まほチョビ(甘口) (紅福)
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塗仏の夢

塗仏
ぬりぼとけ

絵は存在するのに設定が存在しない妖怪
「目が飛び出る」だの「仏壇から出てきて驚かす」だの言われているのは全て後付け
元の絵には「塗佛」としか書いてません

それはそうと、後付け設定のみで存在しているカップルが居るらしいですね


【鎌鼬】

 

 お風呂から上がり、夕飯を済ませ、寝室にて。ペンとノートを取り出し、机に向かう。

 前々から考えてはいたんだけど、ずっと始められずにいた事。小説を書く。

 書いてみたいとか、書きたいテーマがあるとか、そんな大層なものじゃない。日頃から読んでいるものを自分で書いてみたらどうなるだろう、というぼんやりとした興味。

 それを形にしてみる。

 でも、やってみて初めて分かるけど難しいな。いやまあ、簡単な訳がないとは思ったけどさ。

 

 書こうとしている話自体は頭の中にあるから、要点だけは簡単に書ける。要点だけで始まりから終わりまでを書き出してみると、それだけでちょっとした達成感があった。だけどそれだけ書いても文字の量は一頁にも満たない。

 

 ああ、これがプロットってやつなのかと、遅れて気が付いた。この書き出した要点に味付けをしていけばいいのかな。

 

「ここに居たんだな」

 

 まほが部屋に入ってきた。時計を見ると、書き始めてから一時間ほど経っている。あっという間。

 

「書き物か」

「えへへ、小説」

 

 どれどれ、と覗き込んできたのを咄嗟に隠した。書いたものを見られるのって、なんだかものすごく恥ずかしい。だってこれは、一字一句、私の内側から出てきた文字だから。

 

 でもまあ、まほにならいいか、と思ってもじもじしながら見せてやった。

 

 三つの話で構成したひとつの話。

 

「最初は、好きな人に好きな本を貸す女の子の話か。どこかで聞いた事がある」

 

 気のせい気のせいと言って、とぼけて見せる。まあ、まほが気付くのは当たり前かもな。これは、私がまほに初めて本を貸した時の話が元になっている。

 タイトルは『文車妖妃』。

 その次は、一話目の女の子から本を借りた誰かさんの話。タイトルは『夢魔』だ。

 

 そして、最後は。

 

 まあ、まだ書いてないんだけどさ。

 私はペンを置いた。時間も遅い。

 

「続きを書かないのか」

 

 問われて、書かなくても続くからな、と答えて布団に寝転がった。

 私が寝転がった隣、布団の空いているところをぽんぽんと叩いてまほを呼ぶ。素直に潜り込んできたところに、ぴたりと体をくっつけた。

 

「おい、暑いぞ」

「いいじゃん」

 

 夢中で書いていた時は気が付かなかったけど、ちょっと寒い。湯上がりだから当然と言えば当然。

 

 明日は晴れるかなあ。

 

「さあな。おやすみ」

 

 えへへ、おやすみー。

 

 

□□□□□□□

 

 

【文車妖妃】

 

 本を貸す、という行為が好きだ。あまり理解はされない嗜好だと思う。

 偏見かも知れないが、本が好きな人ほど、他人に本を貸すのを嫌がるものだと思う。何故なら本ってのはすごくデリケートな物なんだが、人によって扱いに天と地ほどの差があるからだ。

 読む時はブックカバーをかけて、ページに折り目がつかないように大切に大切に読む人も居る。背表紙が陽に焼けたりしないように、本棚の位置にこだわる人も居る。

 かと思えば全く頓着しない人も居る。平気で食べ物を零したりな。

 

 後輩に漫画を貸した時の事。

 読みながら眠ってしまったらしく、思いっきり折り目が付いて返ってきた。こういうリスクがあるから、本好きな人は、あまり他人に本を貸したがらない。

 スミマセン姉さん新しいの買って返しますと平謝りの後輩に対して、私は憮然として次は気を付けろよと言ったが、実は内心喜んでいた。

 彼女が折り目を付けた本。これはこれで、世界にひとつしか無いものだからだ。

 この折り目は、彼女が本を読みながら寝た痕跡。私が高校を卒業しても、この本は私の手元に残る。折り目を見るたび彼女を思い出す事になるんだ。

 

 それが嬉しい。

 

 まあ、だからと言ってよくぞ折り目を付けてくれたと褒めるのもなんだか違うので、ポーズとしてとりあえず怒るけど。

 

 痕跡本、と言う。

 

 そのまんま、痕跡のある本のこと。折り目に限らず、書いた本人にしか分からないメモ書き、栞に使ったノートの切れ端、果てはぺしゃんこになった羽虫等々。その本にしか無い痕跡に興味を持つという嗜好。

 調べてみると痕跡本専門の古本屋もあるそうで、色んな世界があるなと感心する。

 私にとって、本についた痕跡は汚れじゃなく、謂わば歴史なんだ。痕跡本が好きって言うよりは、痕跡が好きなのかな。

 

 だからという訳じゃないが、今、私の本が一冊、あいつの部屋に行っている。

 この間、あいつに痕跡本の話をした。それを聞いたあいつは、じゃあ何か貸してくれと言ってくれた。

 私の嗜好を理解したのかは定かじゃないが、話を聞いて私の嗜好に付き合ってくれたのは確かだ。

 不器用だが、良い奴だ。

 

 丁重に扱えよ、と言って本を貸した。

 

 あいつは痕跡を残すような本の扱いはしないと思うが、あいつの部屋に私の本があるというだけでも嬉しい。ああ、カレーの匂いでもついて返ってきたら面白いかもな。

 

 私の、一番お気に入りの恋愛小説。

 

 ちょっと回りくどいが、あれは私なりのラブレターだ。あいつがその事に気付くとは思えないし、気付かなくてもいい。

 本が返ってきたら、それだけで思い出になるからな。

 

 私だけの思い出になれば、それでいいんだ。

 

 

□□

 

 

【夢魔】

 

 痕跡本と言うらしい。

 

 そのまま、痕跡のある本のこと。何かの拍子に付いた折り目、書いた本人にしか分からないメモ書き、栞に使ったノートの切れ端、果てはぺしゃんこになった羽虫等々。

 その本にしか無い痕跡に興味を持つという嗜好。

 痕跡本専門の古本屋もあるそうで、色々な世界があるものだと感心する。

 

 私の友人はその痕跡本が好きだと言う。

 痕跡本自体と言うより、自分の本に他人の痕跡が残るのが嬉しいらしい。

 ならば試しにと、何か貸してくれと言ってみたら、鞄の中から取り出した一冊を貸してくれた。

 

 正直、勉強以外での読書の習慣はほとんど無い。だが借りた以上は読まずに返す訳にも行かないので、寝る前の時間にちょびちょびと読んでいる。

 これまで馴染みの無かった、恋愛小説というものを。

 

 しかし、それによって少し困った事になった。

 

 寝る前に恋愛小説などという刺激の強いものを読むせいで、甘ったるい夢を毎夜見る。

 それに、彼女は気が付いているのだろうか。

 

 この本こそが、彼女の大好きな痕跡本であることに。

 

 顕著に開き癖のついているページは、彼女のお気に入りのシーンなのだろう。そのページには水滴のような皺がぽつぽつと付いていて、それは、たぶん、涙の跡だ。

 彼女がお気に入りのシーンを読んで涙を流した痕跡となる。

 

 全てのページの端に付いている微かな曲線は、彼女の繰り方の癖のせいだと推察できる。

 そして、私が貸してくれと言った時に何気なく鞄から取り出したが、それはつまり、いつも持ち歩いているという事だろう。

 いつも持ち歩いているのなら当然読みかけである筈で、事実、本の中程には栞が挟まっていた。読みかけの本を気軽に人に貸すだろうか。

 恐らくだが、彼女はこの本を繰り返し読んでいる。だからこそ、いつも持ち歩いており、気軽に人に貸せるのではないか。

 

 つまり、これは、彼女の一番お気に入りの恋愛小説という事になるんじゃないのか。

 

 その事に気が付いてしまってからは、どうにも妙な気持ちになってしまった。

 彼女の事を考えながら恋愛小説を読む。そして、そのせいで甘ったるい夢を毎夜見る。困る。

 

 読み終えて本を返す事になれば感想を求められるだろう。なんと言えば良いのか。

 現状、一番の感想は、面白かったでも泣けたでもなく、彼女の事が頭から離れなくなった、という他ない。

 

 そんなことを考えていたせいでページを繰る手が止まり、うっかり開き癖を付けてしまった。彼女はこのページに開き癖が付いた理由を考えるだろうか。

 

 むう。

 

 とりあえず、この本の感想については、読み終えてから考えよう。開き癖の説明も後回しだ。

 

 差し当たっては、そうだな。

 

 また一冊貸してくれ、と言ってみよう。

 

 そうすればきっと、また会えるから。



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空澄の鵯

おはよう


 日曜日。

 

 揺れるカーテンの隙間から射し込む光がちらちらと顔に当たり、その眩しさで目が覚めた。窓に目を遣ると、結露した水滴がきらきらと光っている。

 千代美なら詩的な感想のひとつでも述べるところかも知れないが、生憎私はそんな柄ではない。手で陽光を遮るのにも限界を感じ、顔を顰めるばかりだ。

 ならばせめてと寝返りを打とうとすれば、それも叶わない。一瞬、金縛りかと思ったが、すぐに違うと分かった。犯人が隣で暢気にすうすうと寝息を起てているのだ。

 

 こいつは私の事を抱き枕か何かと勘違いでもしているのだろうか。腕どころか脚まで絡めて私の体をがっちりと拘束している。道理で動けない訳だ。

 辛うじて自由が利くのは、陽を遮るために布団から出した右手。その手の冷え具合から今日も寒そうだなと思いを巡らせ、凍みる指に息を吐く。

 

 はーっ、という音で千代美が目を覚ました。

 

「ん、どうしたー」

 

 ため息にでも聞こえたか、少し心配そうな声音だ。

 

「少し手が冷えただけだ。それより離してくれ」

「うわっ、ごめん」

 

 千代美の拘束が解除され、自由の身となる。

 ふう、と、今度は本当にため息をついた。念願だった寝返りを打ち、千代美の方を向くと、体が少し軋んだ。

 

「起こしてくれりゃ良かったのに」

「私も今起きた所だ」

 

 言って、冷えた右手を千代美の頬に当てる。少しだけ意地悪をしてやりたくなったのだ。

 彼女はうひゃあと声を上げて、その手を掴み、布団の中に引き込んだ。二人の体温ですっかり暖かくなっている布団の中で、握られた手を握り返した。

 にぎにぎと、千代美の掌の感触を確かめる。

 

「今日も寒いんだな」

 

 嬉しそうに笑う。まあ、確かに寒い。しかし、昨日降っていた雪は止んでいるようだ。路面の状態は外に出てみるまで分からないが、とりあえずは晴れたようで何より。

 買い物に出るのに支障は無さそうだ。

 

「あー、布団から出たくない」

「気持ちは分かるが」

「あと少し。もう少しだけでいいですからー」

 

 起きるのを渋り、何故か敬語になる千代美。これは二度寝コースだろうかと、ぼんやり思う。まあ私一人ででも起きてしまえば良いようなものだが、そうしないのは、結局私も布団から出たくないのだ。はあ、暖かい。

 しかし、このままではいつまで経っても起きる事が出来ない。それこそ二度寝してしまいそうだ。思い切って布団を蹴り飛ばし、その勢いで立ち上がった。不意に布団を剥がれた形になった千代美が、うぎゃあと悲鳴を上げる。

 

 彼女は体を丸め、懇願するように言う。

 

「もうちょっと優しく起こしてくれよ」

「具体的には」

「ん」

 

 仰向けになり、ずい、と両手を突き出す。引っ張って起こしてくれと言うのだろう。手を伸ばし、彼女の両手首を掴み、千代美もそれに倣う。互いの手首を掴む格好になり、栄養ドリンクの宣伝の掛け声を真似た。

 

「ファイトー」

「必中ー」

 

 掛け声とは裏腹に脱力したままの千代美の腕を引っ張る。

 

 すると千代美が急に腕に力を込めて引っ張り返して来た。

 お陰でバランスを崩し、千代美の上に倒れ込む。押し倒したような形になったが、この場合は『引っ張り倒された』とでも言うべきか。全く、怪我したらどうする。

 

「大丈夫か」

「えへへ、ごめん」

 

 気を取り直し、二人でもぞもぞと起き出す。

 冬の休日は起きるだけで一仕事だ。

 

「お早う」

「おはよう」

 

 目を擦りながら、晴れたかなと空模様を気にする千代美に、晴れてるぞと窓を顎で示す。カーテンが揺れ、窓の外の麗らかな陽光がまた射し込んできた。

 

「あー、洗濯しなきゃ」

 

 んん。何だろう、何かがおかしいな。

 この違和感は一体どこから来るものだろうかと、一瞬考えた。

 

 千代美も何かに気付いた様子で真顔になっている。

 

 ああ、そうか。

 カーテンが揺れているのだ。風の道が出来ている。

 今朝、目を覚ました時点でカーテンが揺れていた。と言うことは、つまり。

 

「安斎千代美さん」

 

「は、はい」

 

「ゆうべはここで何を」

 

「小説を、書いておりました」

 

「窓は」

 

「あの、はい、開けました。お風呂上がりで涼むために」

 

「閉めましたか」

 

「い、いいえ」

 

 じりじりと詰め寄る。成程、道理で寒い訳だ。千代美を捕まえ、室温でまた冷えてきた手を彼女の首筋に当てた。今度は両手だ。喰らえ、こいつめ。

 うひゃああと叫び、身を捩る千代美を取り抑え、その背中に手を突っ込む。

 彼女も負けじとこちらの脇腹に冷えた手を這わせてきた。千代美は私の弱いところに的確に攻め込んで来る。んひっ、という変な声が漏れた。

 

 暫しの混戦。

 朝っぱらからどたんばたんと、擽ったり擽られたり。弾みで壁に頭をぶつけ、隣人の迷惑になりはしなかったろうかと、妙に冷静になった所で戦いは終わった。引き分けだ。

 その頃にはもう、二人とも体がぽかぽかと暖まっていた。

 

 窓を閉め、改めて言う。

 

「お早う」

「おはよう」

 

 幸せの在り方が分かったような、そんな気がした。



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小豆洗いの音

小豆洗い
姿は見えず、音だけが聞こえる妖怪
本体は猫背のおっさんではなく、音


 どん、という音で目が覚めた。

 どこか遠くで鳴っている砲撃音のような、大きくて小さな音だ。

 

 瞼を持ち上げようと試みるも、断念する。二度寝をするつもりはないが、起きるつもりも無い。休日の朝など、そんなものだ。

 意識は覚醒しているが、瞼は閉じている。眠ってはいないが、起きているとも言えない。こんな状態を何と呼ぶのだったか。何か小難しい呼称があった気がする。どうでもいいか。

 そんな事を考えながら隣で眠っている筈の千代美を手探りして、ふと気付く。

 

 ぱち、と瞼を開いた。

 

「あれっ、居ない」

 

 居ない。

 千代美が眠っているはずの場所には何も無く、彼女の体温の名残すら無い。

 随分と早くに起きてどこかへ行ったようだ。

 

 また、どん、という音がした。

 

 何の音だろうか。どうもさっきから一定の間隔で鳴っているようだ。

 布団から這い出し、とりあえず洗面所を見たが千代美は居ない。

 

 どん、という音は鳴り続けている。

 

 まあどうせキッチンだろうと思って覗くとそこにも居ない。千代美の姿は無く、どん、という音ばかりが聞こえる。一体何の音で、どこから聞こえるのか。

 一通り探したが、どうも千代美は家の中には居ないらしい。音の出所もどこか別の場所にあるようだ。

 その代わりというか何というか、リビングには何故かダージリンが居た。

 

「あら。まほさん、おはよう」

「千代美は」

 

 隣よ、と言って壁を指す。

 隣。つまりダージリンの家か。しかし、なんでまた。

 すると、がちゃりと玄関の開く音がして、千代美が戻ってきた。

 

「あー、終わった終わった。あとは焼くだけだー」

 

 ストレス解消には良いけど重労働だな、などとぼやいている。

 千代美は、何か鉄板に載せた白っぽい塊を抱えていた。

 

「なんだ、まほ、起きちゃったのか。おはよー」

「おはよう」

 

 それは何だと訊くと、パン生地だよという答え。美味しい生地を作るためには叩きつけながらこねる必要があるのだとか。

 ああ。どん、というのはその音だったのか。

 

「これから焼くから、お昼には食える」

「楽しみだ」

 

 ダージリンにもお裾分けだな、と笑う。

 

「ありがとなダージリン、キッチン貸してくれて」

「結局こちらにも響いてたわよ。まほさんも、それで起きてしまったみたいだし」

「ありゃ、そうだったのか」

 

 どうやら私を起こさないために隣のキッチンを借りたらしい。

 

 結局響くなら次からこっちでやろうかな、と生地をオーブンに押し込みながら千代美は呟いた。

 

「それがいいわね。笑いを堪えるの、大変だったんだから」

「なんかあったのか」

 

 あったも何も、と言ってダージリンはこちらを見た。とても、にやにやしながら。

 私が何かしたのだろうか。

 

 心当たりは無いが、嫌な予感しかしない。ダージリンがにやにやしている時は大抵、『詰み』なのだ。

 

「まほさんはね、家中を探し回った末に私を見つけて、開口一番『千代美は』って言ったのよ」

 

 なっ。

 

「お前」

「ち、違うんだ」

 

 おお何が違うんだ言ってみろ、と詰め寄る千代美に対し、言葉を探す。

 

 正直言えば、違わない。ダージリンは事実のみを言っている。

 しかし、その、いろんな含みを持たせるのが上手いのだ、彼女は。私はその含みに対して違うと言っている。

 しかし、それをどう説明したらいいのか、言葉が出てこない。

 

 まあ、考えても仕方ない。私も簡潔に事実のみを伝えるとしよう。

 

「だって、居なかったから」

 

 ぼん、と赤面する千代美。

 声を殺してツボに入るダージリン。

 

 しかし、そうとしか言いようが無かったんだ。

 

 居なかったんだもん。



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飛頭蛮の顔

飛頭蛮
飛ぶ頭
ろくろ首と同一視されたり、されなかったりもする


 金曜日の帰り道、携帯電話の通話アプリで千代美と他愛の無い雑談を交わしている。

 明日は休みだ。話題は明日の予定だったり、今夜の過ごし方の相談だったり。

 話題は何故か尽きない。他愛の無い内容である筈が、千代美との会話だと何でも弾む。私は話下手な筈なのだが、千代美が話上手であるお陰でバランスが取れているのだと思う。

 

 稀に話題が尽きたと思えば、しりとりが始まったりもする。便利な時代だ。

 

『まほ、今どこー』

 

 居場所を告げると、千代美は思いのほか近い所に居た。

 待ち合わせて合流する。

 

「一緒に帰りましょー」

「そうしましょー」

 

 子どものようなやり取りをして、二人で商店街を歩く。

 そういえば夕飯の買い物がまだらしい。千代美が手ぶらだ。

 

「今夜は家にあるもので済まそうと思ってたけど」

 

 なんか食べたいものでもあるのかと訊かれた。

 まあ、特に無い。ただ、せっかく外で一緒になったのだから、真っ直ぐ帰るよりはどこかに寄るのもいいなと思っただけだ。

 

 そう言うと、千代美は目を丸くした。

 

「まほ、珍しいな」

「何がだ」

「まほが寄り道を提案するなんてさ」

 

 そうだろうか。

 言われてみればそうかも知れない。

 いや、きっとそうなのだろう。

 

 何せ私よりも私の事をよく知っている千代美の言うことだ。

 

「じゃあ、どこに寄ろっか」

「ふうむ」

 

 考えていると、焼きたてのパンの香りが漂っている事に気が付いた。見回すと、すぐ目の前にパン屋があった。

 しかし隣に料理人が居るというのに、その選択は無いだろうと我ながら思う。

 

「パン屋かあ」

 

 私が匂いに釣られた事に目聡く気が付いた千代美が、不機嫌そうな声を出した。

 これから夕飯なのに、と。最もだ。

 

「ああ、でも、明日の朝ごはん用になら買っておくのもいいかもな」

 

 朝ごはんの手間が省けるなら、そのぶん布団から出なくて済むし、と千代美は意味ありげな視線を送ってきた。

 成程、そういう考え方もあるか。

 

「まほさえ良ければだけど」

「ほう、積極的だな」

 

 そう言うと、千代美は『へっ』と間の抜けた声を出した。

 左手の人差し指をくるくると回し、少し考えるようにする。何秒か後にようやく私の言った意味が分かったらしく、違うっつうの、と叫んだ。顔を赤くした彼女が私の背中を叩く。

 

「痛っ」

「まほ、朝は米派だろ。そういう意味で言ったんだよ」

 

 あっ。そういう事か。

 今度は私が赤面する番だった。

 

 顔を覆った右手が冷たくて気持ち良い。

 

「すけべ」

「はい」

 

 返す言葉も無い。

 私はすけべです。

 

「まあいいや。明日の朝ごはんって事でいいな」

「んん」

 

 そんな訳で、パン屋でお買い物。

 私がお盆を持ち、千代美がトングを持つ。さあどれにしようか。

 

「まほはどんなパンが好きかなー」

 

 トングをかちかちと鳴らしながら千代美が鼻歌混じりに言う。

 そう言えば、千代美は私の好みの把握に努めてくれているが、私は千代美の好みをあまり知らない、ような気がする。

 

 訊いてみた。

 

「千代美はどんなパンが好きなんだ」

「んっ」

 

 想定外の質問だったらしく、千代美は小さく上に向けたトングでくるくると空をかき混ぜた。

 考え事をする時の千代美の癖だ。手に持っているものを回す。何も持っていなければ指を回す。

 

 くるくると暫し考え、彼女はにやりと笑って言う。

 

「当ててみろ」

「そう来たか」

 

 言われてみれば、これは難問だ。

 ここですんなり当てられたら格好良いのだが、正直、皆目見当が付かない。

 一通り店内を巡り考えたが、ピンと来るものは無かった。つまり、知らないのだ。そこでようやく確信に至る。私は千代美の好みを知らない。

 

 それでもどうにか当ててやろうと、何か手掛かりになるものは無かったかと記憶を探る。

 千代美と言えば。

 千代美と言えば何だ。

 

 改めて店内を眺めていると、紙皿に載ったパニーノが目に入った。

 この店のものはトマト、チーズ、レタス、厚切りのベーコン、そして大葉を挟み、炙ってある。

 

 そうか、千代美と言えばアンツィオ、イタリアだ。高校生の頃はピザだのパスタだのと騒いでいた記憶がある。

 見て回った限りでは、この店の中で一番それっぽい物がこれだ。パニーノ。

 しかし、果たしてこれが正解なのだろうか。そう考えると自信が無くなってきた。

 恐る恐る、千代美の方を振り返る。

 

 千代美は、笑いを堪えていた。

 

「ご、ごめん、まほ、かわいいな」

 

 どうやら千代美は、うんうん唸りながら悩み店内をうろうろする私が面白くて仕方がなかったらしい。

 

「ひどいやつだな」

「ごめんごめん」

 

 じゃあこれにしような、と言って、パニーノをひょいとお盆に載せた。結局、それが正解なのかどうかは有耶無耶なままとなってしまったようだ。

 じゃあ次はまほの分だ、と言って千代美はパンを選び始める。

 

 当ててみろ、と言ってやった。

 仕返しではないが、千代美が悩む姿も見てやりたい。

 

「これだろ」

 

 私の意に反して、千代美が事も無げに棚から取ってお盆に載せたそれは、キャラクターを模した餡パン。

 お世辞にも出来が良いとは言えないその中から、特に不格好なものを選んで寄越した。

 あまりにも呆気ない。

 

「せ、正解」

「えへへ、やったあ」

 

 会計を済ませ、店を出る。

 やっぱり割高だなあ、自分で焼いた方が安上がりだなあ、などとぼやく千代美に、何故、と問う。

 

「出来の悪いやつから選んであげないと残っちゃうからな」

「い、いや、そうじゃなくて」

 

 何故分かった。

 

「だってまほ、あのパンの前でも少し足を止めたろ」

「まあ、そうだが」

「それに、店の前で足を止めたのも、あのパンの焼きたての匂いのせいだったろ」

 

 あっ、成程。それは自分自身でも気が付かなかった。

 やはり、私よりも私の事をよく知っている。よく見ている。

 付け焼き刃では敵う筈もない。

 

 千代美は笑い、パンを袋から取り出して私の顔の前で振り振りしながら言った。

 

「まほ、新しい顔よー、なんつって」



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悟りの覚


さとり
人の心を読む妖怪

ミカ視点


 負けた。

 それはもう、盛大に負けた。

 

 時刻は十七時。調子が良ければ本番はこれからって時間だ。

 

「こんな日もあるさ」

 

 誰にともなく呟く。

 まあよくある事で、要するに『いつもは勝つのにな』といった意味を込めた言葉だ。たまには負ける日もあるよね、と。その割には最近『こんな日』ばっかりで、ほとほと困り果てている。

 合わせていくら負けたかなんて、冷静に計算なんかしていない。したいとも思わない。今日は入ってると思ったんだけどなあ、設定。

 

 まあ、それはそれ。負けた事を悔やんでも仕方が無い。次に活かせばいいのさ。

 とりあえず、目下の悩みは、食費。というか、今夜のご飯。

 

 となれば、だいたい行き着く先は決まっている。

 

 近くまで来ると、彼女らの家の灯りが見えた。エアコンの室外機が回っているのも確認できる。ほっとするなあ、ご在宅だ。

 インターホンを押す。ぽんぴん。

 

 ややあって、ドアの覗き窓から漏れる光が人影で遮られた。

 

「合言葉を言え」

「ええっ、そんなの初耳だよ」

「ふふ、冗談だ」

 

 ドアが開いて、悪戯っぽい笑みのまほが顔を出した。なんだか気味が悪いなあ。

 

「なんだ、私の機嫌が良かったらおかしいか」

「おかしいとも」

 

 いつもの彼女なら、私の顔を見るなり如何にも迷惑そうな顔をする。迷惑そうなというか、彼女と千代美の二人の時間に水を差す訳だから実際に迷惑なんだろうけど。

 意外と独占欲が強いタイプなのかも知れないね、まほ。

 

 まあ普段がそんなだから、機嫌の良い顔をされると逆に不安になってしまう。何があったんだろうか。

 

「何、千代美が『そろそろミカが来る頃だと思う』と言った途端にインターホンが鳴ったからおかしくてな」

 

 何てこった、読まれてたのか、恥ずかしいなあ。でも何故。

 まあ寒いから入れと言われリビングに通されると、キッチンでフライパンを振るう千代美が見えた。お邪魔しまーす。

 

「ミカ、いらっしゃーい」

「わ、ナポリタンか」

 

 使っちゃわないとやばい食材があったからナポリタンにぶち込んだんだ、と千代美は言う。

 適当な事をしているように見えても、出来上がるものはとても美味しい。期待は高まるばかりだ。

 

「量が多いから来てくれて助かったよ」

「いやあ、ご馳走になるよ」

 

 相変わらず見事な手際。まるでショーのようだ。

 まほは興味が無いというか、とっくに見飽きてるんだろう。何やら小説を熱心に読んでいる。

 

 あっと言う間にナポリタンは完成し、食卓に並べられた。なんとも豪快な量だ。これは確かに二人じゃ無理だろう。いや、三人でも無理なんじゃないか、これ。

 

「隣にも分けるからな」

 

 あっ、そうか。隣にはダージリンが住んでいる。

 彼女へのお裾分けも考えると、確かにそれでようやく丁度良いかも知れない。

 

 具材はピーマン、タマネギ、ベーコン、そして、ちくわ。ああ、これが使っちゃわないとやばい食材ってやつか。

 

「一見ミスマッチだけど、美味いぞー」

「いい匂いだ」

 

 まほがようやく小説から顔を上げた。

 

「面白いだろ、それ」

「んん」

 

 返事なのか相槌なのかよく分からない声を出すまほ。それを見て千代美は満足そうに頷く。ああ、千代美のお勧めの本なのかな。

 表紙には『百器徒然袋』とある。何だか取っ付き難そうなタイトルだ。

 

「ほらほら、まほ、早く食べちゃいなさい」

 

 まるで母親だ。

 それじゃあ、私もご相伴に預かるよ。いただきまーす。

 

 ん。

 ああ、これは。確かにミスマッチだけど、美味しい。

 

「えへへ。そうだろう、そうだろう」

 

 で。

 

 食後。千代美が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、ちょっと気になった事を訊いてみた。

 どうして私が『そろそろ来る』と分かったのか。

 

「簡単だよ。ミカが来る日ってだいたい決まってるからな」

「えっ、そうかい」

「ミカが行ってる店の『新台入替』のチラシが新聞に入ってくる日、夕方によく来るじゃないか」

 

 千代美は食器を洗いながら事も無げに言う。

 

 なんてこった、そんな符合があったなんて。っていうか、私は新台入替の日によく負けてるって事になるのか。

 ううん、という事は今朝から読まれてたんだ。敵わないなあ。

 

「いや、私の見る限り千代美は一週間ほど前から食材を調整していたぞ」

 

 チラシが入ってくる日も決まってるからな、と言うまほに、照れ笑いで応える千代美。

 という事は今日、私がここに来るのを見越して大量にナポリタンを作ることは一週間前から決まっていて、千代美はそれに合わせて食材を調整していた、と。

 

 最早、言葉が出ない。

 呆気に取られていると、室内に何かアラームのような音が鳴り響いた。

 お風呂が湧きました、というアナウンス。

 

「風呂も入って行くか」

「いやいや、流石にそれは」

 

 冗談だと思うけど、まほの場合はいまいち区別が付かない。

 お風呂は辞退した。

 

 食器を洗い終えた千代美が手を拭きながら、まほ、どうする、と問い掛ける。

 

「んん」

「それじゃ、私先に入るぞー」

 

 えっ、何、今の会話。

 

「ちょっ、ちょっと待って」

「どした」

 

 千代美は今、まほから何を読み取ったんだ。私の耳が確かなら、まほは『んん』しか言わなかったよね。

 

「ああ、その事か。まほの『んん』には色んなニュアンスがあるからな」

 

 慣れれば簡単だよ、と千代美は事も無げに言う。

 確かにまほはよくそんな声を出すけれど、毎回意味が違うなんて思わなかった。

 

 ちなみに今の『んん』は、どんな意味だったんだろうか。

 

「今のはたぶん『小説が良い所だからもう少しあとで』って所だろ」

「正解」

 

 まほは小説から目を離さず、当たり前のように言う。

 それじゃゆっくりしてけよ、と言って千代美はお風呂に引っ込んだ。

 

「まほ」

 

「んん」

 

「彼女、凄いね」

 

「んん」



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油すましの名

油すまし
名前と絵はある
それだけ

名前が付いたことで有名になった誰かの話

ダージリン視点


 雪が、積もった。

 

 こんな量の雪を見るのは初めてかも知れないわね。まあ、残念ながら雪が積もったくらいではしゃげるような齢でもない。

 さっさと雪かきをしないと車が出せないし、時間が経てば凍ってしまうかも知れない。

 

 休日の朝から重労働だけれど、やってしまわない事には安心出来ないのよね。

 という訳で雪かき中。

 

「雪と言えばカチューシャとノンナだが、彼女らは来ないのか」

「来る訳ないでしょ」

 

 ぼやくまほさんに突っ込みを入れる。

 ノンナはともかく、雪かきをやらされると分かっていてカチューシャが来る訳が無い。カチューシャが来なければノンナも来ない。

 

 全く遣ってられんな、と言いつつまほさんは私の倍近く雪かきを進めている。

 それでも矢張り、二人だけでは心許ない。

 

 カチューシャ達は来ないけれど、今日は一人、私の後輩が助っ人に来てくれている。

 三人なら多少ましに作業が出来るから、とても有り難いわね。

 

「本当、貴女が来てくれて助かったわ」

「いえいえ、他ならぬダージリン様の頼みですから」

 

 笑う彼女に、ふ、と溜め息が漏れた。

 未だにみんな私の事をダージリンと呼ぶのよね。あれは聖グロリアーナで代々使われている称号みたいなものだから、私の事は名前で呼んでくれて構わないのに。

 齢だって然して違わないのだから、様付けするのもおかしいのよ。

 

 そうは言ってもなあ、とまほさんが口を挟む。

 

「今は単なるニックネームとして機能してしまっているからな」

「そうですね。私にとって、ダージリン様はいつまでも『ダージリン様』なんですよ」

 

 まあ、そうかも。

 思えばカチューシャも『カチューシャ』のままだし、通じさえすれば名前なんてそれでいいのかも知れない。通じる名前があるのは有り難い事、か。

 でも、やっぱり少し気恥ずかしいわ。

 

 はあ、とまた溜め息が出た。

 スコップを地面に突き立てて杖のようにして寄り掛かる。疲れた。

 

 ふふ、とまほさんが笑うのが聞こえた。

 

「何を笑ってるのよ」

「いや、すまん」

 

 千代美の癖が移ったかな、と一人で完結させるように呟く。

 何なのよと詰め寄ると、彼女は少し渋ってから、白状するように言った。

 

「スコップを杖にして猫背になるダージリンを見て、妖怪の絵を思い出したんだ」

 

 はーあ。

 

 今までで一番大きな溜め息。『ダージリン様』と呼ばれてこそばゆい思いをしている所に妖怪扱いは無いでしょう。

 自分で言うのも何だけれど、私は人より容姿が整っている方だと思う。聖グロリアーナで淑女の何たるかも嫌と言うほど学んだ。

 その私を妖怪呼ばわりするなんて、失礼な人だわ。まあ、まほさんが失礼なのは今に始まった事じゃないけれど。

 

 で、絵を思い出したと言うからには何か特定の妖怪なのでしょうね。

 

「ああ、名前までは思い出せないが」

 

 杖を持って立っている妖怪だ、とまほさんはふんわりした事を言った。

 何よそれ。杖を持って立っている妖怪なんていくらでも居るんじゃないの。

 

「他に何か特徴は無いの」

「うーん、簑を着ている」

 

 手掛かりが増えたような、増えてないような。

 

「油すましですかねえ」

「ああ、そんな名前だったかも知れないな」

 

 話が聞こえていたのか、一人作業を続けていた彼女がぼそりと言った。

 あぶらすまし。聞いたことがあるような、無いような。

 

「私も詳しくは知りません。『なんか知ってる』って程度で」

 

 杖を持って、簑を着て、立っている、だけ、という連想から私も絵が一枚浮かんだんです、と彼女は言った。

 

「結構進んだな。みんなお疲れー」

 

 甘酒作ったから休憩しないか、と玄関先から千代美さんが声を上げた。

 あら、良いわね。紅茶でもコーヒーでもなく甘酒。今の話題にはぴったりじゃない。

 

「頂きましょう」

「はい、ご馳走になります」

「丁度いい、妖怪博士に油すましの話を聞こう」

 

 言ったまほさんに対して、誰が妖怪博士だと突っ込む千代美さん。

 ふうん、千代美さんって妖怪に詳しいのね。小説をよく読んでいる影響かしら。

 

「部屋に図鑑があるだけだ」

「十分だと思うが」

 

 二人の夫婦漫才を聞きながら、彼女達の家のリビングで甘酒をご馳走になる。

 ああ、暖まるわ。

 

「美味しいです」

 

 安斎さんは料理がお上手なんですね、と彼女が言う。

 千代美さんの事は『安斎さん』と呼ぶのね。

 

「あはは、特別なのはダージリン様だけですよ」

「分かるよー。私にも、未だに私の事を『アンチョビ姉さん』って呼ぶ後輩が居るからな」

 

 どこも一緒なんだな、と千代美さんは笑った。

 そして、仕切り直すように言う。

 

「でさあ、なんで油すましなんだ」

 

 千代美さんに訊かれ、まほさんが簡単に経緯を説明する。早くも二杯目を飲みながら。

 私がスコップを杖代わりにして立った姿をまほさんが見て、妖怪の絵を思い出し、挙がった名前が『油すまし』。だから、まほさんが思い出した絵と『油すまし』がイコールなのかはまだ分からない。

 

 それを聞いた千代美さんは、そういうことなら絵を見ようと言い出し、部屋から『図鑑』を持ってきて、油すましの項を開いた。

 そういうものがすっと出てくる辺りが博士だな、とまほさんは笑い、絵を覗き込んだ。

 

「ああ、この絵だ」

 

 ここでようやく繋がった。まほさんが思い出した絵、イコール油すまし。

 確かに、杖を持って、簑を着て、立っている。それだけ。言われてみれば、どこかで見たことがある気もする絵だわ。

 

 で、これは何をする妖怪なのかしら。

 

「何もしないよ」

 

 強いて言うなら返事をするだけかな、と千代美さんは言って、解説文を要約して読んでくれた。

 

『孫を連れたお婆さんが山道を散歩中、昔はここらに油すましが出たそうな、と話すと、今でもいるぞと声がした』

 

 へえ。

 

 えっ、それだけなの。

 

「そう、名前の由来も、何をする妖怪かも分からない。声がしたってだけ」

「驚かす訳でもないのか」

「結果的には驚いたかも知れないけど、油すましは返事をしただけだからなー」

 

 でもなんか有名なんだよな、と言いながら、千代美さんは首を捻る。

 確かに、妖怪に興味の無い私達でも断片的に油すましを知っていた。それが何故なのかと考えても、一向に分からない。

 

「絵の印象が強いが、この絵が生まれたのは名前があったからか」

「言われてみれば、そうですね」

 

 声がしただけでなく、名前があったから伝わったのね。

 伝わったから絵が生まれ、それによって、更に広く伝わった。

 

「そうなるかな。ちなみに熊本の天草の話らしいぞ」

 

 ああ、あの辺なのか、と熊本出身のまほさんは私達より現実味を持って油すましを記憶した。

 この、何者なのか分からない妖怪は、これでまたひとつ有名になった、という訳ね。

 

「名前って大切なんですね」

 

 何やら実感が篭ったような声で彼女は言い、甘酒を飲み干した。

 さて、そろそろ雪かきを再開しましょうか。

 

「頑張れよー。昼も何か暖かいもん作るからな」

「楽しみにしてるぞ」

 

 まほさんにそう言われた千代美さんは、まほさんの首にマフラーを巻きながら、今日一番の笑顔を見せた。

 

「頑張りましょうね、ダージリン様」

 

 一番張り切っているのは、もしかしたら手伝いに呼びつけられた彼女かも知れない。

 その理由はきっと、『ダージリン様』に呼ばれたから、なのかしらね。

 それじゃあ、私も彼女に合わせて昔の名前で呼んであげた方が良いのかも。

 

 なんとなく、そう思った。

 

「そうね。頑張りましょう、ルクリリ」

 

 久し振りにその名前で呼ばれたらしい彼女は、一瞬ぽかんと口を開けた後、照れ臭そうに笑った。



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漁鬼の雫

そういうことやぞ


 零時。

 

「コンビニ」

 

 そう、唐突にまほが呟いた。

 お風呂にもとっくに入って、そろそろ寝る準備をしようかって時に呟く言葉じゃない。コンビニに行きたいのか、こんな時間に。

 小腹が空いたなら何か作ろうかと言ったら、どうもそういう訳ではないらしい。

 

 言うが早いか、彼女はいそいそと外出の支度を始めた。

 コートを羽織り、ニットの帽子を被る。

 

「待て待て待て」

 

 何を買いに行くのかは知らないが、私もついて行く。

 いくらまほでも、夜道を女一人で歩くもんじゃないぞ。

 

「頼もしいな」

「おう、いざって時は守ってやる」

 

 言って、私も外出の支度をした。まだまだ寒いから、しっかり着込まないとな。

 まほの首にもマフラーを巻いてあげた。

 

「暖かいなあ」

 

 何故かまほは、しみじみと言った。

 髪は結ばなくてもいいか。どうせ、行って帰ってくるだけだ。

 

「じゃあ、出よう」

「うん」

 

 玄関を開けると、雪がちらついていた。

 この間積もった分がまだ溶けきってないのになあ。この雪も明日の朝には積もるのかも知れない。

 

 手を出すと、ひとつぶ、指先に当たって溶けた。

 

 真夜中の住宅街を歩く。道の端は所々が凍っていて、足元には気を付けないといけない。まほは、転ぶぞ、と言って私の手を握ってくれた。

 指を絡めたあと、その感触を確かめるみたいに『にぎにぎ』と二回私の手を揉む。手を繋ぐ時の、まほの癖。

 すごく可愛い癖なんだけど、きっと無意識なんだろうな。

 

 私だけが知っている、まほの癖だ。

 

「コンビニで何買うんだ」

「んん」

 

 曖昧な返事。

 もしかしたら、買いたい物がある訳じゃないのかも。

 

 コンビニに到着。

 当たり前だけど、何時だろうと灯りは消えず、店内は昼と何ら変わらず音楽が流れている。暖房も効いていて、一瞬、時間や季節の感覚が失せる。

 不思議な場所だな、真夜中のコンビニって。

 まほの様子を見ていると、やっぱり何を買うでもなくぶらぶらしている。結局、買いたかった訳でもなさそうなホットの缶コーヒーを二本買って店を出た。

 

 また、手を繋ぐ。

 にぎにぎ。

 

 まほは何も言わず、繋いだままの手をコートのぽけっとに突っ込んだ。

 片方の手は缶コーヒーで、もう片方の手はぽけっとの中で。何故だろうな、コンビニの中に居るより暖かい。

 

 公園の前を通り掛かると、まほが声を上げた。

 

「ここがいい」

 

 言って、手近なベンチの雪を払って腰を降ろし、キン、と缶コーヒーを開ける。私もそれに倣った。

 一口飲んで視線を交わす。あんまり美味しくないな、これ。

 

 結局、何がしたかったんだろう。

 

「手を、繋ぎたかった」

 

 私の考えを見透かしたみたいに、まほが言った。

 なんだそりゃ、と思ったけど、まあ分からなくもないな、と思い直す。繋ぎたいよな、手。

 

 でも、やっぱり急過ぎるよ。

 

「そうかな」

「そうだよ」

 

 言い出したのが零時、もうすぐ一時だぞ。

 それに、私が来なかったらどうする気だったんだ。

 

「来てくれると思った」

 

 ごめんな、ありがとう、と言ってまほは笑った。

 

 コーヒーを飲み終わっても腰を上げる気配は無く、何かを言い淀んでいるのが伝わってくる。

 足元の薄氷が、ぱり、と音を起てた。

 

 まるでその音が合図だったみたいに、彼女が口を開く。

 

「実はな、まだ千代美に言ってない事があるんだ」

 

 そう、言った。

 

 散々一緒に暮らしてて、実家にも行って、今更まだ言ってない事があるなんて、俄には信じられない事だけど、何だろう。

 ずっと言いそびれていてな、とまほは、私の髪についた雪を払いながら言う。

 

 もっとくっついて、と言われ、腰を引き寄せられた。

 密着。あったかい。

 

「キス、してくれるか」

 

 言われるまま、キスをする。

 短く、唇を触れさせるだけの、小さなキス。

 

 まほは珍しく、震えていた。

 

 何を言われるんだろう。

 不安が胸に積もる。

 

 でも、まほはきっと、もっと不安なんだと思う。

 まほの手をぽけっとに引き込み、ぎゅっと握った。

 守ってやるよ。

 

 まほはひとつ、大きく深呼吸をした。

 

 そして。

 

 

 

「貴女の事が好きです。私と付き合ってください」

 

 

 

 静寂。

 

 そっか、まだだったか。

 

「ごめんな、まだだった」

「うん、初めて言われたかも」

 

 いつまでも言えてなかった事がずっと引っ掛かっていたらしい。この冬の間に言おうと決めてたんだ、とばつが悪そうに、まほは言う。

 遅いよ馬鹿、と小突いてやった。

 

 もう終わるぞ、冬。

 

「私も好きだよ。大好き」

「そうか。ありがとう」

 

 まほは何度目かの『ごめんな』を言いながら、私の頬を撫でる。

 その時やっと、自分が涙をこぼしていることに気が付いた。

 ぽろり、ぽろりと。

 

 馬鹿。

 

 降り続く雪の下、暫く、まほの胸に顔をうずめて泣いた。

 まほは私の頭を撫でながら、私が泣き止むのを待ってくれた。

 

 帰り道。

 また手を繋いだ時、いつも思うんだが、とまほが呟いた。

 

「手を繋ぐ時の千代美の癖、可愛いな」

 

 ああ、私にもあったんだな、そんなの。

 

「無意識だったのか」

「うん」

 

 もっと知って欲しいな。

 それに、もっと知りたい。

 

 もうすぐ春が来る。

 これからも、よろしくな。



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蛟の楼閣

まぼろし


【千代美】

 

 真っ暗だ。

 

 いや、何か、目に圧迫感を覚える。

 どうやらアイマスクか何かで目隠しをされているらしい。

 アイマスクは厚く、外からの光を完全に遮断している、と思う。外は果たして明るいのか暗いのか。それどころか、今が昼なのか夜なのかさえも分からない。

 

 更に、両手両足も縛り付けられているらしく、自由が利かない。

 私はベッドに大の字で寝かされているようだ。

 

 猿轡は噛まされていない。幸い、声は出せる。

 いや、違うか。ここまでされて声が出せるということは、つまり、いくら叫んでも無駄だという意味なんだろう。

 

 失敗したなあ。

 

「気が付いたか」

 

 声が聞こえた。

 

 嫌な声だ。

 なんて、嫌な声なんだ。

 

 こんなタイミングで聞きたくない。

 絶対に聞きたくない声だ。

 

 間違えようもない。

 

「西住」

 

 私の、好きな人。

 

「全く、隊長自ら潜入とは恐れ入る。捕まりたくて来たのかとすら思えるぞ」

 

 お前の髪は目立つ。西住は、呆れたようにそう言った。

 こんな状況でさえなかったら、嬉しくて舞い上がるような言葉なんだけどな。

 

 駄目元で、訊いてみる。

 

「なあ西住、これ、ほどいてくれないか」

 

 西住はそれには答えず、ふん、と鼻で笑った。

 彼女がゆっくりと歩み寄る跫が聞こえる。

 

「なあ、安斎。貴様は自分の立場が分かっているのか」

 

 西住の手が私の顎をくい、と上げる。露になった喉に指が置かれた。その指が私の体をなぞる。

 西住の指がつつ、と喉から下にゆっくりと移動する感触でようやく気が付いた。私は今、何も着ていない。

 

 瞬間的に羞恥の感情が込み上げる。

 嘘だろ、おい、私の服は。

 

「なんだ、今さら気が付いたのか」

 

 嘲るような西住の声。わざとそんな声を出して私を辱しめるつもりだ。

 西住の指は私の胸の辺りで止まり、掌に変わった。

 

 愛撫なんて優しいものじゃなく、西住の掌は私の胸の膨らみを乱暴に掴む。

 

「痛っ」

「良い形をしているな」

 

 ちっとも嬉しくない。

 私の体。こんな、こんな形で知られたくはなかった。

 

 こんな事になるなんて思わなかった。

 確かに無謀な潜入だったとは思う。でも、会いたかったんだ。

 

 私の好きな人に。

 

「お願いだ、乱暴にしないでくれよ」

 

 アイマスクが私の涙を吸う。

 涙は零れないけれど、声でバレる。

 

 西住の手が止まった。

 

「泣いているのか」

 

 彼女の声は、驚いているようだった。

 

「貴様は、自分の立場がいまいち分かっていないようだな」

 

 舌を出せ、と言われた。何をされるのかは分からないが逆らう気力も無い。

 素直に口を開き、舌を突き出した。

 

 かしゃり、という音が聞こえた。

 スマートフォンのシャッター音だ。

 

 酷すぎる。

 

「潜入もまともに成し得ない貴様の不徳だ」

 

 西住の罵倒が聞こえた直後。舌に何か柔らかいものが触れた。

 それは私の舌を咥え、辿り、唇を塞ぐ。

 

 彼女の舌が私の舌をなぞり、侵入してきた。

 口の中にコーヒーの香りが広がる。

 

「ん、んんっ」

 

 私の舌は西住の中に。

 西住の舌は私の中に。

 

 手足の自由を奪われ、目隠しをされ、唇まで塞がれて。

 

 本当に、酷い。

 

 だけど。

 

 こんな酷い奪われ方をされても、心のどこかで喜んでいる。

 口の中をぐちゃぐちゃに掻き回されながらも、西住の唇の柔らかさに嬉しさを感じている。

 こんな形でも、好きな人と唇を重ねている事に、ときめきを覚える。

 

 何故か、そのキスは、とても長く続いた。

 

 互いに舌を押し込み、唾液を吸い、喉を鳴らす。

 口の中で暴れる舌のくちゅくちゅという音が、脳を蕩かしていく。

 ああ、いつまでだって、こうしていたい。

 

 一際大きく喉を鳴らし、西住が唇を離す。

 げふ、という品の無い空気の音が聞こえた。

 

 私も、口の中に残った彼女の唾液をごくり、と飲み下す。

 

「なあ、西住。私、お前の事が好き」

「知っている。私も好きだ」

 

 だが立場を弁えろ、貴様は捕虜だ。西住は、冷たく言い放つ。

 心なし、さっきよりわざとらしさを含んだ声で。

 

「シーツがぐしょぐしょだ」

 

 まるでおねしょでもしたみたいだな、と西住は笑う。

 あんなキスをされて、普通でいられるか。

 

「そうだな。私も似たようなものだ」

 

 口に何か、水気を含んだ布を押し込められた。

 つん、とした臭いが鼻につく。

 

 これ、まさか。

 

「それでも吸っていろ。本番はこれからだぞ、千代美」

 

 なんて、事を。

 押し込められた布を吐き出し、声を上げた。

 

「千代美って言っちゃ駄目だろ」

「あ、ごめん、えっと、安斎」

 

 ああもう、これから本番って所で。

 

「はあ、目隠し外すぞ」

 

 まほがぐい、と私の目隠しを外した。

 部屋の灯りが眩しい。

 

「趣向を変えると言うから何をするのかと思えば、台本を用意するとはな」

「いや、思い付いたらやってみたくなっちゃって」

 

 で、どうだった。とまほは半ば呆れた顔で訊いてきた。

 

「めっちゃ良かった」

「そのうち逆のも書いてくれ」

 

 えへへ、まかせろ。

 

 まほはため息をつき、さて、と宣言するように声を出す。

 

「それはそれとして、覚悟しろよ、千代美」

 

 えっ、あっ、待って。

 

 ちょっ、解いて。

 

 ああんっ。



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(1/5)倩兮女の声

倩兮女
けらけらおんな

だいたい名前通りの妖怪

ちょっと続きます

こちらのエピソードをちょっと引き摺りますので、良ければ暇な時にでもどうぞ
https://syosetu.org/novel/145035/



 笑い声が聞こえる。

 倩兮(けらけら)という、甲高い笑い声。

 

 随分と盛り上がってるらしいな、隣は。

 こっちまで笑い声が聞こえるなんて、滅多に無い事だ。

 

 まあ、それはとりあえずどうでもいい。

 私が今やらなくちゃいけないのは、夕飯の支度だ。今日は帰りが遅くなっちゃったから手早く済ませたい。

 

「今夜は何を作ろうかなー」

 

 冷蔵庫の中身とにらめっこ。

 料理が得意とは言っても、毎日毎日手の込んだものを作る訳じゃない。有り物で適当に作ったりもする。

 まあ、料理が得意だからこそ、そういう事が出来るんだとも言えるけどな。ふふん。

 あれっ、何だろう。買った覚えの無い食材がある。

 

 明太子だ。

 

 しかもこれ、めちゃくちゃ良いやつじゃないか。

 まほが買って入れたのかなあ。いや、でもまほが入れたにしちゃ冷蔵庫の中が荒れてない。

 変な言い回しになるけど、まほは冷蔵庫が下手だ。いじったらすぐに分かる。

 

 ううん、あと可能性としては隣に住んでるダージリンだろうか。

 まあ、なんかあった時のために互いの部屋の鍵を預けあってるから可能っちゃ可能だ。でも、流石に留守の間に出入りはしないだろう。

 そもそも、わざわざこっちの冷蔵庫に明太子を入れに来る意味も分からない。

 

 また、笑い声が聞こえた。倩兮。

 

 その声に気を取られ、思考が一瞬中断される。

 まあ、考えても分かる事じゃないんだけど、『中断された』という事によって何だか余計に混乱する。

 

 ううーん、分かんないなあ。使っちゃっても良いんだろうか。

 

「ただいま」

「うわあ、びっくりした」

 

 後ろからすすっと腰に腕を回された。

 明太子と笑い声のせいで、帰ってきた事に気が付かなかったよ。

 

「おかえり、まほ」

 

 まほは、ただいまあ、と珍しく間延びした声で繰り返しながら頬擦りをしてきた。

 なんだなんだ、帰ってくるなり抱き着いたり頬擦りしたり。嬉しいけどさ。

 

 ん、酒の匂い。どっかで飲んできたのか。

 

「うん、隣に顔を出したら飲まされた」

 

 そう言って、まほは少し疲れたような顔をした。

 それに合わせるように、隣の部屋からまた倩兮という笑い声が聞こえる。

 

 倩兮というよりはもう、ゲラゲラって感じ。

 

「カチューシャとノンナが来ててな、随分と賑やかな事になっている」

 

 ノンナのハイエースが停まっているのが見えたらしく、それで先日の礼を言いに顔を出したらカチューシャに捕まった。

 そう言って、まほは酒くさい息を吐いた。

 

 そっか、ノンナが来てるなら私も顔を出さなきゃ。

 

 ノンナは冬に、私が失くした文庫本を見付けてここまで届けに来てくれた。お礼をしなきゃと思ってたんだけど、色々とすれ違いがあって、直接は会えてなかったんだ。

 

 それにしても結構飲まされたっぽいなあ。

 

 グラスにミネラルウォーターを注ぎながら、何やってんだ隣で、と訊いた。

 まほが私の腰に腕を回したまま一向に離れてくれないので、動きづらい。

 

「録画の、笑ってはいけないやつを観てる」

 

 水を飲むために漸く手を離したまほは、それを一口だけ飲んだ。

 

 笑ってはいけないやつ。

 ああ、年末にやってる、笑ったらお尻を叩かれるやつか。

 

「うん。それを観ながら、笑ったら飲まされるという余興をやってる」

 

 た、たちの悪い事を。

 

 待てよ。

 って事は、さっきからひっきりなしに笑い声が聞こえるけど、あいつらはその度に飲んでるって事なのか。

 

「うん、奴ら、もうベロンベロンだ」

「お前もだろ」

 

 あいつが容赦なく笑うから、そのせいでこっちまでつられるんだ、とまほはうんざりしたような顔をした。

 

 まあ、仕方ないか。

 よしよし、えらい目に遭ったなあ。

 頭を撫でてやると、まほは気持ち良さそうに喉の奥で『んん』と唸った。

 

 直ぐにでも、ご飯を出してやりたいんだけど、残念ながらまだ準備中。

 

「ごめんなー」

「気にするな。私は少し休む」

 

 言うが早いか、まほはコートを脱いでソファに横になった。

 年度の末はどこも忙しくなるもんなあ。それに加えて、今日はカチューシャに飲まされたのが堪えたみたいだ。

 横になったんだか倒れたんだか分からない姿勢のまま、まほはまた間延びした声を出す。

 

 千代美い、と呼ばれた。

 

「なんだよ」

「ちゅーして」

 

 ゆるっ。

 こんなまほ初めて見た。どんだけ飲まされたんだか。

 

 はいはい、と返事をしてキスをしてやる。

 くい、と顎を上げて私を待つまほに覆い被さるようにして唇を重ねた。

 ちょっとだけだからな。

 

 待ってましたとばかりに侵入してきた舌にびっくりして、んふ、という声を漏らす。

 まほが絡めてきた舌はまだ酒の匂いがして、つい飲み下した彼女の唾液も、酒の味で。あっ、美味しい。

 なんだろう、この香り、桜っぽいな。

 

 じゃなくて、こら。

 

 唇を離して軽く小突いて睨み付けると、まほは満足したように、にへっと笑って目を閉じた。

 もう、何もかもが不意討ちで、心臓がバクバク言っている。

 へなへなと、その場に座り込んでしまった。

 

 えええ、なにこの可愛い生き物。まほって泥酔するとこんな風になるのか。

 

 酒を無理に飲ませるのは良くないけど、カチューシャにちょっとだけ感謝しよう。いいこと知った。

 早くも寝息をたて始めたまほに、毛布を出してきて掛けてやる。

 不意討ちであんなキスをしておいて、いい気なもんだ、全く。

 

 明日は休みだし、起きたら相手して貰おうかなー。

 

 さて、気を取り直して。

 夕飯の支度をしようか向こうに顔を出そうか。先に顔を出しちゃいたいけど、捕まったら面倒くさそうだなあ。

 そういや明太子の謎はまだ解けてないや。まほが寝ちゃう前に一言訊いても良かったかな。

 

 考えていると、インターホンが鳴った。

 

「済みません、少しこちらで休ませて頂けませんか」

 

 あちらに顔を出すまでもなく、向こうからノンナがやって来た。

 酔い潰れたらしい、ぐったりした誰かを背負っている。客はカチューシャとノンナだけじゃなかったのか。

 

「まほさんが来た時にはもう隅の方で転がっていましたから、置物か何かだと思われたのかも知れません」

 

 あーあー、気の毒に。

 

 二人とも、カチューシャ達の飲み方に付き合いきれず避難してきた、って所かな。

 ノンナは運転だからそもそも飲むわけには行かないだろうけど、今のカチューシャが相手じゃなあ。

 

 どうぞどうぞ、と言って二人を招き入れた。

 

「済みません、ご迷惑を」

「気にするなよー」

 

 元々ノンナには借りがあるんだ。

 とりあえず、背中のその子を寝かしてやるのが先か。ああ、でもソファにはまほが寝てるんだった。

 

 という訳で寝室へ案内する。

 

「そこに寝かせてやってくれ」

「ありがとうございます」

 

 よいしょ、とノンナがその子を背中から降ろす。

 

 その子の顔を見て驚いた。

 同時に、うちの冷蔵庫に明太子を突っ込んだ犯人にも思い当たる。

 

 久し振りだなあ。

 こんな所で何やってんだよ、お前。

 

 隣の部屋からまた、倩兮という声が聞こえた。



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(2/5)のんのんさんの恩

のんのんさん
幼児言葉で「仏様」の意味

こちらの回想のような内容
https://syosetu.org/novel/145035/


 不覚。全くもって不覚だ。

 酒に酔って正体を失くすなど。

 

 一眠りして、少し酔いが覚めた頭で考える。

 

 まあ、不幸中の幸いと言うべきか、ダージリンの部屋でカチューシャに酒を飲まされて以降は、家に帰ってソファに横になっただけだと思われる。

 隣の部屋から隣の部屋に移動しただけ、の筈だ。

 

 ただ、こうして毛布が掛けられている以上は千代美と何かやり取りをしたのだろう。

 何か、おかしな事は言わなかっただろうか。

 

 ううん、考えても思い出せない。あとで千代美に訊こう。

 

 しかし美味い酒だった。

 なんというか、桜餅のような香りがして、カチューシャが春らしい酒だと言っていたのも頷ける。

 出来れば、ゆっくりと時間を掛けて飲みたかった。銘柄は覚えたから、今度買ってこよう。

 あれは飲み方を間違えなければ、とても良い酒だと思う。

 

 今回は思い切り間違えた。

 

 バラエティ番組を観ながら、笑ったら尻を叩かれる代わりに酒を飲まされるというのは、余興としては面白いかも知れないが、あんな度数の酒でやることではない。

 

 全く、無茶な事をしたものだ。

 車を運転するからという理由で必死に堪え続けたノンナは凄いと思う。

 

 あとは、そうだ。珍しく料理が凝っていた。

 カチューシャが馬鹿みたいに買い込んできたスナック菓子の出る幕は無く、テーブルには何やかやと酒に合う料理が並べられていて、それでまた、酒が進んでしまった。

 

 その出来の良さから、最初は千代美の料理かとも思ったが、どうやら違う。

 

 これは直感と言うほか無い。

 いつだったか、喫茶店でコーヒーを飲んだ時の感覚に似ていた。

 

 美味さ不味さとは全く別の感覚。

 恐らくは、千代美の料理を毎日食べている、胃袋を掴まれている私だけが持っている、直感。

 

 千代美の料理か否か。

 

 直感から言えば答えは否だった訳だが、じゃあ誰のだと言われれば皆目見当が付かない。

 千代美の料理と紛うような立派なものをダージリンが作れるとは思えない。

 カチューシャはそもそも料理が苦手だし、スナック菓子を買い込んできた時点で違うだろう。

 ノンナも、カチューシャを乗せてここまで来ているのだから、同様に違う。

 

 とりあえず今の思考を纏めると、『酔った自分が何をしたか覚えていない』『あれは誰の料理だったんだろう』のふたつ。

 どちらも結局、考えても分からん。

 

 ひとまず起きようか、それとももう少し眠ろうか、等と考えていると、ぼそぼそという話し声が聞こえてきた。

 

『なーるほど、じゃあダージリンが』

『ええ、あちらに置いておくとカチューシャが食べてしまう可能性があったので』

 

 千代美とノンナだ。ああ、私が眠っていたから気を遣っているのか。

 体を起こすと、千代美がそれに気付き、おはよー、と声を掛けてくれた。

 

「おはよう」

 

 食欲あるか、と問われ、あまり無い、と返す。

 さっき隣で少しつまんだのもあるが、酒のせいで頭がぐらぐらする。何か食べても吐いてしまいそうだ。

 

 千代美は、やれやれといった風な顔をした。

 

「ご飯は作ったから食欲が出たら言ってくれよ。あっためるからさ」

「すまん」

 

 ノンナが申し訳なさそうな顔をした。

 

「済みません、カチューシャが無理をさせてしまって」

「いや、いい」

 

 飲んだのは自分だし、酒自体は美味かった。

 それに、ノンナが謝る事でもない。

 

「ただ、少し飲みすぎて記憶が曖昧なんだ」

 

 私は向こうで何か変なことを口走ったりしなかっただろうか、とノンナに一応の確認。大丈夫だとは思うが。

 すると、ノンナは『んふふ』と今まで堪えていた笑いが遂に漏れたような声を出した。

 

「あの、ええと、言ってもいいのでしょうか」

「た、頼む」

 

 ノンナはそれでも少し迷ってから、顔を赤らめて言った。

 

「『千代美ー』とだけ」

 

「『千代美ー』」

 

「何度も何度も」

 

「何度も何度も」

 

 今度はこちらが赤面した。千代美の顔も赤い。

 

「あ、あの、千代美」

「黙ってろ」

 

 顔を両手で覆ったまま、千代美は絞り出すような声で言う。

 ノンナは恥ずかしそうに、済みません、と言って押し黙った。

 

 う、うわあ。

 

 気まずい沈黙が流れる。

 それを見計らったように、インターホンが鳴った。

 

 沈黙を破ってくれたのはありがたいが、助かったとは言い難い。鳴らしたのはどう考えても面倒くさい奴らだ。

 案の定、こちらが応対するのを待たずに、それは激しいノックに変わる。

 

 出ようとする千代美を手で制し、私が出た。

 

「なんだ。警察を喚ぶぞ、酔っ払いめ」

「アンタも酔っ払いでしょうがあ」

 

 違いないが。

 

 カチューシャ、ダージリン、襲来。

 つまみ用に買い込んだスナック菓子の処理に困って、人数の多いこちらで食べようという魂胆らしい。

 

「酒は出ないぞ」

「もう死ぬほど飲んだから沢山だわ」

 

 そんな訳で、テーブルの上にスナック菓子とウーロン茶が並べられた。

 

 私は、千代美の料理が控えているのに、それに手をつけずにスナック菓子をつまむという事がどうにも我慢ならなかったので、少し離れてウーロン茶だけ飲んでいる。

 千代美は気にするなと言ってくれたが、そうも行かん。

 それに、食欲も、まだそこまで回復した訳じゃない。

 

 ともあれ、広げた菓子をつまみながらの談話が始まった。

 場の空気だけで酔っ払いそうになった先程とは打って変わっての、実に平和な談話。

 

「やっとノンナにお礼が言えたよ」

「ああ、文庫本の件ね」

 

 冬に千代美が失くした文庫本。それを見付けてここまで届けてくれたのがノンナだ。

 礼をしようにも、なかなか話す機会が掴めずにいた。

 

 そう、本を届けてくれたと言えばもう一人。

 

「あとはマルヤマさんかあ」

 

 ノンナが届けてくれた本。

 それを最初に持っていたのが『マルヤマさん』という女性の子供。

 千代美がその子供に本を持たせた事が、失せ物探しのそもそもの発端だった。

 

 ややこしいが、千代美の本は、子供、マルヤマさん、ノンナ、ミカ、ダージリンの順に渡り歩いた後に千代美の手に戻った。

 千代美はノンナと、そのマルヤマさんに礼を言いそびれている事を気にしていたのだ。

 

「丸山さんならそのうち会えるでしょう。四月から、私の職場に紗利奈ちゃんが来ることになりましたから」

 

 次に会った時にでも伝えておきますね、とノンナは言った。

 

 紗利奈というのは、そのマルヤマさんの子供の名だったと思う。

 ノンナの職場、ああ、そういう事か。

 

「のんのん先生ー」

「やめてください、カチューシャ」

 

 などと言いつつ満更でもなさそうに笑う、保育士のノンナ。

 いや、のんのん先生。

 

 その後、のんのん先生の話で、マルヤマさんは何とみほの後輩で、更に戦車道の経験者である事が分かった。

 という事は、私も千代美も、どころかダージリンもカチューシャも過去にマルヤマさんと顔を合わせている可能性があるという事か。

 

 世間は狭い。

 そんな事を考えながらウーロン茶を飲む。

 

 同時に、段々と食欲が戻ってくるのを感じていた。

 

「そういえば、あの子は帰ったのかしら」

 

 何か、思い出したようにダージリンが言う。

 他にも誰か、先程の飲みに参加していたのか。

 

 すると寝室の方から、誰かがよたよたと歩いてきた。

 

「うー、すんませんっす、お布団貸してもらっちゃって」



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(3/5)一目連の嵐

一目連
目が一つの何か
神様だったり龍だったり、説は色々と


「そういえば、あの子は帰ったのかしら」

 

 何か、思い出したようにダージリンが言った。

 

「そういえば、マホーシャが来た時にはもう居なかったわね」

「酔い潰れて寝てただけですよ」

 

 私がこちらに運びました、とノンナがカチューシャに突っ込みを入れる。

 寝室に運んだ『あの子』。そうだ、そろそろ起きても良さそうなもんだな。

 

 するとタイミング良く、件の『あの子』が起き出してきた。

 

「うー、すんませんっす、お布団貸してもらっちゃって」

 

 あと姉さんお久し振りっす、と『あの子』、ペパロニは頭を揺らしながら言った。

 

 普段は料理の修行だ食材探しだと言って色々な場所を旅していて、たまにその土地の名物を送ってくれたりする。

 そうそう、冬にも北海道から鮭を送ってくれたな。あと、ずんだ。

 

 さっき、うちの冷蔵庫に現れた謎の明太子も、ペパロニの仕業だったらしい。

 

 近くまで来たから直接渡そうとしたものの、私もまほもまだ帰ってなくて、丁度帰ってきたダージリンに保護された。

 ただ、今日はダージリンの家で明太子を保管してるとカチューシャに食べられる可能性があったから、やむを得ずダージリンはうちの鍵を使って、ペパロニに冷蔵庫を使わせた、と。

 

 道理で冷蔵庫も荒れてない訳だ。いじったのがペパロニなら、それも納得がいく。

 

「ごめんなさいね、緊急と言えば緊急かなと思ったのよ」

「あー、あると知ってれば食べたわ」

 

 うん、ダージリン、ナイス。

 

「お二人で食べて下さいっす」

「いつも悪いなあ、ありがたく頂くよ」

 

 それを聞いて、あら私達には無いのかしら、とダージリンが冗談めかして突っ掛かる。

 ペパロニは困ったように、おつまみ色々作ったじゃないっすかー、と声を上げた。

 

「ふふ、そうだったわね。ペパロニさんの料理、どれも美味しかったわ」

「ほんとほんと、あれのお陰でずっと飲んでいられたわよねー」

 

 酔っ払い達に誉められて、うへへと笑うペパロニ。それに関しては私も鼻が高い。

 だけど、潰れるまで飲むのは感心しないな。

 

 カチューシャ達も、私の後輩に何してくれてんだ。

 

「わっとと、すんません姉さん、私が進んで飲んだんすよ」

 

 慌ててカチューシャ達を庇うペパロニ。

 そんな訳は無いと思うけど、まあ、そう言うなら仕方ないか。

 

 ペパロニは、すんません、と繰り返した。

 その腹がぐう、と鳴る。

 

 ああ、そういえば。

 

「ペパロニ、飯は」

「あー、まだっす」

 

 さっきまほに言ったのと同じように、食欲あるならあっためるぞ、と言うと、ペパロニは目を輝かせた。

 

「いいんすか、姉さん」

「お前が好きだったのを思い出してさ、ナポリタン作ったんだ」

 

 それを聞いて、ペパロニのテンションは更に上がる。

 まあ、少し前にも作ったばっかりなんだけど、ペパロニに食わせるものって言うとナポリタンなんだよな。

 早速、皿に盛って、あっためて出してやると、ペパロニは嬉しそうにがっつき始めた。

 

「ああっ、これっす、この味っすよ姉さん」

 

 久し振りだなあ、なんて言いながら美味そうにナポリタンを啜る。

 アンツィオに居た頃から、ペパロニは私の作るナポリタンが大好きだ。

 曰く、パスタじゃなくてスパゲッティって感じで美味い、らしい。

 誉められてるんだか、なんだかなあ。

 

 ペパロニの食べっぷりを見て食欲が復活したのか、まほも手を上げた。

 

「千代美、あの、私も」

「よし、まかせろ」

 

 結局、私も私もと全員が手を上げ、ナポリタンは綺麗さっぱり売り切れた。

 食べっぷりの良いやつが一人居ると、こうなるんだよな。

 

 ちょっと嬉しいけど、スナック菓子が何だかんだで残っちゃったのが勿体ない。

 

「千代美にあげるわよー」

「持って帰るのが面倒なだけでしょう」

 

 まあね、と開き直るカチューシャ。

 しょうがないなあ、次に飲む時のために取っておいてやるか。

 

 でも開けた分だけは食べちゃえよ。

 

 テーブルの上には、所謂パーティー開けのままのスナック菓子が何種類か散らばっている。

 それをみんなでばりぼりと処理していく。

 

「ちょっと湿気ってるわね」

「開けてからけっこう駄弁ってたもん、ん、何これ」

 

 リング型の赤いスナックを口に入れたカチューシャが、うわ辛っ、と叫んだ。

 ああ、『ハバネロ』だ。滅茶苦茶辛いやつじゃないか。

 

 何これもなにも自分で買ってきたんだろうに。さては手当たり次第に掴んできたな。

 

「知らないわよそんなのーっ」

 

 カチューシャは辛い辛いと繰り返しながらウーロン茶をがぶがぶと飲んだ。

 そんなに辛いのか。まあ、ハバネロだもんなあ。

 

 逆に興味が湧いてしまって、私もひとつ口に入れた。

 

 確かに、ああっ、凄、あああっ、凄いなこれっ。

 

 慌てて私もウーロン茶に手を伸ばすと、まさかの空っぽ。

 嘘だろ。カチューシャ、一気に全部飲んだのか。

 

「あはは、ごめーん」

 

 口の中がヒリヒリする。

 うー、もう水でいいや。

 そう思って冷蔵庫に向かうと、ペパロニが既にグラスに水を注いでくれてる所だった。

 

「姉さん、水っす」

「ありがとー、ペパロニ」

 

 はあ、助かった。

 本当に辛いんだな、当たり前だけど。

 

 しかし、こんなに辛いんじゃ誰も手を付けないな。

 どうすんだこれ。

 

「私は美味しいと思いますが」

 

 うわっ、マジか。

 ノンナが水も無しにぼりぼりと食べ始め、ハバネロはみるみる減っていった。そのまま、難なく完食。

 

 拍手。

 

「や、やるわねノンナ」

「いえいえ、美味しかったですよ」

 

 帰りにコンビニに寄りましょうねカチューシャ、と言って笑うノンナ。

 おかわりする気だ。

 

 そんなこんなで時刻は二十一時を回る頃。

 カチューシャが、こっくりこっくりと舟を漕ぎ始めた。

 酒のせいかと思ったら、大体いつもこれぐらいの時間に就寝するらしい。

 

「いくら何でも早すぎやしないか」

「寝る子は育つのよ」

 

 う、うん。頑張れよ。

 それじゃあ、カチューシャもお眠だし、そろそろお開きかなあ。

 

 ふと、眠そうに目を擦るカチューシャの動きがぴたりと止まった。

 

 あっ。

 

 おい、カチューシャ。

 

 まさかハバネロを食べた手で、目を。

 

 カチューシャは、助走のように『ううう』と唸り声を上げ、やがて。

 

「痛だだだだだっ」

 

「あはははははっ」

 

 カチューシャの絶叫と、ダージリンの倩兮(けらけら)という笑い声が重なった。

 混乱したカチューシャは、尚も目を擦る。

 

 お、おいおい、やめろ馬鹿。

 

「洗い流しましょう、カチューシャ」

 

「水、みずーっ」

 

「カチューシャ、水は駄目だぞーっ」

 

「姉さん、オリーブオイルっす」

 

「よし来たっ」

 

 ペパロニ、ナイスだ。

 

 目に唐辛子が入った時は水で流しちゃ駄目。

 痛みになる成分のカプサイシンは水に溶けないから、水で流すと顔中にカプサイシンが広がってしまう。

 意外に思われるかも知れないが、効果的なのはオリーブオイル。

 オリーブオイルを目の周りに塗ってやると簡単に痛みが引くんだ。

 

 痛みが引くんだってば。

 

 おい、暴れんな。

 

「ノンナ、カチューシャ抑えて」

 

「こうですか」

 

「ちょ、ギブギブギブ」

 

「あはぁははははっ」

 

「ぐっ、ふ、んふふ」

 

「そこ、笑ってんじゃないわよーっ」

 

「カチューシャ、暴れないでください」

 

「痛だだだだっ」

 

 まほの背中をばしばし叩きながら倩兮と笑い続けるダージリン。

 それにつられて意味も無くツボるまほ。

 よくわからない関節技でカチューシャを押さえ付けるノンナ。

 叫ぶカチューシャ。

 ペパロニは、相手が全員先輩なものだから、ただただ狼狽えるばかり。

 

 こ、ここは地獄だ。

 

 そんな顛末があって。

 今、ようやくカチューシャの手当てをしている。

 

「うー、千代美、ありがと。楽になってきたわ」

「応急処置だからな。痛みが長引くなら病院行くんだぞ」

 

 言って、救急箱から眼帯を出して巻いてやった。

 

「似合うわよ」

「うっさい」

 

 くつくつと笑いを噛み殺しながら言うダージリンに、カチューシャが毒づく。

 

「はらっ、カッ、ひゅ」

「の、ノンナーっ」

 

 今度はノンナが鼻血を噴いて倒れた。

 たぶん、『ハラショー、カチューシャ』と言いたかったんだと思う。

 

 眼帯、ツボだったか。



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(4/5)浄玻璃の鏡

浄玻璃の鏡
じょうはりのかがみ
閻魔大王が裁判で使う、亡者の生前の行いを映す鏡
昔の事なら何でも知ってるよ


 カチューシャ達は帰り、ダージリンも自室に戻った。

 

 正直、ホッとしている。

 騒ぎ疲れたとか、また飲まされるかも知れないとか、そういう意味ではなく、他の理由がある。

 

 皆にバレはしなかっただろうか。

 みっともない話だが、実は今、物凄く苛々している。

 

 原因は分かっている。

 だからこそ、『そんな事』に苛立っている自分に対し、余計に苛立つ。

 苛立ちと自己嫌悪が交互にやってきて、ひどく気分が悪い。

 

 そんな事。

 そう、その程度の、そんな事だ。

 

 まず、千代美が、後輩を寝室に連れ込んでいたこと。

 

 いや、こんな言い方をしては語弊がある。千代美に悪気は無い。千代美は、酔い潰れた後輩を寝かせただけだ。

 それだけの事なのに、私が勝手に悪い方へ解釈している。

 

 我ながら、子供染みていると思う。

 しかし、そうと分かっていても、苛立つ。

 

 まだある。次だ。

 

 カチューシャ達が後輩に酒を飲ませた事に対して、千代美は珍しく怒りを露にした。

 まあ、それも当たり前の事だ。

 私だってカチューシャ達がエリカに無理に酒を飲ませたりしたら怒ると思う。

 それはいい。繰り返すが、当たり前だ。

 

 しかし、カチューシャ達が私に酒を飲ませた事に対して千代美は怒らなかった。

 私は、たぶん、その事に対して苛立っている。

 

 要するに、ただの焼きもち。嫉妬だ。

 

 更に、夕飯。

 千代美自身も言っていたが、ナポリタンはこの間作ったばかりのメニューだ。だがまあ、それはいい。

 食材の遣り繰りの都合もあるから、千代美の作る物に私が口出しする事はまず無い。

 問題はそれが『後輩のために』作ったものであるということ。

 

 問題か。

 問題視するほどの事だろうか。

 

 もう、自分でも嫌になる。酒のせいだと思いたい。

 私はこんなに嫉妬深い女だったのだろうか。

 

 そして、とどめ。

 カチューシャの目に唐辛子が入り、彼女が暴れ始めた時。

 

『姉さん、オリーブオイルっす』

『よし来たっ』

 

 千代美と後輩のコンビネーションは抜群だった。

 

 それも仕方の無いことだ。

 私では、台所に走ったところでオリーブオイルの瓶を探し当てる事すら出来ないだろう。

 そもそも、『目に唐辛子が入った時はオリーブオイル』という発想にすら至らない。

 あれは、長く食に関わり続け、尚且つ先輩後輩の間柄であればこそ成り立つコンビネーションなのだ。

 

 まあ、色々と原因を挙げたが、詰まるところ千代美がかまってくれないから機嫌が悪いのだ。

 だから何もかもが原因に見えてくる。

 

 妬いてどうなるものでもない。

 そう、自分に言い聞かせないと収まらない。そんな幼稚さが自分の中にあった事に対して苛立ち、苛立つ事でまた自己嫌悪に陥る。

 そうやって、先程から一人で感情の鬩ぎ合いを続けている。

 

 そうだ、もうひとつ。

 あの後輩は度々、千代美に食材を送っているし、今日もどうやら明太子を持ってきたらしい。それは、私の口にも入る事だろう。

 果たして今後、彼女が送ってきた食材を素直な気持ちで口に運べるか、甚だ不安だ。

 

 酒のせいだ。

 酒のせいなんだ。

 

 そう、思いたい。

 

「ペパロニ、今夜寝る所はあるのか」

「いやあ、それが実は」

 

 ぞわり、と髪が逆立つような、醜悪な感情が込み上げるのを感じ、慌てて聞き流すよう努める。

 先輩と後輩の二人が、当然の会話をしているだけだ。

 

 当然の会話をしているのだから、続く言葉も、当然。

 

「じゃあ、泊まってけ」

「すんません姉さん、ありがとうございます」

 

 ぞわり、ぞわり。

 

 拳に、要らぬ力が入る。

 

 その時、気の抜けるようなメロディと共に、お風呂が沸きました、というアナウンスが流れた。

 変に明るいその音声が場違いだと感じるのは、恐らく私だけだろう。

 

 まあ、ひとまず、助かった。

 

 千代美が立ち上がり、先に入るぞー、と言った。

 

「二人は酔ってるから風呂はあと。水でも飲んで、ゆっくり休んどけ」

 

 それと、喧嘩すんなよ。

 心なし憮然とした声で言い、千代美は風呂に向かった。

 

 ああ、少し怒っている。

 

 まあ、流石に喧嘩などする訳は無いとは思うが、私の機嫌が悪いのはお見通しだったようだ。

 全く、敵わない。後で謝らなくては。

 

「お見通しっすねえ」

 

 流石姉さんだ、と彼女が呟く。

 

 彼女は、千代美が居なくなったのを確認して、こちらに向き直った。

 緊張したような面持ちで、少し良いっすか、と言う。

 

「姉さんの事、千代美、って呼ぶんすね」

 

 高校ん時は『安斎』でしたよね、と彼女は言った。

 まさかそんな話を振られるとは思わなかったので、私はつい、いつもの癖で『んん』という、返事とも相槌ともつかない声を漏らした。

 

 言われてみれば、そうだ。

 今は『千代美』と呼んでいるが、確かに高校の頃は彼女の事を『安斎』と呼んでいた。

 

 呼び方を変えたのは、いつの事だったろうか。

 

「正直、焼きもち焼きっぱなしっすよ」

 

 すげー羨ましいっす、と付け足した。

 

 ああ、そうか。

 彼女は千代美の事を『姉さん』と呼んでいる。

 長らく先輩後輩の仲ではあるが、言い換えればそれは、未だに先輩後輩の仲から先に進んでいないという事。

 

 彼女は彼女で、私の事が羨ましく見えるのか。

 

 しかし、今日は随分と千代美に優しくされていたように思うが。そう言うと彼女は、姉さんは誰にだって優しいんすよ、と言って眉尻を下げた。

 

「姉さんは誰にだって優しいけど、その中でもまほさんは特別っす」

 

 あ、まほさんでいいっすよね、と彼女は一旦話を切った。

 彼女にとって『西住』と言えばみほの事らしい。

 

 ああ、そうか。

 千代美の後輩という見方しかしていなかったが、この子はみほと同学年なのか。

 好きに呼んでくれ、と返した。

 

 気を取り直し、彼女は途切れ途切れに話す。

 

「今日の姉さんね、まほさんの事、ずっと目で追ってました」

 

「いや、今日だけじゃないな、もっと、ずっとですよ」

 

「高校ん時から、ずっと」

 

「私は私で、ずっと姉さんの横顔を見てきたから分かります」

 

「姉さん、昔からしょっちゅう、まほさんのこと考えてました」

 

「だから焼きもち、焼きっぱなしなんすよ、私」

 

 私もそうだよ、という言葉が喉まで出掛かったが、寸での所で踏みとどまった。

 私の一時の嫉妬など、彼女のそれとは比較にならない。 

 

「でも今日、久し振りに会って、思いました」

 

「すげー、幸せそうだなって」

 

「そりゃ、そうっすよね」

 

「高校ん時から好きだった人と暮らしてるんすもん」

 

「焼きもちは焼きますけど、それ以上に、姉さんが幸せそうで良かったなって」

 

「本当に良かったなって、思うんすよ」

 

 今にも泣き出しそうな顔で、彼女はそう言った。

 

 恥ずかしい。

 申し訳ない。

 消えてしまいたい。

 そんな思考が頭の中を駆け巡る。

 

 何て誠実な子なのだろう。

 彼女の嫉妬は、あまりにも美しい。

 

「だからね、まほさん。あんまり姉さん困らせちゃ駄目っす」

 

 先の表情から打って変わって、彼女はにやりと笑う。

 

 なっ。

 

「ま、まさか、私の嫉妬に気付いて」

「バレバレっすよ」

 

 唖然とした。

 彼女の変わり様もそうだが、それ以上に。

 

 そう、か。

 隠しきれなかったか。

 

 自分は顔に出ない質だとばかり思っていたが、そんな事は無かったらしい。

 という事は、カチューシャ達にもバレてしまっていると思った方がいいのだろうか。

 

「ああ、いえ、カチューシャさん達はどうか分かんないっすよ」

 

 ただ私にだけはバレバレっす、と彼女は自信満々に言う。

 

「何故」

「何故って、言ったじゃないっすか」

 

 彼女は、諭すように先程の言葉を繰り返す。

 

「私はずっと、姉さんの横顔見てきたんすよ」

 

 姉さんの顔色を見れば、まほさんの機嫌だって分かります。

 事も無げに、そう言った。

 

「だから、私にだけはバレバレなんす」

 

 あんまり、姉さんにあんな顔させないで下さい。彼女はそう言って、私を睨む。

 

 ころころと、よく表情の変わる子だ。

 どれが本当の顔なのだろうと考えたが、恐らく全て本当の顔なのだろう。

 

 彼女はきっと今、私に対する感情がぐちゃぐちゃなのだ。

 それを彼女なりに順々に整理している、のだと思う。

 千代美を好きでいるために、私への敵意を整理しているのだろう。きっと。

 

 恐れ入った。

 この子は本当に、千代美の事が好きなのだ。

 

「まほさんもそうなんじゃないっすか。いい歳こいてただの後輩に嫉妬するくらい、姉さんの事が好き、なんすよね」

 

 確かに。

 言い方は癪だが、それは、全く、その通り。

 

「うん、私は、千代美のことが大好きだ」

 

 それは、何の衒いも無い事実。

 千代美の事が、大好き。

 

 そう言うと彼女は、あざっす、それが聞きたかったっす、と納得したように大きく頷いた。

 

「色々、変なこと言ってすんませんでした」

 

 姉さんの事、宜しくお願いします。

 姉さんの顔、正面から見ててあげて下さい。

 

 そう言って彼女は頭を下げた。この子は私などより、ずっと大人だ。

 彼女は彼女で、高校生の頃から抱え続けていた自分の気持ちに始末を付けたつもりなのだろう。

 

 後輩の鏡のような子だ。

 

 この子の為にも、なるべく千代美を困らせないように努めよう。

 そしてこの子、ペパロニと仲良くする努力もしよう。そう思った。

 

 思ったついでに、もうひとつ。

 千代美の風呂がいつもより長い、気がする。

 

「気がするって何すか」

「上手く説明できん」

 

 直感、としか言いようが無いんだ。



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(5/5)鬼一口の酒

鬼一口
鬼が人を一口で食べちゃうこと
「神隠し」に近い意味


【千代美】

 

 頭が痛い。

 心配しすぎかな。

 

 いや、でもなあ。

 

 風呂に入る前、まほとペパロニに『喧嘩すんなよ』と言い置いた。感じ悪かったかな。

 でも、言っとかないと不安だったんだよな。少なくとも、まほの機嫌は私が見る限り最悪だったし。

 シャワーを浴びながら、そんな事を悶々と考えている。

 

 まほはあれで、意外と独占欲が強い。

 私がペパロニと仲良くしてるだけで、まほの機嫌がどんどん悪くなっていってるのは、分かってた。

 でも、久し振りに会う後輩に優しくするくらい、なあ。

 

 心境は複雑だ。

 

 まほが独占欲を私に向けてくれてる事、それ自体は、まあ、嬉しい。

 嬉しいんだけど、今日みたいな場合は少し困る。

 

 でも、まほの独占欲がどういう理由で沸いてくるのかって考えるとな。

 勿論、黒森峰での、みほとのごたごたがトラウマみたいになってるのもあるだろうけど、もっと根本的なところだよな、きっと。

 

 甘えたくても甘えられない時期が長かったんじゃないか、と思う。

 戦車道を始める前、もっともっと幼い頃から『お姉ちゃんでしょ』と我慢させられる機会が多かったんじゃないかなあ。

 

 想像に過ぎないけどさ。

 

 ただ、そういう事を考えちゃうと強く言えないのも確かで。

 もっと言うと、甘えさせてあげたくなるし、甘えられると嬉しいし。

 そうそう、嬉しいと言えば。さっき、まほが私の料理を優先して、お菓子に手を伸ばさなかったのは嬉しかった。ああいう所、ほんと好き。

 

 でもまあ、ちょっとは叱らないと駄目なのかな。

 

 うーん。

 あの二人、喧嘩してないといいけど。

 

 あー、頭が痛い。

 

 

 

 

 ぐらり。

 

 

 

 

 ぱち、と目を開く。

 

 頭が痛い。

 辺りを見回す。どうやら私はリビングのソファに寝かされている、らしい。

 身体を起こすと、まほとペパロニが声を掛けてきた。

 

「起きたか」

「姉さん、大丈夫っすか」

 

 何があったんだろう。

 

「千代美が遅い、ってまほ姉さんが言うもんだから様子見に行ったら、ぶっ倒れてたんすよ」

「ええ、怖っ」

 

 記憶を辿る。

 

 カチューシャ達が帰ったあと、ペパロニと少し話して、風呂に入って、シャワーを浴びながら悶々と考え事してて。

 ああ、そこで『ぐらり』と来て、そのあとの記憶が全く無いんだ。

 

 疲れてるのかなあ。

 ずきん、と頭が痛む。

 

「私もペパロニも覚えは無いが、もしかしたら千代美も酒を飲んでたんじゃないかと話してた所だ」

「飲んでないぞ、お酒なんて」

 

 飲んでない、筈だけど。

 

 あ。

 

 そう言えば飲んだ。

 一口だけ飲んだぞ、さっき。

 

「やはりそうか」

 

 一体いつの間に飲んだんだ、とまほが呆れた顔をする。

 は、腹立つなあ、こいつ。覚えてないのか。

 言ってやろうかな、お前に口移しで飲まされたんだぞって。いや、ペパロニが居なけりゃ言ってる所だ。

 

 って言うか、なんだ。私が風呂に行く前はちょっとギスギスして見えたのに、二人とも打ち解けたのか。

 

「まあまあ」

「ええー、まあまあっすかあー」

 

 そりゃ無いっすよー、と不満げに言うペパロニ。

 すまんすまん、と笑うまほ。

 

 なーんだ、何があったかは知らないけど、打ち解け始めてるじゃないか。心配すること無かったな。

 あー、それなら雰囲気が良い内に話しちゃおう。ペパロニが寝る部屋のこと。

 

「あ、私は寝室とは別の部屋がいいっす」

「別の部屋『が』いいのか」

 

 なんか含みがあるな。

 そう言うと、ペパロニは照れたように、うへへと笑う。

 

「いやあ、邪魔しちゃ悪いかなって」

 

 言って、ペパロニは右手で口を覆って、顔を背けた。

 へ、変な気を回すな酔っ払いめ。

 

「姉さん、今日は全員酔っ払いっすよー」

 

 まあ、それは確かに。

 まほとペパロニは元より、結局、私まで酔ってたからな。

 

 それにしても一口で酔っ払うもんかなあ。

 もしかしてあれ、強いお酒だったんだろうか。

 

「度数は高かったな」

「四十っす」

 

 アホか。

 

 まあ、美味しかったけど、弱い奴が飲む度数じゃないな。

 隣に顔を出さなくてよかった。一口で参るようなお酒、グラスで飲まされたらどうなるか分かったもんじゃない。

 

 っていうかお前らも、よく無事だったな。

 

「潰れたっすけどね」

「私も短時間だが記憶が無い」

 

 う、うん。

 そりゃそうか。

 

「お前ら、風呂は明日にしろよ」

「そうする」

 

 すると突然、ペパロニが、あっと声を上げた。

 

「どした」

「ダーさん、大丈夫っすかね」

 

 それを聞いて、私もまほも同時に『あっ』と声を上げ、顔を見合わせた。

 話を聞く限りでは、ダージリンとカチューシャは、まほやペパロニよりも飲んでる筈。カチューシャには素面のノンナがついてるけど、ダージリンは一人だ。

 

 これって緊急か。緊急と言えば緊急だよな。

 奇しくも、さっきダージリンが使った言い回しが頭をよぎる。

 

 様子を見ておこう。

 

 三人でぞろぞろと隣の部屋へ。

 ひとまずインターホンを鳴らしてみたが返事が無い。寝てるのかな。まあ、寝てるならいいんだけど。

 

「湯を使ってるな」

 

 あ、本当だ。

 

 ごおー、という音を起てて玄関脇のガス給湯器が動いている。こういうのって意識しないと気が付かないもんなんだな。音はでかいのに。

 まほ、よく気付いたな。

 

「んん」

 

 うん。

 

 じゃあ、お風呂か。

 丁度いいというか、何というか。

 

 ごめんなダージリン、と心の中で謝って、鍵を使って中に入った。

 リビングの灯りは点いているけど、そこにダージリンの気配は無く、シャワーの水音だけが聞こえる。やっぱりお風呂だ。

 

 シャワーの水音だけが聞こえる。

 

 他の音がしない。

 

 あ、やばいかも。

 

「倒れてるか、その、耽ってるかのどっちかっすよね」

「下世話なことを言うな」

 

 ま、まあ、無くはないけど。

 

 とりあえず脱衣所からお風呂の扉の曇りガラスを覗いた。

 人影が見える。倒れてはいないけど、動いている様子も無い。

 

 ダージリン、と声を掛けたが返事が無い。ノックにも反応が無い。

 ずい、と割り込んできたまほが扉を乱暴に開けた。

 

「ああ」

 

 ダージリンはお風呂の椅子に座ったまま、頭を抱えるような姿勢で眠っていた。

 

 眠ってる、だけだよな。

 解いた濡れ髪が垂れていて、表情は読めない。

 

「おい、ダージリン」

 

 まほがダージリンの頬をぴしゃぴしゃと軽く叩くと、ダージリンは『ううん』と小さく唸った。

 よかった、生きてる。

 

 まほが短く、運ぶぞ、と言った。

 

「ペパロニ」

「はいっす」

 

 まほがダージリンの腋に手を差し込んで抱き上げ、ペパロニが手早くその体を拭く。

 ああ、さっき私もこうだったのか。二人の手際は明らかに経験者のそれだった。

 

「千代美より軽い」

「髪が重いんすよ、姉さんは」

 

 冗談みたいな会話を交わす余裕もあって、とても頼もしい。

 

 ややあって、ダージリンの部屋のリビングで、目を覚ました彼女と話している。

 彼女がお風呂で眠り始めてからいくらも時間が経っていなかったらしく、大事には至らずに済んだ。

 

「ごめんなさい、助かったわ」

 

 ダージリンは、お風呂に入った記憶すら無いらしい。

 じゃあ、どこまでなら記憶があるのか。彼女はこめかみに手を当てて考える。

 

「テレビの出演者達がバスに乗せられて、ガースー何とかって建物に」

「序盤かよ」

 

 記憶が飛んでからの方が長いのか。無茶な飲み方してたらしいからなあ。

 

 部屋を見回すと、それらしい酒瓶が転がっているのが目に付いた。

 蓋を開けると、覚えのある桜の香りがした。瓶の中に一本入っている草が香りの元なのかな。

 ともあれ間違いない、このお酒だ。

 

 中身は一杯分くらい残ってる。

 飲み干してなかったんだ。

 

 いや、こんだけ飲めば十分か。

 

「もう瓶を見るのも嫌よ。貴女達にあげるわ」

 

 うんざりした顔で、ダージリンが言う。

 

 正直、こっちだって貰っても困るけど、と思ったら、まほがちょっと嬉しそうにしてる。まあ、そういう事なら貰っとくか。

 んじゃ、時間も時間だし引き上げよう。

 

「あ、私、今夜こっちで寝てもいいっすか」

 

 ダーさん心配なんで、と急に思い付いたように、ペパロニが言った。

 まあ、心配なのは確かだけど、本当にそれが理由だろうか。

 

 すると、ダージリンは何かを察したように、にやりと笑い、あっさり了承した。

 

「助かるわ、是非そうして頂戴」

「あざーっす」

 

 ペパロニはどうか知らないが、ダージリンの笑顔にはまず間違いなく裏がある。

 ううん。結局、気を回されたか。

 

 そんな訳で、にやにやしたダージリンとペパロニに見送られ、私達は一杯分のお酒を持って部屋に戻った。

 あれだけ賑やかだったのに、二人きりになると静かなもんだな。

 

 さてと。

 

「千よみぐっふ」

 

 後ろから声を掛けてきたまほを振り返らず、腹に肘を入れてやった。

 なに焼きもちなんか焼いてんだ、ばか。

 

 まほは『んん』と唸り、腹を擦りながら弁解する。

 

「私はまだ、千代美の事を全然分かってないから」

 

 千代美の事をしっかり理解しているペパロニが羨ましかったんだと思う。

 そう言って、まほはまた腹を擦った。あ、結構いい所に入ったんだ。

 

「うん、鳩尾」

「ごめん」

 

 それは、ごめん。

 

 私の方こそすまん、とまほも謝った。

 

 はあ。

 

 でもまあ、そういう理由なら、まほだって私の事をよく分かってると思うぞ。それこそ、ペパロニに負けないくらいさ。

 

「そうだろうか」

「うん。私がお風呂で倒れた事に気付いてくれたじゃないか」

 

 それは、直感としか言いようが無い、とまほは自信無さげに言う。

 

 ばかだな。ゲゲゲのなんちゃらじゃあるまいし、直感なんてそうそう無いよ。

 あれにはちゃんと理由があるぞ。

 

 そうだろうか、と全く同じ言葉を繰り返すまほに、ため息が出た。もっと自信持てよ、私の好きな人。

 

 あのなあ。

 

「お風呂ってさ、大体やることの順番が決まってるだろ」

 

「だから、音の順番も決まってるんだ」

 

「まほは毎日その音を聴いてるから、無意識に順番ごと記憶してるんだよ」

 

「まほが異変に気付いたのは、いつもの音が聴こえなかったからだろ」

 

「料理の味の違いに気付くのと一緒でさ」

 

「いつもと違うから気付いたんだよ」

 

 捲し立てた。

 

「そっか」

「そう」

 

 そこまで言って漸くまほは表情を和らげた。

 全く、手の掛かる人を好きになっちゃったなあ。

 

 それじゃ寝るぞ、と言って寝室に向かおうとすると、まほがそわそわし始めた。

 

「えっと、千代美、その酒」

 

 吹き出しそうになるのを堪える。

 まだ少しだけ、怒った顔をしていたいから。

 

 そんなに飲みたいのか、と訊くと、まほは素直にこっくりと頷いた。可愛い。

 まあ、丁度よく明太子もあるし、炙ったやつで一杯やったら最高だろうなあ。

 元々、一杯分くらいしか残ってないから飲みすぎる事もないし。

 

 でも駄目だ。

 

「えっ」

「駄ー目」

 

 露骨にしょんぼりするまほ。

 ごめんな。お仕置きとかじゃなくて、これにはちゃんとした理由があるんだ。

 まほがお酒を飲んだら、キス出来ないだろ。

 

 そう言うと、まほはその意味を少し考えて、ハッと顔を上げた。

 

「ち、千代美、もしかして、さっき言っていた『一口』というのは」

 

 そういう事だよ、と頷く。

 自分が何をやったのか段々と思い出してきたらしい。まほの顔が徐々に赤くなる。

 

「キスよりお酒の方が良いなら明太子炙ってやるけど、どうする」

 

 そう問い掛けると、まほは顔を両手で覆い、消え入りそうな声で、キスがいいです、と言った。

 

 そうじゃないだろ、とわざと素っ気なく返す。

 まほは、言い回しも思い出した筈だ。私はそれが聞きたい。

 あれ、めっちゃ可愛かったから。

 

「うう」

 

 顔を両手で覆ったまま、まほはいやいやをするように頭を振る。もう、耳まで真っ赤だ。

 私は、黙ってその様子を眺めている。

 

 可愛いぞ。

 まほ、超可愛い。

 

 やがてまほは、観念したように声を絞り出す。

 

「ちゅー、して」

 

 えへへ、しょうがないなあ。

 私はゆっくりと、まほの首に腕を絡めた。

 

 いっぱい、相手して貰うからな。



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飛縁魔の手

飛縁魔
人を駄目にする女
現代にもいっぱいいる


ぽかぽかして気持ちの良い、午前の陽光が寝室に射し込んでいる。すっかり暖かくなったなあ。

 ひねもすのたりのたりとは正にこのことで、私は今、寝起きでもないのに布団の上でごろごろしている。ひねもしている。こんなにひねもすのは、どれくらいぶりだろうか。

 

 まあ、『ひねもす』の使い方間違えてるんだけど。

 

 面倒くささで言ったら勿論、冬の方がしんどいんだけど、冬は逆に『動かなきゃ』って気分になるから動ける。

 春にはそれが無い。ひねもす。

 

「あー、ひねもすー」

「おい邪魔だぞ」

 

 掃除機が掛けられないじゃないかと、まほに邪険にされた。

 えへへ、怒られちゃった。

 

 何をにやにやしてるんだか、と呆れるまほ。

 

「それにしても珍しいな、千代美がごろごろしてるなんて」

「春はひねもすんだよ」

 

 『ひねもす』の使い方はそれで合ってるのか、とまほに突っ込まれたので、間違ってるよ、と答える。

 仕方ない奴だと笑われた。

 

 そうそう、私は仕方ないんだ。

 

 どけどけ、吸うぞ、と言ってまほは本当に私の服の端に掃除機を当てた。

 ぎゃあ、やめろー。

 

「まほもひねもそうよ」

「掃除中だ」

 

 素っ気ないやつめ。

 いいじゃんちょっとくらい、と甘えてみせる。

 

 ん、と言って両手を差し出した。

 このジェスチャーには意味が二通りある。『引っ張って起こしてくれ』と『おいで』だ。全く同じジェスチャーなのに真逆の意味になる。でも、不思議と通じる。

 まほは根負けして、仕方ないなという風にため息をついて、掃除機の電源を切った。私の勝ちだ。

 

 えへへ、おいでおいでー。

 

「少しだけだぞ」

 

 その口ぶりが可笑しくて、また顔がにやける。

 

「どうした」

「なんか、いつもと逆だなと思ってさ」

 

 私は普段こんなに手が掛かるのか、とまほは、さも心外だと言う風な顔をする。

 どうだったかなー、ととぼけた。

 

 焼きもち焼きで、甘えん坊。

 意外と偏食。っていうか、子供舌。

 夜は凄い。なかなか勝てない。

 口下手だから言葉がストレートで、たびたびドキッとさせられる。

 笑うと可愛い。笑わなくても可愛い。

 

 うん、全然手の掛からない、良い子だ。

 

 隣にまほが寝転がり、ああこれはひねもすなあ、と穏やかな声を出す。

 そうだろう、そうだろう。広げた腕をまほの首に絡め、抱き付いた。

 

 ふと、何かに気が付いたようにまほが怪訝そうに片眉を上げる。

 

 器用な表情が出来るようになったもんだ、なんて思う。そんな私には構わず、まほは私の手を取り、自分の頬に当てる。

 何だよもう、恥ずかしいな。

 

 私の手に頬擦りをするようにして、まほは、千代美、と固い声を出した。

 

「なんだよ」

「熱がある」

 

 えっ。

 

 そんなまさかと思ったけど、言われてみれば確かに怠いような暑いような、そんな気もする。

 でもこれは、ひねもしてて体が暖まっただけだと思うぞ。そう言うとまほは呆れた顔をして、いいや違う、と突っぱねた。

 

「日頃からお前を抱いてる私が『いつもと違う』と言ってるんだ」

 

 間違えるものか、と自信満々に言う。

 ま、また不意討ちでそういう恥ずかしい事を。

 

 体温計を取ってくるからちょっと待ってろ。そう言って、まほはぱたぱたと小走りに部屋を出て行った。

 ややあって。体温計を手にし戻ってきたまほは、私の顔を見るなり言う。

 

「真っ赤じゃないか」

「う、うるさい。まほのせいだ」

 

 何を訳の分からない事を、と言ってまほは私の服に手を掛けた。

 

「やああ、乱暴にしないでー」

「寸劇はいいから」

 

 まほは手早く私のブラウスのボタンをぷちぷちと片手で外し、あっという間に胸をはだけさせた。

 待って待って待って、上手い。なんか腹立つ。

 

 やはり熱いぞ千代美、とまほは私の胸元に直に手を当てて言う。

 

 ほら計れ、と体温計を手渡された。

 なんだか物凄く悔しいけど、逆らっても仕方ない。渋々と腋に体温計を挟む。あー、冷たい。

 

 計っている間、まほ先生の問診。

 

「ゆうべは普通だったんだがな」

「まあ、そうだな」

 

 思い返してみると、怠いのは起きてからだ。

 

 季節の変わり目って弱いんだよな。

 最近はそんなことなかったんだけど、油断したかなあ。まほの言う通り、ゆうべまでは普通だったんだ。

 

 ゆうべ。

 

 あっ。

 

「まほ、正座」

「はい」

 

 素直か。

 

 背筋まで伸ばしてる、見本のような正座だ。

 まあ、そりゃそうか。まほも私が体調を崩した理由に思い当たったんだろう。

 

 やっぱり、まほのせいじゃないか。

 

「ゆうべ、その、仲良くしたあとさ、誰かさんが『もうこのまま寝よう』って言ったな」

 

「はい」

 

「服、着たほうが良かったよな」

 

「はい」

 

「なんか言うことありませんか」

 

「ごめんなさい」

 

 よろしい。

 ぴぴぴ、と体温計が鳴る。

 

 うん、熱だ。

 

 こりゃ、今日は寝て過ごすしか無いか。

 図らずも『ひねもすのたりのたり』を余儀なくされてしまった。

 つまり、ひねもす(終日)、のたりのたり(のたりのたり)。

 

 まあ、こうなってしまったら、しょうがない。今日が土曜日なのが不幸中の幸いかなあ。

 とりあえず一日寝てれば明日には回復するだろ。たぶん。

 

「心配するな千代美、看病は任せろ」

 

 あっ、うーん。

 

 それはちょっと、どうだろう。



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手の目の宵

手の目
掌に目が付いている盲人の怨霊


「とにかくゆっくり休むことだ。何かあれば遠慮なく呼べ」

「ううー」

 

 千代美が体調を崩した日の晩。千代美に粥を食べさせた後、洗い物だけでもやらせろと頑張る千代美を寝かし付けた。まだ唸っているが、水仕事などさせられるか。

 抵抗する力がいつもより少しだけ弱かったのが、彼女が衰弱している証左のような気がして胸が痛む。早く元気になって欲しい。

 そんな事を思いながら、明かりを消して寝室を出た。

 

 軽く肩を回して、千代美に聞こえないように静かにため息をつく。今日は一日中、家事に看病にと奔走したお陰で少し疲れてしまった。

 日頃は千代美と等分している家事を何だかんだと一人でこなした事に関しては、然程の苦ではなかった。多少、手こずりはしたが、まあその程度だ。体力には自信がある。

 

 正直に言えば、家事などよりも千代美の看病で骨が折れた。

 

 千代美は、私が一人で家事をこなしてしまった事が少なからずショックだったらしい。体調のせいで神経も参っているのだろう。彼女は『私いらないじゃん』などと言って泣き出してしまったのだ。

 それを宥めるのが今日一番の仕事だったと言っていい。

 

 要らない訳があるか。

 お前が必要で、ゆっくり養生して欲しいから一日走り回ったんだぞ、私は。

 

 そして、そんな理由で泣いている千代美に私が作った夕飯を食べさせるのがまた大変だった。

 作ったと言ってもレトルトの粥を暖めて梅を載せただけなのだが、そのお陰で出来も見映えも味もそれなりに良くなってしまったのがまたお気に召さなかったらしい。と言うか最早、理屈などどうでもよくなってしまっているのだろう。あの分ではカップ麺でも泣き出すかも知れない。

 

 そんな千代美を何とか宥め、食べさせ、寝かし付け、今に至る。ため息も出る。正に、お疲れさまだ。

 まあ、千代美の体調に関しては油断すべきではないのかも知れないが、とりあえずは一段落と言ってもいいだろう、流石に。

 

 治ったら存分に家事をさせてやる。ご飯も作らせる。

 千代美に合わせて私も梅粥で済ませたが、さっぱり食べた気がしない。さっさと治して美味しいご飯を作って貰いたいものだ。

 などとぶつぶつ言いながら洗い物と風呂を手短に済ませ、寝室へ。

 さあ寝るぞ。

 

 私の布団は既にベッドの脇に敷いてあるので、明かりを点ける必要は無い。足の感触で布団を探り当て、潜り込んだ。

 

「まほ」

「ん」

 

 真っ暗闇の中で千代美の声が聞こえた。

 悪い事をしたな、起こしてしまったか。

 

 ううん大丈夫、と千代美が言葉を続ける。

 

「今日はごめん。ありがとう」

 

 嬉しい言葉。

 頬が緩むのを感じた。

 

 その一言が聞けただけでも、走り回った甲斐があったというものだ。

 真っ暗でよかった。千代美といえど、礼を言われてにやにやしている顔を見られるのは恥ずかしい。

 

「気にするな。何だってしてやりたいんだ」

 

 そう言ってやると、すんすんと小さく洟を啜る音が聞こえた。泣き虫め。

 

 さて、そうだな。まだ何かして欲しい事があるなら今のうちに言って貰いたい。

 まあ眠ってしまってからでも何かあれば起こしてくれて構わないんだが、千代美が気後れしそうだ。

 

 何かあるか、と訊いた。

 

「あ。じゃあ、えっと、着替えたい」

「ああ」

 

 そうか。千代美は一日寝ていたのだ、汗もたっぷりかいた事だろう。

 着替えのついでに体も拭いてやらないとな。

 

 布団から這い出し、明かりのスイッチを手探りする。

 

「点けるぞ」

「うん」

 

 明かりを点けると、泣き腫らした目をした千代美の顔が見えた。なんて顔をしてるんだ、こいつは。

 思わず頭を撫でてやると、千代美の髪にはいつものふわふわとした感触は無く、汗と脂でべたついているのが分かった。全く、何から何まで痛ましい。

 本当に何でもしてやりたくなる。

 

 さあ、もう一仕事だ。

 

 ひとまず替えのパジャマを出し、風呂場に向かう。

 洗面器に湯を張り、タオルを何枚か掴み、足早に寝室に戻った。

 

 千代美のパジャマを脱がす。

 冷えるといけないから手早くやるぞ。ちらと時計を見て、タイムを測ってみることにした。

 

 長い髪を体の前に回させ、千代美の背中を露にする。

 染みひとつ無い、呆れるほど美しい白い背中だ。私のような筋肉質の背中とは全く違う、とても滑らかな、女の背中。嫉妬する気すら失せる。

 タオルを絞り、丹念に拭いていく。

 

「熱くないか」

「うん、大丈夫。えへへ」

 

 何を笑ってるんだか。

 まあ、泣かれるよりはずっと良いか。

 

 順々に拭いていく。

 触れるのも戸惑うような華奢なうなじ、抱き心地の良い肩、意外に力のある細い腕。特に汗が溜まっているであろう腋。

 案の定、つんとした酸っぱい匂いが鼻を擽ったが、嫌いな匂いではない。

 むしろ、いや、変な事を考えるのは辞めよう。

 

 次は前。

 千代美の体を正面から見据えると、思わずため息が漏れた。本当に、本当に綺麗な体をしている。弱っているせいで、どこか儚げな雰囲気を纏っているのがまた愛おしい。抱き締めてやりたい衝動がむらむらと沸き上がる。

 いやいや、そんなことを考えている場合ではない。見蕩れるのはまた今度だ。気を取り直し、またタオルを絞る。

 

 何か変だな、疲れてるのだろうか。

 いやまあ、疲れてはいるが。

 

 ふたつの膨らみの間の薄い胸板や、膨らみの裏側など、胸にもよく汗が溜まる。まあ千代美の胸は掌に収まる程の小ぶりなものだから、そこまで汗が溜まってはいないかも知れないが、それはそれ。丁寧に拭いてやらないとな。丁寧にな。仕方ない仕方ない。

 乳房の周りを拭いていると、流石に恥ずかしいのか、それとも単にくすぐったいのか、千代美が『ううん』と鼻の奥で唸り、体を捩った。

 柔らかい、形の良い千代美の胸がふるふると揺れ、それに合わせて可愛らしい桜色の突起も揺れる。

 

 嗚呼。

 

 胸から下へ行くと、うっすらと肋骨が浮いているのが分かる。基本的に華奢なのだ。

 さらに下へ行けば、私の大好きな濃い目の茂みが収まっているショーツが目に入る。私はあまり飾り気の無いスポーツタイプのものばかり選ぶが、千代美はフリルのついている、ひらひらした下着を好む。

 千代美自身の趣味は元より私に見せることも想定して買い物をしているのだと気が付いた時、たまらなく愛しくなってしまい、危うく下着売場で抱き締めるところだった。

 ここも例に漏れず汗ばんでいる。あとで手に入、もとい、替えてやらなくては。

 

 そして脚。

 ああ、脚。

 

 一日布団の中で蒸れていた太股、膝裏、ふくらはぎ。

 実に、実に、ああ。

 

「ちょ、ちょっと、まほ」

 

 はっと気が付くと、私は千代美の足の指の股まで拭いていた。

 流石にそこまでする必要は無いと分かる。

 

「すまん、つい夢中になった」

「すけべ」

 

 時計を見るとジャスト三分。上々だろう。

 もそもそと千代美を着替えさせ、洗面器とタオルを片付けて明かりを消す。

 真っ暗闇の中で、千代美の『ありがと』という憮然とした声が聞こえた。こちらこそ。

 

「お休み」

「おやすみ」

 

 うん。

 

 少し、耽ってから眠ろう。

 

 真っ暗でよかった。



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天邪鬼の嘘

天邪鬼
素直じゃない人を指して言うこともある


 先日の千代美に続き、今度は私が熱を出した。

 伝染ったにしては日が開いているので、単に自己管理がなっていなかったと捉えるほか無さそうだ。全く情けない。

 

 おかしいなと感じたのは昨日の昼頃。

 どうも顔が熱く、頭がぼんやりとする。それでもとりあえずは一日を過ごし、帰りに病院に寄って診てもらうと、見事に熱が出ていた。

 口は悪いが腕が良いと評判の医者の卵は『マホーシャでも体調を崩したりするのね』と笑い、寝てれば治るから明日は休めという有り難いアドバイスと、何種類かの飲み薬を寄越した。

 

 しかし折の悪いことに今日は平日。私は医者の言うことを聞いて休みを取ったが、千代美はそういう訳にも行かない。

 彼女は先日のお返しとばかりに私の看病をしたがっていたが、まさか『まほの看病をするために休みます』という訳にも行かないだろう。

 

「ごめんなあ、なるべく早く帰るからさ」

「あまり心配するな。行ってらっしゃい」

「うん、行ってきまーす」

 

 ご飯の作り置きだけは抜かり無く済ませ、千代美は渋々出勤して行った。

 さて、今日は一人で一日お留守番だ。

 

 千代美は矢鱈と心配していたが、一人もたまには悪くないなと気楽に考えているというのが正直な所。

 しんどくなったら誰か呼べと言われたが、しかし援軍を呼ぼうにも平日の明るい時間に捕まえられる友人と言えば、どこぞの瘋癲(ふうてん)くらいのものだ。あれを呼んだところでどうなるものでもない。どころか逆に飯をたかられる可能性がある。

 それならば一人で夕方まで眠っていた方が幾分かましだろう。それはそれで気楽な事なのだ。降って沸いたような休日、ゆるりと休むとしよう。

 

 布団の上でごろごろしながら考える。

 急いで済ませたい家事も今日のところは特に無い。買い物は言わずもがな千代美がするし、掃除や洗濯も一日くらい怠けたところで然したる影響は無いだろう。

 と言うよりも恐らくは、どんな些細なことでも、この体調で家事をやったら千代美が帰って来たときに叱られてしまう。『ちゃんと寝てなきゃ駄目じゃないか』なんてな。

 謂わば私は今、叱られない為に怠けているという事になる。

 

 とは言え、そうなると眠るぐらいしかやる事が無い。先程から『大人しく寝てろ』という至極真っ当な結論から目を逸らし続けているが、そろそろ限界だ。

 しかし、さっき起きたばかりで大して眠くないのもまた事実。とりあえずごろごろしてみてはいるが、眠気のねの字もやって来ない。そこを押して眠れというのも無体な話じゃないかと思う。

 

 何だろう、このテンションは。本当に私は体調を崩してるんだろうか。急に自由時間が出来た事に少なからず高揚しているみたいだ。

 まあ、そうは言ってもする事が無い。テンションを上げたところで遣り場が無い。思考が『寝ろ』『眠くない』『暇』という実に不毛な堂々巡りをしている。

 苦肉の策としてテレビを点けてみると、何故かこんな時間に小学生向けの教育番組を放送していたので、少しは暇潰しになるだろうかと思い、暫し見入る。

 

 二時間潰れた。

 

 私は何をやってるんだろうか。大卒なのに。

 いや、しかし、とても面白かった。小学生向けというだけあって、すごく分かりやすい作りになっていて、なんだかすごく為になった。大卒なのに。どうしよう、余計にテンションが上がってしまった。

 この興奮をとりあえず千代美に伝えるべくメッセージを送ってみたところ、すかさず『寝ろ』という返信が来た。最もだ。

 

 大人しく布団に戻ったが、一向に眠くならない。

 何かこう、眠らないまでも横になったまま出来る暇潰しがあればなあ。再びごろごろしながら考える。

 

「あ」

 

 そうだ、そう言えばうちには山のような量の小説があるじゃないか。たまには読書でもしよう。

 早速、千代美に『本を借りるぞ』と連絡すると、即座にあれを読めこれも読めと都合十冊ほど勧められた。さっきの対応とえらい違いだ。

 しかし十冊は無理だ。とりあえずは、勧められた中で特に目を引いた『百器徒然袋』の続編を借りる事にした。あれの一作目を冬に読まされたが、なかなか読みやすくて面白かった。続編があったとは。

 千代美の本棚から目当ての本を引っ張り出し、布団に潜り込んで読み始めると、二分ほどで眠くなってきた。

 

 なんだか私の頭が悪いみたいで物凄く釈然としないが、今は眠ることが何より肝要である事を思えば、まあ眠ってしまうのが一番だろう。

 なんだかんだで身体は休養を欲していたらしい。瞼を閉じると、意識はいとも簡単に睡魔の餌食となった。

 

 朦朧とした意識の中で、なんだか懐かしい感じのする夢を見た。

 

 ぱたぱたと人の立ち働く音が聞こえる。何やら忙しそうな音だ。

 千代美が帰って来たのかとも思ったが、跫(あしおと)が違う。

 誰かが来たのかと思い瞼を開くと、そこには何故か、 が居た。

  は私の寝顔を覗き込むようにして、私の額に掌を当てている。

 ああ、熱を見ているのか。 の掌が少し冷たくて気持ちが良い。

 私と目が合った は、とても優しい声をして諭すように言った。

 

「まほ、これは夢よ」

 

 何だ夢かと素直に納得した。夢だからこんな所に が居るのだ。

 という事は、さっきから聞こえる跫は  さんのものだろうか。

 その事には構わず、 は私に、少し奇妙な質問をぶつけてきた。

 

「楽しくやっているかしら」

 

 はい、と間髪入れずに答えたつもりだが、上手く声が出せない。

 ぱくん、と動いた私の唇を見て、 は安心したように微笑んだ。

 

「善かったわ」

 

 ゆっくりお休みなさい、と言われ、私はまた素直に目を閉じた。

 

 目が覚めると外の景色はすっかり夕方で、千代美が作っていった昼ご飯を食べないまま眠り続けてしまった事に、自分の事ながら驚いた。しかし身体が随分と楽になっているのを感じる。やはり睡眠は偉大だ。

 枕元に転がした小説を手元に引き寄せぼんやりと読んでいると、玄関が開く音と共に『ただいまー』という千代美の声が聞こえた。ああ、安心する声だ。

 

 しかし幾らも経たないうちに、何故か千代美は血相を変え寝室に怒鳴り込んできて私を叱りつけた。

 

「ちゃんと寝てなきゃ駄目じゃないかっ」

「寝てたぞ」

 

 何も叱られるような心当たりの無い私は千代美に真っ向から反論したが、どうにも聞く耳を持ってくれない。

 理由を訊くと、家事が粗方やってあるというのだ。

 

「掃除も洗濯もしてあるし、花瓶の花まで替えてある」

 

 寝てないどころか花なんか買いに出掛けたのかと叱られたが、全く心当たりが無い。

 私は本当に、千代美に連絡して以降はずっと布団に入っていたのだ。

 

「じゃあ誰かを呼んだってのか」

 

 ううむ。

 確かに千代美は今朝、家を出る前に『しんどくなったら誰か呼べ』と言った。しかし平日の明るい時間では呼べてもミカだという事に、千代美も後から気が付いたらしい。

 家事を済ませた上、ご飯にも手を付けていないとなればミカの仕事ではあり得ない。そもそもミカなど呼んでいない。

 

 いや、もしかしたら無意識にでも誰かを呼んだのだろうか。熱で朦朧としながら、誰かを。

 なんだか自信が無くなってきた。家事がやってある以上、誰かが来たことには間違いない。来たとすれば私が呼んだのだ、たぶん。

 

「スマホの発信履歴でも見てみろよ」

「ああ、そうか」

 

 言われて暫く探したが、そのスマホが見付からない。

 千代美に鳴らして貰うと、スマホは枕の下にあった。

 では矢張り、私は無意識に誰かを呼んだという事か。

 千代美と一緒に履歴の画面を見て、一緒に青褪める。

 

 発信履歴の一番上には『西住しほ』とあった。



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雪女の理

雪女

ゆきおんな

ダージリン視点


『昔、ある歌手は、遠くへ行きたいと歌って喝采を浴びたが、遠くへ逃げたいと歌うぼくを、』

 

 それ以降は聞き取れなかった。

 ぼそぼそとした声ね。台詞と言うよりは、ただのぼやきのような声だったわ。

 

 演奏が始まり、『どこか遠くへ逃げよう』と歌手が歌う。

 

「今の状況にぴったりじゃない」

「うるさいわね」

 

 カーステレオから流れる歌を助手席のカチューシャが揶揄し、私はそれに口答えをする。喧嘩をしている訳ではなく、単に口が悪いだけ。

 口の悪い彼女と話していると、自然とこちらまで言葉選びが荒くなってしまう。

 図星だと、尚更。

 

 気が滅入っている時に気分転換で遠出をするというのは、やっぱり逃げなのかしらね。

 そんなことを考えて、また滅入る。

 

「逃げも戦術のうちですよ」

 

 態勢の立て直しを図るための一時撤退です、と運転席のノンナは言う。

 そんな事は分かってるわよ、と反射的に返しそうになり、押し黙った。我ながら、言ってる事が滅茶苦茶だわ。

 

 諭されたような形になった私は、後部座席で口をへの字に曲げて不貞腐れている。

 気が滅入っているとは言うものの、大した理由がある訳でもない。

 

 周期的なもの。

 毎月のこと。

 

 付き合いの長いカチューシャはその『周期』を知っていて、それで私が不安定になる事も知っている。だからこそ出掛けましょうよ、と言って彼女が私を連れ出したのが今朝の話。

 私達は今、ノンナのハイエースに乗せられて高速道路をひた走っている。

 

 そんな経緯だから、私が不貞腐れているのは礼儀的に非常によろしくないのだけれど、こればかりは、どうにもこうにも。

 幸いにも二人がそれを心得てくれているので、奇跡的に車内の雰囲気は悪くならずに済んでいる。

 

「そう言えば、この車は何処に向かっているのかしら」

「特に目的地はありませんよ」

 

 へっ、と間の抜けた声を出してしまった。

 とりあえず私を連れ出す事だけが目的で、事前にどこそこへ行こうという話すらしていなかったとか。

 

「たまには悪くないでしょ、ただぼうっと音楽を聴きながら走るのも」

 

 暢気に言うカチューシャに、まあそうね、と憮然と答えた。

 音楽に耳を傾けると、歌手が『俺にカレーを食わせろ』と歌っている。もうちょっとマシな音楽なら良かったのに。変な歌ばっかりね。

 

「名盤ですよ」

「そ、そう」

 

 有無を言わせない雰囲気のノンナに若干たじろいで、大人しく歌を聴くことに。

 朝っぱらから連れ出され、高速道路で変な歌を聴かされている現状は、果たして『悪くない』のかしら。

 よく分からない。

 

 カレー、か。

 

 カレーと聞いて、誰かさんを思い出す。

 まあ、彼女は実際にカレーが好きという訳ではないらしいけれど、一時期はカレーと彼女をイコールで結ぶ風潮が確実にあった。その名残。

 

「カレーと言えばマホーシャ、なんて考えてるんじゃないの」

 

 またも図星。

 カチューシャの察しが良いのか、私が分かりやすいのか。両方かな。

 

 私は、まほさんのことが好き。

 私の部屋の隣に、千代美さんと一緒に住んでいる、まほさんのことが好き。

 

 カチューシャはそれを知っていて、その流れでノンナにもバレて。

 段々と逃げ場が無くなっていくのを感じる。

 

 でもね。

 好きとは言っても、私は千代美さんからまほさんを奪おうなんて気持ちは毛頭無い。

 まほさんの幸せな横顔を隣で見ていられたら、それでいい。

 この考え方がカチューシャにはどうも理解出来ないらしく、彼女は折に触れ、さっさと告白しなさいよ意気地なし、と私を急かす。

 そうは言ってもね、まほさんと千代美さんの間に隙間なんて無いのよ。

 だから私は横に居るの。

 

 千代美さん。

 もしも、仮に、万が一、奇跡的に、私が彼女からまほさんを奪ってしまったとしたら、彼女はどうなるのか。

 彼女を、あんなに可愛いひとを泣かせようだなんて、果たして誰が思うのかしら。

 カチューシャだって、私を急かしても『千代美さんが泣くでしょう』と返せば大人しく引き下がる。

 

 だから、今のままでいい。

 

「ノンナ、次の曲飛ばしてね」

「はいはい」

 

 後部座席にあった名盤とやらのケースをちらりと見ると、飛ばした曲のタイトルは『いくじなし』だった。

 カチューシャなりに気を遣ってくれているのかしら。

 

 そう言えば、カレーの歌はとっくに終わっていたのね。それでも私はまだまほさんのことを考えている。

 

 まほさんのことを考えると、千代美さんに。

 千代美さんのことを考えると、まほさんに。

 思考はぐるぐると巡る。

 

 どうせ考えても仕方ないのだし、滅入るだけなのだから、どこかで無理矢理にでも止めないと抜け出せなくなってしまうわね。思考を変えましょう。

 何か、何か無いかしら。

 

 何か、何か。

 

「妖怪」

 

 ぽつりと口から漏れた言葉。

 

 カチューシャは顔ごとこちらを向いて、何言ってんの、という目をした。

 うん、私自身もびっくりしてる。

 

「まほさんのこと、考えてたの」

「ああ、そっか」

 

 マホーシャから千代美、千代美から妖怪に思考が移ったのね、とカチューシャは簡潔に私の考えを纏めてくれた。

 

 千代美さんは、読んでいる小説の影響か、矢鱈と妖怪に詳しい。

 そして、物事を妖怪に例える癖がある。

 

 自分達の境遇を『塗仏』と呼んだり、カチューシャが持ってきたお酒を『鬼一口』と呼んだり。

 それぞれに意味があるのでしょうけれど、何のことか分からない場合も多い。

 

「不思議な癖ですよね」

「まほさんのことを『八百比丘尼』と呼んだ事もあったわ」

 

 うーわ大胆ね、とカチューシャが叫んだ。

 あら、もしかして、解読出来たのかしら。

 

「いや、えっと」

 

 顔を赤らめて口ごもるカチューシャ。

 

 何なのよ、と詰め寄ると、アンタにとっては面白くないかもよ、と返された。

 そうだとしても、そこまで言って引っ込められると靄々するじゃないの。

 

 いいから言いなさいよ。

 

「あ、あの、たぶんだけどね」

 

「まず、八百比丘尼って妖怪じゃないわよね」

 

「人魚の肉を食べて不老不死になった女の人、でしょ」

 

「で、この場合で言う人魚って、たぶん、鰯、つまりアンチョビ」

 

「アンチョビを食べるから、八百比丘尼、って事じゃ、ないのかしら」

 

 車内に長い沈黙が流れる。

 

 う、うわあ。

 大胆。

 

 カチューシャ、それ、たぶん満点だわ。

 

「食べてるのねえ」

「食べてるんですねえ」

 

 食べてるわねえ。

 

 時々、その、聞こえるし。

 

 アンタにとっては面白くないかも、とカチューシャが言った意味が分かった。

 けれどそれは、別の意味で面白い。正直、先程までの鬱々とした気持ちが吹き飛んだわ。

 

「それなら良いけどね」

「ふむ。まほさんが八百比丘尼、千代美さんが人魚ですか」

 

 じゃあ私達は何になるんでしょう、とノンナが言う。

 

「ノンナは雪女でしょ」

「カチューシャ、折角なんですからもっと捻ってください」

 

 まあ、ノンナもカチューシャも、二人とも雪女に例えるのが妥当かしらね。『ブリザードのノンナ』と『地吹雪のカチューシャ』だし。

 

 ああでもない、こうでもないと話していると、ぽつぽつと雨が降ってきた。

 タイミングよくサービスエリアの看板が見えたので、そこで休憩することに。

 

 サービスエリア内の喫茶店でお茶を飲みながら、雨宿り。

 

「そういえばアンタ、雨女だったわね」

「やめて頂戴、そんなのただの偶然でしょう」

 

 とは言ったものの、正直、心当たりはある。

 大学生の頃にも、みんなで温泉に行く途中で降られた事があったわね。

 

 カチューシャは、ごめんごめんと私をあしらいながら、名産品の案内でも無いかと辺りをきょろきょろと見回す。

 不意に、その彼女の眉がハの字に下がり、カチューシャはテーブルに突っ伏した。泣いているのかと思ったら、肩を震わせて笑っている。

 辺りを見回していて何かを見付けたみたいね。

 

 彼女の隣に座ったノンナが、大丈夫ですか、と肩を擦る。

 カチューシャは、テーブルに突っ伏したままノンナの肩をばしばしと叩いて、向かいの席に座った私の後ろ、窓の方を指した。

 ノンナも窓を見て、少し考えてからカチューシャの意図を察して、くすくすと笑い出した。

 

 何かしらと振り返り、あっ、と声を上げる。

 

 窓の外。

 雨はいつの間にか、季節外れの雪に変わっていた。

 

「アンタが雪女だったのね」

「うるさいわよ、カチューシャの馬鹿っ」

 

 言って、三人で笑う。

 

 まあ、たまには悪くないわね、こんなのも。



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地縛霊の猫

ジバニャン
百烈肉球は車も止められるんだぞと

みほ視点


 パトカーが数台、サイレンと共に走っていくのが見えた。

 近くで事故でもあったのかなあ。

 

 ある、雨の日の夕方。

 たまたま一緒になったアンチョビさんと二人、小さな駅の待合室で人を待っている。

 

 アンチョビさんは傘を持ってお姉ちゃんを迎えに。

 私はエリカさんが傘を持って迎えに来るのを待機。

 

「あの猫、見なくなったなあ」

 

 アンチョビさんが、ぼやくように呟いた。

 一瞬、私に言ったのかなと思ったけど、独り言だったみたい。

 

 あの猫ってどの猫ですか、と訊くと、アンチョビさんは不意を突かれたように『へぇっ』と声を上げて驚いた。

 ふふ。なんだかアンチョビさんが猫みたい。

 

「聞こえてたか」

 

 後ろでひとつに結んだ髪を揺らして、照れくさそうに笑う。

 なんだろ、こんなに可愛いひとだったかなあ、という思いが頭をよぎる。アンチョビさんがお姉ちゃんと付き合い始めてから、顔を合わせる機会が増えたけど、その度に思う。

 初めて会った頃からフレンドリーなのは変わらないけど、昔はそれに加えてもっとギラギラしてたっていうか、勇ましい印象があった。

 まあ、あの頃は会うとなれば試合だったからなあ。

 戦車の無い所では、元々こういうひとなのかも。

 

 最初はアンチョビさんが居るって気が付かなくて、みほ、と声を掛けられて初めて気が付いた。

 髪型もそうだけど、アンチョビさんは眼鏡を掛けていて、私が未だにパッと思い描く高校生時代の彼女とは、丸っきり印象が違う。

 だけど喋り方は昔と全然変わってないから、普段は元々こんな感じなのかな、とまた思った。

 

「この辺をうろついてた猫なんだけど、最近見ないなと思ってさ」

 

 機嫌が良いとたまに触らせてくれたんだけどなー、とアンチョビさんは言葉を続けた。

 猫かあ。言われてみれば、居たような、居なかったような。

 気にしたこと無かったかも。

 

「居付いちゃうといけないから餌はあげられなかったけど、居ないと寂しいもんだ」

 

 矛盾してるけどな、と笑う。

 でも、分からなくもないなあ。私もエリカさんにあんまり餌あげないし。

 って、これはちょっと違うかな。

 

 私は、何て言うか、好きな人や親しすぎる人に対して、雑に接してしまう癖があるみたい。

 エリカさんはそれが分かってるのか、私に雑に扱われて悦ん、もとい、喜んでるみたいな所がある。

 それで私も調子に乗っちゃって、エリカさんに対して他のひとより一際雑に接してる、ような気がする。

 餌はあげないけど、居なくなったら寂しいんだよ。なんちゃって。

 

 それは言い過ぎか。

 丸っきり餌をあげない訳じゃないし。

 

 考えていると、足元で、にゃあという声がした。

 わ、猫。

 

「おっ、噂をすれば」

 

 アンチョビさんがしゃがんで手を出すと、その猫は引き寄せられるようにその手の中に納まった。

 

「お前、久し振りだなー。雨宿りかー」

 

 当たり前のように猫に話し掛けている。本当に可愛いひとだなあ、アンチョビさん。

 お姉ちゃんがこのひとを好きになったの、すごく分かる。

 アンチョビさんは猫の前脚を持って肉球をうにうにと弄りながら、また独り言のように言う。

 

「知ってるかー、百烈肉球って車も止められるんだぞー」

 

 そ、それは知らないけど。

 猫はまた、にゃあ、と返事をするように鳴いた。

 

 暫くかまって貰うと気が済んだのか、猫はアンチョビさんを離れてうろうろし始めた。

 まだ雨が降っているから外には出たくないみたい。駅の中をうろうろ。

 その猫のお尻を眺めながら、アンチョビさんと話す。

 

 ゆっくりとした時間。

 

「お姉ちゃんが迷惑掛けたりしてませんか」

「んーん、全然。まほは良い子にしてるよ」

 

 嬉しそうに笑うアンチョビさん。

 

 ああ、迷惑掛けてそうだな、お姉ちゃん。

 だけどアンチョビさんはそれが嬉しいんだ、きっと。

 

 あと、ちょっとドキッとした。

 お姉ちゃんのこと『まほ』って呼んでるんだよね、そういえば。

 

「少し前に私が体調を崩した時さ、すごく丁寧に看病してくれたんだぞ」

「ええっ、お姉ちゃんがですか」

 

 びっくり。

 お姉ちゃん、そういうこと出来たんだ。

 

「えへへ、お粥も美味しかった」

 

 あっためるだけのやつだけどな、と補足する。

 

 それでも凄い。頑張ったんだなあ、お姉ちゃん。

 ああ、それだけお姉ちゃんはアンチョビさんの事が好きってことなのか。

 私はあの人の事を『お姉ちゃん』だと思ってるから、『まほ』のお話がすごく意外っていうか、新鮮。

 

「みほは何か無いのか、『お姉ちゃん』の話」

「うーん、何かあったかなあ」

 

 暫し、『お姉ちゃん』と『まほ』の情報交換。

 そんなこんなを話していると、時間はあっという間に過ぎた。程なくして、お姉ちゃんが乗っている電車が到着。

 アンチョビさんはそれに気が付いて、小走りに改札口に駆け寄る。

 

「おかえりー」

 

 改札口を抜けたお姉ちゃんの姿を見付け、胸の前で小さく手を振るアンチョビさん。

 お姉ちゃんに向けるその笑顔は、今日見た中で一番、可愛かった。

 

 お姉ちゃんはアンチョビさんから傘を受け取って、それから私に気が付く。

 

「みほも一緒だったのか」

「うん、エリカの迎え待ちだってさ」

 

 ああ、そう言えばそうだ、エリカさんを待ってたんだった。

 遅いなあ、エリカさん。家から大して時間が掛かる距離でもないんだけど。もしかして寝てるのかな。

 そう思ってスマホを覗き込むと、エリカさんから数件の着信が入っている。ありゃ、何だろう。折り返し連絡すると、エリカさんはすぐに出た。

 

 心なし、声が上擦っている。

 

『ご、ごめん、みほ。ちょっと事故っちゃって』

「えっ、嘘っ」

 

 瞬間、青褪めた。

 

「エ、エリカさん、大丈夫なの。怪我はっ」

 

 お姉ちゃん達も、こちらの様子に気が付いて、不安げな視線を向けてくる。 

 

『うん、怪我は無いんだけど、事故の調べで抜けられなくて』

「な、何があったの」

 

 それからエリカさんは、ぽつりぽつりと話してくれた。

 エリカさんは道路に飛び出した猫を助けようとして、それで車に轢かれそうになったみたい。

 

 どうして助かったのか。

 その説明をしようとして、何か言い淀んでいる。

 警察が信じてくれないどころか、自分でも信じられない何かがあったみたい。

 

 エリカさんは、信じても信じなくてもいいけど、と前置きして、言った。

 

『猫耳で金髪の、すごく綺麗な女の人が素手で車を止めて助けてくれたのよ』

「あ、うん、信じる」

 

 たぶんそれ、知ってる人だ。

 

 その人がいつの間にか居なくなってるから、エリカさんはどう説明をしたらいいか現場であわあわしてるみたい。

 私からその人に連絡してみるね、と返して電話を切る。

 

 本当に居るんだね、車を止める猫。

 

 エリカさんに怪我は無い。

 それだけは、不幸中の幸いかあ。

 

「事故か」

「うん、怪我は無いけど現場でちょっと手間取ってるみたい」

 

 ぽん、と傘を手渡された。

 

「三人で迎えに行ってやろう」

 

 あはは、そうだね。

 その後は、久し振りにみんなでご飯でも行こっか。

 

 猫がまた、にゃー、と鳴いた。



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船幽霊の店

船幽霊
船乗りの幽霊
船の幽霊ではない

みほと二人暮らしのエリカ視点


 全く、災難だったわ。いや、幸運だったと言うべきなのかしら。ううん、分かんない。

 どっち、と断言することは出来ない。幸も不幸も一遍にやって来たような感じだわ。

 

 ある、雨の日の夕方。傘を持って駅にみほを迎えに行く途中の出来事。

 道路に飛び出した猫を助けようとして、車に轢かれそうになったところを、ある人に助けられた。

 

 人だと思う、たぶん。

 猫耳で金髪の、すごく綺麗な女の人。

 その人が割り込んできて、車を止めてくれた。

 

 素手で。

 

 一言二言を交わしたような気もするけれど、正直言って現実味が無くてよく覚えてない。ちゃんとお礼言ったっけ。

 その人はいつの間にか居なくなっていて、猫も勿論どこかへ行って。車の方は少し凹んだものの、結果的に怪我人が出なかったのを良いことに、そそくさと走り去ってしまった。

 親切な誰かが通報してくれたらしく、程なくしてパトカーが到着したけれど、その時、現場には私一人。果たして一体、どう説明したものか。

 

 猫を助けようとして猫に助けられたなんて、自分でも信じられない。

 夢でも見たんじゃないかとさえ思った。

 

 まあ、結論から言えばそれは夢でも何でもなく、現実だった訳だけど。

 その人は、みほの知り合いだったらしく、彼女が連絡を取って確認してくれた。腕っぷしひとつで車を止めたのは、間違いなく、その猫田さんとやらであると。人だったのね。

 ただし、残念ながらそれが分かった所で現場には何の変化も齎さない。周辺の防犯カメラでも調べれば、証拠になる映像が撮れているかも知れないけど、でもそこまですべきかどうかって考えると、うーん。

 

 警察の人達も面倒臭そうにしている。

 それもそうよね。『現場』とは言っても、怪我人は居ないし、物が壊れた訳でもない。まあ車は凹んだけど、その車は走り去った。現状、目に見える被害があるとすれば、弾みで尻餅をついた私のお尻が濡れただけ。

 

 身も蓋もない言い方をすれば、もういいじゃん、という空気。

 

 結局、私のお尻が濡れて、警察が面倒臭い思いをしただけでこの騒ぎは終わった事になる。

 その後、珍しく自分から迎えに来てくれたみほ、更には偶然駅で一緒になったという、まほさんと安斎さんの二人と合流した。

 

「災難だったな。まあ怪我が無くて良かった」

「すみません、お騒がせしました」

 

 久し振りにまほさんに会えたって言うのに、何と言うか、締まらないわね。災難と言うならそれが一番の災難だわ。

 気を取り直し、合わせて四人でどこかへ食事にでも行こうかと相談する。

 

 ただ、えっと、非常に申し上げ難いのですが。

 

「先に着替えて来てもいいですか」

「パンツ替えたいんだね、エリカさん」

「みほーーっ」

 

 よりによって、まほさんの前で言わなくても良いじゃないの。

 

「あはは、仲良いなー」

「ふふ」

 

 安斎さんが笑ってくれたお陰か、まほさんも釣られて笑う。ううん、笑って貰えたなら、良いのかしら。

 ともあれ、パンツを替えるための一時帰宅を申し出る。

 それなら折角だからと、まほさんと安斎さんをお招きする事に。というより、安斎さんがうちで夕飯を作ってくれる事になった。

 

 あ、でも待って。

 人を呼べる状態だったかしら、うち。

 

 すると、みほが私だけに見える角度で手招きをしているのが見えた。

 然り気無く隣に立つと、小声で指令が。

 

「エリカさん、先に帰って色々片付けてて。私は買い物で時間稼ぐから」

「りょ、了解」

 

 ダッシュで帰宅。ひとまずパンツを替えた。

 

 そんなこんなで最低限、リビング周りの体裁を整える。

 雑誌、飲みかけのお茶のペットボトル、行きつけのお店からのダイレクトメール。明らかにゴミに見えても、独断で捨てるとみほが臍を曲げる事があるから、とりあえず纏めて寝室に放り込む。一通り掃除機もかけて、まほさんと安斎さんを無事に招くことが出来た。

 

 安斎さんの料理は勿論絶品で、私達は揃って舌鼓を打ち、今は食後のゆったりとした時間。

 

「エリカもみほも、相変わらず楽しくやってそうだな」

「うん、エリカさんに振り回されながらだけど楽しいよ」

 

 えっ、という私の反応を見て、きょとん、と首を傾げるみほ。

 

「どうかしたの、エリカさん」

「いやいやいや、振り回してるのはどう考えてもみほの方でしょうが」

「エリカさん酷ーい」

 

 ああもう、酷いのはどっちだか。

 

「ふふ」

 

 まほさんが私達のやり取りを見て笑った。

 

「何故だろうな、物凄く嬉しいよ」

「まほから見れば、妹二人が仲良くしてるように見えるんじゃないのか」

「言われてみればそうかな、そうかも知れん」

 

 言って、また笑う。

 

 当人は気が付いているのかしら、まほさんも笑顔が増えたわね。それはきっと、安斎さんのお陰なのかな。

 嬉しいというなら、それはこちらも同じ。笑顔が増えるほど、まほさんが楽しく日々を過ごしている事が物凄く嬉しいです、私。

 

 それにしても、妹かあ。

 遠い存在に思えていたけど、いつの間にか近くなっていたみたい。

 

 今の関係は昔より近いわね、確実に。

 

「エリカさん、お酒飲みたーい」

「また唐突な」

 

 既に酔っ払ったようにしなだれかかって来たみほを手で押し戻す。機嫌良いわね。

 うーん、お酒か。冷蔵庫にチューハイがあったような。

 あったっけ、あった筈。

 

「人数分は無いよ」

 

 ああ、そっか。ただ飲みたいんじゃなくて、酌み交わしたいのね。

 それじゃあ、すぐそこのコンビニで買ってきましょうか。

 

「うーん、家飲みでもいいけど、もっと雰囲気ある所がいいかな」

「概ね賛成だが千代美は下戸だぞ」

「えっ、そうなんですか」

 

 安斎さんを見ると、彼女は苦笑いで応えた。

 偏見かも知れないけど、料理の上手な人がお酒を飲めないというのは結構、意外。

 彼女の後輩のペパロニが蟒蛇(うわばみ)だから尚更、かな。蟒蛇というか、あの子はそれ以上の何かだわ。無限に飲むし。

 

 さて、それはそれとして。外飲みで、お酒が飲めない人が一緒でも問題ない場所なんてあったかしら。ファミレスぐらいしか思い浮かばないけど、みほが嫌がりそうだし。

 やっぱりコンビニで適当に買って来て家飲みにした方が気兼ねなく飲めるような。

 

 あ。

 

 気兼ねなく飲める場所、あったわ。

 さっき部屋を片付けていた時に目に入った物が頭をよぎった。あのお店でも行きましょう。

 

「賛成~」

「馴染みの店でもあるのか」

 

 問うまほさんに、えへへー、と意味ありげに笑うみほ。

 彼女の友人が開いたバー。あそこなら気心が知れているから、お酒の飲めない人が一緒でも問題ない。

 さっき寝室に放り込んだダイレクトメールを回収してきた。捨てなくて良かったわ。割引券ついてる。

 

「なんと言う名前の店なんだ」

「えっとね、『どん底』って言うの」

 

 まほさんと安斎さんが、若干、引いたような顔をした。

 にこにこと答えるみほの口から出る言葉としては、まあ、ね。でも良い店ですよ、どん底。

 

「それはそうと、みほ。ちょっと、はーってしてみなさい」

「はー」

 

 うん。いつの間に飲んだのか知らないけど、お酒が人数分無いのはあんたのせいよ。



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以津真天の戦

以津真天
死体を放っとくと怒る


 珍しく、まほと喧嘩した。

 本当に珍しい事だ。

 

 全く、一切、ゼロという訳ではないけど、それくらい私達は滅多に喧嘩をしない。

 隣に住んでるダージリンでさえ、私達が喧嘩してる所を見た事が無い、と思う。

 前に喧嘩をしたのはいつの事だったか、全然思い出せない。もしかしたら本当に一回も喧嘩をした事が無いんじゃないか、そんな錯覚を覚えるくらいだ。

 

 それなのに、昨日、喧嘩した。

 

 きっかけは些細な事。

 そう、そんな事かと思う程の些細な事だ。たぶん、こんな事で人に相談したら笑われるだろう。

 だけど私達には、いや、少なくとも私には大事件だ。

 

 今週は忙しくて、私もストレスが溜まってたというか、単純に疲れてた。

 あんまり疲れとかのせいにはしたくないんだけど、そういう事なんだと思う。だって、普段なら笑って流せる事だし。

 

 昨日の夕飯の時の、まほの一言だ。

 

『千代美、ピーマン』

 

 まほはピーマンが苦手。それは重々分かってる。

 

 それでも、料理にピーマンを入れる事はある。ただし、まほの皿に盛る分だけはピーマンを抜く。

 別にそれは、まほに頼まれてやってる訳じゃない。私が勝手にやってる事だ。

 

 なんでそんな事をしてるかと言えば、自己満足ってことになるのかなあ。まあ、ピーマンに限った事じゃない。

 コーヒーだって、目玉焼きだって、何だってそうだ。私は、まほに出すものは全部まほの好みに合うように作る。作れるから、そうしてる。

 私にとって料理は、本来の味や彩りよりも、まほに美味しく食べて貰うことの方が大切になっちゃったんだ。

 

 なっちゃった筈なんだけど、昨日、失敗した。

 夕飯刻。まほに出す野菜炒めの皿に、ピーマンが入っちゃった。

 

 それを見たまほが、言った。

 

「千代美、ピーマン」

 

 子供かよ、と思った。

 

 だけど、よく考えたらまほは悪くない。

 私がまほの皿のピーマンをいちいち抜いてるなんて、まほは気付いてないと思うし。

 まほにとっては、単に久し振りに見る嫌いな食べ物でしかなかったんだと思う。

 昨日の私はそこまで考えが回らなかった。

 

 かちんと来て、返した言葉。

 

「あっそ」

 

 我ながら、最悪だったと思う。

 

 それからまほは一言も喋らなかったし、ピーマンだけ綺麗に残した。変なところ、器用なやつ。

 

 そのピーマンは、勿体ないから私が食べた。

 まほに料理を残された悔しさ。悲しさ。怒り。そんな、嫌な気持ちがごちゃ混ぜになって、ちっとも美味しくなかった。

 私までピーマンが嫌いになりそうだ。

 

 それから一切、会話をしていない。

 ああ、『おやすみ』と『おはよう』は言った。そんだけ。

 

 スマホも今日だけは静かだ。普段だったら、まほとの雑談が途切れることなんて無いのに。

 なんで連絡をくれないんだよ、ばか。考えれば考えるほど、腹が立つ。

 そんな事を一日中、鬱々と考えていた。

 

 良くない感情をいっぱい溜めた。

 溜めて溜めて、そんな気持ちで夕方の買い物をして、そんな気持ちでご飯を作った。

 

 そして、ふと我に返る。

 一体いつまで、こんな事で喧嘩してるつもりだろうか。

 さっさと素直に謝って、さっさと仲直りしちゃえばいいじゃないか。

 

 そう思ったんだけど、少し遅かった。

 現在は、まほがピーマンを残してから、だいたい二十四時間後。つまり夕飯刻。

 

 今夜のおかずは、肉詰めピーマンだ。

 

 良くない感情を料理にぶつけた結果がこれ。やらかした、ってのは、こういう事を言うんだろうな。

 目の前に座ってるまほも、露骨に出されたピーマンを目にして硬直している。

 

 更に私は、狼狽えた頭で言葉を探し、また失敗を重ねる。

 

「嫌なら食べなくてもいいぞ」

 

 うん、最悪。

 

 違う、これは違うんだ。

 食べたくなかったら残してもいいし怒らないよ、って言いたかったのであって、決して嫌味とかそういうんじゃなくて。えっと、その。

 

「千代美」

 

 まほの低い声に、怯りと身を竦める。

 

 ああ、終わった。

 また今日も喧嘩になっちゃうのか。

 一体、何を言われるんだろう。

 

「昨日はごめん。私の言葉が悪かった」

 

 へ。

 

 一瞬、まほが何を言ったのか分からなかった。

 呆ける私をよそに、まほはピーマンに箸を付ける。

 

 そして少し迷ってから、思い切り齧りついた。

 顔を顰めながらも、しっかりと咀嚼して、飲み込んで、息を吐く。

 

「美味い」

「嘘つけ」

 

 いいや美味いと意地を張るまほ。

 無理するなよ、涙目じゃないか。

 

「千代美、よく聞け」

 

 普段食べないピーマンを食べたせいなのか、何なのか。

 凄むまほの顔には、妙な迫力があった。

 

 何を言うつもりだろう。ちょっと、姿勢を正す。

 

「ピーマンも、ちゃんと食べる。だから、その、怒らないでくれ」

「ふふっ」

 

 思わず笑いが漏れた。

 子供かよ。

 

「私の方こそ、ごめん」

 

 やっと言えた。

 

 それからは二人とも、堰を切ったように喋った。

 今日一日、喋らなかった分を取り戻すみたいに、沢山、沢山喋った。

 

「どうして連絡くれなかったんだよ」

「それは、こうやって顔を突き合わせて謝りたかったからだ」

 

 そっか。

 じゃあ、しょうがない。

 

 ただ、それはそれとして、まほも私からの連絡を待っていたらしい。

 互いに連絡を待っていて、互いに連絡をくれない事にやきもきしていた、って事か。

 

「千代美が連絡をくれないなんてな、私にとっては怖すぎるぞ」

 

 苛々を募らせていた私とは反対に、まほは私に何と言って謝ろうかと、そればかり考えて今日を過ごしたという。

 

「今週は私も疲れてた。あまり疲れのせいにはしたくないが、そういう事なんだと思う」

「んふふ」

 

 何故笑うんだ、と、ムッとするまほ。

 おんなじこと考えてたんだよ、私も。

 

「私も疲れてた」

「そうか。じゃあ仕方ない」

 

 言って、二人で笑った。

 

 そして話題は。

 

「千代美。もしかして、今まで私の皿からピーマンを抜いてくれていたのか」

「うん、実はそうなんだ」

 

 まほに美味しく食べて貰うため。そう思って、やってた事だ。

 だけど、そういう事はしなくていいぞ、と怒られた。

 

 なんでだよ、と訊くと、一言。

 

「私は、千代美と同じものを食べたい」

 

 その一言で、溜まっていた良くない感情が一度に吹き飛ぶのを感じた。

 

 ああ、嬉しい。

 にやける。

 好き。

 

「じゃあ、明日もピーマンでいいかな」

「そ、それはちょっと」

 

 えー。



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小袖の手の澱

小袖の手
思い出の籠った服の念


 休日のお昼前。

 ソファにうつ伏せに寝そべったまほのお尻を枕にして、小説を読んでいる。

 読み始めた頃はあんまり面白くないなと思ったんだけど、きっと段々と面白くなってくるタイプの作品なんだろうと思う事にして読み進めてたやつだ。

 そのうち面白くなるだろうと思いながら読んでたら、読み終わっちゃった。

 残念、面白くなかった。

 

「そんなの、全部読む前に分かりそうなものだがなあ」

「途中で読むのを止めるって事がどうしても出来ないんだよ」

 

 まほの突っ込みは、まあ、図星だ。

 中盤辺りから、ああこの小説はラストまでこんな感じなんだろうなと想像が付いたし、実際そうだった。

 でも、一回読み始めた本は最後まで読まないと気が済まないんだ。もっと言うと、この小説は続編が出てるから、そっちも買おうか迷ってる。

 もしかしたら続編まで読めば面白くなるのかも知れないし。

 

「なんだかんだ言って面白かったんじゃないのか、それは」

「そうかも」

 

 まあいいや、そろそろご飯の時間だ。

 お昼は何作ろっかなー、なんて考えつつ冷蔵庫の中身を思い出す。

 あー、冷凍してたご飯を使っちゃいたいな。ご飯ものにしよっか。

 

「なんかリクエストあるか、まほ」

 

 お尻に話し掛けると、ううーんという煮え切らないような唸り声が返ってきた。

 なんだろう、珍しいな。いつもなら何かしらさっさと答えを出してくれるんだけど。

 

「今日のお昼は私が作る」

「えっ」

「エプロンを借りるぞ」

 

 まほは唐突にそんな事を言い出してキッチンに立った。この間みたいな暖めるだけのやつじゃなくて、きちんと料理をする気らしい。

 心配だからついててやると言ったら『あまり構うな』と強がるので、私は大人しく別の部屋で洗濯物でも畳むことにした。

 

 キッチンからは、何やらじゅうじゅうという音が聞こえる。

 フライパン使ってるな。焦がすなよー、頼むから。

 

 なーんかイメージ変わったよな、まほ。

 昔に比べて雰囲気がどこかゆるくなったというか。キリッとしてるのは変わらないんだけど、何て言うか、ピリピリしてない。

 黒森峰っぽさが薄れたとでも言うのかなあ。ああ、我ながら良い喩えかも。『黒森峰っぽさ』ってあるよな。

 

 そう考えると、エリカもそうだ。

 今のエリカは昔ほどピリピリした雰囲気を持ってない。みほと一緒に暮らすようになってから明らかに表情が豊かになったし、もっと言うなら可愛くなったような感じさえする。

 

 ううん、『黒森峰っぽさ』って、ピリピリしてるってことなんだろうか。

 私はアンツィオの生徒として黒森峰を見てたから、余計にそんなイメージを持ってしまうのかも知れない。

 アンツィオは、なあ。ちょっと自由過ぎるもんな。

 

 まあ、それはそれとして。

 

 まほの料理かあ。正直、心境はちょっと複雑だな。

 味やフライパンの心配をしてる訳じゃない。いやまあ、それも心配だけど、もっと別の事。

 

 別にまほが料理しちゃ駄目って事は全然無いんだけど。無い筈なんだけど、ちょっと寂しい。少し嫌な考え方かなあ、これ。

 この間、私が熱を出した時も思ったけど、まほが私を頼らない事がすごく寂しく感じるんだよな。あの時は思いっきり泣いて困らせちゃった。

 反省はしてるつもりだけど、同じ事があったらまた泣いちゃうかも知れない。いや、泣きはしないかも知れないけど、落ち込むと思う。

 って言うか今、既に少しずつ落ち込んできてる。

 ううん、私ってもしかして、まほより独占欲が強いんだろうか。

 

 なんてことを悶々と考えていて、ふと我に返る。

 

「ありゃ」

 

 私の洗濯物と、まほの洗濯物。

 選り分けて畳んでた筈なのに、いつの間にか、ごっちゃになっていた。綺麗に重ねてはいるけど、これじゃ二人の洗濯物が混じった山がふたつ出来ただけだ。

 どっちがどっちだか、改めて選り分けていたら折角畳んだ洗濯物が段々と崩れてきた。

 

 はあ、これじゃもう畳み直した方が早いな。

 私ってこんなにドジだったっけ。あーもう、ちょっと自棄っぱちになってきたぞ。ぐちゃぐちゃとやっているうちに、山はすっかり崩れてしまった。

 

 なんだかなあ。

 

「千代美ー、ちょっといいか」

 

 タイミング悪くまほが入って来た。

 さっきまで少なくとも見た目だけは綺麗に畳んであったものを、すっかり崩したところで顔を出すなんて、本当にタイミングの悪い奴だ。

 ここだけ見たら、まるで私がサボってたみたいじゃないか。

 

「ふふ」

 

 笑われた。

 なんなんだよ、もう。

 

「それ、慣れない頃は私もよくやったぞ。山を混ぜてしまったんだろう」

 

 まほは、また笑いながら私の状況を指して言う。図星。

 考え事をしていて、山をごっちゃにしてしまって、結局崩して畳み直す。それはまほにも覚えがあるらしい。

 

 貸してみろ、と言ってまほは私の隣に座る。

 

「こうすると簡単だぞ」

 

 言うが早いか、まほはひょいひょいと先に洗濯物を選り分けて山をふたつ作り、それから畳み始めた。

 あー、そっか。これなら混ざらないか。なんだか手慣れてるなあ、まほ。

 

「普段は私の仕事だからな」

「ああ」

 

 確かに。

 これは、いつもは私がご飯を作ってる間、まほがやってる事か。道理で私より上手いわけだ。

 なあ千代美、とまほがいつもより優しい声を出す。私が不貞腐れてるのに気付いたのかな。

 

「考え事というのも大方、私に家事を取られたような気持ちになって靄々していたんじゃないのか」

「ううっ」

 

 またも図星。

 視線を逸らして押し黙る私を、まほは『やれやれ』とでも言いたげな目で見つめた。

 

「急にあんなことを言い出して悪かったな」

「あんなことって」

「お昼ご飯のこと」

 

 まあ、確かに急だったけど、理由は想像が付く。

 まほは悪くない。

 

「私はな、なるべく千代美に面倒を掛けたくなくて色々とやっているつもりなんだ」

「そんなの、分かってる」

 

 そうか、と言ってまほはそれ以上何も言って来なかった。

 

 分かってる、分かってるんだよ。

 まほは、私が体調を崩したりした時の為に、何でも出来るようになっておこうと頑張ってくれてるんだ。それは詰まるところ、私の為にやってる事。

 

 分かってる。

 

 不意に、頭にくしゃりとした感触。

 撫でられた。

 

「なんだよ」

「ふふ」

 

 何を笑ってるんだか。鼻で大きなため息をついた。

 まるで私が子供みたいじゃないか。

 

 あれ、そういえば。

 

「なんか用があって来たんじゃないのか」

「ああ、うん、それはだな」

 

 何やらもごもごと口籠っている。

 あーあ。こりゃ、キッチンで何か失敗したか。

 

「その、やっぱり助けてくれないか」

 

 さっきまでの強気はどこへやら。まほは気まずそうに言う。

 またひとつ、ため息が出た。さっきとは違う、安堵のため息。見たところ、まほに怪我は無いみたいだけど、フライパンはどうかなあ。

 しょうがないなー、と言って腰を上げた。

 

「交替しよっか」

「すまん、頼む」

 

 まほに頼られ、機嫌がみるみる直っていくのを自分でも感じる。

 しょうがないな。

 

「ほんと、しょうがない奴」

 

 自嘲するように呟いた。



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崩の鬼漁

くずし

しずくの反対

ダージリン視点


 布団の中で悶々としている。どうにも眠れない。

 眠れないから余計に、眠ろう眠ろうと念じてしまう。そんな事をすると却って寝付けないものなのよね。

 カチューシャでも呼び出そうかと思ったけれど、彼女は眠るのが早い。時計を見れば時刻は零時。とっくに眠っているし、起こしても起きないわ。

 

「コンビニ」

 

 誰にともなく呟いて、身体を起こした。

 

 別にコンビニに行きたい訳じゃない。布団の中でいつまでも愚図愚図しているよりは幾らかましだから出掛けるだけ。かと言って、こんな時間では開いている店も限られる。

 ファミリーレストランという選択も無くはないけれど、少し距離に難があるし、お腹が空いている訳でもない。コンビニぐらいで丁度良い。

 近頃は運動も不足しているし、たまには歩きましょう。

 

 髪は結ばなくてもいいわね。

 どうせ、行って帰って来るだけだもの。

 

 何だかわくわくしてきたわ。こんな時間に外に出るなんて、滅多に無いことだから。

 いそいそと軽く着替えてコートを羽織り、玄関を開ける。

 当たり前だけれど、外はしんと静まり返っていて、扉の音が思いのほか大きく聞こえたことにびっくりした。隣の迷惑にならなかったかしら。

 音を起てないようにそろそろと扉を閉める。気を取り直して、いざ出発。

 

 思ったより寒くない。もう、すっかり春なのね。

 

 真夜中の住宅街を歩く。

 普段は車で移動しているから、徒歩だと見慣れた景色も全然違って見える。こんなに雰囲気が変わるものなのね。

 なんだか悪い子になったみたいで凄く新鮮だわ。夜歩きが癖になってしまいそう。

 

 布団の中で愚図愚図しているより断然良い。

 外に出てみて良かった。

 

 コンビニに到着。

 何と言うか、本当に深夜でも昼間と変わらず営業してるのね。こうやって深夜に来てみてようやく実感が湧く。

 なんだか時間の感覚があやふやになってしまいそう。

 時間が流れているのは外だけなのかも、なんて。

 

「あれっ、ダージリンさん」

 

 後ろから声を掛けられ、どきりとした。

 まさかこんな時間、こんな場所で人に出くわすなんて。何故か悪戯が見付かった時のような、嫌な感じがした。

 平静を装って振り返ると、ああ。

 

「みほさん、お久し振り」

 

 私に応え、お久し振りです、と愛想よく笑うみほさん。そういえば彼女の家はこの近くだったわね。

 彼女というか、彼女達か。みほさんは今、逸見エリカさんと二人暮らしをしている。

 

 こんな時間に買い物かしら。私も人の事は言えないけれど。

 

「お酒が足りなくなっちゃって」

「あら、お二人で飲んでるのね」

「そうなんですよー」

 

 買い物は済んでいるらしかったので、少しの立ち話をして別れる。

 ところが、みほさんがお店から出て行って少しの後、トイレから逸見さんが出てきた。辺りをきょろきょろと見回して、ため息。その唇が『またか』と動くのが見えた。

 

「逸見さん」

 

 声を掛け、みほさんがさっさと一人で帰った旨を告げると、逸見さんは顔を真っ赤にして、挨拶もそこそこにみほさんを追い掛けて行った。

 面白い二人。仲が良いのね。

 

 二人を見送ったあと店内を暫く見て回ったけれど、結局、食べたいものも飲みたいものも特に無く、読みたい本も足りない消耗品も思い浮かばないことを確認しただけで終わった。面白いものが見られたから、無駄足とまでは言わないけれど。

 まあ、折角来たのに何も買わないというのも何と言うか、あれなので、特に飲みたい訳でもないホットの缶コーヒーを買って店を出た。

 

 帰り道。

 ぽけっとの中の缶コーヒーが熱い。まだまだ寒いつもりで暖かいものを買ったけれど、冷たい方でも良かったかなと思えた。

 このまま家に持って帰って冷めるのを待つのも馬鹿みたいだし、そうすると結局、ごみを増やすのが嫌で飲まずに置いてしまうような気もする。

 

 そんな事を考えながら歩いていると、公園に差し掛かった。

 

「ここがいいわ」

 

 宣言をするように声を上げた。

 深夜徘徊、思い切って寄り道。

 いよいよ悪い子だわ。

 

 ああ、桜が咲いている。

 シチュエーションとしては悪くないわね。適当なベンチを見付け、散った花びらを払って腰掛けた。

 キン、と缶コーヒーを開けて一口。まだ熱い。

 コーヒーが冷めるのを待ちながら、夜桜に見入ることに。

 

 その時。ぽろりと、涙が零れた。

 

 えっ、嘘。

 なんで。

 

 それはひとつぶでは治まらず、次々と零れる。

 一瞬、意味が分からず困惑したけれど、それには直ぐに思い当たった。切っ掛けは、そうね。さっき、コンビニでみほさんと逸見さんに会ったことかしら。

 あんまり、気が付きたくなかったな。

 

 

 

 寂

 

 

 

「ダージリン」

 

 声がした。

 私を呼ぶ、声。

 

 嘘。なんで。

 どうして貴女がここに居るのよ、まほさん。

 

「尾けた。すまん」

 

 座るぞ、と言って彼女は私の返事も待たず隣に腰掛ける。

 

「隣人がふらふらと深夜に一人で出掛けたのが心配でな」

「何故、気が付いたの」

「玄関の音」

 

 ああ。

 大きな音を起ててしまったとは思ったけれど、まさかそれで私が出掛けたのに気が付くなんて。全く、良い耳をしてるわね。

 

 それはそうと、涙は今も零れている。

 見ないでよ、と強がると、まほさんはため息で応え、目を逸らしてくれた。

 

「真っ直ぐ帰るようなら黙っているつもりだったが、泣き出すのでは見過ごせないぞ」

「そう、ね。ありがと」

 

 彼女は何も訊かず、ただ隣に居てくれた。

 それでいい。今はそれが一番、嬉しい。

 

 不意に強い風が吹いて、視界が白く染まる。

 

 雪が、空を埋めたように見えた。

 

 ああ。

 

「桜吹雪か」

 

 感心したように、まほさんが呟く。

 

「ねえ」

「ん」

「名前で呼んで」

 

 今夜だけで構わないから。

 そうお願いすると、まほさんはまた、ため息で応えてくれた。



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空葬

 日曜日。ついに、この日が来ちゃったか。

 炊き出しというか、みんなのお昼を作りながら、キッチンで物思いに耽る。

 

 まほは家具の運び出しのため、ダージリンを手伝っている。

 こんな役割分担、冬にもあったなあ。まほとダージリンに雪かきをさせて、私は炊き出し担当。あの時はルクリリも来てたっけな。

 なんだか、気持ちの整理がまだ付かない。自分達の事じゃないのに。

 

 何日か前のダージリンの言葉が頭の中で響く。

 

「引っ越すわ」

 

 とある平日の夕飯のあと、まほとリビングで寛いでいた時のこと。

 話があると言って入ってきたダージリンがそんな事を言い出した時は耳を疑った。というか一瞬、言っている意味が分からなかった。私はこの生活を、実質三人暮らしみたいなもんだと思ってたから。

 隣のまほが静かなので、無反応なのかと思って顔を覗き込んだら、目を見開いて固まっている。まほも似たような気持ちだと分かって、なんだか場違いだけどホッとした。

 

 何でも、以前から目を付けていた好条件の物件が最近空いたとかで、そこに移り住むつもりらしい。

 

「な、ぜ」

 

 絞り出すように言うまほに、たった今ダージリンが説明しただろ、とは言えなかった。私も同じ気持ちだ。理屈は分かるけど、頭が理解を拒んでるような、そんな感じ。

 本当は、どうしてそんな事を相談も無しに決めるんだ、と訊きたい。

 だけど、もし、相談する謂れが無いと言われてしまったら、それはその通り。納得するしか無い。だから私は何も言えなかった。

 辛うじてまほが絞り出した『なぜ』が、今の私達二人の気持ち。

 

 ダージリンには、果たしてそんな私達の気持ちが伝わったのかどうか。

 彼女は、さっきの説明以上の事は何も言わず、ただ苦笑いをしただけで会話が止まってしまった。

 気まずい沈黙。

 

 それを破ったのは、まほだった。

 

「いつ、引っ越すんだ」

 

 流石と言うべきか、こういう時の頭の切り替えはまほの方が早い。

 黙っていても仕方ない。『なぜ』の答えも既に出ている。そんな不毛な問答で会話を止めるくらいなら、日程でも訊いた方がまし、って事だろう。

 ただし、そんなまほでもダージリンの答えは余りにも想定外で、今度こそ言葉を失くして固まるほか無かった。

 

「次の日曜」

「なっ」

 

 いくら何でも、早すぎる。

 

「ごめんなさいね、日が迫るまで黙ってた訳じゃないのよ」

 

 ダージリンも、私達を驚かせてしまったことに引け目を感じてるらしく、弁解のような事をぼそぼそと言った。

 たまたま人を集めるのに都合が良い休日がそこだけだったらしい。

 まほが固まってるからという訳じゃないけど、辛うじて、私も回復してきた頭を回す。

 

「人を集めるって事は、引っ越し業者は呼ばないのか」

「ええ、節約したいもの」

 

 そこはお金をかけた方が良いような気もするけど、それはまあ、な。お財布事情もあるし。

 とは言え、それでも当日集まるのは後輩が二人だけらしい。

 

 ダージリンって、あれか。

 もしかして、人望とかあんまり、あれなのか。

 

「そ、そういう訳じゃないわ。きっとみんな忙しいのよ」

 

 んん。

 

 まあ何にせよ、ダージリンを含めて三人じゃ手が足りないだろう。私達も何か手伝わなくちゃな。

 寂しいけど、寂しがってばかりもいられない。私もようやく頭が切り替わって来たような気がする。

 

「協力してくれるのは嬉しいわ、ありがとう」

「家財運びは任せろよ、まほに」

「えっ」

 

 なんてやり取りがあって。

 

 それからあっという間に日曜日。

 今週は時間の流れが普段より速く感じた。特にやる事があった訳じゃない。私達が今日に備えて用意した物なんて軍手と食材くらいだ。

 忙しかったと言うより、何て言うか、呆然としてる時間が長かった。

 

「ダージリンと、もっと沢山話しておけば良かったなあ」

 

 そんなことをぼやいた。

 

「別に今生の別れという訳でもないだろう」

「それはそうだけど、気分的にさ」

 

 妙にさっぱりした事を言うまほに、言葉を返す。

 ん、あれっ。なんでまほがこっちに居るんだろう、家財運びは終わったのかな。

 

「いや、まだだが私の出る幕がもう無い」

 

 こまごまとしたものは粗方運び終わったものの、どうやらそれだけでまほの出番が終わってしまったらしい。

 つまみ食い用に昼のおかずを少し分けてある皿をひょいと持って、まほは軍手を外した。

 

「手は洗え」

「んん」

 

 怠そうにじゃぶじゃぶと手を洗う。

 しっかし、後輩二人に働かせてつまみ食いとはなあ。それに、話からすると、今は大きい家財を運んでるんだろ。

 それはちょっと格好悪いぞ、まほ。

 

「そう言うな。私が居ても却って邪魔になるだけだ」

「そんな事は無いだろ」

「ある。あと、手伝うのが色々と阿呆らしくなったのもある」

 

 随分な言い草だ。何があったんだろう。

 まほは口をもぐもぐさせながら、行ってみろ、と顎で外を指す。まあ、ご飯もだいたい出来上がってるし顔を出してみるか。

 外に出てみると、ダージリンの後輩二人が乗り合わせてきた軽トラックが目に入った。何故か真正面部分に掌の形の凹みがあるのが印象的。何をやったらこうなるんだろうな。

 軽トラックの凹みをしげしげ眺めていると、ダージリンの部屋から足の生えた箪笥がトコトコと出てきた。

 

 異様な光景だ。

 よく見ると、ダージリンの後輩が一人で箪笥を運んでいる。それはある意味、箪笥に足が生えているよりも異様だった。

 

「もう、ダージリン様。重たいから箪笥の中身は抜いてくださいと言ったじゃないですか」

「ごめんなさいねえ、ペコ」

 

 謝りつつも、ダージリンはにこにこしている。

 ああ、久し振りに後輩に会えて嬉しいのか。

 

 いや、それよりも、ええと。

 どこから突っ込むべきか。

 

「あら。こんにちは、安斎様」

 

 今日駆け付けた後輩の一人。

 オレンジペコは私に気が付き、重さを全く感じさせない動作で、すっと箪笥を降ろしてお辞儀した。

 

 ああ、これは、うん。何も言えない。

 まほの出番が無いわけだ。

 

「これで大体の家具は運び出し終えたわね」

「そうですね。ベッドだけは廊下を通れないので後で分解して運びましょう」

 

 通れば運んだんだろうか、一人で。

 

 あれっ、でも変だな。運び出し終えたって言う割には冷蔵庫が見当たらないぞ。ダージリンの部屋にあったのはそこまで大きい物じゃなかった筈だ。あれなら廊下も通る。

 軽トラックに積まれている物を見ても、ビニール紐で縛った雑誌や『断捨離』と書かれた段ボールばかり。なんだか『ついでに捨てるもの』って感じだ。

 

「ああ、冷蔵庫はもう新しいお部屋に運び込んであるんですよ」

 

 早っ。

 

 でも、成程。中身も色々入ってるだろうし、運べるならさっさと運んで電源入れた方が間違いないもんな。

 ああ、それで気が付いたけど、ダージリンの引っ越し先の事は聞いてなかったな。もしかしてすぐ近くなのか。

 

 するとダージリンは、気まずそうに、私達の部屋の反対隣を指差した。

 

 ちょっと待てお前。

 

 まさか。

 

「な。阿呆らしくなるだろう」

 

 つまみ食いを終えて顔を出したまほに、思わず頷いた。

 あれから今日まで、なんだかんだでかなり気落ちして過ごしてたのに、拍子抜けしちゃったじゃないか。

 少しホッとしてる部分もあるけど。

 

「あ、貴女達が思った以上に悲しそうな顔をするから、逆に言い出し難くなったのよ」

 

 お、おう。

 そう言われると、ちょっと恥ずかしい。

 

 しかしそうなると、今度は引っ越す理由が分からなくなってきたな。『以前から目を付けていた好条件の物件』なんだよな、うちの反対隣が。

 何だろう、陽当たりとかだろうか。でも、引っ越す程の違いは感じられないしなあ。

 

「あー、それは、その、ね」

「ダージリン様、軽い物は全て運び終わりました。以後の配置等はご自分で良いようになさって下さいませ」

「あ、ああ、ありがとうね、ローズヒップ」

 

 もう一人の後輩が『新居』から顔を出したのをこれ幸いとばかりに、ダージリンは露骨に話を逸らした。

 

「それにしても災難でしたわね、ダージリン様。夜な夜な変な声が聞こえるお部屋を引き当てるだなんて」

「あっ」

 

 明らかに『言っちゃった』という反応をするダージリン。という事はそれが引っ越しの理由か。

 心霊現象って事だろうか、そっちの部屋でそんな現象が起きてたなんて、初めて聞いた。

 

 初めて聞いたな。

 

 いや、待てよ。

 

「なあ、ダージリン。その変な声って」

「コメントは差し控えさせて頂くわ」

 

 うん。

 

 やっぱりそうだよな。

 

 ごめん、ほんとごめん。

 

「千代美、どうした」

「後で教える」

 

 色々と察してしまったらしく、オレンジペコが顔を赤らめて俯いた。

 

「と、とにかく二人とも、これからもよろしくね」

 

 頭の上にクエスチョンマークを浮かべたままのまほに、後でどう説明しようか考えつつ。差し出されたダージリンの手を取り、握手した。

 

 ほんとごめん。

 ほんとありがとう。

 これからも、よろしく。



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野鉄砲の弾

野鉄砲
旅人の顔になんか吹き付けるやつ

ペパロニ視点


 とある駅で姉さん達と待ち合わせ。何年ぶりだろうなあ、こんなの。

 夕べはウキウキして全然眠れなかったのに、今朝は早起きしてしまった。まるで小学生の遠足。よっぽど楽しみだったんだなと、自分に対して変な笑いが出た。

 危うく二度寝しそうになったけど、そこは我慢。

 

 待ち合わせ場所には、気持ち早めに着いた。

 忘れ物は無いし、時間や日付の勘違いもしていない。我ながら珍しいな、なんて思う。

 なんだけど。

 

 姉さん達が来ない。

 

 待ち合わせの時間から早三十分。

 どっちかと言えば、待ち合わせに早めに着いたりするのは姉さんの方ってのがよくあるパターンだったんだけどなあ。

 連絡してみたけど返信も無い。どころか『既読』も付かない。

 姉さんは、待ち合わせのギリギリに着くだけでも『ごめんごめん』と言いながら走って来るような人だ。そんな人が連絡も無しに遅れるなんて、何やってんだろ。

 

 なんて考えていると、駅の駐車場にやけに乱暴な運転の軽自動車が停まったのが見えた。

 あっぶねえな、なんだありゃ。

 

 あー、戦車道やってた人なのかもな。

 

 戦車道をやってた人の中には、どーしても戦車の感覚が抜けなくて、普通の自動車に乗るようになってからも、その感覚で車を走らせてしまう人ってのが一定数居るらしい。

 危なっかしい運転をするドライバーに若い女が多いのは、そんな理由があるからとかなんとか。あの車の運転はまさに戦車の感覚が抜けない女って感じだ。と、そこまで考えてはっと気が付いた。

 

 まさか。

 

 おんなじ車に乗ってる人を私は知ってる。

 戦車道やってたなんてもんじゃない、隊長まで行った人だ。あの人なら戦車の感覚が抜けなくても何ら不思議じゃない。

 

 その車に駆け寄ると、丁度、運転席から想像通りの人が降りてくる所だった。

 

「ペパロニさん、お久し振り。三月以来ね」

「お久し振りっす、ダーさん」

 

 三月。

 そうそう、三月にダーさんと色々あって泊めて貰った時に見た車だ。つい二ヶ月前の事なのに、なんか懐かしく感じるなあ。

 二人で、ちょっと意味深な苦笑いを交わす。うん、あの一晩でほんとに色々あったっすからね。

 

 あー。それはそうと、ダーさんの運転って事は。

 恐る恐る後部座席を覗き込むと案の定、姉さんと、まほ姉さんが二人してぐったりしていた。そっか、連絡どころじゃなかったんだな。

 駄目元で声を掛けてみる。

 

「お二方、お久し振りっす」

「ん」

「んん」

 

 しょうがない。

 

「ごめんなさいね、駅の場所が分からなくて少し迷ったわ」

「え、あ、はい」

 

 まあ、元々余裕を持って時間を決めてあったから、それはいいや。たぶん、姉さんはこうなる事を見越してたんだろう。

 

 ひとまず、ぐったりしてる二人の回復を待って、改めて出発。ここからは電車で目的地の最寄り駅まで移動する。

 二人は大丈夫だろうかと少し心配したけど、意外に何とも無さそうで安心した。車内では段々と会話する余裕も出てきたらしく、そこでようやく、改めて挨拶が出来た感じだった。

 

「ごめんなーペパロニ、待っただろ」

「うへへ、気にすること無いっすよ」

 

 ダーさんのあの運転を見てしまってからじゃ、何もかもが仕方ないと思える。むしろ、三十分遅れた程度で済んだと思っとくのが良さそうだ。

 私は駐車場に停めるところを見ただけだけど、あれは明らかにヤバかったもんなあ。

 

「ダージリンの運転の後だからか、電車の揺れが心地良いな」

「失礼ね、私だって通勤で少しは上達したのよ」

「通勤で毎日運転しててあれなのか」

 

 まほ姉さんとダーさんは、仲良く喧嘩って感じ。

 

 うーん、そう言えば全員年上なんだな。

 そう意識した途端、ちょっと緊張してきた。姉さんは姉さんだけど、あとの二人とは、正直まだ、あんまり。

 人見知りはしない方だけど、先輩だと思っちゃうと、ちょっとな。こういう体育会系な所、染み付いちゃってんだなあ。

 

「あまり緊張する事は無いぞ、ペパロニ」

「へっ」

 

 びっくりした。

 まさか、まほ姉さんに緊張を見透かされるどころか、気を回してくれるだなんて夢にも思わなかった。姉さんとの事で一度は腹を割って話したものの、まだお互い少しはモヤモヤしてるもんだと思ってたし。

 だからつい、訊いてしまった。

 

「ど、どうしたんすか」

 

 あんまりな返しだったかも知れない。

 だけど、それを聞いた姉さんとダーさんが笑い出したお陰で雰囲気は悪くならずに済んだ、と思う。

 当のまほ姉さんは澄まし顔だけど、頬がほんのり赤い。うわー、ごめんなさい。

 

「ほらー、だから言ったろ。まほ、ペパロニに怖がられてんだよ」

「ペパロニさん、優しくしてあげてね。まほさんは、今朝から千代美さんにたっぷり言い含められてるのよ」

 

 曰く、『ペパロニと仲良くすること』。ああ、やっぱり少しモヤモヤはしてるんだ。

 ただ、まほ姉さんは仲良くする努力をしてくれてるって事なんだな。ほんとに悪いことしちゃった。

 

「すんませんっす」

「いや、いい」

 

 うわー、怒らせたかな。

 仏頂面とまでは行かないけど、まほ姉さんの表情は読みづらい。

 緊張が解れたかって考えると、余計に緊張しちゃったような気がする。うー、ほんとすんません。

 

「まあ、緊張しなくてもいいのは本当よね」

「だなー。私達から見たらペパロニはもう後輩って言うより妹って感じだし」

「い、妹っすかあ」

 

 複雑だなあ。『後輩』とどっちが良いのか考えると、『妹』の方が良いかなって気はするけど。

 

「そうだ、ペパロニ。まほは脇腹が弱点だから、いじめられたらそこを狙えよ」

「なっ、千代美、それは」

 

 露骨に慌て始めるまほ姉さん。

 うへへ、良いこと聞いちゃった。いつか使わせて貰おっと。

 

 そんな話をしているうちに、目的地の最寄り駅に到着。

 

「楽しみね、さくらんぼ」

 

 そう、今日の目的はさくらんぼ。

 目的地は、さくらんぼ農園。

 

 そこのさくらんぼは気候の関係で旬よりだいぶ早めに熟してしまい、慌てて収穫に取り掛かったものの手が足りず、農園は苦肉の策として格安での一般解放に踏み切った。

 腐らせるよりは客を取ってさくらんぼ狩りを楽しんでもらおうという、見上げた商魂だ。

 私はいち早くそれを嗅ぎ付け、姉さん達を誘って、今日に至ったというわけ。

 

 だけど農園に着くと、思った以上に人でごった返していて、狩り尽くされたとまでは行かなくても、料金分食えるかなと不安になる賑わいを見せていた。

 あちゃー、ネットかなんかで広まったのかな。こういう情報って、伝わり始めると速いんだよなあ。

 

「農園側も必死に宣伝したんだろうなー」

「普通に収穫するより儲かったんじゃないかしら、これ」

「ん。向こうでパックのを売ってるぞ」

 

 おおう、混雑を見て引き返す人の為にパック売りか。ほんっとに商魂逞しいな。

 釈然としないけど、入場料払って葉っぱ見るよりは、あれを買った方がマシなのかなあ。

 

「とりあえず、みほ達の分を買ってくる」

 

 そう言って、まほ姉さんはスタスタと行ってしまった。決断が早いなあ。

 

「パックぐらいが丁度良いかもなー。ひとつ買ってみんなで食べよっか」

「そうねえ。ああ、ここに来る途中に公園があったわ。あそこで食べましょう」

 

 息ぴったりだな、この三人。

 行動、発案、作戦、と順番は滅茶苦茶だけど。

 

 そんな訳で、まほ姉さんのさっさとした行動も相まって、さくらんぼを速攻で入手。近くの公園で食べることになった。

 公園は、暑くもなく寒くもなく。人混みも無いし、思ったより全然快適。農園で争奪戦みたいなさくらんぼ狩りをするよりずっといいや。こりゃ作戦勝ちだなあ。

 

「ああ、これは美味いな」

「本当ね。全然酸っぱくないわ」

「まだ五月なのに凄く瑞々しいなー、こりゃ混む訳だ」

 

 口々にさくらんぼを誉めつつ、一息にパックの半分ほどを減らした。

 

 静かな公園でさくらんぼを食べながら、だらだらと過ごす。

 わいわい騒ぐのも楽しいけど、こういうのも良いもんだなあ。

 

「なー、さくらんぼの茎って」

「言わせないわよ」

「言わせろよ」

 

 どうせ茎を結んでキスを連想して貴女達二人が赤面するいつものパターンじゃないの、とダーさんが捲し立てる。

 あー、想像出来る。完璧に分かる。というか姉さんもそれは図星だったらしく、何もしてないのに赤面して黙ってしまった。

 

「茎以外だと種飛ばし競争とかっすかねえ」

「おお、面白そうだ。やるか、ペパロニ」

 

 意外。まほ姉さんが食い付いた。というか、あれか。気を回してくれてるのかもな。

 ぶっちゃけ、なんとなく言ってみただけなんだけど、そうは言いづらい。しゃーない、やるか。

 

 姉さんとダーさんはベンチで応援。

 まほ姉さんは、地面に足で雑に線を引いた。

 

「ここから飛ばすぞ」

 

 あ、飲み物を賭けるとかじゃないんだ。この人、ガチでウキウキしてる。ちょっと可愛くなってきたかも。

 

 位置につく。

 そこで、魔が差した。

 

 不意に姉さんの言葉が頭をよぎる。

 

『まほは脇腹が弱点だから』

 

 思い付いたら、やらずにはいられなかった。ほんの出来心。

 せーので種を飛ばすタイミングで、まほ姉さんの脇腹をつついてしまった。

 

「ぶばっふ」

「うわあ、こっちに飛ばすなよっ」

 

 種は真っ直ぐ姉さん達の方へ飛んで行き、そして。

 

「ペーパーローニー」

「ふんまへん、ふんまへんっふ、まほねえはん」

 

 私の頬を両手で挟み、低い声を出すまほ姉さん。

 キレられたかと思ったら、その表情は、どこか嬉しそう。

 姉さんは飛んでった種が見当たらないらしく、地面をきょろきょろと探している。

 うん、私はどこに飛んでったのか見てたけど、黙っとこう。うへへ。

 

 真っ赤な顔をしたダーさんは平静を装って種を吐き出し、さり気なく他の種の山に混ぜた。



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(1/4)赤えいの艦

赤えい
陸と間違える程のでかい魚


「ぐ、うおお」

 

 とある広場のベンチに前屈みで腰掛け、地面に向かって呻き声を吐いた。声だけでなく他のものも吐きそうだ。ああ、気持ちが悪い。

 

 まるで深夜の酔っ払いの様相だが、今は真っ昼間だ。

 しかし酔っているか酔っていないかで言えば、まあ酔っている。酒ではなく、車に。

 

「だらしないわねえ」

「お前の、せいだろうが」

 

 やれやれといった表情のダージリンに啖呵を切ったが、鼻で笑われて、それきりだった。

 まあ、啖呵を切る側が息も絶え絶えでは迫力も何もあったものではない。ダージリンの反応は道理と言える。しかし少しは悪びれろ。

 

 私は例によって例のごとく、彼女の荒い運転のせいで車酔いをして、こうして広場のベンチで呻いているのだ。

 

 広場の雰囲気は、まあ悪くない。

 土地柄という表現が合っているのかは分からないが、人通りが多いにも関わらず、皆一様に品好く歩いているお陰で、全く五月蝿くない。

 時折、初夏の緩い風が吹いて頬を撫でるのも実に風情がある。寛ぐシチュエーションとしてはなかなかだ。

 

 しかし、それとこれとは話が別でな。

 

「お前はいつになったら車の運転が上手くなるんだ」

「随分な人ね。私だってかなり上達したのよ」

 

 彼女の運転する車に乗るたび、こうして体調を崩す人間が目の前に居ると言うのに、よくもまあそんな事が言えたものだ。

 思えば、私が初めて彼女の運転で体調を崩した時には確かに『ごめんなさい』と言われた記憶があるのだが、今となってはそんな気配は毛程も感じない。昔はもう少し、何と言うか、可愛げというものがあった気がするんだが。

 

「お詫びにミートパイ奢ったじゃない」

「いや、あれもなあ」

 

 悪いが、端的に言う。不味かった。

 ダージリンの高校生時代からのお勧めで、機会があれば食べてみたいとは長らく思っていたが、まさかあんな味だったとは。

 

『あそこの店主は元々、スイーツ専門だったみたいで、甘いパンはとても美味しいんですけどね』

 

 という、彼女の後輩の言が頭を過った。

 確かに店自体は彼女らの高校生時代から今に至るまで繁盛を続けているらしい。それは偏に味が良いからだろう。

 ただし、それはそれとして、ミートパイが取り立てて売れている様子は無かった。

 

 甘ったるいミートパイなど初めて食べた。

 

「あの美味しさが分からないなんて信じられないわ」

 

 こういう奴が長年、一定数を買っているのだろうなとは思う。

 

 ものの好みを形成するのは環境だ。

 美味いとか不味いを通り越して『これ』が好き、という感覚は分かる。

 味の悪い家庭料理などその典型で、それを食べて育ったという補正があるから、味云々より以前に『好き』と感じ、『好き』と『美味しい』を混同してしまう。

 そして、そういう補正の無い人間が下す評価とのズレに首を傾げる事になる。

 

 あのミートパイもその類いだろうと思う。

 

「もう、文句ばっかり」

 

 そう言って膨れっ面をするダージリンを見ていると、流石に少し申し訳なくなってきた。

 車で振り回されて、不味いミートパイを食わされて。それでも尚、申し訳なさがこちらに湧くというのも不思議な話だが、そこが彼女の彼女たる由縁なのだろうか。全く、得な女だ。

 まあ、折角の日にベンチで呻いているだけの私の隣に、何故かいつまでも座ってくれているのは有り難い。

 

 お陰で間が持つ。

 

「馬鹿ね。千代美さんと少し離れたくらいで寂しがるなんて」

「いや、そういう訳では」

 

 ないが。

 

 ないと思うが。

 

 まあ、少し嫌な気分になったのは確かだが、それはまた別の理由だ。決して、離れるのが嫌だった訳ではない。

 

「どうかしらね」

 

 呆れたようにため息をつくダージリン。

 本当、どうだかな。

 

 先程。

 私、千代美、ダージリン、オレンジペコ、ローズヒップの五人で広場を歩いていた時のこと。

 母親か何かと勘違いしたものか、私の脚に子供が抱き付いてきた。子供は、歩くことを覚えたばかりのような年頃で言葉もたどたどしく、『あいあいあーい』と口癖のように発している。

 辺りを見回しても親御さんらしき姿は無く、どうやら暫くの間、私達の後を付いてきたお陰ではぐれてしまったようだ。

 

『紗利奈ちゃんじゃないか』

 

 子供を抱き上げ、千代美が言った。

 紗利奈ちゃん。冬の『鉄鼠』騒動の際に会った女性、マルヤマさんの子供だと千代美は言う。言われてみれば見覚えがあるような気がしなくもない。

 しかし、これくらいの年頃の子供の顔を覚え見分けることは、私には難しかった。勿論、それぞれに違った顔立ちがあることは分かるのだが、どうも『子供』という括りでしか見ることが出来ない。

 紗利奈ちゃんにも会ったことがあるとはいえ、あれもほんの数分の出来事で、ぱっと見て思い出せるほどの記憶は無い。

 

『えー、紗利奈ちゃんだよ。なー』

『あいっ』

 

 子供を抱き上げた千代美が笑い掛けると、子供は元気よく右手を上げ、返事のような声を出した。

 まあ何にせよ迷子には変わりない。土地勘のあるオレンジペコとローズヒップが迷子センターへの案内を申し出て、千代美はそちらに向かった。

 

『千代美、私も』

『いいっていいって。まほはそこのベンチで休んどけ』

 

 そして、現在に至る。

 

「あの時のまほさん、すごく寂しそうな顔してたわよ」

「んん」

 

 目敏い奴だ。しかしそれでも、はい寂しいですと素直に言えるものではない。そこは強がらせろ。

 そこで会話は一旦途切れた。しかし不快な沈黙という訳でもない。

 何故だかは知らないが、案外、心地良い。

 

 さあっ、と潮風がまた頬を撫でた。

 

「良い風ね」

「ああ。なんだか懐かしい風だ」

 

 潮風。

 ここは停泊中の聖グロリアーナの学園艦、その舳先にある広場だ。

 

 比較的近い場所に聖グロの艦が寄港するとあって、皆で観光に行こうということになった。

 学園艦の寄港は、謂わば街がひとつ向こうからやって来るようなもの。陸にも艦にも絶大な経済効果を齎す。

 まあ、そうは言っても聖グロには大して観光する箇所も無い。というか目ぼしいものは学生時代に学校間の交流やら何やらで、だいたい見た。どちらかと言えば、ダージリン達の里帰りに付き合わされたような形だ。

 それでもこうして艦上で不味いミートパイを買ったりして経済を回しているので、やはり寄港というのは一種のイベントなのだなと感じる。

 

「そう言えば、学校に顔を出したりしなくていいのか」

「いいわよそんなの、面倒くさい。OGが顔を出した所で煙たがられるだけだわ」

 

 昔暮らした風景をみんなと眺めて感傷に浸れたらそれでいいの。ダージリンはそう言って、不貞腐れたような顔をしてベンチに深く身を沈めた。立ち上がる気は無さそうだ。

 

 そういうものか。

 言われてみれば、確かに何年も前の卒業生にやあやあ諸君と顔を出されても、現在の生徒にとっては面倒くさいだけか。というか実際に、ダージリンはOGを相手に面倒くさい思いをしてきたのかも知れない。

 まあ、詮索は止そう。彼女がいいと言うんだからいいんだろう。

 

 ダージリンに倣って深く腰掛ける。

 ずっと前屈みになっていた私はその時、気が付いた。

 

「空が広いな」

「ああ、分かるわ。陸じゃ見られない空よね」

 

 二人でそうやって、暫く昼下がりの空をぼんやりと見上げる。

 

 すると、何やら不躾な声が聞こえた。

 

「お爺さんですか、貴女方は」

 

 視線を降ろすと、土産物の袋を提げたオレンジペコとローズヒップ。困り顔の二人がいつの間にやら立っていた。

 あんまり失礼なこと言っちゃ駄目ですよ、とローズヒップを窘めつつ、オレンジペコもこちらに困り顔を向ける。

 

「観光客はそろそろ退艦の時間ですよ、お二方。学園艦が出港してしまいます」

「あらいけない、もうそんな時間なのね」

 

 言って、ダージリンは腕時計を確認する。

 

 しかし千代美がまだ戻っていない。

 

「迷子ちゃんの母親が知り合いだったとかで、少し話し込んでましたわね。先に行っててくれと言われたのでそうしましたが、まだ戻ってませんの」

「連絡してみるか」

 

 電話を取り出し、千代美に発信。暫し待つ。

 

『おーこーめー、おー米米ー、ビタミンミネラル食物繊維ー』

 

 私の鞄の中から着信音が聞こえた。

 

 あ、あの馬鹿者。

 

「何なのよその変な歌」

「ダージリン様、そこじゃないです」

「さっき迷子センターを覗いた時には、もう居ませんでしたわね。てっきりここに戻っているものと思いましたわ」

 

 だったら良かったのだが。

 今日が出港日というのが、何とも折が悪い。

 

「捜索している時間はありませんわよ」

「迷子センターに戻るとも考え難いですしね」

「駐車場ででも待っていてくれたら良いのだけれど」

 

 喧々諤々と議論を交わす。

 しかし、話し合ったところで答えが出るものではない。

 

「仕方ない。行こう」

 

 そう言うと、全員に恐ろしく意外そうな顔をされた。

 いや、皆に迷惑を掛けるのが申し訳ないからそう言ったのだが。

 

「まほさんがいいなら、いいけれど」

 

 よくはないが、仕方ない。

 千代美を信用するしか無いだろう。

 

 靄々としたものを抱えつつ、四人で退艦した。

 

 そして駐車場。

 嫌な予感はしていたが、千代美は、居ない。

 

 学園艦の出港の汽笛が聞こえた。



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(2/4)フライングヒューマノイドの空

フライングヒューマノイド
飛ぶ人。
UFOみたいなもの。


 出港の汽笛が聞こえた。

 

「待っ」

 

 叫ぼうとしたまほさんが、言葉を飲み込む。

 まあ、気持ちは分かる。叫んでも仕方ない。

 それに、あの学園艦に千代美さんが乗っているとも限らない。とは言え、未だ彼女が何処にいるのかは分からないけれど。

 

「あ、千代美」

「えっ」

 

 まほさんは、艦上の何処かから手を振る千代美さんを見付けたらしく、腕を目一杯に伸ばして手を振り返している。

 どんな視力をしてるのかしら、この人。

 

「さっきまで居た広場の辺りだ」

 

 言われて目を凝らすと、あら本当。舳先の柵から身を乗り出して、特徴的な長い髪がぴょこぴょこと跳ねているのが僅かに見えた。ああ、事情は分からないけれど、退艦が間に合わなかったのね。

 

 さて、どうしましょうか。千代美さんがあの学園艦を降りるには。

 次の寄港日を待つというのが一番妥当ではあるけれど、まあそうなると早くとも向こう一ヶ月は待たなくてはならない。それに、また近くに寄港するとも限らない。

 あー、陸へのボートを出してもらうという手もあるけれど、あれは手続きが面倒だし、何より物凄くお金が掛かるのよねえ。燃料代から何から全額負担だし。

 

 益体もないことをぐるぐると考えていると、ペコが口を開いた。

 

「ダージリン様」

「なあに、ペコ」

「荷台に乗って頂けますか」

 

 そう言って、ペコは何故かローズヒップの愛車、ハイゼット、つまり軽トラックを指した。

 

 その荷台。

 

 う、うーん。

 

 何をする気なのか読めてしまった。出来れば乗りたくない。

 けれど、有無を言わせない雰囲気のペコに気圧され、嫌々ながら荷台に乗る。ローズヒップは既に運転席に乗り込んでいて、すかさず車を発進させ、出港を始めた学園艦に向かってアクセルを思い切り踏んだ。

 

 嗚呼。

 

「大丈夫です、ダージリン様。植え込みのある辺りを狙いますから」

「ペコ、あのね、そういう問題じゃなくてね」

「あまりお喋りをされると舌を噛みますわよー、お二方」

 

 私のささやかな抗議は、ローズヒップの茶々によって遮られる。

 段差を踏んだらしく軽トラックが大きく揺れて、ばこんと音を起てた。

 

「手荷物はこちらでお預かりします。お財布と、携帯電話だけはお忘れなく」

 

 ペコはそう言って。

 

 私の体を持ち上げ。

 

 荷台から投げ飛ばした。

 

 学園艦の上にある広場、千代美さんが居る辺りの植え込みを狙って。

 

 そして、現在。

 

「ブラックでいいかな」

「ん、うん。ありがと」

 

 長くなってきた陽も沈みかける頃。

 

 奇しくも、さっきまでまほさんと二人で座っていたベンチに、今は千代美さんと座っている。

 千代美さんは、見事に植え込みに引っ掛かった私を助け起こし、近くの自販機で缶コーヒーを買ってきてくれた。

 

 ペコ宛に、無事に着地した旨の連絡を済ませ、缶コーヒーを受け取る。

 

「まさか飛んで来るとはなあ」

「私だって後輩に投げ飛ばされるなんて思わなかったわ」

 

 そんな事はまあ、いい。

 どうでもいいとまでは言わないけれど、とりあえずいい。

 

「ごめんな、面倒掛けて」

「いえいえ」

 

 千代美さんの退艦が遅れた理由。

 彼女が連れて行った迷子の母親が知り合いで、つい話し込んでしまったそう。だけど、実はその人は観光客ではなく、仕事のために学園艦に乗り込んでいた。なのでその人は『退艦』という発想が抜けていて、それに釣られて時間を忘れてしまった、と。

 

「コンビニの店長を任されたらしくてさ。それで、この学園艦の航行中、ここのコンビニで研修やるんだって」

「そう」

 

 悪いけれど、あまり興味が無い。

 貰った缶コーヒーも、開けずに手の中でころころと弄んでいる。

 

 今の私達が直面している問題は色々ある。

 今後どうするのか、差し当たってまず今夜はどこで寝るのか、いつ帰れるのか、私はどうして投げ飛ばされたのか、色々。

 でもまあ少なくとも、投げ飛ばされた理由は何となく分かる。ペコは私の気持ちを汲み取ったのだと思う。お陰で、千代美さんと二人きりで話す機会を設けることが出来た。

 

 決して積年の恨みをぶつけてきたとか、そういう事ではないと思う。思いたい。

 

 まあ、そんな事よりも。

 

「怒ってる、か」

「ええ」

 

 言ってやらなければ気が済まない事が、ある。

 前置きを抜きにして、単刀直入に言った。

 

「何故あの時、まほさんを置いて行ったのよ」

 

 迷子を保護した直後。

 千代美さんは、まほさんの同行を断って迷子センターに向かった。

 

「なぜって、そりゃ、休んでて欲しかったからだけど」

「貴女、気が付かなかったの」

 

 言葉が溢れた。

 

「子供を抱いて」

 

「まほさんに背を向けて」

 

「人混みに消えていく千代美さん」

 

「それを見て、まほさんは辛そうな顔をしたのよ」

 

 私は隣で見ていたから気が付いた。

 まほさんには、千代美さんのその背中が『何か』に見えたのだと思う。

 その事に漸く思い当たったらしく、千代美さんは小さく、あ、という声を漏らした。

 

「正直に答えてね。貴女、『子連れ』が嬉しかったんでしょう」

 

 まほさんと居ては永遠に授かる事が出来ない、子供。

 迷子センターまでの短時間とは言え、『子供を連れて歩く』という行為が、千代美さんは嬉しかった。普段は過剰にすら思えるまほさんへの気配りを、忘れてしまうほどに。

 そしてそれは、まほさんにも伝わってしまった。

 

 暫しの沈黙があって、千代美さんは観念したように無言で頷いた。

 

 はーあ、と大袈裟にため息をつく。まあ、分かる。

 聞けば、さっきの子供の母親は私達の二つ下。ペコ達と同い年だとか。それはつまり、私達だって子供を連れていても何らおかしくない齢と言うこと。

 

 憧れは分かる。

 

 私だって、分かる。

 

 でもね、それはそれなのよ。

 

「まほに謝らなきゃな」

「必ずよ」

 

 次にまほさんに会えるのが、いつになるかは分からないけれど、必ずね。

 

「あれから、まほに付いててくれてたのか」

「ええ」

「そっ、か。ありがと」

 

 まあ、車酔いをさせてしまった事に対するお詫びというのも、少しはあるけれど。

 あの時のまほさんは、一人にするにはあまりにも忍びなかった。

 

「私の好きな人に、あんな顔させないで」

 

 遂に言った。

 

 千代美さんは目を瞑り、言葉を探すように暫くくるくると指を回して、結局『ごめん』とだけ呟いた。

 

 拍子抜け。

 

「もうちょっと派手に驚くかと思ったら、案外冷静なのね」

「なんとなく、そんな気はしてたし」

 

 千代美さんはそう言って、困ったように笑う。

 

 驚かせるつもりだったのに、反対に驚かされたような感じ。

 でもまあ、考えてみれば道理だわ。同じ人を好きなのだもの、隠し通せるものではないわね。同じことを考えていれば、それはどこかで分かってしまうもの、か。

 

「もしかして私のこと、ずっと邪魔だったんじゃないか」

「そんな訳ないでしょ。私は貴女の事も好きよ」

 

 うえっ、と千代美さんは声を上げる。そのリアクションは、さっき欲しかった。

 まあ、好きと言っても、まほさんに対する感情とは違う、友達の好き。だけどそれは、言葉なんかでは簡単に言い表せないほどの、大好き。

 

 私は、貴女の優しさにずっと惹かれているのよ。

 

 気付いてるかどうかは分からないけれど、呼び方を『安斎さん』から『千代美さん』に改めるくらいには大好きなの。

 

「私は貴女達のファンなのだと思うわ」

「あはは、なんだよそれ」

 

 笑われたけれど、本当のこと。

 私自身、感情を上手く整理できていないけれど、詰まるところ、好きな人と好きな人が仲良くしている所を一番近くで見ていたい。それが願い、なのだと思う。

 

 それはきっと、『ファン』と表現するのが一番近い。

 

 地平線を追い掛けるようなもの。

 遮るもの無き海にて。

 なんてね。

 

「なんだっけそれ」

「ふふふ、さあね」

 

 意地悪を言って、腰を上げる。

 釈然としない表情のまま、千代美さんもそれに倣う。二人で海を見た。

 

「私も好きだよ、ダージリンのこと」

「やだ、そういう時は名前で呼ぶものよ」

 

 少しだけ、我儘を言う。

 

「うええ、恥ずかしいなあ」

「いいじゃない、呼んでよ」

 

 改めて。

 千代美さんは、しょうがないなと呟いて、わざわざ姿勢を正してこちらに向き直り、名前を呼んでくれた。

 

「好きだよ、ミホのこと」

 

 大好きな友達に名前を呼ばれ、どきん、と心臓が跳ねる。自分で振っておいて、虚を突かれたような気持ちになった。

 そう言えば、千代美さんに名前を呼ばれたのは初めてだったかもね。

 

 んふふ、と変な笑いが出た。

 

「やっぱりダージリンでいいわ」

「なんなんだよ、もう」

 

 恥ずかしいし、ややこしいものね。

 やっぱり私は『ダージリン』でいい。

 

 照れ隠しに、キン、と缶コーヒーを開ける。

 少し赤くなった私の顔は、夕陽が誤魔化してくれた。

 

 にっが。

 

「陸はどっちかなあ」

「あっちでしょ。ほら、ヘリが向かってきてるもの」

 

 ぼやくように言う千代美さんに、ヘリが高く飛んでいる方を指す。

 んん。あれは何のヘリかしら。

 ぼんやりと眺めていると、ぽけっとの中でスマートフォンが震えた。普段はあんまり鳴らない、まほさん用に設定した着信音が辺りに響く。

 

『俺にカレーを食わせろー』

 

 一体何事かしら。

 

「何だよその変な歌」

「名盤よ」

 

 通話のボタンを押して電話を耳に当てると、何かけたたましい、ばたばたという強い風のような音が聞こえた。そのせいで、肝心のまほさんの声が聞こえない。

 ああ、そういうこと。

 

 あのヘリに乗ってるのね。



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(3/4)狐の蠆盆

 広場にヘリが着陸し、まほがふらふらと降りてきた。

 

「っお、前らっ、あぁ、ぁぁ」

 

 ゾンビか。

 

 あー、車酔いが完全に覚めないうちにヘリに乗ったせいで、ちゃんぽん状態なんだな。

 まほの顔色は蒼白で、膝もカタカタと笑っていて今にも倒れそうだ。

 

 だけど、駆け寄ろうとして一瞬、躊躇った。

 気を遣うっていうのも変な話だけど、チラリとダージリンの方を見る。

 すると彼女は『いいから早く行け』と言うように、手をぶんぶんと横に振った。少し滑稽なそのジェスチャーに苦笑を返す。

 ありがと、ダージリン。

 

 まほに駆け寄り、抱き止める。

 

「千代美゜」

「さっきはごめん、まほ」

「んん」

 

 ぎゅうっ、と。

 

 ふらふらの癖に、まほは信じられないくらい強い力で私を抱き締めてきた。

 ああ、痛いなあ。

 まほは私を抱き締める時、いつも痛くする。

 自然、私の腕にも力が籠った。

 

 ごめん。

 

 ごめんな。

 

「ぇっぷ」

 

 ちょっと待て。

 

「あら、船酔いもすれば陸海空の制覇じゃない」

「言ってる場合かよ。まほ、ちょっ、海に吐け海に」

「んっく。んっっく」

 

 それから。

 

 陽も沈んで、辺りが暗くなる頃。

 まほは今、ベンチで私の膝に頭を載せて横になっている。

 段々と生気が戻ってきたように少し赤みが差してきたまほの頬を、街灯が照らしている。その頭を撫でてやると、まほは『んん』と気持ち良さそうな声を出した。

 

「無茶な人」

 

 まほの目の前にしゃがみ込んで、ダージリンが呆れたように言った。

 お前も大概だけどな。

 

「久し振りねえ、理事長。私よ」

 

 少し離れた場所で、やけに高圧的な『交渉』の声が聞こえた。

 聖グロの理事長に電話しているらしい。目的は、泊まれる場所の確保。

 

 学園艦というものの性質上、宿泊施設なんてものは無い。丸山さん達みたいに、艦上に短期滞在する人のための住居はあるものの、登録や予約が必須で、突発で泊まる為の施設というものは皆無だ。

 だから今回みたいに、観光客が退艦し損ねたりすると多方面に迷惑を掛ける事になる。

 なので、すぐにでも帰りたいのは山々なんだけど、こんな状態のまほをまたヘリに乗せるのは流石に可哀想だし、その上、ヘリを降りたらダージリンの車に乗らなきゃいけない。しんじゃう。

 

 もう、何から何まで申し訳なくて、私は縮こまるばかりだ。

 

「貴女達、一晩泊まる余裕はあるかしら」

「え、ええ、向こう一ヶ月は覚悟をしておりましたから、一晩くらい全然、平気でございますわ、はい」

 

 不意に問われ、しどろもどろになりながら答えるダージリン。

 

 彼女が気後れするのも仕方ないと思う。

 まほから事情は聞いたけど、それでも、まだちょっと信じられないもんな。

 理事長と『交渉』をしているのは、ヘリを操縦して、まほをここまで連れてきてくれた人。

 

『已むを得ずお母様に助けを求めたら、手が離せないから代わりに友人を遣ると言われ、待っていたらこの人が飛んできた』

 

 まほの呻き声を要約すると、そんな感じ。

 びっくりしただろうなあ。いや、西住しほが飛んできても私達はびっくりするけどさ。

 

 今回飛んできたのは、なんと、島田流の家元。

 

 島田千代。 

 

「学生寮に一部屋空きがあるんですって。今夜はそこに泊まりましょう」

「は、はい」

 

 電話一本で寝る場所を確保してしまった。『交渉』は成功したらしい。

 こんなに簡単でいい、のかなあ。

 

「いいのいいの」

 

 歌うように言う島田さんの先導で、私達は寮に向かった。

 道すがらのコンビニで、今夜のご飯、替えの下着、まほの酔い止めなんかを買い込む。

 レジに立っていた丸山さんも、普通に買い物に来た島田流家元を目の当たりにして、ぎょっとした顔をしていた。そうそう、丸山さんも戦車道やってたもんな。

 

「明日の朝ご飯は、寄りたいお店があるのだけど、そこでもいいかしら」

 

 コンビニ袋を提げて寮まで歩きながら、島田さんが言う。ミートパイが美味しいベーカリーがあるらしい。

 島田さんは、あのお店はまだあるかしらねえ、なんて懐かしそうに独り言をこぼす。

 その店には心当たりがあるらしく、ダージリンが嬉々として、ありますわ、と答えた。

 

 まあ、ここまでしてもらっておいて良いも悪いも無い。コンビニで買った物だって島田さんが全部お金を出してくれたし。

 疑問は段々と『どうしてここに居るんだろう』から、『どうしてここまでしてくれるんだろう』にシフトする。

 

 まほも似たような事を考えているらしい。

 島田のおばさま、と固い声を出した。

 

「そんな堅苦しい呼び方をしなくてもいいわよ」

「じゃあ、千代おばちゃん」

「そうじゃなくて」

 

 何言ってんだ馬鹿、とまほを小突きそうになって、思い止まった。そういえば、まほは『そっち側』なんだ。島田千代を千代おばちゃんと呼んでいてもおかしくない立ち位置に居る。

 露骨に気後れしている私達とは違う、そっち側。

 

 そんな事を考えていると、ダージリンに肘で小突かれた。

 

「なんだよ」

「なんとなくよ」

 

 それを見た島田さんが、ふふふ、と機嫌良さそうに笑う。

 

「仲が良いわねえ」

 

 なんだか嬉しそう。

 こうやって話してみると、意外と普通の人なのかな。ううん、普通って言うと語弊があるか。『思ったほど怖い人じゃない』って言えばいいのかなあ。

 まあー、なんで怖い人だと思ってたかって言えば、確実にあの人のイメージが先行してるせいだろうけど。私にとって『家元』って言ったらあの人だからな。まほの母親、西住しほさん。

 しほさんとは真逆の感じがあるなあ、島田さん。

 

「千代美、油断はするなよ」

「ん」

 

 あの人はお母様と違って物腰は柔らかいが決して『優しい人』ではないぞ、とまほに耳打ちされた。

 

「ダージリンを厄介にしたような感じの人だ」

「どんだけ厄介だよ」

「ちょっと、聞こえてるわよ」

 

 そんなお喋りをしつつ、寮に到着し、四人で食事。

 

「最近のコンビニのご飯って美味しいのねえ」

 

 何かカルチャーショックを受けているらしい島田さんに、妙に納得。

 やっぱりこういう人って、普段はコンビニのご飯を食べたりしないんだなあ。

 

 食後。お風呂が沸くまでの暫しの間、雑談の時間。

 なんだかんだで、さっき有耶無耶になってしまった質問を、まほは改めてぶつけた。

 

「何故、ここまで良くしてくれるのでしょうか」

 

 確かに、しほさんからの要請とは言え、自らヘリを出してこんな所まで来てくれて、泊まる場所も確保してくれて、その道すがらのコンビニでもお金を全部出してくれた。曲がりなりにも、一流派の家元という身の上の島田さんがこれほどまでに時間や手間を割いてくれるのには、何か相応の理由がある筈だ。

 

 島田さんは、よくぞ訊いてくれましたとばかりに居住まいを正す。

 

 どこから話そうか迷っているような間。

 そして島田さんは、どうせ話すなら全部話しましょうか、と呟いて話し始めた。

 

「昔ねえ、しほさんとお付き合いしてたの。私」

 

 えっ。

 

「えええーっ」

 

 まほ、ダージリン、私、三人の声が合わさる。

 大きな声を出さないのと窘められた。そういやそうだ、ここは聖グロの寮だった。大きな声を出したら生徒達の迷惑になる。

 いや、でも、えぇー。

 

 こほん、と小さな咳払いをひとつして、島田さんは話を続ける。

 

「一緒に寝て、一緒に起きて、同じものを食べて、家事も二人で分担して。それだけで毎日が楽しかったの」

 

 そう言って、島田さんは遠い目をした。

 

 それは、分かる。

 凄く分かる。

 

 あ、そういう事か。

 

「そう、そういう事なのよ。今、しほさんの娘がまた同じような恋をしている」

 

 まほは真剣な顔で、島田さんの言葉を首肯する。

 

「しかも、相手の名前が『千代美』」

 

 否応なしに自分達と重ねてしまうのよ、と『千代』さんは言った。

 そう、か。そんな理由が。

 

「私達二人は家の事があるから離れざるを得なかったけれど、貴女達はまだ、これからどうなるか分からない」

 

「だから応援しちゃうのよ」

 

「勿論、私達二人、離れてそれぞれ子を持ったことを後悔している訳ではない」

 

「けれど、それはそれとしてね、あの楽しかった日々は今でも時々思い出すの」

 

「だから、まさに今、そんな日々を送っている貴女達を応援したくてたまらない」

 

「人が人を好きになる事には、何の罪も無いのだから」

 

「だからね、今日は呼んで貰えて嬉しかったの」

 

「また、困った事があったらいつでも言って頂戴ね」

 

「力になるから」

 

 千代さんの言葉が胸に刺さる。

 それは、ずっと、誰かに言って欲しかった言葉だった。

 

 不意に、ぼろぼろと大粒の涙が零れた。

 

 こんな、こんな簡単に泣かされるなんて思わなかった。

 まほも何時の間にか正座をして、無言で顔を伏せている。

 膝に置いた彼女の手は、白くなるほど強く握られていた。

 

 そして、ダージリンも。

 両手で顔を覆って俯いたまま、じっとしていた。時々、思い出したように大きく息を吸い込んでため息をついている。

 

 千代さんの言葉はダージリンにも刺さったんだ。

 

 そうだ。

 ある意味、一番辛いのは彼女なんだ。

 

 千代さんは、私達の涙が落ち着くのを待って、また口を開いた。

 

「って、しほさんが言ってたわ」

「えっ」

 

 また、私達三人の声が重なった。

 

「私からは、まあ、なるようになるし、悪い思い出には絶対にならないから安心して過ごしなさいとだけ」

 

 唐突な肩透かしで『あっはい』と返事をする事しかできず、その声もまた、重なった。なんだか狐に摘ままれたような、そんな気分だ。

 信じて良い、んだよな。一瞬、どんな顔をしたらいいか分からなくなってしまった。

 

 そうした所で、お風呂が沸いたらしく、お知らせのベルが鳴る。

 

 うーん、でも、そっか。

 しほさんも応援してくれてるって解釈していいのかな。私もまほも敬遠気味だけど、そのうち顔を出さなきゃいけないかも。

 

 考えを切り替えるように、千代さんが、ぱん、と手を叩いた。

 

「さ、明日も早いんだからお風呂に入っちゃいなさい。三人ともお化粧が涙でぐしゃぐしゃよ」

 

 それは、まあ、お陰さまでとしか言えない。

 済みませんそれじゃお先に、と誰ともなく言って三人同時に立ち上がる。

 

 え、あれっ。

 三人でお風呂に入る流れなのか、これ。

 

「うふふ、本当に仲が良いのねえ。三人一緒に入ってらっしゃいね」

 

 千代さんは、この上ないほど嬉しそうに、にんまりと笑う。

 私達はその雰囲気に圧され、また声を揃えて『あっはい』と答えた。



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雲外鏡の城

雲外鏡
不思議な鏡

番外編、ペコ視点


 生まれて初めてこの言葉を使います。『ひょんな事から』旅先で、泊まる場所を探すことになりました。

 まさか実際に使う日が来るなんて思いませんでした、『ひょんな事』。一体何なんでしょうね、『ひょん』って。

 ニュアンスとしては日常の中の、何の変哲も無い出来事を指す言葉のようですが、『ひょんな事』が起きると大抵、日常が非日常に切り替わるような大事件が起きる、そんな気がします。

 

 まあ、旅先と言ってもそれほど遠い場所ではありません。帰ろうと思えば帰ることも出来るのです。ですが、泊まっておいた方が明日は何かと楽だろうという事で、泊まる場所を探しているという訳で。

 それと、自宅以外の場所で眠るという非日常的な出来事へのわくわくも、実はちょっとだけあります。

 

「そうは言っても、なかなか見付かりませんわねえ」

 

 運転席でぼやいているのは、ローズヒップさんです。

 

 まあ、仕方ありませんよね。行楽シーズンでこそ無いものの、休日に予約無しで泊まれるホテルなんてそうそうありません。何件か当たったホテルはどこも満室で、辺りが暗くなり始める頃、私達はまだふらふらと街を彷徨っていました。

 

 やがて車は、段々と郊外へ。

 

「こっちにはホテルなんて無さそうですわね」

「ですねえ。あっ」

 

 今、道路沿いに『ホテル』と書かれた看板が見えたような。

 

「ええっ、そんなのどこにありましたの」

 

 車をバックさせて看板が見えた辺りを探してみると、やっぱりありました。

 ちょっと古くなって所々錆びてはいますが、『ホテル・ベニーベニー、すぐそこ』と書かれています。

 

「下らない名前ですわね」

「それはまあ、はい」

 

 ともあれ、すぐそこと書かれているからには、すぐそこにある筈です。車を発進させ、直進すること十分ほど。

 ですが、ホテルは一向に姿を現しません。街の灯りはどんどん遠くなります。

 

「もう軽く山ですわよ」

「うーん」

 

 確かにローズヒップさんの言う通り、街はすっかり遠くなり、辺りの風景に木々が目立つようになってきました。時々、民家らしき建物がぽつりぽつりと目に止まりますが、肝心のホテルは見当たらないまま。

 でもまあ、ホテルって案外、山の中にあったりもしますし。なんて楽観して車を走らせ、また十分少々。

 もしかして通り過ぎてしまったか、いっそ民家で訊ねてみようか、なんて話していると、それは唐突に現れました。

 

 木々の中に佇む、綺羅びやかな電飾の施された建物。

 看板には『ホテル・ベニーベニー』とありました。間違いありません、ここです。

 

「どーこーが、すぐそこですのっ」

「あはは、本当、随分掛かっちゃいましたね。運転お疲れさまでした」

 

 ご機嫌が斜めになりつつあるローズヒップさんを宥め、駐車場へ。ゲートに取り付けられたランプは『空室』の文字を照らし出していました。

 どうやら、ようやく泊まることが出来そうです。

 

「お城みたいな佇まいですね」

 

 みたいな、というより外観は完全に西洋のお城の形をしていました。まさに非日常、といった感じで少しわくわくします。

 中に入り、フロントを探しましたが何故か人の気配がありません。そもそもフロントというものが無いみたいです。

 じゃあどうやって受付をするんだろうと、がらんとしたエントランスを見回すと、一箇所、目を引くものがありました。壁の一面に、お部屋の一覧表のようなものが取り付けられています。

 

 壁にお部屋の写真が並べられ、それぞれにスイッチのようなボタンが付いています。

 ボタンが発光しているお部屋と、そうでないお部屋があり、どうやら前者が今現在の『泊まれるお部屋』なのだと推測できました。

 

「これを押せばいいんですのね」

 

 ローズヒップさんがボタンのひとつを押すと、がちゃん、という金属音がして、下の取り出し口のような所から鍵が出てきました。

 鍵には、ローズヒップさんが押したボタンのお部屋と同じ番号が刻印されています。成程、これなら無人でも宿泊が出来ますね。便利です。

 

 そしてようやく、お部屋に到着。

 お部屋の入口に料金を支払う機械を見付けました。チェックアウトする時は、ここにお金を入れればいいんですね。とにかく無人にこだわったホテルのようです。なんだか不思議。

 

 意外と言ってしまうと失礼ですが、室内は掃除がしっかり行き届いている感じがして、とても好感が持てました。

 

 お風呂はぴかぴかで大きな姿見の鏡が目を引きます。

 ベッドも広くて、しっかりと洗いたてのシーツが敷いてあってふかふかですし、枕も大きくて眠り心地が良さそうです。

 という事はやはり、定期的にお部屋の手入れをする為の方がいらっしゃるんですね。その事に思い当たると、なんだかホッとしました。

 先程、廊下を歩いていて男性の二人連れとすれ違った際に『こんにちは』と挨拶をしたら露骨に避けられてしまったので、少ししょんぼりしていたんです。

 

「はあー、疲れましたわあ」

「本当、今日は色々ありましたもんね」

 

 ベッドにごろんと寝転がるローズヒップさんの真似をして、隣に寝転がりました。少し、はしたないかなと思いましたが、抵抗なくこんなことが出来たのも、非日常感によるわくわくのせいなのかも知れません。

 寝転がった弾みで手が触れ合い、互いになんだか照れ臭くなって二人でくすくすと笑いました。

 

「ダブルベッドなのが照れ臭いですわね」

「ふふ、確かに」

 

 寝転がったまま、暫く他愛の無い雑談を交わしていると、私の方がうとうとしてきました。

 ふかふかのベッドが気持ち良くて、すっかり気が抜けてしまったみたいです。

 

 そんな私を見てローズヒップさんは、うふふ、と嬉しそうに笑いました。

 

「眠っちゃっても良いですわよ、ペコさん。私はシャワーを浴びて参ります」

 

 済んだら起こして差し上げますわ、と言ってローズヒップさんが立ち上がる。私はお言葉に甘える事にしました。

 程なくして、シャワーのお湯が出る音が聞こえ始め、その音がまた心地好く眠気を誘います。

 

 だけど、耳を澄ますと妙な事に気が付きました。ローズヒップさんのシャワーの音に混じって、どこかがカタカタと音を起てているみたいです。ボイラーの振動でも伝わっているのかも知れません。どこから聞こえるんでしょう。

 体を起こして辺りを見回すと、それは簡単に見付かりました。

 

 ベッドの脇、とても不自然な位置に引き戸があります。

 その引き戸が音を起てているのです。

 

 一瞬、押し入れか何かかなと思いましたが、違います。この壁の向こう側は、お風呂場です。

 お風呂場の戸とは別に、何故こんな所に引き戸があるんでしょう。

 

 不思議に思って、ガラッ、と戸を開けました。

 

「ひゃあっ」

 

 思わず声が出て引き戸を勢い良く閉めました。

 お風呂場が丸見えで、ガラスを挟んだ向こう側、私の目の前にシャワーを浴びているローズヒップさんが現れたのです。

 

『ペコさん、どうされましたのー』

 

 私が引き戸を閉める音が聞こえたらしいローズヒップさんが、お風呂場から声を掛けてくれました。えっ、あれっ。

 

「な、なんでもありませんー」

 

 誤魔化すように声を出し、恐る恐るもう一度、引き戸を明けてみる。

 

 ローズヒップさんはこの窓ではなく、お風呂場の出入り口の方の戸に向かって声を上げているようでした。

 気が付かない筈がありません。こちらから見えると言うことは、向こうからも見えている筈です。ローズヒップさんの立っている位置から推測して、この窓があるのはシャワーの真正面に掛けられている大きな姿見の鏡がある辺り、あっ、もしかして、これ。

 

 マジックミラーなんでしょうか。

 

 でも、何のためにこんな物が。

 なんて変に冷静に考えていますが、忘れてはいけません。今、私の目の前にはローズヒップさんの裸があります。

 

 ローズヒップさんの裸が、あります。

 

 思わず、見入ってしまいました。

 ローズヒップさんの身体は、私と違ってとても引き締まっていて、なんだか彫刻のような美しさがありました。腹筋もうっすらと割れていて、触ってみたくなってしまいます。

 

 ローズヒップさん、素敵だな。

 何だかんだ言って口調も整って来ましたし、最近どんどん格好良くなって来ているような、ううん。

 さっきまで普通にお喋りしていたお友達の裸を目の前にして、何故私はこんな事を考えているんでしょうか。

 それに、これは立派な覗き見です。良いことではありません。ローズヒップさんは今、私に裸を見られているなんて夢にも思わない事でしょう。

 段々と、罪悪感が大きくなってきました。

 

 ゆるゆるとその引き戸を閉め、ローズヒップさんがシャワーから出て来るのを待って、真っ先にごめんなさいを言いました。

 

「何の事ですの、ペコさん」

「あの、この引き戸なんですが」

 

 からからと引き戸を開けて、ローズヒップさんにその先を見せました。

 ローズヒップさん自身も、この鏡の仕組みに気が付いたらしく、段々と顔から血の気が引いていくのが傍目にも分かりました。

 

「あっあ、あの、えっと、ペコさん、見ちゃったんですのね」

 

 こくり、と頷くと、ローズヒップさんはみるみる目に涙を溜め、ベッドに突っ伏して泣き出しました。

 

「お嫁に行けませんわぁ~」

「そっ、そんなぁ」

 

 宥めようにも、見てしまったのは事実。私が宥めたところで説得力は皆無です。

 

 ローズヒップさんは本気でショックを受けてしまったみたいです。これはもう、何か正式なお詫びというか、きっちりと責任を取らなくてはいけません。

 となると、どうするのが一番良いんでしょう。ここでの宿泊費を全額持つか、いえ、それは何となく違うような。うーん。

 

 あ。

 

「あ、あの、ローズヒップさん」

「何ですの」

 

 これは、まあ、恥ずかしい事ですが、そうも言ってはいられません。恐らくこうするのが一番平等です。

 意を決して、言いました。

 

「私もこれからシャワーを浴びますから、好きに見て下さい」

「マジですの」

 

 マジです。これで平等。

 同じことをするべきです。

 

 ローズヒップさんは驚きのあまり涙が引っ込んだみたいで、そわそわしながら、言いました。

 

「そ、それは確かに平等ですけれど、何だか恥ずかしいですわ」

 

 まあ、そうかも知れませんけど。

 どちらかと言えばこれは、自戒の意味も込めての提案なんです。こうしないと罪滅ぼしをした気になれないと言うか。

 

 そう言うと、ローズヒップさんは、もじもじしながら了解してくれました。

 

「わ、分かりましたわ。ペコさんがおしっこする所、しっかり見届けて差し上げます」

 

 えっ。



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(4/4)円

タイトルは、強引ですが「でぃすく」とお読みください

こちらではまるっと省いてますが、渋い方ではR-18シーンも書いてます


【まほ】

 

 一夜明け、港にて。

 昨日、学園艦があった場所には当たり前だが何も無い。景色が丸ごと無くなったような、何とも不思議な感覚に陥る。

 

「ううっぐ」

「あう、ふうぅ」

 

 千代美とダージリン、呻く二人をベンチに座らせ、一人で海を見ている。

 酔い止め、二人にも飲ませてあげれば良かった。

 

「知ってたなら、教えなさいよ」

「いや、知ってたというか何というかだな」

 

 昨日は、車酔いと区別が付かなかったせいもあって、きちんと判断が出来なかったのだ。

 今朝、素面で乗ってようやく確信した。島田のおばさまは、ヘリの操縦が乱暴過ぎる。

 いや、あれはまともに操縦できる腕がありながら、わざと乱暴に操縦して私達を怖がらせて楽しんでいたという感じだった。全く、たちの悪い人だ。

 ともあれ、おばさまのお陰で我々は学園艦を降り、港に帰って来られた。それに関しては感謝しなくてはいけない。

 

 はーあ。

 

 億劫だが、近いうちに千代美を連れて実家にも顔を見せなくてはならないな。

 悪いことをしているつもりは無いが、無いつもりだったが、自然と足が遠退いていることを思うと、矢張り疚しかったのだ。

 昨夜のおばさまの言葉は『気にせず顔を見せろ』と言っているようにも聞こえた。

 

 まあ、そのうち。

 

 そのうちだな。

 

「ううぅ」

 

 最早、どちらが呻いているのかも分からない。

 

 まあ、ダージリンはいい。

 どうでもいいとまでは言わないが、とりあえずいい。

 

「まほー、わたししぬかもー」

「死ぬな死ぬな」

 

 朝一で例のミートパイを食べさせられて受けたダメージの分、ダージリンより千代美が辛そうだ。

 島田のおばさまもダージリンも美味そうに頬張っていたが、あれはだめだ。私も千代美も嫌な顔をする訳にも行かず、無心で食べた。

 おばさまは『娘にも食べさせる』と言ってミートパイを買い込んで行ったが、果たしてどうなるものやら。

 

 早々にコーヒーで口直しをしたが、まだ腹の中が靄々する。

 千代美もそうなのだろうと察しがつくし、それに加えてヘリ酔いである。可哀想。

 彼女の隣に腰を降ろすと、すかさず私の肩に頭を載せてきて、『あー』と声を吐いた。

 しかし何を思ったものか、千代美はその頭をすぐに降ろし、真ん中に座れと言い出した。

 

 真ん中、千代美とダージリンの間。

 

「どうしたんだ」

「いいからー」

 

 言われた通りにすると、私の肩に今度は両側から頭が載せられ、『あー』という声もステレオで聞こえた。何だこれは。

 まあ、二人とも疲れてしまったのだろうと思い、暫くこうしててやる事にする。

 

 なんとなく、ダージリンの頭を撫でてやった。振り払われるかと思ったら、何も言わず私の胸にぐいぐいと頭を擦り付けて来た。少し痛いが、まあ、怒ってはいないようだ。

 

 ふと、千代美が私の手の甲をつねった。

 

「痛っ」

「ふふ」

 

 私がダージリンに構うせいで怒らせてしまったのかと思ったら、どうやら笑っている。何だ何だ、気味の悪い。

 

 すると今度は、反対側の手の甲にも痛みが走った。

 ダージリン、結局お前もか。

 

「何なんだ二人とも」

「うふふ」

 

 私の肩に頭を載せたまま、二人はくすくすと笑いながら代わる代わる私の体のあちこちをつねったり、つついたりした。私はそのたびに、ぐう、とか、むう、とか声を上げる。それが面白いらしい。

 なんだか二人の戯れ合いに私が付き合わされているような気分になってきた。真ん中に座ってはいるが、これではまるで二人の玩具だ。

 私からは二人の頭が見えるばかりで表情が読めず、くすくすという笑い声ばかりが聞こえる。

 どうにも蚊帳の外のような感じだ。真ん中なのに。

 

「お三方、こんな朝から何をやってるんですか」

「見せ付けてくれますわねえ」

 

 顔を上げると、オレンジペコとローズヒップ、二人が立っていた。昨日と全く同じ現れ方である。

 どうやらこの二人はコンビのようなものらしい。ダージリンの引っ越しの時にも二人一組で居たな、そう言えば。

 

 千代美とダージリンは急いで姿勢を正した。

 まあ、後輩に見られたい格好ではなかったな。

 

 というか、随分と早い到着だ。ダージリンからの帰還の連絡に、すぐに向かいますと返信があってから、幾らも経っていない。

 昨日、ダージリンを投げ飛ばしたあと、ハイタッチをしてそのまま走り去るところまでは見ていたが、どこか近場に宿でも見付けて泊まっていたという事なのだろうか。

 

「それは、その、うふふ」

「やだ、ペコさんったら。夕べの事は秘密ですわよ」

 

 あ、詮索は止した方が良いやつだろうか。

 心なし、昨日に比べて親密になっているようにも見える。

 

 ともあれ。

 ダージリンは投げ飛ばされる際に彼女らに預けた手荷物を受け取り、その中から鍵を取り出した。

 

 彼女の、車の鍵。

 

「やっと帰れるわね」

「千代美、酔い止め飲むか」

「ちょうだい」

 

 こんな関係が、果たして一体いつまで続くのだろうか。

 

 まあ少なくとも、まだ暫くは安心しても良さそうだ。

 

 確証は無いが、そういうものだろう。

 

 そう思った。




「急に用事を言い付けたりして悪かったわね。助かったわ、ありがとう」

「いえいえ、とても楽しかったわ。三人とも良い子ね」

「あら、二人じゃなかったの」

「もう一人居たわよ、とっても良い子が」

「ふうん」

「気になるのかしら」

「んん。そんなことよりも」

「伝言でしょ。心配しなくても、ちゃんと伝えたわ」

「本当かしら」

「『なるようになるし、悪い思い出には絶対にならないから安心して過ごしなさい』でしょ。一字一句、違えずに伝えたわよ」

「そう、良かった」

「もっと長い言葉で伝えたかったくせに」

「そ、そんな事は無いわよ。ともあれ、ありがと」

「ふふふ、どういたしまして」


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毛倡妓の髪

毛倡妓

けじょうろう

しほさん視点


 ここ最近、珍しくまほの方から『顔を出したい』という連絡が何度か来ていた。

 

 疎遠とまでは言わないけれど、あの子の足は確実に、この実家から遠退いている。

 まあ無理もない。次期家元であるあの子に対し、両手の指では足りぬほど舞い込んで来た見合いの申し込み。あの子はそのことごとくを断り、家を出て恋人と暮らしている。

 そんな現状は、あの子の性格を考えれば疚しさを覚えて当然と言っていい。

 まほにとって実家に行くという行為は、わざわざ小言を聞きに行くような感覚なのだと思う。その気持ちは何となく分かる。

 

 そんなあの子の方から顔を出したいなどと言ってくるのは、まあ異例の事。

 

 とは言え、先日の学園艦の騒動であの子達に手を貸した事などを思えば、挨拶があって然るべきとも思うので、意外という程でもない。

 ただし、こちらも忙しい身の上であるため、なかなか時間を取ることが出来ずにいた。

 

「照れ臭かっただけでしょう、家元」

「う、うるさいわね」

 

 私の髪を結いながら、菊代が容赦の無いことを言った。

 

 まあ、当たらずとも遠からず。

 決してそれだけではないけれど、照れ臭さは確かにある。これまで基本的に厳しく接してきたお陰で、娘とその恋人に対してどう接したらいいか分からないと言うか、何と言うか。

 そのせいで忙しさにかこつけて、会おうとしてくれているあの子達の申し出を何度か断ってしまっている。

 

 勿論それによって、現状、ある種のぎこちなさが生まれてしまった事も分かっている。出来ればそれは解消してしまいたいし、こちらが歩み寄れば恐らく簡単に解消出来るであろう事もわかっているけれど、どうにも性格が邪魔をする。

 

「厄介な性格ですこと」

「本当にね」

 

 ともあれ、懲りずに何度目かの連絡をくれたまほのお陰で、この度ようやく日程が決まった。

 いよいよ今日、彼女達が先日の学園艦の件の礼という形で、ここ、熊本にやって来る。

 

 ところが今朝、まほからとある連絡が入った。

 その短い言葉が、私の頭の中で何度も繰り返されている。

 

『千代美が緊張していますので、くれぐれも過剰に威圧する事の無いようにお願いします』

 

 正直、面食らった。

 私に楯突いた、意見した、それだけで『とんでもない事だ』と言われた昔に比べて、あの子は明らかに言いたい事が言えるようになっている。

 もっと言うならば、まほは千代美さんのためであれば、私に注文を付けることを厭わなくなっている。まさかあの子にそんな変化が生まれるなんて、思いも寄らない事だった。

 それだけ千代美さんの事が大切、という事なのかしらね。

 

 その気持ちは尊重してあげたい。

 

「ああ、それで」

 

 私の髪に苦戦していた菊代が、仕上げに取り掛かりながら相槌を打つ。

 そう、それでなのよ。

 自分が敵ではないとあの子達に手っ取り早く証明してあげたいの。

 

「効果の程は判りませんが、結構な心掛けで」

 

 はい出来ましたよ、と菊代が私の後頭をぽんと叩いた。

 長い付き合いならではの、この無遠慮な感じは妙に心地が良い。

 

 鏡を見て、出来映えを確認する。

 

「変じゃないかしら」

「いえ全然。よくお似合いです」

 

 即答、というか食い気味で答える菊代に、少し違和感を覚えた。

 

 でもまあ、よし。これであの子達を迎える準備が整ったわ。

 少し早いけれど、応接室のいつもの場所に陣取り、娘達の帰りをそわそわと待つ。

 座布団はふたつ、ちゃんと用意してあるわね。大丈夫、大丈夫。

 

 暫くして、まほから『もうじき到着します』との連絡が入り、程なくしてインターホンが鳴った。意味もなく、姿勢を正す。

 ぱたぱたと菊代が駆けて行き、あらあらお久し振りですお二方などという、あまり聞かないトーンの声が聞こえた。

 少し、立ち話をしているような間の後、足音がこちらへ近付く。

 

 す、と襖が開いた。

 

「お母様、お久ぐふぅっ」

「まほ、どうし、ん、んんっ」

 

 こちらを見るなり、口を押さえて蹲る二人。

 おやどうされましたと菊代が二人の背中をさする。

 

 本当にどうしたのかしら。

 

「い、いえ、大丈夫です」

「お構い無く」

 

 よたよたと立ち上がり、歩くのもやっとといった風の二人が私の正面に座る。

 

「よく来たわね、二人とも」

「いえ、あの、はい」

「は、はひ」

 

 どうにも歯切れが悪く、声も裏返っている。

 二人ともこちらに目を合わせようとせず、俯いて肩を震わせているようにも見えた。体調でも悪いのかしら。

 

「あ、あの、お母様」

「何かしら、まほ」

 

 挨拶もそこそこに、まほが手を上げて私に問うた。

 

「その髪は一体」

 

 髪。

 千代美さんを威圧する事の無いようにというまほの言葉を尊重して、菊代に結わせた髪。矢張り何かおかしかったかしら。

 

 高校生時代の千代美さんと同じ髪型に、してみたのだけど。

 

「変かしら」

「変です」

 

 あまりにもばっさりと切り捨てられた。

 まほ、本当に言いたい事が言えるようになったのね。母は嬉しく思いますが、少し辛いです。

 

「菊代は」

「出掛けると言っていました。仕事があるとかで」

 

 逃げたか。という事は暫く帰って来ないわね、きっと。

 

 はあ。

 全く、とんだ赤っ恥だわ。二人とも様子がおかしかったのは笑いを堪えていたのね。

 ため息を吐き、髪を解こうとリボンの結び目を手探りした。けれど、リボンなど普段全く使わないものであるためか、それとも菊代が無駄に固く結んだか、いまいち要領を得ない。

 無理に引っ張るものでもないし、と一人で苦戦していると、今度は千代美さんが手を上げた。

 

「あ、あの、私が解きましょうか」

「ああ」

 

 そうか。

 千代美さんならば間違いないわね。

 

 変な意地を張らず、お願いするわ、と言えた。

 不思議と、素直に。

 

「触りますね」

「ええ」

 

 立ち上がり、私の背後に移動した千代美さんはするすると容易く私の髪を解いてくれた。

 私が苦戦したのが不思議な程に。

 

 ふと、まほの顔を見て驚いた。

 

 まほは私達の様子を眺め、にこにこと微笑んでいる。

 この子のこんな顔を見るのはどれくらいぶりかしら。千代美さんに髪を梳いて貰いながら、そんな事を考えた。



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追想の刻

タイトルで落ちがバレるかも知れないやつ


 お風呂上がり、就寝前。

 西住家、西住まほの自室にて。

 

「いやはや済みません、お嬢様。偶さかお客様用のお布団を全て洗濯してしまいまして」

「そ、そんな訳がありますか」

 

 珍しく狼狽している彼女を、菊代さんがまあまあとあしらう。

 

 今、この場にある寝具は、昔からその場にある西住まほのベッドがひとつ。のみ。

 私が寝るための布団は無いらしい。少なくとも、菊代さんはそう言っている。

 

 確かに、そんな訳があるかとは思う。

 お客さん用の布団を全て、お客さんが来る日に洗濯するなんて、普通に考えればあり得ない事だ。ましてや、西住家のこの規模だ。『全て』ってどんだけの量だよ、とも思う。まあ、当のお客さんの身でそんな事を言うのも憚られるから黙ってるけど。

 でも実際の所は本当にそんな訳は無くて、布団の洗濯なんかしてないんだろう、きっと。枕は抜かりなく二つあるし。

 菊代さんはたぶん、こう言ってるんだ。

 

 一緒の布団で寝ちゃえよ、と。

 

 何故だかあの人は私達の恋愛に対して好意的だ。それはどうやら家元の指示と言うわけでもなくて、個人的に応援してくれているような、そんな感じがする。

 正直、ものすごく心強い。

 

 去り際、菊代さんはこちらに向かって小さくウインクをして見せた。

 ああ、やっぱり。

 

「すまん、安斎」

 

 部屋の戸を後ろ手に閉め、西住が本当に申し訳なさそうに言った。おおっと、ちょっと待て。これは放っておいたら自分が床で寝るとか言い出すぞ。

 ということは、ここが勝負所ってやつなのかも知れない。

 頑張れ、私。

 

 小さく深呼吸をして、お腹に力を入れた。

 

「あ、あのさ。良かったらお前の布団に入れてくれないか」

「んっ」

 

 言ってしまった。もう後戻りは出来ない。どくん、という自分の心臓の音が聞こえたような気がした。

 とはいえ、果たしてこの察しの悪い友人に、私の言った意味は伝わったんだろうか。

 

「ご、ごめんっ、嫌なら、いいんだ、けどさ」

 

 つい弁解するような言葉を重ねてしまったけど、西住は何も言わない。

 

 長いような短いような沈黙の中、顔を伏せて返事を待った。

 

 長いような、短いような、沈黙。

 

 長いような、短いような。

 

 いや、めっちゃ長い。

 

 どうした西住。

 

 堪らず顔を上げると、西住は無表情で突っ立っていた。

 え、怖い。どういう状態なんだそれ。

 

「に、西住、おーい」

「はっ」

 

 おお、戻ってきた。

 

「す、すまん。色々な事を考えていた」

「フリーズしてたのか」

 

 西住は私の言葉を反芻して、様々な可能性に思いを巡らせていたらしい。

 

「その、な。もしかして安斎は私に対して一緒に寝ようと言っているのか、それとも床で寝ろと言っているのか、というか一緒に寝ようと言っているのであればそれはその、そういう意味なのか、それとも本当に単に寝たいだけなのか、とか、ああ嫌なんかでは全然なくて、むしろ凄く嬉しいというか、ええと、あの」

 

 しどろもどろ。

 

 こんな西住は初めて見た。そして、こいつの口からこんなに長い言葉が出たのを聞いたのも初めてだ。どさくさに紛れて聞き捨てならない事も言ってるように思う。

 そのお陰というのも変だけど、私の方は反対に、段々と気持ちが落ち着いていくのを感じていた。

 

「西住」

「は、はいっ」

 

 ああ。

 こりゃ、私がリードしてあげなきゃ駄目なんだな。

 

「一緒に寝ようよ」

 

 言って、西住の手を握る。

 西住は全身をガチガチに硬直させていて、それでも辛うじて、こくり、と頷いた。

 

 そして、二人で入った布団の中。

 西住は相変わらず緊張しっぱなしで、というかさっきの状態に輪をかけて緊張していて、手も足もピンと伸ばしたまま仰向けになっている。棒かこいつ。

 

「西住、こっち向いて」

「ん」

「かーらーだーごーと」

 

 案の定、西住は姿勢を変えず顔だけこっちを向いたので、腰に手を回して無理矢理体ごとこっちを向けさせた。ああもう、雰囲気も何もあったもんじゃない。

 ついでに姿勢も楽にしろと叱り、それでようやく、なんというか、形になった。

 

「緊張しすぎ」

「し、しかしな、安斎」

「嫌なのか」

 

 そう言うと西住は、ふるふると首を振った。

 それを見て、安堵する。

 

 もぞもぞと布団に潜り込み、西住の胸に顔をうずめた。

 

「お、おい」

「私だって、恥ずかしいんだからな」

 

 思わず本音が零れてしまった。

 そりゃそうだ、私だって恥ずかしい。私にこんなに恥ずかしい思いをさせてるんだ。責任取ってくれよ、西住。

 なんて、流石にそこまで言う勇気は無いけどさ。

 

 無いけど、どうやら伝わっちゃったらしい。

 ようやく私の肩に西住の手が回された。

 

 その手はゆるゆると私の背中を撫でるように伝い、腰の辺りまで降りてきて、止まった。

 抱き締めると言うにはあまりにも力なく、西住は私の腰の辺りに手を置いたまま、また体を硬くしている。

 

 西住はそのまま、もごもごと謝るようなことを言い始めた。

 

「す、すまん、安斎。どうしていいか分からなくて」

「もっと力を入れてもいいんだぞ、西住」

 

 西住の胸から顔を上げ、苦笑いをした。

 彼女はまた、もごもごと続ける。

 

「その、壊れやしないかと不安なんだ」

「あはは、優しいな」

 

 その気遣いには、正直、きゅんと来た。

 

「大丈夫だよ。これでも結構、頑丈なんだから」

「んん」

 

 西住は、返事だか相槌だか分からない声を出したかと思うと、恐る恐るといった感じで、少しずつ手に力を籠めた。

 ゆっくり、ゆっくりと、私を抱き締める力が強くなっていく。既に密着してる身体を尚もくっつけようとしているみたいに、強く、強く。

 私が痛がらないことに西住は本気で驚いているようだった。

 

「こ、こんなに強くしても大丈夫なのか」

「えへへ、だから言ったろ」

 

 正直、ちょっと痛いけど。

 痛いけど、嬉しい。

 

「ん、む」

 

 不意を打って西住の首に腕を回し、唇を塞いでやった。

 ちゅう、と吸い付くようにキスをして、すぐに離す。恥ずかしい。

 

 西住は目を丸くしてまた暫く固まった。

 それから少し遅れて、その目からはぽろぽろと涙が零れ出す。私も流石に驚いて、抱き締められたまま慌てて謝った。

 

「ご、ごめん、泣かせるつもりは無くてっ」

「いや、違うんだ安斎。その、嬉しくて」

 

 整った綺麗な顔をくしゃくしゃに歪めて、西住はさっき私がしたみたいに、私の胸に顔を押し付けて涙を拭う。

 私はその頭を撫でたり、ぽんぽんと叩いたりして、ちょっと長い時間を過ごした。

 

「落ち着いたらまた、キスしようよ」

 

 そう言うと、西住は私の胸に顔を当てたまま、こくりと頷いた。

 

 

 

 なーんて。

 

 

 

 そんな事もあったなあ。

 

「何をにやにやしてるんだ、千代美」

「えへへ、何でもなーい」

 

 お風呂上がり、就寝前。

 西住家、西住まほの自室にて。

 

 ここで寝る時、決まってあの夜の事を思い出す。

 菊代さんはまた、お客さん用の布団を全て洗濯してしまったらしい。

 

 お陰で私もまた、まほの布団に入れて貰っている。

 

「それよりもっとくっつけ。もはや七月も近いというのになんだか寒いんだ」

 

 まほは私の身体を、ぐいっ、と引き寄せて弛緩しきった身体を押し付けて来た。

 ああ、嬉しいなあ。

 

「キスしようよ、まほ」

「んん」

 

 まほは返事だか相槌だか分からない声で唸り、私の唇を塞いだ。



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閻婆の夕(かはたれ)

閻婆

えんば
地獄に住んでる鳥
ババアではないです


【ダージリン】

 

 週末、自宅のリビングにて。

 時間的には夜だけれど、窓の外はまだ少し明るくて『夕暮れ時』と呼んでもいいくらい。夏が近付いているのを感じた。

 

 などと、現実逃避をしている。

 

「嘘でしょ」

 

 外を見つめ、ぽつりと呟いた。

 部屋には私以外、誰も居ない。つまりその言葉は、他ならぬ自分自身に向けたもの。窓からテーブルに視線を戻し、並べた料理を見て、がっくりとうなだれる。

 

 ポテトサラダ。

 

 コロッケ。

 

 フライドポテト。

 

 芋だらけ。

 

 全てコンビニで揃えました。

 いえ、これを料理と呼ぶのもどうかと思うけれど、まあ『調理済み』という意味では料理でしょう。なんて、千代美さんが聞いたら何て言うかしらね。

 

 それはそれとして、何故こんな味の濃いものばかりを選んだのかと言えば、おつまみのため。先日、熊本に行ってきたまほさんと千代美さんからお土産でお酒を頂いた。そのお供。

 

 おつまみは何がいいかしらと思案していて、とりあえず挙がったのが『揚げ物』という考え。

 そう思い付いてからは、すっかり揚げ物の気分になってしまったのでコンビニに車を寄せて、お店に入った時点でコロッケだけはとりあえず決めた。その後、サラダも食べなきゃと思い、売り場を見ると残っていたのがポテトサラダ。そしてレジでコロッケを注文した時、丁度フライドポテトが揚がるのが見えたので、それも追加。

 

 無計画、ここに極まる。

 全く、良いお客さんだわ。帰宅してテーブルに並べるまで、まるで気が付かなかった。うん、まあ、そうは言っても買っちゃったものは仕方ない。気を取り直して始めましょう。

 

 氷を落としたグラスにお酒を注ぐ。

 若干の緊張感が漂う瞬間。

 

 とく、とく、とく。

 

 良い音。

 一日の、と言うより一週間の疲れが洗い流されるような、そんな錯覚をしてしまうほど。上手に注げた達成感も相俟って、心地よい脱力感を覚えた。

 

 グラスに満たした透明の液体に、暫し見蕩れる。

 からん、と氷が鳴った。

 

 早速、少量を口に含んで味を確かめるように舌を潤し、飲み下す。

 

「ん、おいし」

 

 ふと、まほさんが『名前は悪いが良い酒だ』と言っていたのを思い出した。確かに美味しいわね、名前は悪いけれど。

 甘口でなかなか飲みやすい。鼻に抜けるふわりとした香りは、あら、これは、もしかして。

 

 なんだか予感がして、瓶に貼られたラベルをよく見ると、思った通り。

 

「い、芋焼酎って書いてある」

 

 思わぬ追い討ちを受けて、笑いが込み上げた。ここまで揃うと逆に気持ちが良い。今日は芋の日なんだと思う事にしましょう。

 おつまみはどれから行こうかなと少し迷って、ポテトサラダに箸を付けた。

 

 コンビニのポテトサラダ。じゃがいもの形が残っていて、そのころころとした食感が好き。ころころの中に時々、キュウリのぱりぱりが混じってくるのも楽しい。濃い目の味付けで癖になりそうだけれど、量が少ないので食べ過ぎる事は無く、一人で食べるには丁度良い。

 ポテトサラダで油っこくなった口の中にまた一口、芋焼酎を流し込んだ。

 

 氷のお陰でしっかり冷たくなったお酒が喉を通る。

 

「はあー」

 

 思わず声が出た。

 ああ、美味しい。

 

 さて次はフライドポテトにしようかな。

 三日月型で皮付きのタイプ。それぞれの形に名前があった気がするけれど、目の前にあるこれが何と言う名前なのかは思い出せない。たぶん、思い出してもピンと来ない。

 揚げたてが理由で買ったのに、まだ熱いからという理由で冷めるのを待つ矛盾。そろそろ良い頃かなと思ってひとつつまむ。

 

「あっく」

 

 まだ少し熱かった。外側はそうでもないけれど、中がホクホク。

 塩気の多いところを引いたらしく、味が濃くて美味しい。お酒で冷たくなっていた口の中が暖まった。調子に乗り、もうひとつもうひとつと、ひょいひょいつまんだ。

 

 そしてまた、お酒で冷やす。

 

「あー」

 

 また、だらしない声が出た。

 芋を食べて、芋を飲んで。その組み合わせはどうなのよとも思うけれど、美味しいからまあいいかという気分になってきた。

 

 さて、次はいよいよコロッケ。

 これだけは最初から食べようと思っていた物だし、順番を最後にしたのは何だかんだで楽しみだったから。という訳で真ん中に箸を入れ、半分に割る。ソースはかけない派。

 と、そのタイミングでインターホンが鳴った。

 

 やれやれと箸を置いた。まあ大体想像が付く。

 玄関を開けると案の定というか何というか、立っていたのは馴染みの顔。

 

「来たわよー」

「はいはい、いらっしゃい。あら、今日はノンナは一緒じゃないのね」

 

 カチューシャが来た。

 普段はノンナに送迎をさせているけれど、運動不足解消のためと言って、時々こうやって徒歩で来る。そしてここで酒盛りをしつつぐだぐだと泊まり、明日の休日になだれ込むというのがお決まりの流れ。徒歩で運動不足を解消したところで、他の全てが健康的ではない気がする。

 手にはコンビニ袋。流石、飲む気満々ね。

 

 リビングに通すと、カチューシャはテーブルの上に並べた品々を見て露骨に呆れた。

 

「どんだけ芋好きなのよアンタ」

「反省はしてるわ」

 

 既に私が飲み始めてることに関しては疑問に思わない辺り、分かってる。

 しょうがないわね、などとぼやきながらカチューシャはコンビニ袋からがさがさとプラスチックのパックを取り出した。

 

「じゃーん、焼き鳥ー」

「わー」

 

 軽い拍手でカチューシャを讃える。ここでお肉の登場は嬉しい。レジの前で時々売ってる、十本ほど纏めてあるやつね。

 

「それと、はいこれ」

 

 そう言ってカチューシャが手渡してきた物は、アイスコーヒー用のカップがふたつ。本来なら店内の機械でコーヒーを注ぐためのもので、氷が入っている。もちろん未開封。

 更にカチューシャは、炭酸水を取り出した。

 

 ははあ、成程。

 

「お酒ちょーだい」

「はーい」

 

 渡した瓶のラベルを見て一瞬だけ顔を顰めたあと、カチューシャは、カップの封をべりべりと剥がしてお酒を注ぎ、更に炭酸水を足した。なんとも横着な作り方だけれど、いわゆる焼酎ハイボールが完成。

 私も真似をして、同じものをもうひとつ作った。

 意外にカップも氷もしっかりしていて、なんだか妙に理に敵っているのが少し悔しかったけれど、まあ良しとする。

 

 早速、乾杯をして飲んでみる。

 

 あら。あらあらあら、これは。

 さっきとはまた打って変わって、炭酸のお陰ですごく爽やかになったわね。端的に言って、とても好き。

 

 油っこいものに合うかも。ああ、それで焼き鳥なのかしら。

 

「美味っしいわねー、これ。良いお酒だわ」

「貰い物よ」

「ふーん。ああ、マホーシャか」

 

 ラベルを眺めていて『熊本』の字を見付けたらしく、カチューシャはあっさりと正解に辿り着いた。まあ、別にクイズでも何でもないけれど。

 

 さて、焼き鳥を頂きましょう。

 雑に貼られたセロハンテープを剥がすと、パックはひとりでに開いた。中身は全部一緒。

 

「皮タレね」

「アンタ好きでしょ、皮タレ」

 

 そう言われ、きょとんとしてしまった。

 あまりピンと来ない。

 

「えー、アンタ焼き鳥を食べる時、必ず皮タレから行くじゃない」

 

 そうだったかなあ、と思いながら一口。

 ぐにぐにとした皮の食感とタレの甘辛さが何とも言えず、思わず『あら美味しい』と声が漏れる。

 カチューシャはそれを聞いて、ほらねと笑った。

 

「好きすぎて当たり前になっちゃってんじゃないの」

「そうかも」

 

 そんな事もあるかも知れないわね。

 

「カチューシャ、泊まって行くでしょ」

「うん。毛布出しといてー」

「はいはい」

 

 ふたつに分けたコロッケの片方を遠慮も何も無く口に入れ、テレビを点けたカチューシャを尻目に、寝室に向かう。

 どうせ寝室に布団を敷いた所で、彼女はお行儀よくそこで寝るようなタイプではない。ソファでうとうとし始めて、そのまま寝てしまうのがいつものパターンなのだから、リビングに毛布を持って行けば、それでいい。

 

 ふと、カチューシャの先程の言葉が頭をよぎった。

 

『好きすぎて当たり前になっちゃってんじゃないの』

 

 そうかもね。

 そうかも。

 

 そんな事も、あるかも知れない。



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文車妖妃の鰯

鰯は英語で

西住まほさんお誕生日おめでとうございます


 みほと二人、映画館のロビーにある長椅子に腰を降ろして話している。

 

 なかなか珍しい光景だと、我ながら思う。私もみほも、わざわざ映画館に足を運ぶほどの映画好きではない。どころか最近では、こうして二人で出掛けるという事もあまり無い。

 今回は偶々、条件が重なった。

 

 本来、今日ここに来る予定だったのは、みほとエリカ。

 エリカがみほと二人で映画を観るためにチケットを取ったという話は、少し以前にエリカ自身の口から聞いていた。しかし当日になって、エリカに急な仕事が入り行けなくなってしまったというから可哀想なことだ。

 

 ともあれ、そういう訳で私に白羽の矢が立った。

 

 しかし私は、正直に言えば映画自体は特に観たいとも観たくないとも思っていなかった。テレビの宣伝か何かで目には入っていたから何となく知っていたが、要はその程度だ。どちらかと言えば、久し振りにみほと二人で出掛けるという事の方に魅力を感じた。

 千代美もそれに気が付き、『いいじゃん、行って来いよ』と言って小遣いをくれた。たまにはみほと外食でもして来いと言うのだろう。

 

 その小遣いを有り難く頂戴し、帰りは遅くなるぞと伝えた。

 

 そして映画を観終わり、今に至る。

 話題は勿論、たったいま観終わった映画のこと。

 

「面白かったね」

「んー。うーん」

「どうしたの、お姉ちゃん」

 

 面白かったのは確かだが、どうにも見覚えのある筋で、そちらばかりが気になってしまった。

 

「ああ、原作が有名だからお姉ちゃんもどこかで読んだことがあるのかも知れないね」

「ふむ」

 

 この映画の『原作』とやらは、無名の素人がインターネット上に投稿した短い恋愛小説なのだという。

 その小説は口コミでどんどん広まり書籍化までされ、挙句の果てには海外の有志によって翻訳された『英語版』が現れたことにより読者は現在も増え続けているらしい。世界中で読まれているという事か。

 

「その映画版が、今観たやつなんだよ」

「詳しいな、みほ」

「えへへ、エリカさんがファンなの。その影響」

 

 ああ、それでか。

 では今日来られなかった事はさぞかし残念だったろう。

 

「あ、パンフレット頼まれてたんだった」

 

 ぱたぱたと売店へ駆けていったみほは、程なくしてパンフレットを手にして戻ってきた。

 売り切れ寸前だったらしく、ほっと胸を撫で下ろしている。

 

「この、原作者というのは何者なんだろうな」

「それが一切謎なんだよね。あ、パンフレットにインタビューがちょっと載ってる」

 

 みほがパンフレットを開き膝に乗せた所を覗き込む。

 インタビューは記者と顔を突き合わせた形ではなく、インターネット上でのメールのやり取りという形式で行われたようだ。顔や性別を公表する気すら無いらしい。

 名前は『鰯』。明らかにニックネームと分かる。

 

 記事を読む限りでは、どうも作品に対する反響は嬉しく思っているものの、自分自身が前に出て有名になるつもりは無いらしい。映画化や書籍化に際しても『ご自由にどうぞ』と許可を出しただけで、自身は何一つ手出しも口出しもしていないという。どこまでも『原作者』でしかないのだ。

 

「何だか徹底しているな」

「だね。あ、理由が載ってる」

 

 この原作者に有名になるつもりが無い理由。

 曰く。

 

『恋人と静かに過ごしたいから』

 

 ああ。

 何故だろうか、物凄い説得力のようなものを感じた。

 

「映画よりロマンチックな人だな」

「本当。その恋人さんの事が世界一好きなんだね」

 

 みほはそう言って、見慣れない表情で笑った。

 

 さて、と腰を上げる。

 これからの予定としては、みほと何か食事でもして過ごそうかという所だったが、少し気が変わった。みほには申し訳ないが、抑えが効きそうにもない。

 

「みほ。悪いんだが、食事はまた今度にしないか」

 

 そう言うと、みほは驚いた様子もなく、頷いた。

 

「私もね、同じこと考えてたの」

「ああ」

「エリカさんに会いたくなっちゃった」

 

 映画の影響か、はたまた『原作者』の影響か。

 私もみほも会いたくなってしまったのだ。世界一、好きな人に。

 

「じゃあ、ここで」

「うん。またね、お姉ちゃん」

 

 みほと別れ、いくらも経たないうちにいそいそと携帯電話を取り出した。自分はこんなに堪え性の無い人間だっただろうかと、呼び出し音を聴きながら思う。

 千代美はすぐに出た。

 

「もしもし千代美、すまないがこれから帰るぞ」

『ありゃ、随分早いな。ご飯はどうした』

「まだなんだ。何か作ってくれ」

 

 リクエストはあるかと問われ『鰯』と答えた。我が儘な物言いになったが、まあ通じるだろう。

 真っ直ぐ帰って、千代美が作った夕飯を食べて。

 その後は、そうだな。

 

 千代美から本でも借りるか。

 

 今夜は静かに過ごそう。

 なんとも贅沢な日だ。



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ポルターガイストの鼾

「ただーいま」

 

 帰宅。

 習慣で声を出したけど、家の中はがらんとしていて誰も居ない。

 まあ、分かってる。誰も居ないと分かっていても、なんとなく声に出してしまうのが習慣ってもんなんだ。

 

 ヒールを脱いで、買ってきた食材やらなんやらの荷物をテーブルに置いて、部屋着に着替えて夕飯の仕度。特に気にした事は無かったけど、この順番だって習慣なんだよな。

 靴の脱ぎかたも、テーブルまでの歩数も、多分いつも同じ。その『習慣』がちょっとでも崩れると、なんとなく調子が狂ってしまったりするものなんだと思う。

 無意識だけど、だからこそ大切なことなんだろう。

 

 夕飯のパスタを茹でながら、そんなことを思う。

 

 パスタ、刻んだベーコン、あとホウレン草。

 バター醤油で炒めて、きざみ海苔をぱらぱらとまぶして完成。暑いと食欲が失せがちだから、味付けは濃い目にした。本当はニンニクでも入れたい所だけど、明日も仕事だから我慢我慢。

 

 出来上がったパスタと、グラスに注いだ麦茶を食卓に並べた。

 

「いただきまーす」

 

 手を合わせて、声に出す。これも習慣。

 子供っぽいと言われる事もあるけど、なんか辞められないんだよな。流石に絹代みたいに高らかに叫んだりはしないけど、一応ちゃんと言う。なんか、言わないとモヤモヤするし。

 

 黙々と夕飯を済ませ、食器を洗うこと数分。一人分だからすぐに終わる。

 お風呂のスイッチを入れ、沸くまで暫しの自由時間。

 

 ぽちぽちとテレビのチャンネルを回す。まあ、私はあんまりテレビを観る人じゃないんだけど、なんだか手持ち無沙汰で『とりあえず』って感じで回してる。案の定、面白そうな番組はやっていない。

 バラエティは気分じゃないし、ドラマも微妙に興味をそそられない。適当にニュースをぼんやりと眺めて、すぐに飽きて消した。

 

 本でも読むか。

 

 あー、そういえば『百器徒然袋』の三巻、買ってきてそのまま置いてたなあ。ネットで評判を軽く調べたら、読んだ人の評価が真っ二つに分かれてるのを見ちゃったせいか、なーんか読むのが億劫なんだよな。

 まあ、それでも読み始めちゃえばなんだかんだで最後まで読んじゃうんだろうけど。

 

 んー、でも今日はいいや、なんとなく。

 そのうち読もう、そのうちな。

 

「うーん、何読もうかなー」

 

 わざとらしく呟きながら本棚をつらつらと眺めてはいるけど、気持ちはまるで上の空。本が読みたいと思い込んでる自分を、どっか冷めた目で見下ろしてる自分が居る。そんな感じ。

 どれもこれも好きで並べた本の筈なんだけど、今に限っては読みたい本がひとつも無い。じゃあなんで私は本棚を漁ってるんだろう。わかんない。

 ともあれ、お風呂が沸くにはまだ時間がある。適当に短編ものの文庫を一冊取って、ちょっとだけ読み耽ろうと頑張ったけど、どうにもそわそわして駄目だった。

 読んで辞めて、読んで辞めてを繰り返す。

 

 お風呂が沸いたベルの音に露骨にホッとした自分が、なんだか滑稽に思えた。

 

「はあー」

 

 浴室にため息が響く。妙に静かだ。

 水音がいつもより大きく聞こえる。そう言えば、お湯でも『水音』って言うのかな。『湯音』とは言わないよなあ。

 湯舟に浸かりながら、そんなどうでもいいことを考えた。

 

 考えてみれば、お風呂も習慣だらけだ。

 髪の洗いかたも、体を洗う順番も、お風呂から上がって体を拭く時の順番も、いつも同じ。つまり習慣。

 

 お風呂から上がり、寝室で髪を乾かす。

 ちょっと早いけど寝る時間。さっき本棚から出した文庫本を持って布団に潜り込み、スタンドの灯りを点けた。眠くなるまで読書タイムだ。『目を悪くするから本を読むなら部屋を明るくしろ』って、まほによく 叱られる癖。

 まほが居ないから、今夜は叱られない癖。あ。

 

 あーあ。

 

 考えちゃった。

 考えないようにしてたのに。

 

 そう。

 そうなんだよな。全部いつも通りなのに、まほだけ足りない。そのせいで、なんだか全部の調子が狂ってる気がする。そわそわして短編すら読めなくなっている。

 

 文庫本は結局、一行も読まずに枕元に置いた。

 灯りを消して、そして、習慣で声を出す。

 

「おやすみ」

 

 いつもなら『お休み』が返ってくる『おやすみ』は、寝室に空しく反響して消えた。

 まほは居ないのに、顔をうずめた枕はまほの匂いがして、そのお陰で全然眠れなかった。

 会いたいなあ。

 

 そして次の日もまた、同じ事の繰り返し。

 

「ただーいま」

 

 帰宅。

 言わずもがな、やっぱり家の中はがらんとしている。

 ヒールを脱いで、買ってきた食材やらなんやらの荷物をテーブルに置いて、部屋着に着替える。いつもならその後は夕飯の仕度に取り掛かるんだけど、昨日と違ってなんだか胸がぎゅうっと苦しくなってしまった。今日は駄目だ。

 

 なんか、駄目だ。

 

 別に嫌な事があったとか、そんなんじゃない。そんなんじゃないけど、なんか駄目。やる気が全く出ない。そのまま寝室まで行ってベッドに倒れ込むと、ゆうべ眠れなかったせいか、眠気は案外すぐにやって来た。

 ふて寝ってやつなのかなあ。

 

 眠気には逆らわず、素直に目を閉じた。

 

 暫くして目が覚めて、スマホで時計を確認する。ああ、二時間くらい眠ったのか。

 どうしよっかなあ、これから。夕飯を作ろうにもやる気は出ないし、っていうか起き上がるのすら軽く億劫だし。

 

 うーん。

 

「起きたか」

 

 ん。

 

 聞こえた声に、びっくり。

 単純に自分以外の声が聞こえたことにもびっくりしたけど、それ以上に、聞き慣れた、だけど最近全然聞いてなかった声。ずっと、聞きたかった声。

 

「まほ」

 

 まほはベッドに腰掛けて、私が枕元に置きっぱなしにしていた文庫を読んでいた。

 

「お早う」

「お、おはよう」

 

 あ、ホッとする。

 すごく落ち着く。

 

「まほ、夜勤は」

「昨日で終わりだ。昨日と言うか今朝と言うかだが、とにかく終わった」

 

 夜勤。

 職場で人手が足りなくなっているらしく、まほはここ数日、夜勤に駆り出されていた。

 私が起きて出勤した後にまほが帰宅して、まほが出勤した後に私が帰宅する。そのせいで、同じ家で生活している筈なのに全く会えない日が続いていた。

 

 でも、そっか。昨日で終わったんだ。

 こうして顔を合わせるのは何日振りだろう。

 

「ひさしぶり」

「うん、久し振りだな」

 

 ただいま、おかえり、と他愛の無い言葉を交わすと、すうっと疲れが取れたような気がした。

 もう我慢が出来なくて、まほに向かって、ずい、と両手を伸ばす。このジェスチャーには二通りの、真逆の意味がある。『引っ張って起こしてくれ』と『おいで』。

 

 さあ、どーっちだ。

 

 まほは、私の手の間に身体を滑り込ませ、身を寄せてきてくれた。まほの首に腕を絡めて、捕まえるようにして抱き締める。えへへ、正解。

 まほの大きな胸にぐいぐいと顔を擦り付けると、ぽんぽんと頭を叩くようにして撫でられた。

 

「よしよし。寂しかったなあ、千代美」

「んん」

 

 見透かされるのは癪だけど、その通り。寂しかった。

 たかだか夜勤が続いただけでと思われるかも知れないけど、近くに居るのに全然会えない日が続いたのは、正直言って辛かった。

 まあ、会えないなりに同じ空間で生活してるから、物の位置が変わってたりして、そこかしこにまほの生活の跡を感じ取る事は出来たけど。でも、だからこそかな。余計に寂しかった。

 

「私な、いっぱい我慢したぞ」

「ふふふ、偉いな」

「ご褒美」

 

 普段の私なら絶対に言わないようなこと。やっぱり調子が狂ってる。まほは面喰らったような顔をしたあと、ふうむ、と唸って少し考えた。

 

「夕飯を作ってあるんだが、ご褒美が先か」

「ご褒美が先」

 

 少し、わがままだったかな。

 でもいいじゃん、今の私は調子が狂ってるんだから。

 

「じゃあ、風呂にしよう」

「うん」

 

 立ち上がる前にもう一度、まほの胸に顔をうずめて、胸一杯に息を吸い込んだ。



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ベルゼブブの群

ベルゼブブ。

蝿です。


 夕方、自宅でシャワー。

 最近は一気に暑くなったから冷たいシャワーを浴びることも増えてきたけど、今日は熱いのを思いきり浴びている。

 

 匂い、ちゃんと落ちてるかな。

 

 すんすんと自分の身体を嗅いでみたけど、まあ、お風呂だからよく分からない。まほは鼻が良いから、なんだかすぐに気付かれちゃいそうで怖い。

 何をしてたんだって訊かれたらどうしようか。正直に答える訳にも行かないから、なんか上手い言い訳を考えておかなきゃ。

 出来るだけ嘘はつきたくないけど、こればっかりはなあ。

 

 まほには喋らないって約束したんだ、エリカと。

 

 なかなか無い組み合わせだったなと我ながら思う。

 エリカとみほ、同居中の二人。まほと私は、あの二人と時々会って四人でご飯食べたりしてるんだ。そう、『二人と二人』なら時々会う。

 いつか言った事があったけど、まほにとってあの二人は妹なんだよな。みほは勿論だけど、最近ではエリカもまほにとって妹みたいな感じになってきた。かく言う私も、まほの妹という意味で、みほが妹みたいに見えてきた今日この頃。

 と、考えていくとやっぱり私とエリカだけが、なんと言うか、ちょっと薄い。『妹みたいなもんみたいなもん』って所か。ややこしいなあ。

 ともかく、悩みとまでは行かないけど、ちょっと気になってた。エリカとも仲良く出来ないかな、って。

 別に仲が悪いって訳じゃないんだけど、もうちょっと何ていうか、距離を縮められたらなと。

 

 そんなことを考えていたある日、当のエリカから珍しく電話が掛かってきた。

 

『あの、まほさんはそこに居ますか』

 

 挨拶もそこそこに、いきなりの質問。

 丁度その時は、夕飯の仕度をしながらまほの帰りを待っていたところだった。居ないよ、と答えるとエリカは露骨に安心した様子で言葉を続けた。

 

『お願いがあるんです。まほさんには内緒で』

 

 やけに気にするなあ。

 でもまあ、私に頼み事をするとなればまほに知れると考えるのが普通だからな。まほに内緒というのが大切なんだろう。

 案の定、お願いというのはまほには知られたくない事で、尚且つ私にしか頼めない話らしい。

 

『みほとも相談したんですけど、やっぱり安斎さんしか居ないって結論になって』

「ふむふむ」

 

 まほに内緒でというのが引っ掛かるけど、頼られて悪い気はしない。『姉みたいなもん』冥利に尽きる。

 

 で。

 相談の内容というのは、冷蔵庫がいつの間にか壊れてて中の食品を全部駄目にしてしまい処分に困っている、というもの。

 なんだその程度の事か、と思った。確かに少し厄介ではあるけど、然るべきゴミの日に捨てれば良いだけの事じゃないか。

 

『それは、はい、そうなんですが』

 

 流石にそれは、みほもエリカも分かってる。

 だけど二人とも忙しくて、運悪くゴミの日に寝過ごしたりしたのが重なり、そのままズルズルと時間が経ってしまった。結局今は、あろうことか冷蔵庫の方をただただ見ないようにして暮らしているらしい。つまり、放置だ。

 

 ぞわ、と鳥肌が立った。

 

 冷蔵庫が壊れてるって事は、その中はもちろん常温。いや、最近は暑いからもっと酷い事になっている筈だ。その中に、駄目にした食品を放置している。

 き、きっついなあ。

 

「そう言えば、普段のご飯はどうしてるんだ」

『コンビニでお弁当を買ったり、外食したりですね』

 

 ああ、そっか。二人の家はコンビニが近かったな。

 じゃあ、普段から冷蔵庫を使う習慣はあんまり無くて、だから『いつの間にか』壊れてたって事なのか。

 

 うーん、まあ、突っ込み所は山ほどあるけど、言っても仕方ないしな。頼ってくれた事は嬉しいし、私は次の休日に顔を出す約束をした。まほに内緒で。

 まあ確かに、こんな話がまほにバレたら二人とも大目玉だろう。

 

 そして今日。

 冷蔵庫の検分のため、私はエリカ達の部屋を訪れた。

 

 ひとまずお茶でもどうぞ、と出された冷たいペットボトルに何とも言えないものを感じる。そっか、コンビニが近いと冷蔵庫が壊れてても生活できるんだ。

 ペットボトルのお茶を飲みながら、キッチンに鎮座している冷蔵庫の方に目を向けた。リビングとキッチンが繋がってるタイプの部屋なので、普通に視界に入って来る。これを見ないようにして生活するのは、逆に根性が要るような気がした。

 異臭とかは無いけど、妙なオーラを纏ってるようにも見える。

 

「気付いた時にすぐ捨てれば良かったんですけど、その、忙しくて」

「うーん」

 

 言い訳じみたエリカの説明を、みほは渋い顔で聞いていた。

 そのみほの膝の上には、何故か今日のために友達から借りてきたというガスマスクが置かれていて、彼女はそれを所在なげに弄っている。

 

 ふと、みほが顔を上げた。

 

「ねえ、エリカさん。やっぱり私達だけでやろうよ」

「何言ってるのよ、最初に『絶対無理』って言い出したのはみほじゃない」

「そ、そうだけどー」

 

 ありゃ、なんか小競り合いが始まったぞ。私に遠慮してる、というよりはまほにバレるのが心配なのかな。

 しかし、『妹』だと思って眺めると、この小競り合いもなんだか可愛く見えてくる。ああ成程、まほは普段こんな気分なのか。

 

「心配するなよ二人とも、まほには内緒にしててやるからさ」

「そ、それは有り難いんですけど。あの、安斎さん、先にひとつ、絶対に訊いておかなきゃいけない事があるんです」

「アンチョビさん、虫は平気ですか」

 

 虫、と聞いてピンと来た。

 成程そういう事か、と。

 

「普段から食材を触ってるから、虫は大丈夫だよ」

 

 新鮮な野菜に虫が付いてるのなんてよくある事だし、何なら気が付かずに包丁を入れて、えらいことになったりもする。普段から料理をしてると、自然にそういうのが大丈夫になってくるもんだ。

 

 ただし、あくまで『大丈夫』。『平気』ではない。

 でもここでそれを言うのは余計だ。二人をがっかりさせてしまうだけだから、努めて平静に答えた。ホッとしたような二人の顔を見て、何故だかこっちまで安心する。これから何をやらされるのか想像が付いてる筈なのに。

 

 そっかあ、虫が湧いちゃったかあ。

 

「そう、なんです。だから冷蔵庫を開ける事も出来なくて」

「気持ちは分かるけど」

 

 言ってる間にさっさと捨てちゃえよ、とは思う。

 ただ、ここで説教をしたって仕方ない。私の役目に変わりは無いからな。

 半分ほど飲んだお茶に蓋をして、どれどれ早速始めるかと立ち上がると、エリカに呼び止められた。

 

「あ、あの、まだ駄目です」

「駄目ってなんだよ」

 

 冷蔵庫を開ける前に耳を当ててみて下さい、とエリカは妙な事を言った。

 

「こうか」

 

 言われるまま、冷蔵庫に耳を当てる。

 普通なら外側も少しひんやりしている筈の冷蔵庫は、室温と同じでちょっと生暖かい。本当に動いてないんだなあ。

 だけど、何故か冷蔵庫の中から音が聞こえた。何て言うか、小さい轟音って感じの、無数の。

 

「蝿です」

「うううわぁぁぁ」

 

 慌てて冷蔵庫から離れた。

 あ、ああ、そういう事か。この中では今、無数の蝿が飛び回ってるんだな。確かにこれは不用意に開けたらとんでもない事になりそうだ。

 

「一匹とかなら、平気なんですけど」

「う、うん、流石にこの数はびっくりするなあ」

 

 ですよねぇ、とため息混じりにみほが呟き、立ち上がる。

 

「それで、私達が考えた作戦がこれなんです」

 

 そう言って、みほはさっきから手に持っていたガスマスクを私に差し出した。それはとりあえず受け取ったものの、正直、まだどういう計画なのか想像が付かない。

 ふと、エリカがしゃがみ込んで何やらごそごそとやっているのが目に入った。ああ、設置型の殺虫剤だ。煙が噴き出して部屋中に広がるやつ。

 

 で、私がガスマスクを持たされたという事は、成程。

 

「天岩戸作戦です」

 

 とてもとても申し訳無さそうに、みほはそう宣言した。

 天岩戸って、そんな話だったかなあ。

 

 ともあれガスマスクを装着した私は、二人が退避したのを見届けたあと、殺虫剤の煙が立ち込める部屋の中で冷蔵庫と対峙した。こんなに威圧感のある冷蔵庫は初めて見る。

 虫は大丈夫とは言ったけど、これはちょっと自信が無いぞ。

 まあ、ぼやいても仕方ないか。頑張ろう、私はお姉ちゃんだ。

 

 意を決して冷蔵庫の扉を思いきり開けると、中に居た蝿の大群が一斉に飛び出してきた。

 

 とまあ、そんな顛末があって。

 なんだか物凄い罪悪感に駆られながらも、夥しい数の蝿の処理を済ませ、エリかとみほに食材の捨て方もざっくりと教えて帰ってきた。あとは分からない事があった時にでも、その都度連絡をくれればいい。

 

 まほには内緒で、というのも重ねて言っておいた。

 みほはそこまででもなかったようだけど、エリカがすごく気にしてたから、安心させる意味で。

 

「や、約束ですよ」

「うん、約束」

 

 ああしてみるとエリカも可愛いもんだ。この騒動で私達の距離は、ちょっとくらい縮まったかな、と思う。

 という訳でシャワーを済ませてリビングで涼んでいると、丁度まほが帰ってきた。

 

「お帰りー」

「ただいまー。風呂上がりか」

「えへへ、セクシーだろー」

 

 ふざけてポーズを取ってみせると、まほは馬鹿、と言って笑った。 

 

「みほ達の家では大変だったようだな」

「あ、うん。えっ」

 

 バレるの早っ。でもなんでバレてるんだ。

 食材や殺虫剤の匂いが落とし切れてなかったのか。いや、それにしたって行き先までバレてるのはおかしいぞ。

 

「用があってな、みほ達の家に顔を出してきたんだ」

「へえ」

「千代美の匂いがしたから、そう言ったらエリカが勝手に全部喋った」

 

 あ、そっちかあ。

 あっちに残した私の匂いに気付かれたんなら何も言えないや。良い鼻してるとは思ってたけど、そんなレベルだったか。

 

 って事は、みほがずっと消極的だったのは、こうなる事を予見してたのかな。

 

「ちょっと叱ってきた。ちょっとだけな」

 

 ふとスマホを見ると、みほとエリカからの連絡が数件入っていた。

 これ、開くの怖いなあ。



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大蝦蟇の午

蛙の大きさについてはご想像にお任せ


 日曜の午前、キッチンに立っておやつ作りに興じている。

 と、言っても料理をしているのは私じゃない。今日の私はあくまで補助。鍋と向き合ってるのは、まほだ。

 

 メニューは牛乳寒天。

 料理に慣れてなくても簡単に作れて美味しいし、カロリーは控えめ。手軽なおやつにぴったりのやつ。

 

「沸騰したら砂糖入れて」

「んん」

 

 ちょっと緊張気味で鍋に砂糖を入れるまほ。

 分量は、まほ好みの甘さになるように私があらかじめ調整しておいた。

 

「かき混ぜたら火を止める。そうしたら牛乳を入れて、またかき混ぜる、だったな」

「そうそう」

 

 さっすが、覚えが良い。

 よく勘違いされるけど、まほは不器用なんじゃなくて、知らない事が他人よりちょっと多いからその結果として不器用に見えちゃうだけなんだよな。

 

 実際のまほは、覚えれば何でも出来るタイプだ。

 

「混ぜ終わったら容器に移して粗熱を取る、と」

「ぶちまけるなよー」

「お、脅かすな」

 

 鍋の中身をそーっと容器に移して、次にまほは、みかんの缶詰をキコキコと開け始めた。

 私はみかん多めが好みだけど、まほはみかん無しが好き。だから一応用意はしたものの、使わないかなと思ってたから、まほが缶詰に手を伸ばしたのはちょっと意外だった。

 

「みかん入れるのか」

「千代美はみかん多めの方が好きだろう」

 

 あ、そっか。

 えへへ、嬉しいなあ。

 

「ある程度冷ましたら、冷蔵庫へ」

「そうそう。あとは固まるのを待つだけー」

 

 レシピに書いた文章をきっちり復唱しながら動くまほが面白い。

 

 大きなトラブルも無く、やる事はひとまずこれでおしまい。固まるまで二時間くらいかなー。お昼のデザートに丁度良いくらいのタイミングだ。

 それまでの間はもちろん暇で、適当に時間を潰そうかってところなんだけど、まほはずっとそわそわしている。

 

「そろそろだろうか」

「まだ十分しか経ってないだろ」

 

 笑いを堪えながら言ってやると、少ししゅんとして静かになるものの、暫くするとまた落ち着きが無くなってくる。時計をちらちら気にしたり、不意に立ち上がったかと思うと、何をするでもなくうろうろしたり。

 出来上がるのが楽しみで仕方ない、って感じ。

 

 かーわいい。

 

「まほ、二時間はまだまだ先だぞ」

「そういうんじゃない」

 

 ふふふ。

 

 まあ、そうは言っても二時間丸々そわそわして過ごすのも疲れるだろうし、もうちょっと落ち着いてて欲しい。

 何か良い時間潰しは無いかな。家事は料理の前にあらかた片付けちゃったしなあ。読書ってのも一瞬考えたけど、そわそわしてる時に読書は無理だ。絶対頭に入らない。うーん、どうしよ。

 

 あ。

 

「まほ、散歩にでも行かないか」

 

 我ながら名案、散歩なら意識せず時間を潰せる。

 まほもそのことに気が付いたみたいで、特に渋りもせず乗ってきた。

 

「行こう」

「行こう」

 

 そういう事になった。

 

 そうして辿り着いたのは、近所の公園。以前、深夜に来たことがあったなあ、あの時は雪が降ってたっけ。

 あれからもう半年経つのか。なんだかあっという間で、いまいち実感が湧かないな。

 

「思ったより涼しいな」

「ほんとになー」

 

 今日は雲が出ていて日差しが隠れてるお陰か、最近にしてはかなり過ごしやすい。暑い日が続いてたし、たまにはこんな日も無いとやってらんない。

 辺りを見回すと、私達のほかにも散歩やジョギングをしてる人が心なし多い気がする。涼しくなったお陰で外に出たくなった人も多いんだろう、たぶん。

 

 ふと、まほが口を開いた。

 

「千代美、昼御飯は何か計画があるのか」

「んー、あるもので簡単に済ませようかなとは思ってるけど」

 

 なんか食べたいものでもあるのかと思って訊いてみると、もう少し足を伸ばしてみないかと言われ、コンビニへ。

 そこでおにぎりとお茶を買って公園に戻ってきた。成程なあ。

 

 手頃なベンチに腰掛けて、早速二人で『いただきます』をする。ちょっと早めのお昼ご飯だ。

 

「ここで食べたくなった」

 

 梅のおにぎりをもぐもぐしながら、まほが言う。

 わかるわかる、こうやって公園でお昼っていうのも良いもんだ。

 あらかじめお弁当を用意するんじゃなくて、天気や気温に心を動かされて買いに行くっていう、行き当たりばったりな感じが面白い。

 

 おにぎりを食べ終わってゴミを捨てたあと、どちらからともなく同じベンチに戻る。それから私達は暫く腰を上げず、ぼんやりとして過ごした。

 ジョギング中の人が通りすぎるのを見送って、砂場でままごとをする子供を眺めて、ぼんやりと。

 

 あー、泥団子とか懐かしいなあ。

 

 あれって、渡されたら適当に食べる真似をして、壊さないように脇にでも置くのが正解なんだろうけど、子供にはその正解に辿り着くのがちょっと難しいんだよな。

 私もちっちゃい頃、相手の子が『食べる真似』しかしてくれないのが不満で泣いた事があったっけなあ。唐突に変な事を思い出しちゃった。

 

「私は千代美の作った泥団子なら食べるが」

「作んないし食うな」

 

 妙なアピールをされた。

 うん、嬉しいっちゃ嬉しいけど、やっぱり妙だ。

 

 二人で笑ってると、ベンチの後ろの草むらでガサッという音がしたのが聞こえた。だけど振り向いてみても何も居ない。暫くその辺を眺めていると、またガサッという音がして、今度はその姿が見えた。

 

 蛙だ。

 

 近くまで跳ねてきたので、手の平に乗せてみた。ちっちゃくてかわいい。この辺にも蛙なんて居るんだなあ。

 まほにも見せようと振り向くと、今度はまほの姿が見当たらない。あれっ、今の今まで隣に座ってたのに。見回すと、まほはいつの間にかちょっと離れたところに立って、こっちの様子を伺っている。

 

「まほー、蛙ー」

「私は大丈夫」

 

 あっ、成程。

 蛙を手に乗せたまま、まほにじりじり近寄ると、まほもじりじりと同じだけ離れる。

 まほがこういうの苦手って、意外だな。

 

「千代美、もうすぐ二時間だぞ」

「お、おう」

 

 仕方なく、蛙を元の草むらの辺りに放す。

 私達二人の静かな攻防に巻き込まれた蛙は、なんだか迷惑そうな顔をしているようにも見えた。

 

 この出来事がよっぽど衝撃だったらしく、まほはこの日の話を時々するようになったんだけど、話が蛙の大きさのところに差し掛かると『これくらい』のジェスチャーを両手で作るのがいまいち納得いかない。

 手の平に乗る程度の大きさだったと思うんだけどなあ。



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煙々羅の席

煙々羅

「煙々羅(えんえんら)」派と「煙羅煙羅(えんらえんら)」派が居る


 日曜日。

 公園で何やら戯れあっているまほさんと千代美さんを横目に、てくてくと歩く。向かう先は、とある喫茶店。

 

 喫茶店、好き。

 

 なんだか片言になってしまったけれど、喫茶店が好き。

 成人してからお酒を飲むことも増えたものの、何だかんだで私は未だに紅茶の方が好き、と言うか性に合う。けれど残念ながら、私自身は紅茶を淹れるのがとても下手。そのせいで、美味しい紅茶にはいつも飢えている。

 ペコが淹れた紅茶が恋しくなることも多い。彼女の紅茶は本当に美味しかった。けれど昔じゃあるまいし、まさかその為に呼びつける訳にも行かないわよね。

 

 そんなだから自然、喫茶店に足が向く。

 とは言え、喫茶店ならどこでも良いという訳ではない。お店によってコーヒー寄りだったり軽食寄りだったりと、色んな特徴がある。

 私が好きなのは勿論、紅茶寄りのお店。

 

 今日向かっているのは、ケーキ好きの友人との情報交換の時に知ったお店。あそこは当たりだった。

 ケーキが美味しいのは勿論のこと、それに合う紅茶もしっかり揃えてくれている。その上、いわゆる隠れ家的なお店で、あまり混雑していない。

 お店に着く前から今日は何にしようかなと、早くも算段を始めている。

 

 こういう時、独り身というのは楽だなと感じる。

 自分の都合で出掛けて、自分の都合で食事ができるというのは、とても気楽なこと。

 まほさんと千代美さんのような関係性も羨ましくはあるけれど、これはこれで楽。

 

 お店に到着し、適当に店内を見渡してから喫煙席に腰を降ろす。

 

 まあ、私自身は煙草を吸わない。というか苦手。

 ただし、これから来るであろう友人がいわゆる『吸う人』なので、わざわざこうして喫煙席に顔を顰めて座っている。『ケーキ好きの友人』とはまた別。偶然このお店で再会した、もうちょっと旧いお友達。

 

 特に待ち合わせはしていない。

 来るであろう、というのはそういうこと。

 

 彼女は日曜日のお昼頃、このお店によく来る。まあ必ずという訳でもないので今日も来るかどうかは、実のところは分からない。来なかったら、まあ仕方ないかなと思う。

 

 注文を済ませて待つこと数分。

 紅茶よりケーキより先に、彼女が現れた。

 

「お久し振り、ダージリン」

「一ヶ月振りね、アッサム」

 

 アッサム。

 本名で呼び合うことがどうしても照れくさくて、未だにこうしてティーネームで呼び合っている。

 彼女は躊躇うこともなく私の向かい側の席に腰を降ろした。

 

「暑いわね」

「本当、嫌になるわ」

 

 待ち合わせはしなくとも、『日曜日に時々来る』というだけで繋がっている私達。互いにその時の都合や気分で来たり来なかったりするものだから、一ヶ月振りくらいならよくあること。

 近からず、遠からず、繋がっている。

 

 混み入ったお話はほとんどしない。

 お仕事も何をしてるのか知らない。

 連絡先も交換していない。

 

 けれど、なんだかずっと会っている。

 

 彼女は店員さんが持ってきたお冷やを断り、メニューも広げず紅茶の注文をして、おもむろに煙草の箱を鞄から取り出した。

 銘柄はよく分からない。箱のデザインはなんだかお洒落で、綺麗なピンク色をしている。初めて見た時はお菓子の箱か何かかと思った。

 女性用の煙草、なんてものがあるのかしら。

 

「女性向けではあるかしらね」

「ふうん」

 

 喋りながら、彼女は慣れた手付きで箱から一本取り出して咥えた。

 彼女の煙草は、私が『煙草』と聞いて思い浮かべるそれと比べると、細長い形をしている。

 

「失礼」

 

 短く言って、アッサムは自前のマッチで煙草に火を点け、ゆっくりと煙を吸い込む。

 つんとしたマッチの香りが鼻をくすぐった。ライターじゃなくてマッチ、こだわりなのかしら。

 

 世の中にある喫煙所は年々減っている。愛煙家には、煙草を吸いたくても吸えないタイミングが増えているのかも知れないわね。

 我慢を重ねてようやく吸える煙草というものは、格別に美味しいものなのかも。どこか恍惚としたような表情で煙を吐き出すアッサムの表情を見て、そんなことを思う。

 

「そうかも」

 

 一本いかが、と箱を向けられたので、受け取ってその箱をまじまじと検分するように眺めた。『pétil』と書かれた表面にはホログラム加工がされていて、光に当たるとキラキラと反射する。こんなお洒落な煙草もあるのね。

 結局、箱を眺めただけで満足してしまって、煙草は貰わずに返した。まあ元々私は吸わないし。アッサムもそれが分かっていたみたいで、箱を受け取ると悪戯っぽく笑った。

 

「意地悪ね」

「ふふふ」

 

 そうした所で、ケーキと二人分の紅茶が運ばれてきた。

 

「一口いかが」

 

 仕返しではないけれど、一切れフォークに刺して彼女に差し出す。あーん。

 つられて口を開きかけた彼女は、何かを察知して形の良い唇をきゅっと真一文字に結んだ。その口角が徐々に上がる。まるで『やったわね』とでも言うように。

 

「ブランデーケーキでしょう、それ」

「ふふふ」

 

 お酒が苦手なアッサムにふられて行き場を失ったケーキは、そのまま私の口へ。程よく染み込んだブランデーの香りが口の中に広がる。

 ああ、美味しい。

 

 嗜好が変わっても相変わらず意地悪な二人。

 日曜日のお昼、思い思いに紅茶を楽しんだ。



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塗壁の祭

塗壁

ぬりかべ
浜辺で足が縺れる現象をキャラクター化したもの
壁の妖怪ではない


 しゅるしゅる、ぐいぐい、ぎゅうぎゅう。

 

「きつくないか」

「うん、大丈夫」

 

 千代美の腰に巻いた帯を結んでいる。

 いつも思うが、こいつの腰はどうにも華奢だ。折れる訳など無いのだが、気分的に乱暴に扱えないので神経を使う。

 

「よし、出来た」

「おおーっ」

 

 千代美が驚きの声を上げた。

 失敬な奴だとも思ったが、まあ無理も無いか。私が千代美に何かをしてあげるとなった時、失敗したり上手に出来なかったりするのがよくあるパターンだ。挙句の果てには、反対に千代美に手間を掛けさせる羽目になることも、あったり、なかったり。

 

 自分で言って悲しくなってきた。

 

 ま、まあ、それはいい。

 ともあれ今回は上手く出来たのだ。

 

「えへへ、似合うかな」

 

 その場でくるりと回転してみせる、浴衣姿の千代美。

 

「うん、可愛い」

「ふふふ」

 

 返事になってないぞ、と笑われた。しかしそうは言っても可愛いのだから仕方ない。身も蓋も無い言い方だが、千代美はどうせ何を着ても似合うのだ。何にせよ、気に入って貰えたようで何より。

 千代美は上機嫌で鏡の前まで行って、またくるりと回った。

 

 こうしてみると『やってあげる』というのは実に気持ちが良いな。それに、何だろう、言葉は悪いが支配欲のようなものもじんわり満たされる気がする。

 

 私が料理を覚えようとした時に千代美が渋ったのも頷ける。

 千代美が自分で帯を結べるようになってしまったら、それは少し寂しい事だ。

 

「ぴったりだな」

「だなあ」

 

 私のお下がりだが、問題なく着られるようだ。つまり、今の千代美は昔の私と同じぐらいの体格と言うことになるのか。なんだか妙な感慨が湧く。

 

 実家にあった、私の浴衣。

 お母様への近況報告の中で、近所の公園の夏祭りに千代美と見物に行くことを話したら、一も二も無く送られてきた。『千代美さんに着せてあげなさい』とのこと。

 

 お母様には、測るまでもなく寸法が分かっていたのかも知れない。先日、千代美と二人で顔を出した時にでも気が付いたのだろう。

 やはり母親だ、よく見ている。

 

 そうだ、お母様と言えばもう一つ仕事をしなくては。

 ジーンズのポケットからスマホを取り出し、カメラ機能を立ち上げた。

 

「千代美、笑ってー」

「にぃー」

 

 ぱしゃり。

 

 頬に指を当て、にっこりと満面の笑みをこちらに向ける千代美が撮れた。

 ああ、これは完璧だ。非の打ち所が無いぞ、あまりにも可愛い。天才かお前は。

 

「珍しいな、まほ。写真撮ってくれるなんて」

「んん、お母様が千代美の写真を寄越せと言うんだ」

「あー」

 

 夏の始めに顔を出した際、千代美とお母様は、拍子抜けするほど呆気なく打ち解けた。会わせる瞬間まで感じていた諸々の不安が徒労に感じたほどだ。

 今のお母様の千代美に対する態度は、今では溺愛と言っていい。言ってしまえば、あの人は私より千代美を可愛がってる節さえある。

 待てよ、そう言えば私の浴衣が無いじゃないか。そう考えると少し腹が立ってきた。

 

「千代美、もう一枚撮ろう。あんまり笑わなくていいぞ」

「う、うん」

 

 さっき撮ったのは私の待ち受け画面にする。お母様にはもう少し控え目なのを送ろう。

 その後、もう一枚もう一枚と繰り返し、二人だけの撮影会はひとしきり続いた。

 

 さて、そろそろ出掛けるか。

 

「そう言えばダージリンは」

「カチューシャと行くってさー」

 

 んん、そうか。

 

 支度をして玄関を出ると、覚悟していたほどの暑気は無かった。緩く風も出ていてなかなか涼しい。

 耳を澄ますと、祭囃子が微かに聞こえる。

 

「えーっ、聞こえるかなあ」

 

 両耳に手を当てて目を閉じる千代美。暫くそうしていたものの、聞き取ることが出来ないらしく、首を傾げている。

 ああ、いちいち動きが可愛い。

 

 ともあれ、出発。

 千代美の下駄の音がカラコロと夜道に響く。実に風流で、良い音だ。まるで風鈴の音のように暑さを忘れさせてくれる、そんな気がした。

 

 公園に着くと、思っていたより店が出ていてかなり賑わっていた。普段あまり人の居ない公園が、まるで別世界のように感じられる。

 人混みの苦手な私は、反射的に少し顔を顰めた。

 

「帰ろっか」

「ん、いや、いい」

 

 私の顔色に目ざとく気が付いた千代美に気を遣われたが、そうは行かない。せっかく来たのだからせめて一回りくらいはしたい所だ。それに、夕飯もここで買って食べようと話している。ここで帰る方が結局は色々と面倒くさいのだ。

 

 はぐれないよう、手を繋いだ。

 手を繋ぐ時、千代美は私が指を絡めるまで手を『パー』の形にして待つ癖がある。指を絡めてやると、安心したようにゆっくりと手を閉じる。とても可愛い癖なのだが、きっと無意識なのだろう。

 私だけが知っている、千代美の癖だ。

 

 暫く歩いていると、ダージリンとカチューシャに出くわした。

 

「あら、お二人さんも遊びに来たのね」

「千代美さんの浴衣、お似合いだわ」

「えへへー、ありがとー」

 

 二人分の食糧らしきビニール袋を手に手に提げ、これから帰るところらしい。適当に立ち話をして別れた。

 あいつら、今夜は酒盛りか。

 

 少し離れてから、千代美が私の肩をつついた。見ると小さく手招きをしている。

 千代美の口許に耳を寄せた。

 

「ダージリンとカチューシャ、手ぇ繋いでたな」

「そうか、私は気が付かなかったが」

「あっちが私達に気付いて離したからなー」

 

 視力は私の方が良いのだが、こういう時に目ざといのは千代美だ。

 ほほう、あの二人がなあ。なんだかんだで付き合いの長い二人だ。案外お似合いかも知れない。

 

 まあ、まだそうと決まった訳ではないが。

 あの二人から言い出すまで余計な詮索は止しておくとしよう。

 

「夕飯、何が良いかなあ」

「焼きそば、たこ焼き、お好み焼き、りんご飴、フランクフルト、クレープ、金魚、チョコバナナ、わたあめ」

「ちょっと減らせ」

 

 はい。

 

 しかし祭の雰囲気に当てられてか、どれもこれも美味しそうに見えてしまう。千代美も私を咎めるようなことを言っておいて、キョロキョロと目移りをしているようだ。

 そう言えば千代美は、高校の頃は屋台を出す側だったか。もしかしたら、屋台を見て回るというのが新鮮に感じるのかも知れない。

 その千代美の身体が、不意にぐらりと傾いた。

 

 咄嗟に抱き止める。

 

「大丈夫か」

「う、うん、ごめん。下駄にちょっと慣れなくて」

 

 言われ、足元を見た。鼻緒は切れていない。本当に、単に歩き慣れなくてバランスを崩したものらしい。すぐに体勢を整えないところを見ると、捻挫でもしたか。

 もう少し診てやりたいが道の真ん中でごたごたするのも迷惑なので、近くのベンチに千代美を運んだ。

 

「挫いたな」

「あ、うん。ちょっとだけ」

 

 悪戯がばれた子供のように、おずおずと申し訳なさそうに言う。ちょっとも何もあるものか、怪我は怪我だ。出来れば痛みを我慢して見物を続けたかったのだろうが、それで余計に足を悪くされたら堪ったものではない。

 隣に腰を降ろして頭を撫でてやると、悔しそうな唸り声が聞こえた。

 

「何か買って来ようか」

「いい」

 

 見るからに気分が萎えている。機嫌の分かりやすい奴だ。

 思わず笑ってしまいそうになるのを堪えた。今、笑ったら絶対に怒られる。

 

 こうなってしまってはもう、帰るほか無いだろう。しかし千代美を歩かせる訳にも行かない。やれやれとため息を吐き、拗ねている千代美の前に背中を向けてしゃがみ込んだ。

 

「千代美、ほら。おんぶ」

 

 少し、迷うような間を置いた後、私の背中に体重が預けられ、首に細い腕が巻き付いた。

 よいしょと立ち上がり、帰路につく。

 

「ありがと」

「ふふふ」

 

 あからさまに意気消沈する千代美とは反対に、私はすこぶる機嫌が良い。背中に預けられた千代美の重みが嬉しいのだ。

 

 夕飯は何が良いかなあ。

 冷蔵庫の中にあったものを思い出しながら、夜道を歩いた。



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十界

千代視点

千代ですよ
千代美じゃないですよ


 某日。

 西住家、お酒の席にて。

 

 私は、たじろぐ常夫くんにしなだれかかり管を巻いている。

 

「常夫くーん、ふふふ」

「こ、困りますよ、島田さん」

 

 真面目な人。

 もしかしたら、しほさん以外の女性を知らなかったりして。まあ、それはそれでしほさんにはお似合いとも言えるけれど、勿体ないなあとも思う。

 

「私の目の前で夫を籠絡するのは辞めて頂けるかしら、島田流家元さん」

 

 そのしほさんに、露骨に苛々した様子で諌められた。

 

「あらぁ、目の前じゃなければいいのかしら」

 

 わざと嫌らしい言葉を返す。

 しほさんは私の意図を察知して、大きなため息をついた。

 

「はあ。常夫さん、外してください」

「助かります」

 

 しほさんに逃がされる形になった常夫くんは、やんわりと私を押し戻し、『しほさんも程々にね』とだけ残してそそくさと部屋を辞去した。

 これで部屋には、二人きり。

 

「全く、貴女という人はどうしてそう見境が無いのかしら」

「うふふ、冗談に決まってるじゃない」

「そうは見えないから、はらはらするのよ」

 

 だってしほさん、はらはらしないと行動してくれないんだもの。

 折角だから二人で飲みたかったのよ。常夫くんが居ると、本当の意味で心安くは飲めないし。

 

「何か他人に聞かれたくない用件でもあるのかしら」

「そういう訳じゃないわ。本当にただ、二人で飲みたかっただけ」

 

 常夫くんには悪いけれどね、と舌を出す。

 しほさんは、やれやれといった顔でまたため息をついた。

 

「そういえば、菊代ちゃんも居ないのね」

「仕事よ。暫く帰って来ないと思うわ」

 

 ふーん、『仕事』ねぇ。

 まあまあ、ともあれ二人飲みが叶ったのは嬉しい事だわ。

 

 しほさんのグラスにお酒を注ぐ。熊本名物の芋焼酎。名前は悪いけれど美味しいお酒ね。

 まだちょっと苛々している様子のしほさんは、それでもとりあえず注がれたお酒を呷り、私が買ってきたコンビニのポテトサラダを一口つまんだ。

 

「あら美味しい」

「でしょ」

 

 でも芋に芋を合わせたのは失敗だったわよね。あらかじめお酒が分かっていたらレジ前の焼鳥でも買って来たのに。まあ、しほさんが気にしてる様子は無いからいいか。

 実は最近、コンビニのお惣菜をよく買って食べている。六月の頭頃にあった騒動の際、聖グロリアーナの学園艦で買って食べて以来、すっかり夢中。

 買ってすぐ食べられるというのが手軽でしかも美味しいので、ついつい利用してしまう。

 

「確かに便利ね。冷蔵庫を使わない生活になってしまうのも分かるわ」

「なにそれ、何かあったの」

「あー、いや、うーん、何でもないわ」

 

 何かを言いかけたしほさんが、言葉を濁した。残念、面白そうだったのに。

 

 それにしても、冷蔵庫か。言われてみれば最近、全然触ってないかも。それどころか、見もしない。

 コンビニのご飯の影響なのかも知れないわね。

 

「よく言うわ。台所仕事なんて元々しない癖に」

「あら、バレちゃった」

 

 なーんてね。

 しほさんは知ってるものねぇ、私が料理なんて一切しないの。

 

「お陰さまで私の料理の腕が上がりましたから」

 

 懐かしい話。

 一緒に暮らしていた頃のこと。しほさんが料理をしている間、掃除や洗濯を私がやっていた。その後の二人の時間を多く確保するため、そうやって家事を分担していた日々があった。

 時間が経って、やがて二人離れ、それぞれの結婚をして子を持ったことを後悔している訳ではない。けれど、あの楽しかった日々のことは今でも時々思い出す。

 この夏は特に、その頻度が多かったように思う。

 

 大きな要因はふたつほど。

 ひとつは、こうしてしほさんと話せる機会がまた増えてきたこと。そしてもうひとつは、先日の聖グロ学園艦の騒動で、あの子達と話せたこと。

 

 しほさんの娘、まほちゃん。

 そのパートナー、千代美ちゃん。

 彼女達は今、あの頃の私達と同じような恋をしている。あの子達のことを思うと、胸が締め付けられるような感覚に陥る。昔の自分達を見ているようで、応援したくて堪らなくなる。

 

 そして、あの騒動で会えたと言えばもう一人。

 

「また会いたいなあ」

「ああ、あの子達なら近いうちにまた来るわよ」

 

 千代美ちゃんの誕生日をここでお祝いすることになったみたい。

 仏頂面を作ろうとしても、口許が綻ぶのは隠せない。

 

 私がいま思い浮かべていたのは千代美ちゃんでもまほちゃんでもないけれど。まあ、それはいいか。

 

「そうそう、写真があるのよ」

 

 しほさんはおもむろにスマホを取り出し、慣れない手付きで操作して見せてくれた。浴衣姿で控え目に微笑む千代美ちゃんが写っている。あら可愛い。

 画面から視線を上げると、自慢げなしほさんの笑顔。ふふふ、こっちも可愛い。

 

「許すことにしたのね」

「孫の顔も見たいけどね」

 

 言って、しほさんはまたお酒を一口。

 まあ、私みたいに手放しで可愛がるのは難しいか。それでも娘の幸せを願うことを選んだ貴女は、素敵。

 

「誉めてあげる」

「どーも」

 

 私も一口。

 しほさんの機嫌も直ってきたみたいだし、そろそろ切り出すタイミングかしら。

 

「そう言えば、九月の頭からちょっと暇になるでしょう」

「ん、うん」

 

 口を開こうとしたら、先手を取られた。ちょっと出鼻を挫かれた感じ。

 でも、私がしたかった話も丁度その辺の事だったから、いいか。

 

 九月の頭。しほさんも私も、日程に少し空きが出来る。

 

 だから、何の予定も無ければ。

 

 良ければ。

 

「何の予定も無ければ、良ければ一緒にどうかしら」

「ふふふ、私も同じこと考えてたわ」

 

 九月。

 暑さも弱まって、秋が始まる頃。

 

 久し振りに二人で行きましょうか。

 

「温泉旅行」



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(1/6)凱旋の神

ミカはお金無いくせに凱旋ばっかり打つよ


【ミカ】

 

 嗚呼、お米、美味しい。

 

 まほと千代美、二人の家のリビングで夕飯を済ませて寛いでいる。やっぱり美味しいよねぇ、千代美のご飯は。ついつい食べ過ぎてしまうよ。

 こんなのを毎日食べててよく太らないよね、二人とも。

 

「食うだけ食っておいて『こんなの』とは何だ」

「いやいや、言葉の綾だよ」

 

 危ない危ない、まほは千代美のことが絡むと気が短くなってしまうからね。気を付けなくちゃ。

 さて、それはそうと今日はお願いがあって来たんだ。つい夕飯までご馳走になってしまったけど、本題はそこじゃない。

 切り出すなら今かな。

 

「飯を食った上に、更に頼み事か」

「まあまあ。聞くだけ聞こうよ、まほ」

 

 まほは怪訝そうだったけど、千代美がフォローしてくれたお陰で、ちょっと話しやすくなった。ありがたい。

 相変わらず、良いコンビだね。

 

 さて、単刀直入に言おう。

 

「お金を預かって欲しいんだ」

 

 それを聞いて二人は目を丸くした。

 

「一体何事だ」

「ええと、どこから話そうかな。コインがいっぱい出たんだよ、コインが」

 

 昨日は本当にいっぱい出た。

 自分でも何が起きたのか把握しきれないぐらい、色んな事が一遍に起きた。一番びっくりしたのは赤七と確定役を立て続けに引いた時かな、それのお陰でストックが大量にうんぬんかんぬん。

 

「またパチンコかあ」

「スロットだよ」

 

 即座に訂正され、よくわからないといった様子で首を傾げる千代美。どっちでもいいじゃないかと言われれば確かにそうなんだけど、何故かこの間違いは捨て置けない。

 パチンコとスロットは別です。

 

 それはそうと、そもそもの切っ掛けはダージリンだった。

 暇を持て余した彼女が、素寒貧(すかんぴん)目前でげっそりしながらスロットを打っている私のところにちょっかいを出しに来たのが発端。

 彼女は丁度空いていた私の隣の椅子に腰掛けて、『相変わらず煙草くさい所ね』と顔を顰めたり、『これ楽しいの』とか『今の演出はどういう意味なの』とか益体のない質問をちょいちょい投げ掛けてきた。

 そして、運命の一言。

 

『ねぇ、私にもやらせて』

 

 もはやコインも尽きようとしていた所だったし、別にいいよと言って彼女にレバーを叩かせたら、それがまさかの大当たり。

 そこから延々と当たりは止まらず、コインは閉店時間まで出続けた。当のダージリンは暫く眺めていたものの、途中から飽きて帰ったらしく、いつの間にか居なくなっていた。

 

「結局いくら出たんだ」

「ええと、これくらい。四十万円」

 

 言って、懐からちょっとしたお札の束を取り出す。千代美が口の中で小さく『うわっ』と言うのが聞こえた。

 ちょうど四十万円、コインに換算して二万枚。いやあ、なかなかの額だよ。普通出ないって、こんなに。まほも千代美も、いきなり目の前に現れた大金をまじまじと見詰めて戸惑っている。

 

 千代美が、辛うじて口を開いた。

 

「えっと、まず、預かるってどういうことなのか。それと、なんで私達に預けるのかを訊きたいんだけど」

「うん、それじゃあ、ひとつめの質問から。端的に言うと、私が持ってると遣っちゃうからさ」

 

 しかも、スロットにね。

 分かっちゃいるけど辞められない、というやつだよね。悲しいことだ。こういうのって、段々と勝ち負けを度外視して打ちたくなってくるから怖いんだよね。

 そんな時、手元に大金があったら、そりゃあ打ってしまう。

 仮に、このお金を遣い切るまで打ってしまったら、それで欲求が止まるとも思えない。きっと、遣い切ってもまだまだ打ちたくなってしまう事だろう。ああ、怖い怖い。

 だから人に預けよう、って訳。そこでふたつめの質問の答えだ。

 

「君達二人に預けるのが一番信頼できると思ったのさ」

「絹代が居るだろう」

 

 まほの突っ込み。

 それを聞いて、千代美も頷いた。

 

 西絹代。

 うん、確かに私は絹代と、まあ、仲良くしてる。彼女のことは信頼してるよ、それは間違いない。お金を預ける人物として申し分ないのもよく知ってる。

 でも絹代は、私のお金を絶対に預かったりしないんだよね。このお金を見たら『預かるなどとんでもない。ミカ殿が勝ち取ったその金子(きんす)、どうかご自由にお遣い下さい』とか言うに決まってるんだ。

 

「絹代、全肯定しちゃうタイプかあ」

「そうなんだよ」

 

 捉えようによっては有り難いんだけどね。ともあれ、今回に関しては絹代に頼んでも預かってはもらえないと思う。

 

 それに、こう言っては何だけど、絹代の全肯定ってなんとなく居心地が悪いんだよね。

 それこそ素寒貧になって、年齢的には一個下の絹代にご飯を作らせてご馳走になる日もある。彼女はそれを、ちっとも厭わないどころか喜んでいる節さえある。腕前だって大したものだ。

 その上、私が一文無しなのを察して戸棚から茶封筒を取り出し、そこから明らかに遣っちゃいけない感じのお金を出して『明日は勝てるといいですね』と笑って手渡してくれる事もある。

 

 正直、きつい。

 この感情はたぶん、罪悪感だ。

 

「おい、殴っていいか」

「千代美、待て、気持ちは分かるが落ち着け」

 

 慌てて千代美を押さえ付けるまほ。これには私もたじろいだ。

 流石に予想外だけど、うん、考えてみれば当然かも知れない。

 

 席がばたばたとし始めたところでインターホンが鳴り、応対する間もなくダージリンとカチューシャが入ってきた。勝手知ったるという感じだね。

 隣のダージリンの部屋で酒盛りでもしていたらしい。二人とも、色白の頬に少し赤みが差している。

 ああ、と言うことは、おつまみでも貰いに来たのかな。

 

「あら、ミカじゃない。珍しいわね」

「やあカチューシャ」

 

 二人が顔を出したことで千代美も半ば強制的に落ち着き、これこれしかじかと、軽く状況を説明する。

 説明を続ければ続けるほど、カチューシャの表情は分かりやすく曇っていった。

 

「随分とまたクズをこじらせてんのね」

「ああ、うん、どうも」

 

 それぐらいの反応が一番気楽だ。恥ずかしながら『クズ』は言われ慣れているので耐性がある。

 ああ、絹代に全肯定されるのが辛いのは、もしかしたら『ちょっとは叱って欲しい』とでも思ってるのかな、自分。

 

「あれから随分出たのねえ」

「お陰さまでね」

 

 本当、お陰さまだよ。断言してもいい。

 あの時ダージリンがレバーを叩かなければ、そのままコインが尽きて帰ってたところなんだから。そうだ、何かお礼をしなくちゃいけないね。

 

 すると、ダージリンはこの上ないほどに悪い笑みを浮かべて、言った。

 

「ミカ。私ね、貴女にお金を貸してるのを思い出したの」

 

 あうち。

 

「アンタ、こいつにお金なんか貸してたの。いくら」

「彼女が無心に来るたびに少しずつ貸してるから、積もり積もって五十ほど」

「えええっ」

 

 彼女曰く。

 隣にまほと千代美が住んでるとはいえ、独り暮らしを寂しく思う日も少なくないらしい。だから、例えお金の無心であっても私が定期的に顔を見せに来ることを嬉しく思っていて、それでついついお金を貸してしまう、と。

 独り暮らしで浪費癖も無いものだからお金は基本的に貯まる一方で、返って来なくてもどうにでもなるので、普段はあまり気にしていない。けれど時々計算してみてため息をついたりもしてるらしい。

 

「アンタもアンタでこじらせてるわね」

「う、うるさいわよ」

 

 カチューシャに気の毒そうな目を向けられ、強がるダージリン。

 こっちも良いコンビだなあと思いながらぼんやりと眺めていると、私の両肩に手が置かれた。

 まほと千代美、左右から別々の声が、私に短く語りかける。

 

「ミカ」

「返してやれ」

 

 私の四十万円は、その場でダージリンの四十万円となった。

 まあ残念だけど仕方ないと思うことにしよう、所詮は泡銭だ。

 

 そして、唐突に大金を手にしてすっかり気を良くしたダージリンの一言。

 

「折角だから、ぱーっと遣いましょう」

 

 何年か振りの温泉旅行が決まった。



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(2/6)火車の鈴

西ミカ。

ひたすらに真っ直ぐな絹代さんと、それをあしらい切れないけれど満更でもないミカ。


【絹代】

 

 遠きより泰然で 近きほど置き去りに 風は立つ

 吹いては結ぶ 稜線の見目形 確かに

 

 バイクのサイドカーから、何やら風雅な歌が聞こえる。

 当日は快晴、実に気持ちの良い空だ。高速道路をひた走るには最高の日和と言っていい。

 

「いやはや、なんとも素敵な歌声で」

「どーもー」

 

 歌声の主。サイドカーに身を沈めるミカ殿に語り掛けると、気の抜けた声が返ってきた。一人旅も悪くないが、こうして憧れの人と共に走るのも乙なものだ。

 ミカ殿とこうして高速道路を走ることは、ひとつの念願だった。それが叶ったことで、些か気持ちが浮わついている。流れる景色も、ミカ殿と一緒だと一層美しく見えるような気がしてしまうのだ。そこにミカ殿の歌声が耳に入り夢見心地になったとて、誰が何を言えようか。

 全くもって楽しい時間だ。

 

 我々は今、今夜宿泊する予定の温泉旅館へと向かっている。

 

 発端は、ミカ殿が博奕で稼ぎ出した金子(きんす)を、ダージリン殿に対しての借金返済という形で全額差し出した事だった。

 それを受けたダージリン殿が、臨時収入のような形になったその金子の遣い道として此度の旅行を提案してくれたのだ。交通費等の諸々は自費であるものの、参加者全員分の宿代は既にダージリン殿が支払ってくれている。

 

 参加者は私、ミカ殿、ダージリン殿の他に、カチューシャ殿、西住まほ殿とアンチョビ殿。計六人。他にも何名か声を掛けたらしいのだが都合が付かなかったとのことで、最終的にこの六人となった。

 ミカ殿と仲良くさせて頂いている影響だろうか。私一人、下級生でありながら、こうして輪に加えて頂けるのは本当に有り難い事だ。感謝しつつ、ご厚意に甘えようと思う。

 金子を全額差し出したミカ殿も、それを思い切りよく遣うダージリン殿も、本当に太っ腹だ。

 

 そんな事をつらつらと考えながら走っていると、サービスエリアが見えて来たので、バイクを寄せた。旅館の集合時間にはまだ余裕がある。暫しの休憩といこう。

 サービスエリアも旅の楽しみのひとつなのだ。

 

 それに、叶えたい念願がもうひとつある。

 

「ミカ殿。よろしければ一緒に、その、缶コーヒーを飲みませんか」

「ああ、良いねえ。暑さも落ち着いてきたからコーヒーが美味しくなる頃だ」

 

 はあっ、嬉しい。

 早速、手近な自動販売機で熱いコーヒーをふたつ買い、ひとつをミカ殿に手渡した。

 高速道路のサービスエリアで、ミカ殿と一緒に缶コーヒーを飲む。これが念願だった。

 

 ああ、懐かしい。

 初めてミカ殿と口付けを交わした時の事を思い出す。

 

 奇しくも、あれも温泉旅館での事だ。あの時の口付けは、温泉から上がろうとしたミカ殿が足を滑らせて私の方に倒れ込んだことが原因。要するに、完全なる事故だ。とはいえ、私にとっては忘れられない思い出となってしまった。

 何せ、あれが私の、初めてだったのだから。

 

 そして、その時のミカ殿が咄嗟に放った言葉が、また強烈だった。

 

『コーヒー、飲むんだね』

 

 なんとも。

 確かに私はあの事故の少し前、朝食の際にコーヒーを飲んでいたが、まさか口付けのあとに味の話をされるとは思わなかった。

 お陰で私はコーヒーを飲むたびに、あの時の事を思い出してしまうようになった。特にあの日の帰り道、まさしく高速道路のサービスエリアで飲んだ缶コーヒーの味が未だに忘れられない。

 勿論、今飲んでいるのもあの時と同じものだ。

 

 そして缶コーヒーとともに、ミカ殿の事も忘れられなくなってしまった。

 

「嬉しそうに飲むね、絹代」

「いやあ、はは」

 

 言わずもがな、感無量なのだ。

 

 ミカ殿は、あの時のことを覚えておいでだろうか。

 いや、覚えていないかも知れないな。そういう人だ。

 

「ちょっと土産物でも見ようか」

「あっ、はい」

 

 コーヒーを飲み終え、売店へ。ミカ殿と共にぶらぶらとその中を歩く。

 サービスエリアの売店というものは実に面白い場所だ。こういう所でしか売っていない珍妙な品も多く、眺めるだけでも楽しくなる。

 ミカ殿は龍が巻き付いた剣の形をしたキーホルダーがお気に召したようで、暫くそこにしゃがみ込んで『ほお』などとため息をついていた。私には全て同じに見えるが、どうやら幾つか種類があるらしく、ミカ殿はひとつひとつ手に取って矯めつ眇めつ眺めている。

 少年のような人だなあ。

 

「そう言えばミカ殿。先程の話ですが、ダージリン殿からの借金は完済されたのでしょうか」

「あぁー、いや、まだ十万ほど残ってるよ」

 

 ミカ殿は振り向きもせず、キーホルダーを吟味する手も止めず、そう答えた。

 なんと、それでは併せて五十万円も。

 

 しかし、そうか。

 十万円程度であれば、肩代わりして差し上げることも、まあ、出来なくもない。生活を切り詰めれば捻出は可能だし、いざとなれば虎の子の貯蓄を使うという手もある。

 

「きーぬーよ」

「あ痛っ」

 

 いつの間にやら立ち上がっていたミカ殿に、額を軽くぴしゃりとやられた。

 考えを見透かされてしまったらしい。

 

「気持ちは嬉しいけどね、それは駄目だ。お金は自分で返すから心配しなくていいよ」

「あっはは、申し訳ありません」

 

 額をさすり笑っては見せたが、内心驚いている。

 なんと珍しい事だろう。いつものミカ殿であれば『そうかい、悪いねえ』などと言って、遠慮なく得をする所ではなかったか。

 

 考えている私を余所に、ミカ殿は買う物を決めたらしく会計へ向かった。慌てて財布を出す私を手で制し、なんとミカ殿はご自分で会計を済ませてしまった。本当に、本当に何事だろうか。

 呆気に取られていると、ミカ殿は私に何やらちりちりと音のする小さな紙包みを持たせてくれた。たった今買った品物のようだ。

 

「開けてごらん」

「はあ」

 

 見るとそれは、鈴の付いた可愛らしいキーホルダーだった。

 

「ミカ殿、これは」

「プレゼントだよ。たまには良いだろう」

 

 言われ、キーホルダーとミカ殿を交互に見比べ、漸く何が起こったのかを理解した。

 ミカ殿が鈴を買ってくれたのだ、私に。

 

 嬉しさが込み上げ、同時に、先程までの考え事など綺麗さっぱり忘れてしまった。

 

「わあぁ、やっったぁーーっ」

「ちょ、ちょっと、絹代っ」

 

 思わず、人目も憚らずに叫び出してしまった。ミカ殿に窘められ、慌てて声を潜める。しかし私の興奮はそれでも冷めず、声を抑えたままでミカ殿に鼻息も荒く喜びを伝えた。

 

「あのっ、これっ、大事にします、絶対っ」

「分かった、分かったから落ち着くんだ」

 

 私の勢いに気圧され、珍しくミカ殿が狼狽する。私はそれを見て我に返り、次第に落ち着きを取り戻していった。

 いやはやなんとも、申し訳ないやら、恥ずかしいやら。

 

「そんなに喜んでくれるなんてね」

 

 貰った鈴に大喜びする私を横目に、ミカ殿がぽつりと『仕事探そうかなあ』と呟いた。

 真意は分からなかったが、ミカ殿が職を探す事それ自体は喜ばしいと思ったのでそう伝えると、苦笑いが返ってきた。ううん、何か解釈を間違えたのだろうか。

 

「そう言えば時間は大丈夫なのかな」

「おっと、確かに少しゆっくりし過ぎたかも知れませんね」

 

 言われて腕時計を確認すると、ややぎりぎりといった所。

 早速、バイクの鍵に鈴を付けて意気揚々と発進した。風に揺られて鈴がちりちりと鳴るのがなんとも嬉しく、それ以降の道中は浮かれっ放しだったと言っていい。

 その証拠に、現地に到着し、旅館の駐車場にてダージリン殿の一行と合流した際、カチューシャ殿に訊かれて初めて気が付いた事がある。

 

「あら絹代、ミカどこにやったの」

 

 さ、サービスエリアに忘れて参りましたぁーっ。



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(3/6)木葉天狗の椛

わっふう


【ダージリン】

 

 流していた音楽が丁度止まったところで、現地に到着した。

 周辺は見渡す限りの紅葉。時期的にばっちりのタイミングで来られたみたいね。目的地の旅館は、真っ赤に色付いた山々に囲まれるようにして建っていた。

 

 着いたからにはさっさとチェックインしてしまいたいのだけれど、諸事情によりそうもいかず、私達は旅館の駐車場でわちゃわちゃと騒いでいる。

 もう、どうして私達の旅行はこう、いつもいつもトラブルばかりなのかしらね。一度だってすんなり着いた試しが無いんだから。全く嫌になるわ。

 

「半分はアンタの運転のせいでしょうが」

 

 カチューシャが怒鳴り声を上げる。

 人聞きが悪い。私の『せい』ではなく『お陰』と言って欲しいものだわ。私の運転の『お陰』で、道に迷っても時間通りに着いたんだから。

 

「それがおかしいって言ってんのっ」

「まあまあ。着いたんだからいいじゃん、それはさ」

 

 尚も怒鳴るカチューシャを千代美さんが宥め、その場はとりあえず収まった。カチューシャはまだ何か言いたそうにしていたけれど、喧嘩をしても不毛であることは明白なので口を噤んだ様子。

 まあ、私達より大変なことになってる人が居るものね。

 

 絹代さんと、あと、酔い止めを飲んでも駄目だったまほさん。

 

「ふうぅぅ」

 

 見計らったようにまほさんのため息が聞こえた。彼女は例によって私の車の後部座席に横たわり、千代美さんの膝に頭を乗せて唸ったり呻いたりしている。もはやお約束の光景。『戻し』こそしなかったものの、体力をすっかり消耗してしまったみたい。

 どう足掻いても、まほさんは私の運転と相性が悪いらしいわね。まあ、彼女は千代美さんが介抱するからとりあえずよし。

 

 問題は絹代さん。

 

「はあぁぁ」

 

 こちらも、絞り出すようなため息をついて頭を抱えている。

 

 彼女はここまでバイクで来た。

 そのサイドカーにはミカが乗っていた筈なのだけれど、どこからどう見てもサイドカーは空っぽ。話を聞くと、ここに来る途中で立ち寄ったサービスエリアにうっかり置いてきてしまった、との事。

 

「うっかりにも程があるでしょ」

「本当に、本当に面目次第もございません」

 

 その落ち込みようは見ていて気の毒になるほどで、今にも泣き出しそうな顔をしている。口さがないカチューシャの言葉は耐性の無い子には容赦なく刺さってしまうので、『あまり言わないの』という意味を籠めて肘で小突く。

 カチューシャは反射的に一瞬だけムッとしたものの、自分でもしまったと思ったらしく、下唇を突き出してそっぽを向いた。

 

 さてと、面倒ではあるけれど、そうも言ってられないわね。少し時間が掛かるけれど、迎えに行きましょうか。

 やれやれと運転席に乗り込もうとしたその時、どこからか聞き覚えのある暢気な声がした。

 

「それには及ばないよー」

 

 絹代さんがハッと顔を上げ、弾かれたように駆けていった先。ミカが山の方からてくてくと歩いて来るのが見えた。絹代さんはまるで数年振りの再会でもしたみたいに、駆け寄る勢いのままミカに抱きつく。そのまま彼女は『ごめんなさいごめんなさい』と繰り返した。

 ミカは、そんな絹代さんを宥めるようにして、その頭を撫でている。なんとも、微笑ましいというか羨ましいというか。

 

 でも、ミカはどうやってここまで来たのかしら。曲がりなりにも高速道路に置き去りにされて、それでも然程のタイムラグも無くこんな山の中の集合場所に着くなんて。

 

「鹿で来た」

「なんと、流石はミカ殿っ」

 

 鹿て。

 

 何を突拍子の無いことをと言いそうになったけれど、思い返せばミカは熊を手懐けたこともあった。熊が可能なら鹿も、まあ。というか実際に着いてるし。

 鹿に乗って山を突っ切れば、確かに。

 

 ううん、考えるの辞めた。

 

 ともあれ、何だかんだと揉めはしたもののこれで漸く全員集合。早速チェックインを済ませ、部屋に入った。

 大学生の頃にみんなで来た旅館とは違う場所。本当は今回もあそこにしようと思ったのだけれど、残念ながらあの旅館は廃業していた。なんでも、幽霊が出るという噂が後を絶たなくて客足が遠退いてしまったせいだとか。

 そう言えば、まほさんと千代美さんもそんな事を言っていた気がする。

 さて、今回はどうでしょうね。

 

 見たところ、どこにもおかしな様子は無い。

 お札の類も無し。あっても困るけれど。

 

 まほさんは車酔いが余程堪えたらしく、部屋に着くなり畳の上に直に横になってまた呻き始めた。千代美さんが慌てて手近にあった座布団を折って枕を作り、まほさんの頭の下に差し込む。

 横になったまほさんの後ろ頭をつつくと、煩わしそうに手をぶんぶん振った。

 

「休ましてやんなさいよ」

 

 カチューシャに窘められた。見ると、彼女は早くもお風呂セットを抱えている。

 ああ、成程。無理にまほさんの回復を待つよりは、休む人とお風呂に行く人に分かれた方が合理的だわね。私もそうしましょう。

 

「それじゃ、私達はお先に」

「お大事にどーぞ」

「ふふふ」

 

 仕事柄、明らかに常日頃から言い慣れている感のあるカチューシャの言い回しが面白かったみたい。まほさんはこちらに背を向けて寝転がったまま、暫く笑っていた。

 何も言い返せないのが逆に笑えてしまって、そのままツボに入ってしまったという感じ。笑う体力があるなら大丈夫ね。

 

 さて、行きましょうか。

 

「あれっ、そう言えばミカ達が居ない」

「あら本当。いつの間に居なくなったのかしら」

 

 旅館内の探検にでも出たのかも。まあ別にスケジュールがあるでなし、帰る時間以外は好きに過ごせばいいか。

 

「厨房に忍び込んでたりして」

「絹代さんが一緒なんだから、それは無いでしょう」

 

 なんて、下らない会話をしている間に露天風呂に到着。

 

 実は、早く入りたくてうずうずしていた。楽しみだったのよね、露天風呂。いそいそと服を脱いで浴場に足を踏み入れると、周囲の山々の燃えるような紅葉が視界いっぱいに広がった。

 ああ、絶景。これが見たかったのよ。

 

「来る途中で散々見たじゃない」

「言うと思ったわ」

 

 そういう事じゃないのよ。

 全く、カチューシャと一緒だと風情も何もあったものではないわね。今に始まった話ではないけれど。

 

 はあ、とため息をついたその刹那。吹き付けた冷たい風に身を震わせた。

 紅葉を目の前にしてこんなことを思うのもおかしいけれど、もう夏ではないのねという気持ちが湧く。

 

「早く入んないと身体冷やすわよー」

 

 ちゃっかりと既にお湯に浸かっているカチューシャに急かされ、慌てて身体を流してお湯に入った。

 ああ、丁度良いお湯加減。外気が少し肌寒いお陰で、熱いお湯がとても気持ち良い。

 見渡すと、少し離れたところで二人連れらしき別のお客さんがお湯に浸かって談笑しているのが確認できる。それ以外に人影は無く、浴場はとても静か。

 耳を澄ますと、風の音に混じって鈴虫の鳴き声も聞こえた。

 

「ねえ」

 

 カチューシャの低い声。

 ああ、何か面白くない話題だなと感じた。カチューシャの話し始めの『ねえ』は、そのイントネーションで何となく話題が推察できる。今の『ねえ』は、ちょっと良くなかった。

 はあ、折角お風呂で良い気分になっているところだったのに。

 

「何よ」

「アンタさあ、いつまであんな所に住んでる気なの」

 

 妙なことを問い掛けてきた。『あんな所』って、どういう意味かしら。

 

「マホーシャと千代美の隣」

「ああ、そういう意味。別に当面、引っ越す予定は無いわよ」

 

 まあ、春にちょっとした事情で反対隣に引っ越した事はあったけれど。

 別にあの二人と仲が悪いということも無いし、と言うよりむしろ良いと思ってる。あの二人に疎ましがられているという事も、たぶん無い。だから、まあ、彼女達を理由に引っ越しを検討するという発想は今のところ無い。

 

「でもアンタさあ、こないだぽろっと『独り暮らしは寂しい』って言ったじゃない。ついに言ったなーと思って聞いてたわよ、私」

 

 あうち。

 

 成程、そう言う意味ね。

 それは確かにある。あの二人が隣に住んでいるとは言え、だからこそとも言えるけれど、独り暮らしを寂しく思う日は少なくない。

 ただ、あまり寂しい寂しい言うのはみっともないかなとも思っているので、日頃はそんな事を口に出さないように意識している、つもり。でも、そっか。自分でも気が付かない間に漏れ出ちゃっていたのね。

 

 ううん、いつ頃の事かしら。

 

「アンタがミカから四十万カツアゲした時よ」

「言い方」

 

 本当に人聞きが悪いわね、貸してたお金を返してもらっただけよ。流石に全額は可哀想かなとも思ったけれど、こうやって還元してるんだから許して頂戴。

 

 うーん、あの時なら思ったより最近ね。でも『ついに言ったなー』って事は、カチューシャはもっと前から私の心境に気が付いていたという事。

 最近妙に優しいなとは思っていたけれど、そういう理由があったのね。

 

 じゃあ、つまり。

 

 カチューシャが言おうとしているのは。

 

 

 

「アンタさ、ウチに来なさいよ」

 

 言うと思った。



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(4/6)隣の六尺様

カチューシャ
がんばれ


【カチューシャ】

 

「アンタさ、ウチに来なさいよ」

 

 ついに言った、言ってしまった。我ながら、勇気ある言葉だったと思う。

 言おうか言うまいか結構な期間悩んだのよね。まあ、なんで悩んでたかって言えば、返事が想像出来るからなんだけど。

 

「嫌よ」

 

 ほーらね、言うと思った。ほんっと強情なんだから、寂しがり屋の癖に。私の事をよく『口が悪い』だの何だの言うけど、アンタは性格が悪いわよ。

 

 でも、もう限界が近いと思うのよね。この間の『寂しい』発言もそうだけど、それ以外にも兆候が増えてるなと、見てて思う。

 先月、一緒に夏祭りを見に行った時なんか本当に酷かった。なんやかんやと色々買い込んで、家で食べようって楽しく話してたのに、急に立ち止まって悲しそうな顔をするんだもの、びっくりしたわ。

 人混みの中で孤独感が刺激されちゃったのかしらね。あの時、私は思わず彼女の手を握って引いていた。

 その後は特に何事も無かったから一応は安心してるけど、あの時の顔は今でも忘れられない。放っておいたらあの場で泣き出すんじゃないかってくらい、本当に辛そうだった。

 

 見てらんないのよね、ぶっちゃけ。

 

 彼女が抱えてる孤独感は、並大抵のものじゃないんだと思う。

 私が彼女の家に定期的に顔を出すのには、単に仲が良いという他に、そういう理由もある。これでも心配してるんだからね。

 

 はあーぁ、どうしたもんかしら。

 

「貴女が来なさい、カチューシャ」

「え、ああ、そっか」

 

 成程。それも良いわね、職場も近くなるし。

 今更ながら、こんな軽いノリで決めて良いのかなとも思ったけど、まあ、なるようになるでしょ。

 

 よし決めた、一緒に住むわよ。

 

「大家は何て言うかしらね」

「『ワオ、大きいペットを買ったのね』とか」

「あー、言うわ。腹立ってきた」

 

 意外にも彼女の『大家』のモノマネはそっくりで、それでひとしきり笑った。

 

 そして。

 

「煙草はベランダで吸ってね」

 

「うん」

 

「愚痴も聞いてよ」

 

「いいわよ」

 

「一緒にお酒を飲んだりも」

 

「全部いつも通りじゃないの」

 

「あとね、それから、っ」

 

「ちょ、ちょっと」

 

 彼女が声を詰まらせる。

 はらはらと流れる涙が、お湯に溶けて広がった。

 

「なに泣いてんの」

「うるさい」

 

 うわー、やだなあ。

 空いてるとは言え他のお客さんも居るのに、何もここで泣くこと無いじゃない。まあ、それだけ色んなものが溜まってたって事なんでしょうけど。

 ああもう仕方ないわね、暫くこうしててあげましょうか。

 

 辺りを見回すと案の定、二人連れらしい他のお客さんがこちらを見てくすくす笑っていた。

 

「良いものが見られたわねぇ、しほさん」

「辞めなさい、見世物じゃないんだから」

 

 えっ、嘘でしょ。

 あの二人ってまさか。

 

 驚いてそっちを見返すと、目が合ってしまった。

 

『がんばって』

 

 こちらに向かって小さく手を振る島田流家元の口許が、そう動いたように見えた。

 

 

 

 そんな、お風呂での一幕があって。

 

 

 

 いいだけ泣いた彼女も落ち着いて、部屋に戻るとマホーシャと千代美が入れ違いでお風呂に行った。それとミカ達が帰ってきていて、二人でお菓子なんかつまみながら寛いでいる。どこに行ってたんだか。

 二人は私達の顔を見るなりごそごそと何やら封筒を取り出し、差し出してきた。それを受け取って開けてみると、中には十万円。どうやら借金の残りを払うつもりらしいけど、こんな謎のお金は受け取れないと突っ返そうとしたら、慌ててお金の出所を説明し始めた。

 

「絹代と散歩に行ってきたんだよ」

「居ないとは思ってたけどアンタ達、外出してたの」

「いやあ、はは」

 

 呆れた、折角旅館に来たのにわざわざ出掛けるなんて。

 もう少し突っ込んで聞いてみると、どうもこの旅館には今、ミカにとって『会いたくない人』が滞在してるらしく、そういう意味でも外の方が気楽だったみたい。そう聞いてしまうと私も強くは言えなかった。まあ景色は綺麗な場所だし、散歩も案外楽しいかもね。

 それにしても、こんな場所で『会いたくない人』と居合わせるなんて運が無いわねえ。

 

 いや、それはいいとして結局このお金は何なのよ。

 

「コインが」

「まーたスロットかぁーーっ」

 

 ああ、そう言えば麓にあったわね、品の無いネオンが昼間っからビカビカした店。ミカ一人なら別にいいけど、絹代まで連れて何やってんのよ、全く。

 

 ん、あれ、ちょっと待ってよ。

 

「ミカ、スロットやるお金なんて持ってたの」

「うーん」

 

 怪しい返事。

 

 絹代の方を見ると、彼女は曖昧に笑って目を逸らした。

 あーあー、良くない方に染まってるわねぇ。

 

 まあ、何にせよお金の出所は分かった。方法はともかくきちんと稼いだお金なら良しとしましょうか。

 

「良かったじゃない」

「ん、うん」

 

 お金を受け取った彼女は、何故か少し浮かない顔をしていた。

 ああそっか、例えお金の無心でもミカが定期的に家に来るのが嬉しいって言ってたわね。それもどうかと思うけど。ミカが借金を完済したことで来なくなっちゃうんじゃないかって不安なんだわ。

 

「ま、どうせまた借りに来るでしょ」

「うん」

 

 ほんと、それもどうかと思うけどね。

 

 そして夕御飯。

 戻ってきたマホーシャと千代美を交えて、旅館のコース料理を堪能した。

 前菜から始まって、お造り、炊き合わせ、天麩羅、酢の物、お寿司、どんどん来る。異様にゴージャスなんだけど、一体いくらかかったのかしら。

 今にして思えば、六人で四十万って相当高いプランよね。

 

「あんまり気にしないの」

「はいはい」

 

 注がれたビールを一息に呷る。あー、おいし。

 

 デザートの水菓子をつついてる時、千代美が何かに気が付いたらしくマホーシャにごにょごにょと耳打ちをしていた。何の話だか、マホーシャは『なら後で一緒に行こうか』なんて返している。

 何の事はないやり取りなんだけど、あの二人がやると妙に仲睦まじく見えるなと、改めて思った。あんなのの隣に住んでたら、そりゃ寂しくもなるわ。

 

 二人は夕御飯が終わってから部屋を出て、それから幾らもしないうちに戻ってきた。何やら千代美がにこにこしている。

 レシピでも訊いてきたのかしらね。まあ、料理の話はさっぱりなので深くは追及しなかった。

 

 やがてお布団が敷かれ、さあ寝ようかどうしようかって時間。普段、私は九時頃になると眠くなっちゃうんだけど、今日は珍しく目が冴えている。こんな山の中の旅館だし、やる事なんてもう寝るか話すかぐらいしか無いんだけど、それでも寝る気になれないのは、やっぱり私も内心うきうきしてるのかな。

 ミカ達なんか『そう言えばまだだった』なんて言って、今頃お風呂に行った。何だかんだであの二人が一番楽しんでるような気がする。

 

 ああ、そうだ。

 一応はマホーシャと千代美に報告しとかないと。

 

「何の話だ」

「私達、一緒に住むことにしたから。よろしくね、お隣さん」

 

 言って、ウインクをぱちり。

 どんなリアクションが来るかなと思ったら、残念ながら二人には然して驚いた様子も無く、むしろどこか『予想通り』とでも言うような反応。

 ああ、まあ、そっか。夏祭りの時に手を繋いでるところを見られたような気もしたし、千代美はそういう勘は鋭そうだしね。千代美が気付いてるならマホーシャにも伝わるか。

 

「あまり五月蝿くするなよ」

「分かってるわよ」

 

 なーんか、ちょっと拍子抜け。

 あ。リアクションと言えばもうひとつあったわ。

 

「さっき露天でマホーシャのママに会ったわよ」

 

 そう言うと、マホーシャは一瞬で青褪めた。

 

「お、おいカチューシャ、適当な事を言うなよ」

「本当だってば。島田流の家元と一緒に来てたわ」

 

 重ねた一言でマホーシャは、今度は両手で顔を覆う。更に千代美までもが頭を抱えた。私の隣でごろごろしていた彼女も、顔を引き攣らせて私を諌める。

 

「カ、カチューシャ、それは言わない方が良かったと思うわ」

「ええっ、ちょ、何でよ」

 

 その後。

 私は三人から西住流家元と島田流家元が、過去にどんな関係だったのかをとくとくと聞かされる羽目になった。

 

 えぇー。

 あの二人って、ええぇー。

 

「うああ、否定も肯定もしづらいぃ」

 

 顔を覆ったまま呻き声をあげるマホーシャに、掛ける言葉は見付からなかった。

 うん、まあ、母親が元カノと二人で旅行に来てるなんて知りたくなかったわよね。ごめん。

 

「誰にも言っちゃ駄目よ、カチューシャ」

「う、うん」

 

 確かに、そういう事情ならそっとしておくのが吉だわ。驚かせようとして反対に驚かされちゃった。知れて良かったような、知りたくなかったような。とんでもないこと聞いちゃったわね。

 だけど、これで私も晴れて『お隣さん』になれたのかな。

 秘密を共有すると、仲間に入れて貰えた感がある。

 

『がんばって』

 

 と。

 島田流家元がどんな気持ちで私達に手を振ったのか。

 改めて考えると、ちょっと、物凄い意味だったのかも。

 

 はーあ、頑張ろう。

 

 これからよろしくね。



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(5/6)七人ミサキの鍵

六人が二人

二人が二人

二人が三人

三人が六人

最後の一人で七人に


【千代美】

 

 消灯時間だけど眠くない。そんなひととき。

 ミカと絹代もお風呂から戻り、みんなで布団に寝転がってどうでもいいことをだらだらと話している。

 

 今の話題は、季節外れの怪談。

 発端はダージリンが話し始めた、大学生の頃にみんなで泊まった旅館の話。それで初めて知ったんだけど、あの旅館は『幽霊が出る』という噂が絶えなくなって潰れたらしい。ダージリンも、今回の旅行を計画するに当たって調べていて知ったとか。

 そして私とまほは、まさにあの旅館で幽霊らしきものを見ている。その話を掘り下げていくうち、信じない派の絹代も私達と同じものを見ていた事が分かって、皆できゃあきゃあとひとしきり騒いだ。

 

 その後、他にも誰か怖い話を持ってないかと話していると、意外にもまほが名乗り出た。

 

「私自身は『怖い話』だと思っていないんだが、人に話すと必ず怖がられる体験談がひとつある」

 

 そんな語り出し。みんな、いいねいいねと食い付いている。

 私も初めて聞く話だったので、ちょっと期待が高まった。

 

「短いぞ」

 

「私が幼い頃に起きた、熊本の実家での出来事だ」

 

「実家の敷地にある、古い井戸の話」

 

「小学生の頃だな、私はその井戸に誤って落ちた事がある」

 

「まあ幸い大した怪我もなく、幾らもしないうちに救出されたんだが、その時に少し不思議な事が起きた」

 

「私の服がほとんど濡れていなかったんだ」

 

「子供の身長では足が付かないほどの水位があったにも関わらず、だ」

 

「大人は首を傾げていたが、実はそれには明確な理由がある」

 

「言ってもまず信じて貰えない事なんだが」

 

「井戸の底に髪の長い女性が居てな。救助が来るまでその人が肩車をしてくれていたんだ」

 

 あっ、怖い。

 普通に怖い。

 

 いやいやいや、怖いぞそれは。その人が幽霊でも人間でも怖い。短いけどゾクッと来た。みんな言葉を探すように黙り込んでしまった中、ダージリンが辛うじて口を開く。

 

「ゆ、夢とかじゃないの」

 

 まあ、夢でしたってオチも十分あり得る。そうでなくとも、幼い頃の記憶って色々ごっちゃになってたりするし。まあ、まほ本人がそれを判断出来るかどうかは微妙なとこだけど。

 

「私も夢の可能性は考えた。しかし、どうも間違いなく現実にあった事でな、確証があるんだ」

「確証って、どういう事よ」

 

 カチューシャが相槌を打って先を促すと、まほはまた語り出した。

 

「うちに長く勤めている使用人で、菊代さんという人が居る」

 

「私を救助する際、菊代さんもその、井戸の底に居た人を見ているんだ」

 

「菊代さんは私を引き上げたあと、その人のことも助けなくてはと思って再び井戸を覗いた」

 

「その時には居なくなっていたらしい」

 

「今でも時々、当時を思い出して菊代さんと話すんだ」

 

 お、おおぉ、だいぶ怖い。

 その女性の正体が最後まで不明瞭なのがすごく、それっぽい。

 髪が長いって話だから一瞬しほさんかなとも思ったけど、まほの話し振りだと菊代さんどころかまほ本人でさえ『その人』としか認識してないみたいだし、そうなるとしほさんではあり得ない。

 

「何でお前はそれを『怖い話』と思ってないんだよ」

「私は『優しい人に助けられた話』だと思ってるからな」

 

 そ、そういうもんか。

 まあ紙一重だからなあ、怖い話と不思議な話って。実際に助けられたまほからすれば、そう考えててもおかしくないか。

 おかしくない、んだろうか。

 

 うーん。

 

「ね、ねえ絹代、トイレに行きたくはないかい」

「私は大丈夫ですが、ミカ殿が行きたいと仰るならば喜んでお供致しますっ」

「あっ、うん」

 

 ミカと絹代はトイレへ。微笑ましかったな、今の。

 それに触発されて、カチューシャとダージリンも連れ立って部屋を出た。ダージリンがカチューシャの浴衣の裾を掴んでいるのが物凄く可愛かった。

 

 しん、と静まり返る部屋。

 なんだか急に静かになったな。私とまほ、二人きりだ。

 寝転がったまま、ずりずりと体を移動させてまほに体を寄せた。

 

「千代美も、そろそろだろう」

「そうだけどさ」

 

 でもその前に、したい事がある。

 まほに向かって顎をくいっと上げ、目を閉じた。

 

「んん」

 

 仕方ない奴だなとでも言うように鼻の奥で唸り、まほは私の体をぐいっと抱き寄せた。そして息をつく間も無く、乱暴に唇を重ねる。

 当たり前のように侵入してきた舌が、私の口の中で暴れた。本当に乱暴で、強引なキス。

 

「あむ」

「んんっ、ふふ」

 

 私の後頭部を押さえ付けるまほの手に力が籠る。まるで、逃がすまいとしてるみたいだ。最早どちらのものかも分からない漏れ出る吐息と、ぴちゃぴちゃという唾液の音だけが室内に響いている。

 一体何分そうしていたか。やがてどちらともなく、ぷは、と唇を離した。

 はあっ、と息を吐いて、まほの腕の中で身体の力を抜く。

 

 最っ高。

 

「長かったな」

「言わなくていいよ、恥ずかしい」

 

 我慢してたんだよ。分かれよ。

 この旅行のどこかで、絶対に一回はキスしたいなと思ってたんだけど、そのタイミングが全然無かった。旅館に着いてからのまほは死にそうになってたし、お風呂は混んでたしさ。今しか出来ないんだから、しょうがないじゃん。

 

 それと、これから一人で出なくちゃいけないのがちょっと怖いんだよ。誰かさんの怪談のせいでさ。

 

「ふふふ。すまなかった」

 

 笑うまほの頬を軽くつねって立ち上がった。彼女も言うように、そろそろ時間だ。

 部屋の鍵は持たなくてもいいかな。まほに開けて貰えばいいし、じきに皆も戻って来るだろうしな。

 

「じゃあ、留守番よろしく。ちょっと浮気してくる」

「馬鹿を言ってないで早く行け」

 

 まほに毒づかれながら、部屋を出た。

 

 長い廊下を歩く。

 深夜というほど遅くはないけど、消灯の時間は過ぎてるから館内は薄暗い。さっきのまほの怪談の余韻がちょっと残ってて、自然と足早になった。

 怖い話の後だからかエレベーターは何となく気が進まなかったので、階段を使う事にする。小走りで一階まで降りると、ロビーは流石に煌々と灯りが点いていてなんだかホッとした。

 人気の無いロビーの中で暇そうに呆けてる『彼女』を見付け、声を掛ける。

 浮気相手でも、ましてや幽霊でもない。

 

「ペパロニ」

 

 声を掛けるとペパロニは顔を上げ、こちらを見るなりとびきりの笑顔を満面に浮かべて駆け寄ってきた。

 

「姉さんっ、お久し振りっすーー」

「うわぁ馬鹿、大きい声を出すなよ。消灯時間過ぎてるだろ」

 

 言われて慌てて口を押さえるペパロニ。

 全く、それでも従業員かよ。

 

「うへへ、すんませんっす。それにしても、よく気付いたっすね」

「気付くってそりゃ」

 

 夕食の最後、デザートに出た水菓子を一口食べてすぐに分かった。あれを作ったのはペパロニだって。

 食後、まほと一緒にフロントに訊きに行ったら、やっぱり間違いなかった。ただ、そうは言っても厨房に押し掛ける訳にもいかないから、こうして仕事が終わる頃に会う時間を取って貰った。

 私の味覚も、まだまだ捨てたもんじゃないなあ。

 

「作ったって言っても、フルーツ盛っただけっすよ」

「シロップが完全にお前だったんだよ」

 

 あれは間違いなくアンツィオで何度も食べた味だった。

 そう言ってやると、ペパロニは照れたように笑った。

 

「すっごく美味かった」

「あざっす。やっぱり姉さんに誉められるのが一番嬉しいなあ」

 

 話を聞くと、ペパロニは料理の腕前を見込まれてスカウトされ、それでちょっと前からこの旅館で働いているらしい。凄いよなあ、『ちょっと前から』で既にコース料理のデザートを任されてるなんてさ。

 なんだかそれは、私まで誇らしい。

 

「皆さんお元気っすか。まほ姉さんも、ダーさんも」

「元気だよ、二人とも」

 

 実はみんな来てるんだよ、と話すとペパロニは少し残念そうな顔をした。

 

「えーっ、会いたかったっすわあ」

「ごめんなー」

 

 仕事帰りのペパロニを大勢で捕まえるのは可哀想だし、騒がしくなっちゃうから会うのは私だけにしたんだけど、みんなで来ても良かったかなあ。でも消灯時間が過ぎてる事を思うと、やっぱり大勢では動きづらいしな。仕方ないか。

 

「また遊びに来いよ」

「マジっすか、行きます行きます。またナポリタン作ってください」

「ほんと好きだなあ、お前」

 

 何歳になってもやり取りは昔と大差ない。

 高校での先輩後輩の関係はとっくに終わってるのに、私達は未だに『姉さん』と『ペパロニ』なんだ。フロントに確認する時は流石に本名を告げたけど、全然慣れなかったもんなあ。

 

 それから後、もう少しだけ他愛のない会話を交わしてペパロニと別れた。従業員の通用口らしき地味なドアに向かった彼女は、律儀にも一度こちらを振り返って一礼した。

 私はそれに、ひらひらと小さく手を振って応える。

 

 ありがとうな。お疲れさま。

 

「あら、千代美じゃない」

 

 さて戻って寝ようか、なんて考えていたら不意に声を掛けられビクッとした。今の今までペパロニと話していたから忘れかけてたけど、一人になってみるとロビー内はすごく静か。そんな場所で急に名前を呼ばれるっていうのは、なかなか心臓に悪い。

 見ると、カチューシャとダージリンだ。トイレは各階にある筈なのに一階まで降りてきてどうしたんだろう。

 

「自販機コーナーでも眺めよっかー、ってなってね」

「部屋の扉が開かないのよ」

「ええっ、まほが留守番してる筈だけど」

 

 まさかとは思うけど寝ちゃったんだろうか。

 いや、だとしたら、いくら何でも早すぎるな。私が部屋を出て、みんながトイレから戻るまでの間と考えるとごくごく短時間だ。

 

「それは、まあ」

「まあ、ねえ」

 

 目を逸らし、頬を赤らめて歯切れの悪い声を出す二人。

 

 あっ、ごめん、野暮だった。

 思い返せば二人は『トイレに行く』とは言ってなかったっけ。そう言えば私が廊下を歩く間、誰ともすれ違わなかったし、つまりミカ達もトイレ以外になんかしてるって事か。

 

 なんか。

 

 長時間、開いたんだな。

 留守番のまほが寝ちゃうぐらい。

 

「千代美はここで何してたの」

「ペパロニと会ってたんだよ」

 

 ダージリンもカチューシャも、春にペパロニが遊びに来た時に彼女の料理をつまみにお酒を飲んでいる。

 経緯を話すと二人とも残念そうにした。

 

「あのデザート作ったの、ペパロニだったのね」

「ペパロニさんなら私達も会いたかったわ」

「ごめんごめん、時間が時間だから騒がしくなったら悪いと思ってさ」

 

 またそのうち遊びに来るよ、と濁す。

 

 それよりたぶん、解決しなくちゃいけない問題がある。

 部屋の扉が開かないって言ったよな、ダージリン。

 

「そうそう。千代美さん、鍵を持ってたりしないかしら」

「いやー、私が出てくる時にテーブルの上にあったから部屋の中なんだ」

「げっ、マジで」

 

 マジマジ。

 

 こりゃ大分まずいぞ、どうしたもんだろう。

 まあフロントに言えば合鍵かなんかで開けてくれるとは思うけど、ペパロニが働いてる旅館でそういう騒ぎを起こすのは、なんか、ちょっとなあ。私がペパロニの先輩だって事はフロントに確認した時に話しちゃったし。下手すりゃペパロニにまで恥をかかせることになる。

 出来れば内緒で解決したい。さて何か良い方法は無いだろうか。

 

「電話でもしてみるか」

「あら名案」

 

 まほは矢鱈と耳が良いから、電話を鳴らせば一発で起きる筈。それで行こう。ああでも、私はスマホも部屋に置いてきちゃったな。

 

「私も煙草しか持って来なかったわ」

「ごめんなさい、私もスマートホンは部屋に置いてきちゃった」

 

 はい。

 

 良い考えだと思ったけど、残念ながらお流れに。

 考えれば考えるほど、恥を忍んでフロントにお願いする以外の道が無くなっていく。

 

「あらあら、皆お揃いで」

 

 またぞろぞろと、今度は三人やってきた。その顔触れを見て、危うく『うわぁ』という声が出そうになるのを堪える。

 

 げっそりした表情のミカ。

 やや緊張した面持ちの絹代。

 そして、何故かニッコニコの島田千代さん。

 

 ものすごい絵面。

 どういう集団なんだ、というか何があったんだそれ。

 

「うふふ、トイレでばったり会っちゃったのよねぇ、ミカちゃん」

「『ちゃん』は止めてください、島田さん」

 

 へえ、千代さんとミカって面識あったんだ。でも、何となく雰囲気で分かってしまった。ミカの言う『会いたくない人』って千代さんだったんだろうな。

 深くは突っ込まないけどさ。

 

「ミカ殿が用を足している個室に、島田の家元が少々悪戯をされまして」

「き、絹代、その辺にしてくれるかな」

 

 何があったやら。いずれにせよ碌でもないことが起きたのはよく分かった。まあ、それはそれとして、経緯はどうあれこの御一行が降りてきたのも似たような理由だろう。

 一応訊いてみようか。ミカはそもそもスマホを持ってないけど絹代はどうだろう。

 

「家に置いて参りました」

「家に」

 

 ちょっとレベルが違った。

 

 いよいよもって八方塞がりか。もう仕方ないな、フロントに頼もう。時間も遅いしぐずぐず考えてるのも限界だ。

 すると、ここまでの事情を聞いた千代さんが事も無げに言った。

 

「あら、まほちゃんに電話するならしほさんに頼みましょうか」

 

 あ゛っ。



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(6/6)うわんの砲

うわん


【まほ】

 

 スマートホンの着信音で目が覚めた。

 留守番の間にすっかり眠りこくってしまっていたことを寝惚けた頭で思い出し、飛び起きる。これは皆に悪いことをしてしまった。留守番の私が眠っていては誰も部屋に入れなくなってしまう。

 電話は大方『中に入れてくれ』という内容だろうと察しがついた。電話を取り耳に当てると、その推察は当たらずとも遠からずといったところ。

 しかしその相手は、思いも寄らない声をしていた。

 

『まほ、部屋を開けなさい』

 

 心臓が跳ねるのを感じた。

 何故、お母さまから電話が掛かって来るのだろう。まさか二十代も半ばに差し掛かろうという齢で、母親に叩き起こされる羽目になるとは思わなかった。兎にも角にも、狼狽えている場合ではない。開けろと言われたら開けるしか無いのだ。そう、身に染み付いている。

 ばたばたと部屋の戸を開けると、スマートホンを耳に当てたまま呆れた顔をしているお母様と、以下六名の視線が私に突き刺さった。

 

「ご、ごめんなさい」

 

 反射的にそうは言ったものの、肚(はら)の底では果たして私だけが悪いのだろうかとも思った。お母様達や千代美はまだ分かるが、他の四人。トイレに行って帰ってくるだけで一体何分掛かってるんだ、お前らは。

 若干の気まずい空気の中、お母様達とぎこちない挨拶を交わして別れた。そして、改めて就寝。など出来る筈もなく。灯りを消し、暗くなった部屋の中で何やら話しながらくすくすと笑い合う声がそこかしこで聞こえた。全く、寝る時まで騒がしい連中だ。これなら戸を開けずに一人で眠っても良かったな。

 布団の中で人知れずため息をつくと、不意に脇腹をつつかれ『ふぎゃあ』という無様な声を出してしまった。

 

「い、今の声はもしかして、まほさんかしら」

「ふぎゃあって言ったね、ふふふ」

 

 笑いを抑えきれないダージリンとミカの声に呼応して、他の面々も笑い出す。何という不覚だ、よくもやってくれたな。言っておくが犯人の目星は付いているぞ。

 

「千ー代ー美ー」

「んふ」

 

 隣の布団に潜り込み、まだ笑いを堪えている千代美の尻を触ってやると、彼女も『うひゃ』と声を上げた。ふふん。

 そんな益体のない戯れ合いを何だかんだで零時近くまで続け、結局我々が寝静まったのは一時を回る頃だったのではないかと思う。

 

 そして、一夜明け。

 

 ダージリンとカチューシャ、ミカと絹代、そしてお母様と島田のおばさま。彼女達は一足先に旅館をチェックアウトし、帰路についた。

 私と千代美は旅館に残り、ロビーの椅子に腰掛けて外を眺めている。別に、置き去りにされたという訳ではない。駅と旅館を結ぶ送迎のバスが出ているというので、私達はそちらに乗ることにしたのだ。

 来る時はダージリンの車に乗せて貰ったが、あれはどうにも淑女にあるまじき運転をする奴で、毎回寿命の縮まるような思いをさせられる。皮肉にも、ダージリンの運転する車に乗って初めて戦車という乗り物の安全性を痛感した程だ。

 

 お父様が言っていた。戦車と普通の自動車は別物であると。

 当たり前の事のようにも聞こえるが、戦車道経験のある女子はその違いへの対応に苦労するそうだ。どうも『突破する』『撃つ』といった選択肢が頭から抜けず、それが運転に表れてしまうらしい。普通の自動車では戦車のような揺れが感じられないのも、人によっては落ち着かないようだ。

 公道で危険な運転をしているドライバーに若い女性が多いのは、そうした理由があるからだという。

 しかし、いくら何でも公道での運転を始めて何年も経過すれば、流石に慣れるのが普通ではないだろうか。ダージリンの運転が一向に上達しないのは最早、天性のものと言うほか無い。あれは上達しないのではなく、もう、ああいうものだと思うべきなのだろう。

 天性という言葉が適切かは、まあ分からないが。

 

「そういや、ダージリンに戦車を貸したら速攻で壊された事があったなあ」

「そんな事があったのか」

「あったんだよ。って言うかお前も居たろ」

 

 言われ、記憶を辿る。

 

 ああ、そういえばそんな事があったような気もする。

 あれは高校生の頃だったか。雑誌の企画か何かで各校の隊長が集まって、それぞれの戦車を交換して乗った事が確かにあった。あの時か。

 

「そうそう、そのせいで一番大切な戦車が入院しちゃって大変だったんだから」

「ははは」

 

 当時のことを思い起こせば笑い事ではない筈だが、千代美の話し振りが何だか面白くて笑ってしまった。

 

 しかし、そうか。

 ダージリンはそんなに昔から、というか自動車も戦車も問わず運転が下手だったということになるのか。ならば矢張り、一生治らんものと思うのが良さそうだ。

 治らんと言えば、私が彼女の運転に一向に慣れないのも一生ものではないかという気がしている。酔い止めを飲んでも効果が無いのでは、もはや打つ手は無いだろう。体質と言うか、なんと言うかだ。

 

 相性とでも言うべきなのかも知れない。

 

「あるかもなあ。カチューシャは何だかんだ言って、全然酔わないし」

「んん」

 

 言われてみれば、確かにそうだ。

 カチューシャはダージリンの運転を酷い酷いと言うが、酔う事は一切無い。矢張り相性か。

 

「一緒に住むって言い出したし、相性は間違いなく良いだろうなー」

「うん。付き合いの長さで言えば私達より上だ」

 

 詳しく聞いたことは無いが、少なくともあの二人は高校生の頃から既に茶飲み友達として学園艦を行き来する仲だった。思い返せば、戦車道でみほを下したコンビでもある。相性というなら抜群なのだろう。

 しかし、彼女らが一緒に住むことで然して何が変わるとも思えないのが少し可笑しかった。

 

「私はちょっと、ホッとしてるけどな」

「どうして」

「ないしょ。えへへ」

 

 妙な含み笑いをする千代美の手が伸び、膝の上に置いた私の手に重ねられた。とりあえず握り返してやったが、何を思っているのかは分からない。まあ機嫌が良さそうなので何よりだ。

 握った手をぐにぐに揉んでやると、千代美はくすぐったそうにまた笑った。

 

「そう言えば、バスがなかなか来ないな」

「あれっ、本当だ。時間も過ぎてるのになあ」

 

 ちょっと確認して来る、と言って千代美はフロントに向かった。

 すぐに戻ってくるものかと思ったら何やら話し込んでいるようだったので、私はその間に近くの自販機で水を買い、酔い止めを飲んだ。大丈夫だろうとは思うが念には念を、というやつだ。

 

 ややあって、戻ってきた千代美から事情を聞いた。

 

「フロントでバスに連絡を取ってくれたよ。もうすぐ着くってさ」

「何かトラブルでもあったのか」

「それがさあ、地元の暴走族に囲まれてたんだって」

 

 なんと、暴走族とは。迷惑な話もあったものだ。

 いや、というかそれは、バスの事よりも我々より先に出たダージリン達の身が心配になる。大丈夫なのだろうか。

 千代美が、気まずそうに何かを言い澱んでいるのが伝わってきた。水を渡すとそれを一口だけ飲み、少しの間を置いて口を開いた。若干の緊張が走る。

 

「二人乗りの戦車が空砲を撃って追い払ってくれたってさ」

 

 お、おお。

 

 成程、そういう事なら心配は要らないな。間違いなくあの二人の仕業だ。

 お父様の言葉を信じていなかった訳ではないが、漸く説得力のようなものを感じることが出来た。あれは恐らく実体験に基づいた話だったのだ。

 二人で苦い視線を交わす。

 

 そうしたところで丁度、件のバスが着いた。

 宿泊客らしき団体がぞろぞろと降りてくるのが見える。

 

 あれが落ち着いたら乗るとしよう。

 千代美の手を取り、立ち上がった。

 

「帰るか」

「うん」

 

 たまには災難の無い旅行がしたいものだ。騒がしい連中を置いて千代美と二人きりでなら、それも叶うのだろうか。

 

「叶うかも知れないけど、騒がしい方も私は好きだなあ」

「そうかな。そうかも」

 

 何にせよ次がいつになるかは分からないが、またどこかに行きたいな。千代美の手を握り、そんなことを考えた。




疲れを癒すための旅行で、余計に疲れるなんてのはよくある話。

だけどきっと、それはとても心地よい疲れ。

また来ようね。

そんな訳で温泉旅行の最終話です。
楽しかったかな。
疲れたかな。
良ければ感想くださいね。

https://twitter.com/slotter_benny


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おとないさんの目

おめジリン


【ダージリン】

 

「ワオ、大きいペットを買ったのね」

「うっさい」

 

 案の定ジョークを飛ばしたケイにカチューシャが毒づいて、不機嫌そうにソファに身を沈めた。長い脚を組み、その膝の上で頬杖をつく。高校生の頃と比べて身長が劇的に伸びたカチューシャ、彼女は昔も今も『身長』を揶揄されることを快く思っていない。

 低身長というコンプレックスは解消されたものの、今度は高身長というコンプレックスに悩まされているという、それこそジョークのような状態になっている。

 彼女の身長は今、一体いくつあるのか訊ねたら『六尺』という捻くれた答えが返ってきたことがある。数字を言うのも嫌、という事なんだと解釈した。

 けらけらと笑うケイを、カチューシャはじろりと睨み付けた。

 

 今日、ケイがここに来たのは家賃の値上げについての話をするため。新しくカチューシャが一緒に住むようになったことで『入居者』が増えたので、大家である彼女にそのことを話したらいかにも渋々といった感じでやって来た。

 

「気にすること無いのに」

「そういう訳にも行かないでしょう」

 

 大らかというか、なんというか。単に計算が面倒なだけのようにも見える。半々かしら。自分の利益に関わることなのに、ここまで適当でいられるのもある意味凄いと思う。

 でも、何にせよ一応は契約なんだから、きちんとしないと。

 

「真面目ね」

「普通なのよ」

 

 私は間違ってない、と思う。

 

 その後、何故か諸々の計算を私がする羽目になり、カチューシャとケイは冷蔵庫からビールを引っ張り出して飲み始め、書類が出来上がる頃には二人もすっかり出来上がっていた。

 というかむしろ、ケイは酔い潰れて横になってしまっている。まだむにゃむにゃと何か喋ってはいるけれど、眠りに落ちるのも時間の問題という感じ。

 こうやって何だかんだと周りが勝手に世話を焼くお陰で、結果的に得をするように出来てるのよね、彼女。『人徳』というものの極致のような人。羨ましいことだわ。

 

「しょーがないわねぇ」

 

 カチューシャがケイを軽々と抱き上げ、寝室に運んだ。

 まあ、車で来ておいて飲み始めた時点でこうなるだろうなとは思っていた。放っておけばそのうち起きるでしょう、たぶん。

 暫くして、ケイを寝かせてリビングに戻ってきたカチューシャがソファにどっかりと腰を落とした。ソファの左側、そこが彼女の定位置。私も、その隣の定位置に腰を降ろす。

 

「お疲れ様」

「アンタもね」

 

 これで、カチューシャが正式に『同居人』という事になってしまった。まさかこんな未来があるなんて、思いもよらなかったわ。勢いで決めたはいいけれど、これからどうなる事やら。

 正直に言えば、期待より不安の方が大きい。カチューシャとはこれまでずっと仲良くやってきたものの、果たして環境の変化がこの関係にどんな効果を齎すのか。上手くやっていけるかどうか。嫌われたりしないか、とても不安。

 なんだかいつものように軽口を叩き合う気になれず、押し黙った。

 

「そんなに固くなんないでよ」

「う、うん」

 

 そう言われ、何故だか妙に緊張してしまって、ますます固くなる。

 そんな私を見て、カチューシャがため息をついた。

 

「馬鹿ねー。同居ってアンタ、隣みたいなのを思い浮かべてるんじゃないの」

「そ、それは」

 

 返答に詰まった。

 それは、確かにある。私にとって『同居』と言えば、隣のまほさんと千代美さんのような仲睦まじいものである印象が強い。私の中であれが基準になってしまっているから、だから緊張してしまうというのは、確かにその通り。

 

「と言うよりは、隣みたいな事をしたいのかしら」

 

 にやり、とカチューシャの口の端が吊り上がる。

 

 心臓が自分でも驚くほど大きな音を起てた。

 それも、ちょっとはある。『隣みたいな』仲睦まじい同居生活。憧れはあるし、そんな想像を巡らせたことも一度や二度ではない。

 そして、そんな時に『相手』として思い浮かべるのは。

 

 カチューシャは私の反応を窺うように、目を細めてじっとこちらを見つめている。

 不意に、彼女の長い腕が腰に回され、ふわりと引き寄せられた。

 

「ひゃ」

「嫌ならやめるけど」

 

 嫌、ではない。と思う。

 でもまだ、心の準備も、気持ちの整理もついていない。私のことを奪ってくれるのはきっとカチューシャなんだろうなという気持ちはあったけれど、それでも、私にはまだ、好きな人が居る。

 体が密着したことで高鳴る私の鼓動が伝わってしまうんじゃないかと心配した矢先、カチューシャが立ち上がってソファに手を掛け、私に覆い被さるように姿勢を変えた。私よりもずっと大きな彼女の体が視界を塞ぐ。

 

「アンタ、震えてるのね」

「う、うるさいわよ」

 

 お腹に力を入れ、カチューシャを睨み据える。

 それが合図だったかのように、カチューシャの整った顔がゆるゆると眼前に迫った。彼女の、酒気を帯びた息が顔に掛かる。切れ長の眼が私の唇を捉えているのが分かった。

 ああ。

 

 ぎゅっ、と目を閉じた。

 

 そしてカチューシャは何故か、本当に私に覆い被さって全体重を預けてきた。一瞬、何が起きたのか分からなかったけれど、間を置かずに彼女の鼾(いびき)が聞こえた。

 え、嘘でしょ、寝ちゃったの。

 

「ちょ、ちょっと」

「んんん」

 

 んんんじゃないし。

 こうなってしまっては、彼女は揺すっても叩いても起きない。思わず全身の力が抜けてしまった。全く、肩透かしにも程があるわね。とんだ酔っ払いだわ。

 無駄にどきどきしちゃった。

 

「あの」

 

 突然の声に驚いて、リビングのドアに目を遣る。そこには、ものすごく申し訳なさそうな顔をしたまほさんが、ドアを半分だけ開けてこちらを覗き込んでいた。

 

「醤油を、返して貰いに来たのですが」

「え、ええ、なんで敬語なのよ」

 

 テーブルの上にはビールの空き缶に混じって、昨日、隣から借りてそのまま置いていた醤油差しがある。ああ、うん、借りた物は返さないといけないわよね。でも、今はちょっと動けない。見ての通り、カチューシャが私の上で眠っているお陰で。

 

「失礼します」

 

 妙に畏まった挨拶をしつつ入ってきたまほさんは、そそくさと醤油差しを掴んで、逃げるように部屋を出た。

 ううん、いつからあそこに居たのかしら。

 

 っていうか、どうしよう、この状況。

 耳許で鳴り響くカチューシャの鼾に顔を顰めつつ、私は途方に暮れた。

 

「んんん」

 

 んんんじゃないし。

 

 馬鹿。



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浄土の如

チョビ誕おめ


【千代美】

 

 なんとも、複雑な心境だ。

 

「お母様、千代美に構い過ぎです」

「あなたは毎日会っているからそんな事が言えるのよ、まほ」

 

 まほとしほさんの親子喧嘩。原因は見ての通り、私。

 私の誕生日をお祝いしてくれるってことで、まほの実家に招かれたまでは良かったけど、まさかの展開に少しびっくりしている。

 

 いつもは、到着するとまず菊代さんに出迎えられて応接室に案内され、そこで待っているしほさんに挨拶をするのがこの家での慣例だ。この『菊代さんに出迎えられて』というのが実は結構大切で、菊代さんに緊張を解して貰いながら、これからあの西住しほと顔を合わせるんだ、という心の準備をする時間になる。はっきり言って必要不可欠。

 今日はそれをすっ飛ばして、しほさんに出迎えられた。

 玄関先で『よく来たわね』と顔を出された時、私もまほも面喰らって固まってしまった。まさか玄関を開けたらそこに西住しほが立っているなんて思わないだろう。

 それがとりあえず序の口。

 

 その後も、しほさんは何やかやと世話を焼いてきた。

 夕方に出す料理の味見をさせてくれたり、お勧めの小説を貸してくれたり、終いにはまほの部屋で寛いでいる所に顔を出して、座布団の具合まで訊いてきた。

 それが決定打となって堪忍袋の緒が切れたらしいまほが、しほさんに突っ掛かり始めて現在に至る。

 

 いやあ、どうしたらいいんだろうな、これ。

 

「放っておけばよろしいのですよ」

 

 にこやかに言い放つ菊代さんに、ちょっとびっくり。だけど彼女が言うには、あれも親子のコミュニケーションなのだから、好きにさせておけばいいという事らしい。

 そう言われると、まあ確かに。面と向かって喧嘩だなんてそうそうある機会じゃない。あの二人は特にそうだろう。

 

 貴重っちゃ貴重、なのか。

 

「この間に散歩でも如何でしょうか。ご案内しますよ」

「うーん、そうですね。お願いします」

 

 菊代さんに誘われ、まだやいやい言っている二人を置いて庭に出た。

 西住家の敷地は広い。庭をぐるりと見て回るだけでも、ちょっとした運動になる。この家で飼っている柴犬を連れて、菊代さんと話しながらのんびりと歩いた。

 

「相済みませんね、折角の日に」

「いえ、そんな」

 

 すみませんと言うなら、こっちの方こそ喧嘩の種として申し訳なく思っている。それに、菊代さんが謝ることもないと思う。

 って言うか、よく考えたら誰も悪くないんだよな。まほもしほさんも別に悪気がある訳じゃないし。

 

 二人とも不器用なだけなんだろう、きっと。

 

「ええ、本当に」

 

 困ったように笑む菊代さんに、何故だか一瞬、自分が重なって見えた。似てるのかもなあ、私と菊代さん。どこがとは上手く言えないけど、なんとなく。

 それからもう少し歩いた後、縁側に腰掛けて少し休憩。わんこがまだ歩きたい様子で鼻を鳴らしたり紐を引っ張ったりしてるけど、ちょっとだけおあずけ。ごめんなー。

 

「お茶を淹れて参りますね」

「あっ、どうも」

 

 なんだか扱いが良すぎて、逆に恐縮する。

 

 すたすたと行ってしまった菊代さんを見送り、ふう、と息を吐いて庭を眺めた。普段なら絶対味わえないほどの静けさだ。縁側で休んでるだけなのに非日常、って感じ。

 

 少し冷たい秋風が気持ち良い。

 思えば遠くに来たもんだな。距離の話じゃなくて、もっと別のこと。西住家の縁側で寛ぐ日が来るなんて、昔の自分が知ったら何て言うだろう。高校生の頃、西住まほにただ想いを寄せていただけの自分に自慢してやりたい話が沢山ある。

 ふふふ、嬉しいなあ。

 

 一人でにまにましていると、わんこが突然、大きく一声吠えた。

 いきなり吠えられてびっくりした私は、迂闊にも紐を握る手を離してしまい、わんこはその隙を見逃さず走り出した。

 

 あっ、やばっ。

 

 慌てて追い掛けると、わんこはそれが嬉しかったらしく、最高潮に達したテンションで広い庭を滅茶苦茶に駆け回る。

 暫く続いた追い掛けっこは、わんこが不意に立ち止まったことでようやく終わり、私はぜえぜえ言いながら追い付いて、その紐をまた握った。

 

「案外悪い子なのな、お前」

 

 人差し指で額をつついてやると、わんこは不安そうに鼻を鳴らしてこっちを見上げた。

 怒られて凹んだのかと思ったら、どうもそういう訳じゃないらしい。わんこが立ち止まって見つめる先。生え放題の草むらの中に、古びた井戸があった。なんだ、あれが怖いのか。

 

 あれっ、この井戸って、もしかして。

 

 近付こうとすると、握った紐の感触に抵抗があった。

 振り返ると、わんこがその場に座り込んでいる。あれだけ走り回った癖に、今度は動きたくないらしい。ぐいぐい引っ張っても意外なほどに強い力で踏ん張っていて、頑としてその場を動かない。

 

 紐を尚も引っ張ると、突然抵抗が無くなった。

 

 わんこが動いたのかと思ったら、違う。

 

 首輪が、すっぽ抜けたんだ。

 

「あっ」

 

 その弾みで井戸の縁にぶつかり、私の身体はそのまま真っ逆さまに落下し、一番下で派手な水音を起てた。

 

 

 

 

 

「ぶへっ、げほっ、げほっ」

 

 うええっ、飲んじゃった。大丈夫な水なんだろうか、これ。

 逆さに落ちたせいでどっちが上か分からなくなり、水面から頭を出すのに少し手間取った。咳き込みながら、落ち着くように意識しつつ状況を整理する。

 

 まあ、とりあえず、死んだかと思った。

 頭から落ちて死ななかったのは、そこそこ水位があったお陰か。まさに九死に一生ってやつだ。とは言え『死ななかった』というだけで、助かったとは言い難いなあ。どうやって脱出したもんか、さっぱり見当がつかない。

 よじ登るのも、勿論無理だ。

 

 あんまり考えたくないけど、このまんまだと非常にまずい。

 

「おーーーい」

 

 叫んではみたけど、わんこが鼻を鳴らしているのが微かに聞こえただけだった。

 あいつめ、やってくれたなあ。反省しろよ。

 

 しかし、こりゃ本気でやばいな。

 誰かが探しに来てくれるのに期待するのが妥当か。お茶を待ってる所で居なくなったことを考えれば、菊代さんは探してくれるだろうけど、果たしてこの井戸まで来てくれるかは、分かんない。

 水も結構冷たいし、長時間待つのはちょっときついなあ。胸まである水位のお陰で、私の身体は既にかなり冷えている。

 

 誰かがきっと来ると思いたい。

 

 はは、井戸の底で『きっと来る』だなんて縁起でもない。

 

 誕生日だってのに災難だ。

 

 まほに会いたい。

 

 落ち着こうとしても、思考はなんだか支離滅裂だ。ほとんど不貞腐れたような気分で井戸の壁に凭れかかり、狭い空を見上げた。狭くて真ん丸の空。

 ふと、見上げた空に浮かぶ雲の切れ間から何かが落ちてきた、ように見えた。

 まあ雲から物が落ちてくる訳もない。たまたま『それ』が落ちてきたタイミングと私が見上げたタイミングが重なったってだけのことだろう。

 でもその時の私には、そんな風に見えた。

 

「あぶなっ」

 

 受け止めてみるとそれは、小学生くらいの子供だった。

 何が起こったのか分からないというように、目を丸くしてこっちを見ている。うんまあ、そうだよな。井戸の底に人が居るなんて思わないよな、普通。

 

「落っこちたのか」

 

 はい、という短い返事。愚問だった。

 話を聞くと、この子は井戸の縁に乗っかって遊んでて足を踏み外したらしい。

 

 話し始めていくらもしないうちに、真上から『お姉ちゃん』という叫び声が降ってきた。見上げると、この子に似た顔立ちの小さな子がひょっこりと井戸を覗き込んで青褪めた顔をしている。呼び掛けられた『お姉ちゃん』は然して取り乱した様子もなく『菊代さんを呼んできてくれ』と叫び返した。

 妹の方は力強く頷いて顔を引っ込める。間を置かず、ぱたぱたと遠ざかる足音が聞こえた。

 間違いない、あれは天使だ。

 

 やれやれ、どうやら助かった。

 あとは菊代さんが駆け付けるのを待つだけだろう。ただ、身体が冷えすぎたせいか、この子を抱っこする腕が早くも限界に近い。正直言って、菊代さんが来るまでの間、保ちそうにない。かと言ってこの子を水に浸けるのも可哀想だ。

 って言うかこの水位じゃこの子の足は底に付かないから、離すのは無し。

 

 という訳で。

 

「水が結構深いから、肩車しよっか」

 

 言って、その子を肩に乗せた。

 私も全身びしょ濡れだから肩車でも冷たい思いをさせちゃうけど、それでも水に入るよりはいいだろう。

 

 しかし、まあ、なんだ。

 考えないようにしてたけど、この子も、走り去ったあの子も、めっちゃ見覚えあるんだよなあ。他人の空似と思いたかったけど、二人とも『菊代さん』を知ってるとなれば、まあ間違いないだろう。

 

 二人とも、見覚えがある。

 特に、いま肩車してる方。

 なんなら毎日会っている。

 たぶん、この子、まほだ。

 

 理屈は分かんないけど、今んところ、そうとしか考えられない。顔を声もまほなんだもん。矛盾した言い回しだけど、たぶん確定。たぶん。

 まあ、名前を訊いちゃえば分かるんだろうけど、訊いてもいいのかなという謎の抵抗があって、ちょっと躊躇っている。そんな感じで訊こうか訊くまいか悶々と迷っていると、頭の上にぽつぽつと水滴が当たるのを感じた。

 

 嘘だろ、この状況で雨か。

 そう思ったけど、すぐに違うと分かった。

 

 私の肩に乗った子が泣いているんだ。

 可愛い顔をくしゃくしゃにして、声を殺してぽろぽろと涙を零している。その涙が私の頭に当たっていた。

 まあ、そりゃそうか。いくら『お姉ちゃん』とは言え小学生だ。毅然としてても、内心が穏やかな訳はないよな。

 

 全く災難だ、お互いに。

 

「よしよし、怖かったなあ」

 

 手を伸ばして、頭を撫でてあげた。

 それで緊張の糸が切れたのか、その子は私の頭の上に突っ伏して、声を上げて思い切り泣いた。うんうん、我慢すること無いぞ。泣きたい時は泣いていい。

 私はその涙の生暖かさを感じながら、暫くその子の頭を撫で続けた。

 

 その子が泣き止む頃。ばたばたと足音が近付くのが聞こえて、少し薄暗くなった真ん丸の空に、さっきの女の子と菊代さんの顔が現れた。

 ああ、若いなあ、菊代さん。やっぱりそういう事なのか。

 自分で言っといて、どういう事か分かんないけど。

 

 程なくして縄梯子が降ろされ、女の子は無事に救出された。

 妹の方がぎゃあぎゃあと泣き叫ぶ声が聞こえる。

 ああ、良かったなあ。助かって本当に良かった。私の方はもうずっと寒くて、なんだか眠くて、身体に力が入らなくなってきた所だ。

 女の子が引き上げられるのを見届けると、今度は私の緊張の糸が切れたらしく、全身の力が一気に抜けた。

 

 

 

 

 

「千代美、おい」

「ん」

 

 聞き慣れた声に呼ばれて目が覚めた。眠っていたらしい。

 辺りを見回すと、ここはまほの部屋。私はいつの間にか、まほのベッドに寝かされていた。まほ、菊代さん、そしてしほさんの不安げな視線が私に注がれている。

 

「目が覚められましたね、安斎様」

「ああっ、良かったわ、千代美さんっ」

 

 安堵する菊代さん、泣き出しそうな勢いで私の無事を喜ぶしほさん。

 まほも安心したように、大きなため息をついた。

 

「大丈夫なのか」

「んー、大丈夫じゃないけど大丈夫」

 

 わざとふざけた答えを返すと、まほはいつものように『馬鹿』と言って笑った。

 

 まほは、私が落ちた水音が聞こえた時点で異変を察知し、続けてその直後に聞こえた私の呼び声で事態を確信して井戸に走ったらしい。相変わらず、とんでもない耳をしてる。私は一体、この耳に何回助けられただろう。

 ともあれ、まほはそうして走った先の井戸で首輪の外れたわんこを見付けた。井戸を覗き込むと、その底でうつらうつらしている私が見えたので慌てて人を呼んで引き上げた、と言うことらしい。

 じゃあ、思ったより早く救出されたのか。外を見ると陽はまだ高かった。

 あれっ、じゃあ、さっきの騒ぎは夢か。『あの子』が引き上げられた時、外はもう薄暗かった筈だ。

 

「心配したんだからな」

 

 脹れ面をするまほを見て申し訳なく思いつつ、ちょっと悪戯心が湧いた。

 手を伸ばし、まほの顔を引き寄せてその頭を撫でる。

 

「よしよし、怖かったなあ」

 

 そう言ってやると、まほは何が起こったのか分からないというように目を丸くしたあと、その目にみるみる涙を溜めた。



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モナリザの絵

「妖怪」の括りでモナリザの名前を出すのもどうかと思いましたが
小学生から見たらモナリザも二宮金次郎も人体模型もオバケですよね


【千代美】

 

 時間はもうちょっとで十八時ってところ。

 まほの帰りを待ちながら夕飯の支度をしつつ、ついでにダージリンとカチューシャの晩酌のおつまみを作っている。既にうちのリビングで飲み始めてる二人と談笑しながらの、忙しいけどのんびりとした楽しい時間。

 

 実はこういうの、結構好きなんだよな。料理を作るのも食べるのも勿論好きだけど、やっぱり私が一番好きなのは作った料理を人に振る舞うことだ。自分が作った料理を食べて貰って、美味しいって言って貰えるのがすごく好き。

 だから料理のリクエストなんかがあると、ついつい張り切ってしまう。今日みたいに『飲むからなんか作って』と押し掛けて来るのだって大歓迎だし、金欠のミカがご飯を食べに来るのも私は嬉しく思ってる。まほはあんまり良い顔をしないけど。

 なーんて、こんな言い方をすると、まるでまほに隠れて悪い事をしてるみたいだ。

 

 まあ、まほが居たらこういう時間が過ごせないのも確かだから、当たらずとも遠からずって所か。

 

「マホーシャは独占欲強そうだもんねぇ」

「それはまあ、あはは」

 

 否定はしない。

 私が他の誰かに優しくするだけでヘソを曲げるからな、まほは。一時期はペパロニにまでやきもちを焼いてたっけ。

 あの頃に比べれば最近は大分マシになった方だと思うけど、傍から見たら、どうだかな。

 

「鬱憤、溜まってたりするんじゃないの」

「うーん、どうかなあ」

 

 ダージリンに言われて、ちょっと考える。

 そりゃ全く無いって訳じゃないけど、鬱憤って言うほど溜まってる事となると、どうだろう。

 無い、かなあ。全然思い付かないや。

 

「円満ねー」

「えへへ」

 

 そうかな、そうかも。

 上手くやれてる方だとは思ってるけど、改めてそう言われるとやっぱり嬉しい。

 

「私なんかカチューシャの愚痴、既に十個は言えるわ。部屋は煙草臭くなったし、脱いだものは片付けないし」

「ちょっと、やめてよ。アンタだって訳わかんないマッサージ器具とか買いまくって収納圧迫してるじゃない」

 

 私の照れ笑いが引っ込むよりも早く、たちまち二人はお互いの愚痴合戦を始めてしまった。一緒に住み始めてまだ一ヶ月と経っていないのに、よくもまあそんなに挙げられるもんだ。

 喧嘩してるように見えるけど、ああいう戯れ合いなのは分かってるから止めはしない。遠慮なく不満をぶつけ合えるっていうのも、ひとつの『円満』の形だと思うし。愚痴が尽きないのだって、それだけ相手のことをよく見てるって事なんだろうしな。

 

「ひっぱたくわよっ」

「やってみなさい、追い出すわよ」

 

 物は壊すなよ、頼むから。

 

 しっかし、まほに対する不満かあ。

 思い付かないっていうのも考えものなのかな。相手のことをちゃんと見てない証拠、みたいな。まあ好きすぎて目が曇ってる自覚は、ちょっとある。

 あー、なんか、そう考えると不満を挙げられないのも問題のような気がしてきた。何か無かったかなあ。

 

 うーん。

 

「あ」

 

 そう言えばひとつあった。

 不満とまでは行かないかも知れないけど、ちょっとモヤっとしてる些細な事。

 

「あら、聞きたいわ」

「なになに、マホーシャ何やったの」

 

 今の今まで言い争ってたのが嘘だったみたいに、二人は揃ってこちらに耳を傾けた。すっごいな、息ぴったりだ。

 こういう事って言ってもいいのかなと少し迷ったけど、すっかりわくわくしちゃってる二人に気圧されて、私は口を開いた。

 

「えっとさ。まほが最近、スマホをいじることが増えたなーって、思ってて」

 

 期待に満ち満ちていた二人の表情が変わった。

 カチューシャは『それのどこが悪いのか』と思ってるような、訝しげな顔。一方ダージリンは、カチューシャとは違ってちょっと神妙な顔付きになった。

 

「それは確かに、珍しいわね」

 

 うん、ダージリンなら分かってくれそうな気がした。

 まほを毎日見ているからこそ気が付く違和感って言うのかな。些細っちゃ些細なんだけど、まほがスマホをいじる事って実は今まで全くと言っていいほど無かった。あっても連絡に返信したりする程度で、なんというか、自発的に触る事はほとんど無い。

 それが何故か増えてきた事に、ちょっとモヤっとしてる。

 そうそう、『何故か』だ。まほがスマホを頻繁にいじるようになった理由が分からない事もモヤモヤの原因なのかも。

 

「ゲームとかじゃないの」

「違うと思う」

 

 いじると言っても長時間って訳じゃない。ふとした瞬間にポケットから出して何かを確認するみたいにちらっと見て、すぐに仕舞う。まほが繰り返しているのは、そんな動作。

 時計を見てるのかなとも思ったけど、そんなに頻繁に確認する意味はよく分からない。

 

「操作と言うよりは確認なのね」

「なんかの通知でも見てるのかしらねー」

 

 うーん、通知か。

 そうすると誰かから連絡が来てるって事になる、のかな。だけど返信してる姿はあんまり見ない。全くのゼロって訳じゃないけど、どう考えても『確認』の回数と合わない。

 

 って事は、つまり。

 

「返信は千代美さんに隠れてやっている、とか」

「ええ、ちょっと、それってまさか」

 

 浮気。

 考えたくはないけど、事実を並べていくとどうしても可能性として浮かび上がってしまう。成程、思い付いてはいたけど考えたくなくて目を逸らしてたから、それが『モヤモヤ』として現れてたんだな。

 

「ただいま」

 

 ううーん、最悪。

 

 ものすごいタイミングでまほが帰ってきた。

 コートを脱ぎつつ、ダージリンとカチューシャが既に出来上がってるのを見て一瞬だけ顔を顰めたあと、すんすんと鼻を鳴らしながらキッチンに寄ってきた。

 

「今日はシチューか」

「えへへ、当たりー」

 

 鍋から顔を上げてまほの方を見ると、スマホをポケットに仕舞う所。もしかして今、私と話しながらスマホ見てたのか。

 今の今までダージリン達と話してたこともあって、それはなんか、ショックが大きい。

 

「マホーシャ、ちょっと」

「なんだ。おい、何をする」

 

 険しい顔をしたカチューシャが、後ろからまほの肩を掴んだ。そうしてまほが怯んだ隙に、今度はダージリンがまほの手からスマホを掠め取る。

 あっと言う間、完璧なコンビネーションだった。

 

「ごめんなさいね、まほさん。ちょっと黙っていられなくなったの」

「何の話だ。ひとまずそれを返せ」

 

 まほの視線は、ダージリンの手の上で弄ばれているスマホに釘付けと言っていいほど注がれている。まほは珍しく、明らかに狼狽していた。

 なんだよ、そんなに大事なのか、スマホが。

 

「まほさんがスマートホンを見ている時間が増えて寂しいなって、千代美さんが話してたところなのよ」

「ん」

 

 意外そうに、まほがこっちを見た。

 

「それは、悪かった。少し頻度を減らそう」

 

 あっさりと頭を下げた。

 それはまあ嬉しいけど、でももう、違うんだよな。頻度の話はもういいんだ。問題は、どうしてまほがそんなにスマホを気にするようになったのか。今の私はそれが知りたい。

 この際だから、包み隠さず話して欲しい。

 

「そ、それは」

「言えないのか」

 

 少し言い方がきついかなと思ったけど、抑えられなかった。

 まほは観念したように腕をだらんと垂らし、それでも暫く迷ってから、ダージリンに向かって手を出して、スマホを受け取り画面を開いた。

 

「これを、見てたんだ」

 

 そう言って渡されたスマホに映し出されていたのは、ただのロック画面。そこから見て取れるのは、画面下に表示されている現在の時刻と、待ち受け画像。

 浴衣姿で、頬に指を当ててにっこりと満面の笑みをカメラに向ける、私。夏祭りの時に撮ったやつだ。

 

 えっ、見てたって、待ち受け画面をか。

 

「んん」

 

 画面から視線を上げると、まほの顔は絵に描いたように真っ赤だった。

 段々と状況が飲み込めてきた私も、つられて赤くなった。

 

「お前、馬鹿、まほ、お前ぇぇーーっ」

 

 まほは夏祭りの時に撮った私の写真が思いのほか気に入ってしまったので、それを待ち受け画面に設定していたらしい。そうしたら、当たり前だけどスマホを開くたびにその写真が見られるのが嬉しくて、それで頻繁にスマホを取り出すようになったというのが理由。

 ああ、ダージリンにスマホを取られて慌ててたのは、そういう訳か。

 浮気でもなんでもなかった。

 

「変えろ、恥ずかしいからっ」

「ええー」

「ええーじゃない、馬鹿っ」

 

 ダージリンとカチューシャは、すっかり白けた様子で私達の言い合いを眺めている。

 

「アンタ、こんなのの隣で独り暮らししてて、よく今まで我慢出来たわね」

「慣れると面白いのよ」

 

 うーん、どうしよ。

 実は私も、まほの寝顔を待受画面にしてるなんて言い出せない感じになってきたな。

 こっそり変えるか。いや、でもなあ。

 

「千代美、鍋っ」

「えっ、うわあっ」

 

 今日も円満。



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行灯の燈

【エリカ】

 

 帰りが少し、遅くなった。

 時刻は夜の九時半。パッと見はまだ早いけど、これから帰ってお風呂に入ってメイクを落として、それが終わったら髪や肌の手入れ。そうやってバタバタして、落ち着く頃にはどうせ日付が変わる。後はさっさと寝て起きて、支度をしたらまた出勤。このままではご飯を食べる暇がどこにも無い。

 それもなんだか寂しいから、無理にでも何か食べておきたいところ。帰りにコンビニで何か買おうかな、なんて考えながら電車に揺られている。

 

 吊革につかまり思考を巡らす。

 買い置きの菓子パンでも家に残ってたらそれを晩御飯にしてもいいけど、どうかな。まあ、残ってたとしてもみほが食べちゃってそうな気がする。

 根拠は無いけど、なんとなくね。

 

 考えているうち、自分が思いのほか空腹なことに気が付いてしまった。今の私の思考は最早すっかり、どこで何を食べようかという感じの流れ。こんな時間に食事なんて女としてどうなのと思わないでもないけど、私は女である以前に人間というか生物なので、時間なんか関係なく空腹は満たすべき。そういう事にしておこう。

 コンビニでお弁当を買うもよし、どこかに寄ってサッと食べるもよし。真っ直ぐ帰って大人しく寝るという選択肢は、まあ無い。

 

 さて、どうしようかな。

 

「あれっ、エリカじゃないか」

 

 聞き覚えのある声に呼び掛けられて振り返ると、安斎さんがこちらを見て胸の前で小さく手を振っていた。

 スーツ姿で眼鏡をかけて、長い髪を後ろでひとつに纏めている。こんな時間に外で会うことの珍しさもさる事ながら、見た目が普段の印象と違い過ぎて、正直誰だか一瞬分からなかった。

 

「あはは、いつも休日しか会わないもんなー」

 

 一日の終わりかけとは思えないほど安斎さんは全くいつもと変わらない様子で、ふんわりと笑った。

 お疲れ様と改めて言われ、慌ててお疲れ様ですと返す。

 

「いつもこの時間なのか」

「ああ、いえ、普段はもう少し早目ですよ」

 

 とは言え、早かろうが遅かろうが安斎さんと電車の中で鉢合わせる機会が滅多に無いことに変わりはない。最寄り駅は同じだけど、安斎さんとは基本的に時間帯が丸っきり違う。

 この時間帯に電車に乗っているのが珍しいのは、どちらかと言えば安斎さんの方。私の記憶違いでなければ、安斎さんは普段、夕方にはご飯の支度が出来るように帰っているはず。

 

「だなあ、今日は珍しく遅くなっちゃった」

 

 困ったように笑う。

 なんというか、よく笑う人。気が付けばこちらの顔も、つられていつの間にか綻んでいた。

 それから最寄り駅に着くまでの間、みほの話をしたり、まほさんの話をしたり、改めて冷蔵庫の件のお礼を言ったり。

 安斎さんには夏に、うちの冷蔵庫が壊れた時にかなり面倒を掛けてしまっている。その節はお世話になりましたと頭を下げると、安斎さんは気にするなという風に手を振った。

 

「あれから冷蔵庫はどうしたんだ」

「いえ、あの、実はまだそのままで」

 

 夏に壊した冷蔵庫はまだ捨てることも運ぶこともなく、ただの常温の箱として、これまで通りの場所に鎮座している。

 まあ、コンビニが近いから冷蔵庫が壊れててもそれなりに生活出来ているのが幸いというか、何というか。

 

「新しいの買った方がいいとは思うけど、まあ毎日忙しそうだしなあ」

「あはは、すみません」

 

 忙しいのは確かだし、ついでにお金があんまり無いのも確か。でも、それより何より一番の理由が恐らく『めんどくさい』なのは、ちょっと言えないわよね。お世話になった本人には特に。

 冷蔵庫が壊れて以来、私もみほも元々敬遠しがちだった自炊から更に遠ざかってしまった。今は冷蔵庫の無い暮らしにどんどん慣れつつある。

 それこそ今も、私は頭の中で寄道の算段を進めている所だし。

 

 そう言えば寄り道に思いを馳せている私と違って、安斎さんは真っ直ぐ帰るつもりでいるらしい。

 

「ああ。遅くなるって連絡したら、まほがご飯作って待ってるって言うから楽しみでさ」

 

 そう言って彼女は照れ臭そうに、今日見た中で一番可愛い顔で笑った。

 全く、羨ましいなあ。

 

 やがて電車は最寄り駅に到着し、帰り道が逆方向の私達はそこで別れた。

 

「じゃー、またな。お疲れ」

「はい、お疲れ様でした。まほさんに宜しく伝えてください」

 

 さて。

 結局何を食べようか、答えが出ないまま駅に着いてしまった。

 どうしたものかな。お腹は空いたし、でもカロリーは気になるし、そう考えると重いものは食べ難いからコンビニのお弁当は除外かな。

 

「うーーーん」

 

 唸りながら駅前を歩く。軽く不審者。

 時間も時間だし、開いてる店が居酒屋とかしか無いのも相俟って、一向に狙いが定まらない。歩きながら灯りの点いている看板たちをつらつらと眺めているけど、まあー居酒屋ばっかり。

 残念ながら飲む気分ではないのよね。

 寒くなってきたし、暖かいものが食べたいなあ。

 

「ん」

 

 何かが琴線に触れた。

 立ち並ぶ居酒屋の看板に混じって、何かこれだと思うものが見えた気がする。立ち止まってその辺をよく見ると、『蕎麦』の文字が見て取れた。

 ああ、蕎麦。

 

 合格。

 

 看板の灯りが点いているから営業中なのは間違いない。気持ち早足で、その看板に向かって一直線に歩いた。店内の灯りが漏れて、入口の辺りの道を照らし出している。

 ガラガラと引き戸を開けて店内に入った。古びてはいるけど、きっちり掃除が行き届いていて清潔な感じがする。お客さんも時間の割にはそこそこ入っているみたい。ああ、ここは居酒屋帰りのお客さんが寄るお店なのかと、その時になって気が付いた。

 ひとまず店主らしきお婆ちゃんに営業時間を訊ねると、零時までやっているとのこと。やったあ。

 早速カウンターに腰掛けて、壁に貼られた手書きのメニューに目を通す。あまり迷って時間を掛けるのもなんだか恥ずかしいので、手短に決める。

 

 お腹空いた。

 でも重いものは食べ難い。

 でもお腹空いた。

 

 そういう気持ちで決めた。

 

「肉そば」

 

 あいよ、というお婆ちゃんの気の無い返事から数分。やっぱり気のない、お待ち、という声とともに目の前に肉そばが置かれた。

 三四切れの豚肉と、半円型のかまぼこが一切れ、あとは刻んだネギと三つ葉。おつゆは茶色。

 何の変哲も無い肉そば、それが只々ありがたい。

 

 いただきますの意で、軽く手を合わせる。

 

 まずは、おつゆを一口。

 レンゲが見当たらないなとは思ったけど、見回すと他のお客さんもレンゲ無しで食べてるみたいだったので、郷に従って丼を持ち上げて口を付けた。

 

 こく、と喉を鳴らす。

 醤油味の熱いおつゆが食道を通って、空っぽのお腹をじんわりと暖める。

 

 完璧。

 

 箸を割り、蕎麦を啜る。

 私はグルメでも何でもないので難しい事はよく分からないけど、この蕎麦が特別に美味しいものでない事は分かる。でも美味しい。

 ぷりっとしたかまぼこも、弾力のある肉も、しゃきしゃきのネギも三つ葉も、全部普通。言い回しとしての『普通に美味しい』という意味じゃなく、ただ普通。それが美味しい。

 空腹に寒さに疲労、そういうものが一体となってこの普通の蕎麦をご馳走に昇華させている。

 

「ん、ふ」

 

 それから暫く夢中で蕎麦を啜り、最後にもう一口おつゆを飲んで、ごちそうさま。全部飲みたかったけど、そこは流石に我慢した。

 場所は覚えたからまた来ましょう、今度はみほと一緒に。

 時計を見ると十時半。帰る頃には十一時を回るかな、あまりのんびりもしていられない。でももうちょっと、立ちたくない気分。

 

 さっさと帰ればいいものを、私はお腹を一杯にした余韻に浸りつつ、ぼんやりと店内を見回す。そこで案の定、余計なものを見付けてしまった。

 蕎麦を注文した時点では見落としていた、メニューの端に書かれた文字。

 

 いなり。

 

 ああ。それはきっと普通で、とても普通で、普通の蕎麦によく合ういなり寿司なんだろうと容易に想像が付いた。

 胃袋が『別腹』のスペースを空けるのを感じる。

 

 どうしよ。



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