まほチョビ(甘口) (紅福)
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(1/12)鉄鼠の折(前)

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【まほ】

 

『頼豪の霊鼠と化と、世に知る所也』

 

 部屋の真ん中に置かれた読みかけの小説。開いてみると、そんな一文があった。ブックカバーが掛けられているので、表紙を確認する事は出来ない。

 その一文に、一枚の絵が添えられている。

 何匹ものネズミが描かれているのだが、絵の中央に居るネズミだけが一際大きい。そのネズミにだけ口髭や髪があり、何より服を着ている。尻尾のように見えるのは、垂れた帯だ。人間とネズミの間のような姿をしている。どこかの有名キャラクターのような可愛らしいものではない。なかなか気味の悪い絵だ。

 ネズミ達は巻物のようなものを広げており、中心のネズミが他のネズミ達に何かを指示しているように見える。よく見ると巻物は所々破れていて、ネズミ達が食い荒らしているのだと推測できる。

 中央のネズミが『頼豪の霊』なのだろうか。しかし、名前と思しき大きな文字は『鉄鼠』と読める。テツネズミ、だろうか。そんな名前の戦車が黒森峰にあったなあ。

 そこまで考えて、疲れて辞めた。短文と一枚の絵だけで大した情報量だ。しかも一頁目である。

 千代美の趣味は恋愛小説だった筈だが、最近はこんな難しい本を読んでいるのか。いや、この本も内容を追ってみれば恋愛小説なのかも知れないが、如何せん追う気になれない。

 サイズは文庫なのだが、厚さがおかしい。子供向けの漫画雑誌のような分厚さなのだ。これは文庫の厚さとして正しいのだろうか。文庫というものは、もう少し薄いというか、持ち運びに適しているものだと思っていた。

 まあ、今回はその厚さが幸いしたというか、災いしたというかだ。

 とりあえず置かれた本はそのままにして、コートを羽織り家を出る。

 雪がちらついていた。空を見上げ、もう冬だなあなどと当たり前の事を考えていると、丁度そこに千代美が帰ってきた。

 お帰り、と声を掛ける。

 

「なんだよ、出迎えなんて珍しいじゃないか。お腹空いたのか」

「いや、ちょっと本屋に買い物」

「うーわ珍しっ。あ、だから雪が降ってきたのか」

 

 そうかもな、と気の無い返事をする。読書は千代美の趣味で、私もそれに付き合って本は読むが、自分から進んで何かを読む事はあまり無い。読んでも雑誌が精々だ。

 自分から本屋に行く事も滅多に無い。今も正直言って、気乗りはしていない。用事が出来たから行くだけだ。

 

「ふーん。じゃあ、私も付いて行くからちょっと待っててくれ」

 

 千代美が荷物を置きに、いそいそと玄関へ向かった。

 それから待つこと暫し。千代美が行って戻ってくるまでの短い間にも、雪は徐々に強くなる。

 

「お待たせー、と言いたい所だけどこりゃ本格的に降りそうだな」

 

 私の髪や肩に薄く積もった雪をぱたぱたと払いながら、千代美は天気の心配をした。ニットの帽子を私に手渡しつつも、本屋はまた今度にしよっか、と残念そうに言った。まあ、実際に残念なのだろうが。

 私が本屋に行くのがそんなに珍しいか。

 そんなような事を考えて、雪の勢いが増しつつある空を睨んだ。

 

「さ、うちに入ろう」

「ああ、いや」

「なんだよ」

 

 どう、しようか。今はまずい。

 千代美が怪訝そうに眉を顰めているが、正直に説明するのも憚られる。

 進退の極まった私がその場に立ち尽くしていると、千代美がすうっと目を細め、低い声を出した。

 

「まほ」

「ん」

「言い訳は中でゆっくり聞くから、早く入れ」

 

 あ、バレたのか。

 まあ、それもそうか。千代美は本を部屋の真ん中に置いたりはしない。況してや、置きっ放しになどする筈も無い。荷物を置きに家に入った時点でそれは目に入り、何だこれはと思ったのだろう。

 

「ごめんなさい」

 

 観念し、素直に頭を下げた。私は千代美さんの本で虫を潰しました。

 とても、丁度良い厚さだったので、つい。

 

「ああもう、分かった分かった。とりあえず寒いんだから早く入れ」

 

 そう言って、千代美は私を家に引っ張り込んだ。

 

「おかえり」

「只今」

 

 帽子を脱ぎ、もそもそと部屋着に着替えながら暖房の電源を入れた。買い物は雪のため中止。これよりコーヒーの時間とする。

 千代美の淹れたコーヒーは何故か美味い。そして、私が淹れると何故かどうしても同じ味にならない。粉と湯だけでこうも差がつくのが何とも不思議だ。

 

「で、代わりにこの本の新品を買いに行く所だったのか」

 

 千代美の読みかけの小説。私は虫を潰す道具に、つい手元にあったそれを使ってしまった。

 ブックカバーが掛けられていたので目立つ汚れにはならなかったが、それでも流石に申し訳ない。なので新しく同じ本を買って来ようと思ったのだが、残念ながら雪に阻まれた。

 

「謝ってくれりゃ許すよ、そんなの。それに知ってるだろ、私が痕跡本好きなの」

 

 んん、と返事なのか相槌なのか我ながらよくわからない声を出した。そうか、それも痕跡本という事になるのか。

 痕跡本とは文字通り、痕跡のある本の事。コーヒーの染みや、うっかり付いた折り目など、千代美はその本にしか無いあらゆる痕跡が好きなのだと言う。彼女にとって、読書の延長線上にある趣味だ。

 痕跡そのものというよりは、自分の本に親しい人の痕跡が残る事が嬉しいのだとか。まあ、分からないでもない。しかし、それでも限度というものがあると思う。曲がりなりにもそれは、虫を潰した本だ。

 だが千代美が言うには、汚れは拭いたし、読むのに支障がある訳でもないからいいのだという。

 

「まほが虫を潰すのに使った本だと思うと、笑っちゃうじゃないか」

 

 そう言って千代美は本当に笑い、私の顔もつられて綻んだ。全く、心の広い奴だ。本当に、呆れるほど広い。そうやって二人で笑っていると、ふと、ある疑問を思い出した。

 千代美の趣味は恋愛小説だった筈だが、いま千代美の手の中にある本はどうにも恋愛小説に見えない。

 

「それは一体、どういう本なんだ」

「うーん、分類が難しいけど、たぶんミステリー」

 

 恋愛小説が好きなのは勿論だが、そればかり読んでる訳ではないという。考えてみれば、もっともだ。

 

「これは読書好きには結構有名なシリーズで、気になって買ってみたんだけど、内容が難しくてなかなか進まないんだ」

 

 千代美はそう言って今度は苦笑いをしたが、少し嬉しそうだ。

 なんだかんだで面白いのだろう。惚気(のろけ)のようなものか、と解釈した。

 

「テツネズミ」

「ん、違う違う、これはテッソって読むんだ」

 

 鉄鼠、テッソか。

 正しい読みが分かったお陰で、さっきよりも理解が深まったような気分になれた。それに気を良くした私は、さっき見た一頁目の短文や絵について、思ったことを千代美に話してみた。

 一頁目とは言え、私が珍しく本の内容について話すのを千代美は嬉しそうに聞いている。

 

「マウスみたいな名前だなと思った」

「あはは、言い得て妙だな。でもまあ、鉄鼠と言うならマウスよりも」

 

 そこまで言って、千代美はぴたりと口を噤んだ。心なし、表情が固い。

 

「いや、なんでもない」

 

 そのまま話を引っ込めてしまった。一体何を言おうとしたのだろうか。気になり少しつついてみたが、忘れてくれとまで言われた。

 気にはなるが、そこまで言われてしまっては仕方ない。話題を変えるとしよう。

 

「明日は本屋に行けるだろうか」

 

 それを聞いた千代美は、意外そうに目を丸くした。

 

「本を買う必要が無くなったのに、まだ行きたいのか」

「行きたいと思っている訳じゃないが、行こうとして行けなかったのがどうにも靄々(もやもや)してな」

 

 不器用な奴だなあ、と呆れられた。そうは言っても性分だ、仕方がない。しかし買うものが無いのにわざわざ行くのも阿呆らしいので、何か目標を決めるとしよう。

 そうだな。出来れば当初の目的通り、千代美に何か買ってやりたい。

 

「何か欲しい本はあるか」

「ええっ、急に言われてもなあ」

 

 まあ、そうか。今そのテッソを読んでいる所だ。厚さを見る限り、読み終わるのは当分先だろう。少し残念だが、またの機会か。

 

「うーん、あ、そうだ」

 

 唐突に思い出した様子で、千代美はブックカバーをねだってくれた。ああ、それは良い。今まで使っていたものはついさっき、洗濯機に放り込んでしまったからな。

 

「誰かさんのせいでな」

「ふふふ、ごめんなあ」

 

 コーヒーおかわり。



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(2/12)鉄鼠の折(後)

【千代美】

 

「鉄鼠と言うならマウスよりも」

 

 そこまで言って私は口を噤んだ。自分の軽口を反省する。

 危ない危ない、言っちゃったらどうなってたことか。

 鉄鼠の絵に対するまほの解釈は大体正解だ。

 あれは、鉄鼠がネズミを引き連れて巻物を食い荒らしている絵。

 それ自体は間違いない。

 ただ、そのシーンに至るまでの物語があるんだ。

 

『頼豪の霊鼠と化と、世に知る所也』

 

 この短文が示す通り、『頼豪の霊』が鼠と化すまでの物語。

 

 ざっくり言えば

 

『人のために行動した頼豪という僧が』

『理不尽な仕打ちを受け』

『寺を追われ』

『鼠と化し』

『寺の経典を食い荒らす』

 

 というお話。

 

 鉄鼠の絵は、そのラストの部分を描いたもの。

 ネズミ達が食い荒らしている巻物は、寺の経典だ。

 だから鉄鼠を何かに喩えるのなら、マウスよりも、お前の妹の方がぴったりなんだよ。人のために行動し、その結果として黒森峰を追われ、後にその黒森峰のマウスを食った、お前の妹が。

 なんてさ、言えないよな。

 反省が段々と自己嫌悪に変わる。ほんと、どうかしてるよ。まほと話してると、不思議と口が軽くなる。

 普段言わないような事をぽろっと言っちゃいそうになるんだ。

 浮かれてるのかも知れない。口数は相変わらず多くないものの、以前のような寡黙さは無くなったまほ。そんな彼女と毎日話せる事が嬉しくて仕方ない。彼女が本の話に付き合ってくれた時なんかもう、それだけで頬が緩む。

 まあ、それにしたって言って良いことと悪いことってものがある。いい加減、慣れても良さそうなもんだ。

 

「何を言おうとしたんだ」

 

 まほが訝しげに私の脇腹をつついてきた。こういう悪戯っぽさが彼女に芽生えた事が、そしてそれを私に向けてくれる事は、堪らなく嬉しい。

 でも言えないってば、流石にさ。

 

「忘れてくれ」

 

 そう言うしか無かった。

 少しの間だけ、気まずい沈黙が流れる。その時間を反省と自己嫌悪に充て、心の中で謝った。

 まほと、みほに。

 

「明日は本屋に行けるだろうか」

 

 気を遣ってか、まほが話題を変えてくれた。

 少し驚いた。本を買う必要が無くなったのに、まほはまだ本屋に行こうとしている。

 だけど、蓋を開けてみれば何の事はない。行こうとしたのに雪で行けなかったのが癪だったというのが理由。本屋に行きたいという訳ではないらしい。全く、不器用な奴。

 まあでも、当初の予定通り私に何か買ってくれる気でいるらしい。それは嬉しいんだけど、どうしようか。今読んでる本は、読み終えるまで暫く掛かりそうだしなあ。

 とはいえ、まほが残念そうにしているので何も頼まないっていうのも可哀想だ。

 そんな事を少し考えて、ピコンと思い付いた。

 

「じゃあさ、ブックカバー、買ってくれよ」

 

 そうねだると、まほの表情がぱっと明るくなった。

 ブックカバーなら、ずっと使える。本を読み終えたら次の本に。それを読み終えたら、また次の本。いつでも一緒だ。まほに買って貰ったブックカバーで本が読めたら、どんなに素敵だろう。

 内心うきうきしつつ、平静を装った。

 装えてたかは、分かんないけど。

 

「コーヒーおかわり」

「はいはい」

 

 粉とお湯だけなのに、何故かまほはコーヒーを淹れるのが下手だ。こうしようと決めたわけでもないのに、いつの間にかコーヒーを淹れるのは私の仕事になっていた。

 砂糖は無し、ミルクは多め。それがまほの好み。二人だけの常識がこうやって、少しずつ増えていく。コーヒーを淹れるだけなのに顔がにやける。

 だけど時間的に、ぼちぼち夕飯の支度もしないといけないな。時計を見ると十八時を少し回ったところ。支度を始めるには遅いくらいだ。

 まあ、ご飯はタイマーのお陰で炊けてるので、簡単なおかずを作るだけでいい。さーて、何にしようかな。

 

「何か食べたい物あるか」

「んん、魚」

「おっけー」

 

 こういう時、まほは絶対に『何でもいい』とは言わない。例え何でもよくても、とりあえず明確に答えを出してくれるので助かる。

 んー、魚か。

 エプロンを着けながら考えていると、インターホンが鳴った。ああそっか、そう言えば今日の十八時だったな。

 急いで玄関を開けると、思った通り。見知った男の人が立っていた。

 流石、時間に正確だ。

 

「こんばんは、小包の再配達に伺いました」

 

 伝票に、エプロンに突っ込んでおいた『西住』の判子を捺して荷物を受け取る。配達屋さんの去り際、これまたエプロンに突っ込んでおいた栄養ドリンクを手渡して、いつもご苦労様ですと声を掛けた。

 日中、私達は大抵留守にしているから、荷物は再配達してもらう場合がほとんどだ。配達屋さんにとっては二度手間なのが申し訳ないと常々思っている。

 だからと言うかなんと言うか、配達屋さんにはこういうささやかな差し入れをするのが習慣になっている。

 栄養ドリンクを受け取った配達屋さんは、済みませんいつもご馳走様ですと何度も頭を下げて、次の配達先へと向かった。

 頑張れよー。

 

「荷物か」

「うん、ペパロニからだ。丁度いいや、今夜はこれにしよっか」

 

 鮭。

 ペパロニは食材探しで北海道に行っているらしく、丸ごと一匹を送って寄越した。ありがたい。

 しっかし、とりあえず今夜食べるとしても二人で消費するのは大変な量だ。

 

「ダージリンにでもお裾分けするか」

「んん、連絡しよう」

 

 言うが早いか、まほはスマホを取り出して荷物と格闘している私の代わりにダージリンへの連絡を済ませてくれた。

 ふと、鮭が入っていた箱に貼られた伝票が目に留まった。よく見たら宛名が『アン斎千代美様』になっている。ペパロニが伝票に何て書こうとしたのか容易に想像できて吹き出してしまった。あいつにとって私はいつまでも『アンチョビ姉さん』なんだなあ。

 この伝票、取っておこう。なんか勿体無くて捨てられないんだよな、こういうの。

 私が笑ったのを見て、まほが何事かと覗き込んできたので伝票を見せてやる。それでまた、二人で笑った。配達屋さんにとっちゃ、ここはややこしい家だろうな。判子は『西住』だし、受け取るのは安斎だし、宛名はこんなだし。

 

「配達屋なあ」

「ほんと、ご苦労さんだよな。雪も降ってるのにさ」

「千代美は、ああいうのが好みなのか」

 

 ん。

 

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。まほも自身の口を手で覆って、しまったという顔をしている。

 え、何、もしかして焼きもちですか。あららら、私が配達屋さんに優しくしただけで、焼きもちですか、へえ~、西住まほさん。

 

「へえ~、焼きもち~」

「うるさい」

 

 背けたまほの顔が、かあっと耳まで赤くなった。

 あーーー、可愛いっ。

 堪らなくなって、顔を背けたままのまほに思いっきり抱き付いた。

 

「や、やめろ千代美っ、うわ魚臭い」

「魚食べたいって言ってただろー」

「そっ、そういう意味じゃなくて、うわっ」

 

 抱き付いてよろけた弾みで、二人揃ってソファに倒れ込んだ。咄嗟にまほが下になってくれたのが分かって、愛しさが込み上げる。

 まほの大きな胸に顔を埋め、はあっと息を吐いた。

 

「ふふ」

「何だ」

 

 ぐしゃぐしゃと頭を撫でられた。嬉しい。

 

「どこにも行かないから安心しろよ」

「分かってる」

「本当かなあ」

 

 まほは軽口を叩いた私の頭を掴み、ぎゅうっと胸に押し付けた。んん、さすがに苦しい。

 もがいていると、まほが一言。

 

「どこにもやらん」

 

 その言葉を聞いて、ぞくぞくとしたものが背中を走り抜けた。今、私は、まほに閉じ込められている。

 ああ、これは檻だ。すごくすごく、幸せな檻だ。

 どこにも行くもんか。

 

「しかし千代美、冗談じゃなく魚臭いぞ」

 

 全く、雰囲気も何もあったもんじゃない。でも確かに、鮭いじってる途中だったもんな。言わせて貰うなら、まほも十分魚臭い。

 

「誰かさんのせいでな」

「ふふふ、ごめんなあ」

 

 それじゃ、先にお風呂にしよっか。

 

「あの」

 

 声。まほのものでも、私のものでもない声がした。あっ、やばっ。

 ハッとなり振り返ると、にやけ顔のダージリンが立っていた。

 

「こ、こんばんは」

「今晩は」

 

 勝手知ったる何とやら。いつの間にか自分でお茶まで淹れて啜っている。

 

「いつからそこに」

「『ああいうのが好みなのか』辺りから。もしかしてと思って見守っていたけれど、とても良いものを見せて頂いたわ」

 

 お隣って便利よねと、わざとらしく付け足した。連絡を貰ってすぐ来た、って事か。連絡をした当のまほは、完全に固まってしまっている。

 ダージリンは更に、『良いものを見せて頂いたあとで恐縮なのだけれど』と仰々しい前置きをして、にやけ顔のまま言った。

 

「続きはその鮭を切り分けてからにして頂けるかしら」

 

 あ、うん、はい、そうします。



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(3/12)鎌鼬の夜

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【千代美】

 

 お風呂のスイッチを入れ、ペパロニから送られてきた鮭を切り分ける。二人では消費しきれないので、隣に住んでいるダージリンにお裾分けだ。

 切り分けたひとつを彼女に渡した。

 

「ふふふ、ご馳走さま」

 

 にんまりしてそれを受け取るダージリン。それはどっちの意味での『ご馳走さま』かな。まあ、普通に考えたら両方か。彼女はそういう含みを持たせるのがとても上手い。

 まほとイチャついている所をダージリンに見られてしまった。あまりにも不覚。まあ、別に関係を隠している訳ではないんだけど、こうやって見られてしまうのは恥ずかしい。

 流石に私達だって、大っぴらにイチャつくような事はしない。してない、と思う。たぶん、きっと。

 見られたショックでさっきまで固まっていたまほは、硬直こそ解けたものの、憮然とした表情のまま黙っている。果たして照れてるのか怒ってるのか。まあ、これも両方だな。

 ダージリンが勝手に上がり込んで来た事については別にいい。なんだかんだで親しい間柄ではあるので、普段から互いに行き来している。それに、今回に関して言えば、呼んだのはこっちだ。

 まほが怒っているのは、ダージリンが来ると分かっていながら迂闊な行動に出た私に対してだろう。あと、たぶん、それに乗っちゃった自身に対して。

 そっちに関しては、私は嬉しかったけど。

 まほが無言のままこちらをじろりと睨む。考えている事を見透かされたような気がして、たじろいだ。でも、ちょっとだけ睨み返す。言っとくけど私だけのせいじゃないし。

 

「あら、見詰め合っちゃって」

「うるさいぞダージリン。早く帰れ」

 

 遠慮の無い悪態は親しさの証、なのかな。

 ダージリンもそれは心得ていて、ちっとも堪えていない。まほの悪態を、まあまあとだけ言って流してしまった。

 

「寒くて外に出たくないのよ。もうちょっと居させて頂戴」

 

 そっか、そういえば外は雪だ。隣の部屋に帰るための一瞬とは言っても、不精になる気持ちは大いに分かる。

 一度暖かい所に座ってしまうと、外どころか廊下に出るのさえ嫌になる。

 無碍にする訳にはいかないよなあ、と考えていると、またまほに睨まれた。そういえば夕飯の仕度の途中だった。まあ、そうは言っても材料が確保出来てるから大してやる事はない。鮭なら適当にソテーしてやるだけでも美味しく出来る。ご飯も炊けてるしな。

 とりあえずお風呂が沸くまでは、ぷんと漂う魚臭さの中でダージリンと世間話でもしようかって所だ。まほの機嫌がさっきからずっと悪いのは、なんかもう、仕方ない。

 

「明日は積もるかしらね、雪」

「やだなあ、本屋に行く予定なのに」

「あら、何を買うの」

 

 経緯を丸ごと説明しちゃうとややこしくなるのは流石に想像が付くので、まほにブックカバー買って貰うんだー、とだけ。

 自慢っぽくなっちゃったかな。まあ自慢なんだけど。

 

「ブックカバーって、文庫本を買うと付いてくる紙かしら」

「いやー、布のがあるんだよ。デザインも色々あってさ、何より繰り返し使えるんだ」

「へえ、それじゃあ本を読む時はいつでも一緒なのね」

 

 素敵だわ、とぽつりとつぶやく。

 それがなんだかちょっと寂しげで、ドキッとしてしまった。

 ダージリン、綺麗だなあ。ジャージで緑茶の癖に。地が綺麗なんだよな、羨ましい。時々、こうやって思い出したように『ダージリン様』の風格が垣間見えるのが面白い。

 するとダージリンはちょっとだけ思案顔をして、不思議な事を言い出した。

 

「まほさん、そろそろ限界かしらね」

「んん」

 

 不機嫌そうにまほが唸った。

 否定とも肯定とも付かない、って事はたぶん肯定なんだと思う。図星なのが悔しくて、素直に肯定はしたくない、でも嘘はつけないから否定も出来ない。って言うか違うならはっきり違うと言う。そういう逡巡の末に出た『んん』だ。

 まほはよく『んん』という声を出すけど、その時その時でニュアンスが違う。その解読が出来るのは、私のちょっとした特技。

 でも、限界って何だろう。そこまで読み取る事は出来なかった。

 

「ふふ、それじゃお暇するわ。ごめんなさいね、お邪魔しちゃって」

 

 さっきまで外に出るのを渋っていたのが嘘みたいにダージリンはそそくさと帰っていき、それを見計らったようにお風呂のアラームが鳴った。

 お風呂が沸きました。

 

「千代美、お風呂」

 

 あ。

 

「まほ。限界って、もしかして」

 

 気が付いたのとほぼ同時。

 腰をぐいっと引き寄せられ、そのまま強引に唇を塞がれた。

 

 んん。

 

 私の舌の上に僅かに残っていたコーヒーをまほの舌が舐め取り、それをごくりと飲み下す音が聞こえた。ぷは、と唇を離したあと、まほは不機嫌な顔のまま同じ言葉を繰り返す。

 

「お風呂」

 

 それで私のスイッチも、すっかり入ってしまった。

 

「はい」

 

 素直に、そう答えた。

 

 と。

 お風呂でどんな事をしたかは、まあ内緒にするまでもないと思うけど、内緒。

 そのあと簡単な夕飯を済ませて、今はもう寝室だ。

 

 少し、窓を開けた。

 するすると入り込んできた冷たい夜風が火照った体に気持ち良い。

 ペンとノートを取り出し、机に向かう。夕方にまほが言っていた事が思いのほか面白かったので、そこから着想を貰って形にしてみようと思い立った。

 前々から考えてはいたんだけど、ずっと始められずにいた事。小説を書く。

 書いてみたいとか、書きたいテーマがあるとか、そんな大層なものじゃない。日頃から読んでいるものを自分で書いてみたらどうなるだろう、というぼんやりとした興味。

 そこに、まほの一言が上手く刺さった。

『鉄鼠という名前はマウスみたいだなと思ったよ』

 なーるほど、と思った。まほの言葉がきっかけになって、私の中でひとつのお話が広がり始めた。それを形にしてみる。

 でも、やってみて初めて分かるけど難しいな。

 いやまあ、簡単だと思ってた訳じゃないけどさ。

 書こうとしている話自体は頭の中にあるから、要点だけは簡単に書ける。それを書き出して始まりから終わりまでを並べてみると、それだけでちょっとした達成感があった。だけどそれだけ書いても文字の量は一頁にも満たない。

 ああ、これがプロットってやつなのかと、遅れて気が付いた。この書き出した要点にそれぞれ味付けをしていけばいいのかなー。

 

「ここに居たんだな」

 

 まほが部屋に入ってきた。時計を見ると、書き始めてから一時間ほど経っている。あっという間。

 

「書き物か」

「えへへ、小説だよー」

 

 どれどれ、とまほが覗き込んできた所を咄嗟に隠した。書いたものを見られるのって、なんだかものすごく恥ずかしい。だってこれは、一字一句、私の内側から出てきた文字だ。

 でもまあ、まほにならいいか、と思ってもじもじしながら見せてやった。

 三つの話で構成したひとつの話。

 

「最初は、好きな人に好きな本を貸す女の子の話か。ふむ、どこかで聞いた事があるな」

 

 気のせい気のせいと言って、とぼけて見せる。まあ、まほが気付くのは当たり前かもな。

 これは、私がまほに初めて本を貸した時の話が元になっている。

 タイトルは『文車妖妃』。ラブレターの妖怪の名前だ。まほが『鉄鼠』をマウスに例えたところから思い付いたネーミング。

 その次は、一話目の女の子から本を借りたせいで、その子のことが頭から離れなくなった誰かさんの話。タイトルは『夢魔』だ。

 そして、最後は。

 まあ、まだ書いてないんだけどさ。ペンを置いて、欠伸をひとつ。

 

「続きを書かないのか」

「書かなくても続くからな」

 

 ごろんと布団に寝転がった。その隣、布団の空いているところをぽんぽんと叩いてまほを呼ぶと、素直に潜り込んできた。可愛いやつめ。

 ぴたりと体をくっつけてやると、まほはまた鼻の奥で『んん』と唸った。

 

「暑いぞ」

「いいじゃん」

 

 夢中で書いてた時は気が付かなかったけど、ちょっと寒い。湯上がりだから当然と言えば当然か。

 

「明日は晴れるかなー」

「さあな。お休み」

 

 えへへ、おやすみー。



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(4/12)塗仏の夢

塗仏
ぬりぼとけ

絵は存在するのに設定が存在しない妖怪
「目が飛び出る」だの「仏壇から出てきて驚かす」だの言われているのは全て後付け
元の絵には「塗佛」としか書いてません

それはそうと、後付け設定のみで存在しているカップルが居るらしいですね


【文車妖妃】

 

 本を貸す、という行為が好きだ。あまり理解はされない嗜好だと思う。

 偏見かも知れないが、本が好きな人ほど、他人に本を貸すのを嫌がるものだと思う。何故なら本ってのはすごくデリケートな物なんだが、人によって扱いに天と地ほどの差があるからだ。

 読む時はブックカバーをかけて、ページに折り目がつかないように大切に大切に読む人も居る。背表紙が陽に焼けたりしないように、本棚の位置にこだわる人も居る。

 かと思えば全く頓着しない人も居る。平気で食べ物を零したりな。

 

 後輩に漫画を貸した時の事。

 読みながら眠ってしまったらしく、思いっきり折り目が付いて返ってきた。こういうリスクがあるから、本好きな人は、あまり他人に本を貸したがらない。

 スミマセン姉さん新しいの買って返しますと平謝りの後輩に対して、私は憮然として次は気を付けろよと言ったが、実は内心喜んでいた。

 彼女が折り目を付けた本。これはこれで、世界にひとつしか無いものだからだ。

 この折り目は、彼女が本を読みながら寝た証拠。私が高校を卒業しても、この本は私の手元に残る。折り目を見るたび彼女を思い出す事になるんだ。それが嬉しい。

 まあ、だからと言ってよくぞ折り目を付けてくれたと褒めるのもなんだか違うので、ポーズとしてとりあえず怒るけど。

 

 痕跡本、と言う。

 そのまんま、痕跡のある本のこと。折り目に限らず、書いた本人にしか分からないメモ書き、栞に使ったノートの切れ端、果てはぺしゃんこになった羽虫等々。その本にしか無い痕跡に興味を持つという嗜好。

 調べてみると痕跡本専門の古本屋もあるそうで、色んな世界があるなと感心する。

 私にとって、本についた痕跡は汚れじゃなく、謂わば歴史なんだ。痕跡本が好きって言うよりは、痕跡が好きなのかな。

 だからという訳じゃないが、今、私の本が一冊、あいつの部屋に行っている。

 この間、あいつに痕跡本の話をした。それを聞いたあいつは、じゃあ何か貸してくれと言ってくれた。

 私の嗜好を理解したのかは定かじゃないが、話を聞いて私の嗜好に付き合ってくれたのは確かだ。

 不器用だが、良い奴だ。

 丁重に扱えよ、と言って本を貸した。

 あいつは痕跡を残すような本の扱いはしないと思うが、あいつの部屋に私の本があるというだけでも嬉しい。ああ、カレーの匂いでもついて返ってきたら面白いかもな。

 私の、一番お気に入りの恋愛小説。

 ちょっと回りくどいが、あれは私なりのラブレターだ。あいつがその事に気付くとは思えないし、気付かなくてもいい。

 本が返ってきたら、それだけで思い出になるからな。

 私だけの思い出になれば、それでいいんだ。

 

――――――――――

 

【夢魔】

 

 痕跡本と言うらしい。

 そのまま、痕跡のある本のこと。何かの拍子に付いた折り目、書いた本人にしか分からないメモ書き、栞に使ったノートの切れ端、果てはぺしゃんこになった羽虫等々。

 その本にしか無い痕跡に興味を持つという嗜好。

 痕跡本専門の古本屋もあるそうで、色々な世界があるものだと感心する。

 私の友人はその痕跡本が好きだと言う。

 痕跡本自体と言うより、自分の本に他人の痕跡が残るのが嬉しいらしい。

 ならば試しにと、何か貸してくれと言ってみたら、鞄の中から取り出した一冊を貸してくれた。

 正直、勉強以外での読書の習慣はほとんど無い。だが借りた以上は読まずに返す訳にも行かないので、寝る前の時間にちょびちょびと読んでいる。

 これまで馴染みの無かった、恋愛小説というものを。

 しかし、それによって少し困った事になった。

 寝る前に恋愛小説などという刺激の強いものを読むせいで、甘ったるい夢を毎夜見る。

 それに、彼女は気が付いているのだろうか。

 この本こそが、彼女の大好きな痕跡本であることに。

 顕著に開き癖のついているページは、彼女のお気に入りのシーンなのだろう。そのページには水滴のような皺がぽつぽつと付いていて、それは、たぶん、涙の跡だ。

 彼女がお気に入りのシーンを読んで涙を流した証拠となる。

 全てのページの端に付いている微かな曲線は、彼女の繰り方の癖のせいだと推察できる。

 そして、私が貸してくれと言った時に何気なく鞄から取り出したが、それはつまり、いつも持ち歩いているという事だろう。

 いつも持ち歩いているのなら当然読みかけである筈で、事実、本の中程には栞が挟まっていた。読みかけの本を気軽に人に貸すだろうか。

 恐らくだが、彼女はこの本を繰り返し読んでいる。だからこそ、いつも持ち歩いており、気軽に人に貸せるのではないか。

 つまり、これは、彼女の一番お気に入りの恋愛小説という事になるんじゃないのか。

 その事に気が付いてしまってからは、どうにも妙な気持ちになってしまった。

 彼女の事を考えながら恋愛小説を読む。そして、そのせいで甘ったるい夢を毎夜見る。

 実に困る。

 読み終えて本を返す事になれば感想を求められるだろう。なんと言えば良いのか。

 現状、一番の感想は、面白かったでも泣けたでもなく、彼女の事が頭から離れなくなった、という他ない。

 そんなことを考えていたせいでページを繰る手が止まり、うっかり開き癖を付けてしまった。彼女はこのページに開き癖が付いた理由を考えるだろうか。

 むう。

 とりあえず、この本の感想については、読み終えてから考えよう。開き癖の説明も後回しだ。

 差し当たっては、そうだな。

 また一冊貸してくれ、と言ってみよう。

 そうすればきっと、また会えるから。



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(5/12)空澄の鵯

おはよう


【まほ】

 

 日曜日。

 揺れるカーテンの隙間から射し込む光がちらちらと顔に当たり、その眩しさで目が覚めた。窓に目を遣ると、結露した水滴がきらきらと光っている。

 千代美なら詩的な感想のひとつでも述べるところかも知れないが、生憎私はそんな柄ではない。手で陽光を遮るのにも限界を感じ、顔を顰めるばかりだ。

 ならばせめてと寝返りを打とうとすれば、それも叶わない。一瞬、金縛りかと思ったが、すぐに違うと分かった。犯人が隣で暢気にすうすうと寝息を起てているのだ。

 こいつは私の事を抱き枕か何かと勘違いでもしているのだろうか。腕どころか脚まで絡めて私の体をがっちりと拘束している。道理で動けない訳だ。

 辛うじて自由が利くのは、陽を遮るために布団から出した右手。その手の冷え具合から今日も寒そうだなと思いを巡らせ、凍みる指に息を吐く。

 はーっ、という音で千代美が目を覚ました。

 

「ん、どうしたー」

 

 ため息にでも聞こえたか、少し心配そうな声音だ。

 

「少し手が冷えただけだ。それより離してくれ」

「うわっ、ごめん」

 

 千代美の拘束が解除され、自由の身となる。

 ふう、と、今度は本当にため息をついた。念願だった寝返りを打ち、千代美の方を向くと、体が少し軋んだ。

 

「起こしてくれりゃ良かったのに」

「私も今起きた所だ」

 

 言って、冷えた右手を千代美の頬に当てる。少しだけ意地悪をしてやりたくなったのだ。

 彼女はうひゃあと声を上げて、その手を掴み、布団の中に引き込んだ。二人の体温ですっかり暖かくなっている布団の中で、握られた手を握り返した。

 にぎにぎと、千代美の掌の感触を確かめる。

 

「今日も寒いんだな」

 

 嬉しそうに笑う。まあ、確かに寒い。しかし、昨日降っていた雪は止んでいるようだ。路面の状態は外に出てみるまで分からないが、とりあえずは晴れたようで何より。

 買い物に出るのに支障は無さそうだ。

 

「あー、布団から出たくない」

「気持ちは分かるが」

「あと少し。もう少しだけでいいですからー」

 

 起きるのを渋り、何故か敬語になる千代美。これは二度寝コースだろうかと、ぼんやり思う。まあ私一人ででも起きてしまえば良いようなものだが、そうしないのは、結局私も布団から出たくないのだ。

 はあ、暖かい。

 しかし、このままではいつまで経っても起きる事が出来ない。それこそ二度寝してしまいそうだ。思い切って布団を蹴り飛ばし、その勢いで立ち上がった。不意に布団を剥がれた形になった千代美が、うぎゃあと悲鳴を上げる。

 彼女は体を丸め、懇願するように言う。

 

「もうちょっと優しく起こしてくれよ」

「具体的には」

「ん」

 

 仰向けになり、ずい、と両手を突き出す。

 引っ張って起こしてくれと言うのだろう。手を伸ばし、彼女の両手首を掴み、千代美もそれに倣う。互いの手首を掴む格好になり、栄養ドリンクの宣伝の掛け声を真似た。

 

「ファイトー」

「必中ー」

 

 掛け声とは裏腹に脱力したままの千代美の腕を引っ張る。

 すると千代美が急に腕に力を込めて引っ張り返して来た。

 お陰でバランスを崩し、千代美の上に倒れ込む。押し倒したような形になったが、この場合は『引っ張り倒された』とでも言うべきか。全く、怪我したらどうする。

 

「大丈夫か」

「えへへ、ごめん」

 

 気を取り直し、二人でもぞもぞと起き出す。

 冬の休日は起きるだけで一仕事だ。

 

「お早う」

「おはよう」

 

 目を擦りながら、晴れたかなと空模様を気にする千代美に、晴れてるぞと窓を顎で示す。カーテンが揺れ、窓の外の麗らかな陽光がまた射し込んできた。

 

「あー、洗濯しなきゃ」

 

 んん。何だろう、何かがおかしいな。

 この違和感は一体どこから来るものだろうかと、一瞬考えた。

 千代美も何かに気付いた様子で真顔になっている。

 ああ、そうか。

 カーテンが揺れているのだ。風の道が出来ている。

 今朝、目を覚ました時点でカーテンが揺れていた。と言うことは、つまり。

 

「安斎千代美さん」

「は、はい」

「ゆうべはここで何を」

「小説を、書いておりました」

「窓は」

「あの、はい、開けました。お風呂上がりで涼むために」

「閉めましたか」

「い、いいえ」

 

 じりじりと詰め寄る。成程、道理で寒い訳だ。千代美を捕まえ、室温でまた冷えてきた手を彼女の首筋に当てた。今度は両手だ。喰らえ、こいつめ。

 うひゃああと叫び、身を捩る千代美を取り抑え、その背中に手を突っ込む。

 彼女も負けじとこちらの脇腹に冷えた手を這わせてきた。千代美は私の弱いところに的確に攻め込んで来る。んひっ、という変な声が漏れた。

 暫しの混戦。

 朝っぱらからどたんばたんと、擽ったり擽られたり。弾みで壁に頭をぶつけ、隣人の迷惑になりはしなかったろうかと、妙に冷静になった所で戦いは終わった。引き分けだ。

 その頃にはもう、二人とも体がぽかぽかと暖まっていた。

 窓を閉め、改めて言う。

 

「お早う」

「おはよう」

 

 幸せの在り方が分かったような、そんな気がした。



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(6/12)桃太郎、または一反木綿

【千代美】

 

 あっさだあっさだ朝ごはーん。

 目玉焼きとみーそーしーるー。

 

「何だその歌は」

「んー、朝ごはんの歌」

 

 そんな歌があるか、と笑われた。あるし。

 まあ、それはそれ。朝ごはんは簡単に目玉焼きと味噌汁だ。

 私の目玉焼きは塩コショウを振って、焼き加減は固め。だから一番最初に焼き始める。

 ベーコンは二人ともカリカリ派なので一緒に焼く。

 まほの目玉焼きは半熟だから、最後にちょっと焼くだけ。こうすると二人分のベーコンエッグが同時に焼き上がる。

 味噌汁は豆腐とワカメのフリーズドライ。本当は手間を掛けたい所ではあるけど、手間を掛けると時間も掛かっちゃうからな。手軽さが大切な時もある。

 

「おーこーめー、おー米米ー」

「なんだよ、その歌」

「エリカに教わった」

 

 変な歌、と今度は反対に私が笑ったところで米が炊けた。これで朝ごはんの仕度が完了。私は大学生くらいまで朝はパン派だったんだけど、いつの間にかまほの習慣が伝染した。

 

「洗濯も終わったのかな」

「ちゃんと全部干してきたぞ」

 

 洗濯物を干しただけで何かの手柄のように誇らしげにするまほを、偉い偉いと甘やかす私。まあ、寒い季節の洗濯は確かにお手柄か。

 こうやって仕事を分担すると何でも早く済むし、結果的に二人の時間が多く取れる。

 千代美さんはお料理に、まほさんはお洗濯に行きました、なんて。昔話みたいだなと思ってにやにやしていると、まほにつつかれた。

 

「また何かおかしな事を考えているな」

「へへ、昔話みたいだなと思ってさ」

 

 言って、考えていた事を話す。

 するとまほも成程と頷いて笑った。

 

「じゃあ、出掛ける前に吉備団子が必要だ」

「お弁当かー」

 

 そうだなあ、サンドイッチでも作ろっかな。

 まあ、とりあえずそれはいいや。ひとまずご飯にしよう。

 

「朝だもりもり食べよーおー」

「やっぱり変な歌だな。頂きます」

 

 いただきまーす。

 

――――――――――

 

【まほ】

 

 朝御飯を食べ終わり、千代美は吉備団子もといサンドイッチを作り始めた。上機嫌でまだ変な歌を歌っている。

 

「具材は何にしよっかなー」

 

 とても気になるが、敢えて訊かずにおくことにする。昼までの楽しみにしよう。それに、どうせ何が入っていても美味い。

 私はその間、今日の予定の確認作業に入る。とは言え、大した流れでもないが。

 まずは本屋でブックカバーを買う。昼は公園にでも寄って、いま千代美が作っているサンドイッチを食べる。帰りは恐らく彼女がスーパーに寄りたがると思うので、そこで買い物をして終わり。

 鬼ヶ島に行くような意気込みは必要ないな、と一人で笑う。千代美の癖が伝染したのかも知れない。と、にやにやしているとインターホンが鳴った。

 千代美は手が離せないので私が応対すると、ダージリンが立っていた。何だ珍しい、わざわざインターホンを鳴らすなんて。

 

「あ、あのね」

 

 柄にもなく口籠っている。普段なら勝手に上がり込んでべらべらと下らない事を喋り始める癖に、一体何事だと急かしてやった。

 あまり立て続けに珍しい真似をされると、また雪が降ってしまう。

 

「これね、こちらに飛んできたの」

 

 ぎくりとした。

 彼女が顔を赤らめながらもじもじと差し出したそれは、実に見覚えのある薄布。

 しかも、よりによって出来心で買った、一番派手な逸品。

 

「そ、そうよね、そちらのものよね、これ。いえ、別にお二人がそういう関係なのは知っているし、こういうものを持っていても不思議じゃないと思うわよ。これを穿くのはどちら、とかも、その、訊かないし、あの、えーっと、でも」

 

 しどろもどろになりながらも、一生懸命に捲し立てる彼女の声を、私は半ば放心しながら聞いている。

 

「こ、こういうものは、お部屋の中に干した方が良いんじゃないかしら」

「はい、そうします。ありがとうございます、ダージリンさん」

 

 そうしてダージリンから受け取った『布』と、外に干していたその他諸々のデリケートな布切れを室内に干し直す。

 

「お客さん、誰だったー」

 

 サンドイッチを作りながら、千代美の問う声がする。ダージリンが珍しく気を利かせて玄関先で用を済ませたものだから、千代美は客が誰だったのかまだ知らない。

 さて、まずいぞ。何と答えよう。正直にダージリンが来たと言えば芋蔓式に真実を説明しなくてはならない。

 奴め、まさかそれを狙って玄関先で帰ったのだろうか。

 

「んん」

 

 つい癖で声を出し、しまったと思った。千代美は何故か私の『んん』のニュアンスから、今の心境をかなり正確に読み取ってくる。

 普段ならただただ有り難いのだが、これは隠し事が出来ないという側面も持っているのだ。

 案の定、千代美は私の唸り声から何かを読み取り、普段より低い声を出した。

 

「なーんか隠してるなあ」

 

 火の音が止まり、軽く手を洗う水音がして、声が移動する。

 千代美がサンドイッチを作る手を止め、こちらに向かってきているのだ。

 

「あっれー。まほ、さっき『全部干した』って言ってたよなあ」

 

 彼女の声が真後ろまで迫ってきた。彼女の息が首筋に掛かる。ああ、もう駄目だ。

 

「なーんで今さら下着を干してるのか、なっ」

「うひゃあ」

 

 脇腹をがしっと掴まれ、変な声が出た。

 

「や、やめろ、千代美っ。ああ、あっ、そ、そこは、弱、弱いからあっ」

「知ってるよー」

「ひっ、へ、え、げほっ」

 

 非常にまずい、妙なスイッチが入っている。

 千代美は涼しい顔をしているが、その手は何ともえげつない動きで私を責め立て続けた。

 

「ダ、ダー、だあっ、ジ」

「んー、何かなあ、何を言おうとしてるのかなー」

「ちょっ、もっ、漏れっ」

 

 そこまで言って、流石に手を離してもらえた。立ち上がる気力が若干失せてしまい、くたりとその場に倒れ込んだ。危なかった。いや、少し漏れたか。漏れちゃったかも知れない。

 トイレに駆け込み、暫し確認作業。

 一応隅々まで調べたが、幸いにも『事故』は起きていなかった。大丈夫。

 

「ご、ごめん、つい楽しくなっちゃって」

「いや、うん、大丈夫」

 

 悪いのは隠そうとした私だ。結局、包み隠さず説明をする羽目になった。

 客がダージリンだったこと。

 こちらの洗濯物が飛んできたから返しに来た、というのがダージリンの用件だったこと。

 その洗濯物が『布』だったこと。

 こういうものは室内に干した方が良いんじゃないかしらとアドバイスされたこと。

 気を遣ったダージリンが、玄関先で帰ったこと。

 そういう経緯があって、いま改めて下着を室内に干し直していること。

 話すうち、千代美の顔はみるみる赤くなってゆく。まあ、無理もない。

 だってあの『布』、千代美がさあ。

 

「わーっ、わーっ」

 

 あっ、ごめんなさい、本当にごめんなさい。

 あは、あははは、は、ああっ。

 

 あああっ。



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(7/12)朱の盆、または狗、もしくは迷い家

【千代美】

 

 朝ごはんは食べた。二度目の洗濯物干しも終えたし、サンドイッチも出来た。さっきまでぐったりしていたまほも、まあ、回復したし、パンツも換えた。

 さあ、着替えてお化粧をして出発だ。

 寝室の鏡台に向かっていると、まほの顔が横から割り込んできた。

 

「千代美は可愛いなあ」

「な、なんだよ急に」

 

 ドキッとした。急に何を言い出すんだ、もう。

 割り込んできた姿勢のまま、まほが言う。

 

「いや、私は化粧っ気というものが無いからな」

 

 ああなんだ、そういう事か。

 確かにまほは全く化粧をしない訳じゃないけれど、私ほど時間を掛ることはない。だからそのぶん私より支度が早く済むので、一緒に出掛ける時はこうやって待たせてしまうのがお約束。

 

「ごめんなー、暇だろ」

「いや、ゆっくりでいい」

 

 これに関しては、まほは待つことが習慣になっているから苦にならないんだろうけど、私の方は待たせてしまっているという意識があるから、ちょっと焦る。

 だからまほの気遣いが有り難い。

 

「千代美の変身を眺めるのは楽しい」

「あはは、変身か」

 

 それこそまほじゃないけど、家事をやってる時は私だって化粧っ気が無いからな。よそ行きの顔になるのは、確かに変身だ。

 

「折角のデートだから気合い入れてるんだぞー」

 

 冗談めかして言ってるけれど、これは本当の事。まほの隣は、可愛くして歩きたいという乙女心。

 我ながら良いこと言ったなと思ったんだけど、まほは何も言わない。『んん』すら無いのは妙だなと思ってちらりと横に目を遣ると、まほが俯いていた。

 髪で顔が隠れて見えないので、どうしたんだろうと覗き込むと、見事に真っ赤になっている。

 驚いて、熱でもあるのかと声を掛けた。

 

「おい、大丈夫か」

「い、いや、本当に可愛いなと思って」

「んなっ」

 

 どうやら『デート』という単語が思いのほかヒットしたらしい。

 釣られてこっちまで赤くなってしまった。化粧にならないからあっちへ行ってろと、まほを追い払う。全く、変なところでうぶなやつ。それ以上の事、平気でしてくる癖に。

 昨日のお風呂場での事を思い出す。

 そのせいで、一人でまた真っ赤になってしまった。

 ああもう。お化粧、もうちょっと掛かりそうだな。

 

――――――――――

 

【まほ】

 

 いつもより少しだけ長い千代美の化粧が終わり、いざ出発。

 昨日の雪はすっかり止み、外は晴天。若干ながら積もったようだが、陽射しがほとんどの雪を溶かしてしまっている。

 見回したところ、日陰に少しだけ残っているのが確認できる程度だろうか。

 凍結という程でもなさそうだが気を付けないといけない。

 

「えへへ、まほとお出掛けー」

 

 意味も無くぱたぱたと小走りになる千代美の腕をぐいと引っ張り、手を握る。

 

「転ぶぞ」

 

 千代美は一瞬だけ驚いたような顔をして、それから、にへらっと笑った。

 

「何だ」

「まほ、優しい」

 

 そう言われると照れる。

 それを隠すように憮然としてうるさいなと突っぱねたが、千代美には通じない。

 彼女は変わらず笑顔のまま言う。

 

「手を繋ぐのが自然になったなあ」

 

 言われてみて、確かにそうかもと思った。

 最初の頃はどうしても照れ臭くて、手を繋ぎたがる千代美に対して私はよく、止せやめろと嫌がったものだ。それが今は自分から千代美の手を握り、引いている。

 

「嬉しいなー」

 

 繋いだ手をぶんぶんと振る千代美。

 考えてみれば、私が嫌がっていた頃から千代美はずっと手を繋ぎたがっていたのだ。私の方から彼女の手を引くことは、彼女にとって特別な事なのだろう。少し感慨深い。まあ、喜んでくれるなら何よりだ。

 暫くそうやって歩いていると、前方から肩を落として歩いてくる友人に千代美が気付いた。

 

「あれっ、ミカじゃん」

「おや、お二人さん。お出掛けかい」

 

 ついてないなあ、とぼやく。という事は私達、というか私達の家に用があったという事か。

 まあ、ミカの用事などだいたい知れているが。

 

「お腹空いてんだな」

「そうなんだよ。恥ずかしながら」

 

 案の定、うちに朝食をたかりに来るつもりだったらしい。

 千代美は腹を空かせている者に甘い上に、分かりきった事だが料理が上手い。ミカに限らず、私達の家を訪ねる者の多くは千代美の料理を楽しみにして来るのだ。隣に住んでる奴までも。

 それはさておき。千代美は、仕方ないなーなどと言いながらごそごそと鞄を漁り、弁当箱を取り出した。

 ちょっ、それは。

 

「これ、良かったら」

「わ、サンドイッチか。でもこれ、君達のお昼なんじゃあ」

 

 流石に人の弁当に手を付ける事はミカでも気が引けるらしい。しかし千代美は、いいからいいからとミカに押し付けるように弁当箱を持たせた。

 ああ、こうなってはもう、あのサンドイッチに私がありつく事は絶対に無い。

 

「ま、まほが物凄い形相なんだけど、本当に良いのかい」

「良いんだよ。お腹空かせてる奴は見過ごせないからな」

 

 甘い。甘過ぎる。

 

「食べ終わったら弁当箱だけは返してくれよ」

「済まないね、ありがとう。恩に着るよ」

 

 サンドイッチを受け取ったミカは、私の落ち込みようを見てか、逃げるように立ち去った。

 

「千代美ぃ」

「まあまあ。言ってたじゃん、あのサンドイッチは吉備団子って」

 

 それを聞いた私は、何も言い返すことが出来なかった。成程、吉備団子の使い方として見れば至極真っ当だ。

 そしてまた、千代美の『吉備団子』を日常的に食べている私が彼女と手を繋ぐのに抵抗を覚えなくなるのも道理なのだろう。

 ほら行こう、と差し出してきた千代美の手を取り、また握る。

 私は心の中でひとつ、ワン、と鳴いた。

 

――――――――――

 

【千代美】

 

 本屋に到着。ああ、まほと本屋デートなんて夢みたいだ。

 まほが本屋に足を向ける事は滅多に無い。と言うか、そもそも彼女には読書の習慣があんまり無い。気が向いた時に私の薦めた本を読む程度で、そのほかは雑誌が精々だ。

 その雑誌だって、読むというよりは目を通すといった感じ。そんなだから、昨日まほが本屋に行こうとした途端に雪が降り始めたのも、悪いけど頷ける。

 そんなまほに対して私は読書が大好き。本屋は私のテリトリーみたいなもんだ。いつも一人で来てる店にまほが居るのが、なんか、すごく変な感じ。大袈裟かも知れないけれど、実家に連れてきたみたいな心地良い違和感を覚える。

 いつも一人で来てる私が、まほを連れている。

 店員さんにはどう見えるんだろう、なんて考えて少し緊張してみたりして。

 

「さてと、ブックカバーはどこだ」

 

 独り言のようにつぶやいて、きょろきょろと売り場を探すまほ。

 ああ、まほの買い物ってこうなんだよな。

 目的の物に直行して、ぱっと買っておしまい。簡潔って言えば聞こえは良いけど、どっか味気ない。

 

「もうちょっと色々眺めて回ろうよ」

「そういうものか」

「うん」

 

 しかし見て回るにしても目標の確保が先だと言われて、まあそれは確かになと思い直す。というわけで、ひとまずブックカバーの売場へ。

 

「本屋とは言うが、本だけを売っている訳ではないんだな」

「うん、文房具とかも私はここで買うよ」

 

 平静を装ってるけど、実は滅茶苦茶にテンションが上がっている。まほとの本屋トーク、その何気ない一言一言がすごく楽しい。

 でもまあ、買い物してるだけでテンションが上がってるなんて、流石に恥ずかしくて言えないよなあ。

 ともあれ売場に到着。手帳や栞のコーナーに混じって、ブックカバーのコーナーが作ってあった。

 ブックカバーなんて一回買っちゃうと暫く替えない物だから、来るたびにレイアウトが変わってて面白い。以前に来た時より心なしか広くスペースを取ってるように感じた。

 

「ず、随分と種類があるんだな」

 

 まほが若干引いている。

 ああ、ブックカバーに色んな種類があるって知らなかったのか。

 柄は渋いのから可愛いのまで、材質も革だったり布だったり。確かに予備知識無しでこの中からひとつ選べと言われたら、多少面食らっちゃうかも知れない。

 

「千代美、あの」

「んーと、布で、紐の栞が付いてて、フリーサイズのが良いなあ。柄は任せるよ」

 

 早くも弱った様子のまほに、ある程度のヒントと言うか希望を伝えてあげた。

 手触りは柔らかい方が好きなので、革製より布製。

 栞は物によって付いてたり付いてなかったりするけど、紐の栞が付いてるやつがいい。

 そして、色んな本に使いたいからフリーサイズ。

 あと、わがままかも知れないけれど、柄はまほに選んで欲しい。

 

「フリーサイズって何だ」

「片側が開く造りになってて、本の厚さを問わずに使えるやつ」

 

 片側が開かないと、本によっては使えなかったりするからな。

 まほは、ふうむと唸って選考に入った。私はその場から動かなくなったまほの周りで、文房具やら何やらを物色しつつうろうろ。

 うーん、色んな色のペンとか、眺めてると欲しくなっちゃうよな。たぶん買ってもあんまり使わないと思うけど、売り場に並んでるのを見てると欲しくなってくる。

 そんな時間が暫しあって。

 

「うーん」

「決まらないか」

「いや、候補は絞った」

 

 どれどれと覗き込むと、まほは渋い和柄と可愛いハート柄の二つを手にして唸っていた。

 どういう二択なんだろう、これ。

 

「こっちは千代美が普段読んでる恋愛もののイメージ。それと、こっちは昨日見た『鉄鼠』のイメージだ」

 

 あー、そっかあ。成程なあ。

 まほは、どちらかと言えばピンと来たのは和柄なんだけど、和柄のカバーで恋愛小説を読むのも変じゃないか、という理由で悩んでるらしい。

 なーるほど、そういう事なら決まりだ。

 

「こっちがいい」

 

 和柄のカバーを指差した。確かに和柄は恋愛小説には合わないけど、まほがピンと来たならそっちで決まりだ。

 ちゃんとフリーサイズだし、紐の栞も付いている。完璧だ。

 

「えへへ、ありがとー」

「んん」

 

 ぐいぐい身体を押し付けてやると、まほは照れ隠しのようにいつもの唸り声を上げた。

 このカバーで本を読むのが楽しみだなあ。



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(8/12)姑獲鳥の冬

【まほ】

 

 本屋を出て、コーヒーショップに寄る。普段、カチューシャやノンナがよく屯している店だ。

 今日はどうやら連中は居ないらしい。カチューシャは笑い声がうるさいから、居ればすぐに分かる。まあ、居なければ居ないで静かで良い。

 ともあれ、空いている席を探す。奥の方が好きなので、出来ればそっちがいい。

 千代美は、私が席を確保する間に注文へ。この店はトッピングだ何だで長々とした名前の注文も出来るようだが、私はよく分からないのでやらない。カウンターの様子を見ていると、そういう注文は作るのにも時間が掛かるようだ。

 短い注文をすれば早く済むので、私はそちらの方が有り難い。ミルクも自分で入れる。

 カチューシャなんかは盛り盛りにして楽しんでいるようだが。

 

「お待たせしましたー。コーヒーとミートパイ、お二つずつですねー」

 

 店員のような声を出して、千代美が昼食を運んできた。

 ありがとうございます、とこちらも調子を合わせる。

 

「ほいミルク」

「ん」

 

 コーヒーにミルクを足し、口を付ける。途端、違和感を覚えた。

 ふーむ。これは、どうなのだろう。決して不味い訳ではない。美味しくないと言うのも少し違う。

 美味しいことは美味しいのだが、何というのだろう、これは。

 

「んー。『違う』、かな」

「それだ」

 

 成程、そういう事か。普段、千代美が淹れたコーヒーばかりを美味い美味いと飲んでいるせいで、他の味を『他の味』と認識するようになってしまったのだ。

 流石に千代美のコーヒーが店より美味いということは無いと思うが、いまいち自信が無い。他のコーヒーを飲むと先ず『千代美のと違う』という違和感を覚えるようになってしまったようだ。

 

「まぁー、私は嬉しいけどなあ」

 

 などと言いつつ、千代美も複雑な表情でコーヒーを啜っている。恐らく、全く同じ感想なのだろう。

 ともあれ食事だ。

 

「いただきまーす」

「頂きます」

 

 ミートパイにかぶり付く。

 が、矢張り、うん。うーん。

 

「言いたいことは分かってる。帰ったらサンドイッチ作ってやるよ」

「やったあ」

 

 胃袋を掴まれるとは、まさにこの事だろうか。

 ともあれ、そんなこんなで軽食を終え、少々の休憩。

 さて、こういう休憩の時間に目安というものはあるのだろうか。店の側からすれば『食ったら帰れ』というのが道理だと思うが、周囲を見回してみると意外に勉強や読書などに耽っている客が多い。私達が席に落ち着く以前からそうしている者も居る。あれは、流石に少し長すぎるのではないか。

 店が混んでいる訳でもないから良いのかも知れないが、どうにも落ち着かない。

 

「まあ、気持ちは分かるけどな」

 

 言いながら、千代美は鞄を漁り始めた。何やら済ませてしまいたい作業があるとかで、ここでそれをやるつもりらしい。

 やがて、千代美は鞄から文庫本を取り出した。

 私はそれを見て、若干たじろぐ。

 

「えへへ、家から持って来ちゃった」

 

 千代美が取り出したそれは、『鉄鼠の檻』。

 今回の出来事のきっかけになった本で、改めて見ても異様な厚さだ。先程、本屋の棚に並んでいるものも見てきたが、他の文庫の四、五冊分はあろうかという感じだった。

 千代美から借りてページ数を見てみると千三百を超えていた。辞書か。

 

「まほに買ってもらったブックカバー、早速掛けようと思ってさ」

 

 言うが早いか、千代美は作業に取り掛かった。

 成程、これは確かにフリーサイズでないと包めない代物だ。千代美は鼻唄雑じりで、慣れた手つきで文庫にカバーを掛けていく。

 一分と掛からず、作業は終わった。

 

「はい完成」

「うーん、凄い」

 

 カバーも凄いが、千代美の手際も面白かった。

 そうか、私は読書をする千代美の事をほとんど知らないのかと気が付いた。

 そう考えると、不意に孤独感を覚えた。千代美は目の前に居るのに。それが、私の知らない千代美なのが無性に寂しい。

 

「あい」

 

 あい。

 む、何者だ。

 見ると、どこから来たものか、二歳か三歳くらいの赤ん坊がいつの間にやら隣に座っていた。

 

「あいあいあーい」

 

 そうかそうか、よろしくな。

 なかなか元気が良い。

 

「迷子だろうか」

「んー、母親は注文にでも行ってるのかなあ。店の外って事は無いだろうから、そのうち探しに来るだろ」

 

 言いながら千代美は赤ん坊をあやし始めた。赤ん坊は卓上の文庫本に興味を惹かれたらしく、しきりに触りたがっている。

 おいそれは駄目だぞと言おうとしたら、千代美に手で制された。

 ああ、そうか。

 千代美は躊躇すること無く、赤ん坊に本を持たせた。

 案の定、赤ん坊は手にした本を弄繰り始める。無論、読書などという概念はまだ形成されておらず、ただ紙の束で遊んでいるというだけだ。当然、それによって頁はくちゃくちゃになるが、千代美はそれを怒るでもなく、これはこうするんだぞーなどと言いながら、赤ん坊に頁の繰り方を教えている。

 すると赤ん坊も、不思議に大人しく千代美の真似をして頁を繰るようになった。

 成程な。あの本に付いた折り目を見るたび、千代美は今日の事を思い出すのだろう。それが『痕跡本』というものの考え方なのだな、良い趣味をしている。

 しかしその、なんだ。

 千代美と赤ん坊、なんとも良い絵面だ。

 

「紗利奈、こんな所に居たの」

「あーい」

 

 母親らしき女性が済みません、と頭を下げながら近寄ってきた。

 驚いたことに同世代か、年下かと思うほどの若い女性だった。

 

「良いんですよー」

 

 笑って、赤ん坊を母親のもとに帰す。その時、千代美がほんの一瞬、名残惜しそうな顔をした。

 ああ、そうだ。

 我々はもう大学を出た。

 年下の女性が赤ん坊を抱えていても、何らおかしな歳ではないのだ。そう、千代美にだって、あれくらいの子供が居てもおかしくない。

 私などと出会わなければ、きっと、今頃は。

 

「まほ、何考えてるんだよ」

「んん」

 

 千代美は、私の唸り声から心境を読み取ったらしい。仕方ないなといった風にため息をついて、静かに話し始めた。

 またお化けの話になっちゃうんだけどさ、と前置きをする。

 

「まほ、姑獲鳥(うぶめ)って知ってるか」

「うぶめ」

「うぶめ。漢字でこう書くんだ」

 

 そう言って千代美はメモ帳とペンを取り出し、さらさらと書き始めた。『姑獲鳥』、これで『うぶめ』と読むのか。

 何故だろうか、既視感のある文字列だ。

 

「『鉄鼠』のシリーズの一作目のタイトルが『姑獲鳥の夏』だからな。さっき本屋で目に入ったんだろ」

「そういう事か」

「あと、うちにもあるし」

 

 千代美は苦笑いをする。

 迂闊。私は日常的に視界に入っていたものを見落としていた事になるのか。

 

「ふふふ、まさに『姑獲鳥の夏』だ」

「どういう事だ」

「読んだら分かるよ。まあ、それはさて置いて『うぶめ』は、こうも書く」

 

 次に千代美は『産女』と書いた。ふうむ、こちらの方がまだ『うぶめ』と読める。

 ん、この字面は。

 

「うん。『産女』はね、お産で死んじゃった女の人の幽霊」

「じゃあ『姑獲鳥』は」

「子供を攫う鳥」

 

 名前の読みは同じなのに、字で特徴が変わるのだろうか。

 

「元々は違うものだったんだけど、どっかで混同されちゃったんだろうなあ」

 

 そこまで話して尚、千代美は次の言葉を言おうか言うまいか迷っているようだった。話の内容から『子供』の話題だと分かるが、それでもまだ、千代美が何を言いたいのかは分からない。

 

「ざっくり言うとさ、子供が持てない女は、それだけで化け物扱いされる時代があったって事だ」

 

 あくまで解釈のひとつだけどな、とばつが悪そうに付け足す。

 そして千代美は堰を切ったように話し始めた。

 

「私だってそりゃ、赤ちゃん欲しいよ。恋愛小説なんか読むくらいだし、異性への憧れも人並みにある。まほが男だったらなあ、って考える事もあるよ」

 

 ああ、やはり、そうか。

 まあそうだよなと、諦めにも似た感情がこみ上げる。

 そんな私の顔を見て、千代美は焦れたように尚も話し続けた。

 

「わからないかな。まほじゃないと嫌なんだよ、私。今は現代で、色んな未来がある。昔とは違う。でも未来は何個も選べるものじゃない。私は、まほと一緒に居たいって思ってるんだよ。それを選んだんだ。昨日の夕方、言っただろ。『どこにも行かないから安心しろ』って」

 

 千代美はひとつ、呼吸を置いて、言った。

 

「だからさ、そんな顔するなよ」

 

 んん。

 済まない、としか言えなかった。

 千代美は笑い、私の頬をつつく。

 どんな顔をしたらいいか分からず、私はもう一度だけ、済まない、と呟いた。



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(9/12)芝右衛門狸の徳

【千代美】

 

 仕方ない事、なのかな。

 いくら言っても、まほは安心してくれない。というか、トラウマに近いものを抱えてるんだと思う。自分の前から突然、大切な人が居なくなってしまう事に対して。

 それは裏を返せば、まほが私のことを『大切な人』と見なしてくれてるって事なんだけど、なんだか素直に喜べないな。ジレンマだ。

 まあ、私に出来るのは近くに居てあげる事。それに尽きるんだと思う。

 ともあれ、コーヒーショップを出て帰り道。

 夕飯はサンドイッチに変更。大体の材料は家にあるから、スーパーには寄らなくてもいい。でも、夕飯がサンドイッチってどうなんだろう。

 まあ、まほが食べたがってるから良いのか。

 でもどうしよっかなあ。なんか、真っ直ぐ帰るのは勿体ない。

 もっとデートしたい。

 

「映画でも借りるか」

「あっ、賛成」

 

 夕飯の後にでも一緒に観よう。なに借りよっかなー。

 レンタルのカードは財布だったか、カードケースだったか。鞄の中を手探りで漁りながら考える。

 鞄を漁りながら、考える。

 鞄を、漁り、ながら。

 なんか、違和感。

 あ、あれ。

 

「どうした」

「ちょっ、ちょっと待って、まほ」

 

 立ち止まり、鞄を開ける。

 手探りじゃ駄目だ、目で確認しないと気が済まない。いや、あんなもん、手探りでも分かるけど、認めたくない。

 鞄の中を見つめ、立ち尽くした。

 無い。

 

「おい、千代美」

「まほ」

 

 本が、無い。

 本だけじゃない。

 まほが買ってくれたカバーも一緒に、無くなっちゃった。

 途端、頭の中が真っ白になった。

 視界がじわりと歪む。

 

「まほ、どうしよう」

「落ち着け、千代美。ちょっと座ろう」

 

 私達の不穏な空気は周囲にも伝わっているらしい。通りすがる人が皆、こちらを振り返る。

 私はまほに手を引かれ、近くのベンチに腰を降ろした。

 

「とりあえず、いつの時点まであったか思い出そう」

「う、うん」

 

 まほの言葉で落ち着きを取り戻す。

 そうだ、この世に不思議なことなんか何もない。本が『無くなる』なんてことは無いんだ。あるとすれば、人間が何かしらの原因を作った時だけ。ちょっと考えれば分かることじゃないか。

 コーヒーショップでカバーを掛けて以降は大した事をしてないし、他に移動もしていない。ああ、そう考えたらすぐに思い当たった。

 赤ちゃんに持たせて、そのままだ。

 

「じゃあ、ひとまず店に戻ろう。行くぞ」

 

 言って、まほは私の手を引いた。

 

「本が戻ったら、忘れられない痕跡になるだろうな」

 

 そう言って、私の頭を撫でる。

 雪が降ってきた。

 

 まほ、ありがとう。

 

――――――――――

 

【まほ】

 

 結論から言うと、本は見付からなかった。

 千代美の記憶は確かで、店員の談では赤ん坊が本を持っていた事は間違いなかったそうだ。母親がそれに気が付いて、急いで我々を追い掛け、それきりだと言う。信じ難いことだが、戻って来なかったそうだ。

 

「行き逢いませんでしたか」

 

 あっけらかんとして言う店員に一瞬、怒りがこみ上げたが、店員に怒っても仕方ない。落とし物や忘れ物であれば店で管理するだろうが、客が持ち去った物に責任は持てまい。

 それに『持ち去った』とは言うものの、その母親は我々に本を届けようと走ったのだ。店員がそれを引き止める訳も無い。

 会計は注文の時点で済んでいるとはいえ、戻らないというのも妙な話だ。しかし、この店にはもうそれ以上の情報は無い。

 店員も『ここには無い』という以外に言いようがないのだ。

 念のため交番なども当たってみたが、本は届いていなかった。

 

「まほ、ごめん」

「いや」

 

 悪いのは私だ。

 あの時、私が冷静でいれば赤ん坊から本を回収しただろう。最早、過ぎた事だが、千代美の落ち込みようを見ていると悔やんでも悔やみきれない。

 だが、これ以上我々に出来ることはもう、何も無い。

 

「帰ろう」

「うん」

 

 千代美、ごめん。

 

――――――――――

 

【ダージリン】

 

「タオルと着替え、置いておくわよ」

「済まないね、ダージリン。ありがとう」

 

 お風呂の扉越しの会話。

 

「いやあ、屋外で待つことには慣れてるつもりだったんだけど、雪が降るとはね」

「スロット屋さんの開店とは違うのよ。全く、玄関先で凍死されたら敵わないわ」

 

 いつからそこに居たものか。彼女、ミカは隣の部屋の前でまほさんと千代美さんの帰りを待っていた。渡したい物があるとかなんとか。

 今日は折悪く私まで出掛けていたものだから、彼女は寒空の下、ずっとそこで待ちぼうけを喰っていた様子。

 私が帰った時、彼女は二人の部屋の前で胡坐をかいた状態で眠っていた。

 その膝の上には、何やら広げられた本。

 そして周囲には雪が薄く積もっていたのに、足跡が見当たらない。

 つまり彼女は待ちぼうけの間、雪が降る前からその体勢で読書をしていたという事になるのかしらね。

 申し訳ないけれど、最初に見た時は死体かと思ったわ。揺り起こすのにも勇気が必要だった。生きてて良かったわ、本当に。

 当たり前ながら彼女の体はすっかり冷えていたので、こちらの家に引っ張り込んでお風呂をあげている。

 

「夕飯の当てはあるの」

「無いね」

「なんて言いながら、千代美さんの料理が目当てだったんじゃないのかしら」

 

 そこで彼女は、ううん、と言葉を濁した。

 

「その事なんだけど」

 

 彼女が何かを言おうとしたタイミングで、隣の玄関が開く音がした。

 あら、帰って来たみたい。

 

「ええっ、あれだけ待っても帰って来なかったのに、お風呂に入った途端かい」

 

 そういうものよ、と笑った。

 本当、待っている間は全然来ないのよね。

 

「参ったなあ、早く渡したいのに」

「それなら代わりに渡してきてあげるわよ」

 

 いや何から何まで本当に済まないねと、お風呂場から彼女は言った。

 

「このお弁当箱と文庫本を渡せばいいのよね」

「うん、頼んだよ」

 

 彼女が持っていたお弁当箱と、さっき彼女が読んでいた文庫本を持って隣へ。

 それにしてもこれ、果たして『文庫本』と呼んでもいいものなのかしら。

 まるで辞書みたいな厚さだわ。



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(10/12)朧車の轍

【ミカ】

 

 嗚呼、ぐらり絶景。

 危ない危ない、ちょっと眠ってた。碌でもない夢を見ていたらしい。せっかく凍死せずに済んだのに、今度は溺死するところだったよ。

 いやあ、それにしても湯舟って本当に気持ちが良いなあ。寝ちゃうのも無理は無いよね。

 目が覚めて程なくして、どたどたという跫(あしおと)が聞こえた。その跫は真っ直ぐこちらに向かって来て、やがてお風呂の扉が乱暴に開け放たれた。

 

「わあ、えっち」

「やかましい。ミカ、何故お前があの本を持っている」

「お風呂のあとじゃ駄目かな」

 

 まあ、今ここで話しても良いんだけどさ。

 何故だか余裕を無くしているまほが可愛くて仕方なくなっちゃって、わざと焦らすようなことを言ってしまった。

 すると驚いたことにまほは舌打ちをして、早くしろと吐き捨てるように言って扉を閉めた。

 ああ、でもこれだけは言わなくちゃ。

 

「まほー」

「何だ」

「サンドイッチ、食べちゃってごめんね」

 

 んん、とまほは返事とも相槌ともつかない声を出した。

 立ち去るまほと入れ替わるようにして、今度は千代美がやって来た。

 まほよりは落ち着いているのか、こちらは扉越しに会話をする。

 

「ミカ、あの、本、ありがとう」

 

 声が震えている。

 

「千代美、もしかして泣いているのかい」

「うん、本が戻って来たのが、嬉しくて」

 

 そんなに大切な物だったのか。ああ、まほも取り乱す訳だ。それならまあ、こちらも凍え甲斐があったというものだね。

 事情はお風呂から上がったら説明するよと返した。

 それと、もうひとつ。

 

「サンドイッチ、ご馳走さま。あまり美味しくなかったよ」

「えへへ、やっぱり」

 

 気恥ずかしそうに笑って、千代美も立ち去った。

 全く、入れ替わり立ち替わり、忙しいことだ。お陰で二度寝せずに済んだけどさ。

 さて、体も十分暖まったし、そろそろ上がろうか。二人のことも待たせちゃってるし。

 うーん、どこから話そうかなあ。

 

――――――――――

 

【千代美】

 

 そっか。あまり美味しくなかった、か。

 参ったなあ、ミカにはバレちゃったみたいだ。まあ、仕方ない。いずれバレるものだったんだと思うことにする。

 それより本が戻って来て、本当に良かった。まほが買ってくれたカバーも、赤ちゃんがコーヒーショップで付けた折り目もある。間違いなく私の本だ。

 さっき、ダージリンがこれを持って来たのを見て、目を疑った。なんでここにあるんだよ、って。

 その事情は、ミカがこれから話してくれるらしい。

 そんな訳で私達は、ダージリンの家のリビングでミカがお風呂から上がるのを待ちながら、彼女の茶飲み話を上の空で聞いている。

 

「聞いて頂戴。カチューシャったら酷いのよ」

 

 今日のダージリンはカチューシャとどこかで食事をしていたらしい。

 昼間っからお酒を飲んだカチューシャを車で送ろうとしたら、乗りたくないと言ってわざわざノンナを呼び出して帰ったとかなんとか。まあ、確かに酷いけど、ダージリンの運転も負けないくらい酷いからなあ。酔っ払ってる時に乗りたいかって言われると、うーん。

 正直、話を聞く限り可哀想なのはダージリンよりノンナじゃないかと思う。

 

「お待たせしたね」

 

 髪を拭きながら、ほかほかのミカがやってきた。

 ミカは、わざわざ苛立ちを隠さない様子のまほの隣を選んで腰を降ろし、早速話し始めた。

 

「私にその本を預けたのは、あの人なんだ。えーっと、名前は忘れたけど」

 

 何て言ったっけ、あの、カチューシャのせいでよく走り回ってる人、とミカは記憶と格闘している。

 あれ、それってもしかして。

 

「ノンナか」

「そう、ノンナさんだ。彼女が先にそこで待ってたんだよ」

 

 そう言ってミカは玄関の方を指す。

 ノンナが来てたんだ。

 彼女が先にそこで待っていた。

 普通の文庫本ならドアのポストにでも突っ込むことが出来たんだろうけど、この本に限っては無理だから私達の帰りを待つしか無かった。

 

「でね、彼女はカチューシャの呼び出しでこの場を離れざるを得なくなった」

 

 そこに弁当箱を持った私が来合わせたのさ、とミカは淡々と説明した。そしてノンナから本を預かったミカは、ダージリンが帰ってくるまでそこに居たって訳か。

 まあ、ノンナはカチューシャの送迎でここにもよく来るから、その隣の私達の家を知ってるのは別に不思議な事じゃない。ただ、ノンナが本を持っていたのは、一体。

 

「ああ、何故だか子連れの女性が一緒だったよ。マルヤマさんと言ったかな」

 

 あっ、その人は。

 

「繋がったか」

 

 私達を追い掛けたマルヤマさんをノンナが車に乗せてここまで来た。

 そして本はミカの手に渡った、か。

 

「ノンナが我々に気付いていたということは、彼女は店に居たのか」

「あっ、そう言えばそうか」

 

 ノンナはマルヤマさんが追い掛けたのが私達であることに気付いてたからここまで来れた。って事は店に居たんだ。

 なんだよ、気付いてたなら話し掛けてくれりゃ良かったのに。

 

「どうせまたイチャイチャしてて話し掛けづらいオーラでも放ってたんじゃないの、貴女達」

 

 うっ。

 

「それは」

「ぐうの音も出ません」

 

 心当たりがありすぎる。

 ダージリンは仕方ないわねといった風に大きなため息をついた。

 ともあれ、ちゃんとお礼しないとなあ。ノンナは元より、出来ればマルヤマさんにも。

 

「不思議なこともあるものだな」

 

 本を撫でながら言うまほ。ごめんな、心配掛けて。

 さて、それじゃ夕飯作るか。

 

「ミカも良かったら食べてってくれよ。またサンドイッチだけど」

「そりゃ有り難いけど、いいのかい」

 

 心配しなくていいよ、ちゃんと美味しく作るから。



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(11/12)座敷童子の娘

【ノンナ】

 

 奇妙な偶然が重なり、私は今、コーヒーショップで会った女性を助手席に乗せて走っている。

 

「あの、ノンナさんですよね。プラウダ高校で、戦車道の副隊長だった」

 

 彼女は、おずおずとそう言った。

 驚くでもなく、ええそうですよと答える。

 これでも高校戦車道強豪校の元副隊長として、顔はそこそこ世に知れている。特に私は他校の副隊長達と違って『肩車の人』という大きな特徴があったから、知っているというか覚えている人も比較的多い。

 まあ、そうは言っても所詮は高校戦車道。こうやって声を掛けられる事は稀。しかし、声を掛けられれば、ああまたかと思う程度にはよくある事。好きな言い回しではないけれど、『まれによくある』とはこういう事なのだろうと勝手に納得した。

 ああ、彼女も戦車道をやっていた可能性がある。それならば、私の事を知っているのも頷ける。

 同世代であれば、砲火を交えた事もあったのかも知れません。

 

「貴女も戦車道をやっていたのでしょうか」

「あはは。私、ノンナさんに撃たれた事ありますよ」

 

 それは、流石に驚いた。

 でもまあ、そうか。私も強豪校の砲手として、一体何輌の戦車を撃ってきた事か。それを思えば、こんな偶然があっても不思議ではない。

 それはすみません、と謝る私に対して彼女は、いえいえと笑った。

 という事は。

 

「先程の二人の事も」

「ええ、気付いてました。西住まほさんと、アンチョビさんですよね」

 

 面識があった訳ではないのでお話は遠慮しましたが、と彼女は言う。まあ、彼女達は私のような条件付きと違う、紛れもない有名人だ。

 副隊長と隊長では、世の知名度が全く違う。まほさんなどは特に。

 

「それに、なんというか、雰囲気が」

「ああ、あの二人はいつもあんな感じですよ」

 

 傍から見ていて恥ずかしくなるほど、あの二人は仲睦まじい。あれで抑えているつもりだと言うのだから自宅ではどんな事になっているのやら。

 まあ、そのせいで今回はこんな事になってしまっているので、良い薬になるのではないでしょうか。

 

「本当、すみません」

「いいえ、お気になさらず」

 

 先程のコーヒーショップにて、私は隣の席に座っていた彼女が連れていた赤ちゃんに懐かれてしまった。

 私の所に来る前は、あの二人に遊んでもらっていたらしく、赤ちゃんは彼女らの持ち物らしき分厚い本を手に持っていた。それに気が付いた彼女があの二人を追い掛けたものの見失い、途方に暮れていた所を私が拾った。

 そんな顛末で私達は今、あの二人の忘れ物を持って彼女らの自宅に向かっている。

 件の赤ちゃんは、後部座席のチャイルドシートですやすやと寝息を起てている。

 紗利奈ちゃんというらしい。歩いたり走ったりするのが大好きで、目を離すとすぐどこかに行ってしまうという。物静かな感じのある母親とは似ても似つかない子供だ。

 

「時に戦車道の話に戻りますが、学校はどちらで」

「大洗です。まほさんの妹さんにみっちりと教えていただきました」

 

 ああ、大洗ですか。

 大洗で私が撃った戦車と言えばヘッツァー、ルノー、八九式、それと。

 

「M3です」

 

 そう言えば名前がまだでした、と彼女は思い出したように言い、マルヤマと名乗った。

 

「ああ、今は姓が変わってますね。阪口桂利奈と言います」

 

 名前を聞いて、どんな子だったかなと考えてみたけれど、思い出せなかったので、済みませんと詫びる。

 マルヤマさんはまた、いえいえと言って笑った。

 

 その後。

 

 西住さんと安斎さんの忘れ物を持って彼女達の家にやってきたものの、彼女達は留守だった。

 今思えば、彼女達が真っ直ぐ帰って来るとも限らない。それこそ、忘れ物に気が付いて店に戻る可能性だってあったのだから、追い掛けるよりも店で保管して貰った方が簡単だったかも知れない。我ながらそそっかしい事をしてしまった。

 隣にお住まいのダージリンさんにでも預けようかと思えば、折悪く、そちらも留守。

 そうして若干気まずい空気が流れる中、更にカチューシャから『お酒を飲んだから迎えに来て欲しい』という呼び出しが来てしまった。

 全く、重なる時はとことん重なってしまうものだと痛感した。

 さてどうしたものかと思案していると、そこに丁度ミカがやって来た。彼女は安斎さんから貰った弁当箱を返しにやってきたらしく、他に予定も無いから帰ってくるまで待つつもりらしい。

 苦渋の決断として、本は彼女に託した。物を預ける相手としては甚だ心配だったものの、『これでも私は義理堅いんだ』と言い張る彼女を信用することに。

 それから渋々カチューシャの迎えに出向くと、偶然にも彼女はダージリンさんと一緒に居た。

 聞けば、彼女と食事をしていたカチューシャはまだ陽も高い時間からお酒を飲み、ダージリンさんに管を巻いていたのだというから呆れてしまう。

 それでも彼女のご厚意により車で送ってくれるという申し出があったにも関わらず、カチューシャはそれを断り、わざわざ私を呼びつけるという暴挙に出た。

 全く、何をやっているのだか。

 

「カチューシャが、とんだご無礼を」

「いえいえ。ノンナさんも大変ね」

 

 こめかみをひくつかせながらも、ダージリンさんは鷹揚な構えを崩さなかった。

 本当に、本当に申し訳ない。

 

「ノンナ、ほっときなさいよ、そんな意気地無し」

「はあ。意気地無しとは」

「カッ、カチューシャ、貴女ねえ」

 

 ダージリンさんが取り乱し、カチューシャの口を両手で覆う。まあ、聞かれたくない話題でもあったのだと思う。

 せめてもの気遣いとして、聞かなかった事にしますよと声を掛けた。

 

「ごめんなさいね」

 

 いえいえこちらこそ、と言った所で切り上げた。カチューシャのせいで私達がごめんなさいの応酬をするのは滑稽に過ぎる。

 助手席に乗ろうとするカチューシャに、今日は後ろですよ、と声を掛けて後部座席に押し込めた。助手席にはまだマルヤマさんが申し訳なさそうに乗っている。

 と言うか、こんな所まで連れてきてしまったこちらこそ申し訳ない。

 そして、後部座席では彼女の娘さんの紗利奈ちゃんがチャイルドシートに収まって寝息を立てている。西住さんと安斎さんの忘れ物を持っていたのは、この紗利奈ちゃんだ。

 カチューシャには、静かにして下さいねと釘を刺した。

 はいはい、と分かったような分からないような返事。

 

「あら、アンタ阪口じゃない。珍しい所で会うわね」

「へっ」

 

 マルヤマさん。旧姓、阪口桂利奈さんは驚いたようにカチューシャの方を見た。

 まあ、私の事を知っていてカチューシャを知らない道理も無い。しかし、高校の頃に面識は無かった筈。少なくとも私には無かったし、カチューシャもプラウダの外の友人と言えば各校の隊長達くらいだった、と思う。

 

「あの、私の事、知ってるんですか」

「大洗でM3の操縦手してた子でしょ、感じ変わったわねえ」

 

 結婚するとそういうもんなのかな、とカチューシャはぼやく。

 それはそれとして、何故カチューシャは彼女の事を知っているのか。マルヤマさん自身にも一向に心当たりが無い様子。

 

「あの年の大洗は要注意人物だらけだったもの、全員覚えた方が早かったのよ」

「ぜ、全員ですか」

「そーよ。特にM3は漢字が紛らわしい子が多くて苦労したわ」

 

 隊長だものそれくらいしないとね、とカチューシャは事も無げに言った。

 ああ、カチューシャはやっぱりカチューシャだなと思った。

 ただ威張っているだけではない。

 こういう努力を惜しまない人なのだ。

 年月が経っていても、酔っ払っていても、相手の印象が変わっていても、即座に思い出せるほどの確かな記憶として、彼女はライバル達の情報を頭に叩き込んでいた。

 こういう努力を惜しまず、且つそれをおくびにも出さず、彼女はプラウダ高校戦車道の隊長を務め上げた。

 彼女のカリスマの一端を見た。

 そんな気がした。

 ふと、カチューシャが何かに気が付いたような声を出す。

 

「え、ちょっと待って。マルヤマって丸山よね」

「あ、はい」

「サリナちゃんのサの字って、もしかして」

「ふふ、分かっちゃいましたか。『紗』です」

 

 暫し絶句したあと、カチューシャは、そんなこともあるのねえ、と脱力して後部座席に身を沈める。

 私には何の事だかさっぱり分からなかったけれど、流石カチューシャだなとだけ、思っておいた。



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(12/12)八百比丘尼の皿

【まほ】

 

 千代美は夕飯を作るため部屋に戻った。さっきまで本を抱えてぽろぽろと泣いていたというのに、切り替えの速いやつだ。

 こちらの部屋には私、ミカ、そして家主のダージリンが残っている。

 私も何か手伝おうと腰を上げると、ミカに呼び止められた。

 

「まほ、話があるんだ」

「私にか」

「うん。彼女の料理についてさ」

 

 千代美の料理について。一体どんな話だろうか。

 ミカは、怒らないで聞いてくれるかいと前置きをした。

 

「今朝のサンドイッチね、実はあまり美味しくなかったんだ」

 

 瞬間、頭に血が上るのを感じた。食べ物を恵んで貰っておいて、こいつは一体何を言い出すんだ。

 咄嗟にミカの胸倉を掴もうとしたが、ダージリンに制された。

 

「怒らないで、って言われたばかりでしょう。人の家で暴れるのはカチューシャだけで沢山だわ」

 

 そう言われると立つ瀬が無い。腹は立つが、それは最もだ。

 拳を握り、耐え、詫びた。

 

「すまん」

「いやいや、私も言い方が悪かったね。決して不味いと言っている訳じゃないんだ」

 

 美味しいことは美味しいんだけど、とミカは何か良い言い回しを探しているようだった。

 それもそれで癇(かん)に障ったが、覚えのある思考でもあった。私は今日の昼、千代美と全く同じやり取りをしている。

 と言う事は、ミカが探している言い回しというのは、もしかして。

 

「『違う』、か」

「ああ、それだ」

 

 千代美の料理に何か問題でもあるのだろうか。彼女の腕前はどう考えても一流で、千代美の料理を口にする者は軒並み『店が開ける味だ』などと感想を漏らす。

 ミカは一体何が不満だと言うのだろう。これまで誉め言葉ならば山程聞いてきたが、『違う』などという感想は初めてだ。

 

「店が開ける味。そうだね、彼女の料理はいつもそうだ」

 

 でも今朝のサンドイッチは違った、とミカは言う。

 

「彼女は人に料理を出す時は店が開ける味、つまり万人向けの味にする」

「それが今朝は違ったと言うのか」

「うん」

 

 未だ、話が見えない。

 一体何が言いたいのだ、ミカは。

 

「私は分かったわ」

 

 紅茶を淹れて運んできたダージリンが口を挟んだ。

 

「ここまで言って気が付かないまほさんは本当に幸せ者ねぇ」

「全くだね。まほ、今朝のサンドイッチは万人向けじゃなく、まほ向けの味にしてあったんだよ」

 

 ミカはそう言って紅茶に口を付け、顔を顰めた。

 

「こーれーは、不味いね」

「ごめんなさいね。淹れるのは下手なのよ、私」

 

 困惑する私を余所に、二人はもう話が済んだものと思っているらしく、和気藹々と雑談を始めてしまった。

 何か正解が提示されたような雰囲気だが、正直言って、私にはまだ分からない。

 

「ま、待て、私向けの味とは何だ。どういう事だ」

 

 ミカはまたも言い回しを探すような間を置いた。

 しかし言葉が見付からなかったのか、やがて、諦めたように言う。

 

「それは千代美しか知らないんじゃないかなあ」

 

 突き放すような言葉。

 なんとも反応に困ってしまい呆けていると、今度は唐突な質問が飛んで来た。

 

「まほ、目玉焼きの好みはあるかい」

「あ、ああ。半熟で、醤油をかけるが」

 

 戸惑いつつも素直に答える。先程とは打って変わり、なんだか滑稽なやり取りだ。

 今度は一体何だと言うのだろう。

 

「うん。目玉焼きってさ、とても好みが分かれるだろう。味付けから焼き加減まで人それぞれに好みがあって、人は何故かその好みを異様なほど大切にする。そこにちょっかいを出せば、すぐにでも喧嘩になりかねない食べ物さ。だけどまほ、君と千代美はそれで喧嘩なんかしないだろう」

 

 確かに、そうだ。私と千代美は目玉焼きの好みが全く違う。

 だが、それで喧嘩になった事など一度も無い。

 

「ねえ、まほ。千代美は、まほの好みに合わせて目玉焼きを焼いてくれてるんじゃないのかい。まあ目玉焼きに限った事じゃないけど、千代美は全ての料理でまほの為の味が出せるんだと思う。まほが気付かなかったのは、たぶん。まほにとっては単に『全部美味しい』からさ。だから、改めて言うよ。サンドイッチ、食べちゃってごめんね。あのサンドイッチはたぶん、まほの為の物だったんだ」

 

 ああ、そうか。

 そういう事か。

 考えれば考えるほど、辻褄が合う。目玉焼きどころか、コーヒーの一杯ですら、千代美は私の好みに淹れてくれるのだ。店のコーヒーに違和感を覚えてしまうほどに。

 では仮にミカの推測が事実だとすれば、私は、私の事をそこまで想ってくれている人に対して、『私と出会わなければ』などと考えてしまった事になる。

 それは果たして、許される事なのだろうか。

 

「千代美さんが貴女を嫌う筈が無いでしょうに。見ていれば分かるわよ」

 

 ダージリンが、焦れたように言った。

 私のための味か。

 それが事実かどうかは厳密にはまだ分からないが、それでも、今後千代美の料理を口にする心持ちは大分変わってくる。

 しかし確かめようにも、千代美に直接訊くのは何だか憚られる。

 ああ、そうだ。

 千代美は今まさに、全員分のサンドイッチを作っている。恐らくそれで分かる事か。まあ、きっと、何が入っていても美味い。

 それは間違い無いだろう。

 ひとまず、行くか。

 

「ミカ、改めて色々と済まなかった」

「気にしてないよ」

「千代美の本の事、ありがとう」

 

 大事にしてあげることだね、と笑い、ミカは紅茶を不味そうに飲む。

 

「本当に不味いね、これ」

「溢さずにお話が出来れば何でも良かったのよ」

 

 言って、ダージリンはわざとらしくこちらを軽く睨んだ。

 

「ち、千代美を手伝ってくる」

「ふふ、行ってらっしゃい」

 

 どんな顔をして会えばいいやら。

 

――――――――――

 

【千代美】

 

「千代美」

「まほ」

 

 強張ったまほの顔を見れば、隣で何の話をしてたかなんてだいたい分かる。

 

「ミカから聞いたんだろ」

「んん」

 

 バレちゃったかー。

 まあ、ミカに口止めしなかった辺り、私にもいつか知ってほしいという想いがあったんだと思う。彼女の言う通り、私は人に料理を出す時とは別に、まほに料理を出す時だけ使う味がある。

 と言っても、隠し味がどうとか、そういう難しい事をしてる訳じゃない。単に『まほ好みの味』を把握して、それに合わせてごはん作ってるってだけ。

 

「いつから」

「いつからだろう」

 

 覚えときゃ良かったかな。

 そんくらい、ずっと前から。

 

「何故」

「決まってるじゃん」

 

 好きだから。大好きな人だから。

 そして、その人に好かれたいから。

 お化粧と同じ事だ。

 

「ほら、サンドイッチ出来たよ。こっちがまほの分」

 

 今朝作ったのと同じサンドイッチ。

 まほはそれを一口食べて、呟いた。

 

「美味い」

「えへへ、やったあ」

 

 まほの目にみるみる涙が溢れ、流れ出す。

 彼女はサンドイッチの皿を置いて、私を抱き締めてくれた。

 

「ごめん、千代美。昼の事」

「気にすんな」

 

 まほの腕に力が篭る。痛いけど、それが嬉しい。

 私はまほの頭を撫でながら言った。

 

「どこにも行かないから安心しろよ」

「分かってる」

 

 本当かなあ、という言葉は飲み込んだ。

 でも、ひとつだけ。

 二人でソファに倒れ込み、私はまほにお願いをした。

 

「昨日のあれ、やってよ」

「こうか」

 

 まほは私の頭を掴んで、ぎゅうっと胸に押し付けた。

 息が、止まる。

 

「どこにもやらん」

 

 ああ、堪んない。最高だ。

 ぞくぞくとしたものが背中を走り抜け、もう、それだけで。

 

「ご馳走さまだわ」

「全くだね」

 

 ダージリンとミカの声が聞こえた。

 ああもう。嘘だろ、おい。

 

「お、お前ら、いつからそこに」

「いつからかしらね」

「『いつからだろう』ね」

 

 だいぶ前から、って言うかほぼ最初からじゃないか。

 すっかり狼狽えているまほを加えて、三人が喧々諤々とやり合う声が聞こえる。

 

「隠れてたのか」

「やだなあ、人聞きが悪いよ」

「貴女達が話し掛け辛いだけでしょう」

 

 ま、まほ。

 そろそろ、あの。

 

「うわ、千代美っ、大丈夫か」

「手を離しなさいよ」

 

 ぷはあ。

 た、助かった。

 

「ダージリン、彼女達はいつもこうなのかい」

「ええ、見てて全然飽きないわ」

 

 口々に勝手なことを言っている。何も言い返せないのが悔しいような、嬉しいような。

 

「あの、サンドイッチ、出来上がってますんで」

「うん、頂いてる。美味しいよ」

 

 さすが千代美だ、とミカは笑う。

 

「じゃ、残りは向こうで頂きましょうか」

「そうしよう」

 

 言って、二人はサンドイッチの皿を持ってそそくさと出ていった。

 ここに居るのは今度こそ、私とまほだけ。

 ちょっとだけ長いキスをして、訊いた。

 

「何か食べたいもの、あるか」

「魚」

 

 鰯でいいかな。

 私がそう返すと、まほは小さく頷いた。



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小豆洗いの音

小豆洗い
姿は見えず、音だけが聞こえる妖怪
本体は猫背のおっさんではなく、音


 どん、という音で目が覚めた。

 どこか遠くで鳴っている砲撃音のような、大きくて小さな音だ。

 

 瞼を持ち上げようと試みるも、断念する。二度寝をするつもりはないが、起きるつもりも無い。休日の朝など、そんなものだ。

 意識は覚醒しているが、瞼は閉じている。眠ってはいないが、起きているとも言えない。こんな状態を何と呼ぶのだったか。何か小難しい呼称があった気がする。どうでもいいか。

 そんな事を考えながら隣で眠っている筈の千代美を手探りして、ふと気付く。

 

 ぱち、と瞼を開いた。

 

「あれっ、居ない」

 

 居ない。

 千代美が眠っているはずの場所には何も無く、彼女の体温の名残すら無い。

 随分と早くに起きてどこかへ行ったようだ。

 

 また、どん、という音がした。

 

 何の音だろうか。どうもさっきから一定の間隔で鳴っているようだ。

 布団から這い出し、とりあえず洗面所を見たが千代美は居ない。

 

 どん、という音は鳴り続けている。

 

 まあどうせキッチンだろうと思って覗くとそこにも居ない。千代美の姿は無く、どん、という音ばかりが聞こえる。一体何の音で、どこから聞こえるのか。

 一通り探したが、どうも千代美は家の中には居ないらしい。音の出所もどこか別の場所にあるようだ。

 その代わりというか何というか、リビングには何故かダージリンが居た。

 

「あら。まほさん、おはよう」

「千代美は」

 

 隣よ、と言って壁を指す。

 隣。つまりダージリンの家か。しかし、なんでまた。

 すると、がちゃりと玄関の開く音がして、千代美が戻ってきた。

 

「あー、終わった終わった。あとは焼くだけだー」

 

 ストレス解消には良いけど重労働だな、などとぼやいている。

 千代美は、何か鉄板に載せた白っぽい塊を抱えていた。

 

「なんだ、まほ、起きちゃったのか。おはよー」

「おはよう」

 

 それは何だと訊くと、パン生地だよという答え。美味しい生地を作るためには叩きつけながらこねる必要があるのだとか。

 ああ。どん、というのはその音だったのか。

 

「これから焼くから、お昼には食える」

「楽しみだ」

 

 ダージリンにもお裾分けだな、と笑う。

 

「ありがとなダージリン、キッチン貸してくれて」

「結局こちらにも響いてたわよ。まほさんも、それで起きてしまったみたいだし」

「ありゃ、そうだったのか」

 

 どうやら私を起こさないために隣のキッチンを借りたらしい。

 

 結局響くなら次からこっちでやろうかな、と生地をオーブンに押し込みながら千代美は呟いた。

 

「それがいいわね。笑いを堪えるの、大変だったんだから」

「なんかあったのか」

 

 あったも何も、と言ってダージリンはこちらを見た。とても、にやにやしながら。

 私が何かしたのだろうか。

 

 心当たりは無いが、嫌な予感しかしない。ダージリンがにやにやしている時は大抵、『詰み』なのだ。

 

「まほさんはね、家中を探し回った末に私を見つけて、開口一番『千代美は』って言ったのよ」

 

 なっ。

 

「お前」

「ち、違うんだ」

 

 おお何が違うんだ言ってみろ、と詰め寄る千代美に対し、言葉を探す。

 

 正直言えば、違わない。ダージリンは事実のみを言っている。

 しかし、その、いろんな含みを持たせるのが上手いのだ、彼女は。私はその含みに対して違うと言っている。

 しかし、それをどう説明したらいいのか、言葉が出てこない。

 

 まあ、考えても仕方ない。私も簡潔に事実のみを伝えるとしよう。

 

「だって、居なかったから」

 

 ぼん、と赤面する千代美。

 声を殺してツボに入るダージリン。

 

 しかし、そうとしか言いようが無かったんだ。

 

 居なかったんだもん。



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飛頭蛮の顔

飛頭蛮
飛ぶ頭
ろくろ首と同一視されたり、されなかったりもする


 金曜日の帰り道、携帯電話の通話アプリで千代美と他愛の無い雑談を交わしている。

 明日は休みだ。話題は明日の予定だったり、今夜の過ごし方の相談だったり。

 話題は何故か尽きない。他愛の無い内容である筈が、千代美との会話だと何でも弾む。私は話下手な筈なのだが、千代美が話上手であるお陰でバランスが取れているのだと思う。

 

 稀に話題が尽きたと思えば、しりとりが始まったりもする。便利な時代だ。

 

『まほ、今どこー』

 

 居場所を告げると、千代美は思いのほか近い所に居た。

 待ち合わせて合流する。

 

「一緒に帰りましょー」

「そうしましょー」

 

 子どものようなやり取りをして、二人で商店街を歩く。

 そういえば夕飯の買い物がまだらしい。千代美が手ぶらだ。

 

「今夜は家にあるもので済まそうと思ってたけど」

 

 なんか食べたいものでもあるのかと訊かれた。

 まあ、特に無い。ただ、せっかく外で一緒になったのだから、真っ直ぐ帰るよりはどこかに寄るのもいいなと思っただけだ。

 

 そう言うと、千代美は目を丸くした。

 

「まほ、珍しいな」

「何がだ」

「まほが寄り道を提案するなんてさ」

 

 そうだろうか。

 言われてみればそうかも知れない。

 いや、きっとそうなのだろう。

 

 何せ私よりも私の事をよく知っている千代美の言うことだ。

 

「じゃあ、どこに寄ろっか」

「ふうむ」

 

 考えていると、焼きたてのパンの香りが漂っている事に気が付いた。見回すと、すぐ目の前にパン屋があった。

 しかし隣に料理人が居るというのに、その選択は無いだろうと我ながら思う。

 

「パン屋かあ」

 

 私が匂いに釣られた事に目聡く気が付いた千代美が、不機嫌そうな声を出した。

 これから夕飯なのに、と。最もだ。

 

「ああ、でも、明日の朝ごはん用になら買っておくのもいいかもな」

 

 朝ごはんの手間が省けるなら、そのぶん布団から出なくて済むし、と千代美は意味ありげな視線を送ってきた。

 成程、そういう考え方もあるか。

 

「まほさえ良ければだけど」

「ほう、積極的だな」

 

 そう言うと、千代美は『へっ』と間の抜けた声を出した。

 左手の人差し指をくるくると回し、少し考えるようにする。何秒か後にようやく私の言った意味が分かったらしく、違うっつうの、と叫んだ。顔を赤くした彼女が私の背中を叩く。

 

「痛っ」

「まほ、朝は米派だろ。そういう意味で言ったんだよ」

 

 あっ。そういう事か。

 今度は私が赤面する番だった。

 

 顔を覆った右手が冷たくて気持ち良い。

 

「すけべ」

「はい」

 

 返す言葉も無い。

 私はすけべです。

 

「まあいいや。明日の朝ごはんって事でいいな」

「んん」

 

 そんな訳で、パン屋でお買い物。

 私がお盆を持ち、千代美がトングを持つ。さあどれにしようか。

 

「まほはどんなパンが好きかなー」

 

 トングをかちかちと鳴らしながら千代美が鼻歌混じりに言う。

 そう言えば、千代美は私の好みの把握に努めてくれているが、私は千代美の好みをあまり知らない、ような気がする。

 

 訊いてみた。

 

「千代美はどんなパンが好きなんだ」

「んっ」

 

 想定外の質問だったらしく、千代美は小さく上に向けたトングでくるくると空をかき混ぜた。

 考え事をする時の千代美の癖だ。手に持っているものを回す。何も持っていなければ指を回す。

 

 くるくると暫し考え、彼女はにやりと笑って言う。

 

「当ててみろ」

「そう来たか」

 

 言われてみれば、これは難問だ。

 ここですんなり当てられたら格好良いのだが、正直、皆目見当が付かない。

 一通り店内を巡り考えたが、ピンと来るものは無かった。つまり、知らないのだ。そこでようやく確信に至る。私は千代美の好みを知らない。

 

 それでもどうにか当ててやろうと、何か手掛かりになるものは無かったかと記憶を探る。

 千代美と言えば。

 千代美と言えば何だ。

 

 改めて店内を眺めていると、紙皿に載ったパニーノが目に入った。

 この店のものはトマト、チーズ、レタス、厚切りのベーコン、そして大葉を挟み、炙ってある。

 

 そうか、千代美と言えばアンツィオ、イタリアだ。高校生の頃はピザだのパスタだのと騒いでいた記憶がある。

 見て回った限りでは、この店の中で一番それっぽい物がこれだ。パニーノ。

 しかし、果たしてこれが正解なのだろうか。そう考えると自信が無くなってきた。

 恐る恐る、千代美の方を振り返る。

 

 千代美は、笑いを堪えていた。

 

「ご、ごめん、まほ、かわいいな」

 

 どうやら千代美は、うんうん唸りながら悩み店内をうろうろする私が面白くて仕方がなかったらしい。

 

「ひどいやつだな」

「ごめんごめん」

 

 じゃあこれにしような、と言って、パニーノをひょいとお盆に載せた。結局、それが正解なのかどうかは有耶無耶なままとなってしまったようだ。

 じゃあ次はまほの分だ、と言って千代美はパンを選び始める。

 

 当ててみろ、と言ってやった。

 仕返しではないが、千代美が悩む姿も見てやりたい。

 

「これだろ」

 

 私の意に反して、千代美が事も無げに棚から取ってお盆に載せたそれは、キャラクターを模した餡パン。

 お世辞にも出来が良いとは言えないその中から、特に不格好なものを選んで寄越した。

 あまりにも呆気ない。

 

「せ、正解」

「えへへ、やったあ」

 

 会計を済ませ、店を出る。

 やっぱり割高だなあ、自分で焼いた方が安上がりだなあ、などとぼやく千代美に、何故、と問う。

 

「出来の悪いやつから選んであげないと残っちゃうからな」

「い、いや、そうじゃなくて」

 

 何故分かった。

 

「だってまほ、あのパンの前でも少し足を止めたろ」

「まあ、そうだが」

「それに、店の前で足を止めたのも、あのパンの焼きたての匂いのせいだったろ」

 

 あっ、成程。それは自分自身でも気が付かなかった。

 やはり、私よりも私の事をよく知っている。よく見ている。

 付け焼き刃では敵う筈もない。

 

 千代美は笑い、パンを袋から取り出して私の顔の前で振り振りしながら言った。

 

「まほ、新しい顔よー、なんつって」



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悟りの覚


さとり
人の心を読む妖怪

ミカ視点


 負けた。

 それはもう、盛大に負けた。

 

 時刻は十七時。調子が良ければ本番はこれからって時間だ。

 

「こんな日もあるさ」

 

 誰にともなく呟く。

 まあよくある事で、要するに『いつもは勝つのにな』といった意味を込めた言葉だ。たまには負ける日もあるよね、と。その割には最近『こんな日』ばっかりで、ほとほと困り果てている。

 合わせていくら負けたかなんて、冷静に計算なんかしていない。したいとも思わない。今日は入ってると思ったんだけどなあ、設定。

 

 まあ、それはそれ。負けた事を悔やんでも仕方が無い。次に活かせばいいのさ。

 とりあえず、目下の悩みは、食費。というか、今夜のご飯。

 

 となれば、だいたい行き着く先は決まっている。

 

 近くまで来ると、彼女らの家の灯りが見えた。エアコンの室外機が回っているのも確認できる。ほっとするなあ、ご在宅だ。

 インターホンを押す。ぽんぴん。

 

 ややあって、ドアの覗き窓から漏れる光が人影で遮られた。

 

「合言葉を言え」

「ええっ、そんなの初耳だよ」

「ふふ、冗談だ」

 

 ドアが開いて、悪戯っぽい笑みのまほが顔を出した。なんだか気味が悪いなあ。

 

「なんだ、私の機嫌が良かったらおかしいか」

「おかしいとも」

 

 いつもの彼女なら、私の顔を見るなり如何にも迷惑そうな顔をする。迷惑そうなというか、彼女と千代美の二人の時間に水を差す訳だから実際に迷惑なんだろうけど。

 意外と独占欲が強いタイプなのかも知れないね、まほ。

 

 まあ普段がそんなだから、機嫌の良い顔をされると逆に不安になってしまう。何があったんだろうか。

 

「何、千代美が『そろそろミカが来る頃だと思う』と言った途端にインターホンが鳴ったからおかしくてな」

 

 何てこった、読まれてたのか、恥ずかしいなあ。でも何故。

 まあ寒いから入れと言われリビングに通されると、キッチンでフライパンを振るう千代美が見えた。お邪魔しまーす。

 

「ミカ、いらっしゃーい」

「わ、ナポリタンか」

 

 使っちゃわないとやばい食材があったからナポリタンにぶち込んだんだ、と千代美は言う。

 適当な事をしているように見えても、出来上がるものはとても美味しい。期待は高まるばかりだ。

 

「量が多いから来てくれて助かったよ」

「いやあ、ご馳走になるよ」

 

 相変わらず見事な手際。まるでショーのようだ。

 まほは興味が無いというか、とっくに見飽きてるんだろう。何やら小説を熱心に読んでいる。

 

 あっと言う間にナポリタンは完成し、食卓に並べられた。なんとも豪快な量だ。これは確かに二人じゃ無理だろう。いや、三人でも無理なんじゃないか、これ。

 

「隣にも分けるからな」

 

 あっ、そうか。隣にはダージリンが住んでいる。

 彼女へのお裾分けも考えると、確かにそれでようやく丁度良いかも知れない。

 

 具材はピーマン、タマネギ、ベーコン、そして、ちくわ。ああ、これが使っちゃわないとやばい食材ってやつか。

 

「一見ミスマッチだけど、美味いぞー」

「いい匂いだ」

 

 まほがようやく小説から顔を上げた。

 

「面白いだろ、それ」

「んん」

 

 返事なのか相槌なのかよく分からない声を出すまほ。それを見て千代美は満足そうに頷く。ああ、千代美のお勧めの本なのかな。

 表紙には『百器徒然袋』とある。何だか取っ付き難そうなタイトルだ。

 

「ほらほら、まほ、早く食べちゃいなさい」

 

 まるで母親だ。

 それじゃあ、私もご相伴に預かるよ。いただきまーす。

 

 ん。

 ああ、これは。確かにミスマッチだけど、美味しい。

 

「えへへ。そうだろう、そうだろう」

 

 で。

 

 食後。千代美が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、ちょっと気になった事を訊いてみた。

 どうして私が『そろそろ来る』と分かったのか。

 

「簡単だよ。ミカが来る日ってだいたい決まってるからな」

「えっ、そうかい」

「ミカが行ってる店の『新台入替』のチラシが新聞に入ってくる日、夕方によく来るじゃないか」

 

 千代美は食器を洗いながら事も無げに言う。

 

 なんてこった、そんな符合があったなんて。っていうか、私は新台入替の日によく負けてるって事になるのか。

 ううん、という事は今朝から読まれてたんだ。敵わないなあ。

 

「いや、私の見る限り千代美は一週間ほど前から食材を調整していたぞ」

 

 チラシが入ってくる日も決まってるからな、と言うまほに、照れ笑いで応える千代美。

 という事は今日、私がここに来るのを見越して大量にナポリタンを作ることは一週間前から決まっていて、千代美はそれに合わせて食材を調整していた、と。

 

 最早、言葉が出ない。

 呆気に取られていると、室内に何かアラームのような音が鳴り響いた。

 お風呂が湧きました、というアナウンス。

 

「風呂も入って行くか」

「いやいや、流石にそれは」

 

 冗談だと思うけど、まほの場合はいまいち区別が付かない。

 お風呂は辞退した。

 

 食器を洗い終えた千代美が手を拭きながら、まほ、どうする、と問い掛ける。

 

「んん」

「それじゃ、私先に入るぞー」

 

 えっ、何、今の会話。

 

「ちょっ、ちょっと待って」

「どした」

 

 千代美は今、まほから何を読み取ったんだ。私の耳が確かなら、まほは『んん』しか言わなかったよね。

 

「ああ、その事か。まほの『んん』には色んなニュアンスがあるからな」

 

 慣れれば簡単だよ、と千代美は事も無げに言う。

 確かにまほはよくそんな声を出すけれど、毎回意味が違うなんて思わなかった。

 

 ちなみに今の『んん』は、どんな意味だったんだろうか。

 

「今のはたぶん『小説が良い所だからもう少しあとで』って所だろ」

「正解」

 

 まほは小説から目を離さず、当たり前のように言う。

 それじゃゆっくりしてけよ、と言って千代美はお風呂に引っ込んだ。

 

「まほ」

 

「んん」

 

「彼女、凄いね」

 

「んん」



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油すましの名

油すまし
名前と絵はある
それだけ

名前が付いたことで有名になった誰かの話

ダージリン視点


 雪が、積もった。

 

 こんな量の雪を見るのは初めてかも知れないわね。まあ、残念ながら雪が積もったくらいではしゃげるような齢でもない。

 さっさと雪かきをしないと車が出せないし、時間が経てば凍ってしまうかも知れない。

 

 休日の朝から重労働だけれど、やってしまわない事には安心出来ないのよね。

 という訳で雪かき中。

 

「雪と言えばカチューシャとノンナだが、彼女らは来ないのか」

「来る訳ないでしょ」

 

 ぼやくまほさんに突っ込みを入れる。

 ノンナはともかく、雪かきをやらされると分かっていてカチューシャが来る訳が無い。カチューシャが来なければノンナも来ない。

 

 全く遣ってられんな、と言いつつまほさんは私の倍近く雪かきを進めている。

 それでも矢張り、二人だけでは心許ない。

 

 カチューシャ達は来ないけれど、今日は一人、私の後輩が助っ人に来てくれている。

 三人なら多少ましに作業が出来るから、とても有り難いわね。

 

「本当、貴女が来てくれて助かったわ」

「いえいえ、他ならぬダージリン様の頼みですから」

 

 笑う彼女に、ふ、と溜め息が漏れた。

 未だにみんな私の事をダージリンと呼ぶのよね。あれは聖グロリアーナで代々使われている称号みたいなものだから、私の事は名前で呼んでくれて構わないのに。

 齢だって然して違わないのだから、様付けするのもおかしいのよ。

 

 そうは言ってもなあ、とまほさんが口を挟む。

 

「今は単なるニックネームとして機能してしまっているからな」

「そうですね。私にとって、ダージリン様はいつまでも『ダージリン様』なんですよ」

 

 まあ、そうかも。

 思えばカチューシャも『カチューシャ』のままだし、通じさえすれば名前なんてそれでいいのかも知れない。通じる名前があるのは有り難い事、か。

 でも、やっぱり少し気恥ずかしいわ。

 

 はあ、とまた溜め息が出た。

 スコップを地面に突き立てて杖のようにして寄り掛かる。疲れた。

 

 ふふ、とまほさんが笑うのが聞こえた。

 

「何を笑ってるのよ」

「いや、すまん」

 

 千代美の癖が移ったかな、と一人で完結させるように呟く。

 何なのよと詰め寄ると、彼女は少し渋ってから、白状するように言った。

 

「スコップを杖にして猫背になるダージリンを見て、妖怪の絵を思い出したんだ」

 

 はーあ。

 

 今までで一番大きな溜め息。『ダージリン様』と呼ばれてこそばゆい思いをしている所に妖怪扱いは無いでしょう。

 自分で言うのも何だけれど、私は人より容姿が整っている方だと思う。聖グロリアーナで淑女の何たるかも嫌と言うほど学んだ。

 その私を妖怪呼ばわりするなんて、失礼な人だわ。まあ、まほさんが失礼なのは今に始まった事じゃないけれど。

 

 で、絵を思い出したと言うからには何か特定の妖怪なのでしょうね。

 

「ああ、名前までは思い出せないが」

 

 杖を持って立っている妖怪だ、とまほさんはふんわりした事を言った。

 何よそれ。杖を持って立っている妖怪なんていくらでも居るんじゃないの。

 

「他に何か特徴は無いの」

「うーん、簑を着ている」

 

 手掛かりが増えたような、増えてないような。

 

「油すましですかねえ」

「ああ、そんな名前だったかも知れないな」

 

 話が聞こえていたのか、一人作業を続けていた彼女がぼそりと言った。

 あぶらすまし。聞いたことがあるような、無いような。

 

「私も詳しくは知りません。『なんか知ってる』って程度で」

 

 杖を持って、簑を着て、立っている、だけ、という連想から私も絵が一枚浮かんだんです、と彼女は言った。

 

「結構進んだな。みんなお疲れー」

 

 甘酒作ったから休憩しないか、と玄関先から千代美さんが声を上げた。

 あら、良いわね。紅茶でもコーヒーでもなく甘酒。今の話題にはぴったりじゃない。

 

「頂きましょう」

「はい、ご馳走になります」

「丁度いい、妖怪博士に油すましの話を聞こう」

 

 言ったまほさんに対して、誰が妖怪博士だと突っ込む千代美さん。

 ふうん、千代美さんって妖怪に詳しいのね。小説をよく読んでいる影響かしら。

 

「部屋に図鑑があるだけだ」

「十分だと思うが」

 

 二人の夫婦漫才を聞きながら、彼女達の家のリビングで甘酒をご馳走になる。

 ああ、暖まるわ。

 

「美味しいです」

 

 安斎さんは料理がお上手なんですね、と彼女が言う。

 千代美さんの事は『安斎さん』と呼ぶのね。

 

「あはは、特別なのはダージリン様だけですよ」

「分かるよー。私にも、未だに私の事を『アンチョビ姉さん』って呼ぶ後輩が居るからな」

 

 どこも一緒なんだな、と千代美さんは笑った。

 そして、仕切り直すように言う。

 

「でさあ、なんで油すましなんだ」

 

 千代美さんに訊かれ、まほさんが簡単に経緯を説明する。早くも二杯目を飲みながら。

 私がスコップを杖代わりにして立った姿をまほさんが見て、妖怪の絵を思い出し、挙がった名前が『油すまし』。だから、まほさんが思い出した絵と『油すまし』がイコールなのかはまだ分からない。

 

 それを聞いた千代美さんは、そういうことなら絵を見ようと言い出し、部屋から『図鑑』を持ってきて、油すましの項を開いた。

 そういうものがすっと出てくる辺りが博士だな、とまほさんは笑い、絵を覗き込んだ。

 

「ああ、この絵だ」

 

 ここでようやく繋がった。まほさんが思い出した絵、イコール油すまし。

 確かに、杖を持って、簑を着て、立っている。それだけ。言われてみれば、どこかで見たことがある気もする絵だわ。

 

 で、これは何をする妖怪なのかしら。

 

「何もしないよ」

 

 強いて言うなら返事をするだけかな、と千代美さんは言って、解説文を要約して読んでくれた。

 

『孫を連れたお婆さんが山道を散歩中、昔はここらに油すましが出たそうな、と話すと、今でもいるぞと声がした』

 

 へえ。

 

 えっ、それだけなの。

 

「そう、名前の由来も、何をする妖怪かも分からない。声がしたってだけ」

「驚かす訳でもないのか」

「結果的には驚いたかも知れないけど、油すましは返事をしただけだからなー」

 

 でもなんか有名なんだよな、と言いながら、千代美さんは首を捻る。

 確かに、妖怪に興味の無い私達でも断片的に油すましを知っていた。それが何故なのかと考えても、一向に分からない。

 

「絵の印象が強いが、この絵が生まれたのは名前があったからか」

「言われてみれば、そうですね」

 

 声がしただけでなく、名前があったから伝わったのね。

 伝わったから絵が生まれ、それによって、更に広く伝わった。

 

「そうなるかな。ちなみに熊本の天草の話らしいぞ」

 

 ああ、あの辺なのか、と熊本出身のまほさんは私達より現実味を持って油すましを記憶した。

 この、何者なのか分からない妖怪は、これでまたひとつ有名になった、という訳ね。

 

「名前って大切なんですね」

 

 何やら実感が篭ったような声で彼女は言い、甘酒を飲み干した。

 さて、そろそろ雪かきを再開しましょうか。

 

「頑張れよー。昼も何か暖かいもん作るからな」

「楽しみにしてるぞ」

 

 まほさんにそう言われた千代美さんは、まほさんの首にマフラーを巻きながら、今日一番の笑顔を見せた。

 

「頑張りましょうね、ダージリン様」

 

 一番張り切っているのは、もしかしたら手伝いに呼びつけられた彼女かも知れない。

 その理由はきっと、『ダージリン様』に呼ばれたから、なのかしらね。

 それじゃあ、私も彼女に合わせて昔の名前で呼んであげた方が良いのかも。

 

 なんとなく、そう思った。

 

「そうね。頑張りましょう、ルクリリ」

 

 久し振りにその名前で呼ばれたらしい彼女は、一瞬ぽかんと口を開けた後、照れ臭そうに笑った。



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漁鬼の雫

そういうことやぞ


 零時。

 

「コンビニ」

 

 そう、唐突にまほが呟いた。

 お風呂にもとっくに入って、そろそろ寝る準備をしようかって時に呟く言葉じゃない。コンビニに行きたいのか、こんな時間に。

 小腹が空いたなら何か作ろうかと言ったら、どうもそういう訳ではないらしい。

 

 言うが早いか、彼女はいそいそと外出の支度を始めた。

 コートを羽織り、ニットの帽子を被る。

 

「待て待て待て」

 

 何を買いに行くのかは知らないが、私もついて行く。

 いくらまほでも、夜道を女一人で歩くもんじゃないぞ。

 

「頼もしいな」

「おう、いざって時は守ってやる」

 

 言って、私も外出の支度をした。まだまだ寒いから、しっかり着込まないとな。

 まほの首にもマフラーを巻いてあげた。

 

「暖かいなあ」

 

 何故かまほは、しみじみと言った。

 髪は結ばなくてもいいか。どうせ、行って帰ってくるだけだ。

 

「じゃあ、出よう」

「うん」

 

 玄関を開けると、雪がちらついていた。

 この間積もった分がまだ溶けきってないのになあ。この雪も明日の朝には積もるのかも知れない。

 

 手を出すと、ひとつぶ、指先に当たって溶けた。

 

 真夜中の住宅街を歩く。道の端は所々が凍っていて、足元には気を付けないといけない。まほは、転ぶぞ、と言って私の手を握ってくれた。

 指を絡めたあと、その感触を確かめるみたいに『にぎにぎ』と二回私の手を揉む。手を繋ぐ時の、まほの癖。

 すごく可愛い癖なんだけど、きっと無意識なんだろうな。

 

 私だけが知っている、まほの癖だ。

 

「コンビニで何買うんだ」

「んん」

 

 曖昧な返事。

 もしかしたら、買いたい物がある訳じゃないのかも。

 

 コンビニに到着。

 当たり前だけど、何時だろうと灯りは消えず、店内は昼と何ら変わらず音楽が流れている。暖房も効いていて、一瞬、時間や季節の感覚が失せる。

 不思議な場所だな、真夜中のコンビニって。

 まほの様子を見ていると、やっぱり何を買うでもなくぶらぶらしている。結局、買いたかった訳でもなさそうなホットの缶コーヒーを二本買って店を出た。

 

 また、手を繋ぐ。

 にぎにぎ。

 

 まほは何も言わず、繋いだままの手をコートのぽけっとに突っ込んだ。

 片方の手は缶コーヒーで、もう片方の手はぽけっとの中で。何故だろうな、コンビニの中に居るより暖かい。

 

 公園の前を通り掛かると、まほが声を上げた。

 

「ここがいい」

 

 言って、手近なベンチの雪を払って腰を降ろし、キン、と缶コーヒーを開ける。私もそれに倣った。

 一口飲んで視線を交わす。あんまり美味しくないな、これ。

 

 結局、何がしたかったんだろう。

 

「手を、繋ぎたかった」

 

 私の考えを見透かしたみたいに、まほが言った。

 なんだそりゃ、と思ったけど、まあ分からなくもないな、と思い直す。繋ぎたいよな、手。

 

 でも、やっぱり急過ぎるよ。

 

「そうかな」

「そうだよ」

 

 言い出したのが零時、もうすぐ一時だぞ。

 それに、私が来なかったらどうする気だったんだ。

 

「来てくれると思った」

 

 ごめんな、ありがとう、と言ってまほは笑った。

 

 コーヒーを飲み終わっても腰を上げる気配は無く、何かを言い淀んでいるのが伝わってくる。

 足元の薄氷が、ぱり、と音を起てた。

 

 まるでその音が合図だったみたいに、彼女が口を開く。

 

「実はな、まだ千代美に言ってない事があるんだ」

 

 そう、言った。

 

 散々一緒に暮らしてて、実家にも行って、今更まだ言ってない事があるなんて、俄には信じられない事だけど、何だろう。

 ずっと言いそびれていてな、とまほは、私の髪についた雪を払いながら言う。

 

 もっとくっついて、と言われ、腰を引き寄せられた。

 密着。あったかい。

 

「キス、してくれるか」

 

 言われるまま、キスをする。

 短く、唇を触れさせるだけの、小さなキス。

 

 まほは珍しく、震えていた。

 

 何を言われるんだろう。

 不安が胸に積もる。

 

 でも、まほはきっと、もっと不安なんだと思う。

 まほの手をぽけっとに引き込み、ぎゅっと握った。

 守ってやるよ。

 

 まほはひとつ、大きく深呼吸をした。

 

 そして。

 

 

 

「貴女の事が好きです。私と付き合ってください」

 

 

 

 静寂。

 

 そっか、まだだったか。

 

「ごめんな、まだだった」

「うん、初めて言われたかも」

 

 いつまでも言えてなかった事がずっと引っ掛かっていたらしい。この冬の間に言おうと決めてたんだ、とばつが悪そうに、まほは言う。

 遅いよ馬鹿、と小突いてやった。

 

 もう終わるぞ、冬。

 

「私も好きだよ。大好き」

「そうか。ありがとう」

 

 まほは何度目かの『ごめんな』を言いながら、私の頬を撫でる。

 その時やっと、自分が涙をこぼしていることに気が付いた。

 ぽろり、ぽろりと。

 

 馬鹿。

 

 降り続く雪の下、暫く、まほの胸に顔をうずめて泣いた。

 まほは私の頭を撫でながら、私が泣き止むのを待ってくれた。

 

 帰り道。

 また手を繋いだ時、いつも思うんだが、とまほが呟いた。

 

「手を繋ぐ時の千代美の癖、可愛いな」

 

 ああ、私にもあったんだな、そんなの。

 

「無意識だったのか」

「うん」

 

 もっと知って欲しいな。

 それに、もっと知りたい。

 

 もうすぐ春が来る。

 これからも、よろしくな。



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蛟の楼閣

まぼろし


【千代美】

 

 真っ暗だ。

 

 いや、何か、目に圧迫感を覚える。

 どうやらアイマスクか何かで目隠しをされているらしい。

 アイマスクは厚く、外からの光を完全に遮断している、と思う。外は果たして明るいのか暗いのか。それどころか、今が昼なのか夜なのかさえも分からない。

 

 更に、両手両足も縛り付けられているらしく、自由が利かない。

 私はベッドに大の字で寝かされているようだ。

 

 猿轡は噛まされていない。幸い、声は出せる。

 いや、違うか。ここまでされて声が出せるということは、つまり、いくら叫んでも無駄だという意味なんだろう。

 

 失敗したなあ。

 

「気が付いたか」

 

 声が聞こえた。

 

 嫌な声だ。

 なんて、嫌な声なんだ。

 

 こんなタイミングで聞きたくない。

 絶対に聞きたくない声だ。

 

 間違えようもない。

 

「西住」

 

 私の、好きな人。

 

「全く、隊長自ら潜入とは恐れ入る。捕まりたくて来たのかとすら思えるぞ」

 

 お前の髪は目立つ。西住は、呆れたようにそう言った。

 こんな状況でさえなかったら、嬉しくて舞い上がるような言葉なんだけどな。

 

 駄目元で、訊いてみる。

 

「なあ西住、これ、ほどいてくれないか」

 

 西住はそれには答えず、ふん、と鼻で笑った。

 彼女がゆっくりと歩み寄る跫が聞こえる。

 

「なあ、安斎。貴様は自分の立場が分かっているのか」

 

 西住の手が私の顎をくい、と上げる。露になった喉に指が置かれた。その指が私の体をなぞる。

 西住の指がつつ、と喉から下にゆっくりと移動する感触でようやく気が付いた。私は今、何も着ていない。

 

 瞬間的に羞恥の感情が込み上げる。

 嘘だろ、おい、私の服は。

 

「なんだ、今さら気が付いたのか」

 

 嘲るような西住の声。わざとそんな声を出して私を辱しめるつもりだ。

 西住の指は私の胸の辺りで止まり、掌に変わった。

 

 愛撫なんて優しいものじゃなく、西住の掌は私の胸の膨らみを乱暴に掴む。

 

「痛っ」

「良い形をしているな」

 

 ちっとも嬉しくない。

 私の体。こんな、こんな形で知られたくはなかった。

 

 こんな事になるなんて思わなかった。

 確かに無謀な潜入だったとは思う。でも、会いたかったんだ。

 

 私の好きな人に。

 

「お願いだ、乱暴にしないでくれよ」

 

 アイマスクが私の涙を吸う。

 涙は零れないけれど、声でバレる。

 

 西住の手が止まった。

 

「泣いているのか」

 

 彼女の声は、驚いているようだった。

 

「貴様は、自分の立場がいまいち分かっていないようだな」

 

 舌を出せ、と言われた。何をされるのかは分からないが逆らう気力も無い。

 素直に口を開き、舌を突き出した。

 

 かしゃり、という音が聞こえた。

 スマートフォンのシャッター音だ。

 

 酷すぎる。

 

「潜入もまともに成し得ない貴様の不徳だ」

 

 西住の罵倒が聞こえた直後。舌に何か柔らかいものが触れた。

 それは私の舌を咥え、辿り、唇を塞ぐ。

 

 彼女の舌が私の舌をなぞり、侵入してきた。

 口の中にコーヒーの香りが広がる。

 

「ん、んんっ」

 

 私の舌は西住の中に。

 西住の舌は私の中に。

 

 手足の自由を奪われ、目隠しをされ、唇まで塞がれて。

 

 本当に、酷い。

 

 だけど。

 

 こんな酷い奪われ方をされても、心のどこかで喜んでいる。

 口の中をぐちゃぐちゃに掻き回されながらも、西住の唇の柔らかさに嬉しさを感じている。

 こんな形でも、好きな人と唇を重ねている事に、ときめきを覚える。

 

 何故か、そのキスは、とても長く続いた。

 

 互いに舌を押し込み、唾液を吸い、喉を鳴らす。

 口の中で暴れる舌のくちゅくちゅという音が、脳を蕩かしていく。

 ああ、いつまでだって、こうしていたい。

 

 一際大きく喉を鳴らし、西住が唇を離す。

 げふ、という品の無い空気の音が聞こえた。

 

 私も、口の中に残った彼女の唾液をごくり、と飲み下す。

 

「なあ、西住。私、お前の事が好き」

「知っている。私も好きだ」

 

 だが立場を弁えろ、貴様は捕虜だ。西住は、冷たく言い放つ。

 心なし、さっきよりわざとらしさを含んだ声で。

 

「シーツがぐしょぐしょだ」

 

 まるでおねしょでもしたみたいだな、と西住は笑う。

 あんなキスをされて、普通でいられるか。

 

「そうだな。私も似たようなものだ」

 

 口に何か、水気を含んだ布を押し込められた。

 つん、とした臭いが鼻につく。

 

 これ、まさか。

 

「それでも吸っていろ。本番はこれからだぞ、千代美」

 

 なんて、事を。

 押し込められた布を吐き出し、声を上げた。

 

「千代美って言っちゃ駄目だろ」

「あ、ごめん、えっと、安斎」

 

 ああもう、これから本番って所で。

 

「はあ、目隠し外すぞ」

 

 まほがぐい、と私の目隠しを外した。

 部屋の灯りが眩しい。

 

「趣向を変えると言うから何をするのかと思えば、台本を用意するとはな」

「いや、思い付いたらやってみたくなっちゃって」

 

 で、どうだった。とまほは半ば呆れた顔で訊いてきた。

 

「めっちゃ良かった」

「そのうち逆のも書いてくれ」

 

 えへへ、まかせろ。

 

 まほはため息をつき、さて、と宣言するように声を出す。

 

「それはそれとして、覚悟しろよ、千代美」

 

 えっ、あっ、待って。

 

 ちょっ、解いて。

 

 ああんっ。



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(1/5)倩兮女の声

倩兮女
けらけらおんな

だいたい名前通りの妖怪

ちょっと続きます

こちらのエピソードをちょっと引き摺りますので、良ければ暇な時にでもどうぞ
https://syosetu.org/novel/145035/



 笑い声が聞こえる。

 倩兮(けらけら)という、甲高い笑い声。

 

 随分と盛り上がってるらしいな、隣は。

 こっちまで笑い声が聞こえるなんて、滅多に無い事だ。

 

 まあ、それはとりあえずどうでもいい。

 私が今やらなくちゃいけないのは、夕飯の支度だ。今日は帰りが遅くなっちゃったから手早く済ませたい。

 

「今夜は何を作ろうかなー」

 

 冷蔵庫の中身とにらめっこ。

 料理が得意とは言っても、毎日毎日手の込んだものを作る訳じゃない。有り物で適当に作ったりもする。

 まあ、料理が得意だからこそ、そういう事が出来るんだとも言えるけどな。ふふん。

 あれっ、何だろう。買った覚えの無い食材がある。

 

 明太子だ。

 

 しかもこれ、めちゃくちゃ良いやつじゃないか。

 まほが買って入れたのかなあ。いや、でもまほが入れたにしちゃ冷蔵庫の中が荒れてない。

 変な言い回しになるけど、まほは冷蔵庫が下手だ。いじったらすぐに分かる。

 

 ううん、あと可能性としては隣に住んでるダージリンだろうか。

 まあ、なんかあった時のために互いの部屋の鍵を預けあってるから可能っちゃ可能だ。でも、流石に留守の間に出入りはしないだろう。

 そもそも、わざわざこっちの冷蔵庫に明太子を入れに来る意味も分からない。

 

 また、笑い声が聞こえた。倩兮。

 

 その声に気を取られ、思考が一瞬中断される。

 まあ、考えても分かる事じゃないんだけど、『中断された』という事によって何だか余計に混乱する。

 

 ううーん、分かんないなあ。使っちゃっても良いんだろうか。

 

「ただいま」

「うわあ、びっくりした」

 

 後ろからすすっと腰に腕を回された。

 明太子と笑い声のせいで、帰ってきた事に気が付かなかったよ。

 

「おかえり、まほ」

 

 まほは、ただいまあ、と珍しく間延びした声で繰り返しながら頬擦りをしてきた。

 なんだなんだ、帰ってくるなり抱き着いたり頬擦りしたり。嬉しいけどさ。

 

 ん、酒の匂い。どっかで飲んできたのか。

 

「うん、隣に顔を出したら飲まされた」

 

 そう言って、まほは少し疲れたような顔をした。

 それに合わせるように、隣の部屋からまた倩兮という笑い声が聞こえる。

 

 倩兮というよりはもう、ゲラゲラって感じ。

 

「カチューシャとノンナが来ててな、随分と賑やかな事になっている」

 

 ノンナのハイエースが停まっているのが見えたらしく、それで先日の礼を言いに顔を出したらカチューシャに捕まった。

 そう言って、まほは酒くさい息を吐いた。

 

 そっか、ノンナが来てるなら私も顔を出さなきゃ。

 

 ノンナは冬に、私が失くした文庫本を見付けてここまで届けに来てくれた。お礼をしなきゃと思ってたんだけど、色々とすれ違いがあって、直接は会えてなかったんだ。

 

 それにしても結構飲まされたっぽいなあ。

 

 グラスにミネラルウォーターを注ぎながら、何やってんだ隣で、と訊いた。

 まほが私の腰に腕を回したまま一向に離れてくれないので、動きづらい。

 

「録画の、笑ってはいけないやつを観てる」

 

 水を飲むために漸く手を離したまほは、それを一口だけ飲んだ。

 

 笑ってはいけないやつ。

 ああ、年末にやってる、笑ったらお尻を叩かれるやつか。

 

「うん。それを観ながら、笑ったら飲まされるという余興をやってる」

 

 た、たちの悪い事を。

 

 待てよ。

 って事は、さっきからひっきりなしに笑い声が聞こえるけど、あいつらはその度に飲んでるって事なのか。

 

「うん、奴ら、もうベロンベロンだ」

「お前もだろ」

 

 あいつが容赦なく笑うから、そのせいでこっちまでつられるんだ、とまほはうんざりしたような顔をした。

 

 まあ、仕方ないか。

 よしよし、えらい目に遭ったなあ。

 頭を撫でてやると、まほは気持ち良さそうに喉の奥で『んん』と唸った。

 

 直ぐにでも、ご飯を出してやりたいんだけど、残念ながらまだ準備中。

 

「ごめんなー」

「気にするな。私は少し休む」

 

 言うが早いか、まほはコートを脱いでソファに横になった。

 年度の末はどこも忙しくなるもんなあ。それに加えて、今日はカチューシャに飲まされたのが堪えたみたいだ。

 横になったんだか倒れたんだか分からない姿勢のまま、まほはまた間延びした声を出す。

 

 千代美い、と呼ばれた。

 

「なんだよ」

「ちゅーして」

 

 ゆるっ。

 こんなまほ初めて見た。どんだけ飲まされたんだか。

 

 はいはい、と返事をしてキスをしてやる。

 くい、と顎を上げて私を待つまほに覆い被さるようにして唇を重ねた。

 ちょっとだけだからな。

 

 待ってましたとばかりに侵入してきた舌にびっくりして、んふ、という声を漏らす。

 まほが絡めてきた舌はまだ酒の匂いがして、つい飲み下した彼女の唾液も、酒の味で。あっ、美味しい。

 なんだろう、この香り、桜っぽいな。

 

 じゃなくて、こら。

 

 唇を離して軽く小突いて睨み付けると、まほは満足したように、にへっと笑って目を閉じた。

 もう、何もかもが不意討ちで、心臓がバクバク言っている。

 へなへなと、その場に座り込んでしまった。

 

 えええ、なにこの可愛い生き物。まほって泥酔するとこんな風になるのか。

 

 酒を無理に飲ませるのは良くないけど、カチューシャにちょっとだけ感謝しよう。いいこと知った。

 早くも寝息をたて始めたまほに、毛布を出してきて掛けてやる。

 不意討ちであんなキスをしておいて、いい気なもんだ、全く。

 

 明日は休みだし、起きたら相手して貰おうかなー。

 

 さて、気を取り直して。

 夕飯の支度をしようか向こうに顔を出そうか。先に顔を出しちゃいたいけど、捕まったら面倒くさそうだなあ。

 そういや明太子の謎はまだ解けてないや。まほが寝ちゃう前に一言訊いても良かったかな。

 

 考えていると、インターホンが鳴った。

 

「済みません、少しこちらで休ませて頂けませんか」

 

 あちらに顔を出すまでもなく、向こうからノンナがやって来た。

 酔い潰れたらしい、ぐったりした誰かを背負っている。客はカチューシャとノンナだけじゃなかったのか。

 

「まほさんが来た時にはもう隅の方で転がっていましたから、置物か何かだと思われたのかも知れません」

 

 あーあー、気の毒に。

 

 二人とも、カチューシャ達の飲み方に付き合いきれず避難してきた、って所かな。

 ノンナは運転だからそもそも飲むわけには行かないだろうけど、今のカチューシャが相手じゃなあ。

 

 どうぞどうぞ、と言って二人を招き入れた。

 

「済みません、ご迷惑を」

「気にするなよー」

 

 元々ノンナには借りがあるんだ。

 とりあえず、背中のその子を寝かしてやるのが先か。ああ、でもソファにはまほが寝てるんだった。

 

 という訳で寝室へ案内する。

 

「そこに寝かせてやってくれ」

「ありがとうございます」

 

 よいしょ、とノンナがその子を背中から降ろす。

 

 その子の顔を見て驚いた。

 同時に、うちの冷蔵庫に明太子を突っ込んだ犯人にも思い当たる。

 

 久し振りだなあ。

 こんな所で何やってんだよ、お前。

 

 隣の部屋からまた、倩兮という声が聞こえた。



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(2/5)のんのんさんの恩

のんのんさん
幼児言葉で「仏様」の意味

こちらの回想のような内容
https://syosetu.org/novel/145035/


 不覚。全くもって不覚だ。

 酒に酔って正体を失くすなど。

 

 一眠りして、少し酔いが覚めた頭で考える。

 

 まあ、不幸中の幸いと言うべきか、ダージリンの部屋でカチューシャに酒を飲まされて以降は、家に帰ってソファに横になっただけだと思われる。

 隣の部屋から隣の部屋に移動しただけ、の筈だ。

 

 ただ、こうして毛布が掛けられている以上は千代美と何かやり取りをしたのだろう。

 何か、おかしな事は言わなかっただろうか。

 

 ううん、考えても思い出せない。あとで千代美に訊こう。

 

 しかし美味い酒だった。

 なんというか、桜餅のような香りがして、カチューシャが春らしい酒だと言っていたのも頷ける。

 出来れば、ゆっくりと時間を掛けて飲みたかった。銘柄は覚えたから、今度買ってこよう。

 あれは飲み方を間違えなければ、とても良い酒だと思う。

 

 今回は思い切り間違えた。

 

 バラエティ番組を観ながら、笑ったら尻を叩かれる代わりに酒を飲まされるというのは、余興としては面白いかも知れないが、あんな度数の酒でやることではない。

 

 全く、無茶な事をしたものだ。

 車を運転するからという理由で必死に堪え続けたノンナは凄いと思う。

 

 あとは、そうだ。珍しく料理が凝っていた。

 カチューシャが馬鹿みたいに買い込んできたスナック菓子の出る幕は無く、テーブルには何やかやと酒に合う料理が並べられていて、それでまた、酒が進んでしまった。

 

 その出来の良さから、最初は千代美の料理かとも思ったが、どうやら違う。

 

 これは直感と言うほか無い。

 いつだったか、喫茶店でコーヒーを飲んだ時の感覚に似ていた。

 

 美味さ不味さとは全く別の感覚。

 恐らくは、千代美の料理を毎日食べている、胃袋を掴まれている私だけが持っている、直感。

 

 千代美の料理か否か。

 

 直感から言えば答えは否だった訳だが、じゃあ誰のだと言われれば皆目見当が付かない。

 千代美の料理と紛うような立派なものをダージリンが作れるとは思えない。

 カチューシャはそもそも料理が苦手だし、スナック菓子を買い込んできた時点で違うだろう。

 ノンナも、カチューシャを乗せてここまで来ているのだから、同様に違う。

 

 とりあえず今の思考を纏めると、『酔った自分が何をしたか覚えていない』『あれは誰の料理だったんだろう』のふたつ。

 どちらも結局、考えても分からん。

 

 ひとまず起きようか、それとももう少し眠ろうか、等と考えていると、ぼそぼそという話し声が聞こえてきた。

 

『なーるほど、じゃあダージリンが』

『ええ、あちらに置いておくとカチューシャが食べてしまう可能性があったので』

 

 千代美とノンナだ。ああ、私が眠っていたから気を遣っているのか。

 体を起こすと、千代美がそれに気付き、おはよー、と声を掛けてくれた。

 

「おはよう」

 

 食欲あるか、と問われ、あまり無い、と返す。

 さっき隣で少しつまんだのもあるが、酒のせいで頭がぐらぐらする。何か食べても吐いてしまいそうだ。

 

 千代美は、やれやれといった風な顔をした。

 

「ご飯は作ったから食欲が出たら言ってくれよ。あっためるからさ」

「すまん」

 

 ノンナが申し訳なさそうな顔をした。

 

「済みません、カチューシャが無理をさせてしまって」

「いや、いい」

 

 飲んだのは自分だし、酒自体は美味かった。

 それに、ノンナが謝る事でもない。

 

「ただ、少し飲みすぎて記憶が曖昧なんだ」

 

 私は向こうで何か変なことを口走ったりしなかっただろうか、とノンナに一応の確認。大丈夫だとは思うが。

 すると、ノンナは『んふふ』と今まで堪えていた笑いが遂に漏れたような声を出した。

 

「あの、ええと、言ってもいいのでしょうか」

「た、頼む」

 

 ノンナはそれでも少し迷ってから、顔を赤らめて言った。

 

「『千代美ー』とだけ」

 

「『千代美ー』」

 

「何度も何度も」

 

「何度も何度も」

 

 今度はこちらが赤面した。千代美の顔も赤い。

 

「あ、あの、千代美」

「黙ってろ」

 

 顔を両手で覆ったまま、千代美は絞り出すような声で言う。

 ノンナは恥ずかしそうに、済みません、と言って押し黙った。

 

 う、うわあ。

 

 気まずい沈黙が流れる。

 それを見計らったように、インターホンが鳴った。

 

 沈黙を破ってくれたのはありがたいが、助かったとは言い難い。鳴らしたのはどう考えても面倒くさい奴らだ。

 案の定、こちらが応対するのを待たずに、それは激しいノックに変わる。

 

 出ようとする千代美を手で制し、私が出た。

 

「なんだ。警察を喚ぶぞ、酔っ払いめ」

「アンタも酔っ払いでしょうがあ」

 

 違いないが。

 

 カチューシャ、ダージリン、襲来。

 つまみ用に買い込んだスナック菓子の処理に困って、人数の多いこちらで食べようという魂胆らしい。

 

「酒は出ないぞ」

「もう死ぬほど飲んだから沢山だわ」

 

 そんな訳で、テーブルの上にスナック菓子とウーロン茶が並べられた。

 

 私は、千代美の料理が控えているのに、それに手をつけずにスナック菓子をつまむという事がどうにも我慢ならなかったので、少し離れてウーロン茶だけ飲んでいる。

 千代美は気にするなと言ってくれたが、そうも行かん。

 それに、食欲も、まだそこまで回復した訳じゃない。

 

 ともあれ、広げた菓子をつまみながらの談話が始まった。

 場の空気だけで酔っ払いそうになった先程とは打って変わっての、実に平和な談話。

 

「やっとノンナにお礼が言えたよ」

「ああ、文庫本の件ね」

 

 冬に千代美が失くした文庫本。それを見付けてここまで届けてくれたのがノンナだ。

 礼をしようにも、なかなか話す機会が掴めずにいた。

 

 そう、本を届けてくれたと言えばもう一人。

 

「あとはマルヤマさんかあ」

 

 ノンナが届けてくれた本。

 それを最初に持っていたのが『マルヤマさん』という女性の子供。

 千代美がその子供に本を持たせた事が、失せ物探しのそもそもの発端だった。

 

 ややこしいが、千代美の本は、子供、マルヤマさん、ノンナ、ミカ、ダージリンの順に渡り歩いた後に千代美の手に戻った。

 千代美はノンナと、そのマルヤマさんに礼を言いそびれている事を気にしていたのだ。

 

「丸山さんならそのうち会えるでしょう。四月から、私の職場に紗利奈ちゃんが来ることになりましたから」

 

 次に会った時にでも伝えておきますね、とノンナは言った。

 

 紗利奈というのは、そのマルヤマさんの子供の名だったと思う。

 ノンナの職場、ああ、そういう事か。

 

「のんのん先生ー」

「やめてください、カチューシャ」

 

 などと言いつつ満更でもなさそうに笑う、保育士のノンナ。

 いや、のんのん先生。

 

 その後、のんのん先生の話で、マルヤマさんは何とみほの後輩で、更に戦車道の経験者である事が分かった。

 という事は、私も千代美も、どころかダージリンもカチューシャも過去にマルヤマさんと顔を合わせている可能性があるという事か。

 

 世間は狭い。

 そんな事を考えながらウーロン茶を飲む。

 

 同時に、段々と食欲が戻ってくるのを感じていた。

 

「そういえば、あの子は帰ったのかしら」

 

 何か、思い出したようにダージリンが言う。

 他にも誰か、先程の飲みに参加していたのか。

 

 すると寝室の方から、誰かがよたよたと歩いてきた。

 

「うー、すんませんっす、お布団貸してもらっちゃって」



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(3/5)一目連の嵐

一目連
目が一つの何か
神様だったり龍だったり、説は色々と


「そういえば、あの子は帰ったのかしら」

 

 何か、思い出したようにダージリンが言った。

 

「そういえば、マホーシャが来た時にはもう居なかったわね」

「酔い潰れて寝てただけですよ」

 

 私がこちらに運びました、とノンナがカチューシャに突っ込みを入れる。

 寝室に運んだ『あの子』。そうだ、そろそろ起きても良さそうなもんだな。

 

 するとタイミング良く、件の『あの子』が起き出してきた。

 

「うー、すんませんっす、お布団貸してもらっちゃって」

 

 あと姉さんお久し振りっす、と『あの子』、ペパロニは頭を揺らしながら言った。

 

 普段は料理の修行だ食材探しだと言って色々な場所を旅していて、たまにその土地の名物を送ってくれたりする。

 そうそう、冬にも北海道から鮭を送ってくれたな。あと、ずんだ。

 

 さっき、うちの冷蔵庫に現れた謎の明太子も、ペパロニの仕業だったらしい。

 

 近くまで来たから直接渡そうとしたものの、私もまほもまだ帰ってなくて、丁度帰ってきたダージリンに保護された。

 ただ、今日はダージリンの家で明太子を保管してるとカチューシャに食べられる可能性があったから、やむを得ずダージリンはうちの鍵を使って、ペパロニに冷蔵庫を使わせた、と。

 

 道理で冷蔵庫も荒れてない訳だ。いじったのがペパロニなら、それも納得がいく。

 

「ごめんなさいね、緊急と言えば緊急かなと思ったのよ」

「あー、あると知ってれば食べたわ」

 

 うん、ダージリン、ナイス。

 

「お二人で食べて下さいっす」

「いつも悪いなあ、ありがたく頂くよ」

 

 それを聞いて、あら私達には無いのかしら、とダージリンが冗談めかして突っ掛かる。

 ペパロニは困ったように、おつまみ色々作ったじゃないっすかー、と声を上げた。

 

「ふふ、そうだったわね。ペパロニさんの料理、どれも美味しかったわ」

「ほんとほんと、あれのお陰でずっと飲んでいられたわよねー」

 

 酔っ払い達に誉められて、うへへと笑うペパロニ。それに関しては私も鼻が高い。

 だけど、潰れるまで飲むのは感心しないな。

 

 カチューシャ達も、私の後輩に何してくれてんだ。

 

「わっとと、すんません姉さん、私が進んで飲んだんすよ」

 

 慌ててカチューシャ達を庇うペパロニ。

 そんな訳は無いと思うけど、まあ、そう言うなら仕方ないか。

 

 ペパロニは、すんません、と繰り返した。

 その腹がぐう、と鳴る。

 

 ああ、そういえば。

 

「ペパロニ、飯は」

「あー、まだっす」

 

 さっきまほに言ったのと同じように、食欲あるならあっためるぞ、と言うと、ペパロニは目を輝かせた。

 

「いいんすか、姉さん」

「お前が好きだったのを思い出してさ、ナポリタン作ったんだ」

 

 それを聞いて、ペパロニのテンションは更に上がる。

 まあ、少し前にも作ったばっかりなんだけど、ペパロニに食わせるものって言うとナポリタンなんだよな。

 早速、皿に盛って、あっためて出してやると、ペパロニは嬉しそうにがっつき始めた。

 

「ああっ、これっす、この味っすよ姉さん」

 

 久し振りだなあ、なんて言いながら美味そうにナポリタンを啜る。

 アンツィオに居た頃から、ペパロニは私の作るナポリタンが大好きだ。

 曰く、パスタじゃなくてスパゲッティって感じで美味い、らしい。

 誉められてるんだか、なんだかなあ。

 

 ペパロニの食べっぷりを見て食欲が復活したのか、まほも手を上げた。

 

「千代美、あの、私も」

「よし、まかせろ」

 

 結局、私も私もと全員が手を上げ、ナポリタンは綺麗さっぱり売り切れた。

 食べっぷりの良いやつが一人居ると、こうなるんだよな。

 

 ちょっと嬉しいけど、スナック菓子が何だかんだで残っちゃったのが勿体ない。

 

「千代美にあげるわよー」

「持って帰るのが面倒なだけでしょう」

 

 まあね、と開き直るカチューシャ。

 しょうがないなあ、次に飲む時のために取っておいてやるか。

 

 でも開けた分だけは食べちゃえよ。

 

 テーブルの上には、所謂パーティー開けのままのスナック菓子が何種類か散らばっている。

 それをみんなでばりぼりと処理していく。

 

「ちょっと湿気ってるわね」

「開けてからけっこう駄弁ってたもん、ん、何これ」

 

 リング型の赤いスナックを口に入れたカチューシャが、うわ辛っ、と叫んだ。

 ああ、『ハバネロ』だ。滅茶苦茶辛いやつじゃないか。

 

 何これもなにも自分で買ってきたんだろうに。さては手当たり次第に掴んできたな。

 

「知らないわよそんなのーっ」

 

 カチューシャは辛い辛いと繰り返しながらウーロン茶をがぶがぶと飲んだ。

 そんなに辛いのか。まあ、ハバネロだもんなあ。

 

 逆に興味が湧いてしまって、私もひとつ口に入れた。

 

 確かに、ああっ、凄、あああっ、凄いなこれっ。

 

 慌てて私もウーロン茶に手を伸ばすと、まさかの空っぽ。

 嘘だろ。カチューシャ、一気に全部飲んだのか。

 

「あはは、ごめーん」

 

 口の中がヒリヒリする。

 うー、もう水でいいや。

 そう思って冷蔵庫に向かうと、ペパロニが既にグラスに水を注いでくれてる所だった。

 

「姉さん、水っす」

「ありがとー、ペパロニ」

 

 はあ、助かった。

 本当に辛いんだな、当たり前だけど。

 

 しかし、こんなに辛いんじゃ誰も手を付けないな。

 どうすんだこれ。

 

「私は美味しいと思いますが」

 

 うわっ、マジか。

 ノンナが水も無しにぼりぼりと食べ始め、ハバネロはみるみる減っていった。そのまま、難なく完食。

 

 拍手。

 

「や、やるわねノンナ」

「いえいえ、美味しかったですよ」

 

 帰りにコンビニに寄りましょうねカチューシャ、と言って笑うノンナ。

 おかわりする気だ。

 

 そんなこんなで時刻は二十一時を回る頃。

 カチューシャが、こっくりこっくりと舟を漕ぎ始めた。

 酒のせいかと思ったら、大体いつもこれぐらいの時間に就寝するらしい。

 

「いくら何でも早すぎやしないか」

「寝る子は育つのよ」

 

 う、うん。頑張れよ。

 それじゃあ、カチューシャもお眠だし、そろそろお開きかなあ。

 

 ふと、眠そうに目を擦るカチューシャの動きがぴたりと止まった。

 

 あっ。

 

 おい、カチューシャ。

 

 まさかハバネロを食べた手で、目を。

 

 カチューシャは、助走のように『ううう』と唸り声を上げ、やがて。

 

「痛だだだだだっ」

 

「あはははははっ」

 

 カチューシャの絶叫と、ダージリンの倩兮(けらけら)という笑い声が重なった。

 混乱したカチューシャは、尚も目を擦る。

 

 お、おいおい、やめろ馬鹿。

 

「洗い流しましょう、カチューシャ」

 

「水、みずーっ」

 

「カチューシャ、水は駄目だぞーっ」

 

「姉さん、オリーブオイルっす」

 

「よし来たっ」

 

 ペパロニ、ナイスだ。

 

 目に唐辛子が入った時は水で流しちゃ駄目。

 痛みになる成分のカプサイシンは水に溶けないから、水で流すと顔中にカプサイシンが広がってしまう。

 意外に思われるかも知れないが、効果的なのはオリーブオイル。

 オリーブオイルを目の周りに塗ってやると簡単に痛みが引くんだ。

 

 痛みが引くんだってば。

 

 おい、暴れんな。

 

「ノンナ、カチューシャ抑えて」

 

「こうですか」

 

「ちょ、ギブギブギブ」

 

「あはぁははははっ」

 

「ぐっ、ふ、んふふ」

 

「そこ、笑ってんじゃないわよーっ」

 

「カチューシャ、暴れないでください」

 

「痛だだだだっ」

 

 まほの背中をばしばし叩きながら倩兮と笑い続けるダージリン。

 それにつられて意味も無くツボるまほ。

 よくわからない関節技でカチューシャを押さえ付けるノンナ。

 叫ぶカチューシャ。

 ペパロニは、相手が全員先輩なものだから、ただただ狼狽えるばかり。

 

 こ、ここは地獄だ。

 

 そんな顛末があって。

 今、ようやくカチューシャの手当てをしている。

 

「うー、千代美、ありがと。楽になってきたわ」

「応急処置だからな。痛みが長引くなら病院行くんだぞ」

 

 言って、救急箱から眼帯を出して巻いてやった。

 

「似合うわよ」

「うっさい」

 

 くつくつと笑いを噛み殺しながら言うダージリンに、カチューシャが毒づく。

 

「はらっ、カッ、ひゅ」

「の、ノンナーっ」

 

 今度はノンナが鼻血を噴いて倒れた。

 たぶん、『ハラショー、カチューシャ』と言いたかったんだと思う。

 

 眼帯、ツボだったか。



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(4/5)浄玻璃の鏡

浄玻璃の鏡
じょうはりのかがみ
閻魔大王が裁判で使う、亡者の生前の行いを映す鏡
昔の事なら何でも知ってるよ


 カチューシャ達は帰り、ダージリンも自室に戻った。

 

 正直、ホッとしている。

 騒ぎ疲れたとか、また飲まされるかも知れないとか、そういう意味ではなく、他の理由がある。

 

 皆にバレはしなかっただろうか。

 みっともない話だが、実は今、物凄く苛々している。

 

 原因は分かっている。

 だからこそ、『そんな事』に苛立っている自分に対し、余計に苛立つ。

 苛立ちと自己嫌悪が交互にやってきて、ひどく気分が悪い。

 

 そんな事。

 そう、その程度の、そんな事だ。

 

 まず、千代美が、後輩を寝室に連れ込んでいたこと。

 

 いや、こんな言い方をしては語弊がある。千代美に悪気は無い。千代美は、酔い潰れた後輩を寝かせただけだ。

 それだけの事なのに、私が勝手に悪い方へ解釈している。

 

 我ながら、子供染みていると思う。

 しかし、そうと分かっていても、苛立つ。

 

 まだある。次だ。

 

 カチューシャ達が後輩に酒を飲ませた事に対して、千代美は珍しく怒りを露にした。

 まあ、それも当たり前の事だ。

 私だってカチューシャ達がエリカに無理に酒を飲ませたりしたら怒ると思う。

 それはいい。繰り返すが、当たり前だ。

 

 しかし、カチューシャ達が私に酒を飲ませた事に対して千代美は怒らなかった。

 私は、たぶん、その事に対して苛立っている。

 

 要するに、ただの焼きもち。嫉妬だ。

 

 更に、夕飯。

 千代美自身も言っていたが、ナポリタンはこの間作ったばかりのメニューだ。だがまあ、それはいい。

 食材の遣り繰りの都合もあるから、千代美の作る物に私が口出しする事はまず無い。

 問題はそれが『後輩のために』作ったものであるということ。

 

 問題か。

 問題視するほどの事だろうか。

 

 もう、自分でも嫌になる。酒のせいだと思いたい。

 私はこんなに嫉妬深い女だったのだろうか。

 

 そして、とどめ。

 カチューシャの目に唐辛子が入り、彼女が暴れ始めた時。

 

『姉さん、オリーブオイルっす』

『よし来たっ』

 

 千代美と後輩のコンビネーションは抜群だった。

 

 それも仕方の無いことだ。

 私では、台所に走ったところでオリーブオイルの瓶を探し当てる事すら出来ないだろう。

 そもそも、『目に唐辛子が入った時はオリーブオイル』という発想にすら至らない。

 あれは、長く食に関わり続け、尚且つ先輩後輩の間柄であればこそ成り立つコンビネーションなのだ。

 

 まあ、色々と原因を挙げたが、詰まるところ千代美がかまってくれないから機嫌が悪いのだ。

 だから何もかもが原因に見えてくる。

 

 妬いてどうなるものでもない。

 そう、自分に言い聞かせないと収まらない。そんな幼稚さが自分の中にあった事に対して苛立ち、苛立つ事でまた自己嫌悪に陥る。

 そうやって、先程から一人で感情の鬩ぎ合いを続けている。

 

 そうだ、もうひとつ。

 あの後輩は度々、千代美に食材を送っているし、今日もどうやら明太子を持ってきたらしい。それは、私の口にも入る事だろう。

 果たして今後、彼女が送ってきた食材を素直な気持ちで口に運べるか、甚だ不安だ。

 

 酒のせいだ。

 酒のせいなんだ。

 

 そう、思いたい。

 

「ペパロニ、今夜寝る所はあるのか」

「いやあ、それが実は」

 

 ぞわり、と髪が逆立つような、醜悪な感情が込み上げるのを感じ、慌てて聞き流すよう努める。

 先輩と後輩の二人が、当然の会話をしているだけだ。

 

 当然の会話をしているのだから、続く言葉も、当然。

 

「じゃあ、泊まってけ」

「すんません姉さん、ありがとうございます」

 

 ぞわり、ぞわり。

 

 拳に、要らぬ力が入る。

 

 その時、気の抜けるようなメロディと共に、お風呂が沸きました、というアナウンスが流れた。

 変に明るいその音声が場違いだと感じるのは、恐らく私だけだろう。

 

 まあ、ひとまず、助かった。

 

 千代美が立ち上がり、先に入るぞー、と言った。

 

「二人は酔ってるから風呂はあと。水でも飲んで、ゆっくり休んどけ」

 

 それと、喧嘩すんなよ。

 心なし憮然とした声で言い、千代美は風呂に向かった。

 

 ああ、少し怒っている。

 

 まあ、流石に喧嘩などする訳は無いとは思うが、私の機嫌が悪いのはお見通しだったようだ。

 全く、敵わない。後で謝らなくては。

 

「お見通しっすねえ」

 

 流石姉さんだ、と彼女が呟く。

 

 彼女は、千代美が居なくなったのを確認して、こちらに向き直った。

 緊張したような面持ちで、少し良いっすか、と言う。

 

「姉さんの事、千代美、って呼ぶんすね」

 

 高校ん時は『安斎』でしたよね、と彼女は言った。

 まさかそんな話を振られるとは思わなかったので、私はつい、いつもの癖で『んん』という、返事とも相槌ともつかない声を漏らした。

 

 言われてみれば、そうだ。

 今は『千代美』と呼んでいるが、確かに高校の頃は彼女の事を『安斎』と呼んでいた。

 

 呼び方を変えたのは、いつの事だったろうか。

 

「正直、焼きもち焼きっぱなしっすよ」

 

 すげー羨ましいっす、と付け足した。

 

 ああ、そうか。

 彼女は千代美の事を『姉さん』と呼んでいる。

 長らく先輩後輩の仲ではあるが、言い換えればそれは、未だに先輩後輩の仲から先に進んでいないという事。

 

 彼女は彼女で、私の事が羨ましく見えるのか。

 

 しかし、今日は随分と千代美に優しくされていたように思うが。そう言うと彼女は、姉さんは誰にだって優しいんすよ、と言って眉尻を下げた。

 

「姉さんは誰にだって優しいけど、その中でもまほさんは特別っす」

 

 あ、まほさんでいいっすよね、と彼女は一旦話を切った。

 彼女にとって『西住』と言えばみほの事らしい。

 

 ああ、そうか。

 千代美の後輩という見方しかしていなかったが、この子はみほと同学年なのか。

 好きに呼んでくれ、と返した。

 

 気を取り直し、彼女は途切れ途切れに話す。

 

「今日の姉さんね、まほさんの事、ずっと目で追ってました」

 

「いや、今日だけじゃないな、もっと、ずっとですよ」

 

「高校ん時から、ずっと」

 

「私は私で、ずっと姉さんの横顔を見てきたから分かります」

 

「姉さん、昔からしょっちゅう、まほさんのこと考えてました」

 

「だから焼きもち、焼きっぱなしなんすよ、私」

 

 私もそうだよ、という言葉が喉まで出掛かったが、寸での所で踏みとどまった。

 私の一時の嫉妬など、彼女のそれとは比較にならない。 

 

「でも今日、久し振りに会って、思いました」

 

「すげー、幸せそうだなって」

 

「そりゃ、そうっすよね」

 

「高校ん時から好きだった人と暮らしてるんすもん」

 

「焼きもちは焼きますけど、それ以上に、姉さんが幸せそうで良かったなって」

 

「本当に良かったなって、思うんすよ」

 

 今にも泣き出しそうな顔で、彼女はそう言った。

 

 恥ずかしい。

 申し訳ない。

 消えてしまいたい。

 そんな思考が頭の中を駆け巡る。

 

 何て誠実な子なのだろう。

 彼女の嫉妬は、あまりにも美しい。

 

「だからね、まほさん。あんまり姉さん困らせちゃ駄目っす」

 

 先の表情から打って変わって、彼女はにやりと笑う。

 

 なっ。

 

「ま、まさか、私の嫉妬に気付いて」

「バレバレっすよ」

 

 唖然とした。

 彼女の変わり様もそうだが、それ以上に。

 

 そう、か。

 隠しきれなかったか。

 

 自分は顔に出ない質だとばかり思っていたが、そんな事は無かったらしい。

 という事は、カチューシャ達にもバレてしまっていると思った方がいいのだろうか。

 

「ああ、いえ、カチューシャさん達はどうか分かんないっすよ」

 

 ただ私にだけはバレバレっす、と彼女は自信満々に言う。

 

「何故」

「何故って、言ったじゃないっすか」

 

 彼女は、諭すように先程の言葉を繰り返す。

 

「私はずっと、姉さんの横顔見てきたんすよ」

 

 姉さんの顔色を見れば、まほさんの機嫌だって分かります。

 事も無げに、そう言った。

 

「だから、私にだけはバレバレなんす」

 

 あんまり、姉さんにあんな顔させないで下さい。彼女はそう言って、私を睨む。

 

 ころころと、よく表情の変わる子だ。

 どれが本当の顔なのだろうと考えたが、恐らく全て本当の顔なのだろう。

 

 彼女はきっと今、私に対する感情がぐちゃぐちゃなのだ。

 それを彼女なりに順々に整理している、のだと思う。

 千代美を好きでいるために、私への敵意を整理しているのだろう。きっと。

 

 恐れ入った。

 この子は本当に、千代美の事が好きなのだ。

 

「まほさんもそうなんじゃないっすか。いい歳こいてただの後輩に嫉妬するくらい、姉さんの事が好き、なんすよね」

 

 確かに。

 言い方は癪だが、それは、全く、その通り。

 

「うん、私は、千代美のことが大好きだ」

 

 それは、何の衒いも無い事実。

 千代美の事が、大好き。

 

 そう言うと彼女は、あざっす、それが聞きたかったっす、と納得したように大きく頷いた。

 

「色々、変なこと言ってすんませんでした」

 

 姉さんの事、宜しくお願いします。

 姉さんの顔、正面から見ててあげて下さい。

 

 そう言って彼女は頭を下げた。この子は私などより、ずっと大人だ。

 彼女は彼女で、高校生の頃から抱え続けていた自分の気持ちに始末を付けたつもりなのだろう。

 

 後輩の鏡のような子だ。

 

 この子の為にも、なるべく千代美を困らせないように努めよう。

 そしてこの子、ペパロニと仲良くする努力もしよう。そう思った。

 

 思ったついでに、もうひとつ。

 千代美の風呂がいつもより長い、気がする。

 

「気がするって何すか」

「上手く説明できん」

 

 直感、としか言いようが無いんだ。



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(5/5)鬼一口の酒

鬼一口
鬼が人を一口で食べちゃうこと
「神隠し」に近い意味


【千代美】

 

 頭が痛い。

 心配しすぎかな。

 

 いや、でもなあ。

 

 風呂に入る前、まほとペパロニに『喧嘩すんなよ』と言い置いた。感じ悪かったかな。

 でも、言っとかないと不安だったんだよな。少なくとも、まほの機嫌は私が見る限り最悪だったし。

 シャワーを浴びながら、そんな事を悶々と考えている。

 

 まほはあれで、意外と独占欲が強い。

 私がペパロニと仲良くしてるだけで、まほの機嫌がどんどん悪くなっていってるのは、分かってた。

 でも、久し振りに会う後輩に優しくするくらい、なあ。

 

 心境は複雑だ。

 

 まほが独占欲を私に向けてくれてる事、それ自体は、まあ、嬉しい。

 嬉しいんだけど、今日みたいな場合は少し困る。

 

 でも、まほの独占欲がどういう理由で沸いてくるのかって考えるとな。

 勿論、黒森峰での、みほとのごたごたがトラウマみたいになってるのもあるだろうけど、もっと根本的なところだよな、きっと。

 

 甘えたくても甘えられない時期が長かったんじゃないか、と思う。

 戦車道を始める前、もっともっと幼い頃から『お姉ちゃんでしょ』と我慢させられる機会が多かったんじゃないかなあ。

 

 想像に過ぎないけどさ。

 

 ただ、そういう事を考えちゃうと強く言えないのも確かで。

 もっと言うと、甘えさせてあげたくなるし、甘えられると嬉しいし。

 そうそう、嬉しいと言えば。さっき、まほが私の料理を優先して、お菓子に手を伸ばさなかったのは嬉しかった。ああいう所、ほんと好き。

 

 でもまあ、ちょっとは叱らないと駄目なのかな。

 

 うーん。

 あの二人、喧嘩してないといいけど。

 

 あー、頭が痛い。

 

 

 

 

 ぐらり。

 

 

 

 

 ぱち、と目を開く。

 

 頭が痛い。

 辺りを見回す。どうやら私はリビングのソファに寝かされている、らしい。

 身体を起こすと、まほとペパロニが声を掛けてきた。

 

「起きたか」

「姉さん、大丈夫っすか」

 

 何があったんだろう。

 

「千代美が遅い、ってまほ姉さんが言うもんだから様子見に行ったら、ぶっ倒れてたんすよ」

「ええ、怖っ」

 

 記憶を辿る。

 

 カチューシャ達が帰ったあと、ペパロニと少し話して、風呂に入って、シャワーを浴びながら悶々と考え事してて。

 ああ、そこで『ぐらり』と来て、そのあとの記憶が全く無いんだ。

 

 疲れてるのかなあ。

 ずきん、と頭が痛む。

 

「私もペパロニも覚えは無いが、もしかしたら千代美も酒を飲んでたんじゃないかと話してた所だ」

「飲んでないぞ、お酒なんて」

 

 飲んでない、筈だけど。

 

 あ。

 

 そう言えば飲んだ。

 一口だけ飲んだぞ、さっき。

 

「やはりそうか」

 

 一体いつの間に飲んだんだ、とまほが呆れた顔をする。

 は、腹立つなあ、こいつ。覚えてないのか。

 言ってやろうかな、お前に口移しで飲まされたんだぞって。いや、ペパロニが居なけりゃ言ってる所だ。

 

 って言うか、なんだ。私が風呂に行く前はちょっとギスギスして見えたのに、二人とも打ち解けたのか。

 

「まあまあ」

「ええー、まあまあっすかあー」

 

 そりゃ無いっすよー、と不満げに言うペパロニ。

 すまんすまん、と笑うまほ。

 

 なーんだ、何があったかは知らないけど、打ち解け始めてるじゃないか。心配すること無かったな。

 あー、それなら雰囲気が良い内に話しちゃおう。ペパロニが寝る部屋のこと。

 

「あ、私は寝室とは別の部屋がいいっす」

「別の部屋『が』いいのか」

 

 なんか含みがあるな。

 そう言うと、ペパロニは照れたように、うへへと笑う。

 

「いやあ、邪魔しちゃ悪いかなって」

 

 言って、ペパロニは右手で口を覆って、顔を背けた。

 へ、変な気を回すな酔っ払いめ。

 

「姉さん、今日は全員酔っ払いっすよー」

 

 まあ、それは確かに。

 まほとペパロニは元より、結局、私まで酔ってたからな。

 

 それにしても一口で酔っ払うもんかなあ。

 もしかしてあれ、強いお酒だったんだろうか。

 

「度数は高かったな」

「四十っす」

 

 アホか。

 

 まあ、美味しかったけど、弱い奴が飲む度数じゃないな。

 隣に顔を出さなくてよかった。一口で参るようなお酒、グラスで飲まされたらどうなるか分かったもんじゃない。

 

 っていうかお前らも、よく無事だったな。

 

「潰れたっすけどね」

「私も短時間だが記憶が無い」

 

 う、うん。

 そりゃそうか。

 

「お前ら、風呂は明日にしろよ」

「そうする」

 

 すると突然、ペパロニが、あっと声を上げた。

 

「どした」

「ダーさん、大丈夫っすかね」

 

 それを聞いて、私もまほも同時に『あっ』と声を上げ、顔を見合わせた。

 話を聞く限りでは、ダージリンとカチューシャは、まほやペパロニよりも飲んでる筈。カチューシャには素面のノンナがついてるけど、ダージリンは一人だ。

 

 これって緊急か。緊急と言えば緊急だよな。

 奇しくも、さっきダージリンが使った言い回しが頭をよぎる。

 

 様子を見ておこう。

 

 三人でぞろぞろと隣の部屋へ。

 ひとまずインターホンを鳴らしてみたが返事が無い。寝てるのかな。まあ、寝てるならいいんだけど。

 

「湯を使ってるな」

 

 あ、本当だ。

 

 ごおー、という音を起てて玄関脇のガス給湯器が動いている。こういうのって意識しないと気が付かないもんなんだな。音はでかいのに。

 まほ、よく気付いたな。

 

「んん」

 

 うん。

 

 じゃあ、お風呂か。

 丁度いいというか、何というか。

 

 ごめんなダージリン、と心の中で謝って、鍵を使って中に入った。

 リビングの灯りは点いているけど、そこにダージリンの気配は無く、シャワーの水音だけが聞こえる。やっぱりお風呂だ。

 

 シャワーの水音だけが聞こえる。

 

 他の音がしない。

 

 あ、やばいかも。

 

「倒れてるか、その、耽ってるかのどっちかっすよね」

「下世話なことを言うな」

 

 ま、まあ、無くはないけど。

 

 とりあえず脱衣所からお風呂の扉の曇りガラスを覗いた。

 人影が見える。倒れてはいないけど、動いている様子も無い。

 

 ダージリン、と声を掛けたが返事が無い。ノックにも反応が無い。

 ずい、と割り込んできたまほが扉を乱暴に開けた。

 

「ああ」

 

 ダージリンはお風呂の椅子に座ったまま、頭を抱えるような姿勢で眠っていた。

 

 眠ってる、だけだよな。

 解いた濡れ髪が垂れていて、表情は読めない。

 

「おい、ダージリン」

 

 まほがダージリンの頬をぴしゃぴしゃと軽く叩くと、ダージリンは『ううん』と小さく唸った。

 よかった、生きてる。

 

 まほが短く、運ぶぞ、と言った。

 

「ペパロニ」

「はいっす」

 

 まほがダージリンの腋に手を差し込んで抱き上げ、ペパロニが手早くその体を拭く。

 ああ、さっき私もこうだったのか。二人の手際は明らかに経験者のそれだった。

 

「千代美より軽い」

「髪が重いんすよ、姉さんは」

 

 冗談みたいな会話を交わす余裕もあって、とても頼もしい。

 

 ややあって、ダージリンの部屋のリビングで、目を覚ました彼女と話している。

 彼女がお風呂で眠り始めてからいくらも時間が経っていなかったらしく、大事には至らずに済んだ。

 

「ごめんなさい、助かったわ」

 

 ダージリンは、お風呂に入った記憶すら無いらしい。

 じゃあ、どこまでなら記憶があるのか。彼女はこめかみに手を当てて考える。

 

「テレビの出演者達がバスに乗せられて、ガースー何とかって建物に」

「序盤かよ」

 

 記憶が飛んでからの方が長いのか。無茶な飲み方してたらしいからなあ。

 

 部屋を見回すと、それらしい酒瓶が転がっているのが目に付いた。

 蓋を開けると、覚えのある桜の香りがした。瓶の中に一本入っている草が香りの元なのかな。

 ともあれ間違いない、このお酒だ。

 

 中身は一杯分くらい残ってる。

 飲み干してなかったんだ。

 

 いや、こんだけ飲めば十分か。

 

「もう瓶を見るのも嫌よ。貴女達にあげるわ」

 

 うんざりした顔で、ダージリンが言う。

 

 正直、こっちだって貰っても困るけど、と思ったら、まほがちょっと嬉しそうにしてる。まあ、そういう事なら貰っとくか。

 んじゃ、時間も時間だし引き上げよう。

 

「あ、私、今夜こっちで寝てもいいっすか」

 

 ダーさん心配なんで、と急に思い付いたように、ペパロニが言った。

 まあ、心配なのは確かだけど、本当にそれが理由だろうか。

 

 すると、ダージリンは何かを察したように、にやりと笑い、あっさり了承した。

 

「助かるわ、是非そうして頂戴」

「あざーっす」

 

 ペパロニはどうか知らないが、ダージリンの笑顔にはまず間違いなく裏がある。

 ううん。結局、気を回されたか。

 

 そんな訳で、にやにやしたダージリンとペパロニに見送られ、私達は一杯分のお酒を持って部屋に戻った。

 あれだけ賑やかだったのに、二人きりになると静かなもんだな。

 

 さてと。

 

「千よみぐっふ」

 

 後ろから声を掛けてきたまほを振り返らず、腹に肘を入れてやった。

 なに焼きもちなんか焼いてんだ、ばか。

 

 まほは『んん』と唸り、腹を擦りながら弁解する。

 

「私はまだ、千代美の事を全然分かってないから」

 

 千代美の事をしっかり理解しているペパロニが羨ましかったんだと思う。

 そう言って、まほはまた腹を擦った。あ、結構いい所に入ったんだ。

 

「うん、鳩尾」

「ごめん」

 

 それは、ごめん。

 

 私の方こそすまん、とまほも謝った。

 

 はあ。

 

 でもまあ、そういう理由なら、まほだって私の事をよく分かってると思うぞ。それこそ、ペパロニに負けないくらいさ。

 

「そうだろうか」

「うん。私がお風呂で倒れた事に気付いてくれたじゃないか」

 

 それは、直感としか言いようが無い、とまほは自信無さげに言う。

 

 ばかだな。ゲゲゲのなんちゃらじゃあるまいし、直感なんてそうそう無いよ。

 あれにはちゃんと理由があるぞ。

 

 そうだろうか、と全く同じ言葉を繰り返すまほに、ため息が出た。もっと自信持てよ、私の好きな人。

 

 あのなあ。

 

「お風呂ってさ、大体やることの順番が決まってるだろ」

 

「だから、音の順番も決まってるんだ」

 

「まほは毎日その音を聴いてるから、無意識に順番ごと記憶してるんだよ」

 

「まほが異変に気付いたのは、いつもの音が聴こえなかったからだろ」

 

「料理の味の違いに気付くのと一緒でさ」

 

「いつもと違うから気付いたんだよ」

 

 捲し立てた。

 

「そっか」

「そう」

 

 そこまで言って漸くまほは表情を和らげた。

 全く、手の掛かる人を好きになっちゃったなあ。

 

 それじゃ寝るぞ、と言って寝室に向かおうとすると、まほがそわそわし始めた。

 

「えっと、千代美、その酒」

 

 吹き出しそうになるのを堪える。

 まだ少しだけ、怒った顔をしていたいから。

 

 そんなに飲みたいのか、と訊くと、まほは素直にこっくりと頷いた。可愛い。

 まあ、丁度よく明太子もあるし、炙ったやつで一杯やったら最高だろうなあ。

 元々、一杯分くらいしか残ってないから飲みすぎる事もないし。

 

 でも駄目だ。

 

「えっ」

「駄ー目」

 

 露骨にしょんぼりするまほ。

 ごめんな。お仕置きとかじゃなくて、これにはちゃんとした理由があるんだ。

 まほがお酒を飲んだら、キス出来ないだろ。

 

 そう言うと、まほはその意味を少し考えて、ハッと顔を上げた。

 

「ち、千代美、もしかして、さっき言っていた『一口』というのは」

 

 そういう事だよ、と頷く。

 自分が何をやったのか段々と思い出してきたらしい。まほの顔が徐々に赤くなる。

 

「キスよりお酒の方が良いなら明太子炙ってやるけど、どうする」

 

 そう問い掛けると、まほは顔を両手で覆い、消え入りそうな声で、キスがいいです、と言った。

 

 そうじゃないだろ、とわざと素っ気なく返す。

 まほは、言い回しも思い出した筈だ。私はそれが聞きたい。

 あれ、めっちゃ可愛かったから。

 

「うう」

 

 顔を両手で覆ったまま、まほはいやいやをするように頭を振る。もう、耳まで真っ赤だ。

 私は、黙ってその様子を眺めている。

 

 可愛いぞ。

 まほ、超可愛い。

 

 やがてまほは、観念したように声を絞り出す。

 

「ちゅー、して」

 

 えへへ、しょうがないなあ。

 私はゆっくりと、まほの首に腕を絡めた。

 

 いっぱい、相手して貰うからな。



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(6/5)垢舐めの舌

【まほ】

 

 言うことを聞かない悪い子は、夜中、迎えに来るんだよ。

 ふと、そんな歌を思い出した。

 

 まあ、一体何が迎えに来るのかは不明瞭だが、要するにあれは、良い子にしていないと罰があるよという程度の意味なのだろう。

 そういう意味で言えば、今日、迎えに来たという考え方も出来る。

 

 罰が、迎えに来た。

 

 良い子か悪い子かで言えば、今日の私は悪い子だった。

 仕様のない焼きもちを焼いて、千代美を困らせた。

 

 その罰だ。

 

「今日は、私が上になるからな」

「んん」

 

 仰向けになった私に、千代美が覆い被さる。

 二人とも既に、裸。

 

 千代美の長い髪が垂れ、顔にかかった。

 

 綺麗だ。

 思わず腕を伸ばし、抱き締める。

 

「あっ、こら」

 

 額にぴしゃり、と軽い平手が降ってきた。

 自分が上なんだからまほは大人しくしてろ、という事らしい。

 

 ため息を吐き、手を離した。

 

 千代美は身体を起こさず、仰向けの私に覆い被さり肌を密着させる。

 風呂上がりの千代美の湿った肌が全身に纏わり付いて、たまらなく心地好い。彼女はそのまま、私の耳許で囁くような声を出した。

 

「今日のまほは悪い子だったよなあ」

 

 悪寒のようなものが全身を駆け抜け、胸が躍る。

 ああ、私はこれから、千代美に叱られるのか。

 

 何をやったのか自分で言ってみろ、と千代美はまた囁く。

 表情は読めないが、声で分かる。千代美の口角が上がっている。笑っているのだ。

 私への叱責を、楽しんでいる。

 

 普段の彼女からは想像も付かない、あまりにも意地悪な声。

 

 二面性、という程でもない。

 人には色々な顔があるものだ。

 

 そういえば冬にも、失禁するほど脇腹を擽られた事があったな、と思い出す。

 意地悪な時の千代美は、加減を知らない節がある。

 

 今回も少し、覚悟しておいた方が良いかも知れない。

 とりあえず素直に言うことを聞いておこう。

 

「千代美がペパロニと仲良くしているのを見て、焼きもちを焼いて、困らせた」

 

 耳許で、まだあるだろ、という声。

 

「酔って千代美にキスをねだり、口移しで酒を飲ませた」

 

 よく言えたなあ、偉い偉い、と頬擦りをされた。

 

 身体を密着させているから、千代美の鼓動が徐々に速くなっていくのが直に伝わって来る。

 私の肩に置いた手にも汗が滲んできた。

 

 楽しんで貰えているようで何よりだ。

 そして私も、『言わされる』事によって、じっくりと自分の立場を理解していく。

 

 千代美はまた、質問を重ねた。

 

「どうしてそんな事をしたんだ」

 

 どうして、って。分かっている癖に。

 

 言わせたいのか。

 言ってやるとも。

 

「千代美の事が、好きだからだ」

 

 耳許で、小さな歓声が聞こえた。

 

 本当の事だ。

 だが、口にするのはなかなか慣れない。自分の顔が、かあっと熱くなるのを感じる。

 千代美は、その事が分かっているからこそ、言わせたいのだろう。

 

 ようやく顔を上げた千代美は、にんまりと笑い、よしよし、と私の頭を撫でる。

 何とも屈辱的で、気分がいい。

 

 千代美が意地悪な顔を持っているのと同様、私も、苛められて悦ぶ顔を持っている。

 今のところ、その事を知っているのは千代美だけだ。

 

 私の、この顔を見付けたのは、千代美なのだから。

 

 今この瞬間も、千代美に叱られ、苛められる事を心のどこかで期待している。

 それを察した千代美は満足気に頷き、身体をすすっと下に移動させた。

 

 あ、待って、駄目。

 

 そっちは。

 下は、今日は駄目だ、千代美。

 

「まほ、脚、開いて」

「千代美、待って」

 

 反射的に脚を閉じ、膝を合わせ、千代美を拒絶した。

 

 どうしたんだよ、と不満そうな声が聞こえたが、今日ばかりは駄目だ。

 今日は風呂に入っていないから、その、汚い。

 だから駄目だ。

 

 それを聞いた千代美が、にやりと笑う。

 この上もない、意地悪な笑みだ。

 

 期待通り、完全に逆効果。

 千代美は退かず、逆に、短く命令された。

 

「開け」

 

 心臓が跳ねる。

 そんな、そんな言い方をされては、逆らえないじゃないか。

 

 閉じた脚を、ゆっくりと開いた。

 

 焦らしているつもりは無い。ものすごく、恥ずかしいのだ。

 たっぷりと時間を掛けて脚を開き、自分の汚いところを千代美に晒す。千代美はその様子を嬉しそうに眺めていた。

 

「可愛いなあ、まほ」

 

 普段なら嬉しい言葉だが、今回は素直に喜べない。

 

 開いた脚の付け根、私のそこに千代美が顔を寄せ、すんすんと鼻を鳴らす。

 もう、それだけで羞恥の感情が込み上げ、頭の中が真っ白になった。

 

「本当だ。ちょっと匂うなあ」

 

 千代美の容赦の無い言葉に、また心臓が跳ねる。

 言わないでくれ。

 

 私の恥ずかしがる様子を存分に堪能してから、千代美は私の陰核に口を付けた。

 まるでキスでもするかのように口を窄め、その部分に、ちゅ、と吸い付く。

 

「んあ」

 

 反射的に声が漏れ、口を両手で押さえた。

 千代美はそれに構わず、吸い付いた口の中、舌で私のそれをころころと弄ぶ。

 

「ふ、うううっ、ぐ」

 

 声にならない声を漏らす。

 私が声を我慢しているのを知りながら、千代美は執拗に責め立ててきた。

 吸い、舌で弾き、甘噛みする。声を我慢するだけで精一杯だ。

 

 貪るだけの私と違い、千代美の舌の動きにはいちいち意味がある。

 そしてそれは、私に対していちいち効果的に作用する。

 

 背中を反らし、快感に身を委ねようとしたところで、千代美は口を離し、私を現実に引き戻した。

 

「匂い、きつくなってきたな」

 

 止めて良いか、と、わざと素っ気ない声を出す。

 

 良い訳が無い。

 それは分かりきっている。

 千代美は、言わせたいのだ。

 

「や、止めないでくれ。お願いだ」

 

 しょうがないな、と嬉しそうにぼやいて千代美はまた舌を動かし始めた。

 

 今度は陰核の下。

 私の、入り口に狙いを定める。

 

 ぬる、と膣の肉を掻き分け、千代美の舌が侵入してきた。

 

「う、うああ、ああ」

 

 私の股に顔を押し付けるようにして、千代美は私の中に舌を捩じ込んでいく。

 その長い舌は、私の中でぐるぐると暴れ回った。

 

 自然、腰が浮き上がり、千代美の顔を圧迫する。

 千代美は怯まず、舌を動かし続けた。

 

「ち、千代美、うあっ、ぐ、うううっ」

 

 好きな人が、私の汚いところに口を付けている。

 その事だけでも羞恥で頭がおかしくなりそうだというのに、千代美の舌に、更に感情をかき乱される。

 

 堪えられるはずもない。

 

 私は、いとも簡単に果てた。

 身体から力が抜け、浮いた腰をどさりと落とす。

 

 そこで漸く千代美の舌が、ずるり、と引き抜かれた。

 

 私の体液でぐしょぐしょになった顔を拭う事もせず、千代美はにやりと笑う。

 ああ、まだ何かする気なのか。

 

 今の私には、抵抗する力も残っていないというのに。

 

「次はこっちかなあ」

 

 場違いなほどに明るい声を出し、千代美は私の尻の窄まりに舌の先を当て、くりくりとマッサージをするように弄繰った。

 

 瞬間、顔が熱くなる。

 

 千代美、待って、頼む。

 今、そこは本当に駄目だ。

 お願い、お願いだから。

 

 ぷす、という下品な空気の漏れる音が聞こえた。

 

 千代美も流石に驚いて動きを止める。

 だから、だから言ったのに。

 

「うっ、ぐす、ぐずっ」

 

 我慢、してたのに。

 千代美が弄るから。

 

 感情は羞恥を通り越した。

 もう、どうしたらいいか分からない。

 

 涙が止まらなくなり、両手で顔を覆った。

 

「まほ、そんなに嬉しいのか」

 

 顔を覆ったまま、こくりと頷く。

 

 最っ高。



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飛縁魔の手

飛縁魔
人を駄目にする女
現代にもいっぱいいる


ぽかぽかして気持ちの良い、午前の陽光が寝室に射し込んでいる。すっかり暖かくなったなあ。

 ひねもすのたりのたりとは正にこのことで、私は今、寝起きでもないのに布団の上でごろごろしている。ひねもしている。こんなにひねもすのは、どれくらいぶりだろうか。

 

 まあ、『ひねもす』の使い方間違えてるんだけど。

 

 面倒くささで言ったら勿論、冬の方がしんどいんだけど、冬は逆に『動かなきゃ』って気分になるから動ける。

 春にはそれが無い。ひねもす。

 

「あー、ひねもすー」

「おい邪魔だぞ」

 

 掃除機が掛けられないじゃないかと、まほに邪険にされた。

 えへへ、怒られちゃった。

 

 何をにやにやしてるんだか、と呆れるまほ。

 

「それにしても珍しいな、千代美がごろごろしてるなんて」

「春はひねもすんだよ」

 

 『ひねもす』の使い方はそれで合ってるのか、とまほに突っ込まれたので、間違ってるよ、と答える。

 仕方ない奴だと笑われた。

 

 そうそう、私は仕方ないんだ。

 

 どけどけ、吸うぞ、と言ってまほは本当に私の服の端に掃除機を当てた。

 ぎゃあ、やめろー。

 

「まほもひねもそうよ」

「掃除中だ」

 

 素っ気ないやつめ。

 いいじゃんちょっとくらい、と甘えてみせる。

 

 ん、と言って両手を差し出した。

 このジェスチャーには意味が二通りある。『引っ張って起こしてくれ』と『おいで』だ。全く同じジェスチャーなのに真逆の意味になる。でも、不思議と通じる。

 まほは根負けして、仕方ないなという風にため息をついて、掃除機の電源を切った。私の勝ちだ。

 

 えへへ、おいでおいでー。

 

「少しだけだぞ」

 

 その口ぶりが可笑しくて、また顔がにやける。

 

「どうした」

「なんか、いつもと逆だなと思ってさ」

 

 私は普段こんなに手が掛かるのか、とまほは、さも心外だと言う風な顔をする。

 どうだったかなー、ととぼけた。

 

 焼きもち焼きで、甘えん坊。

 意外と偏食。っていうか、子供舌。

 夜は凄い。なかなか勝てない。

 口下手だから言葉がストレートで、たびたびドキッとさせられる。

 笑うと可愛い。笑わなくても可愛い。

 

 うん、全然手の掛からない、良い子だ。

 

 隣にまほが寝転がり、ああこれはひねもすなあ、と穏やかな声を出す。

 そうだろう、そうだろう。広げた腕をまほの首に絡め、抱き付いた。

 

 ふと、何かに気が付いたようにまほが怪訝そうに片眉を上げる。

 

 器用な表情が出来るようになったもんだ、なんて思う。そんな私には構わず、まほは私の手を取り、自分の頬に当てる。

 何だよもう、恥ずかしいな。

 

 私の手に頬擦りをするようにして、まほは、千代美、と固い声を出した。

 

「なんだよ」

「熱がある」

 

 えっ。

 

 そんなまさかと思ったけど、言われてみれば確かに怠いような暑いような、そんな気もする。

 でもこれは、ひねもしてて体が暖まっただけだと思うぞ。そう言うとまほは呆れた顔をして、いいや違う、と突っぱねた。

 

「日頃からお前を抱いてる私が『いつもと違う』と言ってるんだ」

 

 間違えるものか、と自信満々に言う。

 ま、また不意討ちでそういう恥ずかしい事を。

 

 体温計を取ってくるからちょっと待ってろ。そう言って、まほはぱたぱたと小走りに部屋を出て行った。

 ややあって。体温計を手にし戻ってきたまほは、私の顔を見るなり言う。

 

「真っ赤じゃないか」

「う、うるさい。まほのせいだ」

 

 何を訳の分からない事を、と言ってまほは私の服に手を掛けた。

 

「やああ、乱暴にしないでー」

「寸劇はいいから」

 

 まほは手早く私のブラウスのボタンをぷちぷちと片手で外し、あっという間に胸をはだけさせた。

 待って待って待って、上手い。なんか腹立つ。

 

 やはり熱いぞ千代美、とまほは私の胸元に直に手を当てて言う。

 

 ほら計れ、と体温計を手渡された。

 なんだか物凄く悔しいけど、逆らっても仕方ない。渋々と腋に体温計を挟む。あー、冷たい。

 

 計っている間、まほ先生の問診。

 

「ゆうべは普通だったんだがな」

「まあ、そうだな」

 

 思い返してみると、怠いのは起きてからだ。

 

 季節の変わり目って弱いんだよな。

 最近はそんなことなかったんだけど、油断したかなあ。まほの言う通り、ゆうべまでは普通だったんだ。

 

 ゆうべ。

 

 あっ。

 

「まほ、正座」

「はい」

 

 素直か。

 

 背筋まで伸ばしてる、見本のような正座だ。

 まあ、そりゃそうか。まほも私が体調を崩した理由に思い当たったんだろう。

 

 やっぱり、まほのせいじゃないか。

 

「ゆうべ、その、仲良くしたあとさ、誰かさんが『もうこのまま寝よう』って言ったな」

 

「はい」

 

「服、着たほうが良かったよな」

 

「はい」

 

「なんか言うことありませんか」

 

「ごめんなさい」

 

 よろしい。

 ぴぴぴ、と体温計が鳴る。

 

 うん、熱だ。

 

 こりゃ、今日は寝て過ごすしか無いか。

 図らずも『ひねもすのたりのたり』を余儀なくされてしまった。

 つまり、ひねもす(終日)、のたりのたり(のたりのたり)。

 

 まあ、こうなってしまったら、しょうがない。今日が土曜日なのが不幸中の幸いかなあ。

 とりあえず一日寝てれば明日には回復するだろ。たぶん。

 

「心配するな千代美、看病は任せろ」

 

 あっ、うーん。

 

 それはちょっと、どうだろう。



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手の目の宵

手の目
掌に目が付いている盲人の怨霊


「とにかくゆっくり休むことだ。何かあれば遠慮なく呼べ」

「ううー」

 

 千代美が体調を崩した日の晩。千代美に粥を食べさせた後、洗い物だけでもやらせろと頑張る千代美を寝かし付けた。まだ唸っているが、水仕事などさせられるか。

 抵抗する力がいつもより少しだけ弱かったのが、彼女が衰弱している証左のような気がして胸が痛む。早く元気になって欲しい。

 そんな事を思いながら、明かりを消して寝室を出た。

 

 軽く肩を回して、千代美に聞こえないように静かにため息をつく。今日は一日中、家事に看病にと奔走したお陰で少し疲れてしまった。

 日頃は千代美と等分している家事を何だかんだと一人でこなした事に関しては、然程の苦ではなかった。多少、手こずりはしたが、まあその程度だ。体力には自信がある。

 

 正直に言えば、家事などよりも千代美の看病で骨が折れた。

 

 千代美は、私が一人で家事をこなしてしまった事が少なからずショックだったらしい。体調のせいで神経も参っているのだろう。彼女は『私いらないじゃん』などと言って泣き出してしまったのだ。

 それを宥めるのが今日一番の仕事だったと言っていい。

 

 要らない訳があるか。

 お前が必要で、ゆっくり養生して欲しいから一日走り回ったんだぞ、私は。

 

 そして、そんな理由で泣いている千代美に私が作った夕飯を食べさせるのがまた大変だった。

 作ったと言ってもレトルトの粥を暖めて梅を載せただけなのだが、そのお陰で出来も見映えも味もそれなりに良くなってしまったのがまたお気に召さなかったらしい。と言うか最早、理屈などどうでもよくなってしまっているのだろう。あの分ではカップ麺でも泣き出すかも知れない。

 

 そんな千代美を何とか宥め、食べさせ、寝かし付け、今に至る。ため息も出る。正に、お疲れさまだ。

 まあ、千代美の体調に関しては油断すべきではないのかも知れないが、とりあえずは一段落と言ってもいいだろう、流石に。

 

 治ったら存分に家事をさせてやる。ご飯も作らせる。

 千代美に合わせて私も梅粥で済ませたが、さっぱり食べた気がしない。さっさと治して美味しいご飯を作って貰いたいものだ。

 などとぶつぶつ言いながら洗い物と風呂を手短に済ませ、寝室へ。

 さあ寝るぞ。

 

 私の布団は既にベッドの脇に敷いてあるので、明かりを点ける必要は無い。足の感触で布団を探り当て、潜り込んだ。

 

「まほ」

「ん」

 

 真っ暗闇の中で千代美の声が聞こえた。

 悪い事をしたな、起こしてしまったか。

 

 ううん大丈夫、と千代美が言葉を続ける。

 

「今日はごめん。ありがとう」

 

 嬉しい言葉。

 頬が緩むのを感じた。

 

 その一言が聞けただけでも、走り回った甲斐があったというものだ。

 真っ暗でよかった。千代美といえど、礼を言われてにやにやしている顔を見られるのは恥ずかしい。

 

「気にするな。何だってしてやりたいんだ」

 

 そう言ってやると、すんすんと小さく洟を啜る音が聞こえた。泣き虫め。

 

 さて、そうだな。まだ何かして欲しい事があるなら今のうちに言って貰いたい。

 まあ眠ってしまってからでも何かあれば起こしてくれて構わないんだが、千代美が気後れしそうだ。

 

 何かあるか、と訊いた。

 

「あ。じゃあ、えっと、着替えたい」

「ああ」

 

 そうか。千代美は一日寝ていたのだ、汗もたっぷりかいた事だろう。

 着替えのついでに体も拭いてやらないとな。

 

 布団から這い出し、明かりのスイッチを手探りする。

 

「点けるぞ」

「うん」

 

 明かりを点けると、泣き腫らした目をした千代美の顔が見えた。なんて顔をしてるんだ、こいつは。

 思わず頭を撫でてやると、千代美の髪にはいつものふわふわとした感触は無く、汗と脂でべたついているのが分かった。全く、何から何まで痛ましい。

 本当に何でもしてやりたくなる。

 

 さあ、もう一仕事だ。

 

 ひとまず替えのパジャマを出し、風呂場に向かう。

 洗面器に湯を張り、タオルを何枚か掴み、足早に寝室に戻った。

 

 千代美のパジャマを脱がす。

 冷えるといけないから手早くやるぞ。ちらと時計を見て、タイムを測ってみることにした。

 

 長い髪を体の前に回させ、千代美の背中を露にする。

 染みひとつ無い、呆れるほど美しい白い背中だ。私のような筋肉質の背中とは全く違う、とても滑らかな、女の背中。嫉妬する気すら失せる。

 タオルを絞り、丹念に拭いていく。

 

「熱くないか」

「うん、大丈夫。えへへ」

 

 何を笑ってるんだか。

 まあ、泣かれるよりはずっと良いか。

 

 順々に拭いていく。

 触れるのも戸惑うような華奢なうなじ、抱き心地の良い肩、意外に力のある細い腕。特に汗が溜まっているであろう腋。

 案の定、つんとした酸っぱい匂いが鼻を擽ったが、嫌いな匂いではない。

 むしろ、いや、変な事を考えるのは辞めよう。

 

 次は前。

 千代美の体を正面から見据えると、思わずため息が漏れた。本当に、本当に綺麗な体をしている。弱っているせいで、どこか儚げな雰囲気を纏っているのがまた愛おしい。抱き締めてやりたい衝動がむらむらと沸き上がる。

 いやいや、そんなことを考えている場合ではない。見蕩れるのはまた今度だ。気を取り直し、またタオルを絞る。

 

 何か変だな、疲れてるのだろうか。

 いやまあ、疲れてはいるが。

 

 ふたつの膨らみの間の薄い胸板や、膨らみの裏側など、胸にもよく汗が溜まる。まあ千代美の胸は掌に収まる程の小ぶりなものだから、そこまで汗が溜まってはいないかも知れないが、それはそれ。丁寧に拭いてやらないとな。丁寧にな。仕方ない仕方ない。

 乳房の周りを拭いていると、流石に恥ずかしいのか、それとも単にくすぐったいのか、千代美が『ううん』と鼻の奥で唸り、体を捩った。

 柔らかい、形の良い千代美の胸がふるふると揺れ、それに合わせて可愛らしい桜色の突起も揺れる。

 

 嗚呼。

 

 胸から下へ行くと、うっすらと肋骨が浮いているのが分かる。基本的に華奢なのだ。

 さらに下へ行けば、私の大好きな濃い目の茂みが収まっているショーツが目に入る。私はあまり飾り気の無いスポーツタイプのものばかり選ぶが、千代美はフリルのついている、ひらひらした下着を好む。

 千代美自身の趣味は元より私に見せることも想定して買い物をしているのだと気が付いた時、たまらなく愛しくなってしまい、危うく下着売場で抱き締めるところだった。

 ここも例に漏れず汗ばんでいる。あとで手に入、もとい、替えてやらなくては。

 

 そして脚。

 ああ、脚。

 

 一日布団の中で蒸れていた太股、膝裏、ふくらはぎ。

 実に、実に、ああ。

 

「ちょ、ちょっと、まほ」

 

 はっと気が付くと、私は千代美の足の指の股まで拭いていた。

 流石にそこまでする必要は無いと分かる。

 

「すまん、つい夢中になった」

「すけべ」

 

 時計を見るとジャスト三分。上々だろう。

 もそもそと千代美を着替えさせ、洗面器とタオルを片付けて明かりを消す。

 真っ暗闇の中で、千代美の『ありがと』という憮然とした声が聞こえた。こちらこそ。

 

「お休み」

「おやすみ」

 

 うん。

 

 少し、耽ってから眠ろう。

 

 真っ暗でよかった。



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天邪鬼の嘘

天邪鬼
素直じゃない人を指して言うこともある


 先日の千代美に続き、今度は私が熱を出した。

 伝染ったにしては日が開いているので、単に自己管理がなっていなかったと捉えるほか無さそうだ。全く情けない。

 

 おかしいなと感じたのは昨日の昼頃。

 どうも顔が熱く、頭がぼんやりとする。それでもとりあえずは一日を過ごし、帰りに病院に寄って診てもらうと、見事に熱が出ていた。

 口は悪いが腕が良いと評判の医者の卵は『マホーシャでも体調を崩したりするのね』と笑い、寝てれば治るから明日は休めという有り難いアドバイスと、何種類かの飲み薬を寄越した。

 

 しかし折の悪いことに今日は平日。私は医者の言うことを聞いて休みを取ったが、千代美はそういう訳にも行かない。

 彼女は先日のお返しとばかりに私の看病をしたがっていたが、まさか『まほの看病をするために休みます』という訳にも行かないだろう。

 

「ごめんなあ、なるべく早く帰るからさ」

「あまり心配するな。行ってらっしゃい」

「うん、行ってきまーす」

 

 ご飯の作り置きだけは抜かり無く済ませ、千代美は渋々出勤して行った。

 さて、今日は一人で一日お留守番だ。

 

 千代美は矢鱈と心配していたが、一人もたまには悪くないなと気楽に考えているというのが正直な所。

 しんどくなったら誰か呼べと言われたが、しかし援軍を呼ぼうにも平日の明るい時間に捕まえられる友人と言えば、どこぞの瘋癲(ふうてん)くらいのものだ。あれを呼んだところでどうなるものでもない。どころか逆に飯をたかられる可能性がある。

 それならば一人で夕方まで眠っていた方が幾分かましだろう。それはそれで気楽な事なのだ。降って沸いたような休日、ゆるりと休むとしよう。

 

 布団の上でごろごろしながら考える。

 急いで済ませたい家事も今日のところは特に無い。買い物は言わずもがな千代美がするし、掃除や洗濯も一日くらい怠けたところで然したる影響は無いだろう。

 と言うよりも恐らくは、どんな些細なことでも、この体調で家事をやったら千代美が帰って来たときに叱られてしまう。『ちゃんと寝てなきゃ駄目じゃないか』なんてな。

 謂わば私は今、叱られない為に怠けているという事になる。

 

 とは言え、そうなると眠るぐらいしかやる事が無い。先程から『大人しく寝てろ』という至極真っ当な結論から目を逸らし続けているが、そろそろ限界だ。

 しかし、さっき起きたばかりで大して眠くないのもまた事実。とりあえずごろごろしてみてはいるが、眠気のねの字もやって来ない。そこを押して眠れというのも無体な話じゃないかと思う。

 

 何だろう、このテンションは。本当に私は体調を崩してるんだろうか。急に自由時間が出来た事に少なからず高揚しているみたいだ。

 まあ、そうは言ってもする事が無い。テンションを上げたところで遣り場が無い。思考が『寝ろ』『眠くない』『暇』という実に不毛な堂々巡りをしている。

 苦肉の策としてテレビを点けてみると、何故かこんな時間に小学生向けの教育番組を放送していたので、少しは暇潰しになるだろうかと思い、暫し見入る。

 

 二時間潰れた。

 

 私は何をやってるんだろうか。大卒なのに。

 いや、しかし、とても面白かった。小学生向けというだけあって、すごく分かりやすい作りになっていて、なんだかすごく為になった。大卒なのに。どうしよう、余計にテンションが上がってしまった。

 この興奮をとりあえず千代美に伝えるべくメッセージを送ってみたところ、すかさず『寝ろ』という返信が来た。最もだ。

 

 大人しく布団に戻ったが、一向に眠くならない。

 何かこう、眠らないまでも横になったまま出来る暇潰しがあればなあ。再びごろごろしながら考える。

 

「あ」

 

 そうだ、そう言えばうちには山のような量の小説があるじゃないか。たまには読書でもしよう。

 早速、千代美に『本を借りるぞ』と連絡すると、即座にあれを読めこれも読めと都合十冊ほど勧められた。さっきの対応とえらい違いだ。

 しかし十冊は無理だ。とりあえずは、勧められた中で特に目を引いた『百器徒然袋』の続編を借りる事にした。あれの一作目を冬に読まされたが、なかなか読みやすくて面白かった。続編があったとは。

 千代美の本棚から目当ての本を引っ張り出し、布団に潜り込んで読み始めると、二分ほどで眠くなってきた。

 

 なんだか私の頭が悪いみたいで物凄く釈然としないが、今は眠ることが何より肝要である事を思えば、まあ眠ってしまうのが一番だろう。

 なんだかんだで身体は休養を欲していたらしい。瞼を閉じると、意識はいとも簡単に睡魔の餌食となった。

 

 朦朧とした意識の中で、なんだか懐かしい感じのする夢を見た。

 

 ぱたぱたと人の立ち働く音が聞こえる。何やら忙しそうな音だ。

 千代美が帰って来たのかとも思ったが、跫(あしおと)が違う。

 誰かが来たのかと思い瞼を開くと、そこには何故か、 が居た。

  は私の寝顔を覗き込むようにして、私の額に掌を当てている。

 ああ、熱を見ているのか。 の掌が少し冷たくて気持ちが良い。

 私と目が合った は、とても優しい声をして諭すように言った。

 

「まほ、これは夢よ」

 

 何だ夢かと素直に納得した。夢だからこんな所に が居るのだ。

 という事は、さっきから聞こえる跫は  さんのものだろうか。

 その事には構わず、 は私に、少し奇妙な質問をぶつけてきた。

 

「楽しくやっているかしら」

 

 はい、と間髪入れずに答えたつもりだが、上手く声が出せない。

 ぱくん、と動いた私の唇を見て、 は安心したように微笑んだ。

 

「善かったわ」

 

 ゆっくりお休みなさい、と言われ、私はまた素直に目を閉じた。

 

 目が覚めると外の景色はすっかり夕方で、千代美が作っていった昼ご飯を食べないまま眠り続けてしまった事に、自分の事ながら驚いた。しかし身体が随分と楽になっているのを感じる。やはり睡眠は偉大だ。

 枕元に転がした小説を手元に引き寄せぼんやりと読んでいると、玄関が開く音と共に『ただいまー』という千代美の声が聞こえた。ああ、安心する声だ。

 

 しかし幾らも経たないうちに、何故か千代美は血相を変え寝室に怒鳴り込んできて私を叱りつけた。

 

「ちゃんと寝てなきゃ駄目じゃないかっ」

「寝てたぞ」

 

 何も叱られるような心当たりの無い私は千代美に真っ向から反論したが、どうにも聞く耳を持ってくれない。

 理由を訊くと、家事が粗方やってあるというのだ。

 

「掃除も洗濯もしてあるし、花瓶の花まで替えてある」

 

 寝てないどころか花なんか買いに出掛けたのかと叱られたが、全く心当たりが無い。

 私は本当に、千代美に連絡して以降はずっと布団に入っていたのだ。

 

「じゃあ誰かを呼んだってのか」

 

 ううむ。

 確かに千代美は今朝、家を出る前に『しんどくなったら誰か呼べ』と言った。しかし平日の明るい時間では呼べてもミカだという事に、千代美も後から気が付いたらしい。

 家事を済ませた上、ご飯にも手を付けていないとなればミカの仕事ではあり得ない。そもそもミカなど呼んでいない。

 

 いや、もしかしたら無意識にでも誰かを呼んだのだろうか。熱で朦朧としながら、誰かを。

 なんだか自信が無くなってきた。家事がやってある以上、誰かが来たことには間違いない。来たとすれば私が呼んだのだ、たぶん。

 

「スマホの発信履歴でも見てみろよ」

「ああ、そうか」

 

 言われて暫く探したが、そのスマホが見付からない。

 千代美に鳴らして貰うと、スマホは枕の下にあった。

 では矢張り、私は無意識に誰かを呼んだという事か。

 千代美と一緒に履歴の画面を見て、一緒に青褪める。

 

 発信履歴の一番上には『西住しほ』とあった。



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雪女の理

雪女

ゆきおんな

ダージリン視点


『昔、ある歌手は、遠くへ行きたいと歌って喝采を浴びたが、遠くへ逃げたいと歌うぼくを、』

 

 それ以降は聞き取れなかった。

 ぼそぼそとした声ね。台詞と言うよりは、ただのぼやきのような声だったわ。

 

 演奏が始まり、『どこか遠くへ逃げよう』と歌手が歌う。

 

「今の状況にぴったりじゃない」

「うるさいわね」

 

 カーステレオから流れる歌を助手席のカチューシャが揶揄し、私はそれに口答えをする。喧嘩をしている訳ではなく、単に口が悪いだけ。

 口の悪い彼女と話していると、自然とこちらまで言葉選びが荒くなってしまう。

 図星だと、尚更。

 

 気が滅入っている時に気分転換で遠出をするというのは、やっぱり逃げなのかしらね。

 そんなことを考えて、また滅入る。

 

「逃げも戦術のうちですよ」

 

 態勢の立て直しを図るための一時撤退です、と運転席のノンナは言う。

 そんな事は分かってるわよ、と反射的に返しそうになり、押し黙った。我ながら、言ってる事が滅茶苦茶だわ。

 

 諭されたような形になった私は、後部座席で口をへの字に曲げて不貞腐れている。

 気が滅入っているとは言うものの、大した理由がある訳でもない。

 

 周期的なもの。

 毎月のこと。

 

 付き合いの長いカチューシャはその『周期』を知っていて、それで私が不安定になる事も知っている。だからこそ出掛けましょうよ、と言って彼女が私を連れ出したのが今朝の話。

 私達は今、ノンナのハイエースに乗せられて高速道路をひた走っている。

 

 そんな経緯だから、私が不貞腐れているのは礼儀的に非常によろしくないのだけれど、こればかりは、どうにもこうにも。

 幸いにも二人がそれを心得てくれているので、奇跡的に車内の雰囲気は悪くならずに済んでいる。

 

「そう言えば、この車は何処に向かっているのかしら」

「特に目的地はありませんよ」

 

 へっ、と間の抜けた声を出してしまった。

 とりあえず私を連れ出す事だけが目的で、事前にどこそこへ行こうという話すらしていなかったとか。

 

「たまには悪くないでしょ、ただぼうっと音楽を聴きながら走るのも」

 

 暢気に言うカチューシャに、まあそうね、と憮然と答えた。

 音楽に耳を傾けると、歌手が『俺にカレーを食わせろ』と歌っている。もうちょっとマシな音楽なら良かったのに。変な歌ばっかりね。

 

「名盤ですよ」

「そ、そう」

 

 有無を言わせない雰囲気のノンナに若干たじろいで、大人しく歌を聴くことに。

 朝っぱらから連れ出され、高速道路で変な歌を聴かされている現状は、果たして『悪くない』のかしら。

 よく分からない。

 

 カレー、か。

 

 カレーと聞いて、誰かさんを思い出す。

 まあ、彼女は実際にカレーが好きという訳ではないらしいけれど、一時期はカレーと彼女をイコールで結ぶ風潮が確実にあった。その名残。

 

「カレーと言えばマホーシャ、なんて考えてるんじゃないの」

 

 またも図星。

 カチューシャの察しが良いのか、私が分かりやすいのか。両方かな。

 

 私は、まほさんのことが好き。

 私の部屋の隣に、千代美さんと一緒に住んでいる、まほさんのことが好き。

 

 カチューシャはそれを知っていて、その流れでノンナにもバレて。

 段々と逃げ場が無くなっていくのを感じる。

 

 でもね。

 好きとは言っても、私は千代美さんからまほさんを奪おうなんて気持ちは毛頭無い。

 まほさんの幸せな横顔を隣で見ていられたら、それでいい。

 この考え方がカチューシャにはどうも理解出来ないらしく、彼女は折に触れ、さっさと告白しなさいよ意気地なし、と私を急かす。

 そうは言ってもね、まほさんと千代美さんの間に隙間なんて無いのよ。

 だから私は横に居るの。

 

 千代美さん。

 もしも、仮に、万が一、奇跡的に、私が彼女からまほさんを奪ってしまったとしたら、彼女はどうなるのか。

 彼女を、あんなに可愛いひとを泣かせようだなんて、果たして誰が思うのかしら。

 カチューシャだって、私を急かしても『千代美さんが泣くでしょう』と返せば大人しく引き下がる。

 

 だから、今のままでいい。

 

「ノンナ、次の曲飛ばしてね」

「はいはい」

 

 後部座席にあった名盤とやらのケースをちらりと見ると、飛ばした曲のタイトルは『いくじなし』だった。

 カチューシャなりに気を遣ってくれているのかしら。

 

 そう言えば、カレーの歌はとっくに終わっていたのね。それでも私はまだまほさんのことを考えている。

 

 まほさんのことを考えると、千代美さんに。

 千代美さんのことを考えると、まほさんに。

 思考はぐるぐると巡る。

 

 どうせ考えても仕方ないのだし、滅入るだけなのだから、どこかで無理矢理にでも止めないと抜け出せなくなってしまうわね。思考を変えましょう。

 何か、何か無いかしら。

 

 何か、何か。

 

「妖怪」

 

 ぽつりと口から漏れた言葉。

 

 カチューシャは顔ごとこちらを向いて、何言ってんの、という目をした。

 うん、私自身もびっくりしてる。

 

「まほさんのこと、考えてたの」

「ああ、そっか」

 

 マホーシャから千代美、千代美から妖怪に思考が移ったのね、とカチューシャは簡潔に私の考えを纏めてくれた。

 

 千代美さんは、読んでいる小説の影響か、矢鱈と妖怪に詳しい。

 そして、物事を妖怪に例える癖がある。

 

 自分達の境遇を『塗仏』と呼んだり、カチューシャが持ってきたお酒を『鬼一口』と呼んだり。

 それぞれに意味があるのでしょうけれど、何のことか分からない場合も多い。

 

「不思議な癖ですよね」

「まほさんのことを『八百比丘尼』と呼んだ事もあったわ」

 

 うーわ大胆ね、とカチューシャが叫んだ。

 あら、もしかして、解読出来たのかしら。

 

「いや、えっと」

 

 顔を赤らめて口ごもるカチューシャ。

 

 何なのよ、と詰め寄ると、アンタにとっては面白くないかもよ、と返された。

 そうだとしても、そこまで言って引っ込められると靄々するじゃないの。

 

 いいから言いなさいよ。

 

「あ、あの、たぶんだけどね」

 

「まず、八百比丘尼って妖怪じゃないわよね」

 

「人魚の肉を食べて不老不死になった女の人、でしょ」

 

「で、この場合で言う人魚って、たぶん、鰯、つまりアンチョビ」

 

「アンチョビを食べるから、八百比丘尼、って事じゃ、ないのかしら」

 

 車内に長い沈黙が流れる。

 

 う、うわあ。

 大胆。

 

 カチューシャ、それ、たぶん満点だわ。

 

「食べてるのねえ」

「食べてるんですねえ」

 

 食べてるわねえ。

 

 時々、その、聞こえるし。

 

 アンタにとっては面白くないかも、とカチューシャが言った意味が分かった。

 けれどそれは、別の意味で面白い。正直、先程までの鬱々とした気持ちが吹き飛んだわ。

 

「それなら良いけどね」

「ふむ。まほさんが八百比丘尼、千代美さんが人魚ですか」

 

 じゃあ私達は何になるんでしょう、とノンナが言う。

 

「ノンナは雪女でしょ」

「カチューシャ、折角なんですからもっと捻ってください」

 

 まあ、ノンナもカチューシャも、二人とも雪女に例えるのが妥当かしらね。『ブリザードのノンナ』と『地吹雪のカチューシャ』だし。

 

 ああでもない、こうでもないと話していると、ぽつぽつと雨が降ってきた。

 タイミングよくサービスエリアの看板が見えたので、そこで休憩することに。

 

 サービスエリア内の喫茶店でお茶を飲みながら、雨宿り。

 

「そういえばアンタ、雨女だったわね」

「やめて頂戴、そんなのただの偶然でしょう」

 

 とは言ったものの、正直、心当たりはある。

 大学生の頃にも、みんなで温泉に行く途中で降られた事があったわね。

 

 カチューシャは、ごめんごめんと私をあしらいながら、名産品の案内でも無いかと辺りをきょろきょろと見回す。

 不意に、その彼女の眉がハの字に下がり、カチューシャはテーブルに突っ伏した。泣いているのかと思ったら、肩を震わせて笑っている。

 辺りを見回していて何かを見付けたみたいね。

 

 彼女の隣に座ったノンナが、大丈夫ですか、と肩を擦る。

 カチューシャは、テーブルに突っ伏したままノンナの肩をばしばしと叩いて、向かいの席に座った私の後ろ、窓の方を指した。

 ノンナも窓を見て、少し考えてからカチューシャの意図を察して、くすくすと笑い出した。

 

 何かしらと振り返り、あっ、と声を上げる。

 

 窓の外。

 雨はいつの間にか、季節外れの雪に変わっていた。

 

「アンタが雪女だったのね」

「うるさいわよ、カチューシャの馬鹿っ」

 

 言って、三人で笑う。

 

 まあ、たまには悪くないわね、こんなのも。



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地縛霊の猫

ジバニャン
百烈肉球は車も止められるんだぞと

みほ視点


 パトカーが数台、サイレンと共に走っていくのが見えた。

 近くで事故でもあったのかなあ。

 

 ある、雨の日の夕方。

 たまたま一緒になったアンチョビさんと二人、小さな駅の待合室で人を待っている。

 

 アンチョビさんは傘を持ってお姉ちゃんを迎えに。

 私はエリカさんが傘を持って迎えに来るのを待機。

 

「あの猫、見なくなったなあ」

 

 アンチョビさんが、ぼやくように呟いた。

 一瞬、私に言ったのかなと思ったけど、独り言だったみたい。

 

 あの猫ってどの猫ですか、と訊くと、アンチョビさんは不意を突かれたように『へぇっ』と声を上げて驚いた。

 ふふ。なんだかアンチョビさんが猫みたい。

 

「聞こえてたか」

 

 後ろでひとつに結んだ髪を揺らして、照れくさそうに笑う。

 なんだろ、こんなに可愛いひとだったかなあ、という思いが頭をよぎる。アンチョビさんがお姉ちゃんと付き合い始めてから、顔を合わせる機会が増えたけど、その度に思う。

 初めて会った頃からフレンドリーなのは変わらないけど、昔はそれに加えてもっとギラギラしてたっていうか、勇ましい印象があった。

 まあ、あの頃は会うとなれば試合だったからなあ。

 戦車の無い所では、元々こういうひとなのかも。

 

 最初はアンチョビさんが居るって気が付かなくて、みほ、と声を掛けられて初めて気が付いた。

 髪型もそうだけど、アンチョビさんは眼鏡を掛けていて、私が未だにパッと思い描く高校生時代の彼女とは、丸っきり印象が違う。

 だけど喋り方は昔と全然変わってないから、普段は元々こんな感じなのかな、とまた思った。

 

「この辺をうろついてた猫なんだけど、最近見ないなと思ってさ」

 

 機嫌が良いとたまに触らせてくれたんだけどなー、とアンチョビさんは言葉を続けた。

 猫かあ。言われてみれば、居たような、居なかったような。

 気にしたこと無かったかも。

 

「居付いちゃうといけないから餌はあげられなかったけど、居ないと寂しいもんだ」

 

 矛盾してるけどな、と笑う。

 でも、分からなくもないなあ。私もエリカさんにあんまり餌あげないし。

 って、これはちょっと違うかな。

 

 私は、何て言うか、好きな人や親しすぎる人に対して、雑に接してしまう癖があるみたい。

 エリカさんはそれが分かってるのか、私に雑に扱われて悦ん、もとい、喜んでるみたいな所がある。

 それで私も調子に乗っちゃって、エリカさんに対して他のひとより一際雑に接してる、ような気がする。

 餌はあげないけど、居なくなったら寂しいんだよ。なんちゃって。

 

 それは言い過ぎか。

 丸っきり餌をあげない訳じゃないし。

 

 考えていると、足元で、にゃあという声がした。

 わ、猫。

 

「おっ、噂をすれば」

 

 アンチョビさんがしゃがんで手を出すと、その猫は引き寄せられるようにその手の中に納まった。

 

「お前、久し振りだなー。雨宿りかー」

 

 当たり前のように猫に話し掛けている。本当に可愛いひとだなあ、アンチョビさん。

 お姉ちゃんがこのひとを好きになったの、すごく分かる。

 アンチョビさんは猫の前脚を持って肉球をうにうにと弄りながら、また独り言のように言う。

 

「知ってるかー、百烈肉球って車も止められるんだぞー」

 

 そ、それは知らないけど。

 猫はまた、にゃあ、と返事をするように鳴いた。

 

 暫くかまって貰うと気が済んだのか、猫はアンチョビさんを離れてうろうろし始めた。

 まだ雨が降っているから外には出たくないみたい。駅の中をうろうろ。

 その猫のお尻を眺めながら、アンチョビさんと話す。

 

 ゆっくりとした時間。

 

「お姉ちゃんが迷惑掛けたりしてませんか」

「んーん、全然。まほは良い子にしてるよ」

 

 嬉しそうに笑うアンチョビさん。

 

 ああ、迷惑掛けてそうだな、お姉ちゃん。

 だけどアンチョビさんはそれが嬉しいんだ、きっと。

 

 あと、ちょっとドキッとした。

 お姉ちゃんのこと『まほ』って呼んでるんだよね、そういえば。

 

「少し前に私が体調を崩した時さ、すごく丁寧に看病してくれたんだぞ」

「ええっ、お姉ちゃんがですか」

 

 びっくり。

 お姉ちゃん、そういうこと出来たんだ。

 

「えへへ、お粥も美味しかった」

 

 あっためるだけのやつだけどな、と補足する。

 

 それでも凄い。頑張ったんだなあ、お姉ちゃん。

 ああ、それだけお姉ちゃんはアンチョビさんの事が好きってことなのか。

 私はあの人の事を『お姉ちゃん』だと思ってるから、『まほ』のお話がすごく意外っていうか、新鮮。

 

「みほは何か無いのか、『お姉ちゃん』の話」

「うーん、何かあったかなあ」

 

 暫し、『お姉ちゃん』と『まほ』の情報交換。

 そんなこんなを話していると、時間はあっという間に過ぎた。程なくして、お姉ちゃんが乗っている電車が到着。

 アンチョビさんはそれに気が付いて、小走りに改札口に駆け寄る。

 

「おかえりー」

 

 改札口を抜けたお姉ちゃんの姿を見付け、胸の前で小さく手を振るアンチョビさん。

 お姉ちゃんに向けるその笑顔は、今日見た中で一番、可愛かった。

 

 お姉ちゃんはアンチョビさんから傘を受け取って、それから私に気が付く。

 

「みほも一緒だったのか」

「うん、エリカの迎え待ちだってさ」

 

 ああ、そう言えばそうだ、エリカさんを待ってたんだった。

 遅いなあ、エリカさん。家から大して時間が掛かる距離でもないんだけど。もしかして寝てるのかな。

 そう思ってスマホを覗き込むと、エリカさんから数件の着信が入っている。ありゃ、何だろう。折り返し連絡すると、エリカさんはすぐに出た。

 

 心なし、声が上擦っている。

 

『ご、ごめん、みほ。ちょっと事故っちゃって』

「えっ、嘘っ」

 

 瞬間、青褪めた。

 

「エ、エリカさん、大丈夫なの。怪我はっ」

 

 お姉ちゃん達も、こちらの様子に気が付いて、不安げな視線を向けてくる。 

 

『うん、怪我は無いんだけど、事故の調べで抜けられなくて』

「な、何があったの」

 

 それからエリカさんは、ぽつりぽつりと話してくれた。

 エリカさんは道路に飛び出した猫を助けようとして、それで車に轢かれそうになったみたい。

 

 どうして助かったのか。

 その説明をしようとして、何か言い淀んでいる。

 警察が信じてくれないどころか、自分でも信じられない何かがあったみたい。

 

 エリカさんは、信じても信じなくてもいいけど、と前置きして、言った。

 

『猫耳で金髪の、すごく綺麗な女の人が素手で車を止めて助けてくれたのよ』

「あ、うん、信じる」

 

 たぶんそれ、知ってる人だ。

 

 その人がいつの間にか居なくなってるから、エリカさんはどう説明をしたらいいか現場であわあわしてるみたい。

 私からその人に連絡してみるね、と返して電話を切る。

 

 本当に居るんだね、車を止める猫。

 

 エリカさんに怪我は無い。

 それだけは、不幸中の幸いかあ。

 

「事故か」

「うん、怪我は無いけど現場でちょっと手間取ってるみたい」

 

 ぽん、と傘を手渡された。

 

「三人で迎えに行ってやろう」

 

 あはは、そうだね。

 その後は、久し振りにみんなでご飯でも行こっか。

 

 猫がまた、にゃー、と鳴いた。



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船幽霊の店

船幽霊
船乗りの幽霊
船の幽霊ではない

みほと二人暮らしのエリカ視点


 全く、災難だったわ。いや、幸運だったと言うべきなのかしら。ううん、分かんない。

 どっち、と断言することは出来ない。幸も不幸も一遍にやって来たような感じだわ。

 

 ある、雨の日の夕方。傘を持って駅にみほを迎えに行く途中の出来事。

 道路に飛び出した猫を助けようとして、車に轢かれそうになったところを、ある人に助けられた。

 

 人だと思う、たぶん。

 猫耳で金髪の、すごく綺麗な女の人。

 その人が割り込んできて、車を止めてくれた。

 

 素手で。

 

 一言二言を交わしたような気もするけれど、正直言って現実味が無くてよく覚えてない。ちゃんとお礼言ったっけ。

 その人はいつの間にか居なくなっていて、猫も勿論どこかへ行って。車の方は少し凹んだものの、結果的に怪我人が出なかったのを良いことに、そそくさと走り去ってしまった。

 親切な誰かが通報してくれたらしく、程なくしてパトカーが到着したけれど、その時、現場には私一人。果たして一体、どう説明したものか。

 

 猫を助けようとして猫に助けられたなんて、自分でも信じられない。

 夢でも見たんじゃないかとさえ思った。

 

 まあ、結論から言えばそれは夢でも何でもなく、現実だった訳だけど。

 その人は、みほの知り合いだったらしく、彼女が連絡を取って確認してくれた。腕っぷしひとつで車を止めたのは、間違いなく、その猫田さんとやらであると。人だったのね。

 ただし、残念ながらそれが分かった所で現場には何の変化も齎さない。周辺の防犯カメラでも調べれば、証拠になる映像が撮れているかも知れないけど、でもそこまですべきかどうかって考えると、うーん。

 

 警察の人達も面倒臭そうにしている。

 それもそうよね。『現場』とは言っても、怪我人は居ないし、物が壊れた訳でもない。まあ車は凹んだけど、その車は走り去った。現状、目に見える被害があるとすれば、弾みで尻餅をついた私のお尻が濡れただけ。

 

 身も蓋もない言い方をすれば、もういいじゃん、という空気。

 

 結局、私のお尻が濡れて、警察が面倒臭い思いをしただけでこの騒ぎは終わった事になる。

 その後、珍しく自分から迎えに来てくれたみほ、更には偶然駅で一緒になったという、まほさんと安斎さんの二人と合流した。

 

「災難だったな。まあ怪我が無くて良かった」

「すみません、お騒がせしました」

 

 久し振りにまほさんに会えたって言うのに、何と言うか、締まらないわね。災難と言うならそれが一番の災難だわ。

 気を取り直し、合わせて四人でどこかへ食事にでも行こうかと相談する。

 

 ただ、えっと、非常に申し上げ難いのですが。

 

「先に着替えて来てもいいですか」

「パンツ替えたいんだね、エリカさん」

「みほーーっ」

 

 よりによって、まほさんの前で言わなくても良いじゃないの。

 

「あはは、仲良いなー」

「ふふ」

 

 安斎さんが笑ってくれたお陰か、まほさんも釣られて笑う。ううん、笑って貰えたなら、良いのかしら。

 ともあれ、パンツを替えるための一時帰宅を申し出る。

 それなら折角だからと、まほさんと安斎さんをお招きする事に。というより、安斎さんがうちで夕飯を作ってくれる事になった。

 

 あ、でも待って。

 人を呼べる状態だったかしら、うち。

 

 すると、みほが私だけに見える角度で手招きをしているのが見えた。

 然り気無く隣に立つと、小声で指令が。

 

「エリカさん、先に帰って色々片付けてて。私は買い物で時間稼ぐから」

「りょ、了解」

 

 ダッシュで帰宅。ひとまずパンツを替えた。

 

 そんなこんなで最低限、リビング周りの体裁を整える。

 雑誌、飲みかけのお茶のペットボトル、行きつけのお店からのダイレクトメール。明らかにゴミに見えても、独断で捨てるとみほが臍を曲げる事があるから、とりあえず纏めて寝室に放り込む。一通り掃除機もかけて、まほさんと安斎さんを無事に招くことが出来た。

 

 安斎さんの料理は勿論絶品で、私達は揃って舌鼓を打ち、今は食後のゆったりとした時間。

 

「エリカもみほも、相変わらず楽しくやってそうだな」

「うん、エリカさんに振り回されながらだけど楽しいよ」

 

 えっ、という私の反応を見て、きょとん、と首を傾げるみほ。

 

「どうかしたの、エリカさん」

「いやいやいや、振り回してるのはどう考えてもみほの方でしょうが」

「エリカさん酷ーい」

 

 ああもう、酷いのはどっちだか。

 

「ふふ」

 

 まほさんが私達のやり取りを見て笑った。

 

「何故だろうな、物凄く嬉しいよ」

「まほから見れば、妹二人が仲良くしてるように見えるんじゃないのか」

「言われてみればそうかな、そうかも知れん」

 

 言って、また笑う。

 

 当人は気が付いているのかしら、まほさんも笑顔が増えたわね。それはきっと、安斎さんのお陰なのかな。

 嬉しいというなら、それはこちらも同じ。笑顔が増えるほど、まほさんが楽しく日々を過ごしている事が物凄く嬉しいです、私。

 

 それにしても、妹かあ。

 遠い存在に思えていたけど、いつの間にか近くなっていたみたい。

 

 今の関係は昔より近いわね、確実に。

 

「エリカさん、お酒飲みたーい」

「また唐突な」

 

 既に酔っ払ったようにしなだれかかって来たみほを手で押し戻す。機嫌良いわね。

 うーん、お酒か。冷蔵庫にチューハイがあったような。

 あったっけ、あった筈。

 

「人数分は無いよ」

 

 ああ、そっか。ただ飲みたいんじゃなくて、酌み交わしたいのね。

 それじゃあ、すぐそこのコンビニで買ってきましょうか。

 

「うーん、家飲みでもいいけど、もっと雰囲気ある所がいいかな」

「概ね賛成だが千代美は下戸だぞ」

「えっ、そうなんですか」

 

 安斎さんを見ると、彼女は苦笑いで応えた。

 偏見かも知れないけど、料理の上手な人がお酒を飲めないというのは結構、意外。

 彼女の後輩のペパロニが蟒蛇(うわばみ)だから尚更、かな。蟒蛇というか、あの子はそれ以上の何かだわ。無限に飲むし。

 

 さて、それはそれとして。外飲みで、お酒が飲めない人が一緒でも問題ない場所なんてあったかしら。ファミレスぐらいしか思い浮かばないけど、みほが嫌がりそうだし。

 やっぱりコンビニで適当に買って来て家飲みにした方が気兼ねなく飲めるような。

 

 あ。

 

 気兼ねなく飲める場所、あったわ。

 さっき部屋を片付けていた時に目に入った物が頭をよぎった。あのお店でも行きましょう。

 

「賛成~」

「馴染みの店でもあるのか」

 

 問うまほさんに、えへへー、と意味ありげに笑うみほ。

 彼女の友人が開いたバー。あそこなら気心が知れているから、お酒の飲めない人が一緒でも問題ない。

 さっき寝室に放り込んだダイレクトメールを回収してきた。捨てなくて良かったわ。割引券ついてる。

 

「なんと言う名前の店なんだ」

「えっとね、『どん底』って言うの」

 

 まほさんと安斎さんが、若干、引いたような顔をした。

 にこにこと答えるみほの口から出る言葉としては、まあ、ね。でも良い店ですよ、どん底。

 

「それはそうと、みほ。ちょっと、はーってしてみなさい」

「はー」

 

 うん。いつの間に飲んだのか知らないけど、お酒が人数分無いのはあんたのせいよ。



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以津真天の戦

以津真天
死体を放っとくと怒る


 珍しく、まほと喧嘩した。

 本当に珍しい事だ。

 

 全く、一切、ゼロという訳ではないけど、それくらい私達は滅多に喧嘩をしない。

 隣に住んでるダージリンでさえ、私達が喧嘩してる所を見た事が無い、と思う。

 前に喧嘩をしたのはいつの事だったか、全然思い出せない。もしかしたら本当に一回も喧嘩をした事が無いんじゃないか、そんな錯覚を覚えるくらいだ。

 

 それなのに、昨日、喧嘩した。

 

 きっかけは些細な事。

 そう、そんな事かと思う程の些細な事だ。たぶん、こんな事で人に相談したら笑われるだろう。

 だけど私達には、いや、少なくとも私には大事件だ。

 

 今週は忙しくて、私もストレスが溜まってたというか、単純に疲れてた。

 あんまり疲れとかのせいにはしたくないんだけど、そういう事なんだと思う。だって、普段なら笑って流せる事だし。

 

 昨日の夕飯の時の、まほの一言だ。

 

『千代美、ピーマン』

 

 まほはピーマンが苦手。それは重々分かってる。

 

 それでも、料理にピーマンを入れる事はある。ただし、まほの皿に盛る分だけはピーマンを抜く。

 別にそれは、まほに頼まれてやってる訳じゃない。私が勝手にやってる事だ。

 

 なんでそんな事をしてるかと言えば、自己満足ってことになるのかなあ。まあ、ピーマンに限った事じゃない。

 コーヒーだって、目玉焼きだって、何だってそうだ。私は、まほに出すものは全部まほの好みに合うように作る。作れるから、そうしてる。

 私にとって料理は、本来の味や彩りよりも、まほに美味しく食べて貰うことの方が大切になっちゃったんだ。

 

 なっちゃった筈なんだけど、昨日、失敗した。

 夕飯刻。まほに出す野菜炒めの皿に、ピーマンが入っちゃった。

 

 それを見たまほが、言った。

 

「千代美、ピーマン」

 

 子供かよ、と思った。

 

 だけど、よく考えたらまほは悪くない。

 私がまほの皿のピーマンをいちいち抜いてるなんて、まほは気付いてないと思うし。

 まほにとっては、単に久し振りに見る嫌いな食べ物でしかなかったんだと思う。

 昨日の私はそこまで考えが回らなかった。

 

 かちんと来て、返した言葉。

 

「あっそ」

 

 我ながら、最悪だったと思う。

 

 それからまほは一言も喋らなかったし、ピーマンだけ綺麗に残した。変なところ、器用なやつ。

 

 そのピーマンは、勿体ないから私が食べた。

 まほに料理を残された悔しさ。悲しさ。怒り。そんな、嫌な気持ちがごちゃ混ぜになって、ちっとも美味しくなかった。

 私までピーマンが嫌いになりそうだ。

 

 それから一切、会話をしていない。

 ああ、『おやすみ』と『おはよう』は言った。そんだけ。

 

 スマホも今日だけは静かだ。普段だったら、まほとの雑談が途切れることなんて無いのに。

 なんで連絡をくれないんだよ、ばか。考えれば考えるほど、腹が立つ。

 そんな事を一日中、鬱々と考えていた。

 

 良くない感情をいっぱい溜めた。

 溜めて溜めて、そんな気持ちで夕方の買い物をして、そんな気持ちでご飯を作った。

 

 そして、ふと我に返る。

 一体いつまで、こんな事で喧嘩してるつもりだろうか。

 さっさと素直に謝って、さっさと仲直りしちゃえばいいじゃないか。

 

 そう思ったんだけど、少し遅かった。

 現在は、まほがピーマンを残してから、だいたい二十四時間後。つまり夕飯刻。

 

 今夜のおかずは、肉詰めピーマンだ。

 

 良くない感情を料理にぶつけた結果がこれ。やらかした、ってのは、こういう事を言うんだろうな。

 目の前に座ってるまほも、露骨に出されたピーマンを目にして硬直している。

 

 更に私は、狼狽えた頭で言葉を探し、また失敗を重ねる。

 

「嫌なら食べなくてもいいぞ」

 

 うん、最悪。

 

 違う、これは違うんだ。

 食べたくなかったら残してもいいし怒らないよ、って言いたかったのであって、決して嫌味とかそういうんじゃなくて。えっと、その。

 

「千代美」

 

 まほの低い声に、怯りと身を竦める。

 

 ああ、終わった。

 また今日も喧嘩になっちゃうのか。

 一体、何を言われるんだろう。

 

「昨日はごめん。私の言葉が悪かった」

 

 へ。

 

 一瞬、まほが何を言ったのか分からなかった。

 呆ける私をよそに、まほはピーマンに箸を付ける。

 

 そして少し迷ってから、思い切り齧りついた。

 顔を顰めながらも、しっかりと咀嚼して、飲み込んで、息を吐く。

 

「美味い」

「嘘つけ」

 

 いいや美味いと意地を張るまほ。

 無理するなよ、涙目じゃないか。

 

「千代美、よく聞け」

 

 普段食べないピーマンを食べたせいなのか、何なのか。

 凄むまほの顔には、妙な迫力があった。

 

 何を言うつもりだろう。ちょっと、姿勢を正す。

 

「ピーマンも、ちゃんと食べる。だから、その、怒らないでくれ」

「ふふっ」

 

 思わず笑いが漏れた。

 子供かよ。

 

「私の方こそ、ごめん」

 

 やっと言えた。

 

 それからは二人とも、堰を切ったように喋った。

 今日一日、喋らなかった分を取り戻すみたいに、沢山、沢山喋った。

 

「どうして連絡くれなかったんだよ」

「それは、こうやって顔を突き合わせて謝りたかったからだ」

 

 そっか。

 じゃあ、しょうがない。

 

 ただ、それはそれとして、まほも私からの連絡を待っていたらしい。

 互いに連絡を待っていて、互いに連絡をくれない事にやきもきしていた、って事か。

 

「千代美が連絡をくれないなんてな、私にとっては怖すぎるぞ」

 

 苛々を募らせていた私とは反対に、まほは私に何と言って謝ろうかと、そればかり考えて今日を過ごしたという。

 

「今週は私も疲れてた。あまり疲れのせいにはしたくないが、そういう事なんだと思う」

「んふふ」

 

 何故笑うんだ、と、ムッとするまほ。

 おんなじこと考えてたんだよ、私も。

 

「私も疲れてた」

「そうか。じゃあ仕方ない」

 

 言って、二人で笑った。

 

 そして話題は。

 

「千代美。もしかして、今まで私の皿からピーマンを抜いてくれていたのか」

「うん、実はそうなんだ」

 

 まほに美味しく食べて貰うため。そう思って、やってた事だ。

 だけど、そういう事はしなくていいぞ、と怒られた。

 

 なんでだよ、と訊くと、一言。

 

「私は、千代美と同じものを食べたい」

 

 その一言で、溜まっていた良くない感情が一度に吹き飛ぶのを感じた。

 

 ああ、嬉しい。

 にやける。

 好き。

 

「じゃあ、明日もピーマンでいいかな」

「そ、それはちょっと」

 

 えー。



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小袖の手の澱

小袖の手
思い出の籠った服の念


 休日のお昼前。

 ソファにうつ伏せに寝そべったまほのお尻を枕にして、小説を読んでいる。

 読み始めた頃はあんまり面白くないなと思ったんだけど、きっと段々と面白くなってくるタイプの作品なんだろうと思う事にして読み進めてたやつだ。

 そのうち面白くなるだろうと思いながら読んでたら、読み終わっちゃった。

 残念、面白くなかった。

 

「そんなの、全部読む前に分かりそうなものだがなあ」

「途中で読むのを止めるって事がどうしても出来ないんだよ」

 

 まほの突っ込みは、まあ、図星だ。

 中盤辺りから、ああこの小説はラストまでこんな感じなんだろうなと想像が付いたし、実際そうだった。

 でも、一回読み始めた本は最後まで読まないと気が済まないんだ。もっと言うと、この小説は続編が出てるから、そっちも買おうか迷ってる。

 もしかしたら続編まで読めば面白くなるのかも知れないし。

 

「なんだかんだ言って面白かったんじゃないのか、それは」

「そうかも」

 

 まあいいや、そろそろご飯の時間だ。

 お昼は何作ろっかなー、なんて考えつつ冷蔵庫の中身を思い出す。

 あー、冷凍してたご飯を使っちゃいたいな。ご飯ものにしよっか。

 

「なんかリクエストあるか、まほ」

 

 お尻に話し掛けると、ううーんという煮え切らないような唸り声が返ってきた。

 なんだろう、珍しいな。いつもなら何かしらさっさと答えを出してくれるんだけど。

 

「今日のお昼は私が作る」

「えっ」

「エプロンを借りるぞ」

 

 まほは唐突にそんな事を言い出してキッチンに立った。この間みたいな暖めるだけのやつじゃなくて、きちんと料理をする気らしい。

 心配だからついててやると言ったら『あまり構うな』と強がるので、私は大人しく別の部屋で洗濯物でも畳むことにした。

 

 キッチンからは、何やらじゅうじゅうという音が聞こえる。

 フライパン使ってるな。焦がすなよー、頼むから。

 

 なーんかイメージ変わったよな、まほ。

 昔に比べて雰囲気がどこかゆるくなったというか。キリッとしてるのは変わらないんだけど、何て言うか、ピリピリしてない。

 黒森峰っぽさが薄れたとでも言うのかなあ。ああ、我ながら良い喩えかも。『黒森峰っぽさ』ってあるよな。

 

 そう考えると、エリカもそうだ。

 今のエリカは昔ほどピリピリした雰囲気を持ってない。みほと一緒に暮らすようになってから明らかに表情が豊かになったし、もっと言うなら可愛くなったような感じさえする。

 

 ううん、『黒森峰っぽさ』って、ピリピリしてるってことなんだろうか。

 私はアンツィオの生徒として黒森峰を見てたから、余計にそんなイメージを持ってしまうのかも知れない。

 アンツィオは、なあ。ちょっと自由過ぎるもんな。

 

 まあ、それはそれとして。

 

 まほの料理かあ。正直、心境はちょっと複雑だな。

 味やフライパンの心配をしてる訳じゃない。いやまあ、それも心配だけど、もっと別の事。

 

 別にまほが料理しちゃ駄目って事は全然無いんだけど。無い筈なんだけど、ちょっと寂しい。少し嫌な考え方かなあ、これ。

 この間、私が熱を出した時も思ったけど、まほが私を頼らない事がすごく寂しく感じるんだよな。あの時は思いっきり泣いて困らせちゃった。

 反省はしてるつもりだけど、同じ事があったらまた泣いちゃうかも知れない。いや、泣きはしないかも知れないけど、落ち込むと思う。

 って言うか今、既に少しずつ落ち込んできてる。

 ううん、私ってもしかして、まほより独占欲が強いんだろうか。

 

 なんてことを悶々と考えていて、ふと我に返る。

 

「ありゃ」

 

 私の洗濯物と、まほの洗濯物。

 選り分けて畳んでた筈なのに、いつの間にか、ごっちゃになっていた。綺麗に重ねてはいるけど、これじゃ二人の洗濯物が混じった山がふたつ出来ただけだ。

 どっちがどっちだか、改めて選り分けていたら折角畳んだ洗濯物が段々と崩れてきた。

 

 はあ、これじゃもう畳み直した方が早いな。

 私ってこんなにドジだったっけ。あーもう、ちょっと自棄っぱちになってきたぞ。ぐちゃぐちゃとやっているうちに、山はすっかり崩れてしまった。

 

 なんだかなあ。

 

「千代美ー、ちょっといいか」

 

 タイミング悪くまほが入って来た。

 さっきまで少なくとも見た目だけは綺麗に畳んであったものを、すっかり崩したところで顔を出すなんて、本当にタイミングの悪い奴だ。

 ここだけ見たら、まるで私がサボってたみたいじゃないか。

 

「ふふ」

 

 笑われた。

 なんなんだよ、もう。

 

「それ、慣れない頃は私もよくやったぞ。山を混ぜてしまったんだろう」

 

 まほは、また笑いながら私の状況を指して言う。図星。

 考え事をしていて、山をごっちゃにしてしまって、結局崩して畳み直す。それはまほにも覚えがあるらしい。

 

 貸してみろ、と言ってまほは私の隣に座る。

 

「こうすると簡単だぞ」

 

 言うが早いか、まほはひょいひょいと先に洗濯物を選り分けて山をふたつ作り、それから畳み始めた。

 あー、そっか。これなら混ざらないか。なんだか手慣れてるなあ、まほ。

 

「普段は私の仕事だからな」

「ああ」

 

 確かに。

 これは、いつもは私がご飯を作ってる間、まほがやってる事か。道理で私より上手いわけだ。

 なあ千代美、とまほがいつもより優しい声を出す。私が不貞腐れてるのに気付いたのかな。

 

「考え事というのも大方、私に家事を取られたような気持ちになって靄々していたんじゃないのか」

「ううっ」

 

 またも図星。

 視線を逸らして押し黙る私を、まほは『やれやれ』とでも言いたげな目で見つめた。

 

「急にあんなことを言い出して悪かったな」

「あんなことって」

「お昼ご飯のこと」

 

 まあ、確かに急だったけど、理由は想像が付く。

 まほは悪くない。

 

「私はな、なるべく千代美に面倒を掛けたくなくて色々とやっているつもりなんだ」

「そんなの、分かってる」

 

 そうか、と言ってまほはそれ以上何も言って来なかった。

 

 分かってる、分かってるんだよ。

 まほは、私が体調を崩したりした時の為に、何でも出来るようになっておこうと頑張ってくれてるんだ。それは詰まるところ、私の為にやってる事。

 

 分かってる。

 

 不意に、頭にくしゃりとした感触。

 撫でられた。

 

「なんだよ」

「ふふ」

 

 何を笑ってるんだか。鼻で大きなため息をついた。

 まるで私が子供みたいじゃないか。

 

 あれ、そういえば。

 

「なんか用があって来たんじゃないのか」

「ああ、うん、それはだな」

 

 何やらもごもごと口籠っている。

 あーあ。こりゃ、キッチンで何か失敗したか。

 

「その、やっぱり助けてくれないか」

 

 さっきまでの強気はどこへやら。まほは気まずそうに言う。

 またひとつ、ため息が出た。さっきとは違う、安堵のため息。見たところ、まほに怪我は無いみたいだけど、フライパンはどうかなあ。

 しょうがないなー、と言って腰を上げた。

 

「交替しよっか」

「すまん、頼む」

 

 まほに頼られ、機嫌がみるみる直っていくのを自分でも感じる。

 しょうがないな。

 

「ほんと、しょうがない奴」

 

 自嘲するように呟いた。



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崩の鬼漁

くずし

しずくの反対

ダージリン視点


 布団の中で悶々としている。どうにも眠れない。

 眠れないから余計に、眠ろう眠ろうと念じてしまう。そんな事をすると却って寝付けないものなのよね。

 カチューシャでも呼び出そうかと思ったけれど、彼女は眠るのが早い。時計を見れば時刻は零時。とっくに眠っているし、起こしても起きないわ。

 

「コンビニ」

 

 誰にともなく呟いて、身体を起こした。

 

 別にコンビニに行きたい訳じゃない。布団の中でいつまでも愚図愚図しているよりは幾らかましだから出掛けるだけ。かと言って、こんな時間では開いている店も限られる。

 ファミリーレストランという選択も無くはないけれど、少し距離に難があるし、お腹が空いている訳でもない。コンビニぐらいで丁度良い。

 近頃は運動も不足しているし、たまには歩きましょう。

 

 髪は結ばなくてもいいわね。

 どうせ、行って帰って来るだけだもの。

 

 何だかわくわくしてきたわ。こんな時間に外に出るなんて、滅多に無いことだから。

 いそいそと軽く着替えてコートを羽織り、玄関を開ける。

 当たり前だけれど、外はしんと静まり返っていて、扉の音が思いのほか大きく聞こえたことにびっくりした。隣の迷惑にならなかったかしら。

 音を起てないようにそろそろと扉を閉める。気を取り直して、いざ出発。

 

 思ったより寒くない。もう、すっかり春なのね。

 

 真夜中の住宅街を歩く。

 普段は車で移動しているから、徒歩だと見慣れた景色も全然違って見える。こんなに雰囲気が変わるものなのね。

 なんだか悪い子になったみたいで凄く新鮮だわ。夜歩きが癖になってしまいそう。

 

 布団の中で愚図愚図しているより断然良い。

 外に出てみて良かった。

 

 コンビニに到着。

 何と言うか、本当に深夜でも昼間と変わらず営業してるのね。こうやって深夜に来てみてようやく実感が湧く。

 なんだか時間の感覚があやふやになってしまいそう。

 時間が流れているのは外だけなのかも、なんて。

 

「あれっ、ダージリンさん」

 

 後ろから声を掛けられ、どきりとした。

 まさかこんな時間、こんな場所で人に出くわすなんて。何故か悪戯が見付かった時のような、嫌な感じがした。

 平静を装って振り返ると、ああ。

 

「みほさん、お久し振り」

 

 私に応え、お久し振りです、と愛想よく笑うみほさん。そういえば彼女の家はこの近くだったわね。

 彼女というか、彼女達か。みほさんは今、逸見エリカさんと二人暮らしをしている。

 

 こんな時間に買い物かしら。私も人の事は言えないけれど。

 

「お酒が足りなくなっちゃって」

「あら、お二人で飲んでるのね」

「そうなんですよー」

 

 買い物は済んでいるらしかったので、少しの立ち話をして別れる。

 ところが、みほさんがお店から出て行って少しの後、トイレから逸見さんが出てきた。辺りをきょろきょろと見回して、ため息。その唇が『またか』と動くのが見えた。

 

「逸見さん」

 

 声を掛け、みほさんがさっさと一人で帰った旨を告げると、逸見さんは顔を真っ赤にして、挨拶もそこそこにみほさんを追い掛けて行った。

 面白い二人。仲が良いのね。

 

 二人を見送ったあと店内を暫く見て回ったけれど、結局、食べたいものも飲みたいものも特に無く、読みたい本も足りない消耗品も思い浮かばないことを確認しただけで終わった。面白いものが見られたから、無駄足とまでは言わないけれど。

 まあ、折角来たのに何も買わないというのも何と言うか、あれなので、特に飲みたい訳でもないホットの缶コーヒーを買って店を出た。

 

 帰り道。

 ぽけっとの中の缶コーヒーが熱い。まだまだ寒いつもりで暖かいものを買ったけれど、冷たい方でも良かったかなと思えた。

 このまま家に持って帰って冷めるのを待つのも馬鹿みたいだし、そうすると結局、ごみを増やすのが嫌で飲まずに置いてしまうような気もする。

 

 そんな事を考えながら歩いていると、公園に差し掛かった。

 

「ここがいいわ」

 

 宣言をするように声を上げた。

 深夜徘徊、思い切って寄り道。

 いよいよ悪い子だわ。

 

 ああ、桜が咲いている。

 シチュエーションとしては悪くないわね。適当なベンチを見付け、散った花びらを払って腰掛けた。

 キン、と缶コーヒーを開けて一口。まだ熱い。

 コーヒーが冷めるのを待ちながら、夜桜に見入ることに。

 

 その時。ぽろりと、涙が零れた。

 

 えっ、嘘。

 なんで。

 

 それはひとつぶでは治まらず、次々と零れる。

 一瞬、意味が分からず困惑したけれど、それには直ぐに思い当たった。切っ掛けは、そうね。さっき、コンビニでみほさんと逸見さんに会ったことかしら。

 あんまり、気が付きたくなかったな。

 

 

 

 寂

 

 

 

「ダージリン」

 

 声がした。

 私を呼ぶ、声。

 

 嘘。なんで。

 どうして貴女がここに居るのよ、まほさん。

 

「尾けた。すまん」

 

 座るぞ、と言って彼女は私の返事も待たず隣に腰掛ける。

 

「隣人がふらふらと深夜に一人で出掛けたのが心配でな」

「何故、気が付いたの」

「玄関の音」

 

 ああ。

 大きな音を起ててしまったとは思ったけれど、まさかそれで私が出掛けたのに気が付くなんて。全く、良い耳をしてるわね。

 

 それはそうと、涙は今も零れている。

 見ないでよ、と強がると、まほさんはため息で応え、目を逸らしてくれた。

 

「真っ直ぐ帰るようなら黙っているつもりだったが、泣き出すのでは見過ごせないぞ」

「そう、ね。ありがと」

 

 彼女は何も訊かず、ただ隣に居てくれた。

 それでいい。今はそれが一番、嬉しい。

 

 不意に強い風が吹いて、視界が白く染まる。

 

 雪が、空を埋めたように見えた。

 

 ああ。

 

「桜吹雪か」

 

 感心したように、まほさんが呟く。

 

「ねえ」

「ん」

「名前で呼んで」

 

 今夜だけで構わないから。

 そうお願いすると、まほさんはまた、ため息で応えてくれた。



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空葬

 日曜日。ついに、この日が来ちゃったか。

 炊き出しというか、みんなのお昼を作りながら、キッチンで物思いに耽る。

 

 まほは家具の運び出しのため、ダージリンを手伝っている。

 こんな役割分担、冬にもあったなあ。まほとダージリンに雪かきをさせて、私は炊き出し担当。あの時はルクリリも来てたっけな。

 なんだか、気持ちの整理がまだ付かない。自分達の事じゃないのに。

 

 何日か前のダージリンの言葉が頭の中で響く。

 

「引っ越すわ」

 

 とある平日の夕飯のあと、まほとリビングで寛いでいた時のこと。

 話があると言って入ってきたダージリンがそんな事を言い出した時は耳を疑った。というか一瞬、言っている意味が分からなかった。私はこの生活を、実質三人暮らしみたいなもんだと思ってたから。

 隣のまほが静かなので、無反応なのかと思って顔を覗き込んだら、目を見開いて固まっている。まほも似たような気持ちだと分かって、なんだか場違いだけどホッとした。

 

 何でも、以前から目を付けていた好条件の物件が最近空いたとかで、そこに移り住むつもりらしい。

 

「な、ぜ」

 

 絞り出すように言うまほに、たった今ダージリンが説明しただろ、とは言えなかった。私も同じ気持ちだ。理屈は分かるけど、頭が理解を拒んでるような、そんな感じ。

 本当は、どうしてそんな事を相談も無しに決めるんだ、と訊きたい。

 だけど、もし、相談する謂れが無いと言われてしまったら、それはその通り。納得するしか無い。だから私は何も言えなかった。

 辛うじてまほが絞り出した『なぜ』が、今の私達二人の気持ち。

 

 ダージリンには、果たしてそんな私達の気持ちが伝わったのかどうか。

 彼女は、さっきの説明以上の事は何も言わず、ただ苦笑いをしただけで会話が止まってしまった。

 気まずい沈黙。

 

 それを破ったのは、まほだった。

 

「いつ、引っ越すんだ」

 

 流石と言うべきか、こういう時の頭の切り替えはまほの方が早い。

 黙っていても仕方ない。『なぜ』の答えも既に出ている。そんな不毛な問答で会話を止めるくらいなら、日程でも訊いた方がまし、って事だろう。

 ただし、そんなまほでもダージリンの答えは余りにも想定外で、今度こそ言葉を失くして固まるほか無かった。

 

「次の日曜」

「なっ」

 

 いくら何でも、早すぎる。

 

「ごめんなさいね、日が迫るまで黙ってた訳じゃないのよ」

 

 ダージリンも、私達を驚かせてしまったことに引け目を感じてるらしく、弁解のような事をぼそぼそと言った。

 たまたま人を集めるのに都合が良い休日がそこだけだったらしい。

 まほが固まってるからという訳じゃないけど、辛うじて、私も回復してきた頭を回す。

 

「人を集めるって事は、引っ越し業者は呼ばないのか」

「ええ、節約したいもの」

 

 そこはお金をかけた方が良いような気もするけど、それはまあ、な。お財布事情もあるし。

 とは言え、それでも当日集まるのは後輩が二人だけらしい。

 

 ダージリンって、あれか。

 もしかして、人望とかあんまり、あれなのか。

 

「そ、そういう訳じゃないわ。きっとみんな忙しいのよ」

 

 んん。

 

 まあ何にせよ、ダージリンを含めて三人じゃ手が足りないだろう。私達も何か手伝わなくちゃな。

 寂しいけど、寂しがってばかりもいられない。私もようやく頭が切り替わって来たような気がする。

 

「協力してくれるのは嬉しいわ、ありがとう」

「家財運びは任せろよ、まほに」

「えっ」

 

 なんてやり取りがあって。

 

 それからあっという間に日曜日。

 今週は時間の流れが普段より速く感じた。特にやる事があった訳じゃない。私達が今日に備えて用意した物なんて軍手と食材くらいだ。

 忙しかったと言うより、何て言うか、呆然としてる時間が長かった。

 

「ダージリンと、もっと沢山話しておけば良かったなあ」

 

 そんなことをぼやいた。

 

「別に今生の別れという訳でもないだろう」

「それはそうだけど、気分的にさ」

 

 妙にさっぱりした事を言うまほに、言葉を返す。

 ん、あれっ。なんでまほがこっちに居るんだろう、家財運びは終わったのかな。

 

「いや、まだだが私の出る幕がもう無い」

 

 こまごまとしたものは粗方運び終わったものの、どうやらそれだけでまほの出番が終わってしまったらしい。

 つまみ食い用に昼のおかずを少し分けてある皿をひょいと持って、まほは軍手を外した。

 

「手は洗え」

「んん」

 

 怠そうにじゃぶじゃぶと手を洗う。

 しっかし、後輩二人に働かせてつまみ食いとはなあ。それに、話からすると、今は大きい家財を運んでるんだろ。

 それはちょっと格好悪いぞ、まほ。

 

「そう言うな。私が居ても却って邪魔になるだけだ」

「そんな事は無いだろ」

「ある。あと、手伝うのが色々と阿呆らしくなったのもある」

 

 随分な言い草だ。何があったんだろう。

 まほは口をもぐもぐさせながら、行ってみろ、と顎で外を指す。まあ、ご飯もだいたい出来上がってるし顔を出してみるか。

 外に出てみると、ダージリンの後輩二人が乗り合わせてきた軽トラックが目に入った。何故か真正面部分に掌の形の凹みがあるのが印象的。何をやったらこうなるんだろうな。

 軽トラックの凹みをしげしげ眺めていると、ダージリンの部屋から足の生えた箪笥がトコトコと出てきた。

 

 異様な光景だ。

 よく見ると、ダージリンの後輩が一人で箪笥を運んでいる。それはある意味、箪笥に足が生えているよりも異様だった。

 

「もう、ダージリン様。重たいから箪笥の中身は抜いてくださいと言ったじゃないですか」

「ごめんなさいねえ、ペコ」

 

 謝りつつも、ダージリンはにこにこしている。

 ああ、久し振りに後輩に会えて嬉しいのか。

 

 いや、それよりも、ええと。

 どこから突っ込むべきか。

 

「あら。こんにちは、安斎様」

 

 今日駆け付けた後輩の一人。

 オレンジペコは私に気が付き、重さを全く感じさせない動作で、すっと箪笥を降ろしてお辞儀した。

 

 ああ、これは、うん。何も言えない。

 まほの出番が無いわけだ。

 

「これで大体の家具は運び出し終えたわね」

「そうですね。ベッドだけは廊下を通れないので後で分解して運びましょう」

 

 通れば運んだんだろうか、一人で。

 

 あれっ、でも変だな。運び出し終えたって言う割には冷蔵庫が見当たらないぞ。ダージリンの部屋にあったのはそこまで大きい物じゃなかった筈だ。あれなら廊下も通る。

 軽トラックに積まれている物を見ても、ビニール紐で縛った雑誌や『断捨離』と書かれた段ボールばかり。なんだか『ついでに捨てるもの』って感じだ。

 

「ああ、冷蔵庫はもう新しいお部屋に運び込んであるんですよ」

 

 早っ。

 

 でも、成程。中身も色々入ってるだろうし、運べるならさっさと運んで電源入れた方が間違いないもんな。

 ああ、それで気が付いたけど、ダージリンの引っ越し先の事は聞いてなかったな。もしかしてすぐ近くなのか。

 

 するとダージリンは、気まずそうに、私達の部屋の反対隣を指差した。

 

 ちょっと待てお前。

 

 まさか。

 

「な。阿呆らしくなるだろう」

 

 つまみ食いを終えて顔を出したまほに、思わず頷いた。

 あれから今日まで、なんだかんだでかなり気落ちして過ごしてたのに、拍子抜けしちゃったじゃないか。

 少しホッとしてる部分もあるけど。

 

「あ、貴女達が思った以上に悲しそうな顔をするから、逆に言い出し難くなったのよ」

 

 お、おう。

 そう言われると、ちょっと恥ずかしい。

 

 しかしそうなると、今度は引っ越す理由が分からなくなってきたな。『以前から目を付けていた好条件の物件』なんだよな、うちの反対隣が。

 何だろう、陽当たりとかだろうか。でも、引っ越す程の違いは感じられないしなあ。

 

「あー、それは、その、ね」

「ダージリン様、軽い物は全て運び終わりました。以後の配置等はご自分で良いようになさって下さいませ」

「あ、ああ、ありがとうね、ローズヒップ」

 

 もう一人の後輩が『新居』から顔を出したのをこれ幸いとばかりに、ダージリンは露骨に話を逸らした。

 

「それにしても災難でしたわね、ダージリン様。夜な夜な変な声が聞こえるお部屋を引き当てるだなんて」

「あっ」

 

 明らかに『言っちゃった』という反応をするダージリン。という事はそれが引っ越しの理由か。

 心霊現象って事だろうか、そっちの部屋でそんな現象が起きてたなんて、初めて聞いた。

 

 初めて聞いたな。

 

 いや、待てよ。

 

「なあ、ダージリン。その変な声って」

「コメントは差し控えさせて頂くわ」

 

 うん。

 

 やっぱりそうだよな。

 

 ごめん、ほんとごめん。

 

「千代美、どうした」

「後で教える」

 

 色々と察してしまったらしく、オレンジペコが顔を赤らめて俯いた。

 

「と、とにかく二人とも、これからもよろしくね」

 

 頭の上にクエスチョンマークを浮かべたままのまほに、後でどう説明しようか考えつつ。差し出されたダージリンの手を取り、握手した。

 

 ほんとごめん。

 ほんとありがとう。

 これからも、よろしく。



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野鉄砲の弾

野鉄砲
旅人の顔になんか吹き付けるやつ

ペパロニ視点


 とある駅で姉さん達と待ち合わせ。何年ぶりだろうなあ、こんなの。

 夕べはウキウキして全然眠れなかったのに、今朝は早起きしてしまった。まるで小学生の遠足。よっぽど楽しみだったんだなと、自分に対して変な笑いが出た。

 危うく二度寝しそうになったけど、そこは我慢。

 

 待ち合わせ場所には、気持ち早めに着いた。

 忘れ物は無いし、時間や日付の勘違いもしていない。我ながら珍しいな、なんて思う。

 なんだけど。

 

 姉さん達が来ない。

 

 待ち合わせの時間から早三十分。

 どっちかと言えば、待ち合わせに早めに着いたりするのは姉さんの方ってのがよくあるパターンだったんだけどなあ。

 連絡してみたけど返信も無い。どころか『既読』も付かない。

 姉さんは、待ち合わせのギリギリに着くだけでも『ごめんごめん』と言いながら走って来るような人だ。そんな人が連絡も無しに遅れるなんて、何やってんだろ。

 

 なんて考えていると、駅の駐車場にやけに乱暴な運転の軽自動車が停まったのが見えた。

 あっぶねえな、なんだありゃ。

 

 あー、戦車道やってた人なのかもな。

 

 戦車道をやってた人の中には、どーしても戦車の感覚が抜けなくて、普通の自動車に乗るようになってからも、その感覚で車を走らせてしまう人ってのが一定数居るらしい。

 危なっかしい運転をするドライバーに若い女が多いのは、そんな理由があるからとかなんとか。あの車の運転はまさに戦車の感覚が抜けない女って感じだ。と、そこまで考えてはっと気が付いた。

 

 まさか。

 

 おんなじ車に乗ってる人を私は知ってる。

 戦車道やってたなんてもんじゃない、隊長まで行った人だ。あの人なら戦車の感覚が抜けなくても何ら不思議じゃない。

 

 その車に駆け寄ると、丁度、運転席から想像通りの人が降りてくる所だった。

 

「ペパロニさん、お久し振り。三月以来ね」

「お久し振りっす、ダーさん」

 

 三月。

 そうそう、三月にダーさんと色々あって泊めて貰った時に見た車だ。つい二ヶ月前の事なのに、なんか懐かしく感じるなあ。

 二人で、ちょっと意味深な苦笑いを交わす。うん、あの一晩でほんとに色々あったっすからね。

 

 あー。それはそうと、ダーさんの運転って事は。

 恐る恐る後部座席を覗き込むと案の定、姉さんと、まほ姉さんが二人してぐったりしていた。そっか、連絡どころじゃなかったんだな。

 駄目元で声を掛けてみる。

 

「お二方、お久し振りっす」

「ん」

「んん」

 

 しょうがない。

 

「ごめんなさいね、駅の場所が分からなくて少し迷ったわ」

「え、あ、はい」

 

 まあ、元々余裕を持って時間を決めてあったから、それはいいや。たぶん、姉さんはこうなる事を見越してたんだろう。

 

 ひとまず、ぐったりしてる二人の回復を待って、改めて出発。ここからは電車で目的地の最寄り駅まで移動する。

 二人は大丈夫だろうかと少し心配したけど、意外に何とも無さそうで安心した。車内では段々と会話する余裕も出てきたらしく、そこでようやく、改めて挨拶が出来た感じだった。

 

「ごめんなーペパロニ、待っただろ」

「うへへ、気にすること無いっすよ」

 

 ダーさんのあの運転を見てしまってからじゃ、何もかもが仕方ないと思える。むしろ、三十分遅れた程度で済んだと思っとくのが良さそうだ。

 私は駐車場に停めるところを見ただけだけど、あれは明らかにヤバかったもんなあ。

 

「ダージリンの運転の後だからか、電車の揺れが心地良いな」

「失礼ね、私だって通勤で少しは上達したのよ」

「通勤で毎日運転しててあれなのか」

 

 まほ姉さんとダーさんは、仲良く喧嘩って感じ。

 

 うーん、そう言えば全員年上なんだな。

 そう意識した途端、ちょっと緊張してきた。姉さんは姉さんだけど、あとの二人とは、正直まだ、あんまり。

 人見知りはしない方だけど、先輩だと思っちゃうと、ちょっとな。こういう体育会系な所、染み付いちゃってんだなあ。

 

「あまり緊張する事は無いぞ、ペパロニ」

「へっ」

 

 びっくりした。

 まさか、まほ姉さんに緊張を見透かされるどころか、気を回してくれるだなんて夢にも思わなかった。姉さんとの事で一度は腹を割って話したものの、まだお互い少しはモヤモヤしてるもんだと思ってたし。

 だからつい、訊いてしまった。

 

「ど、どうしたんすか」

 

 あんまりな返しだったかも知れない。

 だけど、それを聞いた姉さんとダーさんが笑い出したお陰で雰囲気は悪くならずに済んだ、と思う。

 当のまほ姉さんは澄まし顔だけど、頬がほんのり赤い。うわー、ごめんなさい。

 

「ほらー、だから言ったろ。まほ、ペパロニに怖がられてんだよ」

「ペパロニさん、優しくしてあげてね。まほさんは、今朝から千代美さんにたっぷり言い含められてるのよ」

 

 曰く、『ペパロニと仲良くすること』。ああ、やっぱり少しモヤモヤはしてるんだ。

 ただ、まほ姉さんは仲良くする努力をしてくれてるって事なんだな。ほんとに悪いことしちゃった。

 

「すんませんっす」

「いや、いい」

 

 うわー、怒らせたかな。

 仏頂面とまでは行かないけど、まほ姉さんの表情は読みづらい。

 緊張が解れたかって考えると、余計に緊張しちゃったような気がする。うー、ほんとすんません。

 

「まあ、緊張しなくてもいいのは本当よね」

「だなー。私達から見たらペパロニはもう後輩って言うより妹って感じだし」

「い、妹っすかあ」

 

 複雑だなあ。『後輩』とどっちが良いのか考えると、『妹』の方が良いかなって気はするけど。

 

「そうだ、ペパロニ。まほは脇腹が弱点だから、いじめられたらそこを狙えよ」

「なっ、千代美、それは」

 

 露骨に慌て始めるまほ姉さん。

 うへへ、良いこと聞いちゃった。いつか使わせて貰おっと。

 

 そんな話をしているうちに、目的地の最寄り駅に到着。

 

「楽しみね、さくらんぼ」

 

 そう、今日の目的はさくらんぼ。

 目的地は、さくらんぼ農園。

 

 そこのさくらんぼは気候の関係で旬よりだいぶ早めに熟してしまい、慌てて収穫に取り掛かったものの手が足りず、農園は苦肉の策として格安での一般解放に踏み切った。

 腐らせるよりは客を取ってさくらんぼ狩りを楽しんでもらおうという、見上げた商魂だ。

 私はいち早くそれを嗅ぎ付け、姉さん達を誘って、今日に至ったというわけ。

 

 だけど農園に着くと、思った以上に人でごった返していて、狩り尽くされたとまでは行かなくても、料金分食えるかなと不安になる賑わいを見せていた。

 あちゃー、ネットかなんかで広まったのかな。こういう情報って、伝わり始めると速いんだよなあ。

 

「農園側も必死に宣伝したんだろうなー」

「普通に収穫するより儲かったんじゃないかしら、これ」

「ん。向こうでパックのを売ってるぞ」

 

 おおう、混雑を見て引き返す人の為にパック売りか。ほんっとに商魂逞しいな。

 釈然としないけど、入場料払って葉っぱ見るよりは、あれを買った方がマシなのかなあ。

 

「とりあえず、みほ達の分を買ってくる」

 

 そう言って、まほ姉さんはスタスタと行ってしまった。決断が早いなあ。

 

「パックぐらいが丁度良いかもなー。ひとつ買ってみんなで食べよっか」

「そうねえ。ああ、ここに来る途中に公園があったわ。あそこで食べましょう」

 

 息ぴったりだな、この三人。

 行動、発案、作戦、と順番は滅茶苦茶だけど。

 

 そんな訳で、まほ姉さんのさっさとした行動も相まって、さくらんぼを速攻で入手。近くの公園で食べることになった。

 公園は、暑くもなく寒くもなく。人混みも無いし、思ったより全然快適。農園で争奪戦みたいなさくらんぼ狩りをするよりずっといいや。こりゃ作戦勝ちだなあ。

 

「ああ、これは美味いな」

「本当ね。全然酸っぱくないわ」

「まだ五月なのに凄く瑞々しいなー、こりゃ混む訳だ」

 

 口々にさくらんぼを誉めつつ、一息にパックの半分ほどを減らした。

 

 静かな公園でさくらんぼを食べながら、だらだらと過ごす。

 わいわい騒ぐのも楽しいけど、こういうのも良いもんだなあ。

 

「なー、さくらんぼの茎って」

「言わせないわよ」

「言わせろよ」

 

 どうせ茎を結んでキスを連想して貴女達二人が赤面するいつものパターンじゃないの、とダーさんが捲し立てる。

 あー、想像出来る。完璧に分かる。というか姉さんもそれは図星だったらしく、何もしてないのに赤面して黙ってしまった。

 

「茎以外だと種飛ばし競争とかっすかねえ」

「おお、面白そうだ。やるか、ペパロニ」

 

 意外。まほ姉さんが食い付いた。というか、あれか。気を回してくれてるのかもな。

 ぶっちゃけ、なんとなく言ってみただけなんだけど、そうは言いづらい。しゃーない、やるか。

 

 姉さんとダーさんはベンチで応援。

 まほ姉さんは、地面に足で雑に線を引いた。

 

「ここから飛ばすぞ」

 

 あ、飲み物を賭けるとかじゃないんだ。この人、ガチでウキウキしてる。ちょっと可愛くなってきたかも。

 

 位置につく。

 そこで、魔が差した。

 

 不意に姉さんの言葉が頭をよぎる。

 

『まほは脇腹が弱点だから』

 

 思い付いたら、やらずにはいられなかった。ほんの出来心。

 せーので種を飛ばすタイミングで、まほ姉さんの脇腹をつついてしまった。

 

「ぶばっふ」

「うわあ、こっちに飛ばすなよっ」

 

 種は真っ直ぐ姉さん達の方へ飛んで行き、そして。

 

「ペーパーローニー」

「ふんまへん、ふんまへんっふ、まほねえはん」

 

 私の頬を両手で挟み、低い声を出すまほ姉さん。

 キレられたかと思ったら、その表情は、どこか嬉しそう。

 姉さんは飛んでった種が見当たらないらしく、地面をきょろきょろと探している。

 うん、私はどこに飛んでったのか見てたけど、黙っとこう。うへへ。

 

 真っ赤な顔をしたダーさんは平静を装って種を吐き出し、さり気なく他の種の山に混ぜた。



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(1/4)赤えいの艦

赤えい
陸と間違える程のでかい魚


「ぐ、うおお」

 

 とある広場のベンチに前屈みで腰掛け、地面に向かって呻き声を吐いた。声だけでなく他のものも吐きそうだ。ああ、気持ちが悪い。

 

 まるで深夜の酔っ払いの様相だが、今は真っ昼間だ。

 しかし酔っているか酔っていないかで言えば、まあ酔っている。酒ではなく、車に。

 

「だらしないわねえ」

「お前の、せいだろうが」

 

 やれやれといった表情のダージリンに啖呵を切ったが、鼻で笑われて、それきりだった。

 まあ、啖呵を切る側が息も絶え絶えでは迫力も何もあったものではない。ダージリンの反応は道理と言える。しかし少しは悪びれろ。

 

 私は例によって例のごとく、彼女の荒い運転のせいで車酔いをして、こうして広場のベンチで呻いているのだ。

 

 広場の雰囲気は、まあ悪くない。

 土地柄という表現が合っているのかは分からないが、人通りが多いにも関わらず、皆一様に品好く歩いているお陰で、全く五月蝿くない。

 時折、初夏の緩い風が吹いて頬を撫でるのも実に風情がある。寛ぐシチュエーションとしてはなかなかだ。

 

 しかし、それとこれとは話が別でな。

 

「お前はいつになったら車の運転が上手くなるんだ」

「随分な人ね。私だってかなり上達したのよ」

 

 彼女の運転する車に乗るたび、こうして体調を崩す人間が目の前に居ると言うのに、よくもまあそんな事が言えたものだ。

 思えば、私が初めて彼女の運転で体調を崩した時には確かに『ごめんなさい』と言われた記憶があるのだが、今となってはそんな気配は毛程も感じない。昔はもう少し、何と言うか、可愛げというものがあった気がするんだが。

 

「お詫びにミートパイ奢ったじゃない」

「いや、あれもなあ」

 

 悪いが、端的に言う。不味かった。

 ダージリンの高校生時代からのお勧めで、機会があれば食べてみたいとは長らく思っていたが、まさかあんな味だったとは。

 

『あそこの店主は元々、スイーツ専門だったみたいで、甘いパンはとても美味しいんですけどね』

 

 という、彼女の後輩の言が頭を過った。

 確かに店自体は彼女らの高校生時代から今に至るまで繁盛を続けているらしい。それは偏に味が良いからだろう。

 ただし、それはそれとして、ミートパイが取り立てて売れている様子は無かった。

 

 甘ったるいミートパイなど初めて食べた。

 

「あの美味しさが分からないなんて信じられないわ」

 

 こういう奴が長年、一定数を買っているのだろうなとは思う。

 

 ものの好みを形成するのは環境だ。

 美味いとか不味いを通り越して『これ』が好き、という感覚は分かる。

 味の悪い家庭料理などその典型で、それを食べて育ったという補正があるから、味云々より以前に『好き』と感じ、『好き』と『美味しい』を混同してしまう。

 そして、そういう補正の無い人間が下す評価とのズレに首を傾げる事になる。

 

 あのミートパイもその類いだろうと思う。

 

「もう、文句ばっかり」

 

 そう言って膨れっ面をするダージリンを見ていると、流石に少し申し訳なくなってきた。

 車で振り回されて、不味いミートパイを食わされて。それでも尚、申し訳なさがこちらに湧くというのも不思議な話だが、そこが彼女の彼女たる由縁なのだろうか。全く、得な女だ。

 まあ、折角の日にベンチで呻いているだけの私の隣に、何故かいつまでも座ってくれているのは有り難い。

 

 お陰で間が持つ。

 

「馬鹿ね。千代美さんと少し離れたくらいで寂しがるなんて」

「いや、そういう訳では」

 

 ないが。

 

 ないと思うが。

 

 まあ、少し嫌な気分になったのは確かだが、それはまた別の理由だ。決して、離れるのが嫌だった訳ではない。

 

「どうかしらね」

 

 呆れたようにため息をつくダージリン。

 本当、どうだかな。

 

 先程。

 私、千代美、ダージリン、オレンジペコ、ローズヒップの五人で広場を歩いていた時のこと。

 母親か何かと勘違いしたものか、私の脚に子供が抱き付いてきた。子供は、歩くことを覚えたばかりのような年頃で言葉もたどたどしく、『あいあいあーい』と口癖のように発している。

 辺りを見回しても親御さんらしき姿は無く、どうやら暫くの間、私達の後を付いてきたお陰ではぐれてしまったようだ。

 

『紗利奈ちゃんじゃないか』

 

 子供を抱き上げ、千代美が言った。

 紗利奈ちゃん。冬の『鉄鼠』騒動の際に会った女性、マルヤマさんの子供だと千代美は言う。言われてみれば見覚えがあるような気がしなくもない。

 しかし、これくらいの年頃の子供の顔を覚え見分けることは、私には難しかった。勿論、それぞれに違った顔立ちがあることは分かるのだが、どうも『子供』という括りでしか見ることが出来ない。

 紗利奈ちゃんにも会ったことがあるとはいえ、あれもほんの数分の出来事で、ぱっと見て思い出せるほどの記憶は無い。

 

『えー、紗利奈ちゃんだよ。なー』

『あいっ』

 

 子供を抱き上げた千代美が笑い掛けると、子供は元気よく右手を上げ、返事のような声を出した。

 まあ何にせよ迷子には変わりない。土地勘のあるオレンジペコとローズヒップが迷子センターへの案内を申し出て、千代美はそちらに向かった。

 

『千代美、私も』

『いいっていいって。まほはそこのベンチで休んどけ』

 

 そして、現在に至る。

 

「あの時のまほさん、すごく寂しそうな顔してたわよ」

「んん」

 

 目敏い奴だ。しかしそれでも、はい寂しいですと素直に言えるものではない。そこは強がらせろ。

 そこで会話は一旦途切れた。しかし不快な沈黙という訳でもない。

 何故だかは知らないが、案外、心地良い。

 

 さあっ、と潮風がまた頬を撫でた。

 

「良い風ね」

「ああ。なんだか懐かしい風だ」

 

 潮風。

 ここは停泊中の聖グロリアーナの学園艦、その舳先にある広場だ。

 

 比較的近い場所に聖グロの艦が寄港するとあって、皆で観光に行こうということになった。

 学園艦の寄港は、謂わば街がひとつ向こうからやって来るようなもの。陸にも艦にも絶大な経済効果を齎す。

 まあ、そうは言っても聖グロには大して観光する箇所も無い。というか目ぼしいものは学生時代に学校間の交流やら何やらで、だいたい見た。どちらかと言えば、ダージリン達の里帰りに付き合わされたような形だ。

 それでもこうして艦上で不味いミートパイを買ったりして経済を回しているので、やはり寄港というのは一種のイベントなのだなと感じる。

 

「そう言えば、学校に顔を出したりしなくていいのか」

「いいわよそんなの、面倒くさい。OGが顔を出した所で煙たがられるだけだわ」

 

 昔暮らした風景をみんなと眺めて感傷に浸れたらそれでいいの。ダージリンはそう言って、不貞腐れたような顔をしてベンチに深く身を沈めた。立ち上がる気は無さそうだ。

 

 そういうものか。

 言われてみれば、確かに何年も前の卒業生にやあやあ諸君と顔を出されても、現在の生徒にとっては面倒くさいだけか。というか実際に、ダージリンはOGを相手に面倒くさい思いをしてきたのかも知れない。

 まあ、詮索は止そう。彼女がいいと言うんだからいいんだろう。

 

 ダージリンに倣って深く腰掛ける。

 ずっと前屈みになっていた私はその時、気が付いた。

 

「空が広いな」

「ああ、分かるわ。陸じゃ見られない空よね」

 

 二人でそうやって、暫く昼下がりの空をぼんやりと見上げる。

 

 すると、何やら不躾な声が聞こえた。

 

「お爺さんですか、貴女方は」

 

 視線を降ろすと、土産物の袋を提げたオレンジペコとローズヒップ。困り顔の二人がいつの間にやら立っていた。

 あんまり失礼なこと言っちゃ駄目ですよ、とローズヒップを窘めつつ、オレンジペコもこちらに困り顔を向ける。

 

「観光客はそろそろ退艦の時間ですよ、お二方。学園艦が出港してしまいます」

「あらいけない、もうそんな時間なのね」

 

 言って、ダージリンは腕時計を確認する。

 

 しかし千代美がまだ戻っていない。

 

「迷子ちゃんの母親が知り合いだったとかで、少し話し込んでましたわね。先に行っててくれと言われたのでそうしましたが、まだ戻ってませんの」

「連絡してみるか」

 

 電話を取り出し、千代美に発信。暫し待つ。

 

『おーこーめー、おー米米ー、ビタミンミネラル食物繊維ー』

 

 私の鞄の中から着信音が聞こえた。

 

 あ、あの馬鹿者。

 

「何なのよその変な歌」

「ダージリン様、そこじゃないです」

「さっき迷子センターを覗いた時には、もう居ませんでしたわね。てっきりここに戻っているものと思いましたわ」

 

 だったら良かったのだが。

 今日が出港日というのが、何とも折が悪い。

 

「捜索している時間はありませんわよ」

「迷子センターに戻るとも考え難いですしね」

「駐車場ででも待っていてくれたら良いのだけれど」

 

 喧々諤々と議論を交わす。

 しかし、話し合ったところで答えが出るものではない。

 

「仕方ない。行こう」

 

 そう言うと、全員に恐ろしく意外そうな顔をされた。

 いや、皆に迷惑を掛けるのが申し訳ないからそう言ったのだが。

 

「まほさんがいいなら、いいけれど」

 

 よくはないが、仕方ない。

 千代美を信用するしか無いだろう。

 

 靄々としたものを抱えつつ、四人で退艦した。

 

 そして駐車場。

 嫌な予感はしていたが、千代美は、居ない。

 

 学園艦の出港の汽笛が聞こえた。



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(2/4)フライングヒューマノイドの空

フライングヒューマノイド
飛ぶ人。
UFOみたいなもの。


 出港の汽笛が聞こえた。

 

「待っ」

 

 叫ぼうとしたまほさんが、言葉を飲み込む。

 まあ、気持ちは分かる。叫んでも仕方ない。

 それに、あの学園艦に千代美さんが乗っているとも限らない。とは言え、未だ彼女が何処にいるのかは分からないけれど。

 

「あ、千代美」

「えっ」

 

 まほさんは、艦上の何処かから手を振る千代美さんを見付けたらしく、腕を目一杯に伸ばして手を振り返している。

 どんな視力をしてるのかしら、この人。

 

「さっきまで居た広場の辺りだ」

 

 言われて目を凝らすと、あら本当。舳先の柵から身を乗り出して、特徴的な長い髪がぴょこぴょこと跳ねているのが僅かに見えた。ああ、事情は分からないけれど、退艦が間に合わなかったのね。

 

 さて、どうしましょうか。千代美さんがあの学園艦を降りるには。

 次の寄港日を待つというのが一番妥当ではあるけれど、まあそうなると早くとも向こう一ヶ月は待たなくてはならない。それに、また近くに寄港するとも限らない。

 あー、陸へのボートを出してもらうという手もあるけれど、あれは手続きが面倒だし、何より物凄くお金が掛かるのよねえ。燃料代から何から全額負担だし。

 

 益体もないことをぐるぐると考えていると、ペコが口を開いた。

 

「ダージリン様」

「なあに、ペコ」

「荷台に乗って頂けますか」

 

 そう言って、ペコは何故かローズヒップの愛車、ハイゼット、つまり軽トラックを指した。

 

 その荷台。

 

 う、うーん。

 

 何をする気なのか読めてしまった。出来れば乗りたくない。

 けれど、有無を言わせない雰囲気のペコに気圧され、嫌々ながら荷台に乗る。ローズヒップは既に運転席に乗り込んでいて、すかさず車を発進させ、出港を始めた学園艦に向かってアクセルを思い切り踏んだ。

 

 嗚呼。

 

「大丈夫です、ダージリン様。植え込みのある辺りを狙いますから」

「ペコ、あのね、そういう問題じゃなくてね」

「あまりお喋りをされると舌を噛みますわよー、お二方」

 

 私のささやかな抗議は、ローズヒップの茶々によって遮られる。

 段差を踏んだらしく軽トラックが大きく揺れて、ばこんと音を起てた。

 

「手荷物はこちらでお預かりします。お財布と、携帯電話だけはお忘れなく」

 

 ペコはそう言って。

 

 私の体を持ち上げ。

 

 荷台から投げ飛ばした。

 

 学園艦の上にある広場、千代美さんが居る辺りの植え込みを狙って。

 

 そして、現在。

 

「ブラックでいいかな」

「ん、うん。ありがと」

 

 長くなってきた陽も沈みかける頃。

 

 奇しくも、さっきまでまほさんと二人で座っていたベンチに、今は千代美さんと座っている。

 千代美さんは、見事に植え込みに引っ掛かった私を助け起こし、近くの自販機で缶コーヒーを買ってきてくれた。

 

 ペコ宛に、無事に着地した旨の連絡を済ませ、缶コーヒーを受け取る。

 

「まさか飛んで来るとはなあ」

「私だって後輩に投げ飛ばされるなんて思わなかったわ」

 

 そんな事はまあ、いい。

 どうでもいいとまでは言わないけれど、とりあえずいい。

 

「ごめんな、面倒掛けて」

「いえいえ」

 

 千代美さんの退艦が遅れた理由。

 彼女が連れて行った迷子の母親が知り合いで、つい話し込んでしまったそう。だけど、実はその人は観光客ではなく、仕事のために学園艦に乗り込んでいた。なのでその人は『退艦』という発想が抜けていて、それに釣られて時間を忘れてしまった、と。

 

「コンビニの店長を任されたらしくてさ。それで、この学園艦の航行中、ここのコンビニで研修やるんだって」

「そう」

 

 悪いけれど、あまり興味が無い。

 貰った缶コーヒーも、開けずに手の中でころころと弄んでいる。

 

 今の私達が直面している問題は色々ある。

 今後どうするのか、差し当たってまず今夜はどこで寝るのか、いつ帰れるのか、私はどうして投げ飛ばされたのか、色々。

 でもまあ少なくとも、投げ飛ばされた理由は何となく分かる。ペコは私の気持ちを汲み取ったのだと思う。お陰で、千代美さんと二人きりで話す機会を設けることが出来た。

 

 決して積年の恨みをぶつけてきたとか、そういう事ではないと思う。思いたい。

 

 まあ、そんな事よりも。

 

「怒ってる、か」

「ええ」

 

 言ってやらなければ気が済まない事が、ある。

 前置きを抜きにして、単刀直入に言った。

 

「何故あの時、まほさんを置いて行ったのよ」

 

 迷子を保護した直後。

 千代美さんは、まほさんの同行を断って迷子センターに向かった。

 

「なぜって、そりゃ、休んでて欲しかったからだけど」

「貴女、気が付かなかったの」

 

 言葉が溢れた。

 

「子供を抱いて」

 

「まほさんに背を向けて」

 

「人混みに消えていく千代美さん」

 

「それを見て、まほさんは辛そうな顔をしたのよ」

 

 私は隣で見ていたから気が付いた。

 まほさんには、千代美さんのその背中が『何か』に見えたのだと思う。

 その事に漸く思い当たったらしく、千代美さんは小さく、あ、という声を漏らした。

 

「正直に答えてね。貴女、『子連れ』が嬉しかったんでしょう」

 

 まほさんと居ては永遠に授かる事が出来ない、子供。

 迷子センターまでの短時間とは言え、『子供を連れて歩く』という行為が、千代美さんは嬉しかった。普段は過剰にすら思えるまほさんへの気配りを、忘れてしまうほどに。

 そしてそれは、まほさんにも伝わってしまった。

 

 暫しの沈黙があって、千代美さんは観念したように無言で頷いた。

 

 はーあ、と大袈裟にため息をつく。まあ、分かる。

 聞けば、さっきの子供の母親は私達の二つ下。ペコ達と同い年だとか。それはつまり、私達だって子供を連れていても何らおかしくない齢と言うこと。

 

 憧れは分かる。

 

 私だって、分かる。

 

 でもね、それはそれなのよ。

 

「まほに謝らなきゃな」

「必ずよ」

 

 次にまほさんに会えるのが、いつになるかは分からないけれど、必ずね。

 

「あれから、まほに付いててくれてたのか」

「ええ」

「そっ、か。ありがと」

 

 まあ、車酔いをさせてしまった事に対するお詫びというのも、少しはあるけれど。

 あの時のまほさんは、一人にするにはあまりにも忍びなかった。

 

「私の好きな人に、あんな顔させないで」

 

 遂に言った。

 

 千代美さんは目を瞑り、言葉を探すように暫くくるくると指を回して、結局『ごめん』とだけ呟いた。

 

 拍子抜け。

 

「もうちょっと派手に驚くかと思ったら、案外冷静なのね」

「なんとなく、そんな気はしてたし」

 

 千代美さんはそう言って、困ったように笑う。

 

 驚かせるつもりだったのに、反対に驚かされたような感じ。

 でもまあ、考えてみれば道理だわ。同じ人を好きなのだもの、隠し通せるものではないわね。同じことを考えていれば、それはどこかで分かってしまうもの、か。

 

「もしかして私のこと、ずっと邪魔だったんじゃないか」

「そんな訳ないでしょ。私は貴女の事も好きよ」

 

 うえっ、と千代美さんは声を上げる。そのリアクションは、さっき欲しかった。

 まあ、好きと言っても、まほさんに対する感情とは違う、友達の好き。だけどそれは、言葉なんかでは簡単に言い表せないほどの、大好き。

 

 私は、貴女の優しさにずっと惹かれているのよ。

 

 気付いてるかどうかは分からないけれど、呼び方を『安斎さん』から『千代美さん』に改めるくらいには大好きなの。

 

「私は貴女達のファンなのだと思うわ」

「あはは、なんだよそれ」

 

 笑われたけれど、本当のこと。

 私自身、感情を上手く整理できていないけれど、詰まるところ、好きな人と好きな人が仲良くしている所を一番近くで見ていたい。それが願い、なのだと思う。

 

 それはきっと、『ファン』と表現するのが一番近い。

 

 地平線を追い掛けるようなもの。

 遮るもの無き海にて。

 なんてね。

 

「なんだっけそれ」

「ふふふ、さあね」

 

 意地悪を言って、腰を上げる。

 釈然としない表情のまま、千代美さんもそれに倣う。二人で海を見た。

 

「私も好きだよ、ダージリンのこと」

「やだ、そういう時は名前で呼ぶものよ」

 

 少しだけ、我儘を言う。

 

「うええ、恥ずかしいなあ」

「いいじゃない、呼んでよ」

 

 改めて。

 千代美さんは、しょうがないなと呟いて、わざわざ姿勢を正してこちらに向き直り、名前を呼んでくれた。

 

「好きだよ、ミホのこと」

 

 大好きな友達に名前を呼ばれ、どきん、と心臓が跳ねる。自分で振っておいて、虚を突かれたような気持ちになった。

 そう言えば、千代美さんに名前を呼ばれたのは初めてだったかもね。

 

 んふふ、と変な笑いが出た。

 

「やっぱりダージリンでいいわ」

「なんなんだよ、もう」

 

 恥ずかしいし、ややこしいものね。

 やっぱり私は『ダージリン』でいい。

 

 照れ隠しに、キン、と缶コーヒーを開ける。

 少し赤くなった私の顔は、夕陽が誤魔化してくれた。

 

 にっが。

 

「陸はどっちかなあ」

「あっちでしょ。ほら、ヘリが向かってきてるもの」

 

 ぼやくように言う千代美さんに、ヘリが高く飛んでいる方を指す。

 んん。あれは何のヘリかしら。

 ぼんやりと眺めていると、ぽけっとの中でスマートフォンが震えた。普段はあんまり鳴らない、まほさん用に設定した着信音が辺りに響く。

 

『俺にカレーを食わせろー』

 

 一体何事かしら。

 

「何だよその変な歌」

「名盤よ」

 

 通話のボタンを押して電話を耳に当てると、何かけたたましい、ばたばたという強い風のような音が聞こえた。そのせいで、肝心のまほさんの声が聞こえない。

 ああ、そういうこと。

 

 あのヘリに乗ってるのね。



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(3/4)狐の蠆盆

 広場にヘリが着陸し、まほがふらふらと降りてきた。

 

「っお、前らっ、あぁ、ぁぁ」

 

 ゾンビか。

 

 あー、車酔いが完全に覚めないうちにヘリに乗ったせいで、ちゃんぽん状態なんだな。

 まほの顔色は蒼白で、膝もカタカタと笑っていて今にも倒れそうだ。

 

 だけど、駆け寄ろうとして一瞬、躊躇った。

 気を遣うっていうのも変な話だけど、チラリとダージリンの方を見る。

 すると彼女は『いいから早く行け』と言うように、手をぶんぶんと横に振った。少し滑稽なそのジェスチャーに苦笑を返す。

 ありがと、ダージリン。

 

 まほに駆け寄り、抱き止める。

 

「千代美゜」

「さっきはごめん、まほ」

「んん」

 

 ぎゅうっ、と。

 

 ふらふらの癖に、まほは信じられないくらい強い力で私を抱き締めてきた。

 ああ、痛いなあ。

 まほは私を抱き締める時、いつも痛くする。

 自然、私の腕にも力が籠った。

 

 ごめん。

 

 ごめんな。

 

「ぇっぷ」

 

 ちょっと待て。

 

「あら、船酔いもすれば陸海空の制覇じゃない」

「言ってる場合かよ。まほ、ちょっ、海に吐け海に」

「んっく。んっっく」

 

 それから。

 

 陽も沈んで、辺りが暗くなる頃。

 まほは今、ベンチで私の膝に頭を載せて横になっている。

 段々と生気が戻ってきたように少し赤みが差してきたまほの頬を、街灯が照らしている。その頭を撫でてやると、まほは『んん』と気持ち良さそうな声を出した。

 

「無茶な人」

 

 まほの目の前にしゃがみ込んで、ダージリンが呆れたように言った。

 お前も大概だけどな。

 

「久し振りねえ、理事長。私よ」

 

 少し離れた場所で、やけに高圧的な『交渉』の声が聞こえた。

 聖グロの理事長に電話しているらしい。目的は、泊まれる場所の確保。

 

 学園艦というものの性質上、宿泊施設なんてものは無い。丸山さん達みたいに、艦上に短期滞在する人のための住居はあるものの、登録や予約が必須で、突発で泊まる為の施設というものは皆無だ。

 だから今回みたいに、観光客が退艦し損ねたりすると多方面に迷惑を掛ける事になる。

 なので、すぐにでも帰りたいのは山々なんだけど、こんな状態のまほをまたヘリに乗せるのは流石に可哀想だし、その上、ヘリを降りたらダージリンの車に乗らなきゃいけない。しんじゃう。

 

 もう、何から何まで申し訳なくて、私は縮こまるばかりだ。

 

「貴女達、一晩泊まる余裕はあるかしら」

「え、ええ、向こう一ヶ月は覚悟をしておりましたから、一晩くらい全然、平気でございますわ、はい」

 

 不意に問われ、しどろもどろになりながら答えるダージリン。

 

 彼女が気後れするのも仕方ないと思う。

 まほから事情は聞いたけど、それでも、まだちょっと信じられないもんな。

 理事長と『交渉』をしているのは、ヘリを操縦して、まほをここまで連れてきてくれた人。

 

『已むを得ずお母様に助けを求めたら、手が離せないから代わりに友人を遣ると言われ、待っていたらこの人が飛んできた』

 

 まほの呻き声を要約すると、そんな感じ。

 びっくりしただろうなあ。いや、西住しほが飛んできても私達はびっくりするけどさ。

 

 今回飛んできたのは、なんと、島田流の家元。

 

 島田千代。 

 

「学生寮に一部屋空きがあるんですって。今夜はそこに泊まりましょう」

「は、はい」

 

 電話一本で寝る場所を確保してしまった。『交渉』は成功したらしい。

 こんなに簡単でいい、のかなあ。

 

「いいのいいの」

 

 歌うように言う島田さんの先導で、私達は寮に向かった。

 道すがらのコンビニで、今夜のご飯、替えの下着、まほの酔い止めなんかを買い込む。

 レジに立っていた丸山さんも、普通に買い物に来た島田流家元を目の当たりにして、ぎょっとした顔をしていた。そうそう、丸山さんも戦車道やってたもんな。

 

「明日の朝ご飯は、寄りたいお店があるのだけど、そこでもいいかしら」

 

 コンビニ袋を提げて寮まで歩きながら、島田さんが言う。ミートパイが美味しいベーカリーがあるらしい。

 島田さんは、あのお店はまだあるかしらねえ、なんて懐かしそうに独り言をこぼす。

 その店には心当たりがあるらしく、ダージリンが嬉々として、ありますわ、と答えた。

 

 まあ、ここまでしてもらっておいて良いも悪いも無い。コンビニで買った物だって島田さんが全部お金を出してくれたし。

 疑問は段々と『どうしてここに居るんだろう』から、『どうしてここまでしてくれるんだろう』にシフトする。

 

 まほも似たような事を考えているらしい。

 島田のおばさま、と固い声を出した。

 

「そんな堅苦しい呼び方をしなくてもいいわよ」

「じゃあ、千代おばちゃん」

「そうじゃなくて」

 

 何言ってんだ馬鹿、とまほを小突きそうになって、思い止まった。そういえば、まほは『そっち側』なんだ。島田千代を千代おばちゃんと呼んでいてもおかしくない立ち位置に居る。

 露骨に気後れしている私達とは違う、そっち側。

 

 そんな事を考えていると、ダージリンに肘で小突かれた。

 

「なんだよ」

「なんとなくよ」

 

 それを見た島田さんが、ふふふ、と機嫌良さそうに笑う。

 

「仲が良いわねえ」

 

 なんだか嬉しそう。

 こうやって話してみると、意外と普通の人なのかな。ううん、普通って言うと語弊があるか。『思ったほど怖い人じゃない』って言えばいいのかなあ。

 まあー、なんで怖い人だと思ってたかって言えば、確実にあの人のイメージが先行してるせいだろうけど。私にとって『家元』って言ったらあの人だからな。まほの母親、西住しほさん。

 しほさんとは真逆の感じがあるなあ、島田さん。

 

「千代美、油断はするなよ」

「ん」

 

 あの人はお母様と違って物腰は柔らかいが決して『優しい人』ではないぞ、とまほに耳打ちされた。

 

「ダージリンを厄介にしたような感じの人だ」

「どんだけ厄介だよ」

「ちょっと、聞こえてるわよ」

 

 そんなお喋りをしつつ、寮に到着し、四人で食事。

 

「最近のコンビニのご飯って美味しいのねえ」

 

 何かカルチャーショックを受けているらしい島田さんに、妙に納得。

 やっぱりこういう人って、普段はコンビニのご飯を食べたりしないんだなあ。

 

 食後。お風呂が沸くまでの暫しの間、雑談の時間。

 なんだかんだで、さっき有耶無耶になってしまった質問を、まほは改めてぶつけた。

 

「何故、ここまで良くしてくれるのでしょうか」

 

 確かに、しほさんからの要請とは言え、自らヘリを出してこんな所まで来てくれて、泊まる場所も確保してくれて、その道すがらのコンビニでもお金を全部出してくれた。曲がりなりにも、一流派の家元という身の上の島田さんがこれほどまでに時間や手間を割いてくれるのには、何か相応の理由がある筈だ。

 

 島田さんは、よくぞ訊いてくれましたとばかりに居住まいを正す。

 

 どこから話そうか迷っているような間。

 そして島田さんは、どうせ話すなら全部話しましょうか、と呟いて話し始めた。

 

「昔ねえ、しほさんとお付き合いしてたの。私」

 

 えっ。

 

「えええーっ」

 

 まほ、ダージリン、私、三人の声が合わさる。

 大きな声を出さないのと窘められた。そういやそうだ、ここは聖グロの寮だった。大きな声を出したら生徒達の迷惑になる。

 いや、でも、えぇー。

 

 こほん、と小さな咳払いをひとつして、島田さんは話を続ける。

 

「一緒に寝て、一緒に起きて、同じものを食べて、家事も二人で分担して。それだけで毎日が楽しかったの」

 

 そう言って、島田さんは遠い目をした。

 

 それは、分かる。

 凄く分かる。

 

 あ、そういう事か。

 

「そう、そういう事なのよ。今、しほさんの娘がまた同じような恋をしている」

 

 まほは真剣な顔で、島田さんの言葉を首肯する。

 

「しかも、相手の名前が『千代美』」

 

 否応なしに自分達と重ねてしまうのよ、と『千代』さんは言った。

 そう、か。そんな理由が。

 

「私達二人は家の事があるから離れざるを得なかったけれど、貴女達はまだ、これからどうなるか分からない」

 

「だから応援しちゃうのよ」

 

「勿論、私達二人、離れてそれぞれ子を持ったことを後悔している訳ではない」

 

「けれど、それはそれとしてね、あの楽しかった日々は今でも時々思い出すの」

 

「だから、まさに今、そんな日々を送っている貴女達を応援したくてたまらない」

 

「人が人を好きになる事には、何の罪も無いのだから」

 

「だからね、今日は呼んで貰えて嬉しかったの」

 

「また、困った事があったらいつでも言って頂戴ね」

 

「力になるから」

 

 千代さんの言葉が胸に刺さる。

 それは、ずっと、誰かに言って欲しかった言葉だった。

 

 不意に、ぼろぼろと大粒の涙が零れた。

 

 こんな、こんな簡単に泣かされるなんて思わなかった。

 まほも何時の間にか正座をして、無言で顔を伏せている。

 膝に置いた彼女の手は、白くなるほど強く握られていた。

 

 そして、ダージリンも。

 両手で顔を覆って俯いたまま、じっとしていた。時々、思い出したように大きく息を吸い込んでため息をついている。

 

 千代さんの言葉はダージリンにも刺さったんだ。

 

 そうだ。

 ある意味、一番辛いのは彼女なんだ。

 

 千代さんは、私達の涙が落ち着くのを待って、また口を開いた。

 

「って、しほさんが言ってたわ」

「えっ」

 

 また、私達三人の声が重なった。

 

「私からは、まあ、なるようになるし、悪い思い出には絶対にならないから安心して過ごしなさいとだけ」

 

 唐突な肩透かしで『あっはい』と返事をする事しかできず、その声もまた、重なった。なんだか狐に摘ままれたような、そんな気分だ。

 信じて良い、んだよな。一瞬、どんな顔をしたらいいか分からなくなってしまった。

 

 そうした所で、お風呂が沸いたらしく、お知らせのベルが鳴る。

 

 うーん、でも、そっか。

 しほさんも応援してくれてるって解釈していいのかな。私もまほも敬遠気味だけど、そのうち顔を出さなきゃいけないかも。

 

 考えを切り替えるように、千代さんが、ぱん、と手を叩いた。

 

「さ、明日も早いんだからお風呂に入っちゃいなさい。三人ともお化粧が涙でぐしゃぐしゃよ」

 

 それは、まあ、お陰さまでとしか言えない。

 済みませんそれじゃお先に、と誰ともなく言って三人同時に立ち上がる。

 

 え、あれっ。

 三人でお風呂に入る流れなのか、これ。

 

「うふふ、本当に仲が良いのねえ。三人一緒に入ってらっしゃいね」

 

 千代さんは、この上ないほど嬉しそうに、にんまりと笑う。

 私達はその雰囲気に圧され、また声を揃えて『あっはい』と答えた。



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雲外鏡の城

雲外鏡
不思議な鏡

番外編、ペコ視点


 生まれて初めてこの言葉を使います。『ひょんな事から』旅先で、泊まる場所を探すことになりました。

 まさか実際に使う日が来るなんて思いませんでした、『ひょんな事』。一体何なんでしょうね、『ひょん』って。

 ニュアンスとしては日常の中の、何の変哲も無い出来事を指す言葉のようですが、『ひょんな事』が起きると大抵、日常が非日常に切り替わるような大事件が起きる、そんな気がします。

 

 まあ、旅先と言ってもそれほど遠い場所ではありません。帰ろうと思えば帰ることも出来るのです。ですが、泊まっておいた方が明日は何かと楽だろうという事で、泊まる場所を探しているという訳で。

 それと、自宅以外の場所で眠るという非日常的な出来事へのわくわくも、実はちょっとだけあります。

 

「そうは言っても、なかなか見付かりませんわねえ」

 

 運転席でぼやいているのは、ローズヒップさんです。

 

 まあ、仕方ありませんよね。行楽シーズンでこそ無いものの、休日に予約無しで泊まれるホテルなんてそうそうありません。何件か当たったホテルはどこも満室で、辺りが暗くなり始める頃、私達はまだふらふらと街を彷徨っていました。

 

 やがて車は、段々と郊外へ。

 

「こっちにはホテルなんて無さそうですわね」

「ですねえ。あっ」

 

 今、道路沿いに『ホテル』と書かれた看板が見えたような。

 

「ええっ、そんなのどこにありましたの」

 

 車をバックさせて看板が見えた辺りを探してみると、やっぱりありました。

 ちょっと古くなって所々錆びてはいますが、『ホテル・ベニーベニー、すぐそこ』と書かれています。

 

「下らない名前ですわね」

「それはまあ、はい」

 

 ともあれ、すぐそこと書かれているからには、すぐそこにある筈です。車を発進させ、直進すること十分ほど。

 ですが、ホテルは一向に姿を現しません。街の灯りはどんどん遠くなります。

 

「もう軽く山ですわよ」

「うーん」

 

 確かにローズヒップさんの言う通り、街はすっかり遠くなり、辺りの風景に木々が目立つようになってきました。時々、民家らしき建物がぽつりぽつりと目に止まりますが、肝心のホテルは見当たらないまま。

 でもまあ、ホテルって案外、山の中にあったりもしますし。なんて楽観して車を走らせ、また十分少々。

 もしかして通り過ぎてしまったか、いっそ民家で訊ねてみようか、なんて話していると、それは唐突に現れました。

 

 木々の中に佇む、綺羅びやかな電飾の施された建物。

 看板には『ホテル・ベニーベニー』とありました。間違いありません、ここです。

 

「どーこーが、すぐそこですのっ」

「あはは、本当、随分掛かっちゃいましたね。運転お疲れさまでした」

 

 ご機嫌が斜めになりつつあるローズヒップさんを宥め、駐車場へ。ゲートに取り付けられたランプは『空室』の文字を照らし出していました。

 どうやら、ようやく泊まることが出来そうです。

 

「お城みたいな佇まいですね」

 

 みたいな、というより外観は完全に西洋のお城の形をしていました。まさに非日常、といった感じで少しわくわくします。

 中に入り、フロントを探しましたが何故か人の気配がありません。そもそもフロントというものが無いみたいです。

 じゃあどうやって受付をするんだろうと、がらんとしたエントランスを見回すと、一箇所、目を引くものがありました。壁の一面に、お部屋の一覧表のようなものが取り付けられています。

 

 壁にお部屋の写真が並べられ、それぞれにスイッチのようなボタンが付いています。

 ボタンが発光しているお部屋と、そうでないお部屋があり、どうやら前者が今現在の『泊まれるお部屋』なのだと推測できました。

 

「これを押せばいいんですのね」

 

 ローズヒップさんがボタンのひとつを押すと、がちゃん、という金属音がして、下の取り出し口のような所から鍵が出てきました。

 鍵には、ローズヒップさんが押したボタンのお部屋と同じ番号が刻印されています。成程、これなら無人でも宿泊が出来ますね。便利です。

 

 そしてようやく、お部屋に到着。

 お部屋の入口に料金を支払う機械を見付けました。チェックアウトする時は、ここにお金を入れればいいんですね。とにかく無人にこだわったホテルのようです。なんだか不思議。

 

 意外と言ってしまうと失礼ですが、室内は掃除がしっかり行き届いている感じがして、とても好感が持てました。

 

 お風呂はぴかぴかで大きな姿見の鏡が目を引きます。

 ベッドも広くて、しっかりと洗いたてのシーツが敷いてあってふかふかですし、枕も大きくて眠り心地が良さそうです。

 という事はやはり、定期的にお部屋の手入れをする為の方がいらっしゃるんですね。その事に思い当たると、なんだかホッとしました。

 先程、廊下を歩いていて男性の二人連れとすれ違った際に『こんにちは』と挨拶をしたら露骨に避けられてしまったので、少ししょんぼりしていたんです。

 

「はあー、疲れましたわあ」

「本当、今日は色々ありましたもんね」

 

 ベッドにごろんと寝転がるローズヒップさんの真似をして、隣に寝転がりました。少し、はしたないかなと思いましたが、抵抗なくこんなことが出来たのも、非日常感によるわくわくのせいなのかも知れません。

 寝転がった弾みで手が触れ合い、互いになんだか照れ臭くなって二人でくすくすと笑いました。

 

「ダブルベッドなのが照れ臭いですわね」

「ふふ、確かに」

 

 寝転がったまま、暫く他愛の無い雑談を交わしていると、私の方がうとうとしてきました。

 ふかふかのベッドが気持ち良くて、すっかり気が抜けてしまったみたいです。

 

 そんな私を見てローズヒップさんは、うふふ、と嬉しそうに笑いました。

 

「眠っちゃっても良いですわよ、ペコさん。私はシャワーを浴びて参ります」

 

 済んだら起こして差し上げますわ、と言ってローズヒップさんが立ち上がる。私はお言葉に甘える事にしました。

 程なくして、シャワーのお湯が出る音が聞こえ始め、その音がまた心地好く眠気を誘います。

 

 だけど、耳を澄ますと妙な事に気が付きました。ローズヒップさんのシャワーの音に混じって、どこかがカタカタと音を起てているみたいです。ボイラーの振動でも伝わっているのかも知れません。どこから聞こえるんでしょう。

 体を起こして辺りを見回すと、それは簡単に見付かりました。

 

 ベッドの脇、とても不自然な位置に引き戸があります。

 その引き戸が音を起てているのです。

 

 一瞬、押し入れか何かかなと思いましたが、違います。この壁の向こう側は、お風呂場です。

 お風呂場の戸とは別に、何故こんな所に引き戸があるんでしょう。

 

 不思議に思って、ガラッ、と戸を開けました。

 

「ひゃあっ」

 

 思わず声が出て引き戸を勢い良く閉めました。

 お風呂場が丸見えで、ガラスを挟んだ向こう側、私の目の前にシャワーを浴びているローズヒップさんが現れたのです。

 

『ペコさん、どうされましたのー』

 

 私が引き戸を閉める音が聞こえたらしいローズヒップさんが、お風呂場から声を掛けてくれました。えっ、あれっ。

 

「な、なんでもありませんー」

 

 誤魔化すように声を出し、恐る恐るもう一度、引き戸を明けてみる。

 

 ローズヒップさんはこの窓ではなく、お風呂場の出入り口の方の戸に向かって声を上げているようでした。

 気が付かない筈がありません。こちらから見えると言うことは、向こうからも見えている筈です。ローズヒップさんの立っている位置から推測して、この窓があるのはシャワーの真正面に掛けられている大きな姿見の鏡がある辺り、あっ、もしかして、これ。

 

 マジックミラーなんでしょうか。

 

 でも、何のためにこんな物が。

 なんて変に冷静に考えていますが、忘れてはいけません。今、私の目の前にはローズヒップさんの裸があります。

 

 ローズヒップさんの裸が、あります。

 

 思わず、見入ってしまいました。

 ローズヒップさんの身体は、私と違ってとても引き締まっていて、なんだか彫刻のような美しさがありました。腹筋もうっすらと割れていて、触ってみたくなってしまいます。

 

 ローズヒップさん、素敵だな。

 何だかんだ言って口調も整って来ましたし、最近どんどん格好良くなって来ているような、ううん。

 さっきまで普通にお喋りしていたお友達の裸を目の前にして、何故私はこんな事を考えているんでしょうか。

 それに、これは立派な覗き見です。良いことではありません。ローズヒップさんは今、私に裸を見られているなんて夢にも思わない事でしょう。

 段々と、罪悪感が大きくなってきました。

 

 ゆるゆるとその引き戸を閉め、ローズヒップさんがシャワーから出て来るのを待って、真っ先にごめんなさいを言いました。

 

「何の事ですの、ペコさん」

「あの、この引き戸なんですが」

 

 からからと引き戸を開けて、ローズヒップさんにその先を見せました。

 ローズヒップさん自身も、この鏡の仕組みに気が付いたらしく、段々と顔から血の気が引いていくのが傍目にも分かりました。

 

「あっあ、あの、えっと、ペコさん、見ちゃったんですのね」

 

 こくり、と頷くと、ローズヒップさんはみるみる目に涙を溜め、ベッドに突っ伏して泣き出しました。

 

「お嫁に行けませんわぁ~」

「そっ、そんなぁ」

 

 宥めようにも、見てしまったのは事実。私が宥めたところで説得力は皆無です。

 

 ローズヒップさんは本気でショックを受けてしまったみたいです。これはもう、何か正式なお詫びというか、きっちりと責任を取らなくてはいけません。

 となると、どうするのが一番良いんでしょう。ここでの宿泊費を全額持つか、いえ、それは何となく違うような。うーん。

 

 あ。

 

「あ、あの、ローズヒップさん」

「何ですの」

 

 これは、まあ、恥ずかしい事ですが、そうも言ってはいられません。恐らくこうするのが一番平等です。

 意を決して、言いました。

 

「私もこれからシャワーを浴びますから、好きに見て下さい」

「マジですの」

 

 マジです。これで平等。

 同じことをするべきです。

 

 ローズヒップさんは驚きのあまり涙が引っ込んだみたいで、そわそわしながら、言いました。

 

「そ、それは確かに平等ですけれど、何だか恥ずかしいですわ」

 

 まあ、そうかも知れませんけど。

 どちらかと言えばこれは、自戒の意味も込めての提案なんです。こうしないと罪滅ぼしをした気になれないと言うか。

 

 そう言うと、ローズヒップさんは、もじもじしながら了解してくれました。

 

「わ、分かりましたわ。ペコさんがおしっこする所、しっかり見届けて差し上げます」

 

 えっ。



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(4/4)円

タイトルは、強引ですが「でぃすく」とお読みください

こちらではまるっと省いてますが、渋い方ではR-18シーンも書いてます


【まほ】

 

 一夜明け、港にて。

 昨日、学園艦があった場所には当たり前だが何も無い。景色が丸ごと無くなったような、何とも不思議な感覚に陥る。

 

「ううっぐ」

「あう、ふうぅ」

 

 千代美とダージリン、呻く二人をベンチに座らせ、一人で海を見ている。

 酔い止め、二人にも飲ませてあげれば良かった。

 

「知ってたなら、教えなさいよ」

「いや、知ってたというか何というかだな」

 

 昨日は、車酔いと区別が付かなかったせいもあって、きちんと判断が出来なかったのだ。

 今朝、素面で乗ってようやく確信した。島田のおばさまは、ヘリの操縦が乱暴過ぎる。

 いや、あれはまともに操縦できる腕がありながら、わざと乱暴に操縦して私達を怖がらせて楽しんでいたという感じだった。全く、たちの悪い人だ。

 ともあれ、おばさまのお陰で我々は学園艦を降り、港に帰って来られた。それに関しては感謝しなくてはいけない。

 

 はーあ。

 

 億劫だが、近いうちに千代美を連れて実家にも顔を見せなくてはならないな。

 悪いことをしているつもりは無いが、無いつもりだったが、自然と足が遠退いていることを思うと、矢張り疚しかったのだ。

 昨夜のおばさまの言葉は『気にせず顔を見せろ』と言っているようにも聞こえた。

 

 まあ、そのうち。

 

 そのうちだな。

 

「ううぅ」

 

 最早、どちらが呻いているのかも分からない。

 

 まあ、ダージリンはいい。

 どうでもいいとまでは言わないが、とりあえずいい。

 

「まほー、わたししぬかもー」

「死ぬな死ぬな」

 

 朝一で例のミートパイを食べさせられて受けたダメージの分、ダージリンより千代美が辛そうだ。

 島田のおばさまもダージリンも美味そうに頬張っていたが、あれはだめだ。私も千代美も嫌な顔をする訳にも行かず、無心で食べた。

 おばさまは『娘にも食べさせる』と言ってミートパイを買い込んで行ったが、果たしてどうなるものやら。

 

 早々にコーヒーで口直しをしたが、まだ腹の中が靄々する。

 千代美もそうなのだろうと察しがつくし、それに加えてヘリ酔いである。可哀想。

 彼女の隣に腰を降ろすと、すかさず私の肩に頭を載せてきて、『あー』と声を吐いた。

 しかし何を思ったものか、千代美はその頭をすぐに降ろし、真ん中に座れと言い出した。

 

 真ん中、千代美とダージリンの間。

 

「どうしたんだ」

「いいからー」

 

 言われた通りにすると、私の肩に今度は両側から頭が載せられ、『あー』という声もステレオで聞こえた。何だこれは。

 まあ、二人とも疲れてしまったのだろうと思い、暫くこうしててやる事にする。

 

 なんとなく、ダージリンの頭を撫でてやった。振り払われるかと思ったら、何も言わず私の胸にぐいぐいと頭を擦り付けて来た。少し痛いが、まあ、怒ってはいないようだ。

 

 ふと、千代美が私の手の甲をつねった。

 

「痛っ」

「ふふ」

 

 私がダージリンに構うせいで怒らせてしまったのかと思ったら、どうやら笑っている。何だ何だ、気味の悪い。

 

 すると今度は、反対側の手の甲にも痛みが走った。

 ダージリン、結局お前もか。

 

「何なんだ二人とも」

「うふふ」

 

 私の肩に頭を載せたまま、二人はくすくすと笑いながら代わる代わる私の体のあちこちをつねったり、つついたりした。私はそのたびに、ぐう、とか、むう、とか声を上げる。それが面白いらしい。

 なんだか二人の戯れ合いに私が付き合わされているような気分になってきた。真ん中に座ってはいるが、これではまるで二人の玩具だ。

 私からは二人の頭が見えるばかりで表情が読めず、くすくすという笑い声ばかりが聞こえる。

 どうにも蚊帳の外のような感じだ。真ん中なのに。

 

「お三方、こんな朝から何をやってるんですか」

「見せ付けてくれますわねえ」

 

 顔を上げると、オレンジペコとローズヒップ、二人が立っていた。昨日と全く同じ現れ方である。

 どうやらこの二人はコンビのようなものらしい。ダージリンの引っ越しの時にも二人一組で居たな、そう言えば。

 

 千代美とダージリンは急いで姿勢を正した。

 まあ、後輩に見られたい格好ではなかったな。

 

 というか、随分と早い到着だ。ダージリンからの帰還の連絡に、すぐに向かいますと返信があってから、幾らも経っていない。

 昨日、ダージリンを投げ飛ばしたあと、ハイタッチをしてそのまま走り去るところまでは見ていたが、どこか近場に宿でも見付けて泊まっていたという事なのだろうか。

 

「それは、その、うふふ」

「やだ、ペコさんったら。夕べの事は秘密ですわよ」

 

 あ、詮索は止した方が良いやつだろうか。

 心なし、昨日に比べて親密になっているようにも見える。

 

 ともあれ。

 ダージリンは投げ飛ばされる際に彼女らに預けた手荷物を受け取り、その中から鍵を取り出した。

 

 彼女の、車の鍵。

 

「やっと帰れるわね」

「千代美、酔い止め飲むか」

「ちょうだい」

 

 こんな関係が、果たして一体いつまで続くのだろうか。

 

 まあ少なくとも、まだ暫くは安心しても良さそうだ。

 

 確証は無いが、そういうものだろう。

 

 そう思った。




「急に用事を言い付けたりして悪かったわね。助かったわ、ありがとう」

「いえいえ、とても楽しかったわ。三人とも良い子ね」

「あら、二人じゃなかったの」

「もう一人居たわよ、とっても良い子が」

「ふうん」

「気になるのかしら」

「んん。そんなことよりも」

「伝言でしょ。心配しなくても、ちゃんと伝えたわ」

「本当かしら」

「『なるようになるし、悪い思い出には絶対にならないから安心して過ごしなさい』でしょ。一字一句、違えずに伝えたわよ」

「そう、良かった」

「もっと長い言葉で伝えたかったくせに」

「そ、そんな事は無いわよ。ともあれ、ありがと」

「ふふふ、どういたしまして」


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毛倡妓の髪

毛倡妓

けじょうろう

しほさん視点


 ここ最近、珍しくまほの方から『顔を出したい』という連絡が何度か来ていた。

 

 疎遠とまでは言わないけれど、あの子の足は確実に、この実家から遠退いている。

 まあ無理もない。次期家元であるあの子に対し、両手の指では足りぬほど舞い込んで来た見合いの申し込み。あの子はそのことごとくを断り、家を出て恋人と暮らしている。

 そんな現状は、あの子の性格を考えれば疚しさを覚えて当然と言っていい。

 まほにとって実家に行くという行為は、わざわざ小言を聞きに行くような感覚なのだと思う。その気持ちは何となく分かる。

 

 そんなあの子の方から顔を出したいなどと言ってくるのは、まあ異例の事。

 

 とは言え、先日の学園艦の騒動であの子達に手を貸した事などを思えば、挨拶があって然るべきとも思うので、意外という程でもない。

 ただし、こちらも忙しい身の上であるため、なかなか時間を取ることが出来ずにいた。

 

「照れ臭かっただけでしょう、家元」

「う、うるさいわね」

 

 私の髪を結いながら、菊代が容赦の無いことを言った。

 

 まあ、当たらずとも遠からず。

 決してそれだけではないけれど、照れ臭さは確かにある。これまで基本的に厳しく接してきたお陰で、娘とその恋人に対してどう接したらいいか分からないと言うか、何と言うか。

 そのせいで忙しさにかこつけて、会おうとしてくれているあの子達の申し出を何度か断ってしまっている。

 

 勿論それによって、現状、ある種のぎこちなさが生まれてしまった事も分かっている。出来ればそれは解消してしまいたいし、こちらが歩み寄れば恐らく簡単に解消出来るであろう事もわかっているけれど、どうにも性格が邪魔をする。

 

「厄介な性格ですこと」

「本当にね」

 

 ともあれ、懲りずに何度目かの連絡をくれたまほのお陰で、この度ようやく日程が決まった。

 いよいよ今日、彼女達が先日の学園艦の件の礼という形で、ここ、熊本にやって来る。

 

 ところが今朝、まほからとある連絡が入った。

 その短い言葉が、私の頭の中で何度も繰り返されている。

 

『千代美が緊張していますので、くれぐれも過剰に威圧する事の無いようにお願いします』

 

 正直、面食らった。

 私に楯突いた、意見した、それだけで『とんでもない事だ』と言われた昔に比べて、あの子は明らかに言いたい事が言えるようになっている。

 もっと言うならば、まほは千代美さんのためであれば、私に注文を付けることを厭わなくなっている。まさかあの子にそんな変化が生まれるなんて、思いも寄らない事だった。

 それだけ千代美さんの事が大切、という事なのかしらね。

 

 その気持ちは尊重してあげたい。

 

「ああ、それで」

 

 私の髪に苦戦していた菊代が、仕上げに取り掛かりながら相槌を打つ。

 そう、それでなのよ。

 自分が敵ではないとあの子達に手っ取り早く証明してあげたいの。

 

「効果の程は判りませんが、結構な心掛けで」

 

 はい出来ましたよ、と菊代が私の後頭をぽんと叩いた。

 長い付き合いならではの、この無遠慮な感じは妙に心地が良い。

 

 鏡を見て、出来映えを確認する。

 

「変じゃないかしら」

「いえ全然。よくお似合いです」

 

 即答、というか食い気味で答える菊代に、少し違和感を覚えた。

 

 でもまあ、よし。これであの子達を迎える準備が整ったわ。

 少し早いけれど、応接室のいつもの場所に陣取り、娘達の帰りをそわそわと待つ。

 座布団はふたつ、ちゃんと用意してあるわね。大丈夫、大丈夫。

 

 暫くして、まほから『もうじき到着します』との連絡が入り、程なくしてインターホンが鳴った。意味もなく、姿勢を正す。

 ぱたぱたと菊代が駆けて行き、あらあらお久し振りですお二方などという、あまり聞かないトーンの声が聞こえた。

 少し、立ち話をしているような間の後、足音がこちらへ近付く。

 

 す、と襖が開いた。

 

「お母様、お久ぐふぅっ」

「まほ、どうし、ん、んんっ」

 

 こちらを見るなり、口を押さえて蹲る二人。

 おやどうされましたと菊代が二人の背中をさする。

 

 本当にどうしたのかしら。

 

「い、いえ、大丈夫です」

「お構い無く」

 

 よたよたと立ち上がり、歩くのもやっとといった風の二人が私の正面に座る。

 

「よく来たわね、二人とも」

「いえ、あの、はい」

「は、はひ」

 

 どうにも歯切れが悪く、声も裏返っている。

 二人ともこちらに目を合わせようとせず、俯いて肩を震わせているようにも見えた。体調でも悪いのかしら。

 

「あ、あの、お母様」

「何かしら、まほ」

 

 挨拶もそこそこに、まほが手を上げて私に問うた。

 

「その髪は一体」

 

 髪。

 千代美さんを威圧する事の無いようにというまほの言葉を尊重して、菊代に結わせた髪。矢張り何かおかしかったかしら。

 

 高校生時代の千代美さんと同じ髪型に、してみたのだけど。

 

「変かしら」

「変です」

 

 あまりにもばっさりと切り捨てられた。

 まほ、本当に言いたい事が言えるようになったのね。母は嬉しく思いますが、少し辛いです。

 

「菊代は」

「出掛けると言っていました。仕事があるとかで」

 

 逃げたか。という事は暫く帰って来ないわね、きっと。

 

 はあ。

 全く、とんだ赤っ恥だわ。二人とも様子がおかしかったのは笑いを堪えていたのね。

 ため息を吐き、髪を解こうとリボンの結び目を手探りした。けれど、リボンなど普段全く使わないものであるためか、それとも菊代が無駄に固く結んだか、いまいち要領を得ない。

 無理に引っ張るものでもないし、と一人で苦戦していると、今度は千代美さんが手を上げた。

 

「あ、あの、私が解きましょうか」

「ああ」

 

 そうか。

 千代美さんならば間違いないわね。

 

 変な意地を張らず、お願いするわ、と言えた。

 不思議と、素直に。

 

「触りますね」

「ええ」

 

 立ち上がり、私の背後に移動した千代美さんはするすると容易く私の髪を解いてくれた。

 私が苦戦したのが不思議な程に。

 

 ふと、まほの顔を見て驚いた。

 

 まほは私達の様子を眺め、にこにこと微笑んでいる。

 この子のこんな顔を見るのはどれくらいぶりかしら。千代美さんに髪を梳いて貰いながら、そんな事を考えた。



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追想の刻

タイトルで落ちがバレるかも知れないやつ


 お風呂上がり、就寝前。

 西住家、西住まほの自室にて。

 

「いやはや済みません、お嬢様。偶さかお客様用のお布団を全て洗濯してしまいまして」

「そ、そんな訳がありますか」

 

 珍しく狼狽している彼女を、菊代さんがまあまあとあしらう。

 

 今、この場にある寝具は、昔からその場にある西住まほのベッドがひとつ。のみ。

 私が寝るための布団は無いらしい。少なくとも、菊代さんはそう言っている。

 

 確かに、そんな訳があるかとは思う。

 お客さん用の布団を全て、お客さんが来る日に洗濯するなんて、普通に考えればあり得ない事だ。ましてや、西住家のこの規模だ。『全て』ってどんだけの量だよ、とも思う。まあ、当のお客さんの身でそんな事を言うのも憚られるから黙ってるけど。

 でも実際の所は本当にそんな訳は無くて、布団の洗濯なんかしてないんだろう、きっと。枕は抜かりなく二つあるし。

 菊代さんはたぶん、こう言ってるんだ。

 

 一緒の布団で寝ちゃえよ、と。

 

 何故だかあの人は私達の恋愛に対して好意的だ。それはどうやら家元の指示と言うわけでもなくて、個人的に応援してくれているような、そんな感じがする。

 正直、ものすごく心強い。

 

 去り際、菊代さんはこちらに向かって小さくウインクをして見せた。

 ああ、やっぱり。

 

「すまん、安斎」

 

 部屋の戸を後ろ手に閉め、西住が本当に申し訳なさそうに言った。おおっと、ちょっと待て。これは放っておいたら自分が床で寝るとか言い出すぞ。

 ということは、ここが勝負所ってやつなのかも知れない。

 頑張れ、私。

 

 小さく深呼吸をして、お腹に力を入れた。

 

「あ、あのさ。良かったらお前の布団に入れてくれないか」

「んっ」

 

 言ってしまった。もう後戻りは出来ない。どくん、という自分の心臓の音が聞こえたような気がした。

 とはいえ、果たしてこの察しの悪い友人に、私の言った意味は伝わったんだろうか。

 

「ご、ごめんっ、嫌なら、いいんだ、けどさ」

 

 つい弁解するような言葉を重ねてしまったけど、西住は何も言わない。

 

 長いような短いような沈黙の中、顔を伏せて返事を待った。

 

 長いような、短いような、沈黙。

 

 長いような、短いような。

 

 いや、めっちゃ長い。

 

 どうした西住。

 

 堪らず顔を上げると、西住は無表情で突っ立っていた。

 え、怖い。どういう状態なんだそれ。

 

「に、西住、おーい」

「はっ」

 

 おお、戻ってきた。

 

「す、すまん。色々な事を考えていた」

「フリーズしてたのか」

 

 西住は私の言葉を反芻して、様々な可能性に思いを巡らせていたらしい。

 

「その、な。もしかして安斎は私に対して一緒に寝ようと言っているのか、それとも床で寝ろと言っているのか、というか一緒に寝ようと言っているのであればそれはその、そういう意味なのか、それとも本当に単に寝たいだけなのか、とか、ああ嫌なんかでは全然なくて、むしろ凄く嬉しいというか、ええと、あの」

 

 しどろもどろ。

 

 こんな西住は初めて見た。そして、こいつの口からこんなに長い言葉が出たのを聞いたのも初めてだ。どさくさに紛れて聞き捨てならない事も言ってるように思う。

 そのお陰というのも変だけど、私の方は反対に、段々と気持ちが落ち着いていくのを感じていた。

 

「西住」

「は、はいっ」

 

 ああ。

 こりゃ、私がリードしてあげなきゃ駄目なんだな。

 

「一緒に寝ようよ」

 

 言って、西住の手を握る。

 西住は全身をガチガチに硬直させていて、それでも辛うじて、こくり、と頷いた。

 

 そして、二人で入った布団の中。

 西住は相変わらず緊張しっぱなしで、というかさっきの状態に輪をかけて緊張していて、手も足もピンと伸ばしたまま仰向けになっている。棒かこいつ。

 

「西住、こっち向いて」

「ん」

「かーらーだーごーと」

 

 案の定、西住は姿勢を変えず顔だけこっちを向いたので、腰に手を回して無理矢理体ごとこっちを向けさせた。ああもう、雰囲気も何もあったもんじゃない。

 ついでに姿勢も楽にしろと叱り、それでようやく、なんというか、形になった。

 

「緊張しすぎ」

「し、しかしな、安斎」

「嫌なのか」

 

 そう言うと西住は、ふるふると首を振った。

 それを見て、安堵する。

 

 もぞもぞと布団に潜り込み、西住の胸に顔をうずめた。

 

「お、おい」

「私だって、恥ずかしいんだからな」

 

 思わず本音が零れてしまった。

 そりゃそうだ、私だって恥ずかしい。私にこんなに恥ずかしい思いをさせてるんだ。責任取ってくれよ、西住。

 なんて、流石にそこまで言う勇気は無いけどさ。

 

 無いけど、どうやら伝わっちゃったらしい。

 ようやく私の肩に西住の手が回された。

 

 その手はゆるゆると私の背中を撫でるように伝い、腰の辺りまで降りてきて、止まった。

 抱き締めると言うにはあまりにも力なく、西住は私の腰の辺りに手を置いたまま、また体を硬くしている。

 

 西住はそのまま、もごもごと謝るようなことを言い始めた。

 

「す、すまん、安斎。どうしていいか分からなくて」

「もっと力を入れてもいいんだぞ、西住」

 

 西住の胸から顔を上げ、苦笑いをした。

 彼女はまた、もごもごと続ける。

 

「その、壊れやしないかと不安なんだ」

「あはは、優しいな」

 

 その気遣いには、正直、きゅんと来た。

 

「大丈夫だよ。これでも結構、頑丈なんだから」

「んん」

 

 西住は、返事だか相槌だか分からない声を出したかと思うと、恐る恐るといった感じで、少しずつ手に力を籠めた。

 ゆっくり、ゆっくりと、私を抱き締める力が強くなっていく。既に密着してる身体を尚もくっつけようとしているみたいに、強く、強く。

 私が痛がらないことに西住は本気で驚いているようだった。

 

「こ、こんなに強くしても大丈夫なのか」

「えへへ、だから言ったろ」

 

 正直、ちょっと痛いけど。

 痛いけど、嬉しい。

 

「ん、む」

 

 不意を打って西住の首に腕を回し、唇を塞いでやった。

 ちゅう、と吸い付くようにキスをして、すぐに離す。恥ずかしい。

 

 西住は目を丸くしてまた暫く固まった。

 それから少し遅れて、その目からはぽろぽろと涙が零れ出す。私も流石に驚いて、抱き締められたまま慌てて謝った。

 

「ご、ごめん、泣かせるつもりは無くてっ」

「いや、違うんだ安斎。その、嬉しくて」

 

 整った綺麗な顔をくしゃくしゃに歪めて、西住はさっき私がしたみたいに、私の胸に顔を押し付けて涙を拭う。

 私はその頭を撫でたり、ぽんぽんと叩いたりして、ちょっと長い時間を過ごした。

 

「落ち着いたらまた、キスしようよ」

 

 そう言うと、西住は私の胸に顔を当てたまま、こくりと頷いた。

 

 

 

 なーんて。

 

 

 

 そんな事もあったなあ。

 

「何をにやにやしてるんだ、千代美」

「えへへ、何でもなーい」

 

 お風呂上がり、就寝前。

 西住家、西住まほの自室にて。

 

 ここで寝る時、決まってあの夜の事を思い出す。

 菊代さんはまた、お客さん用の布団を全て洗濯してしまったらしい。

 

 お陰で私もまた、まほの布団に入れて貰っている。

 

「それよりもっとくっつけ。もはや七月も近いというのになんだか寒いんだ」

 

 まほは私の身体を、ぐいっ、と引き寄せて弛緩しきった身体を押し付けて来た。

 ああ、嬉しいなあ。

 

「キスしようよ、まほ」

「んん」

 

 まほは返事だか相槌だか分からない声で唸り、私の唇を塞いだ。



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閻婆の夕(かはたれ)

閻婆

えんば
地獄に住んでる鳥
ババアではないです


【ダージリン】

 

 週末、自宅のリビングにて。

 時間的には夜だけれど、窓の外はまだ少し明るくて『夕暮れ時』と呼んでもいいくらい。夏が近付いているのを感じた。

 

 などと、現実逃避をしている。

 

「嘘でしょ」

 

 外を見つめ、ぽつりと呟いた。

 部屋には私以外、誰も居ない。つまりその言葉は、他ならぬ自分自身に向けたもの。窓からテーブルに視線を戻し、並べた料理を見て、がっくりとうなだれる。

 

 ポテトサラダ。

 

 コロッケ。

 

 フライドポテト。

 

 芋だらけ。

 

 全てコンビニで揃えました。

 いえ、これを料理と呼ぶのもどうかと思うけれど、まあ『調理済み』という意味では料理でしょう。なんて、千代美さんが聞いたら何て言うかしらね。

 

 それはそれとして、何故こんな味の濃いものばかりを選んだのかと言えば、おつまみのため。先日、熊本に行ってきたまほさんと千代美さんからお土産でお酒を頂いた。そのお供。

 

 おつまみは何がいいかしらと思案していて、とりあえず挙がったのが『揚げ物』という考え。

 そう思い付いてからは、すっかり揚げ物の気分になってしまったのでコンビニに車を寄せて、お店に入った時点でコロッケだけはとりあえず決めた。その後、サラダも食べなきゃと思い、売り場を見ると残っていたのがポテトサラダ。そしてレジでコロッケを注文した時、丁度フライドポテトが揚がるのが見えたので、それも追加。

 

 無計画、ここに極まる。

 全く、良いお客さんだわ。帰宅してテーブルに並べるまで、まるで気が付かなかった。うん、まあ、そうは言っても買っちゃったものは仕方ない。気を取り直して始めましょう。

 

 氷を落としたグラスにお酒を注ぐ。

 若干の緊張感が漂う瞬間。

 

 とく、とく、とく。

 

 良い音。

 一日の、と言うより一週間の疲れが洗い流されるような、そんな錯覚をしてしまうほど。上手に注げた達成感も相俟って、心地よい脱力感を覚えた。

 

 グラスに満たした透明の液体に、暫し見蕩れる。

 からん、と氷が鳴った。

 

 早速、少量を口に含んで味を確かめるように舌を潤し、飲み下す。

 

「ん、おいし」

 

 ふと、まほさんが『名前は悪いが良い酒だ』と言っていたのを思い出した。確かに美味しいわね、名前は悪いけれど。

 甘口でなかなか飲みやすい。鼻に抜けるふわりとした香りは、あら、これは、もしかして。

 

 なんだか予感がして、瓶に貼られたラベルをよく見ると、思った通り。

 

「い、芋焼酎って書いてある」

 

 思わぬ追い討ちを受けて、笑いが込み上げた。ここまで揃うと逆に気持ちが良い。今日は芋の日なんだと思う事にしましょう。

 おつまみはどれから行こうかなと少し迷って、ポテトサラダに箸を付けた。

 

 コンビニのポテトサラダ。じゃがいもの形が残っていて、そのころころとした食感が好き。ころころの中に時々、キュウリのぱりぱりが混じってくるのも楽しい。濃い目の味付けで癖になりそうだけれど、量が少ないので食べ過ぎる事は無く、一人で食べるには丁度良い。

 ポテトサラダで油っこくなった口の中にまた一口、芋焼酎を流し込んだ。

 

 氷のお陰でしっかり冷たくなったお酒が喉を通る。

 

「はあー」

 

 思わず声が出た。

 ああ、美味しい。

 

 さて次はフライドポテトにしようかな。

 三日月型で皮付きのタイプ。それぞれの形に名前があった気がするけれど、目の前にあるこれが何と言う名前なのかは思い出せない。たぶん、思い出してもピンと来ない。

 揚げたてが理由で買ったのに、まだ熱いからという理由で冷めるのを待つ矛盾。そろそろ良い頃かなと思ってひとつつまむ。

 

「あっく」

 

 まだ少し熱かった。外側はそうでもないけれど、中がホクホク。

 塩気の多いところを引いたらしく、味が濃くて美味しい。お酒で冷たくなっていた口の中が暖まった。調子に乗り、もうひとつもうひとつと、ひょいひょいつまんだ。

 

 そしてまた、お酒で冷やす。

 

「あー」

 

 また、だらしない声が出た。

 芋を食べて、芋を飲んで。その組み合わせはどうなのよとも思うけれど、美味しいからまあいいかという気分になってきた。

 

 さて、次はいよいよコロッケ。

 これだけは最初から食べようと思っていた物だし、順番を最後にしたのは何だかんだで楽しみだったから。という訳で真ん中に箸を入れ、半分に割る。ソースはかけない派。

 と、そのタイミングでインターホンが鳴った。

 

 やれやれと箸を置いた。まあ大体想像が付く。

 玄関を開けると案の定というか何というか、立っていたのは馴染みの顔。

 

「来たわよー」

「はいはい、いらっしゃい。あら、今日はノンナは一緒じゃないのね」

 

 カチューシャが来た。

 普段はノンナに送迎をさせているけれど、運動不足解消のためと言って、時々こうやって徒歩で来る。そしてここで酒盛りをしつつぐだぐだと泊まり、明日の休日になだれ込むというのがお決まりの流れ。徒歩で運動不足を解消したところで、他の全てが健康的ではない気がする。

 手にはコンビニ袋。流石、飲む気満々ね。

 

 リビングに通すと、カチューシャはテーブルの上に並べた品々を見て露骨に呆れた。

 

「どんだけ芋好きなのよアンタ」

「反省はしてるわ」

 

 既に私が飲み始めてることに関しては疑問に思わない辺り、分かってる。

 しょうがないわね、などとぼやきながらカチューシャはコンビニ袋からがさがさとプラスチックのパックを取り出した。

 

「じゃーん、焼き鳥ー」

「わー」

 

 軽い拍手でカチューシャを讃える。ここでお肉の登場は嬉しい。レジの前で時々売ってる、十本ほど纏めてあるやつね。

 

「それと、はいこれ」

 

 そう言ってカチューシャが手渡してきた物は、アイスコーヒー用のカップがふたつ。本来なら店内の機械でコーヒーを注ぐためのもので、氷が入っている。もちろん未開封。

 更にカチューシャは、炭酸水を取り出した。

 

 ははあ、成程。

 

「お酒ちょーだい」

「はーい」

 

 渡した瓶のラベルを見て一瞬だけ顔を顰めたあと、カチューシャは、カップの封をべりべりと剥がしてお酒を注ぎ、更に炭酸水を足した。なんとも横着な作り方だけれど、いわゆる焼酎ハイボールが完成。

 私も真似をして、同じものをもうひとつ作った。

 意外にカップも氷もしっかりしていて、なんだか妙に理に敵っているのが少し悔しかったけれど、まあ良しとする。

 

 早速、乾杯をして飲んでみる。

 

 あら。あらあらあら、これは。

 さっきとはまた打って変わって、炭酸のお陰ですごく爽やかになったわね。端的に言って、とても好き。

 

 油っこいものに合うかも。ああ、それで焼き鳥なのかしら。

 

「美味っしいわねー、これ。良いお酒だわ」

「貰い物よ」

「ふーん。ああ、マホーシャか」

 

 ラベルを眺めていて『熊本』の字を見付けたらしく、カチューシャはあっさりと正解に辿り着いた。まあ、別にクイズでも何でもないけれど。

 

 さて、焼き鳥を頂きましょう。

 雑に貼られたセロハンテープを剥がすと、パックはひとりでに開いた。中身は全部一緒。

 

「皮タレね」

「アンタ好きでしょ、皮タレ」

 

 そう言われ、きょとんとしてしまった。

 あまりピンと来ない。

 

「えー、アンタ焼き鳥を食べる時、必ず皮タレから行くじゃない」

 

 そうだったかなあ、と思いながら一口。

 ぐにぐにとした皮の食感とタレの甘辛さが何とも言えず、思わず『あら美味しい』と声が漏れる。

 カチューシャはそれを聞いて、ほらねと笑った。

 

「好きすぎて当たり前になっちゃってんじゃないの」

「そうかも」

 

 そんな事もあるかも知れないわね。

 

「カチューシャ、泊まって行くでしょ」

「うん。毛布出しといてー」

「はいはい」

 

 ふたつに分けたコロッケの片方を遠慮も何も無く口に入れ、テレビを点けたカチューシャを尻目に、寝室に向かう。

 どうせ寝室に布団を敷いた所で、彼女はお行儀よくそこで寝るようなタイプではない。ソファでうとうとし始めて、そのまま寝てしまうのがいつものパターンなのだから、リビングに毛布を持って行けば、それでいい。

 

 ふと、カチューシャの先程の言葉が頭をよぎった。

 

『好きすぎて当たり前になっちゃってんじゃないの』

 

 そうかもね。

 そうかも。

 

 そんな事も、あるかも知れない。



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文車妖妃の鰯

鰯は英語で

西住まほさんお誕生日おめでとうございます


 みほと二人、映画館のロビーにある長椅子に腰を降ろして話している。

 

 なかなか珍しい光景だと、我ながら思う。私もみほも、わざわざ映画館に足を運ぶほどの映画好きではない。どころか最近では、こうして二人で出掛けるという事もあまり無い。

 今回は偶々、条件が重なった。

 

 本来、今日ここに来る予定だったのは、みほとエリカ。

 エリカがみほと二人で映画を観るためにチケットを取ったという話は、少し以前にエリカ自身の口から聞いていた。しかし当日になって、エリカに急な仕事が入り行けなくなってしまったというから可哀想なことだ。

 

 ともあれ、そういう訳で私に白羽の矢が立った。

 

 しかし私は、正直に言えば映画自体は特に観たいとも観たくないとも思っていなかった。テレビの宣伝か何かで目には入っていたから何となく知っていたが、要はその程度だ。どちらかと言えば、久し振りにみほと二人で出掛けるという事の方に魅力を感じた。

 千代美もそれに気が付き、『いいじゃん、行って来いよ』と言って小遣いをくれた。たまにはみほと外食でもして来いと言うのだろう。

 

 その小遣いを有り難く頂戴し、帰りは遅くなるぞと伝えた。

 

 そして映画を観終わり、今に至る。

 話題は勿論、たったいま観終わった映画のこと。

 

「面白かったね」

「んー。うーん」

「どうしたの、お姉ちゃん」

 

 面白かったのは確かだが、どうにも見覚えのある筋で、そちらばかりが気になってしまった。

 

「ああ、原作が有名だからお姉ちゃんもどこかで読んだことがあるのかも知れないね」

「ふむ」

 

 この映画の『原作』とやらは、無名の素人がインターネット上に投稿した短い恋愛小説なのだという。

 その小説は口コミでどんどん広まり書籍化までされ、挙句の果てには海外の有志によって翻訳された『英語版』が現れたことにより読者は現在も増え続けているらしい。世界中で読まれているという事か。

 

「その映画版が、今観たやつなんだよ」

「詳しいな、みほ」

「えへへ、エリカさんがファンなの。その影響」

 

 ああ、それでか。

 では今日来られなかった事はさぞかし残念だったろう。

 

「あ、パンフレット頼まれてたんだった」

 

 ぱたぱたと売店へ駆けていったみほは、程なくしてパンフレットを手にして戻ってきた。

 売り切れ寸前だったらしく、ほっと胸を撫で下ろしている。

 

「この、原作者というのは何者なんだろうな」

「それが一切謎なんだよね。あ、パンフレットにインタビューがちょっと載ってる」

 

 みほがパンフレットを開き膝に乗せた所を覗き込む。

 インタビューは記者と顔を突き合わせた形ではなく、インターネット上でのメールのやり取りという形式で行われたようだ。顔や性別を公表する気すら無いらしい。

 名前は『鰯』。明らかにニックネームと分かる。

 

 記事を読む限りでは、どうも作品に対する反響は嬉しく思っているものの、自分自身が前に出て有名になるつもりは無いらしい。映画化や書籍化に際しても『ご自由にどうぞ』と許可を出しただけで、自身は何一つ手出しも口出しもしていないという。どこまでも『原作者』でしかないのだ。

 

「何だか徹底しているな」

「だね。あ、理由が載ってる」

 

 この原作者に有名になるつもりが無い理由。

 曰く。

 

『恋人と静かに過ごしたいから』

 

 ああ。

 何故だろうか、物凄い説得力のようなものを感じた。

 

「映画よりロマンチックな人だな」

「本当。その恋人さんの事が世界一好きなんだね」

 

 みほはそう言って、見慣れない表情で笑った。

 

 さて、と腰を上げる。

 これからの予定としては、みほと何か食事でもして過ごそうかという所だったが、少し気が変わった。みほには申し訳ないが、抑えが効きそうにもない。

 

「みほ。悪いんだが、食事はまた今度にしないか」

 

 そう言うと、みほは驚いた様子もなく、頷いた。

 

「私もね、同じこと考えてたの」

「ああ」

「エリカさんに会いたくなっちゃった」

 

 映画の影響か、はたまた『原作者』の影響か。

 私もみほも会いたくなってしまったのだ。世界一、好きな人に。

 

「じゃあ、ここで」

「うん。またね、お姉ちゃん」

 

 みほと別れ、いくらも経たないうちにいそいそと携帯電話を取り出した。自分はこんなに堪え性の無い人間だっただろうかと、呼び出し音を聴きながら思う。

 千代美はすぐに出た。

 

「もしもし千代美、すまないがこれから帰るぞ」

『ありゃ、随分早いな。ご飯はどうした』

「まだなんだ。何か作ってくれ」

 

 リクエストはあるかと問われ『鰯』と答えた。我が儘な物言いになったが、まあ通じるだろう。

 真っ直ぐ帰って、千代美が作った夕飯を食べて。

 その後は、そうだな。

 

 千代美から本でも借りるか。

 

 今夜は静かに過ごそう。

 なんとも贅沢な日だ。



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ポルターガイストの鼾

「ただーいま」

 

 帰宅。

 習慣で声を出したけど、家の中はがらんとしていて誰も居ない。

 まあ、分かってる。誰も居ないと分かっていても、なんとなく声に出してしまうのが習慣ってもんなんだ。

 

 ヒールを脱いで、買ってきた食材やらなんやらの荷物をテーブルに置いて、部屋着に着替えて夕飯の仕度。特に気にした事は無かったけど、この順番だって習慣なんだよな。

 靴の脱ぎかたも、テーブルまでの歩数も、多分いつも同じ。その『習慣』がちょっとでも崩れると、なんとなく調子が狂ってしまったりするものなんだと思う。

 無意識だけど、だからこそ大切なことなんだろう。

 

 夕飯のパスタを茹でながら、そんなことを思う。

 

 パスタ、刻んだベーコン、あとホウレン草。

 バター醤油で炒めて、きざみ海苔をぱらぱらとまぶして完成。暑いと食欲が失せがちだから、味付けは濃い目にした。本当はニンニクでも入れたい所だけど、明日も仕事だから我慢我慢。

 

 出来上がったパスタと、グラスに注いだ麦茶を食卓に並べた。

 

「いただきまーす」

 

 手を合わせて、声に出す。これも習慣。

 子供っぽいと言われる事もあるけど、なんか辞められないんだよな。流石に絹代みたいに高らかに叫んだりはしないけど、一応ちゃんと言う。なんか、言わないとモヤモヤするし。

 

 黙々と夕飯を済ませ、食器を洗うこと数分。一人分だからすぐに終わる。

 お風呂のスイッチを入れ、沸くまで暫しの自由時間。

 

 ぽちぽちとテレビのチャンネルを回す。まあ、私はあんまりテレビを観る人じゃないんだけど、なんだか手持ち無沙汰で『とりあえず』って感じで回してる。案の定、面白そうな番組はやっていない。

 バラエティは気分じゃないし、ドラマも微妙に興味をそそられない。適当にニュースをぼんやりと眺めて、すぐに飽きて消した。

 

 本でも読むか。

 

 あー、そういえば『百器徒然袋』の三巻、買ってきてそのまま置いてたなあ。ネットで評判を軽く調べたら、読んだ人の評価が真っ二つに分かれてるのを見ちゃったせいか、なーんか読むのが億劫なんだよな。

 まあ、それでも読み始めちゃえばなんだかんだで最後まで読んじゃうんだろうけど。

 

 んー、でも今日はいいや、なんとなく。

 そのうち読もう、そのうちな。

 

「うーん、何読もうかなー」

 

 わざとらしく呟きながら本棚をつらつらと眺めてはいるけど、気持ちはまるで上の空。本が読みたいと思い込んでる自分を、どっか冷めた目で見下ろしてる自分が居る。そんな感じ。

 どれもこれも好きで並べた本の筈なんだけど、今に限っては読みたい本がひとつも無い。じゃあなんで私は本棚を漁ってるんだろう。わかんない。

 ともあれ、お風呂が沸くにはまだ時間がある。適当に短編ものの文庫を一冊取って、ちょっとだけ読み耽ろうと頑張ったけど、どうにもそわそわして駄目だった。

 読んで辞めて、読んで辞めてを繰り返す。

 

 お風呂が沸いたベルの音に露骨にホッとした自分が、なんだか滑稽に思えた。

 

「はあー」

 

 浴室にため息が響く。妙に静かだ。

 水音がいつもより大きく聞こえる。そう言えば、お湯でも『水音』って言うのかな。『湯音』とは言わないよなあ。

 湯舟に浸かりながら、そんなどうでもいいことを考えた。

 

 考えてみれば、お風呂も習慣だらけだ。

 髪の洗いかたも、体を洗う順番も、お風呂から上がって体を拭く時の順番も、いつも同じ。つまり習慣。

 

 お風呂から上がり、寝室で髪を乾かす。

 ちょっと早いけど寝る時間。さっき本棚から出した文庫本を持って布団に潜り込み、スタンドの灯りを点けた。眠くなるまで読書タイムだ。『目を悪くするから本を読むなら部屋を明るくしろ』って、まほによく 叱られる癖。

 まほが居ないから、今夜は叱られない癖。あ。

 

 あーあ。

 

 考えちゃった。

 考えないようにしてたのに。

 

 そう。

 そうなんだよな。全部いつも通りなのに、まほだけ足りない。そのせいで、なんだか全部の調子が狂ってる気がする。そわそわして短編すら読めなくなっている。

 

 文庫本は結局、一行も読まずに枕元に置いた。

 灯りを消して、そして、習慣で声を出す。

 

「おやすみ」

 

 いつもなら『お休み』が返ってくる『おやすみ』は、寝室に空しく反響して消えた。

 まほは居ないのに、顔をうずめた枕はまほの匂いがして、そのお陰で全然眠れなかった。

 会いたいなあ。

 

 そして次の日もまた、同じ事の繰り返し。

 

「ただーいま」

 

 帰宅。

 言わずもがな、やっぱり家の中はがらんとしている。

 ヒールを脱いで、買ってきた食材やらなんやらの荷物をテーブルに置いて、部屋着に着替える。いつもならその後は夕飯の仕度に取り掛かるんだけど、昨日と違ってなんだか胸がぎゅうっと苦しくなってしまった。今日は駄目だ。

 

 なんか、駄目だ。

 

 別に嫌な事があったとか、そんなんじゃない。そんなんじゃないけど、なんか駄目。やる気が全く出ない。そのまま寝室まで行ってベッドに倒れ込むと、ゆうべ眠れなかったせいか、眠気は案外すぐにやって来た。

 ふて寝ってやつなのかなあ。

 

 眠気には逆らわず、素直に目を閉じた。

 

 暫くして目が覚めて、スマホで時計を確認する。ああ、二時間くらい眠ったのか。

 どうしよっかなあ、これから。夕飯を作ろうにもやる気は出ないし、っていうか起き上がるのすら軽く億劫だし。

 

 うーん。

 

「起きたか」

 

 ん。

 

 聞こえた声に、びっくり。

 単純に自分以外の声が聞こえたことにもびっくりしたけど、それ以上に、聞き慣れた、だけど最近全然聞いてなかった声。ずっと、聞きたかった声。

 

「まほ」

 

 まほはベッドに腰掛けて、私が枕元に置きっぱなしにしていた文庫を読んでいた。

 

「お早う」

「お、おはよう」

 

 あ、ホッとする。

 すごく落ち着く。

 

「まほ、夜勤は」

「昨日で終わりだ。昨日と言うか今朝と言うかだが、とにかく終わった」

 

 夜勤。

 職場で人手が足りなくなっているらしく、まほはここ数日、夜勤に駆り出されていた。

 私が起きて出勤した後にまほが帰宅して、まほが出勤した後に私が帰宅する。そのせいで、同じ家で生活している筈なのに全く会えない日が続いていた。

 

 でも、そっか。昨日で終わったんだ。

 こうして顔を合わせるのは何日振りだろう。

 

「ひさしぶり」

「うん、久し振りだな」

 

 ただいま、おかえり、と他愛の無い言葉を交わすと、すうっと疲れが取れたような気がした。

 もう我慢が出来なくて、まほに向かって、ずい、と両手を伸ばす。このジェスチャーには二通りの、真逆の意味がある。『引っ張って起こしてくれ』と『おいで』。

 

 さあ、どーっちだ。

 

 まほは、私の手の間に身体を滑り込ませ、身を寄せてきてくれた。まほの首に腕を絡めて、捕まえるようにして抱き締める。えへへ、正解。

 まほの大きな胸にぐいぐいと顔を擦り付けると、ぽんぽんと頭を叩くようにして撫でられた。

 

「よしよし。寂しかったなあ、千代美」

「んん」

 

 見透かされるのは癪だけど、その通り。寂しかった。

 たかだか夜勤が続いただけでと思われるかも知れないけど、近くに居るのに全然会えない日が続いたのは、正直言って辛かった。

 まあ、会えないなりに同じ空間で生活してるから、物の位置が変わってたりして、そこかしこにまほの生活の跡を感じ取る事は出来たけど。でも、だからこそかな。余計に寂しかった。

 

「私な、いっぱい我慢したぞ」

「ふふふ、偉いな」

「ご褒美」

 

 普段の私なら絶対に言わないようなこと。やっぱり調子が狂ってる。まほは面喰らったような顔をしたあと、ふうむ、と唸って少し考えた。

 

「夕飯を作ってあるんだが、ご褒美が先か」

「ご褒美が先」

 

 少し、わがままだったかな。

 でもいいじゃん、今の私は調子が狂ってるんだから。

 

「じゃあ、風呂にしよう」

「うん」

 

 立ち上がる前にもう一度、まほの胸に顔をうずめて、胸一杯に息を吸い込んだ。



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ベルゼブブの群

ベルゼブブ。

蝿です。


 夕方、自宅でシャワー。

 最近は一気に暑くなったから冷たいシャワーを浴びることも増えてきたけど、今日は熱いのを思いきり浴びている。

 

 匂い、ちゃんと落ちてるかな。

 

 すんすんと自分の身体を嗅いでみたけど、まあ、お風呂だからよく分からない。まほは鼻が良いから、なんだかすぐに気付かれちゃいそうで怖い。

 何をしてたんだって訊かれたらどうしようか。正直に答える訳にも行かないから、なんか上手い言い訳を考えておかなきゃ。

 出来るだけ嘘はつきたくないけど、こればっかりはなあ。

 

 まほには喋らないって約束したんだ、エリカと。

 

 なかなか無い組み合わせだったなと我ながら思う。

 エリカとみほ、同居中の二人。まほと私は、あの二人と時々会って四人でご飯食べたりしてるんだ。そう、『二人と二人』なら時々会う。

 いつか言った事があったけど、まほにとってあの二人は妹なんだよな。みほは勿論だけど、最近ではエリカもまほにとって妹みたいな感じになってきた。かく言う私も、まほの妹という意味で、みほが妹みたいに見えてきた今日この頃。

 と、考えていくとやっぱり私とエリカだけが、なんと言うか、ちょっと薄い。『妹みたいなもんみたいなもん』って所か。ややこしいなあ。

 ともかく、悩みとまでは行かないけど、ちょっと気になってた。エリカとも仲良く出来ないかな、って。

 別に仲が悪いって訳じゃないんだけど、もうちょっと何ていうか、距離を縮められたらなと。

 

 そんなことを考えていたある日、当のエリカから珍しく電話が掛かってきた。

 

『あの、まほさんはそこに居ますか』

 

 挨拶もそこそこに、いきなりの質問。

 丁度その時は、夕飯の仕度をしながらまほの帰りを待っていたところだった。居ないよ、と答えるとエリカは露骨に安心した様子で言葉を続けた。

 

『お願いがあるんです。まほさんには内緒で』

 

 やけに気にするなあ。

 でもまあ、私に頼み事をするとなればまほに知れると考えるのが普通だからな。まほに内緒というのが大切なんだろう。

 案の定、お願いというのはまほには知られたくない事で、尚且つ私にしか頼めない話らしい。

 

『みほとも相談したんですけど、やっぱり安斎さんしか居ないって結論になって』

「ふむふむ」

 

 まほに内緒でというのが引っ掛かるけど、頼られて悪い気はしない。『姉みたいなもん』冥利に尽きる。

 

 で。

 相談の内容というのは、冷蔵庫がいつの間にか壊れてて中の食品を全部駄目にしてしまい処分に困っている、というもの。

 なんだその程度の事か、と思った。確かに少し厄介ではあるけど、然るべきゴミの日に捨てれば良いだけの事じゃないか。

 

『それは、はい、そうなんですが』

 

 流石にそれは、みほもエリカも分かってる。

 だけど二人とも忙しくて、運悪くゴミの日に寝過ごしたりしたのが重なり、そのままズルズルと時間が経ってしまった。結局今は、あろうことか冷蔵庫の方をただただ見ないようにして暮らしているらしい。つまり、放置だ。

 

 ぞわ、と鳥肌が立った。

 

 冷蔵庫が壊れてるって事は、その中はもちろん常温。いや、最近は暑いからもっと酷い事になっている筈だ。その中に、駄目にした食品を放置している。

 き、きっついなあ。

 

「そう言えば、普段のご飯はどうしてるんだ」

『コンビニでお弁当を買ったり、外食したりですね』

 

 ああ、そっか。二人の家はコンビニが近かったな。

 じゃあ、普段から冷蔵庫を使う習慣はあんまり無くて、だから『いつの間にか』壊れてたって事なのか。

 

 うーん、まあ、突っ込み所は山ほどあるけど、言っても仕方ないしな。頼ってくれた事は嬉しいし、私は次の休日に顔を出す約束をした。まほに内緒で。

 まあ確かに、こんな話がまほにバレたら二人とも大目玉だろう。

 

 そして今日。

 冷蔵庫の検分のため、私はエリカ達の部屋を訪れた。

 

 ひとまずお茶でもどうぞ、と出された冷たいペットボトルに何とも言えないものを感じる。そっか、コンビニが近いと冷蔵庫が壊れてても生活できるんだ。

 ペットボトルのお茶を飲みながら、キッチンに鎮座している冷蔵庫の方に目を向けた。リビングとキッチンが繋がってるタイプの部屋なので、普通に視界に入って来る。これを見ないようにして生活するのは、逆に根性が要るような気がした。

 異臭とかは無いけど、妙なオーラを纏ってるようにも見える。

 

「気付いた時にすぐ捨てれば良かったんですけど、その、忙しくて」

「うーん」

 

 言い訳じみたエリカの説明を、みほは渋い顔で聞いていた。

 そのみほの膝の上には、何故か今日のために友達から借りてきたというガスマスクが置かれていて、彼女はそれを所在なげに弄っている。

 

 ふと、みほが顔を上げた。

 

「ねえ、エリカさん。やっぱり私達だけでやろうよ」

「何言ってるのよ、最初に『絶対無理』って言い出したのはみほじゃない」

「そ、そうだけどー」

 

 ありゃ、なんか小競り合いが始まったぞ。私に遠慮してる、というよりはまほにバレるのが心配なのかな。

 しかし、『妹』だと思って眺めると、この小競り合いもなんだか可愛く見えてくる。ああ成程、まほは普段こんな気分なのか。

 

「心配するなよ二人とも、まほには内緒にしててやるからさ」

「そ、それは有り難いんですけど。あの、安斎さん、先にひとつ、絶対に訊いておかなきゃいけない事があるんです」

「アンチョビさん、虫は平気ですか」

 

 虫、と聞いてピンと来た。

 成程そういう事か、と。

 

「普段から食材を触ってるから、虫は大丈夫だよ」

 

 新鮮な野菜に虫が付いてるのなんてよくある事だし、何なら気が付かずに包丁を入れて、えらいことになったりもする。普段から料理をしてると、自然にそういうのが大丈夫になってくるもんだ。

 

 ただし、あくまで『大丈夫』。『平気』ではない。

 でもここでそれを言うのは余計だ。二人をがっかりさせてしまうだけだから、努めて平静に答えた。ホッとしたような二人の顔を見て、何故だかこっちまで安心する。これから何をやらされるのか想像が付いてる筈なのに。

 

 そっかあ、虫が湧いちゃったかあ。

 

「そう、なんです。だから冷蔵庫を開ける事も出来なくて」

「気持ちは分かるけど」

 

 言ってる間にさっさと捨てちゃえよ、とは思う。

 ただ、ここで説教をしたって仕方ない。私の役目に変わりは無いからな。

 半分ほど飲んだお茶に蓋をして、どれどれ早速始めるかと立ち上がると、エリカに呼び止められた。

 

「あ、あの、まだ駄目です」

「駄目ってなんだよ」

 

 冷蔵庫を開ける前に耳を当ててみて下さい、とエリカは妙な事を言った。

 

「こうか」

 

 言われるまま、冷蔵庫に耳を当てる。

 普通なら外側も少しひんやりしている筈の冷蔵庫は、室温と同じでちょっと生暖かい。本当に動いてないんだなあ。

 だけど、何故か冷蔵庫の中から音が聞こえた。何て言うか、小さい轟音って感じの、無数の。

 

「蝿です」

「うううわぁぁぁ」

 

 慌てて冷蔵庫から離れた。

 あ、ああ、そういう事か。この中では今、無数の蝿が飛び回ってるんだな。確かにこれは不用意に開けたらとんでもない事になりそうだ。

 

「一匹とかなら、平気なんですけど」

「う、うん、流石にこの数はびっくりするなあ」

 

 ですよねぇ、とため息混じりにみほが呟き、立ち上がる。

 

「それで、私達が考えた作戦がこれなんです」

 

 そう言って、みほはさっきから手に持っていたガスマスクを私に差し出した。それはとりあえず受け取ったものの、正直、まだどういう計画なのか想像が付かない。

 ふと、エリカがしゃがみ込んで何やらごそごそとやっているのが目に入った。ああ、設置型の殺虫剤だ。煙が噴き出して部屋中に広がるやつ。

 

 で、私がガスマスクを持たされたという事は、成程。

 

「天岩戸作戦です」

 

 とてもとても申し訳無さそうに、みほはそう宣言した。

 天岩戸って、そんな話だったかなあ。

 

 ともあれガスマスクを装着した私は、二人が退避したのを見届けたあと、殺虫剤の煙が立ち込める部屋の中で冷蔵庫と対峙した。こんなに威圧感のある冷蔵庫は初めて見る。

 虫は大丈夫とは言ったけど、これはちょっと自信が無いぞ。

 まあ、ぼやいても仕方ないか。頑張ろう、私はお姉ちゃんだ。

 

 意を決して冷蔵庫の扉を思いきり開けると、中に居た蝿の大群が一斉に飛び出してきた。

 

 とまあ、そんな顛末があって。

 なんだか物凄い罪悪感に駆られながらも、夥しい数の蝿の処理を済ませ、エリかとみほに食材の捨て方もざっくりと教えて帰ってきた。あとは分からない事があった時にでも、その都度連絡をくれればいい。

 

 まほには内緒で、というのも重ねて言っておいた。

 みほはそこまででもなかったようだけど、エリカがすごく気にしてたから、安心させる意味で。

 

「や、約束ですよ」

「うん、約束」

 

 ああしてみるとエリカも可愛いもんだ。この騒動で私達の距離は、ちょっとくらい縮まったかな、と思う。

 という訳でシャワーを済ませてリビングで涼んでいると、丁度まほが帰ってきた。

 

「お帰りー」

「ただいまー。風呂上がりか」

「えへへ、セクシーだろー」

 

 ふざけてポーズを取ってみせると、まほは馬鹿、と言って笑った。 

 

「みほ達の家では大変だったようだな」

「あ、うん。えっ」

 

 バレるの早っ。でもなんでバレてるんだ。

 食材や殺虫剤の匂いが落とし切れてなかったのか。いや、それにしたって行き先までバレてるのはおかしいぞ。

 

「用があってな、みほ達の家に顔を出してきたんだ」

「へえ」

「千代美の匂いがしたから、そう言ったらエリカが勝手に全部喋った」

 

 あ、そっちかあ。

 あっちに残した私の匂いに気付かれたんなら何も言えないや。良い鼻してるとは思ってたけど、そんなレベルだったか。

 

 って事は、みほがずっと消極的だったのは、こうなる事を予見してたのかな。

 

「ちょっと叱ってきた。ちょっとだけな」

 

 ふとスマホを見ると、みほとエリカからの連絡が数件入っていた。

 これ、開くの怖いなあ。



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大蝦蟇の午

蛙の大きさについてはご想像にお任せ


 日曜の午前、キッチンに立っておやつ作りに興じている。

 と、言っても料理をしているのは私じゃない。今日の私はあくまで補助。鍋と向き合ってるのは、まほだ。

 

 メニューは牛乳寒天。

 料理に慣れてなくても簡単に作れて美味しいし、カロリーは控えめ。手軽なおやつにぴったりのやつ。

 

「沸騰したら砂糖入れて」

「んん」

 

 ちょっと緊張気味で鍋に砂糖を入れるまほ。

 分量は、まほ好みの甘さになるように私があらかじめ調整しておいた。

 

「かき混ぜたら火を止める。そうしたら牛乳を入れて、またかき混ぜる、だったな」

「そうそう」

 

 さっすが、覚えが良い。

 よく勘違いされるけど、まほは不器用なんじゃなくて、知らない事が他人よりちょっと多いからその結果として不器用に見えちゃうだけなんだよな。

 

 実際のまほは、覚えれば何でも出来るタイプだ。

 

「混ぜ終わったら容器に移して粗熱を取る、と」

「ぶちまけるなよー」

「お、脅かすな」

 

 鍋の中身をそーっと容器に移して、次にまほは、みかんの缶詰をキコキコと開け始めた。

 私はみかん多めが好みだけど、まほはみかん無しが好き。だから一応用意はしたものの、使わないかなと思ってたから、まほが缶詰に手を伸ばしたのはちょっと意外だった。

 

「みかん入れるのか」

「千代美はみかん多めの方が好きだろう」

 

 あ、そっか。

 えへへ、嬉しいなあ。

 

「ある程度冷ましたら、冷蔵庫へ」

「そうそう。あとは固まるのを待つだけー」

 

 レシピに書いた文章をきっちり復唱しながら動くまほが面白い。

 

 大きなトラブルも無く、やる事はひとまずこれでおしまい。固まるまで二時間くらいかなー。お昼のデザートに丁度良いくらいのタイミングだ。

 それまでの間はもちろん暇で、適当に時間を潰そうかってところなんだけど、まほはずっとそわそわしている。

 

「そろそろだろうか」

「まだ十分しか経ってないだろ」

 

 笑いを堪えながら言ってやると、少ししゅんとして静かになるものの、暫くするとまた落ち着きが無くなってくる。時計をちらちら気にしたり、不意に立ち上がったかと思うと、何をするでもなくうろうろしたり。

 出来上がるのが楽しみで仕方ない、って感じ。

 

 かーわいい。

 

「まほ、二時間はまだまだ先だぞ」

「そういうんじゃない」

 

 ふふふ。

 

 まあ、そうは言っても二時間丸々そわそわして過ごすのも疲れるだろうし、もうちょっと落ち着いてて欲しい。

 何か良い時間潰しは無いかな。家事は料理の前にあらかた片付けちゃったしなあ。読書ってのも一瞬考えたけど、そわそわしてる時に読書は無理だ。絶対頭に入らない。うーん、どうしよ。

 

 あ。

 

「まほ、散歩にでも行かないか」

 

 我ながら名案、散歩なら意識せず時間を潰せる。

 まほもそのことに気が付いたみたいで、特に渋りもせず乗ってきた。

 

「行こう」

「行こう」

 

 そういう事になった。

 

 そうして辿り着いたのは、近所の公園。以前、深夜に来たことがあったなあ、あの時は雪が降ってたっけ。

 あれからもう半年経つのか。なんだかあっという間で、いまいち実感が湧かないな。

 

「思ったより涼しいな」

「ほんとになー」

 

 今日は雲が出ていて日差しが隠れてるお陰か、最近にしてはかなり過ごしやすい。暑い日が続いてたし、たまにはこんな日も無いとやってらんない。

 辺りを見回すと、私達のほかにも散歩やジョギングをしてる人が心なし多い気がする。涼しくなったお陰で外に出たくなった人も多いんだろう、たぶん。

 

 ふと、まほが口を開いた。

 

「千代美、昼御飯は何か計画があるのか」

「んー、あるもので簡単に済ませようかなとは思ってるけど」

 

 なんか食べたいものでもあるのかと思って訊いてみると、もう少し足を伸ばしてみないかと言われ、コンビニへ。

 そこでおにぎりとお茶を買って公園に戻ってきた。成程なあ。

 

 手頃なベンチに腰掛けて、早速二人で『いただきます』をする。ちょっと早めのお昼ご飯だ。

 

「ここで食べたくなった」

 

 梅のおにぎりをもぐもぐしながら、まほが言う。

 わかるわかる、こうやって公園でお昼っていうのも良いもんだ。

 あらかじめお弁当を用意するんじゃなくて、天気や気温に心を動かされて買いに行くっていう、行き当たりばったりな感じが面白い。

 

 おにぎりを食べ終わってゴミを捨てたあと、どちらからともなく同じベンチに戻る。それから私達は暫く腰を上げず、ぼんやりとして過ごした。

 ジョギング中の人が通りすぎるのを見送って、砂場でままごとをする子供を眺めて、ぼんやりと。

 

 あー、泥団子とか懐かしいなあ。

 

 あれって、渡されたら適当に食べる真似をして、壊さないように脇にでも置くのが正解なんだろうけど、子供にはその正解に辿り着くのがちょっと難しいんだよな。

 私もちっちゃい頃、相手の子が『食べる真似』しかしてくれないのが不満で泣いた事があったっけなあ。唐突に変な事を思い出しちゃった。

 

「私は千代美の作った泥団子なら食べるが」

「作んないし食うな」

 

 妙なアピールをされた。

 うん、嬉しいっちゃ嬉しいけど、やっぱり妙だ。

 

 二人で笑ってると、ベンチの後ろの草むらでガサッという音がしたのが聞こえた。だけど振り向いてみても何も居ない。暫くその辺を眺めていると、またガサッという音がして、今度はその姿が見えた。

 

 蛙だ。

 

 近くまで跳ねてきたので、手の平に乗せてみた。ちっちゃくてかわいい。この辺にも蛙なんて居るんだなあ。

 まほにも見せようと振り向くと、今度はまほの姿が見当たらない。あれっ、今の今まで隣に座ってたのに。見回すと、まほはいつの間にかちょっと離れたところに立って、こっちの様子を伺っている。

 

「まほー、蛙ー」

「私は大丈夫」

 

 あっ、成程。

 蛙を手に乗せたまま、まほにじりじり近寄ると、まほもじりじりと同じだけ離れる。

 まほがこういうの苦手って、意外だな。

 

「千代美、もうすぐ二時間だぞ」

「お、おう」

 

 仕方なく、蛙を元の草むらの辺りに放す。

 私達二人の静かな攻防に巻き込まれた蛙は、なんだか迷惑そうな顔をしているようにも見えた。

 

 この出来事がよっぽど衝撃だったらしく、まほはこの日の話を時々するようになったんだけど、話が蛙の大きさのところに差し掛かると『これくらい』のジェスチャーを両手で作るのがいまいち納得いかない。

 手の平に乗る程度の大きさだったと思うんだけどなあ。



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煙々羅の席

煙々羅

「煙々羅(えんえんら)」派と「煙羅煙羅(えんらえんら)」派が居る


 日曜日。

 公園で何やら戯れあっているまほさんと千代美さんを横目に、てくてくと歩く。向かう先は、とある喫茶店。

 

 喫茶店、好き。

 

 なんだか片言になってしまったけれど、喫茶店が好き。

 成人してからお酒を飲むことも増えたものの、何だかんだで私は未だに紅茶の方が好き、と言うか性に合う。けれど残念ながら、私自身は紅茶を淹れるのがとても下手。そのせいで、美味しい紅茶にはいつも飢えている。

 ペコが淹れた紅茶が恋しくなることも多い。彼女の紅茶は本当に美味しかった。けれど昔じゃあるまいし、まさかその為に呼びつける訳にも行かないわよね。

 

 そんなだから自然、喫茶店に足が向く。

 とは言え、喫茶店ならどこでも良いという訳ではない。お店によってコーヒー寄りだったり軽食寄りだったりと、色んな特徴がある。

 私が好きなのは勿論、紅茶寄りのお店。

 

 今日向かっているのは、ケーキ好きの友人との情報交換の時に知ったお店。あそこは当たりだった。

 ケーキが美味しいのは勿論のこと、それに合う紅茶もしっかり揃えてくれている。その上、いわゆる隠れ家的なお店で、あまり混雑していない。

 お店に着く前から今日は何にしようかなと、早くも算段を始めている。

 

 こういう時、独り身というのは楽だなと感じる。

 自分の都合で出掛けて、自分の都合で食事ができるというのは、とても気楽なこと。

 まほさんと千代美さんのような関係性も羨ましくはあるけれど、これはこれで楽。

 

 お店に到着し、適当に店内を見渡してから喫煙席に腰を降ろす。

 

 まあ、私自身は煙草を吸わない。というか苦手。

 ただし、これから来るであろう友人がいわゆる『吸う人』なので、わざわざこうして喫煙席に顔を顰めて座っている。『ケーキ好きの友人』とはまた別。偶然このお店で再会した、もうちょっと旧いお友達。

 

 特に待ち合わせはしていない。

 来るであろう、というのはそういうこと。

 

 彼女は日曜日のお昼頃、このお店によく来る。まあ必ずという訳でもないので今日も来るかどうかは、実のところは分からない。来なかったら、まあ仕方ないかなと思う。

 

 注文を済ませて待つこと数分。

 紅茶よりケーキより先に、彼女が現れた。

 

「お久し振り、ダージリン」

「一ヶ月振りね、アッサム」

 

 アッサム。

 本名で呼び合うことがどうしても照れくさくて、未だにこうしてティーネームで呼び合っている。

 彼女は躊躇うこともなく私の向かい側の席に腰を降ろした。

 

「暑いわね」

「本当、嫌になるわ」

 

 待ち合わせはしなくとも、『日曜日に時々来る』というだけで繋がっている私達。互いにその時の都合や気分で来たり来なかったりするものだから、一ヶ月振りくらいならよくあること。

 近からず、遠からず、繋がっている。

 

 混み入ったお話はほとんどしない。

 お仕事も何をしてるのか知らない。

 連絡先も交換していない。

 

 けれど、なんだかずっと会っている。

 

 彼女は店員さんが持ってきたお冷やを断り、メニューも広げず紅茶の注文をして、おもむろに煙草の箱を鞄から取り出した。

 銘柄はよく分からない。箱のデザインはなんだかお洒落で、綺麗なピンク色をしている。初めて見た時はお菓子の箱か何かかと思った。

 女性用の煙草、なんてものがあるのかしら。

 

「女性向けではあるかしらね」

「ふうん」

 

 喋りながら、彼女は慣れた手付きで箱から一本取り出して咥えた。

 彼女の煙草は、私が『煙草』と聞いて思い浮かべるそれと比べると、細長い形をしている。

 

「失礼」

 

 短く言って、アッサムは自前のマッチで煙草に火を点け、ゆっくりと煙を吸い込む。

 つんとしたマッチの香りが鼻をくすぐった。ライターじゃなくてマッチ、こだわりなのかしら。

 

 世の中にある喫煙所は年々減っている。愛煙家には、煙草を吸いたくても吸えないタイミングが増えているのかも知れないわね。

 我慢を重ねてようやく吸える煙草というものは、格別に美味しいものなのかも。どこか恍惚としたような表情で煙を吐き出すアッサムの表情を見て、そんなことを思う。

 

「そうかも」

 

 一本いかが、と箱を向けられたので、受け取ってその箱をまじまじと検分するように眺めた。『pétil』と書かれた表面にはホログラム加工がされていて、光に当たるとキラキラと反射する。こんなお洒落な煙草もあるのね。

 結局、箱を眺めただけで満足してしまって、煙草は貰わずに返した。まあ元々私は吸わないし。アッサムもそれが分かっていたみたいで、箱を受け取ると悪戯っぽく笑った。

 

「意地悪ね」

「ふふふ」

 

 そうした所で、ケーキと二人分の紅茶が運ばれてきた。

 

「一口いかが」

 

 仕返しではないけれど、一切れフォークに刺して彼女に差し出す。あーん。

 つられて口を開きかけた彼女は、何かを察知して形の良い唇をきゅっと真一文字に結んだ。その口角が徐々に上がる。まるで『やったわね』とでも言うように。

 

「ブランデーケーキでしょう、それ」

「ふふふ」

 

 お酒が苦手なアッサムにふられて行き場を失ったケーキは、そのまま私の口へ。程よく染み込んだブランデーの香りが口の中に広がる。

 ああ、美味しい。

 

 嗜好が変わっても相変わらず意地悪な二人。

 日曜日のお昼、思い思いに紅茶を楽しんだ。



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塗壁の祭

塗壁

ぬりかべ
浜辺で足が縺れる現象をキャラクター化したもの
壁の妖怪ではない


 しゅるしゅる、ぐいぐい、ぎゅうぎゅう。

 

「きつくないか」

「うん、大丈夫」

 

 千代美の腰に巻いた帯を結んでいる。

 いつも思うが、こいつの腰はどうにも華奢だ。折れる訳など無いのだが、気分的に乱暴に扱えないので神経を使う。

 

「よし、出来た」

「おおーっ」

 

 千代美が驚きの声を上げた。

 失敬な奴だとも思ったが、まあ無理も無いか。私が千代美に何かをしてあげるとなった時、失敗したり上手に出来なかったりするのがよくあるパターンだ。挙句の果てには、反対に千代美に手間を掛けさせる羽目になることも、あったり、なかったり。

 

 自分で言って悲しくなってきた。

 

 ま、まあ、それはいい。

 ともあれ今回は上手く出来たのだ。

 

「えへへ、似合うかな」

 

 その場でくるりと回転してみせる、浴衣姿の千代美。

 

「うん、可愛い」

「ふふふ」

 

 返事になってないぞ、と笑われた。しかしそうは言っても可愛いのだから仕方ない。身も蓋も無い言い方だが、千代美はどうせ何を着ても似合うのだ。何にせよ、気に入って貰えたようで何より。

 千代美は上機嫌で鏡の前まで行って、またくるりと回った。

 

 こうしてみると『やってあげる』というのは実に気持ちが良いな。それに、何だろう、言葉は悪いが支配欲のようなものもじんわり満たされる気がする。

 

 私が料理を覚えようとした時に千代美が渋ったのも頷ける。

 千代美が自分で帯を結べるようになってしまったら、それは少し寂しい事だ。

 

「ぴったりだな」

「だなあ」

 

 私のお下がりだが、問題なく着られるようだ。つまり、今の千代美は昔の私と同じぐらいの体格と言うことになるのか。なんだか妙な感慨が湧く。

 

 実家にあった、私の浴衣。

 お母様への近況報告の中で、近所の公園の夏祭りに千代美と見物に行くことを話したら、一も二も無く送られてきた。『千代美さんに着せてあげなさい』とのこと。

 

 お母様には、測るまでもなく寸法が分かっていたのかも知れない。先日、千代美と二人で顔を出した時にでも気が付いたのだろう。

 やはり母親だ、よく見ている。

 

 そうだ、お母様と言えばもう一つ仕事をしなくては。

 ジーンズのポケットからスマホを取り出し、カメラ機能を立ち上げた。

 

「千代美、笑ってー」

「にぃー」

 

 ぱしゃり。

 

 頬に指を当て、にっこりと満面の笑みをこちらに向ける千代美が撮れた。

 ああ、これは完璧だ。非の打ち所が無いぞ、あまりにも可愛い。天才かお前は。

 

「珍しいな、まほ。写真撮ってくれるなんて」

「んん、お母様が千代美の写真を寄越せと言うんだ」

「あー」

 

 夏の始めに顔を出した際、千代美とお母様は、拍子抜けするほど呆気なく打ち解けた。会わせる瞬間まで感じていた諸々の不安が徒労に感じたほどだ。

 今のお母様の千代美に対する態度は、今では溺愛と言っていい。言ってしまえば、あの人は私より千代美を可愛がってる節さえある。

 待てよ、そう言えば私の浴衣が無いじゃないか。そう考えると少し腹が立ってきた。

 

「千代美、もう一枚撮ろう。あんまり笑わなくていいぞ」

「う、うん」

 

 さっき撮ったのは私の待ち受け画面にする。お母様にはもう少し控え目なのを送ろう。

 その後、もう一枚もう一枚と繰り返し、二人だけの撮影会はひとしきり続いた。

 

 さて、そろそろ出掛けるか。

 

「そう言えばダージリンは」

「カチューシャと行くってさー」

 

 んん、そうか。

 

 支度をして玄関を出ると、覚悟していたほどの暑気は無かった。緩く風も出ていてなかなか涼しい。

 耳を澄ますと、祭囃子が微かに聞こえる。

 

「えーっ、聞こえるかなあ」

 

 両耳に手を当てて目を閉じる千代美。暫くそうしていたものの、聞き取ることが出来ないらしく、首を傾げている。

 ああ、いちいち動きが可愛い。

 

 ともあれ、出発。

 千代美の下駄の音がカラコロと夜道に響く。実に風流で、良い音だ。まるで風鈴の音のように暑さを忘れさせてくれる、そんな気がした。

 

 公園に着くと、思っていたより店が出ていてかなり賑わっていた。普段あまり人の居ない公園が、まるで別世界のように感じられる。

 人混みの苦手な私は、反射的に少し顔を顰めた。

 

「帰ろっか」

「ん、いや、いい」

 

 私の顔色に目ざとく気が付いた千代美に気を遣われたが、そうは行かない。せっかく来たのだからせめて一回りくらいはしたい所だ。それに、夕飯もここで買って食べようと話している。ここで帰る方が結局は色々と面倒くさいのだ。

 

 はぐれないよう、手を繋いだ。

 手を繋ぐ時、千代美は私が指を絡めるまで手を『パー』の形にして待つ癖がある。指を絡めてやると、安心したようにゆっくりと手を閉じる。とても可愛い癖なのだが、きっと無意識なのだろう。

 私だけが知っている、千代美の癖だ。

 

 暫く歩いていると、ダージリンとカチューシャに出くわした。

 

「あら、お二人さんも遊びに来たのね」

「千代美さんの浴衣、お似合いだわ」

「えへへー、ありがとー」

 

 二人分の食糧らしきビニール袋を手に手に提げ、これから帰るところらしい。適当に立ち話をして別れた。

 あいつら、今夜は酒盛りか。

 

 少し離れてから、千代美が私の肩をつついた。見ると小さく手招きをしている。

 千代美の口許に耳を寄せた。

 

「ダージリンとカチューシャ、手ぇ繋いでたな」

「そうか、私は気が付かなかったが」

「あっちが私達に気付いて離したからなー」

 

 視力は私の方が良いのだが、こういう時に目ざといのは千代美だ。

 ほほう、あの二人がなあ。なんだかんだで付き合いの長い二人だ。案外お似合いかも知れない。

 

 まあ、まだそうと決まった訳ではないが。

 あの二人から言い出すまで余計な詮索は止しておくとしよう。

 

「夕飯、何が良いかなあ」

「焼きそば、たこ焼き、お好み焼き、りんご飴、フランクフルト、クレープ、金魚、チョコバナナ、わたあめ」

「ちょっと減らせ」

 

 はい。

 

 しかし祭の雰囲気に当てられてか、どれもこれも美味しそうに見えてしまう。千代美も私を咎めるようなことを言っておいて、キョロキョロと目移りをしているようだ。

 そう言えば千代美は、高校の頃は屋台を出す側だったか。もしかしたら、屋台を見て回るというのが新鮮に感じるのかも知れない。

 その千代美の身体が、不意にぐらりと傾いた。

 

 咄嗟に抱き止める。

 

「大丈夫か」

「う、うん、ごめん。下駄にちょっと慣れなくて」

 

 言われ、足元を見た。鼻緒は切れていない。本当に、単に歩き慣れなくてバランスを崩したものらしい。すぐに体勢を整えないところを見ると、捻挫でもしたか。

 もう少し診てやりたいが道の真ん中でごたごたするのも迷惑なので、近くのベンチに千代美を運んだ。

 

「挫いたな」

「あ、うん。ちょっとだけ」

 

 悪戯がばれた子供のように、おずおずと申し訳なさそうに言う。ちょっとも何もあるものか、怪我は怪我だ。出来れば痛みを我慢して見物を続けたかったのだろうが、それで余計に足を悪くされたら堪ったものではない。

 隣に腰を降ろして頭を撫でてやると、悔しそうな唸り声が聞こえた。

 

「何か買って来ようか」

「いい」

 

 見るからに気分が萎えている。機嫌の分かりやすい奴だ。

 思わず笑ってしまいそうになるのを堪えた。今、笑ったら絶対に怒られる。

 

 こうなってしまってはもう、帰るほか無いだろう。しかし千代美を歩かせる訳にも行かない。やれやれとため息を吐き、拗ねている千代美の前に背中を向けてしゃがみ込んだ。

 

「千代美、ほら。おんぶ」

 

 少し、迷うような間を置いた後、私の背中に体重が預けられ、首に細い腕が巻き付いた。

 よいしょと立ち上がり、帰路につく。

 

「ありがと」

「ふふふ」

 

 あからさまに意気消沈する千代美とは反対に、私はすこぶる機嫌が良い。背中に預けられた千代美の重みが嬉しいのだ。

 

 夕飯は何が良いかなあ。

 冷蔵庫の中にあったものを思い出しながら、夜道を歩いた。



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十界

千代視点

千代ですよ
千代美じゃないですよ


 某日。

 西住家、お酒の席にて。

 

 私は、たじろぐ常夫くんにしなだれかかり管を巻いている。

 

「常夫くーん、ふふふ」

「こ、困りますよ、島田さん」

 

 真面目な人。

 もしかしたら、しほさん以外の女性を知らなかったりして。まあ、それはそれでしほさんにはお似合いとも言えるけれど、勿体ないなあとも思う。

 

「私の目の前で夫を籠絡するのは辞めて頂けるかしら、島田流家元さん」

 

 そのしほさんに、露骨に苛々した様子で諌められた。

 

「あらぁ、目の前じゃなければいいのかしら」

 

 わざと嫌らしい言葉を返す。

 しほさんは私の意図を察知して、大きなため息をついた。

 

「はあ。常夫さん、外してください」

「助かります」

 

 しほさんに逃がされる形になった常夫くんは、やんわりと私を押し戻し、『しほさんも程々にね』とだけ残してそそくさと部屋を辞去した。

 これで部屋には、二人きり。

 

「全く、貴女という人はどうしてそう見境が無いのかしら」

「うふふ、冗談に決まってるじゃない」

「そうは見えないから、はらはらするのよ」

 

 だってしほさん、はらはらしないと行動してくれないんだもの。

 折角だから二人で飲みたかったのよ。常夫くんが居ると、本当の意味で心安くは飲めないし。

 

「何か他人に聞かれたくない用件でもあるのかしら」

「そういう訳じゃないわ。本当にただ、二人で飲みたかっただけ」

 

 常夫くんには悪いけれどね、と舌を出す。

 しほさんは、やれやれといった顔でまたため息をついた。

 

「そういえば、菊代ちゃんも居ないのね」

「仕事よ。暫く帰って来ないと思うわ」

 

 ふーん、『仕事』ねぇ。

 まあまあ、ともあれ二人飲みが叶ったのは嬉しい事だわ。

 

 しほさんのグラスにお酒を注ぐ。熊本名物の芋焼酎。名前は悪いけれど美味しいお酒ね。

 まだちょっと苛々している様子のしほさんは、それでもとりあえず注がれたお酒を呷り、私が買ってきたコンビニのポテトサラダを一口つまんだ。

 

「あら美味しい」

「でしょ」

 

 でも芋に芋を合わせたのは失敗だったわよね。あらかじめお酒が分かっていたらレジ前の焼鳥でも買って来たのに。まあ、しほさんが気にしてる様子は無いからいいか。

 実は最近、コンビニのお惣菜をよく買って食べている。六月の頭頃にあった騒動の際、聖グロリアーナの学園艦で買って食べて以来、すっかり夢中。

 買ってすぐ食べられるというのが手軽でしかも美味しいので、ついつい利用してしまう。

 

「確かに便利ね。冷蔵庫を使わない生活になってしまうのも分かるわ」

「なにそれ、何かあったの」

「あー、いや、うーん、何でもないわ」

 

 何かを言いかけたしほさんが、言葉を濁した。残念、面白そうだったのに。

 

 それにしても、冷蔵庫か。言われてみれば最近、全然触ってないかも。それどころか、見もしない。

 コンビニのご飯の影響なのかも知れないわね。

 

「よく言うわ。台所仕事なんて元々しない癖に」

「あら、バレちゃった」

 

 なーんてね。

 しほさんは知ってるものねぇ、私が料理なんて一切しないの。

 

「お陰さまで私の料理の腕が上がりましたから」

 

 懐かしい話。

 一緒に暮らしていた頃のこと。しほさんが料理をしている間、掃除や洗濯を私がやっていた。その後の二人の時間を多く確保するため、そうやって家事を分担していた日々があった。

 時間が経って、やがて二人離れ、それぞれの結婚をして子を持ったことを後悔している訳ではない。けれど、あの楽しかった日々のことは今でも時々思い出す。

 この夏は特に、その頻度が多かったように思う。

 

 大きな要因はふたつほど。

 ひとつは、こうしてしほさんと話せる機会がまた増えてきたこと。そしてもうひとつは、先日の聖グロ学園艦の騒動で、あの子達と話せたこと。

 

 しほさんの娘、まほちゃん。

 そのパートナー、千代美ちゃん。

 彼女達は今、あの頃の私達と同じような恋をしている。あの子達のことを思うと、胸が締め付けられるような感覚に陥る。昔の自分達を見ているようで、応援したくて堪らなくなる。

 

 そして、あの騒動で会えたと言えばもう一人。

 

「また会いたいなあ」

「ああ、あの子達なら近いうちにまた来るわよ」

 

 千代美ちゃんの誕生日をここでお祝いすることになったみたい。

 仏頂面を作ろうとしても、口許が綻ぶのは隠せない。

 

 私がいま思い浮かべていたのは千代美ちゃんでもまほちゃんでもないけれど。まあ、それはいいか。

 

「そうそう、写真があるのよ」

 

 しほさんはおもむろにスマホを取り出し、慣れない手付きで操作して見せてくれた。浴衣姿で控え目に微笑む千代美ちゃんが写っている。あら可愛い。

 画面から視線を上げると、自慢げなしほさんの笑顔。ふふふ、こっちも可愛い。

 

「許すことにしたのね」

「孫の顔も見たいけどね」

 

 言って、しほさんはまたお酒を一口。

 まあ、私みたいに手放しで可愛がるのは難しいか。それでも娘の幸せを願うことを選んだ貴女は、素敵。

 

「誉めてあげる」

「どーも」

 

 私も一口。

 しほさんの機嫌も直ってきたみたいだし、そろそろ切り出すタイミングかしら。

 

「そう言えば、九月の頭からちょっと暇になるでしょう」

「ん、うん」

 

 口を開こうとしたら、先手を取られた。ちょっと出鼻を挫かれた感じ。

 でも、私がしたかった話も丁度その辺の事だったから、いいか。

 

 九月の頭。しほさんも私も、日程に少し空きが出来る。

 

 だから、何の予定も無ければ。

 

 良ければ。

 

「何の予定も無ければ、良ければ一緒にどうかしら」

「ふふふ、私も同じこと考えてたわ」

 

 九月。

 暑さも弱まって、秋が始まる頃。

 

 久し振りに二人で行きましょうか。

 

「温泉旅行」



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(1/6)凱旋の神

ミカはお金無いくせに凱旋ばっかり打つよ


【ミカ】

 

 嗚呼、お米、美味しい。

 

 まほと千代美、二人の家のリビングで夕飯を済ませて寛いでいる。やっぱり美味しいよねぇ、千代美のご飯は。ついつい食べ過ぎてしまうよ。

 こんなのを毎日食べててよく太らないよね、二人とも。

 

「食うだけ食っておいて『こんなの』とは何だ」

「いやいや、言葉の綾だよ」

 

 危ない危ない、まほは千代美のことが絡むと気が短くなってしまうからね。気を付けなくちゃ。

 さて、それはそうと今日はお願いがあって来たんだ。つい夕飯までご馳走になってしまったけど、本題はそこじゃない。

 切り出すなら今かな。

 

「飯を食った上に、更に頼み事か」

「まあまあ。聞くだけ聞こうよ、まほ」

 

 まほは怪訝そうだったけど、千代美がフォローしてくれたお陰で、ちょっと話しやすくなった。ありがたい。

 相変わらず、良いコンビだね。

 

 さて、単刀直入に言おう。

 

「お金を預かって欲しいんだ」

 

 それを聞いて二人は目を丸くした。

 

「一体何事だ」

「ええと、どこから話そうかな。コインがいっぱい出たんだよ、コインが」

 

 昨日は本当にいっぱい出た。

 自分でも何が起きたのか把握しきれないぐらい、色んな事が一遍に起きた。一番びっくりしたのは赤七と確定役を立て続けに引いた時かな、それのお陰でストックが大量にうんぬんかんぬん。

 

「またパチンコかあ」

「スロットだよ」

 

 即座に訂正され、よくわからないといった様子で首を傾げる千代美。どっちでもいいじゃないかと言われれば確かにそうなんだけど、何故かこの間違いは捨て置けない。

 パチンコとスロットは別です。

 

 それはそうと、そもそもの切っ掛けはダージリンだった。

 暇を持て余した彼女が、素寒貧(すかんぴん)目前でげっそりしながらスロットを打っている私のところにちょっかいを出しに来たのが発端。

 彼女は丁度空いていた私の隣の椅子に腰掛けて、『相変わらず煙草くさい所ね』と顔を顰めたり、『これ楽しいの』とか『今の演出はどういう意味なの』とか益体のない質問をちょいちょい投げ掛けてきた。

 そして、運命の一言。

 

『ねぇ、私にもやらせて』

 

 もはやコインも尽きようとしていた所だったし、別にいいよと言って彼女にレバーを叩かせたら、それがまさかの大当たり。

 そこから延々と当たりは止まらず、コインは閉店時間まで出続けた。当のダージリンは暫く眺めていたものの、途中から飽きて帰ったらしく、いつの間にか居なくなっていた。

 

「結局いくら出たんだ」

「ええと、これくらい。四十万円」

 

 言って、懐からちょっとしたお札の束を取り出す。千代美が口の中で小さく『うわっ』と言うのが聞こえた。

 ちょうど四十万円、コインに換算して二万枚。いやあ、なかなかの額だよ。普通出ないって、こんなに。まほも千代美も、いきなり目の前に現れた大金をまじまじと見詰めて戸惑っている。

 

 千代美が、辛うじて口を開いた。

 

「えっと、まず、預かるってどういうことなのか。それと、なんで私達に預けるのかを訊きたいんだけど」

「うん、それじゃあ、ひとつめの質問から。端的に言うと、私が持ってると遣っちゃうからさ」

 

 しかも、スロットにね。

 分かっちゃいるけど辞められない、というやつだよね。悲しいことだ。こういうのって、段々と勝ち負けを度外視して打ちたくなってくるから怖いんだよね。

 そんな時、手元に大金があったら、そりゃあ打ってしまう。

 仮に、このお金を遣い切るまで打ってしまったら、それで欲求が止まるとも思えない。きっと、遣い切ってもまだまだ打ちたくなってしまう事だろう。ああ、怖い怖い。

 だから人に預けよう、って訳。そこでふたつめの質問の答えだ。

 

「君達二人に預けるのが一番信頼できると思ったのさ」

「絹代が居るだろう」

 

 まほの突っ込み。

 それを聞いて、千代美も頷いた。

 

 西絹代。

 うん、確かに私は絹代と、まあ、仲良くしてる。彼女のことは信頼してるよ、それは間違いない。お金を預ける人物として申し分ないのもよく知ってる。

 でも絹代は、私のお金を絶対に預かったりしないんだよね。このお金を見たら『預かるなどとんでもない。ミカ殿が勝ち取ったその金子(きんす)、どうかご自由にお遣い下さい』とか言うに決まってるんだ。

 

「絹代、全肯定しちゃうタイプかあ」

「そうなんだよ」

 

 捉えようによっては有り難いんだけどね。ともあれ、今回に関しては絹代に頼んでも預かってはもらえないと思う。

 

 それに、こう言っては何だけど、絹代の全肯定ってなんとなく居心地が悪いんだよね。

 それこそ素寒貧になって、年齢的には一個下の絹代にご飯を作らせてご馳走になる日もある。彼女はそれを、ちっとも厭わないどころか喜んでいる節さえある。腕前だって大したものだ。

 その上、私が一文無しなのを察して戸棚から茶封筒を取り出し、そこから明らかに遣っちゃいけない感じのお金を出して『明日は勝てるといいですね』と笑って手渡してくれる事もある。

 

 正直、きつい。

 この感情はたぶん、罪悪感だ。

 

「おい、殴っていいか」

「千代美、待て、気持ちは分かるが落ち着け」

 

 慌てて千代美を押さえ付けるまほ。これには私もたじろいだ。

 流石に予想外だけど、うん、考えてみれば当然かも知れない。

 

 席がばたばたとし始めたところでインターホンが鳴り、応対する間もなくダージリンとカチューシャが入ってきた。勝手知ったるという感じだね。

 隣のダージリンの部屋で酒盛りでもしていたらしい。二人とも、色白の頬に少し赤みが差している。

 ああ、と言うことは、おつまみでも貰いに来たのかな。

 

「あら、ミカじゃない。珍しいわね」

「やあカチューシャ」

 

 二人が顔を出したことで千代美も半ば強制的に落ち着き、これこれしかじかと、軽く状況を説明する。

 説明を続ければ続けるほど、カチューシャの表情は分かりやすく曇っていった。

 

「随分とまたクズをこじらせてんのね」

「ああ、うん、どうも」

 

 それぐらいの反応が一番気楽だ。恥ずかしながら『クズ』は言われ慣れているので耐性がある。

 ああ、絹代に全肯定されるのが辛いのは、もしかしたら『ちょっとは叱って欲しい』とでも思ってるのかな、自分。

 

「あれから随分出たのねえ」

「お陰さまでね」

 

 本当、お陰さまだよ。断言してもいい。

 あの時ダージリンがレバーを叩かなければ、そのままコインが尽きて帰ってたところなんだから。そうだ、何かお礼をしなくちゃいけないね。

 

 すると、ダージリンはこの上ないほどに悪い笑みを浮かべて、言った。

 

「ミカ。私ね、貴女にお金を貸してるのを思い出したの」

 

 あうち。

 

「アンタ、こいつにお金なんか貸してたの。いくら」

「彼女が無心に来るたびに少しずつ貸してるから、積もり積もって五十ほど」

「えええっ」

 

 彼女曰く。

 隣にまほと千代美が住んでるとはいえ、独り暮らしを寂しく思う日も少なくないらしい。だから、例えお金の無心であっても私が定期的に顔を見せに来ることを嬉しく思っていて、それでついついお金を貸してしまう、と。

 独り暮らしで浪費癖も無いものだからお金は基本的に貯まる一方で、返って来なくてもどうにでもなるので、普段はあまり気にしていない。けれど時々計算してみてため息をついたりもしてるらしい。

 

「アンタもアンタでこじらせてるわね」

「う、うるさいわよ」

 

 カチューシャに気の毒そうな目を向けられ、強がるダージリン。

 こっちも良いコンビだなあと思いながらぼんやりと眺めていると、私の両肩に手が置かれた。

 まほと千代美、左右から別々の声が、私に短く語りかける。

 

「ミカ」

「返してやれ」

 

 私の四十万円は、その場でダージリンの四十万円となった。

 まあ残念だけど仕方ないと思うことにしよう、所詮は泡銭だ。

 

 そして、唐突に大金を手にしてすっかり気を良くしたダージリンの一言。

 

「折角だから、ぱーっと遣いましょう」

 

 何年か振りの温泉旅行が決まった。



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(2/6)火車の鈴

西ミカ。

ひたすらに真っ直ぐな絹代さんと、それをあしらい切れないけれど満更でもないミカ。


【絹代】

 

 遠きより泰然で 近きほど置き去りに 風は立つ

 吹いては結ぶ 稜線の見目形 確かに

 

 バイクのサイドカーから、何やら風雅な歌が聞こえる。

 当日は快晴、実に気持ちの良い空だ。高速道路をひた走るには最高の日和と言っていい。

 

「いやはや、なんとも素敵な歌声で」

「どーもー」

 

 歌声の主。サイドカーに身を沈めるミカ殿に語り掛けると、気の抜けた声が返ってきた。一人旅も悪くないが、こうして憧れの人と共に走るのも乙なものだ。

 ミカ殿とこうして高速道路を走ることは、ひとつの念願だった。それが叶ったことで、些か気持ちが浮わついている。流れる景色も、ミカ殿と一緒だと一層美しく見えるような気がしてしまうのだ。そこにミカ殿の歌声が耳に入り夢見心地になったとて、誰が何を言えようか。

 全くもって楽しい時間だ。

 

 我々は今、今夜宿泊する予定の温泉旅館へと向かっている。

 

 発端は、ミカ殿が博奕で稼ぎ出した金子(きんす)を、ダージリン殿に対しての借金返済という形で全額差し出した事だった。

 それを受けたダージリン殿が、臨時収入のような形になったその金子の遣い道として此度の旅行を提案してくれたのだ。交通費等の諸々は自費であるものの、参加者全員分の宿代は既にダージリン殿が支払ってくれている。

 

 参加者は私、ミカ殿、ダージリン殿の他に、カチューシャ殿、西住まほ殿とアンチョビ殿。計六人。他にも何名か声を掛けたらしいのだが都合が付かなかったとのことで、最終的にこの六人となった。

 ミカ殿と仲良くさせて頂いている影響だろうか。私一人、下級生でありながら、こうして輪に加えて頂けるのは本当に有り難い事だ。感謝しつつ、ご厚意に甘えようと思う。

 金子を全額差し出したミカ殿も、それを思い切りよく遣うダージリン殿も、本当に太っ腹だ。

 

 そんな事をつらつらと考えながら走っていると、サービスエリアが見えて来たので、バイクを寄せた。旅館の集合時間にはまだ余裕がある。暫しの休憩といこう。

 サービスエリアも旅の楽しみのひとつなのだ。

 

 それに、叶えたい念願がもうひとつある。

 

「ミカ殿。よろしければ一緒に、その、缶コーヒーを飲みませんか」

「ああ、良いねえ。暑さも落ち着いてきたからコーヒーが美味しくなる頃だ」

 

 はあっ、嬉しい。

 早速、手近な自動販売機で熱いコーヒーをふたつ買い、ひとつをミカ殿に手渡した。

 高速道路のサービスエリアで、ミカ殿と一緒に缶コーヒーを飲む。これが念願だった。

 

 ああ、懐かしい。

 初めてミカ殿と口付けを交わした時の事を思い出す。

 

 奇しくも、あれも温泉旅館での事だ。あの時の口付けは、温泉から上がろうとしたミカ殿が足を滑らせて私の方に倒れ込んだことが原因。要するに、完全なる事故だ。とはいえ、私にとっては忘れられない思い出となってしまった。

 何せ、あれが私の、初めてだったのだから。

 

 そして、その時のミカ殿が咄嗟に放った言葉が、また強烈だった。

 

『コーヒー、飲むんだね』

 

 なんとも。

 確かに私はあの事故の少し前、朝食の際にコーヒーを飲んでいたが、まさか口付けのあとに味の話をされるとは思わなかった。

 お陰で私はコーヒーを飲むたびに、あの時の事を思い出してしまうようになった。特にあの日の帰り道、まさしく高速道路のサービスエリアで飲んだ缶コーヒーの味が未だに忘れられない。

 勿論、今飲んでいるのもあの時と同じものだ。

 

 そして缶コーヒーとともに、ミカ殿の事も忘れられなくなってしまった。

 

「嬉しそうに飲むね、絹代」

「いやあ、はは」

 

 言わずもがな、感無量なのだ。

 

 ミカ殿は、あの時のことを覚えておいでだろうか。

 いや、覚えていないかも知れないな。そういう人だ。

 

「ちょっと土産物でも見ようか」

「あっ、はい」

 

 コーヒーを飲み終え、売店へ。ミカ殿と共にぶらぶらとその中を歩く。

 サービスエリアの売店というものは実に面白い場所だ。こういう所でしか売っていない珍妙な品も多く、眺めるだけでも楽しくなる。

 ミカ殿は龍が巻き付いた剣の形をしたキーホルダーがお気に召したようで、暫くそこにしゃがみ込んで『ほお』などとため息をついていた。私には全て同じに見えるが、どうやら幾つか種類があるらしく、ミカ殿はひとつひとつ手に取って矯めつ眇めつ眺めている。

 少年のような人だなあ。

 

「そう言えばミカ殿。先程の話ですが、ダージリン殿からの借金は完済されたのでしょうか」

「あぁー、いや、まだ十万ほど残ってるよ」

 

 ミカ殿は振り向きもせず、キーホルダーを吟味する手も止めず、そう答えた。

 なんと、それでは併せて五十万円も。

 

 しかし、そうか。

 十万円程度であれば、肩代わりして差し上げることも、まあ、出来なくもない。生活を切り詰めれば捻出は可能だし、いざとなれば虎の子の貯蓄を使うという手もある。

 

「きーぬーよ」

「あ痛っ」

 

 いつの間にやら立ち上がっていたミカ殿に、額を軽くぴしゃりとやられた。

 考えを見透かされてしまったらしい。

 

「気持ちは嬉しいけどね、それは駄目だ。お金は自分で返すから心配しなくていいよ」

「あっはは、申し訳ありません」

 

 額をさすり笑っては見せたが、内心驚いている。

 なんと珍しい事だろう。いつものミカ殿であれば『そうかい、悪いねえ』などと言って、遠慮なく得をする所ではなかったか。

 

 考えている私を余所に、ミカ殿は買う物を決めたらしく会計へ向かった。慌てて財布を出す私を手で制し、なんとミカ殿はご自分で会計を済ませてしまった。本当に、本当に何事だろうか。

 呆気に取られていると、ミカ殿は私に何やらちりちりと音のする小さな紙包みを持たせてくれた。たった今買った品物のようだ。

 

「開けてごらん」

「はあ」

 

 見るとそれは、鈴の付いた可愛らしいキーホルダーだった。

 

「ミカ殿、これは」

「プレゼントだよ。たまには良いだろう」

 

 言われ、キーホルダーとミカ殿を交互に見比べ、漸く何が起こったのかを理解した。

 ミカ殿が鈴を買ってくれたのだ、私に。

 

 嬉しさが込み上げ、同時に、先程までの考え事など綺麗さっぱり忘れてしまった。

 

「わあぁ、やっったぁーーっ」

「ちょ、ちょっと、絹代っ」

 

 思わず、人目も憚らずに叫び出してしまった。ミカ殿に窘められ、慌てて声を潜める。しかし私の興奮はそれでも冷めず、声を抑えたままでミカ殿に鼻息も荒く喜びを伝えた。

 

「あのっ、これっ、大事にします、絶対っ」

「分かった、分かったから落ち着くんだ」

 

 私の勢いに気圧され、珍しくミカ殿が狼狽する。私はそれを見て我に返り、次第に落ち着きを取り戻していった。

 いやはやなんとも、申し訳ないやら、恥ずかしいやら。

 

「そんなに喜んでくれるなんてね」

 

 貰った鈴に大喜びする私を横目に、ミカ殿がぽつりと『仕事探そうかなあ』と呟いた。

 真意は分からなかったが、ミカ殿が職を探す事それ自体は喜ばしいと思ったのでそう伝えると、苦笑いが返ってきた。ううん、何か解釈を間違えたのだろうか。

 

「そう言えば時間は大丈夫なのかな」

「おっと、確かに少しゆっくりし過ぎたかも知れませんね」

 

 言われて腕時計を確認すると、ややぎりぎりといった所。

 早速、バイクの鍵に鈴を付けて意気揚々と発進した。風に揺られて鈴がちりちりと鳴るのがなんとも嬉しく、それ以降の道中は浮かれっ放しだったと言っていい。

 その証拠に、現地に到着し、旅館の駐車場にてダージリン殿の一行と合流した際、カチューシャ殿に訊かれて初めて気が付いた事がある。

 

「あら絹代、ミカどこにやったの」

 

 さ、サービスエリアに忘れて参りましたぁーっ。



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(3/6)木葉天狗の椛

わっふう


【ダージリン】

 

 流していた音楽が丁度止まったところで、現地に到着した。

 周辺は見渡す限りの紅葉。時期的にばっちりのタイミングで来られたみたいね。目的地の旅館は、真っ赤に色付いた山々に囲まれるようにして建っていた。

 

 着いたからにはさっさとチェックインしてしまいたいのだけれど、諸事情によりそうもいかず、私達は旅館の駐車場でわちゃわちゃと騒いでいる。

 もう、どうして私達の旅行はこう、いつもいつもトラブルばかりなのかしらね。一度だってすんなり着いた試しが無いんだから。全く嫌になるわ。

 

「半分はアンタの運転のせいでしょうが」

 

 カチューシャが怒鳴り声を上げる。

 人聞きが悪い。私の『せい』ではなく『お陰』と言って欲しいものだわ。私の運転の『お陰』で、道に迷っても時間通りに着いたんだから。

 

「それがおかしいって言ってんのっ」

「まあまあ。着いたんだからいいじゃん、それはさ」

 

 尚も怒鳴るカチューシャを千代美さんが宥め、その場はとりあえず収まった。カチューシャはまだ何か言いたそうにしていたけれど、喧嘩をしても不毛であることは明白なので口を噤んだ様子。

 まあ、私達より大変なことになってる人が居るものね。

 

 絹代さんと、あと、酔い止めを飲んでも駄目だったまほさん。

 

「ふうぅぅ」

 

 見計らったようにまほさんのため息が聞こえた。彼女は例によって私の車の後部座席に横たわり、千代美さんの膝に頭を乗せて唸ったり呻いたりしている。もはやお約束の光景。『戻し』こそしなかったものの、体力をすっかり消耗してしまったみたい。

 どう足掻いても、まほさんは私の運転と相性が悪いらしいわね。まあ、彼女は千代美さんが介抱するからとりあえずよし。

 

 問題は絹代さん。

 

「はあぁぁ」

 

 こちらも、絞り出すようなため息をついて頭を抱えている。

 

 彼女はここまでバイクで来た。

 そのサイドカーにはミカが乗っていた筈なのだけれど、どこからどう見てもサイドカーは空っぽ。話を聞くと、ここに来る途中で立ち寄ったサービスエリアにうっかり置いてきてしまった、との事。

 

「うっかりにも程があるでしょ」

「本当に、本当に面目次第もございません」

 

 その落ち込みようは見ていて気の毒になるほどで、今にも泣き出しそうな顔をしている。口さがないカチューシャの言葉は耐性の無い子には容赦なく刺さってしまうので、『あまり言わないの』という意味を籠めて肘で小突く。

 カチューシャは反射的に一瞬だけムッとしたものの、自分でもしまったと思ったらしく、下唇を突き出してそっぽを向いた。

 

 さてと、面倒ではあるけれど、そうも言ってられないわね。少し時間が掛かるけれど、迎えに行きましょうか。

 やれやれと運転席に乗り込もうとしたその時、どこからか聞き覚えのある暢気な声がした。

 

「それには及ばないよー」

 

 絹代さんがハッと顔を上げ、弾かれたように駆けていった先。ミカが山の方からてくてくと歩いて来るのが見えた。絹代さんはまるで数年振りの再会でもしたみたいに、駆け寄る勢いのままミカに抱きつく。そのまま彼女は『ごめんなさいごめんなさい』と繰り返した。

 ミカは、そんな絹代さんを宥めるようにして、その頭を撫でている。なんとも、微笑ましいというか羨ましいというか。

 

 でも、ミカはどうやってここまで来たのかしら。曲がりなりにも高速道路に置き去りにされて、それでも然程のタイムラグも無くこんな山の中の集合場所に着くなんて。

 

「鹿で来た」

「なんと、流石はミカ殿っ」

 

 鹿て。

 

 何を突拍子の無いことをと言いそうになったけれど、思い返せばミカは熊を手懐けたこともあった。熊が可能なら鹿も、まあ。というか実際に着いてるし。

 鹿に乗って山を突っ切れば、確かに。

 

 ううん、考えるの辞めた。

 

 ともあれ、何だかんだと揉めはしたもののこれで漸く全員集合。早速チェックインを済ませ、部屋に入った。

 大学生の頃にみんなで来た旅館とは違う場所。本当は今回もあそこにしようと思ったのだけれど、残念ながらあの旅館は廃業していた。なんでも、幽霊が出るという噂が後を絶たなくて客足が遠退いてしまったせいだとか。

 そう言えば、まほさんと千代美さんもそんな事を言っていた気がする。

 さて、今回はどうでしょうね。

 

 見たところ、どこにもおかしな様子は無い。

 お札の類も無し。あっても困るけれど。

 

 まほさんは車酔いが余程堪えたらしく、部屋に着くなり畳の上に直に横になってまた呻き始めた。千代美さんが慌てて手近にあった座布団を折って枕を作り、まほさんの頭の下に差し込む。

 横になったまほさんの後ろ頭をつつくと、煩わしそうに手をぶんぶん振った。

 

「休ましてやんなさいよ」

 

 カチューシャに窘められた。見ると、彼女は早くもお風呂セットを抱えている。

 ああ、成程。無理にまほさんの回復を待つよりは、休む人とお風呂に行く人に分かれた方が合理的だわね。私もそうしましょう。

 

「それじゃ、私達はお先に」

「お大事にどーぞ」

「ふふふ」

 

 仕事柄、明らかに常日頃から言い慣れている感のあるカチューシャの言い回しが面白かったみたい。まほさんはこちらに背を向けて寝転がったまま、暫く笑っていた。

 何も言い返せないのが逆に笑えてしまって、そのままツボに入ってしまったという感じ。笑う体力があるなら大丈夫ね。

 

 さて、行きましょうか。

 

「あれっ、そう言えばミカ達が居ない」

「あら本当。いつの間に居なくなったのかしら」

 

 旅館内の探検にでも出たのかも。まあ別にスケジュールがあるでなし、帰る時間以外は好きに過ごせばいいか。

 

「厨房に忍び込んでたりして」

「絹代さんが一緒なんだから、それは無いでしょう」

 

 なんて、下らない会話をしている間に露天風呂に到着。

 

 実は、早く入りたくてうずうずしていた。楽しみだったのよね、露天風呂。いそいそと服を脱いで浴場に足を踏み入れると、周囲の山々の燃えるような紅葉が視界いっぱいに広がった。

 ああ、絶景。これが見たかったのよ。

 

「来る途中で散々見たじゃない」

「言うと思ったわ」

 

 そういう事じゃないのよ。

 全く、カチューシャと一緒だと風情も何もあったものではないわね。今に始まった話ではないけれど。

 

 はあ、とため息をついたその刹那。吹き付けた冷たい風に身を震わせた。

 紅葉を目の前にしてこんなことを思うのもおかしいけれど、もう夏ではないのねという気持ちが湧く。

 

「早く入んないと身体冷やすわよー」

 

 ちゃっかりと既にお湯に浸かっているカチューシャに急かされ、慌てて身体を流してお湯に入った。

 ああ、丁度良いお湯加減。外気が少し肌寒いお陰で、熱いお湯がとても気持ち良い。

 見渡すと、少し離れたところで二人連れらしき別のお客さんがお湯に浸かって談笑しているのが確認できる。それ以外に人影は無く、浴場はとても静か。

 耳を澄ますと、風の音に混じって鈴虫の鳴き声も聞こえた。

 

「ねえ」

 

 カチューシャの低い声。

 ああ、何か面白くない話題だなと感じた。カチューシャの話し始めの『ねえ』は、そのイントネーションで何となく話題が推察できる。今の『ねえ』は、ちょっと良くなかった。

 はあ、折角お風呂で良い気分になっているところだったのに。

 

「何よ」

「アンタさあ、いつまであんな所に住んでる気なの」

 

 妙なことを問い掛けてきた。『あんな所』って、どういう意味かしら。

 

「マホーシャと千代美の隣」

「ああ、そういう意味。別に当面、引っ越す予定は無いわよ」

 

 まあ、春にちょっとした事情で反対隣に引っ越した事はあったけれど。

 別にあの二人と仲が悪いということも無いし、と言うよりむしろ良いと思ってる。あの二人に疎ましがられているという事も、たぶん無い。だから、まあ、彼女達を理由に引っ越しを検討するという発想は今のところ無い。

 

「でもアンタさあ、こないだぽろっと『独り暮らしは寂しい』って言ったじゃない。ついに言ったなーと思って聞いてたわよ、私」

 

 あうち。

 

 成程、そう言う意味ね。

 それは確かにある。あの二人が隣に住んでいるとは言え、だからこそとも言えるけれど、独り暮らしを寂しく思う日は少なくない。

 ただ、あまり寂しい寂しい言うのはみっともないかなとも思っているので、日頃はそんな事を口に出さないように意識している、つもり。でも、そっか。自分でも気が付かない間に漏れ出ちゃっていたのね。

 

 ううん、いつ頃の事かしら。

 

「アンタがミカから四十万カツアゲした時よ」

「言い方」

 

 本当に人聞きが悪いわね、貸してたお金を返してもらっただけよ。流石に全額は可哀想かなとも思ったけれど、こうやって還元してるんだから許して頂戴。

 

 うーん、あの時なら思ったより最近ね。でも『ついに言ったなー』って事は、カチューシャはもっと前から私の心境に気が付いていたという事。

 最近妙に優しいなとは思っていたけれど、そういう理由があったのね。

 

 じゃあ、つまり。

 

 カチューシャが言おうとしているのは。

 

 

 

「アンタさ、ウチに来なさいよ」

 

 言うと思った。



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(4/6)隣の六尺様

カチューシャ
がんばれ


【カチューシャ】

 

「アンタさ、ウチに来なさいよ」

 

 ついに言った、言ってしまった。我ながら、勇気ある言葉だったと思う。

 言おうか言うまいか結構な期間悩んだのよね。まあ、なんで悩んでたかって言えば、返事が想像出来るからなんだけど。

 

「嫌よ」

 

 ほーらね、言うと思った。ほんっと強情なんだから、寂しがり屋の癖に。私の事をよく『口が悪い』だの何だの言うけど、アンタは性格が悪いわよ。

 

 でも、もう限界が近いと思うのよね。この間の『寂しい』発言もそうだけど、それ以外にも兆候が増えてるなと、見てて思う。

 先月、一緒に夏祭りを見に行った時なんか本当に酷かった。なんやかんやと色々買い込んで、家で食べようって楽しく話してたのに、急に立ち止まって悲しそうな顔をするんだもの、びっくりしたわ。

 人混みの中で孤独感が刺激されちゃったのかしらね。あの時、私は思わず彼女の手を握って引いていた。

 その後は特に何事も無かったから一応は安心してるけど、あの時の顔は今でも忘れられない。放っておいたらあの場で泣き出すんじゃないかってくらい、本当に辛そうだった。

 

 見てらんないのよね、ぶっちゃけ。

 

 彼女が抱えてる孤独感は、並大抵のものじゃないんだと思う。

 私が彼女の家に定期的に顔を出すのには、単に仲が良いという他に、そういう理由もある。これでも心配してるんだからね。

 

 はあーぁ、どうしたもんかしら。

 

「貴女が来なさい、カチューシャ」

「え、ああ、そっか」

 

 成程。それも良いわね、職場も近くなるし。

 今更ながら、こんな軽いノリで決めて良いのかなとも思ったけど、まあ、なるようになるでしょ。

 

 よし決めた、一緒に住むわよ。

 

「大家は何て言うかしらね」

「『ワオ、大きいペットを買ったのね』とか」

「あー、言うわ。腹立ってきた」

 

 意外にも彼女の『大家』のモノマネはそっくりで、それでひとしきり笑った。

 

 そして。

 

「煙草はベランダで吸ってね」

 

「うん」

 

「愚痴も聞いてよ」

 

「いいわよ」

 

「一緒にお酒を飲んだりも」

 

「全部いつも通りじゃないの」

 

「あとね、それから、っ」

 

「ちょ、ちょっと」

 

 彼女が声を詰まらせる。

 はらはらと流れる涙が、お湯に溶けて広がった。

 

「なに泣いてんの」

「うるさい」

 

 うわー、やだなあ。

 空いてるとは言え他のお客さんも居るのに、何もここで泣くこと無いじゃない。まあ、それだけ色んなものが溜まってたって事なんでしょうけど。

 ああもう仕方ないわね、暫くこうしててあげましょうか。

 

 辺りを見回すと案の定、二人連れらしい他のお客さんがこちらを見てくすくす笑っていた。

 

「良いものが見られたわねぇ、しほさん」

「辞めなさい、見世物じゃないんだから」

 

 えっ、嘘でしょ。

 あの二人ってまさか。

 

 驚いてそっちを見返すと、目が合ってしまった。

 

『がんばって』

 

 こちらに向かって小さく手を振る島田流家元の口許が、そう動いたように見えた。

 

 

 

 そんな、お風呂での一幕があって。

 

 

 

 いいだけ泣いた彼女も落ち着いて、部屋に戻るとマホーシャと千代美が入れ違いでお風呂に行った。それとミカ達が帰ってきていて、二人でお菓子なんかつまみながら寛いでいる。どこに行ってたんだか。

 二人は私達の顔を見るなりごそごそと何やら封筒を取り出し、差し出してきた。それを受け取って開けてみると、中には十万円。どうやら借金の残りを払うつもりらしいけど、こんな謎のお金は受け取れないと突っ返そうとしたら、慌ててお金の出所を説明し始めた。

 

「絹代と散歩に行ってきたんだよ」

「居ないとは思ってたけどアンタ達、外出してたの」

「いやあ、はは」

 

 呆れた、折角旅館に来たのにわざわざ出掛けるなんて。

 もう少し突っ込んで聞いてみると、どうもこの旅館には今、ミカにとって『会いたくない人』が滞在してるらしく、そういう意味でも外の方が気楽だったみたい。そう聞いてしまうと私も強くは言えなかった。まあ景色は綺麗な場所だし、散歩も案外楽しいかもね。

 それにしても、こんな場所で『会いたくない人』と居合わせるなんて運が無いわねえ。

 

 いや、それはいいとして結局このお金は何なのよ。

 

「コインが」

「まーたスロットかぁーーっ」

 

 ああ、そう言えば麓にあったわね、品の無いネオンが昼間っからビカビカした店。ミカ一人なら別にいいけど、絹代まで連れて何やってんのよ、全く。

 

 ん、あれ、ちょっと待ってよ。

 

「ミカ、スロットやるお金なんて持ってたの」

「うーん」

 

 怪しい返事。

 

 絹代の方を見ると、彼女は曖昧に笑って目を逸らした。

 あーあー、良くない方に染まってるわねぇ。

 

 まあ、何にせよお金の出所は分かった。方法はともかくきちんと稼いだお金なら良しとしましょうか。

 

「良かったじゃない」

「ん、うん」

 

 お金を受け取った彼女は、何故か少し浮かない顔をしていた。

 ああそっか、例えお金の無心でもミカが定期的に家に来るのが嬉しいって言ってたわね。それもどうかと思うけど。ミカが借金を完済したことで来なくなっちゃうんじゃないかって不安なんだわ。

 

「ま、どうせまた借りに来るでしょ」

「うん」

 

 ほんと、それもどうかと思うけどね。

 

 そして夕御飯。

 戻ってきたマホーシャと千代美を交えて、旅館のコース料理を堪能した。

 前菜から始まって、お造り、炊き合わせ、天麩羅、酢の物、お寿司、どんどん来る。異様にゴージャスなんだけど、一体いくらかかったのかしら。

 今にして思えば、六人で四十万って相当高いプランよね。

 

「あんまり気にしないの」

「はいはい」

 

 注がれたビールを一息に呷る。あー、おいし。

 

 デザートの水菓子をつついてる時、千代美が何かに気が付いたらしくマホーシャにごにょごにょと耳打ちをしていた。何の話だか、マホーシャは『なら後で一緒に行こうか』なんて返している。

 何の事はないやり取りなんだけど、あの二人がやると妙に仲睦まじく見えるなと、改めて思った。あんなのの隣に住んでたら、そりゃ寂しくもなるわ。

 

 二人は夕御飯が終わってから部屋を出て、それから幾らもしないうちに戻ってきた。何やら千代美がにこにこしている。

 レシピでも訊いてきたのかしらね。まあ、料理の話はさっぱりなので深くは追及しなかった。

 

 やがてお布団が敷かれ、さあ寝ようかどうしようかって時間。普段、私は九時頃になると眠くなっちゃうんだけど、今日は珍しく目が冴えている。こんな山の中の旅館だし、やる事なんてもう寝るか話すかぐらいしか無いんだけど、それでも寝る気になれないのは、やっぱり私も内心うきうきしてるのかな。

 ミカ達なんか『そう言えばまだだった』なんて言って、今頃お風呂に行った。何だかんだであの二人が一番楽しんでるような気がする。

 

 ああ、そうだ。

 一応はマホーシャと千代美に報告しとかないと。

 

「何の話だ」

「私達、一緒に住むことにしたから。よろしくね、お隣さん」

 

 言って、ウインクをぱちり。

 どんなリアクションが来るかなと思ったら、残念ながら二人には然して驚いた様子も無く、むしろどこか『予想通り』とでも言うような反応。

 ああ、まあ、そっか。夏祭りの時に手を繋いでるところを見られたような気もしたし、千代美はそういう勘は鋭そうだしね。千代美が気付いてるならマホーシャにも伝わるか。

 

「あまり五月蝿くするなよ」

「分かってるわよ」

 

 なーんか、ちょっと拍子抜け。

 あ。リアクションと言えばもうひとつあったわ。

 

「さっき露天でマホーシャのママに会ったわよ」

 

 そう言うと、マホーシャは一瞬で青褪めた。

 

「お、おいカチューシャ、適当な事を言うなよ」

「本当だってば。島田流の家元と一緒に来てたわ」

 

 重ねた一言でマホーシャは、今度は両手で顔を覆う。更に千代美までもが頭を抱えた。私の隣でごろごろしていた彼女も、顔を引き攣らせて私を諌める。

 

「カ、カチューシャ、それは言わない方が良かったと思うわ」

「ええっ、ちょ、何でよ」

 

 その後。

 私は三人から西住流家元と島田流家元が、過去にどんな関係だったのかをとくとくと聞かされる羽目になった。

 

 えぇー。

 あの二人って、ええぇー。

 

「うああ、否定も肯定もしづらいぃ」

 

 顔を覆ったまま呻き声をあげるマホーシャに、掛ける言葉は見付からなかった。

 うん、まあ、母親が元カノと二人で旅行に来てるなんて知りたくなかったわよね。ごめん。

 

「誰にも言っちゃ駄目よ、カチューシャ」

「う、うん」

 

 確かに、そういう事情ならそっとしておくのが吉だわ。驚かせようとして反対に驚かされちゃった。知れて良かったような、知りたくなかったような。とんでもないこと聞いちゃったわね。

 だけど、これで私も晴れて『お隣さん』になれたのかな。

 秘密を共有すると、仲間に入れて貰えた感がある。

 

『がんばって』

 

 と。

 島田流家元がどんな気持ちで私達に手を振ったのか。

 改めて考えると、ちょっと、物凄い意味だったのかも。

 

 はーあ、頑張ろう。

 

 これからよろしくね。



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二口女の褥

【しほ】

 

 久し振りの休暇。良い旅館を取って、千代と二人で温泉を堪能した。

 温泉のあとは部屋に運ばれてくる料理の数々に舌鼓を打ったし、空いた時間で旅館の周辺を散歩して、紅葉も楽しんだ。

 そうして丸一日楽しんで、心地よい疲れを感じながら布団に入り、旅館の消灯時間が近付きうとうとし始める頃。

 

 千代が私の布団に潜り込んできた。

 

 別に意外という程の事でもない。この旅行、私と彼女の二人で行こうと話した時点でこうなる事は容易に想像がついた。

 かつて好き合い、一緒に暮らしたこともあった二人。その二人で旅行だなんて、何が起きても不思議ではない、と思う。

 予感は、あった。

 

 そう、予感。

 それは、覚悟と言い換えても良いかも知れない。

 

「ふふ」

 

 千代は小さく笑って私の腕を引き寄せ、それを抱き締めるようにして身体を押し付けてきた。

 腕が沈み込んでしまいそうなほど柔らかな千代の身体の感触に、懐かしさがこみ上げる。こうまでされて狸寝入りを決め込むのも白々しい。私は寝返りを打ち、千代と向き合うように体勢を変えた。

 

「おはよう」

「おはよう」

 

 茶番のようなやり取り。

 すっかり上機嫌でいる千代とは裏腹に、私は少し憮然とした表情を作っている。

 

「何をしてるか分かってるの、貴女」

 

 そう、低く言って軽く睨み付けた。

 私達はもう、夫も子もある身。昔とは違う。

 

「こんな、ふしだらな」

「分かってるわよ、しほさんは何も悪くない。そうでしょう」

 

 千代はそう言ってにやりと笑い、身体ごと顔を近付けてきた。千代の胸が私の胸にぐいぐいと押し付けられ、彼女の吐息が鼻にかかる。

 唇を吸われるかと反射的に身構えたけれど、千代はにやにやと笑うだけで、それ以上何もして来なかった。それでも、彼女の吐息が顔にかかるだけで私の自制心がぐらぐらと揺れる。千代はたぶん、それを分かって何もしないのだと思う。私が自制心と戦っているのを、千代は間違いなく見透かしている。

 狙い澄ましたかのように、千代は私の唇に息をふうっと吹き掛ける。それで、自制心がぐらりと大きく揺れた。

 

 千代が悪い。

 そして、私も悪い。

 

 私は千代の腰に手を回し、半ば意識して強引に引き寄せた。

 逃がさないようきつく抱き締め、嬉しそうに身をよじる彼女の唇をこちらから塞ぐ。

 

「んん、ふ」

 

 千代は恍惚としたように目を細め、くぐもった声を漏らした。彼女は私に対抗するように腕を回してきたけれど、力は入っていない。反対に、私の腕は尚もきつく彼女を抱き締めた。こうしてやると、千代は悦ぶ。

 弛緩しきった彼女の口の中に舌をねじ込み、掻き回した。千代も負けじと舌を動かし、私の舌を絡め取る。ぐちゃぐちゃとわざと品の無い音を起てて互いの唾液を吸い、喉を鳴らし、口内を舐め合った。

 

「ぷ、はぁ」

「んく」

 

 口を離す時、千代が名残惜しそうに私の下唇を舐めた。雑じり合った唾液が糸になって、枕に垂れる。それでまた火がついて、繋がって、互いの舌を吸い合った。

 

 そして。

 

「ひゃ」

 

 千代を抱きしめたまま寝返りを打ち、彼女の身体を自分の上に乗せる。

 弾みで唇が離れ、そこでやっと短い会話を交わした。

 

「重くないかしら」

「全然」

 

 私に覆い被さった彼女の柔らかな身体の重みは、昔と変わらず心地好い。

 もはや我慢がきかず、つい浴衣の上から彼女のふっくらとしたお尻に手を這わせると、手触りに違和感を覚えた。

 

「貴女、下着は」

「着ける訳がないじゃない」

 

 当然のように言い放つ。

 呆れた人。薄々分かってはいたけれど、ずっと『その気』だったのね。一体いつから着けていなかったのかしらと考えるに、温泉から上がって浴衣を着た時以外にタイミングは無かった気がする。

 つまり彼女は夕飯の時も、散歩をしていた時も、浴衣の下には何も着けていなかったという事になる。全く、人に見られたらどうするつもりだったのかしら。

 そんなことを考えている間に千代は身体を起こし、私の上で帯を解いてあっと言う間に裸になった。

 

 ああ、綺麗。

 千代の肢体を見て、怒る気持ちが吹き飛んでしまった。

 豊満なのに型崩れをしていない乳房、肉付きの良い真ん丸なお尻。ふさふさとした濃い陰毛の奥はさっきの口付けだけで既に蕩け始めてしまったようで、まるで失禁でもしたかのように蜜が太股まで垂れているのが見て取れる。

 どこをどう見ても、おいしそう。

 

「ねぇ、しほさん。私を上に乗せたって事は、続きがしたいんだと思っていいのよね」

「んん」

 

 千代の声が降ってきた。

 私は彼女に見惚れていたせいで反応が遅れ、返事とも相槌ともつかない間抜けな声を出してしまい、それから少し遅れて頷いた。今ならまだ引き返せるかも知れない。けれどここで止めるなんて、出来る訳がない。

 

「じゃあ、脱いで」

 

 言われるまま私も千代に倣って帯を解き、下着を脱ぎ捨てる。いそいそと服を脱ぐというのは何だか滑稽だと思ったけれど、そんなことに構ってはいられない。

 そうして、ようやく二人とも一糸纏わぬ姿になった。

 

「しほさんの身体、筋肉質で素敵よ」

「やめて、恥ずかしいわ」

 

 彼女に比べれば胸もあまり大きくないし、陰毛も薄く、腰も細い。千代とは対照的な私の身体。恥じらってみせると、千代は満足気にころころと笑った。

 そしてまた私に跨がって覆い被さるように身体を倒し、耳許に唇を寄せて囁く。

 

「あんまり気負わないでね、しほさん。好きな人が沢山居るのは自然なことなのよ」

 

 そう言われ、ああそうかと思った。

 何も夫から千代に気持ちを移す訳ではない。況してや夫を嫌いになる訳でもない。夫のことも千代のことも、どっちも好き。そういう在り方もあるのねと、納得させられた。

 

 千代は体勢を変え、その大きなお尻をこちらに向けた。

 

 私の視界が千代の秘所でいっぱいになった。濃い陰毛に覆われている綺麗なピンク色をしたそこは、もうどちらかと言えば赤みが差しているようにも見えて、彼女も疾うに我慢が出来なくなっていることを示している。

 まだ何もしていないというのに蜜が漏れて、私の胸の上にてらてらと光る小さな水溜まりを作った。

 視線を少し上に遣ると、『前』よりも恥ずかしい後ろの穴がひくひくと蠢いているのが見える。

 

 全部。

 千代の全部が私の目の前にあった。

 

「舐めて」

 

 抗うことは出来なかった。

 

「私のもお願いね」

「ふふ、勿論」

 

 そんな短い会話を交わして、私は舌を伸ばした。



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(5/6)七人ミサキの鍵

六人が二人

二人が二人

二人が三人

三人が六人

最後の一人で七人に


【千代美】

 

 消灯時間だけど眠くない。そんなひととき。

 ミカと絹代もお風呂から戻り、みんなで布団に寝転がってどうでもいいことをだらだらと話している。

 

 今の話題は、季節外れの怪談。

 発端はダージリンが話し始めた、大学生の頃にみんなで泊まった旅館の話。それで初めて知ったんだけど、あの旅館は『幽霊が出る』という噂が絶えなくなって潰れたらしい。ダージリンも、今回の旅行を計画するに当たって調べていて知ったとか。

 そして私とまほは、まさにあの旅館で幽霊らしきものを見ている。その話を掘り下げていくうち、信じない派の絹代も私達と同じものを見ていた事が分かって、皆できゃあきゃあとひとしきり騒いだ。

 

 その後、他にも誰か怖い話を持ってないかと話していると、意外にもまほが名乗り出た。

 

「私自身は『怖い話』だと思っていないんだが、人に話すと必ず怖がられる体験談がひとつある」

 

 そんな語り出し。みんな、いいねいいねと食い付いている。

 私も初めて聞く話だったので、ちょっと期待が高まった。

 

「短いぞ」

 

「私が幼い頃に起きた、熊本の実家での出来事だ」

 

「実家の敷地にある、古い井戸の話」

 

「小学生の頃だな、私はその井戸に誤って落ちた事がある」

 

「まあ幸い大した怪我もなく、幾らもしないうちに救出されたんだが、その時に少し不思議な事が起きた」

 

「私の服がほとんど濡れていなかったんだ」

 

「子供の身長では足が付かないほどの水位があったにも関わらず、だ」

 

「大人は首を傾げていたが、実はそれには明確な理由がある」

 

「言ってもまず信じて貰えない事なんだが」

 

「井戸の底に髪の長い女性が居てな。救助が来るまでその人が肩車をしてくれていたんだ」

 

 あっ、怖い。

 普通に怖い。

 

 いやいやいや、怖いぞそれは。その人が幽霊でも人間でも怖い。短いけどゾクッと来た。みんな言葉を探すように黙り込んでしまった中、ダージリンが辛うじて口を開く。

 

「ゆ、夢とかじゃないの」

 

 まあ、夢でしたってオチも十分あり得る。そうでなくとも、幼い頃の記憶って色々ごっちゃになってたりするし。まあ、まほ本人がそれを判断出来るかどうかは微妙なとこだけど。

 

「私も夢の可能性は考えた。しかし、どうも間違いなく現実にあった事でな、確証があるんだ」

「確証って、どういう事よ」

 

 カチューシャが相槌を打って先を促すと、まほはまた語り出した。

 

「うちに長く勤めている使用人で、菊代さんという人が居る」

 

「私を救助する際、菊代さんもその、井戸の底に居た人を見ているんだ」

 

「菊代さんは私を引き上げたあと、その人のことも助けなくてはと思って再び井戸を覗いた」

 

「その時には居なくなっていたらしい」

 

「今でも時々、当時を思い出して菊代さんと話すんだ」

 

 お、おおぉ、だいぶ怖い。

 その女性の正体が最後まで不明瞭なのがすごく、それっぽい。

 髪が長いって話だから一瞬しほさんかなとも思ったけど、まほの話し振りだと菊代さんどころかまほ本人でさえ『その人』としか認識してないみたいだし、そうなるとしほさんではあり得ない。

 

「何でお前はそれを『怖い話』と思ってないんだよ」

「私は『優しい人に助けられた話』だと思ってるからな」

 

 そ、そういうもんか。

 まあ紙一重だからなあ、怖い話と不思議な話って。実際に助けられたまほからすれば、そう考えててもおかしくないか。

 おかしくない、んだろうか。

 

 うーん。

 

「ね、ねえ絹代、トイレに行きたくはないかい」

「私は大丈夫ですが、ミカ殿が行きたいと仰るならば喜んでお供致しますっ」

「あっ、うん」

 

 ミカと絹代はトイレへ。微笑ましかったな、今の。

 それに触発されて、カチューシャとダージリンも連れ立って部屋を出た。ダージリンがカチューシャの浴衣の裾を掴んでいるのが物凄く可愛かった。

 

 しん、と静まり返る部屋。

 なんだか急に静かになったな。私とまほ、二人きりだ。

 寝転がったまま、ずりずりと体を移動させてまほに体を寄せた。

 

「千代美も、そろそろだろう」

「そうだけどさ」

 

 でもその前に、したい事がある。

 まほに向かって顎をくいっと上げ、目を閉じた。

 

「んん」

 

 仕方ない奴だなとでも言うように鼻の奥で唸り、まほは私の体をぐいっと抱き寄せた。そして息をつく間も無く、乱暴に唇を重ねる。

 当たり前のように侵入してきた舌が、私の口の中で暴れた。本当に乱暴で、強引なキス。

 

「あむ」

「んんっ、ふふ」

 

 私の後頭部を押さえ付けるまほの手に力が籠る。まるで、逃がすまいとしてるみたいだ。最早どちらのものかも分からない漏れ出る吐息と、ぴちゃぴちゃという唾液の音だけが室内に響いている。

 一体何分そうしていたか。やがてどちらともなく、ぷは、と唇を離した。

 はあっ、と息を吐いて、まほの腕の中で身体の力を抜く。

 

 最っ高。

 

「長かったな」

「言わなくていいよ、恥ずかしい」

 

 我慢してたんだよ。分かれよ。

 この旅行のどこかで、絶対に一回はキスしたいなと思ってたんだけど、そのタイミングが全然無かった。旅館に着いてからのまほは死にそうになってたし、お風呂は混んでたしさ。今しか出来ないんだから、しょうがないじゃん。

 

 それと、これから一人で出なくちゃいけないのがちょっと怖いんだよ。誰かさんの怪談のせいでさ。

 

「ふふふ。すまなかった」

 

 笑うまほの頬を軽くつねって立ち上がった。彼女も言うように、そろそろ時間だ。

 部屋の鍵は持たなくてもいいかな。まほに開けて貰えばいいし、じきに皆も戻って来るだろうしな。

 

「じゃあ、留守番よろしく。ちょっと浮気してくる」

「馬鹿を言ってないで早く行け」

 

 まほに毒づかれながら、部屋を出た。

 

 長い廊下を歩く。

 深夜というほど遅くはないけど、消灯の時間は過ぎてるから館内は薄暗い。さっきのまほの怪談の余韻がちょっと残ってて、自然と足早になった。

 怖い話の後だからかエレベーターは何となく気が進まなかったので、階段を使う事にする。小走りで一階まで降りると、ロビーは流石に煌々と灯りが点いていてなんだかホッとした。

 人気の無いロビーの中で暇そうに呆けてる『彼女』を見付け、声を掛ける。

 浮気相手でも、ましてや幽霊でもない。

 

「ペパロニ」

 

 声を掛けるとペパロニは顔を上げ、こちらを見るなりとびきりの笑顔を満面に浮かべて駆け寄ってきた。

 

「姉さんっ、お久し振りっすーー」

「うわぁ馬鹿、大きい声を出すなよ。消灯時間過ぎてるだろ」

 

 言われて慌てて口を押さえるペパロニ。

 全く、それでも従業員かよ。

 

「うへへ、すんませんっす。それにしても、よく気付いたっすね」

「気付くってそりゃ」

 

 夕食の最後、デザートに出た水菓子を一口食べてすぐに分かった。あれを作ったのはペパロニだって。

 食後、まほと一緒にフロントに訊きに行ったら、やっぱり間違いなかった。ただ、そうは言っても厨房に押し掛ける訳にもいかないから、こうして仕事が終わる頃に会う時間を取って貰った。

 私の味覚も、まだまだ捨てたもんじゃないなあ。

 

「作ったって言っても、フルーツ盛っただけっすよ」

「シロップが完全にお前だったんだよ」

 

 あれは間違いなくアンツィオで何度も食べた味だった。

 そう言ってやると、ペパロニは照れたように笑った。

 

「すっごく美味かった」

「あざっす。やっぱり姉さんに誉められるのが一番嬉しいなあ」

 

 話を聞くと、ペパロニは料理の腕前を見込まれてスカウトされ、それでちょっと前からこの旅館で働いているらしい。凄いよなあ、『ちょっと前から』で既にコース料理のデザートを任されてるなんてさ。

 なんだかそれは、私まで誇らしい。

 

「皆さんお元気っすか。まほ姉さんも、ダーさんも」

「元気だよ、二人とも」

 

 実はみんな来てるんだよ、と話すとペパロニは少し残念そうな顔をした。

 

「えーっ、会いたかったっすわあ」

「ごめんなー」

 

 仕事帰りのペパロニを大勢で捕まえるのは可哀想だし、騒がしくなっちゃうから会うのは私だけにしたんだけど、みんなで来ても良かったかなあ。でも消灯時間が過ぎてる事を思うと、やっぱり大勢では動きづらいしな。仕方ないか。

 

「また遊びに来いよ」

「マジっすか、行きます行きます。またナポリタン作ってください」

「ほんと好きだなあ、お前」

 

 何歳になってもやり取りは昔と大差ない。

 高校での先輩後輩の関係はとっくに終わってるのに、私達は未だに『姉さん』と『ペパロニ』なんだ。フロントに確認する時は流石に本名を告げたけど、全然慣れなかったもんなあ。

 

 それから後、もう少しだけ他愛のない会話を交わしてペパロニと別れた。従業員の通用口らしき地味なドアに向かった彼女は、律儀にも一度こちらを振り返って一礼した。

 私はそれに、ひらひらと小さく手を振って応える。

 

 ありがとうな。お疲れさま。

 

「あら、千代美じゃない」

 

 さて戻って寝ようか、なんて考えていたら不意に声を掛けられビクッとした。今の今までペパロニと話していたから忘れかけてたけど、一人になってみるとロビー内はすごく静か。そんな場所で急に名前を呼ばれるっていうのは、なかなか心臓に悪い。

 見ると、カチューシャとダージリンだ。トイレは各階にある筈なのに一階まで降りてきてどうしたんだろう。

 

「自販機コーナーでも眺めよっかー、ってなってね」

「部屋の扉が開かないのよ」

「ええっ、まほが留守番してる筈だけど」

 

 まさかとは思うけど寝ちゃったんだろうか。

 いや、だとしたら、いくら何でも早すぎるな。私が部屋を出て、みんながトイレから戻るまでの間と考えるとごくごく短時間だ。

 

「それは、まあ」

「まあ、ねえ」

 

 目を逸らし、頬を赤らめて歯切れの悪い声を出す二人。

 

 あっ、ごめん、野暮だった。

 思い返せば二人は『トイレに行く』とは言ってなかったっけ。そう言えば私が廊下を歩く間、誰ともすれ違わなかったし、つまりミカ達もトイレ以外になんかしてるって事か。

 

 なんか。

 

 長時間、開いたんだな。

 留守番のまほが寝ちゃうぐらい。

 

「千代美はここで何してたの」

「ペパロニと会ってたんだよ」

 

 ダージリンもカチューシャも、春にペパロニが遊びに来た時に彼女の料理をつまみにお酒を飲んでいる。

 経緯を話すと二人とも残念そうにした。

 

「あのデザート作ったの、ペパロニだったのね」

「ペパロニさんなら私達も会いたかったわ」

「ごめんごめん、時間が時間だから騒がしくなったら悪いと思ってさ」

 

 またそのうち遊びに来るよ、と濁す。

 

 それよりたぶん、解決しなくちゃいけない問題がある。

 部屋の扉が開かないって言ったよな、ダージリン。

 

「そうそう。千代美さん、鍵を持ってたりしないかしら」

「いやー、私が出てくる時にテーブルの上にあったから部屋の中なんだ」

「げっ、マジで」

 

 マジマジ。

 

 こりゃ大分まずいぞ、どうしたもんだろう。

 まあフロントに言えば合鍵かなんかで開けてくれるとは思うけど、ペパロニが働いてる旅館でそういう騒ぎを起こすのは、なんか、ちょっとなあ。私がペパロニの先輩だって事はフロントに確認した時に話しちゃったし。下手すりゃペパロニにまで恥をかかせることになる。

 出来れば内緒で解決したい。さて何か良い方法は無いだろうか。

 

「電話でもしてみるか」

「あら名案」

 

 まほは矢鱈と耳が良いから、電話を鳴らせば一発で起きる筈。それで行こう。ああでも、私はスマホも部屋に置いてきちゃったな。

 

「私も煙草しか持って来なかったわ」

「ごめんなさい、私もスマートホンは部屋に置いてきちゃった」

 

 はい。

 

 良い考えだと思ったけど、残念ながらお流れに。

 考えれば考えるほど、恥を忍んでフロントにお願いする以外の道が無くなっていく。

 

「あらあら、皆お揃いで」

 

 またぞろぞろと、今度は三人やってきた。その顔触れを見て、危うく『うわぁ』という声が出そうになるのを堪える。

 

 げっそりした表情のミカ。

 やや緊張した面持ちの絹代。

 そして、何故かニッコニコの島田千代さん。

 

 ものすごい絵面。

 どういう集団なんだ、というか何があったんだそれ。

 

「うふふ、トイレでばったり会っちゃったのよねぇ、ミカちゃん」

「『ちゃん』は止めてください、島田さん」

 

 へえ、千代さんとミカって面識あったんだ。でも、何となく雰囲気で分かってしまった。ミカの言う『会いたくない人』って千代さんだったんだろうな。

 深くは突っ込まないけどさ。

 

「ミカ殿が用を足している個室に、島田の家元が少々悪戯をされまして」

「き、絹代、その辺にしてくれるかな」

 

 何があったやら。いずれにせよ碌でもないことが起きたのはよく分かった。まあ、それはそれとして、経緯はどうあれこの御一行が降りてきたのも似たような理由だろう。

 一応訊いてみようか。ミカはそもそもスマホを持ってないけど絹代はどうだろう。

 

「家に置いて参りました」

「家に」

 

 ちょっとレベルが違った。

 

 いよいよもって八方塞がりか。もう仕方ないな、フロントに頼もう。時間も遅いしぐずぐず考えてるのも限界だ。

 すると、ここまでの事情を聞いた千代さんが事も無げに言った。

 

「あら、まほちゃんに電話するならしほさんに頼みましょうか」

 

 あ゛っ。



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(6/6)うわんの砲

うわん


【まほ】

 

 スマートホンの着信音で目が覚めた。

 留守番の間にすっかり眠りこくってしまっていたことを寝惚けた頭で思い出し、飛び起きる。これは皆に悪いことをしてしまった。留守番の私が眠っていては誰も部屋に入れなくなってしまう。

 電話は大方『中に入れてくれ』という内容だろうと察しがついた。電話を取り耳に当てると、その推察は当たらずとも遠からずといったところ。

 しかしその相手は、思いも寄らない声をしていた。

 

『まほ、部屋を開けなさい』

 

 心臓が跳ねるのを感じた。

 何故、お母さまから電話が掛かって来るのだろう。まさか二十代も半ばに差し掛かろうという齢で、母親に叩き起こされる羽目になるとは思わなかった。兎にも角にも、狼狽えている場合ではない。開けろと言われたら開けるしか無いのだ。そう、身に染み付いている。

 ばたばたと部屋の戸を開けると、スマートホンを耳に当てたまま呆れた顔をしているお母様と、以下六名の視線が私に突き刺さった。

 

「ご、ごめんなさい」

 

 反射的にそうは言ったものの、肚(はら)の底では果たして私だけが悪いのだろうかとも思った。お母様達や千代美はまだ分かるが、他の四人。トイレに行って帰ってくるだけで一体何分掛かってるんだ、お前らは。

 若干の気まずい空気の中、お母様達とぎこちない挨拶を交わして別れた。そして、改めて就寝。など出来る筈もなく。灯りを消し、暗くなった部屋の中で何やら話しながらくすくすと笑い合う声がそこかしこで聞こえた。全く、寝る時まで騒がしい連中だ。これなら戸を開けずに一人で眠っても良かったな。

 布団の中で人知れずため息をつくと、不意に脇腹をつつかれ『ふぎゃあ』という無様な声を出してしまった。

 

「い、今の声はもしかして、まほさんかしら」

「ふぎゃあって言ったね、ふふふ」

 

 笑いを抑えきれないダージリンとミカの声に呼応して、他の面々も笑い出す。何という不覚だ、よくもやってくれたな。言っておくが犯人の目星は付いているぞ。

 

「千ー代ー美ー」

「んふ」

 

 隣の布団に潜り込み、まだ笑いを堪えている千代美の尻を触ってやると、彼女も『うひゃ』と声を上げた。ふふん。

 そんな益体のない戯れ合いを何だかんだで零時近くまで続け、結局我々が寝静まったのは一時を回る頃だったのではないかと思う。

 

 そして、一夜明け。

 

 ダージリンとカチューシャ、ミカと絹代、そしてお母様と島田のおばさま。彼女達は一足先に旅館をチェックアウトし、帰路についた。

 私と千代美は旅館に残り、ロビーの椅子に腰掛けて外を眺めている。別に、置き去りにされたという訳ではない。駅と旅館を結ぶ送迎のバスが出ているというので、私達はそちらに乗ることにしたのだ。

 来る時はダージリンの車に乗せて貰ったが、あれはどうにも淑女にあるまじき運転をする奴で、毎回寿命の縮まるような思いをさせられる。皮肉にも、ダージリンの運転する車に乗って初めて戦車という乗り物の安全性を痛感した程だ。

 

 お父様が言っていた。戦車と普通の自動車は別物であると。

 当たり前の事のようにも聞こえるが、戦車道経験のある女子はその違いへの対応に苦労するそうだ。どうも『突破する』『撃つ』といった選択肢が頭から抜けず、それが運転に表れてしまうらしい。普通の自動車では戦車のような揺れが感じられないのも、人によっては落ち着かないようだ。

 公道で危険な運転をしているドライバーに若い女性が多いのは、そうした理由があるからだという。

 しかし、いくら何でも公道での運転を始めて何年も経過すれば、流石に慣れるのが普通ではないだろうか。ダージリンの運転が一向に上達しないのは最早、天性のものと言うほか無い。あれは上達しないのではなく、もう、ああいうものだと思うべきなのだろう。

 天性という言葉が適切かは、まあ分からないが。

 

「そういや、ダージリンに戦車を貸したら速攻で壊された事があったなあ」

「そんな事があったのか」

「あったんだよ。って言うかお前も居たろ」

 

 言われ、記憶を辿る。

 

 ああ、そういえばそんな事があったような気もする。

 あれは高校生の頃だったか。雑誌の企画か何かで各校の隊長が集まって、それぞれの戦車を交換して乗った事が確かにあった。あの時か。

 

「そうそう、そのせいで一番大切な戦車が入院しちゃって大変だったんだから」

「ははは」

 

 当時のことを思い起こせば笑い事ではない筈だが、千代美の話し振りが何だか面白くて笑ってしまった。

 

 しかし、そうか。

 ダージリンはそんなに昔から、というか自動車も戦車も問わず運転が下手だったということになるのか。ならば矢張り、一生治らんものと思うのが良さそうだ。

 治らんと言えば、私が彼女の運転に一向に慣れないのも一生ものではないかという気がしている。酔い止めを飲んでも効果が無いのでは、もはや打つ手は無いだろう。体質と言うか、なんと言うかだ。

 

 相性とでも言うべきなのかも知れない。

 

「あるかもなあ。カチューシャは何だかんだ言って、全然酔わないし」

「んん」

 

 言われてみれば、確かにそうだ。

 カチューシャはダージリンの運転を酷い酷いと言うが、酔う事は一切無い。矢張り相性か。

 

「一緒に住むって言い出したし、相性は間違いなく良いだろうなー」

「うん。付き合いの長さで言えば私達より上だ」

 

 詳しく聞いたことは無いが、少なくともあの二人は高校生の頃から既に茶飲み友達として学園艦を行き来する仲だった。思い返せば、戦車道でみほを下したコンビでもある。相性というなら抜群なのだろう。

 しかし、彼女らが一緒に住むことで然して何が変わるとも思えないのが少し可笑しかった。

 

「私はちょっと、ホッとしてるけどな」

「どうして」

「ないしょ。えへへ」

 

 妙な含み笑いをする千代美の手が伸び、膝の上に置いた私の手に重ねられた。とりあえず握り返してやったが、何を思っているのかは分からない。まあ機嫌が良さそうなので何よりだ。

 握った手をぐにぐに揉んでやると、千代美はくすぐったそうにまた笑った。

 

「そう言えば、バスがなかなか来ないな」

「あれっ、本当だ。時間も過ぎてるのになあ」

 

 ちょっと確認して来る、と言って千代美はフロントに向かった。

 すぐに戻ってくるものかと思ったら何やら話し込んでいるようだったので、私はその間に近くの自販機で水を買い、酔い止めを飲んだ。大丈夫だろうとは思うが念には念を、というやつだ。

 

 ややあって、戻ってきた千代美から事情を聞いた。

 

「フロントでバスに連絡を取ってくれたよ。もうすぐ着くってさ」

「何かトラブルでもあったのか」

「それがさあ、地元の暴走族に囲まれてたんだって」

 

 なんと、暴走族とは。迷惑な話もあったものだ。

 いや、というかそれは、バスの事よりも我々より先に出たダージリン達の身が心配になる。大丈夫なのだろうか。

 千代美が、気まずそうに何かを言い澱んでいるのが伝わってきた。水を渡すとそれを一口だけ飲み、少しの間を置いて口を開いた。若干の緊張が走る。

 

「二人乗りの戦車が空砲を撃って追い払ってくれたってさ」

 

 お、おお。

 

 成程、そういう事なら心配は要らないな。間違いなくあの二人の仕業だ。

 お父様の言葉を信じていなかった訳ではないが、漸く説得力のようなものを感じることが出来た。あれは恐らく実体験に基づいた話だったのだ。

 二人で苦い視線を交わす。

 

 そうしたところで丁度、件のバスが着いた。

 宿泊客らしき団体がぞろぞろと降りてくるのが見える。

 

 あれが落ち着いたら乗るとしよう。

 千代美の手を取り、立ち上がった。

 

「帰るか」

「うん」

 

 たまには災難の無い旅行がしたいものだ。騒がしい連中を置いて千代美と二人きりでなら、それも叶うのだろうか。

 

「叶うかも知れないけど、騒がしい方も私は好きだなあ」

「そうかな。そうかも」

 

 何にせよ次がいつになるかは分からないが、またどこかに行きたいな。千代美の手を握り、そんなことを考えた。




疲れを癒すための旅行で、余計に疲れるなんてのはよくある話。

だけどきっと、それはとても心地よい疲れ。

また来ようね。

そんな訳で温泉旅行の最終話です。
楽しかったかな。
疲れたかな。
良ければ感想くださいね。

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おとないさんの目

おめジリン


【ダージリン】

 

「ワオ、大きいペットを買ったのね」

「うっさい」

 

 案の定ジョークを飛ばしたケイにカチューシャが毒づいて、不機嫌そうにソファに身を沈めた。長い脚を組み、その膝の上で頬杖をつく。高校生の頃と比べて身長が劇的に伸びたカチューシャ、彼女は昔も今も『身長』を揶揄されることを快く思っていない。

 低身長というコンプレックスは解消されたものの、今度は高身長というコンプレックスに悩まされているという、それこそジョークのような状態になっている。

 彼女の身長は今、一体いくつあるのか訊ねたら『六尺』という捻くれた答えが返ってきたことがある。数字を言うのも嫌、という事なんだと解釈した。

 けらけらと笑うケイを、カチューシャはじろりと睨み付けた。

 

 今日、ケイがここに来たのは家賃の値上げについての話をするため。新しくカチューシャが一緒に住むようになったことで『入居者』が増えたので、大家である彼女にそのことを話したらいかにも渋々といった感じでやって来た。

 

「気にすること無いのに」

「そういう訳にも行かないでしょう」

 

 大らかというか、なんというか。単に計算が面倒なだけのようにも見える。半々かしら。自分の利益に関わることなのに、ここまで適当でいられるのもある意味凄いと思う。

 でも、何にせよ一応は契約なんだから、きちんとしないと。

 

「真面目ね」

「普通なのよ」

 

 私は間違ってない、と思う。

 

 その後、何故か諸々の計算を私がする羽目になり、カチューシャとケイは冷蔵庫からビールを引っ張り出して飲み始め、書類が出来上がる頃には二人もすっかり出来上がっていた。

 というかむしろ、ケイは酔い潰れて横になってしまっている。まだむにゃむにゃと何か喋ってはいるけれど、眠りに落ちるのも時間の問題という感じ。

 こうやって何だかんだと周りが勝手に世話を焼くお陰で、結果的に得をするように出来てるのよね、彼女。『人徳』というものの極致のような人。羨ましいことだわ。

 

「しょーがないわねぇ」

 

 カチューシャがケイを軽々と抱き上げ、寝室に運んだ。

 まあ、車で来ておいて飲み始めた時点でこうなるだろうなとは思っていた。放っておけばそのうち起きるでしょう、たぶん。

 暫くして、ケイを寝かせてリビングに戻ってきたカチューシャがソファにどっかりと腰を落とした。ソファの左側、そこが彼女の定位置。私も、その隣の定位置に腰を降ろす。

 

「お疲れ様」

「アンタもね」

 

 これで、カチューシャが正式に『同居人』という事になってしまった。まさかこんな未来があるなんて、思いもよらなかったわ。勢いで決めたはいいけれど、これからどうなる事やら。

 正直に言えば、期待より不安の方が大きい。カチューシャとはこれまでずっと仲良くやってきたものの、果たして環境の変化がこの関係にどんな効果を齎すのか。上手くやっていけるかどうか。嫌われたりしないか、とても不安。

 なんだかいつものように軽口を叩き合う気になれず、押し黙った。

 

「そんなに固くなんないでよ」

「う、うん」

 

 そう言われ、何故だか妙に緊張してしまって、ますます固くなる。

 そんな私を見て、カチューシャがため息をついた。

 

「馬鹿ねー。同居ってアンタ、隣みたいなのを思い浮かべてるんじゃないの」

「そ、それは」

 

 返答に詰まった。

 それは、確かにある。私にとって『同居』と言えば、隣のまほさんと千代美さんのような仲睦まじいものである印象が強い。私の中であれが基準になってしまっているから、だから緊張してしまうというのは、確かにその通り。

 

「と言うよりは、隣みたいな事をしたいのかしら」

 

 にやり、とカチューシャの口の端が吊り上がる。

 

 心臓が自分でも驚くほど大きな音を起てた。

 それも、ちょっとはある。『隣みたいな』仲睦まじい同居生活。憧れはあるし、そんな想像を巡らせたことも一度や二度ではない。

 そして、そんな時に『相手』として思い浮かべるのは。

 

 カチューシャは私の反応を窺うように、目を細めてじっとこちらを見つめている。

 不意に、彼女の長い腕が腰に回され、ふわりと引き寄せられた。

 

「ひゃ」

「嫌ならやめるけど」

 

 嫌、ではない。と思う。

 でもまだ、心の準備も、気持ちの整理もついていない。私のことを奪ってくれるのはきっとカチューシャなんだろうなという気持ちはあったけれど、それでも、私にはまだ、好きな人が居る。

 体が密着したことで高鳴る私の鼓動が伝わってしまうんじゃないかと心配した矢先、カチューシャが立ち上がってソファに手を掛け、私に覆い被さるように姿勢を変えた。私よりもずっと大きな彼女の体が視界を塞ぐ。

 

「アンタ、震えてるのね」

「う、うるさいわよ」

 

 お腹に力を入れ、カチューシャを睨み据える。

 それが合図だったかのように、カチューシャの整った顔がゆるゆると眼前に迫った。彼女の、酒気を帯びた息が顔に掛かる。切れ長の眼が私の唇を捉えているのが分かった。

 ああ。

 

 ぎゅっ、と目を閉じた。

 

 そしてカチューシャは何故か、本当に私に覆い被さって全体重を預けてきた。一瞬、何が起きたのか分からなかったけれど、間を置かずに彼女の鼾(いびき)が聞こえた。

 え、嘘でしょ、寝ちゃったの。

 

「ちょ、ちょっと」

「んんん」

 

 んんんじゃないし。

 こうなってしまっては、彼女は揺すっても叩いても起きない。思わず全身の力が抜けてしまった。全く、肩透かしにも程があるわね。とんだ酔っ払いだわ。

 無駄にどきどきしちゃった。

 

「あの」

 

 突然の声に驚いて、リビングのドアに目を遣る。そこには、ものすごく申し訳なさそうな顔をしたまほさんが、ドアを半分だけ開けてこちらを覗き込んでいた。

 

「醤油を、返して貰いに来たのですが」

「え、ええ、なんで敬語なのよ」

 

 テーブルの上にはビールの空き缶に混じって、昨日、隣から借りてそのまま置いていた醤油差しがある。ああ、うん、借りた物は返さないといけないわよね。でも、今はちょっと動けない。見ての通り、カチューシャが私の上で眠っているお陰で。

 

「失礼します」

 

 妙に畏まった挨拶をしつつ入ってきたまほさんは、そそくさと醤油差しを掴んで、逃げるように部屋を出た。

 ううん、いつからあそこに居たのかしら。

 

 っていうか、どうしよう、この状況。

 耳許で鳴り響くカチューシャの鼾に顔を顰めつつ、私は途方に暮れた。

 

「んんん」

 

 んんんじゃないし。

 

 馬鹿。



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浄土の如

チョビ誕おめ


【千代美】

 

 なんとも、複雑な心境だ。

 

「お母様、千代美に構い過ぎです」

「あなたは毎日会っているからそんな事が言えるのよ、まほ」

 

 まほとしほさんの親子喧嘩。原因は見ての通り、私。

 私の誕生日をお祝いしてくれるってことで、まほの実家に招かれたまでは良かったけど、まさかの展開に少しびっくりしている。

 

 いつもは、到着するとまず菊代さんに出迎えられて応接室に案内され、そこで待っているしほさんに挨拶をするのがこの家での慣例だ。この『菊代さんに出迎えられて』というのが実は結構大切で、菊代さんに緊張を解して貰いながら、これからあの西住しほと顔を合わせるんだ、という心の準備をする時間になる。はっきり言って必要不可欠。

 今日はそれをすっ飛ばして、しほさんに出迎えられた。

 玄関先で『よく来たわね』と顔を出された時、私もまほも面喰らって固まってしまった。まさか玄関を開けたらそこに西住しほが立っているなんて思わないだろう。

 それがとりあえず序の口。

 

 その後も、しほさんは何やかやと世話を焼いてきた。

 夕方に出す料理の味見をさせてくれたり、お勧めの小説を貸してくれたり、終いにはまほの部屋で寛いでいる所に顔を出して、座布団の具合まで訊いてきた。

 それが決定打となって堪忍袋の緒が切れたらしいまほが、しほさんに突っ掛かり始めて現在に至る。

 

 いやあ、どうしたらいいんだろうな、これ。

 

「放っておけばよろしいのですよ」

 

 にこやかに言い放つ菊代さんに、ちょっとびっくり。だけど彼女が言うには、あれも親子のコミュニケーションなのだから、好きにさせておけばいいという事らしい。

 そう言われると、まあ確かに。面と向かって喧嘩だなんてそうそうある機会じゃない。あの二人は特にそうだろう。

 

 貴重っちゃ貴重、なのか。

 

「この間に散歩でも如何でしょうか。ご案内しますよ」

「うーん、そうですね。お願いします」

 

 菊代さんに誘われ、まだやいやい言っている二人を置いて庭に出た。

 西住家の敷地は広い。庭をぐるりと見て回るだけでも、ちょっとした運動になる。この家で飼っている柴犬を連れて、菊代さんと話しながらのんびりと歩いた。

 

「相済みませんね、折角の日に」

「いえ、そんな」

 

 すみませんと言うなら、こっちの方こそ喧嘩の種として申し訳なく思っている。それに、菊代さんが謝ることもないと思う。

 って言うか、よく考えたら誰も悪くないんだよな。まほもしほさんも別に悪気がある訳じゃないし。

 

 二人とも不器用なだけなんだろう、きっと。

 

「ええ、本当に」

 

 困ったように笑む菊代さんに、何故だか一瞬、自分が重なって見えた。似てるのかもなあ、私と菊代さん。どこがとは上手く言えないけど、なんとなく。

 それからもう少し歩いた後、縁側に腰掛けて少し休憩。わんこがまだ歩きたい様子で鼻を鳴らしたり紐を引っ張ったりしてるけど、ちょっとだけおあずけ。ごめんなー。

 

「お茶を淹れて参りますね」

「あっ、どうも」

 

 なんだか扱いが良すぎて、逆に恐縮する。

 

 すたすたと行ってしまった菊代さんを見送り、ふう、と息を吐いて庭を眺めた。普段なら絶対味わえないほどの静けさだ。縁側で休んでるだけなのに非日常、って感じ。

 

 少し冷たい秋風が気持ち良い。

 思えば遠くに来たもんだな。距離の話じゃなくて、もっと別のこと。西住家の縁側で寛ぐ日が来るなんて、昔の自分が知ったら何て言うだろう。高校生の頃、西住まほにただ想いを寄せていただけの自分に自慢してやりたい話が沢山ある。

 ふふふ、嬉しいなあ。

 

 一人でにまにましていると、わんこが突然、大きく一声吠えた。

 いきなり吠えられてびっくりした私は、迂闊にも紐を握る手を離してしまい、わんこはその隙を見逃さず走り出した。

 

 あっ、やばっ。

 

 慌てて追い掛けると、わんこはそれが嬉しかったらしく、最高潮に達したテンションで広い庭を滅茶苦茶に駆け回る。

 暫く続いた追い掛けっこは、わんこが不意に立ち止まったことでようやく終わり、私はぜえぜえ言いながら追い付いて、その紐をまた握った。

 

「案外悪い子なのな、お前」

 

 人差し指で額をつついてやると、わんこは不安そうに鼻を鳴らしてこっちを見上げた。

 怒られて凹んだのかと思ったら、どうもそういう訳じゃないらしい。わんこが立ち止まって見つめる先。生え放題の草むらの中に、古びた井戸があった。なんだ、あれが怖いのか。

 

 あれっ、この井戸って、もしかして。

 

 近付こうとすると、握った紐の感触に抵抗があった。

 振り返ると、わんこがその場に座り込んでいる。あれだけ走り回った癖に、今度は動きたくないらしい。ぐいぐい引っ張っても意外なほどに強い力で踏ん張っていて、頑としてその場を動かない。

 

 紐を尚も引っ張ると、突然抵抗が無くなった。

 

 わんこが動いたのかと思ったら、違う。

 

 首輪が、すっぽ抜けたんだ。

 

「あっ」

 

 その弾みで井戸の縁にぶつかり、私の身体はそのまま真っ逆さまに落下し、一番下で派手な水音を起てた。

 

 

 

 

 

「ぶへっ、げほっ、げほっ」

 

 うええっ、飲んじゃった。大丈夫な水なんだろうか、これ。

 逆さに落ちたせいでどっちが上か分からなくなり、水面から頭を出すのに少し手間取った。咳き込みながら、落ち着くように意識しつつ状況を整理する。

 

 まあ、とりあえず、死んだかと思った。

 頭から落ちて死ななかったのは、そこそこ水位があったお陰か。まさに九死に一生ってやつだ。とは言え『死ななかった』というだけで、助かったとは言い難いなあ。どうやって脱出したもんか、さっぱり見当がつかない。

 よじ登るのも、勿論無理だ。

 

 あんまり考えたくないけど、このまんまだと非常にまずい。

 

「おーーーい」

 

 叫んではみたけど、わんこが鼻を鳴らしているのが微かに聞こえただけだった。

 あいつめ、やってくれたなあ。反省しろよ。

 

 しかし、こりゃ本気でやばいな。

 誰かが探しに来てくれるのに期待するのが妥当か。お茶を待ってる所で居なくなったことを考えれば、菊代さんは探してくれるだろうけど、果たしてこの井戸まで来てくれるかは、分かんない。

 水も結構冷たいし、長時間待つのはちょっときついなあ。胸まである水位のお陰で、私の身体は既にかなり冷えている。

 

 誰かがきっと来ると思いたい。

 

 はは、井戸の底で『きっと来る』だなんて縁起でもない。

 

 誕生日だってのに災難だ。

 

 まほに会いたい。

 

 落ち着こうとしても、思考はなんだか支離滅裂だ。ほとんど不貞腐れたような気分で井戸の壁に凭れかかり、狭い空を見上げた。狭くて真ん丸の空。

 ふと、見上げた空に浮かぶ雲の切れ間から何かが落ちてきた、ように見えた。

 まあ雲から物が落ちてくる訳もない。たまたま『それ』が落ちてきたタイミングと私が見上げたタイミングが重なったってだけのことだろう。

 でもその時の私には、そんな風に見えた。

 

「あぶなっ」

 

 受け止めてみるとそれは、小学生くらいの子供だった。

 何が起こったのか分からないというように、目を丸くしてこっちを見ている。うんまあ、そうだよな。井戸の底に人が居るなんて思わないよな、普通。

 

「落っこちたのか」

 

 はい、という短い返事。愚問だった。

 話を聞くと、この子は井戸の縁に乗っかって遊んでて足を踏み外したらしい。

 

 話し始めていくらもしないうちに、真上から『お姉ちゃん』という叫び声が降ってきた。見上げると、この子に似た顔立ちの小さな子がひょっこりと井戸を覗き込んで青褪めた顔をしている。呼び掛けられた『お姉ちゃん』は然して取り乱した様子もなく『菊代さんを呼んできてくれ』と叫び返した。

 妹の方は力強く頷いて顔を引っ込める。間を置かず、ぱたぱたと遠ざかる足音が聞こえた。

 間違いない、あれは天使だ。

 

 やれやれ、どうやら助かった。

 あとは菊代さんが駆け付けるのを待つだけだろう。ただ、身体が冷えすぎたせいか、この子を抱っこする腕が早くも限界に近い。正直言って、菊代さんが来るまでの間、保ちそうにない。かと言ってこの子を水に浸けるのも可哀想だ。

 って言うかこの水位じゃこの子の足は底に付かないから、離すのは無し。

 

 という訳で。

 

「水が結構深いから、肩車しよっか」

 

 言って、その子を肩に乗せた。

 私も全身びしょ濡れだから肩車でも冷たい思いをさせちゃうけど、それでも水に入るよりはいいだろう。

 

 しかし、まあ、なんだ。

 考えないようにしてたけど、この子も、走り去ったあの子も、めっちゃ見覚えあるんだよなあ。他人の空似と思いたかったけど、二人とも『菊代さん』を知ってるとなれば、まあ間違いないだろう。

 

 二人とも、見覚えがある。

 特に、いま肩車してる方。

 なんなら毎日会っている。

 たぶん、この子、まほだ。

 

 理屈は分かんないけど、今んところ、そうとしか考えられない。顔を声もまほなんだもん。矛盾した言い回しだけど、たぶん確定。たぶん。

 まあ、名前を訊いちゃえば分かるんだろうけど、訊いてもいいのかなという謎の抵抗があって、ちょっと躊躇っている。そんな感じで訊こうか訊くまいか悶々と迷っていると、頭の上にぽつぽつと水滴が当たるのを感じた。

 

 嘘だろ、この状況で雨か。

 そう思ったけど、すぐに違うと分かった。

 

 私の肩に乗った子が泣いているんだ。

 可愛い顔をくしゃくしゃにして、声を殺してぽろぽろと涙を零している。その涙が私の頭に当たっていた。

 まあ、そりゃそうか。いくら『お姉ちゃん』とは言え小学生だ。毅然としてても、内心が穏やかな訳はないよな。

 

 全く災難だ、お互いに。

 

「よしよし、怖かったなあ」

 

 手を伸ばして、頭を撫でてあげた。

 それで緊張の糸が切れたのか、その子は私の頭の上に突っ伏して、声を上げて思い切り泣いた。うんうん、我慢すること無いぞ。泣きたい時は泣いていい。

 私はその涙の生暖かさを感じながら、暫くその子の頭を撫で続けた。

 

 その子が泣き止む頃。ばたばたと足音が近付くのが聞こえて、少し薄暗くなった真ん丸の空に、さっきの女の子と菊代さんの顔が現れた。

 ああ、若いなあ、菊代さん。やっぱりそういう事なのか。

 自分で言っといて、どういう事か分かんないけど。

 

 程なくして縄梯子が降ろされ、女の子は無事に救出された。

 妹の方がぎゃあぎゃあと泣き叫ぶ声が聞こえる。

 ああ、良かったなあ。助かって本当に良かった。私の方はもうずっと寒くて、なんだか眠くて、身体に力が入らなくなってきた所だ。

 女の子が引き上げられるのを見届けると、今度は私の緊張の糸が切れたらしく、全身の力が一気に抜けた。

 

 

 

 

 

「千代美、おい」

「ん」

 

 聞き慣れた声に呼ばれて目が覚めた。眠っていたらしい。

 辺りを見回すと、ここはまほの部屋。私はいつの間にか、まほのベッドに寝かされていた。まほ、菊代さん、そしてしほさんの不安げな視線が私に注がれている。

 

「目が覚められましたね、安斎様」

「ああっ、良かったわ、千代美さんっ」

 

 安堵する菊代さん、泣き出しそうな勢いで私の無事を喜ぶしほさん。

 まほも安心したように、大きなため息をついた。

 

「大丈夫なのか」

「んー、大丈夫じゃないけど大丈夫」

 

 わざとふざけた答えを返すと、まほはいつものように『馬鹿』と言って笑った。

 

 まほは、私が落ちた水音が聞こえた時点で異変を察知し、続けてその直後に聞こえた私の呼び声で事態を確信して井戸に走ったらしい。相変わらず、とんでもない耳をしてる。私は一体、この耳に何回助けられただろう。

 ともあれ、まほはそうして走った先の井戸で首輪の外れたわんこを見付けた。井戸を覗き込むと、その底でうつらうつらしている私が見えたので慌てて人を呼んで引き上げた、と言うことらしい。

 じゃあ、思ったより早く救出されたのか。外を見ると陽はまだ高かった。

 あれっ、じゃあ、さっきの騒ぎは夢か。『あの子』が引き上げられた時、外はもう薄暗かった筈だ。

 

「心配したんだからな」

 

 脹れ面をするまほを見て申し訳なく思いつつ、ちょっと悪戯心が湧いた。

 手を伸ばし、まほの顔を引き寄せてその頭を撫でる。

 

「よしよし、怖かったなあ」

 

 そう言ってやると、まほは何が起こったのか分からないというように目を丸くしたあと、その目にみるみる涙を溜めた。



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モナリザの絵

「妖怪」の括りでモナリザの名前を出すのもどうかと思いましたが
小学生から見たらモナリザも二宮金次郎も人体模型もオバケですよね


【千代美】

 

 時間はもうちょっとで十八時ってところ。

 まほの帰りを待ちながら夕飯の支度をしつつ、ついでにダージリンとカチューシャの晩酌のおつまみを作っている。既にうちのリビングで飲み始めてる二人と談笑しながらの、忙しいけどのんびりとした楽しい時間。

 

 実はこういうの、結構好きなんだよな。料理を作るのも食べるのも勿論好きだけど、やっぱり私が一番好きなのは作った料理を人に振る舞うことだ。自分が作った料理を食べて貰って、美味しいって言って貰えるのがすごく好き。

 だから料理のリクエストなんかがあると、ついつい張り切ってしまう。今日みたいに『飲むからなんか作って』と押し掛けて来るのだって大歓迎だし、金欠のミカがご飯を食べに来るのも私は嬉しく思ってる。まほはあんまり良い顔をしないけど。

 なーんて、こんな言い方をすると、まるでまほに隠れて悪い事をしてるみたいだ。

 

 まあ、まほが居たらこういう時間が過ごせないのも確かだから、当たらずとも遠からずって所か。

 

「マホーシャは独占欲強そうだもんねぇ」

「それはまあ、あはは」

 

 否定はしない。

 私が他の誰かに優しくするだけでヘソを曲げるからな、まほは。一時期はペパロニにまでやきもちを焼いてたっけ。

 あの頃に比べれば最近は大分マシになった方だと思うけど、傍から見たら、どうだかな。

 

「鬱憤、溜まってたりするんじゃないの」

「うーん、どうかなあ」

 

 ダージリンに言われて、ちょっと考える。

 そりゃ全く無いって訳じゃないけど、鬱憤って言うほど溜まってる事となると、どうだろう。

 無い、かなあ。全然思い付かないや。

 

「円満ねー」

「えへへ」

 

 そうかな、そうかも。

 上手くやれてる方だとは思ってるけど、改めてそう言われるとやっぱり嬉しい。

 

「私なんかカチューシャの愚痴、既に十個は言えるわ。部屋は煙草臭くなったし、脱いだものは片付けないし」

「ちょっと、やめてよ。アンタだって訳わかんないマッサージ器具とか買いまくって収納圧迫してるじゃない」

 

 私の照れ笑いが引っ込むよりも早く、たちまち二人はお互いの愚痴合戦を始めてしまった。一緒に住み始めてまだ一ヶ月と経っていないのに、よくもまあそんなに挙げられるもんだ。

 喧嘩してるように見えるけど、ああいう戯れ合いなのは分かってるから止めはしない。遠慮なく不満をぶつけ合えるっていうのも、ひとつの『円満』の形だと思うし。愚痴が尽きないのだって、それだけ相手のことをよく見てるって事なんだろうしな。

 

「ひっぱたくわよっ」

「やってみなさい、追い出すわよ」

 

 物は壊すなよ、頼むから。

 

 しっかし、まほに対する不満かあ。

 思い付かないっていうのも考えものなのかな。相手のことをちゃんと見てない証拠、みたいな。まあ好きすぎて目が曇ってる自覚は、ちょっとある。

 あー、なんか、そう考えると不満を挙げられないのも問題のような気がしてきた。何か無かったかなあ。

 

 うーん。

 

「あ」

 

 そう言えばひとつあった。

 不満とまでは行かないかも知れないけど、ちょっとモヤっとしてる些細な事。

 

「あら、聞きたいわ」

「なになに、マホーシャ何やったの」

 

 今の今まで言い争ってたのが嘘だったみたいに、二人は揃ってこちらに耳を傾けた。すっごいな、息ぴったりだ。

 こういう事って言ってもいいのかなと少し迷ったけど、すっかりわくわくしちゃってる二人に気圧されて、私は口を開いた。

 

「えっとさ。まほが最近、スマホをいじることが増えたなーって、思ってて」

 

 期待に満ち満ちていた二人の表情が変わった。

 カチューシャは『それのどこが悪いのか』と思ってるような、訝しげな顔。一方ダージリンは、カチューシャとは違ってちょっと神妙な顔付きになった。

 

「それは確かに、珍しいわね」

 

 うん、ダージリンなら分かってくれそうな気がした。

 まほを毎日見ているからこそ気が付く違和感って言うのかな。些細っちゃ些細なんだけど、まほがスマホをいじる事って実は今まで全くと言っていいほど無かった。あっても連絡に返信したりする程度で、なんというか、自発的に触る事はほとんど無い。

 それが何故か増えてきた事に、ちょっとモヤっとしてる。

 そうそう、『何故か』だ。まほがスマホを頻繁にいじるようになった理由が分からない事もモヤモヤの原因なのかも。

 

「ゲームとかじゃないの」

「違うと思う」

 

 いじると言っても長時間って訳じゃない。ふとした瞬間にポケットから出して何かを確認するみたいにちらっと見て、すぐに仕舞う。まほが繰り返しているのは、そんな動作。

 時計を見てるのかなとも思ったけど、そんなに頻繁に確認する意味はよく分からない。

 

「操作と言うよりは確認なのね」

「なんかの通知でも見てるのかしらねー」

 

 うーん、通知か。

 そうすると誰かから連絡が来てるって事になる、のかな。だけど返信してる姿はあんまり見ない。全くのゼロって訳じゃないけど、どう考えても『確認』の回数と合わない。

 

 って事は、つまり。

 

「返信は千代美さんに隠れてやっている、とか」

「ええ、ちょっと、それってまさか」

 

 浮気。

 考えたくはないけど、事実を並べていくとどうしても可能性として浮かび上がってしまう。成程、思い付いてはいたけど考えたくなくて目を逸らしてたから、それが『モヤモヤ』として現れてたんだな。

 

「ただいま」

 

 ううーん、最悪。

 

 ものすごいタイミングでまほが帰ってきた。

 コートを脱ぎつつ、ダージリンとカチューシャが既に出来上がってるのを見て一瞬だけ顔を顰めたあと、すんすんと鼻を鳴らしながらキッチンに寄ってきた。

 

「今日はシチューか」

「えへへ、当たりー」

 

 鍋から顔を上げてまほの方を見ると、スマホをポケットに仕舞う所。もしかして今、私と話しながらスマホ見てたのか。

 今の今までダージリン達と話してたこともあって、それはなんか、ショックが大きい。

 

「マホーシャ、ちょっと」

「なんだ。おい、何をする」

 

 険しい顔をしたカチューシャが、後ろからまほの肩を掴んだ。そうしてまほが怯んだ隙に、今度はダージリンがまほの手からスマホを掠め取る。

 あっと言う間、完璧なコンビネーションだった。

 

「ごめんなさいね、まほさん。ちょっと黙っていられなくなったの」

「何の話だ。ひとまずそれを返せ」

 

 まほの視線は、ダージリンの手の上で弄ばれているスマホに釘付けと言っていいほど注がれている。まほは珍しく、明らかに狼狽していた。

 なんだよ、そんなに大事なのか、スマホが。

 

「まほさんがスマートホンを見ている時間が増えて寂しいなって、千代美さんが話してたところなのよ」

「ん」

 

 意外そうに、まほがこっちを見た。

 

「それは、悪かった。少し頻度を減らそう」

 

 あっさりと頭を下げた。

 それはまあ嬉しいけど、でももう、違うんだよな。頻度の話はもういいんだ。問題は、どうしてまほがそんなにスマホを気にするようになったのか。今の私はそれが知りたい。

 この際だから、包み隠さず話して欲しい。

 

「そ、それは」

「言えないのか」

 

 少し言い方がきついかなと思ったけど、抑えられなかった。

 まほは観念したように腕をだらんと垂らし、それでも暫く迷ってから、ダージリンに向かって手を出して、スマホを受け取り画面を開いた。

 

「これを、見てたんだ」

 

 そう言って渡されたスマホに映し出されていたのは、ただのロック画面。そこから見て取れるのは、画面下に表示されている現在の時刻と、待ち受け画像。

 浴衣姿で、頬に指を当ててにっこりと満面の笑みをカメラに向ける、私。夏祭りの時に撮ったやつだ。

 

 えっ、見てたって、待ち受け画面をか。

 

「んん」

 

 画面から視線を上げると、まほの顔は絵に描いたように真っ赤だった。

 段々と状況が飲み込めてきた私も、つられて赤くなった。

 

「お前、馬鹿、まほ、お前ぇぇーーっ」

 

 まほは夏祭りの時に撮った私の写真が思いのほか気に入ってしまったので、それを待ち受け画面に設定していたらしい。そうしたら、当たり前だけどスマホを開くたびにその写真が見られるのが嬉しくて、それで頻繁にスマホを取り出すようになったというのが理由。

 ああ、ダージリンにスマホを取られて慌ててたのは、そういう訳か。

 浮気でもなんでもなかった。

 

「変えろ、恥ずかしいからっ」

「ええー」

「ええーじゃない、馬鹿っ」

 

 ダージリンとカチューシャは、すっかり白けた様子で私達の言い合いを眺めている。

 

「アンタ、こんなのの隣で独り暮らししてて、よく今まで我慢出来たわね」

「慣れると面白いのよ」

 

 うーん、どうしよ。

 実は私も、まほの寝顔を待受画面にしてるなんて言い出せない感じになってきたな。

 こっそり変えるか。いや、でもなあ。

 

「千代美、鍋っ」

「えっ、うわあっ」

 

 今日も円満。



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行灯の燈

【エリカ】

 

 帰りが少し、遅くなった。

 時刻は夜の九時半。パッと見はまだ早いけど、これから帰ってお風呂に入ってメイクを落として、それが終わったら髪や肌の手入れ。そうやってバタバタして、落ち着く頃にはどうせ日付が変わる。後はさっさと寝て起きて、支度をしたらまた出勤。このままではご飯を食べる暇がどこにも無い。

 それもなんだか寂しいから、無理にでも何か食べておきたいところ。帰りにコンビニで何か買おうかな、なんて考えながら電車に揺られている。

 

 吊革につかまり思考を巡らす。

 買い置きの菓子パンでも家に残ってたらそれを晩御飯にしてもいいけど、どうかな。まあ、残ってたとしてもみほが食べちゃってそうな気がする。

 根拠は無いけど、なんとなくね。

 

 考えているうち、自分が思いのほか空腹なことに気が付いてしまった。今の私の思考は最早すっかり、どこで何を食べようかという感じの流れ。こんな時間に食事なんて女としてどうなのと思わないでもないけど、私は女である以前に人間というか生物なので、時間なんか関係なく空腹は満たすべき。そういう事にしておこう。

 コンビニでお弁当を買うもよし、どこかに寄ってサッと食べるもよし。真っ直ぐ帰って大人しく寝るという選択肢は、まあ無い。

 

 さて、どうしようかな。

 

「あれっ、エリカじゃないか」

 

 聞き覚えのある声に呼び掛けられて振り返ると、安斎さんがこちらを見て胸の前で小さく手を振っていた。

 スーツ姿で眼鏡をかけて、長い髪を後ろでひとつに纏めている。こんな時間に外で会うことの珍しさもさる事ながら、見た目が普段の印象と違い過ぎて、正直誰だか一瞬分からなかった。

 

「あはは、いつも休日しか会わないもんなー」

 

 一日の終わりかけとは思えないほど安斎さんは全くいつもと変わらない様子で、ふんわりと笑った。

 お疲れ様と改めて言われ、慌ててお疲れ様ですと返す。

 

「いつもこの時間なのか」

「ああ、いえ、普段はもう少し早目ですよ」

 

 とは言え、早かろうが遅かろうが安斎さんと電車の中で鉢合わせる機会が滅多に無いことに変わりはない。最寄り駅は同じだけど、安斎さんとは基本的に時間帯が丸っきり違う。

 この時間帯に電車に乗っているのが珍しいのは、どちらかと言えば安斎さんの方。私の記憶違いでなければ、安斎さんは普段、夕方にはご飯の支度が出来るように帰っているはず。

 

「だなあ、今日は珍しく遅くなっちゃった」

 

 困ったように笑う。

 なんというか、よく笑う人。気が付けばこちらの顔も、つられていつの間にか綻んでいた。

 それから最寄り駅に着くまでの間、みほの話をしたり、まほさんの話をしたり、改めて冷蔵庫の件のお礼を言ったり。

 安斎さんには夏に、うちの冷蔵庫が壊れた時にかなり面倒を掛けてしまっている。その節はお世話になりましたと頭を下げると、安斎さんは気にするなという風に手を振った。

 

「あれから冷蔵庫はどうしたんだ」

「いえ、あの、実はまだそのままで」

 

 夏に壊した冷蔵庫はまだ捨てることも運ぶこともなく、ただの常温の箱として、これまで通りの場所に鎮座している。

 まあ、コンビニが近いから冷蔵庫が壊れててもそれなりに生活出来ているのが幸いというか、何というか。

 

「新しいの買った方がいいとは思うけど、まあ毎日忙しそうだしなあ」

「あはは、すみません」

 

 忙しいのは確かだし、ついでにお金があんまり無いのも確か。でも、それより何より一番の理由が恐らく『めんどくさい』なのは、ちょっと言えないわよね。お世話になった本人には特に。

 冷蔵庫が壊れて以来、私もみほも元々敬遠しがちだった自炊から更に遠ざかってしまった。今は冷蔵庫の無い暮らしにどんどん慣れつつある。

 それこそ今も、私は頭の中で寄道の算段を進めている所だし。

 

 そう言えば寄り道に思いを馳せている私と違って、安斎さんは真っ直ぐ帰るつもりでいるらしい。

 

「ああ。遅くなるって連絡したら、まほがご飯作って待ってるって言うから楽しみでさ」

 

 そう言って彼女は照れ臭そうに、今日見た中で一番可愛い顔で笑った。

 全く、羨ましいなあ。

 

 やがて電車は最寄り駅に到着し、帰り道が逆方向の私達はそこで別れた。

 

「じゃー、またな。お疲れ」

「はい、お疲れ様でした。まほさんに宜しく伝えてください」

 

 さて。

 結局何を食べようか、答えが出ないまま駅に着いてしまった。

 どうしたものかな。お腹は空いたし、でもカロリーは気になるし、そう考えると重いものは食べ難いからコンビニのお弁当は除外かな。

 

「うーーーん」

 

 唸りながら駅前を歩く。軽く不審者。

 時間も時間だし、開いてる店が居酒屋とかしか無いのも相俟って、一向に狙いが定まらない。歩きながら灯りの点いている看板たちをつらつらと眺めているけど、まあー居酒屋ばっかり。

 残念ながら飲む気分ではないのよね。

 寒くなってきたし、暖かいものが食べたいなあ。

 

「ん」

 

 何かが琴線に触れた。

 立ち並ぶ居酒屋の看板に混じって、何かこれだと思うものが見えた気がする。立ち止まってその辺をよく見ると、『蕎麦』の文字が見て取れた。

 ああ、蕎麦。

 

 合格。

 

 看板の灯りが点いているから営業中なのは間違いない。気持ち早足で、その看板に向かって一直線に歩いた。店内の灯りが漏れて、入口の辺りの道を照らし出している。

 ガラガラと引き戸を開けて店内に入った。古びてはいるけど、きっちり掃除が行き届いていて清潔な感じがする。お客さんも時間の割にはそこそこ入っているみたい。ああ、ここは居酒屋帰りのお客さんが寄るお店なのかと、その時になって気が付いた。

 ひとまず店主らしきお婆ちゃんに営業時間を訊ねると、零時までやっているとのこと。やったあ。

 早速カウンターに腰掛けて、壁に貼られた手書きのメニューに目を通す。あまり迷って時間を掛けるのもなんだか恥ずかしいので、手短に決める。

 

 お腹空いた。

 でも重いものは食べ難い。

 でもお腹空いた。

 

 そういう気持ちで決めた。

 

「肉そば」

 

 あいよ、というお婆ちゃんの気の無い返事から数分。やっぱり気のない、お待ち、という声とともに目の前に肉そばが置かれた。

 三四切れの豚肉と、半円型のかまぼこが一切れ、あとは刻んだネギと三つ葉。おつゆは茶色。

 何の変哲も無い肉そば、それが只々ありがたい。

 

 いただきますの意で、軽く手を合わせる。

 

 まずは、おつゆを一口。

 レンゲが見当たらないなとは思ったけど、見回すと他のお客さんもレンゲ無しで食べてるみたいだったので、郷に従って丼を持ち上げて口を付けた。

 

 こく、と喉を鳴らす。

 醤油味の熱いおつゆが食道を通って、空っぽのお腹をじんわりと暖める。

 

 完璧。

 

 箸を割り、蕎麦を啜る。

 私はグルメでも何でもないので難しい事はよく分からないけど、この蕎麦が特別に美味しいものでない事は分かる。でも美味しい。

 ぷりっとしたかまぼこも、弾力のある肉も、しゃきしゃきのネギも三つ葉も、全部普通。言い回しとしての『普通に美味しい』という意味じゃなく、ただ普通。それが美味しい。

 空腹に寒さに疲労、そういうものが一体となってこの普通の蕎麦をご馳走に昇華させている。

 

「ん、ふ」

 

 それから暫く夢中で蕎麦を啜り、最後にもう一口おつゆを飲んで、ごちそうさま。全部飲みたかったけど、そこは流石に我慢した。

 場所は覚えたからまた来ましょう、今度はみほと一緒に。

 時計を見ると十時半。帰る頃には十一時を回るかな、あまりのんびりもしていられない。でももうちょっと、立ちたくない気分。

 

 さっさと帰ればいいものを、私はお腹を一杯にした余韻に浸りつつ、ぼんやりと店内を見回す。そこで案の定、余計なものを見付けてしまった。

 蕎麦を注文した時点では見落としていた、メニューの端に書かれた文字。

 

 いなり。

 

 ああ。それはきっと普通で、とても普通で、普通の蕎麦によく合ういなり寿司なんだろうと容易に想像が付いた。

 胃袋が『別腹』のスペースを空けるのを感じる。

 

 どうしよ。



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釣瓶落としの陽

【まほ】

 

 もう、何度交わしたか分からないやり取り。

 

「ごちそうさまでした」

「お粗末さま」

 

 夕飯のあと。

 さて休もうかと言いたい所だが、残念ながらそういう訳にも行かない。寛ぎ始める前に、済ませなくてはいけない仕事がまだ残っている。などと大仰な言い方をしてみたが、別に大した仕事ではない。ただの洗い物だ。

 まあ予備の食器などいくらでもあるから洗い物の一度や二度をさぼった所で然したる問題も無いのだが、これはどうにもさぼる方が具合が悪い。習慣というやつだ。

 食器を重ね、流し台に置く。千代美は『シンク』と呼んでいるが、どうも私は『流し台』と呼ぶ方がしっくり来る。どちらも同じと言えばそうなのだが、違うのだ。

 そんなどうでもいい事を考えながらじゃぶじゃぶとやっていると、リビングから当の千代美の唸り声が聞こえた。

 

「んぬうぅ」

 

 絞り出すような面白い声だ。

 夕飯を食べ終わるなり、千代美はふらふらと倒れ込むようにしてソファに横になった。それからずっとああやって、ソファの肘掛けを枕にして唸っている。

 

「食べ過ぎたー」

「だろうな」

 

 何故だか知らないが、今日の千代美は随分と箸が進んでいたようだった。彼女のおかわりなど滅多に見られるものではない。まあ千代美の身体は華奢だから、食べ過ぎるくらいが丁度良い。今よりもう少し肉付きが良くても私は何も言わないぞ、なんてな。

 考え事をしている間に洗い物が終わった。始める前は少し億劫だが、始めてしまえばこうして一時で終わる。

 

「さてと」

 

 エプロンの裾で雑に手を拭き、読みかけの文庫本を持って千代美の傍に移動した。これでようやく自由時間だ。

 しかし、ソファには千代美が長くなっているので座れない。私はソファのクッション部分を背もたれの代わりにして、床に座ることにした。これはこれで案外楽だ。

 それに、読書をするならソファに身を沈めるよりはこちらの方がいい。ソファだと満腹も手伝って眠ってしまいそうだ。

 それから文庫本を広げて暫く読み耽っていると、不意に千代美の手が伸びてきて私の髪をふわりと撫でた。その手を捕まえて指を絡めてやると千代美がくすぐったそうに鼻を鳴らすのが聞こえて、こちらの顔も綻ぶ。

 

「腹の具合はどうだ」

「んー、まずまず」

 

 分かるようで分からない。

 千代美の腹をさすってやると、確かにいつもより膨らんでいるような気がした。食欲の秋とは言うが、本当に随分と食べたようだ。

 

「まほのご飯が美味しかったせいだよ」

 

 思いがけず嬉しい言葉が飛んできた。

 そう、今日の夕飯を作ったのは私。最近ようやく感覚が掴めてきたかなとは思っていたが、千代美に誉められるといよいよ上達の実感が湧く。

 それに、好きな人に自分が作ったものを食べてもらい、その上に誉めてもらえるというのは何とも気分が良い。もっともっと頑張ろうという気持ちになる。

 

 しかしまあ、頑張りすぎるのも考えもののようだ。苦しそうに呻く千代美を見ていると、段々と申し訳なくなってきた。

 腹ごなしに運動でもさせたい所だが、しかし自分のせいで横になってうんうん言っている者に『動け』と言うのもどうなんだという話だ。

 さて、どうしたものか。考え事を始めたお陰で、読んでいる小説も段々と頭に入らなくなってきた。

 

「まーほー、散歩でも行かないかー」

「ん」

 

 なんともタイミングの良い、お誂え向きの提案だ。考えを読まれたような気さえする。

 しかし何にせよ、千代美の方から言い出してくれたのはありがたい。私は文庫本に栞を挟み、善は急げとばかりにいそいそとコートを二着出して片方を千代美に着せてやった。

 

「自分で着れるよ」

「ふふふ、そうか」

 

 むっとする千代美が可愛い。

 

「どこを歩こう」

「公園を一回りでどうだ」

「あー、賛成」

 

 腹ごなしには丁度いい距離だ。

 近所だから大して時間も掛からないだろう。

 

 玄関を出ると思った以上に空気が肌寒く、コートの中にもう一枚着てもいいかなと思える。流石に息が白くはならなかったが、もう冬が近付いている事をぼんやりと実感した。

 

 冬か。なんだか少し、感慨深い。

 

「あらお二人さん」

 

 ふと、下の方から声がした。

 見ると隣の玄関先にカチューシャが座り込んで煙草をふかしている。ああ、そう言えば煙が苦手なダージリンに『外で吸え』と言われてるのだったか。この寒いのに、気の毒なことだ。

 

「思い遣りってやつよ」

 

 言って、カチューシャは地べたに置いたコーヒーの缶に煙草を捩じ込んで火を消した。

 そういうものだろうか。まあ本人達がいいなら、それでいいのだろうが。

 

「お二人さんは揃ってお出掛けかしら」

「えへへ、散歩だよー」

 

 嬉しそうに言う千代美につられ、カチューシャも顔を綻ばせた。千代美の笑顔は伝染するのだ。

 お気を付けて、とカチューシャはひらひらと手を振った。身長が高いお陰か、何気ない仕草のひとつひとつが実にさまになる。

 二人でカチューシャに手を振り返し、出発した。

 

 道に出ると辺りがすっかり暗くなっているのがよく分かり、いよいよ季節を実感した。夏ならまだ太陽の明るさが少し残っていた時間だ。

 

「陽が短くなったなあ」

 

 その辺の自販機で温かい缶コーヒーでも買おう。

 そんなことを思いながら千代美と手を繋ぎ、暗くなった住宅街を歩いた。



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ジャックオーランタンの鍋

一日早いけどハッピーハロウィンですよ

渋谷で騒いだりする回ではないです


【ミカ】

 

 ぽんぴん。

 インターホンを鳴らすと、ばたばたとした足音が聞こえて勢い良く扉が開いた。

 私の顔を見たまほの表情が『なんだお前か』と如実に語る。

 

「お菓子をくれなきゃここで飢え死にしようかと思うんだけど」

「塩を撒くぞ貴様」

 

 ハロウィンの晩。例によって例のごとく勝負事に負けて夕飯を頂きにまほと千代美の家を訪ねたけれど、残念ながら不発に終わった。

 千代美は留守らしく、不機嫌なまほに追い払われるようにしてその場を後にする。虫の居所が悪いというよりは私が怒らせたのかな、あれは。ちょっと理不尽だったけど、まあ『千代美が帰ってきたと思ったのにミカだった』という落胆は、当の私でも察するに余りあるから、仕方ないと思うことにしよう。

 隣のダージリンとカチューシャの家も覗こうかと思ったけれど、やめた。あそこにあるのはお酒だけだ。

 

 涙は今も流れているが

 私は泣いてはいない

 私は泣いてはいけない

 

 なんて詩が頭をよぎったけれど、まあ実際には涙も流れてはいない。泣きたいのは山々だけど、泣いたって仕方ないからね。この程度で泣いてたら瘋癲(ふうてん)は務まらない。どちらかと言えば『山河に散り敷く涙も枯れた』って所かな。負けすぎて何も感じなくなってきた。

 そもそもパチスロは正しくは回胴式遊技機と言って、その名の通り遊技する、つまり遊ぶための機械であるからして、大前提として遊ぶためにお金を払うのは当然で、お金を払って遊技を楽しんだのなら、その結果としての勝ち負けも楽しむのが正しいと言えば正しいんだけど出来れば勝ちたいなあ。勝ちたい。

 まあ考えても仕方ないね、負けたんだし。

 

 のめり込みすぎに注意しましょう。

 パチンコ、パチスロは適度に楽しむ遊びです。

 

 しかし参ったな。

 ご飯どうしよう。

 

 うーんまあ、選択肢が全く無い訳じゃないんだけどね。出来れば避けたい、目を逸らし続けてる選択肢がひとつ残ってる。いわゆる最後の手段ってやつ。まあ、今がその最後という気がしないでもないのが悲しいところなんだけど。

 うーん、あまり遅くなるとその最後の手段まで逃しちゃうから、さっさと決めなくちゃいけないかな。

 気は進まないけど、背に腹は替えられないか。

 

 行こう、絹代んち。

 

 絹代が嫌いとかじゃないんだけどね。

 むしろ、いや、それはいいか。

 

 まあそれはともかく、まほは叱ってくれるし、カチューシャは呆れてくれる。千代美やダージリンは困った顔をしてくれる。要するに、瘋癲には瘋癲なりの居心地の良さってものがあるという話。絹代にはそれが無い。それどころか歓迎さえしてくれるし、ご飯だってお腹いっぱい食べさせてくれる。その上、帰りがけにお小遣いをくれたりもする。これはつらい。逆につらい。

 つまり『このクズめ』と言われた方が落ち着くのがクズであって、そこを『きみはクズなんかじゃないよ』などと言われてしまうと参っちゃう、って話。

 慕ってくれるのは嬉しいし有り難いんだけど、申し訳ないことにクズなんだよね、私はさ。

 

 そんなこんなを考えながら小一時間ほど歩いて、絹代が一人で暮らしているアパートに到着。絹代の部屋の明かりが点いているので、どうやらご在宅だ。なんだかんだ言って、その事実には安心する。

 そして絹代の部屋の扉の前、インターホンを鳴らそうと指を伸ばしたところで、タイミング良く玄関ががちゃりと開いた。

 顔を出したのは、ここで会うのはちょっと珍しい人物。

 

 千代美だ。

 

「ミカじゃないか」

「おやこんばんは、珍しいね」

 

 どうやら何かの用を済ませて帰るところらしい。手にはちょっと大きめのカバンを提げている。なんとも、面白い偶然だ。ついさっき千代美の家に行ってきたところで、その後の行き先で千代美に会うなんてね。

 まほの機嫌が悪そうだったことを伝えると、彼女は申し訳なさそうに笑った。

 

「ついつい話し込んで遅くなっちゃったからなあ、帰ったら構ってやんなきゃ」

「それがいいね。千代美の顔を見れば、まほもきっとすぐに機嫌を直すよ」

「えへへ、そうかもー」

 

 聞くと先日、千代美のところに彼女の後輩から食材の小包が届いたそうで、そのお裾分けがてら絹代に料理を習いに来ていたらしい。

 料理の得意な千代美でも習うことがあるのかと思ったけど、和食に関しては絹代の方が上手なのだそうだ。それは、びっくり。確かに絹代の料理は美味しいと思ってたけど、そんなレベルだったなんて。

 

「食べさせたい相手が居るから上達するんだよ」

「んっ」

 

 あまりにも意外、だけど納得せざるを得ない言葉。

 千代美は悪戯っぽく言ったけれど、きっとそれは、本心から出た言葉なんだろう。うーん、参っちゃうなあ。

 

「おやミカ殿、いらしてたのですか」

 

 玄関先で千代美と話し込んでいるうちに、ちりちりという鈴の音と一緒に絹代が出てきた。小脇にヘルメットを抱えていて、これからどこかに出掛けるご様子。

 鈴は、絹代がバイクやら部屋やらの鍵束に付けているキーホルダーのものだ。

 

「アンチョビ殿をご自宅まで送って参ります」

「ああ、そっか」

 

 私は慣れてるからヒョイヒョイと歩いて来たけど、ここから千代美達の家までは結構な距離がある。それに、千代美が持っているカバンの中身は鍋らしい。時間も遅いし、送ってあげるのがいいだろうね。

 

 しかしそうなると、今夜はご飯抜きだろうか。

 まあ仕方ない、どうも日が悪かったと思うほか無いね。

 

 そうして考えを巡らせていると、絹代はキーホルダーから部屋の鍵を外して私に握らせた。

 

「どうぞ上がって行って下さい、ミカ殿」

「えっ、いいのかい」

「勿論ですとも。鍋にカボチャの煮付けが出来ていますから、召し上がって下さい」

 

 カボチャ。なるほど、千代美のところに届いた食材ってそれか。ハロウィンの晩にはぴったりだ。それに、絹代が作ったものなら味も間違いない。有り難く頂くとしよう。ああでも、家主の留守中に鍋を開けてものを食べるって言うのは流石の私でも気が引けるなあ。

 それに、さっきの千代美の言葉も頭をよぎった。

 

 うーん。

 

「どうか、されましたか」

 

 絹代は私が考え込んでいるのを何か勘違いした様子で、鍵の隠し場所だとか、他のおかずを作りましょうかとか、不安げな顔でそんなことを並べ立て始めた。

 私は慌てて否定する。そういう事じゃないんだよと。

 

「では、どういう」

「絹代が帰って来たら、それから一緒に食べないか」

 

 そう言うと絹代は破顔して、比喩ではなく本当に飛び上がって喜んだ。

 ちりちりと、また鈴が鳴る。

 

「えーっと」

 

 所在なげな千代美に何だか申し訳ないなと思いつつ、良かったら今夜泊めてくれないかなー、なんて事も考えた。



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寝肥の肉

【千代美】

 

 週末の定番になってきた光景。ダージリンとカチューシャ、二人がうちのリビングで酒盛りをしている。

 最初は嫌そうな顔をしていたまほも何だかんだで慣れてきたと言うか、『こういうもんだ』というのを受け入れたみたいで、最近は何も言わないどころか話に混じるようになってきた。

 おつまみになる小料理を私が何品かちょいちょいと作って、それをみんなでつつきながら駄弁る週末。めっちゃ楽しい。

 

「太ったぁー」

「違いが分からんな」

 

 料理が粗方出来たので私も話に混じると、浮かない顔をしたダージリンがぼやいてテーブルに突っ伏した所だった。まほがもぐもぐしながらどうでも良さそうに相槌を打っている。

 

「痩せればいいじゃない」

「論破はもうちょっとゆっくりでお願い」

 

 事も無げにド正論を投げ付けるカチューシャに向かって、ダージリンは突っ伏したまま呻くように返した。うん、確かにカチューシャの言うことは間違いないんだけど、気持ち的にはダージリンの味方をしたくなるな。

 太ったことには違いないとして、とりあえず解決を望んでると言うよりは共感や相槌が欲しいだけって心境なんだと思う。受け答えとしては、どっちかと言えばまほの方が正解に近い。たぶん。

 

 ダージリンは突っ伏した姿勢はそのままで、顔だけ横を向いてカチューシャを睨んだ。お行儀の悪い仕草ではあるんだけど、ダージリンがやると一種の気品が漂うのは何でなんだろうな。

 

「貴女はどうして太らないのよ、カチューシャ」

「私は定期的にサボらずに運動してるもの。ジムとか行ってるし」

 

 これまた非の打ち所のない返答に、ダージリンは『ぐうぅ』みたいな声を漏らしてまた下を向いた。

 分かる、分かるぞダージリン、今のは完全にトドメだったな。

 

「カチューシャには『いくら食べても太らない体質だから~』みたいなことを言って欲しかったんだろ」

「その通りよ、千代美さぁぁん」

 

 ようやく顔を上げて、ダージリンは泣きそうな声を出して擦り寄ってきた。よしよし、私は味方だからなー。

 ダージリンとカチューシャ。一緒に住んでいる以上、食生活も似通っているであろう二人。カチューシャだけが体型を維持できてるというなら間違いなく理由がある筈で、ダージリンは出来ればそれが『体質』とかのどうにもならない理由であって欲しかった、って事だと思う。

 だけど残念ながら、カチューシャはカチューシャなりに努力をしていた。人の努力に対して『残念ながら』って言い方もどうかと思うけど、今回に限っては、まあ。

 

「って言うかアンタ、何キロ太ったのよ」

「さんきろ」

「ばっ」

 

 半ば自暴自棄みたいになって答えたダージリンに、カチューシャが何かを叫ぼうとして飲み込んだ。偉い。

 しっかし3kgかあ、結構行ったなあ。 でも確かにまほがさっき言った通り、パッと見では違いが分からない。ダージリンの場合は特に、元々のスタイルが良いからちょっと肉が付いたくらいじゃ影響は少ないって事なのかな。

 太る前と太った後を見比べれば分かるのかも知れないけど、毎日会ってると目が慣れるからなあ。

 

「っっっかじゃないのアンタ」

 

 カチューシャの怒声が部屋に響く。『ばっ』を飲み込んだもんだと思ったら溜めてたらしい。

 

「正月でもあるまいし、どんだけ太ってんのよ。馬鹿じゃないのって言うか馬鹿でしょアンタ。3kgって軽く言ったけど100gのハンバーグ何個分か計算してみなさいよ、馬鹿でも算数くらいできるでしょっ」

「そっ、そこまで言うことないじゃないっ」

 

 あーあー、また始まった。

 こうなると暫く止まらないぞ。

 

「明日お休みなんだから体動かしなさいっ」

 

「嫌よ、運動用のジャージが無いもの」

 

「じゃあ明日買いに行くわよ。どうせアンタ暇でお金余ってんだから高いやつ買いなさい」

 

「うるさいわね、『暇』は余計よ」

 

「運転はアンタだからね」

 

「分かってるわよっ」

 

 口論してるように見えて、案外建設的なやり取りをしている。まあ、いつも通り。カチューシャがついてるなら、ダージリンはこの調子でスタイルを取り戻すんだろうなという予感さえある。

 結局二人は仲良く喧嘩しながら、ジャージを買ったあとのウォーキングの予定までちゃっかり決めてしまった。うーん、流石。やっぱりこの二人、相性は最高なんだなあ。

 

 それから少し経って、ダージリンとカチューシャは自分達の部屋に戻り、私達もお風呂を済ませて寝る時間。寒くなってきたから冬用のパジャマに着替えて、まほと二人で布団に潜り込んだ。

 布団の中でまほと向き合って、ふと、あることに思い当たる。

 

「そう言えばまほ、今日はお酒飲まなかったんだな」

「私が酒臭いと千代美がこっちを向いて寝てくれないからな」

 

 照れ臭そうに目を逸らして、まほはそう言った。

 んん。そっか、そういう事か。そうやって思い返してみると、まほがお酒を飲む事ってあんまり無い気がする。最近は特にそうだ。

 別に飲めない訳じゃない、というよりむしろ好きな部類の筈だけど、飲めない私に合わせて控えてくれてたんだ。『千代美がこっちを向いて寝てくれないから』なんて、理由がまた良いじゃないか。

 嬉しい。めっちゃ嬉しい。

 

「んふふ~」

「なんだなんだ」

 

 まほの胸に顔をうずめて、ぐりぐりと頬擦りをした。くすぐったそうにまほが鼻を鳴らしている。えへへ、可愛いー。

 でも我慢させちゃってたのは何だか申し訳ないな。近いうちに好きなように飲ませてあげたいなあ、何か考えとこ。

 少しの間そうやってぐりぐりしていると、まほの手が私のお尻にするすると回され、むにゅっと掴まれた。

 

「やだー、えっち」

「ふふふ」

 

 まほは手を止めず、むにゅむにゅと私のお尻を揉んでいる。もう、やらしい手付きだなあ。

 

 うー。

 まほの揉み方、すごく良いんだよな。ちょっと強引なんだけど、それを抑えてなんとか優しくしようと努めてるのが手の動きから伝わってきて、すごく大事にされてるなって実感する。

 お陰で気分が段々乗ってきた。明日お休みだし、しちゃおうか。さっきの嬉しさも相俟って、今なら何でもしてあげたい気分だ。

 

「なあ、千代美」

「なーに」

「さっきはカチューシャがあんな剣幕だったから黙ってたが、千代美も太っ、ぐぇふ」

 

 気が変わった。私の拳がまほの鳩尾(みぞおち)にめり込む。

 悔しいけど正解だ。実際ちょっと太ったし、理由もなんとなく想像が付いている。最近の生活の中で取り立てて変わった事と言ったら、ひとつしか無い。

 だからこそ、ストレートには言い出しづらい。

 

 最近はまほも料理をするようになったんだけど、その料理がやたら美味しい。太ったのはそのせいだ。

 まほの料理が美味しすぎるせい。そんな風に言えば耳触りは良いけど、実はまほが作る料理の美味しさはカロリーや栄養のバランスが無茶苦茶なことに起因してて、このままだとヤバいなというのをじんわりと感じてる。ダージリンが太ったのも、まほの料理が原因の何割かを占めてるような気がする。

 ただし、それをどうやって伝えようかってところでいつも躓くんだよな。折角やる気を出して頑張ってるところに水を差すのも何だかなー、って思うし。

 そんなこんなを考えているうちに私も太っちゃった、というのが今の状態。いつかは言い出さなくちゃいけないと思ってるけど、今はちょっと違うかな。

 

 それにしても。

 

「なんで分かったんだよ」

「それは、まあ」

 

 答える代わりに、まほは手をわきわきと動かして見せた。つまり、お尻を触った感触で気付いたって事か。

 

 ぐうぅ、それは何も言えない。

 私も明日、ダージリン達の買い物に連れてって貰おうかなあ。

 

「なあ千代美、運動なら今ごぇふ」

 

 尚も手をわきわきさせるまほの鳩尾に、拳がまためり込んだ。



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提灯於岩の痣

ついにやっちまったよ
まほチョビ一切関係ない回


【優花里】

 

 西住殿と逸見殿と私、今日は三人での飲みの予定。

 私は仕事が早めに終わった事もあり、待ち合わせの駅前広場に一時間ほど早く到着しました。まだまだ時間があるとは分かっていても、とりあえずは一直線に現地を目指す。性分というやつですかね。

 まあ待つことは別に苦じゃありませんし、ぼうっと人混みでも眺めていれば、一時間なんてすぐです。

 

 とは言え一時間突っ立ったままというのも人目が気になってしまうので、近くの喫茶店に入りました。広場を見渡せるよう窓側のテーブルを選んで、暫しの休憩です。一旦現地に着いてからの寄り道。これは『寄り道』って言うんでしょうか。

 空きっ腹にいきなりお酒というのも抵抗があるので何か入れておこうと思い、コーヒーとサンドイッチを注文。

 一息ついたところでスマホが震え、確認すると西住殿からの連絡でした。

 

『ゴメンなさい優花里さん、どうしても抜けられなくて』

 

 あー。キャンセルのお知らせでした。

 まあ社会人である以上、お仕事の都合というものはどうしても付いて回ります。残念ですが仕方ありませんよね。ともあれその連絡に『お疲れさまです』と返し、丁度運ばれてきたコーヒーを受け取って一口啜る。

 ふーむ。と言うことは、今日の飲みは逸見殿と二人。

 これで逸見殿までキャンセルになった場合、今日はこれからどうしようかな、なんて事を考えました。まあ無いとは思いたいですが、可能性はゼロじゃありませんしね。

 しかし、そんなことを考え始めて幾らもしないうちに、外の広場に見覚えのある顔を発見。心配は無用だったみたいです。

 遠目でも見間違えようのない、際立った見目の麗しさ。いつの間にやら、逸見殿が到着していました。

 ハッとして時計を見ると、待ち合わせまではまだまだ余裕。ああ良かった。一瞬、遅刻かと思って焦っちゃいました。逸見殿も早めに着いたんですね。

 

 スマホを取り出して逸見殿にコール。

 やっぱり、人違いじゃありませんでしたね。広場に居る『逸見殿』に繋がりました。

 

『もしもーし』

 

「もしもしー。今ですねぇ、広場のすぐ近くにある喫茶店に居るんですよー」

 

『えー、どこよ』

 

「九時の方向ですー」

 

 手を振ると逸見殿は程なくしてこちらに気付き、お店の中に入ってきてくれました。私の向かい側に腰を降ろし、追加のお冷やを持ってきた店員さんにコーヒーを注文して、ようやく人心地ついたというように溜め息を吐く。

 

「お疲れなんですねぇ」

「あんたほどじゃないわ、秋山」

「えへへ」

 

 それから間もなく逸見殿のコーヒーが運ばれてきて、私達はそこで軽く乾杯をしました。コーヒーで乾杯というのもなんだか妙な具合ですが、折角飲み物の容器がふたつあるのだから、ということで。

 

「そうそう、みほは来られないらしいから」

「ああ、連絡を貰いました。今日は二人飲みですねぇ」

 

 なんて、文字通りの茶飲み話に花を咲かせるひととき。

 正直に言えば、お話が出来ればアルコールじゃなくてもいいんですよねぇ、少なくとも私は。

 

「この間はありがとね秋山。ガスマスク」

「ああ、良いんですよ。困った時はお互い様ですからね~」

 

 西住殿と逸見殿、お二方が一緒に暮らすお部屋で夏に発生した冷蔵庫の騒動。私は直接顔は出さなかったものの、お二方に私物のガスマスクをお貸しするという形で関わっていました。

 結局、あのガスマスクを装着したのは西住殿でも逸見殿でもなくアンチョビ殿だったらしいです。話の顛末を聞かされて大いに笑わせて頂きました。

 

「笑い事じゃないのよ、全く」

「えへへー、すみません。それで、それからその冷蔵庫はどうしたんですか」

「まだ部屋にあるわよ。みほがカップ麺とか仕舞い始めたから普通に使ってるわ」

 

 普通ではないと思いますけど。成程、冷蔵庫ではなくただの『庫』として活用してるんですねぇ。何でも使いようはあるものだと感心してしまいました。

 と、そんなこんなを話している間にコーヒーも飲み終わり、それじゃあ『どん底』にでも移動しようか、なんて二人で相談を始めたところに店員さんが慌てた様子で駆け寄って来ました。

 

「申し訳ありませんお客様、遅くなりましたっ」

 

 店員さんの手にはサンドイッチ。ありゃ、すっかり忘れてました。逸見殿と合流して二人でコーヒーを飲んで、危うくそこで満足してしまうところでした。

 そう言えば頼んでましたっけね。何か行き違いでもあったものか、サンドイッチだけが遅れて到着。注文しておいてこんなことを言うのも何ですが、もう行こうとしていた所だったので調子が狂っちゃいました。

 しかし一人で急いで食べるというのも気が引けるので逸見殿とシェアしようと思ったら、逸見殿は何やらあらぬ方向を見詰めて固まっていました。見詰めるその先には、たった今サンドイッチを運んできてくれた店員さん。

 

「小梅」

「あらっ、エリカさん。お久し振りですね」

「本当、久し振り」

 

 なんとも奇遇。

 店員さんは、あの赤星小梅さんでありました。このお店で働かれていたんですね。お仕事中ですから長時間引き留める訳にはいきませんが、逸見殿が話したそうにしていたこともあって、ちょっとだけ時間を頂きました。

 

「結婚したのね」

「ああ、いえ、これはただのナンパ避けですよ」

 

 逸見殿が赤星さんの左手薬指に嵌められた指環に目を留めると、赤星さんは事も無げにそれを外して見せてくれました。

 曰く、飲食店の店員さんというのはお仕事中にそういった声を掛けられるケースが案外多く、赤星さんもその例に漏れず辟易していたそうです。そこで思い付いたのが左手薬指の指環。その効果は抜群で、指環を嵌めて以降ナンパは激減したとか。

 それが理由で、仕事中に限っては左手薬指に指環を嵌める習慣が付いているのだそうです。

 

 と、指環を外した赤星さんの手の甲に痣(あざ)を見付け、ちょっと引っ掛かりを覚えました。

 

「怪我をされてますねぇ」

「あ、これはその、ちょっと、転んじゃって」

 

 おやおや、それはなんとも、お気の毒な。

 そして赤星さんは何故だかその怪我を隠すような素振りを見せ、『そろそろ行かなきゃ』と話を切り上げて仕事に戻りました。その素振りには逸見殿も何か思うところがあったらしく、若干の気まずい沈黙が二人の間に流れること暫し。

 その後、なんだかモヤッとしたものを抱えたまま、私達は二人で黙々とサンドイッチを食べて店を出ました。『どん底』に向かう道すがら、話題はどうしても先程の赤星さんについて。

 

「秋山」

「んぇ」

「たぶんだけど、小梅、結婚してるわよね」

 

 してますねぇ、と答えました。

 まあ憶測の域は出ませんが。

 

 赤星さんが指環を外した時、その下の部分の肌が白くなっていました。というより、あれが元々の地肌の色なんでしょうね。屋内で、しかもお仕事中のみという短時間だけ嵌めている指環では、ああはなりません。四六時中嵌めているからこそ、自然な日焼けなどが原因で周辺の肌との色に差が出るのです。

 だから赤星さんの指環は滅多に外さないものである可能性が高く、それはつまり先程の『結婚していない』という言葉が嘘である可能性にも繋がる、と。

 

 というか、もっともっと単純な話、名札の苗字が『赤星』じゃありませんでしたしね。

 

「よく見てるわね、相変わらず」

「えへへ」

 

 逸見殿の誉め言葉って、なんだかいつまで経ってもこそばゆいですねぇ。

 まあとにかく私はそういう訳で気付いたのですが、逸見殿が気付いた理由は分かりません。他にも何か手掛かりがあったという事なのでしょうか。

 

「直感よ」

「あはは、敵いませんねぇ」

 

 久し振りだったとは言え、何だかんだで長い付き合いをした逸見殿ならでは、といったところでしょうか。表情や仕草の癖なんかは、やっぱり近しい人の方が読み取れてしまうものですからね。

 

 では、きっと。

 

「手の甲の痣についてもお気付きなのでしょうね」

「うん。たぶんね、転んで出来た痣じゃないと思う」

 

 なんとも、素晴らしい直感ですね。

 一概には言えませんが、転倒によって怪我をするのは基本的には手の平であって、手の甲ではありません。実際に転んでみると分かりますが、無意識に地面に手をついちゃうんですよね。だから転んで怪我をするのは、手の平。

 逆に、手の甲に怪我をするケースというのは、まあ、例えば、あくまでも例えばですが、殴られる際、咄嗟にその部分を手で庇ったりした場合、など。

 

「ねぇ秋山、色々すっ飛ばして訊くけど、家庭内暴力って警察は動いてくれるのかしら」

「実害が無ければ、基本的には相談窓口を紹介するなどして終わりですね」

 

 それを聞いて、逸見殿は遣る瀬無さそうに肩を落とす。説明する方も遣る瀬無いんですよね、これ。

 まあ今回は例外です。実害があると確信している方からの通報とあらば捨て置けません。逸見殿の『直感』を信用しましょう。

 調べてみて、何事も無ければそれはそれで良いんですから。

 

「秋山、それって」

 

 こちらに目を向けた逸見殿に、わざとらしく敬礼をひとつ。

 

「不肖、秋山優花里が承ります」

 

 逸見殿の瞳が一瞬、潤んだように見えました。

 

「仕事増やしてごめんね。今夜は奢るわ」

「いいんですよ、そんなこと」

 

 話している間に『どん底』の看板が見えてきました。

 明日からまた忙しくなりそうですし、お酒は程々にしておきましょうかねぇ。



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伊右衛門の胤

前回の続きのような、そうでないような。


【ケイ】

 

 今日は自宅の庭でバーベキュー。

 ホームパーティって程でもないけど、私が管理している物件に新しい住人が何人か加わることになったから、その歓迎会も兼ねて。

 まあ、最初はそんな名目だったんだけど、主役の一人であるカチューシャが仕事で欠席したので、歓迎会と言うよりはただの食事会って感じになりつつある。まあ、食べて騒げたらそれでいいやっていうのが根っこにあるから、これはこれでね。

 

 ともあれ、私はマッシュポテト作りを開始。

 ボイルして熱々になったポテトを容器いっぱいに詰め込んで、そこにバターの塊をドーンと放り込む。じゃがバターってこういうことかしら。違うかな。

 さておき。重たくなった容器を小脇に抱えるようにして、ポテトをマッシュしていく。ポテトの熱でバターが溶けて、いい感じに混ざっていく様子が目に見えるのがこの工程の醍醐味よね。そのお陰で、作業自体は黙々としてるけど全然飽きない。

 

「もうちょっとで焼けるよー」

 

 目の前のグリルでは親友の角谷杏、アンジーが特製のハンバーグを焼いている。アンジーがそれをひっくり返すたび、じゅうじゅうという音とともにその素敵な匂いが辺りにふんわりと広がって、何とも言えず食欲をそそる。

 うーーん、たまんない。

 

「あっ、あのっ、私も何かお手伝いを」

「いいからいいから、赤星ちゃんは遊んでなー」

 

 待遇に気後れしたのか、バトミントンに夢中になっているエリカ達を眺めていた小梅が戻ってきた。それをアンジーが追い返す。そうそう、そういうこと。ゲストは大人しく料理を待っていればいいんだから、余計な気は遣わなくていいの。

 主役は特にね。

 

 赤星小梅、彼女が今日の主役。

 

 彼女は結婚してたんだけど、色々とあって旦那さんと離れて一人暮らしをすることになった。その『色々』の担当にあたったオッドボール、秋山優花里からの打診を受けて、私が管理してる物件達の中から手頃な空き部屋を見繕ってあげたというのが、彼女の入居の経緯。

 

「たまたまあの二人の隣が空いてたのは良かったよねぇ」

「そうね、小梅だって近くに友達が居た方が安心するだろうし」

 

 エリカとミホが一緒に住んでる部屋の隣、そこが小梅の新しい部屋。そこが空いてる事に最初に気が付いたのはアンジーで、これ以上ぴったりな部屋も無いだろうって事で即決だった。

 まあ決める前に一応本人達に伺いを立てたけど、全員が二つ返事という結果。今日も仲良く三人でここにやって来たところを見ると、関係は良好そうで何よりね。

 

「おケイ、もういいよー」

「オッケー。ふふふ」

 

 アンジーのハンバーグが焼き上がり、私のマッシュポテトももう良い具合。思わず駄洒落みたいなやり取りをして、アンジーとハイタッチ。

 匂いにつられるようにして、三人も集まってきた。

 

「わあ~、美味しそう」

 

 エリカが歓声と言っていいような声を上げる。心なし、彼女の表情がいつもより柔らかいような気がした。

 そう言えば、小梅の状況にいち早く気が付いたのはエリカだったってオッドボールも言ってたっけ。心配事が減って気持ちが緩んでるのかもね、良い意味で。

 

「飲み物選んでねー」

「あっ、私はお茶で」

 

 小梅はなんだか申し訳なさそうに手を挙げて、そう言った。何事にも遠慮がち、そういう性格なのかしら。まあ、ここに来た経緯のこともあるし、仕方ないのかな。

 暖めた烏龍茶の缶を小梅に手渡しながら、そんなことを思った。

 

「完成ですかっ」

「ジャストモーメント。まだ最後の仕上げが残ってるわ」

 

 そわそわし始めたミホを手で制して、『最後の仕上げ』に取り掛かる。

 そりゃあ勿論これだけでも充分美味しいけど、ここからがミラクルタイムなのよ。私はアンジーの分をグリルの端に避けて、その他のハンバーグ全部にあらかじめ焼いておいたベーコンを二枚、十字にクロスさせて乗せた。

 

『えっ』

 

 ミホ、エリカ、小梅の三人の声が綺麗に重なった。驚いてる驚いてる、この瞬間がたまらないのよね。

 もちろんベーコンを乗せただけで終わりな訳がない。ベーコンの上に、更にシュレッド・チーズをこんもりと盛る。グリルの余熱でチーズが溶けたら、それで完成。

 

「こっ、これは」

「美味しそうでしょう」

 

 エリカがわなわなと震えている。美味しそうって言うか、文句なしに美味しいんだけどね。アンジーだけは乗せない派だって言うからそのまま。

 チーズが溶けるまでの間にマッシュポテトを人数分取り分けて、飲み物も全員に行き渡ったことを確認して、これでようやく食事の用意が完了。

 

 テーブルにお皿を並べてみんなで席に座ると、小梅がまた申し訳なさそうな声を上げた。

 

「えーっと、私だけ量が多いような気がするんですが」

「オフコース。小梅は主役だもの」

「カチューシャの分も食べちゃってねー」

 

 小梅のお皿にはマッシュポテトを山盛りにしてあげた。ハンバーグもふたつ。

 まあ、主役だからって以外にも理由はあるんだけど。

 

「沢山食べて栄養を付けなきゃ駄目よ。母子ともにね」

 

 母子ともに。

 その言葉を聞いて三人とも、ぎくりとしたように固まった。

 ああ、やっぱりミホとエリカには打ち明けてるのね。

 

「き、気付いてたんですか」

「そりゃあ気付くよ」

 

 固まりつつも辛うじて口を開いたミホに、アンジーが『にひひ』と笑う。

 別にオッドボールが口を滑らせた訳じゃないからね、念のため。

 お酒は飲まないし、激しい運動もしない小梅。まあそんな細々とした手掛かりはあくまでも理由付けみたいなもので、それ以上に、妊娠しているという事実はいわゆる『女の勘』をかい潜れるものではない。何だろうなあ、こういうのって霊感みたいなもので、『なんとなく分かっちゃう』としか言いようが無いのよね。

 

「まあそういう訳だから、沢山食べてね」

「ありがとう、ございます」

 

 また申し訳なさそうに、それでもお礼を言って、小梅は料理に手をつけ始めた。

 

「食べきれなかったら言ってね、小梅」

「ふふふ。ありがとう、エリカさん」

 

 エリカの声掛けに、小梅はようやく表情を和らげた。そうそう、困ったら何でも迷わずに相談できる環境が彼女には必要だわ。ミホもエリカも居ることだし、何かあれば私達だって力になる。

 皆でサポートして行きましょ。

 

 さーてと、そろそろいいかしら。

 

「あれぇ、おケイどこ行くの」

「どこって、グリルよ。ステーキ焼くの」

 

 不思議そうに問うアンジーに、答える私。

 メインディッシュはこれから。

 

『え゛っ』

 

 四人の声が重なった。

 ふふふ、たまんない。




評価、感想、励みにします。

どうかよろしくお願いします。


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河童の塒

かっぱのねぐら

かっぱ

にとり


【まほ】

 

 千代美とダージリンと三人、家具屋に来ている。

 買い物の目的はベッド。ダージリンの部屋に新しくカチューシャが住み始めたことで、寝床がひとつ足りなくなったというのが理由だ。当のカチューシャが仕事で手が離せないというので、代わりにダージリンが候補を見繕うことになったらしい。

 私と千代美は別に欲しい物がある訳でもないのだが、ダージリンが一人じゃつまらないと言うので引っ張り出された。まあ丁度暇だったこともあって、折角だから色々眺めようという程度に考えている。

 店内にはクリスマスソングがしゃんしゃんと流れていて、もうそんな季節かという気分にさせられる。千代美がその歌に合わせてベルワッチャーベルワッチャーと雑に口ずさんでいるのが面白かった。

 

「カチューシャのベッドかー。こっちに引っ越して来る前に使ってたやつがあるんじゃないのか」

「長年使ってて、いい加減窮屈だったから人に譲ったんですって」

 

 ああ成程、カチューシャならそういう事も有り得るのか。

 高校を出てからというもの、あいつは劇的に背が伸びた。長年使ったベッドというなら、身体のサイズが合わず窮屈に感じる事もあるだろう。むしろよく今まで我慢していられたものだ。今回、越して来たのは良い機会だったという訳か。

 ううむ、まさかとは思うが『長年使ったベッド』というのは、高校生の頃に使っていた揺りかごのようなスノーモービルだったりはしないだろうな。

 

 まあそれにしても、短期間とはいえカチューシャが住み始めてから結構な日が経っている筈だが、今さら寝床が足りないというのも少し妙だ。これまでどうやって寝ていたのだろう。

 

「床に寝たり、ソファに寝たりね」

「ひどくないか」

「カチューシャがそうしたいって言ったのよ」

 

 千代美の相槌に、ダージリンは弁解するように答えた。窮屈と言いつつ、カチューシャにとってはそれが習慣だったのだ。今までそうやって寝てきたものだから、窮屈な方が落ち着くという事もあったのだろう。

 ただしそう長くは続かなかったと、そんなところか。

 

「一緒に寝たりはしないのか」

「たまにしてるわ」

 

 おほほう。

 

 ちょっとした冷やかしの響きも籠めたつもりの質問だったが、照れる素振りもなくそう答えるダージリンに、逆にこちらが面喰らってしまった。

 しかし、考えてみれば驚く方がおかしいのかも知れない。思い返せばカチューシャが入居して間もない頃、早速二人で抱き合っている所に遭遇したことがあった。この二人、喧嘩は頻繁にするが仲は良いのだ。

 それも、相当。

 

「ただ、カチューシャの寝相って最低なのよ」

「ははは」

 

 そういう事なら察するに余りある。あんな図体でその上寝相が悪いとあれば、最早それは仲が良いとか悪いとかの問題ではないだろう。というか実際に蹴飛ばされでもしたのかも知れない。

 色々と寝方を模索した末に辿り着いた結論が『寝床が足りない』だったのだ。考えに考えた結果、考えなくても分かる結論に着地するというのが何とも皮肉で可笑しい。

 

「笑い事じゃないのよ」

「すまんすまん」

 

 そうしたところで売場に着いた。

 エスカレーターを降りると、そこは見渡す限りのベッド。ひとつの階が丸々寝具売場になっているらしい。一種の異様さがあって、圧倒されそうになる光景だ。ここならカチューシャのベッドくらい、いくらでも見付かるだろう。

 しかしそうは言っても、選ぶヒントのようなものが無いと候補がありすぎて絞るのが難しい。

 

「とりあえず、大きいやつね」

「ああ、そうか」

 

 ダージリンはベッドの現物よりも、備え付けのパンフレットに書かれた寸法を熱心に確かめているようだ。ベッドを選ぶ理由が『カチューシャの寝心地』という事ならば、身長のことを考えない訳には行かない。私と千代美もそれを参考にして、売場を見て回ることにした。手分けして探すとしよう。

 暫くそうやって売場を眺めていると、ベッドに『寝心地をお確かめください』と書かれた紙が貼られていることに気が付いた。

 

「寝てもいいのか」

「そーみたい」

 

 寝てみろよ、と千代美がにやにやしながら言うものだから、つい私も面白くなってしまって展示のベッドに横になった。

 靴を脱ぎ、ベッドに体重を預けるようにゆっくりと身体を倒す。すると奇妙な感覚に包まれた。

 通常、家の外で寝転がる事など滅多に無い。あるとすれば旅館やホテルなどに宿泊する時くらいのものだが、あれはあくまでも寝るために敷かれた布団だから抵抗は無い。まあ、それを言うならこのベッドもそうなのだろう。売り物には違いないだろうが、どちらかと言えば貼り紙にもある通り、寝転がって感触を確かめるために置いてある物と考えて差し支えない筈だ。

 しかし、他の客も辺りを歩いている中で自分一人が寝転がっているというのが、何とも居心地が悪くムズムズする。ベッドの寝心地は良いのに居心地が悪い。

 居心地の悪さと寝心地の良さが、なんというか、仲良く襲い掛かって来る。

 

「如何ですか、お客さま~」

 

 ふざけて店員のような声を出した千代美に、いつもなら調子を合わせてそれらしいコメントを出すところだが、何と言っていいか分からず『良いです』という社交辞令の出来損ないのような返事をするのが精一杯だった。

 

「何だよ『良いです』って」

「お前も寝てみろ、千代美」

 

 そう言って交代すると千代美もすぐに私と同じような感覚に陥ったらしく、それが可笑しくて堪らないようで横になったままふるふると肩を震わせている。落ち着いた頃を見計らって、さっき言われたのと同じように如何ですかお客さまと声を掛けてやると、半笑いの『良いです』が返って来た。

 

「何をやってるのよ、貴女達」

 

 いつの間にやら隣に居たダージリンに、呆れ顔で窘められた。

 どうやら候補出しどころか買い物も決めて、配送の手続きまで済ませて来たらしい。随分と迅速だ。

 

「勝手に決めてしまっても大丈夫だったのか」

「候補をリストにしてカチューシャに送ったら、すぐに返事が来たのよ」

 

 そういう事か。流石、上手く連携が出来ている。

 では、私達は弁明の余地もなくただ遊んでいた事になるのか。いや、そもそも寝転がっておいて弁明も何もあったものではないか。

 楽しかったです。

 

「ダージリンも寝るか」

「お構いなく」

 

 その後、他の売場も適当に眺めること暫し。

 家具屋と聞くとどうもベッドや箪笥、あとは机といった大きい物ばかり置いているイメージが湧くが、意外と小物も充実しているものらしい。千代美は食器コーナーに釘付けになってしまったし、ダージリンはパンやケーキの形をしたクッションが大層お気に召したらしく、真剣な目でそれらを吟味していた。

 私はまあ、足を止めるほど目を引く物は見付けられなかったので、店内の隅にあった休憩コーナーでお茶を飲んでいる。

 

 お茶を飲みながら、ある欲求と闘っている。

 

 もう一回、もう一回だけでいいから、売場のベッドに寝たい。赤の他人がうろうろしている中で横になる、あの感覚が癖になりそうだ。しかし流石に一人で寝に行くのは、ちょっと、駄目だろう。

 事が事だけに、千代美やダージリンにも言い出しづらい。

 

 ぬうう。



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雷神の衣

ヒートテック


【千代美】

 

 ある平日の夕方。

 帰りの時間がまほと重なったので、折角だからと待ち合わせて合流した。一緒に帰りましょー、なんちゃって。

 

「さーむーいーしー」

「言っても仕方ない事を言うなよ、千代美」

 

 合流して開口一番の会話がそれ。

 怒られたけど、でも溜め込むより絶対いいと思う。寒いもん。

 うーん、そういう体質なのかなあ。毎年思うけど、なんか着込んでも着込んでも寒いんだよな。対して、まほはちっとも寒がらない。寒がるのを我慢してるというよりは、そもそも寒さを感じてないみたいだ。羨ましいやつ。

 帰りの道すがらスーパーに寄って、夕飯の材料をちまちまとお買い物。店を出ると、それまでエアコンのきいた場所に居たせいか、吹き付ける風がさっきよりも冷たいような気がした。外に出るなりまた寒い寒いと唸り始めた私を見て、まほは驚いたような呆れたような、そんな顔をする。

 

「そんなに寒いのか」

「うんー、あっためてー」

 

 ぴたりと身体をくっつけると、まほはやれやれとため息をついて肩を抱き寄せてくれた。

 まほの身体は妙にぽかぽかしていて、これは道理で寒がらないわけだと納得せざるを得ない。さっきから私が寒がってるのがさっぱり伝わらないのも頷けた。ほんとに寒くないんだ、まほは。

 

「なんでこんなにあったかいんだよ」

「中にこれを着てるからな」

 

 まほは襟元をぐいっと捲り、中に着てる『それ』をちょっと見せてくれた。あ、それ知ってる。毎年冬に話題になる発熱素材のやつだ。

 ふーん、まほが毎年それを着てるのも知ってたけど、そんなにあったかいのか。

 

「ものすごく暖かいぞ。風呂かと思うほどだ」

「えー、そんなにかー」

 

 風呂は言い過ぎだろと思ったけど、まほの背中に手を突っ込んでみたら確かにものすごいあったかさだ。むしろ熱いと言ってもいいくらい。

 あー、こりゃ良いや。私も欲しいなあこれ。

 

「ち、千代美、馬鹿、冷たっ」

「あっ、ごめんごめん」

 

 また怒られた。

 えへへ。

 

 その後、家に帰って食材を冷蔵庫に詰め込んだりなんだりしたあと、まほにおねだりをしてみた。それ着てみたい、と。

 さっきまほの背中に手を突っ込んだ時のあったかさは衝撃的だった。あれを着れば、今年の冬は間違いなく例年より過ごしやすくなるでしょう。私も次の休日には同じものを買ってくるとして、まずはまほが今まさに着てるのを借りて、その効果を実感してみたい。試着はだいじ。

 そんな訳で、渋るまほをひん剥くようにして手に入れた『発熱素材のやつ』に、いそいそと袖を通した。

 その効果は、果たして。

 

「おっ、おおぉ」

「どうだ千代美、暖かいだろう」

 

 下着姿のままこたつにスッポリ入り、そこから首だけ出したまほが自慢気に言った。

 ほんとにあったかい。これはすごい。しかも思ったより薄くて動きやすい。ちょっと今、『お』しか言えなくなってる。こんなに良いものがこの世に存在したなんて。って言うか、これはまほが一日着たやつだから余計にあったかいのかな。

 あったかいし、その上いい匂いがする。いやー、良いものだこれは。

 

「あまり嗅ぐな、恥ずかしい」

「えー、別に臭くないよ」

 

 シャンプー、柔軟剤、それとほんのり酸っぱい汗の匂い。どれも好きだ。

 ふと意地悪な気分になって、わざと鼻をすんすんと鳴らして嗅いでみせると、まほは『むう』みたいな声で唸ってこたつから上半身を出し、それからすぐ思い直したように引っ込んだ。なんだよ寒いんじゃん。ふふん。

 うーん、私はまほより身体がちょっと小さいから、サイズはちょっと余り気味だな。自分のを買うときは、ぴったりのを買おう。その方が、ちゃんと熱が籠ってあったかいだろうし。

 

「なあ、もういいだろう、返してくれ」

 

 こたつから手だけを出して伸ばすまほ。流石にちょっと可哀想になってきた。んん、名残惜しいけど仕方ない。渋々それを脱いでまほに返そうとした、その瞬間。

 突然の事だった。バチッという大きめの音とともに、指先に走る突き刺すような痛み。

 

「に゛ゃっ」

 

 痛っっった。

 何が起きたのかを理解するまで数瞬。静電気だ。脱いだものを返そうとした私と、それを受け取ろうとしたまほの指の間で

静電気が容赦のない音を起てた。あー、痛い。

 そうか、この発熱素材って静電気も凄いんだ。体質にもよるとは思うけど、それで言ったら私は完璧に静電気体質だ。

 まほも不意の刺激にびっくりして、こたつの天井に脚でもぶつけたらしく悶絶している。

 

「千ー代ー美ー」

「ほっ、ほめん、ほめんっへ」

 

 こたつから這い出したまほの手に顔面を挟まれながら謝り倒すこと山の如し。今日だけでまほに何回怒られただろう。いやあ、反省しなきゃ。

 でもさっきのまほの悲鳴、可愛かったな。『に゛ゃっ』てさ。



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サキュバスの煙

ダジカチュ回

序盤エロ、中盤ちょっとギャグ、終盤エモ。
そんなお話。


【ダージリン】

 

 朦朧(もうろう)とした頭で記憶を辿る。

 全くのいつも通りにカチューシャとお酒を飲んで、全くのいつも通りに眠くなってきたから、全くのいつも通りに就寝した、筈。

 そこに大きな記憶違いは無いと思う。

 何故『と思う』だの『筈』だのと、自信の無いことを言っているのか。それは、自分がそれこそ大きな記憶違いでもしていない限り、現在の状況に対する説明が付かないから。

 記憶を失くすほど飲んだつもりは無かったけれど、考えても考えても全く分からない。

 一体何故、こんなことになっているのか。

 

 カチューシャの舌が、私の身体を這っている。

 

 私が何か、この状況を勘違いしているという事も、たぶん無い。

 お互い既に裸で、私の身体のあちこちを這い廻っていたらしいカチューシャの舌は、たった今私の秘所へ狙いを定めたところ。私も私で自分の脚を抱えるようにして持ち上げ、カチューシャが侵入しやすいように体勢を作っている。つまり私は今、カチューシャに全てを曝け出している。秘所だけではなく後ろの穴も、全て。

 明らかにこれは、その、『行為』に及んでいるものと見るほか無いわよね。

 

「あっ、あの、カチューシャ」

「いいから、力抜きなさい」

 

 普段と変わらない、カチューシャの強い口調。いつもならそこから小競り合いが始まる事もあるけれど、今がそんなタイミングではないことは流石に分かる。こんな状況に至った経緯が分からず釈然としないものの、私は彼女に言われるがまま、比較的素直に身体の力を抜いた。

 カチューシャは私の身体が少しだけ弛緩したのを見て取り、私のそこに何度か短いキスをして、私が嫌がらないのを確認してからゆっくりと舌を侵入させた。

 

「やぁ、んっ」

 

 入り口の肉をぬるりと掻き分けて、カチューシャの舌が入って来る。思わず吐息の雑じった声が漏れた。恥ずかしくて咄嗟に口を押さえようとしたけれど、両手は自分の脚を抱えていて塞がっている。ああ、そうだわ。私は今、自分からこんな格好を。

 その事実に今更のように羞恥の感情が込み上げ、顔が熱くなるのを感じた。

 

「声、我慢しなくていいわよ」

 

 混乱しきりの私とは裏腹に、カチューシャは至って落ち着き払っている。つまり、私より先に状況を受け入れて、リードしてくれている。

 その強引ながらも優しさを含んだ彼女の言葉に、私は思考を放棄し、ただこくりと頷いてしまった。

 

「はっ、あっ、あぁ」

 

 彼女の舌が小刻みに起てる水音と、それに合わせて零れる私の嬌声だけが寝室に響いている。

 

「可愛いわよ、アンタ」

「やめっ、言わないっ、でぇ」

 

 じわりじわりと高まっていた性感はカチューシャの言葉で急激にその勢いを増し、私はそのまま昇り詰め、我慢をする暇もなく達してしまった。

 

「んぁ、あぁ、あああぁっ」

 

 ぶるるとお尻が軽く痙攣し、抱えていた脚を投げ出した。そんなだらしない寝姿のまま余韻に浸る。

 すっかり力の抜けてしまった下半身からは生暖かいものがちょろちょろと漏れ出る感覚があったけれど、立ち上がることも出来ず言葉にならない呻き声を吐き出しながら、ただただそれが流れ出るままに任せるしか無かった。

 

 そんな、夢を見た。

 

 飛び起きて、朦朧とした頭で状況を整理する。

 色々と考えたい事はあるけれど、まず夢の中で私は最後に、その、失禁していた。つまり、何を置いても布団の安否確認が最優先。手探りで自分のお尻があった辺りをぱたぱたと触り、奇跡的に湿り気が無いことを確かめる。

 次はショーツ。こちらは、まあ確認するまでもなく、大変残念な結果になっているのが感触で分かった。つまり水流はそこで止まったと言うこと。ショーツだけなら替えれば済むから、セーフと言えばセーフ。と言うか『セーフ』と見なさないと泣いてしまいそうなので、これは絶対にセーフ。

 と、とりあえず被害状況をまとめると、布団は無事で、ショーツだけ替えればそれで復旧が可能、と言うことね。ならば良し。良くはないけれど、まあ良し。

 では次。たった今、ある意味ではショーツよりも布団よりも大きな問題が発生していることに気が付いてしまった。

 

 なんとも言えない表情で私を見詰めているカチューシャが、目の前に居る。

 

「なんつー声出してんのよ、アンタ」

「う、うるさいわよ」

 

 同じ部屋で寝起きしている私達。夜中に片方が起きてどたばたしていれば、気が付くのが当たり前。そしてカチューシャは、あろうことか『声』と言った。その『声』というのはたぶん、さっきまで見ていたの夢の中で出していた声のこと。寝言として現実に漏れ出ていたのね。

 つまりカチューシャは、早くとも私の寝言という名の嬌声が聞こえた時点で目を覚まし、それから私が飛び起きて布団やショーツの湿り気を確認する所まで一部始終を見ていた、と。

 寝起きであることも手伝って薄まっていた実感が、時間差でゆっくりと沸いてきた。

 

 全部見られたし、全部聞かれた。

 

「ふえっ、えぇーん」

「ちょちょちょ、待って待って、泣かないでよ」

 

 意外にも、それからのカチューシャは優しかった。

 動転して泣き出した私を支えるようにしてお手洗いに連れて行き、替えのショーツも持ってきてくれた。どういう訳か罵声のひとつも飛ばさないものだから調子が狂ってしまって、それで涙も引っ込んだ。

 

 粗方の対応を終え、今はベランダに出て二人で夜風に当たっている。

 というよりは、目が冴えたと言って煙草を吸いに出たカチューシャに、私がくっついているような状態。

 星でも見えたら素敵だったのだけれど、空は曇っていた。

 

「寒いわ」

「部屋に入ってなさいよ。これ吸い終わったら私も戻るから」

「嫌」

 

 そこで会話は一旦途切れ、カチューシャは細長く煙を吐いた。夜風に乗ってゆっくりと流れるその煙を見て、私は彼女が風下に立ってくれていることに気が付いた。たぶんそれは、吐いた煙が私に掛からないための、意識的なもの。

 あんな夢を見た影響か、彼女のそんな何気ない行動のひとつひとつが妙に嬉しく感じる。もっと言うなら愛おしく感じる、ような気がする。

 あんな夢を見るくらいだし、そういう気持ちも私の中にあるということなのよね、きっと。

 

「アンタさ、マホーシャのこと好きなんじゃなかったの」

「わかんない、最近」

 

 嘘ではないし、はぐらかしている訳でもない。今は本当に、わかんない。

 まほさんが好きであることに変わりは無いけれど、それが以前と同じ感情かと問われると、返答に詰まってしまう。適切な言葉が見付からない。

 カチューシャは自分から振っておいて、さして興味も無さそうに『あっそ』とだけ言ってまた煙を吐いた。

 風向きが変わってその煙が鼻を掠めたけれど、不思議と悪い気はしない。なんだか私も背伸びをしてみたくなり、一本ねだってみた。

 

「ねえカチューシャ、それ一本ちょうだい」

 

 一瞬の間があった。

 カチューシャは、今この場に一本二本と数える物が煙草以外に無いことを頭の中で確認したらしく、目を丸くしている。

 

「アンタ煙草嫌いでしょ」

「いいから」

 

 渋々といった風にカチューシャが寄越した一本を口に咥え、見様見真似で火を点けた。

 

「げっほ」

 

 思い切り吸い込んだ煙はどうしようもなく煙でしかなくて、覚悟はしていたつもりだったけれど、思った以上に煙たかった。咳き込みながらも自分の口から煙が出ていることは少し可笑しかったけれど、二口目に行く勇気は無い。

 ちりちりと灰になっていく煙草をぼんやりと眺めていると、カチューシャに取り上げられた。吸わないなら返せ、ということみたい。私が一口だけ吸った煙草を咥え、カチューシャはまたぷかぷかと煙を吐く。

 

「アンタはこんなもん吸わなくていいの」

「ふふふ」

 

 視界の端にはらはらと舞うものを見つけ、見上げると雪が空を埋めていた。

 

「もっとくっつきなさい。寒いんでしょ」

「うん」

 

 言われ、素直に身を寄せる。

 彼女の真似をして、ふーっと細く息を吐いた。



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刑部狸の酌

晩酌回

まほさんは飲める人なのに知識を蓄える機会があんまり無いひと。


【まほ】

 

 家に着いて、まず始めに違和感を覚えた。明かりが点いているのに、妙に静かなのだ。

 何かあったのだろうかと足早に居間のドアを開けると、何の事は無い、千代美はこたつで眠っていた。本を読んでいて眠くなってしまったものらしく、ご丁寧に栞を挟んだ上で卓に突っ伏している。

 すやすやという寝息に合わせて規則的に上下する千代美の背中が少し寒そうだったので、居間より先に寝室に回り、毛布を出して掛けてやった。

 全く、人にはこたつで寝るななどと言う割に自分がこうして眠っているのだから呆れる。

 

「ん」

 

 千代美が置いた本に、栞が二枚挟まれている事に気が付いた。千代美の栞と、私の栞だ。読み始めたのは私が先だった筈だが、栞を見ると千代美の方が進んでいる。慣れもあるのだろうが、本を読む早さは私よりも千代美の方が断然上だ。まあ早ければいいというものでもないが、追い越されるのは少し悔しい。

 今のうちに少しでも差を縮めてやろうかと本に手を伸ばすと、一瞬早く千代美の手がそれを押さえ付けた。こっ、こいつ。

 いつの間にか半笑いになっている寝顔が目に入り、その頬をつついてやると、指をぱくりと咥えられた。

 おお、釣れた。

 

「寝たふりだったのか」

「えっへへ」

 

 話を聞くと、私が帰ってきた音を聞いて、驚かせてやろうと思って狸寝入りを決め込んだらしい。しかし私の反応が薄かったばかりか毛布まで掛けられてしまったので、起きるタイミングを逸してしまったのだとか。

 

「優しいー」

 

 毛布をマントのように羽織り直し、へらへらと嬉しそうに笑う。狸寝入りは失敗のはずだが、まあ嬉しければ何でもいいのだろう。そういう奴だ。

 眠いのならそのまま毛布で包んで丸ごと寝室に運んでやろうかと思ったが、そういう訳でもないらしい。何事も無かったかのように『おかえり』が飛んできたので、『ただいま』を返した。

 

「ご飯出来てるよー」

「おお」

 

 そればかりか、珍しく晩酌の用意まで出来ているという。

 つい先日、私が実は酒を飲むのを我慢していると話したのを覚えていて、気を遣ってくれたようだ。

 まあその時にも触れたが、それは飲みたくて仕方が無いのを我慢しているという訳ではない。私が酒臭いと、寝る時に千代美が嫌がるからという理由で遠慮しているのだ。だから特に、飲まなければ飲まないでどうということもない。どうということもないのだが。

 全然、どうということもないのだがっ。

 

「先にお風呂済ませちゃいなよ」

「んん」

 

 たまにはいいですね。ふっふー。

 

 急ぎ風呂を済ませて食卓についた。

 遅れて気が付いたが、あらかじめ風呂が沸いていたのも『晩酌の用意』の内なのだろう。酒を飲んでから風呂に入るのは危ないから先に入れという訳だ。そう考えると夕飯の量が普段より気持ち少な目なのもまた、この後にまだ飲み食いが控えているためだと合点がいく。こういう時、千代美はとことん周到だ。

 否応なしに、このあとの晩酌への期待も高まった。

 

 そして。

 

「お待たせー」

「わー」

 

 拍手でお迎え。

 うきうきと髪を弾ませて千代美が運んできたのは、ウイスキーと

チョコレートチップが入ったパンだ。食べやすいようにスライスしてある。

 

「面白い組み合わせだな」

「へへー、ペパロニに教えて貰ったんだー」

 

 ああ、そういう事か。

 酒の飲めない千代美とは対照的に、ペパロニは酒豪と言っていいほど飲む。それでいて、千代美の後輩というだけあって舌は確かで、彼女が酒に合わせて作った料理は絶品だった。そのペパロニが勧める組み合わせなら間違いないだろう。

 早速グラスに氷を落とし、千代美にウイスキーを注いで貰った。

 

「失礼しまーす」

「されまーす」

 

 まだ飲んでもいないというのに、既に二人とも上機嫌。注がれたウイスキーの中で、氷が起てるぱきぱきという音に聞き惚れた。

 こんなに幸せでいいのだろうか。

 

「私はこれー」

「ふふふ、成程な」

 

 千代美が持ち出したのは、マグカップに注がれたココア。

 それでチョコチップパンという訳だ。これならウイスキーの肴にもココアのお供にもなる。私も千代美も一緒に楽しめるよう、ペパロニが計らってくれたという事だろうか。

 これは、今度彼女に会ったら何かお礼をしないと罰が当たってしまうな。

 

「乾杯しよう」

「うん」

 

 ウイスキーとココアで乾杯。

 

 そして一口。

 なんだか緊張してしまう。これまでそれなりに自制してきたものを、許しを貰って飲むというのは、嬉しさも勿論あるが戸惑いもある。

 緊張が伝わったのか、気が付けば千代美もこちらの一口目をじっと見詰めていた。

 

「あんまり見るな」

「えへへ、ごめん」

 

 少量を舌の上で伸ばすようにして味わう。ああ、甘い。これなら確かにチョコレートが合うだろう。

 パンを一切れ手に取ると思いがけず暖かく、おやと思って見ると表面が軽くトーストしてある。さくさくとした歯応えが何とも気持ち良い。

 

「美味いだろー」

「んん」

 

 これはもう、流石としか言い様が無い。ウイスキーとの相性も申し分なく、互いの甘さをしっかりと引き立て合っている。組み合わせは元より、千代美がトーストしてくれたお陰で香ばしさが増していて余計に美味い。

 そうして一緒になったウイスキーとチョコレートの香りが、すうっと鼻を抜けていくのが、また堪らない。

 手が止まらなくなってしまう。

 

「これ、どこのパンだ」

「あそこだよー、ほら。結構前だけど、一緒に買い物した所」

 

 ああ、あそこか。思い返すとあれ以来立ち寄った事は無かったが、こうして食べてみるとまた行こうという気になってくる。我ながら現金なものだ。そんな取り留めの無い話をしながら、時間がゆっくりと過ぎる。

 久し振りの晩酌を心から楽しむ私と、それにニコニコと付き合う千代美。

 

 とても静かで、楽しい夜だ。

 本当に、こんなに幸せで大丈夫だろうか。

 

「ねえ、まほ」

「ん」

「私もそれ、飲んでみてもいいかな」

 

 んん。

 

 どうなんだろう、それは。

 いや、駄目という事は全く無いんだが、良いとも言いづらい。

 千代美は下戸だし、過去には色々あって強い酒を一口飲んだだけで倒れてしまった事もある。アルコール度数で言えば、今飲んでいるウイスキーはあの時の酒より少し上だ。それを考えると軽々しくはいどうぞとは言えない。

 しかしなあ、ここまでしてくれている千代美に駄目だと言うのも可哀想だ。

 

「まほと同じものも飲んでみたい」

 

 んんんっ。可愛い。

 是非とも飲ませてあげたい。

 

 あ、そうだ。

 

「千代美、ココアで割ろう」

「お」

 

 チョコレートに合うものならば、ココアにも合うはず。度数の高い酒であっても、少量を割って飲むならば問題は無いだろう。そう思い、ココアがまだ残っている千代美のマグカップに、ウイスキーを一口分ほど酌してやった。そうして生まれたウイスキーのココア割りは、『美味しく』『飲みやすく』するという点に関しては大成功を収めたと言っていい。

 しかし残念ながら、程なくして泥酔した千代美がどれほど始末の悪い生き物であるかも目の当たりにすることとなってしまった。

 

 現在はどうにかこうにか千代美を寝室に押し込み、一人で居間を片付け終えた所だ。

 この後は言わずもがな寝室に戻り、千代美と同じ布団に入る事になるのだが、ちょっと尻込みをしてしまっていて、残ったパンを齧るなどしている。ああ、本当に美味しい。このパンはまた買ってこよう。

 

「まーほー、はーやーくー」

 

 寝室からの呼び声に身震いをした。

 果たして、今夜は寝かせて貰えるのだろうか。



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瓶長の朝

【ダージリン】

 

「うー…」

「あぁー…」

 

 ある休日の、不健康な朝。

 カチューシャと二人、ソファにぐったりと折り重なるようにして横たわり、唸っている。

 例によって昨夜は二人でお酒を飲んでいた。休日前ということもあって、いつもより飲むペースが速かったような気がする。そのお陰か、眠くなるのがいつもより早かった。

 観ていた映画が半分も進まないうちに、少し休もうと二人とも姿勢を崩し、その時に落下するようにストンと眠ってしまった。それからずっとこの状態。

 映画を映し出していたモニターには、無機質なスクリーンセーバーが踊っている。

 

 休日よりも休日前夜の方が楽しいというのは、まあある意味では道理。それは、翌日に支障が出るほど楽しんでも休日ならカバー出来るからというのが理由。

 でも、実際こうして翌日に支障が出てみれば後悔の念しか無い。エアコンが効いているお陰で風邪は引かなかったけれど、だから良かったという話でもないわよね。

 女として、こんなことでは全くよろしくない。

 

「よろしくないって言ったってねぇ…」

「まあ、そうなのよねぇ」

 

 カチューシャの言う通り、『よろしくない』なんて言ったところで改善は絶望的。二度とやるまいと何度誓ったことか。お酒の失敗は、分かっていても繰り返す。そういう風に出来ている。

 まあ、それはそうとこのまま唸っていても仕方ない。お洗濯ぐらいは済ませないといけないし、こんな体勢で二度寝なんかしてしまった日には目も当てられない。

 失敗は受け入れ、それはそれとして速やかに行動を開始しなくてはいけません。

 意気込んで、弾みを付けて立ち上がりたかったけれど力が出ず、ソファからずり落ちるようにして起床した。

 

「私も起こしてー」

「むー」

 

 無造作に伸ばされたカチューシャの腕を引っ張って、とりあえず彼女の上半身だけでも起こす。まあ上半身を起こした程度で彼女の目が覚めるとも思えないけれど、とりあえず起こす。

 カチューシャの腕を掴んで踏ん張ると、さっきまで無理な体勢で眠っていたこともあって身体がぎしぎしと痛んだ。その身体を引きずるようにして洗濯機を回し、ついでに自分の肩もぐりぐりと回す。それから背伸びをしたり腰を捻ったり、洗濯機の前で軽いストレッチ。

 そうして目を離した僅かな隙に、案の定うつらうつらと二度寝をし始めたカチューシャを揺り起こす。ここまでが休日の朝の、大体お決まりの流れ。

 そしてこの次は、朝ごはんの支度。

 

「ごはん何ー?」

「うーん」

 

 だるそうに問うカチューシャ、だるそうに答える私。だるそう、って言うかだるい。こんなにだるい朝だから、手間は極力省きたい。

 となれば、元々そう多くないレパートリーも更に限られる。結論には幾らも考えないうちに辿り着き、千代美さん直伝の『あれ』をやろうということになった。

 

「あー、あれ好きー」

 

 珍しくカチューシャの同意もすんなり得られたので、彼女の気が変わらないうちにと、取り急ぎ材料の準備。

 まあ、そうは言っても手の掛かる材料はひとつも無い。

 

 卵、牛乳、バター、そしてホットケーキミックス。

 たったこれだけ。

 

 分量を計り、全てボウルの中へ。

 

「混ぜるのは私がやるからね」

「はいはい」

 

 言うが早いか、カチューシャはボウルを抱えてぐるぐると生地をかき混ぜ始めた。ちょっと楽しそう。そんな彼女を尻目に、私は炊飯器の底に焦げ付き防止のバターを塗る。そこに混ぜ終えた生地を流し込みスイッチオン、あとは待つだけ。拍子抜けしてしまうほど簡単。

 簡単すぎて、ぽっかりと手が空いてしまった。時間配分を間違えたかも。炊飯器どころか、先に動かした洗濯機が止まるのもまだ暫く先のこと。

 私達はどちらからともなく、ソファの定位置に再び収まった。その正面には、スクリーンセーバーが踊るモニター。暫くの間それをぼんやりと眺めてから、カチューシャがまただるそうに言った。

 

「そー言えば、映画どの辺まで観たっけ?」

「『紅茶って飲んだこと無いんだよなあ』辺りまでは記憶があるわ」

 

 カチューシャの言わんとする事は、なんとなく分かる。

 まあ何度も観た映画だからその先の展開も分かっているけれど、エンドロールまで行かないまま記憶が途切れているのはちょっと据わりが悪い。

 面倒だけれど面倒じゃない、少しだけ面倒といった心持ちで続きから観直すことにした。そんな訳でチャプターから自分達の記憶が途切れた辺りを探り当て、大体の続きから再生。

 それから、体感的にはあっと言う間の一時間と少々が経過した。

 

「良い…」

「良いわぁ…」

 

 しみじみと、二人で噛み締めるようにつぶやいている。

 面倒がっていたのが嘘みたいに、食い入るようにして最後まで観てしまった。おまけに特典映像までしっかり観た。

 不可抗力ということかしらね、良い映画は何度も観ても良い。

 お陰で時間が潰れたし、目もすっかり覚めた。

 

「あれ、炊飯器止まったわよね?」

「とっくにね」

 

 カチューシャは完全に夢中だったけれど、私は炊飯器のブザーに一応気が付いた。室内には既に、お米の代わりに炊けたホットケーキミックスの香りが立ち込めている。

 という訳で、朝ごはんの出来上がり。

 

 炊飯器を開けると、中に籠っていた甘い香りが一気に押し寄せてきて鼻を擽(くすぐ)り、思わず笑みがこぼれる。

 ふっくらと炊き上がった真ん丸のホットケーキが姿を現した。

 

 千代美さんの言う通り、無理に苦手なフライパンを振るうよりもずっと簡単に作れるので、面倒な朝にとても重宝している。

 生地がそのまま釜の形になるから見た目もしっかり真ん丸で、なんとなく達成感が物凄い。大きめのお皿に乗せ、その上にバターを乗せて完成。

 自分の分を切り分けて、残りはカチューシャに渡した。

 

「そんなもんでいいの、アンタ」

「これでも結構、量があるわよ…」

 

 これは本当。

 ホットケーキミックスを丸ごと一袋使っているから、見た目は一枚でも量は二、三人分ある。だから一切れだけでもそれなりにお腹が膨れる。まあ、二日酔いであまり食欲が無いというのもあるけれど。

 食の細い私一人だったら丸一日掛けて食べるような量なのよね、これ。

 カチューシャが淹れてくれたコーヒーを受け取り、フォークを握った。

 

「いただきます」

「いただきまーす」

 

 一番美味しい一口目を、ぱくり。

 

 ああ、外側はカリカリ、中身はフワフワ。

 我ながら良い出来だわ。

 

「スイッチ押しただけでしょ」

「んんふふ」

 

 これを作るようになって初めて知ったけれど、うちの炊飯器には『ケーキ』というボタンがあった。料理に合わせて丁度よく炊けるように機能が分かれているみたいね。炊飯器だけで作れる料理って、他にも色々あるのかも。

 映画を観ていたお陰で、出来上がってから暫く放置してしまったけれど、保温機能のお陰で出来立ての温かさを保っているのがありがたい。

 ホットケーキの熱でトロトロに溶けたバターの相性がまた抜群。

 

「食欲無いとか言ってる割に嬉しそうに食べるわねぇ」

 

 そう言うカチューシャも上機嫌で、食べながら鼻唄なんか歌っている。美味しいから仕方ない。

 何か忘れているような気もするけれど、とりあえず良し。

 

「カチューシャ、一口ちょうだい」

「言うと思ったわよ。ほら、口開けなさい」

「あーん」

 

 カチューシャが私の口に押し込み始めた『一口』は意外なほどに大きくて、やられたと思ったけれどもう遅い。

 げらげらと笑いながら、半ば無理矢理と言った感じでホットケーキを押し込んで来る彼女にどうやって仕返しをしようか考えつつ、私はようやく何を忘れていたのか思い出した。

 

「ふんんぐ、ふんふふ!!」

「あはははは!!」

 

 メープルシロップ買わなきゃ。



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枕返しの耳

あけましておめでとうございまほチョビ

今年もよろしくお願いしまほチョビ


【千代美】

 

「ちーよーみ」

「んぁ」

 

 私を呼ぶまほの声で、意識が引き戻された。

 いつの間にか降りていた瞼を持ち上げ、全身を包み込むような心地好い気だるさを、朦朧(ぼんやり)とした頭で確かめる。ああ、寝ちゃってたのか。

 頭は上げないまま、あくびを噛み殺して小さく伸びをした。

 

「ふふ、起こしてしまって悪かったな」

 

 見上げると、にこにこと微笑むまほの顔がある。えへへ、良い眺め。まほの膝の上で眠りこけて、まほに起こして貰えるなんて、最高に贅沢な事じゃないかな。

 顔より少し手前にあったおっきいやつを、ついぽよぽよと掌で弄ぶと、その向こうのまほの顔はちょっと困ったような顔になった。

 

「こらこら、悪戯をするな」

「うへへ」

 

 だって触りたくなるんだもん、まほのおっきい胸。

 

「まほー、もう終わったのか」

「いや、まだ反対側が残ってる」

「あ、そっか」

 

 それで起こされたんだ。寝惚けてるなあ、ちょっと考えれば分かる事じゃないか。

 自分のボケっぷりににやける顔を隠すようにしてくるりと頭を回し、反対側の耳を上に向けた。

 目の前に、まほのお腹がある。

 

「よしよし、動くんじゃないぞー千代美ー」

 

 じっくりと噛んで含めるように言うまほの声が、真上を向いた耳に直接降ってきた。

 私は反射的に、ちょっとだけ身を固くする。

 まほはそんな私の緊張を和らげるように、頭を優しく撫でてくれた。それが嬉しくて、気持ち良くて、私の身体はみるみる弛緩していく。

 耳掻きの前はいつもそうだ。まほは私の頭を撫でながら、それで私の身体から段々と力が抜けていくのを嬉しそうに眺めて、それから作業に取り掛かる。

 まほの手がゆるゆると止まった。自分では分からないものの、どうやら私の緊張が丁度いいところまで解れたらしい。その加減は、まほだけが知っている。

 満を持したように髪を掻き分けて、綿棒が耳の入り口に当てられた。

 

「ん」

 

 反射的にぴくん、と身体が跳ねた。こればっかりは、動くなと言われても無理だ。まほはそれが分かってるから、いきなり綿棒を突っ込むようなことはしない。

 綿棒は私の穴の縁をゆっくり、丁寧に、なぞるように這っている。これも、私の緊張を解すために必要なステップらしい。

 余談として、ちょっと恥ずかしい話だけど、私の耳垢は一般的なそれよりもかなりネトネトしている。だから、耳掻きは綿棒派。

 初めてまほにしてもらった時、すごく驚かれたっけな。

 

「痛くないか」

「うん、大丈夫」

 

 何て事のない一言が嬉しく感じる。大事にされてるんだっていう実感が沸いて、頬が緩む。身をよじって喜びたいけど、今はそれが出来ないのがもどかしい。

 そんな私の静かな興奮を知ってか知らずか、まほの綿棒は穴の入り口をなぞり終え、ゆっくりとその中に侵入してきた。

 

「んっ、んん」

 

 私が漏らした声を聞いて、綿棒の動きが一瞬止まる。でもそれが痛みから来るものじゃないってことは、私の緩みっ放しの頬を見ればすぐに分かる。くすぐったい、気持ち良い。そんな甘ったるい声だ。

 綿棒は安心したようにまた動き出し、穴の内側の壁を丹念に擦り始める。

 程なくして、まほが『うわあ』という小さな声を上げた。

 それは吐息と紛うような、恐ろしく幽かな歓声だった。

 

「随分と溜まってるなあ、千代美」

「い、言うなよぉ」

 

 さっきの悪戯への仕返しか、ちょっと意地悪なまほの言葉に顔が熱くなった。

 そんなこと、言われなくたって分かってる。だって今まさに、そこを掻き回されるニチャニチャとした音が、直接耳の中で響いてるんだから。

 決して、乱暴にはしない。すごく優しく、丁寧に、私の中が掻き回されていく。その音が、ずっと響いてるんだから。

 

「凄いことになってるぞー、ふふふ」

「うぅー」

 

 ああ、こいつ確信犯だ。

 私が抵抗出来ないのをいいことに、まほは尚も意地悪な言葉を重ねる。普段なら小突いたりしてる所だけど、今に限ってはまほの思惑通りそういう訳にもいかず、唸るだけにしておいた。

 数分後。耳の中で響き続ける湿った音が、段々と乾いたものに変わってきた。そろそろ終わりかな。朦朧とそんなことを考えていると、思った通り、それからすぐに綿棒が引き抜かれた。

 安心したような、名残惜しいような。

 

「ふーっ」

「あぁんっ」

 

 仕上げとばかりにまほが耳に息を吹き掛けてきたせいで、思わず変な声が漏れた。完全に不意打ち。

 

「私の耳に要らないだろ、その工程」

「すまんすまん、ついな」

 

 いつの間にかぎゅっと掴んでいた、まほの服の裾を放して身体を起こす。

 あー、気持ち良かった。

 

「じゃあ」

「うん」

 

 私が膝を折り畳んで座り直すと、まほがその上に頭を乗せてきた。

 膝枕、交代だ。

 

「お願いします」

「お任せください」

 

 覚悟しろよー。



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ぬらりひょんの嫁

【絹代】

 

「コーヒーでいいかな」

「ああ、いえ、お構いなく」

 

 とある問題の相談のため、私は西住まほ殿とアンチョビ殿が暮らす部屋を訪ねた。藁にも縋る思い、とはこの事だろうか。

 しかし、このお二方は藁と呼ぶには些か太すぎるようにも思う。今抱えている問題、私一人では何の進展も見込めないが、お二方の手を借りれば恐らくは綺麗さっぱり解決に至るだろう。そんな気がしているのだ。

 不躾ではあるが、頼らせて頂くことにした。なりふりに構っていられる余裕は無い。

 手を付けずに凝乎(じっ)と見詰めていた珈琲から視線を上げ、真正面に並んで座るお二方を見据える。

 意を決し、口を開いた。

 

「ミカ殿の行方が、知れないのです」

 

 単刀直入に、そう告げる。

 それを聞いたお二方は平静を装っていたが、一瞬ばかり目配せを交わした所を私は見逃さなかった。矢張りと言うか何と言うか、何か知っているご様子だ。

 

「会ってないのか」

「はい。丸二ヶ月も顔を合わせておりません」

 

 自分でそう言って、改めて驚いた。

 そうか、もう二ヶ月になるのか、早いものだ。

 

「二ヶ月は長いなあ」

 

 アンチョビ殿が途方に暮れたように天井を見上げた。まほ殿は何も言わないが、眉に皺を寄せている。

 無理もない。毎日顔を合わせるのが普通となっているお二方には、特に異質に映る事だろう。

 まあ、ミカ殿はああいう方なので会えない日が続くことには慣れているが、流石に今回は長すぎるように思う。大袈裟かも知れないが、生死すら不明なのだ。その事に気が付いてからは、居ても立ってもいられなくなってしまった。しかし、そうは言っても何をすればいいやら皆目見当が付かない。

 

「二ヶ月前は変わったところは無かったのか」

「ええ、その事なのですが」

 

 あれは十一月の頭の事、私はミカ殿の家に招かれるという、実に稀有な体験をさせて頂いた。

 しかしまあ、思い出すだに何とも個性的というか不可思議な雰囲気のある部屋で、面喰らったのをよく覚えている。

 まずは玄関。どういう訳か施錠をする習慣が無いらしく、ミカ殿は鍵を使わず部屋に入った。不用心な事だと思ったが、ミカ殿に言わせれば『逆に安全』なのだとか。そういうものだろうかとは思ったが、当人が言うからにはそうなのだろう。

 そうして上がらせて頂いた室内は異様なほどに殺風景で、日用品はおろか家具の類いまで殆ど見当たらず、がらんとしていた。あるものと言えば、ミカ殿が飲み食いしたと思しき空き缶や弁当の殻が一箇所に纏められているばかり。

 物を持たない主義なのだろうかとも思ったが、それにしても些か行きすぎであるように思えた。

 

「それって、空き家」

「いえ、はい、分かっております」

 

 アンチョビ殿の言う通り。今にして思えば、あれはどう考えても空き家だ。

 しかし、あの時は好きな人の家に招かれたという事にすっかり舞い上がってしまっていて、疑問など浮かぶ端から霧散していたのだ。

 今だからこそ、こうしてあれこれと正常な判断を下す事が出来る。

 ともあれ、それから小一時間ほどの後。

 近くのコンビニで買ってきた菓子などを拡げ、その殺風景な部屋で四方山話に花を咲かせていると、いきなり玄関の戸が開き人が入って来た。他にも誰か客の予定があったのだろうかと思ったのも束の間、居間の戸を開けて私達と目が合ったその人は、『あれっ』とだけ言ってそのまま逃げるように立ち去ってしまった。

 あれも、思うに内見にでも来た入居希望者だったのだろう。ミカ殿は『まずいね』と呟き、拡げた菓子もそのままにいそいそと部屋を出た。ミカ殿が出ると言うなら私もそれに倣うほか無い。訳も分からずそれから暫く一緒に外を歩いたが、どうも行き先がある様子ではなかった。

 その後、尻切れとんぼのような別れ方をして現在に至るまで一度も顔を合わせていない。

 一度、件の部屋を再び訪ねてみたが、そこには真新しい『赤星』という表札が掛けられており、既に他人の住まいとなっていた。

 

「成程なあ」

 

 言いつつ、まほ殿が長い息を吐いた。心なし、私の話を聞く以前よりも疲れた顔をしているように見える。

 アンチョビ殿も困り果てたように頭を掻いていた。

 

「悪いが先に質問させてくれるか」

「どっ、どうぞ」

 

 まほ殿に気圧され、先を促した。

 疲れた顔をしているだけの筈なのだが、その表情は幽鬼か何かのようで、有無を言わせない妙な迫力があった。

 

「何故、ここへ来た」

「それは」

 

 失礼ながら、ミカ殿の立ち寄り場所としては、この家が最もお気に入りだと本人の口から聞いていたからだ。その理由は言わずもがな、美味しいご飯が食べられるから、とも。

 だからここへ来れば、何かしらの手掛かりが掴めるかも知れないと、そう思ったのだ。

 

「うーん」

 

 アンチョビ殿が迷惑半分、嬉しさ半分といった複雑そうな顔をして唸り声を上げた。その表情の意味は完全には汲み取れなかったが、少なくとも何も知らないと言う事は無さそうだ。

 お二方はまた、ちらりと目配せをしてから居住まいを正し、話し始めた。

 

「良い勘をしているな。率直に言って、私達はミカの居所を知っている」

「うん。ただなあ、口止めもされてるんだ。絹代が来たら知らんぷりをしてくれ、ってな」

 

 ああ、矢張りここへ来たのは間違いではなかった。

 しかしそれは、その話を聞かせて頂けるのはこちらとしては甚だ有り難いのだが、喋ってしまってもいいのだろうか。

 

「口を滑らせる事にした」

「なっ、成程」

 

 何やら思うところがあったらしい。

 それ以降もお二方は、『口を滑らせ』続けた。

 

「ミカが言うには、新しい棲み処を見付けるまでは西と顔を合わせたくはないらしい」

「あいつなりの誠意、なのかなあ。絹代を招ける部屋を先に確保したいんだと思うよ」

 

 ううん、それは果たして喜ぶべきか。

 言いたい事は分からないでもないが、これまで連絡も何もさっぱり無かったものだから、嬉しさよりもまだ心配が勝ってしまう。

 

「うん、分かるよ。二ヶ月は長いよな」

 

 アンチョビ殿には伝わったのかも知れない。そう、そうなのだ。二ヶ月は長い。年末年始を一緒に過ごすどころか、挨拶すら出来ていないのだ。

 新しい部屋などどうでもいいし、空き家でもいい。良くはないが。

 それより私は一刻も早くミカ殿に会いたい。

 

「して、その、ミカ殿の居所というのは」

「安心しろ、ここからそう遠くない場所だ」

 

 しかし流石に口を滑らせすぎたと思ったのか、お二方は幾分か言い淀みつつ言葉を繋いだ。

 まあ、ミカ殿と約束をした手前というのもあるだろう。それは致し方ない。

 

「このリビングを出た向かい側にさ、書斎があるんだ」

「というか物置だな」

 

 茶々を入れたまほ殿を、アンチョビ殿が小突く。

 このお二方、個別の自室を持っておらず、それによって余らせた部屋を丸々ひとつ物置のように使っているらしい。

 しかし何故、今そんな話を。

 

 まさか。

 

「そこで寝てる奴に訊いてみてくれ」

「何なら連れて帰ってくれてもいいぞ」

 

 ああ、ここへ来て良かった。本当に良かった。

 

 私はすっかり冷めてしまった珈琲を一息に飲み干し、勢いよく席を立った。




タイトル、「ぬらりひょんの嬶(かかあ)」とどっちにしようか迷った

取っ付きやすい方にしました


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口裂け女の言

私綺麗?


【千代美】

 

 カラッカラに乾燥した冬の空の下。ダージリンと二人、近所の公園でせっせとウォーキングに励んでいる。

 最近は運動不足も相俟って体が少し丸くなってきちゃったから、ちょっと引き締めないといけない。そんな訳で、ジャージを新調して運動を始めることにした。

 ウォーキングはジョギングみたいに急激に身体を動かすことは無いけど、逆に言えばジョギングみたいに急激に疲れることも無い。だから始めるための心理的なハードルが低くて、尚且つ続けやすい。それに、その効果は部分的なものじゃなくて身体全体に現れる。脚もお腹もスッキリするし、正しいフォームで続ければ背筋も伸びる。

 つまり、女の子のダイエットにはぴったりの運動なんだ。

 ジャージさえあればいつでも始められるってのも、ポイント高いかな。

 

「全部カチューシャの受け売りじゃない」

「えへへ」

 

 その通り。私達二人にウォーキングのあれこれを教えてくれたのは、実はカチューシャだ。

 元々このウォーキングは、ダージリンのためにカチューシャが思い付いたものだった。太ったと嘆くダージリンをカチューシャが怒鳴り散らして、無理矢理一念発起させたのが発端。その翌日にジャージを買いに行った二人に、実は同じく体型が気になり始めてた私も便乗させて貰ったという訳。

 カチューシャ自身は仕事が忙しくてまちまちの参加だけど、私とダージリンは何だかんだでしっかり続けている。そうそう、一緒にやる友達が居ると億劫でもサボり辛くなるから、それも長続きのコツなんだよな。

 

「続いてるわよねぇ。お陰さまで、お腹周りが心なしスッキリしてきた気がするわ」

「あっ、私もー」

 

 まさに継続は力なり、なんてな。

 そんなこんなで一時間くらい歩いたところで休憩。自販機であったかいお茶を買って、近くのベンチに腰を降ろした。

 

「んふー」

 

 二人同時、似たようなため息をつく。それがなんだかおかしくて苦笑いを交わした。

 しっかしなあ。同じため息でもダージリンの方が明らかに、なんて言うか、こう、気品があるんだよな。これはよく思う事だ。ため息に限った事じゃなく、ダージリンの仕草にはどんな時も気品が漂っている。

 なんなら酔っ払ってふにゃふにゃになってる時だって、どこか品がある。出来ることなら見習いたいけど、見習ってどうにかなるもんでもないような気がする。何なんだろうな、この差って。

 

「染み付いてるのかしらね、聖グロで学んだものが」

 

 ああ、それは分かる気がする。

 ダージリンの後輩にも何回か会ったことあるけど、みんな上品だもんなあ。

 いつ如何なる時も優雅、ってやつか。

 

「まあ、自分では分からないけれどね」

 

 そう言って、澄ました顔でお茶を飲むダージリン。

 自分では分からない、か。それが『染み付いてる』ってことなんだろうなあ。飲んでるのはペットボトルの焙じ茶で、服装はジャージ。それでも気品が漂っているのが凄い。

 髪だっていつもみたいに結ってない。頭の後ろの高い位置で簡単に縛ってるだけの、いわゆるポニーテールだ。

 

「髪は関係無いんじゃないの」

「えへへ、そっか」

 

 と笑ったところで、ダージリンが何か引っ掛かりを覚えたらしく、訝しげな顔をした。

 

「随分誉めるわねぇ」

「そ、そうかな」

 

 でもダージリンは実際に綺麗だし、私がそれをいつも羨ましく思ってるのも本当の事だ。別に何か、例えばお願いがあっておだててるとか、そういう隠れた意図があって誉めてるとかじゃなくて、本当に綺麗なんだから仕方ない。

 

 本当に、うん。

 すごく綺麗。

 

「ふーん」

 

 ダージリンが眼をすうっと細める。

 何かを不審がっているのを隠そうともせず、ダージリンは私の表情を窺うようにわざと無遠慮に隣からこちらを覗き込んで来た。その眼が、じーっと私の顔を見詰め続ける。

 

「なっ、なんだよ」

「千代美さん、もしかして何か悩み事でもあるのかしら」

 

 ぎくりとした。

 ダージリンが私の言動や表情から何を読み取ったのかは分からないけど、少なくとも咄嗟に否定が出来ない程度には心当たりがある。その悩みが原因で、ダージリンのことがいつもより余計に綺麗に見える、というのは、確かにある、かも。

 でも、そうだとしても、ダージリンに話すのは、ちょっとなあ。

 

「まほさんの事かしら」

 

 ぎくり、ぎくり。

 ことも無げに、ため息雑じりに言い当ててきたダージリンに、愕然とした。そんなに分かりやすかったかな、私。

 

「千代美さんが私に話すのを渋る悩みと言ったら、まずそれでしょう」

 

 うう、何も言えない。

 そっか、ダージリンと私だからこそ分かるのか。

 最近カチューシャと一緒に住み始めたとは言え、ダージリンはまほのことが好きだ。でもそれは、私とまほの仲を引き裂きたいとか、そういう気持ちがある訳じゃないらしい。彼女は私達を応援してくれている。

 でも、だからと言って、まほのことをダージリンに相談するのは、流石に。

 

「いいから話してみなさいよ。でないとカチューシャに言い付けるわよ」

「あっ、待って、それは勘弁して、話すから」

 

 カチューシャにバレたら怒鳴られるのが目に見えている。まあ、それはそれで結果的な解決には向かうのかも知れないけど、同じ解決なら穏便な方が有り難い。

 渋々だけど、『話せと言われたから』というのを免罪符のようにして、私は話し始めた。

 誰かに聞いて欲しい気持ちは、まあ、あったし。

 

「ちょっと、ちょっとだけなんだけどさ、自信が失くなって来ちゃったんだ」

「何が」

「まほとの暮らし」

 

 ダージリンが驚いたように目を見開いた。

 

「どうして」

「いやさ、最近まほ、めちゃめちゃ料理上手になってきてるだろ」

 

 あーー、という間延びした生返事。

 ダージリンにも心当たりがある筈だ。こうやって私達がウォーキングに励む羽目になったのも、まほの料理が原因のひとつだもんなあ。

 美味しいことは美味しいんだけど、まほの料理の美味しさはカロリー計算や栄養バランスが滅茶苦茶なことに起因してて、なんというか、ものすごく肉になる。色んな意味で。

 運動量の少ない人間が日常的に食べるには、ちょっと危ないんだ。

 まあ、それはとりあえずいい。問題はそこじゃない。

 

「それがどうして、千代美さんが自信を失くすことになるのよ」

「それは、その」

 

 ちょっと前まで、分担してきた家事の中で『料理』は私だけのものだった。

 料理が出来ないまほには料理が出来る私が必要なんだと、極端な言い方をすれば、そう思っていた。だから、まほが料理を覚えてしまったことで、自分が要らなくなっちゃうんじゃないかって。それでちょっと、不安になって。

 

「料理以外の私の取り柄って何だろうって、考えちゃってさ」

 

 だから。

 どんな時も、何をやっても綺麗なダージリンが羨ましくなった、のかな。

 

「馬ー鹿」

 

 今度はこちらが目を見開く番だった。ダージリンの口からそんな言葉が出るなんて、思ってもみなかったから。

 何を言われたのか一瞬分からなくて、固まるしかなかった。

 

「休憩し過ぎたわね、そろそろ歩きましょうか」

 

 そう言ってダージリンは空になったペットボトルをごみ箱に投げ込み、私の返事も待たず一人でスタスタと歩き出した。休憩前よりも心なしかペースが速く、ポニーテールの髪がぱたぱたと揺れている。

 慌ててその後を追うと、ダージリンはこちらを振り返らず、そのまま話し始めた。

 

「まほさんは貴女が居なきゃ駄目に決まってるでしょ」

 

 歩きながらで少し息が上がってるせいもあるだろうか。怒ってる風ではないけど、その語気には有無を言わせない迫力があった。

 まさに問答無用、って感じで。

 

「取り柄なんかあっても無くても同じ。あの人は貴女じゃなきゃ駄目なのよ」

「えへへ、そっか」

「当たり前」

 

 早歩き気味だったダージリンのペースは徐々に上がり、小走りになって、終いには短距離走みたいなスピードになった。必死に追い掛けたけど、ダージリンの脚は意外なほどに速くて、その差はぐんぐん広がるばかり。

 結局その勢いで公園を一周して、自販機の所まで戻ってきた。

 ダージリンはベンチの後ろの草むらに大の字に寝転がり、ぜえぜえと息を吐いている。いつもの彼女からは想像も付かない姿。

 でも。

 

「私、これでも綺麗かしら」

「うん」

 

 草むらにジャージで寝転がって、荒い息を吐いて、髪も汗でべったりと額に張り付いて。それでも綺麗だ。って言うか最近、以前にも増して磨きが掛かってきたような気さえする。

 

「あっはっはっ、ありがとう」

 

 大きく口を開け、豪快に笑う。

 こいつ、本当にダージリンかなと流石に不安になってきた。立ち居振舞いがいつもと違いすぎる。

 でも、綺麗。

 

「貴女も同じよ」

 

 呼吸を整えて声のトーンを落とし、不敵な笑みも取り戻しつつ、ダージリンは言葉を続ける。

 

「どんな時も、何をやっても、貴女はまほさんのものよ。だから自信を持ちなさい、馬ー鹿」

 

 まっ、また馬鹿って言った。

 

「お前、口悪くなったなあ」

「ふふふ」

 

 そうかもね、とダージリンは何故だか満足気につぶやいて、ニィっと口の端を吊り上げた。



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阿吽の吽

んん


【まほ】

 

「久し振り、なおちゃん」

「ほんと久し振りだねぇ、まーちゃん」

 

 とあるコーヒーショップ。

 二人掛けテーブルの対面に座った旧友が、昔と変わらない愛想の良い笑顔を見せた。ふにゃふにゃとしていて、人を妙にリラックスさせるその笑顔は、どこか千代美を彷彿とさせる。

 顔立ちは全く似ていないのだが、何というか、安心感という点で通じる雰囲気を持っているのだ。

 

「急に呼び出してすまなかったな」

「いいよいいよ、暇だったし。んで、どうしたの」

「ん、うん」

 

 時候の挨拶も何も無く単刀直入に問われ、言葉に詰まった。

 間を持たせるようにコーヒーを啜りつつ思考を巡らせる。そう、呼び出したのはこちらなのに、実は話がまだ爽然(さっぱり)纏まっていないのだ。

 私が早速言葉に詰まったのを見て、彼女は困ったように笑った。

 

「相変わらずだねぇ」

 

 私は今、とある悩みを抱えている。今日はその悩みの相談の為、なおちゃんに来て貰った。

 その悩みは日増しに大きくなるばかりで、疾うに私一人の手には負えなくなっている。しかし、いざ話そうとすると漠然とし過ぎていてどこから話せばいいか分からないのだ。

 まあ、普段であれば言わずもがな千代美に相談するのだが、こればかりは憚られる内容なのだ。かといって、隣人や妹達に相談するのも決まりが悪い。千代美以外で肩肘を張らずに悩みの相談が出来る相手というのは、もしかしたら今目の前に座っている彼女しか居ないのかも知れない。

 元旦に彼女から送られてきた年賀状を見るなり、抱えていた靄々(もやもや)の遣り所が決まった気がした。それからすぐに、新年早々で申し訳の無い事だが、早速連絡を付けて時間を取って貰った。

 なんだかよく分からないが、助けて欲しいと。

 

「じゃあ順々に話してみよっか、まーちゃん」

「んん」

 

 こういうのを聞き上手と言うのだろうか。

 口下手な私にとって何より怖いのは、話を誤解される事だ。そのせいで一言目を紡ぎ出すのに一種の勇気が要るというのは、実はよくある事。

 そこを、理解する準備があるから少しずつ話せと、そう言ってくれるのはとても有り難い。極論、何を言おうが誤解される心配をしなくてもいいのだ。

 そうして安心しきった私が、無防備に紡ぎ出した一言目。

 

「千代美と、別れたくないんだ」

「あっはっは、そりゃーそうだろうねぇ」

 

 自分の事ながら、流石に脈絡が無さすぎたと思う。無論、なおちゃんは私と千代美の関係も把握しているが、それにしてもだ。

 普段であれば、私は一体何を口走っているのだろうと猛省するところだろう。それでまた黙り込み、文字通り二の句が継げなくなってしまうというのが関の山。

 しかし、そこは流石のなおちゃん。

 私の脈絡の無さを一切意に介さず、そのまま受け答えをしてくれた。

 

「もしかして、安斎さんに別れでも切り出されたのかな」

「いや、そういう訳ではないんだ。しかし、なんだかずっと不安で」

 

 なおちゃんはふむふむと頷きながら、私の言葉を咀嚼している。

 

「じゃあきっと、不安の種があるんだねぇ」

 

 ああ、成程。

 不安がってばかりいても仕方ない。その原因が何なのかを突き止め、解消できるのならしてしまえばそれが良い。単純なもので、そう思った途端に光明が見えた気がした。

 何故こんな簡単なことに気が付かなかったのだろうか。

 いや、違うか。気が付いた今だからこそ簡単に感じるだけで、私一人では目が曇っていて、いつまでも悶々として辿り着けなかった事だろう。

 矢張り、相談して正解だった。

 

「何だろねぇ、原因」

「うーん」

 

 考え始めて即座に思い当たったのは、最近の千代美が見せる表情に翳(かげ)りが増えた事。それ自体の理由は分からないが、私は千代美が見せるそんな表情から漠然と『別れ』を予感してしまっているようだ。

 だが、少し引っ掛かる。これが不安の原因と見てまず間違いない筈だが、この違和感は何だろう。

 

「安斎さんの表情が暗いことと、お別れの予感が直結してるのは、ちょっと妙だねぇ」

「んっ」

 

 それは、確かにそうだ。

 単に千代美の表情が暗いだけで『別れ』を連想するなど、どうかしている。成程、違和感の正体はこれか。

 と言うことはつまり、この辺りを掘り下げて考えてみれば何か分かるかも知れない、という事か。

 

「安斎さんは、どんな時に表情が暗くなるのかな」

 

 千代美は、基本的にはいつもニコニコしている。そう、だからこそ、千代美が暗い顔をすれば記憶に残るのだ。

 それが特定のタイミングで沈んだような顔をするのであれば尚更、ああ。

 

「ごはん」

 

 そう、食事だ。

 朝昼晩を問わず、千代美は食事の時間に僅かながら表情を曇らせることが多い。更に思い返してみれば、それは私が料理をやる日に顕著のような気がする。

 

「まーちゃん、料理出来るようになったんだ」

「去年の夏頃から始めてな。自分で言うのも何だが、上達しつつあると思う」

「えーっ、じゃあ今度なんか作ってよー」

 

 なおちゃんの無邪気な言葉に、照れ臭いような恥ずかしいような、なんだか背中の痒い思いをしながらはたと気付く。

 そう言えば、千代美が私に料理を求める事はあまり無い。作って食べさせれば誉めてはくれるものの、千代美の方から『作ってくれ』と言われる事はまず無いのだ。

 大抵は私が『今日は私が作る』と言い出して、そうして作り始めるのがお決まりのようになっている。

 ああ、そうか。

 段々と分かってきた。

 

「まーちゃんはさ、なんで料理を覚えようと思ったの」

 

 そうだ、そこだ。

 そこが原因だ。

 

「千代美の、負担を減らしたくて」

「そっかそっか。なのに安斎さんの反応が思わしくないんだねぇ」

 

 私の意図と千代美の反応がズレている。そのズレが、どうやっても直らない事に対して私は『別れ』を予感してしまっている、か。

 ようやっと不安の原因が形を成した。悩みの解決には程遠いが、道は見える。

 ふうむ、千代美の真意が分かればもう少し考えを進める事も出来るのだが。

 

「ただの思い過ごしならいいんだけど、こればっかりはねぇ」

「だな。直接訊いてみることにする」

 

 ここから先は当人抜きで考えても仕方ない。

 本当に、思い過ごしならばそれが一番いいのだ。訊くのは少し怖いが、怖がってばかりもいられない。西住流には逃げも後退も無い。

 肚(はら)を決め、前進するとしよう。

 

「もし別れる事になったら私んとこにおいでよ、まーちゃん」

 

 思いがけない言葉だったが、確かになおちゃんは私に対して理解がある。千代美と同等か、はたまたそれ以上と言ってもいいかも知れない。

 何年かぶりに話した今日でさえ、こうして難なくやり取りが出来ているのだ。口下手な私にとって、これははっきり言って異例だ。

 仮に私がこの先ずっと口下手なままでも、なおちゃんとならきっと上手くやって行ける事だろう。

 

 まあ、しかし。

 

「んん」

 

 私の返事に、なおちゃんは少し残念そうに笑った。



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時代に流るる深雪の密める比翼の芽

【まほ】

 

 時刻は真夜中の零時。

 支度をして玄関を開けると、夕方頃から降り始めた雪が薄く積もっていた。辺りの景色は白っぽくなっていて、真っ暗なのに明るいような、妙な感覚になる。

 流石の千代美もこの景色を目の当たりにして外に出るのは億劫らしく、口の中で小さく『うえぇ』と声を漏らした。

 

「辞めておこうか」

「いーや、行くぞ」

 

 私の言葉が挑発か何かに聞こえたのかも知れない。千代美はわざとらしく肩をいからせ、鼻息を荒くしてずんずんと外に出た。正直に言えば億劫なのは私も同じなのだが、まあ言ってどうなるものでもない。少し遅れて私も外に踏み出した。

 真夜中の住宅街を千代美と二人で歩いている。転ばないようしっかりと手を繋ぎ、雪を踏む。

 

「ぎゅーっ」

 

 擬音をわざわざ口に出しながら、千代美は私の手をぎゅっと握った。私も千代美も手袋をしているが、繋ぐ方の手はそれを外している。ぴったりとくっついた掌と掌はじんわりと汗ばんで、手袋を嵌めるより余程暖かい。

 雪はまだ降り続いていて路面の状態も悪いが、どうやら千代美の機嫌は良いようだ。薄い鴇色に染まったその小さな頬が緩んでいる。

 千代美は繋いだままの手を引っ張り、コートのぽけっとに突っ込んだ。そうしてまた歩く。

 

「歩き難いなあ」

「えへへ」

 

 手を繋いだのは転ばない為だというのに、これでは本末転倒ではないだろうか。しかしまあ、千代美が嬉しそうなのでこのままで良いかと思い直す。

 そうやって暫くふらふらと歩いて到着したのは、いつものコンビニ。そこでは流石に手を離した。

 身体に付いた雪を払い、靴の裏の水気を入り口のマットに吸わせる。それでも、黒っぽい足跡が掃除の行き届いた床に付いてしまうことを若干申し訳なく思いつつ店に入った。まあ、長居はしないから許して欲しい。買うものは決まっている。

 余計な足跡が付かないよう一応気を遣い、真っ直ぐに売り場へ向かって暖かい缶コーヒーを二本掴む。それで買い物は終わり。二人で一本ずつ持ってまた手を繋いだ。

 一方の手はコーヒーで。

 もう一方の手はぽけっとの中で。

 何故だろう。当然コーヒーの方が熱い筈なのだが、繋いだ手の方が暖かいような、そんな気がした。

 コンビニから少し歩き、近所の公園へ。

 手近なベンチに目星を付け、積もっていた雪を払って腰を降ろした。電球の寿命が近いのか、外灯が頼りなく点滅している。

 その真下でコーヒーを飲み、二人、苦笑いを交わした。

 

「あんまり美味しくない」

「本当にな」

 

 矢張り、コーヒーは自分達で淹れるに限る。

 ならば何故、わざわざ缶コーヒーなど買ってこんな時間にこんなところで飲んでいるのかと言えば、今日が記念日だからだ。

 丁度一年前の今日、私達は同じように零時に家を出て、コンビニで缶コーヒーを買い、ここで飲んだ。

 そして。

 

「付き合い始めて一年かー」

「ふふふ、そういう事になるか」

 

 千代美は冗談めかして言ったが、確かに数えようによっては私達は付き合い始めてまだ一年という事になる。丁度一年前の今日、私がこの場所で千代美に想いを告白し、交際を申し込んだ。

 まあ、そんな事をするまでもなく疾うに一緒に住んでいる仲ではあったのだが、そう言えば言ってなかったなと思い当たってしまってからはずっと靄々(もやもや)していたのだ。

 

『好きです。私と付き合ってください』

 

 思い返してみれば、なんとも陳腐な言葉だ。しかしあの時、言わずにはいられなかった。まあ千代美は喜んでくれたので、あれはあれで良かったのだと思う。

 そして、どういう因果か今夜もまた、私はあの日と同じように言葉を抱え込み、なかなか言い出せずにいる。

 コーヒーを飲み終わってからも未だ勇気が足りず、ただ何をするでもなく黙り込んでしまっているところまで、あの日と同じ。

 千代美もそれを察しているのか、何も言わず隣で凝乎(じっ)としている。よく見ればその身体は小刻みに震えていた。

 思わず抱き寄せてやると、千代美は甘えたような鼻声を出して頬を寄せてきた。ぴたりと頬を寄せ合わせ、それでも尚その隙間を埋めるかのように、どちらからともなく唇を重ねる。

 

「ん」

 

 弱々しかった外灯の光の点滅が小さくなり、やがて二人の影が消えた。

 暗闇の中で千代美を抱き締め、ようやく言葉を絞り出す。

 

 

 

「私は、千代美じゃなきゃ駄目だ」

「うん」

 

 

 

「どこにも行かないで」

「ふふ、行かないよ」

 

 

 

「一緒に、居てくれ」

「分かってる、大丈夫」

 

 

 

 脈絡のない言葉の羅列になってしまったが、千代美は受け止めてくれたようだ。

 最後は声が震え、それ以上の言葉が出なくなってしまった。

 

「ぎゅ」

「ふふふ、ぎゅー」

 

 わざわざ擬音を口に出しながら、降り続く雪の下で千代美をぎゅうっと抱き締めた。

 真っ暗で良かった。涙でぐしゃぐしゃになった顔など、いくら千代美といえど見られたいものではない。まあ既に洟(はな)を啜る音でばれている筈だが、千代美は知らない振りをしてただ静かに私の頭を撫でてくれている。

 

「大好き」

「私もだよ、大好き」

 

 あなたに会えて、良かった。



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バンシーの涙

【千代美】

 

 今日は珍しく、みほが泊まりに来ている。

 ここから少し歩いた所にあるマンションでエリカと一緒に暮らしている彼女。何だって一人だけで泊まりに来てるのかと言えば、まさにそのエリカと喧嘩をして飛び出して来たらしい。

 何やってんだかと言いたい所ではあるけど、まあ、こういうのってカップルあるあるなのかな。生憎、私達は家出する程の喧嘩って経験が無いから分かんないや。

 隣はしょっちゅう喧嘩してるけど、家出はしないし。

 急だからびっくりしたけど、折角うちを頼って訪ねて来た『妹』を無碍に帰すのも忍びないってんで、一晩泊めてやることにした。

 今は夕飯を終えて、雑談をしながらお風呂が沸くのをのんびりと待機中。私は食後のコーヒーを用意しつつ、耳に入ってくるまほとみほの会話を聞くともなしに聞いている。

 

「喧嘩の原因は何なんだ」

「なんでもないよ」

 

 半ばむくれながら誤魔化すみほに苦笑いが漏れる。家出までしておいて『なんでもない』は無いと思うけど、痴話喧嘩なんてそんなもんかなとも思う。

 でもまあ、誤魔化すって事は原因も分かってるんだろう。原因が分かってるなら、対処も分かるはず。みほは賢い子だ。今日ここに転がり込んで来たのはあくまでも頭を冷やすため、って解釈でいいと思う。

 コーヒーを運び終えて私もテーブルに着くと、そのタイミングでまほのスマホが震えた。

 

「ん、エリカからだ」

「居ないって言ってね、お姉ちゃん」

 

 そっか成程、『みほがそっちに行ってませんか』的なやつか。

 みほの言葉にまほは無言で頷いた。あー、ちょっとだけ嫌な予感。

 

「もしもし、エリカか。みほなら居ないぞ」

「馬ッ鹿野郎お前」

 

 的中でございます。

 そりゃ『居ないって言って』とは言われたけど、訊かれる前どころか第一声で答える奴があるかよ。何か知ってるのがバレちゃうじゃないか。

 それによってエリカは案の定ヒートアップ、かと思いきや、意外にも取り乱してる様子は無い。まほも特に慌てたり弁解を始めたりする訳でもなく、そのあと二言三言の短いやり取りを交わしただけで電話を切った。

 

「みほをよろしくお願いします、だそうだ」

「お、おう」

 

 ばっちりバレたんじゃないか。

 まあエリカが落ち着いててくれた事が不幸中の幸い、なのかな。心臓に悪いなあ。

 

「いいんですよ、アンチョビさん」

 

 意外にも、みほまで落ち着き払っていた。

 あっ、もしかして、まほがヘマをするのも想定内だったってことなのか。

 なんだかんだで、みほはまほのお陰でエリカに現在位置を報せつつ『今日は帰らない』という意思表示に成功している。エリカはエリカで、みほの居場所がここだと分かれば、みほが帰らなくても過剰に心配しなくて済む。

 そういうことなのか。

 

「うふふ」

 

 そうらしい。照れ笑いで答えるみほに、何だか底知れないものを感じてしまった。

 なんて言うか、相変わらずだなあ。

 

「それはそうと千代美、みほの寝る場所はどうする」

「あーそっか、まだ決めてなかったな」

 

 まあ、そうは言っても大して候補がある訳じゃないけどさ。私達の寝室で一緒に寝るか、それか書斎で寝るかのどっちかだ。

 段々と飲みやすい温度になってきたコーヒーを飲みつつ考える。

 

「良ければ書斎がいいです。なんとなく、邪魔しちゃ悪いかなって」

「へ、変な気は回さなくていいんだぞ」

 

 なんかペパロニにも似たようなこと言われたっけな。まあそれはいいか。

 一人で考えたい事もあるだろうし、今夜は書斎で寝てもらおう。ただ『書斎』って言ってもそう呼んでるのは私だけで、まほは『物置』って呼んでる、そんな部屋だからちょっと恥ずかしいけど。

 まあ、色々あってこないだまでミカが寝起きしてたこともあって最低限は片付いてるし、人が寝るスペースも確保してあるから、今は多少マシな状態なのが救いかな。

 なんてことを考えつつ、書斎に布団を敷いてやった。

 

「気になる本でもあったら、勝手に読んでいいからなー」

「はい、ありがとうございます」

 

 そんなこんなでお風呂を済ませ、お休みの時間。

 寝室に入ると、まほはベッドの縁に腰掛けて誰かと電話していた。何だか深刻な雰囲気なのが、声のトーンで分かる。まほは私が部屋に入って来たことに気が付いて、話を続けながらも口パクで『エリカ』と伝えてきた。

 ははーん、成程。夕方に連絡してきた時は落ち着いてたけど、そうは言っても恋人が出て行った夜の一人寝だ。その胸の内は穏やかな訳がない。話し相手でも居ないとしんどいんだろう。

 ああ、話し相手と言えば、二人の部屋の隣には黒森峰時代の同級生が住み始めたって聞いたけど、その子のお腹には赤ちゃんが居るって話だし、そうなるとその子にも話し辛かったりするんだろう。

 聞き耳を立てる訳じゃないけど、先に布団に潜り込んで大人しくしていると、自然、まほとエリカの話し声が耳に入った。内容こそ聞き取れなかったものの、エリカがしゃくりあげるような声を出している事は分かる。ああ、泣いてるんだ。

 なんだかな、こっちまで悲しくなってしまいそうな声。

 こりゃ長くなりそうだし、先に寝るのもちょっと嫌だな。なんか私に出来ることは無いだろうか。

 悶々と考えていると、不意にまほの指が私の肩をちょんちょんとつついた。

 

「んっ」

 

 まだエリカとの話は終わってないだろうに、どうしたんだろうと顔を上げると、今度はその指をまたちょんちょんと振ってどこかを指し示す。書斎の方だ。

 あ、そっか。

 

(ココアでも淹れて来よっか)

(すまん、頼む)

 

 小声でやり取りをして布団から這い出し、部屋を出る。キッチンに向かう途中で足音を殺して書斎のドアに近寄り、耳をそばだてると、まほのスマホから聞こえてきたのと同じような声が中から幽かに聞こえた。

 まほにはこっちの声も聞こえてたんだな、きっと。相変わらず無茶苦茶な耳してる。

 でも良かった。お陰で私にもやれることが見付かったし。

 

「お姉ちゃんは大変だなあ」

 

 キッチンで三人分のココアを淹れながら、一人、呟いた。

 

 ほんと、今夜は長くなりそうだ。

 慎重に行こう。みほとエリカには元より、まほにだってあんまり知られたくないからな。

 

 千代美お姉ちゃん、実はこんなん大好物だなんてさ。



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白うねりの火

【まほ】

 

『戦車を降りると、ぽんこつ』

 

 昔から陰で囁かれてきた言葉だ。直接私の耳に入ったのは、果たしていつの事だったろうか。

 酷い言われようだが、実は強ち間違いではないと思っている。実際、私は他人より抜けている所が多い。それこそ、ぽんこつと呼ばれても仕方が無い程に。

 他人が簡単に気付くような事にいつまで経っても気付かず、他人が忘れないような事をぽろっと忘れる。昔からそうだ。

 補足するならば、『戦車を降りると』という部分は違う。

 戦車や日頃の所作に関しては実家で叩き込まれた部分が多いから、きちんとしているように見えるだけ。何も切り替えのスイッチが備わっている訳ではないのだから、私は戦車に乗っている時もぽんこつなのだ。

 育ちが良いだけのぽんこつ、それが私だ。

 とまあ、ここまでつらつらと並べ立ててみたが、何も悲観的になっている訳ではない。一人のぽんこつが居る、要はただそれだけの事だ。それは、歌が上手いとか、脚が速いとか、そういった類のものと同じ事だろう。

 昔はそれで気を滅入らせたり、治そうと努力したりもしたものだが、最近はそんな事も無くなった。これはこれでいいと思えるようになったのだ。

 開き直ったと言われればその通り。人から見れば悪く映るかも知れないが、気は楽になった。

 しかし、それでも今回ばかりは度が過ぎた。

 

「おいこら。まほ、聞いてんのか」

「あっ、はい」

 

 実は現在、正座をして千代美に叱られている真っ最中。

 考え事など言語道断だが、如何せん同じ説教が三周目に突入してしまっているのがどうにも遣り切れない。

 反省しているのかと問われれば勿論しているのだが、いい加減、気も散る。

 

「なんか言えよ。黙ってちゃ分かんないだろ」

 

 そうは言うものの、口の達者な千代美自身が説教の中で私の言いたい事を大体言ってしまったので、私の側からは言う事がもう何一つ無い。それに、何を言おうと全面的に私が悪い事には変わり無く、弁明の余地などどこにも無いのだ。

 強いて言うなら『ごめんなさい』なのだが、それは真っ先に使ったのでもう少し間を置かないと効力を発揮しない。あれはタイミングや抑揚を間違えると逆効果なのだ。

 無論、そんな事を馬鹿正直に言えば火に油を注ぐ事態になるのが分かっている。経験上、ここは『なんか言えよ』などと言われても神妙な顔をして黙っているのが色々と最善なのだ。

 

「ったく。ほら、これをよく読め」

 

 沈黙の甲斐あって、説教が新展開を迎えた。

 決して話が終わった訳ではないが、同じ話を何周もされるよりは幾分か気が楽だ。

 そうして私の目の前にぽんと置かれたのは、どこの町でも発行している小冊子、いわゆる防災のしおり。千代美はその『火災』の項をわざわざ開いて、ここだぞと見せてくれた。

 

『てんぷら油が火をふいた時、水をかけてはいけません。

 水をかけると火のついた油が飛びちって火災の原因になります。

 ぬらしたふきんを鍋にかぶせるなどして、消火を行いましょう』

 

 しおりには、そう書かれていた。

 ぐうの音も出ない。正座をした私の後ろには、まさしく濡らした雑巾を被せた鍋がある。私の失敗によって危うく大火事を出す所だったのだ。面目次第も無い。

 今日は旧友が私の料理を食べに来るというので、張り切って天婦羅に挑戦をした。その最中のこと。丁度現れた配達屋の応対のため、目を離した隙に天婦羅の油が火を噴いた。

 応対を終え、鍋から上がる炎を見て動転した私は、何を思ったか一番大きなボウルを選んで水を張り始めたのだ。そしてその水をいざ鍋にぶち撒けんとした所で、帰って来た千代美に突き飛ばされた。

 鍋に雑巾を被せて消火したのは千代美だ。

 

「ほんと気を付けてくれよ」

 

 分かっている、などとこの体たらくで言うのもどうかとは思うが、分かっている。

 油、火、そして鉄。それはある意味で、私にとっても専門分野のようなものだ。その扱いに失敗したというショックはそれなりに大きい。あんまりそこを詰められると年甲斐も無く泣いてしまいそうだ。

 千代美もそれは分かってくれたようで、流石に幾分か語気が和らいだ。

 ここしか無い。

 

「ごめんなさい」

 

 一際大きなため息があって、説教が終わった。

 何はともあれ、鍋が駄目になってしまったので天麩羅は中止。しかし、それはそれとして何か新しいメニューを早急に考えなくてはならない。約束の時間まで、あと僅かだ。

 そちらは正直言って、私ではもうどうにもならない。お手上げだ。

 

「そう言えば荷物は何だったんだ」

「あ」

 

 そうだ、さっき配達屋から受け取った荷物があった。

 荷物の差出人は例によってペパロニ。ならば十中八九、食材だろう。感心するほど間の良い奴だ。

 箱を開けるとその中身はまさしく食材で、ペパロニ手製の麺だった。彼女は少なくとも去年の秋頃までは高級旅館で料理番を任されていた筈だが、今度はラーメン屋でも始める気だろうか。

 まあそれは兎も角として、千代美はその麺を見て何やら策を思い付いたらしく、満足げに頷いた。

 

「丁度いいや、焼きそばにしよう」

 

 まるで元々そういう予定でもあったかのように、代わりのメニューと、余った天婦羅の種の処遇がすんなり決まった。

 それから先は当然私の出る幕など無く、千代美が全ての工程を一人で済ませ、あっと言う間に、天婦羅になる予定だった具材がふんだんに入った焼きそばが出来上がった。

 これだ、これなのだ。

 私がどれほどぽんこつでも、千代美が何とかしてしまう。

 治らないものを治そうとして気を揉んだりすることも、況してやそれで滅入ったりする事も無く、これでいいのだと思えるようになったのは他でもない、千代美のこういう所のお陰だ。

 助けてくれる人が居る。だからぽんこつでも構わない。

 千代美のお陰でそう思えるようになったのだ。

 まあ流石に今回ばかりは事が事だけに暫く引き摺りそうだが、それでもこうして助けてくれる千代美には安心を禁じ得ない。

 

「あの、千代美、ありがとう」

「気を付けろよー、ほんと」

 

 語気はまだ若干荒いが、目は笑っている。怒りが収まりつつあるのだ。来客を控えているからというのもあるだろうが、矢張り千代美が笑うとほっとする。

 肝心の料理からは西住まほの要素が綺麗さっぱり消えてしまったが、それはまあ仕方ない。

 

「ん」

 

 まずい。

 落ち着いた頭で、もう怒られる要素は無いだろうかと考えて、すぐに思い当たってしまった。

 危うく叫びそうになったのをすんでの所で堪えたが、さてどうしたものか。

 今すぐ白状すべきか、それとも様子を見るか。

 いや、そんな暇は無い。残念だが、ばれるのは時間の問題だ。ばれるよりは自分から白状する方が多少罪が軽くなるし、それなら少しでも早い方が良い。

 とは言え、さっきの今でこれを言い出すのは勇気が要る。ひとまず自主的に正座をしよう。

 今日はそもそも、張り切る必要など無かったのだ。

 旧友が訪ねて来るのは今日ではない。

 

 明日だ。



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友の友

超番外
まほチョビ以外にスポットを当てたい時もある

確実に何処にでも存在するのに目撃証言は驚くほど少ない
其れが「友達の友達」という妖怪なのだよ、関口くん


【アッサム】

 

 沢山、情報を集めた。

 沢山、沢山、計算をした。

 あらゆる手を使って情報を集め、ひたすらに計算し、そして提供する。それが自分の仕事だと、自分の役目だと、そう思っていた。

 まあそれは大筋では決して間違いではなかったし、実際、私の情報はかつての聖グロの戦車道において、数々の勝利に大きく貢献した。そのこと自体は誇りに思っている。

 でも、『それだけ』だった。

 なんて、こんな言い方をしては罰が当たってしまうかも知れない。

 けれど私にとっては情報も、計算も、勝利さえも、ただの手段に過ぎなくて、そしてその手段が実を結ぶことはなかった。それが全て。

 私の願いは、彼女のものになることだった。

 私が聖グロの勝利に心血を注いだのは、突き詰めれば隊長である彼女への愛情表現だったと言える。彼女のものになりたくて、私は彼女の役に立ち続けた。

 まあ、何もそんな迂遠なアプローチが通じるだなんて本気で思っていた訳ではない。部下としてでも彼女の傍らに居られれば、とりあえずはそれで良かった。

 もちろんそんな日々の中、私の密かな恋心が何かの間違いで彼女に伝わるようなことも無く、やがて彼女は留学のために遠くへ行ってしまった。

 だから、『それだけ』。

 

 どうしてたった一言、貴女が好きですと言えなかったのか。

 理由はとても簡単、彼女との関係を壊したくなかったから。

 彼女の傍らに居られる日々。それは私にとって何にも代えがたい宝物で、それを壊してしまう危険を冒してまで想いを伝える気には、どうしてもなれなかった。もし私と彼女の関係が壊れてしまったら、隊全体に影響が出てしまう可能性だってあったのだから。

 あの頃の私たちは互いに、隊長である彼女は言わずもがな、私だって隊にとって無くてはならない存在になっていた。

 そんな私たちが仲違いでもしたら、隊の統率に乱れが生じてしまう可能性は十二分にある。『いつ如何なる時も優雅』とは言うものの、本当にそれを実践出来ていたのは彼女ぐらいのものだったから。

 もし隊の瓦解なんて事態になれば、私は彼女の役に立つことすら出来なくなってしまうかも知れない。

 だからそんな危険は、冒せない。

 私は想いを胸に仕舞い込み、これでいいんだと自分に言い聞かせながら卒業の日を迎えた。彼女とはそれっきり。

 

 けれど、それから幾年も経ったある日。

 私たちは思いも寄らない場所で再会を果たすことになる。

 

『あら、アッサム』

 

 とある喫茶店で会計の列に並んでいた時のこと。不意に後ろから声を掛けられた。

 ティーネームで呼ばれる機会なんて、そうそうあることではない。ましてや喫茶店で紅茶の名前が聞こえたからといって、普段であれば自分のことだなんて考えもしない。

 なのに、その声は、私を呼んだのだと即座に理解出来た。

 忘れるはずもない。かつて、私が恋をした人の声だもの。

 

『ダージリン』

 

 振り向いた私の視界に飛び込んできた彼女は、私の記憶の中の彼女よりもずっとずっと、息を呑むほど美しくなっていて、私の意識は一目であの頃に引き戻されてしまった。

 とうに帰国していたことは知っていたけれど、まさかこんな近くに居たなんて。

 ケーキ好きの友人の勧めでこのお店を知ったという彼女。ケーキも紅茶も美味しい場所に集まる気質はお互い相変わらずといったところ。

 するべくして再会したのだという事実が、何だかとても嬉しかった。

 それから、その喫茶店は私にとって特別な場所になった。

 

 混み入ったお話はほとんどしない。

 お仕事も何をしてるのか知らない。

 連絡先の交換もしていない。

 それでも、待ち合わせなんかしなくても、日曜日にはこの喫茶店で時々会える。

 互いにその時の都合や気分で来たり来なかったりするものだから、一ヶ月も会えないこともあったけれど、その近からず遠からず繋がっている距離感がなんだか懐かしくて、心地よかった。

 

 けれど、ある日。

 

『カチューシャとね、一緒に住むことにしたの』

 

 初めて見る表情をして、彼女はそう言った。

 その時、彼女は今まで沢山見てきた表情のどれよりも素敵な、可愛らしくて晴れやかな顔をしていた。

 カチューシャ、プラウダ高校で隊長をやっていたあの人。ダージリンの話題によく上る人だとは思っていたけれど、大抵は文句というか悪口というか、そんな内容ばかりだった。

 まさか、そんなに深い仲だったなんて。

 頭が彼女の言葉を理解するのを拒むような間を置いて、それから相槌を打った。

 

『そうなの』

『うん』

 

 ああ、そうか。

 普段の彼女は物事を肯定する時、『ええ』『そうね』といった言葉を使うイメージがある。彼女が『うん』と言うのは本当に心がリラックスしている証拠なんだと思う。つまり。

 失恋、ということになるのかしら。

 こんなに、呆気ないものだなんて。

 

 といったところまでローズヒップに愚痴った記憶はある。

 

 目が覚めると、見慣れた天井があった。

 いつの間にか眠ってしまっていたのね。

 

「目が覚められましたか、アッサム様ー」

 

 腰の辺りからローズヒップの声が聞こえた。

 彼女はベッドに凭れかかるようにして胡座をかき、怠そうにテレビゲームをしている。枕元のデジタル時計は午前の一時を回っていた。

 

「弱いのにお酒なんか飲んじゃって」

「本当に、ね」

 

 ローズヒップの家に押し掛けて、飲めないお酒を飲んで、延々と失恋の愚痴を聞かせた挙句に酔い潰れた、という事になるのかしら。全く情けないことだわ。

 目を遣ると、テーブルには空いたお酒の缶が転がっている。

 

「半分は私が飲みましたわよ。チューハイ半分で酔い潰れるなんて、本当に飲めないんですのね」

「ふん」

 

 小馬鹿にしたような言葉に一瞬むっとしたけれど、まあ、それはその通り。飲んで飲めないことはないけれど、私はいわゆる『下戸』というやつなんだと思う。

 それでも、飲まないとやっていられない気分だったし、吐き出さないと気が済まなかった。

 

「そういうこともありますわねぇ」

 

 聞いているのか、いないのか。ローズヒップはゲームをしながら適当な相槌を打つ。

 ふと、彼女が画面から目を離して振り向いた。

 

「私もそろそろ寝たいんですけれど、よろしいですか」

 

 言われ、今更のようにはたと気が付いた。

 ここは彼女の家。彼女が寝たいと言えば私に拒否権は無い。こんな時間まで寝床を占拠してしまっていたことを謝りつつ、さてどうやって帰ろうかと別の頭で考え始めた。

 お酒が入っているから車は無理だし、徒歩しか無いか。駅まで歩いてタクシーを捕まえるというのが妥当かしらね。

 

「ああ、どうぞそのままで」

 

 言うが早いかローズヒップはテレビを消し、部屋の明かりも消して、もぞもぞと布団に潜り込んできた。

 

「ちょっ、ちょっと」

「うーわ、暖かーい」

 

 布団に入るなり、彼女は私の体温で暖まった布団に歓声を上げた。真っ暗な部屋の中、ぐいぐいと身体を押し付けてきたローズヒップの、僅かに酒気を帯びた吐息が顔にかかる。

 それは不思議と、嫌な匂いではなかった。

 

「時々しか会えないダージリン様よりも、私の方がアッサム様と仲良しですわよ」

「そう、かもね」

 

 唇に、何か柔らかなものが触れた。

 

 言われてみればこういう関係も悪くない、と。そんな考えが芽生えた気がした。

 思えば確かに、ローズヒップとは腐れ縁のような状態になっている。身近さで言えばダージリンよりローズヒップの方が今は上、か。

 彼女にはティーネームで呼ばれることにも慣れきっているし。

 

「って言うかアッサム様、OG会に顔を出したらいいんですよ。普通に来ますわよ、ダージリン様」

「あっ、うん」

 

 だってそれは、ちょっと気まずいんだもの。

 なんて言うか、なんとなく。なんとなくね。




渋の方では表紙も描いて頂きました
良かったらそっちも見てね


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シュレーディンガーの仏

6月に出す本を作ってるのでペース落ちるけど許してね


【ダージリン】

 

「あの二人ってさー……何があったら喧嘩すると思う?」

 

 始まりは、カチューシャのそんな一言だった。

 雑誌から目を上げてカチューシャの方を見ると、彼女はソファに深く身を沈め、長い脚を組んで頬杖をついている。いかにも暇そう。

 まあ、暇そうって言うか暇なのよね。

 最近のカチューシャは忙しい日が続いていて、今日はそんな中の久し振りの休日。でも急なお仕事が入る可能性もあるから、お休みと言うよりは自宅待機に近い状況。

 出掛けるに出掛けられないので、自然、家でぐにゃぐにゃとして過ごすことになる。

 私の方は特にそんな事情がある訳でもなく普通のお休みなのだけれど、カチューシャを家に置いて一人で出掛けるというのも何だかなので、彼女に釣られてぐにゃぐにゃしている。

 カチューシャにお仕事が入れば車を出せとせがまれるのが何となく想像出来るので、お酒も飲んでいない。

 

「あの二人って、まほさんと千代美さんのこと?」

「そーそー」

 

 私たちの中で『あの二人』と言えば、まあ、あの二人。隣にお住まいの、まほさんと千代美さん。

 カチューシャの言うように、彼女たちは滅多に喧嘩をしない。まあ、実は一度だけ彼女たちがアイコンタクトで喧嘩をしている場面に遭遇したことはあるけれど、あれはどちらかと言えば仲睦まじさの方が勝っていた。

 

「へぇー、でも喧嘩はしたんだ。どんな状況だったの?」

「ちょっと説明が難しいけれど、あの二人が、私が居ることに気が付かないまま抱き合い始めて……」

「あっはっはっは!!」

 

 その後、不本意ながらもお邪魔虫になってしまった私がちょっと居座ったお陰で、お預けを喰らう形になった二人が『早く帰らせろ』『そういう訳にもいかないだろ』という感じのアイコンタクトを交わすところを見た、という話。

 あれは喧嘩と言うより、小競り合いとでも言う方が合っている気がする。

 

「うーん……それは確かに、喧嘩って言うにはちょっと弱いわね」

「でしょう?」

 

 その小競り合いの先に見据えているものが『行為』の続きなのが、実にあの二人らしいところ。何よりアイコンタクトだし。

 カチューシャが想定している喧嘩というのは、そう言うのじゃなくてもっと激しいものなんだと思う。と言うかきっと、自分が普段私とやっているような喧嘩をお望みなんだわ。

 全く、性格の悪い。

 

「言っとくけど、あくまで思考実験みたいなもんよ。実際に喧嘩させようなんて思ってないからね、アンタじゃあるまいし」

「う、うん」

 

 痛いところを突かれた。あったわねぇ、そんなことも。

 確かに私はあの二人に、食べ物の好みを取っ掛かりにして実際に喧嘩をさせようとしたことがある。とは言っても、その結果は丸っきりの失敗で、あの二人は喧嘩をするどころか逆にいちゃいちゃし始めてしまった。

 驚きを通り越して呆れ果てたのを覚えている。

 

「性格悪いわねぇ、アンタ」

 

 それは、恥ずかしながらその通り。私は性格が悪いのです。

 それに関しては何も言い返せなかったので、黙って口を尖らせた。

 

「それにしても、食べ物の好みで喧嘩しないとなるとねぇ……」

「強敵よね」

 

 この世に数多ある喧嘩の原因の中で、『食べ物の好み』は一大ジャンルと言っていい。

 味付けにしろ食べ方にしろ、人にはそれぞれ好みというものがある。そしてそれは往々にして、個人個人の中で譲れないものとしての地位を高めていく。だから、そこに邪魔が入ると人は簡単に気分を悪くしてしまう。

 その証拠にと言う訳でもないけれど、私とカチューシャだったらその話題ですぐにでも喧嘩が出来る。と言うか昨日した。

 だからこそ、食べ物の好みで喧嘩をしないどころかむしろいちゃいちゃ出来てしまうあの二人は、なんと言うか次元が違う。とても強い。

 

「あー。マホーシャって、千代美のこと叩いたりは……」

「する訳無いでしょ」

「そりゃそうか。千代美はマホーシャのこと結構叩くんだけどねぇ」

「それ! 本当にそれよ」

 

 それは私も思っていた。

 意外にも、千代美さんはまほさんのことをよく叩く。まあ、家庭内暴力という意味ではなくて、いわゆるツッコミのようなものだけれど。それにしても、結構びしばし行く。

 それこそ私たちが同じことをやったら、すぐにでも大喧嘩になるのが容易に想像できる。

 でも、まほさんが千代美さんにやり返すところは見たことが無い。

 

「うーん。やり返すとかじゃなくても、マホーシャが千代美を叩く図って想像できないわね」

「ああ……確かに」

 

 思い返してみても、それは本当に一度も見たことが無い。どころか想像すら難しい。

 まあ、まほさんの腕力で千代美さんを叩いたりしたらそれこそ家庭内暴力になってしまうし、まほさんもそれが分かってると言うことなんでしょう。もし仮に叩くことがあったとしてもそれで終わりで、喧嘩に発展することは無さそう。

 

「うーん……じゃあ、浮気したらどうなる?」

「しないでしょ」

「したとして。あくまで仮定よ」

 

 うーん。

 

「どっちが浮気する側?」

「とりあえずマホーシャ」

 

 まあ、疑惑が浮上したこともあったしね。まほさんが浮気した場合か。

 落ち込むにしろ怒るにしろ、千代美さんは慌てふためくようなことはしなさそう。少し以前に一緒にウォーキングをした時にも思ったけれど、あの人は静かに身を引きそうな気がする。

 喧嘩らしい喧嘩になることは無さそう。

 

「めちゃめちゃに泣いて、そこら中の物投げたりしそうじゃない?」

「……言われてみればそれも想像できるけど、なんだか想像したくないわね」

「あー、それは確かに……んっ」

 

 何故だか突然、正解に辿り着いてしまったような感覚があった。

 

 ああ。想像できるとしてもしたくない、それが正解なのかも。

 出来ればあの二人には喧嘩をしてほしくない。そんなことを無意識に考えてしまうから『喧嘩しなさそう』という結論を用意してしまうし、更にはその結論ありきで話してしまうのかも知れないわね。

 

「うーわー、それ、釈然としないけど分かるー……」

 

 脱力したようにカチューシャがソファに横たわった。

 本当ならもっとドタバタとした喧嘩を想像したかったんでしょうけれど、あの二人でそれをやるのは難しいわね。色々な意味で。

 一息ついたところで、ふと、カチューシャのスマートホンが着信音を鳴らした。その画面を見た彼女が、露骨に顔を顰める。

 ああ、やっぱりか。

 電話に出た彼女の声のトーンでも容易に察せられる。お仕事の電話ね。

 

「ねぇ、ごめん、車出してくれない?」

「ふふふ。いいわよ、そのためにお酒も控えてたんだし」

 

 電話を切ったカチューシャの物腰がいつになく柔らかなのに、つい笑みが漏れた。普段ならもうちょっと乱暴というか、不機嫌なのを隠そうともしない物言いになるはず。

 まほさんと千代美さんの話をした影響なのかしら、なんて。

 いそいそと、お出掛けの準備をして車に乗り込んだ。

 

「いつもこうなら良いんだけれど」

「あ? なんか言った?」

「いえいえ」

 

 乗り込む時、こっそり後部座席に置いたお弁当。

 渡すなら向こうに着いてからかな。

 そんなことを考えつつ、車を発進させた。



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うば桜の杏

シリーズの総括みたいな内容

ここから読み始めると、何のこっちゃですが
いつも読んでくれている人にはありがとうなお話です


【角谷】

 

 とある公園にある、一本の桜の木。

 まだ全然細い木なんだけど、流石に開花の時期になると立派なもんで、それなりに見映えがする。なんだかんだで、咲いちゃえば桜だ。

 そして今日はその桜の木の下で、みんなが思い思いに花見を楽しんでいる。

 こういう光景が大好きなんだよねぇ、私。自分自身が楽しむよりも、楽しんでるみんなを一歩引いたところから眺めるのが好き。なんでかな、昔からそう。

 別に一人にしてほしいとか、そういうのとはまた違う。何て言ったらいいのかなあ。

 

「全く、貴女にはもう少し侘び寂びというものを理解して欲しいわ」

「しょうがないでしょ、木が細いから細いって言ったんだから」

「それが無粋と言ってるの!」

 

 ダージリンとカチューシャは、相変わらずバチバチと喧嘩してる。

 去年の秋から一緒の部屋で暮らし始めた二人。喧嘩はするけど、相性が悪い訳じゃないんだよね。むしろその逆。

 まあ、一緒に暮らし始めるよりもずっと前から仲良く喧嘩し続けてきた二人だ。これからもきっと、ずっとそうなんだろう。それが分かってるから、周りも別に止めやしない。

 仲が良いからこそ、遠慮なく喧嘩が出来る。それはそれで羨ましい関係だなー、って思う。

 

「ねぇアンジー、見てないで焼くの手伝ってよ~」

「えー、しょーがないなあ」

 

 おケイは自前のグリルを持ってきて、次から次へとじゃんじゃん肉を焼いてる。

 どうも彼女は焼いた肉を自分で食べるよりも周りに食べさせることを楽しんでる節があって、それはなんか、分かる気がするんだよね。私の、一歩引いてみんなを眺めるのが好きっていう考え方に通じるものがあるような気がする。

 だからって程でもないけど、おケイとは何かと気が合っちゃって長い付き合いをしてる。私たちもダージリンやカチューシャみたいに、ずっと続くといいなー、なんて。

 グリル用のフライ返しを握りながら、そんなことを考えた。

 

「さあさあミカ殿、沢山食べてくださいね」

「きっ、絹代、あんまり山盛りにされても困っちゃうよ」

 

 西ちゃんは、甲斐甲斐しくミカの皿に肉を盛ってる。

 この二人はいつの間にか仲良くなってたよね。

 でもこうしてくっついてるところを見ると、案外お似合いだったりして。ぐうたらなミカと、しゃんとした西ちゃんのペアは、それはもうぴったりな組み合わせ。

 西ちゃんにお尻を叩かれたお陰で、ふらふらしてたミカもようやく仕事を始めたし、きっと明るい前途になるんだろうね。分かんないけど。

 

「小梅は座ってなさいよ、お肉取ってきてあげるから」

「えへへ。ありがとうございます、エリカさん」

「エリカさーん、私のもお願ーい」

「あんたは立つの!」

 

 西住ちゃん、逸見ちゃん、赤星ちゃんの三人は、すっかりトリオ。何は無くとも、ああやってずっとわちゃわちゃ騒いでる。三人とも騒ぐタイプではないんだけど、まあ三人寄れば姦しいって言うし。

 ちょっと複雑な事情でバツイチになった赤星ちゃんのお腹が最近目立つようになってきたのがちょっと心配だけど、みんなでサポートしていけたらいいよね。

 

「なんだか浸っちゃってるわね、アンジー」

「んー、まあねー」

 

 じんわりと、うっすらと、自分が関わっている人たちの関係が変化していくのを見守るのが好き。そういうことなのかなあ。

 なんて、それこそまるで木みたいだ。

 

 ああ。

 そう言えば私がこの木を見つけたのは、失恋したすぐあとだったっけ。この木から見たら、私も変化してるのかな。

 あれはなんて言うか、まるで勝ち目の無い恋だったなあ。何しろ最初から失恋してたようなもんだったからね。私のかつての想い人には、既に別の想い人が居た。

 それでも好きになっちゃったんだから、しょうがない。

 結局私は、想いを伝えるどころかアタックすら碌に出来なくて、それどころか相手の恋を応援してしまった。

 その結果は、幸いというか何と言うか。

 応援のし甲斐はあったね、間違いなく。

 

「おお、もう始まってるな」

 

 飲み物を詰め込んだビニール袋を両手にぶら下げて、姉住ちゃんが公園に到着した。

 お茶にジュースにお酒、結構な重さになってるはずだけど、足取りはそれを全く感じさせない。相変わらず腕力あるなあ。

 

「遅かったじゃない、マホーシャ」

「すまんすまん、そこのコンビニで千代美が話し込んでしまってな」

 

 ああ、飲み物はそこで買ってきたんだ。まあこの公園にも自販機があるとは言え、流石にお酒は無いもんね。

 姉住ちゃんは飲み物の袋をどさりとベンチに置いて、自身も同じように腰を降ろして小さくため息を吐いた。流石にちょっとは疲れるか。

 

 私は、そんな姉住ちゃんの言葉に、密かにちょっとだけドキッとしていた。姉住ちゃんはもう、彼女のことを『千代美』って呼んでるんだよね、そう言えば。

 これも変化、かあ。

 

「で、その千代美さんの姿が見えないけれど」

「その事だがな。作った弁当を持ってくるのを忘れたと言って、慌てて一旦家に戻った」

「あっはっは! 何やってんのあいつ」

 

 ダージリンとカチューシャが同時に上げた甲高い笑い声につられて、私もちょっと笑っちゃった。

 あれっ、でも待てよ。

 チョビのことだ、お弁当って言ったら全員分作ったんじゃないのかな。

 

「姉住ちゃん、お弁当ってチョビ一人で運べる量なの?」

「んん、恐らく無理だ。手伝って来よう」

「ヘイヘイ、マホは休んでなよ。飲み物を運んでくれたんだから」

 

 立ち上がりかけた姉住ちゃんの両肩に手を置いて半ば強引に引き留めながら、おケイが『アンジー行ってきな』とアゴをしゃくった。

 

「へっ、私?」

「そうよー、暇でしょ?」

 

 瞬間、おケイの言いたいことが分かっちゃったけど、いやいやそれはちょっと急でしょ。

 心の準備ってものがあるよ、おケイ。そう目で訴えると、ウィンクが返ってきた。

 

 参っ、たなあ。

 

 もうとっくに諦めたこととは言え、昔好きだった相手に二人きりで会う勇気なんか無いんだよ、こっちは。流石に丸っきり会ってない訳じゃないけど、二人きりだけはずっと避けてきたんだ。どんな顔をして会ったらいいか分かんない。

 まあ、おケイはそれが分かった上で顔を合わせて来いって言うんだろうけどさ。

 でも残念ながら、そうやって精一杯ぐずぐずしてる私にとって状況が好転することは無かった。

 遅れて顔を出した姉住ちゃんの周りには続々と人が集まってきて、あっと言う間に抜け出せくなってしまった。

 あーあー。

 こりゃ、本当に私が行くしか無いのか。

 

「すまんが頼む。道は分かるか?」

「だいじょーぶだよ」

 

 平静を装って、なるべく軽い響きになるように返事をした。私の気持ちは姉住ちゃんにはバレてないはずだし、変な心配は掛けたくないからね。

 手を振るおケイの後ろで、桜の木が風に揺れている。

 おケイと桜に手を振り返して、公園を渋々後にした。

 

 これも変化、か。

 せいぜい見守っといてね。



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黒子の図

【千代美】

 

 西住まほは他人だ。

 なんて、語弊のある言い方になっちゃうけど『本人ではない』って意味では、家族だろうと恋人だろうと自分以外は全員他人だろう。そういう意味での他人。

 そして他人である以上、絶対に分かり合えない物事ってのはいずれどうしても出てくる。どんなに近しい相手でも、それは起こりうる。そういうもんだと思う。

 絶対に分かり合えない物事。例えばそれは食べ物の好みだったり、寝相だったり、あとはまあ、性癖だったり。

 それは、言ってしまえば人間関係のピンチだ。それが原因で喧嘩になるくらいならまだ可愛い方で、場合によっては別れ話に発展してしまう可能性だってあると思う。

 大事なのは、そこで無理に分かり合おうとしないこと。

 理解出来ないことは理解出来ないこととして受け入れれば、それでいい。

 そうやって折り合いを付けながら関係を続けていくのが最良って言うか、あるべき姿だと信じて、色んなことを乗り越えて今日までやって来たつもりだけど、今ちょっと揺らいでる。

 

「こうか。いや、こうだな」

 

 今、私の目の前ではまほが一枚のメモ紙と格闘しているところだ。何やら正しい向きがあるらしく、裏返したり、くるくると回したりしている。

 暫くそうやって紙を回した後、納得のいく向きを見付けたみたいで、まほはその紙をこちらに渡して寄越した。

 紙に描かれていたのは米の字みたいな図と、その米の字の右上にくっついている黒い点。まほが今、ボールペンで描いた絵だ。

 これを絵って呼んでいいかは分かんないけど、とりあえず字ではない。

 

「ふーん、くっついてるんだ」

「そう、シワに掛かっている」

 

 その絵の、取り分け黒い点に対する私の感想を聞いて、まほは我が意を得たりとでも言いたげに大きく頷いた。どうもそこが重要というか、この図柄に込めた想いが特に詰まった箇所だったらしい。まほは、この点が大好きだ。

 まあ確かに、どういう体勢で見ればこれが右上に来るのか考えると、説明は難しいかも。

 こんな風に絵にしたところで、今度はその絵をどの向きで見ればいいかの説明が難しい。まほが紙を回してたのは、そういう理由からだろう。

 ただ、まあ、言っちゃ悪いけど、こっちとしてはどうでもいいんだよな、そんなもん。

 ちょっと嬉しそうに話し始めたまほとは対照的に、私のテンションはかなり低いって言うかむしろイライラし始めてる。

 

 誰が喜ぶんだよ、自分のお尻の穴の絵なんか見せられて。

 

 そう。まほが今、嬉々として絵まで描いて良さを説こうとしているのは、私のお尻の穴にあるホクロ。まほは、私のそれが大層お気に入りらしい。

 行為の途中、愛おしそうにそこを撫でるまほに、なんでそんなに好きなんだ訊くと、よくぞ訊いてくれましたとばかりに講釈が始まってしまった。

 二人とも、裸のままで。

 私は早く『続き』がしたいんだけど、まほはそんなのそっちのけで、私のお尻の穴とホクロの良さについて語り始めてしまった。ちょっと寒いから、私は毛布を羽織ってそれを聞いている。こいつ、こんなに饒舌だったかなあ。

 

「私はな、千代美。後ろの穴というのは『前』よりも恥ずかしい場所だと思うんだ」

「うん」

 

 まあ、そうだな。

 それは確かに、その通りだ。

 

「そこを見せてもらえる、触らせてもらえるという事実に私は無上の喜びを感じる」

「ふむ」

 

 言われなくても全部お前のもんだけどな。

 

「そこにホクロがあることを知っているのが私だけというのも、堪らなく嬉しいんだ」

「うーん」

 

 腹は立つけど、そういう言い方をされると段々分かるような気もしてきたのがちょっと悔しい。要するに、二人だけの秘密が増えるのが嬉しいってことなんだな。

 二人だけの秘密。それは確かに親密さの証みたいなもんだし、それは、いくつあったって良いものだ。

 それが嬉しいって言うなら、私も嬉しい。

 

 でもさあ、何も、お尻の穴じゃなくたっていいじゃないか。

 

「ん」

 

 ちょっと、待てよ。

 その考え方、もしかして。

 

「なあ、まほ」

「どうした」

 

 たぶん、まほは気付いてない。

 

「その理屈さあ、そっくりそのまま返しても問題ないんだよな」

 

 言われて考えて、ようやく事態を察知したらしい。まほの顔色がゆっくりと青褪めた。ふふん、やっぱりそれは予想してなかったか。

 だけど、良さを分かれと説くんだったら、あれこれ解説するよりこうする方が手っ取り早いよなあ。

 

「いやあ、あの、千代美、それは」

「あれぇー、もしかして嫌なのか」

 

 こういう時の言い合いは、どうやったって私の方が強い。

 ただ言い包めるよりも、まほ自身の言ったことをそのまま返せばいいだけだから、今回は特に楽だ。

 

「四つん這いになれ」

 

 意識的にちょっと強めに言ってやると、まほは口の中で何やらもごもご言いながらも、大人しく両手と膝をついてお尻を突き出してきた。

 つまりはそういうこと。まさに、『百聞は一見に如かず』。

 さっきまでの私は『続き』がしたくて仕方なかったんだけど、今はもうそんな気分じゃないっていうか、こっちに興味が行ってしまった。それもこれも、まほのせいだからな。

 その体勢がどれだけ恥ずかしいかは、よーく知っている。意地悪をして、見やすいように部屋の明かりを点けてやると、まほの『ぐうぅ』という唸り声が聞こえた。

 さてと、それじゃ観察させて貰おうか。

 

「うーん」

 

 見たことが無いわけじゃない。当然って言い方をするのも何だけど、当然ある。身体を重ねた回数なんて、もうとっくに数えるのを辞めている。

 でも、こんなにじっくり眺めるのは流石に初めてだなあ。

 

 まほの、お尻の穴。

 

「もうちょっと広げて」

「こっ、こうか」

 

 まほが両手を使って、ぐいっと自分のお尻を広げた。

 そこまでしろと言ったつもりは無かったんだけど、ああ、なんか分かってきたかも。確かにこんな場所を見せて貰えるってことに対して、奇妙な嬉しさが身体の中を駆け巡っている。独占欲とか征服欲みたいなもんが、満たされていく。

 西住まほが、私の目の前でお尻を広げてる。その事実が、やばい。

 しっかし、それにしても綺麗だな。変に黒ずんだりしてないし、毛が生えたりもしてない。

 ちょっとした悪戯心を起こして、ふうっと息を吹き掛けてやると、その穴がきゅっと収縮した。

 あ、今ので完全に分かった。

 この穴、可愛い。

 

「ねぇまほ、写メ撮ってもいいかな」

「だっ、駄目」

 

 えー。



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地の記

お久し振り
本作ってました
たぶん令和初のまほチョビ小説本になります

それはそうと通常投稿が目に見えて滞っていたので、大型連休の間に勢いを取り戻したいですね
連休が終わるまでにもう1本か2本書きたい


【しほ】

 

 とある、道の駅にて。

 足湯に浸かりながら、半分止まったような緩やかな時間を過ごしている。

 せせこましい日々の中で、こんな時間が果たしてどれ程あったことやら。

 対面に座った千代も、明らかにいつもより表情が緩い。日頃から微笑みを絶やさないタイプの人物ではあるけれど、今の彼女は普段のそれとは違った、柔和な顔をしている。

 ほにゃっとしてる。

 

「来てよかったわねぇ~」

「そうねぇ。案外面白いわ」

 

 誰が落としたやら、座席に備え付けられたものと同じ小さな座蒲団が一枚、循環式のお湯の流れに乗ってぷかぷかと漂っている。

 あっちへ行ったり、こっちへ来たり。私はその座蒲団を拾い上げるでもなく、ただ朦朧(ぼんやり)と眺めている。

 

 元々、ここに来る予定があった訳ではない。

 千代と休日が被ったものだから、二人でどこか適当にドライブにでも出掛けようと話していて、そうして話した通り適当に車を走らせていたらここに着いた、というだけのこと。

 広い駐車場にズラリと並んだ車の数を見るに、そこそこ賑わっているのが伺える。

 道の駅というものはその名の通り、道の途中にあるものだと思っていたけれど、成程、道の駅に『着く』ということもあるのねと、カルチャーショックにも似た不思議な感覚を味わった。

 そして着いてみれば何だかんだで見所は多くて、意外にも楽しい時間を過ごすことが出来た。

 地元で採れた旬の野菜やら、ひとつひとつ形が微妙に違う手作り感溢れる工芸品やら、知らない地方タレントが来店したらしいレストランやら。どれもこれも目を引かれる。段々誉めているのか貶しているのか分からなくなってきたけれど、一応誉めている。知らない地方タレントが来店したらしいレストラン、良いじゃない。

 丁度お昼時だったこともあって、そこでご飯にしましょうかという話も出たけれど、思った以上に混んでいたので辞めにした。

 代わりに併設のコンビニで適当に買って食べることに。

 まあ、『コンビニ』と言っても当然、大手チェーンのものではない。精一杯コンビニのような雰囲気を出そうとしているのが分かるから便宜的にそう呼んであげるだけで、どちらかと言えば『立派な雑貨屋』といった様相の店だった。一応誉めている。

 少なくともこの場に於いては、本当の意味でのコンビニよりも購買意欲を刺激される。これはこれで趣があって良い。

 閉店時間は二十時。良い。

 そこで、プラスチックのパックにおにぎりがふたつ入ったものを購入。それを二人で分けた。

 値段の割に、矢鱈と気前の良い大きさのおにぎり。屋外に雑に並べられたテーブルで二人でそれをもぐもぐと食べ、セルフサービスのお茶を頂いて一息。

 少し休んでまた散策を始めるとすぐに足湯のコーナーを見付けたので、そこに落ち着いて、今に至る。

 銭湯もあったけれど流石に着替えは用意していなかったので、またいつか来た時にでも。

 

「あのおにぎり、パックに握った人の名前が貼ってあったわねぇ」

「んん」

 

 あった。

 どういう効果を狙ったものかは分からなかったけれど、『私が作りました』と印刷されたシールに手書きで名前を書き加えたものがパックに貼ってあった。そうですかとしか言いようが無かったけれど、何も貼ってないよりは幾分か良いような感じがした。

 まあ、あのシールも、この緩い空間を演出する要素のひとつなのには違いない。本当にここは何から何まで緩い。それなりに混雑しているはずなのに、何故か心にゆとりが生まれる。

 ぷかぷかと漂う座蒲団を足で千代の方に押し遣りながら、そう思った。

 

「そう言えば、娘さんたちとは最近どうなの」

 

 座蒲団を押し返しながら、千代が言う。

 

「大して変わらないわよ」

「ふーん」

 

 大して変わらない。

 まほと千代美さんの二人とは上手くやれていると、少なくとも私は思っている。

 みほと逸見さんの二人とも上手くやれるよう努力はしているつもりだけれど、まだ少しぎくしゃくしている、気がする。

 そんな状況全てを引っくるめて、大して変わらない。

 

「どうしてそんなことを訊くのよ、急に」

「んー、うちも最近ちょっと変化があったの。ちょっとだけね」

「ああ」

 

 そう言えば千代の方でも、娘さんが『いい人』を見付けたとかなんとか、そんな話を聞いた。

 とは言え西住家と違って問題があるようには見えなかったから心配はしていなかったけれど、千代も千代で悩んではいたのね。

 

「円満とは行かないわよ、どこだって」

「ふふふ、言われてみればそうね」

 

 だからこそ円満に向かうよう努力をする、か。

 

「後継ぎのことは、どう考えているの」

「まほに継がせるつもりよ」

 

 そこも変わらず。

 もちろん、その為に千代美さんと別れろなどと言うつもりは毛頭無い。つまり、家元はまほに継がせるし、千代美さんとの関係も好きにさせる。

 ただし、それによって遅かれ早かれ更に次の後継ぎ問題が起きることになるのも目に見えている。けれどそれに関しては次期家元に任せればよしと、そう考えることにした。

 丸投げと言えば丸投げ。けれど私が一人で何もかも決めて強制するよりは、きっといい。

 まほと千代美さん、二人で考えて答えを出せばいい。

 まあ、まほが継いでくれればの話になるけれど。

 この考えが正しいのかどうかも、今はまだ分からないけれど。

 そんなことを尻窄みにごにょごにょと話す私を見て、千代は曇り始めていた表情をまた緩めて、ほにゃっと笑った。

 

「私たちにも、そんなお母さんが欲しかったわねぇ」

「馬鹿言わないの」

 

 私たち二人に『そんなお母さん』が居たら、今こうして足湯に浸かることも無かったのだから、これはこれでいいの。

 と、話している間に段々と他のお客さんが増えてきた。それで今更のように、あまり人前でする話題ではないことに気が付いた。

 気を緩めすぎるのも考えものね。

 

「込み入った話は車の中でしましょうか」

 

 言って私たちは足湯を出て、駐車場に停めた愛車に乗り込んだ。

 一台一台が誰かの愛車。

 その中でも一際目立つ、Ⅱ号戦車に。

 

「しほさん、このⅡ号好きよね」

「うん、大好き」

 

 まだまだ、道の途中。

 せっかくの休日、午後はどこに行きましょうね。



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吽吽の吽

【まほ】

 

 休日、昼前のコンビニにて。

 

「いらっしゃ、おや珍しい。今日は一人なんだね」

「んん」

 

 挨拶を差し置いてでも突っ込みたいと思ったのだろうか。私が店に入るなり、会計に立っていたミカが言わなくてもいいことをわざわざ言った。

 ミカ。私は少し以前まで彼女のことを瘋癲(ふうてん)と呼んでいたが、こうしてコンビニの店員という立派な仕事を見つけた者に対して瘋癲も無いものだと思い、最近は改めた。

 まあ自発的に仕事を始めたという訳でもないのだが、それはそれ。

 さて、そんなミカの視線は私というよりも私の隣の空間に注がれている。私の隣に千代美が居ないのだ。ミカの言う『今日は一人』というのは、そういう意味だろう。

 なんだか、少し癪だ。

 

「私と千代美は何も四六時中べったりという訳ではないぞ」

「ふふふ、そうかなあ」

 

 何が可笑しいやら。含み笑いを漏らすミカを尻目に、私は店内の物色を始めた。さて何を買おう。訳あって、暫く時間を潰さなくてはいけない。

 ここに来れば何かしらはあるだろうと思ったが、さて。

 大して腹は減っていないが、軽食でも買ってみようかなどとぼんやり考えながら菓子パンの棚を眺めていると、また声が掛かった。

 

「あれっ、お姉ちゃん。今日は一人なんだね」

 

 聞き覚えがあるというレベルではない、ころころと鈴を転がすような声。振り返るより先に、一度、顔を顰めた。

 見事としか言いようのない間の悪さだぞ、妹よ。

 

「あのなあ、みほ。私と千代美は、何も四六時中べったりという訳ではないぞ」

「そうかなあ」

 

 きょとんとして小首を傾げる仕草は可愛らしいが、今はそれが小憎らしくもある。

 先程、ミカと全く同じやり取りをしたところだ。会計の方に目を遣ると、そのミカが笑いを噛み殺している。あいつめ。

 ここから歩いて数分のところにエリカと一緒に住んでいるみほ。どうやら昼御飯を買いに来たところらしい。彼女が提げた買い物カゴの中には、弁当が三つ重ねられていた。自分と、エリカと、もうひとつは隣の部屋に住んでいる赤星の分だろうか。

 なんだか心配な食生活を送っている気がして少しだけ小言を言いそうになったが、それは飲み込んだ。これから買って食べようとしている弁当にけちを付けられても、煩いなと思われるのが関の山だろう。小言はまた別の機会にして、『んん』とだけ唸っておいた。

 みほはそんな私の葛藤など知る由も無い。弁当と同じ数のお茶をカゴに追加して、さっさと買い物を済ませて行ってしまった。

 袋の中の弁当の向きを気にしながら店を出るみほを見送り、私は棚に視線を戻しつつ、考える。

 うーん。

 

「なあ、ミカ。私が一人で居るのは珍しいか」

「何らかの事情があるんだろうなと思わせる程度には」

「ううむ」

 

 まあ、あるが。何らかの事情。

 しかしそれにしても、パンの方はいまいちピンと来ない。そもそも腹が減っていないのに加えて考え事をしているものだから、決まらないのも無理はない。

 あと、大きさの割に若干高い。

 文句ばっかりですみませんが。

 

「何も買わずに店を出たら怒るか」

「別にー」

 

 それどころか、むしろ会計をする手間が省けてラッキーとさえ思うらしい。働き始めたとは言え、性根は変わらないようだ。

 しかし、同じ給料ならば仕事は少ないに限るという考え方に関しては、一理あるような気がした。

 

「時間を潰したいなら家で本を読めばいいじゃないか。いっぱいあるだろう、君んち」

 

 それは全くもってその通りなのだが、諸事情によりそれは出来ない。今日はどうやって家の外で時間を潰そうかというところで試行錯誤しているのだ。

 だがわざわざ説明する事情でもないので、私はここでも『んん』と唸るに止めた。別に計算ずくという訳でもなかったが、こうしてみると実に便利な返事だ。

 しかし、ミカの案自体は悪くない。彼女の仕事を増やすとしよう。

 パンの棚から移動して、本の売場にやってきた。

 品揃えはまあまあといったところ。人気の漫画の最新刊や、映画化して話題になっている小説、使いどころが分からない実用書などの当たり障りの無い本が目立つ高さに並べられている。

 そこから視線を下に移すと、新作でこそないものの売れる機会を伺っているような、当たり外れの激しそうな本がひっそりと背表紙を連ねていた。

 私はその中から目についた小説を一冊と、ついでに缶コーヒーを掴んで会計に向かった。

 これをすぐそこの公園ででも読んでいれば二時間は潰れるだろう。

 今日は天気も良いし、風もあまり無い。屋外で読書をするには丁度いい日だ。

 

「あんまり帰りたくないんだね」

 

 会計をしながら言うミカに、一瞬、心臓が跳ねた。

 図星とまでは行かないが本質は捉えている。

 先程のミカの言う通り、確かに家に帰れば本などいくらでもある。それを読まずに、わざわざこの場で目についたものを買って外で読もうとしているのには、もちろん理由があるのだ。

 ミカには細々とした詳細な理由こそ分からないものの、『帰りたくない』という本質の部分と、私がその説明を渋ることによって『んん』という声を漏らしたことだけは分かったらしい。

 にやにやとしながら、ミカは言った。

 

「千代美が君の『んん』を解読できるのが長らく不思議だったけど、その絡繰が少し分かった気がするよ」

 

 なんと嫌な店員だろう。

 しかしまあ、だからと言って理由を白状する訳にもいかない。そこは千代美の名誉のためだ。別に勝負をしていた訳でもなんでもないのだが、どうにも負けたような気分で店を出た。

 私が家に帰らず、外で時間を潰そうとしている理由。

 自分で言うのも何だが、私は嗅覚や聴覚が他の人よりも格段に鋭い。そんな私が家に居ては、千代美は存分に戦うことが出来ないのだ。

 私は別に何とも思わないのだが、千代美がどうしても嫌だと言うのだから仕方ない。私が外に出たのは、そういう訳だ。

 今回は特に長期戦になるだろうと千代美自身も言っていた。小説を読み終えたら連絡を入れてみよう。それでもまだ戦っていたら、うーん。喫茶店にでも入るか。

 公園に足を向けながら、そんなことを考えた。

 そう、千代美は今まさに、戦っている。

 

 久し振りの、お通じと。



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かみきりの裁

【千代美】

 

 体重が減らない。

 いや、そこだけ言うと語弊があるか。うーん、痩せてないってわけじゃないんだよな。

 冬から何だかんだで続けてるウォーキングのお陰で、身体は間違いなく引き締まってきてる。若干ぷよぷよしてたお腹も、今じゃ綺麗に引っ込んだ。

 けど、体重が減らない。

 つまりこれは要するに、脂肪が落ちた代わりに筋肉が付いてきたってことなんだろう。なんだろうけど、体重が減らないことがどうしても気になっちゃって、手放しでは喜べない。

 何か手っ取り早く体重を減らす方法は無いだろうか。いや、そんなもんあったら苦労しないんだけど。

 うーん。

 

 あ。

 

「髪、切ろうか」

 

 唐突に思い付いた。

 そうだ、髪を切ろう。私の髪の量なら、バッサリ行けば体重もちょっとは減るだろうし。

 まあ、それが理由でバッサリ行くのもどうかとは思うけど、それはそれ。これから段々と暑くなってくるし、切るタイミングとしては丁度いいだろう。

 どっちかと言えば、体重云々よりも髪を切ること自体へのウキウキが高まってる。短くするのなんて何年ぶりだろうなあ。考えたらちょっと楽しくなってきた。

 ああでも、ちょっと、待てよ。

 たった今ノリだけで切ろうと決めたはいいものの、急に切ったら周りもびっくりしちゃうよな。

 さらっと相談しておいた方がいいか。

 

「まーほー」

「んーむ」

 

 まほはソファに深く腰を沈めて小説を読んでいた。集中してるらしく、手元の本から視線は上げないまま生返事をしている。私はその隣にどっこいしょと腰を降ろして、まほの横顔を暫し眺めた。

 読み終えたページの終わりから、次のページの最初に視線を移す。その小さな動作のたびに、まほの髪がさらさらと微かに揺れる。

 かっこいい。

 

「何か話があるんじゃないのか」

「ん、ああ」

 

 言われて、はっと思い出した。

 こっちから呼んでおいて隣に腰掛けて、それで見惚れてたんじゃ訳が分からない。えへへ。

 こまごまとした経緯は置いといて、とりあえず本題だけ切り出すことにしよう。

 

「髪、切ろうと思うんだけど」

 

 そう言った瞬間、まほのページをめくる手がぴたりと止まった。ゆっくりと顔を上げ、その拍子に髪がまた、さらりと揺れる。

 まほは私の顔色を窺うような、怯えたような、そんな不安げな視線を向けてきた。

 

「どれくらい」

「えっと、これくらい。バッサリと」

 

 若干、不穏な空気を感じながらも、手を水平にして、後頭部、首のちょっと上辺りにチョップして『切る』のジェスチャーをして見せた。どうせ切るなら思いっきりだ。今のまほよりも短いショートにしてみたい。

 そんな私の仕草を見たまほの顔はみるみる青褪めて、いよいよもってこの世の終わりみたいな、今にも泣き出しそうな表情になった。

 水平にしたままの私の手を恐る恐る握り、そのままゆっくりと降ろす。

 まほは、その瞳の底に怯えた光を湛えながらも気丈に私の目を見据え、口を開いた。

 

「千代美、それは駄目」

「だめか」

「いや、駄目って程ではないが」

「どっちだよ」

 

 コントおしまい。

 なんだこれ。

 

「私は千代美の長くてごわごわした髪が好きなんだ」

「誉めてるのかそれは」

 

 悔しいけど分かる。

 まほのさらさらした髪質に対して、私の髪はごわごわしてる。っていうか毛の量が多くてどうしても絡まっちゃうから、それでごわごわに感じるだけ。そういうことにしておいて。まあ、だから切りたいって話なんだけど。

 でもまほが私の髪に指を通すのが好きなのも分かる。お風呂上がりに梳かすのを手伝ってもらったりしていて、まほが私の髪を楽しそうにいじるのを見るのは、正直言って私も楽しいし、嬉しい。

 でもさあ。

 

「切りたいのか」

「切りたいのだ」

 

 まほが『んんん』と、いつもよりちょっとだけ長い唸り声を上げた。

 考えてる考えてる。

 

「しかしなあ。切るにしても、それは短すぎるんじゃないか」

「えー、じゃあ逆にどれくらいの長さならいいんだよ」

「ふうむ」

 

 まほは眉間に皺を寄せて首を傾げながら、さっきの私みたいに水平にした手を、胸の辺りでふらふらと上下させ始めた。ああ、まほの中ではそれぐらいのところで『許せる長さ』みたいなもんが鬩ぎ合ってるんだな。

 いやあ、でもそれは長い。ショートにしたいんだぞ私は。

 

「もう少し、もう少しだけ残してくださいませんか、千代美さま」

「ほほう、ではこの私を満足させてみよ」

 

 なんかまたコントが始まってしまった。

 でもまあ、相談せずにバッサリ行かなくて良かったなとも思う。コントで緩和してるけど、まほはたぶん、本気で私に髪を切って欲しくないんだろうし。

 話し合いながら、丁度いい長さを模索していくかあ。

 

「では、帰宅した際にリビングで靴下を脱ぎません」

「ん」

 

 ああ、成程。

 満足って、そういう方向性で満足させに来たか。

 いいぞ、正直言ってそれはなかなか苦しゅうない。もうちょっと様子を見ようか。

 

「もっと無いか、なんか、そういうの」

「んーー、じゃあ、トイレで寝ません」

 

 それは普通にそうしてほしい。

 こいつ本当にトイレで寝るんだよなあ。何なんだろう、あれ。座ると安心しちゃうんだろうか。分かんないけど。

 一回や二回のことじゃないから、完全に癖なんだろう。その改善を宣言するってのは、まあ、並大抵のことじゃないかな。こっちが漏れそうな時にやられると堪ったもんじゃないから、直してくれるのは助かる。

 ともあれ、それはなかなか高得点だぞ。いい子いい子。

 今ならセミロングぐらいで許してあげられそうだ。

 よーし、その勢いでもう一声。

 

「秘蔵の、千代美お宝画像も消します」

「うん。え、待って、どういうこと」

 

 ぴたりと、まほの動きが止まった。

 見ると目が泳いでいて、じんわりと額に変な汗をかき始めている。おお、焦ってる焦ってる。

 ははーん、私が知らないのは想定外だったのか。

 

「お宝画像って、なに」

 

 まほの額に、汗の玉が見える。

 さらさらの髪は、さっきより幾分か湿ってるみたいだ。

 返事は無い。

 

「スマホ見せて」

 

 手を出すと、まほは素直にスマホを取り出して、その『お宝画像』を開いて見せてくれた。

 

 あー、なるほどね。うん。

 私が裸で、そういう、ね。

 

 おい。

 

「お前、いつ撮ったんだこんなのーーっ」

「きょっ、去年、目隠しで遊んだ時のっ」

 

 コント終了。

 これより説教のお時間です。

 

 そんな経緯があって、私の髪は今、とても短い。



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摩訶鉢特摩の魚

【エリカ】

 

天井(あまい)は無い 底も無い

故に 光差す道理などなく 嗚呼

 

 透き通った水みたいな、冷たくて優しい歌声が店内に響き渡る。

 いつ聴いてもフリントの歌声は、同じ人間とは思えないほど綺麗。酒焼けしてるはずの喉で、よくもまああんな声が出せるものだと思う。いや、もしかしたら酒焼けこそがあの声の秘訣なのかも知れないけど。

 何にせよ、聴けば聴くほど良い声。

 

「これでもっとマシな曲を選んでくれたらね」

「なんだい、あたいの歌が下手だってのかい」

「違うわよ」

 

 歌詞がしんどいのよ、歌詞が。

 ただでさえ気が滅入ってるって言うのに、なにもそんな真っ暗な歌を歌うことないじゃない、と。そう思っただけ。彼女の歌唱力でそれを聴かされる方の身にもなって欲しい。

 でも、彼女は歌詞の意味なんて大して気にしていないのかも知れない。

 歌えればそれで満足。気分で何でも歌う。そういうひと。

 

 誰にも聞こえないように、小さくため息をついた。

 

 私は今、どん底に居る。

 比喩でも何でもなく、ここは正真正銘の『どん底』。みほの友人たちが高校時代、学園艦の底で開いていたというバーを陸で再オープンさせた店、その名前が『どん底』。

 現在では、みほはもちろん、私にとっても欠かせない行きつけの店になっている。

 そんな店のカウンターの、いつもの席で飲み始めて一時間ほどになるけど、もやもやと曇った気分は一向に晴れないし、どうにも落ち着かない。私はお酒に強い方じゃないんだけど、それでも、飲んでも飲んでもさっぱり酔えない。気持ちが酔っ払う方向にシフトしてくれない。

 原因は、分かっている。

 

「良いお店ね」

「ええ、まあ、はい」

 

 恐縮しきりで、思わず歯切れの悪い返事をしてしまった。

 変に思われはしなかったかと隣をちらりと見たけど、表情からその機嫌は読み取れない。

 背中を丸めて縮こまるようにして飲んでいる私の隣。普段みほが座るその席には、彼女ではなく、そのお母さん。西住流家元、西住しほさんが座っている。

 私が恐縮している上に、家元も自分から喋り出すようなタイプではないので大した会話も無く、これまでただ淡々と飲んでいるだけの時間を過ごしている。

 フリントの歌があるお陰で辛うじて間が持っているような、そんな空間。

 正直、居たたまれないので出来れば帰りたいです。

 

 発端は、日中のこと。

 

 何の予定も無い日曜日。普段は仕事で何やかやと忙しくしているせいか、急に暇な日がぽっかりと現れたところで何をする気にもなれず、みほと二人でごろごろしていた。

 二度寝三度寝の末に午後になり、流石にせめて部屋からは出ようという話になって、それで辿り着いたのが小梅の部屋。お隣。

 三人で集まって、ネットで下らないものでも買おうかーなんて話をしながらスマホでフリマアプリを立ち上げたその時。私とみほの部屋のインターホンが鳴ったのが聞こえた。

 買い物を始める前に配達屋が来る訳も無いし、一体誰かしらと思いながら玄関を開けて隣を覗き見ると、そこに西住しほさんが立っていたので、そっと扉を閉めた。

 あー、目が合っちゃった。

 

 やっべぇ。

 

 緊急事態発生。

 のん気にスマホで古着か何かを物色しているみほにそのことを報告すると、彼女は『ひょうぇ』みたいな声を出して固まってしまった。まだ家元と若干ギクシャクしてるのは感じてたけど、まさかこれほどとは。

 呆れながらも頭をフル回転させて状況を整理する。

 ひとまず、みほは無理。

 小梅に家元の相手をさせるというのも、まあ無い。

 居留守を決め込むという手も一瞬考えたけど、それは流石にあんまりだし、何より私が顔を出したところは見られているので、ここは必然、私が出るしか無いという結論に。

 

 観念して玄関を出て、家元と対峙。

 挨拶もそこそこに、改めてその存在感というか圧みたいなものにたじろぎつつ、家元を外に連れ出した。恥ずかしながら、うちの部屋の中は人を招ける状態ではありません。

 

 それから私と家元の、奇妙なデートが始まった。

 

 とは言え。連れ出したはいいものの、行く宛てが無い。

 さてどうしようかしらと考えを巡らせていると、歩き始めていくらもしないうちに家元が『冷蔵庫を買いに行きましょう』と言い出した。

 どうやら、まほさん辺りから聞いていたらしく、家元はうちの冷蔵庫がいつまでも壊れたままなことを知っていて、それを見かねて買い換えてくれる、ということみたい。いやいや流石にそんなものをポンと買っていただく訳にはと遠慮してはみたものの、案の定そんなことはお構いなしに家元はタクシーを捕まえてしまった。

 この勢いからして私がいくら遠慮してもただのタイムロスにしかならないな、ということが何となく分かったので、ありがたいやら申し訳ないやらを感じつつ、そこからは粛々と従うことに。

 そうやって着いた電気屋ではやっぱり遠慮する隙すら無くて、私は家元に言われるがまま、うちに置ける大きさの冷蔵庫の中でも一番立派なものを買って頂いた。

 配送の手続きを済ませて店を出ると、今度は『逸見さんの行き着けのお店があれば、そこでお酒を飲みましょう』と来た。

 

 そんな訳で私は今、どん底に居る。

 

 ほんと、どういう時間なのよ、これ。

 緊張し過ぎてお腹痛くなってきたんだけど。

 そんなことを考えていると、フリントがつかつかと寄ってきて、家元の反対隣にどっかりと腰掛けて絡み始めた。

 

「見たことある。あんたさ、西住みほのおっ母さんだろ」

「そうよ」

「ちょっ、ちょっと、フリント」

 

 家元に向かって何たる態度。と思ったけど、そっか。フリントには関係無いんだわ。彼女から見たら、家元といえど『西住みほのおっ母さん』でしかない。

 無礼なのではなく、自然体なだけ。

 とは言え、その自然体には私も家元も若干面喰らっている。それを知ってか知らずか、フリントは調子を変えずに話を続けた。

 どういう癖なのか、『キツネ』の形に作った指をぱくぱくさせながら。

 

「大方、娘の恋人と親睦を深めたいのに取っ掛かりが掴めなくて、どうしたらいいか分かんないってとこじゃないのかい」

「え、ええ。その通りよ」

 

 えっ。

 

「分かるんだよ。こういう、ギクシャクした親御さんってさ」

「ああ」

 

 成程。

 ここにはそういうお客さんが来ることもあるから、フリントには雰囲気で分かった、ということなのね。

 飲んでも飲んでもギクシャクしたままな私たちにイライラして話し掛けてくれた、か。

 図星を突かれた家元は、グラスを置いて椅子を回し、私の方に向き直った。つられて私もそれに倣う。

 バーのカウンターで、私と家元は真っ正面から向かい合った。

 

「急に押し掛けてしまってごめんなさいね。びっくりしたでしょう」

「ほんとですよ」

 

 今さらのように『親睦を深めましょう』と、ばつが悪そうに言う家元は、さっきより幾分か柔らかな表情をしているように見えた。照明の加減でそう見えただけかも知れないけど。

 家元は、みほを置いて私だけが出てきたことに気付いていた。欲を言えばみほとも話したかったけど、ここでそれをどう切り出したらいいかは分からなかったみたい。

 みほとのギクシャクが解消されるのは、たぶん、もう少し先のこと。

 

「逸見さん。みほをよろしくね」

 

 その日。

 しほさんと私は、以前よりちょっとだけ仲良くなった。




お久し振りです
本作ってました

今日の即売会で出すやつ


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山嵐の案

まほ誕作品


【まほ】

 

 ある日の帰り道。

 歩きながら、からりと晴れた雨上がりの空を見上げた。

 梅雨明けのニュースはまだだった筈だが、雨の日は確実に減ってきているし、それに反比例するように暑い日は増えてきている。梅雨明けの基準というものがいまいち分からないが、もう明けたようなものだろうと思う。

 それに時刻はもう十八時を回っているが、陽は落ちきっておらず、辺りはまだまだ明るい。

 いよいよ夏が近いことを実感させられた。

 ふと、通り掛かった食堂の入り口に『冷やし中華始めました』という、お馴染みの貼り紙を見付けた。これも夏の始まりの風物詩だろう。

 ちょっと寄って食べていこうとまでは思わないが、冷やし中華は食べたくなった。帰って作るとしよう。そうして頭の中で材料の算段を始め、キュウリが足りないから買って帰ろうと、そこまで考えたところで、いや待てよと思い直した。この時間なら、千代美がもう夕飯を作り始めている頃合いだ。先に連絡を入れてみるのがいいだろう。

 早速電話をすると、千代美は呼び出し音が二度鳴ったあたりで出た。

 

『ほーい』

「もしもし、千代美。もう家か」

『そだよー。なんかあったのか』

 

 これこれしかじかで冷やし中華が食べたくなったので作りたいという話を伝えると、千代美は若干だが不機嫌そうに『も゛~』という牛のような声を出した。既にパスタを茹で終えたところだったらしい。

 ああう、タイミングが悪かった。

 慌ててフォローに回る。

 

「待て待て千代美、怒るな。無理にと言ってる訳じゃないんだ」

『分かってるー。早く帰って来いよ』

 

 機嫌を損ねたという程でもないが、経験上『も゛~』が出るとあまりよろしくない。電話を切った今頃は、唇を尖らせていることだろう。あれは不機嫌の予兆の声だ。

 嫌いな声ではない、というか千代美らしくて好きな部類だ。どうやって出しているのか知らないが、濁点が付いて聞こえるのだ。それが可愛い。

 しかしそれを言うと千代美はあまり良い顔をしない。『も゛~』が出たら普段よりも丁重に扱わなくてはならないのだ。

 ひとまず、言われた通りさっさと帰るとしよう。千代美の機嫌次第だが、もう一回ぐらい『も゛~』が聞けるかな。

 そんなことを考えつつ、帰路を急いだ。

 

 そして。

 

「只今」

「おかえりー。ご飯出来てるよ」

 

 家に帰ると既に夕飯の仕度が出来ていて、テーブルにはさっき茹でていたと思しきパスタが盛られた皿が並べられている。

 それを見て、おや、と思った。

 何かがいつもと違う。

 

「まほ、電話で冷やし中華食べたいって言ってただろ。だから、それっぽく冷製にしたんだよ」

「おお」

 

 冷製、そういうのもあるのか。

 ああそうか、いつもと違うのは皿だ。冷製のパスタに合わせて、普段使っている陶器ではなく、涼しげなガラス皿を使っている。

 

「冷やしイタリアだな」

「なんだそりゃ」

 

 冷やし中華、イタリア風。

 すなわち冷やしイタリア。

 

 しかしそれにしても、千代美の対応力は凄い。私が逆の立場だったらただ混乱するばかりで、悪くすれば折角茹でたパスタを置いて冷やし中華の材料を買いに走ったと思う。

 いくら料理の腕を上げても、こういうところで敵わないのだ。

 それに、千代美は電話で『早く帰って来いよ』と言った。おそらく、あんな風に言った時点で千代美の中では冷やしイタリアの算段が済んでいた、ということだろう。だから今、こうしてすぐ食べられるように皿が並んでいるのだと思う。

 ううん。

 

「も゛~、今度からそういう連絡はもっと早く、ん、んっ」

 

 衝動。

 千代美の腰に手を回して抱き寄せ、口付けた。

 

 些細なことかも知れないが、私の急な与太話に当初の予定を変更してまで付き合ってくれたことが、なぜだかとても嬉しかった。

 しかも、私が帰るまでに用意を済ませてしまえるのは、千代美にしか出来ない芸当だろう。

 そして、念願の『も゛~』。つい先程、その声に想いを馳せていたところだ。

 私は、そんな千代美の全部が可愛くて仕方がなくなってしまった。

 

 しかし、流石にいきなりキスは強引すぎたか。

 唇を離すと睨み付けられた。

 

「もう、なんだよ急に」

「だ、濁点を食べた」

 

 咄嗟に口をついて出た言い訳。ふざけた響きだが、半分は本気だ。

 何を訳の分からないことを、と頭を小突かれたが、千代美も本当に怒っている訳ではなさそうだ。口の端が笑っている。

 よかった。

 ご馳走さまです。

 

「で、濁点の味はどうだった」

「トマトとツナ缶、それと大葉」

「ふふふ、やるじゃん」

 

 強引に塞いだ千代美の唇は、そんな味がした。

 

「千代美、もう一回」

「先にご飯にしようか」

 

 珍しく気の利いた返答が出来たと思ったのだが、調子に乗りすぎたらしい。

 千代美の手が私の頬を挟んだ。

 

「んん゛」



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龍の背

おばあちゃんね、貞淑で一途な西絹代さんが、放浪癖のあるミカ殿を射止めた形で一緒に住み始めた『西ミカ』の話もしていこうと思うんだよ


【ミカ】

 

 ある日の朝。

 コンビニという名の職場にて。

 

「お疲れさま」

「お疲れさまでーす」

 

 深夜帯のお仕事が終わり、入れ換わりに出勤してきた店長の丸山さんと挨拶を交わす。

 向こうが敬語なんだよね。店長も昔は戦車道をやってたらしくて、私よりちょっと年下だからというのが理由。

 選手としての私のことも知っていて、面接に来た私を見てビックリしたという話を後になって聞かされた。

 ううーん。まあ、そんな風に言われると納得せざるを得ないんだけど、どうにもムズムズしちゃうよね。今は店員と店長なんだしさ。

 ともあれ。

 着替えて店を出て、辺りの明るさに一瞬目を細める。店の中だって四六時中明るいんだけど、やっぱり朝の明るさには敵わないね。

 昼夜逆転の生活はちょっと大変だ。でもまあ、苦ってほどじゃない。それより、一仕事終えたあとの帰り道っていうのは清々しくて良いものだね。人権を感じる。

 こんなことを思うようになるなんて。生き方が変わると、世界の見え方も変わってくるものなんだね、きっと。

 昔の私が今の私を見たら何て言うかなあ。

 

 朝方の帰り道をのろのろと歩き、すぐに行きつけのスロット屋さんの前に差し掛かった。帰り道の途中にあるんだよね。

 相変わらずというか何と言うか、既にちょっとした行列が出来ている。開店前のお馴染みの光景だ。雨にも負けず風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けず、深い欲を持ち、彼らはああやって並ぶ。熱い。

 心なしか、いつもより行列が長い気がする。もしかしたら今日は何か、イベントでもやるのかも知れない。

 うーん、どうしようかな。出遅れたとは言え、私も今から並べば良い台に座れるかも。

 なんちゃって。

 今日はそんな気分じゃないんだよね。

 というか実は、スロットには長いこと行ってない。理由ってほどの理由は無いんだけど、なんとなくね。きちんと数えてないから分からないけど、行かなくなってから一ヶ月は経つんじゃないかな。私にしては快挙だ。

 先月の私が今の私を見たら、何て言うかな。

 

「道に標は在るか、そこに止まり木の縁(えにし)の在るか」

 

 なんて、好きな詩を口ずさみながらの帰宅。

 表札には『西』とある。ここが私の止まり木だ。

 

「ただいまー」

「お帰りなさい、ミカ殿」

 

 エプロンの裾で手を拭きながら、絹代が小走りで出迎えてくれた。朝ごはんを作っていたらしい。

 おや、いつもなら私と入れ違いに仕事に出る時間のはずだけど、今日はなんだか余裕がありそうだ。というより、そもそも出掛ける準備をしていないようにも見える。

 

「今日は日曜ですよ」

「ああ、そっか」

 

 コンビニなんて場所で働いてると、どうにも曜日の感覚が鈍るんだよね。まあ、働いてない頃の曜日感覚なんか、鈍るどころか最初から無いに等しかったけど。

 言われてみれば、スロット屋さんの行列も普段より長かったように思う。あれは日曜で、単に暇人が平日より多かったからか。

 

「お風呂も間もなく沸きますが、どうなさいますか」

「そうだなあ、先にご飯にしようか。お腹空いちゃったし」

「かしこまりでございますっ」

 

 なんとも。まるで新婚さんだ。

 いや、一緒に住むってそういうことなのかな。そうなのかもね。

 私が柄にもなく働き始めたのも、寄り道もせず真っ直ぐ帰るようになったのも、考えてみれば絹代のためみたいなところがあるし。というか『帰る』という行動自体が絹代のためと言っても過言ではないのかな。

 なるほど、巣がある生活というのも悪くないもんだ。

 いつまで続くかは分からないけど、長続きさせたいような気持ちにさせられる。空き家を見付けて住み着いていた頃が懐かしいね。

 食卓に整然と並べられた朝ご飯を眺めながら、そんなことを思う。実に良い景色だ。

 

 頂きます、と手を合わせた。

 

「一緒に朝ご飯を食べるのは久し振りですね」

 

 食べ始めてから間もなくして、絹代がそんなことを言った。

 ああ、なんだか嬉しそうにしてるなと思ったら、そういうことか。確かに久し振りだ。朝も夜も、私たちは片方が帰ってくる頃にもう片方が仕事に出ることが多い。ご飯も大抵の場合、絹代が作り置きをしてくれたものを別々に食べている。

 今さらのようにして、今日は一緒に過ごせる時間がいつもより多いんだという実感が湧いてきた。

 真っ直ぐ帰ってきて良かった。

 味噌汁を飲みながら、そんなことを考えている自分に変な笑いが漏れた。本当に、柄にもない。

 日曜朝のゆっくりとした時間が流れ、ご飯をあらかた平らげる頃。それを見計らったかのように、お風呂が沸いたことを報せるアラームが鳴った。

 ああ、『見計らったかのように』というか、実際に見計らったのか。私がご飯を済ませて、それからすぐにお風呂が使えるように、きっと絹代はしっかり計算していたんだろうね。

 

「お先にどうぞ、ミカ殿」

 

 そんなことはおくびにも出さず、私の食器を片付けながら言う絹代を見て、ある考えが閃く。

 まあ、誰だって思い付くよね。今日みたいな日は特にさ。

 

「一緒に入ろうか、絹代」

「ええっ」

 

 私の言葉にビクリと身体を跳ねさせた絹代が、運んでいたお皿を取り落とした。

 

「おおっと」

 

 すかさずキャッチ。

 間一髪、セーフセーフ。

 

「すっ、すみません」

「いやいや、こっちこそ驚かせてごめんね」

 

 まさかそこまで驚くとは思わなかったけど。

 それ以上のことも、結構してるんだけどなあ。

 

「気が進まないなら、また今度にしようか」

「いや、そうではないのですが、ええと。何と言いますか」

 

 どうも歯切れが悪い。

 ただ、嫌がっているわけではないものの、何かしら都合がよろしくないんだろうなと言うことは読み取れる。

 絹代は一呼吸ほどの間を置いて、自分を納得させるように小さく頷いた。

 

「先に入っていてください。私は洗い物をしてから参ります」

「ん、分かったよ」

 

 何やら、絹代の決意みたいなものを感じた。

 そんな気がした。




タイトルで想像が付くかも知れない
想像が付いたら分かるだろ
タイミングが悪いんだよ

おばあちゃんね、続きは後日書こうと思います


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天庭の燕

【絹代】

 

 ぬるい水を張り、茶碗を沈めた流し台と睨めっこをしている。

 

『洗い物をしてから参ります』

 

 ミカ殿にはそう言ったものの、手は進んでいない。

 まあ、身も蓋も無いことを言ってしまえば、洗い物など後でいい。肚(はら)を決める時間が欲しかったというのが、正直なところだ。

 ミカ殿との朝風呂。断ることも出来たのだが、それも不自然なことだ。それに、折角のミカ殿からのお誘い。今、ここが正念場なのだ。そう考えてしまうのがいいだろう。

 もう、引き返すことなどできないのだから。

 

「よし」

 

 ぐずぐずしていてはミカ殿がのぼせてしまう。洗い物は諦めて、さっさと風呂に向かうとしよう。

 背中など、いつまでも隠し通せるものではない。それも諦めよう。あとは野となれ山となれ、だ。

 そう、背中。

 私はミカ殿に、自分の背中をお見せしたことが無い。

 比喩などではなく、言葉の通り。本当に自分の背中をお見せしたことが、ただの一度も無いのだ。

 睦み合う際にも、不慣れながら私は積極的にミカ殿の上になる。その理由は他でもなく、自分の背中を隠すため。

 ミカ殿が気が付いているかどうかは分からないが、話題には上らないので、ずるずるとそのままにしている。

 未だに、お見せする勇気が出ないのだ。

 

 私の背中には、大きな秘密がある。

 

 しかしまあ、そうは言っても隠し続けるにも限度というものがあり、その限度はきっと、とうに過ぎている。考えてみれば馬鹿な話だ。背中を隠したまま一緒に暮らそうなど、無理に決まっている。

 あっけらかんとした振りをして、さっさと打ち明けてしまえばそれが一番良かったのだが、どうにもこればかりは腰が引けた。

 しかし、だからと言ってミカ殿への恋心を抑え込むことも出来ず、どっち付かずのまま、ミカ殿との関係をこんなところまで進めてしまった。

 まるで猪、まさしく猪突猛進と言ったところだろうか。悪い癖だ。

 

 脱衣所に入ると、風呂場の戸の曇り硝子越しにミカ殿の血色の良い肌が見えた。身体を洗っているところらしく、背中を丸めて脚を擦っているようだ。

 服を脱ぎ、狭い風呂場に入ると、改めてミカ殿のつるりとした背中が視界に飛び込んできた。こうして見ると、初めて会った時よりも幾分か丸みを帯びてきたようにも思う。

 傷ひとつ無いそこに思わず手を触れると、ミカ殿は驚いて『ひゃ』と小さな声を漏らした。

 

「すみません、驚かせてしまって」

「いやいや、さっきのとこれでおあいこだ」

「ああ」

 

 先ほど、私が皿を落とした時のことを言っているのだ。

 あれには確かに驚かされた。何しろ、あの瞬間から駆け足で覚悟を決める羽目になったのだから。

 本音を言えば、心の準備にはもう少し時間が欲しかった。

 しかしまあ、それも自分が蒔いた種。もう少しもう少しと言いながらこんなところまで来てしまったのだから、あれはしわ寄せと考えるほか無いだろう。

 

「お背中、流しますね」

「ん、ありがとう。終わったら私もお返ししてあげるよ」

「ふふふ、はい」

 

 いよいよか、という思いが胸をよぎった。

 覚悟はできている。つもり。

 タオルを泡立て背中を擦り始めると、ミカ殿は気持ち良さそうに息を吐いた。日頃から何かと歌を口ずさむ癖のある人だが、ため息まで歌のようだ。ずうっと聴いていたい。

 暫し、ミカ殿の背中から臀(しり)にかけてのふっくらとした曲線を磨きながら、そのため息に聴き入った。

 

「気持ちいー。寝そう」

「駄目ですよー」

 

 その背中をぴたぴたと叩き、湯を掛けて至福の時間を終えた。

 そして、位置の交替。立ち上がるミカ殿に代わって私が座り、背を向ける。

 

「っ」

 

 歌が止まった。

 ミカ殿が声を上げようとして、寸でのところで詰まらせたのだ。

 

「これ」

「すみません、驚かせてしまって」

 

 私の背中には、傷がある。

 肩から腰にかけて走る、大きな一直線の傷。いつぞやの戦車の試合中に負ったものだ。

 昔のことなので別段痛むわけではないが、すっかり痕になって残ってしまっている。

 

「背中をお見せするのは、初めてですね」

 

 返事は無い。

 ミカ殿は、傷を凝視しているようだった。視線などというものはこの世に存在しないが、今、この場に限ってはミカ殿の視線をびしばしに感じる。

 訪れた沈黙の中、私は身じろぐこともなくミカ殿の言葉を待った。

 そして。

 

「言われてみれば、そうだね。初めてだ」

 

 音も無く、煙霧のように。

 背後からするりと腰に手を回され、私は背中の傷ごと抱き締められた。

 

「んあ」

「細いなあ、絹代」

 

 言って、ミカ殿は私の肩に顎を乗せる。

 二人の身体が、ぴたりと密着した。

 

「ずっと隠してたんだね。お皿を落とすほど驚いていたのは、そういう訳だったんだ」

 

 耳許で歌うように囁く。なんとも、耳触りの良いお声だ。

 密着したことで、ミカ殿の激しい鼓動が直に伝わってきた。

 ああ。

 そうか。

 落ち着き払っているように見えるが、ミカ殿も酷く動揺しているのだ。

 それは、ミカ殿が動揺しながらも平静を装っていることを打ち明けてくれている、そんな風にも思えた。

 

「あと少しだけね、このままいさせておくれよ」

「はい」

 

 気が付けば、その声も心なしか震えている。

 あと少し。それはきっと、気を落ち着けて思考を整理するのに必要な時間なのだろう。私は、私を抱き締めるその手に自分の手を重ね、静かに握った。

 幾度めかの深呼吸の後、ミカ殿は口を開いた。

 

「私の方から誘ったこととは言え」

 

 その声はもう、震えてはいない。

 しかし、恐る恐ると言っていいほど、慎重に言葉を選んでくれているのが分かる。

 

「今まで隠していた傷を、見せてくれる気になった。そう受け取ってもいいのかな」

「はい、隠し続けることは最早不可能と判断を致しました」

 

 嘘偽りの無い言葉だ。

 そして、このような傷を晒した以上。

 

「嫌われる覚悟も、出来ております」

「嫌うもんか。ちょっとびっくりしたけどね」

 

 抱き締められたまま、身体を揺すられた。

 ぐらぐらと左右に揺れる視界が、奇妙に心地良い。

 

「嫌わないよ」

 

 改めて身体を密着させ、私の耳許で念を押すように、そう言ってくれた。

 

「ごはん美味しいし」

「それが本音ですか」

「ふふふ、どうかな」

 

 唐突に唇を吸われた。

 全く、気ままな人だ。

 しかし、その方が安心感がある。いつものミカ殿だ。

 

 日曜の朝。

 そのまま、私たちは互いにせがみ合い、求め合った。

 

「ん、ふ」

 

 傷が消える訳ではないが、悩みはひとつ消えた。

 それよりも、これからは料理の腕前をもっと上げよう。

 

 それは確かな。

 そう、確かなもの。




絹代さんの背中
刺青という案もあったんですが差し替えました


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紫鏡の宮

まほチョビ

ラブホ回だけど全年齢だよ
残念だったな


【千代美】

 

 まほと私、付き合い始めてから随分な年月が経った。

 今の私たちの関係は何だかんだ言ってトラブルが少ない方だと思う。ごたごたも色々あったけど、起こる端から順々に解決してきたようなところがあるし。

 その中でも、しほさんに関係を認めてもらえたのが大きかったなあ。あれはかなり心持ちが楽になった。まあ、それでもまだ、本当にいいのかなって思うことはあるけど。

 それはそれとして。

 あくまでも『今は』トラブルが『少ない』。つまり今後何が起きるかは分からないし、今もゼロではない。

 そう、ゼロではない。

 

 これから、かなり赤裸々な話をする。

 とは言えこれは、世の大多数のカップルにとって、考えない訳にはいかない問題だろう。

 

 いわゆる、夜の営みについて。

 

 大事なことだ。

 これの相性が良いか悪いかで、その後の付き合い方が変わってしまうことだってある。まあ幸いにも、まほと私の相性は良い方だと思う。そこにお互い不満は無い。

 頻度で言ったら、だいたい週一回か二回ぐらい。これが多いのか少ないのかは分からない。まあ、平均的な回数なんて知らないからな。

 付き合い始めた当初はほぼ毎日って時期もあったけど、段々と落ち着いてきて今に至ってる。それは別に、飽きたとかマンネリ化してるとか、そういうことではない。たぶん。

 まあそれはいい。問題はそこじゃない。相性や回数とは別に、二人ともちょっとだけ、でも確実にモヤモヤを感じていることがひとつある。

 それは、行為の最中に声が出せないこと。

 以前までは、それなりに声を出していた。でもそれが実は、隣の部屋に住んでるダージリンにバッチリ聞こえてしまっていて、それを知ったのが、彼女が逆にこちらに気を遣って反対隣の部屋に引っ越した日。

 あの時はほんと、恥ずかしいやら申し訳ないやらで死ぬかと思ったなあ。今思い出しても、顔が熱くなる。

 ともあれ、そのお陰でというのも酷い話だけど、寝室の声がダージリンに聞かれることは無くなった。でもなんか、気分的に声を出しづらくなっちゃったんだよな。

 聞かれる心配が無くなった後でってのが不毛な感じだけど、二人とも、声を我慢する癖がついた。一時期はそれが逆に刺激になったりもしたんだけど、我慢しっぱなしとなると、ちょっとな。

 それに、ダージリンに聞かれることがなくなっただけで、結局隣に聞こえちゃうことに変わりは無いんだし。

 という訳で。

 

「初めてだなー、こういうとこ来るの」

「んん」

 

 そういうホテルに来てみました。

 たまには声を出してみたいから行ってみないかと、思い切ってまほに話してみたら向こうも乗ってきてくれて、でも地元だと誰かに見られたりしないか心配だからってことで、わざわざちょっと遠いところのホテルをネットで調べて、週末に足を運んだ。

 距離的にはもはや小旅行ってレベルなんだけど、目的地が遠いってだけで別に観光地でもなんでもないから、いまいち行楽の気分にはならなかった。まあ、それ以上に『えっちしに行く』っていう明確な目的があったお陰で無性にドキドキしてしまって、他のことが考えられなかったってのもあるけど。

 そのせいもあってか、私たちにしては珍しく、道中の会話もそれほど弾まなかった。

 それはさておき、ホテルに到着。

 入った部屋の中は照明が薄暗くしてあって、やけにムードのあるゆったりとしたピアノのジャズが小さめの音量でどこからともなく流れている。

 荷物を置いてうろうろと部屋を散策していると、ベッドの脇になんだか不自然な箇所を見付けた。壁っぽくカモフラージュされてるけど、よく見たら引き戸だ。

 押し入れかなんかかなと思ってその戸を開けると、目の前はガラス張りで、その向こう側にお風呂場が見えた。

 

「なんだこりゃ」

「そういう趣向、ということかな」

「あ、成程」

 

 覗き窓ってことか。やらしいなあ。

 こっちの窓からは行けないみたいだから改めて回り込んでお風呂をチェック。うちよりずっと立派で広い。まあ、そりゃそうか。なんだかんだ言ってホテルだもんな。

 念のためと思ってシャワーは済ませてきたけど、そんな必要は無かったみたいだ。

 

「お風呂どうするー」

「あっ、あとで、いい」

「なに緊張してんだよ」

「五月蝿いな」

「ふっふふ」

 

 可愛い。笑っちゃったじゃないか。

 なんか静かだと思ったら、やっぱりそういうことか。まほも緊張してたんだ。お陰でこっちの緊張が解れたよ。

 おっきくてふかふかなダブルベッドに、勢いを付けて飛び込むように寝転がると、まほも私の真似をして隣に飛び込んできた。

 いつもより固い顔をして横になったまほの前髪がさらさらと揺れる。私がそれを指で弄繰ると、まほは『うーん』と鬱陶しさと嬉しさが入り雑じったような声で唸った。

 ふふふ。

 

「お風呂あとでいいってことはさあ、もう始めたいってことなのかな」

「うーーん」

 

 ちょっと意地悪な私の言葉に何か思うところでもあったのか、まほは一瞬だけ考え込むようにフリーズしたあと弾かれたように立ち上がり、ばたばたとお風呂場へ行ってしまった。

 なんだなんだと思って窓から覗くと、まほは浴槽にお湯を溜めているところだった。

 

「やっぱり入るのか」

「いっ、いや、終わったらすぐ入れるようにと思ってな」

「あっはっは」

 

 気合い充分。

 フリーズしながらも、まほなりに冷静に考えたんだろう。本当に始めちゃっていいのか、何か忘れてることは無いか、なんてな。言われてみれば確かに、えっちのあとにお風呂の準備が出来てたら、とっても嬉しい。ナイスまほ。

 さて、気を取り直して。

 お湯を出し終えて戻ってきたまほに抱き付いて、改めてベッドに二人で倒れ込んだ。まほの表情は、さっきより幾らか和らいで見える。

 ああ、お風呂で一呼吸置いたお陰で調子を取り戻したのか。上手いことやったなあ。狙ったのか、それともたまたまか。何にせよ良いことだ。緊張してちゃ楽しめないもんな。

 早速まほの首に腕を絡めて顔を寄せてやると、噛み付かれるんじゃないかってくらいの勢いで唇に吸い付いてきて、強引に舌を捩じ込まれた。

 

「んっ、んふ」

 

 私は乱暴にされるのが好きだから、まほは乱暴にしてくれる。でも本当は気が引けるらしくて、ちょっと遠慮してるなっていうのが、ふとした瞬間に分かる。

 優しく、乱暴にしてくれる。そこがたまらなく良い。

 痛いくらいに互いを抱き締め合いながら舌を絡め、唾液を交換した。

 長い長い、貪るようなキス。大好きな時間だ。

 

「れる、ちゅ」

「んあぁ」

 

 ホテルの非日常的な雰囲気のせいもあるんだろう。家でするのとは全然違うドキドキがある。

 キスだけでもう、『下』がすっかりとろとろになっているのが自分でも分かった。

 

「まほ、脱がせてー」

「うん」

「はーやーく」

「待て待て、ふふ」

 

 恥ずかしいけど、私だって、したくてしたくて堪らなかった。

 今夜は我慢しなくていいんだ。いっぱい声を出そうな。

 

 ちなみに。

 実はこの日、私たちは二人とも財布を忘れていて、ダージリンに迎えに来て貰う以外に帰る方法が無い。

 そのことに気が付いて青褪めるのはもう少し先、具体的には翌朝のことだ。



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龍宮城の宴

ダー誕


【ダージリン】

 

 平日、自宅のリビングにて。

 真夏ならまだ少し明るかったけれど、今はもう真っ暗。そんな時間帯。

 

「ねぇ、アンタさあ……本当に何も覚えてないの?」

 

 呆れを通り越したような、引き攣った笑いを浮かべて言うカチューシャに、流石にちょっと申し訳なくなって記憶を辿る。

 丸々一分たっぷりと考えたけれど、やっぱり思い出せない。

 昨夜にカチューシャと話した内容を、すっかり忘れている。

 

「ほんっと、悪い癖よね」

 

 ぐうの音も出ない。

 確かにこれは弁解する余地も無く、悪い癖としか言いようが無い。まさしく文字通り『酒癖が悪い』と言うべきかしら。どうにも治らない。

 私は、お酒を一定量飲むと記憶を失くす。

 あまりにも綺麗さっぱり忘れるものだから、その間の出来事は覚えてないと言うより、もはや知らないと言った方がニュアンスは近い。

 

「昨日の私、何か変なことでもした?」

「あー……知らなくていいわよ別に」

「ふうん」

 

 幸い、お酒を飲む場所が基本的に自宅なこともあって、私の社会的地位は恐らく無事。まあ、そうは言っても取り立てておかしな行動に出る訳ではないらしいけれど。あくまでも記憶を失くすだけ。

 ただ、その場の雰囲気次第で笑い上戸になったり泣き上戸になったりという程度のことはあるみたい。

 けれど何にせよ、私自身はそのことを知らない。

 知っているのはたぶん、長年一緒に飲んでいるカチューシャだけ。

 

「あんまり言いたくないけど、絶対に外で飲んじゃ駄目よ」

「わかってるわよ、うるさいわね」

 

 そんなことを言われなくても、元々私は車での移動がメインだから外では滅多に飲まない。と言うか飲めない。それに基本的に何事も無いとは言え、記憶を失くすのが分かっていながら外で飲むのは怖すぎる。

 その上、最近はカチューシャと家で飲むことが殆どだから、そういう意味でも外で飲む機会は目に見えて減っている。

 それは裏を返せば、家で飲む機会がものすごく増えているということ。

 お陰さまで色々と安心感が大きくて、心置きなく記憶を失くせてしまう。

 

「まあまあ寂しいから、ちょっとぐらい覚えといて欲しいんだけどね?」

「善処するわ……」

 

 そんな会話をしておきながら、私たちの目の前には既に、日本酒で満たされた冷たいグラスがふたつ並んでいる。結局飲むのよね、性懲りもなく。

 まあ飲むなという話ではないし、飲みすぎるなという話でもないので。

 

「ともあれ今日もお疲れさま。乾杯」

「かんぱーい」

 

 それから、小一時間後。

 

「カチューシャぁー、抱っこー」

「あーはいはい……来なさい、ほら」

「んふふふ」

 

 カチューシャがソファの定位置で、私を迎えるようにぽんぽんと膝を叩く。

 すっかり出来上がってしまった私は上機嫌でそこに跨がり、向かい合うように座った。

 

「こうやって私の膝に座ったことも、明日には覚えてないんでしょうね」

「ふふふ、そうかも」

 

 すりすりとカチューシャの胸に頬擦りをしながら、思う。

 最近分かってきた。カチューシャが居てくれるから、毎日が楽しい。

 自分のことを分かってくれている人が一番近くに居ることが、こんなにも嬉しい。

 

 もっと言うなら、そう。

 

 愛おしい。

 

「ねぇ、カチューシャ。お願いがあるの」

「なーによ」

「キスしましょうよ。今夜だけでいいから」

 

 ああ、言ってしまった。

 唐突すぎたかしら。でも、したいんだから仕方ない。

 酔いに任せているからこそ、これは衒いのない本心。

 

 こんな格言を知っているかしら。

 

『ノリと勢い』

 

 私と違って理性が残っているらしいカチューシャは返事を保留するように天井を仰ぎ、そのまま真上に向かって長いため息をふーっと吐いた。

 

「今夜だけ今夜だけって、アンタね……これが何回目だか分かってる?」

 

 真上を向いたままのカチューシャになんだかズレたことを言われ、私はそれに、きょとんとして答えた。

 

「何言ってるのよ。初めてじゃない」

「あーあー、そうだったわねぇ!」

 

 自棄っぱちのように叫びながら、カチューシャは顔を真上から正面に勢いよく降ろした。

 不意に至近距離で向き合う形になり、私は一瞬、彼女の顔の整った造形に目を奪われてしまった。

 長い睫毛も、きらりと光る犬歯も素敵。普段は口喧嘩の相手ぐらいにしか思っていないけれど、こうして見ると彼女は途徹もない美人であることが分かる。

 そうやって私が見蕩れた一瞬を狙い澄ましたかのように、彼女の長い腕が背中に回された。

 そのまま乱暴に抱き締められ、息が詰まる。

 苦しいけれど、まるで何度もこうしてカチューシャに抱き締められたことがあるような、そんな心地好さがあった。

 

「ほんっと、悪い癖よ!」

「ふふふ、本当にね」

 

 そして私は、今夜も心置きなく記憶を失くした。



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呪詛返しの環

チョビ誕


【千代美】

 

「んーーーむ」

 

 書斎にて。

 珍しく、一度読んだ小説を最初から読み返している。

 同じ小説を二度読むことは、実はけっこう稀。滅多にやらないことだ。

 よっぽど気に入った作品なら別だけど、それでも好きなシーンをぱらぱらと探り当てて、そこだけ読み返すっていうのが大抵のパターン。

 なんでかって言うと、すごく単純な話。他にも読みたい本がいっぱいあるからだ。

 まあ同じ本も繰り返し読むことで新しい発見があるのは重々分かってるんだけど、そうは言っても次々と読まないと消化しきれないほどの本が、うちにはある。

 悪い癖ってことになるのかな。本屋に行くと、ついつい買っちゃうんだよなあ。中古本なんか安いから尚更。お陰で書斎の本は増える一方だ。

 広く浅く、が最近の私の読書スタイル。

 

 んで。

 

 書斎がそんな状態なのにどうして一度読んだ本を読み返してるのかと言うと、まほの影響。

 最近のまほはかなりの読書家で、私とは対照的に同じ本を何回も繰り返し読むタイプ。狭く深く、だ。

 まほが繰り返し読んでいて見付けた新しい解釈を聞かされて、目から鱗が落ちたのがきっかけで、私ももう一回読んでみようって気になったという訳。

 まほが見付けた新解釈にはすごく説得力があって、そしてそれを念頭に置いて読むと作品の見え方が全く違うものになった。読めば読むほど納得するしか無くて、そのお陰でさっきからうーんとかおーとか声を漏らしながら読んでいる。

 以前のまほは自分から進んで本を読むことはあまりなくて、読んでも雑誌がせいぜいだった。その雑誌にしたって『読む』って言うよりは『目を通す』って感じで、読書家って言葉からは程遠かった。それが今じゃ、コンビニで新刊を買ってきて私に勧めてきたりするようにまでなっている。

 コンビニで本を買うのって、ある意味では本屋で買うより読書家っぽい気がする。

 

 私の影響で読書を始めたまほに、反対に私が影響されるようになってるの、すごく良いなって思う。

 

「千代美ー、出来たぞー」

「ほーい」

 

 まほのことを考えてた丁度のタイミングで、当のまほに呼ばれて本から顔を上げた。

 今日の夕ご飯は、まほの担当。書斎から出てリビングに顔を出すと、テーブルにはもう皿も茶碗も並べてあって、あとはいただきますをするだけになっていた。うーん、素晴らしい。

 最近のまほは、すっかり料理上手だ。手際が悪かったのは最初だけ。ちゃんと教えたらすぐに良くなった。これも私の影響ってことになるのかなあ。ただ、生き物系だけはまだちょっと苦手で魚を捌いたりは出来ないんだよな。でも、弱点らしい弱点なんてその程度だ。

 そう言えば、キャベツを切ってて中に居た虫に気付かず一緒に両断しちゃって物凄い悲鳴を上げた、なんてこともあったなあ。まほには悪いけど、あの時は笑った笑った。

 まあ、その弱点だって近いうちに克服しちゃうんだろうなって気がしてる。

 それが、まほだから。

 

「何をにやにやしてるんだ、お前は」

「んーふふ、なんでもー」

 

 早速、二人でいただきますをして、夕ご飯。

 

「ん」

 

 食べ始めてすぐに気付いた。

 今日のおかず、全部冷蔵庫の余り物から見繕って作ってある。

 質素とは言うなかれ。手近な材料で無難な料理、これは本当に料理上手な人がやることだ。初心者は変に張り切るから手の込んだものを作りたがるし、余計な材料もわざわざ買ってきて余らせる。『なんとなく』『使うかも知れない』『名前が格好良い』みたいなことをボソボソ言いながらガラムマサラを単品で買ってきた時は本当に困ったっけなあ。

 そう言えば最近のまほは、そういう困らせ方をして来ない。本当に上達したんだなと、改めて思った。

 それはなんだか誇らしいような、寂しいような、そんな気持ち。『感慨深い』って言えばいいのかなあ。そう呼ぶにはちょっと、寂しさの方が大きすぎるような気もする。

 

「美味いか、千代美」

「んん」

「ふふふ、そうか」

 

 髪をバッサリ切った私に何か思うところでもあったのか、まほは反対に伸ばし始めた。背中にかかり始めた髪を、最近使ってない私のリボンでひとつに纏めてお下げにしている。

 なんだか影響され合いすぎて、お互いが入れ替わっちゃってるような感覚さえある。このまま、まほになっちゃったらどうしよう。

 それもいいなあ、なんちゃって。

 まあ、そうなったらそうなったで、また入れ替わるまで一緒に居ればいいやと思う。

 一緒に居られるかな。

 居られるといいな。

 

「今夜は、どっちが上になろうか」

「えー、早いよその話ー」

「いいじゃないか。じゃんけんしよう」

「もぉー」

 

 結果は、二人ともチョキ。

 勝敗が決まるまでの『あいこでしょ』はしない。

 あいこの時は、どっちも上でどっちも下。

 

 あいこのまんまが良いなあ、ずっとずっと。



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オバリヨンの篭

いつもに増して、とっても短いお話を書きました
品質に問題はありませんので安心してお召し上がりください


【千代美】

 

 近所のスーパーで、まほとお買い物。

 特にこれと言って入り用のものがある訳でもないけど、なんとなく習慣でうろついてしまう。まあ、なんだかんだで店の中を歩いてると何かしら必要なものを思い出すから、無駄な時間って程でもない。

 

「何か足りてないものあったっけ」

「そう言えばトイレットペーパーが減ってたな」

「あ、それだ」

 

 こんな風に。

 

「ここからだと端から端だなあ、売場」

「任せろ。持ってくる」

 

 言うが早いか、まほは何故かちょっとウキウキした様子でトイレットペーパーを調達しに走った。別に、そんな意味で言ったつもりは無かったんだけどなあ。ああいうところ、犬っぽいよなと思う。尻尾があったらぶんぶん振ってそう。言わないけど。

 まほを待ちながら冷凍食品を物色しつつ、これも変化かなーなんてことを考える。

 ちょっと前までは一緒にお買い物と言っても、まほは私の後ろをちょこちょこと付いてくるように歩くことが多かった。いつからだろうな、普通に私の隣を歩くようになったのは。

 家の中に何が足りないか自分で判断ができるようになって、それを置いてるスーパーの売場も頭に入ったからか、近頃ではああやって私の先を歩くことも増えた。

 嬉しいような寂しいような、ってやつだ。

 なんか最近増えたなあ、『変化』に思いを巡らせること。それだけ色んな変化が私の周りに起きたってことなんだろうけど。

 

 で。

 それから結局何も買わずにぶらぶらしていると、空っぽの買い物かごに何か、どさっと重みが加わるのを感じた。

 

「ああ」

 

 トイレットペーパーだ。

 

「ただいま」

「おかえりー」

「私が持とう」

「ふっふふ、ありがと」

 

 戻ってきたまほに、買い物かごを渡した。

 その時、ちょっとしたことに気付いたけど、まあ、見なかったことにしてあげよう。あまりにバレバレで、ちょっと笑っちゃったけど。

 今、まほがトイレットペーパーの陰にこっそりお菓子を入れたのが見えた。食べたくなっちゃったんだろうな。

 食べたいって言えば普通に買うからこっそり入れるのは辞めろって言っても、絶対辞めない。悪い癖だけど、そういうところが変わらないのは、ちょっと安心するかも。

 豆大福かな、あれ。

 

「あとは何か、買うものあったかなー」

「ふうむ」

 

 とぼけた顔しちゃってまーあ。お返ししてやれ。

 私はバレないように、そーっと、まほが持ったカゴの中にプリンを入れた。

 入れる瞬間まほと目が合ったけど、お互いににやりと笑うだけで、それ以上は何も無かった。

 

 今日のお買い物はトイレットペーパー。

 それと、豆大福とプリンが二個ずつ。



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九十九神の列

渋の方だと99話目なんすよね、実は


【まほ】

 

 珍しく、朝の出掛けにばたばたしている。

 寝坊というほどでもないが、普段より起きるのが少し遅くなってしまった。

 いつも乗っている電車に間に合うかどうか、ギリギリといったところだ。

 

「行ってきます」

「待って待って、まほ。お弁当」

「おおう、危ない。忘れるところだった」

 

 慌てて身体を翻し、千代美から包みを受け取った。

 今日はおにぎりのようだ。

 

「新米の季節だから塩にぎりだよ」

「なるほど、中身は無か」

「ふふふ、無って」

 

 何気ない言い回しだったが、少し気に入ってしまった。

 何も入っていない、すなわち無のおにぎり。どこか哲学的な響きがあるのがまた良い。

 

「ふっふ、変な言い方やめろよ。朝はツボ浅いんだから」

「ん、ふふふ」

 

 冗談というほどのつもりは無かったのだが、千代美が簡単に笑うお陰でこちらまで釣られてしまう。

 それで少しの間、二人で笑った。

 

 電車には乗り遅れた。

 

□□□□□

 

【ダージリン】

 

 揺らしたり、擽ったり、叩いたり。

 

「カチューシャ起きて。遅刻するわよ」

「んぇー、待ってー、もうちょっとー」

 

 平日の朝はいつもこの調子。

 出勤は私の運転で、その道中にカチューシャの職場もあるのでついでに乗せてあげている。だから放っておいて出掛ける訳にもいかず、こうやって格闘している。

 

「貴女のその朝の弱さ、一体何歳になったら治るのよ」

「あー無理無理。一生治らないわよー」

 

 イライラしつつも、もし放っておいて出掛けたらカチューシャの目が覚めるのは午後になりそうな気がする。その上、確実に二度寝する。

 だから何がなんでもここで起こさないといけない。

 

「ああもう、せめて身体だけでも起こしなさいよ」

「起ーこーしーてー」

 

 カチューシャが無造作に伸ばした腕を掴んで、ぐいぐいと引っ張って起こした。彼女がうちに来てからというもの、毎朝毎朝こうやって、仕事よりくたびれるんじゃないかと思うほどにばたばたしている。

 実際、最初の頃は筋肉痛に襲われたりもした。

 

「うげっ、もうこんな時間じゃない」

「さっきから言ってるでしょうに」

「なんで起こしてくんなかったのよ」

「よくもまあ、そんなことが言えるわね」

 

 ぶつぶつ言いながらようやく目を覚ましたカチューシャの身支度を手伝いながら、ふと思う。

 

 楽しい。

 

□□□□□

 

【エリカ】

 

 支度を済ませて、出発の時間。

 

「行くわよー」

「待って待って、エリカさん」

「なによ」

「その、鍵が見付からなくて」

「えぇー、早くしてよ」

 

 案の定と言うか何と言うか、みほがもたもたし始めた。

 毎日って程ではないけど、ああまたかと思う程度にはよくあること。

 まあそれはそれとして、鍵が無いのは普通に困る。出る時は私のがあるから別にいいけど、帰りはバラバラだからその時に面倒くさいことになる。

 何より、鍵の場所を分からないままにしておくというのは防犯上、純粋に嫌。

 

「ベッドは」

「見たよ」

「洗濯機は」

「そんなところに入ってるかなあ」

「分からないでしょ。ポケットに入れたまま昨日投げ込んだかも知れないじゃない」

「あ、そっか」

 

 そして二人がかりで洗濯機の中を改めたけれど、見付からず。

 

「ごめんねエリカさん」

「いいわよ別に」

 

 しゅんとするみほとは反対に、私の心境は実はそこそこ穏やか。

 出発に手間取っているとはいえ、こういう時のために早めに出る習慣を付けているから時間には余裕がある。

 と言うか、遅れるんだったらもう少し遅れて貰ってもいいかなという気持ちになってきた。

 何故ならもうすぐ、このあと朝ごはんを買いに寄るコンビニの店員さんの交代時間になるから。

 あまり早く行くと、最近新しく入った深夜帯の人が残ってて、ちょっと。学生の頃からの知り合いなんだけど、若干苦手意識があるのよね。嫌いとまでは行かないけど、少し苦手。

 悪い人とかではないんだけどね、たぶん。

 

「あっ、そう言えば今日、小梅は」

「角谷さんたちが来てくれることになってるから大丈夫だよ」

「ん、ああ。それなら安心だわ」

 

 気を取り直して、探し物を再開。

 出発はもう少し先。

 

 ちなみに鍵はこのあと、お酒と一緒に冷蔵庫から出てくることになる。

 

□□□□□

 

【紗希】

 

「行ってくるね」

「うん、紗希ちゃん行ってらっしゃーい」

「あいあーーい」

 

 手を振る桂利奈と紗利奈にこちらも手を振り返し、家を出た。

 この時間帯によく現れる猛スピードの軽自動車を見送り、改めて出発。

 仕事場までは少し距離があるが、考えごとに耽る時間の確保と運動不足解消のため、いつも徒歩で行く。

 子育てと仕事。果たして両立ができるものか最初は不安もあったが、慣れてしまえば案外どうにかなるものだ。と言うか子育てで気が滅入っている時などは、仕事の方が気楽に感じることがある。

 仕事が楽とまでは言わないが、まあ覚えてしまえばそれを繰り返すだけだ。子育てよりは無心でいられる。

 あまりこんなことを言うものではないとは思いつつ、仕事をしている間は子育てから解放されることに若干胸を撫で下ろしているというのが正直なところ。

 しかし仕事が終わる頃には考えが逆転していて、さあ仕事から解放されて子育てをやるぞという気分になっているのだから、実に都合のいいことだと思う。

 上手くできている。

 

 そんなことを考えている間に、店に着いた。ここが仕事場だ。

 入れ違いで店から出てきた高校時代の先輩たちに会釈をした。家が近いのか、彼女たちは常連だ。

 店に入り、レジに立っていた新人と挨拶を交わす。彼女のお陰で深夜帯は家に居られるようになったから非常に助かっている。

 まあ新人とは言うものの彼女もまた、学校こそ違うが高校時代の先輩で、それはどうしても落ち着かないのでこちらが敬語で通している。

 

「お疲れさまです、ミカさん」

「やあ店長、お疲れさま」

 

 交代の時間だ。

 さあ、今日も頑張るぞ。

 

□□□□□

 

【絹代】

 

 朝の出発の支度の途中、玄関の開く音が聞こえた。

 

「ただいまー」

「お帰りなさいませ、ミカ殿」

 

 夜通し働いたミカ殿は、こうして朝方に帰ってくる。

 そして私は、ミカ殿と入れ違いで家を出る。夜はその逆。

 だから私たちは、一緒に暮らしていながら毎日少しずつしか会えないのだ。夕方から夜にかけては多少の余裕があるが、それでも纏まった時間が取れないことは少し寂しく思っている。仕事が長引けば、丸っきり会えない日もあるのだ。

 たまに休日が重なると日頃の鬱憤を晴らすかのようにべたべたとくっつきたくなってしまうのだが、ミカ殿に迷惑でないかという思いがあり、なかなか行動には移せずにいる。

 一緒に暮らし始める前は会えない日など当たり前にあったというのに、欲深なものだと自分でも思う。

 

「朝ごはんは出来ていますので」

「うん、ありがとう」

 

 せめて二人で同じものをと思い、こうして毎朝食事を作ってから出るようにしているが、これもミカ殿はどう思っているのか定かではない。

 偶には他所へ寄り道でもしたいと思っているかも知れない。どころか、ミカ殿の食い意地を持ってすれば、ご自分の職場で売られている多様な弁当にも興味があるはずなのだ。

 しかしミカ殿は何も食べずに真っ直ぐ帰ってくる。期限切れの弁当を失敬している様子も無い。これも、ミカ殿の手癖を思えば不思議なことだ。

 繰り返すが、どういった思いでいるのかは、よく分からない。

 

「それでは行って参ります」

「ああ。待って、絹代」

 

 廊下ですれ違おうとしたところで、抱き寄せられた。

 全くの不意討ちで、反応をする間もなく、ぴたりと身体を付けられた。

 そのまま、暫し。

 

「あっ、あの、ミカ殿。これは」

「ふふふ、充電」

 

 ああ、成程。そういうことか。

 ミカ殿も同じなのだ。

 

「それじゃ、行ってらっしゃい」

「はいっ」

 

 今日は早く帰ろう。

 

□□□□□

 

【菊代】

 

「行ってきますね」

「はい、行ってらっしゃいませ」

 

 玄関先で家元を見送った。

 休日は、ああやってお一人で出掛けることが増えたように思う。私に丸っきり運転を任せていた頃とは、少し変わった。それによって仕事が減ったことに関しては有り難く思うが、果たしてこれは喜んで良いやら悪いやら。

 どうにも靄々(もやもや)してしまう。

 

「しほさんは出掛けましたか」

「あっ、はい。たった今」

 

 旦那さま。

 西住常夫さまは、私などよりもっと靄々しているのではないかと思う。

 何故なら家元の出掛ける先は、恐らく。

 

「島田さんのところでしょう」

「っ」

 

 不覚にも、返事に詰まってしまった。

 旦那さまの言う通り、家元の出掛ける先はまず間違いなく島田の家元のところなのだ。だからこそ、軽々に『そうでしょうね』と返すことは憚られる。

 私の思い違いでなければ、近頃の家元は島田の家元と親密になり過ぎている。私の靄々の原因はそこだ。

 いや。

 最早、親密という言葉では足りないかも知れない。

 あれはもっと、それ以上の、何か。

 

「はっはっは、青春だなあ」

「は」

 

 間の抜けた声を出してしまった。返事に詰まるよりも失礼なことだ。しかし、今の旦那さまの言葉は、家元が何をしているのか分かった上でそれを『青春』と呼び、呑気に笑い飛ばしたようにも聞こえる。

 おかしな声も出ようというものだ。

 

「ふふふ」

 

 一体どのような心境でいるのやら。爽然(さっぱり)読めないのだが、少なくとも機嫌が悪い訳ではない。

 顔で笑って肚(はら)で泣くというような器用な真似が出来る人ではない。私の知る限り、この人が笑っている時は、本当に笑っているのだ。

 何故笑っているのかは、分からないが。

 

「さて菊代さん、朝ごはんはありますか」

「えっ、ええ。それは勿論ありますが」

「良かった。ではお願いします」

「分かりました。少々お待ちを」

 

 ううむ、何とも。

 計り知れないお人だ。

 

□□□□□

 

【千代美】

 

『おはようございます』

 

 今日も九時きっかり。

 毎朝欠かさず業務連絡みたいな挨拶を送ってくるしほさんにこっちからも挨拶を返信して、ついでにスタンプ。最初は何事かと思ったけど、これはたぶん、しほさんなりの好意なんだよな。例によって、不器用なだけの。

 いやあ、それはそうと、まほには悪いことをしちゃったな。

 まあ電車を一本逃したくらいじゃ遅刻はしない筈だから大丈夫だと思うけど。

 でも『無のおにぎり』はちょっと、面白すぎたんだよな。まほはあんまり冗談を言わないから余計にかな、とにかく良かった。最近で一番笑ったかも。

 

「さて、と」

 

 今日は私はお休みだ。

 平日のお休みってウキウキするよな。なんか、世間と違う動きをしてるのがちょっと楽しいって言うか。カレンダー通りの休日よりも、ちょっと得した気分になる。

 何しようかなー、小説でも書こうかな。

 

「ん」

 

 ふと見渡した部屋の中。テーブルの上に、お弁当の包みを見付けた。

 あっ。うーわ、やらかした。

 バタバタしてたのはまほだけじゃなかったな、私も焦ってたってことだ。まほに『無のおにぎり』だけ渡して、おかずを詰めた弁当箱を渡してなかった。

 せめておにぎりに何か入ってるならともかく、塩にぎりだけを食べさすのは流石にちょっと可哀想だ。

 いや、まあ、物足りなければそこらで何か買って食べるだろうとは思うけど、どうかなあ。まほのことだから、本当におにぎりだけ食べて終わりにしちゃうかも知れない。

 自分のお昼ご飯にしちゃってもいいけど、うーん、どうしよう。

 

「よし」

 

 届けに行くか。

 直接顔を出すよりは、どっかで待ち合わせをして渡す方がいいのかな。まあ移動しながら考えよう。

 まほにも連絡入れとこう。要らないって言われたら公園かどっかで食べればいいし。言わないと思うけど。

 

「行ってきまーす」

 

 時間は九時半。

 まほにお弁当を渡したら何しよっかなー。

 



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百の器

【まほ】

 

 私の好物はカレー、ということになっている。

 含みのある言い回しになってしまうが、素直に『私の好物はカレーです』と言うよりは真実に近い。しかし別に嫌いという意味ではないし、もちろん食べれば美味しいとも思う。要するに、人並みには好きなのだ。

 だが、実はそれが理由で好物という訳ではない。

 

 こんなことになった原因は、黒森峰女学園戦車道チームの隊長として雑誌のインタビューに答えていた時まで遡る。

 淡々と戦車道に関する質問に答えていた時のこと。それまでと同じ調子で、不思議な質問をされた。

 

『好きな食べ物は何ですか』

 

 質問の真意を図りかねた。それはどう考えても戦車道に関連のある質問とは思えなかったからだ。だからつい、質問を返してしまった。

 

『何故そんなことを訊くんですか』

 

 記者はまさか訊き返されるとは思っていなかったらしく、少し戸惑ってから、読者が知りたがっていますからと答えた。戦車道の記事の読者が、果たして本当にそんなことを知りたがるだろうか。いまいち釈然としなかったが、元より答えを拒むつもりがあった訳ではないので、暫し考えた。

 私の好物は何だろう、と。

 まあ記者が言うのだから、知りたがっている読者も居るのだろう。仮にそれが嘘だったとすれば尚更、それは嘘をついてでも私から答えを引き出す価値がある質問ということになる。そんな質問に対して、特に無いですと答えるのは如何にも据わりが悪いように思えた。黒森峰どころか西住流のイメージにも関わってしまうかも知れない。

 特に、これといった好物は無かったのだが。

 しかし何か言わなければと考え、苦し紛れに絞り出した答えが『カレー』だった。好きな食べ物というよりも、美味しい食べ物だ。美味しければ何でもよかったのだ。

 だからあの時、私の好物は焼肉やラーメンになる可能性も十分あった。私の頭の中でたまたま選ばれた美味しい食べ物がカレーだったというだけのこと。

 そしてその後、インタビュー記事は恙無く雑誌に掲載され『西住まほの好物はカレー』という、事実と若干異なる情報は、私の予想に反して瞬く間に世間に広まることになる。

 記事を読んだという友人たちから声を掛けられることもあったが、その大多数の感想が、カレーが好きなんて意外だね、というようなものだった。思い返せば、それまで雑誌の取材を受けたことは何度かあったが、カレーの話が最も反響が大きかったように思う。あの時の記者が言った通り、それだけ私の好きな食べ物に興味のある読者が居たということだ。

 この出来事がどのような余波を生むものか全く想像がつかず、少し怖くなったりもしたが、これによってあの記事を読む人が増えるのは有難いことだとも思った。そもそもあれは、戦車道についてのインタビュー記事なのだ。

 お母様からのお叱りは若干覚悟していたが、意外にもそれは無く、あなたはそんなにカレーが好きだったかしらと言われるだけに留まった。否定も肯定もしようが無いので『ええ、まあ、はい』と答えておいた。

 それから暫くののち、学園艦の寄港日に久し振りに実家に帰ると食卓にカレーが並べられた。私の好物(とされるもの)を用意してくれたのだと気が付き嬉しくなったが、騙しているようでもあり、少しだけ罪悪感を覚えた。

 結局、勘違いを放置するのも罪悪感を抱え込むのも嫌だったので、その晩、私はお母様に本当のことを話した。

 かくかくしかじか。実はこんな理由でカレーと答えました、と。

 こんなことを気に病み、懺悔するように話す娘が滑稽に見えたのかも知れない。お母様は笑って私の話を聞いてくれた。そしてカレーの話に留まらず、その晩はお母様と色々な話が出来た。戦車道とはほとんど無関係な他愛のない雑談ばかりだったが、私にはそれが楽しかった。お母様との雑談など、どれくらいぶりのことだったか分からない。

 私にとってカレーは、この出来事の切欠になった食べ物なのだ。

 だから取材に応じた時点では適当に答えただけだったが、それは結果的に本当になり、私の好物はカレーということになった。

 美味しいから好きなのではなく、思い出の食べ物だから好きなのだ。

 少しややこしい話だが、好きであることに変わりは無い。

 

 そして最近、またひとつ新しい理由が追加されつつある。

 

「さて、出来た」

「うーん、良い匂い。やっぱカレーを作るのはまほの方が上手いな」

「お陰さまでな」

 

 部屋に立ち込める夕飯の匂い。今日の当番は私だ。

 長く千代美と一緒に暮らす中で、我ながら随分と腕を上げたものだと思う。

 

「コーヒーちょっと入れたろ」

「流石。よく分かったな」

「ふふん」

 

 千代美が喜んでくれるから私はカレーが好きだと、最近はそんなことを考えるようになった。

 

「いただきまーす」

 

 頂きます。



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八寒の氷

一応、触れとかなきゃと思った話


【エリカ】

 

 とある先輩に関して、昔から疑問に思っていることがある。

 別にそれは、どうしても解明しなくちゃいけないことでもなんでもなくて、言ってしまえば『どうでもいい疑問』に分類される。んだけど、定期的に思い出しては、そう言えばどうしてなんだろうと考えて、結局答えが出ないまま次に思い出すまで忘れる。

 そんなどうでもいいことを、もう何年も繰り返している。

 思い返せば、あの先輩と知り合ったのは高校時代。黒森峰に入学してすぐのことだった。とあるきっかけで知り合って、その時すぐに違和感を覚えたものの、初対面で訊ねることでもないかなと遠慮してしまって、それ以降ずるずるとタイミングを逃し続けて今日まで生きてきた。

 いや、タイミングはいくらでもあったんだけど、そんな時に限って疑問そのものの存在を忘れていた。何故なら、どうでもいいことだから。

 

 そして、あとになって思い出す。

 そう言えばどうしてなんだろう、と。

 

 でも今日は少しだけ事情が違う。ついに訊けるタイミングが巡ってきた。

 まほさんと『どん底』で飲んでいて、その疑問を思い出すことができた。まほさんはその先輩本人ではないけれど、きっと答えを知っているはず。

 長年のどうでもいい疑問に終止符が打てる。

 

「まほさん」

「ん?」

「小島先輩って、居るじゃないですか」

「ああ、なおちゃんな」

 

 そう。その先輩というのは、小島エミ先輩のこと。

 まほさんは彼女と付き合いが長いらしく、なおちゃんと呼んでいる。

 それはまほさんだけが使っている呼び名という訳でもなくて、小島先輩自身も高校の頃は後輩に対して『なおちゃん先輩って呼んでね』なんて言うことがあったし、実際にそうしてる後輩も居る。みほとか。小梅とか。

 

「それがどうかしたのか?」

「あの、『小島エミ』なのにどうして『なおちゃん』なんですかね」

 

 ついに訊いた。

 長年のどうでもいい疑問。小島エミなのに、なおちゃん。一文字も合ってないじゃない。

 付き合いの長いまほさんならその理由を知っているはず。是非とも教えて欲しい。

 けれどそれは、まほさんにとっては思ってもみなかった質問だったらしく、と言うよりいまいち質問の意味が分からなかったらしく、私は改めてその意味を噛み砕いて説明する羽目になった。

 まあ、この時点で若干嫌な予感はしていたんだけど。

 あらかたの説明が終わると、案の定まほさんは『ふうむ』と唸って考え込んでしまった。

 

 そして、たっぷり一分は考えたかなといったところで顔を上げて、一言。

 

「そういえば……何故だろうな」

 

 どうでもいい謎は、どうでもいいのに一層深まってしまった。




西住「ただいまー」

安斎「おー、おかえりー」

西住「エリカと、なおちゃんの名前の話になってなあ」

安斎「ああ、旧姓だろ?」

西住「えっ?」

安斎「小学生の頃に親が再婚して苗字が小島に変わったんだけど、周りが旧姓の直下で呼ぶからずっと定着したままなんだって」

西住「そうなの?」

安斎「いや、なんでお前が知らないんだよ」

西住「というか、どうして千代美が知って……」

安斎「こないだ遊びに来たときに訊いた。気になったから」

西住「ええぇ……」


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ぬっぺっぽうの毬

【ダージリン】

 

 とある、ベーカリーの奥にある一室にて。

 私とカチューシャと、友人である店主の三人で土曜日のランチタイムを楽しんでいる。

 

「ここはどういう部屋なの?」

「私が寛ぐためのお部屋よ~」

 

 広くはないけれど、狭くもない部屋。

 従業員の休憩室などとは明確に違うみたい。店長室とかいうものとも違う気がする。ざっと見渡してみても仕事に関係がありそうなものは筆記用具すら無くて、あるのは可愛らしく飾り付けられた簡易ベッドやぬいぐるみといったものばかり。

 小さな本棚に並んでいるのも、全て彼女の趣味の小説。あ、『塗仏の夢』が置いてある。私もあれ好き。

 まあ要するに、ここは本当の意味で、文字通り『寛ぐためのお部屋』なのだと分かる。

 店主の特権ということになるのかしら。曲がりなりにも職場にこんな部屋を作ってしまうところが彼女らしいと言うか、なんと言うか。

 

 お店で買ったパンをどこで食べようかと話していて、最初はテラス席があるからというだけの理由でテラス席を選んだ私たち。けれど、外は思った以上に風が冷たくて早々に屋内席への退避が決まり、それならこっちにいらっしゃいということで、この部屋に通された。

 もしかしたら光栄なことなのかも、と部屋の内装を見て思う。

 ちなみに、ここでパンを食べるのは、イートインということになるのかしら。

 うーん。

 

「今年はもう、テラス席は撤去ね~」

「それがいいわね」

 

 外は本当に寒かった。ついこの間、夏が終わって過ごしやすくなったところだと思っていたら、もうすっかり冬。

 一体どこに秋があったのか、今年は見付けられなかった気がする。

 そして当たり前のこととは言え、これからまだまだ寒くなるのかと思うと否応なしに憂鬱になってしまう。今年はどうなることやら。

 あまり好きじゃないのよね、雪。

 

「アンタさ、こういう所のちゃんとしたミートパイは食べないわよね」

「ふんふ(そうよ)」

 

 物思いに耽ろうとしたところ、カチューシャの言葉で現実に引き戻された。

 咄嗟のことで口の中にパンが残っていて、はしたない答え方になってしまったけれど、まあ感謝しておく。折角の楽しい時間にわざわざ気分が沈むようなことを考えるのは、あまりよろしくない。

 それを分かって話し掛けてきたのか、それともたまたまか。

 どちらにせよ、言い回しはもう少し選んで欲しかったけれど。

 

「ちゃんとしてないミートパイが好きなの~?」

「そういう意味じゃないわよ」

 

 案の定、カチューシャの言い回しが語弊を生んだ。

 一応は誉めていても、食べない理由として店のミートパイを引き合いに出されては、店主としては気になって当然。

 カチューシャを軽く睨み付けると、顰め面のように鼻に皺を寄せた笑みが返ってきた。あれは、引け目を感じつつも素直に謝るのが癪な時にする顔。

 さて置き。

 私もカチューシャも、今日は昨夜に観た映画の影響で、目玉焼きが乗ったトーストを食べている。

 売り場にはミートパイも勿論あったけれど、私はそれを避けてこちらのパンを選んだ。と言うか、このお店のミートパイは別に私の好物という訳ではなかったから、眼中に無かったという言い方をしてもいいくらい。

 流石にそれは、角が立つから言わないけれどね。

 ともかく、そんな心持ちのところで丁度、カチューシャが映画と同じパンを見付けて飛び付いたから、私もそれにしたという訳。これはこれで美味しいので、そこに関してはとても満足している。

 カチューシャも、わざわざ映画の真似をして目玉焼きだけ先に食べてご満悦の様子。

 で。

 そんな訳だからカチューシャの言う『ちゃんとしたミートパイは食べない』というのは、ある意味では正解。彼女の言う通りミートパイは私の好物ではあるけれど、だからこそ、こだわりがあるのよね。

 私の母校、聖グロリアーナ女学院の学園艦上にあるベーカリー。あそこのミートパイこそがこの世で一番美味しい食べ物であると、割と本気でそう思っている。

 なんでもあそこの店主、実はパンよりも洋菓子が得意だとかで、甘いパンを作るのがとても上手。だからあのお店の品揃えは甘い方に集中していて、その中にミートパイがある。

 あのお店のミートパイは、それこそお菓子のように甘い。そこが良いと、私は思う。

 つまり私の好物はミートパイではなく、『あのミートパイ』ということ。

 けれどそれは、当時は残念ながら誰からも同意が得られなかった。最近になってようやく聖グロOGの中に一人だけ愛好者を見付けたけれど、それだけ。

 親愛の証としてカチューシャを始めとしたプラウダ高校の面々に贈ったこともあったのだけれど、内心では誰一人喜んでいなかったことを後から聞かされてショックを受けたりもした。

 まあ、それは置いておく。

 私に限っては学生の頃、あのミートパイをよく買って食べていた。今でも学園艦が近くに寄港するという話を聞けば欠かさず買いに行く。

 けれどそれは不定期で、平均で言っても数ヵ月に一度のこと。

 出来ればもっと安定して食べられたらいいのに、と思っている。

 

「素敵、甘いミートパイなんてものがあるのね!」

「げっ」

 

 あっ。

 そうだわ、その手があった。

 どうして今まで気が付かなかったのか。今、私の目の前には洋菓子に強くてベーカリーを営んでいる友人が居る。

 

「うちでも作ってみましょう」

「いやー、それはやめた方が……」

「是非ともお願いするわ」

 

 マリー。

 彼女が『パンが無ければパン屋を開けばいいじゃない』と言い出してお店を開いた時は、何を訳の分からないことをと思ったけれど、なんだかんだでこの通り、お店の経営は軌道に乗っている様子。

 ぽやぽやしているように見えて商才はしっかりと持っているのよね。彼女に任せれば、もしかするかも知れない。

 

「この部屋で寛ぐと、こういうひらめきがあるのよね~」

 

 成程、『寛ぐ』といっても怠ける訳ではないのね。

 仕事に関する一切を排除しているからこそ、ひらめくこともある。従業員から苦情が出たりしないのかとも思ったけれど、こういうことがあるから平和が保たれているんだわ。

 もしかしたら泊まり込みで『寛ぐ』こともあるのかも、なんてね。

 

 そうして私も監修に参加させてもらって作り上げたミートパイは、まさしくあの味を再現することに大成功。

 

 満を持して発売された、マリーのお店の新商品『スイート・ミートパイ』は、見たこともない桁の赤字を叩き出した。



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つねお

【菊代】

 

「行ってきますね」

「はい、行ってらっしゃいませ」

 

 玄関先で家元を見送った。

 休日は、ああやってお一人で出掛けることが増えたように思う。私に丸っきり運転を任せていた頃とは、少し変わった。それによって仕事が減ったことに関しては有り難く思うが、果たしてこれは喜んで良いやら悪いやら。

 どうにも靄々(もやもや)してしまう。

 

「しほさんは出掛けましたか」

「あっ、はい。たった今」

 

 旦那さま。

 西住常夫さまは、私などよりもっと靄々しているのではないかと思う。

 何故なら家元の出掛ける先は、恐らく。

 

「島田さんのところでしょう」

「っ」

 

 不覚にも、返事に詰まってしまった。

 旦那さまの言う通り、家元の出掛ける先はまず間違いなく島田の家元のところだ。だからこそ、軽々に『そうでしょうね』と返すことは憚られる。

 私の思い違いでなければ、近頃の家元は島田の家元と親密になり過ぎている。私の靄々の原因はそこだ。

 いや。

 最早、親密という言葉では足りないかも知れない。

 あれはもっと、それ以上の、何か。

 

「はっはっは、青春だなあ」

「は」

 

 つい、間の抜けた声を出してしまった。これは返事に詰まるよりも失礼なことだが、しかし、私の耳に狂いが無ければ今の旦那さまの言葉は、家元が何をしているのか分かった上でそれを『青春』と呼び、笑い飛ばしたように聞こえた。

 おかしな声も出ようというものだ。

 

「ふふふ」

 

 まだ笑っている。

 一体どのような心境でいるのやら。爽然(さっぱり)読めないのだが、少なくとも御機嫌が悪い訳ではないことは分かる。

 顔で笑って肚(はら)で泣くというような器用な真似が出来る人ではない。私の知る限り、この人が笑っている時は、本当に笑っているのだ。

 何故笑っているのかは、分からないが。

 

「さて菊代さん、朝ごはんはありますか」

「えっ、ええ。それは勿論ありますが」

「良かった。ではお願いします」

「分かりました。少々お待ちを」

 

 ううむ、何とも計り知れないお人だ。

 

 いや、しかし。

 どうにも承服しかねる。余りに自然体なものだからこちらまで流されそうになったが、これは『計り知れないお人』で片付けてしまってよい話ではない、と思う。

 この件、旦那さまは最早、当事者と言っていい立場にあるのだ。その旦那さまに危機感が無いのは、それはそれで大問題ではないか。

 御機嫌の良いところに水を差すことになるかも知れないが、問い糾さずにおく訳にも行かないだろう。

 朝御飯の仕度をしながらそんなことを考えた。

 

 そして、食後のお茶の時間。

 

「旦那さま。少し、よろしいでしょうか」

「どうぞどうぞ」

 

 淹れたばかりの熱いお茶を啜りながら、旦那さまは呑気に応えた。

 矢張り何か、腹に一物を抱え込んでいるような様子は無い。

 

「先ほどのことですが、一体どういうおつもりだったのでしょうか」

「……はい?」

 

 返事に妙な間があった。

 どうも『先ほどのこと』というのが何を指しているのか分からなかったらしく、首を傾げている。

 そうか。では矢張り、あれは本心から出た自然な言葉だったということだろう。

 

「ええと、家元が出掛けたことに対して『青春』と」

「ああ、そのことですか」

 

 ことも無げに、と言うよりはむしろ嬉しそうに、旦那さまは表情を和らげ姿勢を崩した。

 旦那さまにとって、これは楽しい話題であるらしい。

 

「確かに、妻が別の想い人のところへ出掛けるのを笑って見送る夫というのは妙ですね。そういう見方であれば『なんだこいつは』と思われても無理はありません」

「いえ、そんなことは……」

 

 思ったが。

 

「菊代さんは長いから事情をご存知でしょうが、しほさんと島田さんは昔、恋仲にありました」

「はい」

 

 勿論それは知っている。

 表沙汰にはなっていないが、あの二人には、言うなれば現在のまほお嬢さまと安斎千代美さまのような間柄の時期が確かにあったのだ。

 しかし当然のことながら、それは周囲が許さなかった。

 違う流派の次期家元同士という境遇が二人を引き離し、やがてそれぞれの夫を迎えて家を継ぎ、今に至っている。

 とまあ簡単に言うが、あの頃のごたごたは阿鼻叫喚と表現しても差し支えなかった。

 旦那さまは知らないだろうが、無理に引き離したせいで心を病んだ島田千代が包丁を持って乗り込んで来たり、逆に乗り込んでみたり。

 あの二人を抑え付けるのには骨が折れた。

 洒落ではなく。

 

「しほさんは今、かつて失った時間をを取り戻そうとしているんです。僕には止められませんし、止めようとも思いません」

「成程……それで『青春』と」

 

 今と昔とでは事情が大分違うと思うが、それでも旦那さまが事情を理解していることと、その上で家元を引き止めないのだということは分かった。

 しかし、まだ疑問が残っている。

 その話だけでは、旦那さまが喜ぶ理由にはならないのだ。

 それに、家元の過去の交際相手を旦那さまが知っていることにも若干の違和感を覚えた。夫だからと言ってしまえばそれまでではあるが、そうは言っても、表沙汰になっていない話だ。

 

「ああ。僕がそのことを知っているのはですね、まあ、実はずっと以前から気が付いていたんですよ。僕がしほさんと夫婦になるより、もっと前」

「なんと」

 

 家元の方から打ち明けたのではなく、自力で気が付いたと。

 

「僕だけではありません。表沙汰になっていないというのは建前で、あの当時のファンはみんな薄々気が付いていたように思いますね」

「ファン、ですか」

「気が付いていたと言うのも違うかな……願望も少なからずありましたね。あの二人が、そういう関係だったらいいな、という」

「ん、はい?」

「菊代さん、僕はですね。西住しほの夫としてよりも『しほ千代』の愛好家である時間の方が長いんですよ」

「はあ、え? シホチヨ?」

 

 どうも流れが変わった気がする。

 

「最高ですよねぇ。『しほ千代』が実在したというだけでも滾るのに、しほさんが島田さんのところへ向かう、まさにその瞬間に立ち会えるんですから」

「う、ううん」

 

 理解に一瞬手間取ったが、つまり旦那さまは両家元のことをアイドルか何かのように考えていて、二人が揃うことに無上の喜びを感じている、ということなのか。

 まあ、確かに現役時代のあの二人は、戦車の腕前も見目の麗しさも兼ね備えた人気選手であったし、何より二人とも『次期家元』という強力な肩書きがあった。

 関係こそ表沙汰にはならなかったが、二人揃って取材を受けるようなことも多々あったし、戦車道連盟も彼女らの人気に乗じて化粧品の広告だの水着の写真集だのと、筋違いの仕事を幾度となく持ってきた。

 だからまあ、『西住しほと島田千代のファン』という考え方は理解できる。

 できるのだが、なんだか少し、思っていた感じと違う。

 

 しかし、それでは。

 

「お二人が会っているところに同席したい、というようなことはお考えにならないのですか?」

「挟まろうだなんて、とんでもない! あれは、遠くから愛でるものですよ」

 

 怒られたような気がする。

 よく分からないが、何か独特の美学のようなものがあるらしい。

 それから暫く『しほ千代』が如何に素晴らしいものであるかの熱弁を滔々と聞かされたが、半分も理解できなかったように思う。

 

 しかし、まあ、心配事がひとつ減ったことには変わりない。

 そう思うことにした。



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一本ダタラの歩

【千代美】

 

「うぐっ、えぐっ……うぅ……」

「……」

 

 休日の午前中。

 ソファで嗚咽を漏らしながらぼろぼろ泣く私と、その隣で静かに俯くまほ。

 休日の真っ昼間のリビングに、なんとも言えない気まずい空気が漂っている。

 私たちの真正面にはテレビがあって、とある映像が終わったところだ。

 

「よかっだなあ、本当によがったなあ……大洗」

 

 ああもう、何回観ても泣ける。

 高校戦車道、第63回全国大会の決勝戦。

 当時、中継されていた映像を抜かりなく録画してたダージリンから譲ってもらったDVDだ。部屋の掃除をしてたらディスクが目に入って、うっかり手に取って、そしてうっかり再生しちゃって、今に至る。

 この試合、私はリアルタイムでは色々あって現地に居たのに見逃しちゃった苦い思い出があるからか、なんか変に思い入れがあるんだよな。

 

「……」

 

 まほは、試合が市街戦に入った辺りから何も喋らなくなった。

 ちょっとだけ申し訳なさを感じる。まほにとって、これは自分が負ける映像でもあるからだ。

 この当時、まほは今以上に色んなものを抱え込んでいた。家のこと、学校のこと、そして勿論、みほのこと。この試合での負けは、そういうものが積み重なった結果って見方も出来てしまう。それだけでも複雑なのに、恋人がそれを観て感動してぼろぼろ泣いてる状況を考えるとな。

 感動で泣けるのと同時に、まほへの申し訳なさもあって気まずかったりして、感情が忙しい。

 

 ふと。

 そこまで考えて、違和感に気が付いた。

 

 まほは俯いたまま、さっきからずっと一言も喋らない。一言もだ。

 元々口数が少ない方ではあるけど、そうは言っても『んん』すら無いのは妙だ。いくら何でも静かすぎる。

 まさか寝てるのかと思って顔を覗き込むと、まほは下唇を噛み締めて小さく震えていた。

 ああ、そっか。

 我慢してたんだ。

 

「おい、まほ。泣いてもいいんだぞ、大丈夫だから」

「んっ」

 

 私の言葉を合図みたいにして、まほの目からも大粒の涙がぼろぼろと零れ始めた。

 

「ううぅー……」

「よしよし」

 

 まほは軽く倒れ込むようにして、私の肩にぐりぐりと頭を押し付けてきた。

 

「良かっだ……」

「うんうん」

「私……こんなに涙脆かっただろうか」

「どうだったかなー、ふふふ」

「歳かなあ……」

「そっ、そういうことは言うな」

 

 あれから何年経っただろう。まほの心境にも変化があったってことかな。

 それにしても思った以上にまほが泣くから、涙が引っ込みかけてた私もそれに釣られてまた泣いた。

 

「掃除全然でぎないじゃん……」

「あどでいい……」

「タオル持っで来る」

「わだしのも」

 

 もうティッシュじゃ無理だ。何枚使うか分かんない。こうなったらもう、お互いのテンションが下がるまで泣くしかない。

 それから。

 思う存分に泣いたあと掃除を再開して、それ終わる頃にはもうお昼が近くなっていて、今からなんか作るよりはパンでも買ってきて済まそうかって話になった。

 

「買い物ついでに散歩でもしよう……」

「賛成ー」

 

 家を出る前、二人とも目が赤くなってないか、鏡で一応確かめた。

 

――――――――――

 

「外で食べるには少し寒いかな」

「そうかも」

 

 冬って感じはもうしないけど、『もうすっかり春』と言うにはまだ早い。そんな感じ。ちょっと寒い。

 

「丸山さんたち映ってたな」

「うん。猫田も居た」

 

 話題はやっぱり、さっきの映像の中で印象に残ったシーン。

 今では面識があるけど、当時は知らなかった人たちが映ってたのも、なんか面白かった。未だに、観るたび発見があるな。

 そうそう、印象に残ったと言えば。

 

「みほがM3を助けたとこ、あれは何回見ても凄いよな」

「ああ、あそこか……あんまり言うな、また泣く」

「ぬっふふ、ごめんごめん」

 

 川渡りの時にエンストを起こしたM3リーを助けるため、みほは戦車の上を跳んで渡った。一部では『八艘飛び』なんて呼ばれていて、あの試合を語る上で外せない名場面だ。まあ八艘飛びは違う気がするけど、言いたいことは分かる。

 それはともかく。

 私はあの場面、エピソードとしては勿論好きだけど、それ以上に気になってることがあるんだよな。

 飛距離が凄すぎるんじゃないか、って。

 

「あれはなんだ、西住流跳躍術みたいなことなのか」

「いや、あれはどちらかと言うと西住流爆走術の応用だと思う」

「爆走……」

 

 いや、西住流跳躍術の方も大概だけど、爆走て。

 半分洒落だったんだけど、まさかそういうものが本当にあるとは思わなかった。

 何だろう、速く走るコツみたいなことなのかな。

 

「ストライドは知ってるか?」

「ん、ああ。走法のか」

「うん。西住流爆走術のベースはストライドだ」

「ふーん」

 

 ストライド走法っていうのは、それこそ速く走るコツそのものだ。脚を速く動かすことよりも地面を強く蹴ることを重視する走り方で、感覚としては走るって言うより『交互の脚で前に跳ぶ』って感じになる。

 闇雲に脚を速く動かすよりも一歩一歩の飛距離を稼ごうっていう考え方。

 

「あの走り方はな、実は平坦な地面よりも凹凸のある場所の方が効果が出る」

「ふむふむ」

 

 なるほど。地面を蹴るからには、蹴って反動にしやすい凹凸とか段差があった方が飛距離を伸ばしやすい。そう言う意味では平坦な地面よりも速く走れるっていう理屈はその通りだ。

 それこそ凹凸だらけの街の中を駆け巡る『パルクール』なんかを見ると分かりやすいかも知れない。あれは段差を蹴ることで飛距離に繋げている。

 

「そうそう。みほがやったことは、パルクールに近い」

 

 うーん、そう言われると確かに。

 体勢を立て直しながら連続して跳んでるあの感じは、ただ跳んでるって言うよりもパルクールの動きに近いような気がした。

 ただ、それでも疑問は残るけど。

 

「蹴る段差なんてあったか?」

「凹凸はあっただろう」

「……もしかして、リベットとかのことを言ってるか?」

「そうだが」

 

 戦車の装甲にぽちぽちと打たれているリベット(鋲)。確かにあれも凹凸っちゃ凹凸だけど。

 だけど、これまでの話を総合すると、みほはあんな小さな出っ張りを文字通りの足掛かりにして飛距離を伸ばしたってことになる。それは、にわかにはちょっと信じ難い。

 いや、だからこその西住流爆走術ってことなんだろうか。

 

「赤だぞ」

「んお」

 

 うーん。

 信号で立ち止まったのをきっかけにして考え込む私を暫く眺めてから、まほは含み笑いを漏らした。

 

「ふふふ、冗談だ」

「はあ!?」

 

 本気で驚いてでっかい声を出してしまった。

 いやいやいや、そう来たか西住まほ。いつの間にそんな茶目っ気を身に付けたんだ。

 

「もー、騙されたー」

「ふふふ、痛い痛い」

 

 脇腹を小突いてやった。

 でもまあ、思い返してみればそれもそうか。

 流派の名前が付いた技術の解説なんて、いくら恋人が相手だからってそう易々と話す訳がない。

 でも話としてはなかなか良くできてたし、突飛さもあって面白かった。そのうち小説のネタにでもさせてもらおうかな。

 

「ゆっくり歩きすぎたかな。もう正午を回ってしまった」

「うわ、本当だ。売り切れちゃうじゃん」

 

 まほに釣られて時計を見ると、もう12時を過ぎて10分くらい経っていた。あの店、人気のパンはお昼になるとすぐ売り切れるし、追加も気分次第で焼いたり焼かなかったりするから、そろそろ急がないとまずい。

 ミートパイぐらいしか残ってないなんてのは勘弁だ。

 さっきまでの話は置いとくとしても、ここは私より脚が速いまほに先に走って貰うことにした。

 

「まほ、ダッシュ! 塩パンまだあったら確保して!」

「わかった。二個だな」

 

 信号が青になったのを確認して走り出したまほは、歩道と車道の間にある段差に足を引っ掛けて『一歩』で横断歩道を渡って行った。

 

 えっ?




エタるにはまだ早い


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金色の桃

【河嶋】

 

 河嶋桃、二十ウン歳。いわゆるアラサー。

 某日、とある運転免許センターのロビーにて。

 

『お騒がせ戦車道女子、立体駐車場から隣のビルへジャンプ』

 

 目を落とした新聞の見出しに、思わずため息が漏れた。それだけでもううんざりしてしまい、反射的に新聞を閉じて棚に戻す。

 全く、嘆かわしいことだ。

 

 戦車と自動車は別物。

 

 そういう言葉がある。

 当たり前のようにも聞こえるが、戦車道女子たちにとっては一種の教訓としてそれなりに有名な言葉だ。

 彼女たちの中には、この言葉が当たり前に聞こえない、つまり戦車と普通の自動車を混同してしまう人間が一定数居るのだ。

 もちろん個人差はあるが、長く戦車道をやっていて、そしてその腕が立つ者ほど、戦車と自動車を混同してしまう傾向にあるそうだ。

 いや、混同というよりは、どうも戦車から降りて自動車に乗り換えた際に、その違いへの対応に苦労してしまうという話らしい。

 まあ、あくまでも『そういう傾向にある』という話ではあるが、こうして戦車道女子に向けた教訓めいた言葉がある以上、それはそれなりの人数の胸に響いているということなのだろう。

 

 では一体、そういった女子たちが対応に苦労する『戦車と自動車の違い』とは、どんな点なのだろうか。まあ、見れば分かるのは百も承知だが、ここは戦車道女子の身になって考えてみるとしよう。

 基本的に、自動車の運転は『止まる』『譲る』といった行動が肝要になる。危ないなと思ったら止まり、他の車と進行方向が被ったら譲る。極論、これが念頭にあれば、交通事故を起こすようなことはまず無い。必ずしも可能性はゼロではないが、それを極力最小限に抑えられるのが『止まる』『譲る』なのだ。少なくとも私はそう思っている。

 しかし、戦車に心血を注いでいる人間ほど、そこに『突破する』『撃つ』といった選択肢が入ってきてしまい、それが無意識に運転に表れてしまうのだという。

 まあ、もちろん自動車に砲塔が付いている訳ではないので実際に撃てる訳はないが、それをもどかしく感じてしまう者も居るようだ。

 更に、当たり前だが戦車のような乗り心地の悪さが自動車では感じられないのも、人によっては落ち着かないらしい。

 乗り心地の良さではなく、『悪さ』だ。

 ガタガタと揺れる戦車の劣悪な乗り心地にすっかり慣れてしまった人種にとっては、さっぱり揺れない自動車の乗り心地の方が異質に感じてしまうものなのだろう。

 

 そんな馬鹿なと思うかも知れないが、実際に路上を見渡してみると、若い女性ドライバーの運転というのは、確かに危なっかしいことが多いのだ。彼女たちが戦車道の経験者だと考えれば、あの個性的な運転ぶりにも幾らか納得がいくだろう。しかし、大抵の障害ならば踏み越えることが出来る戦車と自動車では、やはり違う。どこまでも違う。

 ただでさえ厚い装甲に覆われ、更に特殊なカーボンのコーティングが施されている戦車に比べれば、自動車の装甲など無いに等しい。そのくせ、自動車は戦車よりも遥かに速度が出てしまう。危なっかしいなどというレベルではなく、実際に危ないのだ。

 皮肉にも、自動車を運転するようになって初めて、戦車という乗り物の安全性を痛感したなどという話も聞く。

 

 そんな訳でというか何というか、戦車道経験のある女性には運転免許証の交付にあたり、定期的な講習の受講が義務付けられる。要するに、これまでつらつらと書いたような『戦車と自動車は別物』といった内容の講習を定期的に受けることによる、交通安全への意識付けだ。

 その講習は、全国の各都道府県にある運転免許センター、つまりここで受けられる。

 

「んな面倒くさい思いをしてまで持っていたいもんなのかしらね、免許って」

「そうは言うが、折角取ったんだ。持ってるか返納するかのどちらかなら、そりゃあ持っていたいだろうさ」

「んー、それもそっか」

 

 隣の椅子に腰を降ろした彼女は、退屈そうに長い脚を組み、缶コーヒーを不味そうに啜った。

 何度見ても反射的に『誰だっけ』と考えてしまう。実際、あら奇遇ねと先程声を掛けられた時は、そのせいで咄嗟に返事が出来なかった。

 カチューシャ。

 高校を出て以降、ぐんぐん背が伸びたことは知っていたが、いくらなんでもこれほど見事な長身美人になるとは誰が想像しただろう。情報としては頭に入っていても、理解が追い付かない。私の記憶の中では、彼女はいつまで経っても初めて会った時の小さな姿のままだ。

 まあ、それはそれ。彼女自身は特段ここに用事がある訳ではなく、件の『講習』を受けに来た友人の付き添いなのだとか。

 講習中の友人を待っている間、ロビーで時間を潰しているところで私を見掛けたから声を掛けたのだそうだ。

 高校の頃から考えても大して交流があった訳ではない私に声を掛けるということは、つまりそれだけ退屈だったということだろう。

 しかし、よくもまあ私の顔など覚えていたものだ。

 

「一時期は隊長同士だったでしょ。覚えてるわよ、そういうのはずっと」

「ああ」

 

 成程、そういう覚え方もあるか。

 無限軌道杯のあの時はどうやっても西住におんぶに抱っこで、自分が隊長であるという自覚にいまいち欠けていた。こうして人から言われて、ああ確かに私も隊長をやったことがあったなと、他人事のように思い出す始末だ。

 私のためを思って隊長に据えてくれた仲間たちには申し訳なく思うが、矢張り私は隊長を務める器などではなかったと思う。

 今日、こんな場所に居るのが何よりの証拠だ。

 

「そう言えば、カチューシャ」

「んぁ?」

「おま……いや、貴女は持っていないのか、自動車の免許」

「持ってないわよ、危ないもの」

 

 なんとも。

 身も蓋も無いことだが、一理ある。

 聞けば、今まさに講習を受けている友人とやらの運転があまりにも酷いので、自分で免許を取ることは断念したのだという。

 実際に身をもって戦車道女子の運転に触れることで、それを自分に置き換えて考えてみたということだろう。運転が上達する可能性が低いと分かっているのなら、そもそも運転しなければいい。それはそれで賢い判断だと思う。

 無論、免許を持っていなければ、面倒くさい講習を受けることも無いのだ。

 

「しかし、なんだ。その友人の運転はそんなに酷いのか」

「ひっどいわよ。『ルパン三世』かってくらい」

「はっはっは、そんなにか」

 

 まさしくそれは、戦車道に入れ込みすぎた女子の運転だ。そんな友人が身近に居るならば、それが反面教師として機能するのも頷ける。

 カチューシャもまた『戦車道に入れ込みすぎた女子』の一人なのだから。

 

「何年も運転してる癖にサッパリ上手くなんないのよ、あの子」

「まあまあ、そういうものだろう」

 

 こなれることはあっても、上達と言うほどの目覚ましい上達をすることは滅多に無い。教習所を離れ、良いも悪いも自分一人で判断しながら運転をするようになれば、それは尚更だ。

 それに。

 

「変なことを訊くがカチューシャ、その友人というのはもしかして、相当な美人なんじゃないか?」

「あら当たり。なんで分かったの?」

 

 まあ、言ってしまえば単なる当て推量だったのだが、これもよくある話だ。運転が不得手な女性には美人が多い。偏見などではなく、そういう統計が実際にある。

 その理由は、こうだ。

 美人は日常生活の中で何かと周囲から優遇される機会があまりに多く、それが普通のことだと思い込んでしまう、というケースがままある。彼女たちにとって『優遇』は日常茶飯事で、だからこそ、それが自分の恵まれた容姿からくるものだという意識が薄れてしまう場合があるのだ。

 ある意味では羨ましい話なのだが、もちろん弊害もある。

 ここで出てくるのが運転の話だ。

 いくら顔が良かろうと車の運転には関係ない。しかし、彼女たち自身にはそれが分からないのだ。いつも通りの『優遇』を前提にして車を走らせると、傍目にはただの無茶な運転になってしまうという訳。

 

「あー……言われてみれば、レディーファーストなんてのも染み付いてるのかも知れないわ、あの子。高校の時にそういう、淑女の何たるかみたいなことを、やんなるくらい学んでる筈だし」

「ん……淑女? 友人って、プラウダ高校の人ではないのか?」

「聖グロよ」

 

 なんだか不意を突かれたような思いがした。

 カチューシャの友人で美人だと言うからついついノンナを思い浮かべていたが、どうやら違ったらしい。

 ふうむ。

 カチューシャの友人で、戦車道をやっていて、美人で、聖グロ出身。

 まあ、妥当に考えればあの人か。

 

「そう言えば、アンタは講習じゃないのよね?」

「ああ。今日はただの更新だ」

 

 そう話していたところで丁度名前を呼ばれ、立ち上がった。

 軽く手を振ってカチューシャと別れ、もやもやと考える。

 本来であれば目出度いことの筈なのだが、どうにも戦車道と併せて考えると素直に喜べない。

 実際、カチューシャと話している間も、自分の免許に関しては話題を意図的に避けていた。

 戦車道の腕が立つものほど自動車の運転が下手だという話をしている流れで、これは言えないだろう。

 

 このたびの更新で、私の運転免許証は金色になるのだ。



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フロットサム・ジェットサム

【千代美】

 

 うちのリビングに飾ってある、クマのあみぐるみ。

 あみぐるみ。ぬいぐるみじゃなく、編んで作ったから『編みぐるみ』。今年のホワイトデーにまほがくれたものだ。

 器用になったなあ、と思う。

 いや、元々器用ではあったのかな、単にやる機会がなかっただけで。あいつ、やり方さえ覚えれば何でもこなすもんな。

 

 ともあれ今回はその、あみぐるみの話。

 

 話は丸1年ほど遡(さかのぼ)る。

 暑くなる前にイメージチェンジしようと決めて、それまでずっと長かった髪をバッサリ切るために美容室に行った時のこと。

 

「いつもの感じでいいっすか?」

「や、今日はショートにしようかと思ってさ」

「は? しょー……と……?」

 

 返ってきたのは、この人は何を言ってるんだと言わんばかりの反応だった。

 行きつけの美容室『アマレット』にて。

 そこの店長で、いつも私の髪を切ってくれてる高校時代の後輩と、その日は珍しく言い合いになった。

 

「アタシは、姉さんの髪は長いほうが好きっす」

「うん、ありがと。でも好きとかじゃなくてさ」

 

 私は思いきって短くしたいんだけど、後輩は大反対らしい。

 

「えぇー、マジっすか姉さん……本気でやるんすか?」

「だからそう言ってるじゃないか」

「そこの彼氏となんかあったんすか?」

「何も無いって、ただ気分変えたいってだけ! あと、まほのこと彼氏って言うな!」

 

 その言い合いの声は、少し離れた席で切ってもらってるまほの耳にも入ったみたいで、そっちの方から『んっふふ』という含み笑いが漏れたのを、私は聞き逃さなかった。

 まほも私が髪を切ることには反対してたから、この押し問答を聞くのが可笑しかったんだろう。

 むぅ、あいつめ。

 

「マジでやるんすかぁー……」

「もぉー、そんなに嫌なら、よその店で切ってもらうけど」

「わわ、待って待って、それは勘弁してくださいよ」

 

 まあ私だって他でやるのは気が進まないって言うか、切って貰うなら馴染みのここがいいとは思ってるんだけど、後輩があんまりにも嫌がるもんだから、ついそんなことを言ってしまった。

 向こうもそんな言葉は想定してなかったみたいで、それまでにも増して狼狽(うろた)え始めた。

 ちょっとクレーマーっぽかったかも知れないな、とは思った。でも、果たしてこれは私が悪いんだろうかと考えると、いまいちそうは思えなかったのも確か。まあ、困らせてるのには違いないけど。

 ただ、私たちのやり取りに気付いた他のお客さんや店のスタッフも若干ざわざわし始めたところで、ちょっと気まずくなってきた。

 髪は切りたいけど、騒ぎになるのはいたたまれない。

 後輩のほうだって店の空気が悪くなるのは嫌だろう。

 周りの雰囲気に流されて、切って貰うのを諦めるとまではいかなくとも、今日はやめとこうかって考えが頭をよぎったところで、後輩のほうもちょっと冷静になったらしく、天井に向かってでっかいため息を吐いた。

 

「すんません、ちょっとだけ時間貰いますね」

「うっ、うん……まあ、いいけど」

 

 後輩は頭を冷やすためか、ばりばりと後ろ頭を掻きながら店の奥に消えた。

 で。周りから見たら『クレーマーっぽい客』がひとり取り残されてポツンと座った状態で待つこと数分。お陰でやたら長く感じたけど、まあたぶん数分。

 気持ちタバコくさくなって戻ってきた後輩は、パッと見て分かるほど明らかに、目を赤く腫らしていた。

 

「えっ何、お前、泣いてんの!?」

「姉さんの断髪式で泣かないやつなんて居るんすか!!」

「だっ、だんぱつしき……」

 

 怒られちゃったよ。

 もうどこからツッコミを入れたらいいか分かんないけど、こいつにとって私の髪をバッサリと切り落とすことは、それほどの大事件らしい。

 それをどういう心境で受け止めたらいいのかは分からなかったけど、まあ、何にせよ切ってくれるらしいことは伝わったので、もうそれでいいやって思うことにした。

 

「ペパ姉さんにも連絡したっすけど、今は海外だから来られないって……泣きながら『立派にやり遂げろ』と言われました」

「おっ、おお」

 

 あいつもか。

 なんか、そっちの感性のほうが普通みたいな流れになってるのが釈然としなかったけど、ツッコミは我慢した。切ってくれることには変わりないから。

 そして後輩は深呼吸をひとつして、震える手で私の髪にハサミを入れた。

 

 と、そんな騒ぎを経て、なんとか念願叶って私の髪はショートになった。

 

 それから。

 断髪式と言うだけあって、後輩は切ったあとの私の髪を捨てなかった。まあ、確かに切ってみるとどえらい毛の量で、ポンと捨てるには躊躇するビジュアルなのは私にも分かった。

 とは言え、捨ててくれても全然よかったんだけど、まあ、そういう流れにはならなかった。

 じゃあ、どうしたかっていうと。

 

「どうしような、これ」

「うん……」

 

 後輩はご丁寧に、切った髪を綺麗に梳(す)いたあと2本の束に結って、仕上げにカールまでしてくれて、要するにツインテールの形にして持たせてくれた。

 うん、まあ、断髪式としては正しいのかも知れないけど、お陰で余計に捨てづらくなってしまった。

 結局のところ。

 そのツインテールは、ちょっと立派めのお菓子の箱に仕舞って、寝室にある机の引き出しに安置されることになったわけだ。

 

 で、あみぐるみの話に戻る。

 

 そう。

 今年の3月、まほが作ってくれたあみぐるみ。その材料はまさしく寝室に安置してたツインテールだった。いつの間に引っ張り出したんだか。

 貰った瞬間は『まほがあみぐるみを作ってくれた』っていう喜びと『めっちゃ見たことある色してる』っていう戸惑いが交錯して、訳の分からないリアクションになってしまったのを覚えてる。

 まほ自身も、途中で何か違うと気が付いたらしいんだけど、引き返す訳にも行かなかったとかなんとか。

 まあ西住流に後退はないから仕方ない。

 

 ともあれ私の髪は今、クマのあみぐるみに姿を変えて有効活用(?)されている。ここまで記念品として扱われると、捨てづらいとかの次元じゃないな、なんてことを思った。

 我ながら大した毛の量だと思う。流石にクマが編めるレベルだったとは思いもよらなかった。

 

 しかも、2個。

 

 もう1個のほうは『アマレット』に飾ってある。



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アマビエの符

【ダージリン】

 

 現在、理由あってカチューシャと別居中。

 まあ『理由あって』も何も、病院勤務の彼女と別居する理由なんて、このご時世ひとつしかないけれど。

 有り体に言えば、感染防止。

 彼女は今、勤務先から目と鼻の先にある職員寮を借りて、その短い距離を行き来するだけの生活を続けている。

 寂しいことは寂しいけれど、まあ仕方ないと思うほかない。

 

『ちゃんと手洗いしてる?』

「うん」

『うがいは?』

「してるわよ」

『私以外に意地悪してない?』

「ミカにはした」

『ああ、まあ、ミカならいいわ』

 

 最近はもっぱら、こうして電話でやり取りをしている。なんだか遠距離恋愛みたいで面白い。まあ、別に遠距離でも恋愛でもないけれど。

 だってカチューシャだし。

 

『そう言えば今日、ポストに手紙が入ってたんだけど……これ入れたの、アンタよね』

「あら、よく分かったわね」

『アンタの字だからね』

 

 手紙。

 今のカチューシャは直接会おうとすると怒るから、その代わり。今日のお仕事の帰りに、カチューシャの寮に寄って手紙を入れてきた。

 彼女のことだからポストを覗くのはいつになるやらと思っていたけれど、今日のうちに手に取ってくれるなんて。タイミングが良かったみたいね。

 

『文面はまあ……ありがとねって感じなんだけど、なんなの、この、ヘッタクソな絵』

「しっ、失礼ね。それは元々そういう絵なのよ」

 

 これは本当にそう。元の絵を見ながら描いたら、あんな風になってしまった。私は悪くない。

 カチューシャへの手紙に添えた絵というのは、鳥のような魚のような姿をした謎の生き物。髪は長くて、目は菱形で、脚が三本ある。

 

 つまり、最近話題のアマビエさん。

 

 病気が流行した時に現れて『私の姿を描き写して人に見せよ』と言う妖怪、なのだとか。千代美さんから教わった話の要点をまとめると、そんな感じだったと思う。だから描いた。

 アマビコとの関連がどうのこうのというような、もっとこまごまとした話も聞かされたけれど、まあ頭に入らなかった。

 

『ふうん……これがアマビエなのね』

「知ってるの?」

『アマビエをスマホの待ち受けにしてる子も居るからね。もっと立派な感じの絵だけど』

「ああ」

 

 アマビエが話題になったのは言わずもがな、現在の情勢が原因。

 元の絵は知らなくとも、医療の場で働いているならアマビエの話題が耳に入ることもあるのが自然、か。

 

『まあ手帳に挟んどくわ、この手紙。お守りくらいにはなるだろうし』

「ふふふ、そうして」

『んじゃー、明日も早いから寝るわね。おやすみー』

「はあい、お休みなさい」

 

 がんばってね。



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宴の始末

【まほ】

 

 唸り声が聞こえる。

 低くて長い、地鳴りのような唸り声だ。

 

「うーーーーん……」

 

 それを聞いて、私は台所でため息をついた。

 いやはや、なんとも。その声は、いつもの彼女から発せられる明るく優しい声色からは想像も付かないほどに不健康な響きを含んでいる。

 普段の彼女の声を初夏のやわらかな日差しとでもするならば、今聞こえている声はまるで沼の底に沈んだ泥である。

 滅多に出さない声ではあるが、だからこそ、彼女があの声を出している時は要注意だ。丁重に丁重に扱わなくてはならない。

 彼女のなかで苛々(いらいら)や靄々(もやもや)が、それこそ泥のように腹の底に沈んで溜まり、渦巻いて、少しずつ漏れ始めている。それがあの声というわけだ。怖い怖い。

 ため息も出る。

 

「さて」

 

 なんだかんだと思考を巡らせながら、コーヒーを二杯淹れた。

 一方は砂糖なし、ミルク多め。もう一方は砂糖もミルクも少しずつ。それぞれ、私と彼女の好みの淹れかただ。最近、ようやく上手に淹れられるようになってきた。

 それらをお盆に載せ、戸棚からお菓子を見繕う。

 さてさて、何にしようか。

 

「うーーーーん……」

 

 お盆を持って廊下に出ると、また泥のような声が聞こえた。

 唸り声の主は物置に居る。まあ物置と呼んでいるのは私だけで、彼女は書斎と呼んでいるが。そんな具合の、乱雑に本が置かれた部屋だ。以前はもう少し片付いていて、人を泊める時などに使っていたのだが、最近はとてもじゃないが他人に見せられる状態ではない。

 いよいよもって物置の様相を呈してきたと私は思っているが、彼女はそれでも書斎と呼ぶ。

 ともあれ彼女はここ最近、よくあの部屋に籠って唸っている。

 恐らく本人は気付いていないのだろうが、彼女が唸るたびにあの低い声が微弱な振動となって廊下を伝い、家中にじんわりと響く。どこに居てもあの声が聞こえるものだから、こちらも気になって仕方がない。

 だから、もしかしたら、この微弱な振動は壁を一枚隔てた隣人の部屋にも伝わっているかも知れない。

 まあ、それはいい。

 よくはないが、とりあえずいい。

 苦情は今のところ来ていないから置いておくとしよう。

 こんこん、と『物置』の戸をノックしたが返事はない。大方、集中していて気付かないのだと思われる。

 仕方なく勝手に中に入ると、雑然と積まれた無数の文庫本の向こう、机に向かう彼女の背中が見えた。ノートパソコンに向かって腕組みをして、ぴくりとも動かない。やはり集中しているようだ。

 文庫本の山に躓かないよう、そろりそろりと慎重に進む。

 

「うーーーーん……」

「おい、千代美」

「んおっ?」

 

 また例の唸り声を上げ始めたので真後ろから声を掛けてやると、今度は流石に反応が返ってきた。彼女の間の抜けた声に思わず笑いそうになったが、そこは堪えた。

 

「ノックぐらいしろよ、まほ」

「したぞ」

「えー、嘘だあ」

「した」

 

 憮然として言う彼女には申し訳ないが、私は悪くない。

 やはり、先ほどのノックには気付いて貰えなかったらしい。

 まあ彼女自身も集中しすぎていたことを自覚したようで、すぐに表情を和らげた。

 

「コーヒーを淹れてきたぞ。どうだ、一息」

「んー……ありがと。お菓子は?」

「豆大福~」

「やった~」

 

 コーヒーに和菓子。私たちの最近のお気に入りの組み合わせだ。

 机にカップと大福を置きつつ、彼女が唸りながら睨みつけていたノートパソコンを覗き込むと、画面には支離滅裂な言葉が所狭しと並んでいた。

 

『まったり』『朝の味噌汁』『蜘蛛』『貴石』『比較的』『鮭』『一緒に戦車』

『ほし芋』『庇う』『運転免許証』『キス』『涙』『タバコ』『恋人繋ぎの手』

『チョコレート』『ラブラブ』『やめなさい』『匂い』『駆け落ち』『わさび』

『ヨーデル』『蛍光灯』『二段攻撃』『ハンバーグ』『雪かき』『フライパン』

『ビル』『冷蔵庫』『ウミガメ』『ラジオ』『アルバイト』『焼き肉』『奥歯』

『小学校』『ロック画面』『スープ』『火事』『世界』『チェンジ』『学園艦』

『説破』『スマホ』『パスタ』『酔っ払い』『ぼろ雑巾』『無限』『魔界転生』

『合コン』『シャワー室』『料金プラン』『夢』『姑獲鳥』『青春』『必殺技』

『同一人物』『体重計』『オリーブ』『断髪』『ねこパンチ』『カレーライス』

 

 いやはや。恐らく、これらはひとつひとつが彼女が書こうとしている小説の案だ。

 彼女は読書の趣味が高じて、自分でも小説を書くようになった。書き上げたものは時々インターネット上に投稿もしていて、それなりの人気を獲得している。面と向かって言うと彼女が恥ずかしがるから黙っているが、実は私もこっそり楽しませて貰っている。

 ここに書かれている言葉の数々は、それぞれ何かしらの理由があって書き出した小説の案という訳だ。ネタ帳と呼んでもいいかも知れない。

 所々に不穏な言葉が見えるのが少し気にかかったが、まあいい。

 

「これはまた……随分と散らかしたな」

「うん……」

 

 書いた当人ですら訳が分からなくなっているようだ。まあ、だからこそ唸っていたのだろう。それがそこそこ長期に渡っているのだから、スランプというやつか。

 趣味なのだからもっと気楽にやれと言いたいところだが、趣味だからこそ手が抜けないという考えかたもある。どちらかと言えば、彼女は後者寄りだ。

 コーヒーを飲みながら、彼女はネタ帳に『コーヒーブレイク』と書き足した。採用されたらしい。しかしどうにも、手助けをしたような気分にはなれなかった。

 案が浮かびすぎるのも考えものだ。

 

「なんかいい案、無いかなあ」

 

 彼女はネタ帳を睨みながら、信じられないことをつぶやいた。

 一瞬、耳を疑った。目の前にこれだけ案があっても、そんな言葉が出るものだろうか。

 

「ふむ」

 

 しかしまあ、個人の創作活動に口出しするのもどうかと思って言わずにいたが、投げ掛けられた以上は答えたい。一応、案ならば私にもあるのだ。

 

「いっそのこと、自分たちの生活を小説にしてみるのはどうだ?」

「自分たちって……私と、まほ?」

「そう」

「えー……面白いかなあ、それ」

 

 彼女は懐疑的だが、根拠ならある。

 

「千代美。『鰯』という作家を知っているか?」

「んっ、うーん? 聞いたことがあるような、ないような」

 

 鰯。

 いわし。

 何年か前、インターネット上に現れた小説家の名前だ。

 その『鰯』が投稿した一本の恋愛小説が、読んだ者たちの間で大きな話題となった。

 その反響は凄まじく、それ故か異例とも言えるスピードで書籍化が決定し、更には実写映画まで作られ、挙句の果てには海外の有志が翻訳を始め、瞬く間に国内だけでなく世界中で読まれるまでになった。しかし『鰯』本人はそのことにはあまり興味が無かったようで、書籍化や映画化には製作の許可を出したものの、当人は一切関与しなかったらしい。

 いつの間にかアカウントも消去されており、現在では名前を変えてひっそりと活動を続けている、などといった憶測も流布したが、確証はない。

 顔も年齢も性別も何もかもが不明で、あくまでも個人的に恋愛小説を一本投稿しただけというスタンスを貫き、それ以上『鰯』としての活動を広げることは無かった。

 彼女はその理由を『恋人と静かに暮らすため』とした。

 

「作品よりもロマンチックな人だな、と思ったものだ」

「……成程。その、恋人との静かな暮らしが小説になったら面白いかも、って?」

「んん」

 

 野暮かも知れないが、とても興味がある。是非とも読んでみたい。

 なぜなら恋人との静かな暮らしは、毎日がこんなにも楽しいのだから。

 

「うーーーん……」

 

 残り少なくなったカップのコーヒーを見つめながら彼女はまた唸り声を上げる。だがそこには先程のような重苦しい響きは無くなっていた。考えが変わりつつあるようだ。

 近いうちにまた、彼女の新作が読める日が来るかも知れない。

 ふふふ、とても楽しみだ。




縦読み。

本を作っていました。
このお話も収録されています。

https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=1009788


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透明人間の現

【ダージリン】

 

 一日のお仕事を終え、いつも通りに帰宅。

 その玄関にて。

 

「ただいま」

 

 無意識に発したその言葉に、僅かな違和感を覚えた。

 ただいま、なんて声を出したのはいつ以来だったかしら。なんだか長らく言ってなかったような気がする。ただいま。

 靴を脱ぎながらそんなことを考えたのも束の間、違和感の正体に気が付くより先に、別の違和感が私を襲った。

 リビングから何やら音が漏れている。

 戸を開けると何故かテレビが点いていて、ローカル局のバラエティ番組が流れていた。地元にやってきた、ピザの移動販売車の紹介をやっている。あらちょっと美味しそう。見掛けたら買ってみようかしら。

 一瞬気を取られたテレビをとりあえず消して、視線を落とすとここにも違和感。テーブルにはビールの空き缶が転がっていた。

 

「うーん……?」

 

 そう言えば、今朝はテレビを消し忘れたまま家を出たのだったかしら。軽く記憶を辿ったけれど、そんなにバタバタした記憶はない。普段通りに支度をして家を出たはず。それに、よく考えたら今流れている番組は、私が朝に眺めるニュースとはチャンネルが違う。

 ビールの缶が転がっているのもおかしい。昨夜飲んだ記憶は、まあ、あるけれど、流石に空き缶を捨てずにそのまま置くようなことはしない。

 もしやと思ってキッチンへ行き冷蔵庫を開けると、やっぱり缶ビールが一本減っていた。と言うより、最後の一本だったものが無くなっていた。

 一体何が起きたのか。

 可能性があるとすれば、私の留守中に誰かが家に入りこみ、冷蔵庫から取り出したビールを飲みながらテレビを観たと考えるのが一番自然かしら。

 一体、誰が、何故。

 と言うか、もしそういうことならば、こんなことを悠長に考えている場合ではない。まだその『誰か』は、この家の中に居るかも知れないのだから。少なくとも今のところ、その『誰か』が家から出ていった確証は無い。

 ようやく思考がそこまで至り、急に背筋が寒くなった。

 とりあえず、ここに居てはいけない。

 今さらのように呼吸を整えて足音を殺し、そろそろと家を出た。逃げ込む先は隣の家。インターホンを押すとすぐに千代美さんが出て、中に招き入れてくれた。まほさんはまだ帰ってないみたい。

 

「ペパロニがテレビに出ててさー」

「へぇ?」

 

 お茶の用意をしながら、千代美さんが面白いことを言った。

 彼女の後輩のペパロニさん。パートナーと始めたピザの移動販売が好評で、今しがたテレビで紹介されたとかなんとか。

 あら、それってもしかして。

 

「で、なんかあったのか?」

「……ああ、そうそう」

 

 思考を引き戻され、出されたお茶を頂きながら事情を話した。

 かくかく、しかじか。

 

「うーん……成程なあ。家に誰かが入った形跡がある上に、出ていった形跡がないから怖くてこっちに来た……と」

「ええ」

「ミカとかだったりしないかな?」

「……それも、ちょっとは考えたけれど」

 

 たぶん違う、と思う。

 以前のミカなら分からないけれど、現在のミカならそんなことはしない。恐らく。

 絹代さんのところでそれなりに幸せに暮らしている現在の彼女には、わざわざ人の家に入りこんでお酒を飲んだりする理由がない。たぶん。

 

「うーん……まあ、そうかあ。流石にピッキングとかで鍵を開けて人んちに入るようなことはしないもんな、たぶん」

「そうね、たぶん……ん、鍵?」

「鍵。掛かってたろ?」

「ああ……そう言えば」

 

 鍵。

 言われてみれば、そこは失念していた。

 確かに玄関の鍵は掛かっていたし、私が帰った時に開けた。朝に鍵を掛け忘れた覚えもない。

 と言うことは、つまり。誰かが家に入ったとするなら、鍵を開けて入り、ご丁寧に内側から閉めたことになる。

 まるで、その家の住人であるかのように。

 

「あー……なんか、分かっちゃったかも」

「……私もだわ」

 

 私の家に入った誰かさんは普通に鍵を開け、普通にテレビを観て、普通にビールを飲んだだけ。

 何もおかしなことはしていないし、不法侵入でもなんでもない。誰かさんにとっては、それが普通のことだった、というだけの話。

 つまり。

 

「ただいま」

 

 玄関から、まほさんの声が聞こえた。

 思考は一旦中断。まあ、答えはほぼ出ていたようなものだけれど。

 

「おかえりー」

「お帰りなさい」

「カチューシャが帰ってきてるのか?」

 

 まほさんは、お茶を飲んでいる私の顔を見るなりそう言った。唐突でびっくりしたけれど、私も千代美さんも同じことを考えていたところ。

 私の家に居たのは、恐らくカチューシャで間違いない。彼女なら、うちの鍵を持っている。

 私と千代美さんの場合はまだ憶測の域を出ないけれど、まほさんの場合は何かしら理屈を飛ばして結論に辿り付けるだけの根拠があるのだと思う。そういう人だし。

 

「どうしてそう思ったの?」

「奴の鼾(いびき)が聞こえる」

「あー……そういうことか」

 

 これで確定、と言っても差し支えはなさそう。

 もちろん、私と千代美さんにはいびきなんて聞こえない。

 けれど、人並み外れた聴覚を持つまほさんの耳には、隣の家の寝室で眠っているカチューシャのいびきが聞こえているみたい。『カチューシャの』と断定したのも、別居を始める前の彼女がうちで寝ていた頃に聞こえていたいびきの音を記憶しているのだと思う。そういう人だし。

 さて、そうと決まればこうしてはいられない。

 

「帰るわ」

「んふふ、お疲れー」

 

 弾かれるようにして支度を始めた私に、千代美さんはニヤニヤとした笑みを向けた。

 ちょっと癪だけれど、そんなことに構っていられる心境でもない。早く帰りたい。

 でも、その前にひとつだけ。

 

「まほさん、さっきどうして『ただいま』って言ったの?」

「玄関に千代美の靴があったからだが」

「ふふふ、成程ね」

「ついでにダージリンのも」

「それは余計」

 

 まほさんを軽く小突いてから急いで玄関に戻り足元を見ると、確かにカチューシャの靴があった。耳を澄ますと寝室のほうからいびきのような音も薄っすらと聞こえる。さっきはテレビの音のせいで聞こえなかったのかも知れない。

 ともあれ、彼女が寝室で眠っているのは間違いない。

 彼女に言いたいことは沢山ある。

 何故帰ってきてるのかはもちろん訊きたいし、勝手に人のビールを飲んだことやテレビを点けっぱなしで寝てることには文句を言ってやりたい。

 会いたくて会いたくて仕方がなかったことも、言わずにいられるかは自信がない。

 けれど、まあ、とりあえず。

 

「ただいま!!」

 

 そう言って、勢いよく寝室の戸を開けた。



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阿阿の阿

【まほ】

 

 人の身体というものは、意外なほど頑丈に出来ている。

 自分ではもう絶対に無理だ限界だと思っていてもそれは単なる思い込みで、実際にやってみると案外なんとかなってしまう場合が多いものだ。

 筋トレがいい例だと思う。

 例えば20回を1セットとした腕立て伏せを5セット、計100回やったところでこれ以上は無理だと感じたとする。しかし実際には、多少の休憩を挟むだけでもう1セットくらいなら出来てしまったりするものだ。更に、20回という区切りを無くせばもっと出来る。

 20回、休憩、17回、休憩、13回、休憩、10回。

 そうやって少しずつ繰り返した結果、合計してみたら200回出来てしまった、などというケースもままあるのだ。

 100回目の時点で感じた限界は果たして何だったのかという話だが、つまりそれこそが『単なる思い込み』ということ。まあ身も蓋もないことを言ってしまえば、100回や200回などというキリのいい回数でぴったり限界が訪れることのほうが珍しいと思うが、それはまあ置いておく。

 要するに、限界を感じた以降でも大抵のことはもっと出来るという話。そして、限界だとか無理だとか考えさえしなければ、本当の意味での限界が訪れるまでは頑張れる。そういうものだと私は思う。

 いわゆる根性論に似ている部分もあるが、それは少し違う。

 ものすごく簡単に言えば、根性論は思い込みとしての『限界』の存在を認識した上で、それでも負けずに頑張ろうという考えかた。対して私のこの理論は、思い込みとしての『限界』をそもそも認識しなければ、出来ることが増えるという考えかただ。

 だから、私が今まさに感じている限界は、ただの思い込みということになる。

 まだ行ける。まだ大丈夫。

 というか、大丈夫でなくては困る。

 私が今、直面している危機。これを乗り越えられなかった暁には、場合によっては私だけに止まらず、今日まで脈々と受け継がれてきた西住流の、西住家の名に傷をつけてしまうかも知れない。思い込みによる限界など感じている場合ではない。そういう状況だ。

 

 ものすごく、トイレに行きたい。

 

 陽も傾きはじめ、空が茜色に染まりつつある頃のことだった。仕事を終えて職場を出た直後、私は猛烈な腹痛に見舞われた。

 あまりの痛みに驚いて思わず立ち止まったほどだ。しかし、すぐに気を取り直し下腹をさすって状況確認。ここの判断を誤っては大惨事に繋がる。

 結果、既に『装填』が完了しているものと断定した。

 せめて空砲であってくれればまだよかったのだが、そんな可愛らしいものではない。装填されているのは明らかに榴弾で、誤射など決して許されない状況だ。

 何か悪いものでも食べたろうかと記憶を辿ったところ、昼に食べた弁当に思い当たった。恐らくだが、今朝詰めた弁当のおかずのどれかが古くなっていたものと思われる。他に腹を壊しそうなものを食べた覚えはないので、たぶんそれ。油断した。迂闊だった。

 ともあれ。トイレのためだけに職場に戻るというのは周囲の目もありばつが悪かったので、已むなく歩を進めることにした。西住流に後退はない。

 そうして電車に乗り、家の最寄り駅に着いたまではよかったのだが、そこで一旦の『限界』が来てしまった。

 現在はベンチに腰掛けて脚を組み、スマホを眺めるふりなどしながら肛門にギュウっと力を入れて波が引くのを待っている。個人的に、この姿勢が最も耐久力と偽装効果が高いと思う。何気ない風を装いつつ、無理なく波が引くのを待つことができる。

 限界など思い込み。

 まだ行ける。

 まだ大丈夫。

 しかし改めて整理すると、戦況は一見して膠着状態のようでいて、実際にはこちらがやや不利といったところ。現状はなんとか持ちこたえているものの、だからといって永久に耐えられるはずもない。いわばジリ貧だ。

 とは言え、最寄り駅には着いたのだ。つまり家はすぐそこ。波が引きさえすれば、あとは帰るのみ。迅速な判断と行動が求められる。

 波が引かないうちに歩き出してしまえば大惨事に繋がるが、裏を返せば波が引けば歩き出せるということ。勝機はそこにある。落ち着いて機会を伺うとしよう。

 ちなみに、目の前には駅のトイレがある。本当はあそこに駆け込めるならそれが一番いいのだが、私には特殊な事情があるためそれが出来ない。

 これでも私は西住まほ。西住流の次期家元として、戦車道選手として、世間に顔を知られている身だ。当然ながら、今こうしている間も周囲からの『あそこに西住まほさんが居る』という視線に晒されている。そんな中でトイレに駆け込み榴弾を発射するわけにもいかないだろう。

 最悪の場合、週刊誌に載る。

 いや、流石にそんなはずはないと思いたいが、可能性はゼロではないし、常にそういう意識は持っておけと千代美にもきつく言われている。

 そんな訳で、目の前にあるトイレに駆け込む選択は、惜しいが却下とするほかない。

 まあ、体感だが間もなく波も引く。そうしたら真っ直ぐに帰るとしよう。千代美に買い物を頼まれていたが、今は状況が悪い。それは帰宅して砲撃を済ませてから、改めて出掛けるとしよう。

 

「あっ、あの、すみません!」

「はい?」

 

 突然。

 話し掛けてきたのは、二人組の女性。

 その期待に満ち満ちた眼差しを見て、すぐに分かった。

 ああ、これはまずい。非常にまずい。

 ファンだ。

 

「もしかして、西住まほ選手ですか?」

「………………はい」

 

 そう答えると、二人は揃って小さな歓声を上げた。

 一応、帽子と伊達眼鏡で変装はしていたのだが、結局こんなものは変装してますよと周囲に知らせることで気を遣って頂くための効果しかなく、憧れの選手を目の前にしたファンからすれば何の意味も成さない。むしろ彼女たちにとっては、変装を見破った千載一遇のチャンスと映ることだろう。

 慌てて人差し指を口許にあてて『静かに』のジェスチャーをしてやると、二人はハッと気が付いたように口を抑えてこくこくと頷いてくれた。これで、二人から騒ぎが波及して新しいファンが近付いてくるようなことは起こらないだろう。

 帰れと言うわけにもいかず、少し相手をすることにした。

 ファンサービスを怠ってはならない。ましてやファンの夢を壊すような対応などもってのほか。これも千代美から強く言われていることだ。

 話を聞くと二人は夏休み中の高校生で、学校で戦車道を嗜んでおり、それぞれ装填手と砲手を務めているのだそうだ。

 装填手と砲手。うん。

 背中にじんわりと変な汗が出てきたが、そこは必死に平静を装った。

 

「私たち、ずっと西住選手のファンだったんです~!!」

「ふ、ふふ、ありがとう」

 

 これも戦車道。

 その後、二人が持っていたノートにサインをして、記念のツーショット写真を二人分撮って別れた。ファンサービスとしてはまずまずだと思う。

 頑なに脚を組んだ姿勢のままだったのが少し申し訳なかったが、そこは仕方ない。波が引いていないタイミングで脚を解いたら決壊する危険性があったのだ。

 正確に言えば二人と話している間に波は一度引いたのだが、話を切り上げるタイミングを逸してしまった。そうこうしているうちに、新しい波が来てしまったという訳だ。つらい。

 もはや、なりふり構わず目の前のトイレに駆け込むことも考えたが、よりによってさっきの二人がトイレに入っていくところが見えたので、やはり却下するしかないようだ。

 ついには段々と視界が霞み始め、このベンチの真下がトイレだったらいいのになどと訳の分からないことまで考えている。思考力の低下。これはもう、本当に、まずい。

 しかし、だからといってここで決壊させる訳にはいかない。ここは駅のベンチ。大惨事は避けなくては。私は大人だ。社会人だ。頑張れ、頑張れ、頑張れ。

 大人、社会人、頑張れ。

 大人、社会人、頑張れ。

 大人、社会人、頑張れ。

 大人、社会人、頑張れ。

 ついにはオリジナルの念仏のようなものが頭の中に流れ始め、私は暫くの間その念仏に身を任せることにした。なんだかんだで今の私に必要なのは、この3語のみなのだ。

 やがて、数分ののち。

 

「……来た」

 

 腸がギュルルルと獣のような唸り声をあげ、その刹那、すうっと波が引いた。

 

「う、うおぉ……」

 

 毎度思うが不思議な感覚だ。ほんの一瞬前まで感じていたプレッシャーが嘘のように消え去っていく。快感すら覚えるほどだ。波が引くか決壊するか、ほとんど賭けのような気分だったが、どうやら私は賭けに勝ったらしい。

 ありがたい、これで暫くは大丈夫。まさに今が好機だ。私は弾かれるようにして、立ち上がると同時に走り出した。次の波が来る前に、何としても帰ってやる。

 家に。

 そして、トイレに。

 

 その後。

 暑さと冷や汗でぐしょ濡れになりながら帰宅した私は、ただいまも言わずトイレへ直行。

 しかし、トイレのドアノブに手を掛けた瞬間、非情な現実を目の当たりにすることになる。

 

「鍵……」 

 

 鍵が、掛かっている。

 そして中から聞こえてきた、千代美の声。

 

「ごめーん、入ってるー」

 

 あ、ああ。

 

 ああ……。




「吽吽の吽」とセットみたいな回です

失敬


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