オーバーロード 新参プレイヤーの冒険譚 (Esche)
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Prologue.
(序)夜空


 


『一世を風靡した大人気オンラインゲーム 12年の歴史に幕』

 

 長らくと頭を悩ませていたプロジェクトが軌道に乗り、息抜きのつもりで携帯端末を手にしたとき、ふと一つのWEBニュースに目が止まった。

 何気なく動いた指先がニュースサイトを開き、十二年前に始まった“ユグドラシル”という名のDMMO-RPGの運営が、今月末で終了するという内容を伝えてくる。

 サービスの終了を惜しむプレイヤーたちのコメントを漫然と流し読みながら、一つのオンラインゲームが十二年も続いていたということに軽い驚きを覚えても、それ以上の感想は浮かばなかった。

 学生の頃には夢中でゲームを遊んだ時期もあったが、社会人になってからはすっかりと縁遠くなっていたのが理由だったのかも知れない。

 そう考えたのであれば、同僚と連れ合った昼食の席において、この話題を持ち出してしまった自身の判断は、言ってしまえば偶然でしかなく、ちょっとした気紛れに過ぎなかったのだろう。

 

「――お前って、ゲームに興味があるようなタイプだっけ?」

「あんまり興味はないけど、十二年もサービスが続いてたらしいのは、単純にすごいな……ってさ」

 ユグドラシルが終了するというニュースに意外なほど食いついてきた相手に聞けば、どうやら数年前まで件のゲームをプレイしていたらしい。

 こちらの返した曖昧な返事に、何かしらのスイッチが入ってしまったらしい同僚は――勤務中には決して見せたことのない熱意で――ユグドラシルの世界観やシステムについて語り始め、「仕事が忙しいせいで、泣く泣く引退したんだ!」などと人目も憚らずに盛大に喚き出してしまう。

 職場での姿しか知らない相手の内面を垣間見ることになった代償は、周りの客や店員たちから冷ややかな視線を集める事態だった。

 あの時点では、お気に入りの一つだった食事処に顔を出しにくくなったことから同僚を責めたくなる気持ちもあったのだが、今の自分であれば彼の嘆きに共感を覚えていたのだろうか。

 結局、その後は同僚の熱量に押し切られてプレイする約束をしてしまい、サービスの終了まで残り三週間ほどという無謀なタイミングで、一人の新参者がユグドラシルの世界に足を踏み入れることになるのだった。

 

 *

 

 やおらと見上げた夜空には厚い雲が広がり、辺りの暗がりを一層と濃くしているようだった。

 すっかりと慣れた手つきでコンソールを操作し、呼び出した魔法一覧の項目から〈フライ/飛行〉のアイコンを選択すれば、ふわりと足が地面から浮かび上がる。

 プレイを始めたばかりの頃には苦労した空中での姿勢制御も、今では意識しなくてもできるようになっていたが、重力のくびきから解放されるこの瞬間ばかりは、何度となく体験してみても不思議な高揚感を与えてくれた。

 気の向くままにどんどんと空を駆け上がり、帯状に広がる雲を勢い良く突き破っていく。

 そうして、高度の限界まで飛び続けた先に瞬く眩い無数の光――常時発動にしていた〈ダーク・ヴィジョン/闇視〉の魔法効果を解除しつつ、慣らすように周囲へと目を向けてみたのなら、眼前いっぱいに広がっていくのは数えきれないほどの星たちの輝きだった。

 煌めく光の粒子が散りばめられた天空の絵画は、生身の身体では決して見ることのできない絶景――環境を無視した経済活動によって大気汚染が深刻となった現実世界の夜空は、コールタールを煮詰めたような濁黒い雲に覆い尽くされるばかりだ。

「……もっと早くに出会えてたら良かったのにな」

 溜め息とともに大きく身体を後ろへ投げ出してみるが、〈飛行〉は維持されているので、傍から見れば雲の上で寝転がっているような恰好だろうか。

 こうした夢見心地な感覚も、現実では決して味わうことができないと考えてしまったのなら、嘆いてしまうのも仕方ないじゃないか、と言い訳のような思いばかりが浮かんでくる。

「……あと十分で終わっちゃうのか」  

 誰にともなく呟いた言葉は風に攫われて、夜闇の底へと溶けていった。

 

 ユグドラシルが誌面等に紹介されるとき、謳い文句には“プレイヤーの自由度が高過ぎるゲーム”といった文字列が並ぶ。

 世の中に数多く出回っている他のDMMO-RPGと比較しても、九つの世界からなる広大なマップや二千を超える職業選択の自由に武器や防具等の外装を自分の好みにアレンジできる仕様など、自由度の高さを示す例を挙げれば限りがない。

 特徴的なところでは、自身のキャラクター作成において、人間やドワーフ、エルフなどの“人間種”はもとより、ゴブリンやオーガといった“亜人種”、スケルトンやゾンビ、スライムといった他のRPGなら間違いなく敵として出てくるであろう“異形種”からもアバターを選べるという、豪快に振り切った奔放さがあった。

 もっとも種族選択の際、悩んだ末にハーフエルフという当たり障りのない種族を選んでしまうような自身の感覚からすれば、わざわざゾンビやスライムになってプレイしたい人がいるのか、という疑問はあったのだが――。

 兎にも角にも、“サービス終了日の告知後”という極端な後発組でのスタートにはなったものの、ゲームを進める上では少しだけ有利な面も存在した。

 以前はフレンドや特定のギルド内でのみ共有されていたという有益な情報が、サービスの終了を前に様々な攻略サイトにも掲載されるようになっていたり、特殊な職業の獲得条件や効率的なアイテムの取得方法といった“攻略チャート”が確立されていたことは、まだゲームに不慣れな初心者の身には優しい状況だった。 

 更には悪名高かったらしい運営により、“最期の大盤振る舞い”と称された各種キャンペーンの効果も相俟って、この神話世界の物語を一気に楽しむことができたのだ。

 

 それでも、嘆き節の独り言は止まらない。

「……できれば、“忍術”とかも使ってみたかったんだけどなぁ」

 呼び出したステータスウィンドウをぼんやりと夜空に透かして眺めてしまう。

 とりあえず難しいことは考えずに、いろいろなことを楽しみたいという思いから、オーソドックスな戦士職をベースとしながら、攻撃・支援・回復といった各種魔法の基本職などを広く浅くといった要領で気軽に取得していったのだ。

 始めてみた当初には、エルフという種族に漠然と抱いていたイメージから“弓使い”の職業構成を目指す考えもあったのだが、遠距離からの攻撃には魔法で対抗できることを考慮して取得の候補からは外していたりもする。

 忍者系統の職業を取得したのなら、探知や探査に秀でた種族特性を活かしつつ、“暗殺者”みたいなプレイもできたかな、などとぼんやりと思いを巡らせてみるが、ちらりと横目で確認したサービス終了までのタイムリミットは、既に五分を切ってしまっている。

 流石に、これから新しい職業を取得したとしても仕方がないだろう。

「九つの世界も全部まわれてないし、やりたいことが多すぎるな」

 同僚から譲り受けた装備についても、不要になっていたという聖遺物級の武器や防具を渡されたときに、エルフといえば森の中に住む種族だからという安直な発想から緑色を基調に染めたのだが、時間が許すのであればもう少し自分好みに調整してみたいところだった。

 攻略サイトを利用したり、貰い物の装備で“強くてニューゲーム”といったプレイスタイルにあまり抵抗はない。なによりも時間が限られていたし、そもそも始めた時点では自身がこれほどに――このゲームを遊びつくせないという嘆きばかりが、口を吐いてこぼれてしまうほど――のめり込むことになるとは思ってもいなかったのだ。

 パーティプレイについては、最期だからと無理矢理に復帰した同僚と数度こなしただけ――同僚の抱えている仕事が忙しい時期だったために、一緒に遊ぶことができたのは僅かな時間しかなかった。

 サービス終了の間際に新しいフレンドを求めている奇特なプレイヤーは見つからず、敢えて初心者と組んでくれるような相手がいるはずもない。

 前衛も後衛も務められるような職業構成を取得したのは、裏を返してしまえば共に戦ってくれる仲間がいなかったために、全てを自身だけでこなさなければならない“ぼっちプレイ”の弊害でもあった。

 大人数のプレイヤーと徒党を組むギルドやギルド拠点を持つことで自作できるというNPCには縁がなかったし、全盛期にあったという大規模なギルド同士の抗争や傍若無人な極悪ギルドの討伐を目的として、サーバーを挙げて結成されたレイドチームに参加してみたかったという思いは拭えない。

 いったいどれほどの盛り上がりを見せていたのだろうか、と羨むような想像はどこまでも尽きない。

 

 ――つくづく、もっと早くユグドラシルに出会っていれば、と思わずにはいられない。

 

23:59:00、01、02……

 

 ――もしも、この運営会社が新しいDMMO-RPGのサービスを開始するようなことがあったのなら、今度は初めからプレイしてみよう。

 

23:59:42、43、44……

 

 ――最期なら、せめてこの美しい夜空を目に焼き付けてログアウトを迎えたい。

 

0:00:00

 

 視界がぐらりと揺らいだような気がした。

 

0:00:01、02、03……

 

「……あれ? てっきり強制的にログアウトされるのかと――」

 疑問を投げるように呟きながら、思わず自身の身体を見回してしまうが、ユグドラシルにおけるアバターの装備をそのまま身につけている。

 サービス終了が延期になったのかと情報コンソールを呼び出そうと試みるが……出ない。

 予期しない焦りから、やたらめったらと腕を振ってしまっても、結果は何も変わらなかった。

「何が……、どうなってるんだろう」

 呆然と口にしたとき、不意に下方から強い風が吹き付け、思わず顔を背けてしまう。

 そうして、無意識の内に夜空を仰ぎ見れば、一層と深まる夜の暗闇と対比するように、煌々と眩いばかりの星たちの輝きが目に飛び込んでくる。

「これは、いったい……」

 戸惑いとも感嘆ともつかない呻きを発しながら、一つの確信があった。

 ――さっきまで見ていた夜空じゃない。

 正確な配置など覚えてはいないが、先ほどまでの夜空と比較すれば、星は明らかに数が増えている。

 どれほど精巧に作り込まれていたとしても、まさしく息を呑むような眼前の星空と比べてしまったのならば、“ゲーム”での表現など陳腐に過ぎる。

 生まれて以来一度も見たことがない、そんな透き通った夜空に無数の色鮮やかな星たちが散りばめられた様を目にしたとき、自身の口端からこぼれ落ちるように、自然と言葉が紡がれていた。

 

「……まるで、宝石箱みたいだ」




各話の誤字や改行等は、気付いたときに修正していきたいと思います。


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scene.1 異世界の邂逅
(1)空腹


-主人公について-
ユグドラシルを“ぼっちプレイ”で過ごしていたことから、自分以外のプレイヤーという存在が希薄なため、現時点で他のプレイヤーも同じような境遇になっている可能性などには考えが及んでいません。


「……では、いっただっきまーす!」

 温かな湯気を立ち昇らせる燕麦のポリッジ、芳ばしそうな焼き目のついた厚切りのベーコンと山盛りの蒸かした野菜を前に、満面の笑みで両手を合わせた半森妖精〈ハーフエルフ〉の青年――ユンゲ・ブレッターは高らかに声を張り上げた。

 周囲から寄せられる非難めいた視線を一切気にすることもなく、程良い塩気のポリッジを大きな木匙で口へとかき込み、ごろっとした野菜を頬張るとともに脂の滴るベーコンを噛み千切っては、勢い良くガツガツと咀嚼してしていく。

 いくら荒くれ者ばかりが集まる酒場とはいえ、あまりに品のない食事の仕方ではあったが、ユンゲの鬼気迫るような食いっぷりに当てられたのか、注意をしようとする者は現れない。

 頬袋を最大限に膨らませたリスのように口いっぱいの料理を詰め込みながら、なみなみと注がれた安物のエールで一気に流し込んでしまう。

 そうした獣のような食事を終えてみれば、ようやっと満足したユンゲが大きく息を吐いたときには、酒場の隅から小さな拍手が聞こえてきたほどだ。

「いやー、食った食った! 生き返ったー!」

 ぽんぽん、と大袈裟に腹をたたいたユンゲは、椅子の上に胡坐をかいて楽な姿勢を探しながら、ぼんやりと思考を巡らせていく。

 真っ先に考えたことは、昨夜に色々と悩んでいたことがバカらしかったということだ。

「仮想世界が現実になるような、漫画みたいなことが起こるわけない」とか「ユグドラシルが楽しすぎて、自分は頭がおかしくなってしまったのか」とか「この先、いったいどうすれば良いのか」など諸々と悩んでいるうちに、疲労から眠りについてしまった翌朝――、ユンゲを襲ったのは“空腹”だった。

 ゲームであるユグドラシルにおいても、空腹というステータスは存在していた。しかし、それは特定の能力にマイナス補正がかかるといった“バッドステータス”の一種に過ぎなかった。

 ユグドラシルでの空腹状態は、何らかの食事を取ることで解消され、食べた料理の種類によっては能力上昇のバフを得ることもできたのだが、この世界では実際に腹が減ってしまうのだ。

 その事実は、端的にこの世界が“ゲーム”の中ではなく、“現実”であることを示していた。

 

 *

 

 突然の転移から一夜が明け、空腹によって目を覚ましたユンゲは、食事を求めながら当てもなくふらふらと歩き始めてから、数歩進んだところで〈フライ/飛行〉の魔法を詠唱した。

 ユグドラシルにおける魔法やスキルが使えるのかという不安は、転移してしまった昨夜のうちに思いつく限りで試していたので、既に払拭されている。

 そもそも、この世界に転移したときには〈飛行〉を維持して、雲の上に寝転がっていたのだから魔法が使えないような状況では、そのまま真っ逆さまに落下するしかなかったはずなのだ。

 身に着けていた服装にしても、ユグドラシルにおける自身のキャラクターが装備していたままの格好であった。

 その森妖精〈エルフ〉を意識して緑系統に染めた軽装の装いでは、上空を飛ぶのに肌寒かったこともあり、今は取り出した無地のマント――アイテムボックスを開く要領で手をかざせば、何もない空間に窓のようなものが開き、ゲーム内と変わらない形で各種アイテムが収納されていた――をすっぽりと羽織っている。

 ユグドラシルを始めて間もない頃に手に入れた装備品のマントなので、〈敏捷性アップⅠ〉という微妙な性能に過ぎないものではあったが、首から下を覆うことのできる風除けの防寒具としては、十分な性能を発揮してくれていた。

「……こんなのだから、現実なのかゲームなのか、良く分からなくなるよな」

 ぼやきをこぼしながら、しばらく当てもなく飛び続けたユンゲは、やがて眼下に広がる三重の城壁に囲まれた街並み――後に知るところで、エ・ランテルという名の城塞都市――を発見したのだった。

 

「……街中に直接降りたら、問題になるかな?」

 これまでの道中において、ユンゲと同じように空を飛んでいる人影を見かけなかったことから、少しばかりの不安を感じていた。

 遠巻きに都市の外観を眺めていると開かれた城門の前には、既に入場を待っているであろう人や荷馬車が列をなしている姿が見える。

 少し手前の地点で魔法を解いてひっそりと降り立ったユンゲは、待機する列の最後尾に並びながら周囲の様子に目を配った。

(人間ばっかりか、他の種族はいないのかな? 森からここまでにゴブリンやオーガとか、二足歩行のトカゲみたいなのは見かけたから、全く存在しないってこともないと思うんだけど……)

 気がかりな点は、人間以外の種族が認められている街なのかどうか、ということだ。

 緑豊かな森の上を飛んでいた際、目に止まった湖面で確認したユンゲの外見は、ユグドラシルにおいて設定したアバターの姿だったので、種族としてはハーフエルフに分類されるはずだった。

 長い耳や長身痩躯といった身体的特徴を持つエルフとは異なり、かなり人間に近い姿――現実のコンプレックスを反映した容姿は、程良く引き締まる強靭な身体つきに、彫りの深い端正な顔立ちと男らしさを演出する顎周りの無精髭を生やし、特徴的な人間より尖った耳は長めな金色の髪の中に埋もれて隠れている――をしているので大きな問題にはならないと思いたいところが、万一の事態に備える必要はあるのかも知れない。

(……というか、入るときに身分証とか求められたりしないよな)

 先に並んだ人々から入場が進んでいき、段々と城門が大きく見えてくるのにつれて、空港での入国審査のような印象に重ねたユンゲは、不安な気持ちが浮かんできてしまう。

(――武器を持ちながら並んでいる人もいるけど、持ち込みの禁止なアイテムとかがあったらマズいよな。……必要なもの以外は、とりあえずアイテムボックスに放り込んで置くのが無難か)

 列の最後尾であることに感謝しつつ、ユンゲは急いで身支度を整えていく。

 

「次の者、……冒険者? いや……いかなる用向きで、エ・ランテルに訪れたか?」

 声をかけてきた検問所の髭面の兵士が、ユンゲの首辺りを一瞥してから問いかけてくる。

「……ん? ユンゲ・ブレッターと申します。旅の途中で立ち寄ったのですが、許可証などは持っておりません。通行料はこちらで足りるでしょうか?」

 兵士からの視線に疑問を感じつつも、ユンゲは先に城門をくぐっていった人たちの様子を思い出しながら、倣うように心掛けて問い返す。

 できるだけ平静を装いながら、ユグドラシルの通貨――大型のアップデート後から使用されていたらしい、女性の横顔が彫られた金貨――を取り出して兵士へと手渡す。

「ふむ、見たことない硬貨だが……、奥で調べさせてもらって構わないか?」

「――構いません。私の故郷で使われていたものなのですが、こちらでの相場は分かりませんので、お任せします」

 鷹揚に頷いた髭面の兵士から金貨を受け取った別の若い兵士が、奥の詰め所へと向かうのを横目にしながら、ユンゲは神妙な面持ちで言葉を続けた。

「それとお恥ずかしい話なのですが、旅の路銀が少なくなっておりまして、こちらの街で一時の職を求めることは可能なのでしょうか?」

 ユグドラシル製の通貨が流通していないのであれば、この世界での通貨を得るために、何らかの手立てが必要になってくる。

 いざとなれば使用しない装備や消耗品のアイテムを売り払うことも検討しなくてはいけないのだろうが、右も左も分からないような現状では、できることなら避けたい手段だった。

「このエ・ランテルは、周辺国家の交易の要衝だからね、荷運びみたいな力仕事ならいくらでもあるだろうよ。――腕に覚えがあるなら、冒険者組合で登録してみたらどうかね? 即日払いの依頼なんかも結構あるはずだ」

「……“冒険者”、ですか?」

 さっきも聞いた単語だと思いながら、ユンゲは兵士に問い返す。

「ありゃ、知らないかい? モンスター退治とかを専門にする仕事だよ。あっちの通りに組合の建物があるから、後で行ってみるといい。不愛想な受付の嬢ちゃんが、色々と教えてくれるはずだ」

 肩越しに後ろの通りを指してみせながら楽しそうに笑う髭面の兵士は、意外な感じだが割と面倒見の良い性格なのかも知れない。

 そんなことをぼんやりと考えていると、ちょうど詰め所から先ほどの兵士が戻ってくるのが見えた。

 若い兵士から提示された“交金貨二枚分の価値”としての交換比率を了承し、ユンゲは通行料と鑑定料を除いた分の返金を受け取る。

(交金貨一枚と銅貨での返金か……、妥当なのかどうか判断もつかないけど、良い人たちみたいだし問題はなさそうだよな)

 ありがとうございます、とユンゲが素直に礼を口にすれば、兵士たちは破顔して見送ってくれた。

 空腹を訴え続ける身体のことはあるものの、所持金の不安を解消するためにも、先ずは話題に上がった冒険者組合へと向かってみるのが賢明だろうか。

 

 検問所の兵士から教えられた道なりに進みつつ、何人かの武装した者たちが出入りをしていた、“剣と盾”の意匠を掲げる建物に当たりをつける。

 他に当てのないユンゲとしては、少しだけ緊張の面持ちで冒険者組合らしい門扉を叩いたものなのだが――、冒険者としての登録は、名前を告げるばかりの非常に簡素な手続きだけで済んでしまったので、若干の肩透かしを覚えたものだ。

 初心者という意味合いの“若葉”から連想し、ユグドラシルで使用していた“ユンゲ・ブレッター”という登録名をそのままに流用しても、何か特別な反応をされることもなかった。

 そうした気楽な調子だったので、冒険者としての心構えや依頼の受注方法などを丁寧に説明してくれた受付嬢から告げられた、「お一人では危険な依頼もありますので、とりあえずは冒険者の集まる酒場で、仲間を募るのもいいかも知れませんね」という言葉を素直に聞き入れることに決めて、ユンゲはあっさりと冒険者組合を後にする。

 それから駆け出し冒険者向けの宿場も兼ねていると紹介された酒場へと向かったのだったが、そこには“場末の酒場”という単語がこれ以上になく相応しい、暴力的で退廃的な空間が広がっていた。

 もしも現実の世界で直面したのなら、無言で引き返していただろうことは想像に難くないが――、それでも空腹に突き動かされたユンゲは、酒場の用心棒にしか見えない無骨な禿頭の主人を見据えて、力強い口調で宿と食事を求めたのだった。

 

 *

 

 追加で注文したエールのジョッキを傾けながら、ユンゲは首に下げた小さな銅級〈カッパー〉のプレート――冒険者の実力を示すという、認識票を指先でつまみ上げて眺めた。

「……腹も膨れたし、簡単な依頼の一つでもこなしてみるのが良いのかな」

 ようやくと空腹が満たされたことから、ユンゲは落ち着きを取り戻しつつ、何気なく酒場内へと視線を巡らせる。

 所狭しと並べられた丸テーブルには、他の酔客たちの姿もちらほらと見られるのだが、ほとんどの者は既に連れ合いらしく、仲間内で楽しく談笑している様子を遠巻きに眺めれば、わざわざ声をかけるのも気が引けてしまう思いだった。

 一人でカウンターに突っ伏している男もいるが、まだ陽も高いうちから酒を飲んでいるような冒険者は――ユンゲ自身もエールを飲んでいるという事実は、すっかり棚に上げつつも――あまり熱心な者ではないのだろうと考えてしまう。

(……そもそも、この店の客層は悪すぎだろ。どいつもこいつも危なそうな奴ばっかりだし、店主の見た目からして“どこのヤ○ザだよ”って、凶悪顔だしなぁ)

 唯一の例外としては、店内の隅の方で座っている赤毛の女性の姿もあるが、テーブルの上に置いた小瓶をご満悦な顔で眺めているばかりなので、声をかける気にもなれない。

「……しばらくは、ソロで依頼を受けてみるかな。どーせ、ユグドラシルでも“ぼっちプレイ”だったわけだし――」

 そうして、誰にともなくぼやきをこぼしたユンゲが、ジョッキの底に残っていた最後のエールをあおったときだった。

 ギィーッと蝶番を軋ませ、開かれたウエスタンドアの向こうに、二人組の男女が姿を現せる。

 

 ――それは後に、人類の英雄と称される冒険者チーム“漆黒”の二人だった。

 

 




-言い訳-
アインズ様が転移してから、冒険者モモンとしてエ・ランテルを訪れるまでには、カルネ村のイベント等をこなしているので時間軸がおかしくなっていますが、目を瞑っていただければ幸いです。


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(2)邂逅

-主人公の装備について-
同僚から貰った聖遺物級の武器や防具を装備していますが、上空を飛んでいるときに羽織った無地のマントで全身を覆っているために他人からは分からない、という設定です。
アインズ様には、あっさりと看破されてしまいそうではありますが……。


 酒場で飲んだくれていた雑多な視線が、ウエスタンドアを開け放った二人組の男女へと向けられる。

 その瞬間、がやがやと騒がしかった酒場は、突然の静寂に包まれたようだった。

 傾けていたジョッキを置き、やおらと振り返ったユンゲも同様に、思わずと息を呑んでしまう。

 先に立って歩き始めた男は、絢爛華麗な漆黒の全身鎧に身を包み、背には大振りな二本のグレートソードを担いでいる。

 面頬付きの兜に開いた細いスリットから表情を窺い知ることはできないが、漂わせる雰囲気は歴戦の戦士を思わせる威風堂々としたものだ。

 圧倒的な存在感を放つ偉丈夫を前にして、その首から下げている冒険者の認識票が銅級〈カッパー〉のプレートであることに、すんなりと気付くことができた者はいかばかりだろうか。

 しかし、ユンゲが目を奪われたのは男の方ではなく、背後に控える女の方だった。

「……すげぇ、美人」

 一流の彫刻家が生涯を賭して彫り上げた、渾身の逸品すら霞むような美貌の女だ。

 意識なくこぼれた感嘆の呻きは、昨夜の星空を眺めていたときに倍するものだったかもしれない。

 黒曜石のような輝きを放つ切れ長の瞳に、珠のように白く張りのある肌。後ろ手にまとめた艶のある黒髪が、優雅な歩みに合わせて軽やかに揺れた。

 漆黒の戦士に続きながらも、三歩後ろから寄り従うような淑やかな佇まいは、どうしようもない渇望をユンゲの胸に抱かせる。

 彼女の纏っている何の変哲もない深い茶色のローブでさえ、極上のドレスかと錯覚してしまうほどであり、そこかしこから感嘆とも嫉妬ともつかない怨嗟の声が洩れ聞こえてくる。

 そんな酒場内から羨望の視線を向けられながら連れ立った二人組は、周囲の酔客を一顧だにすることもなく、テーブルの間を抜けていき、受付の奥でモップを手にしていた強面な主人の前へと進み出た。

 

「……宿だな。何泊だ?」

 凄みの効いた濁声で主人が問いかけるが、漆黒の戦士はあくまで淡々と受け答えをしていく。

 ユンゲも体験したように、新人の冒険者には相部屋を薦める倣いらしいのだが――やはりと言うべきか、男は二人部屋を希望しているようだ。

(……まぁ、あんな美人連れてたら、普通は相部屋を選ばないよな) 

「少しは考えろ! そのご立派な兜の中身はガランドウか!」

 忠告を無視する頑なさに主人が声を荒げてみせるが、漆黒の戦士の方は平然としたもので余裕の態度を崩さない。

 何となくだが、「部屋なんかどうでもいいから、早く飯を出してくれ!」と叫んだ先ほどの自分の振る舞いが、とても恥ずかしいことをしたような気持ちになってくる。

(いや、腹が減ってたからな。昔からの“腹が減ったら戦はできない”って偉い人も言ってたし……うん、仕方ないよな……)

 ユンゲが言い知れない敗北感を味わっているうちに、主人との間で話がついたようだった。

 颯爽と踵を返した漆黒の戦士が、主人の指した階段の方へと歩き出す――かと思えば、その先を塞ぐように足を投げ出してみせる男がいた。

 ユンゲが酒場に着いたときには、既にテーブルを囲み楽しんでいた連中の一人であり、その仲間たちも一様に育ちの悪さが滲み出るような嫌らしい笑みを浮かべている。

 絡むにしても相手ぐらいは選ぶべきだろうと思わなくもないが、ユンゲにしても特に止める気にはならない。

 あんな強面の主人に恫喝されても顔色一つ変えない――面頬付きの兜で表情は見えないが、全身から放たれる雰囲気だけでも分かり過ぎるほどだ――手練れであろう漆黒の戦士に、なぜ喧嘩を吹っかけようと考えたのかと乾いた笑いさえこぼれてくる。

 

 それから繰り広げられた三文芝居は、ユンゲが思い浮かべたままの形で展開した。

 それでも、あっさりと返り討ちにあった男が放物線を描きながら宙を舞ったときには、(魔法を使わなくても、人間は空を飛べるんだなぁ)という少しずれた感慨があったものだ。

 ――さて、その投げ飛ばされた男の落下先には、ご満悦な様子で小瓶を眺めている赤毛の女。

「……あっ」とユンゲが声を上げかけたときには、男の身体が無造作にテーブル上の尽くを薙ぎ払っていき、残酷な小瓶の破砕音が耳朶を打つ。

 喧嘩を囃し立てていた酔っ払いたちが慌てたように口を噤み、泡を吹いている男の呻き声ばかりが不快に洩れ聞こえてくる――と、

「おっきゃあああああ!」

 一拍の間を置いて、奇怪な女の叫びが静けさを打ち破る。

(……まぁ、人間がいきなり降ってくればびっくりするよね。――てか、仲間の介抱もせずにペコペコしやがって、本当に碌な連中じゃねーな)

 喧しい女から視線を外せば、漆黒の戦士に絡んでいた男の連れ合いたちが、やたらと低姿勢で媚びを売っているところだった。

「やっぱり、俺は“ぼっちプレイ”でい……」

「――ちょっとちょっとちょっと!」

 ユンゲのぼやきをかき消したのは、先ほどの女が上げた非難の叫び。

 鬼気迫る表情を浮かべた赤毛の女は、ズカズカと乱暴な足取りで漆黒の戦士に詰め寄り、「あんた何すんのよ!」と声を張り上げる。

 どうやら、先ほどの騒動で大事にしていたポーションの小瓶が割れてしまったことに腹を立てているようなのだが――、

 

「「たかだかポーション……」」

 

 ユンゲと漆黒の戦士の声音が、思いがけず重なったことに気付く者はいなかった。

 それでも、勢い任せに続けられた女の主張に耳を傾けてみたのなら、この世界におけるポーションは貴重品の扱いらしい。

 ユグドラシルにおいては、低位ながらも回復魔法を覚えてしまえば、ポーションのような消耗品は不要となっていたので、アイテムボックス内に保管している在庫はそれほど多くないはずだ。

 もっと買い溜めておけば良かったかな、と何の気なしに呟きかけたとき――不意の悪寒が、刺すように全身を襲ってきた。

 焦りとともに首を振った先で、ユンゲの視線は一点に釘付けとなる。

 赤毛の女が漆黒の戦士を相手にかしましく責め立てる、その向こう――美貌の女が底冷えするほどに凄まじい眼光を放っている光景だ。

 ユンゲの背筋を冷たい汗が伝っていく。

(あー、美人は睨みつける顔もやっぱり美人なんですね……)などと現実逃避を試みるが、気分は血に飢えた野生の猛獣を目の前にしているような感覚のままで晴れてくれない。

(……ていうか、ポーション女は何も感じていないのか? あの漆黒の戦士ですら、焦るような素振りで代替のポーションを手渡して、急いで収拾を図ろうとしているような気がするのに!)

 しかし、これまで経験したことのない恐怖の時間は、漆黒の戦士が「行くぞ」と美貌の女に告げたことで、唐突に終わりを迎える。

 ギシギシと悲鳴を上げる階段を登っていく二人の後ろ姿が、廊下の先へと消えるまでを静かに見送ったユンゲは、ようやっと息を吐いてから慌てて席を立った。

「……冒険者組合だ。とりあえず、何かの依頼を受けよう」

 自分に言い聞かせるように言葉を紡ぎ、捕食者から逃げ出したい小動物の心境で酒場を後にし、ユンゲは足早に冒険者組合へと向かうのだった。

 

 *

 

 ユンゲが冒険者組合の扉を押し開けてみれば、奥のカウンターでは三人の受付嬢たちが、笑顔で冒険者らの相手をしていた。

 右手側のボードには異国の文字で綴られた依頼の貼り紙が何枚も並んでおり、その前に陣取って真剣な表情で言葉を交わし合う何人かの冒険者たちの姿も見受けられる。

 扉を開けた瞬間から一斉に室内の視線が向けられるのを感じていたが、それも僅かな間のこと。

 こちらが首から下げている銅級のプレートを一瞥したのなら、まるで興味が失われたように――実際に興味をなくしているのだろうが――元の姿勢へと戻っていった。

(まぁ、仕方ないとは思うけど……同じ銅級だったのにな)

 つい先ほど圧倒的な存在感を放つ、二人組を目にしてしまったからこその嘆きだ。

 軽い咳払いを一つ、気を取り直して受付に向かえば、都合良く冒険者の一人が受付を離れていく。

 手の空いたらしい受付嬢は、先にユンゲの冒険者登録を行ってくれた“愛想の良い”女性だった。

「あら? ユンゲさんでしたよね、酒場は見つかりましたか?」

「えぇ、おかげさまで。食事も取れましたし、本当に助かりました!」

「それは良かったです。あそこのご主人、話しかけるのは怖くなかったですか? ……実際に話してみれば、面倒見の良い方ですけどね」

 口許に手を当てながら、くすくすとイタズラっぽく笑ってみせる受付嬢を前にして、ユンゲは咄嗟の言葉に詰まる。

 ――お腹が減り過ぎて気が立っていたからそれどころではなかった、とは言えない雰囲気だ。

 肩を竦めるだけで質問をかわし、ユンゲは話題を変えることにした。

 

「えっと……それでですね、陽が落ちるまでにまだ時間もありそうなので、簡単な依頼でも受けられたらと思いまして――」

「その、お一人で……ということですか?」

「そのつもりだったのですが、一人では何かマズいのでしょうか?」

 ソロで依頼を受けられないと何かと面倒なことになりそうなので、思わずと声が震えてしまう。

「いえ、マズくはないのですが……万一、依頼に失敗してしまうようなことがありますと、先方にもご迷惑が掛かってしまいます。そもそもお一人では危険なので、複数人でパーティを組むというのが冒険者の基本ですね」

 だから酒場を紹介したのに、と言われているような気がしてしまうのは、果たしてユンゲの被害妄想なのだろうか。

「こう見えても、一応は回復魔法が使えますし、いざとなれば〈フライ/飛行〉で逃げようと思いますので……」

 取り繕うように言い訳を口にした瞬間、周囲の冒険者からの強烈な視線を向けられた気がする――何故だろう、酷く居心地が悪い。

 一瞬だけ呆けたような受付嬢が、小さく咳払いをして表情を引き締めた。

「そうですね、……正式な依頼というわけではないのですが、街の周辺にはときおりゴブリンなどのモンスターが出没しますので、それらを討伐してみてはいかがでしょうか?」

「モンスターの討伐ですか?」

「ええ、群れからはぐれたモンスターなら、お一人でも危険は少ないでしょうし、モンスターの強さや討伐数に応じてにはなりますが、街から組合を通して報酬が支払われますよ」

「なるほど、討伐の証明にドロップしたクリスタルを持って帰ればよろしいのでしょうか?」

「クリスタル……? いえ、亜人でしたら耳を切り取っていただければ、大丈夫ですよ」

「ん? ……なるほど、了解しました」

 それならば、一応は“ぼっちプレイ”でも何とかなりそうだとユンゲはそっと胸を撫で下ろすが――、決して態度には出さないように努める。

 頭の中でイメージするのは、先ほどの酒場で見かけた“漆黒の戦士”の立ち振る舞いだった。

 自信の漲るというべきか、威厳に溢れたというべきか、二振りのグレートソードを背に担いで歩く戦士の姿が、素直に格好良いと思えたのだ。

「あぁ……でも、くれぐれも森には入らないでください! 森の中には強力なモンスターが沢山いますから。あくまで群れからはぐれて、街道まで迷い出てきたモンスターを狙うようにしてくださいね」

「はい、ありがとうございます。では、早速いってきますね!」

 とりあえずの目的が定まったユンゲは、受付嬢に快活な礼を述べて冒険者組合を後にする。

 

「……今日は、不思議な新人さんが多い日ね」

 ふと受付嬢のこぼした独り言が、足早に去ったユンゲの耳にまで届くことはなかった。

 

 



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(3)開扉

初めての戦闘描写、……うーん。


 三メートルを超える殺気だった人食い大鬼〈オーガ〉を前にしても、ユンゲの心は平静だった。

 オーガの手にする巨大な棍棒は、木の幹をそのまま毟り取ったような荒削りな代物だが、その巨体に相応しい膂力で何度となく振るわれながらも、先ほどから獲物であるはずのユンゲを一度も捉えることはできていない。

「……やっぱり、この世界のモンスターはレベル高くないよな」

 ユグドラシルの基準に換算すれば、十レベルにも満たないほどの印象だろうか。

 確認をするように呟きながら、ユンゲはさらりと身をかわす。

 寸前のところを棍棒が通り過ぎ、耳許に風切り音を残していくが――、影響はそれだけだ。

 これ以上は試す必要もないだろうと、ユンゲは腰の剣帯に提げたバスタードソードに手を伸ばし、冴え冴えとした剣先をオーガの眉間に向けて構えてみせれば、夕日に照らされる凶悪な顔にも焦りの色が浮かんでいた。

 そうして、ユンゲが一歩を踏み込めば、オーガは反対にたじろぎながら後退していく。

 

 四日前に冒険者登録をしてから現在まで、ソロでモンスターの討伐に励んでいたユンゲは、ここに一つの確信を得ていた。

 この転移した世界において、特に城塞都市〈エランテル〉の周辺に限れば、初心者であった自身の能力や装備でも、出没するモンスターを圧倒できる程度には強いということだ。

 初日に小鬼〈ゴブリン〉を討伐したときには、かなりの遠距離から魔法攻撃を仕掛けたものだが、今となっては警戒をし過ぎていたのだろう。

 武術の心得などないユンゲではあったが、動体視力や身体能力の面でもユグドラシルでの能力が反映されているらしく、ゴブリンやオーガの攻撃を見切ることは容易かった。

 過信は禁物なのだろうが、この事実はユンゲにとって大きな自信になった。

 

「――良し、今日はこいつで最後にしよう」

 短く言い差し、ユンゲはバスタードソードの柄を両手で握り直す。

 恐怖が堰を切ったように、棍棒を投げ捨てたオーガが逃走を図ろうと踵を返すのを見るや、ユンゲは素早い踏み込みから一気に駆け出した。

 逃げるオーガの背に迫り、地面を蹴って跳躍。

 その筋骨隆々とした肩口を足場にして更に高く跳び上がり、そこから落下の勢いに任せて大上段からバスタードソードを振り下ろす。

 ユンゲの放った剣閃は、オーガの頭頂から股間までを一直線に斬り裂き、左右に分かたれた巨躯の亡骸が、重力に引かれて大地へと倒れていった。

 

 *

 

「お疲れ様でした、ユンゲさん。こちらが本日の報酬になります」

 お確かめください、と数日間ですっかり顔馴染みとなった受付嬢が笑顔で革袋を手渡してくれる。

 受け取った革袋の重みに軽い驚きを覚えつつ、ユンゲは「ありがとうございます」と破顔した。

「それにしても凄いですね。今日はオーガまで倒してしまうなんて……この調子なら、すぐにでも鉄級〈アイアン〉や銀級〈シルバー〉のプレートに昇格できるはずですよ!」

「いや、運が良かっただけです」

 屈託なく褒められたことに動揺しつつ、ユンゲは思わず謙遜してしまうが、これは日本人特有なのかも知れない。

「……ところで、昇格をするためには具体的に何をしたらいいのでしょうか?」

「うーん、いくつか例外もあるのですが、確実なのは昇格試験を受けて合格することですね。もし、ご興味がありましたら、私の方から上役に試験の手配を依頼しておきますが、いかがでしょうか?」

「冒険者のランクが上がれば受けられる依頼が増えるし、報酬も高くなる……で良かったですよね?」

「そうですね。補足をするなら、他の冒険者からの評価も高くなりますので、パーティを組んで依頼を受けるときにも役立ちますよ!」

「…………えっと、昇格試験を希望したいです」

「承りました。では、日時や場所については、後日お伝えいたしますね」

「はい、よろしくお願いします」

 快く応じてくれた受付嬢の笑顔は、これ以上になく晴れやかだ。

(……多分、俺が卑屈すぎるんだよな)

 パーティを組めていないことが、負い目になっていると考えるべきか、受付嬢の言葉尻にありもしない裏の意図を感じてしまうユンゲであった。

(まぁ、気にしてばっかりもいられないか……)

 そうして、気持ちを切り替えるように一つ息を吐いたユンゲが、「今日はここで失礼しますね」と受付嬢に告げたときだった。

 

「――おい、魔獣だ! 新人がとんでもない魔獣を連れてきたぞ!」

 冒険者組合の扉を勢い任せに開け放った剣士風の男が、急き込むように声を張り上げた。

 組合内での談笑に耽っていた冒険者たちが、弾かれたように席を立って扉へ殺到していく。

「……魔獣?」

「何事でしょうね、魔獣を使役できたということでしょうか」

 思わずとユンゲが問いかければ、受付嬢は思案顔で小首を傾げてみせた。

「――ちょっと俺も様子を見てきますね。昇格試験の件、よろしくお願いします」

 受付嬢の返事を背に受けつつ、ユンゲは組合の扉へと向かい、既に人垣となっている冒険者たちの合間を抜けていく。

 やがて、最前列まで進み出たユンゲが目にしたのは、数日前に酒場で目撃した二人組――漆黒の戦士と美貌の女の姿であったのだが……。

 

「何なんだ、あの精強な魔獣は!」

「ほら“森の賢王”だってよ、トブの大森林に生息してるって話のさ」

「……ていうか、飼い主が銅のプレートってほんとかよ?」

 

 野次馬たちの交わす言葉が、大した意味をなさないままにユンゲの耳朶を震わせる。

(あれ、見た目はハムスターだよな……とんでもなく大きいけど)

 パールホワイトの毛並みに、黒くつぶらな瞳、まん丸い大福を思わせる愛らしい姿――馬すら凌ぐほどの巨体の持ち主を、そのように断じて良いのか甚だ疑問ではあったが――ユンゲの記憶が確かであるのなら、その“魔獣”はジャンガリアンハムスターと呼ばれる存在のはずだった。

(いや、ハムスターの尻尾はあんなに長くはなかったかな? ……うーむ)

 喧しい人混みの中、一人頭を捻っているユンゲに構うものはない。

 衆目に晒されながら巨大なハムスターに騎乗していた漆黒の戦士が、重力を感じさせない軽やかな動きで着地し、良く通る声を発した。

「では、ナーベよ。私は冒険者組合で魔獣登録を行う。その間は、ハムスケのことを見てやってくれ」

「畏まりました、モモンさ――ん」

 漆黒の戦士〈モモン〉が歩む先で人垣が割れ、組合の扉までの道が拓かれていき、その勇ましい後ろ姿を美貌の女〈ナーベ〉と魔獣〈ハムスケ〉が臣下の礼で見送っている。

 そうして、モモンの姿が組合の中に消えたところで、野次馬の喧騒は一層と大きくなっていった。

 話題の中心は魔獣であったが、騒ぎの渦中にありながら一切の表情も崩さない美貌の女は、やはり漆黒の戦士の相棒に相応しいのだろう。

 この世界のモンスターが強くはないように、これまでにユンゲが見かけた冒険者にもそれほど際立った強さを感じさせる者はいなかったが――それは、この漆黒の戦士と美貌の女を除いての場合だ。

(あの二人だけは、何となく別格な感じがするんだよな……。ステータスとかは見れないから、実際のところは分からないけど)

 もしパーティを組めるなら、できるだけ近しい能力の者と組みたいと考えるユンゲにとって、実力の測れない二人組は非常に気がかりな存在だった。

(……モモンと、ナーベか)

 とりあえずは、二人の名前をしっかりと胸に刻んでおくことにした。

 

 *

 

「お前さん、随分とおとなしくなったな」

 冒険者組合での騒ぎにしばらくつき合い、消耗品の補充とともに街並みの散策を終えた後、いつもの宿屋兼酒場へと戻ったユンゲは、唐突に強面主人から話を振られていた。

「え、えぇ、まあ……あのときは空腹で気が立っていましたから」

 この頃は毎日のように顔を合わせている相手なのだが、顔に傷ある禿頭の主人の凶相にはいまだに慣れないために、どうしても声音は震えがちだ。

「ふん、俺も長いことこの店をやっているが、最初のイメージとギャップのデカさはお前さんが一番だよ。今度はどんな無鉄砲野郎がやって来たんだと思ったもんだが……」

 思い出せる初日の無法振りは、自分自身でも信じられないものだったユンゲは、「ご期待に沿えず」と小さく肩を竦めてみせた。

「とりあえず腹さえ膨れてたら、あの感じにはならないと思いますので……」

「へっ、おかしな野郎だ。今日も飯は大盛りか?」

「えぇ、お願いします。それと肉も追加で!」

 適当な注文とともに、ユンゲは革袋から銅貨数枚を差し出した。

 転移前の世界ではどちらかといえば少食な自覚があったものの、この世界ではやたらと腹が減ってしまうのだ。

 この半森妖精〈ハーフエルフ〉の肉体がそうさせるのか、或いは単純にデスクワークばかりの出不精が、冒険者として身体を動かすようになったからなのかは判断できない。

 それでも、少なくとも以前の世界にいた頃であったのなら、腹が減っていても我を忘れるようなことは流石にないはずだった。

「おぅ、了解だ。すぐに作ってやるから、酒でも飲んで待っとけ」

 主人に軽く手を振ってエールのジョッキを受け取ったユンゲは、酒場の隅のテーブルに腰かけた。

 自身を取り巻く環境は激変してしまったが、それでも変わらないことが一つはあった。

「……っくはー。やっぱり仕事終わりの一杯は最高だな」

 爽やかな酒精が渇いた喉を潤し、身体の中に沁み渡っていく。

 一切の疲労すら洗い流してくれるような心地良さは、得も言われない快感なのだが――、ふと「この一杯のために生きている」と豪語していた同僚を思い出してしまい、途端に懐かしさとともに寂しさが込み上げてくる。

(俺はいったい何をやってるんだろうな……)

 この世界もまた間違いなく“現実”であるということが、ユンゲの理解を一層と拒んでいた。

 そうして、チクチクとする不安を覆い隠すように大口でエールを流し込んだとき、主人が料理を運んで来てくれる。

 ――何はともあれ、食事は大切だ。

 テーブルの上に並べられていくのは、肩幅ほどもある大きな黒パンに、丸ごとの野菜が浮かんだスープと脂の滴る分厚いベーコンであり、思わずと舌舐めずりをしたくなるような光景だ。

「では、いっただっきまー……」

「――緊急指令! エ・ランテル外周の共同墓地より、大量のアンデッドが出現中! 手の空いている冒険者は、急ぎ参集されたし!!」

 不意にウエスタンドアが壊れんばかりの勢いで開け放たれ、飛び込んできた若い男が一息に捲くし立てるや、すぐに踵を返して駆け去っていく。

 両手を合わせたままの姿勢で固まっていたユンゲは、大きく息を吐くのだった。

 

 




扉を開ける人が多い話。

-仕事終わりの一杯-
コップ一杯のビールで前後不覚になってしまう、下戸の私には理解できない文化の一つです。お酒の飲める方が羨ましい……


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(4)墓地

 


 この世界における不死者〈アンデッド〉は、無残な弔われない死者の念から生まれるとされ、戦場跡や遺跡のような場所に発生しやすいとされる。

 隣国であるバハルス帝国との戦場が近い城塞都市〈エ・ランテル〉においては、戦死者をアンデッドにしないために弔うための場所として巨大な墓地を必要とした。

 その結果として、エ・ランテルに設けられた共同墓地は、都市外周部の西側地区の大半を占めるほどの広大さとなっている。

(……でも、丁重な弔いを行ってもアンデッドの発生を完全に防ぐことはできない、だったかな? だから墓地の周りを壁で囲んで、都市部には侵入されないようにしている、ってことか……)

 伝令を受けて墓地へと駆け付けたユンゲは、四メートルにもなる高い壁を見上げながら、酒場の主人から手短に聞いた説明を思い返していた。

 やや過剰とも思えるほどの頑丈な防備だが、都市に生活する住民たちの安全を守るためには欠かせないのだろう。

 壁の向こうには無数のアンデッドが蠢いている気配があり、生者への恨みとでも表現したくなる肌を刺すような怖気が周辺に充満していた。

 

「―ー諸君、事態は急を要する! これほどの大量発生は自然に起こりえない! つまり、悪意を持った何者かが引き起こしていることは明らかだ!」

 閉ざされた門を前に初老の男――役人然とした仕立ての良い服に身を包んでいるが、醸し出す雰囲気は引退した戦士を思わせる――が、集められた冒険者たちに向けて声を張り上げる。

「銀級〈シルバー〉以上の冒険者は、開門の合図とともに墓地内へ突入し、アンデッドを引きつけながら掃討せよ! 別ルートから先行している冒険者チームの負担を少しでも軽減するのだ! 鉄級〈アイアン〉および銅級〈カッパー〉の冒険者は、壁上にてアンデッドを迎撃に備えよ! 決して都市部への侵入を許すな!」

 男の矢継ぎ早な指示に応じ、冒険者たちが死闘を前に高ぶる感情を猛りとして吐き出していく。

「人々の剣となり、盾となり、冒険者としての矜持を示せ! いざ、開門!!」

「うおぉおおおおー!」

 苛烈な奮起を促す言葉とともに巨大な門が開け放たれるや、勇ましい咆哮を上げた冒険者たちが墓地へと殺到する。

 

 エ・ランテルの共同墓地を舞台にした“生者と死者の戦い”は、こうして幕を開けるのだった。

 

 *

 

〈ツインマジック・ショック・ウェーブ/魔法二重化・衝撃波〉

 突出したアンデッドに向けて左手を構え、ユンゲは無詠唱化した魔法を次々と発動させる。

 指向性を持つ不可視の衝撃をまともに受けた動死体〈ゾンビ〉の四肢が乱れ飛び、周囲の骸骨〈スケルトン〉を巻き込んで後方へ吹き飛んでいく。

 しかし、アンデッドの大群に一瞬できた空隙は、突入した冒険者が押し広げる前に、直ぐさま別のアンデットが押し寄せて埋めてしまう。

「……このままじゃ埒が明かないな」

 壁上に陣取ったユンゲは、群がるアンデッドを迎撃しながら小さく溜め息をこぼした。

 ゾンビやスケルトンは数こそ多いものの、個々の強さはそれほどでもないため、墓地に突入していった銀級以上の冒険者であったのなら後れを取ることはないだろう。

 それらの数ばかりが目立つアンデッドの群れに紛れ、食屍鬼〈グール〉や腐肉漁り〈ガスト〉、黄光の屍〈ワイト〉といった上位種も強力ではあるが、冒険者たちが互いに連携して挑むのであれば大きな障害ではなかった。

 それでも、戦況は一進一退から、徐々にアンデッド側が優位に推移しつつある。

 その原因となる厄介な相手が、死霊〈レイス〉と骨の禿鷲〈ボーン・ヴァルチャー〉と呼ばれる二種のアンデッドだった。

 ユグドラシルにおけるレイスは、それほど強力なモンスターではなかったのだが、実体を持たないために物理攻撃に耐性があり、魔法か魔法効果を宿した武器による攻撃でしかダメージを与えられないという特性を持っていた。

 この転移後の世界では簡単な対策となるはずの魔法付加した武器が非常に高価であり、冒険者の中でも普及率が低いためにレイスが相当な脅威となってしまうのだ。

 そして、拮抗する地上戦の状況を打破しようと考えた一部の冒険者は、〈フライ/飛行〉の魔法を駆使して、アンデッド発生の根源と予想される共同墓地の中心地を目指すのだが、どこからか飛来したボーン・ヴァルチャーの群れによって全員が撃墜されていた。

 エ・ランテルの共同墓地において、これまでに発生を確認されたことがなかったという“新種”のアンデッドの出現により、勢い良く突入していったはずの上位の冒険者たちも、疲労とともに押され始めているのが苦しい状況を示している。

「骨だけの翼でどうして飛べるんだ!?」などと文句を言いたくなる思いもあったのだが、墓地を囲う壁を苦にしないレイスとボーン・ヴァルチャーは冒険者の相手に執着しており、現状では墓地外へと抜け出して市民を襲う気配がないので、まだ運に見放されてはいないのだと信じるべきか――。

 

 視界に映っている端から、周辺の冒険者へと支援魔法をかけ続けて回りながらも、ユンゲは有効な手を打てないでいた。

 率直なところ、味方の冒険者が弱過ぎたのだ。

 ――或いは、ユンゲが単独であったならレイスやボーン・ヴァルチャーの群れを振り払いつつ、墓地の中心へと急行できる自信はあったものの、今この場を離れてしまえば、瞬く間に戦線が瓦解してしまうことは想像に難くない。

(……初手を間違えたな。墓地への突入部隊に参加するべきだった)

 ユグドラシルでの設定に準拠するのであれば、アンデッドの弱点は“火属性”のはずだった。

 突入の先頭に立ち、〈ファイヤーボール/火球〉などの範囲魔法でアンデッドの掃討を図っていけたのなら、十分に勝算はあったように思える。

 しかし、両陣営が入り乱れている状況では範囲内に味方の冒険者を巻き込んでしまう可能性があるために、迂闊な攻撃を放つことができないのだ。

 鉄級以下の冒険者は壁上で迎撃するように、との指示を素直に従ってしまったための失敗だった。

 そうして、ユンゲは他に良い手も思いつかないままに〈衝撃波〉などの直線的で範囲を絞った魔法を駆使してアンデッドを攻撃しているのだが、後から後から溢れ出してくるアンデッドの群れを前にして、どれほどの効果があるのかは判然としない。

 しかしながら、打開策の見つからない苦しい現状であっても、墓地の外部にアンデッドを出さないという最低限の狙いは果たせているので、他のルートから進んでいるという冒険者たちの活躍に期待するしかないのだろう。墓地の警備についていたという兵士の話から、その正体はもう分かっている。

 精強な魔獣を従えた“漆黒”の戦士と目の覚めるような美人の魔法詠唱者という組み合わせが、他にもいるとは思えない。

 そうであれば、今の戦線を維持さえできたのなら問題はないはずだった。

 無数のアンデッドが蠢いている彼方――不意に立ち込める暗雲を引き裂くほどの稲光が、凄まじい紫電を纏いながら迸っていく。

「……モモンとナーベ、か」

 轟音に思わずと振り返り、ユンゲの口の端からは無意識のうちに呟きがこぼれた。

 

 *

 

 アンデッドとの激戦から一夜明けたエ・ランテル冒険者組合には、早朝にも関わらず多くの冒険者たちの姿があった。

 依頼のボードを前に意見を交わす者、仲間内で談笑する者、自らの功績を誇って朝から酒を浴びる者、そこには見慣れた日常が戻っている。

 昨夜の共同墓地での騒動は、“ズーラーノーン”と呼ばれる秘密結社が関わっていたらしい。

 無数のアンデッドによる都市壊滅を企図していたという二人の幹部――“盟主”に次ぐ“十二高弟”に数えられる、この世界でも指折りの実力者らしい――が、モモンとナーベによって討たれたことで、夜通しの事件は一応の終息を見ている。

 墓地の見張りとして詰めていた兵士と駆け付けた冒険者には少なくない被害も出てしまったが、幸いにして市民に被害はなかった。

 数千を超えるアンデッドの出現に見舞われるという、エ・ランテル始まって以来の危機的な状況にありながら、迅速な解決に導いたモモンとナーベの功績は、オリハルコン級かアダマンタイト級にも匹敵すると称賛され――特にモモンの剣技を実際に目撃した多くの兵士からは、“漆黒の英雄”とまで呼ばれているとのことだ。

 

 アンデッドの発生が落ち着いた後、いつもの宿で仮眠を取ってから、再び冒険者組合に顔を出したユンゲは、馴染みの受付嬢から昨夜の騒動についてのあらましを聞いていた。

「なるほど、やっぱり彼らはすごかったんですね」

「ええ、そうです。でも、ユンゲさんも大活躍だったとお聞きしましたよ!」

 ずいっと身を乗り出してくる受付嬢にやや身構えながら、ユンゲは言葉を返す。

「正直なところギリギリでしたし、彼らが敵の幹部を倒してくれなければどうなっていたか……」

「ふふふ、やっぱり謙遜されるんですね。大丈夫ですよ、ちゃんとユンゲさんを評価してくれる人もいますよ、――ほら」

 訝しげなユンゲにくすくすと笑いながら、受付嬢が銀色に輝くプレートを差し出す。

「…………これは?」

「昨夜の働きに報いてです。冒険者のランクアップには昇格試験を受けていただくことをお伝えしましたが、今回は例外です。昨夜のユンゲさんの功績は、昇格に値するものとして判断されました。冒険者組合は、功績には報恩をもって応える組織です」

 ユンゲは、突然の展開にやや面食らってしまう。

「……嬉しいお話ですが、いきなり二つもランクを上げてしまっても大丈夫なのでしょうか?」

「大丈夫です! むしろこれでも足りないくらいかもですね。ユンゲさんは第三位階魔法も使えるとのことですから、実力からすれば白金級〈プラチナ〉以上のプレートを用意されて然るべきなんです! 上の人間は頭が固いというか慣習に縛られ過ぎなんですよ」

 捲くし立てるように言い差し、人差し指をくるくると回しながら妙に自慢げな受付嬢を見やり、ユンゲはようやっと笑みを浮かべた。

「――そうですか、では遠慮なくいただいておきますね」

 手渡されたプレートをユンゲが首に下げたとき、「……あ、そうそう」と受付嬢が言葉を続けた。

「あちらの方々ですが、ユンゲさんにお話があるそうですよ」

 受付嬢が手で示す方へ視線をやれば、数人の冒険者がこちらを見て会釈を送ってくる。

 日本人の性から思わず会釈を返した後で、ユンゲは首を傾げた。

 仲間内で頷きを交わし、進み出た男が告げる。

「不躾で申し訳ないのですが、ブレッター殿に我々の依頼をお手伝いいただければと思いまして……」

 

「……商隊の護衛ですか」

「ええ、以前から受けていた依頼だったのですが、昨夜の騒動で欠員が出てしまいまして……。本来であれば依頼を断るべきなのですが、もともと懇意にしていた“ターマイト商会”からの依頼ということで、断ることも難しいのです」

 槍使いの戦士が、疲労の色を隠せない表情で言葉を紡ぐ。

「こちらの受付嬢から、昨夜のブレッター殿の活躍をお聞きしたところ、剣の腕に覚えがあり、支援系の魔法まで扱える方ということでしたので、条件さえ許していただけるのであれば、是非ご協力のお願いをしたいのです」

「組合としても依頼を不履行としてしまうのは避けたいので、ユンゲさんがよろしければ、ご一緒に依頼を受けてみてはいかがでしょうか?」

 横から勧めてくる受付嬢は満面の笑顔だ。

 提示された受託の条件に不満もない。

「……了解しました。せっかくのお話ですし、有り難くお受けさせていただきますよ」

 憔悴した様子の戦士の手を取り、ユンゲは小さく口許を緩めてみせた。

 

 




-生者と死者の戦い-
アインズ様の召喚したアンデッドが、采配通りに冒険者の足止めという役割を果したというお話。

-主人公について-
ここまで脇役に過ぎなかったので、次話からはもうちょっと活躍できる展開が……あると良いなぁ。


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(5)帝都

-主人公の能力について-
ご質問をいただいた件ですが、投稿者の知識不足のために未定となっております。wiki等の職業ページとにらめっこしているのですが、厳密に固めてしまうと後々に矛盾が出てしまいそうなので……。
いずれはどこかでまとめたいと考えていますが、現時点ではレベルは60前後。一対一であれば、プレアデスの戦闘メイドと良い勝負ができるくらいをイメージしていただきたいです。

-追記-
上記の件を【設定まとめ】として投稿しました。


 ぼんやりとしていた視界の端で、荷馬の尻尾が小刻みに揺れていた。

 何の気なく避けるように視線を巡らせば、遠く万年雪を抱いたアゼルリシア山脈の峰々を越えて、抜けるように高い青空が広がっている。

 鬱蒼たるトブの大森林を抜けた更に奥地――霜の竜〈フロスト・ドラゴン〉や霜の巨人〈フロスト・ジャイアント〉が住まうとされる峻険なアゼルリシアの山峰は、リ・エスティーゼ王国とバハルス帝国の国土を分かつ天然の境界線であり、古くから人間を寄せつけることなく聳えていた。

「これから向かうバハルス帝国には、“竜狩り”を名乗る凄腕のチームがいるよ」

 倒したことがあるのは小竜らしいけどね、と笑ってみせる神官〈クレリック〉の青年――今回の依頼をともにする冒険者の一人が、ユンゲが何か訊ねる前に様々な物事を説明してくれる。

 どこの世界においても、ドラゴンや巨人はやはり強力な種族であるらしいのだが、この世界にもドラゴンと対峙できるような強者がいることは確かなようだ。

 しかし、かなりのお喋り好きらしい青年が語っているうちに熱くなり、魔神と戦って世界を救った十三人の英雄やら、最期に“神竜”と呼ばれる強力なドラゴンに戦いを挑んだという御伽噺にまで発展してしまうと手がつけられない。

 目を輝かせんばかりの青年の語り口に、あの日の同僚の顔が脳裡を過ぎる。

 思わずと苦笑いを浮かべてしまうユンゲではあったが、ユグドラシル内でドラゴンと相見える機会がなかったことを思い返したのなら、一度くらい戦ってみたいという気持ちはあった。

(死んだ後に、蘇生できるのかも分からない状況で無謀なことはできないか。でも……、いつかはドラゴンと戦ってみるのも面白そうだな)

 腰に提げたバスタードソードの柄に触れ、ユンゲは静かにアゼルリシア山脈への思いを馳せた。

 やがて、山際にたなびく白雲が朱に染まりつつある頃、商隊のリーダーが当日の旅程終了を告げると皆が野営のための準備に取り掛かっていく。

 商隊の護衛として城塞都市〈エ・ランテル〉の街を発って一週間余り、天候に恵まれたこともあって旅路は概ね予定通りに進み、目的地であるバハルス帝国の帝都〈アーウィンタール〉にも、明日には到着できるだろうという見立てだった。

 

 街道から少し距離を離して設営された“ターマイト商会”の野営地を取り囲むように、ユンゲは黒く染めた絹糸を張っていく。

 一定の間隔で括られた鈴が鳴子となり、夜闇に紛れて侵入しようとするモンスターや野盗などを警戒する目的らしい。

 ふと遠くから耳に響いてきた馬蹄の音に顔を持ち上げれば、街道の先から駆けてくる武装した騎兵の影。道中でも何度か見かけることになった、バハルス帝国に所属する兵士なのだろう。

 野営の準備をする商隊の様子を横目にし、篝火を掲げながら駆け去っていく騎兵の後ろ姿を見送る。

(兵士が巡回警備しているからなのか……、ほとんどモンスターと遭遇しなかったな)

 モンスターによる襲撃があったのは、最初の数日――リ・エスティーゼ王国領内を進んでいるときだけだった。

 帝国領内に入ってからは一切の襲撃もなく、警戒心はかなり緩んでしまっている。

 モンスター退治を冒険者に依存している王国とは異なり、帝国では職業軍人である兵士がその任に当たっているとの話だが、そのために冒険者の地位は王国におけるほど高くはないらしい。

(当たり前だけど、国によって色々と違うんだよな……)

 道中で聞いた話を思い返してみると王国と帝国の置かれた情勢は、それぞれ対極的といっても差し支えないほどだった。

 王族と貴族が対立し派閥争いに躍起な王国と、皇帝が最高権力者として君臨する帝国は長年に渡る対立関係にあり、両国の緩衝地帯であるカッツェ平野を舞台に、毎年の戦争を繰り返しているらしい。

 戦時における兵備を比べても、農民までも動員して数を持って臨む王国と練度の高い少数の兵士で戦う帝国では、戦略が根底から異なるのだろう。

「余力が十分な帝国に対して、王国はジリ貧だ。ただでさえ人手の足りない収穫の時期に男手を徴兵しちまうもんだから、どうしたって領民の暮らしは苦しくなるし、国力だって落ちちまう。せいぜい持ち堪えても、後数年くらいかな」とは、憤懣やるかたない神官の青年の言い分だ。

 彼自身が王国辺境の農家出身であり、徴兵された父親の戦死を契機とし貧困に喘ぐ故郷を捨てて、冒険者の道を選んだということらしい。

 そして、今回の商隊護衛の依頼を急いだ件については、例年の戦争において両国による宣戦布告がなされてしまうと、国境を越える商人の往来などに制限がかけられてしまうことから、商会側としては依頼を先送りすることができなかったということだった。

 

 国家に属さない冒険者については往来の制限はかけられないとのことなので、ユンゲが帝国に滞在しているタイミングで戦争が始まったとしても、エ・ランテルに戻ることはできそうなのだが――、

(俺はどうするべきなんだろうな、元の世界に帰る方法とかを探すべきなのかな……)

 最初に訪れた街で流されるままに冒険者となり、依頼を受けて別の街へと向かう……何か特別な事情があるはずもない。

 現実の世界に戻りたいという感情はあまり浮かばないものの、どういった理由で異世界に転移したのか、何らかの物語のように“転移者”としてなさなければならないことがあるのか……正直、何一つとして分からないことばかりだった。

 ここが街中であったのなら、漠然とした不安を酒で誤魔化すこともできたかも知れないが、今はそういう訳にもいかないだろう。

(……帝国は魔法の研究が盛んなんだっけ? 異世界転移みたいな魔法もあったりしないかな)

 おそらくはないだろうな、という心の声を押し殺して小さくかぶりを振った。

 とりあえずは護衛の依頼に集中するべきだと自らに言い聞かせ、ユンゲは焚き火を囲っている商隊の側へと歩き出す。

 夜の帳を下ろそうとする深い藍色の空に、色鮮やかな星が一つ、また一つと煌めき始めていた。

 

 *

 

 帝都〈アーウィンタール〉の街並みは、皇帝の居城である皇城を中心に大学院や帝国魔法学院、各種行政機関が放射線状に配置されており、目につく大きな通りは石畳やレンガによって舗装されていた。

 街道からそのまま乗り入れている中央道路についても、馬車が通るための車道と歩行者のための歩道を防護柵によって区分までされており、計画的に整備された都市であることを思わせる。

 驚くべきことに、美術館や劇場まで建造されているという話だから、かなり洗練された文化が根付いているようだ。

(中世のヨーロッパみたいな世界をイメージしていたけど、すごい近代的な感じがするな。魔法とかがある分、もしかしたら現実の科学とかより優れたところがあるのかも……)

 商隊とともに関所を抜けて帝都に足を踏み入れたユンゲは、初めての外国観光に浮かれる旅行者然としながら、キョロキョロと辺りを見回してしまう。

 真っ先に感じたことは、街全体が活気に溢れているということだった。

 帝国の首都と地方都市を同列に比較してしまうのは良くないことかも知れないが、エ・ランテルと比べてしまうと差は一目瞭然だろう。

 大通りには数多くの商店が軒を連ねており、ユンゲには用途も分からない異国の品々が、所狭しと並べられている。いっそ喧しいほどの客引きも、大いに賑わいを感じさせてくれた。

(依頼が終わったら適当に散策してみたいな……ていうか、でかっ!?)

 ぼんやりと景色を眺めていると、進行方向の先にひと際大きな円形の建造物が見えてきた。

 遠く風に乗って聞こえてくる歓声に、旅の途中で聞いた“大闘技場”という単語が思い起こされる。帝国内でも帝都にしか存在しない施設らしく、庶民の最大の娯楽の一つだということだった。

 専属の剣闘士や腕に覚えのある冒険者、捕らえられたモンスターなどが死闘――最近では多くないものの、死者が出ることもあるとのことなので、相当に激しい戦闘が繰り広げられているのだろう――を演じ、連日満員御礼の大盛況らしい。

(貴族からは嫌われるけど、庶民からは人気のある皇帝に、大闘技場。……詳しくは知らないけど、古代ローマ帝国みたいな感じなのか……そんな映画もあったよな。あれ、でも写真で見たローマって格子状の街並みだったかな?)

 曖昧な記憶を探ってみるが、もともと歴史や地理に疎かったユンゲには確かめる方法はない。

 そうして、物珍しく街並みを眺めているうちに“ターマイト商会”の荷揚げ場へと到着し、即席の冒険者チームは無事に護衛依頼を達成することができたのだった。

 

「――お疲れ様でした。ご助力いただき、ありがとうございました」

 護衛をともにした槍使いの戦士が、受け取った報酬を小袋に分けながら笑みをこぼす。

「こちらこそ、誘っていただいて嬉しかったです。帝国領内に入ってからは、ほとんど何もしてないのに……」

 軽く頭をかきつつ、ユンゲは「貴重なお話もたくさん聞けましたからね」と神官の青年にも軽く目配せをする。

「ちゃんと話を聞いてくれる奴は、いつだって大歓迎さ。アンタ、帝都は初めてなんだろう? 聞きたいことがあれば、色々と教えてやるぜ」

 エ・ランテル冒険者組合よりも立派な建物の造りながら、どこか活気に欠ける印象のアーウィンタール冒険者組合ではあったが、ロビーの一角に陣取って依頼の成功を喜び合うユンゲたちには、関係のないことだった。

「……北市場?」

「あぁ、小さな露店ばっかりが並んでるところなんだけど、マジックアイテムとかの結構な掘り出し物があったりするんだ。毎日違う奴らが売りにくるから、目当てのものがあるとは限らないんだけどな」

 何の気なしに帝都の観光名所を訊ねてみれば、返ってきた答えにユンゲは小首を傾げてみせた。

 楽しそうに語ってくれる神官の青年に曰く、冒険者以外にも請負人〈ワーカー〉といった職業の人間が集まり、冒険の中で手に入れた装備やアイテムを持ち寄って開かれる“フリーマーケット”のような催しの場らしい。

 ワーカーとは冒険者からの脱落者とも呼ばれる存在で、冒険者組合が取り扱わない――犯罪行為等も含めた仕事を生業としている者を指す言葉のようだった。共同する組織が存在しないために、依頼人は自身の伝手で契約を結びたいワーカーを探す必要があるし、冒険者組合が行っているような依頼の事前調査――冒険者のランクに応じた難易度の振り分けや倫理に反する内容の確認――などは、ワーカー自身がしなくてはならないとのことだ。

 何らかの理由や問題を起こした元冒険者がワーカーに身を落とすケースのほか、既存のルールに縛られたくない者や大金を稼ぎたい者、多くのモンスターを倒したい者などがワーカーになるらしいので、簡単に区別するのなら冒険者が日向の存在であり、ワーカーは日陰者といったところだろうか。

「まぁ、しばらくは帝都に滞在するんだろう? 散策のついでに寄ってみるのをお勧めするよ」

「了解! そうしてみるよ、ありがとな」

 ユンゲが笑顔で礼を返せば、「あの辺りにはスリも出ないですしね」と冗談めかせた槍使いの戦士が会話を締め括ってくれる。

 エ・ランテルで初めて会ったときには暗かった表情も旅の中で幾分かは和らいでいたことに安堵しつつ、ユンゲは軽い別れを告げて冒険者組合を後にした。

 

「これまでのモンスター討伐と墓地騒動での臨時収入。今回の護衛報酬も合わせれば、それなりの金額になるよな……っと、先ずは腹拵えからか」

 転移魔法の件を考えると帝国魔法学園にも惹かれるのだが、許可を得ないと敷地内にも入れないとのことだったので、一旦は後回しにするしかないだろう。――何より、この半森妖精〈ハーフエルフ〉の身体は驚くほどに腹が減るのだ。

「屋台で売っていた珍しそうな果物とか、帝都ならではの料理とかは食べておかないとな」

 初めての土地を訪れた旅行者気分のままに、ユンゲはぶらぶらと帝都内を歩き始める。

 そうして、何気なく訪れることを決めた帝都北市場では、右も左も分からないまま異世界に放り出されたユンゲの運命が大きく動き始める、一つの出会いが待ち受けているのだった。

 

 




-帝都編(仮)-
次話へのつなぎに当たる説明回のため、やや冗長になっています。
ホニョペニョコ騒動やリザードマンの戦いに介入する余地はなさそうと判断しましたので、しばらくは独自路線となるかと思います。
帝都の景観等は、できる限り原作書籍やWeb版の記述に基づいて描写したつもりですが、誤り等がありましたらご指摘いただけると嬉しいです。


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(6)散策

人によっては不快と感じてしまう表現が含まれているかと思いますので、ご注意ください。


 意気揚々と冒険者組合を後にしたユンゲは、帝都〈アーウィンタール〉の中心地――皇城の膝元に当たる大広場へと足を踏み入れ、感嘆の声を上げた。

 右を見ても左を見ても様々な露店が立ち並び、買い物客を呼び込む店員の声に、値切りを交渉する婦人や走り回る子どもたちの叫ぶ声が騒がしい。通りの端では、昼間だというのに酒を酌み交わす男たちの姿もあった。

 大広場はまさに喧騒の坩堝と化していたが、そこに不快な感じは覚えることはない。何よりも街全体が活気に溢れ、行き交う人々の表情も晴れやかな印象だった。

 鬱屈とする現実の世界になかった“人間らしさ”とでも言うのだろうか――眩しいばかりの人々の姿に羨望のような思いを抱いてしまう。

 ふと感傷に浸りかけたユンゲではあったが、突然ぐぅーと鳴った腹の虫に意識を引き戻された。

 色鮮やかな織物や精緻な模様が刻まれた装飾品の数々、どこか禍々しいような置物の類いにも興味は惹かれてしまうのだが――、

「……とりあえずは、腹拵えだよな!」

 どこも盛況な様子の屋台の軒先には、たっぷりの蜂蜜をかけた贅沢な小麦のパンや分厚く切り分けたチーズが並び、丸のままの若鶏を揚げる芳ばしい香りに鼻孔をくすぐられる。串を打たれた焼き加減も絶妙な大振りな肉は、滲んだ脂がじゅうじゅうと音を立てながら、タレの甘い香りとともに食欲をかきたててきた。

 眺めるうちに目の前の食べ物にしか注意を払えなくなったユンゲは、食欲に突き動かされるまま手当たり次第に買い食いを重ね、口周りの脂とともに幸福の味をエールで胃の底に押し流していく。

 無作法も極まれるような振る舞いではあったが、その食いっぷりの見事さに、いつしか遠巻きにしていた他の買い物客たちからの歓声すら上がり始めていた。

(……今、めっちゃ幸せだ)

 次の獲物を求めて周囲を見回したユンゲは、やおらと青果の露店に目を留める。

 楕円形の細長いスイカや大粒なブドウらしき果物とともに並べられている、深い緑色のゴツゴツとした外見の巨大なライチのような実が気になった。

「あぁ、これはレインフルーツだよ。どうだい、食べてみるかい?」

 こちらの視線に気づいたであろう店主の男が、一つの実を手に取って皮を剥いてみせ、さっとユンゲに差し出してくれる。

 瑞々しいピンク色の果肉の表面には、溢れそうな果汁が誘うように滴っていく。

「ありがと、おっちゃん! いただきます!」

 一にも二にもなく飛びついたユンゲは、御礼もそこそこにレインフルーツに齧りついた。

 柑橘系の爽やかな香りが広がり、酸味のまるでない濃密な甘さが口いっぱいを満たしてくれる。

 思い返せば、この世界に来てからは殆ど甘味を口にしていなかったのだろう。

 病みつきになるとはこのことで、気付いたときには薦めてくれた店主が狼狽えるほどに籠一杯のレインフルーツを買い求めていた。

 

「――っと、もうなくなっちゃったな」

 その大量に買い込んだレインフルーツさえ、露店を巡っているうちにあっさりと胃袋の中に収まってしまうのだから、この身体の食欲は本当に底が知れない。

「……まぁ、良い感じに腹拵えも済んだし、そろそろ行ってみるか!」

 一頻りの食事を堪能したユンゲは、ようやっと帝都北市場へと足を向ける。

 周辺の買い物客に道を尋ねる中で、ふと耳にすることになった“奴隷市場”という単語に、一抹の残念さを覚えてしまうものの――、残念ながら綺麗事ばかりの世界ではないのだろう。

 美しい夜空に心を奪われ、魔法が存在する夢のような世界においても、息苦しいしがらみからは逃れられないのかも知れない。

 悄れそうになる気持ちをかぶりを振って払い、ユンゲは努めて無視をすることにした。

 

 そうして、帝都北市場に足を踏み入れてみたのなら、人通りはやや寂しいもの大広場とはまた異なる類いの活気に溢れていた街並みが迎えてくれる。

 冒険者や請負人〈ワーカー〉自身が店を開いているだけあって、店主のほとんどはおよそ客商売には向いていないであろう厳つい雰囲気の者たちばかり――客層にしても同様で、子どもの遊ぶ声など全く聞こえて来ない。

 しかし、この場にいるのは、ある意味では子ども以上の活力に満ち溢れた者たちだ。

 売り物である品々を如何なる苦難の果てに手にしたのか、声を大にして己の冒険譚を競い合うように誇っている。

 露店に並べられているアイテムの数々は、ユグドラシルのアイテムと比較してしまえば取るに足らない性能ではあったが、中にはユンゲの興味を惹く“生活用品系”と呼ばれるマジックアイテムも存在した。

「兄ちゃん、お目が高いね! これらの品は二〇〇年ほど前に、さる高名な賢者が考案し……」

 上機嫌な店主の言葉を軽く聞き流しつつ、ユンゲはマジックアイテムの具合を確かめてみる。

 現実の世界での記憶に照らすのであれば、それらは“冷蔵庫”や“扇風機”と呼ばれる電化製品に酷似しているように思えた。

 当然ながら動力は電気でなく、魔法的な何かなのだろうが、思いがけないアイテムとの遭遇にテンションは高まるばかりだ。

(……魔法って、使い方次第でこういうこともできるのか。全然分からないけど、色々と試してみたくなるな)

 マジックアイテムに夢中になっていたユンゲの背後、不意に立ち止まったらしい小さな足音が耳朶を打った。

 やおらと振り返ったユンゲの視界に、飛び込んでくる光景――煩わしかった店主たちの呼び込みも、値切りを訴える買い物客の声も、喧騒がどこか遠くに感じられた。

 

 碧の澄んだ瞳に映った小さな驚きは、同種族を認めたからなのか――、瞬く間に羞恥へと染まった視線が伏せられてしまう。

 背けられた悲愴な横顔に、短く刈られた髪と無残に半ばほどで切断された、特有の細長い耳が痛々しい。

 痩躯を特徴とする種族であっても細身に過ぎる四肢の露わな装いは、服として最低限の機能しかない粗末なぼろ切れのようだ。

 ――脳裡を過ぎる“奴隷”という単語。

 薄い胸に抱かれた短杖がカタカタと小刻みに揺れており、握り締められた小さな手がほんのりと赤く気色ばんでいた。

 十代後半から二十代前半ほどだろうか、どこか幼い印象さえ受ける森妖精〈エルフ〉の少女が、唐突に姿勢を崩してしまい、つんのめるように倒れ込んでくる。

 咄嗟に身を起こしかけたユンゲは、目前の出来事に硬直した。

 転んだ――いや、後ろから蹴られて石畳に転がされた少女の背に、戦闘長靴が突き立てられる。

「急に立ち止まらないでください、邪魔ですよ」

 鈴の音を思わせる涼やかな声音。

 切れ長の目にぞっとするほどの侮蔑を宿して少女を踏みつける、武装した長身の男がいた。

「――っ、おい! あんた何して……」

「これは、これは……私の所有物が失礼をしてしまったようですね」

 ユンゲが発しかけた非難の声を遮り、男は優雅とすら思わせる所作でするりと滑るように後ろへと下がった。

 眉目秀麗な顔立ちに薄い笑みを湛える男には、後ろめたい感情が少しも見受けられない。

 ユンゲの背後、先ほどまで愛想良く接客していた店主が「げっ、エルヤーかよ……」と小さな呟きをこぼすのが聞こえた。

 聴覚に優れる半森妖精〈ハーフエルフ〉の身体をして、ようやく拾えるほどだった店主の声量がユンゲに警戒を抱かせる。

 撫でつけた白金の髪を後ろ手に結んだ気障な男、エルヤー・ウズルスの値踏みするような視線がユンゲの首元を巡り、すぐに興味をなくしたように足元の少女を捉えた。

「……いつまで寝ているのですか、愚図。さっさと立ちなさい」

 辛辣な言葉とともに振るわれたエルヤーの拳が、覚束ない足取りで慌てて立ち上がろうとする少女の後頭部を殴り――、つける寸前で停止した。

「……これは、何の真似でしょうか?」

「知るか、ただ腹が立ったんだよ」

 怪訝そうに顔を顰めるエルヤーの手首を掴み、ユンゲは言葉を吐き捨てた。

 力を込めた手に伝わる、冷たい感触――エルヤーの肘先から拳までを覆う手甲はかなりの硬度がありそうな代物だ。こんな拳で無防備な頭を殴られてしまえば、ただでは済まないだろう。

「単なる躾に、無用な手出しをしないで頂きたいのですが……?」

 涼やかでありながらも、底冷えするような凄みを効かせたエルヤーの詰問に現実世界で対面していたのなら、一にも二にもなく逃げ出していたのかも知れない。

(……いや、そもそも関わらないように遠巻きに避けてたかな)

 駅の構内や夜の繁華街で何かしらの揉め事が起きていても、気づかない振りで足早に立ち去ったことは一度や二度じゃない。

 ――正義を気取るつもりはないし、責任を負う気概もなしに首を突っ込むべき案件ではないと、頭では冷静な判断ができていた……はずだ。

 ユンゲの握り締めた鋼鉄製の手甲が、みしりと軋む音を立てる。

 怒気を浴びせても動じた様子を見せないユンゲを睨みつけ、エルヤーは不快げに口を歪めた。

「――おいっ、いい加減に……」

 エルヤーが口を開きかけるに合わせて、掴んだ腕を相手の身体ごと引き寄せる。

 勢いに任せて強引に立ち位置を入れ替え、エルヤーと少女の間に割って入ったユンゲは、背中越しに振り返って少女の様子を見遣る。

 先ほどまでエルヤーの背後に控えていた二人の少女――虐げられていた少女より少しだけ大人びた印象だが、同じように粗末な衣服に身を包んだエルフの少女たちが、同様の境遇に置かれているであろうことは察せられた――が、よろめいた少女に駆け寄って肩を支えているのを確認し、苛立ちを見せるエルヤーの正面に向き直った。

 

「……この国は、エルフの奴隷売買が認められているんだったな」

 問うでもなくこぼれた言葉は、ユンゲ自身が驚くほどに低い声になっていた。

「それがどうしたのでしょうか? 最も優れる私たち人間が、劣等種族たるエルフを使役することに何か問題があるとでも……」

「さっき、あんたの所有物って言ってたよな。あんたが買った奴隷ってことだろ? 物を大切にしろ、ってママから教わらなかったのか?」

「大切に? ふっ、初めて耳にする単語ですね」

 芝居がかった所作で大袈裟に肩を竦めてみせたエルヤーが、嘲りの笑みを浮かべて言葉を続けた。

「有効に使い潰せばいいだけでしょう。この程度の“道具”なら、代わりはいくらでもありますよ」

「――そうか、なら俺に譲ってくれよ。別に構わないだろ?」

「何を言っている? ……いや、そうか貴様もそうだったか。……なるほど、私の“使い古し”の同族に欲情でもしたか?」

 訝しそうな表情から一転、慇懃無礼な態度を崩したエルヤーが嗜虐心に満ちた凶相を貼り付け、ユンゲの背後で互いに身を寄せ合って震えるエルフの少女たちを見据えた。

 その反応を見るだけでも、少女たちがどのような扱いを受けてきたのか、想像するのに難くはない。

 エルヤーから少女たちへの視線を遮るように距離を詰め、ユンゲは髪をかき上げて細く尖った耳を露わにした。

「……だったら、どうした?」

「はっ、蔑まれ続ける劣等種族同士で傷の舐め合いがしたくなったか? くくく……、私が直々に仕込んでやったからな、それなりには使えるだろうさ」

「――っ、それで……さっさと答えを聞かせてくれよ。俺に譲ってくれないのか?」

「……いい加減にしろよ、貴様のようなエルフ如きがこの私に譲れだと? ――ふざけるな、奴隷風情がっ! 貴様らはただ這い蹲って、震えながら慈悲を乞いてさえいればいいんだ!」

 見下しているはずの対象に、侮られることは我慢ならなかったのだろう。

 激情を振りまくエルヤーの手が、腰に差した刀の柄にかかるのを視界の端に捉える。

「アンタが武器を抜くつもりなら、俺も容赦はしないぜ」

「……容赦はしない、だと? エルフとは、どこまでも愚かだな。この私を誰だと思っている」

「さあ? アンタが何者かは知らないけど……とりあえず、俺の嫌いなクソ野郎だってことだけは分かるさ」

「これほどまでの無知とは度し難い……ならば、この場で切り捨ててくれる」

 言い差したエルヤーが身を屈め、居合の体勢を取る。

 思いのほかに小慣れたエルヤーの構えを見やり、ユンゲは少しだけ警戒心を強めながら腰の剣帯を解いてバスタードソードの柄に手を添える。

(一応、殺さないけど……腕の二、三本なら斬り飛ばしてもいいよな)

 一触即発な緊張感は、いつの間にか周囲を取り巻いていた野次馬たちにも伝播し、帝都北市場は不思議な静けさの中に包まれていく。

 

「――こらっ、お前たち何をやっているか!」

 突然の怒声が、静寂を打ち破った。

 一挙に気勢を削がれたユンゲが、声の張り上げられた方へと目を向けたのなら、二人組の騎士が通りの角から駆け寄ってくるのが見えた。

「――っち、邪魔が入ったか」

 エルヤーのぼやきに複雑な気持ちながら、ユンゲは同じ感想を抱いていた。

(せっかく、相手の方から仕掛けてくれそうだったのに……)

 深く考えるまでもなく、街中で刀傷沙汰になってしまっては問題になるだろう。

 当然ながら、バハルス帝国の法律を知らないユンゲではあっても、何か問題が起きたときに「相手に襲われたから反撃しただけ」という、要するに“正当防衛”の理論でごまかすつもりだったのだ。

 また、ユンゲの与り知らないことではあったが、冒険者のように組合の後ろ盾を持たないワーカーであるエルヤーにしても、公権力との不必要な諍いは避けたい事態だった。

「いえ、わざわざ騎士様にお世話をおかけするようなことはありませんよ」

 何事もなかったように受け答えるエルヤーの口調は、先ほどまでの飄々としたものに戻っていたが、他者を小馬鹿にするような物言いに駆け付けた騎士が不快そうに鼻を鳴らす。

 肩を抱き合って震えているエルフの少女たちや憤っているユンゲ、遠巻きにする野次馬たちの様子を見回せば、大雑把な状況は把握できたのだろう。

 重い溜め息とともに、騎士が口を開いた。

「エルヤー・ウズルス、お前の考えを今更改めろ、とは言わん。だが、時と場所は弁えてくれ」

 騎士の小言にエルヤーは肩を竦めるだけで返し、それ以上の反応を拒否する。

 エルヤーに苦言を述べているようでありながら、一方で奴隷への扱いを黙認するかのような騎士の言葉に、ユンゲは失望を隠せなかった。

 ふと横目で確認してみたのなら、騎士の言葉を耳にしているであろう少女たちは、一切の反応を示していない――剣柄を触れていた右手に、無意識のうちに力が込められる。

「エルヤー・ウズルス、俺と勝負しようぜ」

 落ち着いた声音で紡がれた言葉は、ユンゲの感情を吐露するように凄絶な響きを湛えていた。

 抜き放たれたバスタードソードが鮮やかな円弧を虚空に描いて、宙空の一点に静止する。

「俺が勝ったら、彼女たちを解放してもらうぞ」

 瞠目するエルヤーの眉間に剣先を突きつけ、ユンゲは静かに挑戦を宣言した。

 

 




-腕を掴まれているときの天才剣士-
(……んっ、あ、あれ動かない? て、ていうか痛い!)

今回から各話のサブタイトルに数字を振ることにしました。


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(7)矜持

やや残酷な描写がありますので、ご注意ください。


 抜き放ったバスタードソードの剣風に叩きつけられ、エルヤーの髪がざんばらに吹き乱れた。

「さぁ、答えを聞かせてもらおうか?」

 相手の眉間に突きつけた剣先を一切動かすことなく、ユンゲは静かに問う。

「――っ、私が勝負を受ける理由がありませんね」

 ユンゲの刺すような声音に、思わずと息を呑んだ様子のエルヤーではあったが、すぐに調子を取り戻すとやれやれとばかりに肩を竦めてみせた。

「……逃げるのか?」

「逃げる? 勘違いも甚だしいですね。天才剣士であるこの私が、銀級〈シルバー〉の冒険者如きから逃げる必要などありませんよ。……強者との戦いであれば望むところですが、弱者と戦っても私が得るものはありませんからね」

「そうなのか? てっきり、弱い者いじめしか能がない阿呆だと思っていたんだが……まぁ、遠慮するなよ。アンタより、俺の方が強いから得るものはあるはずだぜ」

 あまりに平然と言って退けるユンゲに、エルヤーばかりでなく周囲の野次馬までもが、すっと言葉を呑み込む気配があった。

 中天を過ぎたばかりの熱い日差しが降り注ぎ、バスタードソードの剣身を眩しい輝きに染め上げる。

 決して少なくない人々が集まる帝都北市場は、水を打ったような静けさに包まれていた。

 

 誰かの額で生まれた汗が頬を伝っていき、顎へと到達するほどの時間が過ぎてから最初に思考を取り戻したのは、ようやくと己の職分を思い出した騎士たちであったが――、

「お、お前は何を言っているのか、分かっているのか? 街中で武器を……」

 非難の声を上げかけながらも、ユンゲの侮蔑に満ちた眼差しに呻くばかりで、気圧されるままに口を噤んでしまう。

(今の俺、どんな怖い顔してるんだろうな……)

 沸々と込み上げる怒りを視線に滲ませながらも、ユンゲ自身をして何故これほどまでに怒りを覚えているのかは理解できていなかった。

 油断なくバスタードソードを構えたユンゲは、肩越しに森妖精〈エルフ〉の少女たちを振り返る。

 どこか虚ろな表情を浮かべる少女たちの剥き出しの素肌には、真新しい青痣や幾重にも重なる擦過傷が見て取れた。

 柄を握り締める手に力が込められ、ギシリと奥歯が軋み音を上げる。

 本来の醜い人間でもあり、エルフでもある半森妖精〈ハーフエルフ〉としての身体が、やり場のない感情を苛烈な怒りとして溢れ出させているのかも知れない。

(いや……考えるのは後でもできる、か)

 昂り過ぎている気を落ち着けるように、ユンゲはゆっくりと息を吐き切り、一つ大きくかぶりを振ってからエルヤーの切れ長な瞳を睨み据えた。

「……アンタにも戦う理由があれば良いんだな。なら、もし俺に勝つことができれば、この剣をくれてやるよ。“天才剣士”を自称するくらいなら、これの価値くらいは分かるだろう?」

 バスタードソードを逆手に構え直し、エルヤーの眼前に掲げてみせる。

 同僚からタダで譲り受けた代物とはいえ、ユグドラシル産の“聖遺物級”に括られる業物だ。

 この世界での価値を完全に把握できている訳ではないが、少なくとも城塞都市〈エ・ランテル〉の武具屋においては、この剣に比肩するほどの装備を目にした記憶がない。

 そして、驚愕を押し殺すようなエルヤーの反応を窺ったのなら、ユンゲの考えも間違ってはいないはずだった。

「……さあ、いい加減に答えを聞かせろよ」

「――っ、調子に乗るなよ……劣等種族が! この私に剣を向けたこと、己の身をもって後悔させてやるぞ!」

 

 *

 

 冷たい石壁に背中を預けながら、ユンゲは静かに瞑目していた。

 淡い〈コンティニュアル・ライト/永続光〉の照明が灯された室内は、どこか埃っぽく黴臭い雰囲気が漂っている。

 帝都〈アーウィンタール〉が誇る大闘技場――超満員の観客たちが熱狂している階下の底にある穴倉が、次の試合に出場することが決まったユンゲに与えられた控室であった。

 壁越しに伝わってくる僅かな振動と遠く反響するような歓声の大きさに、そろそろかと意識を呼び起こす。

 部屋の中ほどに立てかけられた数々の武具は年季の入ったものばかりだが、一方で空気の澱んだ地下室とは対照的に良く手入れをされていることが、見ただけでも分かるほどだった。

「――しかし、お前さんも結構な無茶しおるわ。エルヤー・ウズルスに勝負を挑んだと聞いたんじゃが……あの若造、性格はともかくとして腕の方はそれなりに立つぞ」

 ふと呼びかけられた声の方に目を向けてみれば、背を屈めるようにした白髪交じりの男が、胡乱な者を眺めるように溜め息をこぼした。

「失礼ですが、あなたは……?」

「ただの鍛冶師じゃよ、この大闘技場の武具の手入れを任されておる」

「そうでしたか。……あなたの目には、無茶をしているように映りますか?」

 男の細い目が探るようにユンゲの様子を窺い、ゆっくりと首が横に振られた。

「ウズルスはこの闘技場で不敗を誇っておる。駆け出しに毛が生えた程度の冒険者が、間違っても勝てる相手ではないじゃろう。おまけに、得意の武器まで取り上げられているとなれば尚更のう」

 草臥れたような声音をこぼした男が顔を持ち上げると、意外なほどに鋭い眼差しがユンゲを正面から見据えていた。

「……これでも長いこと、この闘技場で夢を追う者たち――無茶ばかりしおる者たちを見てきたつもりじゃ。戦いの才を持たぬ儂じゃが、お主はどこか違う気配を感じさせおるわ」

 褒められるのは悪い気がしないものの、こちらの強さは“ユグドラシル”の恩恵であることを考えてしまうと少しばかり複雑な気分だ。

 長年に渡り、裏方として従事してきたという男の賛辞を受け、ユンゲは肩を竦めてみせる。

 

 帝都北市場において、ユンゲがエルヤーに勝負を挑んだ際、「場所を変える」として提示されたのが大闘技場での試合だった。

 睨みつけて黙らせたとはいえ、帝都の治安を守る騎士の前での流血沙汰は流石に分が悪かったこともあり、渋々ながらユンゲも提案を受け入れた。

 そうして、大闘技場における不敗記録を持っていたエルヤーの伝手により、当日の内に興行主からの返答があり、急遽の試合が決まったという次第だ。

 ――誤算ということでもなかったのだが、事前の取り決めの中で互いの掛札である『エルヤー所有の奴隷三人』と『ユンゲ所有のバスタードソード』については、勝負の決着がつくまで両名とも手を触れない旨が試合の条項に補記された。

 こちらの自信を武器の性能に頼ったものと判断したらしい、エルヤーの悪知恵だったようだが、ユンゲにしてもエルフの少女たちを傷つけさせないためには必要な取り決めだった。

 躊躇うことなく了承したユンゲに、エルヤーは奇異の目を向けてきたものだ。

 

「……しかし、お前さんは武器を取り上げられて、どうするつもりなのじゃ?」

「ここにある武器は、どれでもお借りできるのですよね?」

「それは勿論じゃが、慣れた武器でなければ感覚も狂ってしまうのではないか?」

「大丈夫ですよ、ここの武器はどれも申し分ない。あなたの仕事が確かなのでしょうね」

 屈託ないユンゲの言葉に男の細い目が見開かれ、やがて柔らかな笑みを形作っていく。

「……くふっ、嬉しいことを言ってくれおる」

 むず痒い気持ちを押し隠すように、「ちょっと見させてもらいますね」と言い差し、ユンゲは武器を試すために歩み寄る。

 身も蓋もない話ではあるが、たとえば素手であったとしても負ける気はしない。

 元より戦いの素人であるユンゲなので、どの武器を使ったところで大差はないようにも感じていたのだが、槍や棍棒よりも剣の使い勝手が一番良い印象だろうか。

 やはり闘技場で戦うのであれば、古代ローマ時代の剣闘士が用いたという、グラディウスのような肉厚で幅広の両刃剣が相応しいのかも知れない。

(バスタードソードよりもリーチは短いけど、取り回しは問題なさそうだな)

 軽く素振りを繰り返して具合を確かめながら、何気なくユンゲは男に問いかけた。

「ところで……賭けの倍率って、今どうなっているのか分かります?」

「ん? さっき見たときでなら……ウズルスは『一.〇八倍』、お主が『九.六五倍』じゃったかな。新人のデビュー戦なんて、そんなものじゃよ」

 いちいち気にするな、とばかりに男がユンゲの肩を軽く叩いた。

 興行を開催する上でも観客にも勝敗の分かりやすい、所謂“固い試合”は必要なのだろう――が、何となく腹立たしいのも事実だ。

 暫く考え込んだユンゲは、やがて懐から一つの革袋を取り出すと無言で男に向けて放り投げた。

「な、なんじゃ……ん、金か?」

「――全額、俺に賭けといてくれ。後で美味い酒をたっぷりと奢ってやるよ」

 心掛けていた丁寧な口調もどこかに追いやり、ユンゲは不敵な笑みを浮かべてみせた。

 

 *

 

 向かいの入場扉が重々しく開かれると、大闘技場の舞台に颯爽と姿を現したエルヤーに大歓声が送られた。

 実績における格下の者から入場するという慣習に倣い、挑戦者であるユンゲが先に登場したときには疎らだった歓声も、不敗の“天才剣士”が登場したことで割れんばかりに膨れ上がっている。

 観客の目を意識しているであろう煌びやかな装衣に身を包み、声援に応えるエルヤーを視界の端で捉えつつも、ユンゲの視線は観客席の一点――魔法による拡声器を手にした司会者の背後で、同僚から譲り受けたバスタードソードとともに並べられた、首枷によって拘束されるエルフの少女たちに注がれていた。

 横に控えている武装した警備員は逃亡を防ぐための見張り役、といったところだろうか。

 理解はしていたつもりだったが、あんまりな扱いを目撃してしまえば、ユンゲは憤りを感じずにはいられなかった。

 熱気に酔う観客を煽りながら何事かを喧しく喚き散らす司会の声が、ユンゲの耳に届くことはない。

「……どうした? 開始の合図は既になされているぞ、今更になって怖気づいたのか?」

 不意にエルヤーからの嘲笑を浴び、ユンゲは意識を引き戻した。

「アンタからは仕掛けてこないのか?」

「ふっ、わざわざ舞台を用意してやったのだ。あまりに早く終わらせてしまっては、観客も興醒めだろう。せいぜい足掻いてみせるが良い、貴様には劣等種族としての身の程を教えてやろう!」

「そうか……なら、こっちから仕掛けさせてもらうことにするよ」

 彼我の対峙する距離は、ユンゲの目算で十メートルほどだろうか。

 一度の跳躍で詰められる距離ではあったが、剣士であるエルヤーの土俵で戦ってやるつもりはない。

 況してや、観客の期待とやらに配慮する気持ちなど、ユンゲは欠片すらも持ち合わせていなかった。

 グラディウスを剣帯から解いて右手に持ち、左手はエルヤーに向けてゆっくりと掲げてみせる。

 こちらの構えを訝るように見つめてくるエルヤーの呼吸を見極め――息を吐き切った、その瞬間にユンゲは動いた。

〈ショック・ウェーブ/衝撃波〉

 無詠唱のうちに放たれた不可視の衝撃がエルヤーを急襲し、その身体をまるでゴムボールのように遥か後方へと吹き飛ばす。

 ご立派な胸当てが砕けるほどの勢いで転がりながら、それでも受け身を取ってみせたエルヤーの姿を観察すれば、それなりに鍛えた戦士であることは知れたものの、ユンゲにとっては遅きに過ぎた。

 転倒から素早く起き上がって片膝立ちになったエルヤーの背後――、気配を悟らせることもなく忍び寄ったユンゲは、相手の首筋にピタリと刃を押し当てながら淡々と言葉を紡いでみせる。

「どうやら、アンタの負けみたいだな。……俺に“弱い者いじめ”をする趣味はないけどな、さっさと降参した方が身のためだぜ」

「――ま、魔法だと……!? ふざっ、ふざけるなぁああああっ!」

 驚愕から憤怒の表情で叫ぶや、首筋を裂かれるのにも構わずにエルヤーが身体を捻って反転した。

 遠心力を加えながら抜き打ちで振るわれた横薙ぎの斬撃は――しかし、呆気なく空を切るばかり。

 初めから分かっていたようにあっさりと身を躱したユンゲは、振り抜かれたままに硬直するエルヤーの神刀に向けて、右手のグラディウスを一閃した。

 金属同士を打ち合わせた硬質な澄んだ衝突音が、やけにはっきりと大歓声の中に響いた。

 半ばほどで叩き折られた刀身が、何者かの意思に導かれるようにくるくると宙を舞い――やがて、大闘技場の石畳に深々と突き立つ。

 そうして、観衆の誰もが言葉を失ったように喧騒が遠くなり、バハルス帝国において最も盛況を誇っていた大闘技場は息を呑むような静寂に包まれるのだった。

 

 緩やかな動作で剣を構え直したユンゲの眼前、折れた刀の柄を縋るように両手で握り締めるエルヤーの肩が、小刻みに震え始めていた。

 ――その憎悪に染まっていたはずの瞳に浮かぶのは、確かな恐怖の色。

「……無様だな」

 短く言い差したユンゲは無碍なく剣を振るい、柄を握ったままのエルヤーの両肘から先を斬り飛ばした。

 吹き上がる血飛沫の向こう、言葉にならないエルヤーの絶叫が大闘技場に響き渡るのを横目に、ユンゲは借りたグラディウスの剣身に一つの刃こぼれもないことを確認してから、軽く血を振り払って腰の剣帯に留め直す。

「――泣き喚くのは、謝罪をしてからにしろよ」

 恐慌に叫び続けるエルヤーを冷たく一瞥したユンゲが、静まり返る観客席の方へと視線を向けたのなら、短杖を手にして懸命な祈りを捧げる少女の姿があった。

 乱れた髪をかき上げたユンゲは、その細く長いエルフ特有の耳を詰めかけた観衆に見せつけるようにしながら、やおらとエルヤーに向き直って固く拳を握り締める。

 そうして、半狂乱で転げ回るエルヤーの胸倉を掴み上げ、無防備となっていた腹部に容赦なく拳を叩き込んだ。

 拳が半ばまでも喰い込むほどの感覚とともに頽れた“天才剣士”の身体が宙に浮き上がり、数瞬の間を置いて地面へと倒れ伏した。

 胴鎧を粉々に打ち砕いた拳を軽く払いつつ、俯せに倒れるエルヤーの傍に屈んだユンゲは、無駄に長い後ろ髪を鷲掴みにして顔を引き起こさせる。

「まだ寝るなよ、悪いことしたら“ごめんなさい”だろ? ママに教わらなかったのか」

「……こひゅっ、…………ご、ごべんな、ひゃい」

「俺に言ってどうするんだよ、あの子たちに謝罪するんだろうがっ!」

 吐血交じりに言葉を発するエルヤーを見下ろし、ユンゲは声を荒げた。

 無造作に掴んでいた長髪が千切れ舞うのも構わずに振り回し、エルヤーの顔を観客席の一角――固唾を飲むようにして、こちらの戦いを見つめていた少女たちの方へと強引に向かせる。

「ご、ごめんなさい……っ」

 焦点の合わない目線を彷徨わせているエルヤーの視界に、彼女たちの姿は映っていないのかも知れないが、ようやくと口にした謝罪の言葉を耳にしてユンゲは静かに目を閉じた。

 

「……さて、これからどうするべきかな」

 小さな溜め息とともに口端からこぼれた呟きは、誰に届くこともない。

 用済みとなったエルヤーの頭を石畳に投げ捨て、無詠唱のうちに〈フライ/飛行〉を発動したユンゲは、悠々と空を舞って観客席へと降り立った。

 とっくに決着は着いているだろうに、未だに一言も発していない無能な司会者の横を侮蔑とともに通り抜ける。

 同じように棒立ちとなっていた警備員を無遠慮に突き飛ばし、置かれていたバスタードソードを手にしたユンゲによる三度の斬撃――少女たちを束縛していた首枷は、薄皮一枚傷つけることもなく断ち切られた。

 どこか呆然としたような少女たちと対面し、ユンゲは努めて優しい口調で言葉を紡いだ。

「頑張ったな、これで君たちは自由の身だ。良かったら、俺に君たちの名前を教えてくれないか?」

 

 




自称“天才剣士”さんは、一切の武技を発揮することもなく退場になります。
動かしやすいキャラクターなので遊ばせたい気持ちもあるのですが、再登場はないと思います。



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(Side-M)憧憬

初めての別キャラ視点。


 緊張した面持ちのままに真新しい服へと袖を通し、全身を映す姿見鏡の前に向き直りながら、おずおずと覗き込む。

 そうして、ふと気が抜けるような安堵の吐息とともに、緩んでしまった表情を何とかしようと口許を動かしてみるが、どうにも上手くいかない。

 締りのない自らの顔に苦笑いを浮かべつつ、それも仕方のないことかと少し呆れるような思いで、マリーは小さく肩を竦めてみせた。

 望まない虜囚の身となり、“奴隷の証”として無惨にも半ばから切り取られてしまったはずの耳と、碌な手入れもできないままになっていた艶のないざんばら髪――そうした惨めな記憶の残滓が、すっかりと“元通り”になっている。

 森妖精〈エルフ〉の特徴である長い耳がぴょんと立ち、おそるおそると指先で梳いてみた鮮やかな金髪には絹のような滑らかな手触りが感じられた。

「……ふふっ」

 思わずと笑みをこぼしながら髪の一房をまとめて、サイドの丁度良い高さで括っていく。

 気持ちが軽くなる思いのままに、その場でくるりと一回転。ふわりと持ち上がったローブの裾からのぞく太腿も、健康的な白さを取り戻していた。

 魔法の力とはかくも偉大なものかと思い知らされる一方で、自身が覚えているような第二位階までの回復魔法では、これほどに劇的な効果を望むことはできないだろう。

 全身の打ち身や擦り傷の治癒ならば理解はできたものの、“負傷”としては既に癒えていたはずの耳や短く刈られてしまった髪さえも以前と変わらない――故郷“エイヴァーシャー大森林”での戦争に駆り出される前の状態にまで、治癒するような魔法の存在は聞いたことすらない。

 その驚きはあまりにも衝撃的に過ぎたため、未だに夢心地の中に置かれてしまっているマリーには、まるで現実の出来事として受け取ることができなかった。

(あの魔法のスクロール、とっても高そうだったよね……)

 発動に用いられた精緻な装飾を施された魔法のスクロールは、一枚でひと財産と言っても差し支えのないほどに、かなり高位の魔法が封じられていたように思えた。

(私たちなんかのために、使わせてしまって良かったのかな……)

 胸の内に込み上げる情けないような無力感は、しかしマイナスの感情ではない。

 言葉にできないほどの万感の気持ちは、マリーの中で憧憬の想いへと置き換えられてしまう。

 

 *

 

 前の主人であったエルヤー・ウズルスは最悪の性格破綻者だったが、腕の立つ剣士ではあった。

 虜囚から奴隷として売られるまでの過程で、僅かな反抗心すら奪われてしまったマリーには、元より歯向かうほどの気力はなくなっていた。

 それでも、たとえ抵抗したところでエルヤーとの間に覆すことのできない歴然とした実力差が存在していたことは確かだ。

 その揺るぎようのない事実は、長らくとマリーたちを蝕み続けていた。

 そうして今朝、街中で偶然にも出会ってしまった同族ーー若い半森妖精〈ハーフエルフ〉のユンゲ・ブレッターは、マリーたちの置かれた境遇を察して、エルヤーに賭け試合の勝負を挑んでしまう。

 誰もが素通りしていく中で気にかけてもらった驚きと喜びーーしかし、拭えない恐怖が上回っていく。

 嗜虐心の強いエルヤーの気性は身をもって理解させられていたからこそ、試合での降参を認められないままにユンゲが命を奪われてしまうかも知れないと気が気ではいられない。

 彼を巻き込んではいけないと思いながらも、怯え切った身体はただ震えるばかりでマリーには祈ることしかできなかった。

 結局、その祈りが的外れだったことはすぐに明らかとなるのだが――、人間性に難があっても剣技だけならオリハルコン級はおろか、アダマンタイト級にまで迫ろうかと噂されるほどのエルヤーが、まるで赤子が手を捻られるかのように敗れる姿を想像すらしていなかった。

 優雅とすら感じさせる振る舞いで、エルヤーとの戦いを終えたユンゲは、軽やかに空を舞ってマリーたちの目の前に降り立った。

 そうして、横の台座に置かれていたバスタードソードをユンゲが手にしたかと思えば、目にも映らない早業で瞬く間に首枷を解かれ、マリーたちは自由の身となっていた。

 

 ――良かったら、俺に君たちの名前を教えてくれないか?

 

 あまりの出来事に頭の回転が追いつかず、呆然としてしまっていたマリーたちに配慮をしてくれたのだろう。

 どこかぎこちない笑顔を浮かべながらも、紡がれた優しい声音。

 虜囚となってから奴隷として過ごしたこれまでの日々の中、どこまでも物として扱われ続け、気遣いの言葉をかけてもらったことなど、いつ以来だったのかも判然としなかった。

 抑えつけてきた思いは瞬く間に心の堤を越えてしまい、自分では抑えられない感情の奔流が、止めどない涙として流れ出してしまう。

 そうした反応はマリーばかりでなく、これまでの境遇を共にしてきたキーファやリンダの二人も同様であったらしく、結果として三人の良い年齢をしたエルフが、まるで生娘のように泣き出してしまうという情けない事態になってしまった。

 何か悪いことを聞いてしまったのかと、ひどく狼狽するユンゲを前に、誤解なのだと告げようとしても、涙は後から後から堰を切ったように溢れ出してきてしまうので、なかなか訂正することができなかった。

 三人のエルフが泣き続けてしまう最中、ユンゲの垣間見せた慌てふためく様子は、とても超級の実力を持った戦士のようには思えず、どうにも堪らなくなったマリーは吹き出してしまう。

 どこか憮然としつつ苦笑を浮かべるユンゲに、ようやく笑顔を見せられたことを安堵しつつも、マリーは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 なんとか各々に自己紹介を終えたときには、皆がどっと疲れた様子を見せていたものだ。

 

 そうして、ようやくと一息をついたところで、どこからともなく魔法のスクロールを取り出したユンゲは、事もなげに三人への治療を施すと「うーん、先ずは服を何とかしないとなぁ……」と目のやり場に困ったように頬を掻いた。

 そんなユンゲの仕草に、はっとして思わず目線を交わせば、キーファとリンダにも理解の色が浮かんでいた。

 奴隷として過ごした日々の中で、身なりに気を使っている余裕はなかった。そもそも、主人であったエルヤーが全ての依頼報酬を独占していたため、マリーたちが自由に使えるお金などありはしない。

 未だ動揺の渦中にある大闘技場の観衆たちの視線が、途端に酷く気になった。

 当然ながら観客たちが見ているのは、不敗を誇っていたエルヤーを相手に圧倒的な勝利を決めたユンゲなのだろうが、視界の中に自分たちの見窄らしい姿が入っているであろうことを気付かされると羞恥を隠せなくなってしまう。

「と、とりあえず場所を変えようか――」

 言葉を失ってしまったマリーたちを見遣り、自らの失言に慌てたユンゲからの提案を受けて、一同は足早に大闘技場の観客席を後にすることとなった。

 

 *

 

 ローブの裾を摘まみ上げれば、しっかりとした生地と作りに仕立ての良さが分かる。あぶく銭だから構わないと言われてはいたけれど、決して安い代物ではない。

 どうにかしてユンゲの恩に報いたいと思うのだが、今の自分にいったい何ができるのだろうか。

(――冒険者、だよね……)

 ユンゲの首から提げていた銀のプレートは、冒険者であること示す認識票だった。

 パーティメンバーらしき他の冒険者を見ていないことからの推測に過ぎないが、一般的な冒険者は連携都合もあり、実力の似通った者同士でパーティを組むことに照らせば、パーティを組む相手には困っていそうな気もする。

 もし、ユンゲがそうした相手を探しているのなら手助けをしたいとは思うものの、エルヤーとの戦いで目にした凄まじい技量を考えたのなら――森祭司<ドルイド>の職業を習得した技能持ちの奴隷として売られ、不本意ながらもワーカーとして働いていたマリーではあったが――ユンゲの役に立てるとは、とても思えなかった。

 最も分かりやすい恩返しはお金かとも思うが、そもそもユンゲからお金を借りて――ユンゲには「好みの服を選べばいいよ。俺からのプレゼントってことだから、返してくれる必要はない」などと言われていたが、そういうわけにもいかない――しまっているのだから、論外だ。

(せめて、もうちょっとあればなぁ……)

 何も名案が思い浮かばない中、姿見鏡に映る自分の薄い身体を見下ろしたなら、やるせないような気持ちが萎えるのも仕方ないと言い訳のような思いばかりが浮かんでしまう。

 

「ね、この服どうかな……、変じゃないかな?」

 どんよりとした思考の淵に沈んでしまいそうだったマリーの耳に、不意に不安そうな少女の声が飛び込んできた。

 声の方へと目を向けたなら、新しい服に身を包んだキーファの紫色の瞳が、どこか所在なさげにこちらの様子を窺っていた。

 栗色の髪をうなじの辺りでまとめたポニーテールが揺れる。

 白のシャツに革製の短外套、太腿のかなり上まで切り詰めたジーンズパンツに胸部や関節部を保護する防具を身に着けているエルフの少女――露出度という点では、奴隷時代の布切れと大差ないようにも思えたが、野伏<レンジャー>であるキーファは、動きやすさを重視したのだろう。

 本来は快活な性格を持つ、キーファらしい服装と思えた。

「うん、似合ってるし良いと思うよ」

 素直な感想をマリーが口にすれば、「そうだな、キーファらしくて良いんじゃないか」と同意するように奥からリンダが姿を現した。

 神官<クレリック>でありながら、高い身体能力を活かして前衛もこなすことのできるリンダは、露出の少ないタイトな僧衣に身を包んでいる。

 マリーよりも頭二つ分は背の高いリンダの、すらりとしたスタイルを強調するような黒を基調とした装いと腰にかかるほどの長い銀髪とのコントラストは美しく、大人の女性を思わせる彼女に良く似合っていた。

 年頃の娘らしい照れたような仕草で「ありがとっ」とキーファが笑顔を浮かべてみせるのを横目にしつつ、マリーは改めて姿見鏡に向き直った。

 膝丈の藍色のローブに、貂をあしらった灰色のケープといった落ち着いた組み合わせに――、

(ちょっと地味かな、もう少し裾は短いほうが良いのかな……)

 そんなことを考えている自分に気付き、マリーは不思議な想いを感じていた。

 数日前、いや今朝の自分ですら考えられないほどの、劇的な境遇の変化だった。

 奴隷として使い潰されるのを待つだけの日々から救い出してくれたユンゲに、どれほどの感謝を抱いているのか、どうすれば想いの一端でも伝えることができるのか。

 互いの服装について意見を交わすキーファとリンダを意識から外しつつ、ローブの裾を摘まんだままマリーは黙考に耽る。

 ――もし、求められることがあったのなら、拒むことは難しいかも知れない。

 身体に刻まれた恐怖を拭うことは難しいために、マリーは思わず身震いをしてしまうが、そこに不快な感じを抱くわけではない。

 感謝の想いを僅かでも伝えられるのなら、そういった方法もあるのかも知れないとすら思う。

 それでも、ユンゲほど強い戦士を周りが放っておく道理はないのだから、相手に困ることはないだろうし、よほど悪癖の持ち主でもなければ――ちらりと脳裡を過ぎるのは、先ほど見たキーファとリンダの艶姿――選ばれることもないだろう。

 一つ大きな溜め息をこぼし、無意識のうちに短杖を握り締めながら、マリーは鏡に映る自分の姿を見つめ続けていた。

 

 *

 

「うん、みんな良く似合ってるね。馬子にも衣装って感じだ!」

 新しい服に身を包んだマリーたち三人を服飾店の外で迎えたユンゲは、開口一番にそんな言葉を口にした。

 それは褒めているのか、と思わず突っ込みを入れたくなる衝動を抑えつつ、ユンゲの様子を窺ってみるが、一切の悪気もなさそうな笑みを向けられてしまえば、マリーはなんとなく脱力してしまう。

「ありがとうございます。ブレッター様のお心遣いに皆、大変感謝しております」

 代表するように進み出たリンダが謝辞を述べれば、「あー、気にしないでいいよ。俺が勝手にやったことだからさ」と軽く手を振って制したユンゲが、小さく肩を竦めるようにして言葉を続けた。

「とりあえず“様”って呼ばれるのは恥ずかしいからなしでお願い。あと、冒険者組合ではユンゲで通っているから、みんなもユンゲって気楽に呼んでもらえたら嬉しいな」

「……左様ですか、しかし恩人をそのように呼び捨てにする訳にも――」

「別に構わないって、“様”なんて呼ばれるほど大層な男じゃないから……、本当に」

「いえ、あれほど実力をお持ちの方を――」

 ユンゲとリンダの間で交わされる言葉を聞き流しつつ、マリーは顔を伏せた。

 三人の中では最年長の、話し上手なリンダが会話するべきだと理解しつつも、ふつふつと込み上げる内からの感情を上手く抑えられない。

(……今の私、絶対変だ――どうしよう、このままじゃだめだ)

 やがて、双方で折り合いがついたのか、ユンゲは別の話題を持ち出した。

「ところで、明日にも帝都を発とうと思ってるんだけど、みんなはどうする? どこか頼れる場所まで俺が送っていこうと考えているんだけど……」

 ユンゲの気遣うような声音に、三人のエルフは顔を見合わせ、先の言葉に詰まる。

 

 奴隷の身から脱したのなら、辛い思い出しかない帝国にいつまでも留まりたくはないし、故郷であるエルフの王国に帰るべきなのかも知れない。

 マリーたちの故国は、隣国であるスレイン法国との戦争状態にあった。

 かつては協力関係にあったという両国だが、マリーが生まれるより以前にその関係は失われ、現在まで武力衝突が絶えたことはない。

 戦争の推移では、故国が常に劣勢に立たされていることを伝え聞いているため、本来であれば国へと戻って救国の戦いに参加することが、臣民として当然の務めなのだろう――が、マリーは身体が震え出すのを止められなかった。

 戦争に参加し敗れて虜囚の身となり、思い出したくもない責め苦を受けて、奴隷として過ごさざるを得なかった悪夢の日々に、全身が逆立つような寒気に襲われる。

 突然、足下の地面がぐにゃりと沈み込んだかのような感覚に膝から力が抜けてしまい、思わずその場で崩れ落ちそうになるのをマリーは必死に堪えた。

 この人の前で、もう無様な姿は見せたくない。

 そんな一縷の願いすら潰えようとした、その瞬間――不意に、力強い温かさの中でマリーの身体は抱き留められていた。

 

 おずおずと見上げた先には、優しげなハーフエルフの青年の笑顔――頬を伝った一筋の涙を拭うことも忘れ、マリーは陶然とその眼差しを見つめる。

「そうか、頼れる場所はないか。……じゃあ、俺と一緒だな」

 何でもないことのように、あっけらかんと言い放つユンゲに、マリーは答えるべき言葉を失う。

「君たちもそうか? ……なら、俺と一緒に探してみないか、この世界も多分広いからな」

 傍らのキーファやリンダにも声をかけながら、「今度は全部の世界を見て回りたいんだ。もしかしたら、まだ誰も知らない素敵な場所があるかもって考えたら、わくわくするよな!」とユンゲは高らかに言葉を続けていく。

 良く働いてくれない頭を必死で回転させてみるが、ユンゲの発した言葉の意味は理解できない。

 

 ――それでも、本当に楽しそうに笑うユンゲの横顔が、マリーには眩しく映るのだった。

 

 




作品の投稿を始める前にぼんやりと考えていたのは、この辺りの話までになります。

ユンゲが旅の仲間を見つけたところで、“冒険はこれからだ”的なエンドで終わることも考えていたのですが、思っていた以上に多くのお気に入り登録やご感想をいただけたことが嬉しかったので、調子に乗って物語を続けてしまうことにしました。

今後の投稿は先の展開を考えていないこともあり、更に遅くなってしまうかも知れませんが、それでも大丈夫というお優しい方は、のんびりお付き合いいただけると幸いです。


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【設定まとめ】

ご要望をいただいていたオリキャラ設定のまとめ(という名の妄想の垂れ流し)になります。
本編ではないので、読み飛ばしていただいても問題はありません。

設定内容については、今後の展開次第で変更することもあるかと思いますので、ご参考程度ということでご理解いただければ幸いです。

また、ここまでの展開について若干のネタバレを含んでいますので、ご注意ください。


ユンゲ・ブレッター

 (種族:ハーフエルフ/男)

 

 この物語の主人公。

 DMMO-RPG〈ユグドラシル〉のサービス終了目前にプレイを始めたところ、ゲーム内で設定したアバターの姿で異世界に転移してしまう。

 

 雰囲気に流されやすい性格であり、突発的な事態には動揺をみせる一方で、街中で見かけた奴隷エルフの少女たちの境遇に憤って賭け試合を挑むなど、やや無鉄砲な一面も併せ持っている。

 また、ハーフエルフの身体になった影響のためか、食欲に忠実な行動を取ってしまうことが多い。

 能力面においては前衛の戦士職と後衛の魔法職をバランス良く取得しているほか、同僚から譲り受けた聖遺物級装備の恩恵もあり、一部の例外を除いた転移後の世界では相当な実力者となっている。

 

 なお、ユグドラシルを“ぼっちプレイ”で過ごしていた経緯から他のプレイヤーに対する意識は希薄であり、十三英雄や六大神といった現地の話題を耳にしても、別のプレイヤーが自身と同じように異世界転移をしている可能性には考えが及んでいない。

 

 

職業〈クラス〉 計63レベル

 ファイター ―――――――― 12 lv

 ナイト ―――――――――― 10 lv

 ローグ ―――――――――― 5 lv

 ブロウラー ―――――――― 5 lv

 ウィザード ―――――――― 12 lv

 ソーサラー ―――――――― 10 lv

 プリースト ―――――――― 8 lv

 ルーキー(オリジナル) ―― 1 lv

 

 ルーキー(オリジナル)は、独自設定の職業。

 特殊技術〈ビギナーズ・ラック〉により、条件次第で未取得職業の能力を発揮できるが、任意での発動はできない……というご都合主義のための設定です。使用されるかどうかは現時点で未定のため、設定倒れに終わるかも知れません。

 

 また、魔法の使用可能位階は、オーバーロードWikiに記載のある【位階魔法習得7レベル刻み説】に基づき、魔力系第四位階/信仰系第二位階までとさせていただければと思います。

 原作において位階表記のない魔法の使用については、独自解釈で使用可能とすることもあるかと思いますが、矛盾等がありましたら都度修正するようにいたしますので、お気づきのときにはコメント等でご指摘いただければ幸いです。

 

 

(どうでもいい設定)

主人公の名前:

 ユンゲ・ブレッター(Junge Blätter)は、初心者を意味する“若葉”のドイツ語読みが由来。

 

主人公の武器:

 バスタードソードは、直訳すれば混血剣となる“片手でも両手でも扱える”柄の長めな剣であり、ユンゲが人間とエルフの混血種族“ハーフエルフ”であることを意識している、という後付け設定。

 二振りのグレートソードを扱う“漆黒の英雄”と差別化を図りたい狙いがありました。

 

主人公の見た目:

 傍目には二十代半ばくらい。外見のモデルは、元WWEスーパースターのエッジ(俳優のアダム・コープランド氏)の若い頃を思い描いています。

 彫りが深く精悍な顔立ちは、私の個人的な“格好良い男”のイメージを体現してくれています。性格面については、ユンゲが似ても似つかないヘタレキャラなので、外見だけのイメージとなりますが……。

 

 また完全な余談として、ユンゲの髪をかき上げる仕草は、引退して短髪にする前の彼がフィニッシュ・ムーブ(必殺技)を出すときに見せる、お決まりのポーズだったりします。

 

 ※ Royal Rumble 2020 で、まさかの復帰&長髪になっていました!

 

 *

 

元奴隷エルフの少女たち:

(原作に登場するキャラクターですが、職業以外はほぼ独自設定になるため、こちらに記載します。今後のアニメ化で外見等に矛盾が生じていた場合は、大墳墓潜入前にエルヤーさんが買い替えていたということで、ご理解していただければと思います)

 

 

キーファ / 職業:野伏〈レンジャー〉

 茶髪紫眼、ショートポニー。

 武器:弓と短剣 頭で考えるよりは、直感に任せて行動することを好む。実は読書家であり、古の英雄譚に淡い憧れを持つ。

 

 ※ 原作では補助魔法を使用している描写があったものの、この物語では魔法を使えない純粋なレンジャーになっています。

 

 

リンダ / 職業:神官〈クレリック〉

 銀髪蒼眼、セミロング。

 武器:長柄の錫杖 生来の世話好きな性格で、年長者なこともあり面倒事を任されやすい。身体能力にも優れる棒術の使い手。

 

 ※ 書籍版では職業にルビがなく、Web版での職業はプリーストとなっているのですが、パーティ内のバランスを考えた結果、前衛としても活躍してもらうために職業をクレリックと設定しています。

 

 

マリー / 職業:森祭司〈ドルイド〉

 金髪碧眼、サイドテール。

 武器:短杖 負けず嫌いでやや子どもっぽい性格ながら、計算高い一面もある。三人の中では最も小柄な体型を気にしているらしい。

 

 

 種族としては“金髪碧眼”なイメージのエルフたちですが、私の文章力では区別できなくなりそうなので、上記のような容姿に決めています。

 

 ユンゲは年若く見える彼女たちを庇護対象として考えていますが、エルフの寿命は一千年くらいという記述を何処かで読んだ気がするので、実は全員がユンゲより年上という(全く活かすことのできていない無駄な)設定をしています。

 ユンゲと行動をともにするようになった時点における彼女たちの強さは、エルヤー個人が強かったことを差し引いても、連携皆無な“天武”がミスリル級に相当する難易度の依頼をこなしていたという実績を踏まえて、冒険者ランクでいうところのゴールド級程度はあるものと推測しています。

 

 なお、現地の住人には成長の限界(レベルキャップ?)があることも示唆されていますが、一切の成長できないとなれば、物語の展開が辛くなってしまうかと思われますので、あまり考慮には入れずに進めていきたいと考えています。

 

 *

 

商隊護衛をともに務めた冒険者たち:

 

 アインズ様における“ニニャの日記”のような役回りとなります。

 彼らとの会話により、ユンゲはこの世界における一般的な知識を得ているものとご理解いただければ幸いです。ただし、先にもあるように十三英雄などの逸話を聞いても、この世界における御伽話の類いとして認識しているなど、必ずしも実態を把握している訳ではありません。

 また全くの余談として槍使いの戦士は“緑葉”パルパトラに憧れているといった無駄な設定も考えていましたが、今後の出番はないと思われます。

 更に余談となりますが、護衛した商会の名前については、某請負人〈ワーカー〉の家名から拝借させてもらっています。

 

 *

 

冒険者組合の受付嬢:

 

 書き始めた当初は、Web版のみで出番のあるお尻の大きな女性のつもりだったのですが、役回りとしては“冒険者組合の受付嬢”として、それ以上でも以下でもないため、特に意味のある名前などは設定していません。

 

 




投稿頻度は相変わらずで申し訳ないのですが、ご意見やご感想等をいただけると励みになりますので、今後ともよろしくお願いいたします。


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scene.2 新鋭の冒険者
(8)旅路


-これまでのお話-
突然の異世界転移後、冒険者として帝都アーウィンタールを訪れたユンゲは、偶然の出会いから天才剣士エルヤーとの賭け試合に挑み、勝利を収める。
奴隷の身分から解放されたものの、頼りのないエルフの少女たちに自らの境遇を重ね、ユンゲは一緒に旅することを提案したのだった。


 闘技場での戦いから一夜明け、ユンゲは街道を往く馬車の荷台に寝転がって、広大な青空とたなびく白雲をぼんやりと眺めていた。

 要人が乗るような仕立ての良い馬車ではないので、風雨を凌ぐための幌もなければ性能の良い懸架装置もなく、板張りな荷台の乗り心地はお世辞にも良くはない。

 街道に散らばる疎らな小石に乗り上げれば、その度にガタガタと車体が軋んでしまうほどだが、たっぷりと降り注がれる陽の光は温かく、時折り吹き去ってゆく涼やかな風に運ばれる草木の香りに鼻孔をくすぐられる感覚は悪くないものだ。

 気候の穏やかな昼下がり、軽トラックの荷台でうたた寝するようなイメージだろうか――。

 転移前の世界では体験することのできなかった“自然”を一身に感じられることに、ユンゲは喜びすら込み上げてくる思いだった。

「……なにか面白いことでもありましたか?」

 不意に同乗者から声をかけられ、ユンゲはゆっくりとそちらに顔を傾ける。

 鮮やかな金髪をサイドで括り、藍色のローブに身を包んだエルフの少女――最初に帝都の北市場で見かけたとき、エルヤーに虐げられていたのが、マリーと名乗った彼女だった――の人懐っこい笑顔と澄んだ碧の瞳が、ユンゲの表情を窺うように向けられていた。

「……ん? いや、いい天気だなぁと思ってさ」

 ユンゲの言葉に、マリーは不思議そうな様子を見せたが、それ以上の追及はしてこなかった。

 温かな陽だまりでのんびりと寛いでいる思いのユンゲにしてみれば、返答は偽りのないものだったが、豊かな自然を知るマリーからすれば違和感があったのかも知れない。

 しかし、マリーがそれ以上の言葉を噤んでしまったことには、少しばかり思うところがあった。

「――よっ」と勢い良く身体を起こしたユンゲが辺りを見渡せば、なだらかな丘陵の先に葉の生い茂る緑の木々の群れ――豊かなトブの大森林が目に飛び込んでくる。

 御者台に座るリンダと周囲を警戒するキーファの後ろ姿を見つつ、帝国領から王国領へと差し掛かろうかという状況を踏まえれば、そろそろ警戒を強めるべきかと考える。

 商隊の護衛をともにした冒険者に頼み、商会に用立ててもらった馬車を駆って、帝都を発ったのは今朝のこと――御者も雇わなければいけないかと思っていたが、幸いにしてリンダが馬を操る技術を持っており、彼女から任せてほしいとの言葉をもらったので、御者をお願いすることになった――行きには商隊で重い荷を運ぶため、一週間余りの旅程を組んでいたエ・ランテルから帝都アーウィンタールまでの道程の、概ね半分ほどの距離は進んだことになるのだろうか。

 食事などで小休止を挟みながらではあったが、かなりのハイペースだった。

「……リンダ、ずっと手綱を握っていて疲れてないか? どこかで馬車を停めて休もうか?」

 気遣う思いでユンゲは口にするが、「いえ、問題ありません」と機敏な反応が返るばかりだ。

 キーファにしても帝国領内におけるモンスターの襲撃の少なさから、気を張り続けなくてもいいと伝えても、どこか鬼気迫るような様子で周囲を見張ることをやめなかった。

(……どうするべきかな、もっと気楽にしてもらえたら良いんだけど――)

 三人には気付かれないように小さな溜め息をこぼしつつ、ユンゲは再び青空を仰いだ。

 

 キーファやリンダ、マリーの三人の森妖精〈エルフ〉は、昨日まで奴隷の身にあった。

 偶然の出会いから彼女たちの境遇に憤ったユンゲは、主人であるエルヤーに勝負を挑んだ。大闘技場での賭け試合を経て、彼女たちを奴隷の身分から解放することはできたのだが、頼れる場所のないエルフたちをそのまま放って置くこともできず、しばらくは行動を共にすることになった。

 しかし、頼れる場所がないという点については、突然の異世界転移をしてしまったユンゲも同様であったために、一旦はバハルス帝国を離れて多少なりとも面識者のいるエ・ランテルへと戻ることを決めていた。

 帝国魔法学院には、異世界転移魔法の有無という一点で興味もあったのだが、もともと可能性は低そうだという判断していたこともあり、今回は見送ることにしている。

 エ・ランテルへの帰還については、奴隷として辛い目にあっていたであろう彼女たちの、帝都から離れたいという気持ちを慮ってと言えば聞こえは良いのだが、ユンゲの中に打算的な思いがあったことは否めない。

 奴隷市場が成立しているくらいなので、帝国において奴隷として過ごしているエルフが彼女たちばかりのはずはなく、多くのエルフが望まない境遇に身を置いていることは想像に難くない。

 奴隷エルフの扱いに対する憤りの根源を自分自身で理解できていないユンゲにしてみれば、同じような光景を目にして黙っていられるとも思えない反面で、全てのエルフを助けるような聖人の真似事をする気にもなれなかったというのが本当のところだ。

 そして、正確なところは分からないのだが、マリーの距離を置いた振る舞いやキーファとリンダが見せる頑なな態度は、奴隷として過ごした日々に起因するものに思われた。

 ――邪魔になってはいけないとか、役に立たなければならない、といった思いは転移前の世界でも折りに触れて実感することがあった。

(……そういう意味だと、現実の世界で生きていることは奴隷と変わらないのかも知れないな)

 何気なく抱いた考えに暗澹たる感情を覚えながら、ユンゲはちらりと傍らのマリーを一瞥する。

 細い肩がぴくりと跳ね、上目遣いに覗き込まれた碧の瞳には、怖れにも似たような名状できない感情の揺らぎが垣間見える。

 何でもないよ、と安心させるように肩を竦めてユンゲは前に向き直るが、問うような視線が横顔に突き刺さるのを感じる。

(……何かあるなら言ってくれればいいのにな)

 街道の先には石造りの巨大な門――バハルス帝国の国境に設けられた関所の威容が現れていた。

 

 *

 

「これ、すっごい甘くて美味しいですね!」

「――だろ? この濃厚な甘さが癖になるんだよ」

 瑞々しいピンク色の果肉を頬張り、表情を綻ばせるマリーに笑いかけながら、ユンゲは新たに皮を剥いたレインフルーツを「ほらっ、食べてみな」とリンダに手渡す。片手で手綱を握ったままのリンダが、恭しく受け取った果実を口に含めば、隠しきれない驚きが表情に現れた。

 どこか気品すら漂わせる長身の美人が、子どものように目をぱちくりと見開く様は、なんというか不思議な愛嬌を感じさせてくれるのだが――、取り繕うように紡がれた「美味しいですね、ありがとうございます」というリンダの謝辞を吹き飛ばすように、横の少女から喜声が上がった。

「ほんと美味しいー!」

 こちらは年相応というよりはやや幼い印象――と言っていいのか、正確な年齢は知らないのだが――の無邪気さを発揮したキーファが満面の笑みでレインフルーツに舌鼓を打っている。

「そうか、たっぷり買い込んできたからな。好きなだけ食べて良いぜ」

「うん、ありがとう!」

 さほど広くはない馬車の荷台の上、大半のスペースを占めているのは、帝都の大広場で買い求めた大量の食料品だ。香りの良い燻製肉を始め、酢漬けの鰊や開いた魚介類の干物のほか、玉葱や大蒜といった保存の利く野菜などを中心に買い込んでいる。レインフルーツはあまり日持ちしないという話だったが、帝都散策中にお気に入りになっていたので、特に多めに買い込んでいた。

 市場で馬車の荷台に積み込んでいるときには、こんなに買ってどうするつもりなのだろうとばかりに、訝る視線を方々から感じながらも努めて無視をしたものだが、皆にこれほど嬉しそうに食べてもらえるようなら幸いだと思う。

 しかし、意図したつもりもなく餌付けのような形になってしまっていることに、ユンゲはやや心苦しいような思いも抱いていた。

(……でも、せっかくの旅路なら笑顔で過ごせるほうがいいはずだよな。――エルフの故郷にはなかった果物って話だけど、帝都の市場には幾らでも売られているのに一度も食べたことすらなかったんだな……)

 レインフルーツを口にしながら笑顔を交わす三人のエルフたちを見やり、彼女たちの置かれていた境遇を思い、再び抑えられない憤りが込み上げる。

 単純な正義感とも違う、根源の分からない激情を悟られないようにユンゲはかぶりを振る。

 自分自身の気持ちを誤魔化すように、積まれた箱から拾い上げたレインフルーツの皮を剥きかけたところで、ユンゲは不意の気配に手を止めた。

(――ん、なんだ? この変な感じ……)

 バハルス帝国を抜けてから、念のために張っておいた探知魔法に不思議な反応を感じた。

 気配を探って視線を巡らせば、街道を外れたトブの大森林の木々の向こうに、胸騒ぎを覚える。

(……一応、確かめておいた方が良いよな)

 ユンゲがやおらと立ち上がれば、気付いたマリーが何事かと上目遣いに問うてくる。

「なんか、妙な気配がするから様子を見てくるよ。皆はここで待っててくれ――」

「え、――あ、あの私も連れて行っていただけないでしょうか……?」

 ユンゲの言葉に重ねるように声を上げたのはマリーだった。

「いや、ちょっと様子を見てくるだけだから……」と言葉を続けかけたユンゲだったが、意外なほど強い意志を感じさせる碧の瞳に見つめられて、思わず言葉を失う。

 どこか使命感とでもいうのだろうか、悲壮感にも似た表情を浮かべるマリーを見れば、その思いの一端は分かる気がした。

 キーファやリンダが警戒や御者といった、それぞれの役割を務めていることが重荷となってしまっているのかも知れない――せっかくの願いを無下にしてしまうのも、幼い少女には酷な対応だろう。

(……まぁ、もし危険があっても一人くらいなら大丈夫か、――ん?)

 少し考えているうちに三人の視線が自分に集中していたことに気付き、何となく面映ゆい。

 咳払いを一つ、ユンゲは考えをまとめながら言葉を紡ぐ。

「キーファは引き続き警戒を頼む。何か問題が起きたらリンダが<メッセージ/伝言>で俺に知らせてくれ、すぐに戻る。マリーは俺と一緒に来てくれ――念のための確認だから、何もないとは思うんだけどな……」

 三人のエルフに指示を伝えていくが、口調はやや尻すぼみになってしまう。そもそも探知魔法に違和感を覚えた程度のことでしかないので、偉そうな態度を取るのも気が引ける。

 意外なほど熱意の込められた三人からの返事を聞きつつ、ユンゲはどこかむず痒いような思いで頬をかくのだった。

 

 *

 

「――これは、いったい何が起きたんだ……?」

 鬱蒼としたトブの大森林を進みながら言いようのない焦燥に襲われ、思わず駆け出したユンゲは、唐突に開けた視界の先に広がる光景を目にして息を呑んだ。

 ――黒々と爛れたような断崖の底に広がる、絶死の大地。

 直径は二〇〇メートルにも及ぶだろうか、幾重もの木々が生い茂っていたであろう原生林の一角は、広大な範囲に渡って抉られたクレーターのように喪われ、何もない砂漠だけが広がっていた。

 断崖の際に立って、眼下の凄まじい景色を観察していると後から駆けてきたマリーも同じように息を呑む気配があった。

(……隕石でも落ちたような――いや、周りの木は折れたり、薙ぎ倒されたりしてないから……範囲魔法? でもこんな威力の魔法って……)

「――あっ、向こうに人がいるみたいです!」

 思考に沈みかけたユンゲだったが、傍らのマリーの声に意識を呼び戻す。

 マリーが指差した先に目線を向ければ、対岸の崖の上には数人の人影――無詠唱化した<クレアボヤンス/千里眼>で強化した視力に映る男たちの中に、見覚えのある顔が一人いる気がした。

 記憶を探れば、いつかのエ・ランテル共同墓地でのアンデッド騒動の際、集まった冒険者を相手に演説をしていた初老の男だと思われた。

「……他にいるのは冒険者、か?」

 ユンゲは疑問を口にしつつ、危険な連中ではなさそうだと判断をつけて、マリーを振り返る。

「ちょっと話を聞きに行ってみようか――、<フライ/飛行>は使える?」

「いえ、私は第二位階までしか使えないです……」

「そうか、なら少し我慢しててもらえるかな――、よっと」

 “我慢”という言葉に小首をかしげて疑問符を浮かべるマリーに、ユンゲは悪戯っぽい笑みを投げかけ――そのまま無造作にマリーを横抱きに担ぎ上げる。

 驚くほどの軽さに思わず呆気にとられかけるユンゲだったが、一拍の間を置いて躊躇なく崖を飛び降りる。

「――えっ、えっ、きゃあぁああああ……」

 エルフの少女の哀れな悲鳴を置き去りに、落下しながら<フライ/飛行>を詠唱したユンゲは、マリーを抱いてふわりと空中に舞う。

(……自由に空を飛べるって、あらためて考えてみると凄いよな)

 風を切る心地良い感覚に身を委ねていたユンゲの胸に、マリーの細い腕が縋ってくる。

 何気なく懐に目を落とせば、固く目を閉じ、痛いほど首に抱き着いてくるマリーの姿――ちょっと悪ふざけが過ぎたかと思うが、これで怒ってくれるならそれも良いかと思い直すことにして、人影の方へ向かってユンゲは空を駆けた。

 あまりに現実離れした大地の上を横切るように飛びながら、ユンゲの胸を満たしていくのは、未知への強い渇望だった。

 

 




帝都からエ・ランテルへの帰路で、ホニョペニョコ騒動の跡地に立ち寄るのは地理的に難しいかと思うのですが、目を瞑っていただければ幸いです。


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(9)変化

だいぶ投稿間隔が開いてしまいました。
お待ちいただいていた方には、申し訳ないです。

いよいよアニメ3期が始まりましたね!
とても丁寧な作りだったので、これからが楽しみです。


 鬱蒼としたトブの大森林の僻地――、黒く爛れた断崖に囲まれた砂漠ばかりが広がる絶死の大地の上、ユンゲは身体を強張らせるマリーを横抱きにして軽やかに飛んでいく。

 対岸に見かけた人影たちもこちらの存在に気付いたらしく、初老の男の後ろに控えていた冒険者が、警戒のために武器を手に取るのが分かった。

 近付いたことで確認できる首元のプレートは、おそらくミスリル製だろうか。

 騒動を起こしたいわけではないので、敵意はないことを示すように肩を竦めながら、ユンゲは冒険者の一団から少しの距離を置いて降り立った。

 ようやっと地面に下ろされ、膝をがくがくとさせているマリーの非難めいた視線は、一旦無視をすることにしてユンゲは冒険者たちに向き直る。

「……何者だ?」

 くすんだ金髪をオールバックに撫で固めた大柄な男が、初老の男を庇うように進み出て――初老の男の方がよほど手練れにも見えるのだが、冒険者を示すプレートは身に着けていない様子なので、立場が違うのだろう――剣の柄に手をかけながら、誰何の声を上げた。

 やや不躾な態度とも思えるが、ここは上位の冒険者を立てるべきだろうと現実世界での社会人経験がユンゲの理性に囁いてくる。

「失礼しました。エ・ランテル冒険者組合に所属する、ユンゲ・ブレッターです。こちらは、今度から組むことになった――」

「マリーです。よろしくお願いします」

 ユンゲに続き、促されたマリーが名乗り終えると、最初に反応を見せたのは初老の男だった。

「――なるほど、君が……ふむ、直接話すのは初めてになるかね。私は、エ・ランテル冒険者組合を預かるプルトン・アインザックだ」

「……組合長、この森妖精〈エルフ〉の青年をご存知だったのですか?」

「あぁ、先日の共同墓地で起きた事件のときに、活躍してくれてね。君たちの有望な後輩だ、先達として私からも彼らをよろしく頼むよ。――ユンゲ君と呼んでも構わないかね?」

 思いがけない大物の登場に、ユンゲは驚きが顔に出ないように努めつつ、いつかの“漆黒の戦士”を脳裡に思い描きながら落ち着いた振る舞いを心掛けて、「構いませんよ」と軽く手を払うように応えてみせた。

「なるほど、あのアンデッドが大量発生した……、分かりました。――先ほどは済まないね、私はチーム“虹”のリーダーを務めている、モックナックだ。よろしくな」

 好々爺然としたアインザックと人の良さそうな笑みを浮かべるモックナックに、「こちらこそ、よろしくお願いしますね」と軽い一礼を返し、ユンゲは口許を綻ばせた。

 二人の視線がエルフの耳を捉えているような気がしたが、そこに不快な感情は見られない。

「――もっとも、エルフだという報告は受けていなかったがね」

「ハーフエルフなので、半分だけですけどね。別に隠していたつもりはないですよ。……問題は、ありませんよね?」

「勿論だとも、冒険者組合は力ある者を歓迎するよ。先ほどの<フライ/飛行>を見れば、報告を受けた通り第三位階魔法を行使できるようだから、すぐにでも昇格を検討しないといけないようだね」

 歓迎を示すように両手を広げてみせながら、にやりと笑うアインザックに、「良い検討結果を期待させてもらいます」とユンゲは言葉を続ける。

「ところで……彼女だけでなく、あと二名の冒険者登録をしてもらい、新しくチームを組みたいと考えているのですが、その場合の冒険者ランクはどうなるでしょうか?」

「最初の登録段階では、誰にでも銅のプレートを付与することになるね。今後チームとして活動していくのであれば、昇格試験をチーム単位で受けてもらうのが良いだろう――」

 アインザックは一旦言葉を区切り、マリーに視線を向けて問いかける。

「……信仰系の魔法詠唱者かな。もしや、君も第三位階魔法を使えたりするのかね?」

「森祭司<ドルイド>ですが、私が使えるのは第二位階までです」

「なるほど……ふむ、そう気負わなくとも良いよ。――そうだね、第二位階まで使えるのならば、君も彼と同じシルバー級にはすぐにでも昇格できるだろう」

 勢い込んで答えたマリーを落ち着かせるように、アインザックは柔らかい口調で言葉を紡いでほほ笑んでみせ、ユンゲに問いを重ねた。

「あとの二名というのも、近くにいるのかい?」

「帝都からの帰路でしたので、街道の馬車で待ってもらっています」

「……そうか。君たちがこの場所に来たのは、何故か理由を聞いても構わないかね?」

「特に理由があったわけではないのですが、妙な胸騒ぎを覚えて様子を見に来たところ、このような有様でしたので……」

 ようやく本題に入れたことを安堵しつつ、口にしながら背後の光景を振り返えれば、どうしてもユンゲは苦笑を浮かべてしまう。

「いったい何が起きたのかと思っていたときに、皆様の姿をお見かけしたので、何かお話でもお聞きできないかと思いまして――」

 ユンゲの言葉に、アインザックはモックナックと無言で目配せを交わすと、一つ小さく頷いてから説明をしてくれた。

 

 アインザック曰く、この惨状は“漆黒の戦士”モモンがとある吸血鬼を討伐した戦場跡らしい。

 エ・ランテル近郊に隠れ処を持っていた盗賊団がおり、その調査に向かったはずの冒険者の一団は、道中で未知のモンスターに遭遇して半壊してしまう事態となった。

 そして、生き残った数少ない目撃情報から、そのモンスターは第三位階魔法すら使いこなす、強大な力を持った吸血鬼と考えられた。

 上位冒険者や街の有識者を交えて、緊急の吸血鬼対策を協議していたところ、討伐に名乗りを上げたのが先のモモンであり、件の吸血鬼はモモンが故郷から追っていた二匹の吸血鬼の片割れ“ホニョペニョコ”であった。

 第八位階の魔法が込められた魔封じの水晶を切り札に討伐に乗り出したモモンは、激戦の末に件の吸血鬼討伐を果たしたものの、ようやくと帰還したモモンの全身鎧は大きく破損し、焼け焦げ切り裂かれたような爪痕が、戦いの凄まじさを物語っていたのだという。

「――同行したミスリル級の冒険者チームは全滅し、遺体の回収すらできていない。大きな痛手ではあるが、この状況を目の前にすれば、それもやむを得ないといったところだろう。……モモン君の話を疑ったわけではないのだが、やはり自分の目で確かめるべきだと判断して、私もモックナック君たちを供にこの地に来たのだよ」

 やれやれとばかりに肩を竦め、アインザックは話をそう締め括った。 

「第八位階……そんな神話みたいな魔法が実在するなんて」

 声を震わせて狼狽するマリーの背を支えながら、ユンゲは凄まじい力の奔流に曝されたであろう、黒々とした大地を振り返り思考に耽る。

(……第八位階程度の魔法で、これほどのことが可能なのだろうか?)

 特定の魔法職に特化すれば、五十レベルにもなれば使用可能な魔法のはずだ。

 いや、ユグドラシルの基準を当てはめようとするのが間違っているのか――そもそも、この転移した異世界においても、ユグドラシルの魔法が使えることを疑問に思うべきなのだろうか。

 判断のつかないことではあったが、アインザックやマリーの様子を見れば、この世界における第八位階魔法が如何に凄まじいものなのかは、ユンゲにも想像に難くない。

 第三位階の魔法が使える程度でも上位冒険者として位置付けられるのだから、それも道理といったところだろう。

(……けど、これは不味いよな)

 魔法の位階についても気になることではあったが、問題は別のところにあった。

 アインザックの説明を受けて、あらためて戦場跡を眺めるユンゲの胸中に宿るのは“恐怖”だ。

 これまで、戦ってきたオーガやアンデッドなどのモンスターは十レベルにも満たないほど、闘技場で無敗を誇っていたという“天才剣士”エルヤー・ウズルスを相手にしても、全力を出すまでもなくあっさりと勝利することができたのだ。

 しかし、これほどの惨状を経なくては倒せないほどのモンスターが存在することに、ユンゲは自身の力――この転移後の世界においては圧倒的だと過信していたことを思い知らされる。

 果たして今の自分の力で、吸血鬼“ホニョペニョコ”を倒すことはできるのだろうか。

 ――正直な思いを吐露するのなら、ユンゲの中で自信はなくなっていた。

 帝都からの帰路、油断のためにほとんど警戒などしてこなかったのは、間違いだったと考え直さなければいけないだろう。

 そして、アインザックの話には見逃せない点がもう一つある。

「アインザック組合長、モモン殿が追っている吸血鬼は二匹……ということでしたよね?」

「……そのようだ。今のところ、もう一匹の姿は確認されてはいないがね」

 眉間にしわを寄せ、何とも言えない表情を浮かべながらアインザックが答える。

 ユンゲ自身も、似たような表情を浮かべているのだろうか。

 人の身では抗えない超常現象を前に、なすすべもなく立ち尽くしてしまうような思いは同じかも知れない。

 しかし、立ち尽くしているばかりでは何も変わらないだろう。

 マリーの薄い肩を抱く手に力を込めながら、ユンゲは口を開いた。

「――すみません。待たせている仲間のことが心配なので、私たちは馬車に戻ろうと思います。貴重なお話をいただき、ありがとうございました」

「あぁ、それが良いだろう。またエ・ランテルの冒険者組合で会うとしよう」

「共同で依頼を請け負うこともあるだろう。そのときはよろしく頼むよ」

 力強さを感じさせる声音でアインザックが告げると、モックナックが言葉を続けてユンゲとマリーそれぞれに握手を求めてくる。

 はい、と快く握手に応じたユンゲとマリーは、「それでは失礼します」と踵を返して、アインザックたちに別れを告げた。

 

 未曽有の大惨事とも思えてしまう怖しい光景に向き直れば、思わず身震いしかけるユンゲではあったが、無様な姿を見せるわけにもいかない。

「……またここを飛んでいくことになるけど、大丈夫か?」

 あえて揶揄うような口調でマリーに笑いかけたのなら、憮然とした表情に迎えられた。

 ――そこには気弱な少女の姿も、必死で背伸びするような気丈な姿もない。

「……とりあえず、何かするときは事前に教えてください。心の準備くらいしたいですから」

「ん、あぁ……了解です」

 何となく尻すぼみになる声音を抑えつつ、ユンゲは<フライ/飛行>の魔法を唱えるのだった。

 




今話はユンゲの意識改革回。


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(10)祝杯

前話を投稿するときにアニメ3期の開始について触れたはずなのに、気付けばもう折り返し……、時空の歪みが起きてしまっているようですね。

投稿頻度はなかなか上がらなそうではありますが、細々と続けていきたいと思いますので、他作者様の素晴らしい作品を楽しみつつ、気長にお付き合いいただければ幸いです。


「……では、メンバー全員のシルバー級昇格を祝して――、乾杯!」

 なみなみと注がれたエールの陶製のジョッキを掲げながらユンゲが声を張り上げれば、「乾杯!」と唱和する少女たちの声に続き、ジョッキを打ち鳴らし合う軽やかな音が、まだ客入りの少ない夕暮れ前の酒場に響いた。

 溢れこぼれたエールが卓上を濡らしてしまうものの、格式や礼儀を重んじる場でもないので、咎めようとする者はいない。

 ゴクゴクと一気にエールを飲み空けたユンゲの口からは、自然と満足の吐息がこぼれる。

 向かいの席に着いていたリンダが続いて杯を空け、その傍らではマリーがやや遅れるようにして、空になった小振りのジョッキをことりとテーブルに置いた。

「美味しいです」と笑顔を浮かべてみせるマリーだが、その表情はどこか苦しそうにも見える。

(……変に触れてやらない方が良いかな)

 ぼんやりと考えながら、ふと隣の席に目を移せば、子栗鼠のように頬を膨らませたキーファが、半分ほども中身の入ったジョッキを傾けたままの姿勢で固まり、「……んぐ、んぐ」と目を潤ませていた。

 慌ててジョッキを取り上げつつ、落ち着かせるようにユンゲが背を擦ってやったのなら、ぷるぷると震えたキーファは口に含んでいたエールをごくりと飲み込み、ようやっと息をついてみせる。

「…………苦い、うぅ」

「ははっ、エールが苦手なら無理しないで良いんだぞ」

 頑なだった様子にやや呆れながらも、ユンゲは相好を崩してキーファの頭を軽く撫でた。

 ――アルハラは忌むべきことだ、飲酒を強要するつもりはない。

「キーファは甘い酒のほうがいいか? それとも酒はやめとくか?」

「……甘いのがいい」

「そうか、なら果実酒でも頼もう。二人はどうする?」

 気恥ずかしそうに少しだけ頬を赤らめたキーファの答えを聞きつつ、ユンゲは向かいのリンダとマリーにも注文を確認する。

「私は同じもので構いません」とリンダがはきはきと答え、小首を傾げていたマリーは少し躊躇った様子ながら、「私も甘い果実酒が欲しいです」と口許に小さな笑みを浮かべた。

 了解したと軽く返しつつ、ユンゲは給仕の店員を呼び止めて追加の飲み物の注文を通し、ついでとばかり品書き――未だにこの世界の文字は読めないので、何のメニューかは分からない――を指でなぞりながら、「ここから、ここまでを二皿ずつお願い」と大雑把な注文をしていく。

 出会った当初こそ、今の注文を承った店員のように、ユンゲの食事量に若干引き気味だった森妖精〈エルフ〉の少女たちも、数日をともに過ごせば慣れたものなので、特に気にする素振りもない。

 この異世界に転移し、ハーフエルフの身体になってからの異常な食欲は、エルフの種族特性かとも思っていたユンゲだったが、彼女たちエルフの食べる量は一般の人間と大差ないので、判断はとりあえず保留にしている。

 キーファから取り上げたエールで喉を潤しつつ、「しっかり運動してるんだから、別に構わないよな」とユンゲは誰にともない言い訳を心の内で重ねるのだった。

 

「それにしても、こんなにも早く昇格させてもらえるなんて、エ・ランテルの冒険者組合はすごいところですね」

「そうだな、登録して間もない私たちにいきなり昇格試験を受けさせてくれるのだから、組織の考えが柔軟なのだろう。――まぁ、全てはユンゲ殿の存在からなのでしょうけどね」

 料理が運ばれてくるまでの場をつなぐようにマリーが声を弾ませると、同意をするようにリンダが頷きを返し、最後の台詞をこちらへと向けて苦笑するように言葉を紡いだ。

 まだ口の中に残っているエールの苦みに耐えているであろうキーファは、声なく首肯を繰り返すことで同意の意思を伝えているつもりらしい。

 顔がこくこくと上下するのに合わせて、後ろ手に括った栗色のポニーテールが揺れ跳ねるのが、なんとはなく愛嬌を感じさせてくれる。

 

 トブの大森林でアインザックらと別れた後、街道に待たせていたキーファとリンダを伴ってエ・ランテルへと帰還したユンゲは、その足で冒険者組合の門扉を叩き、彼女たちの冒険者登録と今後は四人でチームを組むことを報告した。

 いつもの顔馴染みとなっていた受付嬢は生憎と不在であったが、先にアインザックから話は通っていたようで、エルフであっても冒険者の登録はつつがなく完了した。

 ユンゲたちを驚かせたのは、登録を終えたその場で昇格試験に関する提案をされたことだ。

 本来であれば、いくつかの依頼をこなし実績を残すことで挑戦できるはずだったのだが、リンダの言葉が答えなのだろう。

 ホニョペニョコやモモンといった超常の存在にやや気圧されていたユンゲではあったが、この世界において抜きん出た実力を持つことに疑いはない。

 ある程度目端の利く人物ならば、敵にするよりは内に取り込んでおきたいと考えるのは道理なのだろうと思えた。

 チーム仲間のマリーたちを厚遇する姿勢を示すことで、ユンゲにも便宜を図ろうとする冒険者組合の思惑が透けて見えるようだが――、

「組合の考えを俺たちが気にしても仕方ないさ。冒険者のランクが上がれば受けられる依頼は増えるし、報酬も多くなる。美味い飯も食えるようになるんだから、良いこと尽くめだ」

 言い差し、残っていたエールの杯を呷ってユンゲは言葉を続けた。

「それにキミたちの昇格は、実力からして妥当だろう。昇格が早いか、遅いか――それだけの話だ」

 やや冗談めかせた口調で笑いかけるが、ユンゲの言葉に嘘はない。

 

 冒険者組合から提示された昇格試験の内容は、エ・ランテル共同墓地の夜間警戒であった。

 先に起きたアンデッド大量発生は人為的なものであったが、墓地における低位のアンデッドの発生は日常的に確認されており、放置すればより上位のアンデッドが生まれてしまう可能性がある。

 そのために墓地の見回りと定期的なアンデッドの討伐は欠くことのできない仕事であり、常日頃から依頼という形で冒険者組合のクエストボードに張り出されている。

 例外的に強力なアンデッドが出現したこともあったらしいが、敵となるアンデッドの難度――意味合いとしてはユグドラシルにおけるレベルと同義であり、この世界におけるモンスターや冒険者の強さの指標となる――が一定の程度を見込めるため、冒険者の実力を測る目的の昇格試験として都合が良いのだろう。

 エ・ランテル帰還の翌日、昨夜から今朝にかけて昇格試験を実施したユンゲたちは、宿で仮眠を取ってから向かった冒険者組合で、先ほど全員の昇格決定とともに新しいプレートを受け取り、そのまま昼下がりの酒場で祝杯を挙げることにしたのだった。

 チームとしての昇格試験であったため、建前の上で同行したユンゲであったが、最初に<ダーク・ヴィジョン/闇視>などの簡単な補助魔法を使ったことを除けば、以降の出番はほとんどなかった。

 神官〈クレリック〉として前衛もこなせるリンダを中心に、信仰系魔法を使える森祭司〈ドルイド〉のマリーが傍を固め、野伏〈レンジャー〉のキーファは索敵や陽動を中心として、見事に連携しながら上手く立ち回っていた。

 授与される冒険者のランクが、アイアン級を飛ばしてシルバー級となったのも、試験中に出現した血肉の大男<ブラッドミート・ハルク>を打ち倒した功績――腕力にあかせて殴ることしかできないアンデッドの一種だが、再生能力を持つために討伐にはかなりの時間が必要となる相手であり、難度に照らせばシルバー級からゴールド級の冒険者が戦うべき強敵とされるらしい――によるものだ。

 不本意ながらも、エルヤーの率いたワーカーチーム“天武”において、ミスリル級にも相当する依頼をこなしていた、という彼女たちの実力は確かなものだろう。

 転移時に得た“ユグドラシルの恩恵”があり、アバターの能力を引き継いでいる自身にはない、現実の経験として培われた彼女たちの努力の成果は、ユンゲの目にとても眩しく映っていた。

 

「――お褒めいただき恐縮ですが、やはりいざとなればユンゲ殿が控えていることが、とても心強いのですよ。まだ至らないことは重々承知しておりますが、私たちもいつかは並び立てるように精進したいと思います」

 リンダのあまりに殊勝な返しに思わず口を開きかけたユンゲだったが、計ったかのように追加の酒類と料理が運ばれてくると、芳ばしい香りに鼻孔をつかれタイミングを逸してしまう。

 エルフの少女たちから向けられる賞賛にどのような反応を返すべきなのか、答えを誤魔化すようにひとつ小さく咳払いをしたユンゲは、「……期待してるよ」と短く告げるに止めた。

 この世界におけるレベルの上限について判断はつかないが、トブの大森林で見た吸血鬼討伐跡の凄まじい光景を脳裡に思い浮かべれば、まだまだ上はあるのだろう。

 ――彼女たちに胸を張って誇れるように、俺も強くならないとな。

 小さな決意とともにゆっくりと深呼吸をし、テーブルに着いたエルフの少女たちの顔を見回す。

 一様に小首を傾げて疑問符を浮かべる少女たちを見遣り、思わず頬を緩めたユンゲは、新しく運ばれてきたエールのジョッキを手に取りながら口を開いた。

「さぁ、美味そうな料理だ。冷めないうちに食べようぜ!」

 

 *

 

 すっかりと陽の落ち、暗がりを押し退けるように路地の角ごとで篝火が焚かれているエ・ランテルの街並みは、〈コンティニュアル・ライト/永続光〉に照らされた帝都の街並みとはまた違った趣に包まれている。

 通りに面する壁を取り払った酒場からは、道を跨ぐように宴会の席が広げられ、日中の仕事を終えた職人や荷揚げ夫、依頼を終えた冒険者たちが、明日の英気を養うための酒盛りに忙しい。

 昼過ぎからこれまで、酒宴を続けていたユンゲたちのテーブルの惨状は燦々たるものだが、夕暮れから混み始めた酒場の喧騒の中では、それほど悪目立ちすることもなかった。

 特徴的な耳を晒していてもエルフであることを全く見咎められない辺り、帝国よりも過ごしやすい街であることは間違いないだろう。

 酒精に強いリンダと早々に果実水に切り替えたキーファはともかく、何の意地なのかユンゲのペースに合わせて果実酒を飲み続けたマリーは、リンダの膝を借りながら既に夢見心地だ。

 酒にうなされ苦しそうでもあり、一方でどこか憑き物の落ちたような寝顔は、虐げられる境遇から逃れられた安堵の思いを映しているのかも知れない。

「くくっ、これじゃあ明日は二日酔いで仕事にならなそうだな」

 鮮やかな金色の前髪を指先で左右に梳いて、マリーの寝顔を確認したユンゲは軽口で笑う。

「そのようですね。回復魔法で治すこともできますが、自分の限界くらいは知っておいた方がマリーのためでしょう」

「なるほど、そんな使い方もあるのか。……酒精は毒みたいな扱いってことか?」

 苦笑しながら「その通りです」と答え、リンダは膝に抱えたマリーの頭を慈しむように撫でる。

 クレリックという職業柄なのか生来のものなのか、リンダはとても面倒見の良い性格の持ち主で、三人の中では年長者ということもあり、これまでも保護者のような振る舞いを見せることが多かった。

 三人ともかなりの美形なためか、先ほどから他テーブルの男衆からの視線が鬱陶しくもあるのだが、リンダに任せておけばこの場で問題は起こりそうにもない。

「……少しだけ夜風を浴びたいから、外に出て来ても大丈夫か?」

「ええ、問題ありませんよ。追加のエールでも飲みながらお待ちしております」

 嫋やかな見送りを受けつつ、ユンゲは静かに酒場の外へと向かう。

 腕も腹もまくって騒ぐ、赤ら顔の酔客たちの合間を縫って通りに出れば、いつの間にか夜の帳が下りた空には星たちが瞬き始めていた。

 この世界に降り立った日のことを思えば、胸に込み上げてくる想いもあるのだが、今はそんな場合ではないと思い直し、無詠唱化した魔法を発動する。

「…………、〈センス・エネミー/敵感知〉には反応なしか、どうしたもんかな」

 手持ち無沙汰なユンゲの口から誰にともなく言葉がこぼれた。

「ユンゲ、ちょっといいかな?」

 呼びかけの声に振り返れば、キーファの真剣な眼差しに迎えられた。

 頬が赤く染まって見えるのは酒精の影響だろうか、元より肌の白いエルフなので青白い月明かりの下にあって、赤みがより強調されているような印象さえ受ける。

 構わないよ、と先を促すように示したのなら、やや潜めた声でキーファが話し始めた。

「もう気付いてるかも知れないけど、監視されてる……ような気がする」

 少しばかり自信がないようにも聞こえるが、レンジャーであるキーファだからこそ気付くことができたのだろう。

 その紫の瞳には、確かな確信の色が見て取れる。

「――そうみたいみたいだな。いつ頃から監視されていると思う?」

「最初に感じたのは昇格試験のとき、試験官みたいな人が見張っているのかと思ったんだけど……、酒場で飲んでいる最中から、また同じような相手からの気配を感じた」

「俺と同じだな。気のせいかとも考えたが、二人ともが察知したなら多分間違いない」

 ユンゲはキーファの発言を引き取り、互いに頷きを交わす。

「相手は何者だと思う? 今のところ敵対するような雰囲気ではないけど……」

 今の条件だけでは疑問に明確な答えを出すことはできず、二人は頭を悩ませる。

 そもそも監視されている対象が誰なのか、ユンゲなのかエルフの少女たちなのか、或いはチーム全員が監視対象なのか――。

 狙いがユンゲだとすれば、相手の素性もつかみやすいかも知れない。

 この世界に転移してから日も浅く関わってきた人間も少人数に限られるが、ひそかに監視されるような覚えはない。

 キーファたちが狙いだとすれば筆頭候補は、あのエルヤーだろうかとも思うが、あれほど力の差を見せつけられた後で、安易な報復は仕掛けてこないように思えた。

 奴隷商にしても、売却済みの奴隷にまで関与はしてこないはずだ。

 チーム全員が対象なら思いつくところでは、エルフへの偏見や早すぎる昇格に対する嫉妬心や対抗心といったところかも知れない。

 昇格という点に関してならば、瞬く間に冒険者の最高位に当たるアダマンタイト級にまで昇りつめた“漆黒”のモモンとナーベにも向きそうなものだが、当代の英雄とまで称される彼らにわざわざ喧嘩を売る輩もいないのだろう。

 根拠も何もないが、スピード出世への嫉妬という路線は転移前の世界でも往々にしてありうることを思えば、妥当な考えのように感じられた。

 

「とりあえずは様子を見てみるしかないかな。警戒だけは怠らないようにしよう」

 そう言って酒場の中の二人にも注意だけはしておこうとユンゲは踵を返しかけ、「――あ、待って一つ相談があるの!」とキーファに呼び止められて、その場にたたらを踏んだ。

 内心の焦りを取り繕うようにやおらと頷き、キーファに向き直って聞く姿勢をみせる。

「あの、冒険者組合でプレートをもらったとき、カッツェ平野でのアンデッド目撃情報が増えているって話があったじゃない?」

「ああ、近いうちに討伐隊を募るって話だったな」

 アインザックからの言伝として、編成される討伐隊にはユンゲたちにも参加してほしいという旨を受付嬢から聞いていた。

「それで、あたしの武器なんだけど、今のままだと皆に迷惑をかけてしまうと思って……」

 キーファの言わんとすることを理解し、ユンゲは顎に手を当て思考に沈む。

 レンジャーとして弓と短剣を駆使するキーファの戦闘スタイルではゾンビ系はともかく、刺突攻撃に対する完全耐性のほか、斬撃耐性も有するスケルトン系を相手にしては分が悪い。

 簡単な対策としては、スケルトンに有効な打撃系の武器を装備することが望ましいが、彼女の持ち味である機動力の妨げになるだろうし、慣れない武器を使用しての戦闘は困難になるだろう。

 ユグドラシル産の強力な武器でもあったのなら話は異なるのだろうが、友人から譲り受けた武器の性能に頼り切ったユンゲは、手に入れた武器のほとんどを換金してスクロールなどの消費アイテムにしてしまっていた。

(……キーファは後方に控えていてくれればいい、と言っても納得はしないだろうな)

 彼女たちが健気にもユンゲの役に立ちたいと願っていることは理解しているつもりなので、無下にもできない。

 各々が得意とする方面で頑張ってもらうには――、小さく「良しっ」と呟き、顔を上げたユンゲはキーファの顔を正面から覗き込み、慎重に言葉を紡いだ。

「キーファ、俺たちはチームだ。足りないところがあるなら、互いに補い合えばいい。アンデッドが相手なら俺とリンダが前に出るから、周囲への警戒はどうしても疎かになる。どこから現れるかも分からない相手への対処はキーファに任せるしかない。身体能力に劣るドルイドのマリーを矢面に立たせるわけにもいかないから、キーファが頼みだ。迷惑なんてことはない」

 よろしく頼む、とひと息に言い切ったユンゲは、キーファが一つ小さく頷いたのを確認して、すぐに踵を返した。

 キーファの反応も気になるところではあったが、とても顔なんて見ている余裕はない。

 ――慣れないことをするもんじゃない、ってのは道理だな。

 照れ隠しに髪をかきつつ、ユンゲは酒場の宴席へ戻るのだった。

 

 




次話は、アンデッド師団討伐になるかと思います。
原作では一言で片付けられているので、内容はほとんど独自解釈になってしまいますが、ご了承ください。


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(11)得手

先のことを考えずに、その場で書いてしまっているから前話の予告とは違う内容に……予告の内容は次話への持ち越しとなります。申し訳ないです。

オリキャラ主体で物語を進めていると魅力的なキャラクターを作るのって大変なんだなー、と痛感しています。本当は原作キャラとももっと絡めたいと思っているのですが、一気に三人も増やしてしまったために正直なところ持て余しています。


 頭上に広がる鮮やかな緑の天蓋が風に揺れ、降り注いでくる木漏れ日にユンゲは目を細めた。

 眩しいばかりの太陽を透かすように仰ぎ見れば、青々とした葉に浮かぶ細やかな葉脈の一本一本までもが輝いて見える。

 辺りを包み込んでいるのは、豊かな森の香りとでも言うのだろうか。

 立派な樹々が瑞々しい枝葉を広げる木陰には、苔生した大小様様な石が転がり、下生えの草や低木も相俟って濃密な緑の気配が満ちている。

 大気汚染が進んでしまったことですっかりと廃れてしまったものの、かつては転移前の世界においても“森林浴”というリラクゼーションがあったというのも頷ける話だった。

 冒険者組合で依頼を受け、少し奥まったトブの大森林の中へと分け入ってから二時間余り――、気持ちが軽くなるような何とも言えない心地良さに身を委ねてしまえば、こうしていつまでも過ごしていたい気分になってくる。

「……ったく、この身体も融通が利かないよな」

 ユンゲの小さなぼやきすら、太古の森は優しく包み込んでくれるようだった。

 

 *

 

 全員のシルバー級への昇格を祝した翌日、ユンゲたちは早速と冒険者組合を訪れていた。

 日銭を稼ぐだけであれば、これまでのようにモンスターを退治するだけでも問題はなかったのだが、折角とチームを組んだのだから依頼を受けてみたいと考えたユンゲは、冒険者を募る依頼の張り出されたクエストボードへと歩みを進める。

 目の前にまで寄ってから、文字が読めないことを思い出して頭を悩ませていたのだが――、

「この依頼なんていかがでしょうか?」

 傍らで同じように小首を傾げていたマリーが、クエストボードの中ほどを指して声を上げた。

「ん、何の依頼だ?」

「薬草の採取ですね。取ってくる薬草の種類によって報酬額が変わるみたいですけど、かなり実入りは良さそうです!」

「……薬草か。俺は種類とかを全く知らないんだけど、大丈夫か?」

「森の中のことは森妖精〈エルフ〉にお任せです! これでも森祭司〈ドルイド〉ですから、薬草のことなら私に聞いていただければ……見分け方も簡単なので、すぐに覚えられると思いますよ」

「なら、そうするか。二人も構わないか?」

 背後で控えていたキーファとリンダの了承を確認してから、どことなく得意気に胸を張っている様子のマリーに向き直る。

 起きたときは二日酔いのために、死にそうな顔をしていたのが嘘のようだ。

「じゃあ、受注してきてもらえるか」

「はい!」と小気味良い返事を返したマリーの後ろ姿を見送りながら、魔法とはかくも偉大なものか、とユンゲは思わず苦笑いを浮かべてしまう。

 今朝、手桶を抱えたまま微動にできなかったマリーを見遣り、流石に仕事に支障をきたすからとリンダが解毒魔法をかけてやれば、青白い顔に瞬く間に赤みが戻ったことを思い出す。

(元の世界にこそ、必要な気がするな。いや、魔法が存在するはずもないんだけど……)

 決して良い社会ではなかった現実の世界――、辛い生活から逃げるように強過ぎる酒精へと溺れる者も少なくなかった。

 しかし、一般市民の手に入れることができる酒類などは、ただ酔うためだけに造られた粗悪な合成酒ばかりなので、深酒をしてしまったのなら二日酔いの性質の悪さも極めつけだった。

 そんな取り留めのないことをユンゲがぼんやりと考えていると受付を終えたのか、マリーが軽い足取りで戻って来るのが見えた。

「ばっちりでした! なんでも街一番の薬師の方がいきなり辺境の村に拠点を移してしまったらしくて、薬草とかポーションの供給が追いつかないから報酬も高いそうです。だから依頼分より多く採取しても、冒険者組合から街の薬種商に買い取ってもらうことも可能みたいです」

 以前の酒場での出来事を思い返せば、この世界におけるポーションは高価な様子だったので、冒険者的には死活問題――ユンゲたちのチームは自身だけでなく、森祭司のマリーと神官〈クレリック〉のリンダも回復魔法を扱えるので、そうした苦労は起きそうにもないが――になるのかも知れない。

「そうなのか。なら、たくさん集めないとな。それにしても……、なんか気合入ってるな」

「はい! やっとお役に立てそうですから。マリー、頑張りますね!」

 何気なく発した問いかけに勢い込んでマリーが答えるのだが、あまりにも真っ直ぐな碧の眼差しに見つめられ、ユンゲは思わず言葉に詰まってしまうのだった。

 

 *

 

「……役に立たないのは、俺の方だな」

 涼やかな風にそよぐ樹々の枝葉を見上げながら、ユンゲは情けない思いを吐き捨てる。

 薬草を採取するためにトブの大森林へと足を踏み入れたのだが、これまでの時点において、ユンゲは何の役にも立っていないのだ。

 散策を始めて間もなく、目当ての薬草を見つけたマリーに説明を受けながら採取を試みたところ、軽く摘まんだだけのつもりで、ユンゲは薬草を捻り潰してしまう。

 その後も説明を受けながら挑戦をしてみたユンゲではあったが、思うように身体は動いてくれず、薬草採取の成功とはならなかった。

 そうして、何度目かの失敗を経たユンゲが、エルフの少女たちから向けられる視線に一抹の憐憫を感じ始めた頃、「何事にも得手不得手はありますからね」というリンダの言葉を受けて、事実上の戦力外通告となってしまったのだった。

 建前の上では周囲の警戒を行っているユンゲではあったが、当然ながら本職の野伏〈レンジャー〉であるキーファも同行しているので、どれほどの意味があるかは疑わしい。

 いつだったか商隊の護衛を勤めたときにも、野営をする段階で簡単な食事作りに失敗してしまったことを思い出す。

 現実の世界においては、それなりに一人暮らしが長かったこともあり、基本的な料理の支度ぐらいはユンゲにもできたはずなのだが、この世界に転移してからは当たり前にできていたことができなくなってしまっていた。

 ユグドラシルでの仕様を“ゲーム”として考えるのなら、特定の行為に見合う職業やスキルが必要なのかも知れない。――つまりは、料理をするためには料理に、採取をするためには採取に関係するスキルが必須となっている可能性だ。

 そうやって、無理やりに自身を慰めようとするユンゲを現実に引き戻すように、鼻を刺すようなツーンとした刺激臭が襲った。

「エンカイシ……だったか。かなり、臭うな」

 刺激臭の発生源――薬効が強いという根の部分は特に臭いがキツいらしく、何度か握りつぶしてしまったユンゲの指先には、強烈な臭いが染みついてしまっている。

 何の気なしに横目で様子を窺ったのなら、マリーたちは特に気にした様子もなく、<ヘイスト/加速>の魔法でもかかっているような手際の良さで薬草を集めているのが見える。

 森の民とも呼ばれるエルフにとって、薬草採取はお手のものなのだろう、と淡い羨望にも似た思いを抱きながら、ユンゲは溜め息をこぼした。

「ハーフエルフじゃ、ダメってことなのか。……そもそも、ニュクリとかアジーナだとか、ユグドラシルでは聞いたこともない薬草の名前だったから、最初から不安だったんだよな」

 木陰が多く、空気の湿った水場の近くに自生しているなど色々と説明もしてもらったのだが、ユンゲの正直な実感としては薬草と雑草の見分け方も良く分からないままだ。

 今後は素直にモンスター退治をしていた方がよさそうだと思いを新たにしつつ、せめて彼女たちに危害が及ぶことのないように、警戒は怠らずにいなければとユンゲは気持ちを入れ直す。

 幸いにしてモンスターによる襲撃もなく、優秀なエルフの少女三人は昼前には依頼分の採取を終えると、夕暮れには抱えるほどの薬草を取り終えて、エ・ランテルへ帰還することになった。

 

 *

 

 冒険者組合の扉を押し開けて中に入ると、途端に何人かの冒険者が顔を顰めたのが分かった。

 すっかりと慣れてしまった鼻にはどうということもないが、やはり相当に臭うらしい。

 心の内で謝罪をしつつ受付に向かえば、「おかえりなさい!」と笑顔で迎えてくれたのは、顔馴染みの受付嬢だった。

 少しも不快な様子を見せないプロ意識には感心するばかりだが、辛くないはずもないので手早く手続きを済ませたいところだ。

 カウンターにどさりと背負い袋を下ろせば、目を見張るような感嘆の声音が聞こえた。

「――すごい量ですね! ふふっ、鑑定人が苦労しそうです」

「ええ、彼女たちが頑張ってくれました」

 マリーの背を押して前に促しつつ、ふと彼女たちとこの受付嬢の顔合わせは初めてだったことを思い出して、キーファとリンダにも目配せを送る。

「……あぁ、まだ紹介していなかったですね。今度から彼女たちとチームを組むことになりまして――マリー、キーファ、リンダの三名です。これからよろしくお願いしますね」

 ユンゲの紹介に合わせて三人がそれぞれに会釈し、受付嬢は居住まいを正してお辞儀を返した。

「存じております。皆さん、既にシルバー級にご昇格されたと伺っております。――遅くなりましたが、ご昇格おめでとうございます。そして、当冒険者組合を今後ともよろしくお願いいたしますね」

 転移前の世界でも重宝されそうな、受付嬢のお手本とも言うべき見事な振る舞いだ。

 初めて冒険者組合に訪れたとき、彼女が受付にいてくれたことは小さな幸運だったのかも知れない。

 そうして、ぼんやりとユンゲが思いを巡らしていたときだった。

 こちらにくるりと向き直った受付嬢が、不意に畏まっていた表情を悪戯っぽい笑みに変える様子が視界の端に映った。

 

「――ところで、チームを組むことを薦めたのは私ですけど、女の子ばっかり……こんな可愛い子たちを捕まえてくるなんて、ユンゲさんって実は結構遊んでたりします?」

「え、いや……そんなことは――」

「見た目の割りに、言動は初心っぽい感じがしてたんですけど、私の見立て違いでしたか?」

 唐突な話題の転換に頭が追いつかず、ユンゲの口からは意味を成さない呻きだけがこぼれた。

「あなたたち同じチームとはいえ、嫌なときには嫌ってちゃんと言うのよ! どうしても難しかったら組合に報告しなさい。ちゃんと然るべき対処をしますからね!」

 狼狽するユンゲに構うことなく、受付嬢はマリーたちに真摯な眼差しで語りかけていた。

 いきなり受付嬢に手を取られ、ずいっと顔を寄せられたマリーが慌てて、「いえ、ユンゲさんはとても優しいです」などと口走っている。

 言質を得たりとばかりに口許を釣り上げた受付嬢の横顔が、どこか狂気を秘めているように怖しい。

 彼女には悪気がなさそうなだけに、話の流れが良くない方向へと向かっていることを感じ取ったユンゲは、上手く働いてくれない頭を必死で回転させながら視線を巡らせる。

 恐らくはどんな反応を返してしまっても、稚気を発揮した受付嬢を喜ばせるだけなのも分かっていたが、彼女たちの境遇を思えば、そうした話題には触れるべきではないはずだった。

「いや、何を言っているんですか。やましいことなんてありませんよ!」

 受付嬢はどこか憐れむような一瞥をくれて、取り繕おうとするユンゲに言葉を紡ぐ。

「こんなに魅力的な子たちなのに?」

 男の沽券にかかわるような問いかけに、「……んぐっ」と思わずユンゲは言葉に詰まる。

 ハーフエルフの身体になったとは言え、ユンゲも若い男だ。

 転移前の世界ではなかなかお目にかかれないような美少女のエルフ、それも三人と行動をともにして何も思わないわけではない。

 チームである以上、宿屋でも同室なのだ。湯浴み後に平服姿で過ごす彼女たちを横目に、どれほど冷静さを保っていなければいけないのか。

 これまでの経緯を思えば、間違っても変な気を起こすことはできない。

 自身の思考が迷走し始めたことに気付き、気を取り直すように咳払いを一つ。ユンゲは努めて落ち着いた口調を心掛けて、慎重に言葉を選んでいく。

「――彼女たちが魅力的なことは否定しませんよ。でも、私も冒険者の端くれですから、チーム内での恋愛がご法度なことくらいは認識していますよ」

 わざとらしくならないように肩を竦めて、これ以上は触れてくれるな、とばかりに踵を返す。

「……まぁ、そういうことにして置いてあげましょうか」

 如何にもわざとらしい溜め息をこぼした受付嬢が口にした、「男女の関係が恋愛ばかりとは思わないですけどね」などという不吉な言葉は、意図的に無視をすることにした。

 自身の経験値の足りなさを嘆くほかないが、他に対処する方法も思い浮かばない。

 何となく恨めしい気持ちで周囲を見回せば、やや困り顔のリンダと目が合った。

 慈母のような労わりの笑みを浮かべる神官らしい仕草に、少しだけユンゲの心が癒される。

「さて、からかうのはこのぐらいにして……、薬草の査定には少しお時間をいただきますが、どうされますか? 組合の中でお待ちいただけるのであれば、お飲み物くらいならお出しできますよ」

 街へ戻ってから冒険者組合に直行していたので、荷物や装備を宿屋に置きに戻りたいところではあったが、また戻ってくるのも面倒に思えた。

 リンダと軽く目配せを交わして意思を確認する。

「……じゃあ、少し待たせてもらいますね」

「畏まりました」

 すっかりと職分を取り戻したように、「では、こちらへどうぞ」と優雅に案内をする受付嬢の背に続いて、ユンゲたちはフロアの中ほどに設けられたテーブルに向かった。

 隣の席の冒険者が嫌そうな顔を見せたところで臭いの件を思い出すが、今更断われないなと心の中でまた謝罪を口にする。

 

「ところで、皆さんのチーム名はお決まりになっていますか?」

「ん、チーム名ですか? 特に決めていないのですが、ないとマズいんですかね?」

「絶対に必要ってこともないのですけど……あると便利というか、名前が売れたなら名指しの依頼なんかも舞い込んでくるかも知れませんね」

「あー、ちなみに他の方たちってどんなチーム名を名乗っているんですか?」

「そうですね、有名なところだと“朱の雫”に“蒼の薔薇”……」

 指折り数えながら、受付嬢はいくつかのチーム名を挙げてゆく。

 そう言えば、前にトブの大森林で出会ったモックナックは“虹”を名乗っていただろうか。

「色に関係するチーム名が多いのかな……?」

 小さな疑問符を浮かべながら、ユンゲは隣に腰かけたリンダに小声で問いかけてみる。

「どうでしょうか、王国は四大神信仰が主流なはずなので、それぞれの神が持つ象徴色に因んだ名前を付けたりするのかも知れませんね」

 うろ覚えな記憶を探ってみれば、近隣諸国では“土・水・火・風”をそれぞれ統べる神がこの世界を作り出した、とかそんな類いの宗教が信仰されているという話を商隊護衛で同行した冒険者から耳にした気がする。

 日本人としては、宗教などさほど縁もなかったので適当に聞き流していたが、改めて確かめてみた方が良いのかも知れない。

「すぐに決める必要もありませんので、もしお決まりになったら教えていただけると嬉しいです」

 指を添えて口許を緩めた受付嬢に、「了解しました」と笑い返したユンゲは、カウンターに戻っていく後ろ姿を少し疲れた面持ちで見送った。

 そうして、ようやっと息を吐いて給仕されたエールの杯に口をつければ、芳醇の味わいが渇いた喉を潤してくれる。

 酒場で飲むものよりも香り高いので、かなり上等な物かも知れない。

 向かいの席に目を向ければ、昨夜の醜態を意識したのか、マリーはキーファと一緒に仲良く薄桃色の果実水を頼んでいた。

 何となく微笑ましい思いで眺めていたところ、受付嬢からの訳知り顔な視線を感じ、誤魔化すようにもう一度エールを傾ける。

 可愛い女の子たちが和気藹々としていれば、それだけで幸せな気持ちにもなるだろう、などと心の内に言い訳を唱えつつ心配はないと思いながらも、妙な噂を流されてしまっては堪らない。

 こちらの動きを目にしたからか、小首を傾げて不思議そうな顔を向けてくるマリーに、何でもないよと軽く手を振って返す――と、不意に冒険者組合の入口の扉が勢い良く開かれ、数名の冒険者風な男たちが受付へと駆け込んでくるのが見えた。

 

「……あれ、何かあったのかな?」

 ユンゲたち以外の冒険者からの視線も集中する中、控えていた受付嬢たちと短いやり取りを交わした男たちは、カウンター奥の扉へと消えていく。

 こちらが何事かと訝っている間に、表情を引き締め直した受付嬢が、小走りにユンゲたちの席へと駆け寄ってくる。

「――すみません。ユンゲさんたちも、カッツェ平野のアンデッド討伐戦にご参加いただける予定でしたよね?」

「……えぇ、組合長からお話をいただきましたので、そうさせてもらうつもりです」

「――実は明日の朝、冒険者組合で討伐隊に参加する冒険者を集めて会合をすることになりまして、突然のことで恐縮なのですが、ご参加いただけますでしょうか?」

 

 




-アンデッド師団討伐についての独自解釈-
・アインズ様は移動手段として転移魔法が使えるので、カッツェ平野をわざわざ通る理由がなく遭遇戦ではない。
・この時点におけるモモンとしての働きは、報酬を得ることが第一目的であったので、依頼を受けて討伐戦に赴いたと考えるのが妥当。
・師団(数千体以上)と称されるアンデッドを相手に冒険者組合がチームを一組しか派遣しないというのは、アダマンタイト級が破格の強さをもっているとしてもリスクの面で考えにくい。

……といった観点から、王都でのヤルダバオト戦のように複数の冒険者が雇われ、そこで中核を担ったのが“漆黒”なのだろうと解釈しています。

-ユンゲたちのチーム名-
エルフだから“森”とか“緑”とか“風”辺りかなーと考えていますが、正直思いついていません。ある意味で一番頭を悩ませていますね。


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(12)会合

相変わらずの更新頻度ですが、のんびりとお楽しみいただければ幸いです。


 雲一つないからりと晴れた青空の広がる眩しいほどの朝日の下、朝市の威勢の良い客引きの声が上がり、荷台を満載にした馬車や商会の小間使いたちが忙しなく行き交っている。

 城塞都市〈エ・ランテル〉の街並みは、帝都の盛況にも負けないほどの活気に溢れていた。

 そうした雑踏の中に、昨日受付嬢から伝えられたアンデッド討伐戦の会合に参加するため、リンダを伴って冒険者組合へ向かうユンゲの姿があった。

 冒険者組合で用意できる会議室の大きさの都合から、各チームの参加は二名までにしてほしいとの要望を受けて、会合の間キーファとマリーには宿で居残ってもらうことになっている。

 誰が参加するべきかと多少は揉めることを考えていたユンゲだったが、あっさりと受け入れた二人に聞けば、何かやりたいことがあったらしい。

 帝都で出会ってからこれまで行動を共にしてきた中で、彼女たちには“自分の時間”を持つ機会がなかったのかも知れない、とユンゲは反省することしきりだったが、そもそもチームリーダーのような役割を担った経験など転移前の世界でも数えるほどだ。

「……俺には荷が重いな」

 隣を歩くリンダの耳には届かないほどの声量でユンゲはぼやく。

 気遣いや気配りのできる人間にならなければとは思うが、先はまだまだ長そうだ。

 そんなことをぼんやりと考えているうちに、冒険者組合の前に辿り着いてしまう。

 

 気を入れ直してユンゲが扉に手をかけたところ、不意に扉は内側から開かれた。

「――あ、すみません」

 慌てて身を引くとゆらりと赤毛の女性が転がるように飛び出してくる。

 支えを求めるような覚束ない足取りはどこか亡霊のようであり、視線の定まらない虚ろな目が一瞬だけユンゲを捉えたが、何の反応も示されないまま横を通り過ぎて行ってしまう。

「あれ? 今の女の人って……」

「お知り合いでしたか?」

「いや、前に見かけたことがあった気がしたんだけど……印象が違い過ぎて」

 不思議そうなリンダの問いに、ユンゲは曖昧な答えしか返せない。

 初めてエ・ランテルの酒場を訪れたとき、ポーションの一件で“漆黒”の二人に食って掛かっていた女冒険者だったような気もしたのだが、あのときの強気な雰囲気が欠片も見られなかったことに確証を持てなかったのだ。

「あら……ユンゲさんに、リンダさん。おはようございます!」

 去っていく女性の後ろ姿を目で追っていたユンゲが建物内からの呼びかけに振り返れば、いつものにこやかな笑顔を浮かべた受付嬢がさらさらと手を振ってくれていた。

「おはようございます」と挨拶を返しながら、ユンゲとリンダはカウンターへと歩み寄る。

「朝早くからお呼び立てして申し訳ございません。会合にはまだ少し時間がございますが、会議室の方へご案内いたしましょうか?」

 気さくな態度と仕事での畏まった姿勢を上手く使い分ける受付嬢は、気配りのお手本のようだ。

 当然ながら会合に参加するために、冒険者組合を訪れているので断る理由はない。

 了承の旨を告げたユンゲは、受付嬢の先導に従ってカウンターの裏手に回る。

 会議室までの道すがら、入り口ですれ違った女性について尋ねてみると受付嬢は顔を曇らせつつ、「この業界では珍しいことではないのですが……」と前置きした上で説明をしてくれた。

 曰く、依頼の途中で彼女だけを残してチームメンバーが全滅してしまったことに精神を病み、冒険者稼業に見切りをつけて辺境の開拓村へと移住する予定なのだという。

「……そうでしたか、不躾なことを聞いて申し訳ございません」

「いえ、お気になさらないでください。冒険者のお仕事は過酷ですが、絶対に欠かせない大切なお仕事です。道半ばで諦めざるを得なかった方たちのためにも、ユンゲさんたちには頑張って頂かないといけませんし……。あ、でも危険なときには絶対に無理をしないでくださいね!」

 気丈に振る舞いながらも、どこか震えるような声音は自身へのやるせなさからだろうか。

 冒険者へ依頼を仲介するという受付嬢としての仕事柄、責任を感じてしまうのかも知れない。

「――ええ、肝に銘じておきます。まだまだ世界を見て回りたいですし、美味いものもたらふく食べないといけないので」

 少しばかりお道化た口調で、それでも誠実な想いを込めてユンゲは言葉を紡ぐ。

「ふふっ、よろしくお願いしますね。――会議室はこちらになります。始まるまで暫くお待ちいただけますか。お飲み物も用意しておりますので、中で控える者にお声がけください」

 

 

 優雅な一礼をもって踵を返した受付嬢を見送ってから、ユンゲはリンダと目配せをして会議室へと踏み込んだ。

 ぴりっと張り詰めたような空気は気のせいではないだろう。

 どれくらいの冒険者が参加するのかは分からないが、決して狭くはない会議室の中、席の半数は既に埋まっているようだ。

 如何にも腕自慢といった感じの筋骨隆々な戦士や理知的な豊かな髭を蓄えた魔法詠唱者、猫のようにしなやかな痩身の男は軽戦士か斥候だろうか。冒険者組合で何度か見かけた顔もあったが、積極的な交流をしてこなかったので、名前も分からない同業者たちの視線はどことなく冷たい感じがする。

 ユンゲの首元のプレートを一瞥して、あからさまな不満顔を見せる者もいた。

 この中に、キーファと確認した昇格試験などのときにこちらを監視していた相手がいるかも知れないと少し警戒を強めるものの、この場で何かを仕掛けてくることもないだろう。

「あちらの席にしましょうか?」

「ああ、そうだな」

 居心地の悪さを感じているかも知れないが、気にしない素振りで勧めてくれたリンダに従って、会議室端の席に腰を下ろして、何の気なしに周りの様子を眺めてみる。

「シルバーにゴールド、プラチナもいるか」

「前の方に座られているあの方はミスリルですね」

 リンダの言葉に目を向ければ、髪を短く刈り上げた細面の男が何人かの冒険者に囲まれて談笑をしているのが見える。トブの大森林で出会ったモックナックの率いる“虹”がミスリル級だったかと思うが、そのときには見かけなかった顔だ。

「結構な戦力を集めているのかな?」

「そのようですね。カッツェ平野でのアンデッド討伐は、本来いがみ合っている王国と帝国が協力で行っているほどなので、国家の一大事業となるのでしょう」

「人間同士で争ってるうちにアンデッドにやられました、じゃあ余りにも情けないもんな……っと、あれは――モックナックさんか」

 会議室の入り口に目を向ければ、くすんだ金髪をオールバックに固めた大柄なモックナックが、冒険者たちからの挨拶を受けながら前の座席へと向かうのが見えた。

(一応、挨拶くらいしとくべきか? でもこのアウェーな雰囲気の中で声かけるのも悪いか……)

 ユンゲが逡巡するうちに、モックナックの方が先に気付いてしまったようだ。

「やぁ、ユンゲ君。君たちも参加するのかね?」

「はい、組合長からお話をいただきましたので。ご無沙汰しております、モックナックさん」

 咄嗟に立ち上がり、やや焦りつつも会釈を返す。

「そう畏まらずとも構わないよ。まだ会合まで時間もあるだろうから気楽にしてくれ。今日はあの可愛いらしいお嬢さんは一緒じゃないのかね?」

「そうですね、彼女には宿で待ってもらっています。あぁ、こちらはチーム仲間のリンダです」

「ふむ、よろしく頼むよ。“虹”のリーダーを務めているモックナックだ」

「お初にお目にかかります。こちらこそよろしくお願いいたしますね、モックナック殿」

 柔らかな物腰で軽い挨拶を交わし、リンダとモックナックが笑みを浮かべ合った。

「ところで、今回の会合が急に開かれることになった理由は知っているかな?」

「いえ、存じませんが……」

「情報収集は大切だよ。常に情報網を広く張っておくことを心掛けるようにすると良い」

「そのようですね、ご助言感謝します」

「まぁ、年配者の小言だ。軽く聞き流してくれて問題ないよ」

 謙遜するように朗らかに笑うモックナックは本当に人が良いのだろう。

「モックナックさんは何かご存知なのですか?」

「そうだね、とりあえずは組合長が来てからの話なんだが、今回のアンデッド討伐は例年よりも厳しいものになりそうだということだよ。事前の調査に赴いた冒険者に寄れば、かなりの数のアンデッドが確認されたらしい」

 この世界では低位のアンデッドが集まることで、より強力なアンデッドが生まれやすくなるということを踏まえれば、渋面を浮かべるモックナックの気持ちも否応なく理解できる。

 ユンゲだけなら簡単に不覚を取ることもないだろうが、リンダたちの強さはまだ十全とは言えない。

(……それにあの吸血鬼みたいなとんでもない強さっぽいのもいるしな)

「……無理はしないように、か」

 先ほど受付嬢に言われた言葉の重みが、改めてユンゲの心の内に働きかけてくる。

 何とはなしにリンダへ視線を移したところで、その背後の扉から冒険者組合の長であるプルトン・アインザックが姿を見せた。

「ともかく、君たちには期待してるよ。互いに健闘しよう!」

 アインザックが現れたのならば、雑談もここまでということだろう。

 モックナックがそう言葉を締め括り、快活な笑い声とともに前の座席に歩いていく。

 談笑していた他の冒険者たちもそれぞれの席に着いていく。

 好々爺然とした以前の印象とも異なり、威厳に溢れた様子で向かいの席に腰かけたアインザックは、参集した冒険者たちの顔触れを眺めてからおもむろに口を開いた。

「……まだ、全員が集まっていないようだ。申し訳ないが、もう暫く待ってもらえるかね」

 アインザックの言葉を受け、ざわつきかけた冒険者たちが何かに気付いたように声を抑えるのが分かった。会合の場では議長がやって来るのは最後というのが相場のはずだから、ユンゲとしては不思議な思いだ。

 誰もが息を潜めたように待つこと数分、ユンゲの抱いた疑問の答え――、

 

「お待たせしてしまい、誠に申し訳ございません」

 

 絢爛華麗な漆黒の鎧に身を包んだ戦士と名匠によって生み出された彫像のような黒髪の美姫は、奇妙なほど板についた謝罪の言葉とともに会議室へと現れた。

 

 *

 

「――では、以上でアンデッド討伐戦に関する協議を終える。かなりの困難が予想されるので、各チーム準備を万端整えて参集してくれ」

 アインザックの力強い宣言により会合が終わるや否や、エ・ランテルで唯一のアダマンタイト級冒険者チームである“漆黒”と挨拶をしたがる冒険者が殺到した。

 会議室をいっぱいに使って列をなす冒険者を前に、モモンは嫌な顔一つ見せることなく――面頬付きの兜をかぶったままなので表情を窺うことなどできないのだが――快く握手に応じている。

 一方で、モモンの背後に控えるナーベは冒険者の列に一切構うことなく、視線は一点――モモンの横顔辺りに固定されている。取り付く島もないとはこのことだが、そこに嫌味な感じはなくそうすることが自然であるような印象すら受ける。

 挨拶を終えた冒険者たちは一様に目を輝かせて、にやけ顔がこぼれて止まない。

 憧れのスポーツ選手と対面するようなイメージなのかも知れないが、恥も外聞もないように相好を崩している様は、あまり依頼者などには見せられない顔に思えた。

「しかし、どうするかな……」

 ユンゲとしては、モモンが追っているという吸血鬼の片割れや魔法の位階といった情報を聞いてみたいところだったが、この状況で長々と話し込んでしまうのは流石に迷惑だろうか。

 驚くほど紳士的なモモンの対応を見ていると無下にされることもないように思えたが、今のユンゲは単なるシルバー級の冒険者に過ぎないことを鑑みれば、ここは挨拶くらいにしておいてアンデッド討伐で顔を売ってから、改めたほうが話も聞きやすいかも知れない。

 列がかなりの長さになっていることもあり、今更になって最後尾に並んだのではキーファとマリーを宿に待たせてしまっていることが気掛かりだった。

「一旦、宿に戻って二人と合流しようか……」とリンダを振り返って口にしたとき、不意に強烈な視線を感じてユンゲの背がぴくりと跳ねる。

 

 再び視線をモモンの方へ戻せば、黒曜石のような輝きを放つ切れ長の瞳に迎えられた。

 珠のように白く張りのある肌も、後ろ手にまとめた艶やかな黒髪が歩みに合わせて、軽やかに揺れる様も、古美術商に並ぶ著名な絵画の題材になっていそうな光景だ。

 まるで神に見初められた天の使いのような美姫ナーベが、居並ぶ冒険者たちの視線を一顧だにすることもなく、コツコツと長靴の音を響かせながらこちらへ向かってくる。

 圧倒的な美しさを目の前に何故かひれ伏してしまいたくなるような怖気に襲われ、意識とは無関係にユンゲの喉が唾を呑み込む。

「質問に答えなさい。下等生物〈あぶ〉、その装備はどこで手に入れた?」

「――っは?」

 美人は声まで美人なんですね、などと阿呆な返答をする余裕もない。

 唐突な質問の意図がつかめずにユンゲは、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

「――っち、もう一度訊く。それほどの装備をどこで手に入れたの?」

 軽い舌打ちとともにナーベの顔がずいっとユンゲの間近まで迫り、再び質問が投げかけられる。

「ん、あぁ……これは知人から譲り受けたものですよ。このマントは自前ですけどね」

 無地のマントをばさりと払って、ユンゲは肩を竦めてみせる。

 同僚にもらったユンゲの装備は聖遺物級のはずだから、この世界の基準に照らすのであれば、シルバー級の冒険者には過ぎた代物だろう。

 これまで特に指摘されたこともなかったが、そうした目利きがあっさりとできる当たり、アダマンタイト級の肩書きは伊達ではないのだろう。

「その知人とやらはどこ?」

 何とも不躾な詰問の仕方だが、不快な印象は感じない。

 この女性には、不思議とこうした高慢な物言いの方が似合っているような気さえしてくる。

「さぁ、どこにいるんでしょうね」

 ナーベに好感を持ちつつあるユンゲだったが、続く質問に答えることはできない。

 普通に考えれば現実の世界で変わらない暮らしをしているのだろうが、真面目に返答したところで頭のおかしい奴としか思われないだろうし、ユンゲがこの世界にいるという事実こそが意味不明な出来事なのだから。

(……というか、本当に何で俺はここにいるんだろうな。ユグドラシルのサービス終了の瞬間に立ち会ってしまったことが契機なんだろうけど。…………あれ?)

「私を莫迦にしているの?」

 一瞬、ユンゲの思考に浮かびかけた疑念が、ナーベの絶対零度の言葉によって霧散してしまう。

「あぁ、失礼。ぶらぶらといい加減な奴なので、私も今どこにいるかは知らないんですよ。――まぁ、お互いに生き延びていれば、その内どこかで出会うこともあるでしょうか」

 いい加減な奴には間違いないので、完全な嘘でもないと心の内で言い訳をしつつ、同僚には申し訳ないが濡れ衣を被ってもらおう。

 ナーベからユンゲに向けられる視線に含まれた侮蔑や不快の色が、一層と濃くなっている気さえするのだが、こればかりは諦めるしかないだろう。

 しかし、美人に見つめられるというのは男として喜ばしいことのはずなのだが、凍てつくような眼差しの睨みに晒されている現状は正直なところ勘弁してほしい。

 以前にも酒場で酔漢たちに向けていたときに感じた、捕食者に迫られているような思いにユンゲの背を嫌な汗が伝う。

 

 救いを求めてユンゲが目線を彷徨わせれば、次々と握手に応じていたモモンと兜の細いスリット越しに目があった気がした。

 ユンゲの窮状を一瞬で把握したのか、「済まない、少し待ってもらえるかな」と順番を待つ冒険者たちに詫びをしながらこちらに向かってくる。

「ナーベ、無理な質問であまり彼を困らせるんじゃないぞ」

「はっ、申し訳ございません」

 モモンの一言で張り詰めていた空気が弛緩し、背筋を寒からしめていた怖気もすっかり消えた。

 こちらに一切構うことなくモモンに向けて頭を下げるナーベの姿に、謝るなら俺に向けてじゃないのか、などと思いつつもユンゲは口に出すことはしない。

「やぁ、連れが失礼をしたね。気を悪くしないでもらえると有り難い」

 モモンはこちらを気遣うような仕草で、ナーベに何事かを言いたげな素振りを見せるが、その必要はないとユンゲは先に手で制しておく。

「いえ、問題ありません。この装備が私には過ぎたものであることは自覚しておりますので」

「なんの、なかなかに素晴らしいお力をお持ちのようだ。同じ依頼を受けた者同士、良い成果を得られるようお互いに最善を尽くしましょう」

「最高位冒険者の方からそのようなお言葉をいただけるとは光栄です。非才の身ですが、微力を尽くさせていただきます」

 短い遣り取りだが、モモンは評判通りの優れた人物であることを窺い知れた。

 同時に何となくモモンが苦労人であるような気配に、漠然と上手くやれそうな気がしてくる。

「失礼、遅くなってしまったが貴方の名前を伺っても良いかな?」

「ユンゲ・ブレッターと申します。以後よろしくお願いいたしますね、モモンさん」

 

 




アインズ様は気配りの達人。曲者揃いのアインズ・ウール・ゴウンをまとめていた実績だけでも只者じゃないですよね。

書きたいことを詰め込み過ぎなのか、話のテンポが遅くなってしまっていることが不安です。


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(13)影走

今回は独自設定が多めですので、ご留意ください。

また、カッツェ平野内には王国と帝国が共同で運営する物資拠点となる小さな街があるようですが、詳細が分からないためこの話では登場しません。


 エ・ランテルの南東に広がる、アンデッドの多発地帯として知られるカッツェ平野は、今日も変わらない薄霧に覆われている。

 街道を進んでいた馬車の荷台に跳び乗り、ユンゲは眼下に広がる荒涼とした平野に臨む。

 見渡せる限りが血に染まったような赤茶けた荒野を眺めれば、草木も生えることのないこの大地をして、“呪われた地”と評したくなる気持ちも分かるというものだ。

「……この霧は厄介だな」

「ユンゲ、どうしたの?」

 誰にともなくこぼしたぼやきに、弾むように横を歩いていたキーファが小首を傾げる。

「いや、今回の討伐の間は探知魔法が役に立ちそうにないなぁ、ってさ」

 事前に話を聞いていたのだが、カッツェ平野の薄霧はアンデッド反応を示してしまうようだった。

 一年を通して立ち込めるというこの薄霧だが、リ・エスティーゼ王国とバハルス帝国が戦争を行う当日に限っては、無数のアンデッドとともに姿を消すなど、もともと単なる自然現象では片づけられないような不思議な性質を持っているらしい。

 モンスターや魔法が存在しアンデッドが跋扈する、まるでゲームのような世界なのだから、霧が何かしらの意思に操られているといったこともあるのかも知れない。

 或いは、天候を操作するような魔法であれば、霧を晴らすこともできるのだろうか。

 そんな取り留めのないことを考えてしまうものの、霧のために視界が制限される中、敵からの奇襲対策となる探知系の魔法が使えないとなれば、この地での依頼の危険度は跳ね上がるだろう。

「前にも言ったけど俺は前線に出るつもりだから、周囲の警戒はキーファが頼りだな」

「うんっ、任せてよ!」

 快活に答えたキーファが細い腰に握り拳を当てながら胸を張ってみせれば、短く括られたポニーテールが軽やかに弾んだ。

 本人に言えば嫌がられるのかも知れないが、子供っぽい仕草が妙に似合うキーファの可愛らしい様子に、思わずユンゲの頬は緩んでしまう。

 取り繕うように咳払いを一つ、「俺が倒し損なった敵は、リンダに任せるよ。マリーは皆の様子に気を配って、危ないときには回復魔法を頼むな」と後ろを歩く二人を振り返って言葉を続ける。

「心得ています」

「はい、分かりました!」

 気持ちの良い二人の返事を聞きつつ、ユンゲはいつかのエ・ランテル共同墓地でのアンデッド騒動を思い返す。

 あのときのユンゲは、指示されるまま後方支援に回った結果、敵味方が入り乱れてしまった戦線を前に有効な手立てを打つことができなかった。

 今回はキーファたちを無暗に危険に晒さないためにも、やはり装備も充実している自身が前線に立って身体を張るべきだろう、とユンゲが思いを新たにしたところ――、

「あ、目標地点に到着したみたいだよ!」

 たたっと馬車の荷台、ユンゲの隣へと跳び乗ったキーファが前方を指差して声を上げた。

 キーファの示す先へ目を向ければ、先を進んでいた冒険者や馬車の集団が街道を少し外れた辺りに足を止めて、野営地のテント設営準備に取りかかり始めているのが見える。

「……ここを拠点にカッツェ平野へ進攻するのか」

 冒険者組合でアインザックが説明を行った依頼概要は、参加する冒険者を大きく三つの部隊に分け、北側からカッツェ平野の中央へ向かってアンデッドを討伐していくというものだ。

 それぞれの部隊はアダマンタイト級の“漆黒”を筆頭に、ミスリル級の“虹”と“天狼”がリーダー格を務めることになったが、部隊とは言ってもバハルス帝国の軍隊のように明確な指揮系統を有するわけではない。

 各冒険者チームが薄霧の中でも互いに視認できる距離を保ちながら進むことで、横合いや背後からの奇襲を防ぐことを狙っているらしい。

 また、カッツェ平野に足を踏み入れるのはシルバー級以上の冒険者に限り、アイアン級以下の冒険者は野営地に留まって、物資の守備や拠点の維持を担うことになっている。

 今回の討伐において、ユンゲたちが配置されたのはモックナック率いる“虹”の部隊だった。

 早くも設営に動いている冒険者たちの中にモックナックの姿を見止めると、向こうでもユンゲに気付いたらしく大きく手を振ってくれるのが見えた。トブの大森林で初めて会って以来、何かと縁があるのかも知れない。

 ユンゲとしては“漆黒”の部隊に組して、その戦いぶりを見てみたい気持ちがあったものの、面倒見の良いモックナックからは、いろいろと気にかけてもらっている身なので不満はない。

 モックナックに手を振り返しつつ荷台を降りたユンゲは、南方に広がるカッツェ平野の薄霧を一瞥してキーファとリンダ、マリーの三人に向き直って笑いかける。

「――よし、ささっと荷物を降ろしたら、すぐに戦いの準備を始めようか!」

 

 *

 

 すっかりと陽の落ちた、街道傍に設けられたエ・ランテル冒険者組合の野営地。

 初日の戦闘を終えた多くの冒険者たちは、チームごとに割り振られたテントの中で静かな眠りに着いている。あまり音を立てないように行動している人影は、各チームから交代で見張り役となっている一部の者たちだろう。

 移動日ということもあり、昼間は街道の周辺に限ってアンデッドの討伐を行ったので、カッツェ平野の深くまで侵入する本格的な戦闘は、明日からということになる。

 激しい戦闘はなかったが、疲れを残さないためにしっかりと休息を取ることは大切だろう。

「……腹減ったな」

 見張りのため横倒しの丸木を即席の椅子代わりに腰かけ、目の前の焚き火をぼんやりと眺めていたユンゲは、懐からマローンの葉に包まれた夜食を取り出した。

 包みの結びの細紐を解き、意外なほどしっかりとした手触りの葉を慎重に剥けば、中身はファンタジー系の創作物では定番とも言える、エルフ特製の携行食“レンバス”だ。

 ほんのりと甘みのある麦粉をベースにした焼き菓子の類いで、とんでもなく美味いということもないのだが、初めて口にしてもどこか懐かしいような素朴な味わいは、いつまでも食べていたいと思わせてくれる不思議な魅力があった。

 先日の冒険者組合での会合に参加できなかったキーファとマリーのやりたいことというのが、このレンバス作りだった。

 今回の依頼が数日に及ぶことから、ユンゲの異常な食欲を満たすためにいろいろと考え、宿の厨房を借りて作ってくれていたらしい。保存性に優れるレンバスは腹持ちが良く、一昼夜も駆け続けていられるという評判――それでも、ユンゲは一度の食事で三つも消費してしまったのだが――も伊達ではない。

 空腹時に暴挙に出てしまうことを怖れ、大量の食料を持ち込まなくてはいけないことを危惧していたユンゲは、いざとなればアイテムボックスに無理やりにでも押し込もうかと考えていたのだが、二人が作ってくれたレンバスのお陰で、旅先での食料事情は劇的に改善された。

「本当はシロツメクサの蜜が手に入ればもっと美味しくできたのですけど……」とは、最初に試食として食べさせてもらったユンゲが、二人をベタ褒めしたときのマリーの言葉だった。

 そのままでも十二分に美味いのに、これよりもと考えるとユンゲの期待は否応なく高まったものだ。

「この世界には、美味いものが沢山あるな」

 合成に頼らない天然物の食材というだけでも、これまでの生活を思えば考えられないような贅沢だ。

 転移前の世界のことや今後の身の振り方について、もう少し真面目に考えるべきなのかも知れないが、こと食事に関しては謎の異世界転移に感謝するべきだろう。

「――この夜空の絶景にも感謝だな」

 振り仰いだ頭上に広がる満天の星の輝きは、悠久のときを刻み続けながら、夜闇に沈むユンゲたちを静かに見守ってくれているようだった。

 

 不意にパチパチッと焚き火が爆ぜ、涼やかな夜風に紅い火の粉が舞った。

 吹き去られていく紅光の軌跡を何気なく目で追った先、焚き火の明かりとの対比でより深くなった暗い闇の中にユンゲは僅かな違和感を覚える。

 無詠唱で<ダーク・ヴィジョン/闇視>を発動して様子を見てみるが、それらしい影はない。

「……気のせいか?」

 敢えて口に出してみても釈然としない――が、ユンゲの直感はそこに存在する不可解な何者かの存在を訴えてくる。

 ユンゲは右手をバスタードソードの柄に添えつつ、左手で焚き火から先端の燃えている枝の端を掴み上げて松明のようにして、辺りの暗がりに向けて掲げてみせる。

 ――実際には<闇視>の効果が発動しているために明かりは不要なので、これは一種のブラフに過ぎない。

(……これで油断してくれるような相手なら良いんだけど)

 周囲を伺うようにゆっくりと視線を動かしながら、ユンゲは闇の一点に向けて燃えた枝を放り投げる、と同時に転身――抜き打ちに放った横薙ぎのバスタードソードが、背後に迫っていた影を捉える確かな手応えを伝えてくる。

(いや、避けられたのか?)

 振るった剣身が半ばまで突き立ったのは、黒い装備に包まれた人の身体ほどの木塊だった。

 ユンゲは訝りながら、その木塊が纏っていた装備を引き剥がす。

 夜の闇に溶け込むような独特の光沢を持つ上衣装――それが忍び装束だと気付いた瞬間、ユンゲは跳ね飛んでその場から距離を取る。

(――しまった、<遁術>か!?)

 忍者の用いる“忍術”の一つであり、装備を犠牲にしてしまうものの、確実に敵の攻撃を避けることができる特殊技術のはずだと思い至り、ユンゲの鼓動が早鐘のように高まっていく。

 ユグドラシルにおける忍者の職業は、最低でも六十レベル以上にならなければ取得できない上位職業のはずだった。

 テントで寝ているマリーたちを起こして逃がすべきかと考えるものの、レベルの低い彼女たちでは高レベルの忍者を相手にして無事に逃げ切ることは難しいだろう。

(敵の人数も分からないし、ここで俺が止めるしかないか……)

 ユンゲは魔法職に半分ほどの職業レベルを割いているので、残念ながら純粋な前衛職を相手にしては直接戦闘での力は劣ってしまう。――襲撃してきた相手が本当に忍者なら一筋縄ではいかないだろうが、敵は遁術で装備を失っている分、こちらにアドバンテージがあると思いたいところだ。

 野営テントを背に庇いつつ、筋力や敏捷力増大など自己強化の魔法を無詠唱でかけながら、バスタードソードを構え直して襲撃者に向かい合う。

 

 こちらに半身で構える相手の背丈は、ユンゲより頭二つ分ほども低いだろうか。

 上衣を失ったことでぴったりと肌に吸い付くような鎖帷子が剥き出しとなっており、ゆらゆらと揺れる焚き火に照らされて闇夜に浮かぶ襲撃者の影――控えめながら優美な丸みを帯びた肢体は、女性特有の小柄なものだ。

 思わず吸い寄せられそうになる視線をなけなしの理性で上に向けつつ、ユンゲは警戒を強めながら襲撃者――女忍者の様子を窺う。

 顔の半分ほどを覆う黒髪と高い鼻梁まで持ち上げられたスカーフも相俟って、表情はほとんど読み取れないが、かなり若い感じがする。

 相手の狙いはユンゲなのか、或いは元奴隷エルフの少女たちなのか。

 忍者を相手にしては余裕もないが、少しでも情報が欲しい。

「……あんた、何者だ?」

「それはこちらの台詞。私が気配に気付かれるなんて……」

 ユンゲの問いに返ってきたのは、意思を読み取らせない意外なほど硬質な女の声。まるで台本を棒読みしているかのような印象だが、忍者ならばそうした術に長けているのかも知れない。

 剣先を相手の額に向けて構えたまま、油断なくユンゲは問いを重ねる。

「なぜ、いきなり俺を襲ってきた?」

「それもこちらの台詞。いきなり攻撃してきたのはそっち……」

 闇に浮かび上がるような白い小さな手にぴしりと指差され、ユンゲは咄嗟に言葉を失う。

 指摘されたように、確かに攻撃を仕掛けたのはユンゲからだった。

(――あれ? 襲撃されたというのは俺の勘違いなのか?)

 感情は読み取れないのにどこか責めるような女の視線に晒され、ユンゲの背を冷たい汗が伝う。

 改めて相手の姿を見れば、確かに武器らしいものは手にしてない。

 忍者なら暗器のような隠し武器を持っているかもしれないので油断はできないが、ユンゲは少しだけ警戒を緩める。

「……なぜ、気配を消して近づいて来たんだ?」

「それは忍者の性、優秀な忍びは常に気配を消して行動する」

 少しだけ自慢げに張られた女忍者の胸が、小さく弾む。

「俺に気付かれても……?」

 優秀だと言えるのか、と続けかけたユンゲは、無言の抗議を受けて言葉を噤む。

 相変わらず表情は読み取れないが、自身の技量に誇りを持っているらしい女忍者は、これ見よがしなため息を一つこぼした。

「私に気付いた、お前は何者……?」

「何者って言われても、この通りただの駆け出し冒険者だよ」

 バスタードソードの柄を手放さないままに、ユンゲは軽く肩を竦めてみせる。

「――ただの?」と女忍者が訝るように小首をかしげて言葉を続けた。

「女の衣装を剥ぎ取る変態じゃなくて? そして、私は装備を剥ぎ取られた可哀そうな忍者」

「い……いや、それは不可抗力だろ? あんたが女だとは思ってなかったんだって――」

「さっきから目つきが厭らしい」

 焦りから早口で言い訳を口にしたが、ばっさりと切り捨てられてしまったユンゲは「……んぐっ」と言葉に詰まる。

 こういった手合いの相手をするのが苦手だという自覚はあったが、何か良いようにあしらわれている気がしてならない。

 

 わざとらしく腕組みをして胸を強調しながら、「図星みたいね」などとはっきりと言い差してくる女忍者を前に、ユンゲは一つ咳払いをしてから言葉を返す。

「……と、とにかく。あんたの狙いが俺や仲間じゃないなら、お互いに手を引かないか?」

「悪くない提案……。正直、お前の相手はしたくない。必要とあらば命を惜しむつもりはないが、己の実力を省みない蛮勇は、優秀な忍びの望むところではない」

 ユンゲが技量の一端を見せた上で、相手の女忍者にしても危険を冒してまでこちらと戦いたくはないということは、実力は拮抗しているとみるべきなんだろうか。

「そうか、助かる。じゃあ、ここまでに……」

「――それで、私の装備は弁償してくれるの?」

 少しの安堵を浮かべかけたユンゲの言葉を遮って、先ほどまでの緊迫した声音から一転、誘うような妖艶な響きで女忍者が不敵に問うてくる。

「え、あぁ……ど、どれくらい払えば良いんだ?」

「……つまらない冗談を言った。ここは退かせてもらおう」

 稼ぎのほとんどは食費に消えているから手持ちはほとんどないぞ、などと焦って頭の中で皮算用を取りかけていたユンゲの内心を呆れるように、女忍者がまたも溜め息をこぼした。

「え、良いのか?」

「……構わない、気付かれたのは私の落ち度。そもそも、お前たちを害するつもりは最初からない。……だが、お前は可笑しな男だな。それほどの強さを持ちながら、何を怖れる?」

 艶やかな黒髪を僅かにかき上げ、上目遣いに値踏みするような女忍者の視線が、ユンゲの瞳を覗き込んでくる。その鋭さにやや気圧されるような思いを抱くが――散々と醜態を晒しながら今更という思いもあるが――ここで視線を逸らすわけには行かないだろう。

 構えていた手首を返し、バスタードソードを腰の剣帯に留めつつユンゲは言葉を紡ぐ。

「世の中にはもっと強い存在がいる、そのことを知っているだけだよ」

「……なるほど。肝に銘じておこう」

 ユンゲの答えに満足したのか、女忍者は一つ小さく頷いて踵を返した。

「お前とはもう二度と会いたくないものだ……」

 そんな言葉を残して、女忍者の輪郭が朧げに闇夜に溶け込んでいき、確かにそこに存在したはずの気配が彼方へと遠ざかっていくのが理解できる。

「……去ったのか、何だったんだいったい」

 やがて静けさを取り戻した夜更け過ぎの野営地には、焚き火の小枝が燃える渇いた音ばかりが深々と広がっていた。

 やおらと息を吐いて呼吸を整えつつ夜空を仰ぎ見たユンゲは、やけに凝ってしまった首と肩を軽く回して、再び椅子代わりの丸木にゆっくりと腰かけたのだった。

 

 




もう少し緊迫した雰囲気を出したかったのですが、ユンゲが思ってた以上にヘタレっぽくなってしまっている気がします。
次の話ではカッコいい主人公をお見せしたいなぁ、という願望だけはあります。


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(14)連戦

今回は戦いがメインの話となります。
戦闘描写が伝わりづらいかも知れませんが、何とかご理解いただければ幸いです。


 朝露に濡れた野営用のテントが、暖かな陽の光に照らされ輝いていた。

 良く晴れた夏空は鮮やかな青に染まり、綿菓子のような縮れた白雲が、流れる風に運ばれて彼方の地平線へと緩やかに過ぎ去っていく。

 遠くに見える樹々から小鳥のさえずりでも聞こえてきそうな、どこか牧歌的な光景のただ中にありながら、それでも胸がざわつくような寒々しい感覚は消えてくれない。

 やはり、街道を挟んだカッツェ平野から流れ込んでくるアンデッドの気配が濃密なせいなのだろう。

「おはようございます、ユンゲさん!」

「……ん、おはよう」

 寝ぼけ眼を擦りながらテントを這い出せば、夜間の見張り役でなかったことから先に起き出していたマリーの笑顔が迎えてくれた。

 既に朝食の準備をしてくれていたらしく、焚き火にかけられた鉄鍋からは沸々と湯気の立ち昇っているのが見える。

 程良く塩の効いた食欲をそそる香りに、ユンゲの腹が「ぐぅぅ」と思わず音を立てた。

「ふふっ、いっぱい作りましたから、たくさん食べてくださいね!」

 少しばかり気恥ずかしくもあるが、取り繕うのも今更だろう。

 透明感のあるスープには、大きめに切り揃えられた色味も鮮やかな野菜がごろごろと浮かび、限られた野外の調理にも関わらず見た目にも華やかだ。

「おー、美味そうだ。ありがとな、マリー」

 鉄鍋からスープを取り分けながら屈託なくにこやかに笑うマリーにつられ、差し出された汁椀を受け取ったユンゲの口許も思わず緩んでしまう。

「……腹が減っては戦ができぬ、か」

「なんですか、それは?」

「ん? あぁ、俺の故郷で言われてる格言……で良いのかな。戦いの前にしっかり腹ごしらえしとけよ、ってことなんだと思う」

「へー、そんな言葉があるんですね。でも、ユンゲさんはいつでもいっぱい食べてくれますね」

 口許に手を当てながら、少しばかりからかうようにマリーがくすくすと笑う。

「こっちの料理が美味しいからな。いくらでも食べられるよ」

 言い訳っぽく返事をしながらも、ユンゲも嫌な気持ちはしない。

 事情は様々あれど豊かな自然に囲まれ、美味しい食事に可愛らしい旅の連れまでいるとなれば、この生活も楽しくないわけがない。

 初夏であってもまだ少し肌寒い朝の風に、両手で抱えたスープの温かさが心地良い。

 またしても意図せずユンゲの腹が鳴り、マリーばかりか先に席に着いていたキーファとリンダからも笑い声が上がるのだった。

 

「……えっと、忍者ですか?」

 固く焼いた黒パンを小さく千切り、スープに浸してふやかしながら少しづつ口に運んでいたマリーが、疑問符を浮かべて小首を傾げた。

「そうそう、こう……こんな感じの黒っぽい恰好で、偵察とか暗殺みたいなことが得意な――」

 半ばまで炭になった小枝を筆代わりに、ユンゲは昨夜見た忍び装束を地面に描いてみせるが、マリーたちからの反応は芳しくない。決してユンゲの画力が乏しいせいではない……と思いたいところだが、お世辞にも褒められたものでもないだろう。

 謎の女忍者との邂逅から一夜が明けた朝食の席、ユンゲは昨夜の顛末について三人に話を振ってみたものの、忍者という職業そのものがこの世界――少なくともエルフの生活圏では一般にあまり知られていないらしく、はっきりとしたことは何も分からないままであった。

 王都を拠点とするアダマンタイト級の冒険者チームの中に、忍者がいたかも知れないという話を辛うじてリンダが覚えていたくらいだ。

 アダマンタイト級の最高位冒険者ともなれば、“漆黒”の二人にも匹敵するはずなので、レベル六十程度超えていたとしても何ら違和感はない。

 やはりユグドラシルと同様に、忍者が強力な存在であろうことは間違いないのだろう。

 影に棲まう忍者本来の役割を思えば、あまり認知されていないのも道理なのかも知れない。

 結局のところ、昨夜の相手の狙いは分からないままではあったが、現状では例え襲撃をされたとしても、ユンゲが対処するほかにないという結論に変わりはなかった。

 新しく手に取った黒パンを大口で頬張ったユンゲは、残りのスープと一緒に素早く咀嚼して、新たにした決意とともに胃の腑へと流し込む。

 ユグドラシルの料理とは違いバフなどの特別な効果はないはずだが、美味い食事で腹を満たせば活力は湧いてくる。ご馳走さまでした、と静かに手を合わせると、ユンゲは向かいに座るマリーに向き直って笑いかけた。

「美味しかったよ、ありがとな」

 ユンゲの言葉にこくりと頷きを返して、少し頬を染めたマリーが慌てたように、まだ半分ほども残ったパンを口に含もうとする。

「――あぁ、急がないで良いよ。キーファとリンダもゆっくり食べてくれ」

 落ち着かせるように言い差し、ユンゲは視線をやおらと南の方角へと向ける。

 考えるべきことは沢山あるが、先ずは気持ちを切り変えて、目的のアンデッド退治に集中しなければいけないだろう。

 やわらかな朝の陽光の下、草木の生えないカッツェ平野の荒れ地は、生者の進入を拒むように昨日までと変わらない薄霧に覆われていた。

 

 *

 

 あたかも押し寄せる壁のようなアンデッドの大群――多くは肉のない骨の体を持つ最下級のスケルトンだが、中には禍々しい鎧や盾を手にしたスケルトン・ソルジャーや骨の馬に跨るスケルトン・ライダーの姿も見える――を前に、右頬を掠めるように飛来した矢を一顧だにせず、ユンゲは猛然とカッツェ平野の荒れた地面を駆けた。

 当たるに任せて振るったバスタードソードが血濡れた剣を構えて迫るスケルトンの頭蓋を断ち割り、返しの剣撃をラウンドシールドで受けたスケルトン・ウォーリアーが背後に続いていた他のスケルトンたちを巻き込みながら後方へ吹き飛んでいく。

 すかさず横合いから切り掛かってくるシミターの連撃を左腕の籠手で捌きつつ反転、回し蹴りの要領でスケルトン・ソルジャーの纏う装備ごと胸骨を砕いた勢いで跳躍したユンゲは、殺到するアンデッドの壁から距離を取る。

「――っ、強さは大したことないけど、数が多すぎるな」

 悪態をこぼしつつ、紡いでいた<ファイヤーボール/火球>の魔法を連続発動して、一団から飛び出してきたスケルトンを片っ端から焼き払っていくが、それでも後から後から湧き出してくるようなスケルトンの数は膨大だ。

 敵陣の奥から大きく弧を描くように放たれた何本もの矢を避け、或いは切り払いながら目の前のスケルトンを次々と打ち倒していくユンゲだったが、カッツェ平野に侵入した当初には散発的だったはずのアンデッドからの襲撃は、いつからか統制の取れたものに変化しつつあった。

 剣や盾を構えた戦士タイプのスケルトンを前衛として押し出し、弓を携えたスケルトン・アーチャーが後衛として遠くから矢を無数に放ってくるようになったのだ。

 刺突攻撃に対する完全耐性を有するスケルトン系のモンスターは、降り注ぐ矢の雨をものともせずにこちらに襲いかかってくるのに対し、今回の討伐作戦でカッツェ平野に足を踏み入れたシルバー級以上の冒険者ならば、数が多いとはいえスケルトンを相手に後れを取ることもないが、遠くから飛んでくる矢に注意を払いながらともなると事情はいくらか異なってくる。

「……ユグドラシルのときはなかったよな?」

 最早アンデッドの群れではなく、アンデッドの軍隊と称した方が正しい気さえしてくる。

 個々のスケルトンが考えての行動とも思えないので、全体を指揮する何者かがいるのかも知れない。

 

 不意にユンゲの思考を遮るように耳朶を打って響くのは、猛禽類特有の甲高い鳴き声――振り仰いだユンゲの視線の先、こちらからの攻撃は届きそうにもない、はるか高空を舞い飛ぶ骨の禿鷲〈ボーン・ヴァルチャー〉が、戦場となっているカッツェ平野を俯瞰するように旋回を続けていた。

 冒険者を狙って攻撃してくるわけでもなく、どこかへと飛び去るということもない。

 そういったことが可能なのかは分からないが、まるで敵の首魁に、展開する冒険者の様子を伝えるために偵察でもしているかのような動きだ。

 骨だけの翼でどのようにして風を受けているのか、どこか優雅とすら思わせる骨の禿鷲の飛び姿をユンゲは苦々しく睨みつけるが、現状では構っている余裕はない。

 ユンゲの背後には援護に回ってくれているリンダたちが控えているため、簡単に抜かせるわけにはいかない――とは言え、拓けたカッツェ平野でユンゲがどれだけ奮闘したとしてもいずれは圧倒的な数によって押し包まれてしまいそうだ。

「どこか一本道みたいな場所があれば良いんだけど……」

 今のユンゲの能力であれば一対百の戦いではなく、一対一を百回繰り返したほうが楽な気持ちからぼやくが、この広い平野では叶うはずもない。

 高位の魔法の中には、地形を創造するようなものもあっただろうか。

 子どもの頃に読んだ歴史小説の一幕、川に架かる橋を舞台にただ一騎で数万の大軍を防いだ豪傑の姿が描かれていたことを思い出しながら、ユンゲはバスタードソードを縦に薙いでスケルトン・ソルジャーの首を刎ね飛ばす――が、少し前から明らかに左側の、ゴールド級の冒険者チームが配置されていたはずの方角からの圧力が強くなっていた。

「ユンゲ殿!」

 背後から届いたのは切迫したリンダの声。

 目前のスケルトンを蹴り飛ばし、ユンゲは振り返って声を張り上げる。

「――どうしたっ」

「モックナック殿より伝令、一旦退いて態勢を立て直すとのことです」

 荒い呼吸ながらもひと息に言い切ったリンダが、錫杖を振るってスケルトンを打ち払った。

 艶を失わない銀の長髪が汗で額に貼りつき、整った顔立ちにもいくらか疲労の色が見える。

 ユンゲの対処しきれなかったアンデッドの相手は、接近戦を担えるリンダが対応するしかなかったので、かなりの負担をかけていたのだろう。

「了解、リンダはマリーたちを連れて先に下がってくれ。適当に相手をしながら俺も退く」

 リンダが頷きを返して二人のもとに駆け出すのを確認したユンゲは、いくらでも湧き出してくるようなアンデッドの群れからの追撃を防ぐ位置取りをしつつ、徐々に後退を始める。

 そうして、なおも追い縋ってくるスケルトンを斬り払い、ユンゲが踵を返した瞬間だった。

 

 不意に中天から注がれていた陽射しを遮るように伸びる長く巨大な陰影――、「骨の竜〈スケリトル・ドラゴン〉だ!」と誰かの叫ぶ声が聞こえた。

 咄嗟に振り返ったユンゲに向けて振るわれる、長大な竜尾の一撃。

 圧倒的な体躯を活かした超質量の衝撃に思わず強張ってしまったユンゲの身体は、あっさりと後方へ飛ばされてしまう。

「――っい、いやぁ……」

「大丈夫だ! すまん、ちょっと油断した」

 弾き飛ばされる様を直視してしまったマリーの口をついた叫び声を制し、素早く体勢を跳ね起こしたユンゲは、無事を知らせるようにひらひらと手を振ってみせる。

 多少の痛みこそあるが、動きに支障はない。

 突然のことに焦って醜態を晒してしまったが、レベル差による恩恵はやはり大きいらしい。

 鎧についた泥土を拭いつつ、聖遺物級の装備に守られていることも考慮すれば、実際の数値に換算しても精々二桁に届くか、という程度のダメージに過ぎないだろう。

 マリーがほっと胸を撫で下ろすのを横目にバスタードソードを構え直し、ユンゲは突然の襲撃者――見上げるほどの威容を誇るスケリトル・ドラゴンの巨躯に向き直る。

 事前に行われた冒険者組合での会合において、要注意として名前の挙げられたアンデッドだ。

 連なる無数の人骨が、長い首に大きな翼や太い尻尾を象る――その名が示すようにドラゴンを模したような骨の身体を持つアンデッドの一種であり、魔法への絶対耐性と巨体を活かした重い攻撃を仕掛けてくる難敵だという説明だった。

 ユグドラシルにも登場するモンスターなので、ゲームを基準とするなら第七位階以上の魔法であれば倒せるはずだが、第四位階魔法までしか行使できないユンゲには確かめるすべがない。

 こうして実際に対峙してみると、ユグドラシルで相対したときよりも遥かに強大な印象を受けるが、難度にして五十未満――レベルに置き換えるなら十台半ばといった程度のはずだ。

 裏を返せば、その程度のアンデッドでもこの世界では脅威となるということなのだろうが、ゲームを始めて間もない魔法職ならともかく、不意打ちとは言え本来ならユンゲのレベルで遅れを取るわけにはいかない相手のはずだった。

「……これは問題だな」

 今回は相手の弱さに助けられたが、本当の強敵に出会ったならどうなってしまうのか。

 ユンゲ・ブレッターとしての強さは、ゲームの延長線上にある“紛いもの”だ。

 転移前の世界で武術の類いでも身につけていたのなら、多少なりとも違ったのだろうが、現状では経験のない素人が力任せに剣を振るっているだけに過ぎないのだろう。

(――いや、考えるのは後でいい)

 余計な思考を隅に追いやり、ユンゲはスケリトル・ドラゴンと対峙する。

 余りの巨躯を前にどうしても躊躇いを覚えてしまうものの、相手がアンデッドである以上やるべきことは変わらないはずだ。

 こちらを威嚇するようにスケリトル・ドラゴンの尻尾がのたうち、巻き込まれた何体かのスケルトンが地面に叩き伏せられるのが見えた。

「……お仲間同士、せめて仲良くしてろよ」

 なんとなく理不尽な思いから言い捨て、ユンゲは駆け出す。

 瞬く間に彼我の距離を詰めて肉迫、迎撃に振り下ろされた円柱のような前脚を横っ跳びに避け、勢いに任せて振るった横薙ぎが骨を断ち割る。

 右の前脚を断たれ、体勢を崩したスケリトル・ドラゴンの肩骨を足場に跳躍。

 鞭のようにしなって迫る骨尾を置き去りに、ユンゲはバスタードソードを頭上に振りかぶり、長い骨首に目掛けて袈裟懸けに一閃――僅かな間をおいて、支えを失ったスケリトル・ドラゴンの首から先が、ぐしゃりと大地に落ちて砕けた。

 その頭部を踏み抜くように着地したユンゲは、やおらと振り返って言葉を紡ぐ。

「HPバーがないから分からないけど、頭を落とせば終わりだろ?」

 果たしてユンゲの問いかけに答えるように、見上げるほどの巨体を誇っていたスケリトル・ドラゴンは、巻き上がる大量の土埃とともに荒れた大地へと倒れ伏した。

 迫っていたスケルトンの群れが足を止めているのを見やり、ユンゲは一つ息を吐いてバスタードソードの柄を返す。

「――お、お見事です、ユンゲ殿!」

 労ってくれるリンダの声に軽く手を振って応え、ユンゲは呼吸を整える。

 スケルトンとの連戦に続けて、象よりもはるかに巨大な化け物と戦ったのだ。

 肉体的にはともかく、勝てる相手だと分かっていても精神的な消耗はゲームと比較にならない。

「早く、モックナックさんたちに合流しないとな」

 自身に言い聞かせるように呟き、やれやれとかぶりを振りながらリンダたちの方へと目を向けたユンゲの視界の端、飛び込んでくるのはいくつもの巨影――いったい何処から現れたというのか。

 先ほどまで影も形も見られなかったはずの複数のスケリトル・ドラゴンが、鎌首をもたげるようにこちらを見下ろしている光景に、ユンゲは臨戦体勢を取りつつも深いため息をこぼした。

「――ったく、少しは休ませて欲しいんだけど」

 ここまでの戦闘で振り乱れた髪をかき上げて、ぼやきとともに後ろへ流す。

 アイテムボックスから取り出した、疲労回復のポーションを気休めとは思いながらも口にして、ユンゲは再びカッツェ平野を駆け出した。

 

 




誤字報告をしていただける方、いつもありがとうございます。気を付けているつもりなのですが、やはり見落としてしまうものですね。

次話は何とか年内に投稿できればと考えております。


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(Side-M)羨望

なんとか年内に投稿できました。
久しぶりの別キャラ視点ですが、原作キャラの心理描写は緊張しますね。

今回は、頭文字“M”つながりで、モックナックとアインズ(モモンガ)様にご登場いただきました。違和感がなければ良いのですが……


 ――骨の竜〈スケリトル・ドラゴン〉だ!

 遠くから上がった叫び声を聞いた瞬間、モックナックの身体は駆け出していた。

 事前の調査でも確認された魔法への絶対耐性を持つ強力なアンデッドであり、出現した場合にはミスリル級の冒険者チームを中心に対処することが取り決められていたモンスターだった。

「くそったれ、こんなときにっ!」

 後ろからチームの仲間が続いていることを確認しつつ、モックナックは悪態を吐き捨てる。

 今回の依頼で足を踏み入れたカッツェ平野は、端的に異常事態に見舞われていた。

 無数とも思える規模もさることながら、モンスターであるはずのアンデッドの群れが、統率された軍隊のように互いの連携を図りながら戦いを挑んでくることなど想定すらされていなかった。

 このまま戦い続けることを形勢不利と見たモックナックは、各チームに伝令を送り、一時撤退の指示を出していたのだが、強力なアンデッドの出現となれば話は違ってくる。

「戦士職を集めたい、頼めるか?」

 モックナックの言葉に、「了解した」と答えた仲間の魔法詠唱者が方向を変えて走り去っていく。

 魔力系の魔法詠唱者では、スケリトル・ドラゴンを相手にできることは何もない。

「……また、ズーラーノーンなのか?」

 脳裡を過ぎる疑問――先日のエ・ランテル共同墓地においてアンデッドを利用した事件を起こした悪の秘密結社が、今回の事態に関わっている可能性は十分にあるように思われた。

 都市の上層部は隠蔽したがっているようだが、“漆黒”によって討たれたはずの首謀者二名の遺体が、安置所から運び出されてしまったという情報もある。

 思い返した“漆黒”という単語に、ふとモックナックの胸の内に込み上げる感情があった。

 

 リ・エスティーゼ王国の南東部に位置する国王の直轄地、城塞都市〈エ・ランテル〉。

 戦時の軍事拠点として、また他国との国境に隣接する立地から交易の要衝として、これまで発展を遂げてきたエ・ランテルには、商人や冒険者を始めとする多くの人々が行き交っている。

 この街に生まれ育ったモックナックは、そうした様々な人の生き方に触れながら過ごしてきた。

 あるとき、街角で見かけた吟遊詩人〈バード〉が唄う英雄譚に魅せられ、自分もそうなりたいと剣を手に取った。――冒険者を志したのは、もう十年以上も前のことだっただろう。

 上位冒険者の荷運び〈ポーター〉を務めることから始めて、地道に実績を重ねてきた。

 様々な困難を経験してきたものだが、初めて自らの手でゴブリンを打ち倒したときの感慨は、特に思い出深いものがある。

 しかし、自身が英雄の器でないことをモックナックが自覚するまでには、それほどの時間は必要とならなかった。

 モックナックには圧倒的な身体能力もなければ、類い稀な魔法の才能もなかったが、それでも努力を惜しむことなく邁進する中で気の合う仲間にも恵まれて、チーム“虹”を結成することができた。

 モックナックに何か他人よりも優れた点があったとすれば、それは情報を分析する能力だった。

 自身やチームの力量を見極めて、置かれた状況に照らし合わせながら常に適切な行動を取り続けることで、遂にはエ・ランテルにおける最高位ミスリル級冒険者の一角に名を連ねることができたのだ。

 その地位に安住したつもりはなかったが、どこかで甘えてしまってはいなかっただろうか。

 モックナックと同じくミスリル級の冒険者チームでリーダーを務めていた男の、どこか傲慢な自信に満ちた横顔が思い出された。

 ――上には、上がいる。

 そんな当たり前のことをまざまざと見せつけられたのは、つい先日のこと――冒険者組合に登録して間もない男女二人組のチーム“漆黒”が、自分たちと同じ地位に並び、瞬く間にさらなる高みへと駆け上っていった出来事だ。

 エ・ランテル共同墓地でのアンデッド騒動の鎮圧に続き、飛躍の要因となった第三位階の魔法すら行使するという強力な吸血鬼の討伐は、間違いなくアダマンタイト級の偉業だった。

 組合長のアインザックに呼ばれたとはいえ、その戦場跡を自らの目で確かめようと考えたのは何故だっただろう。

 おそらくは、つまらない嫉妬心と僅かばかりの自己保身――都市最高位の冒険者、“虹”のモックナックとして重ねてきた功績が、霞んでしまうことを怖れたのかも知れない。

 トブの大森林僻地で見た、抉り取られた大地と焼け爛れた断崖によって隔絶された死の大地。

 まさしく神話世界の幻想、古の英雄譚に唄われるような光景を前に自分は何を思ったのだろうか。

 圧倒的に過ぎる存在を知って、自分は何をするべきだったのだろうか。

 あのとき、同じ場所に立って同じ景色を目にした、あの若者たちは何を感じたのだろうか――。

 

 振り下ろされた前脚の一撃を寸でのところで避け、モックナックは戦槌を横薙ぎに振るう。

 長柄を掴んだ両腕が、痛みに軋むほどの全力を込めた剛撃が、それでも巌のようなスケリトル・ドラゴンの巨体を揺るがせない。

「――くっ、こいつは手強いぞ!」

 仲間に向けて注意喚起の檄を飛ばしつつ、モックナックは額に浮かぶ汗を拭った。

 モックナックの率いる“虹”は、過去にスケリトル・ドラゴンを討伐した経験もあったのだが、そのときに戦った個体よりも、目前に対峙する竜を模したアンデッドは遥かに強力だった。

 一瞬でも気を抜いたなら、容易く踏み潰されて戦線離脱は避けられないだろう。

 しかし、生命の危機を感じるほどの事態に直面しながら、モックナックは思わず頬が綻んでしまうことを止められなかった。

「……あれが、英雄となる者か」

 感嘆とも呻きともつかない言葉が、モックナックの口をついてこぼれる。

 見上げれば首が痛くなるほどの大きな影に相対する、モックナックの視線の端で巻き上げられる砂埃――巨木のような前脚を砕かれ、倒れ伏した巨躯を目掛けて振るわれる竜巻のような斬撃に、凄まじい轟音ともに骨の骸が破断された。

 ミスリル級の戦士であるモックナックの動体視力をして、ほとんど残像のようにしか映らない翡翠色の軌跡――どこか頼りなさそうにも見えたハーフエルフの青年が、薄霧に覆われたカッツェの戦場を縦横無尽に駆け回り、次々とアンデッドの巨竜を薙ぎ払っていく衝撃の瞬間。

 幼少の時分に魅せられた英雄譚の一説を具現化するような光景を前に、モックナックは内心の興奮を抑えきれないのだ。

「……脇役でも、せめて格好良く描いて欲しいものだな」

 口から思わずぼやきがこぼれる。

 無数のアンデッドに包囲される、あまりに絶望的な戦いに赴いたつもりだったモックナックの眼前で、後の世に語られるであろう“英雄譚”が今まさに紡がれていく。

 肩に圧し掛かっていた疲労が、少しだけ軽くなる思いがした。

 エ・ランテル最高位の肩書きをなくしたとしても、上位冒険者であるモックナックには求められる役割がある。

 先達者として後輩を導くのは当然の務めであり、人々の安心した暮らしを守るために脅威となるモンスターを討伐することは、欠くことのできない大切な仕事だろう。――お伽話になるような華々しい活躍ではないが、それもまた一つの生き方になるかも知れない。

「踏ん張れっ! 新人にばっか、良い恰好させてらんねーぞ!」

 カッツェ平野に響き渡るほどの大声を張り上げて仲間を鼓舞し、モックナックは再び戦槌を振り上げながら駆け出した。

 

 *

 

「ふむ、“翠の旋風〈みどりのかぜ〉”を名乗ったか……」

『はい。また、今回の功績によりゴールド級への昇格が決まったようです』

 ナザリック地下大墳墓第九階層内の一室、頭の中に響くように聞こえてくるナーベラルの澄んだ声に応じて、アインズは正面に据えられた鏡へと視線を向ける。

 直径一メートルほどの鏡の中に映っている像は、死の支配者〈オーバーロード〉として骸骨の身体となった自身の顔ではない。

 遠く離れた場所をまるでテレビのように映し出す鏡――遠隔視の鏡〈ミラー・オブ・リモート・ビューイング〉は、ユグドラシルにおいては微妙系に数えられるアイテムに過ぎなかったが、この世界に転移してからは、非常に有益なアイテムとして活用されている。

 瀟洒な額縁に飾られ、活況な酒場の風景を描いた一枚の絵画のようにも見えるが、上機嫌な酔客の様子や忙しなく動き回る給仕の姿は、映し出される像が静止画でないことを教えてくれる。

 アインズが持ち上げた手を鏡に向けてゆっくりと右に動かせば、鏡に映る光景は手の動きに合わせてスライドし、取り分けて騒がしい酒場の一角へと向けられる。

 テーブルに所狭しと並べられた数々の料理を前に、酒杯を打ち合わせて談笑している四人組の冒険者チーム。

「……ゴールド級程度の実力ではないな」

 

 事前に行われた冒険者組合での会合において、思いがけない事態に遭遇したために計画の一部を変更したが、先のカッツェ平野でのアンデッドの討伐戦は、本来なら“漆黒”の最高位冒険者として名声を盤石とするための一つの策であった。

 他の現地冒険者の実力を少しばかり見誤ったことから、調子に乗って準備し過ぎたアンデッドの群れが、カッツェ平野からエ・ランテル方面へと流れ込んでしまったものの、結果的にアンデッド師団の討伐として偉業の一つに数えられるようになったため、今回の作戦は概ねで成功だったと言えるだろう。

 そして、そのアンデッドとの戦いにおいて“漆黒”に次ぐ評判を得た冒険者が、アインズの見つめる鏡の向こうで瞬く間に大皿の料理を平らげていく。

 緑を基調とした聖遺物級にも匹敵すると思われる装備に、この世界では一流の魔法詠唱者として称される基準ともなる、第三位階魔法まで使いこなすというハーフエルフの青年剣士。

 もっとも使用可能な魔法については、冒険者の登録をしたときの自己申告に過ぎないので、第三位階までを使用できるとしているナーベラルのように、より上位の魔法を使える可能性もある。

 エルフの血を引いているなら見た目通りの年齢とも限らないが、この世界では時間をかければ強くなれるということもないらしいことは判明している。

 やはり現地の基準から異質とも思える強さには、神話や古の英雄譚の類いとして謳われる他のプレイヤーと思しき影がちらついて離れない。

(そして、シャルティアを洗脳した何者かの存在……)

 このハーフエルフが先日の悪夢のような出来事に関係しているのか、現状では判断がつかない。

 それでも、かけがえのない仲間が残してくれた、忘れ形見ともいうべきNPCを自らの手で殺さざるを得なくなってしまったのだ。

 もし、アンデッドの特性による精神抑制がなければ、どうなっていたのかは分からない。

 激情のままに周囲へ当たり散らすような真似はもうしないつもりだが、思い返せば未だに冷静ではいられず、辛うじて抑制が働かない程度には沸々とした怒りを感じてしまう。

『――アインズ様?』

「ん? すまない、少し考え込んでしまっていたようだ」

 僅かな怯えを孕んだナーベラルの声音に、アインズは脱線しかけていた意識を集中する。

 先ほどから<メッセージ/伝言>を繋いだままだったので、ナーベラルに怒りの感情が伝わってしまったのかも知れない。

『お、お考えを中断させてしまい申し訳ございません』

「良い、謝罪は不要だ。……どうした?」

『はい、先のハーフエルフとは別件なのですが、冒険者組合より“漆黒”を指名する依頼が入っております。依頼主は王国貴族であり儀式のために次期領主の護衛を、とのことです』

「なるほど、了解した。こちらでの仕事が終わり次第、エ・ランテルへ戻るとしよう」

 居住まいを正すようにナーベラルが『畏まりました』と律儀な言葉を返したところで、<伝言>による通信は途切れた。――転移前の世界の会社員が電話越しにするように向こうで頭を下げていたりするのだろうか、などと下らない疑問が過ぎる。

 エ・ランテルに滞在するナーベラルには、八肢刀の暗殺蟲〈エイトエッジ・アサシン〉を護衛としてつけており、万一の事態には撤退を優先するよう厳命しているが、油断は大敵だろう。

 できるなら早めに合流したいところではあるのだが――、ちらりと視線を下に向ければ、執務机にはアインズの決裁を待つ書類が山積みになっている。

 事前にアルベドが精査をしているので、右から左へ流したところで問題は起きないだろう。

 ――以前、そう考えたアインズが次々に承認の判を押していったところ、処理スピードの早さに驚愕したアルベドから、またも誤解による過大評価を受ける羽目になってしまったので、今では適度な時間をかけて決裁を行うようにしていた。

 こちらの意図とは異なり、際限なく上昇していくNPCからの尊敬とも、崇拝ともつかない忠誠心の篤さに、アインズはないはずの胃が痛むような思いを抱えるのだった。

 

 やや現実逃避にも似た気持ちから、アインズは再び遠隔視の鏡へと目を向ける。

 翠の旋風が興じる宴席はゴールド級への昇格祝いということなのか、給仕の娘が次々と追加の料理や酒の注文を運んでいく様子が見えた。

(しかし、何の対策も施していないとは、どういうことなんだ? 警戒心がないのか、或いは何か別の狙いがあるのか……)

 指定したポイントを映し出すことができれば、ユグドラシルで横行したPKやPKKへの対応として有用にもかかわらず、遠隔視の鏡が微妙系アイテムとされていたのは、対策が容易であることが原因だった。

 低位の対情報系魔法程度で簡単に隠蔽され、さらには攻性防壁による反撃を受けやすいとなれば、使い勝手が悪いと評価されても仕方ない。

 しかし、裏を返せばプレイヤーの多くは、そうした探知対策を常に取っていたということだ。

 人間種のハーフエルフであれば、アインズのような異形種ほど執拗にPKを狙われることもなかったのだろうが、厭くまで程度の問題なので警戒が過ぎるということもないはずだった。

(わざわざアルベドを介して、ニグレドに監視の準備をさせたんだけどなぁ……)

 ナザリックにおけるNPCの中でも、情報収集などの調査系に特化した職業構成のニグレドであれば、よほど上位のプレイヤーが相手であっても情報戦で後れを取ることはないと判断しての指示だったのだが、良くも悪くも杞憂となってしまった。

 そうした事実が、却ってアインズの思考を混乱させる要因となっていた。

(もし、プレイヤーなら探知対策を怠るなんてことがあり得るのか? しかし、あのポーションは間違いなくユグドラシル産のはず……)

 カッツェ平野におけるスケリトル・ドラゴン――対象の実力を確かめるためにアインズ自身が召喚し、少しばかりの強化魔法も施した――との連戦の最中、このハーフエルフが取り出したのは、“青色”ではなく“赤色”のポーションだった。

 アインズ自身の苦い記憶とともにあるが、この世界の技術では赤色のポーションを製造することができないことも分かっている。

(……エルフには、その技術が伝わっている可能性もあるのか?)

 エルフの王国は、南のスレイン法国より更に南方に位置することが分かっているが、現状では調査の手が及んでいないので、仮説の確証は得られない。

 連れている三人の女性エルフにしても、皆それぞれに人目を惹く容姿をしているが、特筆した実力を有している様子はないために、ますます判断がつかない。

 仮に現地人のエルフであるならば、わざわざ弱い相手とチームを組むことに何の意図があると言うのだろうか。

(……いや、このまま考えていても仕方ない。とりあえず無理な接触は避けつつ、監視を続けるべきだろうか)

 問題を一旦先送りにしつつ、執務机に積まれた書類の一部を手に取って、思案深げに視線を巡らせる。別に内容を吟味しているわけでもないので行為に意味はないのだが、アインズ当番のメイドが常に控えているので、支配者としての振る舞いを止めることもできない。

(――しかし、こいつはどれだけ食べるんだ?)

 溜め息を押し殺しながら、鏡をちらりと横目で窺えば、件のテーブルに更なる追加の料理が運ばれてくるところだった。

 見ているだけでも、こちらが胸焼けしそうな有様なのだが――、

(この世界の食事は美味しいのかな……。ナーベラルの話では、ナザリックの食事とは比べものにならないって話だったけど……、やっぱり食べてみたいよなぁ)

 睡眠や休憩が必要でなくなったり、精神抑制に助けられたことも一度や二度ではないが、やはりアンデッドの身体となったことで“失ってしまったもの”も大きい。

(…………、……ん? いや、そういうことなのか?)

 不意に脳裡を過ぎった一つの考えに、アインズは鏡が映し出す酒場の光景に見入っていく。

 口いっぱいに料理を詰め込みながら、可愛らしいエルフの女性たちと楽しそうに過ごす監視対象――ユンゲ・ブレッターの姿に、アインズの心の内に言い知れぬ暗い感情が芽生え始めるのだった。

 

 




アインズ様「羨ま……けしからんっ!」

――ということで、ユンゲたちのチーム名は“翠の旋風〈みどりのかぜ〉”となりました。六大神(四大神?)信仰に絡めつつ、適度に中二病っぽい感じが出せたかと思うので個人的には気に入っています。

それでは、皆さま 良いお年をお迎えください。


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scene.3 名指しの依頼
(15)虚像


-これまでのお話-
元奴隷エルフの少女たちとともにエ・ランテルへと帰還し、冒険者チーム“翠の旋風”を結成したユンゲは、カッツェ平野におけるアンデッド討伐などの目覚ましい成果を上げて、異例のスピードでゴールド級への昇格を決める。
順風満帆とも思える冒険者生活を送るユンゲだったが、その陰で人知れず嫉妬の炎を燃やす不死者の王様がいたとか、いなかったとか……。


 麗らかな木漏れ日を浴びながら、ユンゲは渓流のせせらぎに耳を傾けていた。

 川面を渡る涼やかな風に岸から迫り出した樹々の鮮やかに色づいた緑葉が揺れ、複雑な陰影を描かれた川の流れに目を向ければ、丸みを帯びた小石や青々と繁茂した水草の懸命に流れに立ち向かっている様が見える。

「……釣れないな」

 エ・ランテルより北へ進んだトブの大森林にほど近い小川の畔、木陰となった岩肌に胡坐をかいたユンゲは、中天に差し掛かろうとする太陽を見上げて不貞腐れるように溜め息をこぼした。

 朝も早くから釣り糸を垂らしているのだが、ただの一度も当たりがない。

 川底まで見通せるほど澄んだ清流なので魚の影を見つけることはできるのだが、一向に釣れる気配もないまま時間ばかりが過ぎていってしまう。

「んー、やり方が間違ってるのか……?」

 引き上げた釣りの仕掛けをぼんやりと眺めてみるが、環境汚染の進んでしまった世界に生きていたユンゲに釣りの経験はないので、何が正解なのかを判断することはできなかった。

 手頃な長さの枝先から伸ばした細い糸に、返しのついた釣り針を結んだだけの簡素な釣り竿は、転移前の世界で見た過去の記録映像を思い出しながら作ったものだが、どうにも不恰好な印象を否めない。

 薬草採取のときを思えば、道具作りに相当するようなスキルが必要なのかも知れないと自身を慰めながら、ユンゲは釣り竿作りの際に切り落とした小枝を拾い上げた。

「……この世界で新しい職業〈クラス〉の取得はできるのかな?」

 小枝を指先で回しつつ、ユンゲは揺れる水面を見つめる。

 ユグドラシルであれば、戦闘などによって得た経験値を取得したい職業に振り分けてレベルを上げることができたが、転移後の世界においては条件が分からない。少なくとも経験値を任意に振り分けるようなことはできないので、希望する職業を取得できないこともあるのかも知れない。

(戦士らしい働きをすれば、戦士系の職業を得られるみたいな感じだとそもそもの基準があやふやだよな……)

 取り止めのないことを考えながら、陽射しを照り返す川の流れの中に水苔を食む魚の姿を見止めたユンゲは、手の中で転がしていた小枝を掴み直して狙いを定める。

「……はっ、流石に無理だよな」

 やや自嘲めいてユンゲが投じた小枝の投げ槍は――、果たして見事に魚の横腹を貫いて川底に射止めた。

 水飛沫を上げてもがく魚影を横目に、ユンゲは憮然として釣り竿に目を落とす。

「これ、普通に釣るより楽なんじゃないか……?」

 釈然としない思いを抱きながらも、ユンゲは釣り餌を詰めた深皿に手を伸ばす。

 朝の食事で供された煮豆を拝借して釣り餌として使っているものの餌が良くないのかも知れない。何かしらの昆虫を捕まえて餌にしたほうが良いのだろうか。

「まぁ、魚釣りは目的じゃないから良いんだけど……」

 ぼやきをこぼしながらおざなりに釣り竿を振るい、小さな水音が立つのを聞き流しながらユンゲは思考に沈む。

 

 先のカッツェ平野でのアンデッド討伐の功績によって“翠の旋風”の名声は高まった。――より正確な表現をするならば、冒険者ユンゲ・ブレッターの名声は高まった。

 それはユンゲの首から下がる冒険者プレートが、シルバー製からゴールド製に変わったことからも端的に事実が示されているだろう。

 しかし、ゴールド級への昇格以来、羨望とも嫉妬ともつかない剥き出しの感情に晒され続けたユンゲは、街中で人の視線を感じる機会が多くなったことから胸中穏やかではいられなくなってしまっていた。

 当然ながら “漆黒”という桁外れの存在もいるが、あちらは冒険者としての最高位であるアダマンタイト級を戴いているので、民衆はおいそれと声をかけることもできない――などということは全くなく、漆黒のモモンは大荷物を抱えた老人を見かければ進んで手を貸したり、子どもにせがまれれば快く肩車に応じる姿まで目撃されているらしい。

 まさしく聖人のような、物語に謳われる英雄に相応しい人物なのだろうと思う。

 冒険者組合での会合のときに短い言葉を交わしたことしかないが、ユンゲがモモンに対して抱いた印象にも相違ない。

 そうした漆黒に向けられる賞賛に比べれば、ユンゲの感じているものなど何ということもないのだろうが、もともと小市民に過ぎなかったユンゲは、精神的な疲労を覚えずにはいられなかった。

 ――努力の末に勝ち取った賞賛であったなら、或いは素直に誇ることもできたのかも知れないが、ユンゲはただユグドラシルを楽しんでいただけだった。

 異世界へと転移した理由など今をもって何も分からないままだが、遊びの延長線上に手に入れた力を褒められたとしても、申し訳なさとともに情けないような思いばかりが込み上げてくる。

 難敵に対峙したとき、精神を鼓舞してくれる<ライオンズ・ハート/獅子のごとき心>といった魔法も試してみたのだが、心の内から湧き上がる感情にはあまり効果が得られなかった。

 騒がしい街の雑踏を離れて自然の中に身を置いたなら、少しは気持ちも落ち着くだろうかと考え、ユンゲは街道を外れたこの川辺で釣りの真似事をしていたのだった。

「英雄なんて器じゃないんだよなぁ……」

 嘆くように独り言をこぼしてユンゲが頭上を仰げば、鮮やかな緑の天蓋を透かして見る青空にさざ波のような白雲が広がっていた。

 

 *

 

「ユンゲさん、調子はいかがですか?」

 背後からの声に振り返れば、息を弾ませたマリーが短杖とバスケットを持って笑っていた。

「んー、全然釣れないな。マリーは何かコツとか知らないか?」

「すみません、私も魚釣りをした経験がないので……」

 困り顔を浮かべたマリーが、小首を傾げながら川の流れの方へと目を向ける。

「そっか……。まぁ、気長に待ってみるよ」

 相変わらず泳ぎ回る魚影は見えるのだが、釣り餌に食いつくような素振りはなさそうだ。

 ほのかに鼻孔をくすぐる甘い香り――マリーが手にしていたバスケットを広げれば、マローン葉の包みが見えた。

 以前にも作ってくれたエルフの携行食“レンバス”だろう。

「お食べになりますか?」

「ありがとう、頂くよ」

「ふふっ、お隣に失礼しますね」と傍に腰を下ろしたマリーが、差し出してくれたレンバスを受け取り、ユンゲは「いただきます」と破顔する。

 レンバスの包みを開きながらマリーに視線を向ければ、にこにことした横顔があった。お互いに何を話すわけでもないが、ぼんやりと釣り糸を垂らして過ごす時間は悪くない。

 渓流のせせらぎと軽やかな葉擦れの音を伴奏に、故郷の唄だとマリーが口遊む独特なエルフの調べもまた、ユンゲの耳を楽しませてくれるし、“空気にも味がある”などという大昔の青春映画の中でしか聞くことのなかった言葉を実感させてくれるこの世界――豊かな緑に囲まれたこの地の澄んだ空気は、ただ呼吸をするだけでも心地良かった。

 これ以上を望むことは、贅沢に過ぎるのだろうとさえ思う。

 ――それでも、ユンゲの心は晴れないままだった。

 

 そうして、ユンゲがもう何度目かも分からない竿振りをしたときだ。

「ユンゲさん、なにか悩んでいらっしゃいますか?」

「ん? ……悩み、とは違うかもしれないけど、どうした?」

 虚を衝かれるようなマリーから呼びかけに、ユンゲは思わず身体を硬くするが――、

「いえ、私たちは迷惑をかけてしまうばかりで申し訳ないなぁ、と思いまして……」

 続いてかけられたのは、思ってもみない言葉だった。

 咄嗟に返事に詰まったユンゲの沈黙をどのように解釈したのか、マリーはどこか遠くを見つめるように顔を背けて静かに言葉を続けた。

「ユンゲさんは本当に凄いです。この前のアンデッド退治でもそうですけど、私たちが足を引っ張っていなかったら、ユンゲさんはとっくにアダマンタイト級にだってなっているはずなんです。ユンゲさんには感謝してもしきれないです。でも、私は何も恩返しすることができてなくて……」

 こちらを振り向いた寂しげなマリーの笑顔に、ユンゲは「……マリーは、良くしてくれてるよ」と力なくかぶりを振った。

「……俺はそんな立派じゃないってこと、ただの凡人だよ。どこにでもいるような……、な」

 手にしていた釣り竿を脇に置き、気恥ずかしさを繕うようにユンゲは頭をかく。

「ちょっとだけ他人より要領が良かったから、嫌なことは適当にやり過ごしてさ……、たいした努力もしないで取り敢えず楽な方へ楽な方へ流れてきたんだ。所詮、俺の力なんて“紛いもの”なんだよ」

 渇いた笑いとともにユンゲは内心を吐き捨てる。

 ゲームを遊んでいたら、いきなり異世界に転移した――そんな突然の異常事態に遭遇しながらも、ユンゲは転移前の世界に帰ろうと必死になることもなかった。

 ユンゲにとっての現実世界は、“その程度”の価値でしかない。

 元々の生活に戻るために行動するほどの未練を残していなかったのは、ユンゲが何事も成していなかったからだ。

 努力で積み上げたものがなければ、失ったとしても惜しむことはないだろう。

「俺は、何もしてこなかった。――英雄なんて器じゃないんだよ」

「ユンゲさんは、難しいことをおっしゃいますね」

 自嘲めいたユンゲの言葉に、少し眉毛を曲げてみせたマリーが言葉を続ける。

「……少なくとも、私はユンゲさんに救っていただきましたよ。誰から顧みられることなんてないまま、消えていくだけだった私たちをユンゲさんは見てくれました。一緒に行こうと私の手を取ってくれました」

 

 ――だから、ユンゲさんは私にとっての英雄〈ヒーロー〉です。

 

 あまりに真摯な響きを湛えたマリーの声音に、ユンゲは返すべき言葉が分からない。

 そうして、マリーの浮かべる屈託のない笑顔を直視できなくなり、ユンゲが思わず顔を俯けたときだった。

 不意に、慈しむような温もりがユンゲの頭を抱いていた。

「ユンゲさんは、私の英雄なんです」

 耳許で凛と囁かれる、マリーの真っ直ぐな言葉。

「……私、今でも夢に見るんです。“道具”だった頃のこと――無理やり参加させられた戦争で、戦いに負けて捕虜になっちゃうんです。痛くて怖くて、お願いだから早く終わって、なんて……。いっそのこと殺してくれたら楽になれるのに、って泣きたくなるんですけど、それでも自分で死ぬのは怖い臆病者だったから――だから、ただじっと待つことしかできなくて……」

 紡がれる言葉には、いつしかすすり泣くような嗚咽が混じるようになっていた。

「それで、どうにも堪え切れなくなったところで目が覚めるんです。夢の中での出来事なのに、汗とかいっぱいかいてたり、息切れとかもしちゃってて……。でも、ベッドから降りるとユンゲさんがいるんです。とってもひどい寝相で、『おかわりーっ』なんて寝言が聞こえてきて――この人、夢の中でも食事してるんだ、って思うと呆れて良いのかも分からないですけど、幸せそうなユンゲさんの寝顔を眺めていたら、悲しかったり悔しかったりした気持ちが、なんかちっぽけに思えてしまうんです。……可笑しいですよね」

 早鐘のような胸の鼓動は、果たしてどちらのものだったのか。

「私、ユンゲさんの笑顔が好きです。……だから悲しそうな顔をしていて欲しくないです」

 ――思い返せば、マリーを助けたいとしたことは、ユンゲが初めて自分の意思で決めて選択した行動だったのかも知れない。

 ユグドラシルを始めたのは同僚の勧めを断り切れなかったからだし、エ・ランテル検問の兵士に言われて何となく冒険者となり、受付嬢の手引きで帝都行きの依頼を受けることを決めた。

 あのとき感じた思いの根源――行動原理は未だに良く分からないが、ユンゲの行動がマリーやキーファ、リンダの運命を変えたことは間違いない。

 その変化がもたらす、これから先の未来がどうなるのかは分からなくとも、その事実だけは確かなものだった。

「……ありがとう、マリー」

 自然にユンゲの口をついてこぼれた言葉に、「お礼を言うのは私の方です。こちらこそ、ありがとうございます」と晴れやかな笑顔を浮かべたマリーが答えてくれる。

 間近から見上げれば、ずっと年下のはずのマリーがとても大人びて見える。

 普段とは逆転した身長差が、何となく気恥ずかしくなってユンゲは思わず口許を緩めた。

「ふふっ、やっぱり笑った顔の方が素敵です」

 いつの間にか中天を越えていた陽射しが後光のように降り注ぎ、川面を渡る柔らかな風がマリーの艶やかな金色の前髪を梳いていく。

「情けないとこを見せちゃったな……、助かったよ」

「――私は、少しだけ安心しました。ユンゲさんほどの方でも、こういうことがあるんだって……」

「はっ、――俺は“英雄”じゃないからな」

 同じ言葉でも気持ち次第で、大きく意味合いは変わってくるはずだ。

 眩しいほどの木漏れ日も頬をくすぐる涼風も渓流のせせらぎの音も、全てが心地良く感じられる。

 

「――あっ、釣り竿が引いてますよ!」

 突然のマリーの声にユンゲが川縁の方へ振り向けば、岩場に置きっぱなしにしていた釣り竿が流れの中に呑まれていく瞬間だった。

「……釣り竿ごと、取られちゃいましたね」

 そんな苦笑を押し隠すようなマリーの言葉に、ユンゲは抱えていた思いを吐き出すように大きな笑い声を上げたのだった。

 

 




果たして“煮豆”で魚は釣れるのか?
書き始めたときは、スキル〈ビキナーズ・ラック〉のお陰で沢山お魚が釣れたよ。やったね! という感じのお話のつもりだったのにどうしてこうなったのか……。

何はともあれ、今年もよろしくお願い致します。


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(16)族長

サブタイトルでネタバレ感。
物語的な進展は少ないのですが、オーバーロードの二次創作ということでどうにかして登場してもらいたかったキャラクターなので、こういったお話になりました。


 亜人種に分類されるゴブリンという種族は、ファンタジー系の創作における雑魚モンスターの代名詞ともされる存在であり、そうした不遇な扱いはユグドラシルにおいても同様であった。

 当然ながらプレイヤー自身のアバターとしてゴブリンを選択したのであれば、強さなどはその限りではないはずだが、人間と猿を掛け合わせて邪悪さをトッピングしたようなとも形容される、潰れた顔と平べったい鼻に上向きの牙が生える裂けた口といった醜悪な面構えは、お世辞にも格好良いとは思えない。――やはり、好んで選択するようなプレイヤーは少数派だろう。

 数を頼みに群れを成して襲ってくるという厄介さはあるが、人間の子供ほどの背丈に貧相な身体つきをしたゴブリンは、個々の強さを特筆されることはない。対処を間違えなければ恐れるような相手ではないというのが、多くのユグドラシルプレイヤーの共通認識だっただろう。

 この世界に転移して間もない頃、自身やモンスターの力を把握できていなかったユンゲが、最初の戦闘相手にゴブリンを選んだのも「ゴブリン程度なら大丈夫だろう」という漠然とした考えに因るところが大きかった。相手から気付かれる前に遠くから魔法で攻撃するという“慎重な”戦い方を選択したユンゲではあったが、認識に誤りはなくあっさりとゴブリンを倒すことができた。――誤りはないはずだったが、目前に迫ってくるゴブリンたちはどうだろうか。

 装備の目利きに自信はないが、服とも呼べないような粗末な襤褸切れに仕立ての悪い皮鎧や錆の浮いた武器で襲い掛かってくる野良のゴブリンと比較すれば、明らかに雰囲気が異なっている。

 顔の特徴や背丈こそゴブリンと変わらないが、肉体は屈強な様子で腕周りなどはユンゲより太いかも知れない。磨かれた鎧や真新しい鉄剣を見ても、単なるゴブリンだとは思えなかった。

「……六匹か。他にも隠れてるなら面倒だな」

 少しばかり身なりが強そうだとしても、ゴブリンを相手に遅れを取るつもりはない。

 しかし、ユンゲの背には近接戦が苦手な後衛職である森祭司<ドルイド>のマリーと先ほどゴブリンに襲われてかけていた少女――突然の事態に腰を抜かしてしまったのか、座り込んでしまっている――を庇っているとなれば、万が一にも討ち損じる訳にはいかない。

 ユンゲは僅かな間だけ背後のマリーと一瞥を交わし、向かってくるゴブリンの群れに対峙した。

 

 *

 

 鬱蒼としたトブの大森林の外周を沿うように伸びる畦道は、馬車一台がようやく通れるほどの道幅しかないが、アスファルトに覆われた舗装路にはない風情が感じられるような気がした。

 小石を除けただけの剥き出し地面や長い時間をかけて折り重なるように刻まれた対となる車輪の轍にも、転移前の世界には希薄だった人々の営みが息衝いているような印象がある。

 もっとも逆の道を先に進んだところでいくつかの開拓村が点在するだけという話なので、この道を行き交う人はあまり多くないらしい。

 或いは、少しばかり遠回りになったとしても安全な平原の中を抜ける、南寄りのルートが好まれているのかも知れない。

「――にしても、全く釣れなかったな」

「ふふっ、残念でしたね。戻ったら詳しい人でも探してみますか?」

 楽しそうに声を弾ませるマリーに苦笑を返しつつ、「うーん、そこまではなぁ……」とユンゲは言葉を濁す。

 経験もない魚釣りを始めたのは単なる思いつきであり、もともと冒険者の仕事以外でエ・ランテルを離れる口実が欲しかっただけなので、僅かばかりの悔しさこそあったとしても――後で試してみたところ、魚を捕まえるだけならユンゲの身体能力を持ってすれば、何の苦労もなく手掴みできてしまったのだから――真面目に練習をする気持ちになれるはずもない。

 ほとんど成果のなかった魚釣りを終えたユンゲは、マリーとともにエ・ランテルへの帰路となる牧歌的な森沿いの小道をのんびりと歩いていた。

「とりあえず気分が向いたら、ってことですね」

 ユンゲの思考を先回りするようなマリーの言葉に、ユンゲは肩を竦めてみせる。

「まぁ、そんなところだ。――でも、どうせなら料理とか道具作りの方を練習したいかな」

「そうなんですか。簡単な料理なら、私でも少しは教えられるかもですが……」

「あぁ、よろしくご教授いただけると助かるよ。マリー大先生」

 敢えてわざとらしくユンゲが口にすれば、マリーは少し頬を膨らませてみせ、「ちょっとスパルタになるかも知れないですよ」と笑顔を返してくれる。

「……お手柔らかにお願いするよ」

 心の内にわだかまっていた鬱屈とした感情を情けなくも吐露してしまったので、少しばかり気恥ずかしい思いもあるのだが、英雄然と気負う必要などないと思い直させてくれたマリーの気遣いにユンゲはどれだけの感謝をしても足りない――何の変哲もない、長閑な平原と森の合間を抜ける風景をぼんやりと眺めているだけでも心地良く感じられるほどだ。

 ユンゲ自身では気付いていないことだったが、晴れやかとなった気持ちを映すようにユンゲの足取りは往きのときとは異なり、かなり軽やかになっていた。

 このままの歩みでも、日の傾きかける前にはエ・ランテルに帰り着くことができるだろうか。

 

 そうして、取り留めもない会話に花を咲かせながら帰路を進んでいたところ、不意にマリーが「……あれは、何でしょうか?」と声をひそめるようにして前方の小高い丘を指差した。

 やや疑問符を浮かべるマリーの言葉にユンゲが緩やかに弧を描く道の先に目を向ければ、不意に馬の嘶きが二人の耳朶を打った。

 同時に、無詠唱化した<クレアボヤンス/千里眼>の魔法が、蠢めくいくつかの小柄な人影――御者のいない馬車を囲うように群がっているゴブリンたちの姿をユンゲの視界に見止めさせる。

「――ゴブリンが馬車を襲っているのかっ」

 マリーと頷きを交わしたユンゲは、すぐさま走り出していた。

 なだらかな畦道を駆って、瞬く間に距離を詰めながらユンゲは周囲の状況を確認していく。

 疾風のようなユンゲの急接近に、ゴブリンが気付いたときにはもう遅い。

 高らかに武器を掲げていたゴブリンの囲いを一足飛びに越え、中心に追い遣られていた少女――他にそれらしい人物も見当たらないので、御者台に座っていた人物だろうか――を抱き上げて、ユンゲは再びゴブリンを飛び越えていた。

 そのまま駆けてきた道を戻り、ユンゲは遅れて傍まで走り寄ってきたマリーに少女を託す。

「――怪我がないかみてやってくれ」

 一見して傷は見当たらなかったが、武器や鎧の類いを帯びておらず冒険者ではないとなれば、軽傷でも命を落としかねない。

 少女を抱き寄せたマリーが「はいっ」と応じて、手早く状態を確かめる様子を横目に捉えつつ、ユンゲは踵を返して丘の方へと視線を戻した。

 獲物を奪われて激昂したのか、真新しい武器を手に勢い良く丘を駆け下りてくるゴブリンの群れを見据え、ユンゲはバスタードソードを抜き放って身構える。

 逃がすこともできなければ、あまり時間をかけ過ぎて他のモンスターたちが群がってきても面倒だと、ユンゲが駆け出そうと一歩を踏み込んだ瞬間だった。

「――お願いっ、待ってください!」

 マリーに抱えられたままユンゲに腕を伸ばした少女の振り絞るような声音が、見晴らしの良い平原に響き渡った。

 

 *

 

「すみませんでしたっ!」

「いえ、そんな――あ、頭を上げてください。私を助けようとしてくださったのですし、もともと私たちが誤解をさせてしまったせいなんですから……」

 ユンゲの勢い込んだ謝罪に、あたふたと手をバタつかせて場を取り持とうと苦慮しているのは、エンリ・エモットと名乗った先ほどの少女だった。

「いや、俺の早とちりで……本当に申し訳ない」

 謝罪の言葉を重ねつつ、ユンゲは背筋を起こしてエンリに向き直る。

 先ほどの遭遇から慌ててエンリが説明してくれたところによれば、馬車を囲っていたゴブリンたちはエンリを主人と仰いでおり、彼女の故郷である開拓村のカルネ村で共存しながら、折に触れて人間に手を貸してくれているとのことだった。

「ゴブリンの皆さんも、すみませんでした」

「……あぁ、いや俺たちは別に構わないんですがね」

 エンリの背後で従者のように居並ぶゴブリンたちにも謝罪を口にするが、ゴブリンからの反応が芳しくないのは、自分たちの仕えるべき主人をユンゲという襲撃者から守れず、あっさりと奪われてしまったことを失態と考えているからなのかも知れない。

 この世界で人間に協力するゴブリンがいることなど考えてもいなかったユンゲは、危うく彼らを討伐してしまうところだったのだ。単なるモンスターならともかく、言葉を交わせる相手を殺してしまったのなら、寝覚めも悪くなってしまう。

 一緒に頭を下げていたマリーも驚いていたのでそれほど頻繁にあるようなことではないらしいが、これだけのゴブリンを従えているエンリという少女は、何者なんだろうか。

 三つ編みにした栗毛色の髪を胸元の辺りまで伸ばした十代半ばほどの少女は、傍目には如何にも絵に描いたような村娘にしか見えないのだが――、

(……っていうか、この子かなりの力あったよな)

 ゴブリンに斬りかかろうとバスタードソードを振り上げたユンゲを踏み止まらせたのは、袖口を掴んだエンリの制止だった。

 当然ながら振り払うことも容易くはあったが、ユンゲが僅かに躊躇いを覚えるほどには力強く、毅然とした意思が込められていたように思う。

 ――健康的に焼けた肌は、勤勉の証なのか。エ・ランテルや帝都アーウィンタールなど、それなりの規模の都市ばかりしか訪れていなかったので、この世界の農村の暮らしを知らないのだが、日頃から農作業に従事していると鍛えられたりするということもあるのだろうか。

 

 訝るように見つめてしまったユンゲの視線を受けたエンリが、不安そうに身じろぎをして居住まいを正すのを見遣り、ユンゲは「――っ、失礼」と咳払いを一つ、不躾だった態度を取り繕うように言葉を続けた。

「人間とゴブリンがともに生活をしているという話は、初めて聞いたものでしたので……。エンリさんはビーストテイマーなのですか?」

 もしかしたら、ゴブリンを使役する職業もあるのかも知れないが、他に該当しそうな職業はユンゲの記憶にない。

 焦りからやや唐突になってしまったユンゲの問いに、エンリは少し困ったように間を置いてから、こくりと小さく頷きを返しただけだった。

 あまり他人には触れられたくない話題だったのかも知れない。

 マリーも居心地の悪さを感じてか、縋るようにそわそわと短杖を握り締めていた。

 初夏の風にそよぐ枝葉のざわめきが、やけに大きく感じられる。

 その場に居合わせた全員が口を噤んでしまう、気まずい沈黙を破ったのはエンリだった。

「……えっと、お二人は冒険者の方ですよね?」と意を決したように口を開くと、ユンゲとマリーに向けて深々と頭を下げ、エンリはひと息に言い切った。

「私がお願いできる立場にないことは承知していますが、冒険者組合の方にはゴブリンさんたちのことを報告しないで頂きたいのです」

 縋るような、若しくは懇願するようなエンリの声音にユンゲは思わず面食らう。

 この世界での認識に疎いユンゲには何が問題なのかもよく分からない状況なのだが、ときには人間を襲うゴブリンと共存しているなど、外聞が良くないということなのだろうか。

「――そんなことであれば構いませんよ。敵対的なモンスターならともかく、友好的な相手を嫌う理由なんてありませんから」

 やや拍子抜けする思いだったユンゲのあっさりとした返答に、エンリはあからさまな安堵を浮かべていた。

 ユンゲの言葉は偽りのないものではあったが、信用を保証するものなど何もない。

 強張っていた肩の力が抜け、心底ホッとした様子のエンリを目にすれば、転移前の世界に生まれていたなら簡単に悪い奴らの食い物にされてしまいそうな危うさを感じてしまう。

 細い両手の指を胸元あたりで絡ませながら、「ありがとうございます」と朗らかな笑顔を向けてくるエンリの姿に、ユンゲの抱いた“純朴な村娘”という最初の見立ては、間違っていないはずだと思い直す。

 先ほどの気まずかった沈黙もゴブリンたちを心配してのことだったのかも知れない。

 軽く手を振ってエンリに応じつつ、ユンゲは口許に手を当てて問いかける。

「――ところで、エンリさんはこのままカルネ村に戻られるご予定ですか?」

「そうですね、薬草を売ったお金でゴブリンさんたちの装備も新調できたことですし、村で留守番をしている妹も心配なので早めに帰ろうと思っています」

「そうでしたか、では宜しければ村まで護衛……」と言いかけて、ユンゲはエンリの背後に控えるゴブリンの様子を確認して肩を竦める。

 この辺りで目撃したことのあるモンスターが相手ならば、問題にならないだろう。

「――護衛は、必要なさそうですね。私たちはエ・ランテルを拠点に活動しておりますので、お越しの際はぜひ冒険者組合を訪ねてみてください。今回のお詫びも兼ねて美味しい食事でもご馳走しますよ。勿論、妹さんもご一緒にね」

「本当ですか、妹も喜ぶと思います! ユンゲさんとマリーさんもカルネ村の近くまでお越しのときは、ぜひお声をかけてください。……大したおもてなしはできないかも知れませんが」

 喜びの表情から一転、本当に申し訳なさそうなエンリの様子に、却ってユンゲの方が恐縮してしまう思いだ。こんな人間がもっと多くいてくれたなら、転移前の世界も少しは良いものになっていたかも知れないとさえ思う。

 腹の内を探り合うような行為とは無縁らしい、感情の揺らぎをはっきりと表に見せてしまうエンリの素直さに、ユンゲは好感を覚えながら笑いかける。

「お気持ちだけで結構ですよ。妹さんが待っていらっしゃるなら、あまりお引き止めするわけにもいきませんね」

 またお会いできることを楽しみにしています、とユンゲが言葉を締め括れば、想像に違わない反応を浮かべたエンリは、「はいっ」と明るく声を弾ませてくれた。

 

 そうして、御者台の上で何度も振り返り、手を振りながら去っていくエンリとゴブリンを見送ったユンゲは、ようやっと大きく背伸びをして息を吐き出した。

 ――この世界は、美しい。

 息を吐き切ったままの姿勢で見上げた夏空は、どこまでも高く鮮やかな青に澄み渡っている。

 もしも願いが叶うのなら、人も自然もこのまま変わらない美しさであって欲しいと転移前の世界を憂い、ユンゲはぼんやりと思いを馳せる――と、

「ユンゲさんは……、あのような女性が好みなのですか?」

 不意に、絞り出すようにして傍らのマリーが声をかけてきた。

 小首を傾げやや俯きがちなマリーの姿を見遣って「ん?」と目許の相好を崩しつつも、ユンゲは悪戯っぽい顔つきとなってわざとらしく言葉を紡ぐ。

「素直そうな良い娘だったな」

「……ユンゲさんは意地悪です」

 拗ねるように言い差し、ぷいっとそっぽを向いてしまった小さな頭に無理やり手を置き、ユンゲは――マリーのささやかな抵抗など全く意に介することもなく――艶やかな金色の髪を荒く撫で回しながら高らかに胸を張ったのだった。

「さっ、俺たちも帰ろうぜ。キーファとリンダを待たせたままじゃ悪いからな」

 

 




-言い訳-
エンリがエ・ランテルに赴くのは八巻前半のエピソードですが、原作での描写から時系列的には「ゲヘナ」前の出来事かと解釈しております。
(アニメだとエントマが既に声変わりしていたので、間違っているかも知れませんが……)

いろいろと書いているうちにユンゲの性格が分からなくなってきています。


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(17)魔獣

前回に続いてネタバレ感のあるサブタイトル。でも、内容的にはほとんど関係ないかも知れないです。
何となく二文字縛りでサブタイトルをつけていますが、良さそうな言葉が思いつからないときは辛いですね。


「――今度、お前さんの冒険譚を聞かせてくれよー!」

 行き交う旅人も疎らとなりつつあるエ・ランテルの街門、夕暮れが迫り落ち着きつつあった静寂を打ち破るように、大きな野太い呼び声が響いた。

 厳重な城壁の横手に設けられた検問所で力一杯に腕を振って主張する髭面の兵士を一瞥し、「……暇なときに気が向いたらな」と曖昧な言葉を返しながら、ユンゲはおざなりに手を軽く振って足早にその場を離れる。

 最初にエ・ランテルを訪れたときにも検問所に詰めていた兵士であり、これまでに何度か顔を合わせているので口調も含めて互いに遠慮はなくなっているが、髭面の兵士がかけてくる遠慮のない大声は、ハーフエルフの敏感な聴覚を持つユンゲにはあまり嬉しくない振る舞いだった。

 都市への入場税を払い終えて革袋の口を締めていたエルフのマリーが、ユンゲの傍らで思わず身を強張らせてしまっているのも仕方のない反応だろう。

「……相変わらず喧しいおっさんだな」

「そうですね……でも、人の良さそうな方ですよね」

 エ・ランテル居住区の中央通りを抜けながらユンゲがぼやけば、隣を歩いていたマリーは少しばかりの苦笑いを浮かべつつ肩を竦めるようにしてみせた。

 髭面の兵士の対応は良くも悪くも変わらない。冒険者ランクの昇格以降、露骨に態度を変えてくる面倒な輩も一定数いたことを思えば、ユンゲにとっても好ましい人物なのは間違いない。

 マリーに倣って同じように肩を竦めつつ、ユンゲは商店や酒場が軒を連ねる通りを眺めて歩く。

 早くに一日の仕事を終えて酒場に繰り出す者や最後の稼ぎとばかりに呼び込みの声を上げる客引き――以前に見た帝都ほどではないが、十二分に活気を感じさせてくれるエ・ランテルの街並みだ。

 迫り出した酒場の軒先では、赤々とした炎にひと抱えほどもある大きな肉塊が焼き上げられ、賑やかな通りに芳ばしい肉の焼ける香りが立ち込めている。

 大振りなナイフを手にした店主らしき男が、道行く人々に見せつけるようにしてゆっくりと切り分ければ、鮮やかな桜色の断面に濃厚そうな脂が滴っていく。

「……今晩は肉料理だな」

 思わずユンゲが口にしたとき、意図せず腹の虫が「ぐぅぅ」と音を立てた。

「ふふっ、宿に戻ったらキーファとリンダも誘って、早めの夕食にしましょうか?」

「……そうだな、とりあえず冒険者組合に顔だけ出して、手頃な依頼がないかだけ確認してから二人を呼びに行こう」

「了解しました!」

 溌溂としたマリーの返事を受けて、ユンゲはやおらと冒険者組合へと足を向けた。

 クエストボードに貼り出された依頼が更新されるのは、主に朝方のことなので目ぼしいものは既に消化されてしまっているだろうが、今日一日を成果のない釣りに費やしてしまったことに――転移前の世界では連日連夜のサービス残業など当たり前だったので、何もせずに過ごしてしまったということに――何となく違和感を覚えてしまうのかも知れない。

(……まぁ、冒険者の稼ぎは多いから問題ないんだけど、これも職業病みたいなものなのかな)

 

 ぼんやりと考えながら冒険者組合の前に辿り着いたユンゲが扉に手をかけたところ、裏手の路地からのっそりと大きな影が現れた。

「――きゃっ」

「おや、驚かせてしまったでござるか? すまないでござるな」

 唐突な巨体の登場に驚いたマリーの小さな悲鳴に、気遣うような声がかかる。

 目の前に登場した巨大な魔獣と柔らかな声の主とを簡単には結び付けられないのか、周囲を窺うように視線を方々へと彷徨わせるマリーの仕草が、どこか小動物のような愛らしさを感じさせてくれるので、ユンゲの頬は思わず緩んでしまった。

 何となくこのまま眺めていたい衝動に駆られるが、ユンゲの袖口を縋るようなマリーの力が強くなっていることを思えば、助け船を出してやるべきだろうか。

 トブの大森林近くの河畔で情けない本心を晒してしまった気恥ずかしさもあり、ユンゲにはできるだけ“年長者”らしい振る舞いをしたいという忸怩たる思いもあった。

「……森の賢王、さんだよな? 漆黒のところの――」

「左様でござる。けれど今は、殿から頂いた名として、ハムスケと名乗っているでござるよ」

「ん? あぁ、そうなのか……」

 魔獣を相手に敬称をつけることに若干の違和感を覚えつつ、随分と時代錯誤な喋り方をする魔獣だと思いながらも、ユンゲの意識は別の部分――魔獣の姿形に引っ張られてしまう。

(やっぱり、ハムスターだよな。……ていうか、名前もそれっぽいのか)

 以前にも見た群衆の反応やマリーの様子を見れば、強大な魔物であることは間違いないのだろうが、大きさこそ規格外ではあるものの“ハムスター”という愛玩動物的な外見から、どうにも可愛らしい印象の方が先に立ってしまう。

「……連れが失礼したな。悪気はないから勘弁してやってくれ」

「それがしは、別に構わないでござるよ」

「そっか、ありがとな。――漆黒の御二人は、組合の中にいるのか?」

「そうでござる。拙者はここで待機中でござる」

 ハムスターの所作は分からないが、おそらくは自慢するように胸を張ってみせるハムスケに向けて、軽く手を振って別れを告げたユンゲが冒険者組合の扉を引いてやれば、やや緊張した面持ちながらも律儀にハムスケにお辞儀をしてから、マリーが慌てて建物の中に駆け込んでくる。

 扉が閉まる直前に聞こえた、「バイバイでござるよーっ」というハムスケの呼びかけにビクッと肩を竦ませるマリーの不安そうな様子を見遣り、ユンゲは「くくっ」と小さく吹き出して肩を揺らす。

 頬を膨らませたマリーから向けられる不満そうな抗議の視線は、努めて無視をしながら室内を眺めてみるが、クエストボードの前やロビーで過ごす冒険者の中に漆黒の姿はない。

「いないみたいだな……、奥の会議室にでも入ってるのかな?」

「――知りませんっ」

 答えを求めたわけではなかったが、間髪を入れないマリーの返答を受けたユンゲは、額に手をやってかぶりを振りながら笑いを堪える。

 こちらの要求に唯々諾々と従われるより、よっぽど人間らしい――ハーフエルフとエルフではあるのだが――やり取りが心地良く感じられる。

 これまでのことを客観的に振り返ったなら、少しばかり悪ふざけが過ぎたかも知れないと思いつつも、これだけ良い反応を見せてくれると実にからかい甲斐があるというものだ。

 そっぽを向いてしまったマリーを見遣り、軽く頭を撫でるように置きかけた手が払い除けられ、ユンゲはやれやれともう一度かぶりを振ってからクエストボードへと歩み寄っていく。

(……我ながら性格悪くなってる気がするな)

 結局、手頃な依頼も貼り出されていなかったことから、ユンゲは不機嫌なマリーを宥めすかしながらキーファとリンダの待つ宿屋へと向かう破目になるのだった。

 

 *

 

 ゆらゆらと揺れる蝋燭の灯りに照らされた宿屋の一室、窓辺に映るすっかりと陽の落ちたエ・ランテルの街並みを横目に、ユンゲは壁際のベッドへと倒れ込む。

 冒険者に登録して間もない頃に利用した安宿のベッドであれば、薄い敷布下の板張りで鼻を傷めてしまいそうな勢いでも、柔らかな綿の詰まった枕はユンゲを優しく受け止めてくれた。

 ユンゲだけであったのなら駆け出し冒険者向けの安い宿屋でも構わなかったのだが、あの治安の悪そうな空間にマリーたちを連れていくのは躊躇われたため、エ・ランテルに帰還してからは中堅者以上の利用する少し上等な宿屋を借りることにしていた。

 ほのかに干し草の匂いが香るベッドに横になってみれば、あのときの判断は正しかったのだろうとほろ酔い気分なユンゲは、だらしなく笑みをこぼす。

「……あの炙り肉、美味かったな」

 キーファとリンダに合流してから入った酒場での料理や酒類はどれも絶品だった。

 ついつい食べ過ぎてしまったユンゲは、湯浴みに向かうマリーたちを見送ってから宿の部屋へと戻り、久しぶりにのんびりと一人の時間を過ごしていた。

 仰向けに寝転がって見上げた天井に、蝋燭の火による影が揺れる。

「買っておけば良かったかな……」

 帝国にあった<コンティニュアル・ライト/永続光>による室内灯は、それなりに高価なマジックアイテムに分類されるらしく、一部の高級店以外ではあまり見かけることがない。

 蝋燭の灯りも趣きを感じられるので悪くはないが、利便性の面では比べられない。

 帝都の北市場では、照明の他にも扇風機や冷蔵庫に似たマジックアイテムも売られていたことを思い出す。あのときはいろいろなことが起こり、買い物どころではなくなってしまったので、また帝都を訪れるような機会があればゆっくりと散策してみるのも面白いかも知れない。

 帝国での生活に苦い記憶を持っているであろうマリーたちはどう感じるかな、とユンゲが何気なく思いを巡らせていると、不意に室外の廊下からコツコツと長靴の響く音が聞こえてきた。

 

 足音はユンゲたちの部屋の前で止まり、扉の上部に取り付けられた蝶番が軋む。

 ユンゲがやおらと視線を向ければ、開かれた扉に背を預ける小柄な人影――。

「――お邪魔するよ」と涼やかに告げ、後ろ手に扉をコンッと敲いたのは――顔の半分ほどを覆う黒髪に高い鼻梁を持つローブ姿の女――少し印象は異なるが、以前にカッツェ平野の野営地に現れたあの女忍者だった。

「……ノックは扉を開ける前にするもんだと思うぞ」

 やや呆れるように口にしつつ、ユンゲは上体を起こして突然の訪問者に向き直る。

「ん、細かいことを気にするな。面倒な男は嫌われるぞ」

「……ほっとけ。――もう会いたくない、って前に言ってなかったか?」

 忍び装束のように身体の曲線を強調するような衣装ではないが、前で組み直された腕によって胸が押し上げられている様は、わざとやられているとわかっていても抗い難いものがある。

「そうだな、別に私の意思じゃないさ。お前宛てに報せを届けろとの命令だ」

 ユンゲの言葉を軽く流し、するりと室内に入ってきた女忍者はベッドの傍へと歩み寄り、どこからともなく取り出した一通の書状を手渡してくる。

 この世界の文字は――酒場で良く目にする品書きを除けば―一ほとんど読めないままなので書状に捺されたバハルス帝国の印章を一瞥するだけに止め、ユンゲは肩を竦めるようにして「……俺は帝国の文字を知らない」と女忍者に話の先を促した。

 ほとんど表情を読ませなかった女忍者は、少しだけ意外そうな目をユンゲに向けてから「……難しいことじゃない」と言葉を続けた。

「帝国の御偉方が、お前を引き抜きたいらしくてな……。一度、直接会って話したいとのことだ」

「冒険者として……、じゃないよな? 漆黒の方が、俺より遥かに優秀だと思うぞ」

「新たにアダマンタイト級になったという冒険者か……、そちらの話はまだ聞いてないな。お前の闘技場での振る舞いが、それなりに評判になっているということだ」

「……堅苦しいのは勘弁してほしいんだが――」

 いけ好かないワーカーと戦った賭け試合の件を聞きつけてのことなのだろうと思うが、これまで考えなしに行動していたツケが回ってきたのかも知れない。

「……文句は雇い主に言ってくれ。――理屈っぽい嫌味な優男だが、それなりに度量はある」

 会ってみるだけなら損はないだろう、と言葉を紡ぐ女忍者の様子を見ながらユンゲは、意外なほど熱意の感じられる勧誘に違和感を覚えつつ問いかける。

「――あんたのお気に入りなのか?」

「これまでの雇い主よりはマシ、という程度だな。――というよりお前と敵対しないためには、同じ側にいてくれたなら都合が良いと考えただけだ。……他意はない」

 素っ気なく口にして、女忍者は入ってきた扉の方へと顔を向ける。

 探るような女忍者の視線を追いつつ、ユンゲも同じように扉を向いて口を開く。

「――折角のお誘いだが、決めるのは俺一人じゃない」

「扉の向こうにいる連中か……。正直、お前の実力に見合うとも思えないが――、やめておこう。…………そんなに睨むな」

 敵意はないと示すように言い差し、女忍者が両手を挙げながらユンゲから距離を取った。

 そうして、おもむろに扉を開いたキーファとリンダ、遅れて顔を出したマリーに向けて、女忍者は「まぁ、気が向いたときにでも考えてみてくれ」と事もなげに告げる。

 三人のエルフは湯浴みから戻ったままの姿で部屋の外から様子を窺っていたらしく、艶々とした濡れ髪にはタオルを巻きつけたまま、ほんのりと上気した肌からは温かな湯気が立ち昇るのが見えた。

 急な展開に理解が及んでいないであろう三人の視線が、ユンゲと女忍者の間で迷子になっている様子が、場違いな感想だとは自覚しながらもどこか可愛らしく思えてしまう。

 冒険者としての装備ではない平服姿に着替えていた三人が、おずおずと部屋に入ってくるのと入れ替わるようにして廊下に出た女忍者は、ユンゲに向き直って言い含むように口を開いた。

「……やはり、お前の目つきは厭らしいな」

「――っ、お前は何を言って……」

 咄嗟の反応に困り言葉を詰まらせたユンゲを笑った女忍者は、踵を返して来訪時と同じように長靴の音を響かせながら立ち去っていく。

 以前にも見た、存在したはずの気配が朧げに消えていくような独特の去り方だったが――、唐突にその場に残されてしまった“翠の旋風”の面々は、所在なさげに顔を見合わせるのだった。

 

 




オーバーロード世界のお風呂事情はどうなっているのでしょうね。
Web版だと貴族の屋敷にはあるようですが、庶民には難しそうな描写だったので公衆浴場みたいな施設があるのか、或いは庶民が湯舟に浸かるような習慣はないのか……。


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(18)書状

この時期は毎年マスクが必需品になります……辛い。


「――以上、になりますね」

 突然の訪問者によって届けられた書状を折り目に沿って閉じながら、リンダは少し困ったような表情を浮かべて言葉を区切った。

「……そうか。ありがとな、リンダ。助かったよ」

 ユンゲたち“翠の旋風”が向かい合うようにして席へと着いた宿屋の一室は、ようやくと静けさを取り戻していた。

 帝国の文字が読めないユンゲに代わり、内容を確かめるために書状を読み上げてくれたリンダの声に耳を傾けていたのだが――、

「いえ、この程度のことでお役に立てるのであれば構いませんよ。……しかし、これは少し面倒なことになってしまいましたね」

「え? 依頼をするから受けてくれって話なんじゃないの?」

 やや目を伏せるようにしたリンダに、キーファが素直な疑問の声を上げる。

 事情を察しているからか、顔を見合わせてしまっているリンダとマリーの様子を横目にしつつ、ユンゲは慎重に言葉を選びながら「……まぁ、その通りなんだけどな」と口を開いた。

 リンダから折り畳んだ書状を受け取り、指先で摘まみ上げながらユンゲは息を吐く。

「これを書いた奴は、あの女忍者が言っていたように“理屈っぽくて嫌味な野郎”なんだろうさ」

 金箔をあしらった精緻な紋様に縁取られた書状には、『――近々、“翠の旋風”を指名する依頼をエ・ランテルの冒険者組合に出すので、ぜひとも受けてもらいたい』と端的にそうした内容の文章が綴られているだけだ。

 依頼の内容や報酬はおろか、依頼主の名前すら記載されていなければ、女忍者の告げた引き抜きに関する話など影も形も触れられてはいなかった。

 転移前の世界を思い返すまでもなく引き抜きのような工作行為は、当然ながら組織間の軋轢を生み出してしまうはずなので、そうした物証を取られないようにしているのだろうと推測できる。

 ユンゲが確認した書状の表面に捺された帝国の印章にしても、単に帝国領内を通過したことを示すに過ぎないらしいので、女忍者の雇い主とやらの素性もはっきりと分からない有様だ。

 ――そして、雇い主が直接会いたいという話すら真実であった保証はない。

 依頼に従って向かった先で、何らかの罠でも待ち構えていようものなら笑うこともできない。

「……面倒なのは、この依頼を断るのが難しいことだな。こっちの事情は知られているのに、相手のことは何も知らないなんて状況は、正直なところ勘弁して欲しい」

 冒険者として名指しの依頼を受けたのであれば、組合の不利益にならないためにも、断るには相応の理由が必要になる。

 ――或いは、報酬面等で難癖をつけることもできるかも知れないが、書状に使われている豪華な装丁を見る限り、そういった隙を見せてくれるような相手ではないだろうとも思えた。

 何より、ユンゲたちが“翠の旋風”を名乗ってから、まだ一週間と経っていないのにも関わらず、書状にはチーム名がしっかりと用いられていることから推測するなら、あの女忍者がこれまでもユンゲたちの周辺を探っていたのは間違いないのだろう。

 しかし、そうまでして手間をかけるほどの狙いは分からない。

 本当にユンゲを引き抜くことだけが目的だったのならば断わって済む話でも、例えばエルフの奴隷を扱う商会のような組織が手引きして、こちらの戦力を確認した上で襲撃されるような事態になろうものなら厄介に過ぎる。忍者のような難敵が、相手方についている現状では尚更だ。

 そうした説明を口にしながらユンゲが思考に沈み始めたとき、不意に視界の端でキーファが席から立ち上がった。

「ごめんなさいっ、私たちのせいで――」

 最後までは言わせずに、ユンゲはキーファの口を手で塞ぐ。

「……俺が勝手にやったことだ。キーファたちのせいじゃない、……というより巻き込んでしまったのは、むしろ俺の方だな」

 僅かな怯えを孕んだ紫色の瞳を正面から見据え、ユンゲはキーファの誤った理解をはっきりと言葉にして否定する。

 闘技場での賭け試合の一幕は、ユンゲが自らの意思で決めた初めての行動――自身の不甲斐なさを吐露することと引き換えに、渓流の畔でマリーが気付かせてくれたこと――だった。

 少しばかり傲慢な考え方かも知れないと自覚はあったが、彼女たちを助けたいとユンゲが行動をしなかったのなら、あのまま奴隷として過ごしていたであろうキーファたちが、報われることは難しかったように思えた。

 結果として賭け試合によって奴隷の身分から解放されたキーファたちは、ユンゲとともに冒険者となる道を選んでくれたものの、故郷であるはずのエルフの王国すら頼れないという彼女たちの境遇では、他に選択肢はなかったとも言えるだろう。

 そう考えたのならユンゲの取った行動が、結果としてキーファたちを余計な諍いに巻き込んでしまったという可能性を否定できなかった。

「……俺は、自分の選択した行動をなかったことにはできないし、したくない」

 ユンゲの持って回った言い方は、あの場にいなかったキーファには良く意味が分からないだろうが、自らの口で説明するほど恥ずかしいこともない。

 少し縋るような気持ちでマリーに目配せをすれば、小さく一つ首肯を返してくれたので、どこかで上手い具合に伝えてくれるはずだと思う。

「……まぁ、結局のところどんな依頼がされるのか次第だな。相手も依頼を断られたくないはずだから、できるだけ高値を吹っかけてやろうぜ」

 やや面食らっている様子のキーファの細い肩に手をかけ、「その報酬でまた美味い飯をたらふく食うぞ」とユンゲは冗談めかせて笑いかけたのだった。

 

 *

 

 手桶に張った冷たい井戸水で顔を洗い、長髪を撫でつけるように拭った手を軽く振って、水気とともに眠気を払う。

 朝市の喧騒もどこか遠くに聞こえる宿屋の裏手、宿泊客向けに設けられた井戸端に立ったユンゲは、背の高い建物の隙間から差し込む朝日に目を細めながら、一つ大きく息を吸い込んだ。

 夏も盛りに近づきつつあり、日中だと軽く汗ばむほどの気温にもなったりもするのだが、この時間帯であればまだ少し肌寒さを感じるくらいだろうか。

 取り立てることもない朝の訪れに過ぎないはずなのに、ユンゲは頬が自然と緩んでしまうことを抑えられなかった。

 昨夜に届けられた書状の件などを思えば、悠長に構えてばかりはいられないのかも知れないと思いつつも――耳障りなアラーム音を目覚ましに、ベッドから這い出していた転移前の世界での生活では考えられない――穏やかな時間の流れに、ユンゲはどこか清々しいような気持ちの良さを抱いていた。

 身体をほぐすように伸びをしながら「じゃあ、さっさと準備しますか」と、気持ちを切り替えるように独り言を口にして、ユンゲはやおらと踵を返す。

 朝の支度を済ませたなら、皆で冒険者組合に顔を出して依頼の確認をする約束になっていた。

 ユンゲが目を覚ましたとき、キーファたちは既に起きて支度を始めていたので、あまりのんびりとして待たせてしまうのも気が引ける思いだ。

 奴隷として過ごした日々が心の枷となってしまっているのか、従順に過ぎる彼女たちから文句を言われることもないだろうが、だからこそ無為に気を使わせてしまうことは避けたい。

「……もうちょっと気楽に意見してくれたら良いんだけどなぁ」

 誰にともなく小さなぼやきをこぼしながら、ユンゲは上階の宿泊部屋へと足を向けた。

 

「うーん、流石にまだ依頼は届いてないか」

 いつもと変わらない賑わいに包まれた冒険者組合のロビーの片隅、受付やクエストボードを囲むように議論を交わす冒険者たちを横目に、ユンゲがやれやれと肩を竦めてみせると「そのようですね」とリンダが口を開いた。

「あの使者殿が帝都から、ということであれば早くとも数日はかかるかも知れませんね」

「んー、どうしようか。今のうちに他の依頼でも受けてみる?」

「あ、でしたらあちらの依頼なんてどうでしょうか?」

 リンダの陰から顔を出したキーファとマリーが、小首を傾げながら上目遣いに声をかけてくる。

 マリーの指先に目を向ければ、数少ない理解できる王国の文字で“薬草”と書かれた依頼書が貼り出されていた。

 エ・ランテル最高の薬師が辺境の村に転居して以来、各種ポーションは不足しているようなので、短期間で達成できるような依頼の中では、やはり実入りが良い部類のはずだが、ユンゲにはあまり良い記憶がないので、どうにか避けたい依頼だ。

 マリーの提案に「うーん、どうするかな……」とユンゲは言葉を濁す。

 モンスター討伐といった手頃な依頼で日銭を稼ぐ方法もあるが、そうした依頼は他の冒険者チームが早々に片付けてしまうので、クエストボードに残されているような依頼は、難度の割に報酬が少なかったり、厄介なモンスターが対象となっていたりすることがほとんどのようだ。

 一層のこと女忍者からの書状など無視して、長期の依頼でも引き受けてエ・ランテルを離れてしまいたい衝動にも駆られるが、余計に事態が拗れてしまうだろうか。

「名指しの依頼をされるということであれば、あまり都市を離れるわけにもいきませんよね」

「……ん、そうだな。すぐに金が足りないってわけでもないから、ちょっと市場の方を散策してみるのはどうだ?」

 決め倦ねているユンゲの様子を見遣って、助け船を出してくれたであろうリンダの言葉に乗っかり、ユンゲはキーファとマリーに問いかけつつ、「指名依頼を受けることが決定事項なら、万一の危険に備える意味でも皆の装備を見直す良い機会かも知れない」と言葉を続ける。

 ユンゲの性分としては、ユグドラシルのようなゲームの中であれば、より素早く敵を倒すために武器の強化を優先したいところだが、実際に命の危機があるこの世界においては、身を守るための防具を優先するべきだろう。

 役割としての前衛職は、ユンゲ自身が担えば構わないはずだ。

 ――相手がユンゲ以上の強さの持ち主であったなら、この世界で市販されているような装備は気休めにしかならないかも知れないが、何もしないよりはマシだろう。

 何より帝都の市場ほどの品揃えはなくとも、少しは気晴らしになってくれるはずだ。

「うん、賛成!」

「私も市場を見てみたいです」

「ええ、構いませんよ」

 キーファとマリー、リンダから三様の肯定を受け取り、ユンゲたち“翠の旋風”が冒険者組合を後にしようとクエストボードの前から離れたときだった。

 不意に開かれた扉の向こうに現れた一人の男が、洗練された滑らかな動きで受付へと歩み寄る姿をユンゲは視界の端に捉えていた。

 そうして、前金だけでこれまでユンゲたちが受け取った報酬を上回るほどの名指しの依頼に、組合に詰め掛けていた冒険者たちがどよめいたのは、それから間もなくのことだった。

 

 




相変わらず展開が遅い……内容的には余分な描写を省いて前話の分と一つにまとめるべきだったかなぁ、と反省しております。
漸くですが、次回からは物語が動き始めると思いますので、ハードルを低めに設定してお待ちいただけると幸いです。


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(19)指名

“冒険譚”というタイトルのはずなのに、エ・ランテルと帝都くらいしか訪れてないなぁ、と思う今日この頃……とりあえず、お楽しみいただければ幸いです。


 袈裟懸けに振り下ろしたバスタードソードが、飛び掛かってきたゴブリンの肩口から胴部までを抵抗もなく切り裂き、返しの剣撃はもう一匹の迫るゴブリンの首を跳ね飛ばした。

 瞬く間の惨劇に形勢の不利を悟って身をひるがえしたゴブリンの背に、飛来した矢が立て続けに吸い込まれ、断末魔の叫びとともに大地に倒れ伏していく。

 矢を射かけたままの姿勢で「ふぅ」と息を吐いたキーファの肩を軽く叩き、ユンゲはバスタードソードを剣帯に留めながら口を開いた。

「新しい弓の使い勝手はどうだ?」

「――うん。狙いがつけやすいから、早撃ちも良い感じだよ」

「そうか、この調子で頼むぞ」

 得意げなキーファの様子にユンゲは破顔しつつ、キーファの手にした無骨な弓――今回の指名依頼の前金で新しく買い揃えた装備の一つ――に目を向ける。

 装飾を省いて実用性に重きを置いた弓は、ユグドラシル産の装備と比較できるものではないだろうが、エ・ランテルの市場で手に入った装備の中ではかなり上等な代物だ。

 遠距離攻撃を専門とする弓使いの職業については、魔力系の魔法で代用できるからとユグドラシルにおいて、ユンゲは取得を避けていた。

 しかし、実際にこうして弓を扱うキーファの動きを目にしてみると魔法とはまた違った魅力が感じられた。

(……サービス終了までに時間もなかったけど、効率重視で進めるべきじゃなかったかな)

 取得していない職業の武器や防具を装備できないのはユグドラシルのときと同様だが、ゲームの延長線上のようなこの仕様が変わらないのであれば、この世界においてユンゲが新しい系統の職業を取得することは難しいのかも知れない。

 

 ぼやきを重ねるほどに“もっと早くからユグドラシルに出会っていれば良かった”という以前にも抱いた思いが、ユンゲの内心に募ってしまう――と、

「素晴らしい。流石は、若手冒険者の筆頭格とも称される“翠の旋風”の皆様ですね」

 ユンゲの葛藤を置き去りにして称賛の声を上げたのは、今回の指名依頼の表向きの依頼人――帝国の書籍商を名乗った、仕立ての良い黒衣に身を包んだ若い男だった。

「……えぇ、どうも」と言葉を返すが、ユンゲとしては周囲を警戒するように顔を背けて、憮然としてしまう表情を見せないようにするしかない。

 ユンゲと同時期に冒険者となり、瞬く間に最高位のアダマンタイト級にまで昇格した“漆黒”のような抜きん出た存在を思えば、街道の近辺に現れたゴブリン数匹を撃退したくらいでは功を誇る気にもなれなかった。

 横目に窺った男の姿は、弁舌が立つものの己の利益を追求する商人というよりは、飄々とした振る舞いと年齢の割に薄くなった髪から知れる気苦労に、どこか小役人のような印象を受ける。

 周辺を探っていたキーファからの目配せを受けて、ユンゲは大らかに手を叩いている男に呼びかけた。

「――直に帝国領へと入れるでしょう。馬車にお戻りください」

「畏まりました。引き続き護衛のほど、よろしくお願いしますね」

 落ち着いて礼を返した男が乗り込んでいく馬車の御者台には、装いを先日のゆったりとしたローブ姿から使用人風の男装に着替えた女忍者が腰かけており、商人である主人の“付き人”として紹介されたのだが、実態は男の個人護衛といったところだろう。

 慣れた手つきで馬の手綱を捌いてみせながら、その視線は油断なくユンゲたちを観察しているようにも思えた。

 再び街道を進み始めた馬車に倣って歩きながら、ユンゲは気疲れを紛らわすように頭上を仰ぐ。

 何処までも広がるような群青の夏空は、雲一つなく鮮やかに晴れ渡っていた。

 

 *

 

「“翠の旋風”の皆さん、ご指名の依頼が入っておりますよ」

 装備を新調するために冒険者組合から離れて、エ・ランテル市場へ向かおうとしていたユンゲたちを呼び止めたのは、馴染みの受付嬢だった。

 ユンゲの視線の先、受付嬢の肩越しに依頼を持ちかけたであろう薄毛の男が、軽く会釈を向けてくるのが見える。

「宜しければ、依頼人の方がすぐにでも打ち合わせをしたいとのことです。場所は冒険者組合の会議室をお貸しできますが、いかがでしょうか?」

「――分かりました、お伺いいたします。……皆もそれで良いか?」

 キーファたちを見回しながら問えば、それぞれに了承の意思を返してくれたので、ユンゲは一つ小さく頷いてから受付嬢に言葉を続ける。

「それでは、案内をお願いしますね」

 受付嬢の誘導に従って、ユンゲたちは依頼者の男を伴って組合の二階にある会議室へと向かった。

 ロビーに居並んだ別の冒険者たちの視線を置き去りにして、一行は階段を昇っていく。

 会議室へと案内を終えた受付嬢が、去り際にユンゲの耳許に寄せて「初の指名依頼ですね。おめでとうございます」と小声で囁きをくれる。

 本来なら嬉しいはずの出来事でも、事前に届けられた書状の件から素直に喜ぶ気になれないのだが、受付嬢の好意を無下にできなかったユンゲは、やや伏し目がちに笑みを浮かべて肩を竦めてみせた。

「ふふっ、ユンゲさんなら大丈夫ですよ」

 ユンゲの態度を緊張からのものと思ってくれたのか、鼓舞するように腕を振ってから部屋を出た受付嬢の恭しいお辞儀とともに会議室の扉が閉ざされる。

 ようやっと受付嬢を見送り、ユンゲが会議室内に向き直ったところで依頼人の男から声をかけられた。

「どうぞ、お座りください」と男に勧められるままに腰を下ろせば、“翠の旋風”の面々と向かい合う形で男も席に着いた。

「早速ですが、昨夜の書状はお読みいただけましたね?」

 そうして、前置きもなく男が口にしたところで、ユンゲにとっては少しばかり憂鬱な打ち合わせは始まったのだった。

 

「帝国魔法学院に……ですか?」

「えぇ、そうです。私の生業は帝国出身の書籍商ということになっておりますので、古今東西から集めた珍しい書物を然るべき研究機関に持ち込んで、日々の研究に役立てていただくこと――それこそが私の本懐、ということになるのでしょうか。私の取り扱っている商材は、どれも貴重なものばかりですので運搬には特に気を使わなくてはならないのですよ」

 男から説明された依頼の内容は、エ・ランテルから帝都へ向かう道中の護衛という――前金を含めた依頼総額が、ゴールド級の冒険者への報酬として破格であることを除けば――ある意味では、一般的な冒険者向けのものだった。

 嘘を嘘と隠すつもりもないらしい男の白々しい台詞には閉口する思いだが、目的地が帝国魔法学院であるということにユンゲは少しだけ興味を惹かれる。以前に帝都を訪れたときには、異世界とつながるような転移魔法の有無を確かめたいと考えていたこともあったのだが――、

「帝国魔法学院の敷地に、部外者はなかなか入れてもらえないと耳にしたことがあるのですが、よろしいのですか?」

「何処へなりともご自由に……、とはいきませんが、構いません。ご希望がありましたら、私の方でも可能な限りご案内いたしましょう」

 ユンゲの問いに大きく手を広げて事もなげに答えた男は、「――しかし、書籍の運搬における護衛は、厭くまで表向きの依頼となります」とそこで尤もらしく咳払いをして言葉を区切った。

 聴衆の関心を集める演説の手法としては古典的だが、だからこそ効果的でもある。

 そうして、やや前傾姿勢となった男は、ユンゲたち“翠の旋風”の注目を十分に得てから、少しだけ声を潜めるように続きを口にした。

「皆様には帝国魔法学園までお越しいただき、そこである御方にお会いしていただきたいのです」

 

 *

 

 エ・ランテルを発って数日、緩やかな街道を外れて小高い丘に駆け上ったユンゲの眼下には、豊かな繁栄を示すように、『バハルス帝国』の帝都アーウィンタールの整然とした街並みが広がっていた。

 街道沿いに見かけた帝国の都市は、いずれも立派な城壁に囲まれていたが、首都である帝都の威容は、やはり別格の規模を誇って見える。

 皇帝が住まうという皇城の荘厳さもさることながら、見上げるほどの城壁を越えて聳える帝国魔法省の高い尖塔や大闘技場の雄大な光景は、周辺を警戒する意味もあって丘に登ったはずのユンゲの胸中に言い知れぬ興奮を抱かせてくれた。

「……前にも思ったけど、どうやって建てるんだろうな」

 これほどの建造物が築かれたという事実に、感嘆にも似た思いを感じつつも、どれほどの財と労力が注ぎ込まれたのだろうかと考えてしまえば、ユンゲの表情はどこか晴れない。

 魔法の力はそれほど万能ではないと知ってしまえば、目の前に広がる帝都の繁栄も――世間的には斜陽と評される『リ・エスティーゼ王国』ですら、禁止されている忌むべき制度のように――多くの犠牲に成り立っているのではないかと思えてしまった。

 そうした心持ちで見た景色は、鮮やかな栄華の色彩も褪せ、臭気を放つコールタールのようにくすんだ世界のように映ってしまう。

 涼やかな初夏の日差しが、意地悪にもじりじりと肌を焦がすように感じられた。

 

 そうして、俯きかけたユンゲの鼻孔を不意にくすぐる甘い香り――気配を感じて視線を上げたユンゲのもとに、短杖を両手で握り締めたマリーが小走りに駆け寄ってくる。

「――どうした、何かあったのか?」

「あ、いえ、もうすぐ帝都が見えるかなぁ、と思いまして」

 やや息を切らせるようにしたマリーの返答に、ユンゲは「……そうか」と呟き、彼方の帝都を見つめるマリーの小柄な後ろ姿から目線を背けた。

「こうして見ると帝都の街並みは、とても綺麗ですよね」

 そう落ち着いた口調で言葉を紡いだマリーの顔を見ることができないまま、ユンゲは問いかける。

「……今更だけど、戻ってきても本当に大丈夫だったのか?」

「――私は、構いません。あの書状が届けられたときには、既に書籍商の方はエ・ランテルに滞在されていたようですから、依頼を断ることも難しかったでしょうし……」

 僅かな諦観を感じさせるようなマリーの声音に、ユンゲの喉が呻くように小さく鳴った。

 街の喧騒はまだ遠く、平野を渡る風もなければ草木がそよぐこともない。

 ひっそりとした静けさに取り込まれてしまったかのような小高い丘には、中天を越えたばかりの強い陽が情けもなく降り注がれる。

 そうして、額から頬にうっすらと汗を浮かべながら身を固くしたユンゲの手にそっと重ねられたのは、少し冷たさを感じるマリーの小さな手だった。

「それに……、ユンゲさんと一緒なら、私は何処へでもついていきます」

 毅然としたマリーの宣誓にユンゲは、はっと顔を上げる。

 マリーの澄んだ碧の眼差しが、傍らに寄り添うようにしっかりとユンゲへ向けられていた。

「――でも、もしも辛くなったときには、ユンゲさんがまた助けてくださいね」

 くすっと悪戯っぽい笑みを浮かべ、科を作るようにしたマリーの上目遣いを前に、ユンゲは思わず苦笑することしかできなかった。

 

 




依頼主の身元は冒険者組合が調査するかなーとも思いましたが、帝国なら様々な事態に備えはしているだろうし、いくらでも誤魔化せるはず! ということでこのような形となりました。


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(20)困惑

ようやく依頼主と対面です。


 バハルス帝国における最大の教育機関――帝国魔法学院は、転移前の世界での高等専門学校や高等学校の中間的な存在として位置づけられるのかも知れない。

 大陸に代表される諸国家において学問を修めようと考えるのなら、家庭教師を雇うことが一般的な方法となる。しかし、当然ながら優秀な家庭教師ほど高額な報酬が必要となるので、こうした手段を利用できるのはそれなりに金銭力を持つ貴族などに限られてしまう。

 貴族ほど教育資金に余裕のない平民は、知識を持つ者が開く私塾に子を通わせることで教育を受けさせるのだが、その私塾の費用さえ用意できない平民は、子どもに教育を施すこともできないらしく、例え優秀な子どもであっても生まれた境遇によっては、日の目を見ることもできずに終わってしまうことも少なくないようだ。

「……まるで、どこかで聞いたような話だ」と苦笑いを浮かべつつ、ユンゲは熱っぽく語り続ける商人の男の横顔を眺める。

 そうした事態は国家にとっても不利益でしかないために、なんとか是正をしようと作り上げられた教育機関こそが、帝国魔法学院らしい。

 優秀であると評価されれば無償で、或いは報奨金までも得ながら教育を受けることができるという話を聞かされたのなら、男の力の込められた口調にも納得したくなる。

 この帝国魔法学院で学び、知識を得た学生たちは就職したり、更なる専門的な知識を求めて大学院へと進んで――特に優秀な成績を残した者は、帝国魔法省へと招聘され――活躍していくという男の説明にユンゲは、ゆっくりと息を吐いた。

 百年程前には当たり前に存在したらしい、義務教育の制度もすっかり廃れてしまった転移前の世界に思いを馳せれば、出自に関係なく自らの進みたい道を選ぶことができるというのは、まるで夢物語のようにも思えてしまうのだ。

「あー、そうそう、帝国“魔法”学院といっても、別に魔法ばかりを学ぶわけではないんですよ。勿論、魔法を習得するために専門的な勉強する子どもたちもいますが、所属する学生の大半は魔法を使うことができません。知識として魔法を学ぶことで、様々な分野への応用を考えられるようになるんです。例えば、建築に従事する人間が<軽量化>の魔法を知っているか知らないかで、作業工程に大きな差が生まれてしまうみたいにね」

 そのような事情から様々な分野において活用できる可能性のある魔法の知識は、必須科目として学院の教育要項に組み込まれているのだという。

 男の軽妙な語り口は、ユンゲたちの要らぬ警戒を解かせるためのものか、或いは男自身が語りたくて仕方がないというようにも見えた。

 男の隠し切れない自慢げな表情から察するなら、男自身がこの学院によって見出さされた一人なのかも知れない。

 そんなことをぼんやりと考えながら、ユンゲは何気なく学院の敷地内の様子に目を向ける。

 休み時間なのだろうか、十代半ばほどの子どもたちが校舎の窓から顔を覗かせて、こちらを指差しながら何か言葉を交わして笑い合っている姿や、元気に廊下を駆けていく姿が見えた。

 エルフに対する扱いの一件から、どうにも印象の良くないバハルス帝国だったが、この場で感じられる雰囲気はどこまでも平和的なものだ。

 帝国に対する考えを上手くまとめることができないもどかしさにユンゲがため息を吐いたところ、「失礼しました、つい熱くなってしまったようです」と、これまでほとんど休むことなく話し続けていた薄毛の男は、不意に自らの職分を思い出したように咳払いをして言葉を区切った。

 こちらの反応をどう解釈したのかは不明だが、話を聞き続けるのにもやや気疲れしてきたところなので、そのまま気付かない振りをしてユンゲは先を促す。

 一つ頷いて姿勢を正した男は、ユンゲたちをゆっくりと見回すように静かな口調で話を続けた。

「――皆様にお会いしていただきたいという御方こそ、この帝国魔法学院の設立に多大なる尽力をいただいたバハルス帝国が誇る主席宮廷魔術師、フールーダ・パラダイン様でございます」

 

 その名を大陸全土に轟かせるほどの大魔法詠唱者、フールーダ・パラダイン。

 魔力系・精神系・信仰系という三系統の魔法を修める「トライアッド/三重魔法詠唱者」にして、英雄の領域すら超えた逸脱者。バハルス帝国の建国以来、歴代の皇帝に仕え続ける偉大なる大賢者を評する異名は数多くあるという。

 応接間と呼ぶには些か豪華に過ぎる一室に通されたユンゲたち“翠の旋風”は、一目で高級品と分かる調度品に囲まれ、やや怖々とした面持ちで所在なさげにその人物を待っていた。

 頼りであった商人の男も、ユンゲたちをこの応接間まで案内をし終えると「私の役割はこれまでになります。道中の護衛、感謝いたします。依頼の報酬につきましては、後ほど冒険者組合よりお受け取りください」などと一方的に言い切って、すぐに立ち去ってしまっていた。

 敷き詰められた絨毯の毛足は長く足先が埋まるほどであり、革張りの長椅子が放つ特有の光沢も如何にも高価な品のようで、腰を掛けるのにも気が引けてしまう。

 隣室から感じるいくつかの気配は、何か不測の事態が起きたときに対処するために控える人員だろうか。ここまで案内をしながら、罠にかけようとするとは考えられないので、こちらが下手な真似をしなければ――事前に“翠の旋風”のメンバーで相談をして、相手の無茶な要求には返事を保留にすることを確認しているので――問題はないはずだとユンゲは思う。

 それから暫くのときを手持ち無沙汰に過ごしたユンゲは、やがて数人の男たちを伴って現れたフールーダの姿を見止め、思わず感嘆の声を上げた。

 魔法の力で老いを抑えているという逸話を体現するように深く皴の刻まれた顔に、後ろに流した雪のように白く長い髪。ゆったりとした白を基調とするローブに身を包み、首から下げるいくつもの水晶球の連なったネックレスが揺れる。腰にも届くほどの豊かな白髭を梳く枯れた指には、いくつもの無骨な指輪が並んでいた。

 数多のファンタジー作品に描かれる、人里離れた奥地に住まう仙人のようなイメージに相違ない老魔法詠唱者フールーダの、どこか狂気めいた鋭い眼差しがユンゲを真っ直ぐに捉える。

「遠路より、ご足労いただき感謝する。お初にお目にかかる、私がバハルス帝国の主席宮廷魔術師を仰せつかるフールーダ・パラダインと申します」

 外見よりも若さの残る、しかし威厳のある声音がユンゲの耳朶を震わせた。

 背後に続いていた魔法詠唱者らしいローブ姿の男たち――自らの弟子たちも参加させたいと紹介をしつつ、フールーダは瞳を炯々と輝かせながらユンゲに向き直りつつ、さも面白そうに口を開く。

「……ふむ、その若さで第四位階の魔法を扱えるのか。これは、是非とも有意義な会談としたいものですな」

 大魔法詠唱者の醸し出す雰囲気に呑まれ、いきなり魔法の使用可能位階を言い当てられながらも咄嗟に言葉を失っているユンゲの様子に構うこともなく、フールーダが好々爺然とした笑い声を上げた。

 

 *

 

 そうして、ユンゲたち“翠の旋風”も簡単な挨拶を終えて間もなく、形式には拘らない性格らしいフールーダから善は急げとばかりに切り出された話は、かつて大闘技場での賭け試合の直後に “奴隷の証”として半ばほどで切られていたエルフたちの耳を治療するときに、ユンゲが使用した回復魔法についてだったのだが――、

「……これ、どうしたら良いんだよ」

 ユンゲの小さなぼやきを気に留める者はいない。

 フールーダと“翠の旋風”との会談が始まって僅かに十分余り――、ユンゲは既に今回の依頼を受けてしまったことを後悔し始めていた。

「――素晴らしいっ! これは! 何ということだ、このような魔法が!」

 フールーダからの要望に応じて、ユンゲの取り出した何本かの魔法のスクロールをまるで赤子のように抱き締め、頬擦りせんばかりに興奮の声を上げ続けるフールーダを目にしたユンゲは、遅まきながら自分の認識が誤っていたことを悟る。

 信仰系の魔法は第二位階までしか使用できないユンゲなので、マリーたちの耳の治療にはユグドラシルで手に入れた“店売り”のスクロールを用いていた。

 それは、この世界がユグドラシルであったのなら、特筆すべきこともない単なる消耗品の一つに過ぎない。高レベルの忍者を従えているような相手なら、或いは逸脱者とまで称されるフールーダのように強大な力を持つ高位の魔法詠唱者が、まさか驚くような代物ではないはずだった。

 目前の出来事を受け入れられずにいるうちに、以前のエ・ランテル共同墓地でのアンデッド騒動の一件の後、「第三位階魔法を使うことができるのなら、プラチナ級のプレートが授与されるべき」と憤っていた受付嬢やトブの大森林の僻地で、“漆黒”のモモンが強大な吸血鬼を倒したという戦場跡をアインザックたちと目撃したとき、ユンゲともにその場にいたマリーが、魔封じの水晶によって解き放たれた第八位階魔法を「神話みたい」と呆然としていたことが、ユンゲの頭を過ぎる。

 ユグドラシルのように経験値を任意の職業に振り分けられない、この転移後の世界では複数の系統を使いこなせるような魔法詠唱者は育ちにくいのかも知れない。

 智者の貫禄を漂わせていた老魔法詠唱者が、興奮に髪を振り乱さんばかりに叫び続ける光景から目を背けるように、ユンゲは思わず傍のリンダと顔を見合わせるが、お互いの困り顔を確認できただけに終わってしまう。

 救いを求めてフールーダの弟子たちにも目を向けてみるが、師の有り様を遠巻きに見つめているだけで役に立ちそうもない――と、不意に一人の男とユンゲの目線が重なった。

 

 無為に居並ぶ他の年配の弟子たちより、かなり若いであろう眉目秀麗な青年。

 目深に被るフードからこぼれる金の髪が、室内に満ちる<コンティニュアル・ライト/永続光>の明かりを照り返し、切れ長の紫の瞳は射貫くようにユンゲを見据えていた。

 無言の圧力とでも言うのだろうか、フールーダの振り撒く室内の喧騒がどこか遠くなるような違和感に、ユンゲの背を冷たい汗が伝っていく。

 目を逸らしたいのに逸らすことができないような立ち眩みにも似た感覚は、青年の視線がユンゲから外れて、遂にはスクロールに頬擦りを始めていたフールーダに向けられたところで、ようやくと解かれた。

「……フールーダ、痴態はそこまでにしておけ」

 落ち着いた口調ながら、有無を言わせない響きを孕んだ青年の声音に室内が静まり返る。

 すると咽ぶようにスクロールに縋っていたフールーダが、僅かな間を置いて長机の上にスクロールを手放し、臣下の礼をしてみせたことにユンゲは呆気に取られてしまう。

「……失礼いたしました、陛下。少々、興奮を抑えられなかったようです」

 あれほどの振る舞いを“少々”と言い切ったフールーダに文句の一つでも言いたくなったユンゲだったが、理解の及ばない事態のために構うだけの余裕はなかった。

「バハルス帝国が誇る大英雄フールーダ・パラダインも、下手に魔法が絡むとこの調子でな。驚かせてしまったようだ」

 目を見開くユンゲやマリーたちを前に、優雅な所作でフードを取り払った青年が、彫像のように形の良い口許に人好きのする笑みを浮かべながら自信に満ち溢れた言葉を紡いでみせる。

「――騙し討ちのようになってしまったことは詫びよう。貴殿ら“翠の旋風”を私自身の目で見る必要があった。これでも立場のある身、故にこのような手段を取らざるを得なかったのだ」

 殊勝な言葉とは裏腹に気にした素振りも見せず、軽い世間話でもしているかのような気楽さで肩を竦めてみせた金髪の青年は、するりと弟子たちの列から前に踏み出して革張りの長椅子に浅く腰かけると、細い顎の下に手を組みながら身を乗り出した。

「皇帝、ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスである。目覚ましい活躍を伝え聞く貴殿らと、こうして目通りが叶ったことを感謝しよう。――さて、早速ではあるが率直に問おう。私のもとに来る気はないか? 望むものを用意すると約束しよう」

 人口八〇〇万人超を抱えるバハルス帝国の頂点にして、歴代最高の皇帝とも謳われる「鮮血帝」ジルクニフは、ユンゲたち“翠の旋風”を試すように見回しながら事もなげに告げてみせる。

 瞬くことのないはずの<永続光>の照明が、一層の明るさをもってその姿を浮かび上がらせたような印象すら感じられた。

 こちらを睥睨するような若き皇帝の姿。あまりにも唐突に過ぎる展開の連続に、ユンゲは何も言葉を返すことができないままだった。

 早鐘のように脈打ち、動揺するユンゲの内心や思考を見透かしたようにジルクニフは、ふっと笑いをこぼし「あぁ、何も今すぐに返事をする必要はない。暫くの間で良い、帝都に留まって検討してみて欲しい。貴殿らにとっても悪い話ではないはずだ。勿論、滞在中の費用や必要なものがあれば、こちらで負担しよう」と流れるように言葉を続ける。

 先ほどまでの騒がしさから一変した、まるで時間の止まってしまったような豪華な応接間の中、ジルクニフだけが楽しそうに口許を歪めていた。

 

 




ジル「くらえっ、支配者のオーラ!」
ユンゲ「ぐわぁー」 みたいな……。

アインズ様さえ絡まなければ、私の中のジルクニフはこんな感じのイメージ。隣室には四騎士たち護衛も待機させて万全の状態にしているはずです。

書いている途中で、会談の舞台は帝国魔法省にするべきだったかなとも思いましたが、先に帝国魔法学院としてしまっていたのでこのままいきます。


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(21)平穏

ボーイ・ミーツ・ガールって何なんだろう……。


 夕暮れの近づく帝都アーウィンタールの一角に佇む冒険者組合は、外観の見事さに反するようにどこか活気に欠けている。

 以前に訪れたときにも感じた印象だが、やはりモンスターの討伐といったエ・ランテルであれば冒険者に依頼されるような仕事の一端を職業軍人である帝国兵士が担っていることも影響しているのだろう。

「これは、金券板ですね。このまま帝国銀行に持ち込めば、現金と交換ができるはずです」

 今回の護衛依頼の報酬として受け取った、細かな文字や模様の彫り込まれた手のひらほどの金属板を手に、リンダが思わずといったように苦笑いを浮かべる。

 バハルス帝国の国家機関である帝国銀行の下に管理されている為替――手形や小切手に相当するものらしいが、その額面を見ればリンダでなくとも苦笑したくなるものだ。

 エ・ランテルで買い替えたばかりの“翠の旋風”の装備を更に新調して、全員の予備兵装まで用意しても、まだユンゲが大いに飲み食いできるほどのお釣りが返ってくるほどの報酬ともなれば、何か非合法な闇取引にでも荷担してしまったのかと疑いたくなる。

「なんか、展開が早すぎて疲れちゃったね」

「……だな。正直、こんな依頼はもう受けたくない」

 冒険者組合のロビーテーブルに着いて突っ伏すように倒れ込んだキーファに言葉をかけつつ、ユンゲは椅子に傾れかかりながら大きな溜め息をこぼした。

 

 転移前の世界では、社会人として人並み程度の礼節を弁えているつもりではあったが、当然ながら貴族や王族のような特権階級の人間と言葉を交わした経験もなければ、宮廷作法など一つとして学んだこともない。

 案内のはずの商人には教育の在り方について熱弁を振るわれ、通されたのは手で触れることすら躊躇われるほどの華美な調度品ばかりの応接間。厳かに現れた国家の重鎮たる老魔法詠唱者は挨拶から間もなく奇声を上げ始めたかと思えば、救いを求めた先には不意打ち極まりない若き皇帝の不敵な笑みが待っていた。

 こちらの窮状を全て見透かしたようなジルクニフの鋭い眼光を前に、その場を逃げ出さなかっただけでもユンゲは自分を褒めたいくらいだ。

 しかし、如何に思いがけない事態の連続だったとしても、相手の目論見通りに上手く遣り込められてしまったという悔しさに似た思いは拭えない。仮にジルクニフからの誘いを受けたのなら、今後の生活は大変に気の詰まるものとなってしまうだろうことは想像に難くないだろう。

(……異世界に転移してまで、気疲れする生活は勘弁して欲しいな)

 原則として国家間の政治や戦争に不介入な姿勢を取っている冒険者の立場は、本来なら面倒事と距離を置きたいユンゲとしても都合が良い。

 誘いを断る方向で話を進めるなら、何かしらの無理難題――簡単に思いつくところでは、帝国における奴隷エルフの全解放といったこと――を条件として提示してみるのも一つの方法かも知れないが、あっさりと認められてしまうようなことがあれば、総数で何人となるかも分からない解放された奴隷たちの身の振り方に責任を持てないばかりか、ユンゲたちの進退も極まってしまうことは避けられない。

 市井の噂に聞いた限りでも、“鮮血帝”とまで渾名されるほどのジルクニフという改革者は、必要と考えたなら一切の手段を問わないような印象すらユンゲに抱かせていた。

 

「ユンゲ殿。これから、いかがしましょうか?」

 テーブルに着いた皆の沈黙を気遣うように口を開いたリンダに視線を向け、ユンゲは上手く働いてくれない頭で考えをまとめつつ、やおらと言葉を紡ぐ。

「……基本的に、俺は宮仕えなんて柄じゃないからな。リンダたちと一緒にのんびりと冒険者稼業でもしながら、美味い料理や酒を楽しめたら、それが一番だな。あとは……そうだな、まだ行ったことのないこの世界の景色もたくさん見たいってところか」

「――では、皇帝からの誘いは断るということでしょうか?」

「一応、そうなるかな。まぁ、とりあえず下手に睨まれたくもないから、穏便に済ませられるように考えるとして……」

 やや投げやりな思いで口にしつつ、ユンゲは背もたれに寄りかかりながら冒険者組合の天井を仰ぐ。

 これまでの自らの考えなしの行動が招いた結果ではあるが、年若いジルクニフにあっさりと手玉に取られてしまったことは情けない思いもあるので、ユンゲとしては引き抜きの件とは別にして、何らかの見返すための方法くらいは検討したい。

 帝都での滞在費をジルクニフが負担してくれるというのなら豪華な宿を借りたり、どこかの高級店で飲み食いするくらいの抵抗も考えられるか――いや、ユンゲ自身の格を落とすばかりか、相手には鼻で笑われて終わってしまう可能性の方が高いだろうか。

「――でも、ぱっと良い案は思い浮かばないな」

 やれやれとばかりにユンゲが肩を竦めてみせれば、リンダも小さく頷きを返してくれる。

「そうですね。では、皆もいろいろと疲れているようですから、今日のところは宿を取って食事ということにいたしませんか? ゆっくりと休めば、また良い考えも見つかるかも知れません」

 テーブルに顔を伏せたままのキーファや椅子に深く腰掛けながら舟を漕ぎ始めそうなマリーの様子を見遣れば、ここで埒も明かないまま悩んでいるよりもリンダの提案のように、冒険者組合で手頃な宿でも紹介してもらって休息する方が賢明だろう。

「……それが良いな。ここ何日かは護衛もあって、あんまり休めてなかったしな」

 大きく開かれた窓から差し込んでくる西日に目を細めながら、ユンゲはリンダに同意を示す。

 そうして、冒険者組合を重い足取りで後にした“翠の旋風”の一行は、威勢の良い客引きの声が飛び交う賑やかな帝都の人混みの中に紛れていった。

 

 *

 

 湯浴みを早くに終えたユンゲは、一人で自室へと戻りゆっくりと息を吐いた。

 そのままベッドへ倒れ込みたい衝動に駆られつつも、窓辺へと歩み寄って薄曇りのガラス窓を開けば、常夜灯に照らされた帝都の整然とした建物の並びが、淡く浮かび上がるように見える。

 背もたれのない丸椅子を手近まで引っ張って腰を下ろしたユンゲは、ぼんやりと外の景色を見つめながら、先の会談であった一つの気掛かりなことに考えを巡らせた。

「魔法詠唱者、アインズ・ウール・ゴウン……か」ユンゲの口から呟かれた名は、誰に届くこともなく陰となった街並みの暗がりの中、溶けるように消えていく。

 それは、気の休まらない会談がようやくと終わり、疲労の色を隠せなくなりつつあった“翠の旋風”が、帝国魔法学院の応接間を退出しようとした間際のことだった。

 国家としての在り方や優秀な人材の活用について、自身の考えを滔々と語り終えたジルクニフから「最後に一つだけ」と投げかけられた不意の言葉が、不思議な響きを持ってユンゲの耳に残っていた。

 

 ――試みに問いたいのだが、貴殿らは“アインズ・ウール・ゴウン”という名の魔法詠唱者に聞き覚えはないか?

 

 散々な気疲れもあったユンゲは、その場では聞いたことがない旨を告げたのだが、一人になってから思い返してみればどうにも引っ掛かるような思いを感じていた。

 突然の異世界転移から、この世界で過ごし始めてからまだ二ヶ月足らず、多少なりとも交流を持った相手の中にそのような名前を持つ人物はいなかったのだから、もしも耳にしたことがあるのなら、転移する前の出来事のはずたった。

 しかし、当然ながらユンゲの元いた世界に魔法詠唱者の知り合いは存在しない。

 下手な冗談の類いであったなら、軽く聞き流すこともできたのだろうが、問いを発したジルクニフの深い紫の瞳は、一切の欺瞞を見逃さないとばかりに真摯な色を湛えていた。

 ユンゲの取り出したスクロールに驚喜し過ぎたために、ジルクニフから諌められて後ろに控えていたフールーダが、関心を示すように居住まいを正す姿も視界の端に映っていたが、それ以上にユンゲの曖昧な返答に気付かないはずもないジルクニフが、あっさりと引き下がり「……詮ないことを聞いた、忘れてくれ」と質問を撤回したことにも違和感を覚えずにはいられなかった。

 薄い笑みを浮かべたままに、ひらひらと手を振ってユンゲたちの退室を見送ったジルクニフの堂に入った支配者としての姿が、ユンゲの脳裡に思い出された。

 ジルクニフのような頭が良いであろう相手の考え方は全く読めないために、“翠の旋風”を帝国に引き抜きたいという話すら、何か裏の意図があるのではないかと勘繰りたくなってくる――と、ふと扉に近づいてくる複数の足音に気付き、判然としない奇妙な感覚を抱いたままの頭を切り替えようとユンゲは、無理矢理に視線を上へと持ち上げる。

 すっかりと夜の帳が下りた空には、宝石箱をひっくり返したように散りばめられた星たちの輝きが、色鮮やかに瞬いていた。

 

 *

 

 冒険者組合で紹介してもらった宿屋で迎えた翌朝、雲一つない心地良い快晴の青空の下、帝都アーウィンタールはいつもと変わらない活気に溢れていた。

 仕立ての良い服で着飾った婦人や職人風の男たち、荒事を生業としているであろう輩や商魂を燃やす狼の群れといった雑多な人々が行き交う大通りに、昨日とは異なる様子で過ごすユンゲたち“翠の旋風”の一行の姿があった。

 人混みを軽くかき分けるユンゲの傍ら、一抱えもある丸瓶を大事そうに持つマリーの弾むような足取りに合わせて、サイドで括った鮮やかな金糸のような髪が揺れる。

「ご満悦だな、マリー」

「はいっ! この時期に手に入るとは思っていなかったので嬉しくて、つい」

 少しだけ恥じらうように、しかし隠し切れない嬉しさが溢れるように、マリーの歩く姿は軽やかだ。背が小柄なために、子どもが欲しいものを受け取って喜んでいるようなほのぼのとした温かさを感じるのだが、本人に言ってまた機嫌を損ねるような真似をユンゲはしたくない。

「でも、良かったよね! エ・ランテルでは見つからなかったから、無理だと思ってたんだよ」

「そうだね、やっぱり帝国の方がいろいろなものが沢山あるのかな?」

 こちらもやはり小柄なキーファが、マリーの抱える丸瓶の中を覗き込みながら笑みをこぼす。

 帝都の朝市で買い求めた“シロツメクサの蜜”を間に嬉々として言葉を交わすキーファとマリーをほほ笑ましく思いながら、ユンゲは少し後ろから保護者然として二人を見守るように続いていたリンダに話しかける。

「やっぱり、リンダの言うように連れ出して正解だったみたいだ」

「ふふ、そのようですね。……同じような景色でも、そのときの気持ち次第で見え方は変わってきますし、ともに歩く人によっても、また違ったものになるのでしょう」

「……なるほど、なかなか蘊蓄のありそうな言葉だ。肝に銘じておくよ」

 慈母のような笑みを湛えたリンダに、ユンゲは軽く肩を竦めてみせる。

 これでは、どちらが気を遣ったのかも分からない。

 

 昨夜から宿屋で休息は取ったものの、突然の皇帝との会談に疲れ切っていた皆を見遣り、何か気晴らしでもと考えながらも、帝都にあまり良い思い出を持っていないであろう彼女たちを無理に連れ出すことを躊躇していたユンゲの背を押してくれたのはリンダだった。

 それでも、奴隷市場のような直接的な場所をできるだけ避けつつ向かった大広場で、以前から欲しがっていたシロツメクサの蜜――先にカッツェ平野でのアンデッド討伐に赴いたとき、大食漢のユンゲのために用意してくれたエルフ特製の携行食“レンバス”の材料のうち、時季外れのためにエ・ランテルでは手に入れることのできなかった――を見つけたマリーの喜びようは、思わずユンゲまで嬉しくなってしまうほどだった。

 周辺国家の交易の要衝となるエ・ランテルの市場には出回っていなかった品物が、バハルス帝国の市場では一般的に売られているというのは、やはり国力の高さがなせるものなのだろうか。

「宿屋で厨房をお借りできるのか、帰ったら直ぐに聞いてみなくてはいけませんね」

「――だな。でも更に美味しくなるなら、もう三つじゃ足りないかもな」

「ふふふ、いくらユンゲ殿でも、あまり食べ過ぎるのは身体に良くないかも知れませんよ」

 口許に手を当てて面白そうに笑うリンダに、ユンゲはもう一度肩を竦めてみせた。

「美味いもんが食べられるなら、それも仕方ないな」

 そう冗談めかせて口にしつつ、ユンゲは様々な業態の露店の立ち並ぶ大広場の一角を指差す。

 人通りの多い帝都の中ほどに位置する大広場、芳ばしく食欲を誘う香りに導かれたユンゲは、やや呆れ顔となったリンダを横目に、素早く串焼きの屋台へと駆け寄って小銭を放った。

 見事に焼き上げられた大振りな肉の串焼きに齧りつけば、口いっぱいに広がる濃厚な肉汁にユンゲの頬は思わず緩んでしまうことに抗えない。

 瞬く間に一串を平らげ、早速とばかりに愛想の良い主人に追加の注文をしつつ、「ほらっ、皆も食おうぜ!」と呼びかける。

 小走りに向かってくるマリーとキーファ、その後ろでやれやれと額に手を当ててみせるリンダに手招きをしながらユンゲは快活な笑い声を上げた。

 目に沁みるほどに濃い青空の下、帝都は今日も変わらず人々の活況な営みが続けられている――

 

 そうして、露店を前に“翠の旋風”の一行が和やかな談笑を交わす中、行き交う人混みに紛れてその様子を見つめていた二つの人陰は少ない言葉を交わし、その傍へと歩み寄っていくのだった。

 

 




次回は久しぶりの別キャラ視点で、これまで分かり辛かった時系列等の辺りも描ければと考えております。


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(Side-M)悲願

今回は、フールーダ爺様の視点で原作との時間軸を確認するような形になります。

頭文字が“M”じゃないと思われた方は、いつもお読みいただきありがとうございます。
強引ですが、魔法詠唱者<マジック・キャスター>の“M”ということでご勘弁いただければ幸いです。すみません。


 先代皇帝の時代から最も注力しているバハルス帝国における力の象徴――帝国魔法省は、その広大な敷地を高く分厚い塀と連なる物見塔に囲われ、帝国八騎士団の内でも精鋭揃いの第一騎士団と優れた魔法詠唱者からなる混合警備隊によって、常に厳重な警戒態勢が敷かれている。

 兵士のための魔法武具の生産や新たな魔法の開発、国民の生活レベルを向上するための魔法実験といった国家の重要な施策を司る機関を守るためには当然とも思われる警護だが、中でも敷地内の最奥に位置する塔の防衛網は別格だった。

 二メートル半を優に超える四体のストーン・ゴーレムの守衛や高価な魔法の武具を全身に装備した皇帝直轄の最精鋭部隊〈皇室地護兵団〉に代表される、皇帝の身辺警備にも匹敵するほどの厳戒態勢に守られた塔には、帝国魔法省内でも限られた者しか立ち入りを許されない。

 その最警戒の塔に足を踏み入れたフールーダは、何人もの弟子を引き連れながら、すり鉢状の部屋を大きく回り込む。

 いくつもの扉を潜りながら人気のない長い通路を進めば、古めかしい螺旋階段を下った先の澱んだ空気は重く沈むようで、伽藍のような広く冷たい空間には、堆積した埃の臭いが漂っている。

 世界から隔絶せんと物理的・魔法的な防御が幾重にも施され、閉ざされていた重厚な扉が開かれた向こう側、まるで墓標のように天井まで伸びる一つの巨大な柱が薄闇の中、目の前に浮かび上がっていく。

 フールーダの引き連れてきた弟子たちの唱えた<コンティニュアル・ライト/永続光>の魔法によって照らされる地下の空間では、光に追い払われた闇が残された暗がりに集まり、一層と濃くなっているようにも思えた。

 精神を鼓舞する魔法やマジックアイテムの恩恵をもっても、なお心胆を寒からしめるほどの圧倒的な気配を前に、肩の震えや歯軋りを抑えられない弟子を見遣り、一つ息を吐いたフールーダは「――心を強く持て。弱きものは死を迎えるぞ」と言葉少なく警鐘を告げる。

 そうして、一歩を踏み出したフールーダの鼓膜を震わせる、ギャリッと何重もの鉄鎖を軋ませる不快な怨嗟の悲鳴――墓標に磔となった巨躯を誇る死の騎士〈デス・ナイト〉が、落ち窪んだ眼窩の奥に生者への憎悪と殺戮への期待を煌々と宿す赤の瞳を輝かせて、一行を睥睨するように待ち構えていた。

 かざした手をデス・ナイトに突きつけ、フールーダが唱えるのは〈サモン・アンデッド・6th/第六位階死者召喚〉を改良したオリジナルスペル。

「――服従せよ」

 放たれた最高位の魔法は、しかし効力を発揮することはなかった。

 恰も血管のような紋様が施された黒色の全身鎧を鉄鎖で雁字搦めにされ、手足に巨大な鉄球の枷を科されながらも、デス・ナイトは拘束を解こうともがいて蠢き、心臓を鷲掴みにされるような赤の瞳は未だ殺意に染まっているままだ。

「……いまだ支配できず、か」

 口惜しさの滲んだ言葉がフールーダの口をついてこぼれ、日の光の届かない陰気な地下階層の底知れぬ深い闇の中に溶け込んでいく。

「惜しい……これを支配できれば、私はかの魔法詠唱者――死者使いのリグリット・ベルスー・カウラウを超えた、最高の魔法詠唱者となれるものを」

 師の嘆きに慰めの言葉を口にし、或いは現状を打開しようと意見を交わし合う弟子たちの様子を遠巻きに眺めながら、フールーダは先日からの一連の出来事に思いを馳せた。

 

 *

 

「じい、この報告書をどう見る?」

「……真偽のほどは確かではありませんが、一考に値するものかと」

 広大なバハルス帝国でも帝都アーウィンタールにのみ存在し、民衆の最大の娯楽として国家規模で運営される大闘技場。その総支配人を任されている男から提出された一枚の報告書に記されていた内容は、フールーダも驚くべき内容だった。

「オリハルコン級に匹敵すると噂される剣士をあっさりと一蹴し、第三位階魔法の<フライ/飛行>まで使いこなす無名のハーフエルフか……」

 執務机に報告書の束を広げたジルクニフが、挑むように不敵な笑みを浮かべる。

「……報告の通りであれば、魔力系の魔法だけでなく信仰系魔法の才もあるようですな。そもそも別系統の魔法を扱うには、それぞれに異なった才能が必要であり、個人の資質という点において――」

「そのようだ。エ・ランテルで瞬く間に頭角を現した冒険者チーム“漆黒”のモモンと“美姫”ナーベに、帝国史上最高の魔法詠唱者であるフールーダ・パラダインをして実在を確認できない謎の魔法詠唱者アインズ・ウール・ゴウンか。……これまで野に隠れていた英雄たちが、姿を現し始めているようだ」

 フールーダの長くなりそうだった魔法の口上を遮り、ジルクニフは言葉を重ねる。

「このユンゲ・ブレッターというハーフエルフもその類いの可能性はあるか。……懸念するべきは、この者たちが個々につながりを持っているのか、ということだな」

「現時点で判断はできません。まずは、探りやすいところから確かめるのが良いでしょう。友好的な関係を築くためにも、手立ては慎重に検討していただきたいものですが――」

 優秀なジルクニフには言うまでもないことだと理解はしていても、フールーダは小言を口にせずにはいられなかった。

 法国の特殊部隊数十人を相手に大立ち回りを演じる魔法詠唱者など俄かには信じ難い話だが、忠義の士として知られるリ・エスティーゼ王国の戦士長――ガゼフ・ストロノーフが王の御前で語った内容だとすれば、ただの与太話として切り捨てることはできない。

 しかし、アインズ・ウール・ゴウンなる魔法詠唱者は、フールーダの調査でも発見することは叶わなかった。

 もしも、フールーダの魔法による探知を己の力で防いだのであれば、自身と同等以上の魔法を行使できる者である可能性も十二分に考えられる。

 二百年以上の時間を生きるフールーダの、唯一にして絶対の悲願である“魔法の深淵を覗く”という、その生涯をかけた挑戦に差す光明となるかも知れない存在との邂逅は、例え何者であっても邪魔をされるわけにはいかないことだった。

「分かっているさ、じい。制御の利く強者であるならば、私としても帝国に迎え入れたいところだ」

 フールーダの言葉に嫌な顔一つ見せることなく頷きを返し、ジルクニフは部屋の片隅で控えていた秘書官――ロウネ・ヴァミリネンを呼び寄せ、矢継ぎ早に指示を与えていく。

 フールーダは杞憂を追い払うように一つ咳払いをして、居住まいを正す。

「……失礼しました、陛下。私の力が必要なときは、何なりとお使いください」

「勿論だ。早速だが、一つ思いついたことがある」

 口許をにやりと歪めたジルクニフの紫色の瞳が、フールーダを見据えて妖しい輝きを帯びた。

 

 それから半月余りの時間をかけて進められた周辺調査の新たな報告書に目を通しつつ、ジルクニフは御前にフールーダとロウネの二名を呼び寄せた。

「――ロウネの伝手からの報告では、やはり実力のほどは確かなようだ。元奴隷エルフと新たな冒険者チームを組んだというのは、義侠心が強いのか、或いは同族意識の表れか――どちらにせよ、帝国内の奴隷エルフの扱いは慎重にする必要があるな」

「すぐに帝都を離れたということは、帝国の国家体制に異を唱えるつもりはない意思表示、とも考えられるかと……」

 私見を述べるロウネに、ジルクニフは心得ているとばかりに言葉を引き取る。

「もともと冒険者になるような連中は、国家への帰属意識は薄いからな。しかし、実力ある者たちが王国側に偏っている現状は好ましいものではない」

「――そうですね。“朱の雫”に“蒼の薔薇”、そして新たに“漆黒”が加わり、これで王国には三組のアダマンタイト級の冒険者チームが存在し、見立てられた能力から考えるなら件のハーフエルフが昇格することも時間の問題といったところでしょう」

「仮に最高位の冒険者が拠点を変えるとなれば、無用の軋轢を生みかねないな」

 魔法の絡まない諜報は元より、国家や組織間の調整など門外漢であるフールーダとしては、ジルクニフとロウネの相談事に口を挟むつもりはない。

 フールーダの関心は、戦士でありながら二系統の魔法を扱うというユンゲと僅か二名でアダマンタイト級にまで昇格した“漆黒”の魔法詠唱者であるナーベ――そして、自身に匹敵するかも知れないアインズ・ウール・ゴウンという謎の魔法詠唱者だけに向けられていた。

「――では、帝都に呼び寄せる方法は、事前に取り決めた通りでいこう。お前に危険はないだろうが、十分に注意して行動してくれ」

「了解しております。しかし、やはり陛下が自らお会いになるというのは……」

「それは終わった話だ。じいにも必要な対策を準備させている。何より、一度も顔を合わせたことのない相手を信用などできまい……互いに、な」

 有無を言わせない口調に、反論を飲み込んだロウネが年齢の割に薄くなった頭を下げるのに合わせ、議題の転換を察したフールーダも軽く首肯をし、改めてジルクニフに向き直る。

 

「――さて、次に検討すべきは、王都で発生したという“悪魔騒動”についてだな」

 リ・エスティーゼ王国の王都に潜ませていた諜報員から伝えられた<メッセージ/伝言>による第一報を受けたとき、フールーダは虚報であることを疑った。

 報告された内容があまりに荒唐無稽だったこともあったが、<伝言>という魔法は時間や距離の制約もなく遠隔地間の情報伝達が可能となる反面で――過去に魔法詠唱者を活用した<伝言>による通信網を確立していたガテンバーグという人間種の国家が、三つの虚報を契機として滅んだという苦い教訓から――魔法としての精度を不安視されていたことも要因だった。

 しかし、様々な情報筋から届けられた続報により、“悪魔騒動”が事実であると確認されるとジルクニフは、長年に渡って実施していた帝国騎士団による王国領土への侵攻を取り止めとした。

 本来、帝国が王国に対して戦争を仕掛けることには、大きく二つの狙いがある。

 一つは侵攻のタイミングを農作物の収穫時期に合わせることで、帝国のように常備軍を持たない王国に農民を徴兵させて国力疲弊を誘うこと。そして、もう一つには戦費の特別徴収により、反抗的な帝国貴族の力を削ぎ、或いは粛清するための口実とするという長期的な国家戦略に基づいていた。

 皇帝への即位とともに進めた大改革によって、反乱分子となりかねない帝国貴族の掌握を既に終えていたことに加え、今回の“悪魔騒動”で未曽有の被害を被ったという王国に戦争を仕掛ける意義が薄れたというジルクニフの判断は、情勢を正しく見たものだったのだろう。

 しかし、一方では重大な問題が浮上してしまっていた。

「――やはり、ヤルダバオトという悪魔については分からぬままか?」

「寡聞にして存じません。……魔法的手段で調べることの危険性を考慮して、古い資料を中心に調査を進めておりますが、今のところ成果は思わしくありませんな」

 強大な力を持ちながら正体は皆目分からず、現在の行方も不明となれば、突如として王都を襲った悪魔の群れと指揮官ヤルダバオトの存在は、帝国にとっても大きな脅威となり得るかも知れない。

「王都襲撃の目的は、何らかのマジックアイテムが関係しているとの話もあるようだが、そちらの方は今後の報告を待つしかないな。じいはどうみる?」

「……強大な悪魔が欲するというマジックアイテムに興味はありますが、何とも……もしかすると二百年前の魔神との戦いのような、苛烈な戦いが起こる前触れなのかも知れませんな」

 フールーダの含みを持たせた言葉に少しだけ身を固くしたロウネが、思わずといったように口を開く。

「私としてはそうあって欲しくはないものですが、やはり直接ヤルダバオトを撃退した者たちから詳細な話を聞くべきではないでしょうか」

「アダマンタイト級の冒険者チーム“漆黒”か、……確かにその必要があるな。ロウネ、接触するための手段はお前に任せよう。ハーフエルフの件と同様に進めてくれ、より慎重に頼む」

 玉座に深く腰掛けたまま発せられたジルクニフの言葉を受け、「畏まりました」と礼を返すロウネの姿を横目に、フールーダは優れた魔法詠唱者たちとの邂逅が実現する予感に胸を震わせた。

 

 そうして、更に調査を続けながら半月余りのときを経て、遂に対面が叶ったのは“翠の旋風”のユンゲ・ブレッターというハーフエルフの若者だった。

 フールーダ自らが設立に協力した帝国魔法学園の応接間。

 やや緊張した面持ちでこちらを待っていたユンゲの姿を見止めたとき、フールーダの心の内に沸いたのは、僅かな嫉妬の思いだった。

 二十代も半ばほどにしか見えない若いハーフエルフから立ち昇るオーラ――魔力系魔法詠唱者の使用可能な位階を見ることができる、フールーダの持つ生まれながらの異能〈タレント〉によって可視化される――は、ユンゲが第四位階魔法すら使用できることを示していた。

 先達者に恵まれなかったフールーダは元より、フールーダの足跡を追ってきた自慢の高弟たちでも、これほど若くして第四位階魔法を使える者はいないことを思えば、ユンゲの年齢でこれほどの才能を有しているのは驚嘆するほかにない。

 第六位階の魔法と儀式魔法を組み合わせて寿命を延ばしているフールーダだったが、魔法が完全でないが故に老いを完全に止めることはできておらず、渇望して止まない“魔法の深淵を覗く”という願いを果たすことができないまま一生を終えるかも知れないと、最近では恐怖すら覚えるほどだ。

 しかし、思わず叫び出しそうになる気持ちを抑えつけ、威厳を保ったまま会談を始めたフールーダの努力は、間もなく瓦解してしまう。

 奴隷エルフの耳の治療に使ったという魔法のスクロールは、その作りの精緻さもさることながら込められた魔法は――決して高位の魔法ではなかったが――フールーダでも未知の魔法だった。

 取り繕っていた好々爺の仮面をあっさりと剥がされてしまえば、残るのは魔法への探求に生涯を捧げる一人の狂信的な魔法詠唱者でしかない。

 ユンゲに矢継ぎ早な質問を浴びせ、他にも魔法のスクロールを持っていないかと詰め寄り、興奮と驚嘆に目まぐるしく表情を変えながら歓声を上げ続けた。

 大袈裟な反応でユンゲの注意を散漫にし、ジルクニフの登場をより印象付けるための事前の取り決め通りではあったが、フールーダをしてどこまでが演技だったのかは疑わしい。

 ジルクニフから名を呼ばれ、「痴態はそこまでにしておけ」と制止をかけられたことで、フールーダはようやくと落ち着きを取り戻したように装いつつも、高揚する気持ちは抑えられなかった。

 会談の場で全てを聞き出すことができなくても、ユンゲを帝国側に引き入れることができたのなら、機会はいくらでもあるはずだと自身に言い聞かせながら、フールーダはジルクニフの背後に回って、やや朴訥な受け答えをするユンゲの様子を観察することで気を紛らわせていた。

 

 会談を終えて“翠の旋風”の退席した帝国魔法学院の応接間は、隣室で控えていた護衛の騎士たちも呼び寄せられ、即席の会議室と化していた。

「二系統の魔法、それも魔力系は第四位階まで使いこなし、純粋な戦士としても申し分ないか」

「ありゃ、本物だな。振る舞いはともかく、ガゼフ・ストロノーフにも似た強さを感じましたぜ」

 革張りの長椅子に着いたジルクニフの傍に立った髭面の偉丈夫――“雷光”の異名を持つバジウッド・ペシュメルが、お手上げとでも言うように不躾な言葉を放つ。

 皇帝の身辺警護や勅命を遂行するバハルス帝国最強の四騎士筆頭であるバジウッドは、主であるジルクニフに対しても砕けた口調を使うが、一方でその忠誠に一切の疑いもない勇士だった。

「身につけていた装備も一目で分かるほどの逸品でしたな」

 やや口惜しい気持ちでフールーダも口にする。会談の場であるために〈アプレイザル・マジックアイテム/道具鑑定〉を試すことはできなかったものの、ユンゲの武器や防具がバハルス帝国の国宝にも優るほどの品物であったことは確実に思われた。

「しかし、どこかの国家の要人といった線は薄いな。そこまで演技なら大したものだが――」

「そうでしたな。俺が言うのも何ですが、宮廷の作法とかその辺りのことは全然って感じでしたぜ」

 ジルクニフに同意を示しながらバジウッドが言葉を引き継ぐ。

 事前に集められていた報告書にあった、ユンゲがおおよそ謀事に向かないという見立ては、フールーダから見ても正しいように思われた。

 ユンゲの取り出した魔法のスクロールを惜しんで、研究させて欲しいとフールーダが“懇願”したところ、渋々ながらも貸し出すことを許可してしまうほどには強引な押しにも弱かった。

 組織的な束縛を嫌って冒険者の道を選んだような性格であるなら、世俗の地位や名誉で関心を惹くことは逆効果にもなりかねないので、勧誘には注意が必要になる。

「いっそ、女で引っ掛けるのはどうですかい? 連れのエルフは美人揃いだったが、薄い女ばかりじゃ厭きもくるだろ?」

 妻ばかりでなく、四人の愛人とともに暮らす好色のバジウッドらしい観点だが、魔法への探求にこそ価値を見出しているフールーダには理解できない感覚だった。

 やや頭を抱えるように天井を仰いだジルクニフは「……検討しよう」と言葉少なくバジウッドに告げて、やおらとフールーダへ視線を向けた。

「しかし、残念だったな、じい。あのハーフエルフと謎の魔法詠唱者アインズ・ウール・ゴウンとやらに直接的なつながりはないようだ」

「……そのようですな。しかし、アインズ・ウール・ゴウンが実在すると知れたことは、大きな前進となります」

 退室する間際にジルクニフが投げかけた問いに対するユンゲの答えは、「覚えがない」というものだったが、答えるまでにかかった微妙な間は、記憶を探るための時間に違いなかった。

 存在を隠そうとするでもなく、考えたという事実は重要な意味があった。

「……嬉しそうだな、じい」

 薄く口許を歪めて笑うジルクニフに、フールーダもまた笑みを返して言葉を紡ぐ。

「ええ。何としてもかの御仁を探し出して、お会いしなくてはいけなくなりましたので――」

 

 *

 

「残念ながらもはやここに用はない。今日のところはな」

 拘束の鎖を断ち切ろうと蠢くデス・ナイトから視線を外し、フールーダは「行くぞ」と静かに弟子たちへ声をかける。

 偶然の重なった捕獲から五年余りの歳月をかけても支配のできない伝説級のアンデッドだが、先日のユンゲとの邂逅によって、僅かばかりの光明も見え始めていた。

 存在すら疑われる第七位階以上の魔法に限らずとも、フールーダをして未だ知らない魔法が存在すると分かれば、自らよりも先を進む者がいないという鬱屈とした気持ちも、少しだけ晴れる思いがある。

 つい先日、ユンゲから強引に借り受けたいくつかの魔法のスクロールをもっと精査していけば、これまでとは異なるアプローチから、デス・ナイトを制御する方法も生まれるかも知れないという期待もあった。

 安堵の色を多分に含んだ弟子たちの返事を聞き流して踵を返したフールーダは、背後から叩きつけてくるようなデス・ナイトの視線を受けながら、やや足早に重い扉へと歩み寄る。

 合言葉を口にして、閉塞とした地下の部屋から一歩を踏み出せば、思わず呼吸を繰り返してしまう弟子たちの思いは、フールーダにも良く理解できた。

 生者を憎むアンデッドの気配が強く残る閉塞とした地下の部屋では、やはり息が詰まるものだ――と、不意に「師よ!」とフールーダを呼ぶ低く野太い声が投げかけられた。

 冒険者としても名を馳せたフールーダの高弟の一人であり、その経歴から魔法省の警備関係の副責任者を任せられている男が、慌てた様子で駆け込んでくる姿が目に映った。

「……何があった? 非常事態か?」

「いえ、非常事態ではなく、アダマンタイト級冒険者の方々が師に面会を求めておられます」

 前触れもなく高弟から届けられた一つの知らせが、これまで魔法の探求にこそ一身を捧げていたフールーダの生涯を、果てはこの世界の在り方までも急変させるものになるとは、このときのフールーダには知る由もなかった。

 

 




この話のために原作を読み返していたら、ジルクニフからフールーダへの呼称が「じい」とひらがな表記だったことに、何となくほっこりしました。

次回からは原作書籍の7巻以降のお話となる予定ですので、今後ともよろしくお願いいたします。



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scene.4 未知への憧憬
(22)勧誘


-これまでのお話-
初めての指名依頼を受けた“翠の旋風”は、高額な報酬を訝りながらも再び帝都アーウィンタールを訪れ、様々な思惑のもとに逸脱者たるフールーダ、そして稀代の皇帝ジルクニフとの対面を果たす。
急転する状況に動揺を隠せないユンゲたちだったが、一行の与り知らないところでは世界を揺るがすほどの事態が引き起こされようとしていた。


 丁寧に敷かれた石畳の上、幾重にも重なるように生まれた無数の波紋が、広がっては儚い幻のように消えていく。

 帝都アーウィンタールの整えられた街並みは、季節を外れた冷たい霧雨の中に包まれ、白くけぶるような帳の向こうに霞んで見えた。

 普段の賑わいと比べれば通りを行き交う人も疎らな印象はあるが、皆無ということはなく、雨具を着させられた子どもたちが濡れるのにも構わず元気に走り回っていたり、そんな様子を遠巻きにしながら雨音に負けまいと呼び込みの声を張っている客引きの姿もあった。

 宿屋の窓辺に寄ったユンゲは、ぼんやりと眼下の光景を眺めながら思わず顔を顰めてしまう。

 大量の汚染物質を含んで黒く染まってしまった、汚水の雨が降り注ぐ世界に生きていたユンゲにとって、雨は決して“恵み”をもたらしてくれる存在ではなかった。

 この世界に転移してから、雨に降られるのは今回が初めてということもないのだが、ユンゲはどうにも雨の中で外出することには憚られる思いがあった。

 それでも、満足な舗装もされていないエ・ランテルでは、足下が覚束ないほど通りが泥濘んでしまう有様だったことを思えば、大通りばかりでなく細い路地まで整備がなされている帝都の偉観は――ユンゲの心情的にはあまり好ましくないものの――ジルクニフの施策が優れていることの一端なのかも知れない。

「……一応、お伺いはしとくべきか」

 気乗りしない思いでユンゲは口にしつつ、宿屋に面した通りから視線を外し、遠く白い霞の中でも異彩を放つ、帝国魔法省の高い尖塔の方へと目を向けた。

 

 *

 

 煌びやかな装飾品に、鮮やかな色味の織物――異国情緒の溢れる品々から日常で使う多様な雑貨までも並べたいくつもの店が軒を連ね、多くの人々が行き交う帝都の中ほどにある大広場。

 いつにも増して盛況な賑わいを見せる市場の一角で、食欲を誘う芳ばしい香りの立つ屋台の前には、ユンゲたち“翠の旋風”の姿があった。

「ほらっ、リンダもどうだ?」

 こちらの差し出した串焼きをやむなくといった様子で受け取り、「ありがとうございます」と苦笑を浮かべるリンダに笑いかけ、ユンゲは言葉を続ける。

「食べ歩きは、旅の醍醐味だからな。――おっちゃん、エールも一つくれよ。良く冷えたヤツで頼むな」

 赤々と燃える炭火を前に串焼きを炙っていた屋台の主人に注文を取り付けながら「リンダも飲むか」とユンゲは問いかけるが、「……今は遠慮しておきます」とやや呆れを孕んだリンダの答えが返ってきたことに、わざとらしく肩を竦めてみせる。

 ふと何気なく見上げてみれば、雲一つない晴れ渡った青空に眩しいほどの陽の光が飛び込んでくる。

 この世界に転移した直後には、深い闇に包まれた夜空のキャンバスに輝く宝石のような星たちに感動を覚えたものだが、こうして降り注ぐ太陽に手をかざすのもまた素晴らしいものだった。

 そうして、主人から手渡された冷たいエールを口に含みながら、追加した注文の焼き上がりを心待ちにしていたユンゲが、小さな口で串焼きを頬張るマリーやキーファの様子に目許を緩ませていたときだった。

「――失礼、少しよろしいでしょうか?」

 背後から呼びかけられ、やけに腰の低い客引きだな、とおざなりに振り返ったユンゲの目に映るのは、絢爛華麗な漆黒の全身鎧に真紅のマントを纏い、身の丈ほどもある巨大な二振りのグレートソードを背に担ぐ、偉丈夫の立ち姿だった。

 得体の知れない威圧感を前に一瞬たじろぎかけたユンゲだったが、その戦士の名に思い至ってやや上擦った声を上げる。

「あれ、モモンさん。奇遇ですね、こちらにいらしていたんですね」

「えぇ、先ほど着いたところなのですが、見知った顔をお見かけしたので――」

 気安い調子で答えた“漆黒”のモモンが半身の姿勢をとれば、大きな背に隠れていた“美姫”ナーベが、少し硬い表情で小さく顎を引くのが見えた。

 大仰な二つ名に違わない美貌のナーベからは、相変わらず愛想の一つもみせてもらえないが、以前にナーベからの問いを曖昧な受け答えではぐらかしてしまったユンゲなので、あまり良い印象は持たれていないのだろう。

「そうでしたか、お声がけいただきありがとうございます」

 最上位冒険者でありながら、ゴールド級に過ぎないユンゲたちにまで気をかけてくれるモモンは、やはり英雄と呼ばれるに相応しい人格者のように思われた。

 少しばかり気後れする気持ちでナーベに軽く目礼をしつつ、ユンゲはモモンに向き直る。

「いえ、お気遣いなく」と朗らかに笑うモモンの細いスリット越しの視線は、ユンゲの肩越しに串焼きを口にしていたキーファとマリーの二人を窺っているような気がした。

 ふと思い出せば、先にエ・ランテルの冒険者組合で開かれたカッツェ平野におけるアンデッド討伐のための会合には、リンダとユンゲだけが参加していたので、二人とモモンは初対面になるはずだった。

「――あ、紹介しておきますね。私のチーム仲間で、野伏〈レンジャー〉のキーファと森祭司〈ドルイド〉のマリーです。以前ご挨拶させていただいたリンダと私を加えた四人で、冒険者チーム“翠の旋風”として活動していますので、今後ともよろしくお願いしますね」

 ユンゲからの唐突な紹介に慌てて口許を拭った二人が、モモンの傍に歩み寄って恐縮した様子で「よ、よろしくお願いします」と何度も頭を下げれば、キーファとマリーに応じて「こちらこそ、よろしくお願いしますね」と丁寧に握手を交わすモモンに、ユンゲは改めて好感を覚えた。

 興味もなさそうに佇んでいたナーベから二人への対応はやはりつれないものだったが、ユンゲにみせるよりは幾分か柔らかい感じもあった。

 挨拶を終えて傍まで戻ってきたマリーからは、紹介するタイミングを考えてくださいとでも言わんような抗議の視線を向けられるが、ユンゲは努めて無視をするにしてモモンに疑問を投げかける。

「ところで、モモンさんはどうして帝都へお越しになられたんですか?」

「えぇ、実はある依頼を受けてのことなんですが――」

 

「……新しく発見された遺跡を調査する、先遣隊の護衛ですか」

 モモンの口から語られる如何にも“冒険者”らしい依頼の内容に、ユンゲは興味をそそられる。

 何より、未発見という響きが良い。

 少なくともジルクニフの誘いで配下となって息詰まりしそうな宮仕えをするよりも、よほど楽しめそうだとユンゲは僅かばかり身を乗り出す。

「はい。調査の初回ということで万全を期すためにも、複数チームの共同で依頼に当たることになっていまして――」

 もし冒険者チームの枠が余っているのなら参加してみたいという気持ちがユンゲの中で芽生えるものの、アダマンタイト級の“漆黒”が名指しされたということは、やはり相応の危険を伴うということかと思えば、現状の“翠の旋風”では力不足かも知れない。

「実は、同行者の選定を任されているのですが、お恥ずかしながら帝国の冒険者組合には知己の方がいないものでして……」

 さも面目ないというようにモモンが大仰にかぶりを振ってみせると、ばさりと払われた真紅のマントが、風を孕んでどこか優雅にはためいた。

 些か芝居がかったような動きも、演者次第ではこれほど様になるものかと、ユンゲは妙なところで感心してしまう。

「そこで、先のカッツェ平野で素晴らしい活躍のあったユンゲさんたちに参加してもらえたなら心強いと思いまして……突然、このような勧誘の仕方をするのも失礼かと承知しているですが、いかがでしょう。私たちとともに依頼を受けていただけませんか?」

 まるで一流の舞台役者のように心地良く流れるモモンの口上に、思わず頷きたくなる気持ちをようやくと抑えたユンゲは、慎重に口を開く。

「……とても魅力的なお話なので、是非とも参加してみたいところなのですが、別件の依頼主に確認を取る必要がありますので、返事は少しだけお待ちいただいてもよろしいでしょうか?」

 先の会談でジルクニフからは暫く帝都に滞在して欲しい旨を伝えられているし、何よりマリーたちとの相談なしにユンゲの独断で決めることはできない。

 この世界がユグドラシルであったのならとりあえず参加してから考えてもいいが、実際に命の危険が伴うのなら遺跡の難易度等も含め、検討しなければいけないことはいくらでもあるはずだった。

「えぇ、勿論です。何分、急なお誘いでしたからね」

 軽く肩を竦めて見せたモモンは、どこからともなく取り出した依頼の条件がまとめられた書状をユンゲに手渡し、「一週間後の出発を予定していますので、それまでにお返事をいただけるとありがたいです」と笑い、余裕のある態度を一切崩すことはなかった。

 帝都で滞在するという宿の名を告げて、颯爽と去っていくモモンとナーベを見送ったユンゲたち“翠の旋風”は、手元の書状を皆で覗き込んで顔を見合わせるのだった。

 

 *

 

「ユンゲは雨が嫌いなの?」

 敷き詰められた石畳にできた小さな水溜りを避けながら、隣を弾むように歩いていたキーファからの問いかけに、ユンゲは「ん? そういう訳でもないんだけどな」と言葉を濁した。

「キーファは雨が好きなのか?」

「うーん、雨はそうでもないけど、雨上がりは好きだよ。なんかこう、空気がすっごく綺麗な感じがするから」

 両手を大きく広げながら、くるくると回ってみせるキーファの楽しげな雰囲気に、ユンゲは口許を緩める。

 明け方から帝都を包み込むように降り続いていた霧雨も、昼を過ぎる頃にはすっかりと晴れ上がっていた。

 やおらと見上げてみれば、通りの左右から建ち並ぶ帝都の街並みに切り取られた四角い空は、いつもより高く抜けるように澄み渡っている気がしてくる。

 なるほど、そんな楽しみ方もあるのかとぼんやりと空を仰ぎながら歩いていた足下――、ひっそりと口を開けていた水溜りに、バシャリッと足を取られてしまったユンゲは、思わず「うわっ」と踏鞴を踏んだ。

「ちゃんと、下を見とかないと危ないよー」

 くすくすと笑いを堪えながら言い差すキーファは、相変わらず弾むように歩きながら、それでも軽やかな舞いのように水溜りを避けて進んでいた。

 何となく恨めしい気持ちからキーファの様子を見つめてしまうが、余計に揶揄われてしまうだけかとユンゲは小さく溜め息をこぼし―――雨が降れば通りが泥濘となってしまうエ・ランテルとは違い、石畳の整備された帝都であったとしても――やはり雨は嫌いだと思いを新たにする。

 そうしたユンゲの憮然とした態度に相好を崩したキーファは、目許を拭いながら気を取り直すように別の話題を振ってきた。

「ところで、魔法省に行けば会ってもらえるのかな?」

「ん? まぁ、スクロールの件もあるし、大丈夫じゃないか。あんまり会いたくはないけど……」

 ユンゲの諦めの滲んだ声音に「あの勢いで迫られるとね」と同意を示すように、キーファはわざとらしく肩を落としてみせた。

 

 モモンから誘いを受けたユンゲたち“翠の旋風”は、宿へ戻ってから話し合いの結果、特に揉めることもなく依頼へ参加することを決めた。

 未発見だった遺跡を見てみたいという、ユンゲの気持ちをチーム仲間の皆が多分に汲んでくれた故の決定ではあったが、依頼の内容も遺跡への潜入ではなく道中の護衛と拠点の防衛が主であったため、危険性は低いものと思われた。

 残された問題は、帝都に留まって欲しいというジルクニフからの要請であったが、強制力のあるものではなくとも、帝国の最高権力者からの言葉を無下にすれば、思いがけない場面で不利になりかねないということで意見は一致した。

 皇帝であるジルクニフとアポイントもなく会って了承を得ることは難しくとも、魔法の探究にこそ熱心なフールーダなら多少は説得もしやすいだろうとの見立てから、帝国側の了承を得るためにユンゲとキーファの二人は、雨の上がった昼過ぎに帝国魔法省へと向かっていた。

 いざとなれば、この世界では珍しいというスクロールの一つでも渡してしまえば――あの狂気めいた態度にさえ目を瞑れば――問題はないという目論見もある。

 

「でも、リンダとマリーが羨ましいよ。私にも魔法の才能があったらなぁ」

 肩を落としていたキーファのぼやきに、ユンゲは「勘弁してくれ。それじゃあ、俺が一人で会いにいかないとダメになる」と肩を竦めてみせた。

 本来なら弁舌の立つリンダを連れて交渉に行くべきなのだろうが、残念ながらマリーとともに魔法の研鑽をするために宿に残っている。

 ユグドラシルであれば、レベルアップとともに新しい魔法を覚えることができたものだが、この世界において新しい魔法を習得するためには、師匠となる人物から教わったり、市販のスクロールを読み解いて、自らと契約した媒体――魔導書などに魔法の公式を特殊な方法で刻み込む必要があるらしい。

 そして、無事に習得できた魔法にしても、媒体に刻み込んでから自分の力として馴染むまでには時間を有することや基準となるレベルに到達するといった何かしらの条件を満たすまで使用できない、といった様々な制約もあるらしく、ゲーム内と比較したなら魔法の習得はかなり困難なものであるようだった。

 先日のジルクニフとの会合において、いくつものスクロールを所持していることを知ったリンダとマリーから懇願――正しく懇願だ。フールーダの鬼気迫るような「返答は“イエス”しか認めない」といった脅しめいたものではない――を受けたユンゲは、手持ちの第一位階から第三位階に属する魔法のスクロールを広げて、二人に好きなように選んでもらった上で、いくつかのスクロールを譲り渡していた。

 リンダから魔法について簡単な説明を聞いたときには、もっと早くにスクロールの存在を教えておくべきだったと思ったものだが、この世界における魔法習得の仕組みを知らなかったのでは、仕方のないことだったともユンゲは思う。

 そうして、新しい魔法を習得するためにスクロールを読み解くのに忙しいリンダとマリーは宿に残ることになったのだが、あの魔法狂いな爺様ともう一度会うことにストレスを感じずにはいられなかったユンゲは、後生だとばかりにキーファを強引に引き連れて、都合二人で帝国魔法省に向かっているのだ。

「まぁ、キーファが一緒に来てくれて助かるよ。埋め合わせはするから、何かあったら遠慮なく言ってくれ」

「うーん、別に気にしなくて良いんだけど……。何か思いついたらお願いするね!」

 口許に立てた人指し指を添えてしなを作ってみせたキーファが、たたっと駆け出すと後ろ手に括った短めのポニーテールが元気に跳ねた。

 数歩先から振り返り「早くいこーよ!」と呼びかけてくる嬉しそうなキーファの笑顔を追って、ユンゲは雨上がりの帝都を軽い足取りで進んでいくのだった。

 

 




現地での魔法の習得については、Web版の記述とニニャのタレントからの独自解釈となりますので、ご了承ください。


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(23)買出

アインズ様が食事できないこともあって、現地における食べ物とかに関する記述って原作でも少なめですよね。
――という良く分からない前置きのような言い訳をしつつ、今回は進展が少ない話になってしまいました。


 帝都の中心部に位置している、周辺の建造物よりも高い塀に囲われた帝国魔法省の広大な敷地の中に立ったユンゲとキーファの見上げた先では、荒鷲の翼に獅子の体躯を持った飛行魔獣に騎乗した騎士――皇室空護兵団が警戒のために旋回し、一定の間隔で設けられた物見塔には槍を手にした騎士ばかりでなく、魔法詠唱者らしいローブ姿の者たちまで詰めているようだった。

「……思ってたよりも、かなり厳重なんだな」

「この魔法省は、軍用の魔法武具生産や新たな魔法の開発ばかりでなく、国民の生活水準を向上するための様々な魔法の研究によって、帝国の繁栄を支えている重要な研究機関ですからね」

 ユンゲの小さな呟きに答えを返したのは、受付で案内として紹介された初老の男だった。

 丁寧な言葉遣いながらも、どこか誇らしいような男の声音は、そうした重要な施設で働いているという自負からのものだろうか。年季の入った魔法詠唱者らしい出で立ちは、男がかなりの地位にあることを思わせる。

 それなりに名が知られ始めた冒険者チームとはいえ、所詮は余所者に過ぎないユンゲたち“翠の旋風”を迎えるには、些か待遇が過ぎるような印象もあるが、事前にフールーダが言い含めていたのかと思えば、少し憂鬱な気持ちになってしまう。

「何かとんでもない要求されちゃうのかな?」

「……かも知れないな」

 隣を歩くキーファと囁きを交わしながら、ユンゲはわざとらしく肩を落としてみせた。

 バハルス帝国の主席宮廷魔術師であり、国家の要人たるフールーダを相手に事前のアポイントもなく会いに来たというのに、受付の守衛にユンゲたちが来訪の旨を告げただけで、すぐに案内をつけてもらうことができたのだ。

 以前、帝都を訪れたときに聞いていた話とは違い、部外者にも開かれた場所なのかと思いかけたユンゲだったが、いざ敷地内に足を踏み入れてみれば、一目で分かるほどの厳戒な警備体制が取られていたのだから気持ちは沈んでしまう。

 自然と重くなる足取りに溜め息をこぼしつつも、ユンゲは気分を紛らわせるように腰を落としてキーファの耳許に寄せる。

「終わったら、二人に内緒で美味いもん食いにいこーぜ」

「――だね。高いのいっぱい頼んじゃおう!」

 軽い調子で笑ったユンゲの言葉に、キーファも肩を竦めて笑ってくれた。

 

 *

 

「――貴殿にお借りしたスクロールは、どれも誠に素晴らしい品ばかりだ! これらの未知の魔法を封じたという、異国の魔法詠唱者にも是非とも目通りしたくて仕方がない!」

 帝国魔法学園での不意打ちのような出会いから、数日振りに再会したフールーダは、やはり挨拶もそこそこに魔法への飽くなき探求を語り始めてしまっていた。

 台詞の語尾に全て感嘆符がついているかのような語り口調には、フールーダの驚喜する様が如実に表れているようで、趣味に没頭する気持ちは分かるユンゲとしても好感を覚えない訳ではないのだが、本来の目的――モモンから誘われた依頼参加への了承が得られないとなれば、大きな問題だった。

 しかし、魔法のスクロールの出所についてフールーダから尋ねられ、ユグドラシル産であることを誤魔化すつもりで「古いダンジョンで見つけた」と思いつきで答えてしまったのが、ユンゲの運の尽きだった。

 何としても詳細を聞き出そうとして浴びせられる、様々な詰問をユンゲが曖昧な答えではぐらかそうとする内に、「まさかエリエンティウか!?」や「何故、私が選ばれなかったのだ!」などと勝手に早合点したフールーダが前置きもなく慟哭の声を上げ始めたかと思えば、やがて一つの新しい叙情詩が生み出されるまでに、それほどの時間は必要とならなかった。

 そんな調子で半刻も過ぎてしまえば、「貴殿の素晴らしい魔法が込められた武具も、エリエンティウで手に入れたものなのか!?」と勢い込んで問いかけるフールーダに、「じゃあ、もうそれで良いです」とユンゲの答えも適当な空返事になっているのだが――、対するフールーダは気にした素振りもなく次から次へと新たな質問を捲し立ててくる有様だった。

 小さな応接机を隔てるだけの距離にあるはずの両者の間には、果てしない壁が築かれていく。

「……失敗したな、少し面倒でも皇帝の方に話を持ってくべきだった」

 判断を誤ったと後悔の念を小声でぼやいてみても、ユンゲには今更どうすることもできず、唯一人だけフールーダを抑えてくれそうなジルクニフもこの場にはいなかった。

 そうして、ようやくと解放されたユンゲがフールーダに本題を切り出すまでには、エ・ランテルの城壁の如く成長した心の壁に、更に内堀と外堀が設けられるまでの時間が必要となるのだった。

 

 冒険者としての依頼を受けるため、暫らく帝都を離れる旨をユンゲが伝えたところ、「――私たちに貴殿らを束縛する考えはないよ。今後とも友好的な関係を築けるなら幸いだ。依頼の件は、私から陛下に伝えておこう」とフールーダは朗らかな言葉を紡いでみせた。

 こちらの張り巡らせていた防壁を鼻歌交じりに跨いでくるような気安い返答を受け、散々に精神力を消耗させられていたユンゲは、まるで好々爺然とした笑みを浮かべる老魔法詠唱者の様子に舌打ちを堪える多大な労力を要し、「よろしくお願いします」と声を絞り出すのが精一杯だった。

 フールーダの勢いに振り回されたことで、すっかりと憔悴してしまったユンゲとキーファが足取りも重く魔法省を出てみれば、再び薄曇りとなってしまった鉛色の空に迎えられた。

「また雨が降ってきそうだね」

「……だな、降られる前に夕飯でも買い込んで早めに宿に戻るか」

 ユンゲが力なく口にした言葉に、キーファもまた「さんせー」と疲れた様子で、やれやれと肩を落としてみせる。

 これから宿にまで戻ってまで、リンダとマリーを連れてどこかの酒場に行くような気力は、もう二人に残っていなかった。

「何かの料理を適当に包んで貰うとして、とりあえずは大広場か……」

「できたら、お酒も欲しいな。今日はちょっと飲みたい気分」

 凝った肩を回しながら冗談めかせるキーファに同意しつつ、ユンゲは「マリーみたいな悪酔いするなよ」と軽口で応じて肩を竦めてみせる。

 チームを結成して間もない頃、シルバー級への昇格祝いのときだっただろうか。

 エ・ランテルの酒場で、ユンゲのペースに合わせて酒を飲もうとしたマリーは、酔い潰れてリンダの膝で介抱されていたことがあった。

 キーファとマリーは、リンダやユンゲほど酒精に強くないので、あのときを除けば酒場でも嗜む程度にしか酒を口にしていなかったはずだが、フールーダとの対面には相応の気疲れがあったということだろう。

「まぁ、宿の部屋で飲む分には大丈夫じゃない?」

「……二日酔いの回復魔法は、リンダに頼めよ」

「ユンゲはしてくれないの?」

 わざとらしく小首をかしげてみせるキーファから視線を外し、ユンゲはかぶりを振って笑い返す。

「……俺も酩酊するまで飲むつもりだからな、寧ろ俺にかけてくれないとな」

「じゃあ、どれだけ買い込んでも、お酒が足りないね」

 くすくすと口許に手を当てながら揶揄うようなキーファの物言いに、ユンゲはもう一度肩を竦めてみせた。

 この異世界に転移してハーフエルフの身体となってからのユンゲの食欲は、端的に言っても異常なほどであり酒量も相応に増えているのだから、キーファの言葉は実に正しいのだろう。

 冒険者として適度な運動はしているので、少しくらい食べ過ぎたり、飲み過ぎたとしても大丈夫なはずだと心の内で言い訳を重ねながら、ユンゲは口を開く。

「いっそ高い酒ばっか買って、あの爺さんに迷惑料として請求してやろうか?」

「あ、でも買うなら、あたしは甘い果実酒とかが良いな」

 大した意味のない会話でも、僅かばかりの気分転換になるものだ。

 互いに適当なことを口にしつつ、ユンゲが大広場へと足を向けるとキーファも同じように傍へ駆け寄ってくる。

 短く結んだポニーテールが弾むキーファの横顔には、何か悪戯を思いついた子どものような無邪気さがあった。

 自分が浮かべているであろう笑みも、また似たようなものかも知れないと思いつつ、ユンゲは「“翠の旋風”買い出し班、出発!」と軽い調子で声を張ったのだった。

 

 *

 

「……事情は分かりましたが、流石に買い込み過ぎでしょう」

 帝都中の商店や酒場を巡って買い求めた品々を手に意気揚々と宿へ戻ったユンゲとキーファを迎えたのは、呆気に取られて思わず言葉を飲み込んでしまったリンダとマリーだった。

 損な役回りとなってしまったキーファの鬱憤晴らしに、戦士としての膂力とバランス感覚を最大限に発揮したユンゲの悪乗りによって、一流の曲芸師もかくやといった絶妙の均整でもって運び込まれた大量の料理や酒を目前に並べていけば、リンダからは声にならない呻きがこぼれた。

 いくつもの店舗の軒先から全ての商品を買い占めてきたのでは、と思わせるほどに多くの小麦の白パンにライ麦の黒パン、ドライフルーツを混ぜ込んだ珍しいパン以外にも、たっぷりの砂糖や蜂蜜を回しかけたリンダやマリーの好んでいる甘いパンも購入しているし、この帝都の辺りでは良く食べられているという大振りな腸詰めは、茹でたものに焼いたもの、やや目新しいところでは香辛料をふんだんに使用したり、血や臓物を煮固めた黒々としたブルートヴルストまで取り揃えている。

 燻製肉にしても牛や豚や鶏といった一般的な食用家畜ばかりでなく、鹿肉や猪肉といった野性味のある種類も買い集め、珍しいところでは各種のチーズを燻したものもあった。串焼きの屋台で頼み込んで仕入れた串を打っただけの生肉とともに、軽く火で炙りながら食べれば、絶品なのは間違いないだろう。

 シンプルな塩焼きや素揚げばかりでなく、根菜とともに煮込んだり、香草とともに酒蒸しにした川魚の料理も香りの良い湯気を立て、箸休めとしては葉物野菜の酢漬けや遠くの海洋で取れたという豊富な海産物の塩漬けのほか、食事の締めにもピッタリな羊乳で柔らかく炊いた麦粥まで用意をしているので、少なくとも酒の肴に困ることはないだろう。

 更に大きな籠でも収まり切らないほどの果物類は、ユンゲのお気に入りであるレインフルーツを始めとした鮮やかな彩りで料理の乗り切らないほどの食卓を飾り、視覚的にも食欲を誘ってくる。

 そして、酒類に至っては二人の悪乗りが過ぎた結果、エールや色々な季節の果実酒や店主から勧められた黄金色に輝く蜂蜜酒のほか、特に酒精の強烈な蒸留酒といった様々な種類の酒を“樽の単位”で運び込んでいるので、ユンゲたちの借りている宿屋の一室は、さながら盛況な酒場の倉庫のような状況になっていた。

 少しだけ冷静になってみれば、些か買い過ぎてしまったかも知れないと思わないこともないような気がしなくもないような感じがするユンゲだったが、代金は全て気前良く報酬の金貨で投げ払ってきたばかりなので今更になって返品することはできないし、するつもりは欠片もなかった。

 

 キーファとともに向かった魔法省でのフールーダの顛末と冒険者としての依頼参加に制限されないことを簡単に説明したものの、マリーには「……ユンゲさんは、ここに酒場でも開くお考えなのでしょうか?」と半ば呆れるような声音で問われてしまう。

 思いのほか真面目そうなマリーの薄紫の眼差しを見つめ返し、「じゃあ、それで良いよ」とユンゲは大きく手を広げてみせながら言葉を続けた。

「ここを酒場“翠の旋風”帝国支店ってことにしよう。依頼の日まで、ずっと宴会し続けようぜ!」

「……ユンゲさんに言われると冗談に聞こえないです」

「そりゃ、冗談じゃないからな」

 殊更に真摯な声音で言い切って、如何にも心外だと言わんばかりの表情を心掛けるが、どうにも口許が緩んでしまうのをユンゲは堪えられない。

 やがて、誰からともなく小さな笑みがこぼれると堰を切ったように、キーファもリンダもマリーも皆がつられるように声を上げながら、腹を抱えて笑い合っていた。

 そうして、まだ陽も落ちていない雨上がりの帝都の一室に「乾杯っ!」と唱和する楽しそうな“翠の旋風”の声が響くのは、それから間もなくのことだった。

 

 




肉より魚派な私としては、お刺身やお寿司なんかも出したかったのですが、世界観に合わない気がしたので、個人的に興味のある中世ドイツ史の食糧事情をイメージしてご馳走っぽい感じを選んでいます。
(原作でジャガイモが登場しているので、最初から破綻しているのですが……)

次話からは物語が動き始めるはず、かも知れないです。


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(24)提案

早く梅雨明けないかなーと思う今日この頃、お楽しみいただければ幸いです。


「お話は承っております」と丁寧に応対してくれた受付の男が、仕立ての良いシャツの襟を正して言葉を続ける。

「すぐにご連絡いたしますので、あちらのラウンジにてお待ちいただけますでしょうか」

 男の和やかな笑顔とともに示された方へ、やおらとユンゲが目線を向ければ、如何にも高級そうな内装の施されたバーラウンジには、優雅な革張りの椅子が五十席ほど並べられており、中央に設けられた舞台では竪琴を手にした吟遊詩人と思しき女性が、情感に溢れながらも静かな調べを奏でていた。

 まだ昼前という時間帯のためか客入りは疎らな印象だが、そんな状況でも吟遊詩人を雇い入れているのは、帝都アーウィンタールにおける最高級の宿屋としての矜持からなのかも知れない。

 深々とお辞儀をして見送る受付の男に軽く手を振ったユンゲは、傍らのリンダを促してラウンジの隅の方に並んだ椅子へと向かいながら口を開く。

「……なんか色々と凄いな」

「そうですね。こういった場所は、どうにも慣れません」

 困ったような苦笑を浮かべるリンダに肩を竦めてみせながら、ユンゲは革張りの椅子に倒れるように座り込む。

 勢いを柔らかく受け止めてくれた座り心地に軽い驚きを覚えつつ、「アダマンタイト級は、こんな宿屋に泊まるもんなのか……」とユンゲは軽い溜め息をこぼした。

 

 ようやくの苦行を経てフールーダに帝都を離れる了承を取りつけた翌日、ユンゲは遺跡調査の護衛依頼に参加する旨を伝えるため、リンダを伴って以前に大広場で聞いた“漆黒”の二人が滞在しているという宿屋を訪ねていた。

 昨夜から続いた大宴会の後遺症によって、キーファとマリーは宿屋で二日酔いに頭を抱えながら唸っていることだろうが、先ずは共同依頼に誘ってくれたモモンへの返答を優先しようとリンダと話し合った結果――普段は慈母のような優しさを持つリンダも、自己管理には意外なほど厳しい性格であり、ユンゲが回復魔法をかけようとするのを止めて、それぞれに反省を促していたほど――なので、自身の許容量を省みなかった二人には、可哀そうだが我慢をしてもらうほかにない。

 転移前の世界で出会っていたのなら、ユンゲもまたリンダからの説教コースになっていたはずなので、底なしの胃袋を持つこのハーフエルフの身体には感謝しかない。

 そうして、苦しそうな様子に後ろ髪をひかれながらも、モモンから聞いた宿屋を訪れ、入り口に控えていた革鎧姿の警備兵から「然るべき紹介のない方は宿泊できない」と止められたときには、どうするべきかとユンゲは頭を抱えたものだが――、見事に切り出された石造りの高級感の漂う外観を前にし、大理石の敷き詰められたエントランスホールや素人目にも分かるほどの豪華な内装を一瞥すれば、冒険者組合で紹介してもらうような場末の宿屋と対応が違うのも当然なのだろうと思い直した。

 幸いなことにモモンから話が通っていたらしく、ラウンジで待たせてもらうことはできたものの、おいそれと触れられないような高級品に囲まれていては、どこか気持ちが落ち着かない。

 もともと小市民に過ぎなかったユンゲとしては、いつか皇帝と対面する破目になった帝国魔法学院の応接間で感じたような、息の詰まる雰囲気にも通じるものを覚えてしまう。

「金持ちはこういう場所で、寛げるもんなのかな?」

「どうなのでしょうか……。私としては自然の樹々に囲まれていた方が、よほど気分が安らぐものですが――」

 本来なら森とともに暮らす森妖精〈エルフ〉らしい物言いをするリンダに、思わず頬を緩めながら同意を示したところ、ユンゲの視界の端に煌びやかな装飾の施された漆黒の全身鎧が映る。

 内心の焦りを表に出さないように急いでユンゲが立ち上がれば、察したリンダもまた出迎えの姿勢を取っていた。

 颯爽と足早にこちらへ歩み寄ってくる偉丈夫に向けて、ユンゲが「おはようございます」と軽く頭を下げれば、「やぁ、お待たせしてしまい申し訳ない」と“漆黒”のモモンは、気さくな口調で返してくれる。

 モモンの一歩後ろから従者のように寄り添う“美姫”ナーベにも礼をしてみるものの、こちらは僅かに顎を引くだけで視線も合わせてもらえないが、こうした反応も慣れたものなのでユンゲに思うところはない。

「――いえ、事前にお約束もせず、お伺いしてしまったのは私たちですから、お気になさらず」

「そう言って頂けると有り難いのですが、元々こちらからお誘いしているので――」

 モモンとお互いに「こちらこそ……」と口にしながら頭を下げ合うことに、ユンゲは何とはなしに懐かしさを覚えていた。

 そんな二人を遠巻きにしたリンダが、どうしたものかと視線を巡らせている一方で、ナーベは我関せずといった具合に傍観している姿が横目に見える。

「――あ、ところで何かご注文はされましたか?」

 不意にモモンから問いかけられ、ユンゲは「いえ、雰囲気に圧倒されてしまって……」とかぶりを振って否定した。

「そうでしたか。ここの飲み物は、全てサービスになっていますので、ご遠慮なく」と口にしながら、モモンは慣れた手つきでウェイターを呼び寄せて、ユンゲとリンダの前にメニューを広げてくれるのだが――、おそらく帝国文字で書かれているらしいメニューにユンゲは思わず固まってしまう。

 ユンゲの縋るような気持ちで見つめた先、優雅に腰かけたモモンが「私は、アイスマキャティアを頼む」と言い差し、横に座ったナーベも「私も同じものを、ミルク多めでお願いします」と恙なく注文を取り付けていた。

 出会ってからこれまでほとんど隙も見せず、モモン以外の人間を一切たりとも寄せ付けようとしないナーベが、“ミルク多めで”とどこか可愛らしい注文をしていることに意外な好感を覚える余裕すらなく、ユンゲは「私も同じアイスマキャティアをお願いします」と勢い込んで口にしていた。

 エ・ランテルを拠点に活動しているので帝国の文字は読めない、などと言い訳はいくらでもできるのだが、ユンゲとは対照的に落ち着いた様子で注文をするリンダに僅かな羨望を覚えてしまう。

(……文字が読めないとやっぱり不便だよなぁ)

 英雄たるモモンの前で不恰好な真似は見せられないと、ユンゲは大きく呼吸をして息を整えようとしてみるのだが、抑え切れない動揺のために初体験であるアイスマキャティアの味も碌に分からないまま、“翠の旋風”と“漆黒”の共同依頼に関する打ち合わせは始まるのだった。

 

 *

 

 まだ陽も登らない薄明の頃、帝都の中でも閑静な区画に位置するフェメール伯爵の邸宅の敷地内には、常にないほどの多くの人影が見受けられた。

 夜半過ぎから頭上に浮かんでいる、月明かりだけが頼りとなる暗がりの中でも良く目を凝らしたのなら、それらの人影は皆それぞれに統一性のない剣や鎧で武装していることが分かるだろう。

 権威や形式を誇示するために規格の揃えられた装備で着飾る騎士や軍士とは異なり、およそ貴族の邸宅に詰めるには似つかわしくない装いに身を包んだ者たち――遺跡調査の護衛として雇われた冒険者たちは、忙しない様子で大量の物資を馬車の荷台へと積み込む作業を行なっていた。

「……結構な量があるんだな」

「かなりの人数がっ、参加するみたいですからねっ!」

 軽々と荷物を受け渡すユンゲの隣で、一言ずつ声を張りながら荷物を運び込んだマリーが、「……ふぅ」と絞るように息を吐いて額の汗を拭っていた。

 冒険者稼業に身を置いているものの、信仰系魔法詠唱者であるマリーの身体能力は――平均的な女性よりも優れているだろうが――さほど高くはないので、ユンゲの胸ほどしかない小柄な背格好と相まって、子どもが無理に頑張っているような健気さがある。

「……重いのは俺に任せてくれれば良いぞ」

 助け舟のつもりでユンゲは口にするが、マリーからは「いえっ、大丈夫です!」と気丈な言葉が返ってきた。

 先日、また酒に酔い潰れてしまった一件の失態を取り戻そうとするかのように、ここ数日のマリーは依頼の準備を献身的に担っていた。

 今回の依頼には、遺跡への潜入を担う請負人〈ワーカー〉が五チームと護衛役の冒険者がユンゲたち“翠の旋風”を含めて三チーム参加することになっており、馬車の御者たちを加えれば、調査に赴く総員は三十人を超える大所帯である。

 現地での調査に三日間と移動日等の余裕を勘案して都合一週間分の備えが、依頼主であるフェメール伯爵によって用意されているので、積み込む荷物もそれなりの量だ。

 妙なところで見栄を張りたがる生来のあるマリーだが、本当に無理なときに頼ってくれるのなら構わないかと、ユンゲは軽く肩を竦めて次の荷物を担ぎ上げながら、荷台の先に繋がれた巨躯の馬影――八足馬〈スレイプニール〉に意識を向けた。

 その名が示す通り八本もの脚を持つ馬のような魔獣であり、筋力や持久力のほか移動力にも優れるため、軍馬五頭以上という破格の値段で取引されるらしく、大貴族でも簡単に保有できないという話だった。

 二頭立ての幌馬車が三台分も用意されているので、今回の遺跡調査のために合計で六頭もの八足馬を買い求めたということになる。

 如何に一週間分の食料や遺跡攻略に用いるマジックアイテム等を運ぶとは言え、これほどの過剰とも思える投資は、やはり帰途に多くの遺跡で入手したアイテム等を牽引することが想定されているためなのだろう。

 わざわざ最高位冒険者のモモンに依頼を持ち込んだことを踏まえれば、フェメール伯爵の今回の依頼にかける本気度合いが分かるというものだ。

 

 そうして、未踏破の遺跡に思いを馳せながら、ぼんやりと明るくなり始めた東の空へユンゲが目を向けたときだった。

 先ほど挨拶を交わした伯爵家の執事が、大勢のワーカーを先導しながら馬車の方へと向かってくるのが見えた。

 これまでのところ、フェメール伯爵本人は姿を見せていないが――ジルクニフやフールーダとの対面によって、上流階級の人間に苦手意識を感じているユンゲとしても――下手に貴族連中と会わないで済む方が気も楽だった。

 何気なく視線を巡らせれば、ワーカーたちはチームごとに四人から五人ほどの連れ合いとなって談笑している様子が見える。

 マリーたちと出会うことになった経緯から、ワーカーに対して悪感情を覚えているユンゲだが、荒事専門の便利屋といったイメージに反して互いに仲間意識はあるのかも知れない。

「……命を預けることになるなら、その方が自然だよな」

 マリーたちの置かれていた境遇に、ユンゲは今更ながらの憤りを覚えるが、こればかりはどうすることもできないだろう。

 そうした押し寄せてくる感情を誤魔化すように、無理矢理と荷運びを再開したユンゲの耳朶をワーカーたちの言葉が震わせた。

 嘲笑うように、「護衛がゴールド級では頼りない」と野卑た声を上げたのは、何というワーカーチームの一員だっただろうか。

 今回の調査のためにミスリル級相当の実力者が集められたというワーカーたちから見れば、ユンゲたち“翠の旋風”はもとより、ともに依頼を受けるバハルス帝国の冒険者チーム“スクリーミング・ウィップ”も、ゴールド級という格下チームに過ぎないので、侮りたくなる気持ちもあるのだろうが、ともに依頼へ赴く相手への配慮を欠いた振る舞いには苦笑するしかない。

「こんな連中に期待するだけ無駄か……」

 吐き捨てるように口にして、ユンゲは次の積荷を持ち上げながら踵を返した。

 急速に冷めていく空気には注意を払わないままユンゲが荷台へと向かえば、場を取りなそうとした執事の男が、様々な表情を浮かべるワーカーを前に漆黒の二人を紹介しているようだった。

 アダマンタイト級という最高位冒険者の肩書きは、無法者揃いのワーカーに対しても、やはり影響力があるらしいと渋面を浮かべつつ、小さな溜め息をこぼしたユンゲは、あまり褒められたことではないと思いながらも、ワーカーへの対応は全てモモンに任せてしまおうと勝手な腹積もりを固めるのだった。

 ワーカーと距離を置いたままに黙々と荷物の積み込みをしていれば、モモンとワーカーたちとの会話が聞くともなく聞こえてくる。

 何のために遺跡へ向かうのかと問うモモンに、ワーカーの一人が「金のためだ」と言い切った。

 あまりに俗っぽい答えには辟易とする思いだが、ユグドラシルの延長線上のような考えで新しい冒険に胸を躍らせるユンゲの方が、この場においては異端なのかも知れない。

 最初にモモンから遺跡調査の護衛と聞いたとき、ユンゲは考古学者のような研究職に従事する人間を連れていくものかと早合点していたものだが、危険なモンスターの跋扈する世界においては、転移前の世界における認識は通用しないらしい。

 何となく墓荒らしの片棒を担いでいるような居心地の悪さを感じてしまうが、この転移後の世界における倫理観に従うのなら――実際に生息するモンスターも不明な状況にあって命の危険を伴うのなら、リスクに見合うだけのリターンが必要だという――彼らのようなワーカーたちの言い分こそ正しいのだろう。

 どこか釈然としない思いを抱きながらも、気を紛らわせようとユンゲはかぶりを振った。

 ユンゲが気持ちを静めている間にも会話は進み、使い込まれた長槍を手に、「――主か桁外れに強いという噂の真実を儂らの前て見せてはくれんかね?」と申し出た一人の年老いたワーカーの提案によって、モモンとの手合わせが決まったらしい。

 周囲の者たちも察しているように、勝敗は始まるより前に決まっているようなものだが、これまでモモンの戦う姿を実際に見たことのなかったユンゲとしては、大いに関心があった。

 武器を振るうために場所を変えるらしく、ワーカーばかりでなく冒険者や執事までもがぞろぞろと二人に連れ立って歩いていく。

「ユンゲさん、私たちも見に行きましょう!」

 慌てた様子で手を引くマリーに一つ頷きを返し、ユンゲもまた後に続くのだった。

 

 *

 

「やっぱりアダマンタイト級の方って、凄いんですね」

 ユンゲの傍らで、モモンと老戦士の一戦を眺めていたマリーが嘆息するように言葉を紡いだ。

「……というより相手がなぁ、流石にあの老人には無理だったんじゃないか」

 二人の歴然とした実力差の前に、モモン本来の戦い方――背に担いだ二振りのグレートソードを凄まじい膂力で自在に振るうという強者の姿――を見ることすら叶わなかった思いから口にするが、マリーには何とも言えないような曖昧な笑みを向けられてしまう。

 戦場で扱う本物の槍の連撃を手にした只の棒切れだけで、軽々と捌いてみせたモモンの腕前に敬意を示すつもりで、「まぁ、良い気分転換にはなったよ」とユンゲは肩を竦めてみせた。

 大勢の観衆に見守られながら手合わせを終え、満足そうな笑みを浮かべるワーカーが、「荷運ひなんて他の者にやってもらったらとうしゃ?」と冗談めかすが、「与えられた仕事はしっかりとこなすべきだ。それに彼らとて、確かな実力を持っている」と受け答えるモモンは、さも当然といったように言葉を口にしているのが見える。

 これから一週間ほどの依頼を共にするのだから、モモンの力を見せてもらう機会はあるだろうとユンゲは気持ちを切り替える。

 そうして、最高位冒険者にこそ相応しい振る舞いを見せるモモンに好感を新たにしながら、恐縮する思いで荷運びに戻ろうとしたユンゲが踵を返しかけたときだった。

 不意に、背後から呼びかけられた「ユンゲさん」という声に思わず足を止めていた。

 

「――宜しければ、私とここで模擬戦をしていただけませんか?」

 

 首だけで振り返ったユンゲの視線の先、帝都アーウィンタールを囲う高い城壁の向こうに昇りゆく、燃え立つように輝く朝陽を背にした漆黒の戦士が、抜き放った二振りのグレートソードを手に悠然と立つ姿があった。

 

 




言わせてみたかった台詞:
アインズ様「PVPだ!」


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(25)挑戦

今話は戦闘回。

頭の妄想をできるだけ表現したいと描写を増やすほどに、スピード感というか爽快感が失われてしまうジレンマ。
この辺りのバランスは本当に難しいですね、という言い訳を最初にして置きます。


 腰にした剣帯から抜き放ったバスタードソードの柄を両手で強く握り締める。

 差し込んだ鮮烈な朝の陽射しを浴びて朱に輝く剣先の向こう、目算で十メートルほどの距離を置いて対峙する漆黒の戦士を見据えて、ユンゲは意識を集中するように大きく息を吐いた。

 いつか帝都〈アーウィンタール〉の大闘技場を舞台に賭け試合をしたときには、一度の跳躍で迫れると余裕すら持って挑むことができたはずの距離なのだが、人類の切り札とまで謳われる最高位のアダマンタイト級冒険者、“漆黒の英雄”たるモモンの圧倒的とも思える重圧に晒されたユンゲの額には、戦いが始まる前にもかかわらず、既に大粒の汗が浮かんでいる。

「……いつでも構いませんよ、ユンゲさん」

「――簡単に言ってくれますね。まぁ、胸を借りるつもりでやらせてもらいますよ、モモンさん」

 半ば強がりのような思いから口にしてはみるが、手にした二振りのグレートソードを構えることもなく泰然とした態度を崩さないモモンの姿を前に、ユンゲはどのように攻めかかれば良いのかを決められない。

 モモンとナーベの滞在する宿を訪れ、依頼に参加する旨を伝えてから出発の今日まで、何度か帝都の冒険者組合に立ち寄ったのだが、常にモモンの話題で持ちきりとなっていた。

 曰く、リ・エスティーゼ王国で突如として街中に現れた無数の悪魔が人を襲い、王都を大火に包むなど未曽有の被害をもたらす“悪魔騒動”が発生したらしいのだが、敵の首魁であった難度二百もの強大な悪魔をモモンが一蹴したという。

 王国方面から帰還した冒険者や隊商の一団が質問攻めに合い、噂が新たな噂を呼ぶような状態では、情報の真偽を確かめることはできなかったが、こうして実際に相対してみれば、輝かしい“漆黒”の英雄譚に新たな一幕が生み出されたということに疑いの余地はないだろう。

 ユグドラシルの恩恵を受けているユンゲであっても、難度二百は同格以上にもなる難敵だった。

 おそらくは戦士職を専門に修めているはずのモモンを相手に、戦士職ばかりでなく魔法職にもレベルを割いているユンゲが真っ向勝負を挑んだところで、劣勢を覆すことはできないのだろうが――。

 超巨大なモンスターと対峙している気分のこちらを遠巻きに囲いながら、「あのハーフエルフは何者だ?」や「ちょっと前に闘技場で噂になった奴じゃないか?」と言葉を交わしたり、「……あれだけの魔法が使えるのに戦士? いや、そんなはずない」などと好き勝手なことを口にして観戦を決め込む外野の声が、酷く耳障りに感じてしまう。

 軽い苛立ちの中で視線を巡らせれば、縋るように短杖を握り締めながら祈りを捧げる少女の姿。

 少しばかりの既視感を覚えつつも、ユンゲは僅かに口許を緩ませる。

「――――っ、落ち着けよ」

 自身に言い聞かせるように小さく呼吸を整えたユンゲは、変わらない姿勢で仁王立ちするモモンにゆっくりと視線を戻すと、「……では、いきます」と静かな口調で言い差し、大地を駆った。

 

 *

 

「……模擬戦、ですか?」

「えぇ、ユンゲさんの腕前をここで披露してみせることは、今回の依頼を円滑に進めるためにも悪くない選択ではないでしょうか?」

 告げられた言葉をそのまま復唱するようなユンゲの問いに、落ち着き払って答えたモモンがばさりとマントを払いながら、優雅な所作でこちらへと歩み寄ってくる。

 先ほど戦いを終えたばかりのワーカーや周囲からの視線が集まるのを一顧だにしない様子は、拠点であるエ・ランテルばかりでなく、遠くバハルス帝国においても常に衆目の関心を引きつける最高位冒険者ならではの振る舞いなのかも知れない。

「……私では、モモンさんの相手にならないと思いますよ」

「いやいや、以前に私も参加させていただいたカッツェ平野での戦いで、骨の竜〈スケリトル・ドラゴン〉を相手に見事なご活躍だったと、“虹”のモックナックさんからも聞き及んでいます。同じ冒険者の道を志す者として、私はユンゲさんの御力に興味があるのですよ」

 転移前の世界を思い返すまでもなく、より上位の者からこのように言われてしまえば、理由もなく断ることは難しい。

 そうして、ユンゲの耳許に寄せながら少し声を落として、「……それに私としても、先ほどは不完全燃焼だったのでね」と冗談めかせるモモンの楽しそうな雰囲気を思えば、こちらに有無を言わせないような話題の運び方は、初めから意図していた展開だったのだろう。

 近隣諸国まで名の知られた、当代の英雄がみせるらしくない姿――知り合いを自分の好きな遊びに誘うために、我を通そうとするような茶目っ気、或いは我が儘とでも言ったところか。

 こちらの困惑を十分に理解しているはずだというのに「いかがでしょう?」とわざとらしく肩を竦めてみせるモモンの様子は――ユンゲ自身も良くしてしまう仕草だと自覚していたものの――まるで悪戯が成功した子どものような印象すら見受けられる。

 モモンの背後から降り注ぐ眩しい朝の光に目を細めながら、ユンゲは一つ小さな溜め息をこぼし、気分を払うようにかぶりを振った。

「……私も力加減は苦手ですよ」

 少しだけ口許を綻ばせたユンゲは、先ほどワーカーから挑戦を受けた際にモモンの口にしていた断りの文句を真似して、敢えて軽口をたたいてみせる。

 ユンゲとモモンのやり取りを注意していたらしい周りのワーカーや冒険者たちが、たちまち色めき立つのが視界の端に映った。

 遥かに格下の相手が不躾にこんな台詞を吐いたのなら、さぞ傲慢に思われてしまうところだが――、

「えぇ、こちらも望むところです」

 ユンゲのつまらない児戯に付き合って、どこか笑いを堪えるように返してくれるのだから、モモンはやはり本物の英雄たる大器を持っているのだろう。

 背筋を寒からしめるナーベからの文字通り“刺すような視線”は努めて無視をすることにして、ユンゲは手にしていた積荷をゆっくりと地面に下ろす。

 モモンから興味があると言ってくれるのなら、それはユンゲにしても同様だ。

 強い相手と戦ってみたい、などと幼い頃に読んだ漫画のような感情を自分が抱くことになるとは、この世界に転移してくるまでは思ってもいなかった。

 面頬付きの兜の細いスリット越しのモモンと一つ目配せを交わし、ユンゲは長時間の荷物運びで凝っていた肩をほぐすように回し、軽い準備運動がてらに身体を曲げ伸ばすと腰の剣帯へと手を伸ばした。

「……まぁ、やるだけやってみますか」

 

 *

 

 渾身の力で振り下ろしたバスタードソードから響く、巌のような衝撃。

 斬りかかった勢いのままに剣と剣の激突を支点とし、相手の頭上を飛び越えて背中合わせに着地する――と同時に横薙ぎの斬撃を見舞う。

 反転の遠心力まで加味した必中の一撃もまた、背に回されたグレートソードであっさりと防がれてしまえば、ユンゲとしては苦笑するしかない。

 まるで鋼鉄の塊を殴ったような錯覚にも、モモンの姿勢が微塵も崩れた様子はなかった。

 慌ててバスタードソードを構え直すユンゲの目前で、悠々と振り返ってみせるモモンには、既に荒い息遣いとなっているこちらとは対照的に、絶対強者たる余裕すら感じられる。

「――っ、どんな馬鹿力だよ」

 軽い舌打ちをこぼしつつも、ユンゲは再び前傾姿勢からの突進を仕掛けた。

 ユンゲの狙いは、前に踏み込まれたモモンの左脚――察したモモンが足を引く――と見せかけて、突き出した剣先を直前で蹴り上げ、全身鎧の継ぎ目である首筋を急襲。

 一切の躊躇もないユンゲの凄絶な刺突は、しかし超反応で首を傾げて避けてしまうモモンには通用しなかった。

 前のめりにたたらを踏みかけ、それでも転がるようにして距離を取ったユンゲは、素早く体勢を整えてバスタードソードを正眼に構え直す。

 ユンゲとしては、もはや模擬戦の様相を成さないほどの真剣さでモモンに挑んでいた。

 大事な依頼の前に、万が一にも怪我をさせられないなどという配慮は、とうの昔にユンゲの意識から消えている。そんな気遣いが杞憂だったと気付かされるまでには、数度と剣を交えるほどの僅かな時間も必要なかった。

 転移前の世界では武術の心得などなかったユンゲでもあっても、はっきりと理解できる彼我の実力差――このような模擬戦を何十、何百回と繰り返したところで、モモンの勝利が揺らぐことは決してないだろう。

 袈裟懸けに斬りかかり、弾かれたバスタードソードを手早く返して斜めに斬り上げる。

 グレートソードの柄で受け止められたのも構わずにユンゲは身体を捻り、左の回し蹴りからの右足を振り抜く蹴りのニ連撃、更に反転して何度目ともつかないバスタードソードの斬撃も、低く身を躱したモモンに避けられてしまう。

(……ヤバいっ!)

 地に伏せるようなモモンから膨れ上がる気配。

 反撃を予期したユンゲは慌てて飛び退く――が、漆黒の戦士は優雅とすら思える動きで身を起こしただけだった。

 

 模擬戦が始まってからこれまで、モモンは一度たりともユンゲに攻撃をしかけてこない。

 ユンゲの攻撃を避けるか、或いは受け止めたタイミングで隙を見計らうように攻撃する“振り”をするだけだ。

 こうなれば模擬戦というよりも、訓練をつけてもらっていると認識した方が正しいのかも知れない。

「良い判断ですね」

「……モモンさんがその気なら、何度死んでいたか分かりませんよ」

「いやいや、ご謙遜を。ギリギリのところで仕留められないのが分かりますから、こちらは攻撃できていないのですよ」

 謙遜しているのは果たしてどちらかと、あんまりな言い様に思わずユンゲが苦笑しかけたところで、モモンの言葉は続けられた。

「……それに、ユンゲさんはまだ魔法を使われていませんよね? どうぞ、ご遠慮なく」

 懐の深さを示すように大きく腕を広げてみせるモモンに、ユンゲは「……飛びながら遠距離攻撃だけで攻める、っていうのはありですかね?」と頬をかきながら問うてみる。

「構いませんが、そのときはこれで撃ち墜とさせてもらいますよ」

 ふふっと軽く笑いをこぼしたモモンが、手にしたグレートソードを投げる素振りをみせながら、何でもないことのように告げてくれる。

 投げ槍などの比ではない、大柄な人の背丈ほどもある巨剣が、自分を目掛けて飛んでくる様など想像したくもないが、モモンの圧倒的な膂力を思えば容易いことなのだろう。

「……それは遠慮させて頂きたいですね」

 冗談とは笑い飛ばせないモモンの言葉に嫌な寒気を覚えつつ、ユンゲは辺りを見回した。

 伯爵という高位貴族の邸宅に相応しい大きな庭園であっても、良く手入れされているであろう庭木やユンゲとモモンの戦いを囲うように観戦しているギャラリーを思えば、下手に魔法の効果範囲に巻き込んでしまう訳にはいかないだろう。

 しかし、モモンが魔法を使うようにと促してくれるのであれば――周囲のギャラリーに多少の配慮は必要だとしても――持てる力を出し惜しみする必要はないと思えた。

 何故この模擬戦を持ちかけられたのかと意図を訝っていたユンゲではあったが、モモンの突出した実力を考慮したのなら、普段の訓練相手にも困っていそうなので、先のワーカーとの戦いが不完全燃焼だったという呟かれた言葉も、案外のところは本音なのかも知れない。

 全く疲労した様子をみせないモモンをやや羨むように見据えつつ、模擬戦で上がった息を深い深呼吸で整えたユンゲは、自身を鼓舞するように強気な思いで口を開く。

「……魔法だと、本当に加減はできないです」

「問題ありませんよ。回復手段の用意もありますので、お気遣いは無用です」

「――了解しました。では、改めてよろしくお願いしますね、モモンさん」

 乱れてざんばらとなった髪を撫でつけるようにかき上げたユンゲは、再び構えたバスタードソードの柄を強く握り締めながら、ありったけの自己強化魔法を詠唱し始めた。

 

 *

 

 大上段から振り下ろされる、モモンの超重量級の一撃。魔法で限界まで強化したユンゲの筋力をもってもなお、受け止めることはとても敵わない。

 大地に深く咬ませたバスタードソードの剣身で、辛うじて受け流すのが精一杯だった。

 同僚に譲って貰った聖遺物級の業物でなければ、造作もなく砕かれていたかも知れない――などと息を吐く間もなく横薙ぎに変化した剣撃を、慌てて引き戻した剣の柄で受けるものの、重過ぎる衝撃を耐えることはできず、ユンゲはなすすべもなく吹っ飛ばされてしまう。

 どれほどの怪力があれば、縦に振り抜いたグレートソードの勢いを殺さないままに、直ぐさま直角に振るうことができるというのか。

 弾き飛ばされた衝撃を逃がそうと地面を転がったユンゲの視界に、両の大剣を振り上げて駆けてくる漆黒の戦士――恐怖を象徴する黒衣の死に神が迫ってくるような錯覚に、ユンゲは声にならない悲鳴を上げながらも、決死の覚悟で魔法を紡いだ。

〈ピアーシング・アイシクル/穿つ氷弾〉

 碌に狙いもつけられない中で、ユンゲの手の内から生み出された無数の氷の礫が、数を頼りに極至近距離からモモンを囲うように殺到――しかし、魔法で鋭敏になったユンゲの動体視力でも霞むほどの速さで、モモンは弾丸の嵐を潜り抜けてしまう。

「……人間の動きじゃないな」

 感嘆とも呆れともつかない思いでぼやいたユンゲは、それでも楽しげに口許を吊り上げる。

「……けど、これならっ!」と次なる魔法〈エレクトロ・スフィア/電撃球〉を“モモンの背後”から放った。

 紫電を滾らせた目の覚めるような光弾が、モモンの不意を突くように足下で炸裂し、爆発的に膨れ上がった雷撃の檻がモモンの姿を包み込む。

 先の〈穿つ氷弾〉を放つのに合わせて無詠唱で発動した、短距離のみの転移を可能とする〈ディメンジョナル・ムーブ/次元の移動〉により、モモンの視界から逃れて背後へと回り、金属製の全身鎧を身に纏ったモモンに最も効果のありそうな電気系の範囲魔法を叩き込んだのだ。

 この転移後の世界基準においては、些かも過剰な魔法の連撃ならモモンにも届くか――いや、脳裡を過ぎる甘い考えを振り払うように、ユンゲは二度目の〈次元の移動〉を唱える。

 狙いは雷撃の逆巻く激震地の直上――どんな戦士でも絶対の死角となる頭上からの一撃。

 逆手に構えたバスタードソードを落下の勢いに任せて、大地を貫かんばかりに突き下ろす。

 極限の緊張状態に、世界から音が消え去るような刹那の静寂――巻き上がっていた粉塵を突き破ったのは、漆黒の戦士が手にするグレートソードによる“迎撃”の刃だった。

 未だ寝惚け眼を擦っている市井の人々に、鮮烈な朝の訪れを告げるであろう凄絶な大音量の剣戟が、朝焼けの帝都アーウィンタールに響き渡った。

 

「……惜しかったですね」

 モモンのどこか感心するような声音に、ユンゲは力なく肩を竦める。

 二重、三重に姑息な策を弄し、完全な奇襲となったはずの一閃だったが、苦もなく防がれた。

 もはや手立てのないユンゲには、モモンの実力の底を窺い知ることができない。

「……いえ、完敗ですよ」

 そう口にしたユンゲは、どこか清々しい気持ちを感じながらバスタードソードを構え直した。

 今回のモモンとの模擬戦で、高みの一端でも知ることができた。

 所詮、ユグドラシルにおけるユンゲは、カンスト勢には程遠い新参者だったのだ。

 如何なる意思による采配か、終わるはずだった世界に“続き”がもたらされた。

 初めて訪れた城塞都市〈エ・ランテル〉の酒場で邂逅したとき、その威風堂々たる振る舞いに惹かれた相手と対峙している。

 今の実力では届かなくとも、いつかは同じ高みに登れるように経験を積むための猶予が得られたのなら、挑めば良いだけだろう。

 こちらの戦闘意欲を汲んでくれるようにモモンもまた、巨大な二振りのグレートソードを構え直してくれる。

 胸の内から湧き上がる言い知れぬ高揚感に身を委ね、ユンゲはバスタードソードを手に駆け出した。

 

 不意に、身体の奥底から“未知の特殊技術”が起ち上がる気配――渾身の想いで振り下ろしたバスタードソードの斬撃が、“極大の力の奔流となって次元を引き裂く”超常たる神話の光景。

 

 全身のあらゆる活力や気力が、瞬く間に失われるような未曽有の喪失感。

 煮え滾ったどす黒いコールタールを塗りたくられるように、ユンゲの意識は暗い闇の中へと呑み込まれていった。

 

 



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(26)佳夕

誤字報告いただける方、いつもありがとうございます。

投稿前に確認はしているつもりなのですが、いつかお世話にならずに済む日が来るのでしょうか――。


「…………ん、朝か?」

 泥のような眠りに差し込んだ、ひと筋の茜色の光。

 浅い微睡みを妨げるような日差しに目を細めたユンゲが、全身を苛むような気怠さに顔を顰めながら辺りの様子を窺ってみれば、自身の横になっている仕立ての良さそうな革張りの座席に、丁寧な装飾の施された内装が、淡く霞むような視界の中に映る。

 どこか夢現な思考の中で、どうやら眠っていたらしいと思い当たるものの、ユンゲには置かれた状況を理解することができない。

「――目が覚めたようですね」

 不意に投げかけられた男の声は、ユンゲの向かいの座席からだった。

「ご気分はいかがですか? おそらくは魔力切れのような症状かと思われますが……」

 こちらを気遣うような声音に、ユンゲはやおらと身を起こした。

 軽い頭痛を払うようにかぶりを振ると焦点の定まらなかった視線が、徐々に形をなすように男の姿が鮮明となっていく。

 短く刈り上げた髪と整えられた髭から爽やかな印象を抱かせる三十代ほどの男――見覚えのない相手ではあったが、全身鎧の上から羽織った聖印の描かれたサーコートと手にした聖印から判断するなら、信仰系の魔法詠唱者だろうかとぼんやりと考える。

「えっと、大丈夫? ……だと思います」

 疑問符を浮かべながら問いかけに答えてみせるユンゲに、男は呆れともつかない深い溜め息をこぼした。

「――戦いに熱中するのは結構ですが、ご自身の限界は弁えて置かれるべきだと、年配者として忠告させていただきますよ」

「…………ん? あぁ、モモンさんと模擬戦してたんだっけ。俺の剣は全然相手にならなくて、魔法の連携も防がれて……あれ?」

 記憶を呼び起こそうと言葉にしてみるが、何故か靄がかかるように思考が覚束ない。

 指を曲げ伸ばしながら頭を悩ませるユンゲに、助け舟を出すように男が口を開いた。

「模擬戦の最後、気力を振り絞るようにモモン殿に斬りかかった貴方は、そのまま気を失って半日ほど眠っていたのですよ」

 合点のいかない様子のユンゲを訝るように見据えつつ、「覚えていませんか?」と男が笑う。

 整然とした男の説明を受け、「……いや、お恥ずかしい」と曖昧な記憶と擦り合わせようとしながらも、ユンゲは僅かな違和感を覚えていた。

 モモンとの模擬戦を通して、剣も魔法も敵わない圧倒的な高みを知り、それでも挑んだ最後の瞬間に体験した未知の感覚――何か強大な力が身体の奥底から湧き上がるようなイメージと同時に押し寄せた言い知れぬ虚脱感――あの正体が、男の言う魔力切れだったのだろうか。

 そうして、寝起きのためか、良く回ってくれない頭を無理に働かせようとしたユンゲは、はたと男の言葉を復唱した。

「……えっと、半日?」

「えぇ、半日です。良く眠っておられましたよ」

 どこか面白がるような男の声音に、ユンゲが改めて周囲を見回してみれば、今腰かけているのは依頼主であるフェメール伯爵の用意した豪華な幌馬車の座席であり、馬車内を赤く染め上げている光は、小さな窓から差し込む夕日であった。

 気を失ったユンゲ一人のために依頼の出発を後らせることはできず、馬車に乗せてもらえたのだろうが――、

「しっかりと目が覚めたのなら、先ずは仲間のところに顔をみせて差し上げるべきだと、ご忠告させていただきます。……とてもご心配されていましたからね。おそらく外で夜営の準備をしている頃だと思いますよ」

 年配者らしい落ち着いた口調で言い差した男が、幌馬車の扉を指で示してみせる。

「――あ、はい。そうします!」

 勢い込んで答えながら、ユンゲは扉を開け放つ。

 まさか半日も眠ってしまっていたとは、マリーたちばかりでなく、ともに依頼を受ける“漆黒”や“スクリーミング・ウィップ”にも申し訳が立たない。

 慌てて地面に飛び降りたユンゲは、そのまま数歩先に駆け出してから、忙しなく馬車を振り返って男を見上げた。

「――失礼、貴方のお名前は?」

「“フォーサイト”のロバーデイク・ゴルトロンと申します。以後、お見知り置きを」

 朗らかに笑みを浮かべてみせる男――ロバーデイクに軽く頭を下げたユンゲは、「了解です、ありがとうございました!」と快活に声をかけ、再び踵を返して走り出した。

 

 *

 

 遠くにそびえる万年雪を抱いたアゼルリシア山脈の、峻険な稜線に沈みゆく真っ赤な太陽が、世界の全てを燃え立つような瑞々しい夕映えに包んでいた。

 高い木々のない拓けた野原の片隅に佇んだユンゲは、思わず言葉を失うように息を飲み込む。

 目に沁みるほどの鮮やかな茜色の風景に、どこか郷愁を呼び起こされるままに周囲を見渡せば、いくつもの張られた野営用のテントが並び、夕餉の支度をしているらしい朱に染まる柔らかな煙が昇っていくのが見える。

 そうして、少しだけ騒がしい人集りとなった方へ吸い寄せられるように進んでみれば、全てが赤一色となった世界の中にあっても、一層と闇を濃くするような漆黒の全身鎧を身に纏った戦士の姿があった。

 いつか見た棒切れを手にしながらも優雅な演武のような舞いをみせるモモンの姿に、ユンゲは目を奪われかけ、不意に視界の端から飛び込んできた人影に驚いて、その場でたたらを踏んだ。

「――ユンゲさんっ、ご無事だったんですね!」

 軽やかに心が弾むような、或いは泣き出してしまいそうな、相反する感情が同居した声音に目を向ければ、サイドで括った艶やかな黄金色の髪が揺れる。

 ユンゲの腰辺りをひしと抱き締め、胸許に顔を寄せる小柄な森妖精〈エルフ〉の少女――マリーが、上目遣いにユンゲを見つめながらひと息に言葉を捲し立てた。

「もう、心配したんですから! あまり無茶はしないでください!」

 常にない勢いに押されるようにユンゲが思わず首を縦に振れば、「本当に分かっていますか? 皆さんにも、ご心配をおかけして――」と聞き分けのない子どもに言い聞かせるようなマリーの小言が続いていく。

「あぁ……いや、面目ない」

 誤魔化すように指先で頰をかきながら、ユンゲは突然の嵐をやり過ごそうと力なく息を吐いた。

 しかし、マリーの後ろに続いていたキーファとリンダが苦笑しながらも、気持ちは同じだと言わんばかりの視線を向けてくるのだから、ユンゲとしては立つ瀬がない。

 降参を示すように肩をすくめてみせ、マリーの小さな頭に手を置いたユンゲは、やや怖々とした思いで髪を撫でながら「……悪かったな、心配かけた」と小さく言葉を紡いだ。

 目許に薄く滲んだ涙の雫を伸ばした袖先で拭うようにしてやれば、ちょっとだけ膨らませた頬で抗議を訴えつつも、どこか諦めるように破顔してくれるマリー。

 その小柄な背に腕を回して、そっと抱き返す。

 ユンゲの腕の中で少しだけ身を固くしたマリーの長く尖った耳が、周囲の朱に染まるように僅かにヒクついた。

 幼な子をあやすように、ぽんぽんと軽く背を叩いて直ぐに離れたユンゲは、キーファとリンダに向き直って「二人にも心配かけたな」と言葉少なく、謝意を口にする。

 途端に泣き顔を浮かべながら駆け寄ってくるキーファを大袈裟に抱きとめつつ、窺うようにリンダへ目を向ければ、「今回のようなことは、もう嫌ですよ」と苦笑いのままに告げられた。

 マリーとキーファの様子から思い起こされるリンダの苦労に、ユンゲは本当に申し訳ない思いから、「……肝に銘じて置くよ」と恭しく口にする。

「よろしくお願いいたしますね」と疲れたように笑う、リンダの気持ちの込められた念押しにユンゲも一つ頷きを返し、気を取り直すように周囲を見回しながら問いを投げかけた。

「……夜営の準備は、もう良いのか?」

「えぇ、先ほど終わりましたので、皆さんをお呼びしようとしたところだったのですよ」

 リンダの声に合わせるように、先ほどの人集りから歓声が聞こえてくる。

 人混みの中央では、いつかの冒険者組合で見たような握手に応じるモモンの姿が見えた。

「――あれは前衛職の方々が、モモン殿に指導してもらいたいと申し出られていたのです」

 ユンゲの疑問に先回りしたリンダが、「……夜営の準備が終わるまで、ということだったのですが、あちらも一段落が着いたようですね」と説明してくれる。

 モモンとの模擬戦を経験したユンゲとしては、最高位アダマンタイト級の凄腕の戦士に教えを仰ぎたいという思いは良く理解できる気がした。

 ――持てる力の全てを存分に出し切り、尚も届くことのなかった遥かな高みに抱く憧憬。

 マリーとキーファを促しながら、モモンたちのもとへと向かうリンダに続いて歩きながら、ユンゲはやおらと空を見上げた。

 見渡す限りを茜色に染め上げた涼やかな佳夕にも終わりの刻が迎えられるように、静かな足取りで宵の帳が迫っているらしい。

 日中の熱気も盛りを過ぎ、やがて訪れる秋を感じさせるような心地良い風に身を任せ、ユンゲは深く味わうように大きく息を吸い込む。

 濃い藍に染まりゆく東の空には、去りゆく夕陽を惜しむように紅の名残りを照らす、大きな満月が浮かんでいた。

 

 *

 

「――お気になさらずとも大丈夫ですよ。モンスターの襲撃もなく、穏やかな道中でしたからね」

 乞われた指導を終えて野営地に引き上げてくるところを呼び止め、ユンゲが模擬戦からの失態を謝罪すれば、モモンは何でもないことのように笑いかけてくれた。

「お元気になられたようで何よりです。宜しければ、またお手合わせいだだけると嬉しいですね」

「……こ、こちらこそ光栄です。是非、よろしくお願いします」

 自身の力量を見誤ったばかりか、本意でないとはいえ半日も護衛の仕事を怠ってしまったのだから、叱責も甘んじて受ける思いだったユンゲとしては、恐縮することしかできない。

 モモンの後に続いていた“スクリーミング・ウィップ”の面々からも、嫌味の一つもなく模擬戦でみせたユンゲの健闘を称えられてしまうのだから、拍子抜けしてしまうというか――、

「――皆さん、気の良い方たちですね」

 傍らのマリーが嬉しそうに笑みをこぼすのに、「……そうだな」とユンゲは小さく言葉を返した。

 これが転移前の世界であったなら、どのような対応をされたかなど想像に難くない。

「……あれだけ圧倒的な力の持ち主なら、ちょっとくらい傲慢に振る舞っても誰も文句なんて言わないだろうにな」

「そうかも知れませんね。特に冒険者やワーカーのようなお仕事は、実力が全ての世界ですから――」

 どこか諦観するようなマリーの横顔に、ユンゲはかけるべき言葉を逡巡する。

 力が及ばないために泣き濡らした日々は、簡単に拭い去れるものではないのだろう。

「……大昔の英雄譚に描かれる偉人ってのは、皆あんな感じの雰囲気なのかな」

「どうでしょうか、良い方ばかりではないような気もしますが……、モモンさんは偉業ばかりでなく、お人柄も後世に語り継がれていきそうですよね」

 二振りのグレートソードを担ぐ大きな背中を見送りながら、ユンゲは僅かに目を細める。

 いつか辿り着きたい目標としては、些かも遠すぎる思いはあるのだが――、

「……もっともっと強くならないとな」

「――強いだけじゃ駄目ですよ。もっと……そうですね、優しくなっていただかないと」

 一つ小さくかぶりを振ったマリーが、人差し指を立てながらしなを作ってみせる。

「自分で言うのもなんだけどさ……これでも結構、優しいつもりなんだけどな」

「……ふふっ、期待しています」

 含みのあるマリーの言葉に軽く肩を竦めつつ、ユンゲはわざとらしく溜め息をこぼして、むず痒いような思いで言葉を続けた。

「まさか英雄になりたい、なんて思ってないからな。……過度な期待はしないでくれよ」

 突然の異世界転移によって色々と恩恵を受けた身であるからこそ、ユンゲは自身が英雄と呼ばれるような器でないことを強く自覚している。

(……できることで恩を返していくしかないよな)

 そうして、皆に負担をかけてしまった分、夜間の警戒や明日以降の行動でしっかりと挽回に励もうとユンゲが思いを新たにしたときだった。

 不意に蠢くのは腹の虫――どこまでも空気の読めないハーフエルフの身体には苦笑するしかない。

「…………、今朝から何も食べてなかったんだよ」

 口許に手をやって、くすくすと肩を震わせているマリーの髪を乱暴に撫で回したユンゲは、取り繕うように言い訳の台詞を吐き捨てて踵を返した。

「もうっ、怒らないでくださいよ! いつものユンゲさんが帰ってきた、って本当に嬉しかったんですから――」

 笑いながら小走りで追いかけてくるマリーを横目に、ユンゲは憮然としたまま大股で歩を進めるのだった。

 

 




誰もがモモン様の戦いを見学したがる中で、眠っているユンゲのことを気にかけてくれるロバーデイクさんは、ワーカーの良心だと思います。


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(27)遺跡

相変わらずの更新頻度とのんびり展開ですが、気長にお楽しみいただければ幸いです。


「……信仰系魔法まで使えるなんて、信じられない」

「あんた、本当にとんでもねぇな」

 向けられる称賛の言葉も、模擬戦でモモンという圧倒的な上位の存在を実感してしまったユンゲとしては、素直に受け取るという気持ちにもなれない。

「……別にたいしたことじゃないですよ」と思わず自嘲気味に笑ってしまったのは、ユグドラシルというゲームの延長線上に手に入れた力を誇りたくなかったのだろうか。

 これから研鑽を重ねていき、自身の努力の結果として胸を張れるようになりたいと思いながらユンゲは言葉を続けた。

「ご覧になっていらしたでしょうが、モモンさんには手も足も出なかったですからね」

「いや、あの人はまた別格だろ。……謙遜する必要なんてないように思うがなぁ」

 こちらの素っ気ない返答に、大袈裟な溜め息を吐いてみせた軽装の若い男――日に焼けた健康的な肌に金髪の一房を赤く染めた、腰にナックルガードのある二振りの剣を履く戦士――バハルス帝国のワーカーチーム“フォーサイト”のリーダーと紹介されたヘッケラン・ターマイトが、人好きのする朗らかな笑みを薄く浮かべながら、「なぁ、ロバー」と同意を求めるように隣のロバーデイクの肩に手を置いた。

「そうですね。本職の前衛でない私には、視認することも困難な速さの攻防でしたね」

 湯気の立ち昇る椀を手にするロバーデイクが、落ち着いた口調で言い差す。

「……それに、二系統の魔法まで修めているなんて、本当に信じられない才能」

 自らの身長ほどもある長い鉄杖を抱えた少女が、ユンゲを覗き込むようにしながら顔を上気させた。アルシェとだけ名乗った、どこか幼さの残る十代半ばほどの少女は、肩口のあたりでざっくりと切り揃えられた艶やかな金髪に、旅装を解いて魔法詠唱者らしいゆったりとしたローブを纏っていた。

 最初に顔を合わせたときには、どこか無機質な人形のような印象すらあったものだが、魔法の話題となると感情を抑えられない性格なのかも知れない。

 少しだけ脳裡を過ぎった嫌な記憶に、羨望にも似た視線を受け流すように肩を竦め、ユンゲは過ぎた謙遜の言葉を飲み込んで、火にかけられている鉄鍋から追加のスープを自分用の大きな椀へと取り分ける。

 すっかりと陽の落ちた平原の片隅、今回の遺跡調査に参加する冒険者やワーカーたちは、それぞれにチームや知己の者たちで集まり、中央に焚き火を囲いながら早めの夕食を取っていた。

 馬車に乗せてもらった謝礼を改めて伝えるために、ロバーデイクのもとを訪れたユンゲもまた、彼のチーム仲間たちに誘われるまま“翠の旋風”のメンバーを交えて食事の席をともにすることとなっていた。

 目的地である未知の遺跡までは、まだかなりの距離があることに加え、帝国騎士の巡回する街道からさほど離れていないこともあり、モンスターの襲撃に対して過剰な警戒をする必要はない。

 明日の午後か、遅くとも明後日には遺跡に到着する旅程が組まれているので、こうしてゆっくりと過ごすことのできる時間は限られているからだろう。

 周囲に視線を巡らせてみれば、仲間内で未だ見ぬ遺跡への思いを馳せたり、モモンの圧倒的な戦い振りやナーベの実力を推察するように意見を交わしているほか、実物に相違ないその二つ名について興奮気味に語り合っている様子が見て取れた。

 話題の中心である“漆黒”の二人は、「宗教上の理由から食事はともにできない」と早々に彼らのテントへ引き上げてしまっているのだが――、他の設営場所から少し離れた位置に、二人のために用意されたテントが設営されていることに言及するのは、野暮といったところか。

 

「……ってか、一つ訊きたいんだが、闘技場でエルヤーの野郎をぶっ倒した凄腕のハーフエルフってのは、あんたなのか?」

 不意に疑問の声を上げたヘッケランが、手にした麻袋から木炭を取り出して、無造作に焚き火へ放り込んでいく。

 宵闇に舞い上がった火の粉を何気なく目で追いながらも、ユンゲは向けられる好奇の視線には応えなかった。

 少し調べれば分かることでもあり、勿体振ってまで隠すようなことではなかったものの、その話題と切り離すことのできないキーファやリンダ、マリーたちの境遇を慮ったユンゲとしては、軽々しく口にすることが憚られる内容だった。

 煌めく紅色の軌跡が暗がりに溶けていく先、焚き火から遠ざかった暗がりに腰かける四つの人影――すっかりと打ち解けたように、肩を寄せ合いながら熱心に言葉を交わしている細身な女性たちは、皆が人間よりも細く長い特徴的な耳を持っている。

 純血の森妖精〈エルフ〉である翠の旋風の女性陣に、フォーサイトからハーフエルフのイミーナを加えた四人は、ロバーデイクの手引きでそれぞれのチームが顔合わせをして間もなく、「……彼女たちと少し話したいことがある」というイミーナの言葉で、一行から少し離れた位置に移っていた。

 提案を口にしたイミーナの睨みつけるような鋭い視線に、ユンゲとしては警戒心を抱いたものだが、「構いませんよ、あちらの方でよろしいでしょうか?」と和かな笑みで応じたマリーの判断が正しかったのだろう。

 後から思い返したのなら、イミーナの向けてきた瞳に宿されていた敵愾心にも似た感情は、ユンゲをこそ警戒して値踏みしていたのかも知れない。

 ――即ち、同じ種族の血を引く者として、エルフを虐げるような真似をしていないか。

 エルフが奴隷身分として扱われるバハルス帝国では、ハーフエルフであるイミーナもまた、決して暮らしやすいということはないのだろうと想像に難くない。

 漏れ聞こえてくる談笑の合間にこちらの方を振り返っては、ちらちらと観察するような目を向けてくるイミーナの細い指が、無遠慮に差しているのはユンゲか、或いは彼女たちに背中を向けたままのヘッケランだろうか。

 口許を手で抑えながら肩を震わせているマリーを何気なく見遣れば、重なった視線をバツが悪そうに逸らされた。

 ユンゲにとっては、あまり愉快ではなさそうな様子に若干の苛立ちを覚えなくもなかったが、これまで過ごしてきたであろう経緯を思えば、盛り上がっているところに水を差すような真似はしたくない。

 言葉を飲み込むように、ユンゲは椀のスープを静かに口へと運んだ。

少し肌寒さを感じさせる夜風に、素朴なスープの温かさが心地良く染み込んでいく。

 

「……女性たちの話題に首を突っ込んでも、碌な結果にはなりませんからね」

 こちらの考えを見透かすように笑ってみせる訳知り顔のロバーデイクに、一つ頷きを返したユンゲは遠い日の記憶を思い起こすように、「……本当に、その通りですね」と小さく肩を竦めてみせた。

(君子危うきに近寄らず、で良かったかな?)

 ややうろ覚えな記憶を探ろうとしたユンゲの思考は、向かいからの言葉に遮られた。

「――全くだぜ。何が気に入らないのか知らねぇが、ころころ機嫌を変えられちゃ、こっちが堪らねって話だよなぁ、アルシェ」

「……女の私に話を振らないで欲しい」

 大袈裟な溜め息を吐いてみせながら冗談めかすヘッケランに、面倒そうなアルシェがおざなりに口を開いたところで、「聞こえてるわよ、ヘッケラン」と冷気を孕んだ声音が続いた。

「文句があるなら、直接言ったらどうなの?」

「ははっ、文句なんてある訳ないだろ。俺は良い仲間に恵まれてるよ、なぁ」

「……声が震えてるわよ」

 マリーたちとの話を切り上げてきたらしいイミーナが、不満げに腕を組みながらヘッケランに詰め寄っていけば、「おいおい、変な言いがかりは止めてくれよ」と軽い口調で言い訳を重ねるヘッケランは、イミーナに胸倉を掴まれたままに冷たく見据えられて、少しずつ後退りしていく。

 二人の様子を遠巻きに眺めるロバーデイクとアルシェの二人は、関わろうとしないながらも楽しそうに笑みを交わしているのが見える。

 こうした和やかなやり取りが、日頃からなされているのだろうと思わせてくれる光景に、ユンゲは眩しいような思いで目を細めた。

 最初に出会ったワーカーが彼ら“フォーサイト”のような人柄であったなら、今のように嫌悪感を抱くこともなかったかも知れない。

 

「……良い話ができたか?」

 傍らへ歩いてくるマリーたちに寄せて、ユンゲは静かに問いかける。

「はいっ!」と満足そうな、或いは決意を滲ませるような弾んだ声の返事が聞けたのなら、この出会いは意味のあるものだったのだろう。

 何かをせがむような上目遣いの碧い眼差しに、ユンゲはやおらと手を伸ばす。

 マリーの柔らかな髪を梳くように撫でるユンゲの口許は、自然と綻んでいた。

 同じように駆け寄ってきたキーファの頭にも手を置いてやれば、くすぐったそうな声がこぼれる。

 パチパチッと爆ぜる焚き火の明かりに、皆どこか清々しいような表情が並んで浮かぶ。

 不意に視界の端で、ヘッケランがイミーナの追及を擦り抜けるのが見えた。

「――なぁ、良かったら俺とも模擬戦してくれよ」

「こらっ、まだ話は終わってないでしょう!」

 イミーナに追い縋られながらも、どこか楽しそうなヘッケランが、ユンゲに向けて声を投げかけてくる。

 傍目には仲の良い者同士の戯れ合いにしか見えない掛け合いに、少しばかりの苦笑を浮かべたユンゲは、凝った身体をほぐすようにしながら口を開いた。

「構いませんよ。……手加減はできないですけどね」

「へっ、そうこなくっちゃな。よしっ、ロバーも参加するんだから早く立てよ」

 イミーナに後ろから羽交い絞めにされたままのヘッケランが大袈裟に手招きをすれば、「やれやれ、また貴方は勝手に……」と額を押さえながらも、ロバーデイクはスープの椀を無骨なメイスに持ち替え、やおらと立ち上がった。

 口許に浮かぶのは、挑戦的な笑み――達観しているようで、意外と熱い性格の持ち主なのかも知れない。

「……無茶はしないでくださいね」

 横合いから投げかけられたリンダの諦めを孕んだ声音に、「努力するよ」と肩を竦めつつ、ユンゲは腰の剣帯からバスタードソードを抜き放った。

 この男連中は本当に仕方がない、と嘆くような女性陣からの溜め息が、さらりとした秋初めの夜風に攫われていく。

 雲一つない晴れ渡った夜空には、いくつもの鮮やかな星たちの輝きが瞬いていた。

 

 *

 

 日の出に合わせて野営の設備を手際良く撤収し、一行は再び目的地を目指して歩みを進めていく。

 いくつもの小高い丘陵の合間を緩やかな弧を描くように抜けていけば、背の高い樹々はいつの間にか姿を消し、青々とした草の大地ばかりが広がっていた。

 整備された街道のように砂利を敷き詰められていない草地は、馬車を進めるには不便極まりないが、流石は軍馬五頭にも匹敵すると評される八足馬〈スレイプニール〉なのだろう。

 多少の悪路など物ともせずに力強く荷車を引いてみせる様子に、「脚が八本もあって良く絡まらないな」などとユンゲが感心していたのも旅の始めのうちだけ。

 懸念されていたモンスターの襲撃もなく、麗らかな陽だまりの草原が、どこまでも続いていると思わせてくれる牧歌的な――しかし、代わり映えのしない景色にユンゲも興味を失いつつあった、出発から三日目の昼過ぎのことだった。

 

 先導役の御者に従って一つの小高い丘に足を進めてみれば、前触れもなく唐突に現れたのは白亜の石壁。

 周囲にいくつも点在している丘の一つに、すっかりと埋もれるように存在していた遺跡の外壁が、土砂の崩れてしまった箇所から露出していた。

 真っ先に目に飛び込んでくるのは、中央に佇む壮麗な大霊廟と周囲を守護するように並べられた八体の巨大な戦士像。意匠を凝らした装飾に彩られた勇壮な戦士の像は、今にも動き出しそうなほど精緻な造形であり、あたかも玉座を守護する騎士のような立ち姿だ。

 霊廟で眠る者に災厄をもたらそうとする者がいれば、即座に切って捨てんという意志すら漲っているように思える。

 大霊廟ばかりでなく、遺跡の中には東西南北の外周の四箇所に霊廟が建てられ、敷地内には天使を象ったような背に優美な翼を持つ女神の見事な彫像たちが何体も見受けられた。

 しかし、ユンゲの注意は遺跡の大部分を占めているであろう、地表の墓地部分に向けられる。

「……なんか、寒気がするな」

 誰にともなく呟き、眼下に広がる気味の悪い光景を眺めた。

 下生えは丁寧に刈り込まれ、いくつもの石像や墓石は長い年月を経ているだろうに一切の染みや汚れも見られない。雨晒しでありながら苔生しているようなこともなく、定期的に手入れをなされていることが見て取れた。

 一方で、墓地の所々で乱雑に伸びる樹々に剪定された様子はなく、葉を落とした寂しい細枝が歪に垂れさがり、どこか寒々とした印象を漂わせていた。墓石の配列にしても、何らかの意図を持って並べたというよりは、さながら醜怪な魔女の乱杭歯のように、狂気の最中にばら撒かれた野放図の有様となっている。

 まるで磁石の対極に位置するような相反する事象が、一つの墓地の中に集約された強烈な違和感は、精神の不安を掻き立ててくるような得体の知れない怖ろしさがあった。

 日中の明るい日差しのもとで見ているからこそ、ユンゲはまだ落ち着いていられたが、陽が落ちてしまった後であったのなら、あまり平静ではいられなかっただろう。

 如何に人々の生活圏から離れているとはいえ、これほど立派な遺跡が周辺諸国に存在を知られていなかったという奇妙な事実もまた、嫌な想像をかき立ててくる。例えば、遺跡を目撃した者や潜入を試みた者たち全てが、物言わぬ骸と成り果てているような事態もあるのかも知れない。

 そして、打ち捨てられた古代の遺跡や墓地といえば、RPGにおけるダンジョン探索の王道とも呼べるシチュエーションだが、その場所に特定の誰かが葬られているであろう光景を目の前にしてみれば、好奇心や綺麗事ばかりでは片付けられないような思いが込み上げてくる。

「探索の開始は夜になってから、だったか……」

 無理やりと意識を切り替えるつもりで、ユンゲは反芻するように先の決定事項を口にした。

 実際に調査を担うワーカー同士の話し合いにより、遺跡への潜入は陽が暮れてからの夜闇に紛れて実施することが決まっており、刻限になるまでは冒険者チームが中心となってベースキャンプの警護に当たることになっている。

 緊張感を保つためにワーカーチームからも持ち回りで哨戒に参加をするらしいが、彼らは潜入に備えて身体を休めることが本分だろう。

 思うところは色々とあったとしても、初日の失態を取り返すためにも、先ずはユンゲ自身のやるべきことに集中しなくてはならない。

 優雅にたゆたう緑の大海原と鮮烈な大空の青とが溶け合う地平線の彼方に目を向け、ユンゲは一つ大きく息を吸い込んだ。

 清濁を混在させた荘厳な未知の遺跡に、涼やかな一陣の風が吹き抜けていく。

 

 



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(28)躊躇

 薄曇りの夜空には、星たちの疎らな輝き。

 頼りない月明かりに照らされ、どこか霞むように青白く浮かび上がる眼下の遺跡は、虫の音一つのない息が詰まるほどの静寂の中に佇んでいた。

 陽が落ちてからは気温もすっかりと低くなっているはずなのに、どこか汗ばむような不快な感じがするのは、遺跡から醸し出されてくる言い知れぬ重圧の仕業なのかも知れない。

「ちょっくら、大金持ちになってくるぜ」と息巻いて遺跡へと挑んでいった請負人〈ワーカー〉たちの後ろ姿に向け、黒装束の悪魔が手にした大鎌を振りかざさんとするような悪寒に身震いする。

 知らずのうちに額を拭っていた袖を払い、ユンゲはやおらと周囲を見回した。

 似たような丘陵がいくつも連なる大草原の中、遠方からの死角となる谷合いとなる暗がりに、背の低いテントが並んでいる。

 先ほどまで遺跡へ潜入する前の腹拵えとして、温かいスープが振舞われていたはずだが、火を使用しても明かりは漏れてこない。

 無用な客を招かないために、光を遮断する<ダークネス/暗闇>の魔法がベースキャンプ全体を覆うようにかけられているためだ。

 ここまで大きな荷車を運んできた三頭の八足馬〈スレイプニール〉も、今は轡を噛まされたまま静かに身体を休めていた。

 遺跡の探索を終えたワーカーたちが無事に帰還したときに、拠点が失われているような事態になっていては、どんな言い訳も立たない。

 情けない状況を避けるためにも、ユンゲたち冒険者チームに課せられた役割は、ワーカーの遺跡調査に割り当てられた三日間、ベースキャンプを不測の襲撃者から警護することにあった。

 更に“漆黒”の二人には、未帰還のチームが発生した場合に備えての強行偵察の役回りも任されているので、拠点周囲への警戒には“翠の旋風”と“スクリーミング・ウィップ”という、二つのチームが要となっている。

「……とはいえ、警戒するべきなのはやっぱり遺跡からな気がするな」

 周辺の地形を見渡してみれば、丘陵を越えてくるような存在の発見は容易く、その陰に隠れて接近してくる相手への対策としても、マリーたちが<アラーム/警報>の魔法を準備してくれている。

 そうした点を考慮したなら、やはり眼下の遺跡からモンスターが這い出してくるような展開こそ、注意するべきなように思われた。

 考えを巡らせながらユンゲが遺跡の方へ視線を戻してみたのなら、不意に外周の上で五つの淡い光が灯されるのが目に止まる。

 左右に数度振られてから消えた光は、ワーカーたちが待機を完了したことを伝え合うために用意していた、錬金術による蛍光棒だろう。

 手にしていた当人たちの姿は、<サイレンス/静寂>と<インヴィジリティ/透明化>による隠蔽魔法のために視認することはできないが、無事に突入する段階までは辿り着けたらしい。

 気持ちを落ち着けるようにゆっくりと草地に腰を下ろしたユンゲは、背負い袋からマローンの葉に包まれたレンバスを取り出した。

 腹持ちが良く保存性に優れ、持ち運びにも便利なエルフ特製の携行食であり、味の方も帝都アーウィンタールの市場で手に入れたシロツメクサの蜜を用いた絶品の仕上がり――今回の依頼に赴く前にマリーから試食を頼まれたとき、ユンゲは思わずおかわりの分を作ってもらうために、追加のシロツメクサの蜜を市場まで買い求めに走ったほどであった。

 夜もすがらに警戒を続ける上では、これほど心強い備えもないだろう。

 マローンの包みを開けて大口で齧りつくと、サクサクッと小気味好い食感に続いて、素朴な甘さが舌の上に広がっていく。

 不安をかき立ててくる未知の遺跡を前に、どうしても色々と考え過ぎてしまうのだが、張り詰めていた緊張を解してくれるような優しい味わいに、ユンゲの口許は無意識の内に綻んでいた。

 

「それでは予定通り、私は先に休ませてもらう」

「はい! どうぞ、ごゆっくり」

 レンバスに舌鼓を打ちながら聞こえてきた声に振り返れば、先ほどから“スクリーミング・ウィップ”のリーダーと話し込んでいたモモンが、こちらの方へと向かってくるのが見えた。

 残りのレンバスを口に放り込み、急いで立ち上がろうとしたユンゲに、「あぁ、お気になさらず。そのままで構いませんよ」とモモンが平時と変わらない穏やかな口調で語りかけてくる。

 月下に煌めく漆黒の全身鎧に身を包み、真紅のマントを夜風にはためかせながら歩み寄ってくるモモンの姿は、さながら英雄譚の一節を描いた名画のような勇壮な風情があった。

 最近の市井では、“漆黒の英雄”を題材とした物語や芸術品などが人気になっている、という話も納得できる思いだ。

「未知の遺跡を前にしても、ユンゲさんは落ち着いていらっしゃいますね」

「……いや、内心はかなり気後れしてますよ」

 場違いに抱いていた思いを誤魔化すように、ユンゲは慌てて言葉を続けた。

「とりあえず、遺跡からモンスターが出入りしている様子はなさそう、っていう見立てでしたから、足を踏み入れない限りは大丈夫かなぁ、なんて……」

「ははっ、確かにそうかも知れませんね」

 モモンが軽く笑って流してくれたことに、ユンゲは秘かに胸を撫で下ろす。

「まぁ、潜入してるワーカーたちが戻ってきたときに笑われないためにも、しっかりすべきだとは思っていますけどね」

 そのためにも先ずは腹拵えです、とレンバスを包んでいたマローンの葉を摘み上げながら冗談めかせれば、モモンは神妙そうに一つ頷きを返してから、どこか遠くを見つめるように頭上を仰いでいた。

 モモンの視線を何気なく追って、ユンゲも夜空へと目を向ける。

 遥かな高さでは風が凪いでいるのか、淡い靄のような白雲のヴェールは、揺らぐこともなく満天を覆うように薄い広がりをみせていた。

 夜半に雨が降り出すような心配はなさそうだが、街中の灯りも遠いこの場所でなら、夜空に満ちゆく盈月や宝石箱をひっくり返したような星たちも、さぞ美しく輝いているであろうと思えば、ユンゲは少しばかり残念な気持ちになる。

 人前では決して外そうとしない面頬付き兜のために、その表情を窺い知ることはできないが、モモンにも何か思うところがあるのかも知れない。

 何か声をかけるべきかと考えながらも、ユンゲは口を開きかけたままの姿勢から動けなかった。

 あれほど大きかったモモンの背中が、どこか寂しげに小さく佇んでいるような様は、安易に踏み込んではいけないような雰囲気を漂わせていた。

 当代の英雄とまで謳われる男は、しかし当然ながら物語の登場人物ではない。

 長く戦いの中に身を置いていれば、酸いも甘いも多くの経験をしていることだろう。

 以前に冒険者組合長のアインザックから伝え聞いた、故郷を滅ぼした二匹の吸血鬼を追っているというモモンの境遇を思ったのなら、碌な経験もないユンゲにはかけるべき言葉を見つけられない。

 それでも二人の間に落ちる静寂は、先ほどまで遺跡に臨んでいたときとは違い、嫌な緊張感をもたらすものではなかった。

 さざめくように草原を渡る夜風が、薄く汗ばんだ肌に心地良く流れていく。

「……いけませんね。こうして夜空を眺めていると、どうしても感傷的な気分になってしまいます」

 やや自嘲するような響きを孕んだモモンの声音。

 古の聖人かと見紛うほどの英雄から垣間見える“生の人間らしい”弱気な台詞に、「……構わないと思いますよ」とユンゲは小さくかぶりを振った。

「モモンさんがお休みの間は、私たちがしっかり警護しますので、存分に浸っていてください」

 努めて軽い口調で言い差したユンゲは、ひらひらと手を振ってみせながら背負い袋の中を探り、ほどなく目当てのものを二つ見つけ出し、下手から無造作にモモンへ向けて放り投げた。

「――っ、あの、これは?」

 反射的に受け取ってから問いかけてくるモモンの律儀さに口許を綻ばせつつ、ユンゲは自分用にともう一つ背負い袋から取り出しながら答える。

「レンバス、っていうエルフの焼き菓子です。仲間が作ってくれるのですが、初めて口にしてもどこか懐かしく感じるような素朴な味なので、もの想いに耽るにはバッチリだと思いますよ。良かったら、ナーベさんとご一緒にどうぞ」

 手にした二つのレンバスとこちらを交互に見比べて戸惑うようなモモンに、「もしお気に入ったのなら、うちの子たちを褒めてやってください。多分、凄く喜ぶと思うので――」とユンゲが言葉を続ければ、ようやくと合点がいった様子のモモンは、一つ肩を竦めてみせた。

「……お気遣い感謝します」

「いえ、ゆっくりとお休みくださいね」

 モモンが頭を下げようとするのを軽く払った手で制し、ユンゲは静かに遺跡へと向き直った。

 青白い月明かりが霞み、照らされる戦士像には薄雲の影が落ち、その表情を曇らせている。

 勇壮に構えられた守護の剣は、しかし振り下ろされることもなく、永遠のときに身を置かざるを得ない、戦士自身の墓標のようにも見えた。

 寒気を伴う畏怖をもたらす未知の遺跡を前に、不意に悲哀の楔を打ち込まれたような物寂しい感傷が、胸の内へと静かに押し寄せる。

 そうして、テントに引き上げていくモモンの気配を背中に感じながら、ユンゲは瞑目するように小さく息を吐いたのだった。

 

 *

 

 東の空を朱く焼いて、燃え立つ太陽が悠々と舞い上がっていく。

 夜露に濡れた緑の草原は、涼やかな風に遊ばれる大海原のように揺蕩い、降り注ぐ朝の陽射しを照り返しながら、金糸を幾重にも織り込んだような眩いばかりの輝きに満ちている。

 明け方までは薄曇りだった空にも、からりとした秋晴れに鮮やかな群青のタペストリーが、どこまでも高く抜けるように広がっていた。

 思うままに声を上げながら、童心に帰ったような思いで走り出したくなる光景は、視界の全てを覆い尽くすように遥か彼方の地平線まで続いている。

「…………晴れたな」

 しかし、転移前の世界では決して見ることの叶わない大自然の、思わず心躍るような景色を前にしても、ユンゲの声音は低く沈むようであり、傍らに寄り添うマリーもまた、「……そうですね」と静かに言葉少なく応じるだけだった。

 昨夜、日没を待ってから遺跡へと潜入していった“フォーサイト”を始めとする五つのワーカーチームは、顔を覗かせた朝日が再び中天に差しかかろうとする頃合いとなっても、未だに帰還していない。

 既に半日以上の時間が経過していることを思えば、ユンゲばかりでなく皆の胸の内に湧いてくる考えは一つだろう。

 ユンゲたち“翠の旋風”ともに夜間の警戒を担った“スクリーミング・ウィップ”の面々に目を向けても、夜を徹しただけではない精神的な疲労の色が濃いように思えた。

 

「――全滅した、と考えるべきでしょうね」

 感情を押し殺したような平坦な声の主は、遺跡に臨みながら仁王立ちするモモンであり、誰もが可能性を認識しながらも、決して口にはできなかった推測だった。

 モモンの言葉の意味を噛み締めるほどに、ベースキャンプの周囲に詰めていた冒険者たちの間に、悲痛な沈黙が広がっていく。

 帰還したワーカーたちに振る舞うため、朝餉を用意していた焚き火の木炭が、色を失い小さな燻りの音とともに崩れた。

 火にかけられていた鉄鍋も、すっかりと冷たくなってしまっていることだろう。

 轡を噛まされたままの八足馬が、低く抗議するようにくぐもった嘶きを上げた。

「現時点をもって、依頼遂行の継続は困難と判断します。……心苦しいですが、この遺跡の脅威を皆に伝えるためにも、今は撤退するしかないでしょう」

 気の詰まるような一行の沈黙を破ったのは、またしてもモモンだった。

 まともな思考が紡げていないユンゲたちに代わり、一人で決断を下すという酷な役回りを担ってくれている。

 一切の感情を排したような口調が、一層とモモンの苦悩の深さを思い起こさせる。

 自分たちや依頼主、この遺跡の危険性を知らない人々のために、潜入したワーカーたちを見捨てるという選択だった。

 元々の取り決めに従うならば、帰還できないチームがあった際には、最高位アダマンタイト級の冒険者である“漆黒”のモモンとナーベの二名が、強行突入して救出に向かうことになっている。

 しかし、全チームが未帰還となる事態は想定されていなかった。

 ベースキャンプに戻ってきた他のワーカーから寄せられたはずの遺跡内に関する情報が皆無であり、右も左も分からない中で先に潜入した者たちを探し出すことなど無謀に過ぎる。

 置かれた状況を冷静に検討した上での、撤退という合理的な判断――今回の依頼に集められたミスリル級に相当する、この世界でも上位の実力者であるワーカーたちが誰一人として帰還していないという事実は、それほどに重いのだろう。

 しかし、頭の冷静な部分がモモンの選択を支持しながらも、ユンゲの心の内には戸惑いの気持ちがわだかまっていた。

 ワーカーの全滅はあくまで可能性の話であり、中には負傷して動けないままに助けを求める者が取り残されているかも知れない。

 焚き火を囲って談笑を交わした夜や模擬戦と称して剣を合わせ、巧みな連携の前に思わぬ苦戦を強いられた記憶が過ぎる。

「…………っ」

 もどかしい思いで口を開きかけ、声にならない音がこぼれた。

 不意に、大地が揺らいだような錯覚――震えていたのは自分の膝であったことに気付き、苦笑とともにユンゲは太腿に拳骨を叩き込む。

 ユグドラシルのような“ゲーム”ではない、人が死ぬという事実。

 そうした状況を目の前にして、ユンゲは一歩を踏み出すことができないでいた。

 ユンゲを遥かに凌ぐ超級の戦士であるモモンに、万人が羨むほどの美貌にして凄腕の若手魔法詠唱者であるナーベという稀代の冒険者チーム“漆黒”であっても、二人だけでは未知の脅威が蔓延っているであろう遺跡への突入に手が足らない。

 しかし、アダマンタイト級という最高峰の実力を有する“漆黒”の二人に加えて、本職に及ばずとも斥候役、或いは回復役としてサポートに徹するユンゲが同行しながらの捜索であったのならば――。

 

 先ほどから変わらない姿勢で遺跡に睨みつけるように臨んでいるモモンの後ろ姿に目を向ける。

 かけるべき言葉を見つけられない逡巡のままに視線を彷徨わせれば、モモンの傍らには従者のように控えているナーベの白皙たる横顔。

 零下のように冷え込んだナーベの鋭利な眼差しが、蔑むようにユンゲを見据えていた。

 この世界に転移して間もない頃、駆け出し冒険者向けの安宿で触れた絶対的な捕食者に抱く畏怖が、ユンゲの心胆を寒からしめる。

 お前は何をしているんだ、と言わんばかりのナーベから放たれる無言の糾弾に、ユンゲの鼓動が早鐘のように打ち鳴らされる。

 ユンゲが漆黒の二人に同行するのであれば、この絶望的な状況を打破できるかも知れない。

 そして、ユンゲが気付く程度のことに最高位冒険者であるモモンとナーベが気付かないはずはない。仮にモモンから遺跡への同行を求められたのなら、ユンゲの取れる選択肢は多くない。

 了承して未知の遺跡へと生死を賭けて挑むことになるのか、或いは保身のために断るのか。

 どちらを選んだとしても誰から咎められることはないが、前者の危険は言うに及ばず、後者を選んだとしても、ユンゲは後々に悔恨の念に苛まれることは想像に難くない。

 全ての可能性を考慮したモモンは、それでも高潔な精神の下に、どのような脅威が待ち受けているかも分からない遺跡にユンゲを伴うことを良しとせずに、先に潜入したワーカーたちを見捨てるという苦渋の決断をせざるを得なかったのだろう。

 脳裡に浮かぶ“フォーサイト”の面々を救いたいと思うのなら、ユンゲが自らの言葉で同行を願い出るしかない。

 焦燥に駆られるユンゲの喉は、まるで別の生き物のように酷い渇きを訴えてくる。

 膝の震えが増しているのか、平衡感覚を失ったように大地が歪んで見えた。

 空咳を堪えるように唾を飲み込み、小さく息を吐いて呼吸を整える。

 これまでに経験したことのないほどの極度の緊張は、現実としての“死”を否応なく意識されられているためなのか。

 遺跡中央の大霊廟を守護する巨躯の戦士の構える巨大な剣が、脳天から振り下ろされるような悪寒に、自身の背が小さく震えるのが分かった。

 それでも、ユンゲには声にしなければならない言葉があるはずだった。

 躊躇いながらも一歩を踏み出した足が、青々とした丈の長い草に捉われ、ユンゲは前方へと蹌踉けてしまう。

「――っ、大丈夫ですか?」

 咄嗟にユンゲの手首を引いて支えてくれたマリーが、驚いたように声を上げた。

 声が震えないようにと絞りながら小さく「大丈夫だ」と返し、ユンゲは再び足を踏み出そうとして――、その場に静止する。

 訝るように向けた視線の先、マリーの白く細い指先はユンゲの袖口を掴んだままだった。

 上目遣いに見つめてくる、澄んだ湖面のような碧の眼差し。万感では片付けられない様々な感情が渦巻く瞳の中にあって、なお色濃く映し出されるのは暗い不安の翳り――短杖を握り締める、もう一方の手が込められた力のために赤く滲んでいた。

 眩しいほどの日差しが、じりじりと肌を焦がすように照りつける。

 自らの行為を恥じるように視線が伏せられ、ユンゲの袖口を解放すると鼻腔をくすぐる甘い香りが遠ざかっていく。

 サイドで括られた艶やかな金髪を萎れるように俯向くマリーの姿を前に、ユンゲは力なくかぶりを振り、口を噤むことしかできなかった。

 

 やがて、意を決した“スクリーミング・ウィップ”のリーダーが、モモンの言葉に賛意を伝えたことで、ベースキャンプの解体と冒険者たちの撤退は決定事項となった。

 

 




“深読み”スキルは、ユンゲにも標準装備。


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(Side-M)葛藤

なんとなく“オリ主の視点7話+別キャラの視点1話”という形で、これまで物語を進めていますが、色々な視点から描いたほうが読んでいただける方には分かりやすいのかなぁ、と悩む今日この頃です。

荒れた天候が続いておりますので、皆様十分にお気をつけください。


 気落ちした重苦しい空気の中で、冒険者たちは設営していたテントを解体し、遺跡攻略のために持ち込んでいたアイテムとともに大型の荷馬車へと積み直していく。

 未知の冒険に思いを馳せながら荷積みを進められた出発前とは異なり、撤収作業はどこか身の入らないまま続けられている。

 今回の依頼のために用立てられた、軍馬五頭以上という破格の値段で取引される八足馬〈スレイプニール〉が、その尋常ならざる膂力を発揮する機会は訪れなかった。

「……そう思い詰めるな、マリー」

 背後から投げかけられた声に、僅かばかり身を強張らせながら振り返る。

 口許に柔らかな笑み浮かべたリンダが、「マリーが悪いんじゃない」と言い含めるように言葉を続けた。

「でも、私のせいでユンゲさんが――」

「マリーがしなかったなら、私が止めていたさ。……危ないから行かないで欲しい、とな」

 だから私も同罪だ、と冗談めかすように肩を竦めてみせるリンダに、返すべき言葉を見つけられず、マリーは俯向くことしかできない。

 バハルス帝国内でも腕利きの請負人〈ワーカー〉たちを呑み込んだ未知の遺跡を前に、何が正しい選択だったのか、マリーには判断することができない。

 それでも、意を決した様子のユンゲは遺跡の危険性を承知しながらも、“漆黒”の二人とともにワーカーたちを救出するために動こうとしていた。

 そして、まだ生き残っていたかも知れない者たちの全ての可能性を閉ざしてしまったのは、マリー自身の浅はかな行為だった。

 小さく呼吸を整えたユンゲが一歩を踏み出した、あの瞬間――言い表すことのできない嫌な予感に、思わず駆け寄ってしまっていた。

 前のめりに倒れかけたユンゲを咄嗟に支えた場面までは良かった。

「……なんで、離さなかったの?」

 伏せたままの視線で自らの右手を見つめながら、マリーは情けない気持ちを吐露するように疑問を心の内に投げかける。

 ユンゲの袖口を掴み、離そうとしなかった小さな手――なんて醜く浅ましいのだろう。

 取り繕うための言い訳なら、いくらでもあった。

 未知の遺跡は表層が墓地であり、遺跡内に棲まう者たちが外部へ出入りしている様子のないことから、おそらくはアンデッド系のモンスターが跋扈しているものと予想されていた。

 あの時点で、ワーカーたちの潜入から既に半日以上の時間が過ぎており、かなり希望的に見積もったとしても彼らが生存していた可能性は高くない。

 また、如何にマリーでは想像も及ばない最高位アダマンタイト級の冒険者の“漆黒”に加えて、ユンゲが同行したとしても、一切の情報も得られていない中での生存者の捜索は、人の手の届かない深い森の中で特定の希少な薬草だけを見つけ出さなくてはいけないほどの困難だろう。

 何より遺跡内の脅威が判明していない以上、生息するモンスターの難度や巧妙な罠の類いのために、強行突入した“漆黒”やユンゲさえも帰還が敵わない可能性すらあったのだ。

 大切な相手がどこか遠くへ連れ去られてしまうような怖ろしい悪寒に駆られたとき、マリーはユンゲの袖口を掴んだ手に込めた力を緩めることができなくなっていた。

 しかし、それらはどこまでも言い訳に過ぎなかった。

 自らに差し伸ばされた救いの手を臆面もなく取って置きながら、他人に向けられようとしていた救いの手まで、図々しく自らのものとしてしまう。

 誰からも嘲笑されるほどの、見下げるほどの強欲さだった。

 何の見返りも求めないままに見ず知らずのマリーやキーファ、リンダを最悪の奴隷身分から解放し、剰え足手纏いにしかならない三人を見捨てることもなく、ともに“チーム”として歩んでくれるほどの底抜けなお人好しが見せた苦渋の表情。

 彫りの深い切れ長なユンゲの瞳、その最奥に宿っていた哀惜の色が、自らの醜悪さを白日の下に曝してしまう残酷な鏡のようにマリーの胸は詰まり、小さく悲鳴のような嗚咽がこぼれた。

「……なんで、信じて送り出すことができなかったの?」

 答えを求めることのできない問いが、青草の薫る緩やかな丘陵を渡っていく風に吹き散らされる。

 

「あの状況では次善の選択をするしか道はなかった。あまり自分ばかりを責めるんじゃないぞ」

 葛藤の合間を縫うように穏やかな声音で告げたのは、思い詰めるようなマリーの様子を見遣ったリンダだった。

 すらりとした腰に手をやりながら、真っ直ぐにマリーを見つめてくる蒼の凜とした眼差し。やおらと顔を上げれば、いつもの慈愛に満ちた笑みを浮かべるリンダの立ち姿があった。 

 その涼やかでも温かな笑顔を直視できず、マリーは視線を足下に落としてしまう。

 不意に、肩を軽く叩かれた。

「……強くなろう、マリー」

 さらりとした長い銀の髪が、中天からの降り注ぐ明るい陽の光に、冴え冴えと鮮やかな白に輝いていた。

「今の私たちではとても叶わないが、いつかユンゲ殿とともに立てるように……守られるだけでなく、いつか背中を預けてもらえるように――今日の後悔を糧にして、強くなろう。先に散った者たちからは、傲慢と責められても仕方ないが、今の私たちにはできることは何一つもない。悔しいし、あまりにも情けないが、嘆いても現実は変えられない」

 何かに急き立てられるかのように、ひと息に言い切ったリンダが深く息を吐いてから、ゆっくりと顔を持ち上げてマリーを見据える。

「……だから、私は強くなると決めた。自分の弱さを嘆いて苦しみや痛みに、生き恥に堪えるだけの時間は、もう要らない」

 穢されてしまったと羞恥に震え、自らの身体を心の内まで刻むように傷つけていた過去と決別するように――遠い記憶の中、遥かに霞んでしまうほど懐かしい故郷での日々にあった、柔らかくも凛々しいリンダの微笑み。

「だから、私は強くなると決めた。“泣きべそ”マリーは、どうしたい?」

 同じ言葉を言い聞かせるように重ねたリンダが、悪戯っぽくしなを作って問いかけてくる。

 色鮮やかな織物のように広がる大空の青と大地の緑とが、視界の中で溶け合うように滲んでいく。目に痛いほどの眩しさは、目許に溢れ出す冷たい雫に乱反射する日差しの輝きだった。

「……守られるだけなのは、嫌だ」

 口からこぼれた小さな呟き。不安を抑えられないままに見上げれば、マリーよりも頭二つ分くらい高い位置で、リンダが先を促すように小首を傾げる様子が目に映る。

 サイドで括った髪を振り乱す勢いで、かぶりを振った。

「一緒に歩けるようになりたい」

 今度の言葉は、はっきりと口にすることができた。

 吹きつける風にも散らされることのない、確かな想いを込めた言葉だった。

 真摯な態度で耳を傾けてくれたリンダが、一つ小さく頷きを返してくれる。

「……なら、やらなくてはいけないことばかりで、これから大変だな」

 凝り固まっていた緊張の糸を解すようにリンダが口調を緩め、「先ずは顔を拭こうか。涙と鼻水で大昔の“泣きべそ”マリー、そのままになってるぞ」と冗談めかせながら背負い袋に手を伸ばして、一枚のタオルを引っ張り出した。

 不名誉な幼い頃の渾名に苦笑しつつ、マリーはリンダの差し出してくれたタオルを受け取って顔を拭う。

「マリーは、昔から悪い方にばかり考え過ぎる癖があるからな」

 揶揄うようなリンダの声音を右から左へと聞き流して、マリーは心地良いタオルの手触りに深く顔を埋める。

 自らの口にした言葉を胸の内で反芻し、噛み締めるほどに想いは強くなっていった。

 後ろ向きな気持ちを刮ぎ落とすつもりで、マリーは顔にゴシゴシとタオルを擦りつける。

 そうして、やおらとマリーが顔を上げれば、やれやれとばかりに溜め息をこぼしたリンダの苦笑いが迎えてくれた。

「ふふっ、強く拭き過ぎて、鼻が赤くなってしまってるじゃないか。……良い顔になったな」

 リンダの手がゆっくりとマリーの頭へと伸び、細く長い指先がほつれてしまった髪をさらさらと梳いていき、柔らかく撫で回してくれる。

 どこか擽ったくも懐かしい感覚に、マリーは堪らなくなって目を細めかけ――、「さて、優しいお姉さん役はここまでだ」というリンダの言葉に、ハッと気付かされて目を見開いた。

「結構な時間をかけてしまったからな、早く作業に戻ろう」

 意識を切り替えるようにリンダが凛とした口調で言い差し、不意に相好を崩しながら言葉を続けた。

「……それに、キーファにばかり良い思いはさせられないからな」

 肩越しに向けられたリンダの視線を追っていけば、八足馬に繋がれた荷台の辺りには言葉を交わしながら荷積みをしている二人の姿。

 思わず震えかけた肩に、ポンッと手の置かれる感触があった。

「お互い、頑張らないとな?」

 溢れてくる笑いを堪えるようなリンダの声音。「何を?」と訊き返す無粋な真似をマリーはできない。

 問うまでもなく、皆が同じ想いを抱いていることは既に知れている。

「……そうだね」

 肩の力を抜くように一つ深呼吸をして、マリーは深緑の大地を踏み締めるように駆け出した。

「リンダ、早く行こう!」

 走りながら後ろを振り返って声を投げたなら、「……調子の良いヤツめ」と呆れるように溜め息を吐いたリンダが、苦笑とともに追いかけてくるのが見える。

 自然と綻んでしまう口許から、楽しげな笑い声がこぼれた。

「こらっ! 待て、マリー」

「ダメ、待たない!」

 背中を押してくれるような風に身を委ねて、マリーはどんどんと足を早めていく。

 騒がしいやり取りに気付いて、こちらに向けられた愛しい顔に驚きの表情が浮かぶ。

 もう止まれない。そのままの勢いに任せて、思い切り良く地面を蹴って飛び込んだ。

「――うわっ!? ととっ、突然どうしたんだ?」

 思い描いた通りに抱き止めてくれた温かさに、軽やかな心が弾む。

「……私、強くなりますから!」

 上目遣いに仰ぎ見ながら、マリーは決然と宣言する。

 からりとした秋晴れの空に金のざんばら髪が燃え立つように映え、深い湖のような青の瞳には特大の疑問符が浮かぶ。

 焦っている様子には構わず、問われる前に抱きついて厚い胸板に頬を寄せ――、マリーを追って駆け寄ってきたリンダから、小さな拳骨を落とされた。

「……痛いよ、リーちゃん」

 調子に乗り過ぎた自覚はあったので、マリーは控えめな抗議をこぼすが、「自業自得だ、バカ!」とリンダには術なく一蹴されてしまう。

「…………ていうか、二人ともいきなりどうしたんだ? 何かあったのか?」

 ようやくと状況を認識したらしいユンゲから、当然の疑問の声が上がる。

 辺りの様子を確かめるように、ユンゲが視線を巡らせる一瞬の間に目配せを交わし、マリーはリンダとともに声を合わせて答えた。

「「何でもありません!」」

 どちらからともなくこぼれた笑い声が重なり、涼やかな風に乗って舞うように見渡す限りの広大な草原を渡っていく。

「ありがとね、リーちゃん」

 ふと昔の呼び名で声をかけていたことに気付いたが、それもまた良かったのかも知れない。

 ユンゲと同じように疑問符を浮かべていたキーファが訳知り顔となり、リンダと一緒に強く抱き締められる。

 故郷からともにした三人の仲間で肩を寄せ合いながら、心の底から楽しいと笑える日が戻ってきた感慨に、マリーの口許は柔らかな笑みを形作っていた。

「……いや、意味が分からないんだけど」

 ただ一人だけ蚊帳の外に置かれたユンゲの問いに答えてくれる相手はなく、身動ぎした八足馬の上げた嘶きによって、詮なくかき消されてしまうのだった。

 

 *

 

 ナザリック地下大墳墓の最奥に位置する、最重要施設である玉座の間――見上げるほどに大きく重厚な扉の左右には、今にも動き出しそうなほど精緻な女神と悪魔の美しい彫像が傅くように並び立ち、煌めくばかり金を散りばめた装飾の施された白亜の壁面には、それぞれのギルドメンバーを描いた巨大な旗が垂れ下がる。

 天井から吊り下げられた豪華なシャンデリアからは、七色の宝石で作り出され幻想的な輝きが降り注いでおり、中央に敷かれた毛足の長い真紅の絨毯の伸びる先、十数段を上がった大理石の絢爛優美な壇上には、巨大な水晶から削り出した世界級アイテム〈諸王の玉座〉が鎮座している。

 傍らに守護者統括たる純白の悪魔――アルベドを伴いながら、支配者然として優雅に腰かけた玉座のアインズは、ナザリックの各種データを表示させたモニターに視線を巡らせ、「……見事だ」と重々しく口を開いた。

「侵入者は脆弱ではあったが、この世界の人間の中ではそれなりに力を持つ者たち。それをこの程度の支出で討ち取れたのだから、今後の防衛をアルベドに任せて何も問題はないな」

 アインズの発した褒め言葉に、緊張した面持ちから一転して安堵の表情を浮かべたアルベドが、「ありがとうございます」と深々と頭を下げる。

 コストが必要となる罠の使用は最小限に抑えつつ、事前の想定通りに侵入者たちを踊らせて、鮮やかに迎撃してみせたアルベドの手腕は、やはり素晴らしいという一言に尽きた。

 この成果をもって、デミウルゴスの立案した“アインズ・ウール・ゴウン”による世界征服を進めるための計画は、次の段階へと移行することが可能となる。

「ところで、地表部にてこちらの監視を続けている者たちについては、いかがいたしましょうか?」

「……冒険者たちか。連中がナザリックに対して害をなさない限り、こちらから手を出す必要はない。何かあれば、パンドラズ・アクターが上手く対処するだろう」

 畏まりました、と恭しく答えるアルベドの様子を横目にしながら、アインズはいくつも表示しているモニターの内から、ナザリックの地表部を映しているものへと目を向ける。

 侵入者たちの末路を知ることもなく、律儀に警戒を続ける二組の冒険者たち――自らの意思でナザリックへと侵入し、アインズが仲間とともに築いた財貨を掠め獲ろうとした薄汚い請負人〈ワーカー〉どもとは異なり、分相応を弁えている相手には対応を変えるべきだろう。

 玉座の肘掛けに置いた骨の手に、思わず力を込めてしまったのは、第六階層の円形闘技場でみせてしまったアインズ自身の失態を思い出してのことだった。

 事もあろうに仲間の名を騙ろうとした憎むべき盗っ人の戯れ言に、アインズが僅かでも付き合ってしまったのは、やはり別のプレイヤーの存在を意識させられていたからなのかも知れない。

 モニターの中央には、小高い丘の頂きに胡坐をかいてナザリックの地表部を見下ろしながら、先ほどから大口を開けてエルフ特製の焼き菓子だという“レンバス”を食べ続けている、風変わりな冒険者の様子が映し出されている。

 このユンゲ・ブレッターという自分以外のプレイヤーの存在――既に様々な検証を重ねた上で、この仮説はアインズの中で確信となっている――が、どうしてもアインズの胸の内にある小さな希望を抱かせてしまうのだ。

 即ち、ユグドラシルにおける最凶にして最高のギルド“アインズ・ウール・ゴウン”のかけがえのない仲間たちが、今のアインズと同じようにこの異世界へと転移している可能性だ。

 精神抑制に助けられるアインズとしての冷静な思考では、そのあまりにも儚い可能性を理解していながらも、鈴木悟の残滓とでも言うべき心の奥底には、かつての仲間を探し求めてしまう弱々しい自分自身の姿があった。

(…………そう言えば、貰ったレンバスをナーベラルに渡していなかったな)

 無理やりと意識を切り替えるように、アインズは別のことに考えを巡らせようとしてみる。

 モモンとして未知の遺跡に臨みながら薄曇りに霞む夜空を見上げ、思わず感傷的な気分になり弱音を吐いてしまったアインズを気遣うように、ユンゲからは二つのレンバスを手渡されていた。

 アンデッドの身体では食べることもできないと直ぐに意識の外に追いやってしまっていたが、ナーベのためにと渡された分までアイテムボックスにしまい込んでいる訳にはいかないだろう。

(……どんな味がするんだろうか)

 凄まじい勢いでレンバスを食べ続けるユンゲの姿は、それだけでありもしない胸焼けを覚えるほどだが、傍らに駆け寄ったエルフの少女から更に追加の包みまで受け取っているところを見れば、相当に美味しいのだろうということは想像に難くない。

 そうして、隣に腰を下ろした少女と楽しそうに言葉を交わしている様は、長年を連れ添ったようにとても自然体であり、常に絶対的な支配者としての行動を求められてしまうアインズとって、酷く羨ましい光景に映るのだった。

(……いや、自業自得だとは分かっているんだけどね)

 この世界に転移した直後は、守護者たちからの忠誠を信じ切ることができず、虚勢を張るように最上位者としての役回りを演じるほかになかったのだが、今にして思い返せば、あのときの尊大な振る舞いが守護者たちに完全無欠な支配者たるアインズのイメージを形成してしまう端緒だった。

 それ以降も際限なく上昇していく守護者たちからの忠誠を思えば、今更になって膨らみ過ぎている偉大なる支配者としての虚像を修正することも憚られてしまう。

 しかし、どこまでも気の休まることのない支配者としての生活は、アンデッドである肉体的にはともかく精神的な疲労が積もっていくことから逃れられない。思えば、モモンという冒険者を作り出したことも、最初は現地の情報収集を名目としたアインズの気晴らしに過ぎなかった。

(……単なる小卒のサラリーマンだった俺には、荷が重いんだよなぁ)

 誰にともない言い訳と愚痴を心の内でこぼしつつ、縋るような思いでアインズは再びモニターに映るユンゲの姿を見つめる。

 同じく“ユグドラシル”のプレイヤーであり、突然の異世界転移を経験した境遇にあるはずのユンゲとならば、或いは何か分かり合えることもあるのだろうか。

 ユンゲを通して仲間の存在を強く意識してしまったからこそ、情緒が不安定になっている自覚はあったものの、腹を割った関係となって気兼ねない話をしてみたいという思いに駆られるアインズは、存在しない胃痛を堪えるような心境に至っていた。

「……アインズ様、少しばかりお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」

「――えっ」

 暗い思考に沈んでいたアインズの意識は、不意のアルベドからの問いによって呼び起こされる。

「どうした、何か問題がでもあったのか?」

 焦りを取り繕うようにアインズは慌てて言葉を紡ぎながら、慈母のような笑みを浮かべたアルベドへと向き直る。

「実はご提案がありまして、先ほど円形闘技場にて愚か者どもが言った件に関してなのですが――」

 そうして、アルベドの流暢な話し振りに耳を傾けながら、アインズの胸の内には郷愁にも似た寂しさが次々と去来してしまうのだった。

 

 




物語の時系列的には、前話の前半部→今話の後半部→前話の後半部→今話の前半部となります。

前話の最後辺りで、ユンゲがナーベから睨まれていた理由については、モモンからレンバスを手渡されたナーベが「至高の御方からはとても受け取れない」等々のやり取りを挟みつつ、最終的には受け取らされて内心で喜んでいたところ、ユンゲからの贈り物だと知らされて、がっかりさせられたといった感じでしょうか。

なお、原作の通りにアルベドとパンドラを主体とした“至高の御方々を捜索する最強のチーム”は結成されました。


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scene.5 帝都に潜む影
(29)兎耳


-これまでのお話-
モモンからの誘いを受け、遺跡調査の依頼に同行したユンゲたち“翠の旋風”は、潜入したワーカーたちの全滅という事態に直面し、未知への恐怖に抗うことができないまま失意のうちに帝都へと帰還する。
自分たちの未熟さを思い知った一行は、短い旅の中で見つけたそれぞれの目標を胸に成長すること決意するのだった。


「なるほど、“緑葉”のパルパトラが率いる“竜狩り”まで……請負人〈ワーカー〉とは言え、帝都でも腕利きで知られる彼らが全滅となれば、いよいよ楽観視することはできそうにないな」

 長机の上で組んでいた両手に顔を埋めるようにしながら、帝都アーウィンタールの冒険者組合を預かる初老の男が力なく言葉を口にした。

 そのやや虚ろな視線は、今回の依頼で存在を確認された、未発見だった遺跡に関する報告書に向けられている。

 いつにも増して活気を感じられない帝都冒険者組合の二階奥の会議室、旅装姿を解かないままに集められたユンゲたち冒険者と組合の職員が、それぞれ対面の席に着いて話し合いは進められていた。

「――地表部の墓地は良く整備されており、何者かが定期的に手入れをしていることは間違いないかと思われますが、姿を確認することはできておりません。また、時代背景の分からない建造物として、中央に大きな霊廟と四方に建てられた小さな霊廟を確認できておりますが、内部の構造は全くの不明です」

 会議の進行役を買って出てくれた“スクリーミング・ウィップ”のリーダーが、淀みなく説明を続ける。

 遺跡に潜入したワーカーチームが、未帰還となったことによって依頼の中断を余儀なくされてから、帝都までの帰路という僅かな時間で報告書をまとめ挙げたのも彼の功績だった。

 遺跡へと向かう行きの道中には、モモンへの憧れを熱く語っていた本人は良い顔をしないだろうが、戦士系統よりも吟遊詩人のような職でこそ大成しそうな若者だ。

(……仕事のできる人って、こんな感じだよなぁ)

 流暢な語り口を聞きながら、ユンゲはつい場違いな考えを抱いてしまう。

(……けど、改めて思い返してみると分からないことばっかりだな)

 精巧に過ぎる騎士や女神の彫像とともに、気味の悪い乱杭歯のような墓標が、秩序もなく歪に立ち並んでいる異様な光景――どれほど優れた語り部であっても、眼下に眺めた遺跡から感じた居心地の悪さは、実際に体験した者にしか伝えることはできないだろう。

 脳裏に思い浮かべてしまった陰鬱な景色を振り払うように、ユンゲは会議の場へと意識を戻した。

「……件の遺跡が危険であることは理解するが、具体的な脅威の不明な現状では、対策を講じることはできないではないか」

 一通りの説明を聞き終えた組合長が、肩を落としながら苦渋の声をこぼす。

 ユンゲたちが持ち帰ることのできた情報は、遺跡の外観とミスリル級に相当する実力者たちが全滅してしまったという事実だけだった。

 撤退を決めた時点で、ワーカーたちの救出可否は別にしても、少しでも内部の様子を探った上で、帝都まで情報を持ち帰るべきだったのかも知れない。

 しかし、遺跡に突入する提案を躊躇ってしまったことに後悔はあっても、ユンゲは命を落とすかも知れない恐怖に抗うことはできなかった。

 マリーに止められたから、残されてしまう彼女たちのことを考えて……などと言い繕ったとしても、耳触りが良いだけの自分自身に向けた言い訳に過ぎない。

 端的に自分が死にたくないから、ユンゲは良くしてくれたフォーサイトを始めとするワーカーたちを見捨てたのだ。

 その事実から目を背けるために、マリーの気持ちを体良く利用してしまったという情けない負い目まで加味されたのなら、ユンゲは自己嫌悪を覚えずにはいられなかった。

 

「先ずは、刺激をしないことでしょう」

 組合長の発言に顔を見合わせていた一同の視線が、落ち着いた声音の主へと向けられる。

 一身に注目を集めながら、少しの動揺も見せなかった“漆黒の戦士”モモンが、居並ぶ顔触れを見回して冷静に言葉を続けた。

「あれほど荘厳な遺跡が、これまで未発見だったことから推察するなら、下手に欲をかいて関わろうとしなければ、先方側も問題視しないものと愚考します。どれほどのワーカーに依頼参加を打診されていたかは分かりませんが、現状で遺跡の存在を完全に隠蔽することは不可能だと思われますので、先ずは無用な接近を禁じることが第一となるのではないでしょうか?」

「……確かに未知の遺跡ともなれば、一獲千金を目当てに後追いする者が出てくる危険性が高いな」

 モモンの言葉に首肯した組合長が、丁寧に整えられた顎髭に手をかけながら感心したように言葉を重ねた。

「組合内で周知するとともに、国の上層部にも提言するとしよう」

「よろしくお願いします。合わせてエ・ランテルの冒険者組合にも使いを出して頂くことは可能でしょうか?」

 ユンゲの預かり知らぬことではあったが、遺跡の所在はバハルス帝国よりもリ・エスティーゼ王国領に程近い場所にあったらしいので、モモンの提案は的を射たものだった。

「なるほど、道理だな。注意喚起のための早馬をすぐに手配させてよう」

 組合長の快い返答に、「感謝します」とモモンが深々と頭を下げる。

「いや、モモン殿の見識の広さには驚かされた。できるなら、すぐにでも帝国側に移籍してもらいたいくらいだよ」

 戯けたように笑ってみせる組合長だが、口にした言葉は多分に本音を含んだものだっただろう。

 冒険者としての実力ばかりか、頭の回転一つとってもユンゲでは、とても及びそうにない。模擬戦を通して抱いた憧憬にも似た感情から、モモンに近づきたいと不相応に考えたまでは良いものの、目指すべき頂きはあまりにも高そうだ。

 内心の思いに苦笑しつつ、ユンゲは静かにかぶりを振った。

「今後の対応については、時間をかけて検討する必要があるな」

 言い差した組合長が、席に着いた一同へと視線を巡らせてから言葉を続けた。

「今日のところはこれまでにしよう。皆、ご苦労だった。追加の報酬も用意して置くから、今はゆっくり休んでくれ」

 

 *

 

「モモンさんも、暫くは帝都に滞在されるんですね」

「ええ、有難いことにいくつか名指しの依頼もいただいておりますので……もっとも、あまり長くはエ・ランテルを離れている訳にもいかないのですが」

 最高位のアダマンタイト級の冒険者ともなれば、引き抜きを警戒する組合からの要請なども多いはずなので、ユンゲには分からない気苦労もあるのだろう。

 やれやれとばかりに、モモンが額に手をやりながらかぶりを振ってみせる。

 ユンゲとしては、「有名になるというのも何かと大変そうですね」と軽い気休めの言葉をかけることしかできないが、モモンは肯定も否定もせずに小さく肩を竦めただけだった。

 モモンの反応に何気なく周囲の様子を窺ってみれば、冒険者組合の受付に面した一階のロビースペースには――エ・ランテルの冒険者組合と比較したなら、いくらか寂しい賑わいであったものの――数々の英雄譚を成した“漆黒”に知己を得ようとする多くの冒険者たちの姿が視界に映る。

 モモンと話し込んでいる邪魔者のユンゲが離れたならば、我先に話しかけようと互いに牽制しつつ、タイミングを図っているような気配すらあった。

 他人の目が多い中で、モモンとしても迂闊な発言はできないのだろう。

遅まきながら事情を察したユンゲは、「……すみません」と小声で言葉を区切ってからモモンに向き直った。

「今回は依頼にお誘い頂きありがとうございました。自分の未熟さを知る、良い機会になりました」

 英雄たるモモンにしても不本意な結果となってしまっただろうが、この衆目が集まる場で、ワーカーたちのことに言及することはできない。

「――またの機会があれば、精進した姿を見せられるよう、これから励みたいと思います」

 決意を表明するためにユンゲが言葉を重ねれば、「こちらこそ、そのときを楽しみにしていますよ」とモモンもまた朗らかに応じてくれた。

「帝都にいる間は同じ宿に滞在するつもりですので、いつでもいらして下さい。時間のあるときにでも、また模擬戦に付き合ってもらえたなら幸いです」

「――本当ですかっ!?」

 モモンからの思いがけない誘いに、意図せずユンゲの声は上擦ってしまう。

「ええ、とても有意義な時間でしたからね。私の方からお願いしたいくらいですよ」

 背に担いだ二振りの巨大な剣を後ろ手に示しながら、モモンが面白そうに肩を震わせた。

 モモンの突出した実力を思えば、まさか魔法詠唱者のナーベが相手をする訳にもいかないはずなので、日々の稽古の相手にも困っているのかも知れない。

「……なら、遠慮なくお邪魔させてもらっちゃいますよ」

「ええ、歓迎します」

 快活な笑いとともに差し出されたモモンの手を握り返して、ユンゲも口許を綻ばせかけ、「……っと、あまりお時間を取らせてしまっても申し訳ないですね」と不意に周囲からの視線――主として射殺さんばかりの鋭い眼光は、モモンの背後に従者然として控えているナーベからの絶対捕食者が持つ零下の眼差しだ――を感じて、慌てながら言葉を紡いだ。

 すっかりと心得ている様子のモモンと短く目礼を交わして、先に宿へと戻って休ませてもらう旨を告げてから、ユンゲは静かに踵を返す。

 そうして、長らく待たせてしまっていたマリーたちを伴い、ユンゲはそそくさと冒険者組合を後にするのだった。

 

 *

 

 良く晴れた昼下がりの帝都アーウィンタールには常らしく多くの人々が行き交い、威勢の良い客引きの声や遊びに忙しい子どもたちの声が路上に溢れ、豊かな活気に満ち満ちとしている。

 しかし、すっかりと見慣れた街並みの喧騒は、一方でどこか物々しい気配を孕んでいるような印象があった。

「……なんか、いつもと雰囲気の違うような気がしないか?」

 何とはなしに問いかけつつ、ユンゲが辺りの様子に視線を巡らせたなら、ふと目に留まるのは道端で立ち止まって世間話に興じる人々の姿だ。

 老いも若きもなく、誰彼と捕まえては夢中になって雑多な言葉を交わしているような感じだろうか。

「――えっと、“漆黒の英雄”とか“美姫”……大きなドラゴンが皇城に、とか噂してるみたい」

 ユンゲの疑問に答えるように、野伏〈レンジャー〉のスキルを発揮して耳をそばだてたキーファが口を開いた。

 先に挙げられた単語は、拠点であるエ・ランテルを越えて、バハルス帝国でも評判を高めているモモンやナーベが、帝都を訪れていることに起因しているのだろうが――、

「ドラゴン?」

 後に続いた耳慣れない単語を聞き咎めたユンゲは、首を傾げながらキーファの言葉を聞き返してしまう。

「うんっ、ドラゴンの影を見たとか、見てないとか……」

 耳許に手を当てながら周囲の様子を窺ったキーファが、取り止めのない情報を咀嚼するように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「皇城に降りていく姿を目撃した人がいるみたい……なんだけど、帝国政府から何の発表もされていないから見間違いなんじゃないか、って」

 キーファの説明に照らして聞き耳を立ててみれば、確かにドラゴンや皇城といった単語が飛び交っているようだった。

「ドラゴンは街中に現れるもんなのか?」

 漠然としたユンゲの問いに、キーファたちが互いに目配せを交わす。

「……私たちの知る限りでは、そういったことは聞いたことがありません。もし、ドラゴンほどの強大なモンスターが現れたなら、帝都は大混乱になっていてもおかしくないと思われます」

 確証が持てないからか、やや自信のなさそうなリンダの返答に、「……確かに、今頃は大騒ぎになってそうだよな」とユンゲも納得して一つ相槌を打った。

 ユグドラシルとは似て非なるこの異世界において、ドラゴンがどれほどの強さを持っているかは分からないが、カッツェ平野で遭遇した骨の竜〈スケリトル・ドラゴン〉までも脅威とされることを思えば、大変な事態になることは想像に難くない。

「そう言えば、この近くだとアゼルリシア山脈に生息してるんだったよな?」

 以前に行商隊の護衛をともにした冒険者たち――お喋り好きな神官クレリックの青年――から聞いた話を思い出す。

「そのような噂はありますね。難度が百五十を超える氷雪を纏った白き竜……などと言われていますが、人里まで現れたことはないはずなので、噂もどこまで信用できるかは分からないですね」

「難度百五十か……」

 いつかドラゴンとも戦ってみたいな、というユグドラシルでは叶えられなかった思いは、自分の勝手な都合に仲間を巻き込む訳にもいかないと心の内に留めながら、ユンゲは来た道を振り返る。

 少し歩いてみただけでも、これほど街全体が浮ついているような雰囲気であれば、冒険者組合に残っていた方が噂話のより正確な情報を得られたはずだ。

 ドラゴンの出没が事実なら遭遇するかは別にしても、チームとして何かしらの対応を考えて置く必要がある。

 帝都の組合に所属する冒険者たちが、“漆黒”の二人と話したがっている無言の圧力から、早々に退出してしまったのは浅慮だっただろうか。

 夕食のときにでも冒険者の集まる酒場辺りで、情報収集をしてみた方が良いかも知れない。

 大雑把に考えをまとめつつ、ユンゲが顔を上げると不意に覗き込むようにしたリンダが、「……ところで、すぐに宿屋へ戻られますか?」と疑問の声をかけてくる。

「ん? 皆も疲れているだろうし、早めに旅装は脱ぎたいと思ったんだけど……、何かあったか?」

「いえ、休みたいのも本当のところなのですが、帝都に帰還したことをフールーダ様に報告して置くべきでは……ないか、と思いまして」

 リンダの言葉に耳を傾けるうちに、途中からユンゲとキーファの顔が曇ってしまったからだろう。

 尻すぼみになっていく声音は、余計なことを言ってしまったかと不安そうだった。

「……リンダの言う通りだと思うよ」

 力なく言葉を返しつつ、ユンゲは長い溜め息をこぼす。

 大闘技場での一件から、鮮血帝ことバハルス帝国の皇帝であるジルクニフに目をつけられ、強制ではないものの多額の報酬と引き換えに、ユンゲたち“翠の旋風”は帝都への滞在を要請されている。

 今回は冒険者の依頼ということで帝都を離れる許可をもらったのだから、元社会人としての常識に照らしても、戻ったのなら一応だけでも挨拶に伺うべきなのだろう。

 しかし、ユンゲの気分は乗らない。

 後ろめたい気持ちからか、無意識のうちに泳いでしまった視界の端では、僅かに身震いするキーファの姿があった。

 先に依頼の件を報告に行ったとき、リンダとマリーは宿の一室で魔法のスクロールを読み解いていたので、帝国の主席宮廷魔術師であるフールーダの狂気を垣間見たのは、ユンゲとキーファの二人だけだ。

 避けては通れない道であっても、できることなら人任せにしてしまいたい――などと陰鬱な考えを抱きながら、ユンゲはやおらと頭上を見上げ、整然とした帝都の街並みによって四角く切り取られた空を仰いだ。

 抜けるように高い青空には、真っ白な入道雲が聳えるように沸き立っている。

 遠目には晴れやかに映る鮮やかな青と白のコントラストも、下層に激しい雷雨をもたらすというのは、どこか残酷な世界の不条理のようにも感じられ、ユンゲは盛大な溜め息をこぼした。

 

「――っ、げえぇっ!?」

 不意に響き渡った叫び声が、ぼんやりと現実逃避の思考に耽っていたユンゲの意識を引き戻す。

 素っ頓狂な悲鳴に振り向いた視線の先で、純白のフリルと柔らかな綿花のような毛先が揺れた。

「……メイド服に、ウサギ耳?」

 目にしたままを口にするが、自然と疑問形となってしまう。

 膝丈ほどの黒いワンピースにフリル付きのエプロンを合わせた女中の仕事服に、頭にもフリルをあしらったカチューシャ。紛うことなきメイド姿の女性からは、対となる大きな白兎の耳が飛び出していた。

 その可愛らしい耳が、カチューシャに付属した飾り物でないことは、愛玩動物のような顔立ちからも明白だった。

 思いがけない光景を前に、ユンゲは状況を理解できずに首を傾げる。

 無遠慮な視線に晒されたウサギ耳のメイドは、「……あの、えっと」と言葉を紡ぐことができないままに俯いてしまう。

 意図せず注目を集めてしまったためか、その白い頬には朱みが差していくのが見えた。

「――っ、失礼しました。突然のことに少し驚いてしまいまして……」

「あ……、いえ、こちらこそ失礼しました」

 ユンゲの謝罪に、ようやくと落ち着きを取り戻した様子のウサギ耳のメイドが、慌てて頭を下げるや流れるように身を翻して、スカートの裾をバタバタと揺らしながら駆け去っていく。

 脱兎のような思いのほか素早い身のこなしに軽い驚きを覚えつつ、「……何だったんだ?」とユンゲは思わず雑踏に声を投げかけた。

「今の方はラビットマンでしたね。帝都ではあまり見かけませんが、ここより東にあるカルサナス都市国家連合から更に東へ向かうと彼女たちの国があったはずです」

 ユンゲの疑問に先回りして、リンダが記憶を探るように答えてくれる。

「……何というか、酷い驚かれ方だった気がするんだけど、不味いことしちゃったのかな?」

 人間やエルフとは価値観が異なるのかも知れないが、初対面の相手にあのような悲鳴を上げられては、いくらか鈍い自覚のあるユンゲとしても心に燻るものがあった。

「……ユンゲ殿の顔色が、ちょっと良くなかったのかも、知れないですね」

 言葉を選ぶようなリンダの声音に、ユンゲは再びの溜め息とともにかぶりを振ってみせる。

「あぁ……、あの爺様にまた会わなきゃいけないと思ったら気が重いんだよ」

「だよね、あたしも二度と会いたくないもん!」

 思いがけず力強いキーファの同意に、リンダとマリーが顔を見合わせて苦笑いを浮かべていた。

 国家の重鎮たる“逸脱者”フールーダの扱いとしては酷い言い様だが、ユンゲとしても全くの同意見なので小さく肩を竦ませるだけにしておく。

「まぁ、何にせよ嫌なことは先に済ませてしまいましょう」

 気を取り直すようにパンッと手を叩いたリンダが、疲れた様子の一行を見回して言い差した。

「……だな、気は進まないけど」

「えー。あたしは前に会ったし、お留守番してちゃダメかな?」

 両手を合わせたまま、可愛らしく小首を傾げてみせるキーファに、思わず恨みがましい視線を向けてしまう。

「――いや、なら俺だって行きたくないぞ」

「だって、ユンゲはリーダーじゃない? ほらっ、メイド服も用意しとくからさ!」

「いや、報告だけなら誰がしても同じはず……というか、メイド服ってのは何の話なんだ?」

「さっきの女の人、ジーッと見てたよね。あたしが着てあげるからさぁ」

 突拍子もないキーファの発言から、刹那の間にユンゲの脳裡をあらぬ影が過ぎる。

「……いや、ラビットマンなんて見たことなかったんだよ」

 何度目かも分からない溜め息を吐いて、ユンゲはがっくりと肩を落とした。

 喉元まで上がってきた、「どうせ、ウサギ耳をつけるなら、メイドよりもバニーガールの方が……」などという妄言を飲み込みつつ、ユンゲは摺り落ちてしまった背負い袋を担ぎ直す。

「とりあえず全員で行くぞ。さっさと済まして、早いとこ飯にしようぜ」

 無理やりと気持ちを奮い立たせるように言い切って、ユンゲは嫌がって抵抗するキーファの背を押して急かした。

「……ウサギ耳、……メイド服」

 成り行きを見守るかのように、これまで静かだったマリーの不穏な呟きは敢えて聞こえなかった振りをしておく。

 そうして、帝都の街並みに溢れた人混みをかき分けながら、ユンゲは憂鬱な気持ちを抱いたままに帝国魔法省へと足を向けるのだった。

 

 




“エルフ耳×ウサギ耳”は、何となく邪魔になりそう……。

原作新刊の発売日が決まりましたね!
あらすじを読む限り、王国編の最終章といった感じのようですが、この二次創作では出番のない方々の色々なフラグが回収されてしまいそうで……。
どのような結末を迎えるかは分かりませんが、とにかく楽しみで仕方ありません!!


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(30)馬耳 

馬の耳に念仏とか、馬耳東風とか慣用句的には碌な使われ方をしないものの、馬ってかなり遠くの音まで聞き分けられるみたいですね。


「なんか、拍子抜けだったね。あの遺跡のこととか、もっと色々なこと訊かれるのかと思ってた」

「……だな。また長いんだろうな、って身構えてただけになぁ」

 溜め息とともにユンゲが同意を示せば、数歩先で小さく肩を竦めてみせるキーファの、後ろ手に括った栗色のショートポニーが小さく弾んだ。

 緊張から解き放たれた後に訪れる、どこか気怠いような感覚に顔を顰めたユンゲは、凝った身体をほぐすように大きく伸びをしながら背後を振り返る。

 周囲の建物よりも一際高い塀の向こう、更に天高く伸びる帝国魔法省の尖塔を見上げれば、上空を旋回する皇室空護兵団の影が警戒のためだろうか、以前に訪れたときよりも多く目に映った。獅子の体躯に大鷲の頭と翼を持った、飛行魔獣の優雅な飛び姿をぼんやりと眺めていると――、

「未知の遺跡よりも、“漆黒”のお二人に関心があるようなご様子でしたね」

 やや躊躇ったように口を開いたのはリンダだった。

「……モモンさんたちも、いきなり皇帝陛下様とご対面させられるのかもな」

「確かに……そうですね。あの方々なら問題はないでしょうが、念のためにお伝えして置いた方が良いかも知れませんね」

 帰還の報告のために訪れたユンゲたちを迎えたフールーダは――先の嫌な予想とは異なり――その風貌に相応しい理知的な佇まいで、こちらの話に耳を傾けてくれた。

 あまり口にしたくはなかった、請負人〈ワーカー〉たちに関する経緯を最小限に済ませることができたのは、ユンゲにとっても幸いだった。

 気になったことと言えば、リンダの指摘するように“漆黒”の二人に関連する話題に対するフールーダの反応が、やたらと大きかったことだ。

「でも、なんていうか……前みたいに根掘り葉掘り訊き出してやる、って感じではなかったよね」

 上体だけでくるりと振り返ったキーファが、しなをつくるように小首を傾げる。

 キーファの言葉に思い返してみると“漆黒”の二人について訊ねるフールーダの様子は、敬意に溢れたと言うべきか、どこか憧れの人について知りたがる少年のような――稀代の英雄と称されるに相応しい立ち振る舞いに魅了された、ユンゲ自身がモモンに抱いている憧憬の気持ちにも通じるような――純粋さを孕んでいる印象さえ覚えたものだ。

 モモンの圧倒的な実力を一端でも知るユンゲとしては、その気持ちを理解できなくもないのだが、二百年のときを生きて“逸脱者”とまで呼ばれ、バハルス帝国の首席宮廷魔術師の地位を授かる要人の在り方としては、些か思慮に欠けた態度だったようにも思える。もっとも、初めて対面した帝国魔法学院での出来事や先日の一幕を顧みれば、今更に過ぎるユンゲの感想かも知れないが――。

 僅かな違和感を覚えつつも、キーファに同意を示すためにユンゲが、一つ重々しく頷いてみせると傍らを歩いているマリーの横顔には、小さく苦笑いが浮かんでいた。

「いや、本当に酷かったんだぞ。質問の度にドンドンと距離を詰めてくるから、最後には壁際まで追い込まれて――」

「そうそう! しかも質問するばっかりで、碌にユンゲの答えも聞かないまま勝手に納得しちゃって、ずーっと叫び続けてるんだよ!」

 熱量を持ったユンゲの抗弁に、キーファまで勢い込んで参戦されてしまえば、突然の矛先を向けられてしまったマリーとしてはお手上げだろう。

「えっと……前のときは、よほど大変だったんですね」

 しみじみと言葉を紡いだマリーが、陰に隠れるようにそそくさとリンダの背後へと回っていく。

 リンダの腕をとったままに、こちらの様子を窺うようなマリーを見遣れば、少しばかり大人げない態度だったかも知れないと思わないでもないユンゲだったが、件の遺跡に感じた言い知れない怖ろしさと同じように、やはり実際に狂人〈フールーダ〉を体験した者にしか伝わらないものがあるはずだった。

 そんなユンゲの思いを知ってか知らずか、両手を顔の左右で構えたキーファが稚気を発揮して、マリーを驚かせるようにわざとらしく声を上げながら迫っていけば、いつの間にか呆れ顔のリンダを中心に据えた軽い追い駆けっこが始まっていた。

 これまでの境遇のためにどこか遠慮がちな姿勢の多かった彼女たちも、徐々に“らしさ”と言うべきか、本来の気質を取り戻しているような雰囲気に、ユンゲの口許は自然と緩んでしまう。

「……まぁ、何にせよ報告も終わりましたので、宿に向かいましょうか?」

 戯れ合うキーファとマリーを交互に眺めてわざとらしくかぶりを振ったリンダが、気を取り直すように落ち着いた口調で問うてくる。

「そうだな。身軽になったら、早いとこ美味いもん食いにいこーぜ」

 呆れたような雰囲気を醸しつつもどこか楽しそうなリンダの様子に、ユンゲは小さく肩を竦めてみせながら同意をするのだった。

 

 *

 

 依頼の出発前に買い込み過ぎた酒樽の倉庫代わりとして、宿屋の一室は借りたままにしていた。

 その手慣れた宿屋へと戻ったユンゲたちが旅装を解き、簡単な湯浴みと近場の酒場で夕食を済ませた頃には、眩いほどの夕陽を市壁の向こうに見送った帝都は、すっかりと夜の装いになっていた。

 人気の引いた路地の暗がりを照らす、淡い<コンティニュアル・ライト/永続光>の街灯を道なりに進みながら目で追っていく。

「……あんまり有力そうな情報は得られませんでしたね」

 いつもはサイドで括っている髪を肩ほどに下ろしたマリーが、やや伏し目がちに口を開いた。

 街中で噂になっていたドラゴンの真偽を確かめたいのも兼ねて、夕食には冒険者の入り浸る酒場を当たってみたのだが、思ったように情報は集まらなかった。

 先に予想できたことかも知れないが、冒険者たちの話題の中心は、帝都を訪れている新鋭のアダマンタイト級冒険者“漆黒”についてであり、依頼や討伐対象になりようもない謎のドラゴンに関心を寄せる者は少数派のようだった。

 もしも、この世界がユグドラシルのようなゲームの中であれば、未知を求めて新たな冒険を志す者も多いのだろうが、実際に生命を落とすかも知れない危険を冒してまで、英雄譚に挑むことのできる存在はひと握りの選ばれた者に限られている。

 それは、未知の遺跡を前に尻込みしてしまったユンゲとしても、良く理解できることだった。

「やっぱり、フールーダ様にお会いしたときにお話を伺ってみるべきでしたかね……ふふっ、冗談です」

 慌てて首を振るユンゲとキーファを見遣り、悪戯っぽく笑ってみせるマリーの頭を軽く小突きつつ、ユンゲは「うーむ」と思考に沈む。

 帝国で要職に就くフールーダならば、皇城内での出来事にも詳しいのだろうが、下手に藪を探ろうとして蛇――この場合はドラゴンなのだろうか――に出られては敵わない。

 酒場で話を聞いた限りでは、皇城への出入りが厳しくなっていることは確かなようなので、仮に帝国の体制側が何かを隠そうとしているのであれば、わざわざ深入りするような真似はしたくないというのが、ユンゲの素直な本音だった。

 何より情報提供してもらうことで相手に借りを作ってしまったなら、あの狡猾な皇帝――人の弱みに嬉々として付け込んでくる、正しく毒蛇のような――ジルクニフからどのような難題を吹っかけられるかも分からない。

「まぁ、目立った話題になってないってことは、とりあえず問題ないんだろうな」

 言外に関わりたくないという思いを滲ませつつ、ユンゲは込み上げてくる欠伸を噛み殺した。

 昼間の喧騒が懐かしくなるほどの静けさに包まれた帝都の街並みを歩いてみれば、穏やかな日常の様子は窺い知れる。

 ユンゲ個人としてはあまり良い印象を抱いていないものの、繁栄を享受する平和な帝都での暮らしぶりを思えば、“鮮血帝”とまで渾名される稀代の改革者の手腕は、確かなものなのだろう。

 強大なドラゴンのように、何か国を揺るがすような事態が起こったとしても、中枢たるジルクニフが辣腕を振るい、適切な対処をしてくれるはずだとさえ思える。

 旅疲れに様々な気疲れが重なり、久しぶりの酒精にじんわりと熱くなったユンゲの身体には、少しだけ肌寒さを感じる夜風が心地良く吹き去っていった。

 だらしなかろうとも宿屋に戻ったら誰に気兼ねすることなく、そのままベッドに倒れ込みたい気分だ。

 ふと何気なく隣を見遣れば、既にうつらうつらとしているマリーやキーファだけでなく、淑やかなリンダまでどこか辛そうに目許を拭う姿があった。

 ユンゲの視線に気付いたリンダが、少しだけ頬を染めて恥じるような素振りを見せるが、疲れているのは誰もが同じだろう。

「まぁ、この後は予定もないし、ゆっくり休もうぜ」と軽く笑いかけて、ユンゲは労うようにリンダの肩を叩いた。

 どこか冷たい印象の街路に点々と連なる柔らかな<永続光>を眺めつつ、一行は宿屋帰路をのんびりとした足取りで歩いていく。

 そうして、穏やかな気持ちを抱きながら憩いの場所へと辿り着いたとき、ユンゲの目の前に突然現れた恰幅の良い男は、誰何の声を上げる間もなく開口一番にこう言い放った。

「“翠の旋風”のユンゲ・ブレッター君だね。貴君に良い話を持ってきたよ」

 

 *

 

「本来なら、別の興行主と契約する者に話を持ちかけることは褒められたものではないが、貴君は奴の子飼いという訳ではないのだろう?」

 大仰な動きに合わせて、弛んだ両腕が何らかの意思を持ったように震えた。

 地肌が透けるほど短く刈り込んだ頭に、驚くほど小さなつぶらな瞳の男――バハルス帝国が誇る大闘技場において、最も優秀な興行主〈プロモ-ター〉の一人だと自ら名乗った商人――オスクが、真意を読ませない笑顔のままに、大きく胸を張ってみせる。

 闘技場と聞いて、反射的に以前の賭け試合についての意趣返しかとユンゲは身構えたものの、オスクが滔々と語ってみせた内容の中で、かの天才剣士の名は花形剣闘士を失った別の興行主の嘆き節、という形の笑い話としてだけだった。

 しかし、用件は分からないまでも、優秀などと自称するような連中に碌な相手はいないだろう、というのがユンゲの持論だった。

 葉巻の一本でも咥えていたら、大昔の任侠映画の中でも様になりそうなオスクから視線を外し、ユンゲはその背後に控える相手をちらりと一瞥する。

 特徴的なウサギ耳にメイド服を着た立ち姿は、ラビットマンの個体差を把握していないので自信はないが、昼間にも出会った彼女だろう。

 主人であるオスクの横柄な振る舞いに恐縮するような姿勢も、街中での印象に一致していた。

 宿屋のロビーに設けられた、簡単な来客用の座席にどっかりと深く座り込み、こちらを値踏みするような遠慮のない視線を向けてくるオスクの様子を前にすれば、リンダたちを先に部屋へ帰しておいて正解だったと考えつつ、ユンゲはわざとらしい溜め息で応じて問いを返した。

「……奴というのが誰のことかも存じませんが、ご高名な興行主さんが私のような者に、いったい何の御用でしょうか?」

 積み重なった疲労の中で、突然に宿屋まで訪ねてきたかと思えば、長々と話し始めるオスクに対して、ユンゲの抱いた第一印象は面倒そうな相手だった。

 四人で揃って宿屋まで戻ってきたにも関わらず、ユンゲ以外の三人を初めから相手にしないような態度にも思うところがあり、自然とユンゲの口調は慇懃無礼なものとなってしまう。

 そんなユンゲの心境に気付かないのか、或いは気付いた上で気にも留めていないのか、肥えた腹を揺らしながら朗らかに笑ってみせたオスクは、前のめりになって語調を強めてくる。

「――はははっ、余興の話はあまりお好きではないのかな? まぁ、単刀直入に言おう。近くに私の主催する闘技大会が開かれる。多額の賞金と“武王”への挑戦権を賭けた大きな大会だ。その大会に貴君を招待したい。無論、大会の賞金とは別に報酬も望む額を用意しよう」

 ひと息で言い切ったオスクの小さな瞳には、何か妄執のような情念が宿っているように見える。

 そんな様子を前に、ユンゲが僅かに覚えた既視感は、あまり心地の良いものではなかった。

「……見世物になるつもりはないですよ」

 勢い込むオスクとは対照的に、ユンゲは冷ややかな言葉を返す。

 闘技場に絡む一件では、その場の感情に任せて動いた結果、色々と現在進行形で面倒な事態に巻き込まれてしまっている苦い経験があった。

 多少なり報酬を積まれたとしても、現状で金銭的に困ってもいない。

「そして、貴君にはその大会で優勝してもらい、是非とも“武王”へ挑んで欲しいのだよ」

「――っ、はぁ? いや、大会に出場する気はないですよ」

 しかし、慌てるユンゲの返答が聞こえていないのか、鼻息を荒くしたオスクは取り憑かれたように捲し立ててきた。

「無敗を誇った元天才剣士を破り、猛者のひしめく大会を勝ち抜いた新鋭の青年剣士が、次代の希望を背負って最強の名を冠する“武王”に挑戦する! 万来の歓声と拍手が戦いに臨む両者を迎え、互いに全力を尽くした至高の決闘が幕を開けるのだ! 血湧き肉躍る最高のシチュエーションだと思わないかね?」

 自身の言葉に酔い痴れるように、いきなり立ち上がったオスクが大袈裟に腕を広げながら、闘技場の舞台で大歓声に応えるような素振りをみせる。

 否定の言葉を挟むことも忘れて呆然としてしまうユンゲを前に、ひと頻り妄想の中に耽っていたかと思えば、オスクはにこやかに過ぎる笑顔をユンゲに向け、「あぁ、でも私の舞台で魔法は使わないでくれ! やはり、強靭な肉体と鍛え上げた武器を手にして、努力を重ねた己の技巧を凌ぎ合う決闘こそ、戦いの本質なのだ! 魔法のように品のない小技など、興醒めも良いところだ!」などと次々と言葉を浴びせてくる。

 張り上げられる大声に、まるで戦いには不向きなオスクの弛んだ身体が揺れ、決して薄くはない床板を軋ませる嫌な音が、ユンゲの耳朶を震わせた。

「いや、だから俺はアンタの招待を受けるなんて一言も――」

 こちらの反応に少しも構うことなく、肉弾戦の素晴らしさを興奮気味に語り始めるオスクにかぶりを振り、ユンゲは力なく椅子の背もたれに倒れ込んだ。

 そして、先ほど覚えた既視感の正体を理解する。

(……この親父も、あの爺さんと同じか)

 まともに人の話に耳を傾けることもなく、勝手気儘に喚き立てる類いの面倒な相手――当人同士の趣味や思考は真っ向から対立しそうなものだが、魔法狂いのフールーダと同類のような存在との出会いに、ユンゲは両手で顔を覆い隠した。

(……このまま寝ちまおうかな)

 帝国の連中はこんな奴らばかりか、と諦めに似た心境で溜め息をこぼし、ユンゲは静かに天井を仰ぐ。

「ところで、貴君の腰に差している剣についてだが――」

 天井に取り付けられた<永続光>の揺らぐことのない照明が、また少しだけ瞬いたような気がした。

 

 *

 

 いくつも連なる蹄の音を響かせながら絢爛優美な幌馬車が、朝露に濡れた帝都アーウィンタールの石畳みを跳ねるような速度で駆け抜けていく。

 早くに目覚めて中央広場の朝市に向かっていた人々は思わず足を止め、皆揃って驚いた顔つきとなっていた。

 馬車の豪華な装いや速さもさることながら、牽引する馬影が滅多にお目にかかることのない八足馬〈スレイプニール〉と呼ばれる稀少な魔獣であったとしても、帝都に住まう人々がこれほど驚くことはなかっただろう。

 先頭の馬車にはためく真紅の掲揚旗――八百万もの人口を誇るバハルス帝国において、ただ一人の人物だけが掲げることを許される皇旗の存在が、人々の内に戸惑いを与えていた。

 即ち、バハルス帝国における最大権力者たる当代の皇帝ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスが乗っているはずの馬車が、何者からか急き立てられるように慌ただしく走り去っていく不可解な光景に――。

 完全武装した皇族の近衛たる皇室地護兵団の騎馬が、両側を固めたままに追随する様は、まるで戦地に赴くかのような物々しさを孕んでいる。

 後続にも見事な馬車を引き連れながら、城門を抜けて街道の彼方に消えていく様を見送った人々のどよめきに、この場で答えられる者はいなかった。

 この数日後、バハルス帝国の本営より一つの宣言文が発布される。

 曰く、大魔法詠唱者アインズ・ウール・ゴウン魔導王率いる“ナザリック”なる組織を国家として承認するとともに、バハルス帝国との同盟関係を締結したこと。

 そして、現在リ・エスティーゼ王国が不当に占拠しているエ・ランテル近郊を本来の所有者である、アインズ・ウール・ゴウン魔導王に返還することを要求し、実行されない場合には領土奪還と不当な支配から解放するために、正義に基づいた行いをする用意のある旨が示されていた。

 それは、バハルス帝国からリ・エスティーゼ王国に対する、事実上の宣戦布告となる宣言文であった。

 

 




先の展開で一つ描きたい場面があるですが、このペースで進めているとどれだけの時間がかかってしまうのか……。
気長にお付き合いいただければ幸いです。


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(31)不穏

物語的な進展は相変わらずのスローペースですが、前話から少し時間が経過して王国と帝国間での戦争が近づいている設定になっています。


 リ・エスティーゼ王国とバハルス帝国を結ぶ街道から南へと目を向ければ、僅かな草木さえも生えることの許されない荒れ果てた大地――カッツェ平野は、常と変わらず人々の往来を阻むかのような薄霧に覆われていた。

 アンデッドの多発地域として知られる危険地帯に長居をしたいと考える者などいるはずもなく、街道を行き交う旅行者や隊商の一団は、平時ならば例外なく足早に過ぎ去っていくのだろう。

 一方で、この“呪われた地”に危険を冒してでも足を踏み入れる者たちもいる。

 

 横薙ぎに振り抜いた一閃が、飛びかかってきたスケルトン・ウォーリアーの角張った背骨を断ち砕き、続いていたスケルトンの後詰め諸共いとも容易く吹き飛ばしていく。

 遠巻きにしていた意思など持っていないはずのアンデッドの群れが、威圧されたようにたじろぐ様子に軽く肩を竦めつつ、「――何か違うんだよなぁ」とユンゲは頭を抱えた。

 無造作に振るった攻撃でも、対峙している下位のアンデッドたち程度を屠ることに問題はないのだが、自身の中に思い描いているような理想の戦い方には全く及ばない。

 ぼやくように軽口を叩きつつも、素早く引き戻したバスタードソードを右手に構え直しながら、ユンゲは後方の仲間たちを振り返った。

 身の丈よりも長い錫杖を器用に操るリンダが、迫ってくるスケルトンの群れを巧みに相手取る。

 キーファが次々に射かけている援護の矢は、鏃を削って打撃属性を持たせた対アンデッド用の特別製であり、以前の反省を踏まえて新調したものだ。

 そして、消耗の激しい二人を絶えず補助魔法で支援しながら、戦況を見極めて的確に指示を送っているマリーの姿が視界の端に映る。

 息の合った三人の連携は、一朝一夕で成せるものではない。

 純粋なレベル差に起因する個々の実力は比べるべくもないが、ユンゲという異分子のいない“翠の旋風”の方が、チームとしての戦術は優れているのだろうとさえ思えてしまう。

 胸の内に騒つく微かな寂しさは、ユグドラシルを“ぼっちプレイ”で過ごしていたときに覚えた疎外感にも似ていた。

 

「――ユンゲさんっ、後ろ来てます!」

 耳朶を打つ、切迫したマリーの声音。

 弾かれたように身体を捻れば、目前に飛び込んできたのはシミターの剣尖――反射的に振るったユンゲの左拳が、迫る細身の剣身を殴りつける。

 薄霧に閉ざされたカッツェ平野の片隅に、耳をつんざくような高い硬質の金属音が響き渡った。

 不意を突いたはずの攻撃を防がれたばかりか、碌に体勢のなっていない中での反撃で、いきなり武器を破壊されてしまうのだからレベル差の暴力は圧倒的であり、相手のスケルトンからすれば理不尽極まりないものだっただろう。

 半ばで砕けてしまったシミターを掲げたまま、どこか呆然としたようなスケルトンの立ち姿に苦笑しつつ、ユンゲは返しの剣撃でその首を刎ねつける。

 もっとも当然ながら、スケルトンの表情など読み取れるはずもないし、そうした思考を持っているのかも分からないため、全てはユンゲの妄想に過ぎないのだが――。

「マリー、助かった!」

「あ、はい……良かった、です」

 どこか気の抜けたような返事を背後に受けながら、ユンゲはバスタードソードを手に荒れた大地を駆け出す。

 意味のない感傷に耽っている暇などなかった。

 稀代の英雄と同じ高みに登りたいと願うのなら、せめてがむしゃらに身体を動かせ。

 自らを叱咤するように吠え声を上げ、ユンゲはスケルトンの群れへと勢いのままに飛び込んでいく。

 剣や手斧、長槍といった揃いのない錆びた武器を手にした一体一体のスケルトンに、漆黒の戦士モモンの勇壮な戦い振りを幻視する。

「……あの人なら、もっともっと速い」

 こちらの想定より二歩も三歩も先に踏み込んでくる、必死の斬撃を避けるように身体を捌き、間隙を縫うようにバスタードソードを閃かせる。

 帝都の冒険者組合でモモンと約束を交わしてから、お互いの空き時間に何度か模擬戦――という名目の稽古をつけてもらう機会に恵まれた。

 未だに満足のいく一撃すら与えられたことはないが、終わるはずだった世界の先に続いた新しい舞台で、納得できるようになるまで挑み続ければいい。

 この世界に転移する前の自分であったなら、決して抱かないであろう思考の変遷に胸の内で違和感を覚えながらも、ユンゲは襲いかかってくるスケルトンとの戦いの直中に身を置き続けた。

 

「この辺りのアンデッドは……、あらかた掃討できたかな?」

「……そのようですね」

 上がってしまった息を整えるようにしてユンゲが何気なく呟いたところ、周囲に目を配っていたリンダが呆れともつかない表情のままに口を開いた。

「ん? どうかしたのか?」

 少しだけ気になる反応に問うような目線を向ければ、リンダが軽く肩を竦めるように苦笑いを浮かべてみせる。

「いえ、難度の低いアンデッドばかりとは言え、これだけ多くの数を討伐してしまうのは、流石だなぁと思いまして……」

 リンダの視線を追いながら、ユンゲも静けさを取り戻したカッツェ平野の一画を眺めていく。

 幾十とも幾百ともつかない無数の人骨――正しくはスケルトンの残骸だ――が、薄霧と塵芥にまみれて折り重なるように大地を覆い尽くしている。

 ユグドラシルであれば、データクリスタルを残して消え去るはずのモンスターの遺骸も、この世界においては事情が異なる。

 どれほど凄惨な戦場跡もかくや、といった死屍累々の様相をなす残状を理解し、ユンゲは誤魔化すように指先で頬をかいた。

 モモンの存在を意識するあまり、途中からは張り切り過ぎて周りが見えなくなってしまっていたのかも知れない。

 そもそもユンゲたち“翠の旋風”がこのカッツェ平野へ赴いた理由は、端的にはレベルアップをしたいというリンダたちの希望からだった。

 この世界に住まう人々は、冒険者やモンスターの強さについて“難度”という指標を用いるために、レベルという概念を持ち合わせていないものの、やはり成長するためには実践を積むのが一番だという経験則を持っている。

 街中で過ごしていては、何度となく前触れもなしに現れる商人オスクの勧誘から逃れることも面倒だったことに加えて、帝都の冒険者組合では手頃な依頼が見つからなかったこともあり、ユンゲたちはレベル上げを兼ねて、カッツェ平野でのアンデッド狩りに勤しむことになったのだ。

 この世界におけるアンデッドは、集まることでより強力なアンデッドを呼び寄せてしまうという厄介な特性を持っている。

 そうした対処が困難となる事態を未然に防ぐため、アンデッドの多発地帯で知られるカッツェ平野では、定期的なアンデッド狩りが励行されている。

 本来なら敵対関係にある、リ・エスティーゼ王国とバハルス帝国の両国が協力し合うほどの欠かすことのできない大切な仕事であり、討伐の報奨金まで手に入るのだから、ユンゲたちのような冒険者の希望にこれほどお誂え向きな状況もないだろう。

 しかし、ユグドラシルのようなゲームではないこの世界において、どのようにして成長――つまりは、レベルアップできるのかは分からない。

 仮にラストアタックを決めた者だけが経験値を得られるような仕様であれば、ユンゲの行動はあまりに勝手な振る舞いとなってしまっていただろう。

「……悪い、少しやり過ぎたみたいだ」

「あぁ、いえ。それは全く構わないですよ。私たちだけでは、これほどの戦果を望むことはできないですし……それに、こう戦っている途中で、身体に力が漲ってくるような感覚もありました」

 白く長い指を曲げ伸ばすようにしながら、リンダが嬉しそうに目を細めてみせれば、小振りな弓を手に駆け寄ってきたキーファも、「私も途中から目が冴えるような感じがして、良い調子で狙いがつけられたよ!」と楽しげに声を張ってみせた。

「わ、私もです!」と続けながら同じように駆け寄ってくるマリーの肩を抱き止めつつ、ユンゲは内心で胸を撫で下ろしながら口許を緩める。

「……そうか、なら良かったよ」

 ユンゲ自身としては、レベルアップできたという感覚はなかった。

 それでも、ユグドラシルの恩恵で得た力任せに剣を振るうだけではなく、スケルトンを“仮想モモン”に見立てながら模擬戦では形とならなかった剣技を習熟するように努めながら戦っていたので、技術的な面では素人剣から抜け出せつつあると思いたいところだ。

 遥かな高みにいる英雄を仰ぐように、ユンゲは大きく伸びをしながら薄霧の向こうに広がる青空を見上げる。

 陽の落ちるまでにはまだ余裕がありそうだが、カッツェ平野はアンデッド討伐以外の目的で長居したいような場所ではない。

「……今日は、これくらいにして帰ろうか」

「だね! いっぱい戦ったから疲れちゃったよ」

 勢い込んだキーファの言葉に、小さく溜め息をこぼしたリンダとマリーも一つ頷き合ってから賛成を示してくれる。

「良し、帰ったらレベルアップの祝い酒だな! 吐くまで飲むぞー!」

 殊更に朗らかな調子で言い切ったユンゲは、「おー!」と声を張り上げるキーファの肩に手を回しつつ、苦笑いを濃くする二人の前で快心の笑みを浮かべるのだった。

 

 *

 

 いつ現れるとも知れないアンデッドの気配に警戒を緩めることなく、ユンゲは街道からもほど近い荒野の丘陵地帯へと視線を向ける。

 重そうな荷を抱えながら蠢くいくつもの人影は、ゾンビやスケルトンのような生者を憎むアンデッドではなく、皆揃いの鉄鎧にバハルス帝国の紋章を掲げる職業軍人たちだった。

 王国と帝国間において、毎年のように繰り返されるカッツェ平野での戦争に備えるため、帝国側が数年前から築いていたという駐屯基地に、武器や糧食といった戦備を運び込んでいる様子が窺える。

「……戦争が近いんだな」

 誰にともなく呟いた言葉が、どこか纏わりついてくるような霧の中に消えていく。

 両国の戦端が開かれる当日には、何故か晴れると言われているカッツェ平野の薄霧も、今はまだ消える気配がない。

 アンデッドの急襲を警戒するように、丘陵の周囲には一定の距離を置いて並んでいる歩哨たちの姿も見えた。

「“漆黒”のお二方は、そろそろエ・ランテルに戻られた頃ですかね?」

 傍らで同じように駐屯基地を眺めていたマリーが、ふと思い出したように問いかけてくる。

「んー、そうかも知れないな」

 数日前、模擬戦を終えた後の軽い世間話の中で、モモンからは近日中にエ・ランテルに発つ旨を伝えられていた。

 狡猾な皇帝が英雄との面会の機会を狙っているみたいですよ、などというユンゲの告げ口が影響したのかは不明だが、エ・ランテルの冒険者組合を預かるアインザックからの帰還要請が強くなっていることもあり、本格的な戦争状態となる前に自分たちの拠点へ戻ることに決めたらしい。

 ユンゲたちとエ・ランテルでの再会を約束した翌日には、既に“漆黒”が帝都を離れたという話題で溢れていたので、今頃は待ち侘びていた住民たちの歓声で迎えられている頃になるのだろうか。

「……俺たちも、どうするか考えないとな」

 最初の対面で抱いたジルクニフやフールーダへの苦手意識から、何となくで先延ばしにしてしまっていたが、そろそろ“翠の旋風”としての身の振り方を決める必要がありそうだ。

 最近では、闘技大会に参加させようとする厄介な興行主まで現れる始末なので、モモンたちのようにエ・ランテルへ戻る選択肢も検討したい。

「私たちは、何処にでもついていきますからね」

 ユンゲの思考を先回りするように、横顔に柔らかな笑みを浮かべたマリーが口を開いた。

 真っ直ぐに過ぎる信頼を寄せてくれるマリーの声音が、どこか気恥ずかしい思いで視線を彷徨わせれば、その言葉を肯定するようにキーファとリンダからも微笑みかけられてしまう。

 思わず緩みそうになる表情を誤魔化すように、ユンゲは無造作にざんばらな髪をかき回して溜め息をこぼした。

「……ったく、俺一人に決めさせるなよ。宿屋に戻ったら、全員で話し合いするぞ」

 仏頂面を装ったままに言い差し、ユンゲは帝都アーウィンタール方面へと踵を返す。

 気持ちの良い三人からの返事を背にしながらも――或いは受けたためにか、その足取りはやがて急くように速まっていくのだった。

 

 *

 

 通常よりも警戒を増した様子の関所を抜けたユンゲたち“翠の旋風”は、街道がそのまま乗り入れる中央道路へと足を進めた。

 盛況な客引きや行き交う人々の雑踏に溢れる帝都の街並みが、騒がしくも賑やかなのはいつもと変わらない。

 しかし、冒険者組合に向かう道すがら何気なく眺めて歩いてみれば、街全体にどこか浮ついているような印象が感じられた。

「……おそらく王国との戦争のために、騎士団が招集されたのでしょう」

 ユンゲの疑問に答えて、リンダが推察するように言葉を紡ぐ。

 曰く、平時には帝国領の辺境や国境線で訓練や警戒に勤しむ騎士団が、来たる戦争を前に皇帝からの訓示を受けるために帝都へ呼び集められたのではないか、とのことだった。

 第一軍から第八軍で構成されるという帝国騎士団の内、どれだけの部隊が帝都に集められているかは分からないまでも、騎士団たる大勢の兵士たちが異動したならば、当然ながら多くの物資も動かす必要が出てくる。

 従軍商人にとっては又とない稼ぎどきであり、多くの兵士が滞在することになれば、帝都内における食料や衣料品、軍馬用の飼料などの需要も短期的に跳ね上がるのだろう。

 例年なら夏場に開かれていた戦争での需要を当て込んで、過剰な在庫を抱えてしまっていた商人連中にしてみれば、先に示されたリ・エスティーゼ王国への宣戦布告は、四大神や六大神からの福音に聞こえたかも知れない。

「……なるほど、“戦争で国を富ます”なんて良く言ったもんだ」

 呆れとも怖れともつかない感情の中で口にし、ユンゲは頭上を仰ぐように転移前の世界へと思いを馳せた。戦争で儲かるのは剣や弓矢で戦った時代まで、などと熱弁を奮っていたのは、何処の誰だっただろうか。

 強大に過ぎる兵器の登場は戦争の在り方を一変させ、世界中を無為な戦火で包み込んだ二度の大戦を経ても懲りないままに、三度目ともなる大戦争の末に地球は暗闇に閉ざされた。

 空も大地も汚染され、荒廃し尽くされてしまった世界では、人工の呼吸器をなしに外へ出歩くこともできなくなった。

 灰色に煙る夜空に星たちの輝きはなく、新緑の枝葉から降りそそぐ木漏れ日に目を細めることも、清らかな水を湛えた渓流のせせらぎに耳を傾けることもできない。――何より、穏やかに胸を満たしてくれる、あの甘い香りも感じることができないのだ。

「……この世界は、きれいなままであって欲しいものだな」

 思わずこぼれた小さな呟きは、活況な帝都の路地に消えていく。

「何か気になることでもありましたか?」

 ユンゲの言葉が聞こえなかった様子で、傍らのマリーが上目遣いに小首を傾げて問いかけてくる。

 澄んだ碧の瞳に眩しさを覚えながらも、「いや、何でもない」と静かにかぶりを振ったユンゲは、背負い袋を担ぎ直して言葉を続けた。

「それより早く冒険者組合に行こう。アンデッド退治でかなりの稼ぎになったはずだからな、良い酒がたらふく飲めるぞ」

 冗談めかすようにユンゲが笑いかければ、マリーは何とも言えないような表情を浮かべながらも一つ小さく頷きを返してくれる。

 酒精のせいで何度か醜態を見せているためにか、どこか憮然としたような雰囲気を漂わせるマリーの肩に軽く手を置いてから、ユンゲは雑踏の中に再び身を置いて歩き始めた。

 王国との戦争を前にして暗い雰囲気になってしまうのかと思えば、突然の好景気に沸き立つ帝都に暮らす人々は、自分たちの勝利を決して疑っていないのだろう。

 どちらに肩入れするつもりもないが、エ・ランテルで出会った人たちの顔触れが脳裡を過ぎり、少しだけ俯き加減となったユンゲの視線は、丁寧に整備された帝都の石畳の模様を追っていく。

 

 そうして、相変わらずの喧しい客引きに辟易としながらも、ユンゲたちが冒険者組合の前にたどり着いたときだった。

 何気なく見回した視界に映ったのは、活気のある街並みと対比するように、ただ独りで寡黙に佇む細身の老人。

 凛と伸ばされた背筋に皺一つ見られない燕尾服は、貴族のような高位の者に仕える執事の立ち姿を思わせたが、一方で暗い影を差した顔つきは思い詰めたように酷くやつれて見える。

「……あの人、大丈夫か?」

 組合の扉を開きながらも横目に窺ってみれば、相反する老人の印象が恰も容易く手折られてしまう枯れ枝のような風貌へと収束していき、ユンゲの胸の内に妙な気がかりを抱かせるのだった。

 

 




本物の執事が外出する際には、防犯上の理由から執事と分かるような服装をしないという話を聞いたことがあるのですが、実際のところはどうなんでしょうね。

とりあえず次話以降では、Web版での設定をベースにした展開を考えているものの、主に時系列等で都合良く解釈させてもらっていることが多々ありますので、ご留意いただきたいです。


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(32)黄昏

いままでにも増して、今話は独自設定&説明過多な回となりました。

本当に今更ですが、主要な登場人物のほとんどをオリキャラで固めてしまっている本作品で、オーバーロードの二次創作を名乗って良いのか、少し不安になっています。


「……この先か」

 活気の溢れる中央の大広場から少し外れた街並みの一角、さほど距離が離れているわけでもないのに、帝都アーウィンタール全体を覆うような喧騒もどこか遠くに感じられる路地を前に、ユンゲはやや強張った面持ちで口を開いた。

「一緒に来てもらっておいて今更なんだが……その、大丈夫か?」

「お気遣いありがとうございます。ですが、私は問題ありません」

 ユンゲの不安を隠し切れない問いかけに軽くかぶりを振ってみせたリンダは、柔らかな微笑みを浮かべながら言葉を続ける。

「……とは言え、あの二人にはまだ酷だったでしょうから、私を選んでいただいて良かったです。――さぁ、あまり時間もかけられないですから、早くいきましょう」

 二の句をユンゲに継がせない毅然とした口調は、質問の本意を敢えてはぐらかすような響きを湛えていた。

 初めて隊商の護衛依頼を受けて訪れて以来、観光も含めて帝都で過ごした期間もそれなりになるユンゲだが、意図的に避けている場所があった。

 建ち並ぶ家屋の造りや石畳の整備された様子も賑やかな表通りと大差はないはずなのに、どこか漂っている空気すら違うように感じてしまうのは人通りの少なさからなのだろうか。

(……奴隷市場か)

 以前、掘り出し物のマジックアイテムが取り扱われるという北市場への道を尋ねたときに、知識としてだけ耳にした単語ではあったが、積極的に近づきたいと考えなかったユンゲが足を踏み入れたことはない。

 気乗りしない思いがそうさせたのか、無意識の内に右手がバスタードソードの柄にかけられていた。

 この世界に転移してから慣れ親しんだ手触りに、少しだけ気持ちを落ち着かせて、ユンゲは深く息を吸い込む。

 不意に鼻孔をくすぐる甘い香り――傾きかけた陽射しに目映く輝いた銀髪が、艶やかに流れた。

 僅かに汗ばんだユンゲの手の甲へ重ねられたのは、冷んやりとした白磁の細くたおやかな指先。

 さらりととした肌から伝わる微かな震えに、ハッと顔を持ち上げてみれば、涼やかな黄昏の中に朱の差した横顔があった。

「すみません、ちょっと強がりました。少しの間だけ……、このままでもよろしいでしょうか?」

 深い慈愛に溢れていた蒼の瞳の中に、縋るような憂いとともに恥じらいの色が溶け込む。

 何事も卒なくこなし、世話好きな性格が高じて皆から頼られることの多いリンダは、ある意味でとても不器用なのかも知れない。

 柄頭に置いていた手首を返し、震えを抑えられるようにそっと握り締める。

「これで良いか?」

「えっと……あの、ありがとう……ございます」

 自らの手の中にすっぽりと収まってしまう小さな手――夜露のような冷たさを優しく温められるように力を込める。

 躊躇いがちに握り返してくれる柔らかさに、今は夕焼けが有り難かった。

 人気のない路地には、長い二つの影が伸びている。

「二人には笑われちゃうかも知れないな」

 気恥ずかしさを誤魔化すように、ユンゲは軽い口調でわざとらしくリンダに笑いかけた。

 少しだけ焦った様子ながらも、「な、内緒ですよ」と口許に人差し指を立てながら、しなを作って笑い返してくれるリンダも心得たものだ。

 他愛のない冗談に乗せてしまい、この場での遣り取りはちょっとした戯れとして、お互いの胸にしまって置くべきだろう。

 さらさらと左右に流れた銀髪を梳くように耳にかけてやれば、ピンと張った長いエルフの耳が露わになる。

「……じゃあ、いこうか」

「ええ、絶対に見つけ出しましょう!」

 いつも以上に強い決意を滲ませるリンダの手を取って、ユンゲは静かに奴隷市場へと足を踏み入れた。

 

 *

 

「今日はこれで、良い酒が飲めそうだな」

「……今日も、の間違いではないでしょうか?」

 わざとらしい溜め息とともに吐かれたマリーの言葉に肩を竦めつつ、ユンゲは報奨金の詰まった革袋を掲げてみせながら、「祝いの席だからな、いつもより良い酒を頼まもうぜ」と軽い調子で言葉を続けた。

 レベルアップを目的にしたカッツェ平野でのアンデッド狩りの成果は上々であり、副産物として冒険者組合から支払われるモンスター討伐の報酬も、小さな革袋をずっしりと重くするほどの金額になった。

 利便性を考えるなら、帝国銀行の発行する金券板で受け取るべきなのだろうが、やはり手にしたときの重さは労働の対価を得たという直接的な喜びにつながるものだ。

(……いつまで帝都に滞在するかも分からないしな)

 クエストボードの前から羨望とも嫉妬ともつかない眼差しを向けてくる、駆け出しらしい冒険者たちを横目に流したユンゲは、どこか不満そうなマリーの頭に手を置いて、軽く髪を撫でながら宥めるように笑いかけた。

「マリーたちのお祝いだからな、今日はどれだけ飲んだくれても介抱してやるぞ」

「…………もう、いいです」

 再びの諦めるような溜め息とともに、軽く手を払われる。

 やれやれとばかりに肩を落としたマリーが、ユンゲのせいで乱れてしまった髪を整える様子に、

「――報奨金をそのまま持って歩く訳にもいきませんし、とりあえずは宿に戻りますか?」

 苦笑を浮かべたリンダが、場を取りなすように提案を口にした。

「さんせー。疲れちゃったし、荷物も置きにいきたいなぁ」

 先ほどから壁にもたれかかったままだったキーファが、すぐに同意を示してひらひらと手を振ってみせる。

 ユンゲとマリーにしても、リンダの提案内容に否やはない。

 軽い目配せを交わしてから、「なら一度、宿に戻ってから食事にしよう」とユンゲは組合の出入り口に向けて踵を返した。

 そうして、分厚い樫の扉に手をかけて冒険者組合の外へと出てみれば、着いたとき見かけたのと同じ姿勢で佇む老人――矍鑠たる紳士の出で立ちに、並々ならない悲壮な雰囲気を纏わりつかせた――と目があった。

 いや、焦点の定まっていない縋るような老人の目線は、冒険者組合の扉を見つめたままに固定されており、その直線上に立ってしまったユンゲと視線が重なっただけなのかも知れない。

 思わずマリーたちを振り返って顔を見合わせてしまうユンゲだったが、普通ではない老人の様子に、「……悪い、なんか見過ごせないわ」と肩を竦めた。

 間違いなく厄介な事態だろうと予感がしながらも、黙って素通りすることはできそうにない。

(……俺は、こんな真人間だったか?)

 内心に葛藤を覚えてしまうが、「私たちも同じ気持ちですよ」と朗らかに笑ってくれる三人からの言葉に後押され、ユンゲは躊躇いながらも老人の傍へと歩み寄る。

「爺さん、その……気分が良くないのか?」

 やや腰の引けたユンゲの問いかけに、ようやくと目の前に並んでいる“翠の旋風”の存在に気がついたらしい。

 まるで蝋人形のように生気の抜けていた老人の視線が、緩慢な動きでユンゲたちの姿を眺めていき、口許に蓄えられた白髭が水面で喘ぐ稚魚のような呼吸に合わせて微かに震えた。

「……助けて、ください」

 酷くしわがれて掠れた、そのままに消え入りそうな声音。

 酸いも甘いも噛み分けて老境に入り、教養や格式も高そうな執事然とした身なりにそぐわない朴訥な言葉遣いが、却って状況の深刻さを切実に訴えてくるようだった。

 

「下らない見栄のために、自分の子どもを売るか……随分と身勝手な話だ」

 傍目にも狼狽を隠せない老人――ジャイムスの口から語られた内容を反芻し、ユンゲは抑え切れない苛立ちを吐き捨てるように石畳を蹴りつけた。

 完全な八つ当たりも良いところだが、世界の不条理を目の前に突きつけられたような不快感は拭えない。

 今にも卒倒しそうなほど顔色を悪くしたジャイムスの話を要約すれば、鮮血帝の改革によって没落したとある貴族が、かつての栄華を忘れられないままに無駄な浪費を繰り返し、遂には首が回らなくなったところで自らの子どもを借金の形に売り払ってしまった、ということらしい。

「――家が滅びるのは致し方ありません。しかし、お嬢様に託された最後の願いまで果たせないとなれば不肖の身なれど、もはや死んでもお詫びできません」

 その没落貴族――フルトの家系に長らく仕えてきたという自負のためか、言葉を振り絞る老執事の瞳には止め処ない涙が讃えられていた。

 浪費するばかりの不甲斐ない当主に代わって若年から家を支え続けてきたという長女が、危険な仕事の中で行方知れずとなってしまうと間もなくフルト家の崩壊は始まる。

 事前に仕事の危険性を承知していた長女から、残されてしまう双子の妹たちの後事を託されていたというジャイムスは、先に暇を言い渡されてしまった使用人や女給たちに次の就職先を斡旋するために止むを得ずフルト家の邸宅を離れ――、帰ったときには全てが終わってしまった後だったのだと泣き崩れる。

 託された双子の姉妹を救うために手を尽くしたくとも――本人の意思が蔑ろにされている問題はあっても――高利貸しの行為自体はバハルス帝国における適法の範囲であり、フルト家が没落した経緯も踏まえれば国家や司法に頼ることはできない。

 そして、多額の借金の対価として差し出せる財産すら残されていない窮状は、端的に手詰まりだ。

 強引に奪い返すべく武力に訴えようとしても、冒険者組合が犯罪行為に加担することはなく、十分な報酬を払えないのなら請負人〈ワーカー〉から相手にされることもないだろう。

 借金の形に売られてしまった幼い姉妹に待ち受ける未来は、決して明るくないと思われた。

 ――関わるべきではない。

 頭の冷静な部分が、そう結論を導き出す。

 見ず知らずの他人のために冒せる危険の限度を一足飛びに越えていくような厄介事だった。

 気を静めるように、何度か呼吸を繰り返してユンゲは頭上を仰ぐ。

 規格だって並ぶ路地の建物に切り取られた長方形の空は、目に沁みるほどの鮮やかな青に染まっていた。

 遥かな高さで揺蕩う白雲が、上空を流れる秋風にそよいで、ゆっくり太陽の差す方へと運ばれながら額縁の陰にひっそりと消えていく。

「……あーっ、もぅ!」

 言葉にならない声が、苦悶の呻きとなってユンゲの喉からこぼれる。

 強く握り締めた拳で乱暴に太腿を殴りつけたなら、聖遺物級の装備を介して伝わる衝撃と痛みが、少しだけユンゲに落ち着きを取り戻させてくれた。

 根源の分からない感情が、行き場を求めるように視線を彷徨わせ、不意に飛び込んでくるのは柔らかな笑み。

 甘い香りが鼻腔をくすぐった。

「――ユンゲさんの思う通りにしてください」

 囁くように静かな、しかし真っ直ぐな凛とした芯を持つ声音が、いたわるような優しい響きをもって耳許に届けられる。

 躊躇いながら見つめた先で、小さな頷きに合わせて煌めくような金髪の一房が揺れた。

 自らの身勝手な思いを汲んでくれたことに、「良いのか?」などと情けなくも問うことはできない。

 紛いなりにもいくらか剣を握ってきたことで、少しだけ硬くなった掌で顔を覆い、ユンゲは一つ大きく息を吐いた。

 

 *

 

 考えていたほど劣悪な環境ではない。

 微かに震えるリンダの手を取りながら、街の喧騒から遠い奴隷市場へと踏み込んだユンゲの抱いた第一印象は、そんなものだった。

 衛生環境に配慮されない薄汚い檻の中で、手枷や足枷を嵌められた奴隷たちが項垂れている――そんな漠然と描いていたイメージは杞憂に終わり、少しだけ拍子抜けしてしまうユンゲだったが、小さくかぶりを振って気を引き締め直す。

 店舗の軒先から迫り出した商品棚や露店商などのひしめく賑やかな中央道路とは異なり、奴隷市場に建ち並んでいる店舗は道端から少し奥まった位置に出入口を構えていた。

 一見して内情を知らなければ、高級店舗街と見えなくもない装いではあるが、人通りの疎らな路地にはどことなく物寂しさが漂っている。

 路地に面する一階部分の壁に、この世界では多少値段の張るガラスが嵌め込まれた店舗の造りは、通りを歩きながらでも目的の店舗を迷わないための工夫か、或いは取り扱う商品の性質から防犯的な側面を意識しているのかも知れない。

 奴隷という単語に思考を引き摺られてしまっていたが、バハルス帝国における奴隷制度とは、数ある雇用形態の一つというのが正しい認識らしい。

 戦争のために奴隷が動員されるような、いわゆる戦奴といった仕組みは既に廃れて久しく、現在では急に大金の必要となった者が身売りという形で条件や期間などを取り決めて、互いに了承した上で奴隷として契約する形式となっており、仕事の中で奴隷が怪我を負った場合に備えた雇い主に対する罰則まで設けられているようだ。

 転移前の世界に置き換えるなら、短期の集中バイトや期間工に近い扱いになるのかも知れない。

 但し、そうした就業としての奴隷制度が適応されるのは飽くまで帝国の人間か、国交を持つドワーフに限られているため、他国の人間やエルフなどの種族はその範疇にならないらしい。

 ユンゲは握った手を離さないように思いを強くしつつ、リンダを促して通りを歩き始めた。

 各店舗へ注意の視線を向けてみれば、ガラス越しの室内には、屈強な肉体を誇るように見せつけてくる男や小綺麗に着飾りながら手を振る女性、ややぎこちない笑みを浮かべた亜人と思しき猫耳の男女といった“多様な商品”が確認できたものの――、

「……流石に、ここでは見つからないか」

 やがて、奴隷市場の端までたどり着いてしまったユンゲは、徒労に肩を竦めて溜め息をこぼす。

 老執事から話を聞いて、真っ先に思いついた当てが外れてしまった格好ではあったが、拘束具で無理矢理に囚われているような奴隷の姿を見かけることはなかった。

 以前のように目の前で虐げられるエルフと出会ってしまったなら、ユンゲ自身をして冷静に振る舞えるかは自信がなかったので、その点についてだけは幸いだった。

 改めて常識的な感覚で考えてみれば、折角の売り込みたい商品を粗雑に扱う理由などあるはずもないので、奴隷が置かれる処遇の良し悪しは残念ながら買い手次第なのだろう。

「そうですね。……やはり、件の高利貸しのところへ行ってみるべきでしょうか?」

「素直に教えてくれるなら、それが一番なんだけどなぁ」

 支払いの猶予を延ばしてくれるように懇願した老執事のジャイムスが、膠もなく断られてしまったという話なので望みは薄い。

 もっとも、唯一の稼ぎ手を失っているフルト家が他に借金を返済する当てもない状況であれば、そうした対応となるのも至極当然なことなのだから責めるのは筋違いというものだろう。

 無理矢理に締め上げて居場所を吐かせたなら、強引に連れ出すこともできるかも知れないが、ユンゲとしても犯罪にまで手を染める覚悟はなかった。

 伝え聞いた幼い姉妹の境遇に怒りや憐憫の気持ちを抱いて、衝動的に協力を申し出てしまったものの、結局は自分を犠牲にするつもりもない偽善行為に過ぎなかったのだろう。

 良い記憶があるはずもない場所にリンダを連れ出し、憔悴したジャイムスに付き添ってもらうという名目で別行動となっているキーファとマリーにも、無用な負担をかけてしまったことを思えば、酷い自己満足もあったものだと自嘲するように、ユンゲは小さくかぶりを振った。

「とりあえず、二人に合流して――」

 何か良い作戦を考えよう、と言葉を続けかけたユンゲは、不意に背後からの視線を感じて振り返る。

 艶やかな濡れ羽色の髪に、夜闇に溶け込む同色の忍び装束――いつかと同じ姿勢で建物に背を預け、豊かな胸を強調するように腕を組んでみせる小柄な女忍者の姿が、黄昏の暗がりの中で朧のように現れた。

「……相変わらず、勘だけは鋭い男だな」

 どこか非難めいた口調は、忍びの者としての矜持がさせるものか。

 女忍者の背後に見え隠れする面倒な相手の存在に、ユンゲは内心で溜め息をこぼしつつ、やや億劫な思いで口を開いた。

「……一応、褒め言葉として受け取れば良いのか?」

 憮然として返した問いに、「……まぁ、そんなに警戒するな」と呆れるように肩を竦めた女忍者は、壁際からユンゲの近くへと歩み寄りながら、勿体振るように言葉を続けた。

「厄介事にばかり首を突っ込みたがる男に、一つ特別な情報を教えてやろうと思ってな」

 しなやかに伸ばした人差し指をわざとらしく口許に寄せ、女忍者が嫣然とした笑みを浮かべてみせる。

「――邪な神の信奉者どもが、“若き魂の贄”とやらを手に入れたらしいぞ」

 

 




エルフの奴隷が市場で見られなかったのは、ユンゲを懐柔する策の一環としてジルクニフが手を回していた結果になります。
その過程で“邪神教団”に関する情報を入手し、別口で女忍者に内偵を進めさせていたところ、何も知らないユンゲたちが現れたという設定です。
なお、この時点におけるジルクニフは、ナザリックと邂逅してしまったことで、ユンゲに構っているような時間はなくなっています。

もう少し話のキリが良いところまで進めたかったのですが、年内の更新は今話で最後になるかと思われますので、少し気は早いですが――
「皆様、良いお年をお迎えください!」


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(33)掌上

一月も半ばを過ぎているので今更感はすごいのですが――、
明けましておめでとうございます。

相変わらずの更新頻度ながら、今年ものんびりとお付き合いいただければ幸いです。


 帝都アーウィンタールの常宿から来客用として借りた応接室。

 別行動を取っていたキーファとマリーに合流したユンゲは、最初に見かけたときより幾分か落ち着きを取り戻した様子のジャイムスに軽く目礼をし、「……協力者だ」と声をかけて女忍者を招き入れた。

 それほど広くもない空間に都合六人も集まったのなら、多少なり息苦しくも感じるものだろうが、室内に満ちている張り詰めたような重たい雰囲気には、また違った居心地の悪さがあった。

 小さめの文机を囲うように腰を下ろしたユンゲたちは、簡単な挨拶を済ませてから、情報提供者たる女忍者の口から語られる言葉に耳を傾ける。

 嫌悪感を覚えずにはいられない内容に皆が顔を顰める寒々とした空気の中、気を利かせたマリーの淹れてくれた紅茶の温もりは有り難かった。

 

「……なるほど、邪神教団か」

 女忍者の説明を咀嚼するようにして、ユンゲは深く息を吐いた。

「……便宜上、そう呼んではいるが、正式な名称は不明だ。未だ確かな証拠はないが、おそらく“ズーラーノーン”の下部組織という線が濃厚だろう」

 軽く肩を竦めてみせる曖昧な態度とは裏腹に、女忍者は断定的な物言いで言葉を続けた。

「探りを入れていたこちらの手の者が、既に三名消されている。かなりの手練れ――奴らの幹部クラスの実力者が、裏で糸を引いているはずだ」

 抑揚に乏しく、感情を悟らせない女忍者の冷めた声音が、却って内に秘めた激情を孕んでいるかのように耳朶を震わせる。

 女忍者が口にした“ズーラーノーン”という組織名に、聞き覚えのあったユンゲは記憶を呼び起こすように瞑目した。

 この世界に転移して間もない頃、エ・ランテルの共同墓地で発生したアンデッド騒動――ユンゲ自身も冒険者として参加した、過酷な都市防衛戦――における二人の首謀者が、悪の秘密結社と称される“ズーラーノーン”の幹部だったという話は、後に交流を持ったミスリル級冒険者チーム“虹”のモックナックから伝え聞いている。

 集まった冒険者や衛兵の奮戦、何より“漆黒の英雄”と“美姫”の活躍によって事なきを得たものの、万一の場合にはエ・ランテルが壊滅していたかも知れないほどの事態だったとも――。

「あ、あの悪魔の組織がですか!? では、若き魂の贄というのは……」

 同じ席に着いていたジャイムスが顔を青ざめ、弾かれたように立ち上がる。

 否定してほしいと縋るような問いかけに、女忍者は一つ小さく頷いただけで視線を外し、ユンゲの方へと向き直ってしまう。

 力なく椅子に倒れ込み、両手で頭を抱えるようにして慟哭する老いた執事の姿を見遣れば、何か一声でもかけるべきかと逡巡するが、気休めの言葉しか浮かんでこない。

「その教団の集会が、今日の深夜にあるんだな? ……そこで邪神に“生贄を捧げる儀式”が開かれる、か」

 慰めの代わりに女忍者への問いを重ね、ユンゲは文机に広げられた墓地の見取り図に目を向けた。

「確証はない……が、いつまでも捧げるべき供物を囲っていては、面倒なことになりかねない。そうした危機管理にだけは、聡い連中だ」

 嘲りの調子を含んだ女忍者の声音。

 思わせ振りな口調に微かな引っ掛かりを覚えるユンゲだが、関心は教団によって墓地に設けられたという秘密の集会場――姉妹の監禁場所とも予想される地下の隠し部屋――に向けられていた。

 帝都の外縁に位置する墓地の中央、霊廟から地下に伸びるとされる細い隠し通路の先には、いくつかの小部屋とかなり広い空間の存在が見て取れる。また、対辺の壁からも同じような通路が描かれており、こちらは帝都の中心街へと続いているらしい。

 どうにか儀式の前に集会場へと突入して制圧するにせよ、もう一方の通路から逃げられてしまっては意味がない。

 確認できている二つの通路だけでも押さえてしまいたいところだが、少ない戦力を分散するには不安もあった。

 姉妹の救出を優先するなら、先ずは手前の小部屋から探りを入れてみるべきだろうか。隠密系の魔法を用いれば、多少の無茶も許されると願いたいものなのだが――。

 

「……何か、気になることでもあったか?」

 見取り図を眺めながら思考に耽っていたユンゲは、不意の女忍者からの問いに顔を上げた。

「……いや、これだけの情報の見返りに、何を求められるのかと怖くなってな」

 嘘とも本音ともつかない軽口を叩きつつ、ユンゲは肩を竦めてみせる。

 こちらを観察するように冷徹な眼差しを向けてくる女忍者が、稀代の皇帝にして“鮮血帝”とまで畏怖されるジルクニフの指示で動いている以上、その思惑がどこにあるのかは事前に確かめて置きたい。

「差し当たっては何もない。まぁ、これは双方に利のある取引だと考えてもらって構わない……と言っても、簡単には信用できまい」

 訝るユンゲの視線を事も無げに受け流し、女忍者は書状を読み上げるような気安さで滔々と言葉を続けた。

「先ず、邪神の信仰者についてだが、情けないことに多くは帝国で貴族位を授かる者たちだ。改革における粛清の恐怖が浸透している現状、表立った連携を見せている訳ではないが、その潜在的な影響力は無視できない規模になりつつある」

 女忍者の紡ぐ言葉は、そのままにジルクニフからの言葉なのだろう。

「――だが、腹立たしいことに現時点では教団を糾弾するに足る根拠もない。“鮮血帝”とかいう愚か者が、考えなしに貴族を減らし過ぎたせいで、帝国の人手不足は深刻だからな」

 わざとらしくかぶりを振ってみせる仕草に、人を食ったようなジルクニフの尊大な振る舞いが重なって幻視される気がした。

 現状では教団に参加している貴族を粛清するまでには至らないが、将来的な叛乱の芽を摘み取るためにも、邪教の影響力が顕在化する前に力を削いで置きたい、という考えなのだろう。

「そんな話を部外者の俺たちに――」

 聞かせてしまって良いのか、と問いかけたユンゲは自らの迂闊さに思い至り、途中で口を噤んだ。

「……当然ながら、他言は無用だ」

 分かり切った答えをもっともらしく宣ってみせる女忍者の小憎らしい笑みに、思わず舌打ちがこぼれた。

 沸々とした苛立ちを誤魔化すように、ユンゲは紅茶の注がれたカップにやおらと手を伸ばす。

 少なくない貴族が邪教に傾倒している事実など、帝国の体制側にとって頭の痛い醜聞でしかないが、一介の冒険者に過ぎないユンゲたちに知られたところで問題にはならない。

 政治的に利用されることもなく、公表されたところで証拠がなければ意味をなさないのだから、端に無視をするだけで問題はない。そして、帝国の醜聞を広げることで、ユンゲたちに何らかの恩恵がある訳でもない。

 一方で、表向きは教団を取り締まるつもりがない、という統治者としての考えを伝えてきたのだから、この場でユンゲが提案に乗らなかったとしても虜囚になっている幼い姉妹は捨て置かれるだけなのだろう。

 ユンゲたちが姉妹を救い出そうとするのならば、女忍者のもたらした情報の真偽や思惑を確かめる以前に、奴隷市場で出会って話を聞いてしまった時点で、ジルクニフからの取引に応じる以外の選択肢は残されていなかったことになる。

「……その情報が嘘だったら、覚悟しとけよ」

 せめてもの強がりで口にするが、傍目には膳立てされた舞台の上で踊らされているだけの道化師に見えたかも知れない。

 自嘲に口許を歪めるユンゲを見遣り、切れ長の瞳の奥に苛虐心を宿らせた女忍者が、「……良い取引になりそうだな」と一つ満足そうに頷いた。

「まぁ、そう邪険にするな。私個人としても、無闇に部下を失い続ける訳にはいかないから、お前の助力には感謝してやるぞ」

 明け透けとした女忍者の言い様には、悪態の一つでも返したくなるところだが、少し冷めてしまった紅茶を口に含んで言葉を飲み込む。

 ささくれた心を落ち着かせるように時間をかけながら、ユンゲは文机を囲うキーファやリンダ、マリーたち翠の旋風の仲間に目を向けた。

 ジルクニフの狙い通りに動かされるのは些か癪であっても、ユンゲでは他に妙案は思い浮かばない。

「……皆もそれで良いか?」

 ユンゲが短く問いかければ、「はい、問題ありません」と心強い言葉が返ってくる。

 微塵の躊躇いもない清々しい響きに、ユンゲは小さく息を吐いてから、女忍者に向けて右手を無造作に差し出した。

「……取引成立だ。釈然としないが、今回は協力させてもらう」

 ぞんざいな握手を女忍者と交わして、再び墓地の見取り図へと目を落とす。

 不本意な展開であっても、共同戦線により墓地に潜む邪神教団を襲撃することが決定したのなら、姉妹の救出に全力を尽くすまでのこと――考えるべきは姉妹を助け出した後、バハルス帝国の貴族社会にまで根を張るほどの厄介な組織“ズーラーノーン”を敵に回して、どう立ち回るべきなのか。

 自衛の力を持たない老執事や幼い姉妹を守り続けるには、正直なところ限界があった。帝国を離れてしまう方法もあるかと思い描いてみるが、エ・ランテルにおいてもアンデッド騒動を引き起こしていたことを考慮したなら、仮に他国へ移住したとしても不安は残るだろう。

「……そうだ、一つ言伝を忘れていたな」

 思考に沈みかけたユンゲの意識を女忍者の発した抑揚のない声音が引き戻す。

 まだ何かあるのか、と胡乱な視線を向けるユンゲを揶揄うように、目許を緩めた女忍者は勿体振るように口を開いた。

「……なに、老人と子ども二人分くらいの食い扶持には、用意があるそうだ。身の安全も保証しよう――だったかな」

 くつくつと喉の奥で笑ってみせる女忍者の様子に、ユンゲは思わず脱力してしまう。叡智に長けた狡猾な皇帝はどこまでもお見通しらしい。

 行き場のない感情を持て余すように、ユンゲは椅子の背へと倒れ込む。

 何気なく伸ばした手に掴んだカップには、もう紅茶が残されていなかった。最早、溜め息をこぼすだけの気力さえ湧いてこない。

 一層のこと全てはジルクニフの策謀によって仕組まれていた、とでも説明された方が納得できるというものだろう。

「…………行くか」

 そうして、半ば投げやりな思いで口にしたユンゲは、短時間で疲れ切った心を引き摺るようにしながら、ようやくと立ち上がるのだった。

 

 *

 

 薄曇りの夜空からは頼りない月明かりのこぼれるばかりだが、魔法の光源に照らされる墓地の整然とした佇まいに不気味な雰囲気はない。

 ユンゲ自身の苦い記憶とともにある、件の遺跡に眺めた怖気を感じさせる戦慄の様相とは似ても似つかない、人々の営みが造り出した風景だろう。

 僅かな身震いを歩みに任せて、事前に確認した道順に従って進んだ先には、何の変哲もない石造りの霊廟――警戒しながら扉を押し開き、人影がないことを確認したユンゲは、背後を振り返ってマリーたちを手招きで呼び込む。

 やや緊張した面持ちのリンダに続いて、最後に霊廟へと足を踏み入れたキーファが、「尾行はされてないよ」と周囲の様子を窺いつつ、ゆっくりと石の扉を閉めた。

 どこからともなく漂ってくる甘ったるい香の匂いに、墓地とはそぐわない少しの違和感を覚えるが、取り立てて特徴のない殺風景な石室だ。

「……情報が確かなら、あの台座ですかね?」

 声を潜めながらマリーが指差した先には、霊廟の奥に設置されている石の台座。

 女忍者から教えられた、地下への隠し通路を開く仕掛けが施されているという“鍵”なのだろう。

「そうらしいな。念のため、ここで隠密系の魔法をかけ直した方が良さそうだ」

「はいっ、了解しました」

 小さく握り拳を掲げてみせたマリーが、皆に無詠唱化した補助魔法をかけてくれるのを見遣りつつ、ユンゲは手筈を確かめるように口を開いた。

「……決めていた通りに俺が先頭で潜入するから、マリー、リンダと続いて最後尾はキーファに頼む。挟み撃ちされるのは御免だから、キーファは背後からの奇襲に気を配って欲しい」

「うん、任せてっ!」

「リンダは状況次第で、どちらにも出られるように備えていてくれ」

「心得ています。マリーは全体の指揮と双子の保護を優先ですね」

ユンゲの意を汲み取ってリンダが言葉を重ねた。

「あぁ、それで頼む」

 皆で顔を見合わせ、互いの理解を確認して頷き合う。

 ちょっとした人助けから思わぬ事態となってしまったが、幼い子どもが犠牲になる不幸を止めたいという気持ちは、ユンゲ以上にキーファやリンダ、マリーたちの方が強く抱いているのだろう。

 彼女たちの過酷な過去の境遇を慮ったなら、そうした思いには何を置いても応えてやりたいと思うユンゲだったが――、決意を滲ませる三人の表情に僅かな危惧を覚えてしまう。

「……当然だけど、全員の安全が第一だ。手に負えないと判断したら、無理はしないですぐに撤退するからな」

 余計な小言だと理解しながらも、焦りからそう口にしてしまったユンゲの肩に、マリーの小さな手が置かれた。

「――大丈夫です。ユンゲさんが、守ってくれるのですよね?」

 口許に悪戯っぽい笑みを浮かべながら、上目遣いに見つめてくる碧の双眸。

「そうそう、ユンゲは私たちの英雄〈ヒーロー〉だからね。期待してるよ!」

 もう一方の肩には、キーファの細い腕が回されていた。

「勿論、私たちも守られるばかりではありませんので、その辺りはよろしくお願いいたしますね」

 冗談めかせた言葉を締めくくるように、リンダがキーファとマリーの肩を抱いて笑ってみせる。

 自然と円陣を組むように肩を寄せ合えば、三人の顔がとても近くにあった。

 いつかの渓流沿いでの出来事が思い起こされ、ユンゲは何ともむず痒いような羞恥の感情に身を悶えさせる。

「……あまり揶揄わないでくれ」

 絞り出すように溜め息を吐き、やれやれとかぶりを振ることが精一杯だった。

 変に気を張りすぎていたのは、ユンゲ自身の方だったのかも知れない。

 得意満面な三人の朗らかな微笑みを右から左へと見回し、気を取り直すように一つ咳払いをしたユンゲは、無理矢理と自らに言い聞かせるように言葉を続けた。

「そろそろ予定の時間だ。落ち着いて慎重に行こう」

 宿屋でユンゲたちと別れた女忍者が、部下とともにもう一つの通路から潜入する頃合いだ。

 軽い鼓舞の声を掛け合って肩組みを解き、“翠の旋風”は奥まった位置にある石の台座へと歩み寄った。

 そうして、ひと呼吸を置いたユンゲが、台座の下部に施された彫刻の箇所を押し込んだなら、ガチリと何かが噛み合う感覚。

 何が起きるかと身構えたところで、霊廟全体がゴリゴリと耳障りな音を立て始めたかと思えば、石の台座はひとりでに動き出し――、やがて隠されていた地下へと続く階段が、ユンゲたちの目前に姿を現した。

「……いや、音が大き過ぎるだろ。聞いてないぞ」

 半ば諦めるように愚痴をこぼすが、既に後の祭りだ。

 これほどの音が隠し扉の開閉時に響いてしまうのでは、潜入も何もあったものではない。

 教団の集会場襲撃において二つの通路を押さえるに当たり、“翠の旋風”が霊廟側を受け持つように指示された時点で、疑ってかかるべきだったのかも知れない。

 ユンゲたちに敵方の注目を集めさせることで、別の通路から潜入する女忍者の部隊が本領を発揮しやすい状況を用意するなど、如何にも“鮮血帝”ジルクニフらしい陰険な趣向を凝らした策略だった。

 思わず背後を振り返って顔を見合わせれば、皆が同様に苦笑いを浮かべている。

「……まぁ、ここで引き返す訳にはいかないよな」

 そうして、溜め息とともに軽く肩を竦めてみせたユンゲは、バスタードソードの柄に手をかけながら階段に足を踏み入れるのだった。

 

 階段は途中で一度折れ曲がり、やがて広い空洞へと続いていた。

 地面が剥き出しとなった床や壁に、どこからか取り込んでいるらしい新鮮な空気――しかし、微かに漂ってくる腐敗した血の臭いが、ユンゲの警戒心を否応なく高めさせる。

 四方の壁には奇怪な紋様を描いたタペストリーが垂れ下がり、灯された真っ赤な蝋燭の火が何か蠢くように揺れながら、醜悪な闇の暗がりを生み出している。

 邪神を信仰する気狂いたちの手によって、上層の整然とした街並みには見られない汚泥のような、邪悪な空間が墓地の地下深くに築かれていたらしい。

 そして、充満する堕気を凝縮したような人影が三つ――黒い神官服に身を包んだ背の高い男に、腰布だけを巻いた小柄な醜男と目深に被ったフード付きの外套で表情を悟らせない細身の女が、招かれざる客たるユンゲたち“翠の旋風”を睥睨するかのように待ち受けていた。

 

 




ユンゲ視点では悪役チックなジルクニフですが、書いている私的にはオーバーロードの中でも一、二を競うほど好きなキャラクターだったりします。


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(34)玉響

Royal Rumble 2020 で“R指定の男”がサプライズ参戦! ……からまさかの復帰宣言で“Rated RKO”の再結成! ……と見せかけて、倫理コードも驚きの“conchairt”解禁!
テンション上がりまくりで、ヤバいです!

※ WWEを知らない方には意味が分からないかと思いますが、個人的に大好きなスーパースター(【設定まとめ】で、ユンゲの外見イメージとして挙げさせてもらっている方)が、首の怪我から実に9年振りの復帰を果たして嬉しいなぁ、ってお話です。


 血のように紅い蝋燭の火が揺らぎ、大地が剥き出しとなった地下の壁面や床に、蜚蠊の群衆が蠢いているかのように複雑な陰影を描き出していた。

 掲げられたタペストリーの奇怪さや何らかの儀式に用いられたと思しき禍々しい調度品に目を向ければ、悪趣味と表するに相応しい邪悪な空間が広がっている。

 淀みのない新鮮な空気が却って嫌悪感を強調するように、吐き気を堪えずにはいられない邪神教団の集会場だった。

 そして、招かれざる客として足を踏み入れたユンゲたち“翠の旋風”を待ち受けるかように、陰鬱な室内には三つの不揃いな人影があった。

「また懲りずに、薄汚い鼠が忍び込んでいたようだな」

 吐き捨てられた男の悪態が、静寂を孕んだ地下通路で反響するようにユンゲの耳朶を震わせる。

 浅黒い肌を暗闇に溶け込むようなローブで包み、拗くれた杖と黒塗りの教典を手にした立ち姿は、邪神に魅入られた悪の神官そのものだ。他の二つの影が従者然として控えているところを見れば、この黒い神官が教団における中心人物なのだろうか。

 油断なく間合いを取りながら、ユンゲは相手の様子を観察していく。

「……悪いな、こっちはカッツェ平野からの強行軍で、碌に湯浴みもできなかったんだ」

 わざとらしく肩を竦めてみせながら軽口を返す。

「詫びついでに、色々と神経を逆撫でされることが多くてな……少しだけ憂さ晴らしに付き合ってくれよ」

 分かりやすいユンゲの挑発に神官の男が鼻で笑い、フードを目深に被った女が冷ややかに口許を歪めるのが見えた。黒衣の外套で全身を覆っているために装備を確認できないが、長剣のように大きな武器を帯びている様子はない。

(魔法詠唱者か……いや、何となく戦士っぽい感じがするな)

 ほとんど感覚に過ぎないが、模擬戦でモモンと対峙したときのように、目の前の女からは攻撃を仕掛ける隙が窺えない。

 そして、気にかかるのが、もう一つの人影――子どもと見紛うほどの小柄な背丈に、腰布を巻きつけただけで肋骨の浮き出る痩せぎすな身体、落ち窪んだ眼窩と歯の抜け落ちた口許を見遣れば、まるでミイラを彷彿とさせる異様な風体の小男だ。

 こちらの言葉に対して、先ほどから何の反応も示さないこともあり、得体の知れない不気味さを醸し出している。

 少しだけ距離を詰めるようにユンゲが進み出れば、リンダとマリーも続いて横に並んだ。

「……ところで、崇拝されてる邪神様ってのはアンデッドを飼う趣味があるのか?」

 敢えて小男に目を向けながら、ユンゲは気安い調子で問いを投げかける。

 侮辱も過ぎる表現だが、小男は気にした風もなく沈黙に佇むばかり――、代わりに口を開いたのは、戦士と見立てた細身の女の方だった。

「へー、あんなこと言わせといちゃって良いのー? …………勝手に言わせておけ、って? でも否定しとかないとあちらさん調子に乗っちゃうかもよー。あ、でも半分は図星だから反論できないか。…………やーだ、私に怒んないでよー」

 ユンゲに値踏みするような視線を向けつつ、女戦士が腹を抱えながら大袈裟に笑ってみせる。

 傍らの小男と言葉を交わしているようだが、もごもごと口許を動かしているのが分かるだけで、小男の声までは聞こえてこない。

「えー、また私が相手するの? そりゃー、粋がってる間抜けを虐めるのは好きだけどさー。んー、まだ本調子じゃないんだよねー。そんでさー、そっちはどーするの? …………あぁ、あの隠れてるつもりの女? その身体でも物好きなんだねー、私は寝てあげないけど!」

 他人を小馬鹿にするような演技めいた言動とは裏腹に、ユンゲの背後を一瞥するように動いた女戦士の鋭い目線――猫を思わせる紫の瞳の奥に、強い侮蔑を帯びた色が宿っていた。

 

 内心で舌打ちをこぼしつつ、ユンゲは女戦士の嗜虐的な眼差しを遮るように姿勢を入れ替える。

 隠し扉の仕掛けを動かしたときに響いてしまった音のせいで、教団側にユンゲたちの潜入が悟られているだろうことを逆手に取り、手前の階段で敏捷性に優れるキーファを留まらせていた。

 リンダとマリーを傍らに伴ったユンゲが敵方の前に姿を見せて注意を集めることで、野伏〈レンジャー〉であるキーファの動きやすい状況を作り出し――場合によっては、潜伏したキーファだけでも先行してもらい姉妹の捜索を優先したかったのだが、どうにも狙い通りには進んでくれないようだ。

(……かなり挑発してみたつもりだったのに、あんまり効果なかったなぁ)

 階段の陰から弓矢を番えたままのキーファが姿を現しても、神官の男が僅かに表情を動かしただけだった。

 初めからユンゲたちが四人組であることを知られていたのか、或いはキーファにかけられた隠蔽系の魔法など問題なく看破できてしまうほどの相手なのか。

 どちらにせよ、一筋縄ではいかない厄介な連中らしい。

「せっかくの作戦が台無しなっちゃって残念だったねー。お姉さんが慰めてあげよーか?」

 わざとらしくしなを作りながら、嘲るように笑ってみせる女戦士の手には、いつの間にか刺突用のスティレットが握られていた。

 暗がりにあっても、蝋燭に灯される紅を映して輝く切っ先が、女戦士の白く細い指に艶めかしく撫で上げられる。

「……そんな物騒なもので慰められるのは、勘弁してほしいな」

 どこか場違いにも思える煽情的な仕草に肩を竦めつつ、ユンゲもまた腰の剣帯からバスタードソードを抜き放って身構える。

 最初に言葉を発しただけで沈黙する神官の男――他の二人から頭数と見做されずに萎縮しているような雰囲気は、幹部というよりも担がれている傀儡のような印象だ――はともかく、正体の不明な小男にも注意を払いたいところだが、ユンゲの直感は対峙する女戦士への警鐘を鳴らしていた。

「威勢の良いこと言ってた癖に弱気な男だねー。なーに、もう怖気づいちゃったのー?」

「……俺は慎重派なんだよ。とりあえず、聞いておくけど若き魂の贄とやらを解放してくれる気は――」

「ないよー。まぁ、私としては儀式なんかどーでもって感じで、恐怖や苦痛に喘ぐ顔が見れたら、それで良いんだけどねー」

 ユンゲの問いかけに先んじて答えた女戦士が、スティレットを寄せながら愉悦に口許を歪めてみせる。

 整った顔立ちの妙齢の女性が浮かべる狂気の表情に、背筋を冷たい汗が這っていくのが感じられた。少なくとも積極的に関わりたくない人種であることは間違いなさそうだ。

「そんでー、時間稼ぎのお喋りは終わりなのー?」

「……分かっていて付き合ってくれたのか、意外に優しいんだな」

「そうだよー、お姉さんは優しいんだよー」

 訳知り顔な女戦士の薄ら寒い笑みを見遣り、ユンゲは苦笑いを隠せなかった。

 ユンゲたち“翠の旋風”に敵方の意識を集めている間に、別のルートから女忍者の部隊が気取られずに潜入を果たせるかと考えていたが、既に見通されていたらしい。

 あちら側の隠し通路にも相応の戦力が差し向けられているのか、或いはユンゲたちの把握できていない三つ目の逃げ道が用意されていたのか。

 確認する手立てもないが、ここで時間をかけている余裕はなさそうだった。

「……なら、優しいお姉さんに相手してもらうとするか」

 悟られないように無詠唱で魔法を紡ぎながら、ユンゲは傍らの仲間たちと視線を交わす。

 一つ頷いたリンダが長柄の錫杖を手に前へと進み出て、キーファとマリーが距離を取りながら左右へと広がれば、向かい合った神官と小男も呼応するように動きかけ――、

 

<ツインマジック・ショック・ウェーブ/魔法二重化・衝撃波>

 不意打ちに放たれた不可視の突風に急襲され、剥き出しの土壁へと吹き飛んでいく。――いや、小男には避けられたか。

 巻き上がる土煙の中に倒れている人影を一瞥し、ユンゲは悪態とともにバスタードソードを振り抜く。

 突き出されたスティレットとの激突に眩むような火花が飛び散り、鼓膜を引き裂く硬質な金属音が響いた。

 柄を握る右手が痺れるほどの痛打にバスタードソードを引き戻し、反転する勢いのままに後ろからの回し蹴りを見舞う。

 足先を掠めるように跳び退る影――ユンゲが倒れた相手を確認しようと目を逸らした、一瞬のうちに距離を詰めていた女戦士が、再び距離を取って対峙していた。

「……ふーん、今のを防げちゃうんだ。何かの武技? てーか、どんな馬鹿力だよ。オリハルコンコーティングの特注品が聞いて呆れるねー」

 刃先の歪んだスティレットをくるくると指先で弄びながら、女戦士が吐き捨てる。

 間延びした口調こそ先ほどまでと変わらないが、人相が一変するかのような剣呑とした女戦士の気配に、ユンゲは口許を固く引き結ぶ。

 口にした女戦士へ挑む宣言をブラフに、先制攻撃の魔法で神官と小男を倒してしまいたかったのだが、より面倒そうな小男には避けられてしまった。

 床に伏している神官はまさか死んではいないだろうが、起き上がってくる様子もないので意識は奪えただろう。

 しかし、厄介なのは不意打ちの成果を確かめようとしたユンゲが、僅かに目を逸らしてしまったただけの間隙をついて、逆に奇襲を仕掛けてきた女戦士の凄まじい技量だ。

(……間違いなく、俺よりも上級者だよな)

 聖遺物級たる装備の質とレベル差に起因するはずの身体能力に辛うじて助けられたが、ユンゲ自身と比較するべくもない熟練の戦士であることに疑いはない。

 さらに気の重くなることに、先ほどまでの見世物を眺めているような余裕めいた態度の鳴りを潜めた女戦士からは、明らかにこちらを警戒している様子が見て取れる。

 模擬戦の折にモモンが語ってくれたところによれば、修練を積んだ一流の戦士は、相手の歩く姿を見ただけでも力量を見極めることができるらしい。

 自虐的に考えるのなら、素人に毛が生えた程度の身のこなしを見ていた女戦士は、ユンゲの能力をかなり低く見積もっていたのだろう。

 或いは、出来の良い武器や防具を手にしただけで、強くなったと勘違いしている残念な男だとも――相手方の視点に立ったなら、幼稚な策を見抜かれているとも知らずに粋がっていた素人剣士が、いきなり第二位階の魔法を使ったために擬装した魔法詠唱者かと思えば、戦士としても常識外な膂力まで発揮して必殺の刺突を防いでみせたというところだろうか。

 女戦士からの警戒を引き上げられるのも当然な流れと思えたが、一度の攻防で手の内を見せ過ぎてしまったばかりか、成果は地面で昏倒している神官の男だけ――後悔先に立たず、などと余計な思考が過ぎるのを無理矢理に抑え込み、ユンゲは肩越しに思い切り声を張り上げた。

「そっちは任せる!」

 強さは疎か、戦い方すら未知数な小男を相手に立ち回ってもらうのは心苦しいが、今は仲間を信じるしかない。

「はいっ、任せてください!」と打てば響くような頼もしい返事を背に、バスタードソードの柄を強く握り込んだユンゲは、凶相を浮かべる女戦士へと向き直った。

 

 *

 

 左から迫る峻烈な突きを咄嗟に小手で打ち弾き、慌てて後ろに逸らしたユンゲの眼前、朱に閃く右からのスティレットの剣尖が、逃げ遅れた頬を浅く裂くように過ぎ去っていく。

 迸る灼熱にこぼれかける苦鳴を飲み込み、右手に構えたバスタードソードを横薙ぎに振るって追撃を牽制――背後に倒れ込みながら剥き出しの地面を蹴り上げ、空いた左手を突いて円弧を描くように身体を捻りつつ、勢いのままに再度の跳躍で彼我の距離を取り戻す。

 辛くも致命の連撃から逃れたユンゲは、荒い息を整えながらバスタードソードを構え直した。

 対峙する女戦士の向こう、壁際に灯された蝋燭の火が妖しく揺らめいている。

 女戦士と剣を交えてから五分足らず、体力的な消耗はそれほどでもないのだが、こちらを本気で殺すために放たれる執拗な攻撃の数々に、ユンゲの凡人たる精神は既に悲鳴を上げ始めていた。

「ねー、逃げてばっかじゃ勝てないよー。少しは楽しめるかと思ったのに、てーんで期待外れなんですけどー?」

 ユンゲを格下と侮ってくれていたなら、油断につけ入ることもできたのだろうが、挑発的な物言いをしながらも女戦士の眼差しは依然として鋭い。猫科の猛獣を思わせる瞳の奥には、子細を余すことなく見抜かんとする冷徹な光が宿ったままだ。

 自身の迂闊さで一つ好機を失ってしまったのだと嘆きたくもなるが、裏を返せばユンゲと女戦士の間には、モモンとの間に隔たるほどの――同じ高みに登りたいと目指しながらも、気の遠くなるような――実力差はないとも考えられた。

 また紛れもない事実として、純粋な身体能力と装備の質という点において、ユンゲは対峙する女戦士を圧倒できる立場にあった……はずなのだが、帝都アーウィンタールの地下深くで余人に知られることなく繰り広げられる二人の戦いは、双方に決め手を欠いたままに拮抗していた。

 早鐘のような心臓の鼓動が、嫌になるほどに生々しく脈打つのが感じられ――不意に頬から滴っていく不快感。思わず拭った袖口は、鮮やかな赤に染まっていた。

 意識してしまうとともに痛みを訴え始める身勝手な傷口を恨みつつ、ユンゲは内心の苛立ちを吐き捨てるように口を開く。

「……こっちは殺し合いなんてしたくないんだ。さっさと投降してくれ」

「はっ、投降だ?」

 明らかに気分を害したらしい女戦士の舌打ち。

「そんな甘ちゃんな考えで、良くこれまで生き残ってこれたもんだね。……んで、殺す気もなしに戦う? このクレマンティーヌ様を舐めてんじゃねーぞ」

 女戦士の底冷えする恫喝の罵声にも、ユンゲは努めて表情を変えない。

「そうだ。俺に勝てないことは、もう自覚してるんだろ?」

 老執事ジャイムスの願いで双子の姉妹を救うため、邪神を崇拝する教団の集会場へと踏み込んだユンゲだったが、幹部と思しき女戦士〈クレマンティーヌ〉と互いに剣を振るいながらも相手の命を奪う――殺人者になる覚悟はなかった。

 ゴブリンやアンデッドのようなモンスター相手に躊躇うことはないが、根源の分からない怒りに駆られたときでさえ、決闘相手であるエルヤーの腕を斬り飛ばすに止めた。

 つまりは、これが拮抗の原因――ユンゲが本来の実力を発揮できたのなら、この場でクレマンティーヌを圧倒することが容易であっても、殺さないようにと力を加減しながら戦っていたのでは、ユンゲよりも対人の戦闘技術に長ける格上の女戦士を制圧することができなかったのだ。

「……澄ました顔で、この私を雑魚扱いか。どこまで舐めくさってくれるんだか――」

 顳顬の辺りに青筋を立てたクレマンティーヌは、「お前たちみたいな、そういう態度がムカつくんだよ!」と怒気を露わにしながらも、スティレットを構えていた両手を外套の下にしまい込んだ。

「……お前たち?」

 やや違和感のある言葉を聞き咎め、ユンゲが問うように少しだけ首を傾げるが、クレマンティーヌからの返答はない。

 ただ純然たる怒りを孕んだ鋭利に過ぎる眼光が、対峙するユンゲを射抜くように向けられていた。

 何か真に迫るような強い眼差しは、先ほどまでの他人を小馬鹿にした言動を取りながらも、常に冷静な色を湛えていた女戦士の瞳ではない。

 その激情の矛先は、果たして目の前に立つユンゲなのか――。

 凄味を増した言い知れぬ感情の奔流に当てられ、バスタードソードの柄を握るユンゲの手にも自然と力が込められる。

(……やっぱり、そう簡単には諦めてくれないよな)

 状況だけを見れば、防戦に徹していたはずのユンゲが、優勢な立場にあったクレマンティーヌに対して降伏を勧めるのだから、滑稽な図だっただろう。

 もう一度、気合いを入れ直さなくては、とユンゲが一つ息を吐いた瞬間だった。

 

 不意に、張り詰めていた心胆を寒からしめる空気が、瞬く間に霧散した。

「――っち、時間切れか。……ねぇ、アンタはどうするの?」

 興を削がれたような、或いは気の抜けたような問いかけは、黒塗り外套の中で肩を竦めてみせたクレマンティーヌから、部屋の対角線で拳を握っていたミイラの如き小男へ。

 女戦士の視線を追った先で、錫杖を手にしたリンダが小男と対峙し、その背に庇われながら弓を構えるキーファと短杖を握り魔法の詠唱を紡いでいるマリーの姿が見える。

 解れた髪や頬に少しの土埃を被っているが、三人とも大きな怪我を負ってはいない様子に、ユンゲはそっと胸を撫で下ろす。

「…………まぁ、良いけど。一つ貸しだからね」

 人間よりも聴力に優れたハーフエルフたるユンゲの耳でも拾えない、小男の声に反応してクレマンティーヌが言葉を返す。

 何の話をしているのかと訝りつつも、ユンゲは油断なく戦闘態勢を維持したままに、肩で息をしている三人の許へとにじり寄り、対して小男の方も距離を取りながらクレマンティーヌの近くへと這うような足取りで向かっていく。

「今回はここまでねー。お姉さんってば、とぉーっても忙しいからさー」

 鼻にかかるような甘ったるい声音。

 ばさりと払われた外套の下に、やけに蠱惑的な肌色の曲線が艶めき、流れるような仕草でクレマンティーヌが取り出したのは、最初の攻防で刃先の歪んだスティレットだった。

「……何の真似だ?」

「さぁーね? 大事な大事な、お呪い?」

 言うが早いか、唐突に身を翻したクレマンティーヌが、駆け出し様にスティレットを剥き出しの地面へと突き立てる。

 刹那の閃光――爆発的に膨れ上がった噴煙が、大地を穿つ目眩しとなって仄暗い地下空間に炸裂した。

 

 




-女戦士さんの独自設定-
遺体安置所で盟主様の手により蘇生
→ 蘇生による弱体化もあり、組織に従順
→ Web版よろしく邪神教団のお手伝い
→ 逃亡して、どこかの聖王国で聖女様!

前振りのわりには戦闘描写があっさり風味ですが、小男と神官については情報が少なすぎるので、とりあえず曖昧にしています。


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(35)帰還

今話のうちに書いて置きたいことを詰め込んだら、やや駆け足気味に……。


「こちらが今回の報酬になります」

 お疲れ様でした、と事務的な笑顔を浮かべる受付嬢の差し出してくれた金券板――この世界での手形や小切手に相当するバハルス帝国銀行の管理下にある為替――を一瞥する。

 ユンゲがようやくと最近になって覚えた、帝国式の数字表記が正しいものであるなら、そこには以前に受けた依頼の報酬に倍する金額が彫り込まれているはずだ。

 口の中に苦いものを感じながら、ユンゲは受付嬢の言葉を思い返す。

 依頼人の名は“政務官”ジャイムス、依頼の内容は誘拐された知人娘の救出。緊急を要したために、依頼の受託は口頭でのみ交わされていた……らしい。

 依頼を請け負ったはずのユンゲたち“翠の旋風”が、そうした内容を他人からの伝聞で知るのは如何なものだろうか、などと余計な思考が浮かんでくるものの、溜め息より意味のある言葉が声にはならなかった。

(……冒険者組合は、国家から独立した組織じゃなかったのかよ)

「あの、どうかされましたか?」

 いつまでも報酬を受け取ろうとしないユンゲの様子を訝るように、受付嬢が小首を傾げてみせる。

「あぁ……いや、何でもないです」

 反射的にそう返して金券板を手にしたユンゲは、軽く肩を竦めるようにしながら、後ろを振り返った。

「とりあえずは、一件落着ってことで良いのかな?」

「そうですね。囚われていた姉妹も薬で眠らされていただけのようですし、教団を構成していた貴族も多くの証拠を握られて、今頃は“鮮血帝”殿からの沙汰に戦々恐々としていることでしょう」

 ユンゲの問いに答えて、リンダが流れるような口調で言葉を続ける。

 墓地の地下にあった邪神教団の集会場から宿へと戻り、湯浴みと一晩の休息を得て艶やかさを取り戻した長い銀髪が、窓辺から差し込む朝日を浴びてきらきらと輝いて見えた。

 事の顛末としては、判断に詰めの甘さがあったユンゲの失態から“ズーラーノーン”の関係者と思しきクレマンティーヌと小男の二人を取り逃がしてしまったものの、黒装束に身を包んだ男――後に教団の運営において、中心的な立場を担っていたことが判明した神官役――の身柄を押さえることはできた。

 そして、もう一つのルートから潜入していた女忍者の部隊により、本来の目的であるジャイムスから依頼されたフルト家の姉妹の無事が確認され、集会場に詰めかけていた帝国貴族たちも捕縛された。

 教団に関わってしまった貴族連中の未来など、ユンゲにとっては何の興味もないことではあったが、わざわざ陰険な策を講じてくれたジルクニフ側の狙いも――報酬として支払われている破格の額面を鑑みるに――概ね果たされたということなのだろう。

 冒険者組合の前で憔悴していたジャイムスが、没落貴族の執事から“政務官”という肩書きになり、事前に冒険者としての依頼をユンゲたち“翠の旋風”にしていた事実は、捏造以外の何物でもないはずなのだが……もしかしたなら、初めからジルクニフの描いた筋書きの通りだったのかも知れない。

(……いや、流石に考えすぎか)

 得体の知れない寒気に身を強張らせ、ユンゲは疲れ切った溜め息をこぼした。

「――何にせよ、あの子たちが助かってよかったよね。あの執事さんが引き取ってくれるなら安心だよ?」

 肩を落としたユンゲの背を軽くポンッと叩いて、キーファが快活な笑顔を咲かせてみせる。

「そうですね、ジャイムスさんなら私も安心だと思います。ウレイリカさんとクーデリカさんも、とても良く懐いているようでしたしね」

 柔らかな声音で微笑んだマリーの言葉に、ユンゲも表情を緩めて、フルト家の姉妹をジャイムスの待つ宿屋へ送り届けたときのことを思い返した。

 

 まだ眠りから覚めたばかりで、どこか夢見心地な様子の幼い姉妹を両腕に抱き締めながら、「申し訳ございませんでした」と声を絞る老執事に「ジャイムス、どこか痛いの? ウレイリカが治してあげる」と朗らかに笑った幼い少女と、「ウレイリカずるーい。クーデリカも治してあげる」と草臥れた白髪頭を優しく労わるように撫でる、瓜二つな同じ笑顔の少女。年齢よりも少しだけ大人びて見えた仕草は、もしかしたら彼女たちの姉がそうしてくれたことを真似していたのかも知れない。

 緩やかに巻く絹糸のような金の髪に、ほんのりと赤らんだマシュマロみたいな頬は愛らしい――幼くもどこか高貴さと将来性の豊かさを感じさせる二人の顔立ちに、誰かの面影を見たような思いもあったが、借金返済の質として実の両親に売られてしまった事実や最愛の姉との再会が叶わないという悲劇を知るには、まだ早過ぎる年齢だった。

 これから良き理解者であろうジャイムスとともに過ごし、いつか二人にも真実を知るときが訪れたなら、成長した彼女たちは何を感じるのだろうか。

 何も知らないままに居たかったと悲哀に暮れてしまうのか、或いは残酷な現実を知ることなく、優しい姉とともに微睡みの中にありたかったと嘆いてしまうのか。

 それでも、幼い姉妹を思う老執事の真摯な願いによって、彼女たちが救い出されたという過去を決して悔恨することがないように――。

 

「……そう願いたいもんだな」

 呟くように口にして、ユンゲは静かにかぶりを振る。

 何度も頭を下げ続けるジャイムスの左右を取り合い、大きく手を振りながら去っていった小さな二つの後ろ姿を見送ったなら、ユンゲの出る幕は最早ないだろう。

 どこか懐かしくも郷愁を誘う光景に、少しだけ胸の内を締めつけられるような思いが込み上げ――、不意に向けられた上目遣いの視線。

「どうかされましたか?」

 凪ぎの海原のような碧く澄んだ瞳に、どこか寂しそうな表情を浮かべた優男の像が映っていた。

「……いや、何でもないよ」と軽く肩を竦めてみせたユンゲは、可愛らしく傾げられた小さな頭を少しだけ乱暴に撫で回して、気持ちを切り替えるように言葉を続けた。

「さて、俺たちも行こうか!」

 

 *

 

 頬を撫でていく柔らかな風が、底知れない冷たさを孕み始める頃、鮮やかに色付いていた草花は枯れ色となり、遠巻きに眺めたアゼルリシア山脈の裾野に広がる、トブの大森林の樹々たちもまた物寂しい枝先を晒していた。

 何とはなしに羽織っていたマントの襟を手繰り寄せながら、ユンゲは城塞都市の名に相違ない重厚な城門を抜ける。

 統一感のあった帝都アーウィンタールの整然とした街並みとは違い、石畳による舗装のない路地の両脇には、規格も不揃いなどこか雑然とした家屋が建ち並んでいるが、不思議と全体での調和が取れているような光景には、小さく感嘆の息がこぼれた。

 リ・エスティーゼ王国の東端に位置する王家直轄領にして、交易の要衝たる大都市エ・ランテル――それほど長く離れていた訳でもないのに、どこか懐かしいような感じを抱いてしまうのは、やはりこの転移後の世界で最初に訪れた場所として、ユンゲ自身が親しみを覚えているのかも知れない。

「意外と簡単に入れてもらえて良かったね」

 ふと軽やかな足取りで駆け出したキーファが、凝った身体をほぐすように、「んーっ」と大きく伸びをしながら振り返って笑いかけてくる。

 肘や膝といった関節部を守る軽装な防具の上に、ユンゲと揃いになる若草色のロングマフラーが舞うように翻った。

 晩秋の吹きつける風の冷たさなど意にも介さない、麗らかな春の陽だまりのような元気印の野伏〈レンジャー〉に、「そうだな」と一つ相槌を打ち、ユンゲは周囲の様子に目を向けながら言葉を続けた。

「……戦時だから、もっと警備が厳戒になるのかと思ってたけど、いつもと変わらなくて助かったよ」

 リ・エスティーゼ王国とバハルス帝国間の戦端が開かれる頃には、人の行き来が制限されることもあると教えてくれたのは、初めての護衛依頼をともにした吟遊詩人の……いや、お喋り好きな神官の青年だっただろうか。

 そのために商隊を構成する商人たちも時期を見計らって――結局、二国間の戦争は例年通りの夏場から、冬の気配が間近となった今時点にまで持ち越されることになったのだが――早めに拠点である帝都への帰還を目指していたはずだった。

 巻き込まれる形で邪神教団の打倒に協力する羽目になったユンゲたち“翠の旋風”は、これ以上ジルクニフの思惑に踊らされたくないと意見の一致をみて、早々に帝都を発つことに決めた。

 そうして、常宿を引き払うと好景気に沸く市場で防寒具などの簡単な旅装を整えて、一行は直ぐにエ・ランテルへと帰還する途に着いていた。

 リンダの御する馬車に揺られながらの道中では、帝国側からの越境ということで都市内に入場させてもらえないのではないか、といった相談をしたりもしていたのだが、そのような懸念も杞憂に終わり、ひと安心といったところだ。

「……でも、帝都の盛り上がりとは、かなり雰囲気が違うな」

 三重の城壁に囲まれたエ・ランテルの西側にある共同墓地を除いた外周部には、駐屯地としての性質から軍事系統の設備が整えられている。

 今回の戦争に備えて騎士団の召集された帝都は、軍需の高まりによって活況な様相を呈していたが、駐屯地へと続いているはずの路地の向こうからは、そうした高揚と対極にある重苦しい空気の漂ってくるような印象があった。

「確かにそうですね。戦争が近いことを思えば、当たり前なのかも知れませんが……」

 ユンゲと同じように視線を巡らせていたマリーが、同意を示しながら少しだけ表情を曇らせる。

 風が吹けば身に沁みるほどの寒さと相俟って、耳に痛いくらいに喧しかった帝都での客引きが、どこか恋しくなるような一抹の寂寥感が呼び起こされ――不意に鼓膜を打ったのは、荷馬の嘶きだった。

 ユンゲの振り返った先で、慌てることなく轡を取ったリンダが、顔色を悪くしたマリーに微笑みを向けてから、落ち着き払って言葉を引き取った。

「バハルス帝国の騎士団は専従する職業軍人で構成されているはずですが、リ・エスティーゼ王国の兵士は、多くが戦争の度に徴兵される農民たちと聞き及んでいます。或いは、その辺りが関係しているのかと――ほら、大丈夫……良い仔だ、安心してくれ」

 小さく肩を竦めたリンダが、滑らかに言葉を紡ぎながら慣れた手つきで荷馬を宥めてみせる。

 先ほど城門の横に設置された検問所を通ったときには、冒険者の認識票を提示したばかりで幌を被せた馬車の積荷を確かめられることもなく、人数分の入場税を支払うように求められただけだった。

 あのような軽い対応は冒険者への警戒が薄いというよりは、担当していた兵士たちに気力がなかったということの表れだったのだろうか。

 少し思い返してみたのなら、今回の宣戦布告は、時季外れに帝国側から突然なされた不測の事態であり、着の身着のままで集められたような農民たちの士気が低いのも当然なのかも知れない。

 ぼんやりと考えを巡らせていたユンゲは、何気なくリンダの鮮やかな手並みに見入っていたことに気付き、「……あぁ、悪い。先ずは宿屋を見つけて荷馬車を預けるべきだったな」と視線を誤魔化すように口を開いた。

 リンダ以外に“翠の旋風”の中には、馬の扱いに長ける仲間がいないため、早めにそうしないとリンダも休めないだろう。

 もう一度、小さく肩を竦めてみせたリンダに軽く手を振って、ユンゲは踵を返す。

 幸いにして、懐には結構な余裕があるので――これまでの彼女たち頑張りを労う意味合いも兼ねて――多少は上等な部屋を探しても良いだろう。

 どこか良い宿屋はあったかな、とユンゲが思案に顔を持ち上げてみれば、衛兵の影が並ぶ高い城壁の向こう、中天を越えたばかりの陽を浴びる薄い白雲が、遠く雪化粧を纏ったアゼルリシア山脈の方へと流れていった。

 

 *

 

 首尾良く宿屋を確保できたユンゲたち“翠の旋風”は、荷馬車を預けるとともに旅装を解いて再び市中へと戻っていた。

 知らない間に俄雨が過ぎ去ったのか、少しだけ泥濘んで柔らかくなった路地を歩けば、始末に追われているらしい露店商たちの面倒そうな顔が並んでいる。

「……夕飯の買い出しは後にして、冒険者組合に行ってみるか?」

「その方が良さそうですね。帝都で購入した分も残っているので、今晩くらいは大丈夫……だと思いますよ」

 半ば諦めているようなマリーの口調に苦笑を返しつつ、ユンゲはのんびりと冒険者組合の方へ足を向けた。

「何か依頼でも探すの?」

「んー、手頃なのがあったら受けるのもありだと思うけど、日銭に困ってる訳じゃないからな。……とりあえず、モモンさんやモックナックさんに挨拶はしときたいな」

 隣に歩を合わせてきたキーファの頭に軽く手をやったユンゲは、「でも、忙しそうな人だからなぁ」と小さくかぶりを振ってみせる。

「そんな感じだねー、組合長さんに呼ばれてたんだっけ?」

「――だったな、アダマンタイト級にもなると何かと大変なんだろう」

 最高位冒険者である“漆黒”のモモンとナーベの二人は、ユンゲたちよりも一足先に帝都からエ・ランテルに帰還しているはずだが、それは組合側からの要請を受けてのことだったはずだ。

 リ・エスティーゼ王国でも王都まで行けば、もう二組のアダマンタイト級の冒険者チームも存在するらしいが、このエ・ランテルには彼らしかいないので、“漆黒”を頼りに名指しする依頼も多いと聞いている。

「……食うに困らない稼ぎがあれば、仕事はほどほどなのが良いよなぁ」

「ユンゲさんの場合、ほどほどのお仕事で賄えるんですかね?」

 ユンゲのこぼした他愛のないぼやきに、反対側から顔を出したマリーが悪戯っぽい笑みを向けてくる。

「ホントにねー、あれだけ買い込んだお酒も、もう飲み切っちゃったしね! どこに入っていくの?」

 ユンゲの横腹に肘当てをぐいぐいと押し付けてくるキーファもまた、同じような色を紫の瞳に湛えていた。

 視界の両端で楽しげに揺れる、丁寧に括られた栗色のポニーテールと金色のサイドテールが、今は無造作に引っ張ってやりたいほどに鬱陶しい。

 気晴らしという名目から帝都の中央市場で買い集め、滞在する宿の一室を盛況な酒場の倉庫然としていた大量の酒樽は、既にエ・ランテルまでの旅程で最後の役割を終えたという事実があったとしても、ユンゲは胸の内から込み上げてくる衝動に駆られてしまう。

 救いを求めるように背後を振り返ってみれば、苦笑を浮かべたリンダと目が合いかけ……、逸らされた。

 こぼれた小さな溜め息は、果たして誰のものだったのか。

「……良いんだよ。食うだけの分は、働いてるんだから」

 やや仏頂面となって言い差し、ユンゲは左右から覗き込んでくるそれぞれの額を指先で軽く弾いた。

 痛みを訴えてくる抗議の声を背にしながら、自然と速まる歩みで――記憶よりも人の往来が疎らな印象の路地を進み――冒険者組合が面する大通りへと抜ける。

 そうして、ユンゲが剣と盾の意匠が施された無骨な建物を目に止めたときだった。

 

 不意に開かれた組合の扉から、二人組みの男たちが姿を現した。

 先に立ったのは、見事な意匠が凝らされた純白の全身鎧。少年から青年への過渡期にあるような、精悍さとあどけなさの同居する若い騎士風の男は、短く刈り上げた金髪と日に焼けた浅黒い肌が目立った。

 もう一人の長身な男は、程良く引き締まった細身の体躯に薄手の鎖着を纏っただけの軽装姿で、青に染められたざんばら髪と腰に提げる日本刀のような得物が特徴的だったが、どちらも冒険者を示すプレートは身に帯びていない。

 初めて見る顔ではあったが、戦いに従事している立場であろうことだけは、ユンゲでも容易に想像がついた。エ・ランテルに駐留している王国軍の関係者だろうか。

「……何か、私たちに御用でしょうか?」

 鼓膜を打ったのは、若い騎士の年齢に似合わないしわがれた声音。絢爛な装備の作りから貴族の子弟とその護衛かとも考えかけていたが、どうやら違ったらしい。

 思いがけない丁寧な問いかけには、少しだけ面食らってしまう。

「あぁ……いや、すみません。見事な鎧に思わず目を奪われてしまいまして――」

 咄嗟の言い訳を口にしつつ、ユンゲは素直に頭を下げた。

 実際のところ、ユンゲの注意は騎士の背後で腕を組んだ青髪の剣士が放つ――先の邪神教団との戦いで、クレマンティーヌと対峙したときにも抱いたような威圧感を覚えさせる――鋭い眼差しに向けられていたのだが、どちらにせよ不躾な反応をしてしまったことには変わりない。

「いえ、頭を下げていただく必要はありません」

「……そうだな。優れた武具を目にしたなら、戦士は誰しも興味を惹かれちまうもんだ」

 恐縮したような若い騎士の言葉に続けて、こちらに一瞥をくれた青髪の剣士が軽い調子で口を開いた。

 当然ながら先ほどの訝るようなユンゲの視線にも気付いていたはずだが、気にする素振りを見せない訳知り顔の剣士は、表情を少し緩めただけでおざなりに肩を竦めてみせる。

「俺の名は、ブレイン・アングラウス。こっちの真面目なのは、クライムだ。見ての通り冒険者じゃないが、ここには人探しにきただけでな……そんなに警戒はしないでくれるとありがたい」

 他意がないことを示すように、ひらひらと軽く振った手を若い騎士〈クライム〉の肩に置きながら、どこか挑戦的に口許を持ち上げた剣士〈ブレイン〉が、ユンゲに向き直って言葉を続けた。

「失礼ながら、アンタは森妖精〈エルフ〉の血が入っているのか? 差し支えなければ、名前を訊かせてもらえないだろうか?」

 脈絡のない無遠慮な問いかけにも、不思議と不快な印象は感じない。

 このブレインという剣士には、こうした振る舞いが似合っているようにも思えた。

「先に名乗ってもらっているのですから、お気になさらずとも構いませんよ。冒険者チーム“翠の旋風”のユンゲ・ブレッターと申します。彼女たちは同じチーム仲間の――」

 

 そうして、ユンゲが背後に控えていたキーファ、リンダ、マリーの三人を簡単に紹介し終えたとき、ハーフエルフの聴力は、「……なるほど、世の中は広いもんだな」と妙に実感の込められたブレインの小さな呟きを拾い上げた。

「――ん、どうかされましたか?」

「いや、何でもない。少しだけ、狭い世界で粋がっていた昔の自分を思い出してな」

 ユンゲの疑問符を払うようにかぶりを振ったブレインが、小さく自嘲めいた笑いをこぼす。

 口惜しそうでもありながら、どこか清々しいような雰囲気さえ漂わせているブレインに、ユンゲは何故だか近しい思いを感じながら肩を竦めてみせた。

「何というか、蘊蓄のありそうな言葉ですね」

「はっ、小難しいことには興味がないさ。……まぁ、戦いに身を置いていれば、また会うこともあるだろう。次の機会には是非、一つ手合わせを願いたいね」

 わざとらしく不敵な笑みを浮かべながら一息に言い切ったブレインが、満足そうに踵を返して都市の外周部へと足を向ける。

「――早めに戻って夕飯前の訓練にしようか、クライム君」

「あ……はい、よろしくお願いします!」

 短く言い差し、話は終わったとばかりに颯爽と歩き去っていくブレインの背を追ったクライムが、「申し訳ありませんが、ここで失礼させていただきます」と律儀にユンゲたちに頭を下げてから、小走りになって駆けていく。

 戦場を渡り歩いた歴戦の傭兵に、実直な若い見習い騎士といった風な二人を結ぶ絆は、最初に抱いた主従の関係ではなく、歳の離れた兄弟や師弟のような信頼と気安さだろうか。

 鮮やかな青髪のブレインと純白の鎧を身につけたクライムの後ろ姿は、行き交う人々の少ない褪せた灰色の街並みを背景に、やがて通りの角へと消えていった。

 奇妙な邂逅が過ぎ去れば、やけに物寂しい街路には寒々とした木枯らしが頬を撫でていくばかり――、

「結局、あの二人は王国軍の関係者だったのかな?」

「分かんないけど……なんか、金髪の方は子犬みたいだったね」

 何気ないキーファの呟きに、ユンゲは思わず吹き出したのだった。

 

 




次話で別キャラ視点を挟んで、いよいよ新章(?)突入! 

……といったところなのですが、何より新刊の発売が待ち遠しくて仕方ありません笑


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(Side-M)難題

今回の主役は、皇帝ジルクニフさんです。
もはや頭文字“M”とは何の関係もないですが――。

投稿した中で最長となる1万字超えは、“鮮血帝”とかいう苦労人が色々と考え過ぎてるせいだと思います。

-追記-
ジルクニフさんの悩みと“M”を結びつける素晴らしいコメントを頂きました。ありがとうございます。


 細緻な装飾の施された厚手のカーテンを払い、半透明なガラスの窓を開け放ったなら、肌寒い冷気が流れ込んでくる。

 既に冬の気配が近いことを思えば無理からぬことではあったが、ジルクニフの背筋を伝っていく悪寒の原因は別にあった。

 帝都アーウィンタールの中央に位置する皇城の中でも、際立って厳重な警備の敷かれている居室の窓辺から見下ろす中庭には、木枯らしの季節にあっても鮮やかな色合いで目を楽しませてくれる様々な草花が咲き誇っている。

「……全てが夢であったならな」

 自身の口からこぼれたとも思えない世迷言を聞き咎めて、ジルクニフは一つ小さくかぶりを振った。

 皇城を訪れた賓客に開放することもある自慢の中庭に、突然の予期しない来訪者が現れてしまったのは、もう二ヶ月ほども前のこと――始まりは、巨大な何かが大地に激突したような、たった一度切りの大きな揺れだった。

 執務室の窓や調度品までもが軋むほどの地響きともに降り立ったのは、ただ一頭で帝都アーウィンタールを滅ぼしかねない強大な竜〈ドラゴン〉。

 そして、未曾有の緊急事態を前に誰もが固唾を飲んで見守る中、軽やかに竜の背中から跳び下りた二つの小さな影――稀代の魔法詠唱者たる“アインズ・ウール・ゴウン”の御使いを名乗った――見目麗しい闇妖精〈ダークエルフ〉の姉妹は、疑いもない本物の化け物だった。

 彼らの居城たるナザリック地下大墳墓に、不届きな侵入者を送り込んだとジルクニフを糾弾して謝罪を要求するとともに、拒んだならバハルス帝国を滅ぼす、などという荒唐無稽な脅し文句は、決して伊達や酔狂の類いではなかっただろう。

「手始めに、ここにいる人間は皆殺しにします!」

 高らかな宣言に合わせて、突き立てられた杖により引き起こされたのは、皇城が崩れるかと思わせるほどの局地的な大地震。

 悲鳴を上げながら蜘蛛の巣よりも複雑に裂かれた大地は、中庭に詰めていた全ての者たちを瞬く間に呑み込んでしまった。

 国家の中枢たる皇城内において、一度に百十七名もの死者を出したことなど、ジルクニフの異名を“鮮血帝”たらしめた大粛清は疎か、過去二百年に渡る帝国の歴史を紐解いてみても例を見ないほどの惨事だっただろう。

 存在自体が害となる無能な貴族やリ・エスティーゼ王国軍のような数合わせの雑兵ではない。

 皇城の警備を務める最精鋭たる近衛兵四十名に、帝国軍を支える歴戦の騎士六十名、先代皇帝の時代から最も注力してきた帝国魔法省の運営を担う魔法詠唱者に至っては、魔力系と信仰系を合わせて十六名――何よりの損失であったのが、帝国最高峰の戦士である四騎士の一人、“不動”ナザミ・エネックの死亡だった。

 しかし、そうした目も当てられないほどの大損害ですら、後の些事に過ぎなかったことを思えば、先にこぼれた情けない嘆き節さえ、暗澹たる未来を表すには足りないのかも知れない。

 

「……簡単に行かせちまって、本当に良かったんですかい?」

 不意に背後から投げかけられた問いに、ジルクニフは小さく肩を竦めてみせ、惨劇の爪跡を微塵も感じさせない中庭に目を向けたままで答えを返した。

「――無理に引き止めたところで、反発されるだけだったろうさ」

「そうですかい? 俺はてっきり、あのハーフエルフをナザミの後任に据えるものかと思ってましたが……」

 諦めの悪い陛下らしくもない、と粗野な揶揄いの言葉を口にしたのは、四騎士の筆頭たる勇士、“雷光”バジウッド・ペシュメルだった。

 直属の臣下でありながら、皇帝であるジルクニフに対しても砕けた口調を使う平民出身の偉丈夫だが、貴族連中とは違う武人らしい歯に衣を着せない話し振りは、内心で好ましいものを感じていた。

「平時であれば、私もそうしたさ。実力の面で奴以上の適任者となれば、アダマンタイト級冒険者の“漆黒”のモモンぐらいだろう」

 ジルクニフは言葉を区切り、バジウッドが同意を示すように一つ大きく頷く。

 冒険者となってから僅かな期間で“漆黒”の成した数々の功績は、稀代の英雄と称されるに相違ない偉業であり、凄まじいの一言に尽きた。

「――だが、制御の利かない強者など、国家の運営には不要だ」

 行動理念が善良に偏り過ぎており、正しく英雄たる才気を持つモモンは、清濁を併せ呑む政治の世界において劇薬となり兼ねない。

 もっとも、ロウネに進めさせた懐柔策にも、「果たさなくてはいけない使命がある」と無碍なく断りの文句を返してきただけであり、仮に最高位の冒険者を引き抜ける手筈が整ったとしても、敵国であるエ・ランテルの冒険者組合が黙っているはずもない現状では、そもそもの議論に値する余地はないだろう。

「……そういう意味でも、あのハーフエルフは良い人選だと思ったんですがね。正直なところですが、“激風”と“重爆”を加えても、俺たち三人では相手にならないはずですよ」

 やれやれとばかりに、バジウッドが溜め息をこぼした。戦士としての資質を持たないジルクニフが考えていた以上に、バジウッドは“冒険者”ユンゲ・ブレッターの実力を買っているらしい。

 周辺国家最強と名高い王国戦士長〈ガゼフ・ストロノーフ〉に伍する剣の腕があり、若くして帝国魔法省の上席者にも相当する第四位階魔法の使い手ともなれば、多少の弊害があったとしても自身の陣営に迎えたい人材であることに疑いはない。

 ――胸の内に掠める、微かな疼痛。

 高潔に過ぎるモモンと比較したなら、いくらか俗物的な反応を見せるユンゲは、御しやすい相手であることも間違いないだろう。

 バジウッドの発言に無言の肯定を返し、ジルクニフは中庭に向けていた視線を持ち上げる。

 抜けるように高い青空を背景に揺蕩う白雲は、ただ自然の風によってのみ、その形を変えながら遠くアゼルリシア山脈の頂きへと流れていく。

 

「……帝都に蔓延っていた邪教の憂いを取り除き、強欲な貴族連中を更に締め上げるための弱みも手に入れた。当面の成果としては上々だ」

 半ば自身に向けて言い聞かせるような言葉を口にして、ジルクニフは再び視線を中庭へと落とした。

 悪の秘密結社を気取っている“ズーラーノーン”の影響は、決して無視できないところまで帝国の貴族社会に根付いてしまっていたが、今回の騒動で沈静化に向かうだろう。

 何より今後は、本物の“死を具現化した存在”を知った人間が、あの邪神教団のような紛いものに心酔することはなくなる。

 思考を紡ぎながらジルクニフの脳裡に思い起こされるのは、神話の世界に足を踏み入れてしまったかのような驚愕の光景――空を覆う黒い雲によって陽の遮られた寒々とした草原の只中。

 謝罪のために馬車を走らせてきたバハルス帝国の一行を出迎えたのは、艶やかな黒髪を夜会巻きに結い上げた絶世の美姫だった。

 一目で仕立ての良さが分かる着衣の形状から、メイドとして従事していることは理解できても、高名な大貴族の令嬢と紹介されても遜色ないほどに隔絶とした美貌は、緩やかな丘に埋もれるような格子門と気味の悪い墓地が連なる草原にあって、異様なほど際立っていた。

 そうして、この場で待つようにと告げられ、一旦馬車へと戻ろうとしたジルクニフを呼び止めた美姫は、何でもないことのように、「まずは天気がよろしくないので、そちらから開始させていただきます」と言葉を続けて、一つ小さく手を叩いた。

 変化は劇的だった。

 僅かに開いた雲間から一筋の光芒が差し込んだかと思えば、次の瞬間には頭上を覆い尽くしていた黒い雲は消え去り、目に沁みるほどの鮮やかな青空が広がっていた。

 驚愕に震えながら周囲の様子を窺ってみれば、「なんだか……暖かくなってきてないか?」と囁きを交わす近衛たちの小声を耳にして、ジルクニフは羽織っていたマントを脱ぎ捨てた。

 典礼用の高価なマントに込められていた“温度差から身を守る魔法の加護”を失ったジルクニフは、麗らかな春の陽気に当てられて言葉を失う。

 第六位階以上の魔法――そんな嬉々として語られた単語が耳に強く残っていた。

 直後に響き渡った、「げぇ!」と鶏が絞め殺されるときのような奇声の記憶とともに……再び、胸の内に去来する痛み。

 努めて無視をして、ジルクニフは背後に控えていたバジウッドを振り返る。

 逞しい偉丈夫の傍らには、豊かな金の長髪を右頬に流した女騎士“重爆”レイナース・ロックブルズの姿もあった。

 もう一人の四騎士である“激風”ニンブル・アーク・デイル・アノックには、カッツェ平野に築いた帝国軍の駐屯地において、最も過酷な任に就いてもらっている。

 

「……此度の戦争で、エ・ランテル近郊は奴――アインズ・ウール・ゴウンの領有するところになる」

 心を落ち着けるように静かな声音で言い差し、ジルクニフは無理矢理に口許を持ち上げる。

 未だに開戦もしていないが、此度の戦争の結末は既に明白だった。

 ジルクニフが依頼したように、アインズ自身による最大級魔法の初撃が合図となって、過去に例を見ない苛烈な戦いは幕を開け――、ナザリックと同盟関係を結んでいる帝国軍の勝利に終わる。

 そして、例年ならば中立を宣言していたスレイン法国までもが追認してきた先の宣戦布告に従って、エ・ランテル近郊を実効支配することになるアインズが、新たな国家を建国することまでは既定事項となっている。

(……アンデッドの支配する国家とは、果たしてどのようなものになるのかな)

 嘆息したくなるような思いを飲み込み、ジルクニフは居並ぶ臣下を見回して言葉を続けた。

「――以前にも確認したことだが、これは人類の存亡をかけた戦いだ。エ・ランテルに築かれる新たな国家は、我らバハルス帝国とリ・エスティーゼ王国、そしてスレイン法国を含む周辺三カ国の潜在的な敵となる。ここに、アーグランド評議国とローブル聖王国などを加えた大連合を結成し、奴らに対抗する以外に、人類が生き残る道はない」

 一方で、ジルクニフ自身が大連合の発起人となれば、見せしめとして真っ先にバハルス帝国が滅ぼされてしまうことを避けられない。

 そのために、表向きはナザリックとの同盟関係を維持したまま、アインズ・ウール・ゴウンの危険性を諸国に周知させつつ、強大に過ぎる力を打ち負かすための情報と戦力を集める立ち回りが、ジルクニフには求められている。

「……だからこそ、現状では帝国だけの軍事力強化を図り、ユンゲ・ブレッターを我が臣下に迎える意義は薄いと考えている」

 如何に件のハーフエルフが、バハルス帝国において比肩できる相手がいないほどの稀有な強者であったとしても、圧倒的という言葉すら烏滸がましい魔王の軍勢を目の当たりにすれば、個人の力量に過度な期待をかけるのも酷な話だろう。

 ナザリック地下大墳墓からの帰路――往路とは顔触れの変わった馬車内において語った展望を重ねて口にしたジルクニフは、やはり納得し兼ねるといった様子のバジウッドを見遣り、発言を促すように軽く頷いてみせた。

「奴らとまともに戦うためには、連合が必要だという陛下の考えは良く分かるんですがね……エ・ランテルに留まらせていたら、それこそナザリックに取り込まれちまう心配はないんですかい?」

 普段のバジウッドらしくもない後向きな問いかけに、「お前はアンデッドの支配下で暮らしたいと思うか?」とジルクニフは小さく笑みを浮かべて問いを返した。

 半ば虚勢のような心持ちではあったものの、ジルクニフとしても辛うじて希望に縋れる程度には勝算はある。

 結びつくはずのない細い糸を手繰り寄せた凄まじい智謀と絢爛に過ぎる玉座からジルクニフを睥睨した、真なる支配者たる風格を思えば、アインズ・ウール・ゴウンを単なるアンデッドと一括りにすることなど考えられるはずもない。

 それでも、生者と死者が本質的に相容れることはないと断言できる。

「建国後にどのような統治をするかは知らんが、静寂を欲して世界を滅ぼさんとする相手だぞ。奴の意に沿わなければ、殺されるだけだろう」

 そうした者に拷問を与えて苛虐を愉しむような類いとは違う印象もあったが――、不意に微かな身震いを感じたのは、そら恐ろしいほどの異形な存在に取り囲まれた荘厳とした謁見の場で、ジルクニフが献上した不心得者の貴族の首を思い出してのことだった。

 気紛れで殺されるだけなら、まだ救いがあるのかも知れないとさえ思える。

 或いは、殺された上で自らの死体を新たなアンデッドとして作り変えられる……そんな末路に立たされることを許容できる人間がいるはずはない。

 英雄の器たるモモンにしても、ハーフエルフであるユンゲにしても、生命ある者が生者を憎む“不死者の王”たるアインズ・ウール・ゴウンに迎合することはできない。

「……故に、エ・ランテルに滞在する人間側の強者――、つまりは“漆黒”と“翠の旋風”が、ナザリックという獅子身中の虫となる」

 

 ジルクニフが現状でするべきことは、ナザリックという巨悪の腹を食い破り、支配から逃れた彼らの受け皿を用意しておくことだった。

 首から提げたネックレスに触れる。

 茫洋とした淡い輝きは、込められている精神防御の魔法の光だろう。

 焦燥とする心を落ち着かせるように、ジルクニフはゆっくりと深い呼吸をしてから言葉を続ける。

「そして、奴にはもう一つ重要な役回りを担ってもらう。……バジウッド、以前に話したことを覚えているか?」

 持って回った言い回しに、バジウッドが訝りながら肩を竦めてみせる。

「――アインズ・ウール・ゴウンに匹敵する、強者を引き入れるという話だ」

 短く言い差したジルクニフの言葉に、バジウッドが小さく息を飲み、レイナースは整った眉間に皺を寄せていた。

 皇帝の執務室に待機している文官たちまで、一様に張り詰めた面持ちになったのが見て取れる。

 室内の注目を一身に集めながら、どこか場違いな可笑しさを覚えつつ、ジルクニフはわざとらしく慎重に言葉を紡いだ。

「……奴は、森妖精〈エルフ〉たちにモテるのだろう?」

 言い知れぬ静寂が支配した執務室から目を背け、ジルクニフは窓辺に手をかける。

(……一、ニ、三、四、五)と心の内で沈黙の時間を数えながら、流れていく白雲を眺めてみれば、為す術もなく見送った巨大なドラゴンの後ろ影が、ジルクニフの脳裡を過ぎった。

 使者として遣わされるには余りに幼く、可憐と形容されるに相応しい容姿を持ちながら、万軍を凌駕する恐るべき力を有した双子の姉妹。

 超常の存在たるアインズ・ウール・ゴウンを相手に、曲がりなりにも人間が対抗しようと考えるならば、例えどれほどに無謀であったとしても、ナザリックの体制を内側から切り崩していくしかない。

 玉座の間に居並んでいた、側近ないし幹部級と目される面々を思い浮かべる。

 趣味嗜好の検討もつかない蛙や蟲のような異形の悪魔を寝返らせる方策など、ジルクニフには考えも及ばないが、ある程度は人間に似通った背格好と外見に相応な、子ども染みた思考を垣間見せた幼いダークエルフな姉妹――特に、オドオドとした態度で姉〈アウラ・ベラ・フィオーラ〉の言葉に従うばかりだった妹〈マーレ・ベオ・フィオーレ〉については、無理にでも懐柔をかけてみるだけの価値があるはずだった。

 たっぷりと時間をかけながら、勿体振るように再び視線を室内へと戻す。

「……ちぃーとばかり楽観的に過ぎると思うんですが、本気ですかい?」

 ようやっと声を発したのは、戦場で対峙する相手を怯えさせる強面に、今は脂汗を滲ませるバジウッドだった。

「無論、本気だ。――神話の軍勢を相手にするのだ。為すべきことは全てを為し、可能性があるなら縋れるものには、何であっても縋ろう。成否を問うのは後からで構わない」

 果たして事の起こった後に、人類に可能性が残されているのかは分からないが……、という言葉は自身の胸の内に留めて、ジルクニフは一つ息を吐いてみせた。

「――そのことをアイツに伝えたんで?」

「いや、奴に腹芸は期待できないだろう。飽くまで、そうなったなら楽なのにな……という私の希望といったところだ」

 軽い冗談めかせるように、ジルクニフが大きく肩を竦ませてみせれば、信頼の置ける騎士の顔には、どこか唖然としたような苦笑が浮かんでいた。

 未曾有の事態を前に皇帝たる者が何を宣っているのか、と問いたげな視線が集まってくるが、それでも執務室に蔓延していた重苦しい閉塞感は、僅かながら薄れている。

 それで良い、とジルクニフは小さく顎を引いた。

 変に気負い過ぎたところで、良い考えが得られるとは思えない。

「お前たちも願いがあれば言っておけ。どこぞの神様が叶えてくれるかも知れんぞ」

 顔を詰め寄せていた臣下たちに告げ、ジルクニフは執務用の椅子にどっかりと腰を下ろした。

 或いは、そうした“神”そのものかも知れないアインズ・ウール・ゴウンを相手取って、人類の存亡をかけた戦いを挑まんとする自身の考えは、本当に正しいのだろうか。――判断はつかない。

 

 やがて、無理矢理にでも気を紛らわせるかのように、喧々囂々と意見を交わし始めた文官たちをジルクニフが何の気なしに眺めていく――と、不意に部屋の片隅で壁に背を預ける女に視線が止まった。

 この地域では珍しい黒髪に、同色の闇夜から切り取ったようなチューブトップドレスを品良く纏った白磁の美貌と憂いを帯びた眼差しは、貴族の令嬢として紹介されたなら社交界においても注目の的になっていただろう。

 先まで秘書官を務めていたロウネ・ヴァミリネンの伝手で話をつけていた、暗殺者集団“イジャニーヤ”を束ねる女頭領〈ティラ〉には、諸事情もあってジルクニフの執務室への出入りを許可している。

 四騎士に並ぶほどの純粋な戦闘技術の高さもさることながら、大きく削がれてしまった諜報部門等の役割を担ってもらうためにも、配下に迎えたい人物の一人ではあるのだが、現在まで色好い返事は得られていない。

 任せたい役回りを考慮したなら、金銭による雇用関係ではなく、皇家に仕えているという形が望ましいのだが――、三度目の鈍痛に思わず顔が強張るのを感じた。

 ジルクニフの恨みがましい視線に気付いたのか、およそ為政者に対して向けるものではない冷めた一瞥をくれ、ティラは口許を皮肉っぽく釣り上げる。

 ジルクニフの見つめる先で、その艶かしい肢体が霞のように揺らいだかと思えば、次の瞬間には執務室から姿形もなく消え去っていた。

(……儘ならないものだな)

 微かな苛立ちに髪をかき上げたなら、指の股に数条の金糸が絡みついていた。

 無言のままに手を払い、ジルクニフは椅子に深く座り直す。

「――そう言えば、あの爺さんと娘っ子二人はどうするんですかい?」

「……ん? あぁ、“鮮血帝”とかいう頭の足りない奴が、考えもなしに貴族を減らしたこともあって、今は猫の手でも借りたいくらい深刻な人手不足だ。――現状で約束を反故にして、奴に臍を曲げられても敵わんからな」

 少しだけ普段の調子を取り戻したらしいバジウッドに応えて、ジルクニフは軽く肩を竦めてみせた。

 邪神教団の一件で召し抱えることになったジャイムスという老執事を簡単な経理に回してみたところ、欠けてしまった優秀な秘書官の不在を埋めるには心許ないが、無能な没落貴族家で遊ばせていたには惜しい人材だった。

「娘の方は……取り敢えず、保留だな」

 若くして第三位階を修めたという長姉のように、優れた魔法の才を発揮するのなら或いは――、

「なんなら後宮にでも入れますか? 俺の見立てだと将来性は高いと思いますぜ」

「ふん、見目良く成長したなら、内を固めるのに使えは良いだろう。幸い血は悪くない……いや一層のこと、お前の案を採用してみるのも悪くないか」

「おっ、陛下もその気になりましたか」

 口許を楽しそうに緩めたバジウッドが、喜色めいた反応を示すのに苦笑を返しつつ、ジルクニフもまた興じるように言葉を続けた。

「私ではない。珠のように育て上げて、奴の枷にするのも面白いかと思ってな」

 勿体振ったこちらの意図を測りかねて、バジウッドが分かりやすい疑問符を浮かべる。

「薄い女ばかりだと厭きがくるのだろう?」

「…………“鮮血帝”ってのは、随分と底意地が悪いんですね」

「――今頃になって気付いたのか?」

 くつくつと喉元で笑いを堪えるようにしながら、ジルクニフは視線を外の景色へと向ける。

 金細工の施された窓枠で長方形に切り取られた西の空は、まだ鮮やかな群青一色に染まっていた。

 

 *

 

 リ・エスティーゼ王国の東部に位置する、城塞都市〈エ・ランテル〉における最高級の宿屋“黄金の輝き亭”。

 その中でも、特に最高の部屋――稀代の英雄として、王国全土に名声を馳せる冒険者チーム“漆黒”が常宿としている一室には、持ち込まれた瀟洒な鏡を覗き込む二つの人影があった。

 一人は部屋の借り主である“漆黒”の魔法詠唱者――南方系に多いとされる黒髪と氷雪のように冷たい眼差しで衆目を集める“美姫”ナーベこと、ナーベラル・ガンマであった。

 エ・ランテルにおいては、凄腕の冒険者として名を馳せているナーベラルではあったが、今は市井の印象とはかけ離れた可憐なメイド服に身を包んでいる。

 そして、もう一人の女性――ナーベの相棒たる、“漆黒の英雄”モモンとは似ても似つかない――が、訝るように鏡の中を見つめながら口を開いた。

「――あれがアインズ様の気にかけている、っていう奴らっすか?」

 三つ編みとされた真っ赤に燃えるような長髪に、健康そうな褐色の肌と揃いになる統一感のあるメイド姿。妖艶と快活を併せ持ったルプスレギナ・ベータもまた、ナーベラルと並び称されるほどの美貌を創造主から与えられている。

 ルプスレギナの視線の先――遠隔視の鏡〈ミラー・オブ・リモート・ビューイング〉に映し出されているのは、細い街道を進む一台の馬車と四人組の冒険者チーム“翠の旋風”の面々だった。

 冒険者としての依頼を通して、何度か顔を合わせているものの、正直なところ名前は憶えていない。

「えぇ、正確には先頭の下等生物さえ注意していれば、残りのはどうでも良いみたいだけど…………でも、玩具にしちゃ駄目よ」

 次姉の口許に浮かんだサディスティックな笑みを見咎めて、ナーベラルは言葉を付け足しておく。

 残忍で狡猾たる見事なメイドであるルプスレギナだが、それ故に偉大なる御方の計画を外れかねない僅かばかりの不安――前科もあった。

「分かってるっすよ。ナーちゃんは心配性っすね」

 頭の後ろで腕を組みながら、にっしっしと揶揄うように笑みを濃くしたルプスレギナの様子を見遣り、「……だと良いんだけど」とナーベラルは小さく溜め息をこぼす。

「馬鹿っぽい見た目だけど、強さだけなら私や貴女とも同程度みたいだから、くれぐれも軽はずみな行動はしないでね」

「大丈夫っすよ。そんで、これがカルネ村に向かってるんすよね。何の用っすか?」

「……さぁ? 冒険者組合で依頼を受けたみたいだけど、他の冒険者の依頼内容を詮索するのは、マナー違反らしいわ」

 不思議そうに小首を傾げてみせるルプスレギナに、ナーベラルは小さく肩を竦めてみせてから言葉を続けた。

「下等生物の決めたルールなんてどうでも良いと思うのだけど、アインズ様が重んじるべきと仰るのだから、私たちは素直に従うだけよ」

「なるほどっす! 流石は、ナーちゃんっすね」

 わざとらしい訳知り顔で、ポンッと両手を打ち鳴らしたルプスレギナを見遣り、今度はナーベラルの方が疑問符を浮かべる。

「……何か含みのある言い方ね」

「いやー、アインズ様にドナドナされてから、妹が成長してるんだなーと思えば、姉としては感無量っす。それで、こんなところに二人の“愛の巣”まで作っちゃうんすから、本当に羨ましい限りっすね」

 とんでもない発言に、刹那の思考が吹き飛んでしまう。

 這わせた指先で部屋の壁を軽く弾きながら、「……防音もバッチリみたいっすから、大きな声でヤリタイホーダイっすね」などと宣うルプスレギナは、然も面白そうに破顔してみせる。

「――なっ、何を言うのよ! ルプー、それは不敬だわ!」

 思わず前のめりに詰め寄ったナーベラルが、止まらない口許を慌てて塞ぎにかかるが、身体能力に優れるルプスレギナには、あっさりと躱されてしまう。

「やー、私もあやかりたいっすね。今度のときは、私も是非に呼んで欲しいっす」

「こ、今度も何もない!」

 部屋の中ほどにあった小机を回り込んで、ベッドの傍へと駆けていくルプスレギナの後ろ髪を追って、ナーベラルの後ろ手に括ったポニーテールが激しく揺れる。

「えー、ナーちゃんばっかり既成事実を作るのは、ズルいっす」

「だ、だから私はっ――」

「私だって、アインズ様の珠骨を舐め回してみたいっすよ!」

 ナーベラルの抗議の声を遮って、ルプスレギナが引っ掴んだ枕を投げつけてくる。

「――へぶっ! ……って、えーっと、舐める……の?」

 匠の彫像のような顔面にクリーンヒットした枕が、重力に引かれて擦れ落ちていくのにも構わず、ナーベラルは気の抜けたような疑問の声を上げた。

「そうっす! だって、至高の御方のお骨様っすよ! そこら辺のスケルトンとは比べものにならない上物に決まってるっす! 本当は、いっぱい噛んで、たっぷりとしゃぶり尽くしたいところっすけど、それは我慢しておくっす!」

 赤髪の上に鎮座した帽子の中で、獣の耳がヒクヒクと動いているようだった。

「あー、えっと……その、舐めるのもやっぱり不敬じゃないかしら」

 振り上げた拳の行き場に困り、ナーベラルは頬をかくようにしながら、ベッドの隅に浅く腰を下ろした。

 微かに上気した熱を静めるように、ゆっくりと呼吸を繰り返す――と、不意に四つ足でベッドに飛び乗ったルプスレギナが、その背から首へと腕を回してナーベラルの細身を捕らえる。

「……おんやー、ナーちゃんはアインズ様と“どんなことをする”って想像してたんすか?」

 美味しい獲物を手に入れたと言わんばかりに釣り上げられた、形の良い薄紅色の口唇の間から、真っ白な鋭い犬歯が覗いていた。

「な、何も想像してなんかいないわよ!」

「いーや、違うっすね。さぁー、キリキリ吐くっすよー!」

 

 久方振りとなる仲の良い姉妹の“戯れ”は、それから日没になるまで楽しげに続いていたという――。

 

 




-ジルクニフからの指令-
「マーレ(男の娘)を篭絡せよ!」

ユンゲが受けた依頼については、チーム名に“旋風”を用いている辺りでお察しいただければ……というところですが、次回以降の話のために(16)族長 で前振りをしていたつもりが、気付けば1年以上も経ってしまったという……。


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scene.6 受難の開拓村
(36)閑散


-これまでのお話-
“漆黒の英雄”モモンに淡い憧れを抱いて鍛練に励んでいたユンゲは、偶然の出会いから没落貴族家の姉妹捜索を引き受けたことにより、意図せず邪神教団との戦いに巻き込まれてしまう。
ジルクニフから派遣された女忍者と協力し、騒動を治めたユンゲたち“翠の旋風”ではあったが、王国と帝国間の開戦が間近に迫り様々な思惑が交錯する中、一行は色々な面倒事から距離を置くために、足早にエ・ランテルへと帰還したのだった。



 リ・エスティーゼ王国東部――陽の傾きかけた城塞都市〈エ・ランテル〉の街並みを横目にしつつ、ユンゲが冒険者組合に足を踏み入れてみれば、活気のあった喧騒の記憶も遠く、カウンターの奥には手持ち無沙汰な様子で佇む受付嬢の姿があった。

 分厚い樫の扉に取り付けられた蝶番が小さく軋み、緩慢な動作で持ち上げられた視線がこちらへと向けられた。

 少し疲れたような表情から一転、人当たりの良い笑顔を浮かべた受付嬢が、カウンターを離れてユンゲたち“翠の旋風”の傍へと歩み寄ってくれる。

「――お久しぶりですね、皆さん。帝都の組合からの報告で聞いていましたが、お元気そうで何よりです」

 そんな気安い言葉に軽く会釈を返して、「ご無沙汰していました」とユンゲも親しみを込めて破顔した。

 事の始まりは、前触れもなく宿屋に現れた女忍者から、金箔をあしらった嫌味な書状を手渡されたことだった。

 初めての“翠の旋風”を名指しする依頼によって帝都アーウィンタールに向かったのは、未だ残暑を感じる夏の終わり頃であり、今はもう肌寒いほどの冬の気配が近付いている。

 好々爺の仮面を被った魔法狂いの“逸脱者”フールーダ・パラダインとの衝撃的な出会いに慄いていた場面での、まさしく不意打ちとなった国家の最高権力者たる“鮮血帝”ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスの登場は、転移前の世界において一般人でしかなかったユンゲの思考を奪い去るには十分なほど、悪趣味な演出に過ぎていた。

 ユンゲが自身の在り方を見つめ直す契機ともなった、複数チームで挑んだ共同依頼での“未知の遺跡調査”を終えてからは、大闘技場の“最も優秀な興行主”を自称する商人オスクに闘技大会への参加を執拗に打診されて逃げ回る日々が続き、憔悴した老執事ジャイムスの様子を気にかけたことから、邪神を信奉する怪しげな教団との戦いに身を投じることにもなってしまった。

 改めて思い返してみれば、随分と長い時間をバハルス帝国で過ごしていたらしい。

 

 思わず浮かんでしまった口許の苦笑いを誤魔化すように、視線を彷徨わせる。

「……なんか、閑散としていますね」

 ぼんやりと眺めた組合の内部を見回しながらユンゲが口にすれば、少しだけ寂しそうな笑みを返した受付嬢は、小さくしなを作ってみせた。

「そうですね。例年通りではあるのですけど、この時季は冒険者への依頼そのものが少なくなってしまいますから……。それに今年は帝国との戦争もあるので、暗い雰囲気を嫌って都市外に出てしまった冒険者の方も多いと聞いています」

 王都の辺りまで行くと状況も違うみたいですけどね、と言葉を続けた受付嬢の視線の先――冒険者への依頼が張り出されるクエストボードには、空白のスペースが目立って見える。

 各地の冒険者組合は国家から独立した組織として存在しており、各国の政治や戦争に加担しない規約を有しているからこそ、国境を越えた活動が可能になっていた。

 王国や帝国の別を問わず、国家に対する帰属意識を持っていない者も多い冒険者が、戦時に前線拠点となるエ・ランテルから離れてしまうのは、ある意味で自然なことなのかも知れない。

 政治や戦争に介入する気など欠片も持ち合わせていないユンゲにしても、今のエ・ランテルのような暗い雰囲気の街には留まりたくないという思いは、素直に理解できてしまう考え方だった。

 帝都での出来事を雑談交じりに報告しつつ、受付嬢に話を聞いたところでは、ユンゲが会いたいと思っていた“漆黒”のモモンと“虹”のモックナックは、それぞれに名指しの依頼を受けているために不在らしい。

「――そうなんですね。モモンさんには帝国でもお世話になったので、ご挨拶しておきたかったんですが……どれくらいで戻られるかって分かりますか?」

「うーん、依頼の難易度からすると早くても一、二週間はかかりそうな感じなんですけど、“漆黒”のお二方はいつも信じられないような速さで依頼をこなしてしまいますから――」

 小首を傾げた受付嬢が、困ったように眉を寄せながら言葉を続けた。

「ここの組合長が、良く叫んでいますよ。『絶対、おかしいだろーっ!』ってね」

「……なるほど、アインザックさんも大変そうですね」

 大袈裟な身振りで肩を竦めてみせる受付嬢に苦笑を返し、ユンゲも同じように小さく肩を竦めた。

 ユグドラシルの恩恵により、転移後の世界において破格の強さを有するユンゲからしても、規格外としか思えない“漆黒の英雄”モモンの突出した実力を考えると一般的な常識では、測れないようなことばかりなのだろう。

 少し冷めた気持ちで、ユンゲが視線を巡らせたなら、短杖を胸に抱えたマリーが慰めるように一つ頷きをくれる。

 目当てだったモモンとモックナックが居らず、冒険者への依頼も少ないのであれば、一旦は出直した方が良さそうだった。

 

「――そう言えば、先ほど同じ質問をしにいらした方がいましたよ」

 キーファとリンダにも目配せをして、組合を出ようとしたユンゲの意識を引き戻すように、受付嬢が口を開いた。

「えっと、モモンさんに何か依頼でも?」

「いえ、依頼ということではなさそうでしたが、『“漆黒”のモモンに会いたいんだが、連絡は取れるだろうか?』って、王国軍の方が――それも、なんとあのブレイン・アングラウスさんだったんですよ!」

 やや興奮したような受付嬢の様子に、ユンゲは思わず気圧される。

 語られる“あの”が“どの”だか分からない――つい先ほど、冒険者組合の入口前で顔を合わせた青髪の剣士から告げられた名前が、そのような響きだったかも知れない。

 身に纏っていた冴えるような雰囲気は、確かに只者ではなさそうな印象を感じたユンゲではあったが、世間に名の知られた相手だったのだろうか。

(……あぁ、人探しにきた、とか言ってたっけ?)

 反応に窮したユンゲに、助け船をくれたのはリンダだった。

「ブレイン・アングラウス殿というと、王都の御前試合でガゼフ・ストロノーフ戦士長殿と互角の戦いを演じた、という御人でしたでしょうか?」

「そうです! 御前試合の死闘の後は、王家や貴族家からの数々の仕官話を断ったまま、行方知れずとなってしまっていたので、組合の方でも冒険者に勧誘しようと手を尽くしていたのですが――」

 受付嬢の妙に熱の込められた口調に軽い苦笑を浮かべつつ、ユンゲは挙げられた名前の記憶を探る。

 王国に対する不満を並べ立てていた、いつかのお喋り好きな神官〈クレリック〉の青年も、その人物のことだけは誇らしげに語っていた気がする。

 平民の出身でありながら、国王の懐刀たる王国戦士長の地位に抜擢された傑物で、周辺国家最強と名高い“英雄”ガゼフ・ストロノーフは、実直に過ぎる人柄から強欲な貴族連中に疎まれているものの、一般の民衆からは絶大な支持を得ている……というような話だっただろうか。

 それほどの戦士と互角に立ち合える凄腕の剣士となれば、ブレイン・アングラウスという人物も突出した実力者なのだろう。

「先ほど組合の表でお会いしたときに、もしや……と思っていたのですが、ご本人だったのですね」

「そうなんですよ! もう、びっくりですよね!」

 リンダと受付嬢の会話を軽く聞き流しながら、情報を整理してみると冒険者組合でも所在の分からなかったというブレインは、いつからか王国の第三王女である“黄金”ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフ配下の兵士になっていたらしい。

 王国軍に所属する人間が、何の目的で“漆黒”のモモンを探していたのか。

 最高位のアダマンタイト級冒険者向けの特別な依頼だろうか。まさか冒険者であるモモンに、戦争への参加を要請することはないはずだが、本人の経歴から考えると王家への引き抜き工作の類いという可能性も――或いは、先ほどの好戦的なブレインの雰囲気を思えば、単に腕試しを望んで、ということもあるのかも知れない。

(……いや、無暗に詮索するべきじゃないな。――それにしても、一国の王女様に仕えるには、随分と気楽な服装に見えたけど、問題にならないのかな?)

 吟遊詩人の唄にあるラナー王女の美貌は、聡明さと慈悲深さを兼ね備えた“宝石の輝き”と称され、決して肖像画には描き切れないとの評判が、遠く帝国の暗がりにある酒場にまで広がっていた。

 しかし、全ての王国民から称賛と畏敬を集めているという“黄金の姫”の側仕えとして、薄手の鎖着〈チェイン・シャツ〉だけを身につけていたブレインの戦闘に特化した装束は――同行していたクライムという年若い騎士が、如何にも相応しそうな純白の全身鎧姿だったのとは、対照的なほどに――些か以上にも不穏当な印象があった。

 

 漠然とした疑問を抱きつつも、ユンゲは小さく肩を竦めるように溜め息をこぼす。

「……俺が気にすることじゃないか」

「どうかされましたか、ユンゲさん?」

「いや、何でもない。――それより、リンダが捕まっちゃったな」

 上目遣いを向けてくるマリーに軽く手を払い、ユンゲは哀れむような視線をリンダに投げた。

 すっかりと暇を持て余していたらしい受付嬢は、格好の話し相手を見つけたとばかりに、引き気味のリンダを壁際に追い詰めるようにしながら、次々と言葉の礫を浴びせている。

 よほどブレインという剣士に思い入れがあったのか、どんどんと声音の強まっていく受付嬢の口振りは、転移前の世界でユグドラシルを勧めてきた同僚の、蒸し暑いほどの熱量にも重なって感じられた。

(……今頃も、向こうは変わらない日常が続いているのかな? そうなると俺は行方不明扱いか……もし、サービス終了まで一緒にプレイしてたら、この世界にも同じようにアイツと転移してたり、とかあったのかな。……あれっ?)

 胸の内に過ぎる、小さな違和感。

「ねぇ、とりあえず何の依頼があるかだけでも見てみない?」

 不意に、左から手を引かれた。

 後ろ手に括られたポニーテールが視界の端で揺れ、浸っていた微かな感傷とともに、ユンゲの思考が霧散する。

 弾みながら指を差すキーファを宥めるように軽く頭を撫でて、「……あぁ、そうするか」と応じたユンゲは、受付嬢の対応に苦慮しているリンダに横目で謝罪をしつつ、マリーも伴って奥のクエストボードへと歩み寄った。

 平常なら何の依頼を受ける、受けないと議論を重ねる冒険者たちが、大勢詰めかけている光景が広がっているのだが、今は無理に人垣をかき分けることもなく、ゆっくりと眺めることができる。

「えーと……墓地の見回りに、商隊の護衛に、薬草採取か。あんまり代わり映えはしないな」

 辛うじて憶えている王国文字の単語だけを拾い読みしながら、ユンゲは興味を欠くようにぼやいた。

 以前に、帝都でモモンから誘ってもらったような“未知の遺跡調査”といった、ユンゲの想像する冒険者らしい依頼は、早々に巡り合えるものでもないのだろう。

 もっとも、件の遺跡で自身の無力さを思い知らされたユンゲとしては、先ずは地に足をつけたところから、堅実に成長するべきだと考えてはいるのだが――。

 最初の頃と比較したなら、剣の腕も幾分か見られるようになっているはずではあっても、所詮は素人の独学でしかない。

 本当に実力をつけたいと思うのなら、剣技に精通した相手に師事を仰ぐのも、一つの方法かも知れなかった。

 周辺国家最強と謳われる強者〈ガゼフ・ストロノーフ〉と並ぶ実力者なら、先ほど面識を得られたブレインの後を追いかけて、話を聞いてみるのも良いのだろうか。

 ぼんやりと思案しながら、何の気なしにバスタードソードの柄に触れていたユンゲの手が、今度は右からマリーに引かれた。

「ユンゲさん、この依頼なのですけど……」

 どこか探るような声音で示されたのは、クエストボードの隅の方で浅く埃を被っていた依頼書だった。

「…………何て書いてあるんだ?」

 見慣れない文字の並びに嘆息しつつ、マリーの耳許に寄せて屈むように、ユンゲは小声で問いかける。

 報酬の欄に記載された金額を一瞥する限りでは、駆け出し冒険者向けの依頼といった感じなのだが、何か興味を惹かれる内容なのだろう。

「あっ、えっと……“水の神殿”から出されている、聴き取り調査の依頼なのですけど――」

 少しだけ困惑したような様子から、やおらと依頼書を手に取ったマリーが、指先で文字をなぞってみせながら言葉を続けた。

 

「目的地が、“カルネ村”になっています」

 

 



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(37)来訪

 緩やかな畦道を進む馬車の荷台に腰を下ろし、小さな揺れに身を委ねながら微睡んでいた。

 寒空の下に降り注ぐ陽射しの暖かさも、時折り吹きつけてくる風の凍みるような冷たさも、全てが心地良く感じられる思いで、ユンゲは茫洋と視線を巡らせる。

 深く豊かな森の外縁を沿うように伸びる細道は、バハルス帝国領内の整備された街道のように石畳や縦に割った丸木が敷かれていることはないが、人々の営みの中で長い年月をかけて踏み固められたであろう独特の趣があった。

 急ぐ必要もない初冬の旅路は、荷馬の歩みに任せた穏やかなもので――御者台で手綱を握るリンダには申し訳ないと思いながらも――落ちてくる目蓋には、どうしても抗い難いほどの魅力が溢れている。

 気を紛らわせるように小さく伸びをして風景を眺めたなら、ユンゲの視界にはすっかりと葉を落とし、枯れ枝の先を晒す樹々の様子が目立っていた。

 峻険なアゼルリシア山脈の麓に広がるトブの大森林にも、厳しい冬の季節が訪れるのだろう。

 遥かに高く聳える山の尾根筋を見上げていけば、中腹ほどからは樹々の姿が消えて灰褐色の岩肌となり、それより更に上の方までいくと真っ白な雪化粧に覆われているのが分かる。

「……この辺りは、雪が降ったりするのかな?」

 気の抜けたような問いがこぼれたのは、ふと転移前の世界を思い出してのことだった。

 生身での呼吸が叶わず、外へ出歩くためには人工心肺が必要となるほどに、大気汚染が広がってしまった世界の風雨は黒く濁り、心胆を寒からしめる鈍色の汚泥のような氷雪もまた、幻想的と感じるには難しい醜悪さを孕んでいた。

「平野部では、それほど多く雪が降るとは聞きませんね。――どうかされましたか?」

「いや、特に意味はないんだけど、ちょっと残念だと思ってな」

 御者台から振り返ったリンダが、不思議そうな目を向けてくるのに、ユンゲは小さく肩を竦めてみせる。

 雪合戦や雪だるま作りをしてみたい、そんな記録映像の中でしか知らない光景を思い浮かべていたことに内心で苦笑しつつ、ユンゲは再びアゼルリシア山脈へと視線を向けた。

 良く晴れた群青の大空を背景に、悠然と聳える高い山峰。

 この場で〈フライ/飛行〉の魔法を唱えたなら、あの白い頂きまででも直ぐに手が届くようにも思えるのだが、そこに降り立った自分の姿を思い描くと何かが違うような気がした。

「……この依頼を終えたら、山登りでもしてみますか?」

「――ん?」

「先ほどから、ずっと眺めていらっしゃるので……」

 肩を寄せてきたマリーが、少し躊躇うように言葉を紡いだ。

 魔法の力に頼ってしまうから味気ないと感じるのかも知れない。

 転移前の世界での身体なら無謀も過ぎるだろうが、幸いにして今のユンゲの身体であれば、体力ばかりが有り余っている。

「あそこに、登ってみるか。それも良いかもな……どうした?」

「いえ、言ってみたものの、寒いところが……その、あまり得意ではなくて――」

 少し恥じ入るように顔を俯かせたマリーの頭に軽く手を置き、ユンゲは小さく息を吐いて笑いかけた。

「――そうなのか。まぁ、俺も言ってみただけだ。冬山登山の知識なんかないし……それに、アゼルリシア山脈には霜の竜〈フロスト・ドラゴン〉や霜の巨人〈フロスト・ジャイアント〉がいるって話だからな」

 正直、今は近寄りたくないな、と言葉を続けて肩を竦めてみせる。

 いつかは訪れてみたいと興味はあるが、無理に危険は冒せないだろう。

 見るからにほっとした様子で、胸を撫で下ろすマリーを見遣り、ユンゲは内心で苦笑をしつつ疑問を投げかけた。

「マリーたちの故郷の森は、雪が降らなかったのか?」

 

 *

 

「……移住者の募集、ですか?」

 耳慣れない言葉を聞き返せば、すっかりと仕事モードに切り替わった受付嬢が、和かな笑みを浮かべながら人差し指を真っ直ぐに立ててみせた。

「えぇ、そうですね。エ・ランテルみたいな大きい都市とは違い、小さな村は住民全員の助け合いと役割分担で成り立っています。飢饉や疫病とか理由は様々なのですが、村を構成する人数が少なくなってしまうとどうしても立ち行かなくなってしまうのですよ」

 住民数の減少により村という組織の運営が成り立たず、離散する以外の選択肢がなくなった場合、縋れる血縁者を頼って別の村へと赴くか、頼りとなる当てがない者は近くの都市を目指すしかなくなってしまう。

 そうした身寄りのない子どもや生活の基盤を失った人々の、一時的な受け皿となるのが、今回の依頼主でもある神殿勢力であり、各地の行政機関と協力しながら新しい職や住居を得るための手助けを行なっているという。

 一方で、村そのものが離散という最悪の事態までには及ばずとも、運営に支障が出るような深刻なダメージを負ってしまった場合にはどうするべきなのか。

 手っ取り早い解決策としては、そうした村同士の合併という道がある。

 しかし、異なる規律や文化を持った村という共同体の間には、どうしても軋轢が生まれてしまうものだった。

 少しでも優位を得ようと元の村ごとに別れて派閥を争った結果として、合併したにも関わらず村の中に二つの権力構造ができてしまったなら、目も当てられない。そうした無為な状況を避けるために取られる手段が、移住者の募集だった。

 一つの家族単位という少数の移住者を受け入れることにより、村に不足してしまった役割や労働力を補いながらも、村独自の規律や文化を守ることが可能になるということらしい。

「……なるほど。確かに、その方法なら村の運営も上手くいきそうですね」

「えぇ、でも良いことばかりではないんですよ。あまり好ましい話題ではないのですが、移住した方たちが、村の中で不当な扱いを受けていたり……場合によっては、移住者の募集そのものが、何かしらの犯罪行為の隠れ蓑にされている可能性もあるので……」

 少し疲れたように表情を陰らせた受付嬢が、小さく息を吐いてから、やおらと視線を持ち上げる。

「今回の水の神殿からの依頼は、そういった事態が起こらないようにするための大切なお仕事です」

 多くの方たちの人生を左右しかねないのですから、と続けられる声音には、問題に向き合おうとする真摯な誠意が感じられた。

 その姿勢には敬意を払いたいと思い、ユンゲは一つ顎を引いてカウンターに置かれた依頼書に目を落とす。

 先ほどまでは読み取れなかった異国の文字列が、途端に強い意味を持つように思えるのだから、自身のことながら影響されやすいものだと内心に苦いものを感じつつも、嫌な気はしない。

「――と、もっともらしく語ってしまいましたけど、依頼の内容としては、実際に村を訪ねて村長に話を聞いたり、村人たちの様子を見てきてもらうだけなんです。何も隠れて情報収集をしたりする必要はないので、難易度的には駆け出し冒険者向けということで、報酬額も少ないんですよ」

 重くなってしまった空気を取り繕うように、受付嬢が柔らかい声色で笑いを誘ってくれる。

 少しだけ肩の力を抜くように、ユンゲは傍らの仲間たちに目を向けて無言のうちに頷きを交わし合う。

 そうして、小首を傾げるようにして待っていた受付嬢に、小さく肩を竦めることで応じたユンゲは、「――了解です。じゃあ、この依頼を俺たち“翠の旋風”に受けさせてください」と殊更に明るい声を上げたのだった。

 

 *

 

 轍の刻まれた道沿いから少し外れた木陰に野営用の小さなテントを張り、御者を任せきりだったリンダを除いた三人で、順に見張りをしながら静かに一夜を過ごした。

 朝方となり、遠くトブの大森林の奥地から響いてくる鳥の囀りに目を覚まし、沁みるほどに鮮やかな向日葵色の朝焼けの下、傍の渓流から冷たい水を両手で掬ってユンゲは顔を洗う。

 大きく伸びをしながら思い切り息を吸い込めば、涼やかな草木の香る風が心を晴れやかにしてくれる思いだった。

 すっかりと朝の習慣になっている、お手製のレンバスと買い込んできたドライフルーツで簡単な食事を取り、再び馬車の荷台へと乗り込む。

 少しだけ肌寒くも牧歌的な光景を楽しみながら、ユンゲたち“翠の旋風”が今回の目的地であるカルネ村へと到着したのは、冬の気配を少しだけ押し退けてくれる麗らかな太陽が、ようやっと中天に差しかかろうとする頃だった。

 

 緩やかな丘を越えた向こう――大きく開けた枯れ色の広い草原の中に、悠然と聳えるような塀の囲いが見えてくる。

「……ん、あれがそうなのか?」

 何の気なしに疑問を口にしながら目を落とし、ユンゲは冒険者組合で受け取った簡単な道順を記している覚書きと見比べる。

 目の前の建造物は、今回の目的地であるカルネ村の位置に距離や方角も概ね正しく、周囲には刈り入れを終えて休耕中らしい畑の様子も見て取れるのだが――、

「なんていうか、砦みたいだね」

「そうだな、辺境の開拓村って聞いてたけど、立派なもんだ」

 傍からのキーファの言葉に頷きつつ、ユンゲは感心するような面持ちで、村を取り囲む高い塀を遠景する。

 流石に規模こそ違うものの、カッツェ平野で遠巻きに眺めたバハルス帝国軍の駐屯基地を思い起こさせる、頑丈そうな雰囲気があった。

 馬車が進んでいる畦道の続いた先の門付近には、見張り用らしい櫓が建っているのも見える。

 国境沿いであることや厄介なモンスターの生息するトブの大森林が近いことを考えれば、あのような設備も必要な備えなのかも知れない。

「……人間の村に詳しい訳ではないのですが、少し注意した方が良いかと――」

 ぼんやりと思いを巡らせていたユンゲに、声を落としながら話しかけてきたのは、御者台から振り返ったリンダだった。

 投げかけられた言葉の意図を掴めず、ユンゲは小さく肩を竦めてリンダに先を促す。

「――確証はないのですが、村の防備が過剰なように見受けられます」

 モンスターなどの外敵から身を守るために塀を設けることはあっても、戦時にも活用できるほどの市壁を有するのは、各地方でも行政や交易の中心地となるエ・ランテルのような大都市ばかりで、中規模な都市の市壁も目前の囲いほど立派なことは稀だという。

 この転移後の世界で、ユンゲが見知った街となれば、城塞都市の異名を持っているエ・ランテルと強大な帝国の首都たる帝都アーウィンタールを除いたとしても、両都市間を結ぶ道中に見かけた――何れも主要な街道沿いという立地に恵まれている都市くらいのものであった。

 改めて思い返したなら、地図にも描かれないような辺境の村を実際に訪れるのは、今回の依頼が初めてということになる。

 自身の認識不足を実感しながら説明に耳を傾けていたユンゲに、リンダが更に声を潜めるようにして言葉を続けた。

「カルネ村が移住者の募集をしているのは、春先に襲撃されて被害が大きかったため……とのことでしたが、あれほどの塀に囲まれているのなら、門を閉ざされてしまえば、襲うことも簡単ではないはずです」

 遠目に軽く見積もってみても、ユンゲの背丈の三、四倍はありそうな高い塀を乗り越えるのは簡単でないばかりか、櫓からの良い的になってしまうだろう。

 塀そのものを壊そうにも、しっかりと横木を重ねた丁寧な作りを眺めたなら、充分な攻城の用意でもなければ手も足も出ないように思えた。

「……なるほど、確かにそうかも知れないな」

「えぇ、生き残った数少ない村人の証言では、帝国兵士の身なりをした襲撃者だったらしいですが――」

「敵対関係にはあっても、帝国側は辺境の村ばかりを襲ったところで、軍を動員する労力に見合った成果は得られない。だから、王国と帝国の関係を更に悪化させたい偽装した第三者の介入という薄い線か、或いは……」

 冒険者組合で受付嬢から聞いた説明を思い出しながら口にしていく。

 この世界に転移して間もなく、ユンゲが冒険者となった頃に前後して、国境付近の村が襲われてしまう被害が続いていたらしい。

 そうした時期には、エ・ランテルから王都リ・エスティーゼに向かう道中においても、野盗による被害の報告が多く寄せられていたので、単に帝国軍から脱走した兵隊崩れか、影響力を増していた賊の類いによる可能性が高いという結論だった。

 頭を捻るユンゲに首肯を返しつつも、リンダは小さくかぶりを振るようにして、「――しかし、多少数が揃ったとしても野盗程度では何もできないでしょう」と言葉を続けて、砦のような村の外観へと訝るような視線を向けていた。

 今回の調査依頼は、住み慣れた土地を追われた人々に新しい居場所を提供するためのちょっとした善行のはずだった。

 目的地となっているカルネ村の名前については、以前に川釣りからの帰路で面識を得た、エンリ・エモットという少女の口から耳にしている。

 その際には、カルネ村で亜人種であるゴブリンと共存しているとも、冒険者組合には伝えないで欲しいとも――。

 早とちりによって迷惑をかけてしまったエンリへの謝罪と告げられた願いに折り合いをつけたいと考えて、ユンゲは今回の調査依頼を引き受けることを決めていた。

 しかし、リンダの懸念するところでは、カルネ村が移住者の募集をしている理由が、大前提の部分で崩れてしまう怖れがあった。

「……どういたしましょう、少し様子を探ってみますか?」

「――だめ、もう気付かれてるみたいだよ」

 リンダの問いを遮るように、すくりと立ち上がったキーファが短く言い差した。

 キーファの目線を追った先で、高い見張り用の櫓に立っていた小柄な人影が、奥へと下がっていくのが見えた。

 ユンゲたち“翠の旋風”の接近は、既にカルネ村の中で知られているらしい。

 下手な行動をして警戒されてしまっては、本来の目的である聞き取りも上手くいかないだろう。

「……まぁ、こっちに負い目はないんだ。正面から堂々といこう」

 先ずは話を聞いてみようぜ、と小さく肩を竦めてみせながら、ユンゲは御者台のリンダの肩に手をかける。

 僅かな言葉を交わしただけに過ぎないが、いかにも村娘らしいエンリの純朴そうな人柄を思えば、村ぐるみで悪事に荷担しているとは考えにくい気がしていた。

「――何かあれば、皆で逃げ出すだけの時間くらいなら稼いでみせるさ」

 少しだけ指先に力を込めながら、努めて軽い調子で口にしたユンゲを振り返り、リンダが口許に小さく笑みを浮かべて頷いてくれる。

 何らかの不測な事態に巻き込まれてしまったとしても、ユンゲ自身は〈フライ/飛行〉の魔法を使えるので、リンダたちを先に逃してから後を追うことは、それほど難しくもないだろう。

 緩やかな丘を下った畦道の先――こちらを出迎えるかのように、ゆっくりと開かれていくカルネ村の門を見つめながら、一つ深く息を吸い込んだユンゲは、大袈裟なくらいに手を振ってみせながら、カルネ村に向けて来訪の旨を伝えるのだった。

 

 




ユンゲたちが懸念しているのは、移住者が人身売買等の被害に合っている可能性について――。
カルネ村の真相を知っているなら後半部は蛇足でしかないのですが、元奴隷という境遇も相俟ってユンゲたちの視点では、センシティブな話題という位置付けになっています。

こういった本筋から外れた部分を書いているから全体としてのテンポが遅くなってしまうのかなぁと悩みつつ、次回でようやくとカルネ村の面々との顔合わせができるかと思います。


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(38)危急

「――それにしても、まさかエンリさんが“村長”を務められていたとは、思いも寄りませんでしたよ」

 少しだけ戯けるように、それでも村長という単語を強く意識しながら、ユンゲは口許を持ち上げた。

「そうですよね。正直、私みたいなただの村娘には荷が重くて……」

「いえ、村をまとめるのに、年齢や性別は関係ないと思います。私は部外者に過ぎませんが、ちょっと歩いただけでも、エンリさんが村の皆さんから慕われていることは分かりました」

 適役だと思いますよ、と努めて優しい声音で続けながら反応を窺い見れば、純朴そうな村娘の頬には微かな朱が差している。

 あまり褒められ慣れていないのか、胸元へと垂らした栗色の三つ編みに触れるエンリの様子は、どこか気遣わしげな印象を感じさせた。

「そ、そんなことはないです」といった謙遜の言葉をしどろもどろな様子で呟いているエンリを前に、ユンゲはどうしたものかと静かに頭を悩ませる。

 

 今回の調査依頼の目的地である、カルネ村へと到着したユンゲたち“翠の旋風”を出入り口の門で迎えてくれたのは、他ならぬエンリ・エモットだった。

 顔見知りの登場に幸いとユンゲが、再会の挨拶とともに来訪の理由を告げたところ、先のようにエンリが村長であることを伝えられたのだった。

 予想もしていなかった事態に焦ってしまったユンゲと気恥ずかしさからか、言葉を噤んでしまったエンリの間に訪れたのは、少し気不味いような沈黙。

「とりあえずは、姐さんの家にお連れしてはどうでしょう?」と助け舟を出してくれたのは、エンリの背後に従者然と控えていたゴブリンからだった。

 そうして、額に大きな傷のある屈強なゴブリン――エンリからは、「カイジャリさん」と呼ばれていた――の背に導かれるように、ユンゲたちはカルネ村へと足を踏み入れた。

 エンリの家へと向かう道すがらにカルネ村を縦断していったなら、塀の内側に広がる長閑な開拓村の風景の中には、自然と溶け込むようにゴブリンたちの姿があった。

 そして、「お疲れ様、族長!」や「族長、今日も格好良い!」のほか、「やぁ、族長。お客さんかい?」といった気さくな声が、村のそこかしこからエンリに向けてかけられるのだった。

 エンリが“村長”ではなく、“族長”と呼びかけられることに疑問を感じたユンゲが、何気なく視線を巡らせてみれば、そこに羞恥と苛立ちが綯い混ぜになったような横顔と出会ってしまう。

(……なんか、苦労してそうだな)と社会人経験で培った機微により、朧げながら事情を察したユンゲは、族長という単語を口にしないように心がけながら、先ほどから会話を続けていた。

 

 移住した者が虐げられてしまわないかという依頼主の懸念は、ここまでに見かけた村人たちの屈託のない笑顔を思えば、杞憂であるように直感しているユンゲだったが、確認しなければいけない事項は残されている。

 春先に起きてしまったという襲撃事件の顛末は、ユンゲが目にした現状のカルネ村から受ける印象にそぐわないものだった。

 エ・ランテルの冒険者組合で伝え聞いたところでは、国境沿いの村々を襲っていた賊徒の集団は、最終的にこのカルネ村の地で、リ・エスティーゼ王国戦士長〈ガゼフ・ストロノーフ〉の率いる戦士団に討たれたという。

 離散となってしまった他の村々と比較したなら、幾らか救いがあるとはいえ、半数近くの村人が命を落としてしまった被害は並大抵のものではない。

 不幸中の幸いにして、カルネ村が王家直轄領に属していたため、国王ランポッサ三世の温情により今年の労役と税の一部が免除――援助や補償の類いはないというのが、何とも世知辛い話ではあるが――されたものの、多くの働き手を失った開拓村は、移住者を募らなければ明日からの暮らしもままならない……という事情があるはずであった。

 カルネ村の周囲に張り巡らされた堅固な塀と襲撃の状況、傍目には困窮している様子もない穏やかな村人たちと生活にすっかりと馴染んでいるゴブリンたち――ユンゲの疑問は尽きないが、話題として切り出すには躊躇もあった。

 案内されたエンリの家は、村内に建ち並んでいた他の家屋と大差のない一軒家であり、幼い妹と二人住まいをしているらしい。

 村長となってからまだ日も浅く、エンリを主人と仰ぐゴブリンたちの協力もあって、何とか生活ができていると聞いたなら、春先の襲撃事件において、親しい者たちが亡くなっているだろうことは想像に難くない。

 十代半ばほどの少女にしか見えないエンリが、若い身そらで村長という大役を担っている要因も、亡き両親どちらかの後を継いだものと考えれば納得できるものだった。

(……俺には想像もできない経験をしてそうだな)

 少しだけ気を紛らわせるように、ユンゲは軽く伸びをしながら周囲に目を向ける。

 エンリ家の裏手には――ゴブリンたちと一緒に食事をするためだという――太い丸木を縦に割っただけの簡素な長机と小さな切り株のような椅子が並べられている。

 まだ昼前ということもあり、村内で様々な務めに従事しているゴブリンたちの姿はないが、長机の片隅には腰掛けるキーファとリンダ、マリーの三人に加えて、楽しそうに走り回る小柄な少女――エンリの妹である、ネム・エモットの姿があった。

 肩口で揃えた髪と姉に良く似た面立ちを年相応に溌剌とさせるネムの様子に、ユンゲは自然と頬を緩ませる。

 先ほどまでは、初めて出会う森妖精〈エルフ〉に興味深々といった印象で、戸惑うキーファたちを質問責めにしていた様子だったのだが、今の関心は既に別のところへ移っているのかも知れない。

「……最近、ようやく笑顔を見せてくれるようになったんです」

 不意に、慈しむような柔らかい声音が、静かにユンゲの耳朶を打った。

 微かな安堵を孕んだ声色にやおらと振り返ってみれば、窓の外へと視線を注いでいるエンリの横顔――長机を間に挟んで、キーファと追い駆けっこを始めた幼い妹を見つめる姉の琥珀色の瞳は、母のようにも思える優しさを湛えていた。

 

 *

 

「――そうでしたか。辛いことをお訊ねして、申し訳ありません」

「いえ、構いません。泣いてばかりもいられないですし、私にはネムもいますから」

 凛とした振る舞いで言い差し、気丈に微笑んでみせるエンリを見遣り、ユンゲは恥じるような思いを抱いていた。

「……エンリさんとネムさんが、こうして穏やかに過ごされているのは、ご両親に取って何よりの救いでしょうね」

 無惨にも最愛の父と母を奪われ、それでも残された幼い妹のために前を向いている健気な少女に対して、そんな気休めの言葉しかかけてやれない、空っぽな自身の無力さが情けない。

「そうだと、嬉しいですね」

 寄っていた窓辺から、遠い眼差しで空を見上げるようにしていたエンリが、小さく肩を竦めてから振り返り、どこか誇らしげな様子で言葉を続けた。

 

 ――でも、全てはアインズ・ウール・ゴウン様に助けていただいたお蔭なんです。ゴウン様がいらっしゃらなければ、私もネムも……カルネ村の人たちも皆、今頃は生きていられなかったでしょうから。

 

 こちらへと向き直った拍子に、下げていた三つ編みの一房が背中に回り、幾らか大人びて見えるエンリの表情には、底知れない感謝と敬愛の気持ちが込められているように思えた。

 不意に窓枠の隙間から吹き込んだ風のためか、室内の空気が一層と冷え込んだような気配に、ユンゲは小さく身震いをしながらエンリに問いを返す。

「……アインズ・ウール・ゴウン様、ですか?」

「えぇ、とっても凄い魔法詠唱者の方なんです。帝国の兵士に襲われていた村を救っていただいたばかりか、復興の手助けにと貴重なマジックアイテムやゴーレムまでお貸しいただいて……何より、とてもお優しいんです。それに――」

 エンリの口から嬉々とした様子で語られる“アインズ・ウール・ゴウン”という名を耳にしたのは、この世界に転移してから三度目の出来事だった。

 一度目は、帝都アーウィンタールが誇る帝国魔法学院の応接室において、バハルス帝国を統べる皇帝ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスの口から――。

 二度目は、王国と帝国間における開戦の折りに触れて、帝国の掲げた宣戦布告の内容を目にした市井の人々の口から――。

 そうしたとき、アインズ・ウール・ゴウンという名は、どのような人物なのかという疑念とともに、未知への怖れや困惑を孕んだ硬質な響きとなって、様々な口の端を渡っていたはずであった。

 決して、純朴な村娘がまるで憧れの人物を語るように、畏敬を込めて呼ばれていた覚えはない。

 いつかの同僚を彷彿とさせる熱の入れようで、アインズ・ウール・ゴウンという人物の素晴らしさを話し続けるエンリを前に、ユンゲは気圧されるような思いを抱きつつも、何とか踏み止まってみせながら思考を紡いでいた。

 リ・エスティーゼ王国の東端、国境付近に位置するカルネ村は、帝国兵士の身なりをした者たちに襲われたが、アインズ・ウール・ゴウンの介入により辛くも難を逃れることができた。

(エンリたちを助けたアインズって奴は、バハルス帝国のジルクニフやフールーダが探していたはずの相手で……でも、今は帝国と同盟を結んで王国に戦争を仕掛けているんだよな)

 一方で、カルネ村を救ったと伝え聞いていた戦士長〈ガゼフ・ストロノーフ〉の名前が、エンリの口から挙げられないことから推察するならば、アインズ・ウール・ゴウンの功績を王国側が隠蔽ないし、自国の英雄への箔付けのために都合の良い話を吹聴したという線も考えられるのだろうか。

 以前に商隊の護衛をともにした神官〈クレリック〉の青年が憤っていたように、国民の労苦を顧みることなく、無意味な派閥争いばかりに注力しているらしい王国上層部の腐敗具合いを思えば、それも有り得そうな気がした。

 或いは、帝国兵士が偽装ではない正規の部隊だったと仮定したなら、自軍を破るほどの凄腕な魔法詠唱者に興味を持ったジルクニフが、王国を見限るように裏から手を回して、アインズ・ウール・ゴウンを自らの陣営に招くために動いたという可能性もあるのかも知れない。

 ユンゲを勧誘するためだけに、色々と面倒な策を講じてくれた“鮮血帝”ジルクニフであれば、そうした陰湿なやり方も好みそうな印象だった。

 

「――でも、いつまでもゴウン様を頼ってばかりではいけないので、私たちにできることを村の皆で考えているんです」

 意気込むようなエンリの声音に、ユンゲの意識は溺れかけていた思考の海から引き戻される。

「……なるほど」と答えにもならない曖昧な頷きをエンリに返しつつ、ユンゲは取り繕うように笑みを浮かべた。

「最近、三頭だけですけど村で豚を飼い始めたんです。良かったら、ご覧になっていきませんか?」

 そうしたユンゲの様子を気にする素振りもなく、エンリが小首を傾げるようにして問うてくる。

 豚の飼育場を見せたいというのは、どういった心境なのだろうかと訝りつつも、何かを期待するように目を輝かせているエンリの様子を見遣れば、単純に村として新しく歩み始めた成果を自慢したいような気持ちなのかも知れない。

 自分よりも幼い妹を抱えながら、弱音を吐くことのできない村長という立場にある――それでも、僅かに十代半ばほどの少女に過ぎない――エンリの少しだけ幼く見える仕草。

 小さく肩を竦めるようにして応じたユンゲは、真っ直ぐな琥珀色の視線を見つめ返して口を開いた。

「――そうですね。村の様子も少し見て回りたいので、一緒に案内をお願いしても良いですか?」

 

 *

 

「――森の浅い所まで連れていって、木の実や根を食べさせています」

 小さな木組みの囲いの中で寝転がる、三頭の丸々とした仔豚たちを指差しながら、「いつかは、もっと沢山育てられるようにしたいんです」とエンリが明るく声を弾ませた。

 過酷な境遇にあっても、未来へ邁進しようとするエンリの姿勢が、ユンゲには眩しく映る。

「……立派に育っていますね。これならエ・ランテルに持ち込んでも良い値段がつきそうだ」

 食肉に加工される過程を考えると何とも言えない気分になるものの、トブの大森林という豊かな餌場の恩恵を得た、脂の滴る豚の串焼きを思い浮かべたなら何とも腹が空いてくる。

「カルネ村に大規模な養豚場ができるのも、そう遠くないかも知れませんね」

 そうした他愛のない追従を受けて恐縮そうにするエンリに、やや申し訳ない思いでユンゲが目を向けていたときだった。

 

「ちわーっす!」

 底抜けに明るい女性の声が響き渡るや、不意打ちのようにユンゲの視界の端から這い出た人影が、するりと音もなくエンリの背後へと回り――呆気に取られる間もないままに、小さな悲鳴が上がった。

「きゃっ、ルプスレギナさん!?」

 鷲掴みにされたエンリの胸が、揉みしだく嫋やかな手の動きに合わせて形を変えながら、ユンゲの目の前で豊かに弾む。

「えっ、いや……な、何を?」

 突然の事態に、理解が追いつかないままのユンゲの口から、意味を為さない疑問符だけがこぼれた。

「ちょっと、い……良い加減にっ! お客様の前でやめてくださいっ!」

「うん、久しぶりに良い声が聞けたっすね。こっちのエンちゃんは、人前だと燃えるタイプっすか」

 エンリの上げた抗議の声にひらりと身を翻した赤髪の女性が、悪びれる様子もなく大仰に腹を抱えながら笑ってみせる。

 口の端をにかっと持ち上げた屈託のない会心の笑顔は、思わずユンゲが引き込まれそうなほどの魅力に溢れていた。

「そんで、この冴えない男は誰っすか?」

 前言撤回……満面の笑みで毒を吐けるような、ユンゲの苦手とする手合いらしい。

「まさか、エンちゃんの新しいコレっすか? ンフィー少年は、お払い箱でご傷心っすか?」

 敬虔な修道女の装いにも見える、黒を基調とした格式の高そうな給仕服に身を包んだ女性――ルプスレギナが、貞淑な柳腰の立ち姿にそぐわない、妙に俗っぽい雰囲気を纏わせながら、しなやかな小指を立ててみせる。

 三つ編みに束ねた鮮やかな赤髪と目の覚める彫像のような美貌が相俟って連想された言葉は、どこかの玲瓏たる冒険者と同じ二つ名だった。

「――だから、やめてくださいっ!」

 容赦のない揶揄いに頬を上気させたエンリが、勢い込んで詰め寄るのをやはり飄々と受け流した褐色の“美姫”ルプスレギナが、ユンゲの眼前にするりと踊り出てくる。

 展開の早さに戸惑いを隠せないままに、至近距離から上目遣いに向けられた黄金の瞳の中に広がる、悪戯めいた喜色。

「――意外に初心っぽい反応っすね。何なら、お姉さんが優しく手ほどきしてあげても良いっすよ?」

 冗談めかせる真紅の口唇に当てられた細く繊細な指先が、形の良い顎先から首筋を伝って艶めかしく下げられていけば、ユンゲの視線を否応なく蜂蜜色の豊かな谷間へと誘っていく。

 更に下方へと広がった視界には、フリル地の裾から深く切り上がったスリットの隙間に、引き締まった魅惑の脚線美が覗いている。

 思わず生唾を呑み込みそうになるのを寸前のところで堪え、ユンゲは慄くように一歩を後退った。

「……いや、魅力的だけど遠慮しておくよ」

 穴の空いた吹子のような吐息で、それだけを呻くように口にする。

 いつかの悪寒にも似た喉の渇きを覚えながら、ユンゲはエンリを間に挟むようにして、ルプスレギナから距離を取った。

「単なる冗談っすよ。……そんなに怯えないで欲しいっす」

 晴天の満開な笑みが、一瞬にして梅雨の曇天な陰りに包まれる。

 途端にしおらしく顔を俯かせるルプスレギナの様子を見遣れば、不意の罪悪感と後悔にユンゲは胸を締めつけられるような思いが――、

「まぁ、どうでも良いっす!」

 ――込み上げるのを前に夢散する。

 なかなか愉快な玩具っすね、などと囁くような声音が聞こえてしまったなら、ユンゲは努めて憮然とした表情を取り繕うしかない。

 深窓の令嬢然とした佇まいに反して、野山の天候よりも移り変わりの激しいルプスレギナに、色々と肩透かしを喰らった気分だが、ユンゲは気を取り直すように小さく息を吐いた。

 そもそも、突然現れたこのルプスレギナという女性は、何処の誰なのか。

 エンリと知己であることは知れても、これまでに見かけた良い意味で素朴なカルネ村の住人たちとは相容れないだろうと思わせる、どこか高貴そうな独特の風采を放っているようにも感じられた。

 何より、ユンゲの傍らを抜けてエンリの後ろへと回ったときの機敏に過ぎる身のこなしは、とても一般人に可能な芸当ではなかったはずだ。

「――っ、聞いていますか!?」と抗議を続けていたエンリを綽々とあしらってみせながら、時折り不敵な笑みを向けてくるルプスレギナを前に、ユンゲは得体の知れない警戒心を強めつつも、意を決したように口を開く。

「えっと、ルプスレギナさんは、どちらの――」

「エンリの姐さん、緊急事態です!」

 ユンゲの発しかけた問いに被さり、予期しない野太い声が響き渡った。

 衆目の集まる先、こちらへ駆けてくる屈強そうなゴブリンが、息急きを切りながらも危急を報せるために大きな声で言い放つ。

「ぐ、軍隊が……武装した数千の軍隊が、こちらに向けて進んできています!」

 

 少し肌寒くもある、初冬の晴れた昼下がり――カルネ村の存亡を賭けた戦いの幕が、切って落とされようとしていた。

 

 




ンフィーレアの香水イベントは、展開の都合上カットになりました。

-簡単な時系列のイメージ-
エ・ランテルに帰還したユンゲは、冒険者組合で依頼を受けた翌日に出発し、一般的な二日間の旅程を経て“カルネ村”に到着して、エンリと再会。

王国軍の別動隊は“翠の旋風”に一日遅れる形で、エ・ランテルを進発したものの、功を焦るバルブロの指揮下で強行軍を行い、当日の内に“カルネ村”へと接近する。


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(39)決起

投稿話数が増えてきたので、今回から章管理を使ってみました。話数をかけている割りに、物語的な進展はあまりないのですが……。


「――ジュゲムさんっ、どこの軍隊なのか分かりますか?」

 先導する屈強なゴブリンの背中を追って、村の正面門へとひた走るエンリが、息を切らせながら問いかける。

「俺たちに紋章の知識はないんですが、ンフィーレアの兄さんが言うには、リ・エスティーゼ王国の国旗を掲げているらしいです」

 首だけで振り返ったゴブリン――見事なロングソードを担いだ戦士の装いであるジュゲムの言葉に、思わず息を飲む気配が伝わってくる。

 急き立てられるようなジュゲムとエンリの少し後ろを遅れて駆けながら、ユンゲは周囲へと視線を巡らせる。

 村を囲う立派な塀とゴブリンのような亜人種が景観に溶け込んでいることを除けば、牧歌的な農村を絵に描いたようだったカルネ村の様相は、もたらされた危急の報せに一変していた。

 気安い調子で声をかけてくれた中年の男が手にしていた農具を取り落とし、談笑を交わしていた婦人たちは声を潜めて青白い顔を晒している。

 先ほどまで賑やかにキーファやマリーと追い駆けっこに興じていたネムも、今はリンダの胸に抱かれるままに身体を強張らせていた。

 今にも涙が溢れてしまいそうな沈痛とした表情を見遣れば、春先の襲撃がどれほど心に深い爪痕を残していたのかは明らかだった。

「王国軍の……、ンフィーはどこに?」

「今はあそこに登って確認を――」

 エンリの問いに答えて、ジュゲムの太い指が示した先には、閉じられた門の傍に設けられた物見櫓。

「ンフィー!」

 エンリが呼びかけると顔を覗かせた華奢な人影が、弾かれたように駆けてくるのが見えた。

 目許までかかる長い前髪を振り乱しながら、「エンリ!」と声を上げた十代半ばほどの少年――エンリの口から何度か名前の挙がっていた、ンフィーレア・バレアレだろう。

「王国の軍隊だ! それも王族にしか認められていない王旗があった」

「え、えっと……どういうことなの?」

「僕にも分からない。トブの大森林が目的なら軍隊を差し向ける意味はないし、明らかに村の方角へ向かって来ている。初めは噂になってた内乱の可能性も考えて、王家の直轄領であるカルネ村を狙っているのかとも思ったけど、どうも違うみたいだ」

 慌ただしくかぶりを振り、エンリを正面から見据えたンフィーレアは、「でも、考えてる時間はない」と言葉を続けた。

 言い含めるようなンフィーレアの声音には、僅かな怯えの感情が揺らぐ。

 それでも、相手を不安がらせることのないようにと紡がれた言葉には、誠実な想いが感じられた。

 腕の良い薬師の友人と伝え聞いていたが、駆け寄った二人の様子に目を向けたなら、それだけの関係でないことはユンゲにも察せられる。

「そ、そうよね。相手が村に着く前に少しでも森に逃がさないと――」

「エンリの姐さん、申し訳ない。発見するのが遅れたせいで、今から逃げ出すとなると全てのものを置いていくことになりそうなんです」

 エンリの発言に割って入ったジュゲムが、森から出現するモンスターを警戒していたことが裏目になりました、と謝罪の言葉を口にした。

 一瞬のうちに蒼褪めるエンリの顔色に、ユンゲは小さな舌打ちをこぼす。

 表面的には穏やかそうに見えたカルネ村の暮らし振りも、やはり多くの開拓村の例にもれず、余裕はないのだろう。

 春の訪れを待ち侘びながら冬の間を堪え忍ぶ辺境の村にあって、秋の身入りを失うことは、文字通りの死活問題になってしまう。

 カルネ村へと迫りくる数千の軍隊は、まさしく脅威以外の何物でもないはずだった。

(……王国の軍隊がカルネ村に? カッツェ平野で帝国との戦争が始まる頃じゃないのか――)

 ユンゲが胸の内で疑問を呟く間に、追いついてきたマリーが傍らに身を寄せてくる。

「……何が起きているんでしょうか?」

「正直、分からん。とりあえず、この村がヤバそうな事態ってことだけは確かみたいだな」

 小首を傾げるようにして、上目遣いに向けられる碧の視線に小声で返しつつ、ユンゲは微かな苛立ちを覚えながら空を仰いだ。

 中天を僅かに超えたばかりの陽射しが、やけに眩しく感じられる。

 雲一つない青の天蓋はどこまでも高く澄み渡り、遠く雄大なアゼルリシア山脈の頂きを越えて、遥かな彼方へと広がっているように思えた。

(……こんな美しい世界で、何をやっているんだ)

 鬱屈とするような感情を落ち着かせるために、ユンゲは深い呼吸を繰り返す。

 心地良い草木と土の香りが鼻腔をくすぐり、吐いた息が白い靄となって視界の端に散っていく。

 

「――だったら、持って逃げる時間がないなら、戦う準備をしつつ、食料などの最低限の物を隠す!」

 語気を強めるエンリに神妙そうな面持ちのンフィーレアが、ジュゲムとともに村の方針を話し合っている姿が映った。

 恐怖に抗しようとするかのような強張ったエンリの横顔を慮ったなら、彼女もまた春先の襲撃から負った心傷を抱えているのだろう。

 短い言葉を交わしただけでも、先ずは生活に欠かせない物質を地下室に運び込むことに加えて、相手の目的を知ることを優先すると三人は意見の一致をみたらしい――が、何よりの懸念は迫っている軍勢の数が多過ぎることにあった。

 目算ながら数千という軍隊の規模は、仮にどのような目的や意図があったとしても、辺境の開拓村に差し向ける戦力としては過剰に過ぎる。

(帝国と戦争をするなら、戦力は少しでも多い方が有利に決まっている。……なら、わざわざカルネ村に戦力を割いたことが、王国の立場としてもっと大きなメリットになっているはずだよな)

 より多くの兵士を戦争に動員するために、今年の労役を免除されているカルネ村からも、改めて徴兵をしようというのか。或いは、食料などの物資を供出させるつもりなのか。

 ――どちらにせよ、ユンゲの考えられる範囲では、数千という軍隊を派遣するほどの理由には足りないだろうと思われた。

「……この村にゴブリンさんたちがいることを知られている、という可能性はないかな?」

「それは……ないはずよ」

 言葉を選ぶようなンフィーレアの問いに、エンリが躊躇うように視線を泳がせてから、小さくかぶりを振ってみせる。

 亜人種に属するゴブリンは、冒険者組合においても討伐対象として設定されているように、本来であれば人間に仇をなす危険なモンスターだった。

 アダマンタイト級の冒険者である“漆黒”の二人が、森の賢王と呼ばれた魔獣〈ハムスケ〉を連れているように、組合に所属する冒険者がモンスターを使役しているという形であれば、誰からも咎められることはないのだろうが、辺境の開拓村に過ぎないカルネ村では事情が異なってくる。

 ゴブリンと共存していることが、国家の上層部ないし冒険者組合に露見したなら、モンスターの存在を危険視した討伐部隊が送り込まれるということもあるのかも知れない。

 まだ夏も初めの頃、“翠の旋風”がゴールド級に昇格して間もない時期に、渓流での魚釣りからの帰路で出会ったエンリが――迷惑をかけられた相手であるはずのユンゲとマリーを前にして――ゴブリンの存在を組合には報告しないで欲しい、という願いを口にしていたことが思い出された。

 傍らのマリーに小さく目配せをして、お互いの理解を確かめたなら、エンリが先ほどの答えを逡巡した理由にも合点がいく。

 部外者であるユンゲが、村の方針を決める場に割り込むのは気が引けるものの、黙っているべきではないだろう。

 

「一つ、発言させて貰っても良いでしょうか?」

 努めて落ち着いた態度を心掛けながら、ユンゲは静かに口を開く。

 考え込んでいたエンリたちばかりでなく、正面門の周辺に集まっていた住人たちからの視線も向けられる気配があった。

「えっと、貴方は……どちら様でしょうか?」

 尻すぼみとなった疑問の声は、前髪に隠れた瞳の奥に困惑の色を宿したンフィーレアからだった。

 エンリとジュゲムの後に続いていたユンゲたちの存在に、声をかけられてから初めて気付いたような様子を見れば、それほどに切羽詰まった状況に陥っていたということなのだろう。

 一拍の間を置いて、こちらの紹介をしようと動いてくれたエンリを軽く手で制してから、ユンゲはンフィーレアに向き直って頭を下げる。

「――失礼しました。私はエ・ランテルの冒険者組合に所属する、ユンゲ・ブレッターと申します。彼女たちとともに、冒険者チーム“翠の旋風”として活動しています」

 倣うように会釈をしたマリーたちの様子を視界の隅に捉えつつ、ユンゲは端的に言葉を続けた。

「こちらのカルネ村には、移住者の斡旋をしている“水の神殿”からの依頼を受けて、簡単な調査のために訪問させていただきました」

 首から下げた冒険者のプレートを改めて示したなら、訝るような視線も少しだけ和らいだらしい雰囲気がある。

「――こちらこそ、失礼しました。僕は薬師のンフィーレアと申します。えっと、ブレッターさんは何かお気付きのことが……?」

 律儀に名乗り返してくれたンフィーレアに、「ユンゲと呼んでいただいて構いません」と軽く肩を竦めてみせながら、ユンゲは冒険者組合で依頼を受けたときの状況について説明を始めた。

 一昨日、ユンゲたちが冒険者組合を訪れた時点において、カルネ村がゴブリンなどの亜人種と共存しているといった話題は、妙に面倒見の良い受付嬢の口からも語られていない。

 都市の様子に目を向けてみても、バハルス帝国との戦争が間近に迫る情勢下では、エ・ランテルの住民たちが辺境の開拓村に関心を寄せる余裕はなかっただろう。

 そして、リ・エスティーゼ王国の上層部にしても、差し迫った状況は変わらないと推察できる。

 例年にない冬の季節に帝国から宣戦布告を受けたことに加えて、近隣諸国では最大勢力と目されるスレイン法国が、帝国側の支持を表明したことは、異例中の異例だったと市井の噂になっていた。

「……この時期に、帝国との戦争ですか?」

 やや怪訝そうなンフィーレアの問いに、ユンゲは一つ首肯を返す。

「ご存知ありませんでしたか。昨日、私たちがエ・ランテルを発ったときには、大勢の王国兵士が都市の外周部に集められて、今にもカッツェ平野へ進軍していきそうな様子でした」

 言葉を重ねながら、カルネ村が今年の労役を免除されていたということを思い出す。

 村の男手を徴兵する予定がなければ、わざわざ他国との開戦の報せを寄越してもくれない、ということなのかも知れない――が、春先に起きた襲撃事件を鑑みたなら、帝国との国境にも程近い位置にある開拓村に、注意喚起の伝令くらいは送っても罰は当たらないだろう。

 僅かな間だけ、向かってくる軍隊がカルネ村を防衛するための戦力という可能性が過ぎったものの、事前に連絡がないことを思えば、望みは薄いと考えざるを得ない。

「……とりあえず、カルネ村のゴブリンたちが問題視されての事態ではないと考えられます」

 横道に逸れかけた思考を中断して、ユンゲは言葉を結んだ。

「なるほど……戦争が始まるなら、カルネ村にも徴兵や物資の供出を……でも、それにしては軍隊の規模が――」

 口許に手を当てながら、考え込むンフィーレア。

 やはり、ユンゲと似たような考え方にまでは行き着くものの、確信を得られないらしい。

 同じように頭を抱えているエンリやジュゲムからも視線を外し、ユンゲは小さくかぶりを振った。

 何気なく周囲の様子を見回してみれば、門の付近に集まった悲壮な住人たちの中に、先ほどまでエンリと戯れていた褐色の美女〈ルプスレギナ〉の姿がないことに気付く。

 結局、どういった素性の相手なのかを訊ねる前だったことを思い出すが、今は構っている場合ではないだろう。

 何かが引っ掛かるようなもどかしさを覚えながらも、気持ちを切り替えるようにユンゲが再び寒空を仰ぎ見たとき――、

「……助けて、ゴウン様」

 不意に、幼い少女の呟きが耳に留まった。

 やおらと目を向けた先に、リンダの胸に抱かれたままのネムが、涙を堪えるように口許を引き結ぶ健気な姿。

 閃めきのように思考が一つの道筋として繋がり、リンダとユンゲの視線が交錯する。

「……それが、理由なのか?」

 疑問はユンゲの口を衝いてこぼれた。

「そう……かも知れません」

 表情を引き締め直したリンダが、小さく頷きを返してくれる。

 これまで覚えていた違和感が、更々と解けていくような思いがあった。

「とにかく逃げる準備をしつつ、彼らがなぜここに来たのか、その理由を聞くべきだね。戦いを挑むのは……最後の手段――」

「――アインズ・ウール・ゴウンだ」

 ンフィーレアの言葉を遮り、ユンゲは集まっている村人たちにも届くように声を張った。

「エンリさんからお聞きした、この村を救った凄腕の魔法詠唱者〈アインズ・ウール・ゴウン〉という人物が、関係している可能性が高い」

 その名前を口にした瞬間、固唾を飲むようだった周囲からの視線と空気が、剣呑とひりつくような気配を帯びた。

 

 *

 

「――理解したならば、すぐに門を開けよ! これ以上は、王国に刃向かうものと見做すぞ!」

 王国軍の使者を名乗った男の吐き捨てるような怒鳴り声が、高い塀越しにカルネ村へと響き渡った。

 高圧的な態度で開門を要求する相手に、村の代表者として必死の問答を続けていたエンリの表情にも疲労の色が窺える。

 それでも、カルネ村の門前に集結する軍隊の陣容や目的は、エンリの献身によって知れてきた。

 軍を率いているのは、バルブロ・アンドレアン・イエルド・ライル・ヴァイセルフという名の大柄な男であり、ヴァイセルフの姓が示す通り、リ・エスティーゼ王国における第一王子……つまりは、次期王位継承権の第一位を有する者らしい。

 そして、カルネ村へと軍隊を進めた目的には――やはりと言うべきか、ユンゲが予感したように――バハルス帝国と同盟し、王国への敵対姿勢を表明した謎の魔法詠唱者の存在が影響していた。

 使者である騎士は、「アインズ・ウール・ゴウンと関わりのあった村人たちの調査を行いたい」と声を張っていたものの、少しばかり物見櫓に登らせてもらったユンゲが確認できた範囲であっても、完全武装の兵士たちの仰々しい様子を思えば、調査が友好的なものとは考えられなかった。

 そうして、ユンゲの仮説を是認する使者からの物言いに、集まったカルネ村の住人たちの意見は、軍隊の受入と拒否で紛糾されてしまっている。

 村の大恩人である“アインズ・ウール・ゴウン”が帝国側についたのであれば、間違っているのは王国側だと断じる自警団の一人に同調する声が上がり、一方では調査を受けるだけなら問題ないのではないかと戸惑う婦人たちの姿もあった。

 何を考えるにしても、目前まで迫る数千という規模の軍隊は脅威であり、不安を煽るような軍馬の嘶きに晒されながらの村人たちに、冷静な判断を求めることは酷だろう。

 救いを探すように見つめられてしまったエンリも、板挟みとなる状況では、村の命運を左右する決断をできずに口を噤んでいた。

 全員の脳裡に過ぎるのは、春先に故郷の村を焼かれたことへの恐怖であることを思えば、部外者に過ぎない――加えて、国家に帰属しない冒険者の身分であるユンゲたち“翠の旋風”が、口を出す訳にもいかないだろう。

 四人で顔を見合わせながらも、妙案は浮かばないままに無為な時間ばかりが過ぎてしまう。

 

 そうした風向きが変わったのは、焦れたように続けられた使者からの怒声だった。

「……直ちに門を開けよ! お前たちの不審な行動は国家への反逆となる! 嫌疑を晴らしたくば、代表者はカッツェ平野の戦場へと赴き、アインズ・ウール・ゴウンに降伏の嘆願をせよ! それをもって、お前たちの忠誠が王国に向いていること、王国の民であることを証明せよ!」

 捲し立てられた恫喝の内容に、場の空気が一変する。嫌悪……或いは、憎悪に等しい感情なのかも知れない。

 周囲の村人たちから発せられた肌のひりつく気配に、ユンゲは大気が揺れているかのような錯覚に陥る思いがあった。

「戦場に連れて行かれ、あの方の足手まといになるのは御免だ」と叫ぶ老人に同調する意見が続き、「森の中に逃げ込もう。ここで悩む前に、後のことは後で考えればいいんだ」と壮年の男が自棄のようにも声を荒げた。

 喧々囂々といった雰囲気に包まれながらも、村人たちの胸に共通している思いは、“恩を仇で返すような真似はできない”という強い感謝の念なのだろう。

 カルネ村の窮地を救っただけでなく、復興にも手を差し伸べているらしいアインズ・ウール・ゴウンという人物と過酷な労役や税を課すばかりで、肝心なときには何もしてくれない王国の有り様を比較したのなら、村人たちの選択は至極当たり前の反応だった。

(……これは、不味いよな)

 徐々に熱を帯びていく村人たちの様子を遠巻きに眺めながら、ユンゲは事態の推移に危機感を募らせる――と、不意に空気を裂くようないくつもの風切り音が飛来した。

 反射的に目を向けた先、門に隣接する物見櫓に突き立ったのは、赤い軌跡を描いた火矢だった。

「――なっ、何が!?」

 次々と降り注いだ矢が木の骨組みを穿ち、カツカツと乾いた音が幾重にも響く。

「エンリの姐さん、離れてください!」

 叫んだジュゲムが棒立ちとなったエンリの手を引っ張り、「早く!」と走り出した瞬間だった。

 物見櫓の先端から、真っ赤な炎が噴き上がる。

 藁を葺いただけの簡素な屋根は瞬く間に燃え上がり、方々で痛切に過ぎる悲鳴が上がった。

 

 ――敵だ!

 

 折り重なる悲鳴の間隙に、誰かの声が響いた。

「あれは敵だ! 敵じゃなければ、あんなことはしない!」

 俺は戦うぞ、と男が拳を振り上げて怒鳴り、王国は屑だと金切り声を上げる女の向かいでは、「奴らを一人でも多く道連れにしてやる! あいつの仇を取るんだ!」と若者が吐き捨てた。

 激烈な怒りの言葉が、狂気にも似た感情の奔流となって押し寄せてくる。

 思わず半身を引いてしまったユンゲに、冷徹にも聞こえるジュゲムの声音が耳朶を震わせた。

「……エンリの姐さん、決を採るべきですよ」

 頼もしいゴブリンの戦士に手を引かれていた少女が、息を飲むように周囲へと視線を巡らせる。

 やや遅れて駆け寄ったンフィーレアが、エンリの細い肩に手を置いて小さく頷いてみせていた。

 無言のままに見つめ合い、やがて小さく頷きを返したエンリが、大きく息を吸い込む様子が伝わってくる。

 ヴァイセルフ王家の人間に率いられた王国の軍隊が、王国の民であるカルネ村の住人たちに向けて攻撃を仕掛けてしまった。

 ――その事実は、何よりも重い。

 ユンゲは押し殺した溜め息とともに顔を伏せ、鈍い痛みを堪えるように顳顬を手で押さえた。

 この場にいる皆で村の総意を決します、と気丈に声を張るエンリをどこか遠くに感じながら、ユンゲはやおらと空を仰ぎ見る。

「村として、王国の提案に賛成な方いらっしゃいますか!」

 声を上げる者は一人もなく、ただ耳に痛いほどの静寂のうちに、頬を打つ風は凍てつくような冷たさを孕み、棚引く白雲が群青の大河を流れていく。

「ならば、命をかけてでも反対する! 王国と戦う、という方は挙手してください!」

 大気を破らんばかりの喚声に、傍らのキーファとマリーが身を強張らせる気配があった。

 固く握り締められた拳が、覚悟の表情とともに数多と乱立していく。

「――では、戦いましょう! 私たちは戦い、恩義を返します!」

 死を厭わない村人たちの叫びは、いつしか巨大な獣の咆哮となっていた。

 

 




この物語に関係はないのですが、今更ながら“オバマス”を始めました。原作書籍などとは全く違う展開に続きが気になるものの、レベルを上げないと先に進めないのが大変ですね。


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(40)覚悟

本筋から外れた説明を省くために、アーグたち部族の存在を無視していますが、一応は原作通りに行動しているものとお考えください。


「あんたたち、良かったのか? 冒険者なら、こういった事態は避けなきゃいけないだろ?」

 不意に問いかけてきた赤毛の女を一瞥し、ユンゲは小さく肩を竦めてみせる。

 日に焼けた健康的な肌に、どこか勝気な顔立ちの女は、かつて「大切なポーションを弁償しろ」と“漆黒”のモモンを相手に詰め寄っていた“ポーション女”こと、女戦士〈ブリタ〉だった。

 自分以外のパーティメンバーが全滅するという憂き目に遭い、冒険者を引退した後には開拓村へ移り住む、という話を冒険者組合の受付嬢から伝え聞いていたが、その移住先となった村は偶然にもカルネ村であったらしい。

「……俺たちは、護衛の依頼を受けただけですよ」

「でも、相手は王国の軍隊だ。組合だって――」

 更に言い募ろうとするブリタを手で制し、ユンゲは微かに口許を持ち上げながら、「モンスターが蔓延るトブの大森林に足を踏み入れるなら、護衛の人数は多い方が良いでしょう」と言葉を結んで、それ以上の会話を拒むように顔を背ける。

 こちらの身を案じての忠告だとは分かっていても――当然ながら何事にも関わらないことを決め込んで、このカルネ村を黙って後にすることが、賢い選択であると理解してはいるものの――素直には受け入れられない。

 目に飛び込んでくるのは、十歳にも満たないような幼い子どもたちが、必死に歯を食い縛っている姿。どれほど事態を理解できているのかは分からないが、腰丈にも届かない小さな身体で涙を堪えている様子に、ユンゲは苦い思いを感じずにはいられなかった。

 ――不意に、遠くから響いてくる喚声と打ち鳴らされる剣戟の音。

 既に、非情なる戦端は開かれてしまったらしい。

 更に視線を返せば、浅く涙の滲んだ目尻に、口許を固く引き結んだ少女が浮かべる、凛とした決意の横顔。三つ編みにした栗色のおさげ髪が、冷たく吹きつける木枯らしに乱れていた。

 その細い肩には重過ぎる責任を負いながら、気丈に立ち続けるエンリの姿を見遣れば、ユンゲの取るべき選択肢は限られている。

 

 *

 

「……覚悟は見せてもらった。あんたたちはここで死ぬ、それで構わないんだな?」

 自らが所属するリ・エスティーゼ王国の“第一王子”バルブロ軍と戦う意志を示した村人たちに向け、百戦錬磨のゴブリンの戦士が静かに問いかけた。

 怒号にも似た村人たちの肯定する声に、その心意気は買うと頷いたジュゲムは、「…だが、死ぬのは俺たちやおっさんたちだけで良くないか?」と穏やかに問いを重ねる。

 恐怖に抗して声を上げながらも、青い顔を晒していた禿頭の男が縋るように口を開いた。

「……それは勿論だが、村の出入りできる門は、両方とも敵の軍隊が待ち構えている。どこかの塀を乗り越えるにしても、絶対に見つかってしまうんじゃないか?」

「その通りだ。この状況下で、隠れて逃げることは不可能だろうな」

 怖々とした様子で問い返した年嵩の男に、気休めにもならない答えを告げたジュゲムは、「――だが、一つだけ作戦がある」と不敵な笑みを浮かべて言葉を続けた。

 曰く、王国軍の注意を引き付けるために正面門を開き、カルネ村に受け入れる姿勢を示したところで、不用意に近寄ってきた相手を全力の奇襲で叩いて、再び門を閉ざして引き籠もる。

 十分な損害を与えることができれば、裏手門の前に布陣している戦力を集結させるはずであり、そのときこそが逃げ出すための好機になる――と。

「相手も陽動だと気付くかも知れないが、俺たちの攻勢が強ければ、分散した兵を集めざるを得ない」

 つまりは、女性や子どもたちを無事に逃すために、男たちやエンリを慕うゴブリンたちが囮を買って出るということだった。

 そうして、鬱蒼と樹々の生い茂るトブの大森林へと逃げ込んでしまうことができたなら、軍隊を率いての組織立った追跡を避けられる、という算段も見えてくる。

 多分に希望的な観測の含まれたジュゲムの説明にも、村人たちの張り詰めていた空気が少しだけ弛緩する気配があった。

「いいですか、最初の一撃と相手が兵力を集めてからの攻防が肝要です。二度の攻撃で相手に余力を与えず、全力で挑みます」

 こちらの攻勢が強いほどに逃げてもらう人たちの助けになります、と気を引き締め直させるように、ジュゲムが静かに語調を強めた。

 目算ながら数千もの規模を誇る王国軍に対して、カルネ村の住民数は二百人余り――老人や幼い子どもを除いて、実際に戦力として数えられる人数は、その半数にも満たないかも知れない。

 絶望的なまでの戦力差と対峙しなければならない状況にありながら、それでも村人たちの中からは、清々しい笑い声が起こっていた。

 妻や子どもを助けられるなら憂いはない、と朗らかな表情を浮かべて言い切った壮年の男に、次々と同意の声が重なっていく光景を目の前にして、ユンゲは言葉を失ってしまう。

 

「それで……別働隊は、どういう編成にするの?」

 男たちの熱気に当てられながらも、冷静な声音で問いかけたのは、エンリを庇うような姿勢で立つンフィーレアだった。

 ユンゲの視界の端で、意気込むように腕捲りをしたエンリが進み出かけ――、

「子どもたちを守って村から離れる役目は、エンリの姐さんとンフィーレアの兄さんにお願いしたいですね。森に逃げ込んだ後のことも考えて同行者には、ブリタの姉さんと……」

 間髪入れずに続けられたジュゲムの言葉に、唖然と息を飲む気配があった。

 思わずといった具合に、「――えっ?」とエンリからこぼれた疑問符は、村の長として最期までカルネ村に残る決心をしていたのかも知れない。

 何度も口を開きかけながらも、上手く言葉を紡げない様子のエンリを取り囲むようにして、村人たちが畳みかけるような勢いで、信頼や激励の言葉を投げかけていく。

「エンリちゃんなら安心だ!」と初老の男が胸を張り、「エンリ、皆のことを頼んだよ!」と袖口に縋って微笑む老婆がいた。

 冗談めかせながら、「族長!」と手を振っていた村人たちが、エンリの名を親しげに呼びかけ、「ちゃんと逃げてくれよな」と念を押すように言葉を重ねていた。

 若くして“村長”という重責を担っていたとしても、カルネ村の年寄りたちから見たなら、エンリ・エモットという純朴な少女もまた、守るべき村の子どもの一人なのだろう。

 戦場となってしまう村を離れてもらいたいエンリに、決して罪悪感を抱かせまいとする心意気が、彼らの口を次々に開かせているのかも知れない。

「エンリ、行こう。生き延びた、その先こそが僕たちの戦うべきときだ」

 エンリを鼓舞する村人たちの意を汲み、ンフィーレアが優しい声音で呼びかけていた。

「…………これは、何なんだろうな」

 そうした感極まった様子の人々の輪から少し離れ、ユンゲは気後れするように肩を落とす。

 突然の異世界転移を経験してから既に半年余り――、この場所が綺麗事ばかりで成り立つような甘い世界でないことを理解はしていても、今のユンゲには持ち得ないものが多過ぎた。

 世人の及ばない遥かな高みにありながら、大器たる度量の深さと誰を相手にしても分け隔てのない誠実さを併せ持つ“漆黒の英雄”モモンとは、比較することさえ烏滸がましい。

 自身よりも力を持たない弱者たる、朴訥な村人たちが抱いている気概や覚悟でさえも、ユンゲにはないものだった。

 いつも傍らにいてくれるマリーに視線を向けるが、かけるべき言葉を見つけられない。

 いつかの渓流の畔、彼女の口から語られた“英雄”という存在に、自身の手が届くような日はやってくるのだろうか――。

「……あの、冒険者様」

 仄暗い思考の淵に沈みかけていたユンゲを思いがけない呼びかけが引き戻した。

 やおらと持ち上げた視界に、如何にも人の良さそうな老夫婦の寄り添う姿が映る。

「不躾なお願いをしてしまい、本当に申し訳ないのですが……」

 

 *

 

 村を離れる子どもたちを守ってあげて欲しい。

 そう懇願をして頭を下げた恰幅の良い好々爺の言葉に、ユンゲは静かに顎を引くことで応えた。

 この行為が冒険者としての規約に反するのか、正確なところは分からずとも国家を敵に回したなら、面倒な事態になるのは避けられないだろう。

 ユンゲの身勝手な振る舞いを快諾してくれた仲間たちには申し訳ないが、また要らない苦労をかけてしまうことにもなった。

 不安そうな子どもたちに優しく声をかけて回りながら、周囲への警戒をしているリンダやマリーの姿に目を向ける。

 故郷である“エイヴァーシャー大森林”において、悲惨な戦場を経験している彼女たちを今回の騒動に巻き込んでしまうことには抵抗があったものの、拙いユンゲの思いを気遣ってくれる配慮に、何度となく甘えてしまったという情けない有様だった。

 そして、もう一人の仲間であり、野伏〈レンジャー〉の技能を有するキーファも、ンフィーレアとともに裏手の物見櫓に身を隠しながら、村を脱出する好機を探ってくれている。

「……良い加減、格好がつかないよな」

 小さな溜め息とともに、ユンゲは弱気を吐き捨てるように、自身の頬を両手で張りつけた。

 ジュゲムの見立て通りであれば、正面門での戦いが苛烈になるほどに、相手も軍を集結せざるを得なくなるはずだった。

 非力な村人たちが、命を賭してまで守ろうとする気骨には、何としても報いなければならないとユンゲは考える。

 

 ――再び打ち響く剣戟の音。

 遠く地鳴りのようにも聞こえる雄々しい叫びに、子どもたちが身を強張らせていた。

 二度目となる攻勢……つまりは、男たちの決死の戦いが始まったのだろう。

 憂いを帯びたエンリの横顔にも、隠し切れない緊張の様子が見て取れる。

 琥珀色の視線の先には、ひっそりと佇む物見櫓――華奢な人影が二つ駆け降りてくるのが見えた。

「ジュゲムさんの作戦通り、ほとんどの兵士は正面門側に集められてるみたいだ。ただ……」

「塀の影に身を潜ませてる部隊がいるよ。多分、騎兵が百人くらいかな」

 表情を曇らせるンフィーレアに続き、駆け寄ってきたキーファが短く言葉を引き取る。

 物見櫓から目視できない位置に部隊を構えているということは、村の裏手から逃げ出そうとする村人を警戒しているのか、若しくは逃げ出したところを追撃する腹積もりなのだろうか。

「騎馬が相手なら、森まで逃げ込めれば――」

「門から森までは、結構な距離がある。……子どもたちの足だと、ちょっと難しいかも知れない」

 現実的なンフィーレアの物言いに、怯んだようにエンリが言葉を詰まらせた。

 肌を刺すほどの冷たい風に乗って、男たちの血気する怒号と苦鳴の叫び声が届けられる。

 或いは、正面門の付近での戦いが一層と苛烈のものになれば、この状況が好転する可能性も見えてくるのだが――、

「ジュゲムさんたちの攻勢は、いつまでも続けられない。今を逃したら、もう好機はないと思う」

 だから僕が時間を稼ぐよ、と暗澹とした空気を振り払うように、進み出た少年が口を開いた。

「な、なら私も……」

「駄目だ。エンリは村の皆を守らなきゃいけない」

 小さくかぶりを振ったンフィーレアが、毅然とした口調で言い切る。

 前髪の奥に覗く青い瞳が、意思の強さを宿してエンリに反論の余地を与えないままに言葉を続けた。

「もしかしたら……もう一度、アインズ・ウール・ゴウン様が救いにきてくれるかも知れない。そのときのために、あの方のお城まで行ったことのあるエンリは生き残るべきだ」

 悲壮な決意の込められたンフィーレアの台詞に、エンリが嗚咽を堪えるように顔を歪ませる。

 お互いを間近に見つめ合い、今にも泣き出さんばかりの表情を浮かべる少年と少女を前にして――、憚かられるような思いを抱きながらも、一つ大きめの咳払い。思わずといった様子で、二人が驚きと恥じらいに肩を竦ませる。

 そうしたンフィーレアとエンリの態度には気付かない振りをしつつ、ユンゲは努めて憮然とした振る舞いを装いながら、静かに言葉を投げかける。

「……その役割は、俺が引き受けよう」

 

 *

 

「良しっ、行ってくるね!」

 殊更に明るい口調で言い放ったキーファの、せがむような野葡萄色の上目遣いに苦笑いを返しつつ、ユンゲは丁寧に括られた栗色の髪を梳くように撫でながら口を開く。

「あぁ、頼りにしてるよ。……でも、無理だけはしないでくれ」

「それは、こっちの台詞! 絶対に無理しちゃ駄目なんだからね!」

 満足そうに緩めていた頬をぷくりと膨らませて、キーファが小さく抗議の声を上げた。

 分かっているさ、と言外に告げながら、ユンゲは気負わずに肩を竦めてみせる。

「……リンダも、よろしく頼むな」

 横合いからの援護射撃を察し、重ねるように先手を打って呼びかける。

「……えぇ、心得ていますよ」

 不承不承といった様子ながらも、微笑みを浮かべてくれたリンダと一つ頷きを交わし、ユンゲは周囲へと視線を巡らせる。

 緊張した面持ちの女性や子どもたちは、カルネ村からの脱出に備えて既に一塊りとなっていた。

 幼子を抱える若い母親に、自分より年少な者の手を取る子どもたちの健気な姿が、未だに不安を拭えないままのユンゲの胸に沁み入る。

「じゃあ、また後でね!」と軽く手を振って踵を返したキーファが、ユンゲと揃いになる若草色のロングマフラーを冷たい風に靡かせながら、先頭の集団へと歩み寄っていく。

 身軽なキーファには、レンジャーとしての訓練も積んでいるらしいブリタと並んで、一行の斥候役を担ってもらうことになっていた。

「……では、私も参ります」

 長柄の錫杖を握り締めた玲瓏たる女神官〈クレリック〉のリンダが一礼し、傍らのマリーの耳許に寄せて何事かを囁いてから、持ち場へと去っていく。

 中天を越えた陽射しに当てられ、眩しい輝きを放つ銀髪の颯爽とした後ろ姿を見送りながら、ユンゲは訝るような視線をマリーへと向けた。

「――ふふっ、ユンゲさんが無茶をしないために、しっかり見張っているように……と」

 悪戯っぽい笑みを浮かべたマリーが、可愛らしく小首を傾げてみせる。

 俺は信用がないな、とわざとらしく拗ねた真似をしつつ、情けない思いに蓋をするようにかぶりを振ったユンゲは、気を取り直して言葉を続けた。

「さて、俺たちはエンリさんたちのところだな」

「はいっ、責任重大ですね」

 意気込みながら小さく握り拳を作ってみせるマリーの姿に、思わずユンゲの頬は緩みかけ、「……ああ、そうだな」と取り繕うように短く言葉を返す。

 そうして、気合い十分といった様子のマリーを傍らに伴ったユンゲは、整列の最後尾で待つエンリとンフィーレアの下へと向かっていく。

 

「ユンゲさん、こんな事態に巻き込んでしまって、本当にごめんなさい」

「……こちらが勝手に申し出ただけのことです」

 どうかお気になさらず、と何度となく耳にしたエンリからの謝罪に肩を竦めて受け流し、ユンゲは努めて気安い調子で話しかける。

「――それよりも、今は皆が無事に逃げられるように集中しましょう」

「……えぇ、そうですね」

 固いままの表情で呟くエンリに、ユンゲはかけるべき言葉に悩む。

 今回の脱出作戦は、正面門の付近でジュゲムたちゴブリンや村の男たちが奮闘しているからこそ成り立っていた。

 元々は最後まで村に残って戦うつもりだったエンリの心情を思えば、村長である自身ばかりが、真っ先に逃げ出すことを素直には受け入れられないのかも知れない。

「行くよ、エンリ!」

 断然とした態度で言い差したのは、年齢に似合わしくない冷静さを見せるンフィーレアだった。

 エンリの戸惑いを汲みながらも、目の前の出来事に意識を向けさせるように、優しく肩に手を置いて呼びかけている。

「――後のことは、よろしくお願いしますね、ユンゲさん」

 こちらを振り仰ぎ、少しだけ気恥ずかしそうなンフィーレアを見遣ったユンゲは、「任せてください」と言葉少なく微笑みを浮かべた。

 自身よりも一回ほども年若く見えるンフィーレアの方が、よほど肝が据わっているらしいことに、僅かに苦い思いを抱いてしまうユンゲではあったが、そんな考えも今更だろう。

 小さくかぶりを振って下らない感情を払い、ユンゲは視線を前方へと向ける。

 カルネ村を囲う高い塀の手前――、赤毛を短く刈り上げたブリタが手で合図を送り、門扉を開いたキーファと連れ立って飛び出していく姿が見えた。

 幼子の手を引いた母親が、二人の後に続いて下草の枯れた大地を踏み締め、村の裏手に広がるトブの大森林を目指して走り出す。

「――頑張れ、森の中まで走るぞ!」

 子どもたちを送り出し、列の間延びしてしまいそうな中程に差しかかった辺りで、鼓舞の掛け声とともにリンダが駆けていく。

 門扉を抜ける瞬間にくれた一瞥に、ユンゲは軽く手を掲げて応じる。

 今のところ、リ・エスティーゼ王国軍の騎兵隊が動き出す気配はない。

 一斉に逃げ出している集団が、女や子どもばかりだと判断して見逃してくれるのなら、ユンゲの出番はないのだが――、

「では、僕たちも行きます!」

「あの、絶対に無理はしないでくださいね」

 ンフィーレアとエンリから声をかけられ、ユンゲは無言のうちに強く頷いてみせた。

 子どもたちの後を追って、最後に駆け去っていく二人の後ろ姿を見送り、ユンゲはマリーと顔を見合わせて小さく息を吐く。

 

「……どうなりますかね?」

「まぁ、このまま何事もなく過ぎてくれれば良いんだけどな――」

 願いを口にしかけたユンゲを落胆させるように、儚く響いた悍馬の嘶き。

 エンリたちの後に続く人影がないことを見定めて、相手は標的を決めてしまったらしい。

 駈歩から襲歩へ、硬い馬蹄が地面を蹴りつける音が次々に重なり、地鳴りのような衝撃が瞬く間に近付いてくる。

「マリー、手筈通りに頼む!」

 半ば叫ぶように言い放ったユンゲは、「はいっ!」とマリーからの返事を背にしながら、開け放たれた門扉を飛び出す。

 一陣の風となって大地を滑り、逃げ惑うエンリたちと追い立てる騎兵との間へとユンゲが身体を躍り込ませたなら、僅かにンフィーレアがこちらを振り返る気配。

 早く行けっ、とばかりに腕を振るい、ユンゲはそのまま身構えることもせずに、前方――迫りくる騎兵の群れを睨みつけた。

 予期せぬ乱入者であるユンゲの存在を見止めたはずの先頭の騎兵は――しかし、一切構う素振りも見せずに、軍馬に猛追を焚きつける。

 その炯々とした瞳は、手に手を取り合いながら必死に走る人々の背を容赦のない馬蹄で蹂躙することだけを渇望していた。

 早鐘のような自身の鼓動が、やけに煩わしい。

 無詠唱のうちに魔法を紡ごうとするユンゲの背筋に、蠢めくのは憤怒にも似た不快感と微かな怯え。

 今は考えるな、そう言い聞かせて突き出した左腕が、思いとは裏腹に震えてしまう。

「――――っ、くそったれ!」

 口をついてこぼれた叫びが、躊躇いの中でユンゲに魔法を紡がせた。

 

〈ワイデンマジック・ファイヤーボール/魔法効果範囲拡大化・火球〉

 撃ち出された真紅の光弾が周囲を血色に染め上げ、騎兵の進む先の地面へと炸裂する。

 刹那の閃光――耳朶を劈くほどの大爆発に、急戦の軍馬が棹立ちとなり、方々で衝突と転倒による悲鳴が上がった。

 額に浮かんだ汗を無造作に拭い、喘ぐような浅い呼吸を落ち着けながら、腰の剣帯へと手を伸ばす。

 震える指先で弾くように留め金を外し、支えを失ったバスタードソードの柄を小指から順に、ゆっくりと握り締める。

 凍てつく外気に剥き出しであったはずの柄は、火鉢に突っ込んでいたかのような灼熱をもって、ユンゲの手を焦がしていく。

「……覚悟を決めろ、ユンゲ・ブレッター」

 誰にも届かないであろう呟きは、吹き荒ぶ爆風の余波に流されて彼方へと消えて失せる。

 そうして、静かに顔を持ち上げたユンゲは、阿鼻叫喚の様相で転げ回る騎兵に向けて、一つの宣言を告げるのだった。

 

「――ここから先は、通行止めなんだ」

 

 




心理面での前置きが長くなってしまいましたが、次話でようやくと戦闘回に突入できるかと思います。


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(41)気概

予告していた戦闘回。
いつもより長めになってしまったので、お時間のあるときにでも――。


 灼熱するバスタードソードの柄を強く握り締めたまま、ユンゲは無造作に視線を巡らせた。

 頬を刺すほどの凍てつく風に、朦々と舞い上がっていた土埃が吹き掠われて、煙るようだった視界も徐々に鮮明となっていく。

 爆炎に穿たれた大地は、黒々と爛れた破壊の爪跡を晒しながら燻り、その向こう――折り重なる人馬の惨状が、否応なくユンゲの眼前に広がっていた。

 自らの意思で放った魔法の引き起こした光景から、ユンゲが目を逸らすことは許されないだろう。

 突進の勢いをそのままに放り出されたリ・エスティーゼ王国軍の騎士たちは、重厚な鎧に身を捩りながら苦痛にのたうち、或いは五体を大地へと投げ出したままに気を失っているのか、微動だにする気配のない姿も見受けられた。

 しかし、そうした人間としての原型を留めている連中は、寧ろ自身の幸運に感謝をするべきだったのかも知れない。

 理由は問うまでもなく、僅かに早く倒れてしまったがために、後から続いた馬蹄に掛けられ蹴散らされた者たちの悲運は、とても正視に耐えられない有り様と成り果てていたからだ。

 健脚の支えを失って横倒しとなり、身体を起こすこともできない軍馬のこぼす苦鳴の嘶きに、ユンゲの胸が鈍い痛みを訴える。

 堪えるために噛み締めた唇に浅く血が滲むが、痛みが引いてくれることはなかった。

 凄惨という一言に尽きた戦慄の痕跡の奥に、愕然とした様子の騎影が七つばかり。

 恐らくは騎兵隊の最後尾を駆けていたために、辛うじて難を逃れられた連中ということなのだろう。

 それぞれの青褪めた表情を見遣れば、既に戦意は削がれているように思えたが――、ユンゲはバスタードソードを右手に構えてみせながら、静かに一歩を踏み込んだ。

 

 焼け焦げた土の臭いが、纏わりつくように酷く不快な感情を呼び起こして止まない。

 こちらの怒気を孕んだ歩みに、棒立ちとなっていた騎兵が怯むように蹈鞴を踏むのが見えた。

「……武器を捨てろ」

 短く言い差し、更に距離を詰めていく。

 目前の出来事に理解が追いついていないのか、狼狽えるばかりの相手を見据えたユンゲは、わざとらしい溜め息とともに言葉を重ねた。

「……聞こえなかったのか、早くしろ」

 爆心地となった黒焦げの大地を敢えて迂回するように時間をかけて進みながら、胸先に掲げた左手の中に魔法を紡いでみせる。

 ユンゲの手許からパチパチと爆ぜるような火花が生まれたなら、騎兵たちの顔付きは目に見えて青白くなっていた。

 これ以上にない脅しの態度を貫きながら、ユンゲはひたすらに足を前へと運び続ける。

 歩みを止めてしまえば、その瞬間に膝から崩れ落ちてしまいそうな恐怖に駆られていた。

 落ち着けようとするほどに動悸は早まり、酸素を求めて呼吸を繰り返すほどに、息苦しさばかりが募ってくる。

「――ひぃ、かかかっ」

 堪忍してくれ、と奥歯を打ち鳴らして、震える声で告げた髭面の騎士が、手にしていた大振りの馬上槍を投げ捨てた。

 重力に従って落下した槍は、その鋭利な穂先を深々と地面に突き刺し、やがて糸が切れたようにゆっくりと傾いていく。

 乾いた音を立てて転がった槍を軽く一瞥しつつ、ユンゲは無言のうちに歩みを進める。

「わ、分かった。武器を捨てる!」

 先の髭面の男を倣うように叫び、残りの騎士たちからも次々と馬上槍が手放されていった。

「……腰の剣もだ。手間をかけさせるな」

 凄みを効かせた低い声――というよりは、緊張のために震えてしまうのを必死に抑えた結果なのだが――で告げたユンゲは、粗い砂の大地に積まれていく武器から目を離し、飛び出した門扉の傍に建つ物見櫓を振り仰ぐ。

 こちらの様子を一望できる高い位置には、短杖を握り締める小柄な人影――森祭司〈ドルイド〉としての技能を持つマリーだ。

 中天を越えた陽射しを浴びて、目映いばかりの黄金色のサイドテールが煌めいていた。

 ユンゲの見上げる視線に一つ頷いてみせたマリーが、手にした短杖を振りかざす。

 周辺が微かに振動する気配に続き、固い地面を割って新緑の植物が一斉に芽吹いた。

 マリーの紡いだ〈トワイン・プラント/植物の絡みつき〉によって生まれた蔦の群れが、騎士たちの投げ捨てた武器の山へと絡みつき、相手には手の届かない場所まで運び去っていく。

 完全な丸腰になり、すっかりと萎縮した騎兵たちの血の気の引いた顔色を観察してみれば、エンリたちへの脅威は排除できたのだろうと思う。

 気怠さにも似た鈍痛が、身体中を蝕んでいくような感覚に顔を顰めながらも、ようやっと深く息を吐いたユンゲは、「……これで、大丈夫だよな」と誰にももなく言い聞かせるような口調で呟いた。

 

 額に滲む汗を手の甲で拭いつつ、その場に座り込みたくなる気持ちを抑えて、ユンゲは背後――カルネ村の女性や子どもたちを先導していた、キーファやリンダの向かった方向へと振り返る。

 唐突な事態の推移に、思わずといった雰囲気で足を止めた集団の最後尾には、同じように振り返ったエンリとンフィーレアの立ち姿があった。

 どこか呆然としたような二人が、それでも固く手を取り合っている様子に微笑ましい思いを感じながらも、ユンゲの口許は堪えようとするほどに歪んでしまう。

(……人を殺したのは、初めてだな)

 自身の放った魔法の一撃により、村人たちを追撃していた百名余りの騎兵のうち、どれほどの者が命を落としたのか。

 五体満足でいられた者さえ、数えるほどしかいないだろう。

 そうした覚悟を持って臨んだつもりのユンゲではあったが、やはり重過ぎる事態を目の当たりにして、凡人たる心は悲鳴を上げてしまいそうだった。

 自嘲めいた考えに浮かんだ醜い笑みを吐き捨て、ユンゲはぼんやりと周囲に視線を巡らせる。

 遠くアゼルリシアの山峰から吹き下ろす冷たい風が、トブの大森林の梢を揺らし、荒れ野を渡りながらユンゲの頬から熱を奪い去っていく。

 力なく頽れた騎兵の集団に無理矢理と意識を配りつつ、ユンゲは気持ちを落ち着けようとして、手にしていたバスタードソードを腰の剣帯に留め直す――と、前触れもなしに地面を駆ける小さな足音が耳朶を打った。

 

 やおらと目を向けた先に、大きく腕を振りながら走ってくる幼い少年の姿が映る。

 年齢のほどは、エンリの妹であるネムよりも年少な六、七歳といったところだろうか。

「ま、待って……まだ危ないかも!」

 突然、村人たちの列から飛び出してしまった少年を追って、慌てた様子のエンリが声を上げて後に続いていた。

 脇目も振らずにこちらへと向かってくる少年の瞳には、思わず身構えてしまうほどに真剣な色。

 快活そうな日に焼けた浅黒い目許に、薄い涙の筋が浮かんでいる。

「冒険者様! お願い、お父さんを助けて!」

 未だ声変わりもしていない甲高い少年の声音――幼い肩で息を切らせながら告げられた言葉に、ユンゲは咄嗟の返答をすることができずに、小さく喉の奥で呻いた。

「ちょ、ちょっと危ないじゃない!」

 追いついたエンリが、縋りつかんばかりの少年を諫めるように背後から抱き留める。

「――ねぇ、お願いだよ!」

「あ、あんまり無茶なことは……」

 小さな拳を握り締めながら訴える少年の必死な表情に、宥めようとするエンリは躊躇いながら声をかけていた。

 カルネ村を囲う高い塀をぐるりと回り込んだ先、正面門の付近からは未だ止むことのない剣戟の音が響いている。

 エンリを慕うゴブリンたちとともに、村の男たちは愛する妻子を逃すための陽動部隊として、“第一王子”バルブロの率いる数千もの王国兵を相手に、勝ち目のない無謀な戦いへと赴いていた。

 この年端もいかない少年の父親もまた、そうした勇敢な者の一人なのだろう。

「俺は……」

 続けるべき言葉を見つけられないままに、ユンゲは呆けたように自身の両手に目を向けた。

 背筋から込み上げてくる微かな震えは、腕の先へ伝わっていくほど次第に大きくなっていく。

 

「――大丈夫です」

 不意に、鼻孔をくすぐる甘い香り。

 驚きに慌てて振り返り、顔を上げたユンゲを柔らかな笑みが迎えてくれた。

「大丈夫です、私が一緒に背負います」

 凛とした響きを湛えながら告げられたマリーの言葉に、ユンゲは静かに肩を竦めてみせる。

 真っ直ぐに向けられる湖面のような碧の眼差しを見つめ返すと、渇いた喉が焦れるように生唾を飲み込んだ。

「…………なら、苦労をかける」

「はいっ、任せてください!」

 一切の屈託もない言い切りは、ユンゲの目許を無意識のうちに綻ばせてしまう。

 気恥ずかしい思いを誤魔化すように視線を巡らせたなら、トブの大森林の手前で跳ねるように手を振ってみせるキーファと落ち着き払いながら頷きを返してくれるリンダの姿があった。

「……大丈夫です。私たち三人の気持ちは、いつも同じですから――」

 可愛らしい口許から三度目ともなる信頼の言葉を紡がれたなら、もう迷うことは許されないだろう。

 ざんばらに乱れていた金髪をかき上げ、ユンゲは自らの頬を両手で張りつける。

 パチンッと小気味良い音が、惰弱に溺れてしまいそうな意識を覚醒させてくれる。

「……あの、冒険者様?」

 こちらの奇行を訝るような少年の声に応えて、その場に膝を折って屈み込む。

 腰丈の少年と目線の高さを合わせたユンゲは、小さな坊主頭を少しだけ乱暴に撫で回しながら不敵に笑ってみせた。

「――ここで、エンリさんや村の仲間と待っててくれるか?」

 

 *

 

「――急ぐから、しっかり掴まっててくれ」

 首にかけられた細い両腕に力が込められるのを確認し、ユンゲは固い地面を強く蹴りつける。

 同時に紡いでいた<フライ/飛行>の魔法を唱えて、二人分の身体を空へと投げ出したなら、胸板に寄せられるマリーの顔が、はっきりと強張るのを分かっていても、今は堪えてもらうしかない。

 小さな苦笑を浮かべながらも、マリーを横抱きにしたユンゲは、カルネ村を縦断するように勢い込んで宙空を疾駆していく。

 女性や子どもたちを逃がすための作戦に従い、ジュゲムたちが覚悟の攻勢を仕掛けてからは、既に相当の時間が過ぎてしまっている。

 戦闘が続いているらしい怒号や喚声は今も響いてくるものの、猶予はあまり残されていないだろうと思えた。

 眼下を流れていく物寂しい開拓村の風景に、慎ましくも笑顔に溢れていた面影は、少しも読み取ることができない。

「――っ、腹が立つな」

 思わずこぼれた舌打ち――瞬く間に置き去りとし、ユンゲは堪えるように口唇を噛み締めた。

 目に飛び込んでくるのは、開け放たれた正面門の先で奮闘する村人たちの勇姿。

 事前に訓練をしていたという弓矢の類いは、乱戦となったことで使えなくなっているのだろう。

 武器とも呼べないような開墾用の農具ばかりを手に、王国兵へと挑みかかる様は、ユンゲの胸の内を熱くして止まない。

 マリーの膝裏に回した左腕に力を込めつつ、翻ったユンゲの右手は、腰の剣帯からバスタードソードを抜き放った。

「……ちょっと暴れる。舌を噛まないように!」

 短く言い差せば、「はいっ!」とマリーの細腕が一層と強く首許に抱きついてくる。

 そうして、より間近に感じる甘い香りに不思議な安堵を覚えながら、ユンゲは高い塀を踏み越えて戦場へと躍り込んだ。

 

 敵本陣への攻撃を企図しているのか、小さく固まったままに前進を続ける村人たちは、既に三方を敵に囲まれた決死の様相だった。

 村の手前には役割を終えたらしい破城槌が転がり、その向こう――村人たちの退路を断つように、背後から迫る王国兵部隊の動きを目で追ったユンゲは、即座に無詠唱化した魔法を放つ。

<ツインマジック・ショック・ウェーブ/魔法二重化・衝撃波>

 指向性をもった不可視の双撃が、長剣で武装した左右の先頭集団を強襲し、後続する部隊を巻き込んで諸共に薙ぎ払っていく。

 何が起きたのか、と不意の混乱に陥る一部の王国兵に高所からの一瞥をくれつつ、<飛行>の魔法を解いたユンゲは、マリーを強く抱き締めながら自由落下に身を任せて、その只中へと飛び込む。

 着地と同時に振るったバスタードソードの剣腹が、立ち竦んだ兵士たちを胴鎧の上から激しく打ち据え、吹き飛んだ先の方々で悲鳴が上がった。

「――えっ、な……何がっ」

 瞠目する相手に立ち直る隙を与えないままに、ユンゲは回し蹴りからの連撃を見舞って、次々と意識を奪っていく。

 昏倒した者たちを一顧だにすることもなく、返しの剣閃で前方に居並ぶ包囲の軍勢を強引に断ち割りながら進めば、村人たちの右側面を襲っていた王国兵の部隊は、瞬く間に散り崩れていった。

「――ぼ、冒険者様!?」

 どうしてこちらに、とユンゲの存在に気付いた壮年の村人の顔には、戸惑いの表情。

「――女性と子どもたちは無事だ。ここは俺が受け持つから、早く負傷者を退がらせろ」

 当然の疑問に先回りして言い切ったユンゲは、更に前進を続けながら剣撃を振るい続けた。

 内心で未だに燻っている逡巡が、バスタードソードの刃筋を立てることに躊躇いを覚えさせていたものの、鉄塊を叩きつけるのにも等しい衝撃を浴びせられた王国兵たちの未来は、それほど違いのないものとなっていただろう。

 去来する鈍痛を無視して敵方を薙ぎ倒し、空いた間隙に抱えていたマリーを優しく下ろす。

 偽らない本音として、戦場に彼女を伴いたくはなかったのだが――、

「マリー、皆に治癒の魔法を頼む!」

「分かっています、任せてください」

 会心の笑みで応えてくれたマリーは、既に短杖を握り締めて詠唱を始めている。

 紡がれる淡い魔法の輝きを視界の端に捉えながら、ユンゲは素早く周囲に目を配ると最前線で戦うジュゲムの姿を見止めた。

 

 返り血に染まる大剣を振り上げ、脇目も振らずに奮闘する屈強なゴブリンは、既に身体の至るところに手傷を負っている。

 陽動部隊として別れたときのジュゲムの言葉を思い返したなら、王国軍との圧倒的に過ぎる戦力差を引っ繰り返すためには、どのような方法であっても敵の指揮官を討たなければいけない、と決意を固めていた。

 その有言を実行せんとする勇ましい後ろ姿が、折り重なる人垣の向こうで唐突に揺らぐ。

 身形の整った兵士が三人ばかり――徴兵された農民ではなく、正規の職業軍人だろうか――難敵を退けたことを誇示するように、高く拳を振り上げるのが見えた。

 バスタードソードを振り抜き、転身。

 詠唱していた再びの<衝撃波>で無理矢理に道を切り開き、大盾のように掲げた剣身を押し出したままに、ユンゲは乱戦の最中を駆け抜ける。

 当たるに任せた強引な突破が、慄いていた王国兵を手毬のように跳ね飛ばし、更に深く敵陣の風穴を広げていく。

「――っ、何事だ!?」

 こちらの接近に気付いた正規兵の一人が声を荒げるが、もう遅い。

 肉薄とともに振り抜いたユンゲの剣閃は、二人の男をまとめて薙ぎ払い、勢いのままに反転した右の蹴撃によって、残る一人も継戦は困難だろう。

 そうして、周囲に群がっている敵の部隊を一掃するように、三度となる<衝撃波>をユンゲが放ったなら、頽れた王国兵の顔が青褪めるのを見て取れた。

「こ、こんなの相手にできるかっ……」

 悲痛な一人の叫びを皮切りに、王国軍の前線は瞬く間に瓦解していく。

 蜘蛛の子を散らすような様を横目で警戒しながら、倒れたゴブリンの傍へと駆け寄る。

「――無事か、ジュゲム?」

「……深傷ですが、まだ息はあります」

 ユンゲの問いに答えたのは、額に大きな古傷を持つ別のゴブリンーー“翠の旋風”が最初にカルネ村へ到着したときに、エンリとともに出迎えてくれたカイジャリだった。

 ジュゲムの上体を支えるように起こしながら、荒い息を吐いているカイジャリもまた、全身に浅くはない傷を負っていた。

「エンリさんたちは、無事にトブの大森林まで逃げ込んだ。次は、アンタたちの番だ」

 端的に事実を伝えつつ、ユンゲは信仰系魔法の<ライト・ヒーリング/軽傷治癒>を詠唱する。

 淡い輝きに包まれるゴブリンたちの顔色が、幾分か良くなったような気配。

「これで、少しはマシになると良いが……立てそうか、カイジャリ?」

「……済まねぇ、旦那。恩に着ります」

 小さく頷いて頭を下げたカイジャリが、蹌踉めくジュゲムに肩を貸しながら立ち上がる。

 回復魔法を使用しても失われた分の血は補えないのか、大剣を杖代わりに未だ辛そうなジュゲムではあったが、周辺の状況に目を配りながら、ようやっと口を開いた。

「……一度、退がって態勢を整えた方が良さそうですね」

 不意打ちとなったユンゲの縦横無尽な突撃により、前方と右側面から攻め寄せていた敵からの圧力は、劇的に弱まっている。

 左側面においても、エンリを慕うゴブリンたちが中心となって、浮き足立つ王国兵を僅かながら押し返すことに成功していた。

 相手方にしても、崩れてしまった形勢を立て直す必要があるので、苦しくなっていた戦線を下げるのなら、今が狙い目ということなのかも知れない。

 ジュゲムに代わるカイジャリの指揮下、敵味方と互いに牽制するように間を取りながら、ようやくと村人たちは正面門の付近まで後退する。

 

「今、治療します。気をしっかり持ってください」

 無事な者たちが負傷者を庇い合う囲いの中では、短杖を手にしたマリーが、献身的な姿勢で治癒の魔法を施していた。

 形の良い額には既に大粒の汗が浮かび、艶を失わない金の前髪も上気した頬に貼りついたままになっており、構っている余裕もなさそうだ。

「……さっきまでのは、雑兵の集まりです。次は精兵が攻めてくるはずです」

 絞り出すようなジュゲムの声にユンゲが視線を返せば、王国軍の本陣と思しき辺りに配されていた騎馬の部隊が、左右へと広がっていく様が見えた。

 空いた中央部には、重装備に身を包んでいる歩兵部隊の姿も現れる。

 滑らかな陣形の変更は、戦時に徴兵されるばかりの農民ではなく、日頃から訓練を受けている軍人だからこそ為せる動きなのだろう。

 逃げ戻っていく兵士を後方に取り込みながら、王国軍は益々と膨れ上がっているような印象をユンゲに抱かせた。

「……どうやって攻めてくるのか、分かるか?」

「やはり、圧倒的な数を頼みにしてくるでしょう。……重装歩兵で締め上げながら、機動力に長ける騎兵が左右から撹乱するのは常套戦術です」

 ユンゲが問いかければ、淀みなく説明を並べたジュゲムが、小さくかぶりを振ってみせた。

「このまま村の中を抜けて、後ろに逃げるのは?」

「相手は騎馬もいますからね……村人全員を守りながらとなれば、難しいでしょう。それに、エンリの姐さんたちと同じ、トブの大森林の方向に逃げる訳にはいかないです」

 苦悶の中にも不敵な笑みを浮かべたジュゲムは、気合いを入れ直すように身震いをしてみせる。

「――俺たちは、この場に踏み止まって戦い抜きますよ。……あぁ、旦那たちは頃合いを見て離れてくださいね」

 お二人だけなら問題なく逃げられるはずです、などとこちらを気遣うように口許を吊り上げてみせるゴブリンの頼もしい横顔に、ユンゲは小さくかぶりを振り返した。

「……そうはいかない。アンタたちを助ける、って約束したからな」

 努めて平静な口調で言い差したユンゲは、バスタードソードを腰の剣帯に留め直す。

 羽織っていた無地の外套を手で軽く払いつつ、こちらを見下ろすような丘陵の上に布陣する王国軍の陣容へと目を向けた。

 両翼に構える騎兵部隊に、中央には重装備の歩兵と後続に控える弓兵の部隊――敵軍を率いる指揮官たる“第一王子”バルブロの陣は、更に奥だろうか。

 全軍で四、五千という見立ては、改めて眺めてみたなら絶望的な戦力差に感じられる。

 家族を守るために決死の覚悟だったとしても、これほどの大軍を相手にも怯まず挑んでいった村人たちの気概は、並大抵のものではなかっただろう。

 

「……マリー、ここで待っててくれるか? カルネ村の皆さんを頼みたい」

「――っ、分かりました。お気をつけてください」

 思わず息を呑んだマリーが、それでも気丈に頷きを返して、激励の言葉とともに送り出してくれる。

 そよとした北からの冷たい風に、サイドで括られた鮮やかな金髪の一房が揺れ、眩しい陽射しを浴びて輝いて見えた。

 小さく親指を立ててみせながら、ユンゲは乱れていた髪を撫でつけるようにかき上げ、静かに顔を持ち上げる。

 厳冬の訪れとともに色褪せた草原の向こう、どこまでも広がるような雲一つない群青の空が、やけに沁みるような思いがあった。

 そうして、今にもこちらへ攻めかからんと喚声を響かせる王国軍に臨みながら、ユンゲはどこか牧歌的な景色の中を踏み締めるように歩き出していく。

 

 *

 

 両陣営の半ばほどに差しかかった辺りだろうか――不意に、ユンゲの耳朶を震わせる風切り音。

 抜き打ちのバスタードソードが、飛来した何本もの矢を続け様に斬り払う。

 まるで曲芸の域ではあったものの、ユグドラシルの恩恵を得ているユンゲには、造作もない振る舞いだった。

「……話し合いの“使者”に矢を射掛けるなよ。リ・エスティーゼの軍は礼儀がないな」

 殊更に呆れたように肩を竦めてみせたユンゲは、煩わしさから無詠唱のうちに、<ウォール・オブ・プロテクションフロムアローズ/矢守りの障壁>の魔法を使用する。

 懲りずに後方から射られた矢の攻撃が、今度はユンゲの身体へと到達する前に勢いを失い、次々と地面に落ちて転がっていく。

 魔法に対する認識が乏しいのか、「……何が起きたんだ?」と前衛の兵士たちに、僅かな動揺の広がる気配があった。

「――し、使者だと? 反逆者の分際で何を語るつもりか!」

 耳を劈くような金切り声が、ユンゲに不快感を抱かせる。

 声の主を探して視線を巡らせたのなら、髪を逆立てた小男が馬上から口喧しく喚いている姿。

 鎧の類いを身につけもせず、仕立ての良さそうな儀典用と思しき軍服を着込んでいることから見れば、碌な覚悟を持たない無能者の一人だろう。

「……小者は黙ってろよ。お前らの指揮官ってのは、どの馬鹿だ?」

「こ、この男爵たるチエネイコに、何という口の利き方だ!」

 激昂する貴族風な小男から目を背け、ユンゲは居並んでいる王国軍の部隊を威圧するように見渡した。

「バルブロ王子、あのような不届き者は、即刻に始末するべきです!」

 またも喚き立てるチエネイコを傍らに、不機嫌そうな表情を浮かべる大柄の男――似たような煌びやかに過ぎる軍服姿ではあったが、体格の良さから幾分か様になっている印象だ――が、丁寧に整えられた顎髭に手をやりながら、ユンゲを睥睨してくる。

「……貴様、俺を誰だと思っている。次代のリ・エスティーゼ王国を担う“バルブロ・アンドレアン・イエルド・ライル・ヴァイセルフ”の御前と知っての愚行か?」

「長ったらしい名前に興味はないな。お前が“臆病者”と噂のバルブロか。……悪いことは言わないから、早々に軍を退けよ」

 怒気の込められた言葉に軽く肩を竦めるだけで受け流し、ユンゲは苛立ちを返すように侮蔑の言葉を吐き捨てた。

「……貴様、よほどの愚か者らしいな。――全軍、奴を生け捕りにせよ。王家の者を侮辱した罪、楽には死なせん」

 青筋を立てるバルブロの号令下、一斉に臨戦態勢を取る王国軍――その眼前に炸裂する、<ファイヤーボール/火球>による大爆発。

 効果範囲と破壊力を高められた業火の魔法が大地を震わせ、黒煙の熱波とともに王国兵たちの気勢を削ぎ落とす。

 武器を手に駆け出していた歩兵が蹈鞴を踏み、騎兵は爆発に慄いた軍馬たちを落ち着けるだけでも手一杯だろう。

「……聞こえなかったのか? 俺は軍を退いて王城に引き篭もっていろ、と言ったんだ」

 目の前で放たれた魔法の威力に、誰よりも驚いているらしいバルブロに向け、ユンゲは静かに言葉を重ねる。

「き……き、貴様は冒険者か!? 国家の大事に関わるとは、どういう了見なのだ!」

 耳障りな高音の怒声――唐突なチエネイコからの物言いに、思わず失笑したくなるユンゲではあったが、強力な魔法に怯みながらも声を上げた“男爵”としての胆力を褒めるべきか。

 ――或いは、自身の命が危機に晒されていることさえ理解していない、能天気な頭の出来に呆れるべきなのだろうか。

「……勘違いするなよ。冒険者組合の規程が避けるべきは、国家間における戦争と政治への介入だ」

 毅然と言い差し、ユンゲはバスタードソードの剣先をチエネイコの喉元に向けて掲げてみせる。

「それとも、罪のない村人たちに一方的な攻撃を仕掛けることが、お前たちの言う政治か? ――だとしたら、リ・エスティーゼの無能な貴族連中は、下らない世迷言を喚く暇があるなら、子育てに躾けくらいは覚えるべきだな」

「何だと、貴様どこまで私たちを愚弄するか!」

 更に声を荒げる小男を一瞥し、わざとらしく溜め息をこぼし、ユンゲは首に下げた冒険者の認識票<プレート>に手をかけた。

「……まぁ、組合に迷惑をかけるつもりはないからな。少し惜しいが、冒険者は今日で廃業にするさ」

 結んでいた革紐を千切るように振り解き、無造作に左拳の中で握り潰す。

 鈍い金属音とともに拉げたゴールド級のプレートを地面に投げ捨ててみせたユンゲは、「……これでも、まだ文句があるか?」と挑発の言葉を続けた。

 最前線に配されている王国兵たちの顔には、一連のやり取りを目にしたことで、確かな恐怖の色が浮かんでいる。

 王族や貴族の品位を虚仮にし、冒険者としての枷まで外した“危険人物”を相手に、これ以上は戦いたくないと思うのが、一般的な物の考え方だろう。

 既に消耗し切っている村人たちに、再び戦力差を押し返すほどの余力は残っていない。

 それでも、カルネ村への攻撃を続けることは、ユンゲとも戦い続けることと同義だと理解させたのなら、或いは王国軍が部隊を引き上げてくれるかも知れない。

 少なくとも、兵士たちの戦意を大きく挫くことくらいはできたと願いたい。

「……バルブロ王子、如何しますか?」

 気概もなく縋るような声は、情けなく眉を寄せるチエネイコだった。

 軍馬を並べるバルブロは、額に脂汗を滲ませながら苦渋の形相を浮かべている。

 多少なりとも状況を把握できているのならば、リ・エスティーゼ王国とバハルス帝国間における開戦が間近となっている現状で、辺境のカルネ村に固執することには意義を見出せないはずだ。

 火傷しそうなほどに熱い、バスタードソードの柄を握り締めるユンゲの願望にも似た思いは……しかし、バルブロから発せられた無情の命令によって、霧散されてしまう。

「――退くことは、罷りならん。全軍、進め……奴を血祭りに上げるのだ」

 アゼルリシアから吹きつける風が勢いを増したように、ユンゲの頬を冷たく打ち据えた。

「……本当は、戦いたくないんだけどな」

 誰にともなく呟かれた言葉は、小さな溜め息とともに意味を失う。

 そうして、高く掲げていたバスタードソードを引き戻したユンゲが、改めて思いを強くするように大きく息を吸い込んだ――その瞬間だった。

 

「……ふむ、交渉は決裂ということか」

 

 不意の発言は、ユンゲの背後から――カルネ村の住民たちは、遥かに後方の門付近に固まっている。

 何もない、誰もいないはずの空間に、突如として現れる濃密な気配。

 驚愕に振り返ったユンゲを迎えた“死の支配者”は、威厳に満ちた深い声音で言葉を続けた。

 

「良い口上を聞かせてもらった。……後は、私が引き受けよう」

 

 



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(42)約束

 幾重にも折り重なる樹々の梢が、抜けるように高い青空を背景に、複雑な木影の絵画を描いていた。

 初夏に薬草取りの依頼で立ち入った頃のトブの大森林は、鮮やかな緑の天蓋に覆われ、豊かな生命の息吹きを感じられたものだが――、すっかりと葉を落とし、厳冬の模様となった枯れ色の景色は、どこか物寂しい思いをユンゲに抱かせた。

 幸いなことに、まだ氷雪の散らつくような気配は見られないものの、剥き出しの樹々の合間を縫うようにして時折り吹きつけてくる風が、否応なく指先までを悴ませてしまう。

「――旦那、次はこっちの樹をお願いします」

 ぼんやりと視線を巡らせていたユンゲに、額に古傷を持つゴブリンが声をかけてくる。

 カイジャリの太い指で示された先には、二抱えもある立派な幹周りの立木――根元から見上げるほどに高い頂点の枝先まで、実に真っ直ぐと伸びている様を見取れば、素人目にも建材としても最適なのだろうと思えた。

「了解。……向こう側に倒すから、注意してくれ」

 軽く応じつつ、ユンゲが腰の剣帯からバスタードソードを引き抜いても、今は握り締めた柄に灼熱するような痛みを感じない。

 小さく呼吸を整えたユンゲは、横薙ぎにバスタードソードを振るい、やや下向きに角度を変えながら返しの剣撃を見舞う。

 都合、鋭角な“く” の字に斬りつけられた樹幹が、こちらへと傾いでくるのを正面から靴底で蹴りつけて、人影のない方向へと強引に押し倒す。

 本職の林業従事者からすれば、伐採の手順も何もあったものではないのだろうが、とりあえずの結果だけを得られるのなら十分だった。

 葉をなくした枝と枝とが絡みつくように打つかり合い、耳朶を震わせる樹身の引き裂かれる音は、どこか地響きにも似ていた。

 そうして、大きな衝撃とともに横倒しとなった大樹の周りでは、小振りな斧を手に駆け寄った村人たちが、口々に歓声を上げている。

 流石は冒険者様だ、と投げかけられる称賛の声に曖昧な笑みを返しつつ、ユンゲは自らの首許に意識を向けた。

 ユグドラシルのサービス終了とともに、突然の異世界転移を経験してから、これまで随分と長い期間も馴染んでいた肌触りは、もう感じられない。

 先のカルネ村防衛戦において、リ・エスティーゼ王国の“第一王子”バルブロの率いる軍勢を目の前にして、勢い任せに啖呵を切ったユンゲは、「組合に迷惑をかけるつもりはない」などと嘯いてみせながら、冒険者の証明たるゴールド級のプレートを投げ捨てていた。

 冒険者組合は国家から独立した組織であり、政治や戦争への加担をしないという規約の下に、国境を越えた活動が可能となっている。

 今回の一件において、どれほどの事情を汲んでもらえるのかも分からないが、正規の王国軍を相手取り、ユンゲが大立ち回りを演じてしまったという事実は揺るがない。

 カルネ村の住人たちを守るために止むを得ず――と言えば聞こえは良いが、そのために数多くの王国兵たちを殺めてしまったという現実を鑑みたのなら、ユンゲ・ブレッターという存在は、王国における“大罪人”となっていたとしても、弁解することはできないだろう。

「……これから、どうするかなぁ」

 何とも情けない嘆きをぼやきながら、バスタードソードを腰の剣帯に留め直し、ユンゲはやおらと仰ぐように宙空へと視線を彷徨わせた。

 縦横に広がっていた梢や枝が取り払われたことで、ぽっかりと開けた視界の先、良く晴れた雲一つない群青の空は、遠くアゼルリシアの険しい山峰の向こうまでも、果てしなく続いている。

 最早、何度目ともつかない溜め息をこぼしたユンゲは、暗澹たる思いを振り払うこともできないままに、ただ吹きつける風の冷たさに身を晒しながら、静かに立ち竦んでいた。

 

 *

 

 得体の知れない怖気に、思わず身震いがした。

「――な、何がっ」

 不意に呂律の回らない舌を恨めしく思いながら、慌てて振り返ったユンゲの視界に、飛び込んでくる“奇妙な仮面”の人物。

「良い口上を聞かせてもらった」

 尊大でありながらも、どこか安心感を抱かせるような男性の声音が、不思議な響きを湛えながら静かに戦場へと渡っていく。

 豪奢な闇色の装いは気品に溢れて、細緻な金糸の刺繍が施されたローブの袖先から覗く腕には、何故か無骨な鉄製のガントレットを嵌める異様な風采を目にし、ユンゲは咄嗟の言葉を失う。

「……後は、私が引き受けよう」

 続けられた言葉の意味を理解する前に、男が手にした黄金のスタッフを振りかざす姿が見えた。

 目映いばかりの宝玉を咥える七匹もの蛇が絡み合った杖の造形は、単なる芸術品としても衆目を集めるほどの輝きを放ちながら、それ以上に禍々しい魔力の波動を内包するように、ユンゲの意識を惹きつけて止まない。

 半ば茫然としてしまうユンゲと入れ替わるように、王国軍の前へと進み出た仮面の男は、小高い丘陵に構えるバルブロの戦陣を悠然と見回してから、落ち着いた口調で問いを投げかけた。

「――さて……お望み通りに、こうして貴君らの前に姿を見せてやった訳だが、何か言うべきことはないのかね?」

 頭に血を上らせた指揮官の攻撃命令を受け、今にも攻めかからんとしていた数千の軍勢と対峙しながら、一切も臆する素振りを見せない実に堂々とした後ろ姿。

 ユンゲでさえ予想もしていなかった乱入者の存在に、気勢を削がれた様子のバルブロが、馬上で拳を振り上げたままに、呆けたような表情を浮かべているのが見えた。

「……き、貴様は何者だ!?」

 相も変わらない金切り声は、腰巾着のチエネイコから――どうにも思ったことが、安易に口から飛び出してしまう性格らしい。

 苦虫を噛み潰したようなバルブロが手を払い、喧しいばかりの小男を下がらせると、慣れた手つきで軍馬を進ませながら小さく顎を刳ってくる。

「貴様も、俺の邪魔立てをする“愚かな者”か」

「……やれやれ、察しの悪い男だな」

 高圧的なバルブロの物言いに、こちらも不遜な言葉を返した仮面の男が、わざとらしく大袈裟に肩を竦めてみせた。

 状況に理解が追いつかないままに、ユンゲの脳裡に過ぎる、一つの名前。

 

「貴方が、“アインズ・ウール・ゴウン”さん……なのか?」

「如何にも……まぁ、今後は“魔導王”とも名乗る予定になっているがね」

 無遠慮なユンゲの問いかけに、首だけで振り返った“奇妙な仮面”の男――アインズ・ウール・ゴウンが、くつくつと喉の奥で笑うような気配があった。

 ――不意に巻き起こる、爆発的な歓声。

「……ゴ、ゴウン様だ! アインズ・ウール・ゴウン様が、お越しくださったんだ!」

 傷つき疲れ果てていた男たちが、それでも身を捩りながら届けようとする万来の歓喜が、波濤のように押し寄せる。

 咄嗟に背後へとユンゲが目を向けたのなら、泰然としたアインズの背に縋り、神や仏様を拝むように手を合わせる村人たちの姿も、視界のそこかしこで見受けられた。

 あまりの興奮に沸き立つ村人の輪の中、短杖を手に治癒魔法を唱えていたマリーと視線が重なり、お互いに浮かぶ特大の疑問符を確認し合う。

 唐突な事態の推移に、ユンゲの頭は戸惑うばかりで追いついてくれないが、純朴な村娘のエンリが熱く語っていたように、カルネ村の住人たちにとって“アインズ・ウール・ゴウン”という名の救世主は、特別に過ぎる存在なのだろうと感じられた。

 そうして、どこか信仰にも似た村人たちの熱狂も、アインズが静まるようにと軽く手で制しただけで、凪の海原へと様変わりしてしまうのだから、ユンゲとしては苦笑いをこぼすことしかできない。

「――さて、状況は理解してもらえたかね?」

 再びの鷹揚とした声音は、王国軍に向き直ったアインズから、本陣の深くで憤怒の顔つきとなったバルブロへの問いかけ。

 奇妙な仮面の顎先に手をかけながら、出来の悪い相手を嗜めるような響きは、圧倒的な上位者としての振る舞いだった。

「……貴様が、アインズ・ウール・ゴウンか」

 敵対者の名前を苦々しく噛み締めるようなバルブロの呟きに、怒気とともに隠し切れない高揚の感情が滲んでいる。

「なるほど、やはり……次代の国王位は、この“バルブロ・アンドレアン・イエルド・ライル・ヴァイセルフ”にこそ相応しい、ということか」

 今回の戦争に先立って発信された宣戦布告において、バハルス帝国側の同盟者として記された稀代の魔法詠唱者の存在は、此度のリ・エスティーゼ王国軍が狙う第一の戦功であり、戦場においては“最上の標的”となるのだろう。

 獲物を睨み据える猛禽類の眼差しとなったバルブロが、馬上で大きく息を吸い込む様子が見えた。

 指揮官の意図を察したように、前面の王国兵たちが緊張した面持ちで武器を構え直す。

「――全軍、褒美は思いのままだ! 奴を……アインズ・ウール・ゴウンを討ち取れ!」

 バルブロの大喝が冬景色の草原に響き渡り、左右の騎馬部隊が先を争うように駆け出してくる。

 

「……やれやれ、何も理解していないじゃないか」

 心底と呆れたような軽い口調が、傍観者となっていたユンゲの耳朶を打った。

 視界の端から土煙の迫る中、些かも動じる気配のない魔法詠唱者の後ろ姿から、ユンゲは目を離すことができない。

「――これでも、忙しい身なのでね。あまり時間をかけるつもりはないよ」

 誰にともない言葉とともに、無骨なガントレットに包まれた腕が振るわれ、宙空へと濃縮された暗闇が生み出された。

 アインズの陰影から滲み出てくるような黒い靄は、強く吹きつける風にも散らされることなく、這うように大地を覆いながら広がっていく。

 不意に、黒々とした闇の中で蠢めく気配――先ほどの交戦で、ユンゲの殺めてしまった王国兵たちの遺骸が、不可視の糸で操られるように、無理矢理と立ち上がる様子が視界の端に飛び込んでくる。

 物言わぬ亡者の人影は、暗闇の中で瞬く間に歪で大柄な人型へと膨れ上がり、巨躯を誇る“死霊の騎士”へと姿を変える。

 見上げるほどの背丈に、巨大なタワーシールドと長大なフランベルジェを構えた異形のアンデッド。

 不気味な兜から突き出した悪魔の角に、真紅の紋様が浮き出た血管のように這い回る全身鎧は、底冷えするほどに禍々しい。

 落ち窪んだ眼窩の奥に宿る赤い灯火に、生者への憎しみと殺戮への期待が、荒れ狂う咆哮となって色褪せた丘陵に迸る。

「――っ、こいつは……死の騎士〈デス・ナイト〉なの、か?」

 突如として出現した強烈なアンデッドの存在を間近にして、思わず後退ったユンゲの背筋を冷たい汗が伝わっていく。

 転移前のユグドラシルにおける朧げな記憶が、目前で巨剣を振り上げる騎士の名を思い起こさせたものの、この世界では一度も話題を耳にしたことのないほどには、強力なアンデッドのはずだった。

 こぼれた疑問の声を肯定するように、少しだけ顎を引いてみせたアインズが、黄金に輝く七蛇の錫杖を掲げながら重々しく口を開いた。

「――我が前の敵を一掃せよ」

 厳かに言い含めるような言葉に、喚び出された都合“十二体”ものデス・ナイトが、肌の粟立つような猛りの雄叫びとともに駆け出していく。

 襤褸切れのような外套を翻しながら、王国兵へと挑みかかる異形の背を見送り、ユンゲは小さな溜め息とともに頭上を仰ぎ見た。

 そうして、綿飴のような白雲が揺蕩い、目に沁みるほどの群青の広がる牧歌的な晴空の下――、完璧な敗戦を悟ったバルブロ率いる王国軍が、逃散するように撤退を決めるまでに、それほどの長い時間は必要とならなかった。

 

「……さて、皆には済まないが、私はここで失礼させてもらうよ。村の設備の修復については、後ほど手の者を寄越すとしよう」

 落ち着き払った声音が響き渡ったなら、先ほどから感謝の念を伝え続けていた村人たちが、一層と平伏するように頭を下げていた。

 数千もの王国軍という脅威を呆気なく取り払ってみせたアインズは、些かも驕ることなくカルネ村の男たちと言葉を交わして奮戦を労い、復旧の手立てまでも取り決めると、既に自身が担う役回りはないと言わんばかりにあっさりと踵を返した。

「……もう、戻られるのですか?」

 慌てた様子の村人たちを代弁するように、ユンゲは言葉を選びながら質問を投げかける。

「そうですね、カッツェ平野で待たせている相手もいますので……」

 首だけで振り返った顔には、泣いているようにも笑っているようにも見える不思議な装飾の仮面。

 微かな違和感に首を傾げながらも、この情勢下において“カッツェ平野”という単語を耳にしたのなら、ユンゲにも察することがある。

 王国と帝国間における開戦が迫る現状で、旗頭であるアインズが戦場に不在となれば、色々と不都合も生まれてしまうことは想像に難くなかった。

 あまり時間をかけられない、と告げていた先ほどの言葉は、実際のところだったのだろう。

「……申し訳ありませんが、この場は貴方にお任せいたします」

 こちらへと向き直ったアインズの軽い会釈とともに、手にした黄金の錫杖が振るわれたのなら、目の前にいるはずの気配が霧や霞のように薄れていく。

「――ご助力、ありがとうございました」

 これだけは伝えて置かなければと感謝の思いを口にし、ユンゲもまた素直に頭を下げた。

 後先も考えずにバルブロと対峙していた状況では、傷付いた村人たちを庇いながら単身で王国軍を退けることは、能力以上に精神的な側面からも難しかっただろう。

 縋るようにバスタードソードの柄頭を触れている指先は、今もなお灼熱するような痛みを訴えて止まない。

 そうした負担を一身に背負わせてしまったという罪悪感が、続けなければいけないユンゲの言葉を躊躇わせる。

 しかし、こちらの逡巡を見透かすように軽く肩を竦めてみせたアインズは、一切の気負いもない朗らかな口調で語りかけてくれた。

「近々、またお会いする機会もあるでしょう。……楽しみにしていますよ、ユンゲ・ブレッター殿」

 アゼルリシア山脈から吹き下ろす冷たい風が、闇色の豪奢なローブをはためかせ、血気に逸っていた戦いの熱を奪い去ろうとするように、彼方へと駆け抜けていく。

 やがて、ようやくとユンゲが顔を持ち上げたときには、ただ広い草原の中に“奇妙な仮面の英雄”の姿は、どこにも見られなくなっていた。

 

 *

 

「――っ、本当に……ありがとうございました」

 小さな男の子を胸に抱き締めながら、目尻に涙を浮かべた壮年の男が声を絞り出すようにして、何度も頭を下げていた。

「え、えぇ……もう大丈夫ですから、どうか頭を上げてください」

 なおも頭を下げようとする男性を慌てて押し止めつつ、ユンゲは表情を引き締めるようにして静かに言葉を続けた。

「――貴方の息子さんから勇気を頂かなければ、俺は戦場に立てませんでした」

 父親を助けて欲しい、と必死に訴える少年の姿がなかったのなら、こうして親と子が涙の再会を果たした、この瞬間が訪れることもなかっただろう。

 散々と泣き腫らし、今は疲れたように眠っている“小さな英雄”に目を落とす。

 父親の腕に抱かれて、すっかりと安心したように微笑む寝顔を見遣れば、ユンゲの口許は自然と綻んでしまう。

「――春先の事件では、妻を守ることができず……私には、もうこの子だけだったんです。貴方がいらっしゃらなければ、危うく亡き妻に顔向けができなくなってしまうところでした。ですから、本当にどれだけの感謝をしても足りません」

 そう感極まったように言い切り、柔らかな笑みを浮かべてくれた男の目許は、少年の目許にとても良く似ていた。

 圧倒的な戦力を有する王国軍を前にして、傍目にも無謀な作戦であると理解をしていたはずの村の男たちが、それでも果敢に立ち向かうことのできた背景には、そうした家族の絆を想う強さがあったからこそなのだろう。

「……それは何よりでした。お父さんもお疲れでしょうから、今はゆっくりと休んでください」

 重ねて頭を下げる父親に軽く手を振って別れを告げ、ユンゲは静かに視線を巡らせた。

 そこ彼処に凄惨な戦いの爪痕が残る中に映る、お互いの無事を確かめ合い、笑顔で言葉を交わす村人たちの姿に、去来する小さな胸の疼き。

 

「――お疲れ様でした、ユンゲさん」

 不意に、背後から呼びかけてきた涼やかな声音。

 反射的に振り返り――、気付いたときには強く抱き締めていた。

 華奢な背を回り、白く透き通る頬にまで触れた指先から、滾り続けていた熱が引いていく。

「えっ、あ……あの――っ」

 戸惑うマリーの声音に、一層と力を込めて小柄な身体を抱き寄せる。

 峻険なアゼルリシア山脈の真っ白な積雪が、夕焼けに染まりながら目を楽しませてくれるように、長く尖った耳の先までも色を変えていく様子が、どこか可笑しくも愛おしい。

「……何とか、約束は守れたよ」

 カラカラに渇いたユンゲの喉が、生唾を飲み込むのに合わせて、ようやくと安堵を口にするのが精一杯だった。

「――はい、とても格好良かったです」

 そんな飾りのないマリーからの称賛の言葉に、思わず頬が緩んでしまう。

 気恥ずかしさにユンゲが顔を上げると、駆け寄ってくる二つの人影。

「お疲れーっ!」

 勢いのままに飛び込んできたキーファを慌てて片腕で受け止めたユンゲは、褒めてくれとばかりに向けられる上目遣いに、僅かな苦笑いを浮かべながら栗色の髪を柔らかく撫でつける。

「ありがとな、キーファ。――リンダにも迷惑をかけたな、助かったよ」

「いえ、何の問題もありません。……お疲れ様でした、ユンゲ殿」

 少し遠巻きから肩を竦めるようにしていたリンダと労いの視線を交わし、お互いの握り拳を軽く打ち合わせたのなら、鈍痛とともに燻っていた心の重石が、少しだけ軽くなったような気がした。

 胸が締めつけられる戦いの最中――、痛いほどに強く吹き下ろしていた風はいつしか様子を変え、どこか穏やかな音色の調べとなって、葉を落としたトブの大森林の梢を揺らしながら渡っていく。

 

 *

 

「――この辺りで良いかな?」

「えぇ、問題ありません。本当にお手間を取らせてしまい……」

 申し訳なさそうに頭を下げた老年の村人に、「別に気にしないでください」と軽く言い差したユンゲは、伐採後に簡単な枝払いを済ませた丸木を肩から下ろして、ようやっと息を吐いた。

 戦士職としての膂力を発揮したのなら、それほどの苦労でもないのだが、やはり見上げるほどに高かった大木を担ぐことには、若干の疲労を感じてしまう。

「……ふぅ、流石に重かったな」

「は、はぁ……お疲れ様でした」

 こちらの何気ないぼやきに、思わずといった苦笑いを浮かべるカイジャリが、抱えていた枝の束を冬を凌ぐための薪柴の置き場へと積み上げながら、器用に肩を竦めていた。

 エンリを慕っている屈強なゴブリンたちであっても、数人掛かりでないとできないほどの力仕事が、ユンゲなら単身で担えてしまうのだから、呆れるような気持ちは分からない訳でもない。

 転移前の世界での常識に照らしたのなら、確実に重機を必要とする場面なので、正しく“人外”の怪力といったところか。

 そうした取り止めのない思考を巡らせながら、ユンゲはぼんやりとカルネ村の外周に目を向けた。

 突然の王国軍による襲撃から既に二日余り――、破城槌や火矢によって破損してしまった塀や門の補修作業は急務となっている。

 幸いにして、建材となる大木の類いは、村の裏手に広がるトブの大森林から調達できるものの、深刻な人手不足が難題となった。

 最終的に王国軍を追い払うことができたのは、僥倖に違いないのだが――、

(……俺が、もっと早くに決断していればな)

 妻子を救うために決死の戦いを挑んだ男たちの中には、残念ながら少なくない犠牲者が出てしまったのも現実だった。

 再会を喜び合う家族が見せた笑顔の裏で、悲嘆に暮れるしかない者たちの泣く姿もまた、ユンゲの脳裡に強く焼きついている。

 物哀しい葬儀を見届けてから“翠の旋風”の仲間たちと相談し、カルネ村の復興に協力を申し出たのは、何も善意からばかりではなかった。

 リ・エスティーゼ王国と敵対してしまった事実から、今後の身の振り方を考える時間が必要だったこと以上に、自らの手で人を殺めてしまったことへの罪悪感から逃れたいという、心の弱さを覆い隠してくれるような“建前”が欲しかったのだ。

「――じゃあ、後はお願いしますね」

「はい、ありがとうございます」

 木材の細かな加工を受け持ってくれる、村の若い男に残りの作業を任せて、静かに踵を返す。

 樹々を切り倒したり運ぶことに支障はないが、塀や門を組み立てるための職業〈クラス〉や技術〈スキル〉を持ち合わせていないユンゲなので、参加できる役回りは専ら単純な力仕事に限られている。

 それでも、身体を動かしている間だけは、余計なことを考えずに済むのが救いだった。

「……さぁ、頑張りますか!」

 殊更に大きな声を出して、無理矢理に気持ちを切り換えたユンゲは、凝った肩を解すように回しながら歩いていく。

 

 そうして、トブ大森林とカルネ村の間を何度か往復するうちに、いつしか周囲はすっかりと茜色に染まっていた。

 藍色の夜の帳も迫る低い東の空には、既に瞬くような星たちの輝きが見え始めている。

「ユンゲ、夕飯の準備ができたよー!」

 不意に、裏手の門から顔を覗かせたキーファが、満面の笑みを浮かべながら呼びかけてくれる。

 軽く手を掲げることで応じたユンゲは、一度だけ頭上を振り仰いでから、「今、いくよ」と静かに笑い返すのだった。

 

 




ユンゲや村人たちの前では追い払われるだけでしたが、この後で原作通りにバルブロの部隊は全滅となっています。
次話に予定する(Side-M)で、最期のバルブロ視点でも書こうかな、とも思っていましたが、流石に悪趣味な気がしたので止めることにしました。

或いは、この物語の何年後かに、成長した名もなき少年が“英雄”に憧れて、冒険者組合の門扉を叩く――そんなサイドストーリーがあっても面白いかな、と思いました。


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(Side-M)光芒

ヘタレな主人公が、前に進むための爆発しろ回。

不快に感じてしまう方もいらっしゃるかも知れませんので、ご注意ください。
表現的には、R-17.5くらいのはず……問題があるようでしたら修正します。


 風の吹かない、静かな夜更けだった。

 灯りを落としてもらった一室には、窓辺からの淡い月の光が差し込むばかりで、茫洋とした二つの人影だけが揺れている。

「……本当に、大丈夫なのか?」

 問いかけるユンゲの声音は、胸の内を温かくしてくれる気遣いに溢れていた。

「――はい、構いません」

 小さく顎を引いて答えたのなら、途端にマリーの鼓動は早鐘のように鳴り始めてしまう。

 何気なく口許に浮かんだ笑みは、抱いている不安の裏返しだったのかも知れない。

「……お願いしたのは、こちらからですよ」

 増々と高まっていく心音は、相手にも聞こえてしまいそうなほどに大きい。

 内心の焦りを取り繕うように言葉を続けながら、マリーは肩口の結び目に手をかけた。

 そうして、躊躇いを覚えてしまう前に纏っていた薄絹の衣を軽く払い、さらりとした月夜の下に白い裸身を晒す。

 小さく息を呑んだ気配は、果たしてどちらのものだったのか――。

 胸元を隠そうと無意識のうちに伸びかけていた手の動きを制し、マリーは自らを宥めるように心の内で叱咤の声を呼びかけた。

 ゆっくりと息を吐きながら身体の後ろへと腕を回して、動かせないようにしっかりと両手を組んでしまう。

 肌を刺すほどに冷たいはずの夜気が、少しも気にならなかった。

 身体の内側から火照っていく熱に当てられ、ぎゅっと握り締めた手の中まで、じわじわと汗ばんでしまっているようだ。

 こちらを真っすぐに見つめてくれる澄んだ青の眼差しに、心臓の音がはっきりと自覚できてしまうほどに大きく鳴り響いていく。

「……い、いかがでしょうか?」

 ふと、そんな訊くつもりもなかったはずの問いかけが、マリーの口を吐いてこぼれていた。

「あっ、いえ……違うんです」

 思わずと伏せた視線の先に、肉付きの薄く頼りない肢体。同じ年暦に生まれたはずのキーファと比較しても、色々と足りていない自らの身体を改めて見下ろしてしまったのなら、恥じらいとともに後悔の思いばかりが胸に去来する。

「――えっと、マリーはとても綺麗だと思う。俺には勿体ないくらい、本当に魅力的だよ」

 少しだけ慌てたような……それでも、いつもと変わらない穏やかなユンゲの口調。

 お世辞だと分かっていても堪らなく嬉しいと感じてしまうのだから、もう想いを止められない。

 そろそろと顔を上げたのなら、少しだけ気恥ずかしそうな笑みが迎えてくれる。

 ――あの日から、何度となく見上げてきた優しく包み込んでくれるような温かい笑顔に、こちらの両頬まで緩んでしまうのが分かってしまう。

 限りない勇気をもらった気持ちで、マリーは一つ小さく頷いてから一歩を踏み出す。

 そうして、簡素なベッドの縁に腰かけるユンゲの正面へと歩み寄った。

「……あ、ありがとうございます」

 はにかみながらも感謝の言葉を口にできたマリーは、ようやっとユンゲの手を取って自ら胸元に導いていく。

 日頃から剣を握っているはずなのに、少しもしなやかさを失わない指先が、小さな乳房を覆うように添えられ――、

「――あっ」

「わ、悪い…痛かったか?」

 さっと離れてしまった熱を呼び戻すようにかぶりを振り、小さく肩を竦めてみせたマリーは、「ちょっと、びっくりしてしまっただけです」と戯けるように口許を綻ばせた。

 もう一度、引き寄せた大きな手を胸に強く抱き締めながら、マリーは静かに瞳を閉じ、そっと寄せるように厚い胸板へと身体を撓垂れかける。

「私は、ユンゲさんが大好きですから……」

 小さく呟いた言葉に、「……俺もだ」と確かな頷きを返してくれたことが胸に詰まる。

 どちらからともなく互いの口唇を重ね合い、鼓動が等しくなるような瞬間――、抑えていたはずの感情が堰を切って溢れ出してしまうように、僅かな涙がマリーの目許に滲んだ。

 背中から優しく腰へと回された、もう一方の逞しい腕からもたらされる温もりが、堪らない想いとなって身体中に沁み込んでいくような気がした。

 

 辛いばかりの記憶が雪解けるように、嬉しさに震えながら肌を重ねるのは、初めての経験だった。

 故郷“エイヴァーシャー大森林”での戦争に駆り出され、敗れて虜囚の身となってからの日々は、苛酷に過ぎていた。

 固く嵌められた枷を恨むことすら忘れるほどに心身とも追い詰められ、あのときは“生きながらに死んでいた”のだと今にして思う。

 そうした暗闇の中での生活が、文字通りに一変したのは、バハルス帝国の帝都〈アーウィンタール〉における大闘技場での一幕だった。

 どこまでも分厚く閉ざされていた暗い鉛色の雲間から、一筋の希望の光が差し込んだ。

 あの日に起こった出来事は、マリーの理解や想像が及ぶ範疇を遥かに超えてしまう泡沫の夢や幻にも同義だったのかも知れない。

 森妖精〈エルフ〉の尊厳とともに切り取られた耳が治癒し、ざんばらに刈られてしまった髪にも艶が戻り、微かな湿りと閉じた秘裂の奥――好意を寄せる相手に、喪ってしまったはずの初めてを捧げられる瞬間が訪れるなんて、信じられないような幸運が自らの身に舞い込んだことは、本当に奇跡としか思えてならない。

 どれだけ毎夜のように繰り返されても、決して慣れることのなかったはずの行為にも、思わずこぼれてしまった苦鳴にさえ、柔らかく後ろ髪を撫でてくれる手の温かさが愛おしいと思えるのは、どこか不思議な感覚ですらあった。

 ――だから、この頬を伝っていく涙を決して拭いたくないとマリーは思う。

「……痛むなら、少し休もうか?」

 そんな気遣いの問いかけに小さくかぶりを振り、「……続けて、欲しいです」と一層に強く抱きつきながら声を絞る。

 身体の奥底に疼くような痛みは、それ以上に慈しむような優しさをマリーに懐かせる胸を焦がすほどに熱い感情の交換だった。

 

 それでも、ふと上目遣いに仰いだ横顔に垣間見えてしまったのは、隠し切れない苦悩の表情――本当に気を遣わなければいけないのは、こちらの方なのだとマリーは想いを更に強くする。

 窮状に陥っていたカルネ村の人々を守るため、攻め寄せるリ・エスティーゼ王国の軍勢に立ち向かった心優しい半森妖精〈ハーフエルフ〉の青年は、今このときにも他者の生命を奪ってしまったという、罪の意識に苛まれ続けているのだろう。

 その大きくも繊細な背中に、後押しとなる言葉を投げかけたのは、他ならないマリー自身だ。

 いつもは呆れてしまうほどに多くの料理を平らげるはずのユンゲが、村人の好意で準備してもらった精一杯の持てなしまでも避けるように、早々と借り受けた部屋へと戻っていった。

 そうした悲壮な雰囲気の滲んだ後ろ姿を見遣ったのなら、疲れていたのだろうなどと簡単に片付けてしまうことはできない。

 同じく困り顔となったキーファとリンダに頼み込んで、その場を辞させてもらったマリーとしては、二人の心配りに報いるためにも、ユンゲの気持ちを繋ぎ留めたい一心だった。

 凍てつくような闇の中に、ただ一つの朧月だけが冴え冴えと浮かび、鳴虫の音色さえも絶えてしまった静かな冷たい冬の夜だ。

 せめて、今こうしていられる僅かな瞬間だけであっても、悔恨や葛藤を抱くことから逃れられたのならと――或いは、その心の責め苦を少しでも軽くして、ともに背負うことができるようにと心の内に祈りを捧げながら、マリーは自らの全てを委ねるようにして、熱い身体を静かに重ねていくのだった。

 

 *

 

「――はっ!? お、俺は何を……」

 思わずとこぼれた呟きに自ら驚き、アインズは私室の椅子から立ち上がった。

 起動していた遠隔視の鏡〈ミラー・オブ・リモート・ビューイング〉の映像を反射的に閉ざし、その場に平伏する勢いで頭を下げる。

「ごめんなさい、ごめんなさい! ――そんなつもりはなかったんです!」

 届くはずもない謝罪と言い訳の台詞を口にしながら、何度も頭を下げ続ければ――不意に、冷や水を浴びせられたようにして、アインズの思考は落ち着きを取り戻した。

(……精神抑制が働いたのか)

 現在の時刻は既に夜半を回っているので、“アインズ当番”の一般メイドも退がらせていたのは幸いだった、と秘かに胸を撫で下ろす。

 超位魔法〈イア・シュブニグラス/黒き豊穣への貢〉によって、五匹もの仔山羊を召喚できたことに気を良くして、カッツェ平野での決戦を後にしたアインズは、どこか浮ついた気持ちで遠隔視の鏡に手を伸ばしていた。

 王国との決戦に先駆けて起こったカルネ村での戦いにおいて、共闘する形となった“もう一人のプレイヤー”であるユンゲ・ブレッターが、どのように過ごしているのかと何の気なしに考えてしまったのだ。

 ――或いは、ユグドラシルのプレイヤーが誰も成し遂げたことのない“最大級の成果”を自慢したいような、そんな子ども染みた思いが生まれていたのかも知れない。

(なのに……まさか、あんな場面を覗いてしまうなんて――)

 これまでも時間の空いたときに監視を続けていたことなどは棚に上げつつも、知人の情事を覗き見てしまったことへの罪悪感ばかりが押し寄せてくる。

 人間という種族に対するアインズの内に残る感覚は、既に同族意識を持てないほどの矮小な存在になってしまっていたのだが――、一方で同じく“ユグドラシル”を知っているであろうプレイヤーに対する関心は強くあり続けてもいる。

 アインズと同じ時期に、この異世界への転移を経験したであろうユンゲは、エモット姉妹やバレアレ家の者たちを始めとした、ナザリックと友好関係にあるカルネ村を守るために尽力してくれていた。

 シャルティアを洗脳した一件への関与が確認されていない現状において、ナザリックに害をなさない限りは、無闇に他のプレイヤーと敵対するつもりはない、という当初の方針にも変更はない。

(まぁ、仮に敵対したとしても、ナザリックの脅威にはならないよな。……慢心は禁物だけど、そのときは蘇生実験にでも使えば良いし――)

 打算的な考え方の裏に狂気を潜ませながら、それでもアインズの内面に燻るような鈴木悟の残滓は、友人たちと過ごした在りし日の楽しかった記憶を探し求め続けてしまっていた。

 疲れを知らない不死者〈アンデッド〉の身体で溜め息をこぼし、やれやれとばかりに大きく肩を竦めてみせる。

 そうして、何もない宙空に手をかざしたアインズは、無言のうちにアイテムボックスを開いて、慣れた動作でいくつかの包みを取り出していく。

 マローンと呼ばれる大きな葉に包まれた焼き菓子――エルフの携行食として知られる“レンバス”は、未知の遺跡調査の護衛という名目の依頼で、同行の冒険者としてナザリックの地上部を訪れた際に、ユンゲから手渡されたものだった。

 その後、帝都に帰還してからも近接戦の訓練を兼ねて何度か手合わせする機会があったのだが、その度に好意を無碍にすることもできないままに受け取ってしまったものは、合わせると既に十余り――。

 飲食のできない身体ではあったものの、礼儀としての感謝を伝えて以来、「モモンさんに喜んでいただけるのなら、と意気込んでしまいまして……」と恐縮するユンゲの傍らには、いつも屈託のない笑顔を浮かべる可愛らしいエルフの少女たちがいた。

 不意に、アインズの脳裡を過ぎる白い裸身。

 小振りでも張りのある瑞々しい乳房に、細い腰周りへと続く下腹部の滑らかな曲線は、小柄ながらも将来性の高さに期待を抱かせてやまない。

 何よりも、思慕の高まりを孕むかのように首筋から胸元にかけて淡い桜色へと染まっていく艶やかな肌の張りは、そうした機能を失ってしまったはずのアインズをしても魅力的に過ぎていた。

 遠隔視の鏡を通して眺める淡い闇の中――室内灯が落とされ、僅かな月明かりばかりが差し込む悪条件の下にあっても、アンデッドの有する残酷な視野特性は、その羨むような情景を一層と克明に捉えてしまったのだ。

 失って久しいはずの心臓が、一つ小さく鼓動を刻むように跳ねた気がした。

「うわぁああああー、ごめんなさい!」

 懺悔の叫びとともに、レンバスを払い除けた私室の机を目掛けて、頭部を強く打ちつける。

(……あぁ、<上位物理無効化>が働いているのだから、ダメージはないのか)

 急速に鎮静化された感情の変化に微かな心の疲労を覚えながらも、アインズは無理矢理に頭の中を仕事方面へと切り替える。

 

 ナザリックの支配者たるアインズの為すべき職務を考えたのなら、第一に今回の戦争における同盟相手のバハルス帝国へと赴き、皇帝ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスに戦勝報告をすることだろう。

 その際には、国家を挙げての凱旋式を執り行う予定となっているので、儀礼用の衣装を選ばんとする一般メイドたちが、やたらと張り切っていたことを思い出す。

 アインズの感覚としては、今も身につけている神器級のローブで問題はないように思えるのだが、そうした単純なものではないらしい。

(……まぁ、一生懸命に選んでくれるなら、無碍にすることもないよな)

 ナザリックの支配者であるアインズをより相応しく着飾るために、真剣な表情で議論を交わしていたメイドたちの様子を思えば、どこか親心にも似た温かい気持ちが溢れてくる。

 存在しない口許を綻ばせるようにしながら、ぼんやりと室内に視線を向ける。

(……後は、リ・エスティーゼ王国からエ・ランテル近郊の割譲を受けて、魔導国の建国を宣言すれば大丈夫だよな)

 それぞれの領地の境界線や緩衝地帯の取り決めといった細部の調整については、王国側の協力者である“黄金の姫”、第三王女のラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフとデミウルゴスが、持ち前の知謀で詰めてくれているために心配はないだろう。

 実際のエ・ランテル統治についても、端倪すべからざる偉大な御方“アインズ・ウール・ゴウン”という傑物の差配により、この世界に転移した当初から進められていたらしい、冒険者モモンを“英雄化”する計画が存分に活用できるということなので、全てを任せてしまえば万事問題はないはずだった。

 ――などと軽い現実逃避に浸りつつ、今回の襲撃で少なくない被害を受けてしまったカルネ村への支援を検討する必要があるな、とアインズは悩ましい思考を振り絞る。

 先に呼び出したときの叱責が効いたのか、ユンゲたち“翠の旋風”の来訪や王国軍の接近といった事態の推移に合わせて、適宜しっかりとした“報連相”を心掛けていたルプスレギナの振る舞いを思い返したのなら、NPCたちも設定を超えて日々成長しているということなのだろう。

 転移した直後から、現状のような未来図をアインズに予測できたはずもないのだが、既にお馴染みとなってしまったデミウルゴスやアルベドたち“ナザリックの知恵者”による深読みに起因する、分不相応な過大評価や綿密な献策を覆すことはできない。

 計画通りに魔導国が成立したのなら、今後はナザリックの面々ばかりでなく、大勢の国民たちの前においても、支配者としての振る舞いが求められることには億劫な思いを感じてしまうものの、気分が乗らないからと自身の役回りを放棄する真似は決して許されないのだ。

(――せめて、友人であるジルクニフの前でなら、少しぐらい気楽に過ごしてみたい気持ちもあるんだけどな……)

 相手からの提案もあり、個人的な友誼を結んだ間柄ではあっても、お互いに国家を預かる身となってしまったのなら、軽々しく交流することは難しいようにも思えてしまう。

 もう一度、わざとらしい溜め息をこぼしてみせながら、アインズはやおらと天井を仰ぎ見た。

 ユグドラシルでの輝かしい日々が、もう戻ることはないのかも知れないと頭では理解していても、やはり失われた過去を憧憬するような思いだけは、どうしても拭い去ることができなかった。

「……こんなんじゃ、駄目か」

 自身に言い含めるように敢えて口にしながら、アインズは小さくかぶりを振って考えを巡らせる。

 カッツェ平野での決戦において、歴史に残るほどの大敗を喫した王国は、戦死した貴族たちの後継ぎや派閥を始めとする内輪の情勢に収拾をつけるだけでも、大きな課題を抱えたことになる。

 デミウルゴスの言葉を借りるのなら、エ・ランテル近郊の割譲が完了するのは、春頃になるという見通しになっているので、アインズが息抜きのために生み出した“モモン”というアバターが、“一介の冒険者”として存在できるのは、この冬が最後となってしまうのだろうか。

(未知の世界を切り開くとか……、本来の“冒険者らしい”ことは、全然できてなかったなぁ)

 そうした取り止めのない考えに思いを馳せながら――どこかに愚痴や弱音を吐き出せるような相手はいないものかと――アインズが過ごす物寂しい独りの夜は、静かに更けていくのだった。

 

 




“アインズ様の罪悪感ポイント1”を手に入れた。

これにより、ユンゲたちがアインズ様に何か不都合なことをしてしまっても、一度だけなら見逃してもらえる……かも知れません。


-余談-
オバマスでの設定ですが、“漆黒の剣”ニニャの本名が明かされましたね。この物語では登場させられないと思いますが、二次創作的にはかなり嬉しい情報になりそうです……ということで、チラ裏に“漆黒の剣”の短編を投稿させていただきました。
お暇なときに読んでいただけると私が喜びます。

『オーバーロード 駆け出しの冒険者』
 → https://syosetu.org/novel/311743/


-追記-
先の展開を練り直したくなり、今話以降の投稿分を削除させていただきました。少し時間がかかってしまうかも知れませんが、気長にお待ちいただけたのなら幸いです。
 → 遅くなりましたが、投稿を再開します。


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scene.7 新たなる秩序
(43)黎明


−これまでのお話−
エ・ランテルに帰還したユンゲたち“翠の旋風”は、調査依頼を受けて辺境のカルネ村へと赴いた。
以前に顔見知りとなった“村娘”エンリとの再会を喜ぶ最中、突如として攻め寄せてきた“第一王子”バルブロ率いる王国軍に対峙したユンゲは、葛藤を抱きながらも村人を守るために剣を手にする。
仮面の男“アインズ・ウール・ゴウン”の助力により、辛くも危機を脱したカルネ村ではあったが、その代償は決して見過ごせるものではなかった。


 朝の目覚めは、どこか遠くに鳴り響いている鳥の囀りだった。

 窓辺から差し込んでくる陽射しが妙に眩しく感じられ、ユンゲは寝惚け眼を擦りながら煩わしい思いで顔を背ける。

 のそのそと寝返りを打った拍子に、毛布の隙間から悪戯な冷気が忍び込んできた。

 震えるように小さく身動ぎをしつつ、温もりの余韻を求めて彷徨った腕が、何も抱き寄せられないままに虚しく空を切る。

「……もう朝、か」

 ぼんやりとした微睡みの思考の中で、意味のない言葉が呟かれ、小さな苦笑いが口許に浮かんだ。

 緩慢な動きで上半身を起こしたユンゲは、こぼれそうになる欠伸を堪えながら、大きく背筋を伸ばしてみる。

 諸々の様子に気付かない振りをして、このまま倒れ込んで二度寝に耽ってしまいたい誘惑――抗い難い魅力を覚えていても、のんびりとばかりはしていられないだろう。

 寝癖のついた髪を掻き撫でつつ、何気なく視線を向けたのなら、窓枠越しに広がる長閑な開拓村の風景には、既に忙しなく働き始めている村人たちの姿が見受けられた。

 城塞都市〈エ・ランテル〉のような市街部で暮らす人々とは異なり、農耕や狩猟を主な生業として生きる人々の暮らしは、いつでも太陽の光とともにあるらしい。

 東の空が明るみ始める頃には、ほとんどの村人たちが起き出しており、朝の水汲みや簡単な食事を済ませると、早々に仕事へと精を出していく。

 今朝のように吐息も白くなる冬の季節は、本来であれば休耕期になるという話なのだが、現在の村を取り巻く情勢が逼迫しているために、暖かい春を待ち侘びながら漫然と過ごす余裕はないのだろう。

 リ・エスティーゼ王国の辺境に位置する小さな開拓村――カルネ村は、春先に起きた痛ましい襲撃事件によって多くの働き手を失ったばかりでなく、つい先日には味方であるはずの王国軍にまで、突如として攻め寄せられる事態に見舞われていた。

 傲慢な“第一王子”バルブロ・アンドレアン・イエルド・ライル・ヴァイセルフに率いられた五千もの軍勢による被害の爪痕は、村の周囲に設けられた塀や正面門の破損に色濃く残っている。

 更に痛ましいことに、故郷や家族を守ろうと立ち上がった村の男たちの中には、決して少なくない犠牲者が出てしまってもいた。

「…………っ、やり切れないよなぁ」

 心の内で燻る思いの矛先を持て余すように、ユンゲは足取りの重いままに窓辺へと歩み寄っていく。

 口を吐きそうになる溜め息を堪えながら、やおらに見上げる高い塀の向こう――、良く晴れた空は鮮やかな向日葵色に染まり、朝の訪れを告げる真っ赤な太陽は、地上での出来事などは素知らぬ顔で、目映いほどに燃え立っている。

 遠景に連なって見えるアゼルリシア山脈は、その頂きに今朝も真っ白な雪の冠を抱いて聳えながら、これからも悠久の刻を見守り続けるのだろうか。

 忸怩たる暗い気持ちを抱きながらも、深刻な大気汚染に侵された“転移前の世界”では、どれほどの大金を積んだとしも拝むことのできない光景を眺める内に、自身の頬が意図しないままに緩んでいくのが分かった。

 そうして、ふと麗らかな陽の光に当てられたユンゲは、何の気なしに朝露の伝う窓枠を押し開けてしまう。

 途端に流れ込んでくるのは、身も凍える隙間風。

「――って、寒っ!」

 突然の肌を刺すような感覚に慌てて窓を閉め直しつつ、もう一度ぶるりと肩を震わせる。考えなしだった浅はかな自分の行動に、自嘲めいた笑みを浮かべることしかできない。

 堪えていたはずの溜め息が口からこぼれ落ち、ユンゲは思わず頭からベッドに倒れ込む。

 細い縄で縛った干し草の束を重ねて、薄い敷布を被せただけのベッドは、少しばかり固さを覚える簡素な作り。

 それでも、突っ伏すようにして投げだした身体は、柔らかな草木の薫りに包み込まれるように、不思議な心地良さをもたらしてくれる――と、不意にコンコンと扉を叩く軽い音が耳朶を打った。

「ユンゲさん、もう起きていらっしゃいますか?」

 やや遠慮がちな呼びかけに応じて、ユンゲは伏せていた顔を持ち上げ、扉の方へと視線を向ける。

 取り付けられた蝶番が小さく軋みを上げると、少しだけ開けられた扉の隙間から室内の様子を窺うように、可愛いらしい森妖精〈エルフ〉の少女の顔が覗いた。

 軽い驚きに見開かれた碧の澄んだ眼差しに、軽く手を振ってみせたユンゲは、腕の力で身体を反らすように起こしながら、おもむろにベッドの縁から這い出していく。

 都合、こちらを見下ろすような体勢となったマリーは、口許に手を当てなから柔らかな笑みを浮かべているのが見えた。

 仕方のない人だ、とばかりにやれやれと肩を竦めてみせる仕草に、何くれと世話を焼きたがるような気配を感じて、ユンゲは思わず口許を綻ばせる。

「……おはよう、マリー」

 のんびりと胡座を組みながら床に腰を下ろしたのなら、ユンゲの傍らに歩み寄りながら膝を折ったマリーが、視線の高さを合わせるように小さく屈み込んでくれる。

「おはようございます、ユンゲさん。――そろそろ朝食の用意ができそうですけど、すぐに食べられますか?」

 ちょこんと小首が傾げられた拍子に、今朝はまだ纏められていなかった髪の一房が、丸く膨らんだ白磁の頬へと垂れていた。

 パチパチと燃える熾火の音が耳に触れて、ふと鼻孔を魅惑する芳ばしい香り――、“朝食”という単語を耳にして早速と鳴り始めてしまう現金な腹の虫に、軽く呆れるような思いを抱きつつ、ユンゲは苦笑を堪えて口を開いた。

「ん、顔だけ洗ったら行くよ。――ありがとう」

 頬にかかる艶やかな金糸を梳くように指先で掬い上げれば、エルフの特徴的な長く尖った形の良い耳が露わになる。

「はいっ! では、お待ちしていますね」

 少しだけくすぐったそうにしながら、晴れやかな笑顔で頷いてくれたマリーが、立ち上がってくるりと踵を返していく。

 窓辺から差し込んだ陽光に照らされて煌めく黄金色の後ろ髪が、さらりと流れるように肩の辺りで揺れていた。

 

 汲み置きしていた水の冷たさに、すっかりと悴んでしまった両手を竈の残り火へとかざす。

 ちりちりとした熱の何とも言えない心地良さに当てられながら、強張りをほぐすように手を揉み合わせていたユンゲは、そそられる匂いにふと鼻をひくつかせた。

 首だけで振り返りつつ、待ち遠しい気持ちのままに視線を食卓の方へと巡らせれば、マリーの抱えるお手製のバスケットには焼きたてのパンがこんもりと盛られており、添えられたドライフルーツの彩りが目にも楽しい。

 こちらに気付いて可愛らしい笑顔を見せてくれる向こうには、温かな湯気を立ち昇らせている鉄鍋が見える。

 ごろっとした丸蕪とたっぷりの挽き肉が煮込まれる琥珀色のスープは、凍えるような寒さの朝にあって、何よりのご馳走に過ぎるだろう。

 食い気に逸るユンゲが身を乗り出すようにしたのなら、「……もうちょっとですからね」と軽く窘めるような優しい声音に迎えられてしまう。

 見つめた先には、冴えた銀髪が衆目を集めるだろう、すらりとした痩身の麗人。

 慣れた手つきでスープを取り分けてくれるリンダの口許には、まるで赤ん坊をあやすような笑みが浮かんでいた。

 流石に摘まみ食いはしないよ、と小さく肩を竦めてみせるユンゲではあったが、至れり尽くせりで食事の配膳までしてもらっている現状では、そうした扱いも甘んじて受け入れるべきなのかも知れない。

「――後は、最後の仕上げだけですね」

「そうそう、これで完成だよ」

 横合いからリンダの言葉を引き取ったキーファの手には、小振りな調理用のナイフと瓶詰めの真っ白なバター。

 仕上げ、という単語に軽い疑問符を浮かべたユンゲに応えて、キーファが得意気な笑みを返してみせると、後ろ手に括られる栗色の髪が今朝も楽しそうに弾んでいた。

 視線を誘うように差し込まれた器用なナイフの刃先が、欠片に切り取ったバターを温かな琥珀色のスープに浮かべていく。

 思わず頬が緩くなってしまうほどの熱に、とろりと形を崩しながら溶け込むバターの香りが、どこか甘い悪戯のようにユンゲの鼻孔をくすぐる。

 無意識の内に生唾を飲み込んでしまったユンゲの姿を目に止めて、面白そうに顔を見合わせたキーファとリンダが、小さく吹き出している気配を感じても全く気にはならなかった。

「おぉ、これは美味そうだな」

「……ふふっ、それでは食事にしましょうか」

 卓上を整え終えたマリーが、口許に軽く手を当てながら微笑みをくれる。

 まるっきり聞き分けのない子に接するような態度だったが、それも仕方のないことだろう。

 そうして、待ち切れない思いのままに席へと着いたユンゲは、「……では、いっただっきまーす!」と高らかに声を張り上げるのだった。

 

 *

 

「ふぅ……、食った食ったー!」

 すっかりと満たされた腹を叩いてみせながら、ユンゲは感嘆の声をもらした。

 これから力仕事が待っていることを思えば、いつにも増して食べ過ぎてしまった気もするが、それも今更だろう。

「――ていうか、朝なのに相変わらずの凄い食欲だよね」

 こちらの少し先を跳ねるように歩いていたキーファが振り返り、くすくすと笑いを堪えるように見上げてくる。

「あのスープ、自信作だったけど……朝だけで食べ切っちゃうとは思ってなかったよ」

 呆れとも驚きともつかないキーファの声音に軽く肩を竦めつつ、ユンゲは小柄な肩に手を置いて笑いかける。

「それだけ美味しかった、ってことだよ。ありがとな」

 毎食でも食べたいくらいだ、と素直な気持ちを口にしたのなら、気を良くしてくれた様子のキーファが、首許に巻きつけた若草色のロングマフラーを冷たい風に靡かせながら、「えっへん!」とわざとらしく胸を張ってみせた。

 吐いた息が瞬く間に凍ってしまうような冬空の下にあっても、彼女が持つ生来の元気印は少しも失われることがないらしい。

 野伏〈レンジャー〉としての働きを邪魔しないように、と普段から厚着を好まない性格のキーファなので、今朝の衣服も薄手のシャツに革製の短外套を羽織っているだけだ。

 切り詰めたジーンズパンツから健康的な素足を惜しげもなく晒らす身軽な姿は、目に眩しいながらも見ているだけで寒々しい。

 辛うじて防寒用と呼べるアイテムは、帰還前に帝都アーウィンタールの市場で買い求めたマフラーくらいだが――先ほどから吹きつけてくる風の冷たさに、思わず身体を強張らせてしまうユンゲの感覚からすれば――どれほどの役に立っているのかは疑わしいところだった。

 エ・ランテルからカルネ村までの道中、白雪に覆われたアゼルリシア山脈を遠くに眺めながら、「寒い場所は得意じゃない」と苦笑いをしていたマリーとは対照的な振る舞いだが、同じエルフという種族であっても、個人の感覚を一括りにできるものではないのだろう。

 そんな取り止めのない考えを浮かべつつも、溌剌としたキーファの笑みに当てられたユンゲの口許は、無意識の内に綻んでしまう。

「……ん、どうしたの?」

 不思議そうに見上げてくる野葡萄色の視線に、「いや、なんでもないよ」と小さくかぶりを振ってみせ、努めて軽い調子で言葉を重ねる。

「――たくさん食べた分は、しっかり働かないと……ってな」

 気持ちを切り替えるように巡らせた視線の先には、半ばまで焼け落ちてしまった物見櫓の残骸。

 方々に突き立ったままとなっている無数の矢と、一部の爛れたように黒々と染まる地面の色は、無慈悲な凶行による爪痕だった。

 本来であれば庇護者であるはずのリ・エスティーゼ王国から、一方的な裏切りを受けてしまったカルネ村の住人たちの落胆や徒労の大きさは、察して余りあるものではあったが――それでも、損傷の目立つ煤けた正面門の向こうには、急拵えながら既に木柵が設けられている。

 苛酷に過ぎる境遇へと追い込まれても、再び立ち上がろうと村の仲間たちに奮起を促すエンリやンフィーレアたちの姿を間近にしたのなら、ユンゲたち“翠の旋風”が復興に協力を申し出ない訳にはいかなかったのだ。

 

 底知れない実力を持つ、仮面の英雄“アインズ・ウール・ゴウン”の活躍によって王国軍を退け、辛くも窮地を脱することのできたカルネ村ではあったが、皆の頭を悩ませる課題は山積している。

 撤退する際にも激昂していたバルブロの様子を思い返せば、いつ報復のために軍隊を取って返してくるとも知れない危うい印象は拭えなかった。

 悲観的に状況を鑑みれば、大きく破損した正面門や囲塀の修復は急務であり、負傷した村人やゴブリンたちを治療するために在庫が尽きてしまった、ポーション類の補充も欠かせないだろう。

 エンリやンフィーレアと役回りを相談した結果、前者には材木の伐採や運搬などの力仕事要員としてユンゲが参加し、後者は薬草関係に明るい森祭司〈ドルイド〉のマリーと、前衛役にも長ける神官〈クレリック〉のリンダが受け持つことに決まっている。今頃の二人は、薬師であるンフィーレアの護衛を兼ねながら、冬季には貴重となる効能の高い薬草を求めて、一緒にトブの大森林を探し回ってくれているはずだ。

 そして、もう一つの無視できない村の問題として、春先の襲撃事件から尾を引く備蓄食糧の不足が挙げられる。

 多くの働き手を失っていたこともあり、ラール麦などの収穫が儘ならなかったカルネ村は、ただでさえ厳冬を凌ぐのには不安な事情を抱えていた。

 一朝一夕に農作物を実らせる魔法のような方法があるはずもなく、不足してしまうであろう諸々の物資を調達するためには、近隣の都市へと赴かなければならなかったのだが――、拠り所となるはずのエ・ランテルは、今や敵対関係にあるリ・エスティーゼ王家の直轄領という有り様なのだ。

 孤立無援な苦境へと立たされたカルネ村に、予定外の滞在となるユンゲたちの食い扶持を賄う余裕がないことは明白だった。

 大飯食らいに過ぎるハーフエルフの存在を考慮したのなら、尚更といったところか。

 一方で、ユンゲたちが荷馬車に積み込んできた食材は、もう数日の間には底を尽きてしまうだろう。

 そうした現状を踏まえれば、朝食時における自身の振る舞いは、決して褒められたものではないのものの――、

「まぁ、こっちの仕事は任せてよ。おっきな獲物を捕まえてくるからさ!」

 再び跳ねるように歩き始めたキーファが、背中の短弓に手をかけながら人懐っこい素振りのままに傍らへと並んでくれる。

 こちらの内心が見透かされているような反応に、小さく苦笑いを返しつつも嫌な気はしない。

 ちょっとした気恥ずかしさを咳払いで誤魔化し、ユンゲは軽い調子で言葉を投げかける。

「頼りにしてるよ。前に帝都で食べた猪肉の燻製とかは、かなり好みだったからな」

「おっけー、この森なら立派なイノシシも見つかると思うから狙ってみるね」

 事もなげに言い放ち、キーファが小さな握り拳を掲げてみせた。

 上目遣いに向けられるのは、何らかの意図を感じさせる野葡萄色の視線。

 眼前に突き出された拳とキーファの表情を交互に見遣り、ようやくとユンゲは意味合いを察する。

 少しだけ照れるような思いで拳を作って応じ、「あぁ、よろしく頼む」と互いの持ち上げた手を軽く打ち合わせれば、麗らかな陽だまりに大輪の花が咲いていった。

 屈託のない笑顔を見せてくれるキーファの様子に、そっと胸を撫で下ろしたユンゲは、余計な世話かと思いつつも言葉を重ねる。

「……危ないと感じたら、無理はしないでくれよ」

「大丈夫! ゴブリンさんたちと一緒だし、期待してて良いよ!」

 こちらの心配は杞憂だとばかりに意気込む元気な姿に破顔し、ユンゲは小さく肩を竦めてみせながら高い塀の向こうへと目を向けた。

 すっかりと枝葉を落とし、冬枯れの様相となったトブの大森林ではあるが、その豊かな恵みまで失われてしまったということではない。

 大型のシカやイノシシ、毛皮も重宝されるテンやアナウサギなど数多くの野生動物は今の季節にも棲息しているのだ。

 カルネ村の窮状を打開する食料確保の手段として、手っ取り早い“狩り”という選択がなされたのは、自然の成り行きであった。

 エンリを慕うゴブリンたちの狩りに協力して、いくらかの分け前を得られたのなら、滞在中の問題は概ね解消できるはずだ。

 未踏の深部はともかく、森の浅い地域には強大なモンスターが現れることもないらしいので、キーファの言うように不安を覚える必要もないのだろう。

 大きく腕を振りながら歩いていく元気な後ろ姿を目で追いつつ、ユンゲは気持ちを落ち着けるようにゆっくりと息を吸い込んだ。

 特定の国家に帰属しない冒険者組合が、独立組織として掲げる“国家間の政治や戦争に関わらない”という基本理念に照らせば、こうしたユンゲたちの振る舞いは許されない背信行為と見做されるのかも知れない。

「人々の剣となり、盾となり……か」

 どこか言い訳めいた言葉を口にして、ユンゲは少しだけ寂しくなった首許に手を伸ばした。

 ふと見上げた空は、曇りのない群青――朝方に鮮やかだった向日葵色の紗幕はいつしか取り払われ、峻険なアゼルリシア山脈を越えて遥かな彼方まで広がっている。

「……とりあえず、なるようにしかならないよな」

 呟きとともにこぼれた溜め息が白く曇り、ふわりと舞うように風の中へと霧散していく。

 そうして、小さくかぶりを振ったユンゲは、軽く伸びをしてから自身を鼓舞するように声を張り上げるのだった。

「――まぁ、頑張りますか!」

 

 




長らくお待たせいたしました。
相変わらずの不定期更新となりますが、お楽しみいただけたのなら嬉しいです。


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(44)洒落

役に立たない脳内プロットでは、前回と合わせて一話分になる予定だった、カルネ村を取り巻く状況の説明回。エンリによって強力なゴブリン兵団が召喚された原作とは異なり、防衛面での不安が残っているイメージになります。


「もう身体の方は大丈夫なのか?」

「えぇ、おかげさまで。三日も休みをいただきましたからね、今は鈍っちまった分を取り戻すのに必死ですよ」

 こちらの何気ない問いかけに、申し訳なさそうな表情を浮かべるジュゲムの様子を見遣り、ユンゲは労うつもりで軽く肩を竦めてみせた。

「かなりの重傷だったんだ。無理に慌てなくても大丈夫だろ?」

 上向きに突き出す鋭い牙に、人間種には見られない青褪めた肌色の屈強な肉体。如何にも凶悪そうな顔付きながら、どこか気苦労を感じさせるゴブリンのリーダーが太い首を力なく横に振った。

「いえ、旦那たちの協力なしには、エンリの姐さんを守ることもできませんでした」

 今の俺たちでは力不足なんですよ、と不甲斐なさを吐露するように呟いたジュゲムが、拾い集めていた薪柴を両腕に抱え上げる。

 その誇り高い戦士の横顔は、下手な気遣いの言葉を拒絶するように張り詰めて見えた。

(……でも、そんなに卑下することはないと思うんだけどな)

 リ・エスティーゼ王国の五千を超える大軍を相手取り、僅か五十にも満たないカルネ村の男たちを率いて、文字通りに“決死の戦い”を挑んだジュゲムの勇気――或いは、蛮勇と嘲られてしまうのかも知れないが――は、讃えられるべきだと素直に思う。

 ある程度の勝算を見込みながらも、戦うことに躊躇していたユンゲ自身の消極的な姿勢とは比較にならない。

 もっと早くに覚悟を決めることができていたのなら、現状の被害を多少なりとも抑えることは難しくなかったように思えてならない。

 何度となく繰り返してしまう自責の念に小さくかぶりを振り、ユンゲは気持ちを落ち着けるように頭上を仰ぎ見た。

 すっかりと葉を落とした梢の向こうには良く晴れた青空が広がり、降り注いでくる眩しい陽射しは決して遠くない春の訪れを感じさせてくれる。

 一つ大きく深呼吸をしてみれば、胸の内を満たしていく静かな芽吹きの気配に、僅かながら心が軽くなるような思いがあった。

 ――今は、考えるよりも先に身体を動かそう。

 自らに向けた叱咤の言葉を呟きつつ、腰かけていた切り株から立ち上がったユンゲは、枝払いをしてもらった丸木を肩に担ぎ上げる。

「……相変わらず、とんでもない膂力ですね」

「まぁ、慣れみたいなもんだよ」

 感嘆とも畏怖ともつかないジュゲムの声音に苦笑を返しつつ、ユンゲは材木を伐採するために分け入ったトブの大森林からの帰路へと足を向けた。

 長らく人の手が入っていない野放図な大樹の根を踏み越え、褐色に苔生した滑りやすい岩肌を避けながら、森の浅い方へと歩みを進める。

 頭を抱えたくなる出来事ばかりが続いていても、破損した門扉の修復といった役回りに集中することができれば、余計なことを考えてなくても済むのはユンゲにとって幸いだった。

 視界を埋めていた樹々がいつしか疎らとなっていき、枯れ色の拓けた草原の向こうには、休耕中の麦畑と高い塀に囲われた砦のようなカルネ村の外観が見えてくる。

 初めて目にしたときは、随分と立派に思えた村の防備も、度重なる被害の実情を知った後では、どこか頼りないような感覚になってしまう。

「……修復するだけじゃ、足りないかもな」

「そうですね。また同じように大軍で攻めてこられたんなら、今度こそ守り切れるのかどうか――」

 苦渋を滲ませたジュゲムが溜め息をこぼしつつ、「せめて、姐さんたちの脱出路くらいは用意して置きたいもんですね」と静かに言葉を続けた。

 所々に煤けた焦げ後の残る塀を眺めつつ、ユンゲは先の戦いの経過を思い起こす。

 結局のところ、相手方の攻め手を押し返せるだけの戦力が見込めなければ、村内で籠城することに意味はない。

 王国の辺境で孤立しているカルネ村には、他勢力からの援軍を期待できるはずもないので、どれだけ塀や門に補強を重ねたとしても、いつかは数の暴力によって破られてしまうことが自明だった。今回のような事態を警戒するのであれば、やはり大軍からの追撃を受けにくいトブの大森林へと、安全に逃げ込めるだけの手立ては欠かせないのだろう。

 しかし、エンリたちを逃がしたいという意見には納得しつつも――陽動役の存在を前提とするジュゲムの口振りを受けてしまえば、ユンゲでは返すべき言葉を見つけられないのだ。

 肩に担いでいた丸木が、ずしりと少しだけ重さを増したような気がした。

 そうして、やるせない思いを抱いたままに、ユンゲが村の外周を回り込もうとしたときだった。

 

「旦那、お気をつけて――」

 少し前を歩いていたジュゲムが、不意に振り返って声を落とす。

 その一層と青褪めた緊張の横顔を訝りつつも、促された先へと視線を向ければ、修復中である正面門の手前に集まる人々――何事かにどよめく村人たちの向こう、頭二つ分も高い異形の人影が、整然と列を成しているのが見えた。

 地面に届きそうなほどに長い腕と反比例するように短い足部、ずんぐりとした背格好は宛ら直立したゴリラのようにも思えるのだが、その硬質そうな表面は艶のある金属製の光沢に覆われている。

 転移後の世界で目にする機会は限られていたものの、ユンゲの数少ないユグドラシルでの知識に照らしたのなら、それらは“アイアン・ゴーレム”と呼ばれる鉄の巨人たちのはずだった。

 そして、村人の輪の中心で楽しそうに戯れる二人の女性――、

「あれは、えーと……」

 いや、一方的に楽しんでいるのは、清廉な修道女然とした装いながらも、悪戯めいた笑みを絶やすことのない美貌の持ち主ばかりか。

 背後から胸を揉みしだかれているだけのエンリは、羞恥に顔を赤らめて身悶えることしかできていないようだ。

「やっぱり、こっちのエンちゃんは人前で燃えるタイプみたいっすね!」

「だから……い、良い加減にしてください!」

 にひひ、と口許を歪めて揶揄いの調子を強めれば、三つ編みに束ねられた赤髪が燃え立つ炎のように軽やかに弾む。

 どこか既視感のある光景に、ユンゲはこぼしかけた溜め息を飲み込んで空を仰いだ。

「――おっ、戻ってきたみたいっすね!」

 言い放たれた底抜けに明るい声音を受け、一拍を置いてから視線を戻す。

 ようやくと解放されたらしいエンリが、荒い息遣いとなっていることなど意に介した様子もないままに、ひらりと身を躱した長身の麗人――ルプスレギナが、こちらの戸惑いも無視するように大きく腕を振っていた。

 一切と悪びれた素振りもなく、真っ直ぐに向けられる満開の花のような笑顔。

 思わず惹き込まれてしまいそうな魅力にユンゲが抗えたのは、数日前の初対面で抱いた苦手意識のために他ならなかった。

 横目で身体を強張らせているジュゲムの様子を見遣ったのなら、彼女が警戒しろと伝えてきた相手なのだと悟る。

「アインズ・ウール・ゴウン殿の御使いの方なんですが、どうにも対応に困っていまして……」

「あぁ、なるほど……先に聞いとくべきだったな。それどころじゃなくて忘れてたよ」

 声を潜めたままに再び歩き始めたジュゲムの背を追いかけつつ、以前に聞きそびれていたルプスレギナという女性の素性を知れば、いろいろと合点のいく事柄があった。

 辺境の開拓村には相容れないであろう自由気侭な言動や貴族の邸宅にでも佇んでいるのが相応しい仕立ての給仕服――この世界では、それなりの実力者であるはずのユンゲに気取られることもなく、エンリの背後へと回り込んでみせた卓越した身のこなしも、強大な仮面の魔法詠唱者“アインズ・ウール・ゴウン”に連なる人物だと考えたのなら、ある程度は納得できてしまうものだ。

 霧深いカッツェ平野に布陣したバハルス帝国軍の一翼として、王国軍との開戦に備えていたであろうアインズが、カルネ村の窮地に駆けつけてくれた場面も、ルプスレギナからの報告を受けていたということならば理解が早い。

 空いていた左手を軽く掲げることで応じたユンゲは、意識しなければ緩んでしまいそうな表情を憮然と引き締めつつ、可憐な笑みを咲かせる“褐色の美姫”ルプスレギナへと歩み寄っていくのだった。

 

 *

 

「ユンゲ・ブレッター殿、“御名により保護された”カルネ村を守るために剣を手にしたこと、アインズ様は大変にお喜びでした」

 朗々と言葉を紡いだルプスレギナが優雅に腰を折り、「お見事にございました」と恭しく一礼をしてみせる。

 場違いに過ぎるほど格式の高さを醸し出す慇懃な所作に、冬枯れの草原までもが華やかに色付いたかのような錯覚――仕える者とは斯くあるべき、といった文句のつけようもない理想的な立ち姿でありながら、これまでにルプスレギナがみせていた奔放な振る舞いとの差異の大きさには、軽い立ち眩みのような思いさえ覚えてしまう。

「……えっと、恐縮です」

「あーそうそう、建国の折には一度だけ“謁見”を叶えていただけるらしいっすから、首を洗って待ってて欲しいっすね」

 前置きなく砕けた口調となったルプスレギナが、含みのある笑顔を浮かべながら、しなやかな指先で首を掻き切るような仕草を見せてくる。

 冗談めかせながらも、やや物騒なルプスレギナの誘いにはどのような返答が望ましいのか。

 やにわに判断をつけられないユンゲが、間を持たせるために曖昧な笑みで誤魔化せば、幸いにしてエンリが助け舟を出してくれた。

「あの……それで、ルプスレギナさん。この素晴らしいゴーレムのことなんですが――」

「ん? 現在の塀や門だけでは、この村を守れなかったんすよね。だったら、このゴーレムたちを使って、しっかりと防備を固めるべきなんじゃないっすか?」

「で、でも……こんなに高価なゴーレムをお借りしてしまっても、村にはお返しできるようなものが何も……」

 頭の後ろで両手を組み直したルプスレギナが、あまりに軽やかな物言いで問いかければ、分かりやすい狼狽をみせるのはエンリだ。

 その困惑に満ちた琥珀色の視線は、妙に俗っぽい雰囲気を漂わせるルプスレギナと自身に向けて傅くような姿勢となった二十体ものゴーレムとの間を忙しなく行き来していた。

 対称的な二人の話し合いに距離を置きながら、少しだけ落ち着きを取り戻したユンゲは、以前の記憶を呼び起こすように視線を巡らせる。

 これまでに訪れた場所の中で、ゴーレムを目撃したことがあるのは、いずれもバハルス帝国内での出来事――初めての指名依頼を受けて呼び出された帝国魔法学院の門前と、後に“漆黒”を訪ねて赴いた最高級宿屋のロビーばかりのはずだった。

 しかし、いずれのゴーレムも鈍い鉄色の造形には粗さが悪目立ちしており、とりあえず守衛の代わりに置かれていただけ、といった程度にしか印象は残っていない。

 一方で、バハルス帝国が誇る主席宮廷魔術師にして、稀代の魔法狂いな“逸脱者”フールーダ・パラダインから散々に振るわれた熱弁の中で、何か延々と魔法技術の活用方法について聞かされたような気もするが、全ては遠い記憶の彼方へと投棄が済んでしまっている。

(……んー、帝国にはゴーレムクラフトみたいな職業があるんだっけ?)

 どうしても思い出してしまう、炯々と狂気に染まった瞳に小さく身震いをしつつ、ユンゲは嫌な感覚を振り払うように思考を切り替える。

 

 アインズの御使いとして現れたルプスレギナから、カルネ村の長であるエンリに伝えられた言葉は、村の復興にかかる申し出であった。

 その内容を耳にすれば、エンリでなくとも反応に窮するほかになかっただろう。

 曰く、カルネ村を守る塀や門の再建に当たり、必要な労働力としてゴーレムを無償で貸しつけるという提案だ。それぞれのゴーレムは、ミスリル級の冒険者に相当するだけの能力があり、村の安全が確保できるまでの警備にも役立てて欲しい旨が告げられ、更には「村で不足する物質についても提供する用意がある」とまで続けられたのなら、ユンゲとしても怪しげな詐欺の勧誘現場に接しているような気分になってしまう。

 この世界におけるゴーレムの価値を正確に把握できていないものの、その希少性から決して安価な代物ではないはずだった。

 帝都の中で見かけたゴーレムのやや荒削りな造りとは異なり、光の加減では銀や白銀のようにも輝いて見える、眼前の洗練されたゴーレムであれば尚更だろう。

「美味い話には裏がある、ってのがお決まりだけど……」

 誰にともなく呟きかけてから、ユンゲは苦笑するようにかぶりを振った。

 遠巻きに眺める視界の端、気前の良過ぎる援助に慄いているエンリは、ルプスレギナの言葉を疑うことさえ知らず、純粋に見合う対価を払えないことに焦っているばかりであり、既に二度までも村を救ってみせた“仮面の英雄”からの提案に対して、邪推してしまう自身の浅ましさが恥ずかしくなるような思いだ。アインズ側に何かしらの思惑があったとしても、辺境の小さな開拓村を罠に嵌めたところで、手間をかけるほどの大きなメリットが得られるとは考えられない。

 何より、カルネ村に要求をするのであれば、圧倒的な力を用いて無理矢理に従わせることも容易い――いや、アインズの登場を万雷の歓喜で迎えていた村人たちの態度を思えば、寧ろ皆が喜んで従いそうな気配すらあった。

 それこそ、熱心な信徒が“神からの啓示”を信奉するように、どのような言葉にも唯々諾々と取り組もうとする村人たちの姿が目に浮かぶ。

 

「――でも、本当にお返しできるようなものがないんです」

「それは、問題ないっすよ。これは“あふたーさーびす”ってヤツっすから。エンちゃんはこれらをどう使いこなせば、貴女の大切なものを守ることができるのかを考えるべきではないかしら?」

 窘めるようなルプスレギナの口調に、居並ぶゴーレムたちが臣下の礼を深くするような雰囲気――覚えた小さな違和感に、ユンゲはやおらと視線を軽やかな声の主へと向ける。

「……というより、あの御方からのお心遣いを無碍にする、というのは感心しないわね」

 陽気に華やいでいた黄金の瞳が、不意に豺狼のように鋭く細められ、言葉を重ねようとしていたエンリと――薄い肩越しの位置に立っていたユンゲを真っ直ぐに射抜いてくる。

 零下の声音に息が詰まり、背筋が冷たく震えた。

 ふと吹き下ろす風の凪いだ間隙に、水を打ったような静けさが広がっていけば――、

「――っ、えっと」

 咄嗟の反応に戸惑い、ユンゲの口からは意味をなさない呻きがこぼれてしまう。

「す、すみません!そんなつもりは……」

「まぁ、どうしてもと言うのなら、さっきみたいに身体で支払ってくれれば良いっすよ」

 慌てるエンリの言葉を事もなげに遮り、ルプスレギナが殊更に明るく言い放つ。

 にやりと口角を持ち上げた意地の悪い顔で、しなやかな指先をわきわきと動かしてみせながら、瞬く間にエンリへと迫っていく姿には、数瞬前の底冷えするような気配は微塵も感じられない。

 護衛に動こうとしていたジュゲムたちも対応できない、風にそよぐ柳の枝葉にも似たルプスレギナの流麗な身のこなし。

「な、何を言ってるんですか……ちょっと!」

 途端に背後から組み敷かれる格好となってしまったエンリが、胸元を庇いながら虚しい抵抗の声を上げていた。

 青から赤へと忙しなく顔色を変えるエンリを目の当たりにしつつも、ユンゲは嫌な汗を堪えるように息を呑み込む。

 先ほどのルプスレギナが口にした言葉は、提案に躊躇っていたエンリに対するばかりではなく、不躾な発言をこぼしてしまったユンゲへの警告を含んでいたと考えるべきなのだろう。

 主人であるアインズ・ウール・ゴウンの好意を疑うような真似をされれば、快く思わないのも至極当然だった。

 減るもんじゃないから良いっすよね、などと気安い調子で憐れな村娘を翻弄しながらも、こちらに蔑むような極寒の一瞥を向けてくるルプスレギナの横顔に、ユンゲは謝罪の意思を込めて頭を下げる。

 同時に、八つ当たり気味な勢いで再び揉みくちゃにされているエンリに向けて心の内で合掌を送ったのは、その矛先が自身でなかったことへの安堵する思いからだったのかも知れない。

 

 *

 

「…………ふぅ、今日はこのくらいにしといてあげるっす」

 一切の陰りもない晴々とした笑顔で告げたルプスレギナが、大いに満足した様子で気持ち良さそうに背伸びをしていた。

 妙な緊張感に包まれていた場の空気が、ようやくと弛緩していくのに合わせて、ユンゲもまた少しだけ肩の力を抜いて静かに目を伏せる。

 渇いた喉には冷たい水の一杯でも所望したいところなのだが、散々に振り回されていたエンリを差し置いて、ここから離れる訳にもいかないだろう。

「……ゴウン様に、感謝の言伝をお願いします」

 見るからに憔悴した様子のエンリが、消え入りそうな声音で頼み込むのを横目に、喜色を隠さないルプスレギナがわざとらしく胸を張ってみせる。

「もっと必要なら、“ペタン血鬼航空”で追加のゴーレムをお届けするっすよ!」

 だから遠慮なく教えて欲しいっすね、と親身な言葉を重ねるルプスレギナは、敬虔な修道女の立ち姿も相俟って慈愛に溢れているようでありながら、どうにも真意を掴ませない笑顔は恰も“仮面”のような風采を孕んでいた。

「あ、はい……ありがとうございます」

「えっと……そのことについて、ゴウン様のお力添えは有り難いんですが――」

 息も絶え絶えなエンリに代わり進み出たジュゲムが、言葉を選びながら防衛の不安に関する話題を切り出す。

 

 帰路で意見を交わしたように、辺境の小さな開拓村に過ぎないカルネ村では、リ・エスティーゼ王国が再び進攻してきたときに押し返せるだけの戦力は見込めない。

 そうした事実を踏まえれば、塀や門などの防衛設備をどれだけ補強したとしても、結局のところは時間稼ぎにしかならないのだ。

 飽くまでも冷静なジュゲムの説明は、周囲に集まっていた村人たちの表情を曇らせてしまうが、過酷な現状を取り繕うことに意味はないだろう。

 膝を抱えながら呼吸を整えていたエンリが、弾かれたように顔を持ち上げる。

 責任感と不安が綯い交ぜになった琥珀色の視線が泳ぎ、やがて優雅に佇んでいたルプスレギナへと向けられた。

 不意に耳朶を打つ、小さな溜め息。

「――ご、ごめんなさい!」

 悲鳴にも似た謝罪の言葉を口にして、エンリがさっと頭を下げた。

 瞬く間に朱の差した横顔には、安易に縋ってしまったことを恥じ入るように暗い影が落ちている。

 反射的に身を乗り出したユンゲの目前――やれやれとばかりに肩を竦めてみせたルプスレギナが、小首を傾げるようにしながら薄紅色の口唇を艶かしく湿らせた。

「……カッツェ平野におけるリ・エスティーゼ王国とバハルス帝国の決戦は、当然ながら“アインズ様を戴く”帝国側の大勝利。ちっぽけな誇りを投げ捨てて逃げ出した王国の連中は、張りぼての居城に鍵をかけて、可愛らしい仔山羊の鳴き声に怯えながら、最期の刻限まで震えているだけ――今更、貴女たちに構っている余裕なんてないでしょう」

 淡々と事実を述べているだけという嘲りすら感じさせない、あまりに冷酷なルプスレギナ物言いにユンゲの肌が粟立つ。

 遠くアゼルリシア山脈から吹き下ろす風が一層と勢いを増し、辺りの気温がぐんと冷え込んだような怖気が背中を伝っていく。

 だから心配ないっすよ、などと息も吐かせない間に態度を一変させ、天真爛漫な笑顔を咲かせてみせるルプスレギナを前に、ユンゲはどのような表情をするべきなのか、正解は杳として知れない。

「……でもまぁ、エンちゃんが不安に感じていることは、アインズ様にご報告してあげるっす」

「えっ、あ……あの、ありがとうございます」

 やや呆気にとられた様子で、エンリが再び頭を下げれば、「とりあえず“ホウレンソー”は、大切っすからね」と囁くような声音が聞こえてくる。

 野山の天気よりも移り変わりの早いルプスレギナの言動は、目の覚めるような美貌とともに見る者を飽きさせないものの、どうにも心臓に悪くて仕方がない。

 そうして、堪えていた息を吐くことのできたユンゲが、ようやくと苦笑いを浮かべたときだった。

 

 視界の端で、鮮やかな赤い炎が舞った。

 ――いや、束ねられた三つ編みが吹き抜ける風に靡き、麗かな陽の光に照らされた髪が真紅に輝いたばかりか。

 長い睫毛と高い鼻梁が続き、向けられる上目遣いの視線には妖艶たる憂いの色。

 突然の危険信号を報せるように、ユンゲの鼓動は早鐘のように先走っていく。

「……ところで、お姉さんの手ほどきは必要なかったみたいっすね?」

 少しだけ前屈みとなった給仕服の開いた胸元に、蠱惑的な蜂蜜色の谷間が覗く。

 クンクンとわざとらしく鼻を鳴らしてみせながら問いかけてくるルプスレギナの言葉には、何かを確信するかのような響きがあった。

 不意打ちに脳裡を過ぎったのは、月明かりに浮かぶ白い裸身――立てかけるように支えていた丸木を危うく倒してしまいそうになる。

 後から湯浴みはしたはずなのに、などと余計な焦りが顔に出てしまったのだろう。

 はたとユンゲが気付いたときには、もう後の祭りだった。

 切れ長な黄金の瞳に宿る炎が、揶揄いの薪をくべられて燃え上がっていく様が幻視されるようだ。

「くふっ……やっぱり、なかなかに愉快な玩具みたいっす」

 これ以上は堪えられない、といった様子で目尻をひくつかせたルプスレギナが、腹を抱えながら大袈裟に笑い転げてみせる。

 単なる“かまかけ”に引っ掛かってしまったユンゲとしては、苦虫を噛み潰した思いで憮然と表情を取り繕うことしか許されないだろう。

 凍えるはずの冬の風が、どこか生温いような気配さえ漂わせる中、この場に渦中の森妖精〈エルフ〉の少女がいなかったことだけに感謝をしつつ、ユンゲは盛大な溜め息をこぼしたのだった。

 

 




-どうでもいいオバマス話-
ルプスレギナ(笑顔仮面のサディスト)の表情がとても好きなので、私のプレイヤー情報のページは長らく彼女で固定されています。


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(45)狩猟

オバマスでのエピソードから設定を拝借しています。


 背後に跳び退いたユンゲの眼前、横薙ぎに振るわれた逞しい枝角の一撃が、激しい風切り音を残して過ぎていった。

「――っとと!」

 幾重にも張り出した大樹の根に危うく足を取られかけ、蹈鞴を踏みながらも身を投げ出して再びの跳躍。逃げ遅れた長外套の裾を掠めるように、鋭い蹄脚の追撃が突き立てられた。

 深々と大地を抉ってみせた異形の主――獰猛で知られる“怪鳥”ペリュトンが、その巨躯を震わせて憤然と雄叫びを上げる。

 こちらを威圧するように見下ろしてくる血走った赤い肉食獣の瞳は、獲物であるユンゲを仕留め損なったことに苛立っているのかも知れない。

「へー、こんなに大きな野生動物がいるんだなぁ」

 一般の冒険者ならば死を覚悟するほどの怒気に当てられても、他事に気を取られているユンゲには相手の様子を観察するだけの余裕があった。

 立派な牡鹿の角を有する頭と強靭そうな逞しい脚周り、“怪鳥”の異名は背から伸びる巨大な猛禽類の翼が由来なのだろう。普段は高山に生息しており、人目に触れる機会はほとんどないらしいが、獲物の少ない季節には稀に麓まで降りてくることもあるとのことだ。

 事前に得ていた情報を思い出しながら、ユンゲの興味を何より駆り立てるのは、ペリュトンの肉身が非常に美味だという噂の真偽だった。

 その話題を初めて耳にしたのは、帝都アーウィンタールの市場を巡っていたときのことだろうか。

 未発見だった遺跡調査の護衛という、“漆黒”のモモンから誘われた依頼に同行する許可を求めて、帝国魔法学院のフールーダ・パラダインを訪問した帰路での出来事――散々に憔悴させられたユンゲたちは、鬱憤晴らしに出店の料理や酒類を片っ端から買い漁ったことがある。

 その際に聞き及んだ珍しい食材の一つに、“怪鳥”ペリュトンの名前が挙げられた。

 教えてくれた串焼き屋台の店主も、まだ食べたことがないという幻の獣肉は、兎にも角にも市場に出回ることが滅多にないらしい。そもそもの生息域である山岳地帯が人間の身には過酷な環境であることに加えて、モンスターにも比肩する凶暴な気性から戦闘行為に不慣れな猟師では手も足も出ないために、荒事の専門家たる冒険者チームを編成して狩猟に挑むのが定石とのことだった。

 しかし、当然ながら腕利きの冒険者を雇うためには、相応に高額な費用が必要となってしまう。

 そうした事情から、余程の金に飽かした好事家でもなければ口にすることのできない希少な食材として、ペリュトンの獣肉は市井の人々から羨望されているのだろう。

 その未知なる味を自らの舌で確かめたいと考えるにつけ、ユンゲは期待に口許が緩みそうになってしまうのを自覚する。

 逸る気持ちを引き締めるように軽く頬を張り、やおらと見上げた視線の先――前脚の蹄から肩辺りまでの体高で既に二メートルはあるだろうか。雄々しい枝角の先まで含めれば五メートルにも届きそうな大型の捕食者が、茶褐色の毛並みを逆立てながら頻りに威嚇の唸り声を向けてくるのだった。

 

 *

 

 頭上を覆い尽くす曇天に時折の雪が散らつき始め、一層と朝晩の冷え込みが厳しくなった頃――、カルネ村の逼迫した食糧問題に取り組んでいるゴブリンの狩猟班が、貴重な獲物とともに一つの情報を持ち帰った。

「そんなに、ヤバそうな相手なのか?」

「うーん、状況次第なんだけど……多分、ユンゲの協力が必要になると思う」

 こちらの何気ない問いかけに、“翠の旋風”の野伏〈レンジャー〉として狩りに同行してもらっていたキーファが、小さく肩を竦めてみせる。

 森の方へと向けられた横顔には浮かない影が過ぎり、後ろ手に括られたポニーテールまで心持ち元気がないような雰囲気だ。

 普段の快活なキーファの振る舞いとの差異に、ユンゲは少しだけ慎重に口を開く。

「……俺は構わないけど、具体的に何をしたら良いんだ?」

「えーっと……これから相談するみたいだから、とりあえずユンゲも一緒にきてよ」

 口許に指先を当てた考える素振りから、不意にこちらの手を取ったキーファに促されるように、ユンゲは慌てて椅子代わりにしていた丸木から立ち上がるのだった。

 

「――以前は、“森の賢王”がこの周辺を縄張りにしていたので、それほど問題にはならなかったのですが……」

「森の中で何かしら勢力図に変化が起きているのなら、隣接するカルネ村にも影響があるかも知れない……って、ことですか」

 説明役を買ってくれたンフィーレアの気詰まる様子に、ユンゲは静かに言葉を引き取った。

 トブの大森林の奥地から“聞き慣れない唸り声が響いてくる”という狩猟班からの不穏な報告は、先に集まっていた村人たちの焦燥を駆り立てるには充分であった。

 本来なら庇護者であるはずのリ・エスティーゼ王国から裏切られ、既に疲弊し切っている辺境の開拓村に、更なる懸念を抱えるような事態は些かも酷に過ぎるだろう。

 アインズ・ウール・ゴウンの御使いであるルプスレギナからは、心配ないという旨を告げられてはいるが、いつ再び王国軍が攻め寄せてこないとも知れない。厚意により借り受けたゴーレムたちの休みない働きもあって、村の四方を囲う塀や門の整備は急速に進んでいるものの、危急の事態には森へと逃げ込む算段をしている状況下において、未知の脅威にまで怯えなければならないということなのだ。

 思わずこぼれそうになる溜め息を堪えつつ、詰めかけた村人たちの蒼白な顔を見回し、ユンゲは傍らに立つキーファへと目配せを向けた。

 少しばかりの憂いを孕んだ野葡萄色の視線が、こちらを縋るように見上げてくる。

 その微かに震える肩に手を置き、静かに一つ頷きを返した。

 可愛らしい薄紅色の口許に浮かんだ微笑みを確かめたユンゲは、不安そうに顔を見合わせていたエンリとンフィーレアに向き直る。

「……なら、俺たち“翠の旋風”にご依頼ください。ぱぱっと森の様子を探ってきますよ」

 そうして、特に気負う素振りもない口調で言い差し、ユンゲは軽く戯けるように肩を竦めてみせた。

 

 相談の場に参加していなかったマリーとリンダに事情を伝えた翌日、軽めの朝食を済ませたユンゲとキーファは、“翠の旋風”への依頼を携えてトブの大森林に足を踏み入れる。

 報告にあった唸り声の響いてきた方角を目指して、落ち葉の降り積もる道ともつかない樹々の合間を奥地へと分け入っていけば、何かしらの異変が起きていることは明白だった。

 すっかりと冬枯れの様相を呈している森に、楽しげな鳥たちの囀りはなく、虫や獣たちも皆が息を潜めているかのように気配が感じられない。奇妙なほどの静けさに包まれた中では、思い出したように吹きつける風が梢枝を揺らし、最後まで抗っていた数枚の残り葉を散らしていくばかりだ。

「……やけに静かだな」

 不意の遭遇に備えて先を進んでいたユンゲは、周囲に目を配りながら背後を振り返った。

「そうだね……でも、森全体が酷く怯えてるような感じがする。この先に、間違いなくいると思う」

 やや緊張した面持ちで額の汗を拭いつつ、こちらに一瞥をくれたキーファが、ふと不思議そうに小首を傾げてみせた。

「……なんだか、ユンゲは嬉しそうだね」

「――ん? だって、キーファの予想通りなら“幻の高級食材”にありつけるかも知れないんだろ」

 こんな機会なら楽しみにもなるさ、と言葉を続けるユンゲの頬は無意識の内に緩んでしまう。

 奥地を目指して駆け出したくなる思いは何とか堪えているものの、急くような鼓動の高まりは無視できそうにもない。

「えーと、可能性の話だし……そもそも危険性を伝えたかったんだけどなぁ」

 多分に諦めの含まれたキーファの声音に肩を竦めることで応えたユンゲは、腰の剣帯に留めたバスタードソードの柄頭を指先で軽く弾きつつ、「まぁ、なるようになるさ」と気楽に笑い返す。

 決して自身の力量に慢心しているつもりはないものの、過度に不安視するほどの状況ではないと感じてしまうのが、偽らないユンゲの本音だった。

 やれやれとばかりに肩を竦めてみせたキーファからは、わざとらしい溜め息を吐かれてしまうが今更だろう。

「……噂話を聞く分には、それなりに厄介そうな相手ではあるけど、“森の賢王”よりも弱い相手なら心配ないよ」

 少しだけ言い訳めいた思いとともに、やおらとユンゲが目線を持ち上げれば、物寂しい樹々の梢を抑えつけるような低い空に、鈍色の暗い積雲が押し迫っていた。

 雨か雪でも降り始める先触れだろうか――と、

「……でも、本当に唸り声の主が噂のペリュトンなのかは――」

 分からないよ、と言いかけたキーファの台詞を軽く手を振って遮り、ユンゲは口許を綻ばせた。

「――いや、キーファの予想が大当たりだったみたいだぜ」

 短く言い差し、冴えない空模様の一点に向けて指先を掲げてみせる。

 灰色の煤けた画板を這うように飛び交う、黒い影たちの群がり――無詠唱で紡いだ〈クレアボヤンス/千里眼〉によって強化されたユンゲの視界は、“同じく高山を生息域としている”はずの禿鷲〈ヴァルチャー〉の姿をはっきりと知覚していた。

 

 *

 

 先の席でンフィーレアの口から名前の挙げられた“森の賢王”とは、“漆黒の英雄”モモンの騎乗魔獣として、ユンゲも見知っているハムスケの異名であり、かつてはトブの大森林における頂点捕食者として君臨していたらしい。

 そうした事情を踏まえたのなら、モモンに連れられて森を去った支配者の不在が、今回の事態を引き起こしている要因だと考えられた。――つまりは、空白地帯となった領域を巡っての縄張り争いであり、これまでは“森の賢王”を相手に後込みしていた連中が、新たな棲み家を手に入れようとしている最中の騒動ということなのだろう。

 現時点での影響は知れないものの、仮に人間を襲うような猛獣やモンスターの類いが近隣に居着いてしまった場合、カルネ村を取り巻く状況が一層と深刻になることは避けられない。

「――降り懸かりそうな火の粉は、しっかり払わないとなっ!」

 言い捨て様に横倒しの木陰へと身を躱せば、巨躯の猛進に巻き上げられた突風が、ユンゲの前髪を強く吹き乱した。

 大地を揺るがさんばかりの衝撃と破砕音――、激突の勢いに傾いでいく大樹の幹から枝角を引き抜き、荒々しく振り返ったのは、赤い血のような憤怒に燃え立つ眼差し。取るに足らないはずの小さな存在に、先刻から振り回され続けた“怪鳥” ペリュトンは、その獰猛な鼻先から大量の真っ白な呼気を吐き出しつつ、戸惑いを糊塗するように威嚇の低い唸り声を上げていた。

 生身の人間であれば、重なる疲労に肩で息をしているような具合だろうか。

 何度となく繰り返した突進が、獲物であるはずのユンゲには届かず、今も飄々とした姿勢を崩さないままに相手をされている。

 そうした苦境にありながらも撤退を良しとしないのは、トブの大森林における新しい支配者たらんとする、獣なりの矜恃なのかも知れない。

 しかしながら、彼我の余裕を鑑みて“どちらが本当の捕食者であるのか”を判断できなかったことは、弱肉強食に生きる野生動物として致命的であった。

 

 強大な魔獣として市井の人々から畏怖され、嘗てのペリュトンも敵うことのなかった“森の賢王”であっても、軍馬よりも大きな規格外の体躯に目を瞑れば、妙に人懐っこい性格も相俟って、ユンゲの感覚では可愛らしい愛玩動物〈ハムスター〉となってしまう。

 モモンたち“漆黒”との交流をする中で、何故か武人気質なハムスケから手合わせを請われたこともあるのだが、率直な感想として剣を抜くまでもない相手だったのだ。

「まぁ、武技を使えたり、視界の外から飛んでくる尻尾は厄介だったけど――」

 もっと精進せねばならないでござる、と悔しがっていた魔獣の愛らしい仕草を思い出して、ユンゲは口許を綻ばせる。

 主人であるモモンの役に立ちたいからと奮闘する姿は、どこか忠犬のような印象すらあった。

(……そういや、モモンさんが武技を使うところは見たことないな)

 冒険者の最高位たるアダマンタイト級を冠するモモンからしてみれば、現状のユンゲも手合わせで本気を出すまでもない相手に過ぎないのだろう。

 遥かな高みを思いながら何気なく頭上を仰いでも、鉛色の曇天は何も映してはくれない。

 思わずと溜め息がこぼれかけ――、不意の地鳴りがユンゲの耳朶を打った。

 こちらの気の緩みを見止めてか、向かい合っていたペリュトンが再びの突進。それでも、やや勢いが減じた感のある襲歩に、軽く眉を顰めるようにしたユンゲは、落ち着いて小さく身を屈めた。

 這うような姿勢から地面を強く蹴り出し、迫りくる逞しい四肢の隙間を跳ぶように駆け抜ける。

 身を捩って素早く反転すれば、目の前で標的を見失ったらしいペリュトンが、蹈鞴を踏むように脚元をふらつかせていた。

「……やっぱり、ハムスケよりも弱いみたいだな」

 視界の端で力なく垂れた茶褐色の尾を見遣り、ユンゲは一つ頷いて周囲の様子へと視線を巡らせた。

 暴れ回っていたペリュトンを宛ら闘牛士のようにいなし続けた結果、辺りの樹々は散々に薙ぎ倒されており、森の中にぽっかりと開けた動きやすい空間が広がっている。

 強力な捕食者たるペリュトンのおこぼれを狙うように上空を飛び交っていたヴァルチャーの群れは、接近前に範囲を拡大した〈エレクトロ・スフィア/電撃球〉の初撃で追い散らしており、その後もキーファが遠巻きに警戒してくれているので気にかける必要もないだろう。

 

 万一の懸念が取り除かれたのなら、後事は“幻”とまで呼ばれるペリュトンの獣肉をカルネ村まで持ち帰り、根を詰め続けているエンリやンフィーレアたちに労いを込めて振る舞ってやれば良いだけだ。

 村人総出でも食べ切れそうにないほどのご馳走を眼前にして、ユンゲは無意識の内に舌舐めずりをしてしまう。

「でも、この場で仕留めるにもなぁ……」

 ゴブリンや村人たちの言葉を思い起こしたのなら、狩猟後の血抜き処理や捌き方などの手順次第で、獲物の食味は大きく変容してしまうらしい。

 残念ながら、そうした知識や技術を持ち合わせないユンゲなので、やはり専門家に指示を仰ぐのが最善だろう。希少な食材を味わうことができる、またとない機会を自身の不手際で台無しにする訳にはいかないのだ。

 時間との勝負になるはずなので、カルネ村の付近まで誘導してから仕留める方法も考えられそうだが――、「……気絶させて生け捕りにするか」ぽつりと呟く。

 下手な真似をして道中に危険が及ぶような事態は、絶対に避けなければならない。

 ふと顔を持ち上げてみれば、短弓を手に周囲を警戒しながらも、こちらに視線をくれるキーファの横顔。この身に余るほどの信頼を寄せてくれながらも、やはり不安を拭い切れないらしい健気な様子に軽く肩を竦めてみせたユンゲは、「心配ないよ」と穏やかに口調で笑いかけた。

 そうして、ようやくとこちらに向き直った“怪鳥”ペリュトンに対峙し、命をいただくことに感謝を込めた合掌とともに小さく頭を下げる。

 樹々の根ごとに掘り返された腐葉土の濃い薫りが鼻腔をくすぐれば、冷たい吹き下ろしの寒風に横倒しの枝と枝とがさざめき、どこか軽やかな旋律を奏でていた。

 焦れるような時間の流れ――業を煮やしたペリュトンが駆け出し、ユンゲもまた応じる気持ちで歩みを進める。

 見上げるほどの高さから、突進の勢いに任せて振り下ろされる枝角の一撃。

 大樹さえも粉砕する大振りを今度は避けることなく、ユンゲは正面から両腕を張って受け止める。

 超重量の鉄槌に足元の地面が沈み、衝撃の余波が周囲の幹枝を轟々と震わせた。

 鼓膜を打った小さな悲鳴――それでも、ユンゲの姿勢が崩れることはない。

 力の拮抗が軋むように耳障りな音を響かせ、血走ったペリュトンの双眸が驚愕に見開かれていく。

 これまでの生涯において、臆病者に自慢の突進が避けられることはあっても、真っ向から対抗された経験などなかったに違いない。

 猛進を苦もなく受け止めた右手を離し、ユンゲは吹き乱れた髪を撫でつけるようにかき上げた。

 理解の及ばない事象を前に戦慄き、咄嗟に身を退こうとするペリュトンの動きを残りの左腕だけで制止し、自身の無事を誇示するように不敵な笑みを浮かべてみせる。

「お互いの力量を見極められなきゃ、“賢王”にはなれないぞ」

 強き御仁と戦ってみたいのでござる、と手合わせを懇願してきた“前王”を思い出しながら短く言い差したユンゲは、右手を再び枝角に添えて静かに全身へと気力を漲らせた。

 握り締める力を一層と強めながら引き寄せ、無詠唱化した〈ミドル・ストレングス/中級筋力増大〉を発動する。

 大地に深く突き立った両の脚を起点に、力任せに背筋を反らせたならば、ペリュトンの逞しい前肢と後肢が順を追うように地面を離れて逆立ち、巌のような巨躯が長大な円弧の軌跡を描いていく。

 瞬く間に上昇から落下へ。半身を捻るとともにユンゲは左右の枝角を持ち替え、振り子の勢いに乗せてペリュトンを投げ放つ。

 先ほどに倍する轟音と衝撃――冗談のように軽々と宙を舞った巨大に過ぎる体躯が、散乱する横倒しの大樹を諸共に薙ぎ払いながら叩き潰した。

 耳に喧しいほどの破壊の残響に、森全体が息を呑んだような静けさが続き――、

「…………あっ、やばいか!?」

 全く起き上がってくる様子のないペリュトンを見遣り、ユンゲは慌てて傍へと駆け寄る。

 結構な森の奥地まで分け入っているので、この場で仕留めてしまったのなら、不本意な結果になりかねない。

 だらりと伸びきったペリュトンの喉元が、弱々しく上下するのを見止めたユンゲは、焦りながらも右手を振って合図を送り、呆気に取られていたらしいキーファに呼びかける。

「ちょっと拙いかも知れない、急いでカルネ村近くの河原に運ぼう!」

 そう勢い込んで告げたユンゲに、木陰から足早に走り寄ってくれたキーファは、何とも言えない表情を浮かべながらも、「分かったよ!」と首肯してくれるのだった。

 

 



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(46)宴席

「ブレッター殿、次はこっちを支えてくだされ」

 カルネ村に程近い渓流の畔、片肌脱ぎとなった壮年の男――村の数少ない野伏〈レンジャー〉として、長年の経験を持つラッチモンからの呼びかけ。

「了解っす」と気安く応じたユンゲは、弾むような足取りでペリュトンの腹側へと回り込み、指示されるままに逞しい後肢を持ち上げた。

 大鉈を手にしたラッチモンが、既に内臓を抜いた下腹と浮いた太腿の間に身体を滑り込ませ、慣れた様子で関節の継ぎ目を削いでいく。

「へー、見事なものですね」と流れるような手際の良さに、思わずユンゲが感嘆の声をこぼしたのなら、首だけで振り返ったラッチモンが、少しだけ得意気な様子で笑みを浮かべてみせた。

「まぁ、本職ですからね。……とはいえ、こんなに大きな獲物は人生で初めてですが」

 なるほど、と曖昧に受け答えを返しつつ、ユンゲは自身の仕留めた最上級の成果へと視線を下ろす。

 改めて見回したのなら、川沿いの砂地に収まり切らないほどの立派な獲物は、カッツェ平野で蔓延っていた骨の竜〈スケリトル・ドラゴン〉より大きいかも知れない。

 鹿や猪といった獲物の解体であれば、枝に渡したロープ等で吊るしながら行う方法が一般的らしいのだが、目の前のペリュトンの体躯を支えられる適当な梢枝は見つからなかった。

 先に切り外した前肢さえ、村の男たちが三人掛かりで運んでいったほどなのだ。

 トブの大森林の奥地からの道中では、〈フライ/飛行〉と〈ミドル・ストレングス/中級筋力増大〉を駆使しながら無理矢理に担いできた。

 ユンゲの膂力をして空中での姿勢を安定させるには困難なほどの重量であり、血抜きとともに獲物の体温を冷やすための清流に晒した後には、茶褐色の毛皮が多分に水を吸ってしまったので尚更だろう。――都合、横倒しに寝かしたままの体勢でペリュトンの解体を進めることになったのだが、村人ばかりでは作業が捗らなかったため、馬鹿力要因としてユンゲが駆り出されていた。

「良し、これで外れるはず……」

 ラッチモンが小さく息を吐き、不意に支えていた両腕が重くなる。

「――っと、お見事です」

 切り取られた後肢をようやっと掲げるように持ち直し、ユンゲは労いの言葉を向けた。

「……はぁ、これは体力を使いますね」

 苦笑いを濃くして応じるラッチモンに軽く肩を竦めつつも、逸る気持ちを抑えられないままに言葉を返してしまう。

「次はどうします? 胴体の方をひっくり返しましょうか?」

 強靭な皮革を丁寧に剥いだ後は、左半身から順に解体を進めていたので、ペリュトンの右半身にはまだ前脚と後脚が残っている。

 四肢と厄介な角のある頭部を外した枝肉にできれば、取り回しは格段に容易となるだろう。

 極上の獣肉を最高の状態で味わうために、今朝の食事を軽めに済ませているので、こちらの空腹具合も一入なのだ。

 返事を待たないままに、ペリュトンの背側に片手をかけたユンゲは、急かすように目線を送った。

「え、えぇ……よろしくお願いします」

「了解しました!」

 威勢の良い掛け声とともに力を込め、巨体を引き寄せて強引に倒れる向きを変えてしまう。

 ズンッと軽い地鳴りにも似た衝撃――数瞬の間を置いて、周囲の村人たちから上がったのは、感嘆とも驚愕ともつかない響めきだった。

「早いとこ済ませて、皆さんで焼肉パーティーにしましょう!」

 疲労を滲ませるラッチモンの戸惑いは、食い気に盛ったユンゲの熱量を前にして覆い隠され、ただ清らかな渓流のせせらぎだけが耳に心地良い調べを奏でていた。

 

 解体作業の大まかな手伝いを終えたユンゲは、カルネ村の中央に位置する広場へと足を運んだ。

 村人全員を集めた宴席を催すのなら、やはり事前の準備は欠かせない。

 料理の仕込みには、ユンゲの出る幕がないので空いた時間で先に会場を整えてしまいたいと、適当な長さに切り揃えてきた薪を手に取り、少し頭を悩ませつつも井桁を組むように積み上げていく。

 焚き火を起こすときには、空気の取込み口を確保することが大切だとか、そのような類いの話だったはずだ。

「……とりあえず、こんなもんかな?」

 記録映像の中にしか知らないキャンプファイヤーではあったが、薪の段数を背丈ほどに重ねていけば、それなりに見映えもしてくる。

 例え組み方が不出来であったとしても、仕上げにンフィーレアから貰った錬金術油を回しかければ、一応は問題なく燃えてくれるはずだ。小さな安堵とともに、ユンゲの口から溜め息がこぼれる。

 額に浮かんだ汗を袖口で拭いつつ、ふと何気なく視線を巡らせれば、一足先に集まってきた年少の子どもたちが、期待に瞳を輝かせるようにこちらの様子を窺っていた。

 リ・エスティーゼ王国による理不尽な襲撃以来、この村には明るい話題が乏し過ぎたのだろう。

 軽く片手を振りながら応じたユンゲは、やおらと高い空を仰ぎ見た。

 朝方から頭上を覆っていた雲は、幸いにも雨や雪を降らせることなく流れていき、中天を跨いだ陽がやんわりとした麗かな光を注いでくれている。

「……君たちも手伝ってくれるか? そこの薪柴をこっちに運んで欲しいんだ」

 遠巻きにしていた子どもたちに呼びかければ、顔を見合わせつつ最初に手を挙げてくれたのは、あの日“小さな英雄”になった男の子だった。

 任せてよ、と声を弾ませながら駆けてくる元気な坊主頭を見遣り、ユンゲは口許を綻ばせる。

 いつもなら凍えるほどに冷たい吹き下ろしの寒風も、このときばかりは少しも気にはならなかった。

 

 *

 

 やがて、西の空に僅かな朱が差し始めようとする頃――四方からの篝火に照らされた広場には、各班の仕事を早めに切り上げ、続々と寄り集まってくる村人たちの姿があった。

 未知の脅威に怯えていた昨夜の様子とは異なり、幾分か落ち着きを取り戻したらしい顔つきには、安堵とともに湧き上がる興味を隠し切れない喜色が浮かんでいる。

 大きな丸木を縦に割って寝かせただけの簡素な長机の上に、所狭しと並べられた“幻”の食材――丁寧に切り分けられた、見るからに極上の塊肉を横目にしつつも、小さく息を飲む気配。

 呆気に取られたような村人たちの目線の先では、迫りくる夜の帳を押し返さんばかりに燃え立つ炎の柱を背景にして、大振りに過ぎる枝角を有した異形の頭部が鎮座している。

 赤々とした火に舐られるペリュトンの凶相は、憤怒に滾る悪魔を模したような有様であり、この場面だけを切り取れば、異界の邪神を祀る儀式のように見えたかも知れない。

 それでも、ペリュトン討伐の一件については、村長であるエンリを通して事前に周知してもらっているので、怖ろしい様相の頭部を前にしても村人たちに大きな混乱はないようだ。

「こんな獲物を仕留められるなんて――」などと驚嘆するような声音とともに、遠慮がちに向けられる羨望を孕んだ眼差しが、ユンゲには少しだけ誇らしくも面映い。

 ふと視線を落とせば、傍らのキーファが笑い堪えるように小さく肩を震わせていた。

 その茶目っ気のある横顔を見遣ったのなら、こちらの内心は見透かされているのだろう。

 こぼれそうになる溜め息を何とか押し留めたユンゲは、誤魔化すようにキーファの頭を強めに撫でつけた。

「……むぅ、もっと優しく!」

 大袈裟に頬を膨らませてみせるキーファからの抗議に、軽く肩を竦めながら顔を持ち上げれば、小走りに広場へと現れた華奢な少年――ンフィーレアの姿。村人たちと談笑していたエンリが話を切り上げ、待ちかねていたように駆け寄っていく。

「あれ、リイジーさんはどうしたの?」

「えぇーっと、お婆ちゃんは研究で忙しいから来ないってさ」

「そう……じゃあ、皆も揃っているし、そろそろ始めちゃっても良いのかな?」

 短く交わされる言葉からは、どこか疲れているようなンフィーレアの印象だったが、エンリに顔を近付けられたことで頬を染めている様は、何となく微笑ましいものだ。

 二人の話題に上がっている人物は、ンフィーレアの祖母であり、“エ・ランテル最高の薬師”として名声を得ていたリイジー・バレアレだろう。

 紹介を受けてユンゲも一度だけ挨拶を交わしたときには、随分と孫煩悩な印象を見受けたものの、一日の大半を自室での研究に費やしているらしく、村内でも顔を合わせることの稀な存在だった。

 いつの頃だったか、エ・ランテルにおいて腕利きの薬師が拠点を移してしまった影響から、都市内のポーションが品薄になっていた時期があった。今にして思い返せば、件の薬師とはリイジーやンフィーレアのことを指していたようだ。

 そうした折には、冒険者組合へと持ち込んだ薬草類が、かなりの高値で買い取ってもらえたものだが――不意に、いつも応対してくれた受付嬢の笑顔がユンゲの脳裡を掠めた。

 この異世界に転移して間もない頃から、何くれと世話を焼いてくれた、謂わば“恩人”のような女性が、どのように過ごしているのかと気に掛かる。

 

 こちらの事情や言い分はどうであれ、リ・エスティーゼ王国の正規軍――それも、“第一王子”バルブロ・アンドレアン・イエルド・ライル・ヴァイセルフの率いる部隊と一戦を交えたという情報は、既にエ・ランテルの冒険者組合でも知れ渡っていることだろう。

 実地調査の依頼で送り出したはずの冒険者チームが、組合の掲げる“国家間の政治や戦争に関わらない”という基本理念に背いた事実を思えば、相当な迷惑をかけてしまったことは想像に難くない。

 好々爺然とした面倒見の良い組合長のプルトン・アインザックも含めて、下手にユンゲを庇うような真似はせずに、切り捨ててくれていたのなら幸いだが――、

(……いや、除名くらいで済むはずもないか)

 高圧的に怒鳴りつけていた王国軍からの使者は、開門の要求に抵抗したカルネ村の行動を反逆と断じて、火矢による攻撃を仕掛けてきた。

 バルブロの眼前に相対したユンゲが、「冒険者は廃業」などと宣言したところで、所属していた組合への追及を取り止めてくれるとも思えないのだ。

 反逆行為に加担した責任を問われた冒険者組合が、どれほどの無理難題を突きつけられる事態になってしまうのかと知ることはできない。

 何の気なしに溜め息がこぼれ、その思いがけない大きさに自身で驚いてしまう。

「……ユンゲ、大丈夫?」

 気遣うような声音とともに、こちらを見上げてくる野葡萄色の視線。

 心配そうに小首を傾げるキーファに苦笑を返しつつ、ユンゲは小さくかぶりを振った。

「……っと、問題ないよ」

 暗澹と沈みそうになる気持ちを切り替えるため、努めて軽い口調で言葉を続けてみる。

「――というか、リイジーさんも祭りのときくらいは顔を見せても良いのにな」

「……うん、折角のご馳走だもんね!」

 こちらの意図を察したキーファが話題を変えて、いつもの快活な笑みをユンゲに向けてくれる。

「そうそう、なんたって帝都アーウィンタールでさえ手に入らない“幻の食材”だ。腹いっぱい食べとかなきゃ、絶対に後悔するよな!」

 無理矢理に口許を持ち上げながら応じれば、意識しないままに声が大きくなっていたらしい。小さく肩を震わせたエンリが、何事かと驚いたようにこちらを振り返っていた。

 お気になさらず、と内心の平静を装いながら、ユンゲは軽く手を払ってみせる。

 そうして、頭上に疑問符を浮かべながらも、曖昧な頷きを返してくれたエンリを半ば強引に広場の中央へと促していく。

 詰めかけた村人たちは傍目にも高揚し、祭宴の始まりを告げる挨拶を今か今かと待ち侘びているのだ。有耶無耶の内に進み出されたエンリの姿に、さっと皆からの視線が集まった。

「よっ、族長!」

 そんな気安くも親しみのある呼びかけが飛び交い、一瞬だけ表情を険しくしたエンリも、やれやれとばかりに小さな溜め息を吐いてみせる。

 持ち上げられた顔は、苦笑いながらも少しだけ晴れやかだった。

 すっかりと元通り……にはなるはずもないが、以前の活気が僅かでも戻りつつあるカルネ村の光景を前に、ユンゲはやおらと頭上を仰いだ。

 色鮮やかな朱に染まった紗幕の向こう、ぷあぷあと瞬き始めた小さな星たちの輝きを眺めながら静かに想いを馳せる。

 

 ――村に迫っていた脅威は去りました。今夜くらい、思いっ切り楽しんでしまいましょう!

 

 どこか不思議な響きを湛えるエンリの言葉に耳を傾けつつ、ユンゲの頬は無意識の内に緩んでいくのだった。

 

 *

 

「……ん、ペリュトンの角をですか?」

「えぇ、どのような効能があるかも分からないのですが、滅多にない機会なので色々と試してみたいのです!」

「えーと、別に構いませんよ。俺は“こっち”で満足なんで……」

 勢い込むンフィーレアに気圧されつつも、ユンゲは手にしていた大振りの骨付き肉を掲げてみせた。

 丁寧に焼き上げられ、芳ばしく香り立つ垂涎の逸品に勝るものなどない。

 本当ですか、と声を弾ませるンフィーレアに向けて、「流石に、角までは食べられませんからね」と冗談めかせつつ、とろりとしたたってきた脂を指先で抄い上げたユンゲは、行儀も気にしないでぺろりと舐め取る。

 たった一雫だけでも舌の上に広がる濃厚な旨みは、噂に違わない極上の美味だ。

「――でも、動物の角が薬になるのですか?」

「そうですね……例えば、若鹿の生え始めた角は滋養強壮に効くとか、解熱や鎮静作用のある種類なんかも知られていますね」

 何から試そうかな、と前髪の奥に隠れがちな瞳を輝かせているンフィーレアは、既に心ここにあらずといった様子だった。

 食欲に忠実たらんとするユンゲには信じられないことだが、ペリュトンの枝角という稀少な素材を手にしたことで、“薬師”としての血が騒いでしまうのだろうか。

 川辺で剥いだ皮革なども素材としては貴重らしいのだが、差し当たって食べられない部位なので、ユンゲは関心を持てないでいる。

(ゲーム的に考えれば、新しい装備を作ったりするところか? ……まぁ、村で防寒用とかに役立てて貰えたら良いよな)

 ぼんやりと思考を巡らせながら骨付き肉に齧りつけば、途端に溢れ出してくる肉汁に、一瞬で心を鷲掴みにされてしまう。

 どこか癖になる野性味とともに、ほんのりと甘みも感じられる堪らない味わいは、帝都が誇る最高級の料亭にも引けを取らないはずだろう。

「ただ焼いただけで、これだもんなー。マリーたちの作ってくれる料理が楽しみだ」

 思わずと期待の言葉を口にしながら、大樽で持ち込んでいたエールのジョッキを一息に傾ける。

 魔法詠唱者でもあるンフィーレアに頼み、生活魔法の〈クール/冷却〉で程良く冷やしてもらった酒精が、一気加勢に喉元を駆け抜けていく。

 得も言われない心地良さには、我知らずと呻きがこぼれてしまうが、これは世の中の真理だろう。

(ペリュトンか……この近くにもう二、三頭いてくれないかな)

 だらしなく口許を綻ばせたユンゲが、そうした取るに足らない考えを思い浮かべていたときだった。

 

 不意に打ち鳴らされた一つの甲高い鐘の音――、極上の肉に舌鼓を打っていた村人たちの賑やかな喧騒が、波の引かれるように去っていく。

 満面の笑みが方々で強張ってしまう有様に、ユンゲが胡座から腰を浮かしかけたところで、再びの鐘の音が耳朶を震わせた。

 間隔を開けた二度の鳴鐘は、来村者の存在を報せる合図として事前に取り決められている。

 ――少なくとも、王国軍による再来襲ではない。

 その認識が安堵とともに伝わり、広場に集まった村人たちから、ふと気の抜けたような溜め息が重なった。

 腰の剣帯に手を伸ばしかけていたユンゲもまた、周囲の者と倣らうように軽く息を吐いて緊張を解く。しかし、間もなく日も暮れようとする刻限に、辺境の開拓村を訪れるのは、どのような手合いだろうか。

 少しばかりの興味を惹かれて視線を返せば、いち早くに“村長”であるエンリが正面門の方へと歩き出しており、油断なく帯剣したジュゲムとカイジャリの姿も続いていた。

「――ちょっと、僕も失礼しますね」

 申し訳なさそうに立ち上がったンフィーレアが、小走りで後を追っていくのを見送りつつ、ユンゲは追加のエールを手に入れるために踵を返す。

 村の代表者であるエンリが出迎えたのなら、とりあえずは問題にならないだろう。

(……真面目な護衛もいることだしな)

 大半の村人たちもユンゲと同様の考えらしく、沈黙を嫌うように楽しげな笑いの輪が広がっていく。

 苛酷な境遇にありながらも、懸命に前を向こうとする姿勢には、敬意を覚えずにいられないのだ。自身の小さな行いが、僅かながらでも助けとなるのなら本当に喜ばしいことだろう。

 黄昏の薄暗さを吹き飛ばすほどの、明るい雰囲気に満ちた広場の中を敢えて大回りしながら、ユンゲは柄にもない思いを抱いてしまう――と、

 

「おっほー、なんだか賑やかでごさるなー!」

 

 突然、どこかで聞き覚えのある歓声が響き渡ったのだった。

 

 




最近の情勢的に長らくご無沙汰ですが、久しぶりに焼肉やBBQとかがしたくなりました。気兼ねなく過ごせる日常が、早く戻ってきてほしいものですね。

-冒険者組合-
とある筋からの噂では、「規約違反者を暗殺する部隊」を抱えているらしい……という“勘違い”フラグを立てつつ、次回に続きます。


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(47)杞憂

誤字報告いただき、ありがとうございます。

バルブロ関係の記述を少し追加しました。



 特定の国家に帰属することのない冒険者組合では、組織の独立性を維持するためにいくつかの規約を掲げている。

 害をなすモンスターの脅威から人々を守ることや、犯罪行為に関与しないという基本理念は誰もが知るところであり、神殿勢力との折合いから治癒魔法の行使に関する制約が設けられることもあれば、厳正中立を保つために国家間の政治や戦争行為への参加も容認されていない。

 こうした規律を重んじる組織の方針に従えないのならば、依頼の斡旋や事前調査などの恩恵を受けることなく、請負人〈ワーカー〉になって自身の裁量で全ての物事を判断し、自由な考えの下に活動しても構わないのだ。

 ――そうであるからこそ、“冒険者”としての肩書きを利用することには、重大な責任が伴っているのだろう。

 

 篝火から少し離れた薄暮の暗がりにあって、一層と闇を色濃くする漆黒の全身鎧を見遣り、ユンゲは静かに息を呑んだ。

 酒宴でのほろ酔い気分が、さらりと覚めてしまうようなそら寒い感覚。

 知己であったらしいエンリやンフィーレアとともに、中央の広場へと向かってくる威風堂々たる歩き姿に、ユンゲの身体が無意識の内に緊張を帯びる。

 先頭を進む偉丈夫の戦士に続き、従者のように寄り添う艶やかな黒髪の魔法詠唱者と――、

「おー、あれは“森の賢王”様だ!」

 パールホワイトの豊かな毛並みが揺れ、馬を凌ぐほどのまん丸な巨体に気付いた村人の一人が声を上げた。

 稀代の英雄として勇名を馳せる“漆黒”のモモンとナーベよりも、従属魔獣であるハムスケの方が注目されている場面は、エ・ランテルなどの街中ではあまり見られない。かつて、周囲一帯が“森の賢王”こと、ハムスケの縄張りであったという、カルネ村ならではの光景だろう。

 畏敬の込められた群衆の視線を集めていることが嬉しいのか、後脚で立ち上がって二足歩行となったハムスケが、前肢を愛想良く振ってみせる様には、何とも愛玩動物〈ハムスター〉らしい微笑ましさがあった。

(……そうか、護衛依頼の途中で懐かれたとか言ってたっけ。依頼のときに立ち寄っていたなら、村人たちと知り合いにもなるよな)

 和やかな様子で言葉を交わしながら近付いてくるモモンやエンリたちを遠巻きにしていれば、逸れかけたユンゲの思考を不意の悪寒が遮った。

 軽い身震いを覚えて目を向けた先に、白皙たる美貌と黒曜石を彷彿とさせる切れ長の瞳。

 こちらを睨み据える“美姫”ナーベからの冷ややかな眼差しが、いつにも増して凍てついているように感じてしまうのは、ユンゲの思い過ごしではないのだろう。

 面頬付き兜のためにモモンの表情は知れないが、同じくこちらの様子を窺っている気配もあった。

 ユンゲの心中に渦巻く懸念は、最高位アダマンタイト級の冒険者チームである“漆黒”が、今この情勢下で辺境に位置する開拓村へと訪れることの意味合いだ。しかしながら、先に撤退したリ・エスティーゼ王国による報復部隊の先兵であるはずもないのは、村人たちに対するモモンの友好的な振る舞いにも明らかだった。

(……なら、理由は一つしかないか)

 冒険者登録をして暫くの後、顔馴染みとなった受付嬢から組合の規約に係る違反者の取り締まりについて、冗談めかせながら脅しをかけられたことがあるのだ。

 悪質な者には仕事を干すだけでなく、冒険者の品位を維持するため秘密裏に始末することもある、などと朗らかに笑ってみせた受付嬢は、「あんまり、悪いことはしちゃいけませんよ」と軽い調子で言葉を締めていた。

 当時としては適当に聞き流したものだが、そうした組合としての意向を下達するため――或いは、執行する目的のために“漆黒”が、カルネ村まで赴いたということなのだろう。

 わざわざ最高位の冒険者チームを寄越すほどの内容が、穏便であるとも思えないのだ。まさか、この場で暗殺されるとまでは考えたくないものの、自身の行動を振り返ったのなら、組織側に良く思われていないだろうことは想像に難くない。

 精巧な彫像然としたナーベから向けられる零下の視線が、ユンゲを糾弾する刃のように感じられてならないのだ。

(……いや、下手に言い訳なんてできないか)

 これまでに接してきたモモンの人柄を思えば、こちらの事情を汲んでくれるような期待もあったが、語り継がれていく古の英雄譚を地で行くほどの清廉潔白な相手だ。

 数多くの王国兵を自らの手で殺めてしまった事実が、どのように受け止められてしまうのか――ふと身勝手な思考の流れに気付き、ユンゲは自嘲めいた笑みに口許を引き攣らせた。

 臆病を自覚していたはずの内心は、何よりも密かな憧れを抱いた存在に見切られてしまうことを怖れているらしい。

 村人たちの明け透けない談笑が、やけに遠くから響いてくるような気がした。

 あまりの情けなさに小さくかぶりを振り、ユンゲは乱れた髪を無理矢理に撫でつける。広げた両手で自身の頬を張りつければ、少しは見られた顔になるのだろうか。

 村全体を囲う塀の向こう、西空の彼方で藍色の帳に追いやられていく夕焼けの残滓を一瞥し、重い溜め息を吐き捨てたユンゲは、礼を失さないようにと一歩を踏み出す。

 こちらの奇行を訝っていたらしいナーベが、モモンの耳許に寄せてから優雅に身を引き、仕えるべき主人を立てるように恭しく一礼をしてみせた。

 そうして、やおらと向けられた兜の細いスリット越しの視線に、ユンゲは堪らない緊張で胸が張り裂けそうになるのだった。

「――っ、ご無沙汰しています。モモンさん、ナーベさん」

 

 *

 

 盛り上がっている宴席の喧騒から、少しだけ離れた広場の片隅。

 ようやっと声を絞り出したこちらの様子を気遣い、さり気なく人払いをしてくれたモモンに向かい合ったユンゲは、“第一王子”バルブロ・アンドレアン・イエルド・ライル・ヴァイセルフの率いる王国軍と戦うことになった一連の出来事について話し始めた。

 感情の揺らぎとともに拙くなってしまう説明にも、軽い相槌を返しながら聞き役に徹してくれたモモンの心配りが有り難く、一方で更に鋭さを増していくナーベの眼力が横合いから責めるように頬を突き刺してくる。

「……なので、図々しい願いだとは思うのですが、規約違反の誹りを受けるのは、俺一人だけにしていただきたいのです」

 一緒に背負う、と言ってくれたマリーたちの気持ちは嬉しくとも、こればかりは譲れないのだと意を決して頭を下げる。

 幾許かの時間をかけつつも伝えるべきことを言葉にし終えたのなら、すっかりと汗ばんでいたユンゲの背筋を冷たい夜風が無遠慮に叩きつけていった。

 やがて、裁決を待つ被告人のような心境にも、少しだけ清々しい気分でユンゲが顔を持ち上げてみれば、不意に小さく肩を震わせていたモモンの姿に面を食らってしまう。

「ふふっ、なるほど……いや、失礼」

 思いがけない反応に視線を彷徨わせれば、戸惑いの色が浮かぶ黒曜石の眼差しとかち合った。

 ――耳朶を爪弾く、舌打ちの音。

 慌てて目を背けたユンゲは、内心の焦りを取り繕いながらモモンに向き直る。

「先ず、ユンゲさんは一つ思い違いをしていますね。私たちがこのカルネ村を訪れた理由は、一つの頼まれ事からですが、組合からの要請という訳ではありません」

 何故か楽しそうなモモンの声音。真意が掴めないままに、ユンゲは曖昧に顎を引いてみせた。

「受付の方ですよ。名前は……失念してしまいましたが、貴方たちのチームの無事を確かめて欲しいと“お願い”をされましてね」

「えっと……俺たちの無事、ですか?」

「えぇ、そうです。どうやら、ユンゲさんはご存知なかったようですが、王国軍の別働隊を率いたバルブロ王子は、このカルネ村方面へと向かった後に消息を絶っているのですよ」

 どこか淡々としたモモンの言葉に耳を傾けつつ、ユンゲは軽い驚きに目を見張った。

 

 村の窮地に駆けつけた“仮面の英雄”アインズ・ウール・ゴウンの手勢――この世界では、伝説級のアンデッドとも称される死の騎士〈デス・ナイト〉による反撃を受け、攻め寄せていた王国軍は瞬く間に逃散していった。

 馬の背にしがみついて敗走するバルブロの無様な後ろ姿を見かけた覚えはあるものの、負傷者の救護を優先したこともあり、その行方についてはユンゲの与り知るところでない。

 圧倒的な死の軍勢を指揮したアインズも特に追撃を加えることなく、カッツェ平野の戦場へと転移で舞い戻っていったはずだ。

 撤退の最中に何かしらの危機に遭遇したのか、或いは敗戦の責を問われることを怖れて第三国へと逃亡したのか。夏頃に発生した悪魔騒動での醜態からバルブロは評判を落としており、最近では実弟の“第二王子”が次代の国王に推されているとも囁かれていたので、あり得ない話ではないはずだ。

 さもなければ、逃げ延びた先で権力闘争のために暗殺され、その不都合な死を行方不明という扱いで隠匿されている、といった可能性もあるのかも知れない。五千人からなる部隊が、そっくりと消え去るような事態は想像し難いが、何かしらの緘口令が敷かれていると考えたのなら、多少の理解はできるだろうか。

「――真偽のほどは分かりません。いずれにせよ、ユンゲさんの話してくださったカルネ村での戦いについて、エ・ランテルでは一切の報告も上がっていないはずですよ」

 そんな余裕もないでしょうしね、とモモンが言葉を小さく含みを持たせる。

 現時点で把握されている情報は、トブの大森林の南方に位置する開拓村の方面へと派兵された別働隊五千人の消息が不明であり、同時期に送り出された一組の冒険者チームについても連絡が途絶えてしまった、という事実だけだ。

「……つまり、モモンさんがこちらのカルネ村にいらしたのは――」

「そうですね、リ・エスティーゼ王国に対する反逆者を成敗するためでも、組合規約の違反者を取り締まるためでもありません」

 尻すぼみになるユンゲの言葉を引き取り、やや申し訳なさそうにモモンが肩を竦めてみせた。

「カルネ村の近郊で、何か不測の事態が起きているかも知れない……だから、モモンさんに様子を探ってほしい、と」

「えぇ、正確には『エ・ランテル周辺のモンスターを退治するときに、少しだけ遠出をしていただけませんか?』とね」

 張り詰めていた緊張の糸が切れ、ユンゲの口から気の抜けた溜め息がこぼれてしまう。

 諸々と考え込んでしまっていたことは、自身の杞憂に過ぎなかったらしいと安堵感に腰を下ろしかけ――、不意の閃きに慌ててモモンの姿を振り仰ぐ。

「――ご安心ください、無闇に他言するような真似はしませんよ。リ・エスティーゼ王国の在り方には、私も少し思うところがあります。……ユンゲさんの行いを責めるつもりもありません。同じ立場であれば、私もこの剣を手にすることになったでしょうから」

 一切の奇を衒うこともない、断定の口調に思わず胸が熱くなる。

 こちらの考えなど、全てを見通していると言わんばかりの鷹揚たる英雄の振る舞いを受け、ユンゲは尊敬の念を込めて頭を下げた。

 王国軍への反抗や治癒魔法の行使等に係る規約違反――問題提起されていない罪状を自ら暴露したも同然ではあったが、それらの行為について、“漆黒”のモモンが肯定する立場を示してくれたのだ。

「……何と言うか、少し救われた思いです」

 ありがとうございます、とモモンに感謝の言葉を重ね、ユンゲは相変わらずの厳しい眼差しを向けてくるナーベにも向き直って頭を下げた。

「…………っ、今回だけです」

 微かに鼓膜を震わせた舌打ちに、頬を刺していた極寒の鋭針が僅かながら和らぐ気配。

 珠のような“美姫”からの評価が好転したとも思えないが、現状は何とか事を収めてくれるらしい。

「遠くまで足を運んでいただいてしまい、申し訳ないです。……えっと、お二人とも夕食はまだですよね? 宜しければ、ご一緒にいかがでしょうか?」

 珍しいペリュトンの獣肉もありますよ、と言葉を続けたユンゲは、四方からの篝火に照らされる広場の中央――村人たちが寄り集まる賑々しい宴席を振り返りながら遠慮がちに問いかける。

「いえ、私としても少しばかりエ・ランテルを離れる口実が欲しいところでしたので、お気になさらないでください。食事についても自分たちの分は持参していますので、あれほどの素晴らしい獲物は、カルネ村の皆さんと楽しんでいただければ――、と」

 あっさりとしたモモンの返答にも、そうした反応を予想していたユンゲは顎を引くだけに止めた。

 稀代の英雄たる“漆黒”の二人は、催事への誘いに消極的なことでも有名だった。どうにかして顔を繋ぎたいと数々の策を弄しながらも、モモンの丁寧な断り文句とナーベの完璧なまでの無視を前に、散々と玉砕していく者が長らく跡を絶たないのだ。

 かつて、職場や取引先との宴会などに乗り気でなかった身としては、面倒事を避けようとする相手に無理強いする考えもない。

「――了解しました。えっと……この度は、本当にありがとうございました」

 無用に引き止めることはせずに、ユンゲは素直に身を引いた。

 

 こちらを遠巻きにしていたエンリに声をかけ、カルネ村での一泊に了承を得たモモンが、ナーベと連れ立って騒がしい広場を離れていく。

 その偉大に過ぎた後ろ姿を見送り、ユンゲはようやっと息を吐くように夜空を仰いだ。

 知らぬ間に、すっかりと頭上を覆っていた深い藍色の帳をぼんやりと見つめたのなら、ふと穏やかに揺蕩うような星たちの輝きに目を奪われてしまう。

 煌びやかな金糸を撚り合わせたような無数の光の帯が、雲状に集まりながら豊かな流れを形作り、天空の帆布に神々しいほどの“光の大河”を描き出している。最近では随分と見慣れたような、それでいて一切も飽きることなく眺めていられる絶景だ。

「この世界にも、星座とかはあったりするのかな」

 ふと何気ない呟きが口端からこぼれ、さらりと冷たい夜風に攫われていく。

 軽い身震いに肩を竦めつつ、小さくかぶりを振って視線を返したのなら、こちらに向かって小走りで駆けてくる華奢な人影。

 焚かれた篝火の横を通り過ぎる拍子に、括られた髪の一房が鮮やかな赤みを孕んで軽やかに弾んだ。

 両手で大事そうに抱え持った鉄鍋と立ち昇るやわらかな湯気の向こうに、ちょっとだけ誇らしそうな微笑みが浮かんでいる。

 ほんのりと上気した白い頬に、懸命な様子を想起させる煤埃の跡が、堪らないほどに可愛らしい。

 相当な自信作ができたらしいな、と心の中で嘯いてみせながら、軽く手を振って呼びかける。

 そうして、少し気恥ずかしいような思いで口許を綻ばせつつ、ユンゲもまた小走りに駆け寄っていくのだった。

 

 




-ナーベラルのツンデレ?-
冒険者としての正式な依頼でもなく、下等生物の無事を確かめるという限りなく無駄な目的のために、小間使いのような真似をさせられたことに起因。
一方で、久しぶりに“至高の御方と行動する名分”を得られたことが、嬉しくもあり少しだけ複雑な心境のようです。但し、ユンゲに対するデレは未来永劫ありませんが……。

モモンガ様としては、先の(Side-M)で触れたように、魔導国の建国後は気軽に出歩けなくなることを憂慮しての逃避行動になります。
原作においても、カッツェ平野での戦争に前後して、“漆黒”がエ・ランテルを離れている描写があるので、一応は整合性も図れているかな。

考えていたよりも長くなったカルネ村での滞在ですが、次回でようやくと区切りになる予定です。


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(48)燗酒

前回の投稿から間が空いてしまったので、以下に簡単な前話の流れをーー。

王国軍の撤退後、カルネ村の復興を手助けしていたユンゲたちの前に、“漆黒”のモモンとナーベが現れる。冒険者組合の規約違反を黙認されたことに安堵したユンゲは、再び盛り上がる宴席へと向かっていった。

※ 時系列としては、カッツェ平野での大虐殺から魔導国成立に至るまでの冬の出来事となります。


「――お父さんを助けてくれて、ありがとう! またね、冒険者様!」

 小さな身体で精一杯に手を振る少年の姿に、馬車の荷台から振り返ったユンゲは、少しばかりの気恥ずかしさを覚えながらも小さく拳を掲げてみせた。

 途端に湧き起こった歓声や高らかな指笛の音は、真新しい外門の前に詰めかけている大勢の村人たちから発せられた。

 少年の肩を優しく抱いていた父親まで、喉を枯らさんばかりに声を張り上げている。

 不意の反応には軽く驚いてしまうが、内心の戸惑いを顔に出さないように表情を取り繕う。

 思いがけない“漆黒”モモンとナーベの来訪から更に半月余り――、ユンゲたち“翠の旋風”が出立の意思を告げたところ、エンリを始めとした全ての村人やゴブリンたちまでもが、見送りのためにと集まってくれているのだ。

 遠くアゼルリシア山脈から吹き下ろす風が肌を刺すほどに冷たくとも、次々と投げかけられる感謝の声に胸の内は熱くなる。

 どこかむず痒いような思いを抱きつつも、やおらと視線を持ち上げたユンゲは、ようやくと完成したカルネ村を囲う“二重の塀”を見回した。

 リ・エスティーゼ王国軍の攻勢によって無惨に破壊されてしまった村の光景も、村人たち全員の尽力と“アインズ・ウール・ゴウン”の名において派遣された疲れ知らずなアイアン・ゴーレムの働きによって、すっかりと見違えるほどに様変わっている。

 村全体を囲っていた塀や門の周りなどは、以前よりも強固となるように補修を施され、居住区だけでなく新たに農耕地全体までを囲うように設けられた第二の塀の存在から、一層と砦や要塞らしい外観に拍車がかかって見えた。

 緊急時の連絡手段や脱出路の運用といった仔細については、ンフィーレアやジュゲムたちに任せ切りだったが、余程の事態にも対応できると力強く請け負ってくれてもいる。

 リ・エスティーゼ王家を敵に回してしまったカルネ村の将来を思えば、決して順風満帆な暮らしとはいかないのだろう。

 それでも、晴れやかな笑顔の咲き誇る光景を前にすれば、ユンゲは自身の行動を間違っていなかったのだと信じることができたのだ。

「……これで、良かったよな」

 問いかけるでもなく口からこぼれた呟きには、自然と安堵にも似た色が滲んでいた。

「はいっ、本当に良かったです」

 傍らに腰を下ろしたマリーが、凛とした声音とともに柔らかな微笑みを向けてくれる。

 括られた艶やか金髪の一房が風にそよぎ、白い頬をくすぐるように撫でていく。

 はっきりとした肯定の言葉に、思わず相好が崩れてしまいそうになるのを自覚しつつ、ユンゲは一つ頷きを返して遥かな空を仰ぎ見た。

 久しぶりに眺めた気のする高い空には、淡い白雲が棚引くように広がり、抜けるような青とのコントラストが目にも美しく、少しだけ近付いた春の気配を感じさせてくれるようだった。

 そうして、ふと視線に舞った鮮やかな光の欠片――真新しい物見櫓から放たれた色とりどりの花弁たちが、麗かな陽射しを浴びて煌めきながら乱舞し、ユンゲの視界を華やかに染め上げていく。

 

 復興の半ばで去る決断に後ろめたさもあり、本来であれば昨夜のうちにエンリだけに話を通して、明け方には発つ考えをまとめていた――のだが、ユンゲたち“翠の旋風”は気付けば村を挙げての盛大な見送りを受けることになっていた。

「――本当にありがとうございました! カルネ村の皆が、この御恩を絶対に忘れません!」

 また、いつでもお越しください、と振り絞るように声を張ったのは、村人たちを代表するように一歩前へと進み出たエンリだ。三つ編みのおさげ髪が似合う純朴そうな村娘然とした佇まいでありながら、強い責任感を宿した瞳の印象的な少女だった。

 その傍らには、幼い妹のネムと恋人であるンフィーレアが肩を支えるように寄り添い、屈強なゴブリンたちの頼もしい姿も見える。

 自身をまるで英雄視するような村人たちからの眼差しには、面映い思いを覚えずにはいられない。

 ――だが、そうであっても緑豊かなトブの大森林まで色を褪せてしまう冬の季節に、どのようにして探し集めたのか、彩りも華やかな野花のシャワーを降らせてくれた村人たちの労力を考えたのなら、決して悪い気はしなかった。

「――こちらこそ、ありがとうございました。また、必ず寄らせてもらいますね」

 特に気負うこともなく、再会を願う言葉を口にしてから、ユンゲは静かに頭を下げる。

 惰性のように過ごしていた以前の生活とは異なり、突然の異世界転移を経験してからの日々では、感謝の言葉をかけられることが多くなっていた。

 偽らない事実として、“ユグドラシルの恩恵”を受けた影響は大きいのだろうが、様々な状況に流されながらも、ユンゲが自らの意志で行動を選択し、物事に関わるようになったことだけは間違いない。

 右も左も分からなかった未知の異世界の中に、僅かだけでも自身の居場所が得られたような思いが、胸の内に満たされていく――と、不意に鼻孔をくすぐるような甘い香り。

 こちらの視線に気付き、不思議そうに小首を傾げてみせるマリーのさらりとした髪を軽く撫でつけ、ユンゲは横道に逸れかけた思考を切り替えるように、小さく息を吐いて気持ちを落ち着けた。

「――それでは、皆さんもお元気で」

 見送ってくれる村人たちに殊更と大きく手を振り返し、名残り惜しいような思いのままに半身の姿勢で前方へと目を向ける。

 そうして、御者台で姿勢を正すようにしていたリンダと一つ頷きを交わしたのなら、慣れた様子で荷馬の手綱を引いてくれる。

 小さく軋む車輪の音とともに、緩慢な動きで進み始めた荷台に揺られながら、ユンゲは静かにもう一度だけ頭上を仰いだ。

 仄かな薄曇りの向こう――、少しだけ頼りない印象もある早朝の太陽は、それでも眩しいほどの光を枯野の大地へと降り注いでくれていた。

 

 *

 

 不意に背筋を駆け抜けていった冷たい風に、ユンゲは思わずと身を強張らせる。

 なけなしだった太陽の恩恵も、既に遠い地平線の向こうへと沈んでしまった暗がりの中で、暖を取るための焚き火の灯りだけが赤く揺らめいていた。

 トブの大森林の外縁に沿って伸びた畦道を進み、カルネ村とエ・ランテルを結ぶ道程の半ばほどにも差し掛かったのなら、周囲には人々の営みを見つけることはできないだろう。

 やや疎らとなった樹の幹に寄せて野営用のテントを張り、軽めの夕食を済ませた頃合いだ。こうした時刻にもなれば、頭上に散りばめられた星たちの輝きばかりが頼りとなるのだが、生憎と分厚い雲に覆われてしまっている。

 そうした次第なので、手元の熾火に照らされている僅かな範囲より先は、すっかりと闇色の世界に閉ざされてしまったように思えてならないのだ。

「――不死者〈アンデッド〉の王様って、正直どうなんだろうな」

 火に焚べるための小枝を特に意味もなく指先で遊ばせつつ、ユンゲは傍らのリンダに向けて何とはなしに口を開いた。

「さて、私は直接お見かけもしていないので判断に困ってしまいますね。私も神官〈クレリック〉の端くれですので、本来であればアンデッドのような存在と相入れられるとは思えないのですが……それでも、人間とともに協力しながら暮らすゴブリンやオーガたちを目の当たりにしてきましたから――」

 小さな驚きを懐かしむような声音で肩を竦めてみせたリンダが、手にする木匙で火にかけていた鉄鍋の底を浚っていく。

「少なくともカルネ村の皆様からは、大変に慕われていたように感じました。……どうぞ、かなり熱くなっていますので、お気をつけ下さい」

 小枝を炎に投げ入れつつ、差し出された陶製のカップを受け取れば、やや悴んでいたユンゲの手のひらに嬉しい、じんわりとした熱が伝わってくる。

 立ち昇る柔らかな湯気に頬を緩ませつつ、軽く息を吹きかけながら口に含んでみる。

 ふわりと芳醇な葡萄酒の味わいが鼻腔をくすぐり、喉を抜ける仄かな酒精とともに身体を内から温めるように広がっていく。

 堪らない心地の良さには、無意識の内に感嘆の吐息がこぼれてしまうのも仕方がないことだろう。

 少量の蜂蜜と刻んだ生姜を加えながら温めたグリューワインは、野外で夜風が骨身に染みる今の季節にこそ、これ以上とないご馳走になるのだ。

「……これ、最高に美味いよ」

 ありがとな、と屈託のない笑みを浮かべたユンゲは、気を取り直すように“漆黒”のモモンから知らされた世界の情勢へと考えを巡らせていった。

 

 バハルス帝国との決戦に大敗したリ・エスティーゼ王国は、先立って布告された宣誓の要求を呑むほかに手立てはなく、王家直轄領であった城塞都市〈エ・ランテル〉近郊の割譲を正式に承諾した。

 国土の防衛と交易の要衝を担っていた東端の拠点を失う結果になった王国側のダメージは計り知れないが――、そうした実際の損失以上に、帝国の同盟相手として参戦した稀代の魔法詠唱者の勇名――或いは悪名が、戦場からの逃亡兵を媒介に王国市民たちを震え上がらせているらしい。

「……“魔導王”アインズ・ウール・ゴウン、か」

 かつて、ユンゲを呼び出した嫌味な“鮮血帝”ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスが挑むように問いかけ、純朴な村娘のエンリが憧れの眼差しとともに感謝の言葉を口にし、底の知れない怖ろしさを秘めたルプスレギナが絶対の忠誠をもって仕える相手――エ・ランテルの支配を手中にし、新たな国家を築いて君臨する者の名だった。

「……直に話したけど、全然気づかなかったな」

 カルネ村の窮地に駆けつけると圧倒的な武力で敵方の王国軍を退け、復興のために多大な協力を惜しまなかった“仮面の英雄”の正体は、生者への憎悪と殺戮を渇望するばかりのアンデッドなのだという。

 いずれ分かることでしょうから、と肩を竦めてみせたモモンの説明を裏付けるように、奇妙な仮面の奥に隠されたアインズの素顔をユンゲは確かに見ていない。

 生者と死者の間には、決して埋まることのない隔たりが存在するはずなのだが、アンデッドによって統治される新たな国家とは、どのようなものになるのか――。

 異世界からの流れ者であるユンゲが関知することではないのだろうと思いながらも、既に敗残の王国貴族や都市外にも伝手を持つ商人、一部の冒険者などが拠点を移し始めているという話だ。

 以前にルプスレギナから告げられた、王国の連中はユンゲたちに構っている余裕はない、という言葉が思い起こされる。

 貴族や商人ばかりでなく、国家に縛られることのない冒険者までもが去るという事態は、やはり相対した経験からアンデッドに支配される状況を受け入れられない者が多いのだろう。実際にアインズと接したことがなければ、ユンゲ自身も似たような考えを抱いたことは想像に難くない。

「でもまぁ……本当に“村の救世主様”って感じだったし、とても悪い存在だとは思えないよな」

「キーファやマリーも同じことを言っていましたね。結局のところ、私たちがこれまでに戦ってきたような……一般的なアンデッドとは違う存在なのでしょうね」

「そうであることを願うよ。ちょっと前のカッツェ平野で、散々に狩りまくったしな」

 同族の恨みとか言われたら大変だ、と軽い調子でユンゲが冗談めかせば、口許を緩ませながらリンダが小さく首肯を返してくれる。

 

 エ・ランテルの住民たちには突然の試練であっても、王国側と完全な敵対関係になってしまったユンゲたち“翠の旋風”やカルネ村にとっては、一方で都合の良い情勢であるとも理解できた。

「色々あるだろうけど……今後のことは、エ・ランテルに戻ってから皆で話し合おうか。とりあえず、夜中の見張りは予定通り俺がやるから、リンダもそろそろ休んでくれて構わないよ」

「えぇ、お言葉に甘えてそうさせていただきます。……これから冷え込むでしょうから、こちらもお使いください」

 軽やかに立ち上がったリンダが、自身の細い肩に羽織っていた毛布を解き、流れるような所作でユンゲの背中へと重ねてくれる。さり気ない心遣いが素直に嬉しい。

「ん、助かるよ」と感謝の言葉を口にしつつ、テントの方に歩いていくリンダの後ろ姿を何気なく目で追いかける。

 嫋やかな腰まで伸びる銀の長髪が、揺らめく焚き火の灯りに照らされて艶やかな光沢を放つ。

 いつの間にか空になっていた葡萄酒のカップを置き、ふと首元に掻き合わせた毛布からは甘い香り。

 不意に脳裡を掠めた想いを払うように、ユンゲは小さくかぶりを振って頭上を仰いだ。分厚い雲で覆われた夜空に、星たちの輝きは見つけられない。

 それでも、草原を渡っていく風は昨日までより穏やかで、雪や雨の降るような気配もなさそうなのだから、より多くのことを望み過ぎても仕方がないのだろう。

 ようやっと吐き出した息が視界を白く染め上げ、一抹の儚さを孕んだように音もなく散っていく――と、

「ユンゲ殿。あくまでも私個人の願いですが、お邪魔でない限りは何処へなりとも、ともに歩みたいと考えております」

 やや唐突な呼びかけは、テントの入り口に手をかけながら振り返ったリンダから――。

 頼りない焚き火の灯りは胸元までも照らすに足りず、その表情を窺い知ることはできなかったが、どこか縋るような響きを湛えた声音を耳にし、ユンゲは敢えて大袈裟に肩を竦めてみせた。

「俺がリンダを邪魔に思うはずがないだろ? そっちこそ嫌になるまで、付き合ってもらうからな」

 ――他愛ない台詞に、暗がりの中でも小さく微笑む気配。いつかの帝都で出会ったばかりの頃であればいざ知らず、“嫌になるまで”などと口にはしながらも、今更になって皆と離れるような未来を想像したくもない。

 やや自嘲めいた感情を胸のうちに忍ばせつつ、ユンゲは努めて軽い口調で言葉を続けた。

「馬車でたっぷり寝かせてもらうから、手綱の捌きは任せた!」

 快適な眠りのために安全運転で頼むな、と冗談交じりに言い添えたのなら、こちらに向き直ったリンダがはっきりと頷きを返してくれる。

「――はい、確かに承りました。それでは、おやすみなさい」

「あぁ、おやすみ」と軽く手を振って見送ったユンゲは、途端に物寂しくなった周囲を見回しつつ、道すがらに集めていた枯れ枝の束を拾い上げる。

 火勢の弱まっていた焚き火へと無造作に放り込めば、瞬くような無数の火花が闇色の空を舞い上がっていく。一際と高く昇っていった紅色の軌跡が、視線を持ち上げた先の宙空で幻想のように消え入り、ユンゲは小さく息を吐いた。

 そうして、何となく手持ち無沙汰になってしまった思いを抱きながら、空のカップに残りの葡萄酒を注いでみる。

 柔らかな湯気の向こう――、明け方の当番であるキーファとマリーが起き出してくるまでには、後どれくらいあるのだろうか。

 虫鳴きもない静かな夜更けに、時折パチパチと爆ぜる焚き火の音ばかりが、静かに降り積もっていくかのようだった。

 

 




久しぶりの新刊は嬉しかったですね。
二次創作の捗りそうなネタも多かったので、アニメと合わせてまたオーバーロード界隈が盛り上がることを願いつつ、早く時間に余裕が欲しいです。

(エルフの料理が美味しくなさそうなのは、この作品的にスルーさせていただきます)


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(49)薫風

気が付けばアニメの四期が終わってしまった。ミュージカルなラナー様は、とても幸せそうでしたね。

時系列は前後しますが、聖王国編は劇場版というとことなので、こちらも楽しみにしたいと思います。


 ――不意に、優しく前髪を撫でていった温もり。

 甘やかな心地の良い香りに満たされる、ふわふわとした微睡みの中、ユンゲは目蓋の向こうに柔らかな光を感じた。

 ぼんやりと開けていく視界の裾から鮮やかな青が広がり、さらりと吹き流れた涼やかな風に、少しだけ春の近付いている気配がする。

「あっ、お目覚めになられましたか?」

 思いがけず耳許で囁かれた声に、眠りの淵で揺蕩いながら視線を返せば、逆さまに覗き込んでくるのは澄んだ碧の双眸。側頭部で括られた金髪の一房が、麗かな陽だまりの中で輝くように細い肩口へと垂れていた。

 ようやっと寝惚け眼を擦りつつ、仰向けのままに見上げる格好となったユンゲは、「……ん、おはよう」と短く言葉を絞り出した。

 ふと込み上げる欠伸を抑えようと身体を強張らせかけ、それでも堪え切れなかった残滓が、間抜けな口の端から溢れてしまう。

「ふふっ、おはようございます。えっと……到着まで、もう少しお休みになられますか?」

 ピンと立てた人差し指を桜色の口許に寄せた森祭司〈ドルイド〉のマリーが、こちらの疲労を気遣うように可愛らしく小首を傾げてみせた。

 夜半からの見張りはそれなりに堪えるが、朝食後にひと眠りもできれば活動に支障はない。

 返事代わりにやおらと手を持ち上げることで応えつつ、艶やかな金の髪を梳き撫でるようにしながら目標へ――森妖精〈エルフ〉特有の長く尖った形の良いマリーの耳へと伸ばす。

 多くの出来事があったカルネ村からの帰路、ユンゲたち“翠の旋風”を乗せて出発した馬車は畦道を抜け、既に城塞都市〈エ・ランテル〉へと続く街道の本線に差し掛かっているらしい。余計な小石が取り除かれ、人々の往来によって踏み固められた道を進む荷台の旅路は穏やかであり快適だ。

 再びの眠りを誘ってくる心地良い馬車の揺れに身を任せながら、こうして何よりも魅力的なマリーの膝枕に抱かれて過ごすという情景に、内心では抗いたくない思いもあるのだが――、

「いや、起きることにするよ」

 伸ばしていた腕を引き戻し、ユンゲは気持ちを切り替えるように短く言い差した。

 くすぐったそうに身を捩りながらも、「分かりました」と屈託のない笑顔で応じてくれる眩しい眼差しに、無意識の内に頬が緩みそうになるのも仕方がないことだろうと思う。

 そうした気恥ずかしさを誤魔化すように、敢えてのんびりと身を起こしかけたユンゲは、はたと覚えた腹当たりの重みに疑問の声を上げた。

「……あれっ、キーファか?」

 首だけで見下ろした視線の先、ふわりとした風に綺麗な栗色のポニーテールがそよいでいる。立膝を崩したような姿勢でこちらに寄りかかりながら、小さな寝息を立てていたのは野伏〈レンジャー〉の少女だった。

 今更と気を置くような付き合いでもないが、口をぽかりと開けたままで気持ち良さそうに眠っているキーファの横顔を見つめたユンゲは、諸々と言葉を飲み込んで苦笑いを浮かべた。

 流石に気を許し過ぎだと思わなくもないが、随分と役得な状況に文句をつける考えはない。一方で、すっかりと警戒心の抜け落ちた振る舞いを目の当たりにすれば、却って自制心を試されているような気分となって落ち着かないのも確かだった。

 ――それでも、年相応のあどけなさを残すキーファの寝顔から、かつての境遇に根差した暗い影が薄れている気配を見て取り、ユンゲは小さく息を吐きながら口許を綻ばせる。

 鬱蒼としていたトブの大森林は既に遠く、視界を遮られることもない開けた平原を緩やかに伸びている街道だ。不意の襲撃を警戒して、常に気を張り続けるような必要もない。

 出会って間もない頃には、「交代で休憩して欲しい」とユンゲが声をかけても、役に立たなければいけないのだと悲壮な決意を滲ませていた彼女たち三人の姿が、どこか懐かしく思い出されるようになったのだから、決して悪くない変化だろう。

「…………やっぱり、もう少しこのままで頼む」

 キーファを起こしたら可哀想だからな、と言い訳の台詞を胸に秘めたユンゲは、努めて軽い調子で肩を竦めてみせた。

「はいっ、勿論です!」と弾んだ声音に視線を持ち上げれば、雲一つない澄み渡った青空さえ背景にする満面の笑み。

 硬い板張りの荷台が、少しも気にはならない。

「ゆっくりお休みくださいね、ユンゲさん」

 耳許で告げられた蕩けるような誘い文句に骨抜きとなる予感を抱きながらも、ユンゲは全身を弛緩させて、二度目の眠りへと落ちていくのだった。

 

 *

 

「おっ、もう見えてきたな」

 真っ直ぐと伸びていく街道の先に、どっしりと構えた威容を誇る都市の城壁が姿を現していく。長らくと辺境の開拓村に滞在していたこともあり、久しぶりに眺めるエ・ランテルの外観は、遠巻きにも大都市然とした風格を備えているように思えた。

「でも、前のときとは様子が違うね。城門のところに誰もいないよ?」

 御者台に跳び移っていたキーファが振り返り、上目遣いに小首を傾げてみせる。

「……確かに、いつもの入場待ちがいないな」

 交易の要衝であるエ・ランテルには、平常ならば多くの商人や旅人たちが忙しなく来訪しており、街門の前に長蛇の列を成していたものだ。

 冒険者の依頼で都市外へと赴けば、帰還の度にかなりの時間を待たされたことが思い起こされる。

「ここまでも他の連中を見なかった、よな?」

「んーと、あたしも寝てたからね……リンダ、どうだったの?」

 互いに顔を見合わせたユンゲとキーファは、軽く共犯めいた苦笑いを交わしつつ、御者台のリンダへと視線を向けた。

 やれやれとばかりに小さく息を吐いてみせたリンダが、言葉を選ぶように口を開く。

「――途中、荷馬車を引いた隊商らしい方々と擦れ違いましたが、商いのためにというより……慌てて家財道具を運び出しているような印象でした」

「夜逃げ、みたいな感じか?」

「そうですね、今のうちに都市を離れてしまいたいのかも知れません」

「……王様が変わるのなら、逃げ出したくなる奴等もいるよな」

 国家としての在り方が、大きく変容するのだ。

 特権的な地位を得ていた貴族や都市の上層部は勿論、エ・ランテルを交易拠点としていた商人や所属の冒険者、市井の人々に至るまでの影響は計り知れない。況してや、新たに支配者として君臨する“魔導王”アインズ・ウール・ゴウンが、生者を憎むはずの強大な不死者〈アンデッド〉である、と喧伝されていたのなら尚更だろう。

 小さく肩を竦めてみせたリンダが、やや不安そうな視線を前方の目的地へと向けた。

 この場から眺めている限りでは、エ・ランテルの街並みに大きな変化は見受けられないのだが――、

「とりあえず、ここで待っていてくれ」

 どことなく醸し出される澱んだ都市の気配に、ユンゲは少しだけ顔を引き締める。

 リ・エスティーゼ王国軍との戦闘行為について、エ・ランテルでは“一切の報告が上がってない”というモモンの言葉を信じるのなら、このまま入場の検問に進んだとしても問題はないのだろう。

 しかし、既に半月余りの時間が経過していることを思えば、状況は変化しているかも知れない。

 了解しました、と応じてくれたリンダが器用に手綱を引き、道端へと馬車を停止させるのを確認したユンゲは、三人の顔をゆっくりと見回してから静かに言葉を続けた。

「一旦、俺が一人で様子を確認してくる。何か問題がありそうならエ・ランテルには寄らないで、さっさとバハルス帝国を目指そう……あんまり気は進まないけどな」

 事前に方針を話し合っているので、当然ながら仲間たちからの反対意見は出ない――というより、選択肢は限られているのだ。

 王国領である西方は論外としても、北にはトブの大森林とアゼルリシア山脈が広がり、南方に目を向けても森妖精〈エルフ〉と敵対関係にあるらしいスレイン法国に大した期待はできないだろう。

 嫌味な皇帝や厄介な魔法狂いの爺、はた迷惑な興行主を含めて色々な面倒事には目を瞑るとして、消極的ながらも東に位置するバハルス帝国を選ぶしか道はないのだ。

 思わずとこぼしたくなる溜め息を堪えつつ、ユンゲは気を取り直すように掌で両頬を軽く張ってみせる。

「……大丈夫だとは思いますが、万一のことも考えてお気をつけてくださいね」

 あぁ、と小さく頷きを返したユンゲは、無詠唱のうちに〈フライ/飛行〉の魔法を用いて、ふわりと宙空に身を躍らせた。

 

「――お前さん、冒険者の認識票〈プレート〉を失くすとか、腕はそれなりに良いのにどっか抜けてんなぁ。そんな調子だから可愛らしい嬢ちゃんたちにも、愛想を尽かされちまうんじゃねーか?」

 単身で街門に訪れたユンゲを前に、見知った髭面の兵士が気安い態度で笑みを向けてくる。

「はっ、そのときは泣いてでも縋りついてやるさ。ここの雰囲気がいつもと違ったから離れたとこで待たせてるんだよ」

 遠慮のない物言いに軽口を返しつつ、検問所の奥へと視線を巡らせる。

 待機する馬車や人影もなく、薄く土埃を被っている広間は閑散として物寂しい印象だ。

 併設された詰め所には休憩中らしき若い兵士の姿もあるが、こちらに一瞥をくれただけで何か行動を起こそうとする様子はない。

 差し当たって街中で追われて逃げ回る心配をする必要はなさそうだ、とユンゲは静かに胸を撫で下ろして警戒を緩める。

「ところで、あんたこそ随分と暇そうにしてるな」

「見ての通りだ……ったく、酷いもんさ。他所に伝手のあるお偉方や金持ちの商人連中は、すぐに逃げていっちまった。今のエ・ランテルにまだ残ってるようなのは、外の世界じゃ生きていけない奴らばっかりだ」

 吐き捨てるように不満を口にし、肩を怒らせた壮年の男の顔にも幾許かの疲労の色が滲んでいる。

 この世界における人々の往来はかなり限定的だ。

 特に封建制の敷かれた王国領内では、冒険者や行商人を志すような例外を除けば、故郷の町や村から一度も出ることなく生涯を終える者も少なくない。

「親戚でもいなけりゃ、他の都市を頼ることも難しいかもな。あんたは――」

 出ていかなくても大丈夫なのか、とユンゲは言外に問いかけた。

 王国貴族に雇われる兵士の身分を考えたのなら、今回の領土割譲に至る変事において最も影響を被ったうちの一人だろう。

「俺の仕事は、この街を守ることだからな……真っ先に逃げ出す訳にはいかねーのさ」

 小さく息を吐いた髭面の兵士は、「……それによ、魔導国に引き渡すまでの給金は先払いでもらってるしな」と少しだけ戯けるように笑ってみせ、こちらの肩を親しげに叩いてくる。

 何処の世間にもいけ好かない面倒な奴はいるし、一方で不思議と気の合う相手も見つかるものだ。

「――そうか、なら安心だな。とりあえず、待たせてる仲間に声をかけてくるよ」

 思わずと口許を綻ばせつつ、ユンゲは再び〈フライ〉を唱えて空を駆け上がる。

 全くの偶然ながらこの世界で初めて言葉を交わした男の、「おう、任せとけ!」と頼もしい掛け声を背に受ければ、これから先のことも何とかなるように思えてしまうのだ。

 そんな楽観的な思いを抱きつつ、ユンゲはこちらの様子を見つめていたキーファやリンダ、マリーたちに向けて大きく手を振ってみせるのだった。

 

 *

 

 泥濘に刻まれた轍が、均されることもなく乾いてしまった大通りを進めば、人気の遠退いた静かな街並みばかりが続いていた。

「……何か、前よりも雰囲気が暗いね」

「確かに……開いてない店舗も多いし、予想通りとはいえ活気がないな」

 先を歩くキーファに同意を示しつつ、ユンゲは左右の路地に視線を巡らせる。

 客引きの声が耳に煩いほどだった、帝都アーウィンタールの盛況さとは比較することもできないが、それなりの繁盛を見せていた場末の酒場も通りに面した門扉を閉ざしており、贔屓にしていた大振りな肉の串焼き屋台もすっかりと姿がなくなってしまっていた。

 店主らの居住用であろう建物の二階以上に目を向けたのなら、完全に人の気配がないという訳でもない。それでも、通りから見かけられる窓にはどれも厚いカーテンが引かれている様は、外部との接触を避けたいとする意思表示のようにも見えた。

「……とりあえず、荷馬車を預けたら冒険者組合に顔を出そうか。一応、依頼の報告をしないといけないだろうしなぁ」

「はいっ! 受付の方にも早めに無事な姿をお見せしないと、ですね」

 間延びしたユンゲの言葉を引き取り、小さな握り拳を作ってみせたマリーが、場の空気を明るくするように声を弾ませた。

「そうだな……っと、依頼の未達成は初めてになっちゃうかな?」

「仕方がありませんね、本当のことを説明する訳にもいきませんから」

 やや軽い調子で冗談めかせたのなら、御者台から振り返ったリンダもまた微笑みを浮かべながら応えてくれる。

 元々、ユンゲたち“翠の旋風”は「移住者を募る開拓村の実地調査」という名目の依頼を受け、僻地のカルネ村を訪れていた。

 当初に懸念されていた村ぐるみでの犯罪行為等の心配は微塵もなかったが、若くして村長になっていたエンリ・エモットからは、以前にも共に暮らすゴブリンたちの存在を秘密にして欲しいとの希望を受けている。

 何よりカルネ村の置かれた境遇を考慮すれば、敵対関係にある王国からの移民を受け入れることは情勢ばかりでなく、心情的にも不可能だろう。

 依頼を紹介してくれた顔馴染みの受付嬢には申し訳ないと思うものの、全力で有耶無耶にさせてもらうしかない。ついでに長らくと音信不通になったこともあり、モモンから伝え聞いた話では随分と心配をかけてしまっていたらしい。

(……お詫びのために怪鳥〈ペリュトン〉の燻製肉も用意したし、これで勘弁してくれるよな)

 人を寄せつけないトブの大森林の奥地へと分け入り、自らの手で仕留めた異形の獲物は、この世界でも指折りとなる垂涎のご馳走になった。

 噛み締めるほどに全身の細胞が幸福で満たされていく極上の味わいを思い出し、ユンゲは再びの狩猟を既に決意しているほどだ。

「……考えたら腹が減ってきたな。さっさと報告して早めの昼飯にしよう」

「いやっ、この流れで?」

 何気なくこぼれた呟きに、傍らを歩いていたキーファが吹き出すように笑い声を上げた。

「見た感じだと大通り沿いでも開いてる店が少ないからな。……早くしないと席が埋まってしまうかも知れない」

 不思議そうに見上げてくる野葡萄色の瞳を見つめ返し、ユンゲは努めて真剣そうな表情を取り繕ってみせる。

 カルネ村に滞在していた頃の素材を活かした食事も好きだが、街中で供される香辛料の類いをふんだんに使った料理もまた魅力的なのだ。久しぶりに浴びるほどの酒を飲むのも悪くない。

「ふふっ、その方がユンゲさんらしいかもですね。何でしたっけ……、“腹が減っては戦もできない”かな?」

 呆れともつかない楽しそうに弾んだマリーの声音。周囲からこぼれてきた小さな溜め息に軽く肩を竦めつつ、ユンゲは気を取り直すように路地の奥へと大きく一歩を踏み込んだ。

 

 そうして、リ・エスティーゼ王国の誇っていた城塞都市〈エ・ランテル〉が正式に割譲され、新たに不死者の王が君臨するアインズ・ウール・ゴウン魔導国の成立が宣言されるのは、それから間もなくのこと――草花の芽吹き始めた麗らかな春の日の出来事だった。

 

 



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(Side-M)思惑

今回の(Side-M)は前半と後半とで時間軸に差があり、前半は魔導国の成立から間もない頃、後半ではジルクニフが法国との会談を準備している頃(建国から数ヶ月?)となります。
原作での時間軸が不確定な時期のため、都合の良いように解釈していますので、予めご了承ください。


「――それでは、皆さんの今後のご活躍をお祈りいたしております」

「あぁ、長いこと世話になった。……あんたも、その元気でな」

 チームリーダーである魔法詠唱者の男が、いつになく申し訳なさそうな表情を浮かべている。

「はい、ありがとうございます」と型通りの短い挨拶を返した受付嬢は、去っていく者たちに罪悪感を抱かせないよう、努めて柔らかな笑顔でその新たな旅立ちを見送った。

 出入り口の扉上部に設けられた小さな鐘が、カランカランとどこか物寂しい音色を奏でるばかり――やがて、水を打ったような静寂に包まれていく城塞都市〈エ・ランテル〉の冒険者組合の室内にあって、一人残された受付嬢は力なく肩を落とす。

 市民からの声を集めていたクエストボードには空きのスペースが目立ち、張り出された依頼について議論を交わす声や困難な依頼の達成を誇って楽しげに笑い合う声、或いは不運に見舞われたことを嘆いたり、罵りや嘲りといった罵倒の声も聞こえてくることはない。

 以前であれば、煩わしいと感じていた騒がしさまで、既に懐かしいような思いに駆られてしまう。

 ――こうして、去りゆく冒険者たちの後ろ姿を見送るのは、果たして何組目になったのか。

 エ・ランテルを拠点に活動していた冒険者の多くが、古参から新人を問わずに次々と他都市の組合へと移っていく。

 最早、この流れを止めることはできないだろう。

「……はぁ、どうなるのかしら」

 人知れずこぼれた溜め息の大きさに気付き、受付嬢は気を取り直すように小さくかぷりを振った。

 身体を動かしていれば、余計なことを考えないで済むはずだ。「良しっ」と引っ張り出した手桶に水を汲み入れ、受付嬢は布巾を手にして閑散としたロビーに向かう。

 利用者たちはめっきりと減ってしまったが、今も残ってくれている冒険者たちのためにも、せめて居心地の良い空間であって欲しいと思う。

 まだ冷たい春先の水に浸した布巾を軽く絞り、並べられたテーブルを端から順に拭き上げていく。

「でも……冒険者さんたちなら、あんまり気にしないかしらね」

 遠方への依頼なら道中の野宿などは当たり前であり、無事に仕事をやり遂げて帰還したのなら、鎧に被った土埃やモンスターの返り血さえ冒険者としての勲章になる。

 達成報告のために組合を訪れたチームのメンバーたちが、そのままの旅装姿で酒盛りを始めていることも珍しい光景ではなかった。

「……まぁ、考えても仕方ないわね」

 最近は独り言の回数が増えてしまった、と苦笑いを浮かべる受付嬢は、それでも卓上を丁寧に拭き清めていくのだった。

 

 エ・ランテルの冒険者組合が、現在の窮状となっている原因は明白だ。

 全てはリ・エスティーゼ王国からの領土割譲により、新たな支配者を迎えて“アインズ・ウール・ゴウン魔導国”として成立したことに端を発している。

 カッツェ平野での戦争において、王国軍に何万人もの被害を与えた惨虐なる不死者〈アンデッド〉の王が君臨する国家――様々な負の感情とともに多くの混乱が予想された新たな統治は、蓋を開けてみれば意外なことにさしたる問題も起こっていない。

 奴隷にされてしまうのか、他国への侵略戦争に動員されるのか、或いはただの気紛れに殺されることになるのか。

 そうした今後への不安や恐怖の思いが、市民たちの中で渦巻いていることも事実ではあったものの、表面的には王国領時代と変わらない生活が保たれていた。

 その最も大きな要因は、“漆黒の英雄”モモンの存在だろう。

 神話の軍勢とも評された強大なアンデッドたちを従えた“魔導王”アインズ・ウール・ゴウンが、エ・ランテルに初めて姿を現した初春の日――多くの市民が恐怖に駆られながら固唾を飲んでいた中、ある一人の少年が小石を手に取り、あろうことか魔導国建国の祭典を妨げてしまった。

 先の大戦で父親を奪われた恨みは同情の余地こそあれ、人の道理が異形のアンデッドを相手に罷り通るはずもない。

 必死で我が子を庇おうとした母親も含めて、死罪は免れないだろうと誰もが諦めかけていたとき、ただ一人で立ち上がったのがモモンであった。

 凄絶な剣技で蛮行を押し止め、理知的な言葉をもって魔導王の狭量を指摘し、最後には母子の無事を約束させるに至った見事な手腕は、真に英雄と称されるに相応しい対応だったという。

 そうして、エ・ランテルが誇る最高位アダマンタイト級の冒険者として数々の偉業を成してきた傑物は、害意が市民たちへと向かうことのないように、敢えて魔導王の配下となることで、今も自らの存在を“人類の盾”としてくれているのだ。

 ――さて、魔導国における治政が表面上は落ち着いているのならば、何の要因が冒険者組合を苦境に追いやっているのだろうか。

 

「……それにしても、本当に依頼が少なくなっちゃったわね」

 一通りの拭き掃除を終え、再び手持ち無沙汰となってしまった受付嬢は、人気の遠退いたクエストボードを見つめて溜め息をこぼす。

 アンデッドによる支配を恐れた貴族や商人といった富裕層がエ・ランテルを去り、冒険者組合は多くの得意先を失うことになった。

 近隣の領地に出没したモンスターの討伐や隊商の護衛といった基本的な依頼が激減し、少なくなった依頼を冒険者同士で取り合うような事態になったのなら、力のない駆け出しの者たちから食い扶持を得られなくなるのも自明だった。

 日を追うごとに別の都市へと移っていく冒険者チームが現れ、現状は既に最盛期の半数も残っていないだろう。

 一方で、モンスターの退治などを担っていた冒険者の人数が減少しても、エ・ランテル近郊の情勢が悪くなったという話題を耳にすることはない。

 魔導王の支配下にある凶相のアンデッドたちが、昼夜を問わずに街中や街道の周辺を巡回して治安の維持に勤めているからだ。一部で横行していた犯罪行為も厳罰への怖れから抑制され、却って治安の良くなっている地区があるほどだという。

 建国の当初こそ、何気ない街並みの中にアンデッドの姿を見かけたときには、内心で戦々恐々としていたものだが、こちらから敵意を向けなければ問題は起こらないと理解できた今では、遠巻きに会釈をするようにもなった。

 慣れやすい子どもたちの間では、早くも“ごっこ遊び”に組み込まれていたりもするらしいので、人間というのは意外に逞しいものだと思う。

 期せずして商売敵になってしまった冒険者組合を除いたのなら、良い顔をしていないのは神殿勢力くらいだろうか。

 教義の上では、アンデッドによる支配を認める訳にもいかず、さりとて魔導王の圧倒的な力を前に反抗することなどできるはずもない。

 現実から目を背けるように祈りの世界へと閉じ篭ってしまい、彼らから冒険者組合に委託されていた依頼の多くも取り下げられた。

 これまでも治癒魔法の行使やアイテム販売に設けられた制限など、組合の立場としては色々と文句をつけたい思いもあるものの――、

「……信徒を見捨てて逃げ出さないだけ、他よりはマシなのかしらね」

 再びの溜め息をこぼしつつ、受付嬢は手早く掃除用具を片付けていく。

 考えないようにと身体を動かしていても、やはり先の見えない現状に不安は過ぎってしまう。

 ふと思い出されたのは、水の神殿から受け付けていた一つの依頼のこと――とある開拓村の移民募集に関わる聴き取り調査を引き受けてくれたのは、半森妖精〈ハーフエルフ〉の青年が率いる冒険者チーム“翠の旋風”だった。

 本来なら金級の冒険者を割り当てることのない低難度の依頼内容ではあったが、冬の閑散期で人手が少なかったこともあり、組合側の意向でやや強引に推薦したものだ。

 しかし、カッツェ平野での決戦において、リ・エスティーゼ王国がバハルス帝国に大敗したことにより、都市の支配体制が変わり間もなく神殿からの依頼は取り下げられてしまう。

 問題となったのは、何の心配もないだろうと送り出したはずの彼らが、年を跨いでも一向に帰還しなかったことだ。

 当時は王国軍の別動隊が同地の付近で消息を絶ったという噂が流れ、敗戦後の混乱の中で様々な情報が錯綜していた。

 そうして、依頼を斡旋した経緯から気が気ではいられず、受付嬢は“漆黒”のモモンとナーベに私的な願いを頼み込むに至ったのだが――、

「……結構、無茶な真似をしたわよね」

 今更ながら、職責を問われても仕方のない振る舞いだった。

 今も冒険者組合の職員を続けていられるのは、受付嬢の勝手な行為を問題視しなかったモモンの温情だろう。

 最終的には“漆黒”の働きによって全員の無事が確認され、少しばかりの日を置いてから“翠の旋風”もエ・ランテルに帰還してくれた。

 やや居心地の悪そうにしていた青年から調査の失敗を報告されたものの、事前に依頼が撤回されていたこともあり、現地での事情は必要以上に詮索していない。

 こちらの謝罪を受け入れてもらうばかりか、寧ろ心配をかけたと詫びの品まで渡されてしまったのだから、年長者らしく振舞っていた身としては色々と立つ瀬がなかったのだ。

 未来のことを考えても、過去の出来事を思い返してもこぼれるのは溜め息ばかりで、自分が少しだけ嫌になる。

「……でも、美味しかったなぁ」

 ぽつりと呟いた言葉が、人気のない組合の建物に妙な残響の尾を引いていく。

 断り切れずに受け取ってしまった詫びの品は、巷では幻の食材とも呼ばれる怪鳥〈ペリュトン〉の燻製肉だった。

 いたたまれない気持ちから同僚たちに声をかけ、せめて仲良く分け合うことにさせてもらったのだが――、お裾分けしたことを僅かながら後悔するくらいの衝撃だった。

 噛み締めるほどに舌の上で甘やかに蕩け、全身が得もいわれぬ幸福感に包まれる極上の感覚は、そうそうと出会うことができないだろう。

「一人で食べていたら、もっと後悔していそうね」

 誰にともない言い訳に肩を竦めつつも、同席していた仲間たちの興奮する様子を思い出せば、口許には自然と笑みが形作られている。

「さて、次は何をしようかしら……」

 そうして、気持ちを切り替えるようにと、大きく背筋を伸ばしたときだった。

 ガチャリ、と不意に開け放たれた正面扉の向こう――思いがけなく現れた人物の姿を見止め、受付嬢は慌てて息を呑み込む。

 煌びやかな宝石に彩られた真紅の装束は初めて目にしたが、街中のアンデッドとは一線を画す白磁の髑髏を見紛えるはずもない。

「――ま、魔導王陛下!?」

 戸惑いながらも急ぎ足で駆け寄り、失礼のないようにと受付嬢は深く頭を下げた。

 閑散とする組合内を見回していた視線の主、“魔導王”アインズ・ウール・ゴウンが落ち着き払った一瞥をくれ、厳かな語り口で言葉が紡がれる。

「依頼が少ないようだな」

「も、申し訳ございません」

 背筋に冷たいものを感じつつも、突然の事態に混乱する頭を振り絞って謝罪の言葉を口にする。

「――責めているのではない。ただ不思議に思っただけだ。昔はもっと多くの依頼があった……いや、冒険者モモンからそう聞いている」

 こちらの緊張を察してなのか、魔導王の口調は僅かばかり穏やかなものとなっていたが、受付嬢としては内心の焦りか顔に出てしまわないかと不安で仕方がない。

 依頼が減っているという事実のみを説明するに止めて、その要因や先ほどまでぼやいていた不満は胸の内に隠す。

「……なるほど、アンデッドの警備で治安が良くなったせいか」

 それでも、魔導王にはさらりと言い当てられてしまったのだから、心臓の鼓動が一つ大きく跳ねるのを感じた。

 冒険者組合の苦境に影響していることは間違いないのだが、まさか魔導国の体制批判と捉えられる訳にはいかない。

「……組合長はいるか?」

 続いて発せられた問いかけを幸いに、「はいっ、少々お待ちください!」と受付嬢は素早く踵を返すのだった。

 

 *

 

「――っ、いったい何を探れと……全く人使いの荒い皇帝様だな」

 路地の陰から無遠慮に現れた異形の騎士を見咎めて、ティラは思わずと苦笑いを浮かべてしまう。

 雇い主への愚痴を堪えつつ、反射的に仕込み刀へと伸びかけていた手を制し、何事もなかったように歩みを進める。

 丁寧に敷き直された真新しい石畳の上、軽やかな長靴と重々しい異形の足音とが交錯した。

 落ち窪んだ眼窩の奥に宿る赤の灯火、不気味な兜から突き出る湾曲した角は自前なのだろうか。

 血管の如き紋様が這い回る黒の全身鎧に、こちらの身の丈を優に超える巨大な剣と盾は、街中で見かけるには物騒に過ぎる代物だ。

 横目に流した禍々しいアンデッドの鎧姿は、帝都アーウィンタールの地下で秘密裏に囲われていた死の騎士〈デス・ナイト〉と同種のはずだった。

 暗殺者集団“イジャニーヤ”を束ねる女頭領のティラをしても、正面から挑めば無事では済まないほどの難敵であり、殺した相手から従者の動死体〈スクワイア・ゾンビ〉を生み出す特性から、単独で小国を滅ぼしたとまで噂される存在なのだが――、

「……伝説とやらが聞いて呆れるな」

 そうした国家存亡の脅威たるアンデッドが、エ・ランテルの市街を平然と闊歩している。

 ――より正確な表現をするのであれば、魔導王の統制下で警備のために街中の巡回をしているのだ。

 ふと視線を持ち上げたのなら、大通りの先には別のデス・ナイトの姿が確認できてしまうのだから、溜め息の一つでもこぼしたくなるのは無理からぬことだろう。

 さらに驚くべきは、エ・ランテルの住民たちにアンデッドを忌避する様子が見られない点だ。

 街角に佇む異形の存在を遠巻きに避けているのはいずれも旅装姿の人間ばかりであり、ティラ自身と同様に都市外からの訪問者であろうと推測できる。

「……生者と死者が本質的に相容れることはない、はずだったのだがな」

 表立った問題が起きなくとも、アンデッドの支配下に置かれた民衆は必ず不満を溜め込んでいく、そう断じて魔導王への対抗策を進めていた“鮮血帝”の考えは、残念ながら根底から覆されようとしているのかも知れない。

 周囲を睥睨するデス・ナイトの視界から逃れるように、手前の路地へと身を潜り込ませたティラは、張っていた気を緩めるように小さく息を吐いた。

 近頃は自らの認識を疑いたくなるような事態に見舞われてばかりだ。英雄の領域に届かない身ではあれど、相応に抱いていた強者としての自負は否応なく揺らいでいる。

 背筋の冷たい感覚とともに脳裏を過ぎるのは、カッツェ平野の戦場で目の当たりにした光景――、

「……追加報酬は覚悟しておけ」

 今頃は帝都アーウィンタールの居城で、嫌味な笑みを浮かべているであろう雇い主――ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスに向け、ティラは呪いの言葉を吐き捨てた。

 

 ジルクニフが画策する対魔導国の基本戦略は、表向きの同盟関係を維持しながらも魔導国の危険性を喧伝し、周辺国家との連合による包囲網の形成を目指すというものだ。

 一方で、自身が連合の発起人とならないように立ち回る姿は如何にも小賢しいが、強大に過ぎる神話の軍勢に挑まんとする気概だけは認めてやりたいとも思う。

 若くして才気に溢れており、数々の実績に裏打ちされた自信は傲慢なほど、それでも隠し切れない卑屈さは“人間”という矮小な種族故の理だろう。

 相反する感情を綯い交ぜにしながら、人類が生存するための道を模索するジルクニフの姿勢を野卑するつもりはない。

 しかし、絶対に敵うことのない相手が存在することを現在のティラは痛感していた。

 死力と奥の手を尽くせば、デス・ナイトの一体や二体を相手取ることは可能かも知れないが、街角ごとに並ぶアンデッドの総数を数える酔狂さは持ち合わせていない。

 周辺諸国を何度となく滅ぼせるような先兵の群れを万一にも退けられたところで、王国軍を散々に蹂躙し尽くした“触手の化け物”が一匹でも現れたのなら、一切の希望さえも潰えるだろう。

 ――何より、それら超常の存在を一身に統べる魔導王本人の、圧倒的に過ぎる強さは本当に底が知れない。

 急かされるように細い路地を抜け、別の通りへと差し掛かっていたティラの目の前を数人の子どもたちが駆けていく。

 ふと無邪気な笑い声を追いかけた視線の先には、揃いの仕立て服に身を包んだ妙齢の女性たちの姿。

 一部の住民たちの間で話題になっていた、魔導王の庇護下で運用されている孤児院の職員だろうと当たりをつける。

 引き払われた元貴族の邸宅を改装した孤児院は、先の戦争で夫を亡くし、生活に困窮していた寡婦の働き口になるとともに、旧スラム街に暮らしていた身寄りのない子どもを積極的に受け入れてもいるらしい。

 アンデッドが巡回警備をする街中で、悪巧みを考えるような馬鹿は既に淘汰され、そうした地区の治安も劇的に改善へと向かっている。

 驚くべきことに、歴史的な大敗からの占領下で地に塗れていたはずのエ・ランテルの街並みや住民たちは、以前にも増した活気を既に取り戻そうとしているのだ。

 

 アンデッドによる統治に疑問符を投げかけ、隙を見出そうとしていたジルクニフの最大の誤算は、稀代の英雄と名高い“漆黒”のモモンが、早々に魔導国の陣営に取り込まれてしまったことだろうか。

 死の支配者たる魔導王や配下の者たちが、住民たちに横暴を働くことがないように牽制をするための役回り、といえば聞こえも良いのだが――、

「……あれでは、事実上の代弁者だな」

 姑息な人気取りを目指す皇帝が、民衆から支持を受けた闘技場の戦士を取り立てる構図に似ているのかも知れない。

 何かしらの不満を抱えたエ・ランテルの住民たちは、頼りとなるモモンを窓口にして魔導国側との交渉を行い、意見や要望を擦り合わせていくことになる。先の孤児院のように陳情が認められることもあれば、仮に譲歩を引き出せなくともモモンを責める訳にもいかず、逆に詫びられてしまったり、宥められたのなら納得するほかにないだろう。

 絶大な人気と信頼を集めている英雄が、仲裁役としても有能であるがために、住民たちは不満を溜め込むことが少ないのだと推測できる。

 周辺国家との連合とともに、魔導国を内から崩せる存在として期待をかけていた、“漆黒”のモモンを手札から逃してしまったジルクニフの心境は如何ばかりか。

 そうでなくとも、バハルス帝国が誇る最強の個であった“逸脱者”フールーダ・パラダインの裏切りに消沈していた姿を垣間見たのなら、ティラとしても些か察するところではある。

 身内すらも容赦なく誅殺し、その地位を盤石としてきた“鮮血帝”であるからこそ、幼年からの師でもあり、信頼を置き続けていた親代わりとも呼べる者の行為に動揺を隠し切れなかったのだろう。

「……さて、我々はどう動くべきかな」

 先代から継いだ組織を預かる身として、ティラは妹たちのように私情で流されて責任を放棄する真似はできない。

 時代の潮流たる魔導王の考えを見誤ったのなら、瞬く間に部下たちを路頭に迷わせることになってしまうだろう。

「いや、ただ殺されるくらいなら救いもあるか」

 横目に通り過ぎるアンデッドの騎士を見遣り、ティラは小さくかぶりを振った。

 連合策の先駆けとして、スレイン法国との会談を急いていたジルクニフの様子を思い返せば、どこか冷静さを欠いていたような印象が拭えない。

 元々、帝国とイジャニーヤの間には金銭面での繋がりしかないのだ。金払いの悪くない取引相手ではあったものの、下手な義理立てをした先に傷心の皇帝とともに心中する謂れもない。

 請け負った依頼を果たした後には――、

「――何にせよ、奴の動向から探ってみるしかないのか。……あの間抜け面に期待をかけるのは、あまりに酷だと思うのだがな」

 こちらの思惑に乗ってくれるのか、或いは裏目となるのか。

 ティラ自身を遥かに凌駕しているであろう、英雄の領域にすら収まらないはずの実力だけであれば申し分ない。

 しかし、当人の技量には似つかわしくない判断の甘さに、一抹の不安を覚えることは確かだった。

 呆れともつかない溜め息が口の端からこぼれ、やはり分の悪い賭けになりそうだ、とティラは小さく肩を竦めて頭上を仰いだ。

 左右の建物に切り取られた方形の青空には、真っ白な入道雲が立ち昇っている。彼方から風に招かれようとする白雲は、果たしてエ・ランテルの街並みに嵐のような雨粒を運んでくるのだろうか。

 それでも、初夏を感じさせる日差しの眩しさに、ティラは少しだけ目を細めるのだった。

 

 




自分の筆が遅いだけなのですが、現実の夏には冬頃の、本格的に寒くなってきてから夏頃の話を書いているのは不思議な気分です。

原作では、いつの間にかナザリックの傘下となっていたらしいイジャニーヤですが、今後の出番はあるのでしょうか――。残り二巻分のエピソードと考えると、なかなか難しいのかも知れませんね。


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scene.8 遥かなる旅路
(50)成果


-これまでのお話-
カルネ村の復興作業を通して住民との交流を深めていたユンゲたち“翠の旋風”のもとに、“漆黒”のモモンとナーベが来訪する。
王国と帝国間における戦争の顛末と村の救世主であるアインズ・ウール・ゴウンの正体を知らされた一行は、新国家への割譲が予定されるエ・ランテルに帰還したのだが――。


 濁ったコールタールよりもドス黒い雲が空を覆い尽くし、幾重にも層を成す雲間からは絶えず稲光が迸っていた。

 穢れた大地には吐き気を催すような毒の沼が広がり、そこに押し寄せてくるのは直立した薄気味の悪い蛙〈ツヴェーク〉の群れ。

 迎撃に放たれた何発もの火球が爆ぜ、そこかしこから轟々と逆巻く紅い火焔の柱が立ち昇っていた。

 間隙を先駆けていたレイドパーティが、目標の地下墳墓の大扉に到達して喚声を上げながら突入していき、唐突に視界が切り替わる。

 今度は迷路のように入り組んだ薄暗い石造りの通路で、跳び出してくる下位のスケルトンやゾンビを屠りながら奥を目指していく。

 これまでの道中と比較すれば、拍子抜けするほどの難易度に周囲からは嘲りの言葉がこぼれ――、不意に足下の地面が輝き始めていた。

 浮かび上がる幾何学状の紋様は、対象を強制転移させる初歩的なトラップだったか。

 舌打ちとともに世界は暗転し、さらに光量の絞られた空間に飛ばされたことを理解する。

 悪態を吐いた誰かが〈コンティニュアル・ライト/永続光〉を灯せば、照らされていく室内の暗がりには蠢めく無数の影。

 ぞくり、と背筋が寒気立つような感覚。

 本能的な恐怖のままに放った爆炎が数多の影を焼き払い――しかし、散り散りとなった死骸の山を次々と踏み越え、黒光りする小さな影の軍勢が迫ってくる。

 瞬く間に殺到し、足先から這い上がってきた影は、振り払っても振り払っても、なお一層と勢いを増していく。

 脛から膝へ、太腿から腰回りへ。鎧の隙間から、ローブの裾から、袖口の隙間から、首筋の襟周りから胸や背中へと侵入して、蠢めきながら無遠慮に這い回ってくる。

 誰かの凄絶な叫びに、更なる絶叫が重なる。

 視界を覆い隠さんと悍ましく蠕動する影に、誰もが叫ばずにいられなかったのだ。

 

 *

 

「――っ、うぇええっ」

 思わずと飛び起きてしまい、ユンゲは嘔吐くように呻いた。総毛立つような感覚に、嫌な冷や汗で濡れた肌着が酷く気持ち悪い。

 やや茫然としながら視線を巡らせれば、すっかりと見慣れた野営用のテントで横になっていたことを思い出す。

 夜間からの見張りを仲間たちと交代し、明け方まで仮眠を取っているはずだったのだが――、薄手の布地越しに見上げる空は、既にぼんやりと白み始めている気配だった。

 陰鬱な寝覚めに、「……朝、か」と恨みがましい呟きが口を吐いてこぼれた。

「……ユンゲ、大丈夫?」

 思いがけない呼びかけは背後から――出入り口の紗幕を払い、顔だけを覗かせたキーファが、心配そうな視線をこちらに向けていた。

「んっ、あぁ……ちょっと変な夢をな。大丈夫、問題ないよ」

 苦笑いとともに肩を竦めてみせるが、あまり納得はしてもらえていない様子だ。

 カルネ村での戦いにおいて、リ・エスティーゼ王国軍の兵士を殺めて以来の苦い記憶は、浅い微睡みの中でも鈍痛となって繰り返し、今もユンゲの罪を責め立てていた。

 情けなくもマリーの気遣いに縋りつき、恰も傷を傷で覆い隠すようにして誤魔化しながら過ごしていたことは、キーファやリンダにも筒抜けなのだから当然の反応かも知れない。

 どう説明するべきか、と頭を悩ませたユンゲを憂うように見遣り、テントを跳ねるように跨いだキーファが傍らに屈み込んでくる。

「……ねっ、まだ朝食まで時間あるから、あたしが添い寝してあげようか?」

 可愛らしく小首を傾げながら向けられた、上目遣いの問いかけ。

 互いの鼻梁が触れ合うほどの距離に、ユンゲは無意識の内に息を呑んだ。

 ほんのりと朱を差す艶やかな頬に、こちらを真っ直ぐに見つめてくる野葡萄色の眼差し。

 両膝を抱えるようにしたキーファの、切り詰めたジーンズパンツから伸びる素足の白さが、妙に眩しく視界の端に映る。

「――いや、ありがたいけど遠慮しておくよ」

 なけなしの自制心を動員して視線を持ち上げたユンゲは、微粒子ほどの理性を振り絞って無理矢理に言葉を紡いだ。

 

「むぅ、あたしみたいな美少女のお誘いを拒み続けるなんて、ユンゲも酷い男だよね」

 わざとらしく頬を膨らませたキーファから更に詰め寄られ、反射的に仰け反ってしまうユンゲの鼻先を細くしなやかな指がむにっと摘まみ上げる。

 やや俯きがちな視線に、先ほどまでとは異なる寂しげな表情。

 いつもの溌剌とした笑顔が、曇ってしまいそうな気配に不意の恐怖があった。

「――だっ、だけどな……いや、言い切ったなら照れないでくれよ」

 焦りから言い訳を口にしかけたユンゲは、しかし間近に寄せられながら一層と赤らんでいくキーファの頬を見遣り、思わずと突っ込みを入れてしまう。

「ふーんだっ! 全部、ユンゲが悪いんだもん」

 ぷいっ、とわざとらしく顔を背けてみせる“美少女”の仕草に、ふと自身の相好が崩れてしまうのを禁じ得ない。

 それでも、形の良い耳の先まで染まっていく様に、ユンゲは形ばかりの謝罪の言葉を呑み込む。

「一度くらい、試してくれたって良いのに……やっぱり、汚れた身体は嫌かな?」

 消え入りそうなキーファの声音――打ち捨てられた仔猫を連想させる悲痛な横顔に、長い睫毛が微かに震えるのが見えた。

「そ、そんなことはないっ!」

 意図せず、大きな声が飛び出していた。

 小柄な背がびくりと跳ね、怖々と所在なく彷徨う視線には、大海の不安と一雫の期待とが同居する。胸の内に燻り続けていた罪悪感が、風に煽られるように火勢を増していく。

 それでも、続けるべき言葉を見出せないままに、ユンゲは怯えるように小さくかぶりを振った。

「キーファが汚れているなんて、絶対に思わない。ただ、それは……何というか、俺にばかり都合が良過ぎる」

 毅然と断わることもできない、問題を先送りにするだけの煮え切らない台詞。

 吐き出した溜め息は、自身の口からこぼれたとは思えないほどに重苦しいものだった。

「……別に、あたしは都合の良い女でも構わないんだよ。どーせ、使い潰されて死ぬだけの運命だったもん。あのとき、ユンゲが救い出してくれなかったら……、とっくにそうなってた」

 諦観を滲ませるキーファの冷めた口調に、啜り泣きを堪えるような気配が孕む。

 敗戦から虜囚の身となり、奴隷として使い捨ても同然な扱いを受けていた境遇を思えば、そうした最悪な未来の形もあり得たのだろう。

 あまりにも自惚れた考え方だと自覚しているが、目の前で僅かに震えてさえいる華奢な肢体を抱き寄せれば、全ての物事は上手くいくのかも知れない。

 しかし、その行為が本当に正しい振る舞いになるのかと、ユンゲは胸の内に問いかける。

 思い起こされてしまうのは、かつて大闘技場で相対した“天剣”エルヤー・ウズルスの傲慢で醜悪な顔立ち。己の剣の腕を鼻にかけ、傍若無人な態度でキーファたちを苦しめていた男の影が、自分自身の情けない姿と重なっていく。

 できるだけ対等な関係でありたいと接してきたが、奴隷から解放したという事実は変わらず、ある意味では彼女たちから他の選択肢を奪ってしまったのではないか――、と。

 英雄譚に謳われるような強い信念があった訳でもなく、“ユグドラシル”という遊びの延長線に得た力を振るっただけの結果だ。決して、胸を張って誇れる類いの武勇伝ではない。

 義憤に駆られたと言えば聞こえは良いが、少しばかり身に余る力を持ったことで増長し、“悪”を断罪する大義名分に酔い痴れながら、良い格好がしてみたかっただけに過ぎない。

(……今更、何を善人ぶろうとしてるんだろうな)

 カルネ村での一件では、王国兵の命を奪ったという罪の意識に託けて、あの夜にマリーの身体を求めてしまっている。

 そうであるのなら、胸の内に揺らいでいる今の葛藤も、身勝手な言い訳を探しているだけの偽善や欺瞞に他ならないのだろう。

 ――だが、耳に痛いほどの沈黙は、ユンゲを押し潰さんとするかのように圧を増していく。

 

 暁を告げる鳥の鳴き音も届かない静寂に、少女の小さな溜め息がこぼれた。

「……あんまり、困らせちゃっても駄目かな」

 屈んだ姿勢から軽く反動をつけ、すくりと立ち上がったキーファが肩を竦めつつ、「ごめんねっ」と恥じらうように小さく肩を竦めてみせる。

「……でも、諦めるつもりないから覚悟しといて」

 可愛らしくも、儚さを孕んだ気丈な笑顔。

 ――ただ強く抱き締めろ。

 喉の奥が低く唸り、そんな言葉が脳裡を過ぎる。

 しかし、何も踏み出せないままに空白の時間だけが滑っていく。

 一拍の間を置き、ようやっと身を起こしかけたユンゲを躱すように、キーファがさらりと一歩を跳び退いた。

「……あと朝食の準備はできてるからさ、先に顔でも洗ってきたら?」

 そう静かに言葉を重ねたキーファが踵を返せば、後ろ手に括られた栗色のポニーテールが少しだけ寂しげに弾む。

 無意識に伸ばしかけていた腕を慌てて引き戻し、ユンゲは苦笑いとともに小さく息を吐いた。

「……あぁ、そうさせてもらうよ」

「へへっ、今朝のも自信作だから期待しててよ!」

 首だけで振り返ったキーファは、横顔にいつもの悪戯めいた笑みを浮かべていた。

 この場での会話を軽い戯れ合いとして流せるようにしてくれたのだろう。

 それでも、ユンゲの胸の内に広がるのは、忸怩たる自己嫌悪の感情ばかり。

 その去り際、僅かに垣間見えた目許を拭う姿が頭から離れてくれず、不快だった夢の記憶はすっかりと霧散していたのだった。

 

 *

 

 乾いた死の大地を断ち割り、噴き上がった熱水の奔流が、押し寄せた動死体〈ゾンビ〉の群れへと殺到する。

 爆発にも等しい煮え滾る衝撃は、瞬く間に敵の先駆けを飲み込み、纏わりつく気味の悪い薄霧を吹き散らしていく。

「――でっ、できました」

 手にしていた短杖を震えるように握り締めつつ、第三位階魔法〈ガイザー/間欠泉〉を放ってみせたマリーが、どこか惚けたように口を開いた。

「マリー、凄いよ!」

 真っ先に駆け寄っていったキーファが、「おめでとー!」と歓喜の声とともに跳びついた。

 横合いから急に抱きつかれ、よろめくように踏鞴を踏んだマリーの顔には、それでも嬉しそうな笑みが広がっていく。

「ふふっ、ありがとう。遂にやったよ!」

 そのまま仲良く踊り始めそうなほど浮かれた声音には、思わずと頬も緩みそうになる――と、

「……次が来るぞ。二人とも、まだ気を抜くなよ」

 冷静に周囲を見ていたリンダが、軽く嗜めるように警戒の声をかける。

 ようやっと視線を返せば、物言わぬ骸に戻った死屍の丘を踏み越えて、更なるアンデッドの群れが迫っていた。

「だが、よくやったな。今度は私に任せてくれ」

 柔らかな微笑みと労いの言葉に、頷きを交わしたマリーとキーファが表情を引き締め直し、錫杖を構えたリンダと隊列の先後を入れ替わる。

 前衛での壁役も務められる神官〈クレリック〉のリンダを先頭に据え、遊撃を主体とする野伏〈レンジャー〉のキーファと補助魔法での支援を担う森祭司〈ドルイド〉のマリーを後衛に配する、彼女たちの基本陣形だった。

 今日も相変わらずの薄霧が立ち込め、無数のアンデッドが蔓延っている危険地帯――カッツェ平野において、僅かな慢心が命取りになりかねない。

 彼女たちの更に後方から戦況を眺めていたユンゲは、小さくかぶりを振り、自身を叱咤するために頬を両手で強く張った。

 今朝の出来事もあり、思考が散漫となっている自覚もあったが、万一にも彼女たちでは対処できない難敵が現れたときに備えている身で、警戒を怠ることは許されないだろう。

 

 今回、ユンゲたち“翠の旋風”がカッツェ平野への遠征を決めたのは、マリーとリンダが新たに習得した魔法の発現を試みることが主目的だった。

 この転移後の世界における魔法の習得は、ゲームでの仕様とは異なり、単に敵を倒してレベルアップするだけでは儘ならない。

 彼女たちに魔法のスクロールを貸し出したのは、昨年の夏頃だっただろうか。

 名指しの依頼で帝都アーウィンタールに呼び出され、魔法狂いの爺や性悪皇帝の不意打ちを受けて疲弊した後のことだった。

 あの日から熱心にスクロールを読み込み、ともに数々の依頼をこなしながら地道に重ねてきた努力と研鑽が、ようやくと実を結ぶことになったのだ。

 この世界における第三位階魔法の習得は、一人の魔法詠唱者として大成した証であり、その領域に到達できる者の数は決して多くないという。

 それぞれの首許で真新しい輝きを放っている白金〈プラチナ〉の冒険者プレートは、彼女たち自身の実力で掴み取った成果だった。

 

 血塗れたシミターを振り上げる骸骨〈スケルトン〉を前に、怯むことなくリンダが進み出ていき、滑らかな詠唱とともに振るわれた錫杖が、その先端に神々しい光を灯す。

 不浄なる者を滅する第三位階魔法〈ホーリーライト/神聖光〉の煌めきが辺りに満ちていき、音もなく柔らかに弾けた。

 粗暴な骨だけの輪郭が光の中で溶け崩れ、霞のように吹き消えていく。

 ふと木漏れ日に目を細めるような心地良さ、ふわりと呼び起こされた涼風が、澱んでいた空気を彼方へと吹き流してくれる。

「……とりあえず、大丈夫そうだな」

 辛うじて記憶するゲーム内の効果では、カルマ値がマイナスに傾いているほどにダメージが大きくなったはずだ。

 自身が浄化の対象でなかったことに小さく安堵の吐息をこぼしつつ、ユンゲが這い回る影の姿を追って頭上を仰ぎ見れば、対アンデッド特効となる信仰魔法を避け、上空に難を逃れていた一匹の骨の禿鷲〈ボーン・ヴァルチャー〉。

 それも次の瞬間、飛来した矢に頭蓋を穿ち抜かれ、力なく地面へと落下してくる。

 再び影に従って視線を戻せば、上方に向けて弓を構えるキーファが肩越しに振り返り、こちらに得意そうな笑みを向けていた。

 三人の内、一人だけ魔法を使えないキーファではあるが、持ち前の勘の良さに加えて弓術に磨きをかけおり、不意の遭遇戦や長距離からの奇襲において、とても頼もしい存在になってくれた。

「グッジョブだ!」と親指を立てて応じつつ、ユンゲは自身の役割を戒めるように周囲を見回した。

 あれほどに群れていたアンデッドもすっかりと消え去り、静けさを取り戻した荒野には、やはり草木の気配一つも見つけられない。

 以前と変わらない生命の息吹が絶えた不毛な景色ではあったが、どこか清々しいような印象を覚えてしまうのは、〈神聖光〉の余韻がなせるものなのだろうか。

 少し晴れた薄霧の向こうには鮮やかな初夏の青空が広がり、じりじりと燃え立つ太陽は中天へと差しかかろうとしている。

「……さてと、二人とも良い感じだったな。調子はどうだ?」

 ようやっと息を吐いていたマリーとリンダに向き直り、ユンゲは気遣いの言葉をかけた。

「はいっ! 少し疲れはありますけど、まだまだ大丈夫です!」

「同じく、今の手応えを忘れない内にもっと確かめておきたいですね」

 晴れやかな笑顔と充実を思わせる頼もしい二人の台詞に、こちらの口許まで綻んでしまう。

 新しいことができるようになったのなら、色々と試してみたくなるのはゲームの中でも、この現実となった世界でも変わらない人情だろう。

 それでも、慣れない第三位階魔法の行使は、やはり肉体的にも負担が大きいはずだ。喜びに浮かれているときには、得てして落とし穴に嵌ってしまいがちなものだが――、

「――なら、無理しない程度に進んでみるか」

 胸の内で燻っている躊躇いを振り払うように、ユンゲは静かに口を開いた。

 そうした事態を避けるためにこそ、後方腕組み面で偉そうな真似をしているのだ。

「さんせー!」と軽やかに声を上げてくれたキーファが、ぴょんぴょんと跳ねるように手を振りながら駆け戻ってくる。

 互いに小さく頷きを交わし、どちらからともなく肩を竦め合えば、もう何も問題はない。

「……絶対に危険は見逃せないぞ」

「とーぜん! ヤバいの見つけたら、速攻でユンゲに任せるからね!」

 いつもと同じ、こちらまで楽しい気持ちにさせてくれるキーファの快活な笑み。

 あぁ、と素直な返事で請負うことができた。

 そうして、凝り固まっていた身体を大きく伸ばしたユンゲは、遠くから這うように押し寄せてくる薄霧を静かに睨みつけるのだった。

 

 




素直にハーレム路線に進んでおけば良かったのかな、と書いている本人なのに思います。

次回からは魔導国(エ・ランテル)でのお話になる予定ですが、アインズ様たちとの対面をどう描いたものか……。

とりあえず、年内の更新は最後になります。
「皆さま、良いお年をお迎えください」


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(51)言伝

 緩やかに伸びた街道の向こうには、堅固な城塞都市〈エ・ランテル〉の威容――外観に大きな変化は見られないが、リ・エスティーゼ王国の誇った交易と防衛の要衝も、現在は新たに成立した“アインズ・ウール・ゴウン魔導国”の首都として機能している。

 春先の建国から既にニヶ月余り、麗かな昼下がりの城門前には、多くの荷馬車や旅装した人々の姿が確認できる。

「……随分と盛況みたいだな」

「そのようですね。急ぐのであれば、南門に馬車を回しましょうか?」

「いや、大丈夫だよ。初めての奴らとは別案内になるはずし、そんなに時間もかからないだろ?」

 御者台から振り返っていたリンダが、「了解しました」と微笑みを返し、行列の最後尾へと馬首を向けてくれる。

 いつもながらの見事な手綱捌きに感心しつつ、ユンゲは心地良い揺れに身を任せて何とはなしに視線を巡らせた。

 東側の城門に詰めかけている訪問者の多くは、欲の皮が張った商売関係の連中だろう。

 見るからに商魂の逞しそうな顔つきの髭面から、行列の方々に誘いをかける派手な装いの女性たち、伝え聞く噂に不安を隠し切れない様子の小間使いの小僧まで、様々な思惑や表情が交錯していた。

 王国領からの変遷期には少なからず混乱もあり、一時は都市内の食料品等が不足しかけたこともあったが、そうした事態が間もなく落ち着けば、我先にと新たな機会を掴み獲ろうと大勢の人間たちが集まってくるものだ。

 もっとも、こうした人々の交流が見られるのは、同盟関係にあるバハルス帝国領の方面からに限られている。

 魔導国と明確に敵対する王国側からの流入は皆無であり、南に位置するスレイン法国との交易も未だに散発的なものに留まっていた。

 そうした情勢を踏まえれば、来訪者の集中しやすい東門を避けて南門へと遠回りした方が、却って入場に時間をかけないで済むのかも知れない。

(それを見越してのリンダの提案だろうけど……まぁ、急ぐような依頼もないはずだしな)

 目的であったリンダとマリーの第三位階魔法の行使については、ともに上々の成果を得ることができ、新たな魔法の習得にも意欲的だ。

 諸々の事情から冒険者組合は開店休業のような状態にあるのだが、幸いにして“翠の旋風”の懐具合には余裕もあるので、暫くは魔法の研鑽などに時間を割いてみるのも悪くないだろう。

 そうして、ぼんやりと思いを巡らせていたユンゲは、不意に喉元へと込み上げてきた欠伸を堪えつつ何の気なしに頭上を仰いだ。

 日に日に夏めいてきた空は鮮烈な青に染まり、照りつける陽射しも益々と強い。野営からの汗ばんでいた肌には、吹き抜けていく風が涼やかだった。

 転移前の管理された生活環境の中では意識を向けることもなかったので、季節が移り変わる早さには少しばかりの驚きも覚えてしまう。

「……これから、暑くなるんだろうな」

 ゆっくりと流れていく白雲の行方を目で追いかけながら、ぽつりと呟やいてみれば、何故だか小さな溜め息がこぼれるのだった。

 

 *

 

 市街区の大通りを擦れ違っていった死の騎士〈デス・ナイト〉に一瞥をくれつつ、ユンゲは奥の路地へと足を向ける。

 昨日まで散々と戦っていたカッツェ平野に蔓延るアンデッドの群れとは全くの別物だと理解はしていてるものの、やはり街並みの中に映る異形の姿には違和感を拭えない。

 遊びに駆け回っている子どもたちは気にする素振りもないが、やや遠巻きにしている者たちはアンデッドに忌避感を覚えているのだろう。

 ユグドラシルの世界観を思い返しても、人間種と異形種の暮らす街は明確に区分されていたこともあり、半森妖精〈ハーフエルフ〉という人間種に属するユンゲにとって、フィールドで遭遇するアンデッドは常に敵対関係であった。

 既に懐かしさまで覚える同僚の昔語りでは、ユグドラシル内で“異形種狩り”と呼ばれるPK行為が横行していたとも聞いている。

 最初に選んだ姿形が違うだけでも、プレイヤー同士は対立していたのだ。

 この世界における人間種とアンデッドが本当の意味で別の種族であることを考慮したのなら、一つの都市内でともに生活しているエ・ランテルの現状は何とも異質なものだと感じてしまうのも無理からぬことだろう。

「――なかなか見慣れませんね」

「そうだな、いきなり襲われることはないんだろうが……どうした?」

 ふと傍らのマリーが足を止めていたことに気付き、ユンゲは軽く振り返って肩を竦めてみせた。

「……あの、街中で新しいアンデッドが生まれてしまう、ということはないのでしょうか?」

「確かに……これだけ強力なアンデッドが集まっているとなれば、発生の条件を満たしているようにも思われますね」

 疑問符を浮かべたマリーの言葉を引き取り、思案顔のリンダが口許に手をやりながら同意を示す。

「あぁ……なるほど。上位のアンデッドが発生しないように、下位の骸骨〈スケルトン〉や動死体〈ゾンビ〉とかを早めに退治する、って話だったな」

 二人の懸念に合点がいき、ユンゲは一つ頷きを返す。エ・ランテルの共同墓地やカッツェ平野において、定期的なアンデッドの間引きが実施されていた理由も同様のはずだった。

 街中で見かけるデス・ナイト程度であれば、ユンゲでも対処に困ることはないだろうが、更に上位種が現れたのなら面倒な事態になりかねない。

「――でも、この街を治めてるのは“魔導王陛下”なんだし、大丈夫じゃない? どんなアンデッドだって、言うこと聞いてくれるでしょ」

 こともなげに言い放ったキーファが、不思議そうな面持ちを浮かべながら、皆の顔色を窺うように小首を傾げてみせた。

 あまりにも屈託のない台詞に、思わずとリンダやマリーと顔を見合わせつつ、それぞれが苦笑いに口許を綻ばせる。

「まぁ、確かにな。俺たちが心配しても仕方ないか……何かあれば、モモンさんもいるしな」

 小さく息を吐いたユンゲは、キーファの頭へと手を伸ばし、栗色の髪を梳くように撫でつける。

 生身の人間が異形の存在であるアンデッドと相容れることは、本質的に難しいのだろう。

 それでも、目立った混乱もなく魔導国が機能しているのは、エ・ランテルの人々から絶大な信頼を寄せられている“漆黒の英雄”モモンの献身に支えられてのことだ。

 ユンゲ自身も密かな憧れを抱いているように、清廉潔白たる英雄像を正しく体現する彼が、相容れないはずの両者の間を取り持つことで、社会の体裁は保たれている。

(……それに、あの方も無意味に人間を苦しめることはしないだろうしな)

 カルネ村でのエンリやネムたちから慕われていた姿とカッツェ平野での大虐殺を引き起こしたという残忍な風聞――真っ向から相反する印象を上手く結び付けられないのだが、直に顔を合わせて言葉を交わしたときの記憶から“魔導王”アインズ・ウール・ゴウンは決して対話のできない相手ではないとユンゲは考えていた。

 

 *

 

「――とりあえず、宿に戻って休もうか。そんで、たっぷりの美味い飯と酒で第三位階魔法習得のお祝いにしよう!」

「さんせーっ!」

 いつものように真っ先に手を挙げてくれるキーファとハイタッチを交わしたユンゲは、勢い任せに連れ立って歩き出す。

「燻製や干したのも悪くはないけど、やっぱり新鮮な肉と魚は欠かせないよな」

「焼きや煮込みに……あぁ、蒸したのなんかも良いね。ふわふわの蜂蜜パンも久しぶりに食べたい!」

 背後で苦笑を深めているであろうリンダとマリーを振り向かないようにしつつ、どんな料理や美酒が相応しいかと熱い議論を交わす。

「買い置いてる酒樽もあるけど、エールとかは出来立てのが必要だな」

「そういえば、入場待ちのときにレインフルーツを積んだ馬車がいたよね。どっかのお店に卸してるのかな?」

「そうなのかっ!? なら、急いで宿に荷物を置いて探しに行こう!」

 思いがけないキーファの言葉。

 何故、自分は気付くことができなかったのだ、とユンゲは無意識の内に足を早めた。

 帝都アーウィンタールで初めて口にして以来、この世界でも指折りのお気に入りとなった果実の名を喉元で反芻する。

 楕円形のゴツゴツとした大振りな緑色の外見も、皮を剥けば現れるのは瑞々しいピンク色の果肉。爽やかな柑橘系の香りと濃密な甘い果汁を舌が求めていた。エ・ランテルでは滅多に出回ることのない希少品なので、機会を逃してしまっては一大事だ。

 青果店なら市場のどの辺りだろうか、などと思いを巡らせながら路地をまがりかけ――、不意の怖気にユンゲの背筋が震えた。

 

 後ろ手に括られた艶やかな黒髪と鮮やかなコントラストをなす、珠のように白く張りのある素肌。高い鼻梁と整った桜色の口唇は、思わずと感嘆の声がこぼれてしまうほどに精巧で美しい。

 しかし、黒曜石を思わせる切れ長の瞳は苛立ちの色を隠そうともせず、刺すように鋭い眼差しを向けられたのなら、下手な欲望が身を滅ぼすことは何よりも明らかだった。

「――っ、ご無沙汰しています。ナーベさん」

 突如として目の前に現れた美貌の女性を見止め、やや狼狽しかけたユンゲではあったが、辛うじて平静を取り繕いながら呼びかける。

 何故これほどまでに苦手意識を感じているのかと不思議な思いはあるものの、最高位アダマンタイト級の冒険者にして、モモンとともに名声を欲しい侭とする“美姫”ナーベとの邂逅に、悲鳴を上げなかっただけでも、ユンゲは自身を褒めてやりたい気分だった。

 それでも、返ってきたのは耳朶をはっきりと震わせるナーベの舌打ち。

 捕食者を思わせる零下の視線に居心地の悪さを覚えつつ、思考を巡らせる。

 いつにも増して不機嫌そうに見えるナーベが凛とした姿勢で佇立するのは、ユンゲたち“翠の旋風”がエ・ランテルで贔屓にしている常宿の前――、

「……えっと、俺たちに何か御用でしたか?」

「…………モモンさんからの言伝です。明日、魔導王陛下との謁見が成るとのこと。必ず、四人で揃って来なさい。――以上です」

 玲瓏たる声音で言い差したナーベが、さらりと踵を返してしまう。

「えっ、あ……あの」と戸惑うユンゲたちを一顧だにせず、要件は済んだとばかりに歩き去っていく優美な後ろ姿。

 何もかもが唐突に過ぎる事態には、誰一人として疑問の言葉を挟む余地すらなかった。

 

「……つまり、どういうことなんだ?」

 呆気に取られながらナーベの華奢な背を街の雑踏に見送り、たっぷりとふた呼吸ほどの時間を置いてから、ユンゲはようやくと口を開いた。

「魔導王陛下との謁見……?」

「えっと、カルネ村でお話しされていた件でしょうか?」

「そういや、前にルプスレギナさんから言われた気もするな。首を洗って待ってろ……とかなんとか」

 やや不安そうなマリーの言葉に冬頃の記憶を探りつつ、ユンゲがやおらと視線を巡らせれば、キーファとリンダも困り顔を浮かべている。

「それにしても、いきなり明日なんて随分と急な話だね。こっちにも心構えというか――」

「ここ数日は宿屋に戻っていなかったですし、カッツェ平野に遠征することも冒険者組合に連絡していなかったので、もしかしたら……」

「あー、ずっと待たせちゃってたのかもね。だから、あんなにイライラしてたのかな?」

 小さく腕組みをしたキーファが、「うーん」と可愛らしく頭を悩ませるが、仮にこちらの与り知らないところで不満を覚えられていたのであれば、対処の仕方がないだろう。

 他人を寄せ付けないナーベの振る舞いを思い返したのなら、いつもと変わらない様子にも見受けられたのだが、冒険者組合に所在の報告くらいはするべきだったか。

 しかし、現在の機能していない状況を鑑みると拠点を移すことさえ検討したくなるのだから、あまり気乗りはしない。

(……ていうか、具体的な時間や場所すら指定されていないな。何か訊き返すような余裕もなかったし……ったく、街中のアンデッドより心臓に悪い)

 エ・ランテルのために奔走するモモンの多忙は理解するが、もう少し普通に会話のできる伝言役はいなかったのだろうか、と思わずにはいられない。

 しかしながら、モモン以外に愛想良くしてる印象の薄いナーベではあっても、一方的に辛辣な態度で接する相手は、ユンゲばかりに限られている気もするので何とも反応に窮してしまうところだ。

 それなりに気を遣っているつもりなのだが、同僚から譲り受けた装備の出所をはぐらかしたり、何度か模擬演習でモモンに付き合ってもらったことが、やはり良く思われていない要因なのだろうか。

「まぁ、モモンさんの顔を潰すことはできないし……何にせよ、明日の予定を考えないといけないみたいだな」

 一つ大きな溜め息を吐いてから、ユンゲは大袈裟に肩を竦めてみせた。

「そうですね。先ずは身嗜みから整えないと――」

 両手をぎゅっと握り締めて意気込むマリーに、何やら説教めいた気配を感じて一歩を後退る。

「いや、でも……とりあえずは休んで飯にしようぜ。皆も疲れてるだろ?」

「大丈夫です! 何か失礼があってはいけませんからっ!」

「レ、レインフルーツが……」

「すぐには売り切れないですよ。さっ、早く準備しましょう!」

 殊更と元気に言い切ったマリーが、ぐいっと身体を寄せてユンゲの袖を掴み取り、有無を言わせないままに宿屋へと引っ張っていく。

 早々に無駄な抵抗を諦めて漫然と頭上を仰げば、やはり夏めいてきた晴れやかな青空。

 遠くアゼルリシア山脈の向こうへと流れる綿菓子のような白雲を見つめ、小さく溜め息がこぼれるのだった。

 

 




何かと空を見上げたり、肩を竦めがちな主人公。


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(52)謁見

「ようこそ、お越しくださいました。突然のお呼び立てとなってしまい、誠に申し訳ございません」

 丁寧な出迎えの挨拶とともに美貌のメイドが恭しく頭を下げたのなら、三つ編みに束ねられた赤髪が艶やかに流れた。

 敬虔な修道女を思わせる、黒を基調とした給仕服と柳腰の貞淑な佇まい。

 柔らかな朝の日差しを浴び、鮮やかに煌めく毛先が蜂蜜色の豊かな谷間へと垂れていた。

 思わずと誘われるようにユンゲの目線は下方へと向かってしまい、裾から切り上がる魅惑のスリットからは引き締まった極上の脚線美が覗いてーー、不意の凍てつくような怖気。

 嫋やかな所作で顔が持ち上げられたのなら、穢れを知らない満開の笑みだけが咲き誇る。

「――私心ながら、“翠の旋風”の皆様と再びお会いできるのを心待ちにしておりました」

「えっ……あぁ、ご無沙汰してます。ルプスレギナさん。お、お招きいただきありがとうございます」

 ようやっと言葉を紡いだユンゲは、無意識に惹かれていた羞恥を胸の内にしまいながら頭を下げた。

 精巧な宝飾品と見紛うばかりの黄金色の瞳に、一瞬だけ過ぎっていった悪戯めいた喜色を思えば、目の前で晴れやかな笑みを浮かべているルプスレギナには、こちらの情けない視線もあっさりと看破されていたのだろう。

 

 今朝方、ユンゲたちの宿泊先まで出迎えに現れたのは、二頭立ての厳めしい骨の悍馬〈スケルトン・ホース〉に引かれる豪華な幌馬車だった。

 一介の冒険者チームを呼び立てるにしては、あまりにも過分な好待遇。

 訝りたくなる思いを抱きながらも素直に乗り込んだ一行は、僅かな揺れさえ感じさせない馬車の造りに軽い驚きを覚えつつ、程なくしてエ・ランテルの中央区に位置する貴賓館の玄関口で降ろされることになった。

 そうして、瀟洒な石造りの門扉の前に控えていたルプスレギナとカルネ村で別れて以来の再会を果たしたのだが――、

(そうか、以前から魔導王に仕えていたのなら、この場で顔を合わせるのも当たり前だったな……)

 万の群衆を虜にするであろう微笑みにあやかりながらも、ユンゲの背筋を嫌な汗が流れていく。

 嫣然とした真紅の口唇が、いつ意地悪に持ち上がって揶揄いの台詞を向けてくるのかと、まるで断罪を待つような心境になってしまうのだ。

 こうした悪寒を覚える気配は、ナーベと相対しているときに似ているのかも知れなかった。

 どちらの女性も市井において、“美姫”と称されて遜色のない絶世の美貌の持ち主なのだが、どうにも殺気立つような雰囲気が見え隠れしているようで落ち着かない。端的に言い表せば、ともにユンゲの苦手なタイプということになるのだろう。

「えっと……“漆黒”のナーベさんから、モモンさんの言伝をお受けしたのですが――」

「そのように承っております。残念ながら“漆黒”の御二方は諸用のためにご同席できませんので、私がご案内をさせていただきたく思います」

「あっ、そうなんですね。……よ、よろしくお願いします」

 この場に天敵のナーベまで居合わせなかったことを安堵するべきなのか。――或いは、いざというときに頼りとなりそうなモモンが不在であることを嘆くべきなのか。

 ユンゲたち“翠の旋風”のために用意された幌馬車などを思い返せば、わざわざ呼び出して悪い話もないと考えたいのだが、相手方の意図は分からないままなので、失礼ながら不安な気持ちが上回ってしまいそうだ。

 傍らのマリーたちと軽く目配せを交わしつつ、小さな溜め息がこぼれそうになるのを堪える。

 幸いにして、こちらの立場を慮ってくれたらしいルプスレギナは、洗練された振る舞いを崩すことのないままに、「では、ご案内させていただきます」と柔らかに腰を折って踵を返すのだった。

 

「皆様にはこちらでお待ちいただきますよう、お願い申し上げます」

 ルプスレギナの優美な後ろ姿に続いて通されたのは、貴賓館の最上階に設けられた会議室だった。

 ニ、三十人余りが一堂に会することのできそうな広い部屋に留め置かれ、ユンゲは場違いな感覚に視線を彷徨わせる。

 本来の用途が各国の王族や貴族連中を歓待するための施設であり、厳かな館内にはリ・エスティーゼ王国時代からの贅を尽くした調度品が並んでいた。

「……迂闊に触って壊せないな」

「そうですね。けれど、魔道王陛下とお会いするはずなのに、武器を預けなくても本当に良かったのでしょうか?」

 相当に高価であろう精緻な装飾の施された椅子の造形に目を落としていたリンダが、苦笑いとともに疑問の声を投げかける。

「まぁ、ルプスレギナさんが必要ないって言ってたし……、大丈夫なんじゃないか? 俺たち程度の実力じゃ、先ず相手にもならないだろうしな」

 やや自嘲するように肩を竦めてみせ、ユンゲもまた苦笑いを浮かべた。

 館内を案内してもらう最中、先を歩くルプスレギナに問いかけたのなら、「アインズ様を害されようとお考えでしょうか?」と極北の底冷えする声音で問い返されてしまったものの、ユンゲたちが武器を携帯することに咎めはなかった。

 滅相もないですよ、とユンゲが軽く首を左右に振ったのなら、麗かな木漏れ日ような微笑みを返されるだけで何事もなく流されてしまったのだ。

 元より、こちらに魔導国と敵対する意志がないとはいえ――信頼されているというよりは、やはり歯牙にも掛けられていないのが実情だろう。

 それ以上の言葉を交わすことが憚られるような思いに駆られ、ユンゲは柔らかな日の差し込む窓辺へと歩み寄った。

 眼下に広がる街並みには朝の賑わい。

 まだ少し肌寒いほどの時分なのだが、石畳の敷かれた大通りを荷馬車が行き交い、街の人々は白い息を弾ませながら挨拶を交わしている。

 朝市の露店からは、既に威勢の良い呼び込みまで聞こえてくるようだ。

 そうして、すっかりと活気を取り戻しつつある街角には、黒衣を纏った死の騎士〈デス・ナイト〉の佇む姿が溶け込んでいる。

 この世界では伝説とまで謳われていたアンデッドの騎士は、他の都市であれば当然のように大きな騒ぎとなるはずなのだが――、こうした生者と死者が共在する街の営みが、アインズ・ウール・ゴウン魔導国の首都〈エ・ランテル〉における新しい日常となってきたのだろう。

 何の気なしに視線を巡らせながら、ユンゲは暫くのときを眼下の光景を眺めていた。

 

 *

 

 ――“魔導王”アインズ・ウール・ゴウン様のご入室です。

 

 鈴を転がすようなルプスレギナの艶やかな声に促され、ユンゲは正しい作法なども分からないままに頭を下げた。

 重厚な開扉の音とともに立ち込めてくるのは、濃密な“死”の気配ーー思わずと額に滲む冷や汗は、絶対者たる超常の存在を前にした生存本能だったのかも知れない。

「……公式の会談ではないから、堅苦しい挨拶は抜きにしよう。顔を上げてくれたまえ」

 以前にも耳にした男性らしい声音は、やはり尊大さと親しみやすさとが同居する不思議な響きを湛えていた。

(……えっと、許されても一度目は固辞した方が良いんだっけか?)

 曖昧な記憶を探りつつ、横目で傍らのマリーたちの様子を窺ってしまうが、不安そうな視線が重なるばかり――。

 あまり時間はかけられないと意を決し、ユンゲは静かに顔を持ち上げる。

 絢爛華麗な闇色の装いは気品に溢れ、細緻な金糸の刺繍が施されたローブの開いた襟元からは、剥き出しとなった仄白い鎖骨や肋骨が覗いていた。

 厳めしい大角の意匠と巨大な宝玉に飾られた頭部もまた、人間の部位ではありえない鋭い顎先を誇る髑髏。落ち窪んだ眼窩の奥には真紅に燃え立つ鬼火が灯り、骸骨の指先が掴む黄金のスタッフには禍々しい輝きを帯びた七匹の蛇が絡み合う。

 覚悟をしていても、なお圧倒的な存在を前にした衝撃は、咄嗟に口にしようとしていた言葉をユンゲから忘れさせてしまった。

 ――不意に訪れる、奇妙な静寂。

 片膝立ちの姿勢から見上げる格好となった半森妖精〈ハーフエルフ〉の眼差しと、殿上から寛雅に見下ろす格好となった死の支配者〈オーバーロード〉の眼差しとが刹那に交錯し、ふと胸の内を過ぎる僅かな既視感。

「……久しいな、“翠の旋風”ユンゲ・ブレッター殿。急な呼び立てとなり、悪かったね」

「あっ……いえ、とんでもありません。こちらこそ、長らくご無沙汰しておりました、アインズ・ウール・ゴウン魔導王陛下。本日は、お招きをいただき大変に光栄です」

 上位者から先に口を開かせてしまったユンゲも、慌てて感謝の言葉を述べた。

「……なに、先ほども言ったが、この場で畏まった挨拶は必要ない。皆さんも気を楽にしてくれたまえ。……あぁ、そうだ。私のことはアインズと呼んでくれて構わない」

 軽い口調で言い差した魔導王は、鷹揚に笑ってみせながら傍らにルプスレギナを呼び寄せ、「客人に飲み物を」と衒いもなく告げる。

 カルネ村での尽力に御礼をせねばならないしな、と朗らかに言葉を続けるアインズの雰囲気は、人の姿であれば片目を瞑ってウインクでもしていそうな気安さだった。

 しかし、生憎と骸骨の表情を読み取ることができずに、その笑えない冗談の真意を掴めないユンゲは、どのように反応するべきなのかと返答に窮してしまう。

 それでも、背筋を襲う極大の悪寒に従って再び頭を下げた。

「一介の冒険者である身には畏れ多いことです」

「ふむ……そうか、別に私としては構わないのだが――」

 鋭利な顎先に手をかけつつ、首を傾げるような魔導王の振る舞いに、ユンゲの全身を刺すような気配が背後で膨れ上がっていく。

 やや狼狽したくなる思いを押し隠しながら、決死の問いを絞り出す。

「……では、ゴウン様とお呼びさせていただいてもよろしいでしょうか?」

 魔導王の意向を真っ向から拒否すれば、気を悪くしてしまうかも知れない。一方で、悪寒の元凶であるはずのルプスレギナは、ユンゲが分不相応な待遇を受けることを良しとは考えないだろう。

 事実として、給仕を命じられて下がっていった部屋の片隅からは、威圧や殺気にも等しい零下の視線を強く感じていた。

(……だったら、エンリやネムたちの呼び方に合わせるのが無難だよな)

 心臓を鷲掴みにされているような不快感を振り払い、辛うじて導き出した折衷案に縋りついたのなら、果たして――。

「了解した。では、よろしく頼む」

 あっさりと魔導王の承認が得られたことに、ユンゲは内心でほっと胸を撫で下ろすのだった。

 

 最初の言い知れない緊張を除いたのであれば、“魔導王”アインズ・ウール・ゴウンとの謁見はつつがなく過ぎていった。

 王国軍と対峙したカルネ村での一件に始まり、その後の復興作業におけるユンゲたち“翠の旋風”の働きを賞賛され、村人からの感謝を改めて伝えられることになった。

 何の変哲もなさそうな辺境の開拓村にどのような思い入れがあるのかは知れなかったが、やたらと上機嫌な様子のアインズに接すれば、こちらの対応は間違っていなかったはずだと思いたい。

 トブの大森林の奥地に踏み入れ、冬季のみに現れる珍しい“怪鳥”ペリュトンを狩猟した話題などは特に受けが良く、血抜きや皮剥ぎなどの細かな手順まで質問をされたほどだ。

 また、昨日の会話で不安を覚えていた街中で強力なアンデッドが出現する可能性について訊ねてみたのなら、万一の事態にも備えがあると明言してもらえたことも良かっただろう。

 そうした取り止めのない談笑の最中、ルプスレギナから供された飲み物のあまりの美味さに瞠目し、思わずと“おかわり”をせびってしまったことはユンゲの失態であったものの――、

(冗談抜きで本当に美味かったんだから、仕方ないよな……うん、全ては食欲を抑えられないこの身体が悪いんだ)

 この異世界に転移を経験し、半森妖精〈ハーフエルフ〉という種族になって以来、どうにも食欲に対しては自制が働かないのだから仕方ない。

 胸の内に言い訳を重ねていたユンゲだったが、結果として「それほど気に入ってくれたのなら、今度は宿まで届けさせよう」という“魔導王の金言”を引き出すことができたのだから、欲望に忠実であることも時宜によっては大切なのかも知れない。

 ありがとうございます、と殊更に声を張った視界の端で、リンダやマリーは苦笑いを浮かべていた気もするが、甘味の好きなキーファは喜んでくれるはずなので押し切ってしまう。

 そうして、いくつかの話題がひと段落し、ユンゲが晴れ晴れとした笑顔になったときだった。

 軽い咳払いをしたアインズが、こちらの反応を窺うように柔らかな声音で口を開いた。

「――さて、実は皆さんに紹介したい子たちがいるんだ。この場に招き入れても構わないかね?」

 玉座からの思いがけない問いかけ。

「えぇ、問題ありません」

 やや戸惑いを覚えながらも断る理由はないと判断し、ユンゲは素直に了承を返して立ち上がった。

「感謝するよ」と微笑んだように、一つ優雅に頷いてみせた魔導王の目線を受け、控えていたルプスレギナが恭しく頭を下げて扉を押し開く。

 

「失礼しますっ!」

「……し、失礼します」

 対照的な二つの声音と小柄な人影。

 肩口で切り揃えた鮮やかな金髪と褐色の瑞々しい肌、特徴的な長く尖った耳は同族特有の形質なのだろう。

 先に立った“少年”は、溌剌と弾むような足取りで魔導王の右隣へ。

 後に続いた“少女”は、緊張の面持ちで恐る恐ると魔導王の左隣へ。

 振る舞いはまるで正反対ながらも互いに良く似通った容姿は、二人の血縁を思わせる。

「――では、紹介しよう。双子のアウラ・ベラ・フィオーラとマーレ・ベロ・フィオーレ、私の最も大切な友人から預かっている子どもたちだ」

 随分と誇らしげな魔導王に優しく肩を抱かれ、可愛らしい双子の闇妖精〈ダークエルフ〉は、ともに嬉しそうに頬を上気させていた。

「さぁ、二人とも挨拶をしてみなさい」

 どことなく父性を感じさせるアインズの言葉に促され、ようやくとユンゲたちの存在を意識したのかも知れない。

 威厳を湛える白磁の横顔を陶然と見つめていた四つの瞳が、尊敬から猜疑へと冷めるように色を変えた。

 やや胡乱げに向けられた対となる青と緑の双眸は、やはり非常に良く似ている。

「アウラ・ベラ・フィオーラ。……よろしく」

 先ほどまでの快活さを消し去り、素っ気ない態度のアウラがぼそりと言い差せば――、

「……えっと、マーレ・ベロ・フィオーレです。よ、よろしくお願いします」

 おどおどと躊躇っていたマーレが、杖を握り締めながら控えめに頭を下げた。

 いきなり見慣れない相手の前に立たされ、無意識の内に警戒してしまう――自身が幼少だった頃を懐かしく思い起こさせる、あどけなさを残したアウラとマーレの拙い挨拶。

 二人の姿を見守るような魔導王の眼差しに温かさを覚えて、ユンゲは自然と口許を綻ばせた。

「ご丁寧にありがとうございます。初めまして、エ・ランテル所属の冒険者、“翠の旋風”のユンゲ・ブレッターです。こちらの三名は同じチームで活動をしている……、ん?」

 そうして、傍らの仲間たちを紹介しかけ、はたと言葉を詰まる。

 驚きに目を見張り、息を呑む――まるで、金縛りのように直立不動の姿勢で固まっていたキーファとリンダ、マリーのただならない雰囲気を見遣り、ユンゲは小さく首を傾げた。

「……皆、どうしたんだ?」

 やや躊躇いながらも小声で問いかければ、やおらと三人の視線が焦点を結んでいき、ふと弾かれるように膝を突いた。

「――っ、王族の方々を前に失礼いたしました」

 伏せた横顔には、いつにない焦りの表情。

 何故か緊迫した様子のリンダに続き、遅れて頭を下げていたキーファとマリーが、「し、失礼しました!」と慌てながら謝罪の言葉を口にする。

 ユンゲの粗相に気を配りながらも、和やかに歓談を楽しんでいた仲間たちの姿は、そこになかった。

 

「「……えっと、いったい何が?」」

 

 不意の事態に疑問符を浮かべるユンゲとアインズの声音が、思いがけず重なったことに気付く者はいなかった。

 

 



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(53)思違

-前話の補足-
この物語ではエルヤー率いる“天武”が遺跡に侵入しておらず、奴隷エルフがナザリックの傘下になっていません。
そのため、現地のエルフに関する情報が原作よりも不足している現状です。


「……なるほど、左右で異なる瞳の色は森妖精〈エルフ〉王族の証なのか」

 すっかりと恐縮してしまったリンダの説明を横から聞きつつ、ユンゲは呟くように相槌を打った。

 魔導王“アインズ・ウール・ゴウン”との謁見の場において、仲間たちが唐突に膝を突き始めたときは何事かと焦ったものだが、その理由を知れば納得もしてしまう。

 魔導王から“友人の子”として紹介されたアウラとマーレは、そっくりな容姿を持つ双子の闇妖精〈ダーク・エルフ〉であり、ともに“王族の証”とされるオッドアイを持っていたのだから、彼女たちがあのように驚いてしまったのも無理はない。

「……先ほどは取り乱してしまい、申し訳ありませんでした」

「いやいや、構わないとも……こちらの配慮が欠けていたようだ」

「いえっ、滅相もありません」

 謝罪の言葉を口にしたリンダが深々と頭を下げても、アインズは鷹揚に笑ってみせるだけである。

 当のアウラとマーレも幼さ故にあまり関心がないらしく、魔導王の傍らで頭を撫でられながら幸せそうに頬を緩めているばかりだ。

(……魔導王の友人、か)

 誰しも気を悪くした様子が見受けられないのは救いだが、ユンゲの中で生まれてしまった懸念は膨らんでいく。

 

 絶対の支配者たる魔導王の友人となれば、相手方も相応の身分だと思われた。

 先の戦争で魔導国と同盟関係を結んでいた、バハルス帝国を統べる“鮮血帝”ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスとも懇意であることは広く喧伝され、市井でも周知の事実だ。

 そうであれば、目の前であどけなさをみせているアウラやマーレの“親”であり、エルフの王族に連なるはずの人物もまた同様だろう。

(もしかしたら、王様……本人って可能性があるかも知れないな。……いや、その辺りの事情は別にどうでもいいか)

 逸れかけた思考とともに小さく息を吐き捨て、ユンゲは気を取り直すように思考を巡らせた。

 マリーたちの故郷である森妖精の王国は、隣接するスレイン法国と長年に渡って戦争状態が続いている。その戦線へと動員されてしまい、敗れて虜囚の身となったことが、彼女たちの悪夢の日々の始まりだったと話をしてくれた。

 それから紆余曲折を経て、ようやくと奴隷の境遇から解放されたときの光景――故郷まで送ることを提案したユンゲの言葉に酷く動揺をみせ、溢れそうな涙を堪えていた姿が脳裡に過ぎっていく。

 思わずと抱き留めてしまった華奢な身体の震えに、不安を隠すことのできない上目遣いの眼差し。

 自身の考えなしの行為に焦りつつ、何かしなければと捲し立てた下手な誘いの台詞に、戸惑いながらも頷いてくれた儚げな笑み。

 胸の内に広がっていった心地良い熱と甘い香り。

 ――今更、手放すつもりはない。

 真っ先に確かめるべきなのは、故郷における彼女たちの扱いがどうなっているのか、という一点だ。

 捕虜や奴隷として過ごしていた期間はともかくとして、戦線に復帰することなく、冒険者稼業をしている現状がどう判断されるのか。

 両国の戦争の趨勢に明るくはないが、捕虜となり、奴隷となった同族の娘たちを救出するだけの力もない森妖精の王国に過分な期待はできない。

 自由の身となったことを幸いに、再び徴兵しようとする面倒な事態にならないとも限らないだろう。

(いざとなれば、俺の奴隷ってことにして要求を無視するのも……いや、それはできないな)

 例え“身振り”だけだとしても、ようやくと陰の薄れてきた彼女たちの古傷を抉るような真似は絶対にしたくない。

 

 そもそも遥かに南方のエイヴァーシャー大森林で暮らしているはずのアウラやマーレが、どのような理由から遠く魔導国を訪れているのか。

 その辺りに事態を読み解く糸口はないだろうか。

(……仮に戦況が考えている以上に悪いとして、俺ならどうする? 独力で勝つ見込みがないのなら、味方を集めるしかないよな)

 相手は“人間史上主義”を掲げ、同じ人間種であるはずのエルフさえも排斥しているスレイン法国だ。

 その教義に照らせば、異形種たるアンデッドを王に戴いた魔導国と相容れるとは思えない。

 敵の敵は味方――そう端的に捉えたのなら、場凌ぎの同盟相手として、エ・ランテルを本拠とする魔導国はうってつけかも知れない。

 地理的にも敵方を南北から挟み込める位置に存在するのだから、利用しない手はないはずだ。

 そう考えたのなら、魔導国の助力を得る目的で、友好を示すために森妖精の王国から使者を派遣するのは自然な流れ、といるかも知れない。

 そうした大役を担うため、王族に連なるアウラとマーレが選ばれたとすればどうか。

 一国を背負う使者にしては些かも若年に過ぎる人選だが、事実上の人質という意味合いがあるのだと考えれば納得ができる面もある。

 そして、あらゆる面で規格外な力を有した魔導国の協力を仰げたのなら、勝勢は大きく森妖精の王国へと傾くことになるだろう。

「…………っと、ん?」

 それらしい推察が浮かぶとともに、ユンゲの中では別の疑問が生まれてくる。

 改めて考えてみれば、魔導国の圧倒的な力を目の当たりにした上で、森妖精の王国がユンゲたち“翠の旋風”を戦力として期待することはないはずだ。

 それは魔導王という国家の最重要人物との謁見にも関わらず、武器の所持を許されている現状が何よりの証明になっている。

(マリーたちを徴兵する、っていう線は……流石に薄そうだよな。なら、何で俺たちはアウラやマーレと引き合わされたんだ?)

 カルネ村での功績を労うためという名目はあるのだが、一介の冒険者チームを魔導王が自らもてなすほどの厚遇にはつり合わないだろう。

 やはり、この場でエルフの王族と引き合わせることを本来の目的にしていたと考えるのが筋なのだろう――と、

「……どうされたかね、ユンゲ殿?」

 上手くまとまらない思考が、不意の呼びかけに霧散する。

 

 ふと顔を持ち上げれば、問いかけたアインズだけではない――アウラとマーレが揃って小首を傾げ、退がっていたルプスレギナの訝るような気配が背後から注がれ、傍らではキーファとリンダ、マリーが躊躇いがちな上目遣いを向けていた。

 皆の視線を集めていたことに気付かされ、ユンゲは咄嗟に息を呑んだ。

 魔導王を目の前にしながら、余計な思考に没頭し過ぎていたかも知れない。

 周囲から刺してくる不穏な寒気は、不敬を咎める類いのものか――。

「…………えっと、申し訳ありません!」

 慌てて頭を下げてはみるが、続けるべき言葉が喉元から出てこない。

 顔を上げるまでの僅かな時間さえも惜しく、額に冷たい汗が滲んでいく。

(――せめて、何か喋らないと……ん?)

 焦りばかりで気の逸る視界の端――傍らから伸ばされた小さな手が、そっと寄り添うように袖先を掴んでいた。

 ふと視線を持ち上げれば、こちらを気遣う澄んだ碧の瞳に映り込むのは、判決に怯える罪人のように青褪めた半森妖精〈ハーフエルフ〉の情けない姿。

(……何を躊躇ってるんだ、俺は)

 ようやっと肩を竦めてみせながら、ユンゲはさっと手首を返す。

 自嘲が口許を歪ませ、浮かんでいた顔が強がりな笑みを形作っていく。

 少しだけ震えていた小さな手を取り、優しく宥めるように指先を絡める。

 当たり前の戸惑いに努めて無視を決め込みながら受け流し、ユンゲは一つ小さく息を吐いた。

「……っ、失礼しました」

 そうして、謝罪の言葉とともに姿勢を正し、玉座の魔導王へと向き直る。

 落ち窪んだ眼窩に揺らめく真紅の鬼火――圧倒的な強者の風格を備えた異形の王を前に本能が怖気づきながらも、固く握り締めた手にギュッと力を込めて言葉を紡ぐ。

「――ゴウン様。森妖精の王国の方々と交流を持たれているのは、スレイン法国との戦争が関係しているものと浅慮いたします。……ですが、誠に勝手な願いながら今回の件は、俺たちには無関係とさせてください。かつては祖国のために戦った彼女たちですが――今は、俺とともに歩いてくれています。勿論、大切な仲間たちと離れるつもりもありません。何卒、俺たちの意志を尊重し、寛大なご配慮を賜りたくお願い申し上げます」

 胸の内から湧き上がる高揚感に任せ、ユンゲは想いの丈を一息に言い放った。

 エ・ランテル中央区に屹立する最も厳かな貴賓館の一室に、奇妙なほどの静寂が訪れるのだった。

 

 *

 

「はっはっはっ――、……いや、失礼。あまりに予期していなかった返答だったものでね。君の仲間を想う気持ちを笑う意図はないんだ、気を悪くしないでくれたまえ」

 くくっ、とくぐもった笑いをこぼしながら、翳された骨の手がひらひらと払われる。

 益々と上機嫌になった“魔導王”アインズ・ウール・ゴウンを前に、ユンゲは乾いた笑みを返すばかりで精一杯だった。

 頬がはっきりと紅潮しているのを自覚しながらも、逃げ出すことはできない。

 長々と検討違いの考えを巡らせた挙句に仲間の手を取り、「離れたくない」などと大仰に宣ってしまった羞恥、自身の振る舞いに今更ながら心身が震えてしまう。

(……っ、どんな間抜けだよ)

 マリーたちがどのような反応をしているのか、横目で窺うことすら躊躇われる思いだ。

「――冒険者が国家に帰属しない旨は承知している。先ずはエ・ランテルの統治と発展が第一であるため、周辺国と事を構える考えはないのだが……万一、そうした事態となった場合にも、君たちを無理に徴兵することはないと“我が名”において誓おう」

 今すぐに踵を返して場を辞したい心境ではあったが、威厳のある声音が否応なく耳朶を叩いた。

 努めて平静を装いながら、ユンゲはゆっくりと顔を持ち上げる。

 七匹もの蛇が絡み合う目映い錫杖を手の内で転がし、魔導王が落ち着き払って言葉を続けた。

「――だが、こちらと敵対を選ぶのであれば、たとえ相手が“神の軍勢”であろうとも容赦するつもりはない。アインズ・ウール・ゴウンは、それだけの力を持っている」

 気負うことのない淡々とした口振りには、一切の衒いも感じられなかった。

 あまりに敢然たる不敵な宣言であっても、面白い冗談だと笑い飛ばしてくれる者がこの場にいるはずもない。

 記憶を呼び起こすに及ばない――カルネ村で遠巻きに眺めた光景、カッツェ平野での噂に伝え聞いた超常の大魔法、何より間近に対峙して分かる圧倒的に過ぎる存在感は、魔導王の台詞がまごうことのない事実であることを雄弁に物語っていた。

 自身でもその結論に至りながら、何故あのような真似をしてしまったのか。

 焦りから色々と先走りすぎたことを反省するほかにないが、幸いなのは目の前でくつくつと笑いをこぼす異形なる骸骨の王が、気分を害した様子を見せていないことだろう。

 ユンゲとしては素直に頭を下げ、ただ謝意を示すばかりだ。

 

「……先ずは誤解を晴らしておこうか」

 そう切り出された魔導王の説明に、ユンゲは大袈裟になり過ぎないように傾聴の姿勢を取り続ける。

 現状で森妖精の王国との間に国交は結ばれておらず、同盟の上でスレイン法国を攻略するといった情勢にはなく、使者だと勘違いした双子のアウラとマーレについても、当然ながら王族との血縁関係はないとのこと――つまり、オッドアイという形質は偶然の一致だったらしい。

 そして、これが何より重要な点だ。

 アウラとマーレの肩に優しく手を置いたアインズは、「この子たちは“かけがえのない友人”の子であり、私にとっても家族同然の大切な存在なのだよ」と朗らかな声音で語ってくれた。

 その気取らない言葉を傍で耳にした双子のダーク・エルフが、ともに僅かな間を置いて驚きに眼を見張るように息を呑む。

 幼いながらも端正な顔立ちが不意の喜びに綻び、何度も何度も表情を引き締め直そうとするほどに、益々と笑みがこぼれてしまうのを止められないといった様子だ。

 そうした二人の姿を見遣れば、先ほどの推察があまりに的外れだったことを理解する。

 アウラとマーレが魔導王に寄せる信頼や思慕の念は、一朝一夕で培われるものではないはずだ。

 さらには髑髏の表情など読み取れるはずもないユンゲの瞳にも、双子の様子を見つめるアインズが微笑みを浮かべているように見えたほどなのだ。

 異形の不死者〈アンデッド〉とダーク・エルフがどのように友誼を結んだのか――やや複雑な境遇にあるようだが、託された子どもたちを魔導王が大切に考えていることは確かなのだろう。

「さて、この子たちを君たちに引き合わせた理由なのだが……」

 それまで流暢に説明を続けていたアインズが軽く咳払いをし、ふと言葉を躊躇うように剥き出しの顎先へと手を添える。

 話題が本筋に入ったことを察し、ユンゲは背を伸ばして拝聴の姿勢を取った。

「……私はこのようにアンデッドの身なのでね、エルフの世俗には疎いのだ。アウラとマーレにも苦労をかけてしまうが、同世代の者たちのいない環境を些か不憫に思っている。そこで、若い君たちが色々な話し相手になってくれたのならと……そう考えているのだが、いかがだろうか? 勿論、君たちの手が空いているときで構わない。ぜひ仲良くしてやって欲しいのだ」

 そう矢継ぎ早に言い切った魔導王が、ごく自然な動作で顎を引いてみせたのなら――、

「「――えっ、アインズ様!?」」

 玉座両隣で幸せを噛み締めていたはずのアウラとマーレが、慌てたように揃って声を上げた。

 咄嗟の反応に詰まってしまうが、ユンゲとしても焦りは同じだ。

 魔導国の支配者たるアインズが、一介の冒険者に軽々しく頭を下げるなど常識の埒外だった。

(……えっと、二人の話し相手? いや、そういうことではなくて――)

「あのっ、ゴウン様はお顔を上げてください。俺たちで良ければ、何でも構いませんので……」

「そうか、感謝するよ。よろしく頼む」

 どこか安堵するような魔導王の声音。

 不意の動揺から勢いで安請け合いしてしまったのだが、そもそも何を頼まれたのだったか。

 ――エルフの世俗? そんなものを“ユグドラシル”で遊んでいただけで、この世界に転移したユンゲが知るはずもないのだが、この流れで「やっぱり無理です」などとは口が裂けても言えないだろう。

「謹んでお受けします」などと形ばかりの返事をして頭を下げつつ、傍らの仲間たちの様子をこっそりと一瞥をくれる。

 今回の謁見では、どうにもユンゲだけが暴走してしまっている気がしてならないものの、反省は後回しにするしかない。

 魔導王の交友関係に連なる御令嬢たちを男一人で相手する訳にもいかないので、先んじて頼るべき仲間たちに詫びを込めた視線を送っておく。

(……皆には何かしらの埋め合わせをしないとな)

 一方で、魔導王からの提案はアウラとマーレにしても寝耳に水な話だったらしく、やや困惑したような表情を浮かべていた。

 機嫌の良さそうなアインズを目の前にして、ユンゲたちの存在を無下にできないが、あまり乗り気ではないといった雰囲気が見て取れる。

 そうした二人の反応を何気なく窺っていたのなら、アウラと視線が重なった瞬間にぷいっと顔を背けられてしまった。

 幼げで可愛らしい仕草だが、下手に嫌われてしまうのは色々な意味でよろしくないだろう。

 既に諸々と残念な部分を晒してしまったものの、これ以上の印象悪化は避けたいところだ。

 小さく息を吐くようにして、ユンゲは静かに表情を引き締め直す。

(……これから大変かも知れないな)

 

 やがて、会場の様子を昂然と見回していた魔導王は一つ満足そうに頷き、扉の前に控えていたルプスレギナへと指先で合図を送っていた。

 恭しく腰を折ってみせたルプスレギナが静かに踵を返し、間もなく瀟洒なトローリーを優雅に押しながら姿を現す。

 そうして、目にも華やかな料理の数々が流れるような給仕働きで卓上に並べられていくのだから、内心の期待は否が応でも高まってしまう。

「――さて、心ばかりのもてなしになってしまうが、冷めないうちにどんどんと召し上がってくれたまえ。アウラとマーレも“翠の旋風”の皆さんにご一緒させてもらいなさい」

「はいっ!」と元気に返事をしたアウラとマーレが、こちらへと軽やかに駆け寄ってくる。

「そんじゃ、よろしく!」

「よ、よろしくお願いします」

 年相応の無邪気な笑みを浮かべた双子の姉妹――不意に差し出された小さな手を目の前にして、ユンゲは僅かな躊躇いを覚えて逡巡する。

「……ほら、早く合わせてよ」

 やや責めるような小声は、くいっと手を軽く持ち上げた姉のアウラからだった。

 対になる青と緑の澄んだ視線が、可愛らしくも上目遣いに向けられているのだが、何故か背筋を冷たい汗が伝っていく。

「あ……えっと、こちらこそよろしくお願いしますね、アウラさん」

 ようやっと言葉を紡いだユンゲは、腰を屈めるようにしてアウラと握手を交わし、「マーレさんもよろしくお願いします」と努めて笑顔を取り繕う。

 精緻な細工の施された短杖を両手で握り締めながら、こくりと首だけで頷いてみせる妹のマーレは、やはり人見知りなのだろう。

(何を怯えているんだ、俺は……)

 一応は年配者なのだから、これ以上の情けない姿を見せてはいられない。

 気持ちを切り替えるように小さく息を吐き、ユンゲは無作法にならない程度に少しだけ声を強めた。

「さっ、こんなに美味しそうなご馳走を用意してもらったんだ。皆で楽しませてもらおう!」

 それらしく大仰に振り返ってみれば、やや苦笑いを浮かべた仲間たちの姿が傍らにあった。

 何かを言いたげな三人の表情には呆れともつかない色が読み取れてしまうものの、魔導王の厚意を無下にすることはできないだろうとユンゲは胸を張ってみせる。

 決して、食い意地が勝っている訳ではないのだと声高に叫びたいところだ。

「はははっ、ぜひ楽しんでくれたまえ」

 一層と上機嫌なアインズの言葉に後押され、ユンゲは手にした蒸留酒の杯を高々と掲げてみせる。

「――ゴウン様の寛大な御心に感謝を」

 かっ、と喉を灼く強い酒精が堪らなく心地良い。

 その勢いのままに見事な焼き上がりの丸鷄を頬張り、再びの酒精で峻烈な追い討ちをかけたのなら、思わずと感嘆の吐息がこぼれてしまうのも致し方のないことだろう。

 この世界に転移してから、色々な食事を口にしてきたが、やはり魔導王から供される逸品はどれも別格の素晴らしさだった。

 気に入った料理や酒を頻りに褒めそやしつつ、アウラやマーレにも勧めながら無難そうな話題を探っていく。

 そうして、豪華な宴席に次々と舌鼓を打ちながら、すっかりと気分が高揚していった頃――、やおらと玉座から立ち上がったアインズが静かに言葉を投げかけた。

 

「そうだ、君たちに一つ訊ねてみたいことがあってね。“冒険者”という職業について、ぜひ考えを教えて欲しいのだ」

 

 *

 

 昼下がりとなる商業区の広場には多くの露店が並び、賑やかな客引きの声が響いていた。

 行商に取り扱われている品物の多くは、バハルス帝国領から持ち込まれた日用品や工芸品、他には食料品の類いか。

 魔導国による統治以前のエ・ランテルでは、冒険者や請負人〈ワーカー〉たちが自身で使用しない武器や掘り出し物のマジック・アイテムなどを融通し合っていたらしいのだが、すっかりと店舗や客層が様変わりしている。

 流石に帝都アーウィンタールの中央市場の規模には及ばないものの、活気の面では引けを取らない印象さえ感じられるのだから、戦後復興の勢いは驚異的といえるだろう。

 忙しなく行き交う人波を遠巻きに避けつつ、ティラは目当てとなる連中の姿を視界の中に見止めた。

「今朝は貴賓館に招かれていたというが……、藪蛇にならないことを祈るばかりだな」

 口端からこぼれた小さな溜め息が一つ、初夏の喧騒へと呑まれていった。

 

 




前章のside-Mで描いていた場面に、ようやくと本編が追いついてくれました。
流石に時間がかかり過ぎているので忘れられてしまいそうですが、完結まで細々と続けていきたいと思いますので、長い目でお付き合いをいただけると嬉しいです。


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(54)日常

 目に沁みるほどに濃い青空を背景に、真っ白な入道雲が沸き立っていた。

 昼下がりのエ・ランテル商業区――多くの露店がひしめく広場の片隅に身を置き、ユンゲは静かに息を吐いた。

 魔導王“アインズ・ウール・ゴウン”に招かれた貴賓館を丁寧に辞し、ようやくと肩の荷が下りた思いではあるのだが――、

「本当に申し訳ないっ!」

 額の前で両手を合わせつつ、“翠の旋風”の仲間たちに向き直って頭を下げる。

 先の謁見の場における自身の振る舞いを省みたのなら、何から謝るべきかも判然としないほどに酷いものだった。

 ご馳走を前にして食欲に揺られてしまうのは毎度のことながら、アウラとマーレを使者と勘違いしたために先走って勘違いをし、結果として皆に恥ずかしい思いをさせたばかりか、その後の魔導王からの提案を安請け合いしてしまってもいる。

 独断を避けるために、チームの方針は全員で話し合うことを取り決めていたのにも関わらずだ。

「……顔を上げてください、ユンゲさん。私たちは気にしていませんから」

 あの状況では仕方ないですよ、と小さく肩を竦めてみせたマリーが、柔らかな笑顔とともに優しく手を引いてくれる。

「そうそう、魔導王陛下からのお願いだもん! 当然、断れるはずないよね?」

 気楽な調子で言い切ったキーファは、傍らのリンダを振り仰ぎながら小首を傾げてみせた。

「そうだな、こちらの都合を汲んでくれるというのなら問題はない」

 軽く首肯して同意を示したリンダもまた、「ナーベ様から呼び出しを受けたときには、どんな難題を吹っかけられてしまうのかと不安もありましたから、却って拍子抜けしたくらいですよ」と言葉を続け、冗談めかせながら口許を綻ばせる。

 労わるような雰囲気を察するに、仲間たちから総出で慰められているらしい。

 ――何とも情けない限りではあるが、下手な謝罪の言葉を重ねるよりも、ここは仲間たちの優しさに甘えてしまうのが正解かも知れない。

「……そっか、ありがとな」

「ねっ、ユンゲ! そんなことより、レインフルーツを探すんでしょ? 早くしないと売り切れちゃうかもよ」

「ん? いや……それも欲しくはあるけど――」

「いいから、いいから。ねぇ、早く行こーっ!」

 するりと背後に回ったキーファが肩の辺りに手を添えながら、ぐいぐいと急かすように押してくる。

「いや、俺のことばっかりじゃ――」

「あっ、でも本当に申し訳なく思ってるんなら、あたしの“お願い”を聞いてくれても良いよ」

 不意に耳許へと寄せられた艶のある囁きに、ユンゲの背筋がピクリと震えた。

 慌てて振り向いた先には、悪戯っぽく口許を持ち上げてみせたキーファの得意そうな笑顔――対して、自身の不甲斐なさには思わずとこぼれてしまう溜め息を隠せない。

「へっへっへー、よっと!」

 そうして、わざとらしく片眼を瞑ってみせながら軽やかに勢いをつけたキーファが、跳ねるようにユンゲの首へと腕を回して背中に抱きついてくる。

「――さぁ、いざ出発!」

「…………了解しました」

 都合、爽やかに勝ち誇るキーファを丁重に背負い上げ、ユンゲは賑やかな雑踏の中へと足を踏み入れていくのだった。

 いとも容易く手玉に取られている自覚はあったが、不思議と悪い気分にはならなかった。

 

 忙しなく行き交う人波に揺られながらも、ほどなく発見した青果商で目当てのレインフルーツを買い込み、ユンゲは小さく腰を落とした。

「……なぁ、まだこのままか?」

「んー、もうちょっとかな……次はあっちの方に行ってみよー!」

 肩越しに伸びたキーファの手がくるくると回され、取り分けて賑やかな広場の一角を指し示す。

「……では、仰せの通りに」と素直に応じたユンゲは、相変わらずの横顔を見せるキーファを背負い直しつつ、のんびりとそちらに足を向ける。

 大勢が詰めかける人垣の向こう――、鮮やかな羽飾りをあしらった帽子の優男が注目を集めていた。

「何の集まりなのでしょうか?」

 傍らに歩み寄ってきたマリーが、軽く背伸びをするようにしながら小首を傾げる。彼女の目線の高さでは、群衆の後ろ姿しか見えていないのだろう。

「旅の大道芸……いや、吟遊詩人っぽいかな?」

 優男が手にしている楕円形のリュートに似た弦楽器を見遣れば、少し高級な酒場などで酔客を楽しませてくれる楽匠の佇まいが連想された。

 まだ演奏を始めてもいないのに、これだけの人集りととなっているのだから、よほど期待されているのかも知れない。

「見たいなら、抱っこで持ち上げてやろうか?」

「……いいえ、結構です!」

 軽い冗談のつもりが、結構な強めの口調でマリーに断られてしまう。

 年少の子を両親があやすような体勢では、流石にお気に召さないらしい。

 ぷいっと顔を背けてしまった可愛らしい仕草を思えば、それほど違和感を覚えない気もするのだが、指摘したところでまた怒られてしまうだけだろう。

 さっと浮かんだ悪戯な表情を隠した先に、にんまりと楽しそうなキーファの視線――似たような結論に至ったであろうことを確認し合い、互いに小さく笑みを交わしてみせた。

 そこで、やれやれとばかりにリンダがかぶりを振ってくれたのなら、ようやくと日常に戻ってきたような感覚が湧いてくるものだ。

 

 *

 

「――さぁさぁ、皆様お立ち会い! これより紡がれますは、故郷の仇に復讐を誓った騎士と一途な愛を胸に秘めた美姫が歩む壮大な抒情詩! 世界各地を旅して回り、数多の苦難をともに乗り越えていく偉大な英雄たちの大冒険譚をお楽しみあれ!」

 客引きの声が飛び交う騒めきの中でも、通りの良い澄んだ優男の声音。

 軽快な口上に合わせて七つの弦がかき鳴らされ、道行く人の関心をくすぐるように煽り立てる。

 とある国家の栄枯盛衰――平和な日々の描写に始まり、凶悪な吸血鬼の襲来とともに幕開ける悲劇と決死の逃避行は、傷付き苦悩する男が英雄として再起するまでの篇首だ。

 悲喜交々を孕んで情感豊かに詠い上げられる詩歌に、素朴なリュートの旋律がときに鮮烈な彩りを添えながら物語は進行していく。

 悲嘆にくれていた男を支える美姫の献身に聴衆が涙を滲ませ、遂には仇討ちを誓って立ち上がる英雄の勇気を讃えて、大きな歓声が沸き起こった。

 そうした周囲の反応に目を向けつつも、どこか既視感を覚えるストーリーの展開に、キーファを背負ったままのユンゲは静かに首を捻る。

「……どうやら、“漆黒”のモモン様とナーベ様を題材にしているようですね」

 隣に並んで聴いていたリンダが、こちらに一瞥をくれながら小さく肩を竦めてみせた。

「なるほど、そういうことか」

 やや独自の脚色をなされているようだが、ユンゲが冒険者となって間もない頃に、そのような噂話を耳にした記憶はある。

 曰く、冒険者モモンは滅びた王家の血筋であり、祖国の仇敵である二匹の吸血鬼を追いかけている。

 更には、エ・ランテル近郊に突如として出没し、当時はミスリル級だったモモンによって討伐された吸血鬼“ホニョペニョコ”こそが、その片割れであったというものだ。

 他人の過去を詮索しても碌なことにならないので、本人に真偽を確かめたことはないが、モモンの洗練された立ち振る舞いを思えば、相応に高い身分の生まれであることは想像に難くない。

 決して、全てが根も葉もない噂話という訳ではないのだろう。

(……まぁ、ナーベさんはお姫様というより従者っぽい印象だけど、モモンさんを支えようとしてるのは間違いないよな)

 そして、いつかの帝都からの帰路――モモンがホニョペニョコを討伐した跡地に立ち寄ったことを思い出す。

 鬱蒼とした森の奥地で目にした、黒く爛れた断崖に抉られた砂漠ばかりが広がっていた異様な光景。

 濃密な死の気配に当てられながらも、胸の内に抱いた僅かな怖れと未知への渇望は、世界の広さを垣間見る契機となった。

(魔封じの水晶に込められていた第八位階魔法を使ったらしいけど……って、なんだ!?)

 不意に沸き起こった拍手と歓声が、ユンゲの思考を途切れさせる。

「――輝くような白銀の毛並み。雄々しき瞳には深淵なる理知を宿し、仁王立つ威風堂々たる姿は、“森の賢王”と称されながら数百年のときを支配者として君臨した矜持の表れか! 対して、二振りの大剣を手に迎え撃つのは、慈悲深き我らが漆黒の戦士。瞬時にして互いを好敵手だと認め合った両者は、戦いの中で雌雄を決することを望み、言葉を交わすことなく地面を駆け出す!」

 展開を盛り立てていた音楽がはたと止み、先ほどまでとは打って変わった静けさの中で聴衆たちがごくりと息を呑む。

 場の空気を惹き込む緩急のつけ方が、あまりに見事だ。まだ年若く見えるが、優男の吟遊詩人としての手腕は確かなのだろう。

(……というか、もうハムスケと出会う場面か)

 ユンゲの思考が逸れていた間に、随分と物語が進んでしまったらしい。

 そうして、熱い激闘の果てに伝説の魔獣を屈服させ、更には心酔させることにも成功した漆黒の戦士は、その逞しい背に颯爽と跨がって城塞都市へと凱旋し、英雄としての一歩を踏み出していく。

(ハムスケか、この世界の基準だと怖がられてたりするんだよな。でっかいハムスターにしか見えないし、やたらと人懐っこくて可愛いのに……)

 いつの頃だったか、冒険者組合で鉢合わせてしまったマリーが、やたらとハムスケに怯えていた覚えがある。

 たとえば、ハムスケに騎乗したモモンが街中を進んだのなら、瞬く間に大勢の群衆が詰めかけて畏怖や尊敬の眼差しを集めることになるのだろうが、英雄の凱旋する姿としてはどうにも締まらない印象を拭えない。

(……やっぱり、立派な悍馬とかに乗っていて欲しい気はするなぁ)

 しかし、モモンの騎乗している様子などはとても堂に入ったものなので、この転移後の世界においては、やはりユンゲの感覚こそが異端なのだろう。

 

 そんな取り留めのない思考を巡らせていたとき、ふと向けられていた妙な視線に気が付いた。

 盛り上がる観衆を差し置いて、こちらに近付いてくる小柄な女性――傍目には行商人らしい旅装姿だが、目深に被ったフードから覗く艶やかな濡れ羽色の髪と物怖じしなさそうな鋭い眼差しに、ユンゲは思わずと溜め息をこぼした。

「……悪いな、キーファ。ちょっとだけ下りてくれるか?」

「ん、どうしたの? ……あっ、了解」

 すぐに察して離れてくれたキーファを背に庇うようにしながら、静かに問いを投げかける。

「――何の用件だ? アンタに出会うと面倒事ばっかりだから、勘弁して欲しいんだが」

「……そう邪険にするな。文句があるのなら、あの性悪男にでも言ってやれ」

 やや抗議めいた口調で言い捨てたのは、帝都アーウィンタールで遭遇した邪神教団との一件以来の再会となる、“女忍者”のティラだった。

 

 *

 

「そうか、あの子たちは元気に過ごしてるんだな」

 没落貴族家に生まれ、危うく邪悪な儀式の生け贄にされてしまいそうだった幼い姉妹――ウレイリカとクーデリカは、元執事である“政務官”ジャイムスに引き取られていった。

「……というより、元気に過ぎたようだな。暫くは『姉を探しにいく』と言って聞かなかったそうだ」

 頑なに姿勢を崩さない彼女たちを前に根負けしてしまったジャイムスは、やがて一つの条件をつけることになった。

 それは就学に年齢の下限がない帝国魔法学院に通い、第三位階までの魔法を修得することだ。

 先頃、マリーやリンダがカッツェ平野での特訓を経て、白金級〈プラチナ〉の称号を得たように第三位階魔法の使い手となれば、冒険者としても第一線で活躍できるほどの腕前となる。

 行方不明の姉を捜索したいのなら、自分の身は自分で守れるように、と相応に困難な条件を課されたはずだったのだが――、

「半年足らずで、既に第二位階の魔法を使い始めているらしい。姉の方も早熟だったという話だが、血筋とは末恐ろしいものだな」

「そ、それは何というべきか……羨ましい才能ですね」

 これまで聴き役に徹していたリンダが、堪らずに驚きの口を挟む。

 薄い笑みを浮かべながら軽やかに肩を竦めるティラは、どこか楽しんでいるような雰囲気があった。

 この世界における基準が今一つ判然としないものの、五歳という年齢を考えれば驚異的な成長速度なのだろう。

 執事然と物腰の柔らかだったジャイムスが、元気な姉妹の対応に苦慮している様がありありと思い浮かんでしまう。

「――ていうか、彼女たちの姉は冒険者だったのか? まだ若い女の子が借金返済のためって聞いてたから、てっきり……いや、悪い。忘れてくれ」

 どちらにせよ、長らくと消息の知れない冒険者を捜索した先に待つ未来は、決して明るいものではないはずだった。

 あまり好ましい想像ではないとユンゲが目線を落としかけ――、ふと視界の端に映り込むのは、豊かな胸元を強調するように腕を組んでみせていたティラの立ち姿。

「ふむ……やはり、お前の視線はいやらしいな」

「ほっとけよ……それで、あの子たちの近況を教えてくれるのは良いけど、そろそろアンタらの目的を教えてくれないか?」

 無理矢理に話題を切り上げ、ユンゲは本来の疑問を投げかける。

 バハルス帝国の“鮮血帝”ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスに雇われているはずの凄腕の女忍者が、同盟関係ながらも遠方のエ・ランテルにまで出没しているのだから、警戒をしたくなるのは当然だ。

「別に大した理由はない。…………待て、帰ろうとするな。ちょっとした興味だ。生者を憎むはずの不死者〈アンデッド〉に治められた国家が、どのようなものかとな」

 返しかけた踵をそのままに首だけで振り向いたのなら、意外なほど真剣なティラの眼差しがあった。

 

 賑やかな広場の片隅に場所を移し、少しだけ声を落とすようにしながらティラが言葉を重ねていく。

 カッツェ平野での大虐殺を引き起こした超常の魔法。敗戦からの占領下にあって、瞬く間に復興していく活気に溢れた街並み。徘徊する強大なアンデッドを忌避することなく、自然体で受け入れている市民たち。

「――あまつさえ、先の戦争に徴兵された夫や子を殺された寡婦たちが、孤児院での働き口を得たことで、“魔導王陛下”に感謝しているくらいだからな。私の中に存在していたはずの常識は、何一つとして通用しないらしい」

 そう言って力なく肩を落としたティラの表情に、偽りの色は見られない。

 もっとも、忍者相手に思考を読み取るような技量がないことは自覚しているので、実際のところは定かでないのだが――、

「まぁ、驚くことばっかりだよな」

 呆れとも諦念ともつかない感覚を抱きつつ、ユンゲは軽く同意を示した。

 対話のできるアンデッドというだけでも稀有な存在であることは疑いなく、個人の戦闘能力や施政者としての統治能力などは、ユンゲのような凡人の理解が及ぶとも思えない。謁見の場で饗してもらった料理や酒類の見事さを思えば、財力の面だけでも文字通り桁違いなのだろう。

「……お前たちの率直な意見を教えて欲しい。“アインズ・ウール・ゴウン”とは何者だ?」

「……と、俺たちに訊かれてもなぁ」

 続けられたティラの問いかけに思わずと空を仰いだユンゲは、先ほどの貴賓館で目にした光景を思い返した。

 山の天気よりも移り気なルプスレギナからの絶対的な忠誠、幼い闇妖精〈ダーク・エルフ〉の姉妹に思慕され、更には父性を感じさせるほどに溢れる気遣い。――そして、カルネ村での出来事だ。

 二度までも窮地に駆けつけ、その後の復旧にも尽力したことで、村人たちから神様の如く崇められていた姿。それでも、純朴な村娘である“族長”エンリの浮かべた裏表のない笑顔が、全てを物語っているような気がした。

「まぁ、とんでもなく強大な力を持ったアンデッドの王様かな。……信用はできると思う。だけど、こっちが信頼してもらえるかは分からない」

 素直な印象を口にしたユンゲは、やや奥まった建物の陰に背中を預けながら、傍らのキーファやリンダ、マリーへと目配せを送った。

「最初は怖いと思っちゃったけど、すっごい太っ腹だったね! あ……でも、もしも怒らせちゃったらホントに怖そう!」

「物事の捉え方からして、常人とはかけ離れていた雰囲気ですね。非常に深い見識をお持ちのように思いました」

「皆さんから尊敬されていましたし、とても寛大な方でしたよ」

 三者三様の魔導王を評した言葉に、腕組みを解いたティラが小さく溜め息を吐いた。

「……直接会ったのは二回だけだし、何か期待されても困るぞ」

「いや、問題ない。お前たちの反応を見れば、決して悪い相手ではないのだろうさ。それだけに、却って悩ましくもあるのだがな……」

 やれやれとばかりにかぶりを振り、何事かを思案している様子のティラを見遣れば、どこか不自然な印象を拭えない。

「えっと、魔導国と帝国は同盟してたよな? 相手方を探るような真似をしても大丈夫なのか?」

「エ・ランテルでの統治に大役を担っている“漆黒”なら知らんが、お前たちのような市井の冒険者と接触したところで、咎められる謂れもあるまい」

「……何か釈然としない言い方だな」

 含みのありそうな物言いに、ユンゲは憮然と表情を引き締める。

「他意はない、気にするな。何より、魔導王に個人的な関心があるというのも本当だ」

「……ん、どういう意味だ?」

「これでも先代から継いだ組織を率いる身なのでな……乗るべき船を見誤って、部下たちを路頭に迷わせる訳にはいかない」

 挑むように言い差したティラの横顔には、獰猛さを孕んだ不適な笑み。

 船を選ぶという言葉に少し引っ掛かりを覚えるが、部外者であるユンゲが敢えて指摘することでもないだろう。

 この世界における常識に当て嵌めたのなら、アンデッドの支配する国家との同盟による協調路線は正気の沙汰でない、といったところか。

 最初の指名依頼で書籍商を名乗っていた秘書官のロウネ・ヴァミリネンなどは、自身を抜擢してくれたジルクニフに心酔している様子だったが、バハルス帝国も一枚岩ではないのかも知れない。

「もっとも、我らの力が必要とされるのかは……検討もつかないがな」

 自嘲するように口許を歪め、続く台詞を吐き捨てたティラの視線の先――巨大なタワーシールドと長大なフランベルジェを携えて、濃密な気配を放つ死の騎士〈デス・ナイト〉が、他に何をするでもなく商業広場を巡回している。

 

 ふと僅かばかり傾き始めていた陽射しが、ユンゲの視界を淡い朱に滲ませた。

 アンデッドの通り過ぎていく傍では、先ほどの吟遊詩人を囲う人垣が厚みを増して、日中に商品を捌き切りたい客引きの声が一層と高まり、気の早い連中は既に酒杯を片手に赤ら顔で笑い合っている。

 まだ見慣れない感はあるものの、これがアインズ・ウール・ゴウン魔導国の首都〈エ・ランテル〉における新しい日常の光景だ。

「まぁ、何とかなるだろ?」

「…………っ、何とかするしかないのさ」

 呆れるように舌打ちをこぼしたティラが、やおらとこちらを振り仰いだ。

 あまり意識したことはなかったが、ユンゲより頭二つ分ほども相手の背丈が低いので、向き合うとかなり見下ろすような格好になってしまう。

「――冒険者の仕事は随分減っていると聞くが、これからもこの都市に留まるのか?」

 上目遣いながらも色気のない問いかけに、ユンゲは小さく肩を竦めて息を吐いた。

「……将来的なことは未定だけど、とりあえずは明日にでも帝都〈アーウィンタール〉に向かうつもりだ。確かめなくちゃいけないことができたからな」

「……どういうことだ?」

 じとりと睨めつけるような視線を躱わし、わざと勿体振った言い回しで告げれば、意図を読めなかったらしいティラが意外そうに小首を傾げた。

「……魔導王陛下に用があるなら、アンタも一緒に戻ったほうが良いかも知れないぜ」

 そうして、いつもの皮肉めいた雰囲気が鳴りを潜め、小さな疑問符を浮かべてみせる女忍者の珍しい表情に、ユンゲはふと口許を緩めるのだった。

 

 



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(55)気勢

 帝都〈アーウィンタール〉の城門を抜け、ユンゲたち“翠の旋風”を乗せた馬車は賑やかな中央道路を進んでいく。

 道中の宿を早朝に発ったこともあり、まだ夏の日差しも柔らかな頃合いなのだが、通りに面して所狭しと軒を連ねる商店はどこも盛況な様子だ。

 白を基調とした統一感のある街並みはやはり洗練されており、増築を重ねたことで雑多な印象のある城塞都市〈エ・ランテル〉の風景とは、かなり雰囲気が異なって見える。

 ユンゲとしては好ましい感情を抱けない相手ではあるが、バハルス帝国を統べる“鮮血帝”ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスの手腕は見事なものだ。

「……先に宿は取らなくて良いのか?」

「あぁ、このまま向かってくれ」

「……了解した」

 御者役を引き受けてくれた“女忍者”ティラの問いかけに軽く頷いてみせ、ユンゲはやおらと視線を巡らせた。

 馬首の向けられた先に聳えるのは、巨大な円形の建造物の威容――帝都に住まう人々の最大の娯楽施設である“大闘技場”からは、熱狂的な歓声が地鳴りのように響いてくる。

「既に開幕しているようですね。まだ席は残っているのでしょうか?」

 同じように前方へと目線を向けていたリンダが、こちらに向き直ってやや不安そうに小首を傾げる。

「そうそう、久方ぶりに“武王”の試合だーって、門の衛兵さんたちまで噂してたもんね」

「まぁ、俺たち五人分くらいなら大丈夫じゃないか? 最悪、立ち見でも我慢すれば――」

「むぅー、でも……どうせなら落ち着いて観戦したくない?」

 わざとらしく駄々を捏ねてみせるキーファに苦笑しつつ、「気持ちは分かるけどな」とユンゲは肩を竦めた。

「立ち見でも、マリーは抱っこしてもらえるね」

「――っ、結構です。キーファがしてもらえば良いでしょう」

 たわいのないキーファの軽口に珍しく語気を強めたマリーが、抗議にぷくりと頬を膨らませる。

 そうした可愛らしい反応を見せるから、余計に揶揄いたくなるようにも思うのだが、どうにも子ども扱いされることにだけは不満があるらしい。

 しかし、マリーが相手なら抱っこも冗談で済ませられるが、キーファからは本当に要求されかねない妙な怖さがある。

「……とりあえず、席が残ってることを祈ろうぜ」

 下手に藪蛇とならないように短く言い差し、ユンゲは身を低くして積荷の袋へと手を伸ばした。

 指先で探り当てたレインフルーツを摘み上げて素早く皮を剥いて齧りつき、柑橘系の爽やかな香りと口いっぱいに広がる濃厚な甘味に舌鼓を打つ。

 燻る火種からは目を逸らしつつ、馬車の心地良い揺れに身を任せてしまうのが無難だろう。

「……やれやれですね」

 ぽつりと呟いたリンダの溜め息が、やけに大きく耳朶を打った気がした。

 

 ――大闘技場の覇者“武王”が、満を持して参戦!

 そうした期待を煽る触れ込みが多くの観衆を呼び集め、帝都の誇る大闘技場はいつにも増して超満員の様相となっていた。

 賭け屋の前にも並ぶ長蛇の列を横目にしつつ、仕立ての良い商人風の衣服を着込んだティラの後ろ姿を追いかける。

「……大丈夫なのか?」

「問題ない。お前たちは私の雇った護衛の冒険者ということにする」

 ユンゲの問いかけに短く受け答えたティラが、懐から取り出した華美な書状を広げてみせ、長槍を手にした警備兵に歩み寄っていく。

 その訝しそうな視線から一転、慌ただしい敬礼とともに封鎖していた通路を開いて案内してくれるのだから、その“皇城付きの御用商人”である証明の効果は絶大だった。

 警備兵に通された先には、全員が余裕を持って座れるほどの広い席が用意されており、間もなく給仕の者まで現れるという、高位の貴族向けのような特別待遇だ。

 ふと思い返せば、初めて“翠の旋風”としての指名依頼を受けたときにも、そうした偽装身分を騙られた覚えがあるので、持つべきものは権力者とのコネといったところか。

「……流石は“鮮血帝”のご威光だな」

 いつかの嫌味っぽいジルクニフの笑みが脳裡を過ぎり、思わずと顔を顰めるようにしながら座席に腰掛ける。

「良い席で見れて助かったね!」

「……まぁ、そうだな」

 隣の席に跳び込んできたキーファの溌剌とした笑みに当てられてしまえば、ユンゲとしては小さく肩を竦めてみせるしかない。

 個人的な好悪の感情は抑えつつ、混雑を気にせずに観戦できることには感謝をするべきだろう。

 気持ちを切り替えるために、ユンゲは眼下の光景へと視線を向けた。

 観客席を隔てる高い石壁に囲われた円形の舞台では、二振りの大牙を剥き出して威嚇する大型の獣と五人ばかりの武装した戦士たちが対峙している。

 以前、ユンゲがエルヤーと賭け試合をしたときには一対一の決闘形式であったが、闘技場では観客を飽きさせないように様々な趣向の演目が取り入れられているという話だった。

 なかでも冒険者がチームで挑むモンスター討伐は高い人気を誇り、帝都の組合にも闘技場への参加を募る依頼がいくつか貼られていた覚えがある。

「――ん? あの槍使いの人って……」

「どうかされましたか?」

 ふとした呟きに横合いから、マリーが上目遣いの視線を向けてくる。

「あぁ……いや、知り合いの冒険者が出場してたみたいだ」

 かつて商隊護衛の依頼をともにした、物腰の柔らかな男が長槍を構えて獣の注意を引いている。

 その背後にはお喋り好きな神官〈クレリック〉の青年の姿もあり、息の合った連携を発揮していた。

 長らくと顔を合わせる機会もなかったが、どうやら帝都に拠点を移していたらしい。

 この世界に転移して間もない頃、エ・ランテルの共同墓地で発生したアンデッド騒動の翌朝――彼らに共同での依頼を持ちかけられていなければ、あのタイミングで帝都を訪れることはなかっただろう。

 そう考えたのなら、こうして今のようにキーファやリンダ、マリーたちと出会い、ともに行動することはなかったのかも知れない。

「――っ、いいぞ! 頑張れー!」

 思わずと口許を持ち上げたユンゲは、周りの大観衆に倣って声を張り上げた。

 突然の振る舞いに、傍らのマリーが碧い瞳を瞬かせるが、郷に入りては郷に従えというように何事も楽しむのが正解のはずだ。

「ほらっ、マリーも応援しようぜ!」

 鋭い槍捌きと爪牙の閃めきが激突し、鮮やかな血飛沫が乱れ舞う。

 悲鳴と声援が喧々と折り重なるように飛び交い、大闘技場に渦巻く熱気は否応もなく高まっていく。

 そうして、戦いの果てに勝利を掴み取った戦士たちには、惜しみない拍手と喝采が送られるのだ。

 

 *

 

「……いよいよ、かな?」

 勝者を讃えていた歓声の大波が引いていき、静けさすら覚える大闘技場の様子を見回しながら、ユンゲは誰にともなく呟いた。

 決して、大観衆の熱が冷めてしまったわけではない。どこか浮き足立つような気配は、寧ろ最高潮に達する期待感の裏返し――嵐の前の静けさ、とでもいったところか。

 逸るような気持ちで会場を眺めていた視界の端から、拡声器と同型のマジックアイテムを手にした進行役の男が進み出ていく。

「この一番の大試合をエル=ニクス皇帝陛下もご観戦です。皆様、上にある貴賓室をご覧ください!」

「……っ、はぁ?」

 不意打ちに素っ頓狂な声がこぼれ、ユンゲは呻くように頭上を仰いだ。

 会場中の視線が集まる先――ユンゲたちに用意された観客席よりも更に豪華な一室の窓辺に立ち、優雅に片手を上げて答えるジルクニフの姿があった。

 稀代の皇帝を讃えて歓声が上がり、端正な顔立ちに気障な微笑みを浮かべてみせれば、女性たちの黄色い悲鳴まで飛び交うほどの人気者らしい。

「ありがとうございました! さて、それでは皆様、これより久方ぶりに武王の一戦が始まります。準備に少々時間がかかっているようですので、そのまま少しお待ちください」

 盛り上がっていた感情に水を差されてしまい、思わずと左右のキーファやマリーと顔を見合わせる。

「絶対、試合が始まると思った!」

「……皇帝陛下もいらしていたのなら、仕方ないですよ」

「いや、タイミングが悪すぎるな。来賓紹介とか、最初に済ませといてくれれば良かったのに――」

 為政者としては優秀なのだろうが、やはり好きになれない相手だと認識を新たにしつつ、ユンゲは大きく溜め息を吐いた。

 立場から何も言えないティラはともかくとして、苦笑いしているリンダも口にはしないが気持ちは似たようなものだと思う。

 今回、ユンゲたちがわざわざ帝都にまで遠出した理由は一つだけ――大闘技場の覇者たる妖巨人〈トロール〉を観戦するためではなく、その対戦相手にこそあるのだから。

 演目に記載されることのない極秘とされている存在は、少なくとも“武王”との戦いが試合として成立すると見込まれるだけの強者だ。

 そんな漠然とした憶測の中で大闘技場に詰めかける人々の噂には、バハルス帝国が誇るアダマンタイト級の冒険者チームとして、“漣八連”や“銀糸鳥”といった実力者の名前も挙げられていたのだが――、

「それでは皆様、大変お待たせいたしました。これより挑戦者の入場です!」

 先ほどの進行役が再び声を張り上げれば、今か今かと待ち侘びていた大観衆が一斉に瞳を輝かせる。

「挑戦者の名を噂に聞いた方は大勢いるでしょう。その御仁がおいでになりました! 魔導国国王、アインズ・ウール・ゴウン陛下です!」

 噴き上がりかけていた歓声が尻窄みに消えていき、戸惑いに揺れる数多の視線か交錯する最中――開け放たれた挑戦者側の石扉の向こうに異形の姿が現れる。

 かなりの距離を隔てながらも大闘技場に張り詰めるのは、濃密な“死”の気配。

 何度か見かけたことのある闇色のローブではない、気高い騎士のような装いに身を包んだアインズが、奇妙な仮面を取り払って剥き出しとなった髑髏を盛夏の強い日差しの下に晒していた。

 落ち窪んだ眼窩の奥に紅の鬼火が妖しく揺らめき、詰めかけた観衆を睥睨するかのようにゆっくりと左右に振られる。

 ジルクニフの同盟者として表舞台に現れるや、長年に渡っていた戦争でリ・エスティーゼ王国の大軍を完膚なきまでに打ち破り、瞬く間に城塞都市〈エ・ランテル〉を治めるに至った“魔導王”の名を知らない帝国市民はいないだろう。

 そうであっても、他国の王がいきなり大闘技場に選手として名乗りを上げ、剰え帝国最強と讃えられる武王に挑まんとする構図には、咄嗟の理解が及ばないのも無理からぬことだった。

「……そりゃあ、普通は予想できないよな」

 困惑を隠せない観衆の気配をさらりと受け流しながら、悠然と歩みを進めていた魔導王が不意に顔を持ち上げ、おそらくは〈フライ/飛行〉の魔法を使用したのだろう。

 ふわりと中空に浮かび上がり、先に進行役からの紹介でジルクニフが顔を覗かせた貴賓室の方へと向かっていき、何らかの言葉を交わしている様子が見えた。

「――何を喋ってるのか、流石に聞こえないね」

 驚きと戸惑いの声に騒めく観客席で、耳許に手を当てていたキーファが楽しそうに笑い、ユンゲは小さく肩を竦める。

「お偉いさんの話を盗み聞きしても、碌なことにならないぞ」

「まぁまぁ、分かってるって!」

 どこか得意そうに胸を張ってみせるキーファの姿に苦笑いを浮かべていると、背後からは別の感嘆も聞こえてきた。

「……魔導王とは、あれほどの存在か」

 ユンゲたちと同じ観客席には着かず、壁際に背を預けていたティラが腕組みを解き、やや気圧されるように呻いた。

 その切れ長の瞳に隠し切れない畏怖の色を滲ませながらも、鋭い眼差しには自身で見極めんとする決意が宿る。

「なるほど……、噂に違わない傑物らしい」

「やっぱり遠くから見ただけでも、すぐに分かるものなのか?」

「それができない奴は死ぬだけだ」

 端的なティラの答えに否応なく頷きつつ、ユンゲもまた自らの意志で決断をするために、この大闘技場に赴いたことを思い返して息を小さく吐いた。

 

 やがて、ジルクニフとの会話を終えたアインズが優雅に地面へと降り立ち、やおらと王者側の石扉へと向き直ったときだった。

「――皆さま、お待たせいたしました! 北の入り口より、武王の入場です!」

 巻き起こるのは割れんばかりの大歓声――まるで、地面が揺れているかのように感じさせるほどの響動めきは圧巻だ。

 黄金に輝く全身鎧と破城槌のように巨大な棍棒を肩に担ぎ、難攻不落を体現した巌のようなウォー・トロールの“武王”ゴ・ギンが勇姿を現す。

 重厚感のある一歩が踏み出されるたびに一層と歓声が高まり、「頑張れーっ! 武王!!」と大音量で叫ぶジルクニフの声までもが響いているような幻聴さえあった。

 舞台の中央に仁王立つ挑戦者と向かっていく王者――その関係性が真逆であるかのように思えてしまうのは、果たしてゴ・ギンの実力を知らないユンゲの勘違いなのか。

 互いに触れ合えるほどの距離まで歩み寄り、交わされる両者の言葉は歓声にかき消されてしまうが、固く結ばれた握手に何度目かも分からないほどの大歓声が上がる。

「……俺のときとは大違いだな」

 ぼやきを誰にともなく呟き、ユンゲは小さく息を吐いた。

 かつて、この大闘技場でエルヤー・ウズルスと決闘したときは、殆どが喧嘩の延長戦――相手方に対する敬意の念など欠片もなく、ただ御し切れない怒りに任せて暴れただけだった。

 今更のことではあるが、何となく自身の未熟さを思い知らされているような気になり、ユンゲとしてはやや居心地が悪い――と、

「……ゴウン様は、剣を扱われるのでしょうか?」

「ん? どうしたんだ?」

「いえ、こう……杖の握り方が、まるで剣を構えているように思えまして――」

 ふと魔導王と武王の様子を真剣な眼差しで見つめていたリンダが、自身の錫杖を持ち出しながら小首を傾げる。

 握手から距離を取り直して対峙する両者――巨大な棍棒を大上段に構えたゴ・ギンに正面から向き合い、飾り気のない杖を手にしたアインズの立ち姿。

 以前、目にした七匹の蛇が絡み合う禍々しい錫杖とは異なり、実用性に重きを置いた無骨な拵えの杖は相手の棍棒と比してしまえば、あまりに頼りなく映ってしまうのだが――、

「……確かに、言われてみると構え方に違和感があるような気がするな」

 錫杖のように長柄の武器を持つのなら、リンダがそう指摘するように左右の手を適度に離した状態で握り、やや半身の構えを取るのが一般的だろう。

 しかし、杖の柄頭付近に手を揃えて握り込む魔導王の構えは、大きな両手剣を扱うときの姿勢に近い気がする。

 例えば、何度となく模擬戦で訓練をつけてくれたとき、“漆黒の英雄”モモンの立ち振る舞いがそうであるように――、

「……いや、そもそもゴウン様は魔法詠唱者じゃなかったか?」

「それは……そうですよね。あまり深く考えないほうが良さそうですね」

 やや困り顔となったリンダが小さく肩を竦めてみせ、ユンゲもまた拙い考察を放棄するように眼下の光景に意識を向けた。

 バハルス帝国でも最強を謳われる武王を相手に、魔導王がどのような立ち回りを見せてくれるのか。

 アインズが敗北するとは微塵も考えていないユンゲではあったが、周囲と何も変わらない一人の観客として、期待に胸が高まっていくのを感じていた。

 

 地鳴りのような歓声が大闘技場を包み込み――先に仕掛けたのは、王者であるゴ・ギンからだった。

 大上段から振り下ろされた棍棒が空を切って大地を穿ち、巻き上がる爆風のような土煙。

 ようやくと晴れていく視界の中、今度は魔導王が一気に接近し、炎を吹き出した杖を一閃する。

 この燃える振り上げを間一髪で避けた武王の横薙ぎが、魔導王を捉えて凄まじい衝突音とともに舞台の端へと吹き飛ばした。

 圧倒的な膂力を誇示してみせた武王の勝利を確信し、沸き起こる大歓声。

 しかし、壁際まで後退させられたはずのアインズが何事もなく立ち上がって埃を払えば、対して棍棒を振るったはずのゴ・ギンが苦鳴に身体を折り曲げる姿に歓声の波が引いていく。

 無言のうちに距離を詰める魔導王と巨躯を引き摺るようにして離れる武王――戦いの趨勢は、既に明らかだった。

「……今の攻防が分かったか?」

「吹き飛ばされるとき、ゴウン様の左手が武王の肩に伸びていた。……多分、杖の炎は目眩しの囮だったと思う」

 背凭れ越しに身を乗り出してきたティラの試すような視線を受け、ユンゲは言葉を選びながら感想を口にする。

 目の覚めるような両者の戦いではあるが、流石にモモンが振るう斬撃ほどの鋭さはないので、ユンゲにも何とか動きを追うことくらいはできた……と思いたい。

「……とりあえずは、そんなところか。上位のアンデッドには触れるだけで、相手にダメージを負わせる厄介な連中もいると聞く。かの魔導王であるのなら、その程度のことは造作もないはずだな」

 満足そうに一つ頷いたティラの横顔には、一層と真剣な色が浮かんでいく。

 つられるように舞台へと視線を戻せば、気力で立ち上がってみせるゴ・ギンを前に、悠々と舞台の中央まで進み出たアインズが杖を手放し、腰に差した二本のスティレットに武器を持ち替えていた。

 矢のような突進から放たれる連続の刺突――辛うじて武王の反撃を軽やかに避け、再び距離を取り直した魔導王と鮮血に濡れた肩を庇い抑える武王の姿に、観客席からは驚愕の悲鳴が折り重なる。

 ――それでも、既に満身創痍といった様子の武王が兜を取り去れば、苦痛に歪みながらも戦意を失わない武人の顔があった。

「……っ、まだ続けるのか」

 決死の覚悟で強者へと挑む王者の姿に狼狽えつつも、自然と胸の内から熱い感情が込み上げてくるのも確かだ。

「うぉおおおおおー!」

 白熱する歓声の波濤を打ち破り、響き渡るのはゴ・ギンの勇壮な雄叫び。

 そうして、最後の奮戦とばかりに振るわれた剛撃の連打がアインズを上方へと跳ね飛ばし、更に地面へと叩きつける。

 満身創痍の武王の繰り出す怒涛の攻勢に大観衆が沸き上がり――しかし、実力差に導かれる結末が変わることはないのだろう。

 最期には黄金の全身鎧まで脱ぎ捨てたゴ・ギンが膝を突き、遂には生命を燃やし尽くして仰向けに崩れ落ちた。

 

 *

 

 一切の声援や悲鳴が止み、静まり返る大闘技場の直中――バハルス帝国最強を誇っていた“武王”ゴ・ギンの亡骸の前にして、生者の居並んだ観客席を泰然と見回していた“死の支配者”が厳かに口を開く。

「聞け、帝国の民よ! 私はアインズ・ウール・ゴウン魔導王である!」

 尊大でありながら不思議と親しみさえ覚える男性の声音が、拡声の魔法もなしに心地良い風に乗って届けられる。

「――私は己の国に、国家が運営する冒険者育成機関を作ろうとしている。冒険者を育成と保護し、世界に旅立ってもらうことが国家にとって有益だと考えるためだ」

 予期していなかったであろう宣言に、固唾を呑んでいた観衆が微かな戸惑いを孕んでいく。

 先日の謁見の場において、魔導王は「冒険者という職業について、ぜひ考えを教えて欲しい」とユンゲたちに一つの問いを投げかけた。

 現状を改めて振り返ったのなら、リ・エスティーゼ王国、或いはバハルス帝国における冒険者の存在とは、謂わば“モンスター退治などの荒事を専門とする便利屋”に過ぎないのだろう。

 開拓村に現れたゴブリンの討伐、共同墓地での定期的な巡回や街と街を結ぶ商隊の護衛――人々から必要とされる仕事ではあるが、そこに未知の体験を目指すような輝きは皆無だった。

 この世界に転移して間もなく、冒険者としての活動を始めたユンゲ自身の記憶を思い返しても、冒険らしい出来事を挙げたのなら、“怪鳥”ペリュトンを探してトプの大森林へと分け入ったことくらいだろうか。冒険者という単語に込められた、本来の意味を体現できているとは思えない。

 しかし、そうした憂いの現状も、ある意味では当然なのだと思えてしまう。

 その根本的な原因は、この世界が紛れもない現実であり、気軽に遊ぶことのできた“ユグドラシル”のようなゲームではないということだった。

「――多くの冒険者は己の資質のみで生き抜くことを要求される。……だが、才能が開花する前に、悲劇に屈する者がどれほど多いことか!」

 新たなフィールドに駆け出し、初めて邂逅したモンスターにも果敢に挑む。たとえ返り討ちに遭っても、ペナルティを受けて登録済みの拠点にリスポーンし、レベルを上げてから再挑戦――そうした生易しい世界ではなかったのだ。

 やけに実感の込められた魔導王の台詞に思わずと頷きつつ、ユンゲは仲間たちへと視線を向ける。

「……だからこそ、私は冒険者組合を我が国の機関の一つとすることで、国家を挙げてお前たちをバックアップする!」

 先にも伝えられたように、アインズは冒険者が国家に帰属することを好まないと承知しており、他国との戦争になっても無理に徴兵することはないと御名に宣誓まで受けている。

 何より絶対の武力に裏打ちされた、「こちらと敵対を選ぶのであれば、たとえ相手が“神の軍勢”であろうとも容赦するつもりはない」と気負いも衒いもなく告げられた言葉が、全ての真実だろう。

「魔導国が求めるのは、真に冒険を夢見る者だ! 未知を探り求め、世界を知りたいと願う者は、我が許に来い!」

 アインズ・ウール・ゴウンという超常の存在に庇護を受けながら実力を培い、やがて未知なる世界を求めて旅立っていく。

 嘗ての世界の終わりに際し、せめて美しい夜空を目に焼き付けたいと願った者にとって、それはあまりに甘美な誘い文句だった。

 そして、ユンゲの胸に期するのは、この世界でともに歩んでくれる仲間たちとの出会いの一幕だ。

 

 ――俺と一緒に探してみないか、この世界も多分広いからな。今度は全部の世界を見て回りたいんだ。もしかしたら、まだ誰も知らない素敵な場所があるかもって考えたら、わくわくするよな!

 

 奴隷という過酷な境遇から解放され、それでも故郷には帰れないと倒れそうになる森妖精〈エルフ〉の少女を咄嗟に抱き寄せたとき、ユンゲはそんな台詞で彼女たちを仲間に誘ったのだ。

 涙を堪えていたマリーの可愛らしい顔を間近にして焦り、思わずと口にしてしまった言葉だが――それは、偽りのないユンゲとしての本心であった。

 その想いを果たすために必要だと考えられることは、“魔導王”でも何でも利用してやればいい。

「――見よ、死には抗えるのだ!」と高らかに宣言し、ゴ・ギンの亡骸へと歩み寄ったアインズが、懐から取り出した短杖を振るってみせる。

 どこか神々しさすら覚える輝きが武王の巨躯を包み込み、衆目の中で実演された〈リザレクション/蘇生〉の魔法は、すっかりと言葉を失っていた観衆たちにも変化を与え始めていた。

「死を超克した私がバックアップして、諸君らの成長を補佐しよう! 我が国に来たれ、真なる冒険者を目指す者よ!」

 ふと小さな歓声が耳朶を打ち、それは瞬く間に伝播していく。

 圧倒的な魔導王の武勇に称賛の声が高まり、死の淵から蘇った武王の健闘を讃えて惜しみない声援が届けられる。

 そうした大闘技場の様子をゆっくりと見回し、ユンゲは静かに観客席から立ち上がった。

「……本当に、挑戦されるのですか?」

「そうだな……やっぱり試してみたい、かな」

 向けられた上目遣いの問いかけに、努めて軽い調子で肩を竦めてみせる。

 早鐘のような自らの鼓動に、内心では苦笑いを覚えずにはいられないが、敢えて口許は不敵に持ち上げてしまう。

 仕方がないですね、とこぼれたマリーの小さな溜め息は、多分に呆れを孕みながらも可愛らしいものだった。

「――では、頑張ってください!」

 気取らない激励の言葉に背中を押してもらい、ユンゲは微かな身体の震えを振り払って観客席から跳躍した。

 

 




タイトルに“冒険譚”とあるのに、エ・ランテルと帝都の往復くらいしかしてない本作なので、アインズ様の台詞がユンゲと作者に刺さります。
(マジで冒険要素がないんですよね……)

ちなみに、vs武王のときは〈パーフェクト・ウォリアー/完璧なる戦士〉を使用していないので、ユンゲの目でも追いかけることができた設定になっています。


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(56)天道

以下は【設定まとめ】からの抜粋となります。
……お察しいただけると幸いです。

 ルーキー(オリジナル)は、独自設定の職業。
 特殊技術〈ビギナーズ・ラック〉により、条件次第で未取得職業の能力を発揮できるが、任意での発動はできない……というご都合主義のための設定です。使用されるかどうかは現時点で未定のため、設定倒れに終わるかも知れません。


 ふと頭上を仰いで見れば、円形に切り取られた快晴の青空はどこまでも高く澄み、大闘技場の熱気をより一層と高めるように、中天からは強烈な日差しが降り注がれていた。

 観客席から舞台へと跳び下りたユンゲは、呼吸を整えるようにして中央に向けて歩き始める。

「――誰だ、アイツは?」

 不意の乱入者に気付いた観衆の一人が声を上げ、何事かと視線が集まってくるのを背中に感じるものの、表情は努めて平静を保たないといけない。

 ここで萎縮してしまうくらいなら、その他大勢と一緒に観客席で声援を送っていれば良かったのだ。

(……無様な姿は見せられないからな)

 ひやりと背筋を伝っていく寒気に抗い、ユンゲは頓と前方だけを見つめる。

 興業主である“大商人”オスクの肩を借り、退場していくウォー・トロールの背中を見送るのは、瞬く間に大観衆の支持を集めてしまった“魔導王”アインズ・ウール・ゴウンだ。

 その強烈な存在感を放つ立ち姿から、決して目を逸らすことはできないだろう。

 

「……来てくれたか、ユンゲ・ブレッター殿」

 彼我の距離が目算で十メートルほどになったとき、悠然とこちらに向き直ったアインズが言葉を投げかけてきた。

 その気安げな口調はありがたくも、今の状況を思えば畏れ多いばかりだ。

 落ち窪んだ眼窩の奥に燃え立つ真紅の鬼火は、こちらの出方を試すような気配を帯びている。

 静かに足を止め、ユンゲは瞑目するようにして気を落ち着かせながら、ゆっくりと口を開いた。

「……えぇ、面白い試合を拝見させていただきました。先日、お聞かせいただいた新しい冒険者組合の在り方についても、好評なようで何よりですね」

 観衆の反応に接したのなら、魔導国に冒険者を募った演説の成功は一目瞭然だろう。

 バハルス帝国が誇っていた大闘技場の覇者、“武王”ゴ・ギンを真っ向から打ち破ることで実力を示し、その死に際して冒険者を支援するという宣言に偽りがないことを証明する。

 この世界では使い手の希少な〈リザレクション/蘇生〉の神々しい輝きに当てられ、観衆はいとも容易くアインズの虜になった。

 筋書きや演出面の見事さもさることながら、やはり最も重要な点は立ち振る舞いにも表れる、本人の圧倒的なカリスマ性にあるのだろう。

 ユンゲにしても、自身が“魔導王”という絶対の存在に惹かれ始めていることを自覚していた。

「そうか、君に褒められるのなら光栄だよ。……では、返答を訊かせてもらえるかな?」

 鷹揚に頷いた魔導王が、どこか気恥ずかしそうに小さく肩を竦めてみせる。

 先に招かれた謁見の場において、アインズと対面したユンゲたち“翠の旋風”も、魔導国の管理下となる冒険者組合に所属しないかと勧誘を受けた。

 突然の話だから返事は後日で構わない、と今日まで猶予を与えられてしまったものの、すぐに回答を求められていたとしても結論は変わらなかっただろうと思う。

「――俺たちの願いは、仲間とともに知らない世界を旅することです。でも、現状では力が足りないことを痛感しています」

 ルプスレギナに見送られて貴賓館を辞した後、復興していくエ・ランテルの街並みや商業広場を巡りながら皆で相談したことを思い返す。

 そもそもが虜囚となって過酷な境遇に苦しみ、それでも故郷“エイヴァーシャー大森林”には帰ることはできないと震えていた三人の森妖精〈エルフ〉の少女たちと、元より頼るべき相手や場所を持たない一人の転移者〈プレイヤー〉が寄り集まっただけのパーティだ。

 俺と一緒に探してみないか、と呼びかけた自らの言葉は、“ぼっちプレイで構わない”と強がってしまう人恋しさの裏返しでもあり、健気に応えてくれた彼女たちには決して後悔をさせたくない。

 そうした素直な気持ちに向き合えば、魔導王の構想する“真なる冒険者”としての姿は、ユンゲにとって本当に魅力的な提案だった。

「……だから、ゴウン様の許で腕を磨かせていただきたいと考えています」

 そう返答を口にして頭を下げつつ、我ながら身勝手な物言いだと呆れてしまうものだが――、

「なるほど……君たちであれば、素晴らしいロールモデルになってくれると考えていた。――では、よろしく頼む」

「あっ……はい、よろしくお願いいたします」

 あっさりとしたアインズの了承に、少しばかり拍子抜けする。

「具体的な支援や訓練の内容については、また詳細を詰める機会を設けることにしよう。待遇面での要望があれば遠慮なく――」

 そうして、何事もなく続けられる魔導王の台詞に戸惑いながらも、ユンゲは気を持ち直すように一つ息を吐いた。

(……今更、失礼は承知の上だ)

 照りつける盛夏の日差しが、じりじりと肌を焦がすようだった。

 酷い渇きを覚える喉を無理矢理と唾で湿らせて、ユンゲは静かに呼びかける。

「――あの、ゴウン様。誠に不躾ながら、一つお願いをさせてください」

「ん? ……何か希望があったかね?」

「あ、いえ……待遇についてではなく、この場で俺と試合をしていただけないでしょうか?」

「ふむ、なるほど……私としては構わないのだが、とりあえず理由を訊かせてくれるか?」

 眼窩の奥に鬼火が揺らめき、意図を探るようにこちらの姿を見据えた。

 思わずと気圧される感覚に堪えつつ、ユンゲは慎重に言葉を選んでいく。

 アインズの実力を侮るつもりはない。

 優れた魔法詠唱者たる能力の一端は、カルネ村で共闘したときに誰よりも間近で目撃している。

 そして、今回の武王との一戦では、肉弾戦にも長けていることを思い知らされた。

 どう足掻いても勝ち目のない相手――だが、魔法と剣技を高次元で両立させている魔導王の姿は、ある意味においてユンゲの理想系でもあった。

 ユグドラシルを“ぼっちプレイ”で過ごしていた弊害により、中途半端な職業構成になっていることを自覚するユンゲとしては、憧れた高みを目指すためにも避けて通れないと考えていた。

「……ですので、本当に勝手ながら戦いの中で、ゴウン様の技を見せていただきたいのです」

「……了解した。ならば、模擬戦形式のPVPといったところか――では、観客席を魔法障壁で守っておく必要があるな。早速、始めるとしよう」

 ふと耳慣れない単語が流れていった気もしたが、こちらの不躾な願いを魔導王が受け入れてくれたことに、ユンゲの内心で緊張が張り詰める。

「あ、ありがとうございます。――っ、よろしくお願いします!」

 慌てて感謝の言葉を口にし、ユンゲは深々と頭を下げるのだった。

 

 *

 

 飛び交う歓声が耳朶を劈き、燃えるような日差しと観衆の熱気が肌を焦がす。

 大上段から振り下ろされる魔導王の一撃。

 予め構えていたバスタードソードの剣腹で受け止めたものの、ユンゲが両腕で支えていながらも抗し切れない剛力に、全身の骨が軋みを上げる。

 肘や手首がへし折れそうな恐怖の中で、噛み締めた奥歯は砕けんばかりに、獣の如き咆哮が喉の奥から迸っていく。

 渾身の力で剣先を払って横合いへと逸らせば、甲高い金属同士の擦過音が耳許を引き裂き、超重量の衝突音が轟いた。身体が浮き上がるような地響きとともに、敷き詰められていた石畳みが粉砕され、無数の破片が全方位へと弾け跳ぶ。

 拳大ほどの石塊が礫となって次々とユンゲの頬を掠めていき、気付いたときには眼前に振れる横薙ぎの剣閃が迫っていた。

「……速過ぎるっ!」

 咄嗟に引き戻したバスタードソードの柄を合わせて受け止めながらも、不自然な体勢ではなす術がなかった。

 呆気なく吹き飛ばされ、身体ごと横滑りしていく視界の中、悠然と大剣を掲げてみせる“魔導王”アインズ・ウール・ゴウンの姿が遠ざかる。

 反対に迫っていた壁面、――避けられない。

 激突。まともな受け身も取れないままの洒落にならない衝撃に襲われ、胃の腑から全てを吐き出さんとする不快感。

「――っ、どんな馬鹿力だよ」

 口の端からこぼれ落ちる呻めき声をどこか他人事のように感じながらも、ユンゲは剣を杖代わりに縋って無理矢理に立ち上がった。

 この世界に転移する以前、人体の構造は自衛のために閾値を超えた痛みを閉ざすと聞いたような覚えがあったのだが、何らかの記憶違いをしているのかも知れない――頭、首、肩、胸、腹、腰と何処もかしこも全身が痛くて、痛くて堪らない。

 意思とは無関係に震えてしまう膝や思う儘にならない足腰の働きには、文句の一つでも怒鳴りつけたくなるが――それでも、バスタードソードの柄を握り締めていた両手に力を込める。

 そうして、大きくひび割れてしまった大闘技場の壁面に背中を預けながら、ようやっとユンゲが顔を持ち上げてみれば、追撃の構えを見せることもないままに、こちらを睥睨する“死の支配者”の泰然とした立ち姿が目に留まる。

 その落ち窪んだ眼窩の奥では、燻るように揺れる赤い鬼火が妖しく揺らめいていた。

「……何で、剣を薦めちゃったのかね」

 思わずと愚痴を吐き捨てつつ、ユンゲは自身の迂闊さを呪いたい気分になる。

 

 つい先ほど模擬戦の開始を待っていたとき、身勝手な願いに応じてくれたアインズの装備を見遣り、ユンゲは一つの疑問を投げかけてしまった。

「お使いの武器は、そのスティレットと杖でよろしいのですか? パーティメンバーのリンダから、ゴウン様は剣を嗜まれているのではないか、と指摘をもらったのですが……」

 その何気ない問いかけの答えが、「――では、こちらの剣でお相手をしよう」と身の丈を超えるほどの巨大な“グレートソード”だった。

 剥き身である骸骨の身体のどこに膂力が隠されているのか分かるはずもないが、その皮肉のない細腕から繰り出される攻撃は、あまりに速く鋭く重い。

 巨大な剣をまるで小枝を振るうかのように、さらりと取り回してしまう魔導王の剣技は凄まじく、筆舌に尽くせない。先の武王との一戦では余力を残して、演出面に力を入れていたのかと疑いたくなるほどには圧倒的だった。

 魔法と剣を駆使する自身の戦い方の参考になるかも……などという浅はかな考えを苦笑いに変えながら、ユンゲは観客席の一角へと意識を向ける。

 苦痛に霞む視界に映るのは、祈るように肩を寄せ合っている三人の可愛らしい森妖精〈エルフ〉の少女たち――困惑と不安、そして一抹の期待とが綯い交ぜとなったキーファやリンダ、マリーたちの眼差しに、どのような表情を返せば良いのだろうか。

 口腔に溜まっていた血痰を吐き捨て、〈ミドル・ヒーリング/中傷治癒〉の魔法を唱えてみれば、身体を包んでいく柔らかな輝きに手の感覚は戻ってきたものの、同時に全身を引き裂くような痛みも盛り返してくる。

 やはり届かないか、と胸の内に込み上げる惰弱な思考を無理矢理に切り替え、ユンゲは痛みを無視して強引にバスタードソードを構え直す。

 ――手にしたい高みがあるのなら、せめて強がりを押し通すくらいの根性を振り絞りやがれ。

 戦いの最中に振り乱され、ざんばらとなっていた髪を撫でつけるようにかき上げ、敢えて不敵な笑みを浮かべてみせた。

 

 地鳴りのように響き渡る歓声を背に受けながら、ユンゲは掲げた左手の先に〈エレクトロ・スフィア/電撃球〉を紡いだ。

 最高位の魔法詠唱者たるアインズを相手にするのなら、第三位階の魔法では目眩し以上の効果を望むべくもないのだろうが、ないよりはマシだと割り切るしかない。

「……いきますよ、ゴウン様」

 そう挑むように告げてから、ユンゲは勢いに任せて左腕を振り抜く。

 紫電を纏った光球が雲間を迸る稲妻のように魔導王へと迫り――、振り抜かれたグレートソードに両断された。

 身を捩って避けられることもなく、あっさりと霧散していく魔法の残滓を横目に、ユンゲは一足跳びに距離を詰める。

 腰撓の構えから突き出した剣先で魔導王の肩口を狙い、同時に唱えていた〈ワイデンマジック・ファイヤーボール/魔法効果範囲拡大化・火球〉を二重発動。噴き上がる爆炎の中で、バスタードソードを真横に滑らせて駆け抜けた。

 首筋へと変化させた一閃に、腕から全身までもが痺れる巌の衝撃――魔導王の構えていたグレートソードに受け止められてしまったが、その反動を利用して跳ねるように転身。

 存分に遠心力を上乗せ、ユンゲは再びの横薙ぎから、更に腰を捻って蹴りの連撃を浴びせかける。

「――っ、やべぇ」

 振り抜いた足首が空を切り、アインズが伸ばした骸骨の指先に掴み上げられるや、一瞬で身体が宙空を舞っていた。

 高速で視界が流れていく中、投げ飛ばされて地面に叩きつけられようとしていることを理解し、咄嗟の判断から〈ディメンジョナル・ムーブ/次元の移動〉を詠唱する。

 瞬くほどの暗転。辛うじて拘束からは逃れながらも、その勢いまで止めることはできない。

 必死に空中で身を捩り、四足獣の姿勢で衝撃に堪えたユンゲの背後――不意に膨れ上がるのは、迫りくる濃密な死の気配。

 意思とは無関係に跳ね上がる鼓動が煩わしいほどに、凍てつくような怖気が背筋を這い回り、ユンゲは後ろを振り返らないままに〈ピアーシング・アイシクル/穿つ氷弾〉を乱れ撃った。

 遅れた後ろ髪を撫で切り、掠めていく斬撃に思わずと身震いを覚えながらも、無数に吐き散らした氷の礫を撹乱にして追撃を命からがらに避け切る。

 間髪入れずに〈次元の移動〉を再発動し、距離を取って体勢を立て直せば、眼前に対峙する“死の支配者”の姿は、正しく大鎌を携えて命を刈り奪っていく死神の威容だった。

 

 *

 

「今のは良い攻撃でしたね、ユンゲさん」

「それは、はぁ……どうもです」

 魔法を叩き切るような卓越した剣技を披露してみせながら、余裕綽々といった様子のアインズが息一つ切らすことなく朗らかに笑った。

(……もう、隠すつもりもないんだろうな)

 対照的に肩で荒い息をしつつ、ユンゲは何とも言えない気持ちで感謝の言葉を口にする。

 捌いた足首を掴み、無造作に投げ飛ばすような尋常でない膂力に、こちらの実力を引き出した上で新しい対処を求めてくる華麗な立ち回りには、何度となく世話になってきた。

 今更と思い返したのなら、それぞれに連れている二人の“美姫”から放たれる捕食者の威圧感と身の丈を超える巨大なグレートソードに、この気安さと安心感の調和する声音――こちらの呼称や口調まで、いつもの雰囲気に戻っているのだから本当に今更なのだろう。

「……やっぱり、モモンさんには勝てそうにないですね」

「いやいや、ユンゲさんの上達も目を見張るものがありますよ――ぇ」

「これまでも稽古をつけていただきましたので、少しは強くなっていないと面目もないですからね。まだまだ実力不足ですが、モモンさんにそう言っていただけるのなら嬉しいです。あっ……今は、ゴウン様とお呼びしたほうが良かったですか?」

 大闘技場ばかりか、帝都の街並みにまで轟く大歓声の中だ。

 この場で交わす会話が観衆の耳に届くことはないのだろうが、相手の立場は慮らないと問題になるかも知れない。

「あ……いや、そ……そうだな。よろしく頼む」

 何となく歯切れの悪い返答ながら、魔導王がようやっと肩を竦めてみせる。

 失礼しました、と軽く顎を引いて頭を下げつつ、ユンゲは縋るようにしていたバスタードソードの柄を握り締めた。

 魔法を絡めた先ほどの連撃も呆気なく防がれ、更には手痛い反撃まで許してしまったのでは、正直なところ他に打つ手が思いつかない。

 純粋な剣技や戦闘経験で劣り、膂力と魔力は文字通りの桁違い――あまりに差が開き過ぎているために、結局はいつもの模擬戦と変わらない稽古をつけてもらっただけになってしまうのだろう。

(……今の実力だと、ここまでかな)

 落胆する気持ちに区切りをつけるように、ユンゲは一つ小さく息を吐いた。

 胸の内に去来する悔しさはあるものの、やはり目指すべき存在が遥かな高みを見せてくれるのは、率直に嬉しいことでもある。

 レベルという名の成長限界が存在したユグドラシルでは、戦士職や魔法職を大別としながら、何かしらの技能に特化する職業構成が良しとされていた。

 しかし、この転移後の世界においては、そうした事情もあまり関係がないのだろう。

 それらの本来なら相乗しないはずの技能をどちらも極める“魔導王”アインズ・ウール・ゴウン、或いは最高位アダマンタイト級の冒険者“漆黒の英雄”モモンという突出した傑物の存在が、ユンゲを願いに奮い立たせてくれるのだ。

 ふと視線を巡らせてみれば、観客席の手摺りから身を乗り出すようにして応援の声を上げていたキーファやリンダ、マリーたちの姿が目に止まる。

 ――偽りの夜空を見上げながら、サービスの終了を嘆く必要はない。

 この世界で彼女たちと過ごし、ともに高め合っていくための時間はたっぷりとある。

 そのためにこそ、ユンゲたち“翠の旋風”は魔導国の冒険者となるアインズの誘いに応じたのだから。

 

 高く澄み渡った青空へと昇り、燦々と燃え立つ太陽が、見下ろす全てを焦がすほどに強烈な盛夏の日差しを降り注ぐ。

 それでも、超満員の観衆が詰めかけた大闘技場において、飛び交う歓声や悲鳴に彩られた戦いの熱気は、それをも遥かに凌ぐほどに苛烈だった。

(……とりあえず、この場をどうするかな)

 先に散った武王のように、死者復活のパフォーマンスに使われるのは怖いので勘弁してほしいが、大観衆を納得させるためにも派手な技を繰り出して破れていくのが無難だろうか。

「――あまり長引かせても申し訳ないので、また胸を借りるつもりでいかせていただきます!」

 現在の実力では届かなくとも、いつかは同じ高みに登れるようにと願いを込め、ユンゲは大声を張り上げた。

「……ふむ、お前の全力で挑んでみせよ!」

 こちらの意図を汲んだアインズが大喝し、悠然とグレートソードを構え直してくれる。

 ありがとうございます、と素直に口にしてみたのなら、自然と朗らかな笑みが口許に浮かんでしまうのを止められない。

 かつて抱いた忸怩たる感情ではない、胸の内から湧き上がる言い知れぬ高揚感に身を委ね、ユンゲは一陣の疾風となって大地を駆け出す。

 不意に過ぎる既視感――身体の奥底から“未知の特殊技術”が起ち上がる気配に、バスタードソードの剣身が冴え冴えとした煌めきを収束して輝き始める。

「――っ、うぉおおおおおー!!」

 渾身の想いで振り抜いた斬撃が、“極大なる力の奔流となって次元を引き裂いていく”超常たる神話の光景――超弩級最終特殊技術。

 

〈ビギナーズ・ワールドブレイク/次元断切〉

 

 




相変わらずの更新頻度ではありますが、何とか年内に投稿ができました。
皆さま、ぜひ良いお年をお迎えください。


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(Side-M)追憶

スキルの詳細は不明なことも多いので、都合の良い独自設定ということにさせてください。


「――あまり長引かせても申し訳ないので、また胸を借りるつもりでいかせていただきます!」

 精悍な顔立ちの半森妖精〈ハーフ・エルフ〉の青年――ユンゲ・ブレッターが凛と声を張り上げた。

 こちらの眼前で聖遺物級のバスタードソードを構える姿は堂奥に入ったものであり、“ユグドラシルの恩恵”に胡座をかくばかりでない、日々の鍛錬での成果を思わせる。

 ここまでの攻防で見せてくれた魔法と剣技による合わせ技も、何度かの模擬戦を重ねる度にメキメキと上達していくのだから、成長の実感が薄いアインズとしては羨ましい限りだ。

 超満員の観衆が詰めかけた、バハルス帝国の帝都〈アーウィンタール〉の大闘技場にて対峙する“もう一人のプレイヤー”を前にして、自身が言い知れない高揚感を覚えていることに気付かされる。

 大闘技場に君臨した“武王”ゴ・ギンを打ち破り、新たなる覇者となった“魔導王”アインズ・ウール・ゴウンを相手に、“挑戦者”として名乗り出た新鋭の冒険者――実際の状況はやや趣を異にするものの、舞台での演目を盛り上げるという意味合いでは、これ以上の絵を思い描けないほどに誂え向きの構図となっていた。

「……ふむ、お前の全力で挑んでみせよ!」

 覇者たるに相応しい台詞でアインズが応じてみせれば、大観衆の声援が一層と高まっていくのを理解できる。

 大勢の人間が生み出している地響きのような鳴動は、大闘技場の全体を揺るがすほどであり――、

「……お前は、もう少し俺に気を使っても良いんじゃないのか?」

 ふと耳に届いた歓声を聞き咎め、アインズは存在しない表情を顰めながら貴賓室を降り仰いだ。

 煌びやかな欄干から身を乗り出すようにして声援を送るのは、“鮮血帝”ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスだった。

 先ほどの武王との一戦のときと同様に、どうやらアインズの対戦相手ばかりを応援しているらしい。

 この世界では忌避されるはずの不死者〈アンデッド〉の身に対して、自ら友になろうと歩み寄ってくれた好人物の容赦ない対応に内心では苦笑しつつ、それでも決して悪い気はしない。

「ただ……まぁ、ヒール役には慣れているからな」

 かつて、“非公式”ラスボスと揶揄されながら、誰一人として挑戦者が現れることのない玉座に待ち惚けていた頃とは違う――端的に評するのであれば、こういった悪役を気取りながら戦いを挑まれるシチュエーションに“鈴木悟”は燃えるのだ。

 

 敬意とともに挑戦者へと向き直り、アインズは悠然とグレートソードを構えてみせた。

「ありがとうございます」と朗らかな笑みを浮かべたユンゲが、転瞬の間に真剣な眼差しとなって駆け出してくる。

 魔法による身体能力強化〈バフ〉も相俟り、その勢いは武王に倍するほどの驚異的なものだが――、魔法詠唱者としてのレベルを戦士としてのレベルに移し替える〈完璧なる戦士/パーフェクト・ウォリアー〉によって、“漆黒”のモモンとなったアインズの脅威にはならない。

(……どうやって決着をつけてみせるかな?)

 相手の心意気に倣い、真っ向からの剣技で打ち破るべきか。或いは〈完全なる戦士〉を解除して、ド派手な魔法で勝利を飾るべきか――この最終局面において、より観客を沸かせることができるのはどちらだろうか。

「――っ、うぉおおおおおー!!」

 猛々しい喊声を上げたユンゲが、勢い任せに大上段からバスタードソードを振り下ろす。

 

「――――っ!?」

 

〈時間停止/タイム・ストップ〉

 刹那の思考が魔法を紡ぎ、その瞬間に世界は色を褪せるように静止した。

「……これは、何ということだ」

 思わずと仰け反るように呟き、アインズは瞠目のうちに肩を振るわせた。

 一切の歓声が消え去った沈黙の世界の中で、不要なはずの自身の息遣いばかりが妙に耳障りだった。

 眼前に肉薄するユンゲの構えたバスタードソードは、今まさに振り抜かれんとする位置で宙空に固定されて本人とともに不動の彫像と化しているのだが――、その剣身に灯り続けている神々しいほどの煌めきが、アンデッドであるはずのアインズの視界までも眩ませる。

 その途轍もない力の奔流を窺わせる光の輝きを目の当たりにして、アインズは不意の郷愁を覚えていた。

 十二年という長きに渡って紡がれたDMMO-RPG“ユグドラシル”の歴史においても、極僅かな限られた者にしか使用を許されることのなかった超弩級最終特殊技術――、

「……まさか、〈ワールドブレイク/次元断切〉だというのか?」

 小さな身震い――とある“聖騎士”に挑み続け、何度となく苦杯を嘗めることになった懐かしい記憶が脳裡を過ぎる。

 ギルドの仲間内での訓練だからと無理矢理に託けて、それらの勝敗は個人的なPVPの総合戦績には含めていないほどなのだ。

 何故だと焦りのような感情ばかりが湧き起こりながらも、一拍の間を置いてアンデッドの種族特性による精神の鎮静化が、アインズに冷静な思考を取り戻させてくれる。

「……いや、考えるのは後回しだ。先ずは対処からやらないとな」

 ユンゲによって繰り出されようとしている技が、本当に〈次元断切〉であるのかという確証はないのだが、一方で何度となく身を以って味わうことになった苦い経験が一つの確信を抱かせる。

 直前に派手な魔法で決着をつけようと〈完全なる戦士〉を解除していなければ、アインズでも即座の対応は難しかったのかも知れない。

 その次元を断ち切るという名称に違わず、あらゆるものを引き裂いてしまう斬撃を前に一切の防御手段はない。

 ただ一つの有効な手立ては、同程度の攻撃をぶつけて“互いの威力を相殺する”ことだけ――ならば、アインズの選択できる手段も一つだけだった。

 

「……それにしても、七十レベルを超える頃には、〈時間停止〉対策は必須なんだけどなぁ」

 その姿に改めて目を向けてみたのなら、ユンゲ・ブレッターと名乗る“もう一人”のユグドラシルプレイヤーは、本当にチグハグな存在だった。

 戦士職と魔法職に振り分けた中途半端な職業構成と遠隔視の鏡〈ミラー・オブ・リモート・ビューイング〉のように初歩的な探知にも無頓着な姿勢は、アインズのような“廃人プレイヤー”でないことを証明している。

 しかしながら、単なる“エンジョイ勢”なのかと考えれば、相応の入手難度を誇る聖遺物級の装備を保有していたり、思いがけない戦闘センスの高さに驚かされることもあり、今この瞬間のように全くの想定外な事態を引き起こしたりもするのだ。

「……けど、“たっちさん”が相手だったら、絶対にこうはできないよな」

 あらゆるものが静止した世界の中で、なお一層と輝きを増していくバスタードソードの剣身を見遣りながら、アインズは誰にともなく呟いた。

 ふと落ち着いて状況を顧みれば、〈次元断切〉ほどの強力に過ぎる特殊技術の起ち上がりから、つぶさに観察できるのは貴重な機会だろう。

 このチャンスを棒に振る手はないと廃人の血が騒いだアインズは、仔細までも見逃さないように剣を構えたままで硬直しているユンゲの姿を凝視する。

 どうにかして憧れの相手と並び立てるようになりたいと願い、何度も挑戦を繰り返してデータの収集や魔法の研鑽に明け暮れていた、懐かしい日々が思い起こされた。

「……いつか再会できたのなら、今度は勝たせてもらいますよ」

 そう何気なく口にしてしまった途端、不意に胸の内へと去来する寂寥感に堪えられず、アインズは少しだけ顎を引いた。

 

 世界を支配する静寂の中で、モモンガの傍らには誰もいない。

 それでも、“アインズ・ウール・ゴウン”の名を轟かせることができたのなら、この世界の何処かに転移しているかけがえのない仲間たちが、この場に駆けつけてくれるかも知れない。

 ――そのあまりに儚い可能性は、果たしてどれくらいあるのだろうか。

 先にアルベドからの進言を受け、彼らを捜索するための特別部隊の編成を認めたものの、ユグドラシルの最終日に顔だけでも見せてくれたギルドメンバーは、僅かに三名ばかり――他の多くの者たちは引退に際して、既にアカウントまでも削除しているはずだった。

「……そろそろかな」と吐き捨てるように呟き、ようやくと顔を持ち上げたとき、モモンガが人の身であれば自嘲とともに口許を歪めていたことだろう。

 

 全てが静止したままの観客席を見回しながら思わずと溜め息がこぼれ、アインズは何かを誤魔化すように小さく肩を竦める。

 こうした〈時間停止〉の影響下において、本来なら対象にダメージを与えるような魔法を発動することは不可能であった。

 しかし、プレイヤーの熟練次第では〈魔法遅延化/ディレイマジック〉を併用することにより、効力の解除されるタイミングに合わせて即座に攻撃へと転じることも可能になる。

 空虚な胸の内から目を逸らすように、アインズは自身の持てる力を注ぎ込んで魔法を紡いだ。

 ほぼ全ての魔法的防御を無効化して放たれる第十位階魔法〈現断/リアリティ・スラッシュ〉は、ワールドチャンピオンにのみ許された〈次元断切〉の劣化版ではあるが、アインズの取得している中では単発として最高威力を誇る攻撃魔法だった。

 これを多重発動することによって出力を重ね合わせれば、届くことのなかった“最強の幻影”にも手をかけることができるのだと信じてみたい。

「……俺は、貴方を超えてみせますよ」

 

 ――閃光が爆発のように弾け、超質量の激突とともに世界の音が戻ってくる。

 凄まじい衝撃の余波が、予め観客席に施していた魔法障壁を粉々に破砕せしめ、大闘技場全体を激震の渦中とした。

 大歓声に倍するほどの悲鳴が方々から響き渡り、巻き起こった土煙の中で右往左往とする観衆たちの姿――それでも、目立った被害は見られない。

「……良し、どうやら上手く相殺できたようだな」

 自身の狙いが成功したことに手応えと安堵を覚えつつ、アインズは小さく骨の拳を握り締めた。

「イベント会場で観客に被害があったら、洒落にならないもんな。一般人の強さだと〈リザレクション/蘇生〉には耐えられないだろうし……」

 閃光と轟音ばかりで、観戦していた者たちには訳の分からない決着となってしまったのだろうが仕方ない。

 人智を超えた戦い……とか、そんな風に都合良く解釈してもらえることを願いたいところだ。

 

「さて……、立てそうかね?」

 醒める気配のない客席の喧騒は聞き流すことにしたアインズは、舞台の中央で倒れ伏しているユンゲに歩み寄り、少しだけ気遣うように声をかけた。

「あぁ、いや……お構いなく、もう体力の限界でして――」

 大きく肩で息をしているユンゲは、身体を起こすことさえも大変な様子ではあったが、「俺の完敗です」と微笑んでみせる表情は実に晴れやかだ。

 傍に投げ出されたバスタードソードは既に輝きを失っており、降り注がれる日差しをただ照り返すばかり――ふと思い返してみると、初めて“モモン”として模擬戦にユンゲを誘ったときにも、似たような状況が起きていたのかも知れない。

 見物の請負人〈ワーカー〉たちに囲われての決着となった最後の場面――剣を手に駆け込んできたユンゲを目前にして、アインズは微細な雰囲気の変化を感じ取ることになった。

 しかし、何を仕掛けてくるのかと身構えたところで、不意に支えを失うように昏倒していったユンゲの姿は、先ほどの〈次元断切)を放ってみせる直前の光景に重なる気がした。

 当時のアインズは、単なる魔力切れの類いかと考えていたのだが――、

「……何か条件でもあるのか? これは色々と調べてみる必要がありそうだな」

「えっと、何かありましたか?」

「い、いや……折角ならば、お互いの健闘を讃えなくては、と思ってな」

 不思議そうに小首を傾げていたユンゲの手を掴み上げ、少々強引に立ち上がらせてしまう。

「わっ、――っとと」

「――さぁ、皆に“真なる冒険者”の姿を見せてやってくれ」

 無理矢理に話題を切り替えることにしたアインズは、“魔導王”に相応しい振る舞いで前へと進み出るように促し、勇敢なる“挑戦者”ユンゲ・ブレッターの名前を大闘技場に喧伝する。

「――改めて聞け、バハルス帝国の民よ! 我が魔導国の門戸は、真に冒険を志す全ての者に開かれている! このユンゲ・ブレッターのように自らの成長を求め、また世界を知りたいと願う者は、我が許へと集え!」

 威風堂々としたアインズの口上に、恐慌に駆られるばかりであった客席の騒々しさが水を打ったように静まり、間もなく熱狂に満ちた万雷の拍手と歓声が沸き起こった。

 四方から大観衆の視線に晒されていても、以前のように精神抑制の働くことがないのは、アインズ自身の成長と捉えても良いはずだ。

 一方で、こうした状況にはあまり慣れていないのか、どこか居心地の悪そうな様子で声援に応えていたユンゲだが、「あ、あの……ゴウン様」と耳打ちをするように言葉を続けた。

「空腹も限界なので、そろそろ退場させていただきたいのですが――」

「はっはっはっ、また最高に美味い酒と料理を用意させよう!」

 

 *

 

「――って、何をやっているんだ俺は!? 結局、モモンの正体を知られてしまったじゃないか!?」

 ユンゲたち“翠の旋風”と別れて間もなくナザリックに帰還し、急ぎ足で第九階層の自室へと戻ったアインズは当番のメイドや護衛のモンスターを下がらせるや、天蓋付きのベッドに倒れ込んで声を張り上げた。

 これまで何度も模擬戦と称して剣を交えていたことで、すっかりと自身の中に慣れが生まれていたのかも知れない。

 特化した職業構成の推奨されるユグドラシルでは珍しい、剣技と魔法を駆使する戦闘スタイルのユンゲ・ブレッターを相手にして、つい興が乗ってしまったのだろうと思う。

 空恐ろしいことに“魔導王”としての立場を忘れ、アインズは何気なく普段のモモンとして接しているときの調子で、ユンゲに話しかけていたのだ。

 不死者の王〈オーバーロード〉として魔導国に君臨するアインズと最高位となるアダマンタイト級の冒険者“漆黒”のモモン――その両者が同一人物であることを知られてしまうのは、今後の国家統治に大きな痛手となる可能性があった。

 本来なら生者を憎むとされるアンデッドの支配下に置かれながらも、城塞都市〈エ・ランテル〉の住民たちが表面上の平穏を保っていられるのは、“人類の守護者”としての役割を与えられたモモンの存在に依るところが大きい。

「うぅー、アルベドやデミウルゴスに何て言い訳をすれば良いんだ……いや、まだ諦めるな」

 これまでに散々と観察してきたユンゲの性格を鑑みれば、他人の秘密を軽々しく言い触らすような真似をする人物とは思えない。

 模擬戦の後、パーティメンバーで合流した彼ら“翠の旋風”を誘い、早速と食事を振る舞ったときにも特に態度を変えることはなかったのだから何ら問題はないはずだった。

 それでも、ふと脳裡を過ぎってしまうのは、どうしても不安を拭い切れないのなら、口封じのために殺すという冷酷な考え――しかし、魔導国の求めている“真なる冒険者”のロールモデルとして大々的に宣伝したことを思えば、直後に彼らが消息を絶ってしまうのは不自然だろう。

 そして――、

 

「……アンデッドでも飲食を楽しめるように、か」

 毎度ながら美味しそうに料理を頬張っていたユンゲの台詞と表情を思い返し、アインズは小さく息を吐いてしまう。

 宴席を囲みながら一緒に食べないのかと問われ、こちらが飲食できないことを伝えたところ、生気を失うほどに顔を蒼褪めたユンゲが勢い込んで口にしたのは、「何よりも早く、飲食可能になるアイテムを探しましょう!」という言葉だった。

 その危機迫る物言いに、思わずと笑ってしまいそうになるアインズではあったが――、

「元の世界でも、碌な食事を取ってなかったな」

 溜め息がこぼれるままに寝返りを打ち、やおらと天蓋に向けて手を伸ばす。

 ナザリックで供されている数々の料理やカクテルは語るに及ばす、街中で見かける屋台の串焼きや珍しい形状の果物なども気にはなった。ユンゲから手渡された森妖精〈エルフ〉特製のレンバス、未だに人間蔑視の強いナーベラル・ガンマが意外に好んで注文している“アイスマキャティアのミルク多め”など、これまでにアインズが飲食に興味を惹かれた機会は、もう一度や二度ではない。

 しかしながら、ユグドラシルにおけるアンデッドは食事をしないのが当たり前であり、そうした特殊な効果を持つアイテムが存在しなかったこともあって、すっかりと諦めていた――或いは、発想にさえなかったというのが本音だ。

「……位階魔法は同じだけど、ユグドラシルにはなかった生活魔法とかもあったしな」

 他にも、現地の者だけが使用できる“武技”などが良い例だろう。

 ユグドラシルとは似ているようで細部の異なる世界であったのなら、アンデッドの身体でも食事ができるようになるのかも知れない。

 そうであれば、新たな期待を抱かせてくれたユンゲに感謝こそすれ、自身の失態に起因する口封じはしたくなかった。

「……とりあえず、余計なことをされないように、好条件を与えて囲い込んでしまうのが正解か? 美味い飯や酒とかを奢ってやれば、大丈夫そうな気もするな……いや、こっちは後回しでも良い」

 ぼんやりと思考を巡らせていたアインズは、不意にもう一つの難題を思い出して硬直する。

「……属国化なんて、一般人には分からないよ」

 少しばかり情けない嘆きをこぼしつつ、自棄になってベッドを転がってみる。

 大闘技場での試合を終えて、色々と騒がせてしまった詫びをするために、ジルクニフに顔を合わせたところ、何故か帝国が魔導国の属国となることを願われてしまったのだ。

 諸々の定義や自治権などの要件は検討もつかず、その場では何の返答もできなかったのだが、もう数日もすればジルクニフからの草案が届けられてしまう。何がどうなっているのか、平凡であることを自覚するアインズに分かるはずもないのだが、デミウルゴスが献策していた計画にも齟齬が生まれているので、もしも意見を求められようものなら厄介に極まりない。

「……本当にごめんなさい」

 最終的に五体投地の姿勢で平謝りするアインズに残された方法は、逃げの一手のみ――つまりは、ナザリックの知恵者たちに丸投げすることだけだ。

 幸いにして、コキュートスから挙げられた報告書の中に懸案だったドワーフに関する新情報があったので、そちらを口実に暫くは遠征という名の下に、ナザリックを離れてしまうのが得策だろう。

「……いや、本当に申し訳ないと思ってるんだよ」

 誰にともなく言い訳を口にしつつ、善と悪は急げとばかりに手早く準備を始めるアインズであった。

 

 *

 

「ふぅ……って、あわわっ」

 小さな溜め息とともに座り込んだ椅子が目測以上に深く沈み込み、思わずと体勢が崩れてしまい――かけながらも、極上の優しさで受け止められた。

「ふふっ、マリーは何を遊んでいるんだ?」

 くすくすと楽しそうな笑い声。

 他愛のない揶揄いの言葉は、マリーの後に続いていたリンダからだった。

「もう、リーちゃん。だって……仕方ないでしょ、こんなに柔らかい椅子なんて、慣れてないもん!」

 少々の文句とともに座席を軽く叩いてみるが、その衝撃さえもマリーの手のひらまでは殆ど伝わってこないのだから驚きだ。

 室内に備え付けられた文机や照明などの調度品の数々は、以前に招かれた貴賓館で見かけたものと同じくらいの高級品ばかりであって落ち着かない。

「まぁ、そうだよな。……とりあえず、マリーも何か飲むか?」

 こちらの抗議をさらりと受け流してしまったリンダが、“レイゾーコ”の扉に手をかけながら問いかけてくる。

 こちらも備え付けの家具として用意された、箱内に冷気を発生させるマジックアイテムであり、飲み物や痛みやすい果物などを保管することができる代物だ。生活魔法にある〈リフリジレイト/冷却〉でも似たようなことは可能だが、常時発動するためには相応の魔力を消費しなければならないため、現実的ではないだろう。

「ん……なら、“ヒュエリ”でお願いします!」

「了解した」と軽く応じ、慣れた手つきでグラスを取り出したリンダが、湧水の蛇口〈フォーセット・オブ・スプリングウォーター〉から新鮮な水を注いで、半分に割ったヒュエリの実を添えてくれる。

「ありがとーっ」

 リンダからグラスを受け取り、マリーは満面の笑みで感謝を口にする。

 ヒュエリの果汁を軽く絞って浮かべてみれば、疲れた身体に心地の良い爽やかな柑橘系の香りが広がり、さっぱりとした甘味や酸味も感じられるので最近のお気に入りだった。

 隣席に腰掛けたリンダとともに一息をつき、ふと見上げた天井からは光量や色合いの調整まで可能な〈コンティニュアル・ライト/永続光〉の柔らかな光が降り注がれる。

 これほどの高価なマジックアイテムに囲まれ、まるで上級の貴族にでもなったような待遇ではあったが、マリーとしては却って気疲れしてしまう。

「……ゴウン様って、本当に凄いのね」

「そうだな、もう何に驚けば良いのかさえ分からなくなったよ」

 最早、諦めとも呆れともつかないような心境を抱きながら、お互いに小さく視線を交わしたマリーとリンダは静かにグラスを打ち合わせて傾けた。

「でも、“真なる冒険者”かぁ……私たちにもなれるのかな?」

「――ならないと置いてかれてしまうからな。今は必死に努力するしかないさ」

「それは……勿論、そうなんだけど」

 頭では理解しているつもりでも、どうにもマリーには不安を拭い切ることができない。

 何度でも思い返してしまうのは、つい先日の大闘技場での出来事――アインズ・ウール・ゴウン魔導国所属の冒険者となったことで、マリーたち“翠の旋風”を取り巻く環境は一変していくことになった。

 

 魔導国の建国以来、死の騎士〈デス・ナイト〉による警備網が整備されたことで、モンスターの退治や街道での警戒といった冒険者向けの依頼は急減した。

 やがて、糊口を凌ぐことのできなくなった冒険者が、次々と城塞都市〈エ・ランテル〉を離れてしまう事態となったことで最初の変化が訪れる。

 リ・エスティーゼ王国やスレイン法国からの往来がなくなり、閑古鳥の鳴いていた多くの宿屋を魔導国が借り上げ、所属する冒険者用の宿舎として解放することが決まったのだ。

 困窮していた下位の冒険者には朗報であり、ランクや能力等による待遇の差異はあれど魔導王の意向に賛同する者には相応の衣食住が保証されたこともあって、帝都での演説に感化された志願者が日を追うように増えているらしい。

 カッツェ平野方面へと向かう都市郊外には、“真なる冒険者”の成長を補佐するための訓練施設まで建設中ということなので、随分と気前の良過ぎる政策のように思えてしまうのだが――、大闘技場の一幕を終えたユンゲとともに招かれた宴席の場で、「未来への投資だ」と楽しそうに語っていた魔導王の言葉が真実なのだろう。

 また、新たな冒険者向け施設の先駆けとしては、死の大魔法使い〈エルダーリッチ〉を“教官”とした魔法の講義が試験的に始まり、これまでの常識では考えられない光景も見られるようになった。

「……神官〈クレリック〉の身である私が、まさかアンデッドから信仰系魔法を教わることになるとは思っていなかったぞ」

「そうだね。今でも不思議な感じだけど、内容はとっても分かりやすかったよ」

「――だが、ようやくと第三位階魔法に手が届いただけだからな」

 まだまだ先は長い、と口許に自嘲めいた笑みを浮かべてみせるリンダを見遣り、マリーもまた静かに苦笑いを返した。

 第三位階魔法の行使となれば、常人が到達できる限界とも称され、本来なら魔法詠唱者としての大成を意味したはずなのだが、遥かな高みを間近にしていると腑抜けた考えは口にできない。

 泣き言ならいくらでも吐いてしまえそうだが、追いかけたい背中はずっと遠いのだから、立ち止まっている時間さえ惜しいくらいだ。

 しかしながら、そうした魔導国による冒険者組合の変革が進められていく渦中で、“翠の旋風”に振り分けられた宿舎――エ・ランテルにおける最高級宿屋として名高い“黄金の輝き亭”の一室を見回し、マリーは何度目かも知れない溜め息をこぼした。

 白金級〈プラチナ〉に昇格して間もない冒険者チームには分不相応な好待遇に恐縮するばかりで、どうにも気の休まることのない日々が続いている。

「――私たちじゃなくて、ユンゲさんが期待されているのは理解してるけど……それにしても、世界が違い過ぎるというかね。この部屋だって、まるで貴族様のお屋敷みたいだし」

 滞在することになった“黄金の輝き亭”を通常通りに利用する場合であれば、これまでの稼ぎを合わせても連泊は難しいだろう。

「この部屋については“フクリコーセイ”の一環ということらしいが、これほどの礼遇に見合う働きとなれば……正直、想像もつかないな。それこそ、ユンゲ殿の言っていた“アンデッドでも飲食可能になるアイテム”を見つけられたのなら、話は違うのかも知れないが――」

 耳馴染みのない言葉を訝るように口にしつつ、やれやれとリンダが肩を竦めてみせた。

 こうして、言い知れない重圧にマリーやリンダが頭を悩ませている一方で、当の本人であるはずのユンゲは、いつもと変わらない気楽な調子で過ごしていることが少しばかり羨ましい。

 

「……ところで、ユンゲ殿は“また”お風呂かな?」

「そうだと思うよ。暇さえあれば、いつでも入ってるし……あんなに好きだとは知らなかったね」

 数々の高価なマジックアイテムに彩られた最高級の宿屋で過ごし、最大の驚きとなったのは客室付きの貸切風呂が存在したことだった。

 薪などの燃料を使用するにせよ、〈ボイラー/湯沸〉などの生活魔法を行使するにせよ、大量の湯を沸かすだけの費用や労力は莫大となってしまうために、一般的な宿屋では共用の浴場を設けていることさえ稀であり、手桶に湯をもらって浸した布巾で身体を拭うくらいが精々だろう。

 どこかの王族にでもなったような環境に置かれていることを自覚するが、貸切風呂の存在を殊の外に喜んでいたのがユンゲだった。

 遠出の依頼から帰還したときは当然としても、毎日の朝晩にも欠かすことなく利用しているはずなので、最低でも一日に二回以上は風呂に浸かっている計算になるだろうか。

「――確かに気持ちは良いけど、あれだけ入っていると身体がふやけちゃいそうだよね」

「あぁ……えっと、キーファが脱衣所に向かっていったみたいだが――」

 やや躊躇うようなリンダの物言いと気遣いの視線に、マリーは小さく肩を竦めてみせた。

「リーちゃん、何度も言うけど……私はユンゲさんを独占したいなんて考えてないからね? あの場では“責任”のあった私が、二人に譲ってもらっただけなんだから――」

 辺境のカルネ村において、リ・エスティーゼ王国軍と対峙した厳冬の日――村人を助けるために、初めて人間を殺めることになったユンゲは、傍目にもはっきりと憔悴していた。

 その大きくも繊細な背中を押してしまったのは誰か――業を背負うべきは、他の誰でもないマリー自身だった。

 貧相な身体で慰めるなどとは烏滸がましいと知りながらも、他に良い方法を思いつかないままに無理矢理と迫り、ユンゲの優しさに甘えて傷の舐め合いをさせてもらっただけだ。

「……だから、私に遠慮なんてしないでよ。それに大好きな人とするのは、本当に……本当に幸せだったからね」

 故郷“エイヴァーシャー大森林”からの境遇をともにしたキーファとリンダを前に、苦痛でしかなかった行為が至福となる瞬間をマリーだけで独占するような真似は絶対にしたくなかった。

 

「――って、キーファ!? 何で入ってきてるんだよ!?」

「ん? お風呂に浸かりたいから?」

「いや……そうじゃなくて、裸……せめて、タオルくらい巻け――」

「あたしは何も気にしないよ?」

「俺が気にするんだよ!!」

「まっ、良いから良いから……あたしが背中を流してあげるよ!」

 

 不意に聞こえてきた賑やかな掛け合い――思わずと顔を見合わせたマリーとリンダは、数瞬の間を置いて同時に吹き出してしまう。

 一応は真剣に話していた雰囲気が呆気なく霧散していくものの、これは歓迎するべき変化だろう。

「……えーと、何なら私たちも一緒にお邪魔しちゃおうか? 五、六人くらいなら余裕で入れそうなくらい広かったしね」

「――――っ、いや……またの機会にしよう。あまり困らせてしまうのも申し訳ない」

 ほんのりと頬を染めたリンダが、ゆっくりと言い含めるように呟いた。

 三人の中では年長なこともあり、いつもリンダを頼りにしてしまうのだが、案外と奥手な一面があるのかも知れない。

「そっか、じゃあ……今度だね!」

 凛と澄ましているようでありながら、益々と紅らんでいくリンダの横顔を見つめ、マリーの口許は微笑ましさに思わずと緩んでしまうのだった。

 

 




――ということで、アインズ様の弱みを握りつつ、ユンゲたちの魔導国への就職が決定となりました。

宿舎の豪華すぎる設備は、アインズ様が気を回してくださった結果なのかな。羨ま……けしからんな状況に、複雑な心境を抱いていそうですが――。

ハーレム的な展開には抵抗もあったのですが、それぞれのキャラに思い入れが生まれてしまい、取り合いやら誰かが我慢をする物語は書きたくないなと私が感じてしまったので、今回のような流れになりました。
ユンゲのヘタレは治りそうにないので、この先がどうなるのかは彼女たちの頑張り次第なのかな……。


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Epilogue.
(終)明日


-これまでのお話-
魔導王の提唱した“真なる冒険者”の理念に共感し、ユンゲたち“翠の旋風”は帝都の大闘技場を訪れる。
見事なアインズの演説と全力の挑戦でも届かない高みを改めて実感したユンゲは、その場で魔導国の冒険者となることを願い出たのだった。


 不均衡な兜からは悪魔の剛角が突き出し、獰猛さを際立たせる黒々とした棘付きの全身鎧には、血塗れたような真紅の紋様が血管の如く這い回る。

 落ち窪んだ眼窩の奥に揺らめく鬼火を宿らせ、見上げるほどの背丈からこちらを睥睨する異形の怪物――巨大なタワーシールドと長大なフランベルジェを携えた、死の騎士〈デス・ナイト〉の立ち姿を視界の端に捉えつつ、ユンゲは油断することなく反対側にも意識を向ける。

 視線を動かした先では、対となる二振りのフランベルジェを構えた死の戦士〈デス・ウォリアー〉が生者への憎悪を荒い息遣いに乗せ、より洗練された細身の全身鎧を鮮血に染めるべく“開始の合図”を待ち侘びていた。

 アインズ・ウール・ゴウン魔導国の首都〈エ・ランテル〉の城壁外周部――かつては、軍兵の駐屯地として機能した一画に設けられた冒険者用の訓練場にて、ユンゲは二体の凶悪な不死者〈アンデッド〉と向かい合う。

 街中での警備に勤めている姿から、すっかりと見慣れてしまった印象のあるデス・ナイトではあったが、こうして直接に相対してみれば“伝説”とまで呼ばれていた威圧感が肌身に刺さる。

「……俺って、ホラー系の映画は苦手だったんだよなぁ」

 単純なレベルによる能力差から負けはないと頭で理解していても、底知れない怖しさがユンゲの背筋に悪寒を走らせるのだ。

 こちらの手にしている武器は刃の潰されたロングソードであり、巨躯のアンデッドを目の前にするとやはり頼りない気がしてしまう。

「……いや、訓練用だから仕方ないんだけどさ」

 誰にともなく溜め息をこぼしたユンゲは、足下から手頃な小石を拾い上げて掲げてみせる。

「これが地面に落ちたら、訓練開始だ」

 対峙するデス・ナイトとデス・ウォリアーに向けて短く言い差したのなら、こちらの意を介した両者がぐっと腰を落とし、待ち侘びていたように臨戦体勢の構えを取った。

「……念のために言うけど、訓練だからな?」

 ぼやきとともに放り投げられ、鋭角な放物線の頂点から緩やかに落下してくる小石――やけに長く感じられる静寂の数秒を越えて、カツンと地面を打つ乾いた音が響いた。

 間髪入れずに襲いかかってくる二体のアンデッドが、抑え切れない殺戮衝動に身を焦がして咆哮を迸らせる。

 生命を本能的に畏怖させる恐怖の雄叫びは、力のない者であれば瞬く間に戦意を喪失させられていたことだろう。

 意思とは無関係に怯みかけてしまう気持ちを叱咤しながら、ユンゲは眼前に迫る兇刃の来襲を待ち受けた。

 先に振るわれた左からの斬撃を抜き放ったロングソードで打ち弾き、鋭い円弧を描いた剣先で右からの薙ぎ払いも打ち落とす。

 初っ端の双撃を防がれたデス・ウォリアーが体勢を崩しかければ、ユンゲの背後から飛び込んでくるのは、デス・ナイトの巨体を活かした凄絶な突進。

 身を屈めるようにして横へと転がり、勢いのままに片腕の力で跳ね起きるのだが、不意に視界を覆った禍々しい大盾――、慌てて飛び退いたユンゲの耳朶を剛撃の風切り音が打ち据える。

「――っ、ちょっと強化し過ぎじゃないの!?」

 思わずと愚痴をこぼしかけた隙を突くように、再び踏み込んできた二振りの剣撃が殺到した。

 咄嗟に引き戻した剣身と柄頭で交互に捌きつつ、ユンゲは何とかデス・ウォリアーの攻撃を受け止めてみせるのだが――、

「……この剣だと、もう保ちそうにないな」

 僅かに数度ばかり打ち合っただけで既に武器の耐久強度が心許なく、やはり普段の使い慣れている聖遺物級の装備とは比較にもならないらしい。

 早々にロングソードでの防御を諦めることになったユンゲは、勢いを増していく斬撃の中で流れるように身を躱して回避に専念した。

 その間隙を狙い澄まして、フランベルジェを腰溜めに構えたデス・ナイトが、二度目の突進を敢行してくるが――、今度は真上に跳躍することで直撃を避け、更に大盾の上部を蹴りつける。

 そうして、大きく宙返りを打つ要領で距離を取り直したのなら、獲物であるユンゲを仕留め損なった二体の死を纏うアンデッドが、憎悪に歪められた鬼火を一層と赤く燃え上がらせていた。

「……一応、訓練なんだけどなぁ」

 獰猛な哮り声を上げ、更に挑みかかってくる死霊の騎士と戦士の威勢を前に呟いてみるが、ユンゲの言葉が届いているのかは疑わしいところだ。

 

 真に冒険を志す者の支援を謳った、“魔導王”アインズ・ウールゴウンにより進められた冒険者組合の改革は、手始めとして訓練用アンデッドの提供から実施されることになった。

 駆け出しの冒険者向けには下級の骸骨〈スケルトン〉を、手慣れた冒険者向けには少し強力な動死体の戦士〈ゾンビ・ウォリアー〉を割り当てるといった加減で、個人の能力に合わせた実戦さながらの経験が積めるとの評判だ。

 ――訓練に駆り出されるアンデッドには、「冒険者に怪我をさせても、命までは奪わないように」との厳命がされているらしいので、難敵にも安心して臨むことができるのだろう……か?

 些かの疑念を抱きながらも、ユンゲは生者を引き裂かんとする刃の乱舞を潜り抜けていく。

 殆ど使いものにならないロングソードの剣腹を滑らせながら斬撃を往なし、或いは敢えて同士討ちを誘うように立ち回り、互いを牽制させることで攻撃の手数を奪ってしまう。

 そうした乱戦の最中でも平静を保ち続け、相手の隙を突けるタイミングを見極めていくことが何より重要だった。

 今回の訓練においては、レベルアップでの基礎能力の上昇よりも、こうした技術面での向上に主眼を置いているので、相手方として選出された防御面に優れるデス・ナイトと攻撃面に秀でるデス・ウォリアーの連携が妙に頼もしい。

 ふと思い返してみたのなら、初めての模擬戦において“漆黒”のモモンと対峙したときに覚えた“隙を見せる度に、何度も死を覚悟する感覚”に近しいものがあるのかも知れない。

「……あのときのモモンさんも似たようなことをしてたのかな?」

 こちらとしては全力で挑んでいたのだが、やはり彼我の実力差は明白であり、そうできるだけの余裕がモモンにはあったということなのだろう。

 しかしながら、魔導王による強化を施された二体の“伝説級”アンデッドに対峙し、自らに魔法の制限を課している現在のユンゲに本来の余裕はない。

「――――っ!?」

 ふと気を緩めてしまった瞬間、一気呵成に左右から攻勢をかけられ、思わずと蹈鞴を踏んでしまう。

 辛うじて二度三度と攻撃を捌きながらも、不自然な格好で受け止めてしまった大上段からの振り下ろしが、こちらの手にしていたロングソードを鍔元から圧し折り、逃げ遅れた前髪を掠めていく。

 舞い散った数条の髪を見送りつつ、慌てて後ろに跳び退ったユンゲは、咄嗟に握り締めた拳で追い縋ってくる三つの刃を迎撃した。

 ――パンパンッ、パンッと小気味良い破砕音。

「あっ……」

 思わずと間抜けな声がこぼれた視界に映るのは、半ばほどで砕けてしまったフランベルジェを呆然と見つめる死霊の騎士と戦士の哀れな立ち姿だった。

「あー、えっと……とりあえず、今日の訓練はここまでということで――」

 

 *

 

 からっと晴れた秋空の下、傍目にも分かるほどに困惑しているデス・ナイトとデス・ウォリアーの様子を見遣り、ユンゲは申し訳なさから逃げるように踵を返した。

「――はははっ、見事だね。ユンゲ君」

「あぁ、いえ……何というか、ありがとうございます。モックナックさん」

 気安い調子で話しかけてくれた声に振り向けば、くすんだ金髪をオールバックに撫で固めた大柄なモックナックが、地面に腰を下ろしながら柔らかな笑みを浮かべていた。

 ミスリル級の冒険者チーム“虹”のリーダーとして名を馳せ、色々と異色であったユンゲたち“翠の旋風”を以前から気にかけてくれる好人物は、どこか遠くを見つめるようにしながら言葉を続けた。

「……君なら、いつかはモモン殿の領域にも手が届くのかも知れないな」

 飾らないモックナックの賛辞に、「いや、それは流石に……」と咄嗟に謙遜してしまうユンゲではあったが、それでも少しだけ戯けるようにして肩を竦めてみせた。

「――でも、“真なる冒険者”を気取りたいのなら、遠過ぎても遥かな高みを目指すべきですよね」

「……その通りだな。私自身も努力を諦めるつもりはないし、魔導王陛下の描く理想に魅せられた者は多いよ」

 どこか含みを持たせながら、モックナックが嬉しそうに訓練場の片隅へと視線を送った。

「ほらっ、あそこにも……」と示された先では、ラウンドシールドを構えた骸骨戦士〈スケルトン・ウォリアー〉を相手に初老の男――エ・ランテル冒険者組合の長であるプルトン・アインザックが、打ち込み稽古で熱心に汗を流している。 

「現役復帰を目指すために、弛んでいた身体を絞りたいそうだよ」

「……アインザックさん、元々かなり動けそうな印象でしたけどね」

 年齢を感じさせない鍛えられた肉体は服の上からでも分かるほどに健在であり、鋭い踏み込みは歴戦の凄みを感じさせた。

「ふむ、今のままでも並大抵の冒険者では太刀打ちもできないだろうが……魔導王陛下から直々に褒美を賜ったのなら、生半可な真似はできないさ」

「まぁ、確かに……あの短剣がそうなのですか?」

「そのようだね。詳しいことは分からないが、ブルークリスタルメタル製の短剣らしい。とても嬉しそうに自慢されてしまったよ」

 無骨な訓練着に身を包むアインザックだが、その背中には揺らめく靄のようなエフェクトを纏った短剣が括り付けられている。

 魔導王から直々に下賜された逸品を片時も手放したくないという固い意思の表れなのか、或いはモックナックが苦笑するように宝物を自慢したがる子ども染みた振る舞いにも思えてしまう。

 いずれにせよ、あの冴え冴えとした青い短剣が、童心に抱いた冒険譚への憧れを思い出させてくれるほどの報酬だったことは確かなのだろう。

 こちらからの視線に気付き、少しだけ照れるような素振りをみせたアインザックが、それでも乱れることなく打ち込みを繰り返していく。

 私も負けてはいられないな、と腰を上げたモックナックが意気込み、軽々と肩に戦槌を担ぎ上げた。

「――では、ユンゲ君。私も訓練に戻らせてもらうよ。また、よろしく頼むね」

「えぇ、よろしくお願いします」

 歩き去っていくモックナックの後ろ姿を見送りつつ、ユンゲは小さく息を吐いて訓練場の全体を見回した。

 

 そうして、多くの冒険者たちが各々の訓練に励んでいる中で、一際に騒がしい方へと目を向けてみれば――、

「やるでござるなっ、“腐狼”殿! なら、これはどうでござるかっ!?」

 やや気の抜けるような掛け声とともに長い尻尾をしならせ、“森の賢王”ハムスケが鋭い一撃を振るうや、七代目の“武王”であったというクレルヴォ・パランタイネンが無言のうちに反撃を狙う。

「その調子ですよ、ハムスケさん!」

「パランタイネンの旦那も良い感じだぜ!」

 その白熱した模擬戦を繰り広げる両者を取り囲みながら、二足歩行する蜥蜴のようなリザードマンたちが口々に声援を送っていた。

 人間種も亜人種も関係なく、更には異形種や魔獣までもが、ともに肩を並べて切磋琢磨していく魔導国の冒険者組合――それはアバターの中身が、皆人間であったはずの“ユグドラシル”においても存在しなかった幻の光景。

「……ここは、本当に不思議なところだな」

「――っ、急に後ろから現れないでくれよ」

 不意に思考を読まれたような台詞に驚き、ユンゲは慌てて背後を振り返った。

「……実力は突出しているはずなのに、相変わらずの間抜け面だな」

 思わずと跳び退いたユンゲを冷たく一瞥し、チクリと刺すような物言いで“女忍者”ティラが言葉を吐き捨てる。

 こちらに半身で構えるティラは頭二つ分ほども低い小柄な女性のはずなのだが、どうにも威圧感を覚えてしまう相手だった。

(まぁ、誰にでも苦手な相手っているよな……ナーベさんや、ルプスレギナさんとか)

 ふと脳裡を過ぎる顔触れに内心で言い訳をこぼしつつ、ユンゲは小さな溜め息とともに肩を竦めてみせた――と、

「ユンゲっ、疲れたぁー!」

 不意にティラの陰から飛び込んできた可愛らしい森妖精〈エルフ〉の少女――キーファの細い身体を抱き留める。

「――っとと、今日の訓練は終わったのか?」

「うん……でも、酷いんだよ! ティラったら、あたしがギブアップしてるのに関節技を外してくれないんだから!」

 やけに恨みがましい視線で睨みつけてみせるキーファだが、ティラの方は興味がないとばかりに涼しい顔だ。

「一応、キーファからお願いしたことだろ?」

「まぁ、そうなんだけどさぁ……」

 とりあえずの苦笑いで取り繕ったユンゲは、やたらと距離の近いキーファの頭を宥めるように撫でながら、ティラに問いを投げかける。

「――それで、ティラの目から見てどうだった?」

 正式に魔導国の所属となった訳ではないらしいティラは、“外部協力者”という肩書きで時折こうして訓練場に顔を見せることがあった。

 先程、第三位階魔法を習得したリンダやマリーが成長に手応えを覚えている一方で、自身の成長に不安を感じていたというキーファが、専門家のティラに頼み込んだことから始まった体術を主体とする戦闘訓練だった。

「……筋は悪くない、しっかりと鍛えれば立派な暗殺者〈アサシン〉になれるだろう。何より、種族故か耳が良い」

「いや、あたしは野伏〈レンジャー〉だし、暗殺とかしたくないよ」

「……求められる能力は大して変わらない。お前の場合は弓技もあるんだ。無理に接近せずとも、気配を消しながら相手の不意打ちを狙えば事は済む」

「むむむーっ、えっと……ありがとう」

 やや釈然としない様子ながらも、やはり誉められていることには違いないので、キーファとしては無理矢理に溜飲を下げるしかないのだろう。

 最終的に弓で狙えという教えに関節技は必要なのか、と疑問符の浮かぶユンゲではあったが、藪蛇になりそうなので敢えて突っ込む真似はしなかった。

「とりあえずは訓練が終わったのなら、二人と合流して早めの飯にしようぜ。……たまには、ティラも一緒にどうだ?」

「……いや、遠慮しておこう。これから部下の調練もしなければならん」

「そっか……じゃあ、またな。今日は助かったよ」

 最初から断られると思っていたので、ユンゲの返答もあっさりとしたものだ。

 軽く手を振って踵を返すティラの背を見送り、傍らのキーファに向き直る。

「ユンゲ、疲れたから抱っこして」

「いや、そこは流石に自力で歩いてくれよ」

「ぶーっ、じゃあ……おんぶ!」

「……何が違うんだよ。ほらっ、さっさと〈クリーン/清潔〉をしてもらって帰ろうぜ」

 受付に常駐する骸骨の魔法使い〈スケルトンメイジ〉に頼めば、訓練での汚れや埃を落とす生活魔法のサービスが受けられる。

 そうして、結局は押し切られてしまいそうな予感を覚えつつ、やや重い足取りで訓練場を後にするユンゲであった。

 

「――次回は、ユンゲさんも一緒に魔法講義を受けてみるのはどうですか?」

「……暫くは遠慮するよ。パーティ内での役回りを考えたのなら、俺は前衛に専念するべきだと思う」

 魔法詠唱者向けの講習を終えて合流したマリーの提案にかぶりを振り、ユンゲはぼんやりと描いていた考えを口にした。

「リンダも前衛を務められるけど……やっぱり回復役の二人は、後方に控えていてくれた方が安心だからな」

 索敵と中距離からの遊撃役をキーファに任せて、リンダとマリーは後方からの支援に重点を置きながら、場合によっては遠距離からの魔法攻撃を仕掛けてもらうこともできる。

 不測の事態を考えたのなら、接近戦に不安のあるマリーの傍にリンダを配せるのも心強いだろう。

 こうした布陣を想定するのであれば、ユンゲは魔法よりも戦士としての能力向上に精進する方が、パーティのバランスは良くなるはずだった。

 ――何より大きな声では言えないものの、この転移後の世界における魔法の習得が非常に困難であることも理由の一つだ。

 レベルアップのときに好きな魔法を選ぶことのできた“ユグドラシル”とは大きく事情が異なり、もしも新しい魔法を覚えたいと願うのなら、師匠となる人物から教わったり、市販のスクロールを読み解いた“魔法の公式”を自らと契約した媒体――魔導書などに刻み込む必要がある。

 この世界の文字を未だに勉強中の身であり、それでも新しい魔法が自身の力として馴染むまでには時間を有することや、何かしらの条件を満たすまで使用できないといった面倒な制約が多いのだ。

 リンダやマリーが分かりやすいと喜んでいた死の大魔法使い〈エルダーリッチ〉の講義にしても、基礎的な魔法知識の欠けるユンゲでは理解できそうにもなかった。

(……魔法のスクロールはともかく、専用の魔導書なんて持ってないしな)

 ユグドラシルの恩恵によって、労せずして魔法の行使が可能であったプレイヤーは、やはり世界にとって異質な存在なのだろう。

 元々、難しいことを考えるのは苦手なタイプだと自負しているので、魔法は牽制程度の手段に捉えつつ、“レベルを上げて物理で殴る”スタイルが自身の性分には合っていると思えた。

「……もう、“ぼっちプレイ”じゃないからな」

 何の気なしにこぼれた自らの呟きに、ユンゲは思わずと口許を緩めてしまう。

「えっと……どうされましたか、ユンゲさん?」

「ん? ……いや、何でもないよ。とにかく俺は前衛を頑張ろうと思うから、マリーとリンダには後方からの支援とパーティ全体を見守っていてほしい」

 少しの気恥ずかしさとともに言い切り、誤魔化すように頭を下げた。

 こちらの勝手な要望にも、「……了解しました。じゃあ、魔法の支援は私たちに任せてください!」と笑顔で応えてくれる仲間たちを前にして、ユンゲの胸に熱いものが込み上げてくる。

「……ありがとう、よろしく頼むよ」

 そうして、素直に感謝を口にしたとき、不意に上空を覆い尽くすのは巨大な影――魔導国での暮らしは驚きに満ちているが、近頃の市井で話題となる最大の関心事は、新たに魔導王の傘下に加わったという霜の竜〈フロスト・ドラゴン〉の存在だろうか。

 アゼルリシア山脈のどこかに棲まうと初めて噂を耳にしたとき、いつかは戦ってみたいと考えていたモンスターなのだが――、どこまでも自身の“先を歩いていく存在”を知ってしまったのなら、ユンゲは敬意を抱かずにはいられない。

「何度見てもびっくりするね!」

「まるで神話のような光景だからな……あの強大なドラゴンに荷運びをさせるという発想が、私のような凡人には信じられないよ」

 青空の彼方へと飛び去っていくドラゴンの姿にキーファが目を輝かせ、リンダは呆れともつかない嘆息とともに小さく肩を竦めてみせた。

 ふと思い浮かぶのは、“仲間とともにドラゴンの背に乗って大冒険”などという夢物語――これは“いつかの夢”として、今は胸のうちに留めておこう。

「――さっ、何はともあれ早く飯にしようぜ!」

 

 *

 

 かつて、駆け出し冒険者向けの宿場も兼ねていると紹介された酒場――そこは“場末の酒場”という単語がこれ以上になく相応しい、暴力的で退廃的な空間であり、ユンゲがこの世界に降り立って最初の食事をかき込んだ懐かしい場所だ。

 軽い軋みを上げるウエスタンドアを押し開けたのなら、店内奥のカウンターから用心棒にしか見えない無骨な禿頭の主人が声を投げかけてくる。

「まーた、お前さんらか。ウチのような安宿に、ミスリル級の冒険者様にお出しするような料理や酒はねーぞ」

「まぁ、気にしないで……いつものヤツをたっぷり頼むよ!」

 気軽なユンゲの注文を受け流し、主人が顎だけで空いているテーブルの一つを指し示す。

 素直に美味い料理や酒を楽しみたいのなら、魔導王からの厚意で提供されている最高級宿屋の“黄金の輝き亭”の食堂を利用した方が良いのだろうが、誰しも肩肘を張らずに楽しみたいと思うときは往々にしてあるものだ。

 大きめなジョッキを安物のエールで満たして掲げ持ち、多少の溢れも気にせずに「乾杯っ!」と皆で打ち合わせたのなら、明日からもきっと楽しく過ごせるだろう。

 

「へー、大昔に滅びた古代の魔法都市か。それは面白そうだな」

「だよね! ここから南東の方角で……カッツェ平野よりも、ずーっと向こう側になるのかな? 何でも、“国堕とし”っていう凶悪な吸血鬼王侯〈ヴァンパイア・ロード〉が暴れたせいで滅ぼされちゃったみたいなんだけど、凄く魔法技術が発達していたんだって!」

「……なるほどなぁ、それだと珍しいマジックアイテムとかが眠ってたりするのかも知れないな」

 バハルス帝国との戦争で大敗した以降、本国へと逃げ帰ったリ・エスティーゼ王国貴族の元邸宅からは、時折に高価な調度品や書物などが払い下げられることがある。

 密かに読み物を趣味としていたキーファは、それらの古い書物を買い求めて色々な情報を集めてくれていたらしい。

「他の候補だと、前にフールーダの爺さんが喚いてた砂漠の天空都市〈エリエンティウ〉はどうなってるのかな? そっちの方面からは、質の高いアイテムや武器が流れてくるって話もあったよな」

「魔法とか金属加工の技術は凄そうですけど……現在でも人々が住んでいるのなら、未知のアイテムとかはなさそうな気がしますね」

「確かに、アンデッドでも使えるアイテム探しってなると違う気がするねー」

「……いずれにせよ、私たちがもっと実力をつけてからだな」

 キーファの持ち込んだ書物に目を落としていたリンダが話題を引き取り、決意を滲ませるように言葉を続けた。

「――その“国堕とし”とやらは、既に“十三英雄”が討伐しているらしいが、世界を旅しようと思うのなら脅威は多い。今のままでは、ユンゲ殿に負担をかけてしまうばかりだ」

「いや、そんなに気負わなくて大丈夫だよ。……時間はたっぷりあるんだ。気長に楽しみながらやろうぜ、リンダ」

「あぁ、えっと……はい、ありがとうございます」

 最近のキーファやマリーは良い意味で遠慮がなくなってきたのだが、リンダばかりは生来の真面目さのためか、どうにも固さが拭えない印象がある。

 年長者としての冷静な振る舞いに助けられる場面も多く、自身を律しているリンダの姿勢は見習いたいと感じながらも、もう少し気楽にこちらを頼ってほしいという思いがあるのも確かだった。

(……ただ、それを俺が指摘するのも変な話だし、もっと信頼してもらえるように頑張らないとなぁ)

 何はともあれ飲もう、と対面のリンダに笑いかけたユンゲが追加のジョッキを掲げてみせれば――、

「おっ、なんじゃ……もう酒を飲んどる連中がおるんか!」

 開け放たれたウエスタンドアの向こうに、ずんぐりとした樽のような人影――大層に立派な髭を貯えた山小人〈ドワーフ〉が、年中の赤ら顔に人好きのする笑みを浮かべていた。

「よー、髭のおっちゃん。今、仕事終わりか?」

「おうよ! 片付けもほっぽり出してきたというのに、お前さんらに先を越されるとは――」

 何やら酷く打ち拉がれている様子のドワーフは、魔導王の招聘に応じてエ・ランテルに赴任してきた鍛冶職人の一人だろう。

 ドワーフという種族は顔面積に対する髭の割合が多過ぎるので、ユンゲには個人の判別がつけられないことも多い。

 しかしながら、常なる酔っ払いが相手であったのなら、誰にでも“髭のおっちゃん”の呼称で差し支えないのだから気楽なものだ。

 古典的なエルフとドワーフが仲違いするイメージも、長らくと交流のなかった世界の両種族間には当て嵌まらず、面倒なわだかまりがないのも幸いだろう。

 こうして、毎夜のように酒場で顔を合わせていたことで、いつしか意気投合してしまった類いの酒飲み友達だった。

「――この魔導国の酒は信じられんほど美味いからな、故郷の皆が羨ましがっとるよ」と誇らしそうな彼らに訊けば、現在は限られたドワーフだけが魔導国に移住しているものの、将来的には食料品や武具の交易とともに、街路の整備や建築に長けた職人たちの訪都も予定されているらしい。

「ドワーフ製の装備が手に入りそうなら、キーファの弓とかも新調してみるか?」

「うーん、今のヤツも気に入ってるけど……試してみるのは有りかもね。消耗品の矢とかも見てみたいな」

「そう言えば、お前さんらは冒険者じゃったか」

「――そうそう、こう見えても直近でミスリル級に昇格したんだぜ!」

 わざとらしく胸を張ってみせたユンゲは強面の主人を呼び止め、更に追加のエールを注文する。

「追加は構わないが……お前さん、流石に飲み過ぎじゃないか?」

「大丈夫だって、このくらいなら酔ったうちに入らないよ」

「そうじゃ、酒は呑まれてなんぼじゃろー!」

「……ったく、嬢ちゃんたちに迷惑かけるなよ」

 資の悪い酔っ払いたちの妄言に呆れて肩を竦めた主人が、腰を屈めるようにしてカウンターの奥へと戻っていった。

 そうして、飛び入りのドワーフとも楽しく酒を酌み交わしながら、ユンゲたちは取り留めのない会話に花を咲かせていく。

「――魔導王からの依頼品を持ち逃げ? 結構ヤバそうな感じだけど、それって大丈夫なのか?」

「なーに、問題ない。鍛冶工房長の件も、笑って許してもらえたよ」

 がははは、と豪快な笑いを上げたドワーフが、小樽ほどのジョッキを一息に空けてみせつつ、もう一方の手で次のジョッキを掴み取る。

「美味い酒もくれるし、ルーン技術にも理解があって、儂らみたいな職人の気持ちも分かっとる。あの見た目は恐ろしかったが、魔導王陛下は偉大で寛大な“良いアンデッド”じゃな」

 何とも不思議な言い回しではあるのだが、魔導王を語っているドワーフの口調には既に揺るぎない敬意と信頼が感じられるのだから、ユンゲとしては驚くばかりだ。

「本当に凄いですよね、魔導王陛下は……」

 あまりにも遠い存在に憧れてしまったものだと、自身で掲げた目標の高さに思わずと溜め息がこぼれてしまう。

「――あれ……ユンゲさん、酔っ払っちゃいましたか?」

 不意に向けられる上目遣いの視線には、楽しそうな揶揄いの色――傍らのマリーが、ほんのりと頬を紅潮させながら身体を寄せてくる。

「まだまだ、こんなものじゃないさ。マリーこそ、ほどほどにしとかないと明日が大変じゃないか?」

「むー、もう大丈夫ですもん! 私も飲めます!」

 やや舌足らずな反応を見遣ったのなら、翌朝には頭を抱えている姿が思い浮かぶものだが、敢えて言及することもないだろう。

「そうか、なら……もっと楽しもうぜ」

 ふとしたマリーの稚気を微笑ましく感じながら、ユンゲは何気なく窓辺へと目を向ける。

 四角い窓枠に切り取られた宵闇の街並み――濃藍の帳が下ろされていく夜空の裾では、宝石箱のように色鮮やかな星たちが輝き始めていた。

 

 

 

 【おしまい】

 

 




唐突で驚かれた方もいらっしゃるかと思いますが、拙作『新参プレイヤーの冒険譚』は今話にて完結となります。

最終話にして、キーファの読書好き設定(名前の元ネタに関係)を初めて書けたり、まだまだ思い描いていたエピソードもあるのですが、一つの物語として綺麗にまとまりそうなところで、筆を擱かせていただきたい考えです。


初めての二次創作活動&ハーメルン投稿なのに、いきなりの長編ということで色々と大変な思いもありましたが、沢山のコメントをいただいたり、お気に入り登録をしていただいたり、ここまで読んでくださった皆様のおかげで、なんとか最後まで物語を書き終えることができました。

この場を借りて、「ありがとうございました」と伝えさせてください。


今後については、オーバーロードの二次創作で他にも書いてみたいネタがいくつか思い浮かんでいますので、またお暇なときにでもお付き合いいただければ幸いです。


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