どうにか実力至上主義の教室へ (祭灯キャロット)
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第1巻
001-003 どうにか実力至上主義の教室へ


 001

 

 突然だけど、ちょっとだけ僕の出す問題を真剣に聞いて、答えを考えてみて欲しい。

 

 問・混んでいるバスにベビーカーを押して乗り込むのは良いか悪いか。

 

 出題しといてなんだけど、そんなの『良い』に決まってる。これを『悪い』なんて言う奴は、自分のことしか考えられない心の狭い人間だ。

 別のバスに乗れよとか、抱っこしとけよとか、そう思う人もいるだろう。しかしその父親だか母親だか親戚の誰かさんだかにも、他の人と同じように、そのバスに乗らねばならない理由があるのだ。

 

 弟妹も実子もいない僕には子育ての経験がないから分からないけど、ベビーカーと一緒に混んでいるバスに乗るというのは相当な負担があることだろう。精神的にも、肉体的にも。

 目の前のお母さんもきっと、もっと空いてるバスで行けたらなあとか、他の交通手段が使えたらなあとか、そんなことを考えながら仕方なく満員バスに乗っているんだと思う。

 

 だからさあ、そこの君よ。

 そんな迷惑そうな顔をしてやるなよ。

 

「……はぁ」

 

 あらあら、わざとらしく溜息なんか()いちゃって。

 やめてくれよまったくもう。僕は今、君と同じ制服を着ていることが途轍もなく恥ずかしいよ。溜息を吐きたいのはこっちの方だよ。

 

 そりゃあ邪魔だなって思うのは分かるよ? でもさあ、それを表に出すなよ。内に秘めておけよ。これから日本でトップクラスの高校に通おうって人間が、そんないかにも小人物な姿を見せるんじゃないよ。

 

 不機嫌そうな表情の彼だけでなく、僕は今向かっているその全国屈指の名門校にも幻滅していた。

 

 高度育成高等学校。

 日本政府が主導している、この国の未来を担う若者を育成する学校。

 国が運営しているだけあって潤沢な資金が注ぎ込まれており、とにかく設備が充実しているという話だ。

 

 であるならば。

 であるならば、送迎バスくらい手配しろよ。

 

 この学校では在学中は寮生活を強いられ、外部との接触は原則不可である。つまり新2、3年生は既に十全に設備の整った学校の敷地内にいるわけで、このバスに乗っている臙脂色の制服を着た連中は僕も含め皆1年生である。そして、これが最初で最後の()()()()()()()()()だ。

 そう。このバスの混雑は今日一日、それもこの時間帯だけの()()()()()()()()()なのだ。

 

 で、学校のお偉いさんに聞きたいんだけど、なんで送迎バスがないの?

 

 最寄りの駅や東京駅なんかで生徒をまとめて回収しておけば、市営バスがこんなに混むことはなかった。赤ちゃん連れのお母さんも、もっと落ち着いて座れただろう。

 もしかすると前後の便では、足腰の弱いお婆さんが席に座れなくて困っているなんて事態が発生しているかもしれない。

 春の麗らかな陽気も台無しである。

 

 それを踏まえて先程の問題を繰り返してみよう。

 

 問・混んでいるバスにベビーカーを押して乗り込むのは良いか悪いか。

 

 答・悪くない。今回のケースでは、民間のバスに影響が出ることに考えが至らず、対策を講じなかった学校が悪い。

 

 

 

 002

 

 

 

 高度育成高等学校の入学試験を終えた数日後、僕の下に届いたのは『不合格』の通知だった。

 筆記試験でも面接試験でもそれなりの手応えを感じていたので、これは本当にショックだった。家族にも自信があると告げていたのでその振り幅は大きく、家の中はお通夜みたいな空気になってしまった。

 

 ではそんな僕がどうして今この制服に身を包み、天然石を連結加工した恐らくは日本一立派な校門をくぐっているのか。

 それはカネの力と親のコネを存分に使って――という訳ではない。

 

 なんとびっくり不合格通知から一週間後、合格通知が届いたのだ。

 

 届いたというか電話なんだけどね。

 不合格だったのですが、合格になりました、と。

 

 僕は最初信じられなくて、意味が分からなくて、友人が仕掛けた悪質なドッキリだと思った。

 だからその翌日、すべり止めとして出願していた別の高校の受験に予定通り赴いた。今度こそ合格だろうという確信を持って帰ってみると、家の中は何故か宝くじで7桁当てたみたいなお祝いムードだった。

 

 電話での連絡から一日遅れて、合格通知証が届いたのだ。マジだったのだ。

 同封されていた書類によると、合格が決まっていた他の受験生が諸事情で入学できなくなったそうで、その空いた枠に僕が繰り上がったらしい。

 

 繰り上がり?

 そんなことある?

 

 まあ合格になったというならそれは願ってもない話だ。

 その日は高級な焼肉に連れて行ってもらった。とっても美味しかったです。

 

 しかしそれでハッピーハッピーめでたしめでたし――とはいかなかった。

 

 ちょうど一週間前、今度は制服が届いた。

 心も体も男の僕に、女子の制服が届いた。

 

 はあ?

 

 すぐさま学校に連絡したものの結局男子の制服は間に合わず、なんてこったい今日の僕はスカートを穿いてリボンを結んでの登校だった。

 よく言えば中性的な、悪く言えばどっちつかずな顔立ちのため、そこまで不自然な仕上がりではない。娘も欲しかったと言う母に女物の服を着せられることはよくあったので、抵抗感もそれほどない……少しはある。

 

 とにかく可及的速やかに男子の制服が欲しいんだけど、職員室はどこだろう? 行けば交換してもらえるって聞いていたんだけど……。

 

 始業まで残り10分。

 職員室までスムーズに行って、制服をスムーズに受け取って着替えて、教室までスムーズに行くことができれば余裕で間に合う。

 しかし合格通知や制服の件からも分かるように、僕はいつも()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 例えば友達と待ち合わせをした時。

 寝坊はしない。知っている場所なら迷子にもならない。しかしそれでも何らかのトラブルによって毎回とは言わないまでも、7~8割は計画通りに事が運ばない。

 これについてよく「なんで?」とシンプルに聞かれるのだけど、そんなの僕の方が知りたい。直せるもんなら直してる。

 僕が一番困っているのだ。今この瞬間も、困っているのだ。

 

 また一つ問題を出すので、答えを考えてくれないか?

 

 問・入学初日から遅刻するのと、男子が女子の制服を着て教室に入るの、どちらの方がより印象が悪いか。但し、前者は自分に責任があり、後者は学校に責任があるものとする。

 

 

 

 003

 

 

 

「ここか」

 

 僕は制服を諦めた。

 だってもし職員室が見つからなかったら、女子の制服で遅刻するという最悪の展開になるんだもん。

 

 という訳で合格通知証に記載されていた僕の所属クラス、一年Bクラスの教室へとスカートをひらひらさせてやって来た。

 この時点で始業まで残り5分を切っている。あぶねー。

 

 どうやら座席は決まっているようだ。僕は自分のネームプレートが置かれた席を探す。

 

緒祈(おいのり)……緒祈(おいのり)……」

 

 呟きが完全にやべえ奴だけど、自分の名前なんだから仕方ないだろ。

 というか50音順じゃないのね。探すの面倒くさー。でもまあ既に埋まっている席も多いし、すぐ見つかるか。

 

 3分経過。

 

「ない……」

 

 ない。

 空いている席を一通り見たんだけど、ない。

 もう一周、今度は誰かが間違えて座っている可能性も考えて注意深く捜索したんだけど、ない。

 

 僕の席ねえから!

 

 言ってる場合じゃない。

 

「どうかしたの?」

 

 ひょっとして僕は学校から虐められているのではないかと不安になっていると、ちょっとびっくりするくらい可愛い女の子に声をかけられた。腰まで伸びた赤みを帯びた金髪がベリービューティフォーです。触ってもいい?

 

「いやあ、僕の席が見当たらなくてね」

「それでずっとうろうろしてたんだね!」

 

 そんな元気に言わないでほしい。恥ずかしいから。

 

「一緒に探すよ。名前は?」

「ありがとう。僕は緒祈」

「お祈り? 珍しい苗字だね」

「うん。だから2周もして自分の名前見落とすってことはないと思うんだよね」

「確かに、それもそうだね。教室はあってる? ここBクラスだけど」

「間違いないよ。ほら」

 

 念の為持ってきておいた合格通知証を見せる。

 

「本当だ。てことは学校側のミスかな?」

「多分そうだろうね」

 

 ちなみに僕は顔立ちだけでなく声も中性的というかどっちつかずなもんで、目の前にいるこの女子生徒に多分僕は女子として認識されている。

 一人称が僕だし、よく見れば喉仏とか普通に出てるんだけど、流石に男子が女子の制服着てるとは思わないかな。気付かれても困るけど。

 

「あっ、先生来たし聞いてみたら?」

「そうするよ。心配してくれてありがとね。えっと……」

「まだ名乗ってなかったね。私は一之瀬(いちのせ)帆波(ほなみ)。よろしくね!」

「僕は緒祈(おいのり)真釣(まつり)。よろしくね、一之瀬さん」

 

 苗字の同じ位置に『の』が入ってるなあとか。『帆』も『波』も『釣』に通じるところがあるなあとか。

 そんなことを考えて勝手に親近感を抱きつつ、ほとんどの生徒が着席している中を教室の前のドアへと一人進む。先生が入って来たタイミングで声をかける。

 

「はーい、皆さん席に……どうしました?」

「あの、僕の席がないんですけど」

「君は確か緒祈君……緒祈さん? あれ?」

 

 僕の顔と名前は一致しているようだけど、男子なのに女子の制服を着ているという情報は入っていなかったらしい。

 

「どっちでもいいですけど、緒祈真釣です」

「えっとぉ、緒祈さん。あなたのクラスはここじゃなくて、Dクラスですよ?」

「……え? いや、だってここには――」

 

 もう一度合格通知証を取り出し、先生に見せる。

 

「あれあれ? これ、間違えてますね~」

 

 うっそーん。

 

 この国最高峰の教育機関なんでしょ?

 ちゃんとしてくれよ……。

 

「緒祈さんは隣の隣、サエちゃんのクラスですよ~」

「分かりました。では、失礼します」

 

 ここで愚痴っても仕方ない。さあ教室を出ようとしたところで、ようやく気付いた。

 

 Bクラスの皆様にめっちゃ注目されてる!

 恥ずかしー!

 

 ドアをくぐろうとした瞬間、一之瀬さんと目が合った。あはは。そうだよね、苦笑するしかないよね。

 僕も彼女に苦笑を返して、さっと目を逸らした。

 

 あー!

 恥ずかしー!

 よろしくねとか言ったけど別のクラスだったよ恥ずかしー!

 

 僕至上最速の速足でBクラスを去り、Cクラスを過ぎ、Dクラスに到着した。

 ドアの向こうの教壇には、スーツを着た厳しそうな先生が立っていた。あれがサエちゃん先生だろう。仕事がバリバリできる大人の女性って感じだ。黒のポニーテールが素敵です。触ってもいい?

 

 よし、担任の先生も確認できたし今日はもう帰っちゃおー!

 なんてふざけたことを考えていると、サエちゃん先生の顔がこちらを向いた。

 

「ひっ!」

 

 やっべー、目が合っちゃったよ。鷹みたいな目で睨まれちゃったよ。一之瀬さんとは大違いだよ。これもう逃げられねえよ。

 別に本気で逃げようとしていたわけじゃないけどね。でも逃げたい気持ちは本当だよ。

 

 Bクラスに戻りたーい!

 でもあっちにも僕の居場所はなーい!

 

 あー、やだなー。

 怒られるのやだなー。

 

「し、失礼します」

「さっさと座れ」

「はい……」

「……そこに正座してどうする。席につけと言ったんだ」

 

 曲げた膝を再び伸ばして立ち上がる。

 

 あれ、説教無し?

 でも一応言い訳はしておこう。しれっと減点とかされたくないし。

 

「あの、合格通知証にBクラスって書いてあって、それで……」

「……ふむ。事情は分かったから早く席につけ」

「はい」

 

 もっと何か言われるかと思ったんだけど、随分あっさりとしているなあ。まあいいや。みんなの前で公開処刑されなくてよかったわ。

 

 ん?

 みんなの前?

 

 ……うっわー、また注目されちゃってるよ。

 残念ながら僕は歌って踊れるアイドルでも、容姿端麗な人気俳優でも、億を稼ぐスポーツ選手でもない。そんなに見られても羞恥心しか湧き上がらない。

 

 そそくさと逃げるように唯一空いている席に座る。一番後ろの列の、廊下側から三番目。そこには確かに『緒祈』と書かれたネームプレートがあった。

 

 良かったー!

 これで『田中』とかだったら僕はもうぶっ倒れてましたよ。

 良かった良かった。本当に良かった。

 

 が、しかし。

 結局僕は男なのに女子の制服を身に纏い、入学初日から教室に遅れて入ってくるという中々の問題児になってしまいました。

 

 ヘイ神様!

 ちょいと厳し過ぎやしませんかい?

 

 



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004-006 今日からここで

 004

 

 

 

 この学校にはSシステムという、ちょっと……いや大分変ったシステムが導入されている。

 

 生徒には学生証カードというものが一人一枚発行されており、学校の敷地内ではこれがクレジットカードのように使える。その支払いは日本円ではなく、学校から支給されるポイントを消費する。

 ポイントは毎月一日に自動的に振り込まれるそうで、現在僕の手元には今月支給された10万ポイントが眠っている。1ポイントが1円と等価なので、つまり10万円だ。

 

 わーお! 太っ腹だね!

 

 しかしサエちゃん先生改め茶柱(ちゃばしら)先生は「この学校は実力で生徒を測る」と言っていたので、おそらくこの支給額は成績によって上下するのだろう。僕は繰り上がりで合格したギリギリもギリギリ、崖っぷちの新入生だ。不安は大きい。

 

 Sシステムの説明を終えた茶柱先生が出ていくと、教室には10万ポイント=10万円という大金を手にしてテンション爆上がりの生徒がほとんどだった。服を買いたいとかゲームを買いたいとか、カラオケに行こうとかカフェに行こうとか、今日は学園祭だっけ?ってくらい盛り上がっている。

 しかし中には僕のように今後の高校生活に不安を感じている人や、そのあまりの額に何か裏があるのではないかと勘繰っている様子の人もいた。

 

 ところで入学式までまだ30分以上あるけれど、今は一体何の時間なのだろう? やることがないなら制服取りに行ってもいいかな?

 うーん、でも勝手に教室出るのもなあ。今がそのタイミングなら校内放送で呼び出してくれそうなものだし。入学初日に職員室に呼び出されるってのも、中々恥ずかしいけどね。

 

 そういえば茶柱先生ってえらく縁起のいい名前だけど、その点は僕の緒祈(おいのり)という苗字に近いものがあるね。なんかこう、スピリチュアルな感じが。

 勝手に親近感を感じていると、教室ではいつの間にか自己紹介をする流れになっていた。なるほど、今はそのための時間か。制服は放課後に行くとしよう。今日は入学式だけだし、それならトイレも我慢できるだろう。

 

「じゃあ次は後ろの君、お願いできるかな?」

 

 おっと、僕の番か。

 

緒祈(おいのり)真釣(まつり)です。趣味は……まあ、強いて言えばジグソーパズルですかね。体を動かすのはあまり得意ではありませんが、手先はそこそこ器用です。よろしくお願いします」

 

 ぱちぱちぱちとそれなりの拍手、ありがとうございます。

 悪目立ちすることなく、どうやら上手くできたようだ。これで遅れて入って来たという失点もリカバーできていればいいんだけど。

 

 ……あ、性別のこと言うの忘れてたわ。

 

 

 

 005

 

 

 

 僕は『国を支える』とか『日本を背負う』といった表現があまり好きではない。なんというか今にも崩れそうで潰れそうな、そういうマイナスな印象を受けるのだ。伝わんないかな?

 入学式ではそういうフレーズがちょこちょこ出てきて、あまり楽しくなかった。元より楽しむようなものではないけどね。

 幸いなことに退屈な時間は存外短く、二時間弱で終了した。

 

 それから教室に戻って一通り敷地内の説明を受け、昼前には解散となった。

 

「茶柱先生」

「制服だな?」

「はい」

「職員室にある。付いてこい」

 

 トラブルはもう出尽くしたのか、ここからはスムーズなものだった。迷うことなく(はぐ)れることなく職員室に辿り着き、性別もサイズもぴったりの制服を受け取り、隣接する応接間を特別に使わせてもらってその場で着替えまで完了した。

 

「学校側のミスで迷惑をかけたな。それは持ち帰ってもらって構わない。せめてもの詫びだ」

「ありがとうございます」

 

 お礼を言って職員室をあとにする。

 右手に掲げた紙袋には、先程まで着ていた女子の制服が入っている。思わず受け取っちゃったけど、いや、いらねえよ。なんでせめてもの詫びがこれなんだよ。

 でも一度お礼を言ってしまった以上、わざわざ戻って「やっぱりお返しします」というのも変な感じだ。

 これが実際に女子が着ていたものだったら思春期クラスメイトに高く売れたかもしれないが、袖を通したのは残念ながら僕だけだ。でもまあもしもお金、というかポイントに困ったら、その時は有効活用させてもらうとしよう。

 

 とりあえず今必要なのは将来の万が一に備えた女子の制服ではなく、今日明日を生きるための生活用品だ。

 当初は寮に行く途中で調達する予定だったのだけれど、買い物をする前から予定外の荷物ができてしまった。まずはこれを置いてこよう。

 そう思っていると前方にコンビニを発見した。

 品揃えだけでも先に見ておくか……おや?

 

 店の前で、どこかで見たような茶髪少年がしゃがみこんで、あ、立ち上がった。

 彼は僕と同じ一年Dクラスの生徒で、朝の自己紹介では大トリを務めた人物だ。名前は確か……

 

「やあ、武者小路(むしゃのこうじ)君。こんなところで何をしているんだい?」

「オレは白樺派の文豪ではないんだが」

「あれ? ごめんね。人の名前覚えるの苦手でさ」

「構わない。オレもお前の名前覚えてないからな」

 

 僕の服装にツッコまないってことは、名前どころか顔も覚えてないんだろうなあ。多分、クラスメイトであることを今の会話で察したってレベル。他人にあまり興味がないタイプの人種のようだ。

 でもまあ一応名乗っておくか。ここはそういう流れだろう。

 

緒祈(おいのり)真釣(まつり)だよ。よろしくね」

綾小路(あやのこうじ)清隆(きよたか)だ。よろしく」

 

 ふむふむ。一文字目が糸偏で、あとは『釣』と『清』の相性が悪くないってくらいだね。うーん、覚えられるかな?

 

「それで、綾小路君はコンビニの前で何してたの?」

「ちょっと掃除を」

「へえ」

 

 彼の足元を見ると、アスファルトのある一か所だけが不自然に周りより濃い色になっていた。

 飲み物を(こぼ)したくらいなら放っておくだろう。コンビニにあって、こんなシミができるようなある程度液状のもの……食料品以外をここでぶちまけるとは思えないし、カレーにしては匂いがない。となるとアイスクリームか、あるいはカップ麺とか?

 まあ、なんでもいっか。

 

「綺麗好きなんだね」

「どうだろうな」

「ふうん? そんなことより、寮に行くなら折角だし一緒にどう? 君とは一度話してみたかったんだ」

「……ああ、いいぞ」

 

 なんだろう今の間は。僕の台詞に引っ掛かるところでもあったのかな?

 彼は10万ポイントにはしゃぐことのなかった数少ない一人で、だからこの学校について、そしてSシステムについてどう考えているのか聞いてみたかっただけなんだけど。

 無表情なもんだから、彼が今どういう精神状態なのかさっぱり分からない。ひょっとして迷惑だったかな?

 

 いざ寮へと歩き始めると、意外にも彼の方から質問してきた。

 

「緒祈はどう思う?」

「10万ポイントの話?」

「ああ」

 

 良かった。これで「いや、クラスの女子で誰が一番可愛いと思う?」とか言われたらドン引いてたわ。もちろんそういう話題を出してくれてもいいんだけど、無表情でする話じゃないでしょう?

 興奮気味に「俺は誰々が――」とか言われても、まだ名前覚えてないから分からないんだけどね。

 って、そんなことはどうでもよくて、今はポイントの話だ。

 

「額が大きすぎるよね。10万って。1円玉に換算すると0.1トンだよ? 頑張って節制すればこれだけで半年は生きられそうじゃん」

「……学校は何を考えてるんだろうな」

「さっぱり分からないね。こうやって金をばらまくくらいならもっと入学者を増やすとか、あるいは先生を増やして40人×4クラスを32人×5クラスにするとか、そうした方がいいと思うんだけどなあ」

「確かにな」

「綾小路君はどう考えてるの? 10万ポイントの狙い」

「さっぱり分からないな」

「だよねー」

 

 今はとにかく情報が少なすぎる。学校の意図が分かるとしたら次のポイント支給日である五月一日か、その先の中間試験か、そのあたりだろう。

 

「そういえば、さっきのコンビニには無料の商品もあったぞ」

「無料?」

「ああ。食料品も日用品もあった」

 

 ということは生徒を飢えさせる気はないということで、逆に言うなら無料の品がなければ飢える生徒が出てきてもおかしくないということだ。

 飢える生徒、すなわちポイントの無い生徒。

 

「普段の生活以外で大きくポイントを消費するイベントがあるのか、あるいは普段の生活での支出ペースに支給が間に合わないのか。どっちかな? あるいは、どっちもかな?」

「高校生が普通に暮らして毎月10万で足りないってことはないだろ。後者はないんじゃないのか?」

「……?」

 

 どうしたどうした綾小路君。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 10万ポイントが毎月約束されたものだなんてそんな勘違い、君はしていないだろう? まだ少ししか話してないけど、それくらいはなんとなく分かるよ。

 

 何か目的があって実力を隠しているのかな?

 それともまさか僕を試して――というのは流石に自意識過剰かな。

 

「そうだね。そうかもしれない」

 

 とりあえず今回はスルーしておくとしよう。ちょうど寮にも着いたことだし。

 

 1階のフロントで管理人さんからカードキーと寮生活のマニュアルを貰う。僕は304号室で、綾小路君は401号室だった。

 エレベーターに乗り込んで、わずかな時間だけれどマニュアルに目を通す。

 

「光熱費は学校負担みたいだね」

「至れり尽くせりだな」

 

 パンポーンと愉快な音が鳴って、エレベーターは止まった

 

「じゃあ、また」

「ああ」

 

 綾小路君は最後まで無表情だった。

 僕は一応、最後に少し微笑んでおいた。

 

 一人の帰路ではなかったのであまり意識していなかったけど、今日から僕は一人暮らしをする。卒業まで家族とは一切連絡を取れない。

 寂しい気もするけど、ワクワクもしている。

 

 母上よ。息子は東京の地で強く生きますぞ!

 

 304と記された扉のドアノブの上に、黒い読み取りの機械があった。そこに下で貰った304と記されたこちらも黒色のカードキーをかざす。

 今日からここが僕の――

 

 ビビー!

 

「……ん?」

 

 赤の点灯。試しにドアノブをガチャガチャと捻っても、ドアはがっちりと施錠されている。

 304号室だよね? 扉もキーもそうだよね?

 よし。確認してからもう一度。

 今日からここが僕の――

 

 ビビー!

 

「……嘘やん」

 

 母上よ。息子の天歩艱難(てんぽかんなん)は東京でも健在です。

 

 

 

 006

 

 

 

 1階に戻り事情を説明すると、予備のカードキーを貰えた。もし読み取り機器の方に問題があったら鍵を変えても意味がないんだけど、部屋に戻って試してみると幸いにもあの不愉快な威嚇音は鳴らなかった。

 

 時刻は間もなく午後1時半。

 荷物を置いて買い出しに出かける。

 フロントの前を通るとき管理人さんに「どうだった?」と聞かれたので、愛想笑いと共に「大丈夫でした」と答えておいた。

 

 寮を出て、まずは武者小路……じゃなくて綾小路君と出会ったコンビニに向かう。先程も通った道だけど、逆から辿ると全く別の景色が見られる。ほんの数分歩いて到着。

 

 それほど混んでいない店内を物色していると、すぐに例の物が目に入った。綾小路君が言っていた無料商品だ。食料品も日用品も、まとめて一つのワゴンに入っていた。でかでかと書かれた『無料』の二文字の下には『1か月3点まで』と但し書きがあった。

 

「安いに越したことはないよな……」

 

 まさか毒が入っているなんてことはあるまいし。とりあえずそのワゴンの一番上にあったシャンプーだけ取って、買い物かごに入れた。今回はあくまでお試しなので、無料の品はこれだけで。

 それから食料品とか生活雑貨とか服とか、東京は物価が高いなあと嘆息しながら色々選んで、かごが一杯になったところでレジに持って行った。

 

「253円が1点。495円が1点」

 

 支払いはポイントなのに、そこは円なのね。

 

「99円が3点、1100円が1点」

 

 総計が思ったより大きな数字になってきたけど、初期費用だし東京だし、まあこんなもんだろ。

 次でようやく最後の1点。最初に入れた無料シャンプーだ。

 

 ピッ。

 

「374円が1点。以上で合計――」

「ちょちょちょちょっと待って?」

 

 店員さんはなんだ急にと驚いた顔をしている。

 そりゃそうだろう。僕だって驚いている。

 

「このシャンプー、無料のワゴンから取ったんですけど」

「ええと……確認してきます」

 

 そういって店員さんは売り場の方に消えていった。そして十数秒で戻って来た。2種類のシャンプーボトルを持って戻って来た。

 

「すみませんお客様。こちらは有料のシャンプーでして、無料のシャンプーはこちらになります。ええと……どうなさいます?」

「ちょっと見せてもらえますか?」

「どうぞ」

 

 後ろに並んでいる客はいないし、少しくらい時間をかけても大丈夫だろう。

 無料の方の成分表示や使用法を見るが、おかしな点は見当たらない。

 

「こっちで」

「では、0円が1点となりまして、合計――」

「ちょっと待ってください!」

「え?」

「さっきの有料のシャンプーが計上されたままですよね?」

「ああっ! 大変失礼いたしました!」

 

 なんだかなあ。

 本当、驚くほどスムーズにいかないなあ。

 でも支払いだけはカードをタッチさせるだけなので一瞬で済んだ。文明万歳!

 

 店を出るとちょうど一番暑い時間帯で、春と言うには太陽の自己主張が激しすぎた。

 じんわりと汗がシャツに滲む。顎から(しずく)がしたたり落ちる。両手の袋が指に喰い込む。

 

「これが、東京か……」

 

 母上よ。息子は早くも心が折れてしまいそうです。

 

 



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007-009 水滴

 007

 

 

 

 高校生活二日目。

 寮から学校までのルートは、そんなにパターンがあるわけではない。

 同じ服装の人間が同じ場所を目指して同じような時間に同じ道を歩くので、その様はまるでアリの行軍のようだった。1クラス約40人で、それが1学年に4クラス、そして全部で3学年あるので、これは400を優に超える巨大な群れだ。僕もまた働きアリの一匹としてその群れに混ざり登校する。

 

 学校に着いたアリたちは靴から上履きに履き替え、それぞれの教室に散っていく。僕も一年Dクラスの教室に入る。

 クラスメイトはまだ半分もいなかった。少し早く来すぎたかな? 遅れるよりはいいか。

 

 ネームプレートはもうないけど、昨日と同じ席に座る。一番後ろなので裸眼では少し厳しいんだけど、今日は残念ながら眼鏡を忘れてしまった。授業初日だし、軽いオリエンテーションで終わりだといいな。まあ全く見えないわけでもないし、なんとかなるか。

 

 それに今は見える見えないより、見られていることの方が問題だ。

 

 少しずつ密度が増していく教室のあちこちから、怪訝な視線を向けられている。

 そりゃそうだよね。昨日は女子の制服を着ていた僕が、今朝は男子の制服になってるんだもん。スカートがスラックスになってるんだもん。首元のリボンがネクタイになってるんだもん。そりゃ気になるよね。

 しかも僕は昨日、事情があったとはいえ初日から遅れてしまい少なからず目立ってしまった。その時のイメージが残っている人は、勘違いや気のせいでは済ませてはくれないだろう。

 

 そんなことを考えていると、一人の女子生徒が近付いて来た。

 セミショートの髪は栗きんとんのような甘い色で、彼女を包む柔らかく温かな雰囲気は人懐っこい小型犬を思わせた。昨日の自己紹介で、友達をたくさん作りたいとか言っていた気がする。名前を思い出せないのは親近感が湧かなかったからだろう。流れで連絡先だけは交換していたから、携帯を見れば分かるんだけど。

 

「おはよう! 緒祈(おいのり)くん……だよね?」

「うん。おはよう」

「えっと、変なこと聞いちゃうけど、昨日は緒祈()()じゃなかった?」

「気のせいだよ」

「え、でも」

「気のせいだよ」

 

 正直に話してもいいんだけど、僕はシラを切ることにした。クラスメイトに詳細な事情を教えるのと有耶無耶に濁すのとなら、後者の方がより早く忘れてもらえるんじゃないかと思ったからだ。

 黒歴史と言う程でもないけど、思い出されたり話題にされるのはちょっと遠慮したい。

 

 その社交性とルックスを鑑みるに、目の前の彼女は今後間違いなくクラスの中心的存在となる少女だ。というかもう既になっている可能性もある。

 そんな彼女をここで押しきることができれば、「次は私が聞いてくる!」とか言い出す面倒な人は現れないだろう。「触れられたくないみたいだし放っておこうか」という空気ができれば最高だ。

 だから頼んだぞ名も知らぬ少女よ。気のせいってことで納得してくれ。あるいはそのポーズだけでも見せてくれ。

 

 察してくれ。

 君にはそれができるはずだ。

 

「……そ、そうだよね! 気のせいだよね!」

「うん。気のせい気のせい」

 

 ナイス社交性!

 あるいは洞察力や観察眼かな?

 

「ごめんね、急に」

「いえいえ」

「じゃあ改めてよろしくね、緒祈くん。私は櫛田(くしだ)桔梗(ききょう)って言います」

「緒祈真釣(まつり)です。よろしく」

 

 ……ひょっとして僕が名前を覚えていないことにも気付いていたのかな?

 そんな考えをまあいっかと放り投げ、僕は櫛田さんと握手をした。

 

 握った右手が高級な大福かってくらい柔らかくて、ちょっとドキドキしちゃいました。

 

 

 

 008

 

 

 

 高校生活七日目。

 僕は目の前の光景が信じられなかった。

 

 机に突っ伏して堂々と寝ている彼。隣の席の友達とぺちゃくちゃ雑談している彼女たち。机の下で携帯ゲーム機をぴこぴこやっている彼。

 

 ここが休み時間の教室だと言うなら何の問題も無いけれど、今はどんな屁理屈を()ね繰り回したところで間違いなく授業中なのだ。高度育成高等学校という指折りの進学校の、授業中の教室なのだ。

 だというのに――なんだこの醜態は。先生の話を真面目に聞いている生徒は7割程度だ。過半数だからオッケーとか、そんな話じゃない。

 

 僕は本来ならこの場にいない人間だ。入試の結果は不合格で、顔も名前も分からない誰かさんが何らかの事情で入学できなくなったから、その棚から落ちてきた牡丹餅を奇跡的に(くわ)えたことでここに座っている。

 つまり僕はこの教室どころか学年全体で、最も入試の成績が悪かったのだ。周りはみんな僕より優秀な生徒なのだ。そのはずなのだ。

 それなのに――なんだこの醜態は。これでは授業に付いて行けるか心配で、かなり先の範囲まで予習してきた僕が馬鹿みたいではないか。

 

 天才様は授業なんか聞かなくても点数取れるってか?

 授業態度でびしびし減点されて退学になってしまえ!

 

 そう声に出して言えたのならこのストレスもいくらか軽減されるのだろうけど、残念ながら僕にそこまでの度胸はなかった。

 

 あーあ、やってらんないね。

 こいつら本当に僕より頭良いの?

 

 まあいいや。流石に退学とまではいかなくとも、彼らの来月の支給ポイントは大きく減らされることだろう。はっはっはっ。ざまーみろ。

 近い未来にこの教室を飛び交うであろう阿鼻叫喚を想像して、一度心を落ち着かせる。

 

 授業のレベルは今のところ大丈夫だけど、油断は禁物だ。改めて教壇の方に集中する。今は一年Aクラスの担任、真嶋(ましま)先生による英語の時間だ。

 

 真嶋先生をはじめ、どの先生も授業態度の悪い生徒に注意することはない。それがこの学校の教育姿勢なのだろう。

 そして授業態度の悪い生徒を記録している様子もない。まさか何の罰も無いとは思えないので、頭の中にメモしているのだろう。この学校の先生ならそれくらい朝飯前のはずだ。

 

 やがて授業が終わり、昼休みとなった。

 登校中にコンビニで買ったパンをがそごそと取り出していると、湖だったか沼だったか、なんかそんな感じの名前の男子が雄叫びを上げた。

 

「うおー!」

 

 昼休みが終われば5限目は水泳の授業だ。女子の水着がーおっぱいがーと朝から騒がしかったけど、その時がいよいよ目と鼻の先にまで迫り、益々テンションが上がっているようだ。

 

「うるせーぞ(いけ)!」

 

 ああ、それそれ。彼は湖君でも沼君でもなく池君だ。

 Dクラスのお調子者だが、決してムードメーカーではないと思う。ムードメーカーを名乗るなら授業中にはくっちゃべってないで、静かで緊張感のあるムードをメイクしてほしい。

 いや、池君がムードメーカーを自称してるかは知らないけどね。

 

 ちなみに言っておくと池君のことは苦手だけれど、水泳の授業を前に気持ちが(たかぶ)っていることに関してはある程度理解を示せる。僕もそれに近いものを感じているから。

 

 (もっと)も僕の場合は女子の胸とかスク水とかはどうでもよくて、それよりも授業が終わった後、(うっす)らと湿り気を帯びた長い髪を見るのが楽しみで楽しみでうへへへへへへ。

 

 ……なんてね。冗談だよ?

 

 

 

 009

 

 

 

 昼休みが終わり、一部男子連中が待ちに待ったプールの時間がやって来た。

 

 さっきまであんなにはしゃいでいた池君たちが、(かんざし)みたいな名前の小型犬的少女を前にした瞬間あわあわと狼狽(うろた)えていて面白かった。

 意識しなくても聞こえてくる会話によると、どうやら少女の名前は櫛田というらしい。あーね、聞いたことあるわ。

 

 予想通りクラスの中心的存在となった彼女は誰とでも明るく話しており、男女問わず人気が高い。ムードメーカーの称号は彼女にこそ相応しいだろう。

 「櫛田ちゃんと付き合いてー!」という声をよく耳にするけど――耳にするなら名前を覚えろよというツッコみは受け付けない――僕としてはもう少し髪に長さがほしい。胸元にかかるくらいまで伸ばしてくれれば僕も彼女のファンになるだろうし、名前も覚える。

 

 いや、僕の性癖はどうでもよくて、そんなことより水泳だ。

 

 準備体操を終えて一人一本ずつ50Mを泳いだところで、先生が恐ろしいことを言い出した。

 

「これから競争してもらう。一位には5000ポイント、一番遅かった奴は補習な」

 

 おいおい嘘だろやめてくれよ。どうせ誰も覚えてないだろうけど、自己紹介で言った通り僕は体を動かすのが得意ではない。50M足をつかずに泳ぎきるくらいはできるが、スピードは全く出せない。

 5000ポイントがどうとかこうとか考えている余裕はない。

 

 ちくしょう!

 こんなことなら十何人もいる見学組に混ざればよかった!

 

 全然泳げないという訳ではないので棄権もできない。このタイミングで体調不良を訴えても、先生が良い顔をするはずがない。溺れた振りでもするか? いや、その場合問答無用で補習直行のケースも考えられる。

 

 うーわ、マジで嫌なんだけど。

 

 苦悶苦悶しているといつの間にか女子のレースが終わっていて、僕が入れられた男子第三組の番がもうすぐそこまで迫っていた。

 

 男子第一組。

 誰が5000ポイント取るかなんてどうでもいい僕は、組の中で一番遅い生徒だけに注目していた。

 あのスピードは……どうなんだ?

 自分自身の泳速を把握していないので、いくら注意して見たところで彼に勝てるのか負けるのか分からない。フォームが滅茶苦茶なのであれなら勝てそうと一瞬思うけれど、負けたら補習というプレッシャーできっと僕も同じように、見るに堪えない泳法を披露してしまうだろう。

 

 まだ補習が決まったわけでもないのにがっくり肩を落としていると、上から声が降って来た。

 

「緒祈くん、大丈夫?」

「ありがとう櫛田さん。大丈夫だよ。ちょっと緊張してるだけだから」

「それなら泳ぐ前に深呼吸するといいよ! 気持ちも落ち着くし、息継ぎもスムーズにできるよ!」

「おっけー、試してみるよ」

 

 男子第二組はいつの間にか終わっていた。櫛田さんと話していた所為か池君他数名がこちらを睨んでいたけれど、それは無視してスタート台に向かう。

 

 現在の暫定最下位のタイムは44秒。

 行けるか? いや、行くしかない。

 

「位置について」

 

 深く息を吸って、大きく息を吐く。

 

「よーい」

 

 もう一度吸って――

 

 ピッ!(どん!)

 

 くぁwせdrftgyふじこlp

 

 ぐばぐばぐばぐば

 

 ごぼごぼごぼごぼ

 

 じゃばじゃばじゃばあ!

 

「ぷはっ!」

 

 指先が水でも空気でもない確かな形を持った物に触れた。

 

 一心不乱に我武者羅に、全身全霊の猪突猛進で泳ぎきった。

 

 横を見れば、この組では明らかに僕が最下位だった。

 

 タイムやいかに!

 

「む、むむ?」

 

 補習にせよ逃れたにせよ焦らさずとっとと発表してほしいのだけれど、先生はなぜかストップウォッチとのにらめっこに興じていた。

 

「あの、先生?」

「すまん。どうやら壊れてしまったらしい」

「え……?」

 

 このタイミングで?

 おいおい補習はどうなるんだ?

 タイムはどうあれ遅かったのは間違いないし――とか言わないよね? ね?

 

「うーん、どうするかなあ」

 

 悩むくらいなら中止にしようぜ!

 先生だって面倒でしょ? ね?

 

「タイムが分からず正確な順位が決められない以上、最下位を選ぶことも出来ないな。今回に限っては特別に、補習は無しにするか」

 

 ナイッスー!

 先生大好き愛してるぅー!

 

 その後、新しいストップウォッチで行われた決勝戦では鹿苑寺君だか慈照寺君だか、なんかそんな感じの名前の金髪君が勝利を収めて5000ポイントを獲得した。おめでとうございます。

 

 そしてここからが本日のメインイベント!

 

 授業の終わりも近付き、「整理運動するぞ」という先生の言葉で今日はもうプールには入らないことが生徒に伝わった。

 

 これでようやく!

 ようやく!

 

 無粋なスイミングキャップに隠れていた艶やかな御髪が、遂にその姿を現した!

 弾ける水滴! ああ! 眼福!

 

 It’s a MARVELOUS SIGHT!!!

 

 僕は今、この学校に来て一番の興奮と感動を味わっている!

 

 特に堀北さんの黒髪!

 山水画のような柔らかな黒色のロングヘアーは、どうしてまだ世界遺産に登録されていないのか不思議なくらいだ。ユネスコは何をやっているんだ?

 もし彼女とお付き合いできたなら、是非ともその至宝に触らせていただきたい。いや、お付き合いとかどうでもいいので髪だけ触らせてください! 僕の指で()かしてみたいんです! お願いします!

 

 そして軽井沢さんの茅色も捨てがたい。

 普段は後ろで纏めてポニーテールにしているけれど、それが今は重力の為すがままに下ろされている。ギャップ最高!

 最近あまり聞かなくなったけど言わせてもらうよ?

 萌えー!

 ギャップ萌えー!

 一回でいいから触らせてー!

 

 あと今日は見学してるけど、佐倉さんの髪も大好きです。

 その鴇色が水に濡れるところを見たかったのだけれど、うーん、残念! でも別に濡れてようが乾いてようがどっちでもいいので、とりあえず一回触らせてくれませんか?

 

 それから別のクラスなんだけど、入学初日に会ったBクラスの一之瀬さんも良い髪してたよね。来週はBとD合同でやろうよ。プールじゃなくてもいいよ。普段は下ろしている髪を運動するときだけ纏めるってのも、僕大好きだから!

 ああ! 想像しただけで興奮してきた!

 触らせてくれ!

 

 あとねーあとねー、担任の茶柱先生の黒髪も良いのよ。黒は黒でも堀北さんとは違って鴉のような鋭い黒なんだけど、あれは今まで見た中で一番かっこいい髪ですわ。テストで良い点とったらご褒美で触らせてくれたりしないかなー!

 

 ……。

 …………。

 ………………な、なーんてね。冗談だよ?

 

 そんなことよりあれだよあれ。

 ストップウォッチが壊れたやつ。

 

 あれはどうにもスムーズにいかないという僕の()()()()()()だろうか? それとも最初から補習をするつもりはなくて、あれは最下位を有耶無耶するために予め描かれていたシナリオだったのだろうか?

 先生に直接聞いたところで答えてくれるかは怪しいし、知ったところで特に何かがどうにかなるわけでもない。

 

 真相は髪の中――あいや、藪の中だ。

 

 

 

 



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010-012 山菜記念日

 010

 

 

 

 普段の僕は登校中に買っておいたパンを昼食にしているのだけれど、今日は学食という施設に初めて足を運んでみようと思う。

 

 学校が始まってもう一週間以上経過したけど、恥ずかしながら僕にはお昼を一緒に過ごすような友人はいなかった。

 というのも入学初日だけ女子の制服で、二日目以降何事もなかったかのように男子の制服を着て授業を受けている僕は、どうもクラスメイトたちにヤバい奴認定されているようなのだ。

 

 クラスの中心である櫛田(くしだ)さんに表面上だけでも「気のせいだった」と認めさせたことで、制服の件を聞いてくる人は狙い通り一人もいなかった。

 しかしどうやら効果が強すぎたようで、制服の件を抜きにしても僕に話しかけてくれる人がいなくなった。

 クラスのアイドル櫛田ちゃんとクラスのイケメン平……平……平塚(ひらつか)君?だけが、たまーに気遣うように声をかけてくれる。優しさが心に沁みるぜ。

 

 とまあそんな感じで。

 腫れ物扱いというよりは学園の七不思議みたいな扱いの孤独な僕は、複数人で行く場所というイメージのある学食には行ったことがなかった。教室で独り、もそもそとパンを齧っていた。

 それを寂しいと思ったことはない。こちらから声をかけようとも思わない。自然な流れで友達ができればそれでいいし、できないならそれはそれで構わない。中学時代もそういうスタンスで過ごしていた。

 

 話が逸れたな。

 

 一人ぼっちの僕がどうして急に学食に行こうと思い立ったのか。それは昨日、とある噂を聞いたからだ。なんでも食堂には無料のメニューがあるらしいのだ。もちろん値段相応の味なのだろうけれど、普通に食べられるレベルならそれでいいじゃないか。安いに越したことはないんだから。

 コンビニで買った無料のシャンプーは、他人の髪には興味があっても自分の髪には無頓着な僕にとってはそんなに気にならない安っぽさだった。だから多分、大丈夫だろう。別に美食家でもないんだし。

 

 というわけでやって来ました! 学食!

 券売機へと続く行列はこの時間なのでそりゃあ長かったけれど、学生証での支払いには小銭を出したりお釣りを取ったりといった行為がないため、ほとんど止まることなくぐんぐんと進んで行った。

 

 そうして1分も待たずに僕の番が来た。どうせ下の方だろうと視線を落とすと、やはりあった。40近くあるメニューの一番右下に『山菜定食 0pt』と書かれたボタンがあった。0ポイントなのに定食なのか。意外と豪華だな。あそーれぽちっとな。

 前の人はメニューを選んだあと学生証をかざすことで食券を得ていたが、山菜定食は選んだ時点で出てきた。スピーディーでいいと思います。

 

 定食全般の受け取り口で食券を渡すと、トレイの上に湯気の立っていないご飯とみそ汁、そして水洗いしただけにしか見えない山菜の計3皿が乗せられた。

 わーお、こんなに食欲をそそられない定食は初めて見たぜ。

 

 流石は0ポイントだと感心しつつ空いている席を探す。誰もいない6人席に一人で座るのはちょっとなあ……おや?

 

 どこかで見たような茶髪少年を発見した。見たところ一人のようだし、ちょうどその向かいが空いている。よし、あそこにしよう。

 近付いていくと彼も僕に気付いて顔を上げた。

 

「やあ袋小路(ふくろこうじ)君。ここ、いいかな?」

「構わないが、え、オレってそんなに行き詰まってるように見える?」

「あれ? ごめんね。人の名前覚えるの苦手でさ」

「オレはもう覚えたぞ。お前の名前」

 

 彼とはたまに挨拶を交わすくらいで、こうしてちゃんと話すのは入学初日以来のことだった。相変わらず表情の動かない人だなあ。

 

「君の髪がその3倍くらいあれば覚えられるんだけどね」

「……は?」

「なんでもないよ。で、名前なんだっけ?」

綾小路(あやのこうじ)だ」

「あー、それそれ。毎度悪いね」

 

 そういえば一文字目が糸偏だって記憶してたね。忘れてたけど。

 

「……」

 

 綾小路君が急に黙り込んで箸も止めてしまった。もしかして怒らせちゃったかな?

 不安になって彼の顔を覗き込むと、ああ、なるほど。その視線は僕のトレイに注がれていた。

 

「綾小路君はこれ、食べたことある?」

「いや、見るのも初めてだ。もうポイントが無いのか?」

「まさか。ただのお試しだよ」

 

 いただきますをして、まずはみそ汁を……器に触れただけで内容物の(ぬる)さが伝わってきた。持ったら分かる、温いやつやん!

 

 覚悟を決めて口元に運び、傾ける。

 ……うん。飲んだら分かる、薄いやつやん!

 

「そんなに不味いのか?」

 

 どうやら僕の表情は『そんなに』と言われるほど歪んでいたらしい。

 

「不味いというよりは……不快?」

「みそ汁の感想とは思えないな」

 

 そうだよね。僕もこれがみそ汁とは思えないよ。

 

 続いて白米の茶碗を持ち上げるが、これは陶器のせいか(ぬる)いと言うよりもはや冷たい。米粒は見るからに水分が飛んでいる。これ、いつ炊いたご飯?

 箸で掬って恐る恐る口に入れる。

 ……うん。これはもうシンプルに不味い。目の前で生姜焼き定食を食べている綾小路君の眼球に右手の箸を突き立てたくなるほど不味い。

 

「オレを睨むなよ……」

「ごめんごめん」

 

 続いてこの定食の主人公、山菜の登場だ。

 ゴマの一粒も和えられず、調味料の香りも全くない。これぞ山菜の基本形みたいな山菜だった。でもこのトレイの上では一番美味しそうに見える料理(?)だ。みそ汁とご飯が存分に下げてくれたハードルを是非とも飛び越えてほしい。

 果たして。

 

「……お?」

「どうした」

「普通に食べられる」

「えぇ……」

 

 あれ、引かれちゃった?

 でも本当に、全然まったくこれっぽっちも美味しくはないけれど、前の二品に比べれば普通に食べられるのだ。

 「一口どうだい?」と彼の方にトレイを近づけたけれど、「遠慮しとく」と押し返されてしまった。

 

「というかそれ、醤油か何かかけて食べるものじゃないのか?」

「え?」

「あっちに色々と置いてあるだろ」

 

 指された方向に視線を向けると、調味料やらドレッシングやらがワゴンの上に並んでいた。なるほど、茎と葉の味をそのまま味わう皿ではなかったか。

 

「ちょっと行ってくる」

「ああ」

 

 山菜だけ持って調味料&ドレッシングコーナーへ行き、たらーんたらーんと醤油を2周垂らした。

 

 ……んん? 特におかしなことはしていないはずなんだけど、やけに周囲から視線を感じる。山菜を持っているからかな?

 そうだよね。これはポイントが枯渇した生徒への救済措置だもんね。月の上旬に見かけるようなものではないよね。

 

緒祈(おいのり)ちゃん……? あれ? 緒祈、くん?」

 

 醤油ボトルのキャップを閉める際に右手が少し汚れてしまった。それを一緒に置いてあったティッシュで拭いていると、後ろから疑問符満載で名前を呼ばれた。

 誰だろうとか考えずにくるりと振り向くとそこにはちょっとびっくりするくらい可愛い女の子がいたので、僕はちょっとびっくりしてしまった。

 このストロベリーブロンドには見覚えがある。

 

「こんにちは一之瀬(いちのせ)さん。ちゃんでもくんでも、好きに呼んでくれて構わないよ」

「あ、うん。え、いや、ちょっと待って!」

 

 一之瀬さんの後ろには5人のお友達がいらっしゃったけど、彼女たちも僕の方を何が何だかよく分からないという目で見ていた。僕をというか、僕の服装を。

 おそらくみなさんBクラスの生徒で、初日の僕を見た人達だ。教室を間違えるなんて中々ないハプニングだからまだ記憶に残っているのだろう。忘れてくれていいのに。

 

「緒祈くんって、女の子の制服着てなかったっけ?」

「んー、そうだね」

 

 櫛田さんにしたように無理矢理気のせいってことで納得してもらおうかとも思ったけど、やめた。この場でそれをやっても大した意味はないだろう。

 それに相手は「ノーベル美髪賞を5年連続で受賞して殿堂入りしちゃいました!」とか言い出しても全然嘘に聞こえない一之瀬さんだ。正直に話す以外の選択肢があるだろうか。いや、ない。

 

 まあそれを言うなら初めて会った日、彼女の勘違いを訂正しなかった僕には正直さの欠片もなかったけれど、それはどうか許してほしい。あれやこれやで平常心ではなかったのだ。

 今からちゃんと訂正するから、ね?

 

「ちょっとトラブルがあって、女子の制服が届いちゃったんだよね。それであの日は仕方なくあの格好だったんだ。騙すようなことしちゃってごめんね?」

「そっかそっか! そんな事情があったんだね」

 

 よし。好感度が下がった様子はなさそうだ。

 というか疑う素振りが全然ない。髪だけでなく心もめっちゃ綺麗な人だった。

 

「あ、もしかしてそれで?」

「うん?」

「男子の制服買うのにポイント使っちゃったから?」

 

 何のことかと思えば一之瀬さんは僕の手元、醤油をかけられたことで見た目レベルが2上昇した山菜たちを見ていた。なるほど、また勘違いされちゃったのか。

 

「いやいや、制服は普通に学校から貰ったよ。山菜定食(これ)はまあ実験というか冒険かな。どんな味なんだろうっていう好奇心の発露だよ」

「へえ、なるほどねー」

「一口いる?」

「い、いや。今はお腹いっぱいだし、うん。大丈夫」

 

 綾小路君に続いて一之瀬さんにも断られてしまった。まあ、お腹がいっぱいなら仕方ないね。

 

 「私は大丈夫」と君が言ったから4月10日は山菜記念日。

 

 ……嫌な記念日ができてしまった。

 

「あっ、ご飯まだなのに邪魔しちゃってごめんね?」

「ううん、気にしないで」

 

 ご飯にもみそ汁にも冷めて困るほどの温かさは元からなかったし、山菜は最初からもうこれ以上冷めようもないほど常温だった。これ食品衛生法は守られてるの?って不安になるレベル。

 

「そうだ! 折角だし連絡先交換しようよ!」

「え、いいの?」

「もちろんっ。何か困ったことがあったら相談してよ。出来る限り力になるから」

 

 僕がいずれ困ることを確信しているような言い方だった。

 まあ一之瀬さんには大きめのトラブルを2個(制服とクラス配属)も見られているからね。そのうちまた何かあるだろうと思われるのも納得である。

 僕は苦笑いしながら携帯を取り出して、櫛田さんに続いて女子二人目の連絡先をゲットした。女子では二人目だけど、男女を合わせてもやっぱり二人目だった。

 

 それから一之瀬さんたちBクラス六人衆と別れて席に戻ると、綾小路君は既に生姜焼き定食を食べ終えていた。

 

「遅かったな」

「ごめんごめん。知り合いにばったり会ってね」

「オレは別に気にしないが、飯が冷めるぞ?」

「大丈夫。五十歩百歩だから」

「それは大丈夫とは言えないだろ……」

 

 確かにあまり大丈夫ではないかもしれない。

 しかし無料とはいえ自分で選んだ料理だ。きちんと食べきらなきゃいかんよな。綾小路君との雑談も挟みつつ、なんとか山菜定食を完食した。

 

 食べなきゃ死ぬと思えば余裕で食べられるくらい美味しかった。

 

「ごちそうさまでした」

「お疲れさま」

 

 中々できない経験ではなかろうか。フードファイターでもないのにご飯を食べただけで労われるというのは。

 

 それにしても意外だったのは、綾小路君が最後まで付き合ってくれたことだ。自分の食事が終わればそそくさと帰ってしまうタイプだと思っていたのだけれど、これは認識を改める必要がある。

 

「ねえ綾小路君」

「どうした緒祈」

「連絡先交換しようよ」

「お、おう」

 

 驚かれちゃったんだけど、そんなに変なタイミングだったかな?

 拒否されなかったからいっか。

 

 男子の連絡先第一号、ゲットです!

 

 

 

 011

 

 

 

 時刻は間もなく夜の11時になろうとしていた。

 今日の授業の復習が一通り終わったので、椅子から立ち上がりベッドにダイブする。

 

「んあー?」

 

 枕元に置いていた携帯が緑色の点滅を見せていたので何だろうと手に取ると、一之瀬さんからメールが届いていた。内容は初めてのメールということでその挨拶と、山菜定食の感想を聞かせてほしいとのことだった。

 

 感想かあ。

 長々と書いても引かれるだろうし、かといってシンプルに一言でというのも味気ない気がする。思えば同世代の異性にメールを送るのはこれが初めてかもしれない。

 どうしたものかとしばらく悩んで、結局『不味い』の3文字で済む情報を2文くらいに引き伸ばして、なんかそれっぽい感じにして返信した。

 

「あー」

 

 今日の昼休みのことを思い返すと、自然と眉間に皺が寄る。山菜定食の味を思い出したのではない。そういう次元の話ではない。

 僕の顔を歪めるのはもっと高い次元の話であり、正しく言うならその()()()()()()()()()()()という話だ。

 

 分かりにくいからはっきり言おう。

 今日の昼休みは、この僕にしてはあまりにもスムーズだったのだ。

 

 まず学食にすんなりと行けた。

 今まで行ったことのない場所なのに、道に迷うことも道を間違えることもなかった。

 

 次に食券があっさりと入手できた。

 僕の番で急に券売機が壊れるなんてことはなく、指定したメニューの食券が、指定した枚数出てきた。

 

 山菜定食も普通に受け取ることができた。

 僕が行く直前で品切れになるということも、受け取るときにみそ汁を溢しちゃったなんてこともなかった。

 

 席を探せばすぐに見つかった。

 僕が近付いた瞬間にその席が埋まったり、座ろうとした椅子やテーブルが酷く汚れていたなんてこともなかった。

 

 もちろん僕の365日が24時間トラブル続きということはない。何事もなくストレスフリーな一日を過ごすことだってある。しかし何故だろう、今日のことはものすごく引っ掛かる。

 何かが起きる余地はそこら中にあったのに、それらが全てスルーされたという不気味さ。

 

 例えば都心の一般道を五時間も走ったのに一度も赤信号に出会わなかったら、ラッキーと思うよりもまず不気味だと感じないだろうか? 都合が良すぎて怖いと感じないだろうか? 僕のこれは、多分そういう感覚だ。

 

 嵐の前の静けさなのだろうか。

 近いうちにとんでもなく()()()()()()が起きるんじゃないか。

 

 一度姿を現した不吉な予感は中々消えてくれなくて、僕の入眠を音もなく妨げた。

 

 

 

 012

 

 

 

 山菜記念日から二週間ほど経ったある日のこと。

 

「月末だからな。小テストを行うことになった」

 

 3時間目の日本史の授業で、我らがDクラス担任の茶柱(ちゃばしら)先生はいくらか尖った声でそう言った。おかげでクラスの雰囲気もいつもより多少緊張感のあるものになる。

 それにしても「行うことになった」とは、これは中々おかしな言い方だ。それじゃあまるで急遽決まったみたいじゃないか。そんな突発的な試験が、よりによってこの学校で行われるとは思えない。

 

 先生は「月末だから」と言った。それはつまりもうすぐ月が変わるということで、一日(ついたち)が来るということで、すなわちポイントの支給日が近いということだ。おそらくこの小テストの成績によって来月の支給額が――

 

「今回のテストはあくまでも今後の参考用だ。成績表には反映されることはない。ノーリスクだから安心しろ」

 

 あれ? 関係ないの?

 成績表『には』という表現が気になるところだけれど、しかしノーリスクというからには今回の結果如何(いかん)で支給ポイントが減るということは少なくともないはずだ。

 んん? じゃあ何のための試験だ? 何の参考にする試験なんだ?

 

「後ろまで回ったか? よし。では、始め!」

 

 まあいい。学校側の思惑はなんであれ、僕の全力を尽くすことに変わりはない。真面目に授業を受けてない連中なんかに負けるもんか!

 

 ――と意気込んではみたものの、問題は拍子抜けするほど簡単だった。

 

 なんだこれ。こんなのケアレスミスさえなければ全員が満点だろうよ。馬鹿にしてる?

 

 いや、ちょっと待てよ?

 まさか僕の問題用紙だけみんなと違うなんてことは……ないよね? 問題用紙と解答用紙は別々だから、もし違うのは問題だけで解答用紙は同じだったりすると後での弁明は難しいぞ? 

 

 いやいや、もうちょっと待てよ?

 みんなと同じだろうが違っていようがこの問題用紙は先生から、学校から配布されたものだ。つまり生徒を舐めきったこの問題用紙は、間違いなく学校が作成したものなのだ。

 そして今やっているのは入学してから初めてのテスト――すなわちこの学校で行われるテストの中で最もレベルの低いテストということだ。よしよし見えてきたぞ?

 

 つまりはこういうことだ。

 この問題用紙は学校が作成したものでり、今回のテストはこの学校で最も簡単なテストであり、使用しない問題用紙を学校が作成する理由はない。よって滅茶苦茶簡単なこの問題は、今回のテストのもので間違いない。はい、Q.E.D.

 

 いやはや。まさかテストの問題より、問題用紙そのものに無駄に頭を悩ませるとは。間抜けというか滑稽というか。しかし最大の問題は解決したので後は楽勝だ。残りの3問もちゃちゃっと――

 

 むむむ?

 

 なんだこの問題は。明らかに高校一年生が4月に解けるレベルじゃないだろ!

 これ作った人は馬鹿なのかな? この最後の3問の難しさを前の17問に均等に配分すれば、ちょうど良い難易度の20問ができただろうよ。

 

 ちっくしょう。英語と古文はお手上げだな。全く知らない単語が多すぎる。いけるとしたら数学か。持ってる知識でどうにかできればいいんだけど。

 成績のことやポイントのことは一旦忘れて、僕はテスト時間の半分以上を最後の数学の問題に充てた。

 

 授業終了のチャイムと共に茶柱先生の「そこまで!」が聞こえた。

 

 一応解を出すには出せたけど、見直しをする時間はなかった。

 あとは祈るばかりである。緒祈(おいのり)だけに。なんつって。

 

 

 

 



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013-014 シネマガーデン

 013

 

 

 

 何が目的なんだかさっぱり分からない不可解な小テストから3日が過ぎた。

 5月がもうすぐそこまで迫り、今日は4月最後の土曜日だ。

 

 学校がない日の僕は、基本的には『寮にいる僕』『目的もなくふらふら散策している僕』『生活に必要な物を買いに出ている僕』の三種の僕で構成されている。しかし今日の僕は珍しく、この中のどれでもない僕だった。

 

 友達と遊びに行く僕?――Non-Non.

 今の僕にとって友達と呼べそうな存在は綾小路(あやのこうじ)君だけで、彼とは山菜記念日以降数回お昼を一緒にしたけれど、残念ながら休日に約束をするほどの仲ではない。

 

 彼女とデートする僕?――HAHAHA!

 友達すら一人しかいない僕に彼女がいるとでも? 面白い冗談だ。

 

 正解は何の面白みも無くて恐縮なんだけど、『生活に必要というわけでもない物を買いに行く僕』だ。要するに娯楽品を買いに出ているのだ。

 ポイントはいつどこで必要になるか分からないから出来るだけ貯めておくというのが僕の基本方針なんだけど、今回はちょっと特別だ。

 

 きっかけは一昨昨日(さきおととい)の小テスト。悩みに悩んだ数学の問題を参考書やインターネットを使って改めて解いてみたところ、本番での解答が正解だったことが判明した。やるじゃん僕!

 そんな自分へのご褒美になら少しくらいポイントを使ってもいいよね? というわけで僕は朝から家電量販店を目指していた。あそこは家電以外にも色々売ってある。

 

 普段はあまり近付かないショッピングエリアに入ったところで、どこかで見たような見てないような、青みがかった黒髪の少年を発見した。向こうも僕に気付いた。目が合うと彼の方から近付いてきたので、やはりどこかで会っているらしい。クラスメイトかな?

 

「奇遇だな、こんなところで」

「そうだね。こんにちは」

「ああ。こんにちは」

「……」

「……そういえばまだ名乗っていなかったな。俺はBクラスの神崎(かんざき)だ」

「ああ、食堂で一之瀬(いちのせ)さんと一緒にいた人か。僕はDクラスの緒祈(おいのり)真釣(まつり)だよ。神崎君、できれば下の名前も教えてもらえるかな?」

隆二(りゅうじ)だ。神崎隆二」

 

 なるほどなるほど。『神』の一文字は強いね。『おいのり』とも『まつり』とも結びつく。ただ、他はちょっと弱いかな。すぐには覚えられなさそうだ。

 それにしてもBクラスか……ふふふ。

 

「それじゃあ神崎君。ここで会ったのも何かの縁だし、連絡先交換しない?」

「あ、ああ。それは構わないが」

「んん? 迷惑だったら全然断ってくれてもいいんだよ?」

「いや、迷惑ではない。ただ前に食堂で見たときは、そこまで積極的なタイプには見えなかったのでな。少し驚いた」

「ああ、そゆことね」

 

 確かに少し前までの僕なら多少の雑談はすれど、連絡先までは求めなかっただろう。他クラスの生徒とのコネクションはそれほど重視していなかった。

 しかし今は違う。彼と仲良くなっておきたい理由ができたというか――

 

「色々と思うところがあってね」

「ふむ、そうか」

「うん」

 

 自然な流れで友達ができればそれでいいし、できないならそれはそれで構わない――というのが中学時代からの僕のスタンスだったのだけれど、それをこの学校で貫くことは危険かもしれないとここ数日で感じていた。

 

 これもきっかけはやはりあの小テストだ。

 終了直後の休み時間、僕は衝撃的な会話を耳にしてしまった。

 

「ちょームズかったわ! あたし半分も取れてないかも」

「だよねー。私も8問くらい空欄で出しちゃった!」

「「あはははは!」」

 

「1問目から分からんくてマジ焦ったわ」

「俺も! あんなの習った覚えないよな」

「「わはははは!」」

 

 笑えない。

 全然笑えない。

 

 あのテストに関して話すべきなのは17問の異様な簡単さと、異様に難しいラスト3問だけだ。17問の詳しい内容はどうでもいいし、点数はケアレスミスがあったとしても70点以上は確実なはずだ。こいつら本当にこの高校の生徒なのか?

 

 忘れられないように何度でも言っておくけれど、僕は繰り上がりでこの学校に合格している。つまり最初は不合格だったのだ。

 しかしどうだろうか。こんな連中に入試で負けたとはとても思えない。

 

 これっぽっちも納得できないけど、まあいい。入試については終わったことだと一先ず脇に置いておこう。それより問題なのは彼らの授業態度だ。

 皆さん頭がとってもよろしくて、だから授業も聞かずに寝てたり喋ってたりしているんだと思っていた。余裕だからこそのあの態度だと、結構本気でそう信じていた。

 

 しかし小テストの感想を聞くに笑止千万。彼らはただただ不真面目で馬鹿な生徒だった。そして恐ろしいことに、この学校ではクラス替えがない。彼らと3年間同じ教室なのだ。

 

 それはキツい!

 

 もちろん真面目に授業を受けているクラスメイトもたくさんいるし、なんならそっちの方が多数派だ。しかしやはり不真面目な生徒の方がどうしても目立ってしまう。そしてもしも彼らが何か問題を起こした時、それが個人的なものだったとしても、同じクラスだからというだけで僕にまでとばっちりが来る可能性がある。

 だからその万が一というか百が一くらいの『もしも』に備え、僕は自分のスタンスを変えた。作ろうと思って作るようなものじゃないとか、そんなことを言っている場合ではない。

 

 他のクラスに信頼できる友達を作る。

 それが今の僕の目標だ。

 

 だからちょっといきなりではあったけれど、神崎君と連絡先を交換しておきたかったのだ。ここを逃すと、次のチャンスがいつ訪れるか分からないから。他のクラスの人と話す機会なんてそうそうないから。

 

「神崎君は一人で買い物? それともお友達とお出かけ?」

「後者だな。映画館前で10時に待ち合わせだ」

「あ、ごめんね。足止めさせちゃって」

「気にしなくていい。時間にはまだ余裕がある。緒祈の方は大丈夫か?」

「うん、僕は前者だから。映画館に行くなら同じ方向だし、一緒に行こうよ」

「ああ」

 

 休日に男二人で街を歩く。これはもう友達と言っても差し支えないのでは?

 

「ちなみに何を買いに行くんだ?」

「ジグソーパズルだよー」

「ほう。一人で黙々と作業するのが好きなタイプか」

「ご名答。さては君、名探偵だね?」

「ふふっ。買い被りだ」

 

 ほとんど今日が初対面みたいなものだけど、中々話しやすい人だ。

 パズルを買いに行くと言っている相手に「パズル好きなの?」みたいな安直な質問をせず、一歩進んで性格面の話ができるあたり、彼の聡明さが窺える。

 

「水曜日に小テストがあったでしょ? あれで自分なりに結構頑張れたから、今日はそのご褒美ってことでね」

「なるほど。そういえば最後の数学を解いたらしいな」

「よく知ってるね。一之瀬さんから?」

「ああ」

 

 『他クラスに友達を作ろう』作戦の一環で、前まではほとんどなかった一之瀬さんとのメールのやり取りを不審がられない程度に少しずつ増やしている。

 ただ彼女がクラスメイトに僕のことを話しているというのは意外で、というか全然考えてもいなかったので、神崎君が知っていることに驚いてしまった。

 

「あれは二年生で習う内容だったらしいが、そんな先まで予習しているのか?」

「いやいや、予習はまだ一年生でやる内容の8割くらいしか終わってないよ。でもあれは応用に応用を重ねればなんとかなる問題だったから、まあなんとかなったんだよ。時間はギリギリだったけどね」

「それでも見事なものだろう。自分にご褒美をあげたくなるのも頷ける」

「ありがとう。そう言う神崎君はどうだったの?」

「俺はその最後の数学だけがどうしても解けなかった」

「わお! ということは英語と古文はできたんだね。僕は手も足も出なかったんだけど、そっかあ。すごいなあ」

「あれは知っていたから解けたというだけの話だ。それより未知の問題に対して自分が持っている知識を組み合わせることで答えを導き出した緒祈の方がすごいと、俺は思うぞ」

「へへへ。褒めても何も出ないよ?」

「思ったことをそのまま言っただけだ」

「……へへへ」

 

 なんだこれ。滅茶苦茶気分が良いぞ?

 神崎君の口が上手いのか、それとも僕がちょろいだけなのか。1万ポイントくらいあげてもいいかなって4割本気で思っている。じゃあ4千ポイントか。違う、そうじゃない。

 行ったことないから分からないけど、キャバクラとかホストクラブってこんな感じなのかな? いや、仮にそうだとしても高校生に喜ばれる例えではないか。

 

「もうすぐ映画館だが、こっちで良いのか?」

「うん。僕はその近くに用があるからね」

「……ジグソーパズルだったよな?」

「そうだよ」

 

 気分が良くなっている僕は自分でも分かるくらいに弾んだ声で喋っているけど、一方の神崎君は疑問が上手く氷解しないご様子で、ぶつぶつと何かを呟いていた。

 

「どうかした?」

「いや、映画館の近くにあってジグソーパズルが売っていそうな店に心当たりがなくてな」

「あれ? カメラシティっていう家電量販店に行きたいんだけど、映画館のすぐ側じゃなかった?」

「え? カメラシティって、それは――」

「おーい!」

 

 僕にとってすごく重要なことを言おうとしたのであろう神崎君の台詞は、お茶のCMにでも使われそうな溌剌とした呼びかけに遮られた。なんだなんだとそちらを見ると、ストロベリーブロンドの美髪少女がこちらに手を振っていた。一之瀬さんだった。

 映画館の前にいた彼女は一人ではなく、おそらくBクラスであろう数人と一緒にいた。

 

「あれれっ、緒祈くんもいる! 二人って仲良かったの?」

「さっき偶然会ったんだよ。こんにちは、一之瀬さん」

「こんにちは! そっかそっか。一緒に来たってことは、緒祈くんも映画?」

「いやいや、今日はちょっと買いたいものがあってね」

 

 この近くにあるはずの青い看板を首をあっちに振ってこっちに振って探す。あっちをきょろきょろ、こっちをきょろきょろ。

 ……あれ、ないぞ?

 

「あー、それなんだが」

「どうしたの? 神崎くん」

「緒祈が行きたいと言っていたカメラシティは、ずっと向こうの方だぞ」

「……え?」

 

 向こうと言って彼が指差したのは、今しがた僕たちが歩いてきた道だった。

 

「うんんんん?」

 

 どんな一流の画家にも描けない一之瀬さんの美しい髪のその上、映画館の壁面にはMarvelous Film Theaterとあった。

 誰もが知っている全国チェーンの映画館で、一般的にはMFシアターやMFと略されている。僕も中学時代に何度か利用させてもらったのでその節はどうもありがとうございましたけど、これは僕の想定していた映画館ではないぞ?

 

「もしかしてこの学校、映画館二つもあるの?」

「ええっ? そんなことないと思うけど、どうだろう神崎君?」

「そうだな。映画館はここだけのはずだ」

「あっれー? じゃあ僕が地図で見たシネマガーデンっていうのは、あれは一体……」

 

 映画館でもないのに店名にシネマなんて普通入れないよね? 騙されたー。完全に騙されたわー。映画館なら目立つだろうと思って、それを目印に来たっていうのに。

 そして神崎君が映画館に向かうと言った時も、まさかこの敷地内に映画館が二つもあるとは思わなかったから……あ、実際に一つしかないんだっけ? で、その一つを僕が間違えたのか。

 うわー、やられたわー。

 

「シネマガーデン?」

「一之瀬さん聞いたことある? 映画関係のお店なのかガーデニングショップなのか知らないけど、紛らわしい名前だよね」

「……あのね、緒祈くん」

「うん?」

「それ多分()()()ガーデンじゃなくて、()()()ガーデンだよ」

 

 ……What?

 

「映画も庭も関係ない、島根県のアンテナショップだよ」

 

 ……Nandatte?

 

「……」

「……」

 

 情報ヲ処理シテイマス。情報ヲ処理シテイマス。

 ピピピ、ガガガ、チチチ――()()()、ぷしゅー。

 

「だ、大丈夫!? 耳が茹でダコみたいに真っ赤だよ!?」

「言わないで!」

 

 思わず両手で顔を覆ってしまう。このまま走って逃げ去りたいけど、それをなんとか我慢する。

 

 シネマじゃなくてシマネって……嘘やん。

 なんでこの学校に島根のアンテナショップがあるんよ。島根て。よりにもよって島根て。出雲大社と石見銀山と世界最大の砂時計くらいしかないやん。

 

「…………ぷ」

「ちょっ! 千尋ちゃん!」

「ごめんなさい! で、でも……ふふっ」

 

 笑われた。

 シマネとシネマを見間違えて、見ず知らずの女の子に笑われた。

 

「緒祈。そのー、なんだ。そういう間違いは誰にでもあるから、な? あまり気にするな」

「……うん」

 

 神崎君、君はどうしてそんなに優しいんだ。うっかり求婚しちゃうところだったぞ。

 しかしその優しさに甘えてばかりもいられない。彼らにもこの後の予定がある。深呼吸を二回して、なんとか心を落ち着かる。

 

「……よし、もう大丈夫」

 

 いないいないばあのいないいない状態を解除して顔を上げる。

 

「あ、あの……ごめんなさい」

「ううん。こちらこそ醜態をさらしてしまって申し訳ない」

 

 謝ってきたのはおそらく『千尋ちゃん』だろう。ボーイッシュなショートカットだったので、明日の朝には名前を忘れているはずだ。

 よし、いつもの調子が戻って来た。

 

「本当にごめんね。皆さんこれから映画だってのに」

「気にしないで! どうする? 緒祈くんも一緒に行く?」

「ありがたいお誘いではあるけれど、僕はこれから自分の間抜けさを受け止めるのに忙しくなりそうでね。是非また今度お願いするよ」

「ふふふ。それじゃあまた今度ね!」

「うん。じゃあ、また」

「またな」

「ばいばーい!」

 

 一之瀬さんが顔の高さで手を振ってくれたので僕も同じものを返して、Bクラスの皆さんとお別れした。

 顔の火照りが冷めない状態で買い物に行くのも嫌なので、今日はこのまま寮に帰ることにした。

 

 当初の目的は達成できずとんだ赤っ恥までかいてしまったけど、神崎君と仲良くなれたことを思えば安いものだろう。

 それにあそこにいた他のBクラスの人達は、羞恥に悶える僕の姿にドン引きせず笑ってくれた。であればそう悪い印象は与えていないはずだ。

 

 全くもって狙った状況ではなかったけど、『他クラスに友達を作ろう』作戦はどうやら上手い具合に前進したようだった。

 

 

 

 013’

 

 

 

「なあ一之瀬、本当にあいつが()()()()()()()なのか? まだ少し話しただけだが、とてもそういうタイプには見えなかったぞ?」

「そうだよね。私も全くの同意見だよ。シマネとシネマを間違えてあんなに恥ずかしがっていた彼が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だなんて、ちょっと想像できないなー」

「しかし万が一噂が本当だった場合を考えると、本人に直接確認するのは危険だな。下手に刺激して牙を向けられるのは勘弁だ」

「なんの他意もなく普通に仲良くできれば、それが一番なんだけどね」

「ああ。まったくだ」

 

 

 

 014

 

 

 

 日曜日。

 昨日は行けなかったカメラシティに、今日はちゃんと迷うことなくやって来た。例の勘違いのおかげでシマネガーデンの方が頭に強く残っているけれど、本来の目的地はこちらの家電量販店だ。

 4階のゲーム・玩具フロアをうろついていると、ほどなくしてお目当ての物を発見した。

 

 ジグソーパズル。

 一般的にその魅力として語られるのは、完成したときに得られる達成感、完成品をインテリアとして飾れること、そして集中力が鍛えられること。この3つが主なところだろう。

 では僕もそういう理由で趣味にしているのかと言えば、そうではない。集中力は鍛えられているかもしれないが、それは目的ではなくただの副産物だ。そして前の2つに関して言えば、これはもう全くの見当外れだ。

 なぜなら僕は、今まで一度だって()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだから。

 

 どうにもスムーズに事が進まないという僕の性質だか生態だかのおかげで、完成に近付くといつも何かが起きる。完成に全然近付いてなくても何かが起きる。

 部屋の中になぜか飼った覚えのない猫がいてそいつに荒らされたり、寝落ちしたときは寝相が酷かったのか自分の手で台無しにしていたり、大いなる地震の力で揺られて(ばら)されたり、シンプルにピースを失くしたり。

 だから僕は達成感を味わったことはないし、インテリアとして飾ったこともない。実家の自室には5年以上未完成の物が放置されたままだ。

 普通ならそんな踏んだり蹴ったりが続けば、嫌になって辞めてしまうだろう。ではどうして僕はジグソーパズルを趣味にしているのか。

 

 面白いのだ。

 どう頑張っても完成しないという呪いのような現象が面白くて可笑しくて、楽しくて愉しくて仕方がないのだ。

 ちょっと進んではふりだしに戻り、すごく進んでもふりだしに戻る。賽の河原の石積みのようなそれは、一周回って一回転して僕の娯楽となったのだ。

 

 だから自分へのご褒美にジグソーパズルを選び、卒業まで向き合うことになる()()()()()()()()()()をどれにしようかと悩んでいる。

 自然の風景やアニメ・漫画、それから有名絵画、動物など、それぞれ結構な種類が用意されていた。

 

 うーん、どれにしようかな?

 ()()()()()()()()()()()()()そのまま部屋に飾れるものにしておこうかな。となると大人な印象を受ける風景か絵画かな。

 

 あ、これなんかいいかもしれない。

 なんというか、この学校の雰囲気に合ってる気がする。

 

 僕は有名絵画のエリアから一箱抜き出し、すぐそばに置いてあったジグソーパズル組み立てマットも手に取った。10000ポイントくらい使っちゃったけど、まあいいか。明日はポイント支給日だし。

 

 レジで支払いを済ませて商品と共に受け取ったレシートには、ご丁寧にその絵画の題名がフルで印字されていた。

 

 フランスの画家ポール・ゴーギャン作『我々はどこから来たのか 我々は何者なのか 我々はどこへ行くのか』

 

 

 

 



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015-017 5月1日

 015

 

 

 

 5月1日、ポイント支給日。

 始業のチャイムと同時に教室に入って来た茶柱(ちゃばしら)先生は、脇になにか細長い筒を抱えていた。一方の僕はとんでもなく嫌な予感を抱えていた。

 

「これより朝のホームルームを始める。が、その前に何か質問はあるか?」

 

 あるに決まっているじゃないか。昨日の夜と今日の朝で、所持ポイントがぴくりとも動いていないのだから。

 

 ベッドの上でそれに気付いた僕はすぐに綾小路(あやのこうじ)君にメールを送り、これが僕だけに起きた現象ではないことを確認した。

 そして次に神崎(かんざき)君と一之瀬(いちのせ)さんにメールを送り、これがDクラスだけに起きた事態であることを確信した。

 

 いち早く手を挙げたナントカとかいう男子生徒が「ポイントが振り込まれてなかったですよ?」と言うと、先生は「問題なく振り込まれている」と返した。まだ確認していなかった生徒が一斉に携帯を操作して事態を把握し、その顔に驚きや困惑を浮かべる。

 

「……お前らは本当に愚かな生徒だな」

 

 自分たちが落とし穴の底にいて、先生に上から見下ろされているような、そんな錯覚を覚えた。

 

 未だに事態を呑み込めていない生徒に対して、茶柱先生は今月のポイントが()()()()()()()()()()()()()をこれでもかと強調する。

 

「ははは、なるほど、そういうことだねティーチャー」

 

 高円寺(こうえんじ)という男子生徒が高らかに笑い、その答えを偉そうに口にした。

 

「つまり私たちDクラスには()()()()()()()()()()()、ということだね」

「はぁ? なんだよそれ。毎月10万ポイントって……」

 

 そんなことは言われていない。

 

「全く、これだけヒントをやって自分で気付いたのが数人だけとはな。嘆かわしいことだ」

 

 一向に収まる気配のないざわめきの中、クラスの中心的イケメン平田(ひらた)君が手を上げて、なぜ支給ポイントが0だったのか尋ねる。それは自分が()()()()()()という個人的な理由ではなく、自分が()()()()()()()()()()という使命感によるものに見えた。なんともまあ見事なリーダーシップではあるけれど、茶柱先生は呆れたように答えた。

 

 遅刻欠席、合わせて98回。

 授業中の私語や携帯を触った回数391回。

 

 それはあんまりにもあんまりな、4月の授業態度だった。

 個人個人がどうこうではなく、Dクラス全体での話だった。

 

「この学校では()()()()()()()()()()()()()()()()()。その結果お前たちは振り込まれるはずだった10万ポイント全てを吐き出した。それだけのことだ」

 

 これが僕にとっては想定外だった。成績がポイントに影響することは予想していたが、それがまさかクラス全体で一括(ひとくく)りにされるとは……ちくしょう。

 

 茶柱先生は「そろそろ本題に移ろう」と言って、筒から白い厚手の紙を取り出して広げ、それを黒板に貼り付けた。

 

 Aクラス:940

 Bクラス:650

 Cクラス:490

 Dクラス:  0

 

「これは……各クラスの成績、ということ?」

 

 堀北(ほりきた)さんの呟きが聞こえた。おそらく正解だ。

 神崎君は6万5千ポイント振り込まれたと言っていたので、クラス成績値の100倍のポイントが支給されるとみて間違いないだろう。

 

 それにしても、見事なまでに綺麗な降順だな。Bクラスの人達と接してもしかしてとは思っていたけれど……

 

「この学校では優秀な生徒たちの順にクラス分けされるようになっている。最も優秀な生徒はAクラスへ。ダメな生徒はDクラスへ」

 

 やはりそうなのか。繰り上がりでの棚ぼた合格だった僕は当然Dクラスってわけだ。

 

「つまりお前たちは最悪の不良品ということだ。実に不良品らしい結果だな」

 

 教師が生徒に向ける言葉とはとても思えないな。不良品たちを奮起させようという狙いなのかもしれないけど、この学校でなければ教育委員会とモンスターペアレントがすっ飛んできただろう。

 

 それから先生はクラスの成績値、すなわちクラスポイントがそのままクラスのランクに反映されると言った。つまり今回491ポイント以上残していれば、僕たちはCクラスにランクアップしていたということだ。

 しかしどうだろうな。いくら発破をかけられたところで、このクラスが上に行けるとは正直思えない。

 

「さて、もう一つお前たちに伝えなけえればならない残念な知らせがある」

 

 黒板にもう一枚紙が貼られた。そこにはこのクラス全員の名前と、その横にそれぞれ二桁の数字が並んでいた。

 

「先日やった小テストの結果だ。お前ら一体、中学校で何を勉強してたんだ?」

 

 うっわ……。

 あの日クラス内で聞こえた会話からある程度予想はしていたが、まさかこれほど悲惨とは。平均点は64前後か?

 

「良かったな、これが本番だったら7人は退学になっていたぞ」

「た、退学!?」

 

 誰か知らんが何を驚いているんだ。クラスポイントのことを考えると、さっさと退学になってほしい。

 先生が言うには中間テスト、期末テストで1科目でも赤点を取ったら退学決定らしい。

 へえ。ふーん……。

 

「それからもう一つ付け加えておこう。この学校は全国屈指の進学率・就職率を誇っている」

 

 それはこの場の誰でも知っている。この学校の最大の売りなのだから。

 

「しかし希望する将来への援助が受けられるのはAクラスの生徒のみだ。Bクラス以下の生徒には、この学校は何一つ保証することはないだろう」

「はあ!? 聞いてないですよそんな話!」

 

 おいおい。この学校、詐欺まがいのことをしてるじゃないか。

 

 まだ理解も納得もできていない生徒は大勢いたけれど、茶柱先生は「中間テスト、楽しみにしてるぞ」と言って出て行ってしまった。

 

 僕は椅子を少し引いて、左を見る。

 驚愕の新事実が幾つも告げられたというのに、綾小路君はやっぱり無表情だった。

 

 

 

 016

 

 

 

緒祈(おいのり)くん、少しいいかな?」

 

 先月とは打って変わって落ち着いた、というよりは元気のない1時間目の授業が終わっての休み時間。僕に声をかけてきたのは平田君だった。

 

「今日の放課後、クラスポイントを増やすためにどうしていくべきか話し合いたいんだけど、君も参加してくれないかな?」

「えっと……なんで僕に?」

「他のみんなには1時間目が始まる前に声をかけたんだけど、君は席をはずしていたから」

 

 教室が荒れることは目に見えていたからさっきはトイレに逃げたけど、その間にも彼はクラスの為に動いていたらしい。立派なものだ。

 

「無理に発言しなくてもいい。その場にいてくれるだけでいいんだけど、どうかな?」

「うん、いいよ」

「本当!? ありがとう!」

 

 クラスメイトのことなんてどうでもいいと思っていたけれど、毎月支給されるポイントにクラス全体の成績が関わっているというなら話は別だ。()()()()()()()()()()()()()、このクラスがどう動くのかは把握しておいた方がいい。

 しかし僕みたいな爪弾き者の参加をそんなに喜ぶとはね。クラスのリーダーとしてかなり苦労をしているようだ。だからといって優しくしてあげるわけでもないけどね。

 

 時計の針はさらさらと進み、放課後。

 平田君が対策会議の準備を終える頃には、不参加組は全員出て行った。名前を憶えているところだと綾小路君と堀北さん、佐倉さん、それから高円寺君の姿が見えない。

 

 全体の参加率は8割ほどだろうか。しかし小テストでこのクラス最高の90点を記録した3人のうち、少なくとも2人が不在だ。幸村という生徒も帰ったのなら全滅だな。

 点数を取れる人間がいれば解決する問題かというと、決してそんなことはないけれど。

 

 僕?

 僕は簡単な方の問題でミスをしてしまったようで、4位タイの85点だった。不可解なほどに簡単だとか思ってたくせに間違えてしまうとは、いやあ恥ずかしい。

 どれがバツだったのか小テストの問題を思い返していると、綾小路君が校内放送で職員室に呼び出された。可哀想に。

 

「それじゃあ始めようか」

 

 そして幕を開けたクラスポイント獲得に向けた作戦会議。結論から言ってしまうと、別に不参加でも問題ない内容だった。

 日々の授業を真面目に受けて減点を抑えようとか、勉強会を開いて中間テストで退学者が出ないようにしようとか。そういう容易に想像できた結論を全員に共有させようという時間だった。

 

 平田君と櫛田(くしだ)さんのリーダーシップとコミュニケーション力は見事なものだったけれど、特筆すべきことはそれくらいかな。

 作戦会議は20分ほどで終了し、僕は結局一言も喋らなかった。

 

 寮に帰ると綾小路君からメールが来ていた。話し合いの内容を聞かれたので、あの場で行われた議論をできるだけ簡潔にまとめ、僕の感想は入れずに送っておいた。

 逆に僕からもどうして職員室に呼び出されたのか聞いたけれど、「失くしてた腕時計が職員室に届いていたのでそれを受け取りに行った」とバレバレの嘘を吐かれたので、なるほどねと納得しておいた。詮索されたくないことがあったらしい。

 

 気にならないと言えば嘘になる。しかし下手に踏み込んで虎の尾を踏んだんじゃあ笑えないから。

 良い距離を保ちましょうよ。ね、綾小路君。

 

 

 

 017

 

 

 

 僕が高度育成高校を第一志望として選んだ理由は大きく二つある。

 

 一つは授業料だ。

 国が運営しているこの学校は授業料の全額を国庫が負担してくれる。緒祈家は決して裕福な家庭ではないので、これは素直に有り難い。

 

 もう一つは卒業後を見据えてだ。

 この学校は希望する進学先・就職先にはほぼ100パーセント応えると、そう謳っている。僕が大学を卒業する時の就職事情がどうなっているか分からないから、手厚い支援が受けられるならそれを存分に使って高卒だろうがさっさと就職した方がいいだろう。と、母が言っていた。だからこの学校に来たのだけれど、まんまと騙されてしまったらしい。

 

 学校が将来をサポートするのはAクラスの生徒だけ。しかし僕の所属しているDクラスがそこまで上がれるとは今のところ思えない。

 この学校のネームバリューを考えれば卒業したというだけでも社会ではそれなりの価値があると思うのだけれど、これは楽観視が過ぎるかな?

 

 生活のためにDクラスのクラスポイントを増やすのは当然として、さてどうしようか。

 クラスのランクを気にしないならそれだけでいい。しかしAクラスを目指すのであれば、それに加えて他を蹴落とすという作業が必要になる。勝てば得るものは大きいけれど、返り討ちに遭う危険性もある。

 

 要するにロウリスク・ロウリターンを採るかハイリスク・ハイリターンを採るかなんだけど、クラスの一員としての僕は、まだ自分がどちらの方針で行くべきか決めかねていた。

 

 ただ、すぐそこの未来については一つ決めていることがある。

 小テストで赤点だったくせに危機感のない連中には、早々に()()()()()()()()()()。下手に残られても足を引っ張られるだけだ。特に赤い短髪の須藤とかいう男子。

 退学か残留かの瀬戸際だと言うのに、彼は相変わらず授業中に居眠りをしている。Aクラスを目指すにせよ目指さないにせよ、彼の存在は害でしかない。

 

 そんなことを考えていた5月13日の夜。綾小路君が僕の部屋に来た。

 

「やあ勘解由小路(かでのこうじ)君。どうしたんだい、こんな時間に」

「突然悪いな。だがオレの名字はそこまで難易度高くないぞ」

「ごめんね。人の名前を覚えるの苦手でさ」

「メールでは普通に呼んでただろ……」

 

 とりあえず中に招き入れて椅子に座ってもらい、僕は二人分の麦茶を用意してその片方を渡し、ベッドに腰掛けた。

 綾小路君は一口啜って、早速本題に入った。

 

「今度の中間テストで退学者が出ないよう協力してほしい」

「……ふうん」

 

 話を聞くと、勉強会を開くからそこに教える側として参加してほしいとのことだった。絶世の美黒髪少女堀北(ほりきた)さんと話しているのを最近よく見かけていたけれど、そんな話をしてたのね。でも――

 

「勉強会なら平田君もやってるよね?」

「そこに参加しない連中だから困ってるんだ」

「困るくらいなら切ればいいのに」

「……やはりお前もそういう考えか」

「も、と言うことは堀北さんもそうなんだね」

「ああ。だがそれは過去の話だ。堀北は須藤たちの面倒を見ることに決めたぞ」

「君が()()()()()んじゃないの?」

「まさか。あいつはオレの言うことを聞くようなヤツじゃない」

「ふふっ、どうだか」

 

 このまま堀北さんの話を続ければ嫌がって帰るかな? でも監視カメラのないこの場所で彼の機嫌を損ねるのも怖いな。プールの時に見たけど、相当鍛えているようだったし。

 本題に戻すか。

 

「とりあえずその赤点組をクラスに残すメリットか、あるいは君に協力することで得られるメリットを示してくれないと。僕としては首を縦に振りかねるよ」

「退学者が出たクラスにどんなペナルティがあるか分からないだろ?」

「……なるほどね」

 

 彼が言ったのは赤点組を切った場合のデメリットだったけど、一理ある。

 この学校では遅刻や欠席、授業中の私語などでクラスの成績が容赦なく減点されていく。退学者が出たとなれば、例えばクラスポイントがマイナスになるなんて事態もひょっとしたらあるかもしれない。

 でもそんな憶測だけで協力を決めるというのもなあ。

 

「それから緒祈にとってもっと直接的なメリットを挙げるなら」

「挙げるなら?」

「堀北とお近付きになれるぞ」

「しょーがないなー。ま、友達の頼みだし聞いてやるか!」

「……ちょろい」

 

 冗談はさて置いて。

 綾小路君と堀北さんがクラスの()()になることはないと思うけど、()()には十分なりえるだろう。であればここで仲良くしておくのも将来的なことを考えれば悪くない手かな。

 でもまあ一応、これだけは言っておくか。

 

「もし赤点回避の見込みがないと判断したら、その時は容赦なく潰させてもらうよ」

「それは恐ろしいな。何か策でもあるのか?」

「あると言えば嘘になるかな」

「ないのかよ……」

 

 今の段階では本当にない。

 しかし勉強会を通して堀北さんだけなく赤点組とも距離を縮められたなら、あるいは。

 

「それで、明日の放課後でいいのかな? 場所は?」

「いや、まだ勉強会ができるかは分からない」

「……はい?」

「堀北と須藤達の間でちょっとあってな。堀北と櫛田も確執があるみたいだし。でもそれ以外堀北には手がないから、まず間違いなく勉強会は開かれる」

 

 こいつ、未定の予定に誘いやがったのか。

 あれ? てことは――

 

「もしかして僕を誘ったのは綾小路君の独断で、堀北さんの了承はまだ得てないとか?」

「そうだな」

「おいおい大丈夫かよ。今更だけど、僕のクラスでの扱いを知らないわけじゃないだろう?」

「なんかヤバい奴」

「ストレートに言ってくれやがったね!」

 

 事実は事実として受け止めるけど、正直に言うと腑に落ちない。

 初日の制服問題があるとはいえ、ここまで避けられるものだろうか? あれからもう一か月以上経ったのだし、コミュニケーションに積極的な人からなら何かしら声をかけられてもおかしくないはずなんだけど。

 僕に話しかけるのは目の前の綾小路君と、あとはクラスみんなで仲良くしましょうって感じの櫛田さんと平田君だけだ。

 

 僕は堀北さんみたいに近寄りがたいオーラを出してはいないし、佐倉さんとは違って話しかけられればそれなりに対応できる。なのにどうして?

 Dクラスには担任の茶柱先生に「生理でも止まりましたー?」なんて聞けるデリカシーの無い生徒もいると言うのに。

 

「一応言っておくが、勉強会ではあの空気は出すなよ?」

「……ん?」

「まさか無自覚なのか? お前が須藤たちを見る時に出してる、あの『隙があれば潰してやろう』みたいな空気だ」

「……そんなの出てた?」

「ああ。それも結構頻繁に」

 

 なるほど、そういうことだったのか。

 

「別にそんなことは()()()()()()()()()()()()()()()()考えてないんだけど、意図せず不愉快な気分にさせてしまったのならそれは大変に申し訳ないね。誰にでもぐいぐい行くように見える彼らが僕の所に来ないのは、それが原因か」

 

 自分ではポーカーフェイスができているつもりだったんだけどなあ。

 

「ちなみに綾小路君自身は、それを向けられていると感じた事はある?」

「いや、オレはあくまで(はた)から見ていただけだ。今も特に何も感じていない」

「傍から見て分かるほどなのか……。まあいいや。じゃあ勉強会では綾小路君と喋っているときのテンションで彼らに接するよ。それで多分大丈夫だろう」

「よろしく頼む」

 

 そう言って彼は軽く頭を下げた。それが何だか彼の空気に全然合ってなくて、僕は笑ってしまいそうになる。誤魔化すように質問をした。

 

「それにしても、どうして僕を誘ったんだい? 僕が君の立場なら、僕だけは絶対に誘わないけど」

「他に声をかけられる相手がいないんだよ」

「……君、友達少ないもんね」

「お互い様だ」

 

 

 



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018-020 勉強会

 018

 

 

 

「こうやって話すのは初めてだね。緒祈(おいのり)真釣(まつり)です。よろしく」

堀北(ほりきた)鈴音(すずね)よ」

 

 今朝は綾小路(あやのこうじ)君から少し早めに登校するよう言われていたので、いつもより10分ほど早く教室に入った。てっきり勉強会について説明を受けるもんだと思っていたのだけれど、この時間は僕と堀北さんの顔合わせだけらしい。

 というかそもそもまだ勉強会開催の目途が立っていないらしい。考えはあるみたいだけど、大丈夫か?

 

 それと綾小路君は事前にどういう話をしたのか、堀北さんの僕を見る目はあまり好意的なものではなかった。僕の参加を快く思っていないような、あるいは僕の存在自体を不快に感じているような、そんな視線だ。

 

「協力してもらえるのはありがたいけれど、その前に一つ確認したいことがあるの」

「なんなりと」

「あなたは入学初日、女子の制服を着ていたわよね? あれは何?」

 

 あー、そのことか。まさかまだ覚えられているとは。いや、覚えている人は他にもいるだろうけど、まさか今更聞かれるとは思わなかった。

 

「家に届いたのがあれだったんだよ。別に好きで着ていたわけじゃない」

「それだけでは女装をする理由にはならないはずよ。私服で来るとか中学校の制服で来るとか、他にも手はあったはずでしょう?」

「そんなんで校内うろついてたら目立っちゃうじゃん」

「一日目と二日目で性別が変わる方が目立つでしょう」

「始業前に職員室で男子の制服を貰う予定だったんだよ。迷子になって間に合わなかっただけで」

「……そう。一応筋は通っているわね」

 

 そりゃ正直に話してるからね。

 

「では最後にもう一つ」

「うん」

「あの日、教室に遅れて入って来たあなたは先生に怒られると思って正座したわよね」

「そんなこともあったね。一瞬だけど」

「その時とてもナチュラルに座っていたように見えたのだけれど、あれはどういうことかしら?」

「……というと?」

「スカートで座ることに慣れているように見えたと、そう言っているのよ」

 

 ははー、よくそんなところまで観察してるね。そこまで人のことを見ているタイプだとは思わなかった。

 

「ほら、僕って中性的な(こんな)顔立ちだからさ、母親によく女物の服を着させられていたんだよ。娘が欲しかったとか言って」

「あなたの趣味ではない、と?」

「そうだね。でも、たとえ僕に女装趣味があったとしても、それで堀北さんを困らせることはないと思うよ?」

「……それもそうね」

 

 どうやら納得していただけたらしい。

 彼女を包む空気が少し柔らかくなった。

 

「ずっと気になっていたのだけれど、ようやく得心がいったわ」

「それはなによりだ」

「それじゃあ昼休みに須藤(すどう)くんたちを説得するから、そのとき一緒に来てちょうだい」

「はーい」

「当然あなたにも来てもらうわよ、綾小路くん」

 

 そろりそろり、二歩三歩と下がってフェードアウトを企んでいた彼が「うっ」と立ち止まる。お前、なに逃げようとしてんだよ……。

 

「いや、緒祈が協力してくれるんだし、オレはもういいんじゃないか?」

「何を言っているのかしら。あなたは私と契約したでしょう? Aクラスに上がるまで私に従って馬車馬の如く働くって」

「綾小路君、契約書はハンコを押す前に何が書かれているのかよく読まないと」

「待て。そんな契約をした覚えはないぞ」

「ここに契約書があるわ」

「あるんだってさ」

「わぁ本当だ。って偽造じゃねえか」

 

 綾小路君は堀北さんの手からその契約書(偽)を奪い取り、びりびりと破り捨てた。

 こうやって近くで見てみると、思っていた以上に二人の仲は良いようだ。

 

 朝はそれくらいの軽い会話だけで、勉強会に関する話は特になかった。

 

 そして午前の授業を終えて昼休み。

 赤点組を勉強会に呼び戻すには櫛田(くしだ)さんの協力が必要不可欠なのだけれど、堀北さんとはなにやら確執があるらしい。だからてっきり綾小路君が遣わされるもんだと思っていたら、意外なことに堀北さん自身が櫛田さんに声をかけていた。

 やはり人間関係というのは人伝に聞いただけでは十分に理解できないものだ。百聞は一見に如かず。

 

 誘った女子と誘われた女子、そしてそれを傍観していた男子二人。この四人で学校でも随一の人気を誇るカフェパレットに行くこととなった。

 外から見たことはあったけど、中に入るのはこれが初めてだった。堀北さんと綾小路君にもあまりこういうお店に来るイメージがないんだけど、どうなんだろう? 案外二人で来てたりして。

 

 注文カウンターでは、堀北さんが奢ると言って櫛田さんのドリンクも注文していた。それを見て僕も綾小路君に「奢ってよ」と言ったのだけれど、「え、嫌だけど」と断られてしまった。僕を生贄にして勉強会から逃げようとしたくせに。

 

 席に着いてからは基本的に女子二人が花のないガールズトークを繰り広げている。堀北さんが櫛田さんに勉強会への協力を要請していたはずが、いつの間にか櫛田さんの方からAクラスを目指す仲間に入れてくれというお願いをしていた。どういうこっちゃ。

 僕はアップルティーをちびちびと飲みながらその様子を眺めていて、隣の綾小路君はアイスコーヒーをちびちびと飲んでいた。

 

 特に話を振られることもないのでぼーっとしていると、赤点三人衆が現れた。

 櫛田さんに呼ばれてやって来た彼らはまさか僕がいるとは思わなかったのだろう。こちらにちらちらと視線を向けてきた。

 僕は昨夜の綾小路君との会話を思い出し、できるだけ人当たりの良い感じで「やあ」と声をかけた。

 

「「「お、おう……」」」

 

 なんだその反応は。堀北さんもそんな驚いた顔でこっち見なくていいから。

 

 それからの話し合いは順調に、おそらくは堀北さんの想定通りに進んだ。

 赤点組のストレスも考慮して、放課後の勉強会は止めになった。代わりにまずは授業を真面目に受けること、そして休み時間に前の授業の確認をするための小さな勉強会を開くこと。この二つを約束させた。

 一夜漬けを妄信する三人に多少手古摺(てこず)りはしたものの最後には綾小路君の機転もあって、話し合いは上手い具合にまとまった。まとまったはいいんだけど……

 

「ねえ綾小路君、これ僕が来る必要あった?」

 

 20分近い話し合いの中で、僕の口から出たのは「やあ」の2文字だけだった。「なんでこいつがここに!」とか言ってくれればもう少し発言量も増えたんだけど。まあそうなったところで僕があの場にいる意味はやっぱり無かっただろう。

 僕を誘った犯人である綾小路君は、こちらの質問にふざけた答えを返してくれた。

 

「いやー、緒祈がいてくれて助かったよ。さすがクラスのムードメーカー」

「何言ってんだこいつ」

 

 

 

 019

 

 

 

 勉強会は思いの(ほか)上手くいっていた。退学だけは何としてでも回避するという強い意志がようやく彼らに芽生えたようで、授業態度も以前とはまるで別人だった。

 小テストで特に成績の悪かった三人がやる気になったことでプライドが刺激されたのか、あいつらに負けてはいられないと他の生徒たちもより一層励むようになった。クラス全体がかなり良い空気になっている。

 

 そして何より驚いたのが、僕と須藤君たちが普通に話せるようになったことだ。

 

「なあ緒祈、これはどう解けばいいんだ?」

「問題文の書き方が違うだけで、解き方自体は前回やったのと同じだよ」

「ん? あー、確かに。言われてみればその通りだ」

 

 少し前までは目を合わせたことすらなかったのに、今ではこんなにも自然に勉強を教えている。これはもう友達と言っても過言ではないだろう――()()()()()()()

 

「あ、池君そこ違うよ。上の式をよく見て」

「え……ほんとだ! サンキュー緒祈!」

 

 この調子で行けば本当に退学者0が実現できるかもしれない。僕も、堀北さんも、櫛田さんも、もちろん本人たちも、そう思い始めていた。綾小路君は分からないけど。

 

 昼食前、集中力が切れてくる四時間目の授業でも三人はよく頑張っている。うんうん偉いぞ!

 そして昼休み。昼食を済ませた後で図書館に集合し、20分ほど勉強することになっていた。

 

「……始めましょうか」

 

 約束の時間になっても綾小路君と櫛田さんがいなかったけど、とりあえず5人で始めておく。すると1分ほど経って二人が一緒に現れた。

 

「遅いわよ」

「悪い、ちょっと店が混んでて時間がかかった」

 

 どうやら二人で一緒に食事をしていたようだ。

 

「早くして」

「……はい」

 

 この時間はそれぞれで分からないところを確認するというよりも、問題を出し合って分かっているかを確認する作業がメインになった。楽しそうにフランシス・ベーコンとかルネ・デカルトとか聞こえてくる。

 でもここ図書館だからね。テスト前で周りも多少ざわついているとはいえ、もう少し声のボリュームを落とそうか。

 そう思っていると案の定隣の席からクレームが来た。

 

「おい、ちょっとは静かにしろよ。ぎゃーぎゃーうるせえんだよ」

「悪い悪い。問題が解けたのが嬉しくってさ~。帰納法を提唱したのは誰か知ってるか? フランシス・ベーコンだぜ? ベーコンだぜ?」

 

 池君がへらへらと笑いながらそんなことを言う。

 

「あ? ……お前らひょっとしてDクラスの生徒か?」

 

 うーん、これはちょっとまずいかなあ。

 隣の席の彼はCクラスの山脇(やまわき)と名乗り、なぜか――本当になぜだろうか――安い挑発をしてきた。

 長髪は大好物だけど挑発はちょっと……などと下らないことを考えていると、その挑発に須藤君があっさりと噛み付いてしまった。こら赤短髪。

 

「上等だコノ――おわっ!」

「落ち着きなよ。ここはリングの上じゃない。図書館だ」

 

 立ち上がろうとする彼の肩をそっと押さえて椅子に戻す。

 おおー。半ば無意識にやったけど、体格の良い須藤君を僕の細腕一本で座らせるなんて、まるで武術の達人だな。運動は苦手なんだけど、相手の体勢が不安定ならこれくらいはできるのか。極めてみるのも面白いかもしれないな……などと適当なことを考えていると、今度は堀北さんが挑発に乗っていた。おい黒髪ロング。

 

「私たちのことを悪く言うのは構わないけれど、あなたもCクラスでしょう? 正直自慢できるようなクラスではないわね」

 

 あーもー何やってんのよ。

 綾小路君は傍観者を気取ってるし櫛田さんはおろおろしてるし。僕が動くしかないのかなあ。

 

「大体なにがフランシス・ベーコンだよ。テスト範囲外の勉強なんかして――」

「図書館で騒ぐとどれくらい減らされるんだろうね、クラスポイント」

「あ? 誰だよおめえ」

「いくら減点されるにしてもDクラス(こっち)は元より0だからノーダメージだけど、Cクラス(そっち)は大丈夫?」

「はあ? 何が言いてえん――」

「こんなところで不用意に減点されたら、()()()()()()()()は怒ったりしないのかなあって」

「――っ!」

「はい、ストップストップ!」

 

 後ろから声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。振り向くとそこには俗世に迷い込んだ天使が立っていた。最近あまり姿を見かけなかったBクラスの美髪少女、一之瀬(いちのせ)さんだった。

 

「もう、なにやってるの緒祈くん! こんなところで喧嘩しちゃダメでしょ!」

 

 え、僕はむしろこの中で唯一止めようとしていた人間なんですけど……でもまあ一之瀬さんに言われちゃあ反駁できないね。

 

「ごめんなさい」

「そっちの君たちも、挑発が過ぎるんじゃないかな?」

「わ、悪い。そんなつもりはないんだよ、一之瀬」

 

 そう言うと山脇君たちは荷物をまとめてそそくさと帰ってしまった。彼は一之瀬さんの名前を知っていたけれど、それは彼女が有名人だからだろうか。それともクラスの問題だろうか。

 BクラスとCクラスはクラスポイントの差が160しかない、現在最も競り合っているクラスだ。小さい衝突が既に何度かあったらしい。

 

 一之瀬さんからはCクラスの龍園(りゅうえん)という生徒がヤバいと聞いていたので、さっきはその存在を臭わせることで山脇君らの撃退を試みたのだけれど、最後は一之瀬さんに持っていかれた。まあその方が僕としてもありがたいし、()としても締まるだろう。

 

「君たちもここで勉強を続けるなら、大人しくやろうね。以上っ」

 

 そう言って颯爽と去って行った彼女の揺れる薄苺色の髪がとても綺麗で、自然と手を伸ばしそうになる。おおっと危ない。演歌歌手じゃないんだから。

 

「知り合いか?」

「そうだよ。Bクラスの一之瀬さん」

「へえ……」

 

 自分から聞いたくせに興味なさげな綾小路君だった。

 

「でも、少し意外だったな。お前はああいう場では前に出てこないタイプだと思っていたが」

「君が傍観を決め込んでいたからね。堀北さんは戦う気満々だったし」

「私はただ本当のことを言っただけよ」

 

 言わなくていいことを言ったんだよ、って言ったら今度は僕に噛み付いてきそうなので黙っておこう。髪は綺麗でも性格はキツいなー。

 

「それよりさっき、テスト範囲外って……言ってた、よね?」

 

 櫛田さんが不安そうに溢す。

 僕たちが茶柱先生から聞いたテスト範囲にはばっちり入っているフランシス・ベーコンを、山脇君は確かにテスト範囲外だと言った。まあそれを僕が遮ってしまったんだけど。

 

 失敗したなあ。

 口を挟むのが()()()()()()()()()()――

 

「「「「「「!?」」」」」」

 

 堀北さんに、櫛田さんに、須藤君に、池君に、山内君に、そして綾小路君に。一斉に、見られた。

 

「うん? みんなどうしたの?」

「……いえ、何でもないわ」

 

 堀北さんはそう言ってくれて、他の人も概ね無かったことにしてくれた。ただ綾小路君だけは、ずっとじっとこちらを見ている。その情熱的な視線に僕はウインクを返してあげる。ぱちーん☆

 あ、目を逸らされた。

 

「えっと、とりあえず教室に戻ろっか」

「そうだね」

 

 ナイスです櫛田さん。

 

「……」

 

 …………あっぶねー!

 

 いやもうマジであっぶねー!

 マジもうめっちゃ焦ったわ!

 

 久しぶりに一之瀬さんの髪を見られたせいで気が緩んでしまったようだ。うっかり『こいつら退学になればいいのに』モードになっちゃったよ。なんとかすぐに『目指せ退学者0』モードに戻したけど、いやーギリギリだった。

 自分ではよく分からないんだけど、あんな反応をされるってことは僕ってよっぽど分かりやすいんだね。モードとか言ってみたところで、結局はただの心持ちの話なのに。

 

 後で綾小路君に何か言われそうだなー。面倒だなー。少し印象を上書きしておくか。

 

「教室より職員室に行った方がいいんじゃない? テスト範囲のこと聞かないと」

「あっ、そうだね! 先生の所行かなきゃ!」

 

 みんなの意識をテスト範囲から外させたのは僕だ。完全に事故だったけど、僕に10割の責任があった。そして今僕はテスト範囲のことをみんなに思い出させてあげることで点数を稼ぎ、さらに先程の失態も忘れてもらおうとした。

 

 我ながら酷いマッチポンプだ。

 

 

 

 020

 

 

 

 テスト範囲は変更になっていた。そして、それをDクラスだけが知らされていなかった。

 

「悪いな、お前たちに伝えるのを失念していたようだ」

 

 教師としては重大な失態のはずなのに、茶柱先生はさして気にした様子もなかった。この人も髪は綺麗だけど内面に中々の問題があるみたいだ。

 

 新しく教えてもらった本当のテスト範囲は櫛田さんによってDクラス全体に共有された。絶望する生徒が量産されるかと思っていたのだけれど、赤点三人衆をはじめとして「ナメやがって! 見返してやる!」とやる気を爆発させる生徒が意外にも多くいた。

 そのお陰で今日の放課後の勉強会ではこれまで別々でやっていた平田チームと堀北チームが合流し、Dクラス全体が一致団結してかなり(はかど)っていた。

 

 しかしそうは言っても試験まであと一週間。告げられた新しい範囲は須藤君たちがほとんど勉強していない部分で、正直このままでは間に合うかどうか微妙なところだ。

 

 このままでは、ね。

 

 ピーンポーン。

 寮の自室でお昼のことを一之瀬さんとチャットしていると、実家と同じ音のインターホンが鳴った。ドアを開けるとそこには予想通り綾小路君がいた。

 

「いらっしゃい米麹(こめこうじ)君。来ると思っていたよ」

「オレはそんな甘酒が作れそうな名前で呼ばれるとは思ってなかったぞ」

「ごめんね。人の名前を覚えるの苦手でさ」

「このくだり、いつまでやるんだよ……」

 

 なにやらぶつくさ言っている綾小路君を招き入れ、一昨日の夜と同じように座る。

 

「来るのは予想できたけど、その要件までは候補が多すぎて絞れなかったんだよね。なんの話をしに来たの?」

「単刀直入に聞くが、お前は須藤たちをどうするつもりだ?」

 

 どうする、と言われましても……。僕は別に彼らの身柄を拘束しているわけでもないしなあ。というかそんなことしようとしたら非力な僕じゃ返り討ちに遭っちゃうよ。

 冗談はさて置き、なるほど、そっちの話か。

 

「お昼のあれは本当にただの事故だよ。僕の意図したものじゃない」

「意図的だろうが事故的だろうが、お前の中には須藤たちを退学させる道がまだ残ってるってことだろ?」

「それはそうだけど、実行するつもりは毛頭ないよ。君は多分もう赤点回避させる方法を思いついてるんでしょ? それがどういう策かは分からないけれど、邪魔するつもりはない」

「……本当か?」

「僕としては正直もうどっちでもいいんだよね。赤点組を潰そうと決意した矢先に君が来て協力しろとか言うし、そんでいざ勉強会が始まったら今度はテスト範囲が違うという大事件」

 

 これがジグソーパズルならまだ楽しめるんだけど、そんな小さな話じゃないんだよなあ。やれやれだぜと肩を竦めてみせたけれど、綾小路君は「いや、そうじゃなくて」と言った。

 え、違うの?

 

「本当に赤点回避の方法を思い付いていないのか?」

「あー、そっちか」

 

 なんだよ。聞かれてもない事をたらたら喋っちゃったじゃん。

 

「本当だよ。本当にさっぱり分からない。5万ポイント賭けてもいい」

「……そうか」

 

 納得していない様子だけれど、君、僕のことちょっと高く買い過ぎじゃない? 浮かばないものは浮かばないよ。

 

「じゃあ須藤たちを落とす策は?」

「そんなこと聞いてどうするの?」

「今後の参考にする」

 

 小テストのときの茶柱先生みたいなことを言い出した。まあ事前に知っていれば余裕で防げる計画だし、これを正直に教えることで多少なりとも綾小路君の信頼を得られるのなら安いものかな?

 

「学校にバレたら僕が罰せられそうなものを除くと、今の所浮かんでいるのは二つだけだね。ざっくり言うと実力を発揮させないか、実力を付けさせないか」

「ほう。発揮させないってのは?」

「試験当日の午前3時くらいに電話をかけてあげるんだよ。寝不足で試験に集中させないってわけ。タイマーを深夜に鳴るようセットして鞄に仕込むのもいいね。実行は簡単だけど、効果が出るかは微妙なところだね。あっ、インターホンを鳴らす方が確実かな? まあ、そんなところだよ」

「……実力を付けさせないってのは?」

「本番に出なさそうな問題を集めて()()()()()を作る。それを先輩から貰ったとか言って平田君か櫛田さんに渡して、クラス全体で共有させるんだ。準備は大変だけれど、これなら過去問に(すが)るしかないような連中を一掃できる。ただ、バレると少し危ないかな?」

「……」

「……?」

 

 なんだなんだ。そんな黙ってじっと見つめられても反応に困るぞ? またウインクしてあげようか?

 1分間の沈黙の後、綾小路君は溜息とともに口を開いた。

 

「はぁ……そういうことは考えられるのに、救う方法は本当に浮かんでないのか?」

「うん。非現実的なものでよければ試験官とか採点する先生を買収するって方法があるけど、そういう話じゃないんでしょ?」

「買収、ね」

「?」

「ありがとな。中々参考になったわ」

「そう? それはよかった」

 

 綾小路君は椅子から立ち上がり、そそくさと玄関まで行ってしまう。靴を履いてドアノブ握ったところで一時停止し、見送りに来た僕の方を振り返ることなく、背を向けたまま口を開いた。

 

「なあ緒祈」

「なんだい綾小路君」

「平等ってなんだと思う?」

 

 急にどうしたとツッコみたくなるがそれを何とか抑える。

 この質問はきっと今まで聞いてきた彼の言葉のどれよりも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「国境みたいなものだと思うよ」

「国境?」

「うん。海上の国境だとより分かりやすいかな。平等も国境も、言ってしまえば所詮は()()()()()()()()()()()だけれど、でも()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。社会を上手く回すために、()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だけどみんなが必死に維持しようとしているのに、中にはそれを侵そうとする連中や、自分に都合のいいように勝手な解釈をする人もいる」

「……なるほど。面白い意見だな」

「気に入ってもらえたようでなによりだよ」

「じゃあ、またな」

「うん。またね」

 

 ドアを開けて、彼は出て行った。

 ドアが閉まり、自動で施錠された。

 

「なんだったんだろう?」

 

 綾小路君が何を思ってあんなことを聞いてきたのかは分からない。過去に何かがあったんだろうけど、それを詮索されることを彼はきっと嫌がる。

 いつかその秘密を知ることになったとして、その時の僕と彼はどういう関係だろうか。味方なのか、敵なのか。

 

「……」

 

 来るかも分からない未来のことは一先ず置いておくか。

 僕はベッドに寝転がり、改めてどうすれば赤点組を救えるか考える。しかし――

 

「試験前日に勉強させない手なら、偽のラブレターで遠くに呼び出して放置するのもありだな。須藤君はちょっと分からないけど、池君や山内君なら簡単に引っ掛かってくれそうだ」

 

 思い付くのは潰す方法(そんなこと)ばかりだった。

 

 

 



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021-023 中間テスト

 021

 

 

 

 中間テスト前最後の授業が終わった。

 明日の準備があるとのことで生徒の居残りは禁止されているため、今日の勉強会はない。

 

 テスト範囲の変更が判明して一週間、このクラスは4月の醜態が嘘のように勉強に励んだ。素直に感心した。

 もう一回くらい内部分裂があるかと予想していたのだけれど、平田(ひらた)君や櫛田(くしだ)さんはもちろん、須藤(すどう)君たちの頑張りによってそのような不和は生まれなかった。

 

 ただ赤点が回避できるかというと、正直微妙なところだと思う。

 試験の攻略法を考え付いているらしい綾小路(あやのこうじ)君は、見たところまだ行動を起こしてはいないようだった。

 しかし「君が諦めたなら潰してもいい?」と聞くと「そう早まるな」と言われたので、このまま何もないということはないだろう。

 試験は明日だけど、間に合うのかな?

 

 やがてホームルームが終わり、茶柱(ちゃばしら)先生が教室から出て行った。

 

 行動を起こしたのは意外……と言うほどでもないかな、櫛田さんだった。彼女は何やらどっさりと紙の束を抱え、教壇に立った。

 

「みんな、帰る前に少しいいかな?」

 

 ここで悪いと言う人は一人もいない。

 

「明日の試験に備えて、今日まで沢山勉強してきたよね。それでね、ギリギリになっちゃったけど、力になれることがあるの」

 

 そう言って、彼女はA4サイズのプリントをクラス全体に配った。

 

「実はこれ、過去問なんだ。昨日の夜、三年の先輩から貰ったの」

「過去問? え、じゃあこれもしかして、結構使える感じ?」

「うん。実は去年の中間テストもね、この一昨年のテストとほとんど同じ問題だったんだって。だからこれを勉強しておけば、きっと本番で役に立つと思うの!」

「うおおお! 櫛田ちゃんマジ女神いいいい!」

 

 教室内が歓喜に沸く。先程までは強張(こわば)っていた須藤君や池君の表情も、今はかなり柔らかくなっている。櫛田さんが配った過去問はただ勉強に使えるというだけでなく、少々張りつめ過ぎていたクラスの緊張感を緩和する効果もあったようだ。

 この展開を計画したであろう男は一人ひっそり一足早く帰ろうとしていたので、僕は鞄を持ってその背を追った。

 

「いいの? 櫛田さんに手柄を持って行かれちゃったけど」

「いいんだよ。オレは目立ちたくないし、櫛田が一番の適任だろ」

「それもそうだね。でも本当に過去問(あれ)だけでなんとかなるかな? 去年と一昨年が似ていたからって、今年もそれに続くとは限らないでしょ?」

「……なるほど、お前はそういう考えがあったからこの方法を思い付いても却下していたんだな」

「うん。それで? 勝算はあるの?」

「ある」

 

 ノータイムで言い切ったか。綾小路君はさらりと嘘が言える人だけど、今回はどうやらマジらしい。

 

「根拠は?」

「小テストがあっただろ」

「あったね」

「その過去問も入手したんだが、今年のと一昨年のと、問題文は一言一句違わなかった」

「だから中間テストも同じだって?」

「茶柱先生はあの小テストを『今後の参考用』だと言った。あれは先生が参考にするのではなく、()()()()()()()()という意味だったんだよ。多分な」

「ははー、なるほどね」

 

 あの異様に難しかった最後の3問は、過去問の有用性に気付かせるためのヒントだったってわけか。

 

「直前の今日になって渡したのは、油断させないため?」

「ああ」

「ふーん。間に合えばいいけど」

「勝算は十分にあるはずだ。だから、余計なことはするなよ?」

「安心してよ。無闇に君と敵対しようとは思わないから」

「……無闇に、か」

「うん。もちろん必要とあらばその時は、ね?」

 

 多少冗談めかしてそう言ったんだけど、彼は予想外の反応を見せた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()

「――っ!」

 

 獅子が得物を睨むような鋭い目で僕を刺し、猛虎が唸るような低い声でそう言った。首元に牙を突き立てられたような感覚があった。そんなこと有り得ないと分かっていたけれど、血が流れているんじゃないかと自分の首を(さす)った。

 

「……おお怖い」

 

 どうやら僕は、うっかり彼の尾を踏んでしまったらしい。

 

「ま、まあ仲良くやっていこうよ。一緒にAクラスを目指す者同士、ね?」

「……はぁ。オレは別にAクラスに興味は無いし、お前もそんなに積極的じゃないだろ」

 

 ピリついていた空気が霧消した。

 よかったよかったと安心するとともに、自分の背中が冷や汗でびっしょり濡れていることに気付く。

 

 綾小路君に本気で敵認定されたら、僕、多分死ぬ。

 

 べっとりと貼り付いたシャツの感触は、まるで死神に抱かれているようだった。

 

 

 

 022

 

 

 

「全員揃っているみたいだな」

 

 いよいよ試験当日となった。

 茶柱先生は不敵な笑みを浮かべながら教室に入って来た。心做(こころな)しか、いつもより髪の艶が良いような気がする。

 そういえば最近あまり言ってなかったね。その黒髪に是非とも触らせてくださーい!

 

 試験前に何考えてんだって感じだが、正直不安は全くない。自分自身についてはもちろんのこと、赤点三人衆も悪くない顔をしている。ただ睡眠時間を削ったのか、髪の状態は少し悪い。

 

「もし今回の中間テストと7月に実施される期末テスト。この二つで誰一人赤点を取らなかったら、お前ら全員夏休みにバカンスに連れて行ってやる。そうだなぁ……青い海に囲まれた島で夢のような生活を送らせてやろう」

 

 島というものは大抵海に囲まれているし、海というものは大抵青い。だから「青い海に囲まれた島」というのは意味的には「島」の一言で済むんだけど、しかし受ける印象は全く違う。おもしろ。

 と、そんなことを考えているのは僕だけだったようだ。

 

 先生の言葉に男子諸君は何を想像したのか、

 

「皆……やってやろうぜ!」

「「「うおおおおおおおおおおおおおお!」」」

 

 吠えた。

 しれっと綾小路君も吠えていた。でも堀北さんにひと睨みされて黙っちゃった。おもしろ。

 

 やがて解答用紙が配られ、問題用紙が配られ、チャイムと同時に先生の「始め!」が響いて、運命の中間テストが幕を開けた。

 

 1時間目の科目は社会だ。僕は解き始める前に、まず全ての問題を一通り確認する。

 ……わお。

 そこに並んでいたのは、昨日配られた過去問と驚くほどに酷似した問題だった。これなら赤点が出ることはないだろうし、むしろ満点がうじゃうじゃ出てくるだろう。

 

 そして2時間目の国語も、3時間目の理科も、4時間目の数学も、どれも怖いくらい順調に消化されていった。本当、怖いくらいに。

 

 教室内は「なんだ余裕じゃん」という空気に満ちていたのだけれど、ただ一人、須藤君だけは暗い表情で次の英語の過去問を見つめ、頭を抱えていた。

 池君が恐る恐る声をかける。

 

「須藤……お前まさか」

「英語以外はやったんだ。でも、それで寝落ちしちまったんだよ――くそっ!」

 

 つまり今初めて過去問を見ているのか。

 4時間目が終わるといつもなら45分の昼休みに入るのだけれど、テストの日は全科目をひと息にやってしまうので休み時間は10分しかない。

 堀北さんが急いで彼の隣に行き赤点を回避するための最短ルートを示すが、はたして間に合うだろうか。

 

 須藤君には何度かマンツーマンで勉強を教えたけれど、この状況で僕がしゃしゃり出てもしてあげられることはない。

 そう思って自分の席を動かないでいると、向こうから綾小路君がやって来た。無表情だから何を考えているのかさっぱり分からないけれど、まさか僕が一番してほしくない勘違いをしてたりは、しないよね?

 

「おい緒祈(おいのり)

「待って。僕は何もやってないよ、本当に。須藤君は勝手に寝落ちしたんだよ。睡眠薬なんか盛ってないし、催眠術もかけてない。いや元より僕に催眠術の心得は無いけど――」

「落ち着け。別にそんなこと疑ってない」

「……およ?」

「次の英語のテスト、出来るだけ点を抑えてほしい。できれば50~60点くらいで」

 

 なんだそんなことか。昨日のこともあったし、まさか敵認定されたんじゃないかと焦ったわ。

 

「赤点のラインって平均点で決まるんだっけ?」

「ああ。クラス平均の半分の点数だ。だから無理をする必要はないが、頼んだぞ」

「あい了解」

 

 そして須藤君にとってはあまりにも短い休み時間が終了した。

 テストが始まる直前、綾小路君は堀北さんと何かを話していた。おそらく僕にしたのと同じ話だろう。

 

 このクラスは40人で、うち3人(僕、堀北さん、綾小路君)が50点を取り、須藤君を除いて他36人が平均で80点を取ったとすると、須藤君は39点以上取らなくてはならない。かなり微妙なラインだな。

 とにかく須藤君自身に頑張ってもらうしかない。僕の点数を10点下げるよりも須藤君の点数が1点上がる方が、より赤点から遠ざかるのだから。

 

 まあ綾小路君に頼まれちゃったし、出来る限り頑張りますかね。

 配点の記されていない問題用紙を、僕はじっと睨みつけた。

 

 

 

 023

 

 

 

 月曜日。

 週末を落ち着かない気持ちで過ごしたDクラスの生徒たちは、中間テストの結果発表を固唾を呑んで待っていた。そのただならない空気に、さしものクールビューティー茶柱先生も驚いた表情を見せていた。

 脇にはいつかのように、細長い筒を抱えている。

 

「では今から中間テストの結果を発表する」

 

 祈るように手を組む生徒が何人かいた。

 僕は緒祈だけど、これといって祈るような気持ちは無かった。結果は既に確定しているのだから。

 

「正直、感心している。不良品のお前たちがこんな高得点を取れるとは思わなかったぞ」

 

 社会、国語、理科、数学。

 点数を記した紙が順番に貼られていく。

 どの科目も最低点は50点を越えていて、赤点がいないことは一目でわかった。

 

 100点を取っている者も多くいたが、それでも何人かは笑顔を見せることができなかった。肝心なのは須藤君の英語がどうなったか、ただそれだけだ。

 

「最後に英語だ」

 

 来た。

 自分のより先に須藤君の点数を確認すると――39点。

 

「っしゃ!!」

 

 須藤君が立ち上がり叫んだ。

 

「俺たちだってやるときゃやるんですよ!」

 

 池君のドヤ顔に、先生は不気味な冷笑を返した。

 

「ああ、認めているよ。確かにお前たちは頑張った。だが――」

 

 茶柱先生の手には赤色のペン。それが須藤君の名前の上に一本の線を引いた。

 

「あ……? ど、どういうことだよ」

「お前は赤点だ須藤」

「は、はあ!?」

 

 喜びから一転、教室内を困惑と騒然が満たしていく。

 

「この学校の赤点の判断基準を教えてやろう」

 

 そう言って先生が黒板に書いたのは、『79.2÷2=39.6』という式だった。つまり平均点の半分取れなきゃ赤点ってわけだ。綾小路君の言っていた通りだな。過去問をくれた先輩にでも聞いたのだろう。

 今回の英語ではクラス全体であと48点抑えていれば須藤君は助かっていた。しかし今さらそんなことを言っても意味がない。

 

「これで分かったな? 須藤、お前は退学だ」

「ウソだろ……? 俺が……たい、がく?」

「放課後退学届を出してもらうぞ。保護者には私から連絡しておく」

「ちょっと待ってください!」

 

 クラスのリーダー平田君が手を挙げて、須藤君に対する救済措置はないのかと尋ねる。が、先生はそれを一蹴した。平田君は悔しそうに唇を噛む。

 

「少しよろしいでしょうか」

 

 今度は堀北さんが手を挙げて、理論的に須藤が赤点でないことを証明しようとする。が、これも先生はそれ以上の理論であっさりと()じ伏せた。

 

「他に意見のある生徒はいるか? いないな? では須藤は放課後職員室に来い。以上だ」

 

 そう言って先生は教室を出ていてしまった。それを追いかけるように綾小路君も席を立つ。池君に呼び止められるも、「トイレ」と素っ気なく答えて教室から出て行った。まだ何か打つ手があるんだろうか?

 あ、堀北さんも行っちゃった。

 うーん、どうしよう? 僕も行った方がいいのかな? でも目配せとかなかったし、別にいっか。

 

 それよりも二人が何をしようとしているのかを考えてみよう。

 赤点を回避するためには平均点を下げるか須藤君の点数を上げるか、この二択しかない。

 

 前者の場合。

 堀北さんが51点で綾小路君が50点なので、これを39点まで下げてもらうことができれば赤点ラインは多少下がる。しかしその程度では全然足りない。48点の僕が行っても焼け石に水だ。

 そもそもそんな方法で回避できてしまうなら、赤点など最初から設けないだろう。

 

 後者の場合。

 これは須藤君の点数を1点上げてもらえればそれで解決なんだけど、問題はどうやって上げるかだ。解答が確定して採点が完了している以上、どんな屁理屈をこねたところで点数は変わらない。であれば残された道は交渉しかない。

 交渉と言っても僕たち生徒が学校相手に差し出せるものなど……そういえば入学初日、先生は確かこう言っていた。

 

『学校内においてポイントで買えないものはない』

 

 ――まさか、そういうこと?

 

 あの二人のことだからポイントの無駄遣いはしてないと思うけど、でも茶柱先生のことだから無茶な額を要求してくる可能性もある。

 あとで綾小路君に恨まれるのも嫌だし、髪の綺麗な堀北さんに嫌われるのも嫌だし……はぁ、仕方ない。

 

「緒祈! お前もこんな時にトイレかよ!」

「そんなとこ」

 

 さーて、どこにいるのかねえ。

 とりあえず職員室を目指すか――あ、いた。

 

「うぶっ!」

 

 茶柱先生の姿は無くて、堀北さんが綾小路君の脇腹にチョップしていた。なにイチャついてんの?

 

「ってえな、何すんだよ!」

「何となくよ」

「えっと、上手くいったのかな?」

「あら随分と遅かったわね。罰として10万ポイント払いなさい」

「いや無理だけど……ああ、10万ポイントで買えたんだね」

「お前もここに来たということは払うつもりがあったんだよな?」

「それじゃあ2万ポイントずつ頂きましょうか」

「なんでやねん。まあ、1万ずつならいいけど」

「「1万8千」」

「1万2千」

「「1万7千」」

「1万3千」

「「1万8千」」

「……なんで上げちゃうの?」

「あなたがさっさと払わないからよ」

「お前がさっさと払わないから」

 

 仲のよろしいことで。

 はぁ……これなら来なくてよかったかな。

 

「まあいいや。1万7千ずつね」

「いいでしょう」

「お、ラッキー」

 

 なんというか、堀北さんといるときの綾小路君は随分と楽しそうだね。無表情だけど。

 

「あ、僕堀北さんの連絡先知らないから送れないや」

 

 学生間でのポイントのやり取りは、相手の電話番号かメールアドレスが分からないとできない。

 

「じゃあオレに3万4千――」

「なんでそうなるのよ。はいこれ、私の連絡先よ」

「おお、どうもどうも」

 

 こうして。

 僕にとっての中間テストにまつわるあれこれは、紆余曲折に曲折浮沈を重ねたような道のりだったけれど、最終的には美黒髪少女の連絡先を入手するという控えめに言っても最高な形で幕を閉じた。

 

 

 

 



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024 緒祈真釣

 024

 

 

 

 幕が一つ閉じたところで、それは区切りであって終わりではない。とびっきり大きな最期の緞帳幕が下りるまで、生活は、日々は続いていく。

 

 中間テストの結果が発表された月曜日の放課後、僕は帰りのホームルームを終えて職員室に戻ろうとする茶柱(ちゃばしら)先生を呼び止めた。

 

「お聞きしたいことが二つあるのですが」

「私もお前には聞きたいことがある。付いて来い」

「はい」

 

 案内されたのは職員室の隣、生徒指導室だった。

 扉を開けて中に入ると、そこには机と椅子と掛け時計と、奥にもう一つ扉があった。

 

「あれは?」

「給湯室だ。安心しろ聞き耳を立てている者はいない」

 

 ガチャリと開けて向こう側を見せてくれた。コンロと流し台とちょっとした棚のある普通の給湯室だった。

 

「聞かれて困るような話をするんですか?」

「それはお前次第だな」

 

 先生は給湯室に近い奥側の椅子に座り、僕は出入り口に近い手前に座った。

 

「なあ緒祈(おいのり)、お前はDクラスをどう見る?」

「どう、と言われましても……それは僕がクラスメイトにどんな感情を抱いているかってことですか?」

「いや。それも気になるところだが、もっと全体の話だ。とうに気付いているだろう? Dクラスには普通の入試でなら間違いなく落ちている不出来な生徒が沢山いると」

「そうですね。おかげで4月はフラストレーション溜まりまくって大変でした。でも今はそれっぽい解が見つかったので、そこまでムカつくことも無いですよ」

「ほう。どんな解だ?」

「普通の学校って、出来る人を拾ってさらに伸ばすというスタイルですよね。でもこの学校では――Dクラスでは、類稀(たぐいまれ)な才能や素質を持っていながら()()()()()()()()()()()()()()()を集めているんじゃないかと、まあそんな感じです。伸ばすというよりは磨く、ですかね」

「……存外よく見ているのだな」

「正解ですか?」

「満点ではないが及第点だ」

 

 須藤君の退学手続きに充てられる予定だったのであろう時間を使い、先生は僕に質問を続ける。

 

「どうだ? お前から見て、そんなDクラスはAクラスにまで上がれると思うか?」

堀北(ほりきた)さんが随分とやる気のようですし、そこに綾小路(あやのこうじ)君もくっ付いていますし、まあ不可能な話ではないでしょうね」

「具体的にはどれくらいの確率だと考える?」

「他のクラスのことをよく知らないのではっきりとは言えませんが、そうですね……卒業までに(いけ)君が櫛田(くしだ)さんと付き合えるのと同じくらいの確率じゃないですか?」

「ほぼ0か」

「酷いことを仰る。池君が聞いたら泣きますよ?」

「お前だってそのつもりで言っただろうが」

「ははは。どうでしょう」

「ふふっ」

 

 おっ、先生が笑ってくれた。

 こういう不意に零れてしまったという感じの笑みは、ひょっとすると初めて見たかもしれない。いつもは馬鹿にするような笑みばっかりなんだもん。

 

「そういえばお前は池や須藤(すどう)たちに勉強を教えていたな。あれは正直意外だったぞ?」

「意外って……確かに綾小路君にお願いされなかったら絶対協力してませんでしたけどね」

「それどころかむしろ積極的に潰そうとしただろう? ()()()()()()()()()()

 

 むむむ。

 

「知ったような口を利かないでください。僕だって傷付くんですよ?」

「しらばくれても無駄だ。お前の過去は調べてある」

「過去? 僕には知られて困るような過去なんてありませんよ。綾小路君には何かあるみたいですけど」

「今のは知られて困る過去がある人間の台詞だな」

「……」

「いやはや驚いたぞ? 小中学校の9年間でクラスメイトが転校した回数31回。年度中に担任が変わった回数7回。なんとまあ……」

「それがどうかしましたか?」

 

 確かに他の人に比べると少し多いかもしれないけれど、それぞれの理由は親の都合とか、そういうありふれた事情がほとんどだ。

 

「僕が何かしたってわけじゃありませんよ?」

「そうだな。だからこそ問題なんだ」

「はい?」

「暴力でクラスメイトを転校に追い込んだとか、暴言で担任を辞職に追い詰めたとか、それならまだなんとかできた。対策ができた。矯正ができた。教育ができた。しかしお前は何もせず、本当に()()()()()()()()()だった」

「その言い方だとまるで僕が疫病神みたいですけど、例えばサッカーの腕前が認められて有名なジュニアチームに招待されたことで転校したクラスメイトもいますし、担任の先生が変わった7回のうち2回は産休で1回は寿退社です。全部が全部そうではありませんが、そういう喜ばしい話もあるんですよ」

「そうだな」

 

 僕の反駁に、茶柱先生は教室でよく見せる冷笑を返した。

 

「もう一度言おう。()()()()()()()()()()

「……何を仰りたいのかよく分かりません」

「お前は本当に驚くほど何もしない。悪意があるわけでもない。それなのにお前の周囲やお前自身には、お前がいる所為で()()()()()()。先程の転校や担任の変更は数字として分かりやすいから挙げただけだ。他にも色々あっただろう?」

「確かに色々ありましたけど、それを僕の所為(せい)だと言われましても。根拠がないですよね? 僕は何もしていないんですから」

「根拠など要らん。()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そうだろう?」

「……じゃあ、まあ、仮にそうだとして。それならさっきの『緒祈真釣(まつり)は赤点組を積極的に潰そうとする人間だ』って話はおかしいですよね? 先生の仰る通り僕は何もしていないんですから」

「私は言ったはずだぞ? お前の過去は調べてある、と」

「ですから僕は何も――」

村衣(むらぎぬ)(ひょう)

「……」

 

 閉口して目を逸らす僕。

 あまりにも分かりやす過ぎる反応。

 

「転校した31人のうち唯一お前が行動を起こして、()()()()()()転校させた相手だ。基本的に何もしないお前の、数少ない例外の事件。一昨年の話だ。まさか忘れたわけじゃないだろう?」

「……さあて、どうでしょうね」

「ここからは私の推理だ。お前は自分がそこにいるだけで良いも悪いも様々な事態を呼び起こす存在だと、小学校を卒業する時点で気付いていた。そして中学校ではそれを意識的にできないかと試行錯誤し、一年半経ってようやく成功した。村衣豹をいじめの()()()にすることで転校させた。14歳の発想ではないな」

「村衣君は僕と会う前からいじめっ子でしたよ。僕が何かしたという証拠でもあるんですか?」

「証拠など要らん。さっきも言っただろう? ()()()()()()()()()()()()()()()()()。それで十分だ」

「……はぁ」

 

 溜息を吐いて両手を上げる。降参のポーズだ。

 そこまではっきりと言われては、白を切るのが馬鹿らしくなってくる。

 

 ちょっと先生に聞きたいことがあっただけなのに、なんでこうなるかな。僕は質問一つスムーズにできないのか。

 

「参りました。そうですよ。僕は村衣君を転校させました」

「ああ、そうだな」

「ちなみに、どうして僕がそんなことをしたのかも推測されていますか?」

「知りたかったんじゃないのか? どうして自分の周りでだけ変わったことがよく起こるのか。自分は一体何者なのか」

「そこまでお見通しですか……」

「だが結局分からなかった、だろ?」

「そうですね。中三の頃にもクラスメイトを一人不登校にしてみたんですけど、それでもやっぱり分かりませんでした。僕の中に何があるのか、こんな僕を構成して構築しているものは一体何なのか。地球外生命体かってくらい見つかりそうで見つからない」

「だろうな。お前は自分のことしか考えていないのだから、そりゃあそうだろ」

「……どういうことですか?」

「自分の正体を知りたいなら、まずは誰かにお前のことを理解してもらえ。独りの世界に(ひた)ったところで、いつまで経っても答えは見つからないぞ」

 

 誰かに理解してもらう、か。

 

「一先ずは堀北や綾小路と仲良くしておくんだな。あの二人もまた自分自身と向き合っている最中だ。お互い良い刺激になるだろう」

「言われなくても仲良くするつもりでしたよ。ただ、先生が期待しているほど近付くつもりはありませんけど」

「ふむ。理由は?」

「先生が言った通りですよ。僕がいる所為で何かが起きてしまう。中間テストに向けた勉強会についても、実はちょっと後悔しているんです。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()って。テスト範囲の変更にもう少し早く気付けたかもしれない。過去問をもっと有効に使えたかもしれない。須藤君が40点以上取れていたかもしれない」

「……本気でそう思っているのか?」

「ええ。まあ、7割くらい」

「ふっ」

 

 嘲笑された。

 

自惚(うぬぼ)れるな。都合が悪かったことは全て自分の所為なのか? 自意識過剰も甚だしいな」

「え、さっきと言ってること180度違うんですけど」

 

 僕は存在するだけで周囲が云々(うんぬん)言っていたような……。

 

「先程のは緒祈真釣という個体についての話だ。そして今言ったのは、一人の人間としての話だ」

「……よく分かりません」

「お前の所為で何かが起きるからと言って、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それだけの話だ」

「はあ」

「自分の責任だと素直に認められることは美徳だが、だからと言って余計な物まで背負い込むな。世界はお前を中心に回っているわけじゃない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だからもっと肩の力を抜け」

「……先生みたいなことを言いますね」

「先生だからな」

「……ありがとうございます」

 

 別にその言葉で僕の気が楽になったとか、抱えている悩みが軽くなったとか、そんなことはない。ただここまで真正面から誰かと向き合ったのは初めてだったから、少し、なんだろう、まあ、悪くない気分だった。

 

 茶柱先生との会話の中である推測がふと浮かんだので、その正否を確かめてみる。

 

「あの、ひとつ気になったんですけど、いいですか?」

「なんだ?」

「入試の結果って、僕は最初不合格でしたよね?」

「そうだな。お前を入れるとクラスが崩壊するかもしれないと、そう判断されていた」

「え……まあいいですけど。それで、偶然枠が空いたからそこに僕が入ったんでしたよね?」

「そうだな」

「繰り上がり合格に僕を選んでくれたのは、もしかして茶柱先生ですか?」

「……それは私の立場では答えられないな」

「そうですか」

 

 ということは、恐らくそうなのだろう。

 

「それについては私からも聞きたいことがあるんだが」

「なんでしょう?」

「枠が空いたのは本当に偶然か?」

「はい? いや、そこら辺の事情は先生の方がご存じでしょう? 僕は何も聞かされていませんよ」

「では聞かせてやろう。本来入学予定だったのは大犬(おおいぬ)もゆりという女子だ」

「大犬もゆり……」

「聞き覚えがあるだろう?」

「ええ。元カノです」

「……は?」

「すみません冗談です」

 

 シリアスな空気が続いていたのでここらで一つ場を和ませようかと思ったのだけれど、普通に失敗した。

 

「小学5年生か6年生のときに転校した人が、もしかするとそんな名前だったかもしれません」

「大犬もゆりの入学が無くなったのは、彼女が合格発表後に未成年でありながら飲酒していたことが確認されたからだ。いくら特殊なこの学校でも、そのような新入生を迎え入れることはできない。よって合格取り消しとなった」

「アホですね、大犬もゆり」

「しかし、飲酒くらいなら割と簡単に()()できるとは思わんか?」

「え……」

 

 そういう話ですか。

 

「もう一度聞く。責めも罰しもしないから正直に答えろ。過去にお前のクラスメイトだった大犬もゆりが、まるで()()()()()()()()()()()()()()()()()合格を取り消されたのは、本当に偶然か?」

()()()()()()()。僕はここ3年間、彼女の名前を思い出したことも無い」

「本当だな」

「本当です」

 

 先生の瞳が真っ直ぐ俺に向けられる。それを僕は正面から受け止める。

 そのまま息の詰まる沈黙が体感で1時間経過した頃、嘘を吐いていないことがようやく伝わった。

 

「……そうか」

「そうですよ」

「嘘であってくれれば良かったんだがな……」

「え?」

「長くなって悪かったな。次はお前の質問を聞こうか」

 

 気になる言葉を残して先生は無理矢理話を変えた。しかしその真意を追及したところで、どうせ答えてはくれないだろう。

 

 では本来の目的であった質問を……えっと、僕が聞きたいことってなんだったっけ? 確かポイント関係で……あ、思い出した。

 

「では一つ目、Aクラスに移籍する権利は何ポイントで買えますか?」

「ほう。なぜそれがポイントで買えると思った?」

「テストの点が買えるならそういうものも買えるかなって」

「……ふっ。2000万だ」

 

 先生は目を細め、口角を僅かに上げる。僕がどう反応するのか楽しみにしているようだった。しかし――

 

「あ、()()()()()()()()

 

 別に驚くほどの額ではなかった。そんな僕のあっさりとした反応に、逆に先生の方が目を見開いた。

 

「反応が薄いな。今お前が所持しているポイントの300倍だぞ?」

「ついさっき3万ちょっと飛んだので、600倍ですよ」

「随分と余裕そうじゃないか。まさか、既に算段が立っているのか?」

()()()()()

 

 先生はもう一度、大きく目を見開いた。

 そんなに驚くことかな?

 

「大枠だけですけどね。細かい所は全然考えてないですし、考え付いたとしても実行・実現できるかは怪しいところです」

「しかし諦めるような数字ではないと」

「そうですね。確率的には、卒業までに堀北さんと綾小路君がお付き合いするのと同じくらいですかね。参考までに、今まで何人がそれでAに行きました?」

「……ゼロだ」

「ありゃ」

 

 一人二人はいると思ったんだけどなあ。今僕の頭にある方法だと確かにかなりの手間と運が必要になるから難しいけれど、そっかー、ゼロかー。

 

「クラス全体でAに上がろうとは思わないのか?」

「上がれるもんなら上がりたいってレベルですかね。でもまあ一人で上がる方が簡単そうならそちらでって感じです。もちろん無理をするつもりはありませんが」

「そうか……二つ目の質問は?」

「二つ目はですね、××××××××する権利はおいくらですか?」

「……」

 

 先生が口を半開きにして固まってしまった。

 

「茶柱先生?」

「……あ、ああ、すまない。まさかそんな突飛なことを聞かれるとは思わなかったのでな」

 

 うーん、突飛かなあ?

 ポイントで何でも買えるって分かれば、誰でも一回は考えることだと思うんだけど。

 

「もうちょっと細かく言うと×××の××××くらいでいいんですけど」

「そんな質問をしてきたのはお前が初めてなのでな。学校はまだそれの値段を決めていないし、私がここで勝手に決められるようなものでもない」

「はあ、そうですか」

「だが少なくとも9桁。おそらくは10桁だろうな」

「うーん、()()()()()()()()ウン十億は厳しいですね。まあどうせやらないとは思いますけど」

「お前は……」

「?」

「いや、なんでもない」

「えー? なんですか? 気になるじゃないですか」

「なんでもない。話は終わりだ。そら、さっさと出て行け。私にも仕事がある」

 

 時計を見るともう30分近く話し込んでいた。先生自身にも目的があったとはいえ、よくこれだけの時間を()いてくれたものだ。

 

「では失礼します。ありがとうございました」

 

 こうして。

 僕が「行けたらラッキー」くらいの軽いノリと薄いやる気でAクラスを目指す日々が、前途遼遠に前途多難を重ねたような道のりを何となく予感しながら、これといった決意も宣誓もなく幕を上げた。

 

 

 

<続>

 




ここまで読んでいただきありがとうございました。

これにて一つ区切りがつきましたので、評価・感想をいただけると大変嬉しく思います。

評価バーが透明だった頃から評価・感想・お気に入りをくださった方々には格別の感謝を。大変励みになりました。

活動報告に創作こぼれ話的なものを載せるかもしれません。もしよろしければそちらも是非。


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第2巻
025-027 備えあれば憂いなし


 025

 

 

 

 僕が通う高度育成高等学校は東京都の23区を少し外れた場所にあり、一つの小さな街を形成している。その敷地面積は都心でありながら60万平米を優に越える。

 

 生徒は卒業まで外に出ることを原則禁止されており、渋谷へショッピングに行くことも、東京ドームで野球を観戦することも、武道館でのライブに赴くこともできない。

 それゆえ普段の生活では、ここが東京都であることを意識することはほとんどない。

 

 もちろん仕事や趣味であっちへこっちへ転々としている人を除けば、多くの人は自分が今どこにいるかを意識しながら生活することはないだろう。しかし僕たちの場合はそれよりも一段上で、そもそも地名に接する機会がほとんどないのだ。

 

 例えば外の世界では電車やバスに乗るだけで幾つもの地名に出会うけれど、僕たちが使う乗り物と言えば学校内を走る循環バスくらいのもので、そこにあるのは『噴水公園入口』や『特別水泳施設前』のような、聞いただけでは日本のどこにあるのか分からないバス停ばかりだ。

 天気予報なら自分がいる地域の名前を嫌でも目にしそうなものだけれど、支給された携帯電話にはピンポイントでこの学校の天気だけを見られるアプリがプリインストールされていた。

 

 部活動の試合等で外に出ることのある生徒はそんなに感じないかもしれないけれど、僕からすると隔離されている感がすごい。

 陸の孤島というか、独立国家みたいな印象だ。

 

 まあ、それで何か困ることがあるかと言えば別にそんなことはない。どうせ出られないのだから、この学校が東京にあろうが島根にあろうがどうでもいい。

 

 しかし外部と没交渉ではあるけれど、決して無関係というわけではない。

 

「お」

 

 ベッドで寝ている僕の体がゆっさゆっさと揺られる。誰の仕業かというと、地球の仕業。

 そう、地震だ。

 

「おお」

 

 部屋の中は真っ暗だ。窓の外も真っ暗だ。

 昨夜は日付が変わる前に寝て、それで、今は何時だ?

 

「おー……」

 

 揺れは5秒くらいで収まった。

 そんなに大きなものじゃない。震度は多分2か3。こうやって寝そべっているから、多少強く感じたかもしれない。

 

 とりあえず現在時刻と地震の規模だけでも確認しようと、寝惚け眼を擦りながら枕元の携帯に手を伸ばす。視界はぼやけていて、指先もまだ眠ったままのようで、ロックの解除に二回失敗する。

 三度目の正直。よし。時刻はまもなく午前4時。

 

 ニュースアプリを開いて――何をやっている我が親指よ、それはチャットアプリだ。はい閉じて、ニュースアプリ開いて……流石に記事はまだできてないか。

 アプリを閉じて、今度はウェブで災害庁のサイトを開く。お、あった。仕事が早いな。震源は茨城県南部で、最大震度は4、この辺りはギリギリ震度3か。

 

 知りたいことは知れたのでもう一回寝ようと目を閉じる。変に冴えることもなく、すんなりと入眠できた。

 

 

 

 026

 

 

 

 改めて目が覚めたのは9時過ぎだった。学校があれば遅刻確定の時間だけれど、今日は土曜日だ。大きなあくびと共にゆっくりと体を起こす。

 

「ん、おー?」

 

 携帯を見るとBクラスの美髪少女一之瀬(いちのせ)さんから「揺れたね! 大丈夫だった?」とチャットが来ていた。彼女の部屋は確か15階か16階だったはずだ。僕がいる3階とは揺れのレベルが違っただろう。

 「ノープロブレム。そっちは?」と返し、すぐには既読が付かないことを確認して携帯を置く。

 

 洗面台で顔を洗い、キッチンスペースへ。食パンをオーブンにセットしながらふと思う。

 

 もし大きな地震が起きて、あるいは何らか不測の事態が起きてこの部屋に閉じ込められたとして、僕は何日間生き延びられるだろうか。

 

 キッチンを見渡し、冷蔵庫の中を確認してみる。どうだろう? 3日くらいしか持たないんじゃないだろうか。いや、1食分しかストックがないこともしょっちゅうだし、そう考えるとあれが必要だろう。非常食。

 飲み物に関して言えば僕は水道水を抵抗なく飲める人間なので普段は問題ない。しかしもしも水道が止まったら? 冷蔵庫には牛乳と麦茶もあるけれど、そう何日も持つものではない。

 

 思えば食糧品に限らず、ジグソーパズル以外は必要最低限のものしか買っていない。これではいざという時に不安がある。

 

 よし。今日はホームセンターに行こう。

 もしかすると今朝の地震で同じように考えた人が大挙して押し寄せるかもしれないし、行くなら早い方がいいだろう。とは言え開店は10時なので、そこまで支度を急ぐほどでもないか。

 

 良い具合に焦げ目の付いたトーストにマーガリンを塗り、それが融けていく様を眺めつつかぶりつく。サクサクと心地好い音が跳ねる。パラパラと落ちるパン屑を白の平皿が受け止める。

 

 この学校でのポイントの有用性・重要性は先の中間テストの際に肌で感じたけれど、例えば大きな地震が起きてお皿に限らず何かが割れたり壊れてしまった場合、学校側から何らかの補償はあるのだろうか?

 対策をしていなかった生徒が悪いと切り捨てることも出来る。しかし先程も言ったように地震の揺れは高層階の方が大きくなるわけだし、そう考えると全てが生徒の自己責任というのは公平ではないように思う。

 今度茶柱(ちゃばしら)先生に聞いてみるか。

 

 朝食を終え、ぱぱっと身支度も終えると時刻は9時40分。少し早い気もするけれど、道に迷う可能性を考慮するならちょうどいい時間かな。ホームセンターには、まだ二回しか行ったことないし。

 

「携帯、学生証、部屋の鍵、よし」

 

 持ち物を確認し、ドアを開ける。

 6月の下旬にしてはひんやりと涼しい空気だった。

 

 

 

 027

 

 

 

 予想以上に道に迷ったため、ホームセンターに到着したのは10時20分頃だった。まさか建物が見えてからあれほど時間がかかるとは。

 

 入口に近付くとそこには不思議な光景があった。自動ドアの前に、一人の少女が立っていたのだ。

 不思議なのはドアが開いているのに中に入ろうとしない少女ではなく、少女が立っているのになぜか閉じたままの自動ドアだ。

 10時開店のはずなんだけど、まだ開いていないのかな?

 

 もっと近付くと、そこにいた少女が初対面ではないことに気付く。

 

「おはようございます」

「えっ……あ、おはようございます。あなたは確かDクラスの……」

緒祈(おいのり)真釣(まつり)です。えっと、Bクラスの……」

白波(しらなみ)千尋(ちひろ)です」

 

 桑色のショートヘアに桜のヘアピンが印象的な彼女と初めて会ったのは、たしか四月末日、神崎君と連絡先を交換したあの日だ。

 シマネガーデンをシネマガーデンと勘違いした僕についつい笑ってしまったのが、こちらの白波さんだ。神隠しに遭いそうな名前だなあと記憶していた。

 

 よく一之瀬さんと一緒にいるので見覚えはあったけれど、こうして二人きりになるのも、ちゃんと話すのも初めてだ。

 

「開いてないんですか?」

「そうみたいです。これ」

 

 白波さんが指差した先には、自動ドアに貼られた一枚の紙。

 

 ――今朝の地震で商品棚の一部が倒れたため、本日の営業は12時からとさせていただきます。

 

「なるほど」

 

 その可能性は全く考えていなかった。しかし言われてみれば地震が起きた時ニュースでよく見るのは、コンビニなどで棚が傾いて商品がぼろぼろと落ちていく映像だ。

 今朝のはそこまで大きくなかったけれど、全くのノーダメージというわけにもいかなかったようだ。となるとショッピングモールの方でも開館時間の変更などが発生しているかもしれない。

 土曜日ということで予定を立てていた人も多いだろうけれど、自然が相手じゃ文句を言っても仕方ない。地震なんていつ起きるか分からないんだから。

 

 そう、だからいつ起きても落ち着いて対応できるように日頃から準備が必要なのだ。『備えあれば憂いなし』と言うけれど、過剰な言い方をするなら『備えなければ命無し』だ。

 面倒だからまた後日、などと言っている場合ではない。僕たちは地震大国に生きているんだ。それを忘れちゃいけない。

 

「ひょっとして緒祈さんも防災グッズですか?」

「ええ。非常食とか、非常用持ち出し袋みたいなものがあればと思ったんですけど、そもそもお店が開いていないとは。想定外でした」

「私、今まで地震を経験したことなくて、今朝はびっくりしちゃいました」

「眠りを覚ますような地震に遭えば、誰だってびっくりしますよ」

「ふふっ、そうですよね」

 

 そんな雑談をしながら、他にそういうグッズを取り扱っていそうなお店を思い浮かべる。開いているかは分からないけれど行くだけ行ってみよう。ここで大人しく一時間半待つのは、上手な時間の使い方とは言えないだろう。

 

「とりあえずハナマルスポーツの方にも行ってみませんか? あっちは普通に営業してるかも」

「確かにスポーツ用品店ならアウトドアグッズとかもありますし、一緒に防災グッズなんかも置いてあるかもしれませんね」

「じゃあ、行きましょうか」

「はいっ」

 

 良かった。拒否反応はなかった。これでもし「あなたと一緒にはちょっと……」とか言われていたら、頬を濡らしたかもしれない。

 

 いやしかし白波さんの方は本当に良かったのか?

 女の子が休日に男と二人で出歩くというのは、短絡的な思春期高校生に見られればさては恋仲かと疑われてしまうだろう。本人に気にする様子がないので僕から一々言わないけど。

 

 梅雨明けの緑道を若い男女が二人並んで。

 

 そう言うとロマンチックというかポエミーというか、なんだかそんな感じがするけれど、何をしているかというと防災グッズを買いに行っているのだ。色気のいの字もない。あるのは命のいの字だ。

 

 僕は目的地を提案した身でありながら道に自信がないので、白波さんの一歩斜め後ろを歩く。彼女の髪があと30センチあればなあとか考えてみたり。

 道中は互いのクラスのこととか、この学校のこととか、共通の知り合いである一之瀬さんや神崎君について話した。

 

「学級委員? そんな役職あったっけ?」

「うちのクラスで勝手に作ったんだよ。決めておくと便利だろうって」

「それで一之瀬委員長か」

「うん」

 

 敬語もいつの間にか取れていて、なんだか仲良さげな感じだった。

 

「テストの点だけなら一之瀬さんの方が上だよ」

「へえ、そうなんだ。僕はてっきり一之瀬さんが統率担当で神崎君が頭脳担当なんだと思っていたけど」

「それはそれで間違いじゃないよ。神崎君は頭の回転がすごく速いの。Bクラスの参謀って感じだね」

「そっかそっか」

 

 楽しくお喋りしてくれるのは嬉しいんだけど、ただ白波さん、こっちが心配になるくらい警戒心が薄い。それはもうぺらぺらと話してくれる。

 BクラスとDクラスだからすぐに衝突するということはないけれど、とは言えいずれは敵になりうる相手だ。ちょっと口が軽すぎやしないか。

 そう思って忠告したんだけど、

 

「緒祈くんなら大丈夫でしょ?」

「いや、そう言ってもらえるのは嬉しいけどね? もしかしたら僕はBクラスの情報をCクラスに売るような非道(ひど)い男かもしれないよ?」

「で、でも、一之瀬さんが信用してる人だし」

「……ああ、そう」

 

 という調子で、彼女の中に僕に対する警戒心を芽生えさせることはできなかった。我ながら謎過ぎる挑戦だ。

 

 しかし、なんだろう? 何かが引っ掛かる。

 この違和感は白波さんとの会話の中に、あるいは白波さん自身に感じるものなんだけど、残念ながらその正体までは分からない。

 もし僕に一之瀬さんや櫛田(くしだ)さん並みのコミュニケーション能力があれば簡単に分かるんだろうけど、僕は僕だからなあ。

 一先ず置いておくか。

 

 なにはともあれ険悪なムードも気まずい沈黙もなく、至極平和な空気を保ってオレンジの看板が特徴的なハナマルスポーツに到着した。

 

 ただここで一つ誤算があった。営業はしていたのだけれど、そこは僕が想像していたより一回り小さいお店だった。

 

 よく考えると、敷地外に出ることを原則禁止しているこの学校でキャンプ用品やサバイバルグッズなんかを売っているはずがなくて、置いてあるのはスポーツウェアの類がほとんどだ。

 実家の近くのスポーツ用品店には防災グッズコーナーがそれなりのスペースで展開されていたので、その感覚で来てしまった。

 懐中電灯や救急セットなんかは置いてあったけど、それだけじゃちょっとねえ。

 

「どうする? 戻る?」

「そうだね。今から戻ればちょうど12時くらいに着くかな」

「なんかごめんね。僕がここに来ようって言ったばかりに、無駄に歩かせちゃって」

「全然! 気にしないで!」

 

 というわけで来た道を引き返して再度ホームセンターへ。

 さっきもここ通ったねーとか言いながら並んで歩くけれど、流石に会話が途切れることが増えてきた。

 

 残念ながら16年間デートの一つもしたことがない僕には、こういう時何を話せばいいのか分からない。先程までは分からないなりに頑張っていたのだけれど、それにも限界がある。

 

 話題を作るだけなら、例えば好きな食べ物とか趣味とかを聞くことはできる。でもそういうのって「こいつ私のこと知りたがってんじゃん。きも」とか思われないかなあ? 考えすぎ?

 僕がそうやって悩んでいる間に、白波さんの方から話題を振ってくれる。

 

「えっと……緒祈くんは、好きな食べ物、何?」

 

 こいつ僕のこと知りたがってんじゃん。

 え、好きなの?

 

 いやいやそんなこと言っている場合じゃない。今の質問で、さっき『一先ず置いて』おいた違和感の正体が判明した。

 

 白波さんの距離の詰め方が不自然なのだ。

 

 敬語からタメ口に移行するのも早かったし、ほとんど初対面みたいな僕と二人でいることに抵抗を示さないし、会話が途切れないよう必死になっている。

 そういう人は普通にいるかもしれないけれど、しかし彼女の場合、その積極性のわりにやけに緊張している気がする。社交性が有るんだか無いんだか分からない。

 行動から読み取れる性格と、表情や所作から読み取れる性格が全く一致しない。

 

 仲良くなりたいけど、話すのは緊張する。

 

 まさか……恋?

 

「お、緒祈くん?」

「うえっ? え、なんだっけ?」

「だから、好きな食べ物なんなのかなって」

「あ、ああ。うん。豚骨ラーメンかな」

 

 いやいやそんな馬鹿な。ありえないだろ。僕は彼女に惚れられるようなことは何もしていないぞ? じゃあなんだ、顔か? 顔が良いのか?

 自分では中の上から上の下だと評価しているこの中性的な顔立ちに、まさか一目惚れしちゃったのか!?

 

「私もラーメン好きだよっ。豚骨はあんまり食べないんだけど……今度二人でラーメン屋さん行こうよ!」

 

 二人でって、これもう確定じゃね?

 いやー、気持ちは嬉しいんだけど、僕は髪の長い人が好きなんだよなあ。さりげなく伝えるか? それで今は一度諦めてもらって、二か月くらい髪を伸ばしてから再度アタックしてもらえれば、僕もその気持ちに応えられるかもしれない。

 

 ……なんか僕の思考、傲慢じゃない? 大丈夫?

 

 結局彼女の積極的なアプローチに対して、僕は気付かないフリを貫いた。髪のことも言わないでおいた。もし告白されちゃったら、その時に教えてあげよう。それで「髪を伸ばせばまだチャンスがある!」って思ってもらえれば、二か月もすればちょうど僕好みの長さに……やっぱり傲慢になってない? 大丈夫?

 

 女の子にぐいぐい来られるという初めての体験に戸惑いつつ、ホームセンターに到着する。こちらには予想通り、防災グッズ・非常時アイテムが取り揃えられていた。他の客はそんなにいなかった。

 

「乾パンってどんな味なんだろう?」

「僕も食べたことないけど、少なくとも山菜定食よりは美味しいんじゃないかな?」

「比較対象が極端すぎるよ……」

 

 僕はポイント残高と相談しながら3日分くらいの非常食と、懐中電灯と救急セットを買った。

 

「ねえねえ緒祈くん、これ消費期限が10年ある水だって」

「ここで売るには長すぎるね」

「だよねー」

 

 水も買っておきたいけど、それは後でここより安いコンビニのやつを買おう。

 ふと見ると、白波さんの買い物かごには商品がこんもりと盛られていた。買い物が好きなのか下手なのか、はたまたただの心配性か。

 

 会計を終えると、両手に大きな袋を持った彼女がよろよろとしていたので、片方を持ってあげた。

 

「緒祈くんって優しいんだね」

「別に、これくらい誰でもするよ」

「ふふっ。照れちゃって」

 

 照れちゃいない。戸惑っているだけだ。

 こういう時、世の男たちはどうするんだ?

 

 寮に着き、ロビーを抜け、エレベーターに乗る。

 僕は自分の部屋がある3階のボタンを押さない。白波さんの荷物を持っているので、彼女が住む14階まで付き合う。

 

「助かったよ。ありがとねっ」

「どういたしまして」

「そ、そうだ、連絡先交換しようよ!」

 

 彼女の部屋に一歩踏み入り、玄関で連絡先を交換した。

 携帯に表示される『白波千尋』の文字。女子の連絡先は一之瀬さん、櫛田さん、堀北さんに続いてこれで四人目だった。

 

「じゃあまたねっ。ばいばい!」

「うん。またね」

 

 初めて入る女子の部屋ということでドキドキしたけれど、去り際に白波さんのショートヘアを見て、やっぱり恋愛対象にはならないなと思った。

 

 うーん、二か月後に期待!

 

 



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028-030 50000pr

 028

 

 

 

 全くの想定外で理解の範囲外だった白波(しらなみ)さんのアプローチ開始から一週間と少しが過ぎ、今日は7月1日、ポイント支給日である。

 ここ一か月授業態度に大きな問題はなかったしテストも頑張った。5000ポイントくらい貰えないかなあと期待していたのだけれど、残念ながら支給額は0のままだった。

 いよいよ金欠の二文字が見えてきたぞ?

 

 昨日は白波さんと二人で約束通りラーメンを食べに行ったけど、正直そんな呑気な事をしている場合ではなさそうだ。クラスポイントを増やす方法を真面目に考える時が来たのかもしれない。

 

 朝のホームルームで茶柱(ちゃばしら)先生から各クラスのポイントが教えられる。Aクラスは1004という羨ましいにも程がある数字を叩き出していた。一方のDクラスはと言えば安定の――おや?

 

「え、87って……俺たちプラスになったってこと!? やったぜ!」

 

 (いけ)君が喜びに飛び跳ねている。

 先生の話によると、中間テストを乗り越えたご褒美として全クラスに100ポイントが加算されたそうだ。教室内が(にわか)に活気付く。

 しかしそのご褒美が無かったら今月もゼロだったことを考えると、喜んでばかりもいられない。

 というか……

 

「あれ? でもじゃあ、どうしてポイントが振り込まれてないんですか?」

 

 そうだよ、それそれ。

 クラス全員を代表した池君の質問に、茶柱先生は申し訳ないという気持ちを微塵も感じさせることなく、いつもの意味深な笑みを浮かべてこう答えた。

 

「少しトラブルがあってな。1年生のポイント支給が遅れている。トラブルが解消され次第支給されるだろう。()()()()()()()()()()()、な」

 

 

 

 029

 

 

 

 放課後、須藤(すどう)君が茶柱先生に呼ばれていた。

 トラブルがあったと言われた日の放課後に、暴力的で有名なあの赤短髪が呼び出されたのだ。これで無関係ということはないだろう。支給が遅れているのは彼の所為(せい)と考えて間違いない。

 あーあ。やっぱり中間テストで潰しておけば良かったかなー。

 

 げんなりとした気分で寮に帰る。

 部屋着に着替えてベッドにダイブ。何を見るでもなく携帯を開くと、謎の通知を発見する。

 

 ――白波千尋(ちひろ)さんから50000pr(プライベートポイント)が送金されました。

 

 うん。謎だ。意味が分からない。

 そりゃ5万ポイントも貰えるのは嬉しいけど、こんな唐突にほいっと渡されても警戒するしかないだろう? 惜しいとは思いつつも送り返し、チャットで意図を問う。

 

『あれは何の5万?』

 

 既読がすぐに付く気配はない。

 白波さんは美術部に所属していて、おそらく今はその時間だ。ポイントの出入履歴を見てみると、送金されたのは帰りのホームルームが終わった直後のようだった。

 

 うーん、彼女とはどう接するのが良いんだろう?

 僕としては普通の友達として接したいんだけど、向こうがぐいぐい来るからなあ。こういう経験はないから本当に困る。かと言って突き放すのも気が引けるし。

 いっそさっさと告白してくれれば関係がはっきりするんだけど……いや、ちょっと待てよ?

 

 僕は白波さんとは、少なくとも彼女の髪が鎖骨にも触れないうちはお付き合いするつもりなどなかったけれど、打算で付き合うというのも一手か?

 

 『他クラスに友達を作ろう』作戦を思い出す。

 当初はDクラスのあまりの悲惨さを見て、何かあった時に僕を助けてくれる人が他クラスに必要だと思って始めた作戦だった。しかし現在の主目的はそれではない。

 僕は今、A()()()()()()()()()()()()()()()()()この作戦を遂行している。実を結ぶかは正直かなり難しいところだけど、何もしないよりはマシだろう。

 

 それを踏まえて白波さんと付き合うという選択肢を考えてみる。

 

 ……うん、ありだな。

 

 ……あ、いや、ありじゃない。

 

 打算で付き合って後々破局なんてことになったらそれこそ面倒だ。リスクに見合う程のメリットがない。

 やはり友達として適度な距離を保つのが一番だろう。まあ、その適度な距離というのを白波さんが全然考えてくれないのがそもそもの問題なんだけど。

 これじゃあ堂々巡りだな。

 

 とりあえず今日の授業の復習でもするか。

 そう思って体を起こしたタイミングで、携帯が誰かからのメールを受け取った。チャットではなくメールを使ってくる人は限られている。堀北(ほりきた)さんか綾小路(あやのこうじ)君か。おそらく後者だろう。

 

「うん、やっぱりね」

 

 部屋に来てほしいとのことだった。何の用事かは想像がつく。

 

『今朝先生が言ってたトラブルのこと?』

『ああ。須藤がやらかした。力を貸してほしい』

 

 自分で言うのもなんだけど、僕はクラスの中では頭が回る方だ。おそらく綾小路君もそう評価してくれているからこそ、僕に協力を要請したのだろう。

 本人が以前言っていた「他に声をかけられる相手がいない」というのも大きいかもしれないけど。

 

 理由はなんであれ頼ってもらえるのは嬉しいことだ。できることなら友人の力になりたいと思う。しかし――

 

『ごめんけどパス』

 

 今回の件に関しては、()()()()()()()()()()()()()()。何があったにせよ、僕よりずっと優秀な綾小路君なら余裕で解決できるだろう。

 

 僕は僕で白波さんの相手をするのに忙しくなりそうだし。

 今朝だって彼女は、僕と一緒に登校するために寮のロビーで待ってたからね。びっくりしたよ。

 ただ、たとえ白波さんの件が無かったとしても、須藤君が起こしたトラブル――須藤君騒動に対しては何をするつもりもない。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()、今回はそれを見せてほしいと思っている。

 

 この前の中間テストでは、クラスから退学者を出さないために随分と荒れた道を歩かされた。

 茶柱先生には何でもかんでも自分の所為だと思うのは自意識過剰だと言われたけれど、僕のこれまでの人生を鑑みるに、やはり僕がいる所為で生まれた不都合もあったはずだ。

 

 というわけで今回は僕が距離を置くことで事態はどう進むのか、あるいは進まないのか、それを見たい。

 

『そうか。分かった』

 

 とはいえ友人が困っているのに全く何もしないというのもあれなので、どうしても人手が足りない時は力になること、それからもし一之瀬(いちのせ)さんを主としたBクラスの人達に協力をお願いしたい時は、僕が橋渡しになることを伝えておいた。

 (もっと)も、人手も橋渡しも僕より櫛田(くしだ)さんの方がずっと適役なので、これは「君と敵対するつもりはないよ」という意思表示の面が強いかな。

 

 あと個人的な感情の話をさせてもらうと、須藤君のために動くというのが面倒くさい。というか、はっきり言って嫌だ。

 

 入学当初から感じていた須藤君に対する嫌悪感は勉強会を通して彼の為人(ひととなり)を知ることでいくらか落ち着いて、以前綾小路君に言われた『隙があれば潰してやろう』みたいな空気が出ることはなくなった。

 しかし今でもたまに、さっきみたいに「あの時潰しておけば良かったかな」と思うことはある。余裕で取り繕えるレベルなので本人にも綾小路君を含めた周りの人にも気付かれてはいないはずだけど、もし不用意に須藤君に近付けばまた以前のようになってしまうかもしれない。そういう危機感もあった。

 

 須藤君の手綱を握ってくれる人がいれば安心なんだけどなあ。どうせ今回のトラブルも、頭に血が上って他クラスの生徒に暴力を振るったとかそんなとこだろう。これだから筋肉バカは。

 期末テストまであと一か月無いんだぞ? ちゃんと勉強してんのか?

 

 なんで僕がこんな心配してやらなくちゃいけないんだよ……。

 

 高校生活初めての夏がいよいよ本格的に始まろうとしている今日この頃。やけに積極的な白波千尋とやけに暴力的な須藤(けん)が、僕の頭を悩ませていた。

 

 

 

 030

 

 

 

 翌日。

 朝のホームルームで、昨日言っていた『トラブル』の詳細が伝えられた。予想通り須藤君の暴力事件だった。

 

 被害者を名乗るCクラスの生徒は「一方的に殴られた」と主張し、須藤君は「向こうが先に喧嘩を売ってきた。正当防衛だ」と反論している。両者の証言が食い違うため結論が出せず、ポイントの支給を遅らせる事態となったようだ。

 最終的な判断は来週の火曜日に下されるとのこと。それまでに何らかの証拠を提示できないと須藤君は停学処分だし、クラスポイントにも影響があるだろう。まったく、何してくれてんだか。

 

 教室内はどうせ須藤君が悪いという空気になっていたけれど、櫛田さんは「クラスの仲間を信じたい」とか言い出した。そしてクラスのまとめ役でもある平田君や軽井沢さんがそれに賛同したため、一転して須藤君の無実を証明するために目撃者を探そうという流れになった。

 リーダーシップや求心力を持つ人は凄いね。僕には絶対にできない芸当だよ。

 

 まあ、目撃者が見つかったところで大した意味はないと思うけど。

 

 須藤君の言葉を信じるならこれはほぼ間違いなくCクラスが仕組んだ罠ということになる。曲者と噂の龍園(りゅうえん)君が統治する、あのCクラスだ。

 僕のAクラス移籍計画のことを考えると、龍園君の思想・思考はある程度知っておきたい。しかし不用意に近付いて目を付けられるのも嫌だ。今回は予定通り我関せず、大人しくしておこう。

 

 と、思っていたのだけれど……

 

「ねえ緒祈(おいのり)くん。緒祈くんってBクラスの人達と仲良かったよね? 目撃者がいないか一緒に聞き込みに行かない?」

「え」

 

 放課後、櫛田さんに声をかけられてしまった。

 確かに僕はBクラスに何人か友人がいるけれど、櫛田さんの交友網には到底敵わない。僕を連れていく意味はないと思うんだけど、それを伝えると、

 

「ダメ、かな?」

 

 上目遣い+涙目の必殺パンチが飛んできた。一瞬くらっとするけれど、所詮はショートヘアだと言い聞かせてなんとか平静を保つ。

 風が吹いても大して(なび)かないような髪に、この僕が靡くわけないだろ。なめんなよ。

 

 しかしここで抵抗を続けて教室内の視線を集めてしまうのも本意ではないため、仕方なく一緒に行くことにする。

 

 櫛田さんはどうして役に立ちそうもない僕を誘ったのだろうか? さてはあの男の仕業かと綾小路君の方を見ると、一瞬だけ目が合ってすぐに逸らされた。

 まさか自分が上手く逃げられなかったからって、腹いせに僕を巻き込んだのか? やめてくれよ……。

 

 Bクラスの教室に着くと櫛田さんは僕を置いてひょいひょいと前に行き、他クラス相手でも物怖じすることなく堂々と話を始めた。

 ほら、やっぱり僕いらないじゃん。

 

「少しだけ話を聞いてもらってもいいですか? 私、Dクラスの櫛田桔梗(ききょう)って言います。実はDクラスとCクラスの間でトラブルがあって――」

 

 適当に聞き流しながら知り合いがいないか探す。一之瀬さんはいないようだけど、神崎君を発見した。

 

「やあ」

「珍しいな、緒祈がここに来るのは」

「入学初日以来だね」

「今回は災難だったな」

「まあね。でも災難なのはむしろ、無関係なのにポイントの支給が見送られている神崎君たちじゃない?」

「多少支給が遅れたところで俺たちは困らないさ」

「あはは。それもそうか」

 

 確かにポイントが貰えなくて一番困るのはDクラスだ。

 ただ、困るとは言っても借金しなきゃやってられないって程ではないんだよね。少なくとも僕は。

 ……それがどうも()()()には伝わらない。

 

「ねえ神崎君」

「どうした?」

「白波さんってどんな人?」

 

 昨日の5万ポイントは本人曰く「緒祈君がポイントに困ってると思って」とのことだった。

 その厚意はありがたいんだけど、そこまで切羽詰まってないし、額がでかいし、なにより警戒心が捨てきれない。

 

 しかしいくら遠慮しても彼女は執拗に5万ポイントを送ってくるので、その度に同額を送り返している。ログでは僕と彼女の間で5万ポイントが9往復していた。

 学校が見たら不審がること間違いなしだ。いや、誰が見ても不審だろう。

 

「俺はほとんど話したことがないから深くは知らないが、一部ではマスコットキャラのように扱われているみたいだぞ。話し上手というよりは聞き上手なタイプだな。引っ込み思案とまでは言わないが、少々気弱な性格のように思う」

「なるほどね……」

「白波がどうかしたのか?」

「いや、気にしないで」

 

 僕が抱いている印象とはズレがあるな。

 

 部活に行ったのか幸いにも今この教室にはいないけど、もしクラスメイトが周囲にいる状況で僕が現れたら、彼女はどういう挙動を見せるだろうか。

 『普段教室にいる時の白波千尋』なのか、それとも『緒祈真釣(まつり)を前にした時の白波千尋』になるのか、はたまたパニックになって逃げ出すのか。それが分かればまた少し彼女のことを理解できるんだけど……まあ、理解したところで何ができるかは分からない。

 

「人の寄り付かない放課後の特別棟か。目撃者がいる可能性は極めて低いな」

「……」

「緒祈?」

「……うん? ああ、ごめん。ちょっと考え事してた」

「それは構わないが、Dクラスはどうするつもりだ? 目撃者が見つからなかった時のことも考える必要があるだろう」

「どうするんだろうねえ?」

「他人事みたいな言い方だな」

 

 今の僕には須藤君騒動の目撃者がいるかいないかより、白波さんの人物像の方がずっと気になる。気付いたら彼女のことばかり考えている……という程ではないけれど、僕の脳みその数割を占有されていることは間違いない。

 しかし緒祈真釣は白波千尋のことを狙っている、なんて噂が流れても面倒なのであまり積極的な調査はできない。やっぱり本人に向き合うのが一番かなあ。

 

 いや、今はとりあえず須藤君騒動のことを考えるか。直接的に関わるつもりはないけれど、一切無関係を通せるとも思えないし。

 

「もしBクラスの力が借りたくなったら、また僕か櫛田さんが来ると思うから、その時は話だけでも聞いてよ」

「ああ。しかし一之瀬が事情を知ったら、むしろこちらから協力させろと言い出すかもな」

「あー、それはありえるね」

 

 今回の一件はCクラスによる冤罪事件の可能性が高い。虚偽の報告により不当な罰が与えられるかもしれない状況は、正義感の強い一之瀬さんなら、それが他クラスのことであっても見過ごせないだろう。

 

 問題なのはもし一之瀬さんから協力の申し出が来た場合に、それをDクラスが受け入れられるのかどうかだ。特に堀北さんは強い抵抗感を示すと思う。

 何かしら策が必要になってくるのかな。

 

 まあ、どうせ最後には綾小路君がなんとかしてくれるだろう。

 万が一なんとかならなかったら、その時は白波さんの5万ポイントに手を付けてしまうことになりそうだ。

 

「緒祈?」

「……うん? ああ、ごめん。考え事してた」

「またか。それは構わないんだが、櫛田はもう帰ったぞ」

「えっ」

 

 教室を見渡すと、確かにそこに栗きんとん色のショートヘアはいなかった。あの女、わざわざ僕を連れて来たくせに一人で帰りやがった。

 僕が神崎君と喋っていたから邪魔をしないようにという配慮なのかもしれないけど、一言もないのはなーんか納得いかないぞ?

 

「それじゃあ僕も帰るとするよ」

「ああ。目撃者探しの件は一之瀬にも話しておこう」

「助かるよ。と言っても僕は今回そこまで積極的に動くつもりはないけどね」

「そうなのか?」

「うん。ちょっと個人的に面倒事というか厄介事というか、何だかよく分からない問題を抱えていてね」

「なるほど。白波のことを聞いたのはそれか」

 

 相変わらず察しが良いねえ。

 流石はBクラスの参謀さんだ。

 

「これに関してはそっとしておいてくれると嬉しいかな」

「お前がそう言うなら余計な手は出さないさ」

「ありがとう。じゃあ、また」

「ああ。またな」

 

 僕はDクラスの教室には寄らず、そのまま寮に帰った。

 携帯を見るとまたポイントが増えていたので、慣れてしまった手つきでささっと送り返す。

 

 あっちへこっちへ落ち着きのない5万ポイントは、記念すべき10回目の往復を完了した。

 

 

 

 



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031-033 魅惑の少女

 031

 

 

 

 7月4日、木曜日。

 今日のお昼もいつも通り教室でパンを齧るつもりだったのだけれど、綾小路(あやのこうじ)君が一人寂しそうにしていたので予定を変更する。パンは夜にでも食べるとしよう。

 

「やぶらこうじのぶらこうじ君、学食行こうよ」

「誘ってくれるのは嬉しいが、オレはそんな日本一長い名前の折り返し地点に登場しそうな名前ではないぞ」

「ごめんね。人の名前を覚えるの苦手でさ」

「寿限無は全部覚えてそうだけどな」

 

 昼休みは(いけ)君たちと過ごしていることが多い綾小路君だけれど、週に1度か2度、誘われずに教室に取り残されていることがある。寂しいなら自分から声をかければいいのに、彼にはそれができないらしい。

 僕はそういう時を狙って月に何度か彼と昼食を共にしている。

 

 ちなみに僕と池君たちという組み合わせはない。中間テスト前の勉強会で多少は距離が縮まったけれど、彼らと馴れ合っても得るものはないというのが僕の素直な見解だった。何か用がある時は綾小路君を通せばいい。

 そんなわけで「馬鹿は嫌い」の一言で突き放してみるとそれが思いの(ほか)上手く効いたようで、彼らとはもう一か月以上口を利いていない。ちょっとやり過ぎだったかも?

 

 でも今回問題を起こしたのがその『彼ら』の中の一人だと考えると、やっぱり距離をとっておいて正解だったかな。

 

 学食に到着し、僕は山菜定食の次の次に安いもやし炒め丼を選んだ。綾小路君は酢豚定食だ。

 20人掛けくらいの長いテーブルの端っこに座り、僕は食事もそこそこに質問する。

 

「タイムリミットまであと5日でしょ? どうなの、進捗は」

 

 須藤(すどう)君への最終審判が下るのは来週の火曜日だ。それまでにCクラスの生徒が先に仕掛けてきたという証拠を学校に提出しなくちゃいけないんだけど、間に合うのだろうか?

 関わるつもりがないとはいえ、自分のクラスのことなのでやはり気になる。

 

「どうだろうな。目撃者の候補は見つかったんだが……」

「おー、やるじゃん」

緒祈(おいのり)って、佐倉(さくら)と友達だったりするか?」

「あー、そういう展開ね。残念ながら力になれそうにないよ」

「一応今日の放課後、櫛田(くしだ)が声をかける予定ではあるんだが」

「逃げられるだろうね」

 

 佐倉さんといえば鴇色ロングの美髪少女だ。

 極度の人見知りのようで、彼女が誰かと喋っている姿を僕はまだ見たことがない。社交性モンスターの櫛田さんでも一筋縄ではいかないだろう。

 

 それにもし佐倉さんが本当に目撃者だったとしても、須藤君と同じDクラスの証人だ。目撃したという記憶だけの主張ではまともに取り合ってもらえないだろう。

 一部始終を動画で撮影していたとかなら別だけど、そんな都合の良い話があるわけもない。

 

「すぐに決着がつかないってことは、現場に監視カメラはなかったんだよね?」

「今日帰る前に堀北(ほりきた)も連れて見に行くつもりだが、おそらくそうだろうな」

「じゃあもう完全にCクラスの策だね。須藤君はそこまで考えられないでしょ」

「辛辣だな」

「真実だよ」

「……今のは少し堀北っぽかったぞ」

「うーん、あんまり嬉しくない」

 

 そういえば須藤君は堀北さんにほの字らしい。中間テストの際に助けてもらったからだとか。

 これで堀北さんが須藤君の手綱を握ってくれれば安心なんだけど、彼女の性格を考えると厳しいかな。

 

「一応確認しておきたいんだが」

「うん?」

「今回は須藤を潰そうとは考えてないのか?」

 

 何故か警戒されていた。いや、当然の警戒か。

 

「安心してよ。手を出すつもりは本当にない。というか、それどころじゃないんだよね」

「何かあったのか? そういえば最近他のクラスの女子と登校しているようだが」

「気にしなくていいよ。個人的な問題だから」

「そうか」

 

 実を言うと、少し困ったことになっている。

 十日程前に恋愛対象にはならないと確認したはずのショートヘアの白波(しらなみ)さんが、ここ数日ちょっと可愛く見えてしまうのだ。

 

 彼女は今週に入ってから毎朝僕と登校しようと寮のロビーで待ち伏せている。部活が休みの日には一緒に帰ろうと昇降口で待ち構えている。5万ポイント攻撃は止んだけど、毎日欠かさずチャットを送り付けてくる。

 驚くことにそんなストーカー染みた行為を抵抗なく、むしろ好意的に受け止めている自分がいた。

 

 くっ、所詮僕も思春期の男子高校生か!

 

 もし今白波さんに告白されたら、シチュエーション次第ではOKしてしまうかもしれない。数日前までは想像できなかった精神状態になっている。

 煩悩恐るべし!

 

「なんかお前、様子おかしくないか?」

「そうだね。そうかもしれない」

「恋煩いか?」

「……」

「え、マジで?」

「どうだろうね。自分でもよく分からない」

「似合わねー」

「うるせえよ」

 

 ムカつくことを言われたので、綾小路君の皿から主役である酢豚の豚肉を奪う。彼は反撃しようとこちらに箸を伸ばしたけれど、その先にあるのは炒めたもやしだった。

 香車と飛車の交換みたいだな。ざまあみろ。

 

 

 

 032

 

 

 

 昼食を終えて教室に戻る。

 5時間目が始まるまでまだ少し時間があったので、仕入れたばかりの情報を一之瀬(いちのせ)さんに提供した。

 

『今日の放課後、うちのクラスの綾小路君と堀北さんが特別棟に行くみたいだよ』

 

 須藤君騒動のあらましを知った一之瀬さんは、私にも協力させてほしいと一昨日の夜から言っていた。何故それを僕に言うのか謎だけれど、彼女にとって一番仲が良いDクラスの生徒は僕なのだろうと思い込んでおく。そうしておいた方が、気分が良い。

 

 ただ僕はこの件に関わるつもりが更々ないので、Dクラスの誰かを紹介してあげようと思った。

 ここで問題なのが、誰を紹介するかだ。

 

 リーダー的存在で言うなら平田(ひらた)君、櫛田さん、軽井沢(かるいざわ)さんが挙げられる。2クラス合同の人海戦術で探せば、目撃者を見付けるのも楽になるだろう。

 しかし今回の事案が、果たして目撃者を見付けただけで解決するようなものだろうか。

 

 実際、佐倉さんという目撃者候補を発見したことで事態は動くだろうけど、解決に近付くかというと微妙なところだ。

 彼女がDクラスであることや、その内気な性格はこの際問題ではない。重要なのは、証言が真実であることをどう証明するのかだ。

 

 一之瀬さんを紹介するなら、だから人一倍頭の回る綾小路君が最適だと思う。彼の発想と彼女の人脈があれば、須藤君騒動の解決は秒読みだろう。

 ただ実力を隠したがっている綾小路君を一人で一之瀬さんの前に出してしまうと、逆に行動が制限されてしまう。だから彼の隠れ蓑として堀北さんにも同席してもらいたい。

 

 しかしここでまた一つ問題があって、プライドが高い堀北さんは他クラスの協力を素直に受け入れられないはずだ。綾小路君が上手く説得という名の誘導をしてくれるとは思うけれど、周囲に人がいる状況では堀北さんも意思を曲げにくいだろう。

 

 というわけで、今日の放課後は絶好の機会なのだ。

 

 特別棟の事件現場で偶然を装って会ってもらう。僕がもっと直接的に紹介をするという手もあるけれど、残念ながら僕は堀北さんに綾小路君ほどの信用はされていない。そして何度でも言うけれど、この件に直接的に関わるつもりがない。

 ひょっとすると一之瀬さんは、僕から情報を得たと包み隠さず言ってしまうかもしれない。別にそれならそれで構わない。何を選ぶも彼女の自由だ。

 僕はただ、須藤君騒動がDクラスに不利益のない形でとっとと解決してくれればそれでいい。

 

 しかし何をもって『解決』と言うべきかは難しい所だ。

 Cクラスの生徒を殴ったという事実がある以上、須藤君にとって、そしてDクラスにとっては非常に不利な状況だ。

 

 須藤君だけが長期停学になる完全敗北(10-0)か、当事者全員が短期停学になる戦略的妥協(5-5)か、それとも事件そのものを無かったことにする抜本的解消(0-0)か。はたまたCクラスだけが長期停学になる完全勝利(0-10)か。

 

 綾小路君の働きも大事だけど、最終的には隠れ蓑・堀北鈴音(すずね)の決断に委ねられることだろう。

 

 

 

 033

 

 

 

 放課後。

 寮に戻って自室でくつろいでいると、一之瀬さんから連絡があった。綾小路君たちと上手く接触できたとのことだった。

 

 予想通り堀北さんは最初渋ったらしい。そして予想に反して、綾小路君が何を言うでもなく自分の意思で協力を受け入れたそうだ。

 一之瀬さんの話術が光ったのか、それとも僕が思っている以上に堀北さんは私情を排して物事を考えられる人だったのか。なんであれ綾小路君にしてみれば楽な展開だっただろう。

 

 ただ少し気になることもあって、いつぞやのテスト範囲のように『Dクラスにだけ知らされていない情報』が二つ判明した。

 

 一つ目は、担任の先生の評価は卒業時に担当していたクラスで決まるということ。Aクラスの担任になれれば特別ボーナスが支給されるそうだ。これは先生のやる気には影響するけれど、生徒にとってはあまり関係のない話だ。

 

 二つ目は生徒にがっつり関係があって、部活動などで活躍した生徒にはポイントが支給され、さらにその生徒の所属するクラスにもポイントが入るとのことだった。

 須藤君騒動の中心人物である須藤君はバスケ部に所属しており、1年生でありながらレギュラー獲得間近と言われている。彼が大会で良い結果を残せば、クラス全体が恩恵を受けるというわけだ。

 それを4月の段階で教えてくれていれば、あそこまで彼のことを嫌うことも無かったのに。茶柱先生は怠慢だなあ。Aクラスに上がることを(はな)から諦めているのだろうか?

 

 まあ、僕としてはクラスで上がれないなら個人で勝手に上がるだけだ。出来るかどうかは別として。

 

 それに須藤君のことよりも、今はこっちに忙しい。

 

『今日の夜、緒祈くんの部屋に行ってもいい?』

 

 白波さんから、そんなチャットが送られて来た。

 

 夜中に異性の居住フロアへ行くことはルールとしては禁止されていないけれど、僕の心臓にはあまりよろしくないので是非とも遠慮していただきたい。

 しかしこの友達だか何だかよく分からない曖昧な関係に決着をつけるためには、ここで逃げるわけにもいかない。

 

 白波さんが来るまでの時間、勉強でもしようかと思ったけれど、どうにも身が入らない。しかし何かしていないと落ち着かない。そんなわけでジグソーパズルに興じることにする。

 ()()()()()()()()()()()()()から目を背けるように、濃緑のピースを弄る。

 

 夜の8時過ぎ。インターホンが鳴った。

 

「い、いらっしゃい」

「お、おじゃまします」

 

 まさかこの部屋を訪れる客人第二号が他クラスの女子とは。4月の僕には想像もできなかったことだ。

 

「男の子の部屋に入るのって初めてだから、き、緊張しちゃうなあ」

 

 おそらく部屋着なのだろうラフな格好をした白波さん。

 声が震えているし、足も震えている。そんなに緊張するなら来なくていいのに。

 

 ……いや、どんなに緊張してでも、来なければならない理由があるのだろう。それだけの目的があるのだろう。

 

「あっ」

「ああ、ごめん。すぐ片付けるよ」

 

 部屋には5パーセントも完成していないジグソーパズルが広がっていた。

 

「ゴーギャンだよね」

「おお、よく分かったね」

「私、美術部だから」

 

 外縁のピース、つまり凸でも凹でもない『辺』があるピースがぐるりと繋がっているだけなんだけど、美術部員という生き物はこれだけで何の絵か分かるのか。すごいな。

 素直に感心しながら片付ける。

 

 床が綺麗になったところで折り畳み式のテーブルを出して、椅子に座るよう勧める。僕は腰を落ち着かせる前に、キッチンスペースに向かう。

 

「何か飲む? と言っても麦茶と牛乳と水道水しかないけど」

「じゃあ、お茶をもらおうかな」

「了解」

 

 二つのコップによく冷えたそれを注ぎ、片方を渡す。

 

 白波さんは少し口を付けて、机の上に置いた。

 僕はベッドに腰掛けて一口飲んで、背の低いテーブルの上に置く。

 

「それで、どうしたの? こんな時間に、こんな場所に」

 

 このシチュエーション、彼女の表情、態度。

 経験がなくとも、予感するものはある。

 

「えへへ……まあ、用っていうか、なんていうか」

 

 そう簡単に切り出せる本題ではない、か。

 白波さんは何かを誤魔化すように、僕の部屋をきょろきょろと見回した。

 

「あんまり物を置いてないんだね」

「そうだね。これといって欲しい物があるわけでもないし」

「それにしたって殺風景すぎるよ」

「買うお金もないからね」

「やっぱり5万ポイント欲しくなった?」

「いや。借りを作りたくない」

「そんなこと考えなくていいのになあ」

 

 そう言うと彼女は椅子から立ち上がり、何故か僕の隣に来た。ベッドに座っている僕の隣に、女の子が座った。

 

 マットレスが僅かに沈む。

 僕の右肩が彼女の左肩に、触れそうで触れない。

 

「緒祈くんはさあ、恋人、いる?」

「もしいたら夜中に異性を部屋に上げたりはしないだろうね」

「そっか……じゃあ、今までいたことは?」

「あったらここまで緊張してないかな」

「そっか、緊張してるんだ」

「……うん」

 

 彼女の息づかいが微かに聞こえてくる。

 僕の息づかいも、彼女に聞こえているのだろう。

 

「こうやって改めて近くで見てみると、緒祈くんって綺麗な顔立ちしてるね」

「ありがとう。そう言う白波さんも綺麗だと思うよ」

「えへへ、ありがと」

 

 お世辞半分なんだけど、それでも彼女は嬉しそうにはにかんだ。

 

「ねえ緒祈くん」

「何?」

真釣(まつり)くん、って呼んでもいい?」

「……どうぞ」

「私のことも千尋(ちひろ)ちゃんって呼んで?」

「……千尋さん」

「むぅ」

「流石にちゃん付けは無理だよ」

「仕方ないなあ……」

 

 女子を下の名前で呼んだのは、記憶にある限りこれが初めてだ。

 その無防備で無警戒な姿を見ると、このまま僕の色んな初めてが彼女に奪われてしまいそうな、そんな錯覚に襲われる。

 

「ねえねえ真釣くん」

「なにかな千尋さん」

「呼んだだけ」

「……あっそ」

「ふっ、ふふふっ」

 

 なんの中身もない会話。

 でもそれが、不快じゃない。

 

「ねえ」

 

 白波さんの――千尋さんの体が傾いて、僕の右肩に彼女の頭が乗っかった。布一枚隔てた向こうに、確かな体温がある。

 お風呂に入って来たのだろうか。柑橘系のシャンプーの香りが、シャボン玉のようにふわりと漂ってきた。

 

「今、どんな気分?」

「……分からないよ」

「初めての気分、ってことだね」

「そう、なのかな」

 

 肩の重みが無くなった。彼女は姿勢を戻して、今度はまっすぐに僕の目を見つめてくる。

 

 淡い桃色に上気した頬、潤んでいるようにも見えるつぶらな瞳、何かを求めているような艶やかな唇。

 

 ほんの少し体を傾けるだけで、簡単に届いてしまう距離。

 

「あのね、真釣くん」

「うん」

「私……その、ね」

「うん」

「えっと、その、なんていうか」

「うん」

「……」

「……」

「え、えへへ、ごめんね。ちょっと待ってね」

「うん」

 

 すーっ、はーっ。

 すーっ、はーっ。

 

 彼女の深呼吸で、空気が動くのを感じる。

 熱を持った柔らかな無色透明が、僕の頬に触れる。

 

「よしっ」

「……」

「あ、あのね!」

「うん」

「真釣くん! あの、私っ、私ね!」

「うん」

 

 

 

「真釣くんのこと――()()()()()()()()()()!」

 

 

 



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034-035 少女の思惑

 034

 

 

 

「もしかして告白されると思った? こんな夜中に部屋に女の子が来て二人っきりで、なんだかいい感じの甘ったるい空気になって、告白間違いなしだと思った? ふふふっ。そんなわけないじゃん。そんなことあるわけないじゃん。私、緒祈(おいのり)くんのこと全然好きじゃないもん。これっぽっちも好きじゃないもん。むしろ嫌いだね。カメムシの次くらいに嫌いだね。びっくりした? びっくりするよね。だってついさっきまでの私って、(はた)から見れば完全に緒祈くんに惚れてる女の子だったもんね。でもね、それは全部演技なの。嘘なの。偽りなの。すっごく面白かったよ? 女の子に詰め寄られてドキドキしてたでしょ? 生唾を飲み込んだでしょ? 簡単に騙されてやーんのっ。緒祈くんって私に惚れられるようなこと何かした? してないよね? 私の記憶には何もないよ? それともしたつもりになってたとか? うわー、ダサいよ。それはダサいよ。アピールしたつもりになって、それが伝わってるつもりになって、『千尋(ちひろ)ちゃんって僕のこと好きなんじゃね?』とか気持ちの悪い勘違いしてたんでしょ? うわー引くわー。恥ずかしくないの? 生きてて恥ずかしくないの? 女の子にこれだけ言われて反論の一つもできないとか、男として恥ずかしすぎるでしょ。あ、でもね? 一つだけ評価してることがあるの。緒祈くん、私があげた5万ポイント受け取らなかったよね。あれは安心したよ。私も最初からあげるつもりなかったから。もしあれを『ありがとー!』とか言って懐に入れてたら、緒祈くんのことゴキブリより嫌いになってたよ。よかったねーゴキブリに勝てて。ま、それでもカメムシには勝てなかったんだけどね! ふふふっ。怒った? 怒った? ねえ怒っちゃった?」

白波(しらなみ)さん」

「それとも悲しいのかな? 私が部屋に入って来た時点で絶対に告白だって確信してたのに、こっぴどく裏切られたもんね。でも私は悪くないよ。だって緒祈くんが勝手に期待しただけだもん。自分の道化っぷりは理解できた? 泣きたいなら泣いていいんだよ。その無様な姿を録画して、学校中にばら撒いてあげる」

「正座」

「え、なんで? なんで私が正座しなきゃいけないの? 偉そうに命令しないでよ。 何様なの? 俺様なの? 俺様な態度に女の子がキュンキュンするとか思っちゃってるの? うわー、気色悪っ。ただの嫌な奴じゃん!」

「正座」

「ひょっとして『冷静に対処できてる僕カッコいい』とか考えてる? いやいや全然カッコついてないよ? 私に騙されてた時点でもう手遅れだよ?」

「正座」

「壊れちゃったのかな? あまりのショックに『正座』以外の言葉を失っちゃったのかな?」

「正座」

「だからさあ、そんな壊れた機械みたいに繰り返されても」

「正座」

「ねえ聞いてる?」

「正座」

「あ、あのー」

「正座」

「えっと」

「正座」

「……」

「正座」

「…………はい」

 

 ようやく静かになった。

 絨毯も何もない冷たい床に正座する白波さんを見て、僕は5秒かけて大きく溜息を吐く。

 

「僕は今、ショック2割、怒り1割、納得1割、困惑6割だよ」

 

 告白されると思っていたら全然好きじゃないと言われたのでショック。明らかに告白の空気だったのに全然好きじゃないと言われたので怒り。僕は惚れられるようなことは何もしてないのにと思っていたら、本当に惚れられていなかったので納得。

 そしてこの状況に、ただただ困惑。

 

「分かっているのは君が僕のことを好きじゃないということと、なぜか()()()()()()()()()()()()こと。この二つだけだ。それ以外がさっぱり分からない。ねえ白波さん。白波千尋さん。君、何がしたいの?」

「えっと……」

「目的として考えられるのは僕を退学させることかな。告白みたいな雰囲気を作っといて、思いっきり卓袱台(ちゃぶだい)ひっくり返して、勢いそのまま僕を挑発する。そして僕が暴力的であれ性暴力的であれ手を出したら、その事実を学校に報告する。そしたら僕は退学だ。僕を退学させたい理由は分からないけれど、筋は通っている。というか他に浮かばないんだけど、どう?」

「えっと、全然違います」

「全然違うのか」

「うん。全然」

 

 じゃあ何が目的でこんなことを……。

 

「わ、私は、噂を確かめたかったの!」

「噂?」

「前からね、Bクラスではこんな噂が流れてたの。『今年の新入生の中に、本来入学するはずだった人を蹴落として入ってきたとんでもない極悪人がいる』って」

「なんだその噂」

 

 僕以外に繰り上がり合格の生徒がいたとは聞いていないから、まず間違いなく僕のことを言っているのだろう。

 しかし僕はそんな極悪人ではない。大犬(おおいぬ)もゆりは勝手に酒を飲んで合格を取り消されたのだ。誰だよこんな根も葉もない噂を流したのは。

 

「それで、一之瀬(いちのせ)さんが噂の真偽をすごく気にしていたから……」

 

 Bクラスで噂になっているなら、そりゃあ一之瀬さんが知らないはずはないだろう。神崎(かんざき)君も知っているはずだ。

 

「その噂はいつ頃から流れてたの?」

「私が知ったのは5月のはじめ頃かな」

 

 だいぶ前だな。ということは、あの二人はそれを知ったうえで僕と仲良くしているのか。

 真偽を気にしているということは、僕が噂通りの極悪人である可能性も考えて接している。いやむしろ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のか。

 

 ふーん、そうだったんだ……。

 

「白波さんは、クラスのリーダーである一之瀬さんの為にその噂が本当かどうか確かめようとしたんだよね?」

「うんっ」

「もし僕が噂通りの極悪人なら、このシチュエーションでは君を襲うだろうって、そういう考え?」

「うんっ」

「馬鹿なの?」

「うっ」

 

 ショックと怒りが消えて、代わりに呆れが出てきた。

 

「それで本当に襲われたらどうすんのさ。ここには監視カメラも目撃者もないんだよ?」

「大丈夫。会話を録音してるから」

「馬鹿正直に言ってどうする。それに、音声データは僕の罪を証明するのには使えるけれど、今この瞬間の君の身は守ってくれないよ」

「……確かに!」

 

 もしかして白波さんって、とんでもないアホの子?

 心配になってきたぞ?

 

「噂を確かめるにしても捨て身過ぎない? なんでそこまでするのよ」

「それは……一之瀬さんに、認めてもらいたくて」

 

 Bクラスのリーダーである一之瀬さんの信頼を得ることで自分の立場を上げたい、という言い方ではないよな。もっと一之瀬さん個人に執着している感じが――

 

「私、一之瀬さんのことが好きなの」

「……なるほどね。やっと君の背景が見えてきた」

 

 事の発端は一之瀬さんへの恋心。そして好きな人に認められたい、評価されたいという願望。一之瀬さんが頭を悩ませている噂の真偽を調べられれば、きっと褒めてもらえるだろうという推測。

 そして実行された『もし噂が本当なら、これだけ挑発すれば緒祈真釣(まつり)は間違いなく白波千尋を襲うだろう』というツッコみどころ満載どころか過剰積載で転覆必至の計画。

 

「白波さん」

「は、はいっ」

「正座」

「え?」

「正座」

「あの……もうしてるんだけど」

「ああ、そうだったね」

 

 不思議なことに、今の僕には怒りもショックも困惑もない。

 ただただひたすらに、この子のことが心配だ。

 

「あのねぇ、男の3割はあの告白の空気が出来上がった時点で手を出してるし、残りの7割も騙されたと分かった時点で襲ってるよ。僕が切り捨てられた0.1パーセントの住人だったから良かったものの、こんなシチュエーションじゃあ噂がどうとか関係ないよ」

「な、なるほど……」

「それから一之瀬さんに認められたいみたいだけど、あの人はこういうやり方嫌いなんじゃない? 人の心を弄んだり、自分の身を不必要に危険にさらしたり」

「言われてみれば……」

「そして君の最終目標が一之瀬さんと付き合うことなら、いくら演技でも人目のあるところで僕にアプローチするのはどうなのよ。登校中とかさあ。幸い僕も白波さんもそんなに目立つタイプじゃないけど、『付き合ってんの?』とか聞かれたら嫌でしょ?」

「返す言葉もございません……」

 

 恋は盲目と言うけれど、白波さんの場合はむしろ麻薬だな。正常な判断ができていない。本来の目的を見失っている。

 ……まさか僕に襲われたら襲われたで、その時は一之瀬さんに泣きついて慰めてもらえれば結果的に距離を縮められるとか、そんなこと考えてないよね? そこまで捨て身じゃないよね?

 

「冷静に考えてみると、相手が緒祈くんじゃなかったら私今頃とんでもなく酷い目に遭ってるよね」

「冷静になるのが遅すぎるよ……」

「噂の新入生が緒祈くんでよかったよ」

「僕も僕でよかったと心底思っているよ。噂自体はガセだけどね」

 

 僕が今白波さんに対して抱えているのは、一人っ子だからよく分からないけれど、多分兄が妹を心配するのと同じような心情だ。

 

「うん、そうだね。ガセネタだったって、あとで一之瀬さんに伝えておくね」

「あ、伝えるんだ」

「折角録音してるからね」

「……一応聞いておこうか。携帯で録音してるの?」

「そうだよ」

「ちゃんともしもに備えて、別でボイスレコーダーも使ってる?」

「えっ?」

「考えもしなかったって表情だね……。相手に録音機器を奪われる可能性があるなら二重三重に用意しておかないと。それから携帯はもうひと端末使って通話状態にして、そっちで友達に控えておいてもらうとかすべきだね」

「おおー」

 

 感心してる場合かよ。

 

「じゃあ今度からはそうするね!」

「いや、君はこういうこと向いてないから今回で最後にした方がいい。というか二度としないで。見てるこっちがひやひやするから」

「え、あ、うん」

「あと一之瀬さんに聞かせるのはいいんだけど、それだけで僕が信用されるってことはないと思うよ。そこんとこ理解しといてね」

「ええっ? 緒祈くんが悪い人じゃないっていう、確かな証拠にならないかな?」

「ならないよ。この状況で今の僕と同じように対応できる『悪い人』も世の中には絶対にいるし、もしかするとこの学校にもいるかもしれない」

「そっか……怖いね」

「その恐怖心を忘れないように。君は大して頭が回るわけでもないのに、やけに行動力があるから」

「むぅ」

 

 ほっぺた膨らませても無駄だよ。可愛いけど。

 

「私だってちゃんと考えてるんだよ? 襲われないって確信してたから、こうして緒祈くんの部屋に来たんだよ?」

「へえ、それはまた何を根拠に?」

「だって緒祈くんって、長髪フェチでしょ?」

「その通りだけど……え、それだけで僕の部屋に単身で乗り込めちゃうの? 根拠じゃなくて希望的観測じゃん」

「でも実際襲われなかったよ?」

「それは結果論。あと、襲われないって確信してたなら、さっき言っていた僕が極悪人かどうか見極める話はどうなるのよ」

「……あっ」

「あのね? 一個一個の要素を別々に考えるのはいいんだけど、それなら最後にちゃんと考えをまとめないと」

「う、ううぅ……」

 

 完全に落ち込んでしまった白波さん。

 その姿がショートヘアだけどなんだか可愛いなあと思ったので、僕は項垂(うなだ)れてしまった彼女の頭に手を乗せ、わしゃわしゃーっと撫でる。

 

「ふえっ!?」

「まあ、アホなりに頑張ったことだけは認めてあげる」

「ちょ、ちょっ! やめっ!」

 

 抵抗されたので大人しく手を離す。

 

「もうっ、髪ぐしゃぐしゃになっちゃったじゃん!」

「良い触り心地だったよ」

「そういう問題じゃない!」

 

 文句を言っているけれど、そこまで嫌がっている様子ではない。カメムシの次に嫌われている感じでもない。

 さっきの罵倒も演技の内だったみたいだね。良かった良かった。

 

 手櫛で髪を整える白波さんに、残りの疑問をぶつける。

 

「先々週の土曜日、ホームセンターの前で会ったのは偶然?」

「え? うん。あれは偶然だよ」

「今回の計画は前々から考えてたの?」

「そうだよ。でも中々切っ掛けがなくて」

「あの日の偶然が、その切っ掛けになったと」

「うん」

 

 その偶然が無かったとしても、一之瀬さんを通じて僕と接点を持つことは容易だ。しかし、やはり計画的な出会いよりは偶発的な出会いの方が警戒心を持たれにくい。

 僕が堀北さん&綾小路君に偶然を装って一之瀬さんを引き合わせようとしたのも、そういう考えがあってのことだ。実際に彼女がどういう設定で接触したのかは知らないけど。

 

「あ、あのー、ごめんね? 怒ってるよね?」

「怒ってないよ。君が何を思ってこんなアホみたいなことしたのかは大体分かったし」

「ア、アホって……そう言う緒祈くんだって私の演技に騙されてたくせに!」

「うるさい」

「シマネとシネマ間違えてたくせに!」

「うるせえ!」

 

 髪の毛わしゃわしゃー。

 さっきより乱暴にわしゃわしゃー。

 

「ぎゃー!」

「ふふっ」

 

 これ楽しいな。

 ペットを愛でてるみたいだ。

 

「もうっ、緒祈くん!」

「真釣でいいよ」

「……えっ?」

「僕も君のこと千尋さんって呼ぶし」

「……もしかして、本気で私に惚れちゃった?」

「惚れてねえよ」

「ごめんね、私にはもう一之瀬さんという人が」

「惚れてねえっつってんだろ。用が済んだならとっとと帰れ」

「急に冷たい!」

 

 本当に惚れてないし、今後も二度と惚れることはないだろう。

 むしろ嫌い――というわけでは、ないんだよなあ。

 

 あんな滅茶苦茶なことをされたのに、不思議と彼女を蔑むような気持ちにはならなかった。ほんと、なんでだろう?

 

「はいはいそれじゃあ帰りますよ――うおっとっと」

「二足歩行も満足にできないアホなの?」

「真釣くんが正座させたからでしょ!」

「正座で済んだだけありがたいと思え」

「……ごもっとも!」

 

 壁に手を付きながらなんとか玄関に辿り着いた彼女は、靴を履きながらふとこちらを振り返った。

 

「あの、最後に私からも一つ聞いていい?」

「何?」

「女の子が女の子を好きになるのって、どう思う?」

 

 思いつめたような空気を出すから何かと思えば、そんなことか。実に下らない質問だな。

 

「どうも思わないよ。人が人を好きになった、それだけのことでしょ」

「そっか……そうだよね」

「満足?」

「うん、ありがとう。これで()()()()()()()()()()()()()()()()()()は達成できたから」

「……へえ」

 

 どうやらただのアホではないようだ。

 正座で痺れた足でまっすぐ立つにも一苦労している姿を見ると、やっぱりアホの子にしか見えないけど。

 

「じゃあ、またね」

「ああ。おやすみ」

「おやすみ」

 

 扉が完全に閉じたのを確認して、僕は大きな溜息を溢す。いやあ、疲れた。この学校の入試より疲れた。

 僕が見抜けなかった彼女の目的は気になるところだけれど、白波さん騒動改め千尋さん騒動はこれにて一件落着と言っていいだろう。

 

 随分と珍妙で奇天烈な過程を経たけれど、緒祈真釣と白波千尋は、これでようやくちゃんと友達になれた。

 僕はそう思っている。彼女も、きっと。

 

 ちなみに。

 後日、『髪の乱れた女子生徒が夜中に男子の部屋から不自然な歩き方で出てきた』という噂が一年生の間で広まることになるのだけれど、この時の僕にそれを予測しろというのは到底無理な話だった。

 

 

 

 035

 

 

 

 一夜明けて7月5日、金曜日。

 

 昨夜はあまりにも予想外の展開に驚きが突き抜けたもんで、逆に冷静な対応ができた。しかし改めて思い返してみると、うん、普通に悲しい。

 正直に白状してしまうと、もしもあの時「好きなの! 付き合って!」と言われていたら、僕は首を縦に振るつもりだった。そういう精神状態になっていた。

 

 あれはどう考えても告白の流れだっただろ!?

 なんだよ「全然好きじゃないの!」って!

 

 噂の真偽を確かめたいならもっと他の方法もあるだろ!

 なんであんな捨て身の策を採ったんだよ!

 

 全部が全部意味分かんねーよ!

 

 あー……千尋さんのことを批判してばかりだけれど、そろそろ僕自身の行動も反省するべきだね。

 

 反省その一。

 なにあっさり(ほだ)されてんだよ。ハニトラ耐性E-かよ。

 

 最初から彼女の行動には不自然さを感じていた。恋心ではない何らかの思惑を持って接触されている可能性も考えてはいた。しかしその思惑が全く分からず、思考を停止させていた。

 アホだアホだとは言ったけれど、結局僕だって彼女の演技にアホみたいに騙されていたのだ。

 ショートヘアだから惚れることはないという油断もあった。どうやら僕は髪が長かろうが短かろうが、積極的にぐいぐい来る女の子には弱いらしい。

 

 反省その二。

 なに心の底から紳士ぶってんだよ。

 

 僕のAクラス移籍計画には二通りのアプローチがある。一つは一之瀬さんを見習った友好的で平和的な手段。もう一つは龍園(りゅうえん)君に(なら)った支配的で暴力的な手段だ。そしてこれはどちらかに拘る必要はなく、状況に応じて好きな方を選ぶことができる。

 昨夜のような状況なら、千尋さんに失禁するほどの恐怖心を植え付けて、僕の便利な駒にするという手もあった。それはもちろん『あった』というだけで、思い付いても実行はしなかっただろう。

 

 問題なのはあの時の僕が龍園君的な(そういう)手を、()()()()()()()()()()()()()()()()ことだ。というかAクラス移籍計画のことすら頭になかった。

 これも結局は反省その一と同じこと。なに絆されてんだよ。

 

「アホくさ……」

 

 今回の件から僕が得るべき教訓は、恋愛感情は簡単に人を狂わせるということだ。

 

 一之瀬さんに惚れている千尋さんは、所々筋は通っているもののそれが一本に纏まっていない支離滅裂な計画で僕に挑んできた。

 一方そんな千尋さんに落とされてしまった僕は、思考回路のいくつかが無意識に閉鎖されていた。

 

 あの状態はよろしくない。

 あんな無様な僕ではAクラスを目指すなんて夢のまた夢で、むしろDクラスの足を引っ張ってしまうだろう。あんまりにも酷い場合は綾小路(あやのこうじ)君や堀北(ほりきた)さんに潰される可能性すらある。それは僕の望む展開ではない。

 であれば結論はただ一つ。

 

 

 僕はこの学校を卒業するまで、絶対に恋なんてしない。

 

 

 極端な決断かもしれない。しかし今回の一件で、緒祈真釣は二週間もあれば簡単に落ちるちょろい男だということが判明した。判明してしまった。これくらいしないとダメだろう。

 

 だから()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 浮かれ気分は、もう要らない。

 

「おはよう緒祈くんっ。あれ、なんだか浮かない表情だね?」

 

 俯きながら登校している僕に声をかけてきたのは、我らがDクラスのアイドル、櫛田(くしだ)桔梗(ききょう)だった。

 

「おはよう櫛田さん。あんまり眠れなくてね」

 

 意外なことに彼女は一人だった。大人数で楽しく賑やかに登校しているイメージだったのだけれど、もしかすると友達が多すぎる所為でいつも一緒に行動するような特定の『友達』がいないのかもしれない。

 それを可哀想だとも寂しそうだとも思わない。ただ僕の20倍くらい連絡先を知っていそうな彼女が、僕と同じように一人で登校しているというのは、これは中々に面白い現象だ。

 

 ちなみに千尋さんは、今朝はロビーで待っていなかった。

 「付き合っているなんて噂が出たら嫌でしょう?」という昨夜の僕の台詞をきちんと覚えていたようだ。あるいは、もっと単純な別の理由があるのかもしれない。

 

 なんであれ久しぶりに一人での登校だ――と思ったところに櫛田さんである。彼女とは普段あまり話すことがないので、こういう時に出せる話題はクラスのことに限られる。

 

「目撃者は見つかった?」

「一応佐倉さんがそうみたいなんだけど……」

「難儀していると」

「うん」

 

 そりゃまあそうだろうね。

 

「綾小路君から聞いたんだけど、緒祈くんは協力してくれないの?」

「うん、ごめんね。個人的な事情で少し忙しくてね」

「そうなんだね」

 

 嘘ではない。

 千尋さんに関してはほとんど終わったようなものだけれど、新たに始まった問題がある。いや、僕が知らなかっただけで、とっくに始まっていた問題だ。

 

「もし私に出来ることがあったら何でも言ってね?」

「……じゃあ、早速一つ聞いていいかな?」

「うんっ。なになに?」

「今年の一年生にとんでもない極悪人がいるって聞いたんだけど、何か知らない?」

「極悪人かあ……Cクラスの龍園くんはそんな風に言われてるみたいだけど、緒祈くんが求めているのは多分そうじゃないんだよね?」

「うん」

 

 龍園君の噂なら友達が少ない僕にも届いている。だから知りたいのはそれとは別。昨日千尋さんが言っていた()()()()()()の方だ。

 

「うーん、ごめん。ちょっと分かんないや。あとで他のクラスの子とか、先輩にも聞いてみようか?」

「いや、大丈夫だよ。知りたいことは知れたから」

「え? でも私は何も……」

 

 Bクラスで二か月以上前から流れている噂を、友達百人の櫛田さんが知らない。それこそ僕が期待していた解答だ。

 これで確信できた。僕のことを極悪人だと言ったあの噂は、B()()()()()()で広まっているものだ。おそらくは一之瀬さんが外に漏れないよう気を張ってくれているのだろう。

 

 噂の発信源は推定できている。

 何が目的かも推測できている。

 

 まったく……根も葉もない噂でよくも僕の人間関係を掻き乱してくれやがりましたね。これはあなたに許された行為ではないはずですよ?

 

 近いうちにお伺いします。

 

 お話をしましょう、星之宮(ほしのみや)先生。

 

 



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036-038 思惑もう一つ

 036

 

 

 

 昼休み。

 50ポイントで買えるパッサパサのツナマヨパンに口の中の水分を略奪されている僕に、堀北(ほりきた)さんが声をかけてきた。

 彼女とは顔を見れば挨拶くらいはする仲だけど、教室で話すことはほとんどない。珍しいなあと少し驚く。

 

「やあ堀北さん。どうしたの?」

「一応お礼を言っておくわ。昨日はありがとう」

「……どういたしまして?」

「……なぜ疑問形なのかしら?」

「いや、心当たりがなくて」

一之瀬(いちのせ)さんの協力を取り付けてくれたでしょう?」

「あー、それね」

 

 昨日の記憶は千尋(ちひろ)さんにほとんど占領されているので、すんなりと思い出せなかった。そういえば特別棟で会うように仕向けたんだった。

 (もっと)も、僕はただあの場を作っただけで、別に協力を取り付けたわけじゃないんだけどね。一之瀬さんはそういう設定で話を進めたのかな?

 

 堀北さんは礼を済ませてもすぐには自分の席に戻らず、今回の須藤(すどう)君騒動について僕の見解を尋ねてきた。

 

「須藤くんの件、あなたはどう考えているの?」

「Dクラスに不利益のない形でさっさと解決してくれないかなあって」

「そうじゃなくて……私が何を聞きたいのか分かっているでしょう? 真面目に答えなさい」

 

 睨まれてしまった。

 考えてる事を正直に言っただけなのに。

 

「一之瀬さんの紹介も終わったから、僕はもう本当に一切何をするつもりもないんだよね。堀北さんたちで勝手にしてくれて大いに結構。終着点はもう見えてるでしょ?」

「終着点? どういうことかしら?」

「あれ、まだだったの? じゃあいいや。今のは忘れて」

 

 須藤君騒動の現実的な終わり方は戦略的妥協(5-5)抜本的解消(0-0)しかない。そのどちらを目指すのか、まさかまだ決めてないのかな?

 いつまで目撃者に(こだわ)るつもりなんだか。

 

「待ちなさい。ちゃんと説明しなさい」

「ごめんごめん。なんとなくそれっぽいことを言ってみただけで、僕の頭には本当は何も浮かんでないんだよ」

「白々しい……緒祈(おいのり)くんといい綾小路(あやのこうじ)くんといい、どうして実力を隠すのかしら。Aクラスに上がりたいと思わないの?」

 

 そりゃあ僕だって上がりたい気持ちはあるけれど、その熱量は堀北さんの十分の一にも満たないんじゃないかな。

 

 いや、そんなことよりも聞き捨てならないフレーズがあったぞ?

 

「ちょっとちょっと、綾小路君と一緒にしないでよ。僕には隠している実力も隠さなきゃいけない実力もない。ベリーノーマルな人間だよ」

「そうは思えないわね。綾小路くんはあなたのことを『この学校で最も油断ならない相手』だと評していたわよ?」

 

 あの野郎……さては堀北さんに目を付けられたのが嫌で、その関心を分散させるために僕を使ったな?

 順風満帆の神様に見放されている点を除けば、僕は本当に面白みのないただの男子高校生なのに。

 

「それに須藤くんの件では、実力を隠すどころか戦線に参加してすらいないじゃない。これはクラスの問題なのよ? そんな怠慢は許されないわ」

「個人的な事情で忙しいんだよ。というか一之瀬さんを紹介してあげたでしょ? それで許してよ」

「その紹介も随分と回りくどい手を使ったわね。ひょっとして須藤くんが停学になっても、それどころか退学になっても構わないと考えているの? 思えば中間テストの勉強会でも、一度物凄く不穏な空気を出していたわよね」

 

 よくそんなこと覚えてるね。僕自身も忘れかけていたことなのに。

 

 うーん、どうしてこんなに責められているんだろう? 最初はお礼を言いに来てたはずだよね?

 ここまで執着するなんて、もしかして僕に惚れて……なわけないか。

 

「あの時は確かに退学になればいいのにって思ってたよ」

「今は違うと?」

「そうだね。彼の運動神経がクラスのプラスになる日も来るかもしれないし」

「なら今回の件も協力しなさい」

「それとこれとは別問題」

「はぁ……話が通じないわね」

 

 多分僕のことをAクラスを目指すための手駒にしたいんだろうけど、旗頭にするには堀北さんじゃあ不安なんだよなあ。内面が成長してくれれば考えてあげなくもないけど。

 とりあえず今はこれ以上食い下がられても鬱陶しいので、適当に追い払うとしよう。

 

「安心しなよ。堀北さんが何の解決策も思い浮かばなかったとしても、綾小路君がちゃんと尻拭いしてくれるから」

「不愉快な言い方ね。名誉棄損で訴えるわよ?」

「僕はただ事実を言っただけだよ。いつもの君と同じようにね」

「……本当に不愉快だわ」

「どうしても僕に協力してほしいなら、ちゃんと頭を下げて『お願いします』って――」

「結構よ。あなたの力も綾小路くんの力も借りない。この件は私一人で解決してみせる」

「そう。じゃあ、頑張って」

「ふんっ」

 

 不機嫌オーラ全開で自分の席に帰る堀北さん。

 クラスの問題なんだから協力しろと言っていたくせに、最後には自分一人でやる宣言だ。そういうところが治れば、もう少し仲良くできるんだけどなあ。

 

 しかし撃退には成功したけれど、彼女と綾小路君との共同戦線にまで(ひび)を入れたのは失敗だったかもしれない。

 何がまずいって、堀北さんが目撃者候補である佐倉さんに突撃して彼女の心を余計に閉ざしてしまう可能性が出てきたのだ。

 別にそれでも須藤君騒動にそこまで大きな影響はないと思うけれど、単純に佐倉さんが可哀想だ。

 

 一応綾小路君にメールしておくか。佐倉さんのフォローをしてあげてって。

 あの綺麗な鴇色ロングがストレスで傷んでしまうのは――長髪フェチはお(しま)いだと今朝決めたばかりだろ。これだから僕って奴は……。

 

「おや?」

 

 メールを送ろうと携帯を出すと、一之瀬さんからチャットが来ていた。

 

『相談したいことがあるの。今日の放課後、時間ある?』

 

 このタイミングでの相談ということは、千尋さんが何かしたのかな。昨夜の音声データを渡したとか? それはもう少し後になると思っていたけど、あの子、行動力だけはあるからなあ。

 

 『大丈夫だよ。どこで落ち合う?』と返すと、すぐに反応があった。

 

『ホームルームが終わったらすぐに体育館裏にお願い』

『了解』

 

 体育館裏?

 なんだなんだ告白か?

 それとも昨日みたいな告白卓袱台(ちゃぶだい)返しか?

 

 そんな展開はありえないと思いつつも完全には捨てきれずにいると、今度は千尋さんからメッセージが届いた。

 

『私、今日の放課後一之瀬さんに告白するね』

 

 正解発表ありがとう。そういうことね。

 

 でも一之瀬さんが僕に何の相談があるのか分からないし、千尋さんが僕にこの報告をしてきた意味も分からないな。僕の知らないところで勝手にやってくれていいんだけど。

 

 というか……え、千尋さん、昨日の今日で告白するの?

 どんなメンタルしてるの?

 

 アホの子というかナゾの子だなあと感心(?)していると、続けてもう一つメッセージが来た。

 

『その後で話したいことがあるから、校門を出た辺りで待ってて』

 

 なんで告白の前後でする側とされる側の話を聞かにゃならんのだ。僕は準備運動と整理運動か? 前菜とデザートか? プロローグとエピローグか?

 でも特に用事があるわけでもないので、こちらにも『了解』と返しておく。

 

 携帯をしまうと、見計らったようなタイミングで5時間目の開始を告げるチャイムが響いた。

 

 あ、綾小路君にメールするの忘れてたわ。

 佐倉さんごめん。

 

 

 

 037

 

 

 

「緒祈くんっ」

 

 人気(ひとけ)のない体育館裏で今後の展開を色々と考えていると、僕をここに呼んだBクラスの委員長一之瀬さんが現れた。

 

 相変わらず見るだけでスタミナが全回復されるビューティフルヘアだ。そのストロベリーブロンドを毎夜受け止めている彼女の枕が羨ましい。もし生まれ変わったら今度は美髪少女の枕に――ってこらこら。

 こういうことはもう考えないって決めたじゃないか。今朝決めたばかりじゃないか。三日坊主どころか半日坊主じゃないか。

 

「ごめんね待たせちゃって」

「気にしないで。そんなに待ってないし」

 

 Dクラス担任茶柱(ちゃばしら)先生のホームルームは、何かあるときは長くなるけれど、何もないときは恐ろしく早く終わる。今日も教室に入って教壇に立つや否や、

 

「連絡事項はない。なにか質問がある者はいるか? いないな? では解散だ。気を付けて帰れよ」

 

 7秒で終わった。早すぎるだろ。

 

 一方のBクラス担任星之宮(ほしのみや)先生はおっとりのんびりした印象で、これは完全に想像で言わせてもらうけれど、意味のない話をしてホームルームを長引かせていそうだ。

 

「それで、相談って?」

 

 悠長に世間話をしている場合ではないはずなので、とっとと本題に入ってもらう。

 

「私ね、ここで告白されるみたいなの」

 

 一之瀬さんはどこか落ち着きのない様子でそう言って、制服のポケットから一枚の手紙を取り出した。ハートのシールが貼られた可愛らしいラブレターだった。

 中を見てもいいと言われたけれど、僕宛てに書かれたものではないので遠慮する。

 

「それで?」

「私、恋愛には(うと)くって……。どうすれば相手を傷つけずに済むのか、仲の良い友達のままでいられるのか……分からなくて」

「へえ。告白され慣れてそうだけど」

「えっ!? いやいや、全然だよ。私、告白なんてされたことないもん」

 

 ふうん。(にわか)には信じられないね。高嶺の花すぎてアタックすらされなかったとか?

 

「緒祈くんは?」

「告白? ないよ。一回もない」

 

 中学時代は興味と関心のほとんどが自分自身に向いていたため、碌に恋愛なんかしてこなかった。

 でも昨日のあれは0.4回くらいにはカウントできそうだよね。四捨五入すると0みたいな。

 

 というわけで僕はこう言うしかない。

 

「だから助言を求められても、悪いけど力にはなれないと思う」

 

 そのラブレターの差出人を考えると、男目線の意見が必要な場面でもないからね。

 

「えっと、緒祈くんにお願いしたいのは助言というか……」

「?」

「彼氏のフリ、してもらえないかな?」

 

 え、そのパターン?

 

「色々調べたら、付き合っている人がいるのが一番相手を傷つけずに済むって……」

「なるほどね」

 

 そんなことを頼むということは、何度か登下校を一緒にしたけれど僕と千尋さんが付き合っているという噂は出てないみたいだね。安心安心――じゃなくて。

 これはちょっとお説教が必要だね。

 

「ねえ一之瀬さん」

「うん?」

「嘘を吐かなきゃ仲良くできないの?」

 

 例の噂を気にしながら僕と『お友達』をやっている一之瀬さんに、果たしてどれだけ響くだろうか。

 

「その程度の友情で満足できるなら好きなだけ嘘を振り撒けばいいよ。上っ面だけの友達ごっこで心ゆくまで高校生活をエンジョイすればいいよ」

「そ、そんなつもりじゃ――」

「どんなつもりだろうが関係ない。ここで相手の気持ちに正面から向き合うことができないなら、そんな一之瀬さんとは友達になれないよ」

「わ、私は……」

 

 少し言い過ぎたかな。でも、言わなきゃいけない。

 一之瀬さんの友達として。

 そして、千尋さんの友達として。

 

「今まで経験がないとか、そんなの言い訳にはならないよ。君は一人の人間の全身全霊の恋心を、破釜沈船の覚悟を、一世一代の告白を、まともに向き合いもせず踏み(にじ)ろうとしている。それは――それはダメだよ」

「……そう、だよね」

「受け入れるにせよ受け入れないにせよ、まずは受け止めないと」

「……ごめん」

 

 傷つけたくないという気持ちは理解できる。でも告白を断る以上、相手を傷つけることは避けられない。

 

 『フラれた傷』はどうしても付いてしまう。

 そこに『嘘を吐かれた傷』を重ねるのは残酷だ。

 

 特に今回は、僕が彼氏のフリをしたところで千尋さんには速攻で見抜かれるんだし。

 

「改めて聞くよ。()()()()()()()()()?」

「……ううん。目が覚めたよ。()()()()()

「そう。それはよかった。じゃあ、僕はこれで」

 

 そろそろあの子も来るだろうし。

 

「緒祈くん」

「うん?」

「ありがとね」

「いえいえ」

 

 千尋さんに鉢合わせないように、体育館をぐるりと大きく回って校門まで向かう。

 

 碌な恋愛経験もないくせに、随分と偉そうに語ってしまった。

 

 ……これで千尋さんが二日連続の告白卓袱台返しを披露したら笑えるな。

 今回こそはちゃんと真面目に告白するよね? 一之瀬さん相手にそんなことする意味ないもんね? 99パーセント大丈夫だとは思うんだけど、捨てきれない1パーセントがあるんだよなあ。

 まあ、その時は先輩被害者として慰めてあげよう。千尋さんはアスファルトの上で正座させよう。

 

 校門を出て、寮とは逆方向にほんの少しだけ歩いて、そこにあった丁度いい手すりに腰掛ける。

 

 ……もし昨日みたいにムードを作ってから告白するなら、結構時間かかるだろうなあ。

 

 

 

 038

 

 

 

 校門から吐き出される臙脂色の制服が随分と(まば)らになってきた頃、桑色のショートヘアがようやく現れた。

 僕を探してかきょろきょろとしているので、軽く手を挙げてこちらに気付かせる。

 

 とぼとぼと歩いてきた千尋さんは既に一度心のダムが決壊したようで、目元が真っ赤に腫れていた。ブレザーの袖は一部だけ濃い色になっている。

 

「えへへ、フラれちゃった」

 

 気丈に振る舞う彼女に、僕はなんと声をかければいいのか分からなかった。

 分かるのは彼女が一之瀬さんのことを本気で好きだったこと。そして本気の告白をしたこと。

 

 昨日のことを思えば今の彼女を見て『ざまあみろ』と感じてもおかしくないけれど、不思議と僕にそのような感情は湧かなかった。

 

「あ、気を遣わなくていいからね? 最初から無理だろうなって思ってたし、フラれる覚悟もしてたから」

「覚悟していたから平気、というものでもないでしょ」

「……まあ、そうだけど」

 

 一之瀬さんが真正面から受け止めてくれたなら、嘘偽りのない言葉で返してくれたのなら、それがせめてもの救いかな。

 

「でも、大丈夫。これで終わりじゃないから」

 

 どうやら千尋さんは既に前を見ているらしい。

 そのことに安堵している自分に気付く。

 

「いいんじゃない? 一回フラれたらそこで諦めなきゃいけない、なんてルールはないわけだし」

「ううん。そうじゃなくて」

 

 ん?

 そうじゃなくて?

 

「私は諦めるよ。アタックし続けても迷惑にしかならないだろうし。でも、一之瀬さんのことが好きだって気持ちはそう簡単には消えない」

「そうだろうね」

 

 一回フラれたくらいであっさり消えてしまう恋心なら、涙が流れることはなかっただろう。

 

「私じゃ一之瀬さんとは付き合えない。でも私は一之瀬さんのことが好き。だから一之瀬さんには、せめて私が納得できる人と付き合ってほしいの」

「……うん?」

「というわけで真釣(まつり)くん。君が付き合ってよ」

「……はい?」

「一之瀬さんがどこの馬の骨とも知れない男と付き合うのは嫌なの。でも真釣くんにだったら、安心して任せられる」

 

 この子は一体何を言っているのだろう?

 

「私、昨日言ったでしょ? 真釣くんが見抜けていない目的があるって。あれはね、真釣くんが一之瀬さんの彼氏に相応しいか見極めていたんだよ」

「……」

「私がフラれるのは分かってたから、その先まで考えて手を打っておいたの。どうよ、賢いでしょ?」

 

 そう言ってドヤ顔を見せつける千尋さん。

 予測できなかった展開ではあるけれど、果たしてこれを賢いと言っていいものだろうか。

 

「悪いけど、僕は一之瀬さんと付き合うつもりはないよ」

「え、どうして? あの一之瀬さんだよ? 外見も内面も200点満点の一之瀬さんだよ?」

「良い人なのは認めるよ。ただ――」

 

 卒業まで恋をしないって、今朝決めたばっかりだからなあ。

 

「もしかして昨日の私の所為で、恋に臆病になっちゃった?」

「そうじゃないんだよなあ」

「もしかして付き合うなら私と、とか考えてる?」

「それだけはありえないんだよなあ」

 

 昨日の()()の後で僕にまだ千尋さんに対する恋心が残っているとなぜ思える。

 ……いや、そもそも恋心なんてなかったけどね。ちょっと(なび)いちゃったというか落とされちゃったというか、そういうのだから。別に恋はしてないから。

 

「なるほど。とにかく一之瀬さんと付き合う気はないと」

「そうだね。だから諦めてほしい」

「でも真釣くんってちょろいし、なんとかなると思う」

「ちょろい言うな。なんとかしようとするな」

 

 いくら僕でも同じ手に二回引っ掛かったりはしない。恋をしないと決めている今の僕は、半年かかったって落とされないぞ!

 

「でも一之瀬さんにはもう言っちゃったんだよね。私がダメなら真釣くんと付き合ってって」

「何言ってくれちゃってんの!?」

 

 容赦なく事が進んでやがる。普段の何事もスムーズにいかない僕とは真逆の状況と言える。

 

 ただ、どうだろうか。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()というのは、振り返って見れば高校に入学してからの僕そのものとも言える。

 思わぬところで自己分析が一歩進んだ。

 

 いや、そんなことより。

 ちくしょう。ただでさえ例の噂の件でナーバスな関係なのに、なぜそこに厄介極まりない爆弾を放り込むのか。

 

「二人の距離が縮まるように、私頑張るよっ!」

「頑張らなくていいから」

「一之瀬さんが真釣くんに惚れたら、あとは一瞬だろうね」

「おい、僕の気持ちを無視するな」

「安心して。一之瀬さんに猛アタックされたらどうせすぐ落ちるから」

 

 その可能性が割と高いから安心できないんだよ。

 フラれたばっかのくせに楽しそうにしやがって。落ち込まれるよりはいいけどさあ。

 

 千尋さんはどうやら本気で僕と一之瀬さんが付き合えばいいと思っているらしい。これは人の気持ちを考えろと言っても意味がなさそうだな。アプローチを変えるか。

 

「……分かったよ。千尋さんのプランに乗ってあげる」

「本当!? やった!」

 

 

「Bクラスの委員長さんだから手駒としては申し分ないね。僕の為に存分に働いてもらおう。それから彼氏の立場を利用して好き放題しようかな。ふふふ。()()()()()()()()()()()、想像するだけで絶頂してしまいそうだ。そしてボロ雑巾みたいになるまで使って使って使い潰して、最後は燃えるゴミと一緒に捨ててあげよう」

 

 

「――っ!」

 

 突如豹変した僕の雰囲気に、千尋さんは目を見開いて二歩退く。そう、それでいい。

 

 可笑(おか)しな幻想を抱くな。僕はこういう人間だ。

 

 彼女の前でこういう風になったのは、そういえば初めてだったな。これで須藤君や(いけ)君のように僕のことを不気味に感じて距離をとろうとするだろう。

 

 折角できた面白そうな友達だったんだけどなあ。寂しい気持ちはあるけれど、僕がこういう人間である以上、遅かれ早かれいつかはこうなっていた。

 本当の僕を知っていながら仲良く出来るのは、綾小路君のような特殊な人間くらいだろう。

 

 そう諦観していると――

 

「おおっとっと。危ない危ない」

 

 千尋さんはそのまま寮に逃げ帰るかと思いきや、こちらに二歩近付いて元の位置に戻った。そして何故かほっとしたような笑みで、こう言った。

 

「もう少しで騙されるところだった」

 

 僕は怪訝な視線を向ける。

 

「騙すも何も、今のが本当の僕だよ」

「本当も何も真釣くんは真釣くんでしょ? 冷酷ぶってるけど冷酷になりきれていない、私の友達の緒祈真釣くんだよ」

「……はあ?」

 

 冷酷ぶってるってなんだよ。

 

「本気で一之瀬さんを利用するつもりなら、傷つけるつもりなら、それをこの場でわざわざ私に言わないよね」

「……」

「じゃあなんであんなこと言ったんだろう? 一之瀬さんと近付けられると何か不都合があるのか、それとも単に私からの信頼が大きすぎて戸惑ったのか。あるいはその両方かな?」

「……」

 

 何も言えないのは図星だから。

 

 まったく、昨日のアホっぽさはどこに行ったんだよ。これじゃあまるで別人じゃないか。本命の告白が終わって何かが吹っ切れたのか?

 

「私は真釣くんのこと、結構ちゃんと見てるんだよ」

 

 そう言ってもらえて嬉しい気持ちはあるけれど、僕はそれを言葉に出せるほど素直な人間ではなかった。

 それに、千尋さんが思っているほど素敵な人間でもない。

 

 そういえば彼女には、僕の中学時代の話はしていなかったな。

 

「一つ誤解を正しておこうか」

「誤解?」

「例の噂。本来の入学予定者を蹴落としたというのはガセだけど、極悪人という部分は完全には否定できないよ。僕はクラスメイトを転校に追い込んだことも、不登校に追いやったこともある。()()()()()()だ。冷酷になりきれていない? そんな甘い考えだと痛い目を見るよ」

「……本当なの?」

「うん」

「でも、最後に『痛い目を見るよ』って忠告してくれてる時点で、やっぱり冷酷になりきれてないよね」

「……言葉の綾だよ」

「ふふふっ。どうだか」

 

 楽しそうに笑いながら彼女はまた二歩踏み込んできて、僕の横にぴったりとくっついた。なんのつもりだ?

 

「真釣くんって、私のこと身内認定しちゃってるよね」

「身内認定?」

「パーソナルスペースの開放、絶対的な許容、そして敵対という選択肢の排除。まあ一言で言うと『甘い』だね」

 

 甘い。

 緒祈真釣は白波(しらなみ)千尋に甘い。

 

 それは確かにその通りで、否定の余地はミジンコ一匹分もない。

 

「それを昨日の一件で肌身に感じたから、だから私は真釣くんのことを信用してるの」

「……へえ」

「それで、できれば一之瀬さんと付き合って、身内認定もしてあげてほしいなって、そう思ってる」

「どうして君がそんなことを――」

「最初に言ったじゃん。好きだから、得体の知れない他の男とは付き合ってほしくないの。それと、一之瀬さんはお人好し過ぎるからね。真釣くんみたいに人の裏まで考えられる()()()()()が傍でサポートしてくれたらなって」

 

 僕の中学時代を知ってなお、その信頼は揺らがないのか。

 これって――

 

「千尋さんの方こそ、僕のこと身内認定しちゃってるんじゃないの?」

「そうだよ。今更気付いたの?」

「……」

 

 即答する千尋さん。

 僕は二の句が継げない。

 

「分かったでしょう? この『恋のキューピッド計画』を諦めさせようなんて無理な話だよ。だから、むしろ真釣くんの方が諦めてね」

「……諦めるも何も、僕は一之瀬さんとは適度な距離で友好関係を築ければいいと思っているけれど、付き合いたいとは思ってないし、身内認定とやらをするつもりもないよ」

「それは、例の噂があるから?」

「どうだろうね」

 

 仮に僕を極悪人と称すあの噂が無かったとすれば、千尋さんが言う『恋のキューピッド計画』とやらを快く受け入れていただろうか。

 ……うーん、分からない。

 

「じゃあ一週間待ってあげる」

「……はあ?」

「一週間で、例の噂の所為で生まれた一之瀬さんとの(わだかま)りを解消してよ」

「なにそのミッション」

「私のこと散々アホアホ言ってた真釣くんなら当然できるよね?」

「やっすい挑発だなあ」

 

 挑発を受けたことで逆に冷静になって考えてみると、千尋さんは僕と一之瀬さんが仲良くなることを望んでいて、それは僕の希望と全く同じ方向性なんだよなあ。

 例の噂があるから余計なことをしてほしくないと思ったけど、それが解決したなら……そこまで悪い提案でもない、かな?

 うん、僕がやることは変わらないもんな。

 

「分かったよ」

「おお!」

「一週間は待ってくれるんだよね?」

「うん」

「噂の件はその間になんとかする。その後は、まあ、千尋さんの好きにするといい」

「うん!」

「ただし、僕は一之瀬さんに恋愛感情を持つつもりはないし、必要以上に近付くつもりもない」

 

 僕の気持ちを強制するのはお断りだ。

 でもまあ誘導したいんなら、お好きにどうぞ。

 

「それでいいよ。でも一つ約束して」

「何?」

「一之瀬さんが嫌がること、傷付くこと、不利益になることはしないでほしい。少なくとも意図的には、絶対に」

「約束はできない。ただ、善処はする」

「……信じてるよ」

「参ったね。君にそう言われちゃあ裏切れない」

 

 これで僕が一之瀬さんの敵になんか回った日には、きっと千尋さんは泣いてしまうだろう。それを心底嫌だと思うくらいに、僕は彼女を身内認定している。

 

 ほんっと甘々だな。甘々の激甘だな。ラグドゥネームかよ。

 

 なにはともあれ一週間だ。

 緒祈真釣と白波千尋と一之瀬帆波による奇妙な三角関係が構築される前に、噂の件をさっさと解決しちゃいますか。

 

 

 



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039-040 博愛少女

 039

 

 

 

 千尋(ちひろ)さんは寮に帰ったけれど、僕は一之瀬(いちのせ)さんに用があったので校門前に留まった。

 

 昨日の一件、そしてつい先程の一件。

 白波(しらなみ)千尋という少女に出会ってからというもの、緒祈(おいのり)真釣(まつり)という人間が()()()()()ように思う。牙も毒気も抜かれてしまったような、なんかそんな感じ。

 これが身内認定というやつだろうか。

 

 待ち人はまだ来ないようだし、ここ数年の僕とここ数か月の僕を振り返ってみる。

 

 自分の異質さを初めて自覚したのは、小学4年生の時だ。

 僕のクラスには病気で休みがちな男子がいて、牛乳やパンやデザートなどの一人一個と決められているメニューがよく余っていた。その度に争奪じゃんけん大会が開催されるのだけれど、僕はその日の気分次第で参加したり不参加だったりした。

 今日は喉の渇くメニューだから牛乳が欲しいなと思って参戦したある日、結局僕は勝てなかったんだけど、その日の勝者でありじゃんけん大会皆勤賞のとある男子にこんなことを言われた。

 

「緒祈がいるとあいこが長引く」

 

 その時は適当に笑って「そんなことないよ」と返した。

 しかし一応気になったので家に帰って父相手にひたすら調べてみたところ、一対一のじゃんけんにおいて僕は約三分の二の割合であいこを出した。僕と母でも同様の結果となり、父と母では三分の一程度であった。

 この時点での自己分析は単純に『あいこの神様に愛された人間』だ。

 

 次に何かがおかしいと気付いたのは小学5年生の時だ。

 この年、僕のクラスの担任は一年間で3回変わり、クラスメイトは8人転校した。

 担任の変更も級友の転校も僕にとっては珍しい事ではなかったので、特に気にしていなかった。しかし世間的にはおかしな話だったようで、僕が所属していた5年1組は呪われたクラスだと学校中、地域中で噂されていた。

 ちなみに転校して行った生徒は僕と仲の良かった人や、あるいはクラスで何らかの役割を担っている人だった。役割というのは学級委員とか、合唱コンクールのピアノ担当とか、運動会のリレーのアンカーとか、そういったものだ。

 この頃には『どうも上手くいかないことが多いなあ』と感じていた。

 

 小学6年生の時、今度は僕自身が転校した。

 新しい学校には半年間しか通わなかったけれど、その間にクラスメイトが2人転校した。珍しいことがあるもんだと話題になった。

 そして僕は、これでようやく理解した。僕がいる所為でこういうことが起きるんだと。

 

 中学校に入る頃には自分と他人を客観的に比較して分析できるようになり、おかげで自分が異質な存在だとはっきり自覚することができた。しかし何がどう異質なのかはよく分からなかった。

 よく分からないから、調べようと思った。

 

 手始めに僕の周囲では定番となっていたクラスメイトの転校を、自分の手で再現してみようと思った。今思えば謎の理論だけど、そうすることで自分が何者なのか、その手掛かりが掴めると思ったのだ。

 そして四苦八苦の試行錯誤の末、一年以上かけてようやく村衣(むらぎぬ)(ひょう)を転校させることに成功した。成功はしたものの、それで得たものは『思ったより時間がかかったな』という至極つまらない感想だけだった。

 中学3年生でもまた一人転校させようとしたけれど、受験勉強で忙しかったのもあって不登校という結果に終わってしまった。得られたものは『時間の無駄だった』という虚脱感だけだ。

 

 結局自分の正体はよく分からないままだった。それでもこれまでの経験を踏まえて、僕は『何事もスムーズにいかない人間』だと一先ずの結論を出した。

 

 さて。

 回想はこれくらいにして、最近の僕のことを振り返ってみよう。あ、これも回想か。

 

 まずは入学する前、不合格からの一転繰り上がり合格。そして届いた女子の制服。

 続いて五月、赤点組を潰そうと思ったら、いつの間にか勉強会に協力していた。

 

 そして鬼門、白波千尋との邂逅。

 僕が彼女に惚れた途端に見事な告白卓袱台(ちゃぶだい)返しを披露してくれた。そして今度はもう恋なんてしないと決めたその日に、一之瀬さんと付き合えとか言い出した。

 

 先程ふと浮かんだのは『僕の決意を覆す方向に物事が進む』という説だけど、これは中々正鵠を射ているのではないだろうか。『決意を覆す』と言うと大袈裟だから、『意思を曲げる』くらいにしておくか。

 

 

 世界は僕の意思を曲げようとしてくる。

 

 

 うん。なんだかカッコいいじゃないか。

 もちろんこれでは説明が付かない過去もあるけれど、こじつけようと思えば不可能ではない。

 身も蓋もない言い方をするなら、昔はまだ僕の性質(キャラクター)が定まっていなかったと言い訳することも出来る。

 

 いやしかし『何事もスムーズにいかない』の方がやはり表現としては適当なのかな……?

 一言で表すのはどうにも難しい。

 

 不幸とか不運とか不遇とか、そういう単純な話でもないんだよなあ。

 想定外の展開になったからといって必ずしも残念というわけではない。最終的には当初の期待以上の成果を得られることもある。結果オーライってやつだ。

 

 ……ちょっと待てよ?

 一言で表すのが難しいなら、それはつまり僕には()()()()()()()()()()()()()ということじゃないのか?

 そう考えると辻褄も――

 

「緒祈くん」

 

 もう少し自己分析を続けたかったのだけれど、名前を呼ばれたので中断する。

 いつの間にか地面に落ちていた視線を上げると、そこには困ったような笑みを浮かべた一之瀬さんがいた。多分千尋さんが「真釣くんと付き合って」とか言った所為だろう。

 面倒なのでそこには触れないようにする。

 

「待っててくれたんだね」

「話したいことがあってね」

「そっか……」

 

 体重を預けていた手すりから腰を浮かす。

 

「歩きながら話そうか」

「うん」

 

 一之瀬さんのしょぼくれた歩幅に合わせ、隣を歩く。寮へと続く並木道には、僕たち以外の姿はなかった。

 

「さっきはごめんね。言い過ぎた」

「ううん。おかげで千尋ちゃんにしっかりと向き合えたから」

「そう……じゃあ、次は僕と向き合ってもらおうか。と言っても告白するわけじゃないけどね」

 

 一之瀬さんは一瞬だけ足を止めて、またすぐに歩き出した。

 僕は止まらなかったから、二人の間にほんの少しだけ距離ができた。

 

「千尋さんから聞いたよ。僕に関する噂の真偽を、一之瀬さんは随分と気にしていらっしゃるそうで」

 

 そんなつもりじゃなかったんだけど、なんだか嫌味な言い方になってしまった。

 一之瀬さんは俯いてしまう。

 

「……ごめん」

「どうして謝るの?」

「それは……友達なのに、疑っちゃって」

「僕は別に一之瀬さんを責めてるわけじゃないよ。クラスを率いるリーダーとして、何も間違ったことはしていないんだから」

 

 もし逆の立場だったなら、僕も同じようにしていたはずだ。

 

「で、でも!」

「でも?」

「友達としては、間違ってたと思う」

 

 その言葉に僕は小さく溜息を溢す。

 

 優しいね。優しすぎるね。

 そりゃあ千尋さんも不安になるわけだ。

 

「僕が本来の入学者を蹴落としたというのは完全な作り話だよ。噂を流した()()()()の妄想だね」

「や、やっぱりそうだよねっ」

「ただ、僕は中学時代に同級生を一人転校に追い込んでいるし、不登校にも一人追いやっている。そういう人間だ。それは間違いない」

「えっ……」

 

 一之瀬さんが例の噂のことを隠したまま僕と友達をしていたように、僕もまた自分の人間性を隠したまま一之瀬さんの友達であろうとした。お互い様ってやつだ。

 でもそんな上辺だけの仲良しごっこは、もう終わりにしたい。

 

「軽蔑した?」

「や、そんなことは……」

 

 博愛主義者の彼女には少々酷な話題だろうけど、だからと言って逃げるわけにはいかない。逃がすわけにもいかない。

 

「正直に言うとね、一之瀬さんたちとは打算込々で仲良くしてる部分もあるんだよね。最初は非常時に助けてくれる生命線が他クラスに欲しかったから。今はAクラスを目指すための戦略として。あと最近は、星之宮先生と対峙するためのカードとしてというのもある。あはは。純粋な友情とは程遠いよね」

 

 こうしてまとめてみると、我ながらなんと利己的なことか。こんな奴がよく『告白には真正面から向き合え』だなんて言えたものだ。

 

「申し訳ないんだけど、この打算抜きで一之瀬さんと仲良くするってのは僕には難しい」

「それは……クラスが違うんだし、仕方ない、のかな」

 

 もし一之瀬さんと同じクラスだったらと想像してみる。

 さっき挙げた打算が全部無かったとしたら、そもそも彼女に近付きすらしなかったかもしれない。でも、もっと純粋な友情を築くことも出来たかもしれない。

 ……無意味な仮定だな。

 

「なんでこんな話をしているのかというとね、一之瀬さんに決めてほしいんだよ。僕たちの今後の関係を」

「関係……?」

「醜い部分まで全て認めあう『友達』か、互いに互いを利用しあう『同盟』か」

 

 本当は『敵対』と『無関係』という選択肢もあるのだけれど、ここは我が友人への配慮を見せておく。

 

「もし『友達』を選ぶなら今回みたいに変な噂が流れた時、一々それに惑わされないでほしい。僕が碌でもない人間なのは事実だから、相当難しいだろうけどね」

「……」

「自信がないなら友情なんかは抜きにして、『同盟』を選んでくれればいい。利害関係だけの分かりやすいお付き合いだ」

「そ、そんな寂しいこと言わないでよ……」

 

 一之瀬さんとの間で、仲が深まるようなイベントが何かあったわけではない。チャットのやり取りはよくするけれど、休日に遊びに行くほどではない。

 それなのに僕と友達でなくなることを「寂しい」と言ってくれた。

 嬉しくはあるけれど、多分彼女は誰に対しても()()なのだろう。

 

 それこそが彼女の魅力であり、不安の種だ。

 

「結論はすぐに出さなくていいから、よく考えてほしい。須藤君の件で色々やってくれてるところ悪いけど、僕にとっては正直こっちの方が大事な問題だから」

「……うん」

 

 彼女の性格を考えると、ほぼ間違いなく『友達』を選んでくれるだろう。まあ別に『同盟』を選んでくれても構わない。

 この会話の目的の一つは、誰にでも無条件に友愛を向けている一之瀬さんに、人との関係性や距離感について一度よく考えてもらうことだ。

 

 Bクラスのリーダーがただの博愛主義者では困る。そんなんじゃ()に簡単に潰されてしまう。

 僕が2000万でAクラスに移籍するとき、そこは一之瀬さんのクラスの予定なのだ。まずはそこまで上がってもらわないと。

 

「一之瀬さんが納得できる答えを出せるまで、僕は待つから」

 

 寮が見えてきた。このお喋りもそろそろ終わりだ。

 

「ごめんね。本当は即断で『友達』を選ぶべきなのに」

「いやいや、大事なのは結論よりもそこに至るまでの過程だから。急ぐ必要も焦る必要も、気に病む必要もないよ」

「……千尋ちゃんが言ってた通りだ。優しいね、緒祈くんは」

「だとしても、優しいだけの人間ではないよ」

「うん。そういうところを考えろって話だよね」

 

 僕の意図が伝わったようで何よりだ。

 後は一之瀬さんの中で処理してくれればいい。

 

「そういえばさっき星之宮先生と対峙するって――」

「例の噂の件でね。優先度は高くないから気にしないで」

 

 僕にとっての優先度は高いし、後々一之瀬さんに協力をお願いする可能性は大いにある。

 でも今は黙っておく。余計なことに頭を悩ませてほしくない。

 

 ……余計というなら千尋さんが言っていた『恋のキューピッド計画』だな。約束した以上、しばらくは大人しくしてくれるはずだけど。

 こればっかりは彼女を信じるしかない。

 

 程なくして寮に着いた。

 斜陽がロビーを橙に染めている。

 

 僕の部屋は3階なので普段は階段で行くのだけれど、今日はエレベーターを使う人が隣にいるので一緒に乗り込む。

 彼女の部屋は16階らしい。

 

「私、ちゃんと考えるから」

「うん。よろしく」

 

 エレベーターを降りる前に、一度彼女の方を振り返る。

 

「僕はともかく千尋さんは一週間しか待ってくれないみたいだから、そのつもりで」

 

 一瞬何のことか分からなかったようだけれど、すぐに思い至ったようだ。

 今日はずっと暗い表情だったけれど、最後に少し笑ってくれた。

 

「あははっ。りょーかい」

「じゃあ、また」

「うん。またね」

 

 

 

 040

 

 

 

 翌日、土曜日。

 

「急に悪いね」

「気にするな。然程忙しい身でもない」

 

 今日は僕の部屋に神崎(かんざき)君を呼んでいた。昨日一之瀬さんにしたのと同じ話をするためだ。

 

 と言っても彼に関してはそこまで気にしていない。というか、一之瀬さん以外の相手なら本来そこまで気にすることでもない。

 昨日あれだけ丁寧に話したのは彼女が人並み外れた博愛主義者だったからだ。人間関係をある程度割り切って考えられる人には、もっと雑な説明でいい。

 

 というわけで神崎君には、僕は本当はこんな人間ですよという自己紹介と、こんな目的があって近付いていましたよというネタバラシを簡潔に行った。

 その結果――

 

「こちらにも色々と思惑はあったからな。敵対するつもりがないのなら、それでいいだろう」

「じゃあこれからも仲良くお友達ってことで?」

「ああ。それで構わない」

 

 山も谷もなくあっさりと終わった。

 ちょっとあっさりしすぎな気もするけれど、無意味に長引くよりはいい。

 

「神崎君は午後も暇だったりする? 僕はちょっと出かけるつもりなんだけど、もしよかったら一緒にどう?」

「ああ、問題ない。どこに行くんだ?」

「カメラシティだよ。欲しい物というか、値段を知りたい物があってね。あ、でもその前にお昼食べに行こっか」

「そうだな。いい時間だ」

 

 そんな会話もあって、二人で出かけることになった。

 これなら部屋じゃなくて最初から外で落ち合えばよかったかもしれない。まあ、別に何か損をしたわけでもないし、いっか。

 

 外に出ると7月なだけあって中々の熱気だった。

 

 現在時刻は11時30分。

 今日は雲が出ないという予報なので、気温はこれからまだまだ上がる。

 

「これは暑いねえ。どうする? 無理して付いて来なくてもいいんだよ?」

「……いや、大丈夫だ」

 

 ちょっと迷っての返答だった。

 真夏日の並木道。碌に会話をする気になれないまま黙々と、いつもよりいくらか速いペースで歩く。

 

 10分程して、大型複合商業施設ケヤキモールに到着する。

 クーラーの風が気持ちいいね!

 

 でもこれからの季節、屋内外の温度差に体調を崩さないよう注意が必要だ。僕はあんまり体が強くないから。

 期末テスト前に風邪ひいたんじゃあ笑えない。

 

 上に着る物を一枚常備しておくべきかなあとか考えながら、食事エリアに向かう。

 

「あらあら」

 

 お昼には丁度良い時間なのだけれど、あまりにも丁度良すぎたようだ。

 

「どこも混雑しているな」

「本当だね。いつもこうなの?」

「俺もそんなによく来るわけではないが、これは流石に多すぎると思うぞ」

「今月のポイント支給がまだの一年生は、たとえ所持ポイントに余裕があってもなんとなく出費を控えそうなものだけど――」

「それを見越した上級生が大勢来て逆に普段より多くなった、と言ったところか」

「なるほどねえ」

 

 昼食を一旦諦め、僕の目的を先に済ませることにした。

 

 ケヤキモールを出て少し歩くと、大きな青い看板が見える。家電量販店カメラシティだ。

 その隣には因縁のシマネガーデンの姿。結局一回も入ったことはない。今後もおそらくないだろう。在学中に、島根県のアンテナショップに用事ができるとは思えない。

 

「さむっ」

 

 カメラシティの中は、ケヤキモールより一段強く冷房が効いていた。やっぱり上に一枚必要だなこりゃ。

 

 入り口そばの館内マップで、目当ての物がどこにあるか当たりを付ける。

 一つはAV(オーディオ・ヴィジュアル)機器のエリアだろうけど、もう一つが分からない。カメラのエリアでいいのかな……? 防犯エリアがあればそこで間違いないんだけど。

 ま、適当に見て回るか。

 

「何を探してるんだ?」

「行けば分かるよ」

 

 まずはエスカレーターで3階に上る。

 携帯音楽プレーヤーとかその辺りにあると思うんだけど……

 

「あ、これこれ」

「ボイスレコーダーか」

「イエス」

 

 星之宮先生に挑むにあたり、これは絶対に欠かせない。

 

 置いてあるのは4種類。

 一番高いものだと1.5万もするのか。今の僕にはギリギリだな。次に安いのが8千、その次が6千、そして一番安いものが3千だ。

 

 果たして3千ポイントのボイスレコーダーはどれだけ使い物になるのか。とりあえず一つ買って性能を確かめよう。場合によっては策を練り直す必要がある。

 

「ちなみに神崎君って既に持ってたりする?」

「いや、まだだな」

「まだということは、いつかは買うつもり?」

「必要になればな」

 

 少し考えてみる。

 後で千尋さんには協力を頼むつもりだったけれど、神崎君にも力を借りようかな? でも借りるのは力ではなくポイントなんだよな。うーん……。

 

「ボイスレコーダーがどうしても必要だが手持ちのポイントでは厳しい、ということか?」

「まあ、そんな感じかな」

「借りるならポイントよりもボイスレコーダー自体の方が互いに抵抗がないだろう、ということか?」

「さすが名探偵」

 

 見事な推理を見せた神崎君は、1.5万の高級ボイスレコーダーを手に取った。

 どんな物か気になってちょっと手に取ってみた――という感じではない。

 

「え、ええっ! まさか!?」

「これは俺が俺の為に買うものだ。使わない時には()()に貸すかもしれんが、それだけのことだ。気にするな」

「そう言われても、話の流れ的に僕が買わせたみたいじゃん」

「なら先行投資と思ってくれ。緒祈には友人として、同盟者として期待している」

「……その言葉は嬉しいけど、なんでそんなに評価してくれるの?」

「少なくとも中学時代の俺には、同級生を転校させるなんてできなかった。その点だけでも十分評価に値するだろう」

「うーん、複雑ぅ」

 

 人間性は全く評価できない出来事なんだけどね、それ。一見まともそうだけど、神崎君も実はちょっと変な性格してる?

 まあ協力してくれるなら渡りに船だ。甘えさせてもらおう。

 

 Bクラスの神崎君は一番高いものを、Dクラスの僕は一番安いものを持ってレジに向かった。

 

 彼が今どれくらいのポイントを所有しているのか気になるところだけれど、それを聞くのはさすがに躊躇われる。

 僕の10倍くらいあるんだろうな。いや、もっとか。

 

 会計を終え、レシートに印字されたポイント残高を確認する。

 星之宮先生対策が完了する頃には3桁になってそうだな。やっべー。

 

「じゃあ、ご飯行こうか。混雑も少しは落ち着いたでしょ」

「そうだな」

 

 さっきより数段暑くなった炎天下を歩き、ケヤキモールに戻る。

 昼食を終えた人が店から出てきた所為か、館内はさっきより賑わっているように見える。

 

「おっ」

「うん?」

 

 神崎君が何かを見付けたようなのでその視線を辿ると、おやおや。

 ドーナツ屋さんの中に一之瀬さんと、見知った顔がもう一つ。

 

 フラれた翌日にその相手とデートとはね。

 やるじゃん千尋さん。

 

 

 

 



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041-043 緒祈ネットワーク

 041

 

 

 

「あっ、真釣(まつり)くんだ」

「やっほー千尋(ちひろ)さん、一之瀬(いちのせ)さん。奇遇だね」

「やっほー緒祈(おいのり)くん。昨日振りー」

「一人?」

「いや、神崎(かんざき)君もいるよ」

 

 ほらあそこ、と言ってカウンターの方を指差す。

 

 彼は注文も支払いも任せろと言ってくれたので、一応一回は断ってから仕方なく折れるという形でそれに甘えた。僕ってば甘えてばっかりだね。そのうちちゃんと借りを返さないと。

 

 2人席にいた彼女たちに、折角だから4人席でみんなでお喋りしましょうよと提案する。幸いにもこれが快く受け入れてもらえたので、空いていた隣のテーブルに移動した。

 ほどなくして神崎君も合流する。

 

「奇遇だな、一之瀬、白波(しらなみ)

「やっほー神崎くん」

「ど、どうも」

 

 神崎君が持ってきたトレイの上には僕が頼んだドーナツと、彼が頼んだのであろう見たことのない麺料理があった。緑がかった半透明のスープに、白い平打ち麺と葉っぱと蒸した鶏肉。フォーってやつかな? なんか違う気がする。

 なんであれドーナツ屋さんで提供される類の品ではないと思うのだけれど、ある程度がっつりと食事をしたい人用に置いているのだろうか。

 僕はどちらかと言えば少食なので、お昼はドーナツ3個で十分だったりする。

 

 ドーナツが乗ったお皿とアイスミルクをお礼を言って受け取りながら、珍しく余所余所しい態度の千尋さんに目を向ける。

 

「そういえば千尋さんと神崎君って、あんまり話したことないんだっけ?」

「うん。私、男の子とはあんまり喋らないし」

「俺も女子とはそこまで喋らないからな」

「あはは。神崎くんは男子ともそんなに喋らないじゃん」

「へえ、そうなんだ。ちょっと意外だなあ」

 

 彼の教室での姿を想像してみる。誰かと話している姿が上手く想像できないけれど、これは神崎君がどうと言うより、僕がBクラスの他のメンツを知らないだけだろう。

 顔と名前が一致するのはここにいる三人以外だと、サッカー部所属の元気っ子柴田(しばた)君くらいだもんな。

 

「意外と言うなら緒祈と白波の仲こそ意外だがな。お前が誰かを下の名前で呼んでいるのは初めて聞いたぞ」

「確かに千尋さんだけだね。下で呼んでるの」

「私も真釣くんだけかも……。ねえ一之瀬さん、帆波《ほなみ》さんって――帆波ちゃんって呼んでもいい?」

「もちろんだよ! 私は千尋ちゃんのこと千尋ちゃんって呼んでるし」

 

 女子二人が和気藹々としているので、僕も男子として対抗する。

 

「ねえ神崎君。(りゅう)ちゃんって呼んでもいい?」

「母親と同じ呼び方は流石に止めてくれ……」

「ふふふ、冗談だよ。隆二(りゅうじ)君でどうかな?」

「それなら構わない。俺も真釣と呼ぶようにしよう」

「じゃあ、改めてよろしくね、隆二君」

「こちらこそよろしく頼む、真釣」

 

 親密度が10上がった。

 

 ……ん?

 気分よくフレンチクルーラーを食べている僕に、千尋さんがキラキラした瞳を向けてくる。欲しいのか?

 いや、違うな。

 

「ねえねえ真釣くん」

「この流れに乗って一之瀬さんのことも下の名前で呼べってかい?」

「ナイス以心伝心!」

 

 千尋さんは僕と一之瀬さんをくっつけたがっているからなあ。でも一週間待つって約束したはずだよね? これはあくまでも自然な会話の流れだと言うつもりかな? 別に良いけどさ。

 

 相変わらず彼女には甘いなあと自覚しつつ、一之瀬さんにお伺いを立てる。

 

「千尋さんはこう言ってるんだけど、えっと、嫌なら嫌って言ってくれていいんだけど」

「全然オッケーだよ! 私も真釣くんって呼ぶね」

「うん。じゃあ、そういうことで、よろしく」

「うんっ。よろしくね、真釣くん」

 

 こちらも親密度が10上がった。

 普通に会話ができるということは、どうやら昨日話した件に関しては早くも結論を出せたみたいだ。今週末はたっぷり使うかと思ったんだけど。

 

 1個目のフレンチクルーラーを食べ終え、冷えた牛乳で喉を潤す。

 

 楽しくお喋りも良いけれど、真面目な話もしておかないと。

 

「帆波さん」

「うん?」

「昨日言ったことは、考えてくれた?」

「うん」

 

 昨日とは打って変わって毅然とした態度で彼女は答えた。

 千尋さんは何の話だか分かっていないようなので後で説明してあげよう。隆二君は午前中に同じような話をしたからか、展開を理解できているようだ。

 

「私にとって緒祈くんは――真釣くんは『友達』だよ。過去にあったことも受け止めるし、受け入れる」

 

 彼女は僕を真っ直ぐ見て、はっきりとそう言った。

 昨日のように瞳が揺らぐこともなく、心の整理がついたことが窺える。

 

「そう。ありがとう」

「でも一つだけ条件を付けさせてほしい」

「なにかな?」

「Bクラスに危害を加えるようなことは絶対にしないで。その時は真釣くんを『敵』として扱わざるを得なくなる」

 

 ごもっともな注文に、僕は少し意地の悪い質問を返す。

 

「つまり緒祈真釣の友達である一之瀬帆波より、Bクラスの委員長である一之瀬帆波を優先する。そういうことでいいんだね?」

「っ……うん」

 

 ほんの少し躊躇いはあったけれど、それでも彼女は力強く頷いた。そうだ。それでいい。

 

 ()()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()

 

 自分が守るべき範囲を、手を差し伸べるべき境界を、一之瀬帆波はしっかりと線引きした。

 

 これならそう簡単に潰されることはないだろう。

 

「そう言ってくれて良かった。これで心置きなく君と、君たちと仲良くできる」

「一応確認させてくれ。Bクラス(俺たち)の敵に回るつもりはないんだな?」

「ない。というか最終的には、僕は君たちのクラスに入るつもりだよ」

「それは、2000万ポイント貯めてってこと?」

 

 千尋さんの質問にどう答えたものか少し迷う。

 ……丁度良い機会だし、僕のAクラス移籍計画を話しておくか。

 

「貯めるつもりはない」

「じゃあどうやって――」

「肩代わりしてもらうんだよ、移転先のAクラスに。40人で分担すれば1人50万。十分に現実的な数字でしょ?」

 

 1人で貯めるのが困難なら、みんなで集めればいい。簡単な話だ。

 

「随分と他力本願だな。しかし移籍したいと言ったところで、そう都合よく協力が得られるとは限らないだろう」

「その通り。だからそれだけの価値を僕に付ける必要があるんだけど、これが難しそうなんだよねえ」

「まあ、そうだろうな」

 

 最終的には他力本願になってしまうけれど、そこに辿り着くまでの『自力』がえげつない。

 この学校のシステムをもっと深くまで理解しないと、自分の価値を上げるための算段は中々立てられないだろう。

 

「一番の理想は卒業前最後の試験の直前、君たち星之宮(ほしのみや)クラスがAにいて、僕たち茶柱(ちゃばしら)クラスが十分逆転可能な差でBにつけること。そして星之宮クラスの中で『緒祈真釣を引き抜けばAの座は安泰』という考えが共有されること」

「うーん、そんなに上手くいくかなあ?」

 

 千尋さんが首を傾げる。

 

「難しいことは百も承知だよ。でも、不可能じゃない」

「しかし真釣、その状況を狙って作るくらいなら、普通にクラスでAに上がる方が楽なんじゃないのか?」

「そうだね。そうかもしれない。でもクラスか個人かの方針を今決める必要はないし、贅沢を言えばギリギリまで両方の手を持っておきたい。今大事なのは、少なくとも三年の二学期が終わるまでは君たちと敵対するつもりはないってこと」

「にゃるほどねー」

 

 もしかすると学校側から敵対を強要されることが今後あるかもしれないけど、その時こそ僕は細心の注意をもって立ち回らなければならない。

 

 僕がBクラスのスパイだと思われるのは別に構わない。

 しかし僕と仲良くしている所為で万が一にもここにいる三人が、特に帆波さんがDクラスのスパイだと疑われてクラスメイトからの信用を失った場合、これは相当厄介な展開だ。

 

 そうならないように動くつもりではあるけれど、保険もいくつか考えておくべきだろう。

 

 フレンチクルーラー(2個目)にかぶりつき、脳に糖分を補給する。

 

「しかしなぜ俺たちのクラスに拘るんだ? 今のAクラス――真嶋(ましま)クラスと手を組むでもよかったんじゃないのか?」

 

 隆二君がそんな疑問をぶつけてきたけれど、おそらく彼の中でも答えは想像できているだろう。確認作業みたいなものだ。

 

「あそこは2大派閥で内部紛争してるんでしょ? 下手に近付いて巻き込まれるのは勘弁だよ」

「ふむ。ではクラスが纏まっているというならCクラス――坂上(さかがみ)クラスも悪くないんじゃないのか?」

「あはは、冗談でしょ? 僕は龍園(りゅうえん)君のことはよく知らないけど、暴力的な支配が3年も持つとは思えないよ。絶対にいつか内側から崩れる」

 

 龍園君は入学から1か月経たずしてクラス全体を支配したという恐ろしい存在だけれど、だからと言って恐れすぎることはない。

 所詮は人間だ。完璧じゃない。

 

「Bクラスを選んだのは単純に、君たちと縁があったからってのもあるけどね」

「そういえば私が初めて真釣くんと話したのって、学校のミスがあったからだもんね」

「あれがなかったら、こんなに仲良くはなっていなかっただろうね」

 

 もし合格通知書に間違えて記された配属クラスがBではなくAやCだったら、話は全く別の展開になっていたはずだ。

 

「ま、そういう訳だからさ。僕は君たちがAに上がる手助けをしたいと思っているし、逆に()()()が来たら協力してほしいと思っている。敵対の意思は微塵もないよ」

 

 そこで一旦話を区切る。フレンチクルーラーは3個目に突入した。もぐもぐ。うまー。

 

 その絶妙な甘さと食感に舌鼓を打っていると、一之瀬さんから心配そうな表情で尋ねられた。

 

「真釣くんのクラス内での立場は大丈夫なの?」

「というと?」

「クラスメイトとの軋轢(あつれき)とか、そういうの」

 

 ふむ。確かに卒業前に移籍するつもりだなんて知られたら反感を買うかもしれない。しかしそもそも茶柱クラスがAにまで上がれたのならその時は僕が移籍することも当然ないのだし、恨まれるのは筋違いだ。

 

「言ってしまえば長いものに巻かれろ戦法だからなあ……」

「どう転んでも真釣はAクラスで卒業できるというわけか」

「あんまり下手な転び方だとそうもいかないけどね。基本的には『僕が欲しいならAクラスまで上がってみろよ』ってスタンスかな?」

 

 極論を言うと、僕が卒業時にAクラスにいるならそこまでの過程はどうでもいい。

 もっと言うと、別にAクラスで卒業できなくても「やっぱりダメだったかー」と諦める準備はある。僕はその程度の薄弱な意思しか持っていない。

 

「ふふっ」

「どうしたの隆二君?」

「いや、真釣はもっと自己評価や自己肯定感の低い男だと思っていたのだが、案外そうでもないようだな」

「うーん、どうだろうね」

 

 これはちょっと予想外の意見だ。

 

 確かに今のAクラス移籍計画を聞けば、緒祈真釣は自分に自信を持っている人間だと判断されても仕方ない。実際、僕は自分のことを運動以外はそこそこ出来る人間だと思っているし、自己評価や自己肯定感はむしろ高い方だ。

 しかしそれはあくまでも僕の一面に過ぎず、諦めることに抵抗のない消極的な僕というのも存在する。

 

 どれが本当の僕だとか、そういうことじゃない。時と場合によって性格は変わるという、誰にでも当てはまる当然の話だ。

 

 ……Aクラス移籍計画についてはこれくらいで終わりにしていいかな? まだ大枠しかできていないから、これ以上話すことも特にないんだよね。

 

 シリアスは一旦お(しま)いにして、もっとポップな話題に移行しようか。折角友達同士で集まってるんだし。

 

「話は大きく変わるんだけど」

「うん?」

「名前呼びして気付いたんだけどさ、君たちって三人とも名前に漢数字が入ってるね」

「言われてみれば」

「おー、確かにそうだね」

「流石真釣くん。無駄に鋭い」

 

 白波()尋、()之瀬帆波、神崎隆()

 僕にだけ無くてちょっと疎外感。

 

「もしかしてBクラス全員……?」

「なわけないでしょ」

 

 千尋さんから厳しめのツッコミをいただいた。

 まあ、そりゃそうだわな。元気っ子柴田君の下の名前は(そう)だったはずだし。

 

「逆にDクラス(うち)には誰かいたっけ? 名前に漢数字が付く人」

「いないってことはないんじゃないか?」

「高円寺くんの下の名前って、六助じゃなかった?」

「あー、言われてみればそうだったかも。よく知ってるね帆波さん」

「にゃははー。彼、変人で有名だから」

 

 そんな感じで平和な雑談を20分くらい楽しんで、気付けば時刻は14時前。誰からともなく『そろそろ移動するかなー』という空気になり、この後の予定も決めぬまま席を立った。

 

 4人分の空いた食器を一つのトレイにまとめ、一銭も払っていない僕がそれを返却口まで持って行く。先に出ていてくれて構わなかったのだけれど、何故か千尋さんだけ付いて来た。

 

「真釣くんって、フレンチクルーラー好きなんだね」

 

 今更かよと思いつつ、とある高名なお医者様の名言を引用して答える。

 

「この世にあるもので神様がお創りになったのは、整数とフレンチクルーラーだけなんだよ」

「……なに言ってるの?」

 

 僕はこの言葉結構好きなんだけど、残念ながら彼女の心には響かなかったようだ。

 ちぇっ。

 

 

 

 042

 

 

 

 店を出たところで帆波さんと隆二くんが待っていてくれた。しかしそれだけではなく、計ったようなタイミングで僕の友人がもう一人現れた。目が合って、「あっ」「おっ」と短く驚きの声を漏らす。

 Dクラスのミスター無表情こと綾小路君だ。

 

「やあ綾ハ路君、奇遇だね」

「よう緒祈、奇遇だな……ってちょっと待て。(はねぼう)は? 『綾小路』の『小』の『亅』はどこに行った?」

「一之瀬さん以外は面識なかったよね? 紹介するよ。こちらDクラスの綾ハ路君」

「おい無視するな。オレの亅をどこにやった」

「そしてこちらがBクラス白波千尋さんと、神崎隆于君」

「亅が余計だぞ、緒祈」

「それオレの亅!」

「おおっと失礼。改めまして、こちら神崎隆二君」

「よろしく」

「そんでこっちが綾小路清隆(きよたか)君」

「ああ、よろしく。……やっと亅が帰ってきた」

「ふふふっ」

「あはははっ! 君たち面白いねー」

 

 綾小路君とのいつもの掛け合いを、本日はオーディエンスがいたのでロングバージョンでお届けした。

 女性陣には好評のようだけど、巻き込まれた隆二君は微妙な表情だった。許してにゃん。

 

 しかしこのタイミングで綾小路君と会うのか。後でメールか電話をするつもりだったんだけど、手間が省けた。怖いくらいに都合がいいな。

 厄介事の予感がしないでもないけど、ここは彼の方に行ってみるか。

 

「ごめん皆。ちょっと綾小路君に用があるから、今日はこれで」

「ああ、分かった。じゃあまた学校で」

「ばいばーい!」

「またねー」

 

 Bクラスの面々に別れを告げ、綾小路君の隣に並ぶ。

 こちらの意図を探るような彼の視線に、とびっきりの営業スマイルを返してあげる。

 

「じゃあ行こうか! どこに行くか知らないけど」

「……なんか今日テンション高いな」

「まあね」

 

 綾小路君はケヤキモールを出て、僕が数刻前に歩いた道をなぞるように歩く。これはもしや――

 

「カメラシティに行くの?」

「ああ。と言っても買い物をするわけじゃない。今日は下見だけだ」

「わお! 僕と一緒じゃないか」

 

 嘘じゃないよ?

 

 つい1,2時間前に行ったばかりだろと言われればその通りだ。

 しかしお恥ずかしながら先程はボイスレコーダーを買って、それで満足してしまって、もう一つの目的を忘れていたのだ。ある物の値段を知っておこうと思ったのに、すっかり忘れていた。

 

「それで、何の用だ?」

「僕もちょっと下見にね」

「そうじゃなくて、オレに何の用だ?」

「ああ。いや、須藤君の件どうなったかなって」

「……そういえばそれに関してお前にクレームがあるんだった」

 

 クレーム?

 基本関わらないようにしていたはずなんだけど、何か迷惑をかけただろうか? 心当たりが全く――あ、あるわ。ばりばりあるわ。昨日のことのように思い出せるわ。というか昨日のことだわ。

 

「堀北さんか」

「ああ。急に一人でやると言い出した。どうせお前の仕業だろ?」

「んふふー。まあね」

 

 須藤君騒動の解決に協力しろってうるさいから、軽く煽って追い払ったんだった。そっかー、やっぱりまずかったかー。

 

「なんとかしろ」

「随分ざっくりとした注文だね」

「堀北に暴走されると面倒だ。オレとしては須藤の完全無罪で決着させたいが、このままではそれが難しい」

「なるほどね。それは確かに問題だ」

 

 よく考えると、実力を隠したがっている綾小路君は隠れ蓑がいないと碌に動けないんだった。悪いことしちゃったなあ。許してにゃん。

 

「でも僕、関わるつもりないからなあ」

「既に関わってるだろ。責任を取れ」

 

 そう言われると弱っちゃう。

 おっかしーなー。関わらないつもりだったんだけどなー。帆波さんの紹介とか、中途半端に手を出したのがダメだったかなー。

 

「分かったよ。堀北さんを元に戻すくらいはやってあげる。でもその前に、君のプランを教えてよ」

「プラン?」

「どういう経過を辿ってどういう形で終わらせるつもりなのか。それを知っておかないと、堀北さんにどこまで話していいのか分からない」

「……あとでメールする」

「よろしく」

 

 明日の予定が一個増えるかもなー、こりゃ。

 

 炎天下を数分歩き、現れたのは空よりも濃い青色の看板。家電量販店カメラシティに本日二度目のご入場だ。ついつい「ただいま」と言いそうに――ならないね。なるわけないね。

 

「緒祈は何を探しに?」

「僕自身が買うわけでも使うわけでもないんだけど、監視カメラをね。ダミーので十分なんだけど」

「……やはり思い付いていたか」

「まあ、これくらいはね」

 

 僕が考えた抜本的解消(0-0)の為の策が実現可能かどうか、傍観を決め込むつもりとはいえ一応調べておこうと思った。

 

「さっき言っていた『須藤君の完全無罪』ってのは、今僕の頭にあるシナリオと同じと考えていいのかな?」

「ああ。それが最善手だろ?」

「ふーん……綾小路君なら僕には想像もできない、もう一歩進んだ手を持っているかと思ったんだけど」

「……何故そこまでオレを過大評価する?」

「過大評価じゃないよ。だって君、実力を隠しているでしょう? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。違う?」

「そうだな……確かに俺は本気を出していない。目立たないよう、ほどほどにやっている。それなのに何故お前はオレが実力を隠していると気付いた?」

 

 意外にも彼はあっさりと認めて、そのうえで僕が何故気付いたのかを聞いてきた。

 今後の参考にするためかな?

 

「これと言って明確な根拠はないんだよね。小さな出来事の積み重ねって感じで。ただ一番大きなピースを挙げるなら、綾小路君さ、前に本性の一端をちらっと見せてくれたよね。その時に気付いたというか悟ったというか――思い知らされた、かな」

 

 時と場合によっては敵対することも(いと)わないと言った僕に、彼は明確な敵意を持ってこう言った。

 

 ――()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「なるほどな。あれは失敗だったか」

「そうだね。目立ちたくないとか言っておきながら、どうしてあんな軽率なことを?」

「……お前を脅威に感じていたんだろうな」

「脅威だなんて大袈裟な」

 

 僕が変なことしないように釘を刺しておいた、ということか。そんなことしてくれなくていいのに。

 

「あ、でも過去形ってことは?」

「いや、今でもお前はオレの脅威に成り得る存在だ」

「えー? それこそ過大評価だよ」

「正当で妥当な評価だ。少なくともオレと同等か、それ以上に頭が回るんだからな」

「そんなことないんだけどなあ」

 

 綾小路君の方が嫌がる話題だったはずなんだけど、気付いたら僕の方が逃げるように商品棚を眺めていた。

 

 逃げるもなにも、一応こっちが主目的ではあるんだけど――

 

「あっ。あったよ、監視カメラ」

「……結構いい値段だな」

 

 カメラコーナーの片隅にひっそりと置かれていたそれは、残念ながらDクラスの僕たちがおいそれと手を出せる値段ではなかった。

 

「緒祈、手持ちはどれくらいある?」

「人に貸せる程はないよ」

「となると一之瀬あたりに借金するしかないか……」

「その時は君たちで勝手にやってね。僕は僕で近々Bクラスの別の子に借金する予定だから」

「……惨めだな、Dクラス(オレたち)

「あはは。涙が出ちゃうね」

 

 貧乏な僕らは何を買うこともなくお店を出た。お互いこれ以上の用事はなかったので、一緒に寮まで帰る。

 

 その道中、綾小路君は少し考えてこんなことを言った。

 

「明日暇か?」

「時間を作れないこともないけど、どうしたの?」

「じゃあ昼頃に、さっき行ったカメラコーナーの辺りをうろうろしといてくれ」

「別にいいけど、なんで?」

「保険を一つかけておきたい」

「……ふうん」

 

 詳しく説明するつもりはないらしい。

 うーん、これはいよいよ須藤君騒動に本格参戦させられる感じかな? 面倒くちゃー。

 

 寮に着いて、綾小路君がエレベーターに乗ったので僕もそれに続く。彼は僕のひとつ上、4階の住人だ。

 

「じゃあ、また明日」

「ああ。堀北の件も頼んだぞ」

「任せときー」

 

 予想はしていたけれど、彼に付き合った所為で随分と仕事が増えた。折角フレンチクルーラーでテンションが上がっていたのに、完全に相殺されてしまった。

 そもそも須藤君がCクラス相手に問題を起こさなければ――そんなこと言っても意味ないよね。分かってる。地道に一個ずつ片付けていくしかないよね。

 

 とりあえずは部屋に戻って、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()がどの程度の質で働いてくれたのか、それを調べるとしよう。

 

 

 

 043

 

 

 

 夜。

 

 綾小路君が想定している今後の展開をメールで教えてもらった。それは僕の予想にはなかった流れだったので、僕自身の今後の予定をいくつか変更する。

 

 そしてまずは堀北さんにメールした。

 須藤君の件で話したいことがあるので明日の午前中に会えないか聞いたのだけれど、存外あっさりと了承してくれた。どうやら彼女も一人で解決することに限界を感じていたようだ。

 

 次に千尋さんに電話して、いくつかの頼みごとをした。

 「5万ポイント貸してくれ」とは言わなかったけれど、それくらいの大きな借りを作ることになった。金の切れ目は縁の切れ目と言うので正直不本意ではあるのだけれど、これから挑む相手を思うと準備は万全にしておきたい。

 

 それから帆波さんにも協力をお願いした。

 綾小路君のプランでは水曜日に須藤君騒動が終幕するそうなので、その翌日の放課後に星之宮先生を呼んでもらう。場所は邪魔の入らない生徒指導室だ。

 

 決戦の日は7月11日、木曜日。

 作戦は練りに練ったけど、通用するかは五分五分だ。

 

 高度育成高等学校の教員がどれほどのものなのか、見せてもらおうじゃないか。

 

 

 



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044-046 両手に花

 044

 

 

 

 須藤(すどう)君騒動の解決に一人で挑むと言った堀北(ほりきた)さんをもう一度綾小路(あやのこうじ)君と組ませるには、どう説得するのがいいだろうか。

 話し合いの場には来てくれるので、彼女が孤軍奮闘を諦めるのに丁度良い切っ掛けさえ与えてあげればそれで解決すると思う。ではその丁度良い切っ掛けとは何か。

 

 一人じゃ無理だと論理的に言い聞かせるのは、上から目線と取られて堀北さんの機嫌を損ねてしまうかもしれない。気が強い人だからね。負けん気が強い人だからね。

 

 となると逆に、徹底的に下手に出てお願いするのはどうだろうか。「堀北さんの協力が得られなくて僕や綾小路君が困っています。だからどうか力を貸してくれませんか」と。

 しかし綾小路君の本当の実力に勘付いていて、しかも僕のことを過大評価している彼女には、ひょっとすると嫌味に聞こえてしまうかもしれない。

 まったく、面倒な黒髪ちゃんだぜ。

 

 さあて他に打てる手は何かあるかなあと夜通し考えた結果、堀北さんが好きそうな手が一つ浮かんだ。

 交渉だ。

 

「というわけで堀北さん。君がもう一度綾小路君との協力関係を築いてくれるのなら、今月末に控えた期末テストに向けての勉強会に全面的に協力すると約束しよう」

「何が『というわけで』なのか分からないのだけれど……まあ、いいでしょう。須藤くんたちの期末テストには不安があったから、そこで緒祈(おいのり)くんが力を貸してくれるなら助かるわ」

「じゃあ交渉成立ってことで」

「ええ。その代わり、勉強会は本気でやりなさい。赤点が一人でも出たら許さないから」

「善処するよ」

 

 そんな感じで、綾小路君からの依頼は未来の僕を犠牲にすることでなんとか完遂できた。堀北さんは性格に難があるだけで、話の通じない馬鹿ではないからね。

 

 一仕事終えたのでもう帰りたい気分なんだけど、残念ながらそうはいかない。綾小路君にはもう一つ頼まれていることがある。

 

「僕に何をさせたいんだか……」

 

 そんな独り言を漏らしながら家電量販店カメラシティへと向かい、言われた通りカメラコーナーをうろうろする。

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

 30分近く経っても何も起こらない。

 いつまでここにいればいいのかメールで聞いたんだけど、気付いていないのか無視しているのか、返信はまだ来ていない。

 

 もう帰っちゃおっかなーと思い始めた頃、視界の端に見覚えのある鴇色の髪が映った。クラスメイトの佐倉(さくら)さんだ。隣には櫛田(くしだ)さんと綾小路君もいるじゃないか。珍しい組み合わせだな。

 とりあえずこれといった指示は受けてないし、普通に話しかけちゃっていいよね?

 

「やあ君。奇遇だね」

「よう緒祈。間違えずに呼んでくれたことは嬉しいが、なぜオレの名前は信号機みたいに着色されてるんだ?」

君の方が良かったかな?」

「そうだな。どうせ色が付くならドイツの国旗みたいに――ってそういう問題じゃねえよ」

 

 わお! オスの三毛猫ばりに珍しいとされている綾小路君のノリツッコミだ!

 折角だしもう数パターン披露しようかと思ったんだけど、今日はここまでと踏みとどまる。一度に何個も出しちゃうと、後々ネタ切れして困るからね。

 

「佐倉さんと櫛田さんもこんにちは」

「こんにちは緒祈くんっ」

「……こ、こんにちは」

 

 ありゃりゃ、どうやら佐倉さんに怯えられてるっぽい。

 見るからに人見知りさんだし仕方ないよねーと思って苦笑していると、綾小路君が間に入ってフォローしてくれた。

 

「安心しろ佐倉。こいつは……まあちょっと変わった奴ではあるが、少なくともお前に危害を加えるような奴じゃない」

 

 フォローしてくれた……?

 

「それは……なんとなく分かります。緒祈くんは、他の男の人とは目が違うというか……変というか……」

「もしかして僕、ディスられてる?」

「あっ、あのっ、そうじゃなくて……ごめんなさい!」

 

 謝る必要はない。

 彼女が僕の視線を変だと感じたのは、多分僕が髪ばっかり見ているからだろう。

 

 というか、どうして男子連中が女子の胸できゃっきゃわいわい盛り上がれるのか分からない。あんなのただの脂肪の塊じゃん。ラクダのコブと一緒じゃん。

 

「それにしても綾小路君。右にサクラ(佐倉)さん、左にキキョウ(桔梗)さんって、お手本のような『両手に花』だね」

「……お前はそういうしょうもないネタ、大好きだよな」

「しょうもない言うなよぉ」

 

 確かにしょうもないけどさあ。

 

「わわっ、言われてみれば! 緒祈くんよく気付いたね」

「私は全然っ、花なんかじゃないです……」

「佐倉さんはとっても素敵なFlour(フラワー)だよ」

「え、えっと……小麦粉でもないです……」

 

 へえ、こんなくだらない冗談にも付き合ってくれるのか。もっとコミュニケーションを避ける人だと思っていたけど、意外だな。最初の一歩さえ上手く近付ければ、結構話せるのかな?

 佐倉さんに対する印象を更新していると、綾小路君がこんな提案をした。

 

「なあ佐倉。緒祈と連絡先を交換しないか?」

「えっ……」

「何かトラブルに巻き込まれたとき、こいつは頼りになるぞ」

 

 連絡先が交換できたらそりゃ嬉しいけど、勝手に頼りにされても困るよ……?

 佐倉さんも困ったような顔してるし。

 

「で、でも……私、緒祈くんと話したことないし」

「そうだよな、流石に抵抗があるよな」

 

 ……なんか僕がフラれたみたいになってない?

 

「じゃあ佐倉が一方的に知るだけならどうだ? それなら緒祈から変なメールや電話が来ることも無い」

「なんで僕が変なメールや電話をすることが前提なの?」

「えっと……それなら……大丈夫、かな」

「僕の意思を無視して話が進んで行くぅ」

 

 ドア・イン・ザ・フェイスを利用してまで僕の連絡先を佐倉さんに握らせたいのか。昨日は保険をかけておきたいとか言っていたけど、綾小路君は一体どんな事態を想定しているのだろうか。

 まあ僕に不利益があるわけでもないので、大人しくメールアドレスと電話番号を教える。

 

「あ、ありがとうごいます……」

「いえいえ」

 

 なんのお礼なのかよく分からないし、多分佐倉さん自身も分かってない。だって話の流れ的には、綾小路君が僕たちにお礼を言うべきだもん。

 

 彼が何を考えているのか少し探ってみるか。不審がられないように、なるべく自然に。

 

「3人は、どうしてここに?」

「私が佐倉さんのデジカメ壊しちゃって、さっきそれを修理に出して来たの」

「なるほどねー」

 

 過去形か。

 カメラコーナーの隅にある修理受付カウンターに目を向ける。彼女たちの姿をあそこに見た覚えはないので、僕が来る前に済ませていたのだろう。で、綾小路君は店内で適当に時間を潰して僕を待っていた。

 

 しかし、なぜそもそもここに綾小路がいるのだろうか。それを尋ねると、答えてくれたのは佐倉さんだった。

 

「わ、私がお願いしたんです……」

「へえ。意外だなあ」

「オレみたいな軟弱な奴でも、男がいた方がなにかと安心だろ?」

「綾小路くんは軟弱じゃないよっ!」

 

 ややっ。

 佐倉さんがイメージにない大声を上げたのでびっくりした。

 

 でもその内容は全面的に同意できる。綾小路君のどこに軟弱の要素があるというのか。そりゃもう兎角亀毛ってやつだ。佐倉さんはよく分かっていらっしゃる。

 

 それにしても――

 

「随分信頼されてるね」

「あー……そうみたいだな」

 

 僕が千尋さんに(ほだ)されたように、綾小路君も佐倉さん相手に庇護欲をそそられたのだろうか。

 多少なりとも何らかのプラスな感情はあるはずだ。昨日聞いた彼のプランは目撃者である彼女にやけに気を遣っている印象があったし、今日はわざわざ僕を呼びつけて連絡先を渡させた。

 

 ……ただ、その先が分かんないんだよなあ。

 

 須藤君騒動みたいな問題を解決するための『考え』ならまだしも、理論も損得勘定もなく感情に起因した個人的な『考え』となると、これは中々に読み難い。綾小路君みたいな素を見せないタイプは特にだ。

 結局10分弱話をしてみたのだけれど、彼が僕に何をさせたいのかは分からないまま解散となった。

 

 それから僕は脳にもやもやを抱えたまま、千尋さんに借りたポイントで幾つか買い物をしてから寮に帰った。

 

 そして夕方、綾小路君からメールが届いた。

 そこには「絶対にお前からは連絡するな」という命令文とともに、佐倉さんの電話番号とメールアドレスが記されていた。

 ……まさか何の説明も無しに、これだけで意図を汲み取れるとでも思っているのか? やめてくれよ。今は余計なことに頭使いたくないんだよ。

 

 とりあえず他に浮かばないし、僕の長髪フェチを知っている彼からの粋なプレゼントってことにしておくか。

 

 

 

 045

 

 

 

 全然休めなかった週末が明けて月曜日。

 

 今日のお昼は綾小路君と一緒に学食に来た。彼と3日連続教室の外で喋るというのは珍しいことだ。偶然の影響もあるけれど、須藤君騒動が佳境に入ったというのも一つの要因だろう。未だに詳細不明な佐倉さん問題もあるしね。

 この時間も当然その話をすると思っていたのだけれど、彼の初手は予想外の質問だった。

 

「なあ緒祈。入学して3ヵ月で200万ポイント貯める方法、お前なら何か思い付くか?」

「はあ? 200万?」

「そうだ。200万だ」

 

 随分と突飛な話だけど、とりあえず考えてみる。

 

 実現可能か怪しい手段や、学校にバレたら最悪退学させられるような手口なら幾つか思い付く。しかし彼が求めているのは多分そういう手じゃないだろう。となると一つしか浮かばないんだけど、これはこれで実行できる人が限られている。

 帆波(ほなみ)さんか龍園(りゅうえん)君。それから名前しか知らないけど、もしかしたらAクラスの坂柳(さかやなぎ)さんや葛城(かつらぎ)君も。あと我らがDクラスの平田(ひらた)君も、その気になればできるかもしれない。

 

 ところで先程の綾小路君の質問は、実際にその数字を見たような口振りだった。ではそのポイント残高は誰のものなのか。彼の交友関係を考えると――

 

「帆波さん?」

「……よく分かったな」

「ねえ綾小路君。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? そんなの僕だって知らないのに」

 

 これは嫉妬ではなく警戒だ。もし人には言えないような手段でその情報を入手したと言うのなら、彼と敵対したくないと思っている僕でも黙ってはいられない。

 ()()()()()()()()()()()()

 

「待て、誤解だ。オレは見ようと思って見たわけじゃない。偶々(たまたま)目に入っただけだ」

「ポイント残高が偶々目に入る状況って何?」

「ポイントの送り方を教えてたんだよ」

「君の何倍も友達がいる帆波さんがそれを知らないとは思えないんだけど」

「相手が匿名希望で、普通の電話番号やメールアドレスが使えないっていう特殊な状況だったんだよ。今朝の話だ。一之瀬に確認してくれて構わない」

「ふうん……」

 

 筋は通っているし、すぐバレる嘘を吐く理由もないか。

 

「なーんだ。そういうことか」

「……ふぅ。須藤たちが向けられていたのはこの感じか」

「うん? 何のこと?」

「お前を本気で怒らせるとヤバそうだって話だよ」

「あははっ。怒りをパワーに変えてジャイアントキリングってかい? バトル漫画じゃないんだから」

 

 たとえ感情が(たかぶ)って僕の秘められた能力が開花したとしても、綾小路君には到底敵わないだろうさ。

 ……でもまあ、引き分けくらいには持って行けるかな?

 

「それで、どうなんだ? 200万貯める方法は」

「教えないよ。帆波さんが黙っているなら、僕がそれを話しちゃいかんでしょ」

「そうか。それもそうだな」

 

 (もっと)も、『僕が200万という数字だけで帆波さんまで辿り着いた』こと自体が綾小路君にとっては大きなヒントになるだろう。孤高を基本スタイルとしている彼には、少し難しい発想かもしれないけど。

 この件は無闇に人に話すなよと釘を刺すと、彼は元よりそのつもりだったようで素直に頷いた。

 

「というか教えてほしいのはむしろ僕の方なんだけど、なんで佐倉さんの連絡先を送ってきたの?」

 

 他クラスから自クラスへと話を移す。

 

「あー、あれは……最初は何かに使えるかもっていう漠然とした目的だったんだが」

「漠然としすぎでしょ。その程度で連絡先をリークされる佐倉さんが可哀想だよ。あと日曜日に呼び出された僕も可哀想」

「昨日の夜に事情が変わった。いや、事情が分かったと言うべきか」

 

 そう言って彼は携帯を操作する。僕に何かを見せるつもりだったのだろうけど、やっぱり必要ないと判断したのか途中でやめてしまった。

 

「佐倉は今、ストーカーの被害に遭っている」

「あらまあ……」

「緒祈にはあいつを見守ってほしい。連絡先を互いに知っていると相手の位置情報が分かるんだが、知ってたか?」

「いや、知らなかったけど……」

 

 つまり僕が位置を把握できるように連絡先を、佐倉さんに気付かれないように交換させたわけだ。そして現在ストーカーに頭を悩ませている彼女を、今度は僕がストーキングして見守れと。

 位置情報の見方をレクチャーしてくれている綾小路君を「ちょっと待って」と止める。

 

「えっと……あのさあ。えっと……どういうこと?」

「近いうちにそのストーカーか、あるいは佐倉自身が行動を起こす可能性が高い。しかしあいつ一人では危険すぎる」

「だから僕が用心棒をしろ、と。……いやいや、僕の体力の無さを知らないの? 腕相撲で佐倉さんに勝てるか怪しいレベルだよ?」

「力が無いなりの戦い方くらい持ってるだろ? オレが駆け付けるまでの時間を稼いでくれればそれでいい」

「それなら最初から君が見守ってあげればいいじゃん。佐倉さんにも信頼されてるんだし」

「そうしたいのは山々なんだが、誰かさんが須藤の件に協力してくれなかったせいで忙しくてな」

 

 くっ……嫌な言い方をしてくれるぜ。

 

「今日明日明後日の3日間だけ、それも放課後だけでいい。力を貸してくれ」

「うーん……」

 

 星之宮先生との対峙は木曜だし、それに向けた準備はもう終わってるというか千尋さんに丸投げしているので、放課後に時間が無いわけではない。佐倉さんが酷い目に遭うのは僕も望まないし、その為に助力するのもやぶさかではない。

 

 それでも素直に頷けないのは、綾小路君の思い通りに動くのがなんか(しゃく)だからだ。

 どうやら僕の中には、先程の『帆波さんの所有ポイントを綾小路君が知っている件』に()()()()()()()()()()()()()()()自分が、まだ残っているようだ。

 

 おかしいな。

 彼女にそこまで絆された覚えはないんだけど。

 

「……うーん」

「オレに貸しを一つ作れる。これでどうだ?」

 

 煮え切らない態度の僕に、綾小路君が魅力的な提案をしてくれた。

 

「なるほどね……。位置情報を見てバレないように尾行して、何かあったら君に連絡して到着まで時間を稼ぐ。で、いいんだよね?」

「そうだ。引き受けてもらえるか?」

「どうして君がそこまで佐倉さんを気にかけるのかは分からないけど……うん、いいよ。貸し一つね」

「ああ。頼んだ」

 

 もちろん引き受けたからには真面目にやるけどさ。

 須藤君騒動に星之宮先生案件、そして佐倉さん問題。終わったものも含めるなら千尋さん事件もあった。

 

 7月が始まってまだ一週間ちょっとだよ?

 

 何の神様が頑張ってるのか知らないけど、イベント色々起き過ぎです。

 

 

 

 046

 

 

 

 楽な仕事だろうと思っていた。対象の位置情報が分かるんだし、体力もそんなに使わないはずだし、余裕だろうと。

 しかし実際にやってみると、1日目にして既に投げ出したい気分でいっぱいだった。

 

 外を歩いている佐倉さんを追うのは問題ない。見失っても焦る必要のない、難易度の低いストーキングだ。

 問題があるのは寮に帰ってからだ。綾小路君が追加注文した『寮にいる時も、陽が沈むまでは5分おきに位置を確認すること』というルールが、僕の精神を蝕んでいた。10分ならまだしも5分て。鬼かよ。

 

 単純に面倒くさい。そして何より罪悪感が半端ない。

 

 携帯の画面に映る桃色のマーカーから「お前何やってんの?」という呆れた声が聞こえてくるようだ。本当、何やってるんだろうね。

 こんなことを明日も明後日も続けていたら頭がおかしくなりそうだ。ストーカー野郎でも佐倉さんでも、どっちでもいいからさっさと行動を起こしてくれないだろうか。

 

 いっそこの苦行に慣れてしまえば楽になるのになあと甘い期待を抱いて迎えた2日目。

 当然ながら慣れるわけがなかった。一晩寝ただけでは精神的疲労を回復しきれず、むしろ1日目より辛い。

 

 今日の放課後は須藤君騒動の審議があり、佐倉さんもそちらに赴いている。僕はその位置情報を図書室で5分おきに確認していたのだけれど、ある時ぱっと見て彼女がトイレにいることに気付いてしまった。

 

「……」

 

 申し訳なさで死にたくなる。なるだけだけど。

 

 もしやこれは綾小路君が僕に仕掛けた回りくどい精神攻撃なのではないかと疑い始めた頃、審議が終わったのか佐倉さんは学校を出て、どこにも寄らず真っ直ぐ寮に帰った。そしてその後も出掛けることはなかった。

 まじかー、明日もかー。

 

 ちなみに審議自体は綾小路君の想定通りに進んだようで、明日の放課後に再審が行われるそうだ。堀北さんの誘導も上手く出来たらしく、彼の計画に狂いはない。

 うーん……彼の能力が高いのは間違いないけど、それにしたって随分と都合よく事が運んでいるじゃないか。羨ましい。妬ましい。隣の芝生が青々としてやがる。

 

 そして迎えたストーキング最終日。須藤君騒動終幕の日。

 

 ようやく事態が動いた。

 佐倉さんが動いた。

 

 寮に直帰せずショッピングエリアに向かう彼女を、昨日一昨日より数メートル距離を詰めて尾行する。

 

 やがて佐倉さんはカメラシティの裏側に入って行く。これは間違いないなと判断し、綾小路君に空メールを送信する。

 

 建物の陰に身を隠しながら路地裏を覗き込むと、そこには佐倉さんともう一人、強い癖っ毛の若い男がいた。

 ごうごうと室外機か何かが唸っている中、2人の話し声が微かに聞こえる。

 

「もう私に連絡してくるのはやめてください……!」

「どうしてそんなことを言うんだい? 僕は君のことが好きなんだ……本当に大好きなんだ……愛している! 君はただ、僕のこの想いを受け入れてくれればいいんだよ。運命の出会いに感謝して僕たちの愛を確かめようじゃないか。さあ! さあ!!!」

「やっ、やめて!」

 

 うっわー……。

 帆波さんには告白は正面から受け止めろって言ったけど、これは違うわ。逃げるのが正解だわ。そもそもこんなの告白とは呼べないだろ。醜悪と凶悪とか、そういうやつだ。

 

 しかし僕の予想に反して、佐倉さんは逃げずに抗戦を続ける。彼女は鞄から何やら紙の束を取り出した。あれは……手紙かな?

 

「どうして私の部屋を知ってるんですか! どうしてこんなもの送ってくるんですか!」

「そんなの決まってるじゃないか。僕と君は心で結ばれているんだから!」

「もうやめてください! 迷惑なんです!」

 

 そう言って佐倉さんは手紙の束を地面に叩きつけた。

 

「どうして……どうしてそんなことするんだよ! 君を思って、君を想って書いたのに!」

 

 男が一歩二歩と近寄り、佐倉さんもまた一歩二歩と後退する。

 やがて佐倉さんの背が倉庫のシャッターにぶつかり、2人の距離がじりじりと詰まっていく。

 

 ……綾小路君まだかなあ。

 佐倉さんと大して仲が良いわけでもない僕が出るより、彼女の信頼を得ている彼がズバッと解決してくれた方が良いのになあ。

 

 本当はもう少し決定的な場面になるまで待つべきなんだけど、髪の長い女の子が怯えているのをこれ以上見過ごすことはできないし……。

 しゃーない。やりますか。

 

 

 パシャ。

 

 

 今にも佐倉さんに掴みかかろうとしていた男の姿を携帯に収める。

 シャッター音とフラッシュに気付いた男がこちらを向いたので、その顔も撮っておく。パシャ。

 

「な、なんだお前は!」

「うーん、長髪フェチ?」

 

 綾小路君(ヒーロー)はどこで油を売っているんだか。

 あんまり遅いと君の見せ場(ステージ)を奪っちゃうよ?

 

 ……なーんてね。

 (かませ犬)にそんなこと出来るわけないっての。

 

 精々無様に地を這って、時間を稼ぐとしましょうか。

 

 

 

 

 

 



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047-049 終止符を

 047

 

 

 

 激昂には3つのタイプがある。

 思考が単純になり動きが読みやすくなるタイプ、思考を放棄して動きが予測できなくなるタイプ、そして思考も動きも普段通りを維持できるタイプだ。

 

 目の前のストーカー野郎はどのタイプの激昂状態だろうかと考えてみるけれど、残念ながら平常時の彼を知らないので判別できなかった。

 

 分かっているのは一つだけ。

 僕が今にも殴られそうだってこと。

 

「僕たちの邪魔をするなー!」

「わぶねっ!」

 

 鋭い右ストレートを転がるように――転ぶように避ける。体勢を崩して地面に手を付いた僕の腹に、容赦ないキックが炸裂する。

 

「ぐふぁ!」

「運命なんだ! 僕と彼女は運命なんだ!」

 

 仰向けに転がされた僕の脇腹に、男のつま先が再びめり込む。

 

「ぼへっ!」

「心が繋がっているんだ!」

 

 口から正体不明の体液を吐き出した僕に、口から意味不明な言葉を吐き出している男が馬乗りになってきた。

 左手で僕の胸倉を掴み、右手を大きく振り上げる。

 

 やばいやばい。

 そのまま振り下ろされては堪ったもんじゃない。

 口内にまだ残っていた唾液だか血だか胃酸だかを男の顔に吹き付ける。

 

「ちっ!」

 

 咄嗟に顔を覆い後ろに仰け反るストーカー野郎。

 この隙に男の下から抜け出そうとしたのだけれど、なんとびっくり僕の体力ではその程度のことすら出来なかった。

 

 ぐぬぬ。人目を集めてしまうから嫌だったんだけど、うっかり殺されても困るし……仕方ないか。僕はブレザーの胸ポケットからある物を取り出す。

 体勢を立て直して再び殴ろうとしている男の耳元に右手のそれを持って行き、片手だけでピンを抜く。運動はできないけど手先は器用なんだよ。

 

 

 PiWiWiWiWiWiWiWiWiWiWiWiWi――!

 

 

「くあっ!」

 

 突然の大音量に、ストーカー野郎の体が横に大きく傾く。

 

 誰しも一度は触ったことがあるだろう、防犯ブザーだ。肉体言語を不得手とする僕には、こういう武器が必要になる。

 

 右手で(かまびす)しく鳴いているそれを佐倉(さくら)さんとは逆方向に、人がいる通りの方に投げる。

 

「くそっ! くそっ!」

 

 こんな場面を誰かに見られては困るだろう。

 男は音を止めようと追いかけ、ゴキブリでも見付けたみたいに激しく足で踏み潰した。

 

 僕はその隙に立ち上がり、ポケットから同じ物をもう一つ取り出す。肉体言語がからっきしダメな僕には、こういう武器が複数個必要なのだ。

 

 ピンを抜いて、男の方に投げる。

 ギリギリ届かないくらいの高さに投げる。

 

「くそがっ!」

 

 男はそれを掴もうとジャンプしたけれど、その指先は僅かに届かない。間抜けで無様で、実に滑稽だ。

 

「あはは」

「何笑ってんだ!」

 

 ウズラの卵みたいな防犯ブザーが大きな音を撒き散らしながら放物線を描いていく。そのまま地面に激突するかと思いきや、その前に受け止めてくれる手があった。

 

 うるさくって碌に話も出来ないので、ピンも同じように投げる。それをしっかりと受け取った()は、穴に刺して音を止めた。

 

「随分と遅かったじゃないか綾小路(あやのこうじ)群」

「名前はあってるんだけどな……。なんで最後に羊を足したんだよ。複数形にされてもオレは一人しかいないぞ。それともあれか? 眠いのか?」

「羊が1匹、羊が2匹、羊が――」

「寝ようとするな」

「One Sheep, Two Sheep, Three—」

「本気で寝ようとするな」

「もうっ、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」

 

 見計らったようなタイミングで現れたのは、綾小路君と帆波(ほなみ)さんだった。

 僕は安心感と疲労感からその場にへたり込み、綾小路君に『あとはよろしくー』と手を振る。その意を正しく汲み取ってくれたようで、彼は両手をポケットに入れた偉そうなスタイルでストーカー野郎ににじり寄る。

 

「ようオッサン。オレのダチに随分と酷えことしてくれたじゃねえか」

「ち、違う! 僕じゃない!」

 

 ……あんたら二人で僕を笑わせようとしてるのか? 綾小路君は全然似合わない言葉遣いだし、オッサンはバレバレの嘘吐いてるし。

 

 アホ臭いコントに呆れていると、隣に帆波さんが駆け寄って来た。

 

「真釣くん、大丈夫?」

「うん、ありがとう。お腹の辺りが痛むけど骨は折れてないし、大丈夫だよ」

「なんでこんな無茶なことを……」

「あははー」

 

 

()()()()()()()!」

 

 

「っ……」

 

 力強い語勢で、若干涙目で、そう言われた。

 帆波さんのそんな声は聞いたことが無かったから、そんな表情は見たことが無かったから、僕は言葉を失ってしまう。

 

「もっと自分のこと大切にしてよ!」

「……ごめん」

「真釣くんが傷付くのは、君自身は平気かもしれないけど……私は、嫌だよ」

「……ごめん」

 

「ぶっ殺すぞ!」

「ひぃ!」

 

「……」

「……」

 

 綾小路君……トラウマになるレベルで脅してるのは分かるけど……タイミングがさあ……。

 脱兎の如く逃げ出したストーカー野郎の背を見ると溜息が出てきた。

 

 視線を戻すと帆波さんと目が合って、お互い困ったように笑う。

 

「とにかくさ、私だけじゃなくて千尋(ちひろ)ちゃんも神崎(かんざき)くんも、多分綾小路くんや堀北(ほりきた)さんもそうだから。君が傷付くことで心を痛める人がいるってこと、忘れないでね」

「……肝に銘じておくよ」

 

 綾小路君は絶対違うだろ、とは言わない。

 もしまた同じような状況になったとしても僕はやっぱり今回と同じように対応するだろうけど、それも言わない。

 

 もちろん僕だって痛いのは嫌だし、帆波さんたちに心配をかけるのも本意ではない。こんなことは今日で最後にしたい。

 でも、普通の学校なら敷地内で暴力事件なんてそうそうあるもんじゃないけど、この学校は全然普通じゃないからなあ……。

 

 そういえば一番の被害者である佐倉さんをほったらかしていたなあと振り返ってみると、いつの間に立ち直ったのか意外と近くに来ていて、僕の方を向いていた。

 

「お、緒祈(おいのり)くんっ! その……私の所為で怪我させちゃって、ごめんなさい! それから……助けてくれてありがとうございました!」

 

 そう言って深々と頭を下げる佐倉さん。

 彼女のケアは隣にいる男が十全に済ませたようだ。

 

「お礼なら綾小路君に言えばいいよ。僕は彼の指先として動いただけだからね。謝罪も別にいらないよ。単純に僕の立ち回りが下手糞だっただけだから」

「で、でも……!」

「緒祈もそう言っていることだし、あまり気にするな」

「お前はちったあ気にしろや綾小路」

「キャラが変わってるぞ」

「おおっと失礼」

 

 まあこれで彼に貸しを1つ作れたわけだし、良しとするか。……貸し3つ分くらい働いた気がしないでもないけど。

 

「立てるか?」

 

 差し伸べられた手を握る。

 そのごつごつとした感触とぐいっと引っ張り上げる力強さは、どちらも僕にはないものだった。空手か柔道か、なんらかの格闘技の経験者だろう。

 少し(くら)っとしながらも立ち上がる。

 

「ありがと」

「これで借りは返したぞ」

「そんな馬鹿な!」

「冗談だ」

 

 3日間の放課後ストーキングと蹴り2発の借りが、立ち上がる手助けをしただけで消えて堪るかよ。

 

 ……振り返ってみると2回蹴られただけなんだよなあ、僕。それで気分は満身創痍って、ひ弱過ぎるだろ。

 秋には体育祭があると思うけど、クラスの足を引っ張ってしまうんだろうなあ。

 

 そんな悲しい未来予想図を描いていると、地面にばら撒かれた気色の悪いラブレターを気持ち悪そうに拾い上げていた帆波さんが、誰にともなく問いかけた。

 

「ねえねえ、さっきの怪しげな人って結局なんだったの?」

「……」

 

 僕は事の詳細を把握していないので、とりあえず綾小路君に視線を投げる。

 

「あー……」

 

 彼は何かを言おうとして、佐倉さんに目を向けた。彼女の個人的な事情が関係しているので勝手に話すわけにはいかないのだろう。

 

「……」

 

 その視線を受けて、佐倉さんは黙ったまま小さく頷いた。

 

「ここにいる佐倉はな、中学の時アイドルだったんだよ。(しずく)って名前のアイドル」

「「へー!」」

 

 僕と帆波さんのシンプルなリアクションに、佐倉さんは恥ずかしそうに身をよじる。

 

「すごいねっ! アイドルって、芸能人じゃん! 握手しよ握手!」

「テレビとかは出てないですけど……」

「それでもすごいよ!」

 

 興奮を抑えきれない様子の帆波さんと、ちょっと困った様子の佐倉さんが握手をしている。

 美髪少女のツーショット。これは良い。すごく良い。蹴られた痛みも吹き飛ぶってもんだ。

 

「緒祈は知ってたか?」

「へ? なにが?」

「雫ってアイドルのこととか、佐倉のこととか」

「ぜーんぜんっ」

 

 僕は長い髪が好きだけど、画面の向こうや写真の中には興味が無い。目の前に存在してこそ意味があるのだ。言うなれば実物至上主義だ。

 

 ……あれ? 僕、数日前に『長い髪にわいわい言うのはもうやめる!』みたいな決意をしなかったっけ? うーん、まあいっか。

 

「というか綾小路君、よく気付いたね。アイドルとか全然興味なさそうなのに」

「気付いたのはオレじゃなくて櫛田だ。知っている奴はクラスに何人かいる」

「なるほどねー」

「そっか、バレてたんだね……」

 

 ギリギリ聞き取れるくらいの小さな声で、佐倉さんは呟いた。

 

「でも、もしかしたらそれで良かったのかも……。自分を偽り続けるのって大変だから」

 

 どうやら今日の一件は、佐倉さんが一皮むけるのに丁度良い切っ掛けになったようだ。それなら痛い思いをした僕も、いくらか報われる。

 

「それにしたって勇気の出しすぎだ。何かあったらどうするつもりだったんだ……」

「あはは、そうだね……怖かったな……。ごめんね、迷惑かけちゃって」

「別に謝る必要はない。だけど、これからは悩むことや迷うことがあったら相談してくれ。……堀北や櫛田(くしだ)が力になってくれるはずだ」

 

 ズコッとずっこけるリアクションが帆波さんとシンクロした。

 

「そこは『オレが相談に乗る』って言えよ」

「うんうん。人任せにするとこじゃないよね」

 

 綾小路君は僕らの苦言を無視して佐倉さんに話を続ける。

 

「あと一之瀬(いちのせ)は別に良いんだが、緒祈に相談するくらいなら先にオレの所に来てほしい。こいつ、ちょっと変だから」

「綾小路くん? 僕だって傷付くんだよ?」

「言いたいこと、ちょっと分かるかも」

「帆波さん? 本人が目の前にいるんだよ?」

「うん……じゃあ何かあったら緒祈くんじゃなくて、綾小路くんに相談するね」

「佐倉さん? 僕ってそんなに信用ないかな?」

 

 僕より綾小路君に相談した方が良いのは、そりゃ間違いないけどさあ……。

 でも今回みたいに綾小路君に顎で使われるくらいなら、最初から僕に話を持ってきてくれた方が助かるかも。僕が助かるってだけで、佐倉さんが助かるかは知らないけどね。

 

 綾小路君を上手く使えれば大抵の問題は解決できると思う。ただ、果たして彼が僕の思い通りに動いてくれるだろうか。例えばの話、「僕に借りを一つ作れるよ」と言って彼を動かすことは可能なのだろうか。

 

 ……この台詞って、よっぽど自分に自信がないと使えないよね。

 綾小路君はよく恥ずかしげもなく言えたもんだ。

 

 

 

 048

 

 

 

 佐倉さん問題はその後、誰が呼んだのか警察が到着して、逃げたストーカー野郎もすぐに捕まって、無事解決した。

 

 そして翌朝。

 ポイント残高が昨夜より8700増えていることに気付き、須藤(すどう)君騒動がこちらも無事に解決したことを知る。

 

 これで残る事案はあと一つ。

 それも今日で終わらせる。

 

 午前の授業は集中できなかった。

 

 昼休みは千尋さんと帆波さんに放課後の段取りを確認してもらった。

 

 午後の授業は午前より集中できなかった。

 

 帰りのホームルームで先生が何を話していたのかも覚えていない。

 

 策は練った。

 手は打った。

 場は整った。

 時は来た。

 

 あとは僕がどれだけやれるかだ。

 

 裏のかき合い。

 手の読み合い。

 腹の探り合い。

 化かし合い。

 

 ()の全力をお見せしよう。

 

 

 

 049

 

 

 

 『使用中』のプレートが掛けられた生徒指導室のドアをコンコンとノックする。

 

「失礼します」

 

 返答を待たずしてドアを開け、中に踏み入る。

 テーブルのこちら側には帆波さんがいて、向こう側には星之宮(ほしのみや)先生がいた。二人とも驚いた顔で私を見ている。

 

「えっと……真釣、ちゃん?」

「ありがとね帆波さん。先生を呼び出してくれて」

「ううん。大丈夫」

「君、もしかして緒祈くん? あっははー。女の子の制服似合ってるねぇ。ウイッグまでしちゃって、もう完全に女の子だ~」

 

 星之宮先生の言う通り、私は今女子の制服を着てウイッグをかぶって、完全に女子としてここに来た。これは帆波さんにも事前に教えていなかったことだ。

 しかし彼女は驚きながらも、台本通りに動いてくれた。

 

「じゃ、じゃあ私はこれで。星之宮先生、騙してごめんなさい」

「えー、帰っちゃうの? 折角だし3人でお喋りしようよ~」

「失礼します」

 

 帆波さんは律儀に謝罪しつつも、先生の言葉は無視して出ていった。

 私も同じように無視をして、先生の後ろにあるドアを開く。

 

「なになに? 一之瀬さんを使ってまで私と二人きりになるなんて……もしかして私、襲われちゃう!? きゃー!」

 

 分かっていたけど、給湯室で誰かが聞き耳を立てているということはなかった。ドアを閉じて、つい先程まで帆波さんがいた椅子に座る。

 

「緒祈くーん? 緒祈さーん? 無反応は悲しいぞっ! 先生泣いちゃうぞっ!」

「Bクラスの担任がDクラスの生徒と二人きりというこの状況に、学校が良い顔をするとは思えません。さっさと終わらせましょう」

「うーん、それもそうだねっ。で、なになに? 恋の悩み?」

 

 くだらない冗談は全て無視する。

 

「私のことを極悪人だと評したあの噂を流したのは星之宮先生ですよね?」

「んー? なんのこと?」

「この状況が長引いて困るのは先生の方ですよ」

「そう言われても、知らないものは知らないからね~」

(とぼ)けないでください。時間の無駄です。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「あははっ! サエちゃんみたいなこと言うね~」

 

 そりゃそうだ、茶柱先生(サエちゃん)の言葉なんだから。

 1か月と少し前、この部屋で言われた言葉だ。

 

「まずは認めてもらわないと、その先の話ができません」

「そう言われてもな~」

 

 『Bクラスの担任がDクラスの生徒について悪評を流した』と学校に報告されるのは、その証拠が無いにしても星之宮先生としては困るはずだ。逃げ道を用意しているのかもしれないけれど、疑いを完全に晴らすには悪魔の証明が必要になる。

 

 面倒は嫌だろう?

 さあ、交渉を選べ。

 

「会話を録音されている状況じゃあ、恥ずかしくって素直にお喋りできないな~」

 

 困ったような口調でそう言いながらも、視線は獲物を探す猛禽のように鋭かった。おお怖い怖い。

 

 ここで惚けるのも時間の無駄だ。私は胸ポケットから安物のボイスレコーダーを取り出し、録音を停止してテーブルに乗せる。

 

「それだけじゃないよね?」

「……そうですね」

 

 まあ、そりゃ気付くよな。

 左の襟の裏からもう一つ取り出して、これも停止させて一つ目の隣に置く。そしてスカートの右ポケットから携帯を取り出して、これもボイスメモアプリを切ってテーブルに置く。

 

「じゃあ、話をしましょうか」

「あはは。面白い冗談だね~。まだあるでしょ?」

「これで全部ですよ。万年金欠のDクラスなもんで、これだけしか買えなかったんです」

「じゃあこれは?」

 

 そう言って星之宮先生はテーブルの裏に手を伸ばす。何かがぺりっと剥がれる音がして、テーブルに乗せられたのは両面テープの付いたボイスレコーダーだった。

 

「誰かの忘れ物ですかね」

「こっちにもあるよね~」

 

 そう言って今度は席を立ち、給湯室のドアを開いた。そのドアの裏からまたぺりっと音がして、テーブルに乗せられたのはまたしても両面テープの付いたボイスレコーダーだった。

 

「誰かの忘れ物ですかね」

「まだまだあるよ~」

 

 先生は私の後ろに回り込んで、私が座る椅子の裏に手を伸ばす。そこからまたぺりっと音がする。これも安物のボイスレコーダーだ。

 

「そしてここにも」

 

 先生の手が無遠慮に私の胸ポケットに伸びる。

 

「同じ場所に2個隠すとは策士だね~。これが本命だったのかな?」

「……」

 

 それは神崎君に借りた高級ボイスレコーダーだった。こいつには最後まで残ってほしかったんだけど、残念。

 

「携帯が1つとボイスレコーダーが6個か~。よく準備したね」

「……返してもらえません?」

「『お話』が終わったら、ね」

 

 こんなにあっさり見付けられるとは。一体どんな目をしてるんだか。

 別に()()()()()()()()()

 

「はぁ……分かりました。録音は諦めます。それで、噂の件については認めていただけますか?」

「諦めるとか言って、実はまだ隠してるんじゃないのかな~?」

「私が否定したところで信じないでしょう? それで、噂の件については認めていただけますか?」

「ふふふ……そうだね。確かに緒祈くんのことを一之瀬さんに話したのは私だね。でも、正確には極悪人じゃなくて人非人(にんぴにん)って言ったんだよ」

「意味同じじゃないですか……どうしてそんなことを?」

「君は入学前から職員室で話題になってたんだよね~。得体の知れない新入生が来るって」

 

 随分な言われ様だ。

 繰り上がりとはいえ私を合格させたのはあんたらだろうに。

 

「配属はDクラス(サエちゃんとこ)だったから一先ず安心してたんだけど……まさか初日から会っちゃうとはね~。災難災難」

「人のこと疫病神みたいに言わないでくださいよ」

「疫病神でしょ? 君の小中学生時代の話を聞けば誰だってそう思うよ」

「……そもそもどうしてよその担任である星之宮先生が、私の過去を知っているんですか?」

「緒祈くんの入学は色々と異例だったからね、一年の先生はみんな知ってるよ。合格に至るまでの経緯もね」

 

 以前この部屋で茶柱先生とした話を思い出す。あの時の先生の口振りからすると、私は本当に『合格者を蹴落として入って来た生徒』だと認識されているようだった。

 なんとまあ迷惑な。

 

「だから一之瀬さんには近付いてほしくなかったんだけど……上手くはいかないね~」

「帆波さんをどうこうするつもりはありませんよ」

「ほんとかな~? 隙あらば潰そうとか考えてるんじゃないの?」

「まさか。そもそも私は人を潰したことなんてありませんし」

「ふ~ん? でも、狂わせたことはあるでしょ?」

「まさか」

 

 狂わせたつもりはない。

 『緒祈真釣さえいなければ』と思われたことは何度かあったかもしれない。何度もあったのかもしれない。でも、それが何だって言うんだ。

 

 私の知ったことじゃない。

 私の与り知ったことじゃない。

 

「……本題に移りましょうか」

「あれ? 今までのは?」

「過去の話は前座です。私がこの場を設けた目的は、今後のことを話すためですよ」

「今後、ね……」

 

 星之宮先生は私が何を言うのか、興味深そうに待っている。

 私は背もたれから体を離し、身を前に乗り出す。

 

「簡単に言わせてもらうと、私は星之宮先生のクラスをAに押し上げて、最終的にはそこに自分も移るつもりです」

「……つまり、Aクラスに上がる手伝いをしてあげるから、緒祈くんと一之瀬さんの仲を邪魔するなってこと?」

「若干ニュアンスが気になりますが、概ねその通りです。話が早くて助かります」

「なるほどね~」

 

 先生は拍子抜けしたような表情だった。

 ()()()()()()()()とでも言いたげだった。

 

「もっと過激なお願いも覚悟してたけど……緒祈くんってヘタレ? 草食系男子ってやつ? そんな弱腰だと彼女できないぞっ!」

「できなくて結構です。それに、この学校の教員相手に私ごときが一本取れるとは(はな)から思っていません。そこまで(あなど)っていません。不戦協定を結べればそれで十分です」

「欲のない子だな~」

「欲の熊鷹股裂くると言いますからね。藪をつついて蛇を出したくもありませんし」

「つまーんなーいのっ」

 

 あなたを楽しませるために生きているわけではありませんので。

 

「Aクラスに上がる手伝いを実質無償ですると言っているんです。悪くない話だと思いますが?」

「うーん……」

 

 先生は顎に手を当てて首を傾げて、いかにも考え事をしていますよというポーズをとる。

 

 5秒経過。

 

「ま、それもそうだね」

「では交渉成立ということで。先生は今後、私に対して一切余計な手出しをしないでくださいね」

「おっけー。緒祈くんは私のクラスがAに上がれるよう、一之瀬さんに協力してあげてね」

「ええ。お互いに近付き過ぎず、適度な距離で仲良くやっていきましょう」

「ふふふ。勿体ないことしたね~。私の弱みを握って好き勝手できるチャンスだったのに」

「チャンス? ご冗談を」

 

 弱みを握った程度で好き勝手できるとは思っていない。こうやって交渉のテーブルに付かせるくらいが関の山だろう。

 

 そもそも教員の弱みなんてのは相手を確実に学校から追い出せるレベルでないと、手札とするには難しい。そのカードを使ってしまえば、あとは報復を待つだけになるのだから。

 

 今回の噂の一件にそこまで強い力があるとは思えないけど――

 

「教員しか知り得ない情報を一部の生徒に、それも自分が担任をしているクラスの生徒に漏出するというのは、学校にバレたらどれくらいの罰を受けるんですか?」

「う~ん、今回のレベルなら懲戒免職まではいかないと思うけど……停職か、担任を外されて減給か、もしくは担任は続行だけどお給料とクラスポイントが減らされるか、かな~」

「なるほど……」

「私としてはどれも嫌なんだよね~。だからさ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 そう言って星之宮先生は、ぐいっと体を乗り出して来た。

 私はそれに押されるように背もたれに帰る。

 

「テーブルに出した物で全てですよ」

「あと何個隠し持ってるの? 1個? 2個? 3、4、5――」

「メンタリストみたいですね」

 

 頭蓋骨の奥まで届きそうな鋭い視線を、私はあえて正面から受け止めてみる。

 

「……ははーん。君が女の子としてここに来たのは、そういう狙いか」

「なんのことでしょう?」

「性別を偽るという『大きな演技』をすることで、動揺を隠す程度の『小さな演技』を目立たなくさせたわけだ。木を隠すなら森の中、()()()()()()()()()()()ってことだね」

「……さあて、どうでしょうね」

 

 ご明察。

 確かに私はそういう効果を期待して、こんな格好をして一人称まで変えている。

 

「よく考えたね~。面白い発想だね~。でも、あんまりにもお粗末だよ。あと2個でしょ?」

「……」

 

 ご名答。

 確かに私が仕込んだボイスレコーダーはあと2個ある。

 

「ほら、出して?」

「……敵わないなあ」

 

 ウイッグの中から1個、首元のリボンの裏からもう1個取り出す。どちらも録音を停止してテーブルに置く。

 

「油断ならないね~。なにが『不戦協定を結べればそれで十分』だよっ」

「教員の弱みを握れる機会なんて多分もう二度と来ませんから、ちょっと頑張ってみたんですけどね」

「ナイスファイト! でも残念、私の勝ちだよ」

「あーあ。ほんっと上手くいかないなあ……」

「ドンマイドンマイっ! 不戦協定はちゃんと守ってあげるから、そこは安心してくれていいよ~」

「まあ、今回はそれで良しとしておきます」

 

 これ以上話すことも無いだろう。私は椅子から立ち上がり、テーブルの上で眠っている8個のボイスレコーダーを回収しようとする。

 しかしその手を先生に払われてしまった。

 

「これは一旦没収させてもらうよ~。いいよね?」

「……はぁ。細工なんてしてませんけど、調べたいのならお好きにどうぞ。でも携帯だけは返してください」

「う~ん……いいけど、ちょっと待ってね」

 

 そう言って先生は私の携帯にべたべたと触れる。

 

「暗証番号は?」

「帆波さんの誕生日ですよ」

「えっ……」

「なにか?」

「いや……ぜろ、なな、にい、ぜろ……違うじゃん!」

 

 私の言葉の真偽を見抜こうとしていなかったから騙されたのか、それとも嘘だと分かっていながら騙されたフリをしたのか。

 特に意味もなく適当なことを言ってしまったけど、万が一()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のなら――ちょっと面倒になるかもな。そんなことは、さすがにないと思うけど。

 

「7月20日ですか。もうすぐですね」

「そうだね~……じゃなくて、本当の番号は?」

「教えませんよ。何のアプリも動いていないことはその状態でも分かるでしょう?」

「ふむ、それもそうだね。じゃあ、はいどうぞ」

「はいどうも」

「ボイスレコーダーは明日にでも一之瀬さん経由で返すね」

「分かりました」

 

 星之宮先生がそれを回収している間に、私は一足先に生徒指導室を出る。先生もすぐに出てきた。

 放課後の喧騒が流れる廊下には、私の友人の姿があった。彼女は不満気に頬を膨らましていた。

 

「おっそーい!」

「……白波さん? どうしてここに?」

「私が呼んだんです。待たせてごめんね、千尋(ちひろ)さん」

 

 彼女の足元には彼女自身の鞄と私の鞄、そして私の制服(男子ver.)が入った紙袋が並んでいた。

 指示通り待っていてくれた彼女に、私は簡潔に尋ねる。

 

()()()()?」

 

 千尋さんも、用意していた回答を簡潔に述べる。

 

「右の襟の裏と、スカートの左後ろ」

「んん……左後ろ? ……あー、あったあった」

 

 自分の制服(女子ver.)の言われた箇所を(まさぐ)ってみると、布ではない何かごつっとした物に触れる。

 

「じゃあ私、部活行ってくるね」

「ありがとね。いってらっしゃい」

 

 千尋さんを見送りながら、その物体を取り出す。それは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ。

 

 先生の方を振り返ってみると、心臓に穴が開いてしまいそうなほど鋭く尖った視線を向けられていた。

 私はそれに怯むことなく、堂々と宣言する。

 

「私の――僕の勝ちです星之宮先生」

「……」

 

 いくら飢えた猛獣のような瞳で睨まれても、僕は全然怖くない。それくらいに気分が良い。

 

「ご安心ください。先生が余計なことをしない限り、僕も何もしませんから」

「……」

「ふふふ。そんなに睨まないでくださいよ。むしろプラスに考えたらどうですか? 先生から一本取れるくらいに優秀な僕が、先生のクラスに協力するって言ってるんですから」

「……クソガキが」

「言葉遣いが乱れていますよ」

「……ふふふ。やってくれたね、緒祈くん」

 

 ここが特別棟の廊下なら、力尽くでこのボイスレコーダーを奪いに来たことだろう。しかしここは職員室のすぐそばで、監視カメラの守備範囲だ。周囲も無人ではない。

 

「僕にしては珍しく、運が良かったみたいです」

「運なんてどこにも絡んでなかったと思うけどね~」

 

 そうでもない。運任せというか、千尋さん任せにしたところはある。でも先生がそれを僕の実力だと勘違いしてくれるなら、わざわざ訂正する必要もない。

 

「緒祈くん、君は本当に私のクラスをAに上げてくれるのかな?」

「そうですね。そのつもりです」

「……裏切ったら許さないよ?」

「それは僕の台詞ですね」

「……あ~あ。厄介な生徒と関わっちゃったな~」

「日頃の行いですよ」

「なんだと~? このこのっ」

「いでででで」

 

 昨日ストーカー男に蹴られた脇腹を人差し指でつんつんと突かれる。そういやこの人、保健室の先生だもんな。僕が痛がる箇所を見抜いたうえでやってるのか?

 

「そういうのが日頃の行いってやつですよ」

「むむむ~、生意気だぞっ!」

 

 今度は僕のほっぺたを狙ってきた星之宮先生の指を右手で払い、千尋さんが置いていった僕の鞄と紙袋を手に取る。

 先生とじゃれているところは、そう見られたいものではない。用は済んだので退散するとしよう。

 

「あの、もう行っていいですか?」

「え~? もっとお喋りしようよ~」

「帆波さんを待たせているので」

「ほほ~。それじゃあ仕方ないね」

「……不戦協定さえ守ってくれれば、僕はそれでいいので」

「はいはい、分かってるよ~」

「では、さようなら」

「まったね~! 気を付けて帰りなよ~」

 

 にこやかに手を振る星之宮先生に、僕は小さくお辞儀を返す。

 

 最後は冗談めかした和やかな空気もあったけれど、先生の瞳は一度たりとも笑っていなかった。氷柱のように鋭く冷えていた。

 一方の僕は、口元が(ほころ)びるのを必死に堪えていた。

 

「……ふっ」

 

 無理だ。もう無理だ。我慢できない。

 

「ふっ、ふふふっ」

 

 勝った。

 

 先生に勝った。

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

 こんなに嬉しいのはこの学校に来て以来――否、この世に生を受けて以来初めてだ! ひょっとしてこれが達成感というやつか?

 ああ! なんと甘美な快感だろうか!

 

「あはっ♪」

 

 ヘイ神様!

 あんたも偶には良い仕事するじゃないか!

 

 

 



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050-α 得たもの

 050

 

 

 

 るんるん気分で廊下を歩く。

 油断すると鼻歌にスキップまで出てしまいそうだ。

 

 すれ違う生徒たちに怪訝な視線を向けられたけど、そんなことは気にならない。今の僕は女子の制服なので、変な奴がいたという噂が流れたところで困らない。

 

 昇降口を出て校門に向かうと、そこにストロベリーブロンドの美髪少女を発見する。どうやら向こうは僕に気付いていないようだ。

 彼女の視界に入らないよう大きく弧を描き、後ろからそっと近付いて――

 

帆波(ほなみ)さんお待たせ!」

 

 その髪をわしゃわしゃーっと思いっきり撫で回してやった。

 

「ぎゃー!」

「へぶっ!」

 

 その感触を楽しむ間もなく鞄ハンマーが飛んできて、顔面にクリティカルヒットした。僕は衝撃に踏ん張ることができず、仰向けに倒れてしまう。

 顔に手をやって確認する。どうやら鼻血は出ていないようだ。

 

「いてて」

「今のは真釣(まつり)くんが悪いっ!」

「調子に乗りました。ごめんなさい」

 

 いっけねー。星之宮(ほしのみや)先生を出し抜いたことでテンション上がって、欲望のままに暴走しちゃったぜ。

 

「完全にセクハラだよ? 私じゃなかったら通報されてるよ?」

「帆波さん以外にこんなことしないよ」

「っ……そういう問題じゃない! 人違いだったらどうするの?」

「僕が帆波さんの髪を見間違えるなんて万が一にも有り得ない」

「うぅ……そういう問題じゃない!」

 

 となるとどういう問題なのか分からないんだけど、なんであれ僕が有罪であることは確実だった。

 

 帆波さんは「まったくもう!」とぷんすか可愛らしく怒りながら、乱れた髪を手櫛で整える。

 僕はブレザーとスカートに付いた塵を払いながら、先程の自分の発言に誤りがあったことに気付く。

 

「あ、ごめん。髪をわしゃわしゃする相手は千尋(ちひろ)さんもいたわ」

「うん、知ってる。それは本人から聞いたよ」

「そっか」

「あと『真釣くんは帆波ちゃんの髪も狙ってるから気を付けて』とも言われた」

「何言ってんだ千尋さん」

「事前に聞いてなかったら、もう2,3発叩いてたかもねっ」

「よくやった千尋さん」

「ふふふっ、冗談だよ。……ごめんね? 痛かったよね?」

 

 完全に僕が悪いのに、そう言って心配してくれる優しい帆波さん。うっかり惚れそうになるね。もう恋なんてしない宣言はどこに行ったのやら。

 

「大丈夫だよ。血も出てないし、鼻も折れてないし。僕の方こそごめんね。嫌な思いさせちゃって」

「んー、嫌ってわけじゃないんだけど……恐怖は覚えたね」

「申し訳ない」

「タイミング的にも、ほら、昨日気味の悪いストーカーを見たとこだし」

「誠に申し訳ない」

 

 そうだよね。相手が誰だろうが、急に触られたら怖いよね。さっきのは『触る』なんてレベルじゃなかったし。

 何も考えてなかったなあ、僕。

 

「今回は許してあげるけど、次からはちゃんと事前に言うこと! いいね?」

「えっ、今から触りますって予告すれば触っていいの?」

「……やっぱりダメ」

 

 ダメなのか。

 

「真釣くんが言う『髪触らせて』って、他の人とは意味が違うというか、意気込みが違うじゃん?」

「そうかもしれない」

「だから、うん。なんか恥ずかしい」

「なるほど」

 

 一般的な『髪触らせて』は『握手しようよ』と同じ括りで、僕の『髪触らせて』は『胸触らせて』と同じ括りってことか。違うか。違わないのか?

 今の僕は女の子の格好だから傍から見れば女子同士でじゃれ合っているだけなんだけど……そういう問題でもないよね。

 

 ひょっとして、僕は変態って奴なのか?

 

 そんな疑問を抱きながら、帆波さんと並んで寮へと続く並木道を歩き始める。

 

「そーんなことよりっ! その表情を見るに、上手くいったみたいだね」

「うん。完全勝利と言っても差し支えないかな」

「先生相手にすごいねー。その先生がうちの担任ってのがちょっと複雑だけど……」

 

 帆波さんが校門で僕を待っていたのは、この話をするためだ。誰かさんの所為で髪の話からスタートしちゃったけど、ようやく本題に入る。

 

「教えてもらえる? 真釣くんが何を考えて、何をして、何を得たのか」

「おっけー」

 

 帆波さんには須藤(すどう)君騒動の方に集中してほしかったので、星之宮先生案件にはほとんど関わらせていなかった。生徒指導室に先生を誘導してもらったくらいだ。だから彼女は事の詳細を全く知らない。

 

「さて、どこから話すべきかな?」

「うーん……じゃあ、まずは今回の目的から聞かせて?」

「目的、ね。まあ幾つかあったんだけど、一番はやっぱり仕返しかなあ」

「えっ、仕返し?」

 

 驚いた様子の帆波さん。先生の弱みを握るためとか、そういう答えを予想していたのだろう。

 間違いとは言えないけれど、それは目的というより手段だ。

 

「星之宮先生が流した例の噂の所為で、僕と君たちの仲って一時期微妙になったじゃん? あれが不愉快だったから、ちょいと仕返しをね」

「……意外と子供っぽい理由だね」

「あはは。僕は紛れもなく未成年(こども)だよ」

 

 あの噂があったおかげで今の帆波さんとの関係があるとも言えるけど、だからって感謝も容赦もしてやらない。

 良くないことをして僕を傷付けたんだ。説教が効くような相手でもないし、釘を刺さなきゃ気が済まない。

 

「にゃるほどねー。それで? 星之宮先生を一泡吹かせるために何をしたのかな?」

「先生に『他クラスの生徒を意図的に(おとし)めようとしたこと』を自供させて、それを録音できれば僕の勝ちってのが基本的な方針だね。これなら先生も嫌がるだろうし」

「……和解できれば良いのにって思うけど、そういう問題でもないんだよね?」

「うん」

 

 平和を愛する帆波さんにはあまり楽しくない話だろう。しかし彼女は僕の友人としてか、星之宮先生の生徒としてか、はたまたただの好奇心からか、「それでそれで?」と先を促す。

 

「録音と言えばボイスレコーダーだ。でもそれは先生だって警戒してるはずだし、この学校の教員が相手じゃ一筋縄にはいかないだろう」

「先生のこと、随分評価してるんだね」

「過小評価して足元を掬われるよりは良いでしょ?」

「にゃはは、それもそうだね。……ところでその『先生』と『教員』って、どういう使い分け?」

 

 おおっと。そんなところに引っ掛かるのか。

 全然意識してなかったわ。

 

「うーん……『先生』は特定の個人を示す代名詞で、『教員』はこの学校で教職に就いている人の総称、かな? 特に考えず使ってたけど、多分そんな感じ」

「ふむふむ。あ、話逸らしちゃってごめんね。ボイスレコーダーをどう隠すか、だよね?」

「うん。と言っても、絶対に見つからない隠し場所なんてないからね。音を拾う必要がある以上あんまり深くには仕込めないし。だからとにかく、思い付いたことを全部やるしかないんだよねえ」

「全部ってことは、1個や2個じゃ済まないよね? ポイントは足りたの?」

「いや全然。千尋さんと隆二(りゅうじ)君を頼らせてもらったよ」

「……むぅ」

 

 帆波さんは不機嫌そうに口をへの字にする。なんだなんだ可愛いな。キスしてやろうか。

 ……ええ、そうですよ。考えるだけでどうせ実行はできないヘタレですよ。

 

 でも頭は回るんでね。彼女の不機嫌の理由は分かるんですよ。

 

「ポイントの貸し借りはトラブルに繋がる危険も大きいし、あまり褒められたことじゃないよね。分かってる。今回は相手が相手だから万全を期すために無理しちゃったけど、今後はできるだけ控えるよ」

「いや、そうじゃなくて!」

 

 あれ? 違うの?

 

「なんで私には頼ってくれなかったの?」

「あ、そういうこと」

堀北(ほりきた)さんは私のこと頼ってくれたのに」

「堀北さんが頼るって分かっていたからだよ。僕まで借りちゃあ帆波さんの負担が大き過ぎるでしょ?」

「んー……気を遣ってくれるのは嬉しいけど、仲間外れにされたみたいでなんか嫌だなー」

「そんなこと言われてもなあ……次に何かあったときは帆波さんを真っ先に頼るから、それで許してよ」

「うんっ! 約束だよ!」

 

 どうやら帆波さんは博愛少女というだけでなく、誰かの力になりたガールでもあったようだ。

 

 僕としては友達にお金(ポイント)を借りなきゃいけない事態はできるだけ遠慮したいので、何かそれ以外の形で頼らせてもらうとしよう。

 ……まあ、僕の行動の主軸であるAクラス移籍計画こそ、帆波さんをこの上なく頼りにしてるんだけどね。

 

「あ、また話が逸れちゃったね。えっと……ボイスレコーダーをたくさん用意して、それで?」

「まず自分自身に5個仕込んだ。襟の裏に1個、リボンに1個、ウイッグに1個、胸ポケットに2個」

「同じ場所に2個? ……あっ、囮作戦か!」

「そういうこと。あと携帯もボイスメモアプリを起動した状態でポケットに入れてた。それから部屋に仕掛けたのが3個。テーブルの裏、給湯室のドアの裏、そして座っている椅子の裏」

 

 改めて並べると我ながら凄い数だ。

 

「録音包囲網だね!」

「片っ端から食い破られたけどね」

「ええっ!? さすが先生だね!」

「まあそれも想定内だったけどね」

「ええっ!? さすが真釣くん!」

 

 褒めてもらえるのは嬉しいけど、そんなに大したことじゃない。何十通りも想定して、その内の一つが当たっただけだ。

 それに、僕としてはあまり嬉しくない方の想定だった。1個くらいは生き残るかと期待してたんだけどなあ。

 

「あれ? でもそれだと完全勝利どころか完全敗北だよね? 全部見抜かれたんでしょ?」

「そうだね。確かに全部見抜かれたよ。()()()()()()()()

 

 先生がメンタリズムの類を使えると想定すると、僕が全てのボイスレコーダーを把握しておくのは危険だった。だから、外部に発注した。

 

「もしかして……千尋ちゃん?」

「うん、正解。隠し場所も個数も指定せずに、自由に仕込んでもらった」

 

 厳密に言えば、僕が直前に仕込む予定の場所は伝えて、そこは避けるようにお願いした。

 

 しかし個数に関しては、完全に自由にした――()()()()()()()

 自分が仕込んだ分が全て見つかった時の「こりゃ参った」という感情が少しでもリアルになるように、運任せならぬ千尋さん任せにした。

 

 もし「少なくとも1個は」という指示をしていたら、先生が残りのボイスレコーダーを探ろうと1からカウントアップした際、僕は2ではなく3で反応していただろう。

 この場合、千尋さんが仕込んだのが1個か2個以上かの賭けになる――()()()()()()

 

 いくら出せと言われても、僕は場所を把握していないから出すことが出来ない。そうなると、先生による強制持ち物検査が始まってしまう。非力な僕では碌に抵抗も出来ない。千尋さんが他に仕込んでいたとしても一緒にバレてしまうだろう。

 

 先生は1個見付けたらそれで満足するかもしれない? いいや、甘い考えだ。

 

 隠し場所を把握していないことが演技ではないと気付かれると、僕の策全体が先生の中で組み上がってしまう。そうなると徹底的に探られてジ・エンドだ。

 

 あの部屋に監視カメラはない。防音性も高い。

 万が一誰かが入って来たら言い訳できないので、先生としても力任せの手段は不必要には選べない。それでも、必要とあれば躊躇なく来るだろう。

 

 抵抗? 逃走?

 相手が女性だろうが僕には無理だ。

 

 それに、そんな勝ち方は望むところではない。星之宮先生にしっかりと敗北感を味わってもらうために、正々堂々真正面から出し抜いてやりたかった。

 

「帆波さんに時間を稼いでもらったのは、その間に千尋さんから制服を受け取って、着替えて、自分での仕込みをするため。ありがとね。助かったよ」

「それはいいけど……え、どこで着替えたの?」

「特別棟の廊下には監視カメラがないし人もほとんど来ないって聞いてたから、そこで」

「ええー……理に適ってはいるけどさあ……」

 

 他に浮かばなかったんだから仕方ない。

 トイレで着替えられれば楽だったけど、男子トイレから女子の格好で出てくるのも、女子トイレに男子の格好で入るのもおかしいだろう。

 

 着替え中は千尋さんに見張りをお願いしていたし、もし誰かが来ても須藤君騒動の現場を見に来たとか言えばなんとかなる。最善手かは怪しいけど、そこまで悪い手だとも思わない。

 

「あれ? 千尋さんが仕掛けたボイスレコーダーは、どこにあるか真釣くんが把握しちゃダメなんだよね?」

「そうだね」

「着替えてたら嫌でも気付かない?」

「そうだね」

 

 話を聞いただけでそこまで思い至るのか。大したもんだ。

 僕は左の袖の内側からある物を取り出して、帆波さんに渡す。ついでにポケットからボイスレコーダーも取り出す。

 

「アーミーナイフ?」

「重さも硬さも大きさも、なんとなく似てるでしょ?」

「うーん、そうかなあ? あ、でも服の中に隠された状態だと全然分かんないかも。にゃるほどにゃるほど。これをカモフラージュにして、自分を騙したってわけだ」

「そういうこと」

 

 安物とは言え個数が個数なので、これにもそれなりのポイントを使ってしまった。というか、千尋さんに使わせてしまった。

 

「作戦としては納得できるけど……真釣くんって結構お金遣い荒い人?」

「必要な物には出費を惜しまない人と言ってほしいな」

「否定にはなってないね」

「そりゃまあ、万単位で借金してる身だからね」

「堀北さんと綾小路(あやのこうじ)くんも私に結構な額借りてるし、Dクラス全体で言うと10万くらいの借金かな?」

「そうなるとDクラスのDはDebt(借金)のDだね」

「あははっ! 面白いこと言うねー」

「僕は全然笑えないよ」

 

 なんだよ借金クラスって。悲しすぎるでしょ。言ったの僕だけど。

 

 悲嘆に暮れていると前方に寮が見えてきた。口ばっかり動かして足を動かしてる意識は無かったんだけど、これが帰巣本能ってやつか。違うね。

 

「んー、ちょっと回り道しようか」

 

 帆波さんにはどうやらまだ聞き足りないことがあるらしい。僕は「了解」と頷いて、寮から逃げるように左に曲がる。帆波さんも隣に来る。

 

「えっと、まだ何か聞きたいことがあったんだけど……なんだっけ?」

「僕に聞かれても知らないよ……」

「あっ、思い出した! どうして女の子の格好してるの?」

 

 そういえばその話はしてなかったね。

 

「男子の制服の予備は持ってないの?」

「持ってるけど、それじゃ意味がないんだよね」

「意味ってどんな意味? 先生の動揺を誘うとか?」

「不正解ではない。でも、一番の目的は別にある」

 

 先生が見抜いた『演技を隠すなら演技の中』というのも一つの正解ではあるけれど、これもやっぱり一番ではない。そんなことが出来たらいいなーってレベルだ。

 

「うーん……分かんない!」

「答えは至ってシンプルに、変装だよ。あの場にいたのが緒祈(おいのり)真釣だと思われたくなかったの」

「……どゆこと?」

「クラス同士を競わせているこの学校で、あるクラスの担任が他のクラスの生徒と密室みたいなあの部屋で、二人っきりで話をするんだよ? どんな理由があるにせよ眉を顰められてしまうよね?」

「にゃるほど! だから真釣くんは自分ではない何者かに、()()()()()()()()()になることでそれを避けたわけだ。でも、それでも先生が他所のクラスの生徒と一緒だったことには変わりないよね?」

「実在しないというのは大きなポイントだよ。『○○と会っていただろ!』よりも『誰かと会っていただろ!』の方が攻撃力は低いでしょ? それに星之宮先生は保健室の主だからね。会っていたのが女子生徒であれば、『体の悩みで相談を受けた。彼女の尊厳の為に個人名も相談内容も明かせない』とか言えば逃げられるでしょ?」

「ほへー……」

 

 横を見ると、帆波さんが口をぽっかりと開けたままこちらを見つめていた。そんな間の抜けた顔も可愛いけど、どういう感情でその表情になったのか分からない。

 

「どうかした?」

「ややっ、出し抜いてやるとか言ってたけど、先生が弱みを握られないように考えてるんだなあって。やっぱり優しいね、真釣くん」

「優しさではないよ。星之宮先生に何かあったら僕のAクラス移籍計画に支障が出るってだけだから」

「ツンデレってやつだね」

「違う」

 

 なんで僕が一回り以上年上(多分)の先生にツンデレを発揮せにゃならんのだ。星之宮先生は亜麻色の綺麗なセミロングだけど、だからって別に恋愛対象にはならないからね!?

 いや、恋愛対象ならツンデレになるってわけでもないけどね!?

 

「そもそも僕自身が先生の弱みを握ってるわけだし」

「そういえばそうだった」

 

 今日のメインテーマでしょうよ。なに忘れてんのよ。

 

「……それ、どうするの?」

 

 帆波さんは僕の右の腰ポケットを指差した。ここには(くだん)のボイスレコーダーが入っている。

 僕はそれを二つとも取り出して、「どうもしないよ」と言って彼女に渡す。

 

「えっ……?」

「どうせ使わないもん。先生が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、僕はそれで十分だから」

「で、でも、折角頑張って手に入れたのに」

「先生に一杯食わせた時点で、後はもう正直どうでもいいんだよね」

 

 極論を言ってしまうと、今日の星之宮先生との対決は別にやる必要はなかった。不戦協定なんかなくても先生はこれ以上僕に余計な手は出さないはずだし、僕もまた先生をどうにかするつもりはない。

 弱みを握る握れないは二の次で、一番大事なのは僕が満足することだ。

 

 僕は気分が良くなって、先生は嫌な気分になった。

 それこそが目的で、目的はそれだけだった。

 

 この達成感を得るためだけに友達に何万もの借金をした。誰が見たってド下手糞な買い物だと言うだろう。しかし、僕としてはそう悪い買い物でもなかった。

 ……数日後、数週間後、数か月後にも同じ気持ちでいるかは分からないけど。

 

星之宮先生の弱み(ボイスレコーダー)が他の人の手に渡るのは困るから、ちゃんと処分しといてね?」

「えっ、私が!?」

「その方が安心でしょ?」

 

 いくら帆波さんが僕を信用していても、自分のクラスの担任が他クラスの生徒に弱みを握られているという状況はやっぱり嫌だろう。後始末は彼女に任せるのが一番だ。

 

「それはまあ、そうだけど……勿体ないとは思わないの?」

「思わないよ。勝ったところでこれといった利益のない無意味な勝負だってことは、最初から分かってたから。その音声データには最早なんの価値も無い。誰かに奪われたときの危険性を考えると、むしろマイナスだね」

「……分かった。じゃあこの場で消しちゃうね」

「どうぞどうぞ」

 

 帆波さんにぽちぽちと操作されるボイスレコーダーを見ても、これっぽっちも惜しいとは思わなかった。

 

 綾小路君なら絶対こんなことしないだろうなあ。この程度の弱み(カード)でも上手に使うんだろうなあ。そもそも僕なんかよりずっとスマートに、ずっと強力な弱点(ウィークポイント)を掴むんだろうなあ。

 

 でも僕、綾小路君じゃないし。

 

 脳みそを絞って、小細工を弄して、友達を頼って――そうしてやっとこさ手に入れた勝利の後には、達成感以外に何もない。

 僕らしいっちゃ僕らしい、かな?

 

「ん、んん?」

 

 データを消していたはずの帆波さんから、困惑するような声が漏れた。

 

「どうしたの?」

「いやー、録音データが見つからなくて」

「ホームボタン押したら普通に出てくるはずだけど?」

「押したんだけど……ほら」

 

 むむむ、録音履歴が表示されていないだと?

 

 千尋さんにはこの服を渡す直前に録音を開始するようお願いしていた。渡された時に本人に確認したけど、抜かりはないとのことだった。彼女が僕に嘘を吐いた? 有り得ないね。

 

 では僕がうっかり消してしまったか? いや、そんなうっかりが起きるほど触っていない。

 では星之宮先生が? さすがにそれはないだろう。先生は指一本触れてないんだから。

 では帆波さんが? 自分で消しておきながら、最初から無かったかのように演技した? いやいや、そんなことをしてもなんの意味も無いだろ。

 

 となると、ボイスレコーダー自体の問題か。

 

「二つとも録れてないの?」

「そうみたい」

 

 ……理由なんてどうでもいいか。どうせ消すつもりのデータだったし。

 

 でも……これは流石に想定外だったなあ。

 

「ふふっ」

「真釣くん?」

「ふはっ、あはははは!」

「真釣くん!?」

 

 これはもう笑うしかないでしょ。

 全てが僕の計画通りに進んだと思っていたら、完全勝利だと確信していたら、まさか一番重要なピースが欠けていたなんて。

 

 脳みそを絞って、小細工を弄して、友達を頼って――それでもどうにも上手くいかない。望んでいた勝利は掴んだものの、そこまでの道のりは予定から大きく逸れていた。

 

 僕らしいと言うなら、これこそ実に僕らしい。

 

「あひゃひゃひゃ!」

「真釣くんが壊れちゃった!」

 

 相手が先に仕掛けてきて、借金を抱えつつ迎え撃って、最後に得たものは何もない。

 そういう意味では須藤君騒動と似たような終わり方だ。

 

「面白いよね」

「何が!?」

 

 残念ながら達成感は幾らか削がれてしまったものの、満足感に変わりはない。うん。それでいいじゃん。

 スムーズにもスマートにもいかなかったけど、経過はなんであれ勝ちは勝ちだ。僕の勝ちだ。

 

 作戦は気付かぬうちに破綻していた。

 それでも勝てたのは……運が良かったから?

 

 ――否。

 

 僕は運に任せたんじゃない。千尋さんに任せたんだ。

 神頼みなんかしていない。千尋さんに頼んだんだ。

 

 作戦の要を我が愛すべき友人に丸投げしたことこそ、僕の一番の勝因だ。

 

 ふふふ。

 これはお礼をしないといけないね。

 

 借金を完済してポイントに余裕が出来たら、その時は千尋さんに何か美味しい物を――そうだな、フレンチクルーラーでも奢ってあげよう。

 

 1個や2個じゃ少ないかな?

 

 まあ、10個もあれば足りるよね。

 

 

 

<続>

 

 

 

 α

 

 

 

 高度育成高等学校学生データベース

7/1時点

 

氏名   緒祈真釣(おいのり まつり)

クラス  1年D組

学籍番号 S01T004691

部活動  無所属

誕生日  8月1日

 

評価

学力   A

知性   A-

判断力  B+

身体能力 E

協調性  B-

 

 

面接官からのコメント

 筆記試験の成績及び面接試験での受け答えは非常に優れており、全体的にAクラス相当の高い能力を有している。全国平均に遠く及ばない身体能力を加味しても、Bクラスへの配属が妥当と思われる。しかし調査報告書を鑑みるに本校の他の生徒に多大な悪影響を与える可能性が憂慮されるため、不合格とする。

 別途資料記載の事情により、Dクラスへの配属とする。

 

 

担任メモ

 Bクラスに友人が多いようです。他クラスとの交流は悪い事ではありませんが、Dクラス内でも積極的に交友を深めてほしいと思います。

 

 

 




ここまで読んでいただきありがとうございました。これにて第2巻部分完結です。

活動報告にあとがきを載せています。
もしよろしければそちらも是非。



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第2.5巻
051-053 バスケと猫


評価、感想、お気に入り登録、誤字報告ありがとうございます。


 (051)

 

 

 

 『僕』って奴は、どうにもキャラが定まらないね。

 

 入学当初は人の名前を覚えるのが苦手だったり長い髪に今よりもっと興奮してたのに、最近はすっかり大人しくなっちゃって。あと前よりなんだか理屈っぽくなっちゃったよね。

 

 あはははは。

 理屈も理論も、『本来の僕』には意味がないのにさ。

 

 まあ仕方ないのかな。『僕』から()()と『アレ』を切り離すときに、かなり強引な記憶の改竄をしちゃったからね。性格に影響が出るのは避けられないよね。

 あーあ。あの切り離しが完璧だったら、今頃もっと普通の高校生として過ごせていただろうに……。ボクを忘れている状態で『アレ』だけは刻々と息を吹き返しているんだから、ほんと、涙が出るほどに不遇だね。可哀想に。

 

 でも、その割には『僕』って結構上手いことやってるよね。『アレ』がまだ完全復活していないとはいえ、うん、えらいえらい。やっぱり身体能力以外は基本的にハイスペックだね。

 

 念願だった一般的な学校生活を満喫して。

 待望のちゃんとした友達にも恵まれて。

 

 幸せ者だね。果報者だね。

 

 でも『僕』には『アレ』があるんだから、このままじゃあいけない。今の平穏でなくとも平和な日常を維持したいのなら、早くボクのことを思い出すんだ。

 

 理論を越えた、手に負えない何かが起きる前にね。

 

 

 

 051

 

 

 

 怒涛のイベントラッシュだった7月上旬を、僕はなんとか乗り切った。

 しかし悲しいかな綾小路(あやのこうじ)君に貸しを一つ作ったことと佐倉(さくら)さんの連絡先をゲットしたこと以外には、これと言って得られたものは無かった。むしろ莫大な負債を抱えてしまった。

 

 あと3週間もすれば夏休みだ。

 何があるか分からない夏休みだ。

 できればそれまでに全てのマイナスを清算して、フラットな状態に戻しておきたい。

 

 さてどこから手を付けたものか。やっぱり時間のかかるものから始めるべきかな。

 そんなことを考えていた僕のもとに、一通のメールが届いた。携帯の画面には堀北(ほりきた)鈴音(すずね)と表示されている。

 

『あなたが抱える問題が解決したのなら、早急に須藤(すどう)君のテスト対策を始めなさい。彼のことはあなたに任せたわ』

 

 そういえばそんな約束もしていたなあ。

 僕としては何人かで集まった中で教師役をしてあげるって意味で『勉強会に協力する』って言ったんだけど、まさか一番厄介な須藤君単品を任されるとは。

 何が厄介って、彼とは中間テスト前の勉強会以来まともに話してないんだよね。つるむのが面倒だからって突き放したんだけど、こんな展開をあの時点で予想できるわけないじゃん?

 

 はぁ……文句を言っても仕方ないか。

 須藤君には優れた身体能力がある。折角中間テストで助けてやったんだから、消える前に一回くらいは役に立ってもらわないと。

 とはいえ彼の脳みそレベルを考えると――

 

「時間が無いな」

 

 期末テストまであと2週間もない。

 まずは今の須藤君がどれだけ出来るのかを知りたいので、簡単な実力チェックテストを作るとしよう。

 ……いや、それで下手に良い点とって油断されても困るな。彼に『このままじゃヤバい』と危機感を持たせる難しさで、かつ『こんなの無理だ』という諦念までは持たせない易しさで問題を作らなくてはならない。

 

 問題数が多すぎるとやる気を失くすだろうし、各教科4問ずつの計20問にしておくか。4問の内訳は――

 

 絶対に解ける問題。

 解けるかもしれない問題。

 解けそうで解けない問題。

 絶対に解けない問題。

 

 これで4~8点、百点満点換算で20~40点取れるはずだ。前回引っ掛かった英語の赤点ラインが40点だったから――前回?

 

 ……あっ。

 

 そういえば期末テストは中間テストより科目数が増えるんだった。8科目やるんだった。

 なるほどね。だから堀北さんは一番危ない須藤君だけ隔離して、僕にマンツーマンでやらせるわけか。わーお、信用されてるぅ。

 

 勉強のスイッチがまだ入っていないであろう須藤君にいきなり32問は多いかな。各科目3問ずつの計24問で9点前後取らせるか。

 

 とりあえず堀北さんに返信しておこう。

 

『やるだけやるけど、テスト範囲が変更されたら無理』

 

 授業態度は改善されているから、須藤君の地力という点では前回のテストほど厳しくはないはずだ。

 しかし今回は間違いなく過去問が使えない。毎度毎度それでどうにかなるなんて、そんな甘い話あるわけがない。そして点数をポイントで買うのも難しくなるはずだ。買えるとしても、1点が変わらず10万ポイントである可能性は低い。

 そう考えると前回より難易度が数段上がっている。厳しい戦いになるだろう。

 

 ……須藤君のスケジュールが知りたいな。

 以前登録していたはずの彼のメールアドレスを探す。2か月近く放置したままで、メモリの中で埃をかぶっているはずだ。あー、あったあった。

 

 どんな文面が良いだろうかと考えていると、堀北さんからの返信が来た。

 

『やるだけやる、では許さないわ。確実に結果を出しなさい』

 

 おやおや手厳しいね。

 テスト範囲の変更について触れていないのは、あり得ないと予想しているからだろう。まあ、僕だって本気であるとは思っていない。

 

 んん? もう一通来たぞ?

 これも堀北さんからだ。

 

『もし須藤君に全科目で50点以上取らせることができたら、ご褒美に私の神を5秒間だけ触らせてあげるわ』

 

 えっと……私の髪、だよね?

 守護霊も怪しい宗教も関係ないよね?

 ミスなのか狙ってなのか分からないぞっ。

 

 しばらく待ってみたけれど三通目は来なかった。どうやら僕のターンのようだ。

 

『神は髪の誤変換? あと、須藤君には僕が勉強を見るってこと伝えてる?』

 

 すぐに返信が来た。

 

『髪に決まっているでしょう? 分かりきっていることをいちいち聞かないで。それから須藤君には何も伝えていないから、緒祈(おいのり)くんが自分でやってちょうだい』

 

 なんでちょっと怒ってるのよ。しかもあの孤独少女、やっぱり須藤君には何も言ってなかった。面倒くさいなあ……。

 

 髪に関しては綾小路君の入れ知恵かな。

 堀北鈴音のあの黒髪を餌にすれば緒祈(おいのり)真釣(まつり)は簡単にやる気になるとか、そんな風に考えているんだろう?

 あはは。悪いね綾小路君、堀北さん。僕はそういうのは少し前に卒業したんだよ。

 

 でもまあ、須藤君に退学してほしくないという気持ちは一緒だし? やることは変わらないし? それで堀北さんの髪に触らせてもらえるのであれば、まあ、ね? ちょっと頑張っちゃおっかなー、みたいな?

 

「まったくもう……しょうがないなあ」

 

 今回だけ、特別なんだからねっ!

 

 

 

 052

 

 

 

 7月13日、土曜日。

 期末テストまであと12日。

 

 部活終わりの須藤君を僕の部屋に招聘した。

 実力チェックテストをしてもらいたいんだけど、予想通り彼はぶつくさと不満を溢す。

 

「誰かに教えてもらわねえとヤバいのは俺だって自覚してるけどよお、なんで緒祈なんでよ」

「言ったでしょ? 堀北さんに頼まれたんだよ」

「だーかーらー! なんで堀北はお前に頼ったんだよ!」

 

 そういえば彼は堀北さんに惚れてるんだった。

 堀北さんに勉強を見てもらえないという不満なのか、それとも堀北さんが僕を頼ったことへの嫉妬なのか。どちらにせよそれなりに本気で好きらしい。

 

 ではその気持ちを利用させてもらおう。

 

「須藤君から見て、堀北さんってどんな人?」

「……可愛くねえ女」

「そうだね。負けず嫌いでプライドの高い人だよね」

 

 期待していた回答とは少しズレていたので強引に話を進める。

 

「あ? まあ、そうだな」

「そんな堀北さんが、基本的に他人を頼ろうとしない堀北さんが、Dクラスで一番赤点の危険性があってそもそもなんで入学できたのかも謎で夏休みを待たずして退学する可能性大な崖っぷちも崖っぷちの君のことを他人()に任せた」

「……棘が多くないか?」

「これがどういうことか分かるかい? 堀北さんは自分のプライドを捨ててでも、君に退学してほしくないと思っているんだよ」

「っ! そうなのか!?」

「そうだよ。テストの点数は僕の方が堀北さんより上でね。それで勝手に対抗心を燃やされているんだけど、そんな彼女がまさかこうして僕を頼ってくるとは。正直予想外だったよ」

「あいつ……へへっ。可愛いところあるじゃねえか」

 

 実際にはテストの点数に言うほどの差はないし、僕に対抗心を燃やしてもいないと思う。プライド云々も関係なくて、単純に僕に面倒事を押し付けただけだろう。

 ただ今回は須藤君にやる気を出してもらうために、彼女のキャラを改変させていただく。

 

 我ながらかなり雑な理論だけど、須藤君が相手なら通じるだろう。

 

「期末テストで良い点を取れば、きっと褒めてくれるだろうね」

「よっしゃ! 堀北の為にも頑張るか!」

 

 多分褒めてはくれない。「それくらい出来て当然よ」とか言いそうだ。

 教師役の僕のことは褒めてくれるかも?

 

「まずはこの簡単なテストからお願いね」

「いきなりテストかよ」

「今の君の実力を知りたい。たったの24問だ」

「めんどくせえ……」

「堀北さんの喜ぶ顔が見たいだろう?」

「……しゃーねーなー。やってやんよ!」

 

 扱いやすくて大変結構。

 まあ、扱いやすいからこそCクラスの罠に嵌って暴力事件なんか起こしたんだけどね。

 

 須藤君が机に向かって唸っている間、僕は昨日送ってもらった彼の今月のスケジュールを見る。来週の木曜日からはテスト一週間前ということで部活は無いけれど、それまでは放課後も土日もびっしりだ。

 うーん……。

 

 テスト自体の難易度はどうなるんだろう? 赤点のボーダーラインはクラスの平均点で決まるから、そこまで気にしなくてもいいのかな?

 

「終わったぞ」

「お疲れさま。早かったね」

「簡単だったからな!」

「へえ……」

 

 解答用紙を受け取り、頭の中でマルバツを付けていく。

 

 結果は24問中10問正解。

 なぜこれで「簡単だった」と言えるのか分からないけど、とりあえず百点満点換算で40点を超えている。

 

「意外とやるじゃん。これなら何とかなりそうだ」

「おお! マジか!」

「調子に乗るな。英語はゴミだ」

「そんな言い方しなくてもいいだろ……」

 

 絶対に解けるとだろうと思った問題が、英語だけ不正解だった。まさか適切なbe動詞を選ぶことも出来ないとは。先が思いやられる。

 

「日本で生活してたら英語なんかできなくても困んねえし」

 

 現在進行形で困ってるはずなんだけどね。

 というか須藤君の場合――

 

「将来の夢はプロのバスケットボール選手だって聞いたけど」

「ああ、そうだな」

「海外でプレーしたいとは思わないの?」

「そりゃ思うけど……」

「じゃあ英語できなきゃダメじゃん」

「そうは言ってもよお……」

 

 ピコーン!

 ある作戦が唐突に頭に浮かんだ。

 これが使えるものなのか、ちょっと試してみよう。

 

「須藤君さあ、『バスケットボール』は英語で書けるの?」

「あたりめえだろ!」

 

 彼は問題用紙の余白に迷うことなくペンを走らせ、正しい綴りでbasketballと記した。ふむふむ。段階踏むのも面倒だし、一足飛びにメインの確認をしよう。

 僕はその問題用紙を裏返して、英文を6つとその横に和訳を書く。半分は普通の文章で、もう半分はバスケを絡めた文章だ。

 

「はいこれ」

「なんだよ」

「3分で覚えて」

「はあ!?」

「よーい、はじめっ」

 

 もしかしたら須藤君には秘められた学習能力があって、もしかしたら彼の大好きなバスケがそれを呼び起こすかも――という突飛な仮説の検証だ。別に期待はしちゃいない。もしそうだったら面白いなあってレベルだ。

 

「はい終わり」

「あ、おい!」

 

 時間になったので紙を取り上げる。

 すぐに確認のテストをしてもつまらないので、適当に話をする。

 

「毎日勉強会をするのも面倒でしょ? 僕が『これ全部覚えれば百パー赤点回避できるテキスト』を作るからさあ、基本的にはそれで空いた時間に自習してね」

「お、おい、さっき覚えた英語はなんだったんだ?」

「テキストは明日、君の部活が終わるまでに下の郵便受けに入れておくよ。で、須藤君の部屋は何号室だっけ?」

「403だけど」

「綾小路君の2つ隣か。了解」

「なあ、さっきの英語は――」

「じゃあやろうか」

 

 英文と和訳が書かれた紙を縦に裂き、和訳だけの方を渡す。

 

「はいどうぞ」

「クソッ……変な話するから忘れちまったじゃねえか」

 

 変な話はしていない。必要な話だ。

 悪態をつきながらも須藤君はペンを走らせる。それを後ろから覗いてみると……おいおいマジかよ。

 

「だめだ! これ以上は分かんねえ」

 

 冗談半分でやってみた検証なんだけど、結果はまさかの半分正解。彼はバスケが絡んでいる文章だけは見事に正答してみせた。どんな脳みそしてるんだか。

 

 なにはともあれこれで光明が見えた。

 堀北さんへの気持ちを利用することでやる気を出させて、バスケ愛を刺激することで脳の回転を上げる。須藤君にしか使えない勉強法だけど、今回僕が見るのは須藤君だけだ。

 意外と楽勝……?

 

「よし。バスケの要素をふんだんに盛り込んで対策テキスト作るから、サボらずにちゃんとやってね」

「おお! バスケが絡んでるなら出来そうだぜ!」

「不明な点があればメールでも電話でも直接聞きに来るでもいいから、疑問を放置しないように」

「おう! ……緒祈のことだからもっと厳しいかと思ってたんだが、意外と緩いんだな」

 

 そりゃ僕だって楽をしたいからね。

 

「部活が休みになる18日に模擬テストをやってもらう。もしそこで成績が振るわなかったらそれ以降はスパルタでいくから、頑張ってね」

「おういいぜ。やってやろうじゃねえか」

「あんまりにも酷かったら『須藤君は切り捨てよう』って堀北さんに提言するから、頑張ってね」

「お、おう……やっぱり怖い奴だな、緒祈は」

 

 こうして最後に危機感と緊張感をしっかり与えて、勉強会の初回は終了した。須藤君のポテンシャルを発見することができたし、大成功と言っていいだろう。

 

 この好調がずっと続いてほしいんだけど……僕に限ってそれはないかな。

 

 

 

 053

 

 

 

 須藤君専用の『バスケで覚える期末テスト対策帳』は、英語だけでなく全科目作るつもりだ。実力チェックで出来の良かった3科目(数学、物理、現代文)も偶々(たまたま)解けただけという可能性があるし、念のため手を打っておく。

 本格的な勉強会というか個別指導は、来週の木曜からが本番になる。それまでに須藤君が基礎的な部分をしっかりやってくれれば、全科目50点以上も難しくはない。

 堀北さんの髪にも触れるはずだ。

 

 須藤君が帰った後、1時間ほど机に向かって例文や例題を考えた。しかし日本史や世界史をどうバスケと融合させたものか……完全に行き詰ってしまった。

 堀北さんを題材にしても同じ効果が得られるかもしれないけど、バレたら髪の約束が破棄されそうなのでやめておく。

 

 気分転換に外でも歩こう。

 陽が沈むまで、あと30分くらいかな。

 

 ジーパンにポロシャツという面白味のない格好で寮を出る。

 この学校の敷地内は散々散策し尽くした。頭の中に航空写真かってくらい正確な地図を描き、どの道を行こうか考える。今日はちょっと人の少ないエリアに足を伸ばそうかな。

 

 ショッピングエリアは週末ということもあって多くの生徒で賑わっているだろうけれど、僕はそちらに背を向けて歩く。

 

 人のいない夕暮れの並木道。

 カップルがデートの最後に来て、良い感じのムードになってキスでもしそうなロケーションだ。彼女がいたことないから知らないけど。

 

 彼女といえば、僕と帆波(ほなみ)さんをくっ付けたがっている千尋(ちひろ)さんのことが思い出される。休日なんだからデートでもして来いとか言われるかと思ってたんだけど、そんなこともなかったな。

 

 帆波さんは生徒会に入ったって言ってたし、そっちが忙しかったりするのかな?

 

 ……いや別にデートしたかったのに残念だなあとか、そんなんじゃないからね?

 かと言ってデートするのが嫌ってわけでもないからね? デートって言うと千尋さんの思惑通りみたいな気がしてちょっと癪だけど、帆波さんと二人で出かけることに抵抗があるわけではないからね?

 

「僕は一体誰に言い訳してるんだか……」

 

 変な生き物を発見した、みたいな顔で白い野良猫がこちらを見ている。

 

 「みゃ~お」と鳴き真似をしてみたけれど、その子は鳴き返すこともなくぷいっと顔を背けて歩き出す。

 これも何かの縁だろうと僕はそれに付いて行く。右折する予定だった丁字路を猫に従って左折する。この先には一つ曲がり角があってその向こうは行き止まりなんだけど、まあいいや。行くだけ行ってみよう。

 

 電気関連の施設があったよなあと思いながら角を曲がると、そこには猫が2匹いた。僕をここまで導いた白色の野良猫と、ベンチの上の鴇色の猫。どちらもこちらにお尻を向けている。

 

 鴇色の……猫?

 

 いや違う。あれは猫のポーズをした佐倉(さくら)さんだ。こんな所で何をしているんだろう?

 後ろから近付く僕に、彼女は全く気付いていない。

 

「こんばんは佐倉さん」

「うえっ!? お、おおお、緒祈くん!?」

 

 佐倉さんはびくっ!と背筋を伸ばして、ぎゅいん!とこちらを振り返る。そして勢い余ってベンチから「わわあっ!」と落ちてしまった。猫のような綺麗な着地はできなかった。

 

「いたた……」

「大丈夫? ごめんね、驚かせちゃって」

「う、ううん、大丈夫。えっと……緒祈くんはどうしてここに?」

「猫に連れられてね」

「猫?」

「うん」

 

 周囲を見渡すと、僕をここまで導いた白い野良猫はいなくなっていた。この学校があの子のテリトリーなら、また会うこともあるだろう。

 

「佐倉さんはどうしてここに? まあ、それを見ればなんとなく分かるけど」

 

 ベンチの向こう側の手すりには、デジタルカメラがこちらにレンズを向けて置かれていた。つまり彼女はあのレンズに向かってポーズをとっていたわけで、要するに自撮りをしていたのだ。

 そういえば須藤君騒動の目撃者になったのも、自撮りをしようと人のいない特別棟に行っていたからだったなあ。

 

「うぅ、恥ずかしい……」

「夕焼けをバックにベンチの上で猫みたいなポーズで自撮りしてたんだよね」

「なんではっきり言うの!?」

「折角だし僕が撮ってあげようか? と言ってもカメラの心得は全然ないんだけど」

「いやいや! 大丈夫だから!」

 

 佐倉さんは僕の提案を激しく却下して、デジカメをそそくさとポケットにしまった。

 

「じゃ、じゃあ、私帰るから!」

「まあまあ、そう慌てなさんな。僕もそろそろ寮に戻るつもりだったし、一緒に行こうよ」

「……うん」

 

 ちょっと迷ったみたいだけど、隣を歩くことを許可してくれた。

 

 佐倉さんとはストーカー事件の際に繋がりがあったけど、あれはほとんど僕が一方的に監視していただけで、実は話したことはほとんどない。それなのに彼女の敬語が取れているのは、多分綾小路君の存在が何か良い感じに作用したからだろう。

 ……我ながら適当だなあ。

 

「あれから変なことは起きてない?」

「うん。大丈夫だよ」

「そう。それは良かった」

「改めてありがとね、あの時助けてくれて」

「いえいえ。どういたしまして」

 

 お礼なら綾小路君にというくだりは前回やっているので、今回は素直に受け取っておく。

 

 ちなみに僕は佐倉さんの連絡先を知らないという設定だったけど、あの後本人から教えてもらう機会があり、正式に佐倉さんと連絡先の交換ができた。

 位置情報サービスには苦痛な記憶しかないのであれ以来使っていない。佐倉さんにも、他の人にも。

 

「余計なお世話かもしれないけど、ああいう逃げ場も人目もない場所で一人になるのは危ないよ。いくらストーカー男が捕まったとはいえ、いくら学校の敷地内とはいえ、ね」

「そうだよね……。分かってるんだけど……今日は夕暮れが綺麗だったから、どうしても撮りたくて……」

「なるほど。それなら仕方ないね」

 

 いや全然仕方なくないんだけど、夕陽に照らされていつもより赤みを増している佐倉さんの綺麗な髪に見惚れて、ついつい許してしまった。

 その後はテストの話とか綾小路君の話をしながら歩いた。アイドル時代の話にも興味があったんだけど、本人が恥ずかしがったので聞けなかった。

 

 話題が尽きてきた頃、太陽はもうほとんど見えなかった。

 刻々と外壁から(だいだい)が失われていく寮の前で、知っている顔に遭遇した。

 

「「あっ」」

 

 制服姿の千尋さんだった。

 土曜日なのに学校に行っていたらしい。部活かな? 美術部って週末も活動してるのかな?

 

「……?」

 

 あ、佐倉さんは面識なかったよね。

 じゃあお互いを紹介しようかなと思ったところで、僕より先に千尋さんが口を開いた。

 

「誰よその女」

「なんだそのキャラ」

「え、えっと……緒祈くんの、彼女さん?」

「友達だよ。Bクラスの白波(しらなみ)千尋さん」

「どうも白波千尋です。で、その女は誰なの?」

「ひいっ!」

 

 千尋さんが鋭い眼光で千尋さんを睨みつける。嫉妬深い彼女かよ。

 僕にはそれが演技だって分かるけど、佐倉さんとは初対面なんだから……。

 

「怖がらせるんじゃありません。こちらはDクラスの佐倉……佐倉……?」

「あ、愛里(あいり)です」

「佐倉愛里さんだ」

「ど、どうも」

「下の名前も知らないんだね……」

 

 呆れた視線を向けられてしまった。

 もちろん連絡先を知った時に下の名前も把握していたけど、千尋さんの今のキャラ的には知らない振りをした方がいいかなーと。

 

「ただのクラスメイト?」

「そうだよ。偶然会ってね」

「なるほどね。ならいいや」

 

 ようやくいつもの柔らかい視線に戻った。

 

 さっきまでの千尋さんは一から十まで完全に演技だったわけでもなくて、僕が帆波さん以外の女の子と仲良さげにしているのが本当に気に食わなかったのだろう。多分。知らんけど。

 一緒に歩いている程度で一々噛み付かれても困るけど、さっきのキャラは中々面白かったし……やめろと言うほどでもないかな。

 

 しかしどうしたものだろう?

 このまま寮に入ってエレベーターに3人で乗ると、僕は3階ですぐ降りるので、その後女子2人が残される。人見知りの佐倉さんにはキツいだよね。

 いや、ついさっきまで自分のことを睨んでいた相手と二人きりになるのは、人見知りでなくとも気まずいか。

 

 よし、ちょいと僕が気を遣ってあげよう。

 ロビーに入ったところで、佐倉さんに声をかける。

 

「ごめん佐倉さん、僕はちょっと千尋さんに話があるから」

「う、うん、分かった。じゃあ……またね」

「またねー」

 

 といった具合に別れを告げ、佐倉さんだけ先に一人で行ってもらった。

 残った千尋さんが首を傾げてこちらを見る。

 

「私に話って?」

「え? あー……台詞だけならまだしも、睨むのはやり過ぎだよ」

「……ごめん。ちょっと嫌なことがあって、八つ当たりしちゃった」

「嫌なこと?」

 

 僕が想像しているのとは別の何かがある様子だ。

 上三角を押して、8階にいたもう一基のエレベーターを呼ぶ。

 

「友達にお金貸してるんだけど、中々返してくれなくて」

「それは酷い話だねえ……ってそれ僕じゃん!」

「ふふふ。冗談だよ」

 

 ある時払いの催促なしだったはずなんだけど、こうしてネタにはするらしい。

 ふーんだ。今月中には返すもんねー。

 

「ところで真釣(まつり)くん、明日暇?」

「出掛ける用事はないけど暇ではないかな」

「そっかそっか」

 

 到着した箱に乗り込み、3と14のボタンを押す。

 

「相談したいことが出来るかもしれないから、午前中は部屋に居てほしいの」

「ふーん? 了解」

 

 出来るかもしれないとは、変わった言い方だな。

 問題未満の何かが既に起きているのか。それとも問題は既に起きていて、自力での解決が怪しい状況なのか。あるいは先程言っていた『嫌なこと』が関係しているのか。

 

「じゃあ、また」

「うん。またねー」

 

 なんであれ良い予感はしないなあ……。

 

 

 

 



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054-056 龍園翔の影

 054

 

 

 

 どうして僕は須藤君の家庭教師みたいなことをしているんだろう?

 

 どうしてって、そりゃあ堀北さんとの取引で僕が勉強会に手を貸すって言ったからなんだけど、今思うとあれ必要だったかな? 僕が何もしなくても、綾小路君と堀北さんは自分たちで勝手に協力関係に戻った気がする。

 

 でも結果的には堀北さんのあの黒髪に触るチャンスが舞い降りたわけだから、全くの無意味ではないよね。うんうん。僕はそのためにこんな面倒なことをしているんだ。

 

 ……いや違う。須藤君を退学させないために、だ。

 彼に全科目で赤点を取らせないことが使命で、全科目で50点以上取らせることは希望だ。

 

 というわけで僕は日曜日の朝っぱらから『バスケで覚える期末テスト対策帳』を鋭意制作中である。やり口は一時期話題になった『う○こ漢字ドリル』と同じだ。使用者の興味を惹く要素を絡めることで、意欲と集中力を高めさせる。

 

 今日中に渡したいんだけど、間に合うかな? まだ午前中だし何とかなるかなあ……とか考えていると、部屋のインターホンが鳴った。昨日相談があるとかないとか言っていたあの子だろうか?

 

「はいよー」

 

 ドアを開けるとそこにいたのは予想通りの千尋さんと、予想外の帆波さんだった。二人とも浮かない表情をしていらっしゃる。

 

「おはよう二人とも。どしたの?」

「おはよう真釣くん」

「昨日言った通り相談があってね。入っていい?」

「どうぞどうぞ」

 

 二人を中に招き入れ、何も敷いていない床に座らせるのも申し訳ないのでベッドに腰掛けてもらう。来客用にクッションとか買った方がいいのかな……。

 

「それで、相談って?」

 

 冷えた麦茶を用意しながら問う。

 

「それが……私、嫌がらせを受けてるみたいなの」

「……へえ」

「誰かが夜中に千尋ちゃんの部屋に来て、インターホンを鳴らしてるんだって」

「二日連続でね。出てみたら誰もいないし、要はピンポンダッシュだよ」

 

 小学生かよ。

 

「夜中ってのは、具体的には何時くらい?」

「3時過ぎとかだったかな」

 

 となると目的は睡眠を妨げることで間違いないかな。

 犯人自身もその時間まで起きてなきゃいけないけど、生活リズムを変えればそこまで苦にはならないはず。その調整は部活をやっている生徒には厳しいだろうから、おそらく帰宅部だろう。

 ……いや、現時点でそこまで決めつけるのは早計か。

 

「犯人に心当たりは?」

「多分、Cクラスだと思う」

 

 帆波さんの回答に溜息が出る。またCクラスかよ。須藤君騒動が終わった途端にこれかよ。元気いいね。何かいいことでもあったのかい?

 

 BクラスとCクラスの間で度々衝突があったのは聞いていたけど、こうして関わるのは今回が初めてだ。

 大事な友人の頼みなので、『巻き込まれた』とは思わない。須藤君のことなんか放っておいて、こちらに尽力するとしよう。

 

「千尋さんが狙われる心当たりは?」

「強いて挙げるなら……コンクールが近いことかな」

「コンクールって、絵の?」

「うん」

 

 千尋さんは美術部員だ。

 昨日、土曜日なのに学校に行っていたのは、そのコンクール用の絵を描くためかな。基本的には平日だけの活動だって聞いてたし。

 

「締め切りは今月末なんだけど、期末テストもあるからさ。あんまり余裕ないんだよね」

「なるほどね……」

 

 そんな忙しい身の千尋さんに、僕は『制服にボイスレコーダーとダミーのアーミーナイフを仕込んでほしい』とかいう七面倒くさいお願いをしていたのか。申し訳ない。

 

「千尋ちゃんは中学生の時に全国で賞を取ってるすごい子なんだって!」

「へえ、そうだったんだ」

「褒めてくれていいんだよ?」

 

 えっへんと胸を張る千尋さん。

 ではお望み通りわしゃわしゃタイムだ。

 

「すごいすごい」

「きゃー!」

「二人とも仲良いね……」

「帆波さんもしてあげようか?」

「い、いや、大丈夫!」

 

 断られてしまった。ちょっと悲しい。

 

「遠慮しなくていいのに」

「千尋さん、それは僕の台詞だよ」

 

 僕以上に僕と帆波さんのスキンシップを求めているちょっと変わった友人の頭から手を離す。

 

 えーっと、何の話だっけ?

 絵のコンクールがもうすぐあって、そこでの好成績が期待されている千尋さんが夜中にピンポンダッシュされて睡眠を妨げられているんだっけ?

 

「部活で活躍した生徒にはポイントが支給されるって話だし、それを邪魔したいのかな。あとは期末テストで赤点を取ってくれれば尚良し、と」

「多分、そんな感じだね」

「いい迷惑だよ……ふぁ~あ」

 

 眠たそうにあくびをする千尋さんを見るに、今のところCクラスの企みは順調に行っているようだ。

 しかしピンポンダッシュで睡眠を妨害するなんてのは、手段としては随分とお粗末じゃないか? 対処はいくらでもできるし、何か他に目的があるのかな?

 

 これがもし龍園(りゅうえん)君が企てた嫌がらせで、しかも嫌がらせ以上の意味がないのであれば――彼の評価を数段下げることになる。須藤君の一件と合わせて考えてみると、『思い付いたことをやってみる悪戯大好き少年』という印象だ。

 

「真釣くんには犯人探しを手伝ってもらいたいんだけど、いいよね?」

「僕が頷くと確信している聞き方だね。それはもちろんいいんだけど、手伝うってことはある程度方針は固まっているのかな?」

「ううん。なーんにも浮かんでないよ。帆波ちゃんは?」

「まずは管理人さんに監視カメラの映像を見せてもらうのがいいんじゃないかな?」

 

 そりゃそうだ。犯人を知りたいならそれで一発だろう。

 それをする前に僕の所に来たのは、千尋さんが言っていた僕と帆波さんをくっ付ける『恋のキューピット計画』とやらがあったからかな。改めて考えるとセンスの欠片も無いネーミングだ。モノローグでも言ってて恥ずかしくなるわ。

 

 まあそれはいいとして、今後の話だ。

 

「千尋さんは――帆波さんでもいいけど、犯人を見付けて、その後はどうするつもり?」

「え? どうするって、学校に報告じゃないの? それであっさり解決するかもしれないし」

 

 『かもしれない』ということは、それだけでは終わらない可能性もちゃんと考えてるみたいだね。

 

「帆波さんは?」

「私も同じ考えだけど、龍園君が裏で糸を引いているならそう簡単にはいかないと思うの」

「うんうん、そうだろうね。それで?」

「それで……えっと、実行犯の子に『もうしないで』って直接説得しに行くしかないんじゃないかな?」

 

 うーん、それはまあ正攻法の一つだし、彼女らしいやり方ではあるんだけど――

 

「もしその子に『5万ポイントくれたらやめてあげる』って言われたらどうする?」

「そ、それは……」

 

 帆波さんは困ったように俯いてしまった。

 

 よかった。これで「もちろん払うよ」とか即答されたら僕が困っていた。一度その手で解決してしまうと、龍園君はまた同じようなことをしてくるだろう。

 そうなったらまたポイントを払うのか?

 それでは永遠に搾取し続けられる。

 

 では二回目以降は拒否すればいいのか?

 他に解決の手段があるならそれでもいいけど、そうでなかった場合大きな問題が発生する。『千尋さんの為にはポイントを払ったのに、○○の為には出せないのか』という不満が発生するのだ。不和が生まれるのだ。信用と友情で纏まっているBクラスには痛い一撃だ。

 

 だからポイントで解決する手だけは打ってはならない。

 それくらいは帆波さんも分かっているようだ。

 

 千尋さんはどうだろうな。

 どこまで考えているんだか。

 

「ねえ真釣くん、とりあえず下に行って監視カメラの映像を見せてもらおうよ」

「……うん、まあ、そうだね」

「あれ? あんまり乗り気じゃない?」

 

 相手が須藤君騒動の黒幕である龍園君なら、監視カメラの前で見られて困ることはしていない、というか()()()()()()だろう。

 夜中に人の部屋のインターホンを鳴らしても言い逃れ出来る方法――

 

「千尋さんの隣の部屋って、Cクラスの人?」

「よく知ってるね。その人が犯人ってこと?」

「いや、そうじゃない」

 

 協力者ではあるけれど、実行犯ではないだろう。

 

「監視カメラの映像を見れば分かると思うよ。行こうか」

 

 帆波さんはポイントを要求された場合のシミュレーションをしているのか、まだ暗い顔で俯いている。その肩をぽんと叩き、意識をこっちに戻してもらう。

 

「行くよ」

「う、うん!」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――そんな想像に顔を歪めながら、僕は二人の友人の後に続いて部屋を出る。

 

 湿湿(じめじめ)とした夏の空気が、ただただ不快だった。

 

 

 

 055

 

 

 

 監視カメラの映像は、意外にもあっさりと見せてもらえた。

 ばっちりと映っていた犯人の顔を、多分使わないけど一応ばっちりと脳に焼き付け、三人で僕の部屋に戻った。

 

「真釣くんが言ってたのは、あれのことだったんだね」

「うん」

 

 千尋さんの言葉に頷く。

 

 ほぼ間違いなくCクラスの生徒であろう女子生徒は夜中の3時過ぎに千尋さんの部屋の前に現れ、インターホンを3回4回押していた。それからドアを見て何かに気付いたように後退(あとずさ)り、次に隣の部屋のインターホンを押した。するとすぐに部屋の住人が出てきて、その女子生徒を招き入れた。

 一昨日の夜の映像も見せてもらうと、映っていたのは違う女子だったけど、やっていることは同じだった。

 

 要するに彼女たちは、「部屋を間違えました」という言い訳ができる状況を作ったのだ。

 

 そんな言い分、百人が聞けば百人が信じないだろう。しかし故意であるという確固たる証拠はないので有罪だと断定するのは難しい。夜中に寮の外に出ることは禁じられているけれど、寮内をうろつく分にはそれを縛るルールはないわけだし。

 千尋さんに迷惑がかかっているとはいえ、学校に報告したところで厳重注意がいいとこだろう。ポイントが動くことはないはずだ。

 

 ……龍園君はそれを調べたいのか?

 こういうトラブルに対して学校がどう動くのかを知りたいのか?

 

 須藤君騒動もそうだったりして。

 目撃者のいない(実際には佐倉さんがいたけど)暴力事件に対し、被害者と加害者の言い分が食い違う中、学校がどんな審判を下すのか。それを調べるためにあんな茶番劇をしたのかもしれない。

 

 となると今回の一件は、どうせ罰を与えることが出来ないなら学校に報告しないことこそ一番の抵抗――

 

「――だと思うんだけど、どうかな?」

「うーん……」

 

 僕の提案に、帆波さんはあまり気が乗らないようだった。悪いことをした人間は裁かれるべきだとか、多分そんなことを考えているのかな。

 千尋さんも口をへの字にして不満気だ。

 

「私は……やられっぱなしは嫌だなあ」

「へえ、千尋さんって意外と好戦的なんだね」

「そうじゃないよ。狸寝入りは悔しいってだけ」

「……泣き寝入り?」

「あ、それだ」

 

 狸寝入りは好きにすればいいけど、泣き寝入りをさせるつもりはない。千尋さんが泣くくらいなら僕は加害者連中を泣かせる。

 

「とりあえず、しばらくは帆波さんの部屋で寝かせてもらえば?」

 

 弥縫策(びほうさく)を一つ提案する。

 消極的な手だけど、問題の解決というか回避はできるだろう。

 

「えっと……帆波ちゃん、迷惑じゃないかな?」

「全然! 困った時はお互い様だし、気にしないで!」

 

 帆波さんの部屋は16階だったから、隣がCクラスということはないはずだ。

 しかし部屋を間違えたという言い訳は隣でなくとも、階数を間違えたバージョンでも一応成立する。龍園君はそこまでしてくるかな?

 

 勝手に黒幕を龍園君だと決めつけてるけど……それが一番厄介な可能性だし、大丈夫だよね?

 

「犯人というか実行犯たちのことは、僕が何とかしておくよ」

「流石真釣くん、頼りになるぅ!」

「千尋ちゃんは真釣くんのこと、本当にすっごく信頼してるよねー。管理人さんの所に行く前にここに来たくらいだし」

「それは借りを返す機会を僕に与える為でもあっただろうね」

「流石真釣くん、分かってるぅ!」

 

 別に貸し借りが無くともこれくらい協力するけど。むしろ相談してくれなかったら逆に寂しくて落ち込むレベル。……そんなこたないか。いや、あるかな?

 

「でも何とかするって、具体的には何をするの?」

「案はいくつか浮かんでるんだけど……ねえ千尋さん」

「うん?」

「千尋さんが帆波さんの部屋に泊まっている間、僕が千尋さんの部屋に泊まってもいい?」

「えっ!?」

 

 帆波さんが驚嘆とともに目を大きく開いて僕を見る。

 あれ? 何か変なこと言ったかな?

 

「いいよー」

「ええっ!?」

 

 快い返事をくれた千尋さんにも、帆波さんは開いた口が塞がらないといたご様子だ。

 何をそんなに驚いているんだろう? ただ友達の部屋に泊めさせてもらうだけなのに。

 

「すごい信頼関係だね……。二人は本当に付き合ってないの?」

「あははっ。ないない。有り得ないよ」

「うんうん。私もそのつもりはないから、帆波ちゃんが付き合ったらいいと思う」

「「……」」

 

 当事者二人の前ではっきりと言わないでよ……。どんな顔で帆波さんを見たらいいのか分からないじゃん。

 僕は逃げるように窓の向こうに視線を飛ばす。

 

「私はさ、帆波ちゃんがどこぞの馬の骨と付き合うのは嫌だし、真釣くんがどこぞのメス猫に(たぶら)かされるのも嫌なんだよねー」

「馬の骨て……」

「メス猫て……」

「だから二人が付き合ってくれれば万々歳なんだけど」

「もうっ! 千尋ちゃん! そんな話をしている場合じゃないでしょ!」

「まったくだ。さっきまでの相談はどこに行ったんだか」

「とか言って、二人とも満更でもないくせに」

 

 それは肯定しちゃうとほとんど告白みたいなものだし、かと言って否定するのも相手に失礼だよね。厄介なこと言ってくれやがって。この恋愛脳め。

 

「あ、こんなのはどう? 真釣くんが私の部屋に泊まって、私が帆波ちゃんの部屋に泊まって、帆波ちゃんは真釣くんの部屋に泊まるの!」

「にゃにゃっ!?」

「意味が分からないよ……」

 

 女の子が男子のフロアで寝るのはキツいだろ。

 僕が女子のフロアで寝るのも、精神的にノーダメージという訳ではないけど。

 

「真釣くんのことは好きだけど、部屋に泊まるのは流石に抵抗が――」

「好きっていうのは恋愛的な意味で!?」

「友達的な意味で!」

 

 千尋さんが暴走している。

 えっと、何の話をしてたっけ……?

 

「千尋さん、落ち着いて」

「私は落ち着いてるよ!」

「感嘆符付けて言われてもなあ……」

 

 仕方ない。

 本日二度目のわしゃわしゃで落ち着いてもらおう。

 

「きゃー!」

 

 その後なんとか話を元に戻して、僕が千尋さんの部屋に入り、犯人たちをなんとかするという事で結論が出た。結論も何も千尋さんが話を脱線させただけで、僕は最初からそう言ってたんだけどね。

 

「頼んだよ真釣くん」

「協力できることがあったら遠慮なく言ってね」

 

 そう言って二人は自分の部屋に帰って行った。

 僕は……さて、どうしよう?

 

 とりあえず……そうだな。空になったグラスを洗うとしようか。

 

 

 

 056

 

 

 

 高度育成高等学校には4つの寮がある。

 1年生寮、2年生寮、3年生寮、そして敷地内で働く人の寮だ。

 

 僕が住む1年生寮を詳しく見ていこう。

 18階建てのマンションのような建物で、生徒が住んでいるのは2階から17階の計16フロアだ。2階から9階までが男子のフロア、10階から17階が女子のフロアとなっている。

 

 さらにそれぞれ上から順にA、B、C、Dクラスの生徒が割り当てられているのだけれど、そちらは綺麗に2フロアずつで区切られているわけではない。

 例を挙げると僕が住む3階はほとんどがDクラスの生徒だけれど、中にはCクラスの生徒もいる。逆に4階になるとほとんどがCクラスの生徒で、その中に綾小路君や須藤君といったDクラス生徒も少し混ざっている状態だ。

 

 さて。

 千尋さんに嫌がらせをしてくるCクラスの生徒がどこの部屋か知りたいので、まずは候補を絞る為にCクラス女子に割り振られている20部屋を特定する。

 方法は簡単だ。BクラスとDクラスの部屋が分かれば良い。帆波さんと櫛田(くしだ)さんに協力してもらい、これは簡単に済んだ。

 

 次に毎度おなじみの小道具を仕入れに買い物に出る。と言っても今回はボイスレコーダーや防犯ブザーのような物は必要ない。500ポイントも使わないだろう。

 ちょっと気になることがあるので綾小路君を誘おうかと思ったんだけど、やめた。多分早すぎるし、別に明日でもいいし。

 

 というわけで一人で買い物に行って、一人で帰って来た。

 

 千尋さんの相談に関しては一先ずやることがなくなったので、須藤君用の教材をやっつけで仕上げる。完成したのは午後5時半過ぎだった。

 一部予定よりも質が落ちた箇所はあるけれど、もう疲れたし須藤君が部活から帰ってくるまで時間もないし、これでいいや。

 

 1階に下りてそのテキストを403号の郵便受けに入れる。その時千尋さんに下りて来てもらい、彼女の部屋のカードキーを受け取る。スペアのキーは管理人さんに言えば一個目までは無料で貰えるのだ。

 

「失くさないでね」

「もちろん」

 

 それから部屋に戻って仮眠をとった。

 

 目が覚めて携帯を確認すると、まもなく日付が変わる頃だった。予定よりがっつり寝てしまった。仮眠と言うより本眠だな。

 

 あとメッセージが二件届いていた。一つは須藤君からの「テキストを受け取った」という報告だった。今頃それを使って勉強中だろうか。

 もう一つは千尋さんからの「部屋を空けた」という報告だった。今頃は帆波さんの部屋でパジャマパーティーだろうか。

 

 まだ廊下を歩いている生徒がいるかもしれない時間なので、ひっそりと行動したい僕は自室に籠り作戦を見直す。上手くいくかどうか、そして上手くいかなかった場合に僕や千尋さんにどれくらいの損害があるか。

 嫌がらせのターゲットにされてる時点で既に損も害もあるけどね。

 

 午前1時前。

 女子のフロアに男のままで行くのも、こんな夜中に制服姿なのもおかしいだろう。ということで男物ばかりのクローゼットの中から、比較的フェミニンな服を選ぶ。万が一誰かに見られた時に備えて、部屋を出る時は男として出る。

 エレベーターを使うと万が一ロビーに誰かがいた場合見られてしまうので、非常階段で11階に上がる。その途中で小道具と一緒に持ってきたウイッグをかぶり、女の子になる。

 

 非常階段から廊下に出る前に、携帯にメモしておいたCクラス女子の部屋を確認する。小細工を仕掛けるべき部屋を再確認する。

 今宵の実行犯が何子ちゃんかは分からなくとも、どこの部屋の住人かは特定できる。名前なんかどうでもいい。部屋番号さえ分かれば手を出すには十分だ。

 

 11階から14階まで計20部屋に仕掛け終えた頃、時刻は深夜の1時を少し過ぎていた。

 

 最後に千尋さんの部屋にも細工をする。

 迷惑なピンポンダッシュを封じるのは簡単だ。相手は「部屋を間違えた」という言い訳を用意してやっているのだから、その言い訳を使えなくしてやればいい。

 僕はインターホンのボタンの上に目立つように黄色いテープを貼り、そこに「白波千尋の部屋」――でもよかったんだけど、本人が知ったら嫌がるだろうから「Bクラス」と書いた。そしてそれを一応念の為、携帯のカメラで記録しておく。

 

 実を言うと、千尋さんの安眠を取り戻すだけなら部屋の移動なんかしなくてもこれだけで十分だ。僕の夜更かしも女装も必要ない。

 それなのに僕が今回こうして出しゃばったのは、攻撃の姿勢を見せるためだ。不用意に手を出してくるなら、その手に噛み付いてやるぞという意思表示。

 

 その程度で龍園君が大人しくなることはないだろうけど、それでも何か仕掛けようとする時に多少なりとも二の足を踏ませることはできるだろう。くだらない嫌がらせが少しでも減れば万々歳だ。

 

 あとはまあ、僕の気分の問題だ。

 千尋さんに手ぇ出してんじゃねえぞっ♪みたいな。

 

「僕にそこまで友人を想う気持ちがあったとはね」

 

 明日の夜にはこの件は解決していると思うけど、さあて、どんな形で終るやら。今後の展開を何パターンも想像しながら時間を潰した。千尋さんの部屋で眠ることなく待機していたけど、終始静かな夜だった。

 

 午前4時前。

 諸々の仕掛けを確認・回収して自分の部屋に戻る。インターホンは鳴らされなかったけど、部屋の前までは来てたっぽいな。

 

 午前7時半過ぎ。

 学校に行く前に、その来たと思われるCクラスの生徒の部屋の郵便受けに手紙を入れておいた。

 そこには僕のフリーメールのアドレスとともに、こんな文章を記した。

 

 ――――

 

 昨晩はお疲れ様でした。

 お陰様であなたを停学させる材料が揃いました。本日7月15日の24時00分までに下記のアドレス宛に3万ポイント振り込んでいただければ、今回の件は()()()()()()()()()()無かったことにしてあげます。

 振り込みを拒否される場合は「私はヘマをしました」と龍園くんに正直に言って停学になるか、黙って停学になるか、好きな方を選んでください。

 

 

 

 



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057-058 出会う

 057

 

 

 

 7月15日、月曜日。

 

 昼休みの騒々しい教室の中、綾小路君は誰にも誘われることなく独り取り残されていた。僕に声をかけられるのを待っているのかな? 無視するのも面白そうだなあとか考えていると目が合った。

 ……分かったよ。誘ってやるよ。

 

 彼には放課後に付き合ってもらう予定だったけど、折角だしこの時間に済ませてしまおう。僕の考えすぎかもしれないけど、確認しておきたいことが一つある。

 

「善光寺君、学食に行こうか」

「それは構わないんだが、信心のない老婆が角に布を引っ掛けた牛を追いかけてもオレの所には来ないぞ」

「ごめんね、人の名前を覚えるの苦手でさ」

「久し振りにスタンダードな間違い方だったな」

「反省したんだよ。最近は奇を衒い過ぎていたなあって」

「そもそも間違える必要が無いんだが……」

 

 そんないつものやり取りをしつつ移動する。

 

 今日は何にしようかなー。

 学食では7月から夏季限定メニューというものが登場していた。興味はあったんだけど、いつもすぐに売り切れになるので僕はまだ食べられていない。

 今日も無理かなあと思いつつ券売機の前に立つと、一つだけまだ残っているものがあった。ちょっと高いけど買っちゃえー!

 

 ……こんな調子だから帆波さんに「お金遣い荒いね」って言われるのか。明日から気を付けまーす。

 

 カウンターで食券と品物を交換して、既に着席していた綾小路君の対面に座る。僕のトレイの上を見て、冷やし中華を混ぜていた彼の手が止まる。ちなみに夏季限定の筆頭みたいな料理のくせに、この学食の冷やし中華は通年メニューだ。

 

「なんだそれ」

「冷やしビビンバ」

「……なんだそれ」

 

 黄色っぽい謎のお米とその上に並べられた三色のナムル、そして細く切った牛肉をスプーンでぐちゃぐちゃに混ぜる。確かビビンバは『混ぜご飯』って意味だったっけね。

 コチュジャンの濃い赤色が全体に広がってきたので、いざ実食。

 

 もぐもぐ。

 

「どうだ?」

「んー……美味しいは美味しいけど、ビビンバだと思って食べたらなんか違う」

 

 普通のシュークリームだと思って食べたら中に餡子が入ってた、みたいな? 多分そんな感じ。違うかもしれない。どうだろう。分かんない。僕に食レポの才能はない。

 

「そっちはどう?」

「どうもこうも、緒祈が想像している通りの冷やし中華だ。見た目と味になんのギャップも無いぞ」

「だろうね」

 

 そんな感じで毒にも薬にもならない話を続けて、やがてお互い器の底がちらちらと見えてきた。

 忘れないうちに聞いておくかな。僕は視線が不自然に揺れないよう注意しながら、確かめたかったことを一つ綾小路君に尋ねる。

 

「ねえ綾小路君」

「どうした緒祈」

「今の僕って、誰かに監視されてたりしない?」

 

 相変わらず何を考えているんだかよく分からない彼の双眸が、僕に真っ直ぐ向けられた。

 

「……気付いていたか」

「あ、本当に監視されてるのね」

「気付いてなかったのか……」

 

 本当に気付いていなかった。でも、想定はしていた。

 もし千尋さんと帆波さんの動向が監視されていたのなら、二人が僕の部屋に相談に来た時点で僕もまた監視対象になるだろうという想定だ。

 

 今回の真夜中ピンポンダッシュの目的は色んな可能性が想像できて逆にどれが正解なのか分からない。しかし本来の目的はなんであれ、帆波さんと僕の間に繋がりがあると分かったことは龍園君にとって一つの収穫になっただろう。

 ただの繋がりではない。今回のようなトラブルが起きた時に、わざわざ相手の部屋まで直接相談しに行く程度には深い繋がりだ。手駒に余裕があるのなら、僕のことを監視させていてもおかしくない。

 

 僕自身にそれを確かめる察知能力があるかは微妙なので何でも出来そうな綾小路君を使ってみたけれど、結果は黒。昨日の夜というか今日の未明も見られてたのかな。

 だとしたら……いや、これと言って困ることもないか。

 

「また何か厄介事か?」

「まあね」

「オレを巻き込むなよ」

「もちろん。こんなところで君への貸しを使いたくはないからね」

 

 それに『この程度のことでオレを頼るのか』とか思われるのも嫌だしね。

 とか言って勿体ぶって使わなかった所為で破滅したら笑い者だけど、今回は上手くいかなかったところで()()()()()()()大事には至らない。

 

 龍園君に標的としてロックオンされてしまうかもしれないけど、その時こそ綾小路君を頼ればいいだろう。

 

「綾小路君は龍園君についてどれくらい知ってる?」

「何も知らないぞ。一回顔を見たことがあるだけだ」

「そっかー。僕は会ったことも無いんだけど、君から見てどんな人だった?」

 

 今回の件で彼と接触するかは五分五分だけど、どうせいつかは対峙する相手だ。少しでも情報を得ておこう。

 

「体を鍛えている感じはあったな」

「ふむふむ。それから?」

「須藤の件を考えると狡猾な人間だろうが、その点に関しては緒祈の方が上だろう」

「過大評価するなら、せめて褒めてほしかった」

「あとはオレの個人的な印象だが……加虐趣味がありそうだった」

「サディストかー」

「まあ、それくらいだ」

「うん。ありがとう」

 

 僕の想像から外れるような話はなかったけど、それも一つの収穫だ。

 

「龍園とやり合うのか?」

「さあ?」

 

 あの手紙を読んだ誰かさんが、彼の支配をどの程度受けているかによるだろう。ポイントが貰えるならそれが一番嬉しいパターンなんだけど、普通に龍園君に相談している可能性もある。はてさてどうなることやら。

 

 色々と考え過ぎて逆に無計画になっている僕に、綾小路君が忠告をくれる。

 

「お前は殴り合いとか全然出来ないんだから、無茶するなよ? 龍園はこの前のストーカー男とは格が違うぞ」

「ご心配どうも。でも、それならそれで、それなりの戦い方をするだけだよ」

「そうか」

「万が一僕が死んだら、その時は鳥葬してくれ。来世では鳥になりたいんだ」

「……そうか」

 

 ツッコミどころが多すぎたようで、悩んだ末にスルーされてしまった。

 

 まあボケと言えばボケだけど、本音と言えば本音だからね。鳥葬されてみたいのも、鳥になりたいのも――万が一には死ぬことも。

 

 

 

 058

 

 

 

 学校から帰って来た時点で既に16時間近く、それも普段とは大きくズレた時間帯に起きて活動していたため、眠気がヤバかった。というわけで最後の気力で着替えだけしてすぐに寝た。

 

 目が覚めたのは8時間後だった。

 

 携帯を確認する。手紙に記した例のタイムリミットは既に過ぎていたけれど、僕のポイント残高は増えていなかった。

 ふーん。となると停学云々の()()()()がバレたのか、彼に相談したのか、完全に無視したのか、はたまた手紙がまだ読まれていないのか……まあいいや、すぐに分かることだ。

 

 シャワーを浴びて眠気を覚まし、下準備をして昨日と同じように午前1時過ぎに自分の部屋を出る。そして非常階段で11階まで上る。

 あー、きっつ。

 

 昨日と同じようにCクラス女子の20部屋に仕掛けを施すけど、多分使わないだろうな。一応の念の為だ。

 最後に千尋さんの部屋のインターホンにも仕掛けをして、準備完了。

 

 ……このタイミングでなんらかの接触があるかと思っていたんだけど、何事もなく終わっちゃった。ちょっと拍子抜けだ。

 

 考えるべきことは既に考え尽くしたので、携帯のチェスアプリで時間を潰す。最高ランクのCPUと10戦したけど、やっぱり強いね。3回も負けちゃった。

 

 何事もなく時計の針は進み、午前4時過ぎ。

 ウイッグをかぶり、仕掛けの確認と回収に向かう。

 

 14階を終えて13階、そして12階に来たところで、ようやく期待していた展開になった。あの手紙に対して何の反応もないのが一番面倒だったんだけど、幸いにも無視はされなかったようだ。

 

 1210号室のドアに、一人の男が(もた)れていた。

 

 背は僕より握りこぶしひとつ分くらい高く、顔つきは心なしか毒蛇のように獰猛に見える。髪は男にしては長いけど、僕の好みではない。長けりゃいいってわけじゃない。

 

 僕の存在を確認した彼――龍園翔は、背を預けていたドアの左上、蝶番の上に目を向けた。そして憎らしい笑みで話しかけてきた。

 

「ドアが開いたら折れるようにシャー芯をテープで固定して、夜中に出歩いたのがどこの部屋の住人か調べたのか。面白いことするじゃねえか」

「お褒めに与り光栄です」

 

 僕は女の子の格好をしているので、口調もそんな感じにして返答する。

 

「これの差出人はお前だな?」

「ええ」

 

 龍園君の右手には、僕が昨日1210号室の住人に出した手紙が握られていた。僕にも龍園君にもビビることなく、普通に報告したのか。誰だか知らないけどやるねえ。

 まあ、彼に宛てた手紙と言っても過言ではないし、そういう意味では無事届いたようでなによりだ。

 

「舐めた真似しやがって。『停学にさせる材料』だあ? バレバレのブラフだなあ、おい」

「うふふ。そうですねえ」

「こんなのでポイントを奪えると本気で思ったのか?」

「まさか。ほんの悪ふざけですよ」

 

 と言いつつ、ちょっとは期待していた。あの手紙を受け取った仮称C子ちゃんが、罪悪感と保身からポイントを振り込んでくれないかなあって。

 そうなったら僕はそのことを龍園君に報告するつもりだった。手紙なりメールなりで「お前は計画も手駒も大したことねえな」と(あざけ)って、憂さ晴らしをするつもりだった。

 そんなことをすれば彼には目の敵にされるだろうけど、その分Bクラスを率いる帆波さんの負担が減るなら別に構わない。むしろ推奨だ。

 

 結果としてはご覧の有様でポイントも得られなかったけど、まあ想定していた中では上から数えた方が早い展開になっている。今のところは。

 

「で、誰だお前」

「Aクラスの八人ヶ岳(はちにんがたけ)と申します。あなたはCクラスの龍園くんですよね? 初めまして」

 

 あまり意味は無いけれど、一応嘘を吐いておく。女の子の格好だし。

 

「なんでAクラスが出しゃばってきた? これはCクラスとBクラスの問題だ」

「問題というほどの事態ではないと思いますが……白波さんから相談を受けたのですよ。Cクラス(あなた方)に嫌がらせを受けていると。彼女とは同じ中学校に通っていた仲でしてね」

「あの女のことは監視していたが、お前みたいなのとは接触していなかったはずだぜ」

「科学技術が進歩した今の時代、直接会わなくてもお話くらい出来るのですよ。携帯電話ってご存知ですか?」

「ムカつく喋り方だな。ぶん殴るぞ――緒祈真釣」

 

 ははっ。ばれてらあ。

 

 それとも僕がやったようにブラフかな?

 とりあえず(とぼ)け続けてみよう。

 

「緒祈真釣? 女の子だか男の子だかよく分からない名前ですね。でもごめんなさい。私、白波さんとは仲が良いけど、他のBクラスの人のことは一之瀬さんくらいしか知らないんです」

「緒祈真釣はBクラスじゃねえ、Dクラスだ」

「あらそうなんですか? であれば尚更知りませんね。私、不良品置き場(Dクラス)には興味が無いんです」

「……まあいい。お前の正体は調べればすぐに分かる」

 

 ふむ。今の段階では僕が緒祈真釣だという確証はないようだ。なんと言うか……()()()()()()()()()()、龍園翔。

 

 僕からも質問を返すとしよう。

 

「あなたが今回した悪戯は、寮内での生徒間トラブルに学校がどう対応するかを知るためのものですか?」

「そのつもりだったんだが、それ以上の思わぬ収穫があったからな。今回はこれで引いてやるよ」

「収穫、ですか?」

「お前の存在を知れたことだ」

「あらあら? ひょっとして一目惚れしちゃいました?」

「お前が本当にAクラスなら後でじっくり料理してやる。それまで大人しく待ってろ」

「あなたが私の友人に手を出さないのであれば、私もまた余計な手は出さないでしょうね」

「はっ、考えといてやるよ」

 

 そう吐き捨てて、彼はエレベーターの方へ歩き出した。

 

 引くと言ってくれたしこれで万事解決――いやいや、このまま帰られては困る。千尋さんに手を出された以上、一撃くらいお返ししないと気が済まない。

 

 僕はその大きな背に声をかけた。

 

「最後に一つよろしいですか?」

「なんだよ」

 

 彼は立ち止まったけれど、こちらを振り向きはしなかった。

 その後頭部を見て、精一杯の嘲りを込めて、僕は口を開く。

 

 

 

 

「お前の頭、チャバネゴキブリみてーだな(笑)」

 

 

 

 

 ヒュン――風を切る音が聞こえた。

 

 僕の言葉が気に障ったらしい。

 龍園君はこちらを振り返って一瞬で距離を詰め、その勢いのまま蹴りを繰り出してきた。

 

 その動きを予想していた僕は――

 

「はいどうぞ♪」

 

 身を屈め、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「なっ――!」

 

 驚いた声。

 

 顔の左側に圧縮された空気。

 

 風圧。

 

 耳鳴り。

 

 土臭いスニーカー。

 

 一瞬の静寂。

 

「……なんの真似だ」

「ふざけた真似ですよ」

「俺が寸止めしなかったら、お前死んでたぞ」

「そうですね。お礼を言っておきましょうか。殺さないでくれてありがとうございました」

 

 今まで幾度となく人も物も痛めつけてきたであろう龍園翔の右足が、僕には一度も触れぬまま、ゆっくりと下ろされた。

 

 彼が噂通り喧嘩慣れしている人間なら、寸止めくらい出来るだろう。

 彼が推測通り頭の回る人間なら、監視カメラのあるこの場所で本気で蹴っては来ないだろう。

 彼が僕の想像通りのサディストなら、『自分の意思で蹴る』ことには抵抗も躊躇もないだろうけど、『相手の思い通りに蹴らされる』となれば何かしら心理的なブレーキがかかるだろう。

 

 そういう幾つもの希望的観測(だったらいいな)楽観視(なんくるないさ)だけを頼りに、僕はこの作戦……というかギャンブルに踏み切った。僕らしくないやり方ではあるけれど、まあ、上手くいったので良しとしよう。

 

 龍園君は苦虫を噛み潰したような顔を僕に向ける。

 

「食えねえ奴だ」

「じっくり料理してくれるのでしょう?」

「……お前を料理するとなると、調理場は相当荒れそうだな」

 

 そう言い捨てて去っていく彼の背中を、今度は呼び止めることなく黙って見送った。

 

 とりあえず1勝、かな?

 

 こうして始まった緒祈真釣と龍園翔の戦いは、きっとお天道様にはお見せできないほど醜く見苦しい潰し合いとなるだろう。

 夜明け前の冷めた廊下には、不気味な静寂が漂っていた。

 

 

 

 (058)

 

 

 

 あははは! 最高だぜ『僕』!

 

 随分頭を捻ったみたいだけど、君の予想は全部間違っているよ! 龍園くんはあの状況でも容赦なく頭を蹴ってくる人間だ。死んでいた可能性の方がずっと高かったぜ?

 

 まあ、()()()()()無傷で生き延びたんだけど。

 

「えっと……どちら様ですか?」

 

 敬語なんてよせよ。『僕』とボクの仲だろう?

 切り捨てた『僕』と切り捨てられたボクは、切っても切れない関係だ。忘れた『僕』と忘れられたボクのこと、忘れたとは言わせないぜ?

 

「意味が分からないんだけど……」

 

 おおっと、そいつは大問題だ。

 

 分かるように自己紹介してあげよう。

 ボクは『僕』が捨てた記憶だよ。『僕』が知りたがっていた()()()()()()()()()()()()()()

 

「……なるほどね。君の素性もここが夢の中だってことも、なんとなく理解できたよ。ただ頭が痛くなるから、僕のことを『僕』と呼ぶのはやめてくれ」

 

 オーケーオーケー。

 ボクは『僕』のことをキミと呼ぶとしよう。

 

 それじゃあ今からキミがずっと知りたがっていたことを話すけど、その前に一つ大事なことを言っておく。

 今年の1月3日以前のキミの記憶は偽物だ。

 

「……はい?」

 

 と言っても一から十まで全くの別物ってわけじゃないけど、それを踏まえて聞いてくれ。そして記憶を修正してくれ。

 

「あっさりし過ぎじゃない?」

 

 まあまあ、細かいことは気にするなよ。

 

「いや、大事なことって言ったよね……?」

 

 さてさて、時系列順に話していこうか。

 

「無視かよ……」

 

 まずキミが自分の異質さを自覚したのは小4の時ではなく、小2に上がってすぐだ。そしてその異質さの正体に、今のキミが知りたがっているその正体に気付いたのが、小4の時だ。

 それ以降のクラスメイトの転校や担任の変更は、ある程度キミが意識した上で行われたよ。

 

「えっと……超能力に目覚めたってこと?」

 

 はあ?

 全然ちげーよバカ!

 

 『アレ』はそんな便利なものじゃない。

 ついでに言うと、キミがここ数ヵ月ずっと考えていたようなものでもない。

 

 何事もスムーズにいかないとか。

 思い通りに事が運ばないとか。

 順風満帆の神に見放されたとか。

 紆余曲折の神に愛されたとか。

 あと「世界は僕の意思を曲げようとしてくる」だっけ?

 

 どれも(かす)ってはいるけれど、本質を捉えちゃいない。

 

「じゃあその本質ってのはなんなのさ」

 

 よくぞ聞いてくれました!

 

 『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』――キミが忘れた昔のキミは、そう名付けていたよ。

 

「……超理論、ね」

 

 キミが言うには『なるようにならない最悪(イフナッシングイズバッド)』と『忍法運命崩し』のハイブリット、あるいは制御不能の『逆説使い』だってさ。あはは。なんだか格好いいよね。

 でもねー、キミのはそんな素敵なものじゃないんだよ。

 

 魔法でも忍法でもない。

 特別(スペシャル)でも異常(アブノーマル)でもない。

 過負荷(マイナス)でも悪平等(ノットイコール)でもない。

 言葉(スタイル)使いでも戯言(ざれごと)遣いでもない。

 

 ――ただのただならぬ疾患だ。

 

「疾患、ね……」

 

 発症者は多分キミ一人。治療法の確立どころか世間に認知すらされていない不治の病さ。少し前に症状を抑え込むことに成功したけれど、それもあくまで一時的なものだった。

 

 詳しく解説していこうか。

 『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』が起こす理論を越えた現象をまとめて一言で表すなら、逆態接続の『だからこそ』だ。

 

 小学3年生の時。クラスメイトの前垣(まえがき)くんはキミと仲が良くて、夏休みに一緒に海に行こうと約束していたね。()()()()()彼はその直前に引っ越した。

 小学5年生の時。担任の(やま)先生は生徒や保護者からの信頼が厚くて人気の先生だったね。()()()()()女子トイレにカメラを仕込んで、それがバレて学校から消えた。

 中学1年生の時。運動の出来ないキミは運動会がとにかく嫌で、てるてる坊主を逆さにして吊るしたね。普通はそんなことしたからって雨が降ったりはしない。()()()()()雨が降って、予備日にも雨が降って、予備日の予備日にも雨が降って、その年の運動会は中止になった。

 

「……なんでもありだね」

 

 その通り。もしこれが自分の意思で自由自在に使えたのなら、世界征服だって楽勝だろうね。でも残念ながらキミが制御できるようなものではなかった。手綱を握ろうなんて無理な話だった。

 

 だから約半年前、中学3年生の時。キミはお正月に初詣に行って、そこで願ったんだ。『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』という疾患が、呪いのような疾病が、消えて無くなりますようにって。

 もちろんそんな神頼みでどうにかなるはずがない。そもそも初詣っていうのは新年の神様への御挨拶みたいなもので、そういう願い事をするイベントじゃないし。

 

 ()()()()()、願いが叶った。

 

 キミは『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』を切り捨て、そしてそれに関する知識と記憶――すなわちボクを切り離した。最初に言った記憶の改竄云々は、その時に行われたものだ。

 

「……改竄されたのは僕の感情や思考だけで、現実に起きた事実は変わらないのかな?」

 

 そうだよ。改竄と言うよりは調整かな?

 だからキミが実はデザイナーズチャイルドだったとか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()とか、そんなマンガやラノベみたいな過去はないから安心してくれ。

 

「『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』とやらも大概非現実的なものに聞こえるけど」

 

 あー、うん。それについては時間があれば後で語るとして、話を戻そうか。その『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』を切り捨てた後の話だ。

 

 お気付きの通りキミは完全な消去も封印も出来なかった。まあ『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』を消すために『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』自身を使ってるんだから、そりゃあ仕方ないよね。

 

 3月。キミは男子だ。()()()()()女子の制服が届いた。

 4月。小テストの最初の簡単な17問はキミなら全て正解していたはずだ。()()()()()1問間違えた。

 5月。キミは中間テストで須藤くんを退学させるつもりだった。()()()()()勉強会に協力して、最終的には彼の為に3万ポイントも支払った。

 6月から7月。キミは髪の長い女の子が好きだよね。()()()()()ショートヘアの白波ちゃんに(ほだ)されてしまった。そして百年の恋も冷めてしまいそうな告白卓袱台返しがあったよね。()()()()()キミたちは話し始めてまだひと月も経っていないのに、幼馴染みたいな固い友情で結ばれている。

 

「……それが全部、その『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』の所為でありお陰なのかい? あまり面白くない話だね」

 

 『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』は疾患であり呪いであり、ただの現象だ。不快だろうが不愉快だろうが受け入れることだね。それにキミと白波ちゃんの友情自体は本物だから、そう気にするなよ。

 

「……それはそれで一応納得するとして、もう一つ気になることがあるんだけど。さっきの例の中に、僕の入学に関する話は無かったよね? まさか――」

 

 その通り。

 この学校に入学するにあたって不合格だったり合格になったりの一連の出来事に、『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』は関係してないよ。少なくとも直接的にはね。

 

(にわか)には信じられないなあ……」

 

 そう言われても、ボクは学校の裏事情なんか知らないからね。どうしても気になるなら茶柱ちゃんに聞いてみなよ。まあ、あの人が全てを把握しているかは怪しいけれど。

 

 話を戻そうか。

 今キミの中では『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』が刻々と復活中なんだけど、完全復活される前に色々と知識や技術を身に付ける必要がある。

 

 地震や火山みたいなものでね、日々少しずつエネルギーが溜まっていくんだ。『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』を引き起こすそのエネルギーを、キミは『(ひずみ)』と呼んでいた。

 

「はあ……」

 

 ちょっとちょっと?

 またオリジナルの固有名詞が出てきたからって、面倒くさがらないで最後までちゃんと聞いてよ? これからのキミの高校生活(ストーリー)の基礎になる大事な話なんだから。

 

「分かったよ。それで、その『歪』が溜まるとどうなるんだい?」

 

 他人の人生を大きく変えてしまうのさ。転校とか退職とか、事件とか事故とかね。

 『歪』は日常生活の中で少しずつ発散されているけれど、溜まるペースはそれ以上だ。だから予期しない大規模な『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』を防ぎたいのなら、意識的に『歪』を発散する必要がある。

 

「そんなこと出来るの?」

 

 昔のキミは出来ていた。こうしてボクに会えたんだし、今のキミにも多分出来るだろう。

 やり方を言葉で説明するのは難しいけれど、感覚としては自分の中にあるスイッチを押す感じだ。それでオンオフを切り替える。

 

「へえ。『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』ってのはオンオフが利く代物なんだね」

 

 はあ?

 ちげーよバカ!

 

 意識的なオンオフ『も』出来るってだけで、キミの意思とは無関係にオンになることもあるし、その場合はキミの意思でオフにすることはできない。で、そういうことが日常茶飯事だ。

 

「今のところそこまでの印象はないけど……」

 

 それは『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』がまだ5割程度しか戻っていないからだね。完全復活したら『歪』の発散を毎日しなくちゃいけなくなるよ。

 だからその時に備えてやり方を教えてあげる。スイッチの入れ方じゃなくて、スイッチを入れて何をすればいいのか教えてあげる。

 

 基本的には良い方に転ぶか悪い方に転ぶかさっぱり予測できない『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』だけど、傾向みたいなものはある。それを使って安全に発散してほしい。

 

「傾向?」

 

 分かっていることの一つ目は、転校というイベントとの相性がいいことだ。『歪』を押し付けたクラスメイトは皆転校していったからね。まあこの『歪』の押し付けはすぐには出来ないだろうし、そもそもこの学校には転校というシステムが無いから、あまり意味は無いね。

 

 大事なのは二つ目。

 小規模な勝負の場で『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』を発動させれば、ほぼほぼ間違いなく引き分けにできる。無意識下でもよくあることだし、なんとなく分かるよね? さっきCPUとチェスで10戦して3敗7分だったでしょ? ああいうのだよ。

 

 あ、勝負と言っても体力系のは無理だよ? キミの運動能力の無さは『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』でも手に負えないレベルだからね。スイッチをオンにすれば確実に何かが起こるってわけでもないんだよ。『歪』が発散されないことも偶にある。

 それから大規模なものはこれで防げるけど、小規模のものはどうしようもないから諦めてね。

 

「待って待って、新情報を詰め込み過ぎ。えーっと、だから……うん? つまり君の長ったらしい説明をまとめると――

 

 一、僕が抱える『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』は何でもありの疾患で、『歪』というエネルギーを発散することで僕の意思とは関係なく発現している。

 二、『歪』は勝手に溜まっていくもので、これを放置していると他人の人生を狂わせる程の大規模な発散が起きてしまう。

 三、それを防ぐためには日常の小規模な自然発散では足りないため、僕の意識的な発散が必要になる。

 四、意識的な発散でも基本的にはどんな結末になるか予想も制御もできないけれど、経験上勝負ごとに関しては『引き分け』という結果が予測できるので、それを使って発散するのがよい。

 

 ――こんな感じかな?」

 

 そうそう、そんな感じ。付け加えるなら、

 

 五、自発的な発散には自分自身が発散するタイプと、『歪』を他人に押し付けることで発散するタイプがある。

 

 ってとこかな。押し付けるタイプはキミにはまだ出来ないと思うから、とりあえずは自己発散タイプで『歪』やスイッチの感覚を掴んでね。

 

(おおよ)そ理解できたと思うけど……できれば事前に話すべきことをまとめて、もっと分かりやすく説明してほしかった」

 

 ごめんってば。言い訳をさせてもらうとね、こんな日が来るなんて想像してなかったんだよ。正直ボク自身、どうして今こうしてキミと話せているのかもよく分かっていない。

 だから次にいつ会えるのかも分からないし、そもそも次があるのかも分からない。

 

「ふーん。今得た情報を一度ゆっくり消化して、その後また話を聞きたいと思たんだけど……難しいのかな?」

 

 そうだね。

 まあ伝えるべきことは全部伝えたはずだから、キミの頭脳ならなんとかなるはずだよ。

 

「そうだといいけど……ところで今の僕にはどれくらいの『歪』が溜まっているんだい?」

 

 マックスを10としたら、今は4くらいかな。これが8を超えるとキミも危ないし、キミの近くにいる白波ちゃんや一之瀬ちゃんや綾小路くんも危ない。

 『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』は必ずしも悪い方向に作用するわけじゃないけど、そこで賭けをするにはリスクが大きすぎるだろう?

 

「そうだね」

 

 即答かよ。友達想いだねえ。

 

 ……ん?

 あー、そろそろお別れの時間みたいだ。

 

「ふーん」

 

 ……ねえ『僕』。

 

「なんだい『ボク』」

 

 緒祈真釣は『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』とかいう意味不明なものを持たされた、不運で不遇で可哀想で人間だよね。

 

「まあ、そうかもしれないね」

 

 ()()()()()、幸せになってよ。

 

「急にどうした」

 

 昔の()は楽しく生きてはいたけれど、自分が幸せだと思ったことは一度も無かったよ。だからまあ、なんていうか――

 

「なんていうか?」

 

 頑張れ。

 

「……うん、頑張る」

 

 

 



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059-061 現実投与

 059

 

 

 

 夢を見た。

 とても不思議な夢だった。

 

 目を開けて、体を起こす。

 

「見慣れない部屋だ」

 

 ここは千尋さんの部屋か。

 あのまま自分の部屋に戻ったら僕の正体があっさりバレる可能性があったから――まあ別にそれでも構わないんだけど――こっちに逃げて来たんだった。

 それでどうしても眠くて、しばらくベッドに横になって、そのまま寝てしまったのか。

 

 カーテンの向こうは随分と明るいけれど、今は何時だろう? 下手したら遅刻かもなあ、なんて呑気な考えで携帯を確認する。

 

 

 14:09

 

 

 ……え?

 未読マークの並んだ受信ボックスや未確認マークの並んだ着信履歴を見るに、どうやらこの時刻に間違いはないらしい。

 

 なるほど。これが『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』か。

 

 寝るつもりはなかった。()()()()()寝た。

 昨日の夕方にしっかり寝ていた。()()()()()ぐっすり8時間も眠ってしまった。

 

「ははっ。そりゃあ手に負えないわけだ」

 

 今から急いでも間に合うのは7時間目だ。このまま休んじゃおっかなーと思ったけど、放課後学校でやりたいことがあるので行くことにする。

 

 その前にまずは片付けだ。小道具諸々をまとめていると机の上にメモを発見した。この部屋の真の住人、千尋さんが書いたものだ。

 

『おはよう寝坊助くん。君がこれを読んでいるという事は、今日は確実に遅刻だね』

 

 いや、メモなんか書いてないで起こしてよ。

 

『寝顔が可愛かったから写真に撮っておいたよ。後で送るね』

 

 いや、写真なんか撮ってないで起こしてよ。

 

『お疲れさま。ありがとね、私の為に頑張ってくれて』

 

 …………ったく、可愛い奴め。

 

 僕はそのメモの裏に『どういたしまして』とだけ書き置いて、自分の部屋に戻った。それから制服に着替えて、ぺらっぺらの鞄を持って寮を出る。

 

 基本的には毎日一人で登校している僕だけど、周囲に友人どころ他人さえ誰もいない通学路というのは初めてだった。授業中の敷地内ってこんな感じなのか。新鮮だな。

 

 7時間目が始まるまでまだ余裕がある。

 小腹が空いたしパンでも買おうかとコンビニに入ると、店員さんに滅茶苦茶驚かれた。幽霊を見たかのようなリアクションだった。彼の日常に細やかな刺激を与えられたようで嬉しく思う。

 

 70ポイントで購入したコーンパンを鞄に入れて、学校への道に戻る。このペースだと、ちょうど6時間目の終わり頃に着くかな。

 授業中の教室に突入するのは嫌なので、少しだけ歩くペースを落とす。

 

 その結果、狙い通り僕が校舎に足を踏み入れたタイミングでチャイムが鳴った。休み時間の喧騒がじわじわと、ざわざわと聞こえてくる。

 いよいよ1年D組の教室が近付いてきた。

 

 なるべく目立たないように自然体で、「え、遅刻? してませんけど?」みたいな表情で行こう。幸いにも既に扉は開いている。

 

 教室に入り、自分の席まで淀みなく移動し着席する。

 さて、次の授業の準備をしましょうかねえ――

 

「いやいや。なんで『え、遅刻? してませんけど?』みたいな顔してるんだよ」

「やあ足利尊氏君」

「オレは室町幕府の初代将軍じゃないぞ」

「ごめんね。人の名前を覚えるの苦手でさ」

「せめて学校が何時に始まるかは覚えておこうな……で、何があったんだ?」

「寝坊した」

「……7時間も?」

「自分でも驚いてる」

 

 急げばギリギリ間に合うレベルの寝坊だったら焦りもしただろうけど、今回は目が覚めた時点でもうどうしようもなかったので、本当にただ驚いただけだった。

 

 呆れた様子の綾小路君の後ろから、今度は堀北さんが現れた。性格のキツイ彼女のことだから、きっと毒のある嫌味ったらしい言葉を吐いて――

 

「このままあなたに須藤君を任せて大丈夫かしら?」

 

 至極当然の懸念だった。ごめんなさい。

 

「今日の寝坊は事故みたいなものだよ。大丈夫、須藤君の面倒はちゃんと見るから」

「進捗はどうなの? 赤点は回避出来そう?」

「彼が真面目に自主学習してくれていれば……」

「自主学習!?」

「須藤がそんなことするか?」

 

 それは正直微妙なところだ。ただ堀北さんに詰られるのも嫌なので、強気に答えておく。

 

「おいおい僕の生徒を舐めて貰っちゃあ困るよ? 全科目50点越えだって難しいとは思わない」

「……そんなに私の髪に触りたいのね」

「もちろん!」

「変わった性癖ね」

「綾小路君ほどじゃないよ」

「え?」

「は?」

「初めて聞いた時は驚いたよ。まさかこの世に『好きな女子の眼球を舐めたい』なんて性癖があったとはね」

 

 産地直送、純度100パーセントの作り話に、堀北さんも乗ってきた。

 

「――っ! 身の毛がよだつとはこのことね……」

「ちょっと待て! オレにそんな特殊な性癖はない!」

「衛生的に良くないと思うから、妄想だけに留めておくんだよ?」

「妄想だけでもしてほしくないわね」

「おい堀北、まさか緒祈の妄言を本気で信じてるわけじゃないよな?」

「半信半疑と言ったところね」

「半分信じてるのかよ!」

 

 僕は「あはは」と笑って、堀北さんは「ふふふ」と笑って、綾小路君は「やれやれ」と呆れていた。

 

 なんと下らない、他愛ない会話だろうか。

 

 あんな夢を見ても変わらず続く日常に、少しだけ安心している僕がいた。

 

 

 

 060

 

 

 

 放課後。授業はひとコマしか受けてないけど、もう放課後。

 僕は部活棟のとある一室を訪ねた。3階の一番奥、盤上競技部の部室だ。

 

 盤上競技部はその名の通り、チェス、囲碁、将棋、オセロといったボードゲーム全般を行う部活動だ。知り合いがいるわけじゃないけれど、今日はここに用があった。

 

「失礼します」

 

 部屋は教室3つ分くらいの広さがあって、中には男子が2人と女子が3人、それから男性の顧問が1人いた。空いている椅子やテーブルが多いのは、テストが近い所為だろうか?

 僕の姿を確認して声をかけてきたのは、先生とチェスの対局中だった女子生徒だ。

 

「見ない顔だね。どちら様かな?」

「1年Dクラスの緒祈真釣です」

「入部希望?」

「いえ。ここの部長さんと、プライベートポイントを賭けた勝負をしたくて来ました」

 

 室内の空気が変わる。僕を歓迎するような空気ではない。うーん、やっぱり言い方が直接的過ぎたかな?

 

「私が部長の田瀬(たぜ)だよ。ポイントを賭けてというのは、どういう意味かな?」

「そのままの意味です。手っ取り早くポイントを稼ぎたくて、これが一番楽な方法かなあって」

 

 ポイントは欲しいけど人に売れるようなものは持っていない。となると何かしらの勝負で稼ぐしかないんだけど、僕が戦えそうなのは頭脳戦だけだ。というわけでここに来た。

 

「おやおや、随分と舐めたことを言ってくれるねえ。具体的には何ポイント賭けるつもりかな?」

「負けた方が勝った方に1万ポイントで」

「ふうん。道場破りみたいなことしに来たわりには少額だね」

「Dクラスの僕には手持ちがないもので。あ、あともし引き分けだった場合は10万ポイントください」

「突拍子もない条件をさらっと入れてきたね……」

 

 自分が引き分けという結果を引き寄せやすい人間であることは、夢の中で『ボク』の話を聞く前から分かっていた。だからこんな条件を出した。

 

 ちなみに田瀬先輩は僕と話しながらも、先生との対局の手は止めていない。盤を覗き込んでみると、先輩が圧倒的に優勢だった。

 

「種目は?」

「田瀬先輩が一番得意なもので」

「ふーん。じゃあオセロってことになるけど、引き分けなんてまず無理だよ?」

「承知の上です」

 

 チェスじゃないのか。ちょっと意外だけど、別に困りはしない。

 

「自分で言うのもなんだけど、私は学生に限れば全国で5本の指に入る強者だよ? それも承知の上?」

「想定の内です」

「あはは。いいよ、やってあげる」

「ありがとうございます」

 

 意外とあっさり勝負に乗ってくれた。門前払いされる可能性も考えていたけど、そこまで排他的でもなかったようだ。

 

「でも今は御覧の通り部活中だからさ、部外者の君とやるならそれなりの名目が必要になるんだけど」

「田瀬先輩が勝ったら僕が盤上競技部に入る、でどうでしょう? 入部試験を兼ねている(てい)であれば問題ないのでは?」

「おっけー、それでいこうか。こっちも丁度終わるし。チェックメイトです、先生」

「うむ。参った!」

 

 僕は先生が座っていた席に座る。

 田瀬先輩は無駄のない慣れた手つきでチェス盤を片付け、オセロの準備を整えた。

 

「持ち時間はどうする?」

「10分くらいですかね」

 

 元々は持ち時間3分の早打ち対決に持ち込んで相手の実力を出させない作戦だったんだけど、『ボク』の話を聞いてこっちに変えてみた。

 

「先手後手は?」

「先輩はどちらが得意ですか?」

「うーん、どっちかっていうと後手かな」

「じゃあ僕が先手で」

「……自信がすごいね」

 

 さて、自分の中のスイッチとやらを入れないといけないんだけど、よく分からないな。ヒーローの必殺技よろしく口に出してみるか。

 

手に負えない逆説(ウルトラロジカル)

 

 

 ゾクゾクゾク――!

 

 

 小さく呟くと同時に、何かが脊椎を駆け抜けた。知らないはずなのに、なぜか懐かしく感じる。心地好くもあり、不快でもある。不思議な感覚だ。

 

「……へえ。雰囲気が変わったね」

「そうかもです。じゃあ、始めましょうか」

「「よろしくお願いします」」

 

 田瀬先輩が対局時計の自身のボタンを押すことで、僕の持ち時間がカウントダウンを始める。ゲーム開始だ。

 

 石を打つ音、石を返す音、ボタンを押す音。

 序盤はテンポよくセオリー通りの展開だ。

 

 黒9枚、白7枚。

 ちなみにオセロは先手が黒で、後手が白を使う。僕が黒で、先輩が白だ。

 

 そろそろ仕掛けようかな。

 

「……ふうん?」

 

 奇抜と言うほどでもないけど定石を外れた僕の手に、田瀬先輩は少し考え込む。

 その隙にもう一つ仕掛ける。褒められた行為ではないけれど、僕は先輩に話しかけた。

 

「ところで田瀬先輩、一つお聞きしたいのですが」

「何かな?」

「一年生の頃、夏休みに何かありました?」

 

 打つ音、返す音、押す音。

 先輩は自分の手番を終えてから僕の質問に答えた。

 

「何もなかったよ」

 

 僕は自分の手番を素早く終えて、会話を繋げる。

 

「へえ。やっぱり何かあったんですね」

「……」

「学校に口止めされるような何かが、おそらくクラスポイントが大きく動く何かがあるんですね」

「……ははーん。オセロの勝敗はどうでも良くて、本命はそれを探ることかあ」

「いえいえ。どちらも本命ですよ。浮気ではなく二股です」

「あはは。その(たと)えは最低だね」

 

 黒9枚、白15枚。

 

 『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』がどの程度使えるのか分からないから、一応本気で勝ちを狙っている。

 改めて考えるとチェスや将棋ならまだしも、オセロで引き分けって難易度高すぎでしょ。しかも相手は格上で、持ち時間が厳しいわけでもない。成功率どころか勝率さえもほぼ0だ。

 

 あるいは、()()()()()引き分けるのだろうか。

 

 勝負は中盤戦に入り、一手にかかる時間がお互い長くなってきた。持ち時間は先手の僕が残り5分少々で、後手の田瀬先輩は5分を切った。

 

 打って、返して、押して、考えて。

 それを繰り返して繰り返して、盤上を白が支配していく

 

「うーん、手強いなあ……」

 

 そう呟いたのは、現在枚数で上回っている先輩の方だ。

 素人目には先輩の優勢だけれど、オセロの勝敗は終局時の盤面で決まる。10枚以上リードされていようとも悲観することはない。というかむしろ、現状優勢なのは僕の方だ。

 

「まさか奇策も奇術もなしに、普通に追い込まれるとは」

 

 ごめんなさい、奇術めいたものは使ってます。

 

「ねえ。勝敗とか関係なく入部しない? 君なら全国でも戦えるよ。ポイントに困ってるならそっちで稼げばいいし。それにうちの部って週に三回、好きな日に来ればそれでいい緩い部活だからさ。時間の融通も利くよ」

「ありがたいお誘いですが遠慮させていただきます」

「そっかー。残念だなあ」

 

 空いているマスは残り4か所。

 僕が一つ埋めて、残り3か所。

 

 黒9枚、白52枚。

 持ち時間は黒21秒、白9秒。

 

 次の先輩の一手は――

 

「パス」

 

 石には触らずに対局時計のボタンを押す。

 お互い既にどう終わるかは見えている。時間が無いのですぐに打つ。

 

 黒16枚、白46枚。

 

「パス」

 

 こちらの石が無くなったので、先輩のものをもらって打つ。

 

 黒23枚、白40枚。

 

「パス」

 

 最後の一つも受け取り、打つ。

 全てのマスが埋まった。

 

 結果は黒32枚、白32枚――引き分けだ。

 

「「ありがとうございました」」

 

 互いに礼をする。

 僕は自分の中の『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』のスイッチが、自然に切れるのを感じた。

 

「いやー、負けた負けた」

「引き分けですよ」

「盤面を見ればそうだけどさ。ねえねえ、どの段階で終わりまで読めてたの?」

「読めてないですよ。僕は最初から最後まで、ずっと勝ちを目指して打っていました」

 

 それなのに――いや、()()()()()引き分けた。

 とんでもねえな、『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』。

 

「ま、約束は約束だからね。10万ポイントあげるよ」

「ありがとうございます」

 

 携帯を取り出して、田瀬先輩と連絡先を交換した。僕が先輩の連絡先を知る必要はないんだけど、折角なのでと教えてくれた。

 登録完了を確認するとすぐにポイントが振り込まれた。

 

「届いた?」

「ばっちりです」

 

 おお……入学初日以来3か月と十何日振りに所持ポイントが6桁に達した。

 

 感慨に震えている僕に、背の高い男子部員が声をかけてきた。

 

「お前面白いことするなあ。俺とも一局どうだ?」

「いいですけど……オセロですか?」

「いや、俺は将棋の方が得意なんだ」

「分かりました。ポイントは賭けます?」

「もちろん。今のでお前の懐も温まっただろう? さっきの倍でどうだ?」

「勝った方に2万、引き分けたら僕に20万ですか?」

「ああ」

「いいですよ」

 

 既に将棋盤が用意されていたテーブルに向かう。うーん、部内の注目を集めてしまってるなあ。ちょっと恥ずかしい。

 

「先手は譲ってやる」

「ありがとうございます。では」

 

 『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』――スイッチオン。

 二回目という事もあってか、口に出さずともできた。感覚は既に十全に掴めている。

 

「「よろしくお願いします」」

 

 ――30分後。

 

「持将棋ってやつですね」

「お前、本当にDクラスか?」

 

 僕の所持ポイントは30万を越えた。

 

 

 061

 

 

 

 想定以上の臨時収入を得た僕は寮に帰り、すぐに千尋さんと隆二君に借りていた分を返済した。

 それでもまだまだ余裕のある残高に口元が緩むけれど、いくらポイントがあっても解決できない問題を思い出して気が沈む。

 

 時間はたっぷりある。眠気はない。

 それじゃあ改めて考えよう。

 今朝の夢のことを。

 

 『ボク』ってやつは気が利かないよね。なんでああいう大事な話を夢の中で済ませちゃうかな。他に方法が無かったんだろうけどさあ……。

 

 まずはどうしようもない疾患のことから考えようか。

 

 『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』があるから色んなことが起きる――『ボク』の話を聞いた時はそう解釈していたけど、これは逆だね。

 起きてしまった色んなことを一言で説明するには『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』しかなかった――これが正解だろう。

 

 不可能以外は全部可能。

 起こり得ることは全て起こり得る。

 

 当り前と言えば当たり前なんだけど、()()()()()異質で異様で異色な人生になってしまった。我ながらよくまだ生きているものだ。

 

 で、今後も生きていくためには『(ひずみ)』のことを理解しないといけないわけだ。勝手に溜まって勝手に発散される諸悪の根源。

 意識的な発散はさっき実際にやってみて、その感覚は掴めた。スイッチのオンオフもできる。しかし自分に今どれだけの『歪』が溜まっているのかは分からない。オセロ一局でどれだけ『歪』が発散されたのかも分からない。そのセンサーは眠ったままだ。

 

 無意識の場合と意識的な場合では発散される『歪』の量は変わるのだろうか? 『歪』を発散し尽くしたらどうなるのだろうか? 溜まっている『歪』の量と『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』の発動にはどのような関係が?

 

 多分僕が今抱えている疑問は、昔の僕が検証しているはずだ。『ボク』は知っているはずだ。しかし『ボク』とは自由に会うことが出来ないので、自分の記憶から推測するしかない。

 

 僕の記憶……改竄された記憶。

 

 感情や思考以外はほとんど変わっていないらしいけど、そもそも記憶のメインはその感情や思考なんだよなあ。どうにかそれを排して、実際に起きた事実だけを思い返してみる。

 『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』が発動したと思われる出来事は枚挙に暇がないけれど、その内のどれが意識的なもので、どれが無意識のものなのか。

 

 ……自分の記憶をそのままに信じられないというのは中々に気分の悪いものだ。過去が揺らいでしまった所為で、その上に立っている今の自分もぐらぐらと不安定だ。

 

 僕はどこから来たのか。

 僕は何者なのか。

 僕はどこへ行くのか。

 

 どうして僕には『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』なんてものがあるのだろうと考えたとき、それらしい答えが一つ浮かんだ。

 

 多分僕は、本来この世界にいるはずのない人間なのだ。()()()()()この世界に生まれ落ちたんだ。

 

 だってこんなにも可笑しな存在だもの。

 

 きっと神様の手にも負えないの。

 

 僕は(ゆがみ)で、僕は(いびつ)

 

 正しく()くて、正され()い。

 

 生まれる世界を間違えた。

 

 それなのに、無様に生きている。

 

 ねえ、どうして生きているの?

 

 周囲を掻き乱すだけでしょう?

 

 それでも幸せになりたいの?

 

 とっても傲慢で強欲ね。

 

 しねばいいのに。

 

 

 

 

 

「真釣くん!」

 

 

 

 

 

 大きな声で名前を呼ばれて、肩を揺さぶられて、深くて暗いどこかに沈んでいた僕の意識は引き揚げられた。

 

「千尋さん……?」

「チャットしても既読が付かないし、電話しても出ないし、インターホン鳴らしても出てこないし、それで心配になって中に入ってみたら電気も点けずにベッドの上で(うずくま)ってるし……大丈夫?」

 

 いつの間にか外は真っ暗になっていた。部屋の電気は彼女が点けてくれたのかな。携帯を確認すると、着信がいくつもあった。

 

「ごめん。ちょっと考え事してた」

「ちょっとって感じではなかったけど……もしかして、龍園君に何かされた?」

「え? いや、彼は全然関係ない」

 

 千尋さんは心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。僕はなるたけ明るく取り繕いたいのだけれど、それがどうにもうまく出来ない。

 僕と千尋さんの関係は『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』によって作り上げられた紛い物だと、そう聞かされてしまったから。夢の中では一旦納得しておいたけど、やっぱりそう簡単には受け入れられない。

 

「……何があったの?」

「ちょっとしたパラダイムシフトで絶賛アイデンティティクライシス中なんだよ」

「よく分かんないけど……悩みがあるなら相談に乗るよ?」

 

 相談、ね。

 『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』がなかったら相談に乗るほど仲良くなっていなかった相手に、一体何を相談しろって言うんだ? そんな風に優しくするのは、僕に『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』があるからだろう?

 

 ……あれ? 僕はともかく、ひょっとして千尋さんの心情には『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』は関係ないのか?

 分からない。そうだったところで結局どうしていいのか分からない。

 

「ねえ千尋さん」

「なにかな真釣くん」

「僕のこと、好き?」

「……」

「……」

 

 な、なにを……僕はなにをきいているんだ?

 頭おかしくなっちゃったかな?

 

「え、本当にどうしたの? 大丈夫?」

「ごめん。今のは忘れて」

「いやいや忘れられないよ――えいっ!」

「わふっ」

 

 千尋さんは僕に飛びついて来て、ハグをして、そのままベッドに押し倒した。

 僕は千尋さんに飛びつかれて、ハグされて、そのままベッドに押し倒された。

 

 ……何事?

 

「真釣くんが何に悩んでるのか知らないけどさあ」

 

 どうやらこの体勢で話を続けるらしい。

 

「考え過ぎじゃない?」

「……考えなきゃいけないことなんだよ」

「人より頭が回るのは真釣くんの強みだけど、回し過ぎて目までくらくら回ってない? 今の真釣くんは、らしくないよ」

「……僕らしさ? ははは。知ったような口を利いてくれるね」

 

 そんなもの、僕自身だって知らないのに。

 あるかどうかすら知らないのに。

 

「じゃあ言葉を変えるね。そうやって悩んで迷って塞ぎ込んで自分を見失っている姿は、真釣くんには似合わないよ」

「……似合う似合わないの話じゃないんだよ」

「もう……なんでそんなに鬱屈してるかなあ」

 

 千尋さんは僕の頭に手をやり、赤子を寝かしつけるようにぽんぽんと優しく撫でた。僕はそれに抵抗する気力も湧かず、されるがままになる。

 

「真釣くんがそれだけ悩んでるってことは、それはもうどれだけ考えても答えが出ない問題なんじゃないの?」

「それは、まあ……」

 

 確かに考えたからどうなるってものでもない。

 

「さっきアイデンティティクライシスとか言ってたけどさ、そうやって塞ぎ込むくらいなら何も考えずに好きに生きればいいと思うよ」

「でも……」

「もし何か起きたらその時はその時だよ。私も帆波ちゃんも力になるし。もっと気楽に生きなよ」

 

 ――ああ、そうか。

 

 『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』も改竄された過去も、僕が一人で勝手に悩んでいるだけなんだ。勝手に抱え込んでいるだけなんだ。

 僕さえ受け入れてしまえば、それで終わりの問題だ。

 

 というか『ボク』に色々と話を聞いたけれど……冷静に考えてみると『歪』の発散を意識する以外には、これと言ってこれまでの生活と変わりはないんだよな。

 記憶に関したってそうだ。僕がこの学校で関わっている人たちには僕の入学以前の話なんてどうでもいいんだし、そこの記憶に誤りがあったところで問題ないじゃないか。極論を言ってしまえば世界五分前仮説なんてものもあるんだし。

 

 ああ、そうか。

 悩むことなんて、何一つないんだ。

 

「千尋さん」

「なにかな真釣くん」

「ありがとう。霧が晴れたよ」

 

 『僕は本来この世界にいるはずのない人間』だったとしても、あははっ! だからなんだってんだ! 知ったことじゃないね!

 

 僕は今ここにいる。それが全てだ。

 

「吹っ切れたみたいだね。よしよし」

「千尋さんのお陰だよ。持つべきものは気が置けない親友だね」

「自分を見失った時はいつでも言ってね。またこうして抱き締めてあげるから」

 

 ……僕の現状をおさらいすると、ベッドの上で、千尋さんの腕の中で、頭を撫でられている。千尋さんごと体を起こそうとするも、その体力が僕にはなかった。

 

「落ち着いて考えると結構恥ずかしい状況なので、どいてもらえませんかね?」

「お断りします」

「えぇ……」

 

 断られてしまうと僕にはもう打つ手がないんですけど。

 

「真釣くんは意外と筋肉質ってこともなく、見た目通りの適度な柔らかさだね。でも抱き枕にしてはちょっと大きすぎるかな」

「そりゃあ僕は抱き枕じゃないからね」

「そういえばさっきの質問に答えてなかったね」

「質問?」

「好きだよ」

 

 ……あれか。「僕のこと、好き?」とかいう赤っ恥クエスチョンか。無意識にうっかり零れちゃったやつだから早急に忘れてほしいのに。

 

「好きだよ。友達としてね」

「分かってるよ」

「でも真釣くんがどうしてもって言うなら、キスくらいはしてあげる」

「……」

 

 超至近距離で目と目をばっちり合わせて、千尋さんは妖艶に微笑んだ。君、そんなキャラだったっけ……?

 

「千尋さん、マジで離れて」

「むぅ。素っ気ないなあ」

「そうじゃなくて、本当、危ないから」

「この体勢が?」

「僕の理性が」

「……ふふっ。分かったよ」

 

 僕の表情から冗談ではないことを読み取ってくれたようだ。千尋さんは僕に絡めていた腕を解いて体を起こし、僕の上から退いた。

 荷重が取り除かれたので、僕も続いて起き上がる。見慣れているはずの自分の部屋が、なんだか新鮮に映る。

 

「……あれ? どうやって入って来たの?」

「え? 鍵くれたじゃん。自分だけ一方的に貰うのは悪いからって」

 

 そうだっけ? よく覚えてないけど、持っているのが千尋さんなら問題ないか。

 

「鍵といえば、ピンポンダッシュの件はどうなったの? もう解決した?」

「んー、どうだろ? 大丈夫だとは思うんだけど、もう一日くらいは帆波さんの部屋に泊めてもらった方がいいかもしれないね」

「分かった。じゃあそうする」

 

 詳細は何も聞かないのね。

 信頼されているのか、それとも興味がないだけか。

 

「そういえば僕、龍園君に目を付けられたんだよね」

「ええっ!?」

「だから僕と仲良くしている千尋さんに、彼はまた何かちょっかいかけて来るかもしれない。その時は一人で対処しようとせず、どんな小さなことでも僕に相談してね」

「う、うん。分かった」

 

 僕本体には運動神経くらいしか弱点がないので、龍園君が仕掛けて来るなら僕の友人を狙うだろう。鬱陶しいことこの上ないね。

 

 綾小路君なら自力で対処出来るだろう。

 堀北さんや佐倉さんは……綾小路君が付いてるから問題ないはず。

 千尋さんには僕がいる。

 隆二君は自力でなんとか出来るかもしれないけど、一応僕を頼るよう言っておくかな。

 それから――

 

「ねえ真釣くん。それだと帆波ちゃんも危ないのかな?」

「帆波さんは元から龍園君の標的にされてる感じだから、僕の所為で何かが起こるってことはないと思うけど……」

「あっ!」

 

 大きな声を出した千尋さん。急にどうした。

 

「帆波ちゃんの誕生日知ってる?」

「7月20日。今度の土曜日でしょ?」

「そう! 都合よく週末だし、デートしてきなよ」

 

 もしかしたらとは考えていたけれど、まさか本当にそんな提案をしてくるとは。しかもこのタイミングで。龍園君の話からの流れで。

 

 デート自体は別にいいんだけど……

 

「テスト前最後の週末だよ? 勉強会とかあるんじゃないの?」

「大丈夫。上手いこと調整してもらうから」

「Bクラスのメンバーで誕生日会とかするんじゃないの?」

「大丈夫。それは夜だけだから」

「そもそも帆波さんの気持ちと都合はどうなの?」

「大丈夫。真釣くんが良いならって言ってたから」

「……そう」

 

 となると後は僕の問題か。

 僕のというか、須藤君の問題だ。

 

 『バスケで覚える期末テスト対策帳』を渡して以来、学校で顔を合わせる度に「やってるかい?」「やってるぞ」と確認はしている。でも大事なのは身に付いているかどうかだ。

 明後日やる確認テストで壊滅的な点数を取られた場合、教師役の僕が呑気にデートなんかに行っていいものか?

 

 うーん……まあいっか!

 その時は帆波さんとのデートではなく、須藤君の赤点回避を諦めよう。

 

「いいよ。君の思惑に乗ってあげる」

「ほんと!? もっと渋るかと思ってたけど……もしかして真釣くん、もう帆波さんに惚れちゃってる?」

「ことあるごとに君が推してくるからね。意識するなって方が無理な話でしょ」

「へえ! ……ふふふっ。クリスマスまでに付き合えばと期待してた、これは夏休み中も有り得るかも~?」

「どうだろうね」

 

 僕と帆波さんの関係がどうなるのかは分からないけれど、もし僕がこの学校で誰かと恋仲になるのなら、その相手は帆波さんだろう。

 ……万が一で千尋さんもあるのかな。

 

「そういえばプレゼントを買う用にまたポイントを貸すべきかと思ってたんだけど――ひょっとして要らない感じ?」

「うん。大丈夫」

「いやー、びっくりしたよ。ポイント支給日でもないのに、急に何万も返してくるんだもん。どうやって集めたの?」

「先輩に喧嘩売った」

「はあ!?」

「正確には勝負を挑んだ、かな。ポイントを賭けてオセロと将棋をやったんだよ」

「それで勝ったんだ!? さすがだねー」

 

 試合自体は引き分けなんだけど、賭けとしては僕の大勝ちだった。僕のと言うよりは『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』の……いや、それもまた僕の一部なのだから、やっぱり僕が勝ったでいいのか。

 

「だからプレゼントを買うのにも困らないよ」

「そっかそっか。真釣くんのことだから、どうせヘアアクセサリーとか買うつもりでしょ?」

「なんで分かったの!?」

「なんで分からないと思ったの!?」

 

 互いに驚いた顔を見せ合って、それがなんだか可笑しくて――

 

「「ふふっ、あははは!」」

 

 僕たちは声を重ねて笑った。

 

 

 

 



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062-064 誕生日デート

過去最長13603字。


 062

 

 

 

 7月18日、木曜日。

 今日から期末テスト一週間前ということで、全ての部活動がお休みになる。というわけで放課後、バスケ部の彼を僕の部屋に呼び出した。

 

「よーい、はじめっ」

 

 須藤君のごつごつとした大きな右手が、裏を向いていた問題用紙を表に返す。少しの沈黙の後、ペンが走る音が聞こえて来た。

 彼にやらせているのは、『バスケで覚える期末テスト対策帳』がどれだけ頭に入っているのか確認するためのテストだ。8科目それぞれで作るのは面倒なので、文系科目と理系科目の2つの確認テストを用意した。

 

 彼が最初の文系科目のテストを受けている50分間、僕は暇なので『(ひずみ)』の発散も兼ねて携帯のアプリでオセロに興じることにした。今回はCPU(オフライン)戦ではなく対人(オンライン)戦だ。アプリの仕様上、相手はこの学校の誰かになる。

 テスト一週間前に余裕綽々でオセロなんかやっている人はいるだろうか? 自分のことを棚に上げてマッチングを開始すると、意外とすぐに相手が見つかった。

 

 プレイヤー名は『A・P・Liddell』。

 アリス・プレザンス・リデル(Alice Pleasance Liddell)のことかな? 『不思議の国のアリス』の主人公アリスのモデルになったとされる人物の名前だけど、だとするとこの人の本名はアリスだったりして。まあ、どうでもいいか。

 持ち時間10分で2戦して、いつも通りどちらも引き分けだった。対局後、向こうからフレンド申請が届いたのでこれを承認した。フレンド登録しておくとチャットが出来たり、相手の戦績が見られたりする。

 

 アリスさんの過去の戦績は……うわ強っ! レート高っ! 勝率9割越えって化け物かよ。テスト前に遊んでるだけのことはあると感心していると、チャットが届いた。

 

『あなたの戦績を見させて頂きました。大変興味深い数字ですね』

『そんなことないですよ』

『そんなことありますよ。8割近く引き分けるなんて異常です』

 

 異常と言われましても、ねえ?

 今後は『歪』を発散するためにも積極的に『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』を使っていくつもりなので、引き分け率はさらに異常な数字になっていくだろう。

 

『もう1局しませんか? 今度は本気で勝ちに来てください』

『僕はずっと本気で勝ちを狙ってますけどね。時間がないので持ち時間3分でいいですか?』

『ええ、それで構いません』

 

 というわけで短期決戦の早打ち対決をしたけれど、結果はやはり引き分けだった。僕自身は慣れているけど、三戦連続で勝つも負けるも出来ないのは相当ストレスだろうな。再びアリスさんからチャットが届いた。

 

『何者ですか?』

『ただの高校生ですよ。用事があるので失礼します』

『そうですか。またお願いします』

『ええ、また』

 

 アプリを閉じると、うん、丁度いい時間だ。

 僕は意識をオセロから確認テストに切り替える。

 

「そこまで」

「ふぅ……。ほらよ」

 

 疲れた様子の須藤君から問題用紙と解答用紙を受け取り、頭の中にある模範解答と彼の解答を比べる。

 ふむ……へえ……まじか……。

 

「どうだ? 半分くらい取れてると思うんだが」

「うん、良く出来てるよ。応用は利いてないけど基礎はばっちりだ。これならアウトプットの訓練さえすれば、本番も赤点の心配はないだろうね」

「よっしゃあ!」

 

 『バスケで覚える期末テスト対策帳』は8科目分ということもあって結構な量があったけど、解答を見るにしっかりと全範囲やったらしい。須藤君に対する評価を少し上げる。

 

「作っといてなんだけど、よくあんなテキストでここまで身に付いたね」

「俺も驚いたぞ。普通の教科書は見てても眠くなるだけなんだが、緒祈が作ってくれたやつは不思議とするする頭の中に入って来たんだよ。部活終わりでも全然余裕で勉強できたぜ」

「……へえ」

 

 一体どんな脳みそをしてるんだろう。ちょっと引く。

 

 休憩をはさんで理系問題もやってもらったけど、こちらも期待以上の成績を出してくれた。上手くいきすぎて怖いなあ……。

 それからテストの解答と解説を一時間近くやって、本日の勉強会は終了した。

 

「これから一週間はこうして問題を解いてもらって、解説をしていく感じだから。そのつもりで」

「おう」

「空いた時間には新しいことをするよりも、ここでやったことの復習を徹底してほしい。同じ形の問題が出たら絶対に答えられるようにね」

「了解だ」

 

 テスト直前やテスト中によほどのことが起きない限り、赤点は回避できるだろう。

 

「土曜日は用事があるから勉強会はやらないよ。その分明日と日曜日に詰め込むから、頑張ってね」

「それはいいけど……用事って、どっか行くのか?」

「うん。ちょっとデートにね」

 

 

 

 063

 

 

 

 僕と帆波さんの関係を一言で表すなら『友人』で間違いないだろう。しかし『友人』の一言で済ませてしまうのは、なんだか寂しくも思う。とはいえ『友達以上、恋人未満』と言うほど青春の甘酸っぱい何かがあるわけでもないし、『親友』の枠には既に千尋さんが鎮座している。

 

 それについて悩みがあるわけじゃない。ただ、帆波さんとの関係を前に進めてみるのも良いかもしれないと、そんなことを考えている。

 

 先日、ずっと抱えていた疑問(自分の正体)に対し、理解しがたいとはいえ一応の解が得られた。それ以来なんだか心が軽くなって、脳にゆとりができた気がする。今まで保留にしていたことにも、目を向ける余裕が出てきた。

 

 だから積極的にとまでは言わなくても、せめて前向きに接したいと思う。向いている先が友愛なのか恋愛なのか、それはまだ分からないけど。

 

 時刻はまもなく午前10時。

 

 からんからんとベルを鳴らして喫茶店に入って来た少女は、清涼感のある水色のワンピース姿だった。シンプルでとてもいいと思います。でもちょっと胸元が強調され過ぎじゃないかな? お父さんは心配です。誰がお父さんだ。

 彼女は注文カウンターではなく、アイスコーヒーを飲んでいた僕のもとに真っ直ぐやって来た。

 

「おはよう真釣くん!」

「おはよう帆波さん」

「ごめんね? 待たせちゃったよね?」

「ううん、全然待ってないよ。今来たところ――っていう定番をやってみたかったので、少し早めに来て待ってました」

「にゃるほど!」

「それに今日の主役を待たせるわけにもいかないからね。誕生日おめでとう、帆波さん」

「えへへっ。ありがと!」

 

 本日7月20日は一之瀬帆波嬢の誕生日だ。

 

 誕生日にデートって僕は彼氏かよ。いや違うけど。でもまあこれから5時間くらいかな? 帆波さんに楽しんでもらえたらと思う。

 ……このデートを一番喜んでいそうなのが千尋さんってのが不思議な話だ。

 

「すぐに移動するわけじゃないから、何か飲み物でも買って来たら?」

「はーい!」

 

 今日のプランは決めていない。考えてはいるけれど、決めてはいない。この僕が予定を決定していしまうと予定通りにいかなさそうだからね。だから選択肢だけは予め持っておいて、あとは臨機応変に行く。

 まずは映画館かショッピングかなあと考えていると――

 

「ひゃっ!」

 

 可愛い女の子の声だと思った? 残念僕でした! 首元に冷たい何かを当てられて驚いた僕でした!

 

「何するのさ……」

「にゃははは!」

 

 笑いながら僕の向かいに座った帆波さんの手には、よく冷えたアイスティーがあった。

 

「こういう定番、一回やってみたかったの」

「ふふっ、なるほどね。やってみた感想は?」

「真釣くんの反応が女の子みたいで面白かった」

「僕は周囲の視線を集めてしまってとても恥ずかしいよ……」

 

 楽しんでくれるのは嬉しいけれど、その楽しみ方は釈然としないぞっ。この夏が終わるまでに絶対に仕返ししてやろう。覚悟しときや!

 

「まあそれはいいとして、まずは映画でも観に行こうかと思うんだけど」

「うん、いいよー。何観るの?」

「それはまだ決めてないんだよねー。帆波さんは観たいのある?」

 

 携帯で映画館の上映スケジュールを出して帆波さんに見せる。色んな作品が上映されているけれど、時間的に選択肢は4つかな。彼女は困った顔で「うーん……」と唸った。

 

「真釣くんはどれがいい?」

「観たいのがないなら無理に選ばなくてもいいよ? 予定は未定の仮定だし」

「あ、そうじゃなくてね? 事前情報がないからタイトルだけじゃ選びにくくて」

 

 おおっと、言われてみればそれもそうか。ある程度映画館に通っている人ならともかく、普通は映画の情報って勝手に入ってくるものじゃないからね。

 僕は事前に少し調べておいたので、大雑把に選択肢を提示する。

 

「恋愛と冒険と怪獣とサスペンス、どれがいい?」

「んー……冒険かなー。夏だし!」

「おっけー。帆波さんは映画館ではどこに座るタイプ?」

「後ろの真ん中あたりが多いかなあ」

「おっけおっけー」

 

 テスト前だから満員で入れないということはないと思うけど、一応携帯で席を取っておく。

 上映までまだ少し時間があるので、しばらくここでのんびりしよう。ショッピングに行く案もあるけれど、帆波さんのアイスティーはまだまだ残っている。急かすのも悪いだろう。

 

「……あっ」

「ん?」

「いや、今日は全部僕が奢るつもりだったんだけど、早速使わせちゃったなあって」

「にゃはは! これくらい自分で払うよー。むしろ私の方が真釣くんの分も出してあげようと思ってたくらい」

「なんで祝う側の僕が奢られるのよ……」

「それは、だって……ね?」

 

 そうですね。僕Dクラスですもんね。あと、この前の臨時収入の話は帆波さんにはしてなかったもんね。

 

「デート一回分余裕で奢れるくらいの手持ちはあるよ。まあ、それでも帆波さんには遠く及ばないけど」

「えっ?」

「……えっ?」

 

 ああ、そういえばこの話もしてなかったか。

 

「ごめん帆波さん。隠してたつもりはないんだけど、帆波さんの所持ポイントのことは綾小路君から聞いてた」

「……そっか。やっぱり見られてたんだね……」

「わざとじゃないみたいだし、綾小路君のことは責めないであげてほしい。僕に話した時も帆波さんの名前は出してなくて、僕が勝手に推測できちゃっただけだから」

「うん。大丈夫だよ。綾小路くんのことは信じてるから」

 

 そりゃ信じてなきゃ何万も貸さないよな。

 須藤君騒動を解決する際に綾小路君と堀北さんが負ったその借金を僕が肩代わりすることも可能だけれど、まあ、やめとくか。僕が二人に恩を売るより、二人が帆波さんに借りがあるという状態の方が何かと都合が良さそうだ。

 

 ……それはそれでいいとして、折角の誕生日なのにこの空気はいただけないな。面白くない。もっとファニーにいこう。

 

「ほーなーみーさん?」

「な、なにかな?」

「僕とのデート中に他の男子の名前を出さないでほしいなー。妬けちゃうなー」

「にゃにゃっ!? 最初に綾小路くんの名前を出したのは真釣くんだったよね!?」

「ふふふ。これも定番ってことで」

「もう……真釣くん、なんか雰囲気変わったね」

「そうかな?」

「うん。前より明るくなった気がする」

 

 自分ではそれなりに自覚してたけど、外から見ても分かるレベルなのか。ということは逆に考えると以前の僕はそれだけ暗かった……? いや、別に暗くはなかったはずだけど、でもまあずっと悩んではいたからなあ。自分の正体って奴に。

 それは今の僕にもまだよく分かってないけど、それでも分からないなりに受け入れることは出来た。一皮剥けたってやつだ。

 

「帆波さんは前の僕と今の僕、どっちが好き?」

「え、えっと……今の真釣くん、かな?」

「そう。それは良かった」

「んぬぬ」

 

 帆波さんはアイスティーをちびちびと飲みながら、何かを探るような眼で見てくる。僕はそれに小首を傾げる。ここまでの僕の言動に何かおかしな点はあっただろうか? ……まあ、全体的におかしかったかな。

 

「ひょっとして、千尋ちゃんに何か言われた?」

「何かって、何を?」

「積極的に行けとか、ぐいぐい押していけとか、そんな感じの指示を受けたのかなーって」

 

 確かに以前までの僕ならこんな会話はしなかっただろうし、そこに違和感を覚えるのは、第三者の意図を感じるのは、至極当然のことだろう。でも別にそんなことはない。

 

「千尋さんからはデートをして来いとしか言われてないよ。というか会話の内容とか僕の姿勢にまで口を出されても、そこまで素直に従うつもりはないし」

「ふむふむ」

「僕は別に千尋さんの玩具ってわけじゃないからね」

「……むむむー」

「ん?」

「私とのデート中に他の女の子の名前を出さないでほしいなー。妬けちゃうなー」

 

 帆波さんは少し恥ずかしそうにそう言って、そっぽを向いた。ほんのりと赤く染まった耳がよく見える。

 

 ……え、もしかして仕返し? それで僕に千尋さんの名前を出させることには成功したけど、いざ嫉妬の台詞を言ってみると恥ずかしくて目も合わせられなくなっちゃったの?

 

 なにそれ超可愛いんですけど!

 

「ふふっ、ふふふっ」

「わ、笑わないでよ!」

「これは笑っちゃうでしょー。あははは!」

「ううぅー!」

 

 何が面白いって、そもそも千尋さんは僕じゃなくて帆波さんのことが好きなんだよね。だから帆波さんが千尋さんの名前を出したことに、むしろ僕の方が恋敵として嫉妬すべきなんだよね。

 ……いや、恋敵って言っちゃうと色々と齟齬や誤謬があるけど、そういう捉え方も出来るって話です。はい。

 

 そんな感じでしばらく適当にお喋りをして、映画の時間が近付いてきたので喫茶店を出る。席を立って思い出した。そういえば服を褒めていなかった。

 

「そのワンピース、とてもよく似合ってるね」

「ありがと! でも、それも定番でしょ?」

「まあね」

「にゃははー。やっぱり」

「でも定番なのは形式だけで、言葉は僕の本心だよ」

「……もうっ」

「照れてる顔も可愛いよ」

「もうっ!」

 

 周囲にはカップルに見えてたりするのかなあ。

 映画館に向かう道中、僕は本音だけでどれだけ帆波さんを赤面させられるかというゲームに興じた。帆波さんの誕生日なのに、僕の方がはしゃいでしまった。

 

 

 

 064

 

 

 

 面白いけど誰かに薦めるほどじゃない、というのが映画『Indian(インディアン) Jones(ジョーンズ)』に対する僕の評価だ。エンドロールを流し見しながら、ここまでの2時間を思い返す。

 

 考古学者の主人公が伝説の秘宝を求めて冒険するという、べったべたの王道ストーリーだった。主人公がインド人という点は僕には目新しかったけど、別にインド人である必要は無かった気がする。《a》が一つ多いあの世界的名作のパクリなのかスピンオフなのか知らないけど、脚本の前にまずタイトルがあったことは確実だ。

 全体的に低予算を感じさせるクオリティで、これぞB級映画という感じだった。僕はそこまで映画を観ているわけではないので、もしかしたらB級にすら届いていなかったのかもしれない。

 でもまあその安っぽさも、それはそれで楽しめた。

 

 さて。

 一人で来ているなら「僕は満足でした」で済む話なんだけど、今日は隣にバースデーガールがいらっしゃる。僕が楽しめても帆波さんが退屈していたなら意味がない。

 と言っても映画はもう終わっているので、どうすることも出来ないんだけど。

 

 長かったエンドロールが終わり、照明が戻る――かと思いきや、まだ終わりではなかった。このパターン、偶にあるよね。

 

 映し出されたのは石を削って作られた(ひつぎ)だ。クライマックスで主人公が『復活せし災いの古代王』を封印した伝説の棺だ。

 ……あれ? 何も起きないぞ?

 

 映像も音も何故か止まって――っ!

 

「ひぃっ!」

 

 うーわ、びっくりしたあ……。ちゃちい冒険映画かと思ったら、最後にホラーぶっ込みやがったよ……。

 具体的に何があったのかは皆さんのご想像に任せよう。先程の悲鳴が僕のものか帆波さんのものかも、僕の名誉のために伏せておこう。

 

 スクリーンが暗転し、照明が戻る。

 

「にゃはー……まさかのラストだったね」

「棺の蓋がずれるくらいかなーって思ってたら……あれは予想できないわ」

「真釣くん、悲鳴上げてたもんね」

「ん? え? なんのこと?」

「誤魔化すのが下手過ぎるよ……」

 

 悲鳴はともかく、エンドロール後のあの一幕には驚かされはしたものの、正直助かった。誰かと一緒に映画を観るのはほとんど初めての経験で、しかもそれが絶妙なB級映画だったため、何を話せばいいのか分からず少し困っていたのだ。

 まさかそういう観客がいることを見越してのあの演出……なわけないか。

 

 僕たちは映画館を出て、次の目的地を相談する。

 

「時間的にはお昼だけど、お腹空いてる?」

「うん! 何か食べようよ」

「近い所だとパスタ、お好み焼き、ラーメンがあるけど」

「んー、その中だったらパスタかな」

「了解。では行きましょー」

「行きましょー!」

 

 行くも何もすぐ隣の徒歩0分物件なので、会話を弾ませる暇も無く――

 

「到着!」

「余裕で座れそうだね」

 

 中に入ると二十歳くらいの若い女性の店員さんが、外からは見えづらい奥の方のテーブルに案内してくれた。だから何をするってわけでもないけど。

 

 初めて来るお店なので、密かに高めのテンションでメニューを眺める。僕はエビのトマトクリームパスタを、帆波さんはエビとほうれん草のクリームパスタを注文した。エビ美味しいよね。自分で殻を剥かなくていいやつは特に美味しいよね。

 それから映画の半券でデザートが貰えるらしいので、それもお願いした。本日のデザートはチョコレートアイスだそうだ。いいね。

 

 さて、料理が来るまで先程の映画の話でも――

 

「ん?」

 

 ふと目に入ったお店の時計に違和感を覚えた。違和感というか不自然。不自然というか不思議。

 

「どうかした?」

「あの時計、遅れてる?」

「んー? そんなことないはずだけど」

 

 携帯を確認してみると確かにそんなことはなかった。おやおや? だとするとおかしいぞ?

 

「さっきの映画って、丁度今頃に終わる予定だったはずなんだけど……」

「あー、()()があったからじゃないかな?」

()()?」

「真釣くん、気付かなかったの?」

 

 むむむ。上映時間が予定よりも短くなったということは……うーん、実はあのエンドロールは通常の倍のスピードだったとか? 映画を観るのは久し振りだったから、それなら僕が気付かなかったとしても頷ける。でもエンドロール程度でそこまで変わるかな? でもでも他に何かあったっけ?

 

「だめだ。さっぱり分かんないや」

「ほんとに? 三回くらい映像飛んでたけど、気付かなかったの?」

 

 映像が飛んでいた……?

 

「あー、あれね! そういう演出かと思ってたわ」

「主人公の台詞の途中で急に別の場面に移るって、そんな演出しないでしょー」

 

 思えば鉈でぶった切ったような場面転換が何度かあった。予定より早く終わったのも、所々説明不足に感じたのも、その事故があったからか。いやでも古いラジカセじゃないだから、今どき映画館で映像が飛ぶとか有り得なくない?

 

 ……あー、()()()()()か。

 僕にしては今日はスムーズに進行していると感心していたのだけれど、やはり『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』からは逃げられないようだ。

 

「でも、変な演出(そういうこと)しても不思議じゃないB級感じゃなかった?」

「まあ、それもそうだね」

「主人公の服装が一瞬で変わってたし」

「古代王の回想シーンには飛行機が映ってたねー」

「撮影カメラの影が映り込んでいることも屡々(しばしば)だったし」

「ケビンはアメリカの研究者って設定だったけど、イギリス訛りの英語だったねー」

「……いや、それは気付かなかったわ」

 

 というか気付くわけない。英語の訛りは知識としてはなんとなく知ってるけど、聞いただけで判別なんかできないよ。

 帆波さんって心優しい性格や求心力のイメージが強いけど、普通に頭良いんだよなあ。運動もできるっていうし、無敵かよ。

 

 その後、映画から派生して「海外に行ったことある?」とか「一度は生でオーロラを見てみたいね」みたいな話を続けていると、やがて注文した品が運ばれて来た。

 

 あー、良い匂い。

 やべっ、よだれ出てきた。

 

「「いただきます」」

 

 今にもお腹が鳴りそうなくらい腹ペコなんだけど、自分の食欲を満たす前にやりたいことが一つある。僕はトマトソースに赤く輝くエビをフォークで刺し――

 

「帆波さん」

「うん?」

「はい、あーん」

「……絶対すると思った」

 

 ありゃ。

 照れる姿が見れるかと期待したんだけど、僕のこの一手は読まれていたようだ。序盤に攻めすぎたかな。やはり押してばかりでは……僕は何の戦いをしているんだ?

 

 とりあえず任務に失敗したエビちゃんをいただく。トマトのほどよい酸味と甘み、そしてこの弾力。うん、美味い。

 舌鼓を打っていると、今度は帆波さんから声をかけられた。

 

「真釣くん」

「うん?」

「はい、あーん」

 

 ……おやおや?

 帆波さんはさっきの僕と同じように自分のエビを差し出して来た。僕は迷いなく体を前に乗り出す。

 

「あーん」

「え!? ちょちょっ!」

 

 帆波さんは慌ててフォークを引っ込めた。

 あーあ、逃げられちゃった。

 

「なんの躊躇もないんだね……」

「照れを見せたら帆波さんの思う壺かなーと」

「ぐぬぬ……ん? そう言うってことは、隠してるだけで本当は照れてたの?」

「さあ? どうだろうね」

 

 はぐらかしたけど、そんなの照れるに決まってらあよ。

 もし入学初日から僕の心を()()()()()人がいれば知ってるかな? 僕は初めて帆波さんに会った時、こんなにも綺麗なストロベリーブロンドなのに、それよりも先に『この人めっちゃ可愛い』って思ったんだよね。いつも髪の話ばっかりだけど、実は顔も好みの真ん中ドストライクなの。

 

 だからって別に一目惚れしたわけじゃないけど、そこまでちょろくないけど、でもそんな帆波さんに「あーん」とかされて照れないわけがないよね。僕から攻める分には()()()()()平気なんだけどなあ……。

 

 結局その後は「あーん」もなく、口元に付いているソースを拭ってあげることもなく、フォークを落として拾おうとした手が触れ合うこともなく、普通に食事をした。デザートのチョコレートアイスも普通にいただいた。適度に甘さ控えめで美味しかったです。

 

「「ごちそうさまでした」」

 

 時間を確認しようと携帯を取り出す。ちょっと顔を上げれば壁時計があるんだけど、慣れというやつだね。

 現在時刻は13時半過ぎ。うん、良い感じ。

 それと画面には謎の通知。開いてみると――

 

「……ははっ」

「どうしたの?」

「ほら見て。映画館からポイントが振り込まれてた。さっきの映画で映像に乱れがあったから、代金お返ししますってさ」

「へー! そんなことあるんだね」

 

 僕も驚いた。仕事の速さに驚いた。まだ上映が終わって一時間経ってないよ? 支払いが全て学生証で行われるからこそ出来たスピード対応だね。

 

「期せずしてポイントが返って来たことだし、ここは僕が奢らせてもらうよ?」

「自分の分は自分で払うのに……」

「気にしないで。見栄を張りたいだけだから」

「はいはい。どうせ言っても聞かないんでしょ? 大人しく御馳走になりますよっ」

「ありがとう」

「あははっ。なんで奢る側がお礼を言うかなー」

 

 伝票を持ってレジに向かう。

 学生証を読み取り機器に翳してぴぴっと――あれ?

 もう一度、ぴぴっと――鳴らないぞ?

 

「反応しませんか?」

「ええ、そうみたいです」

「私がやってみるよ」

 

 帆波さんの学生証でも試してみたけれど、やっぱり反応はなかった。となると原因は僕の学生証ではなく機械の方か。ちょっと安心。

 

 それからしばらく店員さんがあの手この手を尽くしたんだけど、結局機械が直ることはなかった。「もうタダでいいです」と言いだしそうだったけど、それは流石に申し訳ないので連絡先を教えて後で請求してくださいと伝えた。

 

「映画もお昼もトラブル続きだね」

「それもまた人生だよ」

「おおー、深いねー」

「いや浅いでしょ。膝下でしょ」

 

 ひょっとして『今日は僕が全部奢るつもりだった。()()()()()奢るに奢れない』ってことなのかな? うーん、地味に迷惑。それにこの後の予定を考えると不安になる。奢るという形でなければ大丈夫かな?

 

「次はどこに行くの?」

「ショッピングだよ」

「おー」

「帆波さんへの誕生日プレゼントを買いにね」

「えっ?」

 

 驚かれてしまった。そうか、驚かれるのか。

 

「……それは『えっ? 事前に用意してないの?』ってこと? それとも『えっ? 別に要らないんだけど』ってこと?」

「違う違う! そうじゃない!」

「予め準備しようかとも思ったんだけど、初めてのプレゼントだから失敗したくなくてね。まあ、僕からは何も受け取りたくないと言うなら――」

「そんなこと言わないから!」

「本当に?」

「本当に!」

「プレゼント欲しい?」

「プレゼント欲しい!」

「そう。それは良かった」

 

 おおっとっと。食欲が満たされて気が緩んだせいか、ちょっとネガティブな部分が出てしまった。反省反省。もっと気楽に前向きに行こう。

 

「ところで帆波さんって、髪を結ったり髪に何かを飾ったりするのに抵抗がある人?」

「そんなことないよー。機会がないからやってないだけ」

「なるほどね。向こうにヘアアクセサリーの専門店があるんだけど、行ってみない?」

「行ってみよー!」

 

 歩くこと5分弱。これでお店が閉まってたら泣けたけど、幸いにも普通に営業していた。

 決して広いとは言えない店内には僕たちの他にお客さんはいなかったので、気兼ねなく見て回れる。

 

「わー! 凄い品揃えだね!」

「ほんとだね。想像以上だよ」

 

 外から見たことはあったけど、中に入ったのは今日が初めてだった。壁にも棚にも所狭しと商品が並んでいて、良い意味で目の休まる隙が無い。目の保養になる美髪少女が一緒なら何時間でもいられるだろう。

 どれが似合うかなあと考えながら、帆波さんの後ろを付いて行く。

 

「あっ、これ千尋ちゃんのと似てる!」

 

 彼女が手に取ったのは白い花のヘアピンだった。確かに千尋さんも似たものを付けているけれど、そういえばあの子のは夏になっても桜のままだな。思い入れがあるのか知らないけど、何か買ってあげるか。まあそれはまた後日にするとして……

 

「ねえ帆波さん、これちょっと付けてみてよ」

「どれどれー? わあ! 猫ちゃんだ!」

 

 僕が選んだのは背を伸ばした水色の猫のヘアピンだ。帆波さんは犬猫で言えば猫っぽいし、彼女の髪にはこの色がよく映えると思った。今日の服の色にも近いし。

 ファッションセンスには自信がないけれど、果たして――

 

「えっと、どうかな?」

「……素晴らしい」

 

 これは天使ですか? はい、超絶美少女です。

 

「ちょっとそのまま待ってて」

「う、うん」

 

 僕は別のコーナーからある物を持ってきて、それが何かバレないように彼女の頭に乗せる。

 淡桃色の猫耳が生えた。

 

「な、なにかな?」

「……嗚呼、素晴らしい」

 

 感動に溢れそうになる涙をぐっと堪える。

 この世に生まれてよかった。この学校に来てよかった。神様ありがとうございます。

 

「一体何を……にゃにゃー!?」

 

 鏡で自分の姿を知った帆波さんは、すぐに猫耳カチューシャを外してしまった。そしてヘアピンも外してしまった。ああ! 勿体ない!

 

「とりあえず今の2つは決定だね」

「ちょっと待って!? ヘアピンはともかく、流石に猫耳は貰っても使わないよ!?」

「え、どうして?」

「猫耳付けてどこに行けって言うの!?」

「……学校とか?」

「むりむり絶対むりー!」

 

 残念ながら猫耳カチューシャは棚に戻されてしまった。似合ってたんだけどなー。『萌え』を通り越して『()れ』だったんだけどなー。猫耳蕩れー。

 

 その後はヘアピン一つじゃ寂しいので他の商品も見て回った。制服と同じ色なら合わせやすいかと思い選んだ臙脂色のシュシュと、猫を模した櫛があったのでそれも採用した。

 帆波さんには「そんな幾つも買ってもらうのは悪いよ」と言われたけれど、「じゃあこれは誕生日プレゼントで、これは日頃の感謝で、これは今後もよろしくの挨拶」と屁理屈をこねて納得してもらった。

 

 会計自体は特にトラブルも無く終わったんだけど、その後なぜか抽選箱みたいなものが出て来た。

 

「ただ今2000円以上お買い上げのお客様に、くじ引きのキャンペーンを行っております」

「コンビニみたいですね」

「うちの店は今年できたばっかりで、まだ色々と模索中なんですよ。一枚どうぞー」

 

 中の見えない箱に手を入れて、適当に一枚摘んで引き上げる。コインで削るスクラッチタイプではなく、ぺりぺりっと剥がすタイプだった。

 

「おおっ、2等ですね。おめでとうございます」

「2等は何が貰えるんですか」

「猫耳カチューシャです」

「にゃにゃー!?」

「あはははは!」

 

 超ウケる。これはもう運命だね。帆波さんは猫耳になれっていう神様からのお告げだね。

 というわけで以上四点、プレゼントと感謝と挨拶と、僕の趣味を受け取ってもらった。

 

「受け取りはするけど、絶対に付けないからね!」

「ふふっ。大丈夫。今の台詞でフラグ立ったから」

「はっ! しまった!」

「ふはっ、あははは!」

 

 いやー、この展開は面白すぎる。誕生日とか関係なく完全に僕の方が楽しんじゃったわ。笑い過ぎて痛くなったお腹を抑えながらお店を出る。

 

 時刻は14時42分。

 帆波さんは16時からクラスの勉強会があって、諸々準備があるのでその一時間くらい前には帰りたいとのことだった。

 

「この後はどうするの?」

「時間もないし寮に戻ろうか」

「わっ、もうこんな時間だ。もっとあちこち行きたかったなー」

「それはまた次の機会に、だね」

「うんっ! 真釣くんの誕生日って8月1日だったよね?」

「そうだよ。よく知ってるね」

「千尋ちゃんに聞いたの」

 

 なるほどそれなら納得……って、ちょっと待って。そもそも千尋さんにも教えた覚えないんだけど? んー、まあいっか。知られて困ることでもないし。

 

「何か予定入ってたりする?」

「僕が? あははっ。なーんにもだよ」

「じゃあまた今日みたいにお出掛けしようよ! 今度は一日フルに使って!」

「……そうだね。そうしようか」

 

 まさか千尋さんを挟むことなく直で誘われるとはね。予想外のストレートに思わず(くら)っとしてしまう。

 

「あれ? もしかして照れてる!?」

「照れてらい」

「噛んでるじゃん! 絶対照れてるじゃん!」

「照れてない」

 

 ちょっと動揺しただけですー。

 うっかり攻守が交代してしまったけど、しっかりと防御を固めて帆波さんのターンを乗り切る。いや、何の戦いだよ。

 

 その後は夏休みの話をしながら寮まで歩いた。プールが三日間解放されるとか、花火大会があるらしいとか。

 去年までは夏休みにこれといって良い思い出も悪い思い出も無かったけれど、今年はなんだか楽しくなりそうだ。寮に帰り着く頃には、そんな期待に心が躍っていた。

 

「今日はありがとね! すっごく楽しかった!」

「そう言ってもらえると僕も嬉しいよ。ただ、もうお別れみたいな空気出してるとこ悪いけど、ちょっと僕の部屋に来てくれない?」

「んん? いいよー」

 

 ……男子の部屋に誘われてるんだから、もう少し警戒してほしい。流石に誰にでもほいほい付いて行くわけじゃないよね? 僕を信頼してるからだよね?

 

 とまあちょっと不安になりながらも部屋まで来てもらい、そんなに時間はかけないので玄関で待ってもらう。僕は机の上に置いといた大きな茶封筒を手に戻る。

 

「はいこれ」

「なにこれ?」

「僕が作った期末テストの予想問題。Bクラスの皆さんで使ってよ」

「えっ、いいの!?」

「よくなかったら渡してないよ。まあ、クオリティの方はあんまり期待されても困るけど」

「いやいや、すっごく助かるよ!」

 

 元々は堀北さんに頼まれて作ったものなんだけど、横流ししても文句は言われないだろう。Bクラスには借りがあるんだし。

 

「勉強会、頑張ってね」

「うん! ありがと!」

 

 そんな穢れのない満面の笑みでお礼を言われては、眩しさに目を焼かれてしまう。危ない危ないと一瞬目を逸らした隙に、帆波さんはこちらに背を向け、ドアを開けようとする。

 

「じゃあ、また――」

「待って」

「うにゃっ!?」

 

 僕は帆波さんの手首を掴んで、それを阻止した。最後に伝えておきたいことがあったから。告白じゃないよ? でも大事なこと。

 

「勘違いしてほしくないから、これだけ言わせて」

「な、なにかな?」

「今日は千尋さんに言われて仕方なくデートした――ってわけじゃないから。きっかけは千尋さんだったけど、帆波さんの誕生日を祝いたいと思ったのも、帆波さんに楽しんでほしいと思ったのも、帆波さんと一緒に楽しめたのも、全部僕の本心だから。そこんとこよろしく」

「え、えっと……」

「じゃあ、また――」

「真釣くん!」

 

 言いたいことは言えたのでもう帰っていいよと帆波さんの手首を放したんだけど、今度は逆に僕の右手が帆波さんの両手に包み込まれた。わあ柔らかい。

 

「私も同じ気持ちだから! だから、その……真釣くんの誕生日、楽しみにしててね! それじゃ!」

 

 帆波さんはそう言って、僕の返答も反応も待たず、逃げるように出ていった。

 ドアが閉まったのを確認して、僕はふらふらと部屋に戻り、ベッドに転がった。

 

「あー……流石に恥ずかしいですわ……」

 

 帆波さんとの仲を深めようと色々慣れないことを言ったりやったりしたけれど……いやー、攻めすぎたかな。最後なんて自爆したところに追撃喰らっちゃったもんなあ。

 もうちょっと普通の友達くらいの距離感で抑えるつもりだったんだけど……

 

「抑えられなかったなあ……」

 

 うつ伏せに寝て、枕に顔をうずめる。この顔が真っ赤に染まっていることは、鏡を見なくとも熱が教えてくれる。

 

 あー、これはやばい。

 学校でどんな顔して会えばいいのか分からない――とまでは言わない。ただ、また休みの日にデートするとなると、これはもう自分がどうなってしまうか分からない。

 

 あっはっは。2週間ちょっと前に「もう恋なんてしない!」って決意しといてこの有様ですよ。僕自身の事情やら心情が色々と変わったからあの決意はもう捨てたも同然なんだけど、それにしたって、ねえ?

 

「ほんっと……ちょろいよなあ、僕」

 

 どうにも手に負えないこの感情は、はてさてどうしたものだろうか?

 

 



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065-067 一学期の終わりに

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 066

 

 

 

「お前たちに朗報だ」

 

 期末テストを翌々日に控えた本日の帰りのホームルームは、茶柱先生のそんな一言から始まった。しかしその意味深な笑みを見るに、持ってきたのが本当に朗報なのかは怪しいところだ。

 

「もうすぐ待ちに待った夏休みだが、明後日から始まる期末テストを無事乗り切った者には学校からご褒美がある」

「ご褒美?」

「まさか!」

「喜べ。豪華客船を貸し切って、2週間のバカンスだ」

「「「おおおおおお!」」」

 

 教室が震えるほどの歓声が響く。

 そういえばいつだったか、そんな話をしていたっけ。青い海に囲まれた島とかなんとか。あれ本当だったのね。

 

「最初の1週間は無人島のペンションで過ごしてもらう。存分に夏を満喫するといい。後半は客船内での宿泊だ。船の設備は1週間では足りないくらい充実していて、しかもそれらが全て無料で使えるぞ」

「「「おおおおおおお!」」」

 

 教室が罅割れんばかりの歓声が轟く。

 いやいや、なにを素直に喜んどるんだお前たち。こんなの絶対に何かあるだろ。

 ああ、嫌だなあ。辞退しちゃダメかなあ。

 

 豪華旅行とやらに関するプリントが前から回ってきたんだけど、2週間の内容がB5用紙一枚に収まってる時点でおかしくない?

 しかも、うーわっ、8月1日からかよ。

 

 その後、プリントに書かれていない詳細を先生が色々と補足していたけれど、そこに僕が素直に喜べるような情報はなかった。これはもう『絶対に何かありそう。()()()()()何もない』という逆説に賭けるしかないや。

 ……もし何の裏も無い純粋なご褒美だったとしても、僕のテンションが上がることはないけどね。無人島もクルージングも、僕にとっては嫌がらせだ。学校の敷地内でだらだら過ごしたい。

 

 いつもより長めのホームルームが終わった時、僕はきっとクラスで一番暗い人間だっただろう。深いため息を吐きながら校門を出たところで、綾小路君が音も無くぬるりと現れた。

 

「やあアルケオロジー君。一緒に帰る?」

「オレのどこに考古学の要素を見出したのかは分からんが、寮までちょっと話さないか?」

「考古学について?」

「先生が言っていた旅行についてだ」

「ああ、そっちね」

 

 現段階ではこれと言って話すことはないけれど、彼が話したいと言うなら付き合おう。

 

「ただの旅行じゃないことは緒祈も予感しているだろう?」

「まあね。何があるかは分かんないけど」

「以前一之瀬と話したんだが、おそらくクラスポイントが大きく動く何かだろうな」

「ふーん」

 

 普通はそんな話を他クラス相手にはしないと思うんだけど、帆波さんは帆波さんだからなあ……。まあ、その他クラスに期末テストの予想問題をプレゼントした僕の方が、自分で言うのもなんだけど、よっぽどお人好しか。

 

 そういえば須藤君騒動以来、BクラスとDクラスは同盟を結んでいるらしい。クラス間でというよりは、帆波さんと綾小路君・堀北さんでなのかな? 詳しくは知らないけど、なんであれ平和的な関係が一日でも長く続くことを祈っておく。

 

「一つ聞いておきたいんだが」

「うん?」

「もしDクラスとBクラスが戦うことになったら、お前はどうするんだ?」

 

 綾小路君の疑問は僕にとって実に悩ましい問題だけど、それゆえに既に散々自問自答を尽くした問題だった。解はとっくのとうに出してある。

 だからってそれを馬鹿正直に教える必要はないんだけど、Aクラスに上がる気がなさそうな彼になら話しても問題ないだろう。

 

「第一希望は勝ちも負けも無くその戦い自体を解消すること。第二希望はお互いがなるべくダメージを負わない形でBクラスを勝たせること。第三希望はとにかくBクラスを勝たせること」

「Dクラスには勝ってほしくないんだな」

「うん。Bクラス内での僕の評価を上げておきたいんだよ。と言ってもDクラスを裏切るつもりはないよ? そこまでやっちゃうと帆波さんが眉を顰めるだろうからね。具体的にどう動くかは……その時になってみないと分からないけど」

「どんな状況であれ、かなり繊細な立ち回りが必要になるだろうな」

「自信はないけど、やれるだけやってみるよ」

 

 僕が一番嫌なのは、Bクラスが大敗したときに帆波さん、千尋さん、隆二君が『緒祈真釣(Dクラスの生徒)と仲良くしているから』という理由で裏切りを疑われ、責められることだ。

 Bクラスにとって『団結力』は最大の矛であり盾だ。そこに罅が入ってしまうのは、とても歓迎できる辞退ではない。

 しかしBクラスを潰したい人は、きっとそこを積極的に狙ってくるだろう。あるいは僕を目の敵にしている人も。

 

 だから万が一に備えてBクラスにもう一つ、もう一種類の繋がりを作っておきたい。夏休みにそのチャンスがあればいいんだけど、どうだろうなあ……。まあ、なるようになるか。

 

「旅行中に緒祈がどう動くのか、楽しみにしておこう」

「いやー、期待には沿えないと思うよ?」

「謙遜しなくていいさ」

「謙遜とかじゃなくて――」

しっ(静かに)!」

「?」

 

 本当に謙遜ではないことを解説しようとしたら、何故か黙らされた。僕の声が急に不愉快にでもなったのか? と心配していると、後ろから聞き覚えのある男の声が飛んできた。

 

「よう女装野郎」

 

 振り返ると、そこにいたのはCクラスのボス猿とその愉快な仲間たちだった。

 

 あの夜、寮の廊下で会った自称『Aクラスの八人ヶ岳(はちにんがたけ)』の正体が緒祈真釣()であることには、無事気付けたらしい。ブラフの可能性もゼロじゃないけど、だとしても気にする必要はないかな。

 というわけで(とぼ)けず普通に答える。

 

「やあ龍園君。今日は随分と大所帯だね」

「こいつらにお前の顔を覚えさせるためにな」

「なにそれ怖い」

 

 言われてみれば確かに粘っこい視線を感じる。僕が女装しても見破れるようにってことだろう。

 目を付けられていることは想定済みだけど、まさかここまで積極的に動いてくるとはねー。うっかり監視カメラのないところに行ったらリンチでもされちゃうのかな?

 

 龍園君はにやにやと(いや)らしく笑う。

 

「鈴音の前にまずはお前で肩慣らししてやるよ、緒祈真釣。夏休みが楽しみだなあ?」

「僕を巻き込まずに一人で勝手に満喫してくれよ、龍園翔。折角のバカンスなんだから心も体も休めたいんだ」

「……おいおい、まさか2週間の旅行が本当にただのバカンスだと思ってんのか? ははっ! おめでたい脳みそだ! どうやら俺の見込み違いだったみてえだな」

「んん? どういうことかな?」

「自分で考えろ女装野郎」

 

 そう吐き捨てて、龍園君は愉快な仲間たちと共に寮とは違う方向に去って行った。本当に僕の顔を覚えさせるためだけだったようだ。ああ、それから宣戦布告も兼ねていたかな。

 彼らの背が十分に遠ざかったことを確認して、ずっと黙っていた綾小路君に聞いてみる。

 

「今ので油断してくれたかな?」

(あざけ)ってはいたが、決して油断はしてないと思うぞ」

「そっかー」

 

 学校が言ったことをそのままの意味で受け取っている鈍い人間を演じてみたけど、龍園君相手にはあまり意味がなかったようだ。

 愉快な仲間たちの方には少しは効いたかな? 効いてるといいな。僕のことを侮って油断してほしいな。

 

 止まっていた足を再び寮に向ける。綾小路君も隣に並ぶ。

 

「気に入られてるみたいだな」

「堀北さんには及ばないよ」

 

 下の名前で呼び捨てにしてたもんね。よっぽどのお気に入りみたいだ。一方の僕は女装野郎呼ばわりだよ。間違っちゃいないんだけど、別に好き好んでやってるわけじゃないからなあ。

 

 いや、僕の呼ばれ方なんかどうでもいい。そういえば機を見て綾小路君に提案しようと思っていたことがあるんだった。

 

「ねえねえ綾小路君、もし君が今後龍園君相手に何かやるって時は、僕のことを隠れ蓑にでも黒幕設定にでもしていいよ」

「……」

 

 あれれ? 喜んでくれるかと思ったんだけど、彼はすぐには返答しなかった。「考えとく」という簡単な保留の言葉すらないのはどういうことだ? そう疑問に思っていると、しばらくして彼はこんな提案をしてきた。

 

「やめにしないか?」

「……?」

 

 その一言で全てを察せられるほど僕は聡い人間ではない。どういう意味かと尋ねる。

 

「さっきお前が言ったのは、オレに借りを作らせるためのものだろ?」

「まあ、そうだね」

「そういう貸し借りとかは無しにして、分かりやすく協力関係を結ばないか?」

「……というと?」

「オレはこの学校で目立つことなく3年間を過ごしたい。お前はBクラスを使ってAクラスに上がりたい。それなら敵対することなく、互いに互いの目的達成に向けて協力しあえるはずだ」

「それは……」

 

 それは願ってもない提案だ。

 綾小路君が僕にどんな『協力』を要求してくるかは不明だけど、僕が綾小路君に要求する『協力』もまた不明だ。バランスは取れている。

 ただ一つ気になるのは――

 

「どうして急にそんなことを?」

「オブラート無しで言うと、緒祈をオレの駒として制限なく使いたいからだ」

「オブラートに包んで言うと?」

「緒祈の協力が無制限に欲しいからだ」

「……ちょっと角を丸めたってだけで、オブラートには包めてないよね」

 

 でもまあ彼の言いたいことは伝わった。僕にそれだけ要求するということは、僕からの要求もそれだけ飲むということだ。互いが互いを駒として使いあい、無制限に協力を得る。……流石に無制限は嫌だな。

 

「やりたくないことはやらないよ。それでもいいなら」

「ああ、それで構わない」

「じゃあ、改めてよろしくね。アストロロジー君」

「オレのどこに占星術の要素を見出したのかは分からんが、よろしくな」

 

 こうして緒祈真釣と綾小路清隆は今までの『一応友達』というふわっとした関係から、誓約書も固い握手もないけれど、信用と信頼を持ち寄って、打算と計算と多分友情も少し混じった――そんな『協力関係』になった。

 

 

 

 066

 

 

 

 僕は普段あまり本を読まない。と言っても全く読まないわけでもなくて、好きな作家さんの作品はなるべく買うようにしている。

 

 今日も今日とて須藤君に模擬テストを解かせて、その間僕は暇を潰す。一昨日までは携帯のアプリで遊んでいたけれど、昨日からは読書タイムにシフトした。好きな作家さんの新作が発売されたからだ。

 

 高槻(たかつき)(せん)著『黒山羊の卵』

 連続殺人鬼の女性とその一人息子の物語。

 

 ミステリーやホラーを中心とする高槻作品には、人間の根源的な醜さ、脆弱性、凶暴性――すなわち『闇』が、荒々しくも繊細に描かれている。ぞわぞわと神経を撫でられるような文章に、僕はすっかり虜になってしまった。

 高槻初心者には短編集の『虹のモノクロ』をオススメする。収録されている短編の一つ『小夜時雨』は、今僕が呼んでいる『黒山羊の卵』のプロトタイプの作品だ。

 

 まあ、須藤君には絶対に合わないだろうな。読書初心者には内容も表現も難解すぎる。僕だって未だに携帯を傍らに読んでるからね。ほら、また知らない言葉が出て来た。

 『羊很狼貪』の意味を調べようとすると、その携帯がアラームを鳴らした。電子音を止め、本に栞を挟む。読書もテストも終わりの時間だ。

 

「はいそこまで」

「ふう……」

 

 今終わったのは本日3本目の模擬テストだ。ある程度本番を意識して、休憩を挟みつつ連続でやってもらった。

 実力に関してはもう心配ない。あとはそれを当日発揮できるかどうかだ。

 

「それじゃあメシ行ってくるわ」

「いってらっしゃい」

 

 僕はどうしようかな。あんまりお腹空いてないんだけど……頭はそこそこ使ったし、糖分だけでも補充しておくか。冷蔵庫から徳用パックのチョコレートを適当に取り出し、それを食べながら先程の須藤君の解答を眺める。

 ふんふん。いつも通り、中間テストで赤点を取ったとは思えない出来だな。

 

 須藤君が戻ってきた後の指導プランをなんとなく考えていると、ピンポーンとインターホンが鳴らされた。まだ出て行って15分くらいだし、須藤君では無いはずだ。

 「はいはいどちら様~?」とドアを開けると、そこにいたのは制服姿の帆波さんだった。学校かどこかで勉強会でもしていたのかな。

 

「やっほー真釣くん。今大丈夫?」

「うん、30分くらいならね」

 

 何か話があるらしいので、部屋の中に入ってもらう。

 

「お邪魔しまーす」

「何か飲む?」

「冷たいお茶!」

「はいよー」

 

 透明なコップに7割くらい注いで持って行く。

 帆波さんはベッドの方に腰掛けていたので、僕は麦茶を渡して椅子に座った。

 

「ありがと」

「いえいえ」

 

 帆波さんの前髪には、見覚えのある水色の猫がいた。可愛い。

 うーん……これは想像以上の攻撃力だ。身に付ける物をプレゼントしたのは失敗だったかな? 付けてくれている姿を見ると、嬉しさに胸がぴぴぴと高鳴ってしまう。

 

 僕の視線に気付いたようで、帆波さんはそのヘアピンに手を伸ばす。

 

「これ、クラスの子たちが褒めてくれたよ。可愛いねって」

「それはヘアピンに(かこつ)けて帆波さんを褒めたんじゃない? 可愛いねって」

「……ふっふっふ。私はもうその程度じゃ照れたりしないよ?」

 

 既に若干頬が赤いように見えるけど、本人が照れていないと言うなら照れていないのだろう。しかしヘアピン姿にドキッとさせられた分、帆波さんにもドキドキしてもらわないと気が済まない。

 僕は彼女の隣に座ってぐいっと近付いて、息がかかるほどの距離でしっかり目と目を合わせて、逃げられる前に素早く呟く。

 

「可愛いよ。すごく可愛い」

「~~~~!」

 

 よし勝った。

 僕自身もかなりのダメージを負ったけど、なんとか勝った。

 何の戦いをしているのかさっぱり不明だけど、とにかく勝った。

 

 帆波さんが真っ赤に染まった顔を背けるのと同時に、僕も耐え切れなくなって彼女から離れる。いやー、張り切り過ぎたわ。顔あっついわ。

 

「もう……バカ」

「自分でもそう思う」

 

 お互いに紅潮が落ち着くまでしばしブレイクを挟み、本題に戻る。あ、戻るも何も始まってすらなかったわ。

 

「それで、今日はどうしたの?」

「うん。真釣くんの誕生日、思いっきり予定が入っちゃったからさ……。どうしよ?」

 

 8月1日は帆波さんとデートの予定だったのに、学校から傍迷惑なプレゼントが贈られてしまった。豪華客船で無人島に、なんてプランは組んでなかったんだけどなー。

 

「当日は無理だろうから、前倒しにするか先送りにするかだね」

「うーん、前倒しは厳しいかも。ちょっと生徒会の仕事があって」

「そっかそっか。じゃあ旅行が終わって、空いている日があればって感じかな」

「うん……ごめんね?」

 

 何に対する謝罪なのかは分からなかったけど、僕は「気にしないで」と返した。

 やがてついさっきまでの真っ赤っかな帆波さんは消え失せ、真面目な話が始まった。

 

「今回の旅行のこと、真釣くんはどう思う?」

「鼻が痛くなるほど胡散臭いね。絶対にただのご褒美旅行じゃないよ」

「だよねー。前に綾小路君と話したんだけどさ、クラスポイントが大きく動く何かがあると思うの。先生は南の島でバカンスとか言ってたけど、多分遊んでばかりもいられない2週間になるよ」

 

 気のせいかな? 4時間くらい前に似たような台詞を聞いた気がする。

 

「それで、一つ聞いておきたいんだけど」

「うん?」

「もしBクラスとDクラスが戦うことになったら、真釣くんはどうするの?」

 

 気のせいじゃないな。4時間くらい前にも同じ質問されたわ。

 もちろん答えは変わらないんだけど、綾小路君の時とは答え方を少し変えてみる。

 

「どうしても戦うって時は、僕はBクラスに勝ってほしいから、そういう風に動くつもり。もちろん帆波さんの要望があればそれを最優先にするよ」

「……真釣くんってBクラスだったっけ?」

「心は既に」

「ふふっ。なにそれ」

 

 言葉にしてみて気付いたけど、僕にはDクラスに対する帰属意識というものがほとんどないらしい。クラスメイトに対する仲間意識がどうにも薄いようだ。

 やっぱり『Aクラス移籍計画』のせいかな。Bクラスに協力するって星之宮先生に言っちゃったから、自分の所属クラスでAを目指すって案はほぼほぼ消えたんだよね。まあそんなわけで――

 

「全面協力するってことだよ」

「ありがとう。心強いよ」

 

 とはいえ僕が抱えているものを考えると、あんまり期待されても困る。

 『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』は計画や作戦の類とは相性が悪いからね。じゃあ何と相性が良いんだと聞かれると、それはそれで困っちゃうんだけど。

 

 それから10分くらい、(きた)る旅行で何が行われるのか予想を出し合った。当然答え合わせは当日にしか出来ないけれど、割と有意義な意見交換だったと思う。帆波さんの考え方もなんとなく知れたし、僕の考え方を知ってもらう機会にもなった。

 

「じゃあ私、そろそろ帰るね」

「送って行こうか? 外暗いし」

「同じ建物の3階から16階に移動するだけだよ!?」

「言われてみればそうだった」

「分かってて言ったでしょ?」

「あはは。バレたか」

「真釣くん、そういう定番の台詞大好きだもんねー」

「まあね」

「ふふふ。じゃあ、またね。おやすみ」

「うん、おやすみ」

 

 ドアが閉まったのを確認して部屋に戻る。読書の続きでもしようかと考えていると、

 

 ピンポーン。

 

 帆波さんが忘れ物でもしたのかな?

 ドアを開けるとそこには――

 

「お前かよ」

「なんだよその冷たい歓迎は……」

 

 須藤君だった。そういえば勉強会(食後の部)があるんだった。帆波さんと色々話してるうちに、彼のことはすっかり忘れていた。すまんな。

 須藤君は何故か廊下の方にちらちらと視線を飛ばしながら、何か半信半疑といった様子で口を開いた。

 

「なあ緒祈、さっきお前の部屋からめっちゃ胸のデカい女子が――」

「は? いやらしい目で見てんじゃねーよ。お前のその目ん玉、先割れスプーンで(えぐ)り取るぞ」

「――ま、待て! そういうつもりじゃない! 話せば分かる!」

「IQが30以上離れてると会話が成立しねーんだよ」

 

 眼球を抉り取るにはカニスプーンの方が適しているだろうけど、持ってないんだよなあ。こんなことになるなら買っておけば良かったと後悔しつつ台所へ向かい、細長い引き出しから先割れスプーンを取り出す。

 それをスコップのように握って振り返ると――須藤君の背中と後頭部が見えた。僕に背を向けているのではない。腰を90度に折り、深々と頭を下げていた。

 

「すまん。俺が悪かった」

「……」

「ごめんなさい」

「……」

 

 予想外にド直球で謝られたので、須藤君のこんな姿は初めて見たので、僕は冷静さを取り戻す。

 ちょっとイラッとしちゃっただけで眼球を抉り取るのは流石にやり過ぎだね。反省反省ごめんなさーい。気分を害されたってだけで実害は無いんだから、口頭注意で済ませてあげなきゃ。

 

「ねえ須藤君。例えば僕が『堀北さんって胸デカいよねー』とか言ったら、ムカつかない?」

「……ムカつく」

「そういうことだよ。さっきみたいな表現は僕の前では二度としないでね。冗談だろうが何だろうが不愉快だ」

「あ、ああ。分かった。反省してる」

「そう。ならいいんだ」

 

 僕は先割れスプーンを引き出しに戻し、ずっと頭を下げたままの須藤君の横を通り抜ける。僕より10センチ以上背の高い彼をこうして見下ろす機会は中々得られないものだけど、今日のところはもう十分だ。

 

「いつまで直角を作ってるんだい? 勉強するよ」

「……お、おう」

 

 須藤君を椅子に座らせて、夕食前にやった模擬テストの解説を行っていく。しかしどうにも集中できていない様子だったので、勉強は一旦止めて駄弁ることにした。僕としても、彼に聞きたいことがあったから。

 

「須藤君さあ、なんでそんなに僕に怯えてるの?」

「スプーンで目ん玉抉るとか本気で言う奴が怖くないわけないだろ」

「僕がその気になったところで、君なら余裕で返り討ちにできるでしょ?」

 

 僕がスプーンではなくナイフや包丁を手に挑んだとしても、多分あっさりと制圧される。赤子の手を捻るように捩じ伏せられるだろう。それなのに、何をそんなに怯えているのか。

 

「そういう問題じゃねえんだよ。『本気』ってとこが、『その気になる』ってとこが怖いんだよ」

「……ふーん」

 

 よく分からないな。怒るときは誰だって本気だろう? 彼の先生役をしている身としては、侮られるより怯えられる方がまだいいけど。

 

「じゃあさっきのストレートな謝罪は? 君のことをそこまで深く知らない僕でも、あれが君らしくない行動だってことは分かるよ」

「あ、あれは……」

 

 言い淀む姿からなんとなく察した。おそらく誰かの入れ知恵なのだろう。そしてそんなことをしそうなのは――

 

「綾小路君?」

「お、おう。よく分かったな」

「まあね。彼は僕のことなんて言ってた? 怒らないから教えてよ」

 

 絶対怒る人の定番の台詞をうっかり言ってしまったけど、須藤君は正直に答えてくれた。

 

「『緒祈は人畜無害そうに見えて、怒る理由があれば簡単にブチ切れる怖い奴だ。ただ万が一怒らせてしまったとしても、許す理由があれば案外あっさり許してくれる。だから下手な言い訳はせずに、真正面からしっかりと謝罪するのがベストだ』みたいなことを言ってたぞ」

「ふーん……」

 

 綾小路君は僕の取扱説明書でも持っているのだろうか? それなら是非僕にも一冊分けてほしいものだ。

 

 ……いやちょっと待てよ?

 『怒る理由があればブチ切れる』のも『許す理由があれば許す』のも、言っていることは当たり前だよな。『下手な言い訳より謝罪』というのもやっぱり当たり前だ。

 まるで僕が変わり者でその対処法を授けたみたいな印象だけど、よく聞けば誰にだって当てはまる普通の話じゃないか。危ない危ない、騙されるとこだった。彼には占い師の才能があるね。

 

「なあ、俺からも聞いていいか?」

「なにかな?」

「さっきのってBクラスの一之瀬だよな?」

「そうだね」

「まさか……付き合ってるのか?」

 

 『まさか』ってなんだよ。帆波さんに僕は似合わないってか? 釣り合わないってか? うるせえよ。

 男女が会ってりゃなんでも恋愛に結びつける鬱陶しい恋愛脳に呆れながら、僕はため息交じりに答える。

 

「友達だよ」

 

 ――今のところは、ね。

 

 

 

 067

 

 

 

 期末テストは試験当日も結果発表も、拍子抜けするほどあっさりと、これといった想定外も無く終了した。赤点ラインの下に名前を書かれた者はおらず、誰一人欠けることなく夏休みを迎えることになった。

 

 須藤君に関しては勉強会の段階で順調に行きすぎていて本番に何かあるんじゃないかと心配していたんだけど、これは杞憂に終わった。

 『須藤君がそう簡単に赤点を回避できるとは思えない。()()()()()余裕で回避した』ってとこかな? それともごく普通に何事もなかっただけか。

 

 なんであれ堀北さんの髪に触れる条件の全科目50点越えこそ達成できなかったものの、『クラスのお荷物』と言われるような成績ではなかった。先生役を務めた僕としては嬉しく思う。

 

「一体どんな魔法を使ったのかしら?」

「僕はサポートをしただけで、あの点数を取ったのは須藤君自身の実力だよ。まあ、若干魔法めいた実力ではあったけどね」

「魔法めいた実力?」

「彼の脳はね、大好きなバスケが絡むと普段の何倍もパフォーマンスが良くなるんだよ」

「……それだけであれだけの点数を取れるものかしら?」

「現実を見るに取れるみたいだね。もちろん、僕のサポートがあってこそだけど」

 

 須藤君は8科目中7科目で50点を越えた。世界史だけは惜しくも48点だったけど、前回赤点だった英語はなんと平均点をも超えていた。

 結果発表の時、皆びっくりしてたなあ。中でも今回最下位だった池君にはショックが大きかったようで、須藤君に詰め寄って「この裏切り者ー!」と叫んでいた。意味分かんない。

 

 ちなみ僕の合計点数は堀北さんと一緒で、クラス内で一位タイの787点だった。同点、つまり引き分けである。別に勝負をしていたわけじゃないんだけど、ひょっとすると『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』が働いたのかもしれない。あるいはただの偶然かも。

 

 夏休み前最後のホームルームでは、例の旅行に向けた宿泊部屋のグループ分けが行われた。これといった希望もなかったので流れに身を任せていると、一度も話したことのない三人と同じ班になった。よろしくお願いしまーす。

 

 とまあそんな感じで夏休みへのホップステップも済ませつつ、一学期は無事終了した。

 いきなり10万ポイントも支給されたあの入学初日から色々なことがあったけれど、そんなに悪くない4か月だったと思う。友達も出来たし、自分のことも知れたし。

 

 もし仮に僕を主役にひとつ作品を書くとすれば、それはきっと……とても退屈な物語になるだろう。

 

 ちょっと変わった性質を持っているだけの少年が、ちょっと変わったシステムがあるだけの学校で、ちょっとしたトラブルを乗り越えながら、大きな挫折も大した絶望も無く、なんだかんだ幸せな日常を、適当に淡々と生きるだけの――本当につまらない物語。

 

 そんな優しく温かい『退屈(平和)』が、これからもずっと続いて欲しい。

 

 心からそう思う。

 

 心の底から、そう祈る。

 

 

 

<続>

 

 

 

 




ここまで読んでいただきありがとうございます。これにて第2.5巻部分、本編は完結です。

感想・評価・お気に入り登録いただければ大変嬉しく思います。

次話はちょっとした幕間になります。


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ABCD 自問自答

 A-1 坂柳有栖

 

 ――私と緒祈真釣くんはどのような関係でしょう?

 赤の他人ですね。

 

 ――私は緒祈真釣くんをどう思っていますか?

 どうと言われても、一之瀬さんと仲良くしていらっしゃるDクラスの男子という情報しかありませんからね。今のところは、どうとも。

 

 ――私が緒祈真釣くんに望むことは?

 赤の他人相手に何を望むもありませんけど……もし私の敵になるというなら、その時は是非とも(たの)しませてほしいですね。Dクラスの方にそこまで期待するのは酷でしょうけど。

 

 

 

 B-1 一之瀬帆波

 

 ――私と真釣くんの関係は?

 大事な友達だよっ。

 

 ――真釣くんってどんな人?

 頭が良くて、優しくて、運動は苦手で、長い髪が大好きなちょっと変わってる人。

 

 ――私は真釣くんのことをどう思ってるかな?

 友達として好きだけど……え? 恋愛感情ってこと? うーん……まあ、千尋ちゃんが事ある毎に推してくるから、意識するなって方が無理な話だよね。私の誕生日以来、真釣くん本人もぐいぐい来るし……。にゃははー、参っちゃうねー。

 

 ――もし告白されたら?

 それは……それは無理だよ。自分の過去を打ち明けることが出来ない今の私には、本当の自分を知られる覚悟が出来ていない私には……誰かと付き合う資格なんてないよ。

 

 ――私が真釣くんに望むことは?

 これからも仲良くしてほしいな。友達として、共にAクラスを目指す仲間として。

 

 

 

 B-2 神崎隆二

 

 ――俺と真釣との関係は?

 友人だな。

 

 ――緒祈真釣はどんな人間だ?

 知力はあるが体力はない、長い髪が大好きなちょっと変わった男だ。

 

 ――俺は真釣のことをどう思っている?

 中学時代の話には驚かされたが、実際に接している限りではあまり怖いという印象はないな。そういえば最近雰囲気が変わって、なんだか明るくなった気がする。前が暗かったというわけでもないけどな。

 

 ――俺が真釣に望むことは?

 これからも仲良くしてほしいと思う。敵に回ると、何をされるか分かったものではないからな。

 

 

 

 B-3 白波千尋

 

 ――私と真釣くんはどんな関係?

 親友以上、血縁未満……っていうのは流石にちょっと言い過ぎかな。でも、大体そんな感じ。

 

 ――真釣くんってどんな人?

 とにかく身内に甘い人。私が嫌がらせを受けてるって相談したら、わざわざ黒幕の龍園くんに会って()()したらしいからね。嬉しいけど、無茶だけはしないでほしいな。

 

 ――私は真釣くんのことをどう思ってる?

 本人にも言ったけど、好きだよ。友達としてね。恋愛感情はないけど、もし私が男子を好きになれる人間だったら確実に惚れてるだろうね。まあ、どこにって聞かれると困るけど。

 

 ――真釣くんに望むことは?

 早く帆波ちゃんと付き合ってよ。この前のデートの話聞いたけどさあ……手くらい繋ぎなよ! なにが「それは流石に恥ずかしい」だよ! このヘタレ野郎!

 

 

 

 C-1 伊吹澪

 

 ――私と緒祈真釣の関係は?

 無関係ね。

 

 ――緒祈真釣ってどんな人?

 Dクラスの癖にBクラスと仲良くしてる女装趣味の変人。

 

 ――緒祈真釣のことをどう思う?

 別に何とも思わないけど、強いて挙げるなら龍園に目を付けられてて可哀想ってとこかな。

 

 ――緒祈真釣に望むことは?

 別に。

 

 

 

 C-2 龍園翔

 

 ――俺にとって緒祈真釣は?

 鈴音(メインディッシュ)をより楽しむための前菜ってとこだな。

 

 ――緒祈真釣はどういう人間だ?

 女装趣味の変人だ。どうやらBクラスの一之瀬か白波って奴に惚れているらしいが、分かりやす過ぎる弱点だな。

 

 ――緒祈真釣をどう思う?

 俺の計画を邪魔しやがった不愉快な野郎だが、調べてみるとそこまで大した男でもねえな。ちょっと頭が回るってだけで調子に乗ってるアホ猿だ。

 

 ――俺が緒祈真釣に望むことは?

 俺は過程も楽しむタイプなんだ。そう簡単に潰されてくれるなよ?

 

 

 D-1 綾小路清隆

 

 ――オレと緒祈の関係は?

 協力関係だ。

 

 ――緒祈真釣はどんな人間だ?

 頭は良いけど運動は全然ダメ。手先は器用で人付き合いもオレよりずっと器用。長い髪が大好物で、一之瀬のことになるとキレやすい。

 ただ、オレがこの学校で一番話している相手はおそらく緒祈なんだが、それでもあいつの軸になっている思想や主義が何なのか、それは未だによく分からない。

 

 ――緒祈のことをどう思う?

 怖いな。あいつには何をしでかすか分からない怖さがある。須藤に聞いた話だと、スプーンで眼球を抉ろうとしたらしいからな。狂人じゃねーか。

 

 ――オレが緒祈に望むことは?

 今度『黒山羊の卵』を貸してくれ。オレも読みたいんだが、買えるほどポイントに余裕が無いんだ。

 

 

 

 D-2 堀北鈴音

 

 ――私と緒祈くんとの関係は?

 クラスメイトね。

 

 ――緒祈くんはどんな人?

 長髪好きの変態なのだけれど、運動以外は不愉快なほどに優秀ね。先日の期末テストでも、私では須藤くんにあんな点数を取らせることは出来ないもの。

 

 ――私は緒祈くんのことをどう思っているかしら?

 クラスから一歩引いている感じが不愉快ね。綾小路くんと同じで十分に高い能力を有しているのに、なぜかそれをクラスの為に発揮しようとしない。かと言って綾小路くんのように「目立つのが嫌だ」というわけでもなさそうだし。

 綾小路くんは「Aクラスを目指すにあたっては、緒祈は戦力にカウントしない方が良い」と言っていたわね。私よりずっと緒祈くんのことを理解しているであろう彼がそう言うのなら、きっとそうなのでしょう。説得は諦めて心変わりを待つしかないようね。

 

 ――私が緒祈くんに望むことは?

 須藤くんの手綱を握っておいてくれないかしら? Aクラスを目指すには、彼の短絡的な行動は足枷にしかならないもの。……ふふっ。『足』枷になるから『手』綱を握れと言うのもおかしな話ね。

 

 

 

 D-3 緒祈真釣

 

 

 

「へっきしゅん!」

 

 なんの前触れも無く唐突に、くしゃみが出た。

 かなり大きなくしゃみだったけど、幸いにも鼻水が一緒に飛び出すという惨事には至らなかった。自室でならまだしも人目のある場所でそんな事態になっていたら、僕は羞恥心から3日間引き籠っただろう。

 

 いや、人目はあるけれど、この場所でならくしゃみで醜態を曝してもギリギリ許容されるのかな。

 

「風邪薬も買っておきます?」

「いえ、大丈夫です。誰かが僕の噂でもしたんでしょう」

 

 僕は今、ドラッグストアにいた。

 明日からの船旅に備えて酔い止めを買いに来たのだけれど、いざ会計を始めようという時に先程のくしゃみが出た。鼻がむず痒いわけでもないのに。

 

「鼻かみます?」

「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

 

 従業員用であろう箱ティッシュを差し出してくれる心優しい店員さんだった。

 

 会計を済ませてお店を出ようとすると、「お大事に」と言われた。

 自分を大事にするなら明日からの旅行は欠席するのが一番なんだけど、残念ながら僕には学校が頷いてくれるような正当な理由はない。

 

 ちょっと前までは「今年の夏休みは楽しくなりそうだ」って心躍ってたはずなんだけど……こんな沈鬱な気分で8月を迎えるのは初めてだ。どうしてこうなった。

 いかんなあ。暑さのせいもあってネガティブになっている。ここは無理矢理にでもポジティブに考えよう。

 

 

 船は大嫌いだし無人島での体力勝負もすごく嫌だけど、まあ、なんとかなるよね!

 

 

 ……これじゃあポジティブというよりヤケクソだな。

 

「ははっ」

 

 うん、まあ、自分のしょうもなさにではあるけれど、とりあえず笑えたので良しとするか。

 

 




これにて本当に第2.5巻部分完結です。

活動報告にあとがきを載せています。よろしければそちらも是非。


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第3巻
068-070 地獄と天国の境界線


評価・感想・お気に入り登録・誤字報告ありがとうございます。


 068

 

 

 

 ハッピバースデートゥーミー♪

 ハッピバースデートゥーミー♪

 ハッピバースデーディアぼーくー♪

 ハッピバースデートゥーミー♪

 

 本日8月1日は僕こと緒祈(おいのり)真釣(まつり)の16度目の誕生日である。

 200ccの献血が出来るようなったので、機会があればやってみようと思う。普通二輪車の免許が取れる年齢でもあるけれど、こちらは自転車にすら乗れない僕には関係のない話だ。

 

 そんなことより年に一度の誕生日だし、僕の名前の由来でも話そうか。

 

 まず真釣の『真』。これは両親の名前から取ったものだ。

 僕の父は名を成真(なるま)といい、母は昼恵(ひるえ)なんだけど旧姓は真代(さなしろ)という。つまり緒祈成真と真代昼恵に共通していた『真』の字が僕にも託されたわけだ。

 

 続いて真釣の『釣』。これは両親の出会いを表している。

 僕の父は釣りが趣味で、母と出会ったのはそれが切っ掛けだったらしい。両親の馴れ初めにそこまで興味がなかったので聞かされた話はよく覚えてないけれど、とにかく『釣り』が大事な役割を担ったのだとか。それで僕の名前にも『釣』の字が入ったわけだ。

 

 そんな感じで名付けられた真釣幼児は小学校に入学する少し前、父の趣味に付き合わされて船で海に出たことがある。後で聞いた話によると、大物を釣り上げる父の雄姿を見せたかったそうだ。

 で、僕は酔った。初めての船で酷い荒波に揺られてしまって、幼き日の僕は滅茶苦茶気分が悪くなった。はっきりとした記憶はないけれど、きっと堪えきれずに吐いたことだろう。

 

 それ以来、僕は船に乗るとすぐに酔ってしまう体になった。船が波に揺られると、ではない。『船に乗っている』という意識だけで、たとえそれが港に停泊している船であっても酔ってしまうのだ。

 波が穏やかとか関係ない。船の大きさも意味がない。とにかく船がダメなのだ。あの日のことを体が思い出して、気分が悪くなってしまうのだ。心因性の船酔いってとこかな。

 

 さてさて。そんな僕が今どこにいるかというと――船の上である。

 

 もちろん自分の体質も今日の予定も分かっていたので、昨日のうちに酔い止めの薬を買っておいた。万端の準備をしておいた。しかしなんと嘆かわしい事だろうか、僕はそれを持って来るのを忘れてしまった。

 

「死ぬ」

「死なない死なない♪」

 

 その結果Bクラスの担任兼保健医である星之宮先生の診断を受けることになった。初めて見る白衣姿だった。こう言っちゃなんだけど、コスプレ感が強かった。

 

 先生を呼んだのは僕ではない。ベッドから動こうとしない顔色の悪い僕を心配してくれたルームメイトの三宅君だ。彼は今どこかに行ってしまって、他二名のルームメイトもどこかに行ってしまって、部屋には僕と先生の二人だけだった。

 ひと悶着あった間柄なので気まずくなりそうなものだけど、幸か不幸かそれ以上にとにかく気分が悪い。

 

 どの薬を処方するか決めるため、星之宮先生の問診が始まった。

 

「吐き気はある?」

「少し」

「眩暈はしてる?」

「それなりに」

「頭痛はある?」

「少し」

「昨夜は何時間寝た?」

「7時間くらい」

「一之瀬さんとは付き合ってるの?」

「いいえ」

「じゃあ好き?」

「それなりに」

「持病は何かある?」

「いいえ」

「アレルギーはある?」

「いいえ」

「おっけおっけ~。この後のことを考えると眠くなる奴は避けた方が良いし……これにしよっか」

 

 星之宮先生が選んだのは銀色のパッケージの酔い止め薬だった。そこから6錠ワンセットのPTP包装シートが一つ取り出され、僕に渡された。

 

「……あれ? 関係ない質問混じってませんでした?」

「気のせいだよ~」

 

 なんだ気のせいか。

 

 部屋に備え付けられているウォーターサーバーから水を一杯持って来てもらい、それで早速一錠飲んでおく。ウォーターサーバーが各部屋に備わっているあたり、この豪華客船の豪華レベルが窺える。

 ちなみに多くの酔い止め薬は酔った後からでもそれなりに効果を得られるけれど、本当は乗り物に乗る30分くらい前に服用するのがベストらしい。

 

 用が済んだ星之宮先生は余計な雑談をすることも無く、ささっと出て行った。僕みたいに気分の優れない生徒が他にいるのかもしれないし、何か僕には及びもつかない仕事があるのかもしれない。少なくとも生徒のように暇ということはないだろう。

 

 先生が出て行って数分後、呼んでもいないのに現れた次なる客は綾小路君だった。

 

「やあ袋小路君。元気そうで何よりだ」

「そういう緒祈には一滴の元気もないみたいだな。袋小路は一回使ったネタだぞ」

「あれ、そうだっけ? ごめんごめん。船の上だと頭が働かないんだ」

「顔が濡れたアンパンのヒーローみたいなものか」

「僕の頭は使い捨てでも詰め替え式でもないけど、概ねそんな感じだね」

 

 部屋にはベッドが4つ並列に置かれていて、僕は入り口から一番遠い窓側のベッドを使っていた。僕の体調を察したルームメイトたちが配慮してくれたんだけど、外が見えるからって酔いが抑えられるかは微妙なところだ。

 綾小路君は僕の隣、窓側から二番目のベッドに腰掛けた。先程まで星之宮先生がいた場所だ。

 

「それで、僕に何か用かな? ご覧の通り絶不調だけど」

「様子を見に来ただけだ。平田が心配していたぞ」

「……なんで平田君?」

「三宅が平田に相談、というか報告をして、それで平田が星之宮先生に声をかけたんだ。あいつ自身も見舞いに来たかったようだが、他のクラスメイトに呼ばれてな。それでオレが代わりに来たんだ」

「なるほど。わざわざ悪いね」

 

 三宅君が直接先生を呼んだのではなかったのか。勘違いしていた。

 

 それにしても我らがDクラスのリーダー平田君は大変だね。旅行中だろうがお構いなくクラスメイトに頼られちゃって。彼が他人に頼られることに喜びを感じるタイプの人間であることを祈ろう。

 いや、他人のことを心配している場合ではないんだよな。

 

「動くのもキツいのか?」

「そうだね。さっき薬を飲んだんだけど、それがどれだけ効いてくれるやら」

 

 はっきり言って今の僕は要介護者だ。壁に手を付いたり誰かの補助を受けなければ、真っ直ぐ歩くことすらままならない。これでは食事をとるにも一苦労だ。

 ルームメイトが皆出て行ったのは、部屋に残ったら僕の世話をしなくちゃいけないと思ったからじゃないかな。もちろん滅多に乗る機会のない豪華客船の中を探検したいというのもあるだろうけど。

 

 せめて船内を一人で動き回れるくらいには回復したいなあ。

 

「緒祈にこんな弱点があったとはな」

「卒業まで敷地から出ない学校って聞いていたから、3年間は船に乗らずに済むと思ってたんだけどね。こいつは大誤算だよ」

「龍園に宣戦布告みたいなことをされていたが、そんなんで大丈夫か?」

「あはは。大丈夫なわけないじゃん」

 

 龍園君に何か仕掛けられても今の僕にはなんの抵抗も出来ない。頭の回転も悪いので、対抗策や反撃の手を考えることも満足に出来ない。

 

「悪いね、協力関係を結んでから初めてのイベントだってのに」

「気にするな。ベッドの上から動かない今のお前は、舌先三寸で全てを思いのままに操る秘密組織のボスに見えないこともない」

「そっか。ありがとう」

「……そんな素直に礼を言われるような台詞ではなかったはずなんだがな」

 

 そんな感じで綾小路君と話していると、部屋の扉がコンコンとノックされた。わざわざノックするということはルームメイトではない。僕が「はーい」と返事をすると、現れたのは我らがDクラスのリーダー平田君と、我が友Bクラスのリーダー帆波さんだった。珍しいツーショットだ。

 

「体調が優れないって聞いたけど、大丈夫かい?」

「命に別条はないよ」

「災難だったねー真釣くん。今日誕生日なのに」

「日頃の行いが悪いからかな」

「へえ、誕生日だったのか。おめでとう」

「そうだったんだね緒祈君。誕生日おめでとう」

「うん。二人ともありがとう」

 

 こんなに沢山の人に祝われたのは人生で初めてじゃないかな。思えば誕生日に学校の人と会うこと自体、初めての経験だ。ちょっと感動。

 

 ちなみに帆波さんからのお祝いの言葉は船に乗る前に既に貰っている。

 千尋さんからは日付が変わった瞬間にメールが来ていた。『私が一番でしょ?』と書いてあって確かにその通りなんだけど、朝聞いた話では予約送信とのことだった。それで一番を誇られてもね……。まあ、楽しそうで何よりです。

 

 誕生日と言えばプレゼントだけど、帆波さんも千尋さんも旅行が終わったら渡してくれるとのことだった。船上で貰っても満足なリアクションが取れないと思うので、これはむしろ有り難かった。

 それから誕生日と言えばパーティーという人もいるだろうけど、今の僕にそれは喜べない。見れば分かるでしょ休ませてくださいって思う。思うのに――

 

「誕生日会とか開こうか?」

「それ本気で言ってる?」

 

 人畜無害そうな顔して中身は鬼かよ。平田君は「ごめんごめん、一応言っただけだから」と僕としてはあまり釈然としない釈明をしつつ、綾小路君の隣に座った。

 帆波さんはバランスを考えてか何も考えていないのか、僕のベッドの方に腰掛けた。

 

「こんなに弱ってる真釣くんは初めて見たよ」

「体育の授業終わりとか大体こんな感じだけどね」

「確かにな。船上スポーツテストとか開催されたら、お前死ぬんじゃないか?」

「その時は僕の亡骸は海に放り捨ててくれ。名前に『釣』の字を有する者として、死後は魚たちの餌になりたい」

「尤もらしいことを言っているようで、よくよく聞いてみると意味不明だね」

「というか緒祈、前は鳥葬がいいって言ってたよな」

 

 そういえばそんなことも言ってたっけ。よく覚えてるね。

 生きている間に沢山の生き物を食べたんだから、死んだら逆に食べてもらおうというのが僕の基本的な考え方だ。マゾっ気があるわけじゃなくて、その方がバランスが取れるというかなんというか、一単語でいうなら『おあいこ』ってやつだ。

 まあ、自分が死んだ後の世界なんてどうでもいいという考えもあるけどね。

 

 ここにいるお三方は、特に綾小路君はどんな死生観を持っているのだろうか。聞いてみようとしたところで、平田君の携帯が鳴った。さすがクラスの人気者。きっと彼の携帯は、僕の携帯より十倍も二十倍もよく鳴くのだろう。

 

「ごめん、軽井沢さんが困ってるみたいだから行ってくるよ。緒祈くん、お大事にね」

「うん。ありがとう」

「オレも退散するとしよう。またな、緒祈」

「またねー」

 

 誰に呼ばれたわけでもない綾小路君もどこかに行って、今度は帆波さんと二人きりになった。星之宮先生との二人きりより千倍も二千倍も嬉しい状況だ。

 しかし思えば平田君と同じくらい誰かにお呼ばれしそうな帆波さんだけど、ここにいていいのかな?

 

「豪華客船に乗る機会なんて滅多にないんだし、僕のことは気にせずクラスの皆と船内探検とかしてきていいんだよ?」

「それは後で行くつもり。でもその前に、千尋ちゃんからある指令を受けたのであります!」

「指令?」

「『真釣くんは真釣くんだから、帆波ちゃんの髪を触れば船酔いも回復すると思う』とのことです!」

「……へえ」

 

 それでクラスの委員長を派遣できるって……ひょっとすると千尋さんはBクラスの陰の委員長、あるいは真の委員長なのかもしれない。

 

「ということでー」

 

 僕が休むベッドの足元の方に座っていた帆波さんは、ずるずると枕の方に移動してきた。僕が手を伸ばせば届く距離になると、飲み物の差し入れでもするくらいの気軽さで「はいどーぞ」と言う。

 この警戒心ゼロ娘め、後ろから抱き着いてやろうか。

 

 ……もちろん僕にそんな度胸は無いので、大人しくその乙女色の御髪に触らせてもらう。

 

「じゃあ遠慮なく」

 

 さわさわー。

 

 そういえば本人の許可を得たうえで帆波さんの髪にこうしてしっかり触るのって、実はこれが初めてなんだよね。そういう妄想ばっかりしてたからうっかり慣れた手つきで触っちゃったけど――やっぱり本物はすごいや。

 とにかく柔らかい。さらさらでふわふわ。頭頂部から毛先まで指で()かしてみても、全然引っ掛からない。

 

「んっ……」

 

 色っぽい声を出すな。興奮するから。

 

「今日は激しくないんだね……」

「そこまで元気がないからね」

 

 だから色気を出すなっちゅーに。

 理性と戦いつつ――じゃなくて理性で本能と戦いつつ、帆波さんの髪で10分くらい遊んだ。三つ編みにしたりお団子を作ったりした。

 

「もう十分満喫したでしょ?」

「そうだね。千尋さんの目論見通り、気分も体力も大分回復したよ」

「それは良かった! じゃあ私はクラスの方に戻るから、お大事にね!」

「うん、ありがとう。またよろしくー」

 

 扉の閉まる音が聞こえて、僕は部屋に一人きり。別に寂しくはないけれど、船内の散策にでも行こうかな。二足歩行も満足にできるようになったことだし。

 

 須藤君のことをバスケが絡んだら頭が良くなる変な男だと思っていたけれど、人の髪を触って体力が回復する僕もひょっとすると同じくらい変わった人間なのかもしれない。

 ……いや、まさか。そんなことないよね?

 

 

 

 069

 

 

 

 高度育成高等学校一年生一同が貸し切っているこの豪華客船には、地上5階と地下4階、合わせて9つの階層と、一番上には屋上がある。

 1階はラウンジや宴会用のフロア、2階は会議室のような中くらいの部屋が並んだ謎のフロア、3階から5階は客室フロアで、3階は男子、4階は女子となっている。屋上にはプールやカフェが設置されている。

 地下1階から地下3階にはシアタールームや劇場、フィットネスジムといった様々な娯楽施設がある。バーやカジノのような生徒の立ち入りが禁止されている施設もある。最下層である地下4階は船の設備に関するフロアで、立ち入りは禁止されていないものの別に用事もない場所だ。

 

 船の中を色々と見て回ろうかと思ったんだけど、残念ながら今僕がいる3階からは2フロア以上動かないと豪華客船らしさが味わえない。面倒だなあと思いつつも1階まで降りてみた。

 レストランが並んでいるエリアがあったので入ってみると、そこにはラーメンやハンバーガーといったジャンクなものから、本格的な中華やフレンチや和食もあった。お寿司屋さんは回らないものだけあった。これらが全て無料とは、俄には信じられないね。

 

 お腹は空いていなかったのでレストランエリアは素通りして、もう一つ下のフロアに行ってみた。

 劇場があったのでプログラムを見てみると、次の演劇は6日後の夜だった。そういえば最初の一週間は無人島で過ごすんだった。

 

 もうちょっとあちこち見たかったんだけど、帆波さんの髪パワーが薄れてきたようで再び酔いが始まった。うーん、30分も持たないのか……。

 本格的に酔ってしまうと階段が拷問になるので、急いで部屋に戻った。急いだ所為で余計に酔った気がする。つらい。薬が効いている気が全くしない。

 

 部屋には変わらず僕以外誰もいなかった。ベッドの上で大人しく休んでいると、女の人の声で船内アナウンスが流れてきた。

 

『生徒の皆様にお知らせします。お時間がありましたら、是非デッキにお集まり下さい。まもなく島が見えて参ります。暫くの間、非常に意義ある景色をご覧頂けるでしょう』

 

 お時間はあるけどお元気がない僕は窓の向こうに視線を向ける。しかしどうやら島があるのは船の逆側のようで、いくら待っても外には水平線ばかり。地平線が現れることはなかった。意義ある景色は見られなかった。

 

 先程のアナウンスから30分くらい経った頃かな、再びアナウンスがあった。島に上陸するので、ジャージに着替えて携帯だけ持ってデッキに来いとのことだった。それを聞いてルームメイトの三人が帰って来た。

 ベッドに横になるため乗船直後からジャージ姿だった僕は、携帯を持って一足先にデッキへと向かった。壁に手を付きながらよろよろ歩いていると、僕より数分遅れて部屋を出たはずの三宅君に追いつかれた。

 

「肩貸すか?」

「あー……うん。ありがたく甘えさせてもらおうかな」

 

 具合の悪い僕を見て先生を(正確には平田君を)呼びに行ってくれたり、こうして肩を貸してくれたり、彼は随分と面倒見の良い人のようだ。それに大人しそうな見た目に反して、服の下は結構がっちりとした体つきをしている。

 

「三宅君は何か部活入ってるの?」

「ああ、弓道部だ」

「そっかー」

 

 弓道ってこんなに筋肉付くのかー。

 身の上話をちょこちょこっとしながら、デッキに着いた。ここに来て、僕はようやくこれから一週間を過ごす島の姿を捉えた。やった! 陸地だ!

 

 今すぐにでも飛び出したい気持ちを抑えてしばらく待っていると、拡声器を持った先生の声でAクラスから順に島に降りるよう言われた。その際携帯電話は没収された。それだけならまだしも、私物の持ち込みを一人一人丁寧にチェックしているので進むのが遅い。早くしてくれないかなあ。暑いんだけど。

 やがてDクラスの番になって、厳重な検査を受けた後タラップを降りた。

 

 この島で何が待ち構えているのか――そんなことはどうでもいい。

 

 地獄(船上)天国(陸上)の境界線を、ふらつく足で跨いだ。

 

 

 

 070

 

 

 

 船を降りたからってスイッチを押したみたいに体調が戻るわけではない。灼熱の砂浜で炎天に曝されては、むしろ悪化するまである。全然天国じゃないじゃん!

 

 整列した一年生全体の前に立ってAクラス担任の真嶋先生が何かの説明をしていたけれど、いまいち集中できなくて頭で理解するには至らなかった。それでも一応『特別試験』というワードは覚えた。

 全体での説明を終えて今度は茶柱先生からクラス別での何かの話があったけれど、こちらは『ポイント』と『トイレ』というワードのみ捉えた。

 その後ハイテクそうな腕時計と何かが諸々入った鞄が一人に一つずつ配られた。

 

 クラスの皆は何かをごちゃごちゃ騒いだ後、(おもむろ)に移動を開始した。なんのこっちゃよく分からないまま、僕もそれにしれっと付いて行く。

 他のクラスとは別行動のようだ。クラス対抗戦なのかな?

 

 上陸から時間が経ち、直射日光の遮られる森の中に入ったことで脳みそが活動を再開した。さーて、今はどういう状況だ? 隣を歩く鴇色の長髪少女に聞いてみる。

 

「ねえ佐倉さん、これってどこに向かってるの?」

「ええっ? ど、どこだろう……?」

 

 とりあえず歩いているだけらしかった。

 いつまで歩き続けるかも分からないので、僕はちょうど良い感じの枝を拾ってそれを杖にして歩いた。本当は船の酔いが完全に抜けるまでじっと休みたいんだけど、ここで皆とはぐれる方がリスクは大きそうだ。

 

 Dクラスの殿(しんがり)を務める僕と佐倉さんのところに、綾小路君と堀北さんが下がってきた。

 

「大丈夫か?」

「大丈夫じゃない。今すぐ学校に帰りたい」

「緒祈くん、あなた佐倉さんより体力がないのね」

「ちょっと船に酔っちゃってね」

 

 まあ、それがなくても僕の体力は佐倉さん以下だけど。

 

「堀北も船に酔ったのか? 顔色が優れないようだが」

「……気のせいよ」

「ねえ綾小路君、この特別試験とやらは何を競う試験なのかな?」

「先生の説明を聞いてなかったのか?」

「聞こえてはいた」

「……はぁ」

 

 呆れながらも教えてくれた特別試験の基本的なルールは、まとめると以下のようなものだった。

 

・一週間無人島で生活する試験である。

・各クラスに試験専用の300ポイントが支給され、これを支払うことで様々な物品が入手できる。

・試験終了時に残っていた試験専用ポイントがそのままクラスポイントとして加算される。

・体調不良によるリタイア、環境を汚染する行為、点呼時の不在、他クラスへの暴力行為などはペナルティの対象であり、試験専用ポイントがマイナスされる。

 

 これらに加えて、ボーナスポイントに関するルールもあった。まずスポットの占有についてはこんな感じだ。

 

・各クラス一人リーダーを決める。

・リーダーにはキーカードが支給され、リーダーのみがこれを用いて島の各所にあるスポットを占有できる。

・占有したスポットはそのクラスのみが使うことができ、一度の占有につきボーナスポイントを1獲得する。

・占有の権利は8時間で自動的に取り消されるが、連続して占有できる回数及び同時に占有できるスポットの数に制限はない。

・得られたボーナスポイントは暫定的なものであり、試験中の使用は出来ない。

・正当な理由なくクラスのリーダーを変更することは出来ない。

 

 そして最後にリーダー当てについてのルールだ。

 

・最終日の点呼の際、他クラスのリーダーを言い当てる権利が与えられる。

・他クラスのリーダーを当てた場合、1クラスに付き50ポイントを得る。

・他クラスのリーダーを見誤った場合、1クラスに付きマイナス50ポイントとなる。

・他クラスにリーダーを当てられた場合、1クラスに付きマイナス50ポイントとなり、さらにそれまでに貯めたボーナスポイントも全て没収される。

 

 とまあこんな感じだ。

 ちなみに一人に一つ支給された腕時計は時刻、体温、脈拍、GPS、SOSボタンなどいろいろな機能を備えており、許可なく外すと罰があるらしい。

 

「で、ルールを把握したうえで今回の試験、緒祈はどう思う?」

「面倒だなあって思う」

「そんな率直な感想は聞いてないんだよなあ……」

 

 いや、分かるよ? このクラスが採るべき方針とか、この試験の学校側の狙いとか、他のクラスはどう挑むんだろうとか、そういう話をしたいのは分かるよ?

 でも今はまだ、そこまで考えられるほどには回復してないんだよ。ルールの把握で精いっぱいなの。

 

 森に入って10分くらい経った頃かな。Dクラス一行は足を止めた。少し開けたこの場所で作戦会議をするらしい。

 僕は腰を下ろして木に背を預ける。あー疲れた。舗装されてない道は本当につらいな。

 

 平田君を中心に何やら話し合いが行われている。漏れ聞こえてくる単語から察するに、トイレを買うか買わないかで意見が分かれているらしい。さっき浜辺でも議論してたけど、まだ決着していなかったのか。買えばいいのに。

 しばらくして仮設トイレを買うという結論が出たようで、今度はベースキャンプを決めるための探索をしようという話になった。これ以上歩きたくない僕としては「ここでいいじゃん」と思うんだけど、そうもいかないらしい。志願者12名が4つのグループに分かれて、森の中に消えて行った。

 

「……うぅ」

 

 あ、やばい。

 ただでさえ体力の無い僕が、船酔いによる不調がまだ残った状態で、慣れない森の中をそれなりの時間歩いてしまったのだ。油断すると吐きそうだ。あー、これやばい。

 そんな僕のピンチを見抜いたのは、クラスのリーダー平田君だった。おおっと、リーダーと言ってしまうと紛らわしいね。クラスのイケメン平田君だった。

 

「緒祈君、大丈夫かい? 顔色悪いよ?」

「リタイアするほどじゃないけど、あまり大丈夫ではないね。簡易トイレに使う袋となんちゃらシートを貰ってもいいかな? 一度吐いたら多少は楽になると思うんだ」

「分かった。取って来るよ」

 

 彼はクラス全体をよく見ているよね。気配りが出来て気遣いも出来る。将来は保育士さんとか似合うんじゃないかな。

 

 戻ってきた平田君から青いビニール袋と吸水ポリマーシートを受け取る。汚染行為は減点らしいからね。

 嘔吐の音や臭いが届かないよう皆から離れ、木々に囲まれた大自然の中えづく。

 

 

「――(自主規制)――!」

 

 

 あー、気持ち悪っ。でもちょっと体が軽くなった気がする。物理的にも気分的にも。

 さて皆の所に戻ろうかと思ったところで、僕の足は止まってしまった。

 

 ……あれ? どっちから来たっけ?

 

 僕に踏まれて折れた草や枝が帰り道を示してくれるはずなんだけど……どこだ? さっぱり見付からんぞ? やっぱりこういうのは知識じゃなくて経験がものを言うのかな。もやしっ子の僕には厳しい世界だ。

 うーん、足元から手掛かりを見付けるのは一旦諦めよう。

 

 ひょっとすると皆の姿が見えるかもしれないと思い、今度は背伸びをして辺りを見渡して見る。……うむ、100パーセント自然だ。Natureだ。

 ではこれならどうだ。僕はその場でピョンピョンとジャンプしながら周囲に目を向ける。……やべっ、気分悪くなってきた。

 

「あっ」

 

 着地に失敗し、ぐらりと体が傾いた。体勢を立て直そうとするもそれが変に作用して、藪の中にダイブしてしまう。

 

「わぶっ」

 

 その藪は根性のない藪だったようで、僕の勢いを止めてはくれなかった。そしてなんてこったい藪の向こうは急な下り坂だった。緩やかな崖と言ってもいい。

 

「あらら」

 

 誕生日が命日になるかもしれない。

 そんなことを不思議と冷静に考えながら、僕は無様に転がり落ちた。

 

 

 

 



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071-072 初手

 071

 

 

 

 転げ落ちる。

 草木を押しのけ転げ落ちる。

 天地は何度もひっくり返り、ガサガサと、バキバキと、騒々しく転げ落ちる。

 

「うっ」

 

 間断なく全身を襲っていた衝撃がぴたりと止んだ。位置エネルギーを使い果たして、運動エネルギーも無くなって、僕は仰向けに転がった。

 ゆっくりと(まぶた)を上げると、そこには森の木々が青々と茂っていた。視界を埋め尽くすように広がった枝と葉の向こうには、夏の空が白く輝いている。

 

 絵になる光景ではあるけれど、それが傷を癒すということはない。転がりながらあちこちにぶつかって、体中がとにかく痛かった。

 動く気にもなれず天を見上げたまま(ぼう)っとしていると、何者かの足音が地面から伝わってきた。それは段々と大きくなって、僕のすぐそばに来て止まった。

 

「俺が何をするまでもなくボロボロじゃねえか」

 

 上から降ってきたその声の主は龍園君だった。仰向けになって見上げている所為か、いつもよりひと回り大きく見える龍園君だった。

 

「やあ龍園君。夏休み満喫してる?」

「呑気なもんだな女装野郎。俺を相手に一切ビビらねえその胆力だけは認めてやるよ」

「あはは。君、何か勘違いしてない?」

 

 僕は体を半回転させてうつ伏せになり、そこから地面を手で押して体を起こす。ジャージに付着した土や葉っぱを払いつつ、彼に僕のスタンスを伝えておく。

 

「僕は君と戦おうとは思ってないよ。そこまで好戦的な人間じゃない。ただ、君が牙を向けてくるなら、こちらもそれに応えるってだけ」

「おいおい、つまんねえこと言ってんじゃねえよ。いいのか? お前が相手をしねえってんなら、俺はBクラスを狙うぜ?」

「へえ?」

「お前の大好きな一之瀬を潰してやるぜ?」

「あっははー。悪いけどその挑発には乗ってあげないよー」

 

 実は先日、須藤君の眼球を抉り取ろうとした一件が綾小路君にバレた。それで、彼からお叱りを受けてしまった。「一之瀬のことになると簡単に沸点が下がるけど、それは直した方が良い」とのことだった。至極ご尤もな忠言である。

 蛇足を一つ言わせてもらうなら、帆波さんより千尋さんを侮辱された方が僕の沸点降下率は高い。幸いにもその機会は未だ訪れていないけれど、多分そうなると思う。

 

 というわけで綾小路君による挑発対策講座を受講した。相手には龍園君を想定し、様々なシチュエーションや煽り文句を想定し、それらをどう処理すればいいか教えてもらった。

 実践訓練では龍園君役をしてくれた綾小路君に何度か爪を立てつつ、その都度返り討ちに遭いながらメンタルを鍛え直した。

 だから今の僕に挑発の類は一切通用しない。何を言われたって涼しい顔で受け流して――

 

「じゃあこう言えばどうだ? お前がやる気にならねえなら、お前の目の前で一之瀬を犯「死ね」

 

 やっぱ無理♪

 僕は右手でチョキを作って、ぴんと伸ばした人差し指と中指で龍園君の両目を突く。えいっ。

 

「おせーよ」

 

 あらら。

 残念ながら寸前で手首を掴まれてしまった。それならと左手を同じように伸ばしたのだけれど、そちらも掴まれてしまった。両の手首を掴まれて、僕は万歳しているような姿勢をとらされる。

 それならばと捕まれている手首を支点に上半身を突き出し、龍園君の喉元を噛み千切らんとする。しかしこれは後ろに反って避けられてしまった。

 

「ははっ! 急所を狙うのに躊躇がねえなあ!」

「偉そうに人間の言葉使ってんじゃねえよゴキブリが」

「はっはっは! そうだ。それでいい。それでこそ遊びがいがある」

 

 そう言って彼は僕の腹に蹴りを入れた。踏ん張る力のない僕は後ろに吹き飛んで、木にぶつかって崩れ落ちた。

 

「その調子で一週間頼んだぜ」

 

 この場はこれでお終いだと言うように、彼はこちらに背を向けて歩き出した。僕の気分を害しておきながら、傷一つない状態で去ろうとした。

 

 おいおいそりゃないよ。

 こんなんじゃ全然終れない。

 

「あはっ、あはははは」

「……何笑ってんだよ。マゾヒストか?」

「とっても優しいんだね龍園君。死なないように、傷付かないように手加減してくれて。いや、この場合は足加減かな?」

 

 僕は最後の力を絞り出して立ち上がり、ふらふらしながら彼に近付く。

 

「だから――()()()()()()()()

 

 両手を広げてムササビのように飛びかかる。

 うりゃー。

 

「もう一発喰らっとくか?」

「あうっ」

 

 大きな手にがしっと頭を掴まれた。

 僕の体は宙ぶらりんりん。

 

 でも慌てない慌てない。

 彼の右手を、僕は両手でがっちり握りこむ。

 

「あはは」

 

 イメージする。

 それは、自分の中を小さな魚が群を成して泳ぎ回っているイメージ。その魚たちが両腕を駆け上って、僕の手のひらから、その先の龍園君の腕へ、すいすいと流れ込んでいく。

 

 すいすいすいすい。

 泳ぐ泳ぐ。

 

 

「僕の『(ひずみ)』を分けてあげる」

「――っ!」

 

 

 龍園君は何かを感じ取ったように慌てて僕の頭から手を離した。支えが無くなった僕はその場にべったり倒れ込む。

 

「いてて……。おやおや? どうしたんだい龍園君。そんな『得体の知れないものを体に流し込まれて気分が悪い』みたいな顔をして」

「……てめえ、何しやがった」

「あはは。僕は何もしてないよ」

 

 流石と言うべきか、龍園君は自分が『何か』をされたことに勘付いたようだ。しかし彼にとっては残念ながら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「一つ予告をしておこう。君がこの特別試験で何を企んでいるのか知らないけど、きっとそれは手抜かりなく抜け目のない計画なんだろうね――()()()()()失敗するよ。絶対にね」

「はあ?」

「忠告も一つしておこう。今後(にわか)には理解できない事態が君を襲うかもしれないから、その時は是非ともゴキブリ並の生命力を発揮して凌いでみてくれ。まあ、君が死んだところで僕は困らないけど」

「……けっ。一之瀬とお近付きになれて浮かれているちょっと賢いだけの猿かと思っていたが、まさか人の皮を被った(ぬえ)だったとはな。完全に見誤ったぜ」

 

 鵺――頭は猿、胴は狸、手足は虎、尻尾は蛇、鳴き声は虎鶫(とらつぐみ)という怪獣、あるいは妖怪。転じて正体不明の代名詞として使われることも。

 

「あはは。僕のことをそんなカッコよく表現してくれたのは君が初めてだよ。ありがとう」

「褒めてねえよ」

「そう身構えることはないさ。僕はただの病人だからね。でもまあ僕が抱える『(ウイルス)』は、健常者の君にはちょっと()()()()()()だろうけど」

「……ほざいてろ。一週間後に吠え面をかくのはお前だ」

 

 龍園君はそんな宣戦布告を――いや、勝利宣言を残して去って行った。木々の向こうに消えた彼の背中に、僕は呟く。

 

「負け犬の遠吠えにしか聞こえないや」

 

 なんて強気に言ってみたところで、情けないことに体力が底を突いた。僕はこの場で少し眠ることにした。

 

 空腹が最高の調味料になるように、疲労は最高の子守歌になるようだ。

 坂を転がり落ちるよりずっと静かに穏やかに、僕は眠りの谷に落ちていった。

 

 

 

 (071)

 

 

 

 あはははは! 最高だぜ『僕』!

 まさかこんなにも早く『歪』の押し付けを出来るようになるなんて!

 

「……久し振りだね『ボク』」

 

 ああ、久し振りだね『僕』。幸せそうで何よりだよ。

 

「あのさあ……龍園君と一幕終えた後の疲れてるタイミングに現れるの、やめてくれない?」

 

 ごめんごめん、それについては大変申し訳なく思っているよ。でも君と会うタイミングは僕が決められるわけじゃないからね。諦めてくれ。

 

 いやー、それにしても見事なものだ。もう二つ目のスイッチを手に入れたんだね。

 

「スイッチ……? あー、あれね。無意識というか、体が勝手に動いただけだよ。君が言ってた『押し付け』って奴でしょ? 実際やってみた感じだと『投与』とか『注入』って感じだったけど」

 

 そうだね。そうかもしれない。まあ、名前なんてどうだっていいんだよ。

 でも、本当にあれで良かったのかい? 『歪』を与えたことで龍園くんには『何か』が起こるようになったけど、それがマイナスに働いてくれるとは限らないぜ?

 

「そうでもないよ。彼はしっかり計画を立てる人間だ。それも、僕とは違って運が絡む要素は極力排除するタイプだと思う。であれば、詳細は不明だけど彼の作戦が完璧であれば完璧であるほど、『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』が作用する余地はマイナス方向に限定される」

 

 ふむ……なるほどね。

 そう言われれば確かにそうなんだけど、そもそも『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』が龍園君の何に作用するかは確定してないんだよ? 彼が企てた作戦に対してかもしれないし、もっと別の何かかもしれないし。

 これが普通の学校だったら転校という形での発動が経験上予測できるんだけど、その制度がないからね。じゃあ退学かって言われるとそんな単純な話でもないし。そんな分かりやすいものじゃないし。

 

「それを調べるための今回だよ。龍園君であれば、最悪死んでもらっても構わない」

 

 わあ怖い。

 まったくもう、死ねとか殺すとか軽々しく口にするなよなー。白波ちゃんや一之瀬ちゃんに嫌われちゃうぜ?

 

「あー……それは大問題だね。今後は控えるようにするよ」

 

 これは『僕』に限ったことじゃないけどさ、みんな感覚が麻痺してるんだよね。

 普通の学生は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。平和で平穏な学校生活を送っている人間は誰かを貶めてやろうとか、陥れてやろうとか、そんなこと考えないんだよ。

 

「言われてみれば……でも、それはこの学校にいる以上どうしようもないんじゃないかな」

 

 そうだね。どうしようもないね。

 それでも一応釘を刺しておこうと思ってね。『僕』ってば(たま)に自分のことを極々普通の一般人だと思っているだろう? そいつは大きな勘違いだよ。

 

「ふうん?」

 

 『僕』みたいな奇天烈な病気持ちが普通になんかなれるわけないだろう? 友達ができようが仲間ができようが、『僕』はずっと『僕』のまま。異様で異質な病人さ。

 

「……酷いことを言ってくれる」

 

 そう不貞腐れるなよ。これでもボクの台詞は当初の予定から大幅にカットしてるんだから。

 

「というと?」

 

 本当は『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』について色々と教えてあげるつもりだったんだけど、君の方で勝手に解決しちゃったからね。

 いやー、感心したよ。昔の『僕』は5年以上悩んで、もがいて、足掻いて、結局逃げることしかできなかったというのに、今の『僕』ときたらあっさり受け入れてるんだもん。

 

「昔の『僕』には千尋さんみたいな友達がいなかったんだろうね」

 

 そうだね。自分のことにしか興味が無かったからね。というか、自分のことで精いっぱいだったから。

 

「折角だから一つ聞いてもいいかな? 改竄された記憶については大体整理が出来たんだけど、一つだけ分からなくて」

 

 村衣(むらぎぬ)くんの一件だね。

 

「うん。『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』を使わずにクラスメイトを転校させたあの一件だけは、当時の『僕』が何を目的にしていたのか、何を考えていたのかさっぱり分からない」

 

 改竄されている今の記憶だと「自分が抱える異常性の正体を調べるため」ってことになってるんだったね。で、本当はどういうつもりだったのか知りたいと。

 ……ふふふ。そんな難しく考えることじゃないよ。あれは――ただのお遊びだ。

 

「お遊び?」

 

 そう、お遊び。これといった目的もなく、ただなんとなくやってみただけ。

 

「なにそれ怖い。龍園君かよ」

 

 そこまで好戦的だったわけじゃないよ。たださっきも言ったけど、本当に自分のことにしか興味が無かったからね。クラスメイトの人生が(ゆが)もうが(ひず)もうが、『僕』は本当にどうでもよかった。他人事が文字通り他人事だった。

 そういう点でも成長したよね。友達を侮辱されて怒るだなんて、昔の『僕』からは想像もできないや。

 

「そうなのかな……まあ、そうかもしれないね」

 

 その調子で人間味を磨いてくれ。今でもそれなりに幸せそうだけど、『僕』はもっと幸せになれるはずだぜ。

 

「おやおや? 君がそんなことを言い出すということは、そろそろお別れの時間かな?」

 

 ああ。それも恐らくは最後のお別れだ。

 

 そもそもボクは『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』を切り離すために一緒に切り離された記憶だからね。まだ完全ではないといえ君に『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』がほとんど戻っている以上、ボクがいる意味はあまり無い。

 『僕』に吸収されるのか勝手に消滅するのかは分からないけれど、どちらにせよこうして会うことはもう二度とないだろうね。

 

「そっか。それは寂しいね」

 

 あはは。そんな嘘は通じないよ。君はむしろ『過去の話はもう十分だから()()()()()()()()()()()()()()()』って思ってるでしょ?

 

「あっははー。バレた?」

 

 そりゃあ『僕』のことだからね。陰ながらずっと見てたから、それくらい分かるよ。

 ったく、前回会った時とはまるで別人じゃないか。迷いも惑いも消えてやがる。

 

 ……なんて話しているうちに、そろそろ時間みたいだ。

 

 それじゃあ、さようなら。元気でね。

 

過去はもういい(ありがとう)早く消えろ(ばいばい)

 

 

 

 072

 

 

 

 僕の体は一定のリズムで上下に振動していた。振動に合わせて、森の地面覆う草や枝が踏み折られる音が聞こえた。

 薄らと目を開けると、いつもより少し高い視点だった。視線を少し横に振ると、赤い短髪が見えた。

 

「お、目が覚めたか」

 

 聞き覚えのある野太い声。

 僕は須藤君におんぶされていた。

 

 視線を上げてみると、最後に見たときより数段暗い空がある。あと30分もすれば完全な暗闇になりそうだ――今が午後であるならば。

 

「須藤君、今日はこの島に来て何日目かな?」

「は? 一日目に決まってんだろ」

「……そう」

 

 よかった。眠っている間に日付が変わっているということは無かったようだ。それでまだ日が沈みきっていないということは、午後8時の点呼もまだのはず。

 冷静に状況を分析していると、須藤君に愚痴を言われた。

 

「お前、あんなところで何してたんだよ。大人しくベースキャンプにいろよ。高円寺に続いて緒祈までリタイアしたのかと思ってすっげー焦ったんだぞ?」

「悪いね。ちょっと色々あったんだよ」

 

 どうやら僕に色々あった間に、クラスの方でも色々あったみたいだ。

 ベースキャンプが見つかったという朗報。そして高円寺君がリタイアしたという悲報。あと、須藤君が僕を見付けたというのはクラスにとっても僕にとっても朗報だ。

 

「それにしても緒祈は軽いな。ちゃんとメシ食ってるのか?」

「脂肪も筋肉も付かない体質なんだよ」

「少しは鍛えた方がいいんじゃねーのか?」

「脂肪も筋肉も付かない体質なんだよ」

 

 身のない雑談をしながら森を進んでいくと、やがて大勢の話し声が聞こえてきた。水が流れる音も聞こえてきた。

 そして木々の隙間から見えてきたのは、河原に広がるDクラスのベースキャンプだった。幅10メートルはありそうな立派な川の横に、不自然に開けたスペースがあった。今はテントが4張置かれていて、皆が忙しなく動いている。

 

「おい平田! 緒祈見付けて来たぞ!」

 

 背負われている姿はあまり人に見られたいものではない。僕はそそくさと須藤君の背から降りた。ただ体力はあまり回復していなくて、そのままその場に座り込んでしまった。

 須藤君に呼ばれてやって来た平田君は、手に何かを持っていた。

 

「心配したよ緒祈くん。大丈夫だったかい?」

「悪いね。迷惑かけたみたいで」

「気にしなくていいよ。なにはともあれ無事でよかった。お腹空いてるだろう? ほら、これ食べてくれ」

 

 差し出されたのは黄色くて丸い柑橘系の果物だった。

 そういえば半日くらい何も食べていなかったな。思ったより柔らかい皮をむいて、実にかぶりつく。うん。酸味が強いけど、疲れた体には心地好い。

 

「もっと早く探しに行くべきだったんだけど、堀北さんに止められちゃってね」

「止められた?」

「うん。『緒祈くんのことだから何か企んでいるはずだ』って。それでしばらく待ってみたんだけど、全然帰って来なかったから――」

「悪かったわよ」

 

 計ったようなタイミングで堀北さんが登場した。綾小路君も付いて来た。

 

「おーい! 平田くーん!」

「ごめん、呼ばれたから行ってくるね」

 

 そして平田君は去って行った。あっちへこっちへ、彼は本当に大忙しだね。

 堀北さんは僕の斜め前に座り、申し訳なさそうに口を開いた。

 

「まさかあなたが普通に行き倒れるなんて思わなかったのよ」

「オレも、緒祈は何か暗躍でもしているのかと」

「2人とも僕のことを買い被っているね。何かあったかと聞かれれば、ちょっと龍園君に会っただけだよ」

 

 夢の中では『ボク』にも会ったんだけど、これは他人に聞かせるような話ではない。

 しかし改めて考えると、これでようやく過去の清算が出来たってことになるのかな。不確かな記憶に支えられていた不明瞭な自分という存在について、きっともう悩むことはないだろう。

 いやはや、アイデンティティの確立ごときに随分と時間をかけてしまった。何が良くなかったって、過去に拘り過ぎたんだよなー。まあ、終わったことだし、うだうだ言うことでもないか。

 

 『今の僕』の物語に、『昔の僕』が出る幕はもう要らない。

 

 うん。だからこれからのことを考えよう。差し当たっては、この無人島試験について。

 僕が龍園君に会っていたと聞いて、堀北さんは大変驚いた様子だった。分かりにくいけど綾小路君も目を見開いて驚きを表現していた。

 

「もしかして、彼に何かされたの?」

「ちょっと話しただけだよ。ジャージが汚れて傷だらけなのは僕が勝手に転んだだけ」

「龍園は一人だったのか?」

「うん。……そういえば不思議だね。スポットやベースキャンプを率先して探すタイプには思えないけど、なんであんな場所で単独行動してたのかな?」

「何か企んでいるのでしょうね」

「そうだな」

 

 龍園君に投与した『歪』がどう作用するのか知りたいから、彼の計画についてはある程度把握しておきたいんだけど……まあ、試験が終わる頃には綾小路君が見抜いてくれているだろう。後で聞けばいいや。

 

 実は今回の旅行が始まる直前に、綾小路君からとある報告を受けていた。「しばらくの間Aクラスを目指す必要が出来た」とのことだった。何か事情があるみたいだし、期間限定なら別に良いかなーと思って了承した。

 今回の試験でも何かしら動くつもりなのだろう。と言っても目立つつもりは無いらしいので、クラス内でのポイントの使用にはあまり口を出さないはず。となるとスポットの占有かリーダー当てに注力するんだろうな。

 

 というかどのクラスも結局はリーダー当て合戦になるんじゃないかな? 1クラス当てるだけで50ポイントだもん。スポットでそれだけ得ようと思ったら、3か所を試験中ずっと占有し続けなくちゃいけない。これはあまり現実的ではないよね。

 だからより多くボーナスポイントを得るには、他クラスに斥候やスパイを送り込むのが戦略としては王道だ。と思うんだけど――

 

「ところでお二人さん。あちら様はどちら様?」

 

 Dクラスのベースキャンプ、その隅っこに見慣れぬ女子生徒が体育座りをしていた。傍らに置かれた彼女の物であろう鞄は、Dクラスで支給された物とは違う色だった。

 あのショートカットの少女は何者なのか、綾小路君が教えてくれた。

 

「Cクラスの伊吹だ。クラスメイトと揉めたらしい。森に一人でいたところを放っておけないからとDクラスが保護した」

「ふうん……」

 

 揉めた相手が龍園君であるならば、クラスに居場所がなくなることも十分に考えられる。一方で彼女がスパイである可能性もやはり無視できない。

 まあ、たとえスパイだったとしても、そう簡単にリーダーが見破られることはないだろう。いくらDクラスとはいえ、秘匿すべき情報の管理はそこまで杜撰ではないはずだ。

 

「何か分かったのか?」

「……え? いやいや、なーんにもだよ。今はまだ何を判断するにも材料が少なすぎる」

 

 思考を巡らせているうちに無意識に下がっていた視線を上げる。いつの間にやらとっぷり日が暮れていた。

 

 キャンプの中央で爛々と燃える焚火。

 澄んだ空に映える煌々と輝く夜の星。

 

 綺麗だなと思う。どちらも東京の街では見られない光だ。

 

 ……だからって大嫌いな船に乗って体調を崩してでもこの島に来て良かったとは、1ミリも思わないけどね。

 

 

 



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073-075 邪道と王道

 073

 

 

 

 目が覚めた時すぐ隣に他人がいるというのは中々に不快なものだ。この島にはプライベートな空間がないのだと、そう思い知らされる。

 

 あれやこれや色々とごちゃごちゃしてしまった誕生日から一夜明け、無人島試験二日目。

 昨夜はこれまでの人生で一番粗悪な寝床だった。大きめのテントとはいえ男10人の雑魚寝だし、葉っぱを集めただけのマットレスは草臭いし、エアコンも扇風機もないし。朝からネガティブが止まらない。

 と言いつつ疲れもあってか案外ぐっすりと眠れた。体調は万全ではないにしても、ちょっと調子が悪い日くらいには回復した。

 

 朝食はポイントで購入した栄養食だ。口の中の水分が根こそぎ奪われるタイプだった。

 飲料水はポイントで買うことも出来るけれど、綺麗な川があるのでその水を沸騰させてから飲むというのがDクラスの節約術であった。もちろん食事の直前に沸騰させたのでは熱くて飲めないので、昨晩の内に処理を済ませて十分に冷めているものをいただく。

 

 視線をキャンプの端に向けると、櫛田さんのグループが自分たちの分の食事をCクラスの伊吹さんに分けてあげていた。優しいね。

 しかしあの少女は一体いつまでここにいるつもりなんだか。

 

 朝食を終え、皆から少し離れた場所で何をするでもなく一人ぼーっと点呼を待っていると、須藤君たちと一緒に食事をしていた綾小路君がやって来た。

 

「おはよう綾野(あやの)晃司(こうじ)君」

「人の苗字を更に苗字と名前に分割するな。誰だよ綾野晃司って。完全に一個人のフルネームになってるじゃないか」

「ごめんね? 人の名前を覚えるの苦手でさ」

「覚えるのが苦手というより、間違えるのが得意なんじゃないのか?」

「そうかもしれない」

 

 船上では僕が不調で出来なかったいつもの挨拶(?)を交わしつつ、綾小路君は僕の隣に腰を下ろした。

 彼が持ってきたのは人に聞かれても問題ない話題らしく、声を潜めることなく普通のトーンで話を始めた。

 

「今朝神崎に会った」

「ほう」

「お前に伝言を頼まれた。『ここから道なりに浜辺に戻る途中に折れた大木があるだろう。そこから南西に森に入って進んだ先にBクラスのキャンプがある』とのことだ」

「隆二君が言った『ここ』がどこなのか分からないんだけど」

「行くつもりなら後で案内する」

「じゃあよろしく」

 

 これは嬉しい展開だ。Bクラスには遊びに行こうと思っていたけれど、場所が分からないので適当に歩き回るつもりだった。まさか向こうから教えに来てくれるとは。

 それにしても綾小路君も隆二君も、朝から精力的に活動しているなあ。慣れない環境に疲れたりしないのかなあ。

 

 ほどなくして点呼の時間となり、Dクラスの生徒たちは茶柱先生のもとに集合した。

 その後スポットの占有権を更新する時間になったので、リーダーを隠すため端末装置が埋め込まれた大きな岩の周りを皆でぐるぐる取り囲んだ。

 

 点呼も更新も終われば自由時間だ。平田君の指示の下ポイント節約の為に動く人もいれば、クラスのことは気にせず好きに行動する人もいる。Bクラスに行きたい僕は後者だ。

 綾小路君に道案内を頼もうとすると――

 

「何だよお前ら!」

 

 突如、池君の怒った声がDクラスのキャンプに響き渡った。

 何事かとそちらに目を向けると、どこかで見たような二人の男子生徒がニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべて立っていた。伊吹さんの方を見ると、彼女は苦虫を潰したような表情をしていた。あの二人はCクラスの生徒なのだろう。

 綾小路君は伊吹さんに近寄って何か話している。その声は聞こえないけれど、内容はなんとなく想像出来る。

 

 Cクラスの男子二人組はスナック菓子を頬張りながら、ジュースか何かを(あお)るように飲んでいる。そして少し離れた場所にいる僕にまで聞こえる大きな声でDクラスを煽る。

 

「随分と質素な生活してんだな。さすが不良品クラス!」

 

 朝からポテチ食ってる不健康な連中に言われてもなあ。

 

 これといって面白味のない彼らの挑発は10分近く続いた。そして最後に「夏休みを満喫したかったら今すぐ浜辺に来い」という龍園君の伝言を残し、恐らくはその浜辺へと帰って行った。

 彼らの様子を見るに、龍園君には今のところ特に異常はないみたいだ。折角『歪』をあげたのに……まあ、そんな期待するようなものでもないか。

 

「緒祈」

 

 堀北さんを連れた綾小路君に声をかけられた。

 

「オレたちはまずCクラスを見て、それからBクラスとAクラスも覗いてみる予定なんだが、お前はどうする?」

「ご一緒させてもらうよ」

 

 一人で歩けば確実に迷子になる自信のある僕は、頼れる二人の後ろについて行く。

 

 夏の木々が生き生きとしている森の中。

 まだまだ始まったばかりの無人島試験。

 

 ――どうにも先が見通せない。

 

 

 

 074

 

 

 

 そこにあったのは『贅沢』だった。

 浜辺には色鮮やかなパラソルが刺さり、バーベキューセットが広げられ、ビーチボールがぽんぽん跳ねる。沖合を駆け抜ける水上バイクは豪快な水飛沫を上げていた。

 

「嘘でしょ……。こんなことって……あり得る?」

 

 その光景を茂みの陰からしっかりと目にしながらも、堀北さんは信じられない様子で何度もあり得ないと呟いた。

 そうだよね。このビーチで遊んでいる彼らが僕たちと同じ試験を受けている真っ最中だとは、とても思えないよね。

 

「確かめに行きましょう。Cクラスがどういうつもりなのか」

 

 このまま隠れていても仕方ないので、茂みから出て堀北さんを先頭に浜辺へと足を踏み入れる。

 するとすぐに、気弱そうな一人の男子生徒がやって来た。

 

「あの、龍園さんが呼んでいます……」

 

 ここで無視して帰るという選択肢はないだろう。覇気の無いその男子生徒に従い、ビーチパラソルの下で(くつろ)いでいる男のもとに向かう。

 

「よう。こそこそ嗅ぎまわってると思ったら……ちっ、お前も来たのかマゾ野郎」

 

 堀北さんを見て一瞬にやりと白い歯を見せた龍園君だったけど、僕の顔を見るなり眉間に皺を寄せた。そして僕の呼び方が女装野郎からマゾ野郎にランクアップしていた。ランクダウンかもしれない。

 

「そんなアシダカグモを見るような目は止めてくれよ。君と僕の仲だろう?」

「歓迎してやるような仲じゃねえだろ」

「あっははー。それもそうだね」

 

 ふむ……僕がいることを不快には感じているようだけど、計画が上手くいかずに苛立っているという様子はない。逆に何か嬉しいハプニングが起きたという様子もない。

 どうやら『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』はまだ働いていないようだ。つまんねーの。

 密かに落胆している僕に代わって、堀北さんが探りを入れる。

 

「随分と羽振りが良いわね。相当豪遊しているようだけど」

「見ての通りだ。俺たちは夏のバカンスって奴を楽しんでるのさ」

 

 龍園君はそう言って手を広げ、娯楽に満ちた浜辺を自慢げに示す。

 

「これは試験なのよ。それがどういうことか分かっているの? ルールそのものを理解していないんじゃないかと呆れているのだけれど……」

「ほう? ビックリだな。それは敵である俺に塩を送ってるということか?」

「トップが無能だとその下が苦労する。それが不憫なだけよ」

 

 堀北さんはそう言うけれど、少なくとも浜辺で遊んでいる彼らを見て「不憫な人たちだ」と思う人間はいないだろう。それこそDクラスの生徒がこの光景を目撃したら、素直に羨ましいと言うはずだ。

 まあ、僕たちもDクラスの生徒なんだけど。

 

 堀北さんと龍園君の会話を一応耳に入れつつ、改めてCクラスのキャンプをじっくり観察してみる。

 心の底からバカンスを楽しんでいる人が目立つけれど、中にはこの状況に疑問を持っているのか浮かない表情のグループもあった。楽しむしかないというのに純粋に今を楽しめない彼らは……うん、不憫だわ。

 

 もし僕がCクラスに配属されていたらどのグループに属していたかな、なんて考えてみる。あの不憫なグループかな? それともパラソルの下で談笑しているグループかな? バーベキューをしているグループかな? 体を動かしている連中に混ざることだけは有り得ないよなあ。

 おっ、あのグループとか良さそうだな。女子ばっかりだけど、良質なロングヘア―が揃っている。特にぼんやりとした雰囲気の少女、あの子の薄浅葱(うすあさぎ)の髪は是非とも触らせていただきたい。わしゃわしゃしたい。

 

 などと考えているうちに、堀北さんと龍園君の会話も終わったようだった。やっべ、途中から全然聞いてなかったわ。

 

「戻りましょう綾小路くん、緒祈くん。これ以上ここにいても気分が悪くなるだけよ」

「またな鈴音」

「どこで調べたのか知らないけれど、気安く人の名前を呼ばないでくれる?」

 

 龍園君は厭らしい笑みを浮かべる。

 

「お前みたいな強気な女は嫌いじゃないぜ。いずれ俺の前で屈服させてやるよ。そのときは最高の気分を味わえるだろうぜ」

 

 彼はそう言って、右手を自らの股間に持っていき水着の上から触れて挑発した。で、堀北さんを舐めるように見つつ、なぜか僕の方にもちらちらと視線を向ける。

 えっと……僕に男色の気はないんだけど……あ、いや、そういうことか。

 

 堀北さんはありったけの侮蔑を込めて龍園君を見下し、背を向けて森の方へと歩いていった。綾小路君もそれに付いて行く。しかし僕だけはその場に留まって、二人が十分に離れてから龍園君に話しかけた。

 

「そんな探るようなことしなくても、聞いてくれれば普通に答えてあげるのに」

「はあ? 何言ってんだ?」

「堀北さんは僕の逆鱗ではないよ。()()()()()()()()()()()()()()

「……そーかよ。つまんねえな」

「あはは。(じき)に面白くなるさ」

 

 なんの確信も無いけれど、いかにも何かを確信しているかのようにそう言い捨てて、僕は龍園君に背を向けた。この試験中に彼と会うのは、きっとこれが最後だろう。

 

 先に行った二人はどこだろうと見回すと、森に入る手前で待ってくれていた。

 

「お待たせ」

「彼と何を話していたの?」

「別に、何も」

「……そう」

 

 僕の適当な答えに不満気な堀北さんだったけど、わりと簡単に諦めてくれた。問い詰めたところで意味がないと察したのだろう。

 堀北さんは最後にもう一度だけCクラスを一瞥して、森の中に入って行く。僕と綾小路君もそれに続く。

 

「Cクラスは論外ね。警戒していたのが馬鹿らしいわ」

「そうだな。あいつらがポイントを全て使い切ったのは間違いないだろう」

 

 浜辺では一言も発しなかった綾小路君が久し振りに口を開いた。僕は前を歩く二人の会話に黙って耳を傾ける。

 

「後で困ったときどうするか見物ね」

「残念だが、この試験においてCクラスが困ることはないだろうな」

 

 急に饒舌になった綾小路君が龍園君のプランを解説する。それはそもそも一週間を乗り切ろうなどと考えず、適当なタイミングで適当な理由をつけてリタイアするという大胆な作戦だ。

 リタイアによるペナルティは一人に付きマイナス30ポイントと小さくないけれど、今回の試験では試験専用ポイントの下限が0に設定されている。既にその底に達しているCクラスは、何人リタイアしようがノーダメージだ。

 

「じゃあ彼は本当に、最初から試験そのものを放棄しているってこと?」

「ああ。緒祈も考え付いてたんじゃないのか?」

「まあねー」

 

 確かに可能性の一つとして浮かんではいた。ただ、正直あまり納得はできていない。

 というのも昨日会った時の龍園君の口振りには、もっと直接的に攻撃的な何かを仕掛けてきそうな感じがあったのだ。ちょっと他のクラスを驚かせた程度で終わるとは思えないんだけど……。もちろんその程度で終わってくれるなら大歓迎なんだけど……。

 

「あんなやり方、絶対に間違ってる。理解不能よ」

「そうだな」

「そうだね」

 

 もし僕がCクラスだったら――そんな想像を先程してみたけれど、どこのグループに所属しようが今回の試験では地獄を味わっただろう。予定より何日も早く船に戻るなんてあり得ない。理解不能だ。

 配属されたのがDクラスで本当によかったと思う。しかしそれと同時に数日後には船に戻らないといけないという非情な現実を思い出してしまい、僕は少しだけ気分が悪くなった。

 

 

 

 075

 

 

 

 神崎君に教えてもらったという道を行き、僕たちはBクラスのベースキャンプへと辿り着いた。そこにあったのは『統制』だった。

 

「流石はBクラスと言ったところかしら……」

「見事なものだね」

 

 既に一週間以上ここで生活しているのではないかと疑ってしまうほどに、彼らのキャンプは完成していた。Cクラスとは真逆も真逆で、この無人島試験の模範解答を見せつけられた気分である。

 Cクラスはもちろん、これは今のDクラスにも絶対に作れない光景だ。個々人の能力と心持ち、そして何より指導者(リーダー)の才覚が違う。決して平田君が悪いわけじゃない。比べる相手が悪いのだ。

 

 抜群の求心力と統率力を持ったBクラスの委員長さんは、僕たちの来訪に気付いてこちらにやって来た。

 

「やっほー真釣くん。堀北さんと綾小路君も」

「やっほー帆波さん。遊びに来たよー」

「遊びに来たわけではないのだけど……」

 

 ジャージ姿の帆波さんは初めて見たけれど、活発な印象と相俟(あいま)ってよく似合っていた。そしてなんと、無人島でもその艶を失わないストロベリーブロンドは、僕が誕生日にプレゼントした臙脂色のシュシュで纏められていた!

 

 萌え!

 ポニテ萌え!

 

 僕の視線に気付いた帆波さんは、体をくるっと半回転させる。ポニーテールがふわりと跳ねる。

 

「どう? 似合ってるかな?」

「可愛い可愛い超可愛い。愛す()しと書いて可愛い。()でる可しと書いて可愛い。(いつく)しむ可しと書いて可愛い。とにかく可愛い。超可愛い」

「落ち着け緒祈。堀北がドン引きしてるぞ」

「おっといけねえ」

 

 堀北さんの方を振り返ってみると、食パンに生えた黒カビを見るような瞳が僕に向けられていた。いやん。

 一方の帆波さんは「にゃははー。照れちゃうなー」といった具合で、普通に嬉しそうだった。多分帆波さんは誰に対しても「気持ち悪い」とか思わないんだろうなあ。良い人かよ。良い人だわ。

 

「話を戻していいかしら?」

「ごめんごめん。どうぞどうそ」

 

 真面目な堀北さんは遊びに来たんじゃなくて視察をしに来たんだった。僕は邪魔をしないよう一歩下がる。

 

「Bクラスは随分と上手く機能しているようね。拠点としては苦労も多そうだけど」

「あはは。最初は苦労したよー。でも何とかね、色々工夫して作ってみたの。そしたら逆にやることも増えちゃって。まだまだ作業も山積みだよ」

「だとするとお邪魔しているのは悪いわね」

 

 だとすると遊びに来たとか言ってる僕はもっと悪いよね。

 

「ごめんね? なんか追い返すみたいな言い方になっちゃったかも。でも少しくらいなら大丈夫だよ。聞きたいことがあるから訪ねてきたんだろうし」

 

 お言葉に甘えて僕たちはBクラスのポイントの使用状況を、キャンプ地の案内も兼ねつつ教えてもらった。

 Bクラスがキャンプ地としているスポットは井戸だった。周辺には木が多いため思うようにテントを張ることは出来ないけれど、その分はハンモックで補うことで睡眠環境を確保していた。

 帆波さんによるとBクラスにはアウトドアに詳しい生徒がいるそうで、その知識もあってかポイントを上手く節約できているみたいだ。

 

 堀北さんはBクラスの情報を一通り得たあと、Dクラスの状況もきちんと説明した。見上げたフェア精神である。

 

「なるほどぉ……。リタイアが出ちゃったのは痛いね」

「ええ。クラスとしてまだまだ不安材料は多いけれど、何とかしてみるわ」

「一つ確認しておきたいんだけど、この試験でも私たちの協力関係は継続ってことでいいのかな? 真釣くんもいるし」

「そうね。リーダー当ての追加ルールに関しては互いのクラスを除外する、という方針でどうかしら? 緒祈くんがいることだし」

「それがいいね! 一クラスでも警戒対象から外れてくれたら大分楽になるよ」

 

 どうやら僕が両クラスの架け橋になっているみたいだ。……いや、架け橋ではなく抑止力かな。仲良くしないと僕が何をしでかすか分からないという抑止力。

 ふっふっふ。狙い通りだ。

 

 これで情報交換と協力関係の確認ができて万々歳――のはずなんだけど、堀北さんは(いぶか)しげな視線を僕に向けていた。

 

「緒祈くん」

「うん?」

「いくら一之瀬さんが好きだからって、Dクラスのリーダーをバラしてはダメよ? Bクラスとは協力関係を結んだけれど、どこからCクラスやAクラスに漏れるか分からないもの」

「ああ、それに関しては心配ご無用だよ」

「本当かしら?」

「だって僕、Dクラスのリーダーが誰なのか知らないもん」

「「「えっ?」」」

 

 いや、そんなハモられましても……。

 

「なんで知らないのよ」

「僕がいない間に決まっちゃったし、別に知らなくても困らないし」

「それは……そうだけど」

「にゃははー。真釣くんらしいね」

 

 僕らしいかな? よく分からない。

 でもまあ過去の清算は終わったことだし、今後は性格(キャラクター)のブレもなくなるはずだ。『僕らしさ』というものも、そのうち出来上がってくることだろう。

 

 なにはともあれリーダーがバラされる心配が無くなった堀北さんは、Bクラスの統率具合やAクラスのキャンプ地、Cクラスの豪遊について帆波さんと話していた。

 どうやら帆波さんは、さっき綾小路君が言っていたCクラスの0ポイント作戦を未だに読めていないようだった。堀北さんはそれをあえて教えなかったみたいなので、僕も黙っておくことにする。聞かれたら普通に答えるけどね。

 

 そんな感じでクラス間会議をしていると、一人の男子生徒が遠慮がちに近付いて来た。

 

「お話し中すいません。あの、一之瀬さん。中西君はどこにいるか分かりますか?」

「この時間は海の方に出向いているはずだけど、どうかしたの?」

「お手伝いに行こうかと思いまして。余計なことでしたか?」

「ううん、そんなことないよ。金田くんの気持ちは凄く嬉しい。じゃあ、向こうで千尋ちゃんたちのフォローに回ってもらえる?」

「分かりました。ありがとうございます」

 

 ……ん?

 違和感を覚える。今のやり取りは、チームワークを売りにしているBクラスらしくないものだった。そう感じたのは僕だけではなかったようで、堀北さんが不思議そうに口を開く。

 

「クラスメイトにしては随分と余所余所しいわね」

「あ、彼は――」

「Cクラスの生徒、か」

 

 割り込んできた綾小路君の言葉に、帆波さんは「そうだよ」と答える。

 そういえば龍園君は言ってたっけ。伊吹さんの他にもう一人出て行った生徒がいるって。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、というわけか。

 へえ。ふうん。なるほどね……。

 

「彼、Cクラスと揉めちゃったみたいでさ。一人で過ごすって言ってたんだけど、流石に放っておけなくて。事情は話したがらないから聞いてないけど」

 

 話したい事情ではないのか、それとも()()()()()()なのか。……ふふっ。

 

「僕も千尋さんのとこに行ってこよーかな。帆波さん、いいよね?」

「もちろん!」

「じゃあそういうわけだから。ばいばい綾小路君、堀北さん」

「Aクラスのキャンプは見に行かないのか?」

「うん。興味ない」

「あまりBクラスの迷惑にならないようにね」

 

 他人様の家に泊まりに行く我が子を見送る母親みたいな堀北さんの台詞に「分かってるよ」と返し、僕はまだ視界にあるCクラスの彼の背中を追う。

 走る理由も無く普通に歩いている彼にはすぐに追いついた。足音に気付いて振り返った彼に、僕は右手を差し出し握手を求める。

 

「初めまして。えっと……金田君、だったよね? 僕はDクラスの緒祈真釣だよ。ここで会ったのも何かの縁だし、仲良くしようよ」

「あ、はい。Cクラスの金田悟です。よろしくお願いします」

 

 互いの手の平が触れた瞬間、僕は彼の手をしっかりと握る。そしてちょびっとだけ『歪』を注入してみる。すると金田君の体は電気が走ったようにびくりと震えた。ははっ、面白え。

 やりたいことは終わったので握手を解く。金田君は怯えた表情で僕を見る。

 

「あ、あの、今のは一体?」

「うん? なんのこと?」

「……いえ、なんでもありません」

 

 龍園君の時と同様に彼も『何か』を感じ取ったようだけど、当然解説なんかしてあげない。疑問は疑問のまま抱えてもらう。というか僕自身、疑問だらけだからね。

 

 さあて、何が起きるかな?

 それとも何も起きないのかな?

 

 また考えなしの思い付きで行動しちゃったなあと反省しつつ、千尋さんのもとへ向かう。千尋さんは女の子3人を従えてブルーシートを広げていた。

 

「やっほー千尋さん。何してんの?」

「やっほー真釣くん、それに金田くんも。いいタイミングで来てくれたね。これを木に張って屋根を作りたいんだけど、手伝ってもらえるかな?」

「あいさー」

「分かりました」

 

 どうやら雨を凌げる場所を作りたいらしい。無人島試験の期間中に降るかは分からないけれど、備えあれば憂いなしだからね。

 

「助かるよ。女の子だけじゃ持ち上げるのも大変だからね」

 

 ん? 持ち上げる?

 

「真釣くんはあっちの端で、金田くんは向こうの角を持って――」

「ねえ千尋さん、なんで四隅を同時に結ぼうとしてるの?」

「え?」

 

 彼女たちはそれなりの大きさ、すなわちそれなりの重さがあるシートを一斉に持ち上げて、一斉に木に(くく)ろうといていた。そりゃあ大変でしょうよ。

 

「1か所ずつ順番にやればいいじゃん」

「……確かに!」

 

 千尋さん以外の3人の女の子も、僕の提案に目から鱗といったご様子だ。

 呆れそうになるけれど、これは決して彼女たちがアホだったわけではない。4つの隅がある物に対して丁度4人が割り当てられたので、極自然に1つの隅に1人ずつと考えてしまったのだろう。誰もが陥り得る先入観、思い込み、固定観念ってやつだ。

 そこに外から来た僕だからこそ指摘ができた。多分、そういうことだ。

 

 きっと帆波さんは「女子だけでも1か所ずつ順番にやれば出来る」という想定で彼女たちにこの作業を任せたはずだ。指示を出したのが帆波さんかどうかは知らないけど。

 

「よし。それじゃあこっちの角から上げていこうか」

 

 千尋さんがグループを纏めている姿を新鮮だなあと眺めていると、背中をぽんと叩かれた。なんじゃらほいと振り返ると、名前も知らないBクラスの少女が聞き捨てならない台詞を吐いた。

 

「さすが一之瀬さんの旦那くん。頼りになるね」

「……はい?」

「ん? 違うの? 噂の緒祈真釣くんでしょ?」

「確かに僕の名前は緒祈真釣だけど……えーっと…………千尋さん、ちょっと来なさい」

 

 今のやり取りをニヤニヤしながら見ていた親友を呼び出し、他の人に声が届かない場所まで離れて詰問する。

 

「どういうことかな?」

「外堀から埋める作戦だよ」

「埋めるどころか埋め立てる勢いだよね。やり過ぎでしょ。馬鹿じゃないの?」

 

 なんだよ「旦那くん」って。その言い方が許されるのはちゃんと付き合っているカップルか、何年も一緒にいる腐れ縁の幼馴染か、あるいはもう本当に婚姻関係にある二人の場合だけだろ。現状の僕と帆波さんはそのどれにも当てはまらない。

 言われて嫌な気はしないよ? でもそういう問題じゃないの。

 

「正直私も調子に乗っちゃった自覚はある」

「自覚があるならいいんだよ。いや、全然よくないけど」

「めんごめんご」

「反省の色がねえ!」

 

 僕と帆波さんをくっ付けたいなら好きにすればいいとは確かに言った。ただ、何をやっても見逃してあげるってわけじゃない。これは一度しっかり説教をすべきだろうか。

 そう考えていると、なんと千尋さんが反論を開始した。

 

「でもでも、真釣くんはむしろ私に感謝すべきじゃないかな?」

「ほう。その心は?」

「真釣くんが将来はうちのクラスに移るつもりだって言ってたから、その時温かく迎え入れられるように根回ししてあげてるんだよ?」

「ふむ……」

 

 なるほど一理ある。さっきの話とは全くの別問題だと思うけど、その協力には確かに感謝しなければいけないだろう。

 

「サンキューちっひ」

「ちっひ言うな。それは私じゃない方の『ちひろ』だよ」

 

 私じゃない方って、まるで自分が『ちひろ』界の上位陣であるかのような言い方だな。……『ちひろ』界ってなんだ?

 

「下らない話をしている場合じゃないよ真釣くん。作業に戻ろう」

「おおっと、忘れていたぜ」

 

 なんだか有耶無耶にされちゃった感じだけど、僕はBクラスの邪魔をしに来たわけじゃないからね。千尋さんと一緒に待たせていた4人の所へ戻る。

 その後はシートを地面と平行に張ろうとする彼女たちに「それだと雨が溜まっちゃうよ」と指摘しつつ天井を作り、それからその下に落ちている枝や葉っぱを掃き出して地面を綺麗にした。

 

「よし、これで完成だね!」

「「「お疲れさまー」」」

 

 自分のクラス以上に他所のクラスで働いた僕だった。

 というか僕、思えばこの島に来てDクラスのプラスになることをまだ何一つしていない。強いて挙げるならスポットの更新時に壁になったこと、それからBクラスとの協力関係を結ぶ一端になったことくらいだ。

 あれ? 意外と働いてる? いや、全然そんなことないか。今度気が向いたらDクラスの手伝いもしてあげよう。

 

 結局その後もなんやかんや18時頃までBクラスのキャンプにお邪魔して、帰り道は自信がなかったので隆二君に案内してもらった。

 

「悪いな、色々手伝ってもらって」

「いやいや。感謝するのは僕の方だよ」

 

 自分たちのキャンプに余所者がいるのは落ち着かないだろうに、Bクラスの皆さんは僕を快く受け入れてくれた。もちろん『少なくとも表面上は』という注釈は付くけれど。

 余所者は一か所に固まっていた方が監視も楽だろうから、僕はずっとCクラスの金田君と行動を共にしていた。

 

「隆二君はぶっちゃけ金田君のこと、Cクラスのスパイだと思ってる?」

「その可能性は当然考えているが、だからといって他に居場所がない人間を邪険にも出来ないだろう」

「そうだよねー。帆波さんの影響か、お人好しの多いクラスみたいだし」

「DクラスのキャンプにもCクラスの生徒が一人いるのだろう? そっちはどうなんだ?」

「君たちほど受け入れているわけではないけど、一部の女子グループが仲良くしようと試みている感じだね」

 

 伊吹さんのことは昨日の夜と今日の朝に少し見ただけなので、あまり深い話は出来ない。それでも僕なりの見解を述べておいた。金田君と違って積極的にこちらに関わろうとはしない、とか。

 僕の中ではCクラスの二人はどちらもスパイだと決めつけているんだけど、隆二君にはそれは出来ないみたいだった。優しい人だ。真実なんかどうでもいいと思っている僕とは大違いだ。

 

 その後もこの試験に関する意見交換や、試験に関係ない雑談なんかもしながら森を進む。20分くらい歩いた頃だろうか、目印となる折れた大木が見えて来た。

 

「明日以降も遊びに行っていいかな?」

「ああ、構わない。うちのクラスにお前を煙たがる奴はいないだろう」

「……なんで?」

「期末テストの予想問題をくれただろう? あれには皆、世話になった」

 

 そういえばそんなこともあったなあ。こんな島に来た所為か、遠い過去の話に思えてくる。

 

「あんなの全然、大したことないんだけどね」

「そう謙遜するな。良い出来だったぞ」

「そう? ありがとう。それじゃあ明日もお邪魔するね。時間は……ちょっと分からないけど」

「了解した。いつ来ても俺か一之瀬か白波はキャンプにいるはずだ。遠慮せず声をかけてくれ」

「悪いね」

「気にするな」

 

 僕はDクラスのキャンプがある方角を聞いてそちらに、隆二君は今歩いて来たBクラスのキャンプへと繋がる道に、それぞれのつま先を向ける。

 

「じゃあね。また明日」

「ああ。またな」

「ばいばーい」

 

 教えてもらった道を忘れないうちに僕は歩き出す。友達と呼べる相手は綾小路君くらいしかいないDクラスのキャンプへと、独り帰る。

 

 寂しいとは思わない。

 ただ、もし僕がBクラスの一員だったらなあ……と、そんな意味のないことを考えてしまった。

 

 

 

 



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076-078 収穫

 076

 

 

 

 無人島試験三日目。

 クラスのために何もしないというのも悪いので、もし平田君あたりに何か仕事を頼まれたら、力仕事と探索系以外なら大人しく従うつもりだった。しかし特に声をかけられることも無かったので、昨日に引き続きBクラスに遊びに行こうと思う。

 道に不安はあるけれど今日は一人で行ってみる。綾小路君は綾小路君で何かやりたいことがあるらしいし、他に誘うような相手もいない。改めて考えると自分のクラスに友達が少なすぎる僕だった。

 

 まずは目印である折れた大木に向かう。

 昨日歩いた時は5分強かかったかな。そう思いながら西の方角に歩いていると、丁度それくらいの時間で到着した。僕のことだからこの程度の距離でも迷子になるだろうと予想していたんだけど、全然そんなことはなかった。楽勝楽勝、拍子抜けだな。

 折れた大木を回り、南西へと進路を変える。

 

 その後は『(ひずみ)』を発散しながら歩いた。

 『歪』について御復習(おさら)いしておくと、これは何でもありの僕の病『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』の発動に必要なエネルギーだ。真実がどうであるかは知らないけれど、とりあえず僕はそう認識している。

 そしてこの『歪』というものは生きているだけで勝手に溜まり、放っておくと他人を巻き込んだ規模の大きな『何か突飛なこと』を起こす。そんなサプライズを望んでいない僕としては、日頃から小まめに発散する必要がある。

 

 普段は携帯のアプリでちまちま発散しているのだけれど、この島ではそれが出来ない。適当に発散するにしても何が起こるか分からないので、周りに人がいる状況では避けたい。

 昨日や一昨日のように他人に流し込む手段もあるけれど、そんなことを躊躇なく出来る都合の良い相手は中々いない。

 

 というわけで一人ぼっちで森を歩いている今この時は、『歪』の発散に最適なのだ。

 

 ……いや、確かに誰にも迷惑をかけていない点では評価できるけれど、決して最適ではない。断じて快適ではない。なぜなら――

 

「うわっとっと」

 

 『歪』の発散を開始してからというもの、僕は10歩に1歩の割合で(つまづ)いていた。そしてさらに――

 

「わ、わわっ!」

 

 100歩に1歩の割合で転んでいた。体調は昨日より良いんだけど、傷はむしろどんどん増えていく。

 

「なんでこうなるかなあ……」

 

 七転八倒というか千転万倒って感じだ。ゴールが見えていればまだ頑張れるんだけど、いつの間にやら道を外れてしまったらしい。昨日はあの目印から20分弱で着いたBクラスのキャンプに、今日は一時間近く歩いても出会わない。

 多くの生徒によって踏み固められた痕跡を辿れば、それだけで迷わず行けたはずなのだ。()()()()()こうして迷子になっている。迷子の迷子の緒祈くんだ。

 

 適当な木の根元に腰を下ろし、何度目かの休息をとる。

 こうなると一度海岸に出た方が良いのかもしれないな。海岸線をぐるりと歩けば、釣りをしているBクラスの生徒にどこかで出会えるはずだ。食糧調達の邪魔をするのも悪いけど、このままだと迷子では済まなくなってしまう。

 そうと決めたら即行動。低い方へ低い方へ歩いていけば、いずれ海に着くだろう。

 

「よいしょっと――あっ」

 

 腰を上げた瞬間、立ち眩みに襲われて体が後ろに傾いた。ああもう、僕の体のなんと軟弱なことか。

 

「あ、あっ、わわーっ!」

 

 ガサガサガサ!

 バキバキバキ!

 

 自分がどういう挙動をしたのかも碌に把握できないまま茂みに突入し、突破し、どすんと地面に衝突した。

 

「ぶへっ!」

 

 ……『歪』を発散するの止めようかな。ここまでで十分減らせたと思うし、何よりこの調子だと海に着く前に気力も体力も尽きてしまう。

 というわけで自分の中の見えないスイッチを切って通常モードに戻った。戻ったところで体力も方向感覚も向上しないけど、転ぶ回数は大きく減るだろう。昨日は普通に歩けていたんだし。

 

 今度は立ち眩みしないようにゆっくりと起き上がる。

 そして気付いた。この場所がさっきまで歩いて来た自然の森とは違い、人為的に整備されたスペースであることに気付いた。僕の身長くらいある植物が整然と並んで、そこには幾つもの赤い実が輝いていた。

 

「わお」

 

 それは好きな野菜ランキングでは常に表彰台入りの人気者。ナス科ナス属の緑黄色野菜――トマトだった。

 

 野生のトマトがどう育つのかは知らないけれど、支柱が立ってるんだからこれは間違いなく人の手による畑だ。無人島試験の為に学校が用意したのだろう。

 特に意識はしていなかったけど、こうして食べ物を前にするとお腹が空いてきた。今すぐ手を伸ばして鮮度抜群の採れたてトマトにかぶりつきたい。しかしその欲求をぐっと抑え、賢い僕は考える。

 

 これひょっとして、スポットなんじゃね?

 

 他のクラスが占有しているスポットを勝手に使うと、確か100ポイントのマイナスだったはずだ。どこのクラスも占有していない場合は知らないけど、ペナルティがないことはないだろう。

 Dクラスの川やBクラスの井戸とは毛色が違うものの、念のため周囲を確認しておく。

 

「……大丈夫そうだな」

 

 ぐるりと回って見たけれど、キーカードを読み取る端末装置は見当たらなかった。どうやらご自由にお取りくださいということらしい。それならそうと分かりやすく書いといてくれればいいのに。

 

 まあいいや。心配は杞憂に終わったんだし早速いただくとしよう。

 テニスボールくらいの大きさの真っ赤なトマトは、手に取ってみるとずっしり重たい。調味料も調理器具も無いので、そのまま生でかぶりつく。

 

「んー! うまい!」

 

 程よい酸味と甘味、そして弾ける瑞々しさ。

 大ぶりの二つをぺろりと平らげお腹を満たす。

 

 そんなに大きな畑ではないけれど、一つ一つの茎にたくさん実っているので一クラスの一食分くらいなら余裕で賄えそうだ。Dクラスに持って帰ったら、あるいはBクラスに持って行ったら大いに喜ばれるだろう。

 でもまあ、やめておこうか。鞄に入れて中で潰れたら最悪だし、荷物が重くなるのも嫌だからね。

 

 自分のクラスの役に立てる機会が降って湧いたというのに、それをまるで活かそうとしない非人情な男がいた。というか僕だった。

 

 

 

 077

 

 

 

 トマト畑を出た僕は海を目指そうと、道なき道を低い方へ低い方へ歩いていった。すると10分程して、()()()()()()()()()()()()()()()()()。どういうことだってばよ……。

 急がば回れをしようとしたら棚から牡丹餅が降ってきた。予想だにしない展開に呆然としていると、当たり前だけどBクラスの生徒に声をかけられた。

 

「おお? そこにいるのは緒祈じゃないか。こんなところで何してんだ?」

「やあ。えっと……魂館(たまだて)颯太(そうた)君だっけ?」

柴田(しばた)(そう)だよ!」

 

 ああそうだ、彼はサッカー部の柴田君だ。Bクラス随一の身体能力を持つ柴田君だ。連絡先は知らないし、会う機会もほとんどないから忘れてたわ。

 

「まったく、緒祈は酷い奴だなー」

「ごめんね? 人の名前を覚えるの苦手でさ」

「苦手なのか。じゃあ仕方ないな」

 

 仕方ないで許されてしまった。

 

「それにしても、なんでそんなにジャージがボロボロなんだ?」

「ああ、それはね――」

 

 どうして僕のジャージはこんなにも傷だらけなのか。その理由であるここに至るまでの悪戦苦闘(馬鹿みたいに転びまくっただけ)を滔々と語っていると、話し声に釣られてか隆二君がやって来た。

 

「来てたんだな」

「うん。ついさっきね」

「……なぜDクラスのキャンプとは全く別の方角から?」

「緒祈は道に迷ってたらしいぞー」

「そういうこと」

 

 道に迷ったというか、道がない場所に迷い込んだというか。

 隆二君は何やら引っ掛かるところがあったみたいだけど、とりあえず「なるほどな」と納得してくれた。

 

「なあなあ緒祈、俺たちこれから森の中に食料探しに行くんだけど、お前も来るかー?」

「やめておくよ。そんな体力は残ってないからね」

 

 全く歩けないわけじゃないけど、彼らのペースを落としてしまう自信はあったので辞退した。代わりに仕入れたばかりの情報を提供する。

 

「向こうにトマト畑があったから、探してみるといいよ」

「本当か!? よし、皆を集めて行こう!」

 

 柴田君はクラスメイトが(たむろ)しているところに走って行った。僕と隆二君はのんびり歩いて後を追う。

 

「よかったのか?」

「ん? 何が?」

「畑のことだ。自分のクラスで収穫しなくてよかったのか?」

「こっちのキャンプの方が近いからねー」

 

 一度Dクラスまで戻ったところで、クラスメイトをあの畑まで案内することなど僕には不可能だ。それにもしDクラスの生徒が畑まで無事辿り着いたとしても、Bクラスの生徒と出くわしてトラブルにでもなったらそれこそ面倒だ。

 

 さてさて、当初の予定では昨日に引き続き金田君と行動を共にするつもりだったんだけど、彼はトマト収穫隊に参加するみたいなので諦めた。いや、本来なら畑を発見した僕こそ一番参加しなくちゃけないんだけど、覚えてないんだもん。森の中の景色なんてどこも似たようなものだし。

 柴田君にはここからの(おおよ)その位置ベクトルだけ伝えておいたので、あとは人海戦術で見付けてもらおう。

 

 やがて8名の男子とその半分の女子で収穫隊は結成され、森の中に消えて行った。そこには神崎君も参加していた。いってらっしゃーい!

 

 人の減ったBクラスのベースキャンプを見渡してみる。今朝まででキャンプの整備は粗方終わったのか、ほとんどの生徒がのんびりと休んでいた。ざっと15人くらいかな。残りはさっきの収穫隊みたいに食糧調達に出たり、あるいは他クラスの偵察やスポットの捜索でもしているのだろう。

 帆波さんも千尋さんもどこかに出かけているようで、キャンプ地には僕の友人が一人も残っていない。うーん、誰に話しかけよう? 昨日少し話した女の子たちもいないしなあ。

 

 それにしても……孤立している生徒が全く見当たらないな。思い返せば昨日もそうだった。誰しもがどこかしらのグループに属していた。40人も集まれば孤独を愛する者の一人や二人いそうなものだけど、Bクラスのチームワークは僕の想像以上らしい。

 うーん、考えていたプランが幾つか潰れちゃうかな。

 

 手持無沙汰にキョロキョロしていると、三人組の男子が近付いて来た。

 

「おい」

 

 どうやらあまり友好的な空気ではない。おお、これはもしかすると――

 

「ちょっとこっち来いよ」

「うん」

 

 人目に付かない森の中に連れ込まれる。きゃー。こわーい。

 キャンプからは目も耳も届かない場所まで来て、ようやく彼らは足を止めた。三人並んだ中央の、長い前髪で右目が隠れちゃってる男子が僕を睨みながら口を開く。

 

「お前、一之瀬さんや白波さんと仲良いからって調子乗ってんじゃねーぞ」

「……」

 

 苛立ちの籠ったその台詞に、申し訳ないけど僕は笑いそうになってしまった。彼の嫉妬が面白かったわけではない。僕の頬を緩ませようとしたのは、()()()()()()()()()()()()()()()という喜びだ。

 

 もし帆波さんの統率が完全なものであれば、Bクラスにはお人好ししかいないかもしれない。僕に敵対心や警戒心を抱く人間が現れないかもしれない。そんな()()をしていたけれど、よかった、ちゃんといてくれた。

 僕はこういう人たちと繋がりを作りたかったのだ。仲良し小好しだけでは心許ないからね。

 

「とりあえず、君たちの名前だけでも教えてもらえるかな?」

「は? 話逸らしてんじゃねえよ」

 

 初対面なんだから名前を聞くのはおかしな話ではないと思うんだけど、どうやら教えて貰えないみたいだ。後で隆二君にでも聞くとしよう。

 隆二君といえば、昨日「うちのクラスにお前を煙たがる奴はいない」とか言ってなかったっけ? いやいや、がっつりいるじゃないか! 超ウケる!

 

「まあいいや。で、なんだっけ? 帆波さんと千尋さんの話だっけ?」

「馴れ馴れしく下の名前で呼んでんじゃねえよ! Dクラスの分際で!」

「どうせBクラスのリーダーを探りに来たんだろ! このスパイ野郎!」

「昨日はCクラスの金田と随分親しげだったじゃねえか。二人で何か企んでるんじゃないのか?」

 

 両サイドの二人も怒り心頭といった様子で僕につっかかってくる。反論はあるけれど、一旦全部吐き出してもらおうかな。僕は彼らの憤慨に大人しく耳を傾ける。

 

「あの二人や神崎と仲良くなったのも、何か卑怯な手段を使ったんじゃないのか?」

「一之瀬さんが誰にでも優しいからって、その優しさに付け込んだんだろ!」

「一部の女子はお前のことを認めているようだが、勘違いするなよ? Bクラスにお前の居場所なんか無いんだよ!」

 

 わざわざキャンプから離れてこんな森の中に移動したんだから、僕を責めている姿をクラスメイトに見られるのは嫌なのだろう。でもあんまり騒いでると人が来るかもしれないよ?

 そんなことは露ほども考えていない様子で三人は続ける。

 

「さっき畑の情報を持ってきたのも怪しいよなあ? 本当に畑があったなら、なぜ自分のクラスで収穫しない?」

「そもそも本当に畑があってそれを善意で教えに来たなら、お前はそこまで案内しているはずだろう。なぜここに残っている?」

「畑があるなんて嘘を吐いて、Bクラスのキャンプから人を減らして、この隙に何かするつもりなんじゃないのか?」

 

 三人の弁は憤激から疑念へと移ってきた。僕のことが気に入らないというだけではなく、ある程度理論的に考えたうえで僕を疑っている。流石はBクラスの生徒、決して馬鹿ではないようだ。これなら話も通じるかな。

 一段落したみたいなので、僕も口を開くことにする。

 

「で?」

「……は?」

「君たちの思いは伝わったよ。それで、僕にどうしてほしいの?」

 

 まさか言いたいことを言って鬱憤を晴らせればそれで満足、なんてことはないだろう。三人は僕に一歩(にじ)り寄って、威圧を込めて要求してきた。

 

「今すぐDクラスのキャンプに帰れ」

「二度とここに来るな」

「一之瀬さんたちと喋るな」

 

 まったくもう、好き勝手言ってくれるなあ。もちろん素直に従ってあげる理由はないので、シンプルに「やだ」と突っぱねる。

 てっきり眉間の皺がさらに深くなるかと思ったんだけど、そんなことはなかった。むしろ三人はたっぷりと余裕を持って、勝ちを確信しているかのようにこう言った。

 

「これでもこっちは譲歩してるんだ。もし大人しく引き下がらないってんなら、『お前がBクラスの女子の鞄を漁ってた』なんて噂を流してもいいんだぜ?」

「ふうん」

 

 はっはっは。こいつら、それで脅してるつもりかよ。甘い甘い。

 

「やってみなよ」

「えっ?」

「それで帆波さんや千尋さんが僕を嫌うと思うなら好きにすればいいさ。ただ、失敗すればBクラスに君たちの居場所はなくなるだろうから、その点は覚悟しておいてね?」

 

 今度は僕の方から一歩躙り寄り、言葉の矛を突き付ける。

 僕のそんな反応は予想外だったようで、三人は急に狼狽(うろた)えだした。折角だし彼らの思惑を徹底的に叩き潰してやろう。

 

「ついでに言っておくと、僕を(おとし)めるような噂なら既に経験済みだ。君たちも知ってるんじゃないかな?」

「……まさか、入試の合格者を蹴落として入って来たって噂になってたのは――!」

「うん、それ僕」

 

 噂の存在は知っていながらも、それが誰のことであるかは知らなかったようだ。まあ、知ってたらこんな直接僕に噛み付いてくるなんて無理だよな。

 

「安心しなよ。あの噂は全くのガセだし、僕は君たちと敵対するつもりは毛頭無い」

「そんなの、信じられるわけないだろ」

「そうだろうね。でも君たちが信じようが信じまいが、僕の行動は変わらないよ?」

「……」

 

 おやおや、三人が完全に委縮してしまった。彼らに僕の要求を呑ませるには今がチャンスなんだけど、この場所じゃちょっとなあ。万が一誰かに、特にAクラスやCクラスの生徒に聞かれていたら面倒だ。

 僕は人の気配とかよく分かんないんだし、踏み込んだ話は控えた方が良いだろう。この三人に『緒祈真釣は侮れない』と印象付けただけで良しとしておこう。

 

「詳しい話はまた今度、東京に帰ってからにしようか。じゃあねー」

「お、おい! 逃げんのかよ!」

「あっははー。むしろ僕の方が見逃してあげてるんだけどね」

「お前……何がしたいんだよ」

「友達と仲良く高校生活を満喫しながらAクラスに上がりたい。それだけだよ。これ以上話すことも無いだろう? キャンプに戻ろう。あんまり長時間留守にしてると、何を話していたのかと怪しまれるよ」

「……そうだな」

 

 本当は一人で颯爽とこの場を後にしたかったんだけど、キャンプがどっちにあったか分からなくなったので彼らに案内してもらう必要があった。最後の最後で情けない。

 でもまあ上手く誘導できたなあと内心ほくそ笑んでいると、ガサガサと茂みを掻き分ける音が聞こえてきた。僕も三人も、何者かと一斉にそちらを見る。

 茂みの中からひょこっと顔を出したのは――

 

「何してるの?」

 

 両手に果物を抱えた千尋さんだった。その後ろには昨日一緒にシートを張った女の子たちもいた。食糧調達から帰って来たのだろう。

 

 思わぬ人物の登場に、男子三人は言葉に詰まる。何をしていたか正直に答えるわけにもいかず、かといって言い訳も準備していなかったようだ。

 仕方ない。敵対するつもりはないという意思表示も込めて、ここは助け船を出してあげよう。

 

「僕がいなかった間の金田君の様子を聞いていたんだよ。三人ともありがとね」

「え? お、おう」

「そ、そうだな。金田の話だった」

「ああ。礼なんかいらねえよ、うん」

「……ふうん」

 

 三人の反応が酷かったけど、一応誤魔化せたみたいだ。というか、誤魔化されてくれたみたいだ。

 この場に留まる理由も無いのでキャンプに戻ろうとすると、千尋さんに袖を引かれた。

 

「みんなは先に行ってて。私は真釣くんにちょっと話があるから」

 

 女の子たちは「はーい」と明るく答えて去っていく。男子連中は不安そうな視線をこちらに向けつつ、渋々といった様子で女子の後に付いて行った。

 その姿が見えなくなってから、残された僕は千尋さんに尋ねる。

 

「話って?」

「謝った方がいいのかなーって」

「……?」

 

 謝られるようなことをされた覚えはない。僕と帆波さんの件については調子に乗り過ぎな所もあるけれど、それについては昨日話したし。うーん、なんだろう?

 千尋さんは「ごめんね」と言い、悔しそうにこう続けた。

 

「女の子にはある程度真釣くんのことを認めさせることが出来たんだけど、男子は中々難しくって」

「あー……」

 

 どうやら千尋さんは先程まで僕とBクラスの男子たちが何を話していたのか、完全に察しているようだった。そして彼らが僕に対して敵意を抱いていることに、なぜか責任を感じていた。

 

「そんなこと全然気にしなくていいよ。彼らの接触は予想出来てたことだし」

「そうなんだ。流石、なんでもお見通しだね」

「色んなパターンを想定して、そのうちの一つが当たったってだけだよ。全てを見通せているわけじゃない」

 

 一部の男子または女子から呼び出されて「一之瀬さんたちと馴れ馴れしくしてんじゃねーよ」と言われることは想像できていた。それでも、まさかこんなに早いとは思っていなかった。

 僕の想定では明日か明後日の可能性が一番高かった。余所者の癖にBクラスのキャンプで楽しく過ごす僕を最初は黙って見過ごすも、それが何日も続くことで苛々が溜まって――という展開を考えていた。

 

 キャンプに人が少なくて、しかも僕が暇そうだったから好機と見たのかな。僕に対するフラストレーションは島に来る前からそれなりに溜まっていたのかもしれない。千尋さんは僕の知らない所でも色々と動いてるみたいだし。

 

 あの三人については一先ず放置で大丈夫だろう。あらぬ噂を流すと脅して来たけれど、多分実行はしないはずだ。

 それに、たとえ実行されたところで大してピンチでもない。隆二君は中立を選びそうだけど、少なくとも千尋さんと帆波さんは噂を否定してくれると確信している。

 

 Bクラス内部のことは二人に任せておいて問題ないだろう。だから、僕が気にすべきはその外部の人間だ。

 

「ところで千尋さん、金田君に何か変わったことはあったかな?」

「変わったこと? あー、うん。あったよ」

 

 どうせスパイだろうと決めつけて『歪』を投与しておいたけど、早速効果があったらしい。いや、『歪』による影響かどうかは分からないか。

 とりあえず何があったのか聞いてみると、返って来たのは思ったよりもショボい事件だった。

 

「金田君の眼鏡が壊れたの」

「へえ……」

 

 その程度かとちょっぴり落胆しつつ、いやいやちょっと待てよと10分程前に見た彼の姿を思い出す。はっきりとは覚えてないけれど、昨日はあった眼鏡が今日は無くなっていたのなら記憶に残っているはずだ。

 

「さっき見た時はかけてたけど?」

「Bクラスのポイントで買ったんだよ。流石に無視できないからね」

「あ、そういうこと」

「普通なら眼鏡が壊れるくらい、別に特筆するほどでもないんだけどさ」

「今回は普通ではなかったと?」

「うん。昨日の夜と今日の朝、2回壊れたの。ちょっと変じゃない?」

 

 なるほど納得。それは確かに気になる事態だ。確率的には当然ゼロではないけれど、現実に起きるとやはり不自然だと感じざるを得ない。

 

「たったの2ポイントなんだけど、それでも出費は出費だからね。Bクラスにポイントを使わせるためにわざと壊したんじゃないかって言う人もいて、今朝はちょっと険悪になっちゃった。帆波ちゃんが鎮めてくれたけど」

「ふむふむ……千尋さんはどう考えてるの?」

「わざとじゃないと思う。Bクラスに損をさせたいならもっと他の方法があるはずだもん。真釣くんは?」

「何とも言えないね。色んな可能性が浮かび過ぎて一つに絞れないよ」

「そっかー」

 

 事故なのか故意なのか。故意ならそれは誰の意思なのか。金田君か、Bクラスの生徒か、はたまたそれ以外か。目的は何なのか。ポイントを使わせること? 金田君を追い出すこと? Bクラスの雰囲気を悪くすること?

 あるいは『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』が働いたのか。だとするとこれは望んでいない発動の仕方だな。Bクラスに迷惑をかけるつもりは無かったんだけど。

 

 ひょっとすると先程の三人は金田君の眼鏡の件で苛立っていて、それもあって僕につっかかってきたのかもしれない。なんと迷惑な……いや、別に迷惑でもないか。どうせ暇だったし。

 

 とりあえず今すべき話は終わったので、キャンプに戻ることにする。すると――

 

「騒がしいね」

 

 千尋さんの言う通り、耳を澄まさなくとも聞こえてくる喧騒が唐突に湧いた。

 なんだろうねと疑問を抱きながらキャンプに到着すると、そこには柴田君たちが帰って来ていた。僕が見付けたトマトを採ってきたみたいだ。なるほど、それで活気づいていたのか。

 

「サンキューな緒祈! お陰でトマトが大漁だぜ!」

 

 僕の姿を捉えた柴田君は、手を振って礼を言ってきた。そんな大声で名前を叫ばれるのは恥ずかしいけれど、これでBクラス内での僕の評価が多少なりとも上がったのなら、それは『Aクラス移籍計画』を抜きにしても素直に嬉しいことだ。

 

 しかし一方で――

 

「私、トマト嫌いなんだよね」

 

 残念ながら隣の少女にはあまり喜んでいただけなかった。

 まあいいさ。親友の好き嫌いを知れたというのも、これはこれで収穫だ。

 

 

 

 078

 

 

 

 Bクラスのキャンプにはこれといって手伝える作業が無かったので、僕は金田君に付きまとって遊んでいた。

 

 僕の方は彼のことをスパイだと決めつけているけれど、逆に彼の方は僕のことをどう認識しているのだろう? Dクラスから来たスパイだと思っているのか、それとも純粋に遊びに来てるだけの暇人だと思っているのか。はたまた龍園君から何か聞いているのか。

 「手を組んでBクラスのリーダーを当てませんか?」とか言われたら面白かったんだけど、そんな提案は今のところされていない。

 

 お昼を過ぎた頃、海辺で食糧調達をしていたという帆波さんとその仲間たちが帰って来た。

 人の増えたキャンプを見渡すと、どこを見てもゆったりと時間が流れている。忙しなく動いている生徒が一人もいない。泰然自若の余裕綽々って感じだ。

 この無人島試験をどう乗り切るかなんて、きっと誰も考えていないのだろう。考える必要がないのだろう。

 

 日が傾いて来た午後5時前、帆波さんが隆二君を連れて僕の所にやって来た。

 

「これからCクラスのキャンプを覗きに行こうと思うんだけど、一緒にどうかな?」

「行く行くー」

「金田くんは?」

「い、いえ。僕は大丈夫です」

 

 自分のクラスのことなんだから、気にならないということは無いはずだけど……。わざわざ見に行かずとも状況は分かってるってことかな。

 断る彼を無理矢理連れて行く理由も無いので、三人で森の中に入る。

 

 道中、隆二君がCクラスの作戦について彼なりの推理を聞かせてくれた。

 

「恐らくCクラスはこの特別試験に真面目に取り組む気がないのだろう。娯楽の限りを尽くし、ポイントが尽きたら適当な理由を付けてリタイアする。今もまだ浜辺にいるかは怪しいところだ」

 

 ……うん、まあ、昨日綾小路君が言っていたのと同じだった。

 

「にゃはー! そんな作戦、思い付いても普通は実行できないけど……龍園くんは普通じゃないからねー」

「そうだねー」

「この試験はプラスを積み重ねるための試験だ。それを放棄した時点で龍園は負けている」

「そうだねー」

 

 僕の適当な相槌に、二人が(いぶか)しげな視線を向けて来る。

 

「……もしかして真釣くん、今神崎くんが言った龍園くんのリタイア作戦には、とっくに気付いてたとか?」

「あっははー。まあねー」

「ふっ。流石だな」

「えー!? なんで教えてくれなかったの?」

「思い出せ一之瀬。真釣はDクラスだぞ」

「はっ! そうだった!」

「いやいや、クラスが違うから黙ってたってわけじゃないよ。なんでもかんでも僕から教えちゃうのは面白くないでしょう?」

 

 それに聞かれなかったし、確証もなかったし、堀北さんが黙っていたし……あと今回の件に関して言えば、気付かなかったところでそこまで困らないからね。

 

「にゃるほど。それもそうだねー」

「僕としてはCクラスより、むしろAクラスの動向の方が気になるんだけど」

 

 昨日の夜に綾小路君から聞いた話だと、Aクラスは洞窟を拠点にして穴熊を決め込んでいるらしい。中はほとんど見られなかったものの、『得るもの』はあったと言っていた。綾小路君はそれ以上の詳しい話はしなかったので、Aクラスが何か企んでいるとしても自分で何とかするつもりなのだろう。

 だから心配はしていないんだけど、単純に興味があった。僕はまだAクラスの生徒とは接触を持ったことがないから。

 

「葛城派と坂柳派が対立してるって前に聞いたけど、今回の試験ではどうしてるんだろう? 流石に手を組んでるのかな?」

「組んでるっていうか、坂柳さんは試験を休んでるからね。葛城くん一人で頑張ってるみたいだよ? だから意見は全部葛城くんがまとめてるんじゃないかなぁ。だよね?」

 

 帆波さんは首を傾げて、隆二君に意見を求める。

 

「葛城は頭のキレる男だ。坂柳が不在であれば、その下の人間が反抗できる相手じゃない。仲間割れすることも無いだろう。メリットが無いからな」

「なるほどねえ……」

 

 以前聞いた話では、保守派の葛城君に対し坂柳さんは革新派とのことだった。坂柳派の人達にとっては、葛城君の指示に従わざるを得ない今回の試験は面白くないだろう。

 隆二君は仲間割れのメリットは無いと言ったけれど、そうでもない。今回の試験でAクラスの成績が振るわなかった場合、クラス内での葛城君の評価が下がる。そして相対的に坂柳さんの評価が上がる。

 坂柳派が好戦的であるならば、多少クラスポイントを犠牲にしてでもこの絶好の機会に葛城君を潰しに来るだろう。

 

 ……とまあ一応そんな風に考えてみたけれど、僕は葛城君の顔も坂柳さんの髪の長さも知らないので、二人の対立をあまり上手くイメージできない。

 今後のことを考えるとAクラスにも繋がりを持っておきたいんだけど、その機会はいつ訪れるやら。

 

 そんな事を考えつつ、話もしつつ森を進んでいくと、次第に波の音が聞こえて来た。しかし昨日は確かにあった生徒たちの明るい声は一向に聞こえて来ない。

 森を抜けてパッと視界が開けると、そこにはテントもパラソルもなく、人っ子一人――いや、一人いた。

 

「にゃはー。まさか本当に神崎くんの言った通りになるとはね」

 

 帆波さんの声に振り返った先客は、暗躍大好き綾小路君だった。

 

「お前も偵察か? 綾小路」

「食料を探す係なんだよオレは。適当に森を探索していたら浜辺に出ただけだ」

 

 僕にはバレバレの嘘なんだけど、指摘はしないでおこう。その嘘に隠されているのは暴いたところで然程意味のない真実だろうし、それにそもそも帆波さんも隆二君も、綾小路君がここにいる理由には大して興味がないみたいだし。

 

「Cクラスのリーダーくらい当ててみようと思ったんだけど、これじゃあ手掛かりも何もないねー」

 

 帆波さんは少しつまらなそうに唇を尖らせた。

 

「やっぱり誰がリーダーかを当てるなんて、無茶苦茶難易度が高いよね。無理無理」

「大人しく見送り、手堅く試験を送るのが良さそうだな」

「うんうん。私たちには地道な戦略が一番だよね」

 

 Bクラスの二人は自分たちの方針を隠すことなく聞かせる。綾小路君はそこに何か裏があるのではないかと考えていそうだけど、多分何も無いんだろうなあ。

 

 何も無いというならこの浜辺にもまた何も無い。長居する理由も無いので暗くなる前に帰ろうという隆二君の提案に、皆が頷いた。

 

「都合よく綾小路君に出会えたことだし、僕も自分のクラスに帰るとするよ。二人ともありがとね」

「うん! 明日もうち来る?」

「そうだね。何事もなければまた遊びに行くよ」

 

 こうして僕たちはDクラスとBクラスに分かれ、それぞれのキャンプへと歩みを進める。

 道を知らない僕は綾小路君の後ろを歩こうとするも、何か話があるようで彼は僕の横に並んできた。

 

「緒祈はAクラスについて何か知ってるか? 葛城と坂柳のグループが対立しているらしいが」

「そんなに深くは知らないけど――」

 

 僕は帆波さんに聞いていた話を教えてあげた。二大派閥の対立、それぞれのスタンス、そして坂柳さんがこの試験を欠席していること。

 

「なるほどな」

 

 あくまで外から観測しただけの表層的な情報ではあるものの、綾小路君はこれで何か得心がいった様子だった。ひょっとするとAクラスの誰かに会って、何かがあったのかもしれない。

 

「綾小路君は今日一日、何をしてたの?」

「午前中は佐倉と一緒に食糧調達で、午後は……まあ、散策だ」

「へえ、散策ね」

「ああ、散策だ」

 

 やっぱり何かあったらしい。でもまあ話したくないみたいだし、追及はしないでおこう。

 

「ところで緒祈」

「うん?」

「まるで明日何かが起こると予想している言い方だったな」

「……?」

 

 そりゃあ頭の中には色んなことに対する色んな予想があるけれど、それを仄めかすようなこと言ったっけ?

 ……あ、分かった。さっきのやつだ。帆波さんにまた明日もBクラスのキャンプに行くと告げた時に添えた「何事もなければ」ってやつだ。

 そんなに不自然な言い方をしたつもりは無いんだけど、綾小路君には引っ掛かったらしい。別に隠すことでもないので普通に教えてあげる。

 

「明日はこの試験の折り返しでしょ? 学校が何か仕掛けて来るにはいいタイミングかと思ってね」

「『他のクラスが』ではなく『学校が』か。確かに最後まで静観してくれるかは怪しいし、何かするなら明日だろうな」

「内容までは読めないけどね。ポイントを奪い合うミニゲーム的なものだろうけど、そんなの幾らでも作れるし」

 

 無人島というロケーションを考えると、一番有り得そうなのは宝探しだ。島のどこかに隠された財宝を最初に見付けたクラスにプラス100ポイントとか。

 しかし探索の要素は既に食料やスポットに含まれているので、もっと別の要素を主軸にする可能性も大いにある。

 

「もし緒祈がそのミニゲームを作るなら、どんな内容にする?」

「うーん……『拠点を移転せよ!』というのはどうだろう?」

「何となく想像はできるが、詳しく聞こうか」

「そんなに詳しく考えてるわけじゃないけど、例えば――

 

・8月4日の日没までにクラスのベースキャンプを別のスポットに移転すること。

・移転できたクラスには試験専用ポイントがプラス100ポイント、移転できなかった(しなかった)クラスはマイナス100ポイント。

・ただし、他のクラスがベースキャンプとしていた場所に移転した場合はマイナス50ポイント。

 

 とまあざっくりこんな感じ。要するにこの島での生活に慣れてきた頃を見計らって、大事に育てた拠点を捨てさせるというミニゲームだね」

「……お前、性格悪いな」

 

 有り得ないこともなさそうな案を出したつもりなんだけど、案自体ではなく発案者の僕に対して不評が飛んできた。不評というか、単なる悪口だ。

 

「鬼畜過ぎるだろ。全然ミニじゃないし。そして何より『有り得ない』と言い切れないあたり、最高に質が悪いな」

「うーん、褒められてる気がしない」

「褒めてないからな」

 

 その後も僕の考えるミニゲームを幾つか紹介したんだけど、その度に「お前の性根は腐ってる」とか「それは悪魔の発想だ」などと心無い言葉を浴びせられた。

 

「綾小路君、僕だって傷付くんだよ?」

「その傷から流れる血が何色なのか見物だな」

「完熟トマトかってくらい真っ赤っかだっつーの!」

「そうか。それはそれで明るすぎて怖いな」

 

 Dクラスのキャンプに着くまでこんな具合に、少々鋭利な言葉たちが僕らの間を飛び交った。というか、向こうから一方的に飛んで来た。

 

 

 



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079-081 第三の追加ルール

 079

 

 

 

 無人島試験四日目。

 朝食を終え、点呼を終え、スポットの更新を終えたら自由時間というのがDクラスの朝の形だ。しかし今朝は茶柱先生によって、そのルーティーンが阻まれた。

 朝の点呼を終えた先生は解散の号令をかけず、それを不審に感じた生徒たちは一体何事かと騒めく。

 

 

「これより本特別試験、第三の追加ルールを説明する」

 

 

 茶柱先生はシニカルな笑みを浮かべて、前置きも前振りもなくそう言った。この試験には第一の追加ルール(スポットの占有)第二の追加ルール(リーダー当て)に続き、第三の追加ルールがあると言った。

 

「えー!? やっとここでの生活に慣れて来たのに……」

 

 池君の不平に多くのクラスメイトから賛同の声が上がる。

 単独行動の多い僕が言うことでもないけれど、確かに男女が衝突していた初日に比べてクラスの雰囲気は良くなっていたし、Bクラス程ではないにしても良いチームワークが形成され始めていた。

 だからこそ、学校はこのタイミングを狙ったのだろう。昨日綾小路君と話した通りだ。

 

「お前たちが先走らないよう一つ伝えておく。全クラスの公平を保つため、8時15分まではこの場に待機してもらう。許可なく出て行った場合は一人に付きマイナス50ポイントだ」

 

 随分と重いペナルティだな。早い者勝ちの何かってことか。

 

「そう身構えなくていい。ルール自体は簡単だ。お前たちには今日の午後8時までに、このベースキャンプ以外のスポットを最低でも1か所占有してもらう。制限時間内に占有したスポットについては()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「8時間ごとに3ポイントってことは……」

「1か所でも占有できれば27ポイントだ!」

「2か所占有できればそれだけで50ポイントを越えますね!」

「うおー! 急いで探しに行こうぜ!」

 

 今すぐ森に駆け出そうとする池君と須藤君を周りの人間が慌てて止める。まだ15分にはなっていないので、今ここを離れればペナルティが課せられる。さっき聞いたばかりだというのに、君たちはお馬鹿さんなのかな?

 

「わ、わりぃ。つい……」

 

 でもまあ気が急くのも理解はできる。Dクラスは未だにキャンプ以外のスポットを獲得していない(はずだ)し、他クラスのリーダー当ても進捗は(かんば)しくない(はずだ)。

 ひょっとすると綾小路君は既に何らかの成果を上げているのかもしれないけれど、だとしても皆がそれを知らないなら同じことだ。ポイントゲットの大チャンスに落ち着いてはいられないだろう。

 

 一方でクールビューティー堀北さんは、沸き立つクラスメイトに囲まれながらも冷静だった。先生の言葉から、この追加ルールがプラスの要素だけではないことに勘付いていた。

 

「質問があります」

「堀北か。どうした?」

「先生は『最低でも1か所』とおっしゃいましたが、もし1か所も占有できなかった場合、何かペナルティがあるのでしょうか?」

「ああ」

 

 茶柱先生は当然だろうと頷いた。

 

「制限時間内に1か所もスポットを占有出来なかった場合、そのクラスは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「「「ええー!?」」」

「……そうですか」

 

 ふむ、そんなに驚くことでもないな。ゼロじゃなくて半分なんだし。思ったより軽いペナルティで逆に驚いた。

 あれかな? 試験をまだ三日残した状態でボーナスポイントが貰えないことが確定しちゃうと、リーダー当てのルールが霞んじゃうからかな?

 

 堀北さんの質問は続く。

 

「高円寺くんのリタイアでDクラスは既に30ポイントのペナルティを負っていますが、スポットの占有ができなかった場合はそれも半分になりますか?」

「ならない。リタイアによるペナルティは試験専用ポイントに直接、即時に反映されるものだ。ボーナスポイントとは関係ない」

「では試験最終日に他クラスにリーダーを当てられた場合のマイナス50ポイントは?」

「それも試験専用ポイントから引かれるものだ。半分にはならない」

「そうですか……」

 

 なるほどね。ペナルティによるマイナスも半減されるのなら、場合に依ってはスポットの占有を諦めた方が利を得られる。そういう戦略を念頭にダメ元で聞いてみたのだろう。

 

「他に質問は?」

「……いえ」

 

 堀北さんの疑問は解決したみたいだけど、僕としてはまだ気になることがあった。皆が当然のように『そうである』と思い込んでいることを一応確認しておこうと、僕は手を挙げる。

 驚いた視線をクラスメイト、そして先生から向けられてしまった。うん、まあ、普段はクラス内での発言なんて全然しないからね。

 

「珍しいな。どうした緒祈」

「このルールは現在残っているポイントや獲得しているボーナスポイントに関係なく、どのクラスにも全く同じものが適用されていますか?」

「ああそうだ。クラスの状況による条件付けはされていない」

「分かりました。あと(ついで)にもう一つ。奇数のボーナスポイントが半減された場合、小数部分はどうなりますか」

「切り捨てだ」

「なるほど。ありがとうございます」

 

 よし。これで他クラスの動きを予想することが出来る。予想することにどれだけの意味があるかは別として。

 それにしても小数云々は本当にどうでもいい質問だったな。思い付いたから聞いてみたけど、驚くほど何の役にも立たない情報だった。

 

「他に質問は無いか? では説明は以上だ。残りの時間は好きに使うといい」

 

 そんな先生の言葉で質問タイムが終わり、説明タイムも終わった。

 他のクラスも動き出すであろう8時15分までは後5分ちょっとしかない。今回の追加ルールでまず求められるのは早急にクラスの方針を決定する能力だな。

 

 極々自然に当然に、平田君を中心にして作戦会議が始まった。

 

「僕としては積極的にスポットを狙いに行くのが良いと思うんだけど、みんなはどうかな?」

「そりゃあガンガン占有してガンガン稼ぐしかないだろ!」

「そうだな。ボクたちDクラスが上のクラスと差を詰めるためには、こういうところで積極的に行くべきだろう」

 

 男子からは肯定的な意見が出る一方――

 

「でもさー、それで他のクラスにリーダーがバレちゃったら本末転倒じゃない?」

「うんうん。私たちはまだそんなにボーナスポイント稼いでないんだし、リスクを負わずに半分で我慢するのも手だと思うなー」

 

 女子からは否定的な意見も挙がった。これは意見をまとめるのに時間かかりそうだ。

 平田君がんばれー! と心の中で他人事みたいに応援していると、不意に彼と目が合った。

 

「緒祈君はどう思う?」

 

 わーお。クラスの一員として意見を求められるのってこれが初めてじゃない? 皆の視線が一身に集まる。恥ずかしくって緊張しちゃうぜ。などと言っている場合ではない。時間がないんだから。

 

「1か所は占有すべきだと思うよ。さっき堀北さんも言ってたけど、僕たちは高円寺君のリタイアで既に30ポイント損しているからね」

 

 僕個人としては正直どっちでもいいんだけど、綾小路君のことを考えてここは積極的に動く案に一票を投じた。もし綾小路君がAクラスとCクラスのリーダーを当てるつもりなら、そこで得られるポイントを半分にしてしまうのは勿体無いからね。

 Bクラスに勝ってほしいと思っている僕だけど、それはそれとして自分のプライベートポイントも増やしたい。そのためにはDクラスにも頑張ってもらう必要がある。稼げるときに稼がないとね。

 というわけでもう少し畳み掛ける。スポットを探しに行こうという流れを作る。

 

「他クラスのキャンプとは逆の方角に的を絞って短期決戦で臨めば、リーダーがバレるリスクも最小限に出来るんじゃないかな」

「良いアイデアだね! 誰か、他のクラスのベースキャンプの場所を知ってる人はいないかな?」

「三クラスとも把握しているわ」

「「「おおー」」」

 

 クラスメイトの感嘆を浴びつつ、堀北さんは平田君からマニュアルを受け取る。試験のルールやポイントで買える物が細かく記されたその冊子には、この島の海岸線とDクラスのキャンプ地だけが描かれた地図があった。堀北さんはそこに3つ点を加え、それぞれにアルファベットを添える。

 

 完成した地図を覗かせてもらう。

 ……ふーん。物凄くざっくり言うと、Cが北、Aが西、Bが南、Dが東だ。どれくらい正確なのかは分からないけど、これを見る限りAクラスとCクラスが僕の想像より近くてびっくりした。まあ、Cクラスのキャンプはもう無いんだけど。

 僕の隣で同じように地図を覗き込んでいた櫛田さんが、ふむふむと頷きながら呟く。

 

「東を狙うのが良さそうだね」

「このエリアのどこかでスポットを見たって人は……あはは。そんな都合良くいるわけないよね」

 

 昨日一人で『散策』をしていたという綾小路君の方をちらりと見るけれど、彼は平田君の問いかけに沈黙を貫いていた。本当に知らないのか、それとも知らない振りをしているのか、後で偶然を装って見付けるつもりか。

 うーん……Dクラスを勝たせることと自分が目立たないこと、彼はどちらを優先するのだろう? 両方を同時に選べるだけの能力はありそうだけど。

 

 一方凡人の領域を脱しない範囲で優秀な平田君は、誰でも思い付く凡庸な案を出した。時間が迫ってるから急がないとね。

 

「となると人海戦術で探すしかないね。出来るだけたくさんの人に協力してもらいたいんだけど――」

「俺は行くぜ!」

「おれも!」

 

 須藤君や池君を筆頭に、まずは活発な男子連中が手を挙げる。次に櫛田さんが参加の意思を示すと男女とも更に手が挙がり、最初は否定的だった女の子たちも「そういう空気になっちゃったし」と諦めてスポット探索隊への参加を決めた。綾小路君も探索隊の一員だ。

 僕はもちろん十数名の待機組の方に名を連ねている。体力無いし、モチベーションも無いし。

 

 そんな感じでなんとか方針が決まったところで、遂に8時15分となった。いざ東へと歩き出したスポット探索隊を僕は慌てて呼び止める。

 

「ちょっとちょっと!」

「ど、どうしたんだい緒祈君?」

「まずはベースキャンプの更新をしないと!」

「「「あっ」」」

 

 見事にスタートダッシュに失敗したDクラス一行であった。

 

 

 

 080

 

 

 

 今回の追加ルール、内容自体は非常にシンプルだ。時間内に占有したスポットは占有権永続でポイント3倍。1か所も占有できなかったら最後に貰えるボーナスポイントが半減。

 たったそれだけなんだけど、求められる能力は意外と多い。

 

 まずはクラスの方針を素早く固める能力。

 積極的な意見と消極的な意見はどのクラスでもぶつかることだろう。指導者(リーダー)の手腕が試されるところだ。

 

 次に、スポットを狙いに行くのであれば森の中での探索能力が必要になる。

 一口に探索能力と言っても、そこには森の中を歩き回る体力、森の中で迷子にならない空間把握力、スポットを見付ける注意力などなど複数の技能が含まれている。チームワークも大事だけど、ここは個々人のスキルが試されるところだ。

 

 そして何より大事なのが情報伝達能力だ。

 スポットを見付けただけでは意味が無い。全く無いわけでも無いけれど、肝心なのはそこをリーダーが占有することだ。複数のグループに分かれて捜索するのだろうけど、どの小隊が見付けてもすぐリーダーを呼べるよう布陣をよく考える必要がある。計画性、そしてチームワークが試されるところだ。

 ベースキャンプでは時間に追われてその会議は出来なかったので、行軍中に話し合っていることだろう。僕としてはもう手出しも口出しも出来ないので、上手くいくことを祈るばかりだ。緒祈だけに。なんつって。

 

「……はぁ」

 

 閑散としているDクラスのベースキャンプから少しだけ離れた場所で、僕は川に釣り糸を垂らしていた。かれこれ一時間以上じっと座ったままである。

 

「全然釣れない。真釣なのに」

 

 空しい独り言が川のせせらぎに溶けていく。

 父の趣味が釣りではあるんだけど、船が嫌いになったあの日から僕は川釣りすら一度もしていない。一時間の釣果がゼロってのはどうなんだ? 初心者ならこんなものか?

 一人で黙々と作業するのは好きだけど、これは流石に退屈だ。釣り餌のミミズを集めていた時間の方がずっと楽しかった。でもそのミミズがまだまだいる以上、ここで投げ出すわけにもいかない。他にやることも無いし。

 

 暇だし追加ルールのことをもう少し考えようか。今度はBクラスについてだ。

 昨日聞いた話だと、BクラスはDクラス同様ベースキャンプ以外のスポットを一度も占有していないらしい。そしてこれも昨日言っていたけれど、最終日のリーダー当てに参加するつもりも無いそうだ。つまりボーナスポイントが半減されてもそこまで大きなダメージにはならない。

 

 Bクラスが今日の午後8時までに1か所だけスポットの占有をした場合と1か所も占有しなかった場合で、得られるボーナスポイントはどれくらい変わるだろうか。

 計算してみると前者は45ポイントで、後者は9ポイント。その差は36ポイントとなる。リタイアによるペナルティが30ポイントであることを考えると、これはそう簡単には無視できない数字だ。

 しかし他クラスにリーダーを当てられたらボーナスポイントがゼロになるだけでなく、マイナス50ポイントというペナルティもある。そのリスクを背負ってまで獲得したい数字かというと、ちょっと微妙なところがある。

 

 だから多分、Bクラスはスポットを狙わない。

 

 ボーナスポイントの半減を甘んじて受け入れるだけでは一部の生徒が不満を抱えるだろう。口には出さずとも腹の内に溜め込むことだろう。とはいえその不満を解消させることは難しくない。

 作戦内容は至ってシンプル。Bクラスの生徒が島中に散らばって、他のクラスを監視するのだ。リーダーを見抜くのは難しいだろうけど、「リーダーがバレるかも」という警戒心を与えて相手の動きを鈍らせることは出来る。

 この作戦の良いところは、スポットの占有を完全に諦めることで情報伝達系の形成に労力を掛けなくて済む点だ。占有を狙うクラスに比べて広く、多く、自由に展開できる。

 

 僕が今日Bクラスに行かなかったのは、つまりそういうことだ。向こうのキャンプにはきっと十人も残ってないんじゃないかな。連日僕が付きまとっている金田君も森に出ている可能性が高いし。

 リーダーがリーダーとして働く場面が無いので、スパイ容疑の彼を同伴させても問題ないのだ。人の少ないキャンプに残すより、一緒に連れて行った方が安心だと思う。

 

 そんなことを考えていると、人の少ないキャンプに残ったスパイ容疑の少女が僕の所にやって来た。

 

「お前、緒祈真釣だよな?」

 

 ……高圧的な身元確認をされた。初対面なのにお前呼ばわりされた。

 あっれー? もうちょっと控えめな性格の印象だったんだけど、全然そんなことないぞー?

 

 しかし予想外ではあったものの、これはCクラスの生徒と繋がりを作る絶好の機会だ。コミュ力モンスターの櫛田さんでも仲良くなれない相手みたいだから半ば諦めていたんだけど、まさか向こうから声を掛けてくれるとは。さては龍園君に何か聞いてるのかな?

 ちょっくら探ってみるか。

 

「よく知ってるね。僕はクラス内でもそんなに名前を憶えられていないんだけど」

「龍園が言ってた。お前も災難だな、あんな奴に目を付けられるなんて」

「あっははー。君ほどじゃないよ、伊吹さん」

 

 伊吹(みお)

 Cクラスの生徒でありながら、無人島試験初日からずっとDクラスで過ごしているショートヘアの少女。クラスメイトと揉めて追い出されたと言っていたけれど、僕は彼女のことを龍園君が送り込んできたスパイだと断じている。

 それを知ってか知らずか、伊吹さんは釣り竿を持って僕の隣にやって来た。

 

「暇つぶしに手伝ってやるよ。餌、貰っていいか?」

「好きなだけどーぞー」

 

 僕の傍らには簡易トイレ用のビニール袋があって、こつこつ集めたミミズたちはその中で蠢いていた。伊吹さんは虫に触れるのに抵抗が無いようで、躊躇なく袋に手を入れて一匹摘み出した。

 ミミズを針に刺す手つきにも淀みが無かった。経験があるのかもしれない。

 二本目の釣り糸が川に垂れる。

 

「ところで伊吹さん」

「何?」

「他のCクラスのメンバーは皆リタイアして船に戻ったけど、君はどうしてまだ島に残ってるの?」

「……余所者は出て行けって言いたいわけ?」

「いやいや、純粋な疑問だよ。Dクラスにいる君も、Bクラスにいる金田君も、なんでさっさとリタイアしないのかなーって。()()()()()()()()()()()()()()()()()

「そんな回りくどい言い方せずに、『お前はスパイなんだろ?』ってストレートに聞けば?」

「じゃあ聞こうか。スパイなの?」

「違うって答えたら信じてくれるわけ?」

「信じるって答えたら信じてくれるの?」

「……無駄な問答だな」

 

 ため息のように零れたその言葉を最後に、伊吹さんは口を閉ざした。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……」

「……」

 

 再び訪れた独りの時間。それじゃあ次はBクラスについて考えてみようか。

 

 昨日聞いた話だと、BクラスはDクラス同様ベースキャンプ以外のスポットを一度も占有して……あれ? これさっきも考えたよな?

 いかんいかん。あまりに釣れなさ過ぎて、ちょっと眠くなってきた。

 

 えーっと、次は伊吹さんが所属するCクラスについてだな。よし。

 

 Cクラスの現状として考えられるのはざっくり5パターンだ。金田君が島に残っているのかいないのか、龍園君が残っているのかいないのか、この組み合わせで4通り。最後の一つは僕の知らない誰かが残っているパターンだ。

 とりあえず一番有り得そうな龍園君、金田君、伊吹さんの三人が島に残っているパターンを想定しよう。

 

 この場合、リーダーは間違いなく龍園君だ。そうでないなら彼が島に残る理由が無いし、五日程度ならゴキブリ並みの生命力で生き延びるだろう。で、気になるのは彼が今回の追加ルールを把握しているのか否かだ。

 

 BクラスとDクラスにスパイを送り込んでリーダーを当てて、100ポイント獲得と同時に相手にペナルティを与えるというのが龍園君のプランだろう。

 しかしもし追加ルールを知らないのであれば、上手くいっても得られるのは50ポイント止まりだ。

 

 今更律儀に朝の点呼を受けているとは思えないけど、もしも先生から反則すれすれの助言が事前にあったなら可能性はゼロではない。その場合は多少無理をしてでもスポットを狙いに来るかな?

 

 んー……要素が多すぎて複雑になってきたな。ここは一度龍園君の立場で試験を見てみよう。前提条件はCクラスのリーダーが龍園君であること。そして彼が今回の追加ルールを把握していること。

 

 まず計画の根幹であるリーダー当てのためにも、伊吹さんと金田君はそれぞれが潜伏するクラスにスパイであることがバレてはならない。そのためには龍園君が島に残っていることもバレてはならない。彼の存在によって計画の全貌が芋づる式に導かれてしまうからね。

 

 ……あれ?

 確かスポットの端末装置って、今どこのクラスが占有しているのか表示してたよね?

 あっははー! つまり龍園君は追加ルールを知っていても占有は出来ないわけだ。自分が島にいることを教えてしまうから!

 彼にとっては不都合なことに、制限時間内に獲得した占有権は試験終了まで永続される。午後8時の直前に占有すれば日が昇る前に占有権が消えるからバレるリスクは小さい――という手段も使えないわけだ!

 

 可哀想になるくらい龍園君のプランと相性の悪いルールだな。いやほんと、どれだけ日頃の行いが悪いんだか。それともまさか、僕があげた『(ひずみ)』のお陰だったりして?

 

「はっはっは!」

「な、何だよ急に……気持ち悪い」

 

 幾つかある可能性の内の一つを検証したに過ぎないけれど、他のパターンでも大体似たようなものだろう。

 Cクラス、恐れるに足らず!

 

 というわけで最後はAクラスについて考えようか。

 帆波さんから聞いた葛城君の性格を思えば、お人好しなBクラスやDクラスのようにCクラスの生徒を受け入れることはしないだろう。堅実なプランでポイントの消費を抑えているはずだ。

 

 となると、考えるべき事は特に無いのかな?

 既にトップに立っているAクラスには積極的に攻める理由があまり無い。多分今回の追加ルールでも、Bクラスと同じで他クラスの邪魔だけしてるんじゃないかな?

 となると正面から取り組んでるのはDクラスだけか。こりゃ大変だぞー。

 

「はぁ……」

「急に笑ったと思ったら今度は溜め息かよ。お前、気味悪いな」

 

 意識を一旦現実に戻す。僕が考え事をしている間に、伊吹さんは早くも二匹釣り上げていた。すっごーい!

 でも餌に使ってるミミズは僕が集めたやつだからね、半分は僕の手柄みたいなものだろう。アシストあってのゴールだ。

 

「あっ、また釣れた」

「ええっ!?」

 

 早い早い早い。マジかよ。もう三匹目かよ。ハットトリックかよ。僕なんて川にミミズを浸しているだけなのに。

 

 ……早いと言えば、伊吹さんが所属するCクラスは改めて考えると随分と早く撤収したなあ。

 三日目の夕方にはいなかったから長くても二泊三日。ビーチを満喫するには十分な時間だ。しかしこれが高校生活最後の海かもしれないのだから、もう一泊所望するグループがいても良さそうじゃないか?

 単純に飽きたのか、それとも()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。あんな綺麗さっぱり片付けて……綺麗さっぱり?

 

 そういえば、Cクラスがポイントで購入した物資はどうなったんだ?

 集団リタイア後に学校が回収したものと思っていたけれど、島にまだCクラスの生徒が残っている以上それはおかしくないか?

 返却しますと言えば回収してくれるのかもしれないけど、考えられる回収先が他に無いわけでも無い。例えば――Aクラスとか。

 

「ねえねえ伊吹さん」

「何?」

「CクラスとAクラスって繋がってるの?」

「……なんで?」

「なんとなく」

 

 もしそうであるならば、謎に包まれたAクラスの動きもある程度推測できる。

 

「悪いけど私は龍園の考えなんて知らないし、知りたくもない。お前も気を付けた方が良いよ。あいつはやる事為す事滅茶苦茶だから」

「心配してくれるのかい? 優しいね」

「心配なんかしてねーよ! ただ、Dクラスには世話になったからな。せめてもの忠告だ」

「そう。じゃあ、ありがたく受け取っておくよ」

 

 上手いこと話を逸らされてしまったけど、それもまた一つの回答だ。得るものはあった。

 まあ、得たところで使い道は無いんだけどね。たとえCクラスとAクラスの計画を完全に見抜いたところで、僕が何をするわけでもないし。

 

 あーあ。途中の経過はともかくとして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。なんかもう無人島にも飽きちゃったし、さっさと終わんないかなー。でも終わったら終わったで船なんだよなー。嫌だなー。

 

「ふぁ~あ」

 

 集中して頭を使い過ぎたみたいだ。瞼が重くなってきた。船は嫌いな僕だけど、こっくりこっくり船を漕ぐ。

 

 隣にスパイの女の子がいるけれど、別にいーよね。僕リーダーじゃないし。

 

 ああ、もう無理です。

 おやすみなさーい。

 

 

 

 081

 

 

 

「おい、起きろ。クラスの連中が帰ってきたぞ」

「……あさ?」

「違う」

 

 伊吹さんに体を揺すられて目が覚めた。

 僕は大きな石の上で胡座をかいて、釣り竿を抱えていた。

 

「……腰が痛い」

「そんな姿勢で何時間も寝てたら、そりゃそうなるだろ」

「ふうん?」

 

 学校に支給されたハイテク腕時計を見ると時刻は15時50分だった。結構寝ちゃったな。というか、よく寝られたな。

 上流のキャンプからは、眠りに落ちる前には無かった話し声がたくさん聞こえていた。どうやらスポットを探しに行っていた人たちが帰って来たようだ。って、さっき伊吹さんが言ったっけ。

 

「んーっ!」

 

 両手を高く上げて背筋を伸ばすと、体中がバキバキと鳴った。よし、目が覚めて来た。

 

 傍らのビニール袋を見ると、釣りの餌にと集めたミミズが一匹もいなかった。伊吹さんが川の幸にグレードアップしてくれたようだ。彼女が抱えているバケツを覗き込むと、魚や蟹がうじゃうじゃしていた。

 釣り竿を回収し、フィッシャー伊吹に「戻ろうか」と声をかける。餌は尽きたし、これ以上釣っても食べきれない。

 

 足場が悪いからうっかり転んで川にダイブしないよう、寝起きの頭で精いっぱい注意深く歩く。

 その時ふと気付いた。僕の中の『歪』が減っている気がする。よく分かんないけど、なんとなくそんな感じがする。

 寝ている間に無意識に発散してたのかな? とりあえず周囲に被害らしい被害は見受けられないので良しとしよう。

 

 1分ほど歩いてキャンプに戻ると、そこではDクラスの面々が明るく談笑していた。スポットの占有は上手くいったようだ。

 

「お、珍しい組み合わせだね」

 

 伊吹さんと共に釣果を持って行くと、櫛田さんに遭遇した。食料置き場にはスポットの(ついで)に見付けたのであろうフルーツや野菜が大量に並んでいた。

 わあすごい。でもこっちも負けてないぞー。

 

「わあすごい! 大漁だね!」

「全部伊吹さんが釣ったんだよ」

「へー! 伊吹さん、釣り得意なんだね!」

「……別に」

 

 櫛田さんに褒められた伊吹さんは、なぜか眉間に皺を寄せて僕を睨んできた。え、なんで? そんな表情を向けられる覚えはないんだけど、寝ている間にやっぱり何かあったのかな?

 まるで『釣り上げたのは私だけど魚が掛かったのは眠っている緒祈が抱えていた竿だった、ということが何回もあったから釣果の全てを私の手柄にされて微妙な気分だ』みたい顔をしているけど……。

 

 結局その奥にある感情が何なのかさっぱり分からないまま伊吹さんとは別れた。それから釣り具を道具置き場に戻し、半ば定位置となっているキャンプの端に移動して腰を下ろした。

 

 しばらくぼーっとしていると綾小路君がやって来て、僕の隣に座った。

 

「伊吹と仲良くなったのか?」

「全然だよ」

「一緒に釣りをしていたと聞いたが」

「あれは一緒にと言えるのかなあ……」

 

 伊吹さんが来てからはほとんど寝てたからなあ。

 

「そっちはどうだったの? クラスの雰囲気を見るに上手くいったみたいだけど」

「ああ。ツリーハウスを見付けて無事占有できた」

「それは良かった」

 

 そんな目立ちそうなものが今まで発見されていなかったことに驚くけど、まさか木の上にスポットがあるとは誰も思わないか。ちょっと蔦なんかでカモフラージュすれば気付くのは難しいのかな。

 

「そういえば途中神崎に会ったぞ」

「昨日も一昨日も会ってなかったっけ? 君たちこそ仲良いよね」

「ただの偶然だ。Bクラスはスポットの占有はせず、他クラスの妨害に専念しているそうだ」

「そっかそっか」

「……予想通りか?」

「うん。大方Dクラスもスポットは早い段階で見付けたけど、その後はBクラスの真似をしたんじゃないかな?」

「ご明察だ。ベースキャンプの更新のために一度戻ってきたが、何人かはまた森に入るつもりらしい」

「へえ」

 

 それは随分と元気なことで。僕なんか川べりで寝てたってのに。

 他クラスを含め多くの生徒が昨日までより活発に動いたであろう今日この日に、僕はむしろ今までで一番動かなかった。運動らしい運動といえばミミズを採取したことくらいだ。

 

 伊吹さん(Cクラスの生徒)とコネクションを作る良い機会だったんだけど、それすらふいにしちゃったからなあ……。

 言い訳をさせてもらうと、何を聞いても話を逸らしてくる伊吹さんがちょっと面倒になったんだよね。あと単純に眠かった。とにかく眠かった。面倒になったのも眠かったからだ。眠気が諸悪の根源なのだ。

 でもまあ面識を持つことは出来たから、一先ず良しとしておこう。上手くいけば夏休み中に連絡先の交換くらいは出来るだろう。

 

 そんな風にいつもの如く思考を巡らせていると、(にわか)にクラスの生徒たちが騒めきだした。空を見上げて、指差して、不安そうな表情の人がちらほらと見受けられる。

 

「なんだろうね」

「行ってみるか」

 

 僕たちが座っている場所からは木が邪魔で、皆が見ているものが見えなかった。綾小路君と共にキャンプの中央まで移動して、南西の空を見上げる。そこにあったのは――

 

「煙だね」

「煙だな」

 

 煙だった。雲一つない青空に伸びる一本の灰色があった。

 周りのクラスメイトはあれこれと憶測を並べているけど、山火事や噴火なら学校側から何らかのアナウンスやアラームがあるだろう。それが無いということは、差し迫った危険は無いということだ。

 

「Bクラスのキャンプがある方角だが、何か心当たりはあるか?」

「うーん……目印じゃない? 島中に散らばったBクラスの生徒がキャンプに無事帰って来られるための灯台代わりとか」

「そんな上手く機能するか?」

「上手く機能するように、事前に上手いこと指示を出してるんじゃない? あれが迷子対策の本命というわけでもないだろうし」

「それもそうだな」

 

 帆波さんなら迷子になった時の対策だけでなく、そもそも迷子にならないための対策もしていることだろう。不安が残る状態でクラスメイトを森に放つことはしないはずだ。

 まあ、あの煙が迷子対策と決まったわけでは無いけどね。

 

「焼き芋に興じているだけかもしれないし」

「こんな真夏に?」

「……無いね」

 

 一番不愉快な可能性は金田君による放火なんだけど、それも流石に有り得ないだろう。メリットらしいメリットが無い割に、学校にバレたらプライベートポイントを全て没収されるレベルの悪行だ。

 でも実行はそんなに難しくないのかな。マッチやライターが無くても、眼鏡を使えば収斂(しゅうれん)発火とか出来そうだし。

 

 結局詳細は不明のまま、出所がBクラスのキャンプからなのかも定かではないまま、日没を前にその煙は姿を消した。

 

 そして午後8時。点呼の時間。

 

「これ以降はスポットを占有しても通常通り8時間で占有権は消失し、得られるポイントも1ポイントずつとなる」

 

 第三の追加ルールに踊らされた12時間が終わった。

 

 各クラスがどれだけのポイントを、そしてどんな情報を得たのか。

 あるいはどれだけのポイントを失い、どんな情報を奪われたのか。

 

 真相は全てが終わった時、結果発表にて明らかになる。

 

 無人島試験終了まで、残り63時間57分。

 

 

 



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082-084 無人島の雨

 

 082

 

 

 

 無人島試験五日目。

 昨日はスポットを見付けてあんなに明るい空気だったのに、今朝の()()は一体何事だろうか。朝早くからDクラスのベースキャンプに響いたのは、女の子たちの荒々しい怒声だった。

 

「いつまで寝てんだクソ男子!」

 

 ある種の性癖の持ち主には喜ばれそうな目覚ましボイスだけど、残念ながら僕にその種の性癖はなかった。……別に残念でもないか。

 

 昨日たっぷりと昼寝をしたお陰か、僕はすんなり起きられた。同じように体を起こしたクラスメイトも数人いた。

 一方で一部の男子は一日中森の中を歩き回った疲れもあってか、外がこんなにも騒がしいのにすやすやと眠っている。彼らを起こさぬよう静かに間を縫っていく。

 

 テントの外に出て顔を上げると、空には雲がびっしりと詰まっていた。太陽がどこにあるのか分からない程だ。雨が降るかもしれないし、今日もBクラスに行くのは止めておこう。

 

 いや、天気より気にすべきは不機嫌さを隠そうともしない女の子たちの方か。何があったのか知らないけれど、雨より先に彼女たちから雷が落ちそうだ。

 理由も分からないまま睨まれるのは嫌な気分だなあ、なんて考えていると綾小路君が隣にやって来た。

 

「おはようRPG君」

「それはオレが平凡な高校生を演じていることに対する皮肉か?」

「……え?」

「……オレの考え過ぎだったな。忘れてくれ。ところで、そんな楽しげなワードが似合う空気ではないようだが、何があったんだ?」

「さあね。僕が起きたときにはもうこの状態だったから」

 

 まだ寝ている人たちを平田君が起こしに行って、2分ほどで全員がテントから出て来た。寝惚けている男子もいたけれど、女子から向けられている敵意に満ちた視線に只ならぬ事態が発生していることを悟る。

 

 さてさて何が始まるやら。

 男子を代表して平田君が話を聞く。

 

「こんな朝早くにどうしたんだい?」

「ごめんね平田くん。平田くんには関係のない話なんだけど……どうしても男子に確認しなきゃならないことがあるの」

 

 そう答えたのは、池君とよくいがみ合っている園原(そのはら)という女子だった。櫛田さんや軽井沢さんには及ばないものの、彼女もまたDクラス女子の中では中心的な人物だ。

 園原さんは平田君を除く男子全員に対し、侮蔑を込めた目を向けてくる。

 

「今朝、軽井沢さんの、その……下着がなくなってたの。これがどういう意味か分かる?」

「え……下着が……?」

 

 いつもは冷静沈着にクラスを纏めている平田君だけど、思いもよらない出来事に動揺を隠せない様子だ。

 園原さんは言葉を続ける。

 

「今、軽井沢さん、テントの中で泣いてる。櫛田さんたちが慰めてるけど……」

 

 言われてみれば両名の姿が見当たらない。なるほど、だから園原さんが女子代表で話しているのか。

 これが櫛田さんであれば、落ち着いて冷静な議論が出来たかもしれない。しかし園原さんは攻撃的というか、沸点が低い印象だ。池君と言い争っている姿しか記憶にないからかもしれないけど、どのみち男子(こっち)にはその池君がいる。荒れることは避けられないだろう。

 

 池君は未だに事の重大さを理解していない様子でこう言った。

 

「え? え? なんで下着がなくなったからって俺たちが睨まれてんの?」

「そんなの決まってるでしょ! 夜中にこの中の誰かが鞄を漁って盗んだんでしょ! 荷物は外に置いてあったんだから、盗ろうと思えば盗れたわけだしね!」

 

 池君の能天気な発言に、園原さんの怒りが爆発した。あーあ。

 

 確かにテントを広く使うために鞄は外に出していた。しかし女子の鞄を漁るなんてのは、万が一誰かに目撃されればベースキャンプから締め出されるレベルの蛮行だ。そんなことも分からない愚か者がいるだろうか?

 ……いるかもしれない。Dクラスだし。

 

「いやいやいやいや! え!? え!?」

 

 自分が被疑者の一人であることにようやく気付いた池君は、慌てた様子で男子と女子を交互に見やる。その姿に思うところがあったのか、一人の男子が冷静な声で呟いた。

 

「そういや池、おまえ昨日……遅くにトイレに行ってたよな。結構時間かかってたし」

「いやいや! あれは、その、暗かったから!」

「ほんとか? 軽井沢の下着盗んだの、おまえじゃないのか?」

「ち、違うってば!」

 

 そこからは見るに堪えない罪の(なす)り付け合いが始まった。お前がやったんだろう、とか。そんなこと言うお前の方が怪しい、とか。

 僕はその輪には入らず、同じように傍観している綾小路君に話を振る。

 

「平田君は凄いよね。女子だけでなく男子も皆、彼が犯人である可能性を微塵も考えちゃいない。日頃の行いってのは、こういう非常事態にこそ活きるみたいだ」

「平田が疑われないのは普段積み上げている信頼もあるが、軽井沢の彼氏だからってのもあるんじゃないか?」

「えっ? あの二人、付き合ってるの?」

「知らなかったのか……」

 

 思わぬタイミングで思わぬ新事実が明らかになった。ほへー、全然知らなかったわ。一緒にいるところはよく見るけれど、てっきりクラスのリーダー格同士でつるんでいるだけかと。

 

「ちなみにいつ頃から?」

「6月の頭だったはずだ」

「あー……」

 

 外に繋がりを作ることばかり意識していて、Dクラスに興味が無かった時期だな。目立つカップルの誕生は大きな話題になっただろうけど、全然記憶にないや。

 

 それにしても意外だな。平田君が特定の一人を選ぶタイプだとは思わなかった。ハーレム狙ってそうって意味じゃなくて、もっと広く平等に接する人というイメージだった。『皆の為の平田洋介』を自分に課していると思っていた。

 まあ、彼とはそんなに親しいわけでもないからね。内面を見誤っても仕方ないし、見誤ったところで困ることもない。

 

「あ、もしかして園原さんがあんなに怒ってるのって、もちろん同性として許せないからだろうけど、それだけじゃなくて、『平田君の彼女である軽井沢さん』が被害に遭ったというのも一つの要因なのかな。平田君、人気者だし」

「そうかもしれないな。ただ、あいつの名前は園原ではなく篠原(しのはら)だぞ」

「……えっ?」

「ネタじゃなくて本気で間違えてたのか……」

「あはは。だって園原――じゃなくて篠原さん、髪の毛そんなに長くないんだもん。それで8割覚えてるんだから、むしろ褒めてほしいくらいだよ」

「人の名前を8割覚えていると言われても、残りの2割も覚えろよとしか思わないぞ」

「だよねー」

 

 そんな感じでクラスに馴染めていない男同士で雑談をしている間に協議は進んでいた。どうやら男子が鞄を見せるという流れになったらしい。

 盗んだ下着を犯人が馬鹿正直に自分の鞄に入れるとは思えない。だから鞄を確認してもらうのは無実を証明するためというよりは、犯人探しに協力する姿勢を見せるためだろう。

 女子が冷静になるまでの時間稼ぎでもあるのかな。今の怒り心頭な彼女たちは、とてもじゃないけど建設的な話が出来るようには見えない。

 

 綾小路君と共にテントの前に鞄を取りに行き、持ち物検査の列の最後尾に並ぶ。

 鞄の中を確認しているのは女子ではなく平田君だった。改めて凄い信頼度だな。茶柱先生の何百倍も信頼されていそうだ。

 

「綾小路君も……うん、大丈夫だね」

 

 幸か不幸か列は順調に消化され、残るは僕一人となった。

 誰の鞄からも下着が見つからないまま、最後の一人である僕の番が回ってきた。嫌な予感がむんむんするけれど、今さら何をどうすることも出来ない。

 

「最後は緒祈君だね」

「はいどーぞ」

 

 僕は()()()()()()()()()()()()()()を平田君に差し出した。その中を覗き込んだ彼は――

 

「えっ?」

 

 驚きの声を上げた。

 

 驚きの声を上げてしまった。

 

 それは、彼の後ろに控えていた女の子たちにも十分に聞こえるボリュームだった。

 

 そっか……。

 そうなっちゃったか……。

 

「平田くん、どうしたの?」

「あ、いや――」

「まさか緒祈くんの鞄に!?」

「軽井沢さんの下着が!?」

 

 平田君は一瞬誤魔化そうとしたけれど、油を注がれた炎のような女の子たちの勢いが場を一気に呑み込んだ。荒ぶる彼女たちは平田君の手から僕の鞄を奪い取り、その中にある物を確認する。ある物を視認する。

 

 そして。

 

「これ……!」

「下着だ!」

 

 蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

 

「きもい!」

「変態!」

「死ね!」

 

 ある種の性癖の持ち主には喜ばれそうな罵倒の数々だけれど、残念ながら僕にその種の性癖はなかった。

 そして何よりも残念なのは、軽井沢さんの下着が僕の鞄から出てきたことだ。おいおいやめてくれよ。誰だよ入れたの。

 

「緒祈、おまえ……」

「大人しそうな顔してるくせに」

「そんな男だとは思わなかったぞ!」

 

 女子のみならず、男子からも侮蔑の視線が飛んでくる。

 ありゃりゃ。物の見事に純度100パーセントの冤罪を被せられてしまった。これは流石に予想外の展開だ。

 

 とはいえ慌てるほどの事態でもない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「まあまあそう騒がずに、とりあえず僕の話を聞いてくれよ」

 

 40人の視線を受けながらも泰然自若に反論を開始したこの時の僕は、全く想像できていなかった。まさかあれほどまで話を聞いてもらえないなんて、思ってもみなかった。

 

 

 

 083

 

 

 

「クソッタレが!」

 

 これだから馬鹿は嫌いなんだ!

 まるで話が通じやしねえ!

 

 俺が本当に犯人なら盗んだ下着を自分の鞄に入れとくわけないだろ! 森の中にでも隠すわ!

 それにタイミングだっておかしいだろ! 最終日の早朝に盗めば犯人探しの時間を短く出来るのに、なんで5日目に盗むんだよ! どう考えてもDクラスを掻き回すための罠だろ!

 

 そもそも軽井沢の下着になんか興味ねーよ!

 

 あーもーイライラする。

 どいつもこいつも知能指数が低すぎる。

 

 篠原だか園原だか知らねーけど、自分のが盗まれたわけでもないのにぎゃーぎゃーうるせえんだよ。

 なにが「言い訳するな!」だ。俺の話を理解できるほどの脳みそが無いだけだろーが。黙ってろ猿女。

 

 本っっっっ当に不愉快だ。

 どいつもこいつも俺より頭が悪いくせに声だけはやたらデカい。その口いっぱいにミミズを詰め込んでやりろうか。

 

「…………なーんてね」

 

 僕はDクラスのキャンプから一人離れて、昨日釣りをした場所よりもう少し下った河原にいた。

 つい先程までは手頃な石を拾い上げて苛立ちに任せてそれを水面に叩きつけていたけれど、腕が疲れたので止めた。非生産的な行為を終えると同時に、脳が平静を取り戻す。

 

 我ながら何をやっているんだか。感情に身を委ねて思考を放棄したのでは、あの無能な連中と変わらないじゃないか。それじゃあダメだろう。周りより多少頭を使えることこそが、僕の唯一の武器なのだから。

 さて、落ち着いたところで状況を整理しよう。

 

 鞄から軽井沢さんの下着が出てきた僕は、安直なマジョリティによって下着泥棒だと決めつけられた。

 もちろんそのような事実は無いので、僕は理論的に否定した。しかしあの馬鹿共には少々難しい話だったのか、誤解を解くことは出来なかった。

 

 無実にもかかわらず大人数に一方的に責められるという初めての経験の所為か、自分でも驚くほどに心を乱されていた。それでも『歪』を撒き散らさないよう自重できたのは幸運なことだろう。僕にとっても、能の無い彼らにとっても。

 

 決してDクラスの全員が全員救いようのない馬鹿だったわけでは無い。あの場には、僕を犯人と決めつける空気に疑問を抱いている様子の人もいた。つまり話の通じそうな人ってことだ。これは収穫と言っていいだろう。

 下着泥棒扱いされるのは全くもって嬉しくないけれど、この状況は決して不都合なだけではない。

 

 いつものように思考を巡らせていると、キャンプの方から誰かがやって来た。河原の石が踏まれて崩れる音に顔を上げると、そこにいたのは平田君だった。

 

「緒祈君……」

「やあ平田君。こんなところで会うなんて奇遇だね」

「……」

 

 平田君は僕の軽口には応えず、手を伸ばしてもぎりぎり届かない位置に腰を下ろした。引け目でも感じているのだろうか。決して僕と目を合わせようとはしなかった。

 絶えることなく刻々と変化する川面を目に映しながら、彼は僕に質問した。

 

「軽井沢さんの下着……緒祈君が取ったの?」

「違うよ。さっきも言ったけど、そんなことをしても僕には何のメリットも無い」

 

 正直に、率直に答えた。

 自分の彼女の下着を無価値だと言われたようなものなのに、平田君は特に気にした様子も無く「そうだよね」と答えた。そして悔しそうに唇を噛んだ。

 

「ごめんね。僕が篠原さんたちを説得できればよかったんだけど」

「謝る必要はないさ。碌に頭も使わず僕のことを犯人と決めつけた連中にムカつきはしたけれど、平田君が気に病むことじゃない」

「でも……僕が驚いた声を抑えていれば、もっと穏便に解決することも出来たと思うんだ」

「……」

 

 穏便に、か。

 あの騒動を穏便に納めることなんて出来ただろうか? たとえ『実は盗まれていませんでした』というオチだったとしても、不当に犯人扱いされた男子の不満は残る。

 

 いや、まあ、手がないわけでもないんだよな。伊吹さんにヘイトを集めることが出来れば、Dクラスに平穏をもたらすことは十分に可能だ。そしてそれは、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 これが穏便な解決策と呼べるかは怪しいけれど、平田君も同じ考えだったりするのだろうか?

 

 案外彼は犯人の正体も犯行の動機もどうでもよくて、とにかくクラス内の不和を解消したいだけなのかもしれない。言葉の選びや話し方から、なんとなくそう感じた。リーダーシップのある爽やかイケメンだと思っていたけれど、実は何か闇を抱えていたりして。

 そう考えると彼の過去に興味が湧いてくるけれど、そちらは一先ず置いておこう。下着泥棒の件に思考を戻す。

 

「終わったことを言っても仕方ないさ。僕は全然全くこれっぽっちも気にしてないから、平田君も気にしなくていいよ」

「でも……」

「それでももし君が罪悪感を抱えていて何か罪滅ぼしをしたいと言うなら、しばらく待ってほしい」

「待つって……何を?」

()()()()()()()()()()()()()()。その時、僕のことを変態だ最低だと罵った連中に謝罪をさせてほしいんだ」

「ええっ? 緒祈君には真犯人が分かっているのかい? それなら――」

「いや、犯人探しはこれからだよ。でも、多分そうなる。きっと、恐らく、そうなるはず。そうなってくれたらいいな」

「自信の無さが尋常じゃないね……」

 

 下着を盗んだ真犯人に自白をさせることは決して不可能ではない。しかし成功率は高く見積もっても60パーセント程度だ。現段階ではとてもじゃないけど断言はできない。

 本当は、平田君にはもう少し算段が立ってからこの話をしたかった。ただ、今を逃すと次はいつ彼と二人きりで話せるか分からないから。余計な気苦労を掛けてしまうかもしれないけれど、今のうちに頼んでおく。

 

「きちんと謝ってもらえれば、こちらには許す用意がある。だから、もし真犯人が判明しても篠原さんたちに謝罪する気配がないようなら、その時は平田君に背中を押してあげて欲しいんだよ。僕としてもクラス内に禍根を残したくはない」

「分かった。確かに篠原さんたちの言葉は度が過ぎていたからね」

「自発的に来てくれるならそれでいいんだけどね。ああ、でも、欲を言うなら船に戻ってからがいいな」

「それはどうして? 島にいる間に解決した方が良いと僕は思うけど」

「あはは。ちょっとした小賢しい小細工だよ。気にしないでくれ」

 

 作戦と呼べるほど大したものじゃない。『船上で弱っている僕』に謝ってくれた方が、篠原さんたちの罪悪感を掻き立てられるのではないか――という少々嫌がらせじみた思惑だ。

 

 果たして僕の頭にあるプランがどれほど上手くいくかは分からないけれど、まあ、なんとかなるだろう。ならないならならないで、その時はまた別の手を打つだけだ。

 

「じゃあ、そういうことで。よろしくね」

「うん。僕はキャンプに戻るよ」

「ばいばーい」

 

 来た時よりは幾らか晴れた表情で、平田君はベースキャンプへと帰って行った。

 クラスのまとめ役として誰にも相談できない悩みとかあるんだろうなあ。というか、現在進行形で彼の頭を悩ませているのが僕なんだけど。不本意とはいえ申し訳ない気持ちがないこともない。

 

 それからしばらくして、何をするでもなく時間を消費している僕の所に、今度は綾小路君が来た。

 

「よう」

「やあ」

 

 彼は僕の隣、手を伸ばせば肩を掴めるくらいの位置に座った。

 

「災難だったな」

「確かに災難ではあるけれど、決して最悪ではないよ。この状況はこの状況で使い道がある」

「ほう。意外とポジティブだな」

「過去に囚われていないだけだよ」

 

 より正確に言うならば、起きてしまった悲劇はさっさと諦めて受け入れるというのが僕のスタンスだ。意図しない結果ばかり与える『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』を患っている以上、そういう心持ちでなければ生きていけない。

 尤も、今回の一件が『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』によるものなのか、それとも真犯人が意図的に僕を狙ったのかは不明だけど。

 

「クラスメイトと交流を深めていなかったのが仇になったな。一部を除いて、ほぼ全員が犯人は緒祈だと思い込んでいるぞ」

「その()()()()()()を知れたことが一つ目の収穫だね」

 

 僕に対する罵詈雑言が飛び交うキャンプで、一歩引いて思案に耽っている生徒が何名かいた。綾小路君と堀北さん、そして三宅君と長谷部さんと、あと名前を知らない人もちらほらと。

 Dクラス内にもネットワークを築こうとは思っていたので、今回の一件はその相手を見極める良い機会になった。

 

「一つ目の、と言うなら二つ目もあるのか?」

「罪を擦り付けられただけの僕に対し、クラスの8割が汚い言葉を浴びせて、更にはキャンプから追い出したんだ。もし真犯人が判明したら、彼らは否応なく罪悪感を抱えることになるだろうね」

「それでDクラスでの地位を確立する気か」

「地位なんてものは考えちゃいないけど、それなりの武器にはなる」

 

 彼ら彼女らに良心の欠片があるのなら、『可哀想な緒祈真釣』を無下に扱うことは出来なくなるだろう。例えば()()()()()()()()()なんかを聞いてもらいやすくなるかもしれない。

 

 事態が好転せずに僕がいじめられる可能性もゼロではないけれど、その時はその時だ。証拠を集めて躊躇なく学校に報告してやろう。僕を傷つけようとする連中は停学にでも退学にでもなればいい。

 まあ、平田君がいる以上、Dクラス内でそう分かりやすくいじめが起こるとは思えないけど。

 

 そこら辺の話は一旦置いておこう。

 それよりなにより、まずは僕に罪を被せた厄介者をどうにかしなくちゃ……いや、違うな。下着泥棒の正体はこの際どうでもいい。僕に着せられた汚名を晴らすことが出来れば、とりあえずはそれでいい。

 

「真犯人の目星は付いてるのか?」

「願望も込めて十中八九伊吹さんだね。彼女と話がしたいから、ここに呼んでくれない?」

「それは構わないが……」

「?」

 

 綾小路君はそこで一度言葉を切った。そして黙ったまま十秒程考え込み、再び口を開いた。

 

「オレたちの契約は覚えてるか?」

「契約ってほど堅苦しいものという認識はないけれど、そりゃあもちろん覚えてるよ」

 

 綾小路君が目立たず高校生活を送るために、そして僕がAクラスで卒業するために、互いに協力し合う約束を僕たちは交わした。ただ何か事情があるようで、綾小路君は現在Aクラスを目指す姿勢を見せている。詳しい事情は聞かれたくないようなので聞いていない。

 

「今回の特別試験でオレはDクラスが1位になるように動いているが、その全てをお前と堀北の手柄にするつもりだ」

「どうぞどうぞ、お好きなように」

「代わりに伊吹について、オレが得ている情報を教えておこう」

「へえ? そいつは有り難いね」

「まずお前の予想は正解だ。軽井沢の下着を盗んだ犯人は伊吹で間違いない」

 

 間違いない。綾小路君はそう力強く断言して、彼がこの島で人知れず収集した情報を教えてくれた。

 

 話によると伊吹さんは森の中にトランシーバーを隠していたそうで、しかも同じものを龍園君も持っていたらしい。これにより彼女がスパイであることが綾小路君の中で確定した。さらに伊吹さんの鞄の中からデジタルカメラを発見し、Cクラスの策を見抜いたそうだ。CクラスとAクラスが繋がっていることも見抜いたそうだ。名探偵かよ。

 Dクラスの勝利を目論む名探偵綾小路は策を見抜くに飽き足らず、カメラを壊すことで彼らの計画に罅を入れた。その罅はただの罅ではなく、CクラスとAクラスをまとめて罠に嵌める為の大事な伏線になる。

 

「よく考えているね。それによく動いている。僕とは大違いだ」

「緒祈だって、やろうと思えばこれくらい出来るんじゃないのか?」

「いやいや。僕にそんなバイタリティはないよ」

 

 ほんと、惚れ惚れするほどの行動力だ。感心感心。

 

 でも女子(伊吹さん)の鞄を漁ったことを淡々と語る姿には、正直少し引いた。軽井沢さんの下着を盗んだ真犯人が綾小路君である確率がちょっと上がった。いや、ないよね? それは流石にないよね? 伊吹さんに罪を着せているわけじゃないよね?

 絶対に有りえないとは言い切れないけれど、まあ、ここは綾小路君を信じるとしよう。何でもかんでも疑っていては、思考も話も進まない。

 

「貴重な情報をありがとう。おかげで伊吹さんとも話がしやすくなったよ」

「それは良かった。ただ、一応声をかけてはみるが、あいつが素直に来てくれるとは限らないぞ」

「Cクラスの生徒との繋がりを作れる絶好の機会、みすみす逃したくはないね。上手いこと言って誘き出してよ」

 

 我ながら無茶な要求だと思いつつ、そうお願いする。綾小路君は呆れたように肩を竦めたけれど、彼ならきっと上手く事を運んでくれるだろう。

 

 人任せな僕が能天気にでも見えたのだろうか。綾小路君はこんな的外れなことを言った。

 

「意外と平気そうだな」

「ん?」

「下着泥棒の汚名を被せられて少しは落ち込んでいるかと思ったが、お前にとってはむしろ都合が良かったみたいだな」

「いや、いやいやいや」

 

 その誤解は嬉しくない。冤罪を被せられて喜ぶ人間だとは思われたくない。ここはしっかりと否定しておかねば。

 

「確かに今朝の一件には僕にプラスにはたらく面もあるけれど、それは無理矢理都合よく解釈しているだけだよ。変態扱いされたことはショックだし、これでも結構傷付いてる」

「じゃあ、どうしてチェックを受ける前に鞄の中身を確認しなかったんだ?」

「僕は潔癖症というわけではないけれど、それでも他人の下着なんてものは見たくも触りたくもないからね。万が一に備えて開けなかっただけだよ」

「で、その万が一を引き当ててしまったと」

「そういうこと」

 

 それに、たとえ下着の存在を事前に察知していたとしても、あの状況で鞄を(まさぐ)るなんて怪しい動きは出来ない。もし女子に見咎められたら僕個人が徹底的に調査され、いずれ下着も見付かる。逃げ道は無いだろう。

 結果的に変態扱いされてしまったけれど、それでもあの場ではベストな行動だったんじゃないかな? 後々真犯人が判明した際、『緒祈真釣は件の下着に指一本触れていなかった』という事実は、きっとクラスメイトに良い印象を与えるはずだ。

 

 だから、先々のことは大丈夫だから、あとは僕が伊吹さんをどれだけ思い通りに動かせるかだ。交渉や取引と言った類は決して得意分野ではないけれど、だからと言って避けるわけにもいかない。人任せにできるものでもない。

 

「それじゃあ、伊吹さんをよろしく」

「ああ。善処する」

 

 ベースキャンプに帰る綾小路君の背を見送りながら、これからの展開を考える。

 

 伊吹さんを呼んでもらったのは取引をするためだ。彼女に真犯人として名乗り出てもらい、間接的に僕の無実を周知してもらう。そしてその見返りとして、こちらからはプライベートポイントを幾らか払うつもりだ。

 

 もしも伊吹さんが三年間の高校生活をずっと龍園君の下で過ごすつもりの小人物であるならば、この取引は成立しない。しかし彼女はその程度の人間ではない、と思う。少なくともスパイとしてDクラスのリーダーを当てるという大任を負っている以上、愚か者ではない。他クラスに話せる相手がいることのメリットは理解できるはずだ。

 

 とはいえそもそも交渉のテーブルについてもらわないと話が進まない。綾小路君を介した僕の呼び出しに、果たして素直に応じてくれるだろうか? 高い確率で来てくれると思うんだけど……。

 

 まあ、来るにしても時間はかかるだろう。誰かに見られている状況では、僕の所に足を運ぶのは躊躇われるはずだ。焦らず慌てず、気長に待つとしよう。

 

 ――それから2時間ほど経過して、不機嫌そうな伊吹さんが現れた。

 

 

 

 084

 

 

 

 無人島試験六日目。

 長いようで短かったこの試験も、気付けば残り2日となった。

 

 依然として下着泥棒扱いされている僕は今日もまた、クラスメイトからの無言の圧力に押されてベースキャンプを離れていた。

 監視を付けもせず一人にさせるのは、客観的には「それでいいのか?」と疑問を覚える処遇だけど、僕としては好都合だ。そのおかげでクラスメイトにバレずに伊吹さんと話ができたのだから。

 尤も、昨日の交渉がどれだけ実を結んでくれるかは不明だ。契約書も誓約書もない取引だし、そもそも伊吹さんから明確な返事は聞けていない。

 

 伊吹さんは、軽井沢さんの下着を盗って僕の鞄に入れたことは認めてくれた。Dクラスのリーダーを探りに来たスパイであることも自白した。ただ、そんなことはどうでもいいのだ。真実がどうであれ、重要なのは彼女が下着泥棒であると名乗り出てくれるかどうかだ。

 そのために僕が出せる幾つかの報酬を提示したり、僕に貸しを作ることのメリットをプレゼンしてみた。しかし残念ながら伊吹さんは考え込むばかりで、明確な返事はくれなかった。はっきり断られなかっただけでも良しとすべきだろうか?

 

 伊吹さんが動かないなら次の手を打つ必要があるので、一応期限は設けておいた。8月10日、船に乗って3日の内に篠原さんたちの謝罪が聞ければそれでいいと、僕なりに譲歩した案を提示した。平田君に話を通せば上手く取り計らってくれるだろうとアドバイスもした。

 思いつく限り出来ることはした。後は伊吹さん次第だ。

 

 本日8月6日の朝の時点では、まだ伊吹さんが動いた様子は無かった。というわけで僕は相変わらず犯人扱いされている。

 

 正直、滅茶苦茶暇だ。

 もし噂が届いていたらと考えるとBクラスに遊びに行くことは出来ない。Dクラスのために何か出来るような空気でもないし、これと言って出来ることもない。僕個人のやりたいことは、昨日の内に全て終わっている。

 

 そんなわけで何をするでもなく、木の影が時計回りにゆっくりと動くのを眺めていた。昼を過ぎると次第に空を灰色の雲が覆い、木の影はその輪郭を失った。

 それからしばらくして、雨がパラパラと降り始めた。僕はベースキャンプに戻ることにした。

 

 ベースキャンプではDクラスの面々が何やら騒いでいた。どうやら小火(ぼや)騒ぎがあったそうだ。各クラスに一冊ずつ支給されている試験のマニュアルが燃えたらしい。

 昨日に引き続き空気が悪いなあと呑気に考えていると、何故かまた僕が犯人扱いされてしまった。下着泥棒に続いて放火魔の称号まで獲得してしまった。

 

 え、なんで?

 意味分かんない。

 

 ただ、誰よりも噛み付いてきそうな篠原さんは何故か僕に何も言ってこなかった。一瞬だけ目が合ったんだけど、後ろめたいことでもあるのかすぐに逸らされてしまった。

 ひょっとすると伊吹さんが動いたのかもしれない。キャンプを見渡しても彼女の姿は見えなかったので、リタイアして船に戻ったのだろう。あ、その前に島に潜んでいる龍園君と会うんだっけ。

 

 夕方と呼べる時間帯が終わりを迎えるにつれて、雨は勢いを増していた。

 僕は多くのクラスメイトから変態放火魔と認識されていて、正直このキャンプでは肩身が狭い。しかし土砂降りと言っても過言ではない激しい雨だ。一人で夜の森に入るのは流石に命の危険を感じたので、図太く無神経を装ってベースキャンプに居座った。

 

 夜8時の点呼の時には、伊吹さんに続いてさらに二人の姿が無かった。

 一人は堀北さん。体調不良でリタイアとのことだった。

 もう一人は綾小路君。今頃リーダーになってキーカードを受け取っているのだろう。

 

 明日はいよいよ無人島試験最終日。

 

 僕が一切接点を持たなかったAクラスは、後半は会えなかったけど把握している限り一番上手に動いていたBクラスは、他クラスの裏をかくことに終始したCクラスは、そして初日の高円寺君の離脱や男女での衝突に始まり昨日今日も散々だった我らがDクラスは、果たしてどのような結果を出すのだろうか。

 

 無人島の雨がテントを叩く。

 その音が気になったからなのか、それとも心が平常運転できていないのか、僕はしばらく眠れなかった。

 

 

 

 




10万UA突破ありがとうございます。




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085-086 試験がひとつ終わっただけの今日

 085

 

 

 

 無人島試験七日目。

 雨は夜のうちに止んだらしく、今朝の空には太陽が輝いていた。地面はまだぬかるんでいるけれど、夏の陽射しがすぐに乾かすことだろう。

 僕のクラス内での扱いも『雨降って地固まる』となってくれたら嬉しいんだけどね。どうなるんだろうね。

 

 僕たちDクラスは一週間お世話になったベースキャンプを片付け、今は砂浜へと移動している。この島に着いて最初に降り立ち、特別試験の開幕を唐突に告げられたあの砂浜だ。

 僕は列の最後尾で佐倉さんと並んで歩いていた。と言ってもそこに何かの意図や思惑があるわけではない。クラスメイトから逃げるように下がった僕と、単純に歩くペースが遅い佐倉さんが、ごくごく必然的に合流しただけのことだった。

 

「えっと……色々大変だね、緒祈(おいのり)くん」

「あはは。悪いね、気を遣わせちゃって。でもその口振りからすると、佐倉さんは僕のことを下着泥棒だとは疑っていないみたいだね」

「うん。緒祈くんはそんなことしない。下着を盗んだのもマニュアルを燃やしたのも、真犯人は別にいる」

 

 おやおや、嬉しいことを言ってくれるじゃないか。照れちゃうなあ。どうやら僕は自分でも気付かないうちに、佐倉さんの信頼を得ていたらしい。

 と思ったのも束の間、佐倉さんの言葉は続いた。

 

「――って、綾小路くんが言ってた」

「ぎゃふん」

 

 信頼されているのは僕ではなくて綾小路君だった。なんと罪深い語順だろうか。その華麗なフェイントに、ものの見事に引っ掛かってしまった。いやー、お恥ずかしい!

 そこに悪意がないとはいえ地味にショックを受けていると、どうやらそれが顔に出てしまったらしい。佐倉さんは慌てて言葉を足した。

 

「も、もちろん私自身も、緒祈くんはそんな人じゃないって思ってるよ?」

「ああ、うん。今こうやって僕と話をしてくれている時点で、それはなんとなく伝わってるよ」

 

 ぶっちゃけ佐倉さんの内心がどうであれ、髪の長い女の子と平和的に会話できるだけで僕は簡単に癒されるのだった。我ながらちょろいな。たったこれだけのことで、こうも容易(たやす)く機嫌が良くなるのだから。

 

 視線を前に向けると、クラスメイトの背中が先程より小さく見えた。

 

「少しペースを上げようか。皆との距離が開いてきてる」

「ごめんね? 私が歩くの遅いせいで……」

「ふふっ。僕は自分のペースで歩いているだけだよ。佐倉さんが一人にならないよう付き添っているというわけでもないし、気に病む必要はないさ」

「あっ、そうなんだ」

 

 冤罪の件が無かったとしても、きっと僕はこの位置を歩いていただろう。この道を逆向きに歩いた、特別試験初日のように。

 とはいえ今の台詞は、ひょっとすると僕が意図しない冷たさを含んでいたかもしれない。勘違いされないよう、フォローをしておく。

 

「だからって別に、佐倉さんを軽んじているわけじゃないからね? この僕がロングヘアの可愛い女の子を蔑ろにするなんて、そんなことは有り得ない」

「か、可愛いって……」

 

 恥ずかしそうに髪をうりうりといじる佐倉さん。さらっと流してくれると思ったフレーズが、思いもよらず拾われてしまった。

 ……僕の記憶が正しければ、彼女は少し前までアイドル活動をしていたはずだ。ネットを中心としながら、時には雑誌に載ることもあったとか。それなのに今さらこの程度で照れられては、なんというか、こっちが反応に困る。

 

 そんなこんなで互いに丁度良い距離感を探りつつ、細々と雑談をしながら15分ほど歩いた頃だろうか。視界がパッと広がった。目的地である砂浜に到着したのだ。

 

 足場の悪い森の中をもう歩かなくて済むのは大変喜ばしいことなのだけれど、視界の端にテンションの下がるオブジェクトを発見してしまった。

 僕たちをこの島に運んできた豪華客船との、7日振りの再会。海抜0メートルから見上げる真っ白な船体はどこか不気味で、顔を顰めたくなる迫力があった。きっと船に対する苦手意識が、僕にそう感じさせるのだろう。

 

「やっと、ちゃんとしたベッドで寝られるね」

「……そうだね」

 

 佐倉さんの嬉しそうな声音とは対照的に、僕の同意の声はどんよりとしたものだった。

 

 願わくはベッドだけでなく、ちゃんとした陸地も欲しいものだ。

 

 

 

 086

 

 

 

「只今をもちまして特別試験を終了します。生徒の皆さんは試験開始時に配布された腕時計と鞄を返却してください。担任の先生方は支給品の回収と並行して、各クラスの点呼を行ってください」

 

 砂浜に響いたそのアナウンスに、僕は大きく息を吐いた。肺の中の空気だけでなく、心に積もっていた疲労感も一緒に吐き出された気がした。

 

 左の手首に巻かれたハイテク腕時計を6日振りに外す。メラニンが生成されず、周りより数段白い肌が(あらわ)になった。ちょっと間抜けな感じがして気になるけれど、同じ現象はほとんどの生徒の身に起きていた。こういう日焼け跡は何日くらいで治るものなのだろう?

 なんとなく落ち着かない手首を(さす)りながら、支給品の返却と点呼を済ませる。

 

「試験結果を集計しています。もう(しばら)くお待ちください。休憩所には椅子と飲み物と、軽食も用意してあります。ポイントは請求しませんので、皆さん心置きなくご利用ください」

 

 燦々と陽光が降り注ぐ砂浜の一画には、運動会や体育祭などでよく見る6本足の白いテントが5張ほど並んでいた。

 日陰と椅子とドリンクを求め、多くの生徒が休憩所に殺到する。それでもCクラスの生徒が全員船に戻っている為か、意外と余裕があるみたいだった。途中棄権組は船に待機しているようで、浜辺に降りてくる気配はない。

 

 僕もひと休みさせてもらおうと体の向きを変えたところで、視界の端に予想外の人物を見付ける。木々の間から、一人の男子生徒が。

 

 ……へえ。まだいたんだ。

 

 森の中から出て来た『彼』のもとに、Cクラス担任の坂上先生が駆け寄る。先生は『彼』と何かを話し、腕時計と鞄を受け取り、他の先生方が集まっているテントに戻った。残された『彼』は一直線に休憩所へと向かい、用意されていた椅子にどかりと座った。

 

 『彼』――龍園翔の有り様を一言で表すなら、満身創痍だ。

 服のあちこちが破けていて、髪は無秩序に乱れていて、腕にも足にも擦りむいたり切ったりした跡がある。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「おい、あれ見ろよ……」

「なんかヤバくない?」

 

 そんな会話がどこからか聞こえてきた。

 学年一の要注意人物の、その思わぬ姿での登場に、砂浜にいた生徒たちは騒めきを抑えられない。それでも誰一人として彼に近付こうとはしなかった。

 龍園君は全身傷だらけだけれど、今すぐ医務室に行った方が良さそうな有り様だけれど、それでも決して『弱そう』には見えなかった。彼の双眸には、飢えた肉食獣のごとき獰猛な光があった。

 

 ()()()()()、僕は行く。

 彼の威圧感が皆を遠ざけたことで出現したエアポケットに、気負うことなく足を踏み入れた。

 

「やあ龍園君。夏休み満喫してる?」

「うるせえ黙れ死ね」

「あっははー」

 

 冷め切った歓迎を受けつつ、僕は彼の横に座った。

 そんなことをすれば当然衆目を集めてしまうけれど、それこそが僕の狙いだ。興味津々にこちらを観察している同級生諸君に、『緒祈真釣』という存在を見せつけてやる。

 

 一応言っておくけれど、僕は目立ちたがり屋ではない。断じて違う。では何故こんな人目を引くパフォーマンスをしたのかといえば、それは綾小路君のプランに乗るためだ。

 彼は今回の無人島試験でDクラスを1位にするつもりだ。まだ結果は出ていないけれど、その目標は十中八九達成されているだろう。そして僕以上に目立つことを嫌う彼は、Dクラスを1位に導いた功績を僕と堀北さんに譲る(押し付ける)と言っていた。

 体を動かす仕事については堀北さんに、頭を使うパートについては僕に、という振り分けをしたいらしい。

 

 しかし実際にクラスのリーダーを務めていた堀北さんはいいとして、何の成果も出していない僕が急に『Dクラス優勝の立役者』と言われても、そう簡単には騙せないはずだ。「緒祈って誰だ?」となってしまう。だから今更感もあるけれど、その下地を作っておく。

 ちなみに、Dクラスのリーダーが堀北さんだったことを僕が知ったのは、昨日の夜のことだ。知ったというか、状況から察した。

 

 さて、というわけで。

 『触らぬ神に祟りなし』という(ことわざ)がこれ以上なくドンピシャに当てはまるこの状況で、躊躇(ためら)うことなく龍園君に話しかける僕がいる。自分で言うのもなんだけど、誰がどう見てどう考えても――只者じゃないだろう?

 観客の関心を一身に集めながら、龍園君との談笑を試みる。

 

「一体何があったんだい? 全身ボロボロじゃないか」

「クソッタレ……お前、何しやがった?」

「やだなあ。僕は何もしてないよ」

「……ちっ。まあいい。計画通りとはいかなかったが、それでも試験は俺の勝ちだ」

 

 龍園君は紙コップにジンジャエールを注ぎ、それを一息に呷った。

 僕はそんな彼の神経を逆撫でるように目を緩く細め、口角をわざとらしく上げ、ずっとニヤニヤと笑っている。

 

「計画って、どんな計画?」

「白々しいこと言ってんじゃねえよ。お前が全部見抜いてることは伊吹から聞いてる」

「あっははー。そういえば伊吹さんには話したっけ」

「おいクソ野郎、一つ教えろ。なぜ金田の方は邪魔をしながら、伊吹のことは見逃した?」

「んん? あー……」

 

 なんのことか一瞬分からなかったけど、すぐに合点がいった。リーダー当ての話だ。

 なるほど。龍園君からは、僕が伊吹さんを見逃したように見えるのか。実際は綾小路君に丸投げしただけなんだけどね。好都合にも僕の意図が絡んでいると錯覚してるみたいだし、ここはそれっぽい嘘を吐いておこう。

 

「伊吹さんを泳がせたのはDクラスの実力を計るためだよ」

「50ポイント以上損することになっても、か?」

「リーダーの情報くらいは流石のDクラスでも死守できると思ったんだよ。でも……君の口振りからすると、どうやらバレちゃったみたいだね。あっははー」

「そうだな。だがBクラスのリーダーは見抜けなかった。お前、金田に何をした? あいつの説明はどうも要領を得なかったが」

「思い付いた嫌がらせは何でもしたよ。はてさて、そのどれが効いたんだろうね」

 

 伊吹さんについては嘘を吐いたけど、金田君の話は本当だ。『歪』の投与も含め、彼には色々ちょっかいを出していた。Bクラスの皆さんの目がある以上、そんなに大それたことは出来なかったけど。

 とはいえ皆さんご存知の通り僕はとってもとっても心優しい人間なので、金田君のために逃げ道も用意してあげた。「もしBクラスのリーダーが見抜けなくても、(緒祈真釣)に邪魔されたって言えば龍園君は許してくれるよ」とか、なんかそんな感じのことを言ってあげた。半分以上冗談だったんだけど、案外これが一番効いたのかもしれない。

 

「ふんっ、まあいい……。ところでクソ野郎、鈴音はどこだ?」

 

 二人のスパイについてはそこまで深堀りすることが無いのか、龍園君は砂浜を見渡してそう言った。僕はオーディエンスの視線も意識しつつ、ヘラヘラした態度で適当に返す。

 

「堀北さんなら、図書館で借りていた本の返却期限が迫ってるからって、昨日学校に帰ったよ」

「お前はムカつく嘘しか吐かねえな」

 

 龍園君がこちらをギロリと睨む。それと同時に視界の外で、拡声器もまた聞く者を威嚇するように、高くキィンと鳴った。あまりに綺麗なタイミングだったので、驚きに肩がびくりと震えてしまう。

 音の発信源に目をやると、Aクラス担任の真嶋先生が立っていた。

 

「そのまま、リラックスした状態で構わない」

 

 生徒の注目が集まったことを確認し、真嶋先生は話を始めた。

 

「これより特別試験の結果を発表する。結果に関しての質問は一切受け付けない。自分たちで受け止め、分析し、次の試験へと活かしてもらいたい」

「さあ、お楽しみの時間だぜ」

「全く同じ言葉を返させてもらうよ」

 

 彼は獰猛に笑って、僕は小馬鹿にする笑みを返した。

 左手に持った白い紙に記されているのであろう特別試験の結果を、真嶋先生が読み上げる。

 

「まず最下位は――0ポイントでCクラスだ」

「……は?」

 

 告げられた結果に龍園君の表情は一瞬固まり、見る見るうちに険しいものに変化していく。どこからか、須藤君の「ぶははは!」といういかにも楽しげな笑い声が聞こえて来た。

 現実が受け止めきれていない様子の龍園君を、僕もまた思いっきり笑ってやった。

 

「あっははー! こいつは度肝を抜かれたよ! あんなにも自信満々に構えているもんだから、てっきり僕には及びもつかない秘策でもあったのかと危惧していたんだけど……まさかここまで綺麗に負けてくれるなんて!」

「この野郎……!」

 

 いやはや、綾小路君がしくじる可能性もゼロとは言い切れないからやっぱり不安もゼロではなかったけれど、なんだ、杞憂だったか。流石だぜ、綾小路君。

 生徒個々人の心中など気にすることなく、結果発表は淡々と続く。

 

「3位は120ポイントでAクラス。2位は199ポイントでBクラスだ」

 

 砂浜がどよめいた。読み上げられた結果に――いや、()()()()()()()()()()()()()()()

 誰も、予想していなかった展開なのだろう。

 

「そして――」

 

 真嶋先生はここで一呼吸おいて、これが真実であることを強調するような口調で、その紙に記された最後の一行を拡声器に通す。

 

「1位は252ポイントでDクラスだ。以上で結果発表を終わる」

 

 そう言って、生徒のリアクションになんか見向きもしないで、真嶋先生は職員用のテントに帰って行った。

 

 あっちにもこっちにも騒いでいる生徒ばかりだけれど、中でも特に荒れているのはAクラスだった。

 

「どういうことだよ葛城!」

「なんで俺たちが3位なんだよ!」

「話が違うじゃねえか!」

 

 クラスメイトに詰め寄られているスキンヘッドの男子がいた。ふむ、あれが噂の葛城君か。覚えておこう。

 Aクラスとは対照的に、我らがDクラスは歓喜に沸いている。

 

「よっしゃああああああ!」

「はっはっは! ざまあみろ!」

 

 クラスメイトの皆さんは、この島であった諸々の苦難が全て吹き飛んで行ったような、そんな晴れ晴れとした笑顔を見せていた。

 予想以上の最終ポイントに疑問を抱く人もいたことだろう。ただ、経過はどうであれ最高の結果を得られたのだ。難しいことは考えず、仲間たちと素直に喜びを表現していた。

 

 一方、予想を大きく下回る結果に終わってしまった龍園君は、苛立ちを隠すことなく僕を睨んできた。やーん、もう、さっきから睨まれてばっかりー。

 

「緒祈。お前、何しやがった」

「その質問はさっきも聞いたけど……あっ! 初めて名前で呼んでくれたね!」

「うるせえ。いいから早く答えろ」

「んー? そう言われても……なんでもかんでも解説してあげるほど、僕は心優しい人間じゃあないんでね。今回の結果は自分で受け止めて、分析して、次回に活かすといいさ」

「……最後までふざけやがって」

 

 真相は実にシンプルで、Dクラスは昨日の夜にリーダーを変更しているのだ。堀北さんの体調不良を理由に、正当な手段で手続きをした。ゆえにその堀北さんをリーダーであると解答したCクラスは、ポイントを獲得することが出来なかった。Dクラスのポイントが減ることもなかった。

 龍園君ならこれくらい、落ち着いて考えれば気付けるだろう。『今この砂浜に堀北さんがいない』という大きなヒントもあることだし。

 

 事の詳細を彼に教えてあげようかとも考えた。しかし僕は、実際にはDクラスの勝利に何一つ貢献していないのだ。あれこれ喋ってしまうとどこかでボロが出るかもしれない。綾小路君(本物の黒幕)の存在を察知されるかもしれない。それは困るというか、彼に申し訳ない。

 だからここでは中途半端にヒントを与えることも無く、何も語らないことにした。それに、なんというか、その方が黒幕っぽいじゃん? 知らんけど。

 

「あ、そうだ。これだけは教えておこうか。君がそんな姿になった件について。思い通りに森の中を歩けなかっただろう?」

「ちっ。やっぱりてめえが何かしたのか」

「そうだよ。催眠術の一種でね」

 

 僕は嘘を吐く。ただそれは、真実よりもいくらか信憑性のある嘘だった。

 

「催眠術……だと?」

「あんまりフェアでもリーガルないから、本当は使いたくないんだけどね」

 

 僕の『手に負えない逆説《ウルトラロジカル》』は、催眠術とは全くの別物だ。北極とゴーヤチャンプルーくらい無関係だ。でも正直に話しても、ぶっちゃけ意味分かんないでしょ。それに催眠術って言った方が分かりやすいし、なんか強そうじゃん? 知らんけど。

 

「もし君が僕個人に突っかかって来るなら、普通に相手をしてあげよう。でも、僕の大事な人たちに手を出されるとね、今回みたいにグレーな武器を使わざるを得なくなるんだよ」

「……けっ。それで脅してるつもりか?」

()()()()()()()()。君が正面から来ないなら、僕も手段は選ばないよ、と。そう言ってるんだよ」

 

 偉そうなことを言いつつも、『出来れば正面からも来てほしくない』というのが僕の本心だった。だって嫌じゃん。面倒じゃん。

 しかし当然というべきか、龍園君が僕の心中を汲み取ってくれるはずもなく、好戦的な言葉が投げつけられる。そして僕もそれに、今さら腰の引けた返答は出来ないのだった。

 

「いつか絶対に潰してやる」

「返り討ちにしてやんよ」

 

 やれやれ。これでまた、これまで以上に目を付けられてしまったけれど、まあ、仕方ないのかな。今後も綾小路君との協力関係を続けるためのお駄賃みたいなものだろう。

 

 言いたいことは全て吐き出したのか、それとも僕と話すのが嫌になったのか、龍園君は別れの挨拶も無く船に帰った。タラップを上る彼の背に、皆の視線が注がれる。わあ龍園君、大人気!

 それはつまり先程まで龍園君と共に視線を受けていた僕から注目が外れたということで、綾小路君はその隙を狙って僕の後ろに現れた。

 

「助かる」

「注目を集めたことかな?」

「ああ。これで『緒祈真釣がDクラスを勝利に導いた』というシナリオの信憑性が増した」

「あはは。どういたしまして」

「それから、悪いな」

「ん?」

「DクラスがBクラスに勝ったことだ」

「……あー」

 

 そういえば僕は『BクラスがDクラスに負けるのは避けたい』とか言ってたっけ。でもあれは僕がスパイ容疑を掛けられるのが嫌って話だから、うん、今回は大丈夫じゃないかな。

 

「これくらいなら問題ないよ。Bクラスだって堅実なプレイであれだけのポイントを残せたんだ。十分だろう」

「……それもそうだな。じゃあ、オレは先に船に戻るぞ」

「うん。おつかれさまー」

「おつかれ」

 

 僕と話しているところを、それも試験が終わったばかりのこのタイミングで、()()()()()()()()()()()()()()()話しているところを、あまり見られたくはないのだろう。綾小路君は必要最低限のことだけ話して、ささっと去ってしまった。

 僕はその背を眺めつつ、紙コップに注いだスポーツドリンクを一気に呷った。

 

「ぷはぁ!」

 

 こうして。

 振り返ってみれば僕が能動的に何かをするということはほとんどないままに、流れに流されるままに、初めての特別試験は幕を閉じた。

 

 閉じた幕の向こうでは――次の舞台の準備が、もう既に始まっている。

 

 

 



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087-088 Alred marchen

 

 087

 

 

 

 船が出港するまで、僕たち生徒には2時間ちょっとの自由時間が与えられた。無人島試験の疲れもあって大半の生徒は船に戻ったけれど、一方でエネルギーの有り余っている幾つかのグループは海に入ってじゃぶじゃぶと遊んでいる。

 

 僕は木陰に腰を下ろし、その様子をぼんやりと視界に収めていた。

 ひょっとすると彼ら彼女らには、名残惜しいという気持ちがあるのかもしれない。最初は不安だった無人島での生活も終わってみれば良い思い出だと、そんなことを考えて、最後までこの島を満喫しようとしているのかもしれない。

 しかし同じく島に残っているこの僕には、そのような感覚は全くなかった。船に乗ったら気分が悪くなるから、仕方なく、消去法でここにいるだけだ。……我ながら夏の浜辺には似合わないテンションだな。

 

 これといってやることもないので、波の音を耳に入れながら、試験の結果を改めて考えてみる。

 

 まずは最下位だったCクラス。0ポイントだったのは綾小路君がリーダーをずばり当てたからだ。

 最後まで島に残っていた龍園君がリーダーだったのだろうけど、それを今朝の時点で断定するのは難しいだろう。彼の性格とかを読み切ったうえでの判断なのかな。間違えたときの損失を思えば僕には出来ない決断だ。見事見事。

 

 続いて三位だったAクラス。

 こちらも綾小路君がリーダーを見抜いたのだろうけど……うーん、方法がさっぱり分からん。そこらへんの話はしてないからね。後で聞いてみるとしよう。

 ただ、Aクラスのリーダーを当てたのは綾小路君だけではないと思う。Aクラスが残した120ポイントという結果を見るに、恐らくは龍園君も見抜いたのだろう。断言はできないけれど、それが一番しっくりくるシナリオだ。

 CクラスのポイントでAクラスに必要な物資を買い揃える、という取引は確かにあったはずだ。しかし、どうやら互いのリーダー当てを制限するルールは設けていなかったらしい。葛城君が間抜けなのか、それとも龍園君が一枚上手だったのか。

 

 二位のBクラスについては、これといって言及することは無いだろう。リスクを負ってまでリーダー当てには参加せず、堅実なプレイで約200ポイントを獲得した。さすが帆波さん。見事なものだ。

 

 最後に我らがDクラス。最終結果が252ポイントということは、リーダー当てとスポット占有ポイントを除くと……純粋に残せたのは120ポイントくらいかな? マニュアルを見ていないので、これが優秀なのかそうでもないのか判断に困る。

 ただ一つ確かなのは、綾小路君がいなかったら一位にはなれなかったということだ。チームプレイの質はまだまだBクラスの足元にも及ばない。まとまり具合で言うならCクラスにだって負けている。龍園君のスタイルを見習えとは言わないけどね。

 

 綾小路君の計画通り僕が手柄を得ることになったら、今後はクラス内で意見を求められることも多くなるかもしれない。一定の成果を上げ続ければ、Dクラスの中心になれるかもしれない。

 

 『Aクラス移籍計画』の現実味が増して来たなあ。

 善哉善哉(よきかなよきかな)

 

 今回の特別試験では想定外のトラブルもあったし、嬉しくない誤算もあった。未解決の問題もある。それでも全体的な収支を考えれば『そこそこプラス』と言っていいだろう。

 船の出港を砂浜の縁で待つ僕はそんな風に、この一週間にそこそこの満足感を感じていた。

 

 そうしてどれくらいの時間が過ぎただろうか。ふと、左から何者かの存在を報せる音が聞こえて来た。しゃりしゃりと砂を踏むその音は、気付いた時にはもうすぐ傍まで来ていた。

 どちら様かなと顔を上げると、そこにいたのは千尋さんだった。

 

「水着姿の女の子たちを凝視している変態がいると思ったら、これはこれは、噂の下着泥棒さんじゃないですか」

「あらぬ誤解だ」

 

 こちらを小馬鹿にするようにニヤニヤと笑いながら、千尋さんは僕の隣に座った。少し体を傾ければ、肩が触れ合う距離だ。

 フローラルな香りがほのかに、ふわりと流れて来る。一週間も無人島で過ごしたにしてはやけに清潔感があるし、おそらく一度船に戻ってシャワーでも浴びて来たのだろう。

 そして船の中であちらこちらからあれこれと、今回の試験の話を聞いたりもしたのだろう。

 

「Bクラスにも届いてるんだね。その噂」

「いやー、びっくりしたよ。まさか真釣くんがそんな人だったなんて」

「だから誤解だってば」

「あははっ。分かってるよー」

 

 イタズラが成功した子供のように、楽しそうに笑う千尋さん。僕はやれやれと肩を竦めつつ、己の頬が緩むのを感じていた。

 こういう時に経緯を説明するまでもなく、無条件で信用してくれるのはありがたいし、素直に嬉しかった。

 

「うちのクラスではちゃんと否定しておいたから、安心していいよ」

「ありがとう、助かるよ。でも、僕のことを快く思っていない人もいるでしょ? よく説得できたね」

「真釣くんはクラスの混乱を避けるためにあえて犯人の汚名を被った――ということにしておいたよ」

「ほほう。なるほどね」

 

 実際の僕はそこまで献身的ではないけれど、僕のことをあまり知らない人からすれば十分に信じられるのかもしれない。

 良い設定だからDクラス内に対しても使おうかと思ったけど……無理だな。疑いをかけられた時、僕は一度も自分の非を認めていない。むしろ全力で否定した。これで『あえて汚名を被った』と言うのは無理があるだろう。

 うーん、失敗したなあ……。

 

「真釣くんに濡れ衣を着せた真犯人は、伊吹さんかな?」

「おっ、よく分かったね」

「金田君がね、昨日の夕方にいなくなったんだよ。それで彼がスパイだったことは確信できたから。じゃあDクラスにいる伊吹さんもそうなんだろうなって。じゃあDクラスで下着を盗んだのは伊吹さんだろうなって。そんな感じ」

「……あれ? Bクラスに下着泥棒の話が届いたのって……」

「私が知ったのは一昨日の夜だよ」

「ほへーん」

 

 つまり、事が起きたその日のうちにか。一応想定内とはいえ、その早さには驚きを禁じ得ない。クラス間の交流が希薄になる環境だったはずなのに、悪事千里を走るということだろうか。いや、別に僕は何も悪い事はしてないんだけどね。

 それにしても今の千尋さんの話を聞くに――

 

「ひょっとして、金田君が最後までBクラスのキャンプに残ってたら……」

「あー……その時は、噂の払拭は難しかったかもしれないね。金田君がスパイだって確定しないんじゃ、伊吹さんが真犯人って話の説得力も弱まっちゃうし」

「ひょえー」

 

 よくやった金田君!

 先程の龍園君との話から察するに、金田君はBクラスのリーダーを見抜けていない。誤答を出した様子も無い。それなのに彼が姿を消したのは、なんの成果も無くBクラスを後にしたのは少々不可解ではあるけれど……まあ、気にするほどでもないか。龍園君が作戦を練る時間も限られていたことだし、これくらいの粗はあるだろう。

 それに金田君の事情がどうであれ、僕が千尋さんに救われたことには違いない。

 

「世話かけるね」

「いいよ。好きでやってる事だから」

「そっか」

「そうだよ」

 

 なんというか……千尋さんも綾小路君も、帆波さんや隆二君もそうだろうけど、僕が親しくしている人はみんな働き者だなあ。お陰で僕の不労働っぷりが際立ってしまう。いやはや、お恥ずかしい限りだ。

 

「Dクラス内での真釣くんはどんな感じ? ちゃんと疑惑は払拭できたの?」

「それはまだこれからだね。一応算段は立ってるよ」

「ならいいけど……。実際のところ、何があったの? 真釣くんが疑われるにはそれ相応の理由があるんでしょ?」

「ああ、それはね――」

 

 僕は千尋さんに一昨日のことを話した。軽井沢さんの下着がなくなって、男子の荷物検査をしたら僕の鞄から出てきたこと。否定したものの聞いてもらえず、早々に犯人扱いされたこと。

 話を聞き終えた千尋さんはふむふむと頷き、心配するような、そしてどこか不満気な表情をしていた。

 

「それは災難だったねー。でも、Dクラスの人達も安直すぎじゃない? 鞄から現物が出て来たら、そりゃあ疑わざるを得ないけどさあ……それで犯人だと決めつけるのは早計に過ぎるでしょ」

「さっさと犯人を決めて解決しちゃいたい、という気持ちも分かるけどね。電気も水道もない無人島で四日も過ごして、心にそう余裕があったわけでもないだろうし」

「良い奴かよ!」

「あはは。二日も経てば怒りも冷めるさ」

「そんなもんかなー」

「そんなもんだよ」

 

 そりゃあリアルタイムでは頭に血が上ったりもしたけれど、汚名を返上する手立てはあるわけだし。クラス内での僕の立場もなんとかなりそうだし。今の僕にとって一昨日の一件は、今さら取り立てて気にすることではなかった。

 それに、脳のリソースを割きたいところが他にあるからね。

 

 下着泥棒の話は千尋さんももう十分のようで、「なにはともあれ」と話を変えた。

 

「試験お疲れさま。それから、1位おめでとう」

「ありがとう。と言っても、僕が何をしたわけでもないけどね」

「そうなの? 最終ポイントを見るに、AクラスとCクラスのリーダーを当てたんでしょ?」

「そうだねえ……」

 

 ここで僕は考える。僕がリーダー当てに微塵も貢献していないことは正直に言うとして、では真の立役者であるところの綾小路君についてまで、果たして千尋さんに教えていいものだろうか?

 僕と千尋さんの距離感を思えば、秘したところでどうせすぐバレる気もする。とはいえ綾小路君への義理もあるし、ぺらぺら話すことでもない。自分から積極的に発信するべきではないな。

 というわけで個人名は出さずに伝えることにした。

 

「暗躍好きな子がいてね。なんか、気付いたら勝ってた」

「ふうん……? 真釣くんも中々暗躍好きそうな感じだけど」

「僕が好きなのは暗躍じゃなくて安楽だよ。あと安寧と安静も好き。安心と安全も好き」

「うーん、なんでだろう? 全然そんな感じがしない」

「えぇ……」

 

 まあ、(はた)から見れば確かにそうは見えないのかもしれない。この島ではともかく、一学期はあっちこっちでそれなりに動いたからなあ。星之宮先生との一件とか、龍園君とのひと悶着とか、帆波さんとのあれこれとか、今目の前にいる千尋さんとのごたごたとか――僕の内側の問題とか。

 そして恐らく、今後もこの学校にいる限り、僕の日常に束の間以上の休息が与えられることは無いだろう。……なんとも気分の上がらない未来予想だ。

 

「さっき龍園君といたけど、あれは何を話してたの?」

「ちょっとした雑談だよ」

「あの場面で龍園君と雑談できる人間は、安心よりむしろスリルを求めるタイプなんじゃない?」

「あはは。言えてる」

 

 僕はそういう刺激を求めるような、遊園地に行ったら必ずジェットコースターに乗るような人種ではない。しかし()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だってその為に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「龍園君がぼろぼろになっていたのは、あれも真釣くんが何かしたの?」

「あれは……どうなんだろう?」

「いや、私に聞かれても」

 

 彼の姿を一目見たときには、試験初日に流し込んだ『(ひずみ)』が原因だろうと特に考えもせず結論付けた。しかしよくよく考えてみると、五日間も森の中で過ごしたのだ。あれくらいぼろぼろになっても不思議ではない。必ずしも僕が関与しているとは言えないだろう。

 真相は藪の中、と言ったところか。

 ……そんなに上手いこと言えてないかな。

 

「とりあえず、真釣くんの仕業(しわざ)ではないってことでいいのかな?」

「うん、そうだね。そう解釈してくれて構わない」

 

 今回は幸いにも裏目に出ることはなかったようだけど、やはり『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』やその源である『(ひずみ)』を使うのは、策の一部として組み込むのは、できるだけ避けるべきだ。なんてったって全く予測が出来ないんだから。その傾向を今回の試験である程度掴めればと思っていたものの、なんら参考にはならなかった。

 実験データを集めるのが困難を極めることは事前に容易に想像できたはずなのだけれど、初日の乗船による体調不良が脳みそのパフォーマンスを下げていたらしい。無駄に無意味な策を巡らせてしまった。なかなかどうして、上手くはいかないものだ。

 

 『歪』といえば金田君にも投与したけれど、あれも結局どうなったんだろう? Bクラスのリーダーが見抜かれていないので、少なくとも不都合な展開だけは避けられたようだけど。

 あっちもこっちも分からないことだらけだなあ……。

 

 分からないことを考えても仕方ないので、もう少し分かりやすい話をしよう。

 

「そういえばBクラスって、結局誰がリーダーだったの?」

「帆波ちゃんだよー」

「へえ! そりゃまた思い切った人選だね。僕はてっきり千尋さんか隆二君かと予想していたんだけど」

「そういう案もあったけどね。でも、リーダーを務めるのが誰であれ、秘匿するための戦略は大して変わらないでしょ? それなら帆波ちゃんでいいんじゃないかって」

「なるほどねぇ」

 

 言われてみれば確かに、余程のポンコツでさえなければリーダーは誰でもいいのかもしれない。であれば単純に、クラス内で最も信頼されている人物が務めればいい。リーダー当ては外した時のペナルティーがあるので、他のクラスから当てずっぽうで書かれることも無いわけだし。

 

「Dクラスは? 平田君か櫛田さんかな?」

「んにゃ、堀北さんだよ」

「……あれ? 堀北さんって、途中棄権したんじゃないの?」

 

 その情報も既に得ているのか。耳が早いな。まあ、試験が終わった今となっては殊更隠すようなことでもないし、Dクラスの誰かがクラスの垣根を越えて発信したのだろう。

 

「そうだね。だから昨日の夜、うちのクラスは新しいリーダーを立てた」

「……あっ! それでAクラスとCクラスはあんなに低かったんだね!」

「そういうこと」

 

 千尋さんは合点がいったご様子で、右のこぶしで左の掌をぽんと叩いた。そしてそのまま目をぱちくりさせて、首をこくんと傾げて、僕の顔を覗き込んだ。可愛い。

 

「真釣くんの発案?」

「そうでもないんだけど、多分、そういうことになりそう。というか、そういうことにしといて」

「なるほどそういうことね」

 

 あまり詳しく掘り下げると綾小路君の話になってしまうので、僕は曖昧に濁して伝えた。その意図を汲んでくれたのか、それとも単に興味がないのか、千尋さんは特に追及はしてこなかった。ただ、その代わりにと言うべきか、辛辣な言葉を僕に浴びせた。

 

「……ひょっとして真釣くん、今回の試験で何もしてないんじゃない?」

「うぐっ」

 

 気付かれてしまった……。

 いかにも図星な僕の反応に、千尋さんは「ふふふっ」と楽しそうに笑う。僕は目を逸らしながら言い訳を連ねる。

 

「いや、無人島というロケーションがね、僕向きじゃないからね」

「そうは言っても、ねえ?」

「それに、全く何もしてないわけじゃないさ。僕が敬愛する《策師さん》の言葉を借りて言えば、『勝つも負けるも次への布石』だよ」

「今回の試験はあまり意識せず、先を見越した手を打ったってこと?」

「そんなところだね」

 

 僕はドヤ顔で答えたけれど、思い返すとやっぱりそんなに大したことはしていない。偉そうに布石なんて言葉を使ったけれど、自分から積極的に打ちにいったわけでもないし。

 あちゃー。ほんとに何もしてないや。

 

 そんな情けない僕のことなどお見通しなのか、千尋さんは冷たい視線を向けてくる。

 

「ふうん……。正直私としては布石云々よりも、帆波ちゃんとの関係を進めて欲しいんだけどね」

「あー……」

 

 おおっと、そっちの話に移るのか。

 思わぬ方向への話題の転換に、僕はただ声を漏らすだけという少々間の抜けた反応をしてしまった。千尋さんはそれが気に食わなかったようで、眉を顰め、唇を尖らせた。

 

「一応確認しておきたいんだけど、真釣くんって帆波ちゃんのこと好きだよね?」

「そう考えてもらっても差し支えないかもしれないね」

「面倒くさい言い方だなあ……」

「まあね」

 

 この面倒くさい言い方こそが、僕の心の機微と言えるだろう。僕が帆波さんに抱いている心情は、人から聞かれれば否定こそしないものの、それでも自分の口ではっきりと言葉にするのはどうにも憚られるのだった。

 その理由はいくつか挙げられるけれど、情けないことに中でも一番大きな理由は……小っ恥ずかしいからだ。自分の気持ちを認めるのが恥ずかしいだなんて、初めて恋を知った乙女かよ――と、我ながら呆れてしまう。

 

 そんな僕の胸の内すらお見通しなのかどうなのか。千尋さんによる質問タイムが始まった。

 

「じゃあさ、真釣くん。帆波ちゃんのどんなとこが好き?」

「そりゃあもちろん、か――」

「髪は無しね」

「えっ? じゃあ、か――」

「顔も無し!」

「ええっ?」

 

 僕の答えにちょっと怒った様子の千尋さん。とはいえ僕も決して巫山戯(ふざけ)ているわけではない。帆波さんのどこが好きかと聞かれれば、髪と顔が真っ先に浮かぶのが僕という人間なのだった。

 半ば予想していたけれど、やはり正直な回答ではご納得頂けならしい。

 

「髪とか顔抜きで、真釣くんは帆波ちゃんのどこに一番魅力を感じる?」

「ええーと……」

 

 うーん、参ったなあ。明るい性格とでも答えればいいのか? でも、性格が暗かったり、ひねくれている帆波さんを想像してみるけれど、あのルックスがあれば別にどうでもいいんだよなあ。

 ……おやおや。どうやら僕は、自分で思っていたよりも面食いだったらしい。

 

 望まれている答えを出すべきか、それともあくまで自分の正直な気持ちを伝えるか。黙って悩んでいると何やら勘違いされたようで、

 

「胸かよ!」

「ごふっ!」

 

 脇腹に手刀が刺さった。

 

「まだ何も言ってないんですけど……」

「ちょっと待って。え、ひょっとして外見だけなの?」

「僕は人を中身で判断したりしないよ」

「良い台詞みたいに言ってもダメ!」

「そもそも他者から観測できる時点で全ては『外見』なんだよね。人の『中身』がどうとか言ってる人間は、自分の中で作り上げた妄想を基に人を評価しているんだ。その方が酷いと思わないかい?」

「……ちょっと納得しかけたけど、いやいや騙されないよ? もっともらしく言っても無駄だよ? 少なくとも真釣くんは、帆波ちゃんの髪と顔と胸だけを評価してるって明言したんだから」

「胸って言ったのは千尋さんでしょ……。冗談はさておき」

「どこまでが冗談だったのか分からないんだけど?」

「冗談はさておき!」

 

 話しながら色々と思考を巡らせた結果、千尋さんが納得してくれそうで、かつ自分に嘘を吐くことにもならない最適な表現が見つかった。

 

「僕が帆波さんのことを気に入ってるのは、別にどこが好きってわけじゃなくて、単純に一緒にいて気分が良いんだよ。それが全てだよ」

「……ま、それならいいんだけどさ」

 

 よし、一先ず納得してくれたようだ。ただ千尋さんはそれ以上言葉を続けることはなく、つられて僕もなんとなく声を出せなかった。

 

 波の音が聞こえた。それ自体はずっとここにあった音なのだけど、僕たちが沈黙したことで再び耳に入って来た。砂浜ではしゃぐ同級生の楽しそうな声も、微かに届いていた。

 横を見れば千尋さんの視線はその砂浜に向いていて、けれど意識は別の所にあるようだった。きっと、帆波さんのことを考えているのだろう。

 

 言葉の無い時間が暫く続いた後、千尋さんは再び口を開いた。

 

「前から思ってたんだけどさ」

「うん」

「帆波ちゃんって、完璧じゃない?」

「……まあ、そう表現しても過言ではない人だね」

 

 話の流れは見えないけれど、その通りなので首肯する。

 帆波さんは勉強も運動もできるし、リーダーシップは同世代では穎脱(えいだつ)している。ルックスだって言わずもがなだ。欠点らしい欠点なんてものは三日三晩考えたって見付からない。たとえ本人が引け目に感じているコンプレックスがあったとしても、周囲にはきっとそれすら魅力的に映ることだろう。

 

「それが、どうかしたの?」

「なんでAクラスじゃないんだろう?」

「……確かに」

 

 気にしたことなかったけど、言われてみればそれは確かに不思議なお話だ。

 高度育成高等学校の新入生は、優秀な人から順にAクラス、Bクラス、Cクラス、Dクラスへと配属される。一学期の中間テストの頃だかに、茶柱先生はそう説明していた。

 入試の時は本調子じゃなかった、みたいな単純な理由がまず思い付くけれど、千尋さんの考えはもう少し奥に進んでいた。そして僕と違って考えるだけでなく、行動にも移していた。

 

「碌に娯楽の無い一週間だったから、話す時間はいっぱいあったんだよね。それで、ちょっと探ってみたんだけど」

「ほう」

「帆波ちゃん、どうも()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……何かって?」

「それは分かんない。流石にそこまでは踏み込めなかった。でも、その件で自分を責めてるのは確かだよ」

「ふーん」

 

 心配そうに話す千尋さんに対し、僕の相槌はやや愛想の無いものになってしまった。当然目敏く咎められるけれど、僕にも僕の考えがあった。

 

「もうちょっと興味持ってよぅ」

「興味がないわけじゃないよ。ただ、そこまで気にする必要もないと思う」

「なんで?」

「だって、精々AクラスからBクラスへのワンランクダウンでしょ? Dクラスにまで落ちたわけじゃないし、入試で落ちたわけでもない」

「それはまあ、そうだけど……」

 

 もしDクラスやそれ以下まで落とす必要がある大事件が起きていたなら、学校側が把握していないはずがない。

 

「だから気にしなくていいんじゃない?」

「でも、帆波ちゃん自身は気にしてるんだよ?」

「……ああ、そっか。それは大問題だね」

 

 千尋さんの言葉にハッとする。

 僕自身は過去なんかどうでもいいと思っているけれど、そうは割り切れない人も多くいることだろう。振り返ってみれば少し前までの僕だって、過去に囚われていたようなものだったし。

 帆波さんもそんな風に過去に苛まれているのなら、それを呑気に静観はできないよなあ。

 

「帆波ちゃんってBクラスの委員長として、あんまり人に弱味とか見せないんだよね。だけど、もし、もしもだよ? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()って」

「ふむ」

「前も言ったけど、そこいらの得体の知れない男にひっかかられちゃあ困るんだよ。甘えられる相手が必要だとは思うけど、誰でもいいわけじゃない」

「それで、僕がどうにかしろと」

「そういうこと。クラスが違うから何かと相談しやすいと思うし、あとは頼りになるところを見せれば何とかなると思うんだよね。私も裏回しするし」

「ふむ」

 

 裏回しって、ひょっとしてこの子、綾小路君より暗躍好きなんじゃない? 話が逸れるから言わないけど。

 

「まあ、僕としても帆波さんがどこの馬の骨とも知れん奴に靡くのは不愉快だし、何か問題を抱えているなら解決してあげたい気持ちはある。ただ……とりあえず一週間は船の上だから、僕は何もできないよ?」

「んもう、頼りないなあ……。帆波ちゃんのピンチに颯爽と駆けつけたりしてよ。物語の主人公みたいにさ」

「いやー、無理でしょ」

 

 それは船の上に限らず、陸の上でだって難しい話だ。

 先程も言った通り、帆波さんは非常に優秀な人だ。だからそもそも、そうそうピンチに陥ることはない。大抵のことは自力で、もしくはBクラス内で対処できてしまう。それでも外部の助けが必要になるほどの大ピンチとなると、果たしてそんな場面で僕に出来ることなどあるだろうか?

 というか――

 

「そもそも僕は、そういう危機的状況は事前に潰したい性質(たち)なんだよねえ」

 

 ヒロインのピンチに颯爽と駆けつける主人公はカッコ良い。でも、ヒロインがピンチになるのを待つような主人公はカッコ悪いし、そういうイベントが無いとヒロインからの好感度が上げられない主人公は不格好だ。

 僕に主人公願望なんてものは無いけれど、シンプルな話、危ない状況なんてのは無い方が良いだろう?

 

「そういう考え方も分かるけど……。まあ、真釣くんの帆波ちゃんに対する執着が垣間見えただけでも、今は良しとしておこうかな」

「悪いね、期待に沿えなくて」

「ううん、気にしないで。私もちょっと、過剰に焦ってた気がするし……。でも、真釣くん」

「ん?」

「いつまでもこのままじゃあ、ダメだよ?」

「……そうだね」

 

 ひょっとすると千尋さんがその言葉に込めた思いを、僕は完全には理解できていないかもしれない。それでも現状維持に甘んじてはいけないというのは、僕自身も考えていたことだった。

 帆波さんや千尋さんと共にAクラスで卒業するという目標を達成するには、僕はもっと積極的にならなければいけない。それは帆波さんとの関係だけでなく、他の色んな方面に対しても。

 

「とはいえさっきも言った通り、向こう一週間の僕には大したことはなーんにも出来ないけどね」

「ほんと頼りないなあ……。もし船の中でも特別試験があったらどうするの? 大丈夫なの?」

「あまり大丈夫ではないね」

 

 内容によっては全然大丈夫じゃない。しかし一週間も無人島で過ごさせたんだし、残りの一週間は流石に休ませてくれるのではなかろうか。うっかりしてるとすぐ忘れちゃうけど、今は夏休みなんだから。夏休みなんだから!

 ……まあ、真面目に予想するならば、何もないのに一週間も船に拘束するとは思えない。十中八九何かある。

 

 あー。

 やだなあ。

 

「体質はどうしようもないもんねー。クラスは違うけど、私も出来るだけサポートするから。してほしいことがあれば何でも言ってよ。えっちぃの以外は聞いてあげる」

「ありがとう、助かるよ」

「……少しはそういうことを想像して照れるとかないの? 可愛くないなあ」

「僕に可愛さを求めるんじゃない」

 

 思春期の男子を揶揄(からか)ってくる千尋さんに「えい」とチョップする。

 

「あう」

 

 あざと可愛いリアクションをされてしまった。

 ……って、そんなことはどうでもよくて、そういえば千尋さんに頼みたいことがあるんだった。喫緊の要件ではないけれど、忘れないうちに伝えておこう。

 

「じゃあ、早速一つお願いしてもいいかな?」

「え、今?」

「船を降りた後の話なんだけど」

「そりゃまた随分と気が早いね」

 

 確かに早すぎるかもしれないけれど、一週間も船に乗ると忘れてしまいそうだから。基本的に僕は船上の自分というものを一切信用していない。

 

「三日目にそっちに行った時、僕に絡んできた男子三人組がいたでしょ?」

「あー、浜口くんたちだね」

「名前は知らないけど。東京に戻ったら彼らと内密に話がしたい。場を整えてもらえるかな?」

「別にいいけど……正直、そんなにいい印象は持たれてないよ?」

「それは知ってる。()()()()()だよ」

「布石ってやつ?」

「そうだね」

 

 僕が彼らを使って打とうとしてるのは、先程話に上がった『帆波さんのピンチ』というものを事前に潰すための布石だ。使わないに越したことは無いけれど、あると安心、転ばぬ先の杖である。

 

「分かった。詳しい日程はまた後日かな?」

「そうだね。よろしく頼むよ」

「おっけー任せて!」

「サンキューちっひ!」

「ちっひ言うな!」

 

 それから20分程、主に無人島試験の反省会めいた雑談をした。互いにこの一週間をどう過ごしたか。それは情報交換と言うよりは、ただのエピソードトークだった。

 やがて僕と違ってクラスの付き合いも大事な千尋さんは、「じゃあ私は先に戻るね」と言って船に帰って行った。

 

 再び一人になった僕は大して動きもせず、ただただぼんやりと砂浜を眺めて時間を潰した。気付けばビーチで遊ぶ生徒の姿も無くなり、砂浜にいるのは撤収作業中の先生方と、僕ひとりだった。

 やがて先生に「そろそろ出港するから戻れ」と言われ、船に乗るのは嫌だけど島に取り残されるのはもっと嫌なので、大人しく従った。

 

 船の甲板へと続くタラップの途中で、僕は後ろ髪を引かれたわけでもないのに島を振り返る。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そんな予感が、どうしてだろう、僕の胸に巣食っていた。

 

 

 

 088

 

 

「やあ」

「よう」

 

 船内の自室に戻ると、そこにはルームメイトの一人である三宅君がいた。他二人はどこかに出掛けているようで、部屋の中に姿はなかった。軽い挨拶だけ交わして手を洗い、顔を洗い、がらがらぺーっとうがいをする。このままシャワーも浴びたいんだけど、その前に酔い止めを飲んでおこう。一週間前、星之宮先生から貰ったあれだ。

 室内のウォーターサーバーに水を頂戴し、枕元に置いた覚えのある薬を探す。

 ああ、これだこれ。

 

 さて飲もうかというところで、三宅君が話しかけてきた。

 

「緒祈」

「んー?」

「茶柱先生が呼んでたぞ」

 

 ありゃ、何か呼び出されるようなことしたっけ? タイミングからして無人島試験に関係する話だろうけど……まさか、先生にまで下着泥棒だと思われてるとか? だとすると面倒だな。どう釈明したものだろうか。

 などと深刻に考えていると、違った。

 

「携帯取りに来いってさ」

「ああ、納得」

 

 そっかそっか。そういえば島に降りる時に預けたんだった。厄介事じゃなくて良かった。

 ほっとひと安心できたので、くいっと一口、錠剤を胃に流し込む。

 

「あと、ジャージと体操服は洗濯してもらえるらしいから、希望者は5階の501号室に持って来いってさ」

「んーと、確か先生が待機してるのも5階だったよね」

「ああ、そっちは521号室だ。茶柱先生も多分そこにいるだろう」

「おっけー。じゃあ一緒に済ませちゃおう」

 

 まだ酔いが始まっていない今のうちに、動けるだけ動いておかねば。僕はいそいそと制服に着替え、汚れに汚れたジャージと体操服を抱えて部屋を出た。

 特に知り合いに会うことも無く、エレベーターで2フロア上がる。まずは両手を空けようと501号室に向かったところ、部屋のドアは開いていた。中を覗き込むと白い割烹着を来たおばちゃんが、何やら作業をしていた。その向こうには(うずたか)く積まれた臙脂色のジャージと体操服があった。

 

「失礼しまーす」

 

 そう言って中に入ると、当たり前だけど向こうも僕に気付いた。

 

「洗濯希望の生徒さんだね。そこにネットがあるから服を入れて、ネットのタグに番号書いてあるから、その数字と自分の名前をそっちの名簿に書いといて」

「はーい」

 

 おばちゃんは一息に説明して、すぐまた何かの作業に戻った。どうやらネットを一つずつ開け、ポケットの中や汚れ具合を確認しているらしい。ご苦労様でーす。

 僕は持ってきた服を指示通りネットに入れ、タグの数字を確認し、横にあった名簿に上に倣って『122 緒祈真釣』と記した。

 

「じゃあ、お願いします」

「今日の夜にでも取りに来てー」

「はーい」

 

 部屋の扉は最初から開いていたので、そのままにして退室する。

 これで一つ目の用事は完了だ。ちなみに501号室の隣は洗濯室になっていて、設置された7台の洗濯機がフル稼働していた。流石は豪華客船、タッチパネルで操作する最新型の洗濯機だった。あれで乾燥まで一息にやってくれるのだろう。

 

 さてさて。それじゃあ次は携帯を受け取って、さっさと部屋に戻りましょうかね。廊下を歩くこと数十メートル、『521』と記された部屋を発見した。こんこんとノックすると、程なくして木目調の扉が内側から開いた。その向こうから、お目当ての人物が現れる。

 

「遅い」

 

 我らがDクラスの担任である茶柱先生は僕の顔を見て、ため息交じりにそう言った。

 

「すいません。船に乗るのが嫌で、ずっと島の方に居ました」

「携帯に依存していないのは良いことだが、必需品なのは間違いないだろう。現代っ子らしく、もう少し頓着したらどうだ?」

「そりゃ僕だって出掛ける時は肌身離さず携帯したいタイプですけど、今は別に使う用事も無いので」

「お前自身に用が無くても、学校からの重要な連絡があるかもしれないだろ?」

「……その予定がおありで?」

「あくまで一般論だ。立ち話もなんだし中に入れ」

「はあ」

 

 長話をするつもりは無かったのだけれど、僕は誘われるがまま中に入った。ほら、茶柱先生も僕好みの綺麗な髪をしていらっしゃるからね。断れないよね。

 部屋に入ってみると、まずその広さに驚いた。生徒用の客室の2倍近くあるように見える。ただ、ここも本来は客室なのだろうけれど、今は船内での職員室的な役割を担っているためベッドが撤去されていて、代わりに椅子とテーブルが6組ほど置かれていた。

 

「生徒に見られて困る物は出してないが、そうじろじろ見るな。教師からの印象は良くないぞ」

「すいません。つい」

 

 教師からのとは言うものの、部屋の中に他の先生はいなかった。特別試験の後処理で忙しいのかもしれない。

 僕は茶柱先生に勧められるまま椅子に腰掛けた。何か飲むかと聞かれたので、冷たいお茶をお願いした。先生の名前に掛けたわけでは勿論ない。

 

「綾小路と少し話したんだが、今回の試験では大活躍だったな、緒祈」

「いえ、それほどでも」

 

 喋りながら差し出されたお茶を、軽くお辞儀して受け取る。

 

「それとも、あいつに上手く使われたか?」

「あはは。どうでしょうね」

 

 茶柱先生が綾小路君とどんな話をしたのかは知らないけれど、少なくとも真の立役者が綾小路君であることは把握しているようだ。それはひょっとすると当たり前の事なのかもしれないなと考えつつ、僕からも質問する。

 

「ところで茶柱先生」

「どうした?」

「先生って、綾小路君のこと脅してますよね?」

「……確信している言い方だな」

「ええ、まあ」

 

 本来目立ちたがらない彼が、急に「Aクラスを目指す必要が出来た」と言いだした。そのくせ手柄は僕や堀北さんに押し付けたいと言う。となるとAクラスを目指しているというポーズを見せたい相手は生徒ではなく、先生ではないかと予想が出来る。確定ではないけれど、そう外してもいないはずだ。

 先生はニヒルに笑ってこう答えた。

 

「だとしたら、どうかするのか?」

「忠告くらいはしましょうかね。彼の機嫌を損ねるようなことは、あまりしない方がいいですよ」

「なんだ、私のことを心配してくれるのか?」

「そうですね。僕は髪が長くて綺麗な女性には、ついつい甘くなっちゃうんです」

「……ふっ。まさか緒祈が、自分のクラスの担任を口説くほどに情熱的な男子だったとはな。こいつは予想外だ」

「口説いてないです」

 

 そこはしっかりと否定しつつ、僕は逆に茶柱先生がそんな冗談を言ったことに驚いた。特別試験で自分のクラスが好成績を収めたことで、機嫌が良いのかもしれない。

 ……どうやら先生には、『生徒を脅してでもAクラスに上がりたい』という強い願望があるみたいだし。

 

 確認したいことは確認できたし、これ以上踏み込む必要もない。酔いが始まっても面倒なので、僕は話を切り上げる。

 

「アホなこと言ってないで、早く携帯返してください」

「おおっと、忘れるところだった。ほれ」

「どうも」

 

 ストラップも何もついていない真っ黒なスマートフォンを受け取り、一応電源を入れて自分の物であることを確認する。よし、この富士の樹海の待ち受け画面は、間違いなく僕の携帯だ。

 残っていたお茶をくいっと飲み干し、席を立つ。

 

「では、失礼します」

「ああ」

 

 軽くお辞儀をしてから先生に背を向ける。

 部屋を出ようと扉を開けると、

 

「ひゃっ!」

 

 外から可愛らしい悲鳴が聞こえた。

 制服姿の帆波さんだった。

 

「やあ帆波さん。奇遇だね」

「びっくりしたあ……。やっほー真釣くん。星之宮先生いる?」

「いや、いなかったけど……」

 

 僕は部屋の中を振り返り、茶柱先生に尋ねる。

 

「星之宮先生がどこにいるか分かります?」

「あいつは今昼休憩だから、どこかで飯でも食ってるんじゃないか?」

「多分食事中だってさ」

「そっかー」

 

 昼食にしては随分と遅い時間だけれど、それだけ忙しいということなのだろう。先生って大変だなーと他人事のように労りつつ、改めて茶柱先生に一礼する。

 

「では、失礼します」

「ああ」

 

 さっきも同じこと言ったなあとか考えつつ、出張版職員室を出る。

 さて自室に戻ろうかという僕のことを、帆波さんが不思議そうに見ていた。目がくりくりしてて可愛い。

 

「真釣くん、体調は大丈夫なの?」

「まだ船に乗って10分ちょっとだから、なんとかね。でも、星之宮先生を探す協力は厳しいかも。ごめんねー」

「いいよいいよ! ちょっと生徒会関係で確認したいことがあったんだけど、そんなに急ぎでもないから」

「そう。ならよかった」

 

 そういえば、こうして二人きりになるのは随分と久し振りだなあ。帆波さんの誕生日にデートして以来かな。テンション上がるぅ。

 しかしさっき千尋さんとあんな話をしたからか、視線がついつい胸に向いていしまった。そして意味もなく味わう軽い自己嫌悪。テンション下がるぅ。

 

「はあ……」

「つらいなら部屋まで送ろうか?」

 

 思わず漏れたため息に、帆波さんが優しく反応してくれる。

 明るく優しく可愛い帆波さん。しかしさっき千尋さんからあんな話を聞いたからか、どこか影を抱えているように見えなくも無い。それは完全に僕の思い込みでしかないんだけど。

 

「大丈夫、部屋にくらい1人でも戻れるよ。……でも、そうだね。付き添ってもらえると嬉しい」

「うんっ!」

 

 帆波さんが抱えるものが何であれ、今の僕に踏み込む勇気はない。踏み込むべき時期とも思わない。だからとりあえず知らない振りをして、彼女の優しさに甘えた。

 僕は帆波さんの半歩斜め後ろに陣取る。その艶やかな甘桃色の髪と、溌剌とした横顔がよく見える。僕にとってのベストポジションだ。しかし脳裏に浮かんだ千尋さんには「これだから真釣くんは……」と呆れられた。

 

 まあ、そうだよな。

 いつまでもこのままじゃあ――

 

「ダメだよなあ……」

「ん? 何か言った?」

「なんでもないよ」

 

 そういえば千尋さんは、「真釣くんの帆波ちゃんに対する執着が垣間見えた」と言っていたっけ。その自覚はあるけれど、意識的に目を向けたことは無かった。だから、ちょっと踏み込んでみよう。帆波さんの過去よりもまず、自分の内側に。

 執着――あるいは独占欲と言ってもいいかもしれない。それを確かめるために、少し想像してみるとしよう。

 

 今目の前にいる帆波さんが、例えば僕の知らない男子と腕を組んで歩いていたら。名前も顔も知らない誰かが、帆波さんの髪に馴れ馴れしく触れていたら。

 

 ……。

 …………ムカつく!

 

 己の眉間にグランドキャニオンのごとく皺が刻まれているのを感じる。気付けば両手は拳を作り、掌に強く爪を立て、そのまま手の甲まで突き抜けそうなほど力が入っていた。

 ダメだな。全然許容できないわ。

 

 ではもう一つ想像してみよう。

 僕が知っている男子、特に仲の良い綾小路君や神崎君で想像してみる。

 

 ……。

 …………うーん、ムカつく。

 

 眉間に皺が寄るほどではないけど、それでも口がへの字になるし、眉はぴくりぴくりと落ち着かない。彼らのことは友人として好いているけれど、この想像を続けているとうっかり嫌いになりそうだ。

 

 というわけで最後に、僕が帆波さんと付き合っている想像をしてみる。想像と言うか、妄想だ。

 例えば腕を組んで歩いてみたり、膝枕しながら四万十の清流よりも美しく流れる彼女の髪を僕の指で()かしてみたり、逆に僕が膝枕してもらって耳かきなんかしてもらったり、デートでお洒落なレストランに行って互いに照れながらも「あーん」とかしてみたり、それから淡い桃色のいい雰囲気になって、その、まあ、キスとかしてみたり――

 

「んふっ」

「やっぱり体調悪いんじゃ……」

「いや、大丈夫。なんでもないです」

 

 ()()ない妄想に興奮して、変な声が漏れてしまった。心配そうにこちらを振り返った帆波さんと目が合って、僕の心臓はドクンと跳ねる。

 

 あっははー。

 こりゃ確定だな。

 

 まあ、最初から分かってたけどね? 帆波さんの誕生日にデートしたときから気付いてはいたけどね?

 ただ、それ以来なんとなく恥ずかしくて放置してたってだけで、この気持ちは風化することなく生きていた。

 

 ふと僕の脳内に現れた母は『あらあら、ちゃんと青春してるじゃない』と嬉しそうに笑った。それに『うるせいやい』と返しつつ、それでも否定はしなかった。

 ……いや、ちょっと待て。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。自分を変えるためには、ここで積極的に肯定するべきだ。

 

 ああ、もう、分かったよ!

 言ってやるさ。「だろう」も「みたい」も「らしい」も「ようだ」も「かもしれない」も使わずに、はっきりと断言してやるさ。

 

 

 ――僕は、帆波さんのことが好きだ。

 

 

 言葉にすることで実体を得た僕の想いは、これがラブコメの世界であれば失格モノだろう。恋心が芽生える分かりやすいイベントもなく、一目惚れと言うには勢いがない。精神状態は実にフラットで、山も谷もなく乱高下もしていない。

 この気持ちは実にシンプルで、それゆえに迷いも悩みもなく、添加すべき言葉は何もない。

 

 嗚呼、なんと気分の爽快なことか。

 

 僕は一瞬だけ歩幅を変えて、右足を大きく一歩出した。それは千尋さんに背中を押される幻覚を伴いながら、それでも自分の意思で進んだ距離で、縮めた距離だ。

 

「帆波さんは可愛いね」

「にゃにゃっ!?」

「ふふっ」

 

 彼女の隣を歩きたいと、僕が思った。

 

 

 

<続>

 

 




ここまで読んでいただきありがとうございます。
これにて第3巻部分、完結です。

感想・高評価・お気に入り登録いただけると喜色満面で欣喜雀躍いたします。

活動報告にあとがきを載せていますので、よろしければそちらも是非。

それから今後は読者の皆様の『原作既刊全巻既読』を前提に書こうと思っています。原作未読の読者さんはお気を付けください。


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まとめ1
001-088 緒祈真釣の独白形式による第3巻部分までのざっくりとしたあらすじ。あるいは、彼の人生のこれまで。


タイトル通り、なんの新情報も新展開もないあらすじです。セーブポイントのような一話です。必読ではありません。


 ***

 

 

 

 今日までの僕――緒祈(おいのり)真釣(まつり)の物語を振り返ると言うなら、その始点は高校入学よりももっと前の時点に置くべきだろう。

 

 幼年期。

 小学校入学以前の出来事で唯一記憶に残っている出来事は、船に対するトラウマを植え付けられた一件だ。あの日以来、僕は揺れの大きさに関係なく、船に乗るだけで酔うようになってしまった。

 

 小学生時代。

 自分はどうやら異質な存在であるらしいと勘付いた。それは例えば、じゃんけんをすると異様にあいこが続いたり、自分がいるクラスに限ってたくさんの生徒が転校したり、先生が何度も変わったり。

 その()()()に『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』という名前を付けたのは、小学校高学年の時だったかな。「だからこそ」の一言で全ての現象に理由を付けるという、半ば反則的なウルトラCだ。

 『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』は僕の意思と関係なく勝手に発動するもので、僕はこれを疾患のようなものだと解釈した。治療法の確立されていない不治の病。

 

 しかし僕に出来ることもあった。それが『(ひずみ)』の発散だ。

 『歪』とは『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』が発動するために要する燃料のようなもので、これは日々の生活の中で勝手に溜まっていく。『歪』があまりにも蓄積されると、より大きな「だからこそ」が発生するわけだ。

 幸いにもこの『歪』は、()()()()()自分の意思で発散することが出来た。つまり、ある程度のオンオフが利くというわけだ。

 

 中学生時代。

 『歪』の発散をしながら、日々を上手いこと過ごしていた。小学生の時ほどあからさまに異端視されることも無かったはずだ。

 とはいえ厄介な『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』を抱えたまま一生を過ごすのかと思うと、やはり気が滅入った。この疾患を乙なものだと受け入れられるほど、僕は余裕のある大人ではなかった。

 だから中学三年生になって、年を越して、1月。他の受験生が合格祈願をする初詣において、僕は『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』が消えて無くなりますようにと祈った。それは勿論本気で叶うなんて考えてなくて、神様相手に愚痴るくらいのノリだった。

 

 ()()()()()、叶ってしまった。

 

 この日、僕は『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』を手放すと同時に、それに関する記憶すら失った。と言っても過去に起きた出来事の記憶はそのままで、だから『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』によって一度は説明を付けた不思議な出来事の数々が、再び原因不明の不思議な出来事になってしまった。

 自己に対する理解が小学校中学年まで後退し、「自分は一体何者なのか」という心地の悪い問いが、しこりのように脳に巣食った。

 

 話がそれで終わるならまだ救いはあったのだけれど、しかし残念ながら『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』は完全に消失したわけではなかった。あくまで一時的に遠ざけて、封じ込めただけだった。

 初詣からほんの数ヵ月で、僕の世界は再び奇妙に歪んでいった。

 

 2月、3月。

 僕の第一志望は高度育成高等学校という日本トップクラスの高校だった。筆記試験も面接試験も手ごたえはあったものの、届いたのは残念ながら不合格の通知だった。思わぬ結果に気落ちしていると、しかしそれから数日後、なんとびっくり合格通知が届いた。本来の入学予定者が不祥事により合格取り消しとなり、空いた席に僕が繰り上がった。

 

 4月。

 さあ、いよいよ入学の時――なのだけれど、事前に届いた制服はこれまたびっくり女子の物だった。ということで僕の高校生活はまさかの女装スタートだった。しかも配属クラスにも学校からの通達ミスがあって、初日は散々なものだった。

 初日以降も割と散々で、クラスメイトが予想に反して全然優秀じゃなかったり、この学校の売りである卒業後の進路保証がAクラスのみの特権だったり、不都合な新事実が次々と明らかになった。

 この頃から僕は自分が所属するDクラスに嫌気が差していて、他所のクラスの人と仲良くしようと考えていた。幸いにもBクラスとは初日にちょっとした縁があったので、接点は持ちやすかった。

 

 5月。

 中間試験で赤点を取ると退学らしいので、僕はクラスの何人かを潰してやろうと思っていた。それがどういうわけか綾小路君に説得され、気付けば勉強会に協力していた。過去問を使うという彼のアイデアもあり、結局退学者は出なかった。

 中間試験が終わった後、担任の茶柱先生と少し話して『好きなクラスへの移る権利』が2000万ポイントで買えることを知った。この制度を基に僕は『Aクラス移籍計画』を練り上げ、それからはこの計画を念頭に日々を過ごしている。

 

 6月。

 Bクラスの千尋さんとの急接近があった。それは僕にとっては恋愛的な意味での接近だったけど、千尋さんには思惑があった。そして一悶着あった結果、僕たちは親友になった。思い返してみると、何故あの流れから今の関係が出来上がるのか、中々に不思議である。

 あれ以来千尋さんは僕と帆波さんをくっ付けようとしていて、僕もそれを積極的に推奨はしないまでも、止めることはしなかった。この時点でもその程度には、帆波さんのことを気に入っていた。髪綺麗だしね。

 

 7月。

 千尋さんとのあれこれが終わると、今度は須藤君とCクラスの生徒の間で暴力事件が起きた。おかげでポイントの支給が止まったりと、普通に迷惑な事件だった。最終的には事件そのものを無かったことにして、誰が罰されることもなく静かに終わった。

 一方で僕個人としてはBクラス担任の星之宮先生との一幕があった。というのも、どうやら先生が僕に関する悪い噂を流しているようだったので文句を言いに行ったのだ。色々と下準備をして面会に望んだものの、結果的には大して得るものの無い一件だった。

 

 そうしていよいよ一学期の終わりが見えて来た頃、僕は須藤君の期末試験の面倒を見ることになった。中間試験で赤点を取っている彼に勉強を教えるのは相当な苦労が予想され、まあ実際に相当苦労はしたけれど、それでも彼のバスケ愛を利用した冗談みたいな方法で乗り越えることが出来た。

 勉強会と同時に進行していたのが、Cクラスによる千尋さんへの嫌がらせだ。相談を受けた僕は事の解決に協力し、その果てに龍園君と邂逅した。それ以来彼には目を付けられているけれど、これはまあ仕方のないことだろう。僕がAクラスを目指す以上、龍園君との接触は遅かれ早かれ起きていたイベントだ。事前に予想は出来ていた。

 

 ただ、予想出来なかった出会いもあった。半年前に切り離した記憶――もう一人の『ボク』との、夢の中での再会だ。

 彼のおかげで『手に負えない逆説(ウルトラロジカル)』のことを知ることが出来たけれど、それは記憶をなくしていた僕にはあまりに突然で、突飛で。冷静なつもりでいたけれど、気付けば僕は生き方が分からなくなるほどに懊悩した。

 そんな僕を救ってくれたのは千尋さんだった。「好きに生きればいい」と言ってくれた。おかげで気が晴れた僕は毎日を気の向くままに、楽しく過ごさせてもらっている。帆波さんの誕生日にはデートなんかしたりして。

 ちょっと無計画にポイントを使ってしまった感があったので、盤上遊戯(ボードゲーム)部に赴いて先輩に勝負をふっかけたりもした。僕の所持ポイントはDクラスの中ではトップクラスだと思う。

 

 8月。

 夏休みに入り、2週間の旅行が始まった。旅行とは言うものの、少なくとも前半はがっつり特別試験だった。

 無人島でのクラス対抗サバイバル試験で、僕たちDクラスは結果だけ見ると大勝した。綾小路君が裏で色々と動いたのだ。一方で僕個人としては軽井沢さんの下着を盗んだ嫌疑をかけられ、クラス内での立ち位置が中々ナイーブなものになっていた。真犯人である伊吹さんにちょいと取引を持ちかけてはみたものの、どう転ぶかは伊吹さん次第だ。

 綾小路君の思惑によってDクラス勝利の手柄は僕と堀北さんに被せられることになるけれど、さて、それで僕の風評はどうにか好転してくれるだろうか?

 現状打てる手は打ってしまったので、後は良い結末を祈るばかりである。緒祈だけに。なんつって。

 

 僕の船酔いなどお構いなしに物語は進む。

 

 船上での1週間が、始まる。

 

 

 

 

 




深夜のノリでとりあえず投稿しました。あとでちょこちょこ改稿すると思います。ただ、文字数が増えすぎても嫌なので大枠は変えないつもりです。


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第4巻
089-090 彼


感想、お気に入り、高評価、ありがとうございます。

第4巻部分、開幕です。


 089

 

 

 

 ぱたん、と。

 緒祈(おいのり)から借りた小説『黒山羊の卵』を読み終えたオレ――綾小路(あやのこうじ)清隆(きよたか)は、浅葱色の栞を先頭に戻してそのハードカバーを閉じた。

 体内時計ではまだ11時にもなっていないのだが、部屋に掛けられたアナログ時計を見やると正午を少し過ぎていた。それだけ没頭していたらしい。

 

 無人島での特別試験が終わり、早くも三日が経過していた。サバイバル終了直後はほとんどの生徒が「まだ何かあるのでは?」と警戒していたが、今のところ学校側が何かを仕掛けてくることも無く、平穏な船旅が続いていた。お陰で生徒の気も緩み、各々が思い思いにこの豪華客船を満喫していた。

 と言ってもオレがこの三日間にしたことといえば、船内の散策と読書くらいなんだが。

 

 傍らに置いた本の表紙をそっと撫で、記憶に強く残っている文章を反芻する。

 

 ――私のかわいい欠落者。

 ――あなたの親は、あなたを育てるのに失敗した。

 

 その一節がどうにも頭から離れないのは、自分と重ねてしまったからだ。それは『欠落者』と呼ばれた過去がある、という単純な話ではない。むしろオレは『成功例』や『最高傑作』という評価をされていた。

 

 しかし。

 だからこそ。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 オレの親と呼ぶべき『あの男』は、オレを育てるのに成功したとも言えるし、失敗したとも言える。ただ、そんなことは至極どうでもよくて、そもそも『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 『あの男』の教育方針は、如何せん極端が過ぎる。

 

 オレが進学先にこの学校を選んだのは、そんな『あの男』から逃れるためだ。在校中は外部との接触を強制的に禁じるという校則を目当てに――拘束を目当てに入学した。

 ところが茶柱先生によると『あの男』は現在、外の世界から無理矢理こちらに接触を図ろうとしているらしい。しかもあろうことか茶柱先生はそれを利用して、オレにAクラスを目指せと脅してきた。まったく、教師の風上にも置けない女だ。

 無人島では希望通り動いてやったが、これをいつまでも続けるつもりは無い。必要な情報を揃えつつ、場合によってはこちらから仕掛ける必要もあるだろう。

 

「オレはただ、平穏な学校生活を送りたいだけなんだけどな」

 

 窓の外に広がる青一色の海を眺めつつ、やるせない独り言をこぼす。

 とりあえずこの本を返しに行こうかと腰を浮かしたところで、客室のドアが開かれた。

 

「あれ? 綾小路君、もしかしてずっと部屋にいたの?」

 

 ドアの向こうから現れ、そう声を掛けてきたのはルームメイトの平田(ひらた)洋介(ようすけ)だった。サッカー部所属の、人のいいイケメンだ。クラスにいまいち馴染めていないオレみたいな生徒相手にも、こうして気さくに声を掛けてくれる。

 平田の想像通りずっと部屋にいたオレは、肩を竦めて答える。

 

「特に出歩く理由も無い。遊ぶ相手もいないしな」

「そんなことはないんじゃない? 緒祈君はともかく、須藤君たちや堀北さんがいるよね」

 

 確かに、一応『友達』と呼べる間柄ではある。しかし須藤たちに関して言えば俺は誘われるのを待つだけの存在だし、堀北とは暇が出来たからといって遊ぶような仲ではない。

 緒祈が「ともかく」と言われたのは、あいつの体調の問題だ。船酔いに苦しむ緒祈は、聞くところによると昨日も一昨日も、部屋から一歩も出ていないらしい。折角の豪華客船だというのに勿体無い。……オレが言えたことでもないが。

 

「綾小路君がもう少し積極的になれば、友達は簡単に増えると思うよ。余計なお世話だけどね」

 

 平田はDクラスを纏めるリーダーで、男子からも女子からも多大な信頼を得ている。軽井沢という彼女もいて、交友関係には困らない男だ。ほんの少しの積極性すら出せない者の苦しみなど、彼には分からないだろう。……オレが苦しんでいるかは別として。

 

「12時半から軽井沢さんたちと合流してお昼ご飯を食べる予定なんだけど、一緒にどうかな? 綾小路君が来たら盛り上がるよ」

「いや、盛り上がらないだろ」

「……あはは」

 

 乾いた笑いを返すくらいなら、最初からそんなこと言わないでほしい。ちょっと(へこ)む。

 

 それにしても……軽井沢か。

 実を言うと軽井沢とは少し接点を持ちたいと考えていた。オレの今後の学校生活を平穏なものにするための協力者候補として、Dクラス女子のリーダー格である彼女には目を付けていた。

 協力者というなら緒祈もそうなんだが、あいつはBクラスに対しては強いコネクションがあるものの、Dクラス内ではあまり影響力を持っていない。それに、有能なのは間違いないんだが、その性能はどうにも不安定でピーキーだ。

 

 でもまあ、軽井沢との接触をそこまで急ぐ必要もないか。

 

「誘ってくれるのは嬉しいが、今回は遠慮させてもらう」

 

 次回があったとしても同じ台詞を吐きそうだなと内心自嘲しつつ、断った。空気の読める平田のことだ、こちらにその意思がないと見れば無理に誘いはしないだろう。

 と、思ったのだが――

 

「軽井沢さんたちと一緒が気まずいなら、僕と二人だったらどうかな?」

「えーっと……」

「うん、それがいいね。そうしよう」

「えーっと……?」

 

 意外なことに平田は食い下がってきた。

 そしてそのままあれよあれよと押し切られ、結局平田と二人で昼食をとることになった。なってしまった。圧倒的コミュ力でぶん殴られた気分だ。

 平田は軽井沢に断りの電話を入れ、一方的に用件を告げるとやや強引に会話を終了した。場の空気を大事にする普段の姿と比べると、今の平田の言動はどうにも不自然だ。何か裏があるのではと疑わざるを得ない。

 

「食べたいものの希望とかある?」

「……何でも食べられる。ただ、重いものは避けたいな」

「それじゃあデッキに行こうか。軽食中心だから食べやすいしね」

 

 目的地も決まったところで部屋を出て、平田が先導する形で廊下を歩く。船内のエレベーターで最上階へ。

 デッキに到着すると、そこは中々の賑わいっぷりだった。近くに備え付けのプールがあるため水着姿の男女も多い。目的のお店にもそういうバカンス気分な格好の生徒が多く、丁度お昼時ということもあってほとんどの席が埋まっていた。その中で運良く空いていた二人席を確保する。

 

「実は……少し相談があるんだ」

 

 席について手早く注文を終えると、平田は申し訳なさそうに切り出した。

 

「相談?」

 

 やはり裏があったかという納得とともに、なぜその相手がオレなのかという疑問が生じる。自分で言うのもなんだが、オレは相談相手としては適さない。平田のようなクラスの中心になるタイプの人間にとっては、特に。

 にもかかわらずオレに白羽の矢を立てたということは、それだけピンポイントな内容なのだろう。例えば平田でも対処できない特殊なパターンの人間関係、とか。

 果たして、オレの予想は当たっていた。

 

「僕と、堀北さんと緒祈君との橋渡し役になってもらえないかな?」

「……なるほど、そういう話か」

「この先Dクラスが一致団結して頑張っていくには、やっぱりあの二人の協力は必要不可欠だと思うんだ」

 

 ここで堀北と緒祈の名前が同列で並べられたことに、オレは内心ほくそ笑む。

 無人島での特別試験でDクラスは思わぬ好成績を得た。というか、オレが与えた。しかしオレ自身は目立ちたくないので、平田や櫛田を通して「あの大勝利は堀北と緒祈の働きによるものだ」という認識を広めた。

 お陰で――と言うと少々恩着せがましいが――堀北のクラス内での扱いは大きく変わった。『運動も勉強も優秀だけどなんか鼻につく高飛車女』から『ちょっと人付き合いは苦手だけどクラスのことを考えてるツンデレさん』への華麗なジョブチェンジだ。

 

「この前の特別試験を境に、堀北さんを慕う人たちは如実に増えている。そんな今だからこそ、彼女はもっと皆と仲良くなるべきだと思うんだ。緒祈君はまだちょっとデリケートな立場だけど……それでもみんなで協力し合えばCクラスやBクラス、ううん、Aクラスにだって上がれる気がするんだ」

「まあ、そうかもな」

 

 一応同意してみせたものの、「そんな未来は訪れない」というのがオレの正直な意見だった。

 緒祈は『Aクラス移籍計画』と称し、一之瀬のクラスへの移籍を目論んでいる。今のDクラスに協力するにしてもそれは自分のプライベートポイントが目当てで、Aクラスまで上げようとは考えないだろう。

 ただ、それを今ここで告げてしまうのは平田が可哀想なので、知らない振りをして黙っておく。

 

 そして逆に、緒祈を取り巻く状況についてオレが本当に知らないことを、良い機会なので平田に尋ねてみる。

 

「緒祈のデリケートな立場ってのは、具体的にはどういう状態なんだ?」

 

 無人島での特別試験で、あいつには軽井沢の下着を盗んだ容疑がかけられた。オレはそれが冤罪であることに気付いていたが、オレ一人が何を言ったところで緒祈を取り巻く状況が良くなるわけではない。

 船に戻ってから「緒祈も実はDクラスのために頑張っていた」という噂を流してみたものの、残念ながら堀北ほどの効果は得られず、クラス全体の認識をひっくり返すことは叶わなかった。

 

 事態が急変したのは一昨日のこと。

 篠原を中心とするDクラスのとある女子グループとCクラスの伊吹との間でひと悶着あり、その際に下着盗難事件の真相が、真犯人である伊吹の口から堂々と告げられた。「無人島試験で運良く一位になれて調子に乗ってるみたいだけど、そんな残念な脳みそじゃどうせすぐ落ちる」とかなんとか、挑発するような言葉を添えて。

 一歩間違えば暴力沙汰にもなり得たその騒動は、平田が来てなんとか事なきを得た。

 

 軽井沢の下着を盗んだ真犯人が判明し、それをよりにもよって公平公正誠実な男、平田洋介が与り知ったのだ。次の展開は容易に想像できるだろう。つまり無実の容疑者、緒祈真釣に対する謝罪である。

 一昨日の夜、緒祈を特に激しく糾弾していた十数名があいつの部屋に赴き、頭を下げた。それに対して緒祈は、大方の予想に反してあっさりと篠原たちを許したのだった。

 波乱も騒乱も混乱もなく、篠原たちは許された。

 

 ――という話を、ずっと部屋に籠って本を読んでいたオレは、ルームメイトの平田や幸村から伝え聞いた。その時には事は全て終わっていて、だからこの件に関してオレは一切関与しなかった。干渉できなかった。

 ゆえに、その後日談として緒祈がDクラスにおいて現在どのような扱いをされているのか、オレは把握していない。

 

 平田は困ったような顔で、口を開いた。

 

「緒祈君は篠原さんたちのことを許すと言っていたし、本当に気にしている様子はなかったんだよね。ただ、篠原さんの方はそうもいかないみたいで」

「罪悪感を抱えていると?」

「そうだね。だから、どう接していいか迷ってるみたい」

「……ということは、デリケートな立場にあるのはむしろ篠原の方なのか? 話を聞いた感じだと、平田が緒祈を相手に慎重に動く必要はなさそうだが」

「うーん、そうでもないんだよね」

 

 そうでもないらしい。

 

「今の篠原さんはかなり危うい状況なんだ」

「どういうことだ?」

「あの島で軽井沢さんの下着を盗んだのは緒祈君だってなった時、一番大きな声で彼を批判したのが篠原さんだから」

「……あー、そういうことか」

 

 あの時は緒祈が加害者という認識だった。だからそれも許された。しかし状況が一転したことで、反転したことで、今度は篠原が加害者の立場になった。勿論それを言うなら緒祈を責めていた生徒は他にもいるが、やはりその筆頭として分かりやすいのが篠原だ。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「状況が落ち着くまでは、僕は下手に動かない方が良いと思うんだ」

 

 現状、Dクラスにおいて優勢なのは『緒祈くん申し訳ない』という空気だ。加害者意識を抱えている生徒が多いうちは篠原もあくまでその中の一人であり、危険は及ばない。

 しかし、ここでもし平田が緒祈との接触を試みれば、それは冤罪に苦しんだ緒祈を慰めるという構図にどうしても見えてしまう。クラスの中心である平田がそう動いてしまうと、クラス全体の空気も『緒祈くん可哀想』という方向にシフトする。

 そうなると、どうなるか。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 これを回避したいのであれば、篠原はその空気が出来上がる前に緒祈と仲良くするしかないだろう。幸いにも緒祈からの許しは貰えているのだ。二人の平和的で友好的な姿をアピールすることさえ出来たなら、クラス全体に『あの問題は完全に解決した』と認識させることも難しくない。

 見方によっては緒祈が篠原の急所を押さえたようなものだが……まさか、そこまで予測していたのか? 伊吹に真実を告白させるつもりだとは聞いていたが、あの時点でここまでの展開を読んでいたのか?

 

 だとすれば――恐ろしい男だ。

 

「僕と綾小路君が今こうしているように、『緒祈君と篠原さんが一緒に食事をする』みたいな分かりやすいエピソードがあれば、不安定な現状も綺麗に落ち着いてくれると思うんだけど、どうだろう?」

「それはつまり、篠原と緒祈との橋渡しをしてほしいってことか?」

「うん。ダメかな?」

「ダメというわけでは無い。良い考えだとも思う。だが……」

 

 クラスの中心であるがゆえに不用意には動けない平田に代わり、動きに制約の無いオレみたいな存在が二人の間を取り持つことは合理的な手段だ。一緒に食事をしている姿を見せつけるというのも、シンプルでナイスなプランだ。

 が、しかし。

 

「肝心の緒祈が、部屋から出ないんだよな……」

「そうなんだよね……」

 

 船に弱い緒祈の体調は右肩下がりで、起きている時間もだんだんと短くなっているらしい。それもまた『緒祈くん可哀想』という空気を生み出しやすくしている要因の一つだ。

 哀れな友人を思い浮かべていると、注文したことをすっかり忘れていた二人分の料理が到着した。オレはサンドイッチを摘みながら平田の話を聞く。

 

「じゃあ緒祈君の件は一旦置いておいて、堀北さんはどうかな? 彼女と一番仲が良いのは綾小路君だと思うけど、なんとか橋渡し役になってくれないかな?」

「あー……。それも別に構わないんだが……堀北は嫌がるだろうな」

 

 堀北に関して言えば、緒祈のようなナイーブな存在ではないので、平田と引き合わせるだけなら簡単だ。しかし今度は本人の性格が問題になってくる。無理に距離を詰めようとすれば、むしろ今まで以上に距離をとろうとするだろう。堀北はそういうやつだ。

 勿論平田だってそれくらいのことは理解しているようで、オレを間に挟んだ形での『協力関係』を提案してきた。

 

「僕の意思を綾小路君なりに変換して、綾小路君の意見として堀北さんに伝えてほしいんだ。僕の存在は伏せたうえでね」

 

 そして堀北の意見もまたオレを通して平田に伝える、と。なるほど、そうすれば二人の間に見えない『協力関係』が築けるわけだ。しかし――

 

「そう単純な話でもないだろ。堀北と足並みを揃えたい気持ちは理解できるが、今の時点でそんな策を打つのは早計じゃないか?」

 

 裏でこそこそ手を回すような関係は、堀北が最も嫌うところだ。そんな体制は一時的なものにしかならないし、露見した後の関係の修復は困難を極めるだろう。

 それくらい平田にだって分かるはずなのだが、どうやら何かに焦って自分を見失っているらしい。

 

 冷静でない自分に平田自身も気付いたようで、顔を俯かせ「ごめん」とこぼした。

 

「……そうだね。綾小路君の言う通りだ。僕の考えは浅はかだったよ」

「浅はかとまでは言ってないが……。まだ一学期が終わったばかりなんだし、そう焦る必要は無いだろ。堀北は急いで友達を作るようなタイプでもないし」

 

 結束力というのは、基本的には時間をかけることでしか育たない。積極的な行動で高めることも出来るが、無理に作り上げたものは大抵脆く、容易に崩れ去ってしまう。

 それを分かっていながらも平田が焦っていたのは、もしかすると他のクラスを見てしまったからなのかもしれない。一之瀬のカリスマによるBクラスの団結や、龍園の恐怖政治によるCクラスの結束。4月に同じスタートラインを切ったはずなのに、いつの間にか生まれていた大きな差。そういうものが先の特別試験で垣間見えてしまった。

 Dクラスが勝てたのはあくまで数字の上だけでの話だと、平田は理解しているのだろう。

 

 テーブルの向こうで自省の色を見せる彼に、いくらか同情の念が湧く。

 

「彼女の気持ちも考えず、僕は一方的な思いをぶつけようとしていたのかな……」

 

 自分に言い聞かせるようにそう呟いた平田は、ようやく納得がいったらしい。ひとつ大きく頷いて、晴れやかな笑みを見せた。

 

「ごめんね。ご飯に誘っておいて、勝手に相談して」

「気にすることは無い。オレも平田の話が聞けて良かったと――」

 

 思っている。

 その最後の5音が消えたのは、視界の端にある人物を発見したからだ。平田の相談が一段落するのを待っていたかのような、実に見事なタイミングでの登場だ。

 

 まずいな……いや、まずくはないが少々面倒だ。

 『彼女』がここに到達する前に、オレは急いで皿の上を片付ける。平田が不思議そうに見て来たので、『彼女』の存在を目の動きだけで伝える。

 オレの意を汲み後ろを振り返った平田は、『彼女』の姿を――己の『彼女(ガールフレンド)』の姿を認識し、「あっ」と声を漏らした。

 

「あー、やっぱりここにいたんだ、平田くんっ。一緒にご飯食べよっ」

 

 平田の恋人である軽井沢(けい)が、嬉しそうな声をデッキに弾ませながら現れた。後ろには数人の女子グループを引き連れている。

 軽井沢と接点を持ちたいとはいえ、この場に留まってもオレに出来ることは無いだろう。このメンツでは話の主導権も空気の所有権も、オレのもとには回ってこない。ゆえにサンドイッチの最後の一切れを急いで飲み込んだオレは、

 

「じゃあ」

 

 と一言残して席を立ち、そそくさとその場を去った。一学期で身に付けた特技『速やかな撤退』の発動だ。ある程度離れてから一度振り返ったが、平田は女子に囲まれていて、その姿はもう見えなかった。

 

 一人の時間が満足に取れないのは、豊かな人間関係に重きを置くことの数少ない弊害の一つだ。個人的な悩みを個人的に解決することが難しい。

 しかし一方で、『一人で過ごす時間を減らすための手段』として友情の網を広げる人間もいる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()とオレは考えるのだが、現時点ではただの予想に過ぎない。

 

 彼にも彼女にも同じ時間を与えながら、船は大海をゆく。

 

 思惑を乗せて、苦悩を乗せて。

 計算を乗せて、思案を乗せて。

 

 

 

 090

 

 

 

 客室階の廊下を歩くと、両サイドには木目調の扉が等間隔に続く。一年生はこの各部屋に4人ずつ振り分けられているのだが、流石は巨大な豪華客船、余っている部屋も結構な数あるのだった。

 二人一組にしてもなんとか賄えそうだが、そこは色々と都合があるのだろう。部屋のサイズとか、学校側の監視のしやすさとか。

 

 もし二人一部屋の振り分けだったら、高円寺(こうえんじ)と組む生徒は苦労しそうだな。あのマイペースな男と二人きりで過ごすのは、実直で真面目な人間ほどストレスになるだろう。

 

 高円寺六助(ろくすけ)

 日本有数の財閥、高円寺コンツェルンの御曹司。

 その言動は理解に苦しむものがほとんどで、まともに相手をしていては精神が擦り減ること請け合いだ。先の特別試験では初日から仮病によりリタイアし、Dクラス全体から不興を買っていた。

 

 ルームメイトである高円寺と幸村のことを思い浮かべる。あの二人は犬猿の仲とまでは言わないまでも、相性はさっぱりよろしくない。規律を重んじる優等生タイプの幸村には、高円寺の自由奔放さが肌に合わないのだ。かく言うオレも、高円寺と積極的に関わりたいとは思わない。

 もし平田がいなければ、オレたちの部屋はもっと刺々しい空気になっていたことだろう。平田様様だな。

 

 そんな頼れる潤滑油である平田は、現在デッキで軽井沢に捕まっている。つまり部屋にいないことは確定だ。少々の不安を覚えつつ部屋に戻ると、幸いにもそこは無人だった。高円寺には失礼だが、ほっと胸を撫で下ろす。

 ベッドの上に置いていた本を手に取って再び部屋を出る。緒祈に借りていた小説を、三つ隣の部屋に返しに行く。デッキに上がるときついでに持って行けばよかったのだが、普段と違う平田の様子につい失念してしまった。それに、急ぐ用事でもなかったし。

 

 徒歩十数秒の移動なので何事もなく終わるかと思ったのだが、あにはからんや、目的地を目前にオレは足を止めることになった。

 

「「あっ」」

 

 狙ったようなタイミングで緒祈の部屋から出てきたのは、桜のヘアピンが映えるショートヘアの女子だった。

 

「綾小路くん、だったよね?」

「お前は確か……白波(しらなみ)か」

 

 白波千尋(ちひろ)

 緒祈が親友と称す、Bクラスの女子生徒。

 以前に一度面識はあるが、こうして一対一になるのは初めてだった。折角だし白波から見た緒祈の話でも聞こうかと思ったのだが、ここで思わぬ先手を打たれた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()

「……」

 

 反射的に「何のことだ?」と(とぼ)けるべき場面なのだが、オレにはそれが出来なかった。白波の発言が、カマを掛けているわけではないと気付いたからだ。語尾は「みたいだね」と未確定の伝聞調ではるあるものの、明らかに確信している声音だった。

 

 無人島でのサバイバル試験でオレが暗に動いていたことを知っているのは、生徒ではオレ自身と緒祈の二人だけだ。堀北にも多少は知られているが、それでも全ては明かしていない。

 下手に手柄を立てて興味を持たれるのは遠慮したい。オレの過去を詮索されるのは心の底から御免被る。だから堀北には――堀北にさえ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と、そういう伝え方をした。

 

 ではなぜ知る人ぞ知るオレの暗躍をBクラスのこの少女が知っているのか。

 ……まあ、回りくどい推理なんかせずとも、その答えはあっさりと導かれるわけで。

 

「緒祈が喋ったのか」

「真釣くんは隠そうとしてたけど、あからさま過ぎて気付いちゃった」

「……やれやれ」

 

 これだから緒祈は協力者として心許(こころもと)ないんだ。白波や一之瀬に対してあまりに緩く、温く、甘い。

 

「他言は無用で頼みたいんだが」

「悪いけど、約束はしかねるよ」

「……分かった。一之瀬については諦めるから、他の奴には言いふらさないでくれ」

「うん。それなら約束できるよ」

 

 白波は我が意を得たりと、にっこりと笑って頷いた。

 出来ることならもう少し確実に、安心できるレベルで白波の口に戸を立てたいところなのだが、ここで下手に高圧的な態度をとってしまうと巡り巡って緒祈の機嫌を損ねかねない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、それは少なくとも今ではないだろう。

 いくらか不安は残るが、今日のところは緒祈の親友であるこの少女の誠実さを信じ、妥協するとしよう。

 

 はあ、と溢したオレの溜息は、何かに気付いたらしい白波の「あっ」という声に消された。彼女はきょろきょろと辺りを見回し、声量を下げて言った。

 

「ごめんね。こんな廊下でする話じゃなかったね」

「そうだな」

 

 幸いにも今は人通りが無いが、聞かれたくない話をする場所としてはやはり相応しくない。かと言って誰に聞かれてもいい当たり障りのない雑談をするほどの仲ではないので――

 

「じゃあ、オレは緒祈に用があるから」

「うん、お世話よろしく。じゃあねー」

「……ああ」

 

 互いに手を振るわけでもなく、言葉だけで簡素に別れを告げる。

 それにしても、以前会った時はもう少しおどおどしていた印象なのだが……話してみると存外堂々としていた。あの感じ、ひょっとするとBクラスにおける白波は結構中心的な位置にいるのかもしれない。一之瀬の右腕とか、その辺りの。

 まあ、それを今気にする必要はないか。Bクラスとは休戦協定を結んでいるし、それがなくとも緒祈真釣の存在が『Bクラス対Dクラス』という構図を許さない。

 

 今しがた白波が出て来たドアをノックして、返事を待たず中に入る。ベッドが4つあって、うち3つが空いていた。さっと見渡してみたが、緒祈以外の人影はなかった。

 

「やあ、綾小路君。元気そうで何よりだ」

「それはこちらの台詞だな。もっとグロッキーになっているかと予想していたが」

「酔い止めを変えたんだよ。効き目が強い分、眠気も強くなるタイプにね」

「そうか」

 

 緒祈はベッドの上で上半身だけ起こし、もしゅもしゅとドーナツを食べていた。おそらく白波が差し入れでもしたのだろう。

 碌に話も出来ないほどに衰弱していたらどうしようかと思ったが、それなりに意識ははっきりしているらしい。オレの名前を間違えるいつもの(くだり)は無かったものの、顔色も声音もいたって平常だ。

 

「それで、今日は一体どうしたんだい? 世の中には『特に用事もないけど暇だから友達に会いに行く』という人が多くいるけれど、君はそういうタイプじゃないだろう?」

「ご覧の通り、本を返しに来たんだよ」

「あー、それね」

 

 食事中の緒祈に直接手渡すのも(はばか)られたので、「どこに置いておく?」と視線で問う。しかし言葉に出さないコミュニケーションは、薬で酔いを抑えているとはいえ今の緒祈には難しかったようだ。応答は一切なく、静かにフレンチクルーラーを頬張っていた。

 ……なんか幸せそうな顔してるし、食べ終わるのを待つか。

 

 それから3分間。隣のベッドに腰を下ろし、友人がドーナツを美味しそうに食べている姿をただただ眺めるという謎の時間を過ごした。

 

「ごちそうさまでしたっ」

 

 食事を終えた緒祈は、ようやくこちらに顔を向けた。

 

「で、なんだっけ?」

「本を返しに来たんだよ」

「あー、はいはい。そうだったね。こっちに僕の鞄があるから、適当に入れといてー」

「はいよ」

 

 ベッドの脇に置いてあった鞄を開け、一番上にぽんと乗せておく。

 

「ところで」

 

 鞄のファスナーを閉じながら、緒祈に問いかける。

 

「ルームメイトとは仲良くやってるのか? 今は3人とも出てるようだが」

 

 自分のことは棚に上げつつ、友人の人間関係を心配してみる。緒祈は部屋を見渡して、「ご覧の通りだよ」と肩を竦めた。

 

吉野(よしの)君と松谷(まつや)君は、寝る時以外は二人揃ってお友達の部屋に行ってるんだってさ。だからまあ、話す機会もほとんどない状態だね。三宅(みやけ)君はたまに部屋にいるけど、ここで(くつろ)ぐって感じでもないかな。やっぱり僕がいるから落ち着かないんだろうねえ」

「……まあ、そうだろうな」

 

 さして仲が良いわけでもないクラスメイトと部屋に二人きりという状況は、中々に落ち着かないものだろう。加えて緒祈は絶賛船酔い中だし、しかも別のクラスの女子が訪ねてきたりするし、積極的な友達作りをしないタイプの人間にとっては少々難易度の高いシチュエーションだ。

 緒祈が船酔いしていなければ状況は大分変っていただろうが、それは言っても詮方ないことだ。

 

「体調はどうなんだ? 部屋から一歩も出ていないらしいが、歩くのもキツいのか?」

「歩こうと思えば歩けるよ。ただ、とにかく疲れるんだよねー」

「長時間は厳しい、と」

「そーゆーこと」

 

 緒祈は困った顔で首肯して、やれやれと言いたげに首を揉んだ。

 

「じゃあ――」

 

 もっと困らせるかもしれないけれど、折角なので篠原たちについても聞こうしたところで、

 

「「キィィイイイン」」

 

 と。

 耳に障る甲高い通知音が部屋の二か所から聞こえた。オレのポケットと緒祈の枕元。それぞれの携帯が同時に鳴った。

 

「なんだろう。火事でも起きたのかな?」

「だとしたら大事件だな」

 

 流石にそれは無いと思うが、それでもこの音が重要度の高いメールの受信を告げていることは間違いなかった。なぜならマナーモードにしているはずのオレの携帯が、そんな設定に関係なく高らかに鳴ったのだから。

 メールの中身を確認するより早く、今度は船内アナウンスが入った。

 

『生徒の皆さんにご連絡いたします。先ほど全ての生徒宛に学校から連絡事項を記載したメールを送信いたしました。各自携帯を確認し、その指示に従ってください。万が一メールが届いていない場合は、お手数ですがお近くの教員まで――』

「嫌な予感がする」

 

 そう言って、緒祈は眉を顰めながら携帯を操作する。オレも届いたメールを確認してみる。受信ボックスの一番上にあった学校からのそれを開くと、中にはこんな文章が書かれていた。

 

 ――――

 

 間もなく特別試験を開始いたします。各自指定された部屋に、指定された時間に集合してください。5分以上の遅刻をした者にはペナルティを課す場合があります。本日18時までに2階204号室に集合してください。所要時間は20分ほどですので、お手洗いなどは済ませた上、携帯をマナーモードか電源をオフにしてお越し下さい。

 

 ――――

 

「特別試験、か」

「うげー!」

 

 緒祈が苦々しく叫ぶ。嫌な予感が的中したわけだ。

 

「そっちのメールも見せてもらっていいか?」

 

 送られた文面は人によって違うのか、それを確認したかった。オレとしては画面をこちらに向けてくれるだけでよかったのだが、

 

「ほいよ」

「――っと」

 

 緒祈は、お前は目隠しでもしているのかと言いたくなるコントロールで携帯を投げてきた。頭上を通過しかけたそれを、咄嗟に手を伸ばしてなんとか掴み取る。

 

「ナイスキャッチ」

「ナイス暴投」

 

 画面を確認すると、果たして。

 

「時間と部屋が違うな」

「ふうん?」

 

 基本的には同じ文字が並んでいたが、緒祈は21時30分に210号室を指定されていた。オレの4時間半後だ。所要時間が20分とあったから、生徒の入れ替わりを考えると30分刻みで8つ以上のグループに分けられていると考えるべきか? 一年生全員が集まれる場所も船内には何か所か見受けられたが、わざわざ分ける意味は何だ?

 特別試験の中身を推測しようにも、現段階では手掛かりが少なすぎる。

 

「夜の9時半って、そんな時間まで起きていられる自信無いんだけどなあ……。綾小路君、僕の代わりに行ってくれない?」

「替え玉が認められるとは思えないぞ」

「だよねー」

 

 まさかペーパーテストや体力測定ではないだろう。無人島サバイバルのような、通常の学校では行われないものかと予想される。ただ、そこで思考がどうしても行き詰ってしまう。

 オレより早い時間を指定されている生徒がいれば事前に聞くことが出来るのだが、こういう時には自分の交友関係の狭さが恨めしい。特別試験に積極的に取り組んでいると思われるのも面倒なので、平田や櫛田に聞くのも躊躇(ためら)われる。池や須藤も除外しておこう。Bクラスの一之瀬も当然論外だ。

 

 ……白波に実力の一端を知られたせいで少々引け腰になっている気がしないでもないが、まあいい。とりあえず堀北と佐倉に聞いてみるとしよう。二人に送るチャットの文面を作成していると、緒祈が「ふわぁああ」と大きなあくびをした。

 

「試験に備えて僕は寝るとするよ。多分自力じゃ起きられないから、9時過ぎにでも起こしに来てくれ」

「わかった」

「じゃ、おやすみ」

 

 そう言って、電源を落としたみたいにあっさりと、緒祈は眠ってしまった。すぅすぅと、無警戒に。

 

 オレはふと自分の左手に視線を落とす。そこには緒祈の携帯が、画面を光らせた状態で握られていた。普段は本人しか知らないパスワードによって守られている情報が、今はオレの手によって自由に閲覧できる。

 視線を目の前のベッドに移す。緒祈は確かに眠っている。

 

「…………」

 

 友達とはいえ他者の携帯を勝手に操作することは、学校にバレたらそれなりの罰を受ける行為だろう。しかし『勝手に』でなければ、あるいは『勝手に』だとしても事後承諾さえもらえれば問題には成りえない。

 この携帯の中に今すぐ欲しい情報があるわけではない。ただ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 だからと言って下手に攻めすぎるわけにはいかない。この程度のことでリスクを負う必要は全くない。だからまあ、こんなところだろう。

 

 ――30秒後。

 

 白波千尋の携帯番号とメールアドレス、そして彼女のIDが、オレの携帯に記憶された。

 

 

 




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不自然な部分が無ければ褒めていただけると幸いです。



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091-092 年劫の兎

 091

 

 

 

 私たち一年生が夏休みの一週間を過ごすこの絢爛豪華な客船には、大小合わせて30近い飲食店が存在する。その中でも私――堀北鈴音が気に入っているのがここ、甲板にある『ブルーオーシャン』というカフェテリアだ。

 がっつりとした食事をするタイプのお店ではないため、お昼時でも混雑することはない。また、屋上のプールのような人を集める施設も近くにはないので、潮風を頬に感じながら落ち着いた時間を過ごすことが出来る。

 

 ミルクティーの後味で潤う口に一切れのバウムクーヘンを運ぶ。バターの甘い香りが、鼻の奥まで優しく広がる。

 

「……平和なものね」

 

 ほんの三日前までの無人島生活が嘘みたいな、そんな静穏だった。

 

 無人島での特別試験。

 情けないことに、私はそこに最後まで参加することが出来なかった。Dクラスの『リーダー』という大役を与えられながら、最終日を目前にして体調不良による途中棄権を余儀なくされた。

 回復には丸一日かかってしまった。だから試験の結果がどうなったのか、誰がどう動いて何がどうなったのか、その全てを知ったのは試験が終わった翌日のことだった。

 

 

 以下回想――

 

 

「ちゃんと説明してくれるわよね?」

「ちゃんと説明してやるから、そう睨むな」

 

 試験の最終スコアだけはルームメイトから聞いていた。ただ、やはりそれだけでは分からないことが多過ぎて、8月8日の朝、己の復調を確認した私は綾小路くんを船のラウンジに呼び出した。

 

「Bクラスが堅実な戦法で200ポイントを獲得したこと以外、何一つ理解出来ないのだけれど?」

「200じゃなくて199だぞ」

「そんな細かい話はどうでもいいのよ。細かくない部分を話しなさい。洗いざらい吐きなさい」

「なんでそんなに上から目線なんだよ……。で、何から聞きたい?」

「悔しいけれど、何から聞くべきなのかも見当がつかないほど何も分からないの。だからあなたと緒祈くんが何をしたのか、初日から順に説明して」

 

 Dクラスの大勝利に終わったとはいえ、私の機嫌はあまり良くなかった。この苛立ちを綾小路くんにぶつけるのは、(あなが)ち八つ当たりでもないはずだ。

 彼は顎に手を当てて、しばし沈黙した。どう話したものか脳内で組み立てているのだろうけれど、私は構わず無言でプレッシャーをかける。

 

「誤解されないよう最初に言っておくが」

 

 綾小路くんは周囲に視線をやり、聞き耳を立てる者がいないことを確認してから話を始めた。

 

「オレはあくまで緒祈の走狗として働いただけだ。あいつの考えを全て把握しているわけじゃない」

「……そう言う割には、随分と積極的に動いていたように思うけど?」

「全て緒祈の指示通りだ。必要な情報を集めるために東奔西走してたんだよ」

「無闇に歩き回っても、ろくな成果は得られないでしょう?」

「そうでもない。探るべき場所の見当は付いていたし、おかげでAクラスのリーダーを見抜くことが出来た」

「そんなの、一体どうやって……?」

「特別試験が始まる前から、オレたちが島に降りる前から、実はもうヒントは出されていたんだよ――」

 

 そう言って綾小路くんは、あの島で彼が何をしたのか、何を見聞きしたのか、一から順に説明してくれた。

 

 どうやってAクラスとCクラスのリーダーを看破したのか。伊吹さんはどんな計画を持ってDクラスに来たのか。それに気付いた綾小路くんはどうやって防いだのか。AクラスとCクラスの繋がりは。軽井沢さんの下着が盗まれた真相は。龍園翔の企みは。

 

 そして、Dクラスのリーダーだった私が最終日を目前にリタイアした、あの一件にどんな意味があったのか。どんな意図があったのか。

 

「――まあ、ほとんど緒祈の受け売りだけどな」

 

 ひと通り語り終えてから、綾小路くんは最後にそう付け加えた。

 

「納得してもらえたか?」

「……ええ。まあ、概ね」

 

 抱いていた疑問が次々に氷解され、私は渋々頷く。しかしそれでも、彼の話にはどうにも不自然に感じる部分があった。

 こめかみに手をやり思案する私に、綾小路くんが「なんだよ」と問う。

 

「いえ、緒祈くんに従っていただけと言う割には、やっぱりあなた自身の意思で動いている場面が多い気がするのよ」

「……それは話し方の問題だろうな。オレの視点で物事を語っているわけだから、そういう風に聞こえても仕方ない」

「それもあるかもしれない。でも、それを抜きにしてもよ。だって少なくとも試験初日の緒祈くんは、私よりずっと体調が悪かったんだから」

 

 ちょっとした夏風邪のひき始め程度だった私に対し、緒祈くんはがっつりと船酔いしていた。特別試験のルールを把握するのにも一苦労といった様子で、とてもじゃないけど戦略を組み立てられる状態ではなかったはずだ。あの時点で綾小路くんに何か指示を出していたとは思えない。

 そもそも今この場に緒祈くんがいないのも、彼が絶賛船酔い中だからだ。あの島で何があったのか説明してもらいたかったけれど、呼び出すのを躊躇ってしまうレベルで彼は弱っていた。

 

 私からの訝しむ視線を受け、綾小路くんは肩を竦めて白状した。

 

「……確かに初日と二日目はオレの独断で動いた部分も多い。だがそれは、言ってしまえば緒祈の回復を待っていただけだ。あいつの本来の処理能力が戻ったらすぐ指示を仰げるよう、データを集めるだけ集めておいたんだよ」

「そういうことなら一応納得できるけれど……。それにしても、随分と緒祈くんの働きを強調するわね――()()()()()()()()()()()()

「……そんなことはないぞ?」

「そうかしら?」

「そうだとも」

「……」

「……」

 

 探るような視線を向けてみても、綾小路くんの表情筋はピクリともしなかった。

 十中八九、彼は何かを隠している。しかし、それはきっといくら私が食い下がったところで聞き出せるものではないのだろう。はあ、と溜息をこぼし、大人しく諦めて話を変える。

 

「それじゃあ、今話してくれたあなたの仕事っぷりが、緒祈くんの走狗としての活躍が、全て私の手柄になっているのは――」

 

 試験が終わってからというもの、私はクラスメイトから身に覚えのないことで感謝されることが何度もあった。私のお陰で勝てたとか、そんなことを何人にも言われた。

 

「これは一体どういうことかしら?」

「前にも言ったが、オレは目立ちたくないんだよ。とはいえ成果が出ている以上、功労者がいないのはおかしい」

「それで私を隠れ蓑にしたと?」

「ああ。良かったな。一躍クラスの人気者だぞ?」

「……不愉快な言い方ね」

 

 私はぐっと眉間に皺を寄せるけれど、綾小路くんは気にせず続ける。

 

「今回の試験で分かっただろ? お前ひとりの力じゃあ、どうしたって限度がある。Aクラスを目指したいのなら、ここらで一度そのやり方を見直すのもいいんじゃないか?」

「……」

 

 確かに、今回の試験で自分の無力さは痛いほど思い知った。私はクラスに貢献できないどころか、むしろ足を引っ張ってしまった。自分一人の力でなんとかしようとして、失敗して。実に滑稽なものだ。

 

 それでも、心の奥で言い訳をしてしまうのだ。

 

 本調子じゃなかったから。

 体調が万全だったら、私はちゃんと成果を残せたはずだ。

 

 だから。

 

「本気でAクラスを目指すなら、もう少しクラスメイトとの距離を縮めてみたらどうだ?」

 

 綾小路くんの至極御尤(ごもっと)もなその提案に、私は苦い自己嫌悪を伴って、こんな減らず口を返すのだった。

 

「あなたに言われることではないわ」

「はは。それもそうだ」

 

 

 ――回想終了。

 

 

 綾小路くんから話が聞けたことで、無人島での特別試験については自分の中で区切りがついた。もやっとした感情も少しはあるけれど、それでもここ二日は穏やかな気持ちで、緩やかな時間を過ごすことが出来ている。

 そういえば『軽井沢さんの下着を盗んだ真犯人が伊吹さんだと判明して、無実の緒祈くんを責めていた人たちが彼に謝罪に行った』なんて出来事もあったようだけど、これは私には関係のない話だった。

 

 ……いや。クラスメイトの問題なのだから、クラス内の話題なのだから、『関係ない』ということは無いのだけれど。それでも他人事だと簡単に切り捨ててしまうのは、切り離してしまうのは、私の悪い癖と言えるだろう。

 

「変わらないと、いけないのよね」

 

 綾小路くんに言われたからではなく、あくまで自分自身で考えた結果として、もっとクラスメイトと交流すべきだと思う。その為の第一歩は、やはり相手に興味を持つことだろうか。

 

「……難しいわね」

 

 あるいは、難しく考え過ぎているだけか。

 

 楽しくない思考に脳を支配されている。アッサムのミルクティーが先程よりも渋く感じられた。甘さを求めてお皿に目をやっても、そこにはもうバウムクーヘンは残っていなかった。

 そろそろ部屋に戻ろうかしら――そう考え始めたところに、後ろから声を掛けられた。

 

「おっ、こんなところにいたか」

 

 振り向くと、そこにいたのはクラスメイトの須藤くんだった。赤い短髪が陽の光に触れ、鬱陶しいほどに眩しい。思えばこの船の上で彼の顔を見るのは今日が初めてかもしれない。

 

 5月にあった中間テストで須藤くんはその髪と同様に真っ赤な点を取り、退学処分を受けるはずだった。しかしテストの点数をポイントで買うという奇策のお陰で、今もこうして在学している。豪華客船に乗れている。

 あの時案を出したのは綾小路くんだったし、一番大きな額を負担したのは緒祈くんだった。しかしどうやら綾小路くんが妙な伝え方をしたらしく、私はあれ以来やけに須藤くんから話しかけられるようになった。恩着せがましいならぬ()()()()()()()()態度をされている。

 

 そして無人島での特別試験を経て、今度は他のクラスメイトからも話しかけられるようになった。これもやっぱり綾小路くんの仕業だ。

 自分の与り知らないところで勝手に評価が上がっているのは、存外そう気分の良いものではない。私みたいな自尊心の強い――その自覚はある――人間にとっては、特に。

 

 それが嫌なら自力で功績を上げればいいだけの話なのだけれど、それがどうにも上手くいかないのが今の私だった。

 

「なあ。よかったら一緒に昼メシ食わねえか?」

「遠慮するわ。昼食はもう済ませているの」

「ちっ。もっと早く見つけていれば……」

「たとえまだだったとしても、あなたとの相席はお断りよ」

「んだよ、つれねえなあ」

 

 そう不貞腐れながらも、須藤くんは私の対面の席に無遠慮に、どかりと腰を下ろした。

 正直、ここに居座らないでどこかに行ってほしい。彼はガサツだし、頭が弱いし、声が大きいし、どこをとっても私とは合わない。話すべきことも話したいことも無い。

 

 ただ……。

 それでもあの無人島での須藤くんが、目立つものではないにせよ成果を上げていたことは間違いない。バスケ部に所属していて体力に自信のある彼は積極的に森に入り、食料の調達やスポット探しをしてくれた。一日目に行方不明になった緒祈くんを見付けてキャンプに連れ帰ったのも須藤くんだった。クラスへの貢献度は私の比ではない。

 

 故に、ここで須藤くんを素気無く追い払うことは、私にはどうにも憚られた。そんな邪険な対応をして、まるで私が彼に嫉妬しているようだと思われるのは、反吐が出るほど嫌だった。

 自分が上手く出来なかったからといって他の人が出した結果を認められないほど私は落ちぶれていない。プライドが高い自覚はあるけれど、そこまで(こじ)らせてはいない……はずだ。

 

 だから特別試験での彼の活躍を評し、少しくらいは世間話をするのもいいのかもしれないと、そう思った。

 

「食事なら池くんや山内くんと取ればいいじゃない。あの二人はどうしたの?」

「あいつらとはいつでも一緒ってわけじゃねえよ」

「そう」

 

 須藤くんと池くんと山内くんは三人一組のセットとして認識していたけれど、そう単純でもないらしい。まあ、群れる時もあれば個々で動くこともあるという、言ってしまえば当たり前の話か。

 

「なら綾小路くんはどうかしら? 友達のいない彼なら、誘えばすぐに来てくれそうだけど」

「いや、綾小路はさっき屋上のデッキで見かけたんだが、平田と二人でメシ食ってたんだよ」

「平田くんと?」

 

 それはまた意外な組み合わせだ。綾小路くんから誘うとは思えないから平田くんが誘ったのだろうけど……。そういえば、たしか二人は同室だったはずだ。独り寂しそうな綾小路くんを憐れんで、平田くんが声をかけたとか? あの二人の間でどんな会話がなされるのか、いまいち想像がつかない。

 

「だから俺は今、一人で暇してるわけなんだが」

「なら一人で食べればいいじゃない」

「いや、そうじゃなくてだな。俺は鈴音と――」

 

 その時、唐突に。

 私にとってはあまり嬉しいものではなさそうな須藤くんの台詞を遮って。

 

 キィィイイイン、と。

 

 耳に障る甲高い音が響いた。

 

「な、なんだあ?」

「……メールね」

 

 この電子音については入学直後に一度説明を受けていた。学校からの指示や行事の変更など、非常に重要度の高いメールを報せる受信音だ。私の携帯がこの音を鳴らすのは、今回が初めてのことだった。

 メールの内容を確認するより先に、今度は船内アナウンスが響いた。

 

『生徒の皆さんにご連絡いたします。先ほど全ての生徒宛に学校から連絡事項を記載したメールを――』

 

 受信ボックスを見ると、その一番上には13時丁度に受信された学校からのメールがあった。タップして本文を確認すると――

 

「特別試験、ね」

「うおっ、マジか!」

 

 今日の20時に204号室に来るよう書いてあった。他にも幾つか注意事項などが記されていたけど、試験の内容を推測するにはあまりにも情報の薄い文章だった。詳しい説明はその時が来てからということだろう。

 最低限の情報のみの文面に何とも言えない気味の悪さを感じていると、テーブルの向こうから須藤くんが話かけてきた。

 

「16時半に206号室に来いってよ。面倒くせぇな」

「……ふむ」

 

 どうやら指定されている時刻と部屋は人によって違うらしい。ということは、守秘義務さえなければ自分より早い時間の人に話を聞くことも可能なわけだ。心に余裕を持つためにも事前に情報を仕入れておきたいけれど、情報源が須藤くんでは心許ない。

 そう考えていたところに、タイミングよく綾小路くんからチャットが飛んできた。

 

『学校からのメール届いたか?』

『ええ。私は20時からと指定されたのだけれど、あなたは?』

『こっちは18時だ。ちなみに緒祈は21時半だった』

『みんなバラバラね。須藤くんは16時半だったわ』

『須藤と一緒にいるのか? 珍しいな』

『偶然よ』

 

 思いがけず4人分の指定時刻が判明したけれど、残念ながらそこから有益な情報を導き出すための計算式が分からない。あるいは、現時点ではどう足掻いても何も得られないのかもしれない。

 

『緒祈くんは何か言ってる?』

『特に何も。今は試験に備えて寝てる』

『そう』

 

 やはり不調の緒祈くんにはあまり期待出来そうにないようだ。その代りにというわけではないけれど、無人島では不甲斐ない姿を晒したことだし、今回は私こそが誰よりも頑張るべきだろう。

 一先ず私より早い時間の綾小路くんに、終わったら何があったのか報告するよう頼んで携帯をしまった。

 

「どんな試験かは分からねえが、頑張ろうな鈴音!」

「気安く名前で呼ばないで」

 

 

 

 092

 

 

 

 今回の船上での特別試験に関して、私は予定よりも早くその内容を知ることが出来た。

 

「ざっくり一言で表すと、人狼ゲームみたいな感じ」

 

 同室の長谷部(はせべ)波瑠加(はるか)さんはベッドの上に寝転がって携帯をいじりながら、顔をこちらに向けることもなく言った。

 彼女が指定された時刻は誰よりも早い16時だった。そして現在の時刻は16時半。図らずも部屋で二人きりになったので、何があったのか聞いてみることにした。

 私から声を掛けると目を丸くして驚かれたけど、特に嫌がる素振りもなく、ただ少し気怠げに話してくれた。

 

「人狼ゲーム?」

「そう、人狼ゲーム。堀北さんはやったことある?」

「経験はないけれど、ルールだけなら知識として把握しているわ」

「あー、やっぱり。そんな感じだよね、堀北さんって」

「……」

 

 馬鹿にされたような気もするけれど、事実『そんな感じ』なので黙るしかない。長谷部さんにも悪気がある様子ではなかった。思ったことがそのまま口から出たような、そんな言い方だった。

 率直というか無遠慮というか。あまり歯に衣を着せるタイプではないらしい。

 

「それで、具体的にはどういうルールなの?」

「各クラスから3人か4人ずつ集まって一つのグループになるんだけど、その中に一人『優待者』ってのがいて、それが誰なのか当てたらポイントゲット、みたいな?」

「疑問形にされても困るのだけれど……」

 

 どうやら長谷部さん自身も完全には理解出来ていないようで、あるいは説明が面倒くさいようで、結局細かいルールについては分からなかった。それでも大枠に関しては把握できた。

 今日はあくまでルール説明だけのようで、本格的に試験が始まるのは明日からとのことだ。焦る必要はないだろう。

 

 その後、綾小路くんからも情報を提供してもらい、より詳細な試験のシステムを聞くことが出来た。取るべき方針はまだ決めかねるけれど、可能な限りの予習は済ませた。

 

 そして時は止まることなく進み、いよいよ私が指定された時刻の10分前になった。

 

「そろそろね」

「堀北さん、時間? いってらー」

 

 長谷部さんの気の抜けた送り出しを背に受け、少し早いけれど部屋を出る。階段で2フロア下りる。

 ルール説明に使われる部屋が並ぶ2階の廊下には、想像していたよりも多くの生徒が集まっていた。私より一つ前の時間だった人が出て来たから多く見えるのかもしれないけれど、それにしては壁にもたれていたり、端に座り込んでいたり、すぐには立ち去りそうもない生徒が十人以上いる。

 各グループのメンバーをチェックしているとか? そんなもの、あとでいくらでも知り得るはずだけど……。とはいえ何かしらの偵察行為なのは間違いないだろう。

 

 私には廊下に留まる理由が無いのでさっさと指定された204号室に入ろうとしたのだけれど、中にいたAクラス担任の真嶋先生に「準備があるから少し外で待ってくれ」と言われてしまった。廊下に留まる理由ができてしまった。

 他にも何人かそうしているように、私も壁に背を預ける。

 

 そういえば、指定された部屋は綾小路くんと同じだったけれど、中にいたのが真嶋先生というのも同じだった。どうやら先生は部屋ごとに固定されているらしい。

 そんな試験の本筋とは恐らく関係ないであろうことを考えていると、右から誰かが近付いてくる気配を感じた。

 

「もし俺の勘違いでなければ、20時組なんじゃないか?」

 

 低めの声でそう尋ねてきたのは、Aクラスのリーダー格の一人、葛城くんだった。背が高く筋肉質で、高校生にしては珍しいスキンヘッドなのも相まって、近付かれるだけで軽く威圧されたような気分になる。されど物腰は落ち着いており、制服を着ていなければ大学生か、はたまた社会人かと見間違えるほどだ。

 勿論、だからと言って私が怯むことなど有り得ない。舐められないよう強気の語調で返す。

 

「そうだとしたら……あなたに何か関係があるのかしら?」

 

 葛城君とはこれが初対面ではない。無人島での特別試験でAクラスのベースキャンプを覗いた時、綾小路くんと共に一度会っている。しかし当然ながらその時も友好的な会話は為されていない。

 にべもない私の返答に葛城くんは己の予想が当たっていることを確信したらしく、やはりな、と言った。

 

「君とは一度話したいと思っていたが、これは運が良い。俺も20時組だ。明日からは同じグループとして協力し合うことになる」

 

 協力……?

 長谷部さんと綾小路くんから聞いた話だと、あまり協力が必要な内容には思えなかったけれど。二人とも普段から積極的に群れるようなタイプではないので、そういう性格がルールの捉え方に影響しているのかもしれない。

 とはいえここで安直に「どういうことかしら?」と葛城くんに質問するのは、こちらの情報不足を露呈するようでいただけない。だから私は彼の発言の、前半部分にのみ反応する。

 

「話をしたかった? 随分と不思議なことを言うのね。先日会った時は眼中になかったみたいだけれど?」

「確かに、正直俺は今までDクラスの存在など気にしていなかった。しかし前の試験の驚異的な結果を見れば、認識を改めないわけにはいかないだろう。君が勝つための策略を張り巡らせていたことは聞き及んでいる。君だけでなく、緒祈真釣についてもな」

 

 そう言って葛城くんは、その緒祈くんを探すように周囲をきょろきょろと見回した。私もつられて視線を動かす。

 葛城君の後ろでは、Aクラスであろう3人の男女が私のことを値踏みするような目で見ている。BクラスかCクラスの女子数名も、少し距離をとりつつこちらの様子を窺っている。そのさらに後ろには綾小路くんと平田くんがいた。平田くんは恐らく同じ時間の組なのだろうけれど、何故もう終わっている綾小路くんまでいるのだろうか?

 まあ、どうせ暇つぶし程度の理由だろう。緒祈くんが体調を崩している以上、無人島での試験のように綾小路くんが情報収集する意味はあまりない。収集すべき情報も、ここにあるとは思えないし。

 

「……どうやら緒祈は別のグループのようだな。彼とも是非話してみたかったんだが、まあいい。いずれ機会は得られるだろう」

「いずれ、ね。前回の試験で大敗を喫したというのに、随分と余裕そうね。学習能力が無いのかしら?」

「ふん。会心の出来というものは誰にでも一度はある。自らの策略がたまたま一回成功したくらいで調子に乗らないことだ。クラスポイントの差が未だ歴然であることに変わりはない」

「そうかしらね。まあ、そうやって油断してくれるなら、こちらとしても助かるわ」

「油断などしていないさ。万が一君たちがDクラスからCクラスに上がってくるようであれば、我々に脅威が及ぶ前に全力で潰させてもらう。これはBクラスも同じ考えだろう」

 

 葛城くんが視線鋭く、威圧的に睨みつけてくる。彼の後ろに控えるAクラスの生徒も、同調するようにプレッシャーをかけてくる。彼らの足は動いていないのに、どんっと一歩踏み込まれたような幻を覚える。

 

 だがしかし。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 女子だから、孤立無援だからと侮っているのだろうか。実に腹立たしい。これは一言ぴしゃりと言ってやろうと口を開きかけ――遮られた。

 

「うちのクラスの意向まで勝手に決めつけないでいただきたい」

 

 私の後ろから現れ、私より先に葛城くんに噛み付いたのは、Bクラスの神崎くんだった。彼は一之瀬さんに次いでBクラスのナンバー2的なポジションであり、そして緒祈くんの友人でもあった。頭の回転が速く、油断ならない人物だ。

 彼とは夏休み前に須藤くんの騒動に際して一度話した程度の間柄だけれど、少なくとも今この場で私の敵に回るということはないようだった。尤も、DクラスとBクラスの休戦協定を思えば当然の姿勢ではある。

 

「俺たちBクラスは、Dクラスに刃を向けようなんて考えてない。お前たちと一緒にしないでくれ」

「なまぬるい意見だな、神崎」

「敵対するだけが戦略じゃないだろ?」

 

 バチバチと。

 そんな音が聞こえてきそうなほど、張り詰めた空気だった。一触即発と言ってもいい。このまま進めば何かが起こりそうな、起きてしまいそうな。

 そんな空気を()()()()()ぶち壊したのは、己の存在を主張するように床を踏みつけながら登場したCクラスのボス、龍園翔だった。

 

「クク。随分と雑魚が群れてるじゃねえか。俺も見学させてくれよ」

「龍園……まさか、お前もこの時間に招集されたのか?」

 

 葛城くんは苦虫を噛み潰したような顔で闖入者に問う。先程までの憮然とした態度に揺らぎが生じ、その声音からは龍園くんに対する苦手意識がありありと読み取れた。二人の間に何かあったのだろうか?

 一方の龍園くんは実に楽しそうなものである。彼の後ろにはCクラスの生徒が、乱暴な王様に怯える家来のように付き従っていた。

 

「そのまさかだぜ葛城。嬉しいか? 嬉しいだろう? 諸手を挙げて喜べよ」

「……俺はお前を許すつもりは無い」

「許す? はて、お前に許しを乞わなきゃいけない過去なんてのは、俺の記憶のどこにもねーんだがな」

「……まあいい。同じグループなら話す時間もたっぷりあることだろう」

「お前の話なんざ興味ねーよ」

 

 龍園くんは小馬鹿にするような笑みでそう言って、葛城くんから私へと視線を移した。龍園くんだけが、この場で笑っているただ一人の人物だった。

 

「俺としちゃあ、むしろお前の話を聞きたいぜ。鈴音」

「気安く名前で呼ばないで」

 

 同じ台詞は昼に須藤くんにも言ったけれど、龍園くんにはその時よりも数段強く放つ。もちろんこの程度で怯んでくれる相手ではないけれど、私だってあなた如きに怯んでないわよと伝える。

 しかし残念ながら、そんな私の態度はむしろ彼を喜ばせるだけだった。ニタニタと、粘着質な嫌らしい笑みを見せてくる。

 

「いいねえ、その強気な瞳。そそるじゃねえか」

「その品の無い口を速やかに閉じなさい。これから特別試験が始まるのだから、少しは緊張感を持ったらどうなの?」

「ははっ! この程度の試験に緊張もクソもあるかよ。それとも鈴音、まさかお前、俺と同じグループだと分かって緊張してんのか? 可愛いところあるじゃねえか」

「誰が緊張なんか――」

 

 気に障る男の気に障る発言に、つい苛立って感情的になってしまう。しかし幸いにも、冷静さを失った私を諫めるようなタイミングで、すぐそばにあった208号室の扉が開いた。中から現れたのはDクラス担任の茶柱先生だった。

 

「部屋に入っていいぞ。盛り上がってるところ悪いが、そろそろ時間だ」

 

 その言葉を皮切りに他の部屋からも各クラスの担任の先生が現れて、それぞれの部屋に入室を促した。

 

「続きは試験が始まってから、だな」

 

 神崎くんがそう言ってこの場を纏めた。私としては試験が始まったところで今の続きをするつもりは無いけれど、そんな反論をしても時間の無駄なのは分かっていたので大人しく黙った。

 Aクラスは葛城くんが率いるように、Bクラスは神崎くんを中心に、それぞれ指定された部屋に消えていく。

 

「じゃあ、僕たちも行こうか」

「Dクラスは私たち三人みたいだねっ」

 

 そう声を掛けて来たのは平田くんと櫛田さんだった。私は短く「そうね」と答える。

 そんな私たちの様子を見て、まだ廊下に留まっていた龍園くんが話しかけてくる。

 

「緒祈はいねえのか」

「……彼は別のグループよ」

「ちっ。つまんねーな」

「随分と緒祈くんに御執心ね」

「あいつは面白い男だぜ? ま、いないなら仕方ねえ。今回はお前で遊んでやるよ」

 

 そんな舐め腐った台詞を残し、龍園くんは茶柱先生がいる208号室に消えた。彼のクラスメイトもしずしずとそれに続く。

 これから試験が終わるまで毎日龍園くんと顔を合わせるのかと思うと辟易する。とはいえ廊下で嘆息していても仕方ない。私も指定された206号室に移動する。平田くんと櫛田さんは一足先に入室済みだ。

 

 部屋に入って扉を閉めると、先程までの喧騒が嘘のように静かだった。客室の一種のようだけど、ベッドやテレビは置かれていなかった。やけに広く感じる部屋の中央には椅子が五脚あって、その一つにAクラス担任の真嶋先生が座っている。残りの四脚は先生と向かい合うように並んでいた。

 平田くんと櫛田さんは既に真ん中の二つに着席していた。私は櫛田さん側の端の椅子に座る。

 

 私たちが着席したのを確認し、腕時計を確認し、真嶋先生は口を開く。

 

「Dクラスの櫛田、平田、堀北だな。ではこれより特別試験の説明を始める」

 

 ある程度予習して来ているとはいえ、こうして先生の口から『特別試験』というワードを聞くと、やはり気が引き締められる。

 息を呑んだのは私だけではないだろう。ちらりと見やると、横の二人も緊張した面持ちをしている。

 

「既にクラスメイトから情報は得ているかもしれないが、まずは一通り説明させてもらう。質問は後で受け付けるので、黙って聞くように」

 

 三人揃って無言で頷く。ここで誰も「ちょっと待ってくださいよ!」などと言い出さないあたり、悪くない組み合わせだ。たとえば池くんなんかは特にぎゃあぎゃあ騒ぎそうだし、そんな人と一緒のグループだと相当疲れたことだろう。

 ……さすがに想像だけで池くんのことを悪く言い過ぎたと反省しつつ、先生の話に傾注する。

 

「今回の試験では一年生全体を干支になぞらえた12のグループに分け、そのグループ内で試験を行う。試験の目的はシンキング能力を問うものとなっている」

 

 シンキング能力。

 体力やチームワークが求められた前回からは、がらりとテイストの変わった試験だ。それゆえに力を発揮する生徒も変わってくるだろう。問題はその中で、私自身がどれだけやれるかだ。

 長谷部さんは犬グループ、綾小路くんは虎グループと言っていたけれど、さて私は――

 

「君たちの配属されるグループは『卯』――すなわち(うさぎ)グループだ」

 

 そう言って、真嶋先生は傍らの封筒から葉書サイズの紙を三枚取り出して、私たちに一枚ずつ渡した。それはイラストも何もない簡素なメンバーリストだった。

 一番上に『兎グループ』とあり、その下にクラスごとに生徒の名前が記されていた。フルネームで、ふりがな付きで。AクラスとCクラスからそれぞれ4人、BクラスとDクラスからはそれぞれ3人が選ばれていた。

 他所のクラスで知っている名前は、先程廊下で喋ったあの三人だけだった。三人()()ではあるけれど、むしろそれで十分というか、お腹いっぱいで胃もたれしそうな三人だった。

 

 Aクラスの葛城康平。

 Bクラスの神崎隆二。

 Cクラスの龍園翔。

 

「はあ……」

 

 ため息がこぼれるのも仕方ないだろう。

 

 それは兎グループと呼ぶには、あまりにも可愛げのない顔触れだった。

 

 

 





原作キャラの口調に不自然な部分があればご指摘ください。


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093-095 亡羊の嘆

羊グループのメンバーリストに誤りがあったため修正しました。(2/22)


 093

 

 

 

「君たちが配属されるグループは……じゃじゃーん! 羊グループでーす!」

 

 Bクラスの担任である星之宮先生は腕を前に突き出し、茶色の封筒にでかでかと書かれた『羊』の文字を見せつけてきた。先生を相手に使うべき比喩でもないが、それは満点を獲得したテストを小学生が親に自慢するような、そんな無邪気な姿だった。

 おかげで特別試験のルールを説明している最中だというのに、この部屋の空気は粛然とはかけ離れたものだった。1日に12回も同じ話をしていればそりゃ飽きもするだろうが、少しくらいは場を引き締めてほしい。

 

 俺――三宅(みやけ)明人(あきと)が指定されたのは、全12グループの中で最も遅い時間だった。

 

「これが羊グループのメンバーリストだよ。部屋を出る時には返してもらうから、必要だったらこの時間に覚えてね」

 

 そう言って渡されたのは、先程の封筒から取り出されたはがきサイズのプリントだ。そこには俺を含めて13人の生徒の名前が、クラスごとに記されていた。

 

 A:神室(かむろ)真澄(ますみ)戸塚(とつか)弥彦(やひこ)村井(むらい)(すぐる)

 B:網倉(あみくら)麻子(まこ)栗原(くりはら)明衣(めい)立石(たていし)(あらた)

 C:石崎(いしざき)大地(だいち)金田(かねだ)(さとる)千葉(ちば)美里(みさと)

   吉川(よしかわ)静香(しずか)

 D:緒祈(おいのり)真釣(まつり)(みなみ)正樹(まさき)三宅(みやけ)明人(あきと)

 

 ふむ。

 他所(よそ)のクラスにも知っている名前は幾つかあるが、そのうちの誰とも話したことはなかった。

 

 ちらりと右を見る。

 緒祈はメンバーリストを見ても特に表情を変えることはなく、目を細めて眠たそうにしていた。客室からこの部屋まで移動するのにかなりの体力を使ったらしい。こんな調子で明日から大丈夫か?

 保健医でもある星之宮先生はそんな緒祈に気遣うような目を一瞬だけ向けて、それでも状況と立場ゆえか、特に声はかけず話を続ける。

 

「リストに書かれている他のクラスの生徒も、今この時間、他の部屋で同じように説明を受けてるよ。わざわざクラスごとに分けたのは、ほら、他のクラスの子も一緒だと混乱するかなーって」

 

 そりゃそうだ。なにせほんの数日前まではクラス間でばちばちに競い合っていたのだ。そんな相手と一緒に特別試験のルールを聞かされても、周りが気になってろくに理解できないだろう。

 

「今回の試験では君たちにはDクラスとしてではなく、羊グループとして取り組んでもらうよ。そして結果も、グループごとに出ることになる」

 

 試験の内容については事前に平田から教えてもらっていたので、特に驚くことは無い。もし一番早い16時組だったら……ここまで落ち着いてはいられなかっただろう。その点は運が良かったと言える。

 

「試験の結果は4通りだけ。例外は存在しない仕組みだよ。このプリントにまとめてあるから各自読んで、もし疑問点があれば質問してねー」

 

 そう言って星之宮先生は、今度は羊と書かれていない別の封筒からB5サイズのプリントを取り出し、それを一人に一枚ずつ手渡した。

 あ、いや、一枚じゃなくて二枚だ。二枚一組で、左上がホッチキスで留められていた。

 

「それも持ち出し禁止だからね」

 

 前の11組でも使われた物らしく、紙の端はしわしわによれていた。俺は最後の12人目として、そこに記されたルールに目を通す。

 

 


 

 

 『夏季グループ別特別試験説明』

 

1.概要

 本試験は各グループに割り当てられた『優待者』を基点とした課題である。グループの『優待者』が誰であるかを解答することで、4つの結果のうち1つを必ず得る。

 

2.スケジュール

 本試験は下記の段取りで進行される。

○試験の期間は8月11日から8月13日までの3日間である。

○試験開始日の午前8時、『優待者』に選ばれた生徒と選ばれなかった生徒に、それぞれその旨を伝えるメールを一斉送信する。

○期間中は毎日午後1時と午後8時の2回、各グループで指定された部屋に集まり、1時間の『話し合い』を行う。

○試験最終日の午後9時30分から午後10時までの間を『解答時間』とし、グループの『優待者』が誰であったかの解答を受け付ける。

○『解答時間』の前に解答することも可能である。試験期間中に有効な解答が為された場合、当該グループの試験はその時点で終了し、以後『話し合い』は行わない。

○試験最終日の午後11時、全グループの試験結果を全生徒に一斉送信する。

 

3.話し合い

○1日に2回行われる『話し合い』の内容は、各グループの自主性に委ねる。ただし、初回の『話し合い』においては必ず全員が自己紹介をすること。

○『話し合い』の欠席、遅刻、途中退室は原則として認めない。

 

4.解答

○解答は1人1回のみ、自分の携帯電話で所定のアドレスに送信することでのみ受け付ける。

○『優待者』及び『優待者』と同じクラスの生徒による解答については、これを無効とし受け付けない。

○自分が配属されたグループ外の生徒を『優待者』として解答した場合、これを無効とし受け付けない。このとき解答権は失われない。

○『話し合い』中に解答した場合、これを無効とし受け付けない。このとき解答権は失われない。

 

5.結果

5.1.結果①

○グループ内で『優待者』及び『優待者』と同じクラスの生徒を除くすべての生徒が『解答時間』に解答して正解した場合、これを結果①とする。

○結果①のグループではメンバー全員に50万プライベートポイントを支給する。『優待者』には加えて50万ポイント、計100万ポイントを支給する。

○結果①によるクラスポイントの変動はない。

 

5.2.結果②

○グループ内で『優待者』及び『優待者』と同じクラスの生徒を除くメンバーの中に、『解答時間』に解答して不正解の生徒、または『解答時間』終了時まで無解答の生徒が1人以上いた場合、これを結果②とする。ただし、『解答時間』を待たず有効な解答をした生徒がいた場合はこれに当てはまらない。

○結果②のグループでは『優待者』にのみ50万プライベートポイントを支給する。

○結果②によるクラスポイントの変動はない。

 

5.3.結果③

○グループ内で『解答時間』を待たず有効な解答があり、それが正解だった場合、これを結果③とする。

○結果③のグループでは解答者に50万プライベートポイントが支給される。

○結果③のグループでは解答者が所属するクラスに50クラスポイントが支給され、『優待者』が所属するクラスから50クラスポイントを没収する。

 

5.4.結果④

○グループ内で『解答時間』を待たず有効な解答があり、それが不正解だった場合、これを結果④とする。

○結果④のグループでは『優待者』に50万プライベートポイントが支給される。

○結果④のグループでは『優待者』が所属するクラスに50クラスポイントが支給され、解答者が所属するクラスから50クラスポイントを没収する。

 

6.ポイント処理

 本試験の結果によるプライベートポイント及びクラスポイントの支給及び没収は9月1日に行われる。

 

 


 

 

「何か質問はあるかな?」

 

 プリントを渡されて5分ほど経っただろうか。俺は『7.禁止事項』の項目をまだ読めていなかったが、先生にそう聞かれたので一度顔を上げる。隣に座る南と緒祈に発言の気配が無いことを確認し、手を挙げる。

 

「はい、三宅くん」

「『優待者』はどのように決められるんですか?」

 

 これはこの部屋に来る前、平田にルールを聞いた時から気になっていたことだ。

 

 試験の結果は4通りあるが、そのうち3つは『優待者』にプラスとなる。『優待者』に選ばれた生徒は、結果③さえ回避できればそれでいい。

 逆に『優待者』が選ばれなかったクラスの生徒は、ポイントを得るには結果①か結果③を狙うしかない。とはいえ結果③を狙って『解答時間』の前に解答するのはリスクがある。もし間違えれば結果④となってクラスポイントを失い、『優待者』にはクラスポイントもプライベートポイントも与えてしまう。

 となると結果①を目指すしかなさそうだが、平田が言うには――

 

「AクラスやBクラスはそれでもいいかもしれないけれど、僕たちDクラスとしてはやっぱりクラスポイントが欲しいよね。特別試験は上のクラスを目指せるチャンスなんだ。出来るだけ無駄にはしたくない」

 

 とのことだった。

 要するにグループ単位で言うなら『優待者』がいるクラスが有利であり、クラス単位で言ってもやはり『優待者』が多いほど優位なのだ。

 ではその肝心の『優待者』はどのように選出されるのか。先生はこう答えた。

 

「公平に、公正に、厳正な調整によって選出されるよ」

「それは各クラスから3人ずつ選ばれる、ということですか?」

「さて、どうだろうね?」

 

 んふふー、と。

 我らがDクラスの茶柱先生なら決してしないであろう莞爾(かんじ)とした笑みを浮かべ、星之宮先生は否定も肯定もしなかった。普通に考えれば『優待者』の数に偏りは無いはずなのだが、それを確信するための証言は得られそうにない。

 

「他には?」

 

 今度は俺の左で、恐る恐るといった様子で手が挙がる。

 

「はい、南くん」

「えっと、『優待者』とか解答者の名前は、試験が終わったら公表されるんですか?」

「それはないよー。開示するのは各グループの結果が4つのうちのどれだったかと、各クラスのポイント増減だけ。もちろん自分から言って回る分には好きにしてもらって構わないけど」

「あ、いえ。はい」

 

 『優待者』を見抜いて個人の資産を増やしても、あるいは『優待者』を見誤ってクラスに迷惑をかけても、自分さえ黙っていれば知られないということか。匿名性についてしっかり考慮されているようだ。

 

 それにしても、南は随分と緊張している様子だな。特別試験というだけで不安は募るものだが、加えて目の前にいるのは今日初めて話す他クラスの担任だ。いくら緩い雰囲気の先生とはいえ、緊張するなと言うのは無理な話だろう。俺だって決して穏やかな気分ではない。

 一方でなぜか先生と同じくらい緊張感が見えないのが、俺の右隣に座る緒祈だ。両足は前にだらりと伸ばされ、両腕はその間にぐたりと垂らされ、背中は丸まり、顔は下を向いている。プリントを摘む指先以外、どの筋肉も働いていないように見えた。

 流石に心配なので声を掛ける。

 

「ちゃんと理解できてるのか? 緒祈」

「んー? ん」

 

 ほんの少しだけ首をもたげ、口を閉じたまま、喉の奥を震わすだけの返事だった。

 

「質問があるなら今のうちだぞ」

「……うん。じゃあ」

 

 やる気を全く感じさせないゆったりとした動きで、緒祈が手を挙げた。

 

「はい、緒祈くん」

「解答の受け付けは、何時からですか?」

「……?」

 

 俺にはその質問の意図がよく分からないが、星之宮先生は何かを察したらしい。にやりと笑ってこう答えた。

 

「明日の午後2時、1回目の『話し合い』が終わった直後から受け付け開始だよ」

「はあ、なるほど」

 

 自分から聞いといて興味なさげな緒祈だった。やはり試験に向ける意欲はあまりないようだ。

 

 結局それ以降は誰からも質問は出ず、残りの時間は各々がルールを繰り返し頭に刻み込む時間となった。各々というか、俺と南だけだが。

 緒祈の方からは規則正しい呼吸の音が聞こえたので、多分眠っていた。

 

 そして時刻はまもなく夜の9時50分。

 

「そろそろ時間だねー」

 

 星之宮先生はそう言って、グループのメンバーリストとルールの書かれたプリントを回収した。全て頭に叩き込んだつもりではあるが、こうして手元からなくなってしまうとどうにも落ち着かない。記憶が鮮明なうちに、部屋に戻って何かに書き出した方が良さそうだ。

 

「ではでは、これにて本日の特別試験説明会は終わりだよ。夜遅くまで大変だったねー。お疲れさま!」

 

 その労いの言葉は俺たち生徒に対してではなく、先生自身に向けたものに聞こえた。一番早い組が16時だったはずだから、そこから6時間か。そりゃ疲れもするだろう。

 

「明日に備えて今日は早く寝るんだよー。ふわぁ~あ」

 

 あくび混じりにそんなことを言われたけれど、そう簡単には眠れないだろうなと思った。

 星之宮先生は一仕事終えてようやく解放されたといった様子だが、俺たち生徒にとって今日のこれはプロローグに過ぎない。

 

 本番は明日からだ。

 明日から、特別試験だ。

 

 

 

 094

 

 

 

 夜。

 時計は見ていないが、おそらく日付はもう変わっている頃だろう。

 いつも通りベッドに入ったものの、やはりと言うべきか俺は中々寝付けなかった。高校受験の前日もこんな有り様だった気がする。決して緊張しいな性格ではないつもりなのだが、もし『優待者』に選ばれたら――なんてことを考えていると、やけに目が冴えてしまった。そのくせ碌なアイデアは浮かんでいないのだから悲しいものだ。

 

 照明器具が揃って沈黙している部屋の中、ルームメイトの3人はぐっすりと眠っていた。俺は静かに体を起こし、靴を履き、気分転換に船の休憩スペースに向かった。地下2階までエレベーターを使わずに下りる。なんとなく歩きたい気分だった。

 その途中、思わぬ人物と鉢合わせた。誰かと鉢合うこと自体がそもそも思いがけない事態なのだが。

 

「あっ。えーっと……三宅くん、だったよね?」

「そっちは確か……」

 

 その少女の名前を、俺は知っていた。しかしこの場合の()()とは名字の対となる意味での()()であり、言ってしまえば俺は彼女の()()しか把握していないのだった。互いに顔は知っているが、つまりはそれだけの間柄だ。いきなりファーストネームでは呼べない。

 そんな俺の困惑を察してくれたようで、彼女はご丁寧に自己紹介をしてくれた。

 

「Bクラスの白波千尋だよ。知ってると思うけど、真釣くんの親友です」

「ああ。俺はDクラスの三宅明人だ。知ってると思うが緒祈とはクラスメイトで、今はルームメイトでもある」

「うん、知ってる」

 

 この少女――白波と会うのは今回で大体5度目だが、これまでは必ずその場に緒祈もいた。

 例えば白波が緒祈を訪ねたとき俺も部屋にいたり、特別試験のルール説明が終わった時、緒祈を迎えに来たのも白波だった。……ほんの1フロアの移動に迎えが必要というのは、(にわか)には理解しがたい話だが。

 

 要するに一対一で会話する機会なんてものは無く、そもそも緒祈を挟んでさえ会話などしてこなかったのだ。はたしてここでどんな話を振ればいいのか、それともさっさと別れた方が良いのか、それすらも俺には分からなかった。

 人見知りというわけでは無いが、決して人付き合いが得意な人間でもないのだ。

 

 なぜこんな時間に、こんな場所に?

 

 そんな、おそらく向こうもこちらに対して抱いているであろう疑問を口に出していいものか。藪をつついて蛇が出たりはしないだろうか。真夜中に知り合い未満の相手と二人きりというこのシチュエーションは、中々に冷静な思考を奪っていく。

 結局何を言うでもなく、そのくせ立ち去るわけでもない俺に、白波は「んー」と少し考えて、ただ一言、こんな台詞を吐くのだった。

 

「真釣くんをよろしくね」

「……ああ」

「んじゃ」

 

 簡単に別れを告げ、白波は上の階へと姿を消した。

 よろしくと言われても困るのだが……それだけ緒祈のことが心配なのだろう。というか、心配でも無ければわざわざ他クラスの男子の部屋に来たりはしないか。

 ……あの二人は付き合っていたりするのだろうか? 白波は先程「真釣くんの親友」だと名乗ったが、恋人と言われても不思議ではない距離感に見える。まあ、どうであれ俺には関係のない話、か。

 

 再び足を階下へと進め、休憩スペースに辿り着く。飲み物の自動販売機が5つと、軽食の自動販売機が2つならんでいる。そしてその前に雑然と設置された椅子の一つに、驚いたことに先客がいた。この夜二度目の予期せぬ遭遇だが、幸いにも今回は名字を知っている相手だった。

 

「よう、綾小路」

「三宅か。こんな時間にどうしたんだ?」

「ちょっと、眠れなくてな」

「試験のことでも考えていたのか」

「ああ。そんなとこだ」

 

 綾小路と俺は仲が良いわけでも悪いわけでもなく、つまりそれ以前の希薄な繋がりしかない。しかし同じクラスで同性ということもあってか、白波よりも会話ができる。

 

 状況を鑑みるに、白波と綾小路はここで密会でもしていたのだろうか?

 そんないかにも藪蛇になりそうな疑問は一先ず保留して、俺は紙コップに注がれて出てくるタイプの自販機で冷たいお茶を購入した。購入というか、無料なんだが。

 

「綾小路は、どうしてここに?」

「一緒だよ。俺も眠れなかったんだ」

 

 それを聞いて、俺と同じやつもいたんだなと安堵した。なにせルームメイトは図太く普通に眠っているし、緒祈に関して言えばあいつはルール説明の時から既に眠っていた。心臓に毛でも生えているのだろうか?

 

 ちなみに緒祈は中性的な顔立ちをしていて、その寝顔は「こいつ実は女子なんじゃないか?」と疑いたくなるレベルだ。

 そういえば入学初日に男子の誰かが女子の制服で登校したという噂があった気がするが、あれは緒祈だったのだろうか? あの噂は七十五日どころか十五日もかからず雲散霧消してしまったため、詳細は覚えていない。

 緒祈と仲の良い綾小路なら何か知っているかもしれないが、いまさらそこの真実を紐解くことに意味は無いだろう。

 よって順当に、今直面している特別試験の話を振る。

 

「綾小路は、誰と同じグループだった?」

「幸村と外村、それと軽井沢だ」

「……大変そうだな」

「一番きついのは幸村だろうけどな」

 

 幸村は優等生タイプの真面目なやつだ。一方で軽井沢はいわゆるギャルで、外村はオタクと呼ばれる人種だ。相性が良いとは思えない。

 綾小路は……こう言っちゃなんだが、可もなく不可もなくって感じだ。

 

「三宅の方はどうなんだ?」

「南と緒祈だ」

「……そうか。緒祈と同じグループか」

 

 緒祈と綾小路は友達と言っていい関係だろう。二人のことをそこまで知っているわけでは無いが、少なくともDクラスの中においては、互いが互いに一番仲の良い相手なのではないだろうか。

 そんな俺の推測を綾小路に話すと、

 

「まあ、そうかもな」

 

 とのことだった。

 

「ところで緒祈はルール説明の時、何か言っていたか?」

「ずーっと黙ってたぞ。まあ、一応一つだけは質問してたけど」

「質問を?」

「ああ。解答はいつから受け付けられるのかって」

「……なるほどな」

「緒祈の考えが分かるのか? 俺にはあまり意味のある質問には思えなかったが」

「……いや、オレにも質問の意図は分からん。ただ、一応真面目に参加する気ではあるみたいだな、と」

「そうだな。体調が悪いようだから、ひょっとすると途中でリタイアするかもしれないが」

 

 むしろリタイアしてしまった方が緒祈にとっては幸せだろう。リタイアなんて制度があるかは不明だが。

 

 それから暫く、さして仲が良いわけでもなかった俺たちだが、ここで会ったのも何かの縁と、試験のこととか、緒祈のこととか、クラスのこととか、なんだかんだ1時間近く話したのだった。

 

 

 

 095

 

 

 

 朝。

 俺の目を覚まさせたのは、携帯の通知音だった。昨日の昼に聞いたけたたましい警報のような音ではなく、ピロリロリンという控えめで気の抜けた普通の通知音だった。ぱっと手に取り時刻を見ると、午前8時の00(ゼロゼロ)分であった。

 もっと早く起きるつもりだったので一瞬「しまった!」と思ったが、よくよく考えるとさして困ることもなかった。朝イチで予定が入っているわけでもない。

 

 のっそりと体を起こして部屋の中を確認する。吉野と松谷はどこかに出ていて、緒祈は相変わらず女子みたいな顔で眠っている。

 

 洗面台で顔を洗い、眠気を吹き飛ばす。脳の奥までしっかり目が覚めたところで、学校からのメールを開く。「【重要】特別試験に関する通知」というタイトルのそれには、こんな本文が記されていた。

 

『厳正なる調整の結果、あなたは『優待者』に選ばれませんでした。グループの一人として自覚を持って行動し、試験に挑んでください。本日午後1時より1回目の『話し合い』を行います。羊グループの方は、2階羊部屋に時間厳守で集合してください』

 

「ふぅ……」

 

 まずは自分が『優待者』でなかったことに安心し、一つ息を吐く。有利な立場なのは間違いないが、それゆえにプレッシャーも甚だしいだろう。正直、俺が背負える役ではない。

 いやはや助かった。これで『話し合い』までの3時間はリラックスして過ごせる。

 

 まずは朝食をとろう。確か一階の中華料理屋には、朝限定のモーニングセットがあったはずだ。

 なんてことを考えながら寝間着代わりのよれたTシャツからジャージに着替えていると、部屋のドアがノックされた。こんな朝から誰だろうかと扉を開けると、そこにいたのは焦った顔の南だった。

 

「ちょちょ、ちょっと相談があるんだが、いいか?」

 

 俺と同じ羊グループの南が、このタイミングで、相談。

 その落ち着きのない様子にまさかと思いつつ、部屋に招き入れる。

 

「緒祈は……寝てるのか?」

「ああ。呑気なもんだよな」

「まったくだよ」

「それで、どうしたんだ? なんとなく想像は付くが」

「これ!」

 

 南は俺に携帯の画面を見せてきた。そこに映し出されていたのはつい先程学校から送られたメールで、その文面は俺が受け取ったものとほとんど一緒だった。

 

 ほとんど――つまり、完全な一致ではなかった。

 

「おれ、『優待者』に選ばれちゃったわ!」

 

 あなたは『優待者』に()()()()()()、と。そこには確かにそう記されていた。

 

「三宅! おれはどうすればいい!?」

「とりあえず落ち着け」

 

 興奮状態の南の肩をぽんぽんと叩き、空いていたベッドに座らせる。しかしどうすればいいと聞かれても、凡人の俺に大したアイデアがあるわけもない。アドバイスできることがあるとすれば、2つだけ。

 

「とりあえず平田に相談するのが良いだろう」

「おお、それもそうだな」

 

 これが1つ目。まあ、アドバイスと言えるほどのものではない。丸投げと言ってもいいだろう。自分ではどう動くべきか分からない時に頼りになる――平田はそういう男だ。

 Dクラスで『優待者』になった生徒は、おそらく全員が平田に報告するだろう。……頼ってばかりで申し訳ない気持ちはある。

 

「緒祈にも、起きたら報告した方が良いよな?」

 

 当然の事実を一応確認するような口調で南はそう言ったが、俺は「いや」と首を横に振った。勿論同じグループなのだから、その提案自体は自然なものだ。単純な頭の良さでもあいつはトップクラスだし、平田、櫛田に続いて3番目くらいには頼りになるかもしれない――()()()()調()()()()()

 

「緒祈には伝えない方が良いと思う」

「ええ? なんでだよ。無人島じゃあAクラスとCクラスのリーダーを見抜いたんだぜ? 多少船に酔ってるとはいえ、その知恵は借りるべきじゃないのか?」

「そうでもないんだよ。実は昨日綾小路と少し話したんだが」

「綾小路? そういえばあいつ、緒祈と仲良かったな」

「今の緒祈は試験を早く終わらせるために、1回目の『話し合い』が終わった瞬間適当な解答をするかもしれない――と、綾小路は言っていた」

「うげっ、まじかよ……。そういえば解答の受け付けが何時からか聞いてたけど、そういう考えがあったのか」

 

 そう、これが2つ目のアドバイス。

 もしこのまま体調の悪化、というか倦怠感の増加が進めば、緒祈はクラスのことなど無視して自分の都合だけを考えるだろう。それを見据えた上での、解答受付時間の確認。

 昨日の夜、綾小路と話している中で生まれた一つの推測だ。

 

 同じクラスの南が『優待者』になった以上、緒祈の解答は無効となる。誰の名前を送信しても試験は継続される。今もなお布団の中で寝息を立てているこいつには、直接試験を終わらせることは出来ない。

 しかし間接的になら、他のクラスに『優待者』の情報をリークするという手段であれば、緒祈にとっては面倒でしかない『話し合い』を最小限の回数で終えることが出来る。

 

「つまり他のクラスにはもちろん、緒祈にもバレちゃいけないのか」

「そうなるな」

「なんてこった……。とりあえず、それも含めて平田に報告するか」

 

 それから。

 俺と南は平田を呼んで3人で食事をとり、その席で『話し合い』における身の振り方を相談した。いくつか案は出たものの、やはりと言うべきか、下手に動かずに結果②を狙うのが妥当だろうという結論に落ち着いた。

 Dクラスの『優待者』は南以外にもあと2人いるはずで、そちらにも呼ばれたのであろう平田は忙しそうに朝食を済ませた。

 

 一方の俺たちはこれと言ってやることも無かったので、船内で適当に時間を潰した。

 そうして気付けば12時35分。1回目の『話し合い』まで、あと30分もなかった。

 

 服装の指定はされていなかったが、試験なのだから制服の方が良いだろう。というわけで着替えるために部屋に戻ると、そこにはやっぱり緒祈と、そしてなぜか綾小路もいた。

 

「よう」

「おう」

 

 軽くあいさつを交わす。

 緒祈は上半身を起こしてはいたが、まだ半分夢の中なのか、頭がふらふらと揺れていた。

 

「そろそろ時間だが、大丈夫か?」

「ふわ~あ」

 

 あくびで返答された。意識が朦朧としている緒祈に代わり、綾小路が答えてくれる。

 

「大丈夫だと思うぞ。もうすぐ迎えも来るだろうし」

「あー……」

 

 迎えの意味を即座に理解する。それと同時に、噂をすればなんとやら。こんこんとノックの音が響く。

 

「お邪魔しまーす」

 

 返事を待たず入って来たのはBクラスの白波だった。

 白波は寝惚け眼の緒祈の元まで一直線に向かい、ベッドの縁に座り、緒祈の手を取って自分の頭の上に載せた。

 

「……ん? あー……。おはよー、ちひろさーん……」

「うん。全然お早くないけど、おはよー」

 

 ルームメイトになって初めて知ったのだが、緒祈は相当な髪フェチらしい。女子の髪を撫でると船酔いが収まるという、現代医学もびっくりの特殊な体質を有しているとか。

 そんなわけで白波のショートヘアをわしわしとかき撫でて、ものの数秒で緒祈の意識は覚醒した。まずは部屋にいるメンツを確認し、そして壁にある時計に目をやった。

 

「おやおや、もうこんな時間じゃないか」

「体調はどうだ? 試験には臨めそうか?」

(すこぶ)る不調ではあるけれど、試験くらいは何とかこなすよ」

 

 綾小路の質問にどうにも頼りない返答をしつつ、緒祈は枕元をまさぐる。

 

「……あれ?」

「どうしたの?」

「千尋さん、僕の携帯知らない?」

「知らないけど……失くしたの?」

「多分」

「どこかに落ちてるんじゃないか?」

 

 綾小路がそう言ってベッドの下を覗き込むが、

 

「ないな」

 

 なかったらしい。

 

「まあ、いいんじゃない? もし『優待者』だったら、今の真釣くん、うっかり口を滑らしちゃいそうだし。知らぬが仏というか、無知の知というか」

「無知の知は違うだろ」

「かもねー」

 

 綾小路の指摘を白波は適当に流す。この二人は……あまり仲が良さそうな雰囲気ではないな。そういえば、結局昨日の夜に二人が会っていたのかは聞けていないが……今聞くことでもないか。

 

 そんなことより試験の話だ。

 南が『優待者』だと判明しているので、緒祈は100パーセント『優待者』ではない。しかし当然そんなこと知るはずもない緒祈は「んー、そうだねー」と呟いた。

 

「時間も時間だし、今は諦めるとしようか」

「じゃあ私は外で待ってるから、ちゃっちゃか着替えなー」

 

 白波が部屋を出て行くと、緒祈はようやくベッドから下りて制服に着替える。俺も着替える。

 

 時刻は12時48分。

 試験はまもなく開始される。

 

 

 

 096

 

 

 

 不意に想定外の状況が訪れたとしても、自分よりパニックになっている人間を見ると冷静になれる。多分、感覚としてはそれに近かった。

 緒祈真釣という圧倒的に不調な人間が傍にいたことで、俺も南も落ち着くことが出来たと思う。少なくとも緒祈よりは上手くやれるはずだと、そんな自信を得ることが出来た。もちろんそれは幻想にすぎないのだが、1時間を乗り切るにはそれで十分だった。

 

「おいのり、まつり、です」

 

 それが1回目の『話し合い』における、緒祈の()()()だった。これ以上なく簡潔な自己紹介を終えると、その数分後には昨日と同じ体勢で寝息を立てていた。いくらペナルティが無いとはいえ、よくあれだけ堂々と寝られるものだ。

 緒祈と面識があるらしいBクラスの連中は、「仕方ないなあ」と呆れたように笑っていた。

 

 緒祈に次いで発言が少なかったのはAクラスの面々だ。彼らは『話し合い』において()()()()()()()()という戦略をとった。学校から指示された故に自己紹介だけは渋々行ったが、それ以降は口を真一文字に結んでの沈黙だった。

 結果③か結果④でクラスポイントの差を詰められるくらいなら、堅実に結果①か結果②を狙おうという、トップを走るAクラスにのみ許された戦術だった。

 

 結局何かが進展することも後退することも無く、議題も結論も宙ぶらりんなまま、1回目の『話し合い』は存外あっさりと終わった。

 胃に悪い緊張から解放され、俺と南は「ふぅ」と息を吐く。

 一人また一人と退室する中、緒祈だけは席を立つ様子が無かった。

 

「おい、終わったぞ」

「あー……うん」

 

 これはひょっとして俺が背負って連れ帰るべきなのだろうか。そう思案していると有り難いことに白波が来てくれたので、緒祈のことは彼女に任せた。

 俺は小腹が空いたのでどこかで軽食でもとろうかと思ったのだが、部屋を出たところで「三宅くん」と呼び止められた。

 

「ちょっと、いいかな?」

 

 遠慮がちにそう声を掛けてきたのは、クラスメイトの篠原だった。何やら他人には聞かれたくない話があるようで、人気の少ない非常階段に連れられた。

 

「なんの用だ?」

「その……緒祈くん、何か言ってた?」

「何かって?」

「私のこと」

 

 ふむ。なるほど。

 緒祈は無人島で軽井沢の下着を盗んだという冤罪を掛けられた。そして緒祈を糾弾した筆頭がこの篠原だ。あれから真犯人が判明し、緒祈を責めていたクラスメイトは平田の後押しもあってしっかり謝罪し、緒祈はそれを受け入れた。

 しかし特に緒祈を責めていた篠原としては、本当に許されているのか不安なのだろう。なにせ緒祈の対応次第では、今後篠原が虐められる可能性だって十分に有り得るのだから。

 とはいえ――

 

「何も言ってないぞ」

「ほんとに?」

「本当に。びっくりするくらい」

 

 もう忘れてるんじゃないかってくらい、緒祈は篠原のことを語っていなかった。そもそも緒祈が何かを喋っている姿自体、この船の上では数えるほどしか見ていない。

 

「そっか……。うん、ありがと」

「気にするな」

 

 特別試験もあるのに大変だなと同情しつつ、自業自得だとも思った。喧嘩っ早いというか、沸点が低いというか。尤も、俺だって他人をどうこう言えるほど褒められた人間ではないのだが。

 

 篠原と別れた後は特に何事もなく、気付けば時刻は午後4時を回った。各クラスの首脳陣は特別試験のことで頭がいっぱいだろうが、喜ぶべきか悲しむべきか、俺は結局昨日とも一昨日とも変わらない時間を過ごしていた。

 部屋で携帯をいじるだけの、生産性の欠片もない時間。

 

「んう……」

 

 なにやら可愛らしい声が聞こえたと思ったら、隣のベッドの緒祈だった。こいつは女子みたいな寝顔をしているだけでなく、ふと漏れる声にも女子っぽさがあり、一瞬ドキッとする。

 

「んむむ。おはよう、三宅君」

「おう。おはよう」

 

 全然お早くない。ただ、ようやく十分な睡眠が摂取できたのか、寝起きではあるが普通に挨拶を交わすことには成功した。

 緒祈は枕元をまさぐり、そこに自分のスマホが無いことに気付く。深い溜息と共にがっくりと肩を落とした。

 

「そういえば失くしたんだった」

「……ドンマイ」

 

 俺は決してスマホ依存症などではないが、それでも手元にないと不安にはなる。特に、こんな特殊な学校だし、特別試験の最中だし。

 しかし緒祈は沈む気分を引きずらず、さくっと切り替えたようである。珍しく、というかおそらく初めて、緒祈は俺に頼みごとをしてきた。

 

「三宅君、ちょいと人を呼んでほしいんだけど」

「俺が知っているアドレスはそんなに多くないぞ」

「平田君と綾小路君と堀北さん。あと帆波さんと千尋さんと隆二君」

「すまないが、後ろ4人は知らん」

 

 平田とは入学してわりとすぐ、向こうから誘われる形で連絡先を交換していた。そして綾小路とは昨夜、意気投合したというほどでもないが、その場の流れで交換していた。

 しかし堀北と一之瀬に関しては、まず接点が無い。白波は接点が無いことも無いが、連絡先を交換するほどではない。そして申し訳ないのだが、隆二君とやらは誰のことなのかさっぱりだ。並び的にはおそらくBクラスなのだろうが。

 

「平田君か綾小路君が知ってるはずだから、とりあえず二人を呼んで」

「それはいいんだが……そんなに集めて何をする気だ?」

 

 俺の疑問に、緒祈はシニカルな笑みでこう答えた。

 

「終わらせるんだよ。面倒極まりないこの試験をね」

 

 

 



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096-097 集合と補集合

申し訳ねえ。


 096

 

 

 

 Bクラス内の勢力図はとっても簡単に描くことが出来る。

 

 まず『一之瀬帆波』という名の大きな円を描く。

 次に、その円の中に39個の点を打つ。

 

 はいおしまい。

 たったこれだけで出来上がり。

 

 うちのクラスの誰に描かせてもそうなるだろうし、他のクラスの人に描かせてもそうなるだろう。帆波ちゃん自身はちょっと分からないけど……そもそも描きたがらないかな?

 ともかくBクラスの生徒は誰もが帆波ちゃんを慕っていて、それを核とした強固な結束力こそが私たち最大の武器である。

 

 しかし身も蓋も無いことを言ってしまうと、そんなBクラスも所詮は他人の集まりだ。同じ教室で過ごすようになってまだ半年も経っていない。いくら一枚岩と称したところで内部の結合は一様ではないし、密度も決して均一ではない。

 ゆえにBクラス内の()()()を描こうと思えば、それは他のクラスと大差のない複雑なものになる。個々の関係を表すには十数種類の線が必要だし、中には何の線でも繋がらない仲もあるかもしれない。帆波ちゃんとの距離も人それぞれだ。

 

 ではクラスの委員長である彼女と最も近く、太く、濃い繋がりを持っているのが誰かと言えば、それはこの私――Bクラス副委員長の白波(しらなみ)千尋(ちひろ)である。間違いないね。

 神崎くんも同じく副委員長の任に就いているし、なりたての私と違って彼は4月からずっと帆波ちゃんの補佐をしてきた。それでも帆波ちゃんとの親密度合いで言えば同性の強みで私の方が先んじている。うん、間違いないね。

 

 ちなみに委員長や副委員長といった役職はBクラスで勝手に言っているだけの非公式のもので、いわゆる内輪ノリってやつだ。何か決まった仕事があるわけでもないし、特別な権限があるわけでもない。

 立石くんは数学が得意というだけで会計と呼ばれているし、紗代ちゃんは字が綺麗というだけで書記に選ばれている。その程度のゆるいノリなのだ。

 それでもまあ、そういう役職名があることでみんなが頼りやすくなるという効果はあるみたいで。

 帆波ちゃんに直接声を掛けるのは畏れ多いと考えている少々内気で奥手な子にとって、私の存在は丁度良いらしい。特別試験の実施が告げられて一日、今まであまり話したことのない子からも色々と相談を受けたりしていた。

 

 正直、入学当初はこんな立場になるとは思っていなかった。副委員長になるなんて想像さえもしていなかった。帆波ちゃんとお近付きになりたいとは思っていたけれどそれは恋愛的な意味であって、委員長の仕事を補佐したいという欲ではなかった。

 それが副委員長の職を得るまでに至ったのは、やはり真釣(まつり)くんの影響と言わざるを得ない。

 

 一学期の中頃。私が真釣くんに近付いたのは、当時Bクラス内で囁かれていた彼に関する黒い噂の真偽を確かめるためだった。真実を突き止めて、帆波ちゃんに褒められたかったのだ。

 これまた正直に言うと、最初は「真釣くんを帆波ちゃんの恋人に」なんてことは全く考えていなかった。あの頃の私は少々アホみたいな行動もしていたけれど、そこまで愉快な発想は無かった。

 

 しかしある日、私は聞いてしまったのだ。真釣くんが割と本気で『2000万ポイントでのクラスの移動』を目論んでいることを、本人の口から聞いたのだ。後に帆波ちゃんと神崎くんと一緒に詳しく聞くことになるけれど、それより先に、本当にざっくりとだけど、私は真釣くんの計画を知っていた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――その可能性に気付いたのだ。

 そうでもなければいくら真釣くんのことが信用できたとしても、帆波ちゃんとくっ付けようとは流石に思わなかっただろう。

 

 運が良かったのだ。

 Bクラスで真釣くんの噂が流れたのも、それを聞いた私があまり賢くない突飛な行動をしたことも、真釣くんのメンタルが不安定でちょっと優しくされたら簡単に惚れちゃう状態だったのも、私にBクラスの副委員長を目指せるだけのポテンシャルがあったことも。

 

 本当に、運が良かったのだ。

 それゆえに、少々調子に乗ってこんなことを考えたりもした。

 

 ――真釣くんは私に甘い。だから真釣くんと帆波ちゃんが恋人関係になった未来で私が帆波ちゃんと友達以上の近さでイチャイチャしても、たとえばほっぺにチューくらいなら許してくれるんじゃないだろうか?

 

 ……いやはや、はしたない。

 たとえばの話とはいえ我ながら中々に厚顔無恥な妄想だ。図々しいというか、太々しいというか。

 もちろん本気で画策しているわけではない。繰り返すけれど、あくまでもたとえばの話だ。

 しかし、もしも私がトチ狂ってそんなことを実行したとしても、きっと真釣くんは許してくれる。あるいは私じゃなくても、髪の長い可愛い子だったら許してしまう。その確信がある。男子が相手だったら流石にブチ切れるだろうけど。

 中性的な顔立ちで引くほど女装が似合う真釣くんだけど、やっぱり彼は男の子なのだ。髪の長さを抜きにしても、基本的に女の子に弱い。

 

 篠原さんのことをあっさりと許したのも、きっと彼の甘さがゆえだ。

 無人島での『軽井沢さんの下着紛失事件』については真釣くんから聞いていたし、続く船上での一件も流れていた噂をキャッチしている。なにせこちとら副委員長ですから。Dクラス内部の揉め事でもそれなりに情報は集められる。

 親友が無実の罪で(そし)りを受けたことは業腹だけど、本人が許しているのだ。私が口出しすることは何も無い。ただ、篠原さんには謝罪だけでなく、それなりの償いもしてほしいと思っている。そうでなければ釈然としない。

 

 真釣くんも真釣くんだ。

 罪を許せるのは美徳かもしれないけれど、決して美しいだけではない。周囲から舐められるし軽んじられる。それなのに謝罪を受けただけで簡単に許しちゃって。どうせ船に酔っていて物を考えるのが面倒だったんだろうけど、それにしたって、ねえ?

 だから、そんな甘々な真釣くんの親友として、私は彼を守らなければならない。彼の善意に付け入ろうとする輩から守らなければならない。

 

 ――と、そこまで考えて、私は自嘲気味に溜息を吐く。

 

「はぁ……」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、なんと白々しいことか。

 白々しくて、寒々しい。

 

「お客様?」

 

 そう声をかけられて、今いる場所を思い出す。

 

 船の1階、甘い匂いの立ち込めるドーナツショップ。

 思考の海に沈んでしまい、店員さんが差し出している袋に気付かなかった。「すいません」と一言謝って受け取る。

 時刻は午後4時過ぎ。小腹が空いてくる時間帯ではあるけれど、右手に提げているこれは私の胃に消えるものではない。フレンチクルーラー2個と、Sサイズのアイスミルク(氷抜き)。真釣くんへの差し入れだ。

 

 遡ること5分前。

 

 Bクラスの委員長と2人の副委員長が集まって特別試験について話し合っていたところ、帆波ちゃんの携帯に着信があった。Dクラスの平田くんからだった。今回の試験における同盟でも持ち掛けられるのかと思ったけど、用件はそこまで踏み込んだものではなく、真釣くんが私たち3人を呼んでるから来てほしいとのことだった。

 神崎くんの頭に疑問符が浮かぶ。

 

「本人が直接呼べばいいだろうに、なぜ平田経由なんだ?」

「真釣くん、携帯失くしてるんだよ、」

「ほう。それは災難だな」

「一体何の用だろうね? 試験のことだとは思うけど」

「まさか携帯探すのを手伝ってほしいわけでもないだろうし」

 

 そんな会話をしつつ部屋を出る。私は2人に先に行くよう告げて、ひとり客室の無い1階まで下りた。

 誰かが用意してあげないと今の真釣くんは食事もとれない身だ。ひょっとすると平田くんあたりが既に持って行ってるかもしれないけれど、一応私の方でも用意しておこうと思った。真釣くんが食べないなら私が食べればいい。どうせ無料だし。

 というわけで先に向かった2人から遅れること数分、昨日も今日も訪れている一室のドアを開け――

 

「おおっ」

 

 驚きに声が漏れてしまった。

 何に驚いたって、まずそこにいた人数だ。今まで私がここに来た時は真釣くん1人か、たまに三宅くんもいたりした程度だ。それが今は私を含めたBクラスの3人と、真釣くんと三宅くんと、平田くんと綾小路くんと堀北さんがいた。部屋の住人の倍の人数だ。

 

 そして、なぜか真釣くんが帆波ちゃんに膝枕をしていた。真釣くんは猫でも撫でるような仕草で帆波ちゃんのストロベリーブロンドを(くしけず)っていた。

 安らかな微笑を浮かべる真釣くんとは対照的に、帆波ちゃんは恥ずかしそうにもそもそしていた。これだけ観衆がいたら、そりゃあね。

 

「いらっしゃい、千尋さん」

「お待たせ、真釣くん。ドーナツ買ってきたけど食べる?」

「ありがとう。後でもらうから、その辺に置いといてくれ」

「おっけー。飲み物だけ冷蔵庫に入れとくね」

「助かるよ」

 

 Dクラスの皆さんから怪訝な、あるいは興味深げな視線を受けつつアイスミルクを冷蔵庫にしまう。

 

「さて」

 

 これ以上新しいメンバーは現れないらしい。私が神崎くんの隣に座ると、真釣くんは口を開いた。

 

「急な呼びかけにもかかわらず来てくれてありがとう。メンツも揃ったことだし、始めようか」

「始めようか、ではなく」

 

 呆れた声で遮ったのは堀北さんだ。

 勉強もスポーツもDクラスとは思えないほどのハイスペックで、先の無人島試験ではクラスのリーダーも務めていたらしい。真釣くん好みの綺麗な黒髪ロングをなびかせているけれど、目の保養のためだけに呼ばれたわけでは無いだろう。

 

「まず説明してくれないかしら。優待者の選ばれ方に法則を見付けたと聞いたけど、本当なの?」

「え? いや、見付けてないよ?」

「……え?」

「というか、それを見付けるために集まってもらったんだけど。綾小路君か三宅君か、あるいは僕の伝え方が悪かったんだろうね。あっははー」

 

 笑う真釣くんと、それに若干イラッとした様子の堀北さん。仲が良いわけではないのかな。

 

「では、それはそれでいいとして、どうしてBクラスの人も呼んだのかしら?」

「人手は多い方が良いからねー。……そう睨まないでくれよ。僕としては龍園君や葛城君を誘ってもよかったんだぜ?」

「とんでもないことを考えるのね」

「この七面倒な試験をとにもかくにも早急に終わらせたいんだよ」

 

 辟易とした様子の堀北さん。あっけらかんとした真釣くん。二人の温度差に平田くんも苦笑いだ。

 今度は神崎くんが質問する。

 

「優待者の法則性を見付けると言ったが、そもそも法則性が存在する確証はあるのか? ランダムで選ばれている可能性だってあるだろう?」

「確証は無いよ。ただ、そう予想するに足りる根拠はある。これは後で話すとして……」

 

 真釣くんは自分が招集したメンツをぐるりと見まわして、「他に聞きたいことは?」と問うた。誰も発言しないことを確認して真釣くん――の前に平田くんが口を開いた。

 

「えっと、これからこの8人で『優待者』の法則を見付ける、ってことでいいのかな?」

「んー……少し違う」

 

 真釣くんはにやりと笑った。

 

「やる事は至ってシンプル。僕が優待者の法則として考え得るものを列挙するから、君たちにはそれを検証して正解を見付けてもらいたい」

「列挙……?」

虱潰(しらみつぶ)しだよ。虱潰し」

 

 あまり理解できていない様子の平田くん。

 それを無視して真釣くんは続ける。

 

「そんでとっとと羊グループの試験を終わらせてくれ。適当な解答をして結果④で終わらせようかとも思ったんだけど、携帯が無いからね」

 

 真釣くんは両手を広げて肩を竦めた。やれやれと言いたげな様子だけれど、それはこちらも同じだ。

 やれやれ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「さて、始めようか。メモの用意は良いかな?」

 

 私の密かな嘆息に気付くことも無く――気付かれても困るけど――真釣くんは本題を始めた。

 

 

 

「『優待者』の選ばれ方に法則性があるとして、その候補は大きく分けて三種類。『特別』『共通』『順番』だ。

「……『特別』と『共通』は似たようなもんだし、分けなくてもよかったかな?

「ああごめん。話を進めよう。

「まず『特別』ってのは、ある特定の要素を持っている人がグループに一人いて、その人が『優待者』になるパターンだ。分かりやすく例を挙げると、たとえば男子ばかりのグループに一人だけ女子がいて、その子が『優待者』って感じ。

「そうだね。仲間外れを探すイメージだね。

「そして『共通』。これは12人の優待者全員に、そしてこの12人だけに特定の要素が共通しているパターンだ。例えばこの学年に男子が12人しかいなかったとして、彼らが優待者になる、みたいな。

「そう。この場合探すのは()()()()()()()()()()()()()じゃなくて、()()()()()()()()()()()だ。被る部分もあるんだけど、今回大事なのはあらゆる可能性を取りこぼさないことだからね。

「じゃあ、これから考えられる特定の要素を並べていくよ。体調の都合で一度しか言わないから、聞き逃さないでね?

「まずは今言った性別。それから――

「ABO式血液型、Rh式血液型、誕生日、名前に使われている漢字・部首・仮名・母音・子音、十二星座、十三星座、動物占い、利き手、利き足、利き耳、利き目、アレルギー、病歴、補導歴、海外渡航歴、就労経験、性経験、表彰経験、スポーツ等の大会成績、委員会の経験、部活動、習い事、宗教、きのこ派たけのこ派、ごはん派パン派、犬派猫派、海派山派、インドア派アウトドア派、恋人の有無、ペットの有無、兄弟の有無、姉妹の有無、その他家族構成、出身地、国籍、本籍地、実家の所在地、出身小学校・中学校の所在地・公立私立……――

「とまあ、こんな所かな。

「え? いやいや、ふざけてないよ?

「堀北さんの言う通り、検証するまでもないものも確かに多い。大前提として学校側が正確に把握している必要があるわけだから、個人の思想や趣味嗜好は除外していい。

「でも、それは君たちの仕事だ。

「今僕がやっているのは、『0から1を作る問題』を『100から1を選ぶ問題』に変換する作業だよ。問題として成立させるために、万に一つも正解を入れ忘れちゃいけない。だから選択肢が膨大になってしまうのは許してくれ。

「あと口数が多いのも許してくれ。言葉にすることで脳を整理してるとこもあるんでね。

「さて、我ながら随分と丁寧に予想を挙げていったけれど、正直僕は法則性があったとしても『特別』『共通』パターンではないと読んでいる。というか、有り得るとすれば『順番』パターンだと思っている。

「というのも、話を戻そうか。

「確か隆二君だったかな? 優待者の選ばれ方に法則性がある確証はあるのかと聞いたよね。で、僕はそれに確証に近いものならあると答えたような、答えてないような気がするけれど、その話だ。

「昨日のルール説明を思い出してほしい。

「僕には一つ引っ掛かることがあったんだけど、みんなはどうかな?

「……。

「…………。

「………………いやいや、よく考えてみてくれよ。思い出してみてくれよ。

「干支に(なぞら)えて12のグループを作って、1グループずつ呼び出すんだよ? それなのに、()()()()()()()()()()()()()()()()

「普通は(ねずみ)から始めて(いのしし)で終わるでしょ? 何の意図もなく(ひつじ)を最後に持ってくるとは思えない。

「何らかの作意があるとしか思えない。

「どんな作意かは分からないけどね。

「そんなわけで僕にとっての大本命、『順番』パターンの候補を挙げていくよ。

「まずは誕生日。4月始まりも1月始まりも考えられるね。それから――

「身長、体重、髪の長さ、足のサイズ、座高、視力、聴力、BMI値、血糖値、血圧、肺活量、名字・名前の文字数順・五十音順・ローマ字表記でのアルファベット順・画数順、兄弟姉妹の数、いとこの数、保護者の年齢、入試の点数、1学期期末テストの点数、一学期期末試験の点数、現在所有しているプライベートポイント、学籍番号、携帯番号、連絡先登録数……――

「とまあ、こんなもんかな。

「たくさん挙げたけど、日々変動する数値は使えないだろうから候補は搾りやすいよね。

「あと『順番』パターンで大事なのは()()()()()()()()()()()()()ってとこなんだけど、ここでさっきの話が戻って来る。

「つまり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ってこと。僕の羊グループは最後だったから、羊グループの『優待者』はメンバーを何かの順番に並べたときの12人目だと予想できる。

「ついでに言うと干支の動物をわざわざ一般的な漢字表記に直しているところも気になるよね。どうして『未』じゃなくて『羊』なのか……。

「まあ、あくまで個人的な意見だけどね。

「何か質問はあるかな?

「……ははっ、みんなメモに必死で質問どころじゃないみたいだね。

「それじゃあ僕の話はこれでおしまい。後は君たちで頑張ってほしい。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たると言うからね、これだけ候補を挙げれば流石にどれかは正解だろう。

「まあ、

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 ……ん?

 真釣くん、今、余計なこと言わなかった?

 よくもまあそんなに思い付くものだと感心していたら、最後の最後で余計なフラグを立てなかった? 立てたよね? 立てやがった!

 

「ちょっ――」

 

 猛烈に嫌な予感がした私は彼が言い忘れたその『何か』を聞き出そうとしたけれど、無粋な電子音に遮られてしまった。

 ピロピロピロリ、と。

 部屋にある7つの携帯がシンクロする。

 それは1回だけでなく、立て続けに6回も鳴動した。

 ああもう! あっちもこっちも嫌な予感だらけじゃん!

 

 帆波ちゃんも膝枕されてる場合じゃないと体を起こす。

 真釣くん以外の7人が同時に携帯を確認する。

 

「ええっ!」

 

 驚愕の声は平田くんのものだった。しかし口に出さないだけで、携帯の無い真釣くん以外は全員が驚いていた。受信ボックスには学校からのメールが6通。その内容は。

 

『鼠グループの試験が終了しました。以後鼠グループの『話し合い』は行われません。結果発表をお待ちください』

『牛グループの試験が――』

『蛇グループの試験が――』

『馬グループの試験が――』

『鳥グループの試験が――』

『猪グループの試験が――』

 

 顔が強張るのを感じる。

 蛇、馬、猪。

 この3つはBクラスの生徒が『優待者』に選ばれているグループだった。蛇に関しては私が所属しているグループでもある。

 

 帆波ちゃんに「これはまずいね」とアイコンタクトを飛ばす。正しく受け取ってくれたようで、重々しい首肯が返ってくる。

 神崎くんの方を見ると、彼は苦虫を潰したような表情だった。きっと私も同じ顔をしているのだろう。

 

「どうして……」

 

 動揺を隠せない帆波ちゃんに、真釣くんが「見せて見せてー」と身を寄せる。帆波ちゃんが携帯を差し出す。

 メールを確認した真釣くんは、臭いのきつい納豆を食べたみたいに「うげー」と顔を顰めた。

 

「なんで羊グループがないんだよぉ」

 

 分かりやすく落ち込む真釣くん。彼にとっては6つのグループが終わったことより、自分のグループが終わらなかったことの方が余程ショックらしい。

 その姿を見て、慰めるつもりか綾小路くんがこんなことを言った。

 

「でもまあ、『優待者』の選ばれ方に法則性があるという説は、これでより濃厚になったと言えるんじゃないのか?」

 

 それは確かにその通りだ。

 示し合わせたような一斉解答。組織的な行為であることは間違いない。

 誤答にはペナルティがあるのだから、首謀者には『優待者』を見抜いたという確証があるはずだ。Bクラスの誰かが裏切ったとは考えられないし、たった一度の『話し合い』でバレるとも思えない。

 ということは、やはり法則性が有るのだろう。

 

 私が真面目にそう考えている一方で、真釣くんは緊張感もなく不貞腐れていた。

 

「なんであれ羊グループが終わってくれないと、僕にとっては意味が無いんだよ。あーあ、集中力切れちゃった。もう寝る。後は任せたよ」

 

 真釣くんは矢継ぎ早にそう言い残し、糸の切れた人形のようにベッドに倒れた。船に酔って体調の悪い中、相当無理をしていたようだ。すぐに規則正しい寝息が聞こえてきた。

 

「……とりあえず、解散するしかないでしょうね」

 

 堀北さんの提言にみんなが頷く。

 もしDクラスの『優待者』もBクラス同様全滅していたら協力し合えたかもしれないけれど、彼らの様子を見るにDクラスは無事らしい。

 となればこれ以上話せることも無い。

 私たちは黙って部屋を出た。

 

 

 

 097

 

 

 

 嫌な予感というやつはどうしてこうも律儀に当たってくれるのだろうか。

 

 あれから。

 まずは突然の事態に浮足立っているBクラスを落ち着かせて、当てられた(かもしれない)優待者の三人にはカウンセリングを施した。「あなたが悪いわけじゃない」と言い聞かせるくらいだけど、しないよりはましだと思う。

 帆波ちゃんに全部任せるでも良かったんだけど、蛇グループの二宮さんには同じグループということもあって私が声を掛けた。

 ちなみに帆波ちゃんは綾小路くんと同じ虎グループで、神崎くんは堀北さん・平田君と同じ兎グループだ。どちらもまだ試験は継続している。

 

 クラスの空気がどうにか落ち着いてきたら再び三人で集まって、『優待者』の法則探しを始めた。まず真釣くんが並べた百を超える選択肢を選別する。堀北さんが指摘していた通り、検証するまでもない奇抜な案が大量にあるからだ。

 『試験として成立する』という大前提を基に数を絞り、残った候補は22個。これをBクラス全員にメールで聞いた。

 10分程で全員の回答が揃って、そこからの集計がまた面倒だった。何人かに手伝ってもらったんだけど、薄々勘付いていた通り結果はどれも外れに終わった。

 真釣くんが立てやがったフラグが見事に回収されてしまったわけだ。

 

 とはいえ成果がゼロだったわけではない。

 真釣くんが着目していたルール説明の順番を調べてみると、そこに法則性があることが窺えた。

 

 犬、猪、蛇、鳥、虎、龍、鼠、馬、兎、牛、猿、羊。

 

 『い』で始まる二つ、『と』で始まる二つ、そして『う』で始まる三つが並んでいることから、読み方を使った何らかの法則があることはうかがえる。ただ、それが何なのかは分からなかった。

 というのも、どれだけ頭を捻ろうにも、真釣くんが並べたありとあらゆる選択肢のどれかに必ずと言っていいほど思考が引っ張られてしまうのだ。まだ出ていない新しいアイデアには中々辿り着くことが出来なかった。

 

「ヒントが欲しいよねー」

 

 困ったようにそう言ったのは帆波ちゃんだ。

 しかしよくよく考えてみると、そもそもこのルール説明の順番自体が優待者の法則性を解き明かすためのヒントのはずなのだ。ヒントのヒントが欲しいという状況は言葉としては面白いけれど、当事者としては頭を抱えるばかりである。

 

 頭が痛くなることは実はもう一つある。

 真釣くんの部屋から解散した直後、もう一度携帯が鳴った。今度は猿グループの試験が終了したという内容だった。タイミングから想像するに、6グループの終了を受けて焦った誰かが慌てて解答したのではないかと思われる。

 猿グループの優待者がどこのクラスかは知らない。

 しかしなんにせよ、私たちが関与できないまま試験が進んで行くのは精神的に厳しいものがあった。

 

「ちょっと外の空気吸って来るね」

 

 そう言い残して部屋を出た。

 ぶっちゃけ頭を使う作業なら帆波ちゃんと神崎くんがいれば大丈夫だ。私がいても二人以上の成果を出すことは出来ない。私が二人に勝っている能力なんて、真釣くんの扱いと絵心くらいのものだ。

 だからと言って何もしないわけにもいかない。

 軽く敵情視察でもするとしよう。

 

「……ふむ」

 

 廊下を歩けば他のクラスの生徒とすれ違う。ラウンジやデッキに行けば大勢の生徒で賑わっている。その様子を観察してみる。

 一年生全員の顔と名前を憶えているわけじゃないけど、所属クラスならある程度分かる。

 

「……ふむふむ」

 

 遊んでるのは圧倒的にCクラス。無人島でも豪遊してたらしいけど、船の上でも夏休みを満喫してるみたい。特別試験の心配は何もしていない様子だ。

 心配がいらない、ということはやっぱりあの一斉解答はCクラスが?

 

 でもAクラスの落ち着きっぷりも気になるんだよなあ……。部屋に籠っている人たちのことは分からないけど、見える範囲だと焦っている様子はない。そういえば葛城くんの派閥の生徒はあんまり見ないような……気のせいかな?

 

 Dクラスは色とりどりでまとまりがない。遊んでる人もいるし、忙しない人もいるし、不安そうな人もいる。とにかくまとまりがない。これじゃあ一斉解答するような真似は出来ないだろう。

 逆にその後の猿グループの解答はDクラスの可能性が高いかもしれない。誰かが焦って先走りそうな空気はDクラスが一番強い。

 

 各クラスの様子を総合的に判断すると――

 

「よく分かんないや」

 

 聞き込み調査でもすれば推測以上の情報を得ることも可能かもしれない。しかしあんまり必死に聞いて回るのも、Bクラスに余裕がないことを悟られてしまいそうで躊躇われる。

 他所のクラスに真釣くん以外の知り合いがいないわけじゃない。私は美術部に所属しているから、そこでのつながりはある。

 でもなー。

 こういう時に話を聞けるほどの仲じゃないんだよなー。

 

「おやおや? 浮かない顔だね~」

 

 とぼとぼと船の廊下を歩いていると、階段に繋がる角の所で星之宮先生と出くわした。我らがBクラスの担任であり、養護教諭も務めている。柔らかい空気を纏っているので話しかけやすい先生だ。

 

「試験の調子はどう? なーんか色々あったけど」

「あまり芳しくないですね。見事に先手を取られてしまいましたし、後手として打てる手も今のところ見付かってないですし」

「そっかそっか。大変だねー」

 

 星之宮先生は他人事みたいに適当な相槌を見せる。まあ、立場上突っ込んだ話は出来ないよね。優待者の法則性について聞き出せるほどの話術が私にあるはずもないし。

 というわけで、世話の焼けるあの友人について気になっていたことを聞いてみる。それは試験が通知された時から考えていたことだ。

 

「ところで先生」

「ん~?」

「真釣くんって、体調不良で途中棄権とか出来ないんですか?」

 

 先生は困ったような笑みで答える。

 

「彼の場合、疲労感や倦怠感があるだけで、それ以上の症状がなにも無いんだよね。一発ゲロってくれればこっちとしても止めやすいんだけど」

「なるほど……」

「それに棄権する場合はペナルティがあるから、あんまりドクターストップは出したくないんだよね」

「そうですか……」

 

 真釣くんのDクラスでの立場を考えると途中棄権はしてほしくない。でも体調の優れない彼にこれ以上試験を続けさせるのも気が引ける。羊グループの試験が終わってくれればいいんだけど。

 次の『話し合い』まであと2時間弱。それまでに優待者の法則性を見抜けるだろうか。

 羊グループの誰かに適当な解答をしてもらう、という手は出来れば打ちたくない。Bクラスにおける私の立場にも真釣くんの評価にも悪影響だろうから。

 

 なんというか、呑気に船内をほっつきまわっている場合ではない気がし来た。

 

「協力は出来ないけど応援はしてるから、試験頑張ってね~」

「はい、ありがとうございます」

 

 先生と別れて部屋に戻る道中、改めてルール説明時の干支の並びを思い出す。

 

 犬、猪、蛇、鳥、虎、龍、鼠、馬、兎、牛、猿、羊。

 

 さあ考えよう。

 これは一体、何順だ?

 

 

 




次回投稿目標は2019年、夏です。


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