そうなん△ (オリスケ)
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1話

※この作品にはグロテスクな表現、鬱展開が多分に含まれ、原作『ゆるキャン△』のイメージを著しく損なう恐れがあります。苦手な方はブラウザバックを推奨いたします。


 死ぬときの眠りとは、きっとこんな感覚なんだろう。

 そう思えるくらいの暗闇が、私の視界を鬱蒼と覆い隠していた。

 何もかもが遠く、体の動かし方を忘れたように、瞼が上がらない。まるで魂がどこかに飛び出してしまったようだ。

 

「――! ――……!」

 

 誰かの声が聞こえる。ひどく切羽詰まっているみたいだ。

 助けた方がいいのだろうか? そう思うが、意識は針の上に立つようにおぼつかなく、力が入らない。

 耳鳴りがする。キィンという甲高い音が頭の奥に蔓延って、他の全部の音が遠く、わんわんと靄がかった音になっている。誰かの叫ぶ声も、靄に紛れて、聞き取ることができない。

 私は、一体何をしていたんだっけ?

 懊悩な疑問が、靄に阻まれて溶けていく。何も考えられない。感覚が遠い。

 じくじくと痛む頭の傷が原因だと、朧気ながら気がついた。

 

「っ……ぅ」

 

 カラカラに乾いた喉から呻きが漏れる。額に感じる刺激に、私の意識は少しだけ覚醒に近づいた。

 僅かに香る、苦みのある臭い。チリチリと空気を摺り合わせるような音。

 よく見知った、親しみのあるたき火の存在を、すぐ近くに感じる。

 

 

 

 

 

「――リンちゃん!」

 

 切羽詰まった声と一緒に、誰かの顔が視界に飛び込んできた。乱暴に肩を掴まれ、激しく揺さぶられる。

 

「リンちゃん! 大丈夫!? 返事をして!」

 

 悲痛な鬼気迫る声に、私の意識は急速に形を取り戻す。

 視界にこびり付いていた靄が晴れた。豊かな藍色の髪と、焦燥に取り憑かれ見開かれた目が見える。

 

「大丈夫? ちゃんと見えてる? 私のこと分かる!?」

「……なでしこの、お姉さん? ……痛っ」

 

 ずきんと額が痛む。その痛みで、断片的な映像がフラッシュバックしてきた。

 遠出したキャンプ。車に積んだ沢山のキャンプ用具。新調した焚き火台で食べたお肉。狭い山道。

 耳をつんざくスリップの音。誰かの叫び声……浮遊感。そして……。

 映像が次々に脳に飛び込んできて、目がチカチカする。そして私は、橙色に照らされているお姉さんの、額の赤色に気がついた。

 

「っお姉さん、血が……!」

「私の事はいいの。立てる? 早くここから逃げないと!」

 

 悲痛な声に、私はようやく状況を理解した。

 私はひしゃげた車の後部座席にいた。前面はすさまじい衝撃で形が変わり、べっこりと凹んでしまっている。ひびが無数に走り白くなったフロントガラスの向こうには、鉄塔のようにそびえる木が見える。

 そして、むき出しになったエンジン部分から、小さな火がチラチラと燃えていた。

 

「っ――」

 

 明確な命の危機に、体が飛び跳ねる。肩に食い込むシートベルトを外すと、支えを失った体がずり落ちる。突然の状況に、体がついていっていないのだ。

 前の座席に腕を乗せ、ぐったりと上体を蹲らせる。その時、私の耳が、小さな声を捉えた。

 

「……ぅ、ぅ」

 

 小さく、蚊の泣くような声。子犬が歌うような可愛らしい声。

 聞き慣れた音色で響く、聞いたこともない音。

 

「ぅ、ぅぅぅ……!」

「……、………………なでしこ?」

 

 不意に浮かんだ想像を否定したくて、私の声は震えた。前の座席に押しつけた頭を持ち上げて、前を見ることが堪らなく恐ろしかった。

 硬直した私の体は、なでしこのお姉さんに強引に肩を掴まれ、車から外に出される。角度が急な斜面に、思わず倒れ込む。

 この斜面を滑り落ちるようにして、高速で木に激突したのだろう。車の外観は酷い有様だった。左右のヘッドランプが、まるで中央の木を挟み込むように突き出ている。あちこちに剥げた塗装やガラス片が散乱していた。

 

「リンちゃん、お願い! 起きて手伝って!」

「っは、はい」

 

 目を剥く私の肩を掴み、お姉さんが叫ぶ。飛び起きた私の腕を引き、助手席の方まで回り込む。

 砕け散った窓ガラスの向こうに、なでしこがいた。座席にもたれかかるようにして、苦悶の表情を浮かべている。額にびっしょりと脂汗をかいていることが、遠くからでも分かった。

 

「うぅぅぅ、うううう……!」

「なでしこ、しっかり! 今助けるからね!」

 

 私は何も考えられず、立ったまま我を失ってしまった。

 だって、車のフロントは衝撃で潰れて、半分くらいの大きさまで縮んでいるのだ。

 エンジン部にちらつく小火に照らされて、なでしこの涙がオレンジに光る。お姉さんは袖でなでしこの顔を拭うと、柔らかい頬に手を添えた。

 

「もう少しの辛抱だよ。もうちょっとだけ、我慢してね」

 

 そうして、お姉さんは助手席のドアを開けた。接続のひしゃげた金属が呻き、ギコ、と音が鳴る。

 

「ひっ……」

 

 思わず悲鳴が漏れる。

 予想通りに、ボンネットは衝撃でぐしゃぐしゃになっていた。木に激突した反動で座席側に押し出され、なでしこの体にぐっと迫っている。

 銀色に光るあれは、きっとエンジン部のパイプか何かなのだろう。太い鉄柱がボンネットを突き破り、それがなでしこの臑を潰していた。

 パイプの下の足は、一目見て異常と分かる。分かってしまう。だって普通、臑から先だけ曲げるなんてできないのだから。

 

「お姉ちゃん……リンちゃぁん……!」

 

 涙と脂汗で一杯のなでしこが、私とお姉さんを呼ぶ。聞いたこともない泣きそうな声に、心臓をぎゅっと掴まれた気分になる。

 

「いたいよ、いたいよぉ、お姉ちゃん……」

「大丈夫だよ、すぐに助けるから……リンちゃん、お願い!」

「あ、は、はいっ!」

 

 お姉さんの叫び声に、私もようやくなでしこの側まで駆け寄る。

 なでしこの顔もぐしゃぐしゃだった。痛みと気持ち悪さで口は半開きになり、たれ気味の優しい目からは止めどなく涙が溢れている。

 

「リンちゃん、リンちゃん……!」

 

 私が側まで来ると、なでしこは縋りつくように手を伸ばしてきた。私は言葉を失ったまま、ただ反射的に指を絡ませる。ぷにぷにの柔らかい手のひらの感触が、夢でないことを思い知らせる。

 

「私がパイプを動かすから。隙間ができたら、リンちゃんはなでしこの体を引っ張って」

 

 お姉さんに指示され、私は頷く。

 助けなきゃ。漠然とした使命感に突き動かされ、私は握る手に力を込めた。

 

「大丈夫……大丈夫だよ、なでしこ」

 

 何が大丈夫なのか分からないまま、ただ目の前の泣きじゃくるなでしこを元気付けたくて、私は震える声でそう繰り返す。

 突き出したパイプを動かすのは、相当な労力だった。お姉さん一人の力ではどうにもならず、一度私が手を貸してもびくともしない。パイプに力を籠めるたびになでしこが「ん、んん~~!」と痛みをこらえた呻きを漏らす。その声と、エンジン部で燃え続ける小火が益々焦燥感を煽る。

 結局、近くに転がっていたテント用のポールをてこにすることで、ようやく小さな隙間を空けることができた。パイプの下にあったなでしこの足が、ぴくりと僅かに痙攣する。

 

「引っ張るよ、なでしこ」

「う、うん……お願い、リンちゃん」

 

 頷くのを受けて、私はなでしこの体を抱き締め、思い切り力を込める。

 

「い、だ、痛い! 痛いよ、リンちゃん……!」

「待って。もう少し……もう少しだから!」

 

 なでしこの悲痛な声を無視して、私は力を籠め続ける。なでしこは口をぐっと引き結ぶも、叫びは止まらない。くぐもった甲高い叫びが耳をざわめかせ、聞いていると頭がどうにかなりそうだった。

 ずるり、と。そんな幻聴と一緒に、なでしこの体が車から引き抜かれる。ぐにゃりとあらぬ方向に曲がったズボンが、暗い地面に投げ出される。

 地獄のような時間がようやく終わり、私はなでしこの体から離れ、その場にへたり込んだ。

 

「うぇぇ……わぁ、わぁぁぁん」

 

 地面に倒れ伏したなでしこが、声を上げて泣く。解放された心が、今まで堪えていた痛みと感情を爆発させる。

 

「っ……」

「リンちゃん、立って! 早くここから離れるよ!」

 

 お姉さんが私を立たせ、なでしこを背負う。おんぶされても尚、なでしこはわんわんと泣いていた。

 

 

 

 何でこんなことになったのか。

 どうしてこんな目に遭わなきゃいけないのか。

 何もかも分からないまま、私はお姉さんに引きずられるようにして、何度も転びながら斜面を駆け下りた。



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2話

 前後不覚になりながら、私はただ足を前に出す。

 景色がぼんやりと青白い。いつの間にか時間は早朝になっていた。

 生い茂る木々。塗りつぶされたような黒い幹。落ち葉の積もった土色の地面。僅かな光で浮かび上がる景色はどちらを向いても変わりなく、鬱蒼としていて、飲み込まれてしまいそうな恐怖を感じる。

 どこへいけばいいのか分からない。そんな上体でただ走るのは、とてつもなく不安な事だった。

 迷路に迷い込んでしまったような、無限にも感じられる時間。それでも、実際にはものの数分で私の体が根を上げた。山間に、他よりほんの少し開けた平たい場所を見つけると、一も二もなくそこへ倒れ込んだ。落ち葉のカサカサが肌を刺し、朝露がズボンに染み込んで、針のような冷たさがお尻に触れたけれど、気にする余裕はなかった。

 

「っはぁ、はぁ……」

 

 心臓が割れてしまいそうなほどに強く鳴っている。キィンという耳鳴りが煩わしい。どうしようもなく不安で、訳が分からなくて、うまく息をすることができない。浅く早い呼吸が、冬の凍えそうな空気に白い靄を作る。

 やや遅れて、なでしこを背負ったお姉さんが追いつく。なでしこはお姉さんに体を預け、ぐったりとしている。眠ったか、痛みに耐えかねて気絶してしまったのかもしれない。

 

「……ごめんね、なでしこ」

 

 お姉さんはなでしこを慎重に木々にもたれかけさせた。辛そうに呼吸するなでしこの頬に手を置き、重苦しくそう呟く。

 

「リンちゃん、大丈夫?」

「あ、はい……大丈夫、です。ちょっと、混乱しちゃって」

「無理もないよ。私も、全然現実味が湧いてこないから……ここで寝ない方がいいよ。せめて、木に寄りかかって休みな」

 

 お姉さんに言われるまま、私は立ち上がり、なでしこから少し距離を置いた木の側まで移動する。

 腰を落とし、乾いた木の幹に背中をつけると、ようやく落ち着く事ができた。焦りで一杯だった頭に隙間ができ、現状を理解しようという考えが浮かぶ。

 

「……」

 

 昨日までは、私たちは本当に、いつも通りだった。

 いつもの通り、私となでしこでキャンプをしていたのだ。

 少し遠方の、山の奥まった場所にあるキャンプ場が目的地だった。今まで行ったことの無いところがいい! というなでしこの強いお願いで、お姉さんに車を出してもらった。

 冬の寒さが厳しい時だった事もあって、人は本当に少なくて、ほとんど貸し切り状態だった。身を切るような強烈な寒さだったけれど、なでしこは相変わらず元気で楽しげで。以前になでしことしたように、新品の焚き火台で買ってきた肉を焼いて、焼き肉をお腹一杯に食べた。

 そうして夜を明かし、大学が終わったお姉さんに夕方頃に迎えに来てもらって……その帰りに、車が道を踏み外したのだ。

 

 タヌキ! というなでしこの叫び声を覚えている。車がカーブし、ぐわんと揺さぶられる感覚を覚えている。ふわりとした重力。

 車は急斜面を滑り落ち、そして……

 

「ごめんね」

「え?」

 

 頭上から声が振ってきたと思うと、お姉さんが隣に座り込んだ。長い髪はくたびれて、顔は疲労の色が濃い。顔は青ざめ、今にも倒れてしまいそうに見えた。

 

「本当に、ごめん。私の運転ミスで、こんなことに……リンちゃんのご家族に、何て言えばいいか……」

「そんな、お姉さんは悪くないです。いつもお世話になって、なでしこも凄くいいお姉ちゃんだって言うし。今回だって……」

「ふふ、ありがとう……といっても、謝るのも何もかも、解決した後の話だけどね」

 

 私の弁明にお姉さんは力なく笑い、立てた膝に顎を乗せて息を付く。

 

「携帯、圏外だったよ。この山奥じゃ当然だけど。地図も開けないし、ここがどこだか全く分からない」

「じゃあ……」

「こんな言葉、使いたくないけど……遭難だよ、私たち」

 

 遭難。そうなん。その四語が、私の中で何度も何度も繰り返される。

 三六〇度、どこを向いても変わらない、木々と落ち葉の土気色の景色。腐葉土の鼻につく匂いに、肌を刺すような冬の冷たさ。

 遠かった筈の実感が、遭難という言葉につられて、ぐっとにじり寄ってくる。その恐怖から逃れたくて、私はお姉さんに声をかけた。

 

「相当落ちましたよね。混乱して、ほとんど覚えていないけど」

「ガードレールもなかったもんね。誰かが気づいてくれればいいけど……キャンプ場は、他に人はいた?」

「いえ……ほとんど私たちだけの貸し切りで」

「そっか……やっぱ冬のキャンプって、人気はそこそこなんだね。やってる人からしたら、それがいいのかもしれないけど」

 

 お姉さんは力なく笑う。何気ない会話の中で、助かる可能性がどんどん潰れていく。

 

「誰かに、ここに来るって連絡していた?」

「私は友達に。後はなでしこから、野クルのグループに写真とか送ってました……けど、伝えているのは地名くらいで、具体的な場所は……」

「私もだ。親にくらい、ちゃんと場所を伝えておくんだったな」

 

 お姉さんは自分の髪を掴み、渋面を作る。

 今日は月曜日。斉藤は、野クルのみんなは、私となでしこがいないことを不審がるだろう。みんなの顔が次々と思い浮かんで、目尻がじんわりと熱くなる。

 地名からキャンプ地を割り出すのに、一体どれほどかかるだろう。キャンプ場には私たちの名前と連絡先を伝えてある。けど、ガードレールも無いような山奥での事故。キャンプ地が分かったからといって、私達の遭難場所が特定できるだろうか?

 語る言葉を失い、無言が訪れる。沈黙が胸に重い。鬱蒼と生い茂る山の木々に押し潰されてしまいそうだ。

 私は隣のお姉さんを見る。余程疲れているのだろう。紫色の、長く伸びた髪をくしゃりと握って、深々と溜息をついている。

 

「……その」

「ん?」

「助けてくれて、ありがとうございました」

「ああ。別に、大した事はしてないよ。無事で本当に良かった」

「それでも。あの時、ちゃんとお礼を言えてなかったので」

「ふふ、しっかりしてるんだね。なでしこと大違いだ」

 

 やっぱり、お姉さんは笑うと美人だった。少し垂れ気味の目は、細めて笑うと、なでしこと似ているとも感じる。

 

「なでしこ、最近はリンちゃんと、キャンプの話ばっかりだよ。あの子が食べる以外でのめり込むなんて、見たこと無かったから。私もすっごく楽しいんだ」

「……そう言ってもらえるなら、嬉しいです」

「それに今だって、リンちゃんにすごく助かっているよ」

「え?」

 

 身に覚えの無い感謝に、私の語尾が上がる。お姉さんは綺麗な唇を引き上げ、薄く笑った。

 

「大学生だけど、一応いちばん大人だからね。私がしっかりしなきゃいけないじゃない? リンちゃん、凄く冷静だからさ。私も気が引き締まるよ」

「そんな……私はただ、固まっちゃってただけで」

「それでもだよ。凄く、助かってる」

 

 私は何もしていない。それでもこんなに感謝される事に、妙な気恥ずかしさを覚える。こんな状況なのに、顔にぽっと熱が灯るのを感じた。

 

「それに、リンちゃんはキャンプの達人じゃない。こういう時も、助かる裏技とか知ってたりして」

「や、達人なんてそんな。それに山のキャンプと遭難は全然……」

「そうだね、全然違うよね。リンちゃんに頼ってちゃ、姉失格か」

 

 呆れたように笑い、お姉さんは笑いかける。呟かれた言葉で、お姉さんの考える助かる可能性が、また一つ潰えたことを知る。

 

「どれだけ短くても、発見は二日後とか、かな。人間って、どのくらい耐えられるんだろう」

「水がなくても、一週間くらいはって、本で読んだ事があります……けど、この寒さじゃ」

「そうだね……冬の山で遭難って、フツーに最悪のケースだよね。何だかできすぎて笑えてくるよ」

 

 お姉さんの笑い声と一緒に、はき出された息が白くなる。唇は寒さで小刻みに震えていた。冬の容赦ない低温は、私達の体力を――命に至るまで――奪っていくことだろう。

 辺りに広がる景色は、山としか表現しようがない。立ち並ぶ常緑樹に、堆積する落ち葉。空寒い風が吹くたびに、葉が擦れザワザワと騒ぎ、落ち葉がカサカサと鳴く。

 人の形跡など、間違っても見つかりはしない。

 お姉さんの言うとおり、最悪の状況だった。冬の山に、女の子が三人。誰も遭難したことに気づかず、助けも期待できない。小説でしか見たことのないような極限状態だ。

 

 

 私達は、どうなるのだろうか。どうすればいいのだろうか。あまりにも現実とかけ離れすぎて、しっかりと頭が働かない。答えが浮かばない。

 ひゅうと風が拭く。冬の早朝の風は驚くほど冷たく、身を縮み上がらせる。この寒さも、いずれは途轍もない恐怖として、私達を襲うのだろう。そう考えると、漠然とした恐怖に取り憑かれて、表情が引きつる。

 止め処ない思考に頭を支配される。ぐるぐると巡る思考のループを止めたのは、小さなうめき声だった。

 

「……ぅ」

「なでしこ?」

 

 いち早くお姉さんが気づいて、なでしこの方に近づく。なでしこは顔を俯かせて、ふんわりとふくらんだ桃色の髪の頭頂部をこちらへ向けている。

 私は立つことができなかった。車から引きずり出したときの、なでしこの足の形を思い出してしまう。

 ぐにゃりと曲がった足。痛みに泣きじゃくるなでしこ。見たこともない、想像したことも無い彼女の様相を、受け止められる自信が無かった。顔を合わせても、どんな言葉をかけたらいいか分からない。

 

「――リンちゃん、来て!」

 

 けれど、切羽詰まったお姉さんの声に、そんな悠長な事を考えている場合で無いことを告げられる。

 立ち上がり、なでしこの下に駆け寄る。お姉さんはずっとなでしこに声をかけ続けていた。それにも、なでしこは俯いたままだ。

 

「……きもち、悪い」

 

 吐き気を堪えるように、声を絞り出すなでしこ。顔は蒼白を通り越して土気色だ。背中をさするお姉さんの声にも、反応は乏しい。

 

「なでしこ、大丈夫?」

「うう……リンちゃぁん」

 

 聞き慣れたなでしこの声。困ったときや、怖がった時に私を頼ってくれる、私を安心させてくれる声。それが、かつてない弱々しさで私に向けられる。

 

「頭がくらくらするよぉ。なんかヘンなんだよ」

 

 なでしこから差し出された手に、指を絡ませる。なでしこの女の子らしい柔らかい指は、氷のように冷たい。それはきっと、冬の寒さだけのせいではない。

 なでしこの頭はふらふらと揺れて、桃色の髪が柳のように揺れる。様子は今にも意識を失ってしまいそうに危うい。お姉さんが唇を噛み、なでしこの、折れ曲がった足を睨み付ける。

 

「っ……なでしこ、ズボンを捲るよ。少し我慢してね」

「……いたくしないでね?」

「無理言わないでよ……っ!」

「あ、待って、お姉ちゃんタンマ――や、ああ、ああああっ!」

 

 お姉さんがなでしこの足に手をかけ、なでしこの体が跳ねる。絡ませた指にぎゅっと力が籠もり、なでしこの痛みが私に伝播する。私はただ、声をかける事しかできない。

 厚手のズボンを捲り、あり得ない方向に曲がった脚を剥き出しにしていく。

 

「っ……!」

 

 露わになったソレに、私は言葉を失った。

 膝から下、臑が中程から折れ曲がり、あらぬ方向を向いている。脚部の皮は強引に引き延ばされて、通常の皮膚とは違う、ゴムのような質感を持っている。

 映画のCGでも見ているようだった。その違和感に、吐き気がこみ上げてくる。

 

「うぇぇん、いたいよぉ、リンちゃぁん」

 

 なでしこがわんわん泣いて、私にすがりつこうとする。

 大丈夫、とも、何とかなるとも言えなかった。なでしこの体にあるおぞおましい異常に、声を出すことすら躊躇われた。ただ、組み合わせた指に力を籠めて、せめて元気づけようとする。

 へし折れた箇所は、内出血を起こしているのだろう。黒い痣が広がって、なでしこの肌を汚している。折れた先のつま先にかけての皮膚は、鬱血して紫色へと変色していた。一方の折れた根元の方は、風船のようにぷっくりと膨らんでいる。

 

「血が十分に巡っていないんだ」

 

 お姉さんが苦々しく呟く。

 まさしくホースを折り曲げたような状況だ。中の水は内側にせき止められ、外側の方に十分に回らない。

 まして血液は体内を循環しているのだ。心臓や脳にも血が行き届かず、このままではなでしこの体に異常を来す可能性もある。

 なでしこはずっと呻き、泣き続けている。無邪気ななでしこの悲痛な声に、私の理性はかき乱される。

 何とかしなきゃ……でも、どうすればいいのだろう? 私達は医療の知識もないし、救急道具なんて持っていない。

 

「……しなきゃ」

「え?」

 

 独り言のようなお姉さんの呟き。

 振り向いた先には、表情を失ったお姉さんの、氷のような瞳があった。

 

「誰かがやらなくちゃいけないんだ。誰かが……」

「お姉さん?」

 

 ブツブツと譫言のように呟く。

 漠然とした不安が、私の胸の内に陰を落とす。

 やらなきゃいけないこと。お姉さんがやろうとしていること。それは、私が思い描きつつも、恐ろしくて目を背けていた事に他ならない。

 お姉さんの顔が、私を真正面から見据える。その目は完全に据わっていた。

 簡単な答えなのだ。血が十分に巡っていないなら、巡るようにしなければいけない。

 脚が曲がっているのが原因なのだ。

 ならば、それを……

 

「大丈夫だよ、リンちゃん……私が、やるから」

 

 決意の籠もる、固い声。私は何も言えなかったけれど、この場において沈黙は、身勝手で無責任な、卑怯な肯定に他ならなかった。

 硬直する私を横目に、お姉さんはなでしこの側にしゃがみ込んだ。なでしこの頬に手を添え、涙を指で拭う。

 

「おねえ、ちゃん?」

「……私の事、嫌いになってもいいからね」

 

 目を丸くするなでしこ。その目に、徐々に理解が染みる。なでしこの顔が、みるみる恐怖に包まれた。

 

「待って……待ってお姉ちゃん。やだ、やだよ」

「許さなくてもいいよ。アンタの為にやるんだからね」

「やだ! 痛いよ、やだやだ! やだぁ!」

 

 叫ぶなでしこの体に馬乗りになり、お姉さんはなでしこの脚に手をかける。太ももを持ち上げ、脇にしっかりと挟み込んで、脚が動かないよう固定する。

 その顔は、ともすればなでしこ以上に苦しそうに歪んでいる。ギリ、という歯ぎしりの嫌な音がこちらまで響いてくる。

 

「お姉ちゃん! やめてよ、お願い! おねえちゃぁん!」

「っ……! リンちゃん、なでしこの口を塞いで!」

「え。で、でも……!」

「やらなきゃいけないの! 静かにさせて。なでしこを黙らせて! お願いだから!」

 

 聞いたことの無いお姉さんの絶叫。見開かれた目は、涙で濡れていた。

 私は意を決して、なでしこの側にしゃがみ込む。半狂乱になったなでしこが、涙まみれの目で私に助けを求めてくる。

 

「リンちゃん、リンちゃん……!」

 

 お姉さんの気持ちは、痛いほど分かった。分かりすぎて苦しかった。

 なでしこみたいないい奴を。こんな怯えきった声で呼びかけてくれる奴に、途轍もなく痛い事をしなければいけないなんて。

 これ以上名前を呼ばれたら、また動けなくなる。私は首から解いたマフラーを、なでしこの口に押しつけた。

 

「むご、も……っ!」

「ごめん、なでしこ。ごめんねっ」

 

 絶望に歪むなでしこに抱きつき、マフラーを剥がさないよう、顔を私の肩に押さえつける。

 体の自由を奪われたなでしこは、益々狂乱を強めて体を悶えさせる。両腕が私の体に回されて、指が強烈に食い込んでくる。その痛みが、まるで自分の罪を糾弾されているようで。私はより一層、押さえつける力を強めた。

 くぐもった悲鳴が耳元に響く。なでしこの絶叫が魂を震え上がらせる。

 耳を塞いでしまいたかった。でも、お姉さんの覚悟を止める訳にはいかず、なでしこの頭を押さえつけなければいけない。聞きたくない声を、コートの肩に押しつけて誤魔化そうとする。

 私は何度も、何度も言い訳して、自分に言い聞かせる。これは必要だ。なでしこを助ける為に必要なことなのだ。

 だから早く。早く終わって。早く、早く、早く早く!

 

「ふぅぅ! ふんんーーっ!!」

「三つ数えたら、いくよ」

「ふヴ! ふんん! ふヴううううううううううーーーっ!」

「いち、に……!」

「ううううううううううううううううううううううううううう」

 

 

 

 

 

 

 ――ごきんっ。

 

 

 

 二度と聞きたくない音が、私の鼓膜を埋めた。

 折れた骨同士がぶつかる音。引き延ばされていた腱が強引に押し曲げられる音。ぶちりといくつかの血管が千切れる音。

 マフラーの向こうから、なでしこの悲鳴が轟いた。聞き慣れた可愛らしい声が、獣のような絶叫を上げる。

 いくら顔を押さえつけても、それは消えることがなかった。顔を強引に押さえつけると、肩口がなでしこの涙で熱くなる。

 夢だと思った。夢だと思いたかった。なでしこのこんな声、絶対に、生涯かけても聞きたくなかった。

 

「……終わったよ。がんばったね、なでしこ」

 

 全てを出し切った、お姉さんの疲れ果てた声。それも今のなでしこの耳には届かず、ただ悲しみの絶叫を、私のマフラーにぶちまけ続ける。

 私は無性に、自分が情けなくて、恥ずかしくて。 

 瞳から勝手に涙があふれ出てきて、止まらない。

 

「ごめんっ……なでしこ、ごめん……!」

 

 何に対してでもなく、私は謝り続ける。泣きながら、無力感に打ちひしがれて、こんな事になった私たちの状況を、ただただ悲しんで。

 

 

 

 

 

 私たちは遭難した。

 ここに至り、私はその事実の中にある深い絶望を、ようやく理解したのだった。




週1,2話くらいのペースで更新できるよう頑張ります。



「なんでゆるキャン△でやったの?」って言われそうだけど、作者がそれ一番思ってるから。


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3話

 

 どれだけの時間が経ったのか分からない。

 十分か、十五分か。数えればきっとそれくらいの短い時間。けれど、意識の浮いた体は、永遠の眠りに落ちたような錯覚を私に与える。

 なでしこの脚を元の位置に戻し、千切れるような悲鳴が終わっても、私はなでしこの華奢な体を抱き締め続けた。彼女は私の肩に顔を埋めたまま、一言も発しようとしない。

 気絶したのか。眠ってしまったのか。それを確認する勇気すら、今の私には無かった。

 なでしこのくぐもった、獣のような悲鳴が、耳の奥でずっと残響していた。その音にまるで金縛りにかけられたように、私は動くことができずにいた。

 

 全てをやり遂げたお姉さんは、しばらく蹲ってじっとしていたと思うと、フラフラと覚束ない足取りでどこかに行ってしまった。

 お姉さんは茫然自失だった。それも当然だろう。なでしこを、自分の妹を、気絶するほどに痛めつけてしまうなんて。私には、そのショックを推し量る事はできない。恐ろしくて、想像することすら躊躇われる。

 

 お姉さんを放っておいてはいけないと分かっていた。誰より危ない精神状態にいるのは明らかで、フラフラとした足取りのまま、この山のどこかへ消えてしまいそうな気がした。

 けれど、怖かった。お姉さんに何と声をかけたらいいか分からなくて。訳も無く謝ってしまって、心が壊れてしまいそうで。

 私はただ怖くて。何かから逃げるように、誰にも脅かされることのないように、なでしこを抱き締めたまま、じっとその場に佇んでいた。夢ならこのまま覚めてほしくて。そんなわけがないと、とっくの昔に分かっているのに。

 

 冬の山の冷たさが、ジャケットをすり抜けて、私の肝を冷やす。その暴力的な寒さが、私に現実を突きつける。

 遭難。

 助けは来ない。

 誰も私達を見つけることは無い。

 そんな言葉が、動けない私の心にゆっくり、ゆっくり浸透していく。

 いっそ放っておいてほしいのに、寒さは容赦なく、弱りきった私の心と体に現実を思い知らせる。

 白い息を吐く唇が震えている。体が意識を外れて、ブルブルと小刻みに痙攣する。

 

 

 

 震えを止めてくれたのは、肩に回されていた、柔らかい指の感触だった。死んだように動かなかったなでしこの手が、私の肩をさする。

 

「なでしこ?」

「むぐ、むぐ」

「あ、そうか。苦しいよね、ごめん」

 

 謝罪と一緒に、咥えさせたままのマフラーを取る。

 噛み跡が付いたマフラーに、唾液が糸を引く。

 その向こうに、照れくさそうにはにかむなでしこの笑顔があった。

 

「もう、ぎゅーってしすぎだよ、リンちゃん」

 

 真っ赤に腫れた目を細め、いつものように笑う。

 その変わらない様子に、私は疑問を抱かずにはいられない。

 

「なでしこ、その……」

「へいきだよ。まだすっごく痛いけど、気持ち悪いのは大分なくなったから」

 

 よくよく見れば、なでしこの顔色は悪く、呼吸はまだ不規則で苦しげだ。それでもなでしこは、私の肩に手を回し、私に抱きついてきた。

 

「ごめんね、リンちゃん。怖かったよね」

「そんな……謝られる事なんて。私は……」

「そんなことないことないよ。わたし、もう一生分くらい、リンちゃんに謝られちゃったもん」

 

 照れくさそうに笑う。その笑顔に、私の顔はかぁっと熱くなる。譫言のように繰り返していた私の「ごめん」を、なでしこはちゃんと受け止めていたのだ。

 

「リンちゃんとお姉ちゃんのお陰で、もうだいじょーぶ! さっきに比べれば、元気モリモリだよ! もりもり!」

 

 こんな状況なのに。痛くてしょうがない筈なのに。なでしこはむんっと勢いよく、胸の前で拳を作る。衰弱した体で浮かべる笑顔は、このどうしようもない暗闇の中、とてつもなく眩しく見えた。

 そのなでしこの元気に、笑顔に押されるように、私はやっと、忘れていた笑顔を浮かべることができた。

 

「……凄い奴だよ、なでしこは」

「そうかなぁ、えへへ……あいたたた」

 

 笑うと痛むのか、控えめに身じろぎをするなでしこ。

 ばっきりと折れ曲がっていた脚は、元の状態に戻っている。見た目には変わらないものの、ズボンを捲ってみれば、痛々しい傷跡が見える事だろう。

 

「うう~、まだじんじんするよぉ。リンちゃん、ちゃんと治るよね?」

 

 目に涙を浮かべながら、なでしこが私に問いかけてくる。

 分かるわけがない。けれど私は力強く首肯する。

 なでしこは凄い。改めて思う。自分がこんな状況に陥っていたら、果たしてこんな風に笑えただろうか。例え可能性であっても、歩けなくなる未来を想像して、困ったような笑いを浮かべられるだろうか。

 だから、私は頷く。治るに決まっている。キャンプ地を走り回るなでしこがもう見られないなんて、あっていいはずがないんだ。

 

 

 と、ガサガサと草を踏みしめる音が近づいてきたと思うと、木の陰からお姉さんが顔を見せた。

 恐る恐る顔を見せたお姉さんは、なでしこの笑顔を見て、緊張に張り詰めていた表情を緩ませた。

 

「起きたんだね、なでしこ」

「おねえちゃん! ……頭の傷、大丈夫?」

「アンタに比べればかすり傷よ、こんなの……人の事を心配できるなら、ひとまず大丈夫そうね」

 

 お姉さんは安堵の吐息を深々とはき出すと、なでしこの隣の私に、真剣味の籠もった目を向けた。

 

「リンちゃん、少しいい?」

「あ、はい」

 

 有無を言わさない固い口調に、私は立ち上がってお姉さんの後を追う。

 なでしこの脚を元に戻してから、幽霊のような足取りでどこかへ消えていたお姉さん。

 今の確かな足取りからは、先ほどの茫然自失の様子は見られない。

 

「お姉さん……大丈夫ですか?」

「ちょっとキツかったけどね。もう吐いたから平気」

 

 何気なくそう言って、お姉さんは幾らかやつれた、赤くなった目を向ける。

 

「なでしこ、笑ってたね。リンちゃんが元気づけてくれたんだ?」

「いえ、私は何も……全部、なでしこが」

「そうか……そうよね、いつもああなのよ。素直で、優しくて、いつでもどこでも楽しそうで……」

 

 きっと無意識だろう。お姉さんは自分の右手を、恨みを籠めて睨み付ける。

 

「あんな目に遭っていい子じゃないの。私なんかがあんな目に、遭わせていい子じゃない」

 

 妹の脚を捻る感触。それは決して消える事のない記憶だろう。お姉さんにとって、それは例えようもない罪の意識に違いなかった。

 だから、振り返ったお姉さんの目は強かった。胃の中の全てを吐き出して、彼女は覚悟を決めていた。

 

「なでしこを、リンちゃんを、このまま死なせたりしない」

 

 

 

 少し歩いた先に、沢山の荷物が積まれていた。乱雑に置かれた中には、見慣れた道具が幾つも見つけられる。

 

「これ……私達のキャンプ用具?」

「車の火、消えてたから。使えそうな道具を持ってきたの」

 

 ペットボトルの水に、ビニール袋に包まれたお菓子。クーラーボックス。そればかりか、私となでしこのシュラクから、テントのシートまで持ってきてある。

 予想以上の量。私が無為になでしこを抱き締めている間に、何往復かかけてここまで運んでいたのだ。

 

「ご、ごめんなさい。私も手伝えれば」

「いいの。なでしこの側に居てあげる人がいたほうがいいし……一人でやりたくて、敢えて声をかけなかったから」

 

 そう言いながら、お姉さんはクーラーボックスの蓋を持ち上げる。大きな箱ではなかったが、中身はまだ半分ほど詰まっている。

 キャンプでやった焼き肉の為に買い込んだ肉がほとんどだ。細切れの生肉の他に、ソーセージやハンバーグといった加工品も幾つかある。

 

「なでしこの食いしん坊に感謝しなきゃね。あれもこれもって我が儘言って、いっつもお菓子とか買い込むんだから……はい、リンちゃん」

 

 苦笑しながら、お姉さんは、クーラーボックスを私に差し出した。

 訳も分からずにクーラーボックスを抱き締めた私に、お姉さんは笑いかける。

 

「これだけあれば、二人で分けたって、三日くらいは食べ物に困らないでしょ」

「……え?」

「あと、これ鎮痛剤。なでしこに飲ませてあげて。生理用のだけど、無いよりはましだと思う」

「待って。待ってください……二人分? 私となでしこの分って事ですか? ……お姉さんは?」

「山を下りて、助けを呼んでくる」

 

 私は自分の耳を疑った。クーラーボックスから顔を引き上げると、お姉さんは相変わらず穏やかに笑っている。

 

「色々考えたんだけどね。このままじゃ多分、みんな助からない。ただ待っているだけで誰かが気づいてくれるなんて、到底思えないの。それに、冬の山で何日も過ごすなんて……なでしこが耐えられない」

 

 なでしこの怪我は酷い。本当ならしっかりと処置をして、すぐにでも病院に連れて行かなければいけない。怪我と痛みで体力は削られるだろうし、別の病気を併発する可能性だってある。破傷風などにかかれば最悪だ。命が助かったところで、元の生活には戻れなくなる。

 

「どこか車道に出られれば、車とすれ違えるかもしれない。携帯の電波も繋がる。うまくいけば、今日中にでも助けを呼べる」

 

 なでしこを助けたいという思いは、痛いほどよく分かる。

 けれど、お姉さんの意見には、あまりにも現実味がなかった。行き当たりばったりの、苦し紛れの策としか思えなかった。

 ずっと浮かべたままの微笑。そこに見える痛ましい諦念を、私は見て見ぬ振りはできない。

 

「だ、駄目です。やめた方がいいです。方角も分からないのに闇雲に歩いたら、もっと深い場所に迷い込むかもしれません。それに離ればなれになったら、もし助けが来ても、お姉さんだけ……っ!」

「それでもいいの」

「……え?」

 

 予想外の返答に、私の喉が詰まる。

 お姉さんはすぐに「冗談よ」と誤魔化して、笑顔に暗い影を落とした。

 

「なでしこと、一緒にいたくないんだ。どんな顔をしたらいいか分からない。人生で、一番酷い事をしちゃったから」

 

 きっと無意識に、お姉さんは自分の両手を見つめる。

 消えていないのだ。なでしこの脚を折り曲げた感力が、動物に近い千切れるような叫び声が、ヘドロのようにお姉さんの心に張り付いている。

 

「何かをしてあげたいの。なんとか、この状況から助けてあげたい……私に出来ることは、全部してあげたい」

 

 それで、自分がどうなろうとも……その言外の意思が、お姉さんの瞳にありありと浮かんでいる。

 なでしこに申し訳が立たない。罪の意識に押し潰されてしまいそうだ。

 罪滅ぼしができるなら、自分の身がどうなろうと構わない。お姉さんの決断は、そういう、明らかな自暴自棄だった。

 

「馬鹿な事をしているのは分かってる。無駄死にかもしれない。けれど、なでしこを助けてあげたい。例え僅かでも可能性があるなら、それに賭けたいの……だからお願い、止めないで」

 

 唇を噛みしめて、お姉さんは私に頼み込む。

 自暴自棄だ。無駄死にかもしれない。そうなったときに、なでしこが一体何を思うか。

 そんな理性的な事を思い浮かべ、それでもお姉さんの覚悟は揺らがない。

 元より、何が正解かなんて分かりはしないのだ。

 私には、お姉さんを止める事ができない。

 

「……少し、待っていてください」

 

 そう言って、私はお姉さんが持ってきてくれた荷物の山に近づく。

 ビニール袋を数枚手に取ると、クーラーボックスの蓋を開けて、中のものを取り分けていく。生肉はそのままクーラーボックスに。ソーセージなどの加工品はビニール袋へ。

 焼き肉ということもあってお肉を優先的に食べていたため、加工品の方が量は残っていた。とにかく全部をビニール袋に詰め込んで、私の鞄に押し込んだ。数本あったペットボトルの水も、大部分を鞄に入れる。

 ずっしりと重くなった鞄を、呆然と突っ立っていたお姉さんに受け渡した。

 

「これ、お姉さんの分です。一人だったら、これだけでも十分生き延びれると思います」

「え? でも……」

「動き回るならエネルギーが必要です。じっと助けを待つ私たちより、食べ物は多く持つべきです」

 

 お姉さんはバックを掴んだまま、受け取ろうとしない。私は言葉をまくし立て、鞄を押しつける。

 

「キャンプ用具があるから、火くらいなら起こせます。お肉も焼けるし、暖もとれます。だからそのまま食べられる加工品は、お姉さんが持ってください。水も、調達の仕方は知っています……初めてなので、巧くいくかは分かりませんけど」

 

 弱気な部分を見せつつも、口調は強く、自信を持って。伝えるべき事を、言葉に出す。

 

「お姉さんが死んでしまったら、なでしこが悲しみます」

「っ……」

「皆で助かるんです。だから……私は止めません。けど、死のうとしちゃ駄目です」

 

 虚ろだったお姉さんの目に、小さな光が灯る。

 お姉さんはおずおずと私の鞄を受け取って肩にかけた。私は反対側の手を握り、氷のように冷たくなったお姉さんの手を包み込む。

 

「なでしこは、私がしっかり見守ります。だから三人で助かりましょう。必ず、三人で」

「……そうだね。ありがとう、リンちゃん」

 

 温かみを取り戻したお姉さんの手が、私の手をぎゅっと強く握りこむ。

 それから、持ってきた荷物を漁り、お姉さんの装備を整えた。焚き火台と着火剤の無事が確認できたので、カイロなどの防寒具は、ほとんどをお姉さんに持っていってもらうことにした。

 結局、私のカバンはずっしりと重くなってしまった。お姉さんは大分動きにくそうにしていたが、飢えたり凍えたりするより、大分マシだ。

 

 

 

 

 そうして全部の準備を整えてから、私たちはなでしこの元へと戻った。

 なでしこは最初、大荷物を抱えて戻ってきたお姉さんをびっくりした目で見つめていたが、お姉さんの決断に対しては、意外にも首を縦に振って頷くだけだった。

 

「必ず助けを呼んで、迎えに来るよ。だから安心して待ってなさい」

 

 お姉さんはなでしこの前にしゃがみ、彼女の頬に手を添えながら言う。なでしこは名残惜しむように、お姉さんの手に自分の頬を擦り付ける。

 

「……お姉ちゃん」

「なに?」

「……お姉ちゃんのこと、嫌いになったりしないよ」

 

 ずきずきと痛む脚を庇いながら、なでしこは笑みを作る。

 

「わたしのためにしてくれたことだもん。嫌いになるわけ無いよ……ありがとう、お姉ちゃん」

 

 お姉さんの表情が崩れた。理知的だった顔がくしゃりと歪んで、目尻からポロポロと涙がこぼれ落ちる。

 堪らず、お姉さんはなでしこを抱き締めた。ぎゅうっと力強く。互いの存在を魂に刻みつけるように。

 

「頑張るんだよ、なでしこ」

「うん……一緒に帰ろうね、お姉ちゃん」

 

 そうして、お姉さんは山を下り始める。

 鬱蒼と茂る木々に隠れて見えなくなるまで、なでしこはずっと、ずっと手を振って、お姉さんのうしろ姿を見送っていた。

 

 



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4話

 過ごし慣れた静けさだった。

 冬の山には何の音もなく、時間だけがただ過ぎていくようにも感じられた。

 たまに吹く微風が、常緑樹の葉を囁かせ、落ち葉をカサカサと鳴らすくらい。いっそ強烈な程に、辺りはしぃんと静まりかえっている。

 街中にいては感じられない、ゼロに近い静寂。私はこれに親しみすら感じている。

 雄大な自然に包まれ、緩やかな時間の流れに浸るのが、ソロキャンプの醍醐味の一つだ。

 広がる芝生。遠くに見える山嶺。あるいは生い茂る木々の最中。そこでぼうっと身体を休めていると、心が安らぐ。

 私は昔から、静かなのが好きだった。

 人間は自然が必要なんだ、やはり動物は自然から生まれたんだ……と、そんなサムい事を考えたりもする。

 自然は私を包み込み、決して脅かさない。

 つい数時間前までは、冬の寒さすらも、私の味方だったんだ。

 

 

 

 

 

「へくちっ……たたぁ」

 

 可愛らしいくしゃみの声の後に、痛みへの呻きが続く。

 なでしこは赤くなった鼻を擦り、ジャケットを着こんだ自分の身体をさする。

 

「やっぱり、じっとしてると寒いねぇ、リンちゃん」

「だな」

「よく漫画だと、そうなんした人達が裸で抱き締めあったりしてるよね」

「濡れた服を着てるとまずいからね」

「……リンちゃん、かもんっ!」

「死ぬ気か」

 

 両手を広げるなでしこに嘆息。

 お姉さんが私たちと別行動を初めて、二時間。なでしこはすっかりいつもの調子を取り戻していた。鈴の鳴るような声で、時たま冗談を言ったり、はしゃいだりする。

 身じろぎの度にうめき声を出さなければ、まるっきりいつも通りのなでしこだった。

 

「傷、まだ痛む?」

「んー、痛くないって言うと嘘になるけど、もう全然気にならないよ。リンちゃんとお姉ちゃんのお陰だね」

 

 なでしこの折れた足には、私がズボンの上から添え木を施した。その辺に落ちている枝を使用するのは憚られて、折れたテントの支柱をタオルでくるんで、それを別のタオルで、なでしこの足に巻き付けている。多少不格好だが、骨の折れた足を放っておく方が問題だから、気にしていられない。

 ちなみに、折れた支柱を発見した段階で、テントを立てる事が不可能であることが確定した。万事順調とはいかないが、なでしこはいつも通りのゆるい笑顔を私に向ける。

 

「リンちゃん、凄いねー。山のお医者さんだ」

「……別に、大した事はしてないよ」

「こういうの、どこかで勉強したの? それとも、ソロキャンプで必須知識だったり?」

「単に本に書いてあっただけだよ。サバイバル系の小説とかだと、こういう展開、結構あるし」

 

 まさか自分がその当事者になるとは、夢にも思わなかったけれど。事実は小説より奇なりとは、まさしくこういうことなのだろう。

 会話が途切れると、まるで波が寄せ返すように、静寂が耳を騒がせる。

 何となく気まずい。どうしてだろう、なでしこと一緒のキャンプだって、静かな時はある。そして、それが何より心地良い時間のはずなのに。

 

「……静かだねぇ。みーんな、寒さで寝ちゃってるのかな」

 

 なでしこも同じ感想を抱いたみたいだ。照れ隠しのようにそう言ってはにかんでみせる。

 

「……車の前に飛び出してきたの、タヌキだったよね? タヌキって冬眠しないのかな」

「どうだろう。動物全部が冬眠するわけじゃないと思うけど……ウサギとかも、冬眠しないよね」

「ウサギさんかぁ。この山にもいるのかな」

 

 なでしこが両手を頭の上に乗せ、うさ耳を作りながら聞いてくる。いつも通りの、何気ない会話。それがありがたい。何もできないなら、何か考えている方が気が紛れる。私は昔読んだ本の知識を、頭から引っ張り出す。

 

「冬眠しない動物は、後は鹿とか……熊とか」

「くま?」

「冬眠はするんだけどね。餌が十分にとれなかったり、子供を持ってたりすると、食べ物を探して歩き回るらしいよ」

「食べ物……」

 

 なでしこの顔が、さぁっと分かりやすく青ざめた。

 

「ど、どどどうしようリンちゃん。わたしたち、食べられちゃったりしないかな……?」

「……行きがけの道に、猛獣注意の道路標識あったな」

「わぁぁぁ、さもありなん!?」

「なんで古語」

 

 なでしこの大げさなリアクションに苦笑が漏れる。しかし、緩んだ私の頬にも、冷や汗が伝う。

 熊。もし冬眠から覚めた熊がいたなら、洒落にならない事態だ。装備も不十分な女の子二人なんて、熊からすれば格好の餌だ。

 特になでしこなんて……そう考えてしまった私の脳裏に、映像がよぎる。逃げられず、木に寄りかかって震えるなでしこ。熊に組みしだかれ、柔らかな肌に牙が食い込み悲鳴が上がる。骨を折られ、頭を踏みつぶされ、最後に残った抵抗すらも奪われる。

 そうして助けを呼ぶことも出来ず、足を引きずられ、生きたまま巣穴へと運ばれる。

 

「へくちっ……ったた」

 

 なでしこがくしゃみをして、私の意識は悪質な妄想から帰ってくる。

 ビー玉のようなくりくりした目が、私をまっすぐ、心配そうに見つめる。

 

「リンちゃん?」

「……たき火、しようか。寒いし、火があれば動物も近寄って来ないだろうし」

「っ……うん、いいねっ。やろうやろう!」

 

 私の提案に、なでしこはぱぁっと笑顔の花を咲かせた。

 

 

 

 

 

 

 

 その辺に落ちている枝葉は、朝露が染みついてしっとりと濡れた物ばかりだった。たき火に適した乾いた木の調達は、今の時間では難しそうだ。

 そこで、太めの木々を細かく切り分ける事にした。細かい木なら乾燥も早いし、中心の方は堅いが水気は少ない。

 薪割り斧を使って、木を細かく裁断していく。

なでしこはずっと耳を塞いで俯いていた。枝の折れる音が、自分の足の骨を連想させるのだろう。

 側で見ていた私でさえも、枝が悲鳴を上げる度に、二度と思い出したくない光景が脳裏をよぎる。私は目を瞑って、できる限り黙々と作業に集中する。まだ辺りは明るいが、本当に火が必要になるのは夜だ。夜に火を絶やさないよう、薪は多めに割らなくちゃいけない。

 そうして、小山ができるくらいの量になると、乾いたものや特に小さい物を選定する。

 木の質は良くなかったが、着火剤の数は一個で足りた。この辺りは長年のソロキャンプの経験が生きた。直ぐに赤々とした火が灯り、遠赤外線が私となでしこの身体を温める。

 

「はぁぁ……あったかいなぁ。やっぱりたき火はいいね、リンちゃん」

「……だな」

 

 なでしこに相槌を返し、私も彼女の隣に寄りかかり、身体を落ち着けさせる。

 親しんだたき火の温かさは、身体だけでなく、緊張と不安に強ばった空気すらも綻ばせてくれた。心を剥き出しにするようだった沈黙は、いつも私を包み込むような、自然の優しさを取り戻している。

 ぐぅぅ、となでしこのお腹が鳴った。一瞬はっとしたなでしこは、僅かに頬を染めて、恥ずかしそうに頭を掻く。

 

「……お腹すいたね、リンちゃん」

「ぶっちゃけ、いつ言うのか楽しみにしてた」

 

 私は脇に置いていたクーラーボックスの蓋を開ける。

 食べかけのパック詰めされた肉が四つ。二リットルのペットボトルが一本。それが私達に残された食料だ。

 終わりの見えない待機を続けるには、余りに心許ない量。一人なら間違いなく半狂乱になってしまうだろう、命のタイムリミット。すぐそこに控えている、餓えという言葉が脳裏にちらつく。

 けれど私は、涎を垂らさんばかりに心待ちにするなでしこに、笑顔を作って振り向いた。

 

 

 

 

 

 

 

「ん~~~っ!」

 

 この極限状態においても、なでしこの食欲は健在だった。肉を一切れほおばる度に、蕩けそうな笑みを浮かべて歓喜の声を上げる。

 

「ほんと、おいしそうに食べるな、なでしこは」

 

 何度目かも分からない感想が漏れる。毎度毎度、呆れる程の食いっぷりを見せるなでしこだったが、こんな状態でも全く衰えないとは。

 

「あきちゃんが、よく『外メシはうまい』っていう説を出すんだよ。危ない状況ほどおいしく感じるんだって。わたし、本当にあきちゃんの言う通りだと思うっ」

「お前、大体いつもうまいって言ってるよな」

「デンジャラスな女ですからっ」

「危なっかしい女の間違いだと思う」

 

 遭難しても足が折れても、目の前の肉に集中できるなんて、大物なのか馬鹿なのか。

 たき火から十分に熱を持った薪を幾つか取り出し、焚き火台の上に乗せて金網を敷く。網の上に乗った八枚の肉で、今日のご飯は終了だ。さもしさに気が参りそうになりながら、私は焼き上がった肉をなでしこの紙皿の上に置いた。

 

「はい、焼けたよなでしこ」

「ありがとう……ごめんねリンちゃん」

「いいよ。怪我してるんだから、じっとしてな。したいことがあったら、私が手伝うからさ」

「じゃあじゃあ、その大っきいお肉、私が予約します!」

「遠慮無いなお前」

 

 ひとパック分の肉を、一枚一枚、大事に食べる。胃袋の大きさ……というか規格が違うので、なでしこが若干多めだ。併せて持ってきた焼き肉のタレにたっぷり浸けて食べる。

 

「そういえば、覚えてる? 遭難した人が、焼き肉のタレだけで何週間も生きてたってニュースがあったよね」

「ああ、そういえば、そんなのもあったような?」

「さすが焼き肉のタレだよね! 何でもおいしくするばかりか、命まで救っちゃうなんて!」

「あれ、後で嘘情報だって追記されてなかったっけ」

「……自分に嘘をつくのが一番ずるいんだよ、焼き肉のタレさん」

「何に対しての説教だ、何に」

 

 まあ、実際に嘘という訳でもないんだろう。肉以外に必要な塩分や糖分を取れるし、栄養価は高いと思う。今の私だって、それを期待して多めに使用している。肉がなくなった時は、最悪コレを飲むことも候補に入るのだろう。

 一パックだけの焼き肉は直ぐに終わり、たき火を囲んでのご飯は終わった。なでしこは少し物足りなさそうにしていたが、さすがに食糧事情は分かっているため、文句を言うことはしない。

 腹に食べ物を入れ、身体もたき火で十分に温まると、私たちはまた木に寄りかかり、時が過ぎるままにじっと過ごす。

 パチパチと、たき火が跳ねる音が響く。温かく、一瞬でも満ち足りた時が流れる。

 

「……お姉さん、大丈夫かな」

 

 緊張から解き放たれた心から、つい弱音が漏れた。

 助けを呼ぶために、たった一人で山を下りていったお姉さん。無意味と分かっても、考えずにはいられない。

 

「お姉ちゃんなら、きっと大丈夫だよ。今頃おりゃーって、山を駆け下りてる筈だから。川の鮭とか捕まえながら」

「熊かよ。それはそれで怖いな」

「体力に定評のある各務原家ですからっ。お姉ちゃん、私なんかよりとっても強いんだよ」

 

 なでしこはお姉さんの無事を信じて疑わない。それだけで、この姉妹の信頼と、なでしこの精神力の強さを感じさせられる。

 

「……そうだと、いいな」

「きっとそうだよ」

「うん……そうだな」

 

 結局、ここにいないお姉さんの事を考えたってどうしようもないのだ。

 それなら、なでしこのように、理由などなくても生存を信じる事が最良なのは間違いない。

 なでしこの笑顔が眩しくて、自分の後ろ向きな性格が、ほんの少し嫌になった。

 冬の山は相変わらず灰色で湿っぽい。鬱蒼としていて、鬱屈で、味気ない。このまま永遠に変わらないのではないかと思わされてしまう。

 しかし、それは結局、私の勘違いでしかなくて。灰色に濁った空は徐々に光を落とし、空気を更に冷ややかなものに変えていく。たき火の橙色の光が存在感を強め、パチンと空気の爆ぜる音を奏でる。

 ぴゅうと風が吹き、たき火では誤魔化しきれない寒気が背筋を伝う。

 

「――そろそろ、寝袋を出そうか」

「そうだね……あ」

 

 提案にすぐに頷いたなでしこだったが、ふと思い出したように声を上げた。一瞬の停滞の後、気まずそうに表情を濁らせる。

 

「なでしこ、どうかした?」

「ん、その……た、大したことじゃないんだけど」

「いいよ、言ってみなよ。私に出来ることなら、何でもするから」

 

 優しくそう諭すも、なでしこはかつてない歯切れ悪さで、言葉に詰まったような仕草を見せる。じっと待っていると、次第に顔にぽうっと火が灯る。たき火の熱が、そのままなでしこの顔に移ったみたいだ。

 

「あの……ほ、本当は絶対、こんなこと言わないからね? 怖いとか、自分じゃできないとかじゃないんだよ? 分かるよね?」

「ちゃんと分かってるって……何?」

 

 言わなきゃ分からないと、先を促す。

 なでしこは、この暗闇でも分かるくらいに顔を真っ赤に火照らせて、おずおずと口を開く。

 痛む足首を庇いつつ、しきりに太ももを摺り合わせているのに気づいたのは、残念ながらその後だった。

 

「……おトイレしたい」

「……ああ」

 

 足を怪我してるもんな。冬服はしっかり着こんでて脱ぎにくいもんな。

 けど、そうか……私がやらなきゃいけないのか。

 予想していなかった初めての体験に、私は上手い返答を返せず。

 行為の最中に「誰にも言わないから」と約束したのが、私のなでしこに対する、精一杯の慰めだった。

 




日常(?)パート下手くそでごめんなさい。


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5話

 

「うう、恥ずかしい。もうお嫁にいけないよぉ……」

「そんな大袈裟な。私は気にしないってば」

 

 寝床に収まるなでしこの顔はずっと真っ赤だ。極寒の夜の山の中、トマトみたいに火照った顔から、湯気がしゅうしゅうと昇っている。

 私はなでしこを慰めるけれど、気持ちは十分に分かる。こんな極限の環境でおしっこを手伝ってもらうなんて、難とも間抜けな話だ。

 それに、冬の山はしんと静まりかえっていて、極寒の空気はぴんと張り詰めていて……無視しようにも、色々目立ってしまったのだ。具体的に言うと、音とか、匂いとか。

 

「……このまま消えちゃいたい」

「それはマジで洒落にならないからやめて」

 

 縁起でも無い言葉にツッコミを一つ、私はなでしこが入ったシュラフのファスナーを上げる。

 なでしこをシュラフに入れるのは、結構な労力だった。できるだけ痛みを与えないようになでしこの身体を持ち上げて、シュラフの筒にゆっくりと入れていかなければならず、身じろぎする度になでしこの身体に負担をかけてしまう。結局十五分くらい悪戦苦闘し、なでしこの目からは大粒の涙が浮いていた。

 たき火の橙色の明かりに、シュラフから覗いたなでしこのビクビクした顔が照らされる。

 

「これ、出る時の事を考えるとやだなぁ」

「とりあえず、今痛くないなら大丈夫だと思うけど……寝方は、少し考えてみるよ」

 

 冬のキャンプにおいても、体温調整は何より大事だ。身体が冷えると、温めるために体力を使う。

 食料も僅かなこの状況で、無駄な体力消費は命取りだ。怪我しているなでしこなら尚更だ。シュラフに包まれて、たき火の点いている状態なら大丈夫だろうが、負担のかかる事は極力避けなければいけない。

 

「お姉ちゃんも、どこかで休んでるかな」

「……多分ね」

 

 なでしこが独り言のように呟き、私は曖昧な頷きを返す。

 お姉さんは火を起こすことはできないが、カイロもブランケットも持っている。きっと無事なはずだ。そして、それ以上の事はきっと考えるべきではない。

 私たちが遭難したように、何が起こるかわからないのが山なのだから。

 

 私はたき火に薪を足すと、なでしこの隣にしゃがみ込み、膝を抱えて蹲る。ぱちぱちと燃えるたき火の音に、つい聞き入る。

 日が落ちた山の中は、完全な暗闇だった。山も空も、目を閉じた時よりも暗い黒色に塗り潰されている。

 たき火の橙色の明かりだけが、私となでしこを浮かび上がらせる。二人ぼっち、世界に取り残されているような錯覚を感じる。

 

「二人でたき火を囲んだこと、思い出すなぁ。やっぱり、たき火をすると、キャンプしてる! って気分になるね」

「……まさか、今も?」

「もちろんだよぉ。二人でたき火を囲っていると、キャンプをもう一日延長したみたい」

 

 二人ぼっちの暗闇。それでも、なでしこが隣にいるだけで、朗らかな気分にさせられるから不思議だ。

 なでしこは懐かしむような顔をしている。夜の闇の中に、今までのキャンプを思い浮かべているらしかった。

 

「一緒にたき火して、お肉食べて。寒かったり痛かったりするけど、リンちゃんが隣にいるから、こんな状況でも、ちょっと楽しい」

「そう、かな」

「それに、今までは、寝るときはテント別々だったよね。リンちゃんと一緒に寝るの、実は初めてだったりして……そ、そう考えると、なんか照れちゃうかも。えへへ」

 

 照れくさそうに笑うなでしこを見て思い出す。そう言えば、寝袋にくるまったなでしこを見るのは初めてかもしれない。もこもこの寝袋にくるまった姿を傍目から眺めるのは何とも滑稽だ。

 そんな、思わず吹き出しそうな格好のなでしこが、私の目をまっすぐに見つめてきた。

 

「ねえ、リンちゃん。どうせなら、一緒に寝ない?」

「……なでしこが寝るまでは、ここにいるよ」

「えー。つまんないよ。寝袋パーティーしようよぉ」

「子供か」

 

 思わず苦笑が漏れる。緊張感が皆無すぎる。寝袋にすっぽりくるまってしまうと、足を怪我している事実を忘れてしまいそうだ。放っておくとこのまま、貴重な体力と睡眠時間を削って世間話が始まってしまいそうだ。

 

「しょうがないなぁ」

 

 私はうずくまっていた身体を動かして、なでしこのお腹あたりに寝そべった。「うえっ」というなでしこの小さな声がする。もふもふのシュラフの外面は、たき火の熱でほんのりと温かかった。

 

「り、リンちゃんのシュラクは?」

「少し疲れたから、しばらく休んだら取ってくるよ。なでしこが寝るまでは、こうしている……これでいい?」

「うん……ありがとうリンちゃん、ちょっと苦しいけど、安心するよ」

 

 そのまま、なでしこのお腹を枕にしたまま、時間が過ぎていく。目は冴えて、眠気は一向に来る気配がなかった。星のない真っ暗な空が、視界一面を塗り潰している。

 

「……リンちゃんがいてくれて、良かったよ」

 

 なでしこが呟いた。微睡みに揺れる、寝言のような響き。私は返事をせず、眠気に身を委ねさせる。

 

「頑張ろうね、リンちゃん……一緒に、がんばろう……」

 

 譫言のような呟きが次第に遠ざかり、後にはすぅすぅと安らかな寝息だけが残った。

 なでしこが寝静まっても、私はお腹に頭を乗せたまま、凍て付く空をじっと眺めていた。賑やかななでしこが静かになって、本当の静寂が、私の心にすきま風のように吹いてくる。

 

「うん……頑張るよ、なでしこ」

 

 心の底から言葉を絞り出して、私は起き上がると、作業を開始した。

 食べ物はまだ二日分くらいは残っている。この山でじゃ調達も不可能だろうし、何とかして食いつなぎ、それまでに助けが来ることを祈るしかない。

 問題はもっと他にある。2Lペットボトルの水は、もうほとんど残っていないのだ。

 持っていた水の大半はお姉さんに渡したため、私達二人の生命線は、あとたったの数十ミリしか残っていない。水の確保は最優先だった。

 私はなでしこから少し距離を置くと、ランタンの電気を付けて、闇を切り払う。黒ずんだ茶色の木の幹が不気味に浮かび上がり、身体がきゅっと縮こまる。ひとりぼっちに放り出されると、暗闇はこんなに怖いのだ。

 

「っ……気合い入れろ、私」

 

 私は頬をぴしゃんと打って、身体に渇を入れる。

 明日を生き抜くために、私は動かなければいけない。生き残るために、なでしこの分まで。

 最初に私は、テントの外套を広げると、端を木の枝に括り付けた。二方をできる限り高い所に括り付け、もう二方を低めに結ぶ。

 真ん中に撓んだ外套は、下にずれ下がったハンモックか、できの悪い滑り台のようになった。私はその滑り台の出口の所に、底の広い鍋を置く。

 見よう見まねで作った、水の採取方法だ。こうすることで、気温の変動で発生する朝露を、効率よく集めることができる……はずだ。

 

「穴とかは空いてないな? よし……ちいさい鍋しかないけど、溢れたりとかしないよね」

 

 呟き、自分の楽観的な想像に苦笑してしまう。

 一体これで、どれほどの水を確保できるのだろうか。このやり方だって、本でチラリと見ただけで、得られる水の量など覚えていない。

 いや、そもそも上手くいくのだろうか。どこか見落としてはいないだろうか。

 残りの水はもう殆ど無い。これが上手く機能しなければ、私たちの残された時間はぐっと短くなる。

 そうすれば、私のミスで二人とも死んでしまうのだ。私のせいで、なでしこが。

 

「……ついでに、もう一つ」

 

 迷っている余裕はなかった。私は薪割り斧を手にすると、自分のシュラフを縦に切り裂いた。ナイロン生地が切断され、長らくの友だったシュラフが悲鳴を上げる。

 筒状のシュラフを一枚のシートにして、先ほどと同様に木の枝に括り付けた。野外キャンプの時、朝起きるとシュラフがぐっしょりと濡れていることはよくあった。今こそ、その苦い経験に助けてもらう時だ。

 これで足りるだろうか? 分からない。ダメな気がする。

 水を確保しなければ。もっと他に、出来ることはないだろうか。昔の記憶を引っ張り出して、私は緊張に硬直する頭を白熱するまで目一杯回す。

 

「後は……地面から集める方法があったはず……」

 

 地面に穴を掘り、そこにトレーなどを置いて、穴をタオルで塞ぐのだ。そうすることで、地面から蒸発する水蒸気を水として確保する事ができた筈だ。

 確証はない。無駄かも知れない。けれどもやらない訳にはいかない。

 ハンドタオルを手に巻いて、地面に指を沈み込ませる。氷のような冷たさに背筋が震えた。冷気がタオルを越えて指先を突き、針で刺されたような感覚を与えてくる。

 

「大丈夫……後で当たるたき火は、きっと天国。空腹は最高のスパイス的な感じ」

 

 私は一心不乱に、氷のような地面に指を沈み込ませる。堅い土に指をめり込ませる度に冷たさが染み込み、土が擦れる度に薄皮が剥がれるような痛みが走る。

 そんな辛い感覚を味わいながらも、凍ったように冷たい地面は堅く、中々削れてくれない。

 ざくざく、ざくざくと、一心不乱に指を地面に食い込ませていく。

 ざくざく、ざくざく。

 

「……、……」

 

 なでしこが寝てからこんな作業を始めたのは、きっとやせ我慢のような物だろう。

 なでしこには、できるだけ笑顔でいてほしかった。時間と体力が許される限りは、さっき彼女自身が言っていたように、キャンプの延長のように楽しんでほしい。

 冗談でもなく、なでしこが笑って「大丈夫」と言えれば、本当に大丈夫な気がしてくるのだ。

 なでしこの底抜けの明るさに、私は救われている。

 そうじゃなきゃ……もしたった一人だったら、私はとっくに……

 

「……、……」

 

 帰りたい。

 元の日常に、帰りたい。

 ここは暗くて、寒くて、寂しい。

 本当だったら、明日から学校に行くはずだった。キャンプ開けで、寝不足気味の眠い目を擦りながら授業を受けて、斉藤とくだらない話をして、暖房の効いた図書館で本を読みふけって、たまに来るなでしこや斉藤や、野クルのメンバーのしょうもない話に目を通す。そういう何てことの無い日を送るはずだったんだ。

 心配する事なんて何もなかった。明日の飲み水を不安に思ったりしない。このまま死んじゃうかもなんて不安になったりしない。

 自分がどうしてこんな状況になってしまったのか、理解ができても、納得ができない。あまりにも異質すぎて、衝撃過ぎて。心が身体から吹き飛ばされて迷子になったみたいだ。

 

 唐突に奪われたいつも通りの日々は、昨日のことのようにありありと思い出される。

 しょうもないメッセージのやりとりが、本を覗き込む斉藤の顔が、なでしこの笑顔が、冬の山の暗闇に浮かんでは消えていく。

 あるはずだった日常を思い浮かべながら、私はかじかむ指先で、地面を掘る。

 この披露も、指先の痛みも、全部無駄かもしれないのに。水なんて得られないかもしれない。仮に水が手に入ったところで、助けもなく死んでしまうかもしれない。

 こんな山奥の、どことも知れない寒い暗闇の中、誰にも見つけて貰えず、ひっそりと息を引き取ってしまうのではないだろうか。

 そんなのは、嫌だ。

 キャンプが好きだ。一人でやるのも、なでしこや野クルの皆で一緒にやるのも好きだ。

 写真を上げると、羨ましそうにかけてくれる皆のメッセージが好きだ。

 自分の感動を一緒に分かち合いたいと考える、なでしこからの電話が好きだ。

 

 

 帰りたい。死にたくない。

 あの生活に、帰りたい。

 

 

「っ……だから、頑張るんだ」

 

 後ろ向きな感情に蓋をして、私は一心不乱に指を土に食い込ませる。

 

 

 

 全部の作業を終えたのは、作業を始めて二時間後。

 私はしもやけで真っ赤になった指を温めて、お姉さんの鎮痛剤を一錠だけ貰って、ペットボトルの水を一口飲んだ。

 そうして、明日の結果が上手くいくことを祈りつつ、ブランケットにくるまった。

 

「私が、頑張らなくちゃいけないんだ……私が、なでしこを……」

 

 披露で真っ白になった頭が勝手に言葉を紡ぐ。眠気は直ぐにやってきて、私はなでしこの後を追うようにして眠りへと落ちていった。

 

 

 

 

 こうして、長い長い、遭難一日目が終わった。

 今にして思えば、この時とっくに、私の心にはヒビが入っていたんだろう。

 

 




毎週投稿って言っておいて一か月も続かないのは自分でもどうかと思います。
もし楽しみにしていらっしゃる方がいれば申し訳ない。
多分連載形式とか向いていないんだと思います。



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6

ただでさえ読む気が失せる内容なのに、更新さえ遅いとか……
本当に申し訳ないと思っている(メタルマン並感)


書き出した以上、終わらせないのはいけない。



「――ん」

 

 

 瞼の裏側に、早朝の銀色の光が透けてくる。重い瞼を持ち上げると、たき火の燃えさしが目に止まる。火はずっと前に消えていたのか、もう煙すら上がっていない。

 冬の山の朝は絶対零度だった。瞼に霜が乗っているのか、瞬きをする度にパチパチと小さな刺激が走る。

 身体が冷え切っていた。白い息を吐き出す唇が震えている。飲み水のために、大事なシュラフを壊してしまったツケだ。ブランケットの防寒機能なんてたかが知れている。

 あと数時間このままでいたら凍死してしまうかもしれなかった。次からは、薪はもっと沢山くべておかなければ。

 

 

「……水は、どうなったかな」

 

 

 生命線のシュラフを犠牲にしたのだ。上手くいってくれなければ、困る。

 一度目覚めると、容赦ない冷たさが肺を通り、身体を内側から冷やして意識を覚醒させる。不自然な体勢で寝たせいか、動く度に間接が軋んで、ひどく堪えた。

 

 

 幸いにも、即席で用意した水の調達方法は、しっかりと機能してくれた。置いていた鍋の八割程が水で満たされ、薄い氷の膜を張っている。漏斗状になったテントの天幕の先端には、大きなつららができていて、澄んだ水滴がポタポタと鍋に落ちていた。

 胸の支えが取れた気分だった。少なくとも、これで喉が渇いて死ぬ事はなくなったのだ。

 私は急いでなでしこに駆け寄ると、みのむしみたいに丸まったなでしこを揺すり起こす。

 

 

「やったよ、なでしこ! うまくいったぞ!」

「ひゅわあああ!? 痛たああい!?」

「あああごめん! 嬉しくて、つい……」

 

 

 本気で痛がるなでしこに、私の心臓がぎゅっと縮こまった。

 水が手に入った喜びは、なでしこの目に浮かんだ涙で、たちまち雲散霧消する。浮かれていたとは言え、流石に迂闊すぎたと、私は自分を戒める。

 

 

 

 

 心優しいなでしこは、私の謝罪を何のてらいもなく受け入れ、水が手に入ったという報告を心から喜んでくれた。私の倍以上に喜んでくれる姿に、何となく救われた思いを抱く。

 新しく作ったたき火で、朝食のスープを作った。クーラーボックスの肉を半パックに、味付けは焼き肉のタレのみ。あんまりにも味気ないスープだったが、一口飲み込むと、身体の内側にぽうと火が灯り、冷えて固まっていた内臓や筋肉が解れていく。温かいスープに、全身が喜んでいるようだった。

 

 

「生き返るねえ、リンちゃん」

「ああ……ホント、生き返る」

 

 

 にへ~と笑うなでしこに、私も小さく笑い返す。

 相変わらず凍えるほどの寒さだったが、見上げた空は青く、さんさんとした日差しが射し込んでいた。日なたに身体を投げ出すと、じんわりと熱が身体の外側に染みてくる。

 穏やかな朝だった。もしキャンプ場でこんな朝を迎えられたら、最高の一日の始まりになったことだろう。

 

 

「んー。ケータイ、やっぱり圏外だね」

 

 

 寝転んだなでしこが、青空にケータイを翳してぷらぷらと振る。

 

 

「ちょっとこのあたり散歩したら繋がるとか……ないかな、やっぱり」

「ないんじゃないかな……なあ、なでしこ」

「どうしたの、リンちゃん?」

「なんで、こんな近いの?」

 

 

 ケータイを上空にかざしたなでしこの顔が、私の超至近距離にあった。

 なでしこはわざわざ、ほっぺたがくっつく程の距離まで近づいて、私と並んで横になっている。ケータイをふりふりと振る度に、服が擦れてこそばゆい感触がする。

 

 

「ホラ、電波が繋がれば、みんなにメッセージを送れるでしょ?」

「そこはまず119じゃ……うん、そうだな。それで?」

「そうしたら、皆に『遭難なう』って写真を送ろうと思って」

「元気すぎかよ」

 

 

 条件反射的に突っ込んでしまうも、なでしこはどこまでも本気だった。

 

 

「だって、あきちゃんもあおいちゃんもえなちゃんも、みんなすっごく心配してるし、私たちの事を気にしてると思うよ。どこで何してるのかって」

 

 

 ビー玉のような澄んだ目が私を見つめ、柔らかく微笑んでくる。

 

 

「だから、帰ったらすっごくお話しないといけないんだよ!」

「……え?」

「きっと、質問攻めにあっちゃうよ。一日話したって終わらないよ。どんな風に過ごしたのか、どうやって帰ってきたか、全部話してたらすっごく大変なんだから!」

 

 

 屈託の無い笑顔が、なでしこが本気でそう思っていることを教えてくれる。

 生き残るかどうか、助けが来るかどうか。

 そんな薄暗い賭け事なんて微塵も考えずに、なでしこは『その後』の事を考えているのだ。

 

 

 私が言葉を失っている内に、なでしこはぐっと体を寄せてきた。私の反対側の肩を掴んで、引き寄せる。

 お餅のように柔らかいほっぺたが重なる。私の心臓がどきんと跳ねた。

 

 

「はい、チーズ!」

 

 

 何か言う間もなく、なでしこはケータイのインカメラでシャッターを切った。

 画面には、笑顔でピースを作るなでしこに、訳も分からず目を丸くした私の、少し赤くなった顔。

 その写真を大事そうに眺めて、なでしこは笑った。

 いつもの通り、屈託無く。どこかも分からない山間の、押し潰されそうな静寂の中で。

 

 

「ちゃんと皆に伝えないと。わたしたち、こんなに大変な目に遭って、リンちゃんはこんなに頑張ったんだって!」

「……」

 

 

 腹の底が震えた気がした。

 訳も無く感極まって、涙が出る代わりに、身体の中の悪いものが全部吹き飛ばされたように感じられる。

 必ず助かるとか、きっと生きて帰るとか、そんな励ましさえ馬鹿らしく感じられる。

 この時私は、本当に、心の底から、彼女の友達になれて良かったと思えた。

 そんな万感の思いを胸に、私もいつも通りに、溜息と一緒に唇を綻ばせる。仕方ないなぁと、困ったように。

 

 

「……だな」

「でしょ? 遭難なんて、そうそうできる事じゃないもんね!」

「そうそうあってたまるか」

「あはは……ね、リンちゃんのケータイも貸して」

 

 

 そうして、なでしこは私のケータイでも、同じように写真を撮った。今度は私もぶきっちょに笑って、胸の横でピースを作って。

 

 

「電波がないと写真も送れないから……これでおそろいだね、リンちゃん」

 

 

 なでしこの満面の笑みと、対照的な自分の固い笑顔。

 表情は違うけれど、二人のケータイに、同じ写真が入っている。

 深くは言わなかったけれど、これはきっとお守りなのだろう。

 生きて帰れるように、ずっと笑っていられるようにと、なでしこの優しさが詰まったプレゼントだ。

 私は待ち受けにその写真を選んだ。いつか本当に電波が通った時のために電源は切っていたけれど、時々、思い出したようには起動して、その写真を眺めた。

 

 

 

 

 二人の笑顔が見られる内に、きっと帰れるという願いを込めて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――その日は、それ以上何も起こらなかった。

 

 



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7

 

 

「誰が一番最初に気付くと思う?」

 

 

 三日目、朝。

 昨日と同じ、ほんの少しの肉と焼き肉のタレを入れたスープを手に、なでしこがそんな事を聞いてきた。

 

 

「……聞くまでもないけど、私達の遭難にって事だよね」

「ちょっと想像してみたんだけど、わたしたちが遭難したーって言っても、みんなは『そのうち戻ってくるよー』って流しちゃいそうな気がして」

「いやいや、流石にないだろ」

 

 

 ……と、信じたい。

 そう付け加えてしまう位には、その光景は容易に想像できた。木々の隙間から覗く青空に、いつもケータイでやりとりしているメッセージの吹き出しがぽこぽこ浮かんでくる。

 私たちが休んで連絡も取れない話題とか、誰かがキャンプ用具の写真を載せれば吹き飛んでしまいそうだ。

 

 

「……うん、考えれば考えるほど」

「ありそうだよねー」

 

 

 なでしこはにっこりと微笑んでみせる。

 遭難に気付かれないなんて、最悪の可能性であるはずなのに、空にメッセージが浮かぶ想像はコミカルで、悲壮感はない。

 いの一番に空想に浸るなでしこが、楽しそうにしているからに違いなかった。疲れ切り、凍えた身体でも、空想はするすると頭に浮かんでくる。

 

 

「大垣が特にそうだけど、斎藤もああ見えて馬鹿騒ぎ好きだからなあ。遭難ごっことかやりそうだし」

「でもね、一番最初に気がつくのは、やっぱりあきちゃんだと思うんだ」

「そうか?」

「リンちゃんはあまり知らないかもだけど、野クルの部長は、みんなのことをすっごく考えてるんだよ。キャンプの企画するのも結衣ちゃんだし、ああ見えて凄いんだから」

「じゃ『ああ見えて』とか言ってやるなよ」

 

 

 スープを飲み干した私たちは、たき火の側に隣り合って座った。二人で一本の木に寄りかかり、肩をそっと触れ合わせる。

 そのままたき火を前に、空想の続きを楽しんだ。大垣。犬山さん、恵那。皆は、私たちが学校に来ていない事に、電話が繋がらないことに、どんな反応を見せることだろう。

 

 

「きっと、学校中が大騒ぎしてるよ。二人はどこだーって、探してくれてるはず」

「そうかな……」

「そうだよぉ。きっと、もうすぐ助けが来るってば」

 

 

 なでしこは力強く断言して、私の肩に頭を乗せる。

 

 

「今頃、お姉ちゃんが山を抜けて、助けを呼んでくれてるよ。ううん、もうとっくの昔に山を抜けてるかも。実はすぐそこに車道が走っていて、楽々誰かと通信がとれちゃったりとか……そうじゃなくても、あきちゃんがテレパシー的な何かで、わたしたちの居場所を突き止めてたりして。こう、ツインテールをぴーんって上に向けて」

 

 

 元気のいい声が、私に根拠のない自信をお裾分けする。

 今にそこの木陰から、捜索隊を連れたお姉さんが顔を見せるのではないだろうか。

 ほっとした笑顔に涙を溜めて、私たちは固く熱い包容を交わすのだ。

 そうして、私たちは次の日には学校に行って、皆に武勇伝としてその様子を語って――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……そんなわけ、あるか。

 

 

 

 

 急に訪れた虚しさに、私の胸の希望は、風船が萎むように消えた。身体の内側を駆け上った寒さに、内蔵を鷲掴みにされる。

 まだ三日目だ。これからもっと続くに決まっている。

 死ぬ可能性の方が、ずっとずっと高いのだ。誰にも発見されない方が普通なのだ。

 それを分かっている筈なのに。心の底で、もう絶望を感じているのに。

 私はもう、甘い希望に縋ろうとしているのか。

 馬鹿な空想だった。

 その場しのぎの暇つぶしで、単なる現実逃避だった。

 頭の隅に追いやって、考えないようにしなきゃいけない邪魔な思考だった。

 

 

 けれど……なでしこだけは、本気だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから先の事は、あまり覚えていない。なでしこが何か話題を振ってきて、私はそれに曖昧に頷く。萎んだゴム風船のように弾まない会話。

 そうして、何をするでもなく、ただ延々と時間が過ぎ……ぐぅぅ。

 大きな音に顔を上げれば、照れて赤くなったなでしこの顔がある。

 

 

「……えへへ……正直なお腹でごめんね」

「食べ物も少ないし、しょうがないよ。ご飯にしよっか」

 

 

 はにかむなでしこに応じて、強ばった身体を動かす。

 気がつけば、木々の隙間から太陽は見えなくなり、空がうっすらと紅くなり始めている。一体何時間思考を放棄していたのか、回想するのも躊躇われる。

 

 

 一日をとても長く感じる。

 食べて、話すことしか、やることがない。

 生き物の気配のない冬の山で、来るか分からない助けを待ち望む。

 耐え難い苦痛だった。私は、なでしこみたいに前向きにはなれない。

 クーラーボックスを開くと、白色トレーの肉が五パック。当たり前ながら、食べる度に数が減っていく。

 確実に減っていく命の目盛り。今日また一つを消費して、後四パック。約二日間。

 その現実が、私の内臓をぎゅっと締め付ける。

 度を超えた不安が、ある一言になって、私の脳裏を支配する。

 

 

 

 ――私は一体、何をしていたんだ?

 

 

 

 それは、徹底的に避難する自己否定の言葉。責任感と不安から生まれた、ぬぐい去れない焦燥感。

 薪は十分か? 付近に食べ物はないと、探しもせずに決めていいのか? ひしゃげた車に使えるものがあったんじゃないのか? 電波は本当に繋がらないのか?

 何かできることがあったんじゃないのか?

 生きるために、もっとやるべきことがあるんじゃないのか?

 

 

 何もする事が無くぼうっとして、そのくせ、その時間が過ぎ去ってから、根拠のない焦りに心を焦がされる。

 鍋に肉を入れて煮詰める。温かい湯気が顔にへばりつく。

 ぐつぐつと沸騰するスープを見ていると、根拠のない自責の念が存在感を強めていく。

 何かできた気がする。

 無駄に過ぎたこの時間で、私達の死が決定づけられた気がする。

 こんなことをしている場合じゃない気がする。

 このままずっと、何も起こらないのではないか。

 何の動きもない山中の景色が、本当に、死ぬまで変わらないのでは――。

 

 

 

「リンちゃん、リンちゃん」

「え?」

 

 

 声をかけられて、鍋から顔を上げる。その無防備な顔を、スマホのカメラが待ちかまえていた。

 またも不意打ちにシャッターが押され、私の惚けた顔が画面に保存される。

 

 

「今日の記念! キャンプでも、食事のネタは必須だからね! ちゃんと撮っておかなきゃ」

 

 

 見せられたスマホの画面には、陰気な表情で思い詰めた私が映っている。スマホの横から、なでしこの心配そうな表情が覗く。

 

 

「どうしたの、リンちゃん。考え事?」

「いや……待つのって、結構しんどいなって」

「……そうだよね。いつもは、一日が三十六時間あればいいのに、とか思うのにね」

 

 

 なでしこも、私の不安にそう応じる。けれど、彼女の悩み顔は、コロッと笑顔にとって変わられる。

 

 

「ね、リンちゃん。リンちゃんは、助かった後は何をしたい?」

「助かった後……?」

「何でもいいんだよ。駅前のあのスイーツ食べたいとか、キャンプ用具新調したいとか。楽しいことを考えてれば、時間なんてあっという間にすぎちゃうよ」

 

 

 助かった後みんなに自慢話するために写真を撮る、なでしこらしい提案だった。そして、死ぬことしか想像せず嫌になって思考放棄していた私自身を、言われて初めて気がつかされる。

 助かった後のこと。色んな像が浮かんでは、形にならずに消えていく。

 私にはどうしても、現実味を伴った空想ができなかった。今私たちを包む死の存在感が余りに強くて、一週間先のことなんて、まるで違う惑星のように感じられる。

 

 

「……ちなみに、なでしこは?」

「キャンプ!」

「……」

 

 

 元気な返答に絶句してしまう。そのキャンプで、足を折るような目に遭っているのに。

 

 

「もしかして、寒さで頭を……?」

「違うよ! 次のキャンプで、行きたい場所があるんだ。どこか、綺麗な丘のあるところ!」

「なんで?」

 

 

 聞くと、なでしこは身じろぎし、添え木で固定された自分の足をさする。

 

 

「ほら、足を折っちゃったから、治るまで結構かかるでしょ? その間、松葉杖とか、車椅子生活になっちゃうよね」

「……それで、何で丘のキャンプ?」

「足が治ったぐらいに、車椅子を持ち込んでキャンプしたいの。それでリンちゃんに言ってほしいんだ。『立った! なでしこが立った! ワーーイッ!』って」

「言わんぞ」

 

 

 呆れた前向きさだった。一昨日の怪我を、悲鳴を上げるほどの痛みを、もうこんな風に笑いとばせるなんて。

 適当な応急処置しかできず、今も痛むに違いないのに。感染症の疑いだってあるのだ。可能性で言えば、立てなくなる可能性だって否定できない。

 

 

「むー、じゃあ、主人公役はあきちゃんにお願いしようかな。たき火で山羊のチーズを焼いて、とろ~っとなったのをパンに乗せて食べるの!」

「是が非でもやる気なんだな……そもそもその怪我が、ちゃんと治るのかすら分からないのに――」

 

 

 言ってから、自分がどれだけ酷い事を言ったかに気づく。

 私の馬鹿! 例え事実だとしても、なでしこに言う理由がどこにある。

 

 

「ちがっ、なでしこ。今のは――」

「治るよ、きっと」

 

 

 私が謝るよりもずっと早く、なでしこはそう断言した。言い掛けた謝罪が喉元で止まり、溶けて消える。

 

 

「治らなくても、わたしはまたキャンプするよ。だって、まだぜんぜん楽しみたりないんだもん!」

 

 

 なでしこは目を輝かせて夢を語る。まるで、ここが満点の星が見下ろす、テントの側であるかのように。

 

 

「見たことない景色も、食べたことないおいしいものも、いっぱいあるはずだよ。それに、いつか道具を揃えて、一人キャンプもしてみたいし!」

 

 

 その希望は、私には余りに眩しかった。

 到底真似できない、なでしこの前向きな笑顔。来るかも分からない助けを、まるで遠足前日の夜のように、指折り数えて待っていられる、底なしの陽気。

 そんな力を起こせる原動力を、私は知らなかった。

 

 

「私は……ベッドで寝たいかな、とりあえず」

「あはは、家族旅行するおばあちゃんみたい。でもリンちゃんらしいかも」

「誰がおばあちゃんだ」

 

 

 目に見えない、なでしこの素晴らしい原動力が、本当にどこかの警備隊を引っ張ってきそうで。

 そんな妄想を抱いて、私達は凍える夜を迎え入れた。

 




怒涛の更新で後に引けなくする作戦です。


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8話

 たき火の爆ぜるパチッとした軽い音に、どうしてか、私ははっと目を覚ました。

 

 

 目の前には、強く燃え上がる橙色の炎がゆらゆらと揺れている。

 見えるのは、炎で照らされた、ほんの少し先の地面と木の幹だけ。あとの全部は、真夜中の黒に塗り潰されている。

 炎に炙られて、空気が揺れる。自分の呼吸が聞こえるくらいに、空気がしんと静まりかえっていた。

 

 

 ――はっ ――はっ ――はっ ――はっ

 

 

 隣で眠るなでしこの吐息が聞こえる。

 浅く早い、尋常じゃ無く震えた、なでしこの呼吸。

 私はそれに、反応すらできない。

 目を覚ました瞬間に、私は金縛りに襲われていた。

 

 

 

 

 ――蠢く気配が、一つあった。

 

 

 

 

 全身の筋肉が、凍り付いたように動かなくなる。

 身じろぎもできず、私は木に寄りかかった姿勢のまま、目だけを動かして、それを見つける。

 

 

「……、………………」

 

 

 肺が締め付けられ、呼吸が止まる。

 黒い塊が、動いていた。

 たき火の明かりが届かない、黒い世界。その向こうで、更に黒を重ねたような巨大な影がもぞもぞと蠢いている。

 太い四本脚。寸胴のように大きな胴体。何かを漁る、水っぽい鼻息。

 冬の雪山という環境において、押し潰される程に圧倒的な生命の鼓動。野生の気配。

 疑いようもなく、それは私達にとって、最も恐れていた命の危機だった。

 

 

 ばくん、と心臓が跳ねる。

 左胸が引きつった痛みを訴える。バクバクという鼓動で、内側から弾けてしまいそうだった。

 悲鳴を上げなかったのは殆ど奇跡だ。冷たい空気が気道を抜け、ひゅうと小さく音を立てる。

 

 

(嘘。だって、火は……!)

 

 

 自分の目を疑うも、たき火は今も盛大に燃えている。

 熊は火を怖がらないのだろうか? 抱いていた安心が一気に吹き飛ばされ、恐怖がじわじわと、動かない身体の芯に染み込んでいく。

 呼吸がうまくできない。肌がビリビリと痺れる。

 瞬きの仕方を忘れた目が、次第に暗闇に慣れていく。

 熊は、肉の入ったクーラーボックスに顔を突っ込んでいた。荒い鼻息に併せ、くちゃくちゃという音が聞こえてくる。

 大事な肉が食べられていた。生きていくのに必要な栄養が、容赦なく奪われていく。水っぽい租借音に、心臓を鷲掴みにされる。

 

 

 ――り――ちゃ

 

 

 小さな呼吸音に併せて、小さな声が聞こえた。

 目だけを動かせば、シュラフにくるまったなでしこが、私をじっと見つめていた。見開かれた目。わなわなと震える唇。厚いシュラフにくるまった状態でも、身体が小刻みに震えているのが分かった。

 ビー玉のように丸い目を力一杯に見開いて、なでしこは私に助けを求める。

 りんちゃん、ともう一度。声にならない、蚊の羽音よりもか細い声。

 

 

 もしかして私は、ずっと、ずっと呼ばれていたのだろうか。

 一体いつから……私が起きるどれだけ前から、なでしこはこうしていたのだろう。目尻から頬にかけて、涙の通った後がはっきりと分かる。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。見開かれた目が、ただ彼女の混乱を伝えてくる。

 私は、衣擦れ一つすら立てないよう、口元に人差し指を立てるのが精一杯だった。

 抵抗する事も、逃げる事もできない。物音一つ立てれば、その瞬間終わる気がした。

 

 

 熊はクーラーボックスに顔を突っ込み、咀嚼を続けている。

 私となでしこは、恐怖に震えるほか無かった。あの咀嚼音が、荒く水っぽい息が、自分に向くかもしれない。そう考えると、心臓が爆発し、悲鳴を上げて発狂しそうだった。

 やがて音が止まり、黒い影がのっそりと頭を持ち上げる。

 たき火の橙色に照らされ、二つの目が暗闇に浮かび上がった。

 

 

「――――――――――」

 

 

 無機質な黄金色の相貌。感情を計れない不気味な目が、私たちをじっと見つめている。

 私達は金縛りにあったように身を縮こまらせ、その目を見つめ返す。

 夜の冷気が眼球の水分を奪い取り、酷く痛む。それでも、瞬き一つがきっかけで襲われたらと思うと、目を離すことができない。

 唾液に濡れた獣の吐息が聞こえる。恐る恐る呼吸をする鼻腔に、濃密な肉の匂いがする。

 

 

 たき火がパチパチと弾ける。地獄のような時間が過ぎる。

 やがて、熊はゆっくりと後ずさりを始めた。

 暗闇に浮かぶ目が小さくなり、ふっと消えた。

 それでも私たちは目を見開いたまま、熊の消えた暗闇を凝視し続けた。

 今に、そこの暗闇から、あの目が飛び出してくるのではないか。今もどこかで、舌なめずりして狙っているのではないか。

 

 

 

 

 そんな恐怖からやっと解放されたのは、何時間も経った後。

 視界がうっすらと開けると、そこはいつもの、何も変わらない冬の山の景色があるだけだった。

 やっと呼吸の仕方を思い出した私達は、震える身体を互いに寄せ合って、声も出せずに泣きじゃくった。

 

 



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9話

 目を覚ましたのは、日も高くなった昼時だった。

 辺りは今までと変わらず、生き物の気配はどこにもなく、木の葉の落ちる音さえ聞こえるような静寂だった。

 昨夜の出来事が夢のように感じられる。けれど、踏みしめられた土の跡と、土にまみれて横倒しになったクーラーボックスが、現実を否応なしに突きつける。

 クーラーボックスの中は空っぽだった。中には血の一滴も残っていない。

 しばらく、現実を信じられなかった。訳もなく、軽くなった箱を振ってみる。結果は変わらず、私は折った膝の上で、クーラーボックスを抱える。

 こんな状況もお構いなしに、空腹感は容赦なく私たちを襲う。寝起きの身体が、栄養を寄越せと内蔵を叩いていた。

 栄養を求める欲求が、まるで地獄からの呼び声のようだ。

 

 

「リンちゃん……逃げた方がいいよ」

 

 

 呆然と膝を折った私の下に、なでしこが危なっかしいケンケンで近寄ってくる。顔には、昨夜の恐怖がありありと浮かんでいる。

 

 

「あの熊、また来るかもしれないよっ。どこかに逃げないと……!」

「無駄だよ」

 

 

 早口でまくし立てるなでしこは、私のたった一言で黙り込んでしまった。私は薄暗い感情を隠しもせず、怯えきったなでしこの目に向き直る。

 

 

「たき火をしなきゃ凍えちゃう。火を起こせば気づかれる。どこに行っても、どうせ嗅ぎ付けられるよ」

「っ……そ、そんなの分かんないよ。ここにいるよりずっと」

「――だいたいっ!」

 

 

 突然の大声に、なでしこの身体がびくりと跳ねる。バランスを崩したなでしこが尻餅をついて、折れた足に衝撃が走ってうめき声が上がる。

 クーラーボックスを掴む手が震える。浮かんだ感情は、やるせなさを源泉とした――どうしようもない怒りだった。

 

 

「逃げるって、どこに行くっていうのさ。なでしこは、その足でどれだけ逃げられるっていうの? 私に支えてもらいながら、熊の縄張りを出るまで何キロも歩けって言うのか?」

「……それ、は……」

「それに、水を手に入れるための仕掛けも、火を起こす道具も持って行かなきゃいけないんだぞ? なでしこを支えながら、そんなの持てない。私だけ二往復しなきゃいけないんだ。こんな寒い中、防寒も十分じゃない中、体力を温存しなきゃいけないのに。栄養だってこの先摂る手段も――」

 

 

 

 

 そこまで言ってから、私はやっと、目の前のなでしこが怯えている事に気がついた。

 ばくばくと、心臓が高鳴っている。ぐんぐんと頭に登る血液が酷く不快だった。

 息が浅く荒い。興奮で……なでしこへ怒りをぶちまけることに、夢中になっていたのだ。

 一体、何をやっているんだ。

 我に返ると、急に自分がなさけなく感じられる。

 

 

「……ごめん、言い過ぎた」

「ううん……わたしが間違ってた。ごめん……」

 

 

 何とも言えない、溜まらない沈黙が支配する。

 今すぐここから逃げ出したい。けれど、私にそうする術はない。

 

 

「……ここで、助けを待とう。熊が来るよりも早い事を祈って」

「……うん」

 

 

 沈んだなでしこが、とぼとぼとたき火の側へと戻っていく。

 その背中が遠く感じたのは、衰弱した身体が見せた、幻覚に違いなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 残された体力で、私は薪割り斧を振るい、多すぎるくらいの薪を作る。

 たき火で湯を沸かし、焼き肉のタレを混ぜて飲む。塩気と醤油の風味と果物の甘みと、それらが大量の湯に薄まってバラバラになった味は、控えめに言って最悪だった。

 それが終わると、私たちは本当に、虚無に放り出された。何もする事がなく、ただ木に寄りかかり、たき火のチラチラと揺れる橙色を見つめる。

 

 

「考えたら、わたしたちが場所を移動しちゃったら、お姉ちゃんもわたしたちを見失っちゃうもんね」

「……そうだな」

「やっぱり、ここに残って正解だったよ。リンちゃん、やっぱり凄いね」

 

 

 食料はもうない。残された体力が消えるまでの、耐久戦。

 あるのは水と、残り半分の焼き肉のタレ。

 それと、隣に座る……、……

 

 

「しゃべらない方がいいよ、なでしこ。少しでも、体力を温存しないと」

「っ……分かった……そうだね。ごめん、リンちゃん……」

 

 

 たき火が揺れる。ぱちんと音が鳴る。

 

 

 

 

 やがて夜が来た。待ち望んだようで、二度と来て欲しくないようで。

 一瞬と永遠を同時に感じるのは、凍えた心に酷く堪えた。

 助けは、まだ来ない。




短い話が続きます。
普段は一話5000字くらいを目標にするんですが……ソリッドシチュエーションでやることもないから是非もないネ


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10話

 たき火が揺れる。ぱちんと音が鳴る。

 なでしこが、しきりに足を気にしている。折れた足の、添え木した上の方に指を立て、何度も掻いている。

 ズボンに隠れて見えないが、足は若干腫れて膨らんでいる。膿んでいるらしかった。

 

 

「……これ、ちゃんと治るよね?」

 

 

 なでしこが不安に眉を下げて、それでも笑顔で聞いてくる。

 なんでそんなことを聞いてくるんだ。少し考えてみればいいのに。

 私は火を見ていたい。少しも動きたくない。

 

 

「……分かんないよ。応急処置だってしっかりとできていないし、消毒もできてない。傷から菌が入っていても、どうにもできない」

 

 

 分かんないよ。私は医者じゃないんだから。

 そう言うと、なでしこは小さく謝って、それきり黙ってしまう。

 

 

 なでしこが心配そうに足を掻く。

 かりかり、かりかり、肌が擦れる音が煩わしい。聞いているとこちらまで痒みを覚える。

 思えば、ずっとお風呂に入れていない。膝の上に重ねた手のひらを擦ると、焦げ茶色の垢が爪の間に挟まる。

 体中がべたべたする。何日も着替えてなくて蒸れる。気持ち悪い。かゆい、痒い。

 

 

 こんな状態で風呂に入れたら、さぞや天国に違いない。冗談でもなく、生き返るような心地よさだろう。

 ……なんて。

 考えるだけ、無駄な事だけど。

 

 

 

 

 たき火が揺れる。ぱちんと音が鳴る。

 夜が来る。

 助けは、まだ来ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 朝になる。

 

 

 

 味気ないスープは、もうたくさんだ。

 

 

 

 最後の晩餐すら、選ぶことはできないらしい。

 

 

 

 たき火が揺れる。ぱちんと音が鳴る。

 

 

 

 顔が熱い。火に炙られた顔が乾燥し、ささくれ立っている。

 

 

 

 痛い。痛い。生皮を剥がされるようだ。

 

 

 

 けれど、凍えるよりずっとマシだ。

 

 

 

 どれだけ近づいても、手足の凍えは止まらない。

 

 

 

 指先からぱきぱきと、凍り付いて固まっていく。

 

 

 

 熱くて痛いのに、寒い。

 

 

 

 ここから動きたくない。

 

 

 

 お腹が空く。身体を起こすと、空腹まで目を覚ます。

 

 

 

 味の薄いスープじゃ、もう誤魔化されない。

 

 

 

 なでしこがケータイで、私の写真を撮った。

 

 

 

 私はなでしこを酷く責めた。それ以来、なでしこはケータイを開かない。

 

 

 

 苛々する。へらへら笑って。

 

 

 

 早く現実を見るべきなのに。

 

 

 

 身じろぎひとつしたくない。何も感じたくない。火を見ていたい。

 

 

 

 たき火が揺れる。ぱちんと音が鳴る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜が来る。

 助けは、まだ来ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 朝が来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 たき火が揺れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なでしこが笑う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は無視する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 たき火が揺れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜が来る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぱちんと音が鳴る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 助けは、もう来ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 たき火が揺れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は、ここで死ぬに違いない。

 

 

 

 



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11話

 遭難してから、七回目の夜を明かした。

 

 

 飲まず食わずで、人は十日間くらいは生きられるという。水があれば、その倍は持つそうだ。

 私たちに、その例は当てはまるのだろうか。

 感じられる自分自身の身体は、まるで枯れ木のようだった。生命力が尽きかけているのが、自分でも分かる。

 度を超えた空腹が身体を縛り付けて、呼吸するだけでも苦しい。

 たき火に当て続けた顔は、低温火傷で真っ赤になって酷く痛む。裏腹に手足の末端は、摘むと砕けそうな程に冷たかった。

 

 

 時折湯を沸かし、焼き肉のタレを入れて飲む以外には、木にもたれ掛かって過ごしている。嫌な臭いが充満している。まるで体のどこかが腐っているみたい。そろそろ、体のどこかに苔やらカビやらが生えてしまいそうだ。

 目の前で、ちらちらとたき火が揺れる。

 あれほど恐ろしい熊の気配すらなく、冬の雪山は何も変わらない。

 何日も、何日も、ずっと動かないまま、静かなまま……。

 

 

「……リンちゃん、大丈夫?」

 

 

 いや。

 一つだけ違った……

 なでしこの励ましだけは、ずっと、毎日続いていた。

 

 

 寝ころんだなでしこが、心配そうに私の顔を覗き込んでくる。

 私と同じように顔に生気はなく酷くやつれているけれど、窪んだ目の奥には、まだ光があった。

 弱弱しい、けれどもいつもの調子の声で、彼女は、隣で石像のようになった私の事を心配している。

 

 

「顔、まっかだよ……? もう少し、火から離れた方がいいんじゃないかな」

「……」

 

 

 なでしこの掠れ声に、私は返事すらしない。

 たき火を見るのに精一杯で、なでしこがどんな表情をしているのかも分からない。

 枯れ葉の割れる音で、なでしこが体勢を変えた事が分かる。

 

 

「……ねえリンちゃん。救助隊の人は、きっとすぐそこまで来てるよ」

 

 

 ざらざらの、錆だらけの鈴を鳴らすような声が言う。

 

 

「いっぱいのご飯と、あったかい毛布をたっぷり持って、すぐそこで私たちを探してるよ」

 

 

 柔らかで優しい声。

 甘えきった弛んだ理想。

 それが私の萎んだ脳味噌を掻き毟る。凍えた心を這い回る。

 凍り付いた私の心をくすぐり、その中の、どす黒く淀んだものを浮かび上がらせる。

 

 

「お姉ちゃんも一緒に駆けつけてくれてるよ。救助隊の人たちを、きっと生きてるって説得して。だからもう少しで――」

「もう諦めなよ、なでしこ」

 

 

 限界だった。なでしこの明るい希望を、もう受け止められなかった。

 たき火を見つめることもできず、私は顔を下げ、冷たい地面を見下ろす。

 

 

「私たち、ここで死ぬんだよ。誰にも見つからず、発見されず」

 

 

 それが現実だった。認められずにいただけで、最初から決まりきっていた結果だった。

 

 

「冷静になって考えろよ。学校が始まってどれだけ経った? みんな気づいてないんだよ。それか、とっくに諦めて、死んだことにして葬式でも開いてるんだ。お姉さんだって、こんなに時間が経って、生きてる訳がないだろ。山を降りるなんて、最初から無理な話だったんだ」

 

 

 まるで私の言葉を肯定するように、たき火が弾ける。

 

 

 遺影を前に、父さんも、母さんも、学校の皆も泣いている。なでしこの両親は、子供を一気に二人も失って、どんな顔をするのだろう。

 お姉さんはどこかで野垂れ死んでいるに違いない。足を挫いて動けなくなったのかもしれない。寒さにやられて永眠したのかもしれない。熊に襲われた可能性だってある。遺体の捜索は、私たちよりずっと難航することだろう。

 それが現実だ。助かる可能性なんかより、そっちの方がよっぽど鮮明に思い描ける。

 

 

「だから、辛くなるような事を言うなよ。もう皆に会えないよ。楽しい話とか、もうできないよ」

 

 

 助かった後の事を考えるなんて、土台無理な話だったのだ。

 

 

「もう、いいだろ……いい加減、諦めろよ」

 

 

 助けが来るはずないのだから。ここで死ぬ事が決まっていたのだから。

 先も見えないのに前を向けない。根拠もない理想を信じられない。

自分の後ろ向きな思考が嫌になる。けれど、それが私達に降りかかった現実で、受け入れるしかない事実なのだ。

前なんて向けない。死を受け入れる他ない。

夢や希望なんて、信じられない。

 私は、なでしことは違うのだから――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 たき火の炎が揺れる。

 ひゅう、と風がなった気がした。

 顔を上げると、すぐ目の前に平手があった。

 

 

 

 ばちん! と大きな音が冬の山に木霊する。

 火に炙られた顔が激痛を訴える。全身の細胞が一気に目覚めて、大きすぎる刺激に悲鳴を上げた。

 飛びかかったなでしこは、バランスを崩して倒れ込む。折れた足を挫き、絶叫が上がる。それでもなでしこは地面を這って、一目散に私に詰め寄る。私の服を鷲掴みにして、馬乗りになった。

 

 

 怒りに取り憑かれたなでしこの目は、鬼のようだった。

 唇をちぎれる程に噛みしめ、隈が張り付き骨の浮いた目を一杯に見開く。桃色の髪は乾燥して見る影もなく乱れている。顔を近づけられると、鼻を刺す酸っぱい肉の臭いがした。

 なでしこは憤怒の形相で、私を殴りつけた。黙って。ただ黙々と。怒りに任せて何度も何度も。

 栄養失調を起こした拳はまるで力がなく、痛みはほとんど感じない。

 それでも拳は固く、振るう勢いに容赦はない。

 ばちん、ばちんと頬が弾かれる。顔を腕でかばうと、弱った腕の骨が軋む。

 

 

「っひ……ゃ……!」

 

 

 怖い。怖い。怖い!

 殺される。そう思う程に、なでしこは本気で私を襲っていた。振るわれる腕が止まらない。弱々しい衝撃が走るほどに、私の心が恐怖に打ちのめされる。

 

 

「ばか……ばか! リンちゃんのばか! ばかばか! ばかばかばかぁぁぁぁ!!」

「っご、め……なでしこ、やめっ」

「何でそんな意地悪なこと言うの!? なんでそんな酷い事言うの!? 何で! ねえ、何でよぉぉ!」

 

 

 聞いたこともない、しゃがれた怒声。喉を引き裂いて、なでしこが絶叫する。

 怒りが降り注ぐ。拳が突き刺さる。目から勝手に涙がボロボロと零れ出る。

 初めて顔が温かい。温かくて、辛い。辛い。辛い。

 

 

「ごめん、ごめんなさっ……ごめんなさい、なでしこっ……!」

「こんなに痛いのに! 寒くて辛いのに! お腹が空いて苦しいのに! ……それでも……それでも頑張ろうと! わたしが必死にやってるのに! それをなんで、全部全部台無しにするの、ぉ……!」

 

 

 怒声は次第に勢いを無くし、なでしこは私の胸ぐらを掴みあげる。目に溜まった大粒の涙が、私の顔にポタポタと落ちてくる。

 やつれきって、ぐしゃぐしゃになったなでしこの顔は別人のようで。

 それがひたすらに怖くて……痛ましかった。

 

 

「ッわたしの足、どうなるか分からないんだよ!? もう歩けないかもしれないんだよ!? お姉ちゃんが生きてるかも分からない! 離ればなれになりたくなかった! 寂しくて潰れそうだった!」

「……」

 

 

 嘘だ。

 そんなはずはない。

 だって、なでしこはずっと、笑顔で、助かる事を信じてて……。

 

 

「もうキャンプできないかもしれない! 皆に会えないかもしれない! 助けなんてこないかも! 皆に忘れられて、骸骨になるまで一人ぼっちかもしれない! そんなの……そんなのやだよ!!」

 

 

 

 

 

 ああ……。

 

 

 ああ……!

 

 

 なんで、こんな簡単な事に気が付かなかった。

 

 

 

 

 私は、なんて馬鹿だったんだ。

なんて、ふざけた勘違いをしていたんだ。

 足を骨折して、大好きなお姉さんと離ればなれになって、寒くて寂しい山に取り残されて。

 怖くないわけ、ないじゃないか。

 不安じゃないわけ、ないじゃないか!

 

 

 隣にいて何で気づかなかった!

 同じ時間を共有して、不安で怖くて寒くてどうしようもなくて!

 死の恐怖に飲まれて、何もかもを諦めてしまいそうで!

 なでしこは、"それでも笑っていた"だけなのに!

 

 

 励まされていて気がつかなかった?

 希望を与えられて、安心していた?

 なでしこと一緒なら頑張れると、いつの間にか甘えていた?

 愚かに過ぎた。私は何も見えていなかった。

 

 

 

 

 なでしこは、どんな時でも明るく振る舞っていた。

 助かる希望を捨てなかった。

 これから先、生きてたどり着く未来を信じていた。

 

 

 

 

 それは、つまり。

 なでしこは、私なんかより、ずっと――!

 

 

 

 

「"死にたくない!" 死にたくないよ! まだたくさん、楽しいことしたい! 皆と一緒にいたい! こんな寂しいところで、苦しんで死にたくない! 死にたくない死にたくない! 死にたくないよぉぉぉ!」

「……!」

「なのになんで、酷い事ばかり言うの!? 諦めろとか言うの!? リンちゃんの馬鹿! ばかぁぁぁぁ! リンちゃんなんて……! リンちゃんなんてぇぇぇぇ……ぇ……!」

 

 

 ビリビリと肌を裂く絶叫は、次第に萎んでいく。

 胸ぐらを掴む力が弱くなり、なでしこはとうとう、私に馬乗りになったまま、天を仰いで号泣した。

 

 

「やだ。やだよぉ。死にたくないよ……! うぇぇ、うぇぇぇぇぇん……!」

 

 

 今更になって、彼女の苦しみが、砕け散るほどの寂しさが、私の心に吹きすさぶ。

 凍っていた心が、苦しみに目を覚ます。

 目から勝手に涙が零れ出てきた。

 死はこんなに怖いのに。

 一人だと叩きのめされて、潰されてしまうのに。

 私は、なんてひどいことを……!

 

 

「うぇぇぇぇぇぇぇん。ばか、っりんちゃんの、ばかぁぁぁ……! わぁぁ、わぁぁぁぁぁぁん……!」

「っごめ……ごめん、なでしこ……ごめん……!」

 

 

 私の目からも、勝手に涙がこぼれてくる。

 後から後から沸いてくる、言っておくべきだった謝罪の言葉。

 泣きじゃくるなでしこに、それはもう届かない。

 気丈に振る舞っていただけだった彼女の心は、私の非情な言葉で砕け散ってしまった。

 愚かな私が、大切な友達を絶望の淵に叩き落したのだ。

 

 

 

 隔たれた距離は、もう二度と戻らない。

 二人の間に開いた亀裂は、余りにも深く、暗くて……冷たかった。

 

 



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12話

 訪れた本当の静寂は、すでにひび割れていた私の心を、たやすく打ち砕いた。

 なでしこはもう、一言も喋らない。顔を背け、たき火を背にうずくまっている。

 死んだように動かない背中。そこから放たれる明確な拒絶の意志に、私の精神は凍り付く。

 

 

「……ごはん、できたよ。なでしこ」

 

 

 食事の時だけ、なでしこはたき火の方を向く。

 魂の抜けた表情は一気に何歳も年をとったようで、直視する事を拒む。一方のなでしこは、まるで私なんていないかのように、黙って器を取り、背を向けて汁をすする。

 最後の焼き肉のタレを湯に溶かしたスープ。とうとう調味料すらも底をついてしまった。それに今更、嘆く気も起きない。

 

 

 日が落ち、やがて夜が来る。辺りが闇に包まれ、身を切るような冷たさが、一層深まる。

 なでしこの背中から、白い光が漏れている。なでしこはケータイを開いて、何かを見ているらしかった。

 ここからは、画面もなでしこの顔も見れない。ただ、点いては消える画面の光で、彼女が今も生きている事を知るだけだ。

 ……何を見ているんだろう。私みたいな奴に、教えてくれる筈ないけど。

 

 

 視界が霞む。意識が朦朧とする。

 お腹が空いて苦しい。

 寒い。寒い。たき火は顔を痛めるばかりで、心が寒い。

 眠気など来ない。耐え難い空腹と、ちぎれるような冷たさが、私の身体を静かに打ちのめす。

 何をするのも怖くて、苦しい。

 ただ、何もせず、火を見つめ続けることしか……。

 

 

「……」

 

 

 ――私は、どうしようもない馬鹿だ。

 

 

 足を折って、無理矢理に元に戻されたなでしこが、苦しんでいない筈がないだろう。

 食いしん坊な彼女が、ほんの少しの肉で不満一つも漏らさなかった事に、何の疑問も沸かなかったのか?

 たかがシュラフのあるなしで、冬の寒さが変わるとでも?

 同じ時間を過ごして、同じ苦しみを分かちあっているのに。

 なでしこが元気だと、本気で勘違いしていたのか?

 悲しいのは自分だけと思いこんでいたのか?

 元気に振る舞うなでしこに、私の苦しみも知らずにと憤っていたのか?

 

 

 恥ずかしい。情けない。

 愚か者だ。見下げ果てた愚図だ。

 何を見ていたんだ。何を考えていたんだ。

 救いようのない。私は、本当に、どうしようもない馬鹿だ。

 

 

 馬鹿な私は、なでしこを傷つけてしまった。

 助かるかもしれないという希望は、なでしこが必死になって、絶やさないようにしてきた火だった。

 その火は、もうない。

 私が消した。身勝手に絶望して、相手の気持ちも考えずに打ちひしがれて、なでしこの最後の希望をへし折り続けた。

 この絶望は、浅ましい私への罰だ。

 私はここで、飢えて凍えて死ぬ。大切な友達を傷つけて、絶望にたたき込んだまま。

 なでしこの笑顔を二度と見れず、修復できない溝を抱えたまま、"独りぼっちの二人"で死ぬ。

 

 

 

「っ……」

 

 

 私には、嫌だと思う事すら許されない。

 嗚咽すら漏らせず、静かに涙がこぼれ落ちる。

 

 

 怖い。寂しい。死にたくない。死にたくない。

 一人になって今更、押し潰されそうになる。

 達観した気持ちなんて嘘だった。諦めて、死を受け入れるなんてできなかった。

 私はただ、なでしこに全部押しつけて、甘えていただけだった。

 今魂を滅多打ちにするのは、私が気づきもせずにはぐらかしていた恐怖だ。

 なでしこが必死に笑顔を作って耐えていた絶望だ。

 それを全部、私がぶち壊したんだ。

 

 

 死ぬべきなのは、私だ。

 あんな酷い事を言う奴は、この世から消えてしまえばいいんだ。

 死ね、愚図。死んでしまえ。

 愚かな私には、独りぼっちの死がお似合いだ。

 地獄に落ちてしまえばいいんだ。

 苦しい。辛い。辛い。

 涙が後から後から、零れ出てくる。

 出す資格のない情けない弱音が、心の中で反響する。

 

 

 辛いよ、なでしこ……。

 死にたく、ないよ……。

 

 

 二人に開いた亀裂は余りに深く、謝る事すら許されていない。

 それでも、私は見苦しく、なでしこを求めてしまう。

 一人だと押し潰されてしまうから。怖くて怖くてどうしようもなくなってしまうから。

 こんな中で、なでしこは笑ってたのか?

 ごめん、なでしこ。気づいてあげられなくてごめん。

 私が馬鹿だった。どうしようもない屑だったよ。

 だから、どうか謝らせて欲しい。許して欲しい。

 ちゃんとお話できなくてごめん。ひどい事言ってごめんと、どうか謝らせて。

 

 

 そして、また笑顔を見せて。

 寂しいよ、なでしこ。

 嫌だよ。なでしこに嫌われたまま死ぬなんて。

 こんな近くにいるのに、離ればなれなんて。

 一人は辛いよ、なでしこ。

 死にたくないよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自虐と、謝罪と、絶望。

 絶え間ない自己嫌悪と恐怖がぐるぐると渦巻いて、私の心を黒い渦の中に溶かしていく。

 火傷した頬を涙が伝い、塩の線を引く。いつの間にか朝を迎えていた。

 思考が霞む。たき火が淡い光の粒になって視界を漂う。

 魂が身体から引き抜かれるような感覚がして、その度に、痛いほどの空腹に呼び戻される。

 地獄のループ。感覚が朧気になるのに、苦痛はますます存在感を強め、私をいじめ抜く。

 それなのに、死はまだ来ない。目の前に佇んだまま、私が苦しむのを楽しんでいるように感じた。

 

 

 死の虚脱感と、生の苦しみ。意識が離れ、引き戻される。極限状態の私の魂が、やじろべえのように行ったり来たりを繰り返す。

 瞼が痙攣し、ピントがうまく合わない。そんな私の目は、自然となでしこの方に向いた。

 横に寝ころんだなでしこは、あれから身じろぎ一つしていない。いつの間にか脱ぎ捨てたシュラフが、そこらに転がっている。

 

 

「……」

 

 

 

 

 ――なでしこだけでも、生きて欲しい。

 

 

 絶命間際の私の頭の中は、混沌の果てに、その考えにたどり着いていた。

 どんな言葉で謝ったって、なでしこは私を許してくれないだろう。

 私は許されないまま、死んでしまうだろう。

 

 

 ……けれど、なでしこは違う。

 なでしこはいい奴だ。二度と笑ってくれなくても、最高の友達だ。

 いつでも明るくて、皆を幸せにできる奴だ。

 彼女は、こんな状態でも諦めなかった。こんなどうしようもない私を助けようと、気丈に振る舞ってくれた。

 生き残ることを願い、楽しい日常に戻ることを夢見ていた。

 

 

 なでしこが、ここで死んでいいわけがない。

 なでしこの願いを叶えたいと、心の底から思った。

 せめてもの罪滅ぼしに、私はなでしこを助けたかった。

 

 

 

 

 ピクピクと痙攣する瞼を持ち上げ、私は眼球を動かす。

 たき火を挟んだ反対側に、薪割り斧が落ちていた。

 沢山薪を割ってくたびれた鈍色が、朝の光を受けて白く輝いている。

 

 

「……」

 

 

 きっと。

 とても苦労するし、凄く痛むだろう。

 腕も、足も、何回も叩きつけないと、骨は折れないに違いない。

 

 

 やるなら、そう、頭がいい。斧を木にくくりつけて、頭突きしてやるのだ。

 三回くらい思い切りやれば、頭蓋骨だって割れるだろう。

 

 

「……」

 

 

 馬鹿げた考え。

 けれど、それをすれば……なでしこは生きてくれるだろうか。

 愚かな私の、罪滅ぼしになるだろうか。

 どうしようもない愚図な私の代わりに、幸せになってくれるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ねえ、なでしこ。

 私を使って、生きてくれる?

 

 

 




急に閲覧数が増えてびっくりしました。
日刊ランキング30位、ありがとうございます。

感想へのお返事はできていませんが、とても嬉しいです。執筆の原動力になります。





最後までお付き合いいただけると幸いです。
もう少しで、おしまいです。


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13話

 

 しゅる、と音がした。

 それは木の葉のそよぐような、ほんの僅かな音でしかなかったが、死の静寂に満ちた山の中では、うるさすぎる程の存在感を持っていた。

 私は自然と、鈍色の斧から逃げ出すように、音のした方向に目を向ける。

 

 

 小さな二つの赤い目が、こちらを見つめていた。

 

 

 白い毛並みの兎がいた。なでしこが脱ぎ捨てたシュラフの中から、ぴょっこりと顔を覗かせている。

 唐突に現れた小動物は、まるで幻のような異質な存在感を放っている。ビーズのような目と、視線が交差する。兎はさっと顔を隠すと、シュラフの中へと潜り込んでいった。

 

 

「っ――!」

 

 

 行動に迷いはなかった。

 どこにそんな力が眠っていたのか、私は弾かれたように身を起こすと、たき火を飛び越え、シュラフに飛び込んだ。頭と身体の疎通ができず、足がもつれて、冷たい大地に顔を削られた。

 痛みに呻きながらも、残った意識のありったけを使って、シュラフの入り口を握りしめる。兎が異常を感じた時には、シュラフの口を折り畳んで、完全に密封させることに成功した。

 暗がりに閉じこめられ、パニックになった兎が暴れる。生命力に満ちた力強い抵抗。私はシュラフを抱きかかえ、はね飛ばされそうになるのを必死に押さえ込む。

 

 

「な、なでしこ……げほっ。なでじこっ……!」

 

 

 カラカラに掠れた声で、なでしこを呼ぶ。

 ゆっくりと顔を上げたなでしこは、矢鱈目鱈と暴れ回るシュラフを見て目の色を変えた。

 

 

「手伝って……一緒に押さえて!」

「う、うん」

 

 

 未だ状況のよく分かっていないなでしこに、必死で呼びかける。

 衰弱しきった二人の力を併せて、何分間も格闘を繰り広げ、やっとシュラフを押さえつけることができた。シュラフの中からは、くぐもった小さな鳴き声が聞こえてくる。

 急な運動に心臓が悲鳴を上げ、肺が張り裂けそうに痛む。

 汗だくになった私たちが、顔を付き合わせて息を荒げる。

 久しぶりに見たなでしこの顔は酷くやつれ、困惑に眉根を寄せていた。

 

 

「りんちゃん……なに、これ?」

「兎が、シュラフの中に入ってる。多分、他より温かいとかで、寝床にしてたんだ」

「兎……」

 

 

 なでしこが、意味をよく飲み込めずに反芻する。

 兎は諦めずに暴れ続けている。小さな身体から感じる信じられない抵抗に、私の弱り切った心が感傷を訴える。

 

 

「そ、それでなんで捕まえるの? 兎さんが、かわいそうだよ?」

 

 

 戸惑うなでしこの質問。

 私の顔は、自然とある方向へと向いていた。

 なでしこの目が私の視線を追いかけ、そこに鈍く光る薪割り斧があるのを見て、顔をさっと青ざめさせた。

 

 

「……だめだよ」

 

 

 独り言のようにつぶやいたと思うと、なでしこはキッと私を睨みつけた。

 

 

「そんなことしちゃダメだよ、リンちゃんっ」

「ダメなことないよ」

「ダメなことないことない! わたし、そんなことしても、ぜんぜん――」

「生きたいんだろ!」

 

 

 私の叫びに、なでしこの駄々は形を潜めた。ぎゅっと閉じたカサカサの唇が震え、窪んで骨の形が見える目が、薄く涙を溜めている。

 ああ……なでしこはなんて優しいんだ。死にそうなのに、まだ誰かに優しく在ろうとしている。

 今だけはその優しさに、甘えちゃダメなんだ。

 

 

「生きたいんだろ……! なら、なりふり構ってちゃだめだ。このチャンスを逃せば、本当に死んじゃうぞ」

「っ……でも、でもぉ」

 

 

 なでしこが弱々しく首を振る。

 気持ちは痛いほど分かった。シュラフ越しに手のひらに伝わる、小さく柔らかい感触。温かく活力に満ちた生命の気配。

 尊いそれを、どうして奪う事ができるだろう。想像するだけで、膝から崩れ落ちてしまいそうだ。

 けれど、その気持ちを腹の底に押し込んで、私はなでしこの目を覗き込む。

 

 

「生きたいんだろ、なでしこ」

「っ……」

 

 

 溜まっていた涙が溢れる。兎の入ったシュラフを押さえつけたまま、その上にポタポタと滴が落ちる。

 

 

「生きたい、よ……! 死にたくない、よぉ……」

 

 

 なでしこの気持ちが分かる。同じ気持ちを共有している。

 今までもそうだった。馬鹿な私が気づかなかっただけで、いつも私達は、同じ感覚を共にしていた。

 

 

「うん……私もだよ。私も、生きたい」

 

 

 諦めそうになる絶望を、笑ってはぐらかしていたのがなでしこだ。

 ならば……とことん悲観的に、現実を押しつけるのが、私の役目だ。

 

 

 

 

「大丈夫だよ、なでしこ……ちゃんと、私がやってみせるから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 厚い雲が覆う空。山中のうら寂しい景色が、灰色の光に浮かび上がる。

 入り口を縛った藍色のシュラフは、今ももぞもぞと動き続けている。体力が尽きたのか、狭いシュラフに囚われて心をやられたのか、最初のような激しい抵抗はもう見られない。

 はぁ、はぁと、浅く早い二人の呼吸が重なる。衰弱した身体が、過酷な現実に直面して興奮している。

 意識は未だ朦朧として、極限の空腹で苦しくて。腕を持ち上げるだけでも気絶しそうになる。

 震える手で、シュラフの中の小さなものを握りしめる。厚いビニル越しでも、柔らかな肉の感触と温かさを感じる事ができた。

 小刻みに震えているのが、手のひら越しに感じる。みぃ、と鳴き声が聞こえた。

 

 

「っ……!」

 

 

 なでしこは私の隣で、両手を結んで縮こまっている。

 離れていていいと言ったのに、なでしこは私の助言を聞かなかった。

 隣で全て見届けてる。それが彼女なりの決着だった。

 私は薪割り斧を手に取る。

 ずっしりと重たい鈍色の刃を、シュラフの中の塊に、そっと押し当てる。

 首筋に当たる鉄の感触に、今頃になってシュラフが暴れ出した。

 みぃみぃと細い鳴き声が耳を騒がせる。

 か弱く、許しを請うような、最後の抵抗。

 良心が悲鳴を上げて、やめてあげてと泣きじゃくる。

 私は唇を噛み切って、薪割り斧を握る手に力を込めた。

 

 

 ――ああ、私は地獄に落ちるかもしれない。

 

 

 罪もない生き物を、殺す。首だか腹だかに斧を食い込ませ、切り落として殺す。

 なんて罪深いんだろう。

 どうして、こんな辛い事をしなければいけないのだろう。

 

 

 神様も意地悪だ。どうしようもないろくでなしだ。

 私たちは、たった一日二日、助かるかも分からない時間を生きるために斧を振るう。

 地獄を過ごすために、今ここで殺す。

 けれど……しょうがない。

 死にたくないんだ。何に変えても、生きたい。

 なでしこを、死なせたくない。

 

 

「ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……ごめんなさい……!」

 

 

 壊れた機械のようになでしこが詫びる。組んだ両手が震える。

 シュラフの中の抵抗を押さえつける。柔らかな肉に指が食い込んで鳴き声が強くなる。

 みぃ、みぃという声は、無視できるものではなかった。甲高い声が、私の脳裏に、永遠に残る傷を刻む。

 けれど、やらなくちゃいけなかった。

 

 

 死にたくないんだ。

 死なせたくないんだ。

 だから、死んでくれ。

 

 

 

 噛み切った唇の血の味が、私の罪だった。

 上体を乗り出して、全体中を込める。

 

 

 

 

 ――み゛っ。

 

 

 ぶちり、という肉の感触。

 甲高い鳴き声が、潰れて消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 皮を剥いだ肉を、滴る血ごと鍋に放り込む。ぐらぐら煮詰めると、水はたちまち、木の皮のような茶色の液体に変貌した。

 小さく柔らかい、新鮮な肉の塊を、ぐずぐずに溶けるまで煮込む。

 辺りには吐き気を催すような、血と獣の臭いが充満していた。ぐっしょりと血に塗れたシュラフは、無理矢理にちぎり取った白い羽毛と一緒にそこらへ捨ててある。

 血を吸って雑巾のようにくたびれたシュラフ。その中には、ビーズのような赤い目をした首が包まれている。

 埋めようとか、そんな考え一つ抱けない。殺した後の切り分ける作業で心は完全に砕け、今はただ、ひたすらな飢えに取り憑かれていた。

 

 

 鍋の水面に白い骨がぷかりと浮いて、肉がボロボロに崩れて溶ける。

 吐瀉物のようになったどす黒い液体を、私たちは無我夢中で貪った。

 

 

「っ……!」

 

 

 一口すするだけで、強烈な悪臭が鼻を刺す。血と胆汁の混じり合った臭いに、肉の味が全て塗りつぶされている。理性が動転し、食道がひっくり返って飲み下すことを拒絶する。

 それを問答無用で無視し、強引に飲み下すと、今度は急に異物が飛び込んできた胃が悲鳴を上げる。

 嫌だとわめく理性。暴れ狂う内蔵。

 それら全部を、獣のような食欲が覆い隠す。

 私たちは夢中で、くそまずい汁をすすった。血塗れの手で、今まさに命を奪った手で肉を貪る。胃酸が逆流し、強烈な酸味が喉を焼く。そこにまずい汁を流し込む。

 鉄錆の味。生臭い獣の臭い。何度も吐きそうになりながら、私となでしこは一心不乱に肉を食らう。

 目を見開き、息を荒げ。獣のように飢えに支配されて、わき目もふらず咀嚼して。

 

 

「っう……」

 

 

 やるせない気持ちに潰れそうになる。

 自分たちは最悪だ。

 人としての理性も曖昧にして、一つの命を奪ってしまった。

 頭を毟り、皮を剥ぎ、骨の髄までしゃぶり尽くしている。

 たった一日二日。地獄の終わりを、先延ばしにするために。

 なんて辛いんだ。

 なんて虚しいんだ。

 

 

「っぅ、ぅぅ……!」

「うぇぇ、ぇぇ……! うぇぇぇん……!」

 

 

 ……それでも、生きたい。

 こんなところで、寂しく死にたくない。

 身勝手な欲求に命を犠牲にして、それでも私たちは、みっともなく生きたいんだ。

 

 

 訳もなく悲しくて、情けなくて。私となでしこは泣いた。

 泣きながら、夢中でまずい汁をすすった。

 最後の希望に、すがりつくために。

 何が何でも、あの懐かしい日常に帰るために。

 

 

 

 

 

 

 



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14話

 

 

 ――あれから、夜を二回明かした。

 そして今、十日目の夜を迎えようとしている。

 ごまかし、足掻いて、なんとか先へ先へと伸ばしてきたそれが、すぐそこまで近づいている。

 

 

 

 

 炎が、見えなくなった。

 重ねた薪の上に揺らいでいた橙色がなくなり、黒ずんだ薪の周辺で透明な陽炎が揺れるのみになっている。カラカラに乾いた顔が、ほんの少しの熱を受けてヒリヒリと痛む。

 追加の薪は、もうない。新たに薪を作ることもできない。

 呼吸する事さえ、頑張らないとままならない。起きあがる事なんてとうの昔に止めている。

 水を取りに行くことすらできずにいた。放置された鍋には、厚い氷が張っている。

 体力も気力も、限界を越えて泡沫しか残っていない。尊い命を奪って生きながらえた分も、無駄に終わろうとしていた。

 

 

 私は木に寄りかかることもできなくなり、地面に仰向けに倒れていた。なでしこと頭を付き合わせるように、地面に伏せている。

 氷のような地面に押しつけた背中が痛い。けれどその感覚も、酷く曖昧だ。痛みを感じることすら、手放し始めている。

 夕焼け色だった空は、藍色に変わっている。世界がどんどん色を落としていく。

 吐いた息が白い霧を作る。気道が震え、断続的な音を出す。

 

 

 もう少しで、あの真っ暗闇の、夜が来る。

 それを越すことは、もうできない。

 

 

 ぱち、ぱち、と、たき火が最後の音を奏でる。

 橙色の明かりが、徐々に小さく、消えていく。

 入れ替わるように寒さが身体を浸食し、つま先から少しずつ身体を凍り付かせていく。

 餓死が早いか、凍死が早いか。

 何にせよ、朦朧とした意識を手放せば、次に光を見ることはない。

 生きるために必要な糧が、絶対的に足りない。

 どうしようもない。できることは全てやった。

 これ以上長く命を延ばすことはできない。

 諦めずに足掻き続けた。その果てにたどり着いた、足掻きようもない終焉。

 

 

「……」

 

 

 不思議な気分だった。避けようもない死を前に、私は異様な感慨に満ち足りていた。

 フルマラソンを走り終えたランナーは、同じような気分でいることだろう。やり終えたという実感。限界を超えてたどり着いた、もう何も要らないという境地。

 尋常じゃない寒さに、どういうわけか包み込むような優しさを覚える。

 もういいだろう、お前は十分頑張ったと、誰かに言われている気がした。

 

 

 

 

 ……怖い。

 怖くなくなっていくのが、怖い。

 諦めたくない。まだ死にたくない。そう足掻く気持ちはある。

 死はたまらなく恐ろしい。目覚めが二度と来ない眠りなんて、想像もできない。

 なのに、その恐怖が、曖昧にぼやけていく。考える意識が、擦り切れて曖昧になっていく。

 生物としての本能が『諦念』を推奨する。

 

 

 寒さを優しいと感じる。夜の山の静寂を美しいと感じる。

 死神の手を、救いと錯覚してしまう。

 死にたくないのに、死から逃れられない。

 諦めたくないのに、身体が、魂が、徐々に順応していく。

 

 

 怖くなくなるのが、怖い。

 それなら、怖いまま死にたいのだろうか。

 もう、なにも分からなくなってきた。

 

 

 

 

 何度か、陸に打ち上げられたオットセイのように身体を揺らし、残り僅かなたき火の熱で身体を暖める。

 仰向けに転がると、ポケットにごつごつした感触があった。

 それが妙に気になった。このまま死ぬにせよ、寝苦しい眠りは嫌だから。

 鉛のように重たい腕を動かしてポケットをまさぐる。

 仕舞っているのも忘れていた、ケータイだった。

 

 

「……」

 

 

 仰向けの上体で、何度も取り落としそうになりながら、ケータイを上に掲げる。

 震える指で電源を入れると、眩しい白い光が眼窩に飛び込んでくる。

 真っ先に右上の電波状況を確認する。残り三十パーセント程度の充電。突き放すような「圏外」の表示は、今更助けを呼んでも間に合わないから、逆にありがたかった。

 

 

「……」

 

 

 まばゆい光を背景に、二人の写真が映し出されている。

 満面の笑みのなでしこ。申し訳程度に唇を持ち上げ、胸の脇に小さくピースサインを作った私。

 なでしこが頑張っていて、私がまだ前を向けていた時の写真。

 こうして見れば、本当に対照的だ。いつも元気溌剌で一直線で、みんなを巻き込んで笑顔を生み出すなでしこ。一人が好きで、誰かと話すより、身体一杯で自然を感じる事が好きな私。

 改めて、よく友達になったものだ。たまたま出会わなければ、決して混じり合うことはなかったろう二人。

 水と油みたいに正反対。それなのに、今は何より大切と感じる。

 出会って一年も経っていないのに、こんなにかけがえのない存在になっている。

 

 

 私は画面に映る、なでしこの顔をそっと撫でる。

 不思議な奴だ。凄い奴だ。

 私の人生に誇りに思う事があるとすれば、この笑顔に違いない。

 

 

「……リンちゃん、ケータイ見てるの?」

 

 

 今にも消えてしまいそうな声。もぞもぞと、なでしこが身じろぎして、私に身体を寄せてくる。

 なでしこの顔が、私のすぐ横に近づく。身体をほんの少し傾けて、空にかざすケータイを、二人の間に持って行く。

 なでしこが掠れた息を漏らして笑う。せき込もうとしても、喉が満足に動かず、変なえづきになる。

 

 

「えへへ……こっちのリンちゃん、ピースしてる。それに二回目に撮ったから、ちょっと笑顔だね」

「そうかな……そんな、変わんないだろ」

「ぜんぜん違うよぉ。いっこずつ、違いを言ってもいいんだよ?」

「ははっ……なんで、分かるんだよ」

 

 

 乾いた笑いを漏らしながら、顔を向ける。

 そこにあった穏やかな笑みに、私の時間が止まった。

 消えない死相を刻んだなでしこの顔は、呼吸を忘れる程に綺麗で、儚かった。

 

 

「ずっと、見てたもん」

 

 

 痩せこけた頬が動く。カサカサに乾いた唇が、三日月型を作る。

 

 

「辛いとき、寂しいとき、何度も励ましてもらったよ……帰って、みんなとお話しするんだって。いつかリンちゃんと、こんなこともあったねーって笑い話にしちゃうんだって」

「……」

「見過ぎて、充電が切れちゃったけど……ね、アルバム見せて」

 

 

 言われるままにアルバムを起動すると、賽の目上に写真が並ぶ。

 殆どがキャンプ中に撮った写真だ……山嶺。渓流。平野。満点の星空。キラキラと輝く町の夜景。その中で作った料理の写真もある。

 そんな静かな風景写真に混じって、なでしこの姿がある。一緒に撮ったもの。ご飯を頬張りご満悦なもの。いたずら目的に寝坊した姿を収めたもの。

 

 

「景色と、ごはんと……なんか、わたしばっかりだね……なんか照れくさい、かも」

「そもそも、一緒にキャンプいくなんて滅多にないんだよ……大垣や犬山さんを撮ってもしょうがないし」

「わたしが、特別?」

 

 

 思わず言葉に詰まる。なでしこの衰弱した目が、答えを待ち望んでいる。

 もう、そんなに時間が無い事を、漠然と悟る。

 何度もえづきそうになりながら、私は口を開いた。

 言うべき言葉は、もうずっと、何日も前から心にあった。

 

 

「……特別だよ。なでしこは、私にとって特別な、いちばんの友達だよ」

 

 

 ケータイの写真が、何よりも私の言葉を証明する。

 

 

「なでしこと出会わなきゃ、私はずっと一人でキャンプしてた……やってることは変わらないかもしれないけど、ずっと、つまらない生活をしてたと思う」

 

 

 キャンプが好きだった。誰も知らない場所に一人で向かうのが好きだった。雄大な自然に包まれて、ただ穏やかな時を静かに過ごすことが大好きだった。

 キャンプをすることが、好きだった。それが今はどうだ。

 綺麗な景色を見たときに、どんな反応をしてくれるかと楽しみになる。

 おいしいキャンプ飯と出会ったときに、早く教えてあげたいと思う。

 好きな景色を見ながら穏やかに過ごしていても、今度は二人で来たいと夢に見る。

 一人でいる時、誰かの事を考えるようになった。

 なでしこに出会って、私の心持ちは一八〇度変わった。

 一人が好きであっても、独りぼっちでいることはなくなったのだ。

 

 

「えへへ……そっか……うれしいなぁ」

 

 

 なでしこが笑う。今にも消え入りそうな声。

 たき火の火が、とうとう潰えた。ぱち、という断末魔を残し、温かさが世界から消える。

 

 

 ケータイのライトを点けて、ランタンの代わりにする。

 最後の時が近づいてくる。逃げようのない死が、すぐそこまで迫っている。

 

 

「ごめんね、リンちゃん」

「……え?」

 

 

 突然の謝罪に、私は思わず声を上げた。

 訳が分からない。なでしこが謝る理由なんて、どこにもないじゃないか。

 そう思うのに、なでしこは謝罪を口にする。ぞっとするような穏やかな笑みで、死を目前にして。

 

 

「わたし、リンちゃんにすっごく酷いこと言っちゃった。リンちゃんも寒くて辛いのに、動けないわたしの代わりに、沢山がんばってくれたのに」

「っ……そんな……!」

 

 

 そんな事無いだろ。

 なんで、なでしこが謝るんだ。

 

 

「嫌われちゃったって考えると、すごく怖くて……でも、リンちゃんに嫌われたままは、いやだなって……ずっと、謝りたかったの。どれだけ悩んでも、言葉がでなくて……こんなタイミングになっちゃったけど……」

 

 

 目頭がぐっと熱くなる。残った魂の残滓を燃やして、私の心が悲しみで満ちる。

 

 

「わたしね、リンちゃんと出会えて、ほんとうによかったよ」

 

 

 なでしこの言葉は止まらない。

 

 

「リンちゃんが、わたしにキャンプを教えてくれた。旅行の楽しさを教えてくれた。綺麗な景色を教えてくれた。広い自然の中で、友達と静かに過ごす時間の、胸が幸せで一杯になる感覚を教えてくれた。キャンプに興味が持てたから、あきちゃんやあおいちゃん、えなちゃんと友達になれた」

 

 

 異質な力を持って、私の胸を強く打つ。

 

 

「わたしの全部、リンちゃんでできてる。楽しいって思うこと全部、リンちゃんが始めてくれた」

 

 

 せめて最後に言葉を残したい。そういう気力が紡ぐ言葉。

 

 

「わたしにとってリンちゃんは、本当に、いちばん大切な友達だよ」

 

 

 ――紛れもなく、それは遺言だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ひっそりと細められた瞼。その端から、一筋の涙が伝う。

 

 

「リンちゃんと仲違いしたままなんて、嫌だよ。最後に、仲直り、したいの……だから、ごめんね」

「っ……ばか」

 

 

 まただ。また私は、なでしこに押しつけてる。

 勝手な想像で、なでしこを突き放している。

 私はなでしこの、地面に投げ出された手を取った。ケータイが地面を転がり、二人で撮った写真が闇を照らす。

 信じられないくらいにやせ細ったなでしこの指を、がむしゃらに握り込む。

 

 

「っ謝るのは……私のほう、だよ……っ!」

 

 

 また、自分勝手な勘違いをしていた。犯してしまった過ちを二度と取り戻せないと、勝手に決めつけていた。

 なでしこはずっと、私の事を思ってくれていたのに。

 最初からお互いが大切で、二人で一緒に助かりたいと思っていたのに。

 身勝手に傷つけたのは、私の方なのに。

 

 

「私はいっつも、自分勝手で、上手に話もできなくて……なでしこがいなきゃ、今よりずっとつまらない生活してた。なでしこがいてくれたから、毎日すっごく楽しかった……!」

 

 

 後悔してもしきれない。どれだけの感謝の言葉も足りない。

 

 

「嫌いになるわけ、ないだろ……どうやったって、嫌いになれるわけないだろ……! 私は、なでしこに、人生を……っ!」

 

 

 残り少ない魂を燃やしてでも、悲しまずにはいられなかった。

 胸の内を多幸感が埋め尽くしていた。楽しかった日常が、なでしこと過ごした時間が、津波のように押し寄せてくる。

 

 

 幸せだった。

 一人じゃない、騒がしくておちおち本も読めない賑やかなキャンプが楽しかった。

 すぐに泣きついてくるなでしこがかわいかった。ちょっとした事でもらえるなでしこの羨望の目がこそばゆかった。

 全部全部、なでしこが教えてくれたんだ。キャンプの写真を送られて、どんな過ごし方をしているのか想像する楽しさも、どんな事をして過ごそうかと、ダラダラ話す時間の愛しさも。

 

 

「だいすきだよ、なでしこ……! 誰よりも、なでしこが一番好き。もっとなでしことキャンプしたい。沢山の時間を過ごしたい……なのに、なのにぃぃ……!」

 

 

 壊れた心から感情が溢れて止まらない。

 愛しさが、虚しさが、沢山のものがごちゃ混ぜになった感動に、心が熱い。

 仰向けのまま動かない体から、滂沱の涙が流れる。

 私は今更ながら、泣きじゃくって駄々をこぼした。

 

 

「いやだよ、なでしこぉぉ。死にたくないよぉぉぉ……! もっとずっと、なでしこと一緒にいたいよぉぉぉぉ」

 

 

 ぐしゃぐしゃになった声と心で、私はなでしこを求める。

 なでしこを失いたくない。ここで終わりにしたくない。

 固く強く抱き締めたい。私がどれだけなでしこの事を好きか、伝えたい。

 どんな言葉でも足りない。触れたくても、身体がもう動かない。死にかけの身体の中で、魂だけが出口を求めて暴れ回る。

 真っ暗闇。冬の山中に、私の駄々が木霊する。

 傍らに落ちたケータイの小さな明かりに照らされ、なでしこが涙を流すのが見えた。

 

 

「……よか、った……うれしいよ、りん、ちゃん……」

 

 

 重ねた手に、握り返す力がない。

 私は無我夢中で、なでしこの微かに震える指先に私の指を絡ませた。少しでも長く一緒にいたい。あとちょっと、あともう少し……いや。

 

 

「いやだ、いやだなでしこ」

「わたし、も……もっと、りんちゃ……たくさん……」

「やだ、やだよ。待って、待って、お願いだから」

 

 

 まだ、伝えきれない感謝の言葉があるのに。

 もっと生きて、やりたい事があったのに。

 なでしこの表情から、力が抜けていく。

 身体が動かない。どれだけ身じろぎしても言うことを聞いてくれない。目の前でなでしこが、なでしこが死んでいく。

 

 

「いやだ、いやだっ。いやだぁぁぁ……!」

 

 

 遠くでガサガサと木の葉をかき分ける音がする。あっちに明かりがあるぞ、と男の人の声がする。

 

 

「ありが、と……りんちゃ……」

 

 

 なでしこの涙が途切れ、冬の寒さに凍っていく。

 組んだ指先から、なでしこの命が消えた。力が手から、身体中から消えて、人から命のない人形に変わっていく。

 

 

「わたし……ほんとに……しあわ……」

「行かないで、なでしこっ。死んじゃやだ、やだよぉ……!」

 

 

 沢山の明かりが、私の背中から焚きつけられる。

 まばゆい明かりの中で、なでしこの表情が消えていく。

 騒々しい足音が背後に迫る。名前を呼ぶ声がする。

 目の前の笑顔が固まる。血の気が失せ、穏やかな笑顔から温かみが消える。

 私の目の前で、かけがえのない友達が今まさに……!

 

 

 いやだ。失いたくない。消えないで。行かないで。

 なでしこがいなかったら、私は、どうしたらいいの?

 嫌だ、一人にしないで。

 もっと一緒にいてよ。

 死なないでよ!

 

 

 

 

 

「なでしこぉぉぉ……!!」

 

 

 

 

 

 



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15話

 

 光は、消えなかった。

 

 

 

 

 

 車の助手席に座り、船を漕いでいる時のようだった。街灯が断続的に通り過ぎて、瞼の裏側をぼんやりと照らす。まどろみの向こうで、微かな振動が、自分をどこかに連れて行っていることを教える。

 深く沈んだ意識の底で、私はたくさんの声を聞いた。沢山の光を見た。体が小さな振動を捉え、肩を小さく揺すられる感覚がする。

 朦朧とした、曖昧な感覚。目覚めては光を見て、音を感じて、眠る、その繰り返し。

 覚めない眠りはなかった。

 もう、寒くも苦しくもなかった。

 死は、私からゆっくりと遠ざかっていった。

 

 

 

 

 

 

「――」

 

 

 

 ぱちりと目を開ける。

 素っ気ない太陽の匂いがした。

 体の感覚がない。自分の手足がどこにあるのか分からない。

 柔らかいベッドに体を横たえているせいだと気がつくのに、随分かかった。

 人工的な眩しさが、最初は意味が分からなかった。鬱蒼と木々の生い茂る山は消え失せ、磨り硝子で覆われた蛍光灯の素っ気なく白い光が私を見下ろしている。

 干したてのシーツの香りが、再び鼻腔を通り抜けた。

 吸うのに痛みを伴わない、温かい空気。穏やかに弛緩した雰囲気。

 

 

 今の私は、無だった。

 指を砕かれるような冷たさからも、胃を引き裂かれるような空腹からも、耐え難い絶望からも、解放されていた。

 だから、最初はここが天国だと思った。こんなできすぎた夢、あるはずないと思ったのだ。

 身を包み込むシーツは天使のベールのように軽やかだった。重たい衣服はどこかに消えて、皮脂でべたつく鬱陶しさもどこかに消えている。

 

 

 あれだけ寒かったのに、辛かったのに。

 感覚の全て覆っていた苦しみが、何もない。 

 だから何もかもが、現実の事と思えなかった。

 全部の事が、意識の端っこの方でしか感じられない。遠くて、薄くて、全く現実味を感じない。

 

 

 ただ、唯一、自分の左手だけが、不思議な感触に覆われていた。

 何となく温かくて、ほんのちょっぴり固くて、どうしてかぴりりと痛む。

 私は不思議に思って、自分のように思えない首を気怠く持ち上げる。

 

 

「……」

「……」

 

 

 斉藤恵那と、ばっちり目があった。

 斉藤は私の左手――点滴の管が刺さり、包帯が巻かれた手を持ち上げて、もう一方の手に蓋を開けたマジックを握っていた。

 その状態で、私と斉藤は硬直して、互いの目を見つめ合う。

 

 

「……」

 

 

 はた、と瞬きをした斉藤。

 そのまま何事も無かったかのように視線を落とすと、左手の包帯にマジックを押し当てた。

 

 

「ちょい、ちょい待て、オイ」

「一度動き出したアーティスト魂は止められないんだよ、リン」

「アーティストじゃないだろ……」

 

 

 なんだか、ますます現実味が遠ざかった気がする。

 左手がこそばゆくて、私は斉藤がマジックを動かす手を覗き込む。

 

 

「なに書いてるの?」

「んー? お見舞いに来たよってメッセージ」

「別に、そんなの今口で言えば……」

「あ、動かないで! 手がブレちゃう」

 

 

 真剣な口調に、私は押し黙る。

 点滴を支えるだけの細い包帯に比べて、かなり細かい文字を書いていた。注意して見れば、ツインテールの眼鏡のキャラがいる。

 

 

「大垣も来てたのか?」

「犬山さんも来てたよー。さっきまでいたんだけどね、ぐっすり眠ってるリンを見たら、起こすのも悪いって帰っちゃった」

「斉藤は、一緒に行かなくてよかったの?」

「私はいいんだよ。もうちょっとリンの側にいたかったから」

「……」

 

 

 斉藤は俯いて、文字を書くことに集中している。垂れた前髪の隙間から覗くのは、いつも通りの飄々とした笑顔だ。

 かきかき、マジックの細い圧力が、左手を滑る。

 

 

「お見舞い、持ってきたよ。バナナとかメロンとか、お決まりのやつ」

「マジで? ……わ、ホントだ。すっげえ高そう」

「でしょー? といっても、しばらくは病院指定のもの以外は飲食禁止らしいけどね」

「じゃあダメじゃん……生殺しかよ……」

「あはは、ホント、計画性のなさは皆同じだねー。お金出し合って買ったのに、だーれも気づかないんだもん」

 

 

 朗らかに笑って、狭い包帯に細かい文字を書いていく。

 三人分とすれば相当な量になりそうだ。ちゃんと読めるのか心配になる。

 

 

「今日は三部粥だって。ちゃんとしたご飯は、四日後くらいかららしいよ」

「そっか……重湯じゃないんだ」

「あー、やっぱり覚えてないんだ。リン、今日は救助されてから二日目だよ?」

「うそ?」

「嘘じゃないよー」

 

 

 おどけた調子で返す斉藤。

 その妙に澄んだ響きから、その道化が作り物である事が分かった。

 

 

「昨日から起きて、ご飯も食べてたんだけど、こっちの声には全く反応してくれなかったんだよ。何を話しても、ぼーっとして。どこか遠い場所から、心だけ帰ってこれないみたいに」

「……」

「お医者さんは一時的なショックだって言ってた。すぐに戻ってくるって聞いて、心配はしてなかったけど……それでも、声が聞けて安心した」

 

 

 十日間も遭難して、妙に体が軽いのは、そういう理由だったのか。

 衝撃的な事実に、私は言葉を探せず、押し黙ってしまう。

 何か言うべき言葉があるはずなのに、それがどうしても見つからない。

 

 

 病院内は心地よい静けさだった。

 音がない訳じゃない。スライド式のドアの向こうで、パタパタとスリッパの音がする。青空の覗く窓の外からは、車の排気音がした。そんな人工的な温かい雑音から、この病室が切り取られているみたい。

 

 

「学校、大騒ぎだったよ」

 

 

 斉藤のマジックは、ずっと動き続けている。細かく細かく、白い包帯を黒い文字で一杯にしていく。

 

 

「二人の姿が見えないって皆で話して、メッセージ送っても既読すらつかなくて、どうしたんだろうって思ってたら、次の日急に職員室に集められたんだ。そしたら警察の人が来て……私達、初めて職務質問されちゃった。あれ、事情聴取? それも違う?」

「……」

「二人の行方が分からない、どこか知らないかって。リンとなでしこちゃんの親も来て……新聞記者さんもきてたんだよ? ニュースにだってなったんだから。もう学校中がてんやわんや」

 

 

 その時の様子を思いだしてか、斉藤がくすりと笑う。

 明るい調子で、その時の喧噪を伝えてくれる斉藤。

 握られた左手が、急に温かくなった。

 

 

「知ってるだけのこと、全部話して……私たちも探すって言ったけれど、危ないからダメ、待ってなさいって言われて……それからは普通だったよ。学校に行って、授業を受けてた」

 

 

 声が僅かに震え出す。俯いた恵那の顔が見えない。

 マジックだけが動き続けて、沢山の言葉を書き続ける。

 

 

「何も頭に入らないし、野クルも休部してたけどね……何かできないかって思っても、何もできなくて……どうしようどうしようって、落ち着かなくて」

 

 

 ぽたりと、左手に熱い滴が落ちた。包帯をはみ出して続いていた文字が塗れて、ぼんやりと滲む。

 

 

「私たち……ただ、待っているだけしか、でき、なくて……っ」

 

 

 嗚咽が漏れて肩が大きく揺れる。落ちていく滴がここからでも輝いて見えた。

 後から後から落ちる涙が、文字を黒い水たまりに変えていく。それでもマジックは止まらない。伝えたい言葉が多すぎて。

 

 

「本当、大変だったんだよ……? ニュースが別の話題になって、新聞の人がこなくなって、捜索続くって話題が、どんどん小さくなって……リンとなでしこちゃんが、遠くにね? 消えていくみたいでね? ……もうリンに、リンに会えないんだって思うと怖くて怖くてね……っ!」

 

 

 マジックがカランと音を立てて病室の床に転がる。

 とうとう斉藤は腰を折って、真っ黒になった私の包帯に額を押し当てた。

 信じられないくらいに熱い肌。肩を震わせて嗚咽を漏らし、後から後から涙が溢れて、止まらない。

 

 

「よかった……また、会えて、えぐっ……本当に良かった……!」

 

 

 斉藤は私を離してくれなかった。後から後から溢れる涙で私をびしょ濡れにしても、伝えたい言葉には足りなかった。

 私の心が幸せで満ちる。胸がぐうっと熱くなり、受け止めきれなかった喜びが涙になって、頬を熱く濡らす。

 何よりも、誰よりも満ち足りた気分だった。凍り付いた心が、やっと弛緩し、目を覚ましてくれた。頬を伝う涙の感触が、手のひらに感じるびしょ濡れの温かさが、最高に心地よかった。

 

 

「ありがとう、斉藤。 ……ただいま」

「ひぐっ、えぐぅ……! おがえりぃぃぃ……! わぁぁ、わぁぁぁぁぁん……!」

 

 

 

 

 火傷しそうに熱い彼女の悲しみと喜び。到底受け止められない、嬉しすぎる思い。

 その熱と重さに、私は、自分が愛されていることを改めて気づかされた。

 

 



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16話

終わりです。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。


 ひとしきり泣きじゃくった後、斉藤は帰っていった。

 今日は普通に平日で、学校を午前休業して来たらしい。みんな無理を押して駆けつけてくれたのだ。

 今までの遅れを取り戻すと張り切る斉藤の顔は、マジックで真っ黒になっていた。当然のように、私の左手もびちゃびちゃだ。呼び出したナースさんに斉藤が照れながらお詫びして、包帯を新しく取り替えてもらった。

 目覚めの報告を受けてやってきた病院の先生に、私は沢山の質問をした。先生は嫌な顔一つせず、私の問いに答えてくれた。

 

 

 私の症状は、衰弱と末端の軽度な凍傷、顔の低温火傷……こうして列挙すると、酷くあっけないものだった。いずれも、しっかりと食事を取って薬を飲んで、ぐっすり休めば、二週間もせず完治するだろう、との事だ。

 強いて言えば、長らく動かずじっとしていたせいで、筋肉が衰え、しばらくは歩くのでも苦労するようだ。それも、日常生活の中で次第に回復していく見込みだ。後遺症というには、余りに軽すぎるハンデに、私は拍子抜けさえしてしまった。

 足には包帯が巻かれているが、足首を回してみても、気だるさと軽い痛みしか感じない。歩いてもいいかと聞くと、リハビリの為にもぜひ積極的に、という返事を貰った。

 私たちの発見のニュースは、結構大きく報道されたらしかった。何せ冬の雪山で、十日間の遭難だ。斉藤の反応も大げさではなく、私たちは本当に死んだものと思われていた。病院の先生から、水を確保する仕掛けとたき火について褒められて、こそばゆい気がした。

 

 

 生還は奇跡だと報じられた。私の目覚めを聞いて駆けつけてきた家族の顔色で、それが本当であるとすぐに分かった。

 次々にやってくる家族、親戚。夕方になると、授業が終わったクラスメイトが徒党を組んで病院に押し掛けてきた。

 野クルの二人も、改めて顔を見せに来てくれた。二人は斎藤と同じように、沢山泣いて、喜んで、私に会えたことを心の底から喜んでくれた。数か月の短い間であるはずなのに、自分でも驚くほどに、私たちは深い絆で結ばれていた。

 私は沢山泣かれ、抱き締められ、人肌の温もりを十分に味あわされ、鬼のように質問責めにされた。

 病院内を一人で歩けるようになったのは、夕食も終わり、空がとっぷりと暗くなってからだった。

 

 

 

 

 

 

 

 私はベッドに顔を押しつけて眠る母親を起こさないように、スリッパを履く。

 立ち上がると、途端にバランスを崩し、壁際の木製の手すりにしがみついた。

 自分の体重を支えられない。私の足は、端から見ても分かるぐらい細くなっていた。

 体力が戻っていないのか、立ち上がるだけでくらりと目眩がした。本当に動いていいのだろうか……そう不安になったが、私は足を前に出す。

 寒くない、痛くない、夜。

 病院の廊下はとても静かなのに、とても安心した。あの時に感じた、押し潰されるようなプレッシャーは、どこにも感じない。

 

 

 久しぶりの歩行は、想像以上の大仕事だった。電池の足りないロボットを操縦しているみたいで、普段の当たり前ができない不自由さにイライラさせられる。

 けれど、その不自由さが、私が生きている証拠だった。

 体が重いのに、とても軽い。何日も着続けた重たい冬服も、感覚を奪う絶対零度の厳しさもない。繭を破ったばかりの蝶は、きっとこんな感動に打ち震えるのだろう。

 この嬉しい不自由は、決して味わえるものではあるまい。そんな優越感さえ感じる始末だ。

 どこか感慨深い思いに浸りながら、リノリウムの緑色の床を、スリッパをパタパタ鳴らして歩く。

 反対側を歩いていた看護婦さんが、私の不自由な歩き方に目を止めて立ち止まった。

 

 

「あら、志摩さん? 何か用事?」

「いえ……少し、歩きたくて」

「そう。何か困ったことがあったら、いつでも呼んでくださいね」

 

 

 看護婦さんは微笑して、特に追究もなく私を見送ってくれた。

 十日間も遭難していたのに、何ともあっけないものだ。

 つい数日前の遭難が、遙か遠い昔の事のようだ。

 

 

「……」

 

 

 まだ、夢を見ているような気分がした。

 沢山泣かれて、抱き締められて、それでも現実味がやってこない。

 助かったという感動に、心から喜べない。

 きっと、大切なものを、あの山に置き去りにしてきたせいだろう。

 

 

「……」

 

 

 ペタペタというスリッパの音を奏でて、私は病院内をさまよう。

 どこに行けばいいか分からない。誰かに聞こうとも思わない。

 それでも、私は機械的に足を動かす。じっとしていられなくて、あてどなく歩き回る。

 酷く重たい体と、責め苦から解放された心。あべこべな感覚を抱えて歩くのは、まるで幽霊のようだ。

 来週には、また制服を着て、学校に行くのだろうか。授業を受けて、斉藤に髪をおちょくられながら図書館で本を読むのだろうか。そんなの到底信じられない。

 時間の感覚が酷く曖昧だった。朝になるまで続きそうな気がしたし、朝なんて二度と来ないようにも思えた。

 

 

 ひとりぼっち、取り残されているような気がする。

 きっと、そう思うから、私は歩いているのだろう。

 緑色の廊下、等間隔にあるドア。代わり映えのない景色の中、ペタペタとスリッパを鳴らし続ける。

 

 

 

 

 

 夢のような時間。

 

 

 

 

 

 現実味を置き去りにした行動。

 

 

 

 

 

 永遠に続くかのような、静かなスリッパの音。

 

 

 

 

 

「……」

 

 

 

 

 そうして私は、ドアの脇に書かれた『各務原』の文字を見つけた。

 

 

 

 

 

 

 

 さまよっていた意識が形を取り戻す。ペタン、という最後のスリッパの音が、やけに響いた。

 ドアの隙間からは、蛍光灯の明かりが漏れていた。スライド式のドアは、今すぐにでも開けて欲しそうに銀色の光を照り返している。

 どんな光景を見るのだろう。

 何を言えばいいのだろう。

 私はなんの覚悟もできないまま、ただ静かに取っ手を握りしめ、ドアを引いた。

 蛍光灯の眩しい光が、私の視界を真っ白に覆って――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ずーーるーーいーー! もー、お姉ちゃんばっかり食べてるー!」

「うるさいわね、あんたの変わりに、腐る前に処理してやってるのよ」

 

 

 ……光の向こうに、お姉さんと口論する、桃色の髪の女の子がいた。

 ベッドに横になったなでしこは、むっつりと頬を膨らましている。ベッドの側面に腰掛けているのは、同じ病院服姿のお姉さんだ。

 お姉さんは飄々とした様子で、窓際に置かれているフルーツバスケットに手を伸ばす。

 

 

「食べれない方が、お友達に失礼でしょ? ここの冷蔵庫は小さいし、果物の足は早いんだから」

「うそだぁ、お姉ちゃんイチゴばっかり食べてるもん」

「イチゴは腐りやすいのよ。これ本当だから」

「そんなこと言って、食べたいだけでしょ! お姉ちゃんの豚やろー!」

「なっ! アンタそれ言ったら戦争よ!?」

 

 

 愕然としたお姉さんが、イチゴを取りこぼす。床を落ちた紅い粒が、私の方に転がってくる。

 イチゴを追いかけたなでしこの視線が、入り口で固まったままの私と交差した。

 一瞬で、満面の笑みがぱぁっと咲いた。

 

 

「リンちゃん、起きたんだ! おはよー!」

「何時だと思ってんのよ……こんばんはでしょ」

 

 

 ぶんぶんと元気良く手を振るなでしこを、お姉さんが窘める。想像とはかけ離れた騒々しさに、私はまだ反応を返す事ができない。

 お姉さんも、心からの安堵に、唇を綻ばせていた。私の混乱を察した様子で、優しく声をかけてくれる。

 

 

「リンちゃん、もう動いてもいいんだ」

「は、はい。歩くのもいいリハビリになるって」

「そっか。大事がなくて何よりだよ……ああ、今どくね」

 

 

 そう言って、お姉さんはベッドから立ち上がる。手すりを持ちながらゆっくりと移動し、傍らにある車椅子に腰を下ろした。

 

 

「お姉さんは、その……」

「ああ、これ? 病院も、霜焼けみたいなものに大袈裟だよね」

 

 

 お姉さんの両足は、分厚い包帯で覆われていた。それなのに、似つかわしくない柔らかな笑顔を浮かべて、お姉さんは続ける。

 

 

「安心して。神経もどこも悪くなってないから、切る必要はないって」

「そ……う、ですか」

 

 

 軽々しく言ってのける言葉で、お姉さんがどれだけ酷い状態で見つかったかが伺い知れた。余裕のある笑顔も、改めて見れば、まるで歴戦の勇士のようだ。

 私の驚愕の表情に触発されてしまったのだろう、なでしこがふっと表情を曇らせる。 

 

 

「おねえちゃん、一週間ずぅっと、歩きっぱなしだったんだって。私たちの為に、昼も夜もずっと……凍傷が酷くて、もう少し遅かったら……あいったぁ!?」

 

 

 なでしこの重たい声が、ばちんっという破裂音にかき消される。俯いたなでしこの頭に、お姉さんのデコピンが綺麗にヒットしていた。

 

 

「心配ないって言ってんでしょ。終わった事でしょげられちゃ、こっちの気が滅入るわよ。全く……はむ」

「あー! だからそれ、私のお見舞いなのにぃ!」

「機嫌を損ねた分よ。アンタは黙って三部粥でも食べてなさい」

 

 

 他愛ない、姉妹のやりとり。硬直していた私の顔が、やっと緩む。

 

 

「お姉さんも、無事で良かったです」

「リンちゃんが、色々持たせてくれたお陰でね。あれがなきゃ早々に死んでたかもね。ほんと……あの時の私はどうかしてたよ」

「そんな……」

「あーもう、辛気くさいのはやめましょ。リンちゃんのお陰で生き残れた、ありがとう! 助けを呼べた。あなた達に間に合った。本当に良かった! これだけで十分よ」

 

 

 お姉さんはあっけらかんと笑う。

 たった一人で、冬の山を歩き続けて、一週間。

 十日間をじっと過ごした私でさえ、お姉さんの過ごした地獄は、想像することすらできない。

 けれど、「できないなら想像なんてするな」と、お姉さんの笑顔が伝えていた。事実目の前の笑顔は、また私たちに生きて会えた事に、心から喜んでくれている。

 だから私も、不器用に笑みを作って頷いた。本当に良かった……その安堵だけは、紛れもなく本物なのだから。

 

 

「……それで、なでしこは何してるの? 腕伸ばして、ぷるぷるさせて」

「っ……抱きつけないから、変わりに送ってるの。ありがとうビームを……!」

「怪電波をやめろ。もー、しょうがないなぁ」

 

 

 苦笑したお姉さんが、車椅子を近づけてなでしこと包容を交わす。

 なでしこの折れた足は、お姉さん以上の分厚いギプスが巻かれて、ベッドの上に鎮座していた。

 

 

「すっごく重くて、全然動けないんだよ……リンちゃんはいいなあ」

「それ、大丈夫なの?」

「うん! また歩けるようになるって、お医者さん言ってたよ!」

 

 

 なでしこの足が元通りになることが、一番の奇跡だった。

 完全に折れ曲がるほどの酷い骨折だったが、逆に綺麗にバッキリと折れたお陰で、手遅れにならずに済んだそうだ。見よう見まねながら固定して動かさずにいた事で、血管や神経も深い傷を追わずに済んでいた。

 今はきちんと固定して、安静にしている状態。これから数度の手術を経て、細かい骨を取り、ピンを埋めて、元に戻していくのだそうだ。

 手術は来週。骨が元通りに繋がるには二ヶ月くらいかかるそうだ。

 しかし、完治とはいかないみたいだ。治った後も、足に軽い痺れや痛みが残る可能性があるそうだ。

 

 

「そっか……それじゃあ、退院はちょっと先になるな」

 

 私はそのリスクには触れず、笑顔を返した。

 なでしこが全く悲しんでいないのに、私が気に病むのは筋が違う。当の彼女は、退院した後の事を考えるので忙しいのだ。

 

 

「あきちゃんもあおいちゃんも、毎日来てくれるんだって! キャンプ雑誌とか、ランプとか一杯持ってきて、退院したくてたまらなくしてやるーって張り切ってたよ。もぉ困っちゃうなぁ」

「……丘の見えるキャンプ場も、探さないとな」

「ふっふっふー。実はもう考えているのです。みんなでクリキャンした、富士山の側のキャンプ場がいいなって!」

「気が早すぎるだろ……」

「だって、おいしかったんだもん……A5ランクの和牛!」

「丘関係なくなってるし」

 

 

 何気ない会話。なんて事のない時間。

 地獄の果てにたどり着いた、かけがえのない日常。

 

 

 

 

 その日常に本当に戻ってくるには、まだ、やり残した事があった。

 

 

 

 

「……それじゃ、私は自分の病室に戻るわね」

「お姉ちゃん?」

「もう遅いし、私がいたら、二人ともよそよそしくなっちゃうでしょ」

 

 

 微笑んだお姉さんが、車椅子の車輪に手をかける。

 振り返ったお姉さんの目は、私の曇った感情を確かに察していた。

 

 

「ああ、そうだ。リンちゃん、ちょっといい?」

「え?」

「言い忘れてた事があったの。もう少し近づいてくれない?」

 

 

 言われるがまま、車椅子のお姉さんに歩み寄る。

 

 

「もうちょっと……うん、そのぐらいでいいよ」

 

 

 突然に、私の体が引き寄せられ、お姉さんに堅く抱き締められた。

 ぎゅぅぅっと力強い包容。柔らかい体が触れ合い、お姉さんの体温が、私の中にじんわりと染み込んでいく。

 

 

「……ありがとうね、リンちゃん」

 

 

 涙を堪えた囁きが、耳元でそよぐ。

 

 

「なでしこを助けてくれてありがとう。守ってくれてありがとう……生きていてくれて、本当にありがとう」

 

 

 私は、何も返せなかった。

 ただ、お姉さんの身体を強く強く抱き締めて、言葉にならない喜びを伝える。

 きっかり十秒。抱き締めていた力が緩み、温もりが離れていく。

 後には、穏やかなお姉さんの微笑だけがあった。

 

 

「……それじゃ、また明日ね」

「おやすみ、お姉ちゃん」

 

 

 なでしこの挨拶に、お姉さんは手を振って答える。

 車椅子がスライド式のドアの向こうに消える。

 静寂が包む病室に、私となでしこだけが残った。

 

 

「……」

 

 

 しばらくの沈黙が、私の心の淀みを明らかにする。なでしこのガラス玉のような目が、私をまっすぐに見つめている。

 二人とも、始まりの言葉を探している……ううん、違う。言うべき言葉は知っている。それを言い出す勇気がないだけだ。

 いつもそうだった。私が勇気を出せずに塞ぎ込んで、自分一人で勝手に思い違いをして、心を暗く沈めていた。

 なでしこが、いつも私をすくい上げてくれた。

 今だけは、それに甘えちゃダメなんだ。

 

 

「ごめん、なでしこ」

 

 

 私は、なでしこに深く頭を下げた。

 陰鬱だと思う。生きて再会して一発目が謝罪なんて、ナイーブここに極まれりだ。

 けれど、無視する事はできなかった。私がした事を、生存の喜びで無かったことにしてはいけない。

 

 

「私、なでしこに酷い事言った。冷たく当たって、なでしこを傷つけちゃった……頑張って生きようとしていたのに、諦めろって言っちゃった……本当に、ごめん」

 

 

 あの時のなでしこの怒りを。心のそこからの死にたくないという想いを、忘れられない。

 あの時のなでしこの悲しみが、私の心にフィルムのように焼き付けられている。

 悔恨が、自分自身への侮蔑が、日常に戻ることを拒絶している。

 このままでは、私はなでしこに顔向けできない。

 

 

「何度も何度も後悔した。ずっと謝りたかった。なでしこに先をこされるんじゃなくて……ちゃんと、言いたかった」

 

 

 目頭が熱くなる。

 一体何度泣けばいいのだろう。どれだけ自分を嫌いになればいいのだろう。あの時の地獄を思いだして、心に浮かぶのは後悔ばかりだ。

 言い逃れもできない。あの時私は、本当に最悪だった。

 大好きななでしこに嫌われても、しょうがない人間だった。

 私は、私自身を、そうとしか思えない。

 

 

「……顔あげてよ、リンちゃん」

 

 

 だけど、なでしこが教えてくれる。

 目に涙を一杯にためたなでしこは、私自身よりもずっと、私の事を見てくれている。

 

 

「お医者さんが言ってたよ。わたし達が助かったのは、本当に奇跡だって。対応が良かったんだって、すっごく褒めてたよ」

 

 

 なでしこはいつだって、朗らかで眩しくて、生きる希望に満ちていて。

 

 

「ぜんぶぜんぶ、リンちゃんのお陰だよ。リンちゃんのお陰で、わたしはまた歩くことができる。みんなと一緒に遊べる……何回ありがとうって言っても、全然足りないよ」

「そん、なの……私は、何回ごめんって言っても、足りなくて……」

「うん。ありがとうもごめんねも言い足りないよ。だから……っだか、ら……!」

 

 

 お互いの嗚咽が重なる。

 感情が溢れて止まらない。

 冬の山で感じた、心がくじける冷たさなんかじゃない。

 ただひたすらに、温かくて。

 胸が幸せにいっぱいになって。

 嬉しくて嬉しくて、どうしようもなくて。

 

 

「もう、いいよ……! いいの。リンちゃんと一緒に、生きてられて……それだけですっごくうれしいの。またリンちゃんと一緒にいれるって思うだけで……!」

「うん。私も、だよ……私も、嬉しい……!」

「だから、ぐすっ……だから、ね?」

 

 

 お互いの心なんて、始めからずっと一つだった。

 嫌いになれるわけがなかった。

 好きでいられないはずがなかった。

 私はなでしこに、人生を変えられて。

 私はなでしこに、かけがえのない大切な物をあげられたのだから。

 

 

「だから、また……わたしと一緒に、キャンプしてくれる?」

「っ行こう、行こうよ、なでしこ。また、一緒に、ぃ……!」

 

 

 涙はもう止まらなかった。

 私は何度も頷いて、何度も「行く」と答えた。なでしこもまた、声にならない涙声で「嬉しい」と呟いて、二人でわんわんと泣き続けた。

 

 

 

 十日間に及ぶ遭難は、こうして終わった。

 悪夢の時間は、思い返せば、本当に夢を見ていたようで。

 夢らしく、私たちの生活を変えるには至らない。

 

 

 私たちはまた、キャンプをする。

 たくさんの綺麗な景色を見て、おいしいものを食べる。

 一緒に笑って、楽しんで、青春の思い出をたくさんたくさん作るのだろう。

 

 

 

 その幸せこそが、私がなでしこに教えられたことで、なでしこにあげられた宝物なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




くぅ~疲これ完!


……本当に疲れました……



こんな多方面からバッシング受けそうなネタ鬱小説に最後までお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。
原作からかけ離れたえっぐい内容ではありましたが、その分、何かしら他では得られない感覚を味わっていただけたなら幸いです。


沢山の感想、メッセージを送っていただいた皆様に、重ねて感謝を。
また次の作品でも、面白いと思っていただけるよう頑張ります。


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