英雄殺し(スタゴナ・アステリ) (カリギュラ伯父上大好きマン)
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俊足の大英雄

 

 ワイ、武道が趣味のフリーター(32)。

 

 宝くじで一発当ててギリシャ旅行に来たら災害に遭遇した挙げ句なぞのばしょに拉致される。幸運と凶運があまりにも極端すぎない?

 

「Έλα!」

 

「ぐっふぉ!?」

 

 地震! 津波! 嵐! って怒涛の勢いで襲われて、死んだかな? とか思ってたらよく分からんローマのコロッセオみたいな所にブチ込まれて、このザマだ。

 

 今はその地下にある薄暗い牢獄に転がされていたのを、妙に肌が灰色っぽいムキムキマッチョマンにむりやり立たされてどっかに連れて行かれようとしている。つーかよく見てみたらこの大男……。

 

 石やんけ!(死んだ目)

 

 いやホントなんなの? オレの腕を掴む感触とか冷たさとかどう見ても固い石やんお前。どうしてそんな生物的な動きができるんですかねぇ。

 

 しかも関節とか肌のシワとか完全再現。石材が有機的な可動性を実現してるとかどういうことなの……。

 

「ちょっと待てギリシャ語は分かんねえんだからせめて英語……」

 

「Χαίρομαι.Ο Αχιλλέας της ταχύτητας θα κάνει τον αντίπαλό σας」

 

「げっふぅ!?」

 

 急かすように背中をぶっ叩かれた。相変わらず容赦がない。何を言ってるのかも分からない。石造りの階段を登り、日の光が差す出口が見えてくる。もしやコイツ、オレを逃してくれるのだろうか。

 

 強い光に目を眩ませながら、どうにか階段を登りきる。慣れ始めた瞳が捉えたのは、

 

「Εδώ.Είναι ένας ιερός αγώνας αφιερωμένος στους θεούς του Ολύμπου.Μην υπηρετείτε με αίμα, ιδρώτα και άγρια μάχες!」

 

「……は?」

 

 闘技場、その中心にして……人間の屍と赤黒い血液、辺り一面に散らばった(はらわた)と汚物から発される腐臭と生臭さがこれでもかと充満する残酷な決闘の現場だった。

 

「ゔっ!?」

 

 吐き気が現実を突きつける。ぐじゅ、と踏み込んだその脚の感触が、もう逃げられはしないぞ、と逃避する意思を縛り付けた。

 

「は……は、冗談キツいぜ……?」

 

 呆けたように呟いた。気づけば自分を連れてきた石像の大男も消えている。天を仰ごうとして、その中心に立つ血塗れの戦士を見つけたのは、決して偶然ではなかった。

 

「お前も巻き込まれたクチか?」

 

 流暢な日本語に、とてつもない違和感がある。違う、この男の存在こそが違和感の原因に間違いない。一つ分かったのは、戦士がまっとうな人間ではないことだった。

 

 災難だったな、と心底無念そうに嘆くのは、勇壮な黄金の鎧を身に着け、盾を背に掛け、槍と剣を携える緑髪の男。兜はなく、よく見れば足下に放り捨ててあった。

 

 考えずともすぐに分かった。コイツだ。この虐殺の主犯は、間違いなくこの英雄然とした、この男なのだ。

 

「アンタ、なぜこんな事を……?」

 

 祈るような気持ちで問う。問わなければ気がすまなかった。自分が殺される対象なのか、否かを。

 

「なぜ、ね。そりゃ俺だってこんな事やりたかないさ。当たり前だ。俺が殺したこいつらは、戦士じゃねえ。そもそもからして戦や決闘とは関係のない民草か、神経質な魔術師どもだ。俺の相手をするにはまったく相応しくない」

 

 口調こそ若者らしい、それでいて堂々とした話し方だったが、どうにも古い物言いにばかり聞こえる。違和感が拭えない。戦士、民草、戦に決闘。その振る舞いは、まるで古代の神話に生きる英雄が如く。

 

「だがな」

 

 強い、ひたすらに強い意志を宿した瞳が、力の抜けた体を穿く。全身が砕け散る錯覚に抗いながら、男の言葉を待った。

 

神がそう望まれる(・・・・・・・・)

 

「……は?」

 

 理解ができなかった。

 

 実存すら定かでない妄想の生き物のために、この男は今を生きる人をなんら躊躇することなく殺すことができる。

 

 恐ろしい話だった。

 

 確かに、無益な殺生は好まないのだろう。平凡な日常、愛する者と過ごす時の尊さを知っているのだろう。

 

 だが殺す。

 

 必要とあらば、そこにためらいはない。もとよりその身は戦士、英雄。命とは散るもので、魂とは天高く捧げる供物なのだ。

 

 明らかに現代の倫理観はない。殺し合いに命を賭ける恐ろしい者たちの、哲学の結晶とも言える古代の信仰者がここにある。

 

「狂ってるぜ、アンタ」

 

「なるほど、そう言われるような時代になったわけか。嬉しいねぇ。いらねぇだろうが、もし託せるならお前のような奴が良いんだが……」

 

 やるせないねぇ、そういい残して英雄が槍と剣を抜いた。剥き身の鋼は、血に濡れてなお鋭さを失わずにこちらを睨めつける。

 

 恐怖に身が竦んでもおかしくないだろうに、類を見ない気丈さで立ち尽くす体が、思い出したようにふるふると震えだす。それは命を喪う恐怖か、それとも……。

 

「安心しな、痛みはねぇ。せめて安らかに逝けよ」

 

 構えた英雄がついに名乗りを上げる。其は一つの神話における最強の英雄、その一人。

 

「我が名はまつろわぬアキレウス! 俊足の名を賜りし大英雄である! オリンポスの神々よ! 我が戦、我が決闘をとくと御照覧あれ!」

 

 ズドン、と散弾銃を発砲したような轟音と共に、槍の穂先が地面に突き立てられる。その行為にどんな意味があるのか、見当もつかない。だが、これは大事な儀式のようなものなのだと、直感的に理解した。

 

 アキレウスを名乗るこの男は、あくまでも人として、己に立ち向かう相手を最大限に尊重して殺すのだと理解した。それがたとえ、自分のような取るに足らない弱者でも同じことだ、と。

 

 トロイア戦争、最大の勇者。女神テティスとプティーア王ペーレウスの間に生まれた半神にして不死身の英雄。単騎でトロイアの軍勢を相手取り、無傷のままに勝利を重ねた規格外の戦士。最速と謳われたその健脚は、真実この世の何よりも疾く、あらゆる者を置き去りにしたという。

 

 英雄アキレウス。彼は、己の決闘と、相対する者の命と魂を神に捧げるためにここにいるのだ。

 

「征くぞ、名も知らぬただ人よ。恨むなら、この俺を恨むがいい!」

 

 膨れ上がった戦意が物理的な風圧となって、屍と血肉が吹き飛ばされる。

 

 体の震えが止まった。感情が一周回って逆に冷静さを取り戻したらしい。ふと脇を見れば、盾と剣が転がっている。手に持って軽く素振りすると、鉄より軽く頼りない印象を受けた。材料はおそらく青銅だ。これでアキレウスを相手取れるかというと、無理と断言できる。

 

 だけれども、それはそれとして、オレは怒っていた(・・・・・・・・)

 

 その要因はいくらかあったが、最大のそれはというと、この理不尽に対する「どうしてオレがこんな目に」という憤懣である。よく分からん奴に、よく分からん理屈で、よく分からん物のために殺されねばならぬなど、まっぴらゴメンだった。

 

 プッツンきたのだ。体の震えは抑えきれない怒りから来るもので、一周回って冷やされた頭は、このいけすかない英雄野郎をどうやってブチ殺してやろうかずっと考えていた。

 

 盾を捨てる。これは不要だ。必要な時に剣を振るい難くする。

 

 倫理観は異常な事態に溶け落ちて、生きるには修羅となるより他にないことを理解してしまった。命の喪われるその容易さが、実力というものがかけ離れた真の英雄と相対することで、よく分かってしまったからだ。

 

「なぁ、アキレウスさんよ」

 

「なんだ?」

 

「アンタがあのアキレウスならさ、踵を砕かれる覚悟(・・・・・・・・)はあるかい?」

 

「……あぁ、ある」

 

「そっか。まぁ、オレも死にたくないからさ」

 

 

 

 アンタが死んでくれよ。

 

 

 

 剣を構える。殺すなら最初しかない。英雄を殺すには、出鼻を挫いて何もさせずにハメ殺すしか、手段はない。後の先を取り、動作の起きを潰し、俊足を止める。

 

 意識が空になる。目で追えぬものを見て、考えるのは無意味だ。ならば瞳を閉じ、心眼による反射に身を任せる。さあ来い、いつでもいいぞ。絶対に殺してやる。

 

 その意気や良し。もはや問答は不要とアキレウスは快活に笑う。

 

 瞬間に地が砕け、英雄が疾駆する。英雄でもなんでもない、真実ただの人である男は、その流星が如き突貫に真正面から立ちはだかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あー、負けたか。このアキレウスを打ち負かしたか」

 

「あぁ、勝ったぞ。殺したんだからとっとと死ねよ韋駄天バカが」

 

 果たして決着はついた。英雄は敗北し、ただの人が勝利を飾る。踵を砕かれ、心臓を穿たれた英雄は、地に転がって天を仰いだ。

 

 立って英雄を見下ろす勝者は、息も絶え絶え。英雄と剣戟を重ねた両腕は、その圧と衝撃に耐えきれずに流血していたし、骨が砕けなかったのは間違いなく奇跡だった。2本の足は今にも崩れそうなほどガクガク。立っているのもやっとなありさまで、勝者であることが不思議なくらいボロボロだった。

 

 左足の損傷と胸の大穴以外、まったく無傷のアキレウスの方が勝者に見えるのも仕方ない程だったから、その満身創痍の具合も凄いものだ。

 

「まぁそう言うなよ。簡単に死ねるのなら、俺は英雄になぞなってねぇ、ということさ」

 

 辛辣な物言いに苦笑をこぼしつつ、アキレウスが自慢する。

 

「うるせえ死んだんだから死ねって言ってんだ自然の摂理に従えオラ」

 

 対する男はにべもなく死刑宣告を連発していた。流石のアキレウスもこれには呆れ気味だった。

 

「ったく、ボロボロの癖に元気のいいことだ。まぁいい、それよりも聞きたいことがあるんだが、いいか?」

 

「なんだ、答えたら死んでくれんのか」

 

 酷い言い草だったが、掛け値なしの本音でもあった。率直に言って、男も限界だったからだ。

 

 なにせこのアキレウスという男。踵を砕かれ、心臓を穿たれたにも関わらず、なおも敢闘を続けたのである。これには男も面食らった。完璧に殺した筈が、逆襲の猛攻を仕掛けられた時には、これまでかと諦めかかったほどだった。

 

 もっとも、防戦一方に追い詰められながらも致命傷を負わずに戦い続けた男の異常性には、アキレウスも吃驚だったが。

 

 ほどなくして地に膝をついたアキレウスを知覚し、精魂尽き果てた様子で剣を放ったのも半ば無意識のことだった。

 

「おう、話すこと話したら後腐れなく逝ってやるぜ」

 

 アキレウスの言は、敗北して致命傷を負ったとは思えないほどスッキリした声色だったので、あれほど辛辣な文句を重ねていた男も「じゃあ言えよ」と話を促した。

 

「お前、なんて名前なんだ?」

 

 飛び出したのは、特に何ということもない普通の質問だった。肩透かしを食らった男は、変な緊張がほどけて実に素直な気持ちで名乗りを上げる。

 

「高橋次郎。高橋が姓で次郎が名前だ」

 

 名を聞いたアキレウスは満足したように数度頷き、あっけらかんとした様子でとんでもないことを言い放つ。

 

「よし、じゃあ次郎。これから面倒くせぇことに巻き込まれるようになるだろうから、俺の力を貸してやる」

 

「……は?」

 

 理解が及ばないといった様子の次郎を無視して、アキレウスは朗々と続けた。

 

「なぁに、今この場は神々にすら干渉されん決闘場だ。俺に勝った名誉ある勝者を不躾な連中の手駒にゃあさせたくねえからな。今の内に済ましてやる」

 

「ちょっと待てどういうことだコラ」

 

 堂々と自分の都合を語るアキレウスに、次郎は素早く詰問を始める。しかし、詰られるアキレウスは次郎に配慮する様子を全く見せない。

 

「ハッハ! 聞いて驚け、次郎! お前には、このアキレウスの全てをくれてやる(・・・・・・・・・・・・・・・・)!」

 

「おい、おい待て、まるで意味がわからんぞ!?」

 

 ここまで言われると、さしものアキレウスも弱いのか、先程よりかは少し詳しく語った。

 

「じゃあ分かりやすく言ってやる!勝者はお前、敗者は俺だ! だから勝者たるお前に、高橋次郎に! 敗者たる俺の持つ、すべての力を与えるものとする! 」

 

 恐ろしい殺し文句に聞こえたのは気のせいである。少なくとも、おふざけの類いでないことは、声色の真剣味から簡単に予想できた。

 

 だからこそ、解せない。次郎は、己のような必死に生きるしか能のない普通の人間(とはいえアキレウスという規格外の英雄を殺した以上はそうとも言い難いのだが)に、古代の英雄が力を託そうとするのがよく分からなかった。

 

「アキレウス、あんたは……」

 

 不思議さから自然と口をついた問いかけは、素早く二の矢を放ったアキレウスの口に閉ざされた。

 

「生きろよ、次郎。オリンポスの神々に対して不敬ではあるが、お前の生きる時代は、神様に支配された古い時代よりも、万倍素晴らしいぞ」

 

 戦士であると同時に、一人の信仰者でもあるアキレウスのセリフとは、およそ考えづらい一言に、次郎の思考は一時停止をしてしまった。

 

 思わずアキレウスの顔を凝視すると、彼は至って真面目な表情だったので、これは冗談でもなんでもなく、アキレウスが本当に言いたかったことなのだとすぐに分かった。

 

「古い時代に、人権なんてなかった。その基礎となる道徳は、まだ未熟な時代だったんだ」

 

 紀元前、鉄製の道具すらなかったその時代は、命が軽かった(・・・・・・)。その価値観は、その時を生きる人々に他者の命を気にするだけの余裕を持つものが非常に少なかったことに由来する。

 

 アキレウスは、当時はまだ珍しい余裕を持つ人間の一人だった。

 

 神の祝福によって、およそ不死身の肉体を持つが故の、一種の超越者が持つ特殊な視界だったことは間違いないが、それでも塵屑の如く神々に搾取される命にアキレウスが疑問を持ったのは事実だったのである。それと同時に、人が持つ悪意についても、限りがないことを薄々ながら察していた。

 

「神は傲慢に力を振るい、人は信仰の名のもとに悪逆非道を成したものだ。ひどいなんてもんじゃない」

 

 俺だってそうだ、と英雄は自嘲した。

 

「竹馬の友を戦争で殺された俺は、その仇を何年もかけて殺して、亡骸を戦車で引きずり回したのさ」

 

 心底後悔している様子で、アキレウスはなおも語る。

 

「そいつの親父さんにさ、涙を流されながら嘆願されたよ。どうか、息子の葬儀をさせてほしい、遺体を返してくれってさ」

 

 結局、俺もまた人でなしに過ぎなかったと知ったのは丁度その頃だった。そう呟くアキレウスの語りは止まらない。

 

「そのいくらか後に、敵軍の将として立ち上がった女に、決闘で勝利した俺は、またしても敗者を辱める低俗な行いをした」

 

 反省しても、これさ。疲れた声色だった。英雄として、無敵に等しい存在であったからこそ、強さとは関係のない所に深い思想を持ち得たのは、皮肉でしかなかった。

 

「結局俺は、最期まで自分を許せないまま、意地を張って死んでいった。それは別にいい、それが俺の人生だったからな」

 

 駆け抜けた生に後悔はあれど、未練はない。そう語るアキレウスの表情は晴れやかで、次郎には人生を生き抜いた者の矜持がそこにあるように思えてならなかった。

 

「だが、だがよ、次郎。お前たちは、今は違うんだろう?」

 

 急に問われたので、次郎は返事がままならなかった。どう答えていいか分からなかったのもある。しかし、続く言葉にハッとしてアキレウスを見た。

 

「そういうところを考えても許される時代になったんだろう?」

 

 あの神代は、勝者がすべてだった。勝者が敗者を極限まで淘汰する、そんな思想が蔓延っていた。だが、今は違う。それをアキレウスに確信させたのは、今を必死に生きるただの普通の人間だったのだ。

 

「美しさとか、華々しさとか、そういうのなら確かに俺の時代の方が鮮やかなこともあるだろうが、そんなことより、普通の人が普通に生きられる世界なんて、本当に素晴らしいぞ」

 

「全員じゃないさ」

 

 迫害に、飢餓に、渇きに、貧困に、病に、苦痛と不安と恐怖に喘ぐ受難の人々は数多い。次郎はそういった人たちを直接見たわけではないが、そういった存在を確かに知っている。苦しむ人と普通に生きられる人との数を計る天秤は、前者に大きく傾いている。

 

 だから、アキレウスの言葉は現代の上辺だけを見た物言いに思えてならなかった。

 

 だけど、と続けるアキレウス。声が力を失っていくのが分かった。死というものは万人に等しく訪れるもので、それは英雄といえども例外ではない。それがなんだか寂しいような気がして、次郎は複雑だった。

 

「それでも、人並みに生きることができる民草は俺達の頃よりずっと多い」

 

「………」

 

 次郎はついに何も言えなくなってしまった。アキレウスの言いたいことがわかって、言うだけ野暮と了解したのである。

 

「なぁ、次郎」

 

 万感の想いを込めて、アキレウスは語りを閉じた。

 

「今のこの世界はな、素晴らしいぞ!」

 

 

―――生きて戦う価値がある!!!

 

 

 力強い断言。明るく血生臭い時代の大先輩が、暗く薄汚れた時代のちっぽけな後輩に贈る激励。次郎は知らずの内に涙を流して、すぐに気づいてそれを拭った。

 

「あっ」

 

 再び目を開けると、英姿颯爽とした勇者の姿はもはやない。アキレウスは俊足の名の如く、風のように去って行った。

 

 ふと、胸に熱いものが込み上がる。どうやら本当に、アキレウスの力は次郎に預けられたらしい。

 

 英雄殺しの槍、あらゆる攻撃を撥ね返す黄金の鎧、輝く兜を貫いた剣、世界を内包する円盾、三頭の神馬と戦車、俊足の脚、踵を除く肉体が不死身になる加護、無双を誇る武技、ついでに少女に化ける能力。

 

 まるでバーゲンセールみたいだぁ、と呟いたのは、あまりの大盤振舞いに笑えるのか笑えないのか、ちょっと分からなくなったからである。最後のに関してはノーコメントを貫き通す所存らしい。

 

 引き攣った笑顔を浮かべながら、次郎は息を整えた。英雄は既にいなくなったが、こちらはまだ別れの言葉を言っていないことを思い出したのである。

 

「じゃあな、大先輩。俺はアンタみたいな太く短い生き方はしないよ」

 

 皮肉だけど、本心だった。自前の武力なんていうのは、アキレウスの遺志の上では必要とされなかった。アキレウスが次郎に預けたすべては、結局のところ面倒ごとの露払いのためのものであって、別段必要とされるわけではないのだ。些かどころか過剰が過ぎるトンデモプレゼントだが、それはさて置こう。

 

 それでも、と譲渡を行ったのは、神に嫌われた者の苦労譚にして英雄譚を、師より聞き及んでいたからか。なんにせよ老婆心からのお節介に違いなかった。

 

 瞬きの後、闘技場は消え去っていた。気がつけば、災害の痕が残る古い街並みが視界いっぱいに広がっている。その片隅の路地裏で、次郎はボケっと突っ立っていた。津波も、嵐も、どうやら過ぎ去ったようである。狐につままれたような心持ちだったが、それより先に命を長らえたことに対しての安堵が現れた。

 

 ふぅ、と漸く一息つくと、路地の先に広場が見える。ついでに言えば流されていなかったらしい水濡れのベンチも。やっと休憩できる、とフラフラの足取りで歩き始めて、ふと後ろを振り返った。

 

「だから、まぁ、じゃあな。アキレウス」

 

 前に向き直って、次郎は変な顔をして頭を搔いた。二度目の別れの言葉は、自分で言っておきながら不思議な心地だったのだ。

 

 そうして次郎は今度こそ振り返らずに、ぐちゃぐちゃの泥に塗れた路地裏から、爽やかな風が吹く瓦礫だらけの広場へ足を踏み入れた。

 

 

 








 本作の目的:主人公がまつろわぬ神々スレイヤー=サンと化してジェノサイドすること。

 別に神殺しだったりはしない。パンドラマッマから(結果的に)審議拒否を食らう男、高橋次郎。

 クソみたいなギリシャ語はグーグル先生に訳してもらいました。特に重要な事は言ってないから安心して♡


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東方の大英雄

 

 5月某日、その日世界が震撼した。

 

 ギリシャ、首都アテネを中心にまつろわぬ神が降臨。国家が滅ぶ寸前の大災害に襲われたのである。

 

 マグニチュード8.7の巨大地震や、それに伴う大津波、突如発生した大嵐や、小規模な火山の噴火などが副次的に(・・・・)発生したのだ。死者、行方不明者併せて約4万人。歴史的大災害であった。

 

 恐ろしい事に、顕現したまつろわぬ神の数は不明。霊視による観測は、その基盤となる霊的情報記録帯から遮断され、少なくとも複数の存在───まつろわぬアーレス、まつろわぬポセイドン、まつろわぬアテナ、まつろわぬゼウス、そしてまつろわぬヘラクレス(・・・・・・・・・・)の五柱は確認済み───が何らかの目的を持って行動した結果と思われる。まさしく神話の再現、としか形容できない大破壊に世界はてんてこ舞いである。

 

 或いは、それこそが目的だったのか。神話を再現することで、古き神代を再来することが真の目論見だったのかもしれない。

 

 しかし、現実にそんなことは起こらなかった。全世界、計八人の『神殺しの魔王』が一挙に集結し、まつろわぬ神々の尽くを弑逆してのけたのだ。しかし、いかな魔王といえども、無傷とはいかなかった。

 

 南米、中米の庇護者を僭称した三代目ジェロニモが激戦の末ロサンゼルスの守護聖人ジョン・プルートー・スミスを庇い殉死。

 

 そして、現在確認されている五柱を単騎で相手にし、まつろわぬアテナを除く四柱を撃滅したアンダマンの女勇者(公式に名は知られていない。本人の育った環境故に、部族外の人間に強い警戒心を持っていた事に由来すると思われる)が、その際に負ったヒュドラの猛毒によって没した。

 

 現存する魔王が六人に減り、その他にも数多の神殺しが負傷したことが、今回の一件が如何に強烈だったか、その脅威を物語っている。

 

 ちなみに、アンダマンの女勇者と親交があったイタリアの魔術結社『百合の都』所属の当代聖ラファエロは、姉と慕った彼女に哀惜の言葉を残している。

 

 さて、様々な思惑と暴虐が絡み合った本件だが、グリニッジ賢人議会、その長であるアリス・ルイーズ・オブ・ナヴァールと、イギリスはコーンウォールに拠点を置く魔術結社『王立工廠』の黒王子アレクサンドル・ガスコインによれば、神話進行はイーリアス紙片のトロイア戦争時代末期にまで進んでいたとされる。

 

 恐らくは、既存のギリシャ神話を完遂して新たな神話時代を築く(・・・・・・・・・・)ことで、その力を取り戻すのが狙いだったのだろう。本来の神々ならばありえない、まさにまつろわぬ神であるからこその埒外。異端的発想である。

 

 だからこそ、成就の可能性は大きかった。新たな神話を形作る以上、主神が死のうが問題はない。ギリシャ神話の主役は、神ではなく人間だったのだから。重要なのは、新たな時代の基礎となる旧い物語の完遂のみ。

 

 ヘラクレスがヒュドラの毒に倒れ、アキレウスがパリスに踵を撃ち抜かれる。この事実が必要だったのだ。

 

 そして、その完遂寸前、何者かによって結末が否定された(・・・・・・・・)

 

 何者かが、まつろわぬ英雄を殺したのだ。

 

 神殺しがやったのか。現実的に考えればそうだろう。しかし、肝心の生き残った神殺したちは、気がついたら終わっていたの一点張り。ならば殉死した二人の神殺しのどちらかが成したのか。否、確かにまつろわぬヘラクレスを打倒した女勇者の功績は規格外だが、その倒し方(ヒュドラの毒に塗れた体で特攻)故にまだ神話の致命的欠陥に至ってはいなかった。

 

 何者かが、ギリシャ神話最後の主柱を打ち崩した。これがなくては完結しない、という最大のピースをまつろわぬ神々から奪い去って霞のごとく消え失せた。

 

 グリニッジ賢人議会は、今回の争乱の裏に、神殺しとはまた違う例外的な人間が存在したと見ている。

 

 魔術師かもしれないし、戦士かもしれない、或いは単なる一般人が、知られざる英雄としてまつろわぬ神々の計画を頓挫させた。

 

 事件後、復活した霊視能力者たちの多くが、輝く巨星を撃ち落とす人影を捉えたことが、神殺しを含めた関係者たちに伝わったことで、この説は強固に補強されることとなった。

 

 かくして、世界に新たな伝説が刻まれる。

 

 見えざる英雄、逆光の勇者。

 

 

 すなわち。

 

 

───英雄殺し(スタゴナ・アステリ)

 

 

 その後数ヶ月。この英雄殺しを探す活動が行われたものの、その行方はようとして知れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 面倒なことに巻き込まれるようになるだろう、と予測したアキレウスの言葉は正しかった。

 

 俊足でもって森に逃げ込み、円盾の裏に背を預け、うずくまって息を潜める。やっとの思いでアキレウスの鎧兜を身に着けた。

 

 疲労と負傷とでまたもや満身創痍となった次郎は、遠い目をして円盾のふちから空を見上げた。

 

「あれ、全部が矢ってことか……?」

 

 アキレウスとの邂逅からはや数ヶ月。中東、イランにて。

 

 次郎は国境の近くで物々しい雰囲気を感じ、急いでトルコへ抜けようとしたが、その前に邪魔が入った。

 

 普段は木漏れ日と爽やかな風で満ちる森に、それらの気配はない。不穏さに見上げれば、空が黒い(・・・・)のだ。信じられないことに、それは暗雲でなく、空を覆うほどの矢の集団に間違いなかった。

 

 そう。恐ろしい事実だが、矢、である。

 

「ちくしょーどっから射ってんだ! 上から落ちてくるせいで方角と射角が分かんねえ!」

 

 降り注ぐ矢の豪雨は、なんとアキレウスから与えられた不死身の加護を透徹して次郎に傷を与えるほどの力を持っていた。どうやらこの矢は、神の加護によるものか、或いは神によって造られたものであるらしいのだ。

 

 不死身の加護は、あくまでも神の寵愛から発現したものである。神そのものや神に連なる者、或いは神に祝福された武器なとからの攻撃を防ぐことはできないのだ。

 

「どうする、いっそ本気で走って逃げるか? ダメだ、知覚範囲から抜けられねえ」

 

 思い出すのはその初撃、そして二の矢。遠方から頭を狙って風のように飛んできた矢を反射的に持ち出した剣で弾けば、二の矢はその真後ろを駆けて来た。あまりに急なことだったので、鎧兜を展開する時間もない。全力で上体を反らせてようやく、辛うじてやり過ごせば、頬に切り傷を残して、矢が着弾した地面が砂のように破裂した。恐るべき威力だった。

 

 これはまずい、と遁走を始めた次郎は、しかしアキレウスの俊足を以てしても射手から逃れることがかなわずにいた。

 

「しくじった! どんな目と腕をしてやがんだよ、詐欺だろ詐欺!」

 

 思えばファーストコンタクトの後の選択を間違えたのだ。

 

 あの瞬間、防御のための盾ではなく迎撃のための剣を用いたからこそ射角は理解できていたのに、反撃ではなく逃走を選んだのは痛恨のミスだった。射手は狙撃地点を悟らせないために、空から射ち下ろす制圧射撃に攻撃を移行していた。ただし、実際に上空から狙撃するわけではなく、矢を自然落下(と言うには威力が高すぎるが)させるという、より高度なものだったが。

 

「どうする、被害なんざ考えずに国中を駆け巡ってみるか? んなことすりゃ一瞬で踵を射ち抜かれて射殺されるだろアホめ」

 

 アキレウスを射ち抜く矢は神話にも存在した。トロイアの王子パリスの放った矢だ。アキレウスの死因にして、天敵。対する射手は、そもそもからしてアキレウスの俊足を超遠距離から見切り、曲射という非常に難易度の高い方法で直上から的中させるという未来予知染みた神業を披露している。

 

 森に隠れてすら睨めつけられるような殺気が感じられるのだ。ここから飛び出ようものなら即座にハリネズミにされること請け合いである。

 

 ここまでくればあのパリスより段違いに優れた名手であることは疑いようがなかった。もしやすれば、射手座として天に召し上げられたアキレウスの師、ケイローンすら上回るかもしれない。

 

 不安が心を削る。思考が深まる代わりに、状況の悪さが次郎のコンディションを劣化させていく。

 

「まずは、あの物騒なゲリラ豪雨をどうにかせにゃならん」

 

 着弾まで後4秒。円盾で凌いだら、もう遮蔽物となる森は更地になってしまう。そうなればもう、本当に射手を見つけ出す他になくなってしまう。どこにいるかも分からない、超常の狙撃手を。

 

「腕に力を込めて、片膝は地面に、姿勢は低く」

 

 頭上に掲げるようにして、円盾を構える。さぁ、覚悟を決めろ。

 

 死にたくないなら剣を執れ(・・・・・・・・・・・・)

 

 

 

 着弾。

 

 

 

 衝撃。

 

 

 

 轟音。

 

 

 

「ッ〜〜〜!!」

 

 思考が白く染まる。

 

 一矢一矢が名高き英雄たちの渾身の一撃としか思えないほどの威力だった。その凄まじい破壊力が、盾を徹し、鎧を徹し、肉を徹し、骨に伝わる。

 

 これが盾だけの防御であったなら、即座に全身が砕け散っていた、そう確信する豪雨である。鍛冶神ヘパイストス謹製の、鎧に施された反射の細工があってこそ次郎の生存は辛うじて約束されていた。

 

 次郎にとって耐え難い時間が続く。防具を貫通する衝撃に腕が痺れ、刻一刻と感覚が消えていくのが分かる。力が抜けていくのが直に理解できることが恐ろしかった。

 

 歯を食いしばる。

 

 いよいよ限界だ。使いたくはなかったが、アキレウスの円盾が持つ真の力を用いる時が来たのかもしれない。

 

 実は、これを使うと中々に疲れるらしいので次郎本人は使いたがらない。このことが災いして、今まで試したことがなかったりする。自分にキチンと使えるか、ぶっつけ本番だったので、不安は拭えなかった。

 

「ぐぅ、くっそォ……っ!」

 

 悪態をついて、円盾に満身の力を込める。さぁ、今こそ窮地を打破する時だ。失敗したら死ぬだろうが、成功すれば生き残れる。

 

 解答に自身の死を含めないなら、選択肢はハナから一つなのだ。迷う余地はまったくない。

 

 いざ、参る。

 

蒼天囲みし小世界(アキレウス・コスモス)!」

 

 その真名()を叫ぶ。呼び起こすは英雄の歴史、輝きに満ちた世界の在りようを示す最大最強の神秘結界。

 

 理論上は国が滅ぶ火力すら防ぎきる(・・・・・・・・・・・・)埒外の権能は、空をまるごと覆い、それでなおも尽きる様子のない矢群を容易く蹴散らした。

 

 次郎は再び空が青さを取り戻したのを確認する間もなく、亜空間から呼びつけたアキレウスの戦車に全速力で跳躍した。戦車に乗りさえすれば、脚を止めて迎撃に集中できる。アキレウスの武技と、次郎の心眼をもってすればまず死にはしない。

 

 だから、ここが分水嶺だった。

 

 騎乗する瞬間を、あの射手は見逃さないだろう。隙をさらす己を、しめしめと狙撃するに違いない。鎧兜の隙間を射抜かれるか、否か。

 

 御者台に着地した次郎の、その心臓を狙い澄ました射手渾身の一射が襲う。英雄の知覚能力ですら捉えきれない、疾風の如き矢である。

 

 直撃を受けた次郎はあまりの衝撃に転倒したが、実に幸運なことに鏃は辛うじて鎧に跳ね返されていた。弾かれた矢が戦車の御者台の端を抉り取る。受け身をとってすぐさま立ち上がると、その顔に不敵な笑みが浮かんでいる。

 

 射手よ。功を焦ったな?(・・・・・・・)

 

 一瞬の交錯。次郎は射手と視線が通ったのを確信した。片や目に見えない遠方、片や転倒しながら戦車に騎乗した直後。どうあっても目など合わないだろうに、しかし確信の念は力強かった。

 

 身体への衝撃から、射角、方位ともに特定。今こそ反撃の時だ。

 

 次郎は、目があった瞬間に、知らず知らずの内に恐怖で固まった体を再起動し、前を見据える。この空の先に、恐るべき射手がいる。

 

「クサントス! バリオス! ペーダソス! 今こそ力を貸してくれ!」

 

「ぶひひ、いいですとも!」

 

 戦車を牽く三頭の一角、さる女神より言語を操る術を授けられた不死身の神馬クサントスが、野卑な哄笑と共に総意を告げる。この通り、アキレウスより託されたものたちは、新たな主を戴いたことにおよそ好意的だった。

 

 結果的に、アキレウスを上回ったからこその態度なのか。それとも次郎という人間に対しての純粋な興味なのか。

 

 手綱を握る次郎に、堰を切って押し出された瀑布の如く、一直線に矢が襲いかかる。射手も気がついたのだろう。事ここに至ってはもはや五分だと。

 

 戦車が使い物にならなくなるのが先か、射手に肉薄するのが先か。

 

「上等だ、真正面から突破してやる!」

 

 トロイアを蹂躙した恐るべき突撃が、今ここに蘇る。

 

疾風怒濤の不死戦車(トロイアス・トラゴーイディア)!!!

 

 駆ける。駆ける、駆ける。駆ける、駆ける、駆ける。猛進する戦車は風を蹴散らしなおも加速する。

 

 真っ黒な巨壁に衝突する。やはり、矢だ。不死身であるはずのクサントスとバリオスが苦悶の嘶きを上げ、唯一加護を持たぬ身であるペーダソスはその暴威によって早々に磨り潰された。馬刺しどころかミンチである。

 

 当然、次郎も無事とはいかない。盾を構えて踏ん張るも、災害級の質量を誇る矢の濁流は凌ぎきれない。鎧兜がなければ、なすすべもなかっただろう。

 

「命懸けで突っ走れェ! 押し負けたらそこで終いだからなお前ら!」

 

「もう既に一頭脱落済みなんですよねぇ」

 

 クサントスが矢傷に呻きながら嘆く。脚が止まらないあたりは、流石にトロイア戦争を駆け抜けた神馬である。余裕を見せるクサントスに、次郎は軽口を叩いた。

 

「馬力が足りないってかクサントス?」

 

「ご冗談を。最後の一頭までは前に進めますよ、舐めないで頂きたい」

 

 力強い断言は、いっそ心地よくもあった。こういう所があるのだから、普段から真面目にしていて欲しい次郎である。屋台のトルコアイスを見たときに、呼んでもいないのに異次元から下ネタを囁きまくって次郎の精神を損耗させたのは記憶に新しい。

 

 ともかく、心強い発言に次郎も応えた。

 

「なら頼んだぞ!」

 

 なにせ時間がない。馬を含め戦車はもうボロボロだ。もう20秒すら保つまい。アキレウスの力の中でも特に強力なものですらこのザマ。握りしめた盾で矢を受け止める毎に、自らの命運が燃え尽きるような寒気が次郎の背を伝う。

 

 それだけの矢を放つ敵手に、怪物めいた鬼気迫る気迫をひしひしと感じるのは気のせいではないのだろう。

 

 水際の食いしばり、九死の瀬戸際。死に瀕した者に稀に見られる、捨て身の決意(・・・・・・)

 

 次郎に宿るアキレウスの力が強く訴えかける。これは、あの時の輝く兜(ヘクトール)と同種のものだ。フラッシュバックするのは、復讐を果たす千載一遇の機を得て昂ぶっていたアキレウスが凍りついたその恐怖。決闘の末に致命傷を負ったヘクトールとの決着がつくその瞬間に見た眼光。

 

 死んでも殺す(・・・・・・)

 

 ギラつく殺意。人とはかくも恐ろしくなれるのか(・・・・・・・・・・・・・・・)。だから、アキレウスは反射的にトドメを刺したのだ。これ以上生かしておけば、必ず殺されると本能が理解したから。

 

 極まった意志は、神すら殺す。恐るべき弓の射手は、実のところ既に窮鼠だったのだ。だからこそ、これほど恐ろしく、そして虚しいのか。

 

 猛進は続く。永遠の如き一瞬、無数に過ぎ去るその瞬間の連続が、次郎を追い詰める。

 

 まだか、まだなのか。もはや馬は潰れる寸前で、戦車は前の片輪が千切れ飛んだ。一刻の猶予もない。

 

「う、オ、オ オ、 オ ア ア ア ア ! !」

 

 次郎は悲鳴じみた雄叫びを上げながら、夢中で手綱を手繰った。

 

 果たして、ついに次郎は弓兵に対面する。

 

「───まいった。まさか本当に追いつかれるとは思わなかったぜ」

 

「追いついたぞ、弓の射手!」

 

 大破した戦車を乗り捨て、ハリネズミと化した馬たちに目もくれず、神速で槍を打ち込んだ次郎。しかし、英雄殺しの槍の穂先は目にも止まらぬ速さで射られた矢によって至近距離にも関わらず容易く弾かれた。

 

 衝撃で砂埃が立ち込めるのを槍の一閃で消し飛ばすと、その姿が明らかになる。

 

 日に焼けた小麦色の肌、真っ黒な頭髪。革鎧を身に着け、軽装に見合わない真紅の大弓を携え、目には爛々と生気に溢れた光を湛えているその男。しかし、その五体からは流血が散見され、よく見れば全身に亀裂が走っている(・・・・・・・・)ようにも見える。

 

 とても死にかけとは思えない、微笑みすら浮かべながら凄絶な決意を同居させる異様なありさまに、次郎は言葉を失った。

 

「自己紹介でもしたほうがいいか?」

 

「……お好きにどうぞ」

 

 どことなくマイペースな感じのするこの男に、次郎は面食らった。あれだけの猛攻の後、死ぬ寸前でありながらこうも自分の調子を保てるのか。呆れ混じりの驚嘆である。

 

「おう、俺はアーラシュ。しがない兵士だ」

 

 伝説に曰く、誰よりも速き矢を放つペルシャの大英雄アーラシュは弓の射手の代名詞なのだという。カマンガー───ザ・アーチャーの名を賜る名手。次郎を追い詰めたその手腕は、まさしく人の臨界を窮めた極点の射であったのだ。

 

「あぁ、いや、この場合はまつろわぬアーラシュって名乗るほうがいいのかね、これは」

 

 困ったように頬を掻く姿が痛々しい。次郎は答えるついでに目を逸らさずにはいられなかった。

 

「こっちに聞かれても困る」

 

「それもそうだよな。急に射掛けちまったことも含めて謝るぜ。すまなかった!」

 

 気持ちのいいくらい爽やかな快男児。そんな印象を受けた次郎だが、アーラシュの今にも千切れて消えそうな儚い姿に心当たりがあることに気がついた。五年前に亡くなった父が死期を悟った頃の様子によく似ていたのである。

 

 あの日の父のように、末期の人間が最期に遺言を残すさまがピッタリと当てはまった。

 

「あんた、俺に何して欲しいんだ?」

 

 こっちがそっちの意図を理解したことが分かったのだろう。苦笑いを浮かべたアーラシュはようやく本題を切り出した。

 

「あぁ、実は世話になった女神さまが人質に取られちまってな。どうにか救ってやってほしいんだ」

 

「……」

 

 何故これほどの男がこんなことをせざるを得なかったのか。なんとなく分かった気がした。恐らく、まつろわぬアーラシュは件の女神さまが囚われてから顕現したのだ。そうでなくば、これほどの射手が何者かの言いなりになるなど考えられない。

 

 アーラシュの胴を走る亀裂が深くなっていく。

 

「奥の手も射たされちまったから、もう俺じゃあ女神さまを救えんのさ」

 

「そうかい」

 

 奥の手は一回限りなんだ。と困ったように微笑むのは、多分俺に負い目があるからだろう。無理矢理にやらされたこととはいえ、無関係だった俺を殺そうとしたことは、この優しくて寂しい男の信条に反する行為だったことは間違いない。

 

「殺されかかったお前さんからすれば虫のいい話で、この願いなんざ恥知らずもいいところだが、どうか頼む!」

 

 頭を下げる動作に淀みはない。英雄なんていう、プライドの高い者たちの例には当てはまらないその姿に、どこか納得するところがあった。

 

 たぶんこれが、アーラシュという男の本質なのだろう。本当の彼は、きっと英雄なんてガラじゃないのだ。

 

 人の世界に産まれてしまった化物。それが人の暖かさに育まれ、優しさを獲得した大きな異物。

 

 孤独な英雄、獅子の如く勇敢な彼。だから、寂しい(・・・)のだ。ずっとずっと、この男は一人で守る側だった。ただ、それができるだけの強さを持っていただけの、ひとりぼっちの優しい化物。

 

 大切で、大事だというのは真実なのだろう。だけど、本当のともだちは一人だっていなかった。歪な関係は、彼を英雄として祭り上げたのだ。

 

「……あんたさ、もう死んじまうんだろ?」

 

 何故、ここまでアーラシュという男が分かるのか。次郎は不思議だった。

 

「ん、まぁ元から死人だからな。いまこうして動いてることの方が不思議っちゃ不思議だが……もうそろそろ限界だな」

 

 いよいよ、亀裂が大きくなってきた。もう、胴体は繋がっているだけで、腕も一本落ちている。気丈に笑うのは、強がりではないのだろう。それだけ心が強かったから、何を視ても(・・・・・)この男は外道に落ちなかったのだから。

 

 ふと、疑問が鎌首をもたげた。

 

「……なぁ、あんたのような人が命をかけるほど、その女神さまは尊いのか?」

 

「……そりゃあ、難しい質問だな」

 

 アーラシュが死んだのは、身も蓋もない言い方をしてしまえば神々のメンツのためだ。マッチポンプと言い換えてもいい。そのための技術と武器をお膳立てした彼らに、怨みはないのだろうか。

 

「答えてくれなきゃ頼みは聞けない」

 

 きっと、言い難いだろうけど。それでも聞かなきゃ気が済まなかった。

 

 案の定、アーラシュは答えづらそうに口をもごもごさせた。少し躊躇って、そして最後にはしっかりした口調で答えた。

 

「……尊いわけじゃあない。ただ、俺の恩人が殺されそうだから、助けることができそうなお前さんに頼んでる」

 

「そっか。あんた、大事な人たちに死んでほしくないだけなんだな」

 

 すとん、と腑に落ちた。最初から最期まで、アーラシュという男はこの調子(・・・・)だったのだろう。

 

「まぁ、そういうわけだ」

 

「人も、神も、関係なく。大切だから、消されたくないんだな」

 

「プライドの高い神様たちには、不敬かもしれないけどな」

 

 口が自然と回る。こんなに、話しやすい人間と出会ったのは初めてだった。アーラシュの人徳か、単純に相性がいいのか。

 

 本当は、その境遇が自分と少し似ているからかもしれない。

 

「あんたは、他人(ひと)を思いやれるんだな」

 

「俺だけじゃないさ」

 

 実感のこもった強い言葉に圧倒される。アーラシュは、人と人とが手を取り合えると信じて疑わない。だからこその偉業だった。民草の守護者たる己が死した後に、必ず彼らが手を取り合えると信じていたのだ。

 

 そして、そのように信じられた人々もまた、アーラシュの献身に応えてみせた。

 

 自分だけじゃない(・・・・・・・・)。あぁ、なんて、美しい言葉だろう。

 

「あぁ、そうなんだな」

 

「受けてくれるか?」

 

 是非もなし。語るに及ばず。

 

「かたじけない。もはや四散を待つだけの身だが、餞別にこれを持っていくといい」

 

 そう言って、アーラシュは赤い大弓を差し出した。神技を披露した無骨な手が砂の如くに乾き、指先から砕けて、割れて、散っていく。大地を砕く聖なる蛮行の報いが、アーラシュに牙を向く。

 

「あんたも、俺に託して逝くのか」

 

「ありがた迷惑かもしれないけどな、継いでくれる奴がいるのは嬉しいことだぜ?」

 

 弓を受け取ると、胸に暖かいものが現れた。アーラシュはそれを見届けて、光と共に千切れて消えた。

 

 その頑健な肉体は、数多の戦場において傷一つ負わず、また病や毒を尽く撥ね退けた。

 

 瞳に宿る神秘は、千里を見通す光となって未来すらも鮮明に捉えた。

 

 女神より授けられた弓矢の作術は、この世に並ぶ物のない至高の(クオリティ)を形作った。

 

 そして、その最期。大地を砕く不遜。大いなる一射は一条の流星へと昇華され、壮大な国境を築き、悲劇の絶えなかった二つの国の惨たらしい戦争を終結させた。

 

 アーラシュは、真実ひとつの平和を築き上げたのである。

 

 神々によって不遜とされたその行いが、数えきれない人々を救い出した史上最大の聖なる献身(スプンタ・アールマティ)である事実は、神の傲慢を前に置き去りにされた。

 

 英雄とは、かくの如く死に果てるのが常なのだという。

 

 

 

 あぁ、なんたることか。これほどの男を、神々はプライドのためだけに殺したのか。

 

 

 

「約束だ。約束は破っちゃいけない、そう親父に教わった」

 

 だから、あんたの女神さまは助け出してやる。

 

 必ず。

 

 

 



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三頭の邪王

 

 剛勇と無思慮。若き日のザッハークは端的に言って野心的な脳筋だった。多くの時間を馬上で武勇を積むことに費やし、いつの日か尊敬する父王マルダースの後継として良く国を治めることを夢見ていたのである。

 

 まだ、大いなる悪意の一端に見初められる前の話だ。

 

「もうすぐだ、勇者たちの後継」

 

 うっそりと呟くザッハークは、緑衣と赤茶のマントを身に着け両肩に黒蛇を生やす三頭の異形───暴君の姿である。

 

 囚われのスプンタ・アールマティは、そのさまを見ていられないと、言葉もなく涙を流して俯いた。まつろわぬ神と化してなおも呪いから逃れられぬ不憫を憐れんだのだ。

 

 暴君と成り果てたザッハークもまた、その慈悲深い憐れみにありがたく思うところもあった。だが、そもそもがその神々の争いのとばっちりを受けた身である。

 

 ぶっちゃけて言えば「てめーらの事情に巻き込んでおいて勝手に同情するなよイラつくだろうが」と青筋を立てるような思いだった。

 

 もちろん、それもまた単なる八つ当たりだと自覚しているのだけども。

 

「なぁ、善なる女神よ。心に従う者であるお前はその通りに余を憐れむが、お前の英雄を継いだ男は余に何の感情も抱いていない。それは無関心だろうか……いや、そうではない」

 

「………」

 

 ニヤニヤと愉快げに笑むザッハークは、スプンタ・アールマティに人と神の違いを説かんと高説を垂れる。いやみったらしい口調は意図してのもの、要は女神をおちょくっているのである。

 

 だが、滔々と紡がれる言葉は的確に真理を突く。

 

「それはな、真摯であるからだ」

 

 千里眼。特に過去視や未来視という形で発現した特異なる異能は、己に宿った邪竜の魔法の一つだった。しかし、今や邪竜の霊魂ザッハークによって粉々に砕かれ、千にも及ぶ技法の数々は完全に掌握されている。

 

 その力で、ザッハークは高橋次郎という人間の来歴や本質を見破った。果てには、その思考さえも理解してのけている。だから簡潔に、分かりやすく、"真摯"の二文字で堅く評した。

 

 神話に語られる異能の大盤振る舞いを人間一人に使っているものだから、まったく贅沢で無駄遣いであると言わざるを得ない。だが、その労力に見合う成果は手に入ったとザッハークは確信していた。

 

「そうさな、まだ彼奴が来るまで今しばらくの時間がある。一つ、高橋次郎という男を貴様に教えてやろう」

 

 ザッハークは気分良さげに語り口を回した。

 

「では今、次郎が考えているのははどんなことか……」

 

 

 

 

『目標、人質の奪還。果たされるべき約束であるため、そのようにする。以上ッ!』

 

 

 

 

「ふ、は、ハ ッ ハ 、 ア ッ ハ ハ ァ !」

 

 瞬間に大笑いした。女神に語ってやろうなどという慈悲なぞ一瞬で消し飛んだ。高揚が止まらない。愉快で愉快でたまらない。何だこの単細胞は! 実に良いではないか!?

 

 そうだ! これだ!! これを求めていたのだ!!!

 

「くっ、はは、嗚呼、これぞ人の理想よ!!」

 

 重要なのは事の善悪ではない。義を貫く(・・・・)、そういう生き方を選んだというだけのことなのだ。高橋次郎という男の、全てに先行するのは仁義の二文字ただ一つ。

 

「そうだとも! 義! 仁義こそが真に人を治める唯一の術! それを真に体現し得るのは、やはりこの男よォ!!」

 

 アキレウスからは平和の祈りを。アーラシュからは最期の頼みを任された。投げ出しても文句は言われない。そもそも次郎は、本当にただ巻き込まれただけ(・・・・・・・・・・)。単なる人間に過ぎないのだから。

 

 それでもと握りしめたのは、己が信ずるただ一つの仁義のため。

 

───ここで仁義に反すれば託した彼らに顔向けできない。

 

 赤の他人の重い荷物を肩代わりする、なんて損な生き方。慈悲でなく、また信仰でもない。それが如何に生き苦しいことか、ザッハークには千里眼を(もっ)てなお計り知れないことに思えてならなかった。

 

「分かるか神よ。これが答え(にんげん)だとも! 」

 

「……っ」

 

 もとより返答は期待していない。なおも視線で憐れみの情を投げかける女神は、やはり無言を貫くつもりであるらしい。慈悲というものが如何に上から目線の物言いであるかなど、そもそも自覚していないのだ。その心が傲慢にどっぷり浸かった毒であることなどさっぱり分かっていない。

 

「醜いな、女神。そんなだから余なぞに傲慢を詰られるのだ。疾く理解せよ、できなければ往ぬがよい」

 

 醜く顔を歪めて、女神を嘲る。何が善だ、悪だ、と吐き捨てるのだ。善であるか、或いは悪であるかなど、そもそも判断がつくような概念ではない。ただ、社会にとって都合のいい基準として善悪なんて観念を定規に用いる。

 

 その権化が貴様ら神よ(・・・・・・・・・・)

 

 傲慢にも善と悪を体現するなぞと嘯きおって。それが、そんなものが人を腐らせるというのだ。

 

 神が善と言えばそれは善か? 悪と言えば悪か? 違うだろうが。そんなものはただのクソだ。思考の停滞どころではない。停止そのもの。悍ましい、憎らしい。

 

 あぁ、素晴らしき哉! その点、かの男は実にいい。

 

 アレは純粋だ。単純に、約束を果たすためだけに身命を賭すその姿は、在りし日のフェリドゥーンを連想させる。そう、善悪ではなく、大地に突き立つ鉄杭が如き仁義の志こそがこの世の人間の理想そのもの。

 

 フェリドゥーンは己を殺しきるには至らなかったものの、長年の夢であった真に良き治世を体現した。その偉業が義理堅さと厚い人情ゆえだったことは、まったく痛快だ。善悪の神(じょうぎ)なぞなくても、人は人として歩むことができると知ったのは、幽閉されて間もなくのことだった。

 

「く、かかかかか!!」

 

 哄笑が薄暗い洞窟に響き渡る。ダマーヴァンド山地下、邪竜アジ=ダハーカと化したザッハークが幽閉された神話の檻は、しかしザッハークによってすでに掌握されていた。

 

 三頭の邪竜アジ=ダハーカは千の魔法を操る。その不可思議な神秘は、遂に神々の造り上げた渾身の牢獄を自らの要塞として変成させるに至ったのだ。

 

 まつろわぬアジ=ダハーカ───を内側から塗りつぶし、忌々しい邪竜の業を呑み干してまで顕現した邪王ザッハークは大笑する。人が人を良く治める時代は、ザッハークの理想。かつてフェリドゥーンが成したように、この高橋次郎も形こそ違えど民草の希望となる。その確信があった。

 

 その礎に自らがなれるというなら、是非に、喜んで。故に───神という不要は殺し尽くさねば。

 

 昏く儚い野望がザッハークの思考を駆け巡る。フェリドゥーンの行った良き治世、その太平の礎を築いた暴君は、かつてと同じく新たな勇者を見出したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アキレウスの俊足に加え、アーラシュより受け継いだ千里眼を用いても、現実にありながら幽世と混じり合う異質な空間に至ることは困難を極めた。

 

 しかし、その障害は決して不可能の域にはない。まるで、次郎という刃に練磨を重ねるが如く、呪いや魔法、竜蛇の系譜であろう魔物が勝ち筋を残した状態で(・・・・・・・・・・)無数に仕掛けられていた。

 

 当然ながら、その一瞬に命を落としかねない危機もままあったが、しかし次郎は鎧袖一触とばかりにこれを退けた。

 

 そうしてこうして遂に神山の麓に到達。巨山地下への入り口と思われる重厚な鋼の扉が次郎の眼前に漸く現れた。

 

「三日、ねぇ。時間を掛け過ぎたか」

 

 呟く次郎の表情は苦みばしっていた。

 

 たかが三日、されど三日。アーラシュが逝ったことなど、元凶は当然把握しているだろう頃合いだった。警戒しながら扉を蹴破ると、気圧の差からか冷たい突風が次郎を叩く。

 

 今、次郎の頭の中を占めることと言えば、アーラシュはなんのために死に体にさせられたのか、ということだった。実際、未だに疑問ではある。女神が人質にされたのはいい。だが、人質を取らねばならなかった理由が分からない。

 

 アーラシュを殺すため? なら、人質を突きつけた時点で自害なりなんなりを命じればいいだけだ。

 

 むしろ、人質を取ることでアーラシュに流星を放たせることこそが目的だったのだろうか。だとすれば、ちょっとマズいかもしれない。

 

「女神さまは用済みかもなぁ」

 

 思わず漏れたひとりごと。問題はアーラシュの流星を何に射ち放たせたか、ではない。果たして、女神は生きているのか。

 

 それよりも、自分はアーラシュとの約束を果たせるのか?

 

───いいや、用済みなんてことはないとも。

 

 浮ついた、ザラザラした声。

 

 悪寒を感じるよりも先に、盾を構える。一声で分かった、コレはヤバい。

 

 何がアレって、千里眼が強制的に閉じられた(・・・・・・・・・・・・・)

 

「誰だよ」

 

 口を開けておきながら、ちょっと震え声だったかもしれない。得体がしれないっていうのは本能が恐怖を訴える代表例みたいなものだ。

 

 電波の周波数が合い始めたラジオのように、段々とその声が鮮明に響き出す。ご丁寧に、「んっん〜」とマイクテストもどきまでしている。余裕綽々という感じではない。どちらかと言えば、ご機嫌な……?

 

 なんだ腹立つなコイツ。

 

余だよ! うん? あぁ、そういえばこっちが一方的に知っているだけだったなァ……」

 

 喜色に塗れた語り口は尊大極まる。なんだろう、この変質者じみた気持ち悪さ。やべぇよ。

 

「いやホント、なんなんだあんた」

 

 掛け値なしの本音。正直に言えば、関わり合いになりたくないのが実情だが、まぁ、このタイミングで話しかけてきたのだ。恐らくは、まったく認めがたい事実なのだが、コイツが元凶か(・・・・・・・)

 

「つれないな、こっちは一日千秋の想いでいたというのに」

 

 アカン、本気で言ってるコレ。なんか生理的に無理。本気で残念がってるのが、なおのことキツい。吐き気吹っ飛んで気絶するレベルなんだけど。

 

「うわキモッ!」

 

 あっやべ、言っちゃった。

 

「うぅむ、中々言ってくれる。───言われっぱなしというのも癪だ。よし、後三分で余の玉座まで辿り着くがよい。辿り着けなかったら……言うまでもないな?」

 

 できなければ人質を殺すのみ。

 

 途端に空気が冷えた。理解が及んだ直後に、薄暗い洞窟を濃厚な神秘──便宜上"神秘"と読んでいるが、本当は何なのか知らない──が埋め尽くす。

 

幽世隔離 完了

 

神代置換 完了

 

神牢要塞化 完了

 

魔法・呪詛配置 完了

 

魔獣・神獣配置 完了

 

"王の瞳"展開 完了

 

全工程 完了

 

千魔を紡ぐ要塞(ハスナ・ヤルフ・アルフ・シャヤティン) 起動

 

「そら、高々神話一つ滅ぼす程度の要塞に過ぎん。当然できるだろう?」

 

 神山、鳴動。

 

 ここに、史上最大の試練の一つがここに幕を開ける。座する邪王は大いに笑い、勇者の到着を待っていた。

 

 ザッハークに疑いはない。必ずや勇者はこの邪王の喉元に現れる。千里眼で視るまでもなく、そもそも当然のこととして前提に加えている。

 

 それを、薄々ではあるが次郎も察していた。

 

「上等だ。一分で踏破してやる」

 

 意気揚々と啖呵を切る。さぁ、もう後には退けないぞ。覚悟を決めて駆け抜けろ!

 

傷無しの剛体(ジスマ・サルブ・バイドゥン・カデシュ)

 

回折干渉(テドクル・ハユド)

 

射法・疾矢(エスラー・アフム)

 

彗星走法(ドロメウス・コメーテース)

 

勇者の不凋花(アンドレアス・アマラントス)

 

蒼天囲みし小世界(アキレウス・コスモス)

 

輝きの聖鎧(アフティー・ランポシ・アポジ・タ・パンタ)

 

落陽示す一閃(フォス・プ・ティースディー・スト・フォス)

 

心眼・水月 覚醒

 

 これより修羅に入る───いざ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次郎の疾走は、並み居る罠を、獣を、毒を、複雑極まる迷路をも、尽く踏破した。何者にも、流星と化した次郎を止めることは適わなかったのだ。

 

 心眼にて見切り、射法にて射殺し、剣閃にて切り裂き、盾打ちにて押し潰し、獣の爪牙を歯牙にもかけず、毒を蹴散らし、罠を踏み潰す。宣言通りに四方八方を埋め尽くす試練をものの一分で殲滅した。

 

 覚悟を決めた高橋次郎に隙はない。

 

「素晴らしい……!」

 

 恍惚の声。血走った瞳で熱っぽく次郎を見やるザッハークは、玉座を蹴倒さんという勢いで立ち上がり、うるさいくらい拍手している。

 

 喉元に剣を突き付けられたままで(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 対照的に、次郎の方は気味悪げに黙っていた。生殺与奪権はこちらが握っているはずなのに、首を刎ねても死ぬ気がしなかったからである。なんというか、この男は蛇なのだろう。それもとびっきり生き汚い。

 

 しかし、口を閉じていてもザッハークが止まる様子はない。仕方がないから口火を切った。

 

「あぁ、うるせぇ、女神さまは無事だろうな?」

 

 ギロリ、と鷹もかくやとばかりに睨めつける次郎だが、むしろザッハークは喜んでいるようだった。いよいよ忌避感が募ってくる。

 

「応ともさ。あの通り、傷一つない」

 

 拍手を止めて指を指した先には、檻の中に手枷足枷を嵌められた美しい女性の姿がある。確かに、どこにも傷はないように思えた。

 

 尤も、こちらを見やる雰囲気からして、あまり歓迎しているわけではなさそうだった。「何故来てしまったのだ」と言いたげな苦しい表情をしている。

 

 直感的に、見下していると感じた。神らしい、傲慢な雰囲気がちらりと顔を覗かせたのかもしれない。

 

 正直なところあまり良い感情は抱かなかったが、やることに変わりはない。次郎は気を取り直して提案した。

 

「じゃ、そこの女神さまを開放してくんない? そしたら俺も手ぇ出さないから」

 

 暗に、「戦いたくないです」と告げる次郎だが、正直なところ望み薄だと見積もっていた。なにせこの三頭の男、未だにニヤついている。今にも牙を剥きそうな気配さえあるのだから、次郎は内心気が気ではなかった。

 

 そして案の定、ザッハークは吹っ掛けてきた。

 

「条件がある」

 

「何だ?」

 

 瞳孔が縦に開く。嫌な雰囲気が増大した。やはり蛇か、納得したのはこの辺りだった。しかし、提起された条件は次郎を困惑させるに足る奇妙な物で、後ろの女神すらも目を真ん丸にした。

 

「余を殺せ」

 

 一瞬、思考が止まった。コイツは何を言っている。爛々とした蛇の瞳に精気を滾らせ、魔王もかくやといった覇気を垂れ流すこの男が、何を以て死を望むのか。疑問が声となって次郎の呼吸をすり抜ける。

 

「は?」

 

 期待していた反応だったのか、ザッハークの口が裂けんばかりに弧を描く。好んで友達を驚かせるようなイタズラ好きの少年を、極限まで性悪にしたような笑顔である。

 

「余を殺し、お前は真の英雄となるのだ」

 

 続けざまに飛び出たのは、また脈絡もない話だった。自殺願望、という感じではない。この男は、何を考えているのか。さっぱり見当がつかない。声色が驚くほど大真面目なことが、尚のこと不気味だった。

 

「………」

 

 頭を回そうにも、これだけ理解が及ばない者を相手にできる自信が次郎にはない。そろそろ、思索の限界を悟らざるを得なかった。

 

「あんたが、なんだかとても重いもんを背負ってるのは分かった。退く気がないのも分かった。オマケに、話が通じないのも分かった」

 

「余もこの複雑な胸裡を晒しきるのは難しいと思っていたところよ」

 

「言いたいことがありすぎるってのも考え物だな」

 

「うむ、まったくよな」

 

 苦笑。あれほど気味が悪かったザッハークだが、少し落ち着いてみればそれほど嫌う理由がない。すると、不思議に思った途端に嫌悪感が失せるので、ザッハークに対して悪意を抱くように意識を誘導されたのだと漸く合点がいった。

 

 誰が仕向けたのか。それは一旦置いておくとして、ザッハークの首に触れていた刀身を引っ込めて納刀する。胡乱げにザッハークが声を漏らした。

 

 ふと、ザッハークが瞠目する。こっちの雰囲気を察したのだろうか。さっきまでの狂気染みた鋭い眼光とは真逆の、穏やかで、凪いだ瞳をこちらへ向け直した。

 

 やっぱりというか、あれはザッハークの行いだったらしい。

 

「なぁ、だからさ、大事なのをだけ言ってくれよ」

 

 言い訳はしたくないが、俺は頭が悪い。察しはいいかもしれないが、それにしたってザッハークは複雑なこと以上に情動を隠すのが上手い。王……政治家だったからか。さっきの大げさな身振り手振りも意図したものだったのだろう。

 

 要点をまとめて分かりやすくして欲しい。地頭の悪さをバラすようで、ちょっとお願いするのが恥ずかしくもあるが、そうでもしなければザッハークと分かり合うのは難しい。

 

「そうさな、では要望に応えるとしよう」

 

 

──余のような者を、これ以上出すわけにはいかぬだろうがよ。

 

 

 苦悶。この世の艱難辛苦をこれでもかと煮詰めたような苦々しい表情が強く印象付けられる。なるほど、根底にあったのはこれか。

 

 永遠の禁錮。邪竜によって喰まれる精神。限界を迎えるその瞬間、遠い那由多の彼方に一縷の可能性を見出した。まつろわぬ神を喰らい潰しての乗っ取りだ。

 

 本質的にはアジ=ダハーカでもあるザッハークだからこその鬼札。誰よりも邪竜を知るからこそ、真実一分の隙もなかった邪竜の癌細胞と成り得た。

 

 しかし、同時に己を毒とするリスクもあった。蛇の道は蛇、という言葉がある。ザッハークは自らを毒と化す代償に、『人間』ザッハークには戻れなくなる。両肩の蛇はイブリースの呪いではなく、自ら植え付けた癌細胞そのもの。もはや、ザッハークはまつろわぬ神でも、神祖に類する者でもない。全身に(へび)が転移した、末期の病毒そのもの。

 

 毒をつくり、邪竜を喰い、神々の牢を掌握し、地母神を囚え、一神話を滅ぼす大規模な権能を扱った。元より限界を逸脱しての活動だったのだ。一等生き汚い『蛇』と化したからこそ無茶であったし、当然その報いは自らの毒による自滅と定まっていた。

 

 全て、総て、覚悟の上で、ザッハークは神を殺そうとしたのである。もう一人の己を創り出さぬために。千里眼で捉えた、英雄たちの後継を神々の玩具にさせないために。

 

 俺を、高橋次郎を、助けるために。

 

 つまり、だから、コイツは、このザッハークは、本人(・・)

 

「分かるか、次郎よ」

 

「ここまで来れば、そりゃ俺みたいなバカでも分かるさ」

 

 まつろわぬアジ=ダハーカは何を以てしてこの世に現れたのか。触媒と呼べるものが、確かにあったはずだ。

 

 恐らくそれは、幽世ダマーヴァンド山に封じ込められたザッハークの肉体。つまりはアジ=ダハーカの依代そのもの(・・・・・・・・・・・・・・)

 

 かつて魂を喰い潰されたはずのザッハークが、まつろわぬアジ=ダハーカの顕現によって、三頭の王という神の構成要素の一つとして蘇った。それも精神だけの状態で。

 

「余は、もう長くない」

 

 独白は、どこか決然としていた。

 

「後を頼む、とは言わぬ」

 

 優しい眼差しは、同朋を得た旅人のよう。

 

「うん、はい」

 

「生きろ。お前らしく生きるのだ。高橋次郎!」

 

 あぁ、畜生。泣きそうだ。この男は、本当に、ただ俺を心配してくれただけだったのだ。どれほど荒っぽくても、自分の胃袋になった神山に入れても、決して俺を殺さなかったのは、そういうことだったのだ。

 

「言われずとも」

 

 そして、俺はまた恩人を殺す。アーラシュとの約束を守るために。そして、ザッハークの厚意を無駄にしないために。

 

 仁義を貫くために。

 

「故に、余を殺せ! 余という(へび)を除き、純粋な力としてお前に託すのだ」

 

 ザッハークは、未来視ができる。単なる格で言えばアーラシュのものより上。現在を視覚し、未来を朧気ながら察知するアーラシュの千里眼に対して、ザッハークの千里眼は過去と未来を鮮明に映し出す。だから、この方法が最適だと知ったのだ。

 

 高橋次郎に、力を託す。唯一無二の、英雄殺しを造り上げる。俺は、利用されたのだ。

 

 だけど、それでもザッハークは『らしく生きろ』と笑い飛ばした。なんでもかんでも背負うもんじゃない、と諭した。利用される苦しみを、身をもって知っていた人だった。

 

「それで、あんたの(へび)は存在の危機を理解して、あんたの意思の統率から外れる。暴走する。そうしたら俺はあんたを殺さざるを得なくなる。癌そのものだな」

 

「元より視えていたことよ。躊躇う必要はない」

 

「そうかい。じゃあ、覚悟はいいな」

 

 目を細めて、暗い山中の玉座から、ザッハークは見えもしない空を仰いだ。そうして呟く。重い荷物を、下げる日が来たことを悟ったのだ。

 

「───死ぬには良い日だと、そう思わんかね?」

 

「『継いでくれるやつがいる』ってのかい?」

 

「余の荷物は背負ってほしくはないが、……その通りだ。───アーラシュは、まこと偉大な男よな」

 

「同感だよ」

 

「で、あろう?」

 

「だが、それはあんたもだぜザッハーク王」

 

「──────」

 

「あんた以上の王様を、俺は知らないよ」

 

 

 

 

 

 

 

 ザッハークの頬を、雫が伝う。記憶にある限りでは、尊敬する父王マルダースを暗殺した時以来の熱い涙。だが、悲しみはなく、深い安堵があった。

 

 そうして、万感の想いで語りを閉じるのだ。夜明け前の月の如く、ちょっとばかりの名残惜しさと共に。

 

「さらば、我が友」

 

 邪王ザッハーク、逝去。

 

「応」

 

 邪竜アジ=ダハーカ、顕現。

 






 オリキャラ注意(激遅)


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徒花に実は───


 もう飽きが来てる。ハッキリ分かんだね(反省心0)




 

 ギラついた目を伏せる。

 

 支配者は死に絶えた。

 

 

 

 邪竜、変生。これなるは千の術技を操る三つ首の災厄、神性とも魔性とも定かならぬ絶対悪なり。徐に視線を持ち上げ、瞳から意思の光を鋭く覗かせる次郎はその様を静かに見つめた。

 

「そうか」

 

 邪なる竜にして蛇。アジ=ダハーカとして顕れた三つ首は、しかし異質さをもって次郎を威嚇する。

 

 直感が囁いた。これは智慧を持った獣に等しい。

 

 質量ではない。まして神秘などとはとてもとても。これは死にたくないだけだ。野生の生物と違う所があるとすれば、それは身に宿す(叡智)に他ならない。

 

 ではその悪とは、何か。ただ生きることを望むこの蛇は、何故に悪と貶められねばならなんだのか。

 

 知れたこと。(人の意思)が蛇を悪と定めたのだ。

 

「蛇と王ってのは、古代から結び付けられていた概念の一つだ」

 

 蛇の構成概念を(ほど)いていく。詳らかにする。その本性を丁寧に晒していく。

 

 古来から怪物化する王は数多あり、伝説にその名を残している。その多くには竜蛇が関わることも珍しくない。そう、蛇である。

 

 本能的に等価交換の法則性を理解していた古代人が、あの世とこの世を股にかける例外として祀り上げたその生き物(かいぶつ)

 

 脱皮を新生することと捉え、生と死の世界を自由自在に這い回るその力。これを得られたならば、あの世の富(・・・・・)をも手に入れることが出来る、などと。

 

 王とは。現実の均衡を保ちながら更なる富を生み出す者。即ち、この世にない富を生み出す『蛇の智慧』に長けた者なのだ。

 

 翻って、ザッハークはまさしく王者であった。暴君として伝えられるこの男、悪行は事実だがその治世は非常に安定していた。暴虐の王と謗られながら、しかし国そのものの豊かさは保たれるどころか増大すら成し遂げた。

 

 まるで、この後に王となる者の礎になろうとしたかのような、自己犠牲に近い意図を匂わせる。ザッハークが密かに蓄えた山のような財、次代の王となったフェリドゥーンが五百余年の治世の更に未来まで、子々孫々に渡り泰平を実現させた理由の一つがザッハークの治世に隠されているのだ。

 

「優れた王とは、つまり蛇の頂点。智慧に長けた神の如き者」

 

 したがって、人は王を恐れた。

 

 当然の帰結だ。

 

 智慧を持つ王が過剰な財を引き出し強大になる。しかし、その智慧によってあの世からの揺り戻しは抑えつけられ、現世の均衡は保たれる。

 

 智慧の発現とは、つまり祭祀だ。王は引き出された財を以って富み、祭祀によって均衡を保つ。その繰り返しが常に行われ、最後にはどうなったのか。

 

「富み、祀り、より強大になっていくそのサイクル。行き着く先は絶対的な王権、暴走する智慧から『蛇そのものと化した王』が誕生する!」

 

 その、なんと恐ろしく悍ましいことか。

 

「誰かが気づいた。"これは空手形なのではないか?"と」

 

 膨らんでいく王の力に、人々の想いが歪んでいく。

 

 絶対的な力を手に入れながら、尚も増していく存在感。引き出し、富み、祀り、治める。繰り返しが名目上の行いに変じていく。これはもはや、空手形の乱発に他ならない。まるで神の如き所業だ。

 

 或いは、神そのものに成り上がろうとしているのか。誰かがそう勘づいた。

 

 強くなり続けるその姿は、いつしか畏れを纏い神威を放つようになった。王が、『蛇』が、"神"と化したのだ。

 

「民草は見ていたぞ。ラムセス二世を、ネブカドネザルを、アレクサンドロス大王を、歴代のローマ皇帝を!」

 

 ひたすらに膨張し、怪物化する王。或いはその国。知ったからには、その恐怖と記憶が形をとって世界中のどこかしらに遺された。

 

 その多くを見届けたヘブライの民は、その恐怖をこう遺した。

 

怪蛇(ラハブ)

"エジプト"

"ファラオという名の神"

 

『黙示録の赤い竜』

"王冠を冠った異形の蛇"

"歴代ローマ皇帝、怪物化する王及び国家への警戒"

 

 ユダヤの教えがキリスト教へ変遷する最中、荒野に在った神の子にある悪魔が「王となれ」と囁いた。それは、蛇の智慧を使えとする暗示だったのだ。つまり、その悪魔とは蛇の化身。

 

 人々は、王を、蛇を、悪と見做した。

 

「三つ首の竜なぞ薄皮一枚のガワに過ぎない。その真実は富と智慧の化身にして生と死の概念的結晶、その強大さ故に悪と貶められた再誕者!」

 

 名など無い。ある筈もない。確かに始めはアジ=ダハーカだったことは間違いないだろう。ザッハークが己の自滅を代償に封じ込めた埒外の悪竜だ。

 

 では、ザッハークが創り出し、遂には邪竜を喰らった自滅因子はアジ=ダハーカなのか。……厳密に言えば、それは違う。

 

 ザッハークは民草を鏖殺する悪竜を殺すために、その毒性を上回る『蛇』を作製してのけた。

 

 元は三つ首の悪竜だったその『蛇』は、ザッハークに伝承的関連を持つあらゆる『蛇』の要素を煮詰め、精錬し、そして最後には意図的に暴走させられた『この世で最も純粋な蛇』。史上最新の神話的怪物にして、それを斃す者へ用意された生贄なのだ。

 

「新生し、この世で最も純粋な『蛇』と化したお前は!」

 

 あぁ、純粋だからこそ、これはただの生き物なのだ。幾ら智慧を持とうが、関係はない。らしく生きたいだけなんだろうとも。

 

「人に、世界に、そして"神"に! 最も認められた絶対の悪!」

 

 だからコレはいつも通りのエゴだ。刃を突き立てて命脈を絶たんとする高橋次郎もまた、善い者ではないのだ。

 

「だったら!」

 

 この『蛇』を外に出せば、この地で暮らす人々の静謐は砕け散る。それどころか、大陸が滅ぶ。それだけ、この絶対悪は強大だった。ただ地を這うだけで、大地が割れるくらいに。

 

 辛うじて、ザッハークの遺した要塞神山に囚われているだけ。これを外に出さぬためだけに、ザッハークは一神話すら滅ぼし得る魔城を創り上げたのだ。

 

 胸が締め付けられる。蛇への憐憫か、王への哀惜か。

 

 あの男の最期の願いに応えねば。

 

「今! ここで! ぶっ殺してやる!」

 

 主我の念、尚も揺るがず仁義を貫く。次郎は己の背に誓った信念を諦めない。もはや、そう決めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 女神は復活したアキレウスの戦車とそれを牽く三頭によって既に脱出した。もはや、ダマーヴァンド山に残っているのは次郎とアジ=ダハーカを模した最新の蛇だけだ。

 

 アキレウスの槍を取り出した次郎が、色のない声で呟いた。

 

宙駆ける星の穂先(ディアトレコーン・アステール・ロンケーイ)

 

 槍を緑光が這った。要塞神山を『決闘場』として更に補強すると同時に、両者共に不死の加護が砕かれる。再び死を得た蛇は、尚も静かに次郎を見つめている。

 

「俺は英雄じゃねぇ」

 

 凪いだ瞳で次郎が言った。応じて蛇が毒牙を見せた。

 

「俺にできるのは、筋を通すことだけだ」

 

 握りしめた槍の柄が、みしりと悲鳴を上げる。

 

「てめぇを殺すのは、俺のエゴだ」

 

 ひどく冷たい感覚に、手元が凍えるような錯覚を覚える。迷いはなかった。

 

「だから、俺の仁義(エゴ)のために、死ね」

 

 

 

ゴパッ!!!

 

 

 

 堰を切った様に呪いと魔法が次郎の見る世界を埋め尽くした。

 

 色とりどりの神秘が入り乱れる大瀑布。アジ=ダハーカの権能だろう。その一つ一つが英雄と呼ばれる勇者たちを殺し尽くして余りある大火力。その中に潜む数多の毒が、単なる耐久を許さずに対象を呪殺する。

 

 実に効率的で、陰湿な一手。避けようがなく、防ぎようがない。ダマーヴァンド山の内部という限定された空間であるが故の鬼手だった。

 

 狙いはそれだけではない。『蛇』はことここに至って逃走の選択も視野に入れていた。遠慮なしの全開火力を最初に選択したことからも分かる通り、最悪ダマーヴァンド山、この要塞神山を破壊して逃げ延びようとしていた(・・・・・・・・・・・)

 

 幾ら主神級の権能すら完全に遮断し得る要塞神山といえども、数多の神話的怪物の要素を取り込んだこの『蛇』には、物理的に粉砕される恐れがあったのである。たとえそれが、アキレウスの槍によって強化を経ていても、絶対は確信できない。

 

 竜蛇の中には山河を司るものも多い。山を崩す程度のことなど造作もないこと。次郎にとっては知る由もないことだが、その直感はこの危機を捉えていた。

 

「──手温い」

 

 槍の一閃。国を焼く千の術技は造作もなく払われた。一切合切が消し飛び、後にはうねるような大気の乱流が残るのみ。

 

 英雄の武技だけではない。何か、また別のものが次郎の力を高めに高めて臨界点へと急速に走らせている。

 

 流れた穂先が弧を描いて『蛇』の眉間をピタリと指した。投擲の構えである。

 

「ぬぅあッ!!!」

 

 槍が中空を飛ぶ。光の大矢と化した槍は、空間を捩じ切りながら音もなく三つ首の一つを消し飛ばして暗闇の彼方へと消えた。

 

 『蛇』は焦る様子もなく黒々とした土石流を呼び出した。異様な落ち着きを見せる『蛇』に、次郎はふと合点がいった。

 

「そうか、その程度なら治ん(・・)のか」

 

 ぐじゅ、と捻り切れた首の断面から生々しい音が這い出てくる。肉が盛り上がり、次第に骨と皮が首を象り始めた。アキレウスの槍には治癒を阻害する呪いが施されていたはずだが……。

 

 不死は破却された。それは間違いない。なら、残っているのは『蛇』としての純粋かつ強烈な生存能力。単なる生命力で呪いを弾き返したのか。この生命力を絶やさぬ限りは、『蛇』に死はない。驚嘆すべき能力だ。

 

 思索を巡らせる次郎に、どす黒い激流が襲いかかる。アキレウスの記録に該当項目、ヒュドラの猛毒(・・・・・・・)。触れれば死は免れない。水滴の一つさえ致命。師をも手にかけた脅威をアキレウスは知っていたようだ。

 

 アーラシュから受け継いだ頑健の権能すら冒し得るギリシャ最強の毒が次郎を呑み込まんと迫る。

 

「遅せェな」

 

 跳躍。空を踏んで駆ける。玉座の間が死の濁流で満ちるその刹那、新たに円盾を取り出した次郎が突撃した。

 

 音もなく、三つ首のもう一つが吹き飛んだ。流星の如きシールドチャージ。最初の一本は再生の中途であり、潰すべき頭は残すところ一つ。

 

 その後が本番なのだろう。

 

「けぇッ!!!」

 

 盾の影からアキレウスの剣が抜き放たれ、豪脚に任せた強引な反転から流れるように閃きが奔った。

 

 気合一閃。三つ首最後の一本は呆気なく宙を舞った。

 

 制御する存在が無くなった猛毒の濁流が主を呑み込むのも構わずに荒れ狂う。閉鎖された空間が満たされるまで一刻の猶予もない。

 

 仕方ないので、次郎は盾をぶん投げて天井に穴を開けた。その穴から脱出しようというのだ。

 

「どうせまだ死んじゃいねえ。決着を付けるにゃぁ玉座の間(ここ)は狭すぎる」

 

 もちろん、蛇を外にまで連れ出すつもりはない。場さえ整えばその時点で叩く腹積もりだった。しかし、次郎の頭には懸念事項も浮かび上がっていた。

 

「神山の容量(キャパシティ)で抑えきれるか……?」

 

 複合神格、表面的にはそう表現する他にないその質量。幾らザッハークが手塩にかけて創り上げた専用の牢獄でも、実物から滲み出る圧力から考えると、長くは保たない気がしてならないのだ。

 

「必要ならアーラシュの弓矢を借りなきゃならねえか」

 

 とりあえず、チップとしたのは己の命。大英雄が放った流星は蛇を一撃で討ち滅ぼしうる鬼札だが、当然軽々しくは放てない。

 

 撃つにしても、確実な機会を待たねばならない。無論、次郎も死にたいわけではない。

 

 出来るなら生きながらえたいが、それで命を渋って仁義が貫けないようなら己の誓いに背くことになる。よってその場合は死ぬしかなくなるというだけのことだった。

 

「……チッ、もう変態は終わったらしい(・・・・・・・・・・・・)な」

 

 毒づいた次郎の声は迫る地響きに掻き消された。一秒ごとに揺れが強まり、加速度的に要塞神山へ(ひび)が入っていく。内部崩落がはじまったのだ。決闘場の体を成すためにダマーヴァンド山の外殻こそ支えられているものの、もはや決戦を選ぶ他にないという事実上の背水の陣だった。

 

 深く、深く、息を吸って吐いた。肚は決まったのだ。単純明快、死んでも殺す(・・・・・・)

 

「いいぜ、来いよ……!」

 

 取り出した弓に矢を番える。その背に重たくのしかかる過去をを想いながら、弦を引き絞る。

 

 的は目前だ、外す余地はない!

 

■■■■■■■ッッ!!!!!

 

 通路の一切がその身じろぎで崩壊し、要塞神山の中身は堆く積もった瓦礫ばかり。三本の首を喪った蛇は、遂に首を再生し、その一本化を成し遂げた。もはやアジ=ダハーカのテクスチャすら克服した蛇の姿は、巨いなる翼を背に付け、刃のような鱗を逆立てるように備えた手足なきもの。

 

 形だけを保った神山内部の空中を睨む様は伏竜の如く気炎を纏う。その先にはやはり次郎が落ちながらにして狙いを定めていた。

 

「───勝負だッ!」

 

 瞬間に蛇が翔んだ。その矢が放たれる前に次郎を一呑みにしようというのだ。いや、或いは撃ち放たれた巨星すら諸共に喰らわんとしたのか。生存本能が見抜いたアーラシュの流星を前に、この蛇は音も光も置き去りにして決死の跳躍飛行を敢行した。

 

 死にたくない、死にたくない、死にたくない。それは恐怖ではない、好奇の感情から来る蛇の探究心とでも表すべき情動だった。

 

 智慧を持つ蛇は未だ生誕したばかり。光溢れる世界を知らなかった。ザッハークの計略によって創り出されたが故に、神山の外を実際に見たことがなかった故に、孤独の超越者としての在り方を生まれながらに刻みつけられたこの蛇は、生の実感を知らなかったのだ。

 

 なればこその決死。名もなき蛇は昇竜となりて光を落とさんと迫り来る。

 

 後日、次郎と関わりを持つことになったトラキアの旧き魔術女神より『もう一つの王殺し(スタゴナ・アステリ)』と渾名された赤子の蛇の、運命の瞬間である。

 

 アギトが開く。天すら穿たんばかりの巨牙が次郎を襲う。次郎は目を逸らさずに、裂帛の気合と共に矢羽を手放した。

 

「砕け、流星一条(ステラ)ァ!!!」

 

 光風二つ駆け、大地が激震する。咲く筈のない徒花は種子を遺さずに儚く散るが定めである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蛇にも、次郎にも後がなかった。

 

 片やあまりにも純粋な蛇として生まれ落ちた赤子の蛇は、生命であることよりも先に『蛇』であることを強いられたために生殖能力を失っていた。智慧を持つがゆえにその重大さを理解した蛇は、生まれながらに謳歌すべき生を諦めていた。己で終着する生命になんの意味があろうか、と。

 

 再誕者である己は、死も生もなく朽ちる徒花であるとまず始めに了解させられたのである。

 

 そこに現れたのが次郎だった。この男は、明確な生死を持たぬ身である蛇に明瞭な死を叩きつけるべく現れた刺客であるが、同時にこれ以上なく頑なな信念を持つ侠客であった。智慧は次郎のパーソナリティを詳細に紐解き、蛇を惹きつけた。

 

 知識の中にある人間を除き、初めて遭遇した未知なる男に蛇は多大な好奇心を示した。故に災厄でもって問い掛けたのだ。貴様が奪わんとする生とは、如何なるものか。それ程の信念を抱くに至る生とは、なんぞや。

 

 蛇は語る口を持たぬ。思念を伝える術を持たぬ。その様に造られ、また災厄であることを因果に定められていた。故にその交流は究極の暴力、闘争となる。

 

 ことここに至って蛇の中に意地が根付いた。徒花の大輪とはこの新たな根による変貌である。即ち、邪竜のテクスチャを剥がしきった上で現れた赤子の蛇の本性。逆巻く刃の鱗は生の答を得るまでは死ねんとする叛逆の雄叫び、そして巨いなる翼は命題の解答へ辿り着くための唯一の手段なのだ。

 

 故に蛇は止まらない。次郎の放つ星すら呑み干し、全知に等しい智慧をもってしても未だ辿り着くことのない果ての解答へ至ってみせる。そのためだけの生であると己を定義した。

 

 この大いなる決断が、恐るべき跳躍の原動力だったのだ。

 

 だがもし、負けるとするならば。

 

 悪くない。そう蛇は思考を止めた。同じ奴に負けるなら、それも悪くなかった。

 

 対して高橋次郎はどうだろう。この男は、既に決着した過去を持つ極道者だった(・・・・・・)。齢三十二にして独覚の域に達した自我は、その信念故に絶対性すら獲得した埒外である。

 

 関東最大のヤクザ組織東道会。その直系高橋組組長にして、東道会本家若頭であった養父の病死によって活発化したヤクザたちの跡目争いに巻き込まれた男は、ただその系譜であるというだけで兄弟分や友らを殺され尽くした。

 

 仁義なき現代極道の社会にあり、しかし次郎は異端であった。ただ仁義のため、と。それは養父の教えだった。外れ者である己らが、この世界で生きていくためにはそれを捨ててはならぬのだと。

 

 古い、思想。それは理想だった。だが、それを誓いとして桃太郎の姿と共に背に彫り込んだ侠客こそが次郎である。

 

 次郎はたった一人で仇討ちとして一勢力を滅ぼした。東道会の会長に収まった仇を、組織ごと殺し尽くした。ただ、仁義のために。以来この男は、日本の裏社会におけるアンタッチャブルとして放逐された。姿を消し、放浪を重ね、誰とも関わりを持つことなく流れてきたのである。

 

 アキレウスが行った殺戮の光景に動揺したのは、真実を晒せばどうということはない。成すべきことをもはや成し果てていたという自覚が、己にこれ以上先がないことを示していることに他ならないと気がついたからである。

 

 以降に縁を持った英雄たちの頼みを引き受けたのも、実のところは既に捨て体だったからというチンケな理由で、もはや仁義を通すだけの抜け殻に次郎は成り果てていた。

 

 どうせ惜しくない命である。残すものすら亡くした男は、信念しか存在しない鋼の侠客に成り果てたのだった。

 

 それが、この蛇との邂逅で揺らいだ。

 

 同族嫌悪か、はたまた同類を見つけた小さな喜びか。なんにせよ次郎は久方ぶりに心が動く音を聞いた気がした。

 

 全てをぶつけて、尚も。殺し尽くして、尚も。仁義を貫けるか分からない存在が現れたことは次郎にとって青天の霹靂に等しい事実だった。しかも、それは己の同輩である遺すもののない怪物である。

 

 これまで成し遂げてきた信念が、ここで朽ちるかもしれない。そのことに恐怖はない。そんな理不尽は己が今までにどれだけ殺してきたかを考えれば当然の報いだと笑って言える。

 

 だが、どうだろう。己が死んで、負ければ。この蛇に己は何かを遺すことになるのだろうか。そう、頭の片隅で考えている。

 

 勿論、負けるつもりは毛頭ない。それはザッハークへの裏切りだからだ。それでも、もはや徒花と成り果てた己が、同輩にもしや遺す所があるとすれば、どうなのだろうか。

 

 矢を放った先を見つめ、次郎は目を細めた。躊躇いはない、必ず殺す。片隅の思考は僅かな惑いにすらなりはしない。だが、それは負けたとしても納得するという覚悟だ。

 

 仁義の鬼と化した次郎が、唯一諦めることのできる勝負が、この蛇との一騎打ちだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 果たして、両者ともに倒れ伏す結末となった。平等に、どちらも死に至る。そんな、結末。

 

 五体を投げ出した次郎は掠れた声で蛇に声を掛けた。

 

「なんだよ、気概があんならちゃんと飲み干しゃよかっただろうがよ……」

 

 流星一条(ステラ)を噛み潰さんとした蛇の牙は弾け飛び、その内の二本が次郎を襲った。左腕を失い、そしてもう一本に腹を穿かれて地面に縫い付けられたのである。

 

 対して蛇は、大地を割る救世の星を半分ほど呑み込んで、それ以上を噛み切れず右翼と全身の下側をごっそりと消し飛ばされていた。それでも、次郎から目を離すことなく静かに見つめている。

 

 流血が川となって、隻腕となった次郎の体を浸した。

 

「考える頭が残ったのは皮肉だねぇ。もう這うことすらできねぇってのによ」

 

 不意に、こちらを向く蛇の瞳が笑ったような気がして、なんとなくこちらも笑ってしまった。

 

「ふ、はっは。まぁ、良い。お前になら、悪くない」

 

 共倒れの結末は、ザッハークの想定した結末の中では最低のものだろう。きっと怒っているに違いない。

 

 だが、高橋次郎の結末としては悪くない、と素直に思ったのも事実である。

 

 次郎はゆっくりと目をつむり、蛇に別れを告げた。

 

「……あぁ、先に逝ってるぜ。徒花の俺たちが、何処へ行けるかは知らんがな」

 

 蛇もそれに倣って目を瞑り、そして最後の力を振り絞って神秘を発動した。

 

「ぐっ、……あ?」

 

 驚いたのは次郎である。突き刺さった牙がひとりでに抜け、蛇の流血が傷口を満たし始めたのである。

 

「おい、何やってやがる……!」

 

 今度こそ、蛇の笑い声すら聴こえた。血が沸き立ち、次郎の全身を蛇の流血が包んでいく。しばらくして、蛇は満足げに作業を終えた。

 

「ゴホッ、どうなってんだ傷が塞がって……!?」

 

 飲み込んだ血を吐き出しながら、次郎は驚愕に叫んだ。無くなった左腕こそそのままだが、傷は痕一つなく塞がり、アーラシュの切り札を使った代償すら現れない。

 

 まるで、より強い呪い(まじない)で塗りつぶしたかのような……。

 

「お前、まさか……?」

 

 そう問い掛けた時、もう蛇は事切れていた。それから次郎は言葉を失って、ただずっと呆けて座り込んでいた。

 

 ときに、こんな伝承をご存知だろうか。竜の血を浴びると不死身になる、というものだ。

 

 翻って、蛇は生命の解答を探る昇竜として己を定義し、その通りに変貌した。もはやそれは蛇に非ず、真の竜として昇華を果たしていたのである。

 

 そうでもなくば、厄災を鎮める力を持つ『流星一条(ステラ)』を半分も呑むなどありえまい。蛇は、否、竜は己の宿痾を乗り越え、唯一大輪の徒花(りゅう)として勝者である次郎を生かしたのである。

 

「…………馬鹿野郎が」

 

 満足げな竜のさまに、次郎は大粒の涙を零した。決闘は終わり、要塞神山を保たせていた最後の支えが消え去ると、山体が完全な崩壊を始める。

 

 不思議なことに、次郎と竜の周囲だけは土砂や瓦礫に埋もれることなく静謐を保っている。

 

 ふと見上げると、漸く顔を覗かせた太陽が竜の遺骸と次郎を優しく照らした。

 

 



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故郷にて

 

 父親はヤクザの鉄砲玉で、次郎が赤子の時分に凶弾に斃れたという。その時母親は既になく、一歳に満たぬにも関わらず、天涯孤独の身の上だったらしい。というのも、流石に幼かった頃のことなので、どこまでが本当の話か次郎には見当がつかないのだ。

 

 父と義兄弟の盃を交わしていた男に引き取られ、以来その姓である『高橋』を名乗っている。両親のことを伝えるのも専らこの男なので、幼い次郎にとって両親とはお伽噺の人物に過ぎないくらいだった。

 

 なにせ両親の顔も知らないので、次郎にとっては養父となった男が本当の父に相違ないと思い込んでいた時期すらあった。

 

 次郎少年は組の人間たちに面倒を見られながら平時の青春時代を過ごし、中学を卒業する。その後は養父の組の若衆として下っ端働きを始め、順調に実績を重ねていくと、二十の半ばには高橋組の若頭補佐にのし上がるほどの躍進を遂げた。

 

 異例の速度ではあったが、それは次郎が幼い頃から積み上げてきた組の人間との絆と信頼から来るものである。組長の養子であることは関係なく、その人柄が古参新参問わずに人を惹きつけたのがことの真相だった。

 

 若輩ながら親や兄弟分に恵まれ、まさに人生の絶頂を迎えようとしていた折に、転機が訪れた。

 

 養父が病を患ったのである。

 

 進行が一等速い、殊更にタチの悪い胃癌だった。日に日に痩せ衰えていく養父の姿は、次郎を始め組織全体への不安を波及させた。なにせ本家直系の組の組長にして本家若頭を兼任する男が末期ともなれば、それは当然のことだっただろう。そして、彼は次郎に"嵐の兆し"を告げて、この世を去るのである。

 

 次郎、27歳の春。長い時を経て、再び抗争が始まった。高橋組の元締め、関東全域を勢力圏とする東道会本家の跡目を巡る一大戦争だった。東道会内部のみならず、北は北海道から南は九州まで全国のヤクザが暗躍し、数々の策謀を巡らせたこの事変を次郎は駆け抜けた。

 

 終わってみれば僅か一年。後始末で半年ほど。だが、次郎はこの刹那に全てを奪われ、そして報復の後に霞の如く姿を消した。

 

 亡くなった高橋組組長と長い親交を持ち、少年時代の次郎の家庭教師を勤めた東道会四代目会長代行の片山雄三翁は、その背を唯一見送った者として伝説を語る。その終止はいつも同じで、聞く者に凄絶のなんたるかをよくよく了解させたという。

 

 

『慚愧の念深し。その時もはや次郎に残るものは五体と命、そして亡き親兄弟に誓った仁義のみであったのだ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ご無沙汰しております、片山の叔父貴」

 

 晩春、夜遅くのことである。都内某所に構える東道会の本部。厳重な警備に守られている片山の私室に訪れたのは、姿を消したはずの高橋次郎だった。

 

 見れば黒いスーツに身を包み、持ち物は旅行鞄一つのちぐはぐな格好だったので、片山は思わず小さな笑みを浮かべて次郎を部屋の中へ招き入れた。

 

「ぬ?」

 

 片山の声。次郎は反射的に顔を顰めた。

 

 近くで見れば、次郎の腕が片方ない。あぁ、何かしらの大事に巻き込まれたか。片山はなんとなく、そういう予想をしていた。幼い頃から無鉄砲で、愚かしいぐらい見捨てることのできないこの男は、他人の業を背負い込んで、いずれふらりと死に果てそうな気配があったからだ。

 

 顰めた面はそのままにして、気まずそうな感じで片山と目を合わせた次郎に「おや?」と思うところがあったが、それよりも先に再びこの意地っ張りに会えた嬉しさが片山の心を占めていた。

 

「よう帰ってきたなァ。何年ぶりか、次郎坊(じろぼう)よぅ。会いたかったぜぇ……」

 

 じろぼう、と次郎のことを呼ぶのは片山ともう一人、高橋組の組長だけ。懐古の念が心に湧き上がる中、あくまでも丁寧に次郎は応じた。

 

「ご冗談を、俺は東道会に弓引いた裏切りもんです。本当ならこの首を差し出してもまだ足らねぇ。叔父貴にそんなこと言われるような男じゃあねぇんです、俺は」

 

「そうじゃねぇ。オメェが無事に帰ってきたのがわしにゃあ堪らなく嬉しいことなんだぜぇ?」

 

 片山はしわくちゃの顔をくしゃりと歪ませて続けた。

 

「……墓参りか?」

 

 静かな目で、片山は横目に窓を覗いた。コンクリートジャングルが眩しいくらいの明かりをつけて、夜空はそれと反比例するように星の霞む真っ暗闇。その先に何を見ているのか、次郎はなんとなく察しがついた。養父と片山の絆は、それだけ深いものだとよく知っていたから。

 

 次郎はこの六年間、一度も養父や兄弟分の墓を訪れていない。不義理だと分かっていても、トラウマへ向き合うには次郎の心は傷付き過ぎていたのである。

 

 それを癒やすことが出来たのか。次郎自身は未だに分かっていない。それでも、数多の出会いを経た今、けじめはつけるべきだと漸く決心がついた。

 

「そうさな、それなら寺の住職に鉄幹の話でも聞いてきな。あいつ自分の若い頃なんて、恥ずかしがって話そうとしなかったらしいじゃねぇかい」

 

 鉄幹、というのは養父の名だ。名の通りに巌のような男で、そして堅物だった。今でこそ、そういうシャイな性格だったことが分かる。中学の頃は、厳格で恐い印象ばかりが頭の中を占めていたのだけれど。

 

「住職とは、お知り合いで?」

 

「奴も昔は極道だった」

 

 極道を辞して僧侶になる者は一定数ある。なにせ人死にの横行する裏社会に生きてきたのだから、老いてどこぞに救いを求めることも珍しくない。

 

 尤も、現代の仁義なきヤクザたちに嫌気が差して仏門に下る例も珍しくない。或いは完全に足を洗って反ヤクザの活動家になるか。

 

 話を聞く限り、片山の言う住職は前者に近い背景を持つらしい。

 

「そうでしたか……」

 

「極道になる前の鉄幹を知る数少ない男よ。付き合いの長さなら、あっちが上だぁな」

 

 そこまで話して、片山は次郎に目配せした。これは「酒の準備をしろ」という合図で、次郎が成人してからの七年間に毎週一度の習慣として続けてきたことだった。それも、今回で六年ぶりともなると、感慨も一入だ。

 

「配置は変えてないので?」

 

「おうよ」

 

 手慣れた手付きで隅の棚からグラスを二つ取り出すと、隣の冷蔵庫に手を掛ける。

 

 そこに片山が待ったをかけた。

 

「折角の再開だ。良いモン選びなよぅ」

 

「ご厚意に甘えさせて頂きます」

 

 硬い口調に老人は苦笑を返した。もう二度と会うことのない息子のような男に、その父たる友の面影を見ながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 片山と夜通しの語らいを終えて暫く。次郎は組の人間が眠る墓地や寺を巡り、その最後に養父鉄幹の墓がある滋賀県大津市を訪れていた。

 

 明王院の系列にあたる比良山麓の寺、鉄幹は高橋氏の立派な墓に先祖たちと一緒になって葬られている。

 

「お久しぶりです、親父」

 

 平日の昼間である。周りに人気はなく、ただ優しいそよ風が次郎の頬を撫ぜた。

 

「遅くなって面目次第も御座いません。ですが、最近になってようやっと俺にも決心がつきました」

 

 次郎が日本の地に戻るのは、これが最後である。その決意を告げるべく、ここへやってきた。

 

「世の中は恐ろしいもんで、人にあだなす神秘がいくつもいくつも転がっとります」

 

 竜を斃した後も暫く放浪を続けていた次郎は、その道中に幾度も怪事件に遭遇し、その度に無辜の人々を守るべく尽力を重ねていた。

 

「多分、死ぬまでそういうのを引き寄せることになるでしょう」

 

 確信がある。竜に縁を得た次郎は、闘争に巻き込まれざるを得ない。何故なら、竜とはそういうものだからだ。細かい理屈でなく、そういうものだからそうなるのだ。災禍と闘争の化身とは、つまり竜を指すのだから。

 

「俺は、少なくとも東京を、ここを、燃やしたくはありません。ここは、俺の故郷だから」

 

 今度こそ、高橋次郎は本当に消える。姿を消して、見知らぬ土地を歩き続ける流離いの人となる。少なくとも、そうすれば故郷が燃え散ることはなくなるのだ。胸を離れない寂しさを噛み締めて、孤独な男はそう決めた。

 

「さようなら、親父。俺は、俺の道を行くよ」

 

 決別の時はきっと、もう既に訪れていたのだ。それを、言い訳して遠ざけたつもりになって、今の今まで逃げていた。

 

 本当なら、復讐を成し遂げたあの時に、死ぬか二度と日本の地を訪れないことを定めておくべきだった。もう、高橋次郎は終わっていたのだから、誰でもない男として、去るべきだったというのに。

 

 風が吹く。どこかカラッとした、清涼な風だった。異国へと次郎を誘う、冷たい風だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 墓参りを終えた次郎を、寺の事務所に快く迎え入れた住職は、鉄幹と高橋の家について語ってくれた。

 

「鉄幹は高橋の宗家、その三男坊にあたるお方でした。元々高橋の家は修験者の一族。例に漏れず若き日の鉄幹も仏門の修行に励んでいたのですよ」

 

 高橋氏は比良山系の山々周辺に根を張った修験者たちの末裔であるらしい。若き日の鉄幹は、同じような年頃の修験者たちのまとめ役をしていたという。

 

「かくいう拙僧も鉄幹に付いて回った子分の一人でしてね、懐かしいものです」

 

 春の麗らかな日差しが、住職の柔らかな微笑みを照らす。元極道とは思えない、清らかな心根が透けて見えるようだった。

 

 少年時代の鉄幹との思い出を次々に語る住職は、ひとしきり話したところで少し口をつぐんだ。そうして次郎の顔を見つめると、何かを悟ったように目を細くする。

 

 本当は言うつもりのなかった事ですが。そう前置きをして息を整えた住職は、次郎を手招きして寺の縁側に腰を落とした。次郎もそれに倣って住職の隣に腰掛ける。

 

「鉄幹が二十になった頃、彼が東道会と関わりを持つようになった切っ掛けとなる出来事がありました」

 

 住職は小指が欠けた右手を見つめて、小さくため息をつく。どこか懐かしむように、恐れるように、次郎には厳かな動作に思えた。

 

「まつろわぬ神、という概念があります」

 

 まつろわぬ、神。そう聞いて、まず始めに頭を過ったのは己の出会った英雄たちである。次郎はアキレウスやアーラシュが名の枕詞に用いたその単語に、どこか因縁めいたものを予感する。

 

「神、というのはそのままの意味です。彼らは太古に語られた神話をなぞりながら、しかし自らの在り方に抗い、世に災厄を齎す神秘とされます」

 

 率直に連想したのは、アキレウスの虐殺である。様々な姿の人々が、皆平等に殺し尽くされているさまは、正しく災禍そのものだった。

 

「伝説にある者たちが、形そのままに好き勝手振る舞うものが、まつろわぬ神ということですか」

 

「そうなりますね。彼らは謂わば意思を持った災害なのです。人には抗いようがなく、ただ祈るしかできない領域にある者たち……」

 

 鉄管は、日本を襲ったその内の一柱を退けたのですよ。

 

「勿論、一人ではありません。日本にも様々な神秘組織があります。当時の陰陽寮や正史編纂委員会、神秘世界に関わりを持つ国内の組織が手を取り、全力で動き回った結果です」

 

 住職の欠けた指は、事件の折に失ったものであるらしかった。尤も、この程度で済んだことが幸運なのだとその目が語る。災害とは、いとも簡単に人の命を奪うのだから、と。

 

 時が経ち、箝口令が敷かれ、当時のことを知る者はずいぶん少なくなったという。

 

「だけれども、誰もがその背を覚えています。……少々お待ちなすって下さい」

 

 立ち上がって、住職が真後ろの部屋に襖を開けて入っていった。さして時間をかけずに戻ってきた住職の手には、一振りの短刀が握られている。

 

「この刀を携えて、鉄幹はまつろわぬ神……名も知れぬ赤衣の剣士と切り結び、そして無傷のままに生還したのです」

 

 それが、どれだけの偉業か。同じく人間のままアキレウスと死闘を繰り広げた次郎にすら想像も出来ない。なにせ無傷と来たものだ。弑逆にこそ至らなかったとはいえ、流血一滴許さずに撃退を成し遂げた鉄幹の腕前は、剣神と例えて不足ない。

 

「その時に決戦の場を整えたのが、関東に広い土地を持つ東道会でした。あの頃は三代目の時代でしたねぇ」

 

 友誼を結んだ当時の東道会会長との縁で、諸般の事情により高橋一門の土地から離れる事になった鉄幹は東道会の組員として属することになった。

 

「拙僧は、鉄幹に唯一付き添った監視役でした」

 

 その偉業から、神をすら殺し得ると謳われた鉄幹の腕前を恐れた高橋氏宗家は彼を追放し、故郷の土を踏むことを固く禁じた。鉄幹は嘆くことなく、毅然として処分を受け入れて、新天地東京に腰を落ち着けることとなる。

 

「……十三年後。監視役の任を終えた拙僧は、比良山に戻りました。その頃には鉄幹を追放した老人たちは一門の権威ではなくなり、次代の者たちがまとめ役をしていましたので。鉄幹が故郷に戻るのも遠くはないと思っていたのですが」

 

「親父は、戻らなかったのですか」

 

「やはり分かりますか。鉄幹は許しが出ても、この地に戻ることはありませんでした」

 

 少なくとも、怒りによるものではなかった。推察する住職の言葉は、正しいものだと素直に思った。父は、そういったことにとんと興味がない人柄だったのをよく知っているから。

 

「後のことは、恐らく貴方の方がよく知っていることでしょう。鉄幹は病に倒れ、しかし自然体を崩すことなく正道を行ったのです」

 

 聞けば、住職は鉄幹と文通を続けていたという。鉄幹の病状を知り、この寺の高橋氏の墓に葬るよう取り計らったのは、住職本人だった。

 

 住職は、手の中にある短刀をゆっくりと次郎に差し出した。

 

「この刀は、次郎さんにお渡し致します。鉄幹のことです、どうせ遺品も殆ど遺さずに身辺整理もしてしまっていたでしょう。形見として、お持ちください」

 

 見た目に反してずしりとした重さを持つ短刀を、確りと受け取る。妙に手に馴染むので、次郎は奇妙な感触に首を傾げた。しかし、すぐに気を取り直して住職へ感謝を告げる。

 

「有り難く」

 

 語るだけ語り尽くした住職は、喉を潤すために温かいお茶を沸かすと、思い出したように次郎へ勧めた。

 

「次郎さん。よろしければ、今夜は家に泊まりませんか?」

 

「よろしいんですか」

 

「えぇ、是非泊まっていって下さい。妻も喜ぶでしょう」

 

 一夜、次郎は住職夫妻の歓待を受けて、明け方には霞のようにいなくなっていた。夫妻への感謝を告げる置き手紙を残して、風来坊は日本を去った。

 







 本作は特に描写されることのない裏設定がそれなりに転がっています。例えば次郎の父親は東道会の三代目だったとか、次郎の父鉄幹が、わたしの没作品の主人公だったりとか。そういうわけで、ちょっとばかり高橋鉄幹についてクローズアップ。

 今回の話で鉄幹がスーパー人類だったことが分かりましたが、流石に神殺しですらない人間がまつろわぬ神(赤衣の剣士、元ネタあり)を無傷で撃退とかおかしいやろ、と思われたかもしれません。

 だが待って欲しい。鉄幹は次郎の武術の師匠なのだ(今明かされる衝撃の真実)

 人の身のままアキレウスの剣撃と体術を捌くようなビックリ武術を次郎に授けたのは鉄幹なわけで、実際単なる剣士としては某天眼の剣士並にやべー奴なのだ。要は技量において次郎を完全に上回っているチートマンだった。

 その点次郎は仁義キチの精神的なチートだから、精神が肉体を上回る典型的なスペックブースト型。テクニック特化の鉄幹と強化特化の次郎だと、対応出来る相手に大きな差があるのよね。どっちかといえば次郎のほうが相手できる奴は多いんだけども。

 鉄幹が相手をした赤衣の剣士の権能は、どっちかといえば技量と体術に特化してたので、わざの勝負になった瞬間に鉄幹の負けはなくなってたという。

 これが典型的な災害の化身とか防御系の権能持ちだったら、割となす術なく敗北していた辺り、この人の幸運値は高い。具体的にはB+くらい。短刀も上等な霊剣ってだけだったからね。

 後、そういえば住職がいきなりまつろわぬ神とか正史編纂委員会とかのたまいだしたけど、これは次郎の体に宿る数多の神秘に気がついたから、こういった話に理解があると考えてのことだよ。いきなり何言ってんだこいつとか思ったかもしれないけど、一応そういう理由があるよ。


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