに何か、自分の探しているものが存在するという確信があった。しかし「何を探しているのか不明慮である」というのが明確に彼の脳裏に刻まれてはいたのだが、そこに疑問をもてど、そもそもここそのものが当てのない場所である。事実上とれる選択肢がない以上、真尋にできることはもはやそこを下るばかり。

  

 ふと思い出したように、真尋は口にくわえていた松明を見る。何故、ペンライトをもっていたはずなのにこんなものを持っているのか、そもそもこんなもの咥えられるほどに自分は顎の力があったかとか、色々疑問を思い浮かべながら真尋は梯子を伝っていく。途中に休憩するところもなく、ただひたすらにそれしかできることもすることもない。かつかつと、彼の足音だけが場に響く。他の音もなく、閉鎖された環境。周囲を見渡せば、どうやらここは何か巨大な壁の一角であるということだけは解る。しいて言えば、何かとてつもなく天井の高い通路の一角というのが正解か。松明を除けばぼんやりと紫色の光がどこからか灯っているのみで、これはこれで段々と思考が鈍化していく。ひたすらに下りることに注意を払わなければ、腕や足の筋肉が悲鳴を上げるのみだからだ。

 と、そんなタイミングで視界の端に赤い光が見える。どうやらこのあまりに巨大な通路の奥側から、何かがこちらに向かって動いているような。ごうごうと風の音とも、それとも「巨大な生物の呼吸音」ともつかないそれが聞こえ、真尋は思わず止まり、その方向を見た。目を大きく見開き、わずかに体が震え、左腕の装置がからからと回転する。

 

「あっ」

 

 一瞬注意が散漫になったからか、口から光源を取り落としてしまった真尋。だがさほどかからず、下方で光が散り、木目から割れるような音が鳴る。どうやらここのゴールは近いらしい。だが、真尋は本能的な恐怖からか腕が震えるのを抑えることができなかった。気が狂う、ということだけは決してない確信があるも、何か、人間がふれてはいけない、人間が見てはいけないものがこの奥で蠢いている――――。その確信が全身にいきわたった瞬間、ここまでの蓄積していた疲労がいっきに吹き出し、腕も足も力が入らずそのまま落下した。

 肩から激突した真尋は、痛みよりも全身の震えの方の感覚が大きかった。骨が折れている様子もない。大きな打撲をしたわけでもない。だが、とてもではないが動くことが出来ない。いや、震える以外の動きがとれない。

 

「な、なんだよこれ、なんだよここ――――いや違う、オレはこれが何か知っている。知っていなきゃおかしい。いや、絶対おかしいだろ知ってたら。でも知っているはずだ。知っている。なんでここは――――こんなに――――」

 

 次第に真尋の視界に、彼の記憶にない光景が映し出される。それだけの高さを誇る建物の天井に合わせたような「巨大なサイズの人類が」、中世風の服をまといこの場を行き来している映像がフラッシュバックする。見渡せば紫の明かりはより爛々と輝いており、その場所でさらに人間が歩く先は、そしてその人間たちが何を目的にしているのかは――――。左腕の装置の回転が止まる。21、という数値が真尋の脳裏に描かれると同時に、そのフラッシュバックは一度止むが、止んだところで彼の絶叫はとめられるはずもない。

 気が付けば真尋は、まったく別な場所にいた。いや、これも記憶が混濁しているせいなのだろうか、いやに現実感を否定したかった夢と違い、さらに現実感が薄い。周囲一帯は暗い空に白い渦が巻いている。その割に自分の視界は異様にはっきりしており、ぐるぐると渦を巻いている雲の形も、やけに懐かしく感じる。そんな場所で真尋は膝枕をされていた。感触はやわらかく、だが決してそれはふくよかな感触ではない。必要な大きさ太さであり、かつ必要な弾力を併せ持っている。

 ふと見上げれば、彼女は真尋の頬をやさしく撫でて微笑んでいた。肩の大きく開いた、赤いドレス姿。大きな胸部を強調する形にはなっているがいやらしさというよりも妖艶さを感じさせる。流れるような肩甲骨からのライン、白い肌に整った顔。頭には黒いベールをかぶった黒髪の女性。ワンポイントでレースがついており、そして真尋を見る目は慈愛のようなものが含まれている。目の色は赤く、額にはチャクラが一つ。長い黒髪は後ろにまとめられており、絶世の美女といって差し支えない。だが真尋は知っている。この姿が一体何に由来したものであるかを知っている。これは自分以外の人間がみれば、大半は世を惑わせかねないような、そんな醜悪な悪意が裏にある姿であると。

 

「選択肢は、貴方に与えられているのですわ。貴方が留まるか、それとも流れ落ちるかは」

「アンタは――――」

「ただ、お気をつけなさってください、旦那様。留まるということは、常に走り続けるということ。たとえどれほど、わたくしが手を貸したところで、最後の最後で選び取るのは貴方なのです。それでも願わくば、わたくしは旦那様を愛していたいのですが」

 

 だが何故だろう、真尋はこの女性を知っている気がする。

 気が付けば場所は変わる。もともと自分が落ちただろう、上の見えない境界の壁。膝枕をしている彼女は薄く微笑むばかり。視界を下にそらせば、黒い、人間のようなシルエットの腕や足が転がっている。全体的なことで言えば暗所ゆえに見えないというのが、功を奏しているのかいないのか。

 

「あ――――」

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

「――――っ」

 

 脂汗が唇を伝うような、妙な感覚を覚えて八坂真尋は目を開けた。

 学校の屋上。はて、何故こんなところにいるのだろうかと真尋は違和感を感じる。いつものように教室で、彼の親戚である彼女(親戚を自称する彼女が正確)と他愛もない話をしていたはずなのだが、一体全体何が起きたというのか。腕時計をちらりと見れば、もう間もなく午後一時に差し掛かるか差し掛からないか。

 風は春を少し過ぎているころ合いにもかかわらず寒さを感じさせる気候で、彼の居住区が本州北方に位置していることを如実に意識させるにもかかわらず、真尋の全身は濡れていた。寝汗というにはじっとりとしたもので、何か言い知れぬ違和感を覚える。

 なんだと思いながら現状を思い起こそうとするも、おぼろげな夢の記憶を放棄することができない。真尋の直感が、その夢が何か、これからの彼に必要な事柄を示していると如実に語っている。ただ残念なことに、うすら寝ぼけているせいもあってか、その記憶には異様に美しい、赤い女性のことしか残らなかった。

 

「って、今何時だっけ? ……あ、いや、やばいやばい。昼休み終わるじゃないか」

 

 ぼうっとした頭を振って二度時計を確認し、真尋は慌てて立ち上がる。そのまま屋上出入口に走れば、扉の鍵は当然のように空いていた。あとで教師に教えないといけないか、と案外と真面目なことを考えながらも走る。途中、少し踏み外しそうになりながらも、真尋は器用にバランスをとって速度を落とさなかった。

 

「なんで屋上で寝てたんだ……? いや、教室で寝てたっていうんならまだわからなくもないけど」

 

 まあしいて、そんな意味のなさそうなことを自分に仕出かすとすれば彼女(ヽヽ)くらいなものだろうと苦笑いを浮かべる真尋だが、ふと、やはり夢の違和感を思い出す。異様に美しい、赤いドレスを着た女性。

 

「……そこはかとなく『アレ』の亜種にそんなのがいたような、いなかったような気がしないでもないが……。って、いや、まああえてそういうのを、お約束みたいに網羅するようなヤツでもないか?」

 

 他者が聞けば訳の分からない、しかし真尋にしては如実に真実を示すだろうひとりごとをつぶやきながら、途中ぶつかりそうになる生徒たちをかわす。

 

「しかし、最近あの女の顔、よく夢に見るような気がする。……例の、あの後くらいからか」

 

 数週間前、真尋はこの世のものとも思えない凄惨な、この世と自身の真実に直面し、命からがら生還した。もっともそれが彼の現在の生活に何か影響を与えているかと言えば、まあ大きくはない。いつものように学校に通い、普段通り帰宅し、ときどき寄り道したりするくらいだ。変わったことといえば転校生が来たことくらいだが、意外と彼は、初恋の喪失感を感じずに暮らしている。

 

「いや、まあ喪失というかそれ以前の問題ではあるんだろうが……」

 

 そして教室の扉を開けた瞬間。

 

 

 

 ――――――真尋の全身に、真っ赤な液体が降りかかった。

 

 

 

 

「……は?」

 

 眼前。真尋の理性は理解を拒もうとしたが、しかし手遅れだった。

 真尋に降りかかった液体、間違いなく正体は血だ。人間一人の首を掻っ切ったものが、直接噴射され、まったく勢いを殺さず彼に襲い掛かったのだ。真尋の正気度はその襲撃、光景の鮮烈な赤さと充満する鉄の匂いと、人肌の生暖かさに近い温度に一気にやられた。

 茫然と立ち尽くす真尋の眼前で、「彼」はフォークを使い、何度も何度も振り下ろす。掻っ切られた首からその威力に負け、ごろりと落ちた。

 

「まひ――――」

「――――――――!、ッ、ッッ、」

 

 声が出ない。転がった、赤く染まった、驚愕に見開かれたその目が真尋と合った。わずかに口が動き、彼の名前でも呼ぼうとしたような音が零れたのが、彼を追い詰める。

 見知った顔だった。数週間前から、彼を襲った事件に立ち会い、その後もなんやかんや転校してきた彼女である。もっとも彼女は、真尋を守護していたかの人物の「妹」に当たるらしいのだが、案外とそこに大した違いはない。日本人離れした綺麗な顔立ち。もっとも今やそれだけが転がり、まるで裏切られたかのような悲壮ささえ覚える状態だった。

 

 震える真尋。動けない真尋。しかし視線だけは、未だ胴体を支える、フォークを握る誰かを見た。

 よく見る顔だった。毎朝見る顔だった。それは朝起きて、顔を洗いに鏡の前に立つときに見る顔だった。水面を見れば見る顔だった。自身の生徒章に映る写真の顔だった。その顔が、顔を持つ誰かが。

 

「――――つまり、これは俺のせいなんだ」

 

 眼前の誰かは――――真尋にしか見えない誰かは、自嘲げに、にやりと笑った。

 

 

 

 

 




CVイメージ
 夢の中の真尋:石田彰
 赤の女王:川澄綾子



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神話的殺人容疑

おさらい? と、その後の真尋さんたちが一体全体どうしていたかという
まあ相手が相手だから何をやっても藪スネークだったという事情もありますが;

※第2章は前話からとなっておりますので、まだご覧になられていない方はどうぞそちらより


 

 

 

 

 

 真尋にしか見えない誰かは、手に持っていた血まみれのフォークと胴体を手から離し、真尋に向かって走り出した。そのまま彼を突き飛ばし、廊下の先へ走り出す。

 わけもわからず茫然としていた真尋だったが、背中と頭を窓に打ち、はっと我に返る。走り去る自身の姿をした誰かの背を一瞬見て、そしてとっさに教室に入った。クラスメイトの視線が真尋に集中する。まるで恐れているかのような視線の中、見知った顔が震えながら声をかけた。

 

「や、八坂くん……?」

「余市、追いかけるぞ」

「へ?」

 

 真尋としては当然のことを言ったまでなのだが、彼は全く意味がわからないといった反応だった。構わず真尋は転がっていたフォークを、武器替わりとばかりにつかみ取り、教室をかけ出た。

 幸いなことに、相手の背中はまだ見える。見間違えるはずもないだろう、飛び跳ねた血が未だ相手の制服に付着しているのだから。もっともそれは真尋も同じくなのだが、量が違う。相手の方が絶対的にべったり、それこそ頭から真っ赤に染まっているのだ。当然誰も彼もが飛び跳ねるように避けている。それに続くように、真尋は全力疾走した。

 

「待てアンタ、一体なんなんだ――――!」

 

 叫ぶ真尋を嘲笑うように、彼は屋上に向けて走り出しているようだ。

 上り調子、特段運動部というわけでもない帰宅部な真尋にとって、ノンストップでここまで走るのはさすがにつらいものがある。もっとも眼前の相手は何一つダメージを受けている様子もなく、飄々と階段を飛ばして昇っていく。やがて扉を開け屋上までくると、彼はいまだ階段を上る真尋に一瞬嫌な笑みを浮かべて締めた。

 

「っ、逃がすか――――!」

 

 とっさに真尋はフォークを振り上げ、がちゃり、と音の鳴った屋上出入口の扉そのものに「突き立てた」。当然、本来であれば無意味である。フォークはひしゃげ、真尋の腕から全身には鉄とコンクリートとの強度による跳ね返りの威力がダイレクトに伝わり悶絶するだけである。

 だがこと、フォークを持った真尋に関してのみその事情は当てはまらない。

 ある特殊な事情から、彼が持ったフォークのみは、それこそ「神すら打ち滅ぼす」特殊な力を持っていた。

 その一撃はまるで一枚のガラスを砕くかのように、空間全体にヒビが入る。事実、真尋のフォークは扉に達していないにも関わらず、空中に「浮かぶように」亀裂が浮かんでいた。もう一度振り上げて下すと、亀裂が扉全体を覆うように達し、そのまま「扉が存在した空間ごと」蹴散らした。砕ける鉄片をハードルでも跳ぶような方法で飛び上がった。

 

 向かってくる真尋を見て、真尋の顔を持つ誰かは目を丸くしていた。そんなに意外か、自分がこんなことをするのが。構わず真尋は走り抜け、握った拳で彼の顔面を打ち抜いた。肉と皮が歪み、セラミックの塊にでもぶつかったようなひっかいたような嫌な痛みが走る。が構わず真尋は数発殴り、彼の襟首をつかんで引き上げた。

 

「アンタ、何が目的だ。何が目的でニャル子を殺した――――!」

 

 自分でもわからない程、真尋は怒りの感情が沸き立っていた。烈火のごとく燃え滾る感情が、彼自身の理性の制御を拒否していた。本来なら彼本人がここまでの怒りを覚える必要も意味もないはずなのだが、しかしどうにも、嫌な直感が真尋にはあった。眼前で殺された、二谷龍子。あの死体は、おそらく「もう二度と彼と言葉を交わすことはないだろう」ということが。当たり前といえば当たり前であるが、そんな次元の問題じゃない。恒久的な別れが確定してしまったような絶望と確信が、真尋の体内を燃え滾らせている。そして得てして、こういった真尋の直感は真実を貫いていることが多かった。

 対する眼前の真尋は、半眼でへらへらと笑うばかり。殴られようとも血を吐こうとも、特に態度が変わることはなく、また真尋の質問にも答える様子はない。いい加減にしろとフォークを振り上げる真尋だが、それに対して男は――――。

 

 

 

「―――――何するんですか、真尋さぁん♪」

「ッ!?」

 

 

 

 その喉から発された声は、まぎれもなく彼が殺した少女のもので、真尋が義憤を燃やす原因となったものだった。だが何故それがこの相手から漏れた? 瞬間的に思考が停止した、その隙を男は見逃さなかった。彼を突き飛ばし、げらげらと笑いながら走る。

 

「ふふ、ははははっは! そんなに大事だったら、もっと近くで手放さないようにしないと、いけないよな」

「――――、お前、誰だッ」

「君が知らない誰かだよ。決して、ニャル子じゃあない。まあ僕の仕事もこれで終わりだし。それじゃ、アディオス」

 

 その一言を聞いた瞬間、真尋は言い知れぬ違和感を覚えた。眼前の相手を見続けてはいけないという、理性からの警告を受けた気がした。しかしほとばしる感情のままに、逃すまいと眼前の相手をにらみつけたままの真尋。それが、災いした。

 眼前の真尋は、その全身が服も巻き込み、おおよそ信じられない程一瞬で「タールのような」色に変色した。かと思えばちらちらと玉虫のような照り返しをしつつ、顔面、眼球があった個所が陥没した。いや、眼球どころではない。その全身が頭頂部から、強酸性の液体でもかけられたかのように、とてつもない勢いで溶解し始めた。ほんの数秒、それこそ十秒も経たずに、それはべしゃり、と、粘液状の何かになり果てた。

 真尋は腰が抜けた。そのままへたりこむと、両手が震える。粘液はそれこそ猛烈な勢いで屋上を這い、ついにはフェンスの下の隙間を抜けていずこかへと姿を消してしまった。真尋はそれを追うことができなかった。ただただ、なぜか猛烈な悲しさが全身を支配していた。全くもって意味が解らない。だが本来なら「ありえない」はずの現象が、龍子が殺されるという事態が起こってしまった。彼女の姉、偽名を名乗っていたが後に本名が「二谷劉実(るみ)」であったと教えられた彼女に続き、またしてもかと。常識の外側に潜む怪異に日常が取り込まれるかの如く殺されたこの現実を前に、真尋は五体を投げ出し、ただただ大笑いした。大笑いして、涙がひたすら零れた。留まることさえ知らないままに泣きはらし、大笑いするしかなかった。

 既に真尋は、理性の制御を完全に失っていた。正常な判断も何もかもができず、ただただ感情ほとばしるままに倒れて、何かしら「反応している」だけだった。

 やがてわらわらと、破壊された屋上出入口から教員と生徒たちが駆けてくる。生徒たちは野次馬だろうが、担任の英語教師が真尋に駆け寄り、その両手をもって、縛る。狂ったように笑う真尋に、ひどく可哀そうなものを見るような目を向けた。

 

「八坂くん。事情はしらないが……、現行犯は現行犯だ」

 

 違和感と疑問符を覚える真尋の理性は、しかし肉体の主導権を奪取することは適わなかった。

 

 

 

   ※

 

 

 

 いまだに真尋の状態は変わらない。狂ったように泣き笑い続けている。否、実際に狂ったまま泣き笑い続けている。彼の精神状態をまずまともにすることから始めなければ、という趣旨のやりとりがされていたことをおぼろげながら認識すれど、その話があってからどれだけ時間が経過しているかさえ既に真尋の認識からは判断さえできない。

 我にかえることもなく、しかし真尋の中にある理性は、現状を分析する努力を進めていた。通常、ここまで壊れてしまった場合は本人の自助努力にかかわらずすべての認識が吹き飛んでいるはずだが、しかし真尋の中の何かが現在の自分が置かれている状況を冷静に分析することをやめてはいなかった。

 やがて泣きつかれたように、真尋は自我を復帰させ、周囲を見回した。

 場所はどっかの留置場か何かか。とすれば旭川の方なんだろうか、今の真尋にはいまいち現実感も実感もない。白い鉄製の扉、トイレが据え付けてある部屋、ベッドなど最低限の衣食住だけは確保されている部屋ではある。ひたすらに自身で料理することもなく、食べ物を食べさせてもらっていた覚えもあるが、ともあれ色々と状況に理解が及ばない。

 

「……朝? 夜? あー、時計ないのか、ここ」

 

 鉄扉のわずかな格子窓と、文字通り格子が付いた窓から見える景色は暗がりだが、しかし自分がどれくらい正気を失っていたか定かではない。思い出せばなにやら事情聴取をされていた覚えもあるような、ないようなといったところだが、それさえ本物の記憶かどうかは真尋にはあやふやであった。

 

「腹減ったな。……って、さすがに自分で料理は出来ないよな、ここ」

 

 まず状況を整理しようと、水道水を一口。カルキ臭さに嫌悪と微妙な懐かしさを覚えながら、真尋はベッドに横になった。

 ニャル子が殺された――――彼女の性質からして、実際そのことにはあまり気を配る必要はないのかもしれないが、しかし真尋の中にのしかかる妙な違和感と確信。もう二度と彼女に会えないかもしれないという、ひどく遠い疎外感と絶望感。なにもこれは、眼前で彼女が殺されるさまを直に目撃したから、というだけではないだろう。

 八坂真尋は、魔導書である――――現代において数少ない完成された魔導書である。とある神格が目をつけ、調整し、誕生させた怪異の成れの果ての親戚がごとき存在である。その事実を知り、狂気と正気の狭間をさまよったのが数週間前だ。なに、ちょっとした「一時的狂気」くらいならば、慣れっこであると強がるが、しかし真尋の身体は隠しようもなく震えていた。

 彼が己の正体を知ったその事件―――その折、彼を護衛していたのが二谷龍子の姉である。現在、彼女は失踪中であり、その裏にある真実は、真尋と、龍子のみが知っていた。

 ともあれそんな縁もあり、真尋と同じ学校に転校してきた龍子――――どちらかといえば、真尋の護衛のために姉妹ともども引っ越してきていたというのが正解――――であるが、別段真尋と極端に仲が良かったというわけではない。事情についてはそれこそ多くを共有していたし、向こうの馴れ馴れしさは悠々はるかにべったりしかねない勢いであったが、だからこそ真尋は彼女と近づくことを、積極的にはしなかった。

 嫌でも彼女の姉を――――初恋の相手と、その関わった異常な神話的事件にまつわる全てを思い起こさせるから。まあ、妙な時期の転校生である彼女と親しくしすぎて、歩くスピーカー(※情報通の意。この場合はクラスメイトの暮井珠緒を指す)に色々追及されても面倒だったというのも理由のひとつではあるが。

 そんな折、今回の事件である。

 

「仕事、とか言っていたか。……不定形であったことを参考にすると、さしずめショゴスってところか?」

 

 ある程度正気を取り戻しているから、真尋は自身の知識を総動員して今回の事件の解析に望む。ドッペルゲンガーを疑いもするが、案外と真尋の現実はそれよりもごくごく怪奇小説的なそれだ。世にいう恐怖神話体系群、クトゥルフ神話に連なるそれに「おそろしく近い」何かこそが、彼の住む宇宙をとりまく真理の類である。なによりその変異を見た真尋が、通常ありえざるほどの正気の失い方をしたことからも、それを疑うことが出来るだろう。かの神話群の存在は、リアリティを喪失させるショックが大きすぎるため、それこそTRPGとかになぞらえるような症例を確認できる。事実、真尋は自身の身体をもってしてそれを証明していた。

 ショゴスといえば、まあいうなればスライム系の怪物の祖とも言い換えて過言ではない。まあ厳密にはショゴスという種族そのものについては異説もあるが、この際は面倒なのでそう括るとする。

 H.Pラブクラフト作の「狂気の山脈にて」というものがある。それ以降派生したスライム系のモンスターといえば人食いアメーバだの当然のごとく怪物的なそれであり、というかそもそもスライムというもの自体が危険物であることを考えれば、その派生も納得と言うか、当然といえば当然であろう。所謂ドラクエなどで有名な型のスライムが発生したのはそれよりだいぶずっとずっと後期、より現代文明に寄ってからのものであり、前段階の形態の一つに、ヘドロ怪獣を含むこともできるかもしれない。

 ともあれスライムという存在についてだが、誰もが納得する点の一つに、ひとえにその正体や思考がよくわからないところがあるだろう。例えばミノタウロスという存在を言葉で形容すれば、牛の頭、人の身体、というのがテンプレートだ。鬼といえば角のある大男だし、ヴァンパイアといえば長い牙を持つ吸血するヒトガタの怪物である。その点スライムという存在を言い表すには、こう、粘液という表現だけでは本来のその不気味さ、異様さを伝えることはかなわないだろう。今でこそそういった表現のテンプレートが確立しているからこそ伝わりはするが、そもそも肉体らしきものもなく、思考をつかさどるだろう神経組織の集合体もない。脳みそがわからず、顔もわからず。

 一言でいうなら、名状しがたい――――。

 つまりは今回、真尋が遭遇した一通りについて形容するに、十分たるそれである。

 だが、当たり前だがそれを目撃したのは真尋ただ一人だろう。事実彼のクラスメイト達は、目の前で少女一人がフォークでギロチンされるというこの世ならざる光景を目撃こそしているが、真尋の乱入に対して異常動作を起こしているようには見えなかった。

 そこから導き出される結論は何か。

 

「なるほど。それなら俺が捕まるか」

 

 つまるところ、事実と名称を整理すれば一目瞭然なのだ。「八坂真尋」としか思えない男が殺し、その逃げた先に「八坂真尋」がいた。その場には、「八坂真尋」としか思えない男が残した凶器があり、「八坂真尋」が拾い上げて駆け出して行ったのだ。当然、真尋も、あの相手も、どちらも龍子の血を浴びている。

 結論からいえば、真尋が殺して逃走し、屋上で発狂したとしか見えない。

 クラスメイトたちに、真尋が二人いるという状態は目撃されていないのだろう。……廊下を走っていたときの証言は、おそらく心神喪失したか何かの妄言として無視されたか、あるいは一時的狂気に陥ってそれどころではなくなったか。

 

「まいったな。なんでもかんでも神話的現象を使えば完全犯罪が成立するってもんじゃないぞ、これは。古典ミステリに対するリスペクトがないのか、リスペクトが」

 

 言いはする真尋であるが、そんな彼とて日曜朝に放映された特撮ヒーロー番組の影響で「ロング・グッドバイ」に手を出し、途中で投げ出す程度の知識しかなかったりする。が、これは逆に、そんな卑近な話題を挙げることで現実逃避をはかっていると言い換えられた。

 

「なんでいきなり殺されてるんだよ。意味わかんないっての――――」

 

 涙は流れない。それは、意図して彼が流すまいとしているからだ。この胸に沸き立つ痛みを忘れないよう堪えているのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、彼女の言動は何からなにまでもが彼女の姉、真尋には偽名を名乗っていた、二谷劉実を連想させる。ほんのちょっとした仕草にデジャビュを感じ、いたずらっぽいその性格に少しだけ脈拍が上がり、なにより彼女と話していると、落ち着くことが出来た。「真尋から嫌悪されない性格である」と意訳ではあるが自称していただけあり、確かに彼女と一緒にいるのは、少し鬱陶しいくらいで苦にはならない。そんな彼女と二度と会うことができないような、この胸の内に沸き立つ違和感――――。そう、違和感だ。真尋はその言い知れぬ感覚に、ひどく恐怖を抱いていた。

 奴は言った。俺のせいだと。

 真尋は、この現実にいる神話世界の住人達が、必ずしも神話世界そのものの住人たちでないことを十分理解している。だからこそ、龍子へ牙を向けるために、あのショゴスがとった武器がフォークなのがひどく引っかかっていたのだ。普通に考えれば、フォークで人間の首は落とせない。殺傷自体は不可能ではないだろうが、それでも動脈静脈関係なく切断することも、骨を叩き折ることも人間の揚力では不可能だろう。人間以上の力をあれが発揮していればまた違うかもしれないが、しかし真尋の見る限りにおいてそんな様子はなかった。

 とすれば、それは真尋が持っている類の力――――「穂先の分かれた獲物」を使った場合のみに発動する、邪神さえ殺せる特攻が発動したと判断するほかない。

 

「まだそうと決まったわけじゃないが……。希望的観測は持つべきじゃないな。元から、別に俺はそう運が良い方でも何でもない」

 

 その力により、彼女の姉は真尋の前から姿を消したはずだ。

 くしくも、とするならば今再びその能力により、真尋の前から彼女が姿を消したかもしれない。

 落ち込むよりも先に、真尋はその考えに至った瞬間、意識を手放し――――。

 

 

 

「――――八坂真尋、八坂真尋。取り調べの時間だ。……って、お前、起きてるかおい?」

 

 

 

 第三者に叩き起こされるまで気絶していた。

 

 

 

 

 



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神話的完全密室

「全世界が君の敵だ。どこまで逃げられるかなぁ?」といったところです


 

 

 

 

 

 一応は少年院に放り込まれたらしい、真尋の取り調べは凄惨を極めた――――むろん、それは真尋の側からすればだが。

 なにせ状況証拠は完全にそろっている上、真尋のアリバイなんてものを消し飛ばすだけの情報が後出しでぽんぽんそろってくる。監視カメラは当日、業者が入ってメンテナンス中につきほぼ機能しておらず、二人の真尋が走る映像はなし。また廊下を走っていたときの分と教室の目撃証言については、どちらも真尋の予想通りの推移を辿っている。なお廊下の目撃についてはプラズマ現象で幻覚がどうのこうのなどと言う学者もいるとかいう話を、大真面目にガラの悪そうな警察官に言われてしまい、反応に大変困った真尋である。

 現在の有様で、真尋が幾度否定しようとも状況は覆らない。拘留期間が変わることはないが、心象は悪くなる一方である。が真尋とて言い分はある。実際やっていない上に説明ができないし、一度したところで鼻で笑われて「精神科医にはかかれんぞ」と拳を振り上げられかけた。実際に暴力沙汰にまでは発展していないが、時間の問題だろう。徐々に徐々に真尋の精神が削れていっているさなか。

 

「お前みたいなクズが一番嫌いだ。否定してればいいとか思ってるんじゃないぞ? 絶対逃がさないからな。まともに大学出て働けなくしてやる」

 

 その、あまりにも現役警察官から投げかけてほしくなかった脅し文句が、一番堪えた。

 そもそも真尋のバックグラウンド自体が現実離れしている事情もあるが、それでも希望の芽をわずかでも摘み取るだろう一言はダメージが大きい。

 さらに輪をかけて、両親が海外で新型インフルエンザにかかって倒れたと続報があった。旅行に出てその有様じゃ世話ないだろ、と突っ込みを入れたかったが、しかしことは緊急を要するらしく、現在向こうの病院で隔離状態らしい。泣きっ面に蜂じゃないんだから、と言わんばかりに、膝を抱え悶々と緊張感が抜けない夜が続く。当然ロクに眠れるわけもなく、そんな中で更生活動も続けられるわけだが、実際折り合いは悪い。職員の心証が悪いのは当たり前だが、もともとそういうことを犯す人間でないこともあり、いうなれば内部におけるコミュニティに全くはいっていないのだ。話題だってそりゃ全くかみ合うこともない。いじめられないだけましといえばましだが、ほとんど空気に等しい。

 この状態が自白をすれば解消されるかといったところで、そういうことはない。痴漢冤罪とかと違って、罰金払えば仮釈放ということでもないのだ。さらには既にニュース沙汰になっており、色々と好奇の視線にさらされ続けてもいる。

 ともあれ冤罪という一事がどれだけ当人の生活に影響を与えるか。果てはそれに対して、仮に真実が発覚しても周囲が誰一人として彼の名誉回復を補助してくれることはないだろうと確信するに至るだけの、人間の冷たさを思い知らされた。

 いうなれば所詮、真尋のメンタルは一男子高校生の域を超えない。正気度合――――すなわちSAN値を無理やりにでも削らない道具でもなければ、心身ともにすり潰されていくのは当然といえば当然だ。

 拘留されて何日経過したか定かではなく、取り調べの二人もほとほと飽きた、呆れた顔を浮かべ始めるころ。

 

「――――面会だ。クラスメイトからだ」

「え?」

 

 ほんの少しだけ真尋に転機が訪れた。

 

 

 

   ※

 

 

 

「あ、よかった。八坂君もう大丈夫なんだ。なんでも錯乱したって聞いてたから、心配したよ」

 

 真尋にそう笑いかけるのは暮井珠緒、真尋のクラスメイトである。真尋に言わせれば「ちょっと変な子」であり、いわゆる情報通、歩くスピーカーの類である。別にこの歩くスピーカーというのは真尋が考えた造語ではなく、同じくクラスメイトの余市をはじめ、多くの生徒間でなぜかそう呼ばれている類の話だ。ちなみに真尋がそれとなく事実を伝えると「私、そんなの聞いてないよ~」と素で泣かれたのは記憶に新しいような、新しくないような。

 が、しかし真尋は違和感を感じた。声の調子こそいつも通りだが、顔色が悪い。ポニーテールもリンスとかの艶が感じられない。体調が悪いとまでは言わないが、全体的に覇気がないという具合か。まあ眼前でクラスメイト惨殺なんぞ目撃したなら当たり前ではあるかと思いはすれど、しかしどこか、そうではないひっかかりを覚えている真尋だった。

 

「……どうした、擬態に失敗したワームみたいな顔色してるけど」

「何、その例え、ちょっと意味わかんないです」

「あ、いや、すまん、失言だった。普通に顔色悪いけど、大丈夫か?」

「あはは……。まあ、うん、大丈夫とは言い難いけどね。私もほら、えっとその、八坂君が教室から逃げて、しばらく錯乱してたみたいだし」

 

 意外と彼女は感受性が強かったかと、真尋は内心頭を抱えた。

 アクリル越しの彼女の様子をうかがう真尋。どうにも状況からしてさっぱり原因も目的もわからないものの、関係性でいえば自分たちの側、常識の外側の事態に巻き込んでしまったような、そんな状態だ。直接責任はないだろうが、真尋とて罪悪感を覚える。

 そんな真尋の内心を知ってか知らずか、珠緒は少しだけ困ったように笑った。

 

「でも私も、翌日の朝にはちゃんと復活したんだよ? ほら、寝たらすっきり、みたいな」

 

 てへ、とウィンクする彼女だが、しかし真尋には、彼女が今ここにいる目的がさっぱりわからない。そんな真尋の感想が伝わったわけではないだろうが、彼女は真尋を少し真剣な目で見た後、何度か頷いてこう言った。

 

「うん。やっぱり、八坂君じゃないと思うな」

「……ん?」

「ニャル子ちゃんにあんなことしたの、絶対八坂くんじゃないと思う」

「………いや、目の前でその、見たんじゃないのか?」

 

 事実そうではあるが、違和感を覚える真尋に、アクリル越しに小声で珠緒は決定的なことを断言した。

 

 

 

「――――だってあの時、八坂君って二人いたじゃない」

「――――――ッ!」

 

 

 

 嗚呼、錯乱したというのはそういうことかと、真尋は軽い頭痛を覚えた。あの時、あの場で真尋が扉を開けたとき、いくら凄惨な光景が存在したからと言って誰一人として「扉を開けた真尋」の姿を目撃していないとは限らなかったのだ。とするならば彼女は二人の真尋を目撃して、そして何かしら「気づいてはいけない」この世の真理の一端にふれてしまったのか。ニャル子風に言うなら「アイデア!」という奴だ。

 思わず固まり声が出ない真尋をよそに、珠緒はひそひそと続ける。

 

「この話、実際目撃したのは私だけみたいなんだけど……。でも、みんなもなんで違和感感じないのかな。ニャル子ちゃんを殺した真尋くんと、それを追っていった真尋くんとで血のかかり具合が絶対違ったっのに」

「……その話、警察には」

「したって、とりあってもらえなかったもん。だから色々、自分で調べてみたの。本当は真尋くんに会って確信を得てから調べたかったんだけど、なんでか全然、誰も彼も会わせてくれようとしなくって」

 

 そりゃあれだけ心象最悪な状態ならば仕方ないと思いはすれど、真尋は乾いた笑いが漏れた。

 

「大体、いまだに屋上の扉があんな壊れ方してるのに、誰もそれに触れようとしないし。絶対おかしいって、あれが一番意味不明だし。余市くんもしばらく認識できてなかったみたいだし」

「すまん」

「? なんで八坂君が謝るの?」

 

 おそらくだが真尋が使った力が、神話的スーパーパワーに由来するそれだからだろう。破壊された状態の具合を見て、おそらく大多数の人間が発狂するなり何なりして、その「壊された事実」から目を背けてしまうに違いない。その点でいえば、一度発狂したせいか珠緒はすんなりとその事実を受け入れていた。

 

「って、ちょっと待て。余市、その言い回しだと今は認識できてるんだよな。錯乱しなかったか?」

「うん、してたよ。何かに気づいたみたいに、はっ! ってなって、しばらく『俺は何も知らない、知らないんだ知らないんだ』ってぶつぶつ言いながら蹲ってたし」

 

 すまないと再三、内心で頭を下げる真尋

 

「でも今はちゃんとしてるし、だから二人で色々調べてるの。八坂君が犯人じゃないって証拠を」

「……ありがとう。でも、なんで?」

 

 真尋からすると彼女とはさほど接点があるイメージはなかったのだが、珠緒は一瞬、寂しそうな笑顔を浮かべる。

 

「だって、八坂君がニャル子ちゃん殺すわけなんて絶対ないもの。あんな――――生き別れた家族の形見でも見るみたいな感じの顔してた八坂君が」

「――――――」

「ニャル子ちゃんを見てるときの八坂君、すごく嬉しそうで、すごく切なそうで、すごく寂しそうで、すごく遠い目をしてる気がしたから。少なくともそんな顔を向けていたニャル子ちゃん相手に、凶行に及ぶはずはない。カンペキな推理でしょ?」

 

 にっと笑った後、得意げにウィンクを撃つ珠緒に、真尋は声が詰まり、視線を逸らした。決してそんな顔を龍子に向けていたはずはない。はずはないのだが、しかしどうやら珠緒の観察力は、真尋の出来の悪いハリボテの向こうを見透かすくらいの精度があったらしい。事実、隠しようもないほどに真尋は龍子に対して形容しがたい感情を向けていた。はじめは彼女の姉が小さくなったくらいの、そんな印象だった。だが違った。類似はしているが、決して彼女たちは同一の人格とは言えなかった。だからこそそれが、真尋の内心に重くのしかかってきていた。

 

『姉の人格は、真尋さんをあの時に守ったことでその役目を終えましたから――』

 

 かつて妹本人から、直接言われた言葉である。そしてこれこそが、真尋が二人を(根源はともかく)別人として考えるようになったきっかけだった。

 真尋のそんな内心を知ってか知らずか、珠緒は少しガッツポーズをとる。

 

「だから少しだけ待ってて。これから余市くんが、録画持ってくるから」

「録画?」

「いくら監視カメラの入れ替えっていったって、全く映像を残してないのは警備の問題になっちゃうから、何か予備の装置くらいは置いてあったろうって思って、先生に問い合わせたの。そこから業者を辿って――――真尋くんが二人映ってた映像が残ってたのを見つけたの。今どき珍しいテープ映像だから、証拠能力はまあまああるんじゃないかと思う」

「すまん……。手間かけた」

「いいっていいって。だって、私たち友達でしょ?」

 

 不意に涙が浮かぶ真尋。だがそれを流すまいと上を見上げる。弱音は吐いていられない。今は自分が解放されるその可能性にかけよう。そして必ず龍子が殺された原因をつきとめるのだ。あの龍子のことだから、何かしら起こった際にこちらで動けるよう手をつけてくれているはずだと、真尋は確信していた。ともあれ拳を強く握り、感謝の言葉を述べた。

 

「真尋くんは、犯人を捜すんだよね」

「ああ」

「うん。じゃあ、私も力かすよ。たぶん余市くんも――――」

 

 丁度そんなタイミングで、ノックとともに扉が開かれた。向こうからは見知った眼鏡の少年が入ってくる。こちらも珠緒同様にいくらかダメージを受けているようだが、真尋の顔を見ると気の抜けた笑いを浮かべた。

 

「やあ、八坂君。相変わらずの様子だね」

「何が相変わらずなのかさっぱりだが、まあ、とりあえずそっちも元気そうで」

 

 クラスメイトの余市健彦と、真尋はお互いに苦笑いを浮かべた。と、健彦がふいに眼鏡のつるを抑えて――――。

 

 

 

「――――――悪いけど、僕は元気じゃないよ」

 

 

 

 顔面から外したその瞬間、顔の左半分が、眼鏡と一緒に外れた。

 

「え?」

「――――っ」

 

 眼鏡についている健彦の左目、鼻、口。顔に対して斜め線を引き、そのまま下半分が外れたような状態である。それが首を基部として、赤い皮と肉が伸びている。しかして問題としては、その内側に骨に該当する物体が何一つ存在しないことだろうか。粘性、血液がちたちたとそこから垂れており、しかし本人は痛みも何も感じていないように微笑んでいた。

 真尋の背後で、がたりと監視が倒れる音が聞こえると同時に、珠緒たちの方の職員も膝から崩れ落ち、泡を吹いた。

 

「ほら、暮井さんのせいで僕、こんなになっちゃったんだ()

 

 声帯も引っ張られているのか、発音がやや怪しい。いや、そんな分析をしている場合じゃない。珠緒はアクリルガラスに背中をつけて、真尋の名前を連呼している。ちらりと視線が彼女と合い、しかし真尋はガラスに腕を叩きつけるくらいしかできない――――。

 

「くそっ、フォークでも何でもいいから何かあれば……、いや、無理かこれ」

まひろくん(ヽヽヽヽヽ)、まひろくん……? へ? 何? あれ、まひろくん?」

 

 声が震え、焦点が合ってない。そんな彼女に向けて余市は歩きだし、手に持っていた眼鏡をはなした。重力に引っ張られるように、ぐらりと顔面が落ちる。いや、顔面だけではない。左半身、やはり体に同様の斜め線でも入れたようにそれが剥がれ、胸の上のあたりが「ぺろん」とめくれあがっているような状態だ。そして服さえ含め、その裏側は血液と筋繊維の集合体のような有様で、グロテスクというレベルではない。

 

「お前、ショゴスか?」

「――――ねえ、ツイスターゲームしない?」

「え? まひろくん、なにこれ? え? いやだよ、まひろくん? なにこ――――」

「ッ――――、止めんか余市!」

 

 一瞬にして真尋のアイデアは、彼が何をしようとしているか察した。脳裏には遊星から来たりし謎の物体との遭遇を描いた映画の映像がフラッシュバックする。

 そして真尋のその想像の域を、余市は全く出ることなく実行した。ぐらりと上半身が伸び、ゆらぎ、その全身が全く持って一部の隙もなく筋繊維と血液じみた液体の集合体であるということをありありと見せつける。そのまま上半身を大きくひねった四足歩行になり、首と半分の上体を伸ばし、アクリル硝子に顔面を叩きつけた。割れるわけはないが、その衝撃に思わず真尋はたじろぐ。と、そのまま余市のこめかみから、大きな目玉が「生えた」。横眼に、延々と真尋の名前と疑問符のみを繰り返す珠緒の顔面に、己の頬を「くっつけた」。

 そのまま覆いかぶさるように体をひねり、余市、いや、余市に擬態しただろう「何か」は珠緒の身体に中途半端な形で絡みついた。何度も何度もアクリルに拳を叩きつける真尋。しかし全くもって効果はない。後ろの気絶している職員の服をまさぐれど道具もなく、そして再び視線を彼女たちの方に向ける。

 

「――――――――たすけてよぉ、まひろくん……! みないでよぉ」

 

 そこにあったものは、もはや二人の人間の体を成してはいなかった。

 腕と足とは人間、それこそ各々の元の形状を残したそれであったが、中心を含めて既に肉の塊と化していた。それでも顔面は余市と珠緒、双方の頬がいびつに融合したそれである。頭部も含めて既に癒着から結合に移り始めており、珠緒と余市の、接触している側の目の形状と焦点がぐずぐずになっている。嗚呼、ひょっとしたら余市本人もこうしてショゴスに取り込まれてしまったのかと、真尋は心の底から深く絶望した。

 

「わたし、こんなの、いやぁよ……!」

「暮、井――――ッ」

 

 変質した何かは、そのまま真尋に向かって突撃した。アクリル硝子は基部から壁から根こそぎ破損するかたちで吹き飛び、真尋ごと巻き込んだ。だが、真尋はとっさにそれを蹴り飛ばす。「痛い」という二人分の人間の声に、真尋は涙が流れた。

 

「意味、わかんないっての。普通巻き込まれるにしても、インターバルとか、あるだろうが――――!」

 

 とっさに転がった珠緒のバッグから、弁当箱を拾い上げ内部を開ける。幸か不幸か、その中には小さいながらもれっきとしたフォークが存在していた。

 逆手に持ち手に取り、真尋はうるんだ目のまま眼前を見る。

 

「まひろ、くん、これ、ころして、よぅ……、ねえ、ねえ……」

 

 珠緒は泣いていた。余市健彦の、既に人間性を欠いた顔面と違い、暮井珠緒はひたすらに泣いていた。

 ただただ顔面を覆い隠し、みないでと全力で主張するようにしながら、それでもなお、真尋に懇願する。

 

 一度だけ真尋は手元と、彼女の顔を見て―――――。

 

 

 そこから先、数日間の記憶が真尋にはない。

 ただただ手に、ひどく嫌な悲しい感触を残しながら。気が付けば、真尋は隔離病棟のような場所で、拘束服をもって身動きをとれなくされていた。

 

 

 

 

 




本作でのCVイメージ
 暮井珠緒:中原麻衣
 余市健彦:小野坂昌也


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神話的境界戦線

※ゲスト出演とともにちょっとだけ世界観崩壊しますが、一応ちゃんとした理由があります


 

 

 

 

 

 

「誕生罪、って言葉知ってるか?」

「存じ上げないであります」

「だよな。俺も知らない」

 

 不意に脳裏に浮かんだ言葉を言い、返された返答に真尋はため息をついた。

 現在の真尋の状態は、以前よりある意味劣悪だ。なにせ全身拘束状態。2時間に一度、トイレと軽い運動くらいのために外される以外は、どこかの隔離された施設の中で何もすることが許されない。さすがにテレビの刑事ドラマとかでもこんな状況に陥っているのを見たことはなかったので、既に彼は自分が法の通じる世界の外側に投げ捨てられたのだろうと判断していた。

 しかしてそんな真尋とて、自身の生存までは脅かされてはいない。身動きをほとんどとれない代わりに、彼を世話する相手がいるのだった。

 問題としては、その相手が既に真尋の理解を普段とは別ベクトルで上回っていることだが。

 

「……食事の時間であります。上半身と腕の拘束を解くであります」

「おう。頼む。……どうでもいいけど、なんで俺こんな風に拘束されてるんだ? 精神病棟とかで錯乱して暴れてるって訳でもあるまいに」

「存じ上げないであります。わたくし、あくまでインプットされた使命は、超危険人物の逆鱗に触れない程度の介護、といったところであります」

 

 この妙な口調で真尋の腕のベルトを解いている相手こそ、真尋の目下悩みの種だ。まず、三頭身である。サイズ感は五十センチか六十センチ。おかっぱ風の黒髪にゴシック調のメイド服を着用した少女のような存在。時々「ぎぎ」とか金属がこすれる様な音がしたかと思えば「メンテにまだまだ問題ありであります」などと言いつつ、体の各所を「取り外して」グリスをさしたりと、色々現実を疑う光景が展開される。なによりおそろしいのは、そんな彼女の存在を見ても真尋が正気を失いはしないこと。つまりこれは、眼前の謎の存在は、絶対的に人間の科学力でどうこうされて誕生したそれなのだということだろう。

 いや、謎存在とはいったが、名前くらいは知っていた。

 

『ベータと呼ぶであります』

『ベータ?』

『試作品であるが故、それが適切であります。プロトでも良いでありますが、それだと原初インターネットを想起させるでありますゆえ。別にわたくし、ロケットパンチやミサイルやレーザーは標準装備ではないのであります』

『何を言いたいかは俺、おおよそ分からなくもないが、アンタ明らかに世界観間違ってるだろ』

 

 以前の真尋と彼女、ベータとの会話である。

 ともあれ、真尋自身が決して認めたくない類の事実ではあるが、AI搭載の自律型起動装置、アンドロイドの類なのだろう。なお彼女本人が自称した場合は自律の字が自立である、という謎の主張が入るのだが、それはともかく。

 現状、真尋は自身が置かれている状況について全く情報を得られなかった。少なくとも法律適用外の措置をとられていることは確実なのだろうが、直接、間接問わず、人間が真尋の周囲に誰もいないという状況はどういうことか。……残念ながら、おぼろげに真尋の直感はその理由を推察していた。

 珠緒や健彦――――少なくとも真尋のクラスメイトたちを襲った超常的な事態と、真尋がそれをどうにかしたという事実は、さすがにもはや隠しようもなかったのだろう。あまりの事態に、それを直視した人々は、もはや真尋と直接かかわることを放棄したのだ。それゆえの隔離措置である。ただ、こうしてアンドロイドを派遣されてお世話をされている現状を鑑みるに、生存権くらいは認めてもらっているのだろう。わずかばかりそれに感謝する真尋であるが、同時にずいぶんと従順になってしまったなと苦笑い。さすがに数か月、更生施設に放り込まれたのは彼の正気度によっぽどダメージを与えたと見える。

 

「さぁ食べるであります、食べるであります」

「またレンコンか……。いい加減他の材料はないのかアンタ」

「レンコンは完成された食品であります。煮て良し茹でて良し焼いてよし揚げて良し、加熱すれど疲労回復度はかわらないのでありますし、触感もまた調理方法で千変万化であります」

「言われずともそれくらいは知ってるが、食卓っていうのは彩とか、バリエーションとか、結構重要なんだぞ。別にコース料理作れとかは言わないから、もうちょっと何かないのか?」

「そうは言いますが、囚人様は平然と高いレベルのを要求してくるところがあるので、ベータは信じないのであります。さあ食べるであります、食べるであります」

 

 諦めたようにレンコン料理一色の配膳に手をつける真尋。まあ、これくらいの軽口を叩けるくらいに彼女、ベータと打ち解けてはいる真尋である。季節感が妙に感じられない気候のこの監禁室と、毎日調理方法のみが異なって出されるレンコン料理の山を前に、既に真尋は自分がここに来てからどれほど時間が経過しているのかを忘却していた。いや、認識することができなくなっていた。正気を失っていた頃を含めて半年は経過していないだろうが、話題も底をつきかねない状況での彼女とのやりとりなので、日々変わり映えしない毎日が続いている。

 

「まあ辛子レンコンは美味い。さすがに料理の腕はこういうアンドロイドらしく完璧ってところか」

「……というより、その、料理のレシピの半数近くは囚人様から教わったのであります、教わったのであります」

「そうか? といったって、せいぜい男子学生が一人家にいるときにやる程度の腕だぞ。大したものでもないだろ、普通に考えて」

「とか言いつつ平然とカルパッチョのレシピとか、包丁の挿し入れ方だとかについて語られた時は鳥肌が立ったのであります」

「アンドロイドのくせに?」

「もともと、わたくしの最終開発目的からすればあながち間違っていない機能なのであります」

 

 ほら、と腕をぺろんとめくって見せるベータ。確かに鳥肌らしい凹凸のようなものがあるような、ないようなといったところだが、まあせいぜいが三頭身のデフォルメされたような幼女だ。まあ愛らしい、以上の感想は真尋には思い浮かばなかった。

 

「というか最終目的って何だ」

「黙秘権を行使させてもらうであります」

「そうかい」

「…………って、普通こういう場合は追及するのがセオリーなのであります? セオリーなのであります!」

「とはいったって、本人が進んで語ろうとしないことを聞くほど、俺も野暮じゃないぞ。そこまで野次馬根性もないし、誰だって秘密を持つ権利は平等にあるはずだ」

「いえ、その、囚人様が一男子高校生を自称する割に価値観が妙に達観していて、ベータは困惑するのであります……。というかベータに対して全く興味がないのであります……」

 

 どちらかといえば諦めの極致が極まったのが真尋なのだが、感想を持つのも個々人の自由なので特には何も言わなかった。食事を終え、用を足し、休憩をし軽く運動した後に再びベッドにバンドで拘束される真尋。まあ代り映えしないいつもと同じ状況といえば、同じ状況だ。いつものように彼女に「これっていつまで続くんだ」と問いかける。

 

「判決が下るまで、であります」

「判決ってことは、一応ここは日本ではあるのか」

「黙秘であります、黙秘であります」

 

 これも変わり映えしないやりとりだ。故に真尋もそれ以上は追及せず、うつらうつら意識を溶かす。

 夢に見えるは、やはり何かの遺跡と、そこで正気度を失い墜落し、赤く美しい女に介抱されるあの夢。これもまた毎日のように見る、真尋から時間概念を失わせる原因の一つだ。代り映えが多少はする毎日でこそあるが、大部分が共通で、真尋も精神的な体力がすり減ったまま回復する様子はない。それでも手に残る嫌な感触から、自分がおそらく介錯をしたのだろうという認識と、巻き込んでしまった罪悪感とだけが強く胸に残っている。決して心休まることもないのに、日々繰り返すように似たような毎日。それが学生生活のように、自主性を発露する何かさえない毎日であるならば、もはや自身がそういった類の機械であると、それに等しい勘違いのような刷り込みがされているような、妙な感覚が真尋には残っていた。

 ただ、それでも真尋の理性は死んではいなかった。必ず現状を打破し、己が巻き込まれた事実を明るみにするのだと。そうでもしないと誰もかれもが浮かばれないと――――。

 気が付けば夜である。時刻はわからないが窓の外が暗く、照明のみがついている。テレビもなくラジオもなく、目覚ましがわりに食事の時間だけベータに起こされる状況だが、まあ最低限の健康な生活が保障されているだけマシかと苦笑いしつつ、視線を動かした。

 

「――――?」

 

 ふと、真尋は違和感を覚えた。普段なら何か、ベータが調理でもしている音が聞こえそうな具合なのだが、しかし今日に限ってはそんな音も聞こえない。ただ時折、何か驚いたような声が聞こえるくらいだ。

 

「そ――――、では――――――、しかし、わ――――、――」

 

 小声でどこかと電話でもしているのか、と納得し、真尋は天井を見上げる。どのみち聞き耳を立てることさえできないのだ、人生諦めが肝心である。時にそれが己の精神性の正気を守ることにつながるなら、よろこんで真尋は理解を放棄しよう。あくまでそれが生命を脅かさない範囲でならば。

 やがて戸が開き、向こうからベータが現れる。どうでもいいことだが身長の丈があれだけ小さいのに、どうやって大人が通るくらいの高さで設計されている出入口の取っ手を握ることが出来るのだろうか。そんなことを真尋が考えているのとは裏腹に、ベータはどこか、つらいのを我慢するような、少し食いしばっているような顔をしていた。

 

「どうした。レンコンが切れたか」

「……いえ、レンコンは無尽蔵に供給されるものなので、あまり問題はないのであります」

「無尽蔵って何だ無尽蔵って。だったらなんだ、その妙に元気のない顔は」

「そう、見えるであります?」

「それ以外どう見えるのかってことだ」

「…………囚人様は、ストックホルム症候群ってご存知でありますか?」

「知ってはいるが……、なんだ、俺の判決が下りでもしたのか」

「――――っ、察し良すぎであります」

 

 まあな、と軽く受け流しつつも、真尋の脳裏では龍子と彼女の姉が「アイデア!」と二人そろって言う姿が幻視された。

 

「それで、まあ反応からして、殺せとでも命令されたのか」

「…………」

「沈黙は是なり、か。あー、なんか悪いなアンタ」

「…………どうして」

「ん?」

「どうして、そんなに割り切ったような声を出すでありますか」

 

 よく見れば、ベータの目元には涙のようなものが浮かんでいた。今にも目から零れ落ちそうなそれを見て、おいおい最新のロボットはヤバいな、などと現実逃避する真尋である。いや、確かに日曜朝の特撮番組とかでもアンドロイドが愛だの何だのうたって、ときに涙を流し友情を育んでいたりはするが、あくまでフィクショナルな世界だと切って捨てる程度には真尋は現実思考である。まあ、彼自身が巻き込まれている超常的な現実すら本来なら切り捨ててしまいたいという願望がそこには当然あるのだろうが、それはさておき。

 

「なんでアンタがそんな顔を浮かべるかが俺には分らないんだが」

「だって……、囚人様は、本来なら、無実なのでしょう?」

「そう聞いたのか」

「いいえ。でも、話していてわかるのであります。なのに、なんでそんな――――」

「――――正直まあ、詰んでるからかな」

 

 もちろん無為に命を散らしたいわけではない真尋ではある。龍子の姉につないでもらった命だという自覚は当然あるし、だからこそ死にたくない、生きなければならないという意志も決して消えてしまっているわけではない。ただ、彼は疲れてしまっていたのだ。ただひたすら今日に至るまで、こう長く長く、追い詰められるという経験が彼にはなかったのだ。だからこそ、当然世界には彼以上に不幸な人間も多くいるのだろうが。それでも真尋は今の状態から解放されたいと、もはやその程度しか希望を抱くことができなかった。

 そんな彼を前に、ベータは顔を手で覆い、涙を流した。元来、人間の世話をするような設計で作られているだけあってか、どうやら彼女も当然のように情緒を解するらしい。泣かれてしまって、逆に真尋の方が困惑してしまうくらいだ。

 しばらく震えているベータ。と、ふいに顔を上げたかと思うと、何を思ったのか、彼女は真尋の両腕、両足の拘束を勢いよく破壊した。

 

「何の真似だアンタ。大丈夫なのか、こんなことして」

「駄目に決まってるであります。だから、逃げるであります。わたくしが――――囚人様を殺すより前に」

「どういうことだ?」

「わたくしの自由意志が保つのは、たぶん、あと数分でありますから、その間にできるだけ遠くに――――ッ」

 

 がくん、と、首が折れるように傾く。と、ふわりと彼女の身体が浮き上がり、真尋を見下ろすような位置に移動した。

 

『――――Maiden the Revolution――――』

「って、だからアンタ世界観が違うだろっ」

 

 何やら機械のシステム音声(にしてはどこか何かを嘲笑するような響きを含んだ声)が、彼女の胴体から放たれる。それと同時に黒いガス状の何かが、ベータを中心として渦を巻くように展開、回転する。

 このあたりで、真尋は猛烈な頭の痛さと共に部屋を逃げ出した。ついさっきまでの停滞感が、いきなりの彼女の訳の分からない機能により破壊され、封印されていた正気が呼び戻されたらしい。というか、あれあの後絶対なにか科学的な現象とか飛び越えた形態変形を成すに決まっている。真尋は詳しいのだ。主にヒーロー特撮について。さらには背後から「アウェイク・アップであります。アウェイク・アップであります」など謎の妄言が聞こえる。それをひたすらに無視して、真尋は廊下を走った。

 近代的な室内に反して、外は思いのほか木造建築のようである。ただ各所、各々の寂れ具合から既に放棄された、何かしらの実験施設めいた印象を抱く真尋。現実にこんな訳の分からない施設が現存していることも驚きだが、まぁあのベータを前提とすれば今更かと納得を放棄した。何か爆発でもしたのか炭化して破壊されている入り口を抜けると、建物の全体像が見える。旧い大学の研究所といったところか、しかして全くもって興味がわかない。ともあれ一旦建物を脱出したとしても、まだ終わったわけじゃない。

 

「北海道じゃないよな、さすがにここは」

 

 陸続きの位置があるのでどこかしらの半島ではあるのだが、しかし真尋の前方、左右はともに海が広がっている。このまま海原に漕ぎ出せば明らかに難破すること必須であり、かつその脳裏に一瞬てらてらとした皮膚の醜いシルエットがよぎったことで、真尋はUターンした。建物の裏側を抜け、陸地へ走る。と――――。

 

 

 

『――――わたくし、降臨であります』

 

 

 

 そんな声とともに、研究施設が爆発した。爆風で吹き飛ばされながら、真尋は見た。炎をバックとして、そこには一つの女性らしいシルエットがあった。それはスレンダーな体系のメイド姿だった。身長は真尋よりは小さく、全体の構造はアスリートを思わせる締まり方をしているのに、胸は劉実を思わせるほど大きく、真っ白な髪が地面に垂れている。ぎらり、と真っ赤な視線が真尋をとらえたかと思えば、次の瞬間に彼は首を締めあげられていた。少なくとも真尋が認識できるだけの速度ではなかった。彼女が伴っていただろう衝撃波が真尋の身体を襲う。うめき声をあげるが、それさえ眼前の、おそらくべータが変質しただろう彼女の万力は許しはしない。ぎり、ぎりと、骨さえきしむ音を上げながら、その手は真尋の息の根を止めにかかっている。

 

「――――ッ、ッ、」

『目的、排除。対象の、殺害。自意識、不要。命令違反、懲罰』

 

 おおよそロボットもののテンプレートのような展開だ、と現実逃避したい真尋だったが、徐々に失われる酸素と止められた血流とが、真尋の意識を奪う。さすがに今度こそ死んだか、と思いはすれど、しかし何か、真尋は違和感を抱いた。決まっている。ニャルラトホテプである。

 幸か不幸か、真尋の運命はかつてほぼかの邪神―――嘲笑う世界終末の獣、這い寄る混沌の掌の上にあったはずだ。だというのに、かの存在が、たかだか「自身の化身した」姿が破壊されたくらいで、こうも自分が手にかけた真尋を放置しておくものなのだろうか。否だ、と断言できる。真尋にはその確信があった。少なくとも、たった2日くらいしか実際に顔を合わせたことはなかったものの――――しかしかつて真尋を守った彼女のことを、真尋はそれこそ、最愛の相手であるかのように信じていた。いや、事実、恋していたのだから世話ない。嗚呼、断言してやろう。この八坂真尋は、たとえ騙されていたのだとしても、二谷劉実に惚れこんでいたのだと。

 だからこそ、そんな相手が何一つ対策を講じず、己をこんな状況に追い込んでいるはずはないだろうと。これはそういう違和感だ。

 痛みで意識が薄れゆく中、しかし、なぜか違和感を抱いた瞬間から、真尋の首が締まることはなかった。うっすら目を開けてみれば、眼前のベータの口が中途半端な開き方で止められている。いや、そうじゃない。視線を見回せば、周囲一帯、爆発で燃え広がっているはずの建物も、その火の揺らめきが中途半端な状態で固まっているではないか。

 何がおこったのだと。まさか星辰が正しい位置について時間が止まり、かの海底に眠り神殿でも浮上したのかと、常人が聞けばかの正気を疑うこと必須な想像力が働き、妙な焦りを覚えたその瞬間である。

 真尋をつかむベータの手に、真っ白な少女の手が伸ばされた。それはベータの腕を軽々と、それこそ「水あめのようにねじ切る」と、真尋の首から腕を外した。

 地面に転がり、むせる真尋。そんな彼の眼前に、なんだかいつか見たような光景が存在した。

 

「少年、しばらくぶり?」

 

 赤いツーサイドアップの少女がそうにっこりと微笑み。

 

「――――お前、さすがに気づくのが遅いぞ?」

 

 銀の手袋を右手にした、金髪の青年が、真尋とベータの間に立ち半笑いを浮かべていた。

 

 

 

 

 

 




CVイメージ:
 ノーデンス(若):島田敏


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第五種接近遭遇(再)

 

 

 

 

 

「意外と出来がいいな、それ。――――行け」

 

 青年はそう言いながら鼻で笑う。と、ベータに向かって赤毛の少女が突進をかけた。瞬間、停止していた世界が元に戻る。足の裏から「ジェット噴射のごとく」火を吹く赤毛の少女と、それに巻き込まれ跳ね飛ばされたベータ。唖然とする真尋に、青年は肩をすくめる。金髪、真ん中分け。額にはサングラスをした美青年だ。日本人らしい顔立ちではない。右手には銀色の手袋をし、全身は季節感など無視した黒コートである。まあ北の大地住民である真尋からすればそこまでおかしな恰好ではないが、思わず真尋は、「アンタ日曜朝のなにかの番組に出てなかったか」と問いただした。

 

「出てねぇよ」

「いや、それにしてはこう、右手のその動きとか顔の作りとか……。ほら、えっと、誰かに似てるって言われません? 三う――――」

「似てねぇって! 誰にも! いい加減、銛で刺すぞっ」

 

 額を右手の人差し指で小突く青年。と、その雰囲気というか、言動を辿って真尋はおおよその正体に行き着いた。

 

「あ、アンタ……、ノーデンスか?」

「言わなくても分かるだろ。まぁ、急ごしらえでガワだけ取り繕ったから、戦闘能力はほとんどないと言って良いがなぁ」

 

 真尋が己の正体にぶち当たり、正気と狂気の狭間をさまよったその折。彼を助け、そして這い寄る混沌の目的を阻止せんが為立ちふさがった古き神の一柱。当時はナイスミドルなヴァンパイアハンターじみた雰囲気をかもしだしていたが、なるほどあれを若くすればこういったビジュアルにもなるかと、なぜか真尋は納得した。這い寄る混沌曰く、化身、自らの身を異なる形に窶す必要があっても、一度破壊されればすぐに完全な形での再生は不可能らしい。ノーデンスが老人姿であの戦闘能力を発揮していたことを鑑みるに、青年の姿というのが逆に不完全なそれなのだろう。いや、そんなことはどうでもいい。仮に目の前の相手がノーデンスだとするならば、一体彼は何を言った? 遅すぎる? 何が遅すぎるというのか。

 真尋がその疑問を問いただすよりも先に、ノーデンスは彼の左手を強引にとり、手の甲に何か文字を描くようなぞった。

 

「――――――――ッ!?」

「よし、これで契約更新は完了か」

 

 針で刺すような痛みを覚えて甲をみれば、一瞬そこに何かしらの文様が浮かび上がったかとおもえば、即座に姿を消した。意味が解らない。わからないまでも、真尋の想像力は、それが何かしらの儀式魔法の陣であることを読み取っていた。しかも、状況証拠からしてそれは一つの結論に絞られる。

 

「クトゥグアの契約を、俺に、移したとか、そういうことか?」

「やっぱり察しがいいな。微妙に違うが。厳密には『クトゥグア未満の座標』の契約だ」

「は?」

「ま、それはおいおい分かるだろ。お前なら特に何もなくアレを使いこなせるだろうしな。ただ多用はするなよ? お前がいくら規格外の構成で出来ていたとしても、所詮は人間なんだ。魔力なんて2発も打てば底をつくだろ」

 

 どうにも友好的というわけではないが、少なくともこのノーデンスの若い化身は、真尋と敵対するわけではないらしい。真尋はいぶかし気な目を向ける。そもそもこのノーデンスは、一度は真尋を殺しにかかった相手である。むしろ、今の状況は仮にノーデンスが真尋を殺そうとしたところで、邪魔者がいない絶好の機会だ。そうであるにもかかわらず、何故凶行に及ばないのか。そんな視線を受け、彼は嫌そうな顔をした。口をゆがめて「やめんか」と辟易する。

 

「正直心底腹立たしいが、こっちじゃ『アレ』と俺は休戦協定中みたいなモンだ」

 

 そういえばラブクラフト御大の原典的にそんな設定もあったな、と真尋。多少ニュアンスは違うのかもしれないが、どうやらそう大きくは事実と異なっていないらしい。

 

「おまけに肉体ごとならまだしも、『精神だけ』殺したところでバケモノ共の思う壺だ。それにまぁ、意外と俺の加護(ヽヽヽヽ)も上手いこと扱えているみたいだしなぁ。そこは評価しておいてやる」

「……精神だけ?」

「無視か。まあ別に大した話じゃないからいいが。って、なんだ本当に気づいてなかったのか。いいか? ――――」

 

 

 

 

 

 ――――――今いるこの世界は、お前の見ている夢だ。

 

 

 

 

 

 ノーデンスの一言に、今度こそ真尋は唖然とした。いや、完全に予想外だったといってもいい。一瞬思考が停止する真尋に、ノーデンスは半笑いをしながら続ける。

 

「現実のお前の身体は、『ちょっと』半死半生ってところだ。お前の学友とか『アレの化身』がついぞ傍にいて看病していやがるみたいだが、まあ状況は芳しくないわな。いっこうに意識が戻らんのだから」

「半死、半生……? いや、それはともかく。じゃあ何か、俺の精神は今、ドリームランドにでも居るってことか?」

正解だ(イグザクトリィ)。そして、目下絶賛『拷問中』みたいだな」

 

 そう肯定するノーデンスに、真尋は頬が引きつった。彼にとって非常に悲しいことに、現時点までの一連のすべてが直列でつながってしまったのだ。

 ニャルラトホテプが直接的に介入してこない理由についてはともかく、少なくとも真尋の精神を拷問するという目的であるならば、今日び、龍子惨殺にはじまった一連の流れは確かに真尋の精神に多大なる影響を与えていたといえるだろう。とするならば――真尋の想像力は、寸分たがわず真実にたどり着く。

 

「……つまり何か? 俺の精神をズタズタにした状態にして、その状態でこのドリームランドで、俺の――――『死者の書(アル・アジフ)』の力を振るおうとしたとか、そういうことか」

「なるほど。察しが良すぎるのも考え物だな。話していて気持ちが悪い」

「オイっ」

 

 しかしなるほど、確かにそういう事情であるならば――――取り調べの不自然さも、まるで真尋の精神を狙い撃ちしたかのように続く事件の連続も、頷けはなくはない。

 

「だとするなら、主犯格が誰かとかわかるかアンタ」

「知るかっ。だが、まあ推測できなくもないだろ。アレが干渉するのを『面倒がる』領域にお前の精神を封印するなんぞ、それこそ当人レベ――――」

 

 

 

 ――――ノーデンスの上半身が、次の瞬間消し飛んだ。

 

 

  

 遥か後方で爆発が上がる。ノーデンスの上半身、主に腹部めがけて、小型のミサイルが激突したらしい。なんだこの自由さは、さすがに真尋の夢であるとみるべきなのか。いやしかし、そういう事情ゆえにかあの小型メイドロボットとかいう訳の分からない存在がいても不思議ではないかもしれない。きっと真尋の夢だからだ。あんなもの実在するわけはない(編注:当人は知りませんが、この世界ではベータことベルテイン・プロトのような電動侍女型機械人形の開発が行われています)。そう現実逃避しながら納得する真尋の眼前で、上半身が消滅したと同時に下半身が氷の結晶となり、そのままぐしゃりと砕けて粉みじんとして消えた。

 

「っというか弱ッ! いや、ガワだけとか言ってたし仕方ないのかもしれんが……。っていうかちゃんと標準装備じゃねぇか、ミサイル、あのメイドロボ……」

 

 グロテスクな映像が目に極力映らないような配慮がされたかのごとき状態に、真尋は錯乱せず、ただただ「なんでこんなタイミングでだよ!」と半眼で、その「ミサイルを撃たれた」方角を見た。

 一言で言えば、真尋にはそれが視認できなかった。決して発狂するだの何だのして視覚からその存在を「消し去っていた」わけではなく、単純に早すぎるのだろう。爆発、熱風、衝撃波と炎の海がちらついたりと、その程度しか人間の認識には入ってこない。夢と言ってる割にこういうディティールが嫌に現実的ではあるが、ふとノーデンスの言い回しが脳裏をよぎる。真尋が現在、拷問を受けている――――。とするならば、たとえここが真尋の夢であるのだとしても、その夢の制御が完全に真尋の手にわたっているはずもないのか。

 だが、どうにもこの世界といえど、絶対的な物理法則そのものは存在するらしい。それは例えばリンゴを投げれば放物線を描き地面に落ちるというような、当たり前といえば当たり前の現象である。

 

『――――エラー、解析不能、解析不能。危険、危険』

 

 胴体、腕などからパーツの破片をまき散らしながら、地面に落下するベータ。エラーのアラートを続ける彼女と、それに対して余裕といった様子で真尋の目の前に降り立ったクー子。さもありなん、いくらベータが人間の技術の粋を結集して出来上がったスーパーロボットであっても、敵はときに星系の恒星にたとえられるほどの熱重量を誇る異形の神、その化身である。活動期の太陽にいくら鉛弾を打ち込んだところで、結果は火の目をみるより明らかであろう。いっそ哀れにも見えるほどに、ベータは抵抗できていなかったことが理解できてしまった。

 と、ふとクー子が真尋の手を取る。

 

「どうした? って、熱っ」

「少年、逃げたほうがいいかも。かこまれる」

「は? ――――っ」

 

 クー子の指摘を受けた瞬間、背骨の内側をムカデか何かが這いまわっているような、言い知れぬ不快感が走る。ただそれにより真尋の身体に異常が起きるよりも先に、クー子は真尋を立ち上がらせ、背中に抱き着き、やはり足から火を吹いて空を飛んだ。

 眼下に広がる半島。形状は鏡合わせになっているが津軽半島のようなシルエットをしていることがわかった。わかった、その一帯に何一つ建物がなく、またベータが倒れた付近から「うねうねと」、地面よりタール状の液体のような、見覚えのある何かが這い出た。それは一つではなく、複数の触手のような、粘液のような、筋繊維のような何かであった。

 

「とりあえず『出口を探す』のが得策。今は逃げ――――はうぅぅ……!」

 

 と、真尋を抱きかかえてジェット飛行するクー子が、得も言われぬうめき声をあげる。ちらりと下方、というか自分の首から下を見れば、きらきらと光り輝く、得体のしれない何かが口から流れ出ていた。それは強酸性の刺激臭と酸味を口一帯に広げ汚染し、なお己の身体を抱きしめる少女の手に容赦なくかかっている。どうも非現実的、冒涜的光景を前に正気度が減退するよりも、現状のこの据わり心地、乗り心地の悪さに乗り物酔いめいた状態に陥っているらしい。いや、その自覚が全くなく、具体的に言えば「肌の触覚がほとんどない状態」になっているのは、間違いなく一時的に発狂している状態である。というか、そのせいでおそらく昇ってくる吐しゃ物をこらえることもできずに垂れ流しなのだろうが。

 クー子はややうめき声に涙をにじませながらも、それでも「ん……、んん!」と健気にも真尋の身体を強く抱きしめ、そのまま遥か彼方、「鏡合わせになったような造詣をしている」北海道へと入った。暗がりでも陸地のおおよそのシルエットが認識できる程度には人の明かりが存在するが、しかしその建物の様相はおおよそ真尋が知りえるような造形をしていない。いや姿かたちは間違いなく真尋が知る街のシルエットであるのだが、明らかにその要所要所が、こうしてみれば異様なまでに「デフォルメ」されているというか。例えば入り口もなく、塀も適当、屋根と舎の境もなく、まるでそう「興味がないからこそディティールが全く成立していない」とでも言わんばかりの手抜き工事だ。これが仮に漫画的なつるっとした造形であれば現実感も薄いだろうに、否応なくコンクリートだったりレンガ造りだったりと実在の建物の材質をもってして成立している建築物である。そうであるが故に。真尋を本格的な、現実感の喪失が襲った。確かにこれは真尋の夢がベースなのかもしれない。なのかもしれないが、それにしたってもうちょっと何かあるだろうと、思わず頬が引きつった。そしてそれにより垂れ流されていた吐しゃ物が、背後のクー子の髪にかかる。「はうぅあ!? はぅぅ……」と悲痛な声をあげる彼女に、真尋は思わず「済まない」と謝った。

 やがて飛行していたクー子は高度を徐々に落とす。と、その先にはディティールの省略されていない建造物が一つ。なぜこれだけは左右反転した構造になっておらず、それゆえに妙にいびつに見えた。すなわち八坂家、真尋の精神にとっての安全地帯が一つである。

 真尋を下すと、クー子は「ううううう!」と絶叫しながら両腕とか髪とかを燃やす。主に真尋の吐しゃ物がかかった個所を消毒でもするかのごとく、洗い流すかの如く燃焼させ爆発させていた。当然真尋にもその爆風がかかり、げほげほと咳き込む。と、気管に胃液が少し入ったのか、地面に倒れこみ咳が止まらない。

 

「少年、何か私に言うことがあると思う」

「あー……。悪かった」

「わかれば良し」

 

 案外と普通の少女のようなリアクションをとっているクー子であるが、大本の神性を考えるといろいろと謎である。這い寄る混沌にいわく、化身とは本体がみている夢のようなものであるらしい。であるならばノーデンスが人間の精神を模倣する形で化身することが出来るのはまだわからなくもないが、言い方は悪いが太陽が人の形をとったところで、こういう人格を発生させられるのかという謎だ。魔法とかも存在しているらしいこの世界だが、おそらく邪神まわりのベースはSFチックな論理がベースになっているだろうと信じて疑わない真尋であった。

 が、それはともあれ。口を拭って立ち上がる真尋に、頭一つ半くらい低い位置からクー子の、何かを期待するような視線が投げられる。

 

「………………なんだ?」

「契約。あの、ひげの人から引き継いだやつ」

 

 若い方はひげ生えてなかったんじゃないか、という真尋の感想は置いておいて。

 

「すまんが主語と述語と目的語を明確にしてくれ。情報ゼロから理解できるくらいに俺は超人的な能力とか持ってない」

「? そう。契約。私の『火力』を使う代わりに、私のこの身体の維持に責任を持つ。そういう契約」

「……まさかと思うが、腹でも減ったか?」

「減った」

 

 何か作って、と言わんばかりの、きらきらした目を向けられ、思わず真尋はため息をついた。そんな悠長な暇などあるのかという謎はあったが、しかし真尋の直感が告げていた。少なくとも半日程度は猶予が出来たという確信が、彼の根本にある何かから受信されていた。それゆえか家の戸を開けクー子を招き入れると、家の時計をちらりと見てため息。外はあれほど真っ暗だったにも関わらず、時刻は午前十時半を示していた。いや、それよりも注目すべきは――――デジタル時計に示されていた日付が、それこそ「龍子が殺された日」から一日たりとも経過していないということか。

 

「……まあいい。リクエストあるか?」

「生ものの海産物は、飽きた。せめて加熱するか、さばいて」

「よっぽどだな、アレの食糧事情は……。とりあえずノーデンスよりは気の利いたもの出してやるよ」

 

 言いながら冷蔵庫を開けレタスをさばき、卵を茹で、スパム缶を開け火を入れる。トマトをスライスしてパンを軽くフライパンで炙り、ジンジャーとマヨネーズをベースにソースを作る。素早い手際でそれらをサンドすると、冷蔵庫の中にあったタッパーの「全く腐っている様子もない」シロップ漬けのリンゴを取り出して、デザート代わりに皿に盛りつけた。ミックスジュースを牛乳で割り、お手軽なハンバーガーとデザートを配膳。

 眼前に広がったそれに、クー子は目を点にした。

 

「…………カルチャーショック」

「どうした? カロリーはともかく栄養バランスは多少気を遣ってるが」

「カロリーは燃やせるから、無問題。すごく、料理してる」

「そりゃ料理だからな。ちょっと手抜きだが」

「これで手抜きとか言ってたら、世の大半の男子は憤死する気がする。いろどり綺麗」

 

 いただきます、と食事を開始するクー子を見ながら、真尋もハンバーガーを一つ手に取る。久々の自分の料理の味に、ひたすらレンコン攻めだった日々からの解放によって多少の感動を覚えつつ。真尋はテレビをつけた。そこに映る、カナダに「全身が炭化した大型のザトウクジラ」が流れ着いたニュースを見て。

 

「…………思い出した。そういえば、この話を暮井としてたんだな」

 

 そして真尋は、自身がこの世界に陥る前の「本当の」一日目を思い出した。

 

 

 

 

 

 



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神話的爆発物処理ごっこ

 

 

 

 

 

 昼休み、弁当箱を片付ける八坂真尋と余市健彦。「朝の授業、ちょっとわからないところがあったから先生に聞いてくる」と意外な勤勉さを発揮して教室を出る彼に軽く手を振り、真尋は己の座席に着席した。窓際、後方から数えたほうが早い座席で、隅っこの方ではある。教室でもさほど目立つことのないポジションといえばポジションで、真尋はそそくさと、バッグから新聞を取り出した。

 

「やっほー。八坂君、昨日のニュース見た? あれあれ、ザトウクジラが全身、骨まで炭化した状態でカナダに流れ着いたってやつ」

 

 と、そんな真尋の様子を真っ向から無視するような勢いの暮井珠緒である。新聞越しでもわかる声の元気さと、後頭部でゆれている結った髪をみて、しかし真尋はノーリアクションのまま紙面を見た。記事的に書ける内容が少ないのか、1スペースに圧縮するように、該当するニュースがかかれている。昨日カナダにて昼前後の時刻、珠緒の言った通り巨大なザトウクジラの死体が浜辺に流れ着いた。ただ死体が流れ着いた程度ではメディアで取り上げられもしないだろう、ということを考えれば、当然そこには不可解な点がある。が、しかし真尋はそれに思考を割くこともなく、別なニュースを目で追った。もっとも口は律儀に彼女との会話を継続するあたり、彼も変わっているといえば変わっていた。

 

「まあ、載ってはいるな」

「不思議だよねー、ミステリーだよねー」

「普通に死体が屍蝋化してたとか、それが燃えたとか、そういう理由じゃないのか」

「し、しろ……? 何いってるかわからないけど、体長三十メートル以上のザトウクジラだよ? 明らかに不可思議だよ、シロナガスクジラとかじゃなくてザトウクジラなわけだから」

「悪い、何に暮井が驚いているかさっぱりわからないんだが……」

「だって、クジラの大きさを比較したら、シロナガスクジラが最大で、次あたりマッコウクジラでしょ? ザトウクジラっていったらせいぜい二十メートル前後なくらいなんだから、明らかに大きいと思うの」

 

 だいたい三十メートル以上だったら下手するとシロナガスクジラも超えてるし、と、本気の本気で不思議そうな珠緒である。一方の真尋は新聞に顔を隠しながら、頬が引きつっていた。まかり間違ってもその原因に心当たりがあろうとは言いだすことはない。もっとも、ちらりと新聞の隙間から視線を横に動かすと、実行犯(?)とも言える彼女は、気持ちよさそうに昼寝をしていた。

 

「炭化も炭化で気持ちが悪いけれど、どうなんだろうね」

「一般的な哺乳類の骨を炭にしようとするなら、それこそ溶鉱炉とかみたいに千度超える温度帯にさらさないと無理だろ。けどまぁ、そういうのはどっかの学者がいろいろと理屈つけて『それらしい』結論つけるだろ。そんなことより、今年はキャベツの収穫減るかもしれないってさ。献立、色々考えないと……」

「し、所帯じみてるね、なんだか」 

 

 仮にも毎年一月近く両親が家を空ける(毎年新婚旅行に行く関係上)という珍事に見舞われてる真尋であるからして、それはもはや彼からすれば必然である。それはともかく、話題を逸らすことに成功した真尋は、地球温暖化がどうのこうのという話から、気が付けば政治の話に転換していた。

 

「だから、国会の答弁、なんかおかしい気がするんだよね、ちょっと揚げ足とってるみたいに感じるっていうかさ。この間の、派遣の法律のやつだって。みんな複数同時に話してるけどさ、なんか全然話が前進してなかったし」

「とはいったって、マルチタスクで作業するってことは、よっぽど熟達でもしてなければ作業効率が落ちるんじゃないのか?」

「え? あ、うん……、うん……」

「その分のパワー全部シングルタスクに注力すれば解決するかもしれない問題があって、なおかつそれがまあ、なんだ? 人道的に正しいことなら、やればいいんじゃないかと思う。個人的にあれって、『嗚呼、俺こんなに仕事こなしてるんだ』って達成感くらいじゃないか? 得られるものっていったって」

「言いつつ八坂君、私の話と新聞とでマルチタスクだけどね」

「そりゃ時間もないからな。昼休みは有限だし。誰か俺の代わりに、俺の記憶に新聞の情報を書き込んでくれるようなのがいれば問題ないが、人手が足りなかったらやらざるを得ないからだろ。効率の良しあしは別にして」

「あはは……。確かに効率は落ちるかな? 集中力もそうだし、実質作業時間が膨れ上がることに違いはないから」

「……まあそれでも、やらないんだったら、少なからずよからぬ思惑があるんじゃないかって勘繰ってしまうんだが、俺」

「でも、人間いっぱいあつまって話せば何かしら結論は出るんじゃないかな。まあ、女の子同士だと世間話の割合とか増えちゃう気もするけど……」

「はっきり言って、よっぽど規則でもない限りは、男が10人を超えて集まるグループっていうとロクなことを考えないと思ってる」

「すごい偏見だね!」

 

 というか八坂君の過去に何かあったの、と真尋の闇でも感じ取ったか、珠緒の頬が引きつる。なお真尋の脳裏に描かれてるそれは、複数の半魚人が彼を取り囲み何らかの儀式のために「いあ! いあ!」と輪唱する姿であるからして、一般社会のそれに適応されるかどうかはまた別なお話。

 

「まあ双方に良し悪しがあるからなんとも言えないが、少なくとも俺はそれを判断する立場にない。よって沈黙を選択する」

「選択されちゃうと、話ふった私の立場がないんだけど……。うーん、どっちが悪いのかな、その場合って」

「だから、なんでもかんでも二元論的に分析しようっていうのは、そもそも情報の取捨選択とか、分析が浅いんだよ。批判するにも、批判しないにも、必要なのは彼我双方の情報なんだから、できるかぎり冷静に、客観的に、相手の正当性を担保する情報も確保したうえで、それに対する反論を持ち合わせて、はじめてまともなコミュニケーションが成立するんだろ。お互いその状態までできる限りもっていって、はじめてお互いの不足分をとりあう議論が成立するんだろ。それさえできないのに、一方的に臭いものに蓋するように野次り続けたり追放したりっていうのが、そもそも間違ってるってだけで。何物にもまっとうな怒りとかって、あるだろ」

「そりゃ、まぁ……」 

「だから、語りえぬことには沈黙するしかないんだよ。沈思黙考して、熟考して、それでもできる限り素早く結論を出さなきゃいけない。試行が許されないところだからこそ、それを普段から想定して考える必要があるんじゃないのか?」

「んー、八坂君それが一般的な話みたいに語ってるし、私もそういうのいいなーって思うってるんだけど、世の中の人って八坂くんほどピュアじゃないからね、たぶん」

 

 ピュア? と頭をかしげる真尋に、彼女は首肯する。新聞を下ろしてみれば、くりっとした視線と正面から見つめ合う形だ。少し頭をかしげれば、彼女は何かこう、子を慈しむ母親のような、柔らかな笑みを浮かべた。

 

「それってさ、いうなれば綺麗ごとでしょ」

「王道だ」

「うん、だから、つまり理想っていうか、努力目標じゃない? 毎日忙殺されてる人たちに、そんなこと考える余裕はないって。たいがい今の自分の成績だとか、友達関係だとか、それくらいしか考えてないよ」

「ミクロ的にもマクロ的にも、両方失敗だと思うんだけどなぁそれ……」

「みく……?」

「あー、世帯とか個人の小さい視点と、行政とか司法レベルの俯瞰視点と、みたいな感じ」

「なるほど……」

「まあ、それはそれ、これはこれって言いたいのはわかる。実際、誰が何をどう重要に思って行動してるかなんてのは、ケースバイケースだしころころ変わるけどさ。でもまぁ、なんというか、そこはかとなく嫌な感触が残ってるのは事実だからな」

 

 他ならぬ俺自身がそうそう実行できてる訳でもないし。自虐的に笑う真尋に、珠緒は困ったような笑みを浮かべた。彼女にはわかるまい、というかわかられても困る。目下真尋にとっての悩みとしては、そう、沈黙こそすれどそこから先に一歩も踏み出すことができないでいるという現状だった。ちらりとみれば、未だ一つ飛ばして隣の机で気持よさそうに眠る二谷龍子がいる。真尋は一瞥するだけで、そこから何か思っていることに対して行動に移すことが出来ないでいる。それこそ沈思黙考し、結論は出ているのだが、次のステップに踏み込むことが出来ないでいた。

 と、視線を戻せば、珠緒が生暖かな視線を送っていた。

 

「どうしたんだ?」

「……別に。んー、『真尋くん』ってひょっとして、何か悩みとか、あったりしない?」

「いきなりすぎるが、別にないぞ」

「そう。ならいいんだけど」

 

 いまいち珠緒の意図が読めず、真尋はまたもや疑問符が浮かぶ。そして再び視線を新聞に落とそうとした――――。

 ちょうどそのときである。真尋の視界が一瞬、すべて赤く染め上げられたのを見て、とっさに周囲を見回した。珠緒はそのまま真尋にはなしかけているようだが、しかし、真尋が立ち上がり動いているのを認識している様子はない。とするならば――――真尋は経験則から、これがいわゆる、人払いの結界とか、そういう類のものであると確信した。数週間前に彼自身が遭遇したそれと全く同様といえるので、検証する必要もない。そして視線をいまだ熟睡するニャル子に向けた瞬間、思わず頬が引きつった。

 それは端的に言えば孔であった。空間を捻じ曲げて空いた孔、という表現は正しくない。例えば新聞でも強引に引き裂くように、無理やりベール状の何かを押しのけ引き裂いて腕を出した、といったような、そのような絵面だ。明らかに無理をしていることが如実に理解できる類の光景である。そしてその向こう、鈍い銅のような色をした、怪しくも機械的に、ウェーブ状の波打つような模様のあしらわれた、人間ならざる手が出てくるのを見た。

 それを見た瞬間、真尋はとっさに胸ポケットに入れておいた、プラスチック製のコンビニ弁当などにつけてもらえるフォークに手をかける。だがどうにも、その相手のモーションの速度に真尋自身の動きが追い付いていない。認識上はその一秒にも満たない時間が何倍にも引き延ばされた映像として再生されてはいるのだが、体がそれに対応することができず、ようやっと右手を胸の裏ポケットに入れるか入れないかといった段階だ。

 一方の穴から出た手は、握ったその拳を開く。指の本数はくしくも五本だが、しかし嫌にそのシルエットがあいまいだ。かろうじて人間の腕のシルエットに近いのはわかるのだが、まるで雪の結晶か。ホログラフィックのような映像の不安定さである。ただ開かれた手から出てきたそれは、明確な形状を伴っていた。

 それは手のひらサイズに入るものでありながら、赤青黄の三色のケーブルが巻かれた装置だった。表面には液晶画面で「03」の数字。側面には押下するだけのスイッチが取り付けられている。一見して得体のしれない何かだが、真尋の想像力は著しくさえていた。すなわちそれが爆発物の類であることを、一目見た時点で判断できていた。

 真尋の手がフォークをようやく掴み、内ポケットから引き抜いたその時点で、既にその光る腕は装置のボタンを押していた。とっさに真尋は教室の状況を思い出す。仮にフォークで装置を破壊したところで、内部の火薬燃料による爆発は避けられまい。そしてそれの被害を一番に誰が受けるか――――。

 腕が孔の中に戻り、消失すると同時に、教室を覆っていた赤い結界はその存在を消す。と、考えるよりも先に、真尋の身体は動いていた。それはあまりにも、普段の真尋からはかけ離れすぎていた行動だった。ただ同時に、のちに述懐すれば真尋本人からして当然の行動でもあった。

 椅子で未だに眠っている龍子。彼女の肩を突き飛ばした上で、机の上にあった爆弾を腹に抱え、フォークを振り下ろす。かち、かち、という音が止まると同時に、制御盤が大きく欠損したのか、内部にすくっていた「目玉のある炎」と視線が合った。

 

「――――――――ッ」

 

 瞬間、真尋の視界は突然ブラックアウトした。嗚呼、いわゆる軽い発狂状態だと真尋の想像力が結論を出す。明らかに小型爆弾の中にあったのは、何かしらの神性の眷属であろうものを、SANチェッカー(精神の保護装置のようなもの)もなしにいきなり直視したのだ。そして次の瞬間、真尋の身体は大きく吹き飛ばされた。熱と猛烈な力がかかり、また耳に轟音が鳴り響く。まず天地の感覚を失った真尋は、背中から地面に激突する。と、激突した地面が明らかに「変形した」。真尋の身体の吹き飛ばされた威力に耐えられず陥没した感覚がある。が、いくらなんでもおかしい。それほどの威力で激突したならば真尋の身体もただではすむまい。にもかかわらずただ痛みだけで済んでいるということは――――。1秒もかからず結論が出た。真尋の身体は再び空中に投げ出され、そしてそのまま鼻先から「地面に」激突した。

 

「て、天井だったか……」

 

 背中よりも体の正面、鼻、胸骨と局部の痛みを覚え、気絶しそうな痛みを覚える真尋。と、その真尋の暗転した視界が揺さぶられる。嗚呼不可思議かな、他の何も見えないというのに、彼自身をゆすっている彼女の姿が、夢野霧子を名乗っていた二谷劉実の姿が見える。否、劉実ではない。その背は小さく、制服を着ているのだから、それは二谷龍子であるべきだろう。

 

「ま、真尋さん……?」

 

 茫然としたように、口だけ不自然に微笑みでも浮かべてるような形で、彼女は目を丸くしていた。冗談ですよね、と今にも聞こえてきそうな具合である。真尋はとても珍しいものを見たという思いだ。あの、二谷龍子がである。その大本を鑑みれば、おおよそこの世のすべての事象を見透かしていてもおかしくない彼女がである。何だ、このまるで何も想定していなかったかのような、そんな様子は。

 

「アンタでも、そんな顔するんだな」

「――――っ、真尋さん、しっかりしてください、真尋さん!」

 

 思わず口をついて出た感想と同時に、真尋の全身から残っていた余力と感覚とが抜けていく。腕に力が入らず、口の押えも効かず、ただただ全身に妙な熱を覚えたまま。いつ意識を失ってもおかしくない状態ではあるのだろうと推測できるが、そんな真尋に、彼女は涙を流していた。

 

「やめてくださいよ、真尋さん――――それじゃ、そんなんじゃ、私が、私が生まれた意味がなくなっちゃうじゃないですか。私はここに、真尋さんのためにいるのに、これじゃ全く、なんでそんな――――もっともっと仲良くなって、それから、いっぱい、したいことも、やらないといけないことだってあるの――――」

 

 涙を流し続ける彼女の言葉、しかしそのすべてを認識するよりも先に真尋の意識は消灯した。

 

 

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 

 

「なんともいえない」

 

 朝食を終えて片づけた真尋は、クー子に自分が意識を失う直前の話をした。すなわち覚醒世界、この夢幻郷に至る前の事柄である。まずは敵だろう相手につながる情報を探ろうと、そして少なからず彼女とて邪神の化身であるのならば、それなりの知識を期待してもよいのではと言う判断である。が、実際のところクー子は断言することはなかった。

 

「なんとも?」

「いくつか、爆弾、というより、私に近い眷属を置いていったところに心当たりはある。空間に孔をあけた、というところ、意外とすくない」

「と言われたところで、こっちには推察するだけの情報ないんだが……」

「一つは、『惑星保護機構』。もう一つは『文明保護機構』」

 

 人差し指を立てながら、クー子は微笑む。どうでもいいことだが、見た目が十二、三歳程度の身長の低い女の子が胸を張って得意げになっている様子は、中々に愛らしいものがある。多少その光景で癒されたのか、真尋の感じていた連日の不快感は、わずかに和らいでいた。

 

「惑星保護機構は、銀河英雄騎士団。善き意志、善き知性を守ることを主とする、強大な星に仕える、天使」

「天使?」

「天使。ぴっかぴかの、ぼーぼーぼー!」

「アレもそうだったんだが、その擬音で俺に一体何を察しろというのか……」

 

 もっとも腕だけとはいえその姿を目撃したかもしれない真尋であるからして、おそらく背中に羽根を生やした中世的な人間の姿をしているそれではないのだろうと、おおよその推測は成立した。そもそも天使というカテゴリー自体「天の使い」という以上の意味あいを持たないので、人間世界から乖離すれば乖離するほどその姿かたちは異形さを増していく。このあたりクトゥルフ神話に近いものがあるかもしれないと、真尋は苦笑いを浮かべた。

 

「文明保護機構は、時空をかける知性。形に縛られず、色々な文化や文明を探して、学んで、そして保護する」

「時空ねぇ……。いわゆる”大いなる種族”ってやつか?」

「どストライク」

 

 前者についてはともかく、後者についてはおおよその正体に当たりをつけた真尋である。サムズアップをよこすクー子に少しだけ肩をすくめ、事実確認を続ける。

 

「整理すると、まあつまりだ。地球人じゃないどこかの組織が、アレ(ヽヽ)を殺すために爆弾を置いた、と。んーそうすると俺が今ここにいる理由がさっぱりなんだが……。どう考えてもアレを殺すって作戦と、俺を拷問するって作戦がつながらなさそうだと思うんだが――――って、何だ?」

 

 真尋の目の前に、にこにこ微笑みながらクー子が右手を突き出していた。「お小遣い頂戴」とでも言われているような錯覚を覚えはしたが、念のため確認する真尋である。

 

「少年、お駄賃」

「って、情報料とるのかよっ」

「とるとる。網目模様の甘いやつがいい。橙色のだとなおよし」

 

 どっちもないぞと、真尋は久方ぶりのようにさえ思える「脳に負荷のかからない」頭痛に、こめかみを軽く抑えた。

 

 

 

 

 

 



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神話的迷宮探索

クー子のかけたテレビのピアノリサイタル映像:
 「詩的で宗教的な調べ」第三曲


 

 

 

 

 

「はうぅぅ、甘いっ」

 

 運よく(?)冷蔵庫にしまってあったメロンゼリーで妥協させた真尋である。が、果たして運よくなのかどうかは定かではない。実際問題真尋の夢の中なので、こういうディティールが雑でよいところは突然ふって湧いた可能性もある。ともあれ満足したらしいクー子を相手に、真尋はインタビューを続けた。

 

「まあ詳しい話はともかく、なんで俺が今ここにいるのかってのがよく分かっていないんだが、何か情報もってないか?」

「関係ない」

 

 クー子はばっさりと言いつつ、テレビのチャンネルを変える。画面に一瞬「うー! にゃー!」なる奇怪かつ名状しがたくも媚び媚びしい歌声と、意味もないほどに宇宙規模の映像とが発されたが、かまわずザッピング。どこかのアーティストのピアノリサイタル映像で止め、真尋を無表情に見つめる。

 

「少年が死にかけてるのと、こっちにいるのは別問題らしい。たぶん」

「いや、たぶんって……」

「ひげの人がいってた」

「いや、ノーデンス若い方は髭ないだろって」

「?」

 

 そこで頭を傾げるなよと、真尋は疲れを覚える。いまいちコミュニケーションがちゃんととれているか心配になってくる真尋と、特にそういったことに気をつかっている様子のない少女である。困惑する真尋であったが、しかしノーデンス由来の情報ならばおそらく間違いはないだろうという確信があった。そしてさらに、「ひげの人が言うには」とクー子が続ける。

 

「別口」

「あー、つまりその、惑星保護機構とか、文明保護機構とかと別なところが俺をここに追い込んでると。まあ、だろうなって感じではあるが」

「でもどちらにしても、少年が自力で脱出するしかない」

「それもそうだろうが……。何かヒントとかないのか? 皆目見当がつかんのだが」

「出口があるらしい」

 

 出口? と問い返す真尋に、そう、とだけ返すクー子。やがて曲が詩的な宗教的な調べにさしかかると、それに耳を澄ますようにクー子は楽し気に目を閉じた。それはともかくとして、出口というフレーズと同時に、真尋の脳裏に電流が走る。確かに出口があってしかるべきではあるだろう。そもそも拷問とはいえど元は真尋の夢なのだ。真尋の夢であるということは、すなわち「邪神ヨグ=ソトスの眷属」の認知であるということだ。もともと元来、異邦、さまざまな場所、世界に接続されているであろうかの神、その「繋がる」能力を限定的に再現されたはずの真尋の存在であるならば、確かに時間概念にも干渉してそうなこの夢――――具体的にいえばどれほど過ごしても時計の針が一向に進んでいないあたり――――に、通常人類とは別な切り口で踏み込むことはできるかもしれない。問題としては。

 

「だからヒントがないのかって。出口があるっていう解答例じゃ証明にはならないんだぞ」

「少年なら知ってるって、ひげの人は言ってた」

「まあアレも大概、元をただせば人間的な価値観とかわからないような存在だったし、俺が察しきれるか切れないかっていうのに問題をかかえていても不思議ではないが……。だったら何のために化身したのかって話だし」

 

 そもそもの問題として、肝心のノーデンスの化身本人が登場から数分待たず粉みじんになったあたりからして、そこを問うのはナンセンスか。ため息をつき、真尋は現状の情報だけで意図を推察しようとする。

 

「要は、俺が現状知りえている情報だけで推理することが可能だってことか。その出口っていうのは」

「はい。あらん限りの常識と、豊かな想像力を武器にすれば、なんとかなるって言ってた」

「……ノーデンスがそう言ったのか?」

「?」

「いや首を傾げるなよ……」

 

 いや、もしかしたらもっと重要な情報とかをこのクー子は聞いているのかもしれないが、いかんせん真尋のコミュニケーション能力でそれが引き出せるかは別問題である。ただでさえ邪神な相手である上に、化身した姿が年端もいかない少女なのだから、真尋に勝手がわかるわけもない。そもそも女の子の相手は苦手なのである。そういう意味では、暮井珠緒は少々珍しいケースといえるのかもしれない。

 

「少なくとも俺の持ってる基本的な能力で正解を導き出せると。……直接解答を言われなかったのは、そこまでやってしまうと色々あっちにも問題が出たとかか。あるいは敵側が操作している夢の範囲だから、その分の音声だけ聞き取れなかったり、あるいは不都合にノーデンス本人が殺されたり……。後者だな、たぶん。実際、敵の名前を言おうとしてすぐ殺されたし」

「少年、頭いい」

「そうかい」

「でももっと早く結論を出さないと駄目。少年に残されてる時間は意外と少ない」

「は?」

 

 口調こそ変わらないまでも、声音の情緒は豊かなクー子である。それが珍しく真剣そうな声を出したので、真尋は違和感を覚える。

 

「少なくとも私と契約する前に、出口にたどり着いているべきだった。それくらい出来ないと、たぶんもたない」

「もたないとは」

「少年は、外部の情報に頼りすぎ。もっと自分の能力を信じるべき」

「意味がわからないって言ってるだろ、アンタも。何度も言うが、基本的に単なる子供なんだぞ? 俺。何か、じゃあそっちの言ってることが分かるくらいの狂気に、その知識に身をゆだねろとでも言うのかアンタらは。そんなもんは御免だね。俺は俺だ。人の平穏な日常を脅かさないでもらいたいね」

「脅かしてるのは別に私じゃない。少年もそれはわかってるはず。私に八つ当たりしても、私は受け止めない。そういうのはもっと別な相手にするべき」

「…………」

「それに、少年の存在がそもそも普通の人間でないのだから、その論理は根本から破綻している。いい加減腹をくくるべき」

「何を、覚悟決めろって」

「きっと少年が思っている以上に、少年の日常には日常じゃない何かが既に紛れ込んでいる」

 

 何を馬鹿な、と真尋は馬鹿にできない。実際、そういうことも考えなかった訳ではなかったのだ。龍子が転校してきた時点で、そのクラスへの溶け込み具合が全く違和感がなかった時点で。そもそも真尋自身の正体が正体であるのだから、色々と真尋の知らないところで、真尋の知らない悪意や何かの魔の手がまわっていても不思議ではないと。だがそれを気にしていては、彼自身正気を保てない。一時それを忘却することで、日常を確保していたにすぎないのだから――――。

 

「……止めよう。たぶん平行線だ。少なくとも俺は日常に帰りたい。それだけは間違いない。そのためにもまずはここを出る必要があるわけだが……、状況をもう少し整理しよう」

「うんうん」

「今のところ分かっている情報としては、相手方の動きと俺の夢についてだ。一つは、相手は俺を殺さずに発狂させるなり何なりしたいってこと。もう一つは、俺の夢は俺の印象に薄い部分は細部がかなり省略されてるってことだ。前者は今までの話の流れからおおよそ見当がつくのと、後者はまあ実際に見て回った情報からの推測だ」

「どれくらい省略されてる?」

「基本はシルエットとしておかしくない程度の造形になってた。ただ細かくは適当だと思う。……このテレビのチャンネルとかな」

 

 実際は録画ボタンやらなにやらがついているはずなのだが、真尋が手に取ったそれは電源ボタンと番号のボタンと、あとはなんとなく適当に色がついてボタン「らしき」何かがぺたっと張り付けられているようなビジュアルをしている。

 

「一つのものに対しても、ディティールの細かいところと、そうでないところがある?」

「まあそうだろな。……いや、待てよ。そういえばもう一つディティールが細かいのがあったな」

 

 真尋の脳裏に浮かんだのは、己が拘束されていた少年院なり監禁所である。あるいはベータという存在もだが、これらに共通する要素はかなり明白であった。

 

「――――相手が用意したもの?」

「嗚呼。俺の中に存在していなかった要素だが、そいつらについては嫌にディティールが細かかった。というか、俺自身が気づかない程度には現実の造形物と同じだったと思う」

「それが分かったのに、なんの意味が?」

「少なくとも相手が手を加えたものに関しては、一目で区別がつくってくらいだ。……まあしいて言えば、それが出口に繋がるかもしれないってくらいか」

「なんで?」

 

 ほとんど真尋の直感であるが、こういう場合において真尋の直感は真実を射抜いていた。

 

「相手が俺の夢に干渉するにしても、『干渉に使われる入り口』がどこかにあるはずだ。それはもちろん、もともと俺の認識の中にあるはずがない。必ずどこかに辻褄の合わない矛盾点が出てくる」

 

 真尋の脳裏には、例えばベータの存在がある。仮にあの衝撃的なアンドロイドが現実の世界に存在するものであっても、そんなものが存在するという認識が「真尋の中にあったわけがない」。少なくともこちらで初めて知り、衝撃を受けたのだ。とするならば、それはもともと真尋の中になかった知識を夢の中で新たに学習したに他ならない。

 

「そいつを見つけることが出来れば、とりあえずは合格点なんだが……。どうしたものか。とりあず、学校にでも行ってみるか」

「学校?」

「向こうの手が入ってるかどうかは解るだろ。少なくとも、俺がこっちで目を覚ましたのは学校で、その時点で違和感を抱かなかったんだから、それが俺の認知に『眠っている』からこそのバイアスがかかったものだったか、それとも疑うまでもなくディティールが現実のそれに準じていたからなのか、くらいは調べられるだろ」

「わかった。じゃあ、すぐ出る?」

 

 首肯する真尋に、とて、とクー子は足をついた。とっさに台所からフォークを数本持ち出し、下駄箱から運動靴を取り出す。

 

「……っていうか全然気にしてなかったんだが、アンタ、そういえばずっと素足か?」

「どうせ焼くから問題ない」

「いや問題あるだろ。痛くないのか?」

「慣れてる」

「慣れてるからいいってものじゃないだろ。ちょっと待ってろ……」

 

 下駄箱の奥を調べると、彼にとっては案の定と言うべきか、昔の真尋の靴箱が出てくる。それをいくつか探すと、中に小さなサンダルが入っていた。コメディ色の強い作風を全く感じさせない恰好の良い特撮ヒーローのイラストが描かれたそれを、とてとてと歩いてくるクー子に差し出した。

 

「とりあえず、これでも履いてくれ。多少はマシだろ」

「? きょうだいでもいるの?」

「いや。単に物持ちが良いだけだ」

 

 真尋が生まれる際に難産だった関係がほぼ直接の原因で、真尋にはもう弟や妹が出来ることはない。それ故に両親は彼を大事に大事にしているのだが、そのため彼の昔の物は結構な数家に現存していたりするのだった。このサンダルもその一つではあるが、まあそんな情報はノイズでしかないし、言ったところでこのクー子がそういった情緒を解するかわからないので、真尋は詳細説明を軽く流した。クー子は手渡されたそれを見て「はぅぅ」となぜか声を上げてから装着した。サイズ的にはぴったりであるが、ますます小さい子じみた印象を見ている相手に抱かせる様相となった。

 扉を開けると、足早にすすむ真尋とクー子。信号機のディティールがしっかりしている割に路上を走る車が低予算アニメのような様相になっているのに辟易したり、あるいは道を歩く人間がジャージ以外が某名探偵漫画の犯人さんのような有様になっているがそれはそれでホラーである。思わず頬が引きつる真尋と「網目模様……」と八百屋を前に視線をロックしたままだったりしたクー子。それはさておき、この道順もほぼ一直線といって過言ではないルート構成となっている。わきの細道やら何やらといった細かい部分についてはばっさり真尋の認識からは消されているらしく、夜道においてもあまり迷子の心配もなく、高校までたどり着いた。

 

「良かった。……いや、良くはないか」

 

 真尋の予想通りというべきか、学校のディティールは全く真尋の認知にバイアスのかかったような遜色もなく、当たり前のように学校である。学校の入り口の看板を見ても、正門にかけられた南京錠を見ても同様。ただ窓から見える教室の数か所に不自然に明かりがついており、それがいかにも「何か仕掛けがありますよ」と自己主張しているかのように真尋には感じられた。半眼であからさまに嫌そうな表情の彼の手を、なぜかクー子はとった。

 

「どうした、アンタ。……って、いや、暖かいな。カイロみたいだ」

「落ち着いた?」

「もともと別に混乱とかはしてないが」

 

 真尋の言葉に頷くと、クー子はさっと手を放す。

 

「とはいえど、ここまで来ておいて入り口が封鎖されて入れませんじゃ、色々示しがつかないよな」

「少年、登ったらいいと思う。別に問題ない」

「今更不法侵入くらいでガヤガヤは言わないけどな。俺の夢だし。ただ前提として、俺、そこまで体力ない」

 

 単なる帰宅部である真尋からして、懸垂一回でさえギリギリである。明らかに塀や門を越えようとするなら、それ相応の腕力と気合が必要なはずだ。残念ながら真尋にはそのどちらもない。いくら敵対者の手が加えられているような場所であろうとも、前提となる真尋の認知というか、科学知識、物理法則が働いている世界であるだろうからして、さすがにそれをどうこうすることは難しいだろう。

 

「つまり、門がなければいい?」

「結論としてはまぁ、そうなるな」

「わかった。ちょっと離れてて」

 

 疑問符を浮かべる真尋だが、いや、すぐさま彼女が何をやろうとしているかについて推測が立ったので、言葉通り彼女の背後に回り、数メートル距離を置く。と、クー子は門の鉄さくを両手で握ると、「はぅぅぅぅぅ……!」と気合でも入れるように声を上げた。

 変化は数秒も経たずに訪れた。まず彼女が手に持っていた個所が、夜目にもわかるほどに爛々と赤く灼いた。さらに時間をおかずその光は門全体を覆い、やがて何かこらえきれなくなったかのように「木っ端みじんに」爆発した。

 

「……いや待て、最後のがおかしい。熔けるならまだしも何で爆発したっ」

 

 おおむね相手がクトゥグア、火の神性であるのはわかっている故に「熔ける」までは想定しきっていたが、最後の最期で爆風に煽られ、わずかに目に熱風のダメージを負う真尋である。目を抑えてうずくまりながら、思わずクー子に文句を言った。半魚人を目視して気絶していた初期の真尋からしたら大した成長ぶりであるが、いや、確かにこういった物理現象に近いものの方が正気度の減少は少ないのだろう。大してクー子は「ノリ」と答えた。

 

「ノリ?」

「ノリ」

「いや、全然説明になってないんだが……」

「溶かしきると手がべたべたするから、ふっとばした」

 

 そういえば真尋の吐しゃ物も燃やして爆発させていたか、と思い出す。どうにも手でも洗うようなノリで爆発を使っているのではないか、と真尋は訝しんだが、要件は達成できたのでこれ以上の追及はしなかった。目薬を取り出して両目に点眼し、見るも無残に破壊されつくした校門に苦笑いを浮かべる。そのまま警備員が出てくることもない校庭を抜け、校舎の中に入る真尋とクー子。なるほど確かに、実際のところかなり省略されていてしかるべき下駄箱にも一つ一つ名前が明記されているからして、このディティールは明らかに夢としては異常だ。

 

「長谷部、秀太?」

 

 と、そのうちの一つの名前を見てクー子は頭を傾げる。背後からその、なぜか上履きが存在しない下駄箱を見て、真尋はおや、と疑問符を浮かべた。

 

「どうした?」

「なんでもない。……シュータくんが居る? いてもおかしくないけど、変な感じ」

「いや、だから意味がわからないんだが……」

 

 もはや本題ではないのと、メロンに目が釘付けになったりするような彼女の性質からして、おそらく真尋にはよくわからない何かの情報をキャッチでもしたのだろう。したのだろうが、追及したところでまともな返答があるかは怪しいので、彼はクー子の手を引いて先行した。

 そして数秒と経たず、先行したのが失敗だったと気づいた。

 

「いやいやいや、ちょっと待てって……」

 

 声を潜める真尋の眼前には、大量のゲル状の何かが存在した。いや、存在したという形容が正しいかはわからない。ただタール状の茶褐色をした、ぶつぶつとできものでもあるようなその軟体とも液体とも個体とも言い難い皮膜の集合体のようなそれぞれは、一階の廊下全土にまるで雑魚寝するかのごとく、大量の塊として堂々たる風に鎮座していた。

 

「これ全部ショゴスか……? いやいくら何でも多すぎるだろ」

「? 少年、なんで私の頭を撫でる?」

「特に意味はないが、こうしてないとなんか、正気が消し飛ぶような気がする」

 

 そして突然クー子の頭を「いい子いい子」とでもいわんばかりに撫でまわしまくり始めた真尋。妙にさらさらとした少女らしい髪のつやと質感に癒される彼である。「少年、それはすでに狂気」と、冷静に現状の真尋の状態について本人から指摘が入った。

 

 

 

 

 

 




※現在の真尋は一時的な狂気で「異常な髪フェチ」と化してます


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神話的全員行軍

 

 

 

 

 

 ふと我に返り直前までの行動の意味不明さに頭を抱えるも、真尋は思考することを止めていない。ただただ眼前の、致命的にどうしようもない光景を前に、それでも打開策を練ろうと――――。

 

「いや無理だろ、この状況でスニーキングミッションとか出来るわけないって。高校生なめんなっ」

 

 早々に潜入やら忍び歩きを放棄した真尋である。いや、確かに彼が直感するまでもなく、足の踏み場もないほどのショゴスの山を前にそんな余裕めいたことなど出来るわけはないのだが、いささかあきらめが早い部類である。単に眼前の光景を長時間直視したくないというのも、そこには含まれているのかもしれない。そしてそんな真尋のリアクションにも何一つ反応を返さず、不思議そうに見上げるクー子であった。

 

「階段はだめ?」

「さっきちらっと見た感じだと、あっちもあっちで駄目そうだったが……。どっちにしても、何がトリガーになるかわからない以上、調べる必要が――――Mad World?」

 

 スピーカーのノイズ音が真尋たちの耳に届く。数秒もかからずに校内全体にシンセサイザーが響き渡った。真尋が口にした、古い海外の曲をベースとしたアレンジメロディ。何かの連絡などに使われるような具合に調整された、その割に妙にもの悲しいそれを聞き、そしてぴくぴくと眼前の物体たちが脈打ち始める。それはタール状の液体からうねうねと複数の黒いムカデかワーム状の長い胴体を形成していく。そしてそれらが蠢きながら、まるで人間が直立したようなシルエットに集まっていく。あくまで人間に擬態しているのではなく、ワームの集合体という姿だ。シルエットの細部はどう見ても繕いきれない程に正気の世界の代物ではなく、また生理的な嫌悪もあいまって、真尋はその場に体が根を張ったかのように固定された。ただただ夥しいほどの恐怖が真尋の全身を縛る。

 ただそんな真尋の手前に立ち、クー子は右手を振り上げる。よくみればその右腕は既に何かしらの異形と化していた。手の甲には目玉のような文様が浮かんでいる。肘関節近くからは雄牛の角のようなものが左右に這い出ており、腕自体は既に「プラズマ化でもしているのか」炭化した骨のシルエットと、既に輪郭が崩壊しかかっている。そのまま彼女は、勢いよく右腕を振る。神々しく輝いていた右腕の、その骨以外の個所が剥がれ、というか勢いに乗り吹き飛ぶ。右ひじから下は角の生えた黒々とした骨のみが残る状態となる様もかなり酷いものがあったが、しかして飛び散った腕の肉だったろう何かしらの物体の威力は絶大である。一瞬で眼前すべての光景が一切合切光と共に灰塵と化し、真尋はさらなる恐怖に固まったまま背中から倒れて、なお動くことが出来なかった。しゃがみこみ、真尋の頬をぺちぺちと軽くたたくクー子。よく見ればその右腕は何事もなかったかのように回復しており、先ほどの光景が未だ彼女の本領の欠片も発揮していないことがうかがい知れる。こと火力、破壊力のみに関して言えば最強クラスの化身といえるかもしれない。いえるかもしれないが、再生した手だろうその右手のひらは異様に熱かった。

 

「って、いやいやちょっと待てって……」

 

 いろいろと事態が連続したせいか一気に正気を取り戻した真尋だが、その眼前、校舎の状況はなんともひどく形容しがたい有様だった。壁や教室、窓などについては木っ端みじんと吹き飛び、基礎もその存在した痕跡すらうかがわせないありさまであるというのに、どういうことか廊下と階段のパーツのみ、まるで何事もなかったかのように堂々と鎮座している。もとが真尋の夢なのだから何でもありといえば何でもありなのだろうが、しかしそれにしては色々と物理現象に喧嘩を売っている。我がことながら内心で突っ込みを入れる真尋であるが、しかしそれと同時に、この光景についての説明がついてしまった。

 

「……そうか。夢の中でもより存在が強固ってことは、それに紐づいている別解が存在するってことか」

「?」

「あー、つまりだな。そもそもここが夢の世界だっていうなら、俺自身がより詳細に知っているとか、より重大に感じているものに対してイメージの強度が担保されるだろう、っていうのはわかるか? この場合の強度っていうのは、ディティールの細かさとか、あとは物理的な強靭さも関わってくる」

「それで?」

「だからこそ、よりディティールが細かいところが怪しいとにらんでいたんだが……。総合すれば、その中でもさらに強度が強いところっていうのは、つまり俺以外の相手のイメージの強さが影響してると考えられる。学校そのものにそこまでの強度はないだろうからな。とするならば、この階段の上を辿っていけば、ゴールって言っていいか分からないが、少なくとも目的とする何かにはたどり着く、かもしれない」

「少年、弱気」

「仕方ないだろ、前例も何もないんだから」

 

 人をそんな、なんでもこの世に起こることすべて己の掌みたいな神様と同列に扱うのは止めろ、と真尋は心底真剣な声で言った。クー子は興味がそこまでなさそうに「わかった」とだけ返すと、真尋に肩を貸し立ち上がらせる(厳密には身長の関係もあるので、一度膝立ちを経由するが)。ともあれクー子は、真尋の言わんとしていることをある程度理解したのか確認してくる。

 

「じゃあ、これから学校、燃やす?」

「…………いや、止めておく。強度が高いのは確定なんだろうが、たまたまアンタの火力で燃え尽きなかっただけかもしれないし、どれくらいの威力に耐えられるかなんて見当もつかん」

「そう。……お腹すいた……」

 

 ぶぅ、と少しだけ頬を膨らませ、不機嫌そうなクー子である。ひょっとしたらだが、彼女の燃焼能力は文字通り、供給されたカロリーを燃焼しているのかもしれない。もっとも「網目模様……」とか金額的に不穏なことをつぶやいているのが真尋の耳に痛い。決して真尋に落ち度があるわけではないが、彼がそもそも邪神に頼っていること自体弱みといえば弱みであるし、クー子の趣向はなかなかに財布をえぐってくる。

 

「もっと火力を抑えて戦うこととかって出来ないのか?」

「少年、面倒」

「そこをなんとか、本当に……。ほら、帰ったら何か作ってやるから」

「……少年の料理、意外と美味しかった。わかった、今日は任されとく」

 

 ぶい、とピースサインを突き出してくるその様は、場と状況の緊張度合いに似つかわしくないくらいゆるい印象を真尋に与えた。彼女の見た目もそうなのだが、その能力がそもそもあまりにも物理的に強すぎるのが原因の一端か。ここに来てからの経験によって軽くトラウマになりかけているショゴスに対して、まったく妥協と容赦のない殲滅を繰り出す様は、圧巻とか爽快とかを飛び越えて疑問符しか浮かばない。「はい?」とか「今何がおこった?」とか、その類の現実逃避の疑問符である。

 そしてそれ故にか、真尋は階段を上る際に警戒が緩んでいたのだろう――――珍しく、本当に珍しく彼の直感が危機を煽らなかったのだから。

 

 

 

「――――――」

「っ!?」

 

 

 

 真尋がその音を知覚した時点で、既に色々と遅かった。いや、音と言うのは正確ではあるまい。声、呪文のような文章の連なりであるが、しかし真尋が知りうる限りその音は彼の知覚に該当しない。該当しない以上それは「死者の書(アル・アジフ)」に連なる系統から外れる類の呪文であるということだが、それはともかく。瞬間的に視界すべてが真っ白な光につつまれ、真尋から聴覚が失われた。いや、それはあまりにも大きな音と、強烈な、破壊力をともなう光だった。決してクー子が行っているような、熱エネルギーを基礎とするものではない。純粋な光エネルギーが破壊力を伴って放射されたのだ。

 真尋の視界が徐々に回復すると、そこには頭部から雄牛の角めいたものをはやしたクー子が、真尋をかばうように眼前に立っている姿が最初に見えた。次に突き出された両手、その先に赤い円形のバリアのような壁、その隙間から見える、クー子の破壊と異なり「元から何も存在しなかったかのように」消し飛ばされた校舎のパーツと、未だ残存する階段と三階の廊下。

 やがて音が回復するころには、真尋は上空にたたずむ相手の存在を視界に入れた。

 それは端的に言えば騎士だった。銀色に鈍く輝くそのシルエットは中世騎士の大柄な甲冑のようであり、しかしその様態はどう見ても華奢な女性でも中に入っていそうなくらいには細い。そんなシルエットが翼をもち、また右手に光り輝く突撃槍を構えているのだから、いよいよもって真尋の夢は世の限界を超えている。アンドロイドの登場の時点でも既に相当だが、このファンタジー感マシマシの有様はいかんともしがたい。

 

「ヴァルキリー? ……まあ幻夢境だし、少年が拷問される前に目撃してもおかしくはないか」

「は? いや、っていうかヴァルキリー?」

「はい。ヴァルキリー。評価値とか知らないけど、間違いなく戦乙女」

「ひょ……? いや、北欧の戦乙女ってのはわかるんだが、なんでそんなものが俺の夢の中に……? って、いや、そこはなんとなくわかった」

 

 おそらくだが、まさに真尋の危機察知能力を発動させないためのトラップとして、真尋のイメージを媒体に作られたのだろう。実際、クー子が動いていなければ「じゅわっと」蒸発していただろうことは確実である。

 そもそも戦乙女、ヴァルキリーとは由来を北欧神話にもつ存在であり、概略だけ搔い摘めば「英雄の魂を回収することを専門とする天使」のようなものである。確かにクトゥルフらしさは欠片も関係をにおわせないが、まあここの立地――――現世における「地上の神々」が緊急避難的に住んでいるこの場所でならば、目撃していてもおかしくはないかもしれない。

 真尋のその予想が真実かどうかはともかく、クー子はいつになく真剣な声を出す。

 

「敵もきっと、あれが最高戦力。少年、さすがに私も負けるかも」

「マジでか? 今までの状況を見てるとそうでもなさそうだが……」

「少年が私を『詠唱して』使えば余裕だろうけど、そのかわりたぶん少年も巻き込まれる」

「だったら使わない方が賢明か……」

「というわけで足止めするから、少年は先に行くべし」

 

 頼むと頭を下げると、やはり得意げに「ぶいっ」とピースサインを突き出すクー子。挙動の一瞬一瞬は完全に小さい女の子そのものだが、ことこの状況に至っては頼もしい限りである。背を向け真尋は、いまだちりちりと音を立てつつも全くの無傷の、強度だけ残る階段を駆け上る。

 

 真尋が3階廊下に立つと、その瞬間に奥の教室の明かりが点滅する。まるで真尋に「こちらに来い」とでも言っているかのような様に、不思議と彼は苦笑いが浮かぶ。やがてそれを何度か繰り返し、目の前には真尋たちのクラスの教室。ついに消灯しなくなった教室こそが、この学校においてなにがしか仕掛けられているものなのだろう。真尋は家から持ってきたフォークを取り出すとおそるおそる扉に手をかける。少なからずクー子が戦闘中である今、戦えるのは真尋本人のみである。もともとの振り出しに戻ったと言えるかもしれないが、しかしてその先にショゴスがいないことを祈りつつ、真尋は扉を開け――――そして、絶望した。

 

 

 

 

 

 

「まひ……、ま……、」

「――――――っ、そういうことかよっ」 

 

 

 

 

 

 眼前の光景に、真尋は納得と同時に猛烈な自殺衝動にかられた。その場には誰もいなかった。ただただ椅子と机と、見覚えのあるような教室があるのみだった。――――そこに倒れる龍子の死体を除いて。

 そして、その死体の有様をみれば、なぜあそこまでショゴスが闊歩していたのかという事実にも説明がつく。まず最初に目につくのは切断された龍子の首だ。切断面から奇怪な緑色の粘液をまき散らす人間の右手めいた物体をはやし、頭を側面に向け引きずるように蠢く。周囲を見回すためなのか、上方、つまり頭の左側の目玉だけが「伸びて」、くるくると周囲を見回している。それは既に首単体で別な生き物と言っても過言でない有様だ。おまけに胴体は胴体で服を中心に亀裂が走り、強大なタコのような、と形容できるシルエットへと変貌していた。

 真尋は龍子のその姿を見て確信した。真尋のこの夢に出てきた存在は、クー子やノーデンスを除き「すべからく」ショゴスであったのだと。だからあれほどの数が存在したのだと。真尋をただ狂わせるために、彼の体感において数か月もの間、ショゴスたちは一種の茶番を演じていたのだ。さらにこのショゴスはクー子と同様に真尋の夢の中に召喚された本物のショゴスであるのだと。

 だが、そんなこと真尋にとってはどうでもいい。些末な問題だ。彼にとって一番重要なのは、ただただ眼前の彼女の姿と、己がそれに対して為さねばならないだろう事柄に関してである。

 

「俺に、アンタをまた殺せっていうのか……?」

 

 すべての希望が断たれたような声を上げ、真尋は膝をついた。眼前に蠢く龍子の首だったものと、胴体。既に双方ともにショゴスらしい挙動をしているが、しかして一方で元になった人物の個我を踏襲している。首はいまだ「真尋」と彼の名前を呼ぼうと、まるで生前最後の言葉を繰り返し続けている。だが真尋にとっての問題はそこではない。そもそも真尋は龍子と「積極的に」交渉を持たなかった。彼にとって二谷龍子という人物は、意外とその人格を知らない存在なのである。にもかかわらず夢の中に投影されているとするならば、それは必ず、誰か別に元になった人物がいるはずなのだ。それが誰かなど、真尋が今更思い出すまでもない。二谷龍子の姉である、彼女。結局最後まで偽名を名乗りとおした彼女。真尋の恋した彼女――――。

 その成れの果てを殺せというのだ。いくらこれが夢の中であっても、それがたとえ真尋のイメージによって構成されたそれを模したものであるのだとしても。もう二度と会うことができないだろう彼女を前に、真尋がどうこうすることが出来るわけはない。

 真尋の精神は折れていた。こと、この夢の中で龍子の首が落された時点で。彼自身が思い出すことを拒否した記憶、すなわち二谷劉実の首が。無理やりねじり切られたかのごときひしゃげた、顎が物理的に千切れかかった、驚愕に見開かれた白い、あの頭が―――。

 そんなものを思い出したら、もう二度と真尋は立ち上がれまい。だからこそ、それを怒りに変えていたというのに。こんなものを今更見せつけられれば、嫌でもそれを重ねてしまうではないか――――!

 

「まひろ、さん、にげ――――」

「――――っ」

 

 嗚呼、そしてこれもまた果てしなく彼にとって救いがない。例えショゴスが変態した姿であったのだとしても、その踏襲された人格そのものは、生前の彼が知るそれでしかないようだ。珠緒や健彦を例に考えてみても当然といえば当然か。少なくとも殺された時点で真尋には違和感の欠片も存在しなかったのだから。それはつまり、踏襲された人格は人格で、本人がいたら為すべきことを為しているに過ぎないのだ。

 とするならば、眼前の彼女はいかにその根本が異なれど、彼女に他ならない。乾いた笑いが漏れ、真尋は膝から崩れてうつ伏せに倒れた。ひたひたと音をたて、首が、胴体が真尋に寄ってくる。伸びた左目だけが、真尋に逃げろと繰り返す彼女の意識とは別な生命体のように彼の現状を観察している。やがて胴体が開き、中央からイカかタコかあるいはクリオネのそれのような口のような器官が展開し、彼の左腕に伸びる。と、口部から黒いタール状の粘液を出し、真尋の左腕を覆い始めた。おそらくこのまま微動だにしなければ、真尋はあの珠緒のごとく取り込まれてしまうのだろう――――いや、それも元をただせばあちらもショゴスであったのであろうが。とたんに真尋はそれが不思議とおかしく、己の現状を嗤う。

 胸をかきむしる程の自殺衝動は、すなわち今までやってきたことが無意味であったと決定づけられてしまったことへの喪失感もつながっているだろう。真尋はここにきて、彼自身の見通しが甘かったことに気づいた。もしかしたらこの教室に、何かしら鍵と呼べるものはあるのかもしれないが――――最後の最期まで、真尋にとって最大の弱点ともいうべき彼女の存在が出てこなかった時点で、これを予想しておくべきだったのだ。なにせ本質的には無関係であるにも関わらず、似姿一つでこの様だ。ばかばかしくて自分自身を嘲笑うくらいしか、できることがない。

 

「にげ、にげ、て――――、まひ、ろ、さん、まひろ、さん、」

「……本物のアンタも、同じ状況ならそういうことを言ってくれるのかな」

 

 いや、状況次第ではきっとそんなセンチメンタルなことを言っていられないような再登場を果たすのだろうが、それでも真尋は、本物の彼女の首がねじり切られた後のそれを見ている。彼女の死に様を目撃していない彼が何か知ることはない。しることはないが、それでもなんとなく、自分を生かすために生まれたと豪語した彼女の面影が、眼前のショゴスに重なった。

 

「正直もう疲れたんだけどな。だけど、少しくらいは、何か反抗しないといけないよな。アンタに顔向けできない」

 

 自虐しながら、真尋は仰向けになりながら、右手にもったフォークを左腕に振り下ろした――――この時点で真尋は既に正気ではない。形式上の反抗として、「取り込まれつつある自分の左腕」を切断ないし消し飛ばそうとしていた。

 

 ――――だからこそ、そこで違和感を覚えた。

 

 振り下ろしたフォークは、確かに真尋の腕を貫通しているはずだった。実際、それだけの威力が放たれ、教室の床に刺さっている。にもかかわらず、真尋の左腕は全くの無傷であった。「腕をフォークが貫通しているのに」無傷である、という、明らかに夢だからこそ成立しうる矛盾がそこに存在した。

 

「……? いや、最低でも切り傷くらいは負うだろ、その気で振り下ろしたんだから直撃してなくとも」

 

 実際、真尋の持つ加護は破壊のみに特化しているそれであるからして、自分の人体を守る類の性能は持たない。自分のその加護を用いて自分に攻撃すれば導き出される結果は当然傷を負うはずだ。にもかかわらず、この現状は―――――。

 

 

 

「――――っ、そういうことかっ、聞こえるか!」

 

 

 

 何かに気づいた真尋は大声で叫ぶ。と、彼の脳裏に『少年、どうしたし』とクー子の返答が返ってきた。テレパシーの類なのかは知らないが、想像以上にクー子の性能はフィクションとかの神様らしいそれである。

 そんな彼女に、真尋は大声で繰り返した。

 

「俺ごと、殺せ! 爆発して燃やし尽くせ!」

『? それでは、少年が危険なのでは――――』

「それが答えだ。嗚呼どおりで知ってるとか抜かす訳だ、だがそんな問題じゃないだろこれっ。『基本条件は同じ』くらいヒントを与えろっていうんだ」

 

 教室窓の向こうでは、やはり人間には認識できないだろう速度と威力の、猛烈な戦闘が繰り広げられているらしい。時折光の柱や火柱が出現するのが見えるあたりからして、真尋は理解を放棄していた。

 既に左腕が自分自身のものでなくなりつつある現状を無視し、真尋はクー子に叫ぶ。と、左手の甲に猛烈な痛みが走る。見れば複数の陣形と重なり合ったような、五芒星をゆがめた形状のサインが爛々と輝いていた。

 

『別にいいけど、呪文が必要』

「呪文?」

『少年なら知ってるはずだって、ひげの人が言ってた』

 

 まあ知ってるだろう。知っていなければおかしい。これには真尋も一定の納得をしたが、しかし今の真尋がその知識を呼び出すことは難しい。初めて彼が魔術を使ったのは、這い寄る混沌自らの手による導きに従ってのそれである。彼自身が、彼自身の接続されているだろうかの魔導書に手をかけることは、難しいと言え――――。

 

「――――?」

 

 真尋の視界に一瞬ノイズが走る。そこには夢で見た誰か、赤いドレスをまとった美しい女性が真尋を見下ろしている。彼女がうすく微笑んだそれを見た瞬間、視界が回復し――――――。

 なぜか、本当になぜか、真尋は「クトゥグア召喚の術式」を理解していた。

 

「――――――いあっ」

 

 細かい詠唱など不要。神を限定する必要も不要。真尋の脳裏に浮かんだそれは、ノーデンスがかつて「深き者ども」を焼き払う際に使用したそれ、その原文ともいえる膨大な「魔法陣」。その認識のみをもってして、真尋は左手の甲にフォークを振り下ろした。

 瞬間、真尋の眼前にクー子が突然現れた。その彼女は全身を、いつか見たように人体の原型もとどめない程のメルトダウンを発生させる。以前と違うのは、そこから崩れ落ちることもなく、黒々とした骨のみを残し、体のシルエットを中心に淡い光が一瞬ほとばしり――――。

 

 

 

 真尋の脳回路は、文字通り『焼き切られた』。

 

 

 




校内放送で流れたBGM:
 Gary Jules 「Mad World」(シンセサイザーアレンジ)
 
次回からようやく幻夢境です;


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神話的探偵ごっこ

 

 

 

 

 

「――――少年、少年、おなかすいた」

 

 ぺち、ぺち、と頬に軽い痛みともつかないやわらかな威力を感じ、真尋は目を開ける。

 視界は真っ暗。体を起こそうとすれど、左腕に力が入らずバランスを崩し、再度仰向けに倒れる感覚がある。頭こそ打ちはしなかったが、倒れた背中の質感はコンクリートよりは柔らかく、しかし石づくり独特の安定感と冷たさがあった。思考が成立していない真尋だったが、程なくして視界がちらちらと明滅しながら安定すると共に、焼き切れていた思考回路がつながり始める。体感的には酷く気分が悪い。おそらく強制的にテレビの電源でも落としたようなものであろうと考える彼ではあるが、だからといって一度死んだ記憶まではそうやすやすと消し去ることはできない。だがそれでも、自身を覗き込むクー子に感謝の言葉を述べる程度には真尋は冷静さを取り戻していた。

 

「ここは……、見覚えがあるような、ないような」

 

 クー子に起こしてもらいながら、真尋は周囲を見渡す。暗所、薄暗闇に輝く巨大な文明の跡地を連想させるそれは、しかしいかんとも真尋のような人間のサイズを基準に考えれば大きすぎるものである。少なくとも真尋の前方数十メートル先に「はっきりと」見える階段の段差でさえ、ゆうに真尋の身長は越していそうだ。真尋の身長を基準に考えれば、少なくとも5倍以上の開きがそこには存在する。

 と、再び真尋の視界が真っ黒に染まる。ふと真尋は、おそらくこれは夢で拷問を受け続けていたことによって下がり切った正気度の影響だろうと判断した。いまだ左腕の感覚がないのも、ショゴスにとりこまれかけたのが直接の原因か。

 

「少年、見えてない?」

「…………、大丈夫だ、今は見えてる」

 

 数秒で回復した視界。自分の左腕の状態を見るために視線を下ろしていたのだが、復活した目によって見えた彼自身の服装は、ちょっと想定外のものだった。おそらく顔形そのものは変わっていないだろうが、服装が大いに異なる。それは根底を洋服の形式に合わせたものであるのだが、用いられている概念としては現代的なそれではなく、より古き時代のエッセンスを持ち、しかしかつ現代的な用法を前提としたデザインのものである。白いワイシャツのような形容に困る上着、外見の生地の厚さに反して異様に快適に動き回れそうな違和感を感じさせるパンツ。さらには首にはタイと形容するにはあまりに長く、しかしマフラーとするにはあまりに分厚くというそれが乱雑に縛られ留められている。

 

「物質的に俺、こっちに突入はしてないよな。とすると物質変換は起こってないだろうし」

「?」

 

 不思議そうに頭を傾げるクー子に、劉実だったらもっと良い感じのリアクションが返ってくるだろうと思わず苦笑い。彼女にそれを求める話ではないのだが、それでも確かに本人の弁の通り、真尋に不快感を抱かれない、というよりも真尋が接しやすい人格として成立していたのだろう。

 もとよりドリームランド、幻夢境とは「潜在意識に存在する」並行世界のようなもの、らしい。異世界、パラレルワールドと言うにはもっと観念的な要素も強く実在性もあやふやではあるが、一定のプロセスを踏むことでこの世界への侵入を可能とする。そもそもこのドリームランドそのものが、知性体の観念によって成り立っているような記述が散見されることからも、本来の意味での異世界、パラレルワールドとはまた別なものなのだろう。ともあれこちらの世界に来る際に、眠った状態で突入する方法と覚醒世界から直接突入する方法とがあるのだが、そのうち後者である場合、もともとあった物質世界のその恰好や装備が、ドリームランド基準の文明レベルにおちた状態の物体に置換されうるのだ。ゆえに服装が異なっていることに対して真尋はそう考えたのだが、しかしそもそも意識のない状態で、かつ夢の中と断言された以上、実態はおそらく異なるだろう。少なくとも、すぐさま答えが出る問題ではない。

 なお真尋はその情報を思い返し、どこか違和感を抱いてはいるが、少なからず基本として知っている情報は彼のリアルクトゥルフ神話知識に準じる。

 真尋は上半身を起こし、周囲を見渡すと、その場には夥しい数の得体のしれない物体が転がっていた。それは元はおそらく流動性のあるタールめいた液体のような半固形の有形生物であったろうことが想像できる有様をしていたが、しかし実態として転がっている死体めいたそれらの残骸は、やはり一目で生物という在り方に対してひどく冒涜的な姿かたちをなしていた。たとえば有形の物体と化しているうちの一体は大型の皮膜の内側に筋繊維を編んで作り上げられたような骨格を模した何かがあり、それが口を開いて牙を持ちうめき声でもあげているかのような形状にその穴を歪めており、また別な個体に関してはチープな映画のモンスターのような顎を持つ、頭の上半分がなくひたひたと液体が垂れているそれで胴体に関しては人体を裏返しにしたかのように内臓などがてらてらと光っており、しかし実際のところその内臓さえも末端のパーツに行くにしたがって部分部分が筋繊維のようなものが寄り集まって編まれたものであることが明らかであり、それらの正体が一律に同一の生命体であったろうことを容易に想像させた。

 真尋はそのディティールについて詳細を想像するよりも先に視線を逸らし、思考を停止した。夢の中ではついぞ不可思議なほどにまでできなかった現実逃避であったが、もはや生命の危機を直感するほどの猛烈な勢いで視線をそらした真尋である。そしてクー子がその視線を追って「全部死んでる」とぼそりとつぶやいた。

 

「……こいつら、夢の中にいた奴らか?」

「たぶん。ヴァルキリーとかはイメージの塊だけど、これとかは別」

「そうかい。……しかし、ドリームランドを一気に抜けることは出来なかったか」

「?」

 

 とりあえず逃げるぞ、と立ち上がる真尋はクー子の手を引く。不思議そうに彼の背中を見つめるクー子。真尋はそのまま、彼女が転ばない程度の速度で走り出した。幸か不幸か、視界は安定しはじめている。左腕が使えないことを除けば、意外と真尋の肉体(?)はダメージを負っていないらしかった。

 広がる世界は経済成長期のアメリカとバロック建築とをいびつなように合成したような光景だ。地平の果て、空の限界は地下の天井がドーム状にこの場所を覆っていることを認識させる空洞である。そして都市自体は真尋の知る見る限り、やはり人間よりも大きなサイズの生物種に合わせられた構造をしているように見えた。明らかに真尋にとって初見であるべき光景である。実際、彼に見覚えはなかった。

 だが――――なぜか真尋は、どこに向かえばよいのかという認識があった。

 

「どうした?」

 

 真尋が直感に従って急ぎ足で移動していると、クー子がどこか納得のいっていない表情であることに気づく。彼の問いに、クー子は「さっきの」とだけ返した。

 

「なんでアンタに俺を殺させたかって? ……いや、むしろ俺が謎なんだが。あれで予定ならドリームランドそのものから脱出できる手はずだったんだが……」

「なんで脱出できる。というか、そもそもなんで死ななかった?」

「あれは、たまたまだろ。七割くらいの確率だろうって思ってた賭けで、まあ、一応勝ったってだけの話だ。前提条件はいくつかあるが、代表的なのは二つだ。敵の行動目的と、夢で出来ることの限界だ」

「限界とは、どういう?」

「とりあえず順番通り説明するが、相手の行動を振り返ったときのことだ。そもそも俺を発狂させるために行動を起こしているのはわかったんだが、だったらもっと簡単に一度、夢の中で俺を殺してしまえばいいんだ。普通、自分が死んだとか、死ぬほどの痛みとか、それだけでも十分に精神的にすり減らされる。肉体が死なない以上、これは最高の拷問と言えるかもしれない。だというのに相手がそれを手段として使ってこなかったってこと。これが最初の違和感だ」

 

 敵の目的が真尋の精神をすり減らし、彼らの意のままに扱えるように弱らせるなり発狂させるなりであろうという推測が、ノーデンスと話した時点の真尋には思い浮かんだ。そこから逆算した結果、しかしだからこそ相手が真尋を殺しにかからないことに違和感が出たともいえる。

 

「まあ、確信を抱いたのはついさっき? ショゴスに取り込まれかかってた左腕に、フォーク振り下ろした時だ。あの時、俺の手に対して全くダメージが与えられなかったというか、ぶっちゃけ『手を貫通してるのに切断も何も発生していない』っていうか、ゲームのCGの当たり判定がないやつみたいなって言ってわかるか?」

「?」

「まあ、とにかく通常ありえない状態だったんだよ。で、そうまでして俺にダメージが入らないとすると、そこから考えられる結論は二つ。一つは、俺は俺自身を傷つけることはできない。もう一つは、相手は俺を傷つけることが出来るがあえて傷つけてない、もしくはデメリットがある。で、そもそもよくよく考えてみれば――――ドリームランドで一度死んだ人間は、二度とこちらに来られなくなる代わりに、現世で意識を覚醒するはずだってことを思い出した」

 

 あくまで書籍準拠の知識なので真尋としても半信半疑ではあったが、しかしそれに該当する方法で現世に帰ることが出来るということだけは、真尋の想像力は確信していた。それ故に上記2条件をクリアした状態で死ぬ方法として、彼はクトゥグアを使用することを決意した。

 

「とりあえずこっちには出てこれたが……。正直アレだな、二度と御免だね。思考が火でぶった切られるって、あんな感じなのかって思った」

「少年、その死にたくないって発想は、普通」

「だろうよ。……まあ、そこまで俺も発狂してなかったっていうことは喜んで良いのかもしれないが、どちらにしても夢の拷問らしきものからは脱出できたんだろうってのはわかる。なんであそこにショゴスが転がっていたのかは知らないが……」

 

 おそらくそれに突っ込みを入れ始めると、考えることを止めて保った真尋の正気が一気に削れるだろう故に、真尋はそこで思考をストップした。実際はおぼろげながら予想を立てられなくはないが、既にここは夢の中「ではない」、もう一つの現実世界だ。SANチェッカーさえ持たぬ人の身であれば、そこの運用は慎重に慎重を重ねるに越したことはない。

 ともあれ話している途中で、真尋は視界の端に触手めいたマゼンタ色に輝く何かが映ったのを確認して、前方に出るのを中断しクー子と共に隙間から前方を覗いた。そこには角を持つ毛むくじゃらの小柄な人間のような生命体、少なくとも文明や知性を持つことがわかる服らしきものを着用した何かが、手に形容しがたい銃のようなクロスボウのような槍のような道具を運搬しつつ、周囲に視線を巡らせていた。パトロールか何かだろうか、真尋はそれを見て一切の正気度喪失を負わずに、その視線がこちらからそれた瞬間を見計らい、側方の小道に走った。

 

「人間もどきっていうか、亜人種っていうか……。って、いや、明らかにさっきムーンビーストらしきものが見えたようなきがするが……。って、いや、おかしくないか?」

 

 咄嗟に逃げ出した真尋であったが、しかし情報を整理して違和感を覚える。先ほどの連中に見つかると何か危険であるということが真尋の中に確信としてあったものの、しかしそれに関連する種族は、つまり「ムーンビースト」ないし連中の奴隷であるところの「レンの人間もどき」ないし、それら共に這い寄る混沌に従属している生命体には違いない。であるならば本来ならば真尋に危害を加えることはできない、あるいは危害を加えうる可能性があるなら一目散に退散するはずであるが、ならばこの状況は何が違うのだろう。

 

「這い寄る混沌の気が変わって俺を取り込むことにした……、ならわざわざドリームランドまで出向いて色々やる必要はないだろうし。とすると、ムーンビーストには俺の知らない何かがあるってことか?」

「――――ッ、少年っ」

 

 ぐ、とクー子が腕を引き真尋の足を止める。次の瞬間、眼前にどさりと「何かが」落下してきた。それは明らかに真尋が本来なら足を踏み出していただろう場所におり、かつ振り上げた腕がまるで人間の首でも掴んでそのまま地面に背中から押し倒すような、そのような動きをしていたところまでは真尋にはわかった。この時点で、真尋はなぜこのタイミングで視界が暗転しないのかと心底思った。思ったところで実際視界が暗転すれば窮地そのものなので、まったくもって笑うことができないのだが。

 それは立ち上がる。姿はおおよそ三、四メートルほど。逆関節の足を持った白い胴体、しかし全体をみれば不思議と人間を連想させる。もっともその手足の先端が三十センチ以上の長さを誇る触手めいたそれであったり、全身に黒い刺青のような文様のようなものが彫り込まれていたりする。立ち上がった姿で見れば、頭部に該当する個所は女性人体のとある局所を思わせる裂け方かつ開口部からはドレッドヘアのごとくマゼンタ色に発光する紙のような舌のような触手のようなものが何本も垂れている。かつ総じて重量感を感じさせるその形態は、しかして本来のムーンビーストと形容するには違和感のある様相をしていた。

 

『――――――――』

「っ!?」

 

 開口部が更に開き、その奥から咆哮するかの声が聞こえる。と同時に、周囲からざわざわと蠢く音やささやくような声が聞こえる。明らかにその動きは真尋たちの存在を周囲に知らせる声に違いあるまい。と、眼前の巨体は巨体に見合わぬ速度で腕を振り上げ、猛烈な勢いで真尋たちめがけて振り下ろす。咄嗟に飛びのく真尋と、彼をかばうように前に立つクー子。クー子がその触手めいた腕を受け止めると同時に、彼女の足元の古代コンクリートの地面にひびが入った。

 

「な、な、ななな、な――――」

「エリート」

 

 ろれつが回らない真尋に対し、クー子は特に何も感想がないのか、淡々と言う。

 

「使徒。遣い。改造種。しいて言うなら月獣人(げつじゅうじん)――――はうぅっ」

「……そうかい」

 

 少なくとも真尋の持ちうる知識の外にある存在であることは十分に理解できた。おそらく本来のムーンビーストの強化された存在であるということはわかったのだが、しかしてそれ故に全く対策の立てようがない。このままぎりぎりとクー子が力比べを続けていてもそのうち相手の奴隷に囲まれるだろうし、そうはいっても真尋たちが直接この月獣人と戦って逃げきれるかというのも疑問といえば疑問である。既に両手を発火させて殴り合いを始めているが、相手は名状しがたい鎌のような何かを振り下ろして、クー子と互角の様子である。

 クー子、いや、クトゥグアを使うか――――。ノーデンスの言葉を思い出す真尋。真尋の場合、二回が限界と言っていたか。ならばもはやこの場において、使うなら今しかあるまい。真尋が懐を探ると、案の定というべきかフォークらしきものがそこには存在した。それは二股の、ややさびた金属の、かなり古い型のもののようである。ともあれそれを構え、だらりと垂れた左手の甲を見る。が、ちょうどそのタイミングで真尋の想像力は、とてつもなく嫌な予感を覚えた。ありていに言って、彼自身がクー子に焼却されるイメージだ。いや、確かに考えればこの場で使う以上それは必須で、かつクー子によって真尋が殺されるので現実世界に帰ることができるわけであるが、しかしそういう類の確信ではない、もっと根本的な死を予感させる直感である。そして真尋は気づいた。そもそもノーデンスは人間基準に合わせて物を考えることが不得手なのだ。だから人間の姿に化身して真尋の前に現れたのだろうとすると。そこから考えれば「二回は限界」という言葉の意味を、より深く考える必要がある。それはつまり「二回以上は撃てない」という意味ではなく「二回撃ったら死ぬ」という類のニュアンスだったのではないかと。

 

「どうもそっちが正解っぽいな」

 

 そしてその考えに一律確信を得て、彼は周囲を見回した。集まってくるそれらは、彼が今まで見てきたどの神性、どの神話生物の類と比べても彼の正気度を削るに値しない。あくまで人間のシルエットではなく、人間ベースの要素に獣の要素を足し引きしているからか。しかして周囲一帯を覆う数はゆうに二十は超えそうで、これくらいの数の存在が手に槍のようなものを構えている様は、狂気とは別種の命の危険を真尋に感じさせた。

 瞬間、真尋は考える。現状を打破する方法として一番最適なものは――――――。

 

「――――ッ、飛べるかアンタ!」

 

 月獣人と互いに異種格闘技戦のような有様となっているクー子に真尋は叫ぶ。と、クー子は首を「百八十度」回転させて後ろを向き「ぎりぎり」とだけ返し、また戻した。瞬間真尋はクー子の背後に無数の悪魔のような幻覚を見たような気がしたが、きっと気のせいである。しかし彼の叫びに何をしたいのかを察したのか、クー子は相手を蹴り飛ばして真尋の方に急いで駆けてきた。そのまま彼の身体を抱きしめ、耳元でささやく。

 

「今度は、吐かないで」

「……善処する」

 

 次の瞬間、彼女の足が「爆発した」。いや、以前から真尋も本当は察していたのだ、例によって彼女の足はメルトダウンするかのように発光し輪郭があいまいに消失しながら、そのすべての肉であったろう個所を燃料として発動し空中へ飛んでいたことを。が、しかしそこまで真尋の想像力は楽観的ではない。改造種、とか言っていた時点でこの程度、何らかの得体のしれない方法で対応してくるだろうという予想があった。事実、下方から「巨大なコウモリのような羽根をはやし」、月獣人は飛び上がりこちらに向かってくる。距離にして二十メートルはあるかないか。速度的には向こうの方がやや早いといえるかもしれないが、この状態でクー子に戦闘をさせることが無謀であることくらい、真尋も十分理解している。となると必然、右腕しか使えない真尋がフォークを構えて戦うことになるだろうという前提で、彼はそっと旧いフォークを取り出し――――。

 

「――――――っ、って、できるかっ!? ふざけんな、高校生なめんなっ」

 

 クー子の風圧に負け、手元からフォークがあらぬ方向に飛び去ってしまった。それは月獣人の身体にぶつかると、そのまま適当な方向に落下していく。武装が完全になくなってしまった真尋であるが故に、対応する方法が全くない。さすがにこの状況は完全に詰みといえた。

 ――――真尋の脳裏に頭痛が走り、一瞬、何かのイメージが映る。その実態をとらえるよりも先に、彼らの後方に「すすけた黄色い外套をまとった」何かが、月獣人を殴り飛ばした。

 

『――――――』

「――――っ」

 

 ちらり、とその頭まで被った外套から、赤い視線が真尋たちに向けられる。真尋の脳裏にはこの状況でこの場にいることの妥当性を無視して、既に脳裏には見たことも聞いたこともない戯曲が流れている。仮面をつけた王、黄衣の様相は間違いなく外宇宙が神格の一つであろうし、彼の正気度を削るものであり、そもそも真尋自身その戯曲を見たことも聞いたこともないのだが、どこからともなく彼の知識に入り込んでいる以上は死者の書に記載があるのだろう。ともあれ、そんな金縛りにあったような真尋の頭上で、クー子は頷いた。

 

「よろしく」

『――――』

 

 真っ黒な、五本あるトカゲのような指のうち親指を立て、背を向ける黄衣の何者か。それは下方から再び上昇してきた月獣人に向かい、飛び蹴りを決めそのまま街に落下していった。破壊された建物の破片が飛び散り、煙が上がる。

 

「少年、どっち?」

「……あ? あー、あ、ちょっと待ってろ」

 

 下方、未だ何者か覚醒世界にあってはならない異形の存在が対決を続ける中、真尋はこの地下空間らしき場所の全域を俯瞰して考える。ある程度の発展した文明がかつてこの地に存在したことを思い起こさせる場所でありながら、しかし町全体の構造はかなり区画割りされており、似たような風景が続く。土地勘のないものが一目見て、何をどう街の構造を把握できるかという話ではある。そもそも真尋がここに来たのは初めてであるのだから、あくまでも直感に従ってどっち、と指さすくらいしかできようはずもない。

 だが、真尋は頭を押さえながら、確信をもって指をさした。

 

「あの、緑色の棟のところに、後で」

「後で?」

「準備がいる。蜂蜜酒がいる」

 

 真尋本人は気づいていなかったが、その時、彼の喉から出ていた声は「普段の彼の声とは完全に異なった」それであった。

 

 

 

 

 

 




本作でのCVイメージ
 存在しないはずの記憶をたどる真尋:石田彰


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神話的接近遭遇

今回ちょっと短め


 

 

 

  

 

 真尋の指示に従い、まったくもって他の道同様の通りにしか見えない場所で降りるクー子たち。と、真尋はそのままあけっぴろげに開きっぱなしの扉の中に入っていき、奥の棚をあさり始めた。明らかに普段の真尋らしからぬ行動であり、さしものクー子もついさっきまでの様子と異なることから、いぶかし気な表情であった。しかし数秒も経たず、金属製の樽のような何かを引きずり出した彼は、それを引きずりながらクー子の元に歩いていく。

 

「開封する必要がある。あと杯替わりが……」

 

 頭に痛みを覚えているのか額を抑えふらつきながらも、しかし真尋は黙々と目的と向かう場所を口にし、それぞれの場所でおそらく適切だと思われる行動をとっていた。まるでそう、見知った、見慣れた、自分の縄張りとまではいわないがそれでも土地勘のある場所で動いているかのような、そういった効率の良さがあった。「後で行く」と真尋が指定した緑の塔の前に来る頃には、彼は背中に身長ほどある大きな棒と、表面に名状しがたい文様の彫り込まれたこれまた身長ほどある大きな瓶というべきか缶というべきか。内部にはありったけの黄系の液体が注ぎ込まれており、わずかに漂うアルコールの刺激臭が鼻をつく。なおそんな彼の懐には数本、古い型のフォークのような何かが発掘され装備されていた。

 ちなみに基本的に移動については、クー子が真尋と酒と両方を別個に抱えるという、なんともいじめのような構図であったことを一応明記しておく。

 と、そんな真尋の手元を見て、クー子は不思議そうに尋ねた。

 

「少年、なんでそれ?」

「どうした?」

「なんで、その器選んだ?」

「でかいからだったんだが……。何か、まずかったか?」

「だってそれ、中身入ってなかったけど、脳缶」

 

 真尋は思わず噴き出した。あまりの衝撃に手元のそれを倒し、その場で蹲って何度も咳き込む。さしものいささか正気を失っているような様子の彼であっても、クー子によって明かされたその事実はいかんとも受け入れがたかったらしい。多少落ち着きを取り戻し、缶? が割れていないことを確認してから、クー子に問いかける。

 そもそも脳缶とは、とある異星の種族が友好的な人間に対して、低コスト低リスクで宇宙空間を移動する際に用いる道具の一つでもある。端的に言えば脳みそを媒体の内部に保管することで、安全に宇宙空間を運ぶ装置である。内部の脳はといえば、外宇宙の映像なども無問題で知覚することが出来、また原文の記載こそないもののコミュニケーションをとる方法さえ用意されているとみるべきか。もっとも文献に記載されている情報元をたどれば、このクリアケースのようなパーツが存在すること自体色々と微細事実が異なっているものであるのだが。

 

「で、これ、脳缶?」

「はい」

「いや、待ってくれ。普通、人間ベースで考えたらこの大きさは明らかにおかしいよな? 人間の頭のサイズどころの大きさじゃないぞこれ」

「答えはシンプル。別に、人間用だとは言ってない」

「――――――――ッ、止めよう」

 

 瞬間、何かの真実に到達しかけた真尋は現実から目を逸らした。

 眼前、見上げる緑の壁面は、四方歩けど隙間のようなものは存在しない。扉もなく、窓もなく、穴もない完全な壁面に見える。そんな壁を何度か叩き、真尋は何かを探しているようだ。

 

「少年?」

「――――――」

「少年」

「――――――」

「…………少年っ」

「熱っ!」

 

 やはり先ほどから様子のおかしな真尋である。声は既にもとに戻っているが、クー子に蜜酒を手渡した後は、ひたすらにこの様子。時折頭を抱えながら動く様は何か毒電波でも受信したか、あるいはすでに気が狂ってしまったかといった様子である。クー子にしてみれば真尋の状態が自身の化身存続に関わる部分も大きいためか、軽く真尋の頬にぱんちした。

 

「な、なんだ、どうした? というか本当に熱いぞアンタ。身体の中にフェニックスさんいるんじゃないか?」

「それはどうでもいい……? まって、最後の意味が分からない」

「すまん、妄言だから流してくれ。で、どうした?」

「壁、壊す?」

 

 クー子の言葉に、真尋は頭を抱えた。

 

「いや、確かに壊してくれるとありがたくはあるんだが、ただなぁ……」

「何か問題?」

「あー、そうだな。ここ、確か建物全体で『召喚のための魔法陣』になってるんだよ」

 

 突然の真尋の発言に、クー子は頭を傾げる。

 

「だからちゃんとした入り口を探して破壊するのが一番安全なんだが―――――」

「少年、色々飛ばしすぎ。説明して」

「説明?」

「というかさっきから、少年、おかしい。ここ初めてくる場所なら、もっと迷子になったりしてるはず」

「…………、あー、こう言うと変かもしれないが」

 

 クー子に前置きしながら、真尋は塔を見上げる。

 

「夢で、ここの中に入ったような、気がする」

「夢?」

「ああ、夢。最近、こういう景色の中をひたすら逃げる夢を見てるんだ。……で、なんというか、実際ここまで夢の通りにいろいろと準備することに成功した以上、俺のみてた夢が単なる脳みそが作り出した潜在意識による記憶の整理だとか、そういうのを基盤とするものじゃないと考えてる」

 

 それにクトゥルフだと大体、夢って毒電波受信する定番だし。苦笑いしながら断言する真尋だが、やはり妄言の類だと自覚があるのだろう。と、上を見上げているとふと、何かに気づく。クー子に頼みそのまま上空へ行き、塔の頂上に下ろしてもらう。と、そのままこれまた平面の、妙に摩擦の高い地面に顔を寄せて横から観察する。数秒とかからず「ビンゴ」と声を上げた。そのまま真尋は数歩歩き、先ほど回収したフォークをそこに引っかけ、弾き飛ばす。明らかに物理的にパワーが足りないところであるが、そこについてはもはや真尋も慣れ始めているので、今更動揺はしない。

 果たしてそこにあったものは、今までの文明的な進歩を感じさせない程に古代的な魔法陣めいた文様のような、パズルのような何かだ。しいて言えばスライドパズルである。が、真尋はそれを数秒眺め「六回だな」と言い放ち、まさに有言実行で完成させた。やはり完成したそれは魔法陣めいたもので、さらに言えばそれが出来上がった瞬間、真尋とクー子の身体は「玉虫色の光に包まれ」、おそらくは塔の内部に転移させられた。そこは外見の人工物っぽさと一切無縁な、玉形の、緑色の筋肉がひしめき合う空間であり、さらに言えばその表面に黒々とした刺青のような魔法陣のようなものが走っている。奇跡的にも絶叫を上げるのみにとどまった真尋と、そんな彼が何をするのか興味津々といった様子のクー子。はたから見ると完全に小さい女の子な彼女であるが、やはりここにおいて真尋は頭を押さえ、普段の彼らしからぬ様子に逆戻りしていた。

 

「――――――――」

 

 何事か、それこそ日本語でない言葉を唱えながら、内部に走る文様の中心部に蜂蜜酒の入った脳缶を置き、何事か呪文を唱える。いや、それは呪文なのかは定かではない。おそらくそれを口にしている真尋でさえ、それの正体について察してはいないだろう。果たして、建物の緑の肉の束の内から、その繊維の奥が「裂け」真っ黒な空間が壁のいずこかに発生する。さらにその向こうから、暴風を伴ってなにがしかの生命体が現れた。

 それは全体としては、羽蟻が人間大のサイズに巨大化したようなシルエットをしていた。もっとも顔は骸骨化した、フィクションなどに出てくる龍を連想する。背中に生える羽根は昆虫類のそれではなくやはりドラゴン的であり、ただし頭、胸、腹という構成がどこか蟻のようであった。よく見ればその手もまたトカゲなどの爬虫類種の進化系譜の延長上に存在するかのような鱗に覆われた特徴的な形状で、まず間違いなくこの世のものとも思えない有様である。気持ち悪さなどとは別なベクトルとして、その実在を一目で不思議と認めたくないような、そういった文明に根差した違和感と嫌悪感が存在する。

 

「少年?」

「…………」

 

 そして真尋は、猛烈に口を開きたくなかった。言い知れぬ違和感と、吐き気こそ催していないが喉から意味のある言葉を発することを、彼の本能が拒否している。何度か真尋に声をかけ、反応されないのを見て少し悲しそうなクー子には申し訳ないが、それでもかたくなに真尋の意志は言語を発することを拒否していた。当然のように、これが一種の発狂状態であると察している真尋だが、残念ながらそれを伝えるすべはない。もっとも真尋が何をしないでも、既にここの場所のシステムは彼らが何かするまでもなく自動的に動作しているのだが。

 降り立ったその怪物――――バイアクヘーと呼ばれる神話生物は、眼前の脳缶を大きな口を開けて飲み込む。腹がそれで物理的に膨れたりと言ったこともなく、明らかに質量保存の法則を無視した光景であるが、まあ四次元ポケットか何かだろうと、卑近な例えを出すことで真尋は自らが正気を保護する。そしてバイアクヘーはその場で羽根を倒し、背を地面に添わせるよう伸ばし、まるで真尋とクー子に「乗れ」とでもいっているかのような体勢へと変化した。ばきばきと、背中からまるでハンドルか何かのように、鱗のような角のような何かが生える。

 

「……」

 

 言葉はしゃべらずとも、バイアクヘーを指さしながらクー子に視線を送る真尋。意図は伝わったのか、やはり寂しそうなままクー子は前に乗る。真尋はその後ろから、彼女を後ろから抱きしめるような体勢で座った。単純にこの神話生物の「移動速度」が読めず、下手をするとクー子が振り落とされるのではと危惧したからこその配置である。

 二人が乗ったことを確認すると、バイアクヘーは立ち上がり、飛び上がる。やはりその体勢が傾くとバランスをとるのが難しく、案の定クー子は振り落とされそうになっていた。抱きすくめるような体勢のまま踏ん張る真尋と、それに背を預けながら必死にハンドル(?)をつかむクー子。やがて二人は、もともとバイアクヘーが侵入してきた黒い孔に落ちる――――。

 

 

 

 そして真尋の体感では、次の瞬間に体に猛烈な痛みを覚え、そして全員、雨の降る森の中で倒れていた。

 

 

 

「――――は?」

 

 

 

 おそらく孔の中に入った瞬間、真尋たちの身体は光の速度を超えた移動に巻き込まれたのだろうという事実は認識していた。認識していたのだが、いや、そういう問題ではない。

 眼前、異様に背の高い木々が生い茂る森の中。目の前には見事に「二等分」に分割され、ぴくぴくと蠢くバイアクヘーの姿。口から泡のかわりに白い粥のようなものを吹いているが、ひょっとしたら吐しゃ物だろうか。分割された身体からは黄緑色のどろりとした液体が噴射されており、未だそれが真尋の身体にもかかっている。

 左腕が使えない関係もあり無理をして体を起こす真尋。みれば、やはり地面に横たわりながらも、顔をしかめつつ立ち上がろうとしているクー子の姿。と、右腕のバランスが崩れそのまま、どしゃり、と再び仰向けに倒れる。ちかちかと忘れていたかのように視界が明滅する中、彼の耳には、深い男性の声が聞こえた。

 

『残念だが、その脱出方法は一度体験済でな。対策はとられている、というわけだ』

 

 真尋の視界の端に、わずかに巨大な獅子か虎かの、「真っ黒な」腕が映る。と、それが姿を消したかと思えば、かつかつとこちらに足を向ける男の姿が一つに「入れ替わる」。睨むように見上げる真尋。すらりとした長身はやせていながらも筋肉質。浅黒い肌にまとうは白い外套。かなり古いどこかの民族の装束であろう、要所要所、例えば首などに金細工が施されている。頭はほぼ刈りあげられており、後ろに流す茶髪は縛られている。目元には目を強調するような、壁画めいた隈取は、これまた古い印象を与えさせた。

 その様相は真尋に嫌でも古代エジプトの雰囲気を思い起こさせる。そして彼の想像力は、彼の望むのと望まざるとに関わらず結論を導き出した。

 

「しかしそなたもまた、十全に育った育った。結構結構、改めて我が糧となるが良い」

「――――アンタは、っ、」

 

 男は尊大に、しかしどこか誇らしげに叫んだ。

 

 

 

「――――――――我は古き王よ! 最も古き、『ただ一つの』闇を照らせし者! ネフレン=カの名、知らぬとは言わせぬぞ」

 

 

 

 結局、這い寄る混沌じゃないかと叫びかけ、しかし真尋は、眼前の男に対してどこか違和感を抱いた。

 

 

 

 

 




本作でのCVイメージ
 ネフレン=カ:山寺宏一


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虚飾 VS 偽史

※今回から終盤戦なので、色々と本作的にヤベーイ! 情報がぽんぽん出てきます。なので前の話をお読みでない方は、とりあえず2章だけでも網羅してからを推奨します


 

 

 

 

 

 這い寄る混沌、ニャルラトホテプの化身にいくつか種類があるが、そのうちの一つに暗黒のファラオと呼ばれるものがある。とはいえど何故ファラオなのかということについては、そもそもまず這い寄る混沌とエジプトのつながりについての基礎情報が必要となるだろう。かつて古代エジプト文明において、とある王が邪教に入れ込んだとされる。それは無貌の神と呼ばれる、色々と表現を省略すれば顔のないスフィンクスのような得体のしれない怪物であったのだが、その存在を神と崇め奉っていたらしい。それまでの既存のエジプトにおける宗教的なそれを無視し、かの王はすべての神をそれに帰依させようとした。ここで問題になってくるのは、そもそもその神がいかに恐ろしい存在であるかということもだが、その崇拝のための儀式や様式が、ことごとく忌まわしくかつ邪悪であったことだ。もっとも有名な話としては、末期における百人ほどの生贄を用いた冒涜的儀式と、それにより召喚した這い寄る混沌より授かった未来予知により、自身が生き埋めにされた壁面一帯に冒涜的なまでに夥しいほどの未来絵図――――それこそ人類が辿るであろう未来の歴史から崩壊の歴史まで――――を書き記したそれであろう。大前提として、そもそもかの這い寄る混沌を崇拝している時点で正気とは言い難く、しかし結果として、のちの世にそのファラオ、ネフレン=カの姿を用いて現れる程度には、這い寄る混沌に気に入られているとみるべきか。これについては説がいくつか分かれており、這い寄る混沌がファラオとして君臨していたのか、あるいはまた別のものなのかというところについて、未だ定かではない。

 そしてその肝心のネフレン=カこと暗黒のファラオであるが。

 

「って、いやアンタ完全に創作だろ。史実にはいないだろってのっ」

 

 真尋のこの指摘がすべてを物語っている。創作にいわく、このファラオは第三王朝末から第四王朝頭にかけて存在したとされるが、現在に至るまで関連する文献は発見されていない上に年代が一致しようもなく、また政治面で見ても存在しうる可能性がない。まあ、そもそも出典が出典であるからして実在非実在についてはまた別なものなのだろうということではあるが(実際、ンガイの森のように世界史など事実にすり合わせれば矛盾するものも多く存在する)、だからといって創作の人物そのものの名前を名乗られてもというところではある。いや、相手がニャルラトホテプであるのだからその辺りは問答無用でなんでもありの可能性も高いのだが、ことはそういう問題ではないだろう。現状、ドリームランドに落ちている自身の境遇と合わせて、現実感が薄れている。

 ただ、薄れているかどうかはこの場合、問題ではないのだが。

 起き上がると、クー子は右手を灼熱のごとく燃やし、あるいはプラズマ化しながら殴りかかる。一方かのファラオはその一撃を、自身の人体に「物理的に」孔をあけることで回避した。腹の部分に空いた大きな穴は、背後の空間そのものに通じているが、映像としてはフィルムからくりぬかれた下手な合成映像技術のような仕上がりである。これが映像フィルムなどであればチープの一言だが、現実にそんな光景が起きればそれこそ逆に正気の世界ではない。腕が貫通するクー子と、とくに余裕のある表情を変えない暗黒のファラオ。そのまま一切合切容赦なく彼女の腹を蹴りつけて遠くに飛ばす。

 

「面倒な。我は基本的に、面倒は嫌うのだ。これではおちおち準備もできないではないか――――」

 

 言いながら腹をなぜるファラオ。特に気にするまでもなく完全に埋まった孔に、真尋の表情は固まったまま。そのまま何を思ったか、ファラオは自分の口に手を入れた。何をするかと思えば、そのまま右手を自分の首から下のほうに引っ張り「そのまま人体を裂いた」。首、胴体から抉れめくれ、そこに現れたのは巨大な瞼のようなものだ。三つある。それらが蠢き、物理的に眼球が存在しようもないにも関わらず当然のように真っ赤な目が真尋たちを見る。そこから涙のような、黄色い粘液がひたひたと溢れ垂れ流れ、ファラオの足元に溜まる。左手で腹を抑えながら、引きちぎった顎と肉と服とを元の位置に調整する男と、黄色い粘液のようなそれが徐々に何かしらの形を形成していく。それは全身に黒い脈が浮かび上がった獅子かハイエナのような巨体であり、また頭部に鳥のような飾りのつけられた黄金のマスクが取り付けられており、なおかつ顔面の部分にはまるで「フィルムをマジックで塗りつぶしたような」異様な合成めいた真っ黒なフィルターがかかっていた。この段階でいつかのように、真尋は既に自分の認知に対してさえ発狂したバイアスがかかっていると確信。全身レベルには及んでいないものの、あれはそれほどのひどい見た目をしているのかと、ただただ恐ろしく言葉もない。

 その獣は飛び上がり、足があらぬ方向に曲がったクー子めがけて飛び掛かった――――対するクー子は、頭から巨大な牛のような角を生やして頭突きを食らわせる。いや、生やしてなどと簡単な一言で済ましたが、その有様はあまりにもひどい見てくれである。瞬間彼女の頭部胸部が例によってプラズマ化したと思えば、そこから肋骨が数本、すり潰されるように粉々になりながら移動し別な形を形成する様はまるで刀鍛冶か何かを思い起こさせる。完成した角は骨が原材料と思えない程鋭利かつ眩く、そして再生したクー子の頭や顔面の皮膚は、突如生えたその角により無理に引っ張られているのか顔形がややいびつに歪んでいた。

 

「はぅぅぅ……!」

『――――』

 

 角は突き刺さらず、スフィンクスめいた異形の怪物の頭部飾りに激突。金属同士がぶつかり合うような、あるいは刃物と刃物をぶつけ合うような音が響き渡る。スフィンクスは腕を振り下ろす。対するクー子は、胸部からこれまた「肋骨を変化させて」、古代恐竜の牙か何かのようにスフィンクスの胴体に突き刺した。

 だがそれで終わるスフィンクスのような怪物ではないだろう。次の瞬間、真尋の視界が暗転したため何が起こっているかは分からないが、音的におそらく肋骨の刺さった上半身と下半身とが分裂でもしてまた襲い掛かったのだろう。分裂と表現するには、まるで無理やり肉を引きちぎったような音やら、血液が噴き出すような音やらが聞こえた気もするが、真尋はそちらについてもはや積極的に考えることを放棄した。

 真尋の耳は、徐々にこちらに近づいてくる足音を認識していた。咄嗟に転がり距離をとると、その上方から愉し気な笑い声が聞こえる。

 

「その有様でよく足掻こうと考えるな。まあ嫌いではない。いつの世も『闇を照らせし者』は、かくあれしだ」

 

 発言者の素性を考えれば完全に気まぐれか何かのように思いもするが、しかし直接、這い寄る混沌との邂逅経験がある真尋である。その声色に嘘偽りがないことも理解している。かのニャルラトホテプそのものが、人類を意外にも気に入っていることも知っている。だがだからといってその戯言に付き合うつもりはない。この男は言った。自身の糧となれと。

 

「――――どの道、この場から逃げられないと意味がない」

 

 つぶやく真尋であるが、しかし決してフォークを用いて自殺しようとすることはない。この場所で死ねば現実世界に帰れるはずではあるが、しかしそれを決心するにはことここに至って、彼の脳裏に嫌な推測が立ったからだ。つまるところ生死の境をさまよっている己の肉体であるからして、そんな場所に今のこの精神で戻った場合、果たして生き残ることが出来るか、ということである。ひょっとしたら既に死んでいるかもしれず、その場合ここでの死はつまるところ真尋そのものの死と同義となってしまう。現実はゲームのような救済措置のない、果てのない荒野なのだ。想い人の忠告を胸に、真尋は慎重に選択肢を選んでいた。

 

「ふむ。仕舞いだな」

 

 だが、そんな声が真尋を思考の世界から現実に戻させる。どしゃり、と音が聞こえると同時に、真尋の視界が回復。その場に転がっていたのは、四肢をまるで引きちぎられたようなクー子の痛ましい姿だった。頭から生えた角も片方引き抜かれており、皮膚が歪み骨が見え、左半分の顔面と皮下組織との間に大きな剥離が起きていた。腕も足も中途半端な位置で壊されており、また喉もつぶされているのか声もいびつな呼吸音のみが聞こえる。白いワンピースは鮮烈に赤く染まり、真尋の鼻に強烈な鉄の匂いを覚えさせた。

 真尋は声を荒げ、ろくに力の入らない体を無理に這って立ち上がりその場から逃げようと走った。だがぐにゃり、と何かまるで人間の腕か何かでも踏みつけたような感覚とともにその場に転がる。真尋は自分が何を踏んだかさえ見ようともしない。見ることさえできない。そんな発想が湧かない。それこそB級ホラー映画の犠牲者でさえ鼻で笑うほどに、恥も外聞もなく、その精神は逃亡を選択していた。いくら内面、理性的な部分でそれを押さえつけようとしても、もはやそれの言うことを聞けるほどに真尋の精神力はなかった。

 そんな真尋に、胴体だけにされたクー子が投げつけられる。熱と重量にうめく彼と「少年……、ごめん……」と、喉が再生したのかクー子の弱弱しい声が聞こえた。

 

「いささか刺激が強すぎたか。許せ。そなたを壊すことが目的ではあるが、怖がらせることが目的ではないのだ」

「あ、あ、あ、アンタ――――、アンタ、何が、目的なんだっ」

「むろん、そなたを取り込むことだ。そのために我はいくばく、どれほどの時間を『ここで』待ったと思っている」

 

 くつくつと笑いながら、暗黒のファラオは胸に両腕を「突き刺し」開く。そこにはいつか見た、輝く多面体とうごめく異様な数の虫のような何か。まるでそこだけ生物としての法則性が違うようなそれを前に、しかしいつかのように真尋はフォークを握ることが出来なかった。出来るわけもなかった。あの時と違い、真尋は覚悟を決めるだけの精神的な余裕がない。「心の有りようが遷移する」というのは、それを成せるだけの余裕が心にあるからこそだ。そうでない場合の遷移はつまり状況に流され散るに過ぎない。真尋は今に至るまで、ひたすらに心を折られ続けた。最後の最後のダメ押しが、ここまで常に彼に安全をもたらしてきたクー子の大破という現状である。また這い寄る混沌からの、覚悟はしていたが裏切りめいたこの行動もあいまって、真尋の理性が表に出ることはほとほと不可能といえた。

 感覚のない左腕が、クー子に押しつぶされている左腕が震え続けている。そんな彼らを押さえつけるように、例のスフィンクスめいたナニカが前足で踏んだ。

 

「な、なんで……、実績があるって言ってたじゃないか」

「少年、ごめん……。ここ、私、苦手かも……。ひげの人もいってた」

「苦手?」

 

 普段の彼ならありえないだろう責任転嫁に、しかしクー子は実直にも答えを返す。苦手とはいったいどういう意味か。確かに覚醒世界とちがいこの幻夢境、物質的な破壊よりも観念的な能力の方が影響度がでかいとか、そう言われてしまえば説得力はあるかもしれないが、しかしそれをしてニャルラトホテプに一度でも痛手を与えたという過去が実際に存在しているらしいのだから、たとえあの大爆発を遣えずとももっと善戦しても良いはずである。

 彼の疑問は、意外なところから回答があった。

 

「ん? なんだそなた、知らぬのか」

「知るって、何をだ」

「なるほど、ということは『それ』の完成度の高さは別な誰かが『作った』からこそか。いくら『死者の書』といえど、完成したそれを作るにはいささか経験が足りないと考えていたが、第三者がということならば納得である――――」

 

 止めて! とクー子が叫ぶ。声音に涙が混じっているような、そんな必死さと悲しさがにじみ出たようなそれを前に、真尋はそれでもあたりが付かない。一体何が問題なのか。いや、そうではない。その事実に気づくことが、この場において明らかに不利な現象を引き起こすという事実を、本能的に認識しているのだろう。知るということは、すなわち『そちら側に出向く』ということとは誰が言った言葉だったか。普段の真尋であるならば、その想像力でもってして真相にたどり着くのは容易であるのだから、むしろ今の状況が不自然であり、そして「そうでなければならない」。

 だが、眼前に立つ黒き男は、そんな彼らの事情を一切合切考慮しなかった。

 

「知らぬのなら教えてやろう。偉大なる『先達』として。そもそも――――」

 

 

 

 

 

 ――――クトゥグアなる独立した神格は、この宇宙には存在せぬのだ。

 

 

 

 

 

 言葉を聞いたと同時に、真尋の目の前で、クー子の身体が一瞬で「炭化した死体」と化した。

 

 

 

 

 

 



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偽史 vs 推理

今回もちょっと短め
※前回から終盤戦なので、色々と本作的にヤベーイ! 情報がぽんぽん出てきます。なので前の話をお読みでない方は、とりあえず2章だけでも網羅してからを推奨します



 

 

 

 

 

 

「その火の神格というのは、そもそもがその構成論理に無理があり、また説得力が破綻しているとはいえないだろうか。例えばその理由について知っているか?」

 

 クー子のいた場所にあるのは、もはやただの黒い消し炭のような死体のみ。もとが女性の死体であることはわかるが、人相などについては完全にぐずぐずに砕けており原型をとどめていない。腕回りがごちゃごちゃ色々ついているように見え、体系はうっすらグラマラス、わずかに首元にマフラーのようなものが残り、なぜか胸の中央がうっすら光っている。そんな有様となったクー子に対して、真尋は先ほどの暗黒のファラオの一言で、至るべきでなかった結論にまで自分の想像力が及んでしまったことを確信した。決して相手に乗せられたわけではなく、しかしそれでも確認するかのように真尋はその言葉に答えた。

 

「……もともと、クトゥグアって存在そのものが、つじつま合わせで定義された邪神だからか?」

 

 真尋の知識からしてそれは、クトゥグアそのものについての記述というよりも、そもそもそれはクトゥルフ神話における四台元素分類と対立構造そのものについての基礎情報が必要になるかもしれない。

 そもクトゥルフ神話における世界観というものは、H.P.ラヴクラフト師がしたためた原著たる恐怖小説群を基盤に、複数作家によってその世界観を「なんら先触れなく」複数作家間で共有し使用することで、一時代の読者たちがその背後関係に共通の神格を見出させることにあるといえた。共通するものは設定ではなく概念であるのだから、そこに設定の体系化は行われず、またぶれが存在することも当然ある。このかなり実験的な試みが成功したかどうかといえば、今日でのかの作家の扱いを鑑みれば想像だに難くない。それに真っ向から抗うかのように、かの弟子が一人としてオーガスト・ダーレスはこの試みを表向きにした。その際に設定が固まっていなかった、逆に言えばその分未知の領域が大きかったその神々を、分類し体系化する。この折、とある作家の指摘により発生したものがクトゥグアだ。

 それに直結する分類は、いわゆる四大元素に対応させた分類である。善悪二元論的な分類については別として、火、水、大地、空気の四つに分類し、それぞれ対応する属性が敵対しているとする。その際、定義に存在しなかった火の神格として、新たに創造されたものがクトゥグアであるとされている。

 実際問題として、真尋の目の前にそのクトゥグアが肉体をもって、また神としての能力や姿もともなって存在していることから、真尋自身はこの話とは別にクトゥグアという存在がれっきとして存在していると考えていた。だが、現状のこれを見るに、事情はいくらか異なるのだろう。ノーデンスの若い化身は言った。少女はクトゥグア未満の化身だと――――。

 

「そもそもかの火の神性そのものについては、その定義に関する情報さえほとんどない状態だ。ただその中においても這い寄る混沌との因縁について――――つまるところかの神の住まう森を焼き払ったということについて広く知られている。だが大前提として『そんな事実はどこにもない』。いわゆるンガイの森そのものは存在している事実はない。だが這い寄る混沌は現在同様に警戒をしている。それは何故だ?」

「……事実として全く同一の事件があったわけではないが、それに近い事件が過去に起こっているということか」

「正解だ。嗚呼そうだ、そうであろう、それでこそだ」

 

 心底嬉しそうな声を出すネフレン=カに、真尋は全身が怖気立つ。ファラオはそんな真尋に構わず言葉を続ける。

 

「だがそれもまた、完全に正解とは言い難いところがある。そなたのその思考の結論が『死者の書』に記載されている過去、現在、未来すべての暗黒神話にまつわるそれであったとしてもだ。それを引き出すそなたのバイアスがかかるからこそ、その事実は必ずしもすべての正解を引き当てるとは限らない」

「何が言いたい」

「例えばそう――――クトゥグアにまつわる事象が起こったのは、それよりもはるか未来、20世紀に入ってからだ。事細かに語りはしないが、その際に這い寄る混沌と相対したかの『闇を照らせしもの』は、すべての前提をひっくり返す方法を用いたのだ」

 

 この時点の情報で、真尋の想像力は正しくその解答を導き出していた。その情報こそ、クトゥグアがクトゥグア未満と呼ばれていたその原因。すなわち、クトゥグアという存在の「あいまいさ」に直結する。

 

「火の神にまつわる信仰そのものは全くなかったわけではなったが、いずれも這い寄る混沌を退けるほどの能力を、威力を、存在としての強度を誇るものではなかった。だからこそ、それら全てを束ね、創作にいわくの『クトゥグアという存在を再現しうる』術式をくみ上げた――――!」

 

 おそらくその時点で、その探索者だろう誰かは正気を失ってしまったことだろう。それほどに、なされたことが異常であることを真尋は、真尋の繋がっている魔導書は理解していた。

 

「――――つまり、クトゥグアとは『魔術』であって、神ではない、か」

 

 様々な火の神格――――おそらくヤマンソなどを含むそれら――――から、文字通り必要な部分の要素のみを切り出し、つなぎ合わせ、あたかも一つの神であるかのような振る舞いを確定させる。であるならば、詠唱の失敗はつなぎ合わせ、あるいは呼び出す他の神格のバランスを崩すことにつながるのだろう。だからこそクトゥグア召喚の方法は非常にリスクが伴っていると言える。つまるところ、クトゥグアは逆なのだ。神が先にあり伝承が後についたのではなく。伝承が先行し、それを後追いする形で人為的に形成された存在なのだ。

 

「虚飾、すなわち我から言わせれば虚飾に他ならない。だからこそ、ここにおいてアレは脆いのだ」

「要するに、観念的な世界だからこそ、もともとの存在の実在性があやふやな、そんな存在だからこそ這い寄る混沌みたいな、形成がしっかりとした神には弱いって、そう言いたいわけだな」

「手間が省けて助かるな」

「だったら、だとしても、だからこそおかしいじゃないか。だったらあのクー子っていうのは、一体何なんだ――――いや、違うのか。あれもクトゥグアじゃないのか」

 

 眼前の暗黒のファラオは言った。クー子は第三者が作った存在であると。そしてまた真尋が作りうる存在であると。死体を見る真尋。その腕には、腕時計のような、しかしぐずぐずに炭化して燃え尽きているものが取り付けられている。

 

「独立した神としての存在でない、とするなら……。そもそもあの人格自体は、誰かが意図的に作成した設定みたいなものとか、そういうことか。つまりクトゥグアとは全く別な術式で作られた、魔術――――」

「あれは、クトゥグアの召喚術式『そのもの』だ。有機体の体を成してはいるが、本質は魔法陣の方が近い。しかしこの程度の情報でそこまで答えるに至るのは、やはり素晴らしい。だからこそ――――」

 

 暗黒のファラオは真尋を見て、くつくつと笑いながら足を踏み出す。真尋は後ずさるに後ずされない状況だ。身体は既に無貌のスフィンクスによって取り押さえられており、クトゥグアだったはずの死体――――おそらく真尋が彼女を虚飾によって構成された何かだと認識したせいで変化したものなのだろうそれを見て、猛烈に頭が回転を始める。明らかに真尋にとってさらに不都合な真実を、彼の正気を消し飛ばすだろう想像の結果が導き出されるだろうそれを前にして。

 しかし、真尋は――――。

 

「――――ふざけてんじゃ、ねえってっ」

 

 先ほどまでの混乱と動揺がウソのように、腹の底にふつふつと、燃えるような怒りを感じた。果たしてそれは何に由来するものか――――彼を守ったかの存在の敵対に対する事実か、はたまた直前まで自分を守った少女の姿をかたどった何者かを、こんな形で追い詰め消滅させたことに対する義憤か。真尋はそれを判別することさえ放棄して、思考をまわす。例えこの場で正気を消し飛ばしても良い。何か眼前の相手に対して、一手、一手を打てなければ――――。

 このとき、真尋の認識は時間を置き去りにした。彼にとってのみ、世界がひどく緩やかに回っているように感じられるこれは、それ自体で一つの狂気の世界だ。だが彼はこれを好都合と、己を取り込もうとする相手に対して理性を総動員して考察した。

 ネフレン=カは言った。目的は真尋を取り込むことであり、狂わせ壊すことであると。だが恐怖させることは直接の目的としていないとも。また彼は言った。クトゥグアの存在について語る際、その事実そのものは過去に存在しなかったと。だとするならば、そもそも歴史上に存在しないだろうネフレン=カという存在はどう説明をつけられるのか。また、ネフレン=カは言った。己は最も古き「闇を照らせしもの」と。そしてこの存在は、同じ言葉を、一体どういう意味合いで使用したか――――。

 

「――――っ」

 

 真尋は胸元からフォークを取り出し、投げつける。その金属には稲妻が走り、電気的な理屈を用いて人間の腕力で放てる速度を超えた加速を始める。ネフレン=カは咄嗟に腕を重ねて胸の中央をかばうような動きを見せる。かつて真尋が対決し決着させた這い寄る混沌の化身をしても、その中核に輝く立体を持っていた。そうであるが故に、おそらくそれが化身の中心部といえるものなのだろうという推測を立てることは簡単だが、だからこそよほどの事情がなければ簡単に一撃を入れさせてくれることもない。

 だが、真尋の狙いはそこにはない。相手がひるんだ一瞬で、真尋はクー子だった誰かの死体の「胸の中央に」、残りのフォーク一本を突き刺し、抉った。果たしてそこから現れたものは、ネフレン=カの胸のそれと同様のものであった。真尋はそれを見て、ひどくうれしそうな、悲しそうな、寂しそうな、こらえたような苦笑いを浮かべた。

 

「……まさかとは思ったさ。まさか、元がアンタだったとか予想できるわけないだろっ」

 

 真尋はそれに対してフォークを振り下ろした。刺さったフォークから入った亀裂が、内部の中央に至ると同時に結晶から光が失われる。それと同時に、周囲から光が徐々に失われていく。まるで多面体そのものが周囲から光でも吸収しているかのようだ。そしてその変化を前に、無貌のスフィンクスも、ネフレン=カでさえ後方に飛び、退避する。明らかに真尋の、その手に持っているものに警戒を見せているその有様を前に、真尋は自身の推理が外れていないことを確信した。

 やがて暗黒が真尋の背後を支配すると、そこから巨大なシルエットが出現する。それは硝子か黒板をひっかくような音をならし、発泡スチロールの摩擦するような音の羽ばたきをまき散らす。鱗にまみれた馬のような頭、鳥のような蝙蝠のような翼と胴体にも鱗はびっしりと生えており、またその大きさだけで無貌のスフィンクスと同等のサイズ感である。それはそのままスフィンクスめがけて襲い掛かる。一方で、しかしネフレン=カはそれに加勢することはない。

 真尋の背後の暗黒から、もう一つのシルエットが現れる。頭まで覆う黒い外套はそれだけで魔術師めいているが、その下が明らかに外套と合っていない。黒い革ジャケットとスラックス、白いシャツをまとっていることが見て取れる男は、真尋の少しだけ前に立つと、フード部分を後ろに流した。長い髪を頭の後ろでまとめた、それは美しい男だった。日本人離れした顔立ち、整った印象のある雰囲気はどこか劉実や龍子を想起させる。大体二十代後半から三十代前半くらいか、涼し気な印象を与えるその様は、しかしどこかその超然とした様相に、真尋はひどいデジャビュを覚える。間違いなく、まず間違いなく、真尋は男が何者かを理解していた。

 

「ニャルラトフィス……!」

「――――この姿のときは、暗黒の男と呼んでくれ。我が愛しき『最初の』探索者」

 

 聞きなれない、異なる名で呼ぶネフレン=カに対して、暗黒の男は――――ニャルラトホテプは、やはり涼し気に、嘲笑うように超然とそこに存在していた。

 

 

 

 

 




本作でのCVイメージ
 暗黒の男:井上和彦

真尋の推理内容などについては、後半について追々・・・


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偽史 vs 混沌

 

 

 

 

 

 

「しかしその名前で呼ばれるのも久しいね。実に百二、三十年ぶりかな?」

「き、き、何故貴様がここに――――っ」

 

 涼し気な男の姿をとりながら、見た目にそぐった涼し気な声で微笑む這い寄る混沌に、古のファラオは明らかに動揺している。しかし、それでもなお眼前の相手に怨念のこもった睨みを向けている。眼前の両者の有様を見て、真尋は自身の推測が大きく外れていないことを確信した。

 既に真尋を取り込む態勢から通常の姿に戻った暗黒のファラオ。向かい合う暗黒の男。這い寄る混沌の化身が、二体。片方は独立した人格の振る舞いをしており、もう片方は這い寄る混沌本体に依存した振る舞いをしている。これが導き出す結論ならば――――。

 

「まさか『私の制御を外れた』化身が、ここでめきめきと自我を育んでいるとはね。いや、むしろ『元に戻った』と言うべきかな?」

「ほざけ! 貴様、我が、我が()を返せ――――――!」

 

 叫ぶネフレン=カは、どこからともなく取り出したステッキを投げつける。それは瞬間巨大な大蛇へと変化した。巨大と言っても、あくまで現実にありうるサイズ感だろうか、だがアナコンダのようなコブラのような、ひどく形質は形容しがたい。

 それに対して這い寄る混沌は、外套の裏から何かを取り出し右手に握る。拳銃のようだ。口径などは何かの映画で見たことがある。ベレッタの8000だったか、真尋のその予想は正しい。慣れた手つきで安全装置を外し、両手で構え狙いすます。三度、狙撃。的確にそれらが頭部、片目、胴体を射抜く。とくに胴体への狙撃は、真っ赤な血液が猛烈な勢いで噴出したあたりからして心臓でも的確に撃ち抜いたのか。いや、というよりも暗黒の男、すなわち魔女の集会において冒涜的な儀式により出現するはずの存在なのだから、何故そんな文明の利器に頼るのかというのも色々と謎である。が真尋にちらりとウィンクしてくるあたりからして、ひょっとしたら彼の正気度を減らさないようにと言う配慮なのかもしれない。既にそれ以外の個所でがりがり削られているところなので今更と言えば今更なのだが、しょせんは邪神の類ゆえ、人間基準でものは考えていまい。

 そのまま彼はネフレン=カの胸部、頭部も確実に狙撃する。貫通と同時にこちらは真っ黒な血液が噴出するが、しかし徐々に穴が塞がっていくあたりからしてやはり化身の類である。再生途中を狙いすまし、さらに彼はファラオの喉元をぶち抜いた。

 

「お……、お……、」

「おのれ、と叫びたいんだろうが、やっぱり喉をやられると声帯が再生に引っ張られるから面倒くさいんだよねぇ」

「おのれ――――! 貴様が、貴様さえいなければ我が国は!」

 

 怒りのまま叫ぶネフレン=カ。表情には先ほどまでの余裕はなく、ただただ激情に支配されている。これがニャルラトホテプそのものの手による自作自演であるならば完全に嘲笑される対象だが、しかし真尋は事実がどうもそれではないだろうことを理解していた。少なくとも、あのファラオが放つ怒気は本物である。二谷劉実が真尋に向けた好意が本物であったのと同様に、それは例え這い寄る混沌から発されたものであったとしても一切が嘘偽りないそれだ。対する這い寄る混沌は、どこまでも涼し気に笑っている。

 

「うん、うん。それでこそ、だ。そうでなければ『私の一部』ではない」

「我は――――我は断じて『貴様ではない』! おのれネフェルティティ(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)!」

 

 ネフレン=カの発言は、明らかに物語に対して違反する言葉であり、態度である。これではまるでただの探索者であるが、しかし実際、眼前にいるあの王にとっては事実なのだろう。

 

「彼女は知らなかっただけだ。そう叫んでは、君に仕えた彼女に対して失礼だろう」

 

 史実に存在しないネフレン=カの問題をどう解決するか。そこが、真尋がかのファラオと這い寄る混沌が分離し、独立した存在となっていると確信した部分であった。ごくごく短時間の接触であるが、その振る舞いから導き出される結論として、少なくとも眼前の男は実際にファラオであった存在なのだろうと説明がつけられる。とするならば、わざわざ這い寄る混沌の気が変わったのなら、その化身の体を成して真尋を取り込みにかかる必要は全くない。何故なら一度、真尋が取り込まれかけた際はこの本体の影響を受けているとおぼしき涼し気な声と態度のままだったのだから。ならば何故化身のまま取り込もうとしているのか。

 それは逆説的に、化身が真尋を取り込むことになんらためらいもない相手だから。這い寄る混沌の中に、真尋を守ろうという夢野霧子――――つまり二谷劉実が生まれる前の存在であったから。いや、そうでもなければ説明がつかないのだ。先ほどの這い寄る混沌の言葉からもその裏付けがとれる。すなわちこのネフレン=カは、這い寄る混沌の化身であるが、這い寄る混沌から独立した化身であるのだろう。

 

「おっと」

「っ」

 

 這い寄る混沌はそんなネフレン=カを軽く無視して、真尋の前に転がる死体に目を向けた。

 

「なるほどね。確かにクトゥグアの依り代として使えなくはないだろうけど、また無茶をするなぁノーデンスも。真尋も中々、精神的にダメージを負っただろうに」

「……どっちもだ。クトゥグアの化身も、『アンタの化身』にも」

「ん? 嗚呼、その様子だと『元が誰か』ということについては、気づいていそうだね。まあ、とはいえどノーデンスも単に、あの時、眼前にあった死体を利用したというだけだろうからね。そこに区別がつくほど本体は人間というものを理解してはいないだろう」

 

 SANチェッカーだけでも回収しておこうか、と這い寄る混沌はその死体の腕から、腕時計のような装置を一つ取り出し、息を吹きかけた。たちまちそれはうねうねと表面に名状しがたい肉の繊維が編まれるような変態を繰り返し、真尋がいつか見たことのある、十面ダイスが二つ取り付けられたような装置と化した。

 真尋にそれを手渡す這い寄る混沌。腕につけると、からからとダイスが数回回転する。77、という数字が真尋の脳裏に浮かぶと同時に、ちらちら明滅していた視界が安定した真尋である。ただ左腕の感覚だけは未だに違和感が残った。

 

「だが、私から言うことは何もないよ。君は大丈夫だろうからね」

「何言ってるんだアンタ」

 

 真尋の疑問に答えるより先に、這い寄る混沌は無貌のスフィンクスに押し倒される。

 

「――――ニャルラトフィスっ!」

「……やれやれ、こっちは相変わらず駄目なようだね。気持ちも分からないではないが、真尋くらい物分かりが良いと個人的にはうれしいが」

 

 這い寄る混沌の化身めがけて、何度も爪と拳を振り下ろすスフィンクス。上半身がぐずぐずに崩れ、真尋の眼前に右腕だけが飛んでくる。既にこの程度では動揺すまいと思う真尋であったが、SANチェッカーは当然のごとく回転を始める。そのスフィンクスの背後から、全身血まみれの奇怪な生物――――這い寄る混沌と同時に現れた、おそらくシャンタク鳥だろうそれを前に、はじき出された数字は64。やはりというべきか、これの減少速度は一切合切容赦がなかった。

 と、その折れ吹き飛ばされた右腕が動き出し、指をぱちんと弾いた。その上方に暗黒のファラオが出したのと同様、巨大な三つの瞼が開く。ただこちらの方が明らかにサイズが大きい。人間二人か三人くらいなら容易に飲み込めるくらいの大きさだ。そしてそこから、やはり黄色い粘液めいた涙のようなそれがぼとぼとと零れ落ち、形を成していく。

 零れ落ちたそれは、やがて徐々に形を成していく。色が真っ黒に変色したかと思えば、西洋甲冑がベースとなりながらも全体的には日本人武士が装着していそうな鎧。兜の下から真っ黒な長い髪が後ろに流れているそれは女性的でありながら、しかし頬当で隠れる顔は女性か男性かは定かではない。燃えるような赤い瞳に長身の姿、腰には刀と背中には火縄銃。黒いマントにはいわゆる歪んだ五芒星、エルダーサインが描かれていた。

 明らかに異様な武士――――闇将軍とでも呼ぶべきか。それは「火縄銃の原理を無視し」何発も銃弾を連射する。一発一発が大砲のような音であり、それにともなってか威力も上々。スフィンクスの肉をえぐり、またその威力で這い寄る混沌から弾き飛ばす。そしてほぼ次の瞬間には這い寄る混沌も何事もなかったかのように復活して立ち上がり始めているあたりからして、既に現実の光景ではない。真尋の横にあった腕が未だに残っているあたりからして、もはや正気の世界ではあるまい。なお真尋の脳裏に浮かんだ数値は56。意外にも減少は少なかったようだ。

 

「では、後は頼むよ」

『――――是非も無し』

 

 やはり声はやや高いが、低く調整された少年のようなそれである。腰から刀も引き抜き、そのままシャンタク鳥と共にスフィンクスへ闇将軍は襲い掛かった。

 一方の這い寄る混沌は、ネフレン=カへ足を踏み出す。背中から翼を生やし、その翼の羽根の礫をもって攻撃するネフレン=カへと、涼し気にそれをかわして狙撃を繰り返す。その狙撃をまた片方の翼で庇い、というのをお互いに繰り返しながら距離を詰める両者。そして真尋に向かう流れ弾に関しては、真尋自身がフォークを適当に振るって、穂先から「雷を放ち」、飛来するそれらを粉々に蹴散らしていった。

 

「君という存在は。君がやろうとしていたことは、本当にその程度で揺らぐことだったのかな?」

 

 ひたすらに煽り続ける這い寄る混沌と、激昂する暗黒のファラオ。何が恐ろしいかといえば這い寄る混沌から放たれるその言葉が、声音が、何故か今まで聞いたことのないほどやさし気なそれであるからだ。やっていること成していることをみれば煽ってるとしか言いようがないのに、これではまるで諭してるかのようでさえある。

 

「違うだろう? 歴史というのは、過去の誰かの意志を想い次ぐことだ。君のその願いは確かに掛け替えがないものだった。その正義は確かにそこに在った。だからこそ、それが正しく残っていなくとも、必ずその願いは次のどこかに伝わり、そして叶えられる」

「――――貴様が、貴様がそれを言うか! 我が名を奪い、名誉を奪い、最愛のかの人までも奪い、嘲笑い貶めた貴様が!」

「地位や名誉は永遠ではない。それは、いつか必ず止まる。栄えたものがいつかは滅ぶように。そしてそれは一人だけが手にできるものだ。だが想いは、願いは、巡り巡って、時には形を変えて多くの、それこそ君が知らなかった何億何京、那由他の彼方まで広く伝わる、かもしれない。伝えようという意志がそこに残る限り、それは一つの宇宙が終わったとしても、いつか、いつの日にか誰かが知り、そしてそれが叶うかもしれない。身近な友達を助けたいという想いでさえも、誰かの死に意味を持たせたいという願いも、君の、正義がなかった世界を作り替えたかったという信念も――――」

 

 まるで幻想だ、物語だと真尋は思った。だがしかし、真尋はそれに異を唱える資格はない。他ならない真尋自身が、かつて二谷劉実が彼に抱いただろう願いを果たし、未だ生き恥をさらしているのだから。

 気が付けば、真尋の眼前にあったはずの死体は、クー子の姿に戻っていた。五体満足、血に濡れた個所もなく、ただただ穏やかに、すー、すーと寝息を立てている。

 

「そんなことに、意味が、あるか!」

 

 ネフレン=カの叫びに、這い寄る混沌は瞬間外套を手に取り、猛烈な勢いで懐に潜り込み、両足を「薙いだ」。真っ黒な、巨大な何かに変貌したそれがネフレン=カの両足を通過すると、もはやそこにあったかのファラオの下半身は、どろどろのタール状の何かに拘束されていた。

 

「ショゴスだと? 馬鹿な、何故こんな――――」

アレ(ヽヽ)の子供というのが正しいかな。かのアル・アジフに曰く、ショゴスというのは自然の種族として存在しているわけではないからね」

「何故、何故だ! 例え貴様がニャルラトフィスそのものであったとしても、貴様は、貴様の肉体は化身でしかない! 貴様の存在の強度と、熱意と、その程度に我が怒りが、負けるはずはない! 貴様と我と、何が違うというのだ――――ぁぁっ!」

 

 両肩から腕を引きちぎった暗黒の男は、そのままネフレン=カの額に手を当て。

 

 

 

 

 

「それは、いわゆる一つのアレだ――――企業秘密、というヤツですよ♪」

 

 

 

 

 

 まるで劉実のようなことを言いながら、そのまま文字通り「顔面を剥がした」。

 真っ黒な孔だけが残ったネフレン=カは、黄色い粘液へと変化しその場にどろりと崩れ落ちた。それが徐々に徐々に、這い寄る混沌の足元の影に吸収され、やがて何も残らなかった。

 

 

 

 

 




本作のCVイメージ
 闇将軍:釘宮理恵
 
 
次回、たぶんエピローグ。もしかしたらもう一話伸びるかも・・・?


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あなたにできるあらゆること

※この作品はフィクションです。実在の人物や団体およびエジプト史、ファラオなどとは一切関係はないはずです。


 

 

 

 

 

「やあクー子じゃないか! 相変わらず、君はこう小さくて仕方ないなぁ~。まあそういうところが素敵なんだが、食べるもの食べてるかい? せめて高校生くらいまで大きくなっていておかしくない時間が経ってると思うのだが♪」

「…………それ、気にしてるし……、は、はう、はううううう…………」

 

 寝ぼけ眼をこするように、クー子が起き上がる。一瞬飛びのいた真尋であったが、何をいうべきか、どうするべきかという思考が回らない。SANチェッカーこそ減っていないものの、気が動転しているのは間違いないのだろう。

 そんな彼らに向かい、這い寄る混沌は歩いてくる。と、クー子と目が合うと、彼は彼女のわきの下に手を入れ、高い高いと持ち上げ、くるくる回った。不機嫌そうなクー子だったが、だんだんと 目をまわし「はうう」と例によってうめき始める。そんな彼女を下ろす這い寄る混沌。くらくら足がおぼつかないクー子に微笑み、彼は真尋に少しだけ頭を下げた。

 

「いやしかし、今回もすまないね。事情はなんとなく理解したが、よくぎりぎりで私を呼び出す方法を理解したといえる。そういう抜け目のなさは、きちんと成長しているのかもしれないね」

「いや、何、部活動の大会の総評みたいな風に述べてるんだアンタ」

 

 そもそもアンタの不手際が原因じゃないのか、といぶかし気な真尋に、這い寄る混沌は涼し気に微笑み返した。

 

「まあ、積もる話もあるだろうが、とりあえず帰りながらにしよう。あまり長くいると、勘違いで私たちまで呪われてしまうかもしれないからな」

「呪われ……? って、何だ何だ?」

「少しじっとしていてくれ。何、すぐ終わるさ――――『顕われたまえ、顕われたまえ。聞き届けよ、この身はその戒めを捨て印を結ぶ者なり』」

 

 フードを頭にかけると、這い寄る混沌は真尋の前に立ち、彼の胸元を軽く撫ぜた――――這い寄る混沌の手が離れた時点で、真尋の胸元には「孔があいていた」。ただ、それは貫通してるという類のそれではない。明確に空洞が空いているというよりは、何かこう、ワープホールのようなものが展開されていると表現するべきか。そしてその向こうで、無数の白い文字が暗黒の中をさまよっているのが真尋にはわかった。そのうちの一つを指先でつまみ、真尋たちの眼前に引き抜く這い寄る混沌。

 

「『汝が印を結ぶ場所へと、彼我を超えて入りたまえ、顕われたまえ、顕われたまえ――――』」

 

 何かしらの呪文らしきものを詠唱しながら――――明らかに日本語ではないのだが、不思議と真尋はそれがどういった意味合いを持つのかをなんとなく理解していた――――その呪文を、まるで折り紙でも折るように物理的に変形させていく。やがて鍵のような形になったそれを、しゃがみ足元に突き刺し、扉を開くかのように半回転させる。と、鍵が瞬間消失し、真尋と這い寄る混沌の間に、おおむね1メートル半径ほどの、玉虫色の、ぶくぶくと膨れた肉のような風船のような何かがあふれ出した。何を言うでもなく、それが「ありとあらゆる場所をつなぐ」異邦の神であるところのヨグ=ソトスの肉片であることを理解する真尋。SANチェッカーの回転がはじまるが、いつかのように止まる気配はない。

 ついてきなさい、と当たり前のように這い寄る混沌はその肉片を踏み潰すように足を踏み込む。と、ずぶずぶと音を立ててその中に吸い込まれる様は、流れる腐敗臭のような独特の匂いも含めてたいそう気持ちが悪い。が、現状他にどうする手立てもなく、クー子の手を引き、ためらいがちにその後に続いた。ずぷり、と、泥の中に足を踏み込むような感覚と共に、真尋の上下左右の感覚が90度ずれる。そのまま次の足を踏み込むより先に、まるで泥沼の中に吸い込まれるよう真尋の身体は深みにはまっていく。思わず目をつむり息を止める真尋。耳の中にまで泥水が入るような不快感を覚えるが、数秒もせずに空気のある場所に出て、その不快感は影も形もなくなった。

 目を開けると、そこは広大な洞窟のような場所だった。道が舗装されているわけではなく、しかし重力という感覚は希薄だ。足を進めようとすると、みょうに粘着質な地面であることに気づく。なお足をとられそうになるのは真尋だけで、クー子はぷかぷかと真尋の横に浮いていた。薄暗がり、奥に行けば行くほど何も見えなくなる中、クー子の髪がわずかに光っていることがよくわかる。

 

「こちらだ」

 

 ランタンを片手に掲げ、真尋の前方先から這い寄る混沌が声をかけた。「少年、ごー」とクー子に背を押され、足をとられながらバランスをぎりぎり保ちつつ真尋は前進していく。這い寄る混沌に並ぶと、ようようその背が明らかに抜けて高いことが分かる。スタイルが日本人的ではないというか、頭身が高いというべきか。足を進めながら、真尋はそんな眼前の相手に問いただした。

 

「……あれ、アメンホテプ四世だったりしないか?」

「おや? 何のことかな」

「とぼけるなよ。ネフレン=カのことだ」

 

 アメンホテプ四世、ないしイクナートン。エジプト第18代のファラオにして、エジプト王朝において異端とされるファラオでもある。当時、エジプトにおける神官の腐敗を排するため宗教改革を行い、多神教を一神教とし、都を遷移しようとした。もっともその試みや行いは事実上とん挫、失敗し、死後その名は歴史から削り取られた。

 

「もともとネフレン=カとアメンホテプ四世って、類似点が多かったりもするし、モデルなんだろうなとか、それくらいは思ってた。どっちも写実的な美術を為しているところも共通してるしな。だからこそ、あえてそれを逆手にとって作り出した疑似的な化身なのかと思ったが……。あいつ、ネフェルティティとか言ってたな? アンタに」

「ああ、そうだね」

「ネフェルティティはアメンホテプ四世の正妻だと考えると、そっくりそのまま解釈すれば――――ネフェルティティはアンタの化身だったと考えられる。そうすると、一つ嫌な可能性が浮上するんだが……」

 

 言ってごらん、とやはり涼し気な這い寄る混沌に、真尋はひどく嫌そうな顔をした。

 

「――――アンタさては、アメンホテプ四世をハメた上で『取り込んだ』な? だから、アンタから独立した時点で自我を取り戻して、アイツはアンタを倒そうとした。だから、俺を必要とした。違うか?」

 

 名を返せと叫んでいたネフレン=カ。あえてアメンホテプ四世と名乗らず、ネフレン=カを名乗っていたことをふまえ、おぼろげながら真尋の想像力はその結論を導き出した。名とは、すなわちアイデンティティと言い換えられる。這い寄る混沌に取り込まれた時点で、かのファラオは自身の自身たりうる絶対的な自我を喪失した。だからこそ後の世で、自身をモデルとしたその名前を名乗ることしか出来なかったのではなかろうか。そして翻弄された彼の歴史の背後に、這い寄る混沌の魔の手が存在していたのだとすれば――――。

 

「わたしが、かの国の古の文明と近しかったことは、まあよく語られている話だが、そこは知っているね」

 

 這い寄る混沌は真尋の質問に直接は答えずこう続けた。

 

「当時はまだ、人類の文明も出来てしばらく、赤ん坊のよちよち歩きだった。私にいわせれば今でさえまだ赤ん坊だが、それでもなおのことね。そして、人類という存在について、私もまた観察期間、学習期間だったということだ。だからまあ、色々とテストさせてもらった。大災害にあったときにどう人間は動くのか。欲を満たしたとき、人間はどうなるのか。まあ、おおむね予想通りの流れであったが――――その中で、彼は違った」

 

 くつくつと楽しそうにほほ笑む這い寄る混沌に、真尋はやはりおぞけを感じる。何も言わずとも、隣のクー子が彼の掌を握った。やはり体温が高いのか熱いそれに一瞬驚いた声を上げる真尋。いまいちその理由を理解していない様子のクー子と、「続けていいかな?」と真尋の様子をうかがう這い寄る混沌だった。

 

「そう。彼は――――彼は抗うことを選んだんだ。外宇宙より飛来したこの私が何を目的としているのか。何をかの国で成していたのか。一体何が正体で、果たして私が何なのかを調べ、考え、探索し、ときに戦い。自ら私に向かって、『闇を照らせしもの』と名乗ったくらいだからね。よほど自負があったのだろう」

 

 それはまるで旧来の友人について話すかの如く、這い寄る混沌はひどく楽しそうである。それがますます真尋に不快感を覚えさせる。ひょっとしたら、自分も一歩間違ったら同じ末路を辿ったかもしれないという事実が、ただただひたすらに冒涜的で、そしていまだSANチェッカーの回転が止まらないでいた。

 

「だがまぁ、事を性急に進めたのは彼の自己決定だよ。だがそうして、私に明確に抗った『最初の』探索者は、間違いなく彼といえる。嗚呼勿体ないと、彼のような存在が今後出てくるかわからない、貴重な事例だと。要するに気に入ったから保存した訳だね」

 

 知っていたが最低だなコイツ、と真尋は唐突にクトゥグアをけしかけたくなったが、下手をするとこの場からまともに出られなくなる可能性があるため、それは自重した。

 いけど行けど、洞窟は果てることはない。出口らしきものも全く見えず、しかし這い寄る混沌は涼し気に足を進めている。

 

「じゃあ、もっと聞くとだ。……アンタの化身っていうのは、どれくらいアンタから独立したものなんだ?」

「劉実から聞いていなかったかい?」

「それを全部そのまま信じるほど、俺は人間が出来ちゃいないさ。大体、あれの言ってることって、初動からしておかしいんだよ。そもそも化身をアンタが演じているっていうのなら、化身をデザインしただけで、当初の目的が変わるようなことはないだろ。変わるからには、何かしらの理由が――――」

「――――とはいえど、私が手を振れば、残らず全て一瞬でなくなる」

 

 所詮はその程度の話だ、と這い寄る混沌は涼し気に話をさえぎった。真尋の脳裏に、何かがちらつく。この話を這い寄る混沌が中断したということを。これ突き詰めることが、何か、相手にとって良くない事実に突き当たるのではないかということを。

 

『――――』

「ねこ!」

 

 唐突に、場違いな鳴き声が聞こえる。振り向けばその先には、一匹の細長い肢体の猫が一匹。発見し、クー子が楽し気な声を上げた。何故こんな場所に猫が。全く意味が分からないと驚いた表情の真尋の背を、這い寄る混沌は軽く押した。

 

「さ、後は彼の後ろをついていきたまえ。私はこれから、怖い怖ぁい猟犬(ヽヽ)の相手をしなければならないからね」

「は? なんでそんな、場所は移動してるだろうけど、時間は移動してないだろこれ――――」

「いや、移動はしている。そうだね……理由に気づいても、ここを出るまでは口には出さないことをすすめるよ。それじゃね」

 

 ランタンを地面に置き、きらきら星の鼻歌を歌いながら、拳銃片手に這い寄る混沌は来た道を引き返す。数秒と経たずにその背中が見えなくなると、再び猫の鳴き声。早くしろとせかされているように感じ、真尋はその後に続いた。

 

 

 

   *

 

 

 

「――――っ」

 

 まぶしさに目をこすり、真尋は目を開けた。時間はわからないが昼間か、空が明るい。と、左腕にやや違和感を覚えて持ち上げると、手の甲にうっすら赤い痣のようなものが、熱を帯びて残っている。その正体に心当たりこそあるものの、真尋はそれについては一旦、考えを保留した。場所はどこかの病室か。体に固定具が巻かれている感覚がある。腕や足の骨は折れていないようだが、皮膚が変に引っ張られる感覚があるからして、もしかしたら皮膚移植とかで針を縫ったりしたのかもしれない。

 気が付けばベッドの上。特に何か扉のようなものを開けた記憶も、かといって何か壁にぶつかったり、出口らしき光などを見つけた覚えもなく、気が付いたらはっと、この場で寝ている状態の真尋である。もはやそのあたりについては突っ込みをいちいち入れはしない。唯一気がかりなのは、最後の最後まで夢の中のSANチェッカーが回りっぱなしのまま、数字が確定していなかったことだが……。

 ふと視線を横に動かすと、見覚えのある女性がいた。

 

「母さん?」

「――――――おはよう真尋? ずいぶん長いお寝坊だったじゃない」

 

 楽し気に微笑む真尋の母。どんなに頑張ってももう少しでアラフォーに片足突っ込む年齢とは全く思えない程に若々しいキャリアウーマン然とした雰囲気。特に何もないような振る舞いではあるが、目の下に隈を浮かべ、少しだけ疲れたような微笑みを浮かべていた。

 

「旅行、もういいのかよ」

「何言ってるのアンタ、それどころじゃないでしょーが。実の息子放り出して仕事してる親なんているわけないでしょ? お父さんと一緒に飛んで帰ってきたわよ」

 

 ちなみに17回目結婚記念の旅行ではあるが、実質、彼女の趣味と仕事の中間くらいである。大学にて民俗学の研究職、ちゃっかり教鞭もとっていたりする彼の母親である。普段フィールドワーク、実地調査などに時間を割けないこともあり、こうして理由をつけて休みをとっているときは夫婦でいちゃいちゃするのと同様に、仕事上の実益としての調査やらなにやらも敢行していたりした。だからこその真尋の確認であったが、当然のように親としての立場を主張する彼女である。どれくらい寝ていたか確認する彼に、母親は二日よ、と笑った。

 

「身体よりも脳の方にダメージがいっていたらしくてね。一週間で意識が戻らなかったら、かなりやばかったかもしれないらしいわ」

「マジか……。なんか、ごめん。世話駆けた」

「別にいいわよ、そんなの、お母さんだし。そして私なんかより、真っ先にお礼を言わなきゃならない娘がいるんじゃない?」

「ぬ?」

 

 言われて、にやにやと笑う母親の視線を追い、反対側の方を見る。そこにはベッドに腕枕をし、横を向いてすやすやと寝息を立てる龍子の姿があった。制服姿であることからして、学校帰りか何かか。母親が何を邪推してるかを正確に見抜いた真尋はため息一つ。

 

「珠緒ちゃんと龍子ちゃんだっけ。二人して毎日お見舞いに来てね。珠緒ちゃん今日はお熱で来れないらしいけれど、本当、必死な顔してたわよぉ」

「……違うからな? 変な邪推はやめろっ」

「あら、そうなの? でもこの娘もだけど、きっとあんたに気があるわよ? どっちでもいいから、いっそ彼女にしちゃえば?」

「…………ないな」

 

 脳裏に劉実の姿がよぎり、眼前の龍子の姿と比較し、真尋は断言した。劉実であるならタイプではあるが、龍子は別に真尋の好みという訳ではなかった。面影があるからと言ってその背を追うように考えては失礼であるというのもあるし、何よりそもそも彼女に関してはそこまで親しくないからだ。一方の暮井珠緒についても、そういうことを考えるような親しさではないという真尋の認識だった。

 二人とも苦労しそうね、と母親は苦笑いを浮かべる。背伸びをしてから口を押え、大きなあくびを一つ。

 

「意識戻ったってナースコールしようかと思うけど、まあ、ゆっくりしてていいわよ。せっかくだから起こしちゃいなさい。積もる話もあるでしょうしね」

 

 やはりというか、こういうニヤニヤと世話焼きのような態度のあたりは、見た目の若さはともかくとして、どこかおばちゃん臭さが漂う真尋の母であった。有言実行とばかりにスキップめいたステップで室内を出る彼女に半眼を送る真尋。扉が締められため息一つ。

 

「…………」

 

 残された自分と、目の前で眠る彼女と――――。真尋は言葉なく頭をかく。今更どうしろと言うのか。そもそも真尋は、劉実の面影を見るのがいやで彼女と接触を図ってこなかった身である。だが結局彼女を助けたのは、その面影があったからだろう。例え元が何であったとしても、彼女たちは別人同士であるにもかかわらず。とらわれた先でも結局、真尋は彼女たちを混同して考えていた。それだけでもう合わせる顔がないとは言わないが、それでも彼からすれば顔を合わせずらい。

 だが、もしそれでも――――。

 

「………………」

「ひぎゃ! ちょ、もっと優しく起こせないんですか真尋さんっ」

 

 思い切りデコピンをかました真尋に非難の声を上げて起き上がる龍子。額を抑えてやや涙目の彼女に、真尋は半眼を送る。

 

「よく言うよ。アンタ、母さんが扉開ける前にはもう起きていただろ」

「ぎくっ。な、なんでわかったんですか……?」

「口でぎくっ、とか言うな、ぎくっ、とか。ちょっとだけ首が動いて目が開いたのは気づくぞ。こんな近いんだから」

「それは、私のミスでしたかね……」

 

 にへへ、と困ったように笑う龍子を前に、真尋は言葉を選ぶ。何を話しても劉実と重ねてしまいそうになるからこそ、しかしそれでも、今だからこそ、改めて彼女と向かい合わなければならない。這い寄る混沌のセリフに感化されたわけではない。決して、ネフレン=カのあの慟哭に影響された訳ではない。そう強がりながら、真尋は言葉を選ぶ。

 

 決して過去の選択肢がすべて正解であったことはあるまいが――――それでも今だけは最善を。

 そう願いながら、真尋は苦笑いを浮かべ口を開いた。

 

 

 

 

 

 




本作のCVイメージ
 八坂頼子:三石琴乃
 
※切りが悪かったのでエピローグは次回・・・ もうちっとだけ続くんじゃ


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孤独の中の邪神の祝福

まるまる1話エピローグ。
本章、真の虚飾に棲むもの。

※本話は後日談的なものになりますので、事件終結の前話をご覧になられてからを推奨します


 

 

 

 

 

 ――――眠りの果て、気がつけば、真尋は巨大な螺旋階段を下っている。大理石で作られたそれは下方果てがないように見える。いや、厳密にいえば暗黒に包まれており先が見えないが正解か。だが百段までは下っていないだろうが、ある程度の時点でひんやりとした鉄の扉にぶつかった。完全に不意打ちで激突したため、そのまま正面から直撃。倒れ鼻を抑えて眼前のそれを見やる。丈は3メートルから5メートルほどだろうか、輪郭がぼやけているので真尋に全容は把握できない。ただ取っ手については1メートルの個所にもついており、真尋はそれを手に取り、引いてみた。扉は意外と軽く、彼の侵入を拒むことはなかった。先は薄明りの洞窟、足元がきらきらと宝石のように輝いて見えるが、どこかに光源があるのだろうか。天井から垂れるつららのような鍾乳洞。ロマンチズムをあまり介さない彼なので特に感想はないだろうが、なかなかに幻想的な光景だ。と、足の異様にひんやりとした感触から、真尋は自身が全裸であることに気づいた。しかしどこを見ても服に該当するものも布もなく、諦めて前進する。

 先を歩くほど光源は濃くなり、やがて真尋の目にも見えるようになる。それは点々と数か所に設置された火の柱だ。中心に芯となる何かが存在しているのだろう、暖色と寒色とがいったりきたりする、不可思議な光の明滅である。思考がぼやけたまま、真尋はそれをじっと見て、さらに足をすすめた。柱を5つほど経由したころだろうか、やや開けた洞窟の場所の先。異様に背の高いシルエットが真尋を見下ろしていた。ゆうに3メートルは確実に超えるだろう巨体である。その背後には、明らかに洞窟の中のそれとは異なる舗装された道があった。

 

『――――――』

 

 老人の片方が言葉を話すが、明らかにそれは日本語ではない。かといって英語のそれでもなく、真尋は意味を介さない。しかし、ぼんやりとした頭のまま、真尋もまたそれと同様の言葉を口から紡いだ。

 

『――――、』

『――――――――』

『――――――、』

 

 どこかで、ふと猫の鳴き声が聞こえると、老人たちは道を開ける。真尋は何かに導かれるように、そのまま足をすすめた。先に足を進めていくと、やはり開けた場所に名状しがたい色をしたテーブルが一つ。小袋と銀のナイフ、ポシェットとベルト。さらにはレンジャーといったらいいか、テンガロンハットめいた何かと、中世ヨーロッパの商人でもまとっていそうなジャケット、シャツ、パンツ。それぞれ妙に収納スペースが多い。見慣れない服であるにも関わらず、ぼんやりとした頭のまま、真尋は慣れた手つきでそれを着用していった。

 道はやはりどこかで螺旋階段へと変化した。石造りの階段は、長い。底が暗闇で見えず、しかし歩いている途中で段々とその作りが木製の建造物のような感触になっていく。だがこれも、真尋は特に疑問も覚えず慣れた風に最下層まで下った。装飾が彫り込まれたアーチの先はまばゆく見えない。装飾に目を凝らせば、そこには雷を降らせる男性の神、三又のトライデントを手に荒れ狂う神、首が複数ある獣を退治し尾から刃を取り出した神、龍にしか見えない神……様々な装飾が彫られていることに気づく。それが何か、デジャビュというか、以前と変わったような印象を真尋は抱いた。ここに初めて訪れる彼であるからして、明らかに矛盾する感想であるが、それさえ彼は無視して足を進める。

 光の量が一気に変わったため、一瞬目をやられる真尋。やがて眼がこなれてくると、そこが森の中であることに気づく。背後を振り返れば木の幹なので、明らかに物理法則を逸脱した構成になっているが、そんなことは今更であると肩をすくめた。

 

「なるほど、ここに繋がってるのか」

 

 次第に真尋は、ここは最近よくみていた夢の中で見た光景であると認識する。背の高い木々はそのまま枝と葉が天蓋となり、それだけで自然のトンネルである。無数にそんな場所が続く様は一見してかなり幻想的であり、さしもの真尋でも今度ばかりは思わず感嘆した。あの夢の中の彼はそんなことに気を配る程の余裕さえないのが原因ではあるが、ちょっとした癒しスポットだな、とか、かなり卑近かつ場違いな感想を抱く。なお足を進めると、天蓋のせいで光が薄い箇所も多く、そういった個所こそにそこかしこにいる菌糸類がわずかに燐光を放っている様がまた不気味で、真尋は直前の感想に辟易した。

 真尋が一歩一歩踏みしめるごとに、木々の間、木の上など様々な場所から何かが動く音が聞こえる。それは真尋の様子をうかがっているというよりも、まるで天敵にでも遭遇したかのように逃げている形だ。と、そんな森を抜けている途中、真尋は見覚えのある猫の姿を見た。

 

『――――』

 

 ついてこい、と言われているような錯覚をする。真尋はそれに従い、猫の後ろを追う。直進すれば町がある、という直感に逆らうかの如く、猫は入り組んだように道なき道を進む。と、だんだんと真尋の視界が霧に覆われ始める。突然ふって湧いたようなその霧に違和感を覚えつつ、黒く映る猫のシルエットを見失わないよう足早に続いた。その先には広い湖と、そこに浮かぶ湿地帯の島があった。

 猫はその手前にある小船に乗り、再びなく。続いて真尋が乗り込むと、いかなる力が働いたのか、ゆったり、ゆらりゆらりと船が勝手にその島に向かって進む。

 船の漂着した個所には緑色の魔法陣――――真尋は持ってきた小袋を開けると、その中から琥珀のような宝石を一つ取り出した。その上に置くと、不意に周囲から大量の猫の鳴き声。と同時に、巨大な影が真尋たちの横に倒れる音が聞こえた。

 やがてどこからともなく、巨大な蟻のような竜のような名状しがたいシルエットが現れる。細部は見えないがおそらくビヤーキーだろうそれの背に乗り、真尋は身を任せた。ほぼ数秒で、気が付くと真尋は見覚えのある名状しがたい緑の塔の中にいることに気が付く。足を踏み出し壁にふれると、めきめきと嫌な音を立てて外への穴が開いた。

 街は以前来た時よりも暗がりに包まれていた。具体的に言えば生命を感じない。道中、見るも無残に引き裂かれ崩れ落ちていた人のような死体の数々と、マゼンタ色の巨大な触手とを見て、真尋は猛烈な不安感にかられ、そして脳裏で劉実に抱き着いていた。そのまま慈愛の表情で真尋の頭を撫ぜる彼女のふくよかな胸に頭をうずめ、ただただ泣きはらすイメージである。そして数秒後に何を考えているんだと妄念を振り払い、転々とする死体の山のその先へと向かった。

 

「――――――あっ」

 

 やがてその先に彼女(ヽヽ)はいた。赤い豪奢なドレス。肩と背中の大きく空いた煽情的なそれ。胸元を強調させる印象のそれに、頭には黒いベール。風に揺れる額にはチャクラが一つあり、真尋は劉実にもそれがあったような、そんな記憶が脳裏をよぎる。彼女は目を閉じ、椅子に座り転寝をしているようである。ひどく静かに、どこか幸せそうに眼を閉じるさまは見る者の呼吸を止めるほど、ぞっと残酷なまでに美しい。

 

「良かったって言うべきか。まだ他の層に行ってなくて」

 

 真尋の声を耳に、彼女はうっすら目を開ける。赤く深い色のそれを一目見た時点で、真尋は言葉がなかった。夢の中でみたその彼女は、今また真尋の認識における現在現実において、もとより形容することが出来ない程に、すべてを取り込んでいた。見る者すべての視線を離さず、それこそ時が止まるような錯覚。劉実をはじめてみたときの鮮烈さとはまた違った、そう、その在り方はむしろ暴力的とさえいえた。

 そして彼女は――――赤の女王は真尋に微笑んだ。

 

 

 

「はじめまして、でよろしいでしょうか?」

「……ああ、それで合ってるはずだ」

 

 

 

 こんな呪われた場所に何の御用で、と彼女は続けた。

 礼を言いに来ただけだ、と真尋はつづけた。

 

「はて、何のことやらわたくしにはさっぱり」

「誤魔化し方が本体と全く同じだなアンタ。……こっちにとらわれた時、何度か助けてもらったからな。そのお礼をと思って。『なんとなく』来れる気ではいたが、本当になんとなくで来れたのがいろいろと恐ろしいところだが」

「なんとなく、ですか。……貴方、正気は大丈夫でして?」

「今更だ」

 

 真尋の苦笑いに、彼女は少し寂しそうな笑みを向ける。

 

「少なくとも、アンタは最低でも2回は俺を助けるために手を貸してくれたと思ってる。だったら、頭くらい下げるのが筋だろ」

「ですから、何のことかさっぱり――――」

「少なくともあんなに俺の夢にアンタと、ここが出てきたことが、無関係だったとは思っていない」

 

 真尋の夢の中のそれは、こことさらにより『下層』であったという謎の確信が彼の中にある。だがそれはともかくとして、何度も何度もここを徘徊し逃走する映像が、真尋が逃げるのになんら役に立たなかったはずはない。少なくともここの構造の把握に一助していたことはまず間違いないだろう。

 

「まあ、そうはいっても引っかかりはあるが、それは後に回そう。次はノーデンスだ」

「はて?」

「『一人の尊厳ある人間として、あらん限りに常識とその豊かな想像力を武器に戦え』――――これはニャルラトホテプの言い回しだ。ノーデンスのじゃない」

「……」

 

 クー子に対してサジェスチョンをしただろうノーデンスの言動で、真尋が違和感を感じたのがそれだ。その言い回しだけ、必要な情報以外のものとして明らかにノーデンスの発言として浮いている。だが逆に言えば、ノーデンスがそんな言い回しを使ったというのが既に、ノーデンスと這い寄る混沌との接触をうかがわせているともいえた。真尋に直接言及しなかったのは何かの意趣返しというか、嫌がらせの目的もあったのかもしれないが、そこまではさすがに彼も察しきれはしない。

 またしいて言えば、ノーデンスが呼び出していたクトゥグアの化身――――その大本に、おそらくはその召喚の生贄か何かの素材として「夢野霧子」を、すなわち二谷劉実を使っていたことも、そう考えると怪しい。まるであつらえたかのように、あのタイミングで這い寄る混沌を真尋が直感的に呼び出せるとわかっていたかのような配置であり、実際にその配置でなければ真尋はあの場でネフレン=カに取り込まれていたことだろう。自ら輝くトラペゾヘドロンを破壊し、通常のトラペゾヘドロン同様の状態にしたうえで這い寄る混沌を呼び出す条件を満たすという、その一連の流れが例え存在したとしても、そもそも彼女の死体があそこになければそれは決して成立しえない事柄だからだ。

 ただ、それをもってしても彼女が真尋を助ける理由に心当たりが薄いが、化身同士の対抗意識だの何だの説明がつけられなくはない。

 

「あともう一個くらい言い逃れ出来ないのがあるぞ? ここの惨状だ」

「…………」

「俺たちが逃げるのを助けるように、ムーンビーストやらなにやらと戦ったアレ。初見の時はハスターの化身か何かかと思ったが、考えてみればいわゆる『黄衣の王』とハスターを結びつけるのも創作が前提だったと思うし――――ドリームランドを徘徊する這い寄る混沌の化身に、そんなのがいたような、いなかったような」

「…………」

「そうすると、アンタの正体が何かってことだが……。たぶん、当然、這い寄る混沌の化身ではあったはずだ。だが明らかに本体のあっちと連携している気配がない。とするなら――――アンタもまた、ネフレン=カ同様に本体から独立した化身だって考える方が自然だ。ここが『サルナスの遺跡』であるならなおのことな」

「――――――っ、そ、それをわかっていて貴方はここまで来たとおっしゃいますの!?」

 

 赤の女王は真尋の言葉に、明らかに慌てる。まあそれも当然か。かつてここにあったサルナスと呼ばれる国は、とある経緯からボルグルと呼ばれるトカゲの神の怒りを買った。結果を見ればわかることだが、現在この場所は滅亡しているも同然である。人が住む気配はなく、本来ならばこの赤の女王以外は誰も居なかったのだろう。ノーデンスは言った。真尋が拷問を受けていた場所は、這い寄る混沌本体でさえ手を出すのを面倒がる場所だと。とするならばこの呪われた地において、這い寄る混沌が真尋を自分から進んで助けることはするまい。であるなら、ここまでお膳立てされた流れがあったのだとすれば、それは誰かが、真尋に手を貸していたとみるべきだ。

 おそらく真尋がここに足を踏み入れても何も問題がないのは、そもそもその呪いの意図していた存在ではないからであろう。とはいえ細かい条件が分からないので危険であることに変わりはないのだが。それにもかかわらずわざわざ礼を言うためだけにここに来たと言っていた真尋のその言葉が、彼女には甚だ理解できない様子である。

 

「なんで……、せっかくわたくしが助けたといいますのに、そんな自分を大切にならさないですの?」

「その発言が既に色々とキャラ崩壊も甚だしくないかと思うんだが……。アンタって傾国の美女的な性格付けをされてなかったか? 悪女だろ立派な」

「別に今、それをする必要はありませんし。それよりも、本当に貴方は正気ですの?」

 

 十分正気だと断言する真尋は、改めて頭を下げ顔を上げた。目の前には驚きながらも、それでも頬をほんのり赤くして、まるで初心な少女が照れているような反応を見せる赤の女王がいた。いっそう、真尋は彼女から目を離せない。真尋は自分の中に、確かに彼女に対する妙な依存心が生まれることを認識していた。嗚呼これが彼女の問題点かとも納得していた。どんなに優れた為政者の理性をも溶かす、絶対的な生物としての魅了、おそらくそういった類のものが、現在真尋にも働いているのだろう。この場でずっと彼女に甘やかされ、溶かされてしまいたいという願望すら脳裏をよぎる。だが真尋は、劉実の笑顔を思い浮かべ、それを振り払った。振り払えてしまえるほどに、彼の中で彼女の面影はいまだ大きな影を残しているらしかった。

 

「……どういたしまして。ですが、もうお帰りください。今の貴方にとって、わたくしという化身はただの毒にしかなりませんわ」

「そうかもな。……じゃあ、また」

「とはいえ帰りは大丈夫ですの?」

「『蜂蜜酒の琥珀』はまだ残ってるから、上に上がるだけなら問題はない。……行き来はなんか、猫が色々やってくれた感じがする」

「ああ、『アゥリス』ですわね」

「名前あるのか。……っていうか、アンタの飼い猫か?」

「さあ? まあ、半分はと言っておきますわ」

 

 くすくすと笑う彼女に、真尋は背を向け足を進める。相変わらず違和感の残る左腕をさすりつつ、ふと空の天蓋を見上げ、そして背後を振り返った。

 

「変なことを聞くが」

「はて?」

 

 

 

「――――俺、かなり昔にアンタと会ったことがあるか? それこそ、俺が生まれるより前に」

 

 

 

 ――――君が生まれるはるか昔から、そう、前世よりもずっとはるか先から定まっていた運命だ――――

 真尋を取り込もうとしたときの、這い寄る混沌の言葉である。そしてそれは、もし仮に彼の前世が――――むろん前世なるものが存在すればの話だが――――夢の中の、真尋の視点だった誰かのものなのだとすれば。あの説明のつかない夢の内容に対する解答になりえ、そして真尋と無関係であるはずの彼女が、彼を積極的に助ける理由にもなりえるが――――。

 

「……さて? ただの気まぐれですわ」

 

 真尋のその問いに、赤の女王はただ楽し気に、いたずらっぽく微笑むばかり。そんな彼女に背を向ける真尋を、彼女はいつまでも見送り続け。

 

 真尋の姿が塔の中に消えた途端、両手で顔を覆い、ただただ肩を震わせて、小さく、嗚咽を漏らした。

 

 

 

 

 

 

  【真・這いよれ!ニャル子さん 嘲章】

  【ドゥエラー・イン・アフェクション】

  【END】

 

 

 




以上で完結となります。正確には次回予告? 的なのを更新したら、正式にいったん終了です。

続きがあるかについては前回同様、ここまでの評判、感想の状況と、あとは冒涜的天啓が再び降ってきたらになるかと思います;
前回ご好評いただきまして2部と相成りましたが、割と需要が読めないと(感想とか?)続かせ辛いところがあったりなかったりです。まあ最後は冒涜的天啓が降ってこないと手も足も出ないのですが・・・;
 
それではまた深淵に\ドロップ/\ドロップ/
 


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 次章予告2

 

 

 

 

 

(ノイズ交じりの視界)

 

(電気的な砂嵐が晴れると、無数の壊れた機械が散らばっている場所)

(歯車や巨大な針が地面に刺さっている)

(かさかさとそのうちのどこかしらがうごめき、くすくすという声が聞こえる)

 

(ぽつり、とその中でランプが灯るマシンが一つ)

(ノイズまじりの音を鳴らすそれは、一つのカセットテープレコーダー)

 

(外装はほぼはげ、基盤も一部露出している)

(上から降ってきただろう大型の時計が刺さっており、半壊している)

 

(カラカラとから回る音が鳴っている)

(内部にはテープが入っていないらしい)

 

(一瞬、暗転し視界が回復する)

(二三度、空回りする音を鳴らしたあと、レコーダーはがたがたと震えて静かになる)

(内部に真っ黒なテープが、いつの間にか挿入されている)

(テープが巻かれる音がなり、時計の針が、かちり、と進む)

 

(レコーダーの再生音)

 

 

 

女性(CVイメージ:三石琴乃)

「――――だから、それでいいんですよ先輩。私は、そんな先輩だから……」

 

男性(CVイメージ:佐々木望)

「もっと冷静になれ、君は、あいつの背中を追っかけてるだけだろ」

 

女性

「でも、それでいいじゃないですか。結局どう納得するかは個人個人の裁量なんですし。それとも、先輩は私じゃ嫌ですか?」

 

男性

「決してそうは言ってはいな――――」

 

(再び一瞬ノイズが走り音声の具合が変わる)

 

ニャル子(CVイメージ:浅野真澄)

「ニャル子とクー子の、予言のごとき未来リポートのようなものッ!」

 

クー子(CVイメージ:堀江由衣)

『どんどんぱふぱふ、ぬめぬめぬるぽ』

 

ニャル子 

「ガッ!

 さてさてしかし、続いちゃいましたね~。一体どうなっちゃってるんでしょう真尋さんと私を覆う影。

 巨大ですね~、神話的ですね~。

 まだまだ当分、真尋さんも皆さんも目を逸らせないくぎ付けです!

 そんな訳で、そちらの状況はどうでしょうか! 現場のクー子レポーター!」

 

クー子

 

 時空の果てから来たりしは かつて偉大と呼ばれていたものたち

 探索者の目が映すは 激突する稲妻と閃光

 

 試されることのない そのパズルを開く鍵は

 時間の果てにか 空間の果てにか

 

 初恋の影はもう二度と出会うはずはなかった

 

 そして――――少年は引き金を引く。

 

 

ニャル子 

「さて、回転、大回転、大大回転! 大大大回転、大大大大回転!

 次回の見どころは、だあああああい回転っ! 一般探索者・二谷龍子の地味ぃな気遣いです。

 さしもの真尋さんも危険度マックス!

 喰らえ必殺! ハイパーボルケニックなんとか!」

 

クー子

『次回、真・這いよれ!ニャル子さん嘲章。「ザ・シャドウアウト・オブ・メロディアス」』

 

ニャル子

「次回もまた深淵に?」

 

ニャル子&クー子

「『ドロップドロップ♪」』

 

ニャル子

「次回もまだまだドッキドキ! え、水着はあるかって? そりゃ聞かぬが花というやつですよぉ」

 

クー子

「くっ……、ニャル子、追手がそっちに向かった」

 

ニャル子

「にゃ、にゃんだって? く、こんなところで私は、まだ負けるわけには――――っ」

 

??太(CVイメージ:草尾毅)

「サイクロン……」

 

ニャル子

「って、貴方はまだ登場は先のはずじゃなかったんですかぁ!? って、いえいえそんな、何を一人で敵全員を相手するような感じで、背中で語って――――」

 

 

 

 

 

(ぶつり、と音声記録はここで途切れている)

 

 

 

 

 



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 おまけ:CoC用サプリメントもどき(※ネタバレ注意)

本作を作ってる際に設定した特異点/ポータルと、SANチェッカーの情報です。あくまで現時点のものなので、後々修正が入るかもですが・・・ ご参考までに


※本編読了後推奨

 

 

 

 

  

 

 

【種族:特異点/ポータル】

基本概要:

・ヨグ=ソトースの眷属。後天的にヨグ=ソトースと関係を持つことで生物が変化する

・基本的には這い寄る混沌の手によって変化するが、人為的に変化するためにはヨグ=ソトースの肉片が必要。これは液体窒素で凍らせた、などのフレーバーをもたらしていても問題はない

・変化したキャラクターは、特定の時空間と接続されていることになる。接続される対象は概念とかでも可能。たとえば魔導書の内容、ゲームのストーリーといったような概念でも可能

・肉体的な時空間攻撃の影響は受けない。例えば世界の時間が止まったとしても、ポータルは影響を受けない

・逆に精神的な時間攻撃については影響を受ける。精神交換により過去に飛ばされた場合、ポータルの特性は肉体に引き継がれるなど

 

ゲーム上の運用;

・神話生物であっても兼用可能。深き者どものポータルとかもできる

・プレイヤーが変化する場合、キーパーと事前に相談すること

・ヨグ=ソトースに一時的に精神を乗っ取られることもあるので利用可能

・基本概要にのっとった運用推奨

・SAN値が10を切ると、肉体はヨグ=ソトースの肉片となり消失する

 

技能・接続(~):

・ポータルの特殊技能。(~)に接続された対象が入る。例えば接続(ネクロノミコン)。クトゥルフ神話が40を超えている場合自動取得だが、使用解禁についてはキーパーと相談

・接続されている対象にアクセスすることが可能。アクセスした結果はキーパーに委ねる。例えば武器庫と接続しているから武器を取り出せるや、魔術書と接続しているため魔術を行使できるなど。ただしヨグ=ソトースの化身や這い寄る混沌は無条件で接続可能。またアクセスするとごに、1Ⅾ10のSANを喪失

 

 

 

【道具:SANチェッカー】

基本概要:

・星の智慧派が開発した近代神話兵装

・輝くトラペゾヘドロンを材料として作成される腕時計状の装置。作成には輝くトラペゾヘドロンの他、腕時計、10面ダイス、ミ=ゴの死体が必要

・使用者の神話的正気度の肩代わり装置。人間が装着する場合は常に1つで、2つ装着して判定を行った場合は即死(脳が破裂する)。

 

ゲーム上の運用:

・SANチェッカーを装着中の探索者は、正気度判定の際に常に失敗する。たとえば0/1D6とかの場合、必ず1D6。1/1D10の場合は1D10というように、より強く喪失する側に偏る

・初期値は99スタートで、減算して使用する。0以下になった場合に破損し、残りの値をプレイヤーのSAN値に適応する。その際、クトゥルフ神話とSAN消費は減算した残りの値を基準に計算する

・SANチェッカーで一度判定をしたプレイヤーは、そのセッション中は精神分析で回復しない。追加のSANチェッカーを装着して回復する。

・SANチェッカー1度の破損ごとに、HPを1D6喪失する。ただし神話生物は1度の破損につき1/4。

・電子工学、クトゥルフ神話、オカルト、幸運の判定成功で作成可能(それらしい知識などの理由付けはキーパーに任せる)。材料は輝くトラペゾヘドロン、腕時計、10面ダイス、ミ=ゴの死体(神経系)。時間は2D10(0~99)*30分で計算する。ファンブル時は道具破損など対応。クリティカルはキーパーに任せる

 

 

 

 

 



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 旋律の前の閑章
マシュルフマイハート その1


3章前に、SAN値回復ポイントこと日常編


 

 

 

 

 

 

 八坂真尋の脳裏を打つのは、トントントン、とリズミカルな包丁とまな板の音。音の感覚からして野菜、大根か何かを切断しているのだろうという目星はつけられる。そういえば入院前に大根の糠漬けを作っていたな、と思い出し、そしてそんな真尋の寝覚めは最悪と言えた。

 

「暑っ」

 

 四月末から五月の連休もとうに過ぎ、既に初夏。なんだかんだと熱気がこもる室内で、軽く脱水症状を引き起こしているのか頭がぼうっとする。唾液を飲み込めば喉が痛く、まるでひび割れてるような感覚だ。おそらく水分が足りず、かぴかぴに乾ききっているのだろう。時期は早いがそろそろエアコンを動かそうか、掃除をしようか、色々考えながら上体を起こし伸びをした。

 寝ぼけたままの真尋であるが、本能的にか習慣的にか、体は学校へ向かうモーションをとっている。カバンの中身を一度確認し、財布やら筆記用具やらをチェックした後、ぼんやりしたまま洗面所へと向かっていた。

 

「今、何時だ……。顔……」

「――――あら、おはようヒーロ君……、うぷっ」

 

 途中、真尋に、酷い顔色で声をかけるのは彼の母親だ。正面から行き違いという状態なので、おそらく洗面所かトイレからやってきたのだろう。あきらかに青いその顔色と、頭を押さえている様子から、それとなく後者だろうと真尋は察した。ほんのりアルコールの刺激臭と、消化液の刺激臭との混じった、なんともいえない匂いが漂ってくる。しかし朝、こうしてだらけている様子の母親と遭遇するのは珍しい。そもそも仕事が忙しく、朝はほとんど家にいない母親であるし、父親に至ってはめったに家に帰ってこられない八坂家である。理由を思い出そうと活動が鈍い脳みそのギアをあげようと考えこむ真尋だったが、しかしやはり異臭が鼻につき、集中できなかった。

 

「…………ヒロ君は止めろっての。あと母さん、ちゃんと口濯いでこいって。すごい臭うぞ」

「あらやだ、そう? 駄目ね、清定さんにイヤミ言われちゃう――――」

「あ、でも俺が顔洗ってからにしてくれ。さすがにゲロ臭い蛇口から出た水を、顔に浴びる趣味はない」

「あら酷い。こんな妙齢のレディに向かって、ゲロ臭いまましばらく待ってろって言うのー?」

「自爆してる母さんにまで付き合うつもりもないぞ。大体、逆に言えば、それって俺に今日午前中しばらくゲロくさいまま過ごせって言ってるじゃないか。そんな無茶苦茶なことを言う母親なんて世に居ないと、俺は信じたいけどな」

「う、容赦ないわねっ。どうしてこんな口悪く育っちゃったのかしら……。

 ちなみにアンタ、そんなだと学校に友達とか、あんまり居ないんじゃ――――」

「うるさいっての。いちいち親に心配されることじゃないっ」

 

 実際、片手で数えられるくらいの交友関係だった。真尋の慌てたような挙動に「わかりやすいわねっ」とニヤニヤ笑いながら抱き着く八坂頼子(年齢不詳)である。

 

「はなれろっての、というかマジで酒臭いっ」

「ふふ~ん? 離れろと言われて離れるお母さんはいないのじゃっ。あぁ~、ムスコニウムが補給されるんじゃ~、いいわいいわぁ、若返る……!」

「アンタさては二日酔いどころか、まだ酔ってるな!?」

 

 意味不明すぎる母親の言動に、真尋は想像力を働かせるまでもなく結論を導き出した。おおよそ迎え酒とかやって、その状態で酔いが回ってる有様なのだろう。よく見れば目の下にくっきり隈が出来てる。この様子からしてほぼ夜通しで、かつ仮眠くらいしかとっているまい。一目でわかる、不健康ここに極まれりだった。

 組みつきに対してなんとか腕力(と舌戦)で事なきを得て顔を洗いリビングに向かう真尋。と、キッチンには背の高い男性のシルエットが見える。少しだけ嫌そうに眼を細め、しかし頭を振り自分の席を引いて座った。

 

「珍しいな。おはよう――――親父」

「おはよう、真尋」

 

 こちらに振り返る父親は、どこかで見たことのあるような涼し気な微笑みを浮かべていた。顔形は全く違うし、振る舞いやらその正体やらを考えても絶対に違うのだが、どうしても真尋の脳裏に、真っ黒なローブをきた、存在自体がかなり危険な男の涼し気な微笑みが浮かぶ。表情にもその何とも言えない嫌悪感が出てしまっているのだが、父親は特に気にせず、目を閉じて受け流した。おそらく真尋よりも、普通に人間が出来ているのだろう。それを察して、真尋はまた何とも言えない気分になった。

 

「昨日の夜に帰国してね。真尋は再検査の後、ぐっすりしてたから気づいてなかったか。まあそう言いつつ、今日の午後には雲の上に戻るんだけどね」

「相変わらず忙しいな」

「まぁね。実のあるフォールドワークとかなら喜ぶべきところだが、ありていに言えば楽しいものではないかな」

 

 父親と母親、双方ともに大学で教鞭をとる立場である。母親が近隣の大学で民俗学、父親が都内で考古学をそれぞれ担当している。母親はそこまで忙しくはないのだが、父親はどうやら何か大きなプロジェクトに関わっているらしく、研究目的でも、また発表やらイベントやらでも引っ張りだこらしく、ここ数年は特に忙しい時期が続いていた。反抗期を迎えて久しい真尋からすれば、ケンカすることもなく、なんとなく清々するのもあって有難い話ではあるが、同時に悶々とするいら立ちのようなものの当たり所がないということでもあって、中々難しい問題でもあった。

 

「後、おはようとは言ったけど、今は十一時だね。気を抜くとお昼を回るよ」

「マジか――――って、あれ? 今日、休み?」

「土曜日だね。しばらく入院していたから、体内時計が狂ってるとみえる」

 

 微笑みながら現在洗っているらしい硝子のコップをちらりと魅せる父親。もう朝食は終了してるということらしい。

 

「何か食べるかい?」

「あー ………………、いい」

「そうか。お湯はポットで沸かしてあるから、ご自由に」

 

 とりあえずということで、常備してある粉末コーンスープを溶いて食べる真尋だった。と、食べ終わるころに洗面所から、もうすでに今朝がたの酔っ払いここに極まれりな有様から完全に脱した、それはそれは美しい母親が帰っていた。まぁ父親を見るなり「清定さぁん♡」などと言いながら、千鳥足で抱き着きに行くあたりは、酔いがさめてるという訳でもないらしいが。

 

「二度寝でもするか」

 

 ダンナ酸なる謎の栄養素を夫から吸収しようとする母親の言動から目を背け、真尋はそのまま自室に戻り、ベッドにダイブした。

 休日の二度寝は基本しない真尋であるが、父親がいるときはどうにも治まりが悪いのか、不貞寝のような感覚で顔を合わせづらい。別に喧嘩をしているということも、親子仲が悪いということもないのだが、どうにも真尋は父親が苦手だった。いなければ寂しいし、長い間会ってなければ顔を合わせたいとも思う。何か事故があったとなれば心配にもなるし、そういう意味では普通に親子らしい感情はあるのだが。どうにもこればっかりは、思春期特有の、親がうざったいという感情のアレだろうと、真尋は納得していた。いや、明確な原因はわかっているのだが、それを直視することこそを真尋は避けているのかもしれない。別にそのことを受け入れなくとも人生困ることはないし、自分は自分で十分やれている自負もある。ただ、そういうのとは別に感情の問題として、八坂真尋は無理やりに納得をしている。そして、そのことを考えるのを止め、意識を無意識の虚空に手放した。

 入退院してからしばらく、真尋はもう思わせぶりな夢を見なくなっていた。一度だけ、もうどうやったのかさえ定かではないが意図的にその思わせぶりな夢を操作(ヽヽ)したことはあったが、それは、やろうと思ってみている夢、つまり覚醒夢というやつだ。なのでそういうのとは無縁として、特に何か「念じたりしなければ」、真尋の夢は真尋だけのものである。すなわち、夢を見ることもあれば意識を簡単に手放すこともあり――――。

 

『――――真尋ー、お客さんよー』

 

 頭からすっぽりかぶった布団に、玄関からかけられているだろう声が聞こえて起こされることもある。

 

「……、誰?」

『あの、髪の長い可愛い子ちゃん』

 

 言い方が微妙にオヤジ臭い。

 瞬間、脳裏に二人の顔が描かれ、ヘアスタイルから相手が絞られる。そして真尋はさも当然のように。

 

「チェンジで」

 

 やはり寝ぼけているのだろうか、微妙に意味不明な返答であった。気のせいでなければ、誰かの堪忍袋が「ぶち」とキレる音が聞こえたような、気がする。失礼します、と聞き覚えのある声が八坂家の侵略を開始したあたりで、真尋は特に気にせず意識を無意識の虚空へと再ダイブさせようと――――。

 

 

 

「ま、ひ、ろ、さんっ! チェンジとは何ですかチェンジとは!」

「ぃっ!?」

 

 

 

 どしん、とベッドの上からのしかかられ、顔のあたりのタオルケットをはぎ取られた。見上げればこう、やはり想像通りの人物というか、つまり二谷龍子がそこに居る。ピンクのシャツに黒のワンピース、黒タイツと、なんとなくおしとやかな服装で似合ってはいたが、何やら真尋の直感は、本来これはクー子あたりが着てそうな服のイメージであると思い至った。全くなんて無駄な想像であろうか。ともあれ駄々っ子のごとく、ばし、ばしと真尋の身体を軽くはたき続ける龍子に、彼は諦めたように問うた。

 

「全く、休日だっていうのに……。何しに来たんだ?」

「何しに、じゃないですよ。この間、約束したじゃないですか、真尋さんの快気祝いにどこか遊びに行くって! どうして忘れてるんですかっ」

「そんなこと、やりたきゃ一人でやってくれ。今日は眠いん――――」

「真尋さんっ」

「!? こ、こら、何ベッドに入ってこようとしてんだっ」

 

 強硬手段とばかりに、タオルケットに潜り込み真尋本体を連れ出そうとする龍子と、さすがに女の子相手だから蹴ったりできずじりじり追い詰められる真尋の戦闘が、小一時間繰り広げられた。不毛である。お互い疲れによる一時休戦を挟んで、あきらめように真尋は立ち上がった。

 

「とりあえず下の階、降りてろ。あとスカートの裾は直しておけ」

「え? きゃっ」

 

 きょとんとして言葉通りスカートを確認、ストッキング越しとはいえかなり大胆なくらいに露出されていた太ももとエトセトラに、あわてて照れたようにばっと直して、股間のあたりを隠した。今時あざといくらいのしぐさである。狙ってるのか素なのかは、さすがに真尋も判定できないくらい、龍子との付き合いは短い。

 

「むむぅ……、こうなったら等価交換です。最近はやりの」

「最近じゃないけどな。で、何がだ。早く出て行って欲しいんだが」

 

 じぃ、と、真尋を見つめる龍子。

 

「まさかとは思うが、俺の着替えというか下着見て、等価交換だとか言いたいのか。止めとけ止めとけ」

「な、なんでですか?」

「どう考えても、今、扉の手前で聞き耳立ててる母親が、変なこと言いながら乱入してくるから。変な既成事実でも作られたら、たまったもんじゃない」

「うっ、わ、わかりましたよ……」

 

 見られ損じゃないですか、などと言いながら部屋を出て戸を閉める彼女。ちらりと開けた扉の手前で、母親が「あ、ばれた?」みたいにてへっ、ぺろっ、というしぐさをしていたのがやや面倒臭かったが、ともあれ扉が閉まり、階段を下る足音が二つ。真尋はさきほどのうっとうしい視線を無視してパジャマ上着のボタンをはずし。

 

「今時、かぼちゃパンツであんな恥ずかしがるなよ……」

 

 膝近くまであった暖かそうなドロワーズを思い浮かべながら、ため息をついた。

 

 

 

 

 

 




本作のCVイメージおさらい:
 八坂真尋:鈴村健一
 二谷龍子(ニャル子):浅野真澄
 クー子:堀江由衣
 真尋の母:三石琴乃
 真尋の父:佐々木望
 


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 とある民俗学者の走り書き、あるいはネクロノミコン計画プロローグ

SAN値回復ポイント、しばらくいちゃいちゃしてると言ったな。

あ れ は 嘘 だ。

※一応活動報告にて言い訳


 

 

 

 

 

 嗚呼なんとかくも恐ろしい――――! これが誰かに読まれるころ、私がはたしてどうなっているかは定かではないが、それでも私はここにこれを書かねばならない。書かなければ、あのあまりに思い浮かべるだけでもこの世の地獄と形容するのすら軽いほどに名状しがたいビジョンを、過ぎ去った時間とともに忘れてしまう――――決してそうあってはいけない。それは私の、ひいては人類に対する裏切りに他ならない。

 私がこの筆致を正しく読み合せられる形で記述できているかすらすでに定かではないが、それでも私はこの眼前にたゆたうあまりにも悍ましく、感情あるすべての生き物に対して冒涜的とさえいえるこの惨状を残さなければならない、そういった使命感から筆を執る。

 だが、嗚呼――――目が覚めた時点で私の体は私の体ではなかった。これは何かの夢なのか、疑い続ける私であるが、しかし夢にしては妙にこの肌寒さと背筋をはい回る得体のしれない感覚が、違う何かを告げてくる。■■■■■■■■(※筆跡が塗りつぶされており読めない)とそこからおびただしい数がはい出ているこの惨状が私の眼前の光景である。空は赤く日の照りは黒々とし目玉が浮かんでいるようでさえある。それも一つではないが、それが常に私を見下ろしているかのように感じられてしまうのが、既に私の正気を保証■■■ない。見るがよい、あの天を覆い隠さんとばかりにビル群にまとわりつく巨大な吸盤を持つ触手の数々を! 左右にゆらりゆらりとそれはそれは恐ろしくも数々の膨大なその質量をゆらめかせ、時に地上を蹂躙する。この地と肉にまみれた臓物のような大地を歩くだけの気力を奪うには十分すぎる光景であるが、これを前にしても私は足を踏み出さないという選択肢はない。私はただの吹けば飛ぶ一つの節くれにすぎなかったとしても、この場においてただ一人正気の己を知覚し自覚し存在している古我なのである――――この連続性を担保することをせずして、そのための記録を残さずして何が、何が学者の端くれであるか。

 記そうぞ、嗚呼だからこそ記そうぞ。しかしやはり眼前の光景は何度見直しても変わらない。足を踏み込めば肉と化した大地が沈み血が噴き出す見るも目をそむけたくなる景色が広がる。砂という概念を喪失したこの世界で、しかし今現在においては地上を踏み歩く者はこの私をおいてほかにない。故にしかし、私はこれが夢であることを願い足を踏み出し続けたのだ。一歩一歩、踏み込めば踏み込むほど足は血の海に沈み靴とその内側に赤黒く浸食してくるが、それにより一つ分かったことは、これは地面の上に膨大な血肉が張られた状態であるというだけであり、本質的にはこの下にコンクリートの地面がいまだ残っているだろうということだ。肌は妙に寒く、ここが北国かさもなくば太陽そのものの機能が停止しているか、あるいは地上が氷河期でも迎えたかというところであろう。どちらにせよその何れかであるかを調べるすべはもはや私にはない。通信機器の電波系統は死滅しており、映像には砂嵐のごときノイズと、時折画面にちらちらと映る首を吊った人間のような不気味なシルエットが点滅する。それを直視し続けることがとても私にはできず、故にその映っている映像の詳細についてはここにおいて割愛させてもらう。

 足の不快感に顔をしかめながら道らしき道を歩いていくが、しかしそこかしこ視界に映る映像を見る限りにおいて、もはや私の脳では処理しきれないほどの凄惨な状況になっているらしいことはありありと理解できた。道行く道に■■や■■■やら、あるいは四肢の破片やらが無造作に転がっており、あるいは地面に突き刺されたりしている。まるで悪魔のガードレールか、地獄の電柱である。骨で構成されたオブジェを一目見た時点で、この世界を設計した存在のなんと悪趣味なことか、それを嫌でも理解させられた。そう、だからこそ私の手は震えている。一体何があった、私たちが暮らしていたかの世界がこれほど冒涜的な有様になってしまうのか。これほど暴力的な赤に染まってしまうというのか。人影一つなく、辺りには■■■■■■■■■■■■■■■を私■知らない。

 歩けば歩くほど息が詰まる。むせかえるような鉄の匂いと、焦げた肉の匂い。以前、一度、フィールドワークで中東の遺跡を訪れた際にテロが発生したときのことを思い出す。あれに巻き込まれた時も似たような匂いがした。人間が焼ける匂い、人間が解体される匂い。戦場でしか感じることのない、この国においてはほぼほぼあり得ない、距離的にも心理的にも離れたこの匂いが、この世界の、私の視界に映るすべてを侵略し尽くしている。端的に言えば、この時点で私は吐瀉物を抑えきれず足元にまき散らした。膝をつき両手と、はねた血で胴体も含め多くの箇所を赤く染めながら、喉や口を焼く酸をこらえきれず吐き出した。むせかえるようなドロドロとした爽快感の欠片もない、ただただ不快感を醸し出すこの空気を吸い、吐く。吐くものがなくなると今度は過呼吸に近くなり、しかしそれもやがて力尽きたように倒れた。気が付いたのはしばらく時間がたってからだろう、空はやはり赤々としていたが上っているものが月になったのはわかった。月は太陽と異なりらんらんと輝き、しかしその本来なら以前と変わらないはずの美しい惑星は、それを見ただけで私に言い知れぬ焦燥感を与えた。このままではいけない。このまま月の光に照らされていては、何もかもを失ってしまう――――そう連想した時点で、その連想もまた私の精神を犯している何かしらの狂気の類だろうと判断できた。

 あるけど、走れど、交通手段を自転車に変えもした。バイクを運用しもした。だがいずれにせよ、ここは出口の見えないマラソンだった。行けば行くほど体力も消耗するものの、しかし食事は意外と困らなかった。コンビニエンスストアの電源がいまだ生きている。すでに崩壊してボロボロとなったこの状況においては、誰一人として人間はいなかったのだが、しかしそれでも冷凍食品を加熱したり、あるいは冷蔵ドリンクを利用したりといった手段をとれたことは、奇跡的だったといえるだろう。もはやそれがなければ私も命をつなげまい。少なくともこの少年のような肉体であっては。なぜか持っていたフォークを使い熱された肉を頬張るあの感覚は、金銭すら払う必要もなくすべてが死滅したようなこの終末世界とでも呼ぶべき場所においては、私の社会性など塵芥に等しかった。ただただ生きることを念頭において、そして私は足を進めていた。

 海だ――――そして私は陸地の果てを見た。予想通りというべきか、堤防に近いその場所は肉のフィルムが剥がれているわけでもなく、腐り落ちたのかコンクリートの地面が露出していた。赤い空に照らされる海は色のコントラストの関係か妙に黒く、黒く、深く、色を反射しないそれであった。まるで深海そのものが眼前においてこの姿になっているような、そんな形容の難しいような直観を抱く。見るだけで意識が溶かされるような錯覚と、膝から崩れ落ちる脱力感。まるでその奥の、深淵に何かこちらの魂でも引きずり込むような得体のしれない怪物でも潜んでいるような。そんな詩的な表現が湧き出るくらいには私も参っていたのだろう。嗚呼――――そして奴らは現れたのだ! 私がその場に現れたのを聞きつけて! 音か、匂いか! もはやその時点の私には欠片も理解できない状況にあったそれは、海の底から浅瀬にかけて、徐々に、しかし実際には猛烈な速度で駆け上がってきた。気が付けば海水の黒いうねりには、それこそ数数えきれないほどの不気味な巨体がうごめいていた。おおよそ3メートルには満たないだろうが、しかしこの少年の体や、あるいは私本来の体と比べても明らかに大きいその背丈。体格もがっしりとしており、そして黒い海水のしめりけを帯びた全身は、てらてらと黒い太陽の光を反射していた。

 彼らは走っていた。水というそれは、彼らの動きを阻害する要因たりえない。彼らにとってホームである海中は、すなわち我々にとっての空気と差はなく、そして空気もまた彼らにとって動きを阻害されるものではないのだ。次々に水面から湧き出た彼らは、それはもう猛烈な速度で飛び上がりこちらに向かって走ってきた! 私は、もはや武器と呼べるものもなくただただ道中で見つけた猟銃を狙撃する。それも一発が一匹の頭部を打ち抜きはしたものの、それすら踏みつぶし、わたわたと海面を覆いつくす彼らは、私を見て、私めがけて足を運んでいた。嗚呼、なんと、なんと悍ましい――――! あの鋭利な歯は一体何のためにあるのか、あの剛腕は、筋肉は、猛烈な速度で動けるだけの敏捷さは、体の強度は、そしてそうであってもその身体構造が我々とさして大きくは違いないというその事実は、いったい何のために存在するか――――! 彼らは正しく侵略者だった。我々から見れば、彼らは侵略者だった。彼らから見た場合のことなど私には知るよしもない。おおむねかの小説群に記載されている内容のとおりであるのなら、むしろ我々こそが彼らにとっては歯牙にかける程度のそれでしかなく、我々はすなわち彼らに搾取される形態をとらざるを得ないのだろうか。嗚呼、なんと悍ましい事実! なんと恐ろしい光景! 身の毛も弥立つ、辺り一面を覆いつくす魚臭さ! 彼らのげに恐ろしきところは、私の知りえる科学的見解においても、いわゆる民俗学的情報においても、考古学的考察においても、欠片も存在を確認しえなかった点にある。ゆえにこそ、それが現実を汚染しているこの有様に■■■■が言っていたことをどうしても想起せざるを得ない。すべての物語に書かれていることは、すべての時代において必ず何かしらの形での実現を見る――――そしてそれらは、我々が認知できていない世界において、あるいは時間軸において、まったく順不同にばらばらに、いついかなる形であっても必ず履行され、そして滅亡につながるのだと。

 私には理解できない世界であるし、かの■■■■はそう言って涼し気に笑う程度の返答しか返さなかったが、嗚呼、あの日々は間違いなく私を今の狂気に落とし込むだけの下地ではあったのだと。時間が狂い始めている私にとって、すでに眼前のこの魚たちも、さらにその奥から盛り上がる巨大な影も、認知することも認識すらしたくはない。だがそんな私の前に、ようやくというべきか人影が現れた。それは黒く長いロングコートを身にまとった、白髪の長い老人だった。片手に銛を持ち、そして老人の出現と同時に、海中からクジラのバケモノのようなものが現れ、のたうち回った――――。海中から現れ出た巨大な半魚人や悍ましい数の彼らを吹き飛ばし、そしてそれに倣うように、イルカノのようなバケモノも、あるいは悪魔のようなシルエットを持つバケモノも天空から現れ出て、彼らに襲い掛かる。老人は身動きすらとれなくなった私を見て、鼻を鳴らし、襟首をつかんだ。

 中身が違うのか、くだらない――――何やらそんなことを呟いていたような記憶がある。震える手も、凍える足も、視点の定まらない視界も、聞き取りがたいこの耳も、肉体とのこの乖離すべてを一蹴し、老人は私はそのまま引きずって連れて行った。

 私が目覚めたのはその時点においてであり、そして当時の私は、そのあまりの体験に精神が崩壊まではいかないものの、大きな軋みをあげた。それまでの私にあった、神と、人間との関係に。人間の神に対するあり方に、その分析に、そして資料に、私が学習し、これから学ぼうとしていたそれらすべてを崩壊せしめた――――!

 ならば私は人類のために進まなければならない。神だ。あれらの神々に、私はコンタクトを試みる必要がある。私に限らない。私以降の人類でもいい。誰かしらが彼らと正しく接触を図らなければならない。さもなくば世界はああなるのだ。私が視てしまったあの物語のような、世にも悍ましい光景こそがすべてを塗りつぶしてしまう――――それではあまりにも救いがない。

 そのためならば私もまた、時に狂気に走ろう。古に封されし書物を紐解き、論文を解析し、そしてありとあらゆる規格をもってして、私が私でなくなったとしても、私は解き明かそう。

 そうでもしなければ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 

 

 

 

 

 

 ■■■■■■■■■■■■

 ■■■■■■■■

 ■■■■■■■■■■■■

 ■■■■

 

 

 

 

 あいあ、あいあ。

 たすけて。

 

 

 

 

 

 

(以降はボールペンで書きなぐったような、名状しがたい絵が続くため割愛)

 

 

 




本作のCVイメージ:
 手記の読み上げ:野島裕史


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マシュルフマイハート その2

回復→ダメージ→回復
ということで、2回目のSAN回復ポイント・・・回復ポイント?
 



 

 

 

 

 

「"Where there is Cosmos, Chaos lurk and fear reigns"~♪ "But by the insanity story have been told ferret ,mankind was given hope of fake~"♪」

「何だアンタ、そのSAN値が下がりそうな歌は」

「おおー! なかなかシャレオツな店内ですねー。っと、真尋さーん! これですよ、これ! このクレープ!」

「は? ちょっと待て、なんだこれ持ち帰りとかじゃなくて普通に店内で飲食できるような専門店じゃないか。ガレットとか、さも当たり前のように置いてあるし」

「およ、ガレットをご存知とは、真尋さん博識ですねぇ。でもそれがどうされました?」

「一品ごとの値段帯の問題だ! 500円以上の値段とか、普通に食事1回分の値段だぞ。高校生の俺たちが寄るような店舗じゃないだろ」

「おっと、そっちに突っ込みがいきましたか、相変わらず所帯じみてますねぇ……。でもまぁ、いいじゃないですかぁ、たまには。デートみたいなものなんですし」

「何がデートだ、何が。大体、デートだろうが何だろうが、金銭感覚を失うのは只の考えなしだっ」

「真尋さん女の子と食事に行く時、普通にサ〇ゼとか入っちゃいそうですねそのノリだと……」

「何だ、何か文句あるのか? おい、なんでそんな打つ手なし、みたいに肩をすくめるんだアンタ。学生の金銭感覚が大前提だろ」

「いえ、私は別にいいんですけどね。いうほどサ〇ゼのメニューを知り尽くしてる、食べつくしているってこともないですし」

「それに大体、下手な時間の間食とか、普通に太るだろ」

「大丈夫! おやつは全部、別腹ですよ」

「全部って何だ全部って。一体何品制覇するつもりなんだアンタ……?」

 

 市電を使い駅前から数分。赤レンガのちょっとおしゃれなお店で、店の外観相応なお値段のクレープを購入する真尋と龍子である。ちなみに真尋はキャラメルソースで、ニャル子こと龍子はチョコバナナキャラメル。どちらもまあ無難といえば無難に聞こえなくもないが、これで金額的には、近所の古本他総合リサイクル販売店でセブンの息子の変身アイテムが買えてしまう値段である。軽く戦慄しながらナイフとフォークを持つ真尋は目が笑っていない。対して龍子は平然とバナナとクレープ生地を切断し、楽しそうにもちゃもちゃと食べていた。

 店内は内装、テーブル、座席、小物、皿やらグラスなど含めて一通り店の外観にそった、かなり洗練された店である。座席で向かいあいながら、真尋は肩身が狭い。明らかにこういう店に不慣れな男子高校生の図である。実際、当然というべきか女性層やらマダム層が多く、その中に点々とカップルが混じっていたりするのも、彼の肩身の狭さを助長していた。半眼で龍子を見つめるも、特に気にした様子もなく、嬉しそうに、大変美味しそうに、音もなく食べて飲み込んでいた。

 

「あれ、どうしました?」

「なんでもないよ。……で、アンタ、最近どうなんだ?」

「どうだ? って、何がです?」

「学校でだよ。思いっきり目の前で炸裂してたろ、あれ。何かその後、俺の知らないところであったりしたか?」

「あー、あ、それですか……」

 

 周囲がわいわいがやがやとは言わないまでも、それなりに人が多いこともあって、小さめの声の会話程度だったら誰も気にしないだろうという具合である。とはいえど、聞けば一歩間違うと宇宙的真理に到達しかねない情報の断片にかかわる事柄であることは十分承知している真尋であるからして、その口から出てくる言葉は、色々と調整されたものになっていた。要は「命狙われてたが、俺が入院していた時とかそのあとに何もなかったのか」というところである。

 当然のごとく龍子もそれを察したが、彼女は困ったように笑っていた。

 

「正直、私もそこまでどうなったかは把握してないんですよね。把握する必要がないというか、外部に任せたというか」

「外部に任せた?」

「姉の同僚さんというか、本当なら一緒に真尋さんのところに来る予定だった人がいらっしゃるんですけどね? 直前で季節外れのインフルエンザにかかってしまったらしく、何もできなかったそうなんですが。その人との連絡パイプは残っているので、ご協力願いました」

「というかなんでインフルエンザ……」

「私も、さすがにそこまでは。調べる必要もあまり感じませんし。

 ともかくそっちに投げたことで、色々と抑えが効いている状態らしいです。実際のところ、私の方にとばっちりが来たのは、姉のことが原因だったようで」

「姉?」

「ほら、クジラが流れ着いたじゃないですか。全身炭化したもの。あれの時点で既に、『姉の体』を含めて色々漂着していたらしく。そのとばっちりらしいです」

「そういえば、なんか聞いた覚えがあるな。アンタの姉から……」

 

 ――――こう言うと変かもしれませんけど、表ざたに神話生物とか魔術師とかが活動しようとすると、周囲の別組織とかからつぶされるんですよ。

 ――――まぁ端的に言ってしまえば『自分たちの情報漏洩』にもつながりかねないからですかね。

 ――――『俺たちの邪魔になるから止めろや』ってところあたりなんでしょう――――

 

「なんでそっちは報道されないんだ? 明らかにどっちも大事件だろ」

「いえ、組織も手をまわしたらしいですけど、それ以前に、第一発見者の方が、その、直視した瞬間にヤっちゃったといいますか、アレしちゃったらしいといいますか」

「…………」

 

 間接的に見知らぬ第三者の正気を消し飛ばしてしまった、その片棒を担いだ気分になった真尋。ひどく居心地の悪そうな顔である。切断したクレープとアイスクリームを口に入れても、いまいち味がしないのは仕方ないだろう。そんな彼の気を紛らわせるためか、龍子は「えいっ」と自分のクレープを真尋の半開きだった口に押し込んだ。

 

「……ん。止めろっての。だからデートじゃないって言ってるだろ」

「そう言いながら、しっかり食べてますね。器用に歯とかで、フォークに唇とか接触しないように徹底する必要は、あまり感じませんが…………」

 

 ここで「大体アンタは、そういうことやって何の得がある」とか「こういうことやるのに抵抗がないのか」とか、そういうことは言わない真尋であった。藪をつついて蛇を出しそうだと直感的に判断してるのだろう。よって彼がとった行動は、何も言わずに自分のクレープを切って一口食べるだけであった。

 

「そもそも大前提として、俺の快気祝いだろ。何で自己都合を優先してるんだよ」

「一回食べてみたかったんですよ♪ さすがに一人じゃ入りづらいですし」

「どうしてだ? ここ、一人で来てる客も多そうなんだが」

「まあいいじゃないですか。真尋さんも眼福なんじゃありませんか?」

「そ、ん、…………」

 

 もっともこれに言葉が続かないあたり、真尋もまだまだ修行中と言えるかもしれない。

 してやったり、みたいに微笑む龍子は、確かに彼の初恋の女性の面影が強く残っていた。

 

「あ、高いで思い出しました。そういえば真尋さん、四月ごろにテレビに出てませんでした?」

「は?」

「いえ、土曜日のスペシャル番組的な企画で一度、見かけた気がしたので。カレーとか作ってませんでした?」

「あー ……、まぁ、出てはいたか。参加賞目当てで」

「参加賞?」

「商品券。前、深夜の通販で包丁セットのやつをやっていたやつが欲しくってな。当日、そのまま電話する気は起きなかったんだが、後日店頭でお試ししてみたら妙に使い易くって。ただ自腹を切ってまで買うのは癪だったんだが、ちょうど暮井から誘われて、ホイホイついていった」

「真尋さん、変なところで意地を張りますよね……」

 

 ちなみにその包丁類は、自宅で現在も丁重に使われていた。

 

「いえね? 姉から、ちょうどそれが放送中に『将来クラスメイトになるから、顔を覚えておくといいでしょう!』とか言われていたのを思い出しまして。あのときの真尋さんの作ってたカレー、ものすごく高そうだったなーと」

「意外と安上がりだぞ? 材料代については。電気ガスと人件費は除くが」

 

 というかさらりと予言めいたこと言いやがるな、と、真尋は左頬を引きつらせた。事前にいずれ会うことを前提としたその会話は、まあ彼女の本性というか、正体から察すれば当たり前な言動であるかもしれないが、しかし、おや? と真尋の想像力は違和感を覚えた。なぜそんなことをわざわざ、この眼前の少女に語る必要があるのか。二人はその起源を同じくし、存在としてはほぼ同格といってよいはずだと真尋は考えていたのだが。

 その話をオブラートに包みながら聞くと、龍子は「あ、それでしたら」と一度咳払い。

 

「せっかくなので、真尋さんにはお伝えしておきたいことが。少し正気度が下がるかもしれませんが、それについてはご勘弁を」

「帰るぞ」

 

 席を立つ真尋。

 ひしっ、と彼の腕に縋りつく龍子。

 

「待ってくださいってば! 真尋さんだって、姉のこと、もっと知りたいでしょ?」

「ええい、鬱陶しいっ。そんな危険のあるような情報を、世間話みたいなノリで話すなっ。俺の正気度は誰も保障しちゃくれないんだよ!」

 

 当人たちは割と真面目な話であったのだが、声が聞こえないだろう周囲からするといちゃついてるようにしか見えないのか、生温かな視線が贈られる。実態を知っていれば鳥肌ものどころの騒ぎではないのだが、無知とはかくも恐ろしい。だがそれらの視線に気づいてしまったせいか、あるいは泣き出す一歩手前みたいな顔をされてしまったせいか、正体が正体であっても半ば彼は罪悪感めいた感情に襲われる。やむなく、あきらめたように真尋は席に戻った。

 せめてもの抵抗とばかりに、バナナを一つ奪う。

 

「あっ」

「それで、何がどうなんだって?」

「バナチョコ……、いえ、なんでもありません。

 えっと、ですね? まず化身としての成り立ちの話なんですが。私は姉の子機ではありますが、大本、本体の子機ではないんです。なので実質、私はごく普通の女子高校生というわけですね。あ、普通にしては美少女ですが」

 

 子機? といぶかし気な真尋に、両手でろくろを回すようなジェスチャーを交えながら、龍子は言葉を選ぶ。

 

「分離していった流れ、と言いますか…………。まあそれはいいか。化身っていうのは、誕生する際に目的というか、ミッションがあるんですよ。その上で、私は姉とは違うミッションを帯びてます。いうなれば、真尋さんをサポートするために居る存在ってことです。よって私は、真尋さんを守る存在としての化身の姉とはまた違った存在なんです」

「いまいち要領を得ないんだが……」

「姉は真尋さんを守るために作られた存在なので、つまり最悪、大本が『大本として』ふるまう必要がある化身なんです。ですが私は、大本が大本としてふるまう必要がないような、そんな化身。

 姉が自分から公言していなければ、おそらく命の危険にさらされたりするまで気づかなかったんじゃないですかね」

「自分がそういうのだと気づいていないってことか…………。なんか、深き者どもっぽいな」

「まあもっと自由度が高い存在ではあるんでしょうけど、とはいえ女子高生というか、あくまで人間としての機能を優先してる化身なので、変身したりとか、大本が出張ってきたりはできないらしいです」

「知識とかが中途半端なのもそれが原因か?」

 

 首肯する彼女をじっと見る真尋。要するに、ニャルラトホテプの本体と思われる、あの「暗黒の男」の人格が出てこない、さらに言えば特殊能力を持たない化身ということらしい。そもそも這い寄る混沌が相手であるのならばこれくらいは平然と嘘をついてきそうなものだが、聞く限り真尋は彼女の言葉に嘘がないと直感できる。これは「彼女が認識していないだけで」ということではなく「そのことについて心配する必要がない」というたぐいの直感だった。

 ため息を一つ付いてから、彼は再度問いかけた。

 

「それって、化身する意味があるのか? 完全に別な生命体になってないか?」

「あ、いえ、とはいえど大本にフィードバックはされるらしいですし、基本ベースが大本から派生してることに違いはないので。

 とはいえ別にそんな、予知めいたこともできませんし、腕もびろびろーって伸びませんし、SANチェッカーも複数つけたら頭が粉砕しますので、そこはご安心ください」

「最後の一言には、全く安心できる要素がなかったんだが…………」

 

 半眼で睨むように見られても、龍子は困ったようにあははと笑うだけだ。可愛いらしい。さすがに真尋から不快感を抱かれないようデザインされた、ひるがえって、真尋に好まれるよう設計されたと言うだけのことはある。あるのだが、それを正面から受け入れてしまうは真尋のアイデンティティ、人間性の否定だ。意地でも認めるわけにいかないのか、真尋は黙ってコーヒーを口に含んだ。

 

 と、ここで龍子がふと不思議そうに、真尋に問うた。

 

「真尋さんて、どうしてそんな気難しくなっちゃったんですか?」

「別に、好きでなったわけじゃないぞ」

「じゃあ、どうしてそんなに不機嫌そうなんですか? いえ、元気がないって言ったらいいですかね。いつもより落ち込んでる感じがするっていうか」

「そうか?」

「言動はともかく、ふとした振る舞いが」

「なんでアンタがそんなの分かるんだよ……」

「それは、これでも私、真尋さんのことはちゃんと見ていますので」

 

 その一言と同時に、えへん、と胸を張る龍子。ちょっとした殺し文句である。また彼女の姉を彷彿とさせる振る舞いだった。

 真尋はなんとも言えない名状しがたい表情のまま、しばらく黙り。

 

「入院明けだから、まだ家に戻って、慣れてないんだろ。単純に」

 

 ごまかすように、そう言って顔をそむけた。

 

 

 

 

 

 




ニャル子の言う高そうなカレーは、本作スピンアウト「深山さんちのベルテイン/the Great Ultimate One」をご参照ください;


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 劉実ちゃん残留IF、あるいはネクロノミコン計画成功ルート

大体サブタイの通りです。霧子(仮)ちゃん生存ルートですが、今回はSAN値減少ターン!
 
第一章「ネクロノミコン計画」の「あなたは逃がさない」途中から続く形となっておりますので、未見の方は一章を先にお読みいただければと思います;
 
そしてグロ&クトゥルーエンド注意


 

 

 

 

 

 

「――――正直に言えば、アレの掌の上で転がされるのは癪に障る。が、お前を放置しておくのは後々のためにならん」

「オレがなんだっていうんだよ、アンタ」

「『奇妙な歳月』って小説があるんだが、知ってるか? 人類がアレの策謀の前に完全敗北する物語だ。お前が生きてる状況っていうのは、ちょっと誰かが手を加えれば、すぐソレと同じになるって話だ」

 

 真尋の想像力は、それだけの情報でなにがしかの答えを導き出している。そして、その結論に対する違和感に真尋はついに自分自身のこの認識の異常さに気づいた。想像力があるというには、明らかに彼の予想は現実のそれを射抜きすぎている。霧子(仮)との会話におけるリアルクトゥルフ神話小説群の知識から導き出されたろう予想とはわけが違う。いや、あれももしかしたら実際のところは違ったのかもしれないが、それはともかく。少なくともノーデンスの言葉がただしければ。おそらく、自身は「這い寄る混沌により改造されたヨグ=ソトスの落し子」なのだろう、という予想だ。そしてノーデンスの顔を見るまでもなく、彼に確認をとるまでもなく、それが事実であろう確信があった。その確信がやけに絶対的なものであるという認識が、まるで刷り込まれたかのように真尋の中に沸き立っている。そしてほぼ間違いなく、自分をとらえたダゴン秘密教団のような組織の連中は、己の使い方を間違ったのだろうということも。

 あれ、この被害妄想のような誇張の入った刷り込みめいた強迫観念のようなそれは、これって不定の狂気にでも入ってるんじゃないのだろうか、と疑いはすれど、彼の認識自体が大きく錯乱状態にないことから何かが違うという理解もある。ただし現状、どうあがいても真尋自身の正気を真尋が証明することは不可能である。すでにSANチェッカーは存在しない。この狂気の世界に、真尋一人で立ち向かうしかないのだ。

 

「わかるか? お前が生きているとまずいってことが。じゃあ、わかったら死ね」

 

 そしてそれだけ言って、今度こそノーデンス老は銛を構えて投擲した。投げ槍の要領で放たれたそれは、明らかに速度を増していく。真尋の身体が動くよりも何よりも、既に彼の目の前、刺さる直前の位置だ。このタイミングに至り、真尋の中の時間が静止する。徐々に徐々に近づいてくる銛の先端をかわそうとすれど、彼自身の身体はびくとも動かない。状況に違和感を覚えると同時に、嗚呼、これはいわゆる死に際に世界がスローモーションになるというアレだと納得した。脳裏に数々の映像がよぎる。冒涜的な映像だったり、母親や父親、学校の友人たちの顔やスピーカーフォンのような声も脳裏をよぎる。そして不思議と、最後に脳裏をよぎったのは、やはりというべきなのか、霧子(仮)の姿だった。記憶の中の霧子(仮)は、ひどくおかしそうに、それでいていつくしむような眼をして真尋を見ていた。

 

 

 

「――――――――」

 

 

 

 こんなところで死んでたまるかと。だが、すでに真尋にはどうしようもない。そして刃そのものは、もはや真尋には決して止めることができない。

 

 

 

 そして――――すべては決した。

 八坂真尋は、八坂真尋という意味を失った。

 

 

 

 思いも、決意も、何一つこの場に残ることはなかった。

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

 真尋の頭蓋を跳ね飛ばした銛は、そのまま巨大な貝殻の内側にぶつかり跳ね返る。

 どしゃり、と倒れた真尋の体みて、ノーデンスの化身はそれに近づいた。足元、いまだ脳漿とも血液ともつかないそれらを吐き出す肉塊となったそれを見下ろし、嘆息。

 

「念のため、こっちもやっとくか」

 

 片手右手を振り上げると、先ほど投擲された銛が再びノーデンスの手に収まる。それを持ち、ノーデンスはさっきまで真尋だったものの胸の中央に振り下ろす。あたり一面に転がる肉片と体液のようなもの。それらの色は最初は赤いそれであったが、徐々に緑色に変色し、玉虫色を帯びていった。

 変色する死体の液体に顔をしかめることもなく、ノーデンスは当然のように銛を引き抜く――――。

 そして、違和感に気付いた。

 

「なんだ――――?」

 

 真尋の失われた頭部の箇所に、同じ肌色をした何かがめきめきと盛り上がる。当然それに銛を振り下ろすノーデンスだったが真尋だったものの胴体が猛烈な勢いで飛び跳ね、彼の腕を払う。そのままごろごろと転がり、ノーデンスから距離をとった。

 一方のノーデンスは右手を抑える。病的に白い肌、真っ黒な爪先の右手が、がたがたと震えていた。

 

「何をやった、てめぇ」

「――――ぁ、う、ううあ――――――――」

 

 びくびくとしながら、まるでマリオネットか何かの様に、糸につられるように立ち上がる真尋の胴体。そのまま真尋だったものの体は、両腕をだらりとし、猫背になり、そして首を地面に対して直角に上空に向けた。びちびちと、かろうじて肉によって形成された頭部が、残った下あごのそれに対応して穴が開き、口のような形状をなす。そのままうめき声のようなものをあげながら、「それ」は現れ始めた。真尋だったもの体の内側から、口を出口として、一本の、黒い、太い触手が這い出てきていた。うねうねと蠢き、そのたびに真尋の口から黒い吐しゃ物があふれ出る。ぎょろり、と、触手に三か所亀裂が入り、そこから目玉のような器官が出現する。目玉からは黄色い粘液があふれ出し、しかしそれらは重力に従うことなく触手の先端へと向かっていく。やがて自重に耐え切れなくなったのか、真尋だったものはその場に膝をつき四つん這いの状態に、しかし首だけは相変わらず状態を変えずじょうくうをむいているさまが、すでに彼の体が死んでいることを表していた。

 黄色い粘液のそれは、先端に集まり球体のようになっていく。わずかに赤黒い色の渦が表現にうごめいており、独特の刺激臭を伴い周囲に放つ。ノーデンスもそのせいか一瞬顔をしかめたが、ばしゃり、と飛び散る、膿のようなそれの中から這い出て、現れ出た存在に鼻で笑った。

 

「ニャルラトホテプ――這い寄る混沌か。相変わらずだなぁ」

 

 立ち上がったのは、「黒い外套を着用した」「肌まで真っ黒な」男の姿だった。フードを後ろに払えば、額に赤いチャクラのある、黒い肌の、剃髪の男。決してそれは人種が黒人だという問題ではなく、正しく男の肌の色はこれ以上なく真っ黒に染まっていた。容姿の美醜は不鮮明。しいて言えば眉毛の形状にわずかに特徴があるくらいか。だが、そもそも輪郭をとらえることに意味などないことを、ノーデンスの化身は正しく理解している。閉じていた目を見開くその「神父」。わずかに黄土色なその黒い瞳をノーデンスの化身に向け、彼は薄く微笑んだ。

 

 

 

「思ったよりすんなりと、計画通り進んだね」

 

 

 

 何? とノーデンスが返すのとほぼ同時に、神父は指をはじく。

 

「わかっていないなノーデンス。そういうところが、君がよく地球人から顰蹙を買っている箇所だというのに」

「なんだと?」

「愚かだねぇ。『この少年』はもう死んだ。君が、殺したんだ。つまり――――君の加護はもう『適用されない』ということだ。私がいくら手を加えても、もう問題はない」

「はぁ?――――――――」

 

 次の瞬間、神父の左手には、さきほどノーデンスが銛で吹き飛ばした頭部の破片や眼球が結集していた。

 マリオネットのように不気味に折れ曲がった胴体へと指をはじくと、それが名状しがたい音を立て、液体を吹き出しながら、その形を大きく変えていく。肉と、骨とが、圧縮され丸まり変形する途中とで、明らかに粉砕され、吹き出し、その場に飛び散っていく。その様を前にしても、ノーデンスは動かない。いや左手を差し向けて何やら念を送っているようではあるが、何か違和感を感じているのだろう、顔をしかめている。

 やがて這い寄る混沌の手間に現れたのは、形状の欠けた本のようであった。そこに、残りの頭部のパーツを、無理やり接合する。まるで侵食されるかのように、徐々に徐々に形が変貌していくそれ。

 

「…………悪趣味だぞ、てめぇ。最初からそいつが生まれるように、自分でデザインしておきながら、最後は『そう』するのか」

「ああ。もともとはだね。君の血筋に紐づけた結果、うまいこと『死者の書(アル・アジフ)』の魔導書へと接続を調整できたというのが正解なのだよ。ただし、特異点(ポータル)――――ヨグ=ソトスの眷属としてのこの少年をいじるのに際しては、君の加護が邪魔ではあった。だが、君自身の手でそれを放棄したのなら、君自身が自分の庇護対象でないと、彼を殺したのなら、それはもう適用されない。

 ――――よし、完成だ」

 

 その手元にあったのは、一冊の、赤黒い本だ。表面には人間の顔の半分が張り付いたような異形のデザイン。ただおぞましい見た目に反して表面の触り心地は悪くないらしく、さらさら、つるつると神父は撫で続ける。

 

「かの青年が狂い死してから、幾星霜……、13回は星を読んだかな」

「はン、知ったこっちゃねぇなぁ。こっちにも切り札は居る――――」

「―――――まだ分かっていないようだね。この少年が『こうなってしまった』時点で、この『流れ』において君はチェックメイトだ」

「何?」

 

 次の瞬間、ノーデンスの横に火柱が上がったとたん、その場には焼死体が一つ転がったのみ。唖然とした表情の老人に、神父は腹を抱えて嘲った。ようやく、ようやく、ここまで含めてすべてが這い寄る混沌の手中にあったと気付いたノーデンスであったが、時はすでに遅かった。指をはじく神父。と、その背後から、名状しがたい、顔面のない、頭部に黄金の装飾のある黒いライオンが――――。

  

「『顔のないファラオ(フェイスレスビースト)』、老体相手には丁度よいんじゃないかな?」

「ほざけ――――」

 

 ノーデンスの化身の右腕には、銀の鎧が装着されていた。銛はより大型の、先端が三又に分かれた槍へと変貌し、襲い掛かってくる獣相手に応戦する。だが、それを横目に「神父」は、真尋だった書物を開く。そのうち、血と骨と肉とで創成された項のとある箇所を開き、唱えた。

 

「”それは永遠の死にあらず、死すら超える未知なる永劫なり――――”」

「っ? てめぇ、まさか『アレ』をそのまま実行しようっていうんじゃねぇだろうなぁ」

「そのつもりだよ。もともと、『私』が動いている以上、予想は付きそうなものだったがね」

 

 神父の読み合せた一節から、ノーデンスは『奇妙な歳月(アーカム計画)』にありし一節を想起する。すなわち、今はまだ眠りしクトゥルフを指すその言葉を。

 薄く、嘲るように微笑みながら、神父はノーデンスの化身を見やる。

 

「古き時代、探索者――――『闇を照らせし者』との契約は、ここに果たされる。彼らが守りし仮初の希望は、『われら相手に生き延びることができる』物語は、ここで、我々に、回収される」

「…………少なくとも、テメェがやることじゃねぇだろ」

 

 獣の首を刎ねると、ノーデンスは神父へ駆ける。一方の神父は、ローブの下に本を閉じてしまいこんだ。そして銛が、かの神父のカソックの胸元に突き刺さる――――首から下げるロザリオは十字架でなくいびつな五芒星、エルダーサインであるところが嫌に皮肉が効いている。ただ、貫通と同時に上半身すべてを消し飛ばしはしたものの。

 

「知っているだろう? 私の化身は君たちと『意味が違う』から、撃滅は無理だと」

 

 その背後に、さも当たり前のように立つ神父の姿がある。

 構わず右腕を振りかぶり、その頬から頭部を右腕のメイルで抉る。

 だがこれも、さも当たり前のように、目の前に倒れる死体とは別に、その奥に全くおんなじたたずまいをした神父が一人。

 

「いたちごっこだな。テメェの本体をどうにかしないと意味がないってことか」

「そもそも、もはや無駄ではあるのだけどね。――――見たまえ」

 

 神父の指さす先――――貝殻を通して見える外の景色。

 振り返ったノーデンスの化身が見たものは。

 嗚呼、なんということか! かの巨大な石造りの都市は! 湾曲されパースの狂った、見ているだけで距離感を喪失しそうなその荘厳さと、奥に潜む、息づく何かの胎動は!

 

「『時計男(チクタクマン)』がわざわざ手を出すまでもない。人類は、自分たちが作った科学の火を過信しすぎている。打ち込んで、あとは、お寝坊さん(ヽヽヽヽヽ)に目覚めてもらうだけさ」

「…………もとはといえば、それもまわりまわってテメェの仕業だろ」

「そうだな。ともかく数分も経たずに、彼らは自分たちが抱いた、地獄のような有様の恐ろしいインスピレーションに耐えられず、ここに『核』を打ち込む」

 

 ノーデンスの化身は、深いため息をついて腰を下ろした。神父は薄く微笑みながら、再び本を取り出す。

 

「お前、楽しかったか?」

「さて、それを判断するのは、私でなく私の『上司』だ。

 かくして――――」

 

 

 その言葉が続くよりも前に、ノーデンスや神父たちは、光と熱に包まれその姿を溶かし。

 

 

 

 

  

 時は止まり、死も死に絶えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「”かくして、すべての物語に書かれていることは、すべての時代において必ず何かしらの形での実現を見る――――そしてそれらは、我々が認知できていない世界において、あるいは時間軸において、まったく順不同にばらばらに、いついかなる形であっても必ず履行され、そして滅亡につながる。”」

 

 霧子(仮)は、その一節を読み上げたのち、本を閉じた。赤黒い肉片と、いびつな顔のような模様で構成された、一見して触るのもおぞましいその書物。その、目を閉じたような顔にも見えるその拍子を、どこか愛おしげにさえゆっくりとなぜる。

 その表情は、微笑んでいて、でも、何かを堪えるような、悲しさやさみしさを含んだものだった。

 

「あーあ。私、真尋さんに告白どころか、本名すら名乗れませんでした」

 

 地面に座り、バイクに腰掛け、彼女は堪えるように、微笑むばかり。目は下を向き、何かをあきらめたような、そんな色。

 

「私は――――二谷劉実は、あなたとずっと一緒にいて、お話したかっただけなんですけどね。なんでこんなことになっちゃったんでしょうね。

 …………って、私が言えることではないですか。私も『這い寄る混沌』である以上は」

 

 その本を抱きしめ、彼女は微笑んだまま、泣きもせず、ただただそうしていた。震える肩を叩くものはない、風はどこか湿り気を帯びて潮の香りがする。目を閉じ、空を見上げる霧子、いや、劉実。暗雲には巨大な巨人のようなシルエットが複数見え隠れしている。その目がほんのわずかにこちらを見下ろしているような、あるいはどこか遠くを見ているような、いないような。

 劉実は立ち上がり、本を片手に、叫ぶ。

 

 

 

「誰かいませんか――――!」

 

 

 

 見渡す限りの、何もない、コンクリートの平原。

 彼女の声が響き、そして数秒を置いて静まり返る。

 

「…………誰もいませんよね。せっかく、アキバに来たのに」

 

 真尋さん来たがってたのに、と。本人が聞いたら色々と突っ込みを入れそうなことを言いつつ、彼女は視線を右手の本にふる。当然のように、そこにはただただ人体を変じて生み出された書物が一つあるばかり。

 劉実はそれを自分の顔の前に持っていき、額をつける。ぬちゃ、という音とともにわずかに彼女の顔に血がつくが、気にした様子もなく、閉じられた表紙の目を見る。

 

「どこに行きましょうか、真尋さん」

 

 返事はなかった。

 返事は、当然なかった。

  

「…………どこか行きますか。誰かしらまだ、生きてる人がいるかもしれませんしね」

 

 彼女が背中を預けていたバイク――――バイクにしては異様に生々しいシルエットを持つそれにまたがり、彼女は本を再び抱きしめる。と、胸元から肉が裂けるような音が響き、ぐちゃぐちゃと何かを埋め込むような酷く嫌悪感をもたらす音が続く。しばらくして何事もなかったかのように、素肌についた血痕をぬぐい、ライダースーツのチャックを閉めた。

 エンジンをかけ――――エンジンは明らかに生命体の唸り声のような音をとどろかせているが、ともかく彼女は走る。

 

 

 

「真尋さん――――」

 

 

 

 自分の胸元を撫でる劉実。すぐに視線を前に戻し、ハンドルを切る。

 さきほどまで平原のようだったこのコンクリートのそれは、実際は何かの壁面であったようだ。彼女はつまり、先ほどまで壁面に「直角に立っていた」ということだろう。

 そのまま彼女は走らせる。と、いつの間にか壁面だったそれは、海原にかかる一本の鉄の線路と化していた。海の底にはうようよとおびただしい数の目と巨体がうごめていることがわかるが、彼女は気にせず走る。

 

 

 

「――――大好きですよ」

 

 

 

 やがてその進路の先も不気味なほどの闇につながり、バイクのランプの光もまた遠のき、見えなくなっていった。

 

 

 

  

 

 後には――――ただ無限の暗黒だけがそこにあった。

 

 

 

 

 




※こちらの展開と本編の展開の違いは、ある意味では伏線? ぽいところがあったりします。


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マシュルフマイハート その3

今回は回復ポイント・・・ですが、一章二章のネタバレ注意警報です。
未読の方は、双方ごらんになってから推奨です。




 

 

 

 

「いやぁ、面白かったですね。まさに邪神降臨! って感じで」

「アンタ絶対狙っただろ……」

「でも、いつもよりジャイ〇ンが頼りない感じでしたね? 大長編の割に」

「そっちよりもコンセプトを優先したんだろ、たぶん。…………アレだな、狂気山脈をハッピーエンドに仕立てるとあんな感じなんじゃないか?」

「言いえて妙ですが、そんなうがった感想するのやめましょうよ~」

 

 駅前の映画館から出てきた真尋と龍子。さっと真尋の腕に絡みつこうと手を差し向ける彼女のそれを、ひらりと躱して面倒そうな表情である。ちなみに鑑賞した映画については、龍子いわく「銅鑼から始まって衛門で終わるアレですよアレアレ、ファミリー向けですし、良いんじゃないかと思いましてね? まあそろそろ上映終了みたいなんでアレですが」というコメントにホイホイ従った真尋である。結果、劇中にあった「南極の地下遺跡」だの「名状しがたき姿かたちを変貌させる奉仕種族」だの「巨大な軟体生物」だのを目撃した結果か、見終わってから脳裏に様々なフラッシュバックが過って、少し疲れた様子だ。何かしら彼のアイデアに引っかかったところがあるのだろうが、それにしても通常の映画であるにもかかわらず、彼個人の事情でSANチェックめいた判定が行われていたのだろうか。発狂していないのでそこまでの点数減少ではあるまいが、いかんせんである、何かしら手を打たねばと真尋は気持ちを新たにした。

 

「いやー、でも私こっちに来てから映画とか初めてでしたね~。結構楽しめました。フロンティアでしたっけ? 駅に近いほうの映画館」

「ああ。というか、こっちに来てから初めてって……、まぁ年度頭に転校だからそんなものか。で、何をするんだ?」

「何をとおっしゃられますと?」

「さっき映画館入る前に、何か買い物するって言ってただろ」

「意外と覚えてますね、真尋さん」

 

 どちらかと言えば、直前に見た映画の内容から想起した冒涜的真実を即座に忘れ去りたいが故の、卑近な話題への逃走なのだが。それを知ってか知らずか、龍子は「ふふふ」と含み笑い。真尋は何とも言えず頭を振った。やはりどうあがいても、劉実の面影を切って捨てることはできないようだ。そしてまた、いつどのタイミングであの涼しげな男の声が聞こえてくるのかというトラウマのようなものもある。本人の弁が正しければ、「本体」が龍子を介して真尋に接触してくることはないのだろうが、それはそれ、これはこれである。

 彼女の話を統合すれば――――決して別人格ではなく、二谷劉実という存在はニャルラトホテプの演じた人格に過ぎないということだ。

 対して二谷龍子は、ニャルラトホテプであったものの、その存在の乖離具合は大きすぎるだろう。本体にフィードバックがあるとはいえ、もはや別人格と考えてもそん色ない。

 

「どうされました? 真尋さん」

 

 そんな彼女が不思議そうに問うてくる。このしぐさ一つをとっても劉実を思い起こすのだから、これはもはや異常と言えるかもしれない。否、ひょっとしたら彼女はそういう化身なのかもしれない。「赤の女王」と直に相対し、接触した真尋だからこそ理解できる。かの化身が時の権力者の陰に存在する傾国の美女を参考に、卓上遊戯用に想定された化身であろうことは真尋も理解してる。そんな彼女さえ化身として過去に実在していたということも、問題ではない。問題は、かの存在が文字通り人間にとって毒のような魅力を持ち合わせていたことだ。一目見るだけで頭から離れず、己が理性を溶かされるような錯覚すら覚えるほどの存在。それを前に、理性を保てるだけの存在として真尋は劉実を認識していた。この事実からしても、劉実は真尋にとって特別で、そして何かが異常だろう。ただそのことについて、真尋は徹底して正体を突き止めることが出来ていない。真尋の想像力から連なる非人間的な第六感、あるいは万物万象をあざ笑う知性をもってしてもだ。

 となれば、一つの可能性として――――真尋にとって、劉実、および龍子のキャラクターは。それこそ人格、容姿などすべて含めた存在が、真尋が徹底して好み愛するように想定され、デザインされているという可能性。

 

「…………なんでもない」

 

 馬鹿な話だ、と切って捨てることが出来ない。彼女自身の認識としては、自身は真尋から不快感を抱かれないように作られていると言っていた。だが思い返すと真尋は、その言葉が本当に正しいことなのかということについて常に疑念を抱いている。愛し、愛された相手がかの這い寄る混沌そのものなのだから、当然と言えば当然である。気が付けば地上が崩壊し時間がその指向性を失い、空間の連続性が断たれ物理法則が仕事を放棄してアンドロメダの彼方へ旅行し、その玉座の中央で冒涜的な肉の塊の触手がうねうねとうねり月へ吠えている可能性も、当然存在するのだ。何より一番最初に当人から言われたことである。この果てのない荒野のような名状しがたき現実には、探索者に優しいキーパー、神秘の守り手たるGMは存在しないと。

 ならば、だとするならば。本当はこの龍子とて、彼女の言葉をすべて鵜呑みに出来るか、出来ないか。そして本当は、また何か別な目的が存在する化身なのではないか――――。

 真尋の返答に、龍子は「むむむ」と不可思議そうな顔をしてのぞき込んでくる。真尋はそれこそ、なんでもない風を装いながら、つまり面倒そうに胡乱な視線を向けた。

 

「なんでもないと、言ってる割に真尋さん眉間の皺すごいことになってますけど……」

「なんでもないと言ってるだろ。あ、それはそうとして。買い物に行くんなら、俺も母さんに何かお土産買っていくから」

「え? あー、えっと、母の日ですか? 早すぎませんでしょうか」

「渡すのは後日。母さんも忙しいから、俺の部屋とか掃除しないし放置しててもバレない。アンタも一応女子なんだし、俺一人で選ぶよりはセンス良いのがあるだろ」

「一応ってなんですか、一応って」

「言葉通りの意味だが」

「うー、にゃーっ!」

 

 ぽかぽかと幼児のように殴りかかってくる龍子を適当にあしらう真尋である。まぁ彼の内心からすれば「そもそも這い寄る混沌なんだし」という大前提があった上での発言であったが、あくまで一女子としての二谷龍子は怒った。真尋のこの塩対応はある意味、いつものことと言えばいつものことであるが。とはいえど龍子も本気でぶん殴りには来ていないので、じゃれあいの一種ではあるようだ。

 しばらくすると殴り疲れたのか、ぜぃぜぃと肩で息をする彼女。

 

「ったく、少しは静かにできないのか? 目立ってるじゃないか」

「誰のせいだと思ってるんですかっ、大体! 真尋さん、それだったら別に今日でなくても良いじゃないですか。どうしてせっかくのデートで、なんでもかんでも一緒くたに用事を済まそうとするんですか」

「デートじゃない」

「デートですっ。あと、お母さんへのプレゼントくらい、また一緒に買いに行きますよ」

「いや、アンタとそんなに出歩いていたら噂されそうで嫌だ」

「真尋さんの中でどーいう扱いなんですか、私!!?」

 

 ともあれ、龍子に腕を引かれてぬいぐるみのショップへ。なお「引かれて」とは言ったが、腕を組んでとかではなく左腕をがっちり掴み、ずいずいと前進する龍子に、転びかけながらの真尋という絵面であった。

 

「あ! これなんてどうです?」

「ナチュラルに薄紫のイカ型のぬいぐるみを薦めるな……って、なんでこんな的確なんだよこれ、足が胴体の中から生えてるじゃねーかっ」

「あっ、これは?」

「……ぱ、パッと見、人魚っぽいんだが、毛糸とかあえて解れさせてるっぽいのがアレでパス」

「こっちは?」

「うり坊みたいなシカだなこれ……って、なんでさっきからあっちを連想させるのばっか選んでくるんだアンタ」

 

 それぞれ順番に、クトーニアン、ゾイ・サイラ、ジヒュメあたりを連想する真尋である。

 一方龍子は「被害妄想ですよ」と反論した。

 

「だって、こんなに可愛いじゃないですかぁ」

「可愛いって単語を辞書で調べてから出直して来いと言ってやりたいが……」

 

 そういえば、と。そもそも劉実自体、そのあたりの感性がずれている疑惑もなくはないので、龍子とてそれに等しいか。そもそも自己紹介で「ニャル子とお呼びください」とか言ってる時点で、色々とツッコミの入れどころは多かった。ちなみになぜニャル子なのかと言えば「二谷龍子(にたにりゅうこ)」→「にやりゅうこ」→「ニャル子」という変換らしい。まぁそもそも女子高生の言う可愛いほど男性にとって理解が難しいものもないので、彼は諦めたように頭を振った。

 

「可愛い、可愛いくないっていうのはともかくとして。ぬいぐるみ送っても喜ぶとは思えないんだが」

「例えば、どういうのを送るつもりだったんです?」

「どういうの……、手帳とかか? 親父ほどじゃないにしても、母さんも忙しい人だし」

 

 大学教授をしてるという話を、ぽろりとこぼす真尋。なお龍子は、へー、とかそういう反応ではなく「なるほどだから……」みたいな、意味深なリアクションである。

 

「なんだその反応……」

「聞きたいですか?」

「まぁそりゃ――――――――いや、やっぱりいい」

 

 賢明な判断どうかはともかく、一瞬なんとも言えない悪寒が走った真尋である。一体彼女のリアクションに何が隠されているのか、明らかに神話的事実への接触を察知したような感覚で、彼は拒否した。

 店を出ながら、龍子は真尋に説く。

 

「実用的かどうかは、たいした問題じゃないんですよー、女の子は。どんなものでも、心を込めてプレゼントされたら嬉しいんですから」

「とは言ってもなぁ……」

「まぁ、相手に好意がある範疇に限りますけどねー。ラブ的な意味だけじゃなくて、ライク的な意味でも」

「最後の最後にオチをつけないと、しゃべれないのかアンタは」

「――――少年、あれ食べたい」

「って、アンタもアンタでいつ出てきたっ」

 

 す、と真尋の左手を握りながらいつの間にか現れたクー子。そしてなぜか「ひえっ」と情けない声をあげて、反対側、真尋の右肩に隠れるような龍子。どうしたアンタと真尋が向けば、龍子はなぜか涙目であった。

 

「だ、だ、だ、だって、神格ですよ、神格! 一般探索者が前にして良いようなものじゃありませんよ、私だって命惜しいですもの」

「特に何もしないだろ、コイツ……。というかアンタ、今ナチュラルに俺を盾にしてるな?」

「だ、だって龍子ちゃんはか弱い乙女ですし……。それに火は苦手なんですよ、トラウマがあるんです、トラウマが! 主に前世的な意味で! 具体的に言うと、森を焼きましょう~的な意味でっ」

「一応、そこは本体の経歴に忠実なんだな」

 

 しかしニャル子が力弱いかどうかは置いておいて。おっかなびっくりといった様子の龍子と、いつも通り無表情っぽいクー子(服はなぜか赤っぽいワンピースだったが)。ともあれ状況として目立つには目立つので、クー子ご所望の水ようかんを買う真尋であった。

 平らげ終えると「う~、満足っ」と一言残し、いつの間にやら姿が見えなくなるクー子である。彼女の行動を全くコントロールできないという意味において、真尋は改めて自分の置かれてる状況の不安定さを自覚し、脂汗を流した。

 その後も数店回るが、結論は出ない。

 

「じゃーん! これなんてどうです?」

「買えるか高校生に、なんだよ三十万のコートとかっ」

 

 意外と似合っている龍子に、素直にそうとは言わず呆れたように引きずって店を出る真尋やら。

 

「流しそうめんセット!」

「実は家にある」

「えっ!?」

 

 意外な事実に衝撃を受ける龍子やら。

 

「じゃあじゃあ……って、もうどこに行くんですか真尋さーん!」

 

 下着売り場に入ろうとする龍子を無視して書店を探し始める真尋やら。

 

「もぅ、真尋さんってば、ちゃんと買うつもりあるんですか?」

「よくよく話してみたら、アンタの好みだと買えないものが大量だっただけだ」

「もうっ」

 

 憤慨する龍子であるが、真尋とて真実である。プレゼント探しに付き合ってもらってる側でこそあるのだが、いかんせん龍子が龍子なために話が前進していなかった。

 

「まぁアレだ。プレゼント探しは今度、勝手にやるよ」

「うう、なんか納得いかないですっ」

「あともう夕方だし、そろそろ帰らないと夕食の支度が遅れる」

「本当、所帯じみてますね……、って、あ! でしたら真尋さん、あそこに寄ってくださいよ」

「あそこ?」

 

 北十二条、大通りに並行して歩いていた途中。龍子が指さした先は、入り口に「銀屋」と看板のかかった、古い建物だ。何かのギャラリーのようにも見えるし、和服が入り口にかかっているあたり服飾屋のような雰囲気も漂わせている。

 

「ぎんや……?」

「しろがねや、じゃないですかね。ささ! 行きましょう、行きましょう!」

「おいアンタ、引っ張るなって、ちょっと……っ」

 

 店内は、異様に安い値段のものが陳列されたなんでも屋の様相を呈していた。どちらかと言えばリサイクルショップなのか、しかしそれにしては嫌に店が古い。天井を見れば蜘蛛の巣状に張り巡らされたワイヤーにハンガーがひっかけられていたり。特に何ということはないが、それでも真尋の第六感は何か警鐘を鳴らしていた。何かこう、本来ならもっと後にくるべき場所にショートカットしてしまったような、そんな嫌な違和感を感じる真尋。店の奥からは「いらっしゃいませ」と、やる気のなさそうな声が聞こえる。ちらりと見れば黒魔術師でも着用していそうなフード姿の誰か。女性らしいことはわかるが、はっきり言って真尋は既にここに深入りする気は失せた。

 

「で、何を買うと?」

「あー……、いえ、その、たまたま目についたので入っただけなんですけど」

「帰るぞ」

「待ってくださいってばっ」

 

 踵を返す真尋の手を握って、軽く涙目な龍子。ため息をく真尋は、諦めたように足を止めた。とはいえど龍子もそこまでやる気があって入ったわけでもないのか、会話少なく店内を物色して回る二人。にぎやかな店という訳でもないので、冷やかし状態だ。

 さすがに何も買わないで出るのはまずいという話であるが――――。真尋の目が留まる。占いパワーストーンと手書きで書かれたそれは、一回千円、おみくじボックスのようなものの中に手を入れて、石を取り出すものらしい。会計の手前に置いてあるそれを、真尋は注視する。

 

「占い……、何だこれ」

「――――相性占いです。二人でそれぞれ手を入れて、取り出した石を見て占います」

「一回、千円っていうのは?」

「おひとり様、千円です」

 

 返答に何とも言えない笑みを浮かべる。ともあれ金額が高い。

 と、何やら不穏な気配を感じて振り返れば、背後の龍子が何やら期待したような目で真尋を見ている。

 

「やりましょうよ~」

「い、いや……」

「や り ま しょ う よ」

「…………」

「ね?」

 

 しばらくお互い無言の圧力をかけあったが、最終的には真尋が折れた。

 料金を支払い、それぞれ手を突っ込み取り出す。真尋は紫色のそれ、龍子は

 

「アメジストと、ユナカイト……。なるほどなるほど。アメジストは魔除け、ユナカイトは癒しですね。お二人は……、お二人の間に、何か大きなトラウマのようなものがありますでしょうか」

「…………」

 

 無言の真尋と、何ともいえない笑みの龍子。二人の様子を見て、店長と思われるフードの女性は微笑んだ。微笑んだ、といっても慈愛に満ちたくすりという笑みというより、少し意地の悪そうな笑みである。

 

「おそらく現状のままでは、抱えてる事柄について何か進歩するということはないでしょう。ですが、案ずることはありません。お互い、必要な時間がいずれ訪れて、距離は近くなっていくことでしょう」

「近くなるねぇ……」

「なんですか、真尋さん」

「いや、何でも」

 

 相性占いということなので、そういう話になるのだろうが……。あながち、彼女の言葉が嘘にも思えない真尋がいる。ただその必要な時間というのが、一般的な日常生活に由来するものかどうかという点について甚だ疑問であるという一点は、何をして置いても真尋において許容できる話ではなかった。

 だが―――― たとえそうであったとしても。それでも自身は、いつかこの彼女と、彼女の姉を抜きに正面から向き合える日が来るのだろうか。

 

 ともあれ。店を出た真尋は、いの一番に自分が引いたアメジストを龍子に手渡した。

 

「アンタにやるよ」

「へ?」

 

 しばらく手元のそれと真尋の顔を見比べた後、彼女は半眼になり、引きつった笑みを浮かべる。頬がぴくぴくしてるあたり、怒りの感情でもあるのだろう。

 

「真尋さぁん? これってつまり、私ともう仲良くなんてなりたくないっていう意見表明ってことですかぁ?」

「え? いや違う。普通にアンタが持っていた方がいいだろ。魔除けなんだし」

「どうして私が魔除けを持ってる必要があるんですかっ」

「だって結局俺が一番被害を受けたけど、そもそも前回のはアンタの爆殺が目的だったわけだし。どう考えてもアンタが持っていた方が無難だろ」

「い、いえ、そっくりそのまま真尋さんにお返ししたい言葉なんですけどそれ……?」

 

 一応真尋の意図が伝わったせいか、表情が軟化する龍子。だが実際問題被害を受けている割合は真尋の方が大きいので、龍子としては真尋が持っているのが正解ではあるという返答だ。真尋はそれに、首を左右に振って。

 

「それに――――まぁ、アレだ。アンタの姉の分ってことで」

「あっ―――――」

 

 拗ねたように視線を逸らす真尋。曰く、その言葉に含まれた名状しがたい感情を理解したのか、龍子は目を閉じ、感じ入ったように微笑んだ。

 

「……ありがとうございます。きっと、姉も生きていたら喜びますね」

 

 果たしてその、いつくしむような表情の裏にはいかなる複雑な思いが秘められていることか。ただ龍子の言葉に、真尋は不可思議そうな顔になった。

 

「…………まるで、アンタの姉も『這い寄る混沌』の本体と無関係の個体みたいな言い回しだな」

 

 そんな真尋に、龍子は慣れた風にウインクを返した。その仕草は、やはりどう足掻いても真尋に彼女を思い出させるものであり――――。

 

 

 

 

 

「それは――――さぁ、て? 企業秘密です」

 

 

 

 

 

 その真意について、真尋は龍子の表情から読み取ることはできなかった。

 

 

 

 

 

 




私事になりますが、今更映画ダークタワー(日本語吹き替え)視聴。
いや、なかなか良い這い寄る混沌でした・・・。CVもこっちと一緒ですし笑
 
マシュルフマイハートは本話で終了です。果たして次話は・・・?


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03.超旋律の影
さながらそれは初恋の味のように/R分岐


大変長らくお待たせいたしました。
更新自体はちょっと遅めになるかと思いますが、三章はじめさせていただきます;


 

 

 

 

 

「――――ふふ、ずいぶん余裕がありませんのね」

 

 生暖かい空気に煽られる八坂真尋。八坂真尋は暗所にて、何かを急いでいた。意識していなければ自分の精神をつないでいられないような、そんな断絶が周期的に訪れる状況下において、とにかく何かしていなければならないと行動をしている。ただ、それが一体何であるのか、何を作っているのか、何を操作しているのかというところには意識が回らない。ただ紙に書いてある何かに従事しているという認識しかなく、それがどういった事柄を意味するのかを理解するだけの「自我がない」。

 ただ、眼前に現れた圧倒的な存在に、真尋は目を離すことが出来なかった。赤と黒の豪奢なドレス。胸元と背中が開き、煽情的なスタイルの良さを強調している。頭には黒いベールと、両目と共に光る額のチャクラ。三眼であるかのように錯覚させるその美貌の主に、真尋は心当たりがあった。

 だが、名前が出てこない。

 真尋のそんな様子を、薄く微笑みながら観察する彼女。と、何かに得心が言ったように目を細めて、くすくすと愉し気に笑った。

 

「……あら? そういうことですの。ふふ、また変なことに巻き込まれていらっしゃいますね」

「――――――――」

「あら、そこまで発狂(ヽヽ)していらっしゃいますか。でしたら私の力だけではどうこうできませんね」

 

 そんな真尋を穏やかな様子で見つめ、その頭を抱き込み、撫でる誰か――――。まるで自分の理性を溶かされ、そのすべての丈を彼女へとぶつけてしまいたい。そんな衝動が彼の本能を焼く。だが、彼はそれに抗いながら、やはり作成するのを止めない。

 

「ふふ、ええ、それでこそですわ! それでこそ私と『アゥリス』が焦がれた旦那様ですもの」

 

 真尋の脳は彼女の言葉を正しく理解できない。いや、言葉だけは脳に入ってくるが、それを正しく意味を持った文章として羅列し、整理し、解読できないといったほうが正解か。真尋の脳は著しく断絶が走る。あたかも、彼の思考を形成するための部位が物理的な欠損をしているかのように、彼の行動を彼自身は正しく把握できていない。ただやはり、頭のどこかにある理性だけはその自身の有様を冷静に見つめていた。

 場所は不鮮明である。ゴシック建築のような様相でもあるし、しかし同時に近代的な都市のようなそれにも思える。実態としては判然としない広さの土地で、人の気配がしない――――そんな場所の何処か、どこかの工房のような場所に真尋は引きこもっていた。その工房にたどり着いた時点で、真尋はいつの間にか握っていた紙片一枚を頼りに、何かの道具を作成しようとしていた。薄暗がり、陽光が望めないだろうこの地底の都市で、真尋は黙々と、機械のように作業を進めている。

 そんなさ中に現れたのが、見覚えがあるはずの彼女であった。

 

「どうせ、わたくしの名前も思い出せないでしょうし……、クイーンとお呼びください」

 

 返事がないだろうことを彼女は、クイーンは理解していたが、それでも真尋にあえてそう名乗った。何か欲しいものはありませんか、と言う彼女に、震える指先で絵の箇所を指し示す真尋。ほとほと嬉しそうに、彼女はそれを嬉々として探しに行き、とって戻ってきた。

 

「しかし、意外と本格的ですのね。さすがに『こっちで』アレを再現しようとすると、かなり無茶をする必要があるということなのでしょうが…………。ふふ、でもまともに考える頭もないながら、必死に足掻く旦那様はそれはそれは『おいしそう』ですわね」

 

 じゅるり、と舌なめずりをする音を前にしても、真尋は何も反応を示さず黙々と何かを作る。

 

「万物に愛を、とは言いませんが、何か変化があるというのはうれしいですわね」

「…………………………………………」

「ふふ」

「…………………………………………」

「…………」

「…………………………………………」

「…………」

「…………………………………………」

「…………」

「…………………………………………」

「…………」

「…………………………………………」

「…………会話が出来ないというのも退屈ですわね」

 

 ため息をついて、彼女は真尋の背中にしなだれかかる。感じるやわらかな押しつぶされる感触も、ほんのり香る匂いも、頬にかかる髪も、同時にくっついた相手の頬の冷たさや柔らかさも、すべてが彼をかき乱す。一瞬手が止まり、彼女へと向き直る真尋。これを幸いにと彼女は真尋の膝の上にのり、胸を彼の体に押し付けるよう腕を首に回す。視界のほとんどを彼女の、「女」を凝縮したような美貌に埋め尽くされた真尋。いっそ蠱惑的な表情を浮かべて彼の頬に手を伸ばし、顔を近づける。しかし真尋は、それ以上の行動をとらなかった。

 

「…………」

「…………………………………………」

「…………」

「…………………………………………」

「あ、やっぱり何をしたらいいかもわからないのですわね」

 

 残念、と彼の膝の上から降りようとする彼女だったが、ぐらりとバランスを崩し椅子事倒れる真尋達。そのさ中、一瞬だけ真尋が彼女の腕を引きその下敷きになる。そのまま倒れ、真尋を下敷きに押し倒したようになるクイーン。一瞬、自分たちの状況を見て、そしてぽかんとしたように目を見開いて呆然とし、そして頬を朱に染めて、彼の体を撫でる。

 

「いけませんわ……、これではルール違反じゃありませんの、わたくし」

 

 そう言いながら、しばらく真尋の体を愛撫するクイーン。やがて満足したのか立ち上がり、真尋を抱き起し、椅子に座らせた。真尋は震える体のまま、無理やりにそれを動かし、再び作業に取り掛かる。ぷるぷると、最初から最後までずっと震える身体での精密作業はほとほと困難を極めているが、それでもかまうまいと彼は動いていた。段々と組みあがっていくそれは、一つの羅針盤かルーレットのような何かであった。いや、それにしては妙に小さい。懐中時計を二回りほど大きくしたような、手では収まらないサイズである。中央に回転円盤と、針のようなものが五つ。目のような刻印を彫り込む真尋に、クイーンはひどく楽しそうな笑みを浮かべていた。

 時折、指先が狂って盤のパーツをどこかにやってしまいそうになる真尋。クイーンはそんな彼を支えて、何処かへいってしまったパーツを回収していた。仕方ありませんわね、と言いつつもその表情は酷く慈しみに満ちていた。男を惑わせる魔性のような美貌の持ち主であるクイーンのその振る舞いは、どこかいびつであり、しかし、しっくりもきていた。

 

「――――――――」

 

 真尋の手が止まる。完成したのか、ルーレットのような、羅針盤のようなそれを手に取り、図面と確認する真尋。と、図面がべきべきと音を立てて圧縮されるように消失する。「あらあら」とクイーンは驚いたものの、興味深げな様子で真尋の手元のそれを見た。中央のくぼみ――――それ以外は図面の通りに出来上がっているように見える。しかし、そのくぼみを真尋が調達できるわけもないことを、クイーンは知っていた。

 

「んん、これ以上は本格的にルール違反になってしまいそうですわね。でも……」

 

 真尋一瞥し、考え込む様子のクイーン。だが表情はわずかに微笑み、頬は紅潮している。明らかに結論は出ているようであり、実際、思案するポーズもそう長くは続けなかった。

 

「よろしいですわ。でもわたくし、これをしたらしばらく『何もできない』と思いますので。後は旦那様の独力に期待させていただきますわ」

 

 ぱちん、と右手でフィンガースナップ。指を鳴らしたと同時に、彼女の背後の空間に「亀裂が走る」。三つの亀裂はそのまま展開し、巨大な三つの瞼の向こうには見るもおぞましいほどに大きな赤い目玉が存在した。ただ、そのサイズは彼女の身長の半分ほどか。そこにクイーンは自らの右手を入れた。ぐちょぐちょと音を立て、黄色い粘液やら赤い血しぶきやらが飛ぶ。それに不快感を示すこともなく「どこにありましたっけ」と言わんばかりに、軽い様子で探る彼女。と、やがて何かを引き当てたのか、「やりましたわ!」と愉し気に引き抜いた。手元には、ぼんやりと光る黒い多面体。いっそ球形に近いそれを、彼女は真尋に差し出した。彼はそれをじっと見ている。と、飛び散った粘液やら何やらが蒸発し既に姿もなく、背後の目玉も消えていた。

 震える手でつかみ取ろうとする真尋。と、一瞬それを取り落としそうになり、クイーンが彼を支えるように手を握る。

 

「本当に仕方ありませんわね、旦那様は……」

 

 言葉に反して酷く嬉しそうに、そしてどこか寂しそうにクイーンは微笑む。真尋の脳裏には、やはり何も浮かばない。ただ、完成させなくては。自らに流れる情欲を切り離した、ただ一つの狂った目的意識だけが存在した。

 完成した盤面は、それと同時にうすく、鈍く、紫色の光を放ち、薬品のような鉄のような、しかしそれをしても異様に腐ったような刺激臭を漂わせ始める。それにわずかに顔をしかめる真尋であったが、彼は迷わずその盤の上に手をのせた。

 中央のそれを起点に、五つの針が高速で回転する。あたかも時計のそれのような動きを見せる五本のそれら。一本が半回転する周期ごとにおおよそ別な一本が動作を開始する程度の速度であるが、順繰り、時間を多少かけて、やがて十二時の位置で針同士が一致する。

 

 

 

「――――――――っ、はっ、」

 

 

 

 その瞬間、真尋はようやく我に返った。己の格好が普段着用しているような制服やら洋服の類でないことを認識し、見覚えがあるような見覚えのないような、まるで夢の中にいるような自分の足元と現在の場を正しく認識し、そして体の震えすら治まり、猛烈な吐き気が彼の体を焼いた。慌てて口を押える真尋だったが、そんな彼を後ろから抱きしめる女性の感触が一つ。頭を抱きかかえるように撫でるその彼女を、その己の欲求全てを崩壊させかねないような「化身」に心当たりが真尋にはあり―――――――。 

 そして、気が付けば真尋は、どこへとも知らない虚空へと投げ飛ばされていた。ただ無限の暗黒だけがそこにあた。暗黒の中にあって、真尋の視界は正しく現在の空間を見ていたのだが、見ていたからと言って光を観測できなければその空間の詳細もディティールが判然とするわけもなく。ただ漂う靄のような霞のような、己の思考がただただ広がっていくのを感じる。手や足の感触はあるが特に力が入る訳でもなく、動けるわけでもない。電気信号の移動先が断絶されているような、そんな不快感がある。俗にいう幻肢痛とかいうやつか、と真尋の想像力は状況に対して考察を導き出したが、そこで真尋ははたと気付く。自分の体そのものの違和感にだ。まず呼吸を感じない。生理的な動作としての拍動もなく、そして気が付けば自由がない。自らの生命活動に対する認識が、正しく自らを生命ではないと導き出せるほどに、現在の真尋の体感はただの夢見における思考のみであった。例えるなら、テレビ画面を見ている自分の視界だけが存在しているような、そんな感覚だろうか。真尋自身、形容ができないような、恐ろし気な状況である。

 まるで頭脳だけで生かされていたりするのでは、と彼の直近において一番有り得そうで、かつ一瞬物騒な思考が脳裏をよぎる。しかし彼の想像力は、それとは何か違いを感じていた。真尋のそれではない拍動が聞こえる。息遣いが聞こえる。それと同時に、この闇をさまよう「何か」がいる。何かの悪夢でも受信したか、直前の状況自体がそれかと思い一瞬目を閉じてから開きなおすも、疑いようもなく現在の場所は自分の部屋ではない。頬をつねろうにも腕はなく、そして唯々絶句した。

 手だ――――自分を掴む何か、こう、女性の手のような感触がある。それがずぶずぶと、まるで傷口でも切り開いて内部の臓器でも取り出すような音を立てながら、血を吹き出しながら己を引きずり出そうとしていた。そしてその手の感触は、円形のものをつまもうというそれではない。まるで「本」か何か、辞書でもつかんで取り出すような、そんな感覚であった。

 引っ張り出された真尋は、愕然とした。血肉と、白い肌と、胸の感触と、それらから解放され、ぱらぱらと表紙を適当に叩かれた後。

 

 

 

「――――いやー、やっぱり新婚旅行といったら熱海ですかね! 最近は古いかもしれませんが、温泉、温泉! ……まぁ、このありさまを前に温泉も何もあったものではないんでしょうけど。別に私たち結婚した訳でもありませんが」

 

 

 

 視線は、強制的に固定されている。自身を掴んだ何者かの手によって、己の目の向いている方向が固定されているのだ。

 真尋は目撃した。まるで未開の地のような有様で、白亜紀かジュラ紀の地球のイメージ映像とかでありそうな、そびえたつ崖の方々から滝のように温泉が流れ落ちるさまを。遠くで何かの声が聞こえ、空は赤く暗雲たちこめ、それを貫通する光を放つ「目玉のような月」。それを前にして聞こえた声は、くぐもって聞こえたような「彼女」の声は言った。熱海? ここが熱海だと? 何だこの未開の地以前に人間が暮らせるかどうかさえ定かではない世界は。確かにハネムーンのメッカとして彼の両親もこちらに来たことはあったとか聞くが、こんな有様であるはずがない。これではまるで「世界でも崩壊した」ようじゃないか。

 そして彼を持つ「彼女は」、胸に抱きかかえて言葉を続ける。

 

「アキバもあの状況でしたし、新宿には隕石が降ってきてましたし、東京駅なんてスパイラル! な感じでしたし。横浜はなんか建物が自己増殖してましたし、小田原は…………、まぁ思い出すのもアレですか。せっかく関東まで遊びに来てみたんですが、中々儘なりませんね」

 

 真尋は、口が動かなかった。いや、動かせはするらしいし、声も出るようではあるのだが、それでも彼は二の句が継げなかった。やがて彼女は真尋の顔を自分に向けて、どこか寂しそうに微笑んだ。

 

「――――――、まったく我ながら感傷ですね。おセンチってやつですか」

「…………あん、た」

 

 発音こそできたが、言葉はたどたどしい。まるで何かに引っ張られているか、はりつけにされているか、筋肉をうまく動かすことが出来ない。そんな真尋を前に、彼女は表情が一瞬死に、目を見開いた。

 

「えっ――――――、真尋さん?」

 

 

 

 真尋を抱きかかえていた彼女は――――死んだはずの、夢野霧子こと二谷劉実(るみ)は。彼女の顔は真尋に対して、まるで死人でも生き返ったかのような、驚愕に染まった。

 

 

 

 

 

 



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作為のある取り違え/本線

 

 

 

 

 

 部活動がなく友人関係が少ない生徒は、たいてい暇である。語弊がある言い方だが、目的意識を持っていない人間がその状況に陥っていれば当然そうである。積極的に勉強をするでもなく、何か趣味に打ち込むでもなし。八坂真尋も大概そのクチであり、放課後の彼は暇を持て余していた。八坂真尋は決して協調性がないわけでもない。その場その場で適当にわいのわいの、浅い友人関係で騒ぐのが嫌いと言うこともない。しかしここ最近の彼は根本的な部分で大きくストレスを抱える日々が続いており、その手の積極性は一段階落ちたものになっている。

 クラスメイトの余市は本日体調不良につき休み、同じくクラスメイトの田中は絡まれると面倒なのでスルーしている。ならば女子生徒の暮井珠緒あたりはどうかというと、そちらもそちらで本来接点が多いわけでもなく、また自分から話しかけに行くのも何か違うとためらわれた。照れ臭いのだろうかと自問すれど、いや普通に男子高校生が特に理由もなく女子高生に話しかける必要もないだろうと言い訳めいた返事、自答が返ってくる。

 なのでまぁ宿題も出ていたしと、しばらく図書室で自習しているのも悪くはないかと考え――――。

 

「まーひーろーさんっ」

 

 背後から聞こえてきた女の子の不機嫌そうな声を前に、今日は厄日だと切り替えて自宅へと足を向けた。

 だが敵もさるもの引っ掻くもの、ひしっ、と背後からハグによる拘束を仕掛けてくる。真尋としては羞恥と鬱陶しさとが同居したそれであるし、どちらかといえば迷惑という感覚だが、誰かに見られたらそれこそまた変な揶揄をされるだろうことは想像だに難くない。「ええい、離れろっ」と無理に引っぺがすと、その場でぺたん、としりもちをつく彼女。

 

「…………真尋さん、明らかにこれメインヒロインに対する扱いじゃないと思うんですけど、そのあたりどうお考えです?」

「おはよう」

「あ、はい、おはヨ……、って、違いますよ! ひどいです、冷たいですっ、私が、このニャル子が一体、何をしたっていうんですか!」

「自分で自分のことをメインヒロインだとか言うクラスの女子生徒にどういう扱いをすればいいのか、生憎、見たことも聞いたこともないんでな」

 

 邪険に扱ってる真尋である。彼女はそれこそ頬を膨らませ立ち上がり、腰に手を当てて真尋を覗き込むよう、上目遣いに見る。それこそメインヒロインを自称するだけあってのロールプレイなのかもしれないが、生憎と真尋とは時代が合わないくらいのテンプレートな振る舞いだった。

 いや、真尋が彼女に塩対応するのはまた違った理由からなのだが、それはさておき、ニャル子である。二谷龍子、真尋のクラスメイト。耳通りの良いふわふわした声、艶めく長い髪に大きな瞳。かわいらしいと綺麗と形容できる中間くらい、未だ成長途上であるというのが理解できる容貌。スタイルは一見スレンダーだが案外着やせするのを、何度かこうして(嫌々)体感し続けている真尋である。

 彼女もまたこの学校においては、特に肩書のない帰宅部である。だが真尋とは異なり一般的な女子らしく、クラスメイトたちと遊んだり何だりというのを繰り返している様子である。たまたま今日は空きが出来たのか真尋に絡んでいるのだろうと、彼本人はそう勝手に納得している。実際のところは女子同士で遊びに行く回数よりも真尋に絡んでいる回数の方が多いのは彼も薄々自覚はしていたが、そのことを表立って認めるつもりはなかった。以前から何度か巻き込まれている事件……、事件? 事件のような名状しがたたい珍事とも超常現象ともつかぬ何かをきっかけに、真尋と龍子とは知り合い、とりあえずは友人関係となってはいる。その時々に応じて彼女には世話になったり世話をかけたりを繰り返しており、それで友人関係が継続しているという点を鑑みれば、彼個人として彼女本人を、人間的に嫌ってるわけではない。

 そう、嫌いな娘ではないのだ。だが問題として、彼女のパーソナルスペースは真尋のそれをはるかに逸脱して接近してくるし、所かまわずというところがある。彼女本人がどう思って真尋にそうふるまっているかを確認する気は彼にはなく、彼女もそれを良いことに彼のペースを崩している節があった。

 

「せっかく真尋さんと一緒にどこか遊びにいこうかと思ってたのにっ」

「暮井あたりと行ってくればいいんじゃないか? 生憎、俺もそんなに遊ぶ金はないぞ」

「いえ、珠緒さん今日は部活動だそうで……、って、そういうことじゃなくて!」

「別に、どこかに一緒に出掛ける約束をしていた訳でもないし」

「約束してなかったら、真尋さんと遊びに行ってはいけないんですか?」

「だから、準備が必要だろ。いや別に事前に通告していたからと言って、必ずしも一緒に行くとは限らないが」

「ひどいです! こころないです! だいたい真尋さん、いっつも一人でいるときは小難しいこと考えながら、眉間のあたりがぎゅううって寄って固まってるんですよ、もっと学生生活を楽しまないとっ」

 

 龍子を一瞥して、真尋は頭を左右に振った。

 

「楽しむって、どうやって」

「可愛い子と遊びにいったり、映画見たり、お買い物したり、色々あるじゃないですか」

「そのあたり一通りやったけどな」

「一回だけじゃなくて、もっと…………って、あれ?」

「どうした」

「いえ、何か今、すごくうれしいこと言われたような気が…………、あれ?」

「……気のせいだ、忘れてろ。あー……、じゃあ、家にでも来るか?」

「!? え、えっと、そういうのはまだ早いんじゃ…………」

「一回自宅に強襲かけといて何いってんだアンタ」

 

 それだけ返して踵を返す真尋に、待ってくださいよと言いながら走る龍子であった。

 

 

「………………」

「………………」

 

 

 そして八坂家、リビングにて。

 ソファに座りながら毎月購読している特撮雑誌を見る真尋と、ゲーム機片手にぴこぴこやってる龍子。お互いにお互いが自由に過ごしており、特に何もなく静かで平和である。テレビではゴールデンウィーク開けすぐの頃のニュースで「クジラの変死体」の話が未だに長く議論が続けられており、真尋としてもほとほと、その事件からは目をそらしているところであった。

 と、龍子が立ち上がり、またしても腰に手を当てて真尋を覗き込む。

 

「…………真尋さん、おかしくありませんか?」

「何がだ?」

「どうして、年頃の男女が一つ屋根の下! ご両親のいない男の子のお家にご招待なんてドキドキイベントだっていうのに、そんな黙々と雑誌なんて読んでるんですか! 大体、よくもそんなガチガチのガチで特撮情報集めてるくせに趣味普通だとか言いますよね!」

「こら、返せっ、先月出た敵の新フォームのプロップのコメントが見れないだろ」

「明らかに専門用語じゃないですか! せっかく一緒にいるんですから、もっとこう、その……」

「とか言ったってアンタもそういうテの期待はもって来てないだろ」

 

 それはまぁそうですが、としゅんとなることもなく居直る龍子。こういう切り替えの早さのような振る舞いに、どことなく彼女の姉を想起させるところがある。とはいえそんな彼女に、案外と気を許していると言われても仕方のない真尋である。いや、彼自身も負い目のようなものが多少あるのが影響しているのかもしれないが、それはともかく。

 

「あ、じゃあTRPGやりましょうかTRPG! CoC!」

「いや、今からやったら夜中当然のようにすぎるぞ」

「途中で中断していただいても構いませんよ、そこは。あまり遅くなるとお母さんも帰っていらっしゃるでしょうし。さすがにそこまでお邪魔するのも気が引けるというか」

 

 龍子、意外とそういうところの節度は弁えているらしかった。

 だったら初めからやらなければいいじゃないか、とは真尋の内心であったが。

 なお、一週間くらい母親も忙しく、家に帰ってこないという情報は藪蛇につき真尋も口にしなかった。

 

「というか今夜冷え込むって、今ニュースでやってるだろ。下手すると雪降るから、早いところ帰れ」

「えぇ……」

「途中までは送るから、ほら」

 

 真尋の家に来て2時間もかからず、特に何もなく進展? もなく、文字通りただただ適当にぼーっと遊んだだけで終了する一日である。何やら不満そうな龍子相手でも、真尋は特に気にした素振りはない。いや、気にし始めたら色々とむしろ問題であるし、特に「意識してる訳でない」相手に対しての振る舞いとしては可笑しくはないだろう。

 

「そんなにアレなら、今度コーチャにでも行くか? 大型書店。色々置いてあるぞ、公式読本だったり特写本だったりキャラクターブックだったり超全集だったり」

「何一つ私が楽しめる要素が思い浮かばないんですが……。というか真尋さん、本格的にそれって特オ――――」

「いやだから、普通だって」

「まあ、私もコメントは差し控えさせていただきますね。……そういえば、コーチャ何年か前に東京の方にも出来たそうですね」

 

 ともあれ雑談しながら家を出て、龍子と通りを歩く真尋。とりあえず駅前方面に家がある、以上の話を聞いていない彼であるが、特に彼女の家に上がり込むつもりも毛頭ないので、特にそれ以上の情報を聞くことはない。

 と、駅前を通り抜けるさ中――――――かしゃり、という音と、光と、鈍痛を感じ、真尋は意識を失った。

 

 

 

 

 

 

   ※  ※  ※

 

 

 

 

 

「――――へ?」

 

 突如として倒れた真尋を抱き起す龍子。と、真尋の目の焦点が合っていない。頬を軽く叩いてみても反応はなく、しかし瞼を開いて光を当てても、瞳孔の開き具合は変化する。一応、生物的な故障を起こしてはいないようだが、突然のこの気絶とも言い難い変化は、あまりにも不自然である。不意に、ニャル子の脳裏に()の姿が過る。突発的にアーティファクトを見せられて発狂するのを防止する訓練と称し、何度も何度も発狂寸前の行動をさせられていた記憶。その「正体」が正体であっても身は人間にやつしていた以上、挙動としては同じものであるが、つまるところ一種の発狂である。突然廃人同然の状態に陥るくらい日常茶飯事だった姉の人生を思い起こし、それが真尋に現在起こったこととオーバラップした。

 突如発狂に陥った、としか考えられない状況を前に、龍子は彼を背負い走り出した。基本的に、彼女は普通の女子高生である。生憎と自分よりがっしりしてそうな男子高校生一人をお姫様抱っことかで抱えられるほど体力はない。幸か不幸か公園手前で倒れたこともあり、いったんそちらに運び込む。幸いにもベンチ2つのうち、一つはちょうど女子生徒が立ち上がり空いたところだ。

 と、ベンチに真尋を寝かせた直後、ニャル子と真尋の前に珠緒が現れる。カメラと拳銃を足して二で割ったような道具を片手に、ニャル子たちに向けて構えたまま。

 

「珠緒さん?」

「――――えっと、違うのですョ。『文明保護機構』のイス=カというのですョ。二谷劉実サン、少々お話を――――」

「は、はい? えっと、私、ニャル子ですけど、二谷龍子ですけど」

「…………あ、あレ?」

 

 突然の名乗りに困惑する龍子。と、次の瞬間、彼女たちの間に火柱が出現する。文字通りの火柱であり、スタングレネードのごとくその光は龍子とイス=カを名乗った珠緒の二人の目を焼いた。しばらくその場で転げたり、「目がっ! 目がっ!」とうめき声をあげるが、段々と回復してくる。気が付けば彼女たちの前に、未だ春だというに肌寒い北海道の気候に真っ向からケンカを売る、ワンピース姿の、小さな少女がいた。赤いツーサイドアップな髪型は、燃えるように光っている。また手足の輪郭も熱した鉄のごとく輪郭があやふやで、現実世界にいたら一目で人外であることが判るくらいには異常な外見をしている。

 クー子である。邪神クトゥグアの化身――――炎の魔人である。

 これを前に、龍子は猛烈な頭痛を感じてその場に倒れる。意識はあるが、とてもまっすぐ立って歩けるようではない。一方の珠緒に至っては「ギャョー!」と非常に名状しがたい絶叫を上げて気絶していた。白目を向いて微動だにしない。完全に互い、非現実的な光景と背後に存在する邪神の意識体を連想し感づいたことで引き起こされた、一時的狂気の類である。もっとも引き起こした張本人は「?」と不思議そうに頭をかしげて、倒れた龍子の顔を覗き込んだ。

 

「ニャル子」

「う、うう……、クー子ですか? も、もうちょっと安全な登場の仕方をしてほしかったと言いますか……。姉ならいざ知らず、私はただのパンピーなので。おまけに前世というか、一族的なトラウマが……」

「緊急事態だった。仕方ない。少年、何かあった? 変な喚ばれ方してる」

「あー、そうですねぇ……」

 

 クー子はとある事件以降、真尋がある「神」より譲り受けた化身である。おおよそ週に数度、彼女が望む食べ物を与えることで彼を庇護している関係であった。それ故、彼女の告げた非常事態という言葉がかなり重みをもつ。

 頭を抱えながら説明しようとする龍子に「まってて」と言いながら、真尋のポケットからハンカチをとり水飲み場まで走るクー子。両手の熱を落として人肌程度にして湿らせ絞り、龍子の額に乗せる。

 

「あー、助かります。ありがとうございます」

「無問題」

「えっと……、そうですね。事情はあっちに倒れている、珠緒さんが知ってそうなんですが、とりあえず意識がないみたいなので…………、真尋さんの家に運ぶと問題ありそうですけど、どうしましょう」

「無問題。少年、両親は一週間はいない」

「あ、そうなんですね。ということは真尋さん、あえて黙ってましたね……」

 

 頭を抱えながら上半身を起こす龍子。持続時間はそんなに長くなかったのか、段々と頭痛は引いている。一方の珠緒は相変わらず変な顔をして伸びたまま。真尋は廃人同然で、クー子は無垢な様子できょとんとしていた。

 

「……えっと、運ぶの手伝ってもらえます?」

「わかった」

 

 と言いながら、クー子は龍子を肩車した。

 

「…………って、私じゃないんですよ! 真尋さんでも珠緒さんでもいいですから、お願いしますよ!」

「了解」

 

 ともあれ発生した事象に対して、驚くほど緊張感のないくらいぐだぐだとしながら移動し始めるニャル子達であった。

 

 

 

 

 

 




本作でのCVイメージ:
 暮井珠緒(イス=カ):中原麻衣


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これが君のセッションである証明/本線

特別対策素人チーム結成


 

 

 

 

 

「『文明保護機構』って知ってます?」

「ニャル子、知らない?」

「そこまで多くは情報を持っていないとしか。姉ならいざ知らず、この私はパンピーなんですって……。本体(ヽヽ)ともつながってませんし」

「把握。SANチェッカーある?」

「ないですが、まぁそこまで大きく減点されないことを祈りますかねぇ」

 

 真尋の鍵をクー子に使ってもらい、八坂家に入る四人。リビングの、さきほどまで居たソファに真尋と気絶した珠緒を背もたれに寝かせる。真尋は相変わらず廃人同然であり、珠緒の意識が返ってくるのもしばらくかかるだろう。その間に、と彼女の手足に「準備」をしていると、クー子が龍子の手を引っ張る。

 

「何です?」

「ん、対価」

「あー……、そういえばそういう話でしたっけ。真尋さんが今何もできないので、私が代わりにやれと」

「ん」

「いいでしょう。で……、何がいいです?」

「アイス。メロンバー。冷凍庫」

 

 言われるままに冷凍庫を開ければ、名前の通りの品が箱で鎮座していた。残りは三本、下部が緑色で他は橙色のそれをはがして手渡す。クー子は目を閉じてかぷり、とかじりつき「んー!」と額を抑えながらテンションを上げた。

 

「網目模様!」

「いえ、アイスバーと化したそれに網目はなさそうですが……。んん、珠緒さんも下手に起こすとまた変な形で発狂しそうな気もしますし、しばらく寝かせておきますか」

 

 真尋の突然の症状に対して嫌に冷静な龍子である。アイスをしゃこしゃこ機械的に食べながら、クー子は不思議そうに見つめる。龍子はその視線に気づいているのか気付いていないのか、真尋の額を撫でて、光を当てて目を見る。瞳孔の動きから生理現象として反射があるか、意識自体が断絶しているのかの確認である。結論から言えば、彼女は突き飛ばされた。背中と頭を打ち、ひるむ龍子。痛たた、と声を上げながらも、しかし一切動揺することなく安堵の表情だった。生来の愛らしさに根付いた可愛らしいものではあるが、真尋本人の意識があったのならば辟易した表情を浮かべられるだろう。それだけ彼女と彼との関係はややこしいものがあり、手放しで正面から向き合るものとは言えなかった。そして彼女は、そのまま彼の頭を撫でる。あたかもそのいつくしむ視線は母が愛子に向けるそれであるかのように、あるいは愛する誰かが生きていることを承認する行為であるかのように。いっそ神聖とは無縁なものであるが、日常でもここまでの優し気な顔とて滅多に見ることはあるまい。

 それはさておき、手慣れているともいえる、龍子の一連の動きである。ここでクー子の視線に気づいたらしい彼女は、率直に質問を返した。

 

「どうされましたか」

「ニャル子、慣れてる?」

「姉も昔はしょっちゅう気絶したり発狂したりしていたので、慣れていると言えば慣れていますか。それとこれとは別にして、思うところがないわけでもないです」

「思うところ?」

「ええ。そこはまぁ、企業秘密ということで……。私もその、乙女ですから」

 

 真尋が正気なら鼻で笑われそうな一言であった。

 そして、そうこうしているうちに少女のうめき声。声の側、真尋の隣を見ると、目をこする珠緒の姿である。

 

「これは、いったいどういうことなんですョ……? って、えーっ!?」

 

 そして自分の両手足が、ものの見事にロープで縛りあげられていることに気づいた。びくん、と飛び跳ねて、そのままソファから転げ落ちる。現在の状況を完全に理解していない風である倒れた彼女に、龍子は視線を合わせる。

 

「あ、はい。どうも珠緒さん。いえ、イス=カさんでしたか? とりあえず知っていることをジャンジャン吐いちゃってください。でないと――――」

「で、でないと、どうなるんですョ?」

 

 素足の彼女の足へ向き直り、龍子はブレザーのポケットから何ら脈絡なく、名状しがたい猫じゃらしのような先端がふわふわした物体を取り出す。龍子は自分の体を使い、珠緒の足とその道具とが見えないように壁になり、つん、つん、と土踏まずをつつく。人体において視界に入っている箇所の刺激と、入っていない箇所の刺激とでは後者の方が脳の処理が追い付かない分ダメージが大きく、結果としてそれは効果てきめんに現れた。

 

「ョヨヨっ」

「継続してくすぐると10分くらいで慣れてしまうようですが、こうして刺激を調整すればまぁ大丈夫ですかね。さぁ、キビキビはいてください、でないと数時間はこの状態を継続しますよ?」

 

 ある種の拷問である。良い子も悪い子も真似をしてはいけない拷問である。それにしては明らかに手慣れた拷問方法であった。つんつんと頻度をランダムに調整することで、珠緒、いや、イス=カに継続的にダメージを与えていた。こころなし、龍子の両眼が「きらり」と光っているような漫符が見えるような、見えないような。

 この間、クー子は興味がなさそうな目でそのやり取りを見ていた。

 

「さぁキビキビ吐きなさい! にゃるこつんつんっ、あんっ、どぅ、とろあっ」

「ひ、ひう、うううう、にょ!? や、やめてくださいですョ、このままだと失禁しますョっ」

「あ、そっちにくすぐったさが行くんですね。大丈夫ですよ、さすがに真尋さんのお宅をクラスメイトの『あれ』で汚すのは忍びないので、すでにビニールシートを敷いてあります」

「確かに私が今寝かされているところはビニールシートですョ! って、されなくても吐きますョ、敵対の意志はないのですョ、白旗! 白旗ですョっ」

 

 悲鳴と嬌声、涙目といろいろと惨憺たる状態の珠緒であった。拷問をかける龍子に容赦の文字はないらしい。ギブアップ宣言された後も、反骨心を折るためか数分はくすぐりを繰り返し、やっとのことで彼女を開放した。様子を見る限り、ぎりぎり失禁は免れたらしい。ただ解放された両腕と両足をまるめ、体育座りの状態でいじけていた。涙で顔のメイクが軽く崩れた彼女に、ティッシュを差し出すニャル子の絵面はあまりにマッチポンプ感があふれているが、それはさておき。

 

「ご、拷問は犯罪なんですョ……、うう……」

「嫌ですねぇイス=カさん。される謂れがない相手には、そんなことしませんよ? 私。それこそ姉じゃあるまいし」

「お姉さま……、二谷、劉実とおっしゃっておられましたですョ?」

「ええ。クローとか夢野霧子とか色々別名はあるみたいですが、一応、戸籍上はそうなってます。私の実の姉にあたり、先月亡くなりました」

 

 龍子の言葉がほとほと予想外だったのか、目を見開いて動きを止めるイス=カである。そんな彼女にお構いなしとばかりに、龍子は質問を突き付けた。ちなみに手には携帯端末、ボイスレコーダーをONにしているあたり抜け目がない。

 

「それで、貴女は一体何なんですか? なぜ、真尋さんを『そんな』にしてしまったのでしょうか。貴女の目的は一体何なんですか?」

「や、矢継ぎ早なのですョ。ちゃんと、順を追って説明をするですョ。それはそうとしてですョ……? さ、さすがにもう一回あのスタングレネードごっこは、されないですョ?」

 

 どうどう、としながらも、彼女の視線はアイスバーを食べているクー子へと注がれる。拷問めいた所業もそうだが、明らかに先ほどの閃光が彼女の警戒心に尾を引いていた。スタングレネード以上の閃光で、音もなく一撃で意識を刈り取られるその衝撃が、イス=カの精神にトラウマを植え付けているようだ。

 なお龍子はそれを見て、人の悪い笑顔を浮かべる。見た目の愛らしさに反して、彼女もまたそれなりに恐ろしい性格をしているらしかった。

 

「さぁてそれは……、ちゃんと私を納得されてくださいね?」

「ョ、えっと、龍子サン、出会ってますョ? 貴女は只の人間(ヽヽヽヽ)なのに、どうして先ほどの現象を受け入れられているんですョ? 目の前に太陽が現れたんですョ?」

 

 イス=カの一言に、龍子は彼女がどういう理解を示しているかをおおよそ把握した。二谷劉実の正体――――這い寄る混沌、邪神ニャルラトホテプの化身であるというところまで、把握できていないらしいということに。もっともそれを知ったところで、龍子はすべてを正直には語らない。詳細を知れば知るほど眉唾になる以上、必要最小限の情報を提供するのが妥当な場合もあるのだ。

 

「姉が、某組織の『原理主義派』の所属だってことはご存知のようですかね。その、私は姉と二人暮らしでしたので、姉の稼ぎが私たちの生活費で、現在の私の生活を補填している保険なんですが……、特に守秘義務とか、あまり隠すような性格ではなかったので。多少、多少は正気が削れていますし、その手の知識も持っているんですよ。暗黒神話群、つまり宇宙より飛来した神々や、それにまつわる真実を」

「ョ……、なかなかお辛い家庭環境なのですョ。ご両親は……」

「父親はいますが、母親はいませんかね。肝心の父親も失踪状態ですので」

「ョョョ……。でも、そういうことでしたら、八坂真尋サンも起こして――――――って、あれ?」

 

 ここでイス=カは、ようやっと真尋の方を振り返り、彼の様子が異常であることに気づいた。真尋のその廃人めいた様子を前に、彼女は目を見開き、不安げに眉を寄せ、困惑に口を歪める。おや、と龍子が違和感を抱くのとほぼ同時に、イス=カは彼女の肩をもって詰め寄った。

 

「わ、私のっ! 私の銃はどこにあるですョ!?」

「それ、でしたら、キッチンテーブルの、上に、あの、揺らすの、止めてくだ――――」

 

 龍子が言い終わるよりも先に立ち上がり、ビデオカメラのような、その尾部に拳銃のトリガーのようなものがついた、端的に言えば奇妙な形状をした銃のようなそれを手にとり、猛烈な速度で分解を始めた。何をしてるんでsか、と龍子が詰め寄る。イス=カは龍子の言葉に答えず、その場で膝をついた。愕然とした表情を前に、龍子は彼女が手に持っている、デジタルでないアナログなビデオカメラでいうテープのような個所に該当するだろうそれを見る。

 

「いったい何があったんですか?」

「…………すり替えられてました。これは、まずいことになったんですョ。組織に裏切り者がいるんですョ」

「それだけだと意味がわかりません。ちゃんと話してくださいっ」

 

 有無を言わせずニャル子は立ち上がらせ、イス=カをソファに座らせる。明らかにイス=カは動揺しており、平静の状態ではない。冗談ではない、一体何がどうしたというのか。真尋の安否を優先しているニャル子からすれば、今のイス=カの状態は明らかに宜しくない。

 

「まずは順を追わなくてもいいから、質問に一つずつ答えてください。真尋さんに、何をしましたか?」

「…………本来は光信号によって、軽い催眠をかけただけのはずだったんですョ。でも」

「でも、何ですっ」

「――――内部のカートリッジを丸ごと入れ替えられてました。私が『ここに』派遣されたタイミングでは確かに催眠カートリッジだったのに、あれは、精神交換カートリッジだったんですよ」

「精神、交換?」

 

 居住まいを正し、咳払いをして。改めてイス=カはニャル子たちに名乗った。

 

「私はイス=カ。先ほども言いましたが、文明保護機構のエージェントです。この時代の言葉に置き換えれば、タイムパトロールみたいなものです」

「タイムパトロール……、ま、まあ話を聞きましょう」

「我々の種族は、様々な時空、時代の知的生命体、我々とある程度の相性が良い精神性を持つ知生体と精神交換を行い、その文明を学習し、また文明が滅亡の歴史を歩む場合、それとなく保護してきたんですョ。その仕事をしているのが、文明保護機構。具体的に言うと――――」

「あー、その具体例は良いです。SAN値(正気)が消し飛びそうなので、概略だけで」

 

 姉相手の対応で慣れているのだろうか、実際妥当な判断であった。もし仮に詳細を聞いていれば、確定で6面ダイス1ロールの正気を失い、何かしら直後に会話ができないだけのダメージを精神に負っているはずである。基本的に自分が人間の体と精神性であることを、龍子は当然のこととして熟知していた。

 

「ョ? それなら省略するですョ。じゃあ必要そうなところだけ。我々に観測できる時間の流れというのは、結構おおざっぱでおおよそ。だからこそ、ある程度は我々の介入によって状況を変更可能なのですョ。そして、微々歴史もまた変化し、こちらも観測を続けるのですョ。だからこそ我々が派遣されて動くのですが、今回それなり大きな異常が観測されたため、この時代で『最も解決可能性が高い』相手に協力を依頼する予定だったのですョ」

「それで姉にお鉢が回ってきたわけですか……」

 

 確かに、姉の弁であれば今年の春先に一度「機械仕掛けの神」から世界を救っているとのことである。TRPG的に言えば、直近のセッションで好成績を残したプレイヤーキャラという訳だ。事象をおおよそ遠目から観察する分には、好成績を収めた相手に似たような仕事を割り振るというのは発想として理解できる。

 もっとも理解できるが、詳細を知らないということが中々に致命的であったことを龍子は察してもいた。

 

「今朝がた、この少女の体を借りてこの時代に転送されたのですョ。……この珠緒サンを含め、協力を仰ぐにしても、極力現地人には干渉しない鉄則があるのですョ。だから昏倒ないし気絶させるために銃をつかったものの……」

「道具が、本来予定したものとすり替えられていたと。…………、あの、事前に気づかなかったんですか? それくらい」

「そ、それくらいと言われても困るのですョ! 基本的に我々が持ち込めるものは『非物質装置』のみなので、該当する時代で道具を別途新たに作る必要があるんですョ! だからほかのエージェントが作った道具を、指定の場所に取りに行くというのが通例の流れで、ミスは絶対にありえないのですョ! つまり偽装されていたのですョっ」

「本部とか、もっと偉いところとかと通信は出来たりしないんですか? そういうのって。内部に裏切り者がいるって話を」

「それが…………、この時代の通信所、米国にあるものしかないのですョ」

「あー、日本からじゃすぐいけない訳ですね。納得です」

「今にして思えば、ニャル子サンを劉実サンと誤認していたのも、事前に与えられていた情報に誤りがあった可能性が高いと思えてきたのですョ。そして今から米国に向かっても、すでに手を打たれてる可能性が高いのですョ。

 時間転移は『一往復で固定される』ので、ここからさらに過去に遡ったりは出来ないですョ」

「つまり、イス=カさんの立場だと、やり直しが効かないってことですね……。未来に精神が紐づいてはいると。フューチャーアンドパストか何かですかね」

「ョ?」

「いえ、映画のたとえですので……。

 あ、ところで真尋さんに撃たれた精神交換って……」

「本来は、特定の座標にある本人の精神と現在の精神とを入れ替える装置なのですョ。我々の精神交換が失敗した時に、発狂したり精神崩壊してしまった相手を元に戻すのに使われるのですョ。座標、時間を設定して、それに対応した当人の精神を呼び出すイメージ」

「でしたらその、この真尋さんは一体……」

「流石にこればっかりは、私もわからないのですョ。カートリッジの肝心の部分が黒塗りにされていて…………。本部と連絡がとれれば、何とかなるかもしれないですが」

 

 色々と彼女の側も事情が混迷しているらしい。ひとつわかることは、故意犯でなかったことと、現状の彼女ではどうにもできないことの2つ。

 そして、クー子はいい加減メロンバーを食べ終え、二人の話にうつらうつらしていた。

 

「こうなっては仕方ないのですョ……。妹サン、私に協力してほしいのですョ! 裏切り者をあぶりだし、地球滅亡を食い止めて、一緒に真尋サンの精神を取り戻すのですョっ」

「いえ、最後のについては当然の話なんですが……、地球滅亡とは大きく出ましたね。まさか後三日で月がそらから降ってくるとか言いませんよね」

「流石に三日ではないのですョ――――1週間」

 

 

 イス=カを名乗る彼女は、珠緒の体で、ひどく真剣な顔をして断言しきった。

 

 

「1週間後、ある条件を満たさない限り、この惑星は『惑星保護機構』の先兵――――『星の戦団』によって、宇宙の藻屑とされてしまうのですョ」

 

 

 

 

 




わかりやすい世界の危機


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時間と空間が死んだ世界/R分岐

深淵の果てしない暗黒を抜けると終末であった――――


 

 

 

 

 

 八坂真尋の眼前に広がる光景は、非常に非現実的な悪夢そのものであったが、しかし彼はそれを見ても決して発狂することはなかった。それは現在の彼の身体の状態に基づいた物理的な理由からであるが、あいにくと精神まで健全なままかというとそうもいかない。ただその上でも、彼が自己を律することができる理由があるとしたら、彼の隣にいる彼女の存在だろう。

 それについては後に回すとして、まず光景についてみるべきか――――空一面が赤に染まり、月は目玉のようなそれ。巨大なそれが、あたかも下方にあるすべてのものを見まわしているように、時折ぎょろぎょろと蠢いている。彼自身、もし字面のみでそれを見たら陳腐と表現できるだろうが、黄ばんだ、血走った目がこちらを視線で射殺さんとばかりに追跡してくる光景というのは、あまりにも精神に悪い。どこにいても何をしていても見られているような――――雲間から見える月の目は文字通り巨大な怪物の目そのもののようにも思え――――とても落ち着けるはずもなく。

 その空の下に広がる光景もまた常軌を逸していた。いや、広がると言っても非常に形容が難しい。まず一つ言えることは「地面が連続していない」。あたかもパズル細工であるかのごとく、あるいはどこを使用しても角となる消しゴムを組み合わせたかの如く、地面の構成が「ばらけている」個所がある。かと思えば一面暗黒に閉ざされた場所もあり、地面がそもそも「直角」になり本来の地面は永遠と続く虚空の果てに消えているような、そんな場所もある。それらの場所の入れ替わりを認識することも出来ず、状態が「突然変わる」というのが真実のところだ。それを指して、空間が不安定と形容するべきか、いまだ当然のように退官したことのなかった真尋の語彙には存在しない。

 そして現在真尋がいる場所は――――ここだけ切り取ったように状態の変わっていない、温泉であった。

 

「ふぅ、良いお湯ですね。真尋さん、湯加減はどうですか?」

「…………」

「あ、口が沈んでますね。出しますからちょっと待っててください――――って、あ! 見てください、今、海原でちょっとクトゥルヒとイタクァがちら見えしましたよ! なかなかレアですねぇ」

「――――」

 

 ぶくぶくと、口から出た空気が泡になる真尋を引き上げ「桶の中で」上向きにする彼女。現在の真尋の状態を考えれば前かがみの体勢になる彼女だが、その体勢は本来なら非常にまずい。真尋とて健全な男子高校生であるし、おまけに相手は「彼女」と来てる。うなじから肩にかけてのすっきりしたライン、見た目の年相応以上にはグラマラスな体、かと思えばそれは必要最低限であり他はむしろ華奢なくらい。ここ最近、真尋がよく知るところの龍子を大きくした相手の、そんな姿を前にして真尋は言葉が出なかった。

 ただ、それに極端に劣情を抱けるような状況に真尋の体はなかったのだが――――。

 

「ふぅ。なかなか良い感じだと思いません?」

「…………さっぱり、わから、ん」

 

 言葉さえまともに発音できない。というか、そもそも「息を吸うことさえしていない」上に「顔をほぼ動かせない」ので、発生する声はどこか引きつった、気味の悪いものに聞こえる。

 そんな「ずいぶんと小さくなった」真尋をいとおし気に「彼女」は撫でていた。

 

 

 

 彼女――――すなわち、二谷劉実。真尋には夢野霧子と名乗っていた、龍子の姉。

 彼のために死んだはずの彼女は、なぜか現在、真尋と温泉につかっていた。

 

 

 

「しかし絶景ですね~、真尋さん。日本広しといえど、ここまでの絶景は中々お目にかかれはしないでしょう」

「普通は、そも、そも、こんな、光景が、有り得ないだ、ろ」

「その意見には賛同ですが、少しは盛り上げましょうよ~。せっかく二人で温泉に入ってるんですから。二人っきりで。二人っきりでっ」

「そこ、強調する、必要が、あるのかっ」

 

 露天風呂ではなく、どこかのホテルの客室付のもののようである。どちらかと言えば、夫婦やカップルが水入らず、いちゃつくイメージがあると形容できるかもしれない。ただし窓の外に見える一体この惨状に陥った世界でどうして温泉を部屋に引き入れられるのか、電気とかどうなっているのか等様々な問題が横たわっているが、それを追求する余裕さえない真尋であった。

 空や月は「異常である」ことも変わりないが、それ以上に眼前眼下、本来なら街並みが広がるだろう場所すべてが「砂」であった。状態としてさらに異常なのが、その砂の中、人の営みが有るような光の動きは観測できるが、それが実態を伴っていない。かと思えば数秒もすると、白黒合成映像のごとき人間のシルエットが過ったり、過らなかったり。そういった一連のそれを除けば天球を拝むことができる程度には物が存在せず、見ようによっては絶景と言えるかもしれない――――太陽の上らない赤い空と、異形の月にさえ目を瞑れば。

 と、劉実は真尋を両手で「持ち上げ」、桶から自分の胸元に持って行って抱きしめる。

 そして共に月を見上げ、どこか嬉しそうにほほ笑んだ。

 

「そりゃ、ありますよ。私の体感でも、真尋さんとこうして言葉を交わすのは十数年ぶりなんですから――――その姿になってからの真尋さんと」

「――――――――」

  

 ありていに言えば、今の真尋は「人間の形をしていなかった」。

 その姿の詳細を真尋は彼女から聞いていない――――聞けていない。直接聞くのを憚られるほどに、真尋は自分の体が人間からかけ離れた姿かたちをしている自覚があった。「人の両手で抱えられるサイズ」で「開かれめくられ」る。彼個人がネクロノミコンの力を引き出すことの出来たヨグ=ソトスの落とし子の一種でったことを踏まえても、おおよそ予測は建てられる。

 ネクロノミコン――――アル・アジフと言い換えても良いが、その冒涜的な事実が列挙された魔術書ないし戯曲の形態は、言い伝えられる話により様々な形をとる。通常の書物である場合や、謎の生物の毛皮で編まれている場合。あるいは本自体が「人間の体をもって作られて」いる場合や、「自らの意志を持つ書物となっている場合」。真尋の場合は、そのうちのいくつかに該当する状態であろう。現在の真尋は、まさしくネクロノミコン「そのもの」と言って良かった。

 劉実は心の底からの歓喜をともなった声を真尋にかける。そして同時に、その声音には幾分かの寂しさも含まれていた。

 

「まぁ、中身は私の知る真尋さんと、少し別な方のようですけどね。いずれはあちらにお帰りいただかないと、色々と問題が出そうです。

 それでも、私にも少しだけ希望が出たと言いましょうか」

「希望って、何だ。大体、これは、どういう、ことだ」

 

 龍子を送る道途中。瞬間的に気を失い、何やら忘れてしまった、思い出してはいけない類であろう夢の後に目覚めたらこの姿である。おまけに熱海に来て一人、空元気にテンションを上げていた劉実の手元でだ。ひとえに真尋が発狂しなかったのは、ゴールデンウィーク直近のドリームランドでの出来事があったからだろう。あそこまでの衝撃的事件は、さすがにそうそうお目にかかることはあるまい。少なくとも真尋が体感した数か月分の現実的な拷問(ヽヽヽヽヽヽ)は、この暗黒神話的な拷問(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)において、彼に一定のセーフティを発生させていた。……もっともこれは、真尋の常の正気度が下がった、クトゥルフ神話知識を手に入れてしまったと言い換えても良いのだろうが。

 その後、あれよあれよという間に真尋は劉実につれられ、こうしてどこから手配したのやら個室の温泉宿の中に入っている。本当にここが温泉宿なのかどうかは、道中の建物がどう見ても教会だったり、かと思えば駅のホームのような構造になっている箇所が有ったりというのを経由しているので定かではないのだが。

 劉実は、真尋を持ち上げて、自分の額とくっつけた。

 

「んん? んー……、嗚呼、大体わかりました」

「それは、大体、わかって、ない、やつの、セリフだ」

「いえ、わかりましたよ? 私の正体というか、本体(ヽヽ)というかを知ってるでしょうに、真尋さんたら」

 

 つんつん、と表紙をつついてくる劉実。表情が動けば顔を顰めているところだろうが、生憎現状の肉体がそれを許さない。四肢の感覚もあるが存在せず、というよりもより正確には「固定されて動かない」ような感覚が残っており、それはそれはひどく気色が悪いものである。まるで怪奇映画に出てくるミイラにでもなったような気分の真尋であったが、まぁ実際も大差はないのだろうと考えていた。

 大体わかったと言っただけあり、実際、彼女の言葉からして本当に大体把握したらしい。

 

「簡単に言うなら、真尋さんは精神交換されたんです」

「精神、交換って、」

「イース……という名称は実際正しくありませんが、イースとここではしておきましょうか。イースの彼らの技術力で開発された精神交換銃を用いて、真尋さんの精神は『こっちの真尋さんと』入れ替えられてしまったということです」

「こっちの、って、何だ、後、大いなる種族、ってことは、文明、保護機構、だったか」

「あらら、その名前よくご存じで。

 んん、そうですね。ちょっと整理しましょうか。①文明保護機構について、②こっちの真尋さんとは何かについて、③この世界は一体何なのか。まぁ②を説明すると、大体③を説明したことにはなるんですが、それはそれとして。文明保護機構は、ご推察の通りイースたちの組織で――――」

 

 クー子の口から少し聞いただけである真尋だが、劉実はそれをある程度補足する。

 イースの大いなる種族。現存する地球文明よりもはるかに高度な文明を「過去に」築いた知的生命体たちであり、その本体はすでに精神生命体と化している存在である。むろん、それは精神が肉体をはい出て他の生命体に寄生するというプロセスを踏むわけではなく、彼ら自身の科学力により精神を既存の生物と交換し、自ららの文明を長生きさせてきている種族だと言われている。その高度に発展した文明から、彼らにとって時間もまた空間の流れと同様のそれであり、様々な時間軸における文明社会を学習し、吸収し、自分たちの文明を発展させる、あるいは乗っ取るということを繰り返す異星生命だ。本来ならば時空間をさまようことにより、とある「猟犬」に目を付けられるところであるが、彼らはその独自の技術力によるものか、完璧にごまかし精神の時間移動を現実のものにしていた――――。

 

「――――端的に言ってしまうと、イースの時空警察です」

「時空警察とか、一般的な、用語と、思うなっ」

「いえいえ、まさしく時空警察です。彼らは時間軸に干渉し、時に文明を滅ぼし、時に文明を長生きさせます。それは惑星規模、宇宙規模でどうこうというのを考えて行動する組織なので、ある意味、時空という概念に対する『這い寄る混沌』のスタンスと大きく異なりますね。彼らはバランサーを自称するだけの経験値を、すでに『未来で』獲得し、文明的にある一定基準を超過するほどの成熟をみました」

「成熟……」

「どれくらい成熟したのかといえば、一般人が遭遇したところで、むやみにSAN値を削ることがないくらいにはですかね~。相手の文明レベルに、自分たちの存在を合わせられるわけですから」

 

 尋常でないレベルでの文明成熟具合だった。

 

「では、こっちの真尋さんが何かという話についてですが、言葉通りの意味です。『この世界の』真尋さん、ということですね」

「この、世界? をのれ、ディケイド」

「えっ」

「いや、なんでも、ない。続けて、くれ」

「んー、実際のところの概念の説明が難しいので説明してしまいますと、私は真尋さんのいる世界とは別世界の二谷劉実です。歴史が一部書き換わった結果、別な時空が発生した――――パラレルワールド的なご理解でよろしいかと。そしてどうにも、そちらの方が『本線』であるようですね」

「本線?」

「油絵具を想像していただけますか? あれって、基本的に顔料を上塗りしていくじゃないですか。それと同じような理屈で、時間、歴史の書き換わりというのも上塗りで変わっていくんです。下塗りになった歴史が消滅するわけではないので、その場合において『一番上に塗り固められた』それを、便宜上、本線と呼んでいます。真尋さんは、その本線の真尋さんということです」

「いや、おかしい、だろ、時間、干渉じゃ、ないのか、イース……」

 

 単純な時間干渉の域を超えている、という真尋の指摘である。

 

「まぁ……、あんまり考えたくはありませんが、本線の『這い寄る混沌』か何かが手を加えたと考えるのが妥当じゃないでしょうか? ほら、下手に真尋さんの体を奪われると、大変なことになるかもしれませんし」

「だからって、何で、こんな、……」

「その、私は役得ですから、そこは喜んで下さい」

「結局、アンタの、都合じゃないかっ」

 

 そもそも真尋に降りかかる暗黒神話的事象の九分九厘がニャルラトホテプの手によるものであるので、今更といえば今更でもあった。

 ともあれ彼女の言葉が正しければ、真尋がいるのはパラレルワールドであるらしい。……明らかに真尋の知る世界のそれではない現状であるので、自分の元居た普通の世界がちゃんと存在しているというのは一つの救いであったが、この世界が存在しているというのもそれはそれで一種の恐怖であった。

 劉実は真尋を再び抱きかかえ、その頭を撫でた(現在の真尋の触覚でいう、頭に該当するあたりという意味になる)。

 

「なので、真尋さんが意識を取り戻せたというのは、ちょっとした奇跡であり福音なんです。アレルヤ! って感じですかね」

「どこが、福音、なんだ?」

「だって、『今の』真尋さんがちゃんとしゃべることができてるってことは――――こっちの真尋さんにも、意識はあったってことですから。たとえ貴方が元の体に戻っても、私には希望が残ります」

「…………」

「この先、何千年、何万年かかるかわかりませんが、ちょっとした何かの拍子に、私の真尋さんも、いつか、いつか自我を取り戻すかもしれない――――そういう希望があれば、私はまだまだやっていけます」

「……ファンタジーだよ、それ、は」

「ですけど、願い、信じる者がいれば、ファンタジーは時に現実に近づきます。って、その資格は本来、私にはないのですけどね」

「そう、かい」

 

 真尋はそのことについて、多くは聞かなかった。彼女がそれほど自身を想っていたことと――――たとえ妙な形で再会できたのだとしても、彼の初恋の彼女は、彼の世界の彼女はもう居ないのだという事実は変わらないと。それを改めて認識したからだ。

 だが、だからといって彼がそれを憎んだり恨んだりという感情はない。ただただ、真尋は彼女の幸福を願った。現状の有様であってもなお、自分と一緒にいることを求める彼女に。

 それ故に、彼は彼女最後の一言を―――その資格が本来はないという一言を聞き逃したのだが。

 

「じゃあ、三つ目は」

「この世界が何か、ということですね。んー……、簡単に言うと、コールドゲームってやつです」

 

 劉実は事実を真尋に、それこそ何でもないように語った。

 

「クトゥルフを皮切りに、ほぼすべての邪神たちが復活し、領域をとり支配し従属させ蹂躙し自在に闊歩するようになった時代――――終わりのないラグナロクってところですかね」

「――――――――」

 

 何だその地獄絵図は、と。

 あまりの衝撃に、そんな言葉すら真尋は吐き出すことができなかった。

 

 

 

 

 




本作のCVイメージ
 二谷劉実:浅野真澄
 


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風惑う不確実世界/本線

素人探索者集団、アマチュア探索者招聘
一見、原型をとどめていない「彼」の登場です・・・


 

 

 

 

 

 とにもかくにも真尋をそのまま捨て置く訳にもいかず、龍子たちは救急車を呼び真尋の搬送に付き添った。再びの緊急入院につきではあったが、同伴する保護者たる母親と再び顔を合わせることとなり、龍子はたびたびの恐縮であった。ここ直近、自身の周囲で真尋が神話的事件に巻き込まれる頻度の高さもあいまって合わせる顔がないというところではあるが、しかし一方で八坂頼子、真尋の母親である彼女は龍子と珠緒を責めはしなかった。

 ただし、彼女にとっては不可思議な質問をされはしたが。

 

「まぁ二人を責めたところで仕方がないでしょ。別にあなた達が何かしたって訳ではないでしょ?」

 

 このあたりで珠緒、というよりもイス=カのリアクションが若干怪しいところはあったのだが、気づいているのか気づいていないのか、母親はそれを見なかったことにする。不安そうにする二人を抱きしめ、優し気に諭す。

 

「大方、何かヤバいものを見てショックを受けたんでしょ? 大丈夫、こういうのは時間が経てばなんとかなるわよ。私も経験あるし」

「いえ、それでもここまでおかしくなっていると……」

「そうは言ってもこういうのは、究極的にはウチの問題だから。お嫁さんに来てくれるとか、そういう話だったらまた別だけど、違うでしょ? 二人とも」

「え、ええっ」「ョョっ」

 

 龍子は羞恥により、イス=カは珠緒がどう見られているかという事実により、それぞれ取り乱す。そんな二人に「大丈夫よ」と笑う彼女は、たとえ接触が少ないにしても息子に対する信頼の強い、力強い母親の姿だった。

 

「そこのところ、別にどうなっても私から何か言うことはないから、好きにやりなさい? できれば裏切ったりはして欲しくないかなーって、親心には思うけど。見たところ二人とも悪い子じゃないみたいだしね」

「その評価は、見方によってはかなり的を外すところになると言いますか……」

「でも、ウチの子とこんな時間までずっと一緒に遊んだりしてるって、中々ないわよ? あの子、お父さんにコンプレックスがあるのか、周囲にあんまり心開かないし」

「コンプレックスですョ?」

「ええ。私も細かくとらえきれていないから、指摘するのが難しいんだけどね……。えっと、そういえばだけど、二谷龍子さんだったかしら」

「へ? あ、はい」

「二谷……、貴女、知り合いに二谷辰隆(よしたか)って人がいない?」

「えっと、一応父親なのですが……、お知り合いですか?」

「結構浅からぬ縁なんだけど、今どこにいるか知ってたりする?」

「その、生憎と失踪していまして……。今は、姉が入っていた会社(ヽヽ)とかの関係者さんたちに、お世話になっています」

「そう…………。貴女も苦労してるのね」

「わぷっ」

 

 頭を撫でられながら、龍子は終始恐縮し続けていた。

 ともあれ、いったん真尋の安全を確保し、二人は翌日に行動を起こすことにした。

 翌日に始業よりも一時間早く登校した二人は、新聞部の部室へ集まった。当面の作戦会議がてらである。ちなみにだが部室に入った時点で、部屋のパイプ椅子に何故か当然のようにクー子が正座で座っているあたりが中々にカオスである。そして無言で食べ物を催促する彼女に、なぜか龍子は手に持っていた煮干しのお菓子の小袋を手渡した。

 

「はう、網目模様……」

「すみません、さすがに学校では準備ができていませんので、しばらくそれで我慢を……。明日には自宅に届きますので、そっちでお願いします」

「ん、わかった。私は寛大」

「いえいえ、なにとぞよろしくお願いします……」

 

 ははぁ、とひれ伏すニャル子に、ちびっ子なクー子がえへんと威張る風。本性たる存在として見ればなかなか業の深い光景であるが、彼女の側からしてみれば「ただの人間」の体に対して「邪神の変化してるだけの存在そのもの」であるクー子は文字通り危険物でしかないので、妥当な対応だった。ちなみにイス=カ自体は現実逃避して虚空を見ながら「あ、ちょうちょ」とありもしない光景をつぶやいている有様である。よっぽどあの照明弾めいた所業がトラウマになっているのか、はたまたそれにより彼女自身のSAN値が削り取られているのか。

 咳ばらいをし、イス=カはともあれ説明を始めた。部室備え付けのPCの電源を入れると、イス=カは慣れた手つきでブラインドタッチしながら、何かのサイトにアクセスする。

 

「時間にして昨晩から一週間後、ここの学校に惑星保護機構の調査員が来るんですョ」

「よくわかりますね、そんなこと」

「我々もそういった情報は大枠でしか確認はできないものの、媒体が映像なのでそこはわかるんですョ。具体的に言うと統一コスチュームがあるんですョ」

「戦隊ものとか、エックスメンみたいなものですかね」

「とりあえず動画が我々の共有サイトに上がっているので、見てみるんですョ『U=tathlb(ユー=タス゜ブ) チャンネル』」

 

 彼女が提示したサイトはウェブサイトであるという一点以外、明らかに地球産のものではなく、一目見た時点で龍子の顔から血の気が引いた。というかサイト名がまず人間に発音不能な音を含んだものだったし、画面に表示されている文字自体も彼女たちとは大いに文化圏のことなる象形文字めいたそれだった。また背景は原色パステルカラーな紫、マウスは黒く色々とドギツい。まだしも画面の大部分が、イス=カの選んだ動画で占領されているのが救いか。猛烈な立ち眩みを覚える龍子の手を、クー子がそっと握る。

 

「――――っ、熱! って、クー子ですか。どうしました?」

「ニャル子、大丈夫?」

「一応大丈夫ですよ。……年下っぽい子に精神分析されるのもどうかと思うんですけどね、私も」

 

 一応その手の技能はキャラシートにあったはずですが、と大分メタフィクショナルなことを言う。当然クー子もイス=カも疑問符をうかべるが、なんでもありませんと流し動画に集中した。

 数人の学生服同士の話し合い。中央にはボロボロの黒いフード姿の何者かがおり、全員で何事か話し合っている。その黒い外套の男のシルエット――――ひどく頭部が「長い」シルエットからなるべく目をそらす龍子はさておき。全体の話し合いらしきものが進むも、「足りない? 何が足りないんだっ」という叫びが聞こえる。少年のその言葉に何も言わず、外套の男は背を向け、窓の外で指揮棒を振るように腕を動かす。と、亜空の彼方から無数の光の雨が、滝のように降り注ぎ、画面そのものが光に包まれてホワイトアウト。

 龍子は動画の保存されているwebページについて確認することを完全に放棄したうえで、動画について確認した。

 

「足りないといっていましたけど、これは……」

「こちらでも読唇での解読班を用いて、何かをしなかったからこうなった、というあたりまでは特定したのですョ」

「何かとは?」

「その、相手方がそれを話しているようなので、ちょっと確認がとれないのですョ」

「ほぼノーヒントな訳ですね……」

 

 その後、龍子のイス=カへのインタビューにより、以下の情報に集約。彼女はホワイトボードにマジックで書いた。

 

・約一週間後、水曜日に惑星保護機構の調査員が地球を訪れる

・現地職員と複数の人間たちとで会議

・「星の戦団」と呼ばれる軍団をすでに伴っており、このときの会議は何か重大なものであることが推察

・何か重要な行動をしなかったことにより、その不手際で地球が危険惑星となった。ここは要調査

・その結果、「星の戦団」による光線の集中砲火で地表は蒸発、焦土で効かないレベルの有様になる

・その更に数日後、惑星の状況変化により邪神たちが目覚め地球を離れ、その余波で惑星はチリとなる

 

「なんですかこの詰み状況は……」

「それ故に我々も頭が痛いのですョ……。ほかの時系列の我々とバッティングしない転送タイミングが一週間前だったもので、そこを起点に今の私は動き始めているという訳なのですョ」

 

 互いに頭を抱えるイス=カと龍子。現状、打開策が見えてこない状況であったが、クー子がその画面を見て、ぼそりと「しゅーたくんだ。マヌケメガネ」と呟く。もっともそれは二人の耳には届いておらず、状況は変化しない。

 

「そろそろ朝読書の時間が始まりそうですのでアレですが、放課後もう一度集まりますョ? 少なくとも情報収集が足りていないのは確定ですョ」

「いえ、あの、そもそも何の情報を集めるべきなのか、集める周辺の前提条件がすべてふわふわしているかと思うんですが……」

「ョョ……」

「クー子、何かアイデアはありませんか?」

 

 龍子の言葉に、クー子は断言する。

 

「シュータくんに聞けばいい。ここに居るし」

「へっ」

 

 画面を指さすクー子。そこには、暗がりで顔立ちなどはよくわからないものの、眼鏡をかけた、明るい髪色の制服姿の男子生徒の姿が見える。

 

「現地の調査員、たぶんこのシュータくん。ダメガネ、マヌケメガネ、メガネ本体」

「いえ、あの、どなたですョ? お知り合いですョ?」

 

 イス=カの言葉に、龍子は思い出すように上を向いて、人差し指を口元に当てながらゆっくりと口を開く。

 

「秀太……、長谷部さんのことですかね? 長谷部秀太。二年生、陸上部の幽霊部員で、中学時代はスプリンターとして将来を有望視されていましたが、暴力事件を起こし停学、休部。学校には来ていますし、その能力を買われて部の所属になっていますが、公の大会にはその事件以降出ていないみたいですね。二年生になってから、逃げるようにこちらの学校に転入してますし、高校一年生の時もひょっとしたら何かあったのかもしれません。現在はどちらかというと、ゲーム同好会の方に入り浸っていますね」

「ョ、えっと、ニャル子サンもお知り合いですか?」

「いえ、さすがに」

「なのにその詳細プロフィールは一体……」

「まぁ女子同士の会話ですので、それは、企業秘密です。それはひとまず置いておいて……。どういうことです? クー子」

「シュータくんは、ヒゲの人よりも前にしばらく行動を一緒にしてた。抜けてるところもあるけど、使えると思う」

「ヒゲの人ですョ?」

「クー子の召喚者ですかね……。んん、とするとまずそっちの接触をして、何か情報を持っているかどうかを聞くのが優先ですか」

「大丈夫。説得は私がやる」

 

 龍子とイス=カは顔を見合わせる。見た目、小学生くらいの女の子にしか見えない彼女がこう断言するあたりに違和感を感じている二人である。いや、なまじ彼女が邪神の化身、魔人としか形容のできない異常な能力を持っていることはすでに確定的に明らかではあるのだが、それはそうとして見た目がこれであるというのは違和感に拍車をかけていた。もっともクー子もそれを察したのか、ふくれて腰に手を当てて抗議する。

 

「はぅぅ……。一応言っておく。私、シュータくんと同い年」

「ええっ!? というと、えっと、17? 私たちより年上じゃないですかっ」

「いえ、私よりは年下ですョ。この珠緒サンとは同い年みたいですが……、って、十七歳?」

 

 再度、龍子とイス=カはクー子を見る。まじまじと見る。

 それが不満であったためか、クー子は半眼で、右手の平の上に小さな火球を生成した――――。

 

「って、やめてください死んでしまいますよ! なんでこんな冗談みたいな流れで命の危険にさらされるんですか、私いないと真尋さんの代わりに食事をあげられる人がいませんってっ」

「大丈夫。これは威力が弱い。死にはしない。つまり子供用、小児用……、私、幼児じゃないけど」

「わかりました、わかりましたからっ」

 

 龍子がなだめ、イス=カは焦点直前状態で何かに祈り始める始末。クー子はしばらくそんな二人を見つめた後、手元の火を消した。それでもまだ不満の残っている様子の彼女に何度も説得をかけ、対価の食糧の献上をもっと上げることで決着がついた。

 

「とりあえず今は解散して、お昼休み再結集といきましょうか」

「そうですネ」

「ん、たぶん無意味だと思う。私に任せて」

 

 その一言と共に、まるで火が燃え尽きるようなエフェクトを発しながら、煙を上げてクー子はその姿を消した。こころなし彼女の座っていたパイプ椅子が焦げているようにみえなくもないが、龍子もイス=カもこれは無視した。触らぬ神に祟りなしである。もうちょっと冗談を軽く言い合えるようになるためには、彼女ともっと仲良くなる必要があるらしかった。

 

 

 

 ※   ※   ※

 

 

 

 

「――――ところが残念だったな。さっき<幸運>ロールを失敗してるから、確定で1D100のSANチェックのダイスロールだ」

「ぬあ!? なんだと……、さてどう出るか、あっ察し」

「……おいマジかよ。残念、発狂おめでとうだ。元シナリオに従えば精神病棟送りだが、そういう感じでいいか?」

「あー、まぁここまで来たらどうしようもないよな…………」

「じゃ、そっちのボディビルダーのPCはこれで終了。めでたくクトゥルーエンド直行だな、うん」

「「「「これは酷い」」」」

 

 ゲーム同好会の部室にて、長谷部秀太はクトゥルフ神話TRPGのキーパリングをしていた。そしてプレイヤー3人と至ったエンディングに対し、率直な感想を述べていた。シナリオの決着、最後まで生き残っていたプレイヤー二名のうち、一人は地下鉄の奥からヨグ=ソトスがあふれ出たその余波でがれきの下敷き、もう一人はなんとか逃走こそしたものの判定に失敗しヨグ=ソトスの体内に首から上を突っ込まれ、発狂、生存はしたが精神病棟送りという流れである。

 

「後でリプレイにまとめるけど、とりあえず講評といこうか? シナリオ的にPC1は色々気づいていたみたいだけど出目が悪かったな。完全にダイスの女神様に鼻で笑われてたわな」

「なんで最後、がれきの下敷きになってんだよ……」

「PC2はロールプレイっていうか、キャラの性格にそって行動しすぎだ。ちょっと警戒心が足りないから、唯一生存できても数週間後に取り込まれるオチなんてのになる」

「まぁ色々おいしい感じでいいんじゃねぇ?」

「いやせっかく別なシナリオで生き残ったんだから、ちゃんと生かしておけって」

「でも今回生き延びてもSANが15しかないし、既にオワコンというか」

「禿同」

「PC3は、まぁ一番探索者してたな。…………ボディビルダーだったけど。今更だけど何だよ、この、芸術(肉体美)の技能99って。なんで極振りなんだよっ」

「いや、ネタでとったつもりだったんだけど、意外と有用に運用してたのはサンキューってことで」

 

 わいのわいのと各々、思うことを言い終わって、とりあえずとパソコンに簡単にまとめる。リプレイ――――プレイ時の状況やロールプレイ、マスタリングのまとめは後日にということで、本日は解散した。

 

「しっかし意外と馴染むもんだなぁ。こんなところに転入させて油売らせてアホかと思ったけど。霧彦(ヽヽ)のヤツ、一体何考えてるのか」

 

 己のふわふわとした金髪を適当になでつける秀太。髪がこの色に「変色」してからすでに数年は経っているが、いまだになじんでいる感じはしない。下渕メガネの位置を調整し、彼は靴を履き、自転車を取りに向かった。

 ――――そして、その道中で、見覚えのある少女を見かけた。

 ともすれば小学生にも間違えられそうな身長。ワンピース姿の、赤毛の、愛らしいと形容できる顔。

 それら一連の情報を見た瞬間、秀太は絶叫をこらえて自転車を全力で漕ぎ、裏門から脱出した――――脱出したが。

 

「――――って、先回り!?」

 

 角を曲がった瞬間、その前方に再び彼女はいた。逆光、そして少しうつむいている関係で表情はあまり見えないが、口元が笑っていることは理解できる。完全にホラー映画の演出のごとき状態である。当然のごとくドリフトし、秀太はベクトルを切り替えた。

 彼女に対して直角に逃げるよう全速力で自転車を漕ぐものの――――。

 

 

 

「――――どうして逃げる?」

「――――ひぃ!?」

 

 

 

 悲鳴を上げるのも当然、面食らったのも無理はない。

 自転車の背後、後輪の上部。荷台に当然のように座り、秀太の肩を持ってささやきかけてきたものだ。思わず転倒しそうになりながらもなんとか停車し、彼は肩で息をした。秀太はまるでモンスターにでも出くわしたかのような大慌てぶりで声を荒げた。

 自転車をとめ、慌てて降りる秀太。同時に飛び降りた少女に、彼は冷や汗をかきながら確認する。

 

「な、なんでお前がここにいるんだよ、子論(ころん)っ」

 

 子論と呼ばれた彼女は、ふるふると頭を左右に振った。

 

「違う、今はクー子」

「あん? あー、そうか。子論とお前とじゃ、厳密には『別人』か。中身はたいして変わってなさそうだが」

「はうう~。そんなこと、私に言ってて大丈夫じゃない」

「断言すんなよ、殺しにかかられても困るぞ。俺だってこんなところで『全力で反撃』したくないしな……。っていうか、どうした?」

「協力要請。たぶんキリヒコ様(ヽヽヽヽヽ)の仕込み」

「あ゛ー、他を当たってくれって言いたいが逃げられそうにねーな……」

「そもそもお昼休み、学内にいればこういう手段はとらなくて済んだ」

「そりゃご生憎様だな。窓の外から屋上に行ってただけだよ」

 

 そして数分後彼は龍子、イス=カ、クー子の臨時特別素人探索者チームに編入される運びとなった。

 

 

 

 

 

 




本作のCVイメージ:
 長谷部 秀太(ハス太):草尾毅
 


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ベテランの有無に関係ない難易度/本線

※普段以上の誤字脱字率の多さに修正何度か繰り返していますので、その点ご了承ください;


 

 

 

 

 翌、昼休みに結集したニャル子たちは、サンドウィッチ片手に長谷部秀太の捜索に走った。もっともそれは残念ながら功を奏さず、学内で彼の姿を全く見かけないという事態に陥る。授業開始直前になって観念した龍子は「クー子、お願いします」と飲み物を献上し、放課後の拘束に至った。

 

「で、なんで俺はこんな拘束されてんだ?」

「自分の胸に聞くべき」

 

 そして現在、新聞部の部室に確保された長谷部秀太である。両手足を、おそらく学校の備品だろう布の巻き尺で拘束され、クー子に引き連れられてきたのだった。

 金髪、ふわふわした髪を適当に逆立て、下渕の青白い眼鏡をかけた少年。小さい頃はさぞ愛らしかったろうその容貌はいくらか小生意気な風であり、しかし外見は年相応に青年のそれである。龍子や珠緒、真尋たちより一つ年上ということもあって身長や体格も多少大きい印象だが、しかし陸上部というステータスを感じさせない印象があった。どちらかと言えばインテリ風であろうか。否、何をしても悪ガキ風ではあるのだが。

 クー子は「よよよ」と泣くしぐさをする。

 ちなみに龍子とイス=カは特に何もしていなかったこともあり、若干目が点になっている。その有様がますます秀太の居心地を悪くしていた。

 

「縄抜けの技能とか取ってないぞ!? なんでこんな人権無視されてる状態なんですかねぇ、ええ!!」

「はわわわ、シュータくん、悪い癖。昔からTRPGと現実との区別がついてない」

「何慌てたみたいな感じで言ってるんだよ。っていうか実際TRPGみたいなものだろ人生。ジョーダン抜きに」

「いえ、確かに悪い癖かもしれませんが……、惑星保護機構勤めということを考えると、あながち冗談でも何でもないかもしれませんね」

 

 主に自分がプレイヤーキャラクターとして探索者的な振る舞いを強要され、結果デッドオアアライブオアルナティックであるのならば、人生観も変な形に凝り固まるのも仕方ないかという、龍子の同情めいた一言であった。

 一方、秀太は秀太で惑星保護機構の名前を彼女が出した時点で「何だ?」と胡乱気な視線を向けていた。

 彼は彼で、龍子の顔を見て何かというのを特定していた。

 

「誰かと思えばお前、『素晴らしき星の英知の会』のとこのヤベェのの妹じゃねえか。何やってんだこんなところで」

「素晴らしき星の英知……?」

「姉が所属していた機関の名前の一つですね。主に『暗黒の男』とか『ニャルラトフィス』を信仰している団体です。私は幸運にも無関係ですが……。というか、私をご存知なんですね」

「顔だけはな。後、無関係って言ったって、八坂真尋の周りにいるんだから関係者なんじゃねぇのか? いや、俺たちから見れば嬢ちゃんは、ギリギリっていうか、グレー一歩手前みたいな感じなんだが」

「嬢ちゃんとは聞きなれない呼び方ですねぇ……」

 

 振る舞いは完全に年上の先輩的なそれだった。そして彼の言葉の端々から、やはり龍子や劉実の「本当の」出自は漏れていないと安心する龍子である。なおイス=カは龍子の姉が「ヤベェの」と称された方に興味津々らしい。

 

「ぐ、具体的に何がヤベェのか教えてくださいですョ!」

「あン? そりゃお前、数人のメンバー連れてとはいえクァチ――――」

「あー、その話は私がいないところでお願いします。SAN値を下げさせないでください」

「あ゛? あー、まあいいか。嬢ちゃんは一応、一般人か。で、なんで俺はこうして拘束されなきゃならな――――」

 

 ぴりりりりり、と。ひどく古い固定電話のような音が鳴る。秀太は「俺だ」と自分のポケットを示す。とれないとジェスチャーで示すと、クー子はそそくさと彼のズボンの右ポケットに指を差し入れた。どうやら拘束を解くつもりはないようである。

 

「メールだなこりゃ。……いい加減、拘束解いちゃくれないか? お前」

「ん。シュータくんに事情を知ってから逃げられると面倒。ちゃんと取り決めて契約書を作ってから解放する。作らないにしても確信するまではダメ」

「まず事情とか全然わかんねぇんだが……。いや、下手に言質なんて取らせねえぞ、そこの話をされない限りは。あー、そこの嬢ちゃん二人は、とりあえず俺が何なのかは知ってるってことでいいのか?」

「惑星保護機構の所属、という程度の情報なのですョ」

 

 イス=カの言葉に二度首肯する龍子。事情はやはり適当にしか知らないらしい二人を見てから、秀太はクー子を一瞥する。クー子はクー子で何も反応を返さず、秀太はため息をついた。

 厳密に言うと微妙にズレてはいるんだがな、と半太は反笑いになり自己紹介。

 

「惑星保護機構がこっちでやってる、孤児院の所属なんだよ。勢力的には、一応地球圏内のってことになってる。だから別に惑星保護機構に俺が組してる訳でもないから、こんなに警戒する必要はねぇんだよっ」

「そうなんですか? バックにいるってことは、結局同じでは」

「やってる、て言っても力を貸してるってくらいだ。別に惑星保護機構が肩入れしているところが、一つとは言ってない。それこそアホみたいに沢山あんぞ」

「はぁ……。まぁ、確かにこうして拘束したまま話すのもなんだかかわいそうですし、解いてあげた方が――――」

「――――シュータくんは、ハスターの『神話的改造人間』。話し終わるまで両手を自由にするのはダメ」

「……神話的、」「改造人間ですョ?」

 

 クー子の言葉にいまいち思い当たりはないものの、しかし何かしら攻撃手段を持つ相手であろうという認識は持ったのか、二人そろって秀太から一歩後ずさる。一方の秀太は、視線をさらに胡乱げなものにしてクー子に文句を垂れた。

 

「……おいおい、俺にそこまで反抗されるのを前提にしてるって、どんなヤベェ話なんだ? クー子」

「週刊、地球の危機」

「そいつは大層物騒な話だな。はっ」

 

 話しながらも、クー子は秀太の携帯端末を操作している。「いい加減人の私物を物色すんの止めろ」と言われ、そのまま端末を龍子に手渡した。

 

「って、オイ、何でそっちに渡したんだよっ」

「あー、一応、メールの内容がこっちに関係ありそうだったからですかね。指令、だそうです」

「あ゛? だったらなおさらなんでそっちに渡すんだ?」

 

 いい加減、話が一向に前進しないので、龍子たちは秀太に情報共有した。その上で、秀太はものすごく嫌そうな顔を浮かべた。真尋とはまた違う印象であるが、おそらくはAPPかフレーバーテキストの違いか。ともあれ、事情を聴いて秀太はイス=カに文句をつけた。

 

「情報の精度が悪すぎるだろ超文明人。それだとさすがに、俺に相談したところでどうこうなるかわからねーぞ?」

「ョッ!?」

「えっと、つまりそれはどういう……?」

「考えてみろよ嬢ちゃん。現状だと後、その問題の期日まで五日足らずか? それだけの期間で処理しなきゃならない問題が山積みだろうが。それに大体、導き出せる推論も二つと来てる」

 

 と、クー子は彼の拘束を慣れない手つきで外し始めた。どうやら本腰を入れたのを確認して、拘束する必要がないと判断したらしい。手首に残った跡を見て、秀太は辟易した表情を浮かべる。

 

「一つは、指示に対する俺たち側の不手際だ。これについては、そのメール本文を見ないと何とも言えないが、問題はもう片方だと思ってる」

「もう片方ですョ?」

「――――メールで指示された内容以外に、何か向こうの機嫌を損ねることがあった場合だ。要は、事前に提示されていない条件が存在する場合ってことだ」

 

 正直その場合はかなり厄介だぞ。

 秀太の言葉に、龍子たちは黙らざるを得なかった。正直にいえば、そこまでパターンについて考察を巡らせていなかったという話でもある。ただ秀太は秀太で、TRPGや恐らくその他の事件で培っただろう経験値が生きていた。彼の思考は、意外と冴えていた。

 

「そこの超文明人の話からして、相手の潜伏先はこの学校、生徒の誰かだっていうのは凡そわかるんだが。問題はこの場合、何をやられるかってことだろうな。…………まぁいい。いい加減、メール内容見せてくれるか?」

 

 手渡された携帯端末の画面を操作し、内容にこれまた顔を顰める秀太。相手は「十文字 霧彦」となっている。

 

「あー、一応俺も共有しておくぞ。確かに五日後、来週の中くらいに惑星保護機構の本隊の連中と会合する予定にになってるらしい。で、それまでにそろえる必要があるものが三つ。

 一つは魔導書の類なんだが、それはこっちのほうで持つから俺は気にしないでいいらしい。

 二つ目は、名簿」

「名簿ですか? 一体何の……」

「あー、何人か名前を書いていあるな。そいつらのプロフィール情報を集めろって言われてる。これはまぁ、職員室とかに何かまとまってるのあるだろうから、今日か明日か侵入してコピーだな」

「さらっと侵入とか言っているのですョ!?」

「場慣れしてますね……」

「TRPGならこんなもんだろ」

 

 確かにこれは悪い癖だな、と龍子は少しだけ苦笑い。本人はいたって真面目なのだろうが、聞いてる側は一瞬真面目不真面目を混乱するし、相手の正気度を疑ってしまう。否、ひょっとしたらそういう狂気状態に陥っている可能性も否定はできないが、さすがにそれを検証する気は龍子にはなかった。

 

「三つ目は…………、これは」

「どうしましたか?」

「ポリプの召喚術式、魔法陣がここ学校のどこかに設置されているらしい。……いや、設置これからされるのか? それを回収っていうか、破壊しろと」

「ポリプ……?」

「ヨヨヨヨヨヨヨっ!!!!!」

 

 いまいち口にされた神話生物の正体がわかっていない龍子と、それに対して絶叫を上げるイス=カ。奇声でしかない悲鳴に一瞬びくっとする龍子である。クー子は何も言わず、秀太はため息をつきながら説明する。

 

「まぁ、そっちの超文明人にとっての『天敵』みたいなやつだ。具体例は挙げないでおいてやるが、人間からすれば絶滅させられなかった天然痘クラスでヤバイってイメージすればいい」

「ええ……」

 

 流石にその情報相手には、龍子でさえ引いた。

 

「と、ともかく、まず四人だから、チームを二つに分けた方が効率的だと思うのですョ。それぞれ②と③を探すチームに」

「分けると一口におっしゃられても、中々難しいところがありそうな……」

「いや、その区分けだったら分ける必要ないだろ。プロフィールくらいだったら俺の方で一日もあれば集められる。問題はポリプの術式だな。個人のロッカーの中とかに仕込まれても特定は無理筋だぞ。そんなもん、都合よく探すレーダーなんてないんだ」

「そうなんですか。うーん、とすると…………、イス=カさんは、何かそういうレーダーとかあるんですか?」

「一応、同郷人を探す装置はあるのですョ。でも現在電池切れで……。充電が回復する見込みが当分ないのですョ」

「何というか、色々積んでますね。まあ、学内の女子ネットワークを使えば、ある程度の証言とか情報は来週頭くらいまでで集められるとは思いますけど、何をもって特定するかって部分になりますからねぇ……」

 

 頭を悩ませる三人に、クー子は人差し指を立てて、断言した。

 

「――――論理を組んで、推理するしかない」

 

「……無茶ぶりなのですョ」

「いや、実際他にはねぇけどな」

「あはは……。ではとりあえずですが、情報収集は月曜日までにはある程度集めておきます。でもこれにも問題が一つ」

「問題ですョ?」

「ええ。証言内容の精査が追い付かないかもしれないことと、相手側が今週末までに対応しているか怪しいことです。あくまでも私の手が回る範囲は、学内、女子生徒の範囲だと思ってください。例えば男子生徒がどうこうしている、というエリアまでは、やろうと思えばやろうと思えばできなくないですが、精度は落ちると見ていただければ。…………珠緒さんが居れば、そのあたりはちゃんとなんとか出来たかもしれませんが」

「ョョ! もしかして、この体に入ったのは失敗だったですョ……?」

 

 歩くスピーカー女とか喧伝されることもある彼女であるが、実際新聞部として真面目に動いていることもあり、そのあたりの人望は龍子よりも確かなのである。そこを体は同じとはいえ、イス=カがどうこうできる道理はないだろうという判断だった。

 クー子は「考える人」のようなポーズをとりながら、机の上に座っている。こっちはこっちで色々と思考を巡らせているらしいが、外見が外見のこともありどの程度役に立つかは未知数といえた。ただし、秀太はある程度彼女のそれには信用を置いているため、両手をたたいて一度話をまとめにかかる。

 

「まぁ、PCの人格が違ったら取得している技能も違うだろうし、実質キャラシートは数値共用のある別人って感じだろ。ただ現時点で……、ちょっと考えた範囲のことなんだが。敵は、こっちの動きを妨害してくる、というのが予想だよな」

「ん」「はい」「ですョ」

「チーム分けっていうのは、さっきと別区分けだったら俺も賛成だ。つまり――――防御と攻撃。メールのミッション遂行のチームと、情報収集をして敵を特定、対応するチーム。そう考えて、俺と子ろ、じゃなかった、クー子は別々に置いた方がいいだろう。で、これもまた状況から言って、求められる能力の系統が違う。防御についてはクトゥルフ神話的な知識の比重が強く、攻撃は和マンチ的な対応力がいる」

「和マンチですョ?」

「これもTRPG的な話ですね……。ルールブックの穴をつくような人って話です。セッション自体が崩壊する可能性もあるので一概には良し悪しは言えませんが」

「今回の場合、セッションでトラブル起こすのは相手な訳だし、それを崩すリアルスキルは必要だろ」

「ョョ、お二人が何を言ってるかさっぱり……。あと龍子サン、意外と知っているのですョね……」

「私もたしなむ程度にはやりますから。おそらく、長谷部さんほどではありませんが」

「俺だってせいぜい歴は十年も超えないぞ。まだまだアマチュアレベルだ。ベテランになってくると二十年三十年なんて平然と超えてくるからな」

「業界の闇が深いのですョ…………っ」

「まぁそこでとりあえず聞きたいんだが――――」

 

 龍子とイス=カに向けて、秀太はひどく真面目な顔をした。

 

「お前らのうち、クトゥルフ神話技能の高い方はどっちだ? 技能点で表してくれ」

「「わかるわけないです」」

 

 

 

 

 




要求技能:リアル推理力
次回、出題編? 終了予定


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出題/本線・ホワイトグラウンド/R分岐

チーム分け結果:秀太・イス=カペアと龍子・クー子ペア
探索内容については冗長になりすぎたので、ばっさりしてます;


 

 

 

 

 

 

「……で、月曜日になったんだが、どうするんだ? 嬢ちゃん。期日まであと二日もないぞ」

「あはは…………、とりあえず今日のインタビュー含めて、怪しい生徒は四人に絞り込めたんですけどね」

 

 おおよそ龍子の宣言通りの期間が過ぎ、つまり翌週の月曜日、放課後の新聞部である。

 例の魔導書についてはつつがなく火曜日の夜には秀太のもとにとどく算段であり、特定生徒のプロフィールについても奪取。あとは龍子とクー子の蒐集した聞き込みやら情報をもとに、神話生物召喚の準備を仕掛けている相手をどうこうするという話なのだが……。

 龍子よりも先に、まず秀太が口火を切った。

 

「とりあえず俺の方でも別途、何か怪しいものがないか調べられる範囲だが、学内で数か所調べて、それらしいのは見つけたから壊したんだが……、正直、その手の知識はないから過度な期待はしてくれんなよ」

「三か所ですか、ふむふむ……」

「ちなみに場所は、どれも準備室だ。……いや、というか、俺が陣の作成途中で発見して、結果的に壊されたっていう感じだな。完成度が最初に見つけたやつが五十パーセント、二回目が二十パーセント、三回目が十パーセントくらいだったし。というか、結構陣が大きすぎて、ロッカーには入らなさそうだったわ」

「作っていた相手は見つからなかったんですョ……」

「影も形もなかったな。まぁ、俺たちにその手の感知能力がなかったというのが実情だろうが」

 

 魔術とかで姿を消されていたらたまったもんじゃない、と秀太。どうやら彼には、劉実やら何やらが時折使っていた「結界」に相当する能力の持ち合わせがないらしい。メガネの位置を調整し、頭をがりがりとかきながら彼は思い出す。

 

「状況と、指紋や毛髪とかが検出されなかったことから言って、おそらく魔法陣を作ってるのも、外部から魔法をかけてのことだと思うな」

「指紋とかどうやって調べるんですか……」

「そりゃ、順当に道具を使ってだな。その手の技能は一応『とってる』」

「だからそんなTRPGじゃないんですから……」

「いや、現実世界で取得するってのも、とるって表現するだろ? 別におかしくはないだろ。まぁ、点数化すれば80に、道具の補正が加わるくらいか」

「点数化してる時点で現実の技能ではないじゃないですか……」

「道具補正ですョ? 確かに何かレーザーポインターみたいなのをつかっていたですョ」

「結構本格的に準備して調査したからな。ガスも使ったし、穴はほぼなくなるだろ。点数でいえば10点加点ってところだ」

「シュータくん、学ばない」

 

 例えはともかく、どちらにせよ基準がTRPGな秀太。やはり何かしら狂気にとらわれているのか、それとも冗句の類なのかは定かではない。

 

「で、さすがにそこからたどるのは難しいのと、一度設置されたところには現時点で再設置はされていないって点から、とりあえず小休止は出来てるんじゃないかと思ってるんだが……、一応、今の放課後遅くも捜索はするが、正直こっちだと特定できないんだが、どうなってるんだ?」

「あ、では私たちの方に移りますか。まず前提条件からおさらいしますね」

 

 龍子の言葉に、イス=カが続く。

 

「前提として、学校に来ていない生徒は省いても良いのですョ」

「学校内に仕掛けるという前提でいえば、そうですね。この時期、季節外れのインフルエンザが何人かいますが、その人たちは除いても良いでしょう。私たちのクラスでいえば、余市さんとか。あと当然、真尋さんも。

 さっきも言いましたが、その前提で聞き込みをして、怪しい生徒は四人に絞り込めました」

「……あー、根拠は?」

「企業秘密……、と言いたいところですが、お昼休みとかの所在不明時間と、登校時間、下校時間などをグラフにして集計して割り出しました。クー子にも張り込んでもらいましたので、まず情報漏れはないかなと……、私のお財布はだいぶ寂しいことになりましたが」

「網目模様、美味しかった」

「そっちもそっちで高校生レベルじゃねぇな、集計とかで割り出すのって……」

 

 技能構成で言ったら私立探偵とかか? とその方面に明るくない人間には意味不明の発言の秀太。当たらずも遠からず、とは龍子の弁。当然のようにイス=カは意味不明といったようにぽかーんとした有様で、クー子はメロンの味を思い出してか、恍惚とした表情で「はうぅぅ……」とくるくる回っていた。

 

「それで、本日昼休みの時点でその四人の生徒にそれぞれインタビューしてきました。で、これがまた妙なことになっていまして……。四人とも、外見上のつながりはなかったんですが、SNS上でのつながりがありまして」

「SNS?」

「学校裏サイトから入れる小グループですね。まぁそこで、その、いわゆる降霊術系のを試してみないか、みたいな話があったみたいで」

「それで学校で準備するって話なのか? また面倒な……。って、それだと俺の調査結果と食い違うな」

「いえ、食い違いませんよ。本番は――――水曜日だそうですから」

「…………予行練習ってところか? いや、それでも魔術的にやってたんなら食い違うが」

「おそらくですけど、『描く』予行練習ではあったのでしょうと思います。という訳で、問題は―――『誰が』それを描くかに集約されるのではないかと」

 

 降霊術、といっても本格的なそれではあるまい。いわゆる五円玉と門、YesとNoと五十音をもとに行う、一種のトランス状態を引き起こすような、簡易なものだろう。ただやり方が通常のそれと異なる上に、やや大掛かりな類のものであるらしい。

 であるならば、それを執り行うメンバーのうち、魔法陣を制御する誰かが一番怪しいと睨むのは、龍子の推測として正しいと言えるかもしれない。

 

「そこで、まぁ、私もグループに入って、ちょっとインタビューしてみたんですよね。で、問題がそれなんですが…………」

「ョ?」

「真面目に推理力を要求される内容だった」

「論理パズルみたいなものですかね……、早い話が。えっと、より抽象化するために個人名は全部はぶいて、A、B、C、Dさんとそれぞれ呼称します――――」

 

 

 

女子生徒A

『担当、ぶっちゃけわかんないっていうか、私、恋愛運というか、占ってほしいから入っただけだし。……本当よ、私、嘘つかないから。つく必要もないし。もういい? 葬式明けで忙しいんだけど』

 

男子生徒B

『今回の降霊に関しては、いわゆるエンゼルさん系統のそれとはちょっと色を異にしてるんだよね。集まっているメンバーはクラスも学年もばらばら。いわゆる集団心理としてのトランス状態を働かせづらいような形にしようという意図で……、って、何? 誰が魔法陣とか準備してるかって? いや、僕の係ではないかな。現象に興味はあるけど、プロセスはたいして興味ないからね。そういうのはC君が担当じゃないかな。彼がやってくれるんじゃいかと思うんだけど』

 

男性生徒C

『いあ! いあ! ――――ん? 魔法陣? 興味ないね、僕はちょっと一身上の宗教の都合に忙しい。そんなもの僕は担当じゃないのだし、だれか用意するだろう。ま、僕以外は皆嘘つきなんだけどね――――いあ! いあ!』

 

女子生徒D

『Cくんがすみません、すみません……! 前に銅鑼からはじまった衛門で終わる映画見たときから、何かはまっちゃったみたいで……。で、えっと、魔法陣でしたっけ? どっちかというとAさんの方が詳しいかなと思います。誘ったのはAさんですし、その手の遊びのご経験も多かったみたいですし』

 

 

 

「――――という塩梅でして」

「Cだろ」

「いえ、さすがにそこまで露骨すぎると怪しいですし、その映画は私と真尋さんも見ました」

「そうでなくてもそれは、すでに別な病気なのですョ……」

「狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり」

 

 龍子さえフォローする、中二病が発病した疑惑のあるCについてはともかく。

 

「確かに、完全に論理クイズになってるな。整理するとこんなところか?」

 

 ホワイトボードに秀太が以下を記載する。

 

A.誰が魔法陣を担当するのかを知らない。私は嘘をついていない。

B.Cが用意するのではないか。

C.自分は担当ではない。自分以外は皆嘘つきである。

D.Aが用意するのではないか。

 

「この状態から論理的整合性をもって回答を導き出せばいいわけだが――――」

 

 

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 

 

 熱海で温泉を楽しんだ(?)後、真尋は劉実に「持ち去られて」、南下していた。

 目指す先は奈良であるらしいが、いまいちその主目的が真尋には判然としない。

 ともあれ道中、やはりそれはそれは名状しがたい光景が続いていたものの、詳細に思い出すことは真尋本人の精神的にダメージが大きいこともあるため、劉実のセリフのみをカットしてダイジェストとする。

 

 

 

 

「るみるみぱんち! ひゃっはー、汚物は消毒です! 海産物由来なんですから、良い出汁を出してください、魚人だけに! 魚人だけにっ――――」

 

「うぺぇ、真尋さんこれ、早く逃げないと塵になっちゃいますよっ、この! バイク頑張ってください、頑張ってくださいマシンシャンタッカー!――――」

 

「――――♪ ――――♪ (ほら、真尋さんも。歌ってごまかさないと、あれ起きちゃいますから、起きたら私たちもれなく食べられちゃいますから! 食料的な意味でっ)――――」

 

「ぎゃーっ、炎はダメですっ! お願いします信長公っ――――」『是非もなしじゃ――――まぁ儂も得意という訳でもないんじゃがなっ』

 

 

 

 いや、セリフダイジェストだけでも真尋は疲労感を覚えた。既に人間の形をしておらず、体力を消費すらしていないというに、精神にはダメージが蓄積するらしい。しかし不思議と正気度が消し飛び発狂しない現在の有様に、ふと違和感を感じる真尋である。

 移動中、異様に前衛芸術めいた文字で描かれた「神戸」の二文字を背景に走る劉実へ、真尋は問いただした。ちなみに現在の真尋は、劉実の胸とライダースーツとに挟まれる形である。動揺するような神経を既に物理的に持ち合わせてはいない真尋であったが、劉実はいたずらっぽく笑いながらそうしたのは言うまでもない。

 

「な、あ、」

「どうされました?」

「なんで、俺は、狂ってないんだ?」

「真尋さんが別世界の人格だからでは――――」

「いや、そうじゃ、なくて。今まで、見た、景色は、明らかに、危険なものだ、ろ」

「嗚呼、それですか。んー、真尋さん感づいているかと思いましたけど、さすがに理解はされていませんでしたね――――CoC(クトゥルフの呼び声)のTRPGにおいて、正気度チェックが発生しない存在は何になりますか?」

 

 問いかける劉実の一言で、真尋はそこから先を語るまでもなく正解に行き着いた。そうだ、そもそもよくよく考えれば今の真尋の状態で、生存できていること自体がおかしい。否、本来は「生存してすらいない」にも関わらず、意識を継続できているのが、ということだ。真尋が現在まで遭遇している暗黒神話に関係する存在は、一部例外こそあれど意外と物理的な事象に強く紐づいている。だからこそ、彼の知る彼女はもう「生き返らない」のであるし、その妹を「死なせるわけにもいかない」のだ。とするならば今の自分の状態とは。

 

「…………正気度の、判定を、省かれる、NPCは――――神話生物、ないし、邪神」

「ええ。今の真尋さんは、這い寄る混沌に『取り込まれた』存在です。アル・アジフ型の化身、というのが妥当な表現かもしれませんね」

「全く、笑えない、が、………………」

 

 やはりその事実を聞いても、正気が消し飛ぶことはない。いや、既に自分の身は狂気の渦の中に委ねられているのかもしれない。そして、その話を聞いた時点で、真尋は一つ重大な事実に気づいた。正確にはその可能性について。それを問おうとするよりも先に、劉実は先行して話続けた。

 

「真尋さんの世界はどうか知りませんけど……、この世界では、暗黒の男とノーデンスは相対し、クトゥルフが復活。その衝撃で各地に眠っていた邪神とか、関連団体が活発に動き出し、一か月足らずでこの世界です。生き残った一部人類は、コロニー施設に引きこもっていたり、あるいはポストアポカリプス的にさまよっていたりですね。大陸ごとにまた違った様相を呈していますが、日本は全国的にこんな感じです。もともとの風土的に様々な信仰やら何やらを受け入れてきた文化のせいか、あるいはお陰か、ずいぶんと収拾のつかないカオスな状態です」

「誇って、いうことじゃ、ないな、それ、……、ノーデンスと、暗黒の男か?」

「はい。真尋さんがインスマスクラブ……、えっと、まぁ半魚人の相互扶助組織ですが、それの手にかかって誘拐され、私はその場で一度屍をさらし。ノーデンスに救出された後、その場で『なくなり』ました。その後に暗黒の男の手で現在の形にされ、取り込まれていますね」

 

 少なからず、真尋は自分の世界とこの世界との状態の分岐点を確認した。決まっている、春先の事件のことだ。わずか三日の彼女との触れ合いの、その時点から既に様相が異なっていたらしい。少なくとも真尋の知る歴史では、自分はノーデンスの手にかかって死ぬ前に助けられ、そして出現したのは暗黒の男ではなく『彼女自身』だったはずだ。

 

「…………、な、ぁ――――」

「あ、つきましたね。ちょっとお待ちください」

 

 話しかけようとした真尋を制止して、劉実はバイクを下りた。胸元から真尋を「抜き取り」、荷台の荷物に立てかける。

 真尋の前方に見えるのは、いくつもの木々が生い茂った森のような何かだ。何かというのは、その木々自体が緑色で、まるでブロッコリーか何かを連想させるものであるためだ。しかしそれにしては嫌に枯れており、見た目でその真実に判断をつけるのは難しい。そしてそんな木々の中で、黒いシルエットが蠢く。あれは、鹿だろうか――――真尋には判然と見えない。ただ怪しく目の光る、鹿のような何か得体のしれないものが、この赤い夜の下でうごめき続けていた。

 そんな木々のうちの一つをまさぐり、劉実は何かをもぎ取る。赤い、大きなニンニクのような果実はイチジクか何かか。

 

「――――――――ふむふむ、なるほど、大体わかりました」

 

 それを食べながら、バイクの手前に戻ってくる劉実。噛り付く果肉からしたたる果汁が、ひと、ひとと首筋をたれて、開いたライダースーツの胸元に――――。それに興奮することも出来ず、何がわかったんだと聞く真尋に、「あっちの状況ですね」と楽しそうに彼女は答えた。

 

「大体、その果実、は何だ」

「果実は果実ですよ。情報のやりとりをするための。そしてあの森は――――アトゥの枝です。本体はもっと遠くにあるんですが、こっちにちょっとだけ出てるんですね」

「本当、こっち、の、正気、度を、削り取る、ことに、容赦、ないよな、アンタ、」

 

 アトゥというのもまた這い寄る混沌の化身の一つであるが、この場ではとりあえず巨大な木のような何かという程度の情報で理解が足りるだろう。その枝だと劉実は言ったので、とするならば地下か、あるいは物質的な空間がゆがんでいるかして、その枝の先端だけがここに出て、真尋の眼前に広がっているということか。だとするならば、このアトゥの形とはどれほど巨大な物体として存在しているものなのか――――既にスケールが真尋の理解を超えている。超えているが、やはり真尋は発狂しなかった。

 そして何をしていたのかについて、劉実は一応説明してくれた。

 

「このアトゥは、『本体』にとってかなり重要な位置を占める化身となっています。そしてこの化身は、本線と分岐であろうと繋がっていますので、そこからちょっと情報を参照させていただきました」

「つまり、俺の、いた、世界の、状況?」

「はい。ええっと――――」

 

 簡潔とは言えない時間をかけて説明する劉実。真尋は表情を変えることができなかったが、たいそういぶかし気な目で劉実を見ていた。

 

「ガバガバだな、前提、とか、状況は、」

「いえ、意外と良い線いってると思いますよ? まぁ、探索できる程度に『本体』が手を加えている可能性も否めないですが。――――真尋さんは、真相はわかりました?」

「真相、というか、何をやろう、としていて、どう、すれば、防げ、るか、か、」

「ええ。『推理するための情報は一通り提示されています』。『話のヒントは今までの流れの中にあり』『原典を見ると推理が根底から破綻します』。まぁやっぱり、鍵になってくるのは真尋さんなんですけどね」

「俺?」

「論理的にありえない可能性を全て取り除いた後に残ったものは、どれ程論理的にありえなさそうに見えても、それが真実です――――そしてそれには、単純にして矛盾のない解答が用意されています。若干反則気味なところもありますが、それを導けずして、ハッピーエンドは迎えられませんよ?」

 

 そしてくすりと微笑み、劉実は手元の真尋にウインクした。

 

 

 

 

 




出題編終了
以下の三点について、せっかくですから次の話前に推理してみてください。②については若干の飛躍が必要ですが、割とシンプルな真相になっています;
 ①犯人、イースに精神交換されているのは誰か
 ②何故、本来の時間軸だと秀太の対応だけで不十分となってしまったのか
 ③真尋がカギとなってくるのは何故か


 


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論理的な正解へのいちゃもん/本線・R分岐

今回から解決編です
とはいえ一話で解決はしませんが;


 

 

 

 

 

「この状態から論理的整合性をもって回答を導き出せばいいわけだが、まぁ論理クイズの方は簡単と言えば簡単だ」

「うん」

 

 秀太の言葉に首肯するクー子。ほう、とつぶやく龍子と対照的に、イス=カは「ヨヨ!?」と驚いた様子である。

 

「な、何故わかったのですョ?」

「そんなもの、それぞれの言動が偽だった場合を確認しておけば問題ないだろ」

「んー、シュータくん、私説明する? さっきのシュータくんのまとめ方だと、たぶん伝わらない」

「頼むわ」

「ん。

 じゃあ、まず最初に結論。魔法陣を持ってくるのは女子生徒A」

「ヨ? あれ、私、てっきりBかと思っていたのですョ」

「そっちの嬢ちゃんはどうだ?」

「情報収集者は聞き込み相手全員を平等に疑うものですよ?」

「まぁ、それは確かにそうですョね……」

「なるほど。ん、続ける」

 

 クー子はホワイトボードに手を伸ばして、何か書き込もうとする。も、身長が足らず、女子生徒Aの欄まで届かない。しばらく単独でぴょんぴょんと跳ねて頑張ったが、あきらめたように手を下げ、秀太を見た。

 

「何だ?」

「はうぅぅ……」

「おい、俺に抱っこしろとか言わないよな。冗談キツいぞ?」

「違う。椅子かして」

「まぁ、それくらいならな」

 

 秀太から奪い取ると、彼女はイスの上に立ち上がり、きゅっきゅとホワイトボードに書き込んだ。ちなみにそのさまをイス=カは微笑ましそうに、龍子は苦笑いで見ていた。

 

 

 

A.誰が魔法陣を担当するのかを知らない。私は嘘をついていない。

  →真の場合:Aは嘘をついていない、誰が魔法陣を担当するかを知らない

  →偽の場合:Aは嘘をついている、誰が魔法陣を担当するのかを知っている

 

 

 

「この時点では影響は低い。低いけど、誰が相手かを特定する情報ではありえない。次」

 

 

 

A.誰が魔法陣を担当するのかを知らない。私は嘘をついていない。

  →真の場合:Aは嘘をついていない、誰が魔法陣を担当するかを知らない

  →偽の場合:Aは嘘をついている、誰が魔法陣を担当するのかを知っている 

 

B.Cが用意するのではないか。

  →真の場合:魔法陣はCが用意する可能性が高い

  →偽の場合:魔法陣はC以外が用意する可能性が高い

 

C.自分は担当ではない。自分以外は皆嘘つきである。

  →真の場合:Cは担当ではない、C以外は嘘つき

  →偽の場合:Cが担当、C以外は皆嘘つきではない

 

D.Aが用意するのではないか。

  →真の場合:用意するのはAである可能性が高い

  →偽の場合:用意するのはA以外である可能性が高い

 

 

「これらで場合分けをして、それぞれの状況を考える。

 Dが偽証をしている場合、BとCの証言とコンフリクト、衝突を起こす。

 Cが偽証している場合、Bとコンフリクトする。狂人の戯言と切って捨てるべきかはいったんおいておいて」

「一体何があたんですョ、Cさんハ……」

「Bが偽証をしている場合、C同様にコンフリクトを起こす。

 そして、Aが偽証していた場合、実はどこにもコンフリクトが起こらない」

「でも、そうするとCサンも用意するって話ですョ?」

「微妙に違う。BもDも、どちらも可能性が高い、というレベルの話しかしていない。だからここで重要になってくるのは、反証を挙げられているかというのが一つ。そしてもう一つは――――文言」

「文言ですョ?」

 

 イス=カは疑問だったようだが、龍子はそれを聞いて「ああ」と納得していた。クー子は龍子に確認し、メモ帳を借りる。

 

「さっきニャル子が言っていた、言葉を正確に使う。

 Aは『誰が担当するかわからない。自分は嘘をついていない』。

 Bは『Cが担当するのではないか』。

 Cは『自分は担当ではない、自分以外の誰かが用意するのではないか。自分以外は嘘つきだ』。

 Dは『Aが用意するのではないか』」

「ョ……? あれ、使ってる言葉がちょっと違うのですョ。つまり、担当って、調べたりするってことですョ?」

「あー、そうかもですね。そうすると、担当と用意は別な言葉として分けられるわけですか」

 

 クー子は、そのまま秀太の書いた文言を部分的に書き直す。

 

 

 

A.誰が魔法陣を担当するのかを知らない。私は嘘をついていない。

  →真の場合:Aは嘘をついていない、誰が魔法陣を担当するかを知らない

  →偽の場合:Aは嘘をついている、誰が魔法陣を担当するのかを知っている 

 

B.Cが担当ではないか。

  →真の場合:魔法陣はCが担当である可能性が高い

  →偽の場合:魔法陣はC以外が担当である可能性が高い

 

C.自分は忙しい。担当ではない、自分以外が用意する。自分以外は皆嘘つきである。

  →真の場合:Cは用意する気がない、C以外が担当、用意する、C以外は嘘つき

  →偽の場合:Cが用意するつもり、Cが担当、用意する、C以外は皆嘘つきではない

 

D.Aが用意するのではないか。

  →真の場合:用意するのはAである可能性が高い

  →偽の場合:用意するのはA以外である可能性が高い 

 

 

「こうすると、状況が一変する」

「……いえ、CとBとで、自分以外嘘をついているところが思いっきりコンフリクトしているのでは……?」

「少し違う。この場合、Cの発言は真でも偽でも『全員と衝突する』。だからCの発言は、一つの発言に真偽が入り乱れていると考えられる」

 

 ええ、とイス=カ。さすがにそこまで前提を覆されては、予測はお手上げと言いたいのだろう。

 

「そしたら結局、Cの証言が使えないから、特定できないじゃないですか」

「それも少し違う。Cの発言は、大きく2つに分けられる。

 つまり『Cが魔法陣にかかわるすべてを受け持っているか』、『C以外全員が嘘をついているか』。このそれぞれを用いて、状況を考えてみる。まず『C以外が嘘をついている』という証言はコンフリクトを起こす。だけど前者の方は、コンフリクトを起こさない」

「えっ」

「つまり――――BはCかといって、Cは自分じゃないといって、DはAといって、Aは知らないと言っている。この構図で一番疑いが濃厚なのは、A」

「結構お粗末なのですョ……。大体、それを言ったらあえて証言を残してるBとDとも怪しい気もするのですョ?」

「ここで、少し特殊なのはCとDとが面識があること。面識があるのなら、お互いがお互いを証言していないということが、逆にお互いが問題の相手ではないという論拠の補強になる。その上で見ると、AとBどちらが偽証とした場合にきれいにかたづくかといえば、やっぱりA」

「まぁもっと言えば、Aが一番、嬢ちゃんの質問に適当に答えてるっていうのもあるか」

 

 最後の方で割り込んだ秀太の言葉に、説得力があるような、ないような。しかし、どちらかといったらこう強引さのあるこの言い回しに、どこか龍子はTRPG的な和マンチのような気配を感じ取っていた。

 

「では、どうするんです? 女子生徒Aさんの方に張り込むんですか?」

「いや、そのあたりは俺と、そのクー子でやる。あと念のためBの方もだ。分担はこっちで決めるから、お前らは特に何もしなくていい」

「ヨ、ずいぶん適当な対応なのですョ……。というか結局Bの方も張り込むのですネ……」

「いくら推理って言ったって、人間の考えることには限界があるからな。だから、最悪のパターンも想像する」

「あの、その話ですとCとDに人を割かない理由は一体……?」

 

 龍子の言葉に、肩をすくめる秀太。

 

「――――――――普通の人間がマジモンのを見たら、それっぽい振る舞いはできない。むしろ、そういうのとの繋がりを徹底的に隠すもんだ」

「経験談ですか……」 

 

 実際、クー子に指摘されるまで秀太をその手の関係者として認識していなかった龍子たちである。存外、その説明は重さがあった。

 

「じゃ、とりあえず先に行くわ。本名と住所とかってわかるか?」

「あー、はい。とりあえず嘘をつかれていなければ、女子ネットワーク内である程度は……、はい」

 

 龍子の手渡したメモの走り書きを手に取り、秀太はクー子の背をたたいて促した。じぃ、と龍子を見るクー子は、やはり何か対価を要求していそうだったが、「ま、まぁ後日」とその場はとりなす龍子だった。

 

  

 

 

 

  ※  ※  ※ 

 

 

 

 

 

「――――とまぁ、あっちの方はそんな風に考えてると思うんですけどね?」

 

 がたがたと彼女の胸元でバイクの振動に揺れる真尋の言葉に、劉実は周囲を警戒しながら軽く回答していた。

 現在位置について真尋は正確には理解できていないものの、ともあれ現在は北上中である。アトゥから何かしらの情報を受け取ったのち、劉実は「だったらせめて座標はダブらせないといけませんか」など訳の分からないことをのたまい、そのまま真尋を伴って現状である。そして道中で真尋は気づいてしまっていた。現在劉実が乗っているバイクも、明らかに普通のバイクではない。ヘッド部分は馬のようなもの、車体全体は鱗に覆われ、全体から吹き上がる排気音はまるで生命の鼓動か何かのよう。名状しがたいことに、彼女の乗っているこれはどうにも「シャンタク鳥」、這い寄る混沌の扱う奉仕種族を改造か何かしたものだろうと。

 そしてそのバイクは、尾部から巨大な蝙蝠のような翼をはやし空中を飛んでいた。物理現象としては決してありえないそれであるが、今更と言えば今更でもある。眼下に映る街は徘徊する食屍鬼(グール)の山。すえた犬と腐食したたんぱく質と鉄の匂いが、高所においても充満している。ただ食屍鬼たちは、バイクのエンジン音(?)が聞こえると、首を下に向けうつむく。どうやら意識して上空を見ようとしていないらしい。ともすればそれにより、真尋の脳裏に食屍鬼が何かしら上空から襲い掛かる怪生物と殺しあっているイメージが浮かんだ。どうやら相当回数、上空から襲撃に合ったことで自分たちから仕掛けたりする発想はなくなっているらしい。

 ふと、真尋は思い浮かんだ疑問を口にする。

 

「人間は、いない、のか、この世界で、」

「いますよ? まぁ人口でいえば半分以下にはなっているでしょうが。真尋さんのお母様とか、細かいところまでは把握できませんが」

「アンタでもか?」

「生憎、惑星の領域がここまで細分化されてしまいますと、『本体』も予測できる範囲とか、観測できる範囲が限定されてくるのではないかと愚考します。

 それはそうと、真尋さん、あのクイズの正解わかりました?」

「わかるわけ、ないだろ、恣意的な、情報操作を咬ませないと、断言はできないだろ。そもそも、証言が、論理クイズとして、成立していない」

 

 それに続いて、劉実が「本線」でおそらく推理されるだろう内容を真尋に披露した流れである。それに対し、真尋はため息をつきたかった。現状の体では呼吸すらしていないので、どうしようもないのだが。

 

「確かに、前提条件から、導けなくもないが、それだって、恣意的だ」

「とおっしゃられますと?」

「実際問題、論理パズルじゃないって、話だろ、これは、現実の話なんだ、から、証言全部、嘘つかれてる、可能性だって、あるだろ、」

「あの、それを言ってしまうと色々おしまいなのでは……」

「そもそも、クトゥルフ神話を相手取ってる、時点で、正気じゃ、ないからな、」

 

 自らの出自すら覆されたことのある真尋のセリフである。さしもの劉実も反応が悪かった。なにせ真尋の言う通りであるし、そもそも劉実自身が真尋に「この世に探索者に優しいキーパー、神秘の森手たるGMはいない」と言っているのだ。

 ただ、真尋は話を聞いている時点で、もっと大きな可能性に行き着いている。そしておそらく、それが妥当であることも、彼の想像力は導き出していた。

 

「大体、歴史が変わるっていうのも、眉唾だぞ、俺は、アンタの言葉だって、全部は、信じられない、」

「いえ、流石にこの世界の有様を見てしまって、それをおっしゃられるのはもはや狂気では……?」

「そもそも、それだけ大きな、歴史の変更があって、結果が、違うなら、それぞれの、独立度は、高い、はずだ。だったら、その歴史を観測した結果は、既に、第三者の介入が、あった結果、なんじゃないか?」

「とおっしゃられますと」

「前提が違うんだろ、たぶん。そもそも、イースの、俺の精神をこっちに送った、相手は、歴史を変える、ためにじゃなく、歴史をそのままにする、ために、送られた可能性だってあるってことだ」

「…………」

「その方が、余計な邪魔も、入りにくい、からな、」

 

 つまるところ、真尋の言わんとしているのは。そもそも騙されて真尋たちのいる時間軸に送られたイス=カというのは、歴史を変えるために送られたのではなく、既に観測された歴史を補強するために送られたのではないかということ。規定事項として「イス=カが介入して失敗した歴史」があり、それを本来の歴史として扱いたいがために、イス=カ本人を騙し該当する時間軸に送ったのではないかということだ。

 

 足りない? 何が足りないんだっ――――

 

 秀太、真尋は名前を伏せられているのでまだ誰かはしらないのだが。見方を変えれば、彼のセリフとてつまるところ何かしら対処をした上でのセリフともとれるのではないか。そして、その可能性が実はかなり高いのではと真尋は踏んでいる。

 

「つまり、真尋さん、それは――――」

「大前提が、大きく違う、んじゃないか、それは、だったら、逆に、何が問題で、地球が滅ぼされるかを考えれば、真実にたどり着ける――――論理ゲーム自体が、茶番で、目くらま、しなら、そして、俺が、鍵だって、言うのなら、導ける結論はそう多くない」

 

 おそらく本来なら面倒くさそうな顔をしているだろう、断言する真尋に対して。劉実はくすりと、それこそ慈しむような笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 




前提から疑うのは探索者の基本


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砂上の王国/本線・R分岐

※注意:犯人発覚回につき前回まで未読の方は一通りご参照してから推奨


 

 

 

 

 

 イス=カと人格が入れ替わっている珠緒と別れ、二谷龍子は帰路についていた。

 といっても、札幌駅周辺をうろついているさ中である。自宅は真尋の家とは異なりむしろ駅前に近いこともあり、特に用事がなければあまり家に帰ることはない。真尋ほど趣味があるわけでもなく、また何かしら没頭するものがあるわけでもなく。それでいて、「本性(ほんせい)」が本性であるために発揮される万能さにより勉学で苦戦することもほぼない彼女にしてみれば、一日というのはほとほと退屈なものである。彼女自身、だからこそ真尋()よく遊びにいっているというのも、自覚はしていた。単なる友達付き合いとも違い、あのなんだか鬱屈して自己評価はそこまで高くなさそうな、でも大事なときにはきっちり果たすべきことを為せるような、状況に振り回されても自分を見失わない男の子のことが、彼と一緒に遊んでいることが、殊の外楽しかったのだ。

 そしてそれは、彼女の姉とは別な目的で存在している自分自身としての、「役割」を果たしていることにもつながっている。つながっているが、そのことに彼女は自覚的ではなかった。彼女自身、その大本からはそれなりに乖離して生み出されている存在でもあり、そしてそれは「乖離している」が故にこそ必要とされる役割でもある。

 なんにしても言えることは、真尋が絡んでいないときの彼女は存外、普通の少女ということだった。

 

「あ……、これですかね、真尋さんが読んでいた雑誌は」

 

 ぱらり、と手に取りめくる龍子。「ムテキ」と書かれた金色のキャラクターやら、左下には青く眼付きの悪い銀と赤黒の巨人。中を見れば緑と黒のラスボスらしきキャラクターの写真が散見される。

 医療がテーマに組み込まれているらしい特撮ヒーロー作品らしいが、そのテーマに真っ向からけんかを売るようなキャラクターデザイン具合に、龍子は読みながらも若干引いていた。合うとか合わないとかではなく、よくわからないものに対する拒否感、さながらキリスト教圏におけるラブクラフト御大が表現していた「冒涜的」という概念に近い拒絶かもしれない。

 

「って、私、別に見ているわけではないので特に興味がわく訳でもありませんが……」

 

 ひとえに何をしているかと言えば、少なからず好意を抱いている男の子の趣味のものをちらりと見てみようということだ。そんな健気? な女の子としての一面であるが、しかし実際問題としてその手のものをあまり彼女は有していなかった。

 

「まぁそこまで真尋さんも、このテの話題が通じる相手を欲しているわけじゃないみたいですから、そのところは別に私が補う必要もないんでしょうけどね。とは言えど、姉との関係を抜きにして私のことを見てくれるっていうのは、時間がかかりそうですけれど……。

 それに私、そこまで『考える』役割ではない化身のはずですけど、本当に大丈夫ですよね……? なんというか、地球滅亡とか言っている割に、割かれてる人員が少ない気もするんですけど――――って、あれ?」

 

 伸びをして本屋を出て、寄り道をやめ自宅に向かう龍子。西四区沿いを抜け赤れんがなテラスの前を歩きながら、今日までの流れを思い返し、そこはかとない不安にかられていた。

 

 

 

 そんなタイミングでふと気が付くと、龍子の視界がどこか赤っぽい状態に変化していた。

 

 

 

 否、空を見上げれば、どこか赤らんだ色をしている。月もそれは同様に赤く、周囲の状況が何かおかしい。街明かりはあるものの人の気配は感じられず、まるで世界で自分一人だけ取り残されてしまったかのよう。

 突然の状況の変化に、龍子は周囲を見回す。

 

「……なんというか、この妙な感じの仕掛け方は覚えがあるような」

 

 そして言っているそばから、ちょうどそのタイミングで電話がかかってくる。名前は「辰隆(父)」。龍子はらしくなく、眉間にしわを寄せながら電話に出た。

 

『やぁ、私だ』

「…………何の用事で――――」

『後ろを』「みたまえ」

 

 そして言われるがままに後ろを振り返ると。そこには自転車のベルを鳴らし、自転車がやってきていた。黒いスーツ、緑のシャツ、黄色のネクタイ、黒いソフト帽とその上から白衣を纏った男が一人。長髪を後ろにまとめた男。二十代から三十代くらいの年齢で、整った顔立ちは龍子や劉実と共通する部分がある。男は手に電話をもっていなかったが、しかし「みたまえ」は間違いなく男の口から発されたもので、そして電話口と同じ人物の声だった。その姿はあまりにも素っ頓狂極まりないものだったが、しかしこの赤い空の下で態度一つ変えない超然さがあり、そして龍子は幾度となくこの男のことを見知り、そして理解していた。 

 彼女の立場からすれば、次のような呼称になる。

 

 

 

「何なんですか、その恰好は――――辰隆(よしたか)お父さん」 

 

 

 

 涼し気な笑みを浮かべ、男は――――二谷辰隆、ひいては這い寄る混沌「本体」は薄く微笑んだ。

 

「何、たまには様子を見に来ようと思ってね。愛しい我が娘の交友関係とか」

「どの口でそれを言いますか。大体筒抜けじゃないですか私の側については」

 

 龍子の言葉に、はははと笑みを絶やさぬ辰隆。「それはそれ、これはこれ」と取り付く島もない。もっとも、対する龍子とて彼には取り付く島もないのだが。

 

「ところで真尋には、まだ君と姉との『実際のところ』については、まだ話していないのかな」

「姉が話すつもりがないことを、私がわざわざ話すつもりもありません。大体何ですか、都合がいい時だけ現れて父親面するの。そういうの、私いっちばん大嫌いですからっ」

「おお、昔はあんなに純真無垢だった龍子も今じゃこんなのだよなぁ……。お母さんも泣いちゃうぞ?」

「そもそも私に母はいませんし、私が生まれたのは『割と最近』ですっ。

 大体、様子を見に来たとか言ってますけど、今の私たちの状況だって全部把握しているんですよね?」

「まあね」

 

 この一言で済ませるあたりが実に這い寄る混沌であり、そして事実這い寄る混沌であるので、事情はすべて把握しているらしかった。

 

「だったら、私のこの不安が何なのかわかってますよね」

「ああ、わかっているよ。だけれど、本当に君はそれを知りたいのかな?」

「何ですか、その微妙な言い回しは……」

「いや何、真尋にとっては今の状況の方が、むしろ幸せじゃないかと思ってね。」

「幸せって――――」

「今、真尋は劉実と会っている。過去ではなく、まぁ、別な時系列といえる場所でのね」

「姉と?」

 

 くすりと微笑みながら、自転車から降りて白衣を脱ぐ。そしてそれをそのまま龍子の肩にかけ、耳元でささやいた。

 

「つまり見ようによっては、真尋は今、幸せの絶頂期という訳だ――――――――人間的にどうかというのは置いておいて」

「なんでさらりと人間性をささげる必要があるんですかっ」

「そこはほら、大体私の采配で私の手の内だからね。まともな方法での生存を期待する方が間違っている。

 ともあれ、龍子。君が今かかえている不安を解消する術はある――――本当は今までの作戦すべてが失敗で、真尋にもう二度と会うことが出来ないかもしれないという、その不安を解消することはね」

 

 だが、それが果たして真尋にとって幸せなことなのかな――――――。

 這い寄る混沌の、「本体」のつきつける選択肢に、龍子は腕を振り払った。エルボーの一発でも腹に当たれば少しは気が晴れるかと思ったが、当然のようにさらりとかわされた。

 

「おやおや。独立性が高い化身はこれだからいけない。大本に簡単に逆らいすぎだよ、君たち。そんなのだから私に『顔を剥がれる』んだ」

「……いえ、はぎませんよ貴方は。私に対しては」

「ほう。その自信はどこから来るのかな?」

「姉です」

「――――――なるほど。まぁ確かに、私は君を再び私の中に溶かし込んで、化身としての大本を消す必要性は感じていない。むしろ、君はそのまま独立性の高いままを貫くべきであるとさえ思っている。

 まぁそうだ、とりあえず、そろそろ『良い頃合い』だろう」

「はい?」

 

「――――真尋のいる病院へと今から行きなさい。真尋から、ある意味で本当の幸福を奪う覚悟が出来るというのならね」

 

 そういいながら自転車にのり、いずこかへと走り去る辰隆。そしてその姿は、周囲の景色が本来の有様を取り戻すよりも前に見えなくなっていた。

 数秒、まるで嵐でも過ぎ去ったような呆然とした様子だった龍子だったが。しばらく父親の言葉を思い返し、やがて一つの違和感に思い至る。

 

「……何故、わざわざ真尋さんの見舞いの話を、今?」

 

 気になることはそれだ。平日、行ったりいかなかったりといった真尋の見舞いとは別にして、確かに今日はいくつもりはなかったのだが。わざわざ出てきてそれを進言するということは、一体何か、理由があるのだろうか。

 否。

 

「いえ、そうではありません。私が今、行くことで、真尋さんと姉とを引き離すことになる……? 真尋さんは、別な時間軸、世界の真尋さんと人格交換されている? そしてそれを引き離せる?」

 

 理由は定かではないものの、しかしどうにも言葉から不穏さが漂う。否、猛烈な焦燥感を伴い、龍子は走り出した。面会時間はぎりぎり夕食が終わった後か、走り窓口で手続きをする時間さえもったいない。しかし彼女はそれを待ち、(途中で白衣姿にいぶかしがられながらも)真尋の入院している五階へと向かう――――。

 そして、この階層に人気を感じないことに気づいた。窓の外の色こそ変わらないものの、まるで全員殺害でもされたかのような、環境音の聞こえない異様な静かさだった。思わず手近な病室の扉を開く。足元を見る龍子。その場では看護師が白目をむいて倒れていた。奥の病室もそう大差はあるまい。

 

「気絶させられてる……? っ、まさか、真尋さんが狙い!?」

 

 駆ける龍子。病室までは十数秒といったところか。そして真尋の部屋の扉から、あわく、緑色の光が漏れ出ていることに気づく。クー子は呼べない。そもそも龍子が契約しているわけではなく、作戦会議の結果として現在は長谷部秀太に預けてある。真尋本人が動けばまだしも、現状では彼女で対応できない。

 できないが――――しかし、同時に辰隆の言葉を思い出す。ああまで思わせぶりな言葉を語った以上は、少なからず自分でどうにか対応できる範囲の事柄であるはずだ。そうでもなければ、わざわざここで「使いつぶす意味がない」。必然、龍子はためらいなく扉を――――鍵がかかっていた。

 

「…………はぁ、仕方ありませんね」

 

 ため息をつくと、懐から安全ピンを取り出し、何やら指先で改造する。穂先の変形したそれなりの強度を誇る鍵開けに変形させ、がちゃがちゃと鍵穴に突っ込む。秀太がいれば「鍵開け技能、点数は80か?」などと世迷言を言いそうな雰囲気であり、実際それだけの高い精度で彼女は病室の扉を開けた。

 がらがら、と引き戸をスライドさせ――――。

 

 

 

 

 

  ※  ※  ※

 

 

 

 

 

「大前提の、問題だ。ポリプが召喚される、ことが、問題だというの、なら。少なからず、対策された、時点でも、ポリプの召喚は、成功していたはず、だ。だったら、そもそも、相手は全く、別な手段で、召喚をして、くる」

 

 劉実は胸元、真尋を撫でながら話の続きを促す。真尋は表情一つ変えられず(ヽヽヽヽヽ)に、己の考えを明かす。もっとも、劉実はそれに肯定も否定もしないのだが。

 

「外部で、召喚されると、考えた、時点で、俺の精神交換、されるのが、一番、意味がわからなく、なってくる、そもそも、巻き込む必要はないと、考えられるからな、」

「では、何故真尋さんの精神交換をする必要があったのでしょうか」

「ネフレン=カと、同じだ、ろう、おそらく、俺の、ネクロノミコンとしての、力が、必要だった、はずだ、」

「何故、わざわざ真尋さんを必要とするんです?」

「基本的に、その時代にあるものでしか、イースの連中は、活動できない、んだろ、だから、精神交換の道具も、例の光線銃とかも、現地にある、材料で、作るはず、だ、ただ、同時に、文明度が俺たちと同じ基準に、合わさっているなら、避けて通れない概念が、ある、」

「それは?」

「正気度喪失、つまり、SANチェックだ、やつらも、冒涜的恐怖ってのを感じて、正気を喪失する、だから、あまりに冒涜的な情報群を、そのまま持っていることはないだろう、」

 

 イス=カの言動から統合して――――もっともこの真尋は劉実の口から間接的に聞いた情報を統合してというレベルだが、その上で真尋は、想像力を極限まで働かせて思考する。そもそも神話生物の類に近い今の自分が発狂しないというのが、一つの答えだろう。イス=カがクー子の出現を見て発狂したというのが、一つの問題点だ。劉実の言動からして「意外と」CoCのTRPGに現実が即しているらしいことをふまえてみても、ならばなぜイースである彼女が発狂して気絶したのかという説明ができない。とするならば、その扱いは一般人のNPCないしPCに近い立ち位置――――正気度を喪失し時に発狂する側であると考えられる。

 そしてそれは、何もイス=カのみに適用されることはあるまい。イース全体がそうであるならば、その手の正気を失う類の情報の取り扱いは、かなり厳重になっているとみていい。間違っても、物質として持ち込めないだろうそれらを情報として持ち込む、つまり「記憶して」持ち込むなんてことは、そうそう出来るわけはあるまい。そう考えれば、本来ならばそういった暗黒神話的情報を(自分たちが暗黒神話的な存在であることに目を瞑って)現地で調達していると考えられる。

 ならば、どこから調達するか――――。

 

「それくらい可能だとは思いませんか? 真尋さん」

「可能でも、確率は低いと、俺は、見る」

「その心は」

「現地の時間軸でバレないように干渉する、が基本的な鉄則だったな。たぶんだが、つまり大体的にやらかすと、そのやらかした相手が実際、如実に情報として残るんじゃないか? だからこそ最後の最後まで隠蔽につとめ、自分たちの情報を観測されないようにする。そうするなら、片っ端からその手の情報を収集するなんて目立つようなことは、あまりやらないだろうという推測が立つ」

 

 つまり、敵も味方も、どちらのイースも条件はほぼ同一とみれるということだ。これについては真尋の予想も多いが、しかし真尋はこの推測を疑っていない。他ならぬネクロノミコン――――「過去・現在・未来における暗黒神話群に対する解決への方策」が記された自分であるからして、そこに端を発する想像力に左右されているのだ。才能という単純な言葉ではなく、論理としてそれは正当を導き得るものだろう。

 劉実はそれに、正解とも不正解とも言わない。だがその寂しそうな目が、何よりも雄弁に真尋の推測を物語っていた。

 

「なら後は、簡単だ。一番、その手の情報が寄り、集まっている、俺自身を使って、必要、な呪文、情報を集、めればいい」

「なるほど。…………でも、それだとイス=カさんが指摘されないのは、おかしくありません?」

「とはいえ、そのイス=カって、いうのも、普段からこの時間軸、にはいないんだろ。だ、ったら、どれ、だけ他のイースが情報を持、っているかとか、何を普、段からしているかとか、そういっ、たことを全く知らなくて当たり前、だろう。現に、自分以外、に誰がイースに人格交代さ、れているか、自、分だけで特定できないん、だから」

 

 バイクが再び地上を走行し始め、しばらくして。劉実は真っ黒な正方形の大きな建造物の前で留める。そこから降りて胸元の真尋を下すと、彼女はそれを抱えながら一歩一歩前進し、続きを促した。

 

「だったら、真尋さんは誰が精神交換された相手だと思います?」

「…………あー、つまり、そもそも、学校にいる必要がない、んだから、最初から学校に居ないや、つが怪しいだろ。俺の面、会、にそれほど違和感なく潜り込、めて、なおかつ俺、が休む、前から休んでいて、たぶん今も休んでいるヤツ、――――――――たぶん、余市だ」

 

 

 

 

 

  ※  ※  ※

 

 

 

 

 

 ――――がらがら、と引き戸をスライドさせ、龍子が目にしたものは。

 

「余市さん……?」

「――――をのれ、嗅ぎつけられたかっ」

 

 真尋のベッドの上に、何やら魔法陣を描き。彼の胸元から「光る文字のような何か」を吸い出していた、クラスメイトの余市健彦だった。

 

 

 

 

 

 




本作のCVイメージ
 二谷辰隆:井上和彦
 
まぁ原作既読の方は割と予想できたのではないかな、という犯人でした;
次回、いよいよ真尋さんが帰ってきますよ~!


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疑念と超時空貫通儀式/本線・R分岐

 

 

 

 

 

 龍子を前に、余市健彦――――否、彼と精神交換しているだろう何者かは、真尋より這い出た文字のような何かを手に取り、手元の瓶の中に詰め仕込んだ。ふたを閉めると、茫然とする龍子へととびかかり、突き飛ばして逃走する。

 いきなりで状況を理解できないまでも、龍子は深呼吸しながら眼前の状況を整理していった。

 

「余市さんの、嗅ぎつけられたかという発言。真尋さんから出ていた、魔法っぽい何か、そして病院のこの状況……、んん、何だかよくわかりませんけど、普通におかしいってことだけは分かります。っていうか、どうしたら…………?」

 

 壁に激突し、痛めた背中をさすりながら立ち上がる龍子。と、ふと自分の手元に違和感を感じる。後ろにまくれた白衣のポケットに、何か物が入っていることを察した。もとは辰隆、己の父と言えなくもない相手が着用していた白衣であるからして、ここで何か物が入っているということは、それが単なる忘れ物などである可能性は低い。

 急いですぐさまそれを取り出した龍子は――――。

 

 

 

 

 

  ※  ※  ※

 

 

 

 

 

「さて、場所も座標もこんなところでいいですかね」

 

 伸びをした劉実は、真尋をともなって足を進める。気が付けばいつのまに、二人はとある建物の屋上に着陸していた。それは一言でいえば何かしらのシェルターのようでもあり、しかし同時に現代文明に感じられる機能性を排除した装飾過多の謎の建築物だった。かろうじてエジプトのアンクなのか十字架なのかわからない名状しがたい文様が所狭しとあしらわれていることはわかるが、一体なにのための呪いなのだろうか――――否、真尋の想像力はその正解を引き当てていた。これらは間違いなく邪神の類から身を守るために、地上の古き神々の加護を得ようと人間がもがいた結果の有様である。そしてそれが功を奏したかどうかは、この無人施設の有様を見れば日の目を見るよりも明らかか。そこかしこ、部屋があり、その奥からこの世のものとも思えない、人間のうめき声のような、あるいは何かの囀る声のような、形容の難しい声が響く。それらの声から真尋は何かしらの人間性と、同時に悲しいという感情を感じ。また理性が溶ける嘆きと、暴力衝動に突き動かされるような、そんな感情の色を感じ取った。と、突然劉実の後方の扉に、ばん、と勢いよく何かがぶつかったような音が響いた。しかし背後の扉がひしゃげた様子もなく、何かが這い出てくる様子もない。真尋はそれらの状況を「目に頼ることなく」、音と雰囲気からすべて正しく理解し情報収集していた。

 己の現状がどんどん、さらに今の肉体に最適化されていっている――――その事実が、真尋の正気を今更おかすことはなかったが、しかし恐ろしい事実であることに違いはなかった。

 ただ、それはそれとして。劉実の一言に、真尋は違和感を感じ取っていた。

 

「何が、こんなところ、だ」

「まぁその、乙女には色々準備が必要ということで。野暮ですよ、真尋さん」

 

 何が乙女だと言ってやりたいところであるが、実際そんな相手に惚れ込んで現状まで至っている身分であり、真尋はうまく返答できないでいた。割と珍しい状況である。そしてそんな彼の心中を察しているのだろう、くすくすと劉実は楽し気に笑った。

 劉実は真尋を胸元から出して、手元に抱える。そして前方を見せながら、少し軽やかな足取りで前進していた。もっとも屋上から入った直後の場所は既にどこまでも長く続く真っ黒な廊下であったり、とにもかくにも名状しがたいところである。さらにある程度進んだ時点で、劉実は右方向の扉を一つ開けた。中には下り階段があり、そして劉実はそれに足を踏み入れる。と、数歩歩いているうちに、いつの間にか二人は階段を「上っていた」。既に上下感覚もおかしなことになり、実際には持ち運ばれているだけの真尋でさえ現在の視界や自分の体感が正気の世界であるかどうか、疑問を抱くことになっていく。劉実は当然といえば当然のように不思議にも思っていない様子のまま、真尋を撫でつけていた。

 

「大丈夫、大丈夫。少なくとも今の真尋さんが壊れることはありませんから」

「今の、ってことは、どういう、ことだ?」

「それはもちろん、あっちに戻ったらということですよ」

 

 やがて上り階段の途中、窓枠を一つ開ける劉実。その向こう側からは「鉄の棒が」垂らされており、劉実は真尋を「投げ入れる」と、彼女自身も鉄の棒を掴んで「降りて行った」。一見すると真尋たちの側が下方であるようにみえていたのだが、実際は逆に窓の向こう側に行けば行くほど地面という扱いらしい。地面に背後(もし真尋が人間の姿であったならばという感覚的な意味で)から落下し、ぱらぱらと表紙がめくれる。劉実は音もなく、するすると棒を伝って降り、真尋を踏まないように着地。よいしょ、と彼を閉じて持ち上げ、軽く背表紙を叩いた。

 

「何をする、つもりだ、アンタ、」

「真尋さんも想像がついているんじゃありませんか? 現状のまま進めば、『本線』において地球の滅亡は免れない。現状までが表面上、既定路線で進んでいる以上、手を打たなければすべて終わる。だとするなら、私がやることは一つです」

「――――既定路線を変えるため、事象をある程度把握した俺を『送り返す』ってことか」

「ええ。真尋さんと私との邂逅も、そういう意味では本体(ヽヽ)の作戦通りということなんでしょうけどね」

 

 つまるところ、這い寄る混沌としては「本線」の歴史を滅ぼすつもりはなく、だからこそ表面上はイースの反乱分子たちに気づかれないよう、既定路線をそっているように見せかけていた、ということか。真尋がこちらに送られ、劉実と邂逅し、元の世界に戻る。そして、それが出来ることで解決できるというのならば、おのずと真尋は対策を察し始めていた。

 

「……クー子か」

「クトゥグアの化身の子ですね。ええ、彼女を使えば、ポリプが最悪召喚されてもどうにかこうにかできるかと思います。ただ、全く何も考えず放置していてどうこうなる問題ではないので、そこは真尋さんに探索していただく必要があるかと思いますけどね」

「SANチェッカーもなし、にか?」

「いえ、持っていると思いますよ? おそらく、あっちで協力を求めている第三者あたりが。なのでクトゥグアを使う際に、借りるなりするのがベストかと」

 

 そして、真尋はやはり彼女の言動から。今までの行動を踏まえて、一つの結論を導き出していた。それはかつて劉実、霧子を名乗っていた彼女の言動を否定するものであり。そしてそれが否定されることで、真尋自身も大きく精神に損壊を負う可能性がある事象である。

 

「なぁ、アンタ」

「真尋さん、そろそろ時間なので、あまり会話する時間はありませんので、手短にお願いします」

「…………アンタ、本当は、独立してるんじゃ、ないか、独立した、一人格、なんじゃないのか、」

 

 えっ、と。予想外のことを言われたと言わんばかりの表情の劉実に、真尋は畳みかける。

 

「かつて俺に、アンタ、は言った。自分たち化身、はあくまで、這い寄る混沌、が演技した人格でしかないと。そ、の本性は、どこまで、いっても這い寄、る、混沌でしかないと。だけど、そう、だとするとおかしな点が前、か、らいくつかあったん、だ。ネフレン=カ一つと、っても、化身同士で争、いあうなんてこ、と自体がおかしい。、もし演技でしかない、というのなら、そ、れ、は全部マッチポンプ、のはずだ、」

「……だったら、マッチポンプなんじゃないですか? どれもこれも、這い寄る混沌と」

「だったら、今の、アンタは何だ、……なんで俺の世、界の、アンタはずっと死ん、だままなんだ、」

 

 劉実は真尋を守るために生み出された化身だと名乗っていた。そしてそれは、クトゥルフ復活を阻止した時点で役目を終えたと。であるならば、逆にクトゥルフが復活したこの世界において、役割を果たし終えた化身がいつまでも残っているのがおかしいと言えばおかしい。もしこの世界で彼女が生み出された目的が違ったとしても、同種の疑問は残る。つまるところ彼女の役目はすでに終了していてしかるべきであり、いまだこの世界に残っているということが、必然性から排除された、美しい盤面に置かれた一つのしみ、美文の中の誤謬だ。這い寄る混沌は、そういった面倒なことはしない。

 真尋と劉実が未だこうして旅をしていることに、何かしらの意味があると考えることもできる。だが必然性がない。歴史が違う以上、この劉実やこの世界の這い寄る混沌は「本線」での事象を、本来は観測できないはずだ。だからこそ、わざわざ何かしら手続きを踏んで向こうの情報を捜索したのだということだろう。とすると、やはり劉実の化身としての役割が不可解となる。

 そこで一つ、真尋が抱いた可能性こそが―――――。

 

「――――あっちのア、ンタは、逆らったんじゃないの、か? だから、化、身としての存在を剥奪、された。そしてそれをすべ、てマッチポンプ、で操っているのなら、すべて、自分自身の演技でしかない、なら、わざわざアン、タの妹を俺のそばに置いて、おく、必要がない。そのまま、ア、ンタを置い、ておいた方が、まだいく、らか俺への心証も、良いはず、だ、」

「………………」

「こう言い換え、ても良い。つまり、逆らうなり何なりして、罰を受けたから、アンタは、あ、っちの世界でその存在が消、されてしまった。ペナルティを、課されたからこそ、消えたのだと」

「…………別な私ではありますけど、私の言ったことを信じないんですか?」

「生憎、俺は何も信じないよ――――大体考えてみろよ、二日三日し、か一緒にいなかった相手の言葉、だぞ? どれくらい、俺の人生に与えた影響が、大きかったとしても、その言、葉のすべてに信頼を置、けるわけなんてない。そん、なことが出来るな、んて、俺は、俺自身を信じ、ちゃいない、」

 

 真尋の言葉は、それまでに積んできた経験に基づいた疑いの言葉であり、当然の帰結であり、そして諦観の結果でもあった。彼自身が彼自身の運命を選んで抗ってきたと、とてもそう言えるわけはないという心のダメージから来た結論であった。そしてそれが、そう大きく的を外していないだろうという確信に満ちた発言でもあった。

 劉実は少しの間目を閉じ、その場で座り込み。再び開けた目は――――闇色に染まったそれだった。

 

「――――いけないぞ? 真尋。女の子の秘密というのは、もっとベールを剥がすようにしてやらなければ」

 

 涼し気な男の声。声音に絶対的な立場から発される自信と、わずかに含まれた嘲笑。覚えのある、覚えしかないその声に、真尋は内心でうめき声を上げた。

 這い寄る混沌が、彼女の体を介して真尋の前に現れ出でたのだ。

 しかし、それこそが真尋の指摘の妥当性を証明するものであると、彼は確信した。

 

「ここでアンタが、出てくるってことは、つまり、そのまま会話をさ、せるとまずいってことだよな」

「企業秘密、と言っておきたいが、まぁ安心するといい。私は『本線の』私で、この世界の私じゃない。だからこそ幾分、君には甘い判定をする」

「判定とか言うな、判定とか。TRPGじゃないんだぞTRPGじゃ。と、いうか、なんでアン、タがわざわざここに出てき、たんだ。アンタ、そういうこと出、来ないんじゃなかったのか?」

「どちらかと言えば、私は『真尋に引っ張られて』ここに出てきた、が正解だ」

「意味が、わからん、」

「それは、当然さ。意味がわかるように話していない。だがいずれ、君自身の手で答えを見つけられる程度には、私も調整しているからね」

「というか、こっちの世界のアンタは、俺に対して、どういう扱い、なんだ……」

「君の今の惨状を見れば、察するところはあるんじゃないかな?」

「――――ってことは、やっぱり、逆らったんだな」

 

 這い寄る混沌は薄く微笑んだまま、肯定も否定もしなかった。それが如実に、真尋の胸を締め付ける。

 彼女の嘘が、すべからく真尋の精神を守るためのものだということを理解させられてしまったからだ。もしその嘘がなければ――――つまり真尋は。真尋を守るために自らの存在すら消した彼女を、その自らの手で葬らざるをえなかった。そうなるよう仕向けられ、殺してしまった。事実を直視させられれば、あの状況下において真尋の精神は文字通り消し飛んでいたことだろう。それだけ、愛した彼女を自らの手にかけるよう誘導されたという事実は、真尋にとって大きな疵になりかねない。

 そして、同時に一つの疑念も浮かぶ。

 

「独立した人格であるなら、それがただ単純に、何も代償さえなくアンタに逆、らうことなんて出来るわけがない。代償を支払ったと、ころで、逆らうことができるか、さえわからない。つまり、たとえ自分の化身、分身であろうと、人格的に、独立した相手を、アンタは弄ぶはずだ、アンタに、とって、だとするなら……、アンタ、何を取引したんだ」

 

 真尋のその指摘に彼女は目を閉じ。次に開いた時点では、先ほどまで感じた「良くない」プレッシャーは、いずこかへと消えていた。浮かぶ感情は、どこか寂し気なそれだけ。

 

「企業秘密です♪」 

「おい、」

「まぁ、私は真尋さんの知る私当人ではないので、何があったかまではおぼろげにしか把握できていませんが、一体何を言ったかは、予想できますかね」

「独立した人格だっていうのは、否定、しないん、だな、」

「企業秘密……、ですが、まぁ、真尋さんは確信していらっしゃるみたいですし。今更といえば今更ですかね」

 

 だったら、と。真尋はやはり、言葉を続ける。

 

「だったら、なんでアンタの妹は、俺のそばにいるんだ。それに、この世界でのアンタの妹は――――」

 

 真尋のその言葉に、劉実はウィンクをしながら――――ある重大な事実を告げた。

 その一言に、真尋はたとえ人間の体でないといえど、目を大きく見開き、驚愕のあまり言葉と思考を一瞬失った。

 

「まぁ、これくらいの意趣返しは許されますかね。

 では、もうお別れです」

「――――――――、」

「最後に握手を、とか出来たら良かったんですけど、そうも言える状況じゃありませんしね。なので、気をしっかり持ってください? ――――いただきます」

 

 そして何一つ考えも、思いもまとまらない、そんな真尋へ。劉実は彼の目を閉じさせ、その唇を奪った。  

 

 

 

 

 

 

  ※  ※  ※

 

 

 

 

 

 次の瞬間、真尋は自分の五体の自由を取り戻していた。だからこそ両目を開け、再びその思考が消し飛んだ。直前の状況からすれば有り得なくもない状況だろう。しかし彼にはそれを予想するだけの時間も、心の余裕さえもありはしなかったのだ。

 

 

 

 

 早い話、二谷龍子が真尋の唇を奪っていたのだ。

 

 

 

 SANチェックする必要はないものの、彼が精神に受けたその衝撃は計り知れない。二谷劉実への想いだの、龍子本人への引け目だの、直前までの会話だの、現在の状況がどうこうであるのだとか、そういった一通り一辺倒考えられること、彼自身が考えるまでもなく連想できること、すべてが彼の思考を中心に回転し、目まぐるしく移り変わり、混乱と同時にその身と思考を縛った。硬直、身動き一つできず、龍子のキスを受けていた。最初のそれは劉実、もっと言えば這い寄る混沌に奪われていたそれであるが、しかし状況が状況であったこともあり、真尋としてノーカウントに置いていたところもある。だが、それに近い状況であっても、現状のこれをノーカウントだの何だのと置いておけるようなことはなかった。

 そして、龍子の目がおそるおそるといった風に開かれる。

 目と目が合う瞬間―――――。

 

「――――ぎゃんっ、ちょ、真尋さん!?」

 

 思わず、真尋は龍子を突き飛ばし。その身を起こし、頭を抱えた。

 

 

 

 

 

 




一つの仮説と一つの結論。そして――――
 


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前提条件破棄によるタイムアタック/本線

すみません、ちょっと遅れました;
ここからは(珍しく)真尋さんのターン!


 

 

 

 

 

 我を取り戻して最初にまずしたことは、倒れた龍子を起こすことと、とりあえず病人服から私服に着替えることだった。幸いにも母親が一応はもってきていたため、服そのものがないというようなことはなかったものの。しかし数日動かしていなかった体は、いかんせんきしみを上げていた。

 着替え終わってから龍子を再び病室に迎えると、真尋は直近の光景を思い出し、わずかに眉間をもむ。龍子も龍子で「それ」を意識しているのか、視線を真尋と合わせず「あはは」と周囲をきょろきょろ見回していた。

 

「どうでもいいが、何で白衣なんて着てるんだ」

「えっと、その、成り行きと言いますか……」

「まぁいい。…………回りくどいことを話してると一向に進まないから、手身近に聞くぞ。何があった」

「いえ、手身近すぎませんか? あ、時系列順でしたら説明はできますが」

 

 そうしてこうして、真尋が精神交換されてから現在にいたるまでの、龍子視点での説明がされる。イス=カなるイースの大いなる種族との邂逅、彼女ら組織内での問題、惑星保護機構の会合と、そこから参加者たる一人に協力を取り付けたことなど。また直近、真尋を見舞いに来たことと、余市が真尋から何か呪文を取り出していたこと。

 そして最後に、這い寄る混沌からメモで啓示があったこと。

 

「啓示って何だ、啓示て」

「これです」

 

 ポケットから取り出したそれに書かれていたのは、暗号でも何でもない単純な時刻表記と「Kiss him」の二文字。彼にキスをしろという命令形である。

 

「で、アンタはこれ何の疑いもなくやったと」

「えっと、まぁ、私の本体からの指示だったみたいでしたので、逆らう必要はないですからね。さすがにこの終盤で、真尋さんに不利な行為を働くことはないかなと。結果的に真尋さんも、復活しましたし。ね?」

「アンタ、何とも思わないのか?」

「……真尋さんは、私に、何か思ってほしいんですか?」

「――――そうかいっ」

 

 お互いその話題には触れまいと言う、暗黙の了解が形成された。

 実際のところ、龍子として口づけ程度は「覚悟の上で」日々生きているので、そのこと自体は実は問題ではなかったりする。どちらかといえば、這い寄る混沌から提示された真尋の状況と、それを破壊するだろう自分の行動とに思うところはあったのだが、それについて言及はしない。わざわざ言うほどのことでもなく、その選択を彼女に敷いた結果で真尋がさらに思い悩むのではという予感があったからだ。本性は本性であっても、龍子は龍子で恋する乙女らしさを併せ持っていた。もっとも、その方向性が妥当なものなのかどうかは定かではないが。

 ため息をつき、真尋はストレッチ運動をしながら話を続ける。

 

「俺を放置していたってことは、たぶん準備は完了したってことだな」

「準備ですか?」

「おそらくだが、余市もイースに精神交換されてるはずだ」

 

 真尋の推理、というよりは確度の高い推測を聞かされる龍子。イス=カが関わってくる歴史自体が固定されたもの、彼女たちが干渉した結果が惑星崩壊である可能性が高いと。その歴史を固定するために先方が動いていると考えれば、イス=カを陽動させるための策を前提として用意している。であるならば、その予想の枠の外側に出た場合をかんがえれば、必然、真尋が鍵となる。

 

「で、なんで余市さんなんでしょうか……?」

「流石に向こうの人選まではわからないが、たぶん学校で俺と一番話すのが余市だからじゃないか?」

「いえ、私とも話してま……、あっ」

「おい、何を察した?」

 

 男子の、ちゃんとした友達と呼べる友達が、余市くらいしかいない真尋であった。もっとも真尋の半眼を前に、指摘するほど龍子も野暮ではない。世の中には言及しなければ不確定で通せるという風潮があるのだ。もっとも犯罪はバレなくとも犯罪であるが。

 少なからず、と真尋は想像力を働かせる。少なからずそれなりに親しく、訪ねに来てもおかしくはない人選として選ばれたのだろう。珠緒や余市、ニャル子あたりが真尋と接触の多いクラスメイトであるが、そのうちで男性は余市一人のみである。イースといえど性別までは偽れないのだろうから、結果として彼が選ばれた訳だ。

 

「とは言え面会時間ギリギリだし……。これ放置して置いたら大変なことになるな」

「でも真尋さん、その間ずっとここにいるんですか?」

「いや、敵がわかってもそのまま対策一つ打たないのはどう考えても下策だ、下策。すぐに行動しないといけないが……、社会性を犠牲にする必要があるなこれは」

「社会性?」

「考えてみろ、直前まで入院患者だった相手が突然起きて消えて、しかもこの階は全員気絶してるんだぞ。間違いなく捜索願いも出されるし、見つかったらしばらくは検査とかで監禁必須だ」

 

 一度検査入院で監禁に近い扱いを受けた真尋であるからして、おおよそ数日は拘束されることを正しく予想していた。もっとも「前回」とは多少状況も違うのだが、どちらにせよタイムリミットには間に合うまい。となればとれる作戦は――――真尋は自分のベッドの横にある、切られたリンゴ、主にそこにささった小さな金属製の果物フォークを2つ手に取る。続けざまに窓を開けベランダの向こうを確認した。人の気配はない。ベランダの下方、下の階も現時点では出ている人間はいない。

 

「あの、真尋さん何をされてるんでしょうか……?」

「あんまりやりたくないが、飛び降りるぞ」

「いやいや、真尋さんそれは流石に…………。別に真尋さん、<跳躍>スキルとかとってませんよね。身長とその倍の方向へのジャンプに、成功判定のアドバンテージとかありませんよね」

「何だその言い回し。TRPGじゃないんだぞ、TRPGじゃ」

「うっ」

 

 長谷部秀太の言い回しが移っていたのか、思わず口走った龍子。真尋はそれを特に気にせず、フォークを構える。

 

「アンタはどうする? そのまま先に下に降りて、下で合流してもいいが」

「下で合流しない場合、どうなるんですか?」

「…………」

「えっと、一緒に飛び降りるってことですね、う~ん……。真尋さん、安全なんですか?」

「賭けの要素も大きいが、ある程度は成功を見込んでる」

 

 実際、彼が何故フォークを持ち出しているか、いまいち理由を把握していない龍子である。このあたりはそれこそ、TRPG風に言えば、真尋の「セッションのクリア特典」のようなものなので、彼から説明されなければ理由は判然としないのだ。もっとも真尋とてそこまで時間に余裕があるとは思っていない。その証拠に、廊下から人の足音が聞こえてくる。そして、この時点で選択肢はなくなった。

 

「あー……。文句は後で聞くから、ちょっと口閉じてろよ」

「ええ? ――――きゃっ」

 

 瞬間、真尋は龍子の手を引き、抱きしめ、そのまま彼女の背を手すりの側にして、押し倒すようにベランダから転落した。ぎゅう、と強めに抱きしめた際の、意外と感じる彼女の人肌としての温もりに一瞬目を半眼にする真尋。照れからくる感情か、這い寄る混沌の化身である彼女から感じる人間味じみたそれに鬱陶しさを感じたか、はたまたなにか別種のそれであるかまでは定かではないが、むしろこの場合、動揺は龍子の方が激しかった。何分、真尋と違い、相手に対する負い目の感情はなく、純粋な好意的なそれが大半を占めている。その状況でひしと、己の体を抱きしめ、離れまいと腰に手を回され、そしてあまつさえ倒れこむように落下しているこの状況。吊り橋効果もあいまって、彼女の心臓はバクバクと早鐘を打っていた。

 落下する時間は五秒もかからずか。そして真尋は龍子の首側に回していた右手、そこに逆手で握らたフォークを向け、地面へ向けて「突き刺すような」モーションを振るった。と、その結果。瞬間的に稲光がほとばしり、電気がスパーク、そして衝撃波を伴って、真尋と龍子の下方から砂ぼこりが上がった。

 着地、というほど素直に着地は出来なかったが、それでも落下死を避けられる程度には衝撃を殺す。

 立ち上がる真尋に、龍子は二重、三重の意味で硬直した状態から、おずおず口を開いた。

 

「怪我はないか、アンタ」

「あ、あの…………、何をっ」

「アンタ知らないのか?」

 

 そもそもこの武器(?)の使い方を教えたのが彼女の姉であり、どちらにせよ這い寄る混沌である。なのでてっきりその程度の情報は龍子も持っていると踏んでいた真尋だったが、ここに至り思い違いに気が付いた。丁寧とは言わないまでも、最低限の情報を共有する。

 

「……俺がフォークとか音叉とか、又の分かれた道具をもって振るうと、邪神とか神話生物とかと戦える武器になるらしい」

「邪神特攻の武器ですか……、って、どうしてそれが、こういう使い方できるんですか!? 死ぬかと思いましたよ色々な意味でっ」

「悪かったな。時間もなかったし、こっちも見誤ってた。……なんでって言われても、アレだろ、戦う以上は物理的な威力を伴うってことだろ」

「基本理詰めなのに説明がずいぶんと感覚的なんですね真尋さんっ」

「嫌味に言うな、嫌味に。俺だって好き好んで使ってるようなものじゃないんだよ」

 

 正気度が減りそうだし、と真尋はぼそりと呟く。そもそもこれがノーデンスが、八坂家の先祖に与えた加護であるにしても、それとて旧き神々、偉大なる大いなる意志が複数介在した時代からの遺物であろう。どう考えても、振るい続けてSAN値が直葬される恐れがないと、断言できるわけはない。クー子にしても「本来の」クトゥグアとしての使われ方をすると真尋の正気度が飛ぶらしいので、彼としては妥当な判断だった。

 そこまで細かく考察できるだけ、自分の身に宿った超常的なそれについて考えたくないという反抗である。

 もっともそんな己の生命の心配が先行しているため、龍子がわずかに頬を赤らめていることに気づいていない真尋。……否、気づいてはいるが、積極的にその話題を避けている真尋であった。

 ただ、と前置きをして彼は続ける。

 

「これが、今回はかなり重要だ」

「そりゃ、そうですよね。今回は物理的な戦闘を伴いそうですし」

「それもそうだが、それだけじゃない。……えっと、イス=カだっけ? 今、暮井と精神交換されてるヤツ。呼び出しって出来るか?」

「へ? あ、大丈夫だと思いますけど」

「頼む。場所は…………、高校の前だと不審者扱いだな。前に俺を撃った、あの公園近くで」

 

 とりあえず移動しながら電話を頼む、と真尋。首肯すると、龍子は彼に続いて走り出しながら、携帯端末を操作して名前を出す。と、そんな彼女の手首に、簡単に作られたパワーストーンのつけられたミサンガを確認し、真尋は視線をそらした。

 

「――――あ、もしもし? イス=カさんですか? えっと、今お時間は――――へ、ドラマ? 群馬? いえあの、そこまで群馬は未開の地では……、はい、別に白亜紀とかジュラ紀みたいなことにはなってませんから、そのっ」

「何やってんだ一体……」

 

 明らかに緊張感のないイス=カの言動に、真尋は妙に気疲れを覚えた。

 

 

 

 

  ※  ※  ※

 

 

 

 十分足らずで、三人とも公園に集合となった。

 真尋と龍子が向かうと、肩で息をした珠緒がその場にいた。もっとも中身はイス=カであり、服装は左右の靴下が違うといったような古典的な漫画のような慌てぶり。一言でいえばやはり世界観や時代、文化風習が違うと言うべきか。真尋はそこはかとない頭痛を覚える。彼女自身は真面目にやってこれなのだ、という事実が、ある意味で真尋がこれまで接触してきた中では母親などを思い起こさせ、頭痛の種であった。

 

「で、アンタがイス=カか」

「ヨヨ、真尋サンですョ! こ、こ、この度はそのまこと申し訳ありませんというかその是非とも上司には黙っていただきたき所存なのですョ……っ」

 

 そして出会い頭、いきなりの土下座である。何故かとなりの龍子が「女の子土下座させて何たくらんでいるんですか真尋さん」とでも言いたげな半眼で見てくるが、真尋はそんな態度をとられる謂れがないので、堂々と一瞥し一蹴。別に企んでいないのはわかっているだろうという内心の抗議は、龍子に伝わっているかどうかはさておき。

 

「そういう話は後でだ。後で。上司とか色々気になるワードもあるが、主目的はそこじゃないだろ、アンタ」

「そ、そうなのですョ! 私がここに来たから未来が固定されてしまっているという話なのですョ! アレですョ、観測者問題とかそういうヤツですョ?」

「…………あー、その、語尾っていうか、口調がなんとかならないか? アンタ」

「ヨョ!?」

 

 ある意味で、一人だけ世界観が違う弊害であった。

 会話すれば会話するほどに、真尋としては頭痛が加速する。

 

「観測者問題か? 似たようなものかもしれないが、こっちとしてはアンタがこっちに来て、色々あがいた結果がアンタらの観測した未来だと思ってる」

「ヨョ……、そ、それは流石に想定してなかったのですョ。でも、病院で真尋サンが何かされていたというのが、よくわからないのですョ……。真尋サンも、何か体に神話生物でもかかわってるんですョ?」

 

 不思議そうな反応のイス=カを前に、真尋は視線を龍子に振る。

 

 Q.コイツ、俺とかアンタとかの正体について何もしらないのか?

 A.たぶんそうですねぇ。

 

 意外と息の合った二人のアイコンタクトによるコミュニケーション。状況を察知し、真尋は言葉を選んだ。

 

「あー、まぁその……、そういう魔術的な要素とかかわりがあるんだよ、俺は」

「はぁ」

「時間があったらあとで詳しく話してやるから、続けるぞ? で、俺は這い寄る混沌の手を借りてこっちに戻ってきた。這い寄る混沌は、俺を経由して事態のあらましを把握したはずだ。

 這い寄る混沌は、分岐、この歴史を「本線」と言っていたが、そことは別な時間軸から俺に干渉してきた。

 だから、そこの小娘(ヽヽ)が俺の見舞いにいったのもイレギュラーで、急いで俺からポリプ召喚の呪文を奪ったってことは。状況は少しアンタの観測したものと、多少変動してきているはずだ」

「誰が小娘ですかっ」 

 

 真尋の言い様に軽く腹を立てた龍子であるが、当然のごとく無視される。

 

「つまり、真尋サンは何が言いたいのですョ?」

「同族を見つける道具があるって聞いた。それが充電中だって言っていたから、おそらくは電気エネルギーを使ってると考えたんだが、間違ってるか?」

「あ、いえ、合っているのですョ」

「それが一体――――」

「現時点で、それがないと相手の場所を突き止めることができない。この全体の状況が『相手がそうなるよう仕向けて』もたらされたものであるなら、それを覆さない限り、俺たちに勝利はない。だから、まずはその探査装置を復活させる」

「させるとおっしゃられましてモ……」

「で、道具はどれなんだ」

「これなのですョ」

 

 制服の上着のポケットから取り出したそれは、手でぐるぐると回すタイプの単二電池の充電器であった。ただし中に入っているものは、もはや電池と言って良いのかわからない、黒々とした長方形の塊である。街灯に照らされたそれは「てらてら」とまるで鱗か何かのように光を反射し、妙に生っぽい。うわ、と龍子が一歩後ずさる。真尋もかなり表情を歪めたが、それでも確認することは確認する。

 

「さっきまでコンセントで充電しましたが、とりあえず持ち運び用にということですョ」

「これって、普通にプラスマイナスの概念は一緒ってことか」

「ですが、一体何をすると言うのですョ……」

「何って、一気に充電する」

 

 そういい、真尋は両手に果物フォークを握り、充電器の電池差し込み個所に「振り下ろした」。

 とたん、両手がスパークし通電。名状しがたいエネルギーが衝撃波ではなくすべて電気エネルギーに変換され、異常なフォトンを放つ。電気エネルギーが強すぎるせいか、電流が逆流したせいか、充電器のモーターの個所が音を立てて稼働する。

 

「ウワヨョョッ!!?」

 

 閃光に絶叫を上げて目を覆いその場に倒れるイス=カ。龍子は半ば予想していたからか、真尋の手元から視線をそらし、イス=カをベンチに寝かせた。

 

「ま、真尋サンは何をしているんですョっ」

「まぁ、見た通り充電しているのでは――――」

「そういう話じゃないですョ! あれ、なんか異能力ですョ! 普通ああやったら壊れるですョ!」

「まぁ断言できませんが、真尋さんがそういった初歩的なミスをするとは考え辛いので、たぶん計算づくだと思いますけど……、あ、終わったみたいですね」

 

 少なからず、彼の精神がアクセスしているだろうネクロノミコンに記載されているのかは不明だが、真尋はどうやら電撃や衝撃波の出力を調整できるらしい。であるならば、充電とか、そういう方向性のものであってもある程度は対応できるのだろうという龍子の予想だ。

 実際、その判断は間違っていなかったらしい。龍子の言葉に視線を動かされるイス=カ。見れば確かに、充電池の色が真っ赤に染まっていた。充電が完了したその証を前に、イス=カは言葉を失った。

 

「ほ、本来なら、半年単位の充電が、一瞬で――――」

「半年単位とかどう考えても欠陥品じゃないか、欠陥品じゃ」

「これが、和マンチ……!」

 

 何だ? という真尋の視線に、イス=カは戦慄と畏怖を持って真尋の立ち姿を見ていた。

 なお、龍子はそれをなんだか面白くなさそうに見ていたりするが、これは完全に余談である。

 

 

 

 

 

 

 




真尋以外、秀太のTRPG脳に汚染されはじめている・・・
 


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絶対的相対性決着済/本線

いよいよ最終決戦・・・最終決戦? に入ってます;


 

 

 

 

 

 

「ョョ! こっちなのですヨ!」

 

 イス=カが妙に膨れた腕時計型の装置を確認しながら、先行して走る。真尋が強引に充電したそれは、奇怪な音を立てながら三次元上にレーダーのようなホログラフィックを展開していた。なお、そこに描かれている波形はとてもではないが人間が理解できる類の絵図をしておらず、しかし当然のように「ヨヨヨ!」と読み解くイス=カは、妄言の類ではなく違う文明の知生体なのだろう。

 やがて道中で、余市の後姿を発見する真尋たち。余市、否、余市と精神交換しているイース人は、真尋の姿を確認すると懐から見覚えのあるビデオカメラを連想させる銃を取り出した。真尋にむけ、トリガーを引く――――。とっさに危機感を覚え、フォークを振り回す真尋。先端から放たれる衝撃波と電撃が、相手の銃から放たれた「玉虫色の」光線をはじく。あらぬ方向にそらされた光線は、そのまま電柱に刺さるように照射され、黒ずんだ穴を発生させていた。

 

「ここまでくると隠す気ないなアンタっ」

「この――――、今、終わるわけには!」

「ヨ? もしかしてイス=ルギ? 貴方のような優秀なエージェントまでそっちに回っているとは、中々世知辛いのですョ……」

「くそっ、この体がどうなってもいいのか――――!」

「あ、そういう人質作戦みたいなお約束はちゃんとしてくるんですね」

「いや、余市殺したらアンタも死ぬだろ。さすがに精神交換中にやったら」

 

 真尋の指摘に「ぬっ」と言い返せない様子の余市ことイス=ルギである。流石に「0.1秒の隙がある」とか言い出して精神交換を行えるほどには相手もチート、もとい万能めいている存在ではないだろうと言う真尋の予測であり、実際それは正鵠を射ている。なまじ文明の粒度が真尋たち現代人に近い部分もあるためか、現実における暗黒神話群との遭遇であれど意外とコミュニケーションもとれるし、行動予測も立てられるといったところだ。

 ただ、それがすべて最良の結果につながるかどうかは別問題である。

 

「おのれ、人質も意に介さぬとはなんたる外道っ! こうなれば――――っ」

 

 イス=ルギは肩掛けカバンを開き、瓶を複数取り出したそれらの中には文字のような、光る何かがうずまいている。そのうちの一つを選び、彼は地面に叩きつけた。破壊された瓶の中から、のたうち回り這い出る文字、そして陣形。それらは地面に吸着すると一つの意味合いを為し――――やがて現れ出でる巨躯は、一目で真尋にその正体を知らせるアイデア、インスピレーション、第六感的直感を落とした。

 暴風を伴うそのシルエットは、ナイトゴーントよりもいくらか人間型をしていると言って良いが、だからと言って人間かといえばそれも違う。ゆがんだ全身、そのらんらんと輝く真っ赤な視線は眼下のものすべてをエサか何かのようにしか考えていない、否、そもそも知生体とかそういう同格の存在として扱う気配がない存在と言える。みえる手足には両生類にありそうな水かきめいた器官があるあたりから、元来都心部に出現する相手としては不釣り合いだろうことを真尋は理解できた。

 理解できたと同時に、その名前に思い至る――――イタクァ、北米におけるウェンディゴと呼ばれる妖精とも習合される、暴風と共に神隠しを行う「邪神」のそれである。その素性は主にネイティブアメリカンの信仰の中にあるウェンディゴのそれを紐解けば大枠はつかめる。人心に働きかけ狂気に陥れるその神は、あるいは形を描写されないためにか形態がさまざまであると言えるが、真尋の眼前にいるそれがおそらくもっとも広く知られた形態の一つであろう。もっとも風に乗りて歩むもの――――星間を風のようにわたる存在であるからして、その形態自体には本来さして意味があるわけではないのかもしれない。それこそ這い寄る混沌の形が何であるかと問われて回答するのが難しいように、この存在も名状しがたきものなのだろう。

 さて。

 そんな存在を眼前にした真尋たちが無事であるかと言えば、当然そうはあるまい。まず最初に真尋は、下半身が動かなくなりその場に倒れた。眼前の邪神を前に、さしもの真尋の正気度も恐怖からくるものか身動きがとれないらしい。否、夢の中で確認したときのそれとは状況が大いに異なるものの、確かに現実世界において「這い寄る混沌」がそれらしく振舞った際も同様レベル以上にダメージを負っていたので、これはどちらかといえば現状の方が正しいとみるべきか。また倒れた時点の勢いで腕にダメージがいったのか、左側にうまく力が入らず体を起こすことが出来なかった。正気同喪失による不定の狂気か、ともあれこれはかなり宜しくない。

 龍子はどうかといえば、突然「あははははっ」と笑いだしながら、携帯端末でかの邪神を撮影しまくっていた。撮影中は笑いが止まらないものの、目がまったく笑っていない。一体何に執着が走ったのか、ともあれ彼女とて正気の沙汰ではないだろう。

 唯一、イス=カだけがダメージもないように「なんでそんな簡単に邪神を召喚できるのですョっ」などと騒いでいる。判定を逃れたのか、何かべつな要因があるのかはさておいて。

 

「――――少年っ」

 

 クー子がさらりと真尋の眼前に現れ、今にも振り下ろされようとしているイタクァの拳を受け止める。龍子いわく「四人の容疑者の中から一番犯人らしい相手」をもう一人の協力者と追っていたとのことだが、状況的に真尋の方が緊急性が高いと判断して現れたのだろう。すぐさま両手を炭化させるほど燃焼させながら、イタクァの指を折り、焼き、押し返す。

 そうこうしている間にイス=ルギは走り、この場から退散する。彼もまた何かしらの正気度喪失を負っていないように見える。だがそちらを分析する暇もなく、クー子とイタクァとの大乱闘が大通り、車道の中心で続く。テレビ塔が背後に、公園が横手にあるこの状況、前後から走ってくる車が急停車したり、あるいはその怪獣大乱闘めいたこの世の終わりじみたプロレスを前に、燃やされたり踏みつぶされたり弾き飛ばされたりとあまりにさんざんな状況である。さすがに真尋一人のせいで北海道にここまで迷惑をかけている訳ではあるまいが、彼の正気の部分が妙にそこにひっかかりを覚え、申し訳ない気持ちがわいてきていた。

 クー子は攻めてこそいるものの、決定打にかけている。おそらく「本来の」クトゥグアの使い方としての、最大火力、恒星めいた熱照射およびエネルギー消費を行っていないためであろうが、真尋とてその使い勝手は重々承知である。おそらく使えば正気度喪失ではなく「SAN値ゼロ」のあたりまでいきかねない。そして、真尋の本能的なところからの警告か、彼の想像力は本当の意味で彼が正気度を削るような戦い方をするべきではないと知っていた。何か、それこそとある域を切った時点で、真尋は真尋でない何かと「つながってしまう」――――その存在を捉えてしまうと、彼自身理解できないまでも、おぼろげながら識っていた。

 

「何が――――っ、いや、そうか。俺から取り出した魔術が、別に一つとは限らないのか」

 

 そしてあのイス=ルギ。いかなる手段を用いたかは定かではないが、正気を失っていた真尋から古代地球外来生物種の召喚術式をうばっていた彼である。逆に言えばそれをするだけの時間的余裕があるなら、当然真尋から他にもいくつか召喚術などを抜いていてもおかしくはないのだろう。彼の持っていた複数の瓶を思い出し、真尋は冷や汗をかく。少なくとも5つ以上は何かしらとられていると見てよいだろう。

 と、そう考えていると真尋の前方の魔法陣の存在に気づいた。既に術は完成しており、「召喚」一方のみのそれで成立しているそれは、どこをどう捜査しても邪神を送り返す機能は存在しないことを想定させる。逆に言えば、召喚のみであるのならまだ使えるということを、真尋は痛感した。

 問題はそれこそ――――。

 

「俺が召喚を行って、正気でいられるかどうかって話だよな」

 

 匍匐前進のように腕を使って這い、真尋は前進する。龍子はいまだ使い物にならず写真を撮り続けており、とてもではないが何かを任せられる状況にない。一方のイス=カはといえば真尋たちをおいてイス=ルギの追跡に向かっており、状況としては正しいが真尋たちの生命についてはもはや眼中にはあるまい。

 ちらりと頭痛を覚える真尋。脳裏には一瞬、赤の女王の蠱惑的な笑みが浮かぶ。何故それが見えたのか理由がわからない彼であるが、頭を振り、魔法陣の目の前にたどり着いた。

 

「あははははははっ、真尋さん、真尋さん、屋根が! 屋根が!」

「何のパロディだよ、何の。っていうか、アンタいい加減逃げとけ、遊びでこのままいったら命が――――」

「いえいえ、いいんですよ! 遊びだからいいんですよ! 『私みたいな』『遊び半分の』存在が、この真尋さんを吊るされた男にするかけ事をひっくり返してやるんですよ!」

 

 意味不明であり、しかし何かしら本来の意味合いが存在しそうな言葉の数々であるが、しかし実態を把握できない真尋からすれば唯の狂人の戯言である。思ったよりもひどい、下手すると真尋よりも正気度を喪失しているのかもしれない。やはり彼女に頼るわけにはいくまい――――この現状においてあまりに慌てているせいか、真尋は「龍子」がその本性を考えれば「正気度喪失するのはおかしい」という事実に気づいてはいない。ごく当たり前のように一人の同級生として扱っていた。だからこそ、彼は決断を自らに迫る必要があった。

 目を閉じ、フォークを片手に構え、自らの内にある「実体のない」「捕えようのない」「今の自分よりも古い生」を探る。そこに行き着くことで初めて真尋は、現在の自分に掬う膨大な数の魔術、その一端に触れることができる。もっともふれたからといって使いこなせるかどうかは別問題であるため、そこが悩ましいところではあるのだが。それゆえ――――この場でもう一度、自らの手で従うイタクァをもう一体召喚するという行動が打開につながるとわかっていても、それを実行した後の保証が、それこそクー子を使うよりは生存確率が高いとわかっているからこそ。

 しかしそれでも、この後に追うことが出来るかというのとはまた異なる問題として、真尋が意識を保っていられるかどうかとはイコールでないと言う事実が、そのリスクが真尋を躊躇させていた。

 しかし。

 それでも、眼前で初恋の女性の、その忘れ形見ともいえるだろう龍子をこのまま、自分同様かろうじて危険ではないという程度の状況に押し込めたままでいられるはずもなく。フォークを振り上げた真尋の両目は、緑色に輝き、そして――――――――。

 

 

 

 

『――――何だ、えらく困ってるみたいじゃねぇか』

 

 

 

 そして、上空から何者かが飛来した。飛来したそれは、真尋たちに振り下ろされようとしてる巨大な拳を受け止め、イタクァ同様「暴風」をもってして打ち返した。明らかに常人ができるそれではなく、何かしらの魔術、あるいは暗黒神話群に連なる何かであろうことを真尋に想起させる。

 フォークをいったんとめ、顔を上げる真尋。そこには、猿のような白銀の仮面をつけた誰かがいた。髪は金髪、妙にキューティクルの主張が激しいが、それはともかく。身長は真尋より大きいだろう、制服姿で、そして首には黄色いケープめいたものをまとっていた。

 一見すればそう、それこそ「黄衣の王」の要素をデチューンしたような相手だった。

 彼は邪神に飛び蹴りを極めるクー子を見て、「うへぇ」と声を上げた。

 

『アイツ、あそこまで人外めいて動きやがってなぁ。昔はもっと可愛げもあったが…………、いや、昔からそこら中爆発させてたから、あんま変わらないか? でも燃料なしにセルフで出来るって時点で「取り込まれる」ってやっぱヤバいんだな』

「? アンタ、誰だ――――」

『――――お互い、名前は名乗りあわない方が良いと思うぜ。なんにしても敵ではないだろうけど。ホレ、使うだろ。何かやろうとしてるみたいだしな』

 

 真尋の目の前に、腕時計状の名状しがたき装置が投げ捨てられる。それは十面ダイスを二つ上部にあしらったような、見覚えしかない正気度保護装置たる、通称「SANチェッカー」のそれであった。

 

「……恩に着る」

『おう、せいぜい着とけ。着とくついでに、突然目の前からアレが消えた鬱憤をはらしてもらいたいから、頼むぜ』

 

 鬱憤の部分が何にかかるのか真尋としても意味が解らなかったが、彼はSANチェッカーを腕に巻く。脳裏に浮かんだ数値は「58」。どうやら前回、ドリームランド分の正気同喪失の補填もされたのだろうか、やけに頭がクリアになり、立ち上がりがこころなし楽になった真尋である。

 

「――――いあっ」 

 

 そして、心おきなくフォークを振り下ろし、魔法陣を再起動。出現するイタクァは再び暴風をともない、しかし脳裏に浮かんだ数値は「33」。やはり邪神召喚クラスになるとかなり消し飛ぶらしい。

 召喚されたイタクァは、眼前の他のイタクァを目撃するや否や、殴りかかり、道路を陥没させる。そしてそのままマウントを奪い返しあいながら、殴り合いが始まる。今度こそ、同じ大きさの怪物同士の怪獣プロレスだ! 手持ち無沙汰になったクー子は、真尋の方に少し寂し気にぽつんと立った。

 

『なるほどな、イタクァ同士は見つけ次第お互い殺しあうって話だったか。プレイングの参考になるな……』

「とりあえず場所を移すと言うか、イス=カを追いたいんだが……」

『おう、いいぜ。なんなら送ってやるよ。俺としてもこの状況は不本意だからな』

 

 この場にて龍子は完全に気絶。ぱたり、と真尋の肩に頭をのせる形で倒れてきていた。目を閉じてしおらしければ幾分絵になる二人であるが、生憎と白目向いてよだれを垂らしているあたりからして、全く救いはなかった。持ち上げ背負い、走る真尋。直感的に「廃人」には至っておらず、SANチェッカーで回復可能だと判断する真尋は、再び彼に頼む。が、黄衣の少年は首を左右に振った。

 

『やるんなら全部終わってからの方がいいぜ。そう何度も脳みそに負担かけるものじゃない、常人だったら500点も1時間以内に喪失したら、出血して死ぬからな?』

「なんだその、拷問道具みたいな使い方……」

『実際、拷問道具なんだよ。もとが這い寄る混沌由来の技術らしいから、狂気に陥らないっていっても諸刃の剣ってことだろ。うまい話はそう転がってないって点じゃ、救いかもしれないけどな』

「まぁ、気絶していた方がいいかもしれないっていうのは納得したんだが――――っ」

 

 轟音。

 何の音かと言われても判然とはしないが、まるで大型のオルガンの鍵盤でも同時に叩いたような不協和音めいた轟音のそれが、真尋と仮面をつけた秀太の耳を打つ。

 

 

 

 

 そして二人は西の空に、見た。

 地平線が真っ赤に染まり、煙のように巨大な、まるで艦隊めいたなにがしかのシルエットを。

 

 

 

 

 




次回、滅亡
※打ち切りエンドとかじゃありません;
 


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Which Is the next stage the past or the future?/本線→D分岐

いつもの急転直下と、直近ぶりのくぎゅ(意味不明)


 

 

 

 

 

「あははははは! 真尋さん、あれ! あれ! 空に、空にっ」

「言われなくてもわかってるっての、言われなくても――――っ」 

 

 西の空に輝くものは決して明けの明星などではあるまい、もっと恐ろしいものの数々である――――その赤い火に照らされる輪郭を直視した瞬間、真尋の脳は電撃的に映像をキャッチした。彼のイメージのなせる業か、はたまた何かしらの電波的なものを受信したか。しかしそれはひどく測りがたく今生、今の時代における世界の映像なのかさえ定かではない()の数々だった。それらは一つにして複数であり、単一にして隊列を為す。奇数にして偶数であり、形態としては火の玉を連想する群れである。それら個々それぞれが自らの意識と正義感を持ち、それ以上に指令を受けてなにがしかの行動開始の指令を待っている。本来ならば十四もあれば惑星一つを滅ぼすに足るだけのそれが、ゆうに百の軍団を為している。それらはひとえに概念として有形であり、しかし実質として無形をとって惑星上部に展開し待機していた。真尋たちが視認できるようになったのは、彼らが接近し、また自らの姿を隠す必要がなくなったことに由来する。だが一つだけ言えることは、真尋もよく知る科学特撮ヒーロー番組よろしく彼の戦士たちの起源は遥か遠く、人間の形態を為した生物からの派生ではないことだった。

 その軍隊のうちの一つの火球のごとき光弾に真尋の意識がフォーカスする――――それは一つの星の記憶。無数の宇宙船飛び交う荒廃した惑星にて、大砲のような腕から火炎とも光線ともつかない何かを放射し異形の怪物を屠る巨人。遠目で見れば人のシルエットをしているようにみえるが実態は違う、下半身は乗り物のようにも見えるひどく名状しがたい形質を誇るし、上半身に至っては――――真尋のイメージが上向きになった瞬間、彼の脳裏が熱源と光に焼かれ、ようやっと我に返った。

 雑音のような、口笛のような音が聞こえる。

 ひざをつき倒れる真尋に、秀太は声をかける。

 

『おい大丈夫か?』

「大丈夫じゃないが……、あれか? 星の戦団って」

『何か見えたのか? おいおい、お前も感受性強いやつか?』

「お前もって何だ、お前もって。ほかにもいるのか」

『いたっつーかな。邪神にとりこまれて、今じゃバンバン周囲を燃え散らしてるよ――――って、オイ! 待てって』

 

 秀太の言葉をすべて聞かず、立ち上がり真尋は走る。現状見えた彼らは、今か今かと攻撃の瞬間を待ち望んでいる存在であることは確定だろう。星の戦士と呼ばれる彼らはオリオン座方面の星系から飛来し、圧倒的な戦闘力で敵対者たる旧支配者やそれに連なる存在と戦う存在。文献によっては天使ともされることがあるらしいが、なにぶん文献が少ないため真尋もリアルクトゥルフ神話知識で把握している情報量は少ない。ただ一つ言えることとしては、彼らは現在のところ「惑星保護機構」なる組織に連なっている存在であることだろう。イースともまた別軸の存在で、名前からして宇宙警備隊なりそれに類する存在だろうが、まず間違いなく真尋たち地球人類にとって好意的な存在ではあるまい。そもそも地球そのものに一体どれくらいの旧支配者、暗黒神話群の神々やそれに連なる眷属が眠っているかという話であり、彼らの目的からすれば優先事項は人類よりもそれらの殲滅に向けられるだろう

 ゆえにもし現在地球が残っているのだとすれば、それはかなり紙一重のレベルであるはずだ。

 そして真尋の想像力は、ほぼ間違いなくゲームセットの状況を導き出していた。本来の「取引」とされる日程よりも早く彼らが動き出しているこれは、果たして這い寄る混沌が真尋に干渉した結果発生した齟齬か否か。

 イス=カたちは、見覚えのある公園にて銃撃戦を繰り広げていた――――それは彼女らが持っていたビデカメラを連想させるその銃型装置、カメラ部分から射出される光線を用いてのものだ。イス=カの背後には女子高生が一人。どうもイス=ルギの攻撃から庇っているようだった。

 真尋は龍子をその場におろすと、フォークを振りかぶり「投擲する」。投擲されたフォークは電撃を帯びながら、イス=カとイス=ルギの間に落下。瞬間、天空から稲妻が降り落ち、空間が一瞬「ひび割れる」。数秒経過と共にフォークが消滅しひびもいずこかへと消え去ったが、水を差される形だった二人は真尋を注視した。なお真尋の背後にはクー子が浮かんでおり、状況はかなり物騒な流れへと移行しつつある。

 雑音のような、口笛のような音が聞こえる。

 なお龍子はそんなさ中でも、爆笑しながら撮影を続けていた。

 

「――――どうした、現地人……、現地人? うむ、貴様はアレだな、この呪文をとっていたヤツだな、うむ」

「イス=ルギ、貴方相変わらず人の顔と名前を覚えるの苦手なのですョ。真尋サンなのデス」

「黙れイス=カ、そういう話ではない! 何用だ、現地人」

「あれは、何だ」

 

 西の空を指さす真尋に、イス=ルギは嘲笑を浮かべる。

 

「なんであんなものが、今、この場にある。そもそもアンタらの作戦決行は明日、明後日だったはずだ。作戦を速めて襲撃を加速させたとして、何故こう緊急に状況が変化する。それこそ1日2日で終わるような準備じゃないだろっ」

 

 じりじりと、イス=カに近づきながらもフォークを構えたままの真尋。位置関係としては前方に近づくことになるので、発狂している龍子を背に庇っていることにかわりはない。

 真尋の疑問としては、そもそも真尋から呪文を取り出す期間がかなり空いていたことである。一週間前にこの時代に入ってきたとしても、例の儀式などその他もろもろに関してすぐさま終了するというのなら、やはり真尋を早々に昏倒させる必要はない。ゆえに真尋の結論としては、準備の期間は(真尋から術を取り出す時間を含めて)それなりにかかるということだ。そして龍子が接触したことで真尋が目覚めた時点で逃げ出した以上、その準備期間は最低でも2日と見込める。

 にもかかわらず、状況が急変した時点でとはいえいきなりここまで事態が変化することはあり得ない。変化しているからには、何かしら真尋たちが見落としていた何事かが存在するはずだ。そもそも真尋は提示された前提すべてを疑ってかかっているので、その結論は当然の帰結である。

 雑音のような、口笛のような音が聞こえる。

 対するイス=ルギは、オーバーなジェスチャーで肩をすくめた。答えるつもりはないらしい。

 そんな彼に変わり、イス=カが真尋に彼が見ていない時間の話を教える。

 

「さっき急いで追いかけたのですョ。でも見失って、それで見つけた時には、この『おかしくなってる』女子高生に銃を向けていたのですョ」

「おかしくなってる?」

「そうなのデス」

 

 珠緒と精神交換しているイス=カの隣に並ぶと、彼は地面に転がっている女子高生に視線を振る。よく見れば小刻みに震えたまま微動だにせず、見開いた眼は瞬きさえできないのか充血している。

 クー子が暇だったのかこちらによって抱き起すと、ブレザーから生徒証が落ちる。「田宮英子」と書かれたそれは、一瞬視界に入れるも、真尋は再び視線を前に向ける。

 

「少年、えーこ」

「? いや、それより、金縛り……、緊張状態、とか、発狂してるのか? これ。アンタが俺に見せようとしていたカートリッジだったか? でやるとこうなるのか?」

「ならないですヨ! これ、明らかにヤバいのを見た感じなのですョ……、普通に邪神とか目撃したか、精神交換されたかですョ」

 

 …………………………………………。

 

「待て待て、精神交換すると発狂するのか!? 精神交換すると」

「え? あ、はい。話してませんでしたのですョ?」

「初耳だっ」

「そうなのですョ。意識があるまま精神交換されると、移動中に『アイホート』とか『ヨグ=ソトス』とか『ティンダロス』とかと遭遇しかねないので、結構な確率で発狂するのですョ。まぁ襲われたりせず逃げ切れはするのですが、それはそれとして精神はアレなのですョ。我々も相手方も発狂する条件は同様で、だから基本、我々の精神交換は睡眠薬で意識を失った上で、さらに相手の就寝中を狙うのですョ」

 

 ちなみに交換し終わった後は衝撃で目が覚めるお得仕様デス、と銃を構えながらも何故か得意げなイス=カ。この期に及んで新情報を当然のように放り込んでくるあたり、彼女も情報提供者としてはあまり信用ならない類だと真尋はその証言のレベルを下げ警戒度を上げた。緊張感がなさすぎるわけではなく、おそらくは文明の違いでわからないところもあるのだろうが、それにしたってそれにしたってである。

 雑音のような、口笛のような音が聞こえる。

 

「なんでわざわざ精神交換したんだ? コイツ」

「精神交換したとは別に言ってないが――――、言っていないが、む?」

 

 イス=ルギが言葉を続けようとする間もなく、上空をにらむ真尋。いつの間にか空一面が白く、まるで昼間であるかのよう。違いは空を覆う雲のようなガスのような何かがひしめいていることと、そこに映し出されるヒトガタのシルエット。そして。

 

『――――――――』

 

 人間に理解できない言語が放たれていることである。

 

「……計画が早まったから、アナウンス、あるいは最終通告をしている。意味はわからないが、まだ挽回のチャンスはあるってことか?」

「――――っ、貴様、何故それを」

「いや、これくらいは初歩的な推理だろ」

  

 実際のところは初歩的な推理でない飛躍も含まれているが、そのあたりは真尋の根本からして外れる要素はないので、彼はその確信を疑うことはなかった――――ある意味でそれは彼自身が狂気の世界に身をゆだねつつあることを暗に示しているが、そこまで真尋は頭が回っていない。

 ただ事実として、この状況に打開策を見出すためには、真尋は正気の世界に背を向ける必要があることは確かであった。

 イス=ルギは慌てて再び瓶を取り出そうとする。現状、どう見ても完全に詰であったが、それでも何故かイス=ルギは慌てていた。それに真尋が疑問を覚えるより先に、状況は変わる。

 

「くっ、かくなる上は――――」

『――――そこまでだ、残念だったなっ』

 

 イス=ルギのバッグが「切り飛ばされ」、突風がさらい、とある男の手に。白銀の猿を模したような仮面をつけた、金髪のそれは長谷部秀太である(真尋に名乗っていないので彼は知らないが)。奪われたそれを前に、彼は口をぱくぱくさせていた。

 雑音のような、口笛のような音が聞こえる。

 秀太は顎をなでて、何やら納得したようにうなづく。そして次の瞬間、腕を振るとイス=ルギが精神交換している余市の足を「斬り飛ばした」。

 

「――――! おいアンタっ」

『悪いな。<心理学>は俺のスキルだ。まぁ後に(物理)(かっこぶつり)がつくけど』

「何意味のわからないこと言ってるんだアンタ、意味のわからないことを! そいつ、俺のクラスメイトだ――――」

 

 駆け出そうとする真尋を、クー子が腰に抱き着き抑える。

 

『――――勘違いするなよ一般探索者。今、俺たちが相手取ってるのは「世界の命運」だ。新しいキャラシート作ることが出来ない以上、今やれるだけのことをやんだよ』

 

 そのまま両腕も同様に斬り飛ばす。流血、動脈特有の鮮血がほとばしり、それが真尋の脳裏にあるついこの間のような「夢のような」出来事のトラウマをフラッシュバックさせる。数週間前、真尋が遭遇したそれは卑近な恐怖であり、身近な恐怖であり、そして自らに大きく罪を背負わせる類の恐怖だった。身近な人間を手にかけ、書けざるを得ず、また冤罪で捕まり精神も肉体も疲弊し、殺されかけ――――。瞬間、手元からフォークを取り落とし、腰の抜ける真尋。ここまで無理に張りつめてきていた分がいっきにぶり返したらしい。真尋が自称するまでもなく、いくら暗黒神話的経験値が積み重なっても、メンタルは高校生のそれ。さすがに一杯一杯なのだった。そしてSANチェッカーがからからと回転を始める。

 イス=カは両手で目を抑えて「スプラッタなのは苦手なのですョ!」としゃがみ視線をそらしていた。嗚呼、別段彼女も状況を改善できるのなら、多少なりとも犠牲は問題ないとするか――――。

 

 

 

 だが、それに真尋が何かしらアクションをするまでもなく、事態は一刻を争っていた。

 

 

 

 クラゲのような、イソギンチャクのような――――どこから湧いたのか、気が付けば所せましと、周囲一帯にそういった怪生物が浮かんでいる。生物たちは何かしら意思疎通をしているのか――――先ほどからずっと聞こえていた、雑音のような、口笛のような音が聞こえる。 

 

「ヨ!?」

「なっ」

 

 この生物群は、まずイス=カとイス=ルギめがけて襲撃をしかけた。ホラー映画でピラニアが人間に群がって食らいつくすような、まさにその有様である。秀太も思わず飛びのくがそれでも腕に数匹間違ってか噛みつかれ、無理に振りほどくと同時に鮮血が舞う。

 ぐちゃぐちゃと音を立てるさ中、真尋はとてもそれを直視できなかった。ただただうめくような声をあげるばかりで、しかし、不意に手元に落ちているフォークと、左手の甲に浮かぶ魔法陣に目が行く。

 

「少年。おすすめはしない。焼き払え切れないし、できたとしても少年の心は消し飛ぶ」

 

 真尋は気づいた。上空を覆っていたガスのように見えたそれら自体が、半透明なそのクラゲめいた怪生物の群れであったことを。それが「飛行するポリプ」と呼ばれる現生物であり、かつてイースを滅亡に追い込んだ、旧時代の地上の覇権を担った生物群であることを。未だ滅亡さえしておらず、何処かで息をひそめるかの生物群を。

 真尋は震え、そして周囲を見渡す。龍子の姿がない。

 眼前には、いまだ怪物の群がる「骨と肉片」をまき散らす躯が二つ。

 

「夢……?」

「少年。現実」

「…………っ」

 

 拳を強く握る真尋。現状で真尋ができることはない。その選択肢は多く奪われている。詰んでいる状況がさらに悪化しただけとも言える。

 

『これは――――、まずいな』

 

 秀太は突風を発生させ何処かへ飛び去り、クー子は真尋の手前に立ちドーム状に炎を展開。周囲に殺到するポリプから真尋を守っていた。

 真尋はついに力尽きたというべきか、その場に五体を投げ出す。ここ連続で起こっている状況全てにおいて、真尋はその時点の真尋において最善を尽くしていたが、どれ一つとして真尋の独力で解決に至れることもなく、今回もまたその類であった。もし解決することができるとすれば――――真尋は絶対にとらない選択肢を頭から除外する。龍子を「殺害し」、「胸に秘められた『自ら輝く疑似球多面体(トラペゾヘドロン)』を抉り出し」「ニャルラトホテプを召喚する」というそれを。クー子の「依り代になった」彼女の肉体のそれは既に使用済である以上はもう現状でそれしか手を思いつかず、しかし同時にあの這い寄る混沌がやすやすと真尋たちに手を貸すとも思えない。そしてそれ以上に、彼はもう決して「彼女を殺すことはできなかった」。去り際、かの分岐世界において、二谷劉実から投げられた意趣返しとやらも、その呪いに拍車をかける。何をしても、これもやはりロジックエラー。そもそも時間が足りないし、時間がない。敵の計画が早まった以上はそうそう地上が長く持ちはすまいし、それ以前にクー子のバリアもどれだけ持つか定かではない。終始頼まれるまでもなく「はううう!」と健気にも自らを庇う少女に、真尋は言葉が浮かばなかった。

 と、そのドームをかぎ分けながら、現れる何者かが一つ。

 

 

 

『――――カカ、ついこの間ぶりであるか?』

「っ」

 

 

 

 黒く染め上げられたもとは銀だったろう鎧姿。煤や火炎の影響か黒ずんでいるシルエットに、頬あてにより顔は不明だが、男性のそれではあろう、しかし妙に声音は高く感じ女性のようでもある。真尋はこの相手を知っている、知らないはずはない、ついこの間といって良いくらいに「真尋を助けた存在のうちの一人」であった。

 俗にTRPG的に言えば、闇将軍――――織田信長あたりが習合されている、這い寄る混沌の化身だ。

 それがこの場にいることも不明であったが、しかし驚くべきはさらにその先。どろりと音を立てて融解したかと思えば、鎧の中からは「龍子が現れた」。袖で額の汗(と化身が変身したろう黄ばんだ粘液)をぬぐう龍子。

 

「ふぅ、瓶の中に召喚術がって助かりましたね……。なんでピンポイントに信長だったのかわかりませんが。アレですかね、ひょっとして未来では這い寄る混沌とは別な邪神の扱いなんですかね? 信長って」

 

 発言は意味不明であったが、真尋はその追及をするのを本能的にやめた。

 

「――――っ、アンタ、今までどこに」

「ちょっと探し物を。って、真尋さん、どうしたんです? そんな顔して」

 

 どこか楽しげにさえ見えるように、何かを信じるよう微笑む龍子。その様は見るだけで否が応にでも劉実を想起させ、真尋は視線をそらした。

 

「そのまま、ずっとそこで倒れたまま。這いつくばったままでいいんですか?」

「…………」

「真尋さんは、姉から生きてほしいと。生きて幸せになってほしいと、そういうメッセージを受け取ったんじゃないんですか?」

「…………」

「諦めるのは、まだ早いんじゃないんですか? 真尋さんは、あなたに出来るあらゆることを、本当にし尽くしたんですか?」

 

 

 

「だったら、俺に何ができるっていうんだよっ」

 

 

 

 その真尋の一言は、それこそ真尋の底から吐き出された言葉だった。

 初恋の彼女さえ守れずに、そこのしれない悪意に終始振り回され、そして結局現在も、彼自身の力で選び自らの運命をつかみ取っている訳ではない。

 TRPGに例えるなら、真尋はキーパーソンであっても決して探索者と呼べるものではない――――自らの独力で、運命に抗うことさえできていない。

 

「もう遅いだろ! アンタ絶対わかって言ってるだろ、じゃあ俺に何ができるっていうんだよ!」

「…………それでも、出来ることはあります」

 

 龍子は目を閉じ、諭し続ける。そしてしゃがみこみ。真尋の視線の先に座り、彼と目を合わせた。

 

「――――人がもし神に勝てるのだとすれば、それはあきらめず思索し、継承するからです。その想いは、願いは、物語は、いつかやがて何処かの誰かの手に渡り、力になります。

 ほかならぬ真尋さんのつながっている『それ』が、その証じゃありませんか?」

 

 真尋の胸元に手を当て、龍子はそれこそ、勇気づけるように繰り返した。

 

「未来はまだ決着してません。真尋さんには、まだ出来ることがあるはずです――――その先の手段は、私がなんとかします」

「…………」

 

 真尋は何も言わず、上体を起こした。視線を龍子には合わせようとしない。それは彼女に対して何かしら後ろめたい感情が働いているからという訳ではなく――――。

 

 

 

「………………だったら、少し付き合ってもらうぞ」

 

 

 

 どうせ世界が滅ぶまでの間だけだ、と。ばつが悪そうに言う真尋に、龍子は慈愛に満ちた笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 




次回、最後の推理パートと逆転
うまくすればエピローグまでいっきに打てるかも・・・? 文字数次第ですが;


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絶対に疑ってはいけない前提条件/D分岐⇒本線

今回は切りが悪かったので一気にエピローグとつないだら、文字数がかなりアレになりましたです・・・ご容赦;


 

 

 

 

 

「ん、少年。ニャル子。そう長くは持たないから、手身近に…………、はうぅ……」

 

 早々にクー子からのアラートがあった真尋は、周囲を確認。遠方に転がっている女子高生を見て、腕のSANチェッカーを外し立ち上がった。移動するぞ、と真尋の声掛けに、龍子とクー子はじわじわと足を動かす。

 

「真尋さん、何をされるんですか?」

「情報収集だ、情報収集。あの、イス=ルギだったか? がわざわざ精神交換か何かした相手なんなら、少しくらいは情報を持っていてもおかしくはないだろ。だから手始めに、あそこで転がってるヤツの意識を取りもどす」

 

 と、少女付近に寄った瞬間にドームの一部、彼女が入れる程度の穴が開く。妙に芸の細かいクー子である。彼女をドーム内側に入れると、真尋はSANチェッカーを彼女の腕に取り付ける。ダイスの回転を見ることなく、真尋は彼女のほほを軽くたたいた。と、そんな彼女の顔を覗き込み、龍子はつぶやく。

 

「おや? えーこさんですね」

「……さっきクー子も言ってたんだが、何なんだそれ」

「だから、えーこさんですよえーこさん。四人のうちの一人の」

「…………アンタ、ひょっとしてA子ってことか? アルファベットのAに子供の子で。つまり、女子生徒A」

「はい」

「いや、そんなのわかるかっ」

 

 A子、とはつまり、前哨戦あるいはカモフラージュのように出されていた謎解きに出てくる犯人と思われる彼女か。

 

「そのあたり、クー子たちが見張っていたみたいな話だったと思ったが、そのあたりどうだったんだ?」

「A子をシュータくんとつけてたけど、特におかしな動きはしてなかった、ように思う……、緊急度的に少年の方に来た、はうっ」

 

 炎のドームにポリプが数体体当たり。ぐらりと一瞬クー子の体が揺らぎ、真尋たちに動いたドームの熱気が襲い掛かる。つられて体勢を崩しその場に転がる龍子と、それを抱きとめる真尋であった。

 

「気をつけろよアンタも」

「あ、ありがとうございます。……それで、なるほど。A子さんをSANチェッカーで復活させるとして、それで何がわかるんです?」

「わからないかもしれないが、情報自体が足りてない以上はとにかく集める必要がある……。何の情報が集まるかはともかく、今使える材料は全部使う」

 

 体を起こし、膝立ちの龍子。と、真尋の背後で肝心の彼女がうなり声を上げる。後ろを振り返り、軽く彼女のほほを叩いた真尋。胡乱な視線で真尋を見上げる彼女だったが、しかし周囲を覆う炎のバリアと、その向こうに見える名状しがたい数々を前に体を抱えて震えた。からから、とSANチェッカーが回転しているので発狂はあるまいが、それでも眼前の光景の異常さに色々と「やられて」いるらしい。

 

「な、なんで!? 何ここ!? 病院どこ!」

「病院? いや、まぁ少し落ち着け。話ができない」

「っていうかアンタら誰! 私! めっちゃ熱いんだけど!?」

 

 面食らったのも無理はない。

 しばらくまともに会話ができそうにない有様であったがそうもいかず、真尋は龍子を手招きした。

 

「真尋さん、私にどうしろと……?」

「いや、少なくとも男一人相手にこの状況で話しかけられるよりは、多少マシかと思ったんだが」

「どちらにせよ混乱してますし、意味はあまりないような気もしますけどね。で、ええっと、三年生の江洲英子(えす えいこ)さんであってます?」

 

 どんな名前だとツッコミを入れたくなった真尋だが、伊達に龍子も龍子なんて妙な名前をしている訳でもない。

 ただ少なくとも同性の相手が話かけてきたこと、同じ学校の制服を着ていることなどで、多少落ち着きを取り戻したらしい。見ず知らずの男を相手にするよりは幾分、日常に近い状況だということだろう、そのあたりは真尋の推測通りではあった。ただ「誰、アンタ」とか「ここどこ?」など、直近説明が難しい話が続く。

 

「そのあたりの話をする前に、まずアンタ、何してたんだ? 交霊術とか一体どうして手をだしたんだ」

「え? えっと、何? こーれい? っていうかアンタたちって同い年? 先輩に対して態度でかいわねコイツ」

「まぁ真尋さんそういうところありますので……」

「そういう話はおいておく、というか時間が真面目にない。質問に答えろ。アンタが何しようとしてたか知らないが、その結果がたぶんコレだ。正直に話してくれないと、こっちとしてもやってられない」

「結果って…………、私、ただ、お見舞いに行こうとしただけなのに」

 

 お見舞い? と真尋と龍子。首肯するA子は「入院しているお父さんの」と続ける。

 

「いつ死んじゃうかわからないから、出来る限り毎日いってるの。……だから、そんなのやってる時間ないっていうか、」

「どうしましょう、真尋さんこれ手づまり感が…………」

 

 龍子と彼女の言葉を聞きながら、真尋の脳裏にいくつかの言葉がよぎる。それは龍子から話されたイス=カの言葉であったり、あるいは自身が語った仮説の中で繰り返した言葉であったりだ。そしてそれが電撃的につながりを見せた時点で、敵方も敵方でかなりのリスクを冒していた、という事実に行き着いた。

 眉間を抑え、頭を振る真尋。龍子は不思議そうに、A子は訝し気に彼を見つめる。

 

「――――上塗りされても影みたいに残る、ってことか」

「へ?」

「いや、何でもない。忘れろ。…………謎というか、どういう手段で時間を省略したかがわかった。あと、アンタが何を準備していたのかもな」

 

 真尋からの言葉に、龍子は驚いたように目を見開く。一方のA子は更に表情に猜疑心を深めたが、真尋は彼女に視線を向け問いただした。

 

「こっちに文句をつける前に確認だが、アンタ、今日は何日だ?」

「はぁ? いや、普通に10日じゃないの? 5月10日」

 

 ゴールデンウィークあけてちょっと、と。その彼女の語った日付で、龍子も少しだけ察しがついた。

 

「およそ一週間前――――というよりも、真尋さんが昏倒させられた日ですね」

「より正確には、イス=カたちがこの時代に介入してきた日付だ。アンタもわかったか?」

「わかったような、わからないような……」

「頼りないな。まぁいい。結論から先に言うぞ――――江洲英子。アンタのその父親は、おそらく見舞いに行ってから数日もかからず、死んだ」

 

 真尋の言葉に、A子は「は?」と疑問符。

 

「父親が死んだあと、アンタは学内のSNSで何事か、交霊術みたいな企画があることを知る。そしてそこで、父親と再会できるかもとわずかな希望というか、まぁそういう不確定な感情を抱いて3人に協力することにした――――そして、それが今さっきここにいた『アンタだ』」

「ちょっと、言ってる意味が……?」

「スマホ確認してみろ。今日は15日――――アンタが見舞いに向かった日から、一週間くらい経ってる」

 

 言われるがまま自分の携帯端末を取り出して画面を見るA子。表示されている日数を見て、引きつった笑み。「何これ、どっきり?」という発言は平時ならばまともな思考だが、この異常な光景を前にしては、それこそ許されない。

 

「厳密に何があったかまでは定かじゃないが、この時間のアンタはおそらく何かしら術式を覚えさせられたか、組み込まれたか、そこは知らないが、ともかく何らかの手段で術式を精神に保持させたまま、過去に飛ばされた。たぶん謳い文句としては『死んだ父親に会える』とかそんなところか。後はこの発狂した本人の精神を復活させ、過去に戻せば万々歳ってところか」

「え? え? え?」

「つまり、真尋さん――――」

 

 

 

「――――論理パズルめいたアレの正解は、『全員共犯だった』ってことだ。術式を準備したのは結果的に一人だったかもしれないが、その他の事柄はすべて残りの3人がやったってことだろ。最悪、全員既にイースの連中と精神交換されていたか」

 

 

 

 真尋のそれは、論理パズルの前提を覆した発想であった。そして彼のアイデアは、今回の本来あった構図を描き出す。

 まず、この時代に来ていたイースは最低でも5人。イス=ルギを含め、例のB、C、Dと精神交換したものと、そして「真尋と交換されただろう誰か」。現地入りしたイースは、まず3人が父親を亡くしたA子に接触し、洗脳めいたことをしながら自分たちの協力者に仕立て上げる。ここまででおおよそ5日程度と見込める。イス=ルギは真尋と残りの一人とを精神交換し、術式を準備する。そして準備した術式をA子の精神に保持させ、精神交換。過去に送られたA子から情報を引き出した後、再びA子同士の精神を交換し、A子を再び洗脳する歴史を形成する。

 これにより円環構造的なものを保ちながら、ポリプを大量に用意するという難所を潜り抜けられる。真尋たちはともかくとして、敵の準備期間はそれこそ一週間分は余計に存在したと言うことだ。仮にイス=カがその介入による時代の消滅を観測して介入してきても、大枠の流れをカモフラージュさえ出来ればポリプの用意に感づかれることはあるまい。そもそもイースたちの観測できる情報にも制限があるからこその作戦であろう。

 手違いがあったとすれば、真尋の精神交換、そこが起点になる。本来あった流れにおいて、真尋と交換された精神はイースの誰かしらだったはずだが――――そこに這い寄る混沌の手が入った。結果、真尋は別世界の自分自身と精神交換され、自力とは言わないまでも早々にこちらに帰ってきた。そして龍子に目撃され、敵対イースたちの目論見は看破されたわけではなかったが、しかしタイミングとしてはまずかった訳だ。なにしろ肝心の、A子の精神交換よりも前の段階で気づかれてしまったのだから。

 

「でも、それっておかしくありませんか? 真尋さん、わざわざA子さんの精神を交換する必要は――――」

「だから、そこだ。アンタ仲介して聞いた話だから記憶が怪しいが、精神交換された状態からさらに精神交換とかはできないんじゃなかったか?」

 

 ――――時間転移は「一往復で固定される」ので、ここからさらに過去に遡ったりは出来ないですョ。

 

 龍子の脳裏に、イス=カの言葉がよぎる。A子は混乱の極みと言った様子で、わけわかんないと言いながら頭を両手で抑えていた。錯乱のせいか、それとも自分で外したのか、SANチェッカーは既に地面に落ちている。それを拾いながら、真尋の話に龍子は耳を傾ける。

 

「向こうは初めから魔術の準備とかなかったんだろ。だから現地調達という話になるが……、最初から介入できた時間は、あの一週間前の時点だったってことか? そうとでも考えないと辻褄は合わないが、まぁそこは重要じゃない」

「だったら、なんで今こんな状況に――――」

「俺たちにバレそうになったから、A子本人にメッセージをわたすなり何なりして、計画を速めたってことだろ。もはや取引がどうのこうのって話じゃないと。あー、なんとなくだが、こうやって現地人を色々な時代に移動させるのは、向こうとしてもタブーのはずだ。そうすると――――」

 

 そもそも何故この時代を滅ぼさなければならないのか、という問題が別途で出てくるが、その検討は後回しである。そこまでのことをして何故、という疑問をおき、真尋は龍子の顔を見る。

 

「つまり、そうなると――――現状を回避するためには、誰かが、過去に飛ぶ必要があると。アンタの用意した手段っていうのは、つまりイス=カたちが使っていたアレだな」

「ええ」

 

 す、と。腰の裏側から、ビデオカメラめいた例の銃を取り出す龍子。おそらくそれはイス=ルギがA子を撃ったときに使用されたもの、つまり彼女の精神交換をしたはずの道具であるはずだ。そして真尋の想像力は、その破損した外皮から除くラベルを見て直感した。すなわち座標情報の記述がないそのラベルは、時刻のみを指定して過去に精神を送るものであると。

 つまり――――使用すれば、真尋たちがイス=カと遭遇した、あの時間軸の公園付近まで精神を飛ばすことになると。座標の誤差は不明だが、A子の精神を飛ばした以上、彼女もまた「あの日この公園にいた」ということに他ならない。

 ガチャガチャと何やらそれをいじっている龍子に、真尋は確認した。

 

「俺が使ってたSANチェッカー、まだ壊れてないな?」

「ええ」

「つまり――――過去に飛べるのは一人だけと」

「ええ」

「そうかい――――」

 

 次の瞬間、真尋は手元にもっていたフォークを龍子の足元めがけて投擲した。眼前に落ちる稲光、轟音。驚き慌てた龍子はその場で転び、手元から銃を取り落とす。それを拾い、彼は龍子を押し倒す形で馬乗りになり、ポケットに入っていたSANチェッカーを奪った。

 対する龍子は乗りかかる真尋の体重も忘れてか、顔を赤らめやや慌てる。

 

「え? あの、真尋さん、こういうのはもっと色っぽい感じでしてもらわないと、私も心の準備が――――」

「何を色ぼけてるんだ、何を」

 

 言いながら真尋はそのSANチェッカーを「龍子の腕に付ける」。驚く彼女を前に、真尋は銃を構えた。

 

「あの、真尋さん――――」

「――――俺は、アンタが戻るべきだと思った。ただそれだけ」

「っ、ど、どうして」

「だって歴史が変わったら、今の俺たちと変わった後の俺たちは別人じゃないのか? ――――今現在の自分を引き継いだその相手以外は」

 

 いわゆる本線、分岐の考え方だ。分岐から本線に移動し本線で新たな活躍をした場合、その本線と分岐はまた別な歴史の扱いになるはずだ。であるなら、分岐での経験、自己同一性を引き継げる相手は本線に向かった相手以外有り得まい。

 

「だったら、なおのこと真尋さんが――――」

「それでも――――、俺は、アンタに行ってほしい」

 

 それはいかなる感情の発露か。現時点で龍子にその情報はない。だが真尋の顔が偉く悲観的である以上、少なからず彼女の姉が関わっているだろうことを龍子は察した。自嘲げな笑みを浮かべ、真尋は。

 

「悪いな――――アンタには迷惑かけっぱなしだ」

 

 龍子が言葉を続けるよりも先に、引き金を引いた。

 

 

 

 

 

 

「――――そんなんだから、真尋さんは姉に出し抜かれたんですよ」

「え?」

 

 

 

 

 

 引き金を真尋は引いた。だが、銃は起動しなかった。ふと考えてみれば、見た目の比重からして嫌に軽い。慌てて破損したカバーを開け内部を確認すると、そこには先ほど真尋が見たフィルムめいた何かは存在せず――――。

 がちゃがちゃと、前方から音。銃を下げて龍子を見れば、彼女は頭上で「もう一つの銃」――――おそらくはイス=カのものだろうそれに、さきほどのフィルムを組み入れて真尋に向け。

 

「次はもっと、色っぽい展開でお願いしますね♪」

 

 にこりと微笑み、引き金を引き―――かしゃり、という音と、光と、鈍痛を感じ、真尋は意識を失った。

 

 

 

 ※  ※  ※

 

 

 

 突如発狂に陥った、としか考えられない状況を前に、龍子は彼を背負い走り出した。基本的に、彼女は普通の女子高生である。生憎と自分よりがっしりしてそうな男子高校生一人をお姫様抱っことかで抱えられるほど体力はない。幸か不幸か公園手前で倒れたこともあり、いったんそちらに運び込む。幸いにもベンチ2つのうち、一つはちょうど女子生徒が立ち上がり空いたところだ。

 と、ベンチに真尋を寝かせた直後、ニャル子と真尋の前に珠緒が現れる。カメラと拳銃を足して二で割ったような道具を片手に、ニャル子たちに向けて構えたまま。

 

「――――そこまで俺は悪趣味じゃないぞ、アンタ相手にっ」

「!? ま、真尋さん?」

 

 珠緒が話を始めるよりも先に、真尋は意識を取り戻した。SANチェッカーもなしに発狂することもなく――――そこはかとなく蠱惑的な笑みが脳裏をよぎるがそれは放置して――――真尋は周囲の状況を一瞥し確認した。龍子がベンチに自分を運び寝かせ、珠緒、おそらくイス=カが接触してきた。

 聞いた限りの約一週間前の状況を前に、真尋はふらつく足のまま立ち上がる。

 

「――――いあっ」

「ええええ!?」「ヨヨ!?」

 

 そして、見つけた。真尋同様ふらつきながら歩く第三者。見覚えのうっすらある真尋たちと同様の制服姿。A子、この時間に送り付けられた彼女であるはずだ。

 真尋は自身の思惑に反して己を送り付けた龍子に対する悪態を考えるよりも先に、制服にしまっていたフォークを投擲。稲光、衝撃波が彼女の後方を襲い、転ばせる。

 龍子の肩を借りながら、真尋は指をさし、彼女のもとへ。何かを察してか、それとも真尋が意味もなく行動する訳ないという信頼からか、龍子は何も言わずに首肯して従う。一方のイス=カは意味も解らずしりもちをついていた。

 真尋は立ち上がろうとするA子の前にしゃがみ、その額を見る。と、真尋は直感に促されるまま、転がったフォークを手に「いあっ」と掛け声とともに、彼女の額を軽く小突いた。

 

 

 

 ――――瞬間、その全身から「玉虫色に輝く文字のような何か」があふれ出し、霧散する。

 

 

 

「あっ……、あっ……、お、お父さん…………っ」

「悪いが、これでチェックメイトだ。

 アンタには悪いが、会うことは出来るかもしれないけど――――」

 

 死んだやつは生き返らない。

 

 それだけ言って、真尋はその場で大の字に寝ころび。

 いまだ状況を把握していないイス=カは、目を白黒させていた。

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

「とりあえず地球の危機は去ったってことで、良いんだろうか……」

「ヒロ君どうしたの? お味噌汁、冷めちゃうわよ」

「何でもない。……あと、ヒロ君はやめろってのっ」

 

 決着の日から一週間後、つまり本来なら世界が既に滅んでいてもおかしくないその日。八坂家の食卓にて、真尋は帰ってきた母親を出迎え夕食を取っていた。テレビでは相も変わらず飽きもせず炭化した例のクジラについて特集が組まれ(ついにはオカルト番組の企画が組まれていたのか、それがちょうどゴールデンタイムに流れている)、辟易すること請け合いである。一週間前に真尋が降らした雷などごくごく少数レベル、ニュースに取り上げられる規模の話ではないのか、はたまた誰かが手を回したのか。少なくともそのことでここ一週間、真尋が命を狙われるようなことはなかった。

 真尋がA子を確保してから。事態の推移はかなり簡単に決着がついた。真尋より情報共有されて早々、イス=カはこの時間に転移してきた他の反乱分子のエージェントを、例の協力者(秀太)と協力して拘束し、取引もつつがなく終了したと連絡が昨晩はいる。終わってみればこともなく、まるで一度世界滅亡の危機に瀕したという事実が丸ごとなかったことにされているような、そんな不条理のような感情を真尋は感じた。結局、彼個人は多くの情報を知りえず、何がどうして世界崩壊に結び付くという流れだったのかさえ知らず、外皮をなぞるような対決しかしていないのだ、そこも仕方ないところではある。

 まぁ、そもそも特撮番組しかり時間旅行の取り扱いは複雑怪奇であるからして、真尋の立場でそれをすべて理解しようとすればそれこそリアルSAN値が消し飛ぶのだが。

 

「まあどっちがマシかって話なんだろうけどな…………。母さん、これ味噌汁の味変だけど、何入れた?」

「あ…………、わかっちゃった?」

「そういうのいいから」

「その…………、田楽みそでも、味は一緒かなーと思って」

「出汁の存在をせめて忘れるなよ……」

 

 母親と平和な会話を交わしながらも、真尋の思考は別方向に飛んでいる。結局、問題点さえ取り除きさえすれば、事態は特につつがなく終了の運びとなっているらしい。実際、この現在、仮に「三周目」と言うべきか。今のところこの三周目が崩れている気配はない。去り際のイス=カも「今ここの現在が本線なのでョ」と断言していた。真尋はその際の会話を思い出す。

 

『とりあえず国際電話経由で、米国の支部とも連絡がついたので、来週中ごろには再び珠緒サン達は戻ってこれるのですョ』

『例によって向こうにいた時の記憶は消去してか?』

『おおむねそんな感じですョ。まあ、偽造の記憶も組み込むから、そこまで問題はないはずなのですョ』

『それはわかった。良かったんだが、それはそうとして……、疑問があるんだが』

『ョ?』

『その、別分岐? 俺が直前までいたときの分岐なんだが、その分岐世界にもアンタらは精神を飛ばしてたんだよな。だったら、俺がそれを上書きしたとき、アンタらの精神はどういう扱いになるんだ? 未来に戻ったらおかしなことにならないか?』

『んー……、これくらいならSAN値はあまり減らないと思うので、情報公開なのですョ』

 

 ちなみにこの会話の場所は駅前の喫茶店であり、龍子は真尋の隣で謎のチョコレートらしき名状しがきソースがかかったパフェをモリモリ食べている。ともあれ声を潜め、イス=カは話を続けた。

 

『まぁこうして色々分岐はするのですが、最終的には時間っていうのは収束するものなのですョ』

『収束?』

『例えばこう、織田信長が本能寺で死んだか生き残ったか、とかそのあたりの問題を出すと、別にノブナガがホムンクルスとして現代に復活するとかしようとしまいと、過去において信長が死んだという事実はかわらないのですョ。それがいくつかの説が並列で存在していても、最終結果はかわりないと』

『それはわかったが、アンタ一体何を見てるんだ何を……』

 

 劇場大戦でコアな映画でも見てそうな発言はともかくとして。

 

『今回において、本線をこれ以上動かすことはできないということなのですョ。それをするためには、新たに反乱分子が別途活動をする必要があるけど、それは、流石に我々も警備を厳重にするし「失敗したと言う事実」が残ることによって、そちらの側に収束しやすくなるのですョ。そして、収束した結果に対して、存在はおのずと一意の存在となる、よって今の私が、たった一人のイス=カという訳なのですョっ』

『だから、アンタらはどうしてこう、過程を省くんだ過程を……。なんでそっちに収束しやすいんだ』

『介入者側からすると、成功の事実よりも失敗の事実の方が重かったりするというか……、んー、このあたりは真尋サンの正気が心配なので、今回は見送るのですョ。』

 

 今回とは。次回でもあるようなその発言にほほを引きつらせて、そして真尋の想像力は同時に一つの可能性に思い至る。

 

『じゃあ、つまり…………。アンタらはどうあっても歴史の影響を受けない場所から、この時代に介入していると。つまりそれは――――もしかして、もはや「邪神」とかその存在さえ、消え失せたような、そんなはるか先の時代からってことなのか?』

『――――――そのあたりは、黙秘するのですョ』

 

 良い線いってると思うのですョ、と続けはしたが。彼女もそれ以上の情報ははぐらかして伝えることもなかった。

 ため息をつき、龍子の方を見る真尋。楽し気に、そして少しだけ不思議そうに、疑問符を浮かべて真尋を見やるその顔。口元や目元を見た瞬間、猛烈な恥ずかしさが脳裏をよぎり直視できず、真尋は視線を逸らした。

 

「何? ヒロくん。恋煩い?」

「…………あ、り、え、な、い、絶対ありえないっ」

「あら、強く否定するところが色々想像力を掻き立てられるわねぇ……。さぁ、泣かせた女の数を数えろっ」

「なんで母さんまでネタを被せてくるんだよ」

 

 ため息をついて、真尋は両手を頭の後ろにやり、背もたれに寄り掛かる。テレビの音を聞きながら目を閉じ、思い出を馳せる。

 真尋が龍子を直視できなくなっているのは、なにも一度キスまがいのことをしてしまったからというだけではない。もちろんそれも理由に全く入らない訳ではないが、それが全てであろうはずもない。

 真尋を、便宜上「2周目」とでも呼ぶべき前の分岐に戻した時点の、劉実の発言。意趣返しと言っていた彼女のその言葉が、彼の頭の中を大きく混乱させる。

 彼女たちが別個の人格を有した、ネフレン=カのようなそれであるならば、真尋は確実に己の手をもって、劉実という存在を殺してしまったと言う事実。

 そして龍子と劉実が別人であるならば、何故彼女はいまだ真尋のそばにいるのか。

 

 それに対する彼女の返答は、ただ一つ――――。

 

 

 

 

 

『――――私、本当は妹なんていないんですよ?』

 

 

 

 

 

 嗚呼、だとするならば。

 彼女の妹を名乗る二谷龍子とは、果たして一体何なのであろうか――――。

 

 いまだ回答の出ない問題を。その前提条件さえ覆しかねない言葉に、真尋の思考は泥沼に陥っていた。

 

 

 

 

 

  【真・這いよれ!ニャル子さん 嘲章】

  【ザ・シャドウアウト・オブ・メロディアス】

  【END】

 

 

 

 

 




以上で3章完結となります。正確には次回予告? 的なのを更新したら、3章終了です。

毎度お気に入り、ご感想、ご評価ありがとうございます。
続きがあるかについては前回同様、ここまでの感想の状況(数とか今後の需要とか)、評価、お気に入り、あとは冒涜的天啓が再び降ってきたらになるかと思います;
 
それではまた深淵に\ドロップ/\ドロップ/


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 次章予告3(嘘)

※分かる人はかなりツゥなキャスティングイメージ


 

 

 

 

 

(ノイズ交じりの視界)

 

(電気的な砂嵐が晴れると、無数の壊れた機械が散らばっている場所)

(歯車や巨大な針が地面に刺さっている)

(かさかさとそのうちのどこかしらがうごめき、くすくすという声が聞こえる)

 

(ぽつり、とその中でランプが灯るマシンが一つ)

(ノイズまじりの音を鳴らすそれは、一つのカセットテープレコーダー)

 

(外装はほぼはげ、基盤も一部露出している)

(上から降ってきただろう大型の時計が刺さっており、半壊している)

 

(カラカラとから回る音が鳴っている)

(内部にはテープが入っていないらしい)

 

(一瞬、暗転し視界が回復する)

(二三度、空回りする音を鳴らしたあと、レコーダーはがたがたと震えて静かになる)

(内部に真っ黒なテープが、いつの間にか挿入されている)

(テープが巻かれる音がなり、時計の針が、かちり、と進む)

 

(レコーダーの再生音)

 

 

 

男性A(CVイメージ:井上和彦)

「――――取引だ。君は私の申し出を断ることは出来ないはずだ。何より、君のそのプランニングの立て方には優雅さが足りないし、不確定を許容する度量がない。それは本来は正解であるのだろうが、君の目的としてみたらそぐわないものではないだろうか」

 

男性B(CVイメージ:山寺宏一)

「ならば、お前ならどうするというのだ」

 

男性A(CVイメージ:井上和彦)

「そうだね。まず手始めに『彼女』の申し出を――――」

 

(再び一瞬ノイズが走り音声の具合が変わる)

 

ニャル子(CVイメージ:浅野真澄)

「ニャル子とクー子の、予言のごとき未来リポートのようなものッ!」

 

クー子(CVイメージ:堀江由衣)

『どんどんぱふぱふ、ぬめぬめぬるぽ』

 

ニャル子 

「ガッ!

 とにもかくにも謎が謎呼ぶ爆弾発言、そして気になる私のパフェ! 果たしてテーブルの上に積みあがったあの巨大なソフトクリームのようなタワーを、私は食べきることが出来たか否か!

 ヒントは真尋さんの左手ということで、クイズの答えはこの後すぐ!

 そんな訳で、次回の状況はどうでしょうか! 現場のクー子レポーター!」

 

クー子

 

 呼ばれるは貴方の名前

 ゆらめく足元に集う雲は 力と共に真実を覆い隠す

 

 失ったものと得たもの 天秤に乗る羽と心

 追いすがる精神は しかし相対する両手と向き合う

 拭い去れぬ刃は 屍のような絶望の沼から

 

 そして 少年は仮面を砕く。

 

 

ニャル子 

「さてさてつまりは、ザ・ABC! アクセル、バードにサイクロン! ヒートだったりルナだったりオーシャンだったり属性過多な今日この頃。

 次回の見どころは、消沈気味な真尋さんのため東奔西走するニャル子の宇宙CQC! うなれ私のエクスカリバール!

 な~んちゃってと、そこまで人外ではない私でした」

 

クー子

『次回、真・這いよれ!ニャル子さん嘲章。「トレイル・オブ・レガシー」』

 

ニャル子

「次回もまた深淵に?」

 

ニャル子&クー子

「『ドロップドロップ♪」』

 

ニャル子

「へ? 結局私は一体何なんだって? それはホラ、企業秘密ですよ」

 

クー子

「ニャル子、パフェごちそうさま」

 

ニャル子

「という訳で、正解は二人で食べて事なきを得た、でした!」

 

???(CVイメージ:加藤ひとみ)

「どうでもいいけど、二人ともそんな食べて太らないの?」

 

ニャル子

「あー、私はともかくクー子は大体全部が燃料に――――」

 

 

 

 

 

(ぶつり、と音声記録はここで途切れている)

 

 

 

 

 



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 痕跡の前の番外編
番外編:八坂真尋、私用によりハイドアンドシークに挑戦する


御久方ぶりです・・・
例によって4章前に、SAN値回復ポイントこと日常編
 
※今回若干メタっぽいのが目立ちますが、ギャグ短編ということでご了承ください;


 

 

 

 

 

 俗に衝動買いというものは思い立った即その場で購入の意欲をこらえきれず金銭を使うものであり、それをさして八坂真尋は「浅はか」と断じる思考回路の持ち主である。それ相応、年の頃以上に所帯じみている真尋であるからして、そういった散財に関しては最低でも一日か二日は時間を置き、頭を冷静にしてから手に付けるべきだと考えており、常日頃からそれを実行していた。

 しかして今日の真尋はどうかといえば、その言に違わず相変わらずの様子である。近所の買い出しはするべくもなく、かといって特に何をすることもなく家に居続けるのもどうにも収まりが悪い。であるならばと特に誰にも見つかっていないだろう前提ではあるが駅前の大型スーパーまで足を延ばした。

 思えばそれが、本日の失敗であったかもしれない。

 

「――――、はっ」

 

 気が付いたら、真尋は電気量販店の中で、とある物品を購入していた。それは俗に様々な異形、大概が巨体を伴う人知の及ばぬ生命であるところの巨大な怪獣に自らの生命をともしうる力を持つそれであり、また同時にそういった怪獣に対抗し得るべくおとめ座方面から飛来した未知なる光の粒子を物体に帰る技術を持ちうる超人の類であるそれに自らを転換しうる小道具の類。手のひらサイズであり、しかしてなんか初夏の稼働と発光をもとに音を鳴らし光を鳴らし、様々なシチュエーションを再現しうるそれは――――。

 

 端的に言って、変身アイテムの玩具である。

 ギ〇ガスパークとかエク〇デバイザーとか書いてあっても不思議じゃない。

 

 そもそも駅前スーパーを目指したはずが、地上4階建ての件の建物の中に来てるのも不可思議であるし、そもそも購入するまでの記憶が真尋にはなかった。

 

「なんでだ、なんで俺はこれを……っ」

 

 大宇宙の法則でも働いたのか、あるいは道中に何かしら「見てはいけない」類のものを目撃して正気が一瞬消し飛んだか。……決して筆者が超七の父を持つ超人零の目に取り付ける類のアレの十周年記念再販版とかを購入したことが原因ではないはずである。ないはずであるが、しかし機能面でいくらかの簡略化を受けてなおそれは、目に入った真尋に対して暴力的な求心力を発揮していた――――大概において真尋が購入を倦厭する理由としては、商品傾向としてコレクションアイテム指向であるからだ。「子供っぽい」より「一年も購入し続けるのはきりがない」というそれであるため、そういったコレクション要素が廃された物品であるならば、思わず食指が伸びてしまったのだろう。

 ちなみに彼の脳裏に「こんな年になってまで」という発想がない時点で、既に重症である。龍子から言われるまでもなくアレな手遅れであった。

 しかし実際問題、真尋の脳裏を占める問題はまた別である。この類のアイテムの箱、大概は直方体の形状としてもそこそこの大きさを誇り、学校指定のバッグの中に放り込むことは難しい。当然のようにお店の人になされるがまま紙袋詰めになったのだが、その紙袋も大した大きさとはいえず上部からのぞき込むと何であるかパッケージで判別できるのである。それに冷や汗をかく真尋であるが、つまり彼は「見られたくない」のだ。

 

 少なからず、自分がこの玩具を購入したというのを見られることを回避したい。

 特に、件の二谷龍子あたりには。

 

 別にそれを知ったからと言って広めるようなイイ性格をした相手という訳ではないが(冗談交じりには色々いじられるだろうが)、それよりも向けられるだろう生温かな視線や、その後に「プレゼントです」とか言って同様の系統の玩具を持ってこられる映像が真尋の脳裏に描かれる。想像力を働かせるまでもなく自身の趣味特性を否定できなくなってしまうので、それはそれで真尋としても回避したい問題なのであった。

 とりあえず三階のトイレ手前の休憩スペースへと入り、椅子の上に荷物を置く真尋。軽く眉間を抑えながらどう隠蔽したものかと思考を巡らせる。少なからず学校のバッグの中身と入れ替える、という作戦はとれない。目撃されればコトがコトだし、サイズの関係で紙袋には微妙に入りきらないのだ。決して真尋がテトリスの類、物品収納に関する技能が劣っているということではなく、そもそも無理な話である。

 

「とりあえず是正処置か……?」

 

 とはいえ伊達に真尋も所帯じみていない。すぐさま学校のバッグに常備しているビニール袋を取り出し、紙袋の中の箱にかぶせる。これである程度は視認性が悪くなるだろうと考えた真尋だった。

 もっともそも思惑が、彼の予定通りにいくかどうかは別であるが。

 

「…………、文字は見えないけど、写真は見えるな」

 

 いわゆる玩具パッケージであるからして、側面であれ上面であれそれなりの大きさで写真が――キャラクター(赤と銀の巨人的なサムシング)の写真と玩具そのものの写真が見えるのを回避することは困難。袋自体が透けていなければまた別な話ではあるが、生憎と本日の手持ちの袋にそれはなかった。かといってわざわざ袋を購入するために別な物品を買う訳にもいかず(それこそ無駄遣いである)、仕方なしに袋をさらにもう一つかぶせることで決着した。なお、文字は流石に隠れたが、それでも写真はうっすらと見え、ぬぐいがたいカラフルな色も見えなくなるわけはないので、本当に雀の涙程度のそれである。

 ともあれ、こうして真尋の帰宅ミッションがスタートしたわけだが。

 

「あれ、八坂君? 奇遇だね」

「――――っ」

 

 店を出て早々に余市健彦と遭遇する。眼鏡をくいっと上げるしぐさはややわざとらしいものの、特に意識してのものではないだろう。以前にあった神話的陰謀策謀からは明らかに縁遠く、特に何事もないように人の好さそうな顔をしていた。もっともあれは「事実ごと無かったこと」になったので、現在の彼が無関係と言えば無関係であるが。

 

「何か買い物?」

「ちょ、ちょっとな」

 

 いきなりどもる真尋である。相手には不審げな顔をされる。明らかに内心の動揺が現れていた。

 

「どうしたんだい? なんか大変そうな声だったけど……」

「まぁ、なんでもない。物色だ。そっちこそどうして?」

「僕はコレ……、消毒用アルコール」

「なんでまた……」

 

 時世に触発された訳ではあるまい、と真尋の視点からすれば超上位(メタ)的な直感が一瞬働くが、そんなものを認識すれば第四の壁の通過に他ならないという直感でも働いたのか頭を振る。1、2の、ポカン、という勢いでその思考を振り払った。

 健彦は健彦で苦笑い。

 

「いやほら、八坂君が何度も入院してるのを見ると、明日は我が身かなって思って。事故とかは早々ないとは思うけど、健康は大事だからね。……熱中症対策にスポーツドリンクでも買おうかな」

「まだ7月にもなってないし気が早くないか?

 ……それに何度もって言ったって、春ちょっとくらいだろ入院したの」

「ん? ……あれ? そうだね。おかしいなぁ」

 

 若干発言が不安定な健彦であるが、さもありなんという顔の真尋である。

 おそらくは直近で巻き込まれた「神話的事件」の後遺症か何かだろうか。何かしらの記憶操作処理を施されているはずだが、不完全なのかそれとももっと別な問題か。何かしらの危険な知識に接触しかねないと想像が働き、会話を切り上げて売り場を出た。

 

「さて……。余市は回避できたが、どうしたものか――――っ」

 

 言った次の瞬間、早々に向かいの百貨店に見知った後ろ姿が見えた。揺れる縛った後ろ髪は暮井珠緒のそれである。隣には他校の制服を着た女子と楽し気に会話している。と、ふとその視線が真尋の側に向きそうになり、慌てて横断歩道を渡りバスターミナルの方へ。ガーデンホールの側から裏手に回って逃げればまだマシだろうという判断だが、なんとなくこれで回避できた気がしない真尋。なんとなく周囲を見回しながら歩く男子高校生は若干不審であるが、そんな彼に注目する第三者は幸いにしていなかった。

 大通りを通ればリスクが高いだろうという判断のもと、二本東にずれて歩く真尋。道中大型書店だったり、それこそ春先に劉実を伴って行った専門店の建物の裏を抜ける。

 

 

 

 ――――と、ここで何かしら真尋は違和感を覚える。

 

 

 

 このあたりの通りは何度か出歩いているはずだが、道中の風景に何か微妙な違和感があるのだ。例えばそう、テレビゲームなどで実在の場所をモデルにした地形の場所に、実在しない説が存在するような。例えばそう、ゲームオリジナルの施設が存在しているかのような――――。

 

「……この店、こんな場所にもあるのか?」

 

 その違和感――真尋は正確に目星をつけた。

 その店は屋号に「銀屋」とついており、何かしら古いギャラリーを兼ねたようなアンティークショップ、というよりもアングラ感の漂う店。一見して周囲の建物よりも外装が古く、まるでそこだけ時代を切り取ったような違和感。周囲に合わせて老朽化したようなそれではなく、まるで遺物のような違和感の店。

 以前、真尋が快気祝いのような名状しがたいこの世ならざる奇怪なデー……のようなものをした帰りに寄った場所である。もっとも真尋たちが寄った店そのものは別な場所であり、支店か何かなのだろうかと推測する真尋。

 もっとも興味自体はすぐに解消されたのか、視線を外して足を進めようとし――――。

 

 

 

「――――あれ、真尋さんが今いたような……」

「――――っ」

 

 

 

 瞬間、どこからともなく聞こえた自称メインヒロインな声に、彼の想像力と直感が仕事をする。それはもう猛烈に働きだす。周囲の人の人数、音の反響具合、時刻、風向き、声の方向などなどエトセトラエトセトラ。いまだかつて神話生物の襲撃に遭った時でもこれほど過度過剰過敏に感知し直感し類推し計算したこともないだろうというほどである。あまりに焦りすぎだろうという反応であるが、それほどまでに龍子に購入した物品を知られたくないのだろうか――――。

 否、そこには別な理由も少なからず絡んではいるだろうが、果たして。

 

 真尋は咄嗟に、銀屋(しろがねや)の扉を開け中に直行。少なからず龍子の声からして、真尋の姿をしかと確認したわけではなく、また真尋の姿を見失っていたはず。姿が見え無くなればこちらに寄ってきても、銀屋の中に隠れているとは判断されまい。無駄遣いを嫌う真尋であるからして、そのあたりを龍子は把握している。本日の行動があまりに普段の真尋にあるまじきイレギュラーであるというだけであり、それ以外の点についてはおおよその推測を当てはめるだろう。

 故に扉を閉めてしゃがみ込み、息をひそめる真尋。ぜーはーと息継ぎをし目を見開いたまま。明らかに気疲れしすぎだし焦りすぎである。とはいえ多少の余裕はあるのか、店内をちらりと見まわす真尋。端的に言って人の気配がない。一等地とは言わないが駅周辺、商業施設がそれなりに並ぶ場所でこの閑散さは大丈夫なのだろうかと、意味もなく心配になる真尋であった。

 1、2分程度だろうか。外から龍子の声が聞こえるような、聞こえないような。「おかしいですねぇ」とか「真尋さんが好きそうな玩具が再販されてたみたいだから、一緒に見物に行こうと誘おうと思っていたのに」とか、あからさまにピンポイントなことを言っている。本当は最初からまるっとみられていたのではと恐怖にかられるも、龍子の性格なら彼女の言ったとおりに同行する方を選ぶかと判断した。

 

 声が聞こえなくなってから立ち上がり、周囲を見渡す。薄ら明かり、オレンジ色に照らされる店内は以前よった銀屋に比べて装飾品やらが多いような気がする。例の蜘蛛の巣のごとく張り巡らされたワイヤーとそれにつるされるハンガーはいつも通りだが、何かの民族衣装のようなものやら小さいトーテムポールのようなものやら、やはりどこか日常の風景とは違っていた。

 

「あら、貴方は……」

 

 と、そんな真尋に声が駆けられる。占い師のような、あるいは魔女がかぶっていそうなフードのついたケープ姿は覚えがある。以前寄った店の店長らしき女性だ。雇われ店長なのか、こちらの店にも来ていたのだろうか。挨拶と同時に聞くと、彼女はやや含み笑い。

 

「まぁ、わたくしの店ですので。絶賛、領域を拡大中です。……どうぞ、よしなに」

「領域……?」

 

 支店を増設してるということだろうか、妙な表現をするなと訝しむ真尋。もっとも彼女はくつくつ笑い「今日はお一人なんですね」とからかうような声をかけた。

 

「別にいつも一緒にいるわけじゃないぞ?」

「あらあら、付き合いたてのカップルのようで見てて御飯がおかわりできそうな様子でしたのに」

「いや……、結構フランクなんだな店長さん、結構フランク」

 

 顔は隠れて見えないものの、お嬢様然とした雰囲気の彼女の意外な言い回しに困惑する真尋。それを見て更に楽しそうに、くつくつと笑う。

 

「でも、ああやって相性占いをするくらいだもの。それなりに邪推はされるかって思いますけど」

「大体において逃げられない状況ってのは存在するから」

「あらあら……。尻に敷かれそうですね」

 

 誰とは言わないけど、とやはりからかう様な雰囲気の店長。眉間にしわを寄せる真尋は視線を逸らすと。ふと、部屋の奥に置かれている棺桶が目に留まった。……何故に棺桶があるのかと不審がり近寄る。

 よく見るとそれは棺桶ではなく、棺桶に見立てた何か別な道具のようだ。蓋部分が半透明のケースで、顔面にあたる部分はよく見えない。また内部には妙に肌の白い人形のようなものが置かれており、出来だけでいえばかなり精巧なもののようにも見える。

 

「あら、興味あります? それ。新入荷なんですよ」

「新入荷って……」

「とはいえ非売品ではあるので、必要でしたら注文する必要があるんですけど。あ、蓋は外さないでください? 結構デリケートな代物なので」

「いやいや、これってそもそも何ですか、これって」

 

 まさか本当の死体ではあるまいに、と思っている真尋に。店長は含み笑いのような声。

 

「ふふ……、レプリカ、です」

「レプリカ……?」

「ええ。撮影用とかに使うやつですよ。中に動物の臓器とかを仕込んで、それっぽく見せるもの。肌は色を塗ったりして質感を出したり、あとは血管を模したチューブの中に色々入れて――――」

「あー、いや、ディティール聞きたいわけじゃないんだが……。というか、そういうのって売ってるものなのか? こういう店で……」

 

 まさかのホラー映画ないし特撮映画で使われそうな備品、大道具のようだった。何故そんなものがこんな店頭で販売されているのかという話ではあるが、訝しむ真尋に「仕入れ先がアバンギャルドな方針なので」と返される。明らかにそんな話ではないのだが、しかし真尋も追及する気は失せた。

 

「特注品になりますけど、注文も請け負ってたりもしますよ? お金はそれなりにかかりますが」

「そりゃかかるだろうけど……、っていうか、ここって何の店なんです? 全く売ってるものの系統に理解が及ばない……」

 

 くつくつと微笑む店長は、何とも言えない胡散臭さがあった。

 

「一応、服をメインとしてはいますが、まぁ色々なんでも置いてあります。機会があったら、またお立ち寄りくださいな。彼女さんを連れて」

「だから違うってのっ。……というか、アレだ。立ち寄ろうにも、ここの店って色々大丈夫なのか? このくらいの時間帯で、この込み具合で」

「――――――――くく」

 

 くつくつと笑う店長。若干、頬が引きつっているようにも見える。

 

「…………聞かない方がいいですか?」

「致命傷、とだけ」

「あっ」

 

 察してしまった真尋。流石にいたたまれず頭を下げて今度こそ店を出た。

 そんな彼を見送って、くつくつと微笑む店長。ぼそりと「危なかった」とつぶやいた。

 

「『素晴らしき星の英知の会』と繋がりがあるのも、今の時点では知られると問題だし……。わたくしも、色々進出場所は考える必要があるかしら」

 

 そう言いながら、背後にあるショーケースを開け、腕時計―――――否、腕時計型の十面ダイスが二つとりつけられた妙な形状の装置をいじりながら。

 ちらりと、先ほど真尋がうろついていた棺桶を一瞥し。

 

 

 

「それにしても、あの手に持っていた袋のおもちゃは、一体何だったのかしら……」

 

 

 

 今度会ったら聞いてみようかしら、と。真尋の知らないところで、龍子を伴って店に訪問できない理由が増えていた。

 

 

 

 

 

 



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