織斑姉弟(へ)の献身 (足洗)
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誰が為の献身

息抜きという名の逃げ。
他にも書いてるくせになにしとんねんというお話で。
よろしければ御暇潰しの種にでも。


 

 

 

 

 

 夕刻。

 放課後の帰路。

 逢魔ヶ刻などとよくぞ言ったもの。

 

「っっ!!」

「足を押さえろ」

「早くしろ。見られると面倒だ――――」

 

 行き会うたその“魔”は、幸いにして己を害するものではなかったがしかし、不幸にも見過ごすには目に余る所業であった。

 今、少年が大型のワゴン車に引き込まれようとしている。己と同じ黒い学生服は間違いなく同窓のそれ。なにより、ほんの僅かに覗いた顔は見間違えよう筈もない。ほんの小一時間前、教室で別れたばかりなのだ。同じ学び舎、同じ学級において勉学を共にする“織斑一夏”少年その人だった。

 級友が誘拐(かどわか)されようとしている。

 己の眼球から浸透した映像を脳が咀嚼、理解するまでに半秒と掛からなかった。その思考に反して未だ現実を受け入れぬ鈍間な精神など置き捨てて、我が肉体は既に行動を起こしている。

 疾走する。

 前傾姿勢。空気抵抗の削減というより、こちらの発見を一瞬でも遅らせたかった。

 表通りから一本裏に入った路地、雑居ビルと空き家に挟まれたその死角にワゴンは停車していた。

 こちらからは車体の右後方側面が見えている。ならば。

 

「あ?」

 

 運転席側のパワーウィンドウ、その向こう側に座る運転手の男の口がおそらくはそのような音を発した。

 スモークの張られたそれに拳を突き入れる。強化ガラスを粉砕し、中で居座る男諸共に殴打した。そのまま襟首を掴み上げ、車外へ投げる。

 代わりの運転手が来る前に、片を付けねばならない。

 

「!?」

「――! 始末しろ! 許可は下りている」

 

 耳のインカムを押さえた男が指示するや、ワゴンから三人飛び出してくる。服装は雑多で統一性を感じない。街中で擦れ違ったとして何の印象も残らない風貌。つまりはそれを企図した変装か。

 男の一人が右手に何かを握っている。柄と鍔がある全長四十センチメートルほどの黒い棒。一見して警棒のようだが、先端に二本金属の()が出ている。スタンガンの一種であろう。鈍器としても格別不足はない。

 男は一気にこちらへ踏み込み、スタンロッドを突き刺してくる。

 その手首を掴み、引き寄せ、勢い頭突きを見舞う。

 軽くはない衝撃に男が身を仰け反る。掴んだ手首を捻り、スタンロッドを男の腹に突き刺す。バチッ、嫌に鋭い音と化学繊維の焼ける臭い。

 顔を顰める間を惜しみ、男の身体を蹴り上げた。

 その後ろから向かってきたもう一人に意識を失ったスタンガン男の身柄を返却する。

 

「うおっ」

「そちらも」

 

 背後から忍び寄っていた男に、振り向き様上段の蹴りを入れる。軸足を基点に上体の回転力が乗った足甲が対手の米神に過たず収まった。

 再度、前方に転身。返却した荷物を押し退け、再度男がこちらに襲い掛かってくる。手には、ナイフ。

 刺すのではなく、斬り付けてくる。

 顔や腕を狙ったかと思えば、下方から掬い上げるように脇腹を刺しに掛かる。短刀、ナイフ術特有の動き。

 

 恐ろしい。

 

 今更にそのような感慨を抱く。殺人の為の技術、彼らのその如何にも手馴れた様に我が身は戦慄する。

 突きつけられた刃先を避け、ナイフを持つ腕を捕えた。脇に抱え込み、腕で梃子を使って男の肘を逆しまにへし折った。

 

「ぎっっ――――」

 

 苦悶が絶叫に変わる前に、男を電柱に叩き付ける。

 車にはもう一人、おそらくはこの場における指揮者が居る。

 この三十秒ほどの間、彼が車による逃走を試みなかったのは幸運であった。あるいは、部下達への信頼が彼の判断を鈍らせたのか。

 

「お前は、いったい」

「その少年の身柄、御返しいただく」

「ぐおっ!?」

 

 当身をくれ、昏倒した男を車外へ引き下ろした。車中へ踏み入るとそこにはやはり。

 

「一夏さん」

「んん!」

 

 猿轡を解くや、少年は大きくを息を吸い込んで叫んだ。

 

「ジン! お前、なんで」

「話は後ほど。今はこの場を離れるべきでしょう」

 

 少年の手首を縛っているのは結束バンドのようだ。手近に転がっていたナイフを失敬し、拘束を解く。

 そこらに転がる男達を跳び越え、走る。今は時間が惜しかった。

 

「ははっ! 相変わらずすげぇな、ジン」

「一夏さん、どうかお急ぎを。おそらく追手はまだ」

「え」

 

 無邪気なことを(のたま)う少年に構ってやれるだけの(いとま)が圧倒的に不足している。

 急ぎ走り出した己に、少年は随った。級友一同が認めるほどの鈍感さを持つ彼ではあるが、その能力は恋愛面にのみ適用されるもの。

 現在我々が瀕する危機を彼は把握してくれたようだ。

 

「まだ来るのかよ……!」

「自分の不手際です。通信している指揮者を先に無力化すべきでした」

「ジンの所為じゃねぇよ。けどどこに逃げるか」

 

 闇雲に逃げても、徒走では稼げる距離も高が知れている。あちらが車両を用いるならば侵入できない小路に逃げ込むという手もあるが……。

 

「……千冬姉の試合」

 

 ぽつりと少年の口から零れた名。織斑千冬。彼、織斑一夏の姉君。そして現社会情勢においてその名は只ならぬ意味と意義を持つ。

 IS<インフィニット・ストラトス>と呼ばわるオーバーテクノロジー、その最初の――最強の担い手こそが彼女だ。

 現在彼女は、IS競技世界大会、第二回モンド・グロッソに出場しており、近日その優勝決定戦が行われようとしている。

 その晴れの舞台に立つ姉君を応援する為、今日この少年もまた日本を発つ予定だった。

 

「やっぱり、俺を誘拐する理由って言ったら」

「おそらくは、あの方に対する脅迫が目的かと」

「っ!」

 

 声ならぬ呻きを少年は噛み締めた。それはきっと無力感と呼び習わされているもの。

 

「一夏さん」

「……」

「今は、御身が無事にここを切り抜けることが先決です」

「……ああ」

「貴方の姉君の為にも」

「うん、ありがとな。ジン」

 

 そのようなことは彼自身十分に理解しているだろう。故に己の言葉は余計な節介でしかない。

 感謝など過分である。

 不意に少年がポケットをまさぐり携帯端末を取り出した。

 

「くっそ、こんな街中で圏外ってなんだよ!?」

「妨害電波、というものでしょうか」

「ただの誘拐犯がこの念の入れ様……異常だよな」

「はい、明らかに」

「警察に直接駆け込むしかねぇか」

「人混みに乗じましょう。衆人環視の中では敵方も無茶はできぬ筈」

「了解!」

 

 裏通りから表通りへ。閑静な住宅街を抜ければ駅近くの商店街に出る。

 道中の異様な静けさにはすぐに気付いた。人払いが為されている。いよいよ以てただの誘拐犯の手腕ではない。

 

「この公園突っ切ろう。向こうに確か交番があった!」

「はっ」

 

 そこは、幼少の頃よく訪れた公園である。そういえばいつからか、ブランコや回転遊具の類が無くなっていた。時勢か、時代そのものの移り変わりにノスタルジーなど抱いている場合ではないが。

 そう、そんな暇はない。

 眼前に佇む一つの影が、明らかに我々の行く手を阻んでいた。

 灰色のスーツに身を包んだ女。僅かにウェーブしたライトブラウンの長髪。目鼻立ちは整っており、吊りがちの目が女をよりキャリアウーマン然とさせていた。

 

「こんばんは。はじめまして、織斑一夏くん」

「! 誰だ、あんた」

 

 少年の誰何に、その女はにっこりと笑みを湛えた。それだけだ。問いに対する応えはなく、またその意志もない。

 あれは嘲笑だ。猜疑と不安を滲ませる少年を嘲り楽しんでいる。

 

「大人しく付いてきてくれない? 面倒は嫌いなの」

「誰が!」

「あのカス共がガキの柄浚う程度のこともできねぇぐらいのゴミ、だなんて思わなかったの。その尻拭いにわざわざ出てこさせられた私の苛立ち、分かるでしょ? だからお願い」

 

 一瞬、女の顔が歪んだ。貼り付けたような笑顔の中に、黒い棘のような悪意が表出した。

 もとより隠す心算も無かったのだろう。仮面の笑みで細められていた目、その奥から覗く瞳が全てを物語っている。彼の女の本性。これから為される暴挙を。

 無造作に女が前進する。そうしてこちらに近付きながら、女は自身の後ろ腰に手を伸ばし――――

 

「シッ」

「あ?」

 

 腕が動いた時点で、こちらもまた前進、否、跳躍(・・)していた。

 接近し、腰に回されていた腕を捕える。手には、黒光りする鉄器が握られていた。

 先ほどの無頼達が携行武器を手に手に襲い掛かってきたことから、この女もまた所持していて然るべきであろう。

 拳銃。

 有り難くもないことに、予想は的中した。より悪い方向へ。

 手首を捻り、外側へ返す。まずはこの、危険過ぎるものを手放させなければならない。

 

「っ」

 

 舌打ちと共に、女は捕られた手を引き寄せ体勢を大きく変える。逆にこちらの腕を捕えて、肘を打ち出してきたのだ。

 それを、女の横合いを跳び抜けるように躱す。しかして、掴んだ手はそのまま。

 両手で無理矢理に手繰り寄せた手を膝で打ち上げた。軽い音を立てながら銃が地面に転がる。

 武装解除。

 胸中で安堵など零れたろうか。それを隙と呼ばず何という。

 間髪入れず、女の左掌底が己の顔面を捉えた。

 

「――」

「糞ガキィ!!」

 

 汚泥のような怨嗟が耳を打つ。

 腹に衝撃。視線をやや下げるとそこには足刀が刺さっていた。

 呼気と、それ以外の流出を口内に自覚する。歯噛みして、それを体内へ押し戻す。

 今にも散り乱れんとする呼吸を御する。気管と心臓何れかに相応の過負荷を自覚した。

 右脚を地面に打ち込み、後ろに流れた身体を止める。女は、当然とばかり追い討ちに来た。

 

「死ね」

「それは」

「できない相談だ!!」

 

 女の横合いから少年が飛び出した。手にはスタンロッドが握られている。

 上段からの打ち下ろし。

 

糞が(Fuck)!」

「外した!?」

 

 獣染みた挙動で女は一夏少年の打ち込みを回避した。

 再び距離が空く。一足飛びの間合だが、女は制止した。

 己の呼吸は既に回復している。そして隣では少年がロッドを正眼に取り構えた。

 なるほど、攻めあぐねたか。

 

「手癖が、あまり」

「緊急事態だから」

「なるほど」

 

 いつの間に拝借したのか。少年共々薄く笑う。

 少年のその強かさが今は有り難い。

 そんな己と少年との長閑なやりとりが、対手には大層気に食わぬらしい。遠目にも分かるほど米神に青筋が浮かんでいる。だというのに、口元には笑み。怒りが過ぎれば人は笑うのだ。

 

「ケッ、ククカカ。ガキの分際で、頑張るじゃねぇかよ。あぁ? クハハハ……」

「なら、頑張ったご褒美に俺達のこと見逃してくれないっすかね?」

「銃砲等不法所持についてはどうか自首なさることをお勧めします」

「そいつは……できない相談だ(・・・・・・・)なぁ!!」

 

 女の、哄笑混じりの叫びが夕空へ木霊した、その瞬間。光が女の身体を包み込んだ。

 

「!?」

「なんだ!?」

 

 土煙を竜巻のように巻上げなら、その内部でなおも光は増幅する。時間にして一秒半。たったそれだけで、あらゆるものが一変した。

 舞い上がった土砂が晴れ、直径二メートルほどが十センチばかり刳り貫かれたその中心にそれは佇んでいた。

 巨体。近頃180半ばに届こうかという己の不必要な体格を悠然と見下ろすほどの。

 赤黒いスキンスーツに身を包む女性的な肢体、そこから八方へ伸びた長大な脚。脚だ。蜘蛛の多脚。尖端には何れも砲門。

 黄と黒のストライプに彩られた、見るだに生理的嫌悪と危機感を齎す丸い腹――円球形のスラスター。

 紅いヘルメットに設えられた無数のセンサーは複眼を模したものだろう。

 金属で組み上げられた女郎蜘蛛が、生体とは対極の機械工学の粋が、インフィニット・ストラトスが眼前に立った。

 

「うそ、だろ」

「一夏さん」

「なんで、こんなところに」

「一夏さん!」

 

 呆然と、現実の咀嚼に失敗した少年はうわ言を続ける。

 そんな彼を抱えて跳ぶ。そうして我々が地面に倒れこむより先に、背後で空間が消し飛んだ(・・・・・・・・)

 右肩から地面を削って止まる。急ぎ振り返ると、女郎蜘蛛はその場から一歩たりと動いてはいなかった。

 ただその巨大な手を無造作に振ったのだろう。

 それだけで地面は削れ地盤は捲れ上がっていた。

 

「ハハ、逃げるなよ。殺し難いだろうが」

 

 IS。今やその存在は全世界が認知するところとなった。とある一人の天才によって造り生み落とされた超常の技術。

 そのISの最大の特徴がこれだ。いや、己は今正に、それを思い知ったと言える。

 超能。装着者にこの世ならざる力を齎す。その金剛力は人間を羽虫以下に擂り潰して余りある。

 触れられれば五体が消し飛ぶ。そんな事実を暢気に再確認した。鈍間な精神が功を奏するとは、皮肉なこと。

 

「“織斑一夏”くんは安心しとけ。お前は殺さず持ち帰れとのお達しだからよ。いや、本当は諸共バラバラにしてやりてぇんだが、そっちの木偶の坊だけで我慢してやるさ」

「……っざっけんな」

 

 身震いを堪えるような声で、少年は唸った。

 そんな彼の前に出る。庇い立つ。

 

「おいっ、ジン?」

「あちらの心算は言葉通りかと。この儀、この場においてはこれが最上」

「何、言ってんだよ、お前」

 

 逃げられない。敵は、世界最強の高機動兵装。ジェット戦闘機と駆け比べなどしたところで意味はない。

 ならば、付け入る隙は一つ。装着する“人間”の性情を利用する。

 

「ククク、いいねぇ。友情ってやつだ? ぷっ、ククハハハハハ!」

「走ってください。急いで。振り返らず」

「待てよ。意味わかんねぇ。なんでだよ。なんでそんな」

「ハハハハハハハハハ!!」

 

 堪え切れぬとばかり女は高々と嗤った。

 委細構わぬ。少年の肩を押し出し、噛んで含めるように繰り返す。

 

「走ってください」

「できる訳ねぇだろ! お前一人置いてなんて!」

「一夏さん、どうか」

「ダメだ!」

「なげぇ」

 

 視線は対手に固定していた。しかし、瞬きすら許さなかった我が眼は敵を見失う。

 それでも身体は稼動した。それだけが幸い。

 強く、少年を背後へと押しやる。

 再び、赤黒い敵影が視界を掠めた。反射的に左腕を構え――――

 

「はんっ」

「――――」

 

 女は鼻を鳴らして、巨大な爪の先で左腕(それ)を千切り取った。

 茜の空に一筋、血の紅が奔る。くるくると回り、周囲を汚しながら、己の一部だったものが地面に落ちる。

 失くした上腕から血が滂沱していく。徐々に喪失されていく生命が、溜まりとなって己の周りに池を作った。

 

「ジ、ン」

 

 知らず、膝を付いていた。生暖かな液体を学生ズボンが吸い上げ、純粋な黒を穢れた黒に変えていく。

 

「ジン……?」

 

 ノイズのような激痛が体内で暴れ回っては千切り取られた腕に収束する。

 

「――――――――ぅ、うぉぉぉおあああぁぁあああああああ!!」

 

 痛覚に支配された脳が、そのフィルター越しに外部情報を受信した。音声。絶叫。誰の、声だったか。

 忘れるものか。忘れはしない。これから先も。最期であっても。

 そう、これから。彼には未来があるのだから。

 

「ジン!! ジンッッ! くっそ! 糞!! クソぉ!!」

 

 少年の激昂を背中に聞く。それはひどく、痛ましかった。

 

「一夏」

「っ! ジン……!」

「走れ」

「――――」

 

 己の声は、彼に届いたろうか。混濁し始めた意識、失われ始めた感覚の中にあっては、そればかりが不安だ。

 永遠にも似た一秒間の後……遠ざかる足音に安堵する。

 

「あーらら。友情ごっこは終わり? 見捨てられちゃったねぇボクぅ」

「……」

 

 眼前に佇む化生は、侮蔑という哀れみをこちらに寄越した。

 その視線が不意に明後日の方を向く。見ればそこには、己の左腕が落ちている。

 女はゆったりとした足取りでそちらに歩を進めた。そうして腕を拾い上げ、再びこちらに近寄ってくる。

 ずいと、己の節くれ立った腕を差し出される。受け取ろうと残りの手を伸ばした。

 ぐちゃり、水風船と軽石を潰すより、おそらくは容易に、左腕は圧潰(あっかい)された。

 

「ごめーん。ちょっとだけ力が入り過ぎちゃった。残念だったねー。急いで繋げばまだ動かせたかもしれないのにー」

「……お気に、なさらず」

「そ、なら気にしないわ。クッフフフフ……!」

 

 手甲に付いた肉塊を女は払った。そして興味は失せたとばかり、己の横をすり抜ける。また獲物を追う為に。

 そうはいかぬ。

 今のやりとりだけで一分ほども稼いだろうか。まだ今少し、欲張りたい。幸い、死ぬにはまだ僅かな暇がある。

 膝を伸ばし、足を立ち上げ、身を起こす。その一挙動で、血液の流出が一段増す。

 痛みが遠ざかり、その分だけ死が一歩近付いてくる。

 

「御婦人」

「あ?」

 

 スタンロッド、少年の置き土産を手に、言葉を投げた。

 女は振り返る。死に損ないの半死人が今更何を。好奇心か気紛れか、どちらでもいい。こちらに気を向けてくれさえすれば。

 

「なんだ、楽にして欲しいなら――」

 

 女の言葉を聞き流し、一歩踏み込む。ロッドの尖端を、女目掛けて突き込む。

 当然とばかり、それは金属の爪によって容易く払われた。

 凄まじい力。うっかり走行する車に当てられたかのような衝撃に身体が跳ね返る。

 なんと、なんと、なんとも好都合なことに!

 回転する。反時計回り。身体を主軸にロッドを持つ腕が遠心回転する。

 失われた腕一本分の軽量化により、予想外の速度を伴って。

 再び、スタンロッドの尖端が女の顔面へ突き刺さった。

 

「キヒッ」

「……」

 

 ――セラミックが砕け、内部の金属部品が四散する。接触と同時にロッドは粉砕した。

 

「満足したかなぁ? いやぁお前ら(オス)共の無駄な足掻きってのはいつ見ても」

 

 べちゃり、女の声が途切れる。水よりも粘り、夕日より紅いその液体。

 今なお己が垂れ流す血、手に掬い取ったそれをISのヘルメットに擦り付けた。我ながら随分と綺麗な手形が付いた。

 そんな愚昧な思考に苦笑する。

 

「これは、失敬――――」

 

 巨大な爪が己を貫いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 闇の中にいる。

 音もなく、また肉体の実在すら疑わしい。

 これが死なのだろうか。

 ひどく、穏やかだ。

 

『――――』

 

 ノイズが走る。ノイズとしか表現のしようのないもの。何らかの情報。感覚受容器官が脳へ伝達しようとする信号。しかし、己にはもはやそれを正しく認識するだけの()が残っていない。

 

『――――』

 

 受容できない。

 しかし、ならば。

 発信を試みる。

 死を目前に、どころか傍らに寄り添いながら、なお往生際も悪く賢しい思考を続けるこの魂。

 そこに残った使命を果たす為に。

 

 

 ――織斑一夏を助けて欲しい

 

 

 それが届いたかどうか、その結果を己が知るのは暫らく後のことになる。

 

 

 

 

 

 



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1話 少年が見た背中

 長い付き合いになる。同じ小学校の出だ。

 しかし、自分があの男を一個人として認識したのは小学校入学から四年目のこと。

 それまでは、遠目に見る有名人みたいな感じだった。小学四年にして身長180に届こうかという体格と大袈裟な“噂話”が、色眼鏡となって自分の目を覆っていた。

 アイツときちんと話をしたのは小学四年の春。初めて同じクラスになったのだからいっちょ仲良くなってやろう、なんて一念発起があった訳ではない。

 

 まったく、穏やかな出会いではなかった。

 

 その頃、世間の話題は新技術IS一色。その渦中の人、開発者である篠ノ之束さんは色々な意味で注目の的だった。良きに付け悪しきに付け。

 そして当然の成り行きとして、注目の矛先は彼女の家族、篠ノ之家の人々にもまた向けられた。マスコミの取材と銘打った執拗な追い回し、プライバシーの遵守なんてものはそこに無い。あのISの創造主のパーソナル情報を一滴でも見たい聞きたい知りたい……というのが、世間の偽らざる要望だったんだろうが。

 

『どうしてかな……どうして、私達は……』

 

 幼馴染の少女、日々暗く翳っていく“箒”の瞳。それを思い出すと、今でも怒りが腸を焼いた。

 いつ頃からか、悪質な記者が学校近くで待ち伏せ、箒を尾け回すなんてことが暫らく続いた。当然、自分も少女と帰路を共にして守るんだと息巻いたものだが。

 無遠慮にカメラを回す大の大人に、箒は怯えた。そんな彼女を隠す為に必死に盾になろうする自分は滑稽だったろう。

 そんな時だ。

 

『失礼』

 

 いやに低く、重い声だった。

 記者の腕を掴む大きな手。手だけじゃない。大の大人をそいつは体格で圧倒していた。

 

『貴方の行為は迷惑防止条例に抵触している可能性があります。また、今撮影された画像を公衆に面する媒体へ流布、および譲渡・貸与した場合、肖像権延いては人格権の侵害に該当します』

 

 正直、そいつが何を言ってるのかほとんど分からなかった。ただ有無を言わせない厳然とした態度に、記者が泡を食っていた様子を覚えている。

 記者は何かぶつぶつ言った後、そいつに身分を明かすよう喚いた。自分が記者であることを逆手に、相手が言い淀むのを期待したのだろう。

 

『公立■■小学校所属、日野(じん)

 

 臆することなく、ジンは名乗った。

 巌のような、鋼のような、ありえない質感を持った凶相。眼光ばかり鋭く光るその男を前に、記者が尻尾を巻いて逃げていったのは言うまでもない。

 一礼して立ち去ろうとするジンを引き止めて、少しだけ話をして、その日は別れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ、はぁ、はぁっ、はぁはぁ……!」

 

 走る。走る。走る。

 一心不乱に。他の何もかもを忘れて。何もかもを置き捨てて。

 一人の友達を、置き去りにして。

 

「っっ!!」

 

 頬の裏を噛み締めると鉄錆の味が口一杯に広がった。その味は知っている。これが苦渋。

 自分の無力を思い知った。

 

「くそ! くそ! くそ!!」

 

 夜闇が蔓延し始めた無人の街並み。シャッター街なんて言うが、これはやはり異常だった。誰一人として擦れ違わないなんてことあるのか。

 いや、もし通行人に行き会ったとしてどうする。自分を追うあの女、人を人とも思わないあの化物、その巻き添えにするのか。

 ジンのように。

 片腕をもがれて、それでも自分を逃がそうとしたあいつのように。

 あんな無惨な痛みを他者に強いて、生き延びるのか。

 俺は。

 俺は。

 

「あぁぁああぁぁあぁぁぁああああッッ!!」

 

 絶叫する。喉が裂けて、新しい血の味が湧き上がった。

 路地の出口が見えた。大通りへの一本道。それがすぐ目の前まで。

 

(ジン待ってろ! 今助け呼ぶからな!)

 

 汗を吸った制服が重くすら感じる。

 もうあと少し。

 過剰な熱を発する身体、早鐘を打つ心臓。

 あと少し――――

 

「ざぁんねぇ~ん」

「!?」

 

 眼前に黒塗りのワゴン車が二台、滑り込むように現れて道を封鎖した。

 そして、今、背後から響いた声は。

 振り返る間もなく、背中に衝撃が走り、勢いのまま地面へ叩き付けられた。

 

「がっ」

「動くな」

 

 うつ伏せのまま背中を凄まじい重量が襲った。何とか振り仰いだ先で、蜘蛛の化物が自分を踏み付けているのが見えた。

 渾身の力で身体を起こそうともがく。が、びくともしない。まるで地面と縫い付けられたかのようだ。

 這いずる芋虫のようなこちらの様に、ヘルメットの内から見えるはずの無い残忍な笑みが透けて見えるような気がする。

 

「あーあ、手間取らせやがって」

「っか、は、ぐ、てめ……!」

「いやしかし、あの木偶の坊の時間稼ぎ、完全に無駄だった訳か。ケハハッ、死に損だな」

 

 女の一言が、身体を凝固させた。

 体中を満たしていた筈の熱が一気に失せていく。

 今、なんと言った。

 こいつは今。

 聞き捨てならぬことを。

 

「……」

「おぉ? なんだ。なにびっくらこいてんだ。え? あの状態から生きて還れると本気で思ってたのか? ……クッハハハハ! ギャハハハハ! マジかよお前。お目出度過ぎんだろ!?」

 

 けたたましい笑い声が雨のように降ってくる。

 それをただ聞いた。

 何も出来ずに、ただ。

 背中から重みが消え、次いで襟首を掴み上げられる。目の前に赤く汚れたヘルメット、その無機質な複眼が現れた。

 女は耳元に口を寄せて囁いた。

 

「あいつの心臓、ぐちゃっと潰してやったよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日から、俺の興味の対象は日野仁ただ一人に絞られた。

 話してみれば案外イイ奴、なんてのはよくある話。なんというか見た目通り、いや見た目以上に、ジンは実年齢というものが疑わしくなる奴だった。

 特にその口調。軍人か役人かってくらい過剰な丁寧口調が。

 

『なぁ、お前なんで敬語なんだよ』

『は……何か、気障りでしたか』

『きざわ? いや、そういうんじゃなくてさ、オレらもう友達だろ? 友達に敬語ってなんかおかしくねぇ?』

『なるほど』

 

 ジンは誰に対しても、相手が年下だろうが関わりなく、無論年上ならなおのこと、馬鹿丁寧な口調と物腰で接してきた。

 最初の内は正直不気味で、箒なんかは暫らく恐がって近寄ってこなかったくらいだ。

 丁寧なのが悪いことじゃないのはなんとなく分かるから、面と向かって直せとも言い辛くて。かといっていつまでも他人行儀な態度のジンが気に入らなかったからだろう。

 不意にそんなことを尋ねた。

 

『一夏さんに対して隔意などあろう筈もありません』

『かくい?』

『……仲の良い友達だと、思っております。もし、許されるなら』

『いや許すとか許さないとかじゃねぇよ。決めんのはオレとお前だろ。んで、オレとお前は友達。違うか?』

『――はい。ありがとうございます』

 

 そう、そんな風に、あんまりにも嬉しそうに礼を言うジンに何も言えなくて。

 口調のこともそのままうやむやになった。というか慣れてしまった。

 こいつはこういう奴で、誰にも平等に接する大人びた奴で、オレの友達。

 それでいいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「くっ」

「さぁ一夏ちゃん。今日から楽しい楽しい監禁生活が始まるよ~」

 

 胸倉を掴まれ、その場に吊るされる。それこそ小枝か何かみたいに。

 折り、砕き、潰せる。

 このISならば容易いことだ。

 ジンをやったように、自分もまた。

 

「落ちな」

「っ! がっは!?」

 

 言うや、堅固な爪が首を締め上げた。途端、意識が遠退く。白く、消え失せていく。

 無力。無念。そんなものだけが胸に残る。

 悔しかった。憎かった。眼前の敵。友を惨殺した怨敵が。そしてそれを倒すこともできない己自身が、何よりも。

 込み上げてきたものが決壊し、頬を熱い雫が伝う。それすら己の脆弱さの証立て。烙印だった。

 

「……ごめ、ん、な…………」

 

 最後に出てくる言葉が、こんな情けないものだなんて。

 

「…………ジン……」

 

 友達の名を呼んだ。

 それは今生の別れだった――

 

 

 

 

 ――ざり、と靴音が響いた。

 

「あ?」

 

 アスファルトを擦るように鳴る。それは革靴の音だ。

 

「っ!」

「……てめぇ」

 

 唐突に、首を締め上げていた手が離れる。支えを失い、重力に従って身体は地面に落ちた。

 急激な呼吸の回復はむしろ苦しく、肺腑に負荷を掛けた。胃液混じりの咳を吐き出しながら、足音のした方を見て。

 またしても息が止まる。

 ありえないものを見ていた。

 

「てめぇ、いったい、なんで」

 

 世界最強。字義通りのそれを冠した超能の鎧。しかしどうしたことか、それを纏う女は動揺し戸惑い、その声に滲んでいるのはあろうことか恐怖だった。

 装甲を纏った偉容たる巨躯がたじろぐ姿はまさしく異様。

 それも、無理のないことだった。

 女は今、自身が葬った筈の男と、死人と対面しているのだから。

 

「ジン……」

 

 街灯が徐々に点っていく。通りの遥か向こうから順にこちら側へ灯火が迫り、遂に暗闇の中で佇むその男を白光の下へと照らし出した。

 彼が持つ鍛え上げられた肉体の厚みは同年代はおろか一般的な成人男性にもそうはいない。人間の尺度で十二分に巨躯と表現できる。それほどの体格。

 太く長い手脚。頑強な骨格と拳。その(つよ)さに一度ならず憧れた。

 だが、今その内の一本。左腕は既に失われた。

 その筈だった。

 

「なんだ、その腕は……!?」

 

 奇しくも女が代弁していた。その光景に対する疑問、不可解を。

 銀発色の繊維。何重にも折り重なり、結われ、編まれたそれが、ジンの肉の肩から生えているのだ。

 筋繊維。金属の筋肉。腕だ。あれは、金属の腕。

 銀の腕は時折ぎちぎちと脈動する。多量の質量を無理矢理に圧縮しているのか、内部から弾けようとするそれを繊維同士が抑え付けている。

 腕として固着しなかった繊維は、肩の付け根から四方八方へと伸び流れ、羽か、ともすると触手のように宙を泳いだ。

 

「死に損ないが……わざわざ出来損ないの腕まで用意して、今更何の用だ?」

「――――」

 

 動揺を押し殺して女が吐き捨てる。

 しかし、ジンは応えない。その表情すら、街灯が作り出す陰の下に隠れていた。

 

「黙ってんじゃねぇぞ!!」

 

 女が吼える。苛立ちと、正体不明の何かに対する怯え。その両方を消し飛ばすように。

 多脚の砲門が一斉にジンを狙う。ISに装備される武器はどれ一つとっても人間を殺すには過剰だ。肉片一つ残らない。

 

「ジン!」

「今度こそ死ね」

 

 当然、女は躊躇などしない。八門の砲が同時に火を噴く。

 ――ジンが眼前に手を翳す。

 人間の肉眼では到底捉えられない速度で無数の弾丸がジンへと降り注いだ。

 ――それら全てが、弾けて散った。

 

「な」

「!?」

 

 ジンの身体に到達しないまま弾丸が弾けた。まるで、不可視の壁に阻まれた(・・・・・・・・・・)かのように。

 

「馬鹿な……ありえねぇ……シールドバリアだと!? ……それじゃあこいつは……!!」

 

 ジンの身体が、沈む。

 拳を握り込み、左腕を脇に畳んだ。それは弓を引き絞る所作に似ていた。

 同時に、宙を漂うだけだった無数の繊維質が火に掛けられたかのように消え失せていく。火の粉のような光が散り、光は左腕に収束する。

 

「させるかよぉ!」

 

 女郎蜘蛛が飛ぶ。スラスターが火を噴き上げ、凄まじい速度でジンへと襲い掛かった。

 しかし、分かる。もう遅い。

 光。一点の、星屑めいた。けれど鋭い光。ジンの左目は、既に敵を捉えている。

 

「死――」

 

 左腕の燐光は収束し、極点を迎え。

 爆ぜた。

 

「――――」

 

 消える。

 ジンと女郎蜘蛛の姿が。

 続いて空気を引き裂く音と、衝撃波が身体を吹き飛ばした。

 

「うぁ!?」

 

 街灯が倒れ、アスファルトが剥がれ、外壁が崩れ落ちる。

 破壊という一事が駆け抜けていった。

 瓦礫と塵埃の舞い散る中で、それを見たのは偶然だ。一瞬の、極度に圧縮された時間感覚。その中で垣間見えた幻のような光景。

 

 ジンの左拳が、女のフルフェイスメットを粉砕していた。

 

 ワゴン車を蹴散らし、ボールのように跳ねていく。ISが。あの超常の兵器が。

 それを為した男の背中がすぐそこにある。

 

「……ぁ」

 

 すぐさま駆け寄ろうとして、気付く。ガンメタルに光っていたジンの左腕が、赤熱し、白光していた。

 同時に鼻をつく、肉の焦げる臭い。

 腕の繊維が伸縮し、形状を変えた。隙間から蒸気と熱気が噴出す。

 

「ジン!」

 

 おそらくは排熱を終えてなお、生身の肉体を焼くには十分な熱が周囲に蟠っていた。況や、それと直接繋がった男は。

 そこはもはや火山の火口のような有様だった。異常な熱波でアスファルトが溶けて歪んでいる。

 それら一切を無視して、ジンに駆け寄った。

 身体に触れる。触れた掌が途端に焦げ付いた。痛い。

 吸い込んだ空気が肺を焼いた。痛い。痛い。

 それでも。

 

「ジン! ジン! 頼む、頼むよっ! 起きてくれよ!」

 

 零れ落ちた涙が、蒸発して掻き消えた。

 身体が燃える。燃えるように痛い。

 けれど、この痛みに価値なんてない。この涙に価値なんてない。

 あるのは、それは。

 

「!」

 

 その時、男の僅かに上下する胸を見た。耳を澄ますと、か細い呼吸の音を聞けた。

 

「ぁ……あぁ……!」

 

 生きている。

 彼は、生きている。

 その事実をただ噛み締める。

 男の大きな身体を強く強く掻き抱いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







衝撃のファーストブリット


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2話 彼女が得た心

検索タグの方にも追加しますが、今作の織斑一夏くんは一夏くん(イケメン)から一夏くん(男の娘)にジョブチェンジしました。
純粋なホモ展開を期待された方がもし居られましたらごめんなさい。



 第二回モンド・グロッソ優勝決定戦目前でその一報は届いた。

 

『日野仁が重態で緊急入院。某国工作員による誘拐およびテロ活動の痕跡あり』

 

 端的な事実を脳が知覚した瞬間、他の全ては些事となった。ISスーツのまま待合室を出る。

 慌てふためく会場スタッフ、遠く響く歓声、上役も何人か頭を下げに来ていたが、それら全てを無視して進む。向かうべきフィールドを背にして一路この祭典の出口へ。

 中でもマネージメント担当とかいう女が特に執拗に己を引き止めようとしていた。

 

「弟さんは無事です。怪我をしたのはその友達だけですから織斑選手が出向かれる必要は……」

 

 ソレの首を掴み取り、近場にあった壁に叩き付けた。

 静かになった。

 

 

 ISを展開。スラスター最大出力。

 ものの五分で大会開催国の防空圏を脱した。それは同時に、無許可で他国の防空識別圏および領空を侵犯するということだが。

 そんな不届き者に対してすぐさま警告の通信が雨霰と送り付けられてくる。網膜投影された小五月蝿いホログラムを目の端へ追いやり、衛星電話を立ち上げた。登録済みの番号一覧から選び出したのは親愛なる憎き天災。

 コール音が発したと同時に繋がった。

 

『もすもすベヒモス貴女のお耳の恋人束さんだよぉ~ん!! うわわわわちーちゃんからのお電話なんて何ヶ月ぶりだろ!? 着信の名前見ただけでモノアミンな物質が今束さんの脳内をドバドバ駆け巡ってるよー!! どんな薬物も所詮は愛という麻薬の前には無意味無味無臭なんだね!! そんなちーちゃんにもハイ! 束さんの愛をお届け――――』

「各国の管制塔、監視衛星に対してこの機体の目眩ましを。それと私の渡航記録を改竄してくれ」

『いいよー。でもいいの? モンド・グロッソだっけ? 次で優勝なんでしょ? 大会とかぶっちゃけどーでもいいけどちーちゃんの祝勝パーチーなら例のランド乗っ取って盛大にやろうと思ってたのに』

「頼む」

『ハイヨロコンデー!! ちーちゃんの頼み事なら地球の自転だって逆回しにしちゃうぅぅうう!!』

 

 通信を切り、警告音(アラート)を消す。

 エネルギー残量と気象条件、現在地から彼の入院する病棟までの最短距離を算出。限界最高速で飛翔する。

 

 到着したのは日没前。襲撃から丸二日は経過したことになる。

 腸が煮えた。噛み締めた奥歯が軋む。あろうことか、事件発生直後に即時織斑千冬へ送られてきていた筈のこの事実を、大会主催陣および関係各所は隠蔽していたのだ。

 選手の心身保護? 祖国の威信? 第一回優勝者としての責務?

 己を引き止める為に羅列された御大層な理屈を思い出し、吐き気を催す。そんなものの為に、そんな下らないものの為に、私は。

 病棟の屋上へと降り立ち、ISを除装。非常階段を下る。フロアを二つ下り、扉にISの演算装置を繋ぐ。一般の病院が使う電子ロック程度容易に開錠できた。

 廊下を進む。逸る足を自覚しながら。

 701号室。ここだ。ここに彼が。

 躊躇なくスライド式の自動ドアに手を翳した。空気の抜ける軽い音と共に、室内が露になる。

 窓から差し込む茜に染まった病室。その窓辺に一床のベッド。傍らのパイプ椅子には、少年が一人座っている。

 

「……」

 

 最愛の弟は、ベッドに向かって項垂れたまま動こうとはしなかった。

 歩み寄り、その肩にそっと触れる。ひどく緩慢に少年は振り向いた。今の今まで己が室内に入って来たことにさえ気付いていなかったらしい。

 頬や額にガーゼを当てられ、両手は包帯を巻かれている。光のない瞳、生気の抜けた自分と瓜二つの顔(・・・・・・・・)

 赤く腫れた目元。それがゆっくりと見開かれ……黒い瞳が濡れて歪んだ。

 

「千冬、ねぇ……!」

「遅くなってすまない……一夏」

「っ!」

 

 パイプ椅子を蹴倒して、少年は自身に縋り付いた。胸が熱い。少年の涙と激情が、濁流となって流れ込んでくるようだ。

 

「ごめん、ごめんなさいっ、俺……俺、ジンのこと、助けられなくて……ジンが俺をかばったから、俺の所為でっ……!!」

「ああ、わかってる。わかってるから」

 

 しゃくり上げ、嗚咽する少年の背中を擦る。肩は凍えたように震え、涙ばかりが熱を持った。

 

「俺が逃げたから!! ジンは…………っ!」

「お前が悪いんじゃない、お前の所為なんかじゃない……あぁ、一夏」

 

 己が知り得る筈のないその時の光景が、まざまざと目に浮かぶ。

 織斑一夏の危難を、日野仁が看過できる訳はないのだから。その瞬間に賭すことの叶う全てで、彼は一夏を救おうとする。命すら、使い潰して。

 なるべくしてなった。いつかは訪れた結果だ。

 私達は……望んでなどいなかったのに。

 

「っく……あぁ、う、ぁあぁぁぁあっ、あああああ……!!」

 

 嗚咽は喘鳴を伴い、いつしか悲痛な叫びに変わる。

 それを受け止めるようにもう一度、強く弟を抱き締めた。

 ベッドで眠る男の顔はひどく安らかだ。少年の激情が止むまで、私はずっと彼を見ていた。片時も目を逸らさず、ずっと見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『堅物め。少しくらい気を許してくれてもいいだろうに』

『……隔意などありえません。自分は、貴女のような方と出会えたことに感謝しております』

『っ……一々大仰なやつだ。なら、その「織斑さん」はいい加減やめてもらおう。“隔たり無し”の言葉に偽りが無いならな』

『了解しました。では、千冬さんと』

『及第点、ということにしておいてやろう』

『有り難く』

『ふふっ、ばーか』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 不意に意識が浮上する。身動ぎするとパイプ椅子が小さく悲鳴を上げた。

 いつからか眠っていたようだ。

 

「……ふぅ」

 

 懐かしい夢を見ていた気がする。内容などすぐに頭から消え去って、何一つ覚えてはいないが。

 蒼い光が室内を満たしている。夜空の群青が月明りによって希釈され、純白ばかりの病室が今や蒼一色に染まっている。

 ベッドに視線を移す。

 大きな男が横たわっていた。左目は眼帯と包帯で厚く隠され、僅かに覗く肌もまた至る所に包帯を巻かれている。それこそ、その傷の深さを物語って。

 その左隣に一夏が寄り添い、静かな寝息を立てている。まるで失われたものを自らで補うかのように。

 少年の、一夏の黒髪に触れる。暫らく見ない間に肩口に届くまでになった長髪は、いよいよ彼を女のように見せていた。もともと中性的だった顔立ちが、ここのところは特に女性的な変化をしているように思う。

 あどけない寝顔。目尻の涙の痕が胸を衝いた。

 パイプ椅子を立ち、ベッドの反対側に回る。暫時、男の顔を見下ろして……ゆっくりと彼に覆い被さった。

 

「なぁ、ジン」

 

 耳元で囁く。応えなど返らないと知りながら。

 それでも伝えたい。

 

「私は」

 

 この想いを。この感覚を。この――薄暗い欲情を。

 

「私は今、とても幸せだ」

 

 心からの言葉を、あなたに伝えたい。

 

「ここには私と、一夏と、お前がいる。私達だけが」

 

 彼の傷を思う。彼の喪失を思う。彼の献身を想う。

 それら全てが、どうしようもなく愛おしかった。

 だから。

 

「お前は私の……私達のものだ。私達姉弟(きょうだい)のものなんだ」

 

 渡しはしない。奪わせはしない。お前の血肉骨子一片たりとも、もはや、絶対に。

 

「誰にも」

 

 

 

 

 



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3話 少女だった頃

重い。


愛じゃなくて空気感が……





 

 

 中学進学を機にアルバイトを始めた。

 欲しい物を買う為、遊ぶ金欲しさに、社会勉強、暇潰し……同年代の少年少女らがバイトに勤しむ理由を想像しようとして、すぐ止めた。

 無意味であり、惨めだからだ。まるで、それらを下らないと詰ることで、自分の自尊心を保とうとしているように思えて。

 織斑千冬にとって労働とは生きる術だ。生活費を稼ぎ、食べていく為、たった一人の弟を養う為の義務。責務だ。

 日々、追い立てられるように働いた。毎日毎日働いて、働いて、働いて、日付を跨いだ頃に帰宅し弟の寝顔を見てから泥のように床に沈む。

 それが全て。

 けれど、その生活を厭うたことはない。一夏の為なら、己はなんだってやれる。

 ……そう意気込む己に愛想が尽きたとばかり、酷使を続けた肉体は確実に磨耗していった。

 

 奮起する精神とは裏腹に、起きている時でさえうっかり意識を失うことが多くなった頃。

 幸か不幸か、私は日野仁と出会った。

 

 

 資格はおろか実務経験もない中坊のガキがある程度の金額を稼ごうとするなら、必然的に選べるのは肉体労働が中心になってくる。それも、学校での授業を終えた夕方から深夜までの勤務、夜勤のある職場が望ましい。

 加えて、これが最も重要と言えるが……就業規則をあまり尊ばない(・・・・)雇用主を選ばなければならない。年齢制限など守られては困る。

 これらの条件を全て揃えた仕事を探すのは――然程、難しくはなかった。

 倉庫整理や製品の梱包という所謂“軽作業”。作業着の支給はあるが運搬車両の類はなく、重量物であろうとほとんどが手作業。急な追加作業、残業は当たり前。

 黒に近いグレーだ。

 実入りは悪くない。残業には手当ても出た。金になるならそれでいい。

 外国人労働者に混じって無心に作業をこなす日々。朦朧としながら気づかぬ内に増えていく生傷は数えるのも馬鹿らしくなった。

 

『日野仁と申します。本日から従事致します。御指導、御鞭撻のほどよろしくお願いします』

 

 上役の話をぼんやり聞き流していたとき、いやに低く重い声が耳と腹を揺さぶった。

 漫然とした視線を向けると、いやにガタイの良い青年が、これまたいやに綺麗な角度で辞儀している。

 新人か。ただでさえ忙しない時期で自分の作業にそれぞれが手一杯なのだ。教育を任される者はさぞ苦労することだろう。

 ……などと、他人事に構えていた内心を見透かされたのか。『織斑さん、いろいろ教えてあげて』という上役の鶴の一声で、己自身がその苦労を背負い込むことになった。十四の小娘に教育担当を丸投げする無責任さには腹も立つが、その無責任さのお陰で仕事ができているのだから始末に負えない。

 隠すことも忘れた溜息を吐き捨てた。

 

『……作業自体は単純だ。最初はトラックへの積み込みからやってもらう』

『了解しました』

 

 そこでふと、うっかり普段の口調で口を利いていたことに気付いた。我が身の粗暴な性質は自覚済みだが、得てしてそれが社会にあっては致命傷になると多少学んでいたものを。

 青年を見た。

 戸惑うでもなく、さりとて気分を害した様子も見られない。精悍な無表情。無愛想な奴だ。人のことを言えた義理ではないが。

 単純作業の名に偽りはないが、量が量である。かなりの時間を食うだろう。

 淡々と作業をこなす背中を見限り、これ幸いと自分の作業を進めた。

 

『終わりました』

『は?』

 

 作業を終えたら手伝いに向かおうなどと皮算用していた折、先刻同様の淡々とした声が頭上から降ってくる。

 あの量を、この短時間で?

 

『……なら、次は』

『はい』

 

 新たな作業を割り振り、自分の作業に戻る。

 そろそろ様子でも見に行くべきか、頭の片隅でそんなことを考えていた時。

 

『終わりました』

『えっ』

 

 今度は他の作業者のサポートをさせる。複数人でのライン作業だ。処理速度は一人一人違うから、どうしようとも一定の待ち時間が生まれる。

 自分の作業を進める。

 

『終わりました』

『……』

 

 タイムロスをゼロにするとこの程度の時短は可能なのか。明後日の方向で感慨が湧いた。

 無尽蔵とも思える体力と外見通りの腕力で、七日目にして青年は現場作業の主力となっていた。それは、素直に良いことだと言える。

 しかしどうしてか、彼は相変わらず己の預かりのままだった。アルバイトの分際で部下など付けられたところで持て余すだけであろうに。

 ただ、迷惑だと切って捨てることも難しかった。

 

『助勢を』

『ん、ああ』

 

 青年はいつも言葉少なに仕事を半分持っていく。自分自身のノルマ、作業場全体の雑務、そして私の手伝い。

 それは、よく考えずとも凄まじい作業量の筈だ。しかし彼から疲弊した様子は見て取れない。身体の造りが並ではないのか、それとも隠すのが上手いのか。それは分からない。

 ただ一つ分かったことは。

 

『お疲れ様です』

『お疲れ……』

『……もし可能ならば、一度休憩所でお休みになられてはいかがでしょうか』

『え? あぁ、いや、明日も早くてな……家の用も片付けたい。今日はこのまま失礼する』

『承知しました。では、せめてこちらを』

『……塩飴なんて久しぶりに見たな』

『お帰りの道中、どうかお気をつけて……このような差し出口をお許しいただければ幸いです』

 

 私は自分が思うほど、隠すのが上手くはないらしい。疲労困憊した身体は、宿主とその外へ盛大に抗議の声を上げていた。

 金を稼ぐと息巻いておいて、他人に、それも会って十日と経たぬ相手に気付かれていれば世話はない。

 青年のささやかな気遣い。そして仕事に際しても相当の負担を肩代わりしてくれていたことに感付いたのは、それからさらに数日後のこと。

 休憩時間によく話をするようになった。他愛のない世間話が主だったが、青年は存外に聞き上手だった。

 こんな小娘相手にあの馬鹿丁寧な調子は面食らったものだが。他者に対するその異様な(へりくだ)りも、年上年下区別無しとなると単なる個性でしかなく、なにやら面白い。

 

『弟御が居られるのですか』

『ああ、今年小学校に上がったばかりだ。可愛いぞぉ~。写真見るか?』

『是非……よく似ておられる』

『そうだろう! 大きくなるにつれてどんどん似てくるんだ。それが嬉しくてな』

『活発な御子のようで』

『元気にそこら中走り回ってるよ。運動神経も私似だ。ふふふっ』

 

 初めてだった。こんな風に自分の家族を他人に紹介するなんて、今の今まで一度もなかった。機会ではなく、きっと、そんな余裕がなかった。

 気負うばかりの生活。摩滅していく自分自身。仕事に消費される時間。

 弟の寝顔を見ることだけが心の支えだった。

 でも、それじゃあ。

 一夏の笑顔を最後に見たのはいつだ。

 一夏の声を最後に聞いたのはいつだ。

 思い出すことは容易い。朝、泥沼に囚われたかのような眠りから這い出して、家の雑事をこなし、朝食を用意して、授業の荷造りをして、買い置きの弁当を持たせて一夏を学校へ送り出す。

 あれ。

 

『一夏がいるから私は頑張れる』

 

 私は、いったい。

 いったいいつから。

 

『一夏は私の、自慢の弟だよ』

 

 忙殺され、追われるように過ごす日々の中で不意に訪れた安らかな時間。錆び付き鈍磨していた頭が今更にきりきりと回転を再開する。安息は、同時に見て見ぬふりを続けてきた現実を思い出させた。

 

 いつから私は一夏を放置していたのだろう

 

 学校でどんな勉強をしているのか。

 その日は誰とどんなことをして遊んだのか。

 友達は何人いるのか。仲の良い子や悪い子は。

 食べ物を好き嫌いしてないか。……好物はなんだったろう。野菜は何が嫌いだったろう。

 欲しい物はないか。

 どこか行きたい所はないか。

 一人は、寂しくないか。

 

 寂しくない筈が――――ないだろうが

 

 

 

 

 

 

 

『織斑さん』

『……なんだ』

 

 余裕などできてしまったから、張り詰めていた心に隙が生まれた。

 もっと頑張らなければ。もっと、もっと、頑張って働いて、金を稼ぐ。一夏の為に。一夏の将来の為に。

 だから、中途半端な安息など要らない。それは覚悟を鈍らせる。

 そうだ。自分の安楽など知ったことか。どうでもいい。身体が動きさえすればそれで。

 一夏さえ幸せになってくれたなら、私など。

 

『お帰りください』

『は?』

 

 ささやかな安らぎを自身に齎した青年は、私を見下ろしてそう言った。

 意味が解らなかった。

 

『ふざけるな。まだ仕事が残ってるんだ』

『本日貴女が従事すべき作業はここにはありません』

『何を世迷言を』

『前言の通りです』

 

 話にならない。

 苛立ちが極点を迎えた。

 

『いい加減にしろ』

『本日はお帰りを』

『五月蝿い!!』

『織斑さん』

『私はっ、私はなぁ!』

 

 握り固めた拳で一体何をしようとしたのかは明白だった。

 しかし、打ち込むべき相手の顔がこちらを向かねばそれも叶わない。

 

『伏して、お願い申し上げます』

 

 固く冷たいコンクリートの床に青年は両膝と両手を付き、最後に額を押し付けた。

 

『本日ばかりはどうか、お帰りください』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大きな当惑を抱えて帰路に着いた。

 上役もまた、その日自分が担当すべき作業は無いと言う。いや、前日の段階で既に消化されていたそうだ。

 誰がそんな真似をしたのかは、考えるまでもないことで。

 不可解ばかりが蟠る。

 

 アパートを見上げると、部屋には灯が点いていた。当然だ。今は夕飯時。寝静まるには非常識な時間だろう。

 妙な気分だった。帰宅した自分を出迎えるのは、青白い街灯の光と暗い玄関。家の灯は、こんな暖かな色だったのか。

 不思議な緊張感を覚えながら、鍵を開けて扉を潜る。

 

『ただいま……?』

 

 返事など返ってこない。それが当たり前だった。

 

『! おかえり、千冬ねぇ……!』

 

 声はキッチンから響いてきた。

 台の上に乗ってコンロに向かっていた一夏が、目を見開いてこちらを見ている。

 少年はすぐさま駆け寄ってきて腰に縋り付いて来た。

 

『なんでなんで!? どうしたの千冬ねぇ!?』

『あ、ああ。その……今日は仕事が早く片付いたんだ』

『じゃ、じゃあ、今日はいっしょにごはん食べられる……?』

『……そうだな。一緒に食べよう』

『やっっったーーー!!』

 

 それを聞くや、一夏はその場で飛び跳ねた。全身で喜びを表すように。

 

『そうだ!』

 

 突如踵を返して、少年は食器棚から皿を取り出し、コンロのフライパンを取り上げた。

 皿の扱い、フライパンの重み、何より今の今まで火を使っていたことに声を上げそうになる。けれど、吐き出そうとした言葉はすぐにどこかへ消え去ってしまった。

 

『はいこれ!』

『……』

 

 白い皿の上には、ところどころ黒く焦げた卵が乗っかっていた。歪で、形などあってないようなもの。

 

『タマゴ焼き! 千冬ねぇ、遅くまで仕事大変だから、こんどからオレがごはん作るよ』

『――――』

『オレ、がんばってお手伝いするからさ。千冬ねぇのこともっともっと助けられるようにするから、だから――』

 

 滲む視界の中で、少年の笑顔が眩しかった。

 涙が止め処なく流れ落ちていく。せっかく作ってくれた卵焼き。

 

『千冬ねぇ?』

『!!』

 

 少年の小さな身体を抱き締める。

 強く強く。

 

『千冬ねぇ、どうしたの。どっか痛いの?』

『っ、ふ、ぐ、ぁ、いちか……すまない……こんな、情けないおねえちゃんで……!』

 

 置き捨てたと勘違いしていた。違ったのだ。とんだ思い違いだった。

 少年はいつだってここで、この部屋で自分を待っていてくれたのに。

 誰が為の献身か。それをようやく思い出せた。

 

『ありがとう……!』

 

 幼い弟の無垢な愛に。

 青年の不器用な慈しみに。

 私はただ、それを繰り返す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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4話 無垢な欲情

一夏くんのターン




 ――鬼子、化物、異形

 

 己を代名する言葉。並べるだに陳腐、恥ずかしげも無く名乗るには相当の厚みを持った鉄面皮が要る。

 しかし、事実だった。

 そんなものと関わりを持ってしまった人々の……■■夫妻の落胆と恐怖を思う。

 自己の胸中を幾らかの悲しみや無念が満たした。そうあってなお、それを押し退けて余りある感情が、あった。

 彼らに対する、憐憫が。

 

 一刻も早い自主自立を確立する為に職を求め、ありついた労働に没頭する。そうすれば僅かでも心は静謐を取り戻した。

 肉体の過剰な酷使、自虐か自罰かも分からない。それこそ自己満足に他ならない。

 昼間を義務学業に当て、残された夕方から早朝までの時間一切をあらゆる労働行為に費やした。ただ、思考すら許さぬほどの疲労を欲した。

 生命活動に支障を来たし始めた為か、日に数分間意識を失うようになった。それでもなお分割睡眠という形で肉体はそんな生活に適応していく。

 

 ある職場の雇用期間を終え、また次の新たな労役の場を選び出す。

 そして己は、織斑千冬という少女に出会った。

 

 両親を持たぬ彼女は、たった一人で幼い弟を養っているという。後見人の力も借りず、生活保護等の制度的恩恵も受けず、ただ独力で。

 疲労の色濃い顔に、されど強い光を宿した瞳。

 要らぬ思い量りを押し付ける己に、彼女は微笑むのだ。

 愛おしげに弟御の写真を眺め、喜びを(うた)うように少女は言う。

 

『一夏がいるから私は頑張れる』

 

 その有様を一分とて表現出来得る言葉が、己の内には何一つ存在しなかった。

 ただ尊く思う。

 ただ美しいと思う。

 彼女らの幸福を、心底より願わずには居れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 病棟入り口で受付を済ませた。

 今は朝の七時。本来の面会時間には早すぎる。誰あろう我が姉の力添えによる特例というやつだ。

 

「おはようございます」

「おはようございます、織斑さん。あ、今日は朝食はどうします? また日野さんと一緒にしましょうか」

 

 擦れ違った看護師の女性はもうすっかり顔馴染みだった。厚意は有り難く頂戴しつつ、首を横に振る。

 

「済ませて来たんで、ちょっとだけ世話焼いて行きます。いつもホントにありがとうございます」

「いえいえ」

 

 一礼してからまた廊下を進む。

 慣れた道のり、自分の生活の中に組み込まれた日課。

 今日もあいつに逢いに行く。

 

 

 

 

 

 

「今朝はどう?」

「来てましたよ、織斑さんとこの子。偉いですね、毎日」

「日野さん? だっけ。交通事故に遭ったっていう。入院してからずっと欠かさずだもんね。あたしら白衣の天使(ナース)顔負けの献身っぷりよ。マジすごいわ」

「自分で言いますかそれ……でもいいなぁ。彼氏さんも幸せですね。あんなに可愛い彼女さんに見舞ってもらえて」

「は?」

「え?」

「……学生服」

「あっ、え? ウソ、あんなに可愛いのに!?」

 

 

 

 

 

 

 扉を開けて、中に入る。

 消毒液と薬品と洗い晒しのシーツの匂い。レースカーテンの向こうから陽の光が疎らに室内をそよぐ。優しげな、柔らかな光輝が男を照らした。

 

「おはよう、ジン」

 

 変わることない寝顔に笑みが湧く。友人は今もなお穏やかな眠りの中にいた。

 壁に掛けた月捲りのカレンダーは、そろそろ三枚目を数えようとしている。

 

「ジーン、寝坊三ヶ月目だぞー」

 

 花瓶の水を変え、茎の端を切って花を生け直す。

 

「弾のやつは長い春休みで羨ましい、なんて言ってたぜ。ああ、ちゃんとその後に蹴り入れといたから心配すんな」

 

 洗面器に湯を張って、傍らの物干しハンガーに干しておいたタオルを数枚取る。

 

「そういえば昨夜千冬姉から電話があってさ。見舞いに行く暇が無いってすげぇイラついてた。仕舞いにはドイツから直接ISで乗り付けるだのなんだの……電話口で部下の人が泣きながら止めてたよ。大人しく休暇申請の許可待てばいいのに。はははっ、千冬姉らしいよな」

 

 靴を脱ぎ、ベッドに上がる。入院着の結び目を解き、前を露にする。ベッド横のテーブルに洗面器、そしてタオルを湯に浸ける。

 男の上半身を抱え起こした。

 

「よっと、と」

 

 脱力した人間の身体はその体重以上に重みがある。この大柄な男ならばそれも一入(ひとしお)だ。

 

「……ちょっと痩せたな」

 

 支える為に腕を回した背中も、肩も、以前ほどの厚みはない。長期の昏睡状態は、確実に男を衰弱させていく。

 頭を振って気を取り直す。

 入院着は取り払って、畳んで洗濯籠に入れた。

 浸していたタオルを絞る。程よく水分を切ってから、そっと男の顔を撫でた。

 

「朝シャン、なのかなコレ。はは、気持ちいいか?」

 

 顔から首筋、肩から腕へ。左腕の包帯には……まだ、触れない。

 何度かタオルを湯に浸け直しながら、優しく、丹念に男の身体を拭っていく。

 胸、腹と終えて、次は背中を。

 

「えっと……」

 

 横向きにごろんと寝かせれば拭きやすい。というか、看護師の人からもそう習った。

 でもそうしない。

 男の下腹を跨いで腰を落とす。馬乗りのまま、仰臥している男の脇の下に手を入れ、体重を後ろに掛けて引き起こした。

 対面して抱きすくめる。うっかり力を抜くとそのままベッドに倒れこんでしまう。だから、そうならないように、強く強くジンを抱き締めた。

 

「んっ……」

 

 自分の肩にジンの顎が乗っている。すると吐息が項を撫でた。

 ぴったりと合わさった胸から相手の鼓動が伝わってくる。

 カッターシャツ越しに、ジンの肌の熱が滲み込んでくる。

 

「……っ……」

 

 男の鎖骨の辺りに埋めた唇。それをほんの少しだけ吸い込んだ。瑞を含んだ音が静かな部屋に響く。耳には残響がこびり付いた。

 きっと痕が残るだろう。赤く、鮮やかな色をした、印が。

 

「……ふふっ」

 

 息をする度、ジンの匂いがする。ジンの匂いで身体が一杯になる。

 強く掻き抱くほど身体中がジンに染まる。

 そんな気がする。その想像はゾクゾクと背筋を震わせた。

 それがすごく、幸せだった。

 

「あぁ、どうしよう」

 

 目を閉じて、この時間を味わう。二人だけのこの時間を。

 

「早く起きてくれよ、ジン。でないと俺……」

 

 滴るような幸福感に浸る心に、なけなしの理性が警鐘を鳴らす。

 ダメだ。こんなこと望んではいけない。

 いけないのに。

 

「俺、お前とずっと、こうしていたくなる(・・・・・・・・・)から」

 

 今でも親友が、唯一無二の人が、目を覚ましてくれることを願っている。その願いに偽りなどない。

 声を聞きたい。その目で自分を見て欲しい。また、その笑顔を見せて欲しい。

 ――でも、それと同じくらい強く、深く、この欲望に溺れそうになる。

 

 この腕の中に、彼を閉じ込めてしまいたくなる

 

「…………あ」

 

 不意に目の端に捉えた掛け時計。時刻は八時二十分を過ぎている。

 

「やっば! 遅刻っ!」

 

 急いで清拭を終えて、入院着を着せ、道具を整理して、掛け布団を直す。

 カーテンを端に結び、窓を開けた。途端に、まだ白んだ朝焼けと澄んだ空気が部屋を満たした。

 

「いってきます!」

 

 空模様と同じく晴れやかに、病室を飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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5話 蒼い夜の兎



束さんって可愛くね?(ノンケ並感)




 意識の浮上は唐突に為された。波一つなく、流動すらしない深い湖の底から、ゆっくりと水面へ()()()ように。

 安息地であった暗闇から追い立てられ、我が身は冷えた現実に帰還する。

 

 目を開き、焦点の定まらぬまま視線を泳がせた。そうして最初に像を結んだのは、サイドテーブルに生けられたガーベラだった。

 身を起こす。暗い影と蒼い闇。時刻は兎も角、現在が夜であることに相違はあるまい。

 そしてここは病室、それも入院患者用の個室のようだ。十畳ほどもあろう広い室内には見舞いの訪問者に宛がうテーブルとソファ、患者の手荷物を仕舞う戸棚とクローゼットがある。出入り口とは別に設えてある扉は洗面所かトイレといったところだろう。とはいえ、それでも茫漠とした感は否めない。

 一人で使うには広過ぎる。

 そして己は個室など用意される分際にない。

 そうした感慨と自覚も相まって――

 

「所在無さげ」

「……」

 

 内心に対する最適な言語表現は、しかし己の口から齎されたものではなかった。

 いつからそこに存在していたのか。いや、少なくとも己が目覚めるよりも前から“彼女”は窓辺に佇んでいたのだろう。

 つまりはたっぷり一分間ほど、己は彼女の存在を無視していたことになる。

 

「……おはようございます」

「遅よう」

「は」

 

 夜闇の中にあっても、ともすればより一層鮮やかな牡丹の色彩の髪。豊かに波打つそれの頭頂を飾るのは、機械仕掛けの耳。

 一体どのような機構をしているのか、兎の耳は彼女の挙動に合わせてピンと立ち上がる。

 

「私の予測では二分二十七秒前には覚醒してた筈だよ。君が惰眠に執着した所為でその分だけ私は私の時間を無為に過ごしてしまったの」

「それは……面目次第もありません」

「もっとちゃんと謝って」

「はっ、貴女の貴重なお時間を自分如きに割かせ、また今なお自分の現状に対する不理解により同様の値千金たる時間を浪費させている事実。深く、お詫び申し上げます」

「ちょっとくどい。68点」

「精進致します」

「うん」

 

 不満の色はそのままに彼女は頷く。

 脊髄反射的に謝罪の言葉など並べてはみたが、どうやら思考能力は未だ十全とは言い難い。というか己は何条以て謝罪を要求されたのだろうか。それすら今一つ分かっていない。

 

「というか、そんなことはどうでもいいよ。この私がわざわざ君の寝顔を眺める為だけに日本に帰ってきたと本気で思ってるわけ?」

「滅相も」

「そうだよ」

「は?」

「今日は君を眺めに来たんだ」

 

 おそらくは愛らしいに部類される端整な顔にあまり似合わぬ仏頂面を貼り付けて、彼女は言った。

 意味を判じかねる。頭の回転云々以前の、もっと根本的な理由によって。

 

「篠ノ之束博士。一つ、質問してもよろしいでしょうか」

「なに」

「自分と貴女は今日今宵が初対面、この認識に間違いはありませんか?」

「あー、ま、対面はしてないね。でも私は君を知っている。だから、前述した私の行動にはとある意味と意義が含まれていて今からそれを説明しようと思っていたのだけれど、君の質問事項によって話の腰を折られてまた時間が無駄になってるほらー」

「申し訳ありません。御用の向きを、どうかお聞かせ願います」

 

 床に入ったまま礼をする不躾については、前例に倣い触れずに置く。

 彼女はソファの背に座り、足をぶらつかせながら天井を見上げた。

 

「そもそも君、自分がなんで生きてるのか疑問に思わないの?」

「……」

「結論から言うと、死にかけの君、もとい実際死んでた君の体に“ソレ”を埋め込んだのは私だ」

 

 ソレ、と言いながら彼女は己を指差した。己の身体、その胸の中央を。

 無意識に、右手で胸を押さえる。それでその下に在るものを確かめられる訳でもない。

 

「“ソレ”は私が造った特別の一品。本当はいっくんの家で育ててもらおうと思って監視の目を潰したり追跡者の足を切ったりしてようやく日本まで帰って来たっていうのにあの下品なテロ女のお陰で盛大に予定が狂いに狂っていっくんピーンチ! そこへ颯爽登場天才兎束さーん! いっくんの危機を華麗に救っていっくんのハートは一網打尽でステキータバネサンダイテーなんてデュフフな展開を期待してた私の純情な感情返してよって思ったもんだよ」

「はい」

 

 スカイダイヴをしていたら着地点を誤ってマリアナ海溝に突入してしまったかのような気分だった。僅かに目眩を覚える。

 

「装着者の能力と戦闘経験によって機能を拡張する自己学習・自己成長という個性を持つものを現行ISと称すならば、“ソレ”は存在理念から違う」

 

 天井を仰ぎ、仰ぐまま上体を仰け反らせ、ぴたりと静止した。

 

「周囲の環境情報を読み解き、自己増殖を繰り返しながら最も適した変態を遂げる。それも極短期の内に。生殖という複数個体からのアップグレードを必要とせず、その子は単一で数万世代分の進化が可能だ。地球上で唯一にして初の完全な生命体、その名も――――」

 

 ソファの背から兎が跳ねる。天才の名を(ほしいまま)にする彼女は、その神の御業にも等しい究極の被造物の名を呼んだ。

 

「ワンちゃん」

「つまり、己の体内環境に適応したソレが、自己の生存の為にその環境を担う肉体の生命機能を代行している、と?」

「おうおうツッコメよー。凡人が生意気に無視とかしてんなよー。寂しいだろがよー」

 

 合点が行った。あの日あの時、左腕をもがれ心臓やその他の臓器を軒並み抉り出された己は、肉体的には死を遂げた筈だ。

 それが何の手違いが今こうして生存を許されている。左腕一本の損失程度では到底見合わぬ奇跡的生還が、眼前に佇む天才による所業となれば納得するより他にあるまい。

 

「なーに安心してんだい。まさか君、ただ自分が助かっただなんて甘いこと考えてるんじゃあないだろうね」

「それは……?」

「偉い人は言いました。タダより高いものはないと。束さんは思いました。じゃあそれタダじゃないじゃんと」

「……」

「束さんはタダで凡人(ヒト)助けなんてしないよ。っていうか、束さんにとっての“人”はね、いっくんとちーちゃんと箒ちゃんだけなんだよ。だから君は、現状、何一つ、助かってなんかいないのさ」

 

 その瞬間、彼女は初めて笑みを浮かべた。ドールのように無垢な貌に、さながら無機物のような酷薄さで美麗に嘲笑(ほほえ)む。

 

「“ワン”は環境に適応するだけじゃない。それを()()()()無限に進化する。いずれ君の身体は“ワン”にとって不要な機能(パーツ)と認識され、最後には異物として切り離されるだろう」

 

 喉を鳴らして彼女は笑った。愉しげに目を細める様はまるで少女のようだ。

 

「心肺機能と脊椎のほとんどを代替しているからね。それら全部が無くなった時、君はどうなるかな?」

 

 解り切ったことである。それをわざわざ己に確認すのは、彼女なりの優しさか、それとも。

 

「“ワン”が誕生間もないことを予測値に加えたとしても……一年ってところだね。九割九分君は、死ぬ」

「了解しました。貴重なご助言を賜り、もはや感謝の言葉もありません」

「…………」

 

 今度こそ己はベッドから降り、その場で深く腰を折った。これ以上の何をかの女性(ヒト)に行えよう。

 頭上で気配を待つ。面を上げる許しではなく、先方が会話の再開を望むかどうかを。

 

「……はあ? ねぇ、君、私の話を理解できてるのかな? まさか適当に聞き流してたんじゃないだろうね」

「謹んで傾聴させていただきました。内容に関しても、要点はおそらく理解したものかと」

「じゃあもっと、何か言うべきこととかあるでしょ………………フツウは」

 

 最後の一語を、彼女はひどい躊躇いの末口にした。まるで声に出せば口が穢れるとばかり。その一語を唾棄しているのだろう。天稟を持って生まれたが故に、相容れぬ価値観があるのかもしれない。

 己の如き凡夫が軽々に触れるべきことではない。

 そして今は、彼女に伝えることがある。

 

「感謝を」

「だから私は君を助けたわけじゃ」

「いえ、この儀において我が身の助命は関わりのないこと。ただの()()に過ぎないのです」

「?」

 

 自分でなくともよかった。事実、己が死しても目の前の女性が『それ』を為しただろう。あるいは、今この場には居られない彼の御姉君が全霊を以て『それ』を為しただろう。

 だからこれは切欠、手段の別に過ぎない。

 しかし、それでも言わずに居られようか。

 

「自分に、一夏さんをお助けする為の“機会”を貴女は与えてくださった」

「――――」

「それがどれほど、どれほどに」

 

 身命を使い潰してなお為し得なかった不甲斐無さ。無念という闇の中でただひたすら叫び続けることしかできなかった願いを彼女は叶えてくれたのだ。まるで女神の慈悲が如く。

 

「ありがとうございます。貴女に、貴女の慈悲に感謝を……!」

「……」

 

 知らず、膝を付き頭を垂れていた。心中のこの想いを体現する為に。

 暫時、室内を沈黙が支配した。窓の向こうで遠く響く虫の声。とても静かな夜だった。

 

「……つ……んない……」

「?」

 

 不意に呟きが零れた。一度では聞き取れず、問いかけの心地で彼女を見上げる。

 白くほっそりしていた彼女の面差しは、赤くぷっくりと膨れていた。頬を膨らませて、篠ノ之束が肩を震わせている。

 

「つまんない! つまんない! つまんないぃー!!」

「は……?」

「なにさなにさ! ありがとうじゃないよ! もっと言うことあるでしょ! 文句とか泣き言とか命乞いとか!! 驚けよー恐れおののけよー! 一年後死んじゃうかもしんないんだぞー!! それをナニ!? ありがとう!? いっくんを助けてありがとう!? あんたの為なんかじゃないんだから! 全部全部いっくんの為なんだから! 勘違いしないでよね!?」

「了解しました」

「そこは勘違いしなさいよー!!」

 

 地団駄を踏み、手をばたつかせ、床といわず壁といわず天井といわず走り回る。いとも容易く重力を無視しているが、彼女は篠ノ之束であるからして然したる不思議はなかった。

 

「もうっ!」

「!」

 

 突如、天井から自由落下する形で彼女が降ってくる。受け止める為に身構えようとして、今更に左腕が存在しないことに気が付いた。

 どうする。一瞬の思考停止。

 しかし、そんなものを無視して彼女は降り来たり、己の左肩に触れた。

 

「ぐ!?」

 

 その瞬間、白光が奔り、同時に激痛が肩口から走った。断続的な光と、それに呼応する痛覚への暴力。

 傷口から肉を抉り、神経を直接引き掻かれながら何かが這い出してくる。

 おそらくは時間にして五秒と経ってはいない。体感時間の相対性を身を以て思い知った。

 反射的に傷口を検めようとして、失敗する。見るべきものがそこにはなく、代わりにあったのは。

 

「……隻腕じゃ、いっくんとちーちゃんが苦労するから」

「これは、あの時の腕……」

 

 鈍い銀発色の金属繊維の集合体。鋼の左腕が生成されていた。

 

「“ワン”が君の身体情報を解析・集積して、私がそれに指向性を持たせて復元した。ま、中身は全く別物だけどね。機能とパワーは、知ってるでしょ?」

「……はっ」

 

 戦闘用に調整されたIS、それを身に纏ったプロの殺し屋を諸共に粉砕するほどの突貫力。

 間違いなく危険な力である。

 

「精々振り回されないように気を付けることだね、ウィンターソルジャー。君の親友にキャップが居るなら別だけど」

「盾ではなく剣力の才並ならぬ武人には、御一人心当たりが」

「そりゃいいね。いざとなったらスパッと斬ってもらいなよ」

 

 彼女は踵を返し、窓を開け放つ。そうして躊躇なく窓の縁に足を掛けた。

 

「……やっぱり私」

「はい」

「君のこと大ッ嫌い!!」

 

 彼女は飛んだ。

 一時、窓の下へと消えた姿が、次の瞬間夜空に舞い上がった。橙色も鮮やかに、緑の茎からアフターバーナーを轟かせる巨大な人参。兎はそれに跨って空の彼方へと姿を消した。

 

 

 

 

 

 

 

 



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6話 起床、再会の印

姉より優れた弟なぞ存在しねぇ。




 走る。アスファルトを蹴って、ガードレールを跳び越え、車道を突っ切る。トラックをすんでのところで回避、けたたましいクラクションの音が耳を素通りした。

 白い病棟の入り口が見える。

 飛び込む。

 

「あ、織斑さん。今朝ご連絡した――――」

 

 声を掛けてくる看護師の横合いをすり抜けて、廊下を疾走する。背後で何か叫んでいた気がするが気の所為だろう。

 エレベーターを待つだけの堪え性などある筈がなく、階段を二つ飛ばしで駆け上がる。

 七階のエントランスを駆け抜けてすぐ、701号室の扉を電動を無視して抉じ開けた。

 

「――――」

 

 陽光と、室内の白さが目を焼いた。白光する視界が徐々に世界を取り戻した時、最初に見付けたのは。

 見たいと強く望んだもの。揺れ動きながら、それでも願った光景。

 大きな背中が窓辺に佇んでいる。立って、歩いて、陽の光を浴びている。

 ジンが、そこにいる。

 

「ジ……」

 

 名前を呼ぼうとして、失敗する。発した声は掠れているし、途端に喉は震えてしゃくり上げ、つんと鼻の奥に痛みを感じた。

 けれど、彼は振り返った。少し伸びた髪が、男の動きに合わせて揺れる。彼は一瞬目を見開いてから、口元に微かな笑みを浮かべた。

 

「一夏さん」

 

 あぁ、ジンの声だ。

 自分を呼ぶジンの声。

 ジンがまたその声で、名前を呼んでくれた。

 

「っ!」

 

 喜びともどかしさに胸がどうにかなりそうだった。身体はとっくに我慢の限界で、頬を伝う熱を自覚しながら駆け出していた。

 飛び込んだ胸に顔を埋める。自分を包み込む彼の匂いが、余計に涙を加速させた。

 背中をそっと叩かれる。小さな子供をあやすように、全部を許してくれる父親のように。

 こんなの、耐えられる訳ないだろ。

 

「ぅ、ぁあっ、じん゛! じんん゛! う、えぁ、あぁあああっっ!」

「はい。自分はここに居ります」

「あぁぁあぁっぁあああああ……!」

 

 嗚咽のまま、男の顔を見上げる。自分の方はきっと酷い顔をしているんだろう。それでも彼の顔が見たかった。

 優しげな微笑の中に、まるで許しを請うような目。

 それはきっと、自分が泣くからだ。こんな風になってしまうくらい自分の心を掻き乱した。その事実に、どうやら彼は罪悪感を抱いている。

 どうしようもなく真面目な彼のそのどうしようもなさが――こんなに愛おしい。

 

「…………ジン」

 

 吐息のように口にすると、その熱っぽさに自分で驚く。

 目を見て、頬を見て、首筋を見て、最後に唇を見て視線は釘付けになった。

 外界の音を消し去るほど、心臓の鼓動が耳の血管を脈打たせている。ちっぽけな理性が見せ掛けの制止を訴えているがもう遅い。

 爪先に力を入れて、背伸びすれば口付け――――

 

 突然、一斉に窓が軋みを上げた。

 

「!」

「うひゃいっ!?」

 

 飛び上がる自分を抱きかかえ、ジンは一瞬で窓から距離を取った。自分を庇って立つ大きな背中、あの時と同じ。

 ――――同じ、銀発色の左腕を構えて。

 

「!? ジン、その腕……!」

「話は後ほど。ISのエネルギー反応が接近しています」

「な!?」

 

 先程まで無かった筈の腕があり、居る筈のないISが存在し、ここは病院でジンは目覚めたばかり、また自分が狙われているのか、またジンがその犠牲になるのか。

 平静には程遠い心が現状の情報量にパンクしそうだった。

 唯一の、今なお握り締めてくれる右手だけが、寄る辺。

 程なくそいつは現れた。

 黒く大きな機影が窓を覆う。

 悪魔のような翼を背負った西洋甲冑。その騎士にあるまじき意匠のISを纏っていたのは。

 

『二人とも、私だ。窓を開けてくれ。流石にぶち破るのは気が引ける』

「千冬姉!?」

 

 窓を開け放つと、彼女はISを除装しながら室内に跳び込んだ。テレビでよくIS操縦者が着ているレオタードのような姿ではなく、石灰色の軍服姿。危なげなく着地し、軍帽を取る。

 女性にしては精悍に過ぎる顔立ちが服装も相まってより一層カッコ良かった。

 ジンはその場で一礼した。この二人ならむしろ敬礼を交わした方が違和感ないかもしれない。

 

「……長らく、ご無沙汰しておりました」

「丸一年昏睡していた奴が言うセリフか、まったく……相変わらずで安心したよ。おかえり、ジン」

「は!」

 

 姉は微笑して、何故かもう一度軍帽を深く被り直した。目に浮かんだ雫を気恥ずかしそうに隠している。

 自分達姉弟(きょうだい)と、ジン。三人が、本当の意味で再会を果たした。その事実がまた鼻の奥を突く。

 和やかな空気に浸ろうとして……ふと思い留まる。

 

「いや、というかなんで千冬姉が日本にいるんだよ」

「なんだなんだ。私が見舞いに来てはいけないのか? 一人でないと何か“都合”が悪かったかな」

「ぐぬっ……や、そんなことは、ないデスよ……?」

 

 一瞬で元通りに復帰した姉に対して弟に為す術などあろうか(反語表現)。

 そして千冬姉曰くの自分の“都合”に晒されていた男は、何の気遣いかその話題をスルーしてくれた。

 

「……その軍服。ドイツの航空軍のものでは」

「いいや、意匠は似通っているが厳密には違う。ドイツで新設されたIS特殊部隊のものだ……例の一件の事後処理につまらん借りを作ってしまってな。現在私はそこで招聘教官なんぞをやらされている」

「そ、そうだよ。休暇の許可が下りないとかで、ついこの間も電話口で暴れまくってただろ」

「ああ、むしゃくしゃして副官の背骨を折りかけた」

 

 まあジンと二人して閉口したよね。

 しかしそこで、はたとジンが眼光を険しくさせた。

 

「まさか……」

「うん」

「え?」

 

 千冬姉がなんかイイ笑顔で頷く。君のような勘のいいガキが好きだよ、とでも言いたげな。

 

「ドイツから直接、ですか」

「うん、お前が目を覚ましたと連絡を受けてからすぐにな」

「諸々の手続きは」

「無論だ」

 

 その『無論だ』は、『済ませた』ではなく『無視した』に掛かっているのだろうなということは自分にもすぐに理解できた。

 

「自衛隊の防空網を突破されたのですか……」

「撒くのに随分苦労した。ははは」

「ははは、じゃねぇよ!? 何してんだよ千冬姉!?」

「そう怒るな。仕方がないだろう」

 

 両手を挙げて笑う様はまったく仕方なさそうには見えない。

 そのまま挙げた手を広げて、千冬姉はジンの首に抱き付いた。

 

「……会いたかったんだよ。言わせるな、こんなこと」

「……は」

「その腕のことは束から聞いている……後悔、してないか……?」

 

 囁くような彼女の問いに、自分の心臓が跳ねた。

 何故なら彼の腕を奪ったのは、紛れもなく――――

 

「微塵も」

 

 一言で男は問いを一蹴する。

 それが全て。

 これが、ジンだった。

 

「そうか」

 

 胸に安堵を覚えたのは、きっと自分だけではない。彼女もまた責任を背負ってくれていたのだ。

 彼と彼女の在り方に心を救われた。

 ……あ、また泣きそう。

 

「…………あむ」

「!?」

「え」

 

 目尻を押さえて感慨に耽っていたその時、千冬姉は暴挙に出た。

 突如、ジンの首筋に噛み付いたのだ。

 

「ちょっ、なにしてんの!?」

「んっ、んっ」

「無視して続けんな! ジンもなんでされるがままだよ!?」

「犬歯が……食い込んでいます。無理に引き剥がせば、肉皮を持って行かれるかと……」

「やべぇ甘噛みとか期待した俺が甘かった」

 

 右往左往する自分と微動だにできないジンを尻目に、千冬姉はなおも首筋に喰らい付いたまま離れない。唇や頬や顎がもごもごと動く。……そうか。あれは目を閉じて、歯触りと舌触りを味わっているのだ。

 唇の端から唾液と少量の赤が垂れる。と同時に彼女の喉が上下する。明らかに彼から流出したものを彼女は飲み下していた。

 それから五分も経った頃、ようやく姉は男から離れた。盛大に唾液の糸を自身の唇とジンの首筋に渡しながら。

 妖しげに光る瞳、唇を一舐めして千冬姉は熱い吐息を零した。

 ジンはどこか困ったように頭を振る。

 

「……千冬さん。これは、あまり」

「下品か? なに、ちょっとしたスキンシップだよ。付け加えるなら、“印”だ」

「ち、千冬姉!?」

「いいだろう別に。お前だってここ一年通して散々付けてきたんだろう?」

「っ!? なんっ、で」

「あれだけ強く吸い付けば()()もなろう。あぁあぁ、くっきりとまあ」

「わーわーわー!! ごめん!! ごめんなさい!! もう文句言わない!! 言わないから!!」

 

 姉には弟の全てがお見通しなのだった。

 

「くっふふ、この助平め」

「そっちこそ……!」

「……」

 

 獅子に吠え掛かるポメラニアンの心地で姉を睨み付ける。

 何かを察してか、無言を貫くジンの真面目対応がこの時ばかりは有り難かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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7話 見知らぬ転居

実際にやられたら多分ゾッとする(凡人並感)



 手洗いに据え付けられた鏡を見る。不意に思い立ち、白いハイネックシャツの首筋を捲った。

 やはり強烈なのはこの、噛み痕。

 

「……」

 

 上下の(あぎと)が楕円形に皮膚を食い破り、未だ赤々とその存在を主張している。痛みは然程のものではないが、誰がどう見たとて人間の歯型であるこれを衆目に晒すのは気が引けた。間違いなく、要らぬ勘繰りを招くだろう。

 彼女曰くのスキンシップは、別段これが初めてという訳ではない。交友を深めていく中で徐々にそうした接触を彼女が求めるようになった。

 それを拒む理由は――おそらく無数に存在する。

 織斑千冬という人物はもはや尋常一様に納まる器ではない。その大人物の素行を乱し、また悪評を広めるが如き真似が己に許される筈もなし。

 あるいは、そうした彼女が身を置く地位を一旦無視するとして、彼女を織斑千冬という一個人、一人の女性として扱うのなら、なおのこと過剰な肉体的接触は諌めるべきこと。

 ……もう一つ些事を挙げるなら、彼女の親愛を賜るほどの価値が日野仁という男には無い。

 諸々理由は繕える。しかし現実には、諌めるどころか拒絶の意志すら伝えること能わぬ。彼女自身が意図的にそれらを無視している、というのも事実ではあるが。

 彼女なりの悪戯心、悪巫山戯の一種ならば、苦笑と共に幾らでも振り回されよう。否やなど有ろう筈もない。

 だが。

 

『頼むから、お前はいなくならないでくれ……お願いだ……ジン』

 

 その執着の源泉を己は知っている。

 そして己にとって彼女は。

 どんな地位に在り、どのような力を得て、どれほどに“大人”を好演できようとも。

 彼女は今も、己にとっては一人の少女だ。寂寥に心で泣き崩れる、ただただ頑是無(がんぜな)い娘子なのだ。

 

「……恥を、知らぬ」

 

 己が思考に唾棄をくれる。

 そうしてさらにシャツの襟首を引き下げる。歯型のやや下あたりにもう一箇所、小さな痣があった。歯型に比べればいかにも細く控えめなそれが傷や湿疹の類でないことは分かる。

 いや、これもまたある意味で、外的な要因による“傷跡”と言えなくもない……のだが。

 

「………………」

 

 ただいずれの痕跡も、人目に晒してなお平気の平左を気取る自信が己には無かった。

 誰が。

 その疑問を解消することは容易い。日野仁という男を見舞ってくれる奇特な人間が、この世には片手で数え終わるほどしかいない。変態性癖を持った医師や看護師による犯行という可能性も無くは無い。もしそうであったなら、この世の奇天烈さに驚き呆れつつ携帯端末で最寄の警察署へ通報するだけで事は済むだろう。

 何故。

 これが難問であった。

 身の程を弁えぬなら、想像を巡らせることはできる。それが良解か善事かは別として。

 

「ジーン、そろそろ出よー」

「はい、只今」

 

 扉の外から声が掛かる。本日遂に退院が叶い、現在はその身支度の最中。鏡を前に唯々諾々と愚にも付かぬ考えを弄していた所為で、気付かぬ内に随分と時間が経っていたようだ。

 シャツの襟元を正し、ジャケットには袖を通さず肩から羽織る。こうすれば隻腕も多少は目立たない。

 あの腕、機械肢とでも呼ぼうか。あれは、基本的に平時には体内のコアに格納されている。先の夜に巡った邂逅、篠ノ之束博士の措置によって、任意での構築、分解が可能となった。IS技術における代表的な機能の一つ、物質の“量子化”である。

 これ一つとっても間違いなく法外無辺の能力であった。少なくとも男性種である己には一生涯、関わりのないものと決め付けていたが。

 扉を開き、外に出る。

 己の着替えや生活雑貨一式を詰めたボストンバッグを肩に担ぎ、一夏少年はソファの背に腰を預けて待っていた。

 白いゆったりとしたカットソーの上から、膝下まである薄手のコーディガンを着ている。ライトベージュの七分丈パンツにブラウンのサンダル。春らしい涼しげな装いが彼の端整な顔立ちも手伝い、まるでファッション雑誌の表紙を飾る職業(プロ)モデルのようだ。

 

「お待たせしました」

「ん、大丈夫。あ、ちょっと待った」

 

 そう言って彼はこちらに歩み寄り、肩のジャケットを掛け直してくれた。

 

「うん、これでよし」

「ありがとうございます」

 

 柔く笑み。

 セミロングの濡れ羽色の髪と相まって後姿などうっかり女性と見違える。いや、顔を見たとしても、知らぬ者が見ればその性別を言い当てるのは難しい。

 男女の別を排した意味で、彼は間違いなく美人であった。

 

「行こうっ」

「はい」

 

 連れ立って病棟の玄関口へ行く。

 すると、そこには数人の看護師方の姿があった。その内の一人、若い看護師の女性がこちらを見付けて手を振っている。

 

「日野さん、退院おめでとうございます!」

「これは、とんだ御骨折りを」

「当たり前ですよ。日野さんご自身が頑張ってやっと迎えた日ですから」

「それも何より、皆々様の御尽力賜ればこそ。長らく御世話を御掛けしました。本当に、ありがとうございます」

「っ!」

 

 下げた頭の向こうで息を呑む気配を聞く。

 見れば彼女は涙を浮かべ、それを堪えるように口元を手で覆っている。

 その彼女の先輩らしい女性が笑った。

 

「ごめんね。この子受け持った患者さんの見送り初めてでさ」

「はいっ……こんなに長いこと昏睡されてて、でもきちんと目を覚まして無事にこうして退院を迎えてくれたのが、嬉しくてっ……!」

「……勿体無きことです」

 

 己如きの為に、喜び、涙すら流してしまう彼女に、今一度頭を垂れる。

 そして右手を取られ、両の手で強く包まれた。

 

「日野さん。改めて、おめでとうございます……!」

「並ならぬ御勤めかと思います。どうか貴女も、御自愛ください」

「はい!」

「おバカ、うちらが先に言われてどうすんのさ。はははっ!」

 

 笑顔に見送られながら、我々は病院を後にした。

 

「…………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやー、ガタイもそうだけどホントに中学生かってくらいしっかりしてたねー。日野くん、将来はいい男になりそうじゃ……どうしたの?」

「――え!? いえ、その……私の気の所為だと、思うんです、けど」

「うん?」

「……最後、一瞬、織斑さんが凄い目でこっちを睨んだような気がして……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 道すがら、不意に右手を掴まれる。

 見ればどうしてか、少年は我が手を引いて、口元へ寄せている。

 

「どうかされましたか」

「ん……臭いは、付いてない……」

「は」

 

 一言呟くと、少年は右手に自身の手を重ねて強く擦り付ける。その表面に頑固な汚れがあると言わんばかりに。

 

「……昨晩入浴は済ませたのですが、どうやら洗浄が十分でなかったようです」

「――――」

「とんだ粗相を……一夏さん?」

「――――え? あ! ううん、違う違う! そんなことない!」

 

 呼び掛けに一拍の間を置いてから、慌てたように少年は首を振った。そうして己の右手を胸に寄せて抱きかかえる。

 

「ジンの匂いは大好きだし安心するしなんならずっと嗅いでたいっていうか……ち、ちがっ、それもちがくて! 何言ってんだ俺!? 嗅いでたいってなんだよ匂いフェチか!? 変態か!?」

「どうか落ち着かれませ。そして出来れば声量を抑えることをお勧めします」

「あ、うん。ごめん」

 

 平静を取り戻したらしい彼に安堵しつつ、再び道を歩く。

 右手は、握られたままであった。

 

「……あの、さ」

「はい。なんでしょうか」

「実は俺、ジンに言わなきゃいけないことがあるんだ」

 

 改まった口調から、僅かな緊張が聞き取れた。

 

「ジンってさ、一人暮らしじゃんか」

「は、そろそろ九年に……いえ、十年にもなります」

 

 六歳の頃に養護施設を離れ、それからは独り、アパート住まいを続けている。“名義および保証人”と“医師の診断書”、そしてこの外見を用いれば、そのような年齢の小僧にも部屋が借りられたことは、唯一幸いだ。

 思えば()()()()()()()、もはや独りでいる時間の方が長くなってしまった。慣れ切り、飽き切ったこと。今更気にすることでもない。

 しかしそこで唐突に思い至る。一年もの間昏睡状態にあって、家賃の支払いや管理人への連絡等一切をすっかりと忘却していた。

 

「なんたる迂闊……暫しお待ちを」

「いや、大丈夫だ」

 

 携帯端末を取り出す為に右手を繰ろうとして、未だに解放されないそれが目に入る。どころか、少年はぎゅっと手を握り直した。

 

「大丈夫、とは」

「だからさ、部屋の心配はしなくても平気だ」

「いえ、しかし、現在の状況や滞納分の賃料の支払いに関して管理の方へ連絡を取る必要が」

「無いんだ」

「は?」

 

 意を決した様子で少年は言う。

 

「家賃は千冬姉が肩代わりしてくれたし、部屋の荷物もちゃんと運び出したよ。電化製品はともかく、他の荷物全部スーツケース一つに納まったのは流石にびっくりしたけど」

「……」

 

 機微に聡い性質だなどと、酒席の冗談にも言えぬ身ではあるが、事ここに至れば彼の言わんとするところを察するのは容易だった。

 

何処(いずこ)へ、でしょうか。自分の荷物は」

 

 視線を合わせようとそちらへ向くと、彼はさっと顔を逸らしてしまった。しかし、解答はきちんと寄越される。

 答え合わせの必要も無かろうが。

 

「…………おれんち」

 

 妙に舌っ足らずな口調で彼は小さく呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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8話 刻むことでしか

 目を開け、すぐに閉じる。刃のような光が眼球を刺したのだ。

 桿体細胞への過剰な負担。朝陽に瞳孔が馴染むまで目蓋を緩く閉ざす。

 ようやく外界を認識する。カーテンの僅かな隙間から、晴天に浮かぶ太陽が顔を覗かせている。

 どうやらここは、八畳ほどのリビング。カーペットを敷いているとはいえ少しだけ背中が痛んだ。

 昨晩は、そう、己の快気祝いとして織斑御姉弟が一席を設けてくださった。己にとっては予期せぬ歓迎会でもあった訳だが。

 

「……」

 

 身動ぎしようとして、動かぬ右手に気付く。

 己の掌を頬の下に置いて、少年が同じブランケットの中ですやすやと寝息を立てていた。

 

「起きたか」

「……は」

 

 首を廻らせると、ソファに横たわる女を見付ける。ローライズのショートパンツにタンクトップ、下着すら着けていないというラフ……と呼ぶのも躊躇われる無防備な姿。

 織斑千冬。

 世間で知られ、またそこで彼女が振舞う“織斑千冬”と、家の内で、あるいは身内を前にする“織斑千冬”は違う。文明生活を送る社会人としてそれは当然の()()である。

 故にこれは、己の勝手な感想に過ぎない。何者にも臆さぬ武人であり誰もが認める麗人たる彼女と、缶ビール片手にピーナッツを投げ上げて口に放り込む彼女の、その落差に目眩と和みのようなものを覚えた。

 

「まだ三十分くらいは余裕がある。もう少し寝ておけ」

「ありがとうございます……」

 

 努めて声を潜めながら、少年が包まるブランケットの位置を……左腕を顕現させ、直す。

 

「ほう……」

「失礼。御見苦しいものを」

「ふふっ、何故だ?」

 

 彼女は下半身の発条(ばね)だけでソファを降り立った。一切の物音を立てずに。

 そのままこちらに歩み寄り、己の左隣へごろんと横になる。

 彼女の両手が機械肢に触れる。右手は肘から前腕を手首まで撫で、左手は逆に上腕から肩へと滑る。

 

「なかなかの再現度だ。以前のお前の腕によく似せている」

「自分自身、驚くほどに違和感がありません」

「あの天災(アホ)にしてはまともな善い仕事だ」

「……このような大恩に報いる術が、自分には、どうにも」

「お前が気にすることじゃない。要は、新技術の実験台だぞ?」

「しかし、命を救われ、永遠に失っていた筈の“機会”を己は得たのです」

 

 右手の親指で少年の柔らかな頬を撫でた。一度擽ったそうに身動ぎすると、少年は微笑した。微睡(まどろみ)の中で、彼はどんな夢を見ているだろうか。

 この、夢か幻のような一時を迎えられたのは、一体誰の(たすけ)によるものかを己は断じて忘れてはならない。

 

「……」

 

 少年の寝顔、そのあどけなさに笑みが零れる。

 暫時、静けさだけが室内を満たした。

 その時、ちくりと己の左頬を刺す視線に気付く。無言のまま、しかし彼女の沈黙には何らかの意思が混交していた。

 判読を試みるように彼女に視線を送ろうとして、視界が閉ざされた。

 

「!」

「動くな」

 

 己の目を塞いでいるのが彼女の掌であると気付いた頃には、馬乗りになった彼女に右腕を封殺されていた。

 この腕のパワーであれば、彼女の体重を退けるに微塵ほどの労も要さぬだろう。無論、そのような真似ができる筈もないが。

 そして織斑千冬という女性は、己の内心をよくよく理解している。

 精密動作性が未知数である左腕は動かせず、右手には寝る子。所謂一つの詰み、であった。

 

「お前は糞真面目な男だ。あんな傾奇者にすら義理を通すのか。道理を無理で塗り潰すような女に……お前らしいよ」

「あの方が世に布かんと欲する理を、自分如きが解することは困難です。あの方にとっては自分もまた、理の礎の一柱でしかないのやもしれません。しかし、だからとて、それがこの感謝を鈍らせる理由にはならないのです」

「…………そうだろうな。お前なら、そう言うよな」

 

 目隠しの向こうで彼女がどんな貌をしているのかは分からない。ただ、降り落ちてきた呟きに、それを感じ取った。織斑千冬という女性(ヒト)が抱える、今以て拭えない、その寂寥――――

 

「お前のそういうところが気に入ってるし、お前のそういうところが……私は許せない」

「それは……っ!」

 

 突如、喉笛に痛みが走る。刃が刺し、抉るような。

 近頃ひどく身に覚えがある鋭い痛み。

 

「んっ、んっふ、ちゅっ」

「ぐっ……」

 

 以前よりもより強く、より深く、彼女の()が己を貫いた。

 肉食獣がその強靭な顎で、捕えた獲物の頚椎を砕いてしまうように。

 呼吸が、気道が塞がれ、阻害されている。このままでは、文字通り息の根を止められるだろう。

 

 ――――それも、あるいは趣深いかもしれない

 

 ここには幸福が満ちている。

 少年は健やかに今を生きて、これより先の未来を歩んでくれる。

 少女は成長し、誰よりも強く、真っ直ぐに、己が道を突き進むだろう。そんな彼女が望むならば、この程度の命を惜しむ理由など……。

 その世迷言に胸中で苦笑した。あまりの愚昧さと自己陶酔に今生きていることすら恥ずかしく思う。

 

「…………んはぁっ」

「っ、かっは、はぁっはぁっ、は、はあ、はぁはぁ……!」

 

 それを感じ取ったという訳でもあるまい。またしても突如喉笛は解放され、新鮮な酸素を欲して心肺機能が躍起になって稼動する。いや、この行為自体もまた機械肢同様の“模倣”なのか。人間らしさを残してくれていることに感謝すべきだろうか。

 掌が退けられ、再び視界が回復する。そうして鼻先には彼女の顔がある。口の端を血で染め、瞳を妖しく光らせる美しい女が。

 舌舐めずりして我が身を見下ろしている。

 

「今日の分だ。これから暫らくは帰るのも難しくてな。だから、当分は消えないように刻み付けた」

「……なるほ、ど……」

「……まだ十分あるな。もう一つくらい付けておこうか?」

 

 悪戯っぽい笑みを浮かべて彼女は言った。今彼女が放つものこそが、妖艶と呼ばれる魔性であるのだと今更に理解する。

 だからこそ、己は眼前の“少女”を慈しむ。

 

「お手柔らかに」

 

 怜悧を象形したかのような(まなこ)が僅かに見開かれた。まさか、了承を告げられるなどと思いもしていなかったのだろう。

 喜びのような、涙を堪えるような、可笑しさに擽られるような、許しを請うかのような微細で多様で複雑な変化を経て、最後に彼女は寂しげに笑い。

 己に喰らい付いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なぁ、ジン」

「はい、なんでしょうか」

 

 昨晩と今朝方の分の食器を一夏少年が洗い、自分が布巾で水気を拭き取る。

 キッチンに二人並んで作業していた折。

 

「起きたときから気になってたんだけどさ」

「は」

「お前、なんでそんな首だけミイラみたいになってんだ?」

「……」

 

 返すべき言葉を見失う。言い訳か嘘か。いずれにせよ、返答の選択には慎重を要した。

 

「先に出るぞ」

「あ、いってらっしゃい千冬姉」

「……道中お気を付けて」

「ああ、いってくる」

 

 ダークスーツに身を包み、家長殿は一足早く玄関の戸口を出て行く。

 扉を閉める直前、艶やかな笑みを浮かべる唇が何かを囁いた。

 

「……それで? なんだよそれ」

「…………」

 

 せめて、少年に対する釈明の手助けをしてから御出勤願いたかった。

 彼女の囁きの意味を思い、途方に暮れる。

 

『がんばれ』

 

 それはあまりにも無情であった。

 

「なぁ聞いてんのかジン!?」

「……はい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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9話 微かな兆し

薄味回。つまりおかゆ。


 教室への道すがら多くの生徒と擦れ違った。友達同士で談笑に耽っていた彼らが、こちらの姿を捉えた途端皆一様に言葉を失う。

 無理からぬことであった。

 学生服の上着を肩掛けにしているとはいえ、その欠損は一目瞭然なのだ。あるべき場所にあるべきものがない。

 

「……」

 

 ふと、袖を引かれる。隣を歩く少年が、指先で己の袖口を掴んでいた。

 それはまた不可思議な話である。同情か憐憫、怪訝か好奇を滲ませる彼ら。声を潜めてこちら窺うその様子に心痛めたのは、己ではなく一夏少年だった。

 ああ、いつの間にか、彼はこんなにも優しく善良な若者になっていたのか。

 その事実に暖かな喜びを覚える。そして、どのような分際でそのような感慨を己は抱いているのか。弁えぬ我が身に呆れる。

 

「一夏さん。どうかご安心ください。皆さん、面を食らった心地なのでしょう。しかしそれもほんの一時のことです」

「うん…………ふふ、や、なんで俺の方が心配されてんだよ」

 

 そう言って、少年は僅かにはにかんだ。

 教室の扉は既に目の前にあった。そっと少年が進み出て引き戸を開けてくれる。小さく礼を言って、室内へと踏み入った。

 外から聞こえていた喧騒が、その瞬間に止まる。しんと静寂が朝の教室に横たわった。

 

「おはようございます」

 

 微かな逡巡の気配の後、疎らな挨拶が返ってくる。

 真っ直ぐに自分の席を目指す。続いて入室した一夏少年には、おそらくは普段通りの級友への対応に切り替わった。

 そのことに少し安堵を覚えた。

 その時、背後から急接近する存在を“感知”する。

 

「オォォッス!! てめぇらぁ!!」

「うわ!?」

「!」

 

 彼は勢い己と一夏少年の肩に腕を回す。こちらが身構えていなければ、まるきり不意打ちのラリアットであった。

 このような暴挙を働く人物の心当たりは主に二人。

 その一人が彼、五反田弾である。長髪にバンダナという学生にあるまじきファッションとその端整な顔立ちに似合わぬ粗暴な振る舞いが、良くも悪くもこの少年が持つ無二の個性だった。

 

「弾、うっぜぇから離れろ」

「んだよ一夏ちゃん。ゴキゲン斜めだな。愛しの彼氏と一緒に登校してウキウキかと思ってたのによ」

「うっっっぜぇ」

「弾さん、御無沙汰しておりました」

「仁は仁で相っ変わらずかってぇな。入院中に美人のナースさんにいろいろどこもかしこも解してもらったんだろ?」

「んなわけあるかボケ死ね」

「とても愛らしい看護師の方に、長らく良くしていただきました」

「えっ、マジで? L○NEのIDとか聞けた?」

「LI○Eではなく、連絡先を書いたメモを」

「うっそだろマジかよ仁先輩!!」

「ああ、前に俺が洗濯しちゃったやつね」

「はぁ!? うわぁぁぁありえねぇもったいねぇ……お前鬼か? 悪魔か?」

「ふんっ」

 

 彼の強引さに一夏少年は辟易と鼻を鳴らし、己はといえば懐かしさなど噛み締めている。

 変わらぬ日常が帰って来た。

 

 

 その後、授業は(つつが)無く消化されていった。腫れ物を嫌がるようだった教室内の空気感も、幾らか軟化したように思う。

 ……それというのもやはり、一際騒がしい彼の存在あってこそなのだろう。

 

 

 昼休み。中庭の常緑樹の下、円形ベンチに陣取って昼食を取る。

 

「菓子パンばっかで力出んのかよ」

「抜かりはねぇ。焼きそばパンもある」

「炭水化物の塊じゃねぇか」

「タンパク質、ビタミン、食物繊維が大幅に不足しています」

「若いからって不摂生して将来苦労すんのはお前だぞ」

「お若い身であればこそ、身体造りの為に栄養は多種多様に取り入れるべきでしょう」

「あーあーうるせぇー! くそ、暫らくは静かだったのに……姑に舅が合流しやがった」

 

 一瞬の間。きょとんと、の副詞の例として教本への申請を考慮するほど、一夏少年の顔はきょとんと呆けていた。

 

「……誰が姑だ」

「お、そのニュアンスは自分が()だという自覚があるやつだな」

「死ね」

「生きる。生きるから、その卵焼き一切れください。タンパク質摂んなきゃなんだろ?」

「誰がやるか」

「じゃあ仁のやつくれ」

「お待ちを。一夏さん、よろしいでしょうか?」

 

 一旦弾さんからの要求を保留し、一夏少年へ向き直る。

 些事といえば些事であるが、許可は取るべきことだった。なにせ、この弁当を手ずから用意してくれたのは彼なのだから。

 少年は渋い面をして唇を尖らせつつ、不承不承卵焼き譲渡の許諾を与えてくれた。

 

「どうぞ」

「サンキュ……ん、俺、卵焼きは塩辛い方が好きなんだけど」

「食っといて文句言うんじゃねぇよ」

「こえぇこえぇ。愛妻弁当旦那以外に食われて怒ってら」

「なあジン、そろそろ堪忍袋に穴空いてんだけど俺はキレていいよな?」

「やだーこわーい。仁くーん一夏ちゃんがボクをいじめるのー」

「昼食を終えてから、腹ごなしの運動になさるがよろしいかと」

「やだーこっちも意外と乗り気ー……」

 

 過ぎたるは及ばざるが如し。からかいも笑える内が華。歯止めとしては頃合であろう。

 彼らのやりとりはいつも愉快で、時折それすら忘れてしまうこともあったが。

 

「……はぁ、なんか喉渇いた」

「自分が」

「いいよ、俺が買ってくる。ジンは座ってて、よっ」

 

 腰を上げたところで制される。一夏さんはベンチに手を掛け、跳躍するかのように身体を押し出した。そのまま二メートルほど前進して着地する。

 

「俺、バナナオレな」

「へいへい。ジンは?」

「緑茶をお願いします」

「はーい。ちょっと待ってろ」

 

 小走りに駆けていく背中は、校舎の入り口を潜るとすぐに見えなくなった。

 不意に、涼風が流れる。枝葉を鳴らす。日差しもまた柔らかで、時節を思えば望外の過ごし易さであろう。

 

「甲斐甲斐しいこった。前より酷くなってねぇか、あれ」

「……はい、お見立て通りかと」

「……ま、事故って一年間眠りっぱなしじゃあしゃーねぇかもな」

「我が身の不徳の致すところ。あの方々には長らく御心労を強いてしまった」

「いや不徳て」

 

 一夏少年の助けによって、現状隻腕による生活への支障はほぼ皆無と言えた。目の前の少年の言葉を借りるなら、甲斐甲斐しい介助の賜物。感謝以外に抱くものは無い。

 ……無い、と言い切るべきこと。

 だが、手放しで結果のみに喜悦できるほど己は泰然自若を知らぬ。

 そして、彼の友人である五反田弾もまたその変化に気付いていた。

 

「今、一緒に住んでるんだったな」

「退院当日にアパートの部屋を既に引き払った事実を伝えられ、行く当てのない自分にそのまま軒をお貸しくださいました」

「いやいやいやいや! お前それマジで何の疑問も持たなかったのかよ!?」

「まさか」

「あ、あぁそっか。そりゃそうだよな」

「御姉弟水入らずの空間に自分のような異物が居座るなど、問題以外の何物でもありません」

「そこじゃねぇよ」

 

 少年が手にしたクリームパンを握り潰す。端からクリームが噴き出した。

 

「冗談です」

「お前のそれ分かり難いんだよ、前々から言ってっけど」

「申し訳ありません」

 

 半ばほどは、そういった念がないではない。

 しかし、言い知れぬ危うさを覚えているのもまた事実だった。

 

「……自分如きの為に、並ならぬ労苦を背負っておられる。そう思えてならないのです」

「そっちかよ。もっとこう、自分の都合無視されてる件については何もねぇのかよ」

「ありません」

「言い切っちゃったよ……」

 

 あの御姉弟から賜るものを、どのような行為も、いかなる感情も、己が拒む理由はない。その好悪愛憎の別に関わらず、全て、受け止めると決めた。

 

「愛が重くて逃げたい、とかそう言う話なら単純だったんだがなぁ」

「重みに耐えられぬならば、ただこの身が潰えるのみ。何も問題はありません」

「問題しかねぇよ。てかこっちもこっちで重いわ。くそ、ツッコミ役が足りねぇ。まさかあの中華娘を懐かしむ日が来るとはな」

 

 己が軽妙とは無縁の性であることは明白だった。愚直といえば聞こえも多少は良かろうが。

 弾さんの言ではないが、それこそかの少女なら快刀乱麻を断つが如く、己の愚鈍を斬って捨ててくれるのだろう。

 

「はぁ、様子見て行くしかねぇだろ。いきなり『お前の世話止めろ』なんて言って素直に聞くわけねぇし」

「……はい、まったくに」

「一番の問題が()()()()()()()()()ところなのが厄介っつうか。めんどくせぇ」

 

 彼は吐き捨てるようにそう言ってクリーム塗れの指を舐めた。

 その様に、笑みが浮かぶ。

 

「んだよ」

「いえ」

「言い切れよ。気になんだろうが」

「は、では遠慮なく。貴方は本当に機微に聡く……とても友人想いだ」

「あー今のなし。やっぱお前喋んな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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10話 源

 一月もするとクラスの空気はいつも通りになった。

 腫れ物扱いって表現がしっくりくる居心地の悪い空気。まるでジンが何か悪いことを仕出かして、皆してジンを避けてるような。

 それが無性にイライラした。

 でも当の本人はそれを仕方ないことだ、なんて言う。仕方ないことの筈がない。要は差別だ。肌に馴染まない物を他所に追いやって見て見ぬふりをする。間違ったことだ。

 そんなようなことをつらつらと言い連ねると、ジンは少しだけ驚いたような顔をして、次に小さく笑みを浮かべた。それはなんだか優しくて、嬉しそうな笑みだった。

 今度は無性に気恥ずかしくて、結局灯った怒りも燃え上がる前に消えてしまった。

 

 いつもこうだ。

 あの笑顔を見ると、尖っていた気分が丸くなる。苛立ちも怒気も失せて、それらを沸き立たせた原因のしょうも無さに改めて気付く。そして最後はどうでもよくなる。

 代わりに湧いてくる感情はいつも同じ。

 宥め賺す訳でもなく、こっちの話に静かに耳を傾けてくれる人の存在が、ひどく気になりだすのだ。自分の隣にジンがちゃんと居てくれているか。大事なことは、それ一つだけになった。

 そうして、ジンが傍に居ることを確かめて、安心する。

 

 

 

 

 

 小学時代に知り合って、“それ”は少しずつ醸成されていった。

 彼の手。同い年であることが未だに信じられない大きな手。頼もしい手。

 彼と手を繋ぐと、いつも感じた。

 彼が頭を撫でてくれると、より強く感じた。

 差し伸べられた手に縋り付くと、どうしようもなく感じずにはいられない。

 俺の欲しいもの。

 いや、正しく言うと、欲しいなんて思いもしなかったもの。

 生まれた時には既に失っていた。だから何も思わなかった。他人を羨ましいとも思わなかった。

 初めて知った。

 

『……ジンってさ――――』

 

 笑ってくれればよかったのに。馬鹿なこと言ってるって。

 怒ってくれてもよかった。同い年の“友達”が、“友達”のことをそんな風に呼ぶ訳ないんだから。

 なのに、ジンは悲しそうな目をして俺を強く強く抱き締めてくれた。

 

 どうしてそんなことをされたのか――今なら少し分かる。織斑の家の事情をジンは千冬姉から聞いていたんだろう。世間で言うフクザツなカテイジジョウってやつ。

 ジンがどういう感情でああしたかは想像するしかないけど、安易な同情や哀れみは感じなかった。なんたって気遣いの鬼みたいな奴だし。

 それでも、ああいう大胆な行動をジンに起こさせたのは、誰あろう俺自身なんだろう。

 

 何気なく、日常会話の延長みたいな風に回想しているが、実際は酷いものだった。

 あの頃は千冬姉の仕事も忙しくて、帰る時間は俺が寝た後。頑張って起きていようなんて息巻いて机に突っ伏したまま寝落ちした時はこっ酷く叱られたものだ。

 会話らしい会話が減って、顔を合わせるタイミングも合わなくなっていった。

 重い疲れを肩に載せて家を出て行く千冬姉に、我儘なんて言える訳がない。

 たった一人の家族が日を追う毎にぼろぼろになっていく。自分にできることをしようと家事の真似事も始めてみたが上手くはいかない。結果、千冬姉の仕事を余計に増やしただけなんてことも一度や二度じゃなかった。

 空回りしてた。俺だけじゃなく、千冬姉もだ。

 

 誰かを頼ればよかったのかもしれない。身近な大人や、それこそ友達を。

 簡単なことだろう。同時に、とんでもなく度胸が要る。他人に肩代わりをお願いするにはひどく重い話だ。

 結局抱えたまま、けれど日常はゆっくり止まることなく進んでいく。

 そういう変調をジンに見抜かれた。

 

『姉君もまた、貴方と過ごす時間を望んでおられます』

『……』

『貴方の将来の為に、今を犠牲として懸命に御仕事をこなされています』

『……うるさい』

『貴方の寂しさは、同時に姉君の寂しさでもあるのです』

『ぅるっさい!!』

 

 思い出すだけで顔から火が出そうになる。

 要は、俺は駄々を捏ねたんだ。仕事に忙殺される千冬姉が自分に構ってくれないことに。

 公園。

 暗く黒くなっていく茜空。

 迎えに来た家族と一緒に次々いなくなっていく同級生達。

 惨めな気分。寒々しい胸の穴。

 ベンチの隣に腰掛けて俺の不平不満を聞いたジンは、静かな口調で正論を並べていった。当たり前といえば当たり前だが、紛れもない幼児であり、おまけに頭に血が上っていた俺に対してそんな理屈が通用する訳もなく。

 馬耳東風ならばまだしも、語彙力の乏しい罵倒をジンに繰り返したような気がする。

 ジンは、時折相槌を打ちながら、じっと俺の叫びを聞いていた。

 

『なんで』

『はい』

『なんで……オレはいつもひとりなの……?』

『一人では、ありません』

『うそだもん』

『いいえ』

『うそ』

『では、証拠をお見せしましょう』

『……しょーこ?』

『はい、明日の夜に。貴方が一人ではないことを、貴方にはあんなにも素晴らしい御家族が居られることを、きっと証明してみせます』

 

 その時に、初めてジンの笑みを見た。

 鋭く強い目が細められて、目尻に皺を刻む。厳つくておっかない、そうとしか見えなかった顔があんなにも優しい形に変わることが、不思議だった。

 

『寂しいと口にすることが我儘である筈がないのです。貴方は……一夏さんは、えらい子です。今までとてもよく頑張った、えらい子です』

 

 慣れない言葉を使う彼の口振りは拙くて……でもどうしようもなく、暖かくて。

 そんな不器用な優しさが、まるで。

 

『……ジンってさ、なんか――――』

 

 ――お父さんみたいだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「一夏さん」

「っ……」

 

 その声に目を開ける。

 机に突っ伏していた身を起こして、目の前を見上げた。大きな胸板を過ぎて、ようやく顔が視界に収まる。

 厳つくておっかないジンの顔。今は微塵も思わないけど。

 

「今何時……?」

「四時五分になります。六時限目からホームルームまでよく眠っておられた」

「あちゃー」

「……御疲れの様子」

「はは、心配?」

「無論」

「そっかー……じゃあさ」

 

 椅子に腰掛けたまま、両手を伸ばす。それこそまさに、駄々を捏ねる子供のように。

 

「おぶって」

 

 口に出してから――気付く。自分はかなり寝惚けているらしかった。

 身体が硬直する。けれど体内の血液は忙しなく頭の方へ集まって、頬と耳がやたらに熱くかっかしているのが分かる。

 なにしてんだオレ。なにしてんのオレ。

 ジンは阿呆なことを言った俺に呆れて無言になって、くれる訳もなくくるりと方向転身するやこちらに背を向けて屈みこんだ。

 

「どうぞ」

「そこは拒否して!」

 

 この糞真面目男は何年経っても変わらない。

 三ヶ月眠り続けたって、変わらなかった。

 だから、きっと、これからも変わらないでいてくれる。

 

「……だいたい片手でおんぶとか無理だろ」

「一夏さんの体重程度であれば十分に可能かと」

「それはそれでなんかムカつく」

「不安がお有りならば“左腕”を使いましょう」

「いい。ジンの手がいい」

 

 右手で鞄を取り、立ち上がる。そのまま左手でジンの右手を取った。

 

「おんぶで下校なんかした日には明日から学校中で指差されて笑われるわ」

「そうでしょうか」

「あ、出たよ。そういう無神経なとこ。やっぱジンは――お父さんみたいだ」

 

 何気ない様を装っても、やっぱり口にするのは恥ずかしい。

 

「光栄です」

「ぅるっさい」

 

 それもそうか。

 お父さんみたいな人に、俺の欲しがるものなんてお見通しだよな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰にも渡さない。

 オレだけのおとうさん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




純粋なヤンデレ純愛少年かと思った? 残念! ヤンデレファザコン純愛()少年でした!


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11話 初コイ

 気付けば、日々は平穏に過ぎていった。

 織斑一夏少年誘拐未遂事件――表向きには可燃性物質を輸送中のタンクローリーと一般車両との衝突事故であるが――あれから一年半もの時間が経とうとしている。

 国際的なテロ組織の関与が疑われる案件。表沙汰になることなく事態が終息したことからも、高度に政治的な操作が施されたであろうことは言うまでもない。

 また、時期を同じくして日本代表IS操縦者たる織斑千冬がドイツへ招聘された事実。彼女が一体どのような“条件”を提示され、“何”を行ったのか。

 事の真相はかの人の胸の内。いつかそれを吐露してくれる日が来ることを願う。

 

 とはいえ、変わらぬ日常の再来に安堵していた。

 ……しかし、どうやらそれは己の希望、期待でしかない。現実には、変化は既に起こっていた。

 

「ジン? どこ行くんだよ……? 買い物? なら俺も行く……ダメ、か? あっ、えへへ。よかった」

 

 些細な違和。次の瞬間にも忘れてしまうほど、微かな。

 

「さっきリビングで電話してたろ。誰とだ? ああ、弾か…………なら、いいや」

 

 塵も積もれば、とはよくぞ言い得たもの。けれどこの場合は今少し、表現の的確性を欠く。

 

「ジン! どこ行ってたんだよ!? ずっと探してたんだぞ!? 何も言わずにいなくなるなよ!! な、え? ……職員室? 進路相談? あっ……ご、ごめん、朝言ってたよな。そっか。ごめん。ホントにごめん。怒鳴ったりして…………ごめんなさい……」

 

 謂わば雪であった。一片、二片、降り落ちたとて雪は地に染み入り跡形も残らぬ。しかし、確実に地の底へ冷えた雫は沈み、深く深く、それは最奥で“溜まり”を作る。

 

「トイレ? ……じゃあ外で待ってる」

 

「ジンの飯は俺が作るよ。だから他所で食べることなんてない。ジンはさ、俺が作ったもの以外は食べちゃダメだ。じゃないと絶対、許さない…………ふふ、冗談だよ」

 

「――委員長となに話してたんだ? いや、だって、あの娘とジン、今までそんなに絡んでなかったよな。なんで今更、今更、今更…………あぁ、腕のこと。はっ、要らない世話だよな。ジンには俺が付いてんだから……ねっ?」

 

「昔から不思議だったんだよなー。ジンってなんで女子からモテないんだろーってさ。見る目ねぇよな、あいつら。弾? あいつのは残念でもないし当然じゃね? ふふふ、でも今は……それでよかったって思う……へ、変な意味じゃないからな!?」

 

 何かが変わった。

 快活で、心優しく、驚くほどに無垢な正義感をその胸に備えた少年。その在り方に一度ならず敬意を抱いた。

 彼の成長を傍近くで見守ることが、ただただ幸福だった。

 そんな彼の純心に……何かが現れ始めた。

 

「手、放さないでくれ。お願いだから……不安なんだ。ずっと。ジンが目を覚ましてからも、今も」

 

 己の力及ぶ限り、少年の望みを叶えたいと思った。姉君と過ごす時間。そんなささやかで、大切な望みを打ち明けてくれた彼を、ほんの僅かでも幸福に()()()()()()()()()()

 それでいい。

 己が価値無き生命の使い途として、得られる結果は破格であろう。

 それで、よかったのだ。

 

「もっと強く……ううん、もっと……もっと……あはは、このまま手が潰れたらさ――ジンとお揃いだな」

 

 俺は一体何を、違えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日も沈みかけた午後六時頃。

 織斑家の庭先へ出る。五、六坪ほどの芝生敷きの小庭。人一人が身体を動かすには十分な広さだ。

 一夏少年は今台所で夕食の調理の最中。

 物思いに耽るには丁度良いだろう。

 

「……」

 

 左腕を、胸部コアに存在する内臓領域より実体化させる。鈍い銀に照り返す夕暮れの赤、その色は金属である機械肢に生々しい肉の筋繊維を連想させた。

 掌を開いては閉じ、また開く。

 小指から順に一本ずつ指を折り畳んでいき、再度親指からまた同じ動作を繰り返す。滑らかな動きだった。己の意思に沿って自在に稼動している。

 精密動作性に関しては、利き腕以上のものがこれには備わっていた。左手一本で折り紙の鶴を折れてしまう程度に。

 では、パワーはどうか。精密に身体として稼動できるならば、力の強弱もまた自在である筈。それこそが肝心肝要。握った手をうっかりと握り潰してしまったなどと、笑えない話だ。もしそうなったなら、再度この左腕の切断を考慮せねばなるまい。それこそ、いよいよ以て千冬さんに介錯をお願いする事案。

 

「……ふぅ」

 

 丹田から気息を吐き、脱力。そうして再度気息を取り入れ臍下丹田に力を宿す。

 半身立ち。左脚を前へ、右脚を後ろへ。左胸、左肩がほぼ一直線上に重なるよう左腕を立てる。拳は緩く握った。

 右足の踵をやや持ち上げる。最大の瞬発を生ずるのは最大の撓み、脱力だ。

 身体の中心に納めた力を、一気に解放する。

 右脚で地を蹴り出す。前進する身体。

 ほぼ同時に左脚で地を蹴り踏む。前進する身体の急制動、その体重移動力が慣性となって体内を駆ける。

 左脚と同期する左腕。打ち出される銀の拳。踏み込みの速度と移動力が胴から腕という連絡路を経て、今、拳へ到達した。

 

「っ!?」

 

 空気を貫く。空間を超える。

 そのあまりの手応えの強さに息を呑む。

 そして、三メートルばかり離れた位置に立つ庭木を見た。表皮が剥がれ落ちている。それは丁度、この、拳一つ分の大きさに見えた。

 

「……打撃が飛ぶなど」

 

 悪い冗談だ。

 

「遠当て、なんて言うが。まさか本当に飛ぶとはな」

「!」

 

 唐突に掛けられた声へと振り向く。

 そこにはこの家の家主が佇んでいた。織斑千冬その人が。

 

「おかえりなさい」

「ん、ただいま」

「連絡よりも随分とお早い」

「ああ、一つ早い便に飛び込めたんでな。一夏の手料理も出来立てにありつけそうだ」

 

 一月ぶりに、彼女は帰宅を果たしたことになる。

 ドイツでのIS操縦教官の任、先頃の無茶な領空侵犯の件以後、彼女は今回ようやく正式な休日を利用していると言える。

 彼女は興味深そうな目で己の奇態を見ていた。

 

「腕の操法を確かめていたのか?」

「いえ、機能云々を門外漢の自分が理解しようとするには一朝一夕では到底足りず、結局は慣れ親しんだ方法を取っております」

「なるほど。私もどちらかと言えばそっちの方が好みだ」

 

 彼女はくつくつと喉を鳴らす。一頻り笑い、そこで不意に首を傾げる。

 

「しかし、今になってどうした」

「……それは」

 

 理由は一つ。

 少年の近頃の変調。いや、あれは激化(エスカレート)と呼ぶべきなのだろう。

 不安……少年はそう言った。己の所在(ありか)を常に気に掛け、また囚われていた。

 偏に、己が不甲斐無いばかりに。

 是正せねばならない。彼、一夏少年よりも先に、己自身の脆弱さを。彼の不安を取り除くことの、それは大前提である筈だ。

 

「…………ふむ」

 

 腕を組み、顎に手を添えて彼女は一枚の絵画のような立ち姿を作る。

 思索はほんの一時で蹴りが付いた様子。彼女はスーツケースと上着をウッドデッキに置き、ワイシャツの腕を捲った。

 

「……なにをなさる御心算か、お尋ねしても?」

「いや、なに、なかなかどうして面白くてな」

「?」

 

 くすくすと、彼女は笑う。先程とは幾らか質の変わった、幼さを宿した笑み。

 

「その()()()は罪作りだ。少し一夏が可哀想だぞ」

「どういった、意味でしょう」

「ふふふ」

 

 彼女は答えをくれなかった。

 パンプスを脱ぎ捨て、裸足のまま我が眼前に立つ。

 

「少し遊ぼうか、ジン」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 織斑一夏は鈍感だ。

 それは概ね他称的である。

 特に、中学生という多感な時期にありがちな色恋、惚れた腫れたのあれこれに対して、致命的なまでに感度が低いのだ。

 友人達は呆れ、彼に想いを寄せる少女らは頭を抱えた。けれどそれすら魅力の一つだ、などと惚気を発動できる程度に、彼女らは楽観視していた。未成熟な恋愛観、子供と大人の狭間にある心。純粋無垢な想い人のココロが、いつかは自分達に気付いてくれる。きっと時間が解決してくれる筈だ、と。

 少し鈍いだけの誠実な少年。それが織斑一夏に対する大多数の評価。

 

 

 知識はあった。

 誰それが誰それを好きになった。告白して、付き合ってハッピーエンド。

 ただ、理解はできなかった。

 だから、やたらと親切にしてくれる女子の下心に気付かない。だから、妙に情熱的な文章で書かれた手紙の意味も分からない。だから、放課後に呼び出されて目の前で顔を真っ赤にしながら紡がれる少女の言葉がよく聞き取れない。

 幼馴染のつれない態度、その裏側にある(いたい)けな訴えなんて想像すらできない。

 手料理に込められた真心が耳を通って脳味噌に届く頃には無味乾燥な文言の羅列に変わる。

 

 

 織斑一夏にはソレが理解できない。

 まるで、理解する為の“機能”が失われてしまったかのように。

 他者の感情、想いを受け止める機能――俗に情緒と呼ばれるもの。

 幼い時分に育む筈だったそれが、未成熟なままに歳月を重ねてしまった。両親の不在、幼い身体に不釣合いな義心、たった一人の姉を守り助けるという自責の念。

 ゆっくりと作り上げるべきだった彼の“自分”を、彼を取り巻く環境が急かし、歪めた。

 

 

 それでも、もしかしたら、これより先の出会いの中で、将来彼と共に歩む誰かが居て、その(ひずみ)を癒してくれたかもしれない。

 別の世界。

 別の“織斑一夏”が歩んだ道。

 

 

 そうはならなかった。それだけの話。

 少年に手を差し伸べたのは、一人の孤独な男で。

 少年に初めての“情緒(ココロ)”を抱かせてしまった。

 少年に初めて“父親”を教えてしまった。

 少年が生まれて初めて、心の底から欲しいと望んだもの。

 

 

 それは謂わば、少年の初()()だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 姉としては、可愛い弟の欲しがるものは出来るだけ与えてやりたい。

 そういうものだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




サイトに繋がらなくてデータ飛んだかと思って泣き掛けた。


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12話 銀の腕の力

 中段に欺瞞した右上段蹴りを、右脚を後ろへ流しさらに上体を仰け反らせて辛くも躱す。

 しかし後退とは即ち死に体。前進移動力を失った我が身は、この瞬間のみ満足な攻撃能力を発揮し得ない。

 その隙を見逃す武人織斑千冬ではない。ぐるん、彼女の身体が体軸を中心に転回、こちらが生んだ瞬き一つ分の時を全て貪り、最大の勢力を乗せて右後ろ回し蹴りが来る。

 踵、および足刀が字面に違わぬ鋭さで空間を斬り裂いた。

 

 ――危うい

 

 膝を折り、腰を落とした姿勢で、頭上を行き過ぎた兇器と同等の蹴撃に冷や汗を流す。

 さりとて、対手の強さに震撼するばかりではあまりに不甲斐無し。何より仕合うてくれている彼女に対して礼を失するというもの。

 今こそ応えねばなるまい。

 現在の間合は初手に繰り出された中上段蹴りよりさらに接している。蹴り足の打点よりさらに深く。つまり、拳打の間合。

 下方から上げ突き、否、もはやアッパーカットの様相。加えて、後ろへ逃がした右脚を蹴り出すことで推力が、屈曲していた膝を伸張することで上昇力が生まれ、晴れて体重移動力が復活する。

 下方から上方への重力的劣位はあれどこの極近距離ならば。

 鳩尾へ右拳を。

 

「ふふっ」

「!」

 

 鳩尾目掛けて放った拳が――対手の足下に収まっている。いや、()()()()られている。

 後ろ回し蹴りをこちらが躱し、躱し様反撃に出ることを読まれていた。

 だが。

 

「ずぁっ!」

「お」

 

 委細構わぬ。

 拳を踏み付ける脚共々打ち上げた。単純にして明快の膂力によって。

 これによって体勢を崩してくれれば好機ともなろうが、それは甘やかな夢想と言うもの。

 彼女は跳ね上がる勢いに逆らわず、こちらの腕力に身を委ねた。

 つまり、宙を舞った。

 後方宙返り。身体が縦方向へきっかり一回転する。

 行き掛けの駄賃とばかり、左の足甲がこちらの顎を狙った。

 

「くっ」

 

 再度後退を余儀なくされる。そして今一度間合が離れた。

 

「よく躱す」

「貴女ほどでは」

「くふっ」

 

 にっこりと、華やぐように織斑千冬は笑った。愉しげな御様子は大変喜ばしいことではあるがしかし、その戦闘センスは相も変わらず驚異的だった。

 軽業師裸足の体捌きも無論のことながら、何よりこちらの攻めの“機”を尽く読み切るその慧眼。

 この場に審判員が立っていれば苦言を呈されたことだろう。真面目に戦え、と。

 それほどに内情は一方的。まるで鷹の遊びに付き合わされる鼠の心地だ。

 

「しかし、私の体重をよくもまあ拳一突きで押し上げるものだ。力比べではとても敵いそうにない」

「どのような剛力も対手を捉え得ぬならば無為も同じ。宝の持ち腐れでしょう」

「持ち腐れついでに聞くが、左腕は使わんのか?」

「……」

 

 顎をしゃくって千冬嬢はこちらの左半身、だらりとぶら下げた銀発色のそれを示す。

 都合、十ほどの応酬を経た。いずれの交叉も左腕は構えも取らず腰の後ろへ引き、攻防全て右腕を行使している。

 

「手数は減る。体捌きにも支障を来す。何より、折角お前と戯れ合えているのに気を遣われるのは寂しいな」

 

 彼女は肩を竦めて、溜息を一つ。

 

「考えてもみろ。その腕と生身でやり合えるのはおそらくこの地上では私くらいだぞ? ……まあ、束も加えておいてやろう。何にせよ、それの制御をものにしたいのなら対人戦闘は必須案件だと思うが、どうだ?」

「……是非もありません」

 

 殺し文句というやつだった。

 彼女の御厚意、無碍にするという選択肢は無い。

 

「恥を忍んで、胸をお借り致します」

「ああいいぞ。ちなみに私は結構大きい方だ」

「……」

「…………何かリアクションしろ。ちょっとした冗句だ。いや、その、うん、すまん……」

 

 おかしなことを口走らぬよう沈黙を選んだが、却って彼女の羞恥心を刺激してしまったらしい。

 気を取り直し、構えを変える。

 半身の前に左腕を立て、逆に右腕を腰元へ引く。単純に言って、防御能力は格段に上がる。何せ金属製の盾を構えているに等しいのだから。

 しかし、課題はそこではない。

 この左腕に秘められた攻撃力をどこまで扱い切れるのか。その一事。

 

「……」

 

 対手の構えは常に一様。

 浅い半身、左脚を前方へ、右脚を後方へ。重心は中央、つまり両脚に同程度の体重を乗せている。その状態からの前進後退は自由自在と見ていい。

 反面、先制攻撃を行うには予備動作が顕著に現れる。平等に配分していた体重を前進させる為に、身体に勢いを付けねばならない。息み、力む。筋肉が強張り、上体が僅かだが沈む。

 その機を見切ったなら、こちらにも勝算はある。

 対手がこちらに攻め入ろうとする瞬間。先の先。それを捉えたなら。

 

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……――」

 

 今。

 捉えた。

 音すら伴わぬ気息の気配。

 身体稼動における消し去り難い兆候。

 彼女の“先”を、我の“先”が制した。

 右手は、しかして拳を握らず掌を晒す。突き出されたそれは目隠しであり、視線誘導。

 本命は無論のこと左。踏み込みと同時に打ち出したそれが、対手の腹目掛けて空中を走る。

 対手の回避はもはや間に合わない。前進の為に沈ませた身体を今一度引き起こすだけの暇はない。

 銀に煌く左拳が行く。

 姿勢を低めた対手へ。

 左拳が。

 沈み行く対手の身体へ。

 拳は。

 沈む、彼女の。

 ――――彼女の笑みが、己を見上げた。

 

「!?」

 

 対手の身体が沈む。脚を投げ出し、腰から身体が落下する。

 逸早く地面に突いていた腕を軸に、腰を捻り、上体が翻る。時計回り。自然、追随して脚が円の軌道を走り、その途上にあるもの……己の脇腹に突き刺さった。

 

 ――カポエイラ

 

 いや、中国拳法にも近似した蹴り技が存在したような気もする。

 いずれにせよ、彼女はこちらの企図を読み、読んだ上で餌を用意した。そもそもからして、攻撃時の予備動作などという瞭然極まる隙をあの織斑千冬が他人に覚らせるかどうか。

 

(……疑うべきだった)

 

 今更の自嘲を抱えて片膝を付く。

 隙、というなら無上のそれを晒している。

 彼女は心優しい女性だ。故にこそ、手心と侮りの別をよく理解されている。

 来る。視界外から。

 どこから。

 もはや視線を微動させるほどの間も残されてはおらぬ。

 砂粒一つ分の時。

 ()()()()では遅い。

 

「なにっ」

「?」

 

 頭上から声が降ってくる。そこに滲む驚愕の色。

 見上げれば、そこには変わらず美しい武の麗人が在る。

 脚を高く持ち上げた姿勢で硬直した彼女が。

 脚、踵。どうやら止めの技に彼女は踵落としを選んだようだ。

 そうして、その技は達成に至らなかった。

 銀の腕が、そのしなやかな脚を掴み止めている。

 

「……今、こちらを見ずに防いだな」

 

 彼女は腕から逃れ、一歩後退する。

 

「オートガード……? それとも自律行動するのか……?」

 

 猜疑の言葉が空気に溶ける。

 それより遥かに早く、速く、彼女は踏み込んだ。神速と呼ばわるそれ。

 彼女の像が歪み、霞み、空間に残像を刻む。

 ()()()()銀の手刀を彼女の首筋に添えた。

 

「っ!?」

「…………一本、で宜しいのでしょうか」

「……ぷっ、お前が聞いてどうする」

 

 堪らず噴き出して彼女は戦闘の構えを解いた。どうやらこれにて御開きのようだ。

 そのまま千冬嬢は芝生に腰を下ろした。脚を投げ出し、両手を後ろに付いて己を見上げる。

 

「どうやったんだ?」

「いえ……一瞬、明らかに視界外の存在を知覚していました。視覚、聴覚、嗅覚、触覚……全ての感覚器が強化、というより容量を増した、とでも言いましょうか」

「知覚……? あぁ! ハイパーセンサーか」

「? それは」

「ISに標準搭載されている機能でな。装着者の知覚能力を底上げする。なるほど、それでか」

 

 納得したように頷くと、彼女は今一度くつくつと笑声を上げた。

 

「いよいよ凄まじいぞ、ジン。生身でISの能力を発揮できるなど」

「……喜び勇むには些かならず、危険な代物かと」

「そうだ。解ってるならいい」

 

 法外、の一語に尽きる。

 現代史上最強の兵器、最新鋭のテクノロジーの力が、この矮小な肉体に宿っている。使い方を誤れば災いを被るのは自己のみに終わらぬだろう。

 

「……やはり、こうなるか」

「は」

「うん、なんでもない。いや、あるにはあるが……それはまた後で話そう」

 

 隠し切れない疲れを含んだ吐息を零し、千冬嬢は空を一度見上げて瞑目する。

 ほんの数秒、沈黙し。

 

「ん」

「は?」

 

 不意に、両手を広げてこちらに向き直った。

 意味を判じかねる。己の不理解を読み取ったのだろう。千冬嬢はまたにっこりと笑んで。

 

「抱っこ」

 

 舌っ足らずな口調と意外すぎる要求。平素との落差が今こそ一入に我が身を翻弄する。

 とはいえ、逡巡らしい逡巡もなく、己は彼女を抱き上げた。

 背中に右手を回し、僅かに迷いはしたが結局膝の裏に左腕を通す。胸に引き寄せると、彼女は己の首に腕を回した。

 

「うーん、一月ぶりだな」

「御満足いただけましたか」

「そうだな……」

 

 その時、不意にガラス戸が開かれる。中から現れたのは言うまでもなくエプロン姿の一夏少年だった。

 

「ジーン、そろそろ晩飯できる……って、なにしてんの!?」

「おお、一夏。ただいま」

「あ、おかえり千冬姉……いやいやじゃなくて。え? なんでお姫様抱っこ?」

「ふふん、いいだろう」

「うん羨まし――くなんかない。別に、全然、これっぽっちも」

「そうかそうか。よし、ジン。このままダイニングまで頼む」

「了解しました」

「了解すんなし」

 

 履物を脱いで、ガラス戸を潜る。今度こそ彼女は帰宅を果たした。

 ならば、改めて言うべきだろう

 

「千冬さん、おかえりなさい」

「ただいまっ」

「むーむーむー! 千冬姉は早く降りろっての! 帰ってきたんならまず手洗え! 部屋に荷物置いて来い! あと靴は玄関!!」

「ははは、一夏は細かいなぁ。ああそうだ」

「は?」

「今日の分」

 

 もはやその後何が行われるかなど疑問の余地もない。すっかり慣れ親しんだこと。

 彼女は首筋に喰い付いた。ひどく上機嫌なまま。ともすると鼻歌でも聞こえてきそうなほど。

 

「あーもー! そういうの飯の後にしろよ! 冷めちゃうだろ! ちょ、千冬ね、おい姉貴! あの、ねぇ聞いてる!?」

「あむあむ」

「あと十五分ほど待て、とのことです」

「何語だよ今の……ジンもなんで通じてんだよ。そして地味に長いよ!!」

 

 夜は更けていった。

 

 

 

 

 

 



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13話 壊れたのは何か

作業用BGMって大事。
Lilium聞きながら書いた結果がこれだよ!


 

 

「IS学園?」

「うむ」

 

 夕食の後、一夏少年手製のドライソーセージに舌鼓を打ちつつ彼女は缶ビールを一気に呷った。

 そうしてまるきり世間話の体で、何やら重大なことを口にした気がする。

 

「日本近海に浮かぶ人工島に建造されたIS関連技能者養成施設、通称IS学園。お前には、中学卒業後そこへ進学してもらう」

「……」

「理由は、言わなくても分かるだろう?」

 

 彼女は己の左腕を流し見て、新たな缶ビールのプルタブを起こした。

 この腕、延いてはこの身を生存させているもの。篠ノ之束博士が作り出したISコアは計467基。これは謂わばその468基目に該当する。

 そして、彼女の言を信ずるならば、過去作製されたどのようなISともこれは異なる性能を有している。

 その性能こそが、自己の命を危ぶむものである、と。猶予は予測上一年。己が中学教育を卒業する頃には、残り時間はさらに短くなっている。

 知らねばならない。学ばねばならない。

 今や一身の都合で自己の生死を決めてよい分際にはないのだから。精々意地汚く往生際から逃れる術を模索する。

 

「付け加えるなら、お前の安全を保障できる唯一の場所はあそこだけだ」

「男性体でありながらISの能力を扱える……いや、肝要なのはむしろ、その能力が人為的に()()()()()という事実でしょうか」

「そうだ。女にしか扱えない欠陥兵器。しかしその力はあらゆる現行兵器を凌駕する。自然、性差による機能不全をどうにかしようと今世界中の研究者が躍起になっているだろう。そこへ来て、お前のような存在が明るみになればどうなるか……想像するだに反吐が出る」

 

 空き缶を握り潰して、彼女はその想像の中の何かへ唾棄をくれた。

 世界中に存在するどの絶滅危惧種(レッドデータアニマル)よりも、稀少性というただ一点のみ高く位置付く実験体(モルモット)としての人生が幕を開けるのだろう。快く引き受けるには無理が勝つ話だ。

 

「……」

「なにか気懸かりがあるようだな。先に決めていた進路でもあったか」

「いえ、そのようなことは」

 

 この身体でも、就労の機会は十分に得られるだろう。機械肢を完全に制御できるようになればなおのこと。

 懸念は自身ではなく、彼に対して。

 

「ふぃー、風呂上がったよー。次、ジンどうぞ」

「……は、ありがとうございます」

 

 少年がリビングの戸を開けて入ってくる。湯上りで血色の増した頬と、そして濡れ髪の水気をタオルで拭う。

 彼を見た瞬間に己の揺らぎを自覚する。それを千冬嬢は目聡く察したらしい。

 

「ふむ、なるほど」

「? なにが?」

「いやなに。一夏。このサラミ前に作ったものより味が深くなったな。塩味はすっと消えるが、香ばしさはずっと鼻に残る」

「えへへ、そっかそっか。下拵えをちょっと工夫したんだよ」

「お陰でビールが止まらん。どうしてくれる」

「ん? あ゛あ゛!? 一箱全部飲んだのかよ!?」

「また一ケース買い置きしておいてくれ。金は私の財布から出すから」

「そういうことじゃねぇ……ペース配分を考えろって話だよ。仕事でストレス溜まるのはわかるけど、酒の量でそれを誤魔化すなんて身体に悪いだろ? 千冬姉はまだ若いけどそういう不摂生は将来本当に響いてくるんだからな。いっくら度数低いからってそんだけカパカパ空けたらビールでも関係ないし、ってかお腹出ても知らねぇから」

「あー、いや、うん、わかった。わかったから。折角の休暇に説教は勘弁してくれ……」

 

 滔々と流れ出てくる少年の諫言に、とうとう千冬嬢が音を上げた。ホールドアップが如何にも様になっている。

 姉弟らしい忌憚のない応酬。その暖かみに頬が緩んだ。

 

「ジン、微笑ましげな顔してるけどお前も千冬姉のストッパー役なんだからな? ちゃんと見張っててくれよ」

「申し訳ありません。あまりにも見事な呑みっぷりでしたので」

「ジンも飲めぇい。ほれほれ」

「一風呂いただきましたら、是非」

「おいこら未成年」

 

 そこからも延々と続く少年の説教を背にして、脱衣所へ向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 入浴を済ませてリビングへ戻ってくると、ダイニングテーブルで千冬嬢が突っ伏していた。

 少年がその傍らで、ほんの数十分の間に数を増していた空き缶を片付けている。

 

「おかえり」

「は、もうお休みですか」

「うん。結局置いてた洋酒のボトルまで空けちゃったし……」

 

 なるほど、少年の言う通り、シンクには水洗いされた濃茶色の瓶が二本置かれている。

 ウイスキーにラムとは。

 

「大層召された様子」

「チェイサー挟めって言ってんのに全然聞かねぇんだもん。ばか姉」

 

 そう言って、彼女の額を小突く。千冬嬢はむずがるだけで起きる気配はなかった。典型的な泥酔であった。

 

「ジン、悪いけど部屋まで」

「了解しました」

 

 左腕を実体化し、椅子から彼女を抱き上げる。夕方の二の舞であるが、意識が無い分バランスを取るのが難しい。

 それを少年が横から介助する。

 

「ありがとうございます」

「それはこの酔っ払いが言わなきゃいけないやつだな」

「ふ、まったくに」

「あははは」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 再びリビングに戻り、使い終わった食器を洗いダイニングテーブルも拭き上げる。

 少年は電気ケトルを片手に振り返った。

 

「ジンはコーヒーいる? それともココア?」

「では、コーヒーをお願いします」

「りょーかい。テレビでも見ながら待ってて」

 

 言われた通りキッチンから離れ、ソファに腰を落ち着ける。

 現在時刻は午後九時過ぎ。週末のこの時間帯はやはり地上波で映画が放送されている。

 

「あ、その映画前も見た。全力で政府から追われるって怖ぇ」

「孤立無援の状態から諜報能力に秀でた味方を得て逆転の一手を打つ。なかなかに痛快です」

「ポテチの空き袋が物凄い便利アイテムに見えたなぁ。っと、はい」

「ありがとうございます。いただきます」

 

 カップを受け取り、一口付ける。深く、良い香りが鼻を抜けていった。

 少年はソファの下、カーペットに腰を下ろして体育座りする。彼自身もコーヒーを口にすると、暫時画面内の出来事に見入っていた。

 テレビから流れる音声だけが室内に響く。

 

「……」

「……」

 

 沈黙は不快感から遠く、心は平静の中にあった。

 しかし、時折ふと何かを感じる。それはどうやら視線であった。

 テレビから目を切り、少年を見る。すると、こちらを流し見る瞳と我が眼がぶつかった。

 僅かに動揺の色を見せた少年は、それでも視線をこちらに向けたまま静止している。

 無言の中に存在する意思。

 

「ジン、ここ」

「は」

「ここに胡坐かいて」

 

 彼は自身の隣の床、カーペットをぺしぺしと叩いて言った。

 断る理由など勿論なく、言われた通りにソファから降りる。その際、コーヒーカップはテーブルに置いた。

 己がその場で胡坐を掻くと、少年はその場を立ち上がり。

 

「っと」

 

 そのまま、己の脚の間に腰を落ち着けた。

 ふわりとコンディショナーの甘い匂いが香る。まだ僅かに濡れた髪が顎の下にあり、同時に彼自身の匂いもまた鼻は嗅ぎ取った。

 少し高めの体温がじわりと身体の前面を行き渡る。

 

「ふふ、ジンの身体、ぽかぽかしてるな」

「同じ事を思っておりました」

「んー、そっかな? 俺体温低めなんだけど……ちょっと恥ずいからかも」

 

 彼の羞恥はすぐに表れる。耳や首筋が、ほんのりと薄紅の色を発していた。

 ゆったりとしたサイズのシャツであるからか、鎖骨はおろか肩の付け根までやや覗いている。いずれもやはり、血色は良くなっていた。

 誤魔化しに少年がコーヒーを啜る。

 

「昔はよくこうしてくれたよな」

「一夏さんはまだ小学四年生でした」

「いやジンもだろ」

「そうでしたね」

 

 肉体の年齢と生きた歳月に対する実感は、おそらく永遠に一致することはない。

 ()()世に生を受けたその瞬間に、“俺”は完成していたのだから。

 

「はぁ……んん、やっぱり落ち着く」

「なによりのことです」

「これでも最近は我慢してたんだぞ? もう俺も中三だしさ」

「まだ、中学三年生です。遠慮など無用に。己の脚など何時なりとお使いください」

「…………なんだよぉ。そんなこと言うなよぉもぅ……ホントに我慢できないじゃんか……」

 

 抗議するように、彼は今一度深く己に体重を預けてきた。

 不意に、少年が己の右腕を取る。そのままマフラーでも巻き付けるように腕に自身を包ませる。

 己もまた緩く少年を抱き寄せた。

 少年の体温がまた一段上がったような気がする。彼の背中越しに鼓動を感じ、腕に熱を持った吐息が触れる。

 

「……やっぱり、おかしいかな」

「?」

「こんな風にさ。友達に……ぉ、男同士なのに、抱き締めてもらうの、って……」

 

 彼の声に滲んだ感情を読み誤ることはなかった――怯え。

 その事実を口にすることがまるで凄まじい禁忌であるかのように。

 細い肩が、流線を描くしなやかな背中が、寒さを訴える様に似て小刻みに震えている。

 脂肪の薄い身体にも筋は張り、華奢な肩幅や括れた腰付きにも確かに男性的骨格が窺える。身長160センチと男性としては小柄であっても、その面差しが如何に性別を超えて美しい(カタチ)をしていようとも、少年は少年。男性である。

 そしてそれは己も同じ。外見的特徴は雲泥の差異があり、美醜の上等下等に至っては比べるのも烏滸がましい。だが、同性だ。

 彼と己は生物学的に同じ性カテゴリの中にいる。

 

「ジンは俺がこういうことしてくるの、今まで嫌だって思ったこと、ないか……?」

「ありません」

 

 不快感など抱いたことは一度としてなかった。

 ただ、彼の求めている“もの”を想像し、その想像が確かだとして、己が彼に“それ”を与えられるのか。そうした憂いばかりが募った。

 その憂慮が今こそは現実のものになった。少年は不安を拭うこと叶わず、怯えに身を竦ませている。

 

「貴方の不安を取り除くことができるなら、自分に否やなどありません。その一助となれるなら、どのようなことも厭わぬ所存」

「……」

 

 我ながら心からの真意を言葉にできたように思う。

 しかし、腕の中の少年の怯えは一向に消える気配がない。

 

「違うんだ」

「は……」

「違うんだよ。俺、オレが、聞きたいのは……い、言って欲しいのは……」

 

 彼の指が己の腕を掴む。彼の声が吐息と共に消え入る。

 とうとう、少年は言葉を失くしてしまった。

 待つべきだろうか。それとも、何かを彼に。愚にも付かぬ逡巡、思考で渦を描く。答えなど出る筈もなかった。

 そうして手を(こまね)いていたが為に。

 

「……さっき」

「はい、なんでしょうか」

「さっき、千冬姉と何の話、してたんだ」

 

 思いもせぬ問いが投げ掛けられた。

 

「……千冬さんが、なにか仰いましたか?」

「ううん。何も……でもなんとなく、ジンが何かを隠してるって……今ので確信できた」

 

 己は無上の阿呆であった。あのような言い様、隠し事がありますと白状するも同じだ。

 観念、という言葉がこれほど合致する心境もそうありはすまい。

 

「隠し立てするつもりは毛頭ありませんでした。ただ、時期を見ていずれは、と」

「……」

 

 言い訳がましい釈明の言葉に価値は無い。

 少年の無言はその先を促していた。

 

「自分は、IS学園に行きます」

「っ……!」

 

 声は無く、しかして反応は劇的だった。少年の身体が腕の中で一際強く震える。

 

「……………………そっか」

 

 長い沈黙の後、消え入るような声で彼はそれだけ口にした。

 

「……そう、だよな」

 

 乾いた声音で彼は呟く。

 

「ジンの腕、ISだもんな。そりゃあそっか。逆にそこ以外どこに行くんだって話、だよな……は、ははっ」

「……同じ高校へ進学することはできません。しかし、会うことはいつでも――――」

「ふふ、できないよ」

 

 己の言を遮って少年は笑った。まるで見当違いなことを言う自分をからかうように。

 

「ISだぜ? 今、世界中の人も国も夢中になって欲しがってるやつだ。それも男のジンが持ってて使ってる。流石に俺でもそれがどれくらいやばいことなのかは解るよ」

「……」

「入学したら何回かな。一年に一回? それとも卒業してから? 自由に帰れるのか? 千冬姉みたいに、月一回帰れたり帰れなかったり。それとも……もう二度と、会えないのかな」

「そのようなことは……」

 

 無い、などと言い切る保証がどこにある。

 彼の指摘は何一つ間違っていない。おそらくは今後、日野仁という人間の個人としての自由は制限されて行くのみ。篠ノ之束が次なるパラダイムシフトでも起こさぬ限りは、一生涯。

 腕に、零れ落ちるものを感じた。

 

「嫌だよ、オレ」

 

 それは次々に滴り、腕を濡らす。

 少年の目からそれは溢れ、流れ続けた。

 

「嫌だ。イヤだ。イヤだっ。いやだ! いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ……!」

 

 繰り返される苦悶。呪詛のように打たれ続ける拒絶。

 カップが投げ出され、黒い液体がカーペットを汚す。少年がこちらに振り返った。

 少年の瞳が己を見上げる。

 黒曜石のように澄み切っていたそれは、今や暗く澱み光を失っていた。そこに映している筈の己自身さえ見失うほどに。

 彼が今見ているもの。それは――絶望だった。

 

「っっ!!」

「ぐっ!?」

 

 口腔を晒したかと思えば、少年は己の左肩口に喰らい付いていた。ぞぶり、彼の()がシャツの繊維を貫いて皮膚を破る。肉を抉る。

 少年はそのまま、シャツ諸共肩の肉を齧り取った。

 血が宙を迸る。口の周りをべったりと紅で染めた少年は、口内のそれを咀嚼もせず飲み下す。

 再び、彼の(あぎと)が襲い来る。耳の下、頚動脈の走る(ライン)。そこへ寸分違わず。

 歯が皮膚を破り、あともう一噛み、顎に力を加えれば()()()だろう。

 その半歩手前で、彼は動きを止めた。

 

「っ、っ! ヴッ! ぐぅ! ぅ! んっ!」

 

 己を喰らいながら、それでもなお少年は苦悶の声を漏らした。

 耐え難い何かが胸の内で暴れ狂っている。心臓を抉られるような痛みに、苦しみ喘いでいる。

 それが哀れでならなかった。

 

「一夏さん……」

 

 右手を少年の頭に添えた。腕全体で彼のその小さな身体を抱き寄せる。

 喰らい付いた歯がより一層肉に押し入る。

 だが、それで構わない。

 彼がそれを望むなら、それでいい。それで、いい。

 

「っ!?」

「貴方になら……本望だ」

「っ……! ぅ、ぁ……じ、ん……」

 

 肉と皮膚から歯が引き抜かれ、ぎちりと音を立てた。

 血と唾液に塗れた声で名を呼ばれる。右腕にまた力を込めた。

 

「……いっしょに、いてよ。そばにいてよ。どこにもいかないで……ずっと、ずっといっしょじゃなきゃいやだ……いやだよぉ……じんっ!」

「はい、ここに居ります。貴方の傍に、ずっと」

「じんっ、じん……ジン!!」

 

 いつまでも、いつまでも少年は己の名を呼び続けた。遂にはその意識が失われるまで。

 彼の心のキズを想う。

 己の愚劣に憎悪する。

 そうか。このキズを、膿み育てたのは。

 誰でもない。彼自身ですらない。

 俺だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 扉の向こうで気配は沈静していく。

 壁を背にしながら女は歓喜に打ち震えた。

 薄暗がりの中で、躍り上がる心を必死に抑え込む。

 

「一夏……ジン……お前たちは、なんて――――」

 

 弟の無垢ないじらしさが、男の無償の献身が、愛おしくて愛おしくて堪らない。

 ようやくここまで育ってくれた。弟の心は頚木を壊し、遂に自分と同じになった。

 男の真心は変わらない。自分と少年へ同等のそれを捧げてくれる。

 

「一緒だよ……私達は、ずぅっと一緒だ……ふふっ、ふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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14話 IS起動実験

 

 

 

 

 ――どこへもいかないで

 

 どうすれば傍に居てくれるだろう。

 

 ――いっしょじゃなきゃいやだ

 

 離れるなんて考えられない。

 

 ――ずっとずっと

 

 これから先も、未来も、永遠に。

 その方法を探そうと思う。

 彼が、自分と姉の元にいてくれるには。

 

「脚、切ればいいのかな」

 

 思い出すのは幸福だった日々。病室のベッドで安らかに眠る彼の世話を焼く事は、一抹の寂しさはあっても無上の喜びだった。

 自分の所為で彼が失ってしまった左腕を思うと、全身の皮膚を掻き毟るような罪悪感が襲う。けれど――けれど同時に、自分の為に彼がその代償を許容したのだと思うと、胸を焼くような多幸感に目眩がする。

 あの頃に戻れるなら。

 腕の中に彼を閉じ込めておけるなら。

 看護に必要な薬品・器具・機材等の用意、医療的知識と技術の習得。一月もあればそれらを準備することは十分可能だ。

 

「ダメ、だよな」

 

 ジンが辛い思いをするなら意味はない。自分の欲深さは分かってる。

 オレが欲しいのは彼自身と、彼の声と、彼の笑顔と――彼の心だから。

 

「他の誰もいない場所」

 

 同じように、然るべき場所に然るべき道具で閉じ込めるのもダメだ。ジンの意志を封じ込めたその段階で、オレの欲しいそれはもう手に入らないということ。

 ひどく閉じた場所が欲しかった。けれどそれらを実現するのは難しいらしい。現代社会では特に。

 発想を変えよう。

 ジンを一つの場所に留めて置けないのなら、オレがジンの傍を離れないようにする。ジンの向かう場所、ジンが住まう場所、全部に。

 無理だ。

 

「ISがある」

 

 IS。それが最大のファクター。オレとジンを別つ理由。共に居させないもの。今の社会構造の中心に間違いなく据えられているテクノロジー。

 そうしてこの思考の迷路はいつも一つの終着点に至る。

 ISの使えない自分は、ジンと一緒になれない。

 ISが使えない自分から、ジンは離れていってしまう。

 ISさえ無ければ……自分にISさえ使えれば。

 ISさえ。

 ISさえ。

 

「……」

 

 端末を手に取る。リダイヤルでコールしたのは唯一の肉親。

 気の進まないことをしようとしている。けれど、もう自分の心持ちの好悪などどうでもいいことだ。

 

「……もしもし。ごめん、仕事中に……うん……あの、さ……頼みたいことが、あるんだ」

 

 模索し得るあらゆる手段の内の、これもその一つ。

 

「ISの適性検査を受けさせて欲しい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 仮設試験場として用意されたのは海に面した野球場だった。

 測定機器か記録機材なのだろう。雑多に持ち込まれたそれらから無数のコードが河川のように四方八方へ伸びている。

 日も落ちて久しいとあって照明塔が点灯している。中でもスタジアムの中心に据えられたソレは、一際強くスポットを当てられていた。

 ISである。

 その姿を端的に表現するなら、兜を持たぬ武者鎧といったところ。装着者のいない現在それは待機状態にあるが、肩部から上腕を護る装甲兼スラスターである大袖と腰部に回す草摺を畳まれ、両腕部・脚部装甲もまたきちんと揃えられ、それはいよいよ甲冑の展示物である。

 実物を見るのはこれが初めてとなる。自己の体内に植えられたものを別とするなら、だが。

 

「日野仁くん、ですね?」

「は」

 

 名を呼ばれ、そちらへ振り返る。

 想定よりも低い位置にその女性の頭部はあった。深緑のショートヘア、赤いフレームの眼鏡が目を引き、その奥にある面差しの身形に合わぬ幼さに驚く。(さなが)らタイトスカートタイプのスーツを着込む少女である。奇妙なギャップだった。

 己の不遜に過ぎる内心を知る由もなく、対する女性は愛くるしい柔和な笑顔を見せる。

 

「はじめまして、IS学園で教員を務めています。山田真耶です」

「これは御丁寧に。改めまして日野仁と申します」

「その、今日は私、監修というか現場サポートで試験に参加するので、えっと……な、何か分からないことがあったらなんでも聞いてくださいね!」

「御配慮痛み入ります。本日はどうぞ、よろしくお願い致します」

「あっ、いえいえこちらこそ! ……ぅ、う~ん、なんだかどっちが年上だか分からなくなっちゃいます……」

 

 全くである。

 外見的な意味合いはもとより、内実に至っては彼女の感想は正鵠を深々と射貫いている。

 

「うぅ、私ホントに昔からこんなので……学校の生徒達にも年下扱いされちゃうし……」

「それは、また」

 

 一人どんよりと気落ちする少女、もとい山田女史。存外に根深い思い悩みであるようだ。

 

「生徒の方々からの信頼と親愛、その証ではないでしょうか」

「は、はい。勿論それは解っているんです。とても嬉しく思うんですけど、やっぱり、一人の大人としてきちんと生徒を指導できているか不安があって……」

 

 はにかみ、そして気負いの綯い交ぜになった表情を浮かべ、彼女は僅かに目を伏せる。

 思いの外に率直な悩みの吐露だった。世間話からの盛大な転がりっぷりに驚く。そしてそれに対して面を食らうのは些かならず無礼千万というもの。

 次は慎重に口内で言葉を選んだ。

 

「……己の浅薄な見立てでも、貴女は立派に勤めを果たされているように思えます。今もこのように、被験者のメンタルケアを自然に行おうとしている」

「メ、メンタルケアだなんてそんな! ただ、私が同じ立場だったら、きっと一人で不安だろうなって」

「なるほど。ならば一層、貴女は教職者として素晴らしい素質をお持ちだ」

「そう、でしょうか……えへへ、ありがとうございます」

 

 途端、恥ずかしげに顔を朱に染める。彼女が生徒から親しみ愛される理由がよく分かる。

 

「容姿は持って生まれるもの。(よそお)うも努力次第といはいえ、分相応を知ってこそでありましょう」

「あはは、私もよく子供が背伸びしてるみたいって言われます」

「外見の印象と身形との落差は往々にして付き纏うものかと。しかしそういったものを含めて見ても、貴女はとても魅力的な女性です」

「ふぇ?」

 

 ぽかんとこちらを見上げて山田女史が停止する。数秒待ってみても再稼動する気配はない。

 不用意なことを口にした。なるほど、女性の容姿云々への言及は間違いなくセクシャルハラスメントに抵触する案件であろう。

 

「失礼。御気分を害されたのなら謝罪致します。どうか今の発言はお忘れいただければ幸いです」

「――――へ? い、いえ、そんな、そんなことないですよっ。ただ、おと、いえ突然でびっくりしちゃって! あははははは」

 

 手をぶんぶんと振って彼女はぎこちなく笑った。しかしそうしている内に、首筋から顔まで全面が綺麗に赤く染まっていく。

 快不快の別はさて置くとして、要らぬ動揺を彼女に与えてしまった。

 

「…………えへへっ」

 

 

 

 

 ふと、球場の入り口に目を向ける。慌しく出入りするスタッフを尻目に、千冬嬢は携帯端末で通話の最中にあった。

 注視を意識した為か、意図せずハイパーセンサーによる視覚強化が施された。彼女の姿形、微細な表情の変化、果ては瞳孔の散大・縮小すら見て取れる。

 悪趣味な。

 視線を逸らせ、瞑目する。しかし、その直前に垣間見たものをどうしてか己の脳は反芻した。

 

「?」

 

 彼女の微笑、相も変わらぬ美しいその笑みの中に――何かを感じた。

 

「えと、その、ひ、日野くん……?」

「は」

「……あ、織斑せんぱ……じゃないや、織斑先生はまだお電話中ですね」

「そのようで」

「ふふ、やっぱり親しい人が近くに居る方が緊張しませんよね」

「恥ずかしながら、そういった嫌いを否めません。何分にもこのような機会に廻り合うのは初めてのことで」

「ホントにそうですよ。私も初めてです。男の人のIS起動実験なんて」

 

 千冬嬢からIS学園進学の報を受けてより早半月後の今日、己は学園主導のIS起動実験に参加している。

 いや、ある意味において、これは紛れもなく己の入学試験と言えよう。この実験でISを起動できなければ、学園側は日野仁という人間を取り込む意義を半ば失う。

 自己の在るかも疑わしい価値など想像を廻らせるだけ惨めだが、体内を席巻しているモノによって間違いなく付加価値は生まれた。それを活かすも殺すもまた、己次第。

 

「すまない。待たせた」

「いえ」

 

 電話を終えて千冬嬢が戻る。

 そうして己と山田女史を見比べ、小さく笑む。

 

「早速若い燕を捕まえたか。山田君もなかなか手が早い」

「ななななな、なにを仰ってるんでしゅか!?」

「冗談だ。ジン、この娘はこの通りのおぼこだ。口説くならお手柔らかにな。なに、私は一夏よりその辺り寛容なつもりだ」

「御戯れを」

「くどっ、かれてなんていませんよ!?」

「……おい、言いよどんだぞ。これも冗談のつもりだったんだが、どういうことだ? えぇ?」

 

 寛容という彼女の言も、どうやら冗句の一つであったらしい。千冬嬢は片目を見開き下方からこちらを睨め上げてくる。眼光の鋭さは折り紙付き、これだけで彼女は小動物程度なら威殺せる。

 

「あーあー! そ、それにしても! 男性のIS操縦者候補が織斑先生のお知り合いだなんて、すごい偶然ですよね~!」

「……ふん、確かにそうだな。とんだ()()もあったものだ。なぁ? ジン」

「は」

 

 彼女と知己であったが故に、篠ノ之束博士との、ある種のコネクションを築くことが出来た。そのような見方も可能ではある。

 偶然にせよ必然にせよ、命を拾い今この場に立っているのなら、己は己に与えられた奇跡と奇貨の責めを取るべきだろう。

 

 

 ――――少年の涙を、この身に受けながら。

 それでも。

 

 

「……」

「弟さんの同級生なんですよね、日野くん。お二人が知り合ったのもやっぱりそのご縁で?」

「いや、こいつとはもっと旧い。それこそ私が小娘だった頃からの……それはもう深い仲だ」

「へ?」

 

 山田女史の無邪気な問いに、千冬嬢は意味ありげな笑みで以て応えた。

 苦言を呈すべきか迷い、迷う内にその暇を失う。

 定刻だった。

 

「さあ、配置に付け。出番だぞ、ジン」

 

 

 

 

 

 

 

 





仕事忙しすぎてゲロ吐きそう。でもボーナスは美味しいです。


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15話 貴方と歩きたい路

ぼちぼち更新再開させていただきます。
亀更新本当に申し訳ありません。





 

 

 

 織斑家のリビングにて、己は一人呆然と佇んでいる。

 それは何も、寝惚けや気の迷いが突然にこの身を襲ったからという訳ではない。

 意識はしかと覚醒状態にある。そもそも現在時刻は六時前。微睡を気取るには非常識な時間であろう。

 では遂に脳に異常を来したが為の奇行か、と問われればそれについても否やを返そう。無論のこと自分自身の正気の証明など誰にも出来はしないのだが。

 滔々と垂れ流される諸々の思考に意味はない。動揺が無意味な言語となって脳内で踊っているに過ぎない。

 帰りが遅くなるとの少年からの連絡を受けてより、平素に代わって夕食の準備に取り掛かっていた折のことだった。

 エプロンの紐の結び目を背に回したまま、己の目はただ一点、リビング端に据えられたテレビ画面に釘付けとなっていた。

 

『では改めて、世界初の男性IS操縦者になるということで、今のお気持ちを聞かせてください』

『こんなに大事になるなんて、ちょっと思ってなかったです。すごく珍しいことだっていうのは理解できるんですけど』

 

 記者からの質問に、卓上のマイクから少年は返答する。

 戸惑いを孕んで彼が口を開けば、カメラのフラッシュが怒涛となって彼を襲った。それでも一夏少年は怯まず、毅然とカメラを見詰めていた。

 端整な面差しは、小さなディスプレイの中にあってもその美しさを損ねることはない。

 何故。

 困惑に明後日の方向へ飛ぶ思考は結局その一語に集約される。

 不意に、ポケットの中で携帯端末が震えた。取り出し、着信を検める。

 

“織斑千冬”

 

 今、最も話を聞かねばならない二人の内の一人。示し合わせたかのようなタイミングだ。

 

「……もしもし」

『テレビは見たか?』

「ええ今まさに。しかし、これは……」

『ふふふ、戸惑うのも無理はないが、予想できたことの筈だ』

 

 動揺を隠せもせぬ男を彼女は優しく笑った。

 幾度目か、画面上に映された見出しを読み返す。“世界初! 男性IS操縦者現る”。

 つまりは彼、かの少年、織斑一夏が。

 

『先日急に進路を変えると言い出してな。まあ、未だに各国は男性の適性者を血眼で探している。試験の手続き自体は実にスムーズだった。そしてきちんと正規の手順を踏んだ一夏が表向きは“一人目”ということになる』

「彼がISを動かせると、確信がお有りだったのですか?」

『可能性はある。その程度には思っていた。何せ私の弟だ』

「……」

 

 インタビューは続く。

 ISに触れた切欠、将来の展望、現代社会の情勢・風潮について、質問は多岐に亘る。そして当然彼の出自、織斑の名にも話題は向けられた。

 

『お姉様の織斑千冬さんはIS操縦の第一人者でいらっしゃいますが、やはりISに興味を持たれたのもお姉様の影響で?』

『姉が具体的にどういった仕事をしているのかは、守秘義務があるとかでよくは知らないんです。だから、この道を選んだのは俺、あぁいや僕自身の意志です』

『男性では今のところたった一人だけ、という状況ですが不安などはないですか?』

『無い、と言うと嘘になります。けど……大す……な……大事な人が、一緒にいてくれますから』

 

 そう口にした一瞬、やはり少年はカメラを真っ直ぐに見据えて、微笑んだ。しかし、彼の瞳、黒曜の両目はカメラのレンズではなくその向こう側を。画面の先に立つ者――己を捉えていたような気がした。

 耳に当てた端末からくつくつと笑声が響く。

 

『いじらしいじゃないか。なぁ、ジン』

「……」

 

 千冬嬢の言葉に己は応える舌を失う。

 そうして画面内では、見目麗しい少年より期せずして返された色恋の気配に、記者達のどよめきと好奇が湧く。なるほど話題性という意味で、これほど上質なものもあるまい。

 はにかむ少年の姿を、己はただ定まらぬ心情を抱えて見詰める外なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 腰を落とし、やや半身に立つ。

 右腕を腰に引き付け、体重は右脚に集中させる。

 標的は真正面、打撃点を示した赤地の白い円を見据える。

 カウントが開始された。3、2、1――――

 右脚を打ち出し、左脚で床を踏み付ける。シューズの靴底、強化ゴムがリノリウムと擦れ合い甲高く鳴き声を上げる。

 全体重の移動力が、射出した右腕を伝導し拳の先へ。

 右拳がサンドバックを打つ。

 

 バスン

 

 中身の乏しい布袋らしい音を立てて、赤いサンドバックは筐体に勢い倒れ込む。衝撃緩衝用のスプリングが軋んだ。

 

 バツン

 

 同時に、ディスプレイに表示されていた映像がそのような音と共に消失、暗転する。

 パンチングマシーンは完全に沈黙した。

 

「うっそ」

「あぁーあ」

「ふむ」

「壊れた……」

「…………」

 

 四者四様の声を背中に聞きながら、眼前の筐体同様に沈黙する。ただ口内で、やってしまった、と声もなく呻く。

 

「うわぁ、どうすんだよこれ」

「と、とりあえず私店員さん呼んでくる」

「お願いします」

 

 小走りで店内を行った少女、五反田蘭さんを一礼で見送り、そうして今一度静謐した筐体へ向き直る。無駄な足掻きに百円玉を投入しても吐き出されるばかり。電源は繋がったままであるのだから、いよいよこれは専門業者の仕事になろう。

 

「補償について話し合う必要がありますので、皆さんは先にお帰りを」

「いやいやいやジンの所為じゃないって! あれだろ、結構古いやつだし、もともと故障寸前だったとか……たぶん」

「別に妙な遊び方してた訳じゃねぇだろ」

「監視カメラもある。事情を説明すれば済む話だ」

 

 汗々とフォローをくれる一夏少年には申し訳も立たぬ。対して、泰然自若とした五反田弾さん、冷静に天井から吊り下がったカメラを指差す御手洗数馬さんらには頭が下がる。

 蘭さんによって連れて来られた店員に謝罪と説明をし、最終的には当ゲームセンターの店長に釈明と陳謝をすることでどうにか事無きを得た。事情を聞いて一笑の下に許しを下さった店長殿のあの豪胆さには、感謝以外にない。

 

 改めて言うまでもないことであるが、本日我々は中心街にある大型ゲームセンターへ足を運んでいる。ビル一棟、一階から四階まで多種多様なアーケード筐体、プライズ系統の遊具を備えており、平日休日の別を問わず多くの客足で賑わう場所だ。

 今日この集いの発起人は、やはりというべきかムードメーカーたる弾少年であった。一夏さん、弾さん、数馬さん、そして己を含めた四人は卒業も間近に迫っている。一夏さんと己の特殊な状況を除いたとて、各々が別の進路を行く。顔を合わせる機会すら得難いものになるだろう。

 であればこその集い。弾さんの嫌う言い回しを用いるならば“思い出作り”といったところ。

 

「……弾さんの御心遣いに泥を塗るが如きこと、誠申し訳もございません」

「いやめちゃくちゃ面白かったから別にいいわ。どんな馬鹿力してんだよお前」

「ホントホント、一瞬何が起こったか分かんなかったもん。さっすがジン兄」

「一応動画は撮ったが、ようつべにでも上げるか」

「やめろ馬鹿。確実に職員室連行パターンだ」

 

 そうした笑声と軽口でこの件は片が付いた。彼らの軽やかさに救われる。同時に、己の粗忽さには嫌気が差す。

 その時、少女が両の手を打った。空気の切り替え、そのような意図を察する。

 

「はい! 私レースゲーやりたい。てかやる。行きましょ一夏さん!」

「え、あ、おお?」

 

 一夏少年の腕をぐいと抱き寄せ、蘭さんはずんずんと歩を進めていった。

 

「おーいそっちのはガチのレーシングだからアイテムボックスは出ねぇぞー」

「え!? うそぉアイテム無いの!? 甲羅も? バナナくらいはあるでしょ? てかさ、ならどうやって戦うの? 体当たりだけ?」

「お前言っとくけど、あれカーレースでも特殊なタイプだからな」

「キッズコーナーに筐体があった筈です」

「ジン兄ぐっじょぶ。さあ続け野郎共!」

「「「「ウイィッス!」」」」

 

 カーレースを皮切りに、シューティング、格闘、スポーツ、クレーンと様々なゲームを遊び尽くし、蘭さんが最後の仕上げとして選んだものは、若い女性の間で現在もなお愛用され続けている写真撮影と各種画像加工機能を内蔵したあの大型筐体であった。

 大型、とはいえ五人も入れば流石に窮屈だが、若者らは慣れた様子で思い思いにポーズを取り、撮影を終える。

 しかし、筐体から這い出すや、蘭さんは間髪入れず一夏少年を再び捕獲した。

 

「次、二人でお願いします!」

「うん? え? ちょっ、えぇ、ジ――」

 

 助けを求めるように伸ばされた手を、微笑ましい心持ちで見送る。少年と少女は暗幕を潜っていった。

 いかにも興味薄げに弾さんは零す。

 

「あんだけ露骨でもあの野郎は気付かねぇんだろうな」

「残念ながら」

「主人公乙。あの調子でフッた、もといフッた自覚皆無の女子が両手で数え切れないほどいることに戦慄と怒りを覚える」

「モテ野郎殺すべし」

「どうか、御寛恕を賜れれば幸い……」

 

 今に始まったことではない。とはいえ、一夏少年の色恋に対する感度の鈍さはこの校区において伝説級と評しても過言ではない。

 最も肝を潰したのは小学校時代、担任の若い女性教諭が彼に入れ揚げた挙句暴行寸前まで事が及び掛けたことだろうか。

 いやあるいは、執拗に篠ノ之の妹御を追い回していたと思われた男性記者の目的がその実一夏少年であり、後に大量の画像データが男のPCから押収された事件であろうか。

 いやいやそれとも、一夏少年を巡って我が校と他校の女子生徒による抗争紛いの諍いが度々巻き起こる珍事についてかもしれない。

 いずれも少年の与り知らぬ所で内々に処理された事案。己とても一度ならず解決の為実動し、事の隠蔽には千冬嬢の伝手……かの大天災の力をお借りしたとか。

 

「さっさと彼女なりなんなり作りゃあ、周囲はかなり平和になるってのに」

「少なくとも女子達の紛争は一旦停戦を迎えるだろう。水面下で陰湿な工作は続くだろうが」

「……」

 

 引く手は数多、それこそ無数に存在する。だがしかしそれら尽くが少年の眼には映らない。

 彼の目を覆うもの、あるいは彼の手足を束縛する枷。

 それは、おそらく。

 

「えへへ、ありがとうございました!」

「や、俺はいいけどさ。俺との写真なんて撮ってもつまんなくないか?」

「つまります! 私が欲しかったからいいんです!」

「うぅん……?」

 

 そうこうする間に二人は撮影機から出てくる。

 首を傾げる少年を見て、胸の内から湧くのは呆れではなく。どころか、慈しみすら覚える。

 それでは駄目なのだと理解しながら。

 不意に、一夏少年がこちらを見上げる。ほんの数秒、少年は何か考えを巡らせていたかと思えば、意を決したように己の右手を取った。

 

「なら、俺らもやろっ」

「は」

 

 そのまま手を引かれ、己は再び、彼は三度、筐体へと身体を滑り込ませた。

 

 

 

 

「んあー!! またジン兄に持ってかれたー!!」

「あぁいちいち怒んなよ。いつものことだろうが」

「大本命が他の誰でもなくあいつだというんだから……近隣の女子達は本気で憐れだ」

 

 

 

 

 操作パネルに指を這わせながら、少年は口を開いた。

 

「怒ってる?」

「どのような事柄に対して、でしょうか」

「ISのこと」

 

 ほんの一言。それだけで彼の言わんとするところは理解できる。

 先日、多くのメディアを騒がせた極大ニュース。延いては、彼が選択した進路について。

 結局話し合う機会を得られず、あれから二日ほども経っていた。

 

「自分は、貴方の進路に口を挟める分際にありません」

「……そういう他人みたいな言い方、好きじゃない」

「……失言でした。ただ、そう……進路を定め、その為に必要な行動を起こされた。それを怒る理由など何一つありはしません」

「じゃあ、ジンはどう思う。俺がISに関わること」

 

 パネルを操作していた手が止まる。

 少年が欲する答えが、果たして己の内にあるだろうか。

 

「現世情を思えば、ISの適性を持った一夏さんの存在は何れ見付け出されたことでしょう。今回のように一夏さん自らが検査を受けずとも、国家が国民に適性検査を義務付けないとは限らないのですから」

「……」

「そして、ISは兵器利用を免れない。競技用パワードスーツ……いや、宇宙開発用マルチフォームスーツという開発者の真なる意図とは裏腹に、その強大な能力は最も安易な利用法、闘争へと活用される」

 

 無数の思惑が絡み合い連鎖する国家の政情など、己如きが把握することなどできまいが。ISの兵器利用。それは安易であり容易な、自国の優位を勝ち取る為に最も有効な手段であることは議論の余地もない。核に代わる抑止力としての武力。

 そんなものに。

 

「それは確実に一夏さんの平穏を危ぶむでしょう。そんなものに、本当は貴方を関わらせたくはなかった」

「…………」

 

 それこそあの時、この身命一つでは護り切れなかった。腕一本と内臓の幾らかを代償にしてもなお、それでもこの少年の安全を確保することは到底叶わなかった。

 己の不甲斐無さに歯噛みする。

 

「……自儘な、無責任なことを言いました。御寛恕を」

「ううん」

 

 右手を強く握られる。今までずっと、繋がれたままであったことに今更気が付いた。

 強く、強く握り合わされ、そのまま少年はこちらの肩口に額を押し当てる。

 

「ふふふ、ジンらしいや。俺の心配ばっかりしてる……」

「は」

「いつもそうだった。昔からそうだった。ジンは俺のことずっと、ずっとずっとずっとずっとずっとずっと見てくれてた。だからこれからもずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずぅぅっとそう、見ててくれる。そうだよね。そうなんだよね」

 

 少年の指、爪が己の手の甲に突き刺さる。皮膚を破ることさえ構わず、彼は手を握り締め、締め続ける。

 小さなその手を握り返して、己は彼に微かな笑みを送った。

 

「はい、貴方が望む限り」

「はっ……! あはっ、やった。はは、くふふふ、ふふふふふ、嬉しいな嬉しい。ずっと前から嬉しい。嬉しさを思い出したんだ。あの日ジンを食べてから。俺こんなに嬉しかったんだ。ジンに会えたあの日から。ふふ、くふふふふ、嬉しいよぉジン、ジン」

「…………」

「ジン、ジィン、ふふ、ジンジン、ジンん、んふふふ、ジーンー、ジン……」

 

 彼は己の名を呼んだ。繰り返し繰り返し、噛み含めるように。

 口にするだけ、少年は喜悦した。蕩けるような笑顔で己の名を呼んだ。

 夢見るような瞳に己だけを映して己の名を呼んだ。名を呼び続けた。

 

 ――――フラッシュが焚かれる。

 

 夢と幻を彷徨っていた少年の瞳を現実の光が照らし、あたかもその曇りすら拭ったのか。

 

「あ! 忘れてた~! もう一回撮り直し……っと。ほら、ジン画面画面!」

「……はい、見ています」

「もぉ、俺じゃなくて前だってば! あはは」

 

 何事もなかったかのように、彼は笑う。とても晴れやかに。

 少なくとも少年にとっては何事も起きてなどいないのだ。

 

「えへへ、いい記念になったねっ」

 

 そう言って、彼は現像された写真を大切に仕舞った。

 そこには、少年の曇りない笑顔があった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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16話 IS学園入学初日


一回は
叩かれてみたい
出席簿



 針の筵、我々は今その中心にいる。

 我々の一挙手一投足が、視神経より放たれる不可視の光線によって刺突され貫かれ、正常な動作すら阻害している。

 晴天の本日、清潔な白い廊下を燦々と照らす陽の光。白光に彩られた視界の端々で、屯しこちらを注視する女子生徒女子生徒女子生徒。

 

「あ、あれ」

「そうそう。例の男子入学生」

「あのニュース本当だったんだ」

「二人いるね」

「うわぁテレビで見るより可愛い!」

「もう一人のでっかい人誰?」

 

 本人達に自覚はないのだろう。聞こえよがしとも取れる声量で、口々に飛ぶ感想、下馬評。

 それらに一々頓着するだけの余裕など、我々には無いのだが。

 

「うぅ……ジン~、こえぇよぉ……擦れ違う奴皆こっち見てくるよぉ……!」

「一夏さん、もう一息の辛抱です。教室が見えてきました」

「教室着いたからってこの状況何も変わらないだろ……」

「……」

「そんな『諦めが肝心です』みたいな目しないでくれよぉ!!」

 

 残念ながら、それ以外に術はないのだった。

 こちらの左袖口を強く握り締める様は、親に縋る子供同然で、口の端に零れる笑みを自覚する。

 現在己と少年は、IS学園指定の白い学生服に身を包んでいる。そうして己がジャケットの左袖にはしっかりと左腕を通してあった。

 それも銀発色の金属のそれではなく、あたかも人間の肌のような色と質感を備えた左腕を。

 一夏少年はじっとこちらの左手を見る。

 

「……見た目は普通の手にしか見えないな」

「表面に偽装ホログラムを走らせています。触れられぬ限り、気付かれることはないでしょう」

 

 隻腕はやはりどうしようとも目立つ。身体を欠損した場合に装着する義肢は、身体機能の補助だけでなく、形態的違和の回復もまたその用途の一つである。

 何れの意味合いにおいても、この腕は優秀と言える。

 本来なら退院後、学校復帰と共に活用すればよかったものを。こうした機能の存在を己に教授して下さったのはやはりというか、かの篠ノ之束博士であった。

 突如届いたメールに『ワンちゃん秘密機能大全ver7.77』と銘打たれたPDAファイルが添付されており、本文には一言『アナクロ人間(あっかんべーと思しき絵文字)』と書かれていた。

 (つくづく)、彼女の配慮には頭が下がる。

 

 

 

 

 

 

 無事教室へ辿り着いても状況に然程の変化は無い。サファリパークの遊覧客から檻の中のパンダへと転身はしたかもしれない。

 幸いにして、己と一夏さんの席は横並び。最前列の中央、教卓の直前というなかなかの配置ではある。

 一夏少年はともかく、己のような図体が最前列に陣取るような真似は後列の生徒に多大な迷惑を及ぼすように思われるが。宛がわれたデスクの卓面はディスプレイを内蔵しており、正面の黒板……液晶ディスプレイの内容をそのまま表示できるようだ。

 

「あぁもう、早く授業始まってくれ……」

「まったくに」

 

 そうなれば少なくとも教室の外に大挙しているギャラリーは立ち去ってくれるだろう。

 まるでその願いが通じたかのように予鈴が鳴った。

 教室の其処彼処に寄り集まっていた女生徒達も、めいめいに自身に宛がわれた席へ着く。全員の着席が完了したものの、しかして室内は未だ異様な静けさに満ちていた。

 その時、教室前方の自動ドアがスライドして開かれた。

 

「うぇ!? な、なんですかこの静けさ!?」

 

 この場を支配する重苦しい空気に入室者の女性はたじろいだ。

 深緑の髪。少女のように小柄な体躯。先日知り合う機会を得たばかりの、それは山田真耶女史であった。

 恐々と扉を潜った彼女と目が合う。目礼すると、山田女史は安堵するように笑いこちらへ手を振った。

 

「日野くん! お久しぶりです。元気でしたか?」

「その節は。この通り、丈夫なばかりが取り柄ですので」

「ふふ、それが一番ですよ。あー、よかった。日野くんの顔を見たらなんだが安心しちゃいました」

「こちらこそ」

「……」

 

 彼女は教卓に筆記具や資料を置き、黒板型ディスプレイへ文字を、自身の名前を打ち込んだ。

 

「えぇと、こほんっ……皆さん、ご入学おめでとうございます! 私はこの一年一組で副担任を務めることになります、山田真耶です! どうぞよろしく……お願い…………ますぅ……」

 

 溌剌と始まったかに思えた彼女の自己紹介が、ほんの三文ほども数えぬ内に尻すぼみ、語尾は消え入った。

 それも無理からぬこと。室内に充満した異様なる緊迫感によって山田女史は完全に威圧され、ただでさえ小柄な身体が更に縮んでいく。

 彼女は堪らずといった体で教卓に伏せるや、顔をこちらに近付ける。

 

(どど、どうしましょう……なんだか喋れば喋るほど息苦しくなってきますよぉ……! 皆さんなんでこんな殺気立ってるんですかぁ……!)

(はい、自分達も大変難儀しております)

(いや先生が参ってどうするんすか)

(だって皆さん目が恐いんですよぉ! 猛禽っていうか猛獣っていうか……日野くぅん、助けてくださいぃ……!)

 

 少女、のような女性が必死な涙目を浮かべ潜めた涙声を上げる。どんなに庇護欲をそそられようとも、現状助けてもらいたいのは切実にこちら側の筈であるが。

 

(やはりセオリーとして、次は生徒それぞれの自己紹介を行うのが無難ではないかと)

「あ! そうですね。では出席番号順で――――い、いえいえいえいえ、そうですよね! まずは男子お二人から自己紹介してもらいましょうね! 皆さん気になりますからね! はい本当にごめんなさいぃ!」

 

 何やら今の一瞬で、高度に脅迫的な措置が山田女史に為されたような気がしないでもない。気にはなろうとも、好奇心のまま背後へ振り返るような真似は出来なかった。すべきでもないだろう。

 

「じゃ、じゃあ最初は『お』の織斑くんからどうぞ!」

「うえぇ俺ぇ!?」

 

 流れを思えば己に白羽の矢が立つかと身構えたのだが、運悪く流れ矢を受けたのは一夏少年であった。

 反射的に、少年は勢い良く席を立ち上がる。自然、それは教室中の視線が一点、彼の細い背中へと収束することになる。

 今、彼の双肩が背負うプレッシャーは並大抵のものではないだろう。一筋、汗が少年の頬を伝い落ちていく。うるうるとした瞳で助けを求められるが、この場においては己とても為す術はなかった。

 

「お」

『お?』

「織斑、一夏、です」

 

 ようやく自身の名前を搾り出したものの、未だ室内には沈黙が横たわっている。それが続きを、さらなる情報を欲するが故のものであるのは明白。

 

「じ」

『じ?』

「じ――――ジン次どうぞ」

 

 緊張感の極点で空気が緩和、いや弛緩した。前のめりに転倒するかのような錯覚に陥る。

 多少居心地の改善された室内の雰囲気に息を吐いた、その時。

 再び、教室の扉が開かれた。

 

「馬鹿者、名前だけ吐いて放り投げる奴があるか」

 

 黒いスーツに身を包み、怜悧な笑みを刻む美しい女。

 織斑千冬がそこに立っていた。

 その瞬間の、教室内のリアクションは劇的の一語に尽きる。黄色の歓声が空気を震撼させた。鼓膜に相応の負荷を覚える。

 しかして千冬嬢はその大音響波の矢面に立ってなお寸毫ほどの揺らぎもなし。冷徹に室内を見据え、ともすると睨め据えるかのような鋭さで一望を終えるや。

 

「静粛しろ!!」

 

 胆力を固めて放つが如し。一喝にてこの場の乱痴気を封殺した。

 

「……私がこの学級の担任、織斑千冬だ。これより三年で貴様らの石塊(いしくれ)にも劣る性根を鋼鉄に叩き直してやる。学びたい者は奮闘しろ。その気概さえあるなら、そのたかだか三年という時間が確実に貴様らの糧となるだろう。だがもしそれが無いのなら、覚悟しろ。慈悲も容赦もない只管(ひたすら)の地獄が貴様らを待っていると知れ。以上だ」

 

 彼女の声はよく通り、急流の澄んだ水を思い起こさせる。そこに生来の覇気も合わされば、ほんの僅かな反駁の意思すら粉砕される。

 特殊部隊での軍事教官、なるほどこれほど板に付いた務めもあるまい。

 しかし、ここIS学園は(名目上)あくまで未成年者の為の教育機関。果たして今の彼女の訓示はそうした学園の運営方針、また生徒達の了解する学園生活なるものに()()()のだろうか。

 

「きゃぁああああ!! カッコイイー!!」

「やっぱりステキです!! 千冬様ぁー!!」

「IS学園頑張って受験してよかったー!!」

 

 全く以て問題は無いようだ。

 

「はぁ……自己紹介を続けろ。次は日野、だったな」

「はっ」

 

 処置なし、といった風情の溜息。彼女の気苦労を思い内心で苦笑する。

 さても自己紹介。自分にユーモアのセンスなどというものが標準搭載されておらぬことは、生まれて数年ばかりで嫌というほど思い知った。

 席を立つ。

 

「■■市立■■中学校卒、日野仁と申します。ご覧の通り、こちらに居られる織斑一夏さん共々男性の身で当学園へ入学するという奇貨に見舞われました。戸惑う方も居られるかと存じます。しかし現状は経験、知識、何れも未熟の二字。これから皆さんと轡を並べて切磋琢磨し学び、また同じく御指導、御鞭撻の程を賜れれば幸いです。どうぞ、よろしくお願い致します」

 

 そう締め括り、教室後方へ向き直ってから腰を折った。

 暫時頭上で沈黙が流れ、次第に疎らな拍手が鳴った。

 傍らでもう一度、溜息の気配を聴く。

 

「お前はお前で硬すぎる。冗句の一つも言ったらどうだ」

「……貴女が自分に死ねと仰るならば、了解しました。ではここで小噺を一節」

「すまん。ごめん。私が悪かった。入学早々教室を事故現場にはしたくない」

 

 賢明な彼女の言葉に、己は少しだけ肩を落として席に着いた。

 

「ちぇー、ジンには甘いよなぁ千冬姉は――い゛ったぁあ!?」

「織斑先生と呼べ。それと文句を垂れるなら満足な自己紹介が出来てからにしろ」

 

 風が一陣走ったかと思えば、右隣の少年の頭頂部に黒い出席簿が振り落とされている。音、角度、諸々を考慮してもなかなかの痛打であった。

 

「いたいよぉ……ジ~ン~撫でてぇ」

「はい」

「……甘いのはどっちだまったく」

「あははは……あの、えっと、じゃあ出席番号一番の相川さんからどうぞ」

 

 進行役に山田女史が復帰する。促された少女が席を立つのを見ながら、しかし右手は少年の頭に持っていかれた。

 柔らかな髪を擦ると、少年は猫のように喉を鳴らす。

 何故かその瞬間、生唾を飲み込むかのような音が其処彼処から鳴り響いたが。一体何事であろうか。

 ともかく、このまま気を散らすのは自己紹介を続ける少女に対してあまりに失礼だろう。そう思い、右手はそのままに姿勢を正すと――不意に、“気”が頬を刺した。

 

「?」

 

 それは、先程まで少年と共に浴びていた視線の雨霰と似ていながら、しかしどこか非なる感触を己に齎した。

 気配を辿れば、源はすぐに見付かる。最前列、窓際の席に座る一人の少女。

 豊かな黒髪を後頭に結い上げ、背筋に鉄の芯を埋めたかのように美しい姿勢で、少女はじっとこちらを見ている。

 己と、一際強く一夏少年の方を。

 こちらの視線に気が付くと、少女は慌てて目を伏せ正面に向き直ってしまった。

 その姿が、記憶野の一部を強く刺激した。

 

「一夏さん」

「ん~? どうしたん」

「あれは――――」

 

 手でその少女を指し示そうとした刹那、頭上から打ち下ろされる黒い影を知覚する。到達までの一刹那、この一撃でどうか先程思い出した記憶がどこかへ飛び散らぬよう己は願った。

 小気味良い音と反比例する重みで脳天に打撃が落ちる。出席簿そのものの重み硬さは問題ではない。瞬発と速度と入射角、それらが達人の技量によって最大級の痛みを創り出しているのだ。と愚昧なことを考えた。

 

「人の自己紹介を無視して雑談か? お前らしくないな、日野」

「申し開きもありません。相川清香さん、どうか御寛恕を」

「え? あ、おーやった? 名前覚えてもらえた、のかな?」

 

 

 

 

 

 

 



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17話 再会/対面/再解


セシリアって可愛くね?(ノンケ並感)




 

 

 気が付くといつも一緒だった。

 それはひどく当たり前のことで、これから先もきっと変わらないと信じた。信じられた。

 少年との思い出。彼の笑顔。一夏の声。いつだって私の名前を呼んでくれた。

 小さな手の温もり。私を色とりどりの世界へ連れていってくれる。

 きっと変わらないと思っていた。変わらないものなどないけど。

 それでもきっとそれは素敵な変化に違いないと夢見た。

 夢は、夢でしかなかった。

 私と一夏だけの世界、ずっと続く筈だった幸福――――そんなものありはしない。なかった。それを思い知った。

 

 あの男が、私にそれを教えた。

 あの男が私の、私の――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「箒!」

「っ!?」

 

 少年の呼び掛けに、少女はひどく驚いた様子だった。席に座って何やら考えに耽っていたらしい。

 少女、篠ノ之箒は自身を見下ろす少年の存在を認め、半瞬ばかり言葉を失い……そして笑った。

 

「ひ、久しぶりだな、一夏……それに、仁」

「久しぶり! 何年ぶりだっけ?」

「もう五年にもなります」

 

 箒さんが転校されたのは小学四年時の冬頃。その“転校措置”が只ならぬ理由から為されたことを己は聞き及んでいた。家庭の事情と片付けるにはあまりに強硬な問題であり、それを仕方のないことだと受け入れるには少年も少女も幼過ぎた。

 今生の別れにも等しい。泣きじゃくる彼女を、嗚咽を堪えて慰める彼、二人の姿はひどく痛ましかった。

 そんな子供らが再会を果たした。それを見られただけで、この学園を訪れた価値はあったと言えよう。

 一人、筋の合わぬ喜びなど噛み締めている。

 

「御健勝の御様子、本当に何よりです。すっかり立派になられた」

「あはは、仁は相変わらずだな……私だってもう十五なんだぞ? 子供扱いはよしてくれ」

「失礼を。どうにも、お二人の頑是無(がんぜな)かった頃が懐かしく。とてもお綺麗になりましたね、箒さん」

 

 幼かった少女が、より一層凛然と美しい成長を遂げていた。彼女は着飾ることも、まして化粧気すら帯びていないが、女性的なたおやかさと清らかな華が目の前の齢若い娘からありありと見て取れる。

 

「うんうん。こう、ぴんと背筋が伸びてて綺麗だよなー、箒の姿勢って」

「お前はお前で相変わらず過ぎるなぁ!」

 

 だというのに、少年の目にはどうやら別の何かが見えているようだ。

 今更驚くに値しない。少年のこの、芸術的な回答は。

 怒りと悲しみを混交した少女の叫びに、一夏少年は小首を傾げた。

 

「な、なんだよ。俺なんか変なこと言ったか……?」

「いいえ、頓珍漢なことを言いました」

「ふんっ、まったくだ!」

 

 頬こそ膨らませていないが、そっぽを向いて怒る様はあの頃の少女と何一つ変わらぬ。そう、この少年と少女はよくこのようなやりとりをしていたものだ。それがひどく微笑ましかった。今もまた。

 

「飲物を買ってきます。何かご希望はありますか」

「え、今から? じゃあ俺も……」

「いえ、どうぞこのまま二人でお待ちを。すぐに戻ります」

「……」

 

 迷いなく付いて来ようとする少年にやや強引に言い置いて、その場を離れる。

 

 

 

「……要らぬ世話だったろうか」

 

 教室を出てから思い出したことであるが、今はまだ一時限目を終えて最初の小休憩。時間にしてほんの十五分ほどしかない。わざわざ下手な言い訳を繕って席を外したところで、満足に話をするだけの暇もなかろう。

 勇み足を踏んだ。望外の再会に、柄にもなく舞い上がっていたらしい。この重く陰鬱な男が。

 踵を返す。昼休み、また改めて時間を作ろう。

 そのように一人思索して。

 

「ちょっと、よろしくて」

 

 ふと教室への道すがら、廊下の前方に立つ人物がそのように声を掛けてきた。

 その容姿を認め、僅かに驚く。それも正極的な意味合いにおいて。

 美醜の観点で言えば間違いなく稀有な美貌であった。丸く、大きな目がこちらを見ている。切れ長な箒さんのものとは対照的な、やや垂れた目尻に長い睫がひどく艶然として見えた。

 豊かな金糸の髪が、流麗な曲線を描いて腰元まで落ちている。蒼地にフリルをあしらったカチューシャが印象的な……というより、それは今日この頃見る機会を得たばかり。具体的には凡そ一時間前、同級生達の自己紹介の際見知っていた。

 

「……セシリア・オルコットさん、でしたか」

「わたくし以外に“オルコット”を名乗る者がおりまして?」

「いえ、我がクラスにおいては貴女お一人かと」

「この学園で唯一ですわ。当然でしょう」

 

 当然のことであるらしい。

 

「まったく……どうやら知識が無いというのは謙遜でもなんでもないようですわね。このわたくしの名を耳にして、何の反応もできないだなんて」

「は、浅学まこと恥ずかしく思います」

 

 無知そのものを罪とする法はない。学ばず、識り得ようとせぬこと、無知に胡坐を掻き開き直るが如き真似こそ恥ずべき蒙昧だろう。

 しかし、人物に対する情報となるとまた話が変わってくる。彼女がある分野、この場合は間違いなくISに関連する領域において一廉の人物であるのなら、同領域にこれから携わろうとする己がその名声を知らぬと(のたま)うのは不勉強の烙印を押されたとて反駁の余地も無い。

 謝罪と、反省の意識で己は頭を下げた。

 

「……別に謝罪など求めておりませんわ。世界でたった二人のIS適性を持った男がどれほどのものかと声を掛けたまでのこと。ふっ、けれど、期待外れも甚だしいですわね」

「面目次第もありません」

「ここはサーカスの見世物小屋ではありません。将来、世界の第一線で活躍するエリートを選りすぐる為の場所です。そしてわたくしはイギリスの代表候補生。国の威信を背負って立つわたくしとただ数が少ないという理由だけでここに居るアナタが轡を並べるだなんて、身の程知らずとは思いませんの?」

「分際を弁えぬ発言でした。お詫び致します」

 

 代表候補生という単語には覚えがあった。字義の通り、最高のIS技術・能力を有する国家代表、その候補者として選出された若きエリート。

 当然、その選定は厳正厳格を極める。少女の言葉の端々に滲む自負心は、数々の試練を潜り抜けてきたという事実に立脚するものなのだろう。

 故にこそ、性別という特異性を取り沙汰され(それのみが理由でないにせよ)学園への入学が叶った己の有様に警めを与えんとする彼女の意向は(けだ)し理解できる。

 顔を上げて、今一度少女と正対した。

 少女は――その柳眉を歪めてこちらを睨み付けていた。

 

「っ! それが、経緯はどうあれ選ばれた人間の態度ですの!?」

「は……自分は特段、捜査され選ばれた人間ではありませんが」

 

 選んだ、とすればそれは他ならぬ篠ノ之束博士の意向。しかし、あの日あの時は状況がそのように転んでしまったとしか言いようがない。

 

「為るべくして為った。それだけです……いや、仮に()()為らずとも、それはそれで問題はないか」

 

 織斑一夏、かの少年が生きて。織斑千冬、姉君と幸福であってくれるなら。己が学園(ここ)に来る理由も、自己が生存している必要すら、無いということになるのだろう。

 ISそのものにも執着はなかった。

 

「なるべくして、ですって……問題はない……? ISを……いったいなんだと心得て……!」

「?」

 

 腹腔から溢れるように何事かを呟いている。少女は戦慄き、その小さな手を握り締めた。

 

「アナタは! この栄誉が理解できないのですか!? 本来ISとは女性だけが扱える最新にして最高のテクノロジー。それを男の身でありながら学び、触れ、操ることを許されたというのに……!」

 

 絹のようにしなやかな少女の声は、怒気を孕んで空気中を走り廊下へと響き渡った。近くを歩いていた者は何事かと足を止め、教室から顔を出してこちらを窺う者もある。

 委細構わぬと、眼前の少女はこちらを見据え、その瞳で己の目を射抜いた。

 

「女のわたくしにこれだけ言われて、なぜ何一つ言い返すこともできませんの? 身の程を知らずとも、分不相応であろうとも、アナタはISに関わる権利を得てここに立っているのでしょう!?」

 

 頬を紅潮させ捲くし立てる。

 少女のターコイズブルーの瞳に映るのは怒りと侮蔑……しかし、もう一つ、明確に表出する感情があった。

 失望。

 己はどうやら知らず知らず、彼女の期待を裏切っていた。

 理解不能と言うは易い。何せ初対面から十分と経っていない。この認識は誤りではない、が。

 

「男など……所詮はこんなものですのね。惰弱で、女に言われるがまま抗うこともしない……」

 

 何か、そう何かが。嘲り言い捨てる彼女から拭い難い諦観を覗える。

 己をただ嘲弄したいだけならこのような複雑な貌を作りはすまい。女権絶対主義者のような偏った思想の持ち主ならば男の己とは会話にすらならないだろう。

 この少女は、何かを求めたからこそ己と対話を図ったのだ。

 それは埒もない想像である。確かめるには、やはり対話を行うより他あるまい。

 

「オルコットさ――」

「ジぃン」

 

 その声は、思った以上に近く、耳に口付けるかのように近く近く頭蓋に響いた。

 右肩に寄り添うように、一夏少年が立っていた。

 

「そろそろ次の授業始まるよ。席、戻ろう?」

「は、いえ、しかし」

 

 柔らかく笑んで、少年が腕を引く。

 それを見て取って当然とばかり、少女は食って掛かった。

 

「まだ話は終わっていませんわっ。“もう一人”の方は後にしてくださるかしら? 日野仁! アナタは――」

 

 少女は言葉と共に迫る。それはこちらの応えを求めているようでもあった。

 伸ばされた手が己の左肩に触れ――――ぱしん、軽い破裂音が響いた。

 

「…………え?」

 

 戸惑いに声を漏らしたのはオルコット嬢であった。彼女は自身の手を見る。

 少年によって、叩き払われた手を。

 少女が事実の咀嚼を終えるのを待たず、少年はずいと少女に顔を近付けた。少女の顔を顎の下から少年の美貌が見上げている。

 美しい、能面の貌。無表情であり無感動であり無感情であり無慈悲であり無意味。

 色彩を持たぬ瞳は暗く深く何一つ映していない。眼前の少女すらその黒い湖面に沈んで消えた。

 

「ジンにさわるな」

「ぇ……ぁ……」

 

 人がましい体温を持たぬ声。無機質な、機械染みた硬質さで、少年は()()()()を口にした。

 

「――」

 

 少年が一歩踏み込む。何をする心算か、それは己の想像の外にある。

 しかし、すべきことは一つだった。

 

「一夏さん!」

「んひゃっ」

 

 両の手を伸ばし、進み出ようとする少年を背後から抱き竦めた。

 小さな身体を我が身に抱え込み、数歩後ずさる。体格と重量差を思えば当然なのだが、思いの外あっさりと少年はこちらの腕力に従ってくれた。

 赤らめられた顔が、逆しまにこちらを見上げてくる。

 

「ジ、ジン……う、嬉しいんだけど、その、人前だと恥ずかしいよ…………えへへへ」

「……」

 

 それはひどく今更な抗議とも思えるが。

 さて置くとして、オルコット嬢に視線を移す。彼女は数秒、時が止まってしまったかのように硬直していたが、不意にはっと我に返る。

 

「っ!」

 

 困惑と、隠し切れない怯えを湛えた瞳。そこに怒りを再燃させることで彼女は自我を保ったようだ。

 我々二人を屹度睨み、横合いを擦り抜ける。一先ず、これにて対話は終わった。

 

「んん……ふふふ」

 

 腕の中で少年がむずがる。むずがるふりをして、猫のように身体を擦り付けてくる。

 少女の存在などそれこそ、無かったことのように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――私の、私の一夏をお前が奪ったんだ、仁。

 

 

 

 

 

 

 

 

 








そしてやっぱり一番ヤンデレが似合うのはもっぴーなんやなって。



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18話 唯一絶対の方法

 授業は(つつが)無く消化されていった。

 一般的な高等教育とは比べ物にならぬその量と質には相応に苦労させられたが。

 事前に支給されていたISの総合教本を使って予習していた甲斐はあった。専門知識の嵐も、単語さえ把握していれば索引は容易であり、参考資料の選別も捗る。

 現在の授業はISに関連した基礎教養。IS技術の発表、開発、国内外おいて配備に至るまでの動き、法整備、我が国の憲法以下各種法令制定の流れ、禁止事項、罰則規定、学園生徒の権利・義務等々、細かな定め事となればそれこそ膨大であり多岐に及ぶ。

 

「国家の許諾を必要とするISの運用方法は32ページの一覧表の通りです。また、当初の予定とは逸脱した運用を求められる状況に陥ったとき、何処にどのような許可申請を行わなければいけないのか、操縦者志望の人は勿論、官職などを目指す人はその辺りもきちんと覚えましょうね」

 

 柔らかな口調で丁寧な授業を行ってくださる山田女史、もとい山田先生の手腕は流石の一言。しかしそれでもなお、総じてIS学は深淵で広範だった。

 

「ここまでで解らないところがある人はいますか? いつでも遠慮なく聞いてくださいね」

 

 無論のことクラス全体へ掛けられた言葉であろうが、それは特に我々男子生徒二名へ向けられていたように感じた。

 中学時、あるいはさらに以前からIS学園への入学を志していた女子生徒も数多かろう。そうした彼女らと比べれば、相当にイレギュラーな形で入学が決定した己や、中学三年の秋頃に適性が発覚した一夏さん、学習量に差が出ると考えるのは自明であった。

 

「う~ん……なぁジン、ここなんだけどさ」

「は」

 

 授業内容とは別方向へ飛んでいた思索を引き戻し、隣の少年の卓上、彼が指差すディスプレイの表面に視線を這わす。

 

「第一世代のISと第三世代のやつって法律上の扱いが違う、みたいなこと書いてあるんだけど……何が違うんだ」

「あっ、それはですね――――」

「性能の飛躍的向上と運用法の限定措置が同時期に進行していた為そのような扱いになったそうです。テキスト後半、279ページに関係法の制定時期が一覧されています。これともう一つ、学園内ネットワークにアップロードされているデータ資料のIS開発年表を比較参照すれば理解し易いかと」

「え、どこどこ」

「画面左端の学園のエンブレムを……そう、それがスタートメニューです。そこからネットワークに接続を。はい、そのファイルです」

「あ、これか。サンキュ」

「……」

 

 教本の他に、学園内のオンラインネットワーク上にはISに関する様々な資料が掲載されており、生徒はそれらを自由に閲覧できる。同時に、こうした参考資料を用いなければ自学自習すら儘ならない。

 少年は暫時教本と資料を見比べ、電子ノートに書き取っていく。

 

「ハイパーセンサーって単に目が良くなるだけじゃないんだな」

「そ、そうなんですよ! 五感全てに強力なアシストが掛かって――――」

「元来が、ISは人間の知覚を遥かに超えた高速機動を旨とする飛行機械。五感性能の強化に留まらず、動体視力、知覚反応速度等、操縦者の反射神経伝導(インパルス)を極限まで高めることでそれを可能としています。思考すら高速化するとか」

「へぇ~、すげぇー」

「うぅ……ひ、日野くぅ~ん……先生を、先生をもっと頼っていいんですよー……? 遠慮なんて要りませんからねー……ぐすん」

「はい?」

 

 幸い知識を詰め込む時間だけはあった。現役の学園生に比べれば浅学も甚だしいものだが。

 故に、何やらしょんぼりとした山田女史の切なげな申し出は無論のこと有り難く頂戴する。

 

「山田先生、ISの推進装置(スラスター)とコアとのエネルギーラインについて詳細を御教授願えますか」

「! は、はい! もちろんですっ。丁度次はISの基本構造の章でしたね。えっと、まずISの動力源、コアについて――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 初日とあって多少(健全な)緊張感の漂う授業を終えて、次でようやく最終ホームルームとなる。

 隣で少年が息を吐く。やはり僅かに疲労の色が見えた。

 

「本日はお疲れ様です」

「うん、疲れた……いろんな意味で……早く帰って夕飯の準備しなきゃ」

「無理をなさらず、今日は外食で済ませては」

「ダメ。ジンのご飯は俺が作んの」

 

 あっさりと切って捨てられる。

 物心付く頃には自宅の家事一切を取り仕切っていた彼であるが、料理の手腕に関しては特に秀でたものがある。それを口に出来る幸福に感謝しない日はない。

 であればこそ、少年の負担を軽減できないものかと考えたのだが。

 

「……ジンは嫌か? 俺の料理ばっかじゃ……」

「毎食を何時も心待ちにしています。ただ、舌が肥えてしまい、もはやこの身は粗食に耐えられないやもしれぬこと……それが少し気掛かりではあります」

「……えへへへ。それじゃあ仕方ない。俺がずぅっと作らなきゃ。ジンの健康の為にも、さ」

 

 机に突っ伏した少年が微笑してこちらを流し見る。穏やかな、安息を零すような声だった。己の卑しい本心とただの事実でしかない言葉に、そのような。

 彼の心配りに身が縮むばかりだった。

 

「えっ、織斑くんと日野くんって一緒に暮らしてるの?」

 

 不意に、少年の後方からそのような問いが投げ掛けられた。ショートボブの茶髪、縁無しの眼鏡が特徴的な少女。名は確か、岸原さん。

 

「はい。一夏さんの御実家、織斑家で現在も御厄介になっています」

「そ、そうなんだー。へー。ち、ちなみにどのくらいの期間?」

「そろそろ一年半にもなりましょうか……」

「まだそんなもんだっけ? まあ、ジンとは小学生の頃からずっと一緒だしなぁ。あんまり変わった感じはしないかも、ははは」

「ず、ずっと一緒……!?」

 

 一夏少年の言葉を聞くや否や、岸原さんは身体を反転させさらに後方の座席の女生徒らと何やら話し込み始めた。

 

(……幼馴染……家族、兄弟同然の二人……一つ屋根の下……)

(何も起きない筈も無く……キャー!)

(あんたらは変な本の読み過ぎだっての!)

(だって! 織斑くんってばあんっなに可愛いんだよ!? やっちゃうでしょ健全な男なら!)

(健全な男はそもそも男の子とそんなことしないわよ)

(だってさー、おりむーは絶対ひののんのこと大好きだよ?)

(朝のあれ見た? 頭撫でてもらってたんだよ、自分から!)

(休憩時間にさ、日野くん廊下で織斑くんのこと抱き締めてたよね)

(……あ、ダメ、思い出させないで……鼻血出てきた)

(変態だー!?)

(あたしナマモノはちょっと……)

(一回嵌ってみなって。抜け出せなくなるから)

(あ……ありのまま、今日起こったことを話すぜ! IS学園始まって以来初の男子生徒が二人も入ってくるー……って思ってたら二人は既にカップルだった。何を言ってるのかわからねぇと思うが、私も何を見せられてるのかわからなかった……)

(気持ちは分かるけどネタ古いわよ……)

 

 女生徒らの流石の姦しさ、賑やかさに圧倒される。十中八九こちらの噂話なのだろうが、せめて悪評でないことを願うばかり。

 その時、扉が開き、千冬嬢と山田女史の両人が入室した。

 

「いつまで無駄話をしている。さっさと席に着け馬鹿者共」

『は~い!』

 

 従順に喜びさえ滲ませて全員が即座に着席する。これも織斑千冬という大人物に宿った求心力の為せる業、であろうか。

 千冬嬢は教壇に登り、手元の操作盤に触れる。

 程なく、黒板型ディスプレイに『クラス代表およびクラス対抗戦』の文字が並んだ。

 

「さて。今からクラス代表を一人決めねばならない。代表者には今後、学級行事のまとめ役から委員会への出向までこのクラスの運営に携わってもらう。直近の行事としては、再来週に各クラスから選出された代表者によるIS対抗戦があるが。それも踏まえて、貴様らが決めろ」

 

 実に端的な説明の後、厳然と千冬嬢は締め括った。

 クラス代表と銘打たれているものの、役割自体は所謂学級委員のようなものという認識で相違あるまい。特筆すべき点はやはり、クラス対抗戦。相応のIS操縦技術を求められることだろう。

 ここはIS関連技能養成施設IS学園。一学級の代表者といえど、それが大きな選定基準になることは当然であった。

 

「はいは~い! 代表は織斑くんがいいと思います! 可愛いから!!」

「可愛いは正義!」

「単純にIS着てる織斑くんが見たい!」

「担ぐ神輿が美しいに越したことはないよね!」

 

 欲望に正直かつ忠実な意見による他薦票が複数、一夏さんに投じられた。

 

「あ、推薦ありなら、日野君に一票入れたいです」

「ああ私も。日野君なら仕事きっちりやってくれそう」

「なんかわかるー。ひののんがんば!」

 

 予期せぬ方向から己の名前が挙がる。いや一人それが名前かも疑わしいものもあったが、さて置き。無根拠とはいえ信頼を賜るは光栄だが、それはまたの名を他力本願とも言う。

 知らず、少年と二人顔を見合わせていた。

 

「ふむ、候補者は織斑と日野の二人か」

 

 あれよあれよと人選は捗る。当人らの意見は慮外に置いて。

 

(ど、どうしようジン。俺クラス代表とか自信ないんだけど)

(今からでも千冬さんに再考をお願いしては)

(無理無理。こういうとき千冬姉は決まったこと絶っ対曲げてくれないから)

(……確かに)

 

 職務に自信が有ろうが無かろうが『習わず慣れろ』と断言するのが彼女だ。余程の適性的不和でも起こらぬ限り。

 とはいえ、こうした学級運営に携わることも良い経験となろう。一夏少年が乗り気ではないというなら、自分がその御役目を拝任するに(やぶさ)かではない。

 そのように心積もりをした直後。

 

「納得できませんわ!」

 

 きん、と。室内の空気を切り裂くかのように、鋭い高音域の声が背後より差した。

 振り返る。しかし、その声を耳にした時点で人物それ自身にはすぐに思い至っていた。

 美しい金糸の髪をやや乱して、少女が一人席を立ち上がる。貴嬢(フロイライン)セシリア・オルコット。

 

「謂わばクラスの顔役。その身の実力と振る舞いによってクラスそのものの評価を体現しなければならない代表者に、ただ物珍しいという理由だけで男を抜擢するなど言語道断ですわ!」

 

 そう言って、少女は学習用デスクに握り締めた手を叩き落す。その打撃は、静まり返った教室では殊更大きく響いた。

 

「対抗戦に出場するというのなら尚のこと、IS操縦の実力が伴っていて然るべき。イギリス代表候補生として質量共に高度な訓練を積んできたわたくしこそ相応しい筈。そう、少なくとも……」

 

 屹度、蒼い瞳が己を睨み据える。その苛立ちを針のように尖らせながら。

 

「あのような惰弱な男の下でわたくしが付き従うなんて……虫唾が走る……!」

 

 汚泥のように濁った(おり)、不快なる想念を圧して固めたかのような言葉が己へと(なげう)たれた。

 私怨……そう呼ぶには、己と彼女の関わりはあまりにも浅く短い。それはもっと根深く、古い感情である筈だ。

 どうした経緯からか、少女は男性種というものを嫌悪し切っている。現世情に蔓延する『女尊男卑』なる思想に傾倒する故か。しかしどうにも、肯けない。

 そも、矛先に己が選ばれてしまったのは彼女の独断であろうが、己自身の不手際でもある。己が言動の舵取りを誤り、その何れかが彼女の逆鱗に触れ、どころかあの様子では()()()()()()しまった。

 もし誤解であるならば、それを(ほど)く努力をすべきだ。

 さりとて方法が即座浮かぶほどには、己の脳髄は理知的な柔軟性を欠く。

 埒も明かぬ思索に埋没しかけた時、右隣から肩を突かれた。少年が何やら、ずいと顔を近付けてくる。先程よりもさらに潜めた声で。

 

(なぁ、クラス代表、アレにやってもらおうよ)

(は、しかし)

(あんだけやりたがってるなら、やらせればいいじゃん。俺みたいなやる気が無い奴とか、ジンみたいに押し付けられてやらされるより万倍マシだろ)

(それは、まあ)

 

 自主性を以て職務を全うしようとする意志。持論はどうあれ、彼女にはそれがある。

 加えて、ISに対する技量も代表候補生ならばそれこそ申し分ない。

 少年の提案には一理があり、期せずして少女と己の見解も一致した。

 やはり、任せるべきか。

 

「ちなみに」

 

 今まさに動き掛けた我が内心を、まるで察知したかのようなタイミングで千冬嬢が口を開いた。

 

「クラス代表者に選ばれた者は、補佐役として副代表を一人選出してもらう。これは代表者の独断で構わん。代表および副代表は少なくとも一年間、あらゆる行事、催事、執行活動の別なく常に行動を共にする。常にだ」

「はい! 織斑一夏クラス代表やります! んで副代表はジ――日野君で!!」

 

 電光石火の勢いで、少年は立ち上がりながら一息に言い切った。そのあまりの元気溌剌ぶりで、少女の威勢により張り詰めていた空気がみるみる萎んでいくのを肌に感じる。

 

「ふ、ふざけないでください! そんな、身勝手な言い分が……!」

「では、候補者は織斑、日野、オルコットの三名だな」

「ちょっとぉ!?」

「いや千冬ねっ……ぉり斑先生! 推薦された俺がやるってことじゃダメなんすか!?」

「自薦他薦を問うた覚えはないな。そして私は多数決を好かん。それ以外なら、選定方法はお前達の好きにしろ」

 

 そんな豪快に過ぎる沙汰を下し、千冬嬢は腕組みして沈黙した。事の成り行きを静観する構えなのだろう。

 

「……」

 

 多数決や他薦者の意見は考慮されない。ならば弁論大会でも開き、学級への貢献、マニフェストの質を織斑教諭に判断願うのか。

 そうではないのだろう。かの御人の御気性を思えば、もっと単純な、最も明快な選定方法が――――ある。

 そしてそれは思いがけず、かの貴嬢との対話を為さしめる方法でもあった。

 この方法が果たして本当に正しいものなのか、今この場では判断のしようもない。ただ、他に術がないこともまた事実であった。

 ならば。

 

「織斑先生」

「なんだ、日野」

「一つ、提案をしたく思います」

「言ってみろ」

 

 表情にこそ出てはいないが、千冬嬢からは明らかに感興の色が窺えた。己が何を言う心算(つもり)か、半ば確信しながら続きを待っている。

 相変わらず、食えない人だ。

 苦笑を飲み下し、僅かに吸気する。

 

「現状、クラス代表者に求められている能力は一件、IS操縦技術。なるほどその意味で、イギリス代表候補生であられるオルコットさんは適任かと思われます」

「当然ですわ」

「しかし、それだけを判断材料に事を決しては、推薦くださったクラスの皆さんの御意見を無碍にせしめ、またそれが各個人の御意見、延いてはクラス全体の意向を反映した結論とは言い難いでしょう」

「えぇいっ、つまり何が言いたいんですのアナタは!?」

 

 先を促す少女の怒声は、むしろ助け舟となった。

 身体を反転し、背後へ、こちらを見上げる同級生らを。そしてこちらを睥睨し続けるオルコットへ向けて、我が結論を提示する。

 

「故に、我ら三名それぞれがISの操縦技術を示すべきです。最も簡易簡便なる方法……戦闘行動によって」

「な」

「おぉ、そっか」

「くくっ」

 

 その場で腰を折り、辞儀を送る。士、相対した。なればそれこそ唯一の礼法。

 

「お二方に、決闘を申し込ませていただく」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






お前にガンダムファイトを申し込む!




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19話 新居

日本政府「可愛い男の子とガチムチ野郎のホモカップル……もう許せるぞオイ!!」





 IS学園は全寮制を採用している。

 本州より数十㎞の海上に建造されたこの施設に、自宅から通学しようというのがそもそも無理のある話だが。

 廊下の窓から覗く空は既に茜。一日分のカリキュラムを修了し、今は少年と帰路を歩いている。

 少年は手にしたカードキーを繁と見詰めた。

 

「山田先生、なんだか変なこと言ってたよな。『政府の配慮だから気にしないで』って……」

 

 先刻、放課後の教室にて、山田先生手ずから学生寮のキーを貸与された。他の生徒らには朝のガイダンスを終えた時点で手渡されていたものである。

 本来が、IS学園において学生寮とは女生徒の為のもの。男子生徒が住まうことこそ異例であり、問題なのだが。

 さて置き、他の生徒らとは別に我々二人に直接部屋の鍵を手渡したのは、それ故の配慮とも受け取れる。

 現在の特殊な立場にあっては仕様もない。ならばせめて慎ましく、三年間を無事に終えるよう尽力しよう。

 

 ――己に“先”があればの話だが

 

 本校舎を出て西に伸びる渡り廊下を進む。行き違う女子生徒達の視線と潜めた囁き声にも今日一日で幾分か慣れ、慣れは……慣れねばなるまい。

 寮舎の佇まいは宛らリゾートホテルのようだ。自動ドアを潜り、エントランスから客室、もとい生徒の居室フロアに入る。

 廊下は毛足の揃った赤いカーペットが敷かれ、いよいよここが学生寮であることを忘れさせる。

 そうして長い廊下を行くこと暫し。その扉は、遂には寮の最奥で見付けられた。

 

「ここ……だよな」

「記載されている番号に間違いありません……おそらく」

 

 電子ロック式の自動スライドドア。学園内にも同型の扉は数多くあるだろう……この重厚感を除けば。

 己の腕ほどの太さをした六本の金属製ピストンが扉の左右から交互に伸び、中央に円形の操作盤が嵌め込まれている。カードを翳す為のセンサーはそこにあった。

 

「……」

 

 少年は無言で己の袖口を掴んだ。言い知れぬ緊張感がその細い指先から伝わってくる。己も大概似たような心境であった。

 そして意を決して、おそるおそるカードをセンサーに翳す。

 “認証”という機械音声が流れた後、壁面から風が吹き抜けるような盛大な音が響く。エアロックが解放されたらしい。同時に六本のピストン、金属ポール型の錠前が縮小し収納されていく。次いでゆっくりと扉が両側へスライドし、ある程度の段階でそれは瞬時に全開した。

 

「…………」

「…………」

 

 仰々し過ぎる。まるでメガバンクが保有する大型金庫のようだ。ここは男子生徒二名が居住する寮の部屋でしかない筈なのに。

 少年が腕に縋り付いて来る。

 二人、連れ立って注意深く、いやもはや何に注意しているのかもよく分からぬまま、今日より我が家となる部屋へ足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「すっごいすっごい! 見てよこれ! ねぇジン!」

「……は」

 

 そうして少年は喜色満面に声を上げた。

 入室直前まで小動物のように震えていたことが嘘のような有様。いや、無論のこと元気に越したことはないのだが。

 

「アイランドキッチンなんて俺初めてだ。うわっ、この収納フットスイッチだ! 継ぎ目無し一体型のシンク! 地味に嬉しいシャワーヘッド付き! おぉ、ビルトインの食洗乾燥機! あはは、このIHめちゃくちゃ広い! え、ゼロフィルターの換気扇! これ欲しかったんだよぉ!」

「はい」

「うっひゃ真空チ○ドの600L! あはははなんでも入る~! すごいよジン!」

「は、そうですね」

 

 寮舎の外観および内装をリゾートホテルなどと表現したが、今我々が佇む居室は控えめに言って高級スイート、見たままを言えばレジデンシャルルームである。

 システムキッチン、ダイニング、地続きにリビング。奥側は巨大な一枚ガラスの窓が四枚並び、圧倒的解放感が室内から圧迫感などというものを全て消し去っていた。戸を潜ればバルコニーから茜色に染まった太平洋を一望できる。寝室もまた二部屋、トイレも総電動式のハイグレードタイプが二つ、風呂は檜張りのジェットバス、八帖ほどもあろうウォークインクローゼットなど用意されたところでどうしろと。

 家具家電は備え付けのものが配されていたが、どれ一つとっても学生寮という場には不似合い且つ不釣合いな、異様な高級感と機能性を有したものばかり。

 政府からの配慮……こういうことだったのか。

 過剰と評せず何とする。これはあまりに他の生徒との格差を意識せざるを得ない。

 いや、あるいは、実は他の部屋もまたこのような豪勢な出来をしているという可能性が無きにしも有らず。

 

「はぁ……」

「? どしたん、ジン」

 

 知らず溜息など吐いていた。今日一日分の疲労感に、最後の最後でオマケが添えられた心地。

 不思議そうな顔で少年がこちらを見上げる。彼のその無邪気な喜び様が唯一幸いだった。

 

「あははは、なんか新居ってよりアミューズメント施設みたいなテンションだわ」

「六畳一間に慣れ親しんだ身としては、落ち着きの無さを禁じえません」

「ジンは質素過ぎなんだって。ちょっとくらい贅沢しても罰は当たんないよ。まあ……この部屋はちょっとじゃないかも。ふふっ」

「全く以てそう思います。一夏さんがお気に召しておられるなら良いのですが」

「うん! 大変召しました! はははっ…………それに、さ」

 

 くるりと反転し、後ろ手を組みながら少年は窓の外に広がる雄大な景色を見る。ほんの半瞬、言い淀むような気配が立ち。

 項まで伸びた黒髪が、しなやかな曲線を描いて宙を舞う。半身だけで振り返り、彼は柔い笑みを見せた。

 

「し、新婚旅行みたいで、すごく、その…………な、なに言ってんだろう俺、あははははは!! 変なこと言っちゃった!」

「……」

 

 ハワイのコンドミニアムを借り切っての新婚旅行、とは――今も昔も、やはり男女問わず誰もが憧れ夢見るシチュエーションなのだろう。そしてどうやら目の前の少年にとってもまた。

 その相手役として自分が想定されていることは喜ぶべきなのか。光栄であることは間違いない。しかしもっと相応しい、自分(ひのじん)なぞ引き合いに出すのも憚る、そんな素敵な相手がきっと織斑一夏には居る。居らぬ筈がない。

 そう言ってしまうことは容易いが、それを口に出すことはできなかった。

 少年の、淡く朱に染まった頬。羞恥に潤む瞳が、あまりにも美しかったから。

 

「なんだよぉ……黙るなよぉ……そりゃ、男同士なのに変なこと言ったけどさー……そんな気持ち悪がることないだろぉ」

「いえ、そのようなことは。ただ己の想像とは少し、違ったもので」

「……ふぅ~ん、じゃあジンはなにソーゾーしたんだよ?」

 

 じとりと深い黒目が己を見上げる。

 想像、突き詰めれば己が内に出来上がった願望なのか。そんなものを彼に開陳するのは、些か躊躇いを覚える。それほどに、これは、度し難い。

 

「……家族旅行」

「え?」

「一夏さんと、千冬さんを連れてこのような場所に旅行へ赴けたなら、それは、とても喜ばしいことで……それこそまるで、二児の父親にでもなったような心地で」

 

 はしゃぎ回る少年を見て、それを諌める千冬嬢の姿を幻視した。その光景がひどく、幸福だった。

 きっと、子供の成長を見守るとはこのような感覚なのではないか。そう愚考した。

 身の程を知らぬ想念だ。未熟蒙昧たるこの己が人の親となり、あまつさえ織斑御姉弟をその子に仕立て上げるなど。

 恥を知らぬ。

 雑念としてそれを振り払うように強く頭を振った。次いで、気味の悪い話を聞かせてしまった姉弟に謝罪の意を。

 

「っ!」

 

 こちらが頭を下げるより早く、少年が己の胸に飛び込んでいた。

 腰に回された手が強く、強く身体を抱き締めてくる。その細い腕のどこにそんな力があるのかと驚くほどに。

 胸に熱を感じた。少年の吐息と、それ以外のもの。

 己自身の両手の置き所は、迷った末、少年の背中へ。左腕をあえて使おうとは思わなかった。

 

「ふふ、やっぱりすごいなぁジンは。俺が言って欲しいこと、ちゃあんと言ってくれるんだもん……やっぱりジンだ……ジンじゃなきゃいやだっ」

「……」

「はぁ……あったかい……」

 

 ――――彼の求めるものが父性に類する“それ”であることは、随分昔から理解していた。理由は定かでないが、織斑姉弟には両親がいない。保護者、庇護者たらん者が無かった。

 親の愛に飢えている……一文で表現するのは斯くも容易い。

 しかし、そんな生易しいものである筈がないのだ。彼の、彼女の飢餓は。

 十数年前、初めて千冬さんに出会ったとき、その在り方に惹かれ、尊び、この身をして瑣末な一助と為らんと夢想した。そして、関わりを深める内、その願望の一端を垣間見た。

 同じもの、同じ欠如、同じ願望が、幼い少年の中にもソレはあった。()()への、狂おしいまでの渇き。

 

「ん……」

 

 するりと伸びてきた白い手に、己の無骨な手をさらわれる。そのまま彼は自身の左頬へ我が右手を添えた。

 目尻には、涙。滲む色に悲しみはなく、それは喜びの、高揚の涙なのだろう。親指でそっと拭うと、擽ったそうに少年は目を細めた。

 目を伏せ、また見上げ、やはり伏せる。彼が何かを求めていることは分かった。

 朱に染まった顔が、紅を差したかのようになる。

 濡れた瞳が真っ直ぐに注がれ、その薄い唇にさえ血色の高まりを覚えた。密着する身体の熱、少年の熱が己を冒す。

 爪先立ちになり、少年の美しい貌が迫る――――そして止まった。

 

「んー? どうした。そのまま続けろ。なに、遠慮するな一夏。ジンもそのまま動くなよ」

「――――」

 

 カチリ、液体窒素に浸した花弁の如く。少年は美しい彫像と化した。

 視線は己の肩口を行過ぎて背後へ、玄関口から続く廊下の壁に、肩を預けてこちらを見るダークスーツの女性に突き刺さり停止していた。

 

「ち」

「くくくっ」

「ちち、千冬姉、いつから、そこに」

「『し、新婚旅行みたいで……』のあたりからだ」

「ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ッッッッッッ……!!」

 

 顔面を両手で覆い、少年はカーペットの上で転がり悶え声無き絶叫を上げた。

 

「ぷっくくく、ふふはははっ……あぁ~、楽しそうにやってるじゃないか、えぇ?」

「お陰様で」

「ジンも人が悪いな。私が部屋に入った時点で気付いていたろうに」

「お声掛けするタイミングを逸しました。申し訳ありません、一夏さん」

「もぉぉぉぉおお! ジンのバカ! ばかぁ!」

 

 少年は悪態を吐くと、ソファベッドに身を投げてクッションに顔を埋めた。そのままくぐもった意味不明な怪音が流れ始める。

 おそらく小一時間は元に戻らぬだろう。

 内心で謝罪を繰り返しながら、来訪者に向き直る。

 

「どうやって入室を?」

「私は寮長も兼任している。非常時の備えにマスターキーは必須でな」

「なるほど……」

「くふっ、お陰でいいものが見られたよ」

「ところで、織斑先生」

「ここはプライベートな空間だ。いつものように呼んでくれ」

「は」

 

 語気に寂しげな色を乗せて彼女は微笑んだ。

 勿体無きこと。初めて彼女の名を呼んだ日のことを思い出す。

 

「千冬さん、この部屋はいったい何故このような」

「なかなかいい部屋だろう?」

「はい。過剰なほどに。IS学園の寮室とは全てこのようなコンセプトを採用しているのでしょうか」

 

 一学生には贅沢に過ぎる。己の貧乏性を差し引いたとしても異常であろう。

 また、待遇に差を生じさせることは健全な学びの場にあっては不適切、不当と言わざるを得ない。

 

「政府側の意向だ。甘んじておけ」

「は、ですが」

「まあ、お前の言いたいことは解る。しかし世界でたった二人だけの男性IS適性持ち。そのメンタルケアには細心の注意を払わねばならん……()()()()()()()()が欲しいのさ」

「……」

 

 稀少性の取り扱い。下手を打って責を取らされることを厭う。単純だが理解できる心情だ。

 謂わば絶滅危惧種の鳥を収めておく籠。なるほど無駄に豪奢にもなろうか。

 

「あとは、そこの壊れた蓄音機がな。料理は自分で作りたい。キッチンはあるか、コンロは何基だ、調理場が無い、シンクが狭い、冷蔵庫は持ち込めるのかとかなんとか、なんだかんだとゴネた結果、こうなった」

「なりますか」

「なったんだから仕方ない」

「……そうですか」

 

 発注者が思いの外近くに居たことに驚愕する。

 そして原因が自分自身であることに愕然とした。

 

「愛されているじゃないか、ジン」

「お戯れを……」

 

 手料理を食べさせたい(それ以外口にさせない)という彼の一心が、どうやら最大のファクターだったようだ。

 一頻り喉を鳴らすように笑うと、千冬嬢は己の肩を叩く。

 

「さ、そろそろあれの悶絶も聞き飽きた。飯にしよう。ふふん、久々の一夏の手料理か」

「……千冬さん、もしや」

 

 彼女は寮長であり、学年主任を務め、また稀少な男子生徒の身内でもある。

 我々の入学が表向き正式に決定したのがおよそ三ヶ月前。急ピッチで工事を進めたとして、この部屋が完成を見るにはぎりぎりの期間と言えよう。

 それこそ予め計画が立てられていなければ、即時着工とはなるまい。

 つまり。

 物問いに彼女を見やれば、可愛らしく舌を出す少女がそこにいた。

 

「ふふふっ、これくらい許せ。娘のワガママを聞いてくれるのがお父さん、だろ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






最近病みが不足気味。申し訳ない。


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20話 悪くない新生活だと思うよ

 

 

 その、ほんの一言で、喜悦に身体は震えた。

 

 

『父親にでもなったような――――』

 

 

 気恥ずかしげにそう零す男の、大きな背中を思い起こす。

 (おお)きな男だと思っていた。鋼の如き強靭(つよ)さを持った武人なのだと。艱難辛苦を撥ね退ける剛毅(つよ)さを持った達人なのだと。

 そう思っていた。そうあって欲しいという夢想を押し付けていた。

 違う。違うのだ。私が惹かれた男の、彼の有様、生き様は。それは()()()ではない。もっとどうしようもないものだ。

 彼の中に、自分と同様同質の欠落を見付けた。

 胸に空いた虚の穴。決して満たされることない飢餓の苦しみ。

 いや、唯一満たせるものがある。ソレだ。

 私を満たすもの、ソレが、お前だ。ジン。

 だから、だからお前も、どうか。

 私で満ちて欲しい。私達姉弟でお前を満たしてしまいたい。愛しきその虚をこの身に侵させて欲しい。

 

 私はまた夢想する。

 その為ならば、どんなことでもやってやる。どんなことでも。

 

 

 

 

 

 

「千冬姉?」

「ん……」

 

 ふと気付けば、空になったカップの底をぼんやりと見詰めていた。そこにはただ僅かなコーヒーが黒い染みのように残留している。

 視線を上げると、不思議そうな顔が自分を見下ろしている。姉の欲目を差し引いても、端整な、男女の別を忘れる中性という危うい美しさを湛えた貌。

 小首を傾げる様も愛らしい……などと口にした日には、いよいよブラコンのレッテルを貼られるだろう。

 

「コーヒー、おかわりは?」

「貰おう」

 

 カップを差し出すと、少年は既に手にしていたサーバーから温かなそれを注いでくれた。

 香り高く、後引く渋味も舌に心地良い。自分で淹れたとしてもこうはならない。彼はいつの間にこんなにもコーヒーを上手く淹れられるようになったのか、それをきちんと思い出せない自分が情けなかった。

 

「授業には慣れてきたか」

「まあ、そこそこ。ジンにもいろいろ教わってるし」

「少しは自習もしろよ。でなければ身に付かん」

「は~い」

 

 新学期の授業が始まって今日で三日目。

 三度を数えれば日課と言えるだろうか。今日もまた弟達の寮室で夕食に有り付き、食後のコーヒーなぞ暢気に啜っている。

 書類作成や教材の整理等は既に済ませ、消灯時間前後の見回りを残して一日の仕事は概ね消化した。それを好い事にこうして一夏やジンとの時間を満喫する自分は立派な贅沢者である。

 まあ、当の男の方は現在入浴中だが。

 

「ああ、そうだ。一夏、以前から言っていたお前の専用機だが、やはり調整の関係上、学園に届けられるのは四日後。模擬戦が行われる当日になりそうだ」

「あー、そういえばそんなのあるって言ってたっけ。いいよ。訓練機の申請ももともと間に合わなかったし。千冬姉の無茶振りも慣れっこだからさ」

「ふっ、こいつめ」

 

 軽口も随分達者になったもの。

 とはいえ、ぶっつけ本番だがそう分の悪い勝負ではない。何せ我が弟だ。IS操縦の優劣は徹頭徹尾使用者の感覚、謂わばセンスに左右される。そういった意味で、一夏の生来のそれには目を見張るものがある。

 特殊な武装を用いる場合を除けば、ISの真価とはその常軌を逸した機動性だ。現行の主力戦闘機を超える速力と旋回能力。ハイパーセンサー越しでなければ知覚すら叶わぬ戦闘速度(ファイティングスピード)を御すことが出来るか否か。勝敗を分けるのはこの一点と言っても過言ではない。

 そして一夏にはそれができる。その確信があった。

 では彼は、ジンは――――。

 

「……珍しいよな」

「? 何のことだ?」

「今回のこと。決闘、だっけ。そんなこと、ジンが言い出すなんてさ」

 

 テーブルに乗せた両腕に顔を埋めて、ぽつりと少年は零す。視線は胡乱で、今はあの巨きな男を思い起こしているのだとすぐに見て取れた。

 薄く、自身の口の端に笑みが上る。

 

「そうか? 私は至極あいつらしいと思うがな」

「え……なんでだよ」

 

 てっきり共感を得られると思い込んでいたらしい。意外そうに一夏はこちらを見る。

 

「言葉で伝わらんことを行動で示そうというんだ。解り易い。何より、此度は相手が相手(オルコット)だ。あいつが……()()()()()()()()導き出した最適な誠意の表し方が、それだったんだろうさ」

「――――」

 

 空気が制止する。

 少年は沈黙する。

 少年の瞳から色彩が喪失する。

 私はただ穏やかに笑みを浮かべる。

 数秒間の、世界との断絶。区切られた時間。私達姉弟だけの空間。

 不意に、少年は身を起こして晴れやかな笑顔を見せた。

 

「千冬姉!」

「なんだ」

()()、殺してもいい?」

 

 名案を思い付いたと。とても無邪気に弟は言った。

 

「だぁめぇだ」

「えぇ~! なんでだよぉ」

「ジンが気に病む」

「そっか。じゃ、ダメだね」

「ふふふ」

 

 少年はテーブルに突っ伏して唸る。

 

「う~ん、ならどうしよう。殺すのが一番手っ取り早いんだけどなー」

「お前こそ珍しいな。オルコットのような手合いは今までにも腐るほど居たろう。いや、お前は眼中にも入れていなかったか」

「あー、なんだっけ。女権結滞団体とかいう」

「バカ、女権絶対だ。結滞……そりゃ不整脈のことだろう、確か」

「似たようなもんでしょ。社会のリズム乱すんだから」

「上手いこと言いおってからに」

 

 欠片の興味も無いとばかり。少年は欠伸を噛み殺して頬杖を突く。

 ふと時計を見れば、見回りの時刻も近い。この早寝の弟が眠そうな訳だ。

 

「同じなら、別にどうでもいい」

「違うのか? オルコットは」

「口ではジンが男だから嫌ってる、って風に言ってるけど違う。絶対に違う。アレは、男ってフィルターを言い訳にして、口実? うん、ジンに何か重ねてる……透かし見てる、何かを……何か……だから擦り寄ってきた。嫌いなら、遠ざかればいいのにわざわざ……」

「ほう……」

 

 感心が吐息のように口から漏れる。

 やはり、一夏の感性は鋭敏だ。第六感とも呼ぶべき()性が。

 色恋に対しては相変わらずからっきしだが、元より必要もない。

 不要なものを切り捨てたから、こんなにも素晴らしい純度になった。

 

「縋る手……ジンにさわろうとする、蒼い目……だから、俺の、おれのジンに…………」

「うん。わかるよ、一夏。でも大丈夫。心配ない」

「ん……」

 

 椅子を立ち上がり、徐々に言葉少なくなっていく少年の傍らへ。テーブルに腰を下ろし、その濡れ髪を梳き撫でる。

 気持ち良さそうに目を瞑れば、元より重みを増していた目蓋をもはや開くこともできず。

 

「……ゆるさない…………ジン、は……わたさ……い……」

「おやすみ、一夏」

 

 少年は腕を枕に眠りに落ちる。

 静かな足音が扉の向こうに立ったのはその直後だ。

 開かれたその先に、巨躯の男が立っている。

 人差し指を唇に立てると、男はテーブルを見て、それから小さく頷いた。

 

(寝室へ)

(ああ)

 

 声を伴わずにそう囁き合い、そのまま男は少年を軽々と抱き上げた。

 夢現なのだろう。一夏はぼんやりとされるがままに身を委ねた。

 ベッドに入った弟の寝顔をもう一度だけ眺め、寝室を後にする。消灯時間も迫っていた。

 そそくさと出掛ける準備をする。とはいっても、懐中電灯と特殊警棒を持っていくだけだが。当然のように、玄関まで男は見送りに来た。

 

「本日も夜間の警邏、お気を付けて」

「ははっ、まったく。いつも大袈裟だな」

 

 こうして一礼で送り出されるのも当然ながら三度目になるが、可笑しいやら擽ったいやら。妙な気分だった。

 そして、日課というのなら、もう一つ。

 

「ジン、今日の分だ」

「は」

 

 そっと歩み寄り、両腕を男の首に掛ける。シャツを捲り、右の首筋、それよりもやや深い首と肩の境目あたりを露出させる。

 しっかりとした骨格、その表面に厚く張った筋肉。滑らかな丘陵線を描く皮膚を望む。

 風呂上り特有の、薄く浮いた汗と石鹸の香り。途端にくらくらとしてくる脳味噌を叱咤して、じっと目を凝らす。

 綺麗な肌色だ。傷一つない。そう、()()()()()()()傷が無い。つい昨日、己が刻み付けた筈のそれが。

 

「……やはり、これは」

「はい、治癒、及び再生能力が増強されています」

「……」

 

 驚きや戸惑いのような(にべ)もなく男は言った。

 こちらの心情を察した上でのことだろう。

 兆候はあった。ジンが目覚めてからこっち、この男の首だの肩だのが平穏無事であった日はない。それはもう、張本人の一人である自分が言うのだからこれ以上確たる事実もあるまい。

 なにより、弟は男の肩を食い千切ったのだ。

 現代の再生医療が如何に日進月歩といえど、口一杯分の肉を削ぎ落とされて痕跡一つ残さず治癒するなどありえるだろうか。

 ジンの大きな、生身の左肩を見ながらに思う。擬態と肉体の継ぎ目、そこにあった筈の“証立て”は消え失せていた。

 異常なる再生能力。その元凶は間違いなく、男の体内に根差すモノ。

 

宿主(しゅくしゅ)の生命活動を補助する訳か。いよいよ寄生虫染みてきたな」

「……」

「……分かってるよ。お前の命を救ったのも、コレだ」

 

 だからそんな哀しそうな顔をしないでくれ。

 あぁ、とても、堪らなく切なくなる。

 

「自己満足も楽じゃない」

「それでも、貴女が……貴女や、一夏さんが、安心を得られるなら。何度でも」

「…………うん。ふふっ、そうだな。何度でも」

 

 歯を立てる。強い弾力を感じ、さらに顎に力を加えていく。歯先が徐々に沈んでいき、ある一点で犬歯が皮膚を破った。

 まだ。まだ深く。もっと強く。

 皮膚を破り、肉を裂き、途端に滴る血を啜り取る。鉄の味と匂いが口内と鼻腔を満たし、同時に溢れるような安堵が胸に満ちた。

 彼に自分を証立てる。そのような実感。所詮は、妄想に過ぎないけれど。

 儚く消え去るただの慰めなのだと、今この時思い知らされた。

 それが少し、寂しい。

 

「っ……!?」

 

 不意に、男の手が髪に触れる。柔く、壊れ物を扱うような手付きで、梳き整え、丁寧に丁寧に撫でる。無骨な大きな手が、優しさだけを込めて。

 それこそまるで、まるで。

 

「っ、んんっ、ふ、ぅ、ぁ……」

 

 一撫でされる毎に、何かが崩れそうになる。それは賢しらな、世に言うところの理性というやつ。

 背筋を伝う甘い痺れ。頭は酒精に酔ったかのようにふわりと高揚する。一秒前の自分よりも、確実にバカになっていく自覚があった。

 熱い。

 気持ちいい。

 このまま、浸っていたら。

 

「…………んぁっ」

「もう、よろしいのですか?」

 

 くちり、唇と男の肩に盛大な糸を引きながら、彼を解放する。

 男の胸板に額を押し付けて、知らず知らず上がっていた呼吸をどうにか整えた。

 

「…………うん……これ以上は、少し、まずい……」

「は」

 

 労しげなジンの目がこちらを見下ろす。大型の草食動物めいた穏やかな眼差し。

 それに見られていることが、今はどうにも耐えられそうにない。

 まるで逃げるように玄関の扉を潜った。

 

「いってらっしゃい、千冬さん」

「……いってきます」

 

 

 

 

 

 

 

 



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幕間 失望のわけ/絶対零度の視線


セッシーママ、ツンデレ&ヤンデレ説




 バスルームのクリーム色の壁を眺め続けて、どれくらい経ったろう。

 頭上のシャワーヘッドからは絶えず冷水が降り注ぎ、身体の表面は今や氷のように冷え切っている。

 けれど、一向に冷めてはくれないものが、あった。

 胸の奥深く、灼熱を発する感情。燃え盛る赫怒(いかり)が、どうしようとも消えてくれない。

 

「日野、仁」

 

 歯を軋ませるように、鉛を吐き出すように、その名を口にする。

 口にするだに、一層赫灼と炎は烈しさを増した。奥歯を噛み締め、目を眇め、壁に掌を叩きつける。その程度で静まるならば苦労はない。

 憤怒は延々と我が身を焼いている。

 あの男の、異様と言っていいほどの謙った態度。それを思い出すともはや打つ手はなかった。怒りの炎によってぐらぐらと散々に煮詰められた脳髄が、あらゆる罵詈雑言を沸き立たせ侮蔑と嫌悪を噴煙の如く滾らせる。

 あの男の眼。こちらの嘲罵、冷罵の数々を受けてなお静謐を貫くあの眼が。我慢ならない。憤懣やる方もない。

 癇に障るのだ。

 あの男の在り様。

 振る舞い。

 言動。

 行動。

 視線。

 表情。

 声色。

 吐息。

 気配。

 なにもかも。なにもかもなにもかもなにもかも!

 

「っっ! はぁっ、はぁ、はぁ、は、はあっ……!」

 

 思考と記憶の混交、それが極点を超え、ようやく勢いを失った。

 早鐘を打つ心臓。荒く乱れた呼吸を整える。

 

「……我ながら、どうかしていますわ」

 

 たかが一人の男にこうまで感情的になるなんて。

 元々、血の激しい性質であるという自覚はあった。けれど、これは異常だ。一個人に対してこんなにも心乱れることなど今まで一度としてなかった。

 初対面、会って数分、交わしたのは一言か二言か、男性であるという偏見も多少あったろう。

 それでも、焼け残った僅かな理性と常識が呟く。自分の、かの男への対応はあまりにも酷いと。

 解っている。

 解っている。

 解っていてもなお。

 

「くっ……!」

 

 そうしてなにもかも燃え尽きて、最後に現れるのは。

 決して消えもせず、霞みもせず、褪せて薄汚れた記憶が頭の片隅に横たわっている。

 忘れたくとも忘れられない……………………忘れたくない。

 父の姿。

 母にただただ遵うばかりの、痩せっぽちの惨めで惰弱で情けない、憐れな男。

 

 

 英国内でも有数の名家オルコットに婿入りした父。その細い肩に掛けられた周囲からの重圧を理解できぬ訳ではない。

 経営者として、家長として、貴族として、そして女として、強く凛々しかった母。母の生き様に憧れるほど、卑屈に身を縮める父がいじましく思えて我慢ならなかった。

 きっと母もそうだったに違いない。

 物心付いた頃には、家内での夫婦の会話は至極一方的で。苛立ち鋭くなるばかりの母の言葉を、父はただ黙って聞き入れ、おもねり、へつらい、謝罪すら口にして、最後には笑った。どんなに罵倒されようと、へらへらと笑うのだ。

 母が間違っているとは思わない。きつい言葉の一つ一つにも理があり、自身も受け継いだ彼女の激情家な側面は物事に真剣であればこそ。

 しかし、そうであっても、父とてもその胸の内には悲喜交交様々な慮りがあった筈だ。正否の問題ではなく、それを口にする権利が彼にはあった筈だ。

 意見して何が悪い。感情をぶつけ合って誰が咎めよう。

 

 ――だって、夫婦って、そういうものでしょう?

 

 だのに父は何も言わない。石のように口を閉じて、胸の想いに栓をして、ただ愛想笑いを浮かべて謙る。

 奴隷が主人にそうするように。

 父は母に服従する奴隷だった。

 どうして、そう疑問を呈することもいつしか諦めた。父は、彼はそういう人間(オトコ)なのだと。

 軽蔑した。抗おうとしない父に。自分を、我を表さない父に。母と対等に、真っ直ぐに、“夫”として向き合おうとしない男に。ただ、失望した。

 失望を拭う機会さえもはや失ってしまった。

 両親は既に帰らぬ人なのだから。

 

「何故……」

 

 何故だろうか。父の有様に対して抱いたこの失望を。

 自分は何故、あの男にも感じているのか。

 失望。望みを失うこと。望み。待ち希う。期待。あの男に、日野仁に?

 何かを期待していたというのか。

 意味が解らない。あの惰弱な男にこのセシリア・オルコットが一体何を期待するというのか。

 そんなものあるものか。男に望むものなど何一つない。自分は母のような女になる。男など必要とせず、独力で全てを切り開いてみせる。

 今までだってそうしてきた。死に物狂いで家を、財産を、母の築き上げた矜持(オルコット)を守り抜いた。

 誰の助けも借りない。これから先もずっと。

 男など、父など要らない。頼りはしない。縋ってなどやるものか。今更、今更。

 

 ――――今更、どうして私は、あの男に父の影を見ているの。

 

 

 シャワーを止め、バスローブを羽織る。

 執拗に冷やされた身体は、抗議するかのようにかっかと熱を生産し始めた。冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを乱暴に喉に流し入れる。硬いものが、喉奥を無理矢理に掻き分けて下りていく感触。

 火照った身体には少し、痛快だった。

 ソファに腰を下ろし、濡れ髪にタオルを巻き付ける。ふと部屋を見渡して、同室のクラスメイトがいないことに気が付いた。おおかた他の友達の部屋にでも入り浸っているのだろう。消灯時間が過ぎたからといって、素直に自室へ帰る者の方が少ない。十代の姦しさは、寮長からの折檻さえ恐れずなんのそのだ。

 

「……ふぅ」

 

 冷たい水と牧歌的な思考が自身にようやく平静を呼び戻してくれた。

 ふと見れば、テーブルには色とりどりのフルーツが硝子盃に盛られていた。学生寮の部屋にまさかウェルカムフルーツなど置いてある筈もないので、おそらくは同室の彼女の持ち込みなのだろう。おかしなことをする子だ。

 盃の傍らには、木製の拵えをしたフルーツナイフが添えられている。

 ダークブラウンの鞘と柄。何の気なしに手に取り……そっと鞘からナイフを引き抜く。

 間接照明を灯すだけの薄暗い室内にあって、それでも銀の刀身が放つ輝きは刺すように目にも眩い。

 鋭い光。刃。それは容易に鋭利な痛みを予感させた。切るという、原始的な、根源的な恐怖。

 今更に身体の冷えを自覚したのか。背筋を悪寒が走った。

 

「……」

 

 その悪寒は、同時に一つの光景を思い出させる。

 同様の質感を持ったものを、つい最近自分は目にしたことがあった。

 日野仁と共に、男の身でありながらISを動かした二人の人類の内のもう一人――“織斑一夏”。

 あの可憐な容姿をした彼との会話は日野仁のそれと比べてもさらに僅かだ。いや、会話とすら呼べない。あれは。

 

「っ……!」

 

 無彩色の瞳。奈落か、ともすると宇宙か。限りが見えない恐ろしさを持った目。人がましい温度を持たぬ眼。

 それこそ、この、銀色の鉄器と同じ。

 あの目に射竦められた時、身体に走った寒気を未だ忘れられない。一挙手一投足、あらゆる行動、あらゆる感動、存在そのものを否定されるような。拒絶の極地。

 忘れられない。そう、()()()()()()

 あの目を知っている。銀の刃の光と共に、それは記憶の奥深く刻まれていた。

 

 

 名家の、名企業家の宿命というのか。オルコットの財産を狙う奴輩は、父母の存命中であろうがそれはそれは熱心に執拗に、虎視眈々と擦り寄ってきた。

 甘言蜜語と美辞麗句を並べ立て、どうにかして取り入ろうとするならばまだ可愛いもの。脅迫と恫喝で力尽くに要求を飲ませようとする無頼、不届き者の類すら後を絶たなかった。

 毅然と、そうした金の亡者共を蹴散らす母は与し難しと知るや、亡者共の矛先は見るからに御し易い父へ向けられた。

 社交パーティなど開かれた日には、父の周りには怪しげな身分の人間が引っ切りなしに近付いてくる。

 当時の自分には知る由もなかったことだが、所謂“関係”を持たせる目的でそういう()()()の女を近付けさせる組織もあったらしい。

 思い返せば確かに、矢鱈と身形の派手な女が父に言い寄る様を幾度も目にした気がする。物好きな人だな、としか当時の自分は思わなかったが。

 でも、そうだ。そういう時だ。母のあの目を見るのは。

 冷え切った、一欠片の暖かみもない、刃金のような目。

 しかしその目が捉えていたのは父ではなく、父の傍らに馴れ馴れしく佇む下品な女。名も知らぬ女を。

 母は見ていた。じっと。何を言うでもなく、何をするでもなく。

 じっと見ていたのだ。

 そしてその手には、一振りのナイフが――――

 

「お母様……?」

 

 強く、気高く、理知的だったけれど時に激しく燃える性を持った母。

 父に対しては、その性質は遺憾なく発揮された。焼け付くほどの熱を母は父にぶつけてきた。

 そんな母が、あんなにも無機質な目をするなんて。

 そしてその母の面影を、どうしてかの少年から想起するのか。

 

「日野仁……織斑、一夏……」

 

 わからない。

 セシリア・オルコットには、まだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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21話 蒼い夜の兎Ⅱ


束さんって可愛くね?(ノンケ並感)Ⅱ




 消灯時間もとうに過ぎた、丑の刻の帳の下。

 皆が寝静まった寮舎を一人そっと抜け出す。渡り廊下を中途で出てすぐの茂みへ分け入り、並木道を突っ切る。校舎周辺は街路灯も多く、真っ正直に道など歩けば忽ち警備員に見付かるだろう。

 木陰の闇に身を沈め、光源の流出を警戒してディスプレイは網膜へ投影、再度マップを表示しルートを確認する。

 

「……」

 

 あと四十五秒で警備の巡回が通りを横切るので、その三秒後に背後を擦り抜ける。すると進行方向上に点在する六台の監視カメラに7秒間の死角が生まれ、第三校舎の裏庭まで辿り着ける。資料室の窓の電子ロックは既に開錠済とのこと。部屋伝いに校舎を通り抜け、その先にある噴水広場を反時計回りに二周。この区画を担当する警備員の歩行速度は秒速約1.4mであるので5m背後を等速で追従し、北北西の林道へ逸れる。

 林道には東屋があり、そこに設置されたベンチの下に五分二十秒身を潜め、匍匐して板壁の隙間を潜り抜けそのまま草叢の下を40m直進する。鉄柵に行き当たったならそれを乗り越え斜面を滑り降り、格納庫の屋根へ着地し屋根伝いにさらに西進。格納庫建屋のすぐ傍には街路灯が立っているのでそれを滑り降りる。

 この際、自動販売機が近くにあるので一分間水分補給および休憩が可。

 一分間の休憩を挟んだ場合、警備巡回および監視カメラの動作ルーチンの都合上、運搬車両用道路上の排水口を降り下水道から一端東へ向かう。

 一分間の休憩を挟まなかった場合、そのまま道路を西進し続ける。なお最低二十秒間秒速5M以上で疾走すること(※速度が秒速5mを下回れば食品輸送中のトラックに追い付かれる)。遮蔽物の無い沿岸部には絶対に出ず、防風林の木に二秒間隔で隠れながら進む。

 さらに――――

 

「…………」

 

 とりあえず、そろそろ四十五秒だった。

 懇切丁寧な説明書きと詳細な図解を有り難がる以前に色々と言いたいことが山と積み重なっていくが、まずは相手の待つ場所へ赴かねばそれこそ話にもならぬ。草叢の底から警備員の足音を聞き、きっかり三秒後忍び足で駆け出した。

 

 

 クラス代表の座を賭けて行われる、もとい己の嘆願によって為されることと相成ったIS模擬決闘。その決行日を明日……日付はとうの昔に跨ぎ越しているので、今日の夕刻に控えた現在。

 己は突如届いた一通のメールに誘われ、夜の学園を直走っている。

 送り主はかの――“篠ノ之束博士”。

 当然だが、メールアドレスを交換した覚えはない。この場合、如何にして彼女がそれを知り得たかは瑣末事であり、“何故”“何の目的を以て”かこそが肝要。

 メールの文面には場所と時刻、そして一言『時間厳守!』とあるのみ。

 指定された時刻は深夜三時。添付されたマップおよび注釈は上述の非常に複雑膨大なものになっていた。

 基本的にIS学園では消灯時間以降の外出は禁じられている。IS技術は立派な国家機密事項。生徒といえども妄りな情報漏洩、資料帯出をさせぬよう取り締まるのは当然であった。

 無論、そうした機密を狙う外的な団体、組織への警戒という意味でも、学園内では常に一定数の警備員、警備ロボ、監視装置が実動している。

 それら厳重な警邏を掻い潜る為、こうして脱走兵の如き真似を働いている訳だが。

 

「……すぅ」

 

 細く頼りなげな防風林を隠れ蓑にして進むこと十数本。

 延々と響く潮騒とその独特の香りが、漸う目的地に辿り着いたらしいことを報せる。

 突如、視界は拓け、林の只中にぽっかりと空間が現れた。松のその針のような葉が降り積もった中心に、奇怪な物体が鎮座している。

 形状それ自体は珍しいものではない。箱だ。いや現状その用途が不明である以上、それは正六面体(キューブ)と称するべきか。一辺2.5mはあろうキューブがそこにある。

 そして、かの女性(ヒト)もまた。

 純白色のキューブに腰掛けた青いエプロンドレス姿。薄い夜闇の中、牡丹色の豊かな髪が月光に洗われ美麗に靡く。ほっそりとした顎を持ち上げ、彼女は呆と夜空を見上げていた。

 物憂げなような、悩ましげなような。あるいは“無”、波一つ立たぬ湖面の静謐めいて。

 煌く大きな瞳の中の宇宙に、一瞬流れ星を見たような気がした。

 

「篠ノ之博士」

「二時五十九分四十秒。ぎりぎりセーフ、ってとこかな。女性との待ち合わせって点では余裕のアウトだよ」

「は、申し訳ありません」

「もっとちゃんと謝って」

「当然の配慮を失しましたこと、本当に面目次第もありません」

 

 その場で深く腰を折る。

 

「……前回の反省から短くまとめて来たか。ま、80点ってとこかな」

「ありがとうございます」

「なぁに言ってんのさ。100点じゃないことをまず恥じるんだね」

「はっ、尚一層精進致したく思います」

 

 己の物言いに彼女は唇を尖らせる。またぞろ失言をしてしまっただろうか。

 キューブから真実兎のように軽やかに飛び降り、彼女は棒立ちの己の傍まで歩み寄ってくる。

 真正面に陣取り、両手を腰に添えて、そのままじぃ………………と、己の頭の天辺から両手足の指先爪先まで穴でも空けんばかりに見詰め、見据え。

 

「服、脱いで」

「は」

「上だけでいいから、上半身全部、ほら早く」

 

 言われるがまま上着とシャツを脱ぐ。添付されたマップの道程の険しさを考慮して、現在自身は厚手の作業服姿。そのまま地面に放ろうとしたところを、博士にそれらを引っ手繰られる。

 そうして右手には、筋力トレーニングおよび“バランス調整”の為に装着しているリストウェイトが残った。

 

「手首のそれも」

「はい」

「……重っ、なんでこんなの付けてんのさ」

「御手数をお掛けします」

 

 彼女は眼前にホログラムウインドウを立ち上げ、指先で画面をなぞった。すると突如、我々の傍らに作業台と思しき金属テーブルとリクライニングチェアが()()()。量子変換。物体を非物体、電子情報に置換、格納するという超技術。

 博士はてきぱきと上着、シャツを畳み、台の上へと放った。リストウェイトはその上に、それこそ重しの如く置く。

 肩に掛けていたポシェットから掌に収まるほどの小さな矩形の板切れを取り出し、これもまた台の上へと放る。

 

「座って」

「はい」

 

 言われたとおり現出された椅子に腰掛ける。

 博士は今一度ホログラムウインドウとさらにコンソールを立ち上げ、何らかの入力操作を始めた。すると、卓上にある矩形の板――端末機らしいそれが発光し、一瞬で己の全身をその光線で撫で上げた。

 

「やっぱり光学スキャンじゃ無理か……順調に育っちゃってまあ」

 

 一言ぼやくと、彼女はポシェットからまた何かを取り出す。

 基板を取り付けられた透明なフィルムのようなもの。それを複数枚、ぺたぺたと上半身の至る所へ貼り付けていく。これはどうやら、所謂表面電極というやつらしい。

 

「?……ねぇ、なんでここ、こんなに腫れてるの?」

「は?」

 

 左肩……現在もまた顕現させている義腕と生身の肩口の辺りに触れながら、彼女は言った。不可解、といったニュアンスをその声音から覚える。

 一瞬考え、すぐにその理由に思い至った。

 

「パワーアシストを切っています。おそらくはそれで」

「は? なんでそんなことしてるの」

「ウェイトトレーニングの一環です」

「……この腕、軽く30kgはあるんだけど」

「右腕とバランスを取るのに梃子摺りました」

「バカじゃないの」

 

 心底から、信じ難いものを見るような目で見下ろされ、呆れ返って仕様もないといった声を上げられ、最後に彼女は溜息を吐き出した。それはもう盛大に。

 彼女はポシェットに手を伸ばす。中から現れたのは丸い容器。蓋を開けた中身は何かの薬品、軟膏だった。

 それを彼女は指先に掬い取り、左肩へ塗り込んでいく。

 

「これは」

「束さん特製『なんでもナオ~ルα』。自己治癒力を高めるだけのつまんない薬。副作用はないし切断し立ての腕くらいならくっ付くよ。けど現代の医学薬学じゃ向こう半世紀は作れないし認可も下りない。ま、御大臣くんの許しなんて私は要らないからどうでもいいけど」

 

 さらりととんでもない物を塗ったくられていた。

 ひどく丹念に丁寧に軟膏を塗り込めると、博士はその薬品容器を先程畳んだ己の上着のポケットへ突っ込む。

 

「ワンの再生能力が君に備われば、こんなもの必要ないんだけどね。後で君が捨てといてよ」

「いえ、大切に使わせていただきます。ありがとうございます」

「……ふんっ、勝手にすれば」

 

 言い捨てて、彼女は再びコンソールを叩き始める。

 身動きするのは憚られ、ただ目礼するより他になかった。

 身体に取り付けられたスキャナーが、己の現肉体状況、そして体内に据わった存在を精査している。ほんの一分程度の時間でそれは終わった。

 黙して画面を見詰めていた博士がこちらへ振り返る。

 

「診察終了。綺麗に定着、いや……融合してるよ」

「融合、ですか」

 

 事ここに至れば彼女が今晩己を呼び出した理由は明白。我が体内にて生育する彼女謹製の生体ⅠS、その現状を調査しに来たのだ。

 そして結果は……良好と、言えるのだろうか。

 

「前に君に宣告した余命はハズレもハズレ大ハズレ。ワンは君の中で順調に成長して、今や生体機能を代替するどころか君の肉体そのものになろうとしてる。骨格(フレーム)の変異は特に顕著だね」

「……」

「相性が良かったのか、ワンの環境適応能力が破壊的でなかったからか、それとも君を気に入ったのか……なんにせよおめでとう! 君は晴れて人とIS双方の特性を獲得したハイブリッド人類になれましたとさー! パチパチー! サイボーグってのはちょっと陳腐だし()がないね。ワンの可能性は無限だ。君の今後すら予測不能。無限の拡大、拡張、進化するIS……EIS(エイス)ってとこかな?」

 

 ずいと、顎の下から彼女は己を見上げた。口元には笑みさえ浮かべて。だのに、まるで挑まれるが如き威圧が彼女の瞳から放たれている。

 

「人間から遠ざかっていく、化物になった感想は?」

「特にありません」

「ないんかい!!」

 

 叫ぶや否やその場で仰け反り両手を広げ、片足は地を削りながら中段まで上がる。スカートであることをやや心配したが、流石は篠ノ之束博士、中が露出せぬぎりぎりをきちんと把握している。そのことに安堵した。

 なるほど、これがズッコケというものなのだろう。

 片足立ちになっても微動だにせぬバランス能力はひとえに体幹の強靭さ故。身体能力一つ取っても、やはり天才か。

 ゆっくりと彼女は姿勢を戻し、こちらへ向き直った。今度は両手をポケットに突っ込み、不機嫌そうに眉間に皺を寄せつつ睨み付けて来る。柄の悪いチンピラの真似をする美女、というなかなか不可思議な姿。

 

「リアクションがさー、毎回なんか期待通りじゃないっていうかさー。もっと、こう、なんかあるんじゃないの? ん? ん?」

「ご期待に沿えず、慙愧に堪えません」

「そういうんじゃないんだってば!」

 

 両手をぶんぶんと振り回して篠ノ之束は怒った。物分りの悪い老爺に手間取る孫娘のように。

 それを愛らしいと思うのは、真剣な彼女に対して無礼であろう。

 とはいえ、彼女が一体己にどのような反応を期待しているのか、それは想像するより他にない。問題は、日野仁という男が化物と呼ばわることに、もはや()()()()()しまっていることだった。

 

「……なに、それ」

「?」

「なんで笑ってるんだよ、君」

 

 己の顔を見据え、博士は一層不機嫌そうに言った。とても不愉快であまりにも面白くないから――そのまま泣き出してしまいそうな。

 何故、彼女がそんな貌をするのだろう。

 己の表情の変化から、そのような疑問を感じ取ったのか。彼女はさっと顔を背けて、コンソールを乱暴に叩いた。

 

「知らないっ」

 

 同時に、今の今まで沈黙を貫いていた謎のキューブが発光した。

 キューブにはそれぞれの正方形面に中心線が走っており、おそらくそれらが開口部。まるで花弁が広がるかのように、外装が四方へと開花する。

 あれはやはり“箱”だったのだ。中に何かを格納する為の。

 そして程なくその何かは、我々の前に姿を現した。

 

「君のモニタリングはまだまだ続くんだ。この程度じゃ終わらない。丁度いいや。決闘(笑)は今日だったね。“コレ”で実戦をテストしてもらうよ」

「IS……?」

「そう。君の、EISである君だけのIS専用強化外骨格――――」

 

 (あたか)も蓮華のように開いた箱の中央に、それは()()()()()。比喩でも諧謔でもない、人型の何かがそこに。

 黒い鬼神。

 

「――――『提陀羅(だいだら)』」

 

 

 

 

 

 

 



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22話 決闘/新型 前

 第三アリーナ格納庫。A番整備所(ピット)

 高耐久クリート打ち放しの広い空間には現在、整備士は勿論待機するISすらない。塵埃の流入が命取りの精密機械を扱う場とあって明り取りの窓もないが、室内灯は必要十分な光量を齎してくれる。

 壁に埋められたデジタル時計を見る。もうあと五分ほどで決闘の刻限であった。

 がしかし、今以てこの場には、やはりISの一機すら顕現してはいない。

 

「……一夏さんの専用機は、間に合いませんか」

「そのようだな」

「あらー」

「いやあらーじゃないだろう! 仁も織斑先生も一夏もなんでそんな冷静なんだ!」

 

 焦燥を露に、箒さんは声を上げた。彼女の声は良く通る。この場が空間として広大であることとなにより、彼女の腹式呼吸と肺活がよくよく鍛えられている証左であろう。

 傍から見れば泰然とした織斑姉弟、そして悠長を晒す己に少女は怪訝な顔をした。

 彼女の焦りは尤もだ。相手は代表候補生、操縦技術において並ならぬ練達を重ねている。加えてかの少女が駆る機体は現行最新鋭の第三世代型IS“ブルー・ティアーズ”。機体性能もまた折り紙付きと言っていい。

 習熟度と経験値ではどうあっても敵わぬならば、せめて機体だけでも量産機を凌ぐ性能を有したものを使って欲しい。少年に対する少女の思いやりを感じた。

 

「仕様もあるまい。初戦はジン、お前から行ってくれ」

「はっ」

「つってもジンだって専用機持ってないんだろ。やっぱり俺もウチガネ……だっけ? その量産機使うからさ」

「いや、しかしだな」

「ぐだぐだ喚くな。心配せんでもジンの専用機は既に用意されている」

「え」

「そうなのか?」

 

 物問いにこちらを見やる一夏少年に頷き返す。

 受け取ったのはほんの十四時間前だが。

 途端、千冬嬢の怜悧な面差しがうんざりとばかり顰められる。

 

「……起き抜けにあのアホのテンションは堪えたぞ。その上新型ISを譲渡済だと? 相変わらず好き勝手し腐っているらしいな、天災(あれ)は」

「はい、御息災かつ明朗赫然の様子で」

「元気過ぎるわ。それから、お前の無断外出の件は既に密告(たれこみ)が来ている。というかまあそのアホからだが。懲罰は追って沙汰するからその積もりでいろ」

「……お手柔らかに」

「さあ、どうかな。くくくっ」

 

 意趣返し。そういったニュアンスを覚えずにはおられない、そんな笑みだった。

 耳聡くそれを聞き取ったのはやはりというか一夏少年である。

 

「無断外出ってどういうこと」

「昨夜、いえ今朝の三時頃に少し」

「……ふーん」

「何分にも急な召喚だった為、事前にお伝えしておくことができませんでした。申し訳ありません」

「別に…………起こしてくれれば一緒に行ったのに」

「よく眠っておられましたので、忍びなく」

「次は絶対付いて行く。絶っ対」

 

 への字に曲がった口と半眼、可愛らしく立腹する少年はそのまま頬でも膨らませそうな勢いである。

 袖口をぐいぐいと引っ張られながらも、己には為す術などなかった。

 

「…………」

 

 刻限が近い。

 やんわりと少年の手を放し、後ろへ退がるよう示す。少年は素直にそれに従い、箒さんもまた我が身から距離を取る。

 ちらと見れば、千冬嬢が一つ頷きをくれた。

 最後の許しを得て、もう一歩前へ踏み出す。肩幅に脚を開き、両手はだらりと下げ落とす。

 ソレを呼び出す上で固有のコールやコマンド、ルーティンは不要である。ただその意図を以て念ずればいい。

 

 ――提陀羅(だいだら)

 

 虚空より出でる黒い人型。それは己の背後、まるで滲み空間を染め上げるように形を成す。ソレの()()()に亀裂が走り、開くや否や後背から一挙に己の身体を呑み込んだ。

 右肩、右腕、脚、腹、胸、そうして頭部、終には顔面および口部。

 現実には一刹那にも満たぬ瞬時。真実光の閃きと同等の間に変化を終えていた。

 この左腕もまた。

 

『内皮強制変異開始――外殻擬似神経との癒着完了』

 

 この“装甲”にIS用パイロットスーツは用を為さぬ。優れた筋肉活動電位の伝導効率化作用を齎す人工皮膚技術の結晶が、己とコレにとっては全くの無意味。否、障壁でさえあった。

 最たる理由は一つ。

 

『筋組織再編成開始――外殻擬似筋肉との結合完了』

 

 これは、厳密には着装する為のものですらないのだ。(よろ)わず、纏わぬ。

 装甲であって装甲に非ぬもの。

 我が第二の皮膚(かわ)であり、筋肉(にく)であり、そして外骨格(ほね)

 

『外骨格並びに内骨格同期。物理アンカー埋設――固定パイル入射』

「がっ……!」

 

 外殻表面に生えていた無数の棘が瞬時に収納する。

 両手足胴首、それら五体の主要な関節十六ヶ所へIS特殊合金製の棘――杭が直接打ち込まれたのだ。

 筆舌に尽くし難い激烈な電気信号が神経をズタズタに掻き乱しながら全身を走り抜ける。視界は惑乱し、肉体の在処をあたかも見失う――錯覚である。身体は、機体は微動だにせず、痛覚は既に我が統制下にあった。

 その時、右後背より接近する、一人。視線を向けるまでもなく、起動したハイパーセンサーは360°全てが有効視界。

 だからとて、動かず相手を待つが如き真似は無精この上ない。歩み寄ってきた千冬嬢に振り返り、正対する。

 体高のさらに増した自身を見上げ、彼女はそのまま己の顔、面頬に触れた。冷えたその指先とは裏腹な彼女の心根が、あるいは生身のそれ以上に伝わってくる。

 真っ直ぐな瞳、漆黒の水面が僅かに揺れていた。

 

「問題ありません」

「ない訳があるか! 私がその機体の特性を知らないとでも……!」

「千冬姉?」

 

 語気を強める姉君の様子に、当然ながら少年は異変を覚る。

 これ以上、彼に心配を掛けたくはない。彼女にも、掛けたくなどなかった。

 

「行きます」

「……ああ、行け。行ってしまえ。後でたっぷり締め上げてやる」

「ふっ、それは恐ろしい」

「ばか」

 

 ブラウザを立ち上げ、アリーナ内PCネットワークにアクセス。事前に使用者として登録していたアカウント権限により、A番整備所のIS発進用オーバードアを開く。

 重い機械音を響かせ、視線の先、やや上り勾配のトンネルの向こうで左右に収納される扉の影。外界の光が白む。

 慣性制御機構(パッシブ・イナーシャル・キャンセラー)を発動。機体の静止状態を解除し、そのまま床を蹴って跳躍する。この時、推進器(スラスター)はあえて用いなかった。

 だが爆発的推力を得ずとも、パワーアシストを受けた脚力にPICによる慣性力増強効果が合わさり、たった一蹴りの前進で機体は発進口を潜り、カタパルトすら跳び越えた。

 中空に身を躍らせる。地表までの5mを滑空し、均された地面を足下歯止(アイゼン)で削りながらに停止する。

 晴天、空は澄み、西に傾き始めた陽光も眩い。

 その青空の只中に、穿つかのように鮮烈な蒼の機影が一。既に彼女は戦装束に身を包み、己を待っていた。

 ハイパーセンサーによる視覚強化。滞空する敵影を自動的に捕捉する。望遠倍率が上がり、こちらを見下ろす貴嬢の表情すら見て取れた。

 少女は、まるで検分するが如く本機の様に目を細めている。

 

「……それが貴方の専用機、ですか」

「はい」

「はっ、なんという歪さかしら。その有様で畏くもISの名を冠するなど、恥を知りなさいな」

 

 鼻を鳴らし、少女は嗤う。

 歪。その忌憚を排した批評は正鵠を射ている。

 この身は整然とは程遠い。欠けた身体を補う為に、身に過ぎた稀物を抱え込んだ。無理が出るのが道理というもの。

 しかし。

 

「知るべき恥など、ありません」

「……なんと、仰いまして」

 

 その言葉にただ肯くことはできなかった。彼女の今の評、己一身に納め切るには些かならず()()()いる。

 

「今、恥を知るべきは己ではなく貴女だ。セシリア・オルコット」

「大言を吐きましたわね。惰弱な男が」

「訂正を求めます。歪なるは己一身のみ。当機“提陀羅”を構築する理念に(ゆがみ)は絶無」

 

 かの大天才謹製の作。あの御方が丹精を込め、心血を注ぎ、愛を以て創り上げた468番目の御子。その()()姿()こそがこの提陀羅なのだ。

 博士の慈愛、その結晶を否定する少女の言を認められよう筈がない。

 面頬に穿たれた眼窩より彼方を見上げる。対して、こちらを見下ろす少女は表情を歪め、僅かにたじろいだ様子。

 

「……なら、正させて御覧なさい。大言壮語に見合うだけの強さで!」

「承知。御相手仕る」

 

 重心を落とし、浅く半身立ち。右肩、右脚をやや前へ出す。

 上空では、蒼の機体は既にその手に武器を構えていた。身の丈ほどもあろう長銃身。火砲の名に恥じぬ長物。

 

『敵機固有武装「スターライトmkⅢ」と断定。当機を捕捉しました』

 

 無機質な、それでいて清澄なソプラノの機械音声が告げる。

 提陀羅という発声器を通して、己は初めて言葉を交わしたことになるのだろう。我が身に宿る、その存在と。

 

「接敵する」

『了解。エネルギー経絡(ライン)確保。圧縮率95%。背部推進器(スラスター)スタンバイ』

 

 無感情に、だが最速を極めて、生体ISワンは己の求める最適解を提示した。

 最後の一工程。火を撃つのは己だ。

 最初の一合。意を放つのは己だ。

 

「せめて無様に踊りなさい! わたくしとブルー・ティアーズの奏でる円舞曲(ワルツ)で――――」

「イグニッション」

 

 囁くように、唱えるように、あるいは口ずさむような軽やかさで突進の発破を打ち掛けた。

 瞬間、世界が消失し――――

 

 

 

 

 

 

 

 ――――気付けば転身し、蒼い少女の()()()()()()()

 アリーナの遮蔽シールドに足を付け、上下が90°ばかりずれ込んだ視界の中、程なくゆっくりとこちらへ振り返ったオルコットさんと目が合う。

 言葉も無く、少女はただ愕然と当方を見詰めていた。

 内実を言えば、驚愕しているのは何も彼女だけではない。己自身にしてからが、現状の把握にすら窮している。

 ただ言葉で表現するのは容易い。推進器で推力を得て、少女の横合いを擦り抜けてアリーナのシールドに着地した。

 想定を遥かに超えた加速によって。

 

「95%?」

『95%です』

「先程の、供給エネルギーを圧した値を……」

『95%です』

「……5%ではなく?」

『エネルギー圧縮率95%による加速性能です』

 

 まるで噛んで含めるようにしっかりとワンは己に言って聞かせた。

 それこそ、いい加減に認めろと言わんばかりの、人間味に溢れた調子で。

 供給したエネルギーを圧縮し、その解放・放出力を利して爆発的推力を得る……瞬時加速(イグニッション・ブースト)と呼ばれる加速技術が存在する。

 ワンの言を信ずるならば、先の加速は100のエネルギーを95に圧し、解放されたパワーで以て推進力を得たことになる。

 単純計算を当て嵌めるならば、その数値の伸び代(ポテンシャル)は考えるだに――無駄なことだ。皮算用など。

 今はただ、彼女の言葉に納得するより他あるまい。

 

「っ、ティアーズ!」

 

 少女の声に呼応して、花弁が舞い散るが如く推進翼(スラスター・フィン)の刃先が分離し、蒼い雫が飛翔する。その数計四基。

 

『自律機動兵装「ビット」。当機を捕捉しました』

「回避……いや、攪乱機動に移る。推力現状維持(そのまま)

『了解。背部及び脚部推進器スタンバイ』

 

 惑いも驚きも喉奥へ蹴り戻し、直面している現状を突破する術策のみ思考を許す。

 まず手始めに、提陀羅(おのれ)を知るとしよう。闘争はまだ始まったばかりなのだから。

 

「――――イグニッション」

 

 

 

 

 

 

 




次回30日零時予定



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23話 決闘/魔神 中

セッシーのファザーコンプレックス可愛すぎると思うの。



 

 

 どうして。

 どうしてお父さまとお母さまはケンカばかりするの?

 どうして。

 お母さまはお父さまが嫌いなの?

 どうして。

 お父さまはお母さまが恐ろしいの?

 イヤです。そんなのはイヤ。

 夫婦は、仲よくしなくてはダメなの。

 恋人とは、アイしあわなくちゃいけないの。

 セシリアは仲のいいお父さまとお母さまがいい。ふたりがアイしあっていてほしい。だから。

 がんばるから。ふたりの自慢のこどもになって、夫婦になってよかったって。きっと思わせてあげるから。セシリア、もっといい子になるから。お勉強もお歌もバイオリンもバレエも乗馬のお稽古もぜんぶぜんぶ、もっともっとがんばるから。

 お願いだから。

 

 仲よくしてよ……ねぇ、なかよく――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 刻限だった。

 左耳に飾った蒼いイヤーカフス。これに触れると、自分が何者であるのかを思い出せる。

 セシリア・オルコット。それが自分の名前。

 名門オルコット家の現当主。それが自分の責務(つとめ)

 IS操縦者にしてイギリス代表候補生。それが自分の矜持。

 現代社会を、未来の世界を、牽引し切り拓く者――女として生を受けた自分。

 (わたくし)が己であるという証、ブルー・ティアーズを起動する。ワンピースタイプのISスーツ、それを帯びた身にさらなる戦化粧を施す。

 両手は高感度マニピュレータ、両脚は大出力推進器(スラスター)へ変わり、四枚の推進翼(スラスター・フィン)非固定浮遊部位(アンロックユニット)として背面に並列する。

 最後にレーザーライフルが顕現し、戦闘準備は万端整った。

 

「快調ね」

 

 完全武装までにおよそ1秒。熟練者を名乗って申し分ない展開速度だ。

 しかしこんな芸当は、代表候補生たる自分には為し得て当然のこと。

 そして今よりもう一つ、些事を片付けに行く。増長慢の愚か者、身の程を忘れた哀れな子羊。

 男という名の劣等性種に、現実を叩き付けるのだ。

 それはきっと自分にしかできない。

 その筈だ。

 そうである筈だ。

 そうでなくては、いけないのだ。

 でないと、また、わたくしは、忘れた過去を振り払えない。いつまでも。

 いつまでも。

 いつまでも。

 いつまでも。

 女尊男卑。それこそが世界の真実。それこそが正しき姿……そう信じ続けないと、わたくしは。

 わたくしのおかあさまとおとうさまは――

 

「……」

 

 雑念、妄念を払い去る。ここ一週間、事ある毎にリフレインする同じ光景を。

 今はそんなものに埋没している時ではない。為すべきことを為さねばならないのだ。

 PICを発動。推進器を噴射。一瞬にしてB番整備所(ピット)から外界へと舞い上がる。室内から室外、明度の変化が目にも眩い。ハイパーセンサーを席巻する抜けるような青空に、曇る胸中が少しだけ晴れ間を見せた。

 僅かに遅れて、A番整備所から機影が飛び出す。

 来た。敵方のIS。本日の決闘は三名の総当り(リーグ)形式。最初に我がブルー・ティアーズの閃光で射抜かれるのは、織斑一夏か、それとも日野仁か。

 どちらでも構わない。区別無く容赦無く撃つ。それだけ。

 

「ッ!?」

 

 決意も新たにせんとして――しかし、ハイパーセンサーによる高解像度の視覚が“ソレ”を捉えた瞬間、定めた筈の心に認め難い揺らぎが生じた。

 機影は中空を踊り、滞空せずにそのまま落下姿勢へ。地表を荒く削りながら、その二脚でしかと立ち止まった。

 各国が競って改良製造を続けるISは、戦闘スタイルや運用コンセプトの違いから多種多様な姿形をしている。BT兵器の試験運用機という企図の強いこのブルー・ティアーズなどは特に、デザインも含めて他の機体より個性的と言えるだろう。

 だがしかし、“アレ”に比べればそんなものは途端に瑣末な、差異とさえ呼べぬものに成り下がる。ブルー・ティアーズは十二分に()()()()()()()だった。

 

全身装甲(フルスキン)……)

 

 IS操縦者は通常、両手脚の機械肢および推進器に加えて、皮膜装甲(スキンバリア)という非実体・不可視の装甲で身体を保護されている。そうでなくともシールドバリアという強固な防壁を持つISに、実体ある装甲は無意味の三字。

 だというのに、眼前の存在はその論理と真っ向から対立していた。

 一部を除いて、全身のありとあらゆる箇所を黒い、艶の一切抜け落ちた黒の()()で覆い尽くしている。生身の露出した場所など一分とてありはしない。

 脚部は、足先に二本、踵に一本鋭利な爪が生えており、先程はそれをランディングギアのように地面に突き立てて制動していたようだ。脛から膝に掛けてやや反り返り、膝から上の太く強靭な大腿へ繋がる。

 上体の可動性を考慮してか、腹部の装甲は薄く細く締まり、反面胸部装甲の分厚さが際立った。

 右肩部には巨大な広葉樹を二枚重ね合わせたかのような肩甲(ショルダーアーマー)

 腕もまた太く、前腕から一体の篭手として繋がった拳はまるで巌のよう。 

 頭部を首筋まで覆う兜には、額から一本、左右の米神、両側頭部にそれぞれ一本ずつ。計五本の()が生えていた。後頭部へ向かってゆるく流線型をした五角。おそらくは各種センサー類を内蔵しているのだろう。けれど。

 

(けだもの)……? いえ、もっと(おぞ)ましいなにか……)

 

 顔面と口部もまた例外はなく、兜と一体の鋭角的な面頬(フェイスガード)で隠されている。

 唯一穿たれた眼窩は鋭く吊り上がり、内部に水晶体(レンズ)らしきものが光るだけ。虹彩など当然なく、それも仮面の意匠の一つに過ぎなかった。

 

(なにより、あの左腕はなんですの……!?)

 

 異様のISにさらなる異常性を付与するもの。

 それが、闇を塗り込めたかのような対手唯一の色彩。白銀に光る左腕だった。

 造形それ自体は右腕とほぼ同一。だがその(スケール)が、あまりにも違う。

 指先が(くるぶし)に触れるほどの長さ、太さも一回りは増幅している。

 肥大した左腕が齎す非対称という目眩にも似た錯誤感が、得体の知れないその存在に、もっと底の見えない何か恐ろしいモノを想起させた。

 ――同時に確信する。その黒き魔神の装甲者は、日野仁。あの巨躯の男であると。

 そうして、忘我する心地で敵機の観察を終えた。高速化した今の思考速度ならば、それは数秒の出来事でしかなかったけれど。

 

(あんな、虚仮脅しに……!)

 

 その僅かな時間で、自分は怯え、竦んでいるというのか。

 そんなことは認めない。認めてなるものか。

 

「はっ、なんという歪さかしら――――」

 

 努めて相手を嘲弄する。動揺を鎮めるその暇を欲して。

 自分自身を叱咤する。胸の内深く、鎌首を擡げそうになるそれ、戦慄を押し隠すように。

 どうせ応えは決まっている。卑屈に媚び諂い、謙遜という名の隷従なる様を見せてくれるのだろう。

 そう決め付けた矢先。

 

「今、恥を知るべきは己ではなく貴女だ」

 

 油断した心に刺し込まれた言葉。仮面越しの声はやや変調し、ただでさえ低いそれが地の底より響くかのような重みを持つ。

 思いもしない反抗に、虚を突かれた。

 

(違う)

 

 これで正しいのだ。

 鋭い眼。仮面の下より突き刺さる強い視線。

 自分の意見を否定する他者の意思。純粋なそれが自身へ注がれている。

 

「正させて御覧なさい」

 

 相反する、対立する意思と意思がぶつかり、相争う。

 己の正しさを認めさせる為に。証明する為に。

 そう。それでいい。

 間違っていると感じるなら、相手の勝手自儘に怒りを覚えたなら、抗えばいい。戦えばいい。それが人だ。人として当然の営みだ。

 だから。

 全力で叩き潰す。

 わたくしはわたくしの正しさを証明し続ける。

 このブルー・ティアーズで。

 

「せめて無様に踊りなさい!」

 

 ライフルを構え、照準。マニピュレータは正確無比に長銃身のライフルを下方へ、戦闘態勢を取る敵機へと差し向ける。ISからの射撃統制(ターゲットアシスト)と何よりも延々と積み重ねた己が技術。

 この距離ならば絶対に外さない。そのままトリガーを――――

 

『ターゲットロスト』

「え?」

 

 ISからの状況報告。とてもシンプルな、見たままの事実。地表には既に黒い姿はなく。

 遅れて、風圧とその嘶きが感度を増した聴覚を揺さぶった。

 気付く。360°全方位をカバーする視界。背後にその黒が。

 

「……」

 

 振り返り、仰ぐ。

 位置関係は逆転していた。

 推進器を使ったのだ。それは分かる。でも理解は未だ及ばない。

 速度。ただの加速で、こちらの捕捉を振り切られた。

 馬鹿な。そんなことが。

 

「(あってなるものですか!)っ、ティアーズ!」

 

 自律機動兵装ビットを分離、射出。

 滞空した四基が散開しつつ敵機を包囲する。同時に自身もまたレーザーライフルを構えた。

 逡巡の間すら惜しい。思考制御下にあるビットと、ライフル両方のトリガーを引いた。

 

「イグニッション」

 

 光条が降り注ぐ。

 敵機にではなく――アリーナの遮断シールドへ。不可視の壁に当たった瞬間レーザー光は熱と衝撃を発散し、掻き消えた。

 

「くっ!? また!」

 

 自動追尾センサーに感。自身の左後方100mの位置に機影。

 あの一瞬で、移動したというの。

 しかし今度は止まらない。内心で弾ける驚愕を無視して、四基のビットをターゲットへ差し向け自身も転身し標的へ銃口を向ける。

 ビットとライフル、五門の砲より走る閃光。五方向からの一斉砲火だ。

 避けられる筈が、ない、のに。

 黒が、動く。空間を()()()()()()()

 光の雨の間隙を縫いながら縦横無尽に、あたかも“跳躍”している。

 ちかちかと推進器のアフターバーナーがほんの一瞬だけ光り、その残光を引いて鋭角な軌跡を描く。光で空間を切り裂きながら、来る。

 接近警報。

 照準。だがターゲットマーカーが定まらない追い付かない。あれほどの巨躯を、捉えられない。

 

「なんなんですのっ、その機動性は……!?」

 

 瞬き一回分の迷い。ビットの火勢を潜り抜けて、今、眼前に。

 肩に衝撃が走った。

 

「ッッ!」

『右肩部に被撃。シールド損耗』

 

 無感情なシステムボイスが無慈悲な事実を告げる。

 攻撃を受けた。こうもあっさりと。

 しかし、それ以上に自身に衝撃を与えたのは。

 

「武器を構えていない? 拳……殴られたというの? わたくしが……!?」

 

 敵機は武装を展開していない。銃器はおろか近接戦用ブレードすら。

 無手。その岩石のような拳で、擦れ違い様にこちらの肩を削ったのだ。

 

「ふざけないで!!」

 

 それは途方も無い屈辱だった。かっと身体が熱を帯びる。心拍、脳波の乱れを感知した機体から注意報知が為されるが、そんなものに構うだけの余裕はなかった。

 撃つ。撃つ。撃つ。撃つ。

 ビットとライフルの砲身が連射に次ぐ連射によって熱を帯びていく。限界性能を考慮しても未だ許容範囲ではあるが、これほど短時間の内に警告が鳴るのは初めてだった。

 IS側の射撃統制(アシスト)は無視する。目視、マニュアル制御の偏差射撃を敢行。コンピュータの照準・捕捉など、あの黒い魔神はいとも容易く振り切っていく。

 最大速力は勿論だが、その加速性こそが異常だった。

 瞬時加速にも匹敵する凶悪な推力。それをああも連続して。

 

(正気じゃない)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「全く以て正気ではない」

 

 アリーナ管制ルームの仄暗い室内で、大型スクリーンに投映された黒い機体に悪態を吐いた。いや、正確にはその機体の生みの親。正気など生まれる前からどこかに置き去ってきた天才と呼ばれる女に向けて。

 

「すげぇ……ジンってあんなにISの操縦上手かったのか」

「う、うむ。昨日今日の技量とは思えん……」

「稼働時間、厳密にはデータ取りの為に用意された各種量産機の使用時間だが、あいつはあれで120時間以上のIS装着経験がある」

 

 国産IS打鉄(うちがね)、フランス産ラファール・リヴァイヴ、イタリア産テンペスタ等々。当初はそれこそ唯一の男性IS適性者だったのだ。ここぞとばかりにモニターをさせたがる国は当然ながら数多い。

 IS学園入学までの半年間、本格的な研究・実験に踏み出すべきとの方々の意見を捻じ伏せるのは骨が折れた。

 最低限のデータ収集に留めてなお120時間を超える経験値、到底喜ぶ気にはならない。

 無論、操縦技術の基礎はそういった経験が下地を成しているのだろう。しかし、あの機動性能はそれだけでは説明できないものがある。

 

「織斑くん織斑くん! 来ましたよ! 貴方の専用機……あ、もう試合」

 

 スライドドアを開いて真耶が入室する。彼女はスクリーン上で繰り広げられる戦闘に一瞬言葉を失くし、それでもすぐに要件を思い出した。

 それに頷き、一夏を見やる。

 

「織斑、先にピットへ行って機体を見て来い。装着手順は後で教えてやる」

「えぇー、もうちょっと待ってよ、っあぁいや、待ってくださいよ。ジンの試合が」

「映像は端末に回してやる。さっさと行け」

「お、やりぃ」

 

 途端、素直に踵を返す少年に苦笑が漏れる。現金な。

 出口へ向かう一夏に箒が続く。

 

「……私も付いて行くが、いいか?」

「? 別にいいけど。はは、確認取ることじゃないだろ」

「そう、だな。うん、確かに」

「変な箒」

 

 そうして二人は連れ立ってドアの向こうに消えた。

 再度、視線をスクリーンに戻す。

 情勢に然程の変化は無い。至極、一方的だ。

 

「あれが、例の」

「ああ、今朝職員会議で報告した奴だ。スペックカタログには目を通したか?」

「はい……正直、信じられません。あんなコンセプトのISを……」

(あいつ)の作にしては随分と不細工な代物だ。装着者との有機結合など」

 

 ビットとライフルによるレーザー斉射を、提陀羅(だいだら)、黒い機体は苦も無く躱し、それだけに止まらずその激烈な加速で以てブルー・ティアーズの懐へ飛び込んだ。

 武装は一件。重厚頑健なる拳に莫大な推進力で得た速力を乗せて、打ち出す。

 蒼い機影がぐらりと傾く。シールドバリアが無ければ脇腹を抉られていたことだろう。

 後方へ擦り抜けた敵影を追ってオルコットはライフルを向けるが、その砲火がジンを焼き焦がすことはない。

 あの機体は曲線飛行(カーブ)をしない。いや、できない。推進器の反作用によるただの直進飛行(ストレイト)だけが、あれの移動方法なのだ。

 変幻自在の慣性モーメント操作と強力な推進器出力にものを言わせた、超鋭角機動。

 じぐざくと空間を寸断するが如き鋭さで、黒の機影は光条を躱し続けていく。

 

「っ、無茶です! あんな加速を続けていたら、身体が持たない!」

「その為の全身装甲なのだろう。常軌を逸した加速性能と最大速力によって、五体がバラバラに()()()()のを防ぐ、謂わば拘束具……」

 

 そして、主要な関節十六ヶ所へ直に打ち込まれた固定杭。それがあの機体最大の“攻撃能力”を実現する。

 通常、ISは『皮膜装甲』および慣性制御機構『PIC』によって、高速機動時に発生するG負荷から操縦者を守っている。

 現行の主力戦闘機を超える戦闘速度(ファイティングスピード)を、物理法則をオーバーテクノロジーで踏み躙ることで可能にしたのだ。

 しかし、物質界の理は今以て我々を縛り続けている。如何なPICとて万能ではない。その性能を上回るほどの慣性力(パワー)とISコアの演算能力を上回る速力(スピード)にはどうしたとて敵いはしない。

 そうして御し切れぬほどの力の代償は、自己の肉体で支払うことになる。

 最たるものは、瞬時加速。

 放出エネルギーの再圧縮によって爆発的推進力を得る高等技術だ。それを多段階的に発動することで、ISの加護を受け強化された知覚能力すら凌駕する、超高速機動を行使できる。

 しかしそれには寸毫の狂いも許されぬ精密な機体制御とハイパーセンサーすら振り切る凶悪な速力を制する反応速度が必要となる。

 僅かでも操法を誤れば人体に深刻なダメージを被るだろう。血流欠乏(ブラックアウト)ならばISの保護機構が墜死から操縦者を守るだろうが、骨折や内臓破裂、四肢の破断ともなれば……もはやISの機能ではどうすることもできない。

 

短絡的(シンプル)な、呆れるほど合理的な結論だ」

 

 ISの知覚速度を凌駕するほどの高速機動を実現する為には。

 人体を損壊するほどの負荷に耐え得る強度、人外と呼ばわるだけの知覚反応速度。それら二つを備えた肉体を持つ人間がいればいい。

 そうして(ヤツ)は造った。

 あの男を、あいつの身体を容れ物に使って。

 あいつを。ジンを。私達の――――

 

「……十五分。持った方だな」

「え?」

「そろそろ決着が付く。織斑達を追い掛けよう」

「は、はい」

 

 スクリーンから視線を切り、早々に管制室を後にする。

 整備所へ向かう道すがら、思考は現状から遠退いて一人の女を思う。変人。悪友。幼馴染。天災――天才。疑う余地のない天稟に愛されたその女に対して、初めてかもしれない。疑いの目を向けるのは。

 

 ――――束、お前は、ジンに何を求めている

 

 

 

 

 

 

 

 



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24話 決闘/父母 後

ヤンデレの形は一つではないと思うんです。
だからこんなデレ方もありなんじゃないかなーとか思ってたら筆が滑りました。
オルコッ党員さんすみません見逃してくださいなんでもしますから。


 

 これで幾度目になる。

 銃口から発射された熱光波が奔り抜け、狙い定めた標的ではなく、空を貫く手応え。そう手応えだ。直に触れる。あるいは鈍器、刃物を敵にぶつければ返ってくる相応の衝撃。それは飛道具であるところの銃砲火器にすら存在する感覚だ。

 命中と共にトリガーに触れた指先から腕、肩から全身へと伝播するような震え。いつもならば感じている筈のソレを、今日この日この時に限って一度として得られていない。

 ただ空虚だった。

 しかし、焦燥は胸を焼き続けた。苛立ちは止まるところを知らず、刻一刻と諦めへ傾こうとする精神を歯噛みして奮起させる。

 負けない。

 負けてなるものか。

 負ける訳には、いかないのに。

 来る。黒い魔神、獣、(オーガ)。あの男が――――

 真正面から迫る機影に必然としてライフルの照準を合わせ、撃つ。この間コンマ二秒にも満たない。今、自身でも驚くほどの集中力を発揮している。

 だのに。

 巨躯が錐揉み(ロール)する。レーザーそのものに()()()()かのようにして、体軸の一回転と僅かな上体の動きだけで回避運動を終えた。

 

(弾道が見えている……!?)

 

 接近警報。

 もう遅い。こちらも回避運動を。

 右拳。下方からの掬い上げるような打撃が、すり抜け様に背部推進翼(スラスター・フィン)の一枚を砕いた。

 

『一番推進器大破。推力25%ダウン』

 

 本体への直撃は免れたものの推進力(あし)を殺がれた。如何な遠・中距離射撃特化のブルー・ティアーズといえど機動力を失うことは間違いなく致命的。

 

(……もう後が無い)

 

 シールドエネルギーはあと僅か。

 徒手空拳という、ISにあるまじき原始的な戦闘方法と侮っていた。あの拳は脅威だ。現行兵器のあらゆる攻撃を凌ぐ堅牢な防御能力を誇るISを小細工抜きに破壊できるだけのパワーを秘めている。

 

(いえ、違う)

 

 それだけではない。

 それを振るうあの男の制御()()こそが異常であった。

 常軌を逸したあの加速を実行する為には当然、PICによる慣性減殺作用を必要とする。そうでなければ今頃強烈なG負荷によって肉体はボロボロになっているだろう。

 だというのに、あの男は拳を打ち出す(インパクトの)瞬間、PICを切って()()()()()()()()いるのだ。

 推進力と、圧倒的速度によって生み出された慣性力。それらを拳一点に収束して打ち出す……その威力がどれほどに恐ろしいものかは身を以て思い知った。

 あと一撃食らえば、終わる。

 

(……)

 

 四基のビットとライフルによる斉射を継続しつつ、敵機と一定の距離を保って旋回する。

 進退窮まった現状を前にして、しかし精神は意外なほど平静を取り戻していた。

 諦めの境地とはまた違う。選択の余地を尽く潰され、為し得る手立てが一つに絞られたのだ。

 まあ、そういった意味ではこれもある種の諦観ではあるけれど。

 

(まだやれることはある……!)

 

 機動性能の差は歴然。IS操縦の技量も……認めたくはないが彼方(あちら)が一枚二枚上手だ。

 残存シールドエネルギー量にしても、逆転を狙うにはその開きはあまりにも大きい。

 

 ――だからこそ有効な策が、一つだけ存在する。

 

 まず、敵機が最大の攻撃力を発揮する状況を作る。それはつまるところ、直進飛行(ストレイト)からの打撃攻勢。

 

「ティアーズ!」

 

 四基のビットを操り、敵機の進路を誘導する。言葉ほどに、容易なことではないが。

 ただでさえその高速移動を捉えられぬ現状況下、射撃だけでは牽制にすらならないだろう。

 だから。

 ()()する。

 ビットによるレーザー射撃ともう一手――――ビットそのものをぶつける!

 

『!?』

 

 驚愕の息遣いを聞いた気がした。

 三方向からの閃光を完璧に回避した敵機に、頭上から蒼の刃(ティアーズ)の一枚を降り下ろす。遠隔操作の剣、いや精々が鈍器だろう。

 まさかこちらがそのような暴挙に出るなどとは予想だにしていなかった筈だ。にも関わらず、体勢をやや崩す形でそれを躱して見せるのだから、その反応速度はやはり化物染みている。

 しかし目論見は見事達した。

 敵機が進路を変えた。一定距離を置いての直角旋回飛行から、接近、直進飛行へ。

 次で決着を付ける気なのだろう。それはこちらも望むところ。

 射撃とビットによる体当たりの合わせ技で一気呵成に敵機を追い込む。

 自機正面、射線上に敵機が――入った。

 来る。あの凶悪なる加速が。瞬きした次の刹那には眼前に魔神の巨影が現れているだろう。

 そうはさせない。先手はこちらが()()

 

「今!」

 

 腰部に装備(マウント)されている二門の発射機を立ち上げ、最後のブルー・ティアーズを射出する。

 実体誘導弾(ミサイル)

 アフターバーナーを滾らせ噴煙の尾を引きながら、寸分違わず敵機に殺到する二機。

 タイミングは完璧だった。敵方が速度に乗ったと同時に。

 ミサイルは――

 

 ――トリガーを引く――

 

 ――着弾する。

 閃光、遅れて爆音がアリーナ内に轟いた。

 爆風に機体を叩かれながら手に携えた“ソレ”を前方へ構える。

 

 敵機の急接近に合わせ、十分に引き寄せて誘導弾で迎え撃つ…………その程度の奇策が通じるならば初めから苦労はない。相手は、実体弾以上の弾速と精度を持つ筈のレーザーが掠めもしないほどの機動性を有しているのだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 解り切った事実である。故に選んだ。射撃特化機体にあるまじき下策中の下策。しかしただ一つ、敵機に攻撃を届かせる方法を。

 

 セシリア・オルコットのブルー・ティアーズによる射撃能力では、日野仁が駆る提陀羅(だいだら)の超高速機動を止められない。

 突如として第二次移行(セカンド・シフト)のような劇的な性能強化でも成されぬ限り、今の自分ではあの敵を撃ち抜けない。

 故に、戦闘手法を変える。

 射撃では駄目なら、白兵戦を行うしかない。しかし、BT兵器の操法を追窮し続けてきた自分に、白兵戦闘の経験も技術もあろう筈がなかった。

 ブルー・ティアーズが保有する唯一の近接戦用武装『インターセプター』。刃渡り90cmほどのショートブレード。ISのマニピュレータに握られたその儚げな刃が、この瞬間に起死回生の一撃を担う。

 ブレードは正面に、刺突の形に置いた。

 高速の突進に対して、待ち受けるならばこの形しかない。打ち合う心算など初めからなく、敵機の速力、慣性力を、そのパワーを利用する。

 馬鹿正直にこんなものを構えれば、警戒した敵方は正面突破などしてくれなかっただろう。そして自分は、相手に覚られぬよう密かに『インターセプター』を展開するような真似ができない……これは単純な、近接武装に対する技量不足だ。

 だから、ミサイルをレーザーライフルで撃った。敵機へと着弾する直前に。

 目眩まし、こちらの動きを隠す煙幕として。

 

 ISによる思考の高速化がこれほど有り難く思えたことはない。そうでなければ、このような無茶な作戦を即実行などできなかったろう。

 煙幕を張ってコンマ何秒経った?

 もう、来る筈だ。あの黒き機影。恐ろしき異端の魔神。

 強烈無比の推進力、速力に乗って。

 来る。

 感覚が鋭敏化していく。

 今だろうか。

 次の一刹那。

 砂一粒の時の中で。

 今に。

 そろそろ。

 万分の一秒を超えて。

 今――――――

 

 ――――――来た。

 

 爆煙を突き破り蹴散らしながら突貫襲来してくる黒き姿。拡大するかのように接近と共に増していくその巨躯。

 見えている。

 心積もりを整えただ一点、その進路を正面に見据え、ハイパーセンサーを集中させた。

 捉えている。

 恐るべき速さ。自分の銃火ではどうあっても射抜くことの叶わない速度。

 でも、今この瞬間だけは。

 ブレードの刃先が。

 接近する黒、その薄い腹部装甲を。

 刺し――――

 

「――――え?」

 

 刺して。

 いない。

 敵機が、消えた。まるで陽炎のように。眼前から。

 そんな馬鹿な。自分は今の今まで幻影を相手取っていたとでもいうのか。

 混乱と不可解が渦を巻き頭の中で混交する。

 思考などという行儀の良い脳内活動がもはや不可能となった瞬間。

 自分はどうしてか、頭上を見上げていた。予感があった訳でも、まして自身の知覚が何かを捉えていた訳でもない。

 ただ、働かない脳髄にどうしようもなくなった身体が途方に暮れて空を仰ごうとしたのだろう。

 空は無かった。

 夜でもない癖に、そこには暗黒が広がっていた。

 

 暗黒の色彩(いろ)をした魔神“提陀羅”が。

 

 黒い身体に光が瞬いている。胸部装甲がスライドしてその中から覗いていたのは。

 

(胸部、スラスター?)

 

 噴射口から火を放ち、巨躯が前転(ピッチ)する。

 そのまま身体を捻り、横倒しに、右腕と拳が天頂を差す。

 ああ、それは、まるで。

 人道的処刑装置(ギロチン)が開発される遥か以前より幾多の貴族の首を刎ね、千切り、処断してきたもの。

 あれは(まさかり)だ。

 そして前腕の付け根でもう一基の噴射口――肘部推進器が開放される。

 今までの打撃はこの魔神にとって攻撃ですらなかった。これが、これこそが本当の。

 提陀羅(かみ)攻撃能力(いちげき)

 

「――――赫焚撃拳(イグニッション)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お父さま」

 

 なんだい、セシリア

 

「お父さまはどうしてお母さまを怒らないの?」

 

 怒る理由がないからさ

 

「でも、ひどいこともいっぱいいっぱい言われたでしょ?」

 

 それが怒る理由にはならないのさ

 彼女はいつも正しくて、同時にいつも悩んでる

 だからつい強い言い方をしてしまうんだ。悪気なんてなくても、そうなってしまう時が人にはあるんだ。誰にでもね

 そして幸いなことに、僕はそれを知ってる

 ほら、怒る理由がなくなった

 

「むぅ、それはお母さまのワガママですわ」

 

 そうかもしれない

 けれど僕は彼女の我儘ならどんなことでも聞いてあげたい

 セシリア、勿論キミの我儘もね

 

「わたくしはワガママなんて言わないもん!」

 

 えらいな、セシリアは

 

「……わたくし、ケンカはいやですわ。お父さまとお母さまが、いつも仲よしでいてくださればいいのに」

 

 ……お母さんはとても悩んでる。とてもとても深く

 彼女は真面目で、聡明で、優れた素晴らしい女性だよ

 優秀だからたくさんのお仕事ができるし、たくさんの人に慕われる

 でもその分だけ、たくさんの悩みを持ってる。たくさんの辛いことを抱えてる

 

「そんなの、やめちゃえばいいのに」

 

 そうだね

 そうして欲しいと、僕も思う時がある

 でも、大人には責任があるから、簡単には辞められないんだ……

 僕はね、その苦しさのほんの少しでも彼女の助けになりたいんだ

 何も出来ない木偶の坊でも、せめて

 せめて――彼女の為に

 

 

 父はそう言って寂しげに笑った。

 彼がどういう思いで娘の自分にそれを語って聞かせたのは分からない。もう二度と。

 ……本当は、母の癇癪を、何の抵抗もせずただ受け止め続ける父が、憐れでならなかった。

 母は優秀な人だった。けれど、完璧などではなかった。仕事の苛立ちと鬱憤を夫にぶつけるだけぶつけて憂さを晴らすような妻が、完璧である筈がない。

 父の言う通りそれは人として仕方のないことなのだろう。感情を持つ人ならば。

 けれど。

 それなら、母の吐き出す心の汚穢に晒されてそれでも笑顔を絶やさずに、母を慈み続けた父は。

 当主として経営者として社会人として母は優れていたのかもしれない、けれど。

 人として本当の意味で強かったのはどちらなのだろう。

 夫婦として、正しかったのは、どちらなのだろう。

 

 ISの台頭によって世界中の男性の社会的地位、権威が失墜して、元々女伊達らと揶揄されながらその地位を守り積み上げ続けていた母の自負、矜持は、傲慢というものへ変質して行ったように思う。

 それを認めたくなかった。尊敬する母の在り方は全く正しいものなのだと、信じたかった。

 だから、女尊男卑という思想にしがみ付いた。女の絶対的正しさを謳うその考えが、母の正義たるを何よりも証明するから。

 正しいのは母だ。だから間違っているのは父だ。

 ……どうしてそんな思い込みを抱えてしまったのだろう。絶対の正しさなんてありはしないのに。

 ただお母様が大好きだった。お父様が、大好きだった。

 大好きな二人に仲よくして欲しかっただけなのに。

 どうしてですか。

 お父様、お母様、あなた方は本当は、本当は――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 意識の喪失は、ほんの数秒程度のことだった。

 絶対防御の発動と機体が具現維持限界(リミット・ダウン)の危険域にあるというアラートが、うるさく耳元で鳴り響いている。これでは気絶し続けることもできない。

 地面に横たわっている。割れ砕け、抉れた地表。半ばクレーターのようになったその中心に。

 ()とされた。

 ただ、それだけの事実。

 

「……っ」

 

 上空からエネルギー反応一機。

 黒い魔神。荒れた地表、自身の眼前に提陀羅は降り立った。

 それは蹲る自身を見下ろし、

 

「お怪我はありませんか?」

「え」

「絶対防御の発動は確認しています。しかし戦闘行動時、絶対の安全保障などありません。万が一という事態もあり得る。どうか、ご自身でも機体および身体の状況精査(サーチ)を行ってください」

「……っ!」

 

 至極尤もなことを男はのたまった。模擬戦を行った相手に対して、常識的な正しい対応だろう。

 だが、それが今は、今この時ばかりは許せなかった。

 

「貴方はっ、どうしてそうなのです!?」

「?」

「これほどの力を持っていながら、わたくしのこの無様を前にしながらっ……どうして何も言わないのですか!?」

 

 敗者に語る口などない。それが通例であり、決闘における作法だ。

 しかし、遠吠えは、戯言はこの口から溢れ続けた。堰を切ったように止め処なく流れ出てきた。

 

「貴方には権利がある筈です! わたくしが貴方をクラスメイトの前で侮辱し嘲弄し罵倒したように、貴方もわたくしを嗤いなさい! 様はないと、口ほどにもなかったと、所詮は惰弱な女なのだと……! 責め立てて同じだけの罵詈雑言で袋叩きにすればいい! そうしなければ、帳尻が合わない! 対等に、なれないっ……!」

「!」

「どうして……貴方は、あの人はこんなにも正しいのに……! どうして、解り合えないのですかっ……」

 

 お父様。貴方は正しい。貴方の慈愛は、正しい。

 間違っていたのは、人として、妻として愛がなかったのは――――お母様だった。

 

「ぅっ……くっ……!」

「……」

 

 胸がじくじくと痛みを発している。ただ幼児のように叫ぶばかりで呼吸すら忘れていた。心臓からの精一杯の抗議だった。

 纏まりとは程遠い思考の嵐。自分が何を言いたいのか、何を聞きたいのかもよく分からなかった。

 ただ、自分が間違えていたのだと気付かされた。否応も無く。

 

「解り合いたいと、思っています」

「ぇ……?」

 

 見上げれば、黒い装甲が歩み寄って来ている。

 そのまま、男は地面に正座した。

 座ってもその巨躯を見上げる形は変わらなかったが、少しだけ視線は近付いた。

 

「貴女が自分に何を求めておられたのか、己はそれを知りたかった。あれほどの意気、徒事ではありますまい。しかしそれを汲み取れるだけの思慮が己には無かった。恥ずかしく思います」

「……」

「対等と、仰ってくださった」

「!」

 

 不意にその分厚い仮面の下で、男が微笑んだような気がした。見えはしない、その笑みを感じた。

 

「お許し頂けるなら、そう在りたく思います。クラスメイトとして、どうか今後ともよろしくお願い致します。オルコットさん」

 

 巨大な甲冑はその場で一礼した。背筋は伸び、頭は低く、綺麗な辞儀だった。

 その真っ直ぐさが少し、眩しい。

 お父様、貴方も()()だったのですか。

 

「…………はい」

 

 小さくそのように応えるだけで精一杯だった。ただ自分が惨めで、情けなくて、虚しい。

 一生答えの出ない問いを思い出してしまった。目の前の、彼の所為(おかげ)で。

 

『第一試合の勝者は日野だな。続けて第二試合を行う。日野はその場に待機。オルコットは管制室へ来い』

「は、了解しました」

 

 ぼんやりと織斑教諭からの通信を聞き、結局返事すら出来なかった。咎められなかったのは幸いだが。

 案の定、彼はこちらにもう一歩進み出て、その大きな手を差し出した。

 

「立てますか、オルコットさん」

「え、ええ。大丈夫。一人で平気ですわ」

 

 差し出された手には掴まらず、PICで一旦浮遊し、体勢を改めてから跳躍する。

 今は、誰にも優しくされたくない。

 彼の気遣いに背を向けて、アリーナを後にした。

 

 

 

 

 

 ISを除装した後、とぼとぼと通路を歩いて管制室に着く頃には、既に次の試合は始まっていた。

 

「お疲れ様です、オルコットさん」

「あ、はい……」

 

 薄暗い管制室に入ると、山田教諭が用意していたバスタオルを肩に掛けてくれる。そのままソファへ導かれ、もう一人の女生徒の隣に座らされた。確か、篠ノ之箒さん、だったか。

 彼女はこちらに小さく会釈すると、また黙ってスクリーンに見入った。

 小型のシアターほどもある大きな画面の中で――黒と白が舞い踊っている。

 

「!?」

 

 黒は言わずもがな、日野仁が駆る提陀羅だ。

 白は、もう一人の男子生徒織斑一夏。見たことのない機種、おそらくは第三世代型の専用機だろう。純白の甲冑、純白の翼を背負う様はさながら天使であった。美しい少年を飾るに相応しい清廉さ。

 しかし、自身を驚愕させたのはそんな瑣末事ではない。

 黒い機体の動きは、連戦など問題にもならぬとばかり、いやむしろ一層鋭く(はや)くなったようにすら感じる。先の試合は損耗どころか、彼にとってはウォームアップの運動でしかなかったのだろう。

 対する、純白のIS。近接戦用ブレードを一振り構え、その場で無防備に滞空している。

 

(まさか)

 

 あの提陀羅を相手に、最初から接近戦を挑もうというの。

 当然、それを目掛けて激烈な加速で黒い機影は急接近した。

 その後に待ち受ける展開を想像する。削り取られるシールド、空へと投げ出される機体。もはやフラッシュバックの様相で。

 黒が白に迫り、拳を――――劈くような金属音が室内に響き渡った。ISの戦闘は爆音を伴う為、音量は相当に絞られている筈だ。それでも鋭く打ち鳴らされた衝突の音色。

 画面内に表示されている織斑機のシールドエネルギーは……変動なし。無傷だった。

 

「な」

「すごい……織斑くん、また」

「少々反応が遅れて派手にぶち当てたな。あのバカ、去なしは昔から下手糞でいかん」

「あはは、厳しいですね」

 

 いなし……あの弾丸のように襲来する提陀羅を、あんなブレード一本で受け流しているというのか。

 再度、黒が接近する。今度は直進ではなく、上下左右と攪乱機動を織り交ぜて。

 それに対して白が動いた。少年の機体、その機動性もなかなかに凄まじい。

 一切減速せずその勢力を維持したまま黒と白がぶつかる。衝突と同時に火花が散り、またしても甲高い調が奔った。

 擦れ違った両者は間髪入れず転身して攻勢へ、衝突し転身から攻勢へと、連撃に連撃を次いで行く。

 鋭角に飛行する黒に、円を描き飛翔する白。

 色彩も機動も対照的な両ISが、不可思議な調和を以て舞い、激しく争っている。

 

「ふっ、まったく。楽しそうに戯れ合いおって」

「あれがじゃれ合い、ですか……」

「そうとも。お互い手の内は知り尽くしている。一夏は、あいつのすることはなんでも真似したからな。自分のスタイルを持てといつも言ってるが聞きゃあしない」

 

 愚痴を零すような気安さを見せる織斑教諭の様に少し驚いた。ひどく優しげな微笑だった。

 黒と白はなおも舞い続ける。

 時を追う毎にその速度は確実に上がっていった。

 

「……」

 

 激しさを増す戦闘風景の中で、けれどどうしてか。

 刃を差し向ける少年を、黒き魔神は迎え入れる。何の躊躇もそこにはなく、一抹ほどの拒絶すら、無い。彼らは今相争っているのだ。ISという強力な兵器を用いて。それなのに。

 黒い機影を白の少年は追い掛ける。求めるように、(こいねが)うように。幼児が親の腕の中へ迷いなく飛び込んでいく様を、不意に幻視した。

 なんなのだろう。

 自分は一体何を見ているのだろう。

 闘争。そう、これは闘争の筈だ。冷たい刃と硬い拳が、最新テクノロジーの鎧で武装しぶつかり合っている。

 だのにどうして、どうしてこんなにも彼らは――暖かなのか。

 

「……ぁ」

 

 許しているからだ。黒は白の刃も、闘争心も、高揚も、何もかもを許し、受け入れている。

 白はそれを知っている。黒の慈愛も、優しさも、()()()()()()()()()()()というその意志も、言葉など要さず、心魂(こころ)で。

 

「ぁ、あぁ……」

 

 そして、自分も知っていた。

 この光景を、この睦み合いを、ずっと見てきた。ずっと、彼らは。

 

「あぁっ」

「オルコット……?」

 

 父と母は。

 許し合っていた。

 父は母の何もかもを許して、母は何もかもを許してくれる父だけを求めて。

 愛し合っていたんだ。

 ずっと、ずっと。

 

「あ、ぁ……! ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい!」

「ど、どうしたんだ」

「オルコットさん!? どうしたんですか。どこか具合が」

「あっ、ぁ、ぁっ、セシリアは、ばかな子でした……ずっと、なにもわからずにっ……ずっと間違えて……!」

 

 絶対の正しさなどこの世には無い。そう気付いた。

 夫婦の形にも正解など無い。一つの正解がある筈と、ずっと思い込んでいた。それは自分にとっての理想でしかなかった。そんなものに囚われていた。

 あれが、あれこそが父と母の愛の形だったのだ。母は父の胸に甘えて、父もただそれを望んだ。

 愛はあった。わたくしの求めたものは、そこにあった。

 黒と白が舞い踊る。睦み愛し、互いを慈しむ。

 そう、なのですね。あの方達は。

 あの方達が。

 

「お父様と、お母様だぁ……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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25話 変貌

 放課後。授業を終えた己と一夏少年の許へ一通の招待状が届いたのは、先の決闘騒動が幕を下ろしてから三日目のこと。

 場所は学園内食堂。

 教室棟からも程近い食堂棟、一階フロア全てが丸ごとフードコートになっている。全校生徒が利用することを想定しているのだから当然の広大さではあった。

 扉の奥に大勢の気配、そして内()センサーが多数の生体熱反応を感知する。

 少年と共に自動ドアを潜った。

 瞬間、破裂音が響く。少量の火薬の匂いと、舞い散る紙テープと紙吹雪。

 

『織斑一夏くん、日野仁くん、クラス代表&副代表就任おめでとう!』

 

 女子生徒達の大合唱が我々を出迎えた。

 ホログラムディスプレイには『祝・就任記念パーティ』の文字。紆余曲折を経ながらも晴れてクラス代表者が決定したのを祝し、本日食堂を借り切って一年一組総出で祝賀会が開催されることと相成った。

 その行動力と些細な決め事さえイベントに転じてしまう律儀さは、なるほど流石は齢若い娘子らしい活力(バイタリティ)と言えよう。

 

「あはははっ、その言い方ちょっとおじさん臭いよ。ジン」

「? そうでしょうか」

「うんうん、ひののんはおっとなーって感じだねー」

「ちょっと老成しすぎかな」

「マジメくんって感じだもん。もっとリラックスリラックス」

「お前に足りないものそれは! 青春元気勇気道楽怠惰不真面目さ適当さ! そして何よりもぉぉおお若さが足りない!」

「は、精進致します」

『真面目だ!』

 

 持ち寄った菓子類、飲料を手に手に、乾杯も済ませればあとは姦しく皆談笑に興じ始める。それの何と賑やかなこと。

 上座の席に案内され、肩身の狭さを少年と共有する。

 

「うーん、でも正直俺、今回の結果は納得いってないんだけど」

「確かに、明白な決着とは行きませんでした」

 

 決闘の第二試合。己と少年との一騎打ちは、結局互いのシールドエネルギーを削り切ること能わず、またエネルギー残量に関してもほぼ同量で時間切れを迎えた。ならばアリーナの使用申請を再度提出してから後日再戦を……とは、残念ながら為らなかった。

 クラス対抗戦を近日に控え、いつまでも“クラスの役員決め”に時間を掛けていられないというのが一つ。

 

『「織斑一夏クラス代表やります!」と、元気一杯宣言していただろう。だからお前がやれ』

 

 自薦票を重視する千冬嬢のシンプル過ぎる命令が下されたことが一つ。

 そしてもう一つは。

 

「お隣、よろしいですかしら?」

「は」

 

 不意に、花の香を嗅いだ。

 顔を上げれば陽光めいて煌く金糸の髪。そしてターコイズブルーの瞳を細めて笑む少女が。

 貴嬢セシリア・オルコット。カチューシャの色合いのみならず、蒼の印象を振り撒く少女は、小首を傾げてソファ席の己が隣を視線で示した。

 断る理由もない。こちらが頷くと、彼女はその場で浅く膝を曲げてスカートの裾を軽く持ち上げる。所謂淑女の礼(カーテシー)であった。

 少し面を食らう。その挙措の、あまりの自然さに。平素からそうした礼儀作法に触れ、また長く親しんでいる証左であろう。

 ひどく静かに少女は腰を下ろした。

 

「改めて、クラス代表、副代表就任おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「おめでとうもなにも、あんたは勝手に降りただけだろ」

「一夏さん」

 

 テーブルに頬杖を突き、我が身を越して少年は皮肉を放つ。

 そう、あの日、我々の試合が終わった直後、彼女はクラス代表の権利を放棄。自薦そのものを辞退したのだ。

 少女は細い眉尻を下げて笑みを浮かべる。それは紛れもなく自嘲であった。

 

「ええ、仰るとおりですわ。あれだけ大騒ぎして、結局責任も取らず務めからも逃げ去って。本当に恥ずかしく思います」

「ふーん、今日は随分しおらしいな」

「あー、そうそう私も気になってたんだ」

「オルコットさん、なんでクラス代表辞退しちゃったの? もう一試合はできたのに」

 

 話の触りを聞き取っていたらしい周囲の女子生徒が数人、質問がてら軽食を運んでくる。

 あと一試合。総当り戦なのだから、彼女と一夏少年が試合をし、その結果で以て結論を出してこそ公正と言えるだろう。

 

「いいえ。その必要はありませんでした」

「……それは」

「仁様とわたくしの実力差は、先の戦闘で確かめられた通り。そして貴方と一夏様の戦い振りを見れば……結果は明々白々ですわ。わたくしのブルー・ティアーズでは、お二方の機動力を捉え得ない。同時に、お二方の高速接近からブルー・ティアーズは逃げられない」

 

 彼女は、自身の敗北の根拠を列挙していった。穏やかに、丁寧に。

 木漏れ日のような柔らかさで微笑すら浮かべて。

 

「IS操縦技術の優劣――クラス代表を決める上で重視されるべき要素ですわ」

 

 それは、代表の選定基準斯く在りきと、まさしく己が吐いた台詞だった。ぐうの音も出ないとはこのことだろう。

 間の抜けた感心など抱いていると、横合いからまたも辛辣な色をした声が飛ぶ。少年は少女への不審感を隠さなかった。

 

「あんだけジンのこと馬鹿にし腐って、今更なんで掌返すわけ? 謝れば自分が言ったことは全部許されて無かったことになるとか思ってないよな?」

「自分は気にしておりません」

「俺は気にする」

「些細な行き違いでした」

「ジン……!」

「一夏さん、自分は」

「お止めになってください。どうか」

 

 少女が立ち上がる。彼女はテーブルを回り、そのまま一夏少年の傍に歩み寄る。

 真っ直ぐに少年を見下ろし、不意にその手を取った。両手で、宝物をそうするように、額に押し頂く。足は前後に交差させ膝を折る。

 カーテシー。それも先程の略式礼法ではなく、より深く腰を落とし低頭する本来の型。王族に謁見を許された貴人が、敬いと畏れを示す為の最大級の礼であった。

 彼女の振る舞いはやはり、貴種(ノーブル)たる者のそれ。荘厳さすら覚える姿に一瞬、誰もが声を失くした。

 平身低頭のまま少女は言を次いだ。

 

「虫の良いことと理解しています。ですがどうか、お鎮まりください。わたくしの不義はどのように責めていただいても構いません。ただ、ただ、お二人が言い争うのだけは、どうか……」

「言い争いって……そんな大袈裟な話じゃない。ただ、ジンが頑固だから……」

「とんだご心痛を強いてしまいました……申し訳ありません、オルコットさん」

「いいえ」

 

 立ち上がろうと腰を上げたところを、少女に視線で制される。

 辞儀から居直り、彼女は一夏少年の隣に座った。

 

「一夏様のお気持ちは、わたくし解っている積もりですわ」

「?」

 

 少女は少年に身を寄せる。腕を取り、自身の方へも僅かに引き寄せ、少年の耳元にその潤んだ唇を近付けた。

 

(大丈夫。わたくしは一夏様を応援しております。だって、こんなにお似合いなお二人ですもの)

(えっ!?)

 

 少女は少年に何かを囁いた。しかし、己の位置からそれを聞き取ることは叶わず。

 オルコットさんはこちらを見やり、悪戯気な笑みを浮かべる。

 

「まあ、仁様ったら。乙女の内緒話に聞き耳を立てるものではありませんわ。ねぇ? 一夏様」

「乙女って俺も含まれてるんだ……」

「ふふふっ、勿論」

 

 謎めいた微笑で少女の顔は彩られた。先程からも感じたとおり、それは穏やかで柔らかな。

 変わった。明確に何が、とは言えないが。以前の彼女には無かった余裕と本来在った優雅が変貌を与えている。

 その理由を想像しようとした時、けたたましい音が響いた。見ればテーブルに2Lのペットボトルが乱暴に置かれている。

 緑茶と印字されたラベルが歪むほど強く握り締め、こちらを鋭く見下ろす瞳。

 

「箒? どうしたんだよいきなり」

「ど、どうしたもこうしたも……近過ぎだ! お前たち!」

 

 この場合の問い掛けとしては当然の、しかし絶妙に間を外した少年の物言いに、むしろ箒さんの方がたじろぎ赤面した。

 とはいえ彼女の言い分も理解はできる。オルコットさんは今や腕を取るだけに止まらず、腕全体を抱え込み肩口に顎を乗せ、少年の小作りな耳に唇を寄せている。

 近い。それはもう、大胆なボディタッチで。

 あわあわと慌てふためく箒さんに比して、オルコットさんは我関せずとさらにその身を摺り寄せた。

 

「ちょ、くすぐったいって」

「お嫌かしら。もしそうなら振り払ってくださって結構ですわ」

「っっっ!?」

「箒さん、御気を確かに」

 

 驚天動地に戦慄き、今にも跳び掛からんばかりの剣幕。実際にそうせぬ彼女の忍耐力は称賛されるべきだろう。

 無理もない。彼女もまた、乙女なのだから。

 

「仁様」

「は?」

 

 呼ばれ、声の方を見やると同時。頬に触れられる。

 細く、しなやかできめ細かな、冷えた指が頬骨、笑窪、鰓骨を撫で下ろす。そうして顎を微かに引かれるような感触を覚え、その微力に従った先には少年の顔。

 

「仁様が見るのはこちらの方。移り気はいけませんわ」

「移る、とは」

「ふふ」

 

 またも微笑が問いを煙に巻く。

 本当にどうしたことか。先日から、彼女の心境に一体どのような変化が齎されたのだ。

 原因は一つだろう。先のIS模擬戦闘の後、管制室で彼女は酷い取り乱し方をしたのだと、山田教諭より聞き及んでいる。あの戦闘が彼女の心情に穏やかならぬ影響を与え、現在の大胆不敵な行動を為さしめているのだ。

 己の不徳がまたしても、他者に異変を招いたのか。

 

「はいは~い、イメクラよろしくイチャついてるとこ悪いけど、新聞部部長の黛でっす。新進気鋭、噂の男子生徒のお二人さんにインタビューいいかな」

「イメっ……!? なん、破廉恥な!」

「心外ですわ。わたくしはただお二方との親交を深めているだけですの」

「ん~? なあジン。いめくらってなんだっけ。キャバクラと似たようなやつだっけ?」

「女性が接客を担当するという点以外、全くの別物かと。一夏さんにとって、あまり必要な知識でもありません。早々にお忘れください」

 

 新聞部の報道員を名乗る少女は、首から提げたカメラで特に断りも得ずシャッターを切る。

 外聞の宜しい体勢とは言い難い現在、この場を画像として保存されるのは非常に遠慮願いたいのだが。

 

「あー、同じ構図だけだとちょっと……じゃあ代表候補生さんと男子二名で並んで立って、こう友好の印の握手って感じで」

 

 それをプロ意識とでも呼べば満足してくれるのか。

 言われるまま立ち上がり、一夏さん、オルコットさん、己の順に三人で並ぶ。

 

「あ、一夏様。御髪が乱れていますわ」

「え、ああ、いいよこれくらい……」

「い・け・ま・せ・ん。誰か、櫛をお持ちの方は?」

「は~い、あたしの貸したげる」

「どうもありがとう」

 

 借り受けた櫛を使い、少年の髪を彼女は丁寧に梳る。

 

「綺麗な黒……ふふ、手触りもビロードのようですわ」

「んんっ、なあもういいだろ」

「そら、本人がもういいと言ってるぞ!」

「きちんとお手入れはなさっていて? こんなにお美しいのに勿体無いですわ。それに」

 

 箒さんの抗議もなんのその。手付きも鮮やかに、櫛歯は少年の濡れ羽の髪を滑り続ける。

 粗忽者の己には彼の髪は変わらず整っているように見えた。女性の審美眼あればこそ、詳らかに乱れを発見できるのだろう。

 

(男性とは得てして美しい髪を好むものでしょう?)

(俺は、別に)

(じゃあ仁様はどうかしら)

(!)

(きっと、お喜びになりますわ。ですから、ね)

(……うん、分かった)

 

 なるほど。梳き終えた彼の髪は確かに、先程よりも艶が増しその黒をより美麗に見せていた。

 

「仁様は黒髪がお好きのようですわね」

「はい?」

「そうですね?」

 

 優美に謎めくばかりだった彼女の笑みが今こそは明確な色を放つ。

 有無を言わせぬ意志。(イエス)以外の返答をその微笑は許しはしなかった。

 

「……は、好ましく思います」

「ほら! 言ったとおりでしょう」

「……えへへ」

 

 何故か頬を赤める少年の、けれど喜びの滲むその表情を見てしまえば。

 もはや己が(のたま)う言葉などありはしまい。

 

「はい、じゃあ撮りまーす」

「仁様、一夏様。お手を」

「は」

「ん」

 

 差し出した手で一夏少年の手を握ると、少女は自身の手でそれらを丸ごと包み込んだ。しっかりと手放さぬように――逸れてしまわぬように。

 

「?」

 

 その瞬間の、彼女の笑みは。

 

「日野君日野君、目線はこっち」

「は、失礼を」

 

 シャッターの電子音が鳴る。

 一枚に区切られた画の中で、果たして少女はどのような貌をしているのだろう。

 

 

 

 

 

 

 



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26話 真実の


親孝行(病)




 祝賀の席も一段落。持ち寄った物の片付け掃除も大方済んだ矢先のこと。

 

「そうですわ!」

 

 目を輝かせてオルコットさんは両手を打った。それこそ名案を思い付いたといった様子で。

 

「髪のお手入れの仕方、是非このセシリアにお教えさせてくださいな」

「え? あ、あー、うん、えと……教えてくれると、その、助かる」

「では今晩にでも」

「今晩!?」

 

 打てば響くの姦しき娘子よ。

 申し出に応じた手前引っ込みも付かず、また格別に断る理由も少年には無かったらしい。

 戸惑いに頬を掻きながら、ふと何かを思い付いたような表情の動き。

 

「なら、ついでに夕飯食べてくか?」

「へっ」

「ジンもいい?」

「勿論です」

 

 今度は逆に、オルコットさんが目を丸めて驚いた様子。無論、彼女の意に沿わぬなら無理強いなどすべきではないだろうが。

 次の瞬間には、少女は華やぐような笑顔を見せ、こくこくと頷いた。

 

「はい、是非ご一緒させていただきますわ!」

 

 色濃い喜びを滲ませて無邪気にはしゃぐ。先の貴種然とした振舞いとは正反対の、年相応な反応が微笑ましい。筋違いな安堵すら抱く。

 少年もまた笑み、そのままもう一人の少女へと振り返った。

 

「箒も来るだろ」

「っ、私も、いいのか……?」

「当たり前だろ」

 

 言葉通り、反問する少女こそ可笑しいとばかり。少年は笑う。

 まさしく幼馴染らしい気安さであった。

 ふと、その時。

 

「…………」

「? オルコットさん」

 

 己が背に手が添えられた。オルコットさんの細く、華奢な指。肩甲骨をやや撫でて下がり、最後は制服の裾を握る。

 そうして初めて、彼女は自身がこちらに触れていることに気付いたようだった。はっと手を放し、大きく宝珠めいたそれが伏し目になる。

 

「ぁ……ごめんなさいまし」

「いえ、それよりもどうか」

「ジン、そろそろ行こう。夕飯の準備しなきゃ」

 

 そう声が掛かるや視線を外された。少女はそれ以上の詮索を望まぬようだ。

 気懸かりではあったが致し方もなし。

 少年に向き直る。

 

「念の為、千冬さんへ確認を取られてはどうでしょう」

「あ、そっか。千冬姉ってば相変わらず不規則だからなー」

「……」

「……」

 

 

 

 

 

 

 学園内には購買店の他、必要な生活雑貨や食料品を販売するスーパーマーケットが営業している。一学校施設にそのようなものが、と当初は驚いたがIS学園の規模や全寮制という点を考慮すればあって然るべき、いや無くては困るのだ。

 生鮮食品の入手が出来るとあって、一夏さんも大層喜んでいる。

 必要な買い物を済ませ、例の仰々しい扉を潜って自室へ帰還した。

 

「これは、その……」

「……こう言ってはなんですが、露骨な依怙贔屓ですわね」

「返す言葉もありません」

「あー、やっぱこんな内装この部屋だけだよな……」

 

 部屋の有様に少女二人は唖然としている。おそらくは自室のそれと思い比べてのことだろう。

 学生が住まうには過ぎた豪奢だ。初日の大騒ぎを思えば多少は慣れてもきたろうか。

 

「けれど素敵なお部屋ですわ。世界にたった二人だけの男性IS操縦者に対して当然の配慮でしょう」

「そう言っていただけると」

「ですがどうも手狭ですわね。特にクローゼットなど、これではすぐ衣装が溢れてしまいますわ。日本政府も気が利かないこと……」

「……」

 

 他意は無いのだろう。さらりと零れた苦言を邪推すれば、彼女との私生活における経済的認識の差が思い知れる。

 この部屋をして手狭とは。

 

「じゃ、支度してるから三人は適当に寛いでて」

「私も手伝う」

「え? 別にいいのに」

 

 買い物袋を手に一夏少年と箒さんはキッチンへ入っていった。

 後に残され立ったままの客人に気付き、一先ずオルコットさんにソファを勧める。

 少女は目礼して楚々と腰を下ろし、そうして自身の左隣を手で示す。

 

「隣に、いらしてくださいな」

「は、では失礼します」

「ふふふ、どうぞ遠慮なさらないで。だってここは仁様達のお部屋ですもの」

「そうでした。やはりどうにも、分不相応な部屋構えに身の置き所を見付けあぐねております」

「本当に生真面目な方」

 

 口元を手で隠し、くすくすと笑う。些細な所作にさえ気品が伴っていた。

 

「仁様と一夏様は」

「失礼。一つよろしいでしょうか。その、様付けなど無用に。自分はそのような尊称を賜るほどの人間ではありません故」

 

 言を遮る無礼を押して訂正を求める。

 彼女が己と一夏少年をそう呼ばわるようになったのはやはり、先の決闘以来のことであった。疑問は尽きないが、それはそれとして過分には違いない。

 しかして、少女はこちらの申し出に肯いてはくれなかった。優美に首を振り、目を細める。

 

「わたくしにとって、それだけの価値と意味が貴方様方にありますの。何も過分などありません」

「それは……」

「仁様と、わたくしがお呼びしたいのです。けれど……ご不快な思いをされるなら仕方ありませんわ。無思慮なセシリアをどうかお許しになって」

 

 顔を伏せ、哀しげにそのようなことを言われればもはや勝ち目もない。

 頭を下げるのはこちらの方だった。

 

「滅相もありません。御心遣いに感謝こそすれ、不快だなどと。了解しました。オルコットさんが望まれるなら、如何様にでもお呼び立てください」

「ありがとうございます。お優しい仁様」

 

 頭を上げて見やった彼女は、それはそれは輝くような笑顔であった。哀切滲む先の声色が嘘か幻の如く。

 柔よく剛を制すとはよく言ったもの。こうした情感の機微を扱う上で、女生たるオルコットさんに己が敵う道理はない。

 

「……どうぞ、ご質問の続きをお聞かせください」

「はい♪」

 

 気を取り直す意味も込めて、先を促す。

 

「仁様と一夏様は、とても仲が良くていらっしゃるのね」

「良くしていただいております。もう随分と昔から」

 

 こうして懐かしむほどには、長く関わり付き合ってきた。彼とそして彼女、織斑姉弟とは。

 

「やっぱり。とても永く、深い関係のように見えました。わたくしが仁様に無礼を働いた時の、一夏様のあのお怒り。生半のことではありませんでしたわ」

「自分の気配りも言葉も足りずあのような仕儀に至り。オルコットさんにも御迷惑をお掛けし、誠申し訳ありません」

「そのようなこと……!」

 

 一瞬だけ高まったその声を抑え込み、少女は深呼吸一つで精神を整えた。

 眼差しが、ひどく真剣な光を宿す。

 

「どうかお笑いに、ならないでください」

「は」

「仁様は、仁様を見ていると、わたくしは……父を思い出すのです」

 

 端々に掠れどもる。羞恥に耐えるように彼女は声を絞り出した。

 

「わたくしのこと、なにより一夏様をお許しくださる貴方が、どうしても父と重なって……」

「そう、ですか」

「ご、ごめんなさい。突然こんなことを聞かされてもお困りになるだけって、分かっていましたのに」

 

 少女は自嘲して笑う。

 己はといえば、愛想笑いすら浮かべられずただ彼女の言葉を反芻するばかり。

 

「光栄です。いえ、勿体無きご評価と存じます。自分如きと御尊父を引き比べていただくなど……」

「とても優しい人でした。優し過ぎて自分のことを顧みない……仁様と同じように」

 

 今一度こちらを見て少女は微笑み、そうしてその瞳は虚空を見詰めた。遠く、果ての無い場所を眺めるように。

 

「自分が傷付くことも構わず父は無償の慈しみを母に注いでいた。幼いわたくしには、父の()()が何なのか理解できなかったのです。けれど、仁様と一夏様を見て気付けた。ようやくソレを理解できた。今更に……だからきっと、父は最期まで母に寄り添い続けたのでしょう」

「…………」

「ソレこそが愛情だった」

 

 まるで唄を口ずさむように締め括り、吐息を零す。

 彼女の両親が今どこにおわすのか。それを尋ねるような愚を犯さず済んだのだけが、幸いだった。

 そのまま黙っていれば良いものを。しかし己が口は、どうしても要らぬことをほざくのだ。

 

「――御尊父と御母堂は、とても深く、深く愛し合っておられたのですね。だからこそ、貴女のような立派な御息女を育てられた」

「ぇ……」

 

 彼女をこそ愛の結晶と言わずなんと言う。強い意志、自負と矜持を以て艱難に立ち向かう勇ましさ。なにより、彼女は自らの驕りを見詰め戒めることができる。貴種たる資格を持った御人だ。

 

「貴女の聡明さと想い遣りは、御両親からの賜り物なのでしょう。本当に素晴らしい方々だったのだと、理解できます」

「っ……ありがとう、ございます」

 

 少女の声は僅かに震えていた。

 浅薄な推し量りで、知ったような口を利いてしまった。彼女に不快感を与えていないものか、それだけが気懸かりである。

 

「……仁様、もう一つだけお聞かせください」

「はい」

 

 屹度、少女の瞳が己を捉える。瑞を湛えて揺れ動く蒼。それでも我が身を射抜く光は脆弱さとは無縁のそれであった。

 

「仁様にとって、一夏様はどのような存在ですか?」

「一夏さん、ですか」

「はい、どうかお答えを」

 

 瞳の強さに比して、声はまるで縋るような必死さで響く。

 

「……掛け替えのない人です。何を以てしても補うことのできぬ人です。唯一無二の、ただ一人です」

 

 いや、代えの利く人間などというものはこの世の何処にも居はしない。誰にとっても其の人物は唯一無二。故に己のこの回答は不完全と言えた。

 言葉にするには難しい。かの少年、かの女性との交わりは。

 オルコットさんはなおも問いを重ねた。もっと深く、その先を知りたいのだと。

 

「大切な人? 一番重く、深く、貴方の心に住まう人? 誰よりも、何よりも……愛している人?」

「はい、そう思います。ただ……それらの表現が最適確かどうか、未だ定められずにおります」

 

 言葉にせねば伝えることはできず、形無く浮かばせて置くには危うく頼りない。しかし、言葉にすればするほどに真意から遠退いていく。

 厄介だった。悟の境地より遥か遠い蒙昧の地平を歩く己には、どうにも。

 

「ではもし、もし……どうにもならない。絶対不可避の死を目の前にしたとして、仁様は一夏様と、()()()()()逝かれますか? 死を……共にできますか?」

 

 その言葉を少女は凄まじい勇気を振り絞り紡いだのだと、愚鈍な己にすら理解できた。そして、彼女が何を、誰を想い描きながらにそれを口にしたのかも。

 

「……」

 

 己の姿に父君を重ねる彼女に、せめて彼女が想う、父親らしい答えを差し出したい。しかし、それは誠意ではない。そこに少女の望む真意はない。

 己には。

 

「できません」

「…………」

 

 一瞬、全ての音が遠ざかる。衣擦れ、息遣い、鼓動さえ沈黙という無に食われた。

 無音には、しかし色彩がある。一色に定着しない、混濁を続ける未完成の感情。少女の、困惑。

 

「……それは、何故ですか」

 

 反問は重く、己の解答が彼女の予想とは違ったのだと知れる。

 少女は膝の上に握り合わせた両手に視線を落としている。故にその表情は窺えない。

 それでも彼女を見据えて、腹腔にある我が意志を吐露した。意志……否、我が欲望を。

 

「自分は、織斑一夏の生存を諦められない」

「えっ」

 

 絶対不可避の死。絶体絶命の窮地。己は一度、そこに立ったことがある。

 退くことは即ち、少年の生命を危ぶむ事態。その段階で逃走・撤退という選択肢は潰えた。あるのは戦い、抗う決意。

 身命を賭して立ち向かい……そして敗れた。あっさりと。

 それでも、死を目前にしてなお欲望は絶えず、闇に沈み逝く魂は叫び続けた。

 

「たとえ(かいな)()がれても、たとえ臓腑を抉られても、受け入れることはできなかった……」

 

 故に、冥府への泥道で足掻き、無様にもがく己に、かの大天才が気紛れに落として下さった奇跡を己は一生涯忘れることはない。

 

「愛する人と寄り添いながら、心穏やかに死を迎える……どれほど強く深い絆がそれを為し得るのか、己如きには想像だにできません。それこそが成熟し、完成した夫婦愛なのでしょう」

 

 己がその真理に行き着くことはあるのだろうか。

 どこまでも生き穢いこの己に。

 

()()()できません。何をしてでも、彼の生存を実現する。我が身の骨肉一片全て使い潰してでも……あの子に生きて欲しい」

 

 独善(ひとりよがり)。所詮はこの二字に集約される。

 

「これが己の欲望(のぞみ)です。申し訳ありません、オルコットさん。自分は貴女の御父君のようにはなれない」

 

 この謝罪が正しいのかも分からない。全く見当違いも甚だしいことを己は滔々と(のたま)っていた可能性すらある。

 少女の様子を窺う。彼女はやはり、膝の上に視線を落としたまま――不意に顔を上げた。

 蒼の宝石、その両瞳から涙が零れ落ちた。一筋、二筋、幾重にも幾重にも流れ落ちる。

 

「! オルコットさん、如何され」

「っ、あぁっ、やはり、わたくしは、間違っておりませんでした……!」

 

 彼女は己の右手を取り、頬に添える。暖かな雫は湧水のように止め処なく、無骨な我が手を濡らし清めていく。

 涙を湛えた少女は、だのに微笑した。それはそれは嬉しそうに、美しい顔を綻ばせた。

 

「嬉しゅうございます、とても、とても」

「オルコットさん……」

「セシリアと、お呼びください……呼んで、お願いです」

 

 潤む瞳が懇願する。それは彼女に出会ってから初めて見る、幼さで。

 

「……セシリア」

「っっ! はいっ、仁様……!」

 

 結局、一夏少年らが戻るまで少女は涙を流し続けた。笑みを浮かべ、その喜びもまた溢れさせながら。

 毅然と独り立つ少女はそこになく、それはきっと、彼女の昔の姿。無邪気に迷い無く、両親に甘えることを許された頃。

 貴種ではなく、代表候補生でもない。オルコット夫妻の愛娘――セシリアという一人の少女だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 薄暗い自室で、床に腰を下ろしベッドの縁に背を預けてどれほど立ったろう。胸に渦巻く感情を制御できない。抑えは利かず、ただ耐えるようにじっと動かず沈静を待つ。

 けれど苦痛ではなかった。それは全く対極の感情だった。

 

「……っ」

 

 唯一無二の正しさなど無い。そう学んだ。思い知ったのに。

 

「仁様っ、貴方はなんて、なんて……!」

 

 真実(ほんとう)の愛。そんなものを夢想してしまう。

 あの御方の在り方、思想、覚悟を垣間見てしまったから。

 純粋で、苛烈で、繊細であるのに強靭な心。その全てを捧げる気なのだ。少年に、あの方は。

 

「あはは、ふふ、んふふふふふ、あぁ、あぁっ! なんて素晴らしい。なんて美しい……! どうして貴方様はそうなの? どうしてそんなにも愛おしいの? とても健気でひどく頑なでどこまでも慈悲深いだなんて……」

 

 自分の理想が魂を宿し、人の形を成したかのような人。

 求めたものが像を結び、自身に触れ、名を呼んでくれた。もう二度とは得られないと諦めた全てを与えてくれた。

 あの方こそ、あの方だけが。

 

「はぁ……お父様、お母様、どうか見ていてください。セシリアはきっと、(おとう)様と一夏(おかあ)様を幸せにしてみせますわ」

 

 それが、遺された自分にできる唯一の親孝行だから。

 

「為し遂げてみせます……何をしてでも」

 

 端末を立ち上げ、画像を呼び出す。

 今日撮影してすぐにデータを貰い受けた。

 自分と両隣に立つ()()の姿に喜悦が湧く。

 そして、その端に映り込んだモノを見て取って、すぐに画像編集機能を立ち上げ右側2cmほどを切り取った。

 

「その為に、邪魔なものは取り除かなくてはいけませんわ」

 

 篠ノ之箒……あの少女は目障りだ。しかし重要度は低い。ほんの些事であり暫らくは放置しても問題ないだろう。

 最大にして最強の障壁は別にある。

 

「織斑千冬……」

 

 一夏(おかあ)様と同じほど旧く、永く(おとう)様と親交する女。

 不要。不要。不要。どう考えを巡らせても結論は同じ。夫婦は二人で一つ。あれは邪魔だ。とてもとても邪魔だ。

 しかしあれを排除するのは生半のことではない。

 

「はあ、お優しい仁様。でもいけませんわ、その慈愛は一夏様にだけ向いていればいいのです」

 

 大丈夫。心配しないで。すぐに思い直させて差し上げる。

 

「わたくしにお任せください。セシリアはきっと、お二人を幸せに致します。ええ、絶対に」

 

 

 

 

 

 

 

 



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27話 再再会

 思い出すのは血の紅と子供の泣き声。

 強く色濃い残夢のような記憶。

 大きな、巌のような男がいる。開襟シャツを染める鮮やかな赤、朱、紅。滴る瑞々しさと糸引く粘つき、そんな血に塗れた男。

 そして、それに縋って泣き続ける小さな背中。

 思い出すのはいつも二つ。目に刺さる色と耳を貫く声。

 見て聞いてもなお、私には何もできない。伸ばそうとした手は鉛のように重く動かず、足を踏み出そうにも膝は笑い腰は砕ける寸前だった。

 何もできない。

 それだけを実感する。自分の無力を骨の髄から味わわされる。

 ただ、ただ、私はその光景に立ち竦んだ。

 そうして次に湧き上がってくるのは、ひたすら、どうしようもない、卑しい感情。

 

『なんであんたなの、仁』

 

 無意味な問いを叫ぶ。胸の内を木霊する。

 答えがないから無意味なんじゃない。結論(こたえ)は既にここにある。解り切っている。

 それでも。だからこそ、私は声もなく叫ぶ。

 

『なんで私は――――』

 

 醜い羨望という名の汚泥を私は延々と腹腔から喉笛から嘔吐する。

 

 

 

 

 

 

 

 白い翼は夕陽に染まり、彼は淡い茜を纏って羽撃(はばた)いた。

 舞うように柔らかな飛翔。空間の最短距離を最小限度の動作を経て零に――つまりは当機へと接敵する。手には一刃。変形太刀(ブレード)

 上段に執った剣を対手へ届かせんと欲するならば振り下ろすが定法。しかし、我らが纏うは空を翔る(IS)。通常の剣術、物理法則すら常の適用とは行かぬ。

 この儀、アリーナ内、地表30mにおいても戦闘術理は変容する。

 高速飛翔から斬撃を繰り出す時、必ずしも腕の運用は必要ではない。刀身をやや肩に担ぐように反らし、対手の懐下へ飛び込むだけで、瞬時にして亜音速を超える速力の乗った刃は装甲(シールドバリア)を容易く殺ぎ落とすだろう。

 況んや、あの“白式”の太刀はただの刃に非ず。強固なISのエネルギーシールドを物理的に切断せしめるエネルギーブレード――雪片弐型。

 一太刀でも受ければ莫大なエネルギー損耗を強いられ、加えて彼の剣筋……その精妙さあらば絶対防御の発動は必至。

 受けてはならぬ。

 顕現されたエネルギーブレードは触れるだけでこちらのシールドを食い破る。エネルギー放出機構たる実体の刀身ないし鍔、柄、それを握る手先を弾かねばならない。

 推進器に火を入れ、我方もまた前進。相対しての接近速度はISの知覚能力を易々と凌駕する。

 接触まで万分の一秒。弾くか去なすか、そうした選択肢を――この一刹那に捨てる。

 背部推進器噴射角を微調整。高速で前進飛行する機体が僅かに下降する。そしてその速度は対手が此方の懐を飛び抜けるより一拍分優越していた。

 やはり単純加速性能においては当機に分がある。

 そして下方を翔け降る当機に敵機の刃は届かない。

 

「ふふっ」

 

 ふと耳を打つ微かな笑声。通信によらぬ声を確かに聞き取った。

 小鳥の囀りめいて澄んだ少年の。

 白が動く。回転(ロール)する。空中を腹這いに飛翔していた機体の上下が入れ替わり、翼と刃先が地を差す。つまりは上段の太刀が下段の――下方を行く当機を捉えていた。

 

「!?」

「もらい!」

 

 回避運動。上体を捻り、同時に背部推進器出力を引き上げる。

 が、この間合では。

 右肩に衝撃、飛行体勢が崩れる。そして『右肩部に被撃。損傷軽微』と、どこまでも平淡なシステム音声が報告と機体状況(ステータス)を表示する。

 回避が功を奏したか斬撃は浅く、エネルギーの損耗も最小限度に留まった。

 

「機先を完全に読まれていました。御見事です」

『へへへ、結構器用だろ?』

「しかし」

『へ?』

 

 胸部および脚部推進剤噴射口を開放。最大出力。

 反転せず、機体は後退する。

 前進から()()()()後退運動。本来ならば不可能なこの機動をPICが可能にした。

 打ち込みの後、姿勢制御の暇もなかったろう。背泳ぎのまま飛翔する純白の天使。

 脚部推進器をさらに点火、途端に後方宙返りする身体と振り子の錘ように足先が翻り、足甲が白式を捉えた。

 打点は上下逆だが、所謂オーバーヘッドキックであった。

 

「のわぁ!?」

「御油断は禁物に」

 

 反撃には成功した。しかし、元より機を逸しており、且つ十分な勢力の乗らぬ一打。多少相手を驚かせる程度の効力しかない。

 まあ、それこそが目的であるので、思惑は実に完璧に達成されたと言っていい。

 推進翼をバタつかせ、慌てふためきながら空中で溺れる少年の姿に微笑する。

 

『もぅ、意地悪!』

「ふっ、申し訳もなく」

『あー! そういう態度とっちゃう!? ふんだっ、ジンの夕飯冷奴オンリーだから!』

「それはまた手厳しい」

 

 地上最強の機動兵器を身に纏い、刃の鎬を装甲の拳で削りながら、けれどひどく和やかに模擬戦闘は続いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幾度となく交叉する黒と白の機影。

 アリーナ観戦席からその光景をうっとりと眺めやる少女が一人。セシリア・オルコットは自身の高揚を自覚する。

 

「やはり素晴らしいですわ」

 

 彼らにとって闘争が、内実は睦み合い以外の何ものでもないことを少女はよくよく理解した。ここ数日の放課後、ほんの数時間ほど行われる模擬戦闘を目の当たりにして。

 しかし、何も相思相愛する二人のその様にのみ感動を覚えている訳ではない。同じIS操縦者として驚嘆に値するほどの戦闘能力を日野仁と織斑一夏は有していた。

 超音速を乗りこなす動体視力。反射、反応の感度。何より、戦闘行為そのものに対する経験値(キャリア)才覚(センス)が桁違いなのだ。

 たとえ代表候補生であっても彼らに敵う者がどれほどいよう。それは自身への皮肉でもあるが。

 まあそれはこの際端に置くとして、自分は今相当に有意義な時間を過ごせている。

 

「織斑くんと日野くんやっぱやばくない?」

「うん! 同学年なの信じらんない」

「今度さ、実習あるしいろいろ教えてもらおうよ」

「それいい。そのままお近づきになっちゃう?」

「マジ? アッハハハめっちゃ肉食系じゃん」

 

「……」

 

 自分と同じように、観戦席から彼らの戦いを見物する人間も数人……いや数十人はいる。

 だが、純粋に彼らの優れた技術を学び取ろうとここへ足を運ぶ者が果たして幾人在るだろう。少なくとも聞き取った限り、そうした殊勝な心がけは微塵と感じない。

 学園にたった二人だけの男子生徒。珍しい異性に対する好奇と興味。それだけだ。

 蒼穹に舞う花二輪、その美しさと芳しさに集る小蠅共。

 

「目障りだこと」

 

 顎に手を添えて思案する。眼下の席で友人と談笑し戯れ合う女子生徒ら。

 一匹一匹焼いて潰せばいずれ綺麗にいなくなるだろうか?

 

「それとも燻して追い出しましょうか」

 

 オルコット家の財力と築き上げてきたコネクションを用いれば、彼女らに()()を促すことは容易だ。IS学園に所属する生徒が如何に超法規的庇護の下に在ろうとも――親兄弟、親類縁者、必要なら飼い犬にまで、相応の根回しをすればいい。

 晴れて小蠅は自らこの地を去るだろう。

 

「無駄ですわね」

 

 数の多さと目的達成の難度は別段どうでもいい。それ以前に、そんな配慮が不要なのだ。あの御二方には。

 身の程を知らない雌猫共がいくら盛って腰を振ろうと、あの方々はきっと見向きもしない。そう、唯一絶対の絆によって彼と彼は繋がっているのだから。

 

「ふふふふふ……あぁ、素敵ですわ。おとうさま、おかあさま」

 

 再び視線は空を仰ぐ。茜色に刻まれる黒と白の軌跡。愛という名の図形。

 自身が守るべきものを、瞳とこの心に改めて焼き付けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年と二人ピットへ帰還し、ISを除装する。

 

「ふぃ~、流石にくたびれたなー」

「お疲れ様です」

 

 額から流れる汗を少年は腕で拭う。高速機動戦闘の後ともなれば当然、筋肉は熱を持ち身体はそれを発散する為に多量に発汗する。ISスキンスーツは通気性と保温性を両立する優れた生地組織が採用されているが、ISとの接触面積を考慮され如何せん肌の露出が多い。それこそ汗をそのままにすれば思わぬ疾病を招く。

 

「更衣室へ急ぎましょう。タオルを」

「こちらをどうぞ。仁様、一夏様」

 

 声の方を見やるとそこにはオルコット嬢が佇んでいた。両腕には白いタオルを掛け、それらをこちらに差し出す。

 放課後のこうした自主トレーニング後、彼女は何かと我々の世話を買って出てくれている。

 

「いつもありがとうございます」

「サンキュ、セシリア」

「いえ、お安い御用ですわ。それどころか、お二人の技術を見学させていただけるのですから、この程度は当然のこと。どうかお気になさらないでくださいましね」

 

 そのように言われようともやはり、彼女の配慮には頭が下がる。

 

「アリーナの使用申請についても御口添えいただきました。礼をすべきはこちらの方です」

「代表候補生という肩書きを有効活用したまでですわ」

「セシリアも一緒にやればいいのに。というか、そっちの方が見てるだけよか身になるだろ。千冬姉風に言うと、闘法に幅が生まれる、ってやつ」

「は、全く以てその通りかと。セシリアさんがよろしければ是非に」

「ふふ、お誘いはとても嬉しいですわ。ですが、今のところは遠慮させていただきます……」

 

 不意に少女は少年の耳に唇を寄せた。

 

(空の高みでの逢瀬、愛し睦み合うお二人の邪魔などできませんわ)

「っ、セ、セシリアぁ……そういう言い方はちょっと、少し、その、恥ずいです……」

「ふふふ」

 

 火を入れたかのように赤く沸騰する少年に、少女は優しく微笑んだ。

 ここのところ、一夏少年とオルコットさんは何かとこうして声を潜め、内緒話をするようになった。内緒の話であるのだからして己にはその内容を知る由もないが。

 とはいえ、少年と少女が友人として仲を深めている。当初の険悪さを思えば、ただただ喜ばしいばかりだった。

 

「そ、そう! 夕飯! 夕飯の支度しないと。早く着替えようジン!」

「は。もうよろしいのですか、お話は」

「い・い・か・ら……!」

「ふふっ、一夏様は本当に可愛いらしいですわ」

 

 少年に背を押されながらピットを出て通路を行く。アリーナの更衣室は勿論女子生徒専用だが、今の時刻ならば我々以外に利用者はない。

 その筈だが。

 

「?」

「んんっ? どうしたんだよ?」

 

 立ち止まった己に少年が(つか)える。

 リノリウムの通路の先、更衣室の手前に人影を認めた。小柄な少女だ。当然といえば当然ながらIS学園の制服を着用している。

 女子生徒はこちらを向き、廊下の中心で仁王立つ。不意に、二つに結った栗色の髪が揺れ――矮躯が弾けた。

 

「!?」

 

 弾けた、と見違うほどの瞬発。少女は疾駆して我方との距離を一気に詰めた。

 衝突までもう二歩分、その二歩を少女は一歩で跨ぎ越す。いや、踏み抜いた。

 

 ――震脚

 

 床面を伝った震動の強さを足先から利き取る。

 少女は腰を落とし、踏み込んだ右脚と共に拳を打ち出していた。

 

 ――崩拳

 

 体重移動力並びに完璧な震脚による地面との反作用。少女が如何に矮躯であろうと、数十kgの重量を拳一点に乗せたその貫通力は脅威。

 退くことはできない。身を躱すこともできない。背後には一夏少年がいる。ならば受ける。

 思考が遅々と結論を導くよりも早く、肉体はさっさと行動を終えている。

 

「シ」

「くっ」

 

 右前腕、筋群の最も厚い部分に拳は突き刺さった。

 悪態の息遣いは、我方ではなく彼方より。不意打ちを防がれた。企図に至らぬ苛立ち。そのような意を感じる。

 

「! 貴女は」

 

 覚えがあった。荒々しく、時に少女らしからぬその雄雄しさ。

 

「っっ!」

 

 気息が乱れたのもほんの一瞬。少女は追撃した。

 中段への蹴り。半歩踏み込んでの肘打ち。上体を半転身しての裏拳。

 こちらも右半身になり、蹴り脚および肘鉄を捌く。さらに一歩踏み込んで、裏拳を見舞おうとする少女を肩口で押しやった。

 

「うわっ」

 

 驚いたように少女が踏鞴(たたら)を踏む。

 体格差は有体に言って歴然。単純に押合えばこうもなろう。

 そうしてよろけた先には既に彼が控えていた。

 背後から少女の脇の下へ手を入れて、一夏少年はその矮躯を抱き上げる。

 

「きゃぁあああ!? ちょっ、やめ、降ろしなさいよぉ!」

「やぁだよっとと。この御転婆中華娘。いきなりなにしてんだぁあよっと! ジンぱす」

「はい」

「んきゃぁあああ!?」

 

 その場で少年はぐるりと回転し、遠心力のままに少女を投げ寄越す。

 それをそっと受け取り、そのまま米俵よろしく肩に担ぎ上げた。

 少女はじたばたと暴れた。

 

「うわぁああ降ろせぇー!!」

「よろしいでしょうか?」

「殴りかかって来ないなら」

「だそうです。如何でしょう」

「うぅ……わかったわよぅ!」

 

 泣きの入った承諾を得、少女をそっと地面に降ろす。

 彼女は乱れた制服を整えると、改めて我々を睨み付けた。

 変わらぬその様に笑みを返す。

 

「ご無沙汰しておりました。鈴さん」

「久しぶりだな、鈴」

「…………うん」

 

 ぶすっと不機嫌を露にしてなお愛らしい顔立ち。不貞腐れた小さな返事だけをして、少女はそっぽを向く。

 (ファン)鈴音(リンイン)。それはⅠS学園を訪れてから実に二度目の、望外の再会だった。

 

 

 

 

 

 

 



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28話 無思慮

 

 凰鈴音、彼女との出会いは約四年前。箒さんが我々の前を去って間もない春の頃、入れ替わるように鈴さんは転入してきた。

 当時、別室登校を行っていた己が彼女と親交を持つのは少しばかり後のことであるが。

 初対面……とも呼べぬ、その出会いは良い思い出とはとても言い難いものだった。けれど、あの出来事が有ったればこそ、今の彼女がある。

 一夏さん、あの少年が守り抜いた。明るく快活な、本来の彼女を。

 

 

 

 

 

「……とりあえず」

 

 床に降り立った鈴さんは、己の肩口の向こうをじろりと睨む。

 自身もまた後背へ振り返った。無論、己はハイパーセンサーによってソレを見るまでもなく捉えていたが。

 

「その物騒なの、仕舞ってくんない。誤射されて消炭になるのは御免だから」

「あら、これは失敬をば」

 

 声色を低くする鈴さんとは裏腹に、セシリア嬢は軽快に言った――――その手に、大口径レーザーライフルを構えながら。

 機材・物資の搬送を考慮され十二分に広々としたアリーナの通路が今や実に狭々しい。それほどに、ISの武装は生身の人間には巨大に過ぎる。

 彼女が量子変換によって“スターライトmkⅢ”を顕現させたのは感知していた。その砲門が寸分違わず鈴さんを捕捉していたことも。

 故にこそ、己は鈴さんの進路上から、射線上から離れることができなかった。

 

「セシリアさん……」

「申し訳ございません。とんだ粗相をしてしまいました……お許しください、仁様」

「いえ、自分は問題ありません。しかし」

「ですが、仁様、一夏様も。お二人の御身柄は今やこの世界にとって掛け替えのないもの。学園内であろうと()()()()()に対して常に警戒を怠ってはなりませんわ」

 

 セシリア嬢の手中からライフルが光の粒子となって消失する。同時に、傍らの少女の臨戦態勢も僅かに和らいだ。

 その様を見下ろすように、蒼い少女は微笑する。

 

「貴女も、あまり軽率な真似はしないことです。本当に撃たれてしまってからでは遅いでしょう?」

「ふん、身内同士の他愛ない挨拶よ。あんたには関係ない」

「ごめんあそばせ。他国の文化にはまだまだ疎いもので。チャイニーズの挨拶がこんなにも野卑な……いえ、ユニークだとは存じ上げませんでしたわ」

「もしかして喧嘩売ってる?」

「そのように聞こえるのはそちらに心当たりがあるからではなくて?」

 

 険と棘ばかりが尖る会話に、文字通りこの身で割り込む。同じく、様子を見守っていた少年もまた動いた。

 

「セシリアさん、我が身の軽挙を謝罪致します。そして御配慮に心より感謝を。しかし、どうかこの儀はこれにて御寛恕願います」

「鈴も抑えろ。お前がいきなり殴り掛かってきたからセシリアも驚いたんだよ」

「勝手にビビッて銃まで抜かれちゃ堪んないわよ。なによ、あんたはそいつの味方するわけ!?」

「味方とか敵とかじゃなくて、せっかく久しぶりに会えたんだからさ。積もる話もあるんだし、こんなところで立ち往生とか勿体無いだろ? な?」

 

 少女は少年の諌めにも完全には納得しなかった。鈴さんの目にあるそれは、もはや敵意と表して不足無い。

 その時、ふ、と脱力するようにセシリア嬢は息を吐いた。

 

「そうですね、失礼な物言いでした。申し訳ありません。お許しいただけますかしら」

「……些細なことよ。問題にもならない、ね」

「それはなによりですわ」

 

 短く言葉少なに応酬し、話は終わったとばかり。セシリア嬢は己と一夏少年を見止め、その場で一礼(カーテシー)をした。

 

「わたくし、本日はこの辺りでお先に失礼致します。お友達との久方ぶりの再会に水を差すわけには参りませんから」

「は、お気遣い有り難く」

「ごめん。今日もありがとなセシリア」

「ふふ、ではまた明日」

 

 微笑し、小さく手を振って少女は歩き出す。

 擦れ違うその横顔はやはり美しかった。

 ……しかし彼女が鈴さんを見る瞳は、最後まで凍て付いて見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アリーナ入り口のエントランスホール。少年らは手近なベンチに腰掛けている。

 人数分の飲物を抱え、その場に歩み寄る。

 

「どうぞ」

「お、ありがとジン」

「ん……」

 

 少年にスポーツ飲料、少女にはココアを差し出し、己もまたベンチに着く。

 鈴さんは胡坐を掻いて膝に頬杖を突いている。機嫌の良し悪しは、確かめるまでもあるまい。

 

「改めて、お久しうございます。鈴さん」

「力一杯元気そうで安心した」

「……うっさい」

 

 聞く耳は持たぬとばかり。けんもほろろとはこのことか。

 ともあれ、尋ねるべきことはある。

 

「いつ頃こちらへ来られたのですか」

「転入ってことだよな」

「……手続きとかは結構前に終わってた。学園に着いたのは、ついさっき」

 

 プルタブを起こし、少女は缶を呷った。

 

「ってか、いきなり殴りかかってきたのはなんなんだよ。小坊の頃だってあんなアグレッシブな挨拶してなかったろ」

「…………」

 

 少年のおどけた問いに、しかし少女は即座返答はしなかった。

 自分としても理由を詳らかにするのは本意である。彼女は時に激しい気性を露にすることはあっても、他者に理不尽な暴力を振るうような無頼では断じてない。

 

「お聞かせいただけませんか。あるいは自分に何か、不徳があったなら」

 

 己はそれを糺され、正さねばならない。

 押し黙っていたのもほんの数秒のこと。まず、空気に消え入るような掠れ声がした。

 

「……なんで……」

「はい」

「退院したんなら、連絡の一つくらい寄越しなさいよ!!」

 

 続いて響いた音声(おんじょう)は絶叫と言い換えてもいい。ただでさえ(そばだ)てていた耳に、なかなかの鋭さで少女の高音は刺さった。

 しかしその痛みを厭う心持ちは微塵とて湧かぬ。

 

 ――ああ、そうか

 

 すとんと、彼女の行動が合理した。

 そして、少女の隣で俯く少年の様を見る。その心中の悲痛を察して、心臓に()()()を覚えた。

 立ち上がり、少女の前に正対する。迷いなく、それ以外の方法すら浮かばぬまま、腰を折り頭を垂れた。

 

「申し訳ありませんでした」

「っ……」

 

 入院の原因や、退院前、そうして退院してからもなお様々なことがあった。ISという強烈なファクターが我々の日常を激動に変えていった。

 時期も悪かった。己が昏睡状態に陥ってから半年目。中学二年の三学期、御両親と共に鈴さんは帰国、日本を離れてしまった。

 ――だが、それが一体何の言い訳になるという。それらは彼女の思慮、憂慮に対して何程の意味も持たぬ。

 頭上に在る、友人という存在が己にとってどれほどに得難く、貴いものかを忘れる筈がない。誠意も何もかも足りなかった。己の無思慮がただ恥ずかしかった。

 

「……」

 

 不意に、右手の人差し指を握られる。小柄な彼女の手は、己の図体からすればあまりにも小さく儚い。しかし、指から伝わる力強さはそのようなイメージを吹き飛ばす。

 それはまるで、赤子の握力に生命の強さを実感するかのようだった。

 少女は己と、一夏少年の腕を抱き寄せ……程なく、鼻水を啜った。

 

「っ、ふ、く、ぅ」

 

 ぽろぽろと零れ落ちた涙が、彼女の膝小僧に当たっては滑り落ちる。

 

「ぶじで、よがったぁ……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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29話 蕾

 己が思慮深い人間だなどと思えたことは一度もない。

 

「そういえば、さ」

 

 だからこそ、誤った。

 

「仁の怪我ってまだ、その……良くなってないの?」

「は……そのようなことは。皆さんの多大な御援けを賜り、この通り完全に恢復しております」

 

 おずおずと問いを重ねる少女の、その躊躇いを単なる気遣いと片付けた。それが最たる愚考であった。

 包み隠すべきではなかったのだ。浅はかな思慮を働かせ、瑣末な嘘を少女に吐き寄越した。真実がどれほど無情でも、傷を放置すればいずれ膿み()えてしまうのだから、一時の痛みを己は彼女と共に甘受すべきだった。

 

「そっか。ならいいけど。てっきり治り切ってなかったり、あとほら……後遺症とか残ってんのかと思ったから」

「? 何故、そう思われたのですか」

「だって私が仕掛けたとき、あんた――――」

 

 誤った。

 凰鈴音が抱く想いの深淵(ふか)さを。

 完全に、完璧に、日野仁は見誤った。

 

「――――左手、庇ってたじゃん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――妙な癖が付いてしまったようです。重ね重ねご心配をお掛け致します」

 

 馬鹿丁寧にそう言って会釈する男を、溜息混じりに見上げた。

 相変わらず山みたいに大きくて、その身長と反比例するようにやたらに低姿勢で、糞真面目で、他人の心配ばかりする。どうせ今の変な間も、こっちに気を遣って何かを誤魔化したに違いない。

 徹底的に突っ込んで詰問してやろうか……なんて。

 

「ま、今日のところは勘弁したげる」

「ありがとうございます」

「ぷっ、ふふ、ばーか。ホントに全ッ然変わってないわね」

「お前も人のこと言えないだろ」

 

 横合いから茶々が入る。思っていたよりずっと近くに少年の顔があった。

 途端、心臓が跳ねて顔が火を吹く。

 悪戯っぽい笑みを浮かべる、まだ少しだけあどけない形。女の自分から見ても憎らしいくらい綺麗な容貌。ひどく危うい美しさ。

 けれど、自分は知っている。彼の、その容姿とはかけ離れた勇ましさを、猛々しさを。差し伸べてくれた手の頼もしさを。

 

「? どうしたんだ。顔、赤いぞ」

「う、ぅうっさい! なんでもないわよ!」

「変なやつ」

 

 人の気も知らないで少年は笑う。その笑顔さえ眩しく見えて、自分はどうしようもないくらいこいつに()()()()んだって自覚する。

 あの頃から何も変わってない。少年も、少年に対する自分の想いも。

 

「さってと、そんじゃあ今日も夕飯は四人分か」

「え?」

「さっき言ったろ。積もりに積もった話を開陳するんだよ」

 

 ベンチを立って少年は高らかに宣言する。

 もともと寮部屋は訪ねるつもりでいたし、正直その提案は願ってもないことだけど。

 

「はは、なんか夕飯に誰かを誘うのが日課みたいになってきたな」

「確かに、この頃は。なれば客人を招くという点においては、あの部屋構えも重宝でしたね」

「あー、まあ豪華さだけは学園一かもだし」

「……誘うって誰を」

「ん? ほら、さっき会った金髪の子だよ。最近仲良くなってさ。あと篠ノ之箒っていう俺の幼馴染。鈴にも話したことあったよな」

 

 あっけらかんとのたまうその可愛らしい顔が怨めしい。どうやら危惧していた通り、少年のこの“悪癖”もまた頭に来るほど変わらない。

 セシリア、とか言ったか。あの金髪女がこちらを露骨に敵視してきた理由も想像が付く。目を付けていた見目麗しい少年に馴れ馴れしく絡む見知らぬ女。

 まあ、気に入らないからといってISまで持ち出すのは過剰というか異常だが。

 

(? あれ? あいつ、なんで)

 

 不意に疑問が浮かぶ。

 砲口を突きつけて来たあの女。見知らぬ、初対面の筈のあの女は。

 

(私の出身国を知ってた……?)

 

 自分の外見が殊更人種的特徴に富んだものとは思えない。それこそアジア人種の顔の違いなど、白人は、アジア圏外の人間は頓着しないだろう。

 一夏や仁は自分を鈴と呼んだ。フルネームを口にしたならまだしも、これも国籍を特定するには不十分だ。

 

「…………」

 

 不気味だった。恐怖感も多少覚えている。しかし、それ以上に湧き上がるのは苛立ちと怒りだ。

 既に喧嘩は売られていた。それを瞬時に察知できなかったことに無性に腹が立つ。

 

「うーん、やっぱ中華かな? 調味料買い足さないと」

「ではこのまま学内スーパーへ向かいましょう。鈴さんはどうなさいますか。一度部屋に?」

「……いいわよ。私も付いてく。この私に中華料理を振舞おうなんていい度胸じゃない。食材の目利きから、お手並み拝見させてもらうから」

「なんだよその料理バトル漫画みたいなノリ……ま、いいけど。絶対美味いって唸らせてやるよ」

「あ~ら生意気! ふふふ!」

 

 安い脅しなんて踏み潰すだけ。

 一夏は渡さない。渡すもんか。

 そうだ。あんなぽっと出の女に構っていられるか。

 

「行こう」

「は」

「……」

 

 連れ立って歩く二人、その背中を追い掛ける。

 いつものように。

 いつかのように。

 気付いた時には()()だった。

 変わらない光景。変わらない関係性。変わらない嫉妬。変わらない羨望。

 泣きたくなるほどの不変があった。

 小学五年の春。少年と出会い、そしてあの男と出会った。

 少年への想いが募り深まるほど、彼らの絆の強さを思い知らされた。自分が割り込む余地など微塵もないほどの、深淵(ふか)さ。

 証を見た。真実の“ソレ”を男は示した。

 

 

 ――血の紅と子供の喘鳴が

 

 

(……違う)

 

 それでも、どうあっても、必ず振り向かせてみせる。その為にも、私はここに来たんだから。

 諦め。その賢明さを私に捨てさせたのは、誰あろう(アイツ)なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 学園内の無駄に大きなスーパーで一通りの買い物を済ませて、一夏達の部屋に案内された。

 

「……えっと、参考までに聞くけど……いくら積めばこんな部屋に住めるの?」

「誤解です」

「人聞き悪いこと言うな! ……いや、まあ言いたいことは解るけど」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






展開激遅かつ遅筆で本当に申し訳ない。
でも徐々に病要素散りばめるの愉しすぎぃ!


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30話 砂上の恋心

 

 

 小気味良く響く包丁の音。くつくつ煮える鍋。軽やかな少年の鼻歌。

 エプロンを身に付けた後姿が異常に様になっている。

 一夏はフライパンを火に掛け、それが熱する合間に小皿へ移したスープに口を付けた。そうして思案顔で小首を傾げる。

 

「んー……鈴、ちょっと味見てくれよ」

「あ、うん」

 

 何の含みもないだろうし何一つうろたえることもない。間接キスに思春期入りたての中学生みたいな動揺とかしないし。私高校生のお姉さんだし。サバサバ系だし。

 顔が熱くなるのを自覚しながら、素知らぬ風で素湯(スープ)を飲んだ。

 

「どう?」

「ん……いいんじゃない」

「そっかそっか」

 

 味なんてほとんど分からなかった。満足そうに頷く少年には少し申し訳ないが。

 手際よく五品目ほどをあっさりと仕上げ、さらにもう一皿何かこさえるつもりらしい。主婦顔負けというか料理人裸足というか。

 手伝うと息巻いてキッチンに入り込んだ手前、つっ立っているだけのこの状態が馬鹿みたいだった。

 なんとなく気不味い。沈黙の間が怖い。

 

「ジン遅いなぁ。キッチンペーパーなんて明日買い足せばいいのにさ」

「……」

 

 今この場にいない男の存在を恋しがる自分は、きっと、いや間違いなく情けないのだろう。買い忘れ、なんて取って付けたような理由で仁は席を外していた。

 一夏と私の二人きり、何よりも望んでいた状況なのに。

 そして、この仁の()()()に、感謝するどころか苛立ちを募らせる自分は、間違いなく嫌な女だ。

 

(本命の余裕ってこと? ……いいわよ。ありがたく利用させてもらうから)

 

 めぐんでくれてありがとう。あわれてんでくれてありがとう。とでも言えば満足?

 ふざけんな。

 

「……あぁもう」

「鈴?」

「っ、なんでもない。食器出すわ。えっと、こっちの棚?」

 

 卑屈で嫌味ったらしい思考に嫌気が差す。どうしてそんな風に捉えようとするのか。

 そうじゃない。(あいつ)の行動に他意はない。ううん、一つの他意だけ。本当にこの状況そのままの配慮。

 あいつは私の、一夏への想いを知っている。理解してる。相談した訳でもましてや話して聞かせたことだってないけど。一夏と違って、他人の心の機微にはすごく敏感なやつだから。

 チャンスを、くれてるんだ。

 三年前、うやむやになってしまった告白。その続きを伝える機会を、こうして御膳立てされた。

 

「ちょっとー、大皿ってこれだけー? この量じゃ盛り付けるのギリギリじゃない」

「あははは、張り切って作りすぎちゃったかぁ」

「あははじゃないっての。明らかに四人分じゃないわよこれ」

「まあジンも千冬姉もいるし大丈夫だろ」

 

 でも、それなのに、素直に感謝できないのは。

 知っているから。

 理解しているから。

 少年の想いに私は気付いてしまったから。

 そして、人の心の機微に聡いあの男が、誰あろう一夏の想いに気付かない筈がないんだから。

 

「特にジンは見た目通りいっぱい食べてくれるし、作り甲斐あるよ。えへへっ」

「……」

「あ、そうだ鈴。最後の一品だけどさ」

 

 気付いてる癖に、どうして私にこんなことをさせるの。どうしてあんたは何も応えないの。

 どうして私は、私はあんたに。

 

「酢豚、作ってくれよ」

「――――へ?」

「昔よく食わせてくれただろ。鈴が作る酢豚、俺すっげぇ好きなんだよ」

 

 息が止まるような、時間が止まるような感覚。

 屈託のない笑顔で少年は言った。

 それは正しくあの日の続き。中学に上がってすぐ、実家の食堂に少年を招いたあの日。なけなしの勇気ってやつを振り絞ってやった一世一代の告白……()()()だ。

 直接直球で本心を伝えた訳じゃない。それはもう遠回りもいいところ。

 

『いつかもっと料理の腕が上達したら――』

 

 日本人が言うところの『毎日味噌汁を作って欲しい』。こんなのがプロポーズの言葉になるなんて阿呆らしいと一時は笑ったけど、結局はその遠回りな言い回しに頼ってしまったのだから本当の阿呆は私なんだろう。

 そしてこの鈍感男にはきっと、真意は伝わっていない。

 

『一夏さんは控えめに言って天にも昇るほど()()()方です。あまり凝った表現を用いるのはお奨めしかねます』

 

 そうした仁からのアドバイスもあり、過度な期待はしていなかった。

 結果は案の定。言葉通り、文面以上の意味合いはない。告白もどきは盛大に空振りだったようだ。

 つまり私は今こそスタート地点にいる。

 

「い、一夏……!」

「ん、なんだ?」

「あの、わ、私」

 

 一度は決意して、失敗したとはいえ、告白を実行できた。

 今この時それができない理由なんてない。

 言え、言うの、さあ、今度こそ、この想いを――――

 

「一夏、が……」

「俺?」

「一夏…………は、か、彼女とか、いっ、いるわけ?」

 

 どもりにどもった末、結局は盛大に日和った。

 少年の可愛らしいキョトン顔が憎らしいったらない。

 でもまだだ。諦めるにはまだ早い。直球は投げ損ねたがストライクゾーンを掠めている。

 

「そ、そう! 私達だってもう高校生よ? そういうのに興味あったって不思議じゃない。ううん無い方がおかしいわ!」

 

 我ながら必死過ぎる。今だけは鏡を見られない。きっと耳まで赤くなっているだろうから。

 

「かのじょ? あぁ、彼女。いや、いないけど」

「そ」

 

 勿論、この少年にそういった相手がいないことは再会前にクラスメイトからリサーチ済みである。けれどそれでも、少年の口から直接それを確認できたことにひどく安堵した。

 溜息さえ、こぼれ出そうになった――

 

「まあ、俺はそういうの要らないかな」

「は? えっ、要らないって……」

「だって俺にはジンがいるし」

 

 ごく当たり前の事実を口にするように。何の疑問もなく、ほんの微かな迷いもなく、一夏は頷いた。

 

「なっ……あははは、なに言ってんの? 私は、あんたが彼女作るかどうかの話をしてんの。なんで……そこで、なんで仁が出てくんのよ……」

「なんでって……」

 

 一夏はそのくりくりとした目を瞬かせる。心底不思議なことを尋ねられていると。

 

()()と千冬姉をジンは見てくれる。そばにいてくれる。さわって、抱きしめて、全部で包んでくれるから」

 

 どうしてか一瞬、幼児のように少年は舌っ足らずに口ずさんだ。そうして、ほう、と。ひどく熱っぽい吐息を零して。

 夢見る乙女めいてたおやかに、蠱惑的に、彼は微笑する。淡く上気した頬、濡れた黒い瞳、唇さえ瑞に溢れて。

 その耽美に知らず生唾を飲み込んでいた。

 

「ふふふっ、うん! 他にはなーんにも要らないや」

 

 無邪気な笑顔だった。

 息を呑むほど綺麗だった。

 想い人に恋い焦がれる様、とてもとても身に覚え深いその姿……いやそれ以上の。

 紛うことなき愛情があった。

 一夏は仁を――――

 

「いやっ……!」

 

 ダメだ。ダメ。それだけは。それを認めてしまったら。その愛の絶対性に一度でも屈してしまったら。もう二度と立ち向かえない。折れた心は二度と。

 もう、私は私は私は私は私は私は私は私は、私は。

 膨張する。理解と拒絶。頭を抱えても抑え込めない。絶望。

 

「や、いや、いやよ、そんなの、ぜったい、それじゃあ、わたし、わたしどうしたら……」

「鈴?」

「どうにも、ならないじゃない」

 

 答えは出ていた。知らないふりをして、希望を捏造して、優しさに甘えて。

 わかっていたくせに。

 まだ、もしかしたら、きっと、そういう細い藁を手繰って手繰って。

 行き着いた今。

 

「もう、どうしようもないじゃない……!」

 

 私はそこから逃げ出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 学園内スーパーから帰宅した直後、キッチンから小さな影が飛び出してくる。

 反射的に躱すのではなく受け止めたのは、瞬間的に増強された動体視力が彼女の姿を捕捉した為だった。

 

「っ!? 仁……」

「鈴さん? 一体、如何されましたか」

 

 こちらを見上げた少女の目に、微かに光るそれは。

 幼さ残す愛らしいその顔貌。一瞬、驚きはっとした少女の美貌が――見る間に暗く翳り、歪んだ。

 熱した鉄針の如き危うさを湛え今や憎々しげに、己を睨め上げている。

 残光のような憎悪を引き、我が身を振り切って彼女は走り去ってしまった。

 

「鈴さん!」

 

 制止の声に一顧だにせず、扉の向こうへその矮躯が消える。

 追わねばならぬ。状況の理解を捨て置いて優先すべき行動だった。

 

「ジン! 今、鈴が」

 

 転身し、一歩を踏み出しかけた時、キッチンから一夏少年が駆け出てくる。

 端整な面差しが焦り、憂いに翳っている。

 

「追いましょう」

「うん!」

 

 反問不要と、二人寮室から、廊下を駆け抜け寮舎から飛び出す。しかし、彼女の姿はどこにも見えない。

 相変わらずの健脚。今ばかりは御自重願いたかった。

 

「鈴、泣いてた」

「……はい」

「俺が何か、酷いこと言っちゃったのかな……また、気付きもせずに」

「……」

 

 織斑一夏という少年は、殊色恋に対してのみ飛び抜けて疎く、勘が鈍い。数多くの少女らが彼に想いを寄せては、微塵とて気付かれることなく淡い恋を諦めていった。

 しかし彼は決して他人の心の有り様に無頓着、無感動な訳ではない。むしろ彼は繊細過ぎるほどに鋭敏な感性を持って、時に周囲が驚くほど緻密に人の心を感じ取ることができる。

 

「俺、鈴が好きだ」

「は」

「真っ直ぐで、嘘がなくて、誰も彼も差別しない。感情(こころ)に正直だから付き合ってみてもぶつかってみても気持ちがいいし、なにより…………」

 

 夜風が吹き抜ける。微風には夏の兆しが香った。

 その後に言を継がず、少年は頭を振る。

 続きを聞きたいという心境も、また今の言葉をかの少女に聞かせてやりたかったという節介も湧くが、今は時が惜しい。

 

「手分けしよう。俺は校舎の方を」

「自分は研究棟方面を」

 

 頷き合い、散開する。

 疾駆する足取りに迷いはない。脳髄が事の仔細と経緯を考えるよりも、肉体はただ涙する彼女を、得難い我が友人を追わずにおられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――なにより、鈴は、ジンを()()()()()好きでいてくれるから

 

 少年は理解できない。少女らが自身に対して勝手に抱いている恋心など。

 しかし少年は嗅ぎ取れる。愛する(ジン)に対して放たれるあらゆる情動(おもい)を。

 

 ――――だから俺、鈴が好きだ

 

 ジンを好いてくれる。そして自身からジンを()らない少女が。

 とても好きだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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31話 嘘


ヤンデレもので書いてて一番楽しいのは女の子がキレてるときなんやなって。




 春もそろそろ半ばを過ぎたろうか。温い夜風は熱を上げる身体を冷やしてはくれなかった。

 凍るような冷気が欲しい。ぐつぐつ煮える身体の中身、その全部が凍って固まり何も感じなくなるくらいの。

 どれくらい走ったろう。寮舎はとっくに見えなくなって、今はアリーナ近くの煉瓦道を歩いている。街灯の乳白色の光の下を何度も通り過ぎ、より人気のない場所を探した。

 気分は最低だった。

 

 ――変わっていないと、思ってた

 

 それは私の単なる希望だった。

 あの“事故”。タンクローリーと衝突しそうになった一夏を仁が庇った。そうして彼が昏睡状態になってからの一年間を私は知らない。きっとその間に、ずっと育まれていったんだ。

 少年の胸の奥、もともと芽吹いていた想いが、花開いて結実して完成した。

 一夏は仁を深く愛している。何も、どんなものも寄せ付けないくらいに強く、(つよ)く。

 

「どうしろっていうのよ……」

 

 一夏が好きだ。

 独りだった私を日の当たる場所まで引き上げてくれた。私の居場所になってくれた。そして、理不尽な悪意と暴力から守ってくれた。

 それが、どんなに、嬉しかったか。どれだけ心が救われたか。

 

『イジメとか差別とか横暴とか理不尽とか、ジンなら絶対見過ごしたりしない。ジンならきっとこうするから……!』

 

 その動機が、“誰か”への憧れでも構わなかった。

 それどころかきっかけをくれた“誰か”には感謝すらしている。

 仁は好きだ。堅物で糞真面目で謙虚過ぎるくらい謙虚な気遣いの鬼。でもその生き方を他人に押し付けない。ただただ穏やかで優しいあの大きな男が、とても好ましかった。

 大切な友達。その評価は一生揺るがない。

 今でも……。

 

「最低なのは、私か」

 

 嘲るような音色の失笑が鼻を抜ける。好きな相手を取られた……そもそも見向きもされていなかったけど……それで掌を返すのだから、よくも大切な友達なんて言えたものだ。

 どうすればいいのだろう。

 胸に灯った、灯ってしまった、この憎悪。大切な友達、友達に私は。

 

「ホント、どうしたらいいのかな……」

 

 気付くとそこはIS研究棟の傍、おそらくは研究員向けの野外休憩スペースだった。

 脱力するようにしてベンチの一つに腰を下ろす。夕方というには遅く、夜半というには早過ぎる。中途半端な時刻な為か、周囲は驚くほど静かだった。

 項垂れたまま、ただ時間が過ぎるのを待つ。一夏は勿論、仁とも、今は顔を合わせたくない。

 ほとぼりが冷めたら何食わぬ顔をして戻ればいい。何もなかった、何もしなかった、何も変わらない、そう言い聞かせて。

 その方が心は楽だ。

 何年経っても消えなかった想いに欺瞞(ウソ)の蓋をして諦めの封をする。晴れて明日から一夏と仁と私は友達に戻れる。あの頃と同じ、楽しい学校生活が幕を開ける。

 

「……っ、ぅ、く……」

 

 鼻の奥に痛みを覚え、目元がかっと熱を持つ。

 泣きたくない。絶対に、泣くもんか。

 大きく息を吸い込んで、溢れそうになるものを誤魔化した。

 顔を洗おう。冷たいシャワーを浴びれば、元通りになる。

 戻ろう。そう考えた時だった。

 

「何をしている、凰」

「っ!」

 

 刃を押し当てられたかのような、そんな質感の声が頭上から降ってくる。身構える暇さえなく、肩が跳ねたのを最後に身体は固まってしまった。

 数秒掛けて、おそるおそる顔を上げる。

 そこには声同様の印象を放つ、見知った女性が立っていた。

 怜悧な目、それ以外は一夏とよく似た、いやもはや瓜二つといっていい美貌。織斑千冬。

 ダークスーツ姿が、街灯の光さえ斬り裂いて空間に刻まれているようだ。

 

「夕食は織斑、日野と取る。そう連絡を受けていた筈だが」

「……」

「だんまりか」

 

 そう言って千冬さんは薄く笑みを浮かべる。咎めるような気色はなく、どこか面白がってさえ見えた。

 昔からこの人が苦手だった。冷静で冷徹で、自他共に厳格さを強いるところが。なにより、非の打ち所なくあらゆる物事をこなしてしまう完璧さが。

 自分だって人より優れた部分を一つ二つは備えているかもしれない。しかし、そんなもの鼻で笑えるほどの能力と才覚をこの人は持ち、また使い(こな)している。それこそ、超人と言っていいレベルで。

 気後れとか、劣等感とか、近しい表現は幾つか浮かぶが、この苦手意識がどこから来るものなのかは未だによく分からない。

 

「し、消灯時間までには、戻りますから……」

 

 軽く言い淀みながらにそれだけ口にできた。そして言外の意図をこの人が読み誤ることはない。

 我ながら、恐いもの知らずな物言いだ。あの織斑千冬に向かって『何処かへ消えろ』と言っているのだから。

 

「そう邪険にするな。生徒の悩みを聞くのも私の職分だ」

 

 千冬さんは気分を悪くするでもなく、むしろより一層笑みを深めた。

 そのまますとん、とベンチの隣に座ってしまう。

 尤もらしい言い分だが、今はひたすら迷惑だ。その上、今のこの気不味さといったら一夏と二人きりの時とは桁違いなものがあった。

 そうした思いが態度にも表れていたのだろう。千冬さんは肩を竦め、くすくすと笑った。

 

「酷い顔だ。辛いなら泣いてしまえ。多少は気が晴れるぞ」

「別に、辛くなんてない、です……」

「周りに憚らず泣き喚けるのがガキの特権だろうに。何があった?」

「…………」

 

 言える訳がない。

 ついさっき、貴女の弟さんと盛大に――

 

「失恋でもしたか」

「――」

 

 心を読み取られた。もしくは考えていること全部を口に出していたのか。

 そんなことを本気で心配するほど、核心を貫かれた。

 

「……おいおい、本当か? まさかと思ったが……はぁ、すまん。無思慮な物言いだった。謝罪する。私はどうも、昔からこれだ。こういうところが粗忽でいかん。いかんなまったく。許せ、凰」

「……いえ」

 

 千冬さんは大袈裟なくらい謝罪の言葉を並べ、最後は頭まで下げた。

 確かにデリカシーに欠ける言い様だったけど、これは自業自得、自分が招いた結果だ。いや、確かめる余地もなく結果を見せ付けられた、という方が正しい。

 

「相手は……まあ織斑か。足掛け四年とはまた、随分と長く患ったな」

「……」

「気付きもしなかったろう、あの鈍ら頭。そうでなくとも思春期真っ盛りのガキならもう少し色気づいてもよかろうに。あぁそれとも……()()()()()から、か?」

「っ……!?」

 

 息が詰まる。そのほんの一言が、心臓を握り潰した。

 浅い呼吸をなんとか抑え付けて奥歯を噛み締める。私は何を堪えているんだろう。こんなにも何を恐がっているんだろう。

 謝罪を口にした、その舌の根も乾かぬ内に織斑千冬は踏み込んでくる。今、一番触れてほしくないそこに、土足で。

 

「あいつは何と言っていた? 私の愚弟は」

「な、なにって……それ、は……」

「言いたくないか。そうだろうな。なら、当ててやろう」

 

 甘く、熱く、潤む。その囁きは耳から浸透して脳を蕩けさせる。考える力を奪い去る麻痺毒。

 他者を魅了する美しい容姿(カタチ)をした女の声は、やはり美しい色艶をしていて、どうしてもどうしてもどうしても拒めない。

 耳を塞ぎたい。聞きたくない。心はこんなにも拒絶しているのに。

 その綺麗な悪意は、私を虜にする。

 

「ジンの他には何も要らない。何一つ」

「――――」

「一夏が……私達が望むのはあいつだけだ」

 

 顔を上げられない。隣に座る人が誰なのか、わからない。

 ただ、今その人がどんな貌をしているのかは、はっきりとわかる。

 喜悦(よろこび)の笑顔。とてもとても嬉しそうにこの人は笑っているのだ。

 

「あいつは一夏の為にその身を捧げてくれた。凶手を前にして己が身命を慮外に打ち捨ててただ一つ一夏の生存だけを願い求め全身全霊を使い切り……そして為し遂げて見せた」

「え……?」

 

 満足に働かない思考回路が、それでも聞き逃せない言葉を捉えた。

 凶手?

 

「うん? ああ、そうだった。一応機密なんだが、あれは事故ではない。ある非合法組織が私との脅迫的コネクションを築く為に織斑一夏を略取しようとした。ISまで動員してな。国内で所属不明ISの不正運用、どころか明らかな戦闘行動だ。表沙汰に出来る訳がない。当然強固な情報統制が布かれた。お前が聞かされたのはそのカバーストーリーだよ」

 

 まるっきり世間話の体で衝撃的な事実を列挙された。いや実際にこの人はそれを世間話の種としか思っていない。

 彼女にとって重要なことはたった一つ。

 

「ジンは私達姉弟のものだ。そして、ジンの命で生き永らえている一夏は――ジンのものだ」

 

 夜気が震える。それは笑声だった。

 

「くひ、くく、ふふふふ、く、ふ、あっはははははははははははははははは! ……すまないなぁ、凰。私はお前の味方になれない。私は教師である前に、あいつの姉さんだから」

 

 優しさに満ちた声に包まれ、そうして労わるように細く冷たい指が私の頬を撫でる。

 私は一声も発することができない。喉は塞がれて舌は凍り付いていた。

 夏の気配すら覚えていた夜風の下、だのに私はガタガタと震え上がっている。

 

 

「諦めろ」

 

 

 ――――気付くと隣に千冬さんの姿はなく、遠ざかる靴音が残響していた。

 街灯の先の世闇に闇色の背中が消え、私一人だけが取り残された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 研究・開発棟へ行く途上、煉瓦道を打つ靴音をまず聞き取った。そうして街灯と街灯の狭間の闇より姿を現したのは、かの女性。

 

「千冬さん」

「ふむ……こちらに来たのはジンか」

「は」

「いや、なんでもないよ」

 

 頭を振って彼女は優しげに微笑する。

 

「凰を探してるんだろう」

「! 何方に向かわれましたか」

「おそらく今は海岸の方だ。追うのか?」

「無論」

 

 放って置くなどという選択肢はない。一夏少年との間に如何なる不和があったにせよ、今は出来るだけ早く彼女を迎えねばならない。

 傷付き、涙する少女を、独りになど――――

 

「待ぁて、ジン」

 

 右腕を柔らかな感触に包まれる。彼女はその肢体で己の腕を抱え込み、さらに手を握ってくる。細くしなやかな指の一本一本が順々に絡み付き、俗に恋人繋ぎと呼ばれる形に落ち着く。

 体温の発するそれ以上の熱が、我が身を暖めた。

 

「今夜はこのまま一人にしてやれ」

「しかし」

「年頃の小娘にはよくあることだ。私にだって覚えがある。下手に構う方がむしろ状態を悪化させるかもしれない。解るだろ?」

「……は」

 

 至極尤もな謹言であった。ささくれ立った神経を逆撫でにして、取り返しの付かぬ重症に発展しないとどうして言えよう。

 そっと腕を引かれる。彼女の濡れ羽色の髪が、己の肩に寄り添った。途端に甘い香りが鼻を擽る。

 

「帰ろう。一夏が待ってる」

 

 教育者として立派に勤めを果たす彼女の言葉に否やなどない。千冬さんの意見はどこまでも正しい。

 このまま踵を返して明日を待つべきだ。時間こそが今の鈴さんにとって最良の特効薬なのだから。

 賢明な判断。疑う余地など微塵もありはしない。

 だのに。

 

「……」

「ジン?」

 

 己の足は一向に動かず、そしてその意思もまた翻ることはなかった。

 

「やはり自分は彼女を追います」

「……言っただろう。それは逆効果だ」

「はい、そうかもしれません。しかし、そうであったとしても、今この時は彼女を追うべきと考えます」

 

 賢しさからは程遠い愚かしい行動選択。千冬さんの厚意に泥を塗るが如き真似だった。

 それでも動かずにはおられない。

 すれ違いに垣間見た少女の怒りと憎しみ。しかしその奥底に、それらと比較にならぬほどの大きな悲しみを見た……そんな気がする。

 その程度の所感。勘働きである。

 それでも、俺は俺の独善を止められない。

 

「独りになどさせられない。悲しみに打ち沈む様を看過するくらいなら」

 

 その怒り、憎しみを奮わせ、立ち上がって欲しい。振り上げられた激情の矛は、我が身で受けよう。

 

「――――」

 

 無垢な瞳が己を見上げている。夜空を映す筈の黒曜の宝珠には、星明りほどの光すらなく。

 そう。あの日も己は愚行に走った。弟御の為に骨身を削りそれでも足りぬと自らを使い潰そうとした少女を……貴女を、見過ごすことなどできなかった。その尊い意志に、我が独善を押し付けた。

 

「……お前の、好きにすればいい」

「はっ」

 

 敬愛の女性(ヒト)

 その暖かさを惜しみながら、己は走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 潮の香り。鼻を抜けず、そのまま粘膜に絡み付くようだ。絶え間ない潮騒が脳を揺さぶる。

 黒い波濤が寄せては返す。今の自分の心の風景も、きっとこんな風に暗い。

 ひどく、疲れていた。

 

「……」

「鈴さん」

 

 声を聞いて、それが誰なのかを理解しても不思議と落胆はなかった。むしろ安堵さえしている自分が、嫌になった。

 まるで、うんと小さい頃、公園まで迎えに来てくれた父母を思い出す。懐かしさにも似た心地。涙が出るくらい、それは暖かで。

 それが悔しくて仕方ない。

 

「帰りましょう」

「放っておいて」

「いいえ」

「あんたこそ帰れば……一夏のところに」

「いいえ、一緒に帰るんです」

 

 いつもの仁ならとっくに引き下がっているだろう。この男がこっちの心境に気を配れない筈がない。一人になりたい。誰とも顔を合わせたくない。混じりっ気なしの本心だった。

 それを解った上で、諦めてくれないのは。

 

「……うるさい。どっか行きなさいよ。鬱陶しいから」

「行きません」

「しつこい!!」

 

 砂を蹴散らして振り返る。夜空を覆い隠すくらい大きな、静かな目をした男がそこにいる。

 それを睨み上げる。心底から、憎悪を滾らせて。

 

「いつもいつもいつもあんたは! あんたは! そうやって、私を……!」

 

 仁は私の味方だった。仲間内の悪ふざけやじゃれ合いを諫められることはあっても、大切なことはいつだって肯定してくれた。些細な意見も尊重してくれた。対等かそれ以上の一人の人間として扱ってくれた。

 私の想いを、応援してくれた。

 私の心強い味方――――そう思っていた。

 

「委員会とか班分けとか、融通してくれたっけ? 一夏と一緒がいいだろうって。登下校でさり気なく二人っきりにしてくれた。お弁当作るとき、一夏の好物とか教えてくれた。文化祭の時、売店のシフトを合わせてくれた。体育祭の時も二人三脚のペア譲ってくれた。他にもたくさん、いろんなこと、いろんな場面、いろんな時間、仁は私を助けてくれた。嬉しかった。ずっと感謝してたよ――――でも、でもさぁ」

 

 数え切れないチャンスを与えられて、一度は告白の機会さえ。

 でも現実は。

 

「一夏が好きなのはあんたじゃない!!」

「……」

 

 一夏は私を見てくれない。私は永遠に単なる“いい友達”だ。

 

「それがどんなに惨めか! あんたに解んの!?」

 

 結果が分かり切っていてそれでも諦められずに報われない努力を繰り返す。四年前から変わらない。私は、変われなかった。

 

「は、はは、それとも、無駄なことする私を見て裏では笑ってたわけ? その為にあんたは私の味方のふりしてたの?」

「いいえ」

「じゃあなんだっていうのよ!?」

 

 それは爆ぜるような怒りであったし、純粋な疑問でもあった。どうして。

 全てが嘘だったなら、それはそれで理解できる。その悪意はとても辛くて悲しいけれど、理屈だけは通るから。

 けれど男の優しさ、慈しみを、私はどうしても疑えない。私はそれくらい、仁が好きだった。

 どうして。

 仁は最初から変わらない。その静かな眼差しで私を見ている。

 

「あの子に、幸せになって欲しい」

「一夏に? ……なら、なおさらなんで……」

「しかし、その時隣に居るべきは己ではない」

「は?」

 

 厳然と男は言い放った。

 意味は解らなかった。

 

「あの子と出会った時、何かを歪めてしまった。本来あるべき“カタチ”を損なわせた。そう感じておりました。五年前から……いや、十年前のあの日、あの公園で、一夏さんと出会ってしまった時から」

 

 やはり意味が解らなかった。

 苦痛を堪えるように男の顔が翳る。

 

「自分は自分の存在を猜疑します。そしてそれは、あの御姉弟と出会い、親交する内により強くより明確になっていった……」

 

 存在? 猜疑? 一夏との出会いが?

 

「しかし願望、欲望だけは変わらず、ただ御姉弟を幸福に近付ける為の方法を模索し続け……ある時、全ては繋がるのだと気付きました」

 

 薄い笑みが浮かぶ。子供の姿を思い浮かべる父親の顔だ。

 

「一夏さんを純粋に、心から好いている。貴女が彼に寄り添ってくださるなら、あの子はきっと幸せになれる。同時に、一夏さんの幸福は千冬さんの望みでもある」

「…………な……に、それ……」

「故以て、そこに己が存在する意味が消失する」

 

 いつも通り大真面目に彼は言った。神妙な顔で、冗談の気配すら漂わせず。

 本気でそんなことを考えてるんだ。

 本気で、今言ったことを実現するつもりなんだ。

 正直、仁の言葉の半分だって理解はできない。頭がおかしくなっただけならどれだけ救いだろう。

 

「ふざけんな」

 

 するりと口をついて出てきた。

 心から、私は言い放つ。目の前の、大切な、大好きな友達に。

 

「ふざけんな、ふざけんな、ふざけんなふざけんな! ふざけんな! ふざけんなぁっ!!」

 

 なんだそれ。

 自分は要らない? 一夏を幸せにしたいから? 私が一緒になればいい?

 一夏が私に何と言ったか。千冬さんが私に何と言ったか。あんたは何一つ知らない。知らないからこんな酷いことを私に聞かせられる。

 それが、許せない。

 

「ジィィンンッッッッ!!!!」

 

 ただ許せなかった。怒りで沸騰した血が視界を赤く染め上げる。

 許せない。身体が動いている。自分でも気付かないほど瞬()的に。

 許さない。振り上げた右手で何をする。決まってる。

 抱えきれない怒りは血を伝って脳を弾けて思考を暴発させ――――心の一番深みに到達し散華した。

 そして心の最奥に、“ソレ”が根付いていたことを私は知らなかった。

 ぐん、と重みを増す右腕。

 だのに身体は羽毛のように軽い。

 空中を走る拳は、濃紫の装甲(IS)で鎧われていた。

 

「ぇ」

「!」

 

 仁が目を見開いてこちらを見る。その光景すらスローモーションのように遅い。知覚速度の上昇。ハイパーセンサーによる増強機能。

 仁は腕を構える。防御姿勢。

 そんなもの、ISの力の前には紙屑同然なのに。

 私は、

 

 

    友達の腕を

             殴り潰し

 

 

 

 

 夜空を金属の音が(つんざ)いた。

 

「――――ひっ、ぁ」

 

 喉笛を奇妙な音が響く。悲鳴が完成する前に霧散したような、雑音。

 

「ごめんなさ、そんなつもりじゃ、わたし、あぁじん、なんて、なんてこと……」

 

 うわ言が壊れた蛇口の水みたいに漏れ出てくる。

 ただただ自分の仕出かしたことに恐怖して、戦慄して、白黒と乱れる視界が徐々に回復していき。

 最初に、私の目はその“銀”に眩んだ。

 

「…………へ?」

 

 間の抜けた声。言語能力が幼児以下になり下がっている。

 ようやく直視できたソレを、理解するまでにまた十秒掛かった。頭では理解できた。けれど心が必死にソレを拒んでいた。

 ISの装甲を纏った自分の右手に、白い襤褸切れがへばり付いている。制服の袖口だった。

 ずるり、袖の残りがずり落ちる。仁の左腕から。

 肌の色が何度かモザイクアートみたいにその表面で発色した後、すっと消え去って、現れたのは鈍い銀。金属光沢のガンメタル。

 金属の左腕。

 それを凝視した途端、頼みもしないのに各種センサーがそれをスキャンした。

 生体熱なし、生体電気なし、呈色反応なし、脈拍および血流なし。神経のように張り巡らされた経絡(ライン)を流れていたのはISのコアエネルギー。

 血の通わない、それは機械(IS)の腕だった。

 

「は、っ、はぁ、は、はぁはぁ、は」

「鈴さん、この腕は……」

 

 呼吸が乱れ、心臓が刻一刻と激しくなり早鐘を打つ。

 

『あいつは一夏の為にその身を捧げてくれた』

 

 その身を。

 体を殺がれてでも、一夏の未来、幸せを願って。

 ああ、仁は優しいから私には事実を(つぐ)んだのだろう。

 

「は、はっは、ひゅ……く、ぅ、どう、して……」

 

 その献身に私は慄き、その献身を私は羨んだ。

 その喪失を、その痛みを共にできなかったことが悲しかった。

 それを隠し、偽りの安堵を与えた優しい嘘を憎んだ。

 

「どうしてそんな嘘吐くんだよぉっ……!」

 

 爸爸(おとうさん)と同じ嘘。

 残酷で、独り善がりで、優しくて愛しい嘘だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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32話 憧れを踏み拉く覚悟

原作読み込むほど思う。鈴ちゃんはめっちゃええ子やでぇ。




 

 

 

 

『お母さんたち、別れることになったわ』

 

 無色透明の貌で妈妈(おかあさん)はそう言った。

 表情も、生気も抜け落ちて、ただ重い疲労だけが影を落とす。たった一つだけ残された感情があるとしたら、それはきっと“諦め”と呼ばれるもの。

 無表情のままに、母は泣いた。ただその目からぽろぽろと涙を零れ落として。

 その姿があんまりにも痛ましくて、苦しかった。気付くと私も母に縋り付いて泣いていた。

 ある日突然、家族は二人になった。

 

 どうして。

 当たり前の疑問で頭はいっぱいになる。けれどそれを問い質す勇気が、私にはなかった。

 父は母に何も話してはくれなかったという。ただ『別れて欲しい』と繰り返すだけで取り付く島もなかったと。

 納得などできる訳がなかった。

 でも、理由を知ってどうなる。もしも父の口から、家族の不和を、鬱憤や嫌悪や憎悪を聞かされたとして、自分はそれに耐えられるのか。

 無理だ。

 そんなの、とても耐えられない。きっと私の中の何かが壊れてしまう。

 

 結局は諦めるしかない。不可解の蟠りと、それを解く術もなく。

 家族を一人失ったという事実を飲み下す。その痛みに心を殺しながら。

 

 ……本当にそれでいいの?

 

 迷いは消えてくれない。何かを、やらなければいけないことがある。漠然とした焦りだけが胸の奥で燻っていた。

 その思いに、見て見ぬふりをする日々が続いて――仁が事故に遭ったという報せが届いた。

 私の中国への帰国が決まってすぐのことだった。

 よりにもよって何故こんなタイミングで。不安定な精神状態に、すわトドメを刺されるような心地だった。

 

『俺の所為だ……』

 

 駆け付けた病院、集中治療室の外のベンチで一夏は呆然とそう言った。

 無表情に涙を滂沱する姿は、まるっきりあの日の母と同じだった。

 何もできない。すっかり馴染み深くなった無力感を私は噛み締める。何もできない……違う。何かをすべきだった。できるできないの線引きをしている暇があるなら、悲しむ一夏を抱き締めて、慰めて、一緒に泣き喚けばよかったんだ。その悲しみの深さに尻込みして何もしないより、何万倍もマシだったろう。

 仁なら。

 きっと、仁なら迷わないのに。

 私はそんな後悔を残し、仁の快復も見られないまま日本を後にした。

 けれど、あるいは、その後悔こそが私を衝き動かしたのかもしれない。

 

爸爸(おとうさん)と話をする』

 

 私と母が帰国したように、父もまた中国に戻っていた。父の実家の住所も知っている。

 蟠り、疑念を払拭する機会。しかし、それは帰国したばかりの今しかない。父の音信が途絶えて、そのまま住む場所まで移されてしまえばもうどうすることもできないのだから。

 すぐには動けなかった。迷いと、何よりも真実に対する怯えが、私の足を重くした。

 それでも、私にその一歩を踏み出させたのは。

 

『仁なら……』

 

 諦めない。

 立ちはだかる困難にも恐怖しない……なんて筈はない。

 

『暴力も悪意も、ひどく恐ろしく思います。しかし、己自ら定めた使命が既にこの身にはある』

 

 仁だって、人間なのだ。ただその恐怖を抱え込んででも為すべきことを為そうとする。

 自分でそう決めたから、それだけのことなのだと彼は言った。

 それは勇気とか果敢さとか都合のいいものじゃなくて、もっと厳しい、もっと冷徹なもの。自分に対する感傷や甘えを許さないこと。

 覚悟。

 私も仁のように――――

 

 何度も引き返そうとして、その度に仁の言葉を、仁の声を、仁の姿を思い浮かべた。それらは私に諦めることを許さなかった。

 それを数え切れないくらい繰り返した時、気付けば父の住む家が目の前にあった。

 扉の前に立つ私を見た父の驚き様はそれはそれは凄かった。それこそ、娘に対して用意していたであろう離婚の理由(ウソ)が全部真っ白に吹き飛ぶぐらい。

 真剣に詰め寄る娘に父はとうとう白状した。

 自分が癌であること。余命の宣告を受け、それがもう幾許もないこと。そしてその治療費が家の貯蓄ではどうやっても賄えないほど莫大であること。

 話し始めてしまえば滔々と、父は丁寧に事情を説明していった。

 

『すまない』

 

 最後にそう締め括り、父は頭を下げた。

 ああ、その姿、それは、諦めを飲み下してとぼとぼと日本を去る時の自分にとても良く似ていた。

 だから余計に、許せなかった。

 父の嘘を。独り善がりの優しい嘘を。黙って母と私の前から去る、そんな選択を自分勝手に決めたことを。

 

『ふざけんな』

 

 私は暴れた。父の嘘に対する怒りで、何も見えなくなるくらい激しく。手当たり次第に物を投げて、それで足りない分父を叩いて、叫んで、泣き喚いて。

 気が付くと日が暮れていた。

 ぐちゃぐちゃになった部屋の真ん中で父は私を抱き締めて、ひたすら謝り続けた。

 私は泣いた。声も上げずに、ただ泣いた。

 散々泣きに泣いて、父を許した。

 心から蟠りが消えて、同時にこれから自分が為すべきことをはっきりと見付けていた。

 

 観念した父は母にもまた事情を説明して、それを聞かされた母が自分と同じかそれ以上の激しさで暴れまくったのは言うまでもない。

 離婚は取り下げられ、父はきっちりと治療を受けることになった。

 費用は、店や家財を売り払い、足りない分は借金を当て込んだ。父はこの期に及んでまた渋ったが、私と母が聞く耳を持つ訳がない。

 幸いにして返済の当てはすぐに見付かる。私にISの操縦者適性があったのだ。

 IS操縦者、それも代表候補生ともなれば国から補助金が出るし、国家代表になり各企業からスポンサーが付けば一定以上の収入は約束される。

 斯くして私はIS学園へ進学することになった。家の借金返済の為というなんとも世知辛い理由で。初恋相手を追い掛けて……の方がもう少し可愛げもあったろうが。

 

 諦めず、父と話をしてよかった。

 その覚悟をさせてくれた友達に、深く感謝している。なんだか恥ずかしいので直接は言えないけど。

 

 ――――ありがとう、仁

 

 いつか、この言葉を伝えよう。

 仁が無事目を覚まし、退院したと弾のやつから連絡を受けた時、私は心の中でそう誓った。ついでに、退院の報告を怠った一夏と仁に鉄拳を食らわせてやろうなんてことも思いながら。

 

 ようやくあの日常が戻ってくる。

 そう、思ってたのに。

 

 仁は嘘を吐いた。独り善がりの嘘を。よりにもよって父と同じ。

 父と同じ優しさで、父と同じ慈しみで、父と同じ――一夏にも与えたその、無償の愛で。

 

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか蹲り、砂浜に膝を突いていた。両手で砂を握り締めて、それこそ砂を吐くように言葉が口をつく。

 

「許さない……」

 

 潮騒が響く。私を嘲笑うように。

 仁と自分の覚悟の差を、現実を思い知って、子供のように喚く私を。

 今、世界全部が私を嗤っている。そんな気さえする。

 それでも私は。

 

「私は、あんたを許さないっ……!」

 

 自分を見下ろす男を睨み上げた。

 悲しげに、悲痛に翳らせたその目は私を労わるようだった。

 

「鈴さん……」

「っ」

 

 差し伸べられた手を振り払い、立ち上がる。

 

「……明後日のクラス対抗戦、私は二組の代表として出場する」

「!」

「専用機もある。それで一夏を倒すわ……その後に、あんたとも戦う」

 

 至極一方的に、自分の中の決定事項を並べ立てる。反問も、意見も聞く気はない。

 

「一夏を倒して、あんたを下して、私はあんたから一夏を奪い取る!」

 

 それは歪な、それでも私の覚悟だった。

 驚愕の気配を一瞬だけ見せて、仁は目を閉じた。その一刹那だけで空気を静謐させる。

 ああ、それは完璧な、仁の覚悟だった。

 

「承知しました。日野仁は、凰鈴音の宣戦布告を拝受します」

 

 波が砕け、私と仁の間に飛沫を打つ。袂は、別たれた。

 もはや話すことなどない。私は踵を返してその場を後にする。

 ただ、私の背中に注がれる視線の気配だけは、一向に消えない。棘や険とは程遠い穏やかさ。最初から最後まで私を労わるだけの瞳。

 私の憧れは、結局今も変わらなかったんだ。

 仁は、変わっていなかった。

 どうしようもなく、残酷なくらい。

 

 

 

 

 

 

 



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33話 武力の責務

明けましておめでとうございます。
今年もちらほらと更新させていただきます。
どうか本年もよろしくお願いします。




 

 

 

 

 晴天の午前、風も凪ぎ、気温湿度共に適性値。天候に恵まれ、屋外での活動――戦闘行動に最適な良い日和と言えよう。

 今日この日、クラス対抗戦は始まった。

 年中行事、それも新入生初披露目の場とあってか、アリーナの観戦席は超満員といった様相。そしてそれだけではなく、会場の一角には来賓席が設けられており、各国企業の重役・渉外他、政府関係者と思しき人間も少なからず窺える。

 

「どの国家、どの企業も、有望なIS操縦者を喉から手が出るほどに欲しております。今日の対抗戦も、彼らに向けた見本市といった意味合いが強いですわね。こちらではそう……青田買い、でしたかしら」

「は、最的確な表現かと」

 

 一年一組に確保された観戦席、己の隣に優雅に座るセシリア嬢が実に分かり易く解説をくれる。

 学園の掲げる生徒同士の実力競争による切磋琢磨と今彼女が示した裏側の主旨は対立しない。本音と建前、というよりは一挙両得といったところか。

 

「あら、仁様だってその有望な操縦者のお一人ですわよ」

「望外の御評価です」

「ふふふ、イギリス代表候補生であるわたくしに勝利されたのですからもっと胸を張ってください。ああ、それとも、わたくし程度では誇るには役不足でしたかしら。もしそうなら、セシリアは少し切ないですわ……」

「いえ、そのようなことは決して。今以て光栄の至りです。誰あろうセシリアさんからの御墨付ならばこれほど確かなものもありますまい」

「まあ……嬉しいです。とっても」

 

 他人事のような内心を透かし見られたか、少々からかわれた感を否めない。

 言葉通り、少女が嬉しげに顔を綻ばせているのだけが幸いだった。

 そうして、セシリアさんの笑顔が朗らかであるほど……あの少女の泣き顔が脳裏を過る。あの決裂から二日。たったの二日だが、体感的な時間感覚は確実にその数倍にも及ぶ。

 どうすることもできないまま今日を迎えた。何ができた訳でもあるまいが。

 丹田に気を据える。彼女の宣戦布告を己は受託し、相争うはもはや決定事項。逃れる術も無論のことその心算もない。

 しかし、それでも思索せずにはおれない。本当に他に術はなかったのかと。彼女の心、怒り憎しみ悲しみ、なにより苦痛を、ほんの僅かにでも和らげられなかったろうか。

 日野仁にそんな能はない。ただその事実を再確認するだけの作業をここ48時間ほど繰り返している。この期に及んで本当に、情けない。

 不意に、そっと肩に触れるものがある。柔く、労わるような手。セシリアさんの可憐な指が肩から二の腕をそっと撫で下ろす。

 

「どうかなさいましたか。あまり、お顔色がよろしくありません」

「いえ、体調は(すこぶ)る万全です。御配慮ありがとうございます」

「……なら、いいのです。けれど仁様」

 

 撫でさするばかりの手が、ゆっくりと力を増していき、そのまま腕を鷲掴みにする。幸い、彼女は己の右側に居られた為、その手は生身の腕、延いては皮膚を掴んだ。

 が、その指から伝わる握力は白く華奢なそれからは想像外のものがあった。

 

「他の女のことをそうまで深く思い悩まれるのは、わたくしあまり感心致しかねます」

「それはどういった」

「わかりませんか? 本当に?」

 

 蒼い瞳がこちらを見上げる。一層深みを増した、それこそ深海の色彩を湛えて。

 声色に詰問の風合いを感じた。彼女にその意図があるかは判らぬが。

 何故、己の考え、あるいは“他の女性”の存在を彼女が関知しているのか……問いに問いを返すような愚行を自重できたことは、己にしてみれば出来過ぎた判断能力であったろう。

 疑念を捨て置き、己は頷く。それは肯定の意に遠く。

 

「これは、現在自分が思案すべき最優先事項となっております」

「わたくしがお願いしても、やめてはいただけませんの……?」

「はい、申し訳ありません」

「一夏様が、悲しまれるとしても?」

「はい」

 

 今度こそは凝然と、少女は目を見張った。信じられないものを見るかのように。

 

「彼女は自分にとって掛け替えのない友人です。仮令(たとえ)自分が彼女にとってそうした存在でなくとも、それが仮令(たとえ)一夏さんの不興を買うのだとしても変わらぬ、変えてはならぬことであると自分は考えます」

「……」

 

 沈黙し、セシリアさんはそのまま自身の膝に目を落とす。表情は窺い知れない。しかし、豊かな金糸の髪間に薄紅の唇が見えた。

 笑み。薄っすらとして淡い。

 

「…………羨ましい」

「?」

「一夏様を差し置いて、そんなにも仁様に想われているその方が、わたくしひどく羨ましいです。羨ましくて、羨ましくて、羨ましくて、えぇそれはもう――――」

 

 語尾を弾ませ、少女はくすくすと笑った。口元を手の甲で隠し、優雅に、美麗に、一枚の絵画の如き()()()で。

 

「――――焼いて潰してしまいたいくらい。ふ、ふふふ、ふふふふふふふっ」

 

 華やぐように少女は笑う。まるで正反対の悪意を口にしながら。

 歓声と喧騒の渦中にあって、それを耳にしたのは己だけだった。

 

「お、なになに? 楽しそうじゃーん。何の話してたの? ねぇ」

「あー! 私も聞きた――――」

 

 セシリアさんのさらに右隣に座る女子生徒らが、こちらの様子を聞き取って話し()()()()()()()

 そして、それは叶わなかった。

 セシリアさんは直近の少女の顎を指先で持ち上げ、ずいと顔を寄せ付けたのだ。それこそ頬と頬が触れ合うほどの距離。それをされた女子生徒にすれば、発しかけた言葉が喉奥へ蹴り返された心地だろう。

 

「ヒッ」

「今、とても大切なお話をしておりますの。少しだけ、お気遣いいただけますかしら?」

 

 少女は無言のまま小刻みに首を縦に振る。

 

「どうもありがとう」

「っっ!」

 

 姿勢を正面に戻すとそのまま少女は硬直した。微動すら許されない、そうした強迫観念が今の一瞬で植え付けられたのだ。

 あれほど賑々しかった周囲の少女らも明確な蒼い威圧を感じ取り沈黙している。

 セシリアさんが己を見据える。微笑は変わらず、その内実だけが変容と混交を繰り返す。

 

「仁様、もう一度、お尋ね致します」

「どうぞ」

「貴方が――」

 

 少女の言を遮って、電子音が鳴った。左手首に巻かれた銀のブレスレット。待機状態のISは主に装飾品として身に着けられる。己の場合、この姿もまた()()の一種であるが。

 呼出音(コール)はISコアへの直接通信。発信者は……一夏さんだった。

 

「……」

「……ふぅ、どうぞ。お出になって」

「失礼します」

 

 席を立ち、観戦席から通路へ出る。超満員の評に偽りなく、他学年の生徒らも数多く訪れている。立ち見の観客の合間をこの図体で埋めるのは気が引け、エントランスまで退散した。

 男子生徒の存在は未だこの学園において異質である。すれ違う少女らの好奇に満ちた視線を掻い潜り、ようやく人気の失せた出入口付近に到達する。

 幸い呼出音は根気強く己の応答を待ってくれていた。

 

「もしもし、お待たせして申し訳ありません」

『いや別にいいよ。こっちこそごめんな。試合の直前に』

「いえ。しかし、如何されましたか」

 

 それこそ、試合を行うのは彼自身なのだ。その僅かな時間は、コンディションを万全に整える為に使われるべきだろう。

 それを押してでも彼が連絡を寄越したのは。

 

『鈴のこと』

「……は」

『一昨日の晩、結局連れ戻せないまま今日になっちゃっただろ? ジンもずっと何か引きずってるし』

 

 当然の懸念。そして己の態度の変調もまた当然に彼は感じ取っていた。

 

「申し訳ありません、一夏さん」

『なんで仁が謝るんだよ。心配して当たり前じゃんか。鈴は、俺達の友達なんだから』

「はい、全くに」

 

 一人無意識に、伝わることのない目礼をしていた。少年の迷いない言葉。ただ純粋な友愛に頭が下がる。

 

『それにさ、ジンが大事に想ってるものは俺だってなるべく大事にしたい。話してみるよ、鈴と』

「しかし、試合の最中では」

『なんとかなるって! 刃を交えてこそ初めて解り合えることがあるんだよ。うん……千冬姉の受け売りだけどさ。ふふっ』

 

 おどけて言う少年の気遣いが随分と救いになった。無論、尽力するのが己自身であることは当然だが。

 

『あ、っと。そろそろ出撃だ』

「ありがとうございます。一夏さん、どうか御武運を」

『うん! いってきます』

 

 朗らかにそう言い残し、少年との通信を終える。

 彼のお陰で、朧げではあるが己のすべきことが解りかけてきた、そんな気がする。一夏少年の友愛をその一分でもかの少女に伝える方法。

 必ずある筈だ。必ず見付け出す。見付けねばならぬ。

 

「……?」

 

 決意を新たに、などと偉そうに胸を反らす分際でもない。しかし微かに和合の糸口を掴んだ心境に、再び呼出音が鳴り響いた。

 網膜投影ディスプレイに発信者の名前はない。どころか端末のコードすら。

 しかもこれはIS固有のコア・ネットワークを介した通信である。それはつまりこちら側の承認を受けず、提陀羅(ワン)の個別通信に直接侵入したということ。

 そんな真似ができる人物を己は彼女以外に知らない。

 

「……もしも――」

『お~っっそい!』

 

 美しくも甘やかな声調(しらべ)が、幼子のような怒気を孕んで耳朶を打つ。

 

「申し訳ありません、篠ノ之博士」

『そんな程度じゃ足りないね! もっとちゃんと謝ってぇ……る時間なんて無いんだよ君には!』

「はい?」

『疑問質問反問一切受け付けませ~ん。制限時間は一分! さっさとアリーナの外に出る! ダッシュで! 急いで! Hurry up!』

 

 彼女の行動は常日頃から唐突かつエキセントリックである。それはひとえに篠ノ之束という人物の思考回路が只人のそれを遥かに超えて複雑と精緻と深遠を極める故だが。

 

「了解しました」

『ふんっ、一言目にそれを言えばいいの!』

 

 幾らかの疑問と困惑が浮かぼうと、己が恩人篠ノ之博士の要請に応じない理由は皆無。

 踵を返して早足にエントランスを抜け、アリーナ正面の広場へ出る。網膜ディスプレイ下部、視界の隅には丁寧なことにタイムカウンターが表示されていた。

 “00:14:45.32”

 

「?」

 

 胸中に沈めた疑問が早々に再浮上する。先程博士は一分以内にアリーナを出るよう指示された。しかし、残り時間と思しきカウンターは未だ十四分強。

 彼女のミス、それだけは絶対にありえないとして。その意図は。

 

『……所定の位置に着いたね。まったく、危うくタイミングを外すところだった』

 

 警告音(アラート)

 上空80000フィートにエネルギー反応出現。急速接近。

 

「なに!?」

 

 映像、音声を介さぬ神経伝達。意識下に直接ワンの“声”が響く。

 “声”は可及的正確さと速度で対象の位置情報を己にフィードバックし、即座にハイパーセンサーがそれを捕捉した。

 蒼穹の彼方で二回、発光。

 ビーム兵装。

 弾道はアリーナ直上を――――爆音と閃光を巻き散らし、ビームは防護シールドを直撃した。

 そして肉体と直結したセンサーは、エネルギー光がシールドを突破、貫通した瞬間をしかと捉えていた。

 走る。考えるよりも先に身体は動き出す。

 

『いいや。行かせない』

「!?」

 

 我が身は再び“声”を聞く。先程以上の速度。拙速の極み。冗長な言語情報すら今この時は排された。

 情報の質量は微細であったが、齎されたのは巨大な戦慄という警告。

 その場を跳び退く。

 半秒前に身を置いていた空間に何かが飛来し、()()()()()

 地面が抉れ、衝撃で石畳の基礎ごと捲れ弾け飛ぶ。一円のクレーターからさらに一歩退き、眼前のそれを意識野に収めた。

 黒。漆黒の西洋甲冑。

 

「……ISだと」

 

 それは正しく中世の騎士が纏う全身甲冑(フルプレートアーマー)だった。

 脛、膝、腰、胸、両腕、肩と、身体の要所に装甲を配してはいるものの、その体躯は実にスマート。否、肢体と言い換えてもいい。本来は武骨であって然るべき鎧姿に、女性的な曲線が散見する。

 翼を模した肩当(ポールドロン)草摺(スカート)に抱かれる女性騎士の様は宛ら堕天使を思わせた。極め付けは兜に戴く山羊の角。歪曲したその二本の角と、バイザーに刻まれた横一文字の二つの眼窩。記憶に合致する存在は一件のみ。異教の神の成れの果て、ここにバフォメットが顕現した。

 右手に円錐形の突撃槍(ランス)、左手には二メートル超のその体長を優に覆い隠せる長方形の大盾。

 

『“黒騎士壱型”。本日の君の対戦相手だよ』

 

 事も無げに篠ノ之博士は言う。それが既にして決定事項であることは明白だった。

 現状を動かすのはもはや不可能。戦闘は不可避だ。

 懸念はそれではなくアリーナにある。そう、感知したエネルギー反応は二機。もう一機は。

 

『それはいっくんの分』

「一夏さんの……?」

『そ。あっちはいっくんの晴れ舞台用。だから君は気を散らしてないで黒ちゃんに集中するの。でないと――』

「!」

 

 黒の機影が一歩踏み出す。半身立ち、長大な槍をまるでレイピアのように軽々と構え、重心を下げていく。

 突撃姿勢。次の瞬間にもそれは弾けるのだろう。

 

『左腕と心臓、背骨だって半分以上が義体だ。残り少ない生体(オリジナル)まで喪いたくないでしょ?』

 

 冷ややかな皮肉を合図に、黒い騎士が地面を踏み抜く。PICによる慣性方向の限定と推進器点火による瞬間的加速。コンマゼロのさらに短い時間で敵機の初速は弾丸に匹敵する。

 退く――否、論外の所業である。後方へ下がるという行為は死に体。攻撃能力の放棄を意味する。

 回避行動――否、上記とほぼ同様の理由により却下。そも対手は正面からこちらの動向を捉えている。

 以上を踏まえ、結論。

 進む。

 迫り来る敵機に進撃する。

 先制攻撃を既に許した現在状況においてそのような真似が可能なのか――(しかり)、己の五感(ハイパーセンサー)は敵機を捉えている。我が肉体の反応速度は敵機の速力に優越する。

 

提陀羅(だいだら)

 

 間合が交わる一刹那。

 踏み込んだのは(あちら)だけではなく(こちら)も同じ。

 空を貫く突撃槍。鉾先が左頬を行き過ぎる。

 空を走る右拳。拳先から瞬時にして外殻との生体癒着・結合が施され、今こそ右腕は兵器と成った。

 先に到達するのは――――

 

「――――赫焚撃拳(イグニッション)

 

 過たず右拳が騎士冑へ突き刺さる。

 肘部推進器の加速と対手自身が生み出した慣性力が想定以上の威力を発揮した。

 黒い機影が飛ぶ。空中を奔り、そのまま枯草の球(タンブルウィード)のように地面を転がっていった。

 同時に、提陀羅との全身融合を果たす。

 幾らか高さの増した視点。仮面の下から敵機が巻き上げた塵埃に視線を注ぐ。

 

『……ISの展開を後回しにして突っ込んできたISを正面から迎え撃つとか。頭おかしいね、君』

「恐縮です」

『褒めてる訳ないでしょバカなの? そういう人外プレイはちーちゃんだけの特権なんだから君なんかが真似しないで』

「配慮が足りず、分不相応を働きました。申し訳ありません」

『ふーんだ』

 

 ご機嫌斜めに鼻を鳴らす。唇を尖らせる彼女の姿までも想像が付いた。

 さて置き、次はアリーナへ向かわねばならない。

 

『はんっ、なに勘違いしてるのかな君は……まだ黒騎士のバトルフェイズは終了してないよ!』

「!?」

 

 博士が高らかに宣言したその直後。

 噴煙を黒い影が吹き飛ばす。鋭利な一本の槍と化して、騎士が襲来した。

 

「くっ」

 

 手甲で受け、反らす。皮膜装甲越しであっても凄まじいこの衝撃。金属装甲が欠けんばかりの貫通力を維持したまま騎士は己の横合いを擦り抜けた。

 飛翔する敵機を目で追いながら、推進器に火を入れ自身もまた飛び上がる。

 内心では、軽々ならぬ驚愕が渦を描いていた。

 

「敵機の損傷は」

『シールドエネルギーに若干の損耗。装甲に対する物理的損傷は確認できません』

 

 提陀羅の撃拳をまともに浴びた筈の面甲(フェイスガード)にはワンの報告通り傷一つ付いていない。

 一撃で絶対防御を発動、あわよくば昏倒させる心算であったが……機体性能に驕ったか?

 

『不思議だねぇ~。確かにクリティカルヒットだったのに全然効いてないなんて』

「は、仰る通りです」

『言っとくけど提陀羅のパワーが不足してる訳じゃないよ。黒騎士はね、打撃特化(キミたち)の天敵なのさ』

 

 敵機が反転し、我方へ急速接近する。突撃槍の構えは同じ。

 ならばこちらも直線飛行(ストレイト)へ移る。背面および脚部推進器へエネルギー経絡(ライン)を走らせ、さらなる推力を獲得した。

 

『右肘部推進器スタンバイ』

 

 右腕に充填される熱量を自覚しながら一気に間合を詰める。

 相対し、飛行する今、体感速度は地上の比ではない。瞬きの間すらなく、接敵。

 

『――』

 

 こちらの攻勢に対して、此度は黒騎士が合わせた。

 突き出していた槍を引き、盾を構えたのだ。

 闘法として理屈は通る。相手の攻撃を一度盾によって防ぎ、その瞬間の硬直を突く。後の先の機。

 しかし双方が高速飛行する現状、音速に届く突進の勢力が乗った攻撃を完全に防ぎ切ることなどできない。PICを搭載したIS同士の戦闘であるならばそれは尚の事。

 

 ――押し徹す

 

 内心を決する。

 一発の弾丸と化した腕、弾頭たる拳を射出する。

 

「イグニッション」

 

 大盾のほぼ中央に突き込む。そして接触と共に返ってくるであろう衝撃に備えた。

 ぐにゃり、と。

 

「!?」

 

 拳が()()。それは紛れもない錯覚である。

 盾の装甲に歪みはなく、無論のこと拳はその表面に触れていた。

 なんだ、この。

 混乱が隙を生む。あまりにも瞭然極まるそれを黒い騎士は見逃さない。

 自機から見て左から、射かけた(ボルト)の如く槍が突出した。

 

「ぎっ」

 

 腹部装甲を掠めた。

 彼我が擦れ違う。

 後方へ遠ざかる敵影は綺麗な曲線を描きながら上昇した。

 対してこちらは、バランスを崩して機体が下降する。即座に姿勢制御を行い墜落は免れたが、対比するまでもなく己の無様は理解できた。

 しかし、理解できない。

 盾を殴打した拳の、あの手応えの無さが。

 

『ふふ、んふふふふふふ! いやぁ愉快愉快。ようやく君のビックリ顔が見られたよ。私があれやこれやで脅かそうとしても全ッ然変わんないんだもんなーこの鉄面皮!』

「以後気を付けたく」

『そういうとこだよ!?』

 

 彼女の期待に副えたのならそれは喜ばしいことであるが、さりとて全てを祝う気には毛頭なれない。

 

『クイズを引っ張るのは趣味じゃないからとっととネタバレね。黒騎士の実体装甲と盾には流体皮膜式衝撃吸収機構(ショックアブゾーバー)を内蔵してある』

 

 こちらの当惑を博士は十分に味わい堪能したようだ。その話しぶりは実に上機嫌であった。

 

『外骨格と人工筋肉に挟まれた1μ以下の間隙。そこに満たされた束さん印の特殊流体が外界からのあらゆる物理衝撃力を吸収、霧散させる。そしてあの盾はその極め付け。衝撃吸収率はなんと99%』

「……なるほど、打撃では決して」

『黒騎士は倒せない』

 

 歌を口ずさむように篠ノ之博士は締め括った。

 より高みへと昇り詰めた敵機が反転する。再度の攻勢。急速降下。対手は重力を味方に付け、今や戦場における騎乗兵同様に単純明快な速度優越を得ている。

 迎え撃つ。推進器へのエネルギー供給量を一段階引き上げ、過給(ブースト)

 接敵の瞬間、騎士は盾を前面へ押し出した。

 

『――』

 

 想定通りに。

 そしてそれを見越して展開させた胸部推進器の噴射により機体が前転(ピッチ)する。

 これは、対ブルー・ティアーズ戦において用いた奇策。間合が接する直前に上方へ跳躍することで敵機の捕捉を振り切り、死角より打ち下ろすというもの。

 全身を覆い隠すほどの巨大な盾が仇となる。盾を跳び越えた先に、敵機の無防備な背があった。

 捻り込むように、撃つ。

 

「っ!」

 

 我が拳は確実に敵背面装甲を打った。だが、やはり。

 黒い機影がぐらりと傾き、飛翔態勢を維持できないまま落下する。空中で二転三転と暴れ、しかしすぐに姿勢制御を為した。

 敵機損傷程度は先の報告と大差ない。

 

『もー、無駄だって言ってるでしょ』

「……」

『あ、それともう一つ言っとくけど、打撃が通らないなら関節技で……なんて甘いこと考えないでよね。黒騎士の関節可動域は人間の三倍だから』

「なるほど……()()()()()()。やはり、あの機体は」

『そう。無人機さ』

 

 さらりと彼女は世紀の技術革新を口にした。

 無人兵器の開発は、人類戦史上最大の目標とされてきた技術の一つ。それをあろうことか彼女はISで実現してしまったのだ。

 

『いつ気付いたの』

「最初の一合。あの騎士は攻撃を受けた際、自身の面を打つ拳ではなくこちらの顔を見ていた。自身に迫る武器に意識を向けず、標的だけを捕捉し続けた。極まった戦闘者であればそうした行動を取るのかもしれません。しかし自分は、そこにひどく非人間的な印象を覚えました」

『ふーん……』

 

 興味があるのかないのか。彼女はただ吐息を零した。

 博士の感興を得られなかったことを嘆くよりも、今は眼前の敵手を退ける方法を模索せねばならぬ。

 

『悩むのは勝手だけど、タイムリミットのことも忘れないでよ』

 

 “00:07:34.28”

 カウンターは相変わらず視界の隅で減少を続けている。設定されたこの時間制限の意味も、未だ解らない。

 

『早く黒騎士をどうにかしないと、この辺一帯が消し飛んじゃうよ?』

「――――今、なんと」

『ふふふ、ではではネタバレその2。うん? 無人機だってことも含めたらその3か。まあいいけど』

 

 とっておきの冗句を開陳するかのような明るさだった。

 

『黒騎士には時限式の自爆装置が搭載されてる。残り七分少々で、半径100mを巻き込んだ大爆発を起こすよ』

「――」

 

 背部推進器にエネルギーを叩き込む。急速接敵。

 当然、敵機は迎撃態勢を取り、こちらの突進に槍の穂先を合わせた。

 

「ずぁっ!」

『――』

 

 槍を手甲で弾き上げ、盾を押し退け懐へ潜る。急制動など叶わず、自機は敵機へ体当たりした。

 委細構わず推力は緩めない。背部、脚部推進器へエネルギーを過剰過給(オーバーブースト)

 このまま海上へ――――

 

『離れた方がいいよ~』

「!?」

 

 緩やかな警告と、ワンからの激しい“声”が同時に響く。

 視界の端で、騎士は槍を手繰っていた。

 掴んでいた敵機を手放し、胸部装甲を蹴り付けて緊急離脱する。

 槍が。その鉾先が、六つに割れている。まるで黒百合の花弁が如く。

 鉾を為していた甲鉄は、内部機関を防護するシールドでもあったのだ。内部の、()()を。

 幾重にも伸び折れる稲光。砲身から溢れ出るばかりのそれが収束し、花の中心から屹立した雌蕊(めしべ)、粒子加速器へと結実する。

 一条の光が空を貫いた。

 弾道は当機を大きく逸れ、島より西方5kmの近海へ着弾した。

 

「……荷電粒子砲」

『正解!』

 

 悪戯好きの子供のように愛らしい。どうしようもない悪辣さ。

 打撃を受け付けぬ装甲、近距離における格闘能力および運動性、推進器出力に見合った機動性、中・遠距離射程に対応した火器。

 万事休すとはまさにこのことだった。事態を打開する術が、今の己には。

 

『あれを止める方法が一つだけある』

「……」

『それは、君もよく分かってるんじゃないの?』

 

 声音は相も変わらず甘く美しいのに、内側には挑むような激しさを孕んでいる。

 博士の問いに言い淀む。一秒が千金に代えがたいこの状況で。

 

『何を出し惜しんでるのか知らないけどさー。どうせ君は後悔するんでしょ? ずるずるずるずる。そうしてる間に、ほら――』

「がっ!?」

 

 敵機の突撃を捌き損ねた。肩部装甲に刺突を食らう。

 それはなんたる無様であろうか。

 分際を弁えぬ愚か者は、遂に蒼穹から突き堕とされる。研究棟近くにある物資搬入用ヘリポートに着地し、アスファルトを削りながら制動する。

 

『左腕を使うといい。使い方を君はもう知ってる筈だよ』

「……」

 

 全ては彼女の言う通りだった。己は、ワンを体内に宿したその日、この左腕を使った。

 提陀羅という強化外骨格と合一することなく、生身でISを屠り去る力。

 あの時は融合も完全ではなかった。では今は。

 肉体と完全に定着し、外装を纏うことで飛躍的に性能を向上させた現状態で、この左腕を使ったなら。

 どうなる。何が起こる。

 たった一つの結果だけだ。

 得られる結果がただ一つであるなら、後は己が選ぶ他ない。

 覚悟せよ。覚悟せよ。覚悟せよ。

 迷いに立ち竦む。どうか、この一刹那だけ、立ち止まらせて欲しい。そうしたなら、俺は。

 俺は――――

 

「!」

 

 ハイパーセンサーに感。自機より後背7m。研究棟から物資倉庫への渡り廊下に生体反応。

 人間、IS学園指定の女子制服姿。生徒が何故ここに。

 

『あれ? 学園内の扉も隔壁も全部施錠(ロック)した筈なんだけど……ああ、初めから外に居たのか。ご愁傷様だね』

 

 無感動に無関心に博士がそう口にするや、今度は正面からの接近警報。

 黒騎士が襲来する。

 “00:01:56.44”

 タイムリミットが2分を切った。

 後退、回避は論外中の論外。背後には生身の人間が逃げ遅れている。それは一合目の焼き直し。

 進むしかない。だが、こちらの攻撃は尽く無力化される。

 ならば、為すべきことは一つ。

 己はただ、為すべきを為す。

 

『左腕噴射口全開、第一から第四推進器エネルギー経絡接続』

 

 銀の腕を引き絞る。長大重厚の極み、均整(バランス)からは程遠い非対称の歪さ。

 拳を握り、重心を下げ、右肩を前方へ晒す。

 黒い影が我が身を覆う。槍が、鉾先が、迫る。

 

「イグニッション」

 

 銀閃。

 音を置き捨てて光が奔る。それは真っ直ぐに空間を突き進み、対手の槍よりも速く、対手の間合に優る左腕のリーチによってより早く。

 黒い騎士が押し出した大盾に到達した。

 衝撃吸収機構の発動を感じる。発生した力を貪り、擂り潰し、無為に帰す虚の窯に――亀裂が走った。

 単純な、理屈とさえ呼べぬ暴論だ。

 右腕から放たれる撃拳が100の力を持つなら、その盾は内99を減殺するという。

 では、左腕から放たれる撃拳が10000の力を持つのなら、その盾はどれほどの減殺能力を発揮できるというのか。

 頭の悪い暴論である。

 しかし、結果は既に現れた。我が左拳は、騎士の盾を粉砕する。

 蜘蛛の巣状に花開いた亀裂、その中心が陥没し、大盾は砕けて散った。

 そうしてその奥にある本体諸共に撃ち飛ばす。

 

「きゃぁあああ!?」

 

 遅れて発生した衝撃波が周囲に拡散し、背後で少女の悲鳴が上がった。

 地面を削って吹き飛ぶ敵機を後目に少女の元へ走る。

 少女はその場にへたり込んでいた。浅葱色の髪にIS用サブセンサーと思しき髪留めが目を引く。

 

「もし、お怪我はありませんか」

「えっ……そのIS……貴方は」

「立てますか? ならば急ぎ退避してください。これより当機の固有武装にて敵機の殲滅を試みます」

 

 彼女の困惑は無理もないことだった。しかしそれを解してやれるだけの時間が今は無い。

 ふと、視界の隅にそれを見付けた。フレームレスの眼鏡。センサーが自動感知した情報によれば、その眼鏡は電子機器。HMDの一種なのだろう。

 眼鏡を指先で拾い上げ、差し出す。ISの、提陀羅の精密動作性は折り紙付きだ。うっかりと握り潰すようなことは万に一つもありえない。

 

「どうぞ。驚かせてしまい申し訳ありません」

「ぁ、は、はい……」

「さあ、お行きください。急いで」

 

 おずおずと眼鏡を受け取った少女はこちらの要請に素直に応じてくれた。遠ざかる背を一瞬だけ見送り、既に再起した騎士へと正対する。

 盾のみならず、それを保持していた甲冑の左手が千切れ、今や内部の機械部品が覗いている。

 

『君が無駄なことに時間を使うからかなりの危険域に入ってるよ』

 

 “00:00:40.02”

 もはや一刻の猶予もない。そう、初めから己の感傷に浪費すべき時間など無かった。

 強力な兵器。武力(ちから)をこの身に宿した時、己はただ一事を願った筈だ。この武力がどれほどに危険であっても、そのただ一つの願いを叶える為に使い尽くすと、覚悟した筈だ。

 あの姉弟を守り、その幸福を護る。

 それだけが唯一提陀羅(ひのじん)の使い途なのだから。

 

「敵機を滅する」

『了解。単一仕様能力(ワンオフ・アビリティ)の使用許諾確認』

 

 構えは同一。右肩を前方へ晒す真半身。

 弓を引き絞るように左腕を畳む。

 

『エネルギー経絡全基直結。AIA(アクティブ・イナーシャル・アンカー)空間固定』

 

 黒い騎士が動く。残った右手に握られた槍、それが再び散華する。

 ハイパーセンサーに頼らずとも、荷電粒子砲のチャージが始まったのだと知れる。

 

『吸気・排熱弁全閉鎖。エネルギー強圧縮開始』

 

 左腕に収束する熱量が限りを知らず高まっていく。

 それはひどく懐かしい。あの、自身を焼き滅ぼすまでの力。

 

『圧縮臨界点』

「イグニッション」

『単一仕様能力、解放』

 

 稲妻が指向性を持って砲身を奔る。荷電粒子の白光が今放たれた。彼我の空間を貫いて我が身に殺到する殺戮の炎。

 見えている。

 そして理解する。

 これで終わりなのだと。

 

『「神威(ゴッズインパクト)」』

 

 左腕が奔る。空間を殴り付ける。

 敵機との間合は遥か遠い。その行為に一体何の意味があるというのか。

 拳は、腕の延長では完結しない。その殴打は()()()()。白銀の光が提陀羅の正面前方の空間に存在するありとあらゆるものを消滅させる。

 大気、塵埃、極限に加速された粒子、そして黒い騎士さえも全て。全て。

 銀光は人工島を飛び出し、海面を削りながら彼方を目指す。それが通った後に、どのような存在も許さず、何一つ残さず。

 

 

 

 

 

 

 “00:00:02.76”

 停止したカウンターが視界の隅で点滅を繰り返す。いつしか彼女との通信も途絶えていた。

 

「……ぐ」

『全排熱弁開放』

 

 全身から蒸気を吐き出し、その場に崩れ落ちる。左腕はやはり赤熱し、皮肉はもとより骨を焦がしていた。

 それでも周辺探査を敢行、敵性兵器が存在しないことを確認する。

 

「……一夏さんの、もとへ」

 

 推進器の尽くがオーバーヒートしている。PICの出力も上がらない。

 委細構わぬ。パワーアシストが多少生きていればそれでいい。這って進むには十分だ。

 

「一夏さん……!」

 

 それが己の責務なのだ。

 それが己の。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 暗い部屋の中で女は思う。認め難い感情、自身が唾棄すべきそれを、けれど抱いてしまうその男の有様を。

 

「……同情? ありえない。この私が?」

 

 (おお)きな男の生き方が、心に痛い。

 

「認めない……君なんか、私は、私は……………………大ッ嫌いなんだから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




???「モンスターではない。神だ!」



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34話 失意

 

 

 大気を貫き、翔け抜ける。狙うのはただ一機。眼前の敵。

 太刀(ブレード)は下段に取った。脇腹から斬り上げる。

 

「シィィッッ!」

『――』

 

 巨大な両腕がこちらに向く。白式のセンサーもまた、敵機が自機を捕捉(ロックオン)したことを自分に報せてくる。

 ――構うものか。

 突っ込む。両翼(スラスター・フィン)を全開にして出力は最大。最高速で接近する。

 黒い腕の、前腕部に空いた砲門が光る。エネルギーチャージの予兆。知っている。もうタイミングは掴んだ。

 3、2、1……今!

 大口径ビーム砲。紫の光輝が一直線に自身に迫る。

 同時に天地を回す。機体を錐揉み(ロール)し、ビームの弾道に()()()()()()()最小限度の回避行動。ジンほど上手くできた自信はないが、距離は詰められた。今はそれだけでいい。

 

 単一仕様能力(ワンオフ・アビリティ)“零落白夜”

 

 白式、延いては白式唯一の武装たるエネルギー構築式ブレード“雪片・弐型”の刀身に備わる特性。効果は単純にして強烈、この太刀の刃はISのエネルギーバリアを食い破る。

 現代兵器を無用の品へと追いやった堅牢な防壁はもはや無いも同じ。この刃を刺し入れさえすれば。

 

 そうすれば、ジンのところへ行ける

 

 間合に達する。

 その長大な腕が仇だ。懐に入ればそれがどれほどのパワーを発揮できようと無意味。届きはしない。

 斬り上げ。逆袈裟。

 

「っ!?」

 

 黒いスキンスーツに食い込んだ光刃は、内部骨格(フレーム)に阻まれ停止した。

 何故。

 

「ちぃ……!」

 

 最小射程内とはいえ、それでも敵の攻撃は来る。

 腹への膝蹴りをこちらから踏み付け、半端に食い込んだ刃を引き抜きながら飛び退く。

 追い撃ちのビームをさらに回避。被撃はゼロ。しかしこちらもまた有効打はゼロ。

 どころか、せっかく詰めた間合をまたしても空けられてしまった。

 何度目だ。この攻防。この焼き直しは。

 

「邪魔だ。邪魔だ。邪魔だ。邪魔だ。邪魔だ。ジンが待ってるんだ。ジンのところへ行くんだ。ジンがまた一人で戦ってるんだ。ジン、ジン、ジン、今行くから。すぐに。すぐ。こいつを。この屑鉄を刻んですぐ…………邪魔なんだよオマエ」

 

 スラスター最大出力。

 同時にエネルギーの吸入圧縮から再放出へ。瞬時加速(イグニッション・ブースト)と呼ばれる技法をいつしか体得していた。

 別段自慢にもならない。所詮は姉の真似事だ。

 しかし現状有効な手段はこれしかない。敵機の火力は実際に脅威だった。白式は近接格闘特化。機動性と運動効率を追求した機体は必然として装甲の耐久性、防御能力に劣る。この場合の防御能力とはつまるところシールドエネルギーの削られ易さだ。

 加えて、零落白夜を発動させるには自機のシールドエネルギーを消費しなければならない。返す返すも継続戦闘能力に見放された機体……それが白式だった。

 だからこうする。

 瞬時加速と元来の加速性によって作り出した速力を破壊力へ転化。そして接触の瞬機に顕現させた“刃”にて対敵を膾斬りにする。

 策と言うのも憚られる力業だが、自分ならやってやれないことはない。驕りや慢心ではなく、その程度の鍛錬はジンと共に(こな)してきた。自身の技量を鑑みた上でのどんぶり勘定。

 ……やっぱり力業だな。

 

「はぁ!」

『――』

 

 再三の接触。

 今度は上段、順当の袈裟懸け。鎖骨から脇腹までを斬り断つ心算で打ち下ろした――そうして、再三の通りそれは堅い骨格の表層で止まる。

 

「っ、また……!」

 

 太刀を対手へ届かせることはできる。なのに()()()()()()

 自機に照準が合わされた。

 回避――

 

『バカ一夏! 左に!』

「!」

 

 耳を貫く甲高い声。

 それに従って左に跳躍した。PICとスラスターの軽い発破で自分でも驚くほど軽やかにその場から離脱する。

 次の瞬間、黒い敵機の腕が弾けた。目に見えない何かが連続して敵機を袋叩きにしている。

 龍咆(りゅうほう)。鈴の専用機“甲龍(シェンロン)”に搭載された衝撃砲の斉射だった。有効射程や威力は敵機のビームに劣るが、その速射性は桁違いと言っていい。

 

「助かった」

『礼なんてどうでもいいわよ! 少しは落ち着いて――』

 

 太刀を取り直し、反転。

 再度の攻勢に出る。

 また耳元で怒声が響くが、構っていられない。

 

(俺が未熟だから?)

 

 それも大いにある。千冬姉に言わせれば自分など孵化すらまだの雛鳥か、良くて巣立ち前の仔鳥だろうから。

 けれど、それだけではない。

 絶好の斬り間と過去最高の運剣と思われた斬撃が何度無為に終わったか。

 刃筋は確かに立っている。しかし、それを明らかに、意図的に()()()()()いる。

 打ち込みの“機”を予測された上で備えられ、回避運動を許してしまっている。

 それでも刃だけが届いているのは速力という一点で自機が敵機より優っているからだろう。

 

 

 ――一夏は知る由もないことだった。

 

 

 巨大長大なビーム砲を内蔵する両腕と黒く無機質な全身装甲(フルスキン)という異様なる所属不明機(アンノウン)……『ゴーレムⅠ』。

 人知れず篠ノ之束の手によって開発・製造されたこの機体。当初、期待値として算出された機体性能は彼女の満足行く完成度とは程遠かった。

 特に、出力維持の為に腕そのものをビーム兵装としたことで運動性、近接格闘能力が著しく落ちてしまった。如何にPICによって力学的な形状の制約が軽減されるとはいえ、肥大した両腕は折角のパワーを肉弾戦で十全に発揮できない。

 その構造的欠陥を解決したのが、提陀羅の運用・戦闘データだった。

 不均整極まる機体形状。多重かつ局所的に配置された超常出力の推進器。半歩の誤りも許されない技巧を要する常軌を逸したモンスターマシンを、しかして装着者日野仁は実戦において使い熟して見せた。

 理論値に血の通った現実のデータが集積され、それらはふんだんに戦闘AIへと流し込まれ……そうしてゴーレムのマシンポテンシャルは格段に向上した。

 初期性能のゴーレムⅠであれば、一夏が駆る白式は苦も無く一刀の下に破壊できただろう。

 しかし日野仁が駆る提陀羅の戦闘を学習したゴーレムⅠは、白式の高速機動に対応できる。

 

 

 ――少年が知る由もない皮肉。彼を阻んでいるのは、誰あろう日野仁の技そのものだった。

 

 

 壊す

 

 その一念が今脳内の全領域を席巻している。

 

 壊す

 

 自分と彼とを阻む全ては尽く斬り刻み擂り潰し壊し尽くす。絶対に許さない。憤怒では生温い。一刀へ鍛え上げた憎悪で完膚なく滅する。

 

 壊す

 

 相手が何者であろうとそれは関わりない。老若男女、生命非生命の別すら問わず、その()()を否定する。

 その意味で、今現在相手取っている所属不明機は良い例だ。

 アレの中身が空であることは一目で看破できた。人間のような動作を巧く模倣してはいるが、それだけでは不完全。

 自分が発した殺意、“気当て”に対してあまりにも無反応が過ぎるのだ。

 別段、殺気に当てられて怯え竦むことを期待した訳ではない。しかし、どんなに無感情に、機械的に振舞おうと何かしらの反応を示してしまうのが“人”なのだ。

 返るものが絶無。つまりはアレに中身など無い。

 伽藍洞の人形。無人機だ。

 ならば『殺す』ではなく『壊す』こそ正答だろう。

 

「壊れろよ」

 

 上昇接近する敵機へ落下攻勢を仕掛ける。

 太刀は上段に取り、目指すは対手の懐下。

 両断できないというなら、頭から斬り割ってやる。

 スラスター出力と垂直落下重力の加勢。単純なパワーで押し切る。

 接敵――

 

『躱せ、一夏!!』

「!?」

 

 耳を貫く喝声に思わず身体は反応した。

 一直線に落ちるばかりだった機体を捻り、軌道から身を投げるように逸れる。

 それとほぼ同時に、刀身を衝撃が伝った。

 

「な」

 

 見れば敵機がこちらへ腕を伸ばしている。こちらが急に進路を変えた為、敵の手は自機ではなく雪片に触れたのだろう。それ自体は別段不思議なことではない。

 問題は、敵の速度。明らかに接近が先程よりも速くなった。

 

『火砲へ割いていたエネルギーを推進器へ過剰過給(オーバーブースト)させたんだろう。珍しい手法ではないが、完全に先の先を取られたな』

「くっ……」

 

 冷厳な事実を美しいアルトの声音が告げる。千冬ははっきりと弟の油断を(たしな)めていた。

 今の一合、回避運動があと一瞬遅れていたなら、自分は敵機に捕まり直にあのビームを食らっていただろう。

 

『一夏』

「ごめん……千冬姉」

『いいさ。お前の気持ちは分かる。痛いほど。私も管制室を動けない。現場責任者の務め、というやつでな。本当なら、いの一番にジンのところへ飛んでいって敵を八つ裂きにしてやりたい』

 

 同じ気持ち。

 姉と自分の心はいつだって同じ方を向いている。

 あの人を想っている。

 

『我慢できるか?』

「…………うん」

『そうか。いい子だ……後事は凰他、学園の警護班に任せろ。もう五分ほどで格納庫のクラッキングが終わる』

「わかった。じゃあ仕留めるよ」

 

 PICを切り、地上へ降り立った。

 

『ちょっ、なにしてんのよ!?』

 

 鈴が慌てた様子で声を上げる。

 敵機は今もまた上昇し高度を得ている。飛び道具は高所から低所を狙う方が圧倒的に有利なのだから、これが甚だ自殺行為なのは十分理解できた。

 

「鈴」

『ロックされてるわ! 早くその場から離脱しなさい!』

「ジンのこと、頼むな」

『え?』

 

 太刀を取り直し、構える。

 両の手で握った柄は脇に引き、刀身を寝かせる。通常の諸手突きではありえないほど深い引付。これでは打ち込みは限定され、他の型へ移行するにも余計なモーションを要する。

 刺突。これはただそれだけを行う為の構え。

 無論のこと無防備に足を止めた愚か者を敵機が見逃す道理はない。大砲門にエネルギーの収束を感知。白式はけたたましく警告音を鳴らす。

 

『一夏!? こんのぉ!』

 

 一定距離を維持して飛んでいた鈴の甲龍が、砲撃準備に入った敵機を衝撃砲で撃ちまくる。しかし、あの火力ではシールドエネルギーを多少削っても敵機を破壊するまでには至らない。

 もとより敵の主たる狙いは自分である。行動の妨げにならぬ限り鈴に矛先を変えることはないと踏んでいたが、幸い当たりだ。

 敵は自分だけを見ている。甲龍からの火勢に晒されながらそれを意にも介さず、高度優勢に(かこつ)けて空中で静止したままチャージを続けている。

 何せこちらの武装は近接ブレード一本。この間合ではどう足掻いても敵機の攻撃の方が早い――と、敵は判断した。その優秀なAIは疑うことすらしないだろう。

 まさかこの距離で、白式の攻撃が届く筈などないと。

 白式にはもはや有効な攻撃手段など残っていないと。

 

「篠ノ之流居合術突ノ一“松葉”……我流変型(アレンジ)

 

 ありがとう。AI(オマエ)が馬鹿で助かった。

 右足を踏み込む。引き付けていた諸手を前へ、上空からこちらを見下ろす、無防備な敵機へ。

 切先を突き刺す。

 しかしこの刃渡りでは届かない。遥か遠く高みに居座る敵を突き殺すには、たったこれだけの刃では足りない。

 足りない。足りないから……。

 雪片・弐型の刀身、それはエネルギーブレード。それは本来非実体、不定形の光輝だ。

 刀長によって取り回しを限定される実体の太刀とは違う。エネルギー供給量を絞れば小太刀にも、野太刀にも姿を変えられる。収納、顕現は自由自在。その形すら変幻自在。ならば。

 ()()いうこともできる。

 

『――』

 

 光輝が、伸びる。

 一条の流星のように、真っ直ぐ。

 空間を細く奔る刀身。それは雪片・弐型という太刀にて繰り出した刺突そのもの。

 そして刀身には、白式の単一仕様能力“零落白夜”の戦化粧が施された。防御不能、それは絶死の針だった。

 針は過たず、黒い機体の中心を射抜く。

 分かる。知っている。オマエの心臓(コア)はそこだ。

 

『kikikikikikigigigigigigigigigi!?』

 

 刃を引き抜く。同時に刀身は消え去った。

 奇怪な音を内部から響かせ、敵機はガタガタと全身を震わせている。火花とオイルとも血液とも解らない物体を巻き散らして、それは突然ぴたりと停止した。そして、当然の理、重力は奴を捕まえ地上へと引き下ろす。

 それは真実鉄屑となった。

 

「っ!」

 

 自機がバランスを崩す。太刀を取り落とし、直立すら維持できない。

 パワーアシストが切れたのだ。同時に今機体が具現維持限界寸前であるという警告が鳴り響く。

 エネルギーの枯渇。今の白式には戦闘能力はおろか飛行、活動能力すら残っていない。

 当然の結果だった。

 エネルギーの刃を数十メートル単位で伸ばし、それにアビリティまで付与させたのだから。ただでさえ燃費の良さと縁遠い白式のエネルギーは根こそぎ使い果たされていた。

 

「一夏!?」

 

 傍らに甲龍が着陸し、肩に手を掛けられる。

 その手を逆に取り返し、鈴を引き寄せた。戸惑う少女に自分はただ懇願する。

 

「鈴、早く、ジンを!」

「で、でも」

「お願いだからっ、ジン、を……頼むよ、鈴……!」

 

 自分にはもう何もできない。ISはISでしか止められない。こうなることが解っていたから、今の今まで手をこまねいていた。

 でも諦める。俺はジンを助けに行けない。その事実を飲み下す。

 ただ、願うことしかできない。ただ祈るだけ。

 俺はまた、ジンを助けられない。

 

「ごめん……ごめんな……ジン……ジンっ!」

「……分かった。行ってくる。あんたはここで待ってて」

「うん……」

「大丈夫。必ず助けるから。仁は――私の友達なんだから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒い所属不明機を一夏が機能停止にさせてすぐ、アリーナの遮断シールドが開放された。

 示し合わせたようなタイミングの良さ。技術班のクラッキングが偶々早く成功したのか、それともあの機体を送り込んだ奴の差し金か。

 今はどっちも考えるだけ無駄だ。

 学園のマップと学園内監視装置からの情報をトレースする。もう一機の所属不明機の位置、そして何より仁の機体・提陀羅の位置とステータスが表示される。

 

「機体ダメージ30%……」

 

 苦戦してる。あの仁が。

 あいつの強さは知っている。この学園に来てからの戦闘データにも目を通した。それを追い詰める敵。

 急がないと。

 広大なIS学園といってもISで飛翔すれば一息も掛からない。ハイパーセンサーなら機影はすぐに見える――――光が、弾けた。

 

「な!?」

 

 弾けた光は暴流となって溢れ出し、学園の外へと流れ出ていく。いつかテレビで見た土石流、いや火砕流にも似た光の奔流。天象、自然災害に等しい何かだった。

 光は空間を飲み下しながら遥か海の向こうへ消えていく。水平線の向こう、強化された視覚のその限界のさらに向こうへ。

 光は、そう長くは続かず徐々に勢いを弱めていく。その発生源。それこそは提陀羅の居所だった。

 

「!」

 

 飛び込むように地表へ下降すると、そこには。

 何も無かった。

 ヘリポートの中心から学園外までの空間。敷き詰められていたであろう強化アスファルトも、地盤を補強する基礎鉄骨も、海を臨める崖も。

 人工島を形作る土砂や建材、その全てが()()()()。巨人が掬い取ってしまったかのように、そこには何一つ存在しなかったのだ。

 消失した島の縁、その発端に一機のISを捕捉する。

 それは異様な姿だった。

 全身から蒸気を吐き出す黒い偉容。膝を突き、蹲っていたそれが不意に動き出す。ぎちぎちと何かが千切れ、軋み、砕ける音。それは間違いなくそのISから、仁から響く音だった。

 

「仁!!」

 

 仁は立ち上がることもできず、その場に倒れ伏した。

 急いで近寄る。近寄ろうとして、途端にISから警告が鳴った。

 

「表面温度……3600℃!?」

 

 装甲が比喩でもなく一部融解していた。

 左腕は特に酷い。今も赤く、白く、どろりとした色味を発して周辺大気ごと焼き焦がしている。

 あんなものを装着して、中の人間が無事で済む訳がない。

 

「仁! あぁっ、もうなんで……!」

 

 強制除装……ダメだ。今こんな場所でISを外せばそれこそ仁の身体が消し炭になる。

 今は一刻も早く装甲の冷却が必要だ。

 直近の水道管の位置をセンサーが拾う。いや、一番近い海水でも。

 慌てふためく思考の渦をどうにか抑え付けていた矢先、黒い機体が身動ぎした。

 

「仁? 意識があるの!? 仁! しっかり――」

「行か、ねば……」

「へ?」

 

 比較的無事な右腕を地面に突き立て、あろうことか仁は上体を起こした。

 エネルギー残量は雀の涙。ろくなパワーアシストすら無いこんな状態で。

 

「い、ちかさんの、もとへ……」

「――――」

 

 意識混濁の中、傍にいる自分の存在すら認識できないでいる。

 肉体と精神が焼き切れる寸前にある男が、それでも呼ぶのは。自分自身の全てを無視して、それでもあんたは。

 

「バカよ、あんた」

 

 男の大きな身体をそっと抱き締める。IS越しにも分かる高熱。環境適応装備(マルチフォーム・スーツ)であるISのシールドにすらダメージを与える熱量。何より提陀羅本体が放つ強烈なエネルギー波。

 構うものか。

 こうでもしなければ、この男は止まらない。止まってなど、くれない。

 

「バカっ、仁のバカ……!」

 

 溢れ出たものが、黒い装甲に落ちては蒸発、霧散する。止め処なく流れ落ちる涙くらいで、男の熱を冷ますことはできない。

 私なんかじゃ、あんたの愛情は消せない。

 

「どうしよう、私、どうしたらいいかな……どうすれば」

 

 仮面の下の男の顔を想像する。

 ああ、やっぱり、湧き出てくるのは、嫌悪でも、憎悪でも、怒りでもなくて。

 

「私……私どうすればあんたのこと、嫌いになれるのかなぁ……?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「その手を放しなさいな」

 

 蒼穹の高みから蒼が降り立った。ブルー・ティアーズ。イギリス産BT兵装特化専用機。

 セシリア・オルコットの機体。

 少女はこちらを睥睨し、顎で自分に指図した。その悪意を、嫌悪を、隠そうともせず。

 

「間もなく救護班が来ます。ここに貴女の役目はありません」

「……あんたにも、でしょう。偉そうに命令しないで」

「汚らわしい」

 

 こちらの言葉を、いや私という存在を女は唾棄した。唾を吐き捨てるという習慣がこの女には無いだけで、内実では確かに私を。

 

「ただの横恋慕なら憐れむだけでしたのに、身の程を違えましたわね」

「あんたに弁えるものなんて何一つ無いだけよ」

「あら? わたくしは、お二人の邪魔をするなと申し上げているだけですわ。散々思い知ったんではなくて?」

「……るさい」

 

 女の口端が引き上がる。逆月のような笑み。侮蔑と嘲弄の悪意に満ちた。

 

「貴女の、恋は、絶っっ対に、実らないって」

「うるさいっ!!」

 

 双天牙月、片刃の青龍刀を顕現させる。ほぼ無意識に、自分の戦意にISが反応したのだ。

 ――鼻先に砲口があった。

 刃を向ける暇もなく、詰み(チェック)。態勢の悪さを差し引いても、凄まじい展開速度。セシリア・オルコットは無手の状態からライフルを顕現させ、こちらに照準を合わせたのだ。

 

「お望みなら今ここで焼き潰して差し上げる」

「っ……!」

 

 それは圧倒的な敗北感。

 噛み締めた歯が砕ける感触。

 

「さあ、仁様から離れなさい」

「絶対に嫌」

「そ。ではさようなら」

 

 しなやかなマニピュレータがトリガーを引き――

 砲身を、黒い手が掴む。

 

「!」

「っ!? じ、仁、様!?」

 

 黒く太い、提陀羅の腕。

 起き上がった仁が、セシリアのライフルを掴み砲身を持ち上げていた。

 そしてそれきり、黒の魔神は静止する。

 

「……」

「……仁様……本当に、貴方って人は……」

 

 救護班が大挙して仁を搬送するまで、私も、セシリアも、身動き一つできなかった。

 きっと彼はそれを許さない。決して許してはくれない。

 ぼろぼろの死に体になってもなお、動き出した男を、私達は畏れた。

 恐怖とか戦慄(おのの)きとか大袈裟なものではなく、ただ。

 

 

 ただ、仁に叱られるのが堪らなく恐かったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





???「射殺せ、神鎗」



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35話 刻むことでしかⅡ

※CAUTIONという名の予防線※

・ちょい濃いめの同性愛、BL描写
・R15相当の性描写

苦手な人はブラウザバックだ。



 

 

 

 目を開いた時、最初に捉えたのは子供の寝顔だった。

 

 いや……出会ったあの日から今まで、ずっと子供扱いを辞められなかった。ただ、大切で。ただ愛おしくて。

 その想いが彼の望むものとは僅かに異なっていることを、半ば理解しながらそれでも。

 それでも俺にとって一夏さんは、我が子同然の、唯一無二だった。

 今、その少年はすぐ傍に在る。

 周囲を見回せば、ここが学園の医療棟であること。己が現在横たわっているのは医務室のベッドなのだと知れる。

 流石は先端技術の粋を結集して建造された教育機関。医務室一つとっても、以前自身が世話になった国立病院のICUと遜色ない、どころか随所を上回る医療器具、機材の充実ぶりである。

 それら充実の医療器械に、己はまたぞろ世話を焼かれるような状態だったらしい。

 

「……また」

 

 枕元に突っ伏した少年の寝顔はとても安らかに見えた。その目尻に赤い涙痕さえ残っていなければ、己は愚かにもその感想を疑いもしなかっただろう。

 また、泣かせてしまった。

 そっと少年の髪に触れる。細くしなやかな絹の手触り。す、す、と何の抵抗も覚えない滑らかな指通り。撫でては梳きを繰り返す。それで何が許される訳でもないが、今はどうしようもなく彼が労わしい。

 彼の心の痛みに、己如きが報いる術など果たしてあるのか。

 

「ん……」

 

 吐息と共に、ゆっくりとその目が開かれる。長い睫毛が数回上下し、ぼやけていた焦点が合っていく。

 黒い宝石のような瞳に、己の姿が映されていた。

 

「ジ、ン……?」

「おはようございます、一夏さん」

 

 姿が像を結び、認識と理解が及び、呆けていた少年の顔が途端にくしゃりと泣き崩れた。

 

「っ……!」

 

 伸ばされたその細い手に身を任せる。療養衣の裾を握り締めて少年がすがり付いてくる。

 強く、決して離れぬように。

 

「どうしてだろ……こんなのばっかりだ……」

「……」

「ジンが無理をして、大怪我負って、ずっと目を覚まさなくて、その寝顔を俺はずっと眺めてる。眺めることしかできない。また助けられなかった。また……何も、できなかった」

「……申し訳ありません」

「なんでジンが謝るんだよ……謝んないでよ。そんな風に言われたら俺、オレ、ホントにどうしたらいいか、わかんなくなる、から……ぅ、くっ」

 

 顔を埋められた胸に熱が灯る。それは少年の目から溢れた熱だった。まるで、焼けるように熱い、彼の涙は。

 

「イヤだよぉ……やっぱり、オレ怖いよっ……ジンが、もし目を覚まさなかったら、オレも千冬姉も――」

 

 胸の奥底から抉り出すかのような苦しみに満ちた声音。真実彼の声は、彼の言葉は己の胸を抉った。

 

「――生きてる理由、無くなっちゃうよ」

「!」

 

 少年の肩に置いた手に知らず力が篭った。放してはならぬと。手を放せば最後、少年は跡形も無く消え去ってしまうのではないかと……埒もない妄想だった。

 しかしそんな考えに至ってしまうほど、彼の言葉は重かった。

 

「自分如きの為にそのようなことを考えてはなりません」

「……考えるとかじゃないよ。もう()()()()()()()。今のオレと千冬姉が生きてる理由。ジンと出会った日――初めて誰かを欲しいって思った。オレにはこの人が絶対に必要で、絶対に離れない、放したくないって。一緒にいる時間が増えていくほど強く強く強く思うようになった。頭でちゃんと自覚できるようになった頃には、もうオレの根っこのところにはジンがあって……ううん違う。随分前から織斑一夏(オレ)の一部はもうジンで出来てた」

 

 泣き腫らした目を細め、少年が笑う。在りし日の、幼い童子(わらし)。小さかった頃の一夏少年の笑顔。

 

「きっと千冬姉も同じ気持ちだ。いや、絶対そうだよ。えへへへ」

「しかし、それでは……それは、枷です。貴方方の未来を制約する。束縛し、限界を定めてしまう。こんな」

 

 己のような無価値な男が、彼の、彼女の在り方に害悪を及ぼすなど考えるだに(おぞ)ましい。そんなことはあってはならぬ。

 自らも愛に飢餓しながら、ただ孤独にのた打つばかりだったこんな男に、情を施してくださったこの姉弟にどうしてそのような仕打ちが許されよう。

 貴方に相応しいのは、直向きな、純粋な愛だ。凰鈴音や篠ノ之箒という少女らがその胸に秘め、温めているソレ……。

 

「束縛? ジンが? オレ達を?」

 

 するりと少年はベッドに上る。程よく鍛えられた肢体が蛇のような躍動で己の両腿に乗った。

 上体を起こした己と、それに騎乗する形の少年。己の首に腕を絡め、顎の下から上目遣いにこちらを見上げる。

 涙によって濡れた瞳に妖しげな光を見た。まるで皮膚を裏側から舐め上げられるような、あり得ぬ感覚を起こす。

 

「ふふ、ふふふふふふ……それ、すっ、ごくうれしい……」

 

 淡い頬紅が差し込む。上気した顔に艶やかな笑みを湛えて、言葉通り、少年は心底から悦びを口にした。

 それでは駄目なのだと理解している。彼の感情がひどく危ういものなのだと、とうの昔から分かっていた。

 だのに。

 柔らかな頬に触れ、また髪を梳く。形の良い頭のその輪郭を確かめるように撫でる。

 だのに、やはり、どうしようもなく――――俺は彼が愛おしかった。

 

「っ、っ、は、ん……あの、さ。ジン……お願いが、あるんだ」

「……なんでしょうか」

「……」

 

 それきり暫く少年は押し黙った。口をもごもごとさせ、文言を決めては止めてを繰り返しているようだ。

 

「どうぞ、遠慮なく仰ってください。自分の能力が及ぶ限り、どのようなことでも」

「……ホントに?」

「はい」

「じゃあ」

 

 朗らかに笑む。

 

「印、付けて」

「印?」

「うん、ここに」

 

 そう言って少年は自身の首筋を指さした。

 数秒、その意図を判じかねる。しかし理解はすぐに及んだ。

 印とはつまり、以前は己の首筋を常に飾っていた――

 

「千冬姉がジンにするみたいに……オレが、ジンにしたみたいに……」

「しかし」

「どんなことでも、って言った」

「……」

 

 舌の根も乾かぬ内に、こうも易々と前言を覆すは不誠実の誹りを受けて然るべきであろう。

 だが、それを甘受してでもやはり、この要求は拒否せねばならない。体面や他者の目の云々などは些事。

 問題は、彼の肌に傷を付けるという点にある。

 

「己の再生能力こそ異常なのです。加減を誤れば消えない傷跡を残す」

「だからだよ。一生消えないくらいのが欲しい。ジンの印……オレはジン“の”なんだっていう印……」

 

 首に絡んだ腕に力が篭められ、全身が密着する。放さない……己が先程抱いた思考を、少年の肌身から感じ取った。

 

「お願い……お願いだから……ジンはいなくならないって、安心したいんだ。だから……」

 

 沈黙が室内に降りる。けれど、逡巡は自分自身呆れるほどに長くは続かなかった。

 少年の背と後頭部に手を回す。

 こちらの了承の意を過不足なく一夏さんは理解したようだ。力を抜き、もはや己に身を委ねている。

 

「ありがと、ジン」

「……」

 

 カッターシャツのボタンを外し、肩を(はだ)ける。惚と、流し目にこちらを見詰める様が、ひどく煽情的だった。

 白い首、そこからやや下って、肩との境界面に狙いを定める。滑らかな流線を描く頸の、所謂胸鎖乳突筋あたり。

 顔を近付けたことで息が掛かったか、少年はぴくりと微かに震えた。やはり、少し緊張しているようだ。

 背中を擦ると、さらに二度三度ぴくぴくと少年は身体を震わせた。

 そうして遂に己は顎を開き、口腔内へと頸を迎え入れる。

 傍から見れば吸血鬼か、獣が美姫を貪っているようにしか見えまい。いや、ほぼ事実だ。

 今より己は、この美しい少年を喰らうのだから。

 顎を閉じ、歯で頸を噛む。

 

「んぁっ」

 

 程よい弾力を感じた。心地よい噛み応え。絞め立て新鮮な生の肉を頬張ったような。

 必然、口中で唾液が分泌される。口に含んだものを咀嚼し、溶かすという生理反応。口の端から溢れそうになったそれを反射的に吸い込む。同時に、舌が軽く頸の皮膚に触れた。

 

「ぁ、ひ……ぃ、っっ」

 

 吐息と、それに混ざる甘い声。平素の少年からは想像外の、蠱惑。

 耳にするこちらの脳を溶かされそうだった。

 

「ジ、ン……もっと強く、噛んで……」

「――」

「跡だけじゃなく、て……破れるくらい、深く…………ね」

 

 耳元に唇が寄せられた。鼓膜どころか骨の髄を揺さぶるような熱と吐息。

 

「……来て」

 

 酒精同然の囁きに酩酊する。

 犬歯が皮膚を食い破り、少年の肉を貫いた。

 

「あぁうっ! きひ……ん゛ぅ、んぁ、ふ……ふぅ、ふぅ……!」

 

 一段上がった声音と体温、乱れる呼吸。密着した胸の奥で早鐘を打つ心臓の鼓動を感じる。

 抱き付く手に、さらに力が入った。

 当然だ。皮肉を噛み破られたのだから。痛みに悶え苦しむのは道理。

 それを為したのは誰あろう己である。乞われたからとて、少年を傷付けるような真似を働いた。その罪深さに慄いた。

 

「ぁ、は、はぁ、はぁ……ごめん、ね」

「……」

 

 肩口に落ちる雫を感じた。少年は涙を流していた。

 ごめん、少年は謝罪を繰り返す。一体何を詫び入ることなどあろうか。

 

「ホントはオレ、罰が欲しかったんだ……あの日、ジンを見殺しにして逃げたこと。昨日、オレの未熟でジンを助けに行けなかったこと……ジンの痛みのほんの少しでも分け合えればって思った」

 

 全ては独善である。

 己が少年の生存を望み、少年の平穏を危ぶむ存在の排除を実行したこと。全ては我が私心、私欲の結果でしかない。

 貴方が罪悪を感じる必要性は絶無であるのに。

 

「でも、ダメだった……こんなに、嬉しくてうれしくてうれしくてうれしくてうれしくてうれしくて、んひっ、頭がどうにかなっちゃいそうなくらい、あっ、ぁん、うれしさでいっぱいなんだ……」

 

 少年は身体を擦り付けてくる。自身と己との境界を無くさんとするように。

 

「もっと、して」

 

 入ったのは犬歯の先端でしかない。彼はそれ以上を望んでいた。

 ぐい、とそれを自ら招き入れる。押し付けられた頸に歯はさらに深く食い込み、肉の千切れる感触と純血の鉄錆の味を口内へ(もたら)した。

 

「っっっ、はぁあ、んっ……!!」

 

 少年の背中に伝う痺れを手先から感じ取る。そのまま反り返りそうになる背筋をしっかりと支えた。

 今や唾液は口の端を零れ出て、少年の素肌を汚している。それに混ざり流出しようとする血潮をどうにか防ごうと、傷口に舌を這わせた。

 

「ひゃんっ!? あ、ぃ、ひっ、んんっ」

 

 少年の汗と血の混交した体液。それがどうしてか甘い。

 赤子の体臭に近い。まるでミルクのような。

 それこそ、彼の愛らしさのあまり己がそのような錯覚を得ているだけなのかもしれない。

 

「ぁ、ん、は、あっ、だ、め……ジンっ……!」

 

 体の熱は限りを知らず上がっていく。汗で張り付いたシャツの下、桜色の肌が透けて見える気がした。

 傷を労わるように舐め上げ、舌先で擦り、時には舌全体で丹念に撫でる。その度に少年は身体を震わせる。時には痙攣するように激しく。

 何かの高まりを感じた。少年の中で、どろどろとした熱の塊のようなものを。

 浅く、速く、呼吸には鼻に掛かった媚声が常に伴った。自分の意思ではもはや堪えることができないのだろう。

 

「ぃんっ、ひ……や、んん、あぁっ、は、はっ、はぁ、あん……!!」

 

 気付けば皮膚がふやけてしまうまで舐め、擦り続けていた。

 赤く染まった耳に指先を這わす。そしてもう片方の手は背骨をすっと撫で下ろす。少年はいずれも敏感に反応した。

 頸を一旦解放する。唇と頸とに唾液が糸を引き、橋を架けた。

 ふと見れば、とろけた顔で少年は自失している。目の焦点は再び惑い、目尻には涙が溢れ、上気した顔には笑み。艶やかに、妖しく、少年の媚態は今こそ危うい美しさで満ちた。

 

「ジ……ン……」

 

 目尻の涙を指で拭い取る。頬に触れた掌に、少年は自ら頬を押し付けてくる。

 首筋に一筋、血の紅が滴った。

 唇を寄せる。傷を広めない程度に弱く、血の滴りを逃さないほどに強く。

 

「ぁ……」

 

 そっと、傷口を吸い上げた。

 

「っっっ!! ぁあっ、ジンっ! ジンんんっっあぁぁあっ……!!」

 

 おそらくは今まででもっとも高く、激しく声を上げて、少年の身体が跳ね上がる。

 小刻みな痙攣を何度も何度も繰り返す。

 縋り付いてくる小さな身体を抱き締めた。何処へも行かないと、彼に伝える為に。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁはぁ、はぁ、は、ぁ……」

「……辛くはありませんか」

「……うん、はぁはぁ、もぅ、大丈夫……はぁ、はぁ」

 

 安堵と共に吐息を零す彼の姿に、心底安堵を抱いたのは己自身だった。

 

「これでもう、オレはジンのものだから」

 

 幸せそうに口ずさむ。

 少年はどこまでも美しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オマケ

 『だって男のコだもの』

 

 

「ジン」

「は」

「言いにくいんだけどさ」

「?」

「……ここ、下着の替えとかあるかな」

「……おそらく全て女性物かと」

「…………」

「…………」

「どうしよう」

「千冬さんに着替えを持ってきていただいては?」

「うわぁぁあああああああ!! 絶っっっっ対笑われるぅぅう!!」

 

 

 

 

 

 

 

 





あれ、もしかして微エロってガチエロよりむずいんじゃね……?


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36話 貪るほどに愛おしい

※CAUTIONという名の(ry)

・R15相当の(ry)

苦手な方はブラウザバッ(ry)




 

 

「……」

「……」

「…………」

 

 相も変わらぬ怜悧な美貌。夕暮れの茜光(せんこう)を斬り裂くようなダークスーツ姿の女性、織斑千冬。

 医務室に入り扉の前に立つ彼女は、平素の沈着冷静な表情からは遠い、なんとも無邪気な笑顔を浮かべて……いや、むしろ邪気満々の笑顔で。

 ニヤニヤと、ニタニタと、ニマニマと。適当な擬音語を探せば他に幾らも見付かろうが、その表情が顕す感情は一つ、愉悦だった。

 

「おーい、この助平」

「……」

「着替え、持ってきてやったぞ」

 

 彼女は紙袋の手提げ紐に手首を通してくるくると回す。見せ付けるような所作だが、肝心の少年にそれは見えまい。何せ今の彼の視界はほぼ零に近しい。

 ベッドの掛布団の一部がこんもりと盛り上がっている。丁度己の両脚辺りに大きな物体が丸く縮こまっている。犬や猫でないことだけは確実だった。

 

「御手数を」

「それはこのシーツお化けが言うことだな。まったく、堪え性がないというか至り過ぎた若気というか……まあ、なんだ」

 

 彼女は腰を折って、白いシーツの小山へ唇を寄せた。少年の耳がどの位置にあるのかを千冬さんは完璧に把握している。

 優しげに、それはそれは優しげに、気遣わしげな囁き声で。

 

「尻は大丈夫か。ジンのは体格通りだからな」

「挿れてないよ!?」

 

 シーツから顔だけが飛び出してきた。頬と言わず耳と言わず真っ赤に染まり、髪はぐしゃぐしゃと乱れに乱れ、目尻には羞恥と焦りと怒りがない交ぜになった涙が光る。

 

「???」

「なにその心底不思議そうな顔!? あっ、当たり前だろ! ここ一応学校の保健室なんだし……」

「は?」

「…………ぇ、えっちなのは、いけないと思いま――」

「は?」

 

 冷ややかな眼が少年を見下ろす。見下す。

 

「病み上がり以前の男にナニをさせようとしたのかよければ私に教えてくれ織斑」

「着替えを持ってきていただいて本当にありがとうございます織斑先生」

「ん、よろしい」

 

 ベッドに面を伏せ、平身低頭に見えなくもない姿勢で少年は大層丁重に謝辞を述べた。

 それに対し鷹揚に頷く千冬嬢の様も威厳を感じさせる。

 淀みない息の合った応酬。今日も御姉弟は仲睦まじかった。

 

「……ジンって時々無闇矢鱈にポジティブだよね」

「そうでしょうか」

 

 赤らんだ顔からジト目をくれる。シーツに包まった姿も合わせて愛らしい限りだが、そろそろ本来の目的を果たすべきだろう。

 ベッドから抜け出し、スリッパに足を通す。

 

「え、ジンどこ行くの?」

「小用を済ませて参ります。一夏さんはどうぞ、着替えを」

 

 すると、千冬さんがポンと手を打った。

 

「そうか、尿瓶も持ってくればよかったな。いやいや気が利かなくてすまん」

「お心遣い()()有り難く頂戴します」

「そうだよ。まったく千冬姉は。流石にジンだって女の人にそんなことされるの恥ずかしいに決まってんじゃん。だから……うん……オ、オレが取ったげるからさ。大丈夫大丈夫、なんたって男同士だもん。は、ははは恥ずかしいことなんて、なっ、なにも、ない、から……ね! だから、ね!?」

 

 何が『だから』なのか、何が『ね!?』なのか。己には皆目見当が付かない。

 

「ほぉ~? 都合のいい時だけ同性アピールか? 先刻あわよくばジンを咥え込もうとした雌ガキはどこのどいつだったろうなぁ~えぇ?」

「だから挿れてないって言ってんじゃん!? だいたい千冬姉は簡単に言うけど、あれ準備にすげぇ手間掛かるんだからな!?」

「くくく、案の定きちんと調べてるじゃないか。エロ方面に勤勉なのは実に男子高校生らしいな」

「っっっ!! ち・ふ・ゆ・ね・え!!」

「お二方、どうかお鎮まりください。そしてどうか声を落とされてください」

 

 外聞が悪いにも程があろうに。今に至るまで会話の内容がほぼ下半身に終始しているのは一体何の悪夢診断だ。

 毛を逆立てて威嚇する猫のような一夏少年を、微風に当たる虎めいて泰然と千冬さんは受け流す。

 

「さて、お前を揶揄(からか)うのも飽きてきた。連れションに行くぞ、ジン」

「もうちょっとマシな退室の言葉なかったんすか織斑先生」

「……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無人の廊下を彼女と二人、歩く。

 いよいよ夜の足音すら聞こえ出す逢魔ヶ刻。もとより医療棟に生徒が足を踏み入れる機会は少なく、職員すら受け持ちの執務室で勤務の真っ最中とあれば、人気がすっかりと失せているのも道理であった。

 幸い、伴う女性は天下無双の麗人。行き逢うた魔なるモノ尽くを斬り伏せてしまえるだろう。いや、この美しい人自体がある種の魔性を備えてはいるのだが。

 

「一夏は綺麗になっただろう」

「は」

 

 不意に、黒い背中が立ち止まりそう言った。

 

「そう、ですね……幼い頃から本当に端整な顔立ちの御子でした」

「私に似て、な。ふふっ」

「はい。益々お綺麗になられましたね、千冬さん」

 

 彼女が振り返る。ぱちくりと瞬きを一度、次いで口がへの字に曲がる。

 

「……冗談を真に受けるな。あぁいや、一夏のことは本心だが」

「自分も本心を口にしたに過ぎません」

「お前にしては珍しく軟派じゃないか。歯が浮くぞ」

「少なくとも己の、この甲斐のない生涯の中で出会うことができた最も美しい女性は――貴女だ」

 

 それはただの事実に過ぎない。この認識は十年前から揺るがない。とすれば、これは己が保有する織斑千冬という女性に付随した特徴、その情報でしかないのだから……実質賛美にすらならないのか。

 

「……申し訳ありません。不躾な物言いでした」

「…………」

 

 目礼と共に謝罪を述べる己を、千冬さんは暫時朧げな目で眺めていた。表情も変化せず、気配もまた察せない。見えている筈の彼女の実像を見失う。ほんの一瞬、その場から消え去ってしまったかのような、知覚の乖離。

 そうして二瞬目、突如彼女が眼前に出現した。真実瞬きによって生じた零視界を狙い澄ましたかのような手際。

 彼女の手が己の腕を掴む。

 

「こっち」

「は?」

 

 腕を引かれるままに随う。

 廊下をさらに進み、扉を開けて入り込んだのは会議室のようだ。

 

「……ここは無駄に見晴らしがいいようだ」

 

 ブラインドは全て畳まれ、広範なガラス窓一杯に西日が差し込んでいる。橙に燃える室内、窓を背に漆黒の彼女はこちらを見た。

 

「恋は女を綺麗にする。逆説すれば、女という生き物は懸想する男が一人も居れば美しさを追求してどこまでも変化するという訳だ。安上がりだな。お前はどう思う?」

「……それも一つの努力の賜物ではないでしょうか。何より、自己を変質させるほど強く誰かを想える、それはとても尊い行いです」

「そいつは重畳。知っての通り織斑(わたしたち)姉弟の身体は“特別性”だ。幾らでもお前好みに変わってやれる」

 

 逆光の中に立ち上る影。その中で彼女の微笑を垣間見た。皮肉に満ちているようで、ひどく悲しげな。

 

「一夏が()()なったのはお前の為だ。同性、という現実はあいつにとって思いの外大きな壁だったらしい。お前と一緒になる為に、お前と共に生きる為に……お前に愛してもらう為に。肉体は変化を続けている。これから益々あいつは自身にこびり付いたジェンダーを殺すだろう」

「…………」

「ふふふ、ふふ。別にお前が思い悩むことじゃない。あいつが望んでそう成っていくんだ」

 

 彼女の言葉の意味を過不足なく理解する。

 織斑姉弟の秘密を己は知っている。もとより千冬さんは隠そうともせず、自らその事実を己に開示されたが。

 織斑計画(プロジェクト・モザイカ)、彼と彼女の出生は――――

 

「俺は、貴方方の幸福を望みます。その実現の為に可能なあらゆる手段を模索、行使します」

「……」

「一夏さんが自身を変質させようと、己の生存理念は変質し得ない。自分は、貴方方を――」

 

 出会い、親交する中で、永久に塞がらぬ筈だった孤独の虚を埋めてくださったかの姉弟。

 変わらなかった。この想いは、今もなお。

 変わりはしない。どうあろうと、どうなろうと。

 

「――愛しております。どうしようもないほどに」

 

 己如きの為に、あの少年に在り得ざる変質を強いている事実が心臓を潰す。

 ではその肉体の条理を覆すほどの努力、尽力を、己は否定できるのか。できはしない。

 その変化ごと、愛しているのだ。

 

「――――」

 

 沈黙が室内に横たわる。

 しかしその奥に、言いようのない感情の揺らぎを感じる。震え、弾け、溢れかえる寸でのところで抑え込む。その繰り返し。

 千冬さんは俯いたまま、肩を震わせていた。

 思わず手を伸ばす。そっと、凍える少女の肩に触れる。

 

「……ジン」

「はい、此処に」

「私にも、“印”が欲しいな」

 

 悪戯な笑み。それを言えばこの男が困窮するのだとよくよく心得ておられる。彼女のその濡れた瞳を覗きさえしなければ、苦言の一つも吐けただろうか。

 悲喜交々に彩られた美しい瞳が、今縋るように己を見ている。求め、乞い、願うそれを、どうして己が無碍になどできる。

 するりと、彼女はネクタイを取り去り、ジャケットを脱ぎ捨て、シャツのボタンを開けた。

 

「お前は時折、私を過大評価する。身贔屓……いや、お前のは親の欲目かな?」

 

 肩を(はだ)けると、肩紐の黒いレースが目に付いた。彼女の白い肩を縦断し、豊かな膨らみを覆う下着。ともすると裸体以上の蠱惑、倒錯だった。眩暈すら覚えるほどの。

 

「私はそんな立派な人間じゃない。我慢弱く、嫉妬深く、欲深いただの女だ」

「千冬さん、場所柄を」

「ごめん」

「……」

 

 短く、舌っ足らずな謝罪。しかしたったそれだけで日野仁はあらゆる謹言を封殺される。

 子のどんな我儘であっても叶えようと尽くしてしまうのが親であるならば、もはや己に為す術はない。

 

「ふふふっ、本当にお前は……私を、いつまで娘扱いしてくれる気だ?」

「……」

「嬉しいよ。でも……悲しいよ」

 

 そっと後頭部に手を添えられる。こちらを引き寄せる力が掛かり、己もまたそれに従った。

 一夏少年にしたことを、彼女にもまた行う為に。

 

「ん」

「っ!」

 

 首筋への進路を取っていた頭を突如力強く捕らえられる。顎を下から持ち上げられ、眼前には美しい顔が――――

 ふわりと千冬さんが香った。あの頃から何も変わらぬ、少年にも感じた甘やかさ。

 

「……ふっ……ん……」

 

 唇を塞がれている。己のものとは比べ物にならぬほど柔らかな、同じ身体部位とは思えぬ滑らかな、彼女の唇によって。

 期せず、俺は彼女の唇を奪っていた。

 

「……ちぅ」

「っ」

 

 触れるだけだった唇が開き、暖かなものが己のそれを撫でた。

 舌だ。二度、三度、表面を撫で、舐った舌が、遂には唇の合間に分け入ってきた。

 

「んん、ちゅ、っ、ふ、んる、っ、ぅ、ぇあっ」

「っ……っ……」

 

 手始めに上唇の裏側を右から左へと舐め、舌先で歯茎の根本をこそぐ。そうして次は下唇の裏側をそうする。

 まるで別の生き物のように蠢き、踊り、穿り返す。粘膜から粘りすら舐めとらんばかり。

 

「……ん、ふ、ぅ、んんんっ……ひん、ぁえへ」

「……」

 

 こちらの下唇を噛むと、彼女はなんとも不明瞭な声を出した。

 『開けて』

 おそらくはそう言った。何を、だの。何処を、だの。今更物分かりの悪いふりをする訳にもいかず。

 上下の顎を開き、口内へ彼女を招き入れた。

 開いた途端、待ち切れないとばかりに舌が抉じ入ってくる。歯の裏を順番に一本一本舐め上げていき、歯茎もまた同様に丁寧に磨かれる。

 上顎の裏に舌を這わせ、まるで表層を擽るかのように微細な接触で舐る。嬲られる。そこが人体においてひどく敏感な箇所であることを彼女は分かっているのだ。

 

「は、ぁ、ん、ちゅ、ちゅる、ちぅ、んん、ぁ、ぅふ……」

 

 視線が己を射抜いている。口付けが始まってから、一度として外されることなく己を捉え放さぬ眼光。

 妖艶な光。うっとりと相手はおろか自分自身さえ蕩かせ、最後には溶かし融け合わせてしまいそうな。きっと淫蕩の悪魔(サキュバス)よりも遥かに強烈に、彼女は己を喰らうだろう。

 それをただ美しいと感じる己は、やはりどこまでも愚かしい。理路整然とした思考回路は機能不全にあり、慈愛の念だけが変わらず消えずここにある。

 

「……ん、はっ……ふ、ぅ、れぅ……」

 

 舌が、己を捉えた。されるがまま動くこともなく一ヵ所に鎮座するだけの一枚肉。それを見付けた瞬間、彼女から、彼女の舌から、悦びが伝う。

 ようやく出会えた。長旅の末の逢瀬に歓喜するように。

 

「ん! ちゅ、ぅ、ん、ん、れる、ふ、んぁっ」

 

 絡め取られ、舐り回され、時に噛み付き、時に吸い上げた。

 ただただ己を味わい尽くす為に。彼女は我が口内を蹂躙する。

 

 ――どれほどの時間、そうしていたろうか。

 無音の室内に、滴るような水音と淫猥な肉の絡まる聲と彼女の声が響く。夢見るように、熱に浮かされるように、ひたすら千冬さんは貪った。

 それはおそらく飢えと渇き癒すための行為。懸命であるほど、必死であるほど、娘の情愛への飢餓は深く重い。

 

「んっ、はぁぁあ……!」

 

 呼吸すら忘れていたのだろう。酸素の欠乏にとうとう肉体が耐えかねた。

 水中から飛び出す勢いで、彼女は己の口を解放した。

 つ、つ、と光る唾液が糸を引く。猥らな橋を己から彼女へと架け、夕日をちらちらと反射している。

 荒く乱れる呼吸を整える前にまず千冬さんは唇から伸びるその糸を舐めとった。ゆっくりと赤い紅い舌が唇をなぞり、残り香と後味を堪能している。

 

「はぁっ! はぁ! はぁっ、はぁ、はぁ、はっ、ハハハ、ハハハハ……油断、だな。ジン」

「……ええ」

 

 油断。確かにあれ以上の油断、そして見事な不意打ちもあるまい。

 胸中では未だ驚愕の渦を回している。

 

「ふふっ、ふふふっ、ざまぁ、みろ。一夏ばっかり、構うから……奪っちゃった」

 

 彼女が胸に身を預けてくる。

 それを受け止め、抱き寄せた。

 押し付けた耳から彼女は、己の早鐘を打つ心臓の鼓動を聞いているのだろう。息が整っていくほど、じわりと満ちるものを彼女から感じる。

 

「ここが一番安心する……」

「……」

 

 安寧を、こんな我が身から得られるなら、幾らでも差し出そう。献身などと大仰である。その為に使えるものを使う。それだけのこと。

 故に、もう一度。

 

「千冬さん」

「ん……なんだ、ジン」

 

 夢見心地の様子で、熱い吐息のような声を漏らす。

 

「過大評価というのなら、それはどうやら貴女も同様です。貴女は御自分の魅力と御自分の行為をもう少し理解すべきだった」

「?」

「己も所詮は、我慢弱いただの男です」

 

 彼女から身を離し、両頬に手を添える。不思議そうに目を丸める彼女は、やはり少女のようで。

 熱情にすっかりと沈んだ筈の理性が無意味な警鐘を鳴らすがもう遅い。

 今度は己から彼女へ、口付けた。

 

「!? ん、ふ、んぁ、ちぅ、んぃ、ちゅる、じゅ、んんんっっ!」

 

 何も変わらない。そっくりそのまま、彼女が己にしたことと同じことを己もまた彼女に返す。

 

「ぁ、ふ、ヴ、んん゛っ、ぃっく、ぅ、んっ、じゅ、じぅ、れぅ、んっく、ひぃ、い、んっ」

 

 小鳥のように震える彼女を抱き締める。

 彼女もまた一層強く、己の背中に爪を掻き立てて、必死に縋り付いてくる。

 口腔を蹂躙し尽くし、彼女の全てを吸い奪い、また与えた。

 不意に、一際激しく彼女の胸で心臓が跳ねた。それを合わせた己自身の胸に感じ取る。

 

「ん! んんっ、っく、ぃ、ぃっふ、んぉ、ぁっっ……!!!」

 

 唾液と共に声が溢れ、彼女の瞳の中で何かが弾けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――その一部始終を少女は見ていた。

 

 

 ()()()()()()()動向を予測し、移動距離と有効視界の確保に勤しみベストポジションを確保し、ロケーションを整えて。

 狙撃手として膨大な訓練を積んできた少女に、それは造作もないことである。

 事前に彼が医療棟一階のその部屋に運び込まれることは救護班の職員から聞き出していた。日頃、放課後のトレーニングを終えて寮舎へ帰宅する彼らと別れ、彼らが部屋へと辿り着く前に先回りしてポジションへ急行するよりも随分楽に事は運んだ。

 スコープ越しに、少年の泣き笑いを見た。

 スコープ越しに、彼の慈愛の笑みを見た。

 スコープ越しに、(おとう)様と一夏(おかあ)様の愛悦を見た。

 全身を悦楽が奔り、歓喜の震えに視界は惑乱した。胸にじわりと広がる熱が手足の先まで行き渡り、溢れたそれは涙や諸々となって流れ出した。

 天にも昇る心地を味わっている。真実、絶頂の兆しすら覚えた。

 自分が望む光景がそこにある。自分が求めて得られなかった愛がこのレンズの向こうにある。

 全ては正しい方向へ進もうとしていた。この現実こそが、もう一生涯見ることは叶わないと諦めた理想郷(アヴァロン)

 

 その筈だった。

 

 彼が部屋を出る。どうしてかあの女を伴って。

 彼と女が廊下から一室に消える。速やかにポジションを変える。視線が徹りさえすれば捕捉できる。その位置はすぐに見付かった。

 彼と女もすぐに見付けた。

 見付けて、しまった。

 口付けを交わす、彼と女を。

 

「なにをしていますの、おとうさま」

 

 彼は答えてくれない。女に貪られるまま貪られ、ただその唇と舌の肉を貪られ貪られ蹂躙し尽くされ。

 そして、今度は彼から――――

 

「どうしてですか……どうしてです……おとうさま、おとうさま…………おとうさまおとうさまがおとうさまがおとうさまがおとうさまがおとうさまがおとうさまがおとうさまがおとうさまがおとうさまがおとうさまがおとうさまがおとうさまがおとうさまがおとうさまがおとうさまがおとうさまがおとうさまがおとうさまが」

 

 汚される。

 あんな女に。

 スコープ越しに、おとうさまに口付けられていた女が――女が、こちらを見た。

 こちらを見て、しかと捉えて、認めて、笑った。

 

 ――――クヒッ

 

 嗤ったのだ。

 

「あの女っ、あの女ぁ!! 売女が! 身の程知らずの阿婆擦れ(カント)が! その方に触れることを誰が許した!? その汚らわしい手で、口でその方に! わたくしの! わたくしのっ!!」

 

 織斑千冬!

 織斑千冬!!

 必ず除く。焼き潰し、塵芥と化し、灰は川へ捨ててやる。

 少女は憎悪する。全身全霊の憎悪で以てかの無恥淫蕩の奴輩を葬ると。

 

「……手駒が要りますわ」

 

 セシリア・オルコットはセシリア・オルコットの絶対正義を敢行する。父母は二人で一つ。他の全ては不純物、不要物。その愛を邪魔立てするものは全て敵だ。敵は、全て廃滅する。

 敵は、しかして強大。

 医療棟から700mあまりに位置する校舎屋上に陣取った自分を感知する超感覚。人類種を凌駕する身体能力と培われ練達された戦闘能力。加えてIS日本代表でありモンドグロッソ優勝者、何よりIS操縦者の第一人者たるかの女は確固たる社会的名声、地位に居座っている。

 厄介だった。忌々しいほどに。

 如何なオルコットの財とコネクションを用いても困難を極める。

 自分単騎(ひとり)では不可能だ。手駒が要る。それも金や地位で動かせる雑兵では駄目だ。狂おしいまでの執念を以てしてしか絶対にあの女は殺せない。

 自分と利害を同じくする者。織斑千冬の存在に好悪何れかに固執する者。あるいは織斑一夏と日野仁の関係性を望む者。

 そんな都合の良い輩と手を組む必要がある。

 

「あぁ、あぁ、あぁ! なんて忌々しいっ……!!」

 

 少女は己が正義たるを疑わない。

 少女はかの女の邪悪たるを妄信する。

 少女は、独善を為す。何故なら少女は、父母を心から愛しているのだから。

 

「お父様ぁ、お母様ぁ……!」

 

 愛しているから、殺すのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




病みセッシー書くのが最近一番楽しい。


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37話 少女は想い知る

 

 

 アリーナの使用は催事等の特殊な場合を除き午後八時を区切りとしている。生徒個人がこれ以後の使用を望むならば、正当な理由を提示した上で教員および施設管理者の許諾を必要とする。

 此度、その使用目的は完全に私的な――私闘である。

 前回のクラス代表者選定の為の決闘とは訳が違う。馬鹿正直に使用目的など明かそうものなら、許可が下りないどころか相応の処分を下されるだろう。

 

「この時間によく許可取れたわね」

「千冬さんに口利きをお頼みしました」

「……そう」

 

 彼方の職権に託つけて規則外の要求をしてしまった。そもそも彼女自身にしてからが、職務に身贔屓を差し挿むを好としない謹厳な御人である。

 それだけに、いともあっさりとアリーナの時間外使用の許諾を請け負ってくださったことには、少なからぬ驚きがあった。

 

「眼中に無いってわけね……」

「?」

 

 鈴さんは静かに独り言ちた。

 聞き取ることは叶わなかった。もとより聞かせる心算もなかったようだが。

 アリーナへの道行き、途中落ち合った少女と夜道を共に歩く。

 

「身体はもういいの?」

「御蔭様で、既に全快しております」

「嘘、あんな深手が一日二日で治るわけない……別日に回したって、私は」

「いえ、その必要はありません。ご存知の通り、自分は体内に特殊なISを内包しています。詳細は省きますが、“コレ”は通常のISとは異なり生体に深く根差すことでその機能を向上させます。取り分け自己治癒・再生能力の強化が著しく、先日の損傷程度であれば十時間ほどで復元が可能です」

「……」

「御配慮、ありがとうございます」

「別に」

 

 この形、この構図にどこか懐かしさを覚えた。彼女と二人、家路を同道したことも一度や二度ではない。

 その内実から目を逸らすなら、今この時間、この光景は、あの頃と何一つ変わっていない。

 これより後、彼女と干戈を交えるなどとどうして思えよう。

 

「ねぇ、仁。念の為に言っとくけど」

「は」

「……手加減なんかしたら、私あんたを本当に一生許さない」

 

 怒りや憎しみといった激しい感情は含まず、少女は努めて冷ややかにそう言った。それは絶対に覆らない決定事項であると。

 

「――了解しました。全力死力を尽くします」

 

 言葉だけならば幾らでも騙ることができる。結局は行動によってしか彼女が望むものは示せない。

 彼女の望むもの……この期に及んで未だ発見に至らぬ解。

 あるいは、刃を交え、拳を交えたその末に、それは現れるのか。

 その答えを今、己は切実に願望する。

 

『…………』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

甲龍(シェンロン)!」

提陀羅(だいだら)

 

 アリーナ中央。向かい合いながら互いのISを展開する。

 夜空の下でさえより一層暗い色彩を放つ黒き魔神、提陀羅。この姿を間近に見るのは二度目になる。

 学園を強襲した所属不明機を破壊した後、おそらくは単一仕様能力を使用したことで自壊していたあの様とはやはり全く違う。

 異様なほどの存在感。そして脅威。この機体は普通じゃない。それが一目で分かる。

 

「行くよ」

「はい」

 

 PICとスラスターによる急速上昇。重力という枷をほとんど感じない速度で一瞬にして地上50mに達する。

 手には柄を連結させた双天牙月。デザインコンセプトは青龍刀らしいがこれは厚みも刃渡りも馬鹿げたスケールをしている。ISのパワーアシストを前提とした近接実体重武装。

 私好みの。

 対する仁の機体は、武装の軽い重い以前の常識外れ。近接戦の極致、肉弾、その拳がただ一つの武器。

 

「甲龍の格闘能力だって負けてない……!」

 

 あの機体を制作した奴は頭がおかしい。幾らISが地上最高の機動力を持つ兵器でも、火器はおろかブレードの一振りすら帯びさせず、“殴る”以外に攻撃手段が無いなんて…………例外的な固有能力(ワンオフ)のイカれ具合も、製作者の頭のネジの本数を勘定したくなる。

 

「くぅっ、速い……!」

『流石です。飛翔技術と体捌きがよく噛み合っている』

「馬鹿にすんな! こちとら代表候補生だっての!」

 

 エネルギーの放出だけで機体はおろか装甲内部の肉体にまでダメージを被るなんて、()()()()()()()()が聞いて呆れる。

 それとも。

 傷を負うことすら織り込み済みで、どんなにボロボロになっても、五体を喪失しても、命すら落としかけても、この男は止まらないってことを知っているから――その常軌を逸した再生能力を付与したのか。

 

「っ!! ふざけんな……!」

 

 胸の内から黒々とした憎悪が湧いた。見たこともないその気狂い科学者に殺意を覚えた。

 ……でも、それは一つの真実で。

 そうだ。止まらない。諦めなどしない。してはくれない。

 半身が炭化していたのだ。皮肉が焦げ、骨が崩れていた。その臭いと感触を私は確かに味わった。その痛みを想像するだけで、背筋が凍る。

 それでもこの男は、一夏を諦めない。

 その姿を、私は尊いと思った。思って、しまったのだ。

 

「不可視の龍咆を……なんで躱せるの!?」

『イグニッション』

「ぐっ、あ!?」

 

 自己犠牲、なんて下らないと思っていた。所詮それは当人の自己満足だ。周りのことなど何一つ考えていない。

 その人が傷付いて、苦痛を飲み込む姿を見て、いや、それすら見せてくれないことが、どんなに、どんなにか辛いか。

 爸爸(おとうさん)を許さない。もう一生、家族の元から離しはしない。そう誓った。

 だから、仁。

 だから――あんたを許さない。

 

「シールドが……!」

『脚を止めるは命取り。貴機の性能と貴女の技はこの程度ではない筈です』

「っ、うっさい! 言われなくたってねぇ!!」

 

 どうして迷わないの。躊躇を捨て去れるの。恐怖を、飲み込んで抱えて行けるの。

 それが愛ってものなのかな。父が私と母にくれたもの。それをあんたは、一夏に。

 ああ、それは、それはなんて素敵なことだろう。

 

『御無礼』

「っっ!? 牙月が砕けるなんて……!?」

 

 純粋で、一条差す光のように真っ直ぐな、愛。

 それを死力を尽くして貫く男が眩しかった。けれど一時も目を逸らしたくはなかった。

 焼け付くように熱い想い。それに焦がれる自分を知った。

 

「強いね、仁は……」

 

 出会った時から変わらない。それどころか、私なんかが出会うそのずっと前から、男は覚悟を()えていた。

 初恋の少年には、既に愛している人がいた。

 現実はいつだって優しさから程遠い鋭さで心を刺す。その事実は悲しかった。悔しかった。世界の終わりめいて目の前が真っ暗になった。

 ああ、そのまま男を憎めたなら、私の人生はとても安楽だったろう。もし私がそんな人間だったなら、無責任な、無知蒙昧な怒りを燃やせば満足できたのだろう。

 その人を、憎めない。仁を(にく)めない。

 それがきっと一番の不幸だった。

 

「強い、ね……仁」

『鈴さん……?』

 

 たとえその身を抉られても、どんな苦痛を甘受しても、たった一人を護り徹す。

 男の生き方、存在が、私を病み付きにした。ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと。

 直向きな少年の勇気が愛おしかった。

 そして、不退転の覚悟を以て少年を慈しむ男に、憧れた。

 そうだ。そうだったんだ。

 私は。

 私は――――

 

「私は、そんな日野仁(あんた)()()()()()()!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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38話 少女は深みを想い知る

鈴ちゃんがアップを始めたようです。




 

 転校してから一ヶ月。私がクラスに馴染むまでに掛かった時間だ。

 長いと言えば長く、普通の子だってそんなものだろうと言えばそれまでだけど。

 一夏がいなければもっと時間が掛かっていたろう。いや、それどころかずっと孤立したまま卒業を迎える羽目になっていたかもしれない。

 それくらい自分の性格はなかなかに難儀だった。

 喧嘩っ早い。癇癪も多少持ってる。その癖妙に正義感に厚い。

 軋轢生産器として凰鈴音という女は無駄に優秀なのだ。自慢にもならないけど。

 

『鈴、今日はどこで遊ぶ?』

 

 無邪気な笑顔で問いかける。少年の存在に私は救われた。

 こんな面倒な女によくもまあめげずに関わり通してくれたものだと、我がことながら呆れる。

 呆れて、こみ上げてくる喜びに笑みを零した。

 有頂天、というやつだった。

 毎日が夢のようで、初恋を自覚した時は、涙が出るくらい嬉しかった。この少年で良かったと、この少年が良かったのだと心底思った。

 

 だから、って訳じゃない。

 その日も私は、要らない正義感を働かせてしまった。いや、「一夏ならこうする」なんて使命感すら持って。

 街中で女の子に執拗に絡む男二人組。目に余ったし、困り果てた様子の女の子達を見て義憤すら湧いた。

 男の一人に飛び蹴りを見舞った。それは見事に、男の側頭部へと突き刺さった。

 昏倒した男ともう一人に捨て台詞を吐き捨てて、女の子達からはお礼もされた。誇らしい気持ちがなかったかといえば真っ赤な嘘になる。

 有頂天だった。本当に。馬鹿みたいに

 

 後日、私は捕まった。

 その男の仲間達。ナントカってグループ? 族? とか、カラーギャングとか、そんな風習がこの地元でまだ生きている事実にまず驚いた。

 十人もいたろうか。

 当時小学生の、それも、業腹だがこんな()()()()()()の小娘に随分な出張りようだ。もちろん皮肉として。

 その理由はすぐに分かった。私が“織斑”の身内だったからだ。

 織斑という名はその筋では随分と有名だったらしい。特に千冬さん。あの人が片手間に潰した不良グループ、ヤの付く関係団体は一つや二つや三つや四つでは利かないくらいあったとかなかったとか。

 そういうのの末端の、残りカスの、ろくでなし共。

 

 連れて来られたのは潰れた地下のバーだった。

 如何にもってシチュエーションを笑うべきだったかもしれない。その時の私にはそんな余裕なかったけど。

 さあこれから程よく甚振(いたぶ)ってやろう、そんな会話を頭上で聞いていた時。

 

『鈴!』

 

 一夏が、駆け付けてくれた。来てくれたのだ。まるっきりヒーローみたいに。実際、その瞬間の少年の姿は私にとって間違いなくそれだった。

 でも、現実はやっぱり吐き気を催すくらいに苦く、冷たい。

 成人男性が十数人寄って集って、小学生の子供を殴る蹴る。たっぷりの私怨と嗜虐欲で。

 小動物を虐め殺すくらいの感覚なのだろう。相手が子供だからなんていう常識的躊躇、感性を、この無頼達は持ち合わせていなくて。

 見る見るうちに少年は襤褸雑巾のようになった。

 私はただ泣き叫んだ。それは制止どころか、男達の暴虐に対する起爆剤にしかならなかった。

 喉から血が出るまで叫んで、水溜まりが出来るまで泣いても、その光景は終わらない。

 私はただ見ていた。

 口の中に満ちた無力をただ味わった。

 

 そして、これは罰なのだと遅まきに理解した。

 事の因縁の始まりは、ずっと前のことなのだろう。けれどこの光景の出発点は、私だった。

 私が、安易な正義感と自己陶酔の為に放った暴力。それが今巡り巡って、大好きな少年を痛め付けている。

 自分が振るった暴力は、自分に返るどころか最も大切なものを破壊しようとしている。

 その現実が、私の眼球から脳へと叩き込まれてくる。

 

 私はガタガタと震え上がった。恐怖で体の中がぐちゃぐちゃに掻き回され、液状化して流れ出した。

 失禁する私を、男達はげたげた笑った。

 恥ずかしいなんて思うだけの気力も既に尽きていた。

 

 動かなくなった一夏。

 雨のように降り注ぐ笑い声。

 無力感と罪悪感が胃の腑から吐瀉物となって溢れてくる。

 

 ここは地獄だった。

 

『なんだてめぇ』

 

 階段を下りてくる足音に気付いたのは、無頼の一人が声を荒げたからだ。

 色も温度も、感覚の何もかも遠ざかっていく中で、その硬質な音だけはいやにはっきりと耳をついた。

 暗がりから、今まさに形を結んだかのようにその男は現れた。大柄な体躯、精悍な顔付きに表情は無く、その瞳はとても静謐だった。

 男は無言で私と一夏を見詰めた。一夏の様を目にした時だけ、瞳の中の静謐が僅かに揺らいだように思う。

 

『なんだって聞いてんだよ』

『てめぇも織斑の身内か』

『なんとか言えやこら』

 

 じっと動かない男に痺れを切らしたチンピラががなり立てた。対する男のリアクションは、その印象とは正反対に劇的だった。

 男は、手近に転がっていた木製の椅子を手に取り、床に叩き付けたのだ。

 

『――――』

 

 固い床面に打ち付けられた椅子は、派手な音を立ててばらばらに砕け散った。

 あれほど悪態と怒声を発していた無頼共も、その行動に黙り込む。しん、と静まり返る薄暗い空間で、ただ一人男だけが動いた。

 床に散らばった木材の欠片、短い棒切れのようなそれらを拾い、どうしてかまた床に並べていく。

 意味不明な行動に言葉も為す術もなく、その場の全員がなおも沈黙を貫く中。

 幾らかの棒切れを並べ終えた男は、床に両膝を突いた。そうして腰を下ろし背筋を伸ばす。背骨に鉄の芯が埋められているかのような偉容。

 綺麗な正座で、男は初めて口を開いた。

 

『これよりは、自分が貴方方の暴行をお引き受け致します。素手で殴るも蹴るもよし。手近な得物を振るうもよし。この木材、あの鉄材、鈍器刃物の別なく、どうぞお好きなように』

 

 一息にそれだけ言い終えると、男は真一文字に口を結んだ。それ以上の問答は無用とばかりに。

 

 ぷっ

 

 数秒の静寂が過ぎた後、どっと男達の笑い声が空間を揺らした。

 心底から嘲り、蔑み、面白がって、笑う。嗤う。わらう。それは悪意に満ち満ちた愉快。

 そして無頼は無頼であり、男のその特異な行為にも遠慮などしない。

 まず、一人が男の顔を殴った。一人は男の腹を爪先で蹴った。一人は男の背中を踏み付けた。

 サンドバッグをそうするみたいに、一切の加減も、躊躇もそこにはなく、彼らが一方的な暴虐を振るうことに慣れ切っているのだと今更に気付いた。

 そうして、一人の男が床の棒切れを拾い上げた。せっかく用意してくれたのだから使わないのは失礼だ。卑しく口を歪めて、そう言った。

 がつん、それは肩へ振り下ろされた。先程までの殴打とは違う。もっと硬く、甲高い音。骨に響く打撃の調べ。

 それを皮切りに、無頼共は手近に転がるあらゆるもので男を打ち据えていった。

 木材、鉄パイプ、灰皿、脚長のカウンターチェア……ありとあらゆるものを使って、丹念に丹念に、男を痛め付けた。

 彼らは決して頭だけは狙わなかった。暴力に酔い興奮の中にあるようでいて、失われない冷静さとその()()がひどく恐ろしかった。

 

 叫ぶことも忘れ、涙すら枯れた。

 感じること、思うこと、そうした機能が死んでいく。

 その光景の非現実感に、おぞましさに、心の何処かが死んでいく。

 

『ジンッッ!!』

 

 少年の叫びが木霊した。

 抜け殻のようになっていく自分とは逆に、一夏は叫ぶ。喉の裂ける音を聞いた。ボロボロの身体で床を這い、名を呼ぶ男の元へ行こうとした。

 口から血を吐き、腫れて塞がった目から涙を滂沱させて、床に血と反吐と涙の轍を残しながら。

 少年の声に、乞うような泣き声に、男は応えない。

 自分自身を襲う暴力をただただ受け入れている。微動だにせず、苦悶すら漏らさず、正対の座を一切崩すことなく。

 

 それは、きっと無頼共さえ見たことのないモノだったのだろう。

 不動。全くの不動を貫き、全ての痛痒を甘受する男の様。

 異常、異様、異質。少しでも悶え、苦しんでくれれば安心できた。今やその全身で静謐する男は、ひたすらに不気味で、怖ろしい。

 いつしか男達は鈍器を振るわなくなった。男が何か得体の知れないものに見えるのだ。迂闊に触れるのも、近付くのも躊躇われるような、何かに見える……私と同じように。

 その男が、日野仁が私は怖ろしかった……畏ろしかった。

 

 無反応の男を見限って、恐れ怯んで、チンピラの一人が矛先を変える。

 泣き叫び、床をのた打つ少年へ。

 目の前の男よりは余程、人間らしく見える少年へ……まるで逃げるように……鈍器を振り上げた。

 

『ダメぇ……!!』

 

 ズタボロの喉を絞って叫びを上げた。

 鉄パイプは真っ直ぐに少年の背中目掛けて落ちていき――落ちて――打ち降りて――――いなかった。

 無頼の腕を掴む手、巨大な手掌、日野仁がそれを許さなかった。

 

『それを振るうべき相手は彼ではない』

 

 今の今まで不動を貫いていた男が、意識の外から襲来した。その恐怖に私は共感する。

 恐怖のままに、無頼は手にした凶器を振るった。一瞬の、恐慌状態といってもいい。脅威に対する当然の防御反応として、鉄パイプで仁を打った。仁の額を。

 金属の音が劈く。今までで一番硬く、重い音。

 びちゃり、続いて響き広がったのは、飛沫。噴出したそれが床と言わず壁と言わず飛び散り、自分の顔にまで跳ね掛かる。

 それは水よりも粘り、濃厚で、暖かかった。

 薄暗闇の中でさえどす黒く紅い。仁の血。仁の命脈。

 額から頬へ、頬から顎へ、顎から垂れ落ち、さらに首筋を汚す。白いカッターシャツが、赤黒く染まっていく。

 空気の静止を感じた。

 何かを越えたという予感。ただの暴虐が、殺戮に切り替わってしまったという怖気。

 けれど。

 

『それではまだ死なぬ』

 

 仁は言った。その静謐の印象を微塵と変えず。

 

『己はまだ生きている』

 

 無頼が後退った。

 仁はそれを追った。

 

『望みを果たされよ。暴虐の欲求を満たすがいい。さあ』

 

 迫る。どこまでも静かに、淡々と。

 

『さあ』

 

 仁が踏み出す。その一歩で血が噴き出し、床板を塗り上げた。

 赤い、自分の命の雫を踏み締めて、男は暴虐のその先へ彼らを誘わんとした。

 その姿は。

 その有様は、まるで。まるで。

 

『さあ』

 

 ――――化物

 

 そう誰かが言った。

 無頼の誰かだったかもしれない。もしかしたら……私自身が口にしたのかもしれない。

 突如として、一人の男が手にしていた凶器を取り落とし、後退り、そうして逃げた。背を向けて、一目散に。

 それが合図だった。

 十数人の大の大人が、先を競うように逃げていく。大量の足音が遠ざかっていく。

 その背中にありありと恐怖を張り付けて。もう付き合ってはいられないと。

 

 薄暗がりに、三人だけが取り残された。

 

『ジ、ン……』

『……一夏さん』

 

 男が少年を抱え上げる。血に塗れた男に、血に塗れた少年は縋り付いた。

 

『ごめん……ごめんっ……オレが、ちゃんと……鈴を守れたら』

 

 少年の言葉に心臓を握り潰される。

 違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う――私だ。全部全部私の所為だ。私が馬鹿で、愚かで、能無しの脳無しだったから。

 一夏は、こんな。こんな!!!

 

『よく、忍耐されました。お友達を守り徹された』

『ぁ……』

 

 穏やかな声、それは慈愛に満ちていた。

 男は愛おしげに少年の髪を撫で、梳いて、優しく微笑んだ。

 

『よく頑張りましたね、一夏さん』

『あぁっ……あぁぁああぁぁあああああぁああぁああ!! うっあ、く、ぅ、う、ぇあ……ごめんなさいっ!! ごめん……! ジン……ジンッ……!!』

 

 ごめんなさい。

 滲む視界の向こうから、その言葉だけが響いてくる。

 ごめんなさい。

 耳に入り、頭蓋骨の内側を反響するようにリフレインする。

 ごめんなさい。

 枯れたと思った涙を拭い、私はただその光景を目に焼き付けた。男と少年。

 

 傷付き、泣き崩れる少年を、男は心からの慈愛で暖めた。その血潮の一滴すら少年の為に使い尽くすのだ。

 その光景を、私は心底羨んだ。最愛の人を、全身全霊で愛し尽くす男の在り方に憧れた。

 

 

 

 そして知った。

 

 

 

 少年に恋い焦がれ、欲し求め愛するようになるほど。

 自分に足りないものを。自分が為すべきことを。自分が()()()()()()を。

 彼こそは理想なのだ。私が目指す到達点。

 凰鈴音(わたし)は日野仁になりたい。ならなければいけない。

 私が一夏を愛し尽くす為には、私は仁そのものになるしかない。

 

 

 

 

 血の華の中心で慈しみ合う彼と彼。

 そこに私の切望(こたえ)があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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39話 少女は深みを想いねがいを知る

こういうラブコメもある











といいなぁ(願望)


 

 龍咆の広範囲一斉射。

 単発の威力を抑え、面制圧的に敵機の進路を覆う。

 それがハイパーセンサーの捕捉を振り切るほどの速度であろうと回避する為の空隙が無ければ弾丸は必ず命中する。理屈とも言えない屁理屈だけど。

 必然、不可視の弾雨は敵機“提陀羅”に降り注いだ。

 ――――だのに、止まらない。そんなもの構いはしないとばかり、敵機は真っ直ぐ突っ込んでくる。

 より正確には、自機の姿勢制御に影響する弾道上の砲撃だけを叩き払っている。

 空間に直接歪曲作用を掛けて生成した視認不可能の砲身と砲弾をどうして弾けるのか。

 

「ずっと後悔してた。あの時、一夏が私を助けに来てくれた時……どうして、逃げろって言ってあげられなかったんだろ」

 

 音……。

 光学、熱源、電波探知の類が無意味なら、速度を約束された感知方法はやはり音響、ということになる。

 音を聞いて、躱してるってこと。

 

「そうだよ。本当に一夏が好きで好きで好きで好きで好きで好きなら、愛してるなら、ここは危ない早く逃げろって言う筈。大切な人を危険な目に合わせるくらいなら、傷付けるくらいなら、自分一人がどうなったっていい……そう言うべきだった。そう言わなきゃいけなかった。なのに、私は……馬鹿みたいに喜んでっ……! 助けに来てくれたことをただ嬉しがってた……!!」

 

 牙月、巨大な青龍刀を上段から振り下ろす。

 直下から黒い機影。仁は右腕を掬い上げるように振り上げた。

 衝突。

 衝撃。

 刃が――砕けた。

 

「仁、あんたなら迷わずそう言ったよね!? ううん、仁なら一夏を危険に近付けることだってしなかった!」

『いいえ』

 

 龍咆の再歪曲、砲弾の細分化、疑似的な散弾を形成。エネルギー消費量は倍増するが、単発射撃では威嚇にもならない。

 速力が違い過ぎる。何よりもその反応速度が。

 超鋭角の軌跡を刻み、黒の魔神が飛来する。

 

『己が無力によって何度もあの子を生命の危機に晒しました。二年前に一度、そして四年前のあの時も』

「あれは私がっ!!」

『はい。鈴さん、貴女のことも御護りすることができなかった。我が身の無能を憎悪します』

 

 一合、右からの鉤打(フック)を刀身の腹で去なす。

 擦れ違う……しかし、敵機は即座に反転、脚部スラスターが発火し、体軸を半回転させ中段を蹴り脚が薙ぎ払う。

 急降下。スラスターで上体を無理矢理引き下げ、頭上に躱す。回避が間に合わなければ脇腹を抉られていただろう。

 

「……そっか。仁は、そう言ってのけちゃうんだね」

 

 垂直下降しながら上空を仰ぐ。高度優勢にある敵機へ龍咆を連射する。

 

「あぁ、やっぱり、あんたは私の理想だった!」

 

 欠けた牙月のその一振りを投擲。それは高速回転しながら敵機へ迫る。

 当然、提陀羅の機動性ならば回避はこれ以上なく容易だろう。

 

「あの時から、一夏を好きになって、より深くより多くを知れば知るほど思い知った。私じゃ()()()()んだってことを。一夏を満たせるだけのものを私は与えられない……仁だけが」

 

 武器の投擲は目眩まし。牙月に身を隠し、ほんの一瞬でも敵機の捕捉から逃がれる。

 しかし、こちらが反撃に打って出る暇もなく、敵機は遮蔽物を最小限度の動きで回り込み直線コースへ躍り出た。あのスラスター出力と速度、そしてこの距離では、敵機の猪突は確実にこちらを捉える。

 逃げられない――――否、逃げる必要などない。

 

「仁だけが一夏を満たせる。それはそうよね。だってあんたは自分自身の全部を使うんだから」

『……自分にはそれ以外に術がありませんでした』

「でも選んだのはあんたじゃない」

 

 龍咆を撃ち出す。しかし目標は敵機ではなく、半欠けの青龍刀。

 衝撃そのものの砲弾がぶち当たり、牙月が弾けた。本来の軌道から、すぐ傍を通過しようとする敵機へ。

 曲芸のような手妻に、やはり対手は反応して見せた。スラスターの瞬間発破で飛翔姿勢の微調整、半回転分の錐揉み(バレルロール)で凶刃を躱した。

 

『!』

「傷付くのも傷付けるのも恐いって言う癖に、躊躇も迷いもしない。それに、左腕だけじゃないでしょ? 臓器も骨も大部分がIS化してる。能力行使で自壊しかけたあんたに触れた時、解析したから知ってるよ……本当に、身も心も使い尽くしたんだ、一夏の為に」

 

 牙月を躱す為に態勢を変えた一瞬の減速、そこに突っ込む。もう一振りの牙月で刺突を狙ったが切先を打ち弾かれた。

 でも、推進する勢力までは殺せない。機体の正面衝突、互いの装甲がぶつかり金属の音が夜空に響く。

 スラスター全力噴射。黒い巨体を捕まえたまま飛ぶ。

 

「本当はさ、嫉妬して、怨んで、嫌って憎むべきだったと思う。恋敵ってそういうものでしょ? でもできなかった」

 

 遮断シールドに相手諸共突っ込む。

 接触の直前に敵機が背面スラスターを強噴射した為、衝突によるダメージは思いの外少ない。

 

「これでも努力したんだから。仁を嫌う為に必死で仁のことを考えて考えて考えて、考えるほど……その分だけ憧れが強くなっていった。一夏のことを好きなればなるほど、あんたを求める一夏の気持ちに共感した。可笑しいよね。私が好きなのは一夏一人の筈なのに……いつの間にか一夏の向こう側に仁を見てた…………」

 

 距離を取ろうとする対手の腕を取り、自分の腕を絡み付かせ脇へ抱え込む。

 

「…………あぁ、違うわ。ちょっと正確じゃない」

 

 再びスラスターの全力稼働。今度は押すのではなく、引く。重力の手に従い、地表へ。

 

「……そう、そうだ。一夏の向こう側にじゃない。寄り添ってるわけでもない。一夏の()()仁があった」

『一夏さんの……?』

「うん、うんっ、うん!」

 

 落ちる。墜ちる。堕ちる。

 エネルギーの過剰供給がスラスターの許容量を超えた。翼が内部から爆発を起こす。

 しかし同時に、間に合った。自機と敵機は地面へ激突を遂げた。

 

「そうだったんだ。()()だったんだ! 一夏と仁は同じだった。不可分の、絶対に切り離せない、一心同体の……絆」

 

 噴煙、土砂を巻き上げ、地面に小規模なクレーターを作る。けれどこの程度の高度から落下したところでISは傷一つ付かない。幾らかのシールドエネルギーを失うだけ。

 自機も敵機も瞬時に体勢を立て直し、こちらは進み、あちらは退がった。

 斬り上げた刃は空を走り、甲龍のマシンスケール及び牙月の刃長が網羅する間合よりも正確に半歩外側へ提陀羅は退避した。

 

「知ってる! その絆を私見たよ。それもつい最近。離れ離れになりかけた私の家族。両親に」

 

 追い縋る。内部機構を損壊したスラスターは最大出力の二割もその性能を発揮しないが、PICとパワーアシストの乗った脚力は10mをコンマ一秒で踏破できる。

 

爸爸(おとうさん)はね、自分の死と引き換えに私と妈妈(おかあさん)の未来を創ろうとした。でも私も、そして妈妈もそれを許さなかった……許すわけないじゃない。お金が要るなら何をしてでも私が用意する。相手が何であれ爸爸を殺すものは、たとえ病気だろうと、その方法をどこまでも探し出して妈妈が殺す。妈妈はもう爸爸を一生許さないし、――――離さない。ほら、同じ」

『鈴さんの御両親と、一夏さんと自分が……』

「うん。仁が自分の命で一夏の命を繋ごうとするように、一夏は仁の死を許さないよ。絶対に。だって、一夏の命は仁で構成されてる。腕と臓物、肉と血と骨――仁の命を使って一夏は今この瞬間を生きてる。それを一夏は心の深い部分で理解してるよ…………私に、そう言ったの」

 

 牙月を振り下ろす。

 提陀羅、仁は、回避行動を取らなかった。その銀に輝く長大な腕で直接刃を受ける。

 硬質な、痛みすら感じる音響。鼓膜に杭を刺されるような激しさで金属装甲が鳴く。

 

「あんたの言った通りだね、仁。()()()()()()()()!」

 

 刃は左腕を斬るどころか、弾かれ、刃先の一部が中空に飛散した。

 でも打つ。二度、三度、四度、五度六度七度――――破損し続け悲鳴を上げる刀剣に一切構わず、牙月を振るい続けた。

 夜空を劈き、舞い散る剣戟の刃鳴(はな)

 仁は動かなかった。スラスターは当然健在である筈なのに、飛行を捨て、夜天を降りて地に足を留めて。

 男は、打ち込まれ続ける我武者羅の剣を律義に、丁寧に、全て余さず残さず受け止めるのだ。

 

()()()、あんたを倒す」

『……一夏さんの為に』

「はっ、何言ってんの。私がそんな一途で清廉な女じゃないってもうそろそろ分かるでしょ?」

 

 数十合目の打ち下ろし――と、見せかけた空の動作。刃を下方へ振り抜き、体軸を回す。遠心力に乗って上体を捻り、後ろ回し蹴りを対手の懐へ突き刺した。

 腹を足底のスパイクが噛んだ感触。でも浅い。いや薄い。相手の構えがいつの間にか真半身に変わっている。体向を反らしたことで衝撃力を殺された。

 まだ。

 PIC発動。慣性力を減殺、空中で転身。蹴り上げた右足と左足が入れ替わる。宙を踊るような回転蹴り。顔面を狙って。

 

「一夏を生存させる命が仁なら、仁を倒して屈服させることで、一夏の命脈を私は奪える。掠め取れる。ついでに、あんたのことも好きにさせてもらうから」

『己の敗北とあの子の生命が等価値であるとは、自分は認められません。鈴さん、貴女の願いは、如何とも成就し難い』

「朴念仁。あんたも一夏に負けてないわね」

 

 右手甲で蹴り脚を防がれた。どころか脚を掴まれ、ぐるりと空中で引き回される。

 そのまま地面へと投げ捨てられる前に、地表へ牙月を突き立て、それを支えに無理矢理相手を蹴り付けた。

 

『っ』

「私はね、あんた達一夏と仁(ひとつ)が欲しいのよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だから私に倒されてよ、仁!!」

 

 笑みを刻んで少女は叫ぶ。

 悲痛な、迷い子のような頑是無さで。

 甲龍の、何より彼女自身の格闘能力は健在を通り越し、己が知る過去最高の冴えを発揮していた。

 それがどれほどの葛藤とその末に辿り着いた覚悟によって為されるものか、愚劣なる己には計り知れない。

 

 ――どうすればいい

 

 この期に及び至り果ててなお、己は自問する。(こたえ)を、彼女の(こたえ)を、探し続けて。

 

 ――どうすれば、この少女に応えられる

 

 彼女の心底の願い、想いに、何を以て応える。生半なことでは断じて少女は止まらない。彼女自身ですら止められないところまで来てしまったのだ。

 

 ――……

 

 ならば、こたえは既に出ている。

 愚劣、蒙昧の地平を歩む己にできることなど。

 日野仁(おのれ)に許された手段など、結局コレだけだ。

 

 ――使い潰すだけが取り柄ならば

 

 そうするまで。

 

融合基(ユーザー)(オーダー)を確認』

 

 ひどく耳慣れない。“少女”の声を聞いた。

 

『あなたのねがいをかなえよう』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 裂帛の気合いが眼前に迫る。踏み込みは深く、重い。地を踏み砕く震脚と真っ直ぐに空間を走る、貫手。装甲の鋭利な指先が、過たず顔面を目指して飛翔する。

 受けず、避けず、退かず。

 銀の拳を打ち放つ。少女に最大の敬意と、親愛を込めて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――」

「…………っ」

 

 久方ぶりに静けさを取り戻したアリーナの中心に、ここへ足を踏み入れた時同様彼女と対面している。

 特筆すべき相違点を挙げるとすれば、それはやはり彼女の貌。

 戦気を漲らせ、一人の闘争者として立っていた彼女は居らず、それはただの一人の少女だった。

 怯え、竦み、震える。恐怖を張り付け、凍り付いた表情。

 それに己は()()()()()の笑みを送る。

 

「御見事、です……鈴さ、ん……」

「――ぁ、あぁ、なんで」

 

 彼女の震えを感じ取る。その貫手が射抜いた……右の眼球、眼窩、頭蓋を伝って。

 右側面全域が闇に沈んだ視界の向こう。濁流となって落ちる血液の生暖かさ。

 甲龍の手甲が穢れている。それを厭う心地で、僅かに身を引いた。すると、ずぶ、ずぶ、ずぶ……と彼女の細い指先が内部から抜き取られるような音を感じた。

 おそらくは激痛の中で奔ったただの錯覚だろう。

 

「装甲、貫通し、ぜ、絶対防御がなんで、発動しなかった。発動しな、なんでなんで、なん、血が、血、仁の、あったかい、仁の、命の、ダメ、ダメよ、ダメなの、ダメなのに、ダメっ、ダメダメダメダメだめだめだめだめだめ!!」

 

 引き抜かれた爪の先に、異物が付着している。

 もとは白く、滑らかだったらしい。今は赤く、黒く、ぐずぐずと型崩れした球体の成り損ない。

 

「あぁぁぁああああああああ!!? ダメ!! これは、仁の身体は全部、一夏の為に使われなきゃいけないの!! 血は一夏の為に流されなきゃいけないの! 肉は一夏の為に燃やされなきゃいけないの! 骨は一夏の為に折れなきゃいけないの! 目は、仁の目はっ、一夏だけを見てなきゃ、いけないのに!!!」

 

 少女が狂乱する。認め難い現実を拒絶するかのように。

 ()()なり果てる前に、彼女の手から死骸を拭い取り、手の中へ握り込む。単一仕様能力の応用――局所的エネルギー放出によって、それは跡形もなく消し去られた。

 

「っっ!? な、にを」

「コレに価値などありません」

「?? だって、仁の目だよ……? 仁の、目なんだよ??」

「この程度の体積であれば、既に」

 

 右眼窩に異物感。いや、本来あるべきものが戻った。

 眼球の再構成は既に完了していた。

 

「へっ? 目、が」

「価値など、ないのです。失せればまた生える。蜥蜴の尾と同等の、捨てるばかりがこの肉体の使い道です。断じて、貴女の涙ほどの価値などない」

 

 右手の装甲を解き、素手で少女の涙を拭う。

 呆然自失に色を失った瞳が、労しかった。そのような貌を彼女にさせた我が身が呪わしかった。

 

「鈴さん」

「……」

「貴女の想いは、確とこの身を貫いた。貴女は自分に勝利された。自分は貴女に敗北した」

「私の、勝ち……?」

「はい。故に、この身は如何様にでも貴女の意のままになさってください。貴女の心痛に、こんなものがどれほどの贖いになるかは判りませんが」

「……」

 

 暫時、沈黙が辺りを満たす。虫の声さえない夜の静謐。

 その静音の中に、目まぐるしい思索と心の変容を感じる。少女は今、ひたすら事実を受け止め、理解しようと尽力していた。

 そうして、月の軌跡を目で追えるほどに時を数えた頃。

 新たな右目と共に少女を見据える。

 泣き崩れそうな幼い顔立ち、しかしその瞳に理性の灯が戻りつつあった。不意に、少女は微笑んだ。

 

「…………無理言っちゃって。そんなの、一夏が許す訳ないじゃん」

「お許しをいただけるよう長期的な対話を試みる心算です」

「うーん、たぶんその前に私が斬り殺されると思うけど?」

「…………」

「ぷっ、ふふふふ、あははははは! そんな深刻な顔しなくてもいいわよ」

 

 これもまた久方ぶりに思える。

 少女の、とてもとても快活なこの笑顔は。

 こつんと、少女が額をこちらの胸板へ押し当てた。

 

「ありがと、仁……今はそれで充分」

「…………申し訳ありません」

「バカ……あんたも一夏も、ほーんとバカよ」

 

 少女は血で穢れた手を握り、もう片手でその手を包み込む。

 決して手放してはならぬ宝石が、まるでその手中に収まっているかのように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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40話 食べて

 

 

 

 

 放課後、アリーナの更衣室。日課のIS自主訓練を終えて。

 当然ながら男性用更衣室など敷設されてはおらず、ここは教職員用のスペースだった。

 一夏少年は現在、シャワールームで汗を流している。

 別段隠し立てする事柄ではないが、このタイミングならば不都合も無かろう。左腕に手を添え、思念・思考ではなく、音声にてその名を呼ぶ。

 

「ワン。聞こえているか」

『コールを受信。音声会話可能』

 

 こちらの呼びかけに即座反応を示す。そしてその、ソプラノの声には聞き覚えがあった。

 

「甲龍との戦闘において、絶対防御機構を停止させたのはお前の意思か」

『否定。独立進化IS呼称“ワン”は現在、融合基(ユーザー)日野仁の守護、支援を目的とする融合子(サーバー)である。絶対防御機構の停止命令を融合子が独自判断によって行うことは不可能』

「……」

 

 耳慣れない用語を並列され、舌の動きが一時停止する。

 しかし、現状は詮方ない。用語説明は後に回し、最優先の確認を行う。

 

「己がユーザーであり、お前はそれに従属し、その性能を供給するサーバーである、と。この認識で問題はないか」

『肯定。その認識は必要十分の的確性を有する』

「つまり、あの時絶対防御が発動しなかったのは、(こちら)()()だったと」

『肯定。追加情報を提示。装着者凰鈴音の甲龍による打撃攻勢に対し、提陀羅顔面装甲の強度をコンマゼロ2秒間基本性能の10%に低下措置』

「……なるほど、合点が行った。生身へと貫徹するほどの威力は、あの貫手には無かった」

『一部言語選択の訂正を進言』

「? なんだ」

『融合基の「命令」から「願望」へ』

 

 ワンのその言葉によって、それは深く納得を覚えた。

 命令などという明確なアクションをあの瞬間の己が起こせたとは到底思えぬ。最後の瞬間まで“こたえ”探し求め悶え思考で渦を巻いていたこの己が、ワンに要請を送りシステムの根幹にある絶対防御を停止させ、あまつさえ提陀羅の物質組成に細工をさせるなど。

 不可能だ。そのような聡明さは、我が身から最も遠い場所にある。

 願望。その曖昧模糊としたただの思念の萌芽を読み、汲み取って、ワンは最適解を導き出した。

 

「ありがとう。礼を言う」

『発言の必要性を認めず』

「いいや、必要な言葉だ。少なくとも俺にとっては」

『発言の必要性を認めず』

「これもまた自己満足に過ぎない。聞き流してもらって構わない」

『……発言の必要性を認めず』

 

 

 

 

 

 

 

 

 寮舎の自室へ帰宅した己と少年は、ダイニングテーブルに着席していた。常ならば一夏さんはエプロン姿でキッチンに立ち、己とて時折調理の手伝いなどに参ずる時刻。

 夕飯時の現在、我々は慣れない手持無沙汰を味わっていた。

 

「鈴のやつ突然なんだもん。ちょっと面食らったよ」

「は、自分も少なからず驚きました」

「なー。夕飯作ってやるから腹空かせて待ってろー! って、なんか果し合いでも始めそうな迫力だったし。ははは!」

 

 彼の言葉通り、今キッチンで調理を行っているのはかの少女、鈴さんに相違ない。

 ……それこそ己との果し合いを終えた明くる日の今現在なのだ。少年とは別種の驚愕が己の胸中に轟いたのは言うまでもない。

 何より、彼女の心境が今以て平穏無事でない可能性は大いにある。当然の、無理のないことなのだから。そうした懸念が頭を巡って止め処ない。

 

「久しぶりだよな、こうして鈴の料理をジンと一緒に待ってるの」

「はい。ひどく懐かしさを感じておりました」

「だよな。中学の頃に戻ったみたいでさ。なんか嬉しいよ、俺」

「……はい、本当に」

 

 あの頃の、何も知らず、何一つ理解していなかった愚かな己を、それでも友人として扱ってくださった彼女の慈愛に対して、浮かぶものが感謝以外に何があろうか。

 この懐かしさは、我が愚劣の証明である。

 

「…………」

「今思うと、やっぱ鈴は特別なんだよな」

「? それは」

「俺さ、物心ついたくらいからジンが他の女と一緒にいるのすげぇ嫌でさ。クラスメイトの女子とか、馴れ馴れしくジンにベタベタするのもいて、イライラして何回かキレそうになったりした。ははっ、ガキっぽいよな。ヤキモチ……とか。あはっ、あははははは!」

「……」

「でも、鈴は別なんだ。鈴はこう、ここにいて当たり前っていうか。や、いてくれないと寂しいってくらいに思えて。ジンと一緒にいても不思議とイライラしなかった」

 

 過去の思い出話を少年は語る。そう、それは、ただの思い出。

 

「鈴とはこれからも、大人になっても、付き合っていける友達でいたい。ジンもそう思うよね?」

「はい……心から、そう思います」

「えへへ、よかった」

 

 彼女の想いを知った今、少年の想いがひどく悲しい。少女の想いが純粋で直向きで懸命であればあるほど、少年からの想いが純粋で直向きで懸命であればあるほど。

 俺は、やはり、やはり――――

 

「できたわよー! そら男共! 配膳くらいは手伝いなさいよー!」

「はいはい今行く! ジン、いこ!」

「……は」

 

 キッチンテーブルに並んだ彩豊かな主菜副菜の数々。そして特に、己と少年の目が注意を傾けたのは、大皿に盛られたその。

 

「はは、やっと鈴の酢豚が食べられる」

「永らく心待ちにしておりました」

「っ、ふんっ、お、煽てたってもう味は変わんないんだから! ほぉら、ちゃっちゃと運んだ運んだ!」

 

 赤い顔がそっぽを向き、憤懣を強調するかのように腕を組んで仁王立ちする。

 それらは愛らしさ以外の印象を己に齎さなかった。

 料理や食器類を手にテーブルへ赴く中……ふと、見慣れぬものが目に留まる。少女の手首。そこには、白い包帯が巻かれていた。

 少年が皿を手にキッチンを出ていった。それを見計らい、少女に囁く。

 

「鈴さん、その手はもしや」

「ん、あぁこれ? 昨夜(ゆうべ)のやつでちょっとね」

「…………申し訳ありま――」

「あんたに謝る筋合ないでしょ……謝られる権利が私に無いのと同じにさ。謝んないでよ。お願いだから」

「……」

「そんな悲愴な顔しないで。ありがと、仁……さ! ご飯食べよ! 冷めちゃう冷めちゃう」

 

 明るくそう言って、小さな背中が駆けていく。両腕に大皿を載せてもなお足取りは抜群の安定感を誇る。流石は中華飯店の看板娘であった。

 その思慮深さに、その背中に、腰を折り頭を垂れた。

 テーブルに着き、掌を合わせる。この場に千冬さんが居られないのが悔やまれた。それほどに、この食卓は暖かで暖かで。

 

「いただきます」

 

 三者三様に礼を済ませ、箸を伸ばした。

 そうして己と少年の箸の最初の行方は、当然ながら決まっている。

 野菜も色鮮やかな、とろみのあるタレの酸味と豚肉の香ばしさが鼻を抜ける。

 

「ではでは早速」

「はい、早速」

「……」

 

 こちらを見詰める視線に気付かぬふりをして、酢豚を口にした。

 

「……」

「……」

「……な、なんとか言いなさいよっ」

 

 噛み締め、十分に咀嚼し、味わい飲み下す。

 一夏さんは天井を仰ぎながらに言った。

 

「うんめぇ! あっははは! 笑えるくらい美味い!」

「――ぷっ、笑えるって、どういう味の感想よ。バカ一夏。その、仁はどう?」

「は、念願の味に舌が多くを語れません。ただ、ただ……美味しいです。鈴さん」

「っっ~~! ほんっとにあんたは昔も今も大袈裟なのよ! バカ! こんのバカその二!」

「照れなくてもいいだろ。美味いのは本当なんだから」

「てっ、照れてなんかないわよ!! 黙って食えバーカ!!」

「ははは!」

「ふ」

 

 一夏さん共々、意図せずとも口には笑みが上った。少年に茶化され赤々と発奮する少女がひたすらに愛らしい。

 この光景が、彼女にとって幸福であることを切に願う。

 

「いやぁ、でも鈴も腕上げたなぁ。昔とちょっと味付け変えたろ?」

「? そうなのですか」

「うん、なんかすげぇ()()()()()味になった」

「……」

 

 無邪気に喜ぶ少年に、少女は何も語らず。

 

「俺もうかうかしてらんないなぁ~。んぐ…………あ、これ、隠し味あるだろ? なぁ、何入れたんだ?」

「ひみつ」

 

 そしてほんの一瞬、ただ微笑した。優しげな、穏やかな貌で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 切って、裂いて、割いて。

 少し絞って、一滴、二滴、少し抉って大匙二杯分。

 

「んふふふっ」

 

 よぉく混ぜて、酒と醤油と砂糖と出汁。ほんの一つまみ塩と胡椒で味を調えて、よぉく混ぜてまた混ぜる。

 

「ふふ、ふふふふふふ……暖かかったなぁ、仁の」

 

 混ぜる混ぜる。混ざる交ざる交ざる。

 もう交ざった。

 仁が一夏に切り分け与えたように、仁は私にも与えてくれた。

 

 “絆”を

 

 交ざって、交ざって、溶け合って、沁み込んで、私の肉を侵す血潮。

 

「……もうちょっと入れよ」

 

 切って、裂いて、割いて、また抉る。

 滴り落ちる命の流脈。

 

「いっぱい、いぃっぱい食べてね。そうすれば――――」

 

 もうずっと一緒だよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




鈴ちゃんは正統派ルートヒロインと言ったな。









あれは嘘だ。


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41話 暗躍

短め。



 

 日野仁、および織斑一夏に対する周囲の評価は概ね良好なものだった。

 高校一年生男子の平均的な体格を優に超越し、顔立ち、立ち振舞いどれ一つとっても日野仁のそれは実年齢に合致し得ない。しかし、人当たりは良く物腰も軟らか、ともすれば地面すれすれを行くほどの腰の低さをした彼を、外見を理由に厭う者は少なかった。

 いや、それどころか彼の、同年代の幼い男子には無い異様とも思える包容力に気付いた女子生徒の中には……身の程知らずにも……異性的興味(アプローチ)を向ける者さえあった。

 

『将来性ありそうだよね、日野くん』

『頭いいよね。私授業で解らないところ教えてもらっちゃった。あ、それにチラッと見たんだけどさ、実技の成績。スゴかったよ』

『だってそもそも適性A+だよ? 最初からあたしらとレベル違うじゃ~ん』

『お、じゃあ今の内に声掛けとく? あの人、手堅い? 感じだし。あははは!』

『見た目はちょっと恐いけど、話してみたら優しいし……私は、その、アリかも』

『うわ、ガチの子がいる。や、わかるけどー。カレシにするにはちょっと真面目過ぎっていうか』

『そうだよねー。ひののんはねぇ~、うんとねー、ゾウさんって感じだしねー』

『いや「そうだよねー」から何がどう繋がってその感想に行き着くのよ……』

 

 雑音だった。

 

 

 織斑一夏もまた、多分に漏れずクラスメイトや他学級の生徒達からの注目度は高い。度合を比べれば、日野仁以上にである。

 女の側が気後れを起こすような美貌。彼が男性であるという事実を忘れ去ってしまいそうになる。ジェンダーレス――この場合は社会参画機会の均等化ではなく、一個人の性的特徴に対しての意。この言葉は正しく織斑一夏にこそ相応しい形容だろう。

 加えて、彼があの最強のIS操縦者(ブリュンヒルデ)の実弟であることも、対外的評価を底上げする要因になっている。名ばかりの、長姉の七光りでしかないのならともかく、IS操縦の実力が伴えばそれはなおのことだった。

 入学早々に行われたクラス代表者選定の為の模擬決闘。そこで日野仁と織斑一夏の戦闘能力は如何なく証明された。

 彼らの戦闘記録映像を学園の実技教材として使用するべき、という提案が教職員から挙げられた……などと真偽も定かではない噂が立つほどに彼らのレベルは常人を超えている。

 こちらには、より一層色惚けた熱を向ける者が後を絶たない。盛りの付いた雌猫同然に。

 彼女らは知る由もないだろう。迂闊に、世界でたった二人だけの男性IS適性保有者に浅い下心を持って近付いたことで、自分達がどのような処遇に晒されるか。

 まず、その当人から三代は遡って出生、戸籍、家族構成、親類縁者の洗い出し。趣味趣向から性癖に至るまでありとあらゆる個人情報を調べ尽くされ、データベースに記録される。

 日本、本国に限らず、政府機関が全力傾注して彼らの存在を扱う現世上、只中にあっては当然の措置と言えよう。

 

 いずれにせよ興味がない。

 

 関心事、もとい懸念すべきは彼および織斑一夏とクラスメイトという関係性以上に深く親交しようとする人物。

 これは前述の色惚けとは少々毛色が違う。

 

 筆頭の一人を挙げるとすればそれは――セシリア・オルコット。

 イギリス代表候補生。由緒正しき貴顕オルコット家現頭首。

 かの少女は入学当初、日野仁および織斑一夏に対して強い性差別的敵意を向けていた。現代価値観に照らして彼女のような思考・思想は別段珍しいものではない。

 着目すべきは、強硬な男性差別者であった筈の彼女が、現在では日野仁および織斑一夏に対して只ならぬ好意……執着を顕し始めたということだ。

 

『仁様。一夏様。よければ御一緒に紅茶などいかがでしょうか? い、いえ、もちろん御用事がなければ、です……本当に? あっ……よかった! 嬉しいですわ。ええ、それはもう、とても嬉しいです。とても……ふふふ』

 

 掌返しというにはあまりも凄まじい変わり様。

 ……忌々しいが、理解はできる。

 どこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでも忌々しいが。

 あれは要注意だ。放って置けばそれこそ、どこまでも、増長するだろう。

 

 もう一つ。ごく最近になって、新たな因子が紛れ込んできた。

 凰鈴音。

 中国代表候補生。バックボーンに特筆すべきものはないが、気障りなのはこの女と織斑一夏、そして日野仁が同じ小学校中学校を出、また浅からぬ交流があったという事実。幼馴染だと……鬱陶しい。その程度の繋がりで大きな顔をするのか。

 IS学園へ中途転入を果たし、当初は日野仁に対して敵対的な並ならぬ反応を見せていたが。

 

『いーちか! ちょっと付き合ってよ。何って、新作の味見! あんたに影響されたわ。料理、面白くってさ。あ、もちろん仁も一緒にね! ……ふふふっ』

 

 今ではそれも鳴りを潜め、一クラスメイト然とした関係性を持っているように見える、いや、いや、()()()いるが、自分の目は誤魔化されはしない。

 お前の所業は全て見ている。お前の悍ましい、身の毛も弥立つ、穢らわしい()()は知っているぞ。

 この、変態性癖の、気狂いの、色情魔。どんな権利があってあの人に、この、この女は。

 

「…………ふぅ」

 

 端末から顔を上げて一息。

 コーヒーがすっかり冷めてしまった。

 報告書……ともいえない日常記録を見返す度、やはり、間違いなく、寸分の狂いなく、自分の選択の正しさを知る。

 報告書などというものは自分以外の構成員がせっせと作っては本社に送り奉っている。無味乾燥、私見と感情など混在し得ない事実と情報の羅列並列文字列。なので、そんなものを綴る必要はない。

 記録し記憶に留め置くべきは常に一つ。たった一人だけでいい。

 ここ二年間、毎朝毎日毎晩繰り返し絶え間なく常に考え見詰め集め続けた彼、彼一人のことだけを。

 ■年十一月二十二日午後六時、彼が夕食を食べていた。

 ■年二月二十日午後十時、彼が机に向かって勉強していた。

 ■年八月一日午前五時、彼が洗濯物を干していた。

 ■年四月十六日午後三時、中学指定の制服姿で彼が中庭で休憩していた。

 ■年十二月一日午後六時、彼がショッピングモールで買い物をしていた。

 ■年――――

 彼が――彼が――彼が――彼が――彼が――彼が――彼が――――

 ■年■月■日、今日、彼が寮の部屋を出て、教室棟へ歩いていく。

 

「くっふ、ふふ、はははは、ふふっ……もうすぐ会えるね」

 

 液晶ディスプレイに、彼の精悍な横顔がある。いつ見ても、初めて見た時から、ずっと変わらない顔。

 引き締め、堅実、剛健な形なのに、その奥にどうしようもない慈愛を秘めている。それを知っている。貴方がどんなに優しく、暖かであるのかを、とてもとてもよく知っている。

 楽しみだ。居ても立っても居られないくらい。本当なら今すぐにでも! ……でも我慢する。ちゃんと待てができる子だから。褒めてくれるよね。貴方なら。きっと。

 ディスプレイの彼を指先で撫でる。何度も何度も、何度も。

 

「僕の」

 

 そうだ。彼は、僕の。

 唯一無二の、求め続けた理想の体現。彼こそ――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






例の僕っ娘がアップを始めたようです。
やっぱ王道ヤンデレたーのしー!


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42話 少女達の親睦

仲良き事は美しきかな()





 

 

 篠ノ之箒にとっての思い出、それは少年と過ごした何気ないあの日々だった。

 いや、そもそも、思い出と呼べるだけの暖かみを持った記憶はそれだけだ。

 それだけが、少女が縋る(よすが)

 

 あるいは普通の、同い年の少女なら、もっと多く、もっと色とりどりの、真人間なりの幸せな日常を送っているのだろう。

 生憎、篠ノ之箒はそうした幸福生成能力に乏しい少女だった。実りある毎日の創造? 良好な人間関係の構築? なるほど、人間はきっと、時間をかけて、そういった能力を育んでいくのだろう。得手不得手の差はあっても、少しずつ学び、感じ取っていく。時間をかけて。時間を。できない筈はない。きっと、きっと自分にだって。

 ……転々と土地を移り、長くて半年、早ければ半月にも満たず、居を変え学校を変え時に名前すら変えた。ただただ過行くだけの時間を押し流されるように甘受し、残ったのは空虚な五年をただ生きたという事実。

 ありふれた平穏、貴き日常とかいうものは、気付けばどこかへ消え去っていた。

 

 誰あろう己が実の姉の所業によって。

 

 思春期の大きな転換点をそうやって乱雑に消費した附けだろうか。篠ノ之箒はなお一層、己の殻に閉じ籠るようになった。もはや自然の成り行きで。

 内へ、内へと、心が内奥に向かうほど、思い出されるのは。大切に手に取って愛撫するかのように、思い起こすのは、この“思い出”しかない。

 この思い出だけが縁であり、寄る辺。

 

「っ……っ……!」

 

 荒く息を吐いて、視線を足下に落とす。

 放課後の武道場。床の板目に己の影がへばり付いている。長く、濃く。明り取りの窓から差し込む西日が、自身を焼いて頑固な焦げ跡のようにその内側の闇を外界へ暴き立てている。

 汗が顎を伝い、滴り落ちた。

 雑念を払う為に竹刀を振りに来たというのに、結局それらは熱となって体内を廻るだけだった。何百、千を数えてもなお。

 雑念が……。

 

「……」

 

 竹刀を取り直し、諸手。真半身となって柄を肩の高さまで上げ、刀身を床面と平行に保つ。

 刺突の構え。

 

「……篠ノ之流“松葉”」

 

 右足で体を蹴り出し、左足で床を踏み抜く。連鎖反応的に腕を前方へ真っ直ぐに突き出す。

 身体は撃鉄に叩かれた弾丸、竹刀は弾頭だ。

 切先は空を貫き、仮想上の敵手――その喉笛を射抜いた。

 篠ノ之流剣術における突き技。なんということのない基本の型であった。けれど。

 けれど、この技を彼は。

 一夏は、使った。

 学園を強襲した所属不明ISを少年はこの一刺しで沈めて見せた。

 それが、どれほど。

 

「覚えて、いてくれた……!」

 

 幼い日、肩を並べて道場に通った。同門に学び、同じ技を使い、競い合った。

 思い出の中の少年は、今そこにある。そこにあったのだ。

 それがどれほど嬉しかったか。どれほど、切なかったか。

 

「一夏……」

 

 名を呼んだ。譫言のように。呼ばずにはいられなかった。

 

「一夏ぁ……」

 

 柄頭に額を押し当て、少年の名と、苦悶を漏らす。

 焼けるような熱を目の奥に感じる。汗ではない雫を零して、少女は苦しみ喘いだ。

 また、会えた。同じクラス、同じ寮舎。すぐ近くに、彼はいる。すぐにでも会いに行ける。会いに行けるのに。

 既にこの現実を思い知っている。

 彼と自分、二人の想いは、遥か無限の遠きにあるのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

「これより合同実技訓練を行う」

 

 快晴一面の青空の下。広大なグラウンドに集まった一年一組と二組の生徒ら六十余名。

 一夏少年と隣り合いながら、織斑教諭からの諸注意事項、訓示に傾注する。

 クラス単位では入学後初のIS実機を用いた実戦・実践訓練。まして集団行動ともなれば一瞬の油断と不注意が大きな事故へと繋がりかねない。

 

「ではまずISの着脱手順を実地確認しろ。持ち時間は一人に付き一分だ。迅速に動け」

 

 黒い武者鎧を思わせるフォルム。待機状態の打鉄が三機居並ぶ。生徒らはそれぞれ組み分けられた機体に行列を作った。

 

「専用機持ちは率先して介助に回れ。常に監視し、絶対に単独で行動させるな」

 

 何やら工場勤務時代の作業前点呼を思い出す風景であった。千冬さんの指示下にあるという点ではなお余計に、懐かしさを覚える。

 ……いや、十代の少女らが水着同然のISスーツに身を包み列を為す様を、油と薬品臭漂う作業着姿の工員方と同列扱いするのはいささか無理があるか。

 などと愚昧なことを考えていたところ。

 

「よっ、おバカ二人揃い踏みね」

「わ」

「鈴さん」

 

 背後から後ろ首に覆い被さるもの。見るまでもなくその快活な声は二組代表のかの少女。

 勢い鈴さんは己と一夏少年の背に乗り上がった。

 

「ふっふっふ~、こういうクラス跨いでの授業があるなら今後もちょっかい掛けやすいわね」

「堂々と言うことかよ」

「また、勉学を共にできることを嬉しく思います」

「ぅぐっ……コホン、ほぉら、仁は喜んでるじゃない」

「むぅ……まあ俺だって嬉しいけど」

「えっ、なん、なんであんたまで喜んでんのよこのバカ!」

「なんでだよ!?」

 

 小学校の高学年時、そして中学のごく初期と、親交できた期間はそう長くはないが、やはり彼女の明朗さは昔から変わらず快い。

 不意に。

 

「で?」

「……?」

「うん? なんだよ」

「それ誰」

 

 視線だけで鈴さんは一人の少女を指し示した。

 一夏少年の隣に佇む篠ノ之箒を。

 箒さんはそれを受けて、特段驚くことも、狼狽えることもなく……いや、視線すら寄越さずに一言。

 

「篠ノ之箒。よろしく」

「ふーん、()()()ね。まあどうでもいいけどさ、なんでその篠ノ之サンは一夏の傍に立ってるわけ?」

 

 声音に棘の群生を感じた。今度こそ鈴さんは、箒さんをじろりと見据える。

 

「お、おい。鈴。なに突っかかって――」

「私がどこに立ち、また誰と一緒にいようがお前には関係ない」

 

 対して、箒さんもまた冷厳と言い放った。やはりそこには何程の戸惑いもない。

 それこそまるで、彼女らは互いが“敵”であることを互いに了解しているかのように。

 

「――へぇ」

 

 己と少年の背から降り、箒さんの正面に回って鈴さんは彼女を見上げる。とても興味深く。とても注意深く。

 

「……」

「関係ない? 関係ない? 関係、ない? ふっ、ふふふ……」

「鈴さん」

 

 制止の意を以て名を呼ぶ。しかし少女は流し目と共に一度こちらに笑みを寄越すとすぐに箒さんに正対する。

 箒さんは、依然として鈴さんを見ない。こちらは一貫して無関心。

 対照的でありながら、意思だけは共通している。絶対に譲る気はない、と。

 

「ええ、そうですわ。関わりなどありません。二組代表の凰鈴音さん」

「あ?」

 

 横合いからシルクのように優美な声が差し込んだ。頬に指を添え悩ましげに、セシリア・オルコット嬢は眉目を下げて溜息を吐いた。

 

「ここは一組の列ですもの。一夏様や仁様の隣に篠ノ之さんが並んだところで特に問題はない。問題があるのは、貴女。とっとと自分のクラスの所定の場にお戻りなさいな」

「合同訓練でしょ。たかが列順になに細かいこと言ってんだか」

「その通り、“訓練”です。お友達同士呑気に戯れ合いがしたいのならIS学園(ここ)ではない別の学び舎でどうぞ。規律を守れないIS操縦者など社会の害悪ですわ」

「規律? あぁそれって要はあんたに都合の良いルールってやつ? それらしいこと言って本当は自分が“そこ”に居座りたいってわけね」

 

 口の端に笑みが刻まれる。それは嘲りの形をしていた。

 

「……何を馬鹿なことを」

「ふーん、違うんだ。じゃあ“ここ”は私の居場所……」

「!」

「え」

 

 言うや、鈴さんは己と少年の手をそれぞれ引き寄せ腕に抱え込んだ。彼女の小柄な体躯からは想像外の力強さで。

 

「いひひっ」

「――」

 

 ぎちり、耳孔が異音を拾う。

 それは眼前の優雅な蒼い少女から発せられた。噛み締めた歯が軋みを上げる、苛立ちの残響。

 

「つけ上がるな下郎」

「そっくり返すわ勘違い女。元から()()だったのよ、私らは。そこにあんたが無理矢理入り込もうとしただけ。お分かり?」

 

 今更に、周囲の静けさに気付く。あれほど姦しかった一年一組と二組の女子生徒らが誰一人口を開かない。口中に石を詰め込まれたかのように、吐息すら自重を強いられている。

 重力が増すばかりの空間の中で一人、吐息を零したのはセシリアさんだった。

 

「……やれやれ、以前の問答で十二分に理解したかと思いましたのに。救いようのない物分かりの悪さですわ」

「ご期待に沿えなくて嬉しい限りよ」

 

 沈黙の間が一つ、二つ、三つを数え終わる直前――――蒼紺と薄紫の粒子光。

 ブルー・ティアーズはスナイパーライフルの砲口を突き付け……突き付けるべき敵を見失う。

 甲龍は、既に、蒼い機体の懐深くへと踏み込んでいた。手には巨大かつ肉厚の青龍刀、牙月。その刃先をセシリアさんの白い首筋へ当てていた。

 生徒の数人が悲鳴を上げた。

 

「ちぃ……!」

「展開速度はあんたが上でも、ここは甲龍(わたし)間合(レンジ)。そんな長物(でかぶつ)出すくらいなら直接殴った方がマシだったわね」

 

 より強烈に歯噛みする蒼の少女を龍の少女は牙を見せて嗤った。

 そのような笑みは、彼女に似付かわしくない。この印象すら押し付けであろうか。

 この行動もまた。

 

「……で、さ。この手は何? 仁」

「双方、武器を御納めください」

 

 己もまた提陀羅を装甲し、甲龍の腕を捕っている。

 背後では一夏少年が箒さんを退がらせ、庇い立っている。

 突如出現した三機のISに驚き、一斉に距離を置き逃げ散る生徒ら。

 以上状況。自己の行動選択、両機体の掣肘および少女二人の沈静化。

 難事であった。しかし為さねばならぬ。元凶の一端は紛れもない己が担っているのだ。

 

「この上更なる戦闘行為に及ばれるなら、我が実力の行使によってそれを抑止します」

「仁様……」

「あははは。やっぱり優しいね、仁は。ホントは問答無用でねじ伏せられるのに」

 

 先程までの険が消え、朗らかに鈴さんは微笑んだ。

 彼女の言葉に間違いはない。この間合、近接格闘能力に秀でた提陀羅であればブルー・ティアーズと甲龍をほぼ同時に無力化できる。

 難事とは、物理的労苦ではなく、その心情。それを鎮める術が今の己には無い。

 どうする。

 解決の糸口を探し一秒を寸刻んで思考を回した、その直後だった。

 

「見るに堪えんな」

「!」

 

 影が奔った。

 提陀羅を纏う己の巨躯から、真実疾風の有様で駆け出たのは、千冬さん。

 白いジャージ姿が歪むほどの速度。残像が幾重にも現れては消え去り、その軌跡の末端で彼女は甲龍の牙月、その柄尻を蹴り上げていた。

 青龍刀が宙を舞う。

 刃が重力の御手に捕まるより早く、迅く、上段に上がったしなやかな脚がスターライトmkⅢの砲身を踏み付け地に落とす。

 それに合わせるかのように落下してきた青龍刀を手に取り、柄を支点に一度ぐるりと回転させ衝撃荷重を遠心力として逃がした。肩に担ぎ上げた刀身の切先は丁度背後の鈴さんの鼻先を差す。

 この間僅か0.3秒。

 早業と力業の合わせ業。ISのハイパーセンサーを振り切り、IS用の巨大な武器を彼女は生身で、それも片手で扱っている。

 

「代表候補生なりの良識を期待したが、見事に裏切ってくれたな。凰、オルコット」

「……」

「……」

 

 少女らは何も言わぬまま、それでも臨戦態勢を解かなかった。

 教諭は肩を竦め、鼻を鳴らす。

 

「貴様らがその気なら望み通り戦わせてやろう。予定を前倒す――――戦闘訓練だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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43話 誰が何と言おうとこれは少女達の親睦

山田先生は可愛い(確信)





 

 

 戦闘訓練。

 すわ、織斑教諭自ら甲龍とブルー・ティアーズを相手取られる御心算か……そのような危惧を一瞬抱きはしたが、杞憂であった。

 実際に模擬戦闘を行ったのは甲龍とブルー・ティアーズ。制限時間および制限シールドエネルギー残量を設定し、グラウンド上空へ生成したエネルギー防御膜内部にて相争う運びとなった。

 

 そして結果から言えば、勝敗は決せず。

 

「決め手に欠くな」

「エネルギー残量も100分の1単位まで同数です」

「引き分けってこと?」

 

 首を傾げる一夏少年に頷く。

 制限時間を迎えた段階で両機の数値的損害はほぼ同様。ならば戦闘の過程、互いの威勢、技量や工夫、手練手管の優劣によって判定を下すのが打倒なのであろうが。それは織斑教諭の言葉通り、甲乙付け難い。

 両者は互いに一切譲らず、また退かず、全く以て互角の闘争を繰り広げた。

 両機体が地上へ降りる。土を踏み散らし巻き上げながら相対して立つ。

 

「……」

「……」

 

 牙月、巨剣の切先を真っ直ぐに突き付ける甲龍。長大かつ大口径の砲を寸分違わず射し向けるブルー・ティアーズ。

 意気、否、鬼気とすら呼ばわる気迫を漲らせ、完全なる戦闘態勢を見せる二機。

 

「終了だ。武装解除、ISを除装せよ。これはIS技能教導者としての命令である」

 

 厳然と織斑教諭は言い放つ。反駁も拒否も躊躇すら許さない決定事項の通告であった。

 そしておそらくこの厳命が下らねば、かの少女らはここから何時間でも戦い続けたことだろう。

 燐光を放散しながら、武骨な装甲から少女らが解放される。こちらに歩み寄ってくる間も、互いに互いを視線で刺し貫くことは忘れずに。

 

「専用機持ちの代表候補生としてまずまず妥当な戦闘能力と言っておこう。織斑、日野、二名の戦いぶりをそれぞれ評価してみろ」

「えぇ!? いきなりそんなこと言われても……」

「お前はただぼんやり観客気分で観戦を楽しんでいたのか、戯け。思い出しながらでいい。何が印象付いたかを言語化し改めて己自身で咀嚼しろ。特にお前は今この場にいる専用機持ちの中で群を()()()()素人だろうが。寸暇を惜しんで常に学び取る努力をしろ」

「うぅ……はぁい」

 

 それこそISに直接触れてからまだ日も浅い少年には酷なことだが、教諭の言は徹頭徹尾厳しくも正しい。

 そして、それは己とて同じ。挙手し、先に回答するを教諭に願う。

 

「よし、では日野。この馬鹿に回答例を見せてやれ」

「それはまた、僭越ですが……」

 

 まず一人目、セシリア嬢に向き直る。

 

「BT特殊兵装の運用における是非は無論自分如きに判断は不可能ですが、対手の機動と進路を先読みした狙撃と偏差射撃の精確さはやはり卓越したものがありました。また、前回行った自分との戦闘時より自動誘導兵装(ビット)の稼働率が20%向上しています。この短時日によくぞ御自身をこれほど改良されたと、驚嘆を禁じ得ません」

 

 この場合の“稼働率”とは、自機(ブルー・ティアーズ)の機動と主武装(スターライトmkⅢ)副武装(ビット)の射撃頻度・命中精度の単純な合算から、ワンが自機(だいだら)との戦闘記録より演算した数値。それを学内データベース上に存在するBT兵装の数的資料と比較した結果である。

 繰り返しに思う。ほんの二週間にも満たぬ短期間で叩き出すには、二割という数値は破格だった。

 

「まあ……お恥ずかしいです。けれど……嬉しゅうございます。仁様」

 

 ほう、と熱の篭った吐息を零す。やや淡く頬を朱に染めて、セシリア嬢は微笑んだ。

 同時に軽い破裂音を聞く。音源は、二房(ツインテール)の栗色髪の彼女。なんともごく自然に舌打ちを発する鈴さんに、マナーだの淑徳だのといった小言を堪えて向き直る。

 

「甲龍の運動性は今更語るまでもないことでしょう。元来、鈴さんは優れた拳法使いでも在られる。それを、ISの装甲を纏い、また身体強化による身体感覚の差異すら完全に()()にした上で実践している。不可視の砲……龍咆を然程()()()()()()()()戦法も、個人的には大変興味深い。対手の攪乱と機動力抑止を主として、あくまでも自機の最適距離にて戦闘するに努める姿勢は、兵法の常道、大いに参考すべきと思案します」

「ふんっ……」

「お、ジン。これはわりと本気で嬉しいときの顰めっ面だぞ」

「なんでこんな時だけ敏感なのよこの鈍感!!」

「どっちだよ!?」

 

 バッシバッシと少女は少年の背中を叩く。叩きながらも口端にニヤケた笑みが上る姿は、微笑ましいと感ずるべきだろう。

 

「……」

 

 絶対零度、凍て付いた視線で横目に鈴さんを見据える蒼い瞳。

 それさえ見付けなければ、己はこの場の風景をただ朗らかな一場面として、何も考えず脳内に据わる記憶の戸棚へ仕舞い込めたのだろう。

 

「……少々良点に偏った意見だな。織斑、お前は改善点を挙げてみろ」

「うぇ!? は、はい……えぇーっと~」

 

 唸りながら、少年は記憶を反芻するように空を見上げる。

 その彼に二方向から注がれる槍の如き視線を直視しないよう配慮しながら。

 

「セシリアは……なんというか、真っ直ぐ過ぎ? 正直に狙い過ぎっていうのかな。当ててやるって気迫が強すぎて逆に躱し易いように感じた、かな……もう少し合間(あそび)があれば鈴を誘い込めた場面も何回かあった」

「……なるほど。確かにそのような気負いが多少は」

 

 少女は腕を組み、笑む。

 

「鈴はー……逆に『裏を掻いてやろう!』みたいな魂胆が見え過ぎ。相手を引き付けて、注意を目一杯向けさせて、それをスカッと外させてから最後は必ず剣でぶった斬りたい! っていう……一連の流れ? みたいなのができちゃってたな。ワンパターンだからあのままだと嵌めにくい、と思う」

「ふーん……ま、参考程度にはしたげる」

 

 少女は腰に両手を当て、笑む。

 少女二人は笑みを絶やさない。そしてそれは怒りや苛立ちに端を発するものではなく、決意。純粋な目標設定。

 次戦の機会を得た暁には、かの少女らは必ずや今齎された意見を基に、“情報”を貪り、戦術的弱点を克服し敵機を撃滅せんとする。

 熱した鉄のような柔軟性で、冷えた戦意を研ぎ澄ませている。

 

「良かろう。他の者も今の戦闘から考えられ得る戦術的、機体性能的改善点を二件以上レポートにまとめて提出しろ。期限は本日から三日間だ」

 

 思わぬタイミングで発生した課題に、しかし不満の声を上げる生徒はいなかった。

 織斑教諭に対してそのような態度を取れよう筈もないが、もう一つ。依然としてこの場の雰囲気は重力的、硬度的な意味合いで良心的とは言い難い。

 セシリア・オルコット。凰鈴音。怒鳴り掴み合うような喧嘩であればまだ対応のしようもあったろう。現実は、刃先だけが見え隠れする険悪さばかりが、実体なき気配となって場を充満するのだ。

 事情を知らぬ一般生徒らはひたすらに憐れであった。

 

「さて、そろそろか」

「?」

 

 不意に、腕時計を確かめながらに織斑教諭が呟いた。

 その意味を尋ねるより早く、提陀羅のセンサーが反応を感知する。機影。一機のISがこちらへ接近している。

 

「ど、どどどどどいてくださぁ~~ぁぁあいぃい!!!」

「総員散れ!」

 

 上空、遥か彼方から飛来する。小さな黒点でしかなかったそれが徐々に大きく、像を結び、正体を見せた。

 ISである。

 

『ラファール・リヴァイヴ。射撃武装の一部追加換装有り。学園許認可装着者「山田真耶」の教導者IDを確認――推進器への過剰過給(オーバーブースト)を検知。加速中。墜落軌道』

「落下予測地点をマークしろ。受け止める」

『了解』

 

 他の生徒らがめいめいに逃げ散っていく。落下地点は人気の失せたグラウンドほぼ中央。

 一歩でその場へ到達し、待ち構える。程なく、ダークグレーの機体が大気を突き破って振り来る。

 PIC、および肉体強化(パワーアシスト)を一段階引き上げる。

 腕の中へ収まったリヴァイヴ、山田副担任を抱え、落下荷重と加速による推力を受け止め――止めず、刹那自機もまたそれに身を任せ、反転。

 ぐるりとその場を一回転して山田女史が蓄えた慣性力を外部へと放り捨てた。

 無論のこと、その本体たる彼女は腕に残し、足先の(アイゼン)を地表へ突き立てる。地面を幾らか削り上げて、無事機体は静止した。

 横抱きにした山田女史は、閉じていた目を開け、暫時ぱちくりと瞬きを繰り返す。そうして己の仮面(フェイスガード)を見上げ、途端に顔を真っ赤に染めた。

 

「すすすみましぇん! 日野くんっ、あの、お、重いですよね!? あぁあぁあぁ私ったらもうまたこんなこと!!」

「仔犬を抱き上げるほどの労苦もありません。山田先生。どうか落ち着かれませ」

「で、でもぉ」

「かなり、緊張なさっておられる御様子」

「うぅ、そ、そうなんです……一年生は初めての実習なので、わ、私がしっかりしないとって……思えば思うほど、なんというか舞い上がってしまって……スラスター出力の調整ミスなんて普段なら絶対しないのに! あっ、いえ、言い訳です。うぅ、本当にすみませんすみませんっ……!」

 

 しゅんと縮こまり、このまま腕の中で消え入ってしまいそうな少女に、失礼ながら微笑が漏れる。

 その直向きさは好感に値した。

 

「無理からぬことです。ひとえに我々生徒を慮ってのこと、有り難う存じます。ですがどうか、御一人で気負われずに、周囲を頼ってください。ここには織斑教諭も、代表候補生を立派に務める御二人も居られます。自分も微力を尽くすに否やなどありません」

「日野くん……」

 

 ぽやんとした表情、潤んだ瞳でこちらを見詰める山田女史の様はいつにも増して少女のよう。

 そんな彼女をそっと地上へ降ろす。いつまでも抱えられては如何に寛大なこの女性とて不快感を覚えることだろう。

 

「ぁ……ふみゅん……」

 

 何やら名残惜しげに、奇妙な声を山田女史は上げた。無論のこと己の幻聴であろうが。

 

「……お父様は昔、よくそうして抱き上げながらに、セシリアのことを褒めてくださいましたわ」

 

 唇に指を当てて、なんとも物欲しそうな顔でこちらを見ながらセシリア嬢がぽつりと呟いた。

 独り言の体であるのに、それは要求や強請(ねだ)りに近しい強さを孕んでいる……ように思われた。

 

「乳か……!? やっぱり男は乳なんか……!? …………糞が」

 

 こちらに背を向けて聞こえよがしに、いや本当は聞きたくはないのだが、何やら過激な発言を繰り返す鈴さん。

 その問題は古今東西を問わず根深く、深淵を極める。迂闊に手を触れるべき領域ではない。ないので、そっとして置くことにする。

 その時。

 左脚部、丁度向う脛に当たる部分に感触を覚える。見れば、傍には少年が佇み。

 無言でこちらの脛を蹴っていた。

 

「……」

「……あの、一夏さん」

「なに」

「自分はどうして脛を蹴られているのでしょうか」

「……知らないっ」

 

 そう言いつつ、彼は蹴り脚を止めない。いやむしろより一層勢いを増して的確に向う脛を蹴り続ける。

 装甲が無ければ相応の激痛を味わっていたことだろう。

 

「阿呆共、今は授業中だ。遊びたいなら休憩時間を使え」

『は~い』

 

 織斑教諭の言葉に一同仲良く返事をする。先程までの空気感が嘘か幻の如き一致団結ぶり。

 

「あぁ、それと」

「ぐっ!」

 

 右脚部、少年とは逆側から()()が走る。

 

「っ……織斑先生」

「なんだ」

「自分はどうして、脛を強打されたのでしょうか」

「知らん」

 

 ぷい、とそっぽを向き、そのまま散った生徒らの招集を始めてしまう千冬さん。

 今一つ納得ができぬまま、実技訓練は再開された。

 

『右脚部装甲に亀裂』

「!?」

 

 

 

 

 

 

 





織斑先生はもっっと可愛い(真理)


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44話 少女達の夜

千冬さんは可愛いなぁ……




 日も落ちた午後八時十分頃。己は自室で休息も取らず、寮舎の廊下を一人歩いている。

 目的の部屋は一階のエントランス傍にあった。なるほど生徒の動向の監視もまた役割であるのだから、この立地はごく自然と言えよう。

 生徒指導および監督役用宿直・寮長室、つまりは千冬さんの自室前に辿り着いた。

 女性の部屋を訪れるには、そろそろ非常識と言える時刻だろう。そうした無作法を承知でここへ足を運んだのは、誰あろう寮長殿その人よりの呼び出しを受けたからに相違ない。

 扉をノックする。

 

 ――入れ

 

 誰何もせず入室を促される。己の訪問が予定されていたことに加え、千冬さんの知覚能力を以てすればたかが扉一枚を隔てた程度、生身で対面することと然したる違いはない。

 ノブを回し、そっと踏み入る。

 そうして踏み出し掛けた足を中空にて止めた。

 

「……」

 

 足の下、床に()()()それを見る。

 ジャケットであった。普段、学内での彼女が召している標準着衣。ダークスーツの一部だ。

 それがどうしてか玄関先の廊下に放り捨ててある。

 着地点を探して足を運ぶ。半歩隣にはYシャツが団子状に積み重なっている。

 その山と積まれたYシャツの枚数と同じ数だけクリーニング店の返却用ハンガーがまた一つ二つ、三つほど山を作っている。

 廊下の隅からリビングの隅へ、使用済みと思しき化粧品のボトルやケースが……三分の一ほど未開封のまま並び、放置されている。

 缶コーヒー、缶ビールの空缶と空箱。これらも中身の有無に関わりなくそこかしこに散乱している。

 思いの外に生活雑貨の類は、あくまでも、比較的、少なく、部屋の床の大部分を覆っているのはA4サイズの用紙。何らかの資料であるらしかった。

 記載されている文字列を視界に()()()よう努めながら、踏み場を選びつつ室内に入る。

 彼女の立場を考えれば、企業的、あるいは国家的機密に抵触する情報を取り扱っていたとして何の不思議もないのだから。

 

「すまん。少し待ってくれ」

 

 こちらに背を向けて窓際のデスクに千冬さんは向かっていた。手元ではノート端末を開き、何やら文書を作成している様子。

 

「明日付けで報告書を上げろと放課後に連絡を寄越しくさってな。役員の婆共め」

「それは……御疲れ様です。教職とはやはり、煩忙と無縁ではおられない」

「ん? いやそっちじゃない。防衛省に送り付けるやつでなー。あ、一応、足元には気を付けてくれ。わざわざ紙で残す程度にわりと重要な資料なんだ。国防的な意味で」

「……」

 

 予想が当たっていたところで何一つ嬉しくはなかった。

 我が国の自衛能力に関わる重大な何某かは今現在、とある独身女性の汚部屋の床に無造作にぶち撒けられている。

 

「ベッドを使ってくれ。というか、座れる場所が今そこしかない」

「そのようで」

「一夏には内緒だぞ。あの綺麗好きがこの部屋を見たら発狂しかねん」

「既に一時的狂気を発症しかけています。自分が」

 

 先程にも増して殊更慎重に足を運び、この部屋唯一の安全地帯らしきベッドに腰を下ろす。

 暫時、キーを叩く彼女の背中を見守った。

 首筋から背筋へ、肩甲骨に沿うようなY字に繋がった肩紐。所謂レーサーバックのタンクトップとホットパンツという、いつもながらラフに過ぎる室内着であった。

 椅子の上で胡坐を掻き、時折乱暴に頭を掻く姿は、十代の頃の彼女と何一つ変わらない。あの時は学校の課題に追われていたのだったか。

 懐古の情というものは、いつどこで湧き上がってくるか分からないのだと改めて思う

 

「……」

「んん~っっ! これで一段落、かな」

「御疲れ様です。コーヒーでも」

「すまん、豆を切らしてる。インスタントもないな。缶は確か……」

 

 言いつつ、椅子の上に立ち上がった千冬さんは室内を見渡し、資料の海の只中にある缶コーヒーの段ボールケースを見止め、指で距離を測り、狙いを定めて――跳んだ。

 とん、と然したる音も立てず宙へ踊った彼女は、ケースの直前に空いた一足分の隙間に着地。今度は完全な無音だった。

 

「あったあった。ジン、左に少しずれてくれ」

「? は」

「もっと枕元の方に。もう少し壁際がいいな。そうそう。ああ右脚は投げ出すように」

 

 言われるまま位置を移る。

 そうして彼女は先程と同様の仕草で目測を定め、再び跳んだ。前転しつつそう高くもない天井の直下を潜り、落下と共に体勢が変わる。畳まれていた脚を伸ばし、身体を一気に横に倒す。

 気付けば千冬さんは、己の右腿に頭を預けてベッドに横になっていた。

 ぽふ、などという軽々な擬音を幻聴する。それほどまでに鮮やかなベッドイン……語弊はあるが。

 

「んっくぅ……あ゛ぁ~! 疲れたぁ! 私は疲れたぞぉジン!」

「はい」

「はいじゃない。褒めて。撫でて。労わって」

「今日も一日千冬さんは頑張りました。立派に御勤めを果たされました。千冬さんは昔から、とても偉い娘です」

「……にゃふ」

 

 にへら、と、ここまで相貌を崩す彼女を見るのは、久方ぶりというほどでもない。

 親交を深めて行く内、いつしか、自然と、こうなった。自立心とそれに見合う能力を備えた彼女の事、とても甘え上手とは言い難く。学生の時分から社会人の現在もまた、疲労と鬱憤の累積は大きかろう。

 であればこそ、時折でも甘えや脱力の術として己を用立ててくれるなら――これに優る喜びはない。

 凛然とした女性としての彼女と、伸びやかに寛ぐ少女としての彼女は紛れもない同一人物。どちらの彼女も同じほどに尊く想う。

 

「……なぁ、ジン」

「は、なんでしょうか」

「最近、構ってくれないじゃないか」

 

 視線は正面に据えたまま、千冬さんはぽつりと言った。

 それがなにやら無性に物寂しい。

 

「そう、感じましたか」

「うん。一夏が心配なのは分かるがな、私だって寂しくなる時くらいある」

「はい、よく知っています。とても、よく」

「むぅ……それはそれでちょっと、恥ずかしい……」

 

 膝の上で少女がむずがる。髪を梳き、頭を撫でると、彼女は心地よさげに目を閉じ、吐息を零した。

 

「……実際、IS学園にお前達が来て一番喜んでいるのは、私だ。これでいつでも会う時間を作れるって……我ながら馬鹿なことを」

「それは奇遇なこと。自分も、一夏さんも、同じことを考えておりました。これでいつ何時でも、千冬さんに会うことが叶うと」

「…………」

 

 ふと、掻き上げた黒髪の下から露になる。彼女の綺麗な形の耳が、見る間に赤く赤く。

 

「また、部屋(こちら)を訪ねてもよろしいでしょうか」

「聞くな! ……聞かなくても分かるだろ……もぅ」

「ありがとうございます、千冬さん」

「……うん」

 

 ――こっちこそな

 空気に融け、消えてしまいそうなほど淡く齎された彼女の言葉。それを大切に、胸に留め置こうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ええ、そのように。益々の発展を学園よりお祈りしておりますわ。それと」

 

 携帯端末から垂れ流れる美辞麗句を聞くともなく聞き流し、最後に一件の用を済ませる。

 本来、この通話先の相手に対する要件はそれだけなのだ。それを五分もの時間、声音を作って相手の媚び諂いに付き合わされた。事業家としての仮面は、やはり昔から煩わしさばかりが嵩む。

 

「来期のリストラクチャリングの草案は、以前ご提案しました通りに……ふふ、お骨折りに感謝致しますわ。根回し? いいえ、そんな大袈裟なこと。単なる“ご紹介”です。人件費の削減は、全ての企業が抱える課題。わたくしはただその手助けができればと思案を働かせてみたまでですわ。ええ、ではこれで……」

 

 通話終了のアイコンを押し、携帯端末をベッドに放る。続いて自分もまたベッドに身を投げた。

 達成感には程遠い疲労感。必要な労苦とはいえ、ああいった手合いの相手をするのはいつもうんざりする。

 

「お母様の気苦労が偲ばれますわ……それにこれでもまだたったの“七人”だなんて……うぅお父様、セシリア、くじけてしまいそうです」

 

 この悲哀を払拭する術は、今この時一つしか存在しない。

 ISのホログラムインターフェースを立ち上げる。二重のパスワードと虹彩認証でロックを解除し、記録保管庫を開く。目当ての音声データには花丸のチェックマークを付けてあるのですぐに見付けられた。

 再生すると指向音声が耳元に直接それを届けてくれる。

 

『――――射撃の精確さはやはり卓越したものがあり』

「むふぅ」

 

 低く、重みのある声が全身に響き渡るようだった。心地よい声音。彼の優しさを体現するかのよう。

 そしてその内容も、ひたすらの快を自分を齎した。

 

『この短時日によくぞ――――』

「……あぁ、(おとう)様」

 

 嬉しい。とてもとても嬉しい。嬉しくて嬉しくてどうにかなってしまいそう。

 お父様が褒めてくださった。仁様がわたくしを褒めてくださった。

 セシリアが頑張ったことをちゃんと解ってくださった。

 だから。

 

「待っていてくださいな、仁様。セシリア、もっともっと頑張ります。頑張ってこの学園を、仁様と一夏(おかあ)様の世界を、綺麗にして差し上げますから……」

 

 きっと、ずっと綺麗になります。

 その為のあらゆる努力をセシリアは厭いません。

 

「……凰鈴音、使えるかしら」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 出刃包丁を振り下ろす。肉皮を裂いて骨まで断った。

 赤く白い断面、ぷりぷりと鮮やかな肉感は食欲をそそる。

 

「まさか鶏丸ごと売ってるなんて……IS学園、侮り難し」

 

 綺麗に脱羽された白い地肌の鶏を、部位毎に出刃で切り分けていく。別段何を作ろうという訳ではない。メニューは明日にでもあの二人の意見を聞いてから決めればいい。

 これはただの試作。ちゃんとした味に()()()()為の試作。

 

「よっと……ほっ……定番は揚げ物だけど。うん、今回は蒸してみよっと」

 

 斬。

 きっちり十三分割された鶏肉を前に、一人うんうんと調理プランを決める。

 まずは第一工程。左手首に巻かれた包帯を解いて治りかけの傷に杭を刺し入れた。小刀で切る方が出はいいのだが、少々出過ぎる上、あまりに多過ぎると調味に支障を来すのだ。

 

「美味しくなきゃ意味ないもんね……っとと」

 

 ぎゅうぎゅうと手首を絞って中身を出していると、不意に目眩を覚える。

 もう随分慣れてきた感覚だ。

 

「あはは、ちょっと張り切り過ぎたか。まったく、この私にここまでさせるんだもん。絶対今度も美味しいって言わせてやるんだから!」

 

 ぎゅうぎゅうぎゅうぎゅう。

 

「……にしても仁のやつ。あんな乳袋女に鼻の下伸ばしちゃって。一夏も一夏よ。ああいうのはもっとドぎつく叱ってやんないとダメなんだから……」

 

 言いつつ、自分の二つの山……小山をまさぐる。途端に胸の奥から溢れる切なさというか虚しさに肩が落ちる。

 

「むー……ここの脂があればもっとレパートリー増えるのに」

 

 無いもの強請りは見っともないけれど、それでも欲しくなってしまうのが人情というもの。

 ぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅう。

 

「ま、今後に期待……かな」

 

 ぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅう。

 大丈夫。愛情はいつだって()()()()なんだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





千冬さんは可愛いなぁ!(やけくそ)



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45話 一人また出会い

 

 

 

 

 

 

「聞いた? 三組の小此木さんのこと」

「あ、知ってる。急だよねぇ。まだ一学期始まったばっかなのに」

「お家の都合って聞いたけど……」

「学費が払えなくなったんだってさ」

「え? IS学園(うち)って学費免除なんじゃないの?」

「それは適性B以上の人」

「あー、じゃあその、小此木さん? は……」

「Cだったらしいよ」

「きっびしー」

「それもまだ簡易検査だけの結果だし、技能とかの総合検査で化けることもあるのにね」

「可哀想だよね。こんな時期に“転校”なんて」

 

 朝の何気ない世間話。学園という一個の閉塞社会に流れた他愛ない噂。幾らかの同情や憐れみを経て、それはすぐに忘れ去られるだろう。

 幾人かの少女の夢が泡と潰えた。これはほんの、それだけの話。

 

 

 

 

 

 

 

「……」

「山田君」

「あっ、は、はい!?」

 

 職員室のデスク、椅子から跳び上がるように山田真耶は振り返る。

 特に気配を殺した心算はなかった。とすれば、この距離までこちらの接近に気付かなかったのは彼女自身が意識を奈辺へと浮わつかせていたからだろう。

 

「どうした。ぼんやりして」

「す、すみません。仕事中なのに、私」

「職務をサボって遊んでいたなら叱責の一つ二つ見繕ってやれるが、そうではないんだろう。何やら思い悩んでるな。私なんぞで良ければ相談に乗るが?」

「……ありがとうございます。先輩、じゃなかったっ。織斑先生」

 

 真耶は少女のように微笑んでから、その通知書をこちらに差し出した。

 この書類には見覚えがある。どころか、手続きを済ませて文書化したそれを彼女に手渡したのは誰あろう自分だった。

 七人分の転校届。

 

「気を落とすな。この時期、こういうことは多くはないが少なくもない」

「そう、ですね……そうなんですよね。ただ今回は、短期間に何人も重なった所為か、その、ちょっとだけ堪えちゃいました……」

「それぞれの家庭に事情があるのだろう。経済的なことなのか親縁の都合かは分らんが。我々にはどうすることもできん」

「はい……」

 

 返ってきたのは沈んだ生返事だった。

 強かに思い詰める後輩教員を、しかし未熟だなどと謗る心持は微塵も湧かない。

 その細い肩をそっと叩き、こちらを見上げる瞳に笑みを送る。

 

「君は本当に良い教師だよ」

「えっ」

 

 ――――私と違って

 

 もの問いたげな彼女の肩をもう一度叩き、その場を離れる。

 職員室を出、廊下を行く内、ふと自分が笑みを浮かべていることに気付く。

 

「精々頑張れ……」

 

 (はかりごと)めいたものを弄する小娘に、その健気さに失笑する。

 無論、そこに侮蔑の意図は一切含まれていない。自分はただ純粋に彼女のことが微笑ましかったのだ。

 

「オルコット」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼休みを告げるチャイム。俄かに喧噪が逆巻いた教室内で、一人席に着いている。

 

「仁、なーにしてんの?」

 

 小さな顔が肩口から己を覗き込んでくる。その拍子に、二房に結われた髪がはらりと自身を撫でた。

 鈴さんは、不思議そうに目を瞬いた。

 

「昼は? てか一夏は?」

「今は御手洗いに立たれています」

「一人で?」

「はい」

「んー、なんか意外。今のあいつなら『仁も一緒に来て!』くらい言いそうだけど」

「……」

 

 退院間もない頃はそれこそトイレはおろか小用の為一人席を立つことすらままならなかったが。

 現在ではそうした“後追い”行動も改善傾向にある。

 

「彼が十歳ほどの幼児であるなら己も付いて供することに吝かではありません。しかし、彼ももう高校生ですので」

「十歳を幼児扱いはどうかと思うし、相変わらずあんたの発言はちょっとズレてるわ……」

「……?」

 

 彼女の言に首を捻る。一瞬、己の発言のどこに瑕疵があるのかが分からなかった。

 自己認識を改めるべきだろうか。

 

「いひひっ、まあいいんじゃない? あんたらは普通の幼馴染とは違うもんね」

「は……」

 

 少女はひどく不敵に笑む。いや、喜悦さえ滲ませて。

 彼女はそのまま一夏少年の席に座った。ふと、机上に風呂敷包みの箱を置いて。

 

「んふふ、気になる?」

「はい。とても」

 

 こちらの視線に気付くや、ニヤニヤとこれ見よがしに包みを掲げる鈴さん。

 箱の寸法と時刻を勘案するに、おそらくは弁当箱なのだろうとは思うが。

 

「あんたには一夏の手作りが有るでしょ。だからこれはまあ、その、味見用にね」

「味見、ですか。自分が頂いてよろしいので?」

「その為に持ってきたんだっての」

 

 彼女が包の結び目に指を掛け、それを開こうとした時だった。

 

「あ、あの!」

 

 声が掛かる。誰にという訳でもない。教室前側の扉から、一人の生徒が室内へ向けて声を張ったのだ。

 

「ひ、ぃ、日野さんはいらっしゃいますか!?」

 

 意を決した様子で少女は言った。並ならぬ勇気を振り絞ったのだとその震える声音を聞くだけで理解できる。

 己は席を立ち、彼女に歩み寄った。

 

「ちょっ」

「っ! あ、貴方が……?」

「はい、一年一組に日野姓は自分だけです」

 

 己の胸ほどの高さに頭がある。我が身の無分別な体格を差し引いても、鈴さんに並ぶ小柄な姿。

 浅葱色の髪にIS用補助センサーと思しき髪留め。そしてHMD内蔵の眼鏡――――

 

「貴女は確か、先日の」

「は、はい。学園に所属不明機が侵入した日に」

 

 そうだ。この学園へ侵犯した所属不明(とされている)機体を殲滅するまさにその直前、彼女は現場に居合わせてしまったあの女子生徒だった。

 

「その節は、己が不手際によって御身を危険に晒してしまいました。改めてお詫び致します。申し訳ありませんでした」

「え? い、いえ! そんなっ、お詫びなんて……」

 

 腰を深く折り、視線はひた床面へと注ぐ。

 あの折、己が単一能力の行使を躊躇しなければ、もっと確実に、もっと迅速な対処は可能であった筈。

 返す返すも我が身の無能。精神の劣弱が齎した不徳。

 事によっては彼女の生命すら今ここには無かったろう。こうして謝罪の機会を得られたことこそ何よりの僥倖である。

 

「わわわっ、頭上げてください! お願いですから!」

「は」

 

 心の底から困惑を露にする少女に、要望通り向き直る。

 

「私の方こそ、あの時はただ逃げることしかできなくて……」

「至極当然の対応と思われます。戦闘中のISに生身で接近されたのですから」

「でも、だから、その、今日はちゃんとお礼を言いたくて。幸い、この学園で男性の操縦者は二人だけだし……もう一人の方はよく知ってましたし……」

「?」

 

 一瞬、違和を覚える。少女の貌に濃密に落ちたその影、翳りは。

 彼女が口にした“もう一人”とは……それはかの少年のことに相違あるまい。しかし何故。

 

「ありがとうございました。日野さん」

「謹んで頂戴します。そして、御無事で何よりでした」

「はい……」

 

 影は消え去り、柔らかな笑顔が少女の貌を彩った。何かの見間違いであったのか。

 

「それとあの、改めて自己紹介しますね。私は一年四組の更識簪と言います」

「これは御丁寧に。一年一組所属、日野仁と申します。どうぞよろしくお願いします」

「よろしくお願いしますっ。えへへ、な、なんだか、照れます」

 

 口元を手で覆いながら、更識さんは頬を染めた。とはいえ、口ぶりとは裏腹にこのやりとりを楽しんでいる様子。

 わざわざ他のクラスより足を運び過日の謝辞を届けてくれる生真面目さと、それにある種見合わぬ茶目っ気。その落差(ギャップ)はむしろ好感に繋がった。

 

「………………」

 

 不意に、背中に刺さる気配を察する。

 己としたことが、無作法に立ち話をするまま先に訪ねてきた友人を放置するなど。

 振り返ればそこには。

 

「……」

 

 椅子に座って器用にボールペンを回す鈴さんの姿が。

 訪問者には興味もないのか、退屈そうに掌中でくるくると筆を回転させ続けている

 

「あれぇ!? かんちゃん! かんちゃんかんちゃん!」

 

 その時、別方向から声が上がった。教室後側、丁度数人の生徒と共に入室してきた一人の少女。布仏本音さんが、平素通り明らかにオーバーサイズであろう制服を揺らして跳び上がっている。

 かんちゃん、とは対面する更識さんのことだろう。なるほど彼女らは友人同士なのか。

 

「――――それでは、私はこれで失礼します。また会いましょうね、日野さん」

「は、しかし、あちらの」

「あぁん! 待ってよかんちゃ~ん!」

 

 呼び止める己と、布仏さんの制止にも振り向かず、更識さんは去っていった。その背中を布仏さんは追い掛けていく。

 

「……」

 

 去り際に見えた少女の横顔がひどく印象的だった。

 いや、より正しく言えば、印象と呼べるだけの色彩をあまりにも欠いていた為に、強く記憶に残ったのだ。

 無表情。能面のような無機質。少なくとも、友人を前にして作る貌ではない。

 

「まったややこしいのが来た」

 

 ぽつりと鈴さんが呟く。呆れか、皮肉か、嫌悪、そうした情感に近似する響きがそこには含まれていた。

 くるりくるりと、ボールペンが回る。

 

「ホント、あんたって昔から変な女に縁があるわね」

「多くの良縁に恵まれました」

 

 眼前の少女との縁もまたその一つ。

 過去に一度、ただ一人、凶事以外の何ものでもない遭遇があったものの、それさえ除いてしまえばこの生涯における人との縁、繋がりは出来過ぎている。この身には到底過分な。

 

「別にいいけど……あの程度の手合いなら塵屑(ゴミクズ)くらいの影響もないし……」

 

 言葉尻を、鈴さんは口中に収めてしまった。彼女が何と発話したのかは定かではない。

 そも、己の聴覚は並を外してはいるが、言語の体裁を取らない残響を認識するにはさらに想像力を要する。

 

「陰口が貶むるは他人の尊厳ばかりではありません、鈴さん」

「……聞こえたの?」

「いいえ。想像を口にしました。そしてどうやら正鵠を射たようで」

「鎌掛けとか、性格悪いわよ」

「鈴さん」

「うっ……わかったわかりました! ……ごめんなさい」

「はい」

 

 両手を上げ(ホールドアップ)、少女は降参の意を示す。

 それでも不貞腐れた態度を隠さず全開に見せてくる。それを可愛らしいと感じてしまうのは、大いなる不遜なのだろう。

 

「わーらーうーなー」

「ふっ、失礼」

「ったく……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少し意外だった。想像よりも柔らかで、思い描いていた理想像に近い優しさと実直さ。

 世界でたった二人だけのIS操縦者。IS適合者。このIS全盛の社会で女性にしか持ち得ない資格を手に入れた男性。

 女権絶対論者なんてものが有識者扱いされる世相だ。きっとその男性有資格者もまた傲岸で不遜、その稀少性に胡坐を掻く選民意識の権化のような人間なのだろうと思っていた。()()()()()()

 そうあってくれたら、こちらは思う存分恨み辛みを“彼”に、彼らに向けられる。

 倉持技研への横槍とその後の対応を自分は許せないし、“彼”自身に直接の罪など何もないのだと割り切れるほど成熟した人間性も持ち合わせていない。

 だから、もう一人の男性IS操縦者……日野仁と初めて出会って、言葉を交わしたことで知った。

 その印象は全くの期待外れだった。期待した悪性を彼には何一つ見出せなかった。

 けれど。

 その出会いは間違いなく運命だった。

 

「ISとの有機結合……生体融合型EIS、提陀羅」

 

 暗礁に乗り上げていた研究に天から光明が降って湧いた。

 ああ、貴方はなんて理想的なの。

 

「理想的な、サンプル」

 

 心からお礼を言わせて欲しい。

 この出会いに、貴方の存在に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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46話 初対面

シャルっちゃんの可愛い可愛いあのビジュアル見て男扱いって結構無理あるよね(ノンケ並感)




 

 

 

「やっば、醤油がない!」

「それは一大事」

 

 授業を終えて放課後、そして放課後に日課の自主訓練もまた終えて、夕飯の食材を買い寮舎の自室へ戻りいざ調理を開始せんとしたその時だった。

 少年は頓狂な声を上げる。それに対して半ば冗談交じりに、しかしてもう半ばは全くの真剣にて応ずる。

 醤油。それは日本の食卓において不可欠、必需必須、要と評して不足ない品。

 

「今から走れば学内スーパーの閉店時刻にも辛うじて間に合いましょう」

「うぅ~ごめん! ほんっとごめん! もう鍋火に掛けちゃって俺はこの場を動けない……頼む、ジン!」

「行って参ります」

「キッ〇ーマンでもヤ〇サでもヒガシ〇でもいい! ただ薄口以外で!」

「御意」

 

 財布と携帯端末を手に部屋を出る。

 品数と品種に並ならぬ厚みを持ったスーパーではあるが、そこはあくまでも学生向けの購買店。閉店時間は一般的な食料雑貨店よりも早い。

 猶予はあるが余裕はない。早足に夜道を進んだ。

 

 

「…………」

 

 

 

 

 

 

 

 無事、醤油を購入することができた。

 途中、部活帰りと思しき女子生徒らに声を掛けられ、想定したよりも時間を費やしてしまったが。

 少年の要望通りの品は確保した。早々に帰宅し、夕飯の準備を手伝うとしよう。

 そうして、帰路を歩いて暫くのこと。元来た道、この二十分程度の時間で()()()()()筈のない道行きの景色の中に、先刻にはなかった変化を認める。

 

「……?」

 

 なんということはない。道の中途に人影があった。夜とはいえまだまだ浅い時刻。道に人通りがあったとて何の不思議もない。

 不思議。己の好奇を引いたのはその人物の恰好である。

 まず学園指定の制服ではない。白いコーディガンにライトベージュの七分丈パンツと見たところ私用と思われる。キャスター付きのキャリーバッグを引き、肩にはボストンバッグを提げている。明らかな旅装。

 手にした紙を見て、キョロキョロと周囲を見て、またしても紙に目を落とす。幾度かそれを繰り返して、最終的にがっくりと肩を落とした。

 

「……」

 

 別段鋭敏な性質など持ち合わせはないが、あの行為の意味合いを察する程度のことは可能であった。

 努めて気配を()()()よう近付く。足音か衣擦れを聞き取ったのだろう。その人物はこちらに振り返った。

 その姿を認めて――どうしてか、用意していた一言目を取り落とす。

 

「ぁ……」

「……」

 

 その容姿が言葉を詰まらせるほどに特異であった訳ではない。至極無礼な話だが。

 いや、普通ではないという意味で、確かに彼の……否、否、“彼女”の容姿は特徴的ではあった。

 何故、なのか。

 期せず、疑問符が自身の喉を塞いだ。

 何故、この少女はこんな――――その瞳に、こんなにも歓喜を映して、そして己を映すのだろうか。

 

「――――こんばんは」

「は……今夜は良い待宵月で」

 

 結局、発話の出発は相手方が起こしてしまった。思わず合わせて時候の挨拶など返してしまう。

 

「ふふ、そうですね。本州が遠いからかな。月明かりがすごく綺麗。ちょっとびっくりするくらい」

「ええ。夜半ともなれば星明りも大変良く見えます。海岸の散歩など風情がありましょう」

「へぇ~、いいなぁそれ。あはっ、一つ楽しみができた。ありがとう」

「いえ。僅かでも興に乗っていただけたなら幸い」

 

 少女は微笑んだ。上機嫌、それを表すように小首を傾げておどけても見せた。

 金糸の髪が頬に掛かる。首筋を隠す程度のショートカット。己が“彼女”を“彼”と誤認した要因の一つ……と言えなくもない。服装についても、男女を判別するに然して役立たなかった。

 ……果たしてそれだけ、だろうか。

 重ね重ね特徴的な容姿だった。無論、正極の意味において。

 セシリア嬢にも見られる白人種の性質を持った顔立ち。女性的な成熟が見られる彼女よりも、まだ少し幼気(いたいけ)な。若紫色の大きな瞳が印象的だった。

 何よりその、油断すれば性別を忘れるような美貌が――かの少年を思い起こさせる。

 

(……いや)

 

 湧き上がる疑問を飲み下す。そうして胸中にて頭を振る。

 己が彼女に近付いたのは、世間話をする為でも、ましてナンパ目的でも断じてない。

 本題は一つ。

 

「差し支え無ければ御聞かせください。もしや、道に迷われていらっしゃいますか」

「あー、あはは、分かっちゃいます?」

「は、失礼ながら一目瞭然であったかと」

「むぅー、方向音痴ってほどじゃないとは思うんだけど……施設が充実してるってのも意外に考え物だよね。この辺、結構入り組んでて」

「無理もありません。日も暮れ、周囲を見通し難くなっていることも位置関係を把握できない要因かと」

 

 IS学園は広大である。が同時に手狭でもある。生徒、教職員の生活や学業から研究・開発業務に至るまでを支援するありとあらゆる分野の各施設が園内を、悪く言えば(ひし)めいているのだ。

 

「……えっと、あの、その、もしよかったら、なんですけど……」

「自分でよければ御案内します」

「! うん、ありがとう。是非お願いするよ!」

 

 まるで華が咲き誇るような笑顔であった。

 連れ立ち、歩き出す。彼女が持っていたのは職員用事務室への地図だった。ここからそう遠く離れてはいない。なるほど、彼女は惜しいところまで自力で辿り着けていたようだ。

 道中、自然に浮かんだ疑問を口にする。

 

「転校生の方でしょうか」

「当たり。んーでも、編入、の方が近いかも。本当は初めからここに入学するつもりだったんだけど、いろいろバタバタしてて、気が付いたら時期もこんなにずれ込んじゃって」

 

 苦笑を滲ませて少女は愚痴を零す。

 話の触りを聞くに、彼女は己と同様新一年生であるようだ。

 己は当然の礼として、遅きに失してはあったが、足を止めて彼女へと向き直る。

 早々と、職員棟の正面広場に着いていた。未だ勤務中なのだろう。建物の窓から注ぐ灯と街灯のそれが合わさり、ここは随分と明るかった。

 潮騒が近い。

 

「御入学おめでとうございます。これより先、少なくない機会、轡を並べ、勉学を共にすることとなるでしょう。どうぞよろしくお願いします」

「……はい。こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 その場で腰を折る己に、少女もまたぺこりと一礼を返してくれる。

 

「自分は一年一組所属――――」

「日野仁」

 

 機先を奪われていた。いともあっさりと。

 見上げる少女が笑みを浮かべる。優しげな、蕩けるような、そして悪戯っぽい微笑。

 

「何故、自分の名を」

「そりゃあそうだよ。だって君は有名人だもん。世界で二人だけのIS適性保有者さん」

「……なるほど。不覚でした」

「ふふふっ。なんだって出来そうなのに、意外と自分のことには無頓着だよね。君って」

「不本意ながら、よく言われます」

「ふふふふ! 可愛いっ」

 

 噴き出すように笑い、堪らずといったように少女は言った。

 可愛いなどと、我ながらこれほど己に不相応な表現もあるまい。

 

「えー、そんなことないよ。仁って知れば知るほど可愛い人だよ……きっと」

「失礼ながら、世の愛玩を受けるべき存在全ての理を揺るがしかねない暴論かと」

 

 可愛いの定義が崩壊する。

 

「ふふっ、あはははっ、そんなことないのに」

「……」

「んふふふ、そんなこと……ないのになー」

 

 目尻に浮かんだ涙を拭い、ようやく少女は落ち着きを取り戻す。

 そうして、その小さな手を差し出した。握手を求められているのだと誤解なく知る。

 

「僕はシャルロット・デュノア」

「デュノアさん」

 

 少女は首を振った。

 

「シャルロットって呼んで欲しいな……ダメ?」

「いえ、滅相も……重ねて、よろしくお願いします。シャルロットさん」

 

 差し出された手を握り、同時に目礼する。

 きゅ、と小さな手が己の右手を握り返した。実際に得た少女の手の小ささ、華奢な感触は、それこそ幼児のそれを想起する。

 

「――――はい」

 

 少女は微笑んだ。再三に亘って拝見の叶った笑顔。

 けれど名を呼ばれた瞬間の、その笑みは、まるで。

 まるで夢見るように、眩く輝いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 世闇に消える(おお)きな背中を見送った。いつまでも、いつまでも。

 時が許すならずっとそうしていたかった。

 理性が許すなら追い掛けて行ってその背を離しはしなかった。

 今は何も許されない。何も。

 今は。

 今は。

 ――――今より、全てを手に入れる。あらゆる手段、あらゆる犠牲を使い尽くして。

 その覚悟はもう出来ている。二年の歳月を掛けて、その覚悟を編み上げてきた。

 

「……」

 

 一つだけ、手に入れたものがある。今、この瞬間に。

 掌に残る彼の温度。彼の香り。彼の汗。彼の皮脂。彼の……彼の……彼の……。

 

「ぇあ」

 

 掌に舌を這わせる。舐め上げ、舐り回し、しゃぶり、吸い尽くす。丹念に丹念に、丁寧に丁寧に。

 

「……ん、はぁ、ぁ」

 

 到底足りはしなかった。けれど今はこれで我慢する。

 

「明日から、がんばらなくちゃ」

 

 彼をこの手に。この腕に迎え入れる為に。

 

「僕がんばるよ。いっぱいがんばるから。がんばるから、待っててね……」

 

 誰にも渡さない。

 ボクだけのおとうさん。

 

 

 

 

 

 



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47話 転校生がやってきた

ラウラちゃんはただ素直で純粋で心に正直なだけなんやなって。
陰湿さから遠い分、とても苦しむことでしょう(愉)可哀想ですね(歓喜)



 

 

 

 人の口に戸は立てられぬ。それは至言であり、また通俗的な事実でもある。

 況してや花の盛りの女子十代、姦しさにおいても最も盛んな時期の彼女らの情報収集能力は某英国諜報員のそれと引き比べたとておさおさ劣らぬだろう。

 

「聞いて聞いて! 今日うちのクラスに転校生が来るんだって!」

 

 これこの通り。教室に息せき切って走り込んでくる。

 担任教諭からの連絡を待たず、そのニュースは耳聡いその女子生徒から齎された。

 

「それもなんと二人も」

「へー、珍しい」

「ここんとこ何人か減っちゃったから数合わせとか?」

「それはそれでなんか酷い話ね……」

 

 聞くともなしに聞こえた彼女らの会話。興味がそもそも薄いのか、隣に座る少年は頬杖を突きながら卓上の端末を弄っている。

 

「時期外れの転校生って聞くと漫画の登場人物みたいだよなー。どんな奴だと思う? ジン」

「は……どんな、ですか」

 

 おそらく一人は金髪でしょう――とは口にせず、胸中にぽつりと零す。少年の素直な問いには苦笑で応えた。

 自然、一夏さんは疑問符を頭上に浮かべ、長い睫毛をぱちくりとさせ瞬きする。

 そうこうする間に予鈴が鳴った。生徒らは皆席に落ち着き、漂う空気には今か今かと待ち侘びるかの色を見る。

 耳慣れた靴音を聴覚器官(センサー)が拾った。千冬さんと、そうして彼女に追従する三人分の足音。

 教室の扉が開かれ、今日もまた美しいダークスーツの織斑教諭が現れる。そのまま教諭は扉の脇に身を避け、後続に道を譲った。

 山田副担任教諭、そして二人、白い制服姿。

 

「おはようございます! 今日は皆さんに新しいクラスメイトをご紹介しますね」

 

 にこやかにそう言って、山田教諭もまた身を引いて傍らの少女らを手で示した。

 必然、最前列に居座る己と一夏少年のほぼ真正面に佇む少女ら。その御一人――シャルロットさんは己の姿を見止めて微笑んだ。

 

「十三時間ぶり」

「は、それはもう早々と」

「ふふふ、ホントだね。同じクラスになれてすごく嬉しいよ、仁」

 

 たかが十数時間では変わろう筈もない、少女の蕩けるような笑顔。社交辞令を感じさせない率直な喜び様に、こちらも思わず笑みが浮かぶ。

 

「……」

「あれ? お二人はお知り合いなんですか?」

「ほんの、袖を振り合わす程度の、ですが」

「それ知ってるよ。日本のことわざだね。多生ってことは……あ、じゃあ僕と仁は前世からの縁ってこと? へぇ、意外にロマンティストなんだ」

「えぇー!? そ、そういうご関係ですか!? そそそんなっ、高校生にはまだ早いですよぉ!」

「…………」

「失礼を。字義以上の含みはありません」

「ざぁんねん。僕は大歓迎なのに」

「………………」

 

 悪戯げな笑みで見下ろされ、彼我の弁舌の性能差を思い知る。

 次の瞬間、右大腿に鋭痛。

 

「……一夏さん」

「IS割ってないし太ももの肉も千切ってないんだからいいだろ」

「そうですね。千冬さんならば大腿骨を砕くでしょう」

 

 ぷくっと膨れっ面になった少年には、このような軽口も鎮静効果を発揮しない。

 

「はぁ、無駄口は後にしろ。日野、織斑」

「はーい」

「は……」

 

 呆れに溜息を吐く織斑教諭に目礼する。

 前回のように向う脛を蹴り割られないだけこの対応は恩情に溢れている。

 

「……」

「ってか、えっ、男の子……?」

「いやいやそんなまさか」

「可愛い……けど、ボーイッシュなだけ?」

「三人目の男子ktkr!?」

 

 俄かに女子生徒らが色めき立つ。

 その勘違いは無理からぬことだ。己自身にしてからが、昨夜同様の見当違いを晒したのだから。

 白いダブルのジャケットに、やや細身のスラックス。髪は短く、幼気な顔立ちは少年と少女の境にあり、性差を希薄にしている。

 広義の意味で“美少年”とは正しくかのような人物を差すのだろう。

 申し訳なさそうに少女は頬を掻いた。

 

「あはは、こんな恰好ですけど歴とした女の子ですよ。この学園は生徒の自主性や個性を尊重するのがモットーだと伺ったので――改めて、僕の名前はシャルロット・デュノア。これから三年間よろしくお願いします」

「くっ、こんなに可愛い子が男の子の筈がなかったか……!」

「まあ男性IS操縦者なんてそうそういないよねぇ」

「女の子でも全然アリ。ってか余裕ですがなにか?」

 

 至極勝手な期待(あて)が外れた形ではあったが、クラスの反応は頗る上々。何やら異様な熱を上げて喜ぶ者も少なからず居るが気付かないふりをしておく。その方がいい。

 

「あ、皆さん静かにしてくださいねー! さっ、次はボーデヴィッヒさんの番で――――」

 

 山田教諭が()()()()とざわつく教室に声を張る。こうした彼女の困った様子にもはや慣れ親しんだクラスの皆々はそれを微笑ましく思いながら静粛するのが常だった。

 そのまま、静けさを取り戻そうとする室内に。

 

「仁、と言ったな」

 

 一閃。一声。一言が発せられる。

 閃くと表するに相応しい。薄さと鋭さ。尖れた針のように、研がれた刃のように、冷徹な音。

 銀白の煌めき、彼女の存在は室内に踏み入ってきた時から気付いていた。いや、その容姿、その佇まいから醸し出される存在感を無視できる者こそが異常であろう。

 空間に解け込む様を錯覚する()()の色彩、白銀の長髪。

 シャルロットさん以上の幼さで象られる面差し、そしてその左目を覆う黒い眼帯。

 シャルロットさん同様のスラックス、しかし少女は黒革のロングブーツを履き、裾をブーツに入れ込んでいる。それは、いつかどこかで見覚えのある軍服の装い。

 床を打つ、軍靴の音。

 山田教諭の横合いを擦り抜け、少女が己に歩み寄る。開かれた右目で己を見て、見据え、睨み、射抜きながら。

 

「貴様が、日野仁……日野、仁ッッ……!!」

 

 軍靴が床を――踏み抜く。踏み込み、跳躍する。

 着席する自身と直立した彼女との身長差はほぼ無いに等しい。視線は依然として真正面からこちらを貫いている。

 急速接近する間合。もう半秒と掛からず我々は衝突するだろう。このまま彼女がただ前進したなら。

 少女は踏み込みと同時に右腕を振り被っていた。つまりは打撃。

 肘の直角的な折り込みと直線的体捌きから、それが軍隊格闘に系統付く技術であることは推察できた。

 見えている。そう捕捉し(みえ)ている。

 これから己が被るであろう攻撃を我が感覚器(ハイパーセンサー)は寸分違わず捉え、既に打点の予測と最適な回避行動の算出を終えていた。

 躱すことは容易だった。席から通路後方へ退がるだけで事は済む。

 そうしない理由は皆無。不当な暴力から身を守る努力をどうして惜しむことがあろうか。

 ほんの半歩分、後ろに行く。ほんの半歩だけ後退る。

 

「――――」

 

 開かれた右目が己を見ている。

 その右目が。

 右目から。

 溢れ出てくるもの――――涙。

 

 

 左頬に衝撃を覚える。少女の拳が己の顔面を打ち据えた。

 

『…………』

 

 全ての音が消え去った。いや、息を呑む気配だけを周囲に聴いた。

 クラスメイトの少女達の心胆に奔った衝撃は、あるいは己のそれ以上であったろう。

 人が人に暴力を振るう光景は、正常な倫理観を持つ人間に強い忌避の念を齎す。逆説的に、その厭わしさこそが精神の健全の現れとも言えるだろう。

 であればなるほど、我がクラスメイトの皆々は至極健全で、真っ当な人間性を備えた尊敬すべき人々であったことを実感し、彼女らと勉学を共にできることを光栄に思う。

 ……などと、埒もない思考が脳内を走った。

 それは紛れもなく現状理解の困難さから脳が起こした現実逃避に他ならない。

 現実に復帰する。

 拳打の衝撃で席から転げ落ちるようなことはなく、自身は変わらず着席してその少女と相対していた。

 そして少女もまた変わらず、こちらを睨み据え、決して視線を放さない。

 

「よくも、よくも……! 貴様がいるから……貴様が、教官を……あの人を……織斑千冬を()()()()()したのか!?」

「何故……」

 

 軋み上がるほどに歯を食いしばり、歯列からは烈しい怨嗟が溢れ出る。

 声に発した言葉を再度胸中に唱えた。何故。

 その純粋過ぎる“憎悪”を、何故、彼女は己に抱くのだろう。

 

「許さんぞ、貴様を……貴様――――」

「オマエ」

 

 影。頭上を何かが飛翔した。

 何か……少年が。

 眼前の少女目掛けて。

 

「!」

「なにをやった」

 

 超低空の飛翔。飛翔と見紛う速度、距離の跳躍。

 少年は少女の頸を掴み取り、肩を踏み付けてそのまま地面に蹴倒した。

 

「がっふ!? 貴様っ、織斑一夏! はんっ、教官の弟を僭称するだけは――――」

 

 馬乗り(マウントポジション)に少女を拘束した少年がまず最初に行ったのは、詰問でも一方的暴力の仕返しでもなく。

 右手に握ったボールペンを少女の顔面へ振り下ろすことだった。

 

「ぇ?」

 

 死ね

 

 音はなかった。

 ただその意思だけは明白だった。

 この時点で一秒半にも満たぬ。まだ誰にも見えてはいまい。少年の、その、殺戮行為は。

 己だけが、己の目だけが見ている。

 遅滞する時間感覚の中でゆっくりと落下していく鋭利なペン先とそれを呆然と見上げる少女の瞳。

 椅子を蹴倒し、一歩を踏み出す。

 水中を泳ぐに似た過負荷。精神の焦燥が真実筋肉を焼き付かせていた。

 間に合え。否、断じて間に合わせる。

 手を伸ばす。

 尖端が落ちる。

 大きな瞳へ、真っ直ぐに。

 その合間へ手を。

 

「っっ……!」

「!?」

 

 皮膚を破り、肉を掻き分け、骨の隙間を縫って、ペンが止まる。尖端は――寸での位置で少女には届いていない。

 驚愕の気息は誰のものだったろう。少なくとも、喉奥から漏れ出そうとする苦悶を封じることに勤しむ己のものでないことは確かだ。

 少年の華奢な肩、身体を背後から抱き竦め、後ろへと退いた。この行為には酷い既視感を覚える。あの時対面していたのはセシリア嬢だったか。このような感覚、二度も味わいたいものではない。

 

「ジンっ! 手が……!」

「一夏さん」

 

 暴れ出そうとする少年と、取り出させようとする手を抑え込み、覆い隠す。

 駄目だ。今それを衆目に晒してしまえば最後、もはや事態を収拾できなくなる。

 

「勉強机を足蹴にするが如きは、議論の余地なく大変御行儀が悪いです。御自重ください」

「はあ!? いや、そんなことじゃなく」

「御自重を」

 

 彼の言葉に今ばかりは聞く耳を持たぬ。明後日にずれた論点を訝る者が果たして幾人居たろうか。

 掌に突き刺さっていたボールペンは抜き取り、既に己の上着の内ポケットに仕舞った。

 貫通した傷は塞がり、痕跡すら残っていない。

 だが、流出した血液。これだけは。

 

「仁」

 

 いつの間にか、シャルロットさんが傍らに立っていた。そして手には白いハンカチ。それで己の手を、表面の付着物を素早く拭い去る。

 そうしてハンカチは未使用の面を表に折り畳み、何事もなかったかのようにポケットへ仕舞う。反問の隙も生じぬ早業だった。

 その時、ボーデヴィッヒが仰臥から立ち上がる。右目では憎しみの光が炎を上げていた。

 

「貴様らぁ!」

Stillgestanden(直立姿勢)!」

「!」

 

 裂帛の号令が空間を打った。

 織斑教諭の発したそれに、一早く反応したのは誰あろう銀髪の少女。

 背筋は鉄心が通ったかのように伸び、両の踵が打ち合う。直立不動。微動だにせず少女はその場で静止した。

 

「いい加減にしろ。ここは動物園の檻の中か。猿ではなく賢しくも人間を自称する心算があるなら自己の身分と自己が現在立つ空間の意義を思い出してみろ。IS学園所属、日野仁、織斑一夏、ラウラ・ボーデヴィッヒ」

 

 かつかつと歩み、一人一人を見据え、噛んで含め言を叩き付ける。

 我々のあらゆる行動が、今や彼女の許可なしには封殺された。そう……少女が織斑教諭を教官と呼ぶ理由を己はまさに体感している。

 

「二度は言わん。黙って宛がわれた席に着き、今日一日粛々と授業を受けろ。異議はあるか」

 

 あろう筈がない。教室内の沈黙にはたった一つの共通見解が示されていた。かのボーデヴィッヒすら雷同するほどの。

 しかし。

 

「織斑先生。発言の許可を頂けますか」

「言ってみろ」

 

 この愚か者は何を言い出す気だ。そんな声なき無数の言葉が己を刺し貫くようだった。

 

「治療を行うべきです」

「ああ、そうか。分かった。山田先生、すまないが日野に付き添いを」

「いいえ、自分にではなく、彼女に」

 

 己は少女を、ボーデヴィッヒを手で示した。

 織斑教諭が怪訝に眉根を寄せた。

 当のボーデヴィッヒは、己の言葉を聞いた途端忌々しげに顔を顰めた。

 

「不要だ。この程度の負傷。そして貴様の気色の悪い気遣いも……!」

「早急に治療すべきです。指骨に後遺症を残すやも」

「黙れ」

 

 ――――己の骨格(フレーム)は今や純粋な生体ではない。ISの装甲と同等か、それ以上の硬度を持った特殊合金製。つまりは金属の骨。

 金属製の頬骨をかの少女は手加減も無しに殴り付けたのだ。そうして拳が被る負荷は尋常のものではないだろう。

 

「ボーデヴィッヒさん」

「貴様が! 気安く私の名を呼ぶな!」

「命令だ。ボーデヴィッヒ。医務室に行き治療を受けろ」

「――は! ラウラ・ボーデヴィッヒはこれより医務室にて治療を受けます」

 

 ノータイムの復唱、そして敬礼。その様を目の当たりにすれば彼女が元、あるいは現軍属であることは疑う余地もない。

 ボーデヴィッヒは踵を返し、教室を後にした。

 

「山田先生」

「は、はい!」

 

 時間が停まったかのように硬直していた山田教諭が動き出し、少女の後を追って教室を飛び出していった。

 後に残された我々一同を織斑教諭はもう一度見回して、微かに溜息を吐いた。

 

「一時限目は自習だ。教科書706ページ第二章第六項が次の授業の該当箇所だ。予習の参考にしろ」

 

 黒板型ディスプレイに同様の事柄を記載すると、織斑教諭もまた教室の扉に向かう。おそらくは山田女史を追い掛けるのだろう。

 ふと、そこで彼女の足が止まり、首だけを巡らせ振り返った。

 

「オルコット、学園内であっても許可された空間外でのIS展開は規定違反だ。例外なく厳罰に処す。心得ているな?」

「……ふふ」

 

 織斑教諭の言により、反射的に己もまた彼女へ振り返っていた。教室後方に居る筈のセシリア嬢を。

 彼女はいつもながら優雅に、行儀よく着席していた。その姿は平素の何一つ変わることはない。

 優美に微笑み、金糸の髪は掻き上げられ……その、左耳の蒼いイヤーカフスを、指先で弄んで。

 

「ええ、勿論ですわ。織斑センセイ」

 

 

 

 

 

 

 

 



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48話 飾り付けをしましょう

デュノアくんは顔が広いなー(棒)




 

 

 

 女子寮は基本的に二人一部屋が通例であるらしい。だからこのように、一部屋を丸ごと一人で使える状況は珍しい……とは、同級の女子生徒達の言。

 こちらでいろいろと仕事をしなければならない身の上として、個室の確保は当然の措置だった。どのような根回しの成果なのかに然して興味はないけれど。

 とにもかくにも、好都合には違いない。

 

「同居人なんていたら、おちおち内装の()()()()もできないしね」

 

 独り呟いてうんうんと頷く。そうして、つい昨日から住み始めた新居を見回した。

 ベッドとデスクとソファが一つずつある。学生寮据え付けの家具ならそれだけで十分だろう。

 それだけ。そう、この部屋にあるのはそれだけだ。あるだけ邪魔だし、壁や天井にタペストリーだのクロークだのラックだのエアプランツだのといった塵屑(インテリア)を設置してしまったら、それこそ――――君との思い出を飾れない。

 空中にホロ・ディスプレイを投影。カメラを起動して室内をスキャンする。

 

「えぇーっと、間取りがこうで、壁の面積がこうで……ライトの位置が微妙かなー。あ、でも枕元が丁度壁だ。よしよし……天井には、これとこれとこれとー……これも! えへへへ……」

 

 目当てのもの、お気に入りのもの、滅多に手に入らないもの……日付と時間とサイズと解像度とシチュエーションと部位と表情とetcetc……、それぞれ細かにカテゴライズした“思い出”をこうして紐解く度に心は温まり、顔はだらしなく綻んだ。

 出力位置の設定が完了し、表示開始のアイコンが現れる。灯を消して部屋を暗くすれば遂に準備は整った。

 表示をプッシュする。

 部屋の飾り付けが始まった。

 

「くふ……」

 

 壁に、天井に、デスクに、閉め切ったカーテンに。

 枕元で、シーツの上で、ソファの傍で。

 それはフォトであり、ムービーであり、スライドショー。空間投影ディスプレイによって室内の上下左右あらゆる面を、空中を征圧、席巻、占領する夥しい男性の姿。

 彼、彼、彼、彼。

 

「ふふふ、くふっ、あはははははははは」

 

 生真面目な彼は真剣な顔をしていることが多い。無表情とは違う精悍な静の貌。

 笑った顔は稀少だった。でも皆無じゃない。時折見せてくれる笑顔の穏やかさ、何より優しさは自分を虜にして止まない。

 怒った顔はもっと稀少だ。苛立ちも、憤りも、彼は固く胸の内側に収めて、一徹の理性で物事に向き合おうとする。その誠実さにいつも心打たれた。

 驚いた顔、戸惑った顔、呆れ顔。

 彼を表情の変化に乏しい無感動な人間だ、などと評価する無知蒙昧の愚か者には解るまい。彼はとても表情豊かで、情感に溢れ、そして思慮と慈愛の権化なのだ。

 悲しみを露にすることは極め付けに少なく、涙を流す彼の姿は過去から現在に至るまで遂に見付けることすらできなかった。

 彼は、自己憐憫を極度に嫌った。いや、自分の為の感傷を自分に許さなかった。

 彼が怒り、悲しむのは、いつだって誰かの為だった。

 それが、どんなに、尊いことか。自分にはよく、よく解る。

 

「仁……」

 

 ベッドに倒れ込み、壁を見詰める。

 枕元には、彼がアルバイト先で転寝(うたたね)をしている時の画像を映し出していた。普段はあんなにも大人びている彼が、寝顔はこんなにも愛らしいなんて。

 

「あの日、君を見付けた時から僕は……」

 

 絶望、諦め、常に傍らに寄り添う死期、死ぬその瞬間まで拭うことなどできないと思っていた孤独。

 それらはある日突然、“光”に払われて見えなくなった。見えたのは、ただ一人。この目に見えるのはたった一人だけ。

 

「君の愛が欲しくて堪らない」

 

 完璧な、完全な。

 無いと決め付け、いや思い知った筈のそれが、本当は存在した。その事実に驚喜した。真物(ホンモノ)のそれに狂喜した。

 無償の。

 

「……もっと早く、君に逢いたかった」

 

 ポケットを弄り、それを取り出す。

 白いハンカチ。広げれば鮮やかな紅が痛いほどに目に突き刺さる。彼の赤、彼の色、彼の血、彼の命の雫だ。

 それを、顔に押し当てた。

 大きく息を吸い込む。鼻腔を、肺を満たす生き物の臭い。彼の匂い。

 臭腺を刺激したそれが、鼻筋から脳へ、脳から脊椎を通して全身へと行き渡るのを感じる。びくびくと背筋が震えた。甘い痺れに手足が力を失っていく。胸の内側で心臓が跳ね返り、激しく血流の増した体は燃えるような熱を発した。

 

「あぁ、仁っ、ふっ、く、んんっ、仁、仁、仁、仁、仁……!」

 

 彼の名を呼べば呼ぶほど何かの高まりを感じた。

 このまま、してしまおうか。爛れた考えが頭を過る。

 いや、手で触れなくても同じだ。この香りを嗅ぎ続けていれば、遠からずおかしくなる。すぐそこまで来ている。

 それは紛れもなく絶頂の兆しだった。

 ――その時、電子音が室内に響き渡った。

 

「ッッッ……!?」

 

 途端、精神と肉体は冷えた現実へと引き戻される。

 

「……」

 

 上体を起こしてデスクに置かれた端末を睨む。今ならば視線に込めた憎悪で人を殺せそうだ。

 それは着信の呼出だった。発信者表示は、非通知。

 指向音声や無線機器は使わず、端末を直接手に取って耳へ押し当てる。

 

「……もしもし。何の用? 定期連絡にはまだかなり間があるけど。盗聴リスクを病的に嫌ってるのはそっちでしょう…………別に。僕のイラつきなんてどうでもいい。御機嫌取りが仕事じゃないんだろ。要件を言いなよ」

 

 ディスプレイを立ち上げ、“思い出”を収納する。

 この通話相手の不愉快な声を聞かされながら彼の顔を見ているのは苦痛であり、何かが勿体なかった。

 

「対象とのコンタクトタイミングは僕に一任されてた筈だよ。それこそ関係ないね……私欲? 当然だろ。僕がお前達と取引したのは僕の私利私欲を満たす為だ。今更とやかく言われる筋合いじゃない。義理すら怪しいよ……私欲を糺されるべきは僕じゃなくお前だろ、オータム」

 

 発話スピーカーから笑声が鳴った。歪み捻じれた不快な音。獣の吠声(はいせい)にも似た女の哄笑。

 迷いなく終話ボタンを叩き、端末をデスクへ放った。

 走狗(メスイヌ)が。スコールにだけ尻尾を振っていればいいものを。

 

「はぁ……仁、君の優しさが少し恨めしいよ。あんな女、あの日に殺してしまえばよかったのに」

 

 しょうがない。決して責めてなんていないよ。だって君は、慈愛の人だもの。

 

「ん……」

 

 不意に、扉をノックされる。

 千客万来とでも言おうか。有り難いとは思わないけど。

 しかし、この来客に関してはきちんとアポイントメントがあった。

 扉を開き、その人物と対面する。

 

「こんにちは。顔を合わせるのは初めてだったね」

「ええ、基本音声通話だけでしたから」

「入って」

 

 一人の女子生徒を室内へ招く。

 

「連絡した通り、サンプルの回収に来ました」

「あー……あははは……あのー、もう少しだけ、待っててもらえたりしない? ちょっと使っ、や、暫くしたらすぐに持って寄越すからさ」

「? 別に構いませんけど……あまり汚さないでくださいね。貴重な生体サンプルですから」

「わかってるわかってる」

 

 少女はポケットからメモリカードを取り出してこちらに差し出した。

 

「入学から昨日までの彼らの周辺状況と監視記録のアップデート版です。以前からの報告データとそれほど変わりませんが」

「ありがとう」

「いえ、そういう取引ですから」

「うん、取引だからね」

 

 受け取ったそれを大事に仕舞う。

 

「君みたいな協力者がいて助かるよ、更識さん」

「簪、でいいですよ。そしてこちらこそ、シャルロット・デュノアさん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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49話 ある少女の悲劇と、喜劇の幕開け


隻狼たのちい!(最近なにかと忙しく、ものを書くという作業になかなか入れませんでした。糞のような更新頻度本当に申し訳ないです)




 それは明確な拒絶だった。

 

『ラウラ、お前の盲信は痛ましい。私は完全などではない。私は完璧などではない』

 

 あの人と二人、茜に焼ける空を見ていた。

 

『私は不完全だ。私にはどうしようもない欠落がある。この胸に、埋めようのない虚を抱えている』

 

 彼女は苦笑する。自嘲の色濃い笑み。自分が見たことのないひどく人間的な貌で。

 

『だが、それでいいと思っている。それで構わないのだと教えられた。あの男が、私にそう言ってくれたんだ』

 

 次に現れたのは、暗雲を吹き払うかの如き光明、煌めくような笑顔。

 

『あの男は私の虚無を理解し、許し、癒し、そうして――――愛してくれた』

 

 私の知らない教官が、私の知らない織斑千冬が、私の知らない女がそこに立っていた。

 愛に身を侵すただの女が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「白式を?」

「ああ」

 

 放課後、大半の生徒らが教室を後にした頃。

 織斑教諭は首肯する。

 

「先日の所属不明機による襲撃。学園は現在、その詳細を調査、多方面から情報を収集している。それに伴い直接戦闘を行った白式には調査委員会から戦闘記録の開示請求が為された」

「や、戦闘記録って言われても……」

「要はお前が白式越しに見聞きした敵機との戦闘、その内容をデータと本人の証言付で寄越せとそう言っている」

 

 溜め息混じりに千冬さんは肩を竦めた。

 

「つまるところ事情聴取だ。不明機体はほぼ無傷だが肝心のコアは損壊、もとい全壊してしまった。お前の、近年類を見ないほどの技の冴えのお陰でな」

「褒めてないよね、それ」

「私は褒めるに吝かではないよ。しかしまあ、調査員や研究者連中からはブーイングの嵐だった。聴取の際の待遇は目撃者より犯罪者のそれに近くなるが我慢するように」

「バリバリの私怨じゃねぇか!」

 

 発奮する一夏少年を、教諭は実に美しく笑い飛ばす。

 白式は提陀羅共々、書類上国家ではなく個人での所有を許された稀有なISである。その正しく専用機を短期間とはいえ没収しようというのだから、少年言うところの私怨、その根深さを窺える。

 

「長くて三日ほどだ。ISで鍛錬がしたければ大人しく訓練機を使うがいい。申請から使用許可が下りるまで一週間掛かるが」

「うわ意味ねぇ……でもさでもさ、放課後の自主練は? 折角今までこつこつやってたのに。ほら、今回は上からの指示でIS使えないんだし、融通利かせてもらえたりー、ねぇ? 訓練機三日間だけ優先でとか。やっぱりさ、毎日の積み重ねが大事だし? ね?」

「きちんと以前から申請を出していた者から横取りするのか?」

「うぐっ」

「諦めろ」

「ふぐぅ……ジンと自主練……」

 

 唇を尖らせる少年に、思わず笑みとフォローを送る。

 

「鍛錬は徒手でも可能です。あるいは久方ぶりに木剣を振るうも一興でありましょう。何れにせよ、お付き合いします」

「ジ~ン!」

 

 感極まった、といったポーズと声で少年は己の首に抱き着いた。

 再び目前の美女が溜息を零す。そして、じとりとした眼差しに呆れの色彩をふんだんに載せて我々を見た。

 

「またそうやって甘やかす。お前達もたまには自己一人と向き合い気組みでも練ったらどうだ」

「甘えじゃないですぅ。純粋な鍛錬と向上心ですぅ」

「……」

「ふひまへん。いひゃい。いひゃいでふ。ひょうひのひまひた」

 

 一夏少年の両頬を千冬さんは抓み、暫時ぐにぐにと左右に引っ張っていた。かと思えば伸長の限界点で突如指を放し、弾力に富んだ皮膚がぺちんッと勢いよく戻る。実に痛そうだ。

 赤く腫れた頬を擦る一夏さんを後目に、千冬さんは踵を返す。

 

「以上、了解したか? なら織斑は研究所B棟へ向かえ」

「は~い……」

 

 席を連れ立つ。ごく当然に少年に供する為であった。しかし。

 

「ああ、日野は待て」

「は」

「向こうからの達しでな。聴取は織斑一名のみ。付き添いは遠慮願うとのことだ」

「んぁ? なんだそりゃ」

 

 少年の頓狂な声音に、内心で同意する。

 そしてふと、募るのは……細やかな違和感。

 

「衆人環視の凶行とはいえ、所属不明且つ無人稼働の新ナンバリングISなど最重要機密に指定されて然るべき代物だ。機密漏洩に気を遣ってのこと……それが調査委員会の言い分らしい」

「ふーん」

「そう拗ねるな。今扱ってる案件が一段落着きそうでな。今夜は夕食に顔を出せる」

「え、ホント?」

 

 不満げだった表情は一挙に消え去り、花が咲くような笑顔が少年の面を彩った。

 千冬さんと笑みを見合わせる。

 『現金だな』『かもしれません』。言葉も要らず、そのような意思を共有した。

 

「そ、そっかそっか! じゃあ買い出しに……って時間ないし」

「御心配なく。自分が参ります」

「うん! ありがとっ、ジン。えへへ……よぉし、そうと決まったら献立考えなきゃな~」

「やる気は結構だが、調査官の質問にはちゃんと応じろよ。間違っても料理の講釈なんてものを聴取記録に載せないでくれ。後で小言を喰らうのは私なんだから」

「わかってるってば!」

 

 足取りも軽く少年は教室を出る。手を振りながら廊下を行く一夏さんと一差しの視線を呉れた千冬さんの背を見送った。

 その時にはもう、己は忘れ去ってしまった。僅かに浮かんだ違和感など。

 もっと思案すべきだった。推察を止めるべきではなかった。

 

 ――――後悔を許されるのは、いつだって事が終息した後なのだから。

 

 その自然(じねん)を、己という愚か者はすぐに忘れてしまう。

 

「ひ、日野さんっ!」

「は」

 

 振り返れば廊下の向こうに、更識簪さんが立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 授業終了と共にかの人を探して校舎を歩き回り、思いの外あっさりと見付けた。挨拶もそこそこに、問答する題目は一つきり。

 

「何故ですか教官!?」

 

 人気の失せたエントランスを木霊する叫び声。

 対する女性にはしかし、それは何一つ響いてはくれなかった。

 

「何故は無い。私は教員だ。教官ではない」

「いいえ! 貴女は教官です。最高の指導者であり最強の操縦者。それが貴女だ!」

 

 それが過不足ない事実だ。彼女には人類における上位種と評されて然るべき能力がある。

 

「貴女はこんなところで足踏みしていてはいけない」

「こんなところ、か」

 

 教官は苦笑する。

 そうして、疾うにこちらの思考など読み切っているだろうに、それでも彼女は問いを返すのだ。

 

「気に喰わないか、この学園は」

「無論です」

 

 歯噛みする心地で答えた。

 ISは兵器だ。

 対外的にいくら用途と呼び名を変えようとも、そのマシンに求められる運用方法はただ一件。戦争行為における目標敵勢力の殺傷と破壊である。ISとはその為の機械装置に過ぎない。

 ISは、兵器なのだ。

 ここはその操縦・整備・開発・研究技術を教授する為の学び舎であるという。なるほど、ISは地上最高最強の名を(ほしいまま)にする超科学技術の結晶。それを欲する各国の思惑に疑問はない。一国家の技術独占を嫌ったこの見せ掛けだけの教育機関設立も、まだ理に適う。まだ、妥当な措置と言える。

 だが、実態はどうだ。

 殺戮機械を流行りのファッションか、高価な玩具程度にしか思っていない奴輩。地上最強の兵器を駆る者としての矜持も、相応しい担い手足らんとする志も無い。平和ボケした愚劣の群。ここはその巣窟だ。

 何よりも――何よりも我慢ならないのは、この低次元の坩堝にかの御方が飼い殺されているということ。

 その事実に虫酸が走る。

 

「戻りましょう、隊へ。そして今一度お導き下さい。貴女さえいれば我々は……私はもっと高みへ行ける。共に!」

「……」

 

 彼女を仰ぎ見る。何時かの、茜色の光景を幻視する。

 必死の説得に返されたのは……静かな嘆息だった。

 

「少しだけ意外だよ、ラウラ」

「え……?」

 

 笑みを浮かべて織斑教官は小首を傾げる。

 それだけでこんなにも簡単に自身は動揺した。その優しげな声色と、何より姓ではなく名を呼ばれたことに明後日の喜びなど覚えて。

 

「それは、どういう……」

「いやなに。初めて会った時から思っていた。お前は純粋だと。危ういほどに、不純がないと」

「は、はぁ……」

 

 誉め言葉と受け取るべきなのか。判別もできず、奇妙な擽ったさに戸惑う。

 

「お前の言葉には嘘がない。打算がない。いつだって吐いた言葉の通りだ」

「と、当然です。自分は教官に対して絶対に虚言など吐きません」

 

 上官とは絶対至上。軍組織においてそれは不文律だ。そしてラウラ・ボーデヴィッヒにとっては織斑千冬こそ絶対至上の存在である。

 そんな人物に、どうして虚誕妄説を弄することなどできようか。間違ってもありえない。あってはならない。

 だからこそ迷いなくそのように答えた。

 

「そう、だった筈なんだが」

 

 しかし、彼女はなおも笑みを湛え。

 

「御為ごかしは感心しないなぁ」

「おためごかし? あ、え、一体、どういう」

「んー? だってそうだろう。お前は、この学園の生徒らの意識の低さを嘆き、私の境遇を憐れだと言った。だからこそ私に、またドイツで教官の任に着くよう進言した」

「そ、その通りです! こんな低レベルな場所で教官の、織斑千冬の能力は十全に発揮できない。だから――」

 

 だから、私と一緒に――――

 自分がその後に何と口にし掛けたのか、どうしてか自分でも分からなかった。確かめる術も既にない。発声器官も、思考回路も、機能不全を起こしていた。

 女が自分を見下ろしている。

 吐息が頬を撫でる。そんな距離で。

 

「それ、本心か?」

「ぁ……」

 

 漆黒の瞳が、こちらの眼窩を覗き込んでいる。その奥の、さらに奥。魂までも見透かされて。

 気付くと口の中がカラカラに乾いていた。喉が塞がれ、ほんの一声上げることさえ困難なほどに。

 

「そ……そう、です。じ、じ、自分は――」

「本当に?」

 

 血を吐く思いで絞り出した言葉は、僅か一語の問い掛けによって掻き消えた。

 違う。これは、違う。違うんです。

 何が。

 自分は、決して、断じて。

 何が。

 

「さも、私の為であるかのようにお前は言う。さも、私を想いやっているかのようにお前は言ってくれる」

「そ――――」

「嘘だな」

 

 嘘なんて。

 

「本当の“望み”を隠して、尤もらしい理屈を並べる。軍人としての矜持? IS操縦者としての志? うん、どれも違うな」

「わ……私、は……」

「その“望み”が、ジン(あいつ)を憎む理由なんだな」

「!」

 

 優美な指が、核心に、己の心臓部に触れた。

 

「自分だけのモノを、そう思っていたモノを奪い取られた。だから何としても奪い返す。本心を小賢しい大義名分で覆い隠してでも」

「…………」

「クッ、フ、フフフ。お前は可愛いなぁ」

 

 頬を、彼女の手が撫でる。労わるように、優しく、優しく。

 けれどその微笑に含まれているのは、憐憫でさえなくて。

 

「でも、無理なんだラウラ。お前の求めるモノはここには無い。だってお前は奪われてなどいないんだから。お前が奪われるモノなど、どこにもないんだから」

 

 それはまるきり、子供の駄々を宥める大人の微笑。

 彼女は自分に心底()()()いた。

 

「初めから、私はあいつのモノなんだよ?」

 

 どこまでも優しげに、私の知らない女が、織斑千冬のような貌で、織斑千冬のような声で、この上なく柔らかで甘やかな拒絶を言い聞かせてくる。

 

「現状の配置が不満ならば転属願いを出すがいい。その程度の融通が利く地位に着けるだけの力を、私は与えた心算だが……ああ、なんなら私から上層部に口添えしよう。その気になったら何時でも訪ねてくれ」

 

 彼女はそれだけ言うと踵を返した。

 私はただその背中を見送った。何も出来ず、何も言えず、ただ立ち尽くして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ラウラ・ボーデヴィッヒは幸福だった。

 彼女に両親はない。彼女は、選抜された精子卵子の人工授精と特殊な培養を経て製造された。俗にデザイナーチャイルドと呼ばれる存在だった。

 国家主導で極秘裏に行われた遺伝子強化改変実験。その完成品こそが彼女だ。

 理想の人造兵士……生み出された理由と生かされる理由、その二つを彼女は、その生命が形を結ぶ遥か以前から約束されていた。

 普く人が抱え、生涯を懸けてなお見付けることさえ出来ない自己の存在意義、至上命題、生存理念。探し求めるまでもなく、それは既にその手中にある。

 ラウラ・ボーデヴィッヒは、きっと幸福だった。

 

 少女にとって生きるとは即ち完璧な兵士となる為の弛まぬ練達である。

 完璧な兵士足らんとして、あらゆる努力を払ってきた。目覚めた瞬間から目を閉じ眠っている間さえ肉体に、脳髄に、精神に無数の教練が施された。

 正式・非正式の別を問わない膨大な銃器兵装の、多種多様な車両船舶航空機の操法技巧。一般教養からサバイバル、戦術戦略論に至るまでの広範な知識。

 どれだけの時間を費やしても足りはしない。寸暇を惜しんでそれらを学び、溢れそうになれば無理矢理にでも叩き込んでいった。

 

 全てを注ぎ込んだ。自分自身の血肉骨心、あらゆる全てを、全てを。

 そこには一片の猜疑もない。

 その過程で己自身を襲うどのような艱難辛苦も甘受した。

 そこには一片の躊躇もない。

 ただ一つの到達点を目指し歩むこと。生きる意味は、どこまでも単純にして明快だった。

 

 そして、結果は確実に表れていった。

 優れた戦闘能力と理想的な軍属としてのメンタリティ。生体兵器“ラウラ・ボーデヴィッヒ”の真なる完成は目前に在った。

 

 ――――ISが、現れるまでは

 

 現行兵器の尽くを凌駕する性能と現代から数世紀は先を行く科学技術。何よりも、核に代わり得る圧倒的武力。

 世界各国が、延いては本国がそれを欲するのは自明であった。そして当然の成り行きとして、ドイツ航空軍にはIS特殊部隊が新設されることとなる。

 実戦のノウハウなどあろう筈もない究極の最新兵器。その先駆者にラウラ・ボーデヴィッヒは抜擢された。

 その大抜擢を受けても少女に然したる感慨はなかった。()()()()だからだ。完璧な兵士になる為の条件項目に、新たに一つ兵科が加わったに過ぎない。

 努力、ですらない。これまでの夥しい教練と同じように、全霊を以て、その到達の糧とする。

 

 なるのだ。私は、“完璧な兵士”に

 

 その為ならば、IS適合性向上を目的とした眼球へのナノマシン移植手術――人体改造すら厭わなかった。

 これでより一層、己は完成に近付く。己の生涯は結実する。

 そう信じて。

 

 ――――どんなに、どれほど、なにをしても、変わらず最低値を刻む訓練結果。

 ――――主力戦闘機を上回るその機動性のほんの一割も発揮できない拙劣極まる操縦技量。

 

 適合性向上の為に施された筈のナノマシンは慢性的暴走状態に陥り、装着したISに対して過干渉を起こした。あらゆる操作の制御に致命的な負荷を伴い、装着状態での飛翔はおろか歩行すら(まま)ならない。IS最大の戦術的価値たる超高速機動など夢のまた夢の夢。

 全てが違った。過去己が身に着けてきた技能の尽くが、ISには通用しなかった。いや、それが応用を許される段階にすら昇れない、といった方が正しいのだろう。

 適性。

 ISの性能を引き出す為の絶対条件。

 適性。適性。適性!!

 ラウラに比べれば凡庸な能力しかない一兵卒達が次々にISの操法を体得していく中、少女は一人停滞を余儀なくされた。

 軍上層部や研究者陣の落胆は明白で、彼らの掌返しの鮮やかさは見事なものだった。これまで“完璧な兵士(ラウラ・ボーデヴィッヒ)”の為に費やされた膨大な時間と資金が全て無駄になったと、視線で、時に言葉でそれを露にした。

 かといって自己の製作者達からの至極勝手な失望を、無理もないことだと諦められるほど少女は世を達観できなかった。

 

 出来損ない

 

 少女は、“完璧な兵士”から“出来損ない”と呼ばれるようになった。

 周囲からの悪評に背中を刺される日々。それはとても辛く、悲しいことだった。けれど少女には、それらを表現する術がなかった。怒り、悲しみ、泣く、発想すら浮かばなかった。そんな機能は兵士に要らない。要らないのだから、育むこともない。不遇に嘆くなどという当たり前の行為が、少女には出来なかった。

 兵士としての価値を失う……それは少女の生存する意義の喪失を告げていた。

 少女(ラウラ・ボーデヴィッヒ)は、存在の意味を見失った。

 それは凡そ死と同義だった。

 

『……』

 

 ある日、思い立ち、首筋と鰓骨の間に銃口を押し当ててみた。

 米神では駄目だ。頭蓋骨はなかなか頑丈に出来ている。首からなら、骨の妨害を受けずに脳幹に直接弾丸を届かせられる。

 銃爪に指を掛けた。もう100グラムほど力を込めれば、それで。

 それで、全部終わる、のに。

 

 そんな真似事を毎日繰り返していた。自分にそんなことが実行できる筈がない。死の恐怖、なんて人がましい理由ではなく、それが許されていないから。

 何故なら、自分は今もなお作戦行動中なのだ。完璧な兵士製造という戦略計画の。

 ……計画は、失敗なのかもしれない。途方もなく高価な失敗作がここに出来上がっている。しかし、作戦終了の報は未だ下知されていない。軍務を全うすることなく戦線を離脱するなど最低の、恥ずべき軍規違反だ。

 正規軍士官ラウラ・ボーデヴィッヒに、どうして軍規(それ)が破れよう。それだけが寄る辺である自分に、出来る筈がなかった。

 出来ることなど、何もなかった。

 

 少女にとっての暗黒時代。

 死んだ心を内蔵して屍のように生きるだけの無為の時間。

 

 

 ――――闇は、突如として消え去った

 

 

 一条の閃光が少女の前に現れたのだ。うっかりと触れれば斬り裂かれ、あるいは焼き焦がされるまでの強さ。

 その光は自身を“織斑千冬”と名乗った。

 日本からドイツIS部隊へと招聘された特務教官。現代人に彼女の名声を知らぬ者はいないだろう。第一回モンド・グロッソ優勝者、最強のIS操縦者ブリュンヒルデ。

 自身とは真逆の華やかな経歴を持つ彼女に、無自覚の嫉み僻みを抱いたのもほんの一時のこと。そのような戯言はすぐに塵芥と化す。

 

 全てが変わった。彼女はラウラの全てを変えた。

 彼女の課す鍛錬は苛烈を極めた。在りし日の軍事教練が児戯に思えるほどに。血反吐を地面に巻き散らし、手足の骨が順に疲労骨折を繰り返した。

 しかし変わる。不変にも思えた結果が。

 取り戻していく。求めて止まず、されど諦める他なかった力が。

 いや、過去の自分を遥かに凌駕して。

 

 気付けば、頂点に在った。

 ドイツ航空軍特殊装甲兵科IS配備部隊『シュヴァルツェア・ハーゼ』隊長――ラウラ・ボーデヴィッヒ少佐。それが己の新たな呼び名になった。

 

 一度死した少女を、神話の戦乙女が冥府より蘇らせた。それは慈悲であり救済であり、奇蹟の体験と信仰の始まりだった。

 もはやラウラ・ボーデヴィッヒにとって織斑千冬は絶対至上の、その極致――神。

 崇敬を以て少女はかの存在を、己にもう一度(ひとたび)存在意義を吹き込んだ主を、仰いだ。

 

 今こそ、ラウラは己が生涯を歩み始めた。

 神という完璧な寄る辺が、眼前に顕現を果たしたのだから。

 

 ――――だが今再び、少女は絶望の淵にいる。

 

 完全不変の神の存在を揺るがすモノ。断じて認め難い、認められないモノ。

 その冒涜者の名は日野仁。

 神を穢すモノだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本校舎のエントランスから当て所なく歩いた。ふと、肌に纏わり付く熱を感じてトイレに入り、水道で乱暴に顔に水を浴びせた。

 鏡には、二色。左右で色の違う瞳が、自身を睨み付けている。

 忌々しい金の左目。適合処置(ヴォーダン・オージェ)の後遺症は、紛うことなき自身の汚点。出来損ないの証立てに他ならない。

 己が劣等性、劣る。私が、あの男に――――

 

「ちぃッッ!!」

 

 殴り付けた鏡面は、一瞬だけ亀裂を走らせた後に砕けて散った。白んだ室内灯を反射して宙を舞う破片。欠片となっても当然に、鏡には未だ少女の姿が映っている。

 憎悪に歪んだ少女の貌が。

 どうして。

 どうしてですか教官。

 どうして貴女はあの男を選ばれたのですか……この私ではなく、あの男を。

 

「…………」

 

 握り固めた拳が軋む。先日の傷は未だ真新しいまま骨に刻まれ、このままでは指骨が折れるだろう。慣れ親しんだ痛みだ。今右手を走る痛みにはその兆しが見えていた。

 だがそれでも、激情は止まない。この程度の苦痛では慰めにもならない。

 憎い。

 織斑千冬の絶対神話、最強のIS操縦者という栄光の未来を、あの男はそれ自身の無能によって閉ざした。

 ――名誉よりも、褒賞よりも、世界の何よりも織斑千冬はあの男を優先した。

 憎い。

 憎い。

 憎い!!

 ()()事実が、何よりも。

 

「ボーデヴィッヒさん……?」

 

 背後から声が掛かり、咄嗟に振り返る。接近する人間の気配を失念するなど平素では考えられない油断だった。

 懐のコンバットナイフに意識を向けつつ、その人物と対峙した。

 声色から知れていたことだが、女子生徒である。それも先日、自身と同時に転入してきた少女。名はシャルロット・デュノア。

 金糸のショートヘアに日本の女子高等学校制服にしては珍しいパンツルック(自身のそれは棚に上げるとして)、ともすると少年のような中性の印象を振り撒く美少女。

 それがどうしてこんなところにいる。ここは学内でも辺鄙な立地のトイレだ。

 そうした思考が意図せず苛立ちと共に視線に込もったか。

 

「エントランスを出ようとしたらすごい音がしたんだ。それで気になって……っ! その手」

 

 少女の顔が蒼白になる。

 デュノアはこちらの右手を凝視していた。

 右手からは、いつしか血が滴り落ちている。鏡を殴り割ったのだからそれも当然だろう。

 浅い傷だ。そして無価値な傷だ。価値ある傷とは、苦痛とは、かの御方が齎してくれるものだけだ。

 少女の横合いを擦り抜ける。他者の存在が今はひたすら厭わしい。目障りだ。

 しかし、それは阻まれた。少女が自身に立ち塞がったのだ。

 

「何の真似だ」

「その手だよ。早く止血しないと!」

「不要だ」

 

 近頃と似たようなやり取りをしている。その自覚さえ苛立ちを助長した。

 言い捨てる自分に、しかし少女は頷かなかった。なおもその身で出口を塞ぐ。

 

「退け」

「ダメだ。傷の手当てをさせて。そうしたら通すよ」

「ふざけるな。今すぐそこを退け」

「嫌だ」

「貴様ぁ……!」

 

 頑なに道を譲らぬ少女に、とうとう忍耐が尽きた。それは今日一日の憤りの累積の果て。

 左の平手打ち、それは見事少女の頬を張った。乾いた音がトイレに響く。

 今度こそはと一歩を踏み出し掛け、己の右腕を取られていることに気付いた。

 

「放せ!」

「嫌だ! 手当てするまでは絶対に放さない!」

「このっ!」

 

 振り解かんと右腕を手繰る。最悪、アーツで捻じ伏せてでも。

 そうして激しく動いたことで、右手の傷が(よじ)れたのだろう。血が勢い噴き出し、飛び散ったそれらが少女の顔を汚した。

 

「!」

「……」

 

 その様に動揺したのはむしろ己の方だった。

 対する少女は手を放さない。美しい顔立ちは血で塗れているというのに。

 瞳が真っ直ぐにこちらを見た。己とは違う、美しい濃紫の両瞳が。

 強い意志の光。絶対に譲らないという決意をそれは表していた。

 

「…………勝手にしろ」

「! ぁ、ありがとう!」

 

 観念して、右手を少女に明け渡す。

 筋違いな感謝を送られながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 医務室――保健室は無人だった。医師だか養護教諭だかは出払っているのか、勤務時間外なのか。何にせよ興味はないが。

 ひどく、慣れた手付きで包帯が巻かれていく。留め具を張れば、如何にも仰々しく、そして丁寧な止血帯が出来上がった。

 

「……」

「良かった。そんなに深い傷じゃなくて」

 

 短い吐息と共に少女は安堵を零す。

 おかしな奴だ。他人の怪我に何故こうも大袈裟に一喜一憂するのか。

 

「礼は言わんぞ」

「うん? ああ、そうだね。僕がやりたくてやったことだもん」

「……」

 

 デュノアはそう言って柔らかに笑む。

 一々調子を狂わされる。もはや皮肉さえ尽きたと、早々に椅子を立って出口に向かう。

 

「あ、待って」

「……今度は何だ」

 

 呼び止められることにももう驚きはない。半ば諦めの体で、丸椅子に腰掛けたデュノアへと向き直る。

 紅い陽の光が窓を満たし、室内を染め上げている。日没が近かった。

 デュノアは、こちらを見ている。面差しも、眼差しすら、蕩けるように甘い造型と、色……瞳の色に、微かな羨望を自覚した。

 呼び止めておいて、しかし少女は口火を切らない。何か逡巡を口内で繰り返すばかり。

 

「用が無いのなら――――」

「君は何を奪われたの……?」

 

 見限ろうとした矢先に少女は口を開いた。聞き捨てるには鋭く尖り過ぎた針のような言葉を。

 何だ。こいつは何を()()()()()

 心の動揺と共に、頭脳の冷えた部分が当然の疑問を呈する。

 少女の問い掛けは、明らかに自分(ラウラ・ボーデヴィッヒ)の素性に纏わる何かを知った上でしか発し得ないものだ。

 左目を眇め、少女を睨み付ける。ここは保健室……尋問には打って付けの場所だった。

 

「貴様は何者だ。所属と目的を述べろ。さもなくば……」

「所属はフランスIS総合メーカーデュノア社。役職は社長秘書。目的は、男性IS操縦者の調査と彼らの専用機のデータ・サンプルの収集。それと必要に応じた篭絡、かな」

「なに……?」

 

 自嘲。取り分け嘲りの色濃い笑みが少女の顔を彩った。

 デュノア社、一度ならずその社名は耳にしたことがある。ただでさえその特性上、個々の性能が偏るISの量産機化に成功した企業の一つ。()()()、業績の低迷が見られたが現在ではIS技術関連メーカー内でトップシェアに君臨していた筈だ。

 

「社長秘書が、それも経営者の親族自らスパイの真似事か」

 

 デュノア姓を名乗る大企業の使い走り。その不可解な矛盾を嗤い、そして疑った。こちらを惑わせる為の虚言にしては余りにも粗末である。魂胆も正体も未だ見えてこない。

 ふと、少女の笑みが一層深まる。黒く、淀む。

 

「妾腹の娘は親族として扱われない。僕が都合の好いハニトラ係に使われる理由はただそれだけ。ボーデヴィッヒさんが心配するほどの価値はないよ。僕にも、デュノア社にもね」

「…………」

 

 デュノアの娘は吐き捨てた。はっきりと己の父親を唾棄したのだ。

 親族経営の跡目争いなど自分には縁の無い話であるが、それが往々にして碌でもない末路を辿ることは想像に難くない。

 

「君の事を知ったのは、偶々転入時期が重なったから。何かの作意を疑った本社が慌てて君の資料を僕に寄越してきたんだ。多分、学園に提出されたプロフィールと大差のない。そりゃあもう、御粗末で中身の乏しい資料だったよ。ホント、バカみたいに浮足立っちゃって……」

「ならば何故私を嗅ぎ回る?」

「そんな! 嗅ぎ回ってなんか……!」

 

 椅子を軋ませてデュノアは立ち上がった。しかし、その後に言葉は続かず、すぐに項垂れる。まるで諦めるように。

 

「……そう思われても仕方ないけどね」

「……」

「僕が君に拘るのは……とても個人的なことだよ。本当に個人的な……感傷だ」

「言え」

 

 勿体付けた言い回しに興味はない。私心にせよ組織的意向にせよ敵対の意思を持って近付いてくるというなら即座に排撃し、徹底的に撃滅する。

 今までそうしてきたように、全ての敵を。己以外の全て。全てが敵だった。そうだ……教官だけが、私の。

 

「……」

「うん……()()だよ」

 

 吐息を零し、顔を顰める。まるで見るも無残で痛ましい傷を目の当たりにしたような。

 

「君も失ったんだ。大事なモノ」

「なに、を」

「心臓を抉り取られたみたいでしょ。穴が空いて、そこからどんどん血と熱が失せていく。ゆっくりと自分ってものが死んでいく。でも、現実には、本当には死ねない。自殺すら……できない。君の失った心臓は――織斑先生」

「っ……!」

 

 胸倉を掴み上げる。体格差はあるがそんなもの構いもせず、対する少女を持ち上げ睨め付けた。

 

「貴様、どこまで……! いや聞いていたな!? 先刻、あの場で!」

「ごめん……立ち聞きするつもりはなかったんだ。でも」

 

 剥き出しの殺意を込めた視線に、震えた謝罪は口にしても、しかし少女は臆さなかった。

 真っ直ぐに、見返してくる。意志の光を煌々と湛えた瞳が。

 

「それだけが、拠り所だったんだよね。生きる理由だった、生きる意味だった……生きている証だった。なのに」

「……やめろ」

「無理矢理、気付かされるんだ。そんなもの初めから無かった、って。()()()生まれた時から孤独(ひとり)で、見せ掛けの存在意義に縋りながら生きているふりをする。とっくの昔に死んだ心を未練ったらしく抱えて、まるでゾンビみたいに……」

「やめろっ」

 

 耐えられずに手を放し、背を向ける。耐えられず? 一体、何に……何を恐れて。

 

「君も奪われたんだね。この世で一番大切な人の……愛を」

「やめろ!!」

 

 遂には絶叫していた。誰だ。叫んだのは、自分だった。そのことに気付くまでたっぷり五秒も掛かった。

 

「っ、愛だと!? そんな下らないものとは違う! そんなものであって堪るか!! 私と教官の絆は! 私の教官は! 私っ、の……!」

 

 私の求めるモノ。望みは。

 

 ――――お前が奪われるモノなど

 

 息を呑むほどに綺麗な女性(ヒト)、美しい顔が自分を嗤う。

 頭を抱えた。爪を立てて、皮膚と共に記憶を掻き毟る。消えない。どんなに削っても消えてくれない。

 違う。違う。違う。あんなのは、教官じゃない。あんな。

 

「ラウラっ」

「ッッ!」

 

 甘い香りと柔らかな感触が自身を包み込んだ。背後から、デュノアが自分を抱き竦めていた。

 

「は、放せ……!」

「嫌」

「ふざ、けるな」

 

 当然に、その腕を振り払う為もがく。簡単なことだ。軍隊格闘の技術はもはや骨の髄が記憶している。背後を捕られた程度で何程の問題もない。

 一息で済む。一呼吸分の体重移動と脚の組み変えで、少女をこの硬い床面に引き倒せる。

 そうしない理由がどこにある。

 

「辛い、ね」

 

 こんなにも暖かで、優しくて、脆い。

 少女の華奢な両腕の中は、途方もない安寧に満ちていた。

 

「苦しかったよね……痛かったよね……」

「お前に、私の何が解る」

「わかるよぉ……!」

 

 今度はより一層強く、少女が自身に縋り付いた。

 

「僕も同じ気持ちだから」

「同じ……?」

 

 背中に落ちる少女の声が色彩を変えた。

 先程も聞いた。感じ取った。

 コールタールにも似た黒い淀み。それには馴染みがあった。親しみすら抱くほど身近になっていった、その感情。

 名を“憎悪”という。

 

「ゆるさない」

 

 言霊が瘴気を纏う。自身を抱いている少女が、背後に立つモノが何なのか、分からなくなる。

 それほどの深度で。

 

「僕らからソレを取り上げた奴らを、僕は絶対にゆるさない」

 

 ここへ来て、シャルロット・デュノアの言葉は完全に脈絡を逸した。最初から、正常であったとも言い難いが。

 けれど。

 でも、どうしてか私は、共感を覚える。

 シャルロット・デュノアの憎悪に同調する。してしまう。

 

「どうにも、なりはしない……どんなに憎くても、憎んで憎んで、憎み切って……この手でっ! ころ、殺したと、しても……!!」

 

 血を吐く心地で、自分は殺意を口にした。何故今更この程度のことを躊躇う。殺害願望。人を殺めるあらゆる術を自分は知り尽くしている。自分は生を受けたその瞬間からそれのみを学び、実践し、その粋を求めてさえいたのに。

 あの男を、この手で――――この手で、()()をして、どうなるという? 何の意味がある?

 そうすればあの人の、織斑千冬の愛の指先が己を撫でてくれるとでも言うのか。

 莫迦な。愚かしい。

 解り切っている。無意味だ。無意義だ。きっと、ほんの僅かな自己満足すら得られないだろう。

 ただ空虚なこの胸に、罪の刃が突き刺さるだけだ。そして、罰は、あの人が……。

 

「何の為に……」

「生きる為に」

 

 胸奥から湧き出た自問とも言えぬ問いに応えてくれたのは、背後の少女だった。

 

「僕らは死んでる。意味を剥奪されたから。なら――奪い取るしかない」

「そんなもの、初めから」

「無い、のかもしれない。だから……憎い者から奪い取る。そいつが一番大切にしているモノを、奪う。抉り出して、引き千切って、踏み潰す」

「憎い者から……?」

 

 自分には、すぐにはそのロジックが理解できなかった。

 すぐには、無理だった。しかし、徐々に。

 

「ラウラの痛みを思い知らせればいい。奪われる痛みを。同じだけの痛みを与えて、同じだけの空虚をその胸に穿ってやるんだ」

「同じだけの、痛みを」

「そう。同じでなきゃダメだ。多くても少なくてもダメ。強過ぎる殺意も、優し過ぎる慈悲も、それの純度を下げてしまうから」

 

 それは徐々に、沁み入るように、解けて胃の腑に落ちてきた。

 まるで天啓の如く。

 

「復讐が僕らの意味になる。僕らは正当の、純一の復讐者として蘇るんだ」

「……」

 

 背中が熱い。少女の体温だろうか。ひどく熱い。血が沸くほどに、皮膚を焼くほどに、肉が焦げるほどに、骨の髄まで溶けてしまいそう。

 

「ラウラ……泣くことも許されない可哀想な子」

「――――」

「もういいんだよ。もう、我慢しないで」

 

 背中に、熱が。

 ああ、赤々と燃える鉄杭が、背骨を深く貫いている。

 

「日野仁から、織斑一夏を奪い取るんだ」

 

 ()()()声が響く。とても響く。

 何もかも跳ね除けて、心に響いて塗り込める。

 

「織斑一夏を、殺すんだ」

 

 こころがぜんぶぬりつぶされる――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――VTシステム、強制起動

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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50話 幕間に潜む影


二人は原作よりも少しだけ素直です。




 

 

 

 

 事情聴取……もとい尋問はきっかり一時間で終了した。なんでもIS学園男子生徒に対する公的な拘束時間というものが法律で細々と規定されているのだとか。

 ちゃんと納税しててよかった。やるじゃん日本。

 史上初の無人IS、その物的資料を破壊したツケとばかりに、研究職員の皆さんからの質問攻めは酷烈を極めた。

 回答し終える前には次の質問が飛んでくるのだ。食い気味で。

 ジンのような知識量がない自分には、専門用語で理論武装(まんま)してくる彼らの攻勢を捌くことなど出来なかった。

 ものの十分でへとへと、解放された今はげっそりとしつつ、研究棟からの帰路を歩いていた。

 

「い、一夏!」

「ん?」

 

 背中に声を掛けられ、振り向く。

 小走りに近寄ってくる一人の女子生徒。一歩一歩と踏み出す度に、それこそ馬の尾のように揺れる一つ結びの黒髪。

 よくよく見知った幼馴染、箒だった。

 

「箒? どうしたんだよ。こんなところで」

「お前がここにいると聞いて……」

 

 息急き切らせて訪ねてきた少女は、その割に歯切れ悪く。暫くの間、口の中でもごもごと言葉を弄んでいた。

 

「?」

「っ、んん゛……その、だな。い、今から、ISの自主練に行くんだ。アリーナに。訓練機で……」

「うん」

「だから……だから!」

「おう」

「……ッッ! だ・か・ら!」

 

 見る見る真っ赤に染まった顔が、ずずいとこちらに迫ってくる。

 

「………………練習に付き合って欲しい………………」

「いいぞ」

 

 俯きながらの、それこそ消え入りそうな声だったが、ここまで近寄っていれば聞き逃すこともない。

 ばっと、箒は顔を上げた。唖然として、吃驚して、声を失くしましたとばかり。

 

「ぷっ、ふふ、なに驚いてるんだよ。いいよ? 付き合う」

「で、でも…………仁は……?」

「?? なんでそこでジンが出てくるんだよ。あっ、練習ならジンも呼んだ方がい――――」

「いい!! 呼ばなくていい!!」

「!? びっ……くりした。そう、か? ジンの方が教えるの上手いと思うんだけどな」

「いいんだ! お前が……一夏が、いいんだ」

「ふ~ん。ならいいけど」

 

 まるで絞り出すような必死な言い様に、申し訳ないが笑ってしまう。

 馬鹿にするな! と、いつもみたいに怒り出すかな。そんな意地の悪いことを考えた。

 けれど。

 

「……ありがとう」

「? お、おう。なんだよ改まって。練習に付き合うくらいどうってことないよ」

「……うん」

 

 箒は笑った。いつもの落ち着いた微笑ではなく、それはなんだかひどく儚げなカタチの笑い方で。

 それに少し、戸惑う。

 そこでふと今更に思い出す。練習に付き合うと言っておきながら、自分の手元に肝心のISが無いことに。

 

「あぁ、悪い。箒。俺、今専用機が……」

「いい。分かってるから」

 

 あっさりと箒は答える。何も問題は無い、と。

 

「え?」

「見てくれるだけで、いいから」

「ああ、うん。そっか」

 

 もう一度だけ仄かに笑み。箒はアリーナへ向かって歩き出した。

 当然自分もそれに随う。ぴんと鉄芯の埋まったような、同時に少女らしくとても小さな、その背中を追う。

 

 ――――淋しそうだった

 

 心の中でそんな印象が湧き起こる。

 他人の表情など見ても、自分にはその心情を汲み取れるだけの鋭さはない。皆が皆言う通り、きっと自分は鈍感で朴念仁で空気の読めない人間なのだろう。

 でも、あれは。

 箒のあの笑い方だけは、解る。よく知ってる。

 何年か前まで、朝鏡を見ればそれは見付かった。とても見慣れた、うんざりするほど見飽きた、酷い顔。

 さみしさを我慢して、何もかも諦めようとしていた……自分の顔。

 

「箒」

「ん、なんだ」

「…………えっと、ごめん。呼んだだけ」

「なんだそれは。ふふふ」

 

 ほら、また。

 笑顔に滲むセピアの色彩。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「みつけた」

 

 アリーナの自動ドアを潜る少年と少女。

 目視したことでデータと記憶の照合が、既に完了。捕捉対象化(マーク)

 

「織斑、一夏」

 

 彼らにやや遅れて自動ドアを潜り、手近な施設用端末に触れる。

 

『施設管理ユーザーID……認証。一分後、全ての出入口と隔壁を閉鎖します』

 

 クラッキングプログラムを注入し、他の全端末をダウンさせた。

 ほんの細やかな時間稼ぎ。どこかの大天災でもなければ、学園全域のクラッキングなど通常は不可能だ。

 しかし、きっと十分だ。

 

「日野、ジン……少しだけ待っていて、くれ」

 

 軍靴が響く。真っ直ぐに続く廊下の向こうへ。

 

「貴様に、贈ろう。心を込めて……この胸の痛みを」

 

 心配ない。絶望は、一瞬あれば味わえるんだ。

 嫌になるくらい深く、深く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 奇縁、いや一種の事故現場で面識の叶ってしまった彼女――更識さん。少女の用向きは実に簡明であった。

 

「あの時のお礼に、お、お茶でもいかがでひゅか!?」

 

 場所は学園内商業エリア。多種多様な生活用品を取り揃え、己も一夏少年も共々に御世話になっているスパーマーケットから程近いその店舗。

 機能美を誇る近代建築の多いこのIS学園において、ダークブラウンのウッドデザインをふんだんに取り入れた木造、そして品格と年季を帯びた煉瓦造りの外観、内装。レトロ……いや西洋の風合いを色濃く覚えるここは正しく、アンティーク喫茶とでも呼ばわりたくなる。

 生徒、教員、研究者の別を問わず愛される、ここは喫茶店『あおぞら』。

 そのカフェテラスの一画に我々は腰を落ち着けた。

 彼女は紅茶を、己は店のオリジナルブレンドを頂く。時候の挨拶を済ませ、飲み物に手を付けて一心地。そのあたりを見計らい、己は改めて少女へ頭を下げた。

 

「わざわざの御配慮、有り難う存じます」

「い、いえ! こ、こちらこそ行き届かず……!」

 

 過日の謝礼と彼女は言うが、あの場における己の不甲斐なき対応は謗りを受けこそすれ称賛になど程遠い。より一層、身が縮む思いがした。

 

「……もしかして、ご迷惑、でしたか?」

「滅相もありません。このような御心遣いに何条以て迷惑だなどと」

 

 真っ直ぐに目を見て首を左右する。その誤解だけは正さずに置けない。置いてはならぬ。

 

「実は、この喫茶店は入学当初より目を付けておりました。今までは中々足を運ぶ機会を得られませんでしたが、今回こうして念願が叶いました。更識さんの御蔭です」

「……ぷ」

「?」

「ふ、ふふ、あははは、ご、ごめんなさいっ。ははは、でも、その、やっぱり日野さんはすごいですね……!」

「はぁ……?」

 

 突然少女が笑い出す。口元を手で押さえ、肩を小刻みに震わせながら。

 首を捻る己に対して、更識さんは今一度謝罪を口にした。

 

「言葉遣いとか気遣いとか、ホントにすっごくちゃんとしてて、なんだか同い年の人に思えなくって……あっ、いえ、老けてるとかそういう意味じゃないですよ!?」

「いえ」

 

 

「あ、ねぇねぇあれ!」

「おお、男子だ」

「へー、あたしは結構アリ」

「え!? マジ? 強面だし老け顔じゃん」

「あんたはおっさん好きだもんねー。私は断然もう一人の綺麗な子がいい」

「やーいおじ専」

「キャハハハハ!」

 

 

「……」

「……」

 

 賑々しく、女子生徒の一団が通りを歩き去っていった。

 己に対する忌憚のない品評は別段どうでもよいのだが、それを聞いた更識さんの苦虫をうっかり噛み潰してしまったかのようなその表情がなんとも労しい。

 

「どうか御気になさらず」

「へ!? え、いや、あのっ……す、すみません……」

 

 なけなしのフォローを悲しむより、それを口にさせられた少女の気不味さが憐れだった。

 

「あ、で、でも私はわりと好きですよ! 日野さんの顔、とか……っ! はぅ……!」

「御配慮、確と頂戴します。ですがそれ以上は無用に。傷口に塩を塗り込めておられます」

 

 とりわけ貴女にとって。

 少女の顔が真っ赤に染まる。火を噴く勢いで。

 

「ごめんなさいごめんなさい! こう、今もなんですが……ものすごく舞い上がってしまって」

「それは、またどうして」

「私、男の人とこんな風に一対一でお話したことがなくて……それを今更思い出した所為で余計に、恥ずかしくっ」

 

 眼鏡の下で白黒としていた瞳がとうとう下を向く。俯いたまま更識さんは暫し機能停止した。

 

「光栄です。自分如きをそのような貴重な御相手として選んでいただけるとは」

「そう言う言い方はズルいです! もう! 日野さん!」

「これはしたり」

 

 努めて意地悪く笑みを作ると、更識さんは頬を赤らめながらも笑ってくれた。

 

「……ちょっとだけ意外でした」

「?」

「日野さんって、思っていたよりずっと優しい人なんだなって……あぁっ、元々悪い人って思ってたとかではなくてですね!?」

「重ねて、どうか御気になさらず」

「うぅ、違うんですぅ……」

 

 少女の涙ながらの弁明に、概ね誤解なく頷き返す。思慮が細やかであればこそ、あたふたとする少女はひたすらに微笑ましかった。

 こほん、と咳払いで気を取り直し、更識さんは言を継ぐ。

 

「その、優しい人だって思えたのは、実はもっと以前からなんです」

「とは、どういった」

「私、この喫茶店にはよく来るんです。そうしたら、日野さんと織斑くんがそこのお店で買い物に行くのを見掛けて」

 

 少女は通りの向こうへ目をやった。街路樹に遮られ見通せないが、あちらには確かに件のスーパーマーケットがある。

 なるほど、己の側は露知らず、彼女からの面識だけは得ていたらしい。

 

「織斑くん、日野さんと一緒の時はいつも嬉しそうで。日野さんも、織斑くんと一緒の時の笑顔がすごく柔らかくて……まるで仲の良い兄弟か、親子みたいでした」

「それは、なんとも面映ゆい」

 

 顔の半分を手で覆った己を、更識さんは微笑した。

 ふと、唐突に察するものがある。その笑みは、どこか。

 

「そんな二人が、とても羨ましかった。私も……」

 

 その後に、しかし言葉は続かず。更識さんはティーカップに口を付ける。

 己は気になるまま疑問を口にしていた。

 

「御姉弟がおられるのですか?」

「……ええ。一つ上の姉が一人」

「そうでしたか」

 

 一拍の間を置いて、少女は今一度笑みを浮かべた。それは陽の光めいて、一際明るい笑顔であった。

 

「とても優秀な人なんです。運動も学業も、特にIS分野では第一線で活躍できるくらいに」

「それは素晴らしい。偉大な姉君を持たれたのですね」

「はい。それはもう立派な……手を伸ばすのも躊躇うくらい高くて遠い存在です」

「は……」

 

 違和。

 不意に視覚と聴覚と感覚に齟齬を覚えた。

 少女の笑顔と言葉と声音が、()()()()を奏でている。

 …………それを問うことは躊躇われた。間違いなく、それは彼女の心の内の繊細な領域へ土足を踏み入れる行為となる。

 

「日野さん。一つ、聞いてもいいですか」

「何でしょう」

「どうすれば日野さんと織斑くんのような関係を築けますか」

 

 更識さんは、先程からのその微笑を変えぬままに言った。

 誰との間柄を慮っているかは、考えるまでもない。況して尋ねるなど無粋の極みであろう。

 姉と妹。一言では言い尽くせぬ多くのものがその続柄には生まれる。

 日野仁如きが、その複雑難解な“絆”を考察したところで意味はない。そして目の前の彼女とて、そんなことは望んでいまい。

 故に、己は己の私心私欲を口にするだけだ。清廉には程遠い薄汚い独善を。

 

「月並みな表現になりますが……」

「はい」

「愛して、いますから」

「へ?」

 

 目を見張ってぽかんと口を開ける少女。呆然と言葉を失くす彼女に、己は陳腐な科白を吐く。恥を忍んで。

 

「愛するより外になかったのです」

「――――!! そっ、そう、なんですか」

「はい。そうなんです」

 

 本当にそれ以外に何も無いのだから救いようがない。

 彼を愛していた。彼の姉君を愛していた。かの御姉弟を気付けば、愛していた。

 ならば、なるほど、他に為す術はないのだと、改めて思う。

 対面で、再び少女が赤面の限界に至る。しかし、今度のそれはどこか、違って見え。

 

「そう、か。そうなんだ。そっか………………それで、いいんだ」

「?」

 

 彼女は小刻みに、何度も何度も頷く。微かな呟きが聞こえはしたが、その意味は一向解らない。

 不意に、少女の瞳がこちらに向き直る。ストロベリー・ソーダを思わせる鮮やかな色をした瞳が。

 

「日野さん、ありがとうございます」

「……どのような点で、御役に立てたのでしょう」

「秘密ですっ」

 

 晴れやかにそう言って、可憐にウインクが弾ける。

 そうしてまた、彼女は俯き、囁くように。

 

「貴方に会えて本当に良かった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気付けば茜と紺の混交した黄昏れの空があった。

 

「今日はお付き合いしていただいて、ありがとうございました」

「こちらこそ」

「ふふふ」

 

 喫茶店を出て、彼と別れた。

 遠ざかる大きな背中にもう一度お礼を口にする。

 貴方の()()()()()()()()に、心から感謝する。

 

「もうすぐ追い付くよ……お姉ちゃん」

 

 眼鏡のHUDに通信アプリを立ち上げ、リダイヤルで繋ぐ。

 

「もしもし……ええ、今別れたところです。彼、アリーナに呼んであげてください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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51話 触れ得ざる逆鱗

※ラウラさんがキャラ崩壊気味です。
ラウラ党の方はどうかどうかご注意下されば幸い。




 

 

 夕食の買い出しに行かねばならない。

 少年が用意してくれたメモを眺めながら、スーパーへの道のりを歩いていた。

 食材の並びを見るに、和食らしい。千冬さんの好物を中心に考えられたメニューであった。特に彼の作る肉じゃがは絶品の一語に尽きる。実に楽しみだ。

 その時、端末に着信が入る。内蔵した機能を用いれば声を発さずとも通話はできるが、そうした横着は一人の場でだけ行えばいい。

 端末をポケットから取り出し、着信者を見た。

 

“シャルロット・デュノア”

 

「もしもし、日野です」

『仁、大変だ! 織斑くんが!』

 

 続く言葉を聞く前、既に身体は疾駆していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アリーナ中央、四方200メートルの競技空間。

 地面は土を圧して均された所謂クレーコート。

 その只中で。

 ISが二機。対峙している。

 一機は、箒が装着した量産型IS“打鉄”。武者鎧を思わせる肩当と草摺が特徴的な、学園では主に訓練機として使用される機体だ。

 もう一機は……異様。

 カラーリングは打鉄同様の黒。非固定式の丸みを帯びた肩部装甲、その右肩には大口径の砲身がマウントされている。手足に装着された機械肢(マニピュレータ)。背部に伸びた二枚の推進翼(スラスターフィン)。専用機なのだろう。肩の大砲を除けば、デザイン的には一般的に知られるISのイメージから外れない。

 異様なのは、左側。左半身。機械肢と、そこから伸びる生身の腕、ISスーツに包まれた体と顔面、その全てが……ナニかに覆われている。

 黒く、蠢く泥のような、脈動するゴム質のような――生きた肉のような。

 いやあるいは皮膚。本来のそれに代わって黒い物体があたかも皮膚のように少女を覆っている。

 少女――ラウラ・ボーデヴィッヒを。

 

「お前、一体どういうつもりだ……!」

「……」

 

 箒が低く唸りを伴って言った。それはラウラ・ボーデヴィッヒの暴挙に対する順当な怒りだ。

 奴は、自分と箒がアリーナの競技場へ足を踏み入れた途端、攻撃を仕掛けてきた。今は収納されているが、あの装甲の腕に爪状の刃を生やし、襲ってきたのだ。

 そして間違いなく、標的とされたのは自分である。

 寸でのところを同じくISを展開した箒に阻まれ、現在の睨み合いに落ち着いたが。

 箒の詰問にラウラは答えない。

 

「答えろ!」

「クハハッ!」

 

 もはや恫喝の様相にある箒の言葉を、ラウラは笑った。

 いや、会話など初めからする気がない。箒を見てすらいない。

 奴は現れたその瞬間からずっと、こちらを見ている。織斑一夏だけを、じっと見詰めて放さない。その金色に輝く左目で。

 

「……俺に何か用か? ボーデヴィッヒ」

「そう、だ。ほんの、些細な、用が、ある」

「何だよ」

「殺しに来た」

「……」

 

 存外に驚きは少ない。絶句する箒に比べれば、という程度だが。

 元々快い印象など地平の彼方並に程遠い初対面。ああ、殺し殺されはむしろ望むところだ。

 ならば自分が悔いるべきは、良好な人間関係構築の努力を怠ったことではなく、こういった奇襲急襲を予期した準備を怠ったこと……ジン風に言えば常在戦場の気組を忘れたこの油断である。

 こちらの内心を読み取ったかのように、ラウラはニヤリと口端に笑みを刻んだ。

 

「ISが無い、な。ククク、フッハハ、丁度いい。面倒が無い。痛め付け易い。痛みを、()()()()()()()。それを見てあの男はどんな顔をするだろう。どんな声を上げてくれるだろう。あぁ、楽しみだ……」

 

 熱っぽい吐息、熱に浮かされた顔、蕩けた眼でボーデヴィッヒは中空を見詰めた。ここにはない何かを眺めていた。

 それが最低最悪に碌でもない光景であることだけは瞬時に理解できる。

 しかしそれを阻止する術が、今は文字通りこの手にない。となれば、一番の方法は例によって三十六計……となるが。

 摺り足で移動する。出口の方向へ。

 しかし。

 地面を抉って何かが突き刺さった。自分の足元、数十センチ傍へと。

 地面に突き刺さった三角形の鉄鏃(やじり)。そこからワイヤーが伸びて、前方の黒い異形機体へ繋がっている。

 

「逃げるか? 逃がすか」

「一夏、退がれ。こいつは私が」

「……こいつ普通じゃない。なんとなくだけど……少なくとも今は逃げることだけ考えるぞ」

 

 さっきから頭の隅で勘だか第六感だかが警鐘を鳴らし続けている。

 眼前の敵、ボーデヴィッヒは勿論だが、奴の纏うISそのものに対して、嫌な予感がひしひしと全身を引っ掻いてしょうがない。

 まともにやり合うべきじゃない。

 ――――何よりもこの、嫌悪感が、耐え難い。

 

「馬鹿を言うな。背を向ければそれこそ良い的だ。私が奴を引き付ける。一夏はその間に出口へ走れ」

「違う! 一緒に逃げるんだよ! ISのスピードでないとダメなんだ。俺を抱えて出口を突っ切れば――――」

「……私は、そんなに不甲斐ないか?」

 

 押し問答に発展し掛けた矢先だった。箒の声はひどく弱々しくて、とても切なげで。

 

「やっぱり、仁のように頼ってはくれないんだな……」

「箒……?」

 

 あんまりにも悲しそうだったから。

 掛けるべき言葉を見失う。制止を重ねるべきだった。だのに、できなくなった。

 推進器に火が点る。打鉄が敵機へ突貫した。

 

「参る!」

「邪魔だ雑魚め」

 

 上段に構えた近接ブレードを打ち下ろす。箒の操縦技術、そのスラスター操作は正直言って不慣れな感が否めない。しかし、剣の技量ならば。

 幼い頃から絶えず飽くこともせず振るい続けてきたのだろう剣腕は少女を裏切らなかった。

 袈裟懸けの軌跡。瞬なる剣速。精妙なる運剣。

 切先が過たず――――顕現したプラズマ製の刀刃に阻まれた。

 

「ッッ!」

 

 しかし止まらない。それは想定の範囲。

 弾かれるままに振り抜いた剣を翻し、下段から同じ軌道を遡る。

 上段の一の太刀を対手が防ぐことを前提に繰り出す下段斬り上げの二の太刀。

 

 ――――篠ノ之流“枝垂(しだれ)

 

 剣速は勿論、この技は相手の『防御(うけ)が成功した』という油断、虚を突く。

 箒の剣捌きに淀みなど絶無。限りなくゼロに近しいタイムラグを経ての追撃。

 斬り上げの太刀は――――しかして、空を滑った。

 

「な、に……!?」

「クカカカ」

 

 敵機は、真半身になることで逆袈裟の斬線から逃れている。

 こちらの意図を読まれた? それとも機体性能の差? あるいは操縦者の並ならぬ動体視力?

 否。違う。もっと単純な理由。

 敵は“枝垂”を、この技そのものを既に知っていた。そうとしか思えぬほどに敵の反応は早過ぎた。

 

「私の手番だ、なぁ!!」

「ぐっ!」

 

 両腕にプラズマ刀を生成させるや、黒の敵機は一気呵成に攻め寄せた。

 敵は踏み込むと同時に下段から箒の喉笛を狙う。最短距離を走る光条の突き。

 当然に箒も防御に動く。切先を中段に置いた守りの構え。

 しかし、その受け太刀を敵機は手刀で上から鍔元まで削るように抑え付け、もう片方の手刀で胸を横薙ぎにした。

 対して、箒は素早く後方へ逃れる。ここでもやはりスラスターではなく、体重移動と脚運びによる回避運動。

 逃がさんとばかり敵もまたそれに追い縋った。

 箒は脇構えからの逆胴を放つ。横一文字、空気の引き裂ける音色が響く。

 その出端を、太刀の柄を弾いて敵は躱し果せた。さりとて武器を振るうには近過ぎる間合――いつの間にかプラズマ手刀が消え去った左腕、その黒い拳が箒の顔面を殴り付けた。

 

「ぶっ……!!」

「剣術が得意なのだろう!? 折角そちらの土俵に()()()()やったのにこれでは歯応えがないなぁ! アッハハハハハ!!」

 

 少女が笑う。甲高く、音を外した哄笑。初対面の氷像めいたあの印象は何かの幻覚だったらしい。

 けれど、箒は無論のこと、傍で見ていることしかできない自分にさえ、そんな皮肉を吐く余裕はなかった。

 ただ愕然として。

 

「二天一流の指先……太刀を上から抑え込むあの動きは、一刀流の一勝……だったか……」

 

 膝を落としながら箒が呟く。

 そうして抜打ちの出端を潰した上で最後に拳を叩き込むあの技は、天然理心流の菱割。

 

「素晴らしい……これが教官の、貴女の技術。その粋なのですね……! やはり教官が、織斑千冬こそが戦神の名に相応しい! あぁこうして敵と相対しているだけでどう戦えばいいのかが解る。敵の動きが、手に取るように読める! すごい! すごいです! これが貴女の世界、貴女の瞳に映る景色っ、貴女と私の瞳が重なって合わさって、繋が、って……!! そうかそうだそうなのだ私は今や教官と同じに、一つになれたのですね!! えへへ、ふ、あは、ハハハハハハハハハハッッ!!」

 

 初めから知れていたこと。それは明言するまでもない事実であったが、やはり言わずに居られなかった。

 

「狂ってんな、オマエ」

「狂うものか。私は織斑千冬になったのだぞ? 教官が狂う筈がない。ならば私も狂わない。当然に! 必然に!」

 

 突如、一足跳びに敵機が駆ける。直近、打鉄纏う箒へ。

 白桃色のプラズマ手刀が閃く。

 袈裟懸けの斬り下ろしを太刀で受けるが、箒をしてその一撃で手一杯。二閃、三閃、四閃……無数に空中を奔る鋭利な光の斬撃が打鉄の装甲を文字通り刻んだ。

 

「ぐぅぅうう!!?」

「ハハハッ! 量産機にしては頑丈だ。そうだなぁ、あと……もう一当てか!?」

「っ! 避けろ箒!!」

 

 有言実行とでも言うか。

 箒が突き出した太刀の切先を弾き上げ、敵機は手刀をその脇腹へ突き立てた。

 今までにないほど強くシールドバリアを発光させながら打鉄が吹き飛ぶ。絶対防御が発動したのだ。

 機体が光の粒子となって解け、その中から箒が投げ出された。

 黒い太刀が宙を泳ぎ、放物線を描いて地面に、自分の傍に突き刺さる。

 

「他愛ない。これでは折角私に授けられた教官の御力をまるで活かせないではないか」

 

 鼻を鳴らし、楽しげにボーデヴィッヒは侮蔑する。箒は既に気を失っており問い掛けにも無反応だが、黒い少女は特に気にも留めなかった。

 ぐるりと首を巡らせて、その金眼がこちらを向いた。

 

「まったく、()()()箒。偉大な姉を持ちながらこの様か。末子(ばっし)が不出来なのはいつの世もどの地域でも同じであるらしい。なぁ、貴様もそう思うだろう。織斑一夏」

 

 金と赤銅、二つの色の瞳が自分を睨む。口元には薄ら笑み。

 その二色を真っ向に据えて視線で射抜く。足元の太刀を掴み、地面から引き抜きながら。

 

「んー? おい、なんだそれは。貴様、まさか」

「……」

 

 黒く塗り潰された左側の顔面が脈打った。少女が、文字通り破顔したのだ。

 

「ぷっっ! クフッ、キヘッハハハハハハハ!! ブレード一本でこの私に立ち向かうつもりか!? 正気は残っているか貴様!? ハハハハハハハハハハッッ!!」

 

 ここに至って、不幸中の幸いが二つある。

 一つは、このIS用ブレード。これは箒が使用していた打鉄の登録武装ではなく、個別に保管されていた貸し出し用備品だ。でなければ、打鉄が具現維持限界に達した段階で本体共々強制量子格納を余儀なくされていただろう。

 とても有り難い。やはり無手より、こちらの方がしっくりくる。

 これで思い切りあのイかれ女を斬れる。

 そして、もう一つ、最も幸いだったのは――――

 

「無能! 無脳! この戦力差を理解できない。考える頭すら無い。大勢を勘案せず直情に身を任せる愚かしさ。それで、それ、その、そんな、こんな奴が、こんなものがあの御方のおと、弟、おとーと?」

 

 かくん、と糸吊りの傀儡のような挙動で首が(かし)ぐ。

 そうして同じほどに作り物めいた目が自分を見るともなしに見た。

 

「あの方の愛に浴する者。何の努力もなしに、何の才覚も能力も信念も無いくせに、ただ弟というだけで、ただ織斑一夏であるというだけで織斑千冬の親愛を貪る者……」

 

 突然、何の脈絡もなくソイツは痙攣を始めた。身体と同期するIS装甲もまた、装着者と共に鉦を鳴らした。

 がくがく、がくがく、がくがくがくがく――――

 

「お前なんかがお前などお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前が」

 

 あれは打楽器ではなく、壊れた蓄音機だったようだ。

 

「お前らがあの人の愛をとったんだ!!」

「……」

「お前と、あぁあの男がっ、あの男がぁ!!」

 

 そいつが地団駄を踏むと地面が割れた。矢鱈滅多に腕を振り回し、払われた土煙が散弾めいて周囲に突き刺さる。

 恐るべきはISのパワー。脳波・思考活動の速度で伝達された人間の挙動を数百倍に強化してトレースする。

 文字通りの猛威を奮うそいつを、自分でも驚くほど冷めた目で見ていた。

 

「くっだらねぇ」

「――――なんだと」

 

 光沢の薄い黒のブレード。それを上段に構えた。

 

「今、なんと言った」

「くだらねぇって言ったんだよ」

 

 沈黙が流れた。不吉な静けさ。津波の前触れのような凪。

 黒い少女がこちらを見詰める。爛々と燃え盛る金と赤銅の目。

 

「お前にぃ! 理解などできない! 私のこの怒りが!」

「解りたくもないけど……オマエさ、千冬姉のこと好きなんだろ」

 

 返答はないが別に構わない。弁論大会じゃないんだから。

 意見の擦り合わせなんてしたい訳じゃない。ただ。

 

「なら、ごちゃごちゃ言う前に()()よ」

「な、なにを言って」

「はぁ」

 

 ただ呆れて、つい口を吐いた。

 

「邪魔なんだろ? なら殺せよ。その人の愛情をとられたんだろ? なら殺せよ。喋ってる暇があるならさ」

 

 理屈を並べるまでもなく、それは自分にとって、織斑一夏にとって決まり切ったことだ。

 ラウラ・ボーデヴィッヒの殺意の理由など知らない。滔々と恨み言を聞かされた訳でもなければ、まともに会話すら交わしていないのだから当然だろう。

 交わしたのは言葉ではなく、やはり殺意。この女は日野ジンを傷付ける。心身に関わらず不条理な暴力を彼に振るうだろう。

 ()()()殺す。

 彼を害する。その一事はその他幾万の理由に勝ってこの殺意を解放する。

 

「御託が多いんだよ。その上、乞食みたいに強請(ねだ)って、幼児みたいに駄々こねて」

 

 ――――まるで昔の自分みたいに

 

 気が狂うほど、彼の愛を乞い求めた。それはココロが芽吹く前の織斑一夏の原点。眼前のラウラ・ボーデヴィッヒと変わらない幼い“初乞い”の記憶。

 でも、いつしか狂って狂い切って、少年は遂に完成に至ろうとしている。

 目の前のソレが自称するところの、織斑千冬と、姉と同じところへ。

 

「好きな人の全部が欲しい。でもそれと同じくらい、自分の全部をその人に捧げたい……まあ陳腐だけどさ」

 

 浮遊感、のようなものを覚えた。地に足を付けて剣を握り構えている筈の自分の肉体、その実在を見失う。現実からの乖離。

 意識は今を飛び去り、心はただ一人を想っていた。

 ジンを、想っていた。

 それは酩酊、あるいは恍惚に似た感覚。胸から発して全身をじわりと包む熱。

 

 ――――うん、たぶんこれがそれだ。愛、とか、そういうの

 

 今更口にするには恥ずかしい。恥じるべきだ。だってこれは自分だけの、織斑一夏が抱いたココロでしかない。

 自分が勝手に思い描いたそれを、愛だの恋だの名付けて相手に押し付けるなんて行為は有体に言って……醜悪。

 目の前のソレは酷く、惨く、醜悪だった。

 なるほど、この女を斬る理由がもう一つ追加された。

 

「で? オマエが千冬姉と同じ? 笑わせんじゃねぇ。オマエのそれな、日本語じゃ“出来損ない”って言うんだよ」

 

 発光。敵機の両腕にプラズマの刃が顕現する。

 当の操縦者は無表情だった。人間、度を超えた感情はむしろ形を失くすらしい。膨張の極点とは即ち無へ帰結する。

 おお、なんだか哲学的だなぁ……なんて。呑気な自分の考えを笑う。

 その笑みを嘲笑と受け取ったのだろう――というか意図して受け取らせたのだが――敵機が弾けた。

 そうとしか見えない速度で、一歩を踏み出した。ISのパワーアシスト、PICによる慣性減殺、推進器を使っていないことを差し引いても、人間の反射神経など振り切る初速。

 

「死ィ――――」

「……」

 

 それを加味して、こちらも前へ。

 時間感覚の遅延。それは脳が起こす錯覚。動体視力の異常な冴えが見せた加速視界。

 半秒のさらに半の半の半で間合は詰まる。つまりは、敵機の、全高3メートルに及ぶISボディが、その長大な四肢によって生まれる最大刃圏。

 生身の自分の有効攻撃圏はそれよりも遥かに短い。こちらの刃を届かせるにはどうしたところであともう一歩分距離を縮めなければならない。

 光子の爪が頭上から降り落ちてくる。

 速度では無理だ。人間の脚力ではISに敵わない。姉は別として、人間とISの体性能差は絶対なのだから。

 速さではどうあっても勝てない。

 速さでは――――故に、

 

「!?」

「篠ノ之流縮地法“春霞”」

 

 敵機の進撃、その第一歩目よりも()()

 膝を()()ことで第一歩目の走行動作に付き纏う緩急を消し去る。宛も第一歩目を踏まずして進むかのように見せ掛ける足捌き。

 だがこれは所詮欺瞞(まどわし)の技。創作や伝承で語られる縮地法のような瞬間移動など無論できはしない。

 ……まあ、あの姉ならば実際できそうではある。

 そうした埒外の超人はさて置いて。

 速度と間合の幻惑でしかないこの技が、しかして今相対する敵に限っては無上の効果を発揮する。

 ISのハイパーセンサー。極まった動体視力。

 こちらの速度と間合、一挙手一投足を寸分の狂いなく捕捉する超高感度の眼。そう、であるからこそ。

 特殊な足捌きによる、言ってしまえば不格好な、不揃いなこちらの走行は――――敵機の目算を大いに狂わせた。

 敵の走行よりも早く自身は有効攻撃圏へ。

 所謂、懐へ入った。

 上段の、絶好の斬り間へ!

 

「ッッ!!」

 

 歯列から気息を吐き、打ち下ろす。

 物打ち所。太刀の切先が敵の、少女の顔面を斬り裂いた。

 

「……」

「……」

 

 刃先は地を差し、残心も怠ったまま静止する。

 敵もまた動かない。

 奇妙な沈黙が場に下りた。

 

「……あはっ、面一本」

 

 おどけて吐き捨て、そいつを見上げる。

 呆然とこちらを見下ろす二色の眼。その顔には、傷一つ付いていない。

 当然だ。人間の膂力ではISのシールドバリアを抜けない。不可視の壁の向こう側に居る本体に攻撃を届かせるには、やはり同じISの力が要る。

 初めから分かっていたことだ。勝負になどならないと。

 

「その程度で、千冬姉になれたって?」

 

 この一太刀で精一杯。

 だから命がある内に一つだけはっきりさせないと。

 

「無理無理。オマエじゃ絶対なれねぇよ。千冬姉の強さの源をオマエは解ってないから」

「…………それ、を」

「千冬姉の心の底にあるもの」

「それを口に、するな」

「千冬姉の、オレ達の生きる意味。それを与えてくれた人」

「言うなッッ!!」

 

 少女の絶叫と絶望への予感に、微笑を送る。

 親しみすら込めて。

 

織斑姉弟(おれたち)の全て。それがジンなんだよ。ボーデヴィッヒ」

「――――」

 

 少女の機械肢、黒い拳が落ちてくる。

 それがきっと自分の見る最期の光景。

 そうそう。もう一つ、不幸中の幸いは――――こいつがこの程度でよかった。こんな奴、相手にもならない。千冬姉は勿論、ジンにだって。

 変えられやしない。オレ達の繋がり、絆は、何一つ揺るがない。

 

(あぁ……よかった)

 

 安堵を噛み締めて、視界は黒く染まり意識は闇に沈む。 

 

 ――――ジン。千冬姉のこと、頼むな

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 甲鉄の拳で殴り付けてなお少年の頭部が陥没しなかったのは、ひとえに自身のコンディションが最悪最低のさらに下を穿孔していた為だ。でなければ、IS越しの殴打は人間を土塊同様に粉砕しただろう。

 力なく昏倒した少年を掴み上げる。

 首ではなく胴体を掌握し、そのあどけない寝顔と相対する。見れば見るほど、あの人の面影が、いやもはや瓜二つと言ってよいほどに似通った顔立ち。それを奥歯を軋ませながら睨んだ。

 

「クソッ、クソ! クソ! クソォ!!」

 

 もう1キログラム、それ以下でもいい。生身の手にそれだけの力を加えたなら、ISは即座にそれを数百倍に強化して、遂にはこの手の中にある人体を圧潰させられる。

 だが、今はできない。それをすれば我が復讐は未完のまま終わる。怒りと憎しみの成就の機会は永遠に失われる。

 あの男に見せ付けるのだ。愛する者が痛め付けられ、無残な死を遂げるその光景を。奪われる苦しみを痛みを思い知らされるのだ。

 私が味わった全てを、あの男に与えるのだ。

 丹念に丹念に心を込めてこの憎悪を捧げる。

 そうでなければ。そうでなくては。

 

「ジン……早く、来い。来てくれ。早く。お願いだ。ジン、ジン、ジン、ジン、ジン、ジン……!」

 

 譫言が口から垂れ流される。止め処なく、止める術もない。

 怨敵の到来をただただ待ち焦がれた。この焦燥は耐え難い。気が狂いそうなほどに。

 

『エネルギー反応急速接近』

「!」

 

 頭上20メートル。アリーナの防護シールドが激しく発光する。

 内外を問わず、あらゆる物体の素通りを許さない強固な守護結界。先の学園襲撃事件以後、出力の強化措置が行われたというエネルギーバリアは――――何程の抵抗も叶わず、穴を穿たれた。

 降り来る、黒。

 自機と同様、あるいはそれ以上に、光を嫌うかの如く暗黒を纏うその姿。

 悪鬼、悪魔……魔神。禍々しさを圧し固めて形作られたかの異様。凶兆の体現。暴力の権化。

 魔神・提陀羅。そしてそれを駆るのはただ一人の男。

 乞い求めた彼が。

 

「やっと来たぁ」

 

 

 

 

 

 

 



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52話 神の怒り

 

 

 

 

 

 

提陀羅(だいだら)ァ!!」

 

 コールと同時に展開した外骨格が万分の一秒で内骨格と同期。

 皮膚組織および筋組織の有機的癒着・結合。身体関節部位主要十六ヵ所を固定杭が噛み止め、名実共にIS用強化外骨格“提陀羅”との融合を果たした。

 煉瓦道を踏み砕き、跳躍しながら背部推進器へエネルギーを叩き込む。爆発的反作用は体長3メートルの巨躯をいとも容易く空へ打ち上げた。

 茜の名残が地平線に消えていく。もうすぐ暗く、黒い夜が降ってくる。

 モニターされた最短経路を爆進すること四秒弱。

 アリーナの全容、そして半透明の防護シールドを視認する。接近に伴い衝突リスクの警告が発されるがもう遅い。

 

赫撃(イグニッション)!」

 

 一切を無視して、バリア表面に右拳を撃ち出した。

 拮抗は瞬にも満たず、エネルギーの膜に風穴が空く。

 そうして減速など考慮にも上らぬ。勢い両脚からアリーナのフィールドへ着地、地表を砕いて制止する。

 周辺探査。熱源は三つ。

 小さな一つは箒さんだった。薄いISスーツのまま地面に倒れ伏し動かない。打撲、裂傷が見られるがバイタルは正常値。気を失っているだけだ。

 最大のエネルギー反応は言わずもがな、ISである。ドイツ航空軍IS特殊部隊配備、第三世代機シュバルツェア・レーゲン。登録装着者はドイツ代表候補生、同部隊隊長ラウラ・ボーデヴィッヒ少佐。

 対象を注視(フォーカス)したことでワンがネットワーク上から機体および使用者の詳細情報を列挙する。書類上のプロフィールレベルのものから軍事機密に抵触しかねない内部資料まで見出しと共に閲覧可能状態で網膜投影ディスプレイに並べ置かれる中……何一つ、知覚できなくなった。

 

「――――」

 

 夥しい情報は文字列、記号、意味消失して幾何学模様に成り下がる。

 音が消える。外耳内耳、鼓膜から三半規管。耳という器官。聴覚が消える。

 色が消える。色彩を判別する諸々が不全し、世界が灰と黒と白に満ちる。

 小さな、それは小さな熱源反応。今にも消えてなくなってしまいそうなほど、儚い。強風に身をくゆらす蝋燭の灯めいて。

 それ、その人物、あの子にだけは色があった。

 

「……ぃ……あ……」

 

 言語野には今、不毛の地平だけが茫漠と広がっていた。

 名を、呼んだような気がする。大切な、大切な大切な大切な大切な、ひどく大切な名を。

 

「フッ、ヒヒ、ハハハ」

「……」

 

 黒い機械の手が少年の身体を掴み上げ、そうしてこちらに掲げて見せた。

 だらりと力なく項垂れ、身動ぎ一つしない。真実、物言わぬ物になってしまったのではないか。その予感は極大の寒気を全身に齎した。

 まだ息はある。

 現実を、現状を把握せよ。

 提陀羅のあらゆるセンサー類を無意識に総動員していた。彼はまだ生存している。

 だから、はやく――――

 

「キヒ」

 

 黒い機体。黒い少女。黒く染まったラウラ・ボーデヴィッヒ。

 ボーデヴィッヒは(おもむろ)にその鋭利な爪で、少年の制服を引き裂いた。

 途端、露になる裸身。柔く細く、光るような白さ。少女の纏う黒き装甲とは正反対の。

 あまりにも脆い肉の肌。あまりにも鋭過ぎる鋼の外殻。

 鋼の爪先を、ボーデヴィッヒは少年の胸に添えた。

 

「見ろ」

 

 音もなく三本の爪の尖端が素肌に沈み、そのまま斜めに滑る。

 程なく滲む、朱。三列の紅い傷痕から血が滴った。

 彼の、血が。

 一夏の、命が。

 

「傷付けてやったぞ。傷物だ。貴様の、愛しい者は」

 

 血を纏わせた指が、次に少年の左腕を抓む。

 

「知っているぞ。そう。貴様はあの日、二年前の、織斑千冬の第二の栄光の日、襲撃犯に左腕をもがれたのだろう? 無様にも、不甲斐なく、ただ無力に! 無能の弱者め! 私ならばそのような失態を演じなかった! 私ならばあの御方の名誉を守れた! 完全無欠であった筈の教官の人生に貴様が汚泥を塗り込めたのだ!! よくもっ! よく、も……! アァ…………だから」

 

 そうして、小枝を手折るよりも遥かに呆気なく。

 

「喜べ、これで()()()だ」

 

 少年の腕が曲がる。肘が裏返り、筋が裂け、皮が破れ、骨の端くれが突き出た。

 汚水に浸した雑巾を絞ったような、血は奇妙なほど黒々として見えた。そして滂沱する。滝のように。

 

「クッハハハハハハハハハハハ!! 仮面の下に隠そうが解るぞ! 感じる! それだ! 今貴様の全身を貫く痛みが! 苦しみこそが! 私の味わった絶望だぁッッ!!」

 

 薄皮で辛うじて繋がっていた腕が今、落ちた。

 四肢の破断に際しても少年は無反応。彼の昏睡は深い。

 出血量が生命維持に支障を及ぼすまでどれほどか、演算は終わっていた。(いとま)は極短く、処置は急を要する。

 痛みを知らず少年が眠りの底にあることは幸いだった。泣き叫び苦悶する少年を見ずに済んだ。それはどこまでも無為な、気慰み。

 

 

 これで幾度目になろうか

 

 

 これで幾度、彼を死地に晒したろう。

 数えれば三度目。三度にも亘って。

 けれど此度は違う。以前とはまるで様相を異にしている。

 敵の殺害意志は疑いようもない。

 殺す。

 敵は少年を殺す。敵の瞳に絶対の、言葉無き宣誓を見付けた。

 暴力行為自体を目的とした無頼共、織斑一夏少年の身柄の拉致監禁を目的とした犯罪組織、何れも危険性は高かった。しかし何れも、殺害の企図は皆無であった。

 殺される。一夏少年が殺される。

 

「そうとも。死ぬんだ。今ここで。織斑一夏は殺される。この私に」

 

 黒い手が開く。少年の身体を解放する。

 中空にあった彼は当然に地面へと落下した。崩れ落ち、倒れた一夏少年。

 敵は脚部推進器を、装甲に鎧われた足を上げて、少年の頭に。

 踏み付けて、いない。

 足下と地表とに少年の頭を挟んで、静止。

 そして次の瞬間にはきっと、それこそ西瓜のように。

 

「奪われる恐怖を思い知れ……」

 

 あの子が、死ぬ。

 

「奪われる苦痛を思い知れ!!」

 

 死んで、しまう。

 

「私の憎しみと怒りを!! 思い知――――」

 

 

 

 

 

 ――――――――ゆるさぬ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 思い知れ。

 万感の憎悪と憤怒、想いを込めて叫ぼうとした。

 開こうとした口が、開かない。発しようとした声が塞がれる。

 視界が暗い。遮られている。

 これは、掌?

 

『エネルギー経絡(ライン)直結。右腕推進器全開』

 

 巨大な手掌。それが自身の頭を丸ごと掴み取って。そして。

 装甲越し。機体が直に接触したことで内部音声が混線した。

 女性型の、おそらくは操縦支援AIの声が。

 

『イグニッション』

「ッッ!?」

 

 ()()()()()()

 そのような錯覚を起こすほどの重力負荷。加速。

 速度。

 一瞬で最大速力に達し、一瞬で距離を詰め寄られ、完全な知覚限界外から自身は捕獲された。

 頭を掴まれ、飛んでいる。

 

(なんだこれは!? なんだ!? なんだこの出力は!?)

 

 こちらもスラスター噴射で押し返し――――不可能。減速すら。

 推進力が、マシンパワーが違い過ぎる。

 こんな性能は知らない。事前調査で得たマシンスペックとは桁違いだ。何故だ。馬鹿な。偽の情報を掴まされたのか。あるいはこの機体(シュバルツェア・レーゲン)のように仕様外のシステムを内蔵していたか。

 

 ――それとも

 

 それとも、作用したと。()()()()()()()()()()とでも、ほざくのか。

 驚愕、焦燥、疑念。そうした悠長な思考遊戯が許される時間は無く。

 アリーナの防護シールド、延いては外壁、建造物そのものが背後へ迫る。このポジションでは文字通り圧し潰されてしまう。

 衝突警告。残ミリ秒単位。

 

「グ、アアッッ……!!」

 

 スラスター最大噴射。背面ではなく、上へ。正面からの押し合いなど話にもならない。ならばせめて。

 位置関係が変わる。

 壁と敵機の間ではなく、地表を背に。

 ほんの一瞬、自機と敵機が上下に並行飛翔する。つまりは。

 自機敵機諸共、外壁(シールドバリア)に突っ込んだ。

 

 

 

 

 

 



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53話 赦しは在らず

 

 

 

 

 止まらない。

 アリーナのシールドなど緩衝材ほどの役割も果たさなかった。

 

(速度が……まだ上がるのか!?)

 

 エネルギーバリアと雑多な建材で構成されたアリーナという施設そのものを貫いてなお、飛んでいる。

 射出された砲弾さながらに、真っ直ぐ。方向転進、曲線飛行の兆候すらない。そんな概念は知らぬと。ただ真っ直ぐ。

 万力を想起する握力。頭部は()()()と固定された。

 ならばプラズマ手刀でその腕ごと――――

 

『イグニッション』

「ぎゃふッ……!?」

 

 敵機右腕の推進器が火を吹く。顔面を地面に叩き付けられ、舗装道路の表面を捲った。

 それも何度も。

 

『イグニッション、イグニッション、イグニッション――――』

「ぶっ!? ぎひぃ!? ごが!?」

 

 AIの無感情な機械音声がまたも響いてくる。

 何度も、何度も、何度も。

 頭で地表を削られる。

 敵機にはこちらの攻撃を防ぐ意図が……その実、微塵もない。

 ただ氾濫するエネルギーを推進剤として垂れ流しているだけだ。

 荒ぶる感情にあかせて、連続的に推進器を発破させている。

 車輌通行用の道路を寸断し、モノレールの鉄塔を倒壊させ、研究棟と思しき建物を貫いた。

 そして止まらない。

 

「このぉっ……! 調子に乗るなぁああああ!!」

 

 思考による武装解錠。右肩部装甲にマウントされた砲身を引き上げる。

 レールカノン。限界までスケールダウンされた超小型電磁投射砲。ISのコアエネルギーが生み出す大電力により電磁加速された弾丸の初速は、実に音速の数倍に達する。

 迷わず思考の銃爪(トリガー)を引いた。

 あらかじめ実体化し弾倉に込めた砲弾数は十二。

 全て吐き出した。十数発の連射に次ぐ連射。

 至近距離とはいえ度が過ぎている。俯角仰角共に満足な調整など慮外に打ち捨てた。

 必然として多くは外れ、周辺の建造物だか夜空だかを無駄撃ちする。

 が、内三発。

 一撃目に敵機肩部装甲を掠め。

 二撃目は左(しつ)部装甲に弾かれ。

 しかし、それにより敵機の体勢がやや崩れた。我武者羅に砲身を手繰ったことも幸いした。その顔面に、砲口が()()()()()のだ。

 

「喰らえぇ!」

 

 偶発の接射。電磁誘導が起こす天井知らずの加速力は、一切の減殺を受けることなく対象に着弾する。

 対象の、左目から左側頭部。顔面および頭部装甲が、砕けて散った。

 

(! こいつ、まさか)

 

 実体の装甲が破損した。

 敵機は、ISの根幹に設定された機能『シールドバリア』と『絶対防御』を停止させている。一体何のつもりでそのような暴挙を働いたかは知らない。興味もない。

 目の前にある事実は一つ。我は彼に、我が怨敵に致命的な損害を与えたのだ。

 

「ハ、ハハッ……やっ」

 

 仰け反り、敵機が姿勢制御を失う。

 遂に――――

 

『イグニッション』

「がべぇあっ!?!?」

 

 自分の後頭部がさらに深く地中へ掘削した。さらに強く。さらに激しく。

 今までこそは手遊び。手加減されていたのだと、身を以て実感する。

 

(ダ、ダメだっ。ダメだ! ダメだ! このままでは、この、機体ごと()()()()()()……!?)

 

 現行兵器を無為の鉄屑に貶めた最強最硬のIS防御機構エネルギーシールドバリア。それがこんな、馬鹿げた方法で。ただの、何の特性も与しない、ただの膂力(パワー)で削り取られていく。

 学園が築かれたこの人工島の面積など航空兵器たるISにとっては一跨ぎでしかない。自身を()()()()陸地などすぐに途絶えて消える。

 しかしだからとて海へ出てしまえば、終りだ。

 それも、自身にとって最も忌むべき終焉。

 海中だろうと海底だろうとこの狂える魔神は絶対に止まりはしない。そして、現在進行形でエネルギーを損耗させられ続けているこちらがまず先に具現維持限界(リミット・ダウン)を迎えるだろう。

 海の深み、それこそ南海トラフにでも落ちようものなら水深は数千メートルに及ぶ。そんな極限環境で生身を曝け出せばどうなるか――――

 

「ず、ぁあ!!」

 

 心胆を凍て付かせる怖気を振り払う。思考を高速化する。ナノ単位に寸刻んだ時間感覚の中で。

 止める。何としても。何よりも、復讐を果たす為に。

 AIC(アクティブ・イナーシャル・キャンセラー)――シュバルツェア・レーゲンに搭載された特殊兵装。動体を停止、いや固定するのにこれ以上の機能はないだろう。

 しかし現状、視線は敵機の手掌に直接阻害されている。対象の完全な目視がAIC発動の絶対条件。故に除外。

 実行可能な手段は、初めから一つ。

 敵機のシールドは機能していない。奴の防御力を保証するものはその実体装甲だけなのだ。

 

(ならば……!)

 

 六基のワイヤーブレードを一斉に射出し、敵機を絡め取る。

 見る見る雁字搦めになっていくというのに、敵は避ける素振りすら見せなかった。もとよりそんな理性が残っていれば苦労はない。

 そしてそれこそは好都合。

 己を今以て拘束する忌々しい右腕、この位置関係なら嫌でも見えるぞ。装甲の薄い箇所。関節の可動域が。

 そしてワイヤー尖端に装着されたブレードを遠隔操作し、地中に穿孔させる。

 この島で最も強度を保証されたもの。無数に存在する建造物を支える基礎鉄骨、そして地盤の位置は既に高感度センサーが探し当てている。

 斯くなる上は何が起きるか。

 飛翔するISすら捕らえ、引き墜とせるほどの引張強度を誇るこのワイヤーを敵機のより生身に近しい部位に巻き付け、尖端のブレードを固定してしまえば、超高速の砲弾と化して飛び続ける機体はその自らが創出する運動エネルギーによって――――

 

「千切れ飛べぇえ!!」

 

 ――――衝撃。それは筆舌に難い。

 極限の直進慣性モーメントが欠片の減速も許さず強制停止させられた結果、PICの減殺作用すら凌駕して機体を軋ませる。

 負荷は想像を絶して、筋骨と内臓器官は相応の破損を余儀なくされた。

 だが! だがそんなものは、目の前の光景が全て帳消しにする。

 

 敵機の右腕が、前腕が()()()()()

 

 あれだけの慣性力を以てしてもぎ取れたのが腕一本とは、奴の装甲強度の異常さが際立つというもの。

 が、最大の目的。拘束からの脱出は叶い、敵には致命的な損害を与えた。

 これで、形勢は逆転した。

 今より始める。真の復讐を。

 まずは停止結界でその巨躯を吊し上げ――――

 

『イグニッション』

「ぎッ、ぃ、がぁあああああああッッ!!?」

 

 腹部に衝撃。

 先程と同等かそれ以上の。

 ワイヤーを引き千切りながら、あろうことか奴は頭から突っ込んできたのだ。

 内臓が拉げる。衝撃は肉体を貫通して背骨に達した。

 意識が白く飛んだ。ほんの数瞬のホワイトアウト。

 もう一瞬後、シュバルツェア・レーゲン、そしてさしもの提陀羅すら墜落した。

 

 

 

 

 潮騒が近い。

 ここは学園にも幾つか存在する浜辺の一画。

 機体ごと海の浅瀬に沈んでいた。刹那の意識喪失から復帰し、即座に立ち――――立ち上がることすら困難だった。

 パワーアシストは未だ健在。しかし機体ダメージが、何より肉体が被った傷が新鮮な苦痛を発していた。

 

「ぐ、ぅ」

 

 それでも何とか二足で立ち、センサーの警告音、それが示す方向へ視線を突き刺した。

 敵は、そこにいた。世闇の中でさえ黒い巨躯。異教の魔神。全身装甲IS提陀羅は、日野仁はそこに佇んでいた。

 切断された腕、残った右上腕の切り口から、大量の血を垂れ流している。白い砂浜を、赤黒く染め上げて。

 

「っ」

 

 傷口を押さえもしない。苦痛に身を捩らせることも、苦悶の喘鳴すら無く。

 砕け散った顔面装甲の合間から、男の眼がこちらを見ている。

 眼が。

 銀色の、まるで無機物のような瞳が――――おまえをゆるさないと言っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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54話 罰も無し

 

 

 一歩、男は砂地を踏み締めた。巨大な装甲の四肢によってただでさえ体高の大きなIS。提陀羅と呼ばれるあの機体の巨躯は極め付けだろう。

 そのたったの一歩が、重い。損傷程度の重度軽度ではなく、存在感が。偉容が発する威圧が、重力的な重みを伴うのだ。

 

「っ、ぁ」

 

 知らず、息を呑んでいた。

 身体は半歩、後退りしていた。

 これは、怯え?

 一歩、また一歩と敵は近付いてくる。推進器を使わずその脚で、ゆっくりと。

 

「く、来るな……」

 

 その一足で血が滴る。装甲が軋み上がり、今にも瓦解しそうだ。

 骨や内臓とて無事ではない筈だ。誰あろう自分自身の劣悪極まるこのコンディションが先の墜落の凄まじさを物語っている。

 だのに、敵は止まらない。そう、初めから――織斑一夏という存在を害されたその瞬間、かの男の中から停止の二字が消え去った。容赦という概念が忘れ去られた。

 それは不退転。不退転の憤怒(いかり)

 奴は止まらない……ラウラ・ボーデヴィッヒを赦しはしない。

 

「来るな!」

 

 血の轍を刻みながら、来る。

 鈍い銀の眼光が己を射抜く。まるでそれは対の色彩。己が左の金眼(ヴォーダン・オージェ)と正対称の。

 しかして、内情は。

 敵の威圧は確実に自身を怯え竦ませていた。否応もなく、心胆は震え上がった。

 不甲斐ない。なんという惰弱だろう。この期に及んで軟弱の極みだ。恥を知れ……そうした己を叱咤する言葉は幾らでも湧いて出た。しかし、どれ一つこの震える足腰の支えとはならない。

 どうしてだ。何故。

 敵を、真っ直ぐに見られない。

 

 ――――本当は気付いてるんじゃないのか、その理由に

 

「ち、ちち違うっ。わわわわたし、私は、私が、私こそが……!」

 

 波打ち際、男は小波を踏んだ。自身が半ば沈む浅瀬へ、もうすぐに、もう間近に。

 その左腕が、初めて動いた。

 今の今まで気付かなかった。視界には確かに映っていた筈なのに。奇妙なほどその存在を認識していなかった。

 敵機の黒い全身装甲で唯一、白銀に彩られた異形の腕。均整からは程遠い。左腕だけ設計時のマシンスケールを誤って設定してしまったのだと説明されればまだしも納得できたろう。指先は(くるぶし)に届き、径は胴体(ウエスト)と大差がない。

 巨大な左腕、その巨大な拳は全てを砕く。砕き、壊し尽くすだろう。

 その確信が戦慄に変わる。

 

「来るなぁああああ!!」

 

 長大な左腕が網羅する間合、有効攻撃圏。それこそまさしく己の死線。そこへ足を踏み入れられたその瞬間に。

 ぎちり、と。

 敵機が停止した。まるで油切れを起こしたブリキ人形のように。

 

「へ」

 

 右腕の切断面から垂れた血が長く尾を引いている。流れ出るその途中で瞬時に凝固してしまった、などという訳もなく。

 何も、不思議なことではない。これこそシュバルツェア・レーゲンの固有武装『AIC』なのだ。視覚的に捕捉したあらゆる動体の慣性を能動的に減殺、つまりは固定する。

 一部の重火器、光学兵器を除けば、あらゆる物体、実体兵器、ISすらもその行動を制止できる。

 限りなく無敵に近しい能力。それを行使した。

 敵機は今や、運動ベクトルごと完全停止状態にある。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

 

 乱れた呼吸を整える、その間を惜しんだ。片時も目を離せない。過剰な集中を視覚に強いた。

 うっかりと、ほんの一刹那、寸毫でも油断すれば、この魔神を解き放ってしまう。

 そんな強迫の念が頭を支配する。

 ありえない。一度捕らえてしまえばどれほどのマシンスペックでも意味を為さないのがこの停止結界だ。

 

「はぁ、はぁ……そうだ」

 

 パワーなどもはや無意味。

 感情が、機械兵器たるISの力を引き出すなど。それではまるで、まるで。

 

「貴様の怒りなど、無意味だ。憎しみなど無価値だ」

 

 まるで、こいつの想いが正しいと、そう表しているかのようじゃないか。

 そんなこと。

 

「貴様のっ、そんなモノが、私の痛みに敵うものか! 私の苦しみこそがもっと! もっと!!」

 

 正当な怒り、復讐心が、この男を衝き動かしている――――などと。

 認めない。認めない。認めない。

 

「だから! 私には!」

 

 そうでなければ。そう、()()()()()()()()。終わる。(ラウラ・ボーデヴィッヒ)が終わる。

 行動の正当性。殺戮の特赦。復讐の、権利が。

 全て消える。初めから、無かったことに。

 初めから……そんなもの無かったことを思い出してしまう。

 

「貴様と織斑一夏を殺す権利があるんだぁっ!!」

 

 きっと、それが最後の(たが)だった。

 暴流を押し止める(せき)だった。

 自身の命を長らえていた唯一の、最終防衛線(デッド・ライン)

 私は自らそれを切った。言ってはならぬことを言ってしまったのだ。

 

単一仕様能力(ワンオフ・アビリティ)解錠(アンロック)

 

 ソプラノの機械音声が告げた。終わりの始まりを。

 敵機の左腕装甲が変型する。

 

『吸気・排熱弁全閉鎖』

「な、何故」

 

 AICは今現在もなお作動しているのに、慣性ごと敵機を封殺している筈なのに、何故。

 何故動く。

 なんで。

 

『エネルギー経絡(ライン)全基直結……失敗。サーキット再検索……破断。バイパス生成……途絶。再接続……途絶。再生成、失敗』

 

 機械音声による機体状況報告がエネルギー回路の不調を訴え続ける。

 当然だ。先刻、敵機は推進器に絶えず過剰過給(オーバーブースト)を掛け続けた。許容限界を超えたエネルギー供給と無茶な機体操作、加えて四肢欠損と墜落による純粋なダメージも伴えば内部機構は文字通りズタズタの筈。

 敵機のワンオフがどれほど強力であろうと、そもそもエネルギーを供給できなければ、発動させることは決して――――

 

『エネルギー経絡、()()

 

 その時、敵機背面装甲が弾け飛んだ。そう、それこそ、上蓋を勢いよく開くように。

 遮るものを押し退けて、中から這い出てくる。

 

「ぇ……?」

 

 銀白色にぼんやりと光る細く長い紐、コード、糸? 夥しい数の触手。それが白蛇のようにうねり、のた打ち、次々に提陀羅(だいだら)の背中から生えてくる。

 

「な、に」

 

 突如、それらは一斉に男の左腕へ突き刺さっていった。獲物へと喰らい付く姿、まさしく蛇の様相で。

 

『エネルギー経絡、全基直結』

 

 拳が。銀の拳が握られる。

 左腕に対するエネルギー供給にはもはや何の妨げもない。文字通りコアと()()されたのだから。

 瞬くようだった光は、刻一刻と暴力的な質量で発光を強めていく。それこそ、恒星の誕生を想起するほどの。

 

『エネルギー強圧縮開始』

「なんなんだ、おまえは……おまえは()()()!?」

 

 それは殺戮の炎。あらゆる全てを壊し尽くす力。

 全てを止める結界すら無意味。きっと存在することも許されない。

 

「お、おまえなんかっ。おまえなんかが教官に愛されていいはずがない!! 教官は、わたしのものだ! わたしをもっと強くしてくれる! わたしをもっと完璧にしてくれる! わたしこそがっ、教官に相応しいんだ!! わたしの方がもっともっと教官を愛してるんだ!!」

 

 恐怖が、来る。

 叫ぶことを止めれば終わる。心すらも砕けて散る。

 せめて遠吠えを。せめて恨み辛みを吼え浴びせて。

 

『エネルギー圧縮臨界点……突破。出力400%オーバー』

「おまえなんか! おまえなんか!!」

「ォ……」

 

 せめてこの想いだけは、負けな――――

 敵機の仮面に亀裂が走った。それは細かく、蜘蛛の巣が張り巡るように。

 口唇防御装甲(フェイスガード)が砕けて散る。その下から、見えたのは。

 

「ォ、ァ」

 

 その下にある筈の人間の口が無い。

 その下にあったのは、(アギト)。乱杭歯、頬まで裂け開く獣の顎。

 

「オォォオオオオオオアアアアァアァアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

「ひぃっ……!?」

 

 咆哮が憤怒を謳った。

 引き絞られた腕が空間を走り、拳が貫く。

 

『単一仕様能力解放』

 

 目前にあるものを今一度理解する。

 それは死であり、無であり。

 そして、罰だった。

 

神威(ゴッズインパクト)

 

 頬に一筋流れるそれは涙だった。恐怖か絶望か、それとも悲しみだろうか。

 もしかしたら、後悔だったのかもしれない。自分というもののあまりの愚かしさに。

 

「――――あぁ、神よ……」

 

 全ては遅い。

 全ては光に包まれ、終わ――――

 

 

 

 

 

 



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55話 断罪する慈悲

 極光が視界を埋め尽くし、逃れ得ぬ死にその身を委ねた……しかし、期待した安寧な暗闇はいつまでも訪れない。

 耳慣れた潮騒がまた響いていた。

 風穴を穿たれた大気が、常態を取り戻す為に轟轟と唸りを上げながら揺れ荒れる。

 目を開ければ、そこには。

 全身、とりわけ左腕を白熱させ、熱気と蒸気を周囲に撒き散らす敵機、提陀羅の姿。夜闇も色濃い水辺に、焦熱した赤と白と橙でグラデーションされた装甲は目にも痛々しい。

 

 ――――けれど真っ先にこの目が捉えたのは、満身創痍を晒すその巨躯などではなくて

 

 訓練機。学園が保有する量産型IS打鉄。

 一騎のISがそこに、提陀羅の前に佇んでいた。いつの間にか、あるいは初めから存在していたかのように自然な様で。

 ……いや、()()こそが、男の傍らこそが、自分の居所なのだと主張しているのだ。明確に。決然と。見せ付けて。

 あの人が。

 潮風に鴉の濡れ羽色をした黒髪が泳ぐ。

 

「き、教官……?」

 

 織斑千冬。織斑教官が、ISを纏ってそこにいる。

 それは不思議なことだろうか。彼女は名実共に揃った世界最強のIS操縦者。そんな御方がISを使うことの何がおかしいという。

 間違いなく、異常事態だった。

 第一回モンドグロッソ優勝者、ブリュンヒルデとして名を馳せた織斑千冬が、突如として表舞台から姿を消して数年。

 その間、彼女がISを装着したのはたったの一度。ドイツIS特殊部隊において彼女が招聘教官を務めていた折、本国から日本へ、単なる移動手段としての私的利用のみ。

 戦闘行動はおろか実地訓練の時さえ、彼女が自らISを纏うことは終ぞなかった。

 それが、今。

 

「ど、ど、どうして、貴女がここに」

 

 恐れが、畏れが、隠しようもない怯懦で声を震わせ、問いを投げ掛ける。

 彼女は、しかし答えてくれない。

 彼女の視線が向かうのは一人。一人の、男。

 

「ジン……心配するな。一夏は生きている。一命を取り留めたよ。お前の御蔭だ」

 

 囁くように優しく、労わるように繊細な声音で織斑教官は言った。

 まさか。何故。あの重傷で助かる筈がない。内心を動揺と驚愕が駆け巡る。

 

(アレ)がお前に寄越した妙な薬でな。悔しいが流石は天才、というやつだ。傷を塞ぐどころか、塗布した端から再生していった。もう傷一つ無いぞ、あいつの身体には。ああ、お前が迷いなく一夏に薬を持たせていたから、手遅れにならずに済んだ……ふふふ、自分に使おうなんて微塵も考えないところがお前らしいよ」

 

 そのまま彼女は男の頬に触れる。打鉄の機械肢(マニピュレータ)が焼け付く音を聞く。現在の提陀羅の機体表面温度は金属の融点に匹敵している。皮膜装甲(スキンバリア)越しであってもその異常加熱は相応の苦痛を触れるものに返すだろう。

 だのに、彼女は触れるのを止めない。その行為に込められた意図は、誤解の余地もない。

 いやだ。いやだ。いやだ。解りたくない。そんなこと知りたくない。

 

「だから、ジン。おやすみ……安心して、目を閉じて、ゆっくり休むんだ」

 

 女は男を愛撫している。

 溢れるような情愛で、男をただただ愛でている。

 何一つ違え様もなく、他の何一つ必要とせず――――

 

「ん……」

 

 口付け。女の薄い紅色の唇が、男の口を(ついば)んだ。何度も何度も、何度も。

 そして、

 

「んっ、ふ、ちぅ」

 

 唇の隙間から、もっと紅い、紅い舌が、這い出て、男の唇を這いずって、舐り、転がし、そうして侵入(はい)った。

 女が男を貪っていく。

 

「あ、や、ぃや、いや、だ……ちがう、こんな、ちが、違うっ……!」

 

 紅潮した頬、潤み濡れた瞳。

 情愛、情欲の赴くままに、唾液を啜り、時に流し込んで。

 互いを液状化させ、一つに混ぜ合わせている。機械のそれではない、生物的な熱が、真実二人を溶かし合わせている。

 

「違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う教官はこんなことしない教官はこんな顔をしない教官は完璧で冷徹で強くて優しくて綺麗で清らかで高潔でだからこんな、こんな淫らなことしない!! 絶対にしないんだ! しないんだ! 教官はっ……!!」

 

 一度は閉ざされた私の道に、今一度光を差し与えてくださった。彼女こそ救いの女神。ヴァルハラより降り来った戦乙女。

 崇敬対象。絶対信仰。

 織斑千冬はラウラ・ボーデヴィッヒにとって唯一無二の、たった一人の――――

 

「……んっ、はぁ……なんだ、まだ居たのか? ラウラ」

「へ、ぁ」

 

 不意に、熱い吐息を零して彼女が呟く。その唇には、淫靡に唾液が糸を引いていた。

 流し目が己を見るともなしに見る。興味があまりにも薄くて、どうでもよくて、気を向けることさえ億劫だと言わんばかりに。

 心が、体が、伽藍洞になっていく。その意味を理解して、私は自壊して。

 

「逃げるなら今だ。この機体にはもう飛行できるだけのエネルギーが残っていない。祖国へ尻尾を巻いて帰るというなら見逃してやる。既に学園のIS部隊には貴官の捕縛を下知した。男性IS操縦者への暴行および傷害、殺人未遂。貴官の身柄は一時学園で拘束された後、国際法廷の下に裁かれるだろう。ドイツへのバッシングは強烈を極め、となれば、晴れてお前は名実揃った国辱となる訳だ」

「そん、な」

 

 祖国の為に作られた自分が、その益足らんと全てを捧げた自分が――――国辱。

 国家の面汚し。その栄光に染み付いた汚点。

 己が口にした、織斑一夏を、日野仁を指して断じたそれ。それに、なったと。

 敬愛(あい)する貴女が、そう私を断じていた。

 

「私なりの、せめてもの(はなむけ)だ。祖国に戻り進退を決めろ。それとも……」

 

 一歩、彼女が身を翻す。

 ようやく、今日この日、初めてかもしれない。本当の意味で、貴女が私と向き合ったのは。真っ直ぐに私を見てくれたのは。

 真っ直ぐな殺意を込めた瞳で、織斑教官が私を見ている。

 

「私の手で引導を呉れてやろうか。あるいはその方が趣深かろう。お前は私の教え子だ。私の可愛い、ただの教え子。それ以上でもそれ以下でもない」

 

 また一歩、近付いてくる。足取りは軽く穏やかで、声音は気安くて優しげだった。

 

「それ以外には、ならないんだよ。ラウラ」

 

 微笑みが柔く自身を包む。

 それは紛れもない慈悲だった。

 

「さあ、おいで。今()()()をあげよう」

「ひっ……ぃ、いぃ、いぃいやぁあああぁぁあぁぁ!!?」

 

 私は、最後の慈悲に背を向ける。

 おわりの恐怖が胸の穴で凍て付いていた。

 推進器が焼き切れることさえ構わずエネルギーを叩き込み、空へ。暗闇の虚空へ、ただ逃げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜空を逃げ去る機影を早々に見限って、踵を返す。

 未だ焦熱冷めやらぬ黒い機体。怒りの炎に文字通り身を焦がす男の元へ。

 

「ジン、お前の猛りが愛おしい……」

 

 憤怒が熱量を発し、力を齎す。非科学的な現象を体現した男が。

 その力が何によって生まれたのかが解る。その怒りが誰を想って燃え盛り煮え滾っていたのかを知っている。

 たった一人の少年を想って、男は骨肉を燃やし、遂に殺意すら解放した。

 

「自分の感情に微塵も価値を認めない癖に……こんなになるまで」

 

 身体はどこもかしこも灰の燃え止しのようで、右腕は喪われていた。左腕に続き、またしても男は肉体を損壊させた。

 一夏の為に、使い潰した。

 男を抱き締めると、打鉄が機体ダメージに悲鳴を上げた。気にも留まらないが。

 この熱、痛みを、どうして厭うことがある。慈しみこそすれ。

 

「ごめんな、邪魔して」

 

 提陀羅の単一仕様能力(ワンオフ・アビリティ)行使を阻んだことで、打鉄のシールドエネルギーは今や風前の灯だ。

 

「ふふ、お前が咄嗟に左腕をへし折ってくれなければ私は刀身ごと消し飛んでいたな」

 

 現に、男の銀の左腕は肘が真逆に折れていた。あの一瞬ではエネルギー放出を止める術はなく、内部機構を直接変形させることで無理矢理に軌道を変えたのだ。そのツケがこの有様。

 そして打ち込みを去なした近接ブレードは柄を残して文字通り消滅した。

 

「……お前の殺意は正しい。その怒りを私は心から尊ぶ。うん、だからこそ」

 

 その殺意を無駄に浪費させはしない。いつか来る大切なその瞬間まで。

 日野ジンが、真に殺すべき者を見付けられるまで。

 

「大切に取って置いて欲しいんだ……私の、我儘だ」

 

 不意に電子音が鳴る。呼出音(コール)

 学園IS部隊固有のチャンネルだった。

 

「どうした…………容疑者のISは追尾(トレース)できる筈だ。なにジャミング? 発信源の特定は別班に任せ、先発の班は目視で捜索を続けろ。行動は原則ツーマンセル、並行して周辺警戒を厳とせよ。それと――――救護班は何をしている。クビを()()()たくないなら十秒で来い。以上」

 

 通信を終了し、堪えていた溜息を吐き出す。

 肩を竦めて傍らの男に笑みを向けた。

 

「やれやれ、どうやら今夜も残業だよ……」

 

 そうして膝を付いて、もう一度だけキスをした。

 

「……ありがと。これでまた頑張れる」

 

 

 

 

 

 

 

 



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56話 なべて世は事も無し

やっっっと一区切り……。






 

 

 飛翔、飛翔。

 エネルギーの許す限り飛び続ける。行き先など何処でもよかった。帰るべき場所など何処にもなかった。

 ただ、ここではない何処かへ逃げ去りたかった。

 ともかく学園を出る。ここには今一瞬たりと身を置きたくない。絶望が、深海の重圧めいて我が身を掴み潰そうとする。

 早く、一刻も早く。

 

『量子反応。武装展開を確認。敵性IS接近』

「!?」

 

 地上からの上昇攻勢。センサーが敵機の方角を示した。

 噴射口(バーニア)角度と出力操作によりバレルロールしながら回避――――真実、弾丸のような速度で機影が横合いを擦り抜けた。

 上空を仰ぐ。ハイパーセンサーおよび肉眼が対象を捕捉する。

 肥大した肩部装甲、スパイクアーマー……あれこそは空間歪曲式衝撃砲の生成装置に他ならない。空間へ直接作用することで機能を発揮する特殊兵装、それを搭載した数少ないISの内の一機。

 中国産第三世代型IS『甲龍』。そして、その操縦者は。

 

「凰鈴音だと……!? 貴様、なんのつもりだ!?」

 

 返答はなく、代わりに投げ寄越されたのは肉厚の刃だった。

 高速回転しながら迫る青龍刀を(かわ)す。この距離で、何の工夫も無く投げ付けた武器がそうそう当たるものか。

 

「馬鹿め――――」

 

 眼前に敵機が現れた。

 

「な!?」

 

 無論のこと、瞬間移動などという単一仕様能力が敵機に発現した訳ではない。

 投擲した武器を隠れ蓑に接近して来たのだ。

 言葉にすれば如何にも容易い。だが実態は、巨大なISのボディを半欠けの刃程度で完全に覆い隠すことなど不可能。

 つまり敵は、こちらの死角と油断を的確に読み切っていた。

 両腕にプラズマ刀を生成、振り下ろされた青龍刀を両腕で受け止める。

 

「ぐぅっ!」

「っ……」

 

 攻撃を阻まれた敵機、凰鈴音は舌打ちしてさらに刀身を押し込んだ。

 問題ない。単純なパワーならこのシュバルツェア・レーゲンのスペックは第三世代の中でも群を抜く――――

 

「ごふっ……!?」

『腹部装甲に被撃』

 

 衝撃と共に、無感情な機体ダメージ報告を聞く。

 蹴られたのだ。この近距離で肉弾戦に移行するのは至極自然な戦闘風景だろう。

 だが、現機体状況、とりわけ肉体状況において、腹は重篤だ。腹は不味い。先の戦闘で、提陀羅の頭突きを諸に喰らい表皮から内臓、背骨にまで損傷を負っている。

 そこを、的確に蹴り抜かれた。

 あまりの痛みに視界が惑乱し揺動する。意識が白光して飛び、ほんの刹那であるが姿勢制御すら叶わなくなった。

 その一刹那の隙、致命的な無力を晒す。

 

「ぎぃっ!!?」

 

 肩から胸、頭部、脇腹、手足、連撃に次ぐ斬撃。切り刻まれ、袋叩きにされる。

 わずか数秒の内に数十度。機体ダメージが危険域に突入した。具現維持限界のさらに先……操縦者の生命維持限界へ。

 右翼推進器大破、腕部装甲中破、シールドバリア出力低下。

 

(こんな、この程度の相手にぃ!!)

 

 提陀羅との戦闘による機体ダメージは己が想像する以上に甚大だった。運動性、機体および肉体の同調、パワーアシスト、推進器出力、PIC出力、どれ一つ本来の性能に届かない。

 そして相手も悪い。よりによって近接格闘能力に秀でた甲龍と、こんな状態で。

 万全(フルスペック)でさえあれば、たかだか一般人の代表候補生風情、己の敵ではない。

 ……それが負け惜しみ以上の意味を持ち得ないことは理解している。

 しかし。

 

「図に乗るな! 素人がぁ!」

 

 大上段から青龍刀の打ち下ろし。頭蓋骨ごと叩き割るという想念すら感じられた。

 だが、敵機の全容が視界に収まる。その瞬間、一気呵成だったその攻勢が停まる。刃も機体も肉体も、慣性を無視した空間固定。

 停止結界に、その身を捕らえた。

 調子付き、近接戦闘に固執したのが仇だ。こうなってしまえばもはやこいつに打つ手はない。

 

「墜ちろ!」

 

 手刀を振り上げ、急所を狙う。手始めに絶対防御を連続発動させ、ISを剥ぎ取ってや――――

 

『警告』

「なに!?」

 

 センサーが警報と、危険物体の位置情報を神経伝達する。

 反射的に後方へ退いた。同時に、鼻先ぎりぎりを掠め過ぎる、それは。

 半欠けの青龍刀。

 まさか、最初に、接近の隠れ蓑として投擲した刃が。

 狙っていたというのか。己がAICを使うと予測して。

 いや。それよりも。

 視界が途切れた。文字通り、肉厚の刃は自機と敵機の間を断ち切るようにして飛び込んできた。

 一瞬でも視線を外せば、停止結界は――――

 

「バーカ」

 

 紅き龍、甲龍の斬撃が頭頂部を割った。

 

「が、ぁ……!!!」

 

 実際に、頭蓋が断ち割られることはなかった。

 絶対防御が最後の牙城となって我が身を守った。しかし、発動によるエネルギーの大幅な損耗が。

 これ以上はもうISを維持できない。生身で空中に放り出され、海面へ落下する。この高度から落ちれば無事では済むまい。肉体的にも社会的にも死は約束されたようなものだろう。

 

「まだだ!! まだ!!」

 

 もう一度、敵機を停止結界に捕らえれば!

 まだ。まだ私は、何も。何一つ為し遂げられていない。たった一つの想いすら。

 どんなに否定されても。どんなに無価値だと断じられようと。

 それでも、私は……。

 

「停まれぇ!」

 

 今一度AICを発動。眼前で佇む敵機を容易くその能力下に掌握した。

 夜空の只中に、()()()()を。

 ??? 何故。

 何故、敵機は突然動きを止めた?

 紅き機影、その背後で。

 

 ――――光が瞬いた

 

 夜空に散華する、光。幾条もの光の花弁。

 レーザー光。

 それが、ぐにゃりと。

 静止する甲龍を避けるかのように曲がる。蛇の蛇行めいて、偏向し、泳ぎ、しかして目指すはただ一点。

 蒼き熱線の雨が自機(シュバルツェア・レーゲン)へ、全て着弾した。

 

「――――」

 

 最後の絶対防御。具現維持限界。消え去る装甲。夜空へと投げ出される肉体。

 そして光。

 一条のレーザーが横合いを通り過ぎた。

 

 ふと見れば、右腕がなかった

 

「……ぁ……ぇ……」

 

 不思議と血は出ていない。熱線に焼き潰されたのだろう。

 声すら出ない。痛みが感覚器の許容量を超えていた。

 何も感じない。ああ、でも、ひどく寒い。

 心が、寒い。

 誰か。お願いだ。誰か暖めてくれ。

 誰か。誰か。

 

(教官)

 

 貴女さえ居てくれればそれでよかった……ううん、貴女が、存在するというだけで私は、私の心はこんなにも暖かかった。それだけで、よかったのに。

 どこで間違えてしまったのかな。日野仁に敗北した時? 織斑一夏を傷付けた時? 教官と再会した時? いやきっと、最初からだろう。

 最初から思い違いをしていた。貴女からの愛を欲しいなどと思ってしまった。

 欲しがる必要などなかったのだ。欲張って、要らない感情(モノ)を背負い込んだ。全ては満ち足りていた筈なのに。

 そうだ。私は、ただ。

 

 ――――貴女を敬愛(あい)するだけで、幸せだったのに

 

 暗く黒い、冷たい海。

 それが私を包み込んだ。

 沈み、堕ちて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここまで、ですわね」

「まだ生きてる」

 

 高高度からの海面落下。まず間違いなく重傷を負うだろう。

 しかし、確実じゃない。運が良ければ生きて、学園か、近くの陸地へ流れ着く可能性もある。

 ハイパーセンサーで周辺を探査。

 首を落とせば、その心配もない。牙月の柄の握りを改める。

 

「いいえ、時間切れ(time over)ですわ」

 

 それに静かな待ったが掛かる。

 

「間もなく学園の監視網が復旧するそうです。これ以上のジャミングも、発覚して咎められれば今後の活動に支障を来します」

「誰の所為で仕損じたか勿論分かって言ってるんでしょうね?」

「ええ、それはもう。どこぞの狂犬が勢い余って敵に近付き過ぎた御蔭ですわ」

 

 視線と、次いで機体を手繰ってそれと向き合う。

 夜の中でさえ蒼が冴える。目にも鬱陶しい鮮やかさ。セシリア・オルコットのブルー・ティアーズ。

 

「自分の技量(テク)の無さ他人の所為にしないでもらえる?」

「あら、無様に敵に拘束された御方を、その無いテクニックで助けて差し上げたのですが。他力本願は一体どちらでしょうねぇ」

「あんたがここまでヘボだって知ってれば止めなんて任せなかった。うん、その一点に関しては私の落ち度でいいわ」

「わたくしも、狂犬に事前打合せ(ブリーフィング)の重要性を理解しろという方が酷なお話でしたわ。ごめんあそばせ」

 

 熱した鉄の針で、向こうは凍て付いた氷柱で。

 鋭利な視線を突き刺し合う。このまま殺し合いに発展したところで何の問題があろうか。

 

「……時間の無駄ですわ」

「同意。私らは()()()だしね」

「あら、よくお解りですのね」

 

 打って変わって上機嫌に、蒼い少女は笑みを浮かべた。

 

「今宵の主役は仁様と一夏様。そして学園(ここ)はあの方々の愛を歌い謳う為のオペラ座。わたくし達はただの露払いでなくてはなりませんわ。そう、ならばこそ」

 

 少女の頬が紅く染まる。喜びと悦び、高揚を隠そうともせず。ただただ感情のまま打ち震える。

 

「あの怒りが、一夏様への愛を証明するのです。そも疑いようもありませんわ。全てを壊し、理性すら熔かすほどの、あの愛……あぁっ、あぁ! 素敵です(おとう)様! なんて美しいの一夏(おかあ)様! お二人の愛を知るほどにセシリアは、セシリアは幸せの絶頂を覚えてしまいます……!」

 

 少女の歌劇的な、大仰な台詞回しに嘲笑と鼻を鳴らす。

 が、しかし。

 悦びを覚えているのは自分とて同じだった。

 日野仁は、巌のような男である。それは外見的な武骨さであり、精神の剛堅さという二重の意味合いを含む。

 他者に怒りを発し、感情の赴くまま暴力を振るうなど、仁は断じて許さない。誰よりも自分自身を許さない。

 利己心、と呼ばれるものを何処かに置き忘れてしまったような、利他と自戒の権化。それが日野仁。

 けれど、ただ一つ、その戒律を破るものがあった。

 

「ふふ、当然よね」

 

 織斑一夏。日野仁を糧として生存する少年。

 その生命を脅かす者、その安息を踏み荒らさんとする者をあの男が許す筈がない。

 そして顕現した。絶対禁戒として封印された男の暴威。神威が。

 愛の証明? 下らない。セシリア・オルコットの言葉を嗤う。

 そんな()()()は不要なのだ。あの二人には。

 織斑一夏と日野仁は一心同体。不可分の絆そのものなのだ。

 織斑一夏を傷付ける、それ即ち日野仁を損壊させることと同義。否、同一だ。

 一夏の為に仁は怒る。一夏の為に仁は殺す。何者であろうとも。

 それが全て。

 

「……だから、アレはあんたが殺さなきゃダメじゃない」

「ええまったくに。ほとほと余計なことをしてくれますわ、あの淫売がぁ……」

 

 一夏を傷付けた女、仁が手ずから殺すべき敵をみすみす逃した。

 あの女、織斑千冬が。

 

「邪魔ね」

「邪魔ですわ」

 

 完成された絆に、墨の一滴の如く瞭然と現れた不純物。

 

「殺してやる」

「消し去って差し上げる」

 

 敵の強大さは筆舌に難く、極大の実感で思い知っている。

 自分一人ではどう足掻こうと不可能。夢のまた夢の夢。

 協力者……使い潰しの利く戦力が要る。だから、この女と手を組んだ。否応は無い。あの不純物を取り除く為ならこの程度のことは許容する。

 そう、この程度なら。

 

(あの女を除いたら)

(あの女を焼き払ったら)

 

 視線が衝突する。

 何も不思議はなかった。自分達は利害を同じくする者同士。

 ならば最後には殺し合う。

 

((次はお前だ))

 

 それはとてもとても、自然なこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 緑地公園の小高い丘。東屋の中で一人の少女がベンチに腰掛けている。

 視線は前方、丘の向こうのさらに向こう。

 ハイパーセンサーの部分展開により、彼女の視力は長距離望遠カメラを凌ぐ。

 

「……はい、じゃあ回収よろしく。大事な大事な彼の腕なんだから、傷一つでも付けたら君ら全員の首が飛ぶよ……うん、わかってるならいいよ」

 

 少女は笑みを刻んだ。幼さの残る美しい顔に、冷たく酷薄な色を塗り込めて。

 

「あ、それと、一応海の方も浚っておいて。もしかしたらあの娘も回収できるかもしれないし。生体反応はまだ拾えてるからまー、生きてるでしょ。再利用できそうならウチのラボで引き取るからさ」

 

 その後、二三事務的なやりとりを繰り返して通信を終了する。

 一仕事終えた達成感か、それとも疲労感か、自然に吐息が零れていた。

 

「だから言ったじゃないか、ラウラ。欲張っちゃダメだって。織斑一夏だけ殺していれば、少なくとも君の復讐は完遂できたのに……うふふふ、仁にまで手を出そうとするから、なーんにも為し遂げられなかったね」

 

 くすくすと、小鳥の囀りのように笑う。けれどそこに呆れはあっても、嘲りの色は微塵と含まれていない。

 

「ありがとう、ラウラ。心から感謝してる。本当だよ? だって」

 

 優しく少女は笑みを深める。慈愛すら込もった瞳で微笑を湛える。

 網膜投影ディスプレイには先程からずっと同じ画像だけが映し出されていた。

 獣の如く怒り吼える、男の顔が。

 

「僕の知らない彼の表情(カオ)を、たっくさん見せてくれたんだから!」

 

 夜の静かな帳の下で、少女の笑い声だけが響いた。

 

 

 

 

 

 

 



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