おはよう琲世 (おんぐ)
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アニメ六話見て衝動的に書きました。
他もあるので、後編で完結します。


 

 

 

 

 …僕は幸せな夢。

 なのに、いつの間にか、ほしがっていいって勘違いしてたんだ。

 

 だから、夢はもうーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 僕は椅子に腰掛けていた。

 椅子に背もたれはなく、少しだけクッションが利いている。足は浮いていて地面の感触は皆無だが、不思議と違和感はなく、すっぽりとハマったようなフィット感さえある。身じろぎすれば、身体が回る。足が後からついてくる。

 椅子は、ふらりと回った。

 下を見た。椅子の足が伸びているはずの空間には、何もなかった。

 周りの景色は全て同じというか、何もない。何もかもの存在感を感じられなかった。

 虚無が広がっていた。

 ただ、僕だけがぽつんとあった。

 と、そんな矢先。

 パッと唐突に、しかし最初からそこにあったかのように、僕が瞬きする一瞬の時間にそれはーーその絵は現れた。

 それはまるで、写真だった。写真のように精巧に描かれた絵。白黒写真なんて初めて見たかもしれない…。

 あ、これは絵だった。

 

 僕はその絵に見覚えがあった。

 それは、僕の目がさっきまで捉えていただろうモノだった。はっきりと断定できないけど。

 いまいち、自分自身を信用できない。ついさっきまで、僕は次から次へと押し寄せる灼熱の洪水に飲み込まれて、自分が何をしているか分からないままに動いていた。

 

 僕視点のモノだろうその絵は幸い、静止画であった。一向に動きはない。

 音もない。でもそれで良かった。自分の身体が壊れる音なんて聞きたくはない。

 

 パッと、絵が代わる。縁から縁まで支配しているのは、一人の女性の上半身。

 前の絵は、横にずれて霞のように消えていった。

 改めて見ると、綺麗な人だ。サラシを巻き付けた胸をーー上半身を隠すように、肉肉しい布を両手で手繰り寄せて、さげすむように笑った顔。表情のおぞましさと矮躯の儚さがある種の美を成立させていた。

 …確か、彼女は僕の名前を呼んでいたな。

 ーーああ、あんな綺麗な人が隻眼の梟だったなんて。

 

 また、代わった。映し出されていた絵は、また横にずらされて、スゥーっとその存在をなくした。

 

 

 

 追い詰められているのに、哀しそうに、けど懐かしそうに笑う月山家子息ーーこの後僕は右手を切り飛ばされた。

 

 ーーーーー

 

 僅かな肌色が映るぼやけた絵ーー何となくわかる。これは、アキラさんに抱きしめられた時のものだ。頭の中がドロドロになっていくのが、アキラさんの温もりを感じて、溢れ出す前にせき止められた。

 

 ーーーーー

 

 アップで映された、神妙な表情の不知くんの顔ーーこれは、ナッツクラッカーの件で悩んでいる時のかな。もうボウズにしてるし。…彼らは無事だろうか。ちゃんと連携は取れているだろうか。ううん、きっと大丈夫だ。

 

 それからも、次々と絵は流れていった。

 最も多く占めるのは、やっぱりーーシャトーでの生活風景。皆の顔。アキラさん、有馬さんの顔。そして…:reの店員さんの顔。やっぱりいいよなぁ…。

 

 ふと、真っ暗な、真っ黒に塗りつぶされた絵が現れた。

 なんでだろうと少しだけ考えて、思い至る。これの前の絵は、背を向けた有馬さんの姿だった。つまり時期的にーーそりゃ見えないよね。 

 瞳がなかったんだから。思い出すだけでも目の奥に痛みと不快感、それと虚無感が押し寄せる。

 でも、この時。僕は助けられていたんだ。激痛で頭がおかしくなりそうなのを通り越して、それこそ死を感じたその時に、場違いのように存在した温かくて柔らかな安心する心地。

 ああ、救われたんだなと思った。

 

 彼女はーーフエグチさんはどうなるのだろうか。僕を…カネキケンをお兄ちゃんと呼んだ彼女は…。

 

 

 気づけば、絵はまた別のものへと代わっていた。随分と考え込んでしまっていたみたいだ。今度の絵は、不知くんの女装姿…。

 

 ここまでくれば、流石に気づいた。

 これはもしや、いわゆる走馬灯と呼ぶべきものではないだろうかと。少し特別感があるけど。

 

 佐々木琲世という一個人が消えていく、その準備。もしくは神様から与えられた、最期のオマケのような時間。僕は黙ってーー懐かしみながらーーそれらを眺めていくことしかできない。

 

 遂に、終わりがやってきた。映し出されているのは、少し困ったようにも見える有馬さんの顔だった。

 

 覚えている。

 

 これは、ハイセが生まれた日。

 好きな漢字をふたつ選んで、有馬さんが付けてくれた、"琲世"の名。

 

 嬉しかったなぁ……

 

 ーーーー何もかもが消えて無くなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここはどこだろう。

 ベッドから起き上がった僕は、見たことのない場所にいた。といっても、ただの部屋のようだけれど。

 でも、シャトーの自室ではないのは確かである。

 記憶を辿るーー何だか、走馬灯のようなものを見た気がする…?

 いやその前…そう、月山家駆逐作戦があった。

 作戦は、作戦は成功したのだろうか。皆は、ちゃんと無事だろうか。

 

 僕は、それこそ必死になって、携帯を探し始めた。

 ここがどこであるのかはわからない。だけど、早く、早く、今は何だかどうしようもなく皆の声が聴きたい。すぐに会いたかった。

 

 携帯はすぐに見つかった。見覚えのない機種だ。ベッドから人一人分を開けたところにある、本が乱雑に散らばっているテーブルの隅に、無造作に置かれていた。

 改めて部屋を眺めてみると、この部屋は荒れていた。

 本が整頓された本棚に、少ないが手入れの行き届いているように見える家具類の中で、床や机に散らばった本や、何か中身が入ったままであろうビニール袋が、言い様のない違和感を作り出していた。

 

 画面にダイヤルを表示する。記憶している番号の中から、一番に思い浮かんだ番号を素早く打ち込む。間違いはない。この人の番号を、僕が間違えるはずがない。

 耳を這うダイヤル音の一拍が、酷く遠くにあるかのように中々鼓膜を揺らさない。まるで、何もかもの時が止まった世界にいるみたいだった。

 何で、こんなに胸が苦しいんだろう。寝起きだからか、喉がカラカラと乾いている。

 

 はやく、はやく出て下さいアキラさん…。

 

 プルルルルと鳴る音が、途中で途切れた。

 僕は心の中でホッと息を吐いた。耳に強く、スマートフォンを押し当てた。

 

 『…もしもし』

 

 アキラさんの声だ!

 でも、不機嫌そうな声だ。僕は、瞬時に頭の中で原因を探る。

 彼女は朝は弱かっただろうか。いや、そんなことはなかったはずだ。ならば、疲れているのかもしれない。…あれ、今は朝?今何時だろう。

 

 「アキラさん!お疲れのところにすみません。僕です。ハイセです。今、判断不可能な状ーー」

 

 ーーブツッ。

 

 「え」

 

 電話が切れたことを、僕の脳が認識したのは、それなりの時間が経ってからのことだった。

 そして、僕は待った。アキラさんが電話をかけ直してくるだろうことを期待して。

 

 しかし、一向に着信音は聞こえてこなかった。

 

 仕方がないので、もう一度僕からアキラさんの電話にかけ直す。

 目の端に、丸い壁掛け時計が映った。時計の太い針は、もうすぐで八に届きそうだ。

 

 今度はすぐに、アキラさんは電話に出てくれた。

 

 「アキラさん!朝早くにすみませんでした!でも、本当に今どこにいるのかわからなくて…その、不知くん達は、皆は、クインクスの皆は…ちゃんと無事に帰ってますか?ご飯作ってないから、その…」

 『…』

 「…?それと、その、本当にここがどこだかわからなく…て…?」

 

 あれ、なんだろう。空気が重たい。酷く気持ち悪い。内臓がぐるぐるとかき混ぜられるような、途轍もない不快感。

 何か、何かが変だ。

 嫌だ、知りたくない。違う…違う。

 この電話の先にいるのが、()()()()()()()()()()()()、何てバカなことを…やめろ、考えるな。

 

 『貴様の名は』

 

 間違いない、アキラさんの声だ。

 ああ、やっぱり僕の勘違いだったんだ。

 ああ、よかった。

 

 「ハイセ、佐々木琲世です。アキラさん。真戸パンチでも何でも受けますから、だからーー」

 『ふむ、見当が付かんな』

 「ーーえ?」

 『此方の話だ。残念ながら、声色から分析しても、貴様が誰であるか見当がつかない。私は、お前のことなど知らない。全く幼稚な、手の込んだ悪戯だ。お陰で貴重な朝の時間を無駄にしたよ』

 「は…ぇ?な、なんで…」

 

 何がどうなっているのか。アキラさんが何を言っているのか。

 僕には理解できないことだった。

 ただ、一つだけ分かること。

 アキラさんの声には、何の感情も込められていなかった。

 もし彼女がこの場に居たならば、きっと僕に、道端に転がっている石ころを見るときのように無感情な瞳をーーいや、視線すら向けて貰えなかっただろう。

 そして、彼女はきっと、僕のココロをぽきりと折ってしまうのだ。

 

 『ーー悪戯で済ませてやる。二度と、この番号に電話を掛けるな。次はない』

 

 耳元で、音を立てて何かが切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうやら、僕は過去に来てしまったらしい。我ながら何を言っているのかと疑問に思うけれど、残念ながら、これは本当にどうしようもなく現実だった。

 昨日、アキラさんから拒絶されたショックで僕は気絶した。

 次に目覚めた時間は定かではない。でも太陽は半熟の卵みたいにオレンジ色だったから、おそらく夕方頃だったと思う。

 僕は、起き抜けにその部屋を飛び出していた。それが、昨日のこと。

 

 

 

 

 

 

 そして、今日。

 僕が、ここが僕の知っている()()()ではないと(過去である)、現実を受け入れざるを得なくなった要因はーー今となっては色々あるけどーー日付でも、この部屋の存在でも、鏡に映った姿でも、スマートフォンの電話帳でも、冷蔵庫に入っていた食材でもなかった。

 

 アキラさんと、有馬さんが僕のことを知らなかったのだ。佐々木琲世という個人を、記憶していなかった。

 

 アキラさんが、僕を拒絶するなんてあるはずがない。有馬さんが、あんな目でーー昔はあったような気もするけれどーー僕を見るはずがない。

 だから、僕はココが普通ではないと気づいた。

 そして、自覚させられた。ココは、この身体がカネキケンだった頃のセカイなのだと。

 否応にも、そうせざるを得なかった。

 

 

 

 丸々一日、僕は冷たい床に横になって、ただぼーっとして過ごした。自分の物だと言えないベッドを使うのは、気が進まなかった。

 その間に、数回スマートフォンが鳴ったけれど、僕がそれに反応することはなかった。最初の着信の時に見た、画面に表示されたのは知らない名前。

 カネキケンの友達だろう。僕に出る資格は無いと思ったし、出たとしても、僕はカネキケンではありませんと言えるはずもなく、どうすることもできない。

 

 瓜江くん、不知くん、六月くん、才子ちゃん…会いたいなあ…

 

 

 

 

 僕は、手始めに部屋の中を漁った。自分の部屋であるという認識がないのだから、漁るという表現は適当だと思う。捜査をするような心意気で、僕はこの部屋に臨んだ。

 最初に意識が向いたのは、本が整然と並べられた本棚だ。題名を確かめることなく、一冊そこから抜き取る。

 パラパラとめくる。

 僕は、その文体の醸す独特な空気に覚えがあった。

 

 「高槻…泉」

 

 表紙を確認する。やはりそうだった。タイトルは、虹のモノクロ。いくつかの趣向の異なる話が綴じられた短編集だ。

 僕はそこまで読み込んだ本じゃないけれど、フエグチさんへの差し入れに選んだ本の中の一冊だった。哀しそうに目を伏せた彼女の姿を、記憶の煙霧が集まって形作った。

 

 そう言えば、まだ月山と知らなかった時の彼との会話に、高槻泉のことが出ていた。

 高槻泉の作品が全巻揃えてあるのだろう本棚の区画を眺める。カネキケンは、高槻泉の愛読者であると分かる。

 彼は、あの時カネキケンを望んでいたんだと今更ながらに気がついた。作戦前に話した時は、自分のことで精一杯だった。

 

 

 冷蔵庫の上の棚にあった、かちんこちんに糊化したごはんを、一口食べてみる。

 味は、いつも通りだった。匂いの時点で気づいていたけれど、そう都合良くはいかなかった。きっと今は、カネキケンが半喰種になったあとなのだろう。

 フツフツと沸くぶつけようのない怒りに蓋をして、やっぱりそうだったと諦念を抱く。どうせなら、人の身体がよかった。皆の輪の中に入れたのに。…ああ、今はもう関係ないのか。

 

 ただ、安心したことがある。ゴミ箱に乱暴に詰め込まれた、食べかけのレトルト食品や、お菓子の数々。これは、カネキケンがこの身体になって日が浅いことを示唆していた。

 喰種達は、人間社会に溶け込むためのカモフラージュとして人の食材を手元に置くことがあるので絶対とは言えないが、部屋の荒れ具合からして僕の推測はそう間違いでも無いと思う。

 あの、眼帯のマスクも部屋のどこにも見当たらなかった。今はまだ、カネキケンは、()()とは…人間からも喰種からも畏れられる、'眼帯の喰種'とは、呼ばれていない。そう願う。

 

 カネキケンは、大学生だったようだ。正しく言えば、現在進行形で大学生。上井大学文学部国文科、財布に入れてあった学生証にそう記載されてあった。普通自動車免許も入っていた。大学生の身分で車は持っていないだろうから、あるとすれば、原付バイクだろうか。

 家族構成は…父は…母親は亡くなっている。僕が消える前にカネキケンと僕の間で錯綜した幼い記憶。

 母さんにぶたれていた記憶。あの時は僕の記憶でもあったけど、今は何故か他人事のように感じるーーカネキケンは、どこに行ってしまったのだろう。

 あの白い子どもはどこにいってしまったのだろう。

 

 「あ…」

 

 ぐぅと何か音がしたと思ったら、自分のお腹の音だった。

 ーーあ…カネキケンは、まだ()()()いないのかもしれない。

 僕は、無性にこみ上げる嬉しさに浮かされた。

 

 また、お腹が鳴った。

 

 僕は、まず目を閉じて息を吐いて、無心になって自分の腕に口をつけた。

 

 ーーゆったりと再生していく。Rc細胞の影響が薄いのか…この身体がまだ、()()()()()()()()()()ということだろう。

 脆弱であるこの身体を好ましく思った。

 僕は…ヒトだ。

 

 

 

 次の日。

 僕は地に足が着いていないかのようなフワフワした心境のまま、外出した。

 インターネットで現在地を確認して、カネキケンの自宅があるのは二十区であることが判明していた。

 僕は、水筒や、ぼーっとしたまま何時の間にか作っていた食べれもしないクッキーを入れたバッグを片手に、目的地へと足を伸ばした。

 

 しかし、当然というべきか、僕の中では何よりも大切な場所であるシャトーは、文字通り見る影もなかった。何もない更地だった。

 僕はしばらくその場から動けなかった。通りかかったパトロール中の警官に声を掛けられるまで、じっと立ちつくしていたのだ。

 寒空にボヤけて漂う太陽の位置は、随分と高くなっていた。

 

 カフェ:reもどこにも無かった。あのーー彼女は、見た目の年齢から考えると、まだ高校生くらいだろうから期待はしていなかったけれど、お店すらないとは考えていなかった。あの渋いお兄さんがいれば、またあの珈琲を飲めるという淡い期待は、ガラガラと崩れ落ちた。

 

 途方に暮れるのを通り越して、生気すら失いかけ、何もすることを考えられなくなった僕は、近くにポツンとあった公園のベンチに腰を下ろしていた。

 何回冷たい風が通り過ぎていっただろうか、スマートフォンのバイブレーションが、上着を揺らした。

 僕は、ごく自然に電話を取った。

 

 

 

 

 

 

 

 「よ、カネキ。久しぶり」

 

 さっきまで電話で話していた彼は、友達に声をかけるような調子で、僕に声をかけてきた。

 ただ、仕事柄というのだろうか。彼がその調子や表情を()()()()()のだということを、僕は読み取った。

 

 「あ…その」

 「あ、悪い悪い。記憶なくなっちゃったんだったな。改めてよろしく。俺は永近英吉。小学生の頃からカネキの親友やってる」

 

 金色の髪の毛をツンツンに立たせた彼の名前は、永近英吉。そう、さっきの電話でも言っていた。

 僕が彼に話したことは一つだ。記憶が無いと、口からするりと滑り落ちてしまった。

 ただそれだけなのに、彼はまるでその原因ーー事実とは言えないのだがーーを知っているかのように、そして納得したように、電話越しに反応した。

 

 聞けば、カネキケンは大好きなハンバーグを吐き出したらしい。

 

 何の変哲も無いその言葉から、僕は彼が何を言いたいのか、全てを悟った。彼の洞察力にも愕然とした。

 そして、僕が無言のまま冷や汗を垂らし始めたころに、彼は、今から会いに行くと言ったのだ。

 

 「あー、結構人いんな。これから、カネキの家でもいいか?」

 

 僕は、流されるままに、無言でうなづいた。

 僕の正体を知ってなお、その選択をした彼に、僕は、危険に思わないのかだとか、そんな疑問を一切持たなかった。

 彼の瞳は、僕を…カネキケンを信用ーーいや、信頼しきっていたのだ。

 本当に親友なんだなあと、僕は残念ながら他人事でしか思えなかった。

 

 

 

 

 

 

 「CCGに駆け込むのは無しだな。下手すりゃ実験体コース行きもある」

 「うん…」

 「取り敢えずさ、普通に大学生できそうじゃね?」

 「…それは」

 

 僕に、その資格はないのだ。

 

 「メシの問題も無いんだろ?ていうか、自分を食えるなんてすげーな。全部の喰種がそうすればいいのに」

 「その…君は「ヒデな」…ヒデは、自分の腕が凄く美味しいーー例えば、ケーキになったとしても、食べようとは思わないよね。多分、そんな感じなんじゃないかな」

 「そりゃなー。あ、でも」

 

 本当の理由は違う。体力面の問題とか色々あるけれどーー僕は鱗赫ベースだから再生力が高いのも置いといてーーそれ以前に喰種は、同種の肉は不味く感じるらしい。だから、人間を襲うのだ。

 何故そんなこと知ってるのかと言われれば答えられないので、これは永近君には言えない。

 

 「何かさ、カネキお前大人っぽくなったよな。記憶云々は抜きにして、若干精神年齢上がったというか…」

 「っ…」

 「俺も、記憶喪失になってみようかな。そしたら女の子にモテモテに…なんてな!」

 「…ははは」

 

 驚かされて、心臓がドクンと跳ねた後、次に僕は乾いた笑いしか出せなかった。

 年齢差からか、もしかしたら瓜江君達を見る時のような目線を向けてしまっていたのかもしれない。気をつけないと。

 未来からやって来ましたなんて言えない。いや、もしかしたら永近君は納得するかもしれないけれど、それでも僕は言うことができなかった。

 卑怯ーーその言葉が頭の中に埋め込まれているのを自覚する。

 弱い自分を少し、蔑んだ。

 

 「コーヒー飲めるんならさ、あんていくに行こうぜ!お前あそこのコーヒー好きだって言ってたからさ」

 

 あんていく。

 その言葉をどこかで聞いていたような気がした。

 

 

 

 

 

 永近君の案内でやってきた、あんていく。その外観は、それほど似ているとは思えないのに、何故か:reを想起させるものだった。

 

 店の中に入ると、コーヒーの薫りが鼻の奥まで満たしていった。

 同じ薫りだった。

 

 

 

 

 

 

 



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一つ増えました。


 

 

 

 

 僕は、キョロキョロと店内を見回した。

 この空間にあのーー彼女がいるかもしれないと期待して、何でもありませんよと装いながら、でも目だけは、それこそ必死になって彼女の姿を探した。

 使っている珈琲の豆の種類が同じだけだった、というオチも一瞬頭を過ぎったけれど、その可能性を切り捨てた。僕の鼻赫子は誤魔化せやしない。

 間違いないのだ。ここには彼女の匂いがあると、僕には確信があった。

 残念ながら今の僕には、彼女が高校生じゃないかとか云々は、頭からスッカリ抜け落ちていたのだ。

 

 「おいカネキ。突っ立ってないで座ろうぜ」

 

 永近君のその声で、僕は正気に戻った。永近君は、入り口から少し離れた位置にある席に既に着いていて、呆れた目で僕を見ていた。不自然さ丸出しだったようだ。

 僕は、熱が籠もり始めた顔を隠すように下を向いて、永近君が座るテーブルへと急いだ。

 その短い間にも、彼女はどこにいるのだろうと、少し意識を割きながら。

 

 

 

 「お待たせ致しました。ブレンドコーヒーお二つになります」

 

 永近君と注文したコーヒーがテーブルに置かれる。

 この薫りだ。ほら、やっぱり間違いは無かった!ーーが、少しだけ引っかかることがあった。このコーヒーの薫りは、彼女が淹れたコーヒーよりも、何というべきか、より洗練されたもの(決して、前に飲んだ彼女のコーヒーが劣っているわけではない)を感じさせたのだ。

 

 「え…おい、カネキ」

 

 永近君が困惑した声で僕を呼ぶ。薫りを意識しようとして、無意識に閉じていた瞼を開ける。

 視界は、顔を洗った後のように、ぼやけて上手く視えなくなっていた。何故、と困惑して、遅れて、それが自分の涙だと気づく。

 僕は顔を背けて、零れ落ちた涙をシャツの袖で乱暴に拭った。

 ごゆっくりと言葉を残して、このコーヒーを届けてくれた初老の男性店員が、僕達のいるテーブルから離れていった。

 

 「…何か、思い出したのか?」

 

 恐る恐るといった様子で、そして少しの期待を込めた声で永近君が言った。

 

 「いや、違うんだ。ごめん…」

 「そか」

 

 静かな時間が流れる。店内に流れるクラシックが、動揺している僕の耳を優しく撫でてくれた。コーヒーを一口飲んで、一呼吸。豊かな味わいが、緊張した心を緩和させていく。

 …あ、淹れた人は別の人なのかもしれない。彼女の…師匠に当たる人とか?

 

 永近君は、窓から覗く景色を、感情を読めない表情で眺めていた。

 唐突に泣き出すという、明らかに不自然なこの行為を前にしても、永近君はそれ以上聞いてはこなかった。

 僕には、彼の心遣いや、この距離感が心地よかった。おそらく、永近君は何か察しつつも、僕が言い出すまで聞いてはこない。

 また、涙腺が緩み始める。

 僕にとってはまだ初対面でしかないのに、僕は既に永近君に信頼、少なくともそれに準ずるものを抱き始めていた。

 カネキケンは、こんな親友がいて幸せだったんだろうな。僕がいた…未来では、永近君はどうしていたのだろうか。

 もしかしたら、僕が知らないだけで、カネキケンを待ってくれていたのかもしれない。

 

 「…あ!トーカちゃん、今から!?」

 

 永近君が、突然身を乗り出して、僕の背後にいるだろう人に声をかけた。

 僕は釣られるように、少し身体を捻って背後に目を向けた。

 

 困ったように笑って、小さく会釈する女性店員ーー彼女を見つけた。

 

 記憶にある彼女と違うのは、髪色とパーマの有無、年齢。声も少し高い。それと、纏う雰囲気が少し異なっていた。

 でもーー何もかもが違うようで、嗚呼、彼女だと思った。

 

 僕は、あのカフェで、初めて彼女と出会った時のように、不思議な感覚を覚えていた。あの時の《比》ではないけれど。

 

 「霧嶋…さん?」

 

 名字は知っていた。下の名前は'トーカ'って言うんだ。どんな漢字なんだろう。トーカ…桃花、冬香、透華…?

 そんなことを考えていたら、気が付くと僕は、キラキラと光が射し込む海の中を、身を任せるがままに漂っていた。

 

 「…?ーーっ!!」

 

 僕は最後に、霧嶋さんの目を見開いた姿を何とか目に焼き付けて、我慢の二文字はあっけなく崩れ落ちた。

 

 正直になろう。僕は泣いた。これには流石に、自覚があった。

 流石に声を上げたりはしてないけど、それこそ母を求める赤子のように泣いた。

 止まれ止まれと両手で前髪を握り締めて言い聞かせても、涙は止まってはくれなかった。それどころか、一つの動作をする度に比例して、涙がボロボロと流れ出した。

 

 盛大に泣き出した僕が、周りの他のお客さんに注目され始めた頃に、初老の店員さんがやってきて、別室に案内された。永近君ごめん、巻き込んでしまって。彼は、心配そうに背中に手を置いてくれていた。

 案内される途中、僕は涙に浸かった視界の中で、微かに見えていた霧嶋さんのオロオロとした姿を、ひらすらに反芻させていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「なあ、さ。考えたんだけどさ、やっぱり病院行くの、やめとけよ」

 

 帰り道、永近君が肩が触れそうなくらいにコソコソと近づいてきて、こっそりと囁いた。

 

 「…?うん」

 「あ、記憶ないからその辺りもなのか…臓器移植した病院のことだよ。お前のその身体のな、一切メディアに出てない。無断臓器移植の責任問題云々は今でもワイドに挙げられてるのにさ」

 「…!!」

 

 僕は、心臓に直接冷や水をぶっかけられた気分だった。《ココ》に来て数日、永近君が指摘したことに、全く考えが及んでいなかったからだ。摩訶不思議な体験をしているとは言え、あまりの失態に愕然として、僕はショックを受けた。

 

 クインクス施術は、地行先生が僕に施された半喰種化施術を基に着想を得たものだ。

 今、僕のいる《ココ》は、その一年は前の場所。前身者というべき人間は、まだ《ココ》の表社会に存在していたのだ。

 

 「何考えてるのかは分かんねえけどさ…あ、考え過ぎだとは思うんだけどさ、少なくとも今日見た限りだと監視とかはされてないっぽいぜ。っても、素人目線だから何も安心は出来ないんだけど。でもかといって、やっぱり喰種対策局に申し出るのもなしだ。担当医に聞くのもなし。ヤバい気すんだよな…。下手なことになって、実験動物コースなんて嫌だろ?」

 

 一瞬、あの冷たい部屋での記憶を呼び起こされた。

 

 「…」

 

 僕は、永近君に尊敬と感謝の念を抱いた。何でもない風に言う彼だけれど、目は真剣そのものだったのだ。彼は、本気で《カネキケン》のことを考えてくれている。

 だからこそ、僕には一つの懸念が生まれる。  

 それは、永近君が僕と一緒にいるのは危険だと言うことだ。

 僕は、そのことについて言おうとしてーー

 

 「カネキ、お前の考えてることくらい分かるからな。けど、もう遅えから!もしこの一件の裏にいるのが悪の組織!!って柄だったら、交友関係くらい知られてんだろ。お前、俺しか仲良いやついないからなー…」

 

 不憫そうな視線を僕に向けてくる永近君。

 僕は自分が言われているわけでもないのに、何となく居心地が悪くなった。

 僕には沢山の親しい人達がいるーーいた、はず。

 

 「…ごめん」

 「いいって。それよか、先のこと考えようぜ。カネキはさ、どうしたいんだ?」

 「……、僕は…」

 

 

 ふと思う。

 今いる《ココ》が前の僕であるカネキケンがいた場所、過去の世界であるとしてーー僕がこのまま僕の思うように生きていくとしたら。

 この先の未来は、どうなってしまうのだろう。僕が喰種対策局に保護されなかったら、クインクスの皆は、《クインクス》と成りえるのだろうか。

 体内へ赫包をインプラントする構想は、地行先生が僕の半喰種施術を基にして生み出したものだ。そのため、クインクスがその内に生まれるとしても、僕の身体情報が無ければ、少なくとも施術が形になる時期は伸びるだろう。

 最初の適性検査は、アカデミージュニア生を対象に行われていたはずだ。だから、もしかしたら、皆が施術を受けること自体が無くなるのかもしれない。

 特に、才子ちゃんはこのままじゃ捜査官にはならないだろうから、適性検査さえ知らないままに、僕の知る才子ちゃんとは全く別の道を辿ることになる…のかも。

 

 

 十一月にしては肌寒い空気が、じんわりと胸の内に染み込んでいく感覚があった。

 会いたい。

 皆に会いたい。もう一度あの場所で暮らしたい。話をしたい。

 どれももう叶わないことだと僕の冷静な一部分が囁いていても、僕の心は温もりを求めて止まなかった。

 懸念も生まれる。

 才子ちゃんが施術を受けた家庭事情。不知君が施術を受け、その補助金で妹さんの治療費を払っていたこと。

 それだけじゃない、他にもーー。

 

 やはり僕は、CCGに保護されるべきではないだろうか。

 例え喰種と判断されても、平和な社会の礎となることができるのならば、それでいいんじゃないか。

 

 考えが上手く纏まらない中、酷く途切れ途切れになりながら、言葉を選んで、僕の理想を、役目を永近君に語った。

 頭を(はた)かれた。

 

 「顔も名前も知らん他人とか平和とか、どうでもいい…までは言わねーけど、俺は社会よりもお前自身のことを考えて欲しいん…だぜ?カネキはさ、今はまず自分のことを考えろよ。…CCGに出頭して社会に貢献するって考えも有りかもしれねえけどさ、少なくとも今はまだ駄目だ。理由はさっきいったよな」

 

 僕は、頷いていた。

 永近君の言葉は温かかった。言葉を噛み締めれば、心地の良い熱が巡っていった。

 僕は、並べられたものから、最も身勝手な選択肢を手に取る。

 自分自身に言い訳をした。まだ、時間はあると。考える時間はあると言い訳して、この熱を逃がさないようにと必死になった。

 今は、何もかもを考えないように、蓋をしたのだ。

 

 永近君は知らない。《ココ》で知っているのは、僕だけしかいない。

 彼が全てを知ったとしたら、僕は軽蔑されるだろう。

 それでも…僕は今、幸せの実感を得ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「じゃー、カネキ。明日な」

 「ごめん、今日は本当にありがとう。明日も、よろしくお願いします。…本当に、迷惑かけてごめん…」

 「気にすんなよ。迷惑だなんて思ってねえよ。今日はカネキの泣き顔なんて珍しいモノ見れたしな!」

 

 頭を下げた僕に、永近君はカラカラと笑った。元気づけようとしてくれる彼に、僕は感謝しかなかった。

 明日から早速大学に復学する。でも、僕にとっては初めての大学生活だ。不安もあるけれど、正直楽しみで仕方なかった。

 

 

 

 帰宅して、僕は玄関で靴も脱がずに、ポケットから財布を取り出した。心臓が逸るのを、一度深呼吸して落ち着かせて、おそるおそる一枚の紙を抜き出した。

 何の変哲もない、ただのメモ用紙にしか過ぎないその紙は、僕にとっては宝物だった。そこには、女の子らしい綺麗な文字で、一つのメールアドレスが記載されていた。

 これは、あんていくで会計した際にーー霧嶋さんが、レシートと共に僕の手に滑らせたものだ。固まった僕に、彼女は「連絡下さい」と小さな声で囁いた。

 僕の意識は、遠い空の遥か彼方へと旅立ってしまって、「お友達待ってますよ」と促されるまで、僕の身体は石になったかのように微動だにしなかった。

 

 震える手で慎重に、アドレスを打ち込む。僕は、ひんやりとした玄関で靴を履いたまま、手汗を滲ませながら一つ一つ慎重にそれを行った。

 一つメールを送信出来た頃には、もう夜の帳が下りていた。

 外が暗くなっていたことにも気がつかずに、メールの文を知識を総動員してタイトルから考え、推敲し、でもやっぱり事務的過ぎないかと書き直し、ああなんか馴れ馴れしいなとやり直して、やっとの事で納得のいくものが完成したのだ。

 達成感を得ながら一息ついて、靴を脱いで洗面所へと向かう。その途中で、着信音が鳴り響いた。

 慌てて確認する。

 画面には、一言『駅前に来て下さい。待ってます』と表示されていた。

 

 僕は風になった。

 普通の人間が出せる最高速度で(全速力で走らずに、周りに配慮できる程度には冷静だった)、その速度を落とすことなく走り抜けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 コーヒーの薫りが、僕を彼女のいる所へと導いた、とでも言えばそれらしくロマンチックに聞こえる。

 だけど、現実はそうでもなかった。

 チラホラとイルミネーションが目に入って、そんな空気に一人で浮かされながら、スマートフォンを片手に霧嶋さんの姿を探し始めた直後に、背後から襟首を引っ張られたのだ。

 当然、喉がぐえってなった。何が起こったのかと背後に向けた僕の目に飛び込んできたのは、見るからに不機嫌な表情で睨みつける、霧嶋さんの綺麗な顔だった。

 

 「来なよ」

 

 周りの寒さに溶け込むような、美しく冷たい声だ。霧嶋さんはその一言だけを残して、背を向けてしまった。

 僕は、事態を把握できないままに、カルガモの子が母を追うが如く、霧嶋さんの後ろにぴったりと付いていった。

 

 

 見慣れない道を歩き続けていると、いつまにか人通りの少ない通りを歩いていた。

 そして終には、少しばかり不安になっている僕を他所に、霧嶋さんは路地の裏をずんずんと進み始めた。

 ピタリと、霧嶋さんが立ち止まった。くるりと回って、僕の方へと勢いよく距離を詰めてくる。

 僕は、その勢いに押されるがままに後ずさりしてーー壁へと追い詰められてしまった。

 霧嶋さんが片足を上げて、トンっと、僕の腰の横辺りに、ショートパンツから盛大に覗く白い脚を伸ばした。

 僕は、真っ白になった。

 霧嶋さんが、僕の顔を覗き込むようにして、顔を近づけてきたのだ。

 恥ずかしさが最高潮になって目を固く瞑った時、霧嶋さんは所謂ーー少々ドスの効いた声で囁いた。

 

 「あんたさ、何なの?」

 

 スッーーと、顔の血の気が引いていくのがわかった。霧嶋さんの意図を掴めない言葉が、僕の深くまで抉り込んだ。

 風の音、チカチカと光る電灯の音。遠くから聞こえる、人のざわめき。管を通る静かな水の音。霧嶋さんの微かな息づかい。

 それらが、まるで初めからなかったかのように全部パッと消え失せて、僕の耳介をピーと機械的な電子音が居座った。

 

 「ねえ、聞いてんの?…はぁ、店長も…何で私がこんなことーー」

 

 佐々木琲世。

 喰種捜査官。

 真戸班所属。

 クインクス班メンター。

 《ごっこ》でも、確かにいた家族。

 

 何もない僕が、三年間で築けたものは、全部なくなっていたのだ。

 ずっと怖れていたそれを、今になって、僕はやっと自覚した。

 考えてみれば、皮肉みたいな状況だ。

 前の僕ーーカネキケンに戻ることを怖れて止まなかった僕が、逆にカネキケンとなって、全てを失った。

 

 今の僕には、何も無かった。

 全ては、偽り。

 僕は、カネキケンの…

 

 「ーーーー喰種?それとも人間?」

 

 僕は、現実に引き戻された。

 一気にクリアになった脳みそが、霧嶋さんの言葉を素早く処理した。

 突き刺さるような風が、頬を刺激している。 

 暗いはずの路地の壁は、ゆらゆらと燃えていた。 

 僕は、霧嶋さんを見た。

 

 「……ぁ」

 

 かすれ声が、やけに大きく聞こえる。

 それは、僕の喉から出ていた。

 霧嶋さんの瞳は、見惚れるくらいに深く綺麗な紅色だった。

 

 

 

 

 

 

 

 




 トーカ、半喰種カネキとの一回目の邂逅後です。なので、ヘイトはまだそこまで溜まってない状態な…はず。



 前話からのハイセ



 消えそう。    
 なんか生きてる。 
 真戸パンチ。 ↓↓↓↓↓
 (有馬待機)  ↓↓↓
 皆ぁ…。   ↓↓↓
 ヒデはいい人。 ↑↑↓
 コーヒー!もしかして… 
 霧嶋さんだ! ↑↑
 永近君…   ↑↑↓
 まさかのお誘い。 ↑↑
 足ドン。   ↑
 手ブラじゃん。   ↓↓
 あっ(察し)。 ↓↓↓↓

 
 さてどうなる。
 
 
 
 
 


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中2

終わらない。もう少し続きます。


さく☆らん☆


 

 

 

 

 

 

 「初恋です」

 「…………は…ぁ?」

 

 何故、僕は……今何を言った?あれ、何でこんな…ここ、どこ。赤くて、眩しい。

 

 世界が揺らいでいる。地に足がついている感触がない。聞こえる音は緩やかに流れて、視界の隅々では、嫋やかなベールが現れては消えていく。

 それが、僕が今判断できる全てだった。

 そしてトドメに、ベールの隙間から覗いたものによって、僕の思考は抵抗することなく、不可思議な奔流に流されたのだ。

 流される途中で、クラクラするほど甘ったるい籠の中に引き摺り込まれ、重要な何かが形を崩した。

 

 ーー目と鼻の先にあるもの。いっぱいに広がる霧嶋さんの顔。揺ら揺らとたなびく髪から香る、爽やかな匂いが、無防備な脳髄を優しく撫で上げた。触れてはならないものに手を出したかのような背徳感が、血潮を熱くさせ、それが全身へと巡る。

 とろとろ、とろりとろりと、知的な部分が溢れ落ちていくーー

 

 ーーああ、なんだ。これ夢だ。

 

 

 現実感のない光景を前に、僕はこれを夢なのだと理解した。

 これが現実ならば、霧嶋さんがこんな至近距離にいるはずがないし、僕がこんな近くにいる彼女と目を合わせられる訳がない。

 これは、紛れもなく夢だ。

 だから、どうせなら。絶対に口にも出来ないことを伝えようと、僕は想ったのだ。

 開き直った瞬間には、既に僕の舌は言葉を並べていた。

 

 「ひと目見たあの瞬間に、僕は霧嶋さんに恋をしました」

 

 自己確認するように、ゆっくりと。カネキケンのモノではない、僕だけの感情。

 あの日、コーヒーを飲んだ時の涙は、カネキケンのモノだったとしても、ハンカチを受け取ったのは、僕だ。霧嶋さんを見ていたのは、僕なんだ。

 

 「何時も僕を満たしてくれたのは、霧嶋さんと会って、声を聞いて、貴女が淹れてくれたコーヒーを味わえる、《この》時間だった」

 

 ショックを受けた時、あの店に行った。何もない時でも、あの店を求めた。

 

 「気づけば自然と、あのカフェに足を運ぶことが多くなりました。貴女がいるあの場所は、こんな僕にも幸せをくれた」

 

 ああ、これが夢じゃなければいいのに。本当にこんな風に、霧嶋さんを間近で見ていられたらいいのに。

 

 「貴女がいる時間を終わらせたくなくて、貴女が淹れてくれるコーヒーを出来る限り飲んでいたくて、でも引かれたりキモがられたりしたら嫌だから、おかわりは偶にしかできなくて。…あの時の二杯目、少しだけ違う淹れ方をしてくれる貴女の心配りが、本当は飛び上がりたいくらいに嬉しかった」

 

 なんて、幸せな夢だろう。まだ終わるな、終わるなと、夢の中にいることを、僕は強く願う。

 

 「もっと、話したい。できれば一緒にいたい。貴女のことを沢山知りたい。

 僕は、霧嶋さんのことが好きなんだ」

 

 声に出して、耳に帰ってくる自分の想いを、僕は改めて自覚した。

 ああ、それと。

 

 「……ロい」

 「………………?」

 「あ、いや、いかがわしい訳じゃなくて透明感のある色気と言いますかそれも霧嶋さんの魅力で…いやでも本読んでる時に覗き込まれた時の胸の谷間はーー」

 「ーーーーざっけんな!!!」

 

 「ごゔぇッッ!」

 

 そして夢は覚めた。

 衝撃を受けて力を失った身体は、糸が切れた人形のように四肢を投げ出し宙を舞い、壁にぶつかって崩れ落ちる。壁を擦りながら頭から落ちて、冷たいコンクリートの地面に、頬を強かに打ちつけた。

 息が出来ない。

 お腹に穴が空いたんじゃないかってくらいの激痛と、それがピタリと止む無痛の状態がグルグルと回っている。

 

 「げぇ…げふぉ」

 

 せり上がってきた熱が、口からびしゃびしゃ吐き出された。喉が焼ける感覚に混ざって、濃い鉄錆の味がいっぱいに広がる。

 改めて口にするーーいや、口から流れ出る自分の血は、ほろ苦く、甘みがあった。

 

 「ゔぁ…ぁ」

 

 無様に地面で蹲りながら呻く僕は、救いを求めるように天を見上げた。

 霧嶋さんは、驚愕と軽蔑、疑問が混ぜこぜになったような目で、僕を見下ろしていた。

 そして、次に瞬きをした一瞬のうちに、その姿を消してしまっていた。

 

 

 どれくらいの時が過ぎたのか。霧嶋さんがいなくなった路地裏で、僕は、一人地面に寝転がりながら、自分がやらかしたことを自覚した。もっと不味い事を言ってしまった気もするけど、それはきっと気のせいだ。

 いや、それはいい。全然良くないけど、まあまだいい。そう、それよりも。

 

 ーーああ、霧嶋さんが喰種だったなんて。

 

 今でも信じられない。

 嘘だ嘘だと、心が喚いている。

 

 でも、別の一片が自棄な調子で、やっぱりねと囁いた。

 

 

 

 

 

 

 僕は、迷いに迷った挙句に、霧嶋さんにメールを送ることをやめた。何て打てばいいのかも、分からなかった。でも、一度登録したアドレスは消せなかった。

 霧嶋さんは、僕を呼び出して何をするつもりだったのか。僕は聞くことができなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「どうだ?なんか見覚えあったりしねえ?」

 「ごめん、ない。でも…すごいね」

 「そうか?」

 

 僕は、心がちゃんと地面について無いような、フワフワとした心情でキャンパス内を歩いていた。

 自分が大学生だという自覚は、全然ない。けれど、これから大学生になるんだという思いが、心を浮つかせていた。

 すごく、楽しみ。

 

 「どした?ニヤニヤしてよ…大丈夫か」

 「あ、うん。大丈夫大丈夫、何の問題もないよ」

 「ふーん」

 

 そういう永近君も、ニヤニヤと僕のほうを見ている。見透かされているようで、恥ずかしくなる。

 カネキケンもこんな感じだったのかな…。

 

 「前からお前はそんな感じだよ。むっつりな奴だった」

 

 何故わかったんだ。エスパーか。

 そんな風に聞けば、顔に描いてあるぜと返ってくる。

 僕は、これでも結構内心を隠すのは得意だったはずなんだけどな…。

 釈然としないものを感じつつも、この空気は、心地よかった。

 

 

 

 ーー昨日の夜、自宅に帰り着いて玄関の扉が閉まった音を合図に、目から涙が溢れ出した。

 さめざめと、時間にして一時間は泣き続けた。

 何に対して涙したのかは、自分のことだと云うのによく分からない。振られたショックか、それとも彼女が喰種であったことか、はたまた僕の知る霧嶋さんにはもう会えないことへ対してなのか。自分の情けなさに対して、というのもあり得る。いや、むしろ全部といったほうが納得できるかもしれない。

 ああそれに、あんな恥ずかしい言葉の羅列をよくも言えたものだ。本当にどうかしていたんだ。

 

 この短期間で僕は泣いてばかりだ。きっと、こんな不思議な体験をしたせいで、涙腺が異常をきたしてしまっているのだろう。

 でも今回は泣き終わった後、妙な爽快感に包まれた。変にすっきりとした気分になった。未練が全く無いと言えば嘘になるけれど、僕は失恋を乗り越えた…と、ああやっぱりまだ無理だ。泣きそうになる。

 

 

 「なんだよ。今度は、んな神妙なツラして。変なやつ」

 「えー…」

 

 僕は、心外とばかりに、視線で永近君に反論した。彼は、サッと目を逸らしてワザとらしく後頭部で手を組んだ。

 その仕草から不意に、才子ちゃんを連想してしまった。彼女も、誤魔化す時は、あからさまな態度を取っていたな、と。

 

 

 「お、悪いカネキちょっと」

 「あ…うん」

 

 永近君の目の先を追えば、数人の学生が手招きしていた。僕に仲の良い人はいないらしいので、永近君の知り合いだろう。

 

 「学祭の委員会の先輩でさ。ちょい時間かかると思うんだけど、見てくか?」

 

 どうしようか。

 少し興味はあるけれど、僕がいたら永近君も僕に気を遣ってしまうような気もする。

 

 ふと、先輩という言葉で一人の顔が思い浮かんだ。あの人は、カネキケンの何時の頃の先輩だったのだろう。

 

 「ううん、少し歩いてくるよ」

 「…そっか、悪いな。終わったら連絡するから、迷子になんないよーにな!」

 「その時はよろしく」

 「いや、そこは迷子にならないようしろよ」

 

 自信満々に応えた僕に、永近君は呆れた顔をしていった。

 

 一人になって、急に心にぽっかりと穴が空いてしまったような喪失感。永近君はまだ目の届く範囲にいるのに、まるで世界に僕一人だけしかいないように錯覚する。

 ーーやばいこれ。

 もう末期だと自分の精神状態に引きながらも、小さく背伸びをして、ゆっくりと息を吐く。

 ボソボソと陰鬱としていたものが、少しだけほぐれた気がした。

 

 

 

 

 見慣れない造りの建物。行き交う学生達のざわめき。

 何度か捜査官として、大学に足を運んだことはあったけれど、今歩いている心境とはまるで違った。

 あの時は、羨望の意があった。僕が大学生だったらと妄想して、その後直ぐに、そんなことは有り得ないと考えて、少し沈んだ。

 でも、今は違う。

 僕は大学一年生、つけ加えると後半。心は、当たり前だけど新入生。

 足が軽やかに進む。そんなに上手くない鼻歌を奏でる。口元がゆるんだまま、戻らない。

 

 そんな浮かれ気分の僕の横っ面を、ある光景が、ガン!と殴りつけた。

 

 三十メートル程先の、自動販売機の前の二人の男女。仲よさそうに笑い合っている横顔が見えた。女性は男性の左腕を抱いて、男性は自動販売機に小銭を入れた。

 その男女は、缶コーヒーと炭酸ジュースを購入して、建物の一つの中へと消えていった。

 

 僕は、ひっそりと気配を消しながら、その後を追った。

 違ってくれと祈りながら。

 

 その建物の中は、薄っすらと薬品の匂いが漂っていた。換気しても取れないような、建物自体に染みついた匂い。

 ランチタイム中頃の時間帯であるためか、人の声は少なく、エレベーターの表示を確認して、階段から階を二つ上がる途中にも、人とすれ違うことはなかった。

 一段、一段と登る毎に比例して、緊張が蓄積されていく。

 最悪の展開を想起してからは、一瞬足りとも気を抜けなかった。

 三階のフロアにたどり着く。どこの部屋に入ったのかまでは、分からない。

 意識を集中させーー

 

 ーー女性の微かな悲鳴を耳が拾った。

 

 刹那。

 僕は一つの部屋のスライドドアを開けて、中へと飛び込んだ。表札を見る暇はなく、アルファベットが二文字、見えただけだ。薬品類が保管されていない場所であることを願おう。

 

 僕は、目に入ってきたものに、一瞬だけ息を飲む。一つの椅子の上で、男女が抱き合っているように見えたからだ。

 音を立てたのだ。当然だが向こうも気づくーーが、その前に、僕は青年の襟首を掴み上げ、女性を解放して、青年の顎を右足で蹴り抜いた。

 身体を半回転させ、崩れかけた青年に追撃の蹴り。三撃目は、空中で重心を無視した体勢でーー本当はクインケか赫子でバランスを取るんだけどーー胸につま先を突き刺した。

 砕く感触が、足の先から伝わる。青年は、ソファーの上を跳ねながら上を越えて、部屋の端にあるホワイトボードを巻き込んで止まった。

 弱い。

 彼がではない。僕がだ。

 身体能力が、段違いに低い。有馬さん相手ならば、今の間に何回やられているだろう。

 加えて、この身体にとって無理な動作をしたためか、引っ張られるような痛みが至る所で起きている。

 

 両肩をはだけさせた女性を後ろ手に庇う。

 極度の緊張を感じながらも、何とか間に合ったという実感。女性は無事だ。そうだ、女性を安心させなければ。

 

 「っ!錦くーー」

 「僕は喰種捜査か…!!っ…安心して下さい、もう大丈夫です。彼は、喰種です。少し離れて下さい」

 

 後ろから、息を飲む音。

 それと同時に、部屋の端に転がる、青年が起き上がった。彼はまさに、(カタキ)を見るが如く、僕を睨み付けていた。

 クインケは、当たり前だが手元にない。赫子もこんな場所では出せない。そもそも出せるのかわからない。武器は、脆弱な己の肉体だけだ。

 だけど、それでも負けるつもりはなかった。接触した時の感触で理解した。この青年もまた、Sレート喰種'オロチ'のレベルに、未だ至っていない。

 僕は、追撃をかけるべく、踏み出そうとしてーーーーゴン、と思いもよらぬ方向から、衝撃を受けた。その勢いに押されるがままに、僕は受け身も碌に取れずに地面を転がった。

 決して、身体的ダメージを受けたわけではない。その一撃は、あまりに非力で、それこそ避ける意思さえあれば、容易に避けることができた。

 では、なぜできなかったのか。

 保護するはずの女性から、角材で頭を殴られるなんて誰が予想できただろうか。いや、できるわけがないよ。

 

 「錦くん!逃げて!!」

 

 女性は更に、信じられないことを言う。

 言われた青年も、先刻の憎々しげな雰囲気は何処にいってしまったのか、気の抜けたように唖然としていた。

 

 「…なんで」

 

 何で。そんなの僕の方が聞きたかった。

 動くはずの僕の身体は、動いてくれない。身体は勝手に、僕の意思を拒絶する。

 

 「そんなのいいから、早く!!」

 「ッ!!」

 

 女性の叫びに促され、西尾先輩ーーいや、違うーーオロチは、ここから逃走すべく、窓がある方へと跳んだ。

 そして、窓枠に足を掛け、チラリと女性を見てーー上げた足を下ろしたのだ。

 オロチは、俯きながら床に降り立って、首を投げ出すように膝をついた。

 

 「やるよ、クソ白鳩」

 

 僕は今、状況を全く理解できなかった。

 人間が、相手を喰種と知った上で、手を貸した。この行為は重罪だ。女性も理解している筈。

 だというのに、オロチは女性の必死の行動を無視した。この意味が、理解できなかったのだ。

 

 「どうして!錦くん…!?」

 

 女性が困惑の入り混じった悲鳴を上げる。

 

 「うるせーよクソ女。……あーあ、いつか喰ってやろうって思ってたのにな…。まあ、ヤる分には結構使えたけど」

 「…錦、くん?」

 「チッ…まだ分かんねーのかよ。お前は騙されてたんだよ、マヌケで根暗なクソ女が。お前さ、馴れ馴れしくてほんとウザかったよ」

 

 女性は、心無い言葉に俯いてしまった。

 オロチが顔を上げて、動きを見せない僕を怪訝な目で見てきた。僕を見てどう思ったのか、もう一度、彼は舌打ちした。

 

 「どうせ、俺はここで終わりだ。最期に一口くらい喰わせろよ、クソ女」

 

 流石に、身体が反応した。今度は、抵抗はなかった。ここから先を認めることは、決してできない。

 しかし、またもや僕は虚を突かれた。

 赫眼を発現させたオロチを前に、女性は引くことなく、オロチに差し出すように、首筋を晒していたのだ。

 

 「……おい、何の真似だよ…クソ女。頭、イカれてんじゃねえの?」

 「…いいの。錦くんになら…いいんだよ。錦くんに会えなくなるのなら、私はもう生きたくない。だから、食べてもいいから……もう、一人にしないで…喰種だなんてどうでもいいから、お願い…一緒…に、いて…」

 

 言葉を止めた女性は、呆然としたオロチを見とめて、涙を零しながら微笑んだ。

 フラフラと覚束無(おぼつかな)い足取りで近づいて、両手を僅かに広げて、オロチの頭を抱きしめた。

 

 「私ね、錦くんのことが好きだよ。最期まで…一緒に、いたい」

 「………ぁー…くそ離れろよ…馬鹿じゃねぇの、クソ女」

 「錦くん……クソ女って…言わないで」

 「………ごめん…貴未」

 

 女性が、静かに過去を語る。どれだけ彼に救われたのか、悲しい思い出なのに、彼女は時折しゃくり上げながらも、柔らかな口調で話をした。

 

 まだ空気はそれほど乾燥する時期でもないというのに、喉がカラカラに乾いている。指先を見れば、小刻みに震えていた。

 唐突に、とっても何かをぶん殴りたい衝動に駆られた。

 それに、考えてみたら、こんな目立つ場所で彼が人間を襲う筈がなかった。一部の喰種にはそういう人もいるのかもしれないけど、彼らがこの部屋でしようとしていたことは、多分違った。今になって気づいた。

 

 窓枠から覗く空を眺める。

 曇り空だ。よかった、落ち着く。

 そのまま僕は、何もできないままに、黙ってひっそりと動かずに、暫く二人分の嗚咽を聴くことになった。

 

 彼らを視界の端で眺めながら、僕は自覚した。もういつの間にか、喰種捜査官じゃ《無く》なっていたことを。

 いったい、いつからだろうか。

 

 人間と、喰種。

 目の前のーー指一本触れるだけで壊れてしまいそうな、儚くも美しい光景が、ささくれ立っていた僕の心を慰める。

 そして、別の一部分を蝕んでいく。

 

 霧嶋さんの姿が胸に浮かんだ。僕が知っているほうの霧嶋さんだ。

 エプロンをかけて、少し哀しそうに微笑んでいる。

 けれど、それは変化した。

 昨日の夜、最後に僕を見下ろした時の霧嶋さんの姿に、変わった。

 

 

 

 

 



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中3

お気に入り評価ありがとうございます。


 

 

 

 

 

 「…ヒデ、あのさ…」 

 「どした、カネキ」

 

 前を歩いていた永近君は、振り向くことなく僕の言葉を遮った。

 

 「いや、なんでもないよ」

 「そっか」

 

 あの時、ドアの向こう側で知った気配があった。西尾錦は気づいていなかったみたいだけど、僕は気づいていた。

 

 僕は、西尾錦と約束をした。今後、二度と人間を襲わないことを、彼女の西野さんを交えて約束した。

 喰種相手に何の意味もない約束だけれど、彼は守ってくれると信じている。西野さんを抱きながら言ったのは、彼なりの意思の表れだった。

 僕は、許容したのだ。西尾錦にではない。僕自身にだ。

 人間を襲わないからと、西尾錦(グール)が人間を食べることを、認めてしまった。

 ーーありえない。

 そんな、まだ心にしがみついている捜査官の部分の声が僕を責めた。

 でも、じゃあどうすればよかったんだ。通報して、西野さん共々葬られることが、果たして正しいことだったというのか。

 そうは、思わなかった。思うことなんて出来なかった。

 だから、せめてもと、約束をしたのだ。

 僕は、醜さを認める。僕は自分を慰撫するために約束をした。これは正しいことだと、理屈ではない、感情論で通した。

 西尾錦は、僕の素性を一言も聞きはしなかった。僕も、それ以上を彼に聞かなかった。

 あの二人と関わることは、もうこの先一生、来て欲しくはない。

 

 

 今の僕は、どちらの社会でも生きていける。

 カネキケンは、この時点で喰種の世界を取っていたのだろうか。それが、全部なのか半分だけだったのかは、僕には知る由もない。

 だから、想像する。

 喰種の世界を取っていたとしても、カネキケンは人間の生活の全部を捨てきれはしなかった。食事の問題から、やはり喰種に関わるざるを得なかったのだ。

 そうだといいな。

 

 そして、気づいたことがもう一つ。

 僕は、喰種の世界に関わりたくないんだと、自覚した。

 人間として生きたい。

 その想いが、僕の根幹にある。

 諦めてもいるけど、しがみついてもいる。

 例え、喰種にどれだけいい人達がいようとも、僕はもう二度と喰種と呼ばれたくない。

 喰種を否定する意味ではない、僕自身を肯定したいのだ。

 

 

 

 

 

 さあ夢のキャンパスライフ。とはいかなかった。この一週間は、講義内容の把握や、特別に出された課題に時間を費やした。それこそ、寝る間も惜しんだ。

 提出期間はまだ先だったけど、こういうものは早目にしてしまう癖がついている。捜査官に成り立ての頃、アキラさんに、みっちりとご教授されたのだ。作業的なものは早く終わらせ、思考が必要なものに時間をかけろと何度も言われた。時間の活用は効率的に、だ。元気かな…。

 

 

 金曜日、午後に二コマ受けて大学を出た僕は、一人外をぶらぶらと歩いていた。

 永近君は午前で終わって、今はバイト中。夜、映画のレイトショーを観に行く約束をしている。

 それまでは時間潰しだ。

 

 思えば、こんな心境で一人歩くことなんて今までなかったかもしれない。心が広がるような開放感が気持ちいい。外出する時は、いつも誰かと一緒だった。

 何の目的もなく、目新しい街並みを進む。時折興味を惹かれては、ショーケースを眺めたり、店内に入ってみたり。書店でも、今まで手を出さなかったものを買ってみた。

 ふと、一つの喫茶店が目に入った。

 壁がガラスになっていて、店内が見渡せるようになっている。至る所に、本棚や雑誌が置かれている。

 よし、ここに入ってみよう。

 あの日から、インスタントのコーヒーしか飲んでいなかった。久しぶりのコーヒーの深い香りに惹かれた。

 

 店内に入る。二階席もあるらしい。

 どっちにするか迷って、やっぱり一階の席に決める。窓側の席は抵抗があったから、少し奥の席に座った。注文は、ホットコーヒー、砂糖ミルクなし。

 席を立つ。目指す場所は本棚だ。さっき買った文庫本を読むのもいいけど、ここはあの棚から選ぶべきだろう。店内に入った時に香った、古書の匂いがそそっていた。

 二、三冊興味のあるものが見つかった。本当は全部持っていきたいけど、そんな時間はないし、マナーも悪い。

 少し悩んで決めた。手を伸ばして本の背表紙に触れたところで、小さな手とぶつかった。なんだこれと、妙な既視感。ベタな展開に感動すら覚える。

 手を引いて、条件反射で謝ろうと横を向けば、ぶつかった人物と目があった。

 ひっ、と。風が鳴る音がした。

 息が止まる。

 目の先にいるのは、小首を傾げた女性だ。小柄な体躯。アップで纏めた髪。丸眼鏡。

 別人だ。

 あの時も、意識が錯綜していたのだ。顔だってぼんやりとしか記憶していない。違う、こんな場所にいるはずがない。

 しかし、全身が警報を鳴らしている。こいつは、あいつだと心が怯えている。

 

 「隻ッーー」

 「せき?」

 「ーーーー」

 「??」

 

 外に出そうになった言葉を飲み込む。

 僕は、何を言おうとしたんだ。この女性がそうだとしても、こんな場所で…そもそも、気づかれていいことなんて何一つない。

 しかし、出かかった言葉は取り消せない。女性の目が、スゥと不審なものに変わる。

 

 「せ、席、どこですか…?」

 「………へ?……うわー、ナンパって初体験…」

 「な、ナンパ…!?」

 「え、違うんですか?このトキメキはどこに向かえば…」

 「あっ…やっ……そっの……ナン…パです」

 「…ふっふー。おいでおいで」

 

 手を取られたとき、振り払ってしまいそうになるのを、必死に我慢した。

 僕が座っていた席より奥に案内されて、向かい側に座った。

 

 「お兄さん、お名前は?」

 「さ…佐々木ハイセです」

 「学生さん?」

 「…はい、大学の一回生です」

 「ふむふむ…あれ、これなんか私がナンパしたみたいじゃね」

 

 明るい感じの女性だ。こんな人が、あんな…。

 

 「私は高槻泉、年齢は聞いてはいかんぞ」

 

 高槻泉…どこかで聞いた名前だ。

 

 「おや、その様子だと私のことは知らないな君。こう見えて物書きやってるのだよ」

 「あっ」

 「私の本は購読済みかな?」

 「あ…はい」

 

 この女性があの高槻泉であることよりも、なぜこの場で自分のことを明かしたのかを疑問に思った。普通、こういうことは言わないんじゃ。

 …隻眼の梟。青桐の首領。ベストセラー作家…。

 

 「ほら、私可憐な容姿だから、追っかけとかあるわけだ。なので、カマを掛けてみた」

 「はは…」

 「ちょ、引くところじゃないですよ」

 

 やっぱり、明るく気の良さそうな女性だ。話せば話すほどに、繋がらなくなる。

 

 「ねえ、私の本好きじゃないでしょ?」

 「え、いやそんなこと…いつも、引き込まれてます。気づけば時間を忘れてしまうほど…です」

 「そう。でも、それだけじゃないよね」

 

 高槻さんは、じっと覗き込むように僕を見てきた。

 

 「うーん、あのね。クセって、誰かに指摘されたことある?」

 「…いえ」

 「ふっふ。ぼかァ、それを見つけたのさ。で、本音は?どんと言って。君が私の本を苦手にしてるのはもう分かってるからね」

 

 これ、なんて返せばいいんだろう。

 まず癖って何。そんなこと誰にも言われたこともないし、当然自覚もなんてものはない。

 しかし事実、高槻作品を苦手にしていることを知られた。作家の勘と言うものだろうか。

 他にも、この人の瞳には、何もかもを見透かされているようで、落ち着かない気分にさせられる。

 それに、僕なんかの批評を偉そうに並べられるわけがない。それも、本人に向かってなんて論外だ。

 

 「しりたいなー。しりたいなぁ」

 「いえ、その…」

 「言ってくれないと…大声出しちゃおうかな。私この喫茶店の人には知られてるし、君の立場悪くなると思うけど?」

 

 何を言っているのか、すぐに理解できなかった。しかし、高槻さんの含み笑いで理解する。この人は本気でやる。本当に訳がわからない。

 むかむかと腹が立ってきた。

 この人は、あの隻眼の梟だと、確証はないけどそう思ってきた。

 

 「そうですね…」

 「おお、その気になってくれた?わくわく」

 「実は…少しだけ苦手です」

 「おう」

 「短編以外…大事な人か主人公が亡くなりますよね…それが苦手…辛くて」

 「ふむふむ。ハッピーエンドをお望みと」

 

 興味深そうに頷いている。その仕草は酷く嘘っぽかった。

 

 「…上手く言えませんが…暗い感情が、読み手を引き込む文体の裏で見え隠れしていて…」

 「…ふむ」

 「でも一度気づけば途端に立体化する…哀しみ、怒り、空虚な感情……特に顕著だったのが……五作目でした」

 「……」

 

 高槻さんの表情が無くなった。僕は、一度目を逸らしてーーもう一度目を合わせた。

 ゆっくりと、この人に言い聞かせるように言葉を並べる。これくらいはいいだろうと、開き直っていた。

 

 「全部、壊してしまいたい」

 「……ふ」

 「すべてに絶望して、誰にも期待しない。だから、最後は全部を壊すように書かれて…ます」

 

 隻眼の梟は、その経歴を辿れば、わかりやすく破壊者である。CCGを襲い、喰種捜査官を殉職させたのは数えきれず。

 そしてこの人は、自分の書いている小説でも破壊者だったのだ。

 

 言い過ぎた。そう思ったのは、終わった後。僕は言いたいことを全て言った。

 よし帰ろう。

 あくまで、これは一読者の意見の一つに過ぎないのだ。批判なんて、世の中どこにでもある。こんなこと、この人は聞き慣れているだろう。

 まだ温かいコーヒーを、一気飲みする。

 

 「…失礼します」

 

 高槻さんの反応を待たずに、僕は席を立った。

 僕の思考は、この人を通報しようかしまいかの葛藤で占められていた。

 ただ通報してそれで解決ではないのだ。どうすれば…。

 

 「待て」

 

 高槻さんの隣を通り抜けていこうとした時、ギシリと、強い力で腕を掴まれた。

 逃がさないとばかりに掴まれた僕の腕は、冗談抜きに悲鳴を上げている。

 

 「ナンパ、したよなさっき」

 

 店員の一人が怪訝な目で見ている。それに気づいたのか、高槻さんの力が少しだけ弱まる。

 

 「おつきあい、しようか、佐々木くん。いや…ハイぃセくん。しようか」

 

 高槻さんは椅子から立ち上がった。僕の服の襟を掴み、嘘か本当かわからない調子のまま、耳元で囁く。

 

 「私、あなたのことが好きになってしまったわ」

 

 続く言葉は、聞かずとも想像できてしまった。

 

 

 




エト→ハイセのパターン。

あと一話で終わる予定です。ありがとうございました。


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後編

評価、お気に入りありがとうございます。


詰め詰めです。


 

 

 

 

 

 「チッ、(ぁ"〜クソうぜえなもう)……ごめんねダーリン。売れっ子作家もなかなか辛いものでして…急用ができてしまったぜ」

 

 たはは、と高槻さんは困ったように笑った。僕も釣られて笑ってしまう。

 すると、彼女の笑みが悪戯っぽくなった。目と鼻の先まで、無遠慮に顔を寄せてくる。

 

 「でもあなたの匂い、私ちゃんと覚えたから…会いたくなったらいつでも会えるわ!うふふふーー逃げようなんて考えてないよな、もし?」

 「 」

 「うーん、お返事聞こえないなぁ」

 「はい」

 「うんいい子、いい子よ」

 

 

 

 店を出て別れた後。高槻さんは数歩先で振り返って、見た目相応に可憐に笑って小さく手を振ってきた。

 体感で、一時間は話したような気がする。彼女は話し上手で、その上聞き上手な人だった。特に相槌のタイミングがよくて、何も知らずにいれたのならば、心から楽しく会話が出来ていたと思う。

 表向きの性格の相性が悪くなかったことは認めよう。しかし時折、一瞬だけ高槻さんが見せる無機質な目が、僕をその度に現実へと引き戻した。

 と、現実逃避はこれまで。

 僕は高槻さんと交際する気なんて微塵もないのだ。できるわけがない。

 

 ーーこれから、どうしたらいいのだろう。

 考えても、考えても、考えても、何も浮かばない。

 

 

 生け垣のブロックに腰を下ろして頭を抱えていると、地面に影が射した。頭を上げる。目と鼻の先に、人の顔が迫っていた。

 

 「忘れもの」

 

 そう言って、彼女は髪をかきあげて、僕の額に唇を堕とした。湿った感触。次に、吸い付かれる感触。最後にまた、ぬるりと湿った感触。壊れ物を扱うかのごとく、丁寧に行われたその一連の動作は、一つ一つ全てが鮮明に感じられた。

 

 「しるし、つけちゃった」

 「 」 

 

 目を細めて薄く笑うその顔は、僕が今まで目にしたどんなものよりも淫らで、ぺろりと口の端を舐め取る仕草は、まるで蛇のようだった。

 小さく「おいし」と彼女の口からの音を、僕の耳が拾うーー。

 僕は、かえる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 一旦、家に帰るかどうか迷った。まだ、待ち合わせまでにも時間がある。

 喫茶店に入るまでは、新鮮さに心踊った風景も、今では何も感じられない。両肩に鉛の塊が乗せられたかのように、気が重くなっていた。

 

 ーーふいに、雨の匂いが鼻腔を通り抜けた。

 空を見上げれば、所々にどんよりとした雲が浮かんでいる。

 ひと雨、来るのかもしれない。

 そう考えて足早に歩いていたら、雨粒が手の甲を打った。慌てて折りたたみ傘を差す。それ以降、雨足は増すばかりだった。

 確か…何だっけ…驟雨かな?早くやめばいいけど…。

 

 「あんな親子がグールだったなんてな。いやー、初めて見たけど…バケモノになってからはヤバかった」

 

 「ああ俺、目も見たんだけどさーー」

 

 すれ違った、二人組のそんな会話。

 ここの担当誰なんだろう、優秀だなあというのが感想だ。一般民の誘導も出来ているようで、何より。

 しかし、区間封鎖はされていないみたいだ。サイレンが聞こえない。レート指定されてないような、力のない喰種相手だろうか。もしくは緊急時なのかもしれない。

 

 っと。何か、踏んだ感触。

 

 足を退けて下を見れば、一冊のノートがあった。雨に打たれて、水を吸い込んでしまっている。目に入ったのは、表紙に貼られている動物もののキャラクターのシール。そして、その下。

 

 ピキリと、耳の奥が鳴った。

 

 吸い寄せられるように、僕はノートを拾う。

 一ページ、二ページと捲る。まだ内側は、それほど浸水していなかった。ページを捲る速度が増していく。

 頭の中で飛び交っているのは、先刻の二人組の会話、親子、名前、一人の少女ーー。

 半分ほど過ぎたところで、それ以降は白紙だった。ノートをバックに詰め込む。

 そして、僕は歩き出した。自分が何をしたいのかをよく理解しないままに、衝動的に動き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少女の慟哭は、雨音に打ち消されておらず。混ざるように、苛立ちの声、歓喜の叫び、呻き声。

 周囲の建造物や地面のコンクリートを破壊しながら無造作に暴れ回る、二種四本の赫子。記憶にあるよりも頼りないけれど、間違いなく、僕を救ってくれた少女のものだった。

 その中心に、小さな影が蹲っている。何かをかき抱いてーーその横に、首のない身体が一つ、横たわっているのが見えた。

 

 そしてーー少女の一種類の赫子と、同じ姿をしたクインケ。…アキラさんが愛用していた、フエグチだ。使いこなすのに、とても苦労していた。しかし彼女はめげることなく、亡くなった父親から受け継いだものだからと、真剣に訓練を続けていた。それが、今ここにあった。

 もう一人が手にするのは、円筒状の重量感のあるクインケ。その持ち手もまた、人並み外れた体躯だ。操術に優れているのか、少ない動作で対処している。

 少し離れたところで、座り込んでいるのが二人。携帯を片手に、どこかに連絡をとっているのが見える。負傷しているようだが、大きな傷は見えない。

 

 

 鼻の奥が、ツンとする。

 

 母親を葬られ、父親のものだろう赫子で、今まさに亡き者にされんとする少女。

 それを、歓喜の表情で、少女を追い込んでいく捜査官ーーあれが、アキラさんの父親。

 その赫子をよこせ!よこせ!と狂気を滲ませながら叫んでいる。

 

 

 亜門鋼太郎の手記によれば、アキラさんの父親はーー…そうか、あの人が亜門鋼太郎なのか。

 あの時に閲覧した手記によれば、アキラさんの父親の死に関与しているのは、ラビットとフエグチ。

 そして、現場に向かう亜門鋼太郎を妨害して、関節的に関与していると思われるーー眼帯の喰種、カネキケン。

 

 ここに、ラビットはいない。つまりこの場で、アキラさんの父親は殉職しない。ここは彼が殉死した重原河川ではないのだ。

 

 フエグチヒナミさんもまた、ここで死なない。何故なら、彼女は未来において、アオギリの構成員として生きていたから。

 だから、きっとーーーー本当に?

 何か…何か、ピースが足りない。足りないのは、何だ。彼女が死なないためのピースは……ラビット?アオギリ所属の彼、もしくは彼女は何処かにいるのか。

 

 違う。

 違うと何かが必死に叫んでる。

 このままだと、フエグチさんは掃討されてしまう。彼女は、生き残れないと。

 …彼女は、どうやってこの場を乗り切ったのか。

 

 嘘だ。

 気づいていた。その可能性に、本当はとっくに気づいて、見て見ぬふりをしていたんだ。

 残るピースは一つしかないーー眼帯の喰種だ。カネキケンしかいない。

 

 足りないピースは、僕なんだ。

 

 

 僕はこれから、人として、間違ったことをする。対策法を真っ向から無視するこの行為は、死刑に相当するものだ。前のように、所有権を主張するのとでは、まるで違う。あの屋上の、虚偽の報告よりもずっと重い罪だ。

 

 でも、僕はそれを自覚した上で、彼女を救う。

 僕は明確な意思を持って、喰種捜査官に、彼らに敵対する。

 

 不思議と迷いはない。いけないことなのに、後ろめたさもなかった。有馬さんや、アキラさん、シャトーのみんなが今の僕を見たらどう思うだろうか……。縁を切られるのは当然か。

 

 フエグチさんは、僕を救ってくれた。だから、僕も彼女を救う…なんて、殊勝なことではない。その気持ちもあるけれど、それが一番じゃない。

 

 ーーなんで、どうしてあんな子がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。

 

 あの時の、面会後の懐疑を、今はもっと強く思う。

 

 こんなことは、あんまりだ。この世界はどこかおかしいんだと、そう思った。

 僕は、あの子を殺させない。死なせたくないのだ。

 

 顔を隠して、いざ飛び出そうとした時に、有馬さんの声が聞こえた気がした。

 彼は、いつもの表情で、喰種と会話をするなと、僕を咎めている。

 

 ーー口から、笑みが漏れた。

 

 何故でしょうかーー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗い、暗い場所に、光が差し込む。鍵を閉めていなかったことに、今更ながらに気づく。

 部屋の隅でビクリと動く影を横目に、僕は警戒しながら玄関に向かう。途中、全身に鈍い痛みが走ったが無視をした。

 パチリと、電気がついた。突然目に入った光によって、チカチカと視界が揺れる。

 

 「うおっカネキ!」

 「…永近君」

 「は?永近君って、おま…って、なんで真っ暗?ケータイにも出ねえしッッ!?……え、お前誰あの子…俺の幻覚、じゃねえーよな…」

 

 僕は、その場に膝をついた。安心して、声も出せなかった。永近君の声が鼓膜を揺らす度に、僕の目から涙が溢れ落ちた。

 

 ーー嗚呼、なんて醜い。

 ずっと、誰かに話してしまいたかった。誰かに聞いて欲しかった。縋って、慰めてもらいたかった。

 今まさに、我慢という水が容量を超えて溢れて、理性という壁が崩れていく。

 

 ーーそうして、僕は自分勝手にも、未来に於ける全てを白状してしまった。

 何年も前から溜まっていた感情の全てを、八つ当たりするように、吐露したのだ。

 

 

 

 

 

  いつしか、カーテンの隙間から眩しいほどの光が差し込んでいる。

  僕は、永近君のほうを見れなかった。

  冷静になった今。彼に話してしまったことを本当に後悔している。どう考えても、彼には迷惑にしかならない。

  そして何より、僕は恐れていた。

  僕の…いやカネキケンの親友である永近君に拒絶されるのが怖かった。

  僕は、永近君に親友の虚像を見ていたのだから。

 

 「その子のさ、母親の…遺体は?」

 

 永近君が最初に発した言葉は、フエグチさんへの気遣いの言葉だった。

 

 「近くの、山に…埋めたんだ。…頭だけしか、持っていけなかった…」

 

 簡易にだけど、お墓もつくった。その間、フエグチさんは、一言も発さなかった。

 僕は今、自宅に着いて初めて、フエグチさんを正面から見た。彼女は、ベッドの上に座り込んで、音もなく眠っていた。目の周りは、痛々しいほどに腫れ上がってしまっている。強く握り締めている両手の中にあるのはきっと、母親の形見の指輪だ。

 そっと寝かせて、布団をかけ直す。びくりと、一度だけ彼女は身じろぎした。

 

 「…そっか。…うん、言いたいことも、聞きたいこともめっちゃあるけどよ…何つーか、頑張ったよお前」

 

 永近君は、呟くように言った。その優しい声色が心に突き刺さって、ゆっくりと染みていく。

 ああ、泣きそう。

 その一言で、決して許されたわけでもないのに、堪え切れなくなる。

 

 「前の…俺が知ってるカネキはさ…いや、前の前か。そうそれな。喰種として生きたカネキのことはな…未来のことだし、当たり前だけど俺知らんし。んであのさ、お前はさ…俺の知ってるカネキとそう変わらないぜ?」

 「い…、でも…」

 「あ、泣き虫にはなってるよな。年食って涙もろくなるとか、おじいちゃんかよっ!あ、でもそうなると…うーん、まあ…全く同じってわけでもねえけど…何つーか、記憶がねえってだけでさ、俺にとってのお前はなんも変わってねえってことよ。うん、これは同じだ。

 お前は、一生俺の親友だぜ?これ絶対な」

 

 途中から、自分の嗚咽でよく聞こえなくなった。でも、聞き逃しちゃいけないと思って、耳だけに意識を集中させた。

 

 「しかし…お前昔からちょいちょい思ってたけど、表現が妙に厨二くせーのな…僕の中にいるカネキが囁くって、おまっ……想像したら結構面白いな……やべ徹夜明けのテンションかこれ!」

 

 

 永近君は、何がツボに入ったのか、堪え切れない様子で笑った。僕は、泣き笑ったような情けない顔で見ていることしかできない。

 

 「……ふー。笑わすなよな、カネキ」

 「うん。…………ぁれ?」

 

 僕は佐々木琲世。大切な人にもらった、僕だけの大事な名前。

 でも、なんとなく。

 今の"カネキ"はすんなりと受け入れてしまえた。

 僕は、カネキケンとは違う。永近君は僕を同じと言ったけれど、やっぱり僕にはそう思うことは難しい。

 でも、今までは感じていた違和感が、不思議と今の永近君の"カネキ"には、感じられなかった。だから、応えられたのかもしれない。

 

 ーーお前は、お前だ。

 

 アキラさんも言ってた。僕は、僕。

 でも、あの時とは心境が変化している。あんなに悩んでいたのが嘘みたいで、変な笑いさえ込み上げてくる。

 

 結局僕は、佐々木琲世であり、金木研でもある。それは変わらない事実。

 それが、僕なのだ。

 

 なんだか不思議な気分だ。清々しいわけでも、苦しいわけでもない。でも、打ち消し合ってゼロになったというわけでもない。

 この感情を表す言葉は、何だろう。いや多分きっと、考えても見つからないやつだ。でも、それでいい。

 

 「で、さっそく今後についてなんだが…まずは稼ごうぜ!せっかく未来のことわかってるんだし、これから物入りになると思うからよ。んで、とりあえずお前はその子を連れてーー今は東京から逃げろ!」

 「あ…あは…は」

 

 思わず、苦笑が漏れた。

 

 ーー()()は、現実なのか。

 それとも、僕が見ている夢に過ぎないのか。

 まあ、どちらにせよ、いいことばかりではない。

 でも、もし夢だったとしたら、もう少しだけでも見ていたいと思うんだ。

 うん、夢でもいい。だから、もう少し。

 僕の求めていたものが、確かに、ここにもあるのだから。

 

 

 

 

 

 それから一週間後、僕とフエグチさんは公共の交通機関を使わずにーータクシーやレンタカーを乗り継いでーー東京から去るのだった。

 

 

 

 

 

 

 完

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おまけ

 

 

 「なんであいつ来ねぇんだよ………好きって…いったくせに…」

 

 

 

 

 

 「ん…?まさか、着拒?……ほうほぉう…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ラビット ふすっふすっ
フクロウ ほーぅほーぅ

お付き合い頂きありがとうございました。
一話目の前書きの通りに、ハイセとヒナミで終わりました。(アニメ六話みたあと)
原作とは、ある意味逆かな?
ハイセメインでカネキ(過去)を受け入れた感じでしょうか。


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エトの番
(別)後編〜


本編はヒナミヒロインにしようと思って書きました。
でも、読み返してみればヒデがヒロインになってました。

(別)はエトさんルートです。
書いてみました。




 

 

 

 

 

 

 「チッ、(ぁ"〜クソうぜえなもう)……ごめんねダーリン。売れっ子作家もなかなか辛いものでして…急用ができてしまったぜ」

 

 たはは、と高槻さんは困ったように笑った。僕も釣られて笑ってしまう。

 すると、彼女の笑みが悪戯っぽくなった。目と鼻の先まで、無遠慮に顔を寄せてくる。

 

 「でもあなたの匂い、私ちゃんと覚えたから…会いたくなったらいつでも会えるわ!うふふふーー逃げようなんて考えてないよな、もし?」

 「 」

 「うーん、お返事聞こえないなぁ」

 「はい」

 「うんいい子、いい子よ」

 

 

 

 店を出て別れた後。高槻さんは数歩先で振り返って、見た目相応に可憐に笑って小さく手を振ってきた。

 体感で、一時間は話したような気がする。彼女は話し上手で、その上聞き上手な人だった。特に相槌のタイミングがよくて、何も知らずにいられたのならば、心から楽しく会話が出来ていたと思う。

 表向きの性格の相性が悪くなかったことは認めよう。しかし時折、一瞬だけ高槻さんが見せる無機質な目が、僕をその度に現実へと引き戻した。

 と、現実逃避はこれまで。

 僕は高槻さんと交際する気なんて微塵もないのだ。できるわけがない。

 

 ーーこれから、どうしたらいいのだろう。

 考えても、考えても、考えても、何も浮かばない。

 

 

 生け垣のブロックに腰を下ろして頭を抱えていると、地面に影が射した。頭を上げる。目と鼻の先に、人の顔が迫っていた。

 

 「ねえ、これからデートしましょう?」

 「……用事、あったんじゃないんですか?」

 「うん。でもサボタージュすることにしたのだよ。なんだかね、もう二度とハイセ君と会えなくなる気がして」

 「……はあ、そうですか」

 「あ、信じてないな。中々に当たるものだよ。女の勘ってやつはさ」

 

 僕は困惑していた。

 そして、この申し出は、どちらにせよ無理な話だ。僕には、この後大切な用事があるのだから。

 

 「すみません。せっかくのお誘いで申し訳ないんですが、この後僕も用事があるので…」

 「誰と?」

 「…友人達とです」

 「ほーん、何するの?」

 「映画を観に…」

 

 高槻さんは何を思ったのか、その場にしゃがみ込んで、考える人のポーズを取った。本当にやる人初めて見た。少し感動。

 

 「それは私も……いや、私も参加決定だ。君のハニーを、是非ともご友人に紹介しておくれ」

 

 この人、どんな脳みそしているんだろう。会わせるわけがない。隻眼の梟かもしれないこの人を、僕が永近君に会わせる筈がないのだ。

 僕は、そんな思いを表に出さないようにして、再度申し訳なさそうにする。

 

 「すみません…実は、観る予定の映画は結構過激なので、高槻さんのような女性には…」

 「わたくし、過激なやつ大好物ですのでー。あ、ハイセ君は、女の子してる子の方が好み?」

 

 態とらしく、しなを作る高槻さんに、僕は何も言えない。

 

 「若者よ。ノリが悪いぞう」

 「…本当ですね。性格が合わないのかも。僕なんて面白くないので別れーー」

 「いやいやいや…。ハイセ君って、結構言う人なのかな。てっきり流されるタイプかと」

 

 今の一言で、はっきりと僕は理解した。やっぱりこの人は、遊んでいるだけだったのだ。他人を弄び、楽しんで喜ぶ、最低最悪な人だった。

 絶対に永近君に会わせるわけにはいかない。

 そして、タイミングを図ってどこかで通報することを、僕は今心に決めた。

 だから、ここはこの人に合わせるしかない。

 僕は、携帯を取り出して、永近君に謝罪のメールを送る。

 そして、高槻さんに向き直ろうとしたらーーいなかった。

 

 「へー、用事とな。私は二人きりで嬉しいけど」

 

 横にいた。

 さっきから、どうしでこんなに距離が近いのだろう。僕は、離れようとしてーー

 

 「その子さ、友達でも何でもないんでしょう?」

 「ひっ」

 

 僕は、小さく息を呑む。なぜ、僕はこんな反応をしているのか。高槻さんは、覗き込むようにして、僕の顔をじっと見てきた。

 

 「ふふ」

 

 高槻さんは、まるで聖母のような微笑みを顔に貼り付けた。そして、僕の正面へと回った。

 

 「私、君のこと少しわかっちゃった…君は、自分自身にも大うそつきだね、ハイセ?私と反対だ」

 

 高槻さんは、僕の顔にゆっくりと手を伸ばしてくる。

 僕は、心の底からこの人に恐怖していた。離れたいのに、触れられたくないのに、身体はピクリとも動いてくれない。

 高槻さんの指が、僕の頬に触れた。僕は、固く瞼を瞑る。

 

 「………あ。その顔いい。

  うん、好き。

  かわいいなぁ。

  なんか好き。

  なんだろーな…あー…

  好き……ウン、ウン…ん?……あっ?…おい何だこれなにこれやべぇぞ……はぁ……(これなに?)

 

 何やら幻聴が聴こえてきたので、恐る恐る見上げると、高槻さんがもの凄い顔をしていた。犬歯をむき出しにして、弱々しくも懸命に食いしばっている。目は潤んで逆上せたようにーーしかし爛々と輝いて、開かれた瞳孔は揺れていた。そして、真っ赤だ。

 宙で行き場を失った高槻さんの両手は、フラフラと漂って、頬の横に力なく添えられる。

 

 「……」

 「(ぅわあ………いやぁ……)

 

 僕は、すぅーと冷静になった。

 

 これは、決して自惚れではない。

 極めて、客観的に見てからの意見だ。

 

 ーー僕は、人が恋に落ちた瞬間を、初めて目にした。

 

 いや、いきなり、これはなんだと思った。

 僕は、この人に追い詰められていた筈だ。この人は、悪辣とした笑みを浮かべていた筈だ。何故こうなった。本当に突然なんなのだ。訳がわからない。

 

 見ているこちらが恥ずかしくなるような顔を、高槻さんは晒しているーー少し、気味が悪い。

 その顔を隠す余裕もなさそうで、ただこの人は、自分の状態に戸惑っている様子だった。

 

 あ。

 頬にやった手が、眼鏡の蔓を浮かせていた。

 落ちそうだ。

 僕は腰を上げ、高槻さんの顔から眼鏡が滑り落ちてしまう前に、手を伸ばした。

 抑えたそれを持ち直し、そのまま彼女の耳にかけ直した。

 気づかなかったけど、僕も意識が停止していたようだ。無意識からの行動だった。だから、やった後に後悔した。

 しかし、それを上書きする出来事が起きた。小さな悲鳴と共に、高槻さんの姿が僕の視界から消えたのだ。

 どこにいったのか。

 彼女は、地面にぺたんと尻もちをついていた。そして、そのまま背中から倒れた。

 ガン、と鈍い音がする。

 しかし高槻さんは、依然として逆上せたような顔をしたままだ。いや、さっきより赤い。もう、茹でダコみたいに真っ赤だ。動きはなかった。

 

 道を歩く人達の視線が、ぐさぐさと突き刺さる。

 僕は観念して、高槻さんを起こすべく、彼女の背中に手を差し入れた。

 

 

 「ひあっ」

 「うぉっあッ!?」

 

 ビュンッと高槻さんの頭が通り過ぎた。彼女は、宙でくるんと一回転して着地ーーあ、失敗した。足を挫いていた。

 いや、それどころではない。

 今の頭突きが当たっていたら、僕の額は割れていただろう。もしかしたら、破裂していたかもしれない。それほどのものだった。

 改めて、この人の危険さを再確認した。

 高槻さんは、僕から少し距離を取って、恐る恐ると目を合わせてきた。そして直ぐに、向こうから目を逸らされた。

 

 「高槻さん。少し体調悪いみたいですね。今日はゆっくりと休んで下さい。では、失礼します」

 

 先ほどとは別の意味で、嫌な予感しかしなかった僕は、勢いのままにその場から去ろうとした。

 しかし、待ったが掛かった。上着の袖を、掴まれていた。僕の心臓は縮み上がった。

 

 

 「い、いや待って…さい。そ、そうだ!お茶でもしていかないかな!!」

 

 高槻さんが指差す先にあったのは、ついさっきお茶したカフェだった。

 ボケたのだろうか。いや、違うだろう。

 慌てる高槻さんの様子を見て、僕は再度冷静になった。

 高槻さんが、自分の指の先を見る。

 

 「?……ぁっ」

 

 僕が声をかけるまで、この人は石のように固まって動かなかった。

 

 

 

 

 その夜ーー僕は、世間一般的にデートと呼ばれるだろうものを初体験した。

 映画の入場券を購入して、時間つぶしに目的もなく歩いたり、目についたゲームセンターでUFOキャッチャーをしたり、吐き気を我慢しながらパスタを胃に詰め込んだりーーした。

 その後は、普通に映画を見て、駅で別れて帰宅した。

 終始、高槻さんは、別人になってしまったかのように、言葉数が少なかった。

 

 

 

 

 




正しくは、自覚した。でしょうか。きっと、前の話で落とされてました。理由は知りません。





オレンジ…よし寝よう。おやすみなさい。


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(別)後編2

評価とお気に入り登録ありがとうございます。



話は進んでいません。

芳村愛支(エト)から始まります。錯乱。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「はぁ…」

 

 漸く自宅だ。

 ここに辿り着くのに、かつてこれ程長く感じたことがあっただろうか。いや、過去如何なる時と比べてもないと断言できる。

 

 「はあ……はぁ…」

 

 よし殺そう。

 

 顔を潰して喉を抉り、四肢を削いであとは全部細切りにして焼いて、原型がなくなるまで砕いてゴミの日に出そう。

 ドアの閉まる音と共に、私は決断した。

 

 ーー高槻さん

 

 「ーーーっ」

 

 この、むず痒すぎて叫びたくなるほどに不快な感情は、私には不必要なのだ。

 

 「はぁっ…ぁ」

 

 これを仮にーー認めがたいがーー恋愛感情と仮定して、この先いったい何の役に立つと云うのか。

 否である。何の役にも立たない。障害にしか成り得ない。非常に愚かな時間の浪費となるだろう。

 母さんを疎んではいない。その点では、功善()にも思うところはない。しかし、隙が生まれたのは確かだ。私は、己にそんな浅墓を許すつもりはない。個を損なわせる毒薬と理解していながら、飲み干すような馬鹿はどこにもいない。

 

 ならば、即刻元凶()を断つべきであろう。

 

 ーー高槻さん

 

 今日のことは全て忘れてしまおう。

 

 「…は…ぁ…」

 

 まずは……そう。次に会った時にでも………いや、殺すその瞬間まで油断させて…確実な状態で事を運ぶべきだ。あの青年は、私に警戒心を持っているようだからな。慎重に行こう。

 

 「……」

 

 今暫く、私の彼氏気分を味わっているがいいぞォ青年。

 

 「はっ……はっ…はぁ…」

 

 ああっ、もう!

 頭の中がシャンシャン、シャン♪と煩わしい。

 蠢めく十の指が、無為に空を切っている。

 全身の毛穴から湧き出る液体に、無数の文字が、文章が溶けて溢れ出す。

 私の意思とは無関係に、足は一人でに踊りながら、ステージ(デスク)を目指す。

 まるで赤い靴。なれば、これは呪いなのだ。世界に反逆する私にと選ばれた、最も効果的な呪い。今の私に逃れる術はない。

 

 「は…あああ…あはは」

 

 しかし、それがなんだというのだ。

 ふははは!今は踊らされてやろう。好きにするがいい。しかし、真にこれに意味はない。

 

 私にとっては、()など、その気になればいつでも切り落とせるのだから。

 

 「はぁ!はぁ…はぁはあっはあ…」

 

 ……メールしないと…

 

 

 

 

 

 

 

 

 0

 

 

 

 

 

 土曜日の朝。

 携帯を確認すると、メールが三件受信されていた。

 一件目は…帰宅した頃かな。気づかなかった。二件目も、そのすぐ後だ。

 内容は…一件目のメールは、総じて要領が得ない文章で書かれていた。まるで、会話でもしているかのように、思いつくままに書かれていた。二件目のメールは、その書き直し。するすると読まされてしまうような文章だったけど、一件目のメールを読んだ後だと、どうにも違和感が拭えなかった。

 三件目のメールがきたのは、ついさっきみたいだ。一つのURLが添付されていた。それと、IDとパスワード。それだけだ。

 変なサイトに飛んだりしないよなと警戒しながらも、僕はそのURLを開いた。入力画面が出てきたので、IDとパスワードを入力する。

 パッと、シンプルで機能的な画面に切り替わった。項目がズラリと並んでいる。

 僕は、寝ぼけが吹っ飛ぶくらいに驚愕させられた。取材、設定、本文などで分かれていたタイトルは、明らかに仕事用らしきものだった。

 そして、その一番上の、更新日時が今日の朝、つまりついさっきに更新されたそこだけが、無題となっていた。

 

 

 ーー結果を言ってしまえばそれは…まあ、うん……所謂アレだったと思う。それも、文庫本一冊に相当する量の。

 

 正直、僕には恐怖しかなかった。どんなホラー小説よりもホラーだった。

 内容は、まるで思春期少女を描いたようなもの。ポエムが挟んであったり、未来への妄想が綴ってあったり。あの高槻泉が書いたとは思えないほどに、ただ、ただ、気持ち悪いくらいに甘酸っぱい文章だった。

 しかし、そこは一流の小説家らしく、気づけば僕は、本の世界に入り込んでしまっていた。

 何も知らなければ恋愛もの。しかし、知っている僕は、ホラー小説として楽しんでしまっていた。

 

 昨日のことは、全部嘘だったのではないか。高槻さんのあの慌てぶりも全て演技で、この小説も含めて、やっぱり僕をからかっているのではないか。

 終盤に差し掛かったところで、そう考えた。いや、そのほうがいいのだ。随分手の込んだ嫌がらせだとは思うけれど、相手はあの隻眼の梟かもしれない人だ。からかわれている方が、気が楽だ。

 

 しかし、またしても高槻さんは、僕の心を揺らした。

 あとがきとして書いてあったものに、頭を抱えたい心境だ。

 

ーーーー

 

 私は、これを衝動的に書き上げた。未チェックのため、その辺りは黙してくれると助かる。

 偽りなく明かそう。

 私は、君にどのような感情を抱いているのか、整理できていない。思考しようにも、原因明白の堪え難い苦痛があるために、困難極まっているーーつまり今の私に、知る術はない。

 よってこれは、勝手動くままに、本能的に書き上げたものである。

 私は、これの中身を知らない。

 君に判断してほしい。

 では、私は寝る

 

ーーーー

 

 

 

 

 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ショックから立ち直った(思考を放棄した)僕は、スポーツウェアに着替えて、外に出た。これから、この身体を鍛えていくために毎日走るつもりだ。

 太陽は、空に高く上がりきっている。風が冷たくも、陽の光が熱を与えてくれている。

 ストレッチを流して、軽くジョギングする。十分ほど経ったところで、もう一度身体をほぐす。思っていたより走れることがわかった。カネキケンは、何かスポーツでもしていたのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 陽が落ち始めた頃、僕は昨日訪れたカフェへと足を運んでいた。大した理由ではない。ただ、昨日はよくコーヒーを味わえなかったから、リベンジに来たのだ。昨日の今日で、さすがに高槻さんもいないはず。ぜひ、本を読みながら、ゆっくりと過ごしたい。

 と、そう思っていた矢先に、見覚えのある頭を発見してしまった。昨日、僕が腰を下ろしていたコンクリートブロックに、高槻さんらしき人が、ボサボサの頭を前に横にと揺らしながら座っていた。

 人違いかもしれない。仮にあれが高槻さんだとしても、眠っている人を起こすべきではないだろう。

 僕は、足音を立てないように通り過ぎようとした。が、その瞬間に高槻さんの頭が勢いよく上がった。

 顔の殆どを隠した髪越しに、目が合ったのを感じる。

 

 「やあ、ハイセ君。奇遇だね」

 

 僕は、どう反応すればいいのか迷った。ふるふると首を振って露わになったのは…目の下のクマがくっきりと浮かび上がって…化粧をしていないだろう素顔の高槻さん。あと、口から顎にかけて、よだれのせいか、それなりの量の髪の毛が、まとまって張り付いてしまっていた。一部は固まっているようだ。

 高槻さんに気づいている様子はない。こういう場合、僕から指摘してもいいのだろうか。

 

 「あの、これどうぞ。口元拭いて下さい」

 

 迷ったのは少しの時間だけ。遠慮はしないことにした。

 僕は顔を逸らして、おろしたてのハンカチを高槻さんに差し出した。息を飲む音。そして数秒後に、僕の手からハンカチが、ぱっと抜き取られた。

 

 「いやぁ…スマンね。お恥ずかしいところを。これは洗って返すよ」

 「…いえ。それより何でそんな遠くに…?」

 

 視線を戻せば、高槻さんとの距離が十メートル以上は離れていた。僕としてもこの方が好都合だけど、純粋な疑問として尋ねた。

 

 「…ん?ああ、いつのまに」

 

 そう言って、高槻さんは距離を詰めてきた。

 

 「…いや、近すぎます」

 

 高槻さんは、触れ合いそうな距離まで詰めて来たのだ。極端すぎる。

 

 「あん?…うぉっ近っ」

 

 高槻さんは、バッと素早いバックステップで離れていった。今度は普通の距離だ。

 

 「ハンカチは気にされなくていいですよ」

 

 僕は、ハンカチを返してもらおうと、そっと手を差し出した。高槻さんは、僕の手のひらを見て、目をパチパチさせた。

 

 「…いやいやいや、ハイセ君、それは些か尖った趣味じゃないかね。お姉さんの唾液が付着したハンカチがお好み?……仕方ないなぁ」

 

 もっとサービスしようかとか言いながら、ハンカチを口元に持っていく高槻さん。普通にドン引きだ。あと、なんか口調が古めかしいような気が…昨日はもっと砕けた感じだった。後半は無口だったけど。

 

 「…それ、差し上げます。もう返して貰わなくて結構です」

 

 本当にやめてほしい冗談だ。なぜ、そこで傷ついたような表情をするのかもわからない。

 

 「じゃあ、僕はこれで」

 

 仮に交際関係にあるとしても、これ以上この人に付き合う必要はないだろう。見たところ、高槻さんの格好は部屋着そのものだ。上下のジャージに、ダウンジャケット。そのまま帰って下さい。

 

 「待って」

 「…どうしたんですか」

 

 高槻さんは、俯いていて、その表情は窺えない。ボサボサの髪がふわふわと揺れている。

 

 「どうだ、これから私の家ーー」

 「高槻さん。早く店内に入りませんか?今日は寒いから、きっと美味しいと思いますよ。コーヒー」

 「あっ…うん」

 

 高槻さんが歩き出したのを確認して、僕も足を進めた。

 

 

 

 

 

 

 

 「……」

 「……」

 

 無言だ。でも当然だ。本を読んでいるのだから。

 しかし、さっきから、いや最初からチラチラと高槻さんに視線を飛ばされている。何を考えているのか分からない、無機質な瞳で。

 こんな寒い日なのに、アイスコーヒーが飲みたくなる。いや、うんと熱いやつでもいい。しかし、カップに注がれたホットコーヒーは、残りあと少しだ。おかわりしようかな。

 

 「ハイセ君は、どこの大学生さん?」

 「上井大学です」

 「あ、知ってるいるぞ、そこ。以前、取材のために潜入したからな。(……大学生になるのも悪くないかも)(…なんとかして…)

 

 不穏な呟きなんて、僕には聴こえていない。

 しかし、この人の容姿ならば、高校生と言われても信じてしまいそうだ。老成した目の色を隠せるのなら…うん。やっぱりないか。

 

 「サークルとか参加してる?」

 「いえ」

 「バイトしてる?」

 「いえ。でも探そうとは思ってます」

 「好きな食べ物は?」

 「ハンバーグでしょうか(カネキケンが)」

 「一人暮らし?」

 「はい」

 「年上と年下どちらが好み?」

 「特には。でも大人っぽいほうが」

 「…好きなタイプは?」

 「…エプロンが似合って、コーヒーを淹れるのが上手な人でしょうか…ショート…いやロングもいいな…」

 「………そう。そうなのか…」

 

 間ができる。

 質問されている時も、僕は本を読んだままで、言っては悪いが適当に流していた。

 いつまにか、僕はこの本にのめり込んでいたのだ。まあ、それくらいに、この美術評論にはユニークなものがあって、思ったよりも楽しめていた。ページを捲る度に微かに香るのもいい。癒される。

 

 「ところでハイセ君、バイトのことなのだがーー」

 

 パっと、ページの上に小さな手が二つ置かれた。僕はそれで、一気に現実へと引き戻された。目の前には、無表情の高槻さん。隻眼の梟かもしれない人がいた。

 

 「なんでしょうか」

 

 自分でも分かった。読書の邪魔をされて、少し不機嫌な声が出てしまった。まるで子どもだ。気まずさと少しの恐怖から、視線を外す。

 

 五秒十秒三十秒……反応がない。

 申し訳ない気持ちで視線を戻すと、高槻さんはポカンと小さく口を開けたまま固まっていた。

 

 「すみません、僕少し言い方が…高槻さん…?」

 

 全く反応がない。少し心配になる。微動だにしていないのだ。

 僕は、少し身を乗り出して、高槻さんの目の前に手をかざそうとしてーーやめた。さすがに馴れ馴れしい気がしたからだ。

 じゃあ、どうするか。うん、どうにもできない。

 とりあえず、僕はーー高槻さんのカップのコーヒーが少ないのを確認してーーアイスとホットを一つずつ注文した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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(別)後編3

祝。高槻先生スランプ脱出回。




 

 

 

 

 永近君がアルバイトを変えた。CCG二十区支部の局員捜査官補佐になったと、彼は得意げに言った。

 僕のために、そんなバイトを始めたのではと思ったが、それは自意識過剰だと永近君に笑われた。元から興味があったそうだ。今回、公募が出ていて即決だったらしい。

 

 僕もアルバイトを始めた。高槻さんの紹介により、出版社で働けることになったのだ。

 初めに高槻さんに提案された時には、どうかとも思ったけど、考えてみたら又とないチャンスだ。書店でバイトしようと思っていたほど、僕は本好きだった。

 PC操作もそれなりだし、雑用でも何でもと思っていたけど、どうやら違ったらしい。

 雑用は雑用だ。それに、仕事も資料整理に現場取材など広い範囲で任せてもらえることとなったが、問題は高槻さんのサポートとして働くようになったことだ。

 考えてみれば、その可能性もあったのだ。僕の見通しが甘かった。しかし、今更やめるとも言い出せず、結局受けてしまった。バイト料は高槻さんから出るらしい。週一で、出版社で高槻さんと打ち合わせをする以外に、ノルマ以外に時間拘束は特になし。作業も、自宅PCでも出来るものばかりだった。IDとパスワードは知っているし…高槻さんの担当の塩野さんによって、当然ながら秘密厳守の契約書を書くこととなったけど。汗を垂らす塩野さんに、高槻さんは、のらりくらりとしていたが。

 

 最近、高槻さんが本当に喰種ーー隻眼の梟なのか疑わしくなってきた。そうだったら…と僕の希望的観測があるのも認めるけど、高槻さんは本当に人間のようだった。

 細かく見れば、表情だってコロコロと変わっているし、出会った頃の不気味さは何だったのだろうか。今では、基本控えめな雰囲気の静かな女性というイメージだった。かと言って、警戒を手放ししたわけでもないけれど。

 匂いも人のもの。甘くて女性らしい匂い。食事だって、今も普通にサンドウィッチを黙々と食んでいる。

 

 「…あの。ハイセ君?私もレディだ。食事姿をそんなに見られたら恥ずかしいものがあるのだが…いや、君が見たいと言うのなら……」

 「いえ、すみません。失礼しました」

 「…そう」

 

 高槻さんは、残念そうに髪を揺らした。そして、また食事へと戻る。僕は、極力高槻さんに視線を向けないようにと、パソコンの画面へと意識を戻した。

 午後のスロージャズが耳を小気味よく撫ぜている。視界の端に映る高槻さんの髪の毛が、合わせて揺れている。

 古書の匂い。コーヒーの香り。ブラインドから差し込む夕暮れ。

 何だろう。こういう雰囲気…時間の流れは、ちょっと好きだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「あ」

 「あ…」

 

 昼下がりのキャンパス内。売店を出たところの角で、僕はその人と顔を見合わせた。

 

 「…どうも」

 「あっ、ど、どうも…」

 

 もう会いたくなかった人だ。でも、同じ大学にいるのだ。こういうこともあるのだろう。…でもなあ。

 

 「…じゃあ、僕はこれで」

 「えっ…あっ」

 

 そう。別に顔を合わせたからといって、何かを話すことはないのだ。

 

 「待って!」

 

 引っ張られる感覚。前にもあったなこんなこと。

 

 

 

 

 

 

 

 人の影がない、食堂裏の一角。ベンチもないその場所に、僕は西野さんと並んで立っていた。えっと、この状況は…。

 

 「あの…ありがとうございました!…あれから錦くんも憑き物が落ちたみたいに笑うようになって…本当に、ありがとう」 

 

 西野さんは、深く頭を下げたまま動かない。彼女は何に対して礼を述べているのだろうか。見逃したこと?通報しなかったこと?それとも…彼女が言うように、西尾錦が変わった(楽になる)こと?

 どれでもよかった。どうでもいい。

 僕が抱くのは、ただ社会に反しているという罪悪感のみだ。自分勝手さを自覚してしまう。そう思っていたから、彼らには会いたくなかったのだ。

 僕に、誰かを裁く権利などないのだ。

 

 

 「いいえ。僕はお礼を言われるようなことはしていません。気にしないでください」

 

 笑顔を心がけた。顔を上げた西野さんは、僕を見て安心したように微笑んだ。そして、彼女は意を決したように、口を開いたのだ。

 

 「あなたも…喰種の恋人が…?」

 

 スッと、自分の表情が無くなっていくのがわかった。西野さんは、僕の無言を肯定と受け取ったのか、続ける。

 

 「私は、偶然人間に生まれただけだと思ってる。それだけで、綺麗に生きることが許されてる…それだけなの。私は、これからも錦君を支えて生きていきます」

 

 西野さんの目は真剣だった。

 僕は、何も言えなかった。疑問は次々と浮かんできて、聞いてみたかった。本当に怖くないのかとか、貴女の彼氏が今まで人を殺してきたこととか……でも、きっとそれはもう、西野さんの中で解決されたことなのだ。

 盲目的に、彼女はきっと、西尾錦のためなら何でもする覚悟がある。

 僕には何も言う資格はない。ただ、少しだけ彼を羨ましく思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「じゃあ、久々に"あんていく"行こうぜ」

 「え"…」

 「ん?どした。なんかあんのか?」

 「あ…いや別に…」

 「…?なら行こうぜ。トーカちゃん今日いるかなー」

 

 今日、永近君のバイトは休み。

 久しぶりにどこかに行こうということになって、彼が提案したのは、僕が今最も行きたくない場所だった。断りたかった。でも、咄嗟の言い訳が思いつかなかったのだ。彼に、あの店には喰種がいるとか、僕が最大の失敗をしたとか言う必要はないのだ。ただ、別の店に行こうと一言言えばよかった。

 しかし、言えなかった。ぼくは、もう一目でも、霧島さんと会うことを望んでいたから。

 

 

 

 前を行く永近君が、店のドアを開ける。来客を知らせる、ベルが何故か懐かしく感じた。

 席へと案内してくれるのは、以前にも見た老男性ーーではなかった。その人物と僕は、互いの顔を認めて、文字通り固まった。

 

 「西尾先輩じゃないすか!ここでバイトしてたんすね……うわ制服似合わねー」

 

 その言葉で、僕は我に返った。向こうも同じようで、不自然な笑顔を作って、永近君へと目を移した。

 

 「…うっせ。追い出すよ永近」

 

 …まあ、こんなこともあるだろう。僕が考えていたよりも世間は狭かったというだけだ。別に、僕の構うところではない。

 それより…霧島さんではなかった。店内にも、彼女の姿はない。ホッと安心感と、少し残念な気持ちが同時にやってきた。

 それは、束の間のことだった。

 カランカランとベルが鳴る。僕は、店の入り口に立ったままだった。だから、ドアの前から退こうとしてーードアの隙間から伸びてきた手に胸ぐらを掴まれ、外に引っ張り出された。

 そのまま、店の横の路地裏まで、引きづられる。永近君は追ってきていない。気づいてないのだろうか。

 

 「おい、クソ野郎。なんで今まで来なかったんだよ」

 

 上から見下ろされ、顔は目と鼻の先まで迫っていた。吐息が、眉間辺りに直接かかっている。僕は、混乱の最中にあった。恥ずかしくて、少し怖くて、意味が分からなくて、嬉しかった。

 ああ、やっぱり。喰種だとしても、好きなんだ。

 

 「き、霧島さん…?」

 「………だよ」

 「…え?」

 「私も好きだから、付き合えって!言って

 んの、よ………私も……好き、です、付き合ってください!……ぅぅ、ぁ」

 「 」

 

 なんだこれなんだこれなにこれなんだこれなんだこれこれなんだ。

 僕は、茫然としたまま頬まで手をもっていく。しかし、つねろうとしても、全然力が入らない。

 サラサラと香る髪。潤んだ瞳。長いまつげ。紅らんだ頬。熱い吐息に色づく、くちびる。

 まるで、別世界にいるみたいだ。息の仕方がわからない。

 

 「は…はーー」

 

 ーーハイセ君

 

 肯定しようとした僕の口は、それ以上の動きを止めた。何故か、高槻さんの顔が浮かんだのだ。なんでだろうと考えて…あの人と交際関係…?にあることに気がついた。

 そう、僕は高槻さんと交際していた。

 

 「あ、あの僕…」

 

 霧島さんは、固く瞼を瞑っていた。唇はキュッと閉じられ、僕には、彼女が今にも泣きそうな顔に見えた。

 断るべきだ。人として誠実ではない。だけど、ここで断ればこの子は泣いてしまうという予感があった。ましてや、好きな人の涙なんて見れなかった。

 

 「好きです…僕も」

 

 霧島さんが、おそる恐ると瞼を上げる。しっとりとした長い睫毛が、上に行く。

 

 「で、でも交際…している人が、います」

 「ーーは」

 「も、もちろん、あの時は違いました。あの後に、ナ、ナンパ…?して?されて…?…その、付き合うことにぐぇっ!かはっ」

 

 勢いよく胸ぐらを掴まれ、そのまま両手で持ち上げられた。無意味に、足がバタバタと動いた。

 

 「ふざけんな!!…別れてこい!そんな女とは!今すぐ別れてよ!!」

 

 霧島さんは、気づいているのだろうか。いや、気づいていないのだろう。赫眼になっていた。

 彼女の大声に、人が寄って来る気配。見つかっては、いけない。

 だから、僕は。

 

 「はっ、はい…」

 

 

 

 

 

 

 霧嶋さんが、裏口らしき場所へと消えていく。その反対から、人影が一つ現れた。前にも見た、初老の店員さんだ。

 

 「悪いね。聞こえてしまったんだ。私から言えることは、一つ。トーカちゃんを悲しませたら許さないからね。経緯がどうであれ…ちゃんと、相手の女性にも誠意をもって謝罪するんだよ」

 「…はい。すみません」

 「いや、こちらこそ、お節介をすまないね」

 

 

 

 

 

 

 

 

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 先ずは、状況を整理しよう。

 つい先ほど、ハイセ君から電話があった。その時私は、次回作に向けての取材中…と言えば聞こえがいいが、その実情はだらけていただけだ。

 言い訳はしない。

 私は、これまで経験したことのない…いわゆる、スランプというものに陥っていたのだ。

 理由も明確だ。

 彼に、私の中身というべきものを見透かされて以降、執筆意欲が上がらないのだ。

 ただの他人に評されても、私は気にしなかっただろう。しかし、ハイセ君にと言うのが、問題だったのだ。

 よって、私は彼の突然の申し出を承諾した。指定してきた場所は、いつもの喫茶店…ではなく、そこから徒歩ですぐの小さな公園だった。

 そして、急ぎ着いた私に、ハイセ君はこう言ったのだ。

 

 僕と、別れて下さい。と。

 

 オーケー。理解した。

 

 思考から覚めた私は、ハイセ君を見ようと目を開ける。

 

 「高槻さんっ!」

 

 ハイセ君の顔が目の前にあった。私は、

 覗き込まれていた…ん?手のひらに砂利の感触がある。雲漂う空が、前にある。

 察するに、無様にも私は倒れ、意識を飛ばしていたようだ。

 ハイセ君が優しく抱き起こしてくれた。

 

 「すまんねハイセ君。どうやら疲れが溜まっていたようだ」

 「本当に、大丈夫ですか…」

 「そんな顔をしないでおくれ。ただの貧血さ」

 

 ハイセ君に支えられて、ベンチに腰を下ろす。彼の手が離れた瞬間に、自分の重さが何倍にも重ねられる。

 

 「それで…高槻さん…」

 「ごめんねハイセ君。少し喉が渇いてしまって…」

 「あ、すみません。待ってて下さい」

 

 何となく。今のハイセ君は慌てているように見えた。そんなに急がなくていいと思う。

 せっかくこうして会っているのだから。

 

 

 

 

 

 

 青年がミネラル水を買ってきた。自分の分には、缶コーヒーを買ったようで、自然な所作でプルタブを開け、飲み始めた。ごくり、ごくりと喉が鳴る。

 

 「ねえ、私もそれが飲みたい。ちょーだい」

 「えっ…あ、買ってきます」

 「いやいや、それでいいよ」

 「えっと…」

 「いいからいいから」

 

 青年の手から缶を奪う。掠めたその手は、缶の熱が熱が移っていたのか、温かかった。

 一息に口をつけ、残りの全てを一気に飲み干す。熱の塊が喉を通り、食道を過ぎ、胃に満たされていく。温かい。

 

 「高槻さん…そのーー」

 「いいよ。別れよう。うん、暇つぶしにはよかったよ、おつかれ」

 

 青年は、大げさに目を開いてみせた。間抜けで可愛いその顔に、思わず笑みが漏れる。

 

 「どうしたの?君から言い出したことなのに」

 「いえ…」

 「ふふふっ。でもなんで?好きな子でもできたの?」

 「……」

 「そうなんだ。おめでとさんっ。いやー、若いっていいですなあ。どんな子?もしかして年下?」

 「あの、高槻さん」

 「あ、ごめんねっ。おねーさん、作家だから知りたがりでさー…おお、もうこんな時間だ。この後打ち合わせが入っていたり…じゃ、また来週ね」

 「…バイト、続けてもいいんですか?」

 「………え、だめ…なの……?」

 「あ、いや、よろしくお願いします」

 「…!!…おう、じゃあ頼むねー」

 

 そう打ち合わせ。急がないと、打ち合わせ…虚言だ。打ち合わせなどない。

 ここから早く去って遠くに行きたい。そして、筆を取るのだ。

 そんな気分。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




もうこんなん書いててツライ


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