愛しのリシュリュー (蚕豆かいこ)
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愛しのリシュリュー

 まず前提として、仏戦艦娘リシュリューは美しい。

 

 瞳は雨上がりにひろがる北欧の空色。白皙(はくせき)の美貌は神がかりの彫刻師が全能を傾注した至宝のごとき天与の輝き。黄金の柳髪(りゅうはつ)はひるがえるたびに甘い芳香を脂粉(しふん)のように放つ。左目の涙の通り道と、桃色の下唇そばにひとつずつ置かれたほくろの、えもいわれぬ悩ましさ。長身に見合う長い手足が織り成す坐作進退(ざさしんたい)のひとつひとつに、なにか美しい歌でもみているかのような、みるものを陶然とさせる婀娜(あだ)っぽさがある。

 

 なにより、容姿が並外れて優れていることをリシュリュー本人が自覚していた。だがそれは、自身を卑下しないが実際以上に過信することもまたけっしてないという意味だった。自分はこれだけ美しいという現実を極めて正確に直視していただけである。

 そして、女の美しさは、重力のように、つねに堕落を画策しているということも、リシュリューは知っていた。

 美しさは自分で飼い慣らすものだ。それがリシュリューの哲学だった。

 だから彼女はつねに自己を磨きつづけているし、身の丈に合わない不相応な振る舞いもまた厳格に戒めた。

 彼女のまばゆいばかりの美麗さは、そうした不断の努力により錬成され、維持されているのだった。

 リシュリューとはそういう女性である。

 

 

 ここは日本のとある鎮守府。駆逐艦娘初月は執務室に提督を訪ねた。

 

「提督、やはり戦闘詳報も設計図とおなじで、コピーではなく原本でなくば駄目らしい。妖精たちがブチ切れて――」

 と、三回ノックして返事も聞かないままドアを開け放ちながら報告した。

 

 提督とリシュリューが、なにやら慌てた様子で着衣を整えている最中だった。

 

「そ、そうか、やはりだめだったか。横着はするものではないな。なに、いますぐ追加で必要というわけでもない。またつぎの機会でいいだろう」

 

 威厳を鎧のようにまとおうとして、焦っているため手から次々落としてしまっているような提督は、あえてかたわらのリシュリューからも、出入口の初月からも視線を逸らしている。

 

 提督とは逆の方向へ蒼空色の目を向けているリシュリューも、一見すると平静だが、アラバスターのようなほほが内側からほのかな桜色に染まっているのを、はるか天空の敵機さえ動向を掌握する防空駆逐艦娘が見逃すはずもなかった。

 

 初月は大仏のような半眼になって、訊いた。

 

「リシュリュー、口の端っこから垂れてる白いのはなんだ」

C'est pas vrai(うそでしょ)! まだ出してなかったはず……」

「冗談だ」

 

 口を拭おうとしていたリシュリューは落雷を受けたように目を見開いて、つぎに目尻に透明なしずくをたたえ、ぷっくりとした唇を噛んで、自身の衣装の前を握りしめ、初月をにらみつけた。

 

 初月はどこ吹く風で、手にしていたファイルを提督に気安く掲げて示す。

 

「また後で来てやってもいいけど」

「すまんが、そういう気遣いがいちばんつらいんだ」

 

 提督が白旗を揚げると、初月はにやりとしながら「ごゆっくり」とドアの向こうへ消えた。

 

 静謐が戻る。提督とリシュリューがため息をつく。リシュリューの敵意に満ちた目が、椅子に座ったままの提督へ指向する。

 

「だからRichelieu(リシュリュー)は、ちゃんと公私の区別はつけないとっていったでしょ」

「え、しかし、そもそもはきみがなんかわざと屈んで胸元みせつけたり、意味もなくわたしの顔を覗きこんできたりしてきたから、てっきりそういうメッセージかなにかかと……」

「ふ・ざ・け・な・い・で。いつからそんな自信家になったのかしら。こんな陽が高いうちから!」

「こないだ、まさにいまと場所も時間帯もまったくおなじシチュエーションで、そんな素振りをあえて無視してたら、“このリシュリューのことがほしくないの?”って半ギレに……」

「ええそうよ。言ったわよ。仕事中でも突如としてあなたのことがほしくなるのよ。いけないの?」

「いや、ありがたいことだが……」

「もっとあなたが早く出してしまえば、こんなバタバタしなくてすんだのよ」

「さすがに始めて30秒少々では……」

「しかも、わたしの胸をみながらしてほしいだなんて。ただのHENTAI(エンタイ)じゃないの。おかげでRichelieuまで服を直さなければならなかったわ」

 

 すまないと言いかけて、提督は思いとどまる。

 

「……ん? ちょっと待ってくれ。自分はこれを舐めるからあなたは胸を触ってって、きみが言ったんじゃなかったか?」

「い、言ってないわ」

「いやあ、たしかに言ったような気が」

「言ってない」

「そりゃたしかにイッてないけれども、わたしは言われたと記憶しているんだが……」

「言ってないわよ!」

 

 と、激論を交わしてふたりは、やがて、自分たちがつまらない意地を張っているだけということに気づき、

 

「すまない、執務中にきみにしてもらえるという非日常感がうれしくて、つい甘えてしまった」

「Richelieuのほうこそ、嘘をついてごめんなさい。おっぱいをいじってほしいって、Richelieuが自分から言ったことだったわ」

 

 ふたりはもじもじした。時計の針の音がやけに大きく感じられた。提督とリシュリューは、意を決して、まったく同時に、互いに言った。

 

「じゃあ、続きを……」

 

 視線と言葉がぶつかりあって、からみあって、ふたりは二の句が継げなくなり、赤くなって顔を背けた。

 

 そのとき、ドアが開いて、隙間から初月が顔を半分だけ覗かせた。

 

「においとか、体液とか、痕跡だけは残さないようにしてくれよ」

 

 返事も聞かないままドアを閉めていった。

 

「やっぱり夜まで我慢しよう。よく考えたら公務員が勤務時間中にしていいことではない」

「しかたないわね」

 

 リシュリューの声音も、すっかり平時のものに切り替わっている。

 

「なら、今夜の11時、あなたの寝室でいいかしら」

「お願いします」

「言っとくけど、お風呂に入っては駄目よ。シャワーは全部終わってから。この前なんて、あなたったらシャワー浴びて準備万端みたいな顔しちゃって、このRichelieuをどれだけがっかりさせたことか」

「不思議なんだが、シャワーを浴びる前の男に抱かれてなにがうれしいんだ」

「あなたに抱かれるんじゃないの。Richelieuが抱くのよ」

「え、まあそれはどちらでもいいんだが」

「よくないわよ」

「あ、はい。で、シャワーを浴びてない男を抱いてなにが……。臭いだけだと思うのだが」

「匂いも味もひっくるめて、あなただからよ。faire l' amour(セックス)で使うのは性器だけじゃないの。五感を完璧に駆使してこそ楽園の扉がひらくのよ。日本人はもっとfaire l' amour(セックス)を楽しむべきよ」

「その割に、きみはシャワーを浴びてから部屋へ来るんだが」

「好きな人にはきれいな体をあげたいもの」

 

 好きな人、という言葉を恥ずかしげもなく発砲してくるのが、リシュリューである。提督はどぎまぎとしたが、ここで退いてはいけないと自らを奮い起たせる。

 

「で、自分はシャワーを浴びて、わたしには風呂に入らさない……?」

 

 リシュリューの美貌が自明の理だという顔になる。横断歩道の信号機が青になったときに「渡っていいのか」と訊かれたらだれでもこんな顔をするだろう。

 

「わかった。こうしよう。わたしがシャワーを浴びないなら、その代わりに、きみもシャワーを浴びない」

 

 リシュリューの麗々しい眉が片方だけぴくりと上がる。

 

「このRichelieuを脅すの?」

「いや、これはまさに自由と平等を勝ち取るための崇高な戦いというべきではなかろうか?」

「このRichelieuが、あなたのナマの体臭を味わいたいといっているのよ」

「はっきりいわれると、やはり清潔感こそが人としての身だしなみのアルファでオメガだと思い知らされる」

「そして、Richelieuは丹念に清めた体で、あなたの愛を受けとめたいのよ」

「そう、それだよ。わたしもまさにそれなんだよ。わかってくれるだろう?」

「だめよ」

「なぜだ! くそ。日本を国連の安保常任理事国に入れてくれ。わたしに拒否権をくれ!」

 

 結局、リシュリューのフランス料理フルコースによって買収された米戦艦娘アイオワならびに米空母サラトガとイントピレッドが、男湯の前で厳戒態勢を敷いていたため、提督はシャワーを浴びることが許されなかった。

 

「日米同盟も一片の反故にすぎなかったのか」

「Sorry, admiral. トランプ大統領はいまフランスと仲がいいの」

 

 浴場前で仁王立ちしているアイオワが片目をつむった。

 

 寝室で待っていると、「入るわ」とリシュリューが訪れた。しかしバスローブ姿ではない。シースルーのネグリジェである。どことなく、リシュリューの表情も、いつもの余裕ある淑女というより、勇気を振り絞っている少女という風情がある。

 

「あのね、Mon amiral(わが提督).」リシュリューはベッドに腰かけている提督の前に立ち、いいにくそうにしていたが、決心を定めて、「あなたのいうとおりにしてみたの」

 

 どのとおりなのか提督には判断がつきかねた。首を傾げる。

 

「その、Richelieuも、シャワーを浴びずにきてみたんだけど……」

 

 リシュリューは、上目遣いで提督をみつめた。

 

「においが強かったりしたらちゃんと言うのよ、すぐにシャワー浴びてくるから。日本人には、françaises(フランス人)は体臭が強いらしいから……」

 

 果たして、リシュリュー本来の匂いは、むせ返るような濃厚な麝香(じゃこう)の甘さに、ほのかにツンと鼻をつく酸味があって、なんとも悩ましかった。理性のネジがひとつひとつ丁寧に回して外されていく。嗅ぐたびに脳の中心から溶けてしまいそうになった。その匂いに包まれる。つながったまま、彼女の体温が(こも)った腋や、金色(こんじき)の髪が秘宝のごとく隠している耳の後ろに顔をおしつけ、粘度を感じるほど濃い匂いを胸いっぱいに堪能しては、じかに味わった。そのたびにリシュリューが耐えるようなくぐもった嬌声をもらした。汗の滲むうなじ。舌が火傷しそうなほど火照った肌。どちらからともなくふたりの手がつながる。指をからめる。熱い吐息。訪れる思考の真空。痛いほどに互いの手を握る。鋼鉄のようだった五指の緊張が、やがて液体になったかのように弛緩していく。

 

  ◇

 

 朝の一分は昼の一時間より重い。

 

「どうしてあなたはそういつも朝起きるのが遅いのよ」

 

 遅番なので昼からの出勤でいいリシュリューの小言の集中砲火を受けながら身支度をすませていく。しかし慌てているためかあれこれと忘れ物をする。そのたびに呼び止められては、

 

「しっかりしなさいよ」

 

 と、リシュリューに柳眉を逆立てて怒られてしまう。

 

「まったく、あなたはそそっかしいんだから」

 

 反論のしようもないので、急いで靴をはき、廊下へ通じるドアを開けようとしたとき、

 

「ほら、また忘れてるわよ」

 

 背中にリシュリューの声が投げかけられる。はて、さすがにもう仕事に必要なものはすべて持ったはずだが……。

 振り返ると顔に彼女が手を伸ばしてきて、ぐい、と引き寄せる。気がつけば彼女の(かんばせ)が息のかかる距離にあった。唇のぬくもりに気づいたのはそのあとだ。

 

 顔を離したリシュリューは微笑みながら言った。

 

「はい、いってらっしゃい」

 

 執務室へ向かいながら、「もしかして自分は、一生リシュリューには敵わないのではないだろうか」という疑念が胸にきざし、振り払うように提督は必死にかぶりを振った。

 

 しかし、足取りは軽かった。



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Tout le monde joue au jeu de l'amour.(だれもが恋のゲームを楽しんでいる)

 まず、前提としてリシュリューは美しい。瞳は雨上がりの(中略)

 

 女性の美とは、24時間気を抜かない錬成によってつくられ、おなじくらいの努力によってようやく維持できるものである、それがリシュリューの持論である。

 

 では女性の美しさとはなにか。それは動物と人間の区別からはじまる。動物の美しさと人間の美しさは別だからだ。

 

 動物の美しさは、あるがまま、生まれもった形質を十全に発揮して、大自然で生命力を燃焼させるところにある。

 

 では人間の美しさとは? 動物の美しさにそのまま当てはめれば、素っ裸で笑いながら草原を走り回るということになる。それは美しいか? 美しくない。

 

 創世記によると、最初の人間たるアダムとイヴは、楽園エデンで一糸まとわぬ生活を謳歌し、それに疑問も覚えていなかったが、知恵の実を食べたことで羞恥が芽生え、そこらへんにあったイチジクの葉で股間を隠したという。裸身を隠す、すなわち衣服をみずから身にまとうことこそが、人間と動物の分岐点という見方もできる。

 

 人間の美とは、服装にある。自分に合った服、自分を引き立たせる服、シチュエーションに沿った服を見極めて、着こなさなければならない。

 

 リシュリューは言う。

「人間は内面がだいじだとだれもが言うわ。それはまったくそのとおり。だからこそ外面が大切なのよ。なぜなら、外面は、いちばん外側の内面だからよ」

 

 このように、美を追求するリシュリューが服にこだわるのは、至極当然の流れであり、給与の許すかぎりを、ファッションにつぎこむことも、なんら不自然なところはないのである。

 

「なにを表現するかということよ。極端なことをいえば、Robe de cocktail(カクテルドレス)les baskets(スニーカー)は合わないでしょ。髪、服、靴、sac(バッグ)、頭から爪先まで、すべてがひとつのThème(テーマ)をもって調和してないといけないの。“Si une femme est mal habillée, on remarque sa robe mais si elle est impeccablement vêtue, c’est elle que l’on remarque.”っていうでしょ」

 

 “下品な服装は服だけが目立つ。上品な服装は人物を引き立たせる”。ココ・シャネルの言葉である。

 

 では、リシュリューのこの哲学が招く事態とはいかなるものか。

 

 暇潰しに寄ったブティックで一目惚れしたブラウスがあったとする。買う。するとそのブラウスに合うバッグやスカートや靴を新たに揃えることになる。ストールや帽子も必要になるかもしれない。かくしてリシュリューのワードローブのほうがブティックと化す。

 

「しかしだな、そんなに服を買いだめする必要はあるのか? わたしでさえ、まだ着てるところをみたことないのが、かな~りある気がする」

 

 非番でも外出時は制服着用が義務付けられる海軍に身を置き、部屋着といえばピゾフのおもしろTシャツばかりの提督には甚だ疑問である。

 

「当然でしょう、さきざきの季節のものを買うんだから。必要になってから慌てて買いに行ったっていいものがみつかるわけじゃないわ。もしかしたらamiral(提督)が急にお休みがとれたとかで旅行に誘ってくれるかもしれない、観光で歩くことが多いかもしれない、amiralと並んで歩くならpantalons(パンツ)よりjupe(スカート)よね、なら足下はjupe(スカート)に合う、それでいて足に優しい履き心地のmule(ミュール)がいいわとか、いろいろ事情があるんだから」

 

「取れてもいない休暇と、誘ってもいない旅行のために服を揃えることの是非について意見書を提出したい」

 

「Amiralが旅行に連れていってくれないから、日の目をみられない服も多いのよ」

 

「確定していない未来を当て込んだことについてわたしのせいにされても……」

 

「去年にキョートへ一泊二日で旅行したときだって、旅館に一日中こもりっぱなしだったせいで、結局ただの荷物になっちゃったんだから」

 

「それをわたしだけのせいにされても……」

 

 しかしクロゼットには那由多(なゆた)の服が眠っている。

 

「フランス人は10着しか服を持っていないと風のうわさで聞いた」

 

「世界中の気候を集めたようなこの国で、女が10着だけで生きていけると思う?」

 

「そういうものかな……」

 

「それに、ことしのRichelieu(リシュリュー)に合う服と、来年のRichelieuに合う服はかならずしも一致するとは限らないんだもの」

 

「それなら去年のは処分すれば……」

 

「再来年のRichelieuには合うかもしれないでしょ?」

 

 リシュリューの返答には迷いがない。

 

 それに、と脱いだ衣装をハンガーにかけていきながらリシュリューは続ける。

 

「たとえば気に入った靴をみつけたとして、そのとき買っておかないともう二度と手に入らないかもしれない。だから買う。ところが、手持ちの服ではその靴と調和する組み合わせがない。ならその靴は、手元にあるのに、存在しないも同然なのよ。もったいないでしょ?」

 

「もったいないと思うなら、最初から買わないという選択肢は……」

 

「ないわ」

 

「だが、結局着ないままの服もあるのでは?」

 

「あるわね」

 

「それはやはりもったいないんじゃないか?」

 

 リシュリューが蠱惑的な下着姿となる。腰の位置が高い。彼女は「んー」とすこし考えて、

 

「“Le Comte de Monte-Csisto(モンテ・クリスト伯)”ってあるでしょ? あれって文庫本だと7巻あるのよね。でも一度読んだあとは、読み返すときはたいてい1巻と7巻しか読まないでしょ?」

 

「たしかに」

 

「で、もし新訳版が出たので、買うとするわね」

 

「ストーリーが違うわけでもないのに、新訳が出るとなるとつい買ってしまうんだよな」

 

「この場合、どうせ2巻から6巻までは読み物としてはあまり必要ではないけど、でもとりあえず全巻揃えるでしょう」

 

「ああ……なるほど……」

 

「捨てるのはいつでもできることなの。でも手放してから後悔しても遅いのよ」

 

「そういうものか?」

 

「Amiralだって、九一式徹甲弾が改修できるようになるとは思ってなくて、余剰分をすべて廃棄したあとに改修用の素材としていくらあっても足りない状況になって枕を涙で濡らしたって、そういってたじゃない」

 

 提督には返す言葉もない。なお「大規模作戦じゃ烈風とネームド艦戦しか使わないから、紫電改二は全部処分してもいいな!」という前科もある。

 

 人間は痛いところを衝かれると反発したくなる生き物である。提督はつつかなくともよい藪をわざわざつついた。

 

「そんなに着飾って、いったいだれにみせるつもりなんだ」

 

 リシュリューがむっとする。

 

「どうしてそんなこというの? Amiralだって、Richelieuがちゃんときれいに着飾っているほうがいいでしょ?」

 

 まずい、怒らせた、と提督は慌てた。

 

「その、なんだ、ほら、つまりですね」

 

 なんとかして、彼女のご機嫌をとる、ウィットに富んだ返答を即座にひねり出さねばならない。思考が交尾中のヘビのようにこんがらがってからまった提督は、「着飾らなくたって、きみはそのままでじゅうぶん美しいよ」という意味で、こう言ったのである。

 

「脱いだらおなじだし!」

 

 日はまた昇る。南中を過ぎる。遅めの昼食をとるため食堂に入った初月は、「室内なのに雨が降っている」と感じた。ひとりで沈んでいる提督の頭上に雨雲が幻視できたからだ。提督はその雨に打たれていた。

 

「いちおう訊いてやるけど、どうしたんだ」

 

 呆れる初月に提督は頭を抱えながら答えた。

 

「リシュリューが口を利いてくれない」

 

 初月の助言により提督が花束をもって仲直りを申し出て、日仏の友好関係はぶじ保たれた。

 

 つぎの日、

 

「ねえ初月、amiralの私室のおもちゃ、なんとかならない?」

 

 と、今度はリシュリューが相談をもちかけた。

 

 艦船模型つき桐箪笥を全種類コンプリートしている提督だが、ふつう、箪笥はそうそう取り替えるものでもない。せっかく手に入れたのに倉庫で埃をかぶらせるのも忍びないということで、執務室に置いていない桐箪笥から付属の艦船模型だけを取り外して、私室にディスプレイしているという式だった。

 

 しかし、私室もわざわざショーケースを新たにあつらえられるほどの余裕はない。いきおい、数少ない空きスペースである本棚の上が、模型たちの安住の地となる。

 

 なにせ戦艦や空母の模型なのででかい。重い。もし寝ているときに落ちてくればおおごとである。

 

「たしかに、地震がきたりしたら危ないかもな」初月は秀でた顎に手をやりながら案じた。

 

「地震がなくても危ないのよ」

 

 リシュリューは顔の前で手を振った。模型置き場であるふたつの棚は、それぞれベッドの頭側と足側を挟むように隣接している。

 

「振動で落ちてこないか心配で心配で、2日ぶりだったのにゆうべも集中できなくて」

 

「帰っていいか」

 

  ◇

 

 そんなこんなで、この金曜、提督はリシュリューに、

 

「あした買い物に付き合って」

 

 と世間話のひとつのようにさりげなく頼まれた。提督に荷物持ちをさせる心算らしい。

 

 そこで提督は――やめておけばよいものを――ささやかな意地悪を試みた。こう返したのである。

 

「それってデート?」

 

 言った。言ってやったぞ。提督は己の勇気に酔いしれた。きっとリシュリューは照れ隠しに買い物と表現したに違いないのだ。そら、つぎの瞬間には慌てふためいて「違うわよ! デ、デートなんかじゃ……ち、違わないけどぉ……」と、最後らへんなんか消え入るような声で、やけにしおらしくなったりするのだ。期待に胸が高鳴る。

 

 しかるにリシュリューの返答は、

 

「そうよ」

 

 表情筋すら微動だにせず、紅潮のひとつもない、冬のパリの凱旋門を抜ける風のように冷たく、無慈悲な断言だった。

 

 花の都パリはその美称とは裏腹にひどく寒いということを知ったのは中学時代だ。国語の教科書に掲載されていたエッセイで、パリに留学した日本の貧しい非常勤講師が真冬の小さな食堂で困窮からオムレツだけ頼んだら「間違ってつくっちゃった。捨てるのもったいないから食べて」とどっしりしたオニオングラタンスープが配膳されてきて、それが人情込みでいかにも温かくておいしそうだったのがきっかけで、未だにオニオングラタンスープが大好きな提督は、味方のいない、雪のちらつくパリの街を空き腹かかえてさまよう学者に自らを重ねた。提督の完敗、E敗北である。ああ、無情(レ・ミゼラブル)

 

 翌日。

 

 買い物はつつがなく進んだ。だれもが提督と連れ立って歩くリシュリューに振り返った。金糸を編んだような豊かな髪までが楽しそうに踊る。そのたびに黄金のきらめきが花粉のように舞い、大気を浄福の気で彩る。石畳を叩くパンプスの足音ですらひとつの音楽だった。必然的に隣りを歩く提督にも視線が集まる。思わず萎縮してしまいそうになるたび、リシュリューに尻を叩かれた。

 

「ちょっとお腹が空いたわ。軽く食べていきましょう」

 

 提督に拒否権などあろうはずもない。小さいが洒落たレストランに入るリシュリューに続く。彼女は迷いなく入り口そばにある階段を上っていった。一階は厨房とキャッシャーで、席は二階にあるらしい。

 

 四人席しか空いていなかった。とりあえずリシュリューの椅子を引いてやる。リシュリューが礼を述べながら腰かける。

 

 で、彼女の対面に座ろうとしたら「は?」と凄まれた。提督は咳払いをし、荷物だけを対面の椅子に乗せ、自身はリシュリューの隣の椅子に移った。「ん、よろしい」一命をとりとめた。さて、なにを頼もうか。提督は意気揚々とお品書きを開く。

 

「ここね、オニオングラタンスープがおいしいの」

 

 リシュリューに提督のメニュー表をめくる手が止まる。

 

「あなた、好きだって前に言ってたでしょ?」

 

「言ったかな」

 

「言ったわよ」

 

「すまない。覚えがない」

 

 リシュリューはくすりと微笑む。「言ったほうは意外と忘れているものよ。なんでも、むかし学校でおいしそうなオニオングラタンスープのお話を読んだかなんかで、それ以来好きになったとかって」

 

 提督は少々驚いて、それから口元を緩めた。自分でさえ口にしたことを覚えていないということは、おそらくは他愛ない思い出話のひとつだったのだろう。もしかしたら寝物語だったかもしれない。そんなものさえリシュリューは記憶に留めていた。

 

 ならば、もうお品書きには用はない。

 

 さあ、注文のオニオングラタンスープが運ばれてきた。熱したにんにくとチーズの芳香が湯気とともにただよう。受け皿に乗せられた純白の耐熱容器からわざと溢れさせたチーズの無造作な焦げあとが、陶芸における自然釉のように、この世にふたつとない皿を演出する。

 

「それでは……」

 

 スプーンをさしこむ。白銀の匙に濃い飴色が満たされる。およそにおいというものは味覚を裏切らない。とろとろになるまで煮込まれたタマネギの甘さ、チキンブイヨンの旨味、バターのコクがぎゅっと詰まっていて、濃厚なスープが隅々まで染み渡ったバゲットが、腹臓というより足首のあたりから体を温める。水分が少なめなので飲むというより食べるスープだ。寒さに強張っていた体が解かされていく。

 

「いままで食べたオニオングラタンスープのなかでいちばんうまいな」

 

 本音だった。リシュリューも「でしょう」と相好を崩した。「このあたりのお店を食べ比べてね、ここがいちばんだったのよ」

 

 そういうリシュリューはアラビアータとチーズのオープンサンドイッチに舌鼓を打っている。「これははじめてだけど、おいしいわね」

 

「きみもこれを頼めばよかったのでは?」食べ物についてあまり冒険をしない提督が苦笑する。気に入ったメニューがあれば基本的にほかのものは頼まない性格の提督からすれば、おいしいと知っているオニオングラタンスープではなくわざわざ別のものを注文するリシュリューはとても不思議に映る。

 

「どうして? 連れと料理がかぶるなんて、相手に失礼じゃない」

 

 口も指も汚さず食事を進めるリシュリューはさも当然のような顔をした。

 

 フランス人は仲間内でけっしておなじ料理を注文しないといううわさは、日本人はみんなカメラを首から下げているとか、中国人はみんな拳法の達人とかいう偏見のようなものかと提督は漠然と思っていたが、どうやら真であるらしい。

 

 この世界にはまだまだ知らないことがたくさんあることに気づかせてくれる、リシュリューはいままで見えていなかったものまで見せてくれる、参ったな、と提督は微笑しながら、チーズが乗ってスープをたっぷり含んだバゲットを味わう。

 

「しかし、わざわざ店をさがしてくれたのか。こんないい店があるなんて知らなかった」

 

「Richelieuがつくってあげてもよかったんだけど、あなたの話からするとね、お店で食べたほうがいいんじゃないかしらと思って」

 

 提督は最後のひとくちを掬った。

 

「これは、きみがつくってくれたも同然だよ」

 

 リシュリューの横顔から、花がこぼれる。

 

「ばかね」

 

  ◇

 

 その夜、通路の窓外で雪がちらついていた。冷えるはずだ、と提督が歯を吸いながら、あすの仕事の準備のため執務室に帰ると、コタツでリシュリューがくつろいでいる。コタツに足を突っ込んで背を丸くしている姿がほほえましい。

 

「出られないわ」

 

「わかる」

 

 書類をやっつけようとした提督は、先にも増して底冷えを覚えた。コタツで暖まるリシュリューをみているからかもしれない。チェックと決裁はコタツでもできよう。

 

「じゃあ、わたしもお邪魔させてもらおうかな」

 

 提督がなんの気なしにいうと、

 

「あら、しかたないわね。詰めてあげる」

 

 リシュリューがわずかに右へ腰をずらした。

 

 当然のことながら、コタツは四方に開口部をもつ。いまコタツに入っているのはリシュリューだけだ。三方が空いている。提督はリシュリューの言葉に判然としないながらも、彼女を北とすると東に足を差し込もうとした。

 

 視線を感じて、ふと顔を右に向けると、リシュリューがろう人形のように無表情でこちらを直視していた。みかんの皮をむく手も止まっている。

 

 提督は思いなおしてリシュリューのすぐ隣に移動して足を滑り込ませた。肩が触れ合う。狭い。しかし暖房以上に暖かい。

 

「……ん、よろしい」

 

 リシュリューがまたみかんをむきはじめる。

 

 四人席でわざわざ隣りあって座るように、コタツにわざわざ隣りあって入るように、はたからみればおかしな、だが自分たちにとっては代替のきかない幸せを、ひとつずつ重ねていければ。天花舞う静謐な夜に、提督は思いを馳せるのである。



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Tu est jalouse?(あなたはやきもちを焼いてくれますか)

 食堂にて、おひとりさまで食事をとっている提督に、空席をさがしていた長波が相席を頼んで、

「聞いたぞー提督。リシュリューのやつ、フランスに帰るんだって?」

 と片八重歯をこぼした。

「あした出発」

「また喧嘩でもしたのか? はやいとこ謝っといたほうがいいぞ」

「ああ、いや、そうではなくて」提督は笑って長波の勘違いを訂正させる。「対深海棲艦の戦術とか、艦娘の運用法とか、わが国での任務を通して得られたノウハウを持ち帰るためだよ。もともと彼女はそのために日本にきたんだから」

「それって8月じゃなかったか?」

 長波が背にする壁には艦娘が傘を差すポスターが貼られている。毎年梅雨どきになると広報が配布するものだ。海上を20ノット超で航行する艦娘にとって傘は意味がない。また、勤務時間中の降雨は傘ではなく雨合羽で対応しなくてはならない。

 よって、傘を差す制服姿の艦娘とは、広報の宣伝作品という箱庭にしか存在しないクリシェであり、しばしば現場の艦娘たちから「あのポスターみたく傘を差して水上スキーをするにはどうすればいいか考えようぜ」「最初の1秒で深海鶴棲姫の頭になるよな」「ドラッグシュートみたいに適度に穴あけるっきゃねえな」「おまえ傘の存在意義わかってるか?」などと放埒(ほうらつ)な批判の的にされるのであった。

 

 要するにいまはまだ梅雨の時期である。提督は苦笑いする。

「ほら、6月といえば、ソルドの時期だろう?」

 え、と長波の箸が一瞬とまる。「ソルドって、バーゲンの?」

 バーゲンセールの祭典といえばイタリアのサルディが有名だが、フランスにも似たような風習がある。フランスでは「無秩序な安売りは過当競争を招き、国内経済の発展に寄与しない」という理由から、商品の割引が法的に制限されており、それは年に数回だけ規制緩和される。

 1月と6月の年2回開かれるsoldes(ソルド)はそのバーゲンのうち最大規模のもので、衣類も靴も雑貨も、家具も食器も電気製品も、とにかくありとあらゆるものが値下げを許され、半額とか70%引きとかのお値打ち価格で買うことができるという、一種のお祭りである。有名ブランドのブティックも例外ではない。地元フランス人のみならず世界中から買い物客がソルドの時期をねらって殺到する。ただしルイ・ヴィトンだけはソルドには参加しないようだ。

「どのみち近いうちに一時帰国することにはなっていたから、ソルドと重なるように彼女が本国と調整したんだとか」

「どっちがついでだよ」

「終わったらまたこちらへ戻るそうだ」

「でも帰るまでけっこうかかるだろ?」

「1ヶ月。もしかしたらそれ以上かもしれない」

 以前なら日仏間は飛行機で半日の旅だったが、深海棲艦の跳梁跋扈する現状では大陸横断の旅程の少なくない部分を鉄道に頼るほかない。

「さびしいだろ?」

 長波が混ぜっかえす。

 提督は茶を飲んで、

「男のわたしには、里帰りとはいえ、地球を半周してまでバーゲンに行く気が知れない」

「それ、本人には言うなよ。それこそ喧嘩になるからな」

 長波も熱い茶をすすった。

 

  ◇

 

「言っておくけど、今回は仕事の都合で、仕方なく、やむを得ず、選択の余地なく、否応なく、しょうがなく帰国するのよ。けっしてsoldesのためだけじゃないんだから」

 ベッドの上で、ヅィメリーのレースキャミソール1枚だけのリシュリューが、提督と向かい合って腰をおろす。伸ばされたリシュリューの象牙のような腕が、提督の首にゆるく絡まる。

「わかってるよ」

「海の季節までには帰ってくるから。水着選びに付き合ってね」

「きみたちは海が職場だろう。プライベートで仕事を連想させるものをみたらうんざりしないか? 理系は試験管やフラスコやリービッヒ冷却器が不意に目に入ると、動悸がはげしくなり、意味もなく涙があふれ、喉の奥から熱いものがこみあげ、なにものかに許しを請いはじめるというが」

「あなたと行く海は、違うのよ」

 くちびるが触れあう距離でささやきあう。削いだように高いリシュリューの鼻が触れて、くすぐったい。上へ反った金のまつげが雪白のほほに影を落としている。水気を湛えて輝く瞳は、アトランティスの沈んだ海中から見上げる空の色だった。

 艶やかな髪の香気。それにくわえて、薄衣を内側から押し上げる双房のぴったり閉じた狭間や、毛穴すらみえない腋からたちのぼる、濃厚なミルクバターのような体臭が、提督を心地よい酩酊にさそう。

「浮気しちゃだめよ」

「しないよ。でも、そうだな」提督は何気なく口にした。「今度、現代美術館で川端康成と東山魁夷のコレクション展があったっけ、きみがいないなら、それはそれで美術館めぐりに集中できるかも」

「それは絶対だめ」

 なんで、と言おうとした提督の口内に、リシュリューの甘い味がひろがる。ゼリーのような弾力の口唇が、癒合をせがむかのように吸い付く。入ってきた熱い軟体は、提督の舌に、執拗に抱擁と摩擦を繰り返す。

 リシュリューの美貌には、普段にない懇願と、かすかな怯えの色。

「お願い、amiral(提督)も舌を出して。Richelieu(リシュリュー)だけがしたいのかって、不安になっちゃう」

 桜の花びらのような爪が乗った指先が、提督の下唇に触れる。抗うこともできず、提督はリシュリューの指を迎え入れる。熱。舌を撫でられる感触に鳥肌が立つ。自然と舌が前へ出る。

 美姫(びき)のようだったリシュリューの顔が、初恋の叶った少女になったかと思うと、彼女は外気に晒される舌にむしゃぶりつく。出されたままの舌を吸いながら、頭を前後させる。漏れる吐息。つぎに顔の角度をかたむけ、より深く結合させて、提督の舌を上下のくちびるで挟んで固定し、そのままやわらかい体温のなかで舐めまわす。

 容易に消せない火を灯された提督は、観念して、しだいにリシュリューに後ろへ倒される。おおいかぶさるリシュリューから、それ自体が発光しているかのような金髪が長く垂れる。口元のほくろが妖しい笑みをかたどる。

 リシュリューは、本当は浮気だけですむならかまわないと思っていた。いっときの遊びだけで、本気にさえならなければ、かまわない。

 提督が自分以外のなにかに夢中になって、それで満足してしまうかもしれない、それがリシュリューには怖かった。提督にしなだれかかる。

「でも、あした早いんじゃ……」

「これからひと月も無補給なんだもの。あなたでいっぱいに満たして、空っぽにならないように」

「それ、着たままするのか?」

 無抵抗な態勢のまま提督が尋ねた。黒いキャミソールは、眩しいほどのリシュリューの肌をさらに引き立てる。

「これ? 高かったのよ」

「ならなおさら」

「だからね」リシュリューは提督に乗ったまま裾をめくる。視線を釘付けにする重力場のような、魅惑の三角形。「汚さないように、ちゃんと出してね」

 

  ◇

 

 駆逐艦初月が諸用で執務室の提督を訪ねる。

「けっこう延びてるみたいだな。さびしいんじゃないか?」

 用事がすんだあと、防空駆逐艦は長波とおなじことを言った。リシュリューが発って2ヶ月近くになる。

「鉄道がストでたびたび止まるらしくてね。まあしょうがないさ」

「帰ってきたらまた時間とられるだろ、趣味とかはいまのうちにやっておいたほうがいいんじゃないか」

「それはそうなんだが、いざとりかかると、いまごろリシュリューはどうしてるかなとか考えてしまって、なにも手につかなくてね」

 提督は「失礼」と断って、湯を注いでおいたカップ麺の蓋をめくる。「ああ、この安っぽい味がたまらない」

「あいつがいないとおまえはいつもそんなものばかりだな」

 初月が苦言を呈すると、

「リシュリューのいるときが豪華すぎるんだよ。連れてかれる店がうまいところばかりだからつい食べすぎてしまう。どうやってリサーチしてるんだか」

「そのわりには体型はあまり変わってないようだけど」

「ああ、それは」カップ麺を食べ終えた提督はあっけらかんと答える。「激しい運動でカロリーを消費させられるから、収支が釣り合ってるんだよ」

「ノロケも過ぎるとセクハラだな」

 

 そういうわけで、リシュリューが日本に戻れることになったのは8月中旬だった。大陸からは船で日本海を渡る。

「行きとおなじで舞鶴だろう? 迎えに行こうか」

「お願いできるかしら」

「ヒトヒトマルゴー着の便だったな。じゃあその時間に」

「港はだめ」

 電話口で提督は虚をつかれる。いったいなにがだめなのか。まったく見当がつかない。固唾を呑んで受話器に集中する。

「まず美容院に行ってちゃんと髪をきれいにしてからじゃないと会えないから、お昼過ぎくらいにして」

 リシュリューは、あいかわらず、リシュリューであった。

 

 半休をとって舞鶴の市街に足をのばす。待ち合わせ場所に日傘を差したリシュリューが現れると、彼女の周囲だけが華やかに輝く。リシュリューの第一声は――日本人たる提督にはいささか理解に苦しむことに――これだった。

「Richelieuがいないあいだ、やきもち焼いてくれた?」

 開口一番がそれか、と提督は戸惑う。

 フランス語における“Tu est jalouse?”は、直訳すると「あなたはやきもちを焼いてくれますか」だが、その含意は、英語にすれば“Do you love me?”となる。やきもちのない愛などこの世に存在しないというフランスの恋愛観がうかがえる。

「仕事だったんだろう?」

 あえてつれない返事をした。素直に答えるわけにはいかない。

Albert Mehrabian(アルバート・メラビアン)の提唱した、“7%-38%-55% rule”って知ってる?」日傘の影のなかでリシュリューが勝者のように嫣然(えんぜん)としてほほえむのである。「日本語ふうにいうなら、目は口ほどにものを言い、とか、顔に書いてるとかいうのだけれど」

 提督は駅への帰路につく。リシュリューも並ぶ。

「往路もあちこちで足止めされて、franceに着いたころにはsoldesが大方終わってしまってて、ろくなものが買えなかったわ。まったく」

「やはりソルドが目当てだったのでは……」

「違うわよ、なんのためにRichelieuがわざわざ夏にamiralといられるように折衝したか……」

 と、そのとき、リシュリューが双眸をこれでもかと見開き、口を手でおおう。

「忘れてた! 水着の時期に出遅れたわ!」

「あ、うん、いいよ、買いに行こう。約束だからね……」

 提督は青息吐息である。

 

 百貨店の水着売り場でいくつか見繕ったリシュリューが試着室に入る。いまや女性服売り場もすっかり慣れてしまった提督はその前で待つ。批評をせがまれるからだ。このとき、AとBの両方をみせられて「どっちが似合う?」と訊かれて、Aと答えてはいけないことを、提督は経験則から知っている。「じゃあ、BはRichelieuには似合わないってことなのね!」ということになる。逆でもおなじだ。もはや誘導尋問である。

 というかフランス人は誘導尋問が好きなうらみがある。『ダ・ヴィンチ・コード』の原作で、ラングドン教授が深夜のパリで不本意な観光旅行をすることになったさい、ルーヴル美術館の玄関にI・M・ベイが設計したというガラスのピラミッドを示した現地の警察官に「どう思います?」と質問されて、「素敵ですねとお世辞を言えば悪趣味なアメリカ人とバカにしてくるし、下品だと答えればフランスを侮辱したことになる意地悪な問いだ」と考えたりしていたが、これはおおよそフランス人の傾向として間違っていなかった。そのとおりだった。

 だから、買い物で「どっちが似合う?」と訊かれても、命惜しくばどちらも選んではならない。ラングドンが「ミッテラン大統領は大胆な人物でしたね」と、ルーヴルのピラミッド建設に賛成した第21代フランス大統領を引き合いにだしてお茶を濁したように、

「そうだなあ、きみはどっちが好き?」

 と質問で返したり、

「きみが持ってるほかの水着は明るい色が多いから、たまにはそういうアースカラーもいいかもしれないね」

 というふうに、きみのことをちゃんと見ているよアピールで切り抜けねばならない。

 しかし、と待っている提督には苛立ちが募る。ふた月ぶりだというのに、しかもフランスで山ほど服を買ったろうに、帰ってきてまずすることが、水着のショッピングとは! リシュリューはわたしと会えることなど少しも楽しみにしてくれていなかったのかな、リシュリューはいつもこうだ、服のことばかり、なにもちっとも変わっていない……。

「Amiral, ちょっといいかしら」

 そら、おいでなすった。水着姿をみせて、どう、と訊いてくるぞ。

「なんだ……」

 思わずふきげんに振り返った提督の後頭部にリシュリューの手が回される。

 周囲からの視線をさえぎる試着室に首だけ引き寄せられた提督が、その姿勢のまま硬直する。

 売り場の喧騒と音楽は途切れずつづく。

「会いたかったわ、amiral.」

 提督から顔を離したリシュリューが、器用に片目をつぶって、またカーテンの向こうに消える。

 提督は閉じられた試着室の前で、ぬくもりを移されたくちびるに手を当て、悶えたいのをこらえる。

 やはり、リシュリューはちっとも変わっていない。

 いつものように、美しく、そして、たまらなく可愛い。

 

  ◇

 

 碧海を望む白い砂浜で、提督とリシュリューはふたりきりだった。

「帰国を早めたのは、soldesもあったんだけれど、amiralと海に来たかったからなの」

 ラグナムーンの上下で異なるパターンのボーダーバンドゥビキニ姿で、リシュリューが浜辺に踊る。揺れる乳房はそのたびにこぼれそうになり、熟れた腰回りから続く、むっちりとした肉づきの太ももが、真夏の太陽と生の充足を謳歌する。

「わたしと?」

「そう、あなたと」

 振り向いたリシュリューが、また水平線へ向き直る。無辺際の水天。さざ波の鼓動。

「海って広いわよね」

「そりゃ、まあ」

「こんな広いものを守るのって、けっこう大変なのよ」

 長い脚が海へ入る。波がリシュリューの格好良く締まる足首を洗う。

「男は遠くにある大きな目標を叶えたがるけれど、少なくともRichelieuは、せいぜい自分の半径3mètres(メートル)以内しか興味がないの」

 吸い込まれそうな青空に、一片の雲がただよう。それらを背景に佇むリシュリューは一幅の絵画のようだった。

「もちろん祖国のことは愛しているわ。でもね、顔も知らないだれかのために命を捨てられるかどうか、そうなったとき、Richelieuには自信がない」

 リシュリューが海へと足を進める。一歩ごとに深く沈んでいく。

「だから、Richelieuには個人的な理由が必要なのよ。戦うにたる理由が」

 膝の下まで海水に浸かったリシュリューが、ふたたび振り返る。凪のように穏やかな表情だった。絵画などではない、血肉と体温をもつ女だと思い出させる。

「Amiralと思い出をつくれば、きっと、またこうしてふたりで遊ぶために海に来たくなる。そのためになら、Richelieuはなにがあっても戦えると思うの」

「責任重大だ」

「そうよ」リシュリューがしなやかな手をのばしてくる。長い指。「Richelieuのために、思い出をつくって。あなたとまた来たいって強く願えるほどの、素敵な思い出を。Richelieuがまた帰ってこられるように」

 提督も海へ入る。彼女の手を取る。

 この手は、もう放さない。



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Volons vers la lune.(わたしを月へ連れていって)

 リシュリューを初めて目にしたときのことである。こんな美しい女性がこの世にいるのかと提督はわが目を疑った。まるで彼女がいる場所のみが舞台照明で照らしだされているかのようだった。淡く輝く黄金の巻き髪がかもしだす熟れた情趣、優美な線で描かれた輪郭に、秀でた眉と氷河の瞳、冴え冴えと通った鼻梁、光を宿すほど艶やかな唇が、完璧な配置で収まり、それら生まれもった光り輝く美貌そのものが、贅のかぎりを尽くした豪華絢爛な装いのようでさえあった。加えて、左の目尻と口許に天の配剤のごとく置かれたほくろが、なんともいえず蠱惑的である。フランス海軍の軍服に押し込められた、伸びやかで豊満な肢体は、彼女の端正な顔立ちを一層引き立てて、その整った粉粧玉琢(ふんしょうぎょくたく)にまぶしさすら感じた。まず、気品のある、(ろう)たけた美人であった。

 

「お逢いできて嬉しいです、amiral. 戦艦Richelieu, まいります」

 

 もとより飛び抜けて優れた容姿であるうえに、優雅な笑みを浮かべると、もはや輝くように美しい。提督の顔をみつめるそのセレストブルーの瞳は、冬の晴れた静寂な空のように澄みきっていて、気高さと、おなじくらい高い知性からくる深みがある。彼女の周りに満開の花をつけた姫金魚草(リナリア)が見えるようだった。

 

 美しさも過ぎると威圧感となる。提督はすっかり恐縮してしまい、海外特別派遣任務で祖国フランスからはるばる日本に赴任したリシュリューの挨拶に、いわば日本の名代(みょうだい)としてまともな返答ができたかどうか、自分でも定かではなかった。

 

 提督の心落ち着かない日々がはじまった。あるとき、執務机を挟み、リシュリューにサーモン海域について海図をつかって説明していて、うまく聞き取れなかった彼女が「わからない。敵輸送船団がよく使用する航路はどのあたりですって?」と、回り込んで提督のそばに寄った。提督の左肩にリシュリューの右肩が触れた。海図に視線をそそいだままのリシュリューはみじんも気にせず集中している。その横顔など、彫りの深いくっきりとした目鼻立ちをしていて、長いまつ毛が揃って上へ反っている円弧までよく認められ、煌めきのなかに叙情的な趣もあり、したたるように美しい。蘭麝(らんじゃ)のような薫りが鼻腔をくすぐった。

 

 提督は右に体をずらして距離を空けながら、なに食わぬ顔で説明を再開した。

 

 視界の端でリシュリューがこちらを睨んだのがわかった。リシュリューがまた自らを寄せてきた。

 

 提督は過去の統計から導き出された敵輸送本隊の予想航路を巧みに解説しつつ、また右へずれた。リシュリューが詰めた。そのやりとりがしばらく続いた。

 

「ちょっと!  どうして逃げるのよ」

 

 執務机を半周したあたりで、リシュリューが声を荒げた。

 

「いや……」

 

 提督の目は泳いだ。提督からすれば、リシュリューはさながら後光が射しているようで、影を踏むのもためらう存在に思えた。生きる世界が違うという畏敬のような念が禁じ得ず、近寄りがたいものがあったのである。

 

 理解できないのはリシュリューのほうである。理由なく避けられて喜ぶ女はいない。リシュリューは、もしかして自分の体臭がきつかったりするのだろうかと本気で頭を悩ませた。後日、思いきってコマンダン・テストにこっそり質した。

 

「ねえ、Commandant teste, Richelieuって、臭う?」

「え? Richelieuってワキガでしたっけ?」

「違うわよ!」

「知ってます。いつもとてもいい匂いがしますよ。気にしないで」

 

 しかし、おなじフランス同士では参考にならないかもしれない。当時すでに親交を結んでいた長波にも確認した。

 

「ねえナガナミ。耳を貸してくれない?」

「ちゃんと返せよ」

「日本の艦娘のあなたからみて、Richelieuって、臭う?」

「え? リシュリューってワキガだったっけ?」

「違うわよ!」

「知ってる。臭えって思ったことはないよ。いつも小洒落た香水のいい匂いがしててさ、こないだ暁がどこのブランド使ってんのかめっちゃ気にしてたぜ。訊かれたら教えてやってくれ。うそだと思うならハグしてやるよ、ほら、来な」

「Amiralに避けられてるような気がするのよ。嫌われるようなこと、してしまったのかしら」

「そりゃただ単に照れてんだよ」

「テレテン……? どういう意味?」

 

 まだ日本語に熟達しているというほどでもない当時のリシュリューにはいまひとつ伝わらなかった。小首を傾げて、はらりと流れた前髪が高い鼻にひっかかる。

 

「ああ、ええと、ようするにだな」腕を組んで言い回しを考えていた長波が、異邦人にも明快に理解できる答えをみつけて、とびきりの笑顔を閃かせる。「おまえにホレちまったんだろ」

 

 リシュリューはまばたきした。

 

「それならrendez-vous(デート)にでも誘ってくれればいいのに」

「そこがヘタレのヘタレたる所以なんだよ」

 

  ◇

 

 たまの休日には近傍の美術館めぐりを欠かさない提督が、最近は仕事以外では外出もせずに終日(ひねもす)引きこもっていることに秘書艦の初月が勘づくまでに、さほどの時間はかからなかった。

 

「なにを観ても気が晴れないんだ。集中できないというか。じっと立ってみつめていると立ちくらみしそうになる」

 

 昼食どきに尋ねてみると、オフィス用のミニキッチンで鍋を火にかけながら提督はため息混じりに答えた。

 

 初月は顔をのぞきこんだ。

 

「なんだか痩せたような気もするな」

「仕事はできているからその点は問題ないが、それでもう気力の限界だ。好きだったアートもいまはまったく心に響かない。今度ミュシャ展があるのにそれも楽しめなかったらと思うと、恐怖ですらある」

 

 リシュリューを前にしたときだけ、提督がC-3POのでき損ないのようにぎくしゃくすることを知らない初月ではない。

 

「そんなに気になるならいま付き合ってる男がいるかどうか、訊いてみればいいじゃないか。大人だろ?」

 

 提督は鍋で煮た即席ラーメンをすすって、思わず苦笑いする。

 

「どう考えてもセクハラだぞ、それは。女性にいちばん嫌われる質問では?」

「フリーかどうかわからないんじゃどうしようもないだろう。あれも大人なんだからその程度は水に流してくれるさ」

(ふね)だけに?」

「轟沈してこい」

 

 そういうわけで、ある夜、bar早霜でリシュリューがひとりグラスを傾けているという偵察結果を初月の情報網が捕捉、この付き合いの長い秘書艦にけしかけられた提督は、なけなしの勇気を奮って乗り込んだのである。

 

「隣、いいかな」

「どうぞ」

 

 リシュリューが夜の港を望むカウンターで泡立つミモザを味わう、その姿だけでも、どこか浮世離れしていて、銀幕のひとこまを鑑賞しているような錯覚がし、そこへ自分が踏み込んで神聖な光景を破壊してしまうのがいかにも不粋に思え、いささかのためらいを覚えずにはいられない。

 

 バーテンダーの早霜にカミカゼを頼み、酒の力を借りて、

 

「日本にはもう慣れた?」

「暑くてたまらないわ」

「やっぱりフランスより暑い?」

Ouais(ええ), ここまで暑い国だとは思わなかった。以前の任地だったEgypte(エジプト)よりも厳しいわね」

「ことしは猛暑だからね。しかし、エジプトか! 世界中を回ってるんだね」

 

 そんなふうに二言、三言交わした。どうやらリシュリューはいま話しかけられること自体には拒絶をしていないようだと了解してから、いよいよ、

 

「そんなに転任ばかりだと、フランスに置いてきたボーイフレンドとかは寂しがるのでは?」

 

 と提督は切り出した。

 

 もっとほかにましな訊きかたがないものか、提督はわれながらおのれの経験不足を後悔した。しかしリシュリューは別段気にしたふうもなく、艶やかな所作で頬杖をついて、涼やかな笑みを漂わせた。

 

「いま付き合ってる人がいるか探りを入れるってことは、ようするにRichelieuを口説くつもりなのよね?」

「え、まあ、はい、身も蓋もなく言えば、そうなるんですかね」

「仮にRichelieuに交際している相手がいたとしたら、amiralはRichelieuのことをあきらめられるの? 奪ってまで欲しいほどではないということ? amiralにとって、Richelieuの魅力はその程度のものなの?」

 

 提督はたじたじである。

 

「きみは自信家なんだな」

「だって、Richelieuは自分が美人だって知ってるもの。100のものを80とか120とは言わないわ。Richelieuはただ100を100と言ってるだけ。自分を不細工だなんてわざわざ卑下する女っていうのは、十中八九、そんなことないよと慰めてもらいたいだけなのよ。そんな女、うっとうしいでしょう?」

「うーん……うーん……」

「古今東西、恋は争うものと相場が決まっているわ。Franceのとある地方では、男女が結婚するにあたって、掲示板にその旨を通告して1週間、異議申し立てがなければ、はじめてふたりは結ばれるという風習があるの。逆に言えば、恋敵による不服を受け付けて、それに勝利しなければ婚姻できないのよ。あなたが本当にRichelieuに恋をしたというのなら、どのくらい本気なのか、略奪するくらいRichelieuが欲しいのかどうか、答えて」

「わたしは寝取られ(コキュ)は専門外で……それに、きみは付き合ってる相手がいたとしても、より強烈に求愛してくる男がいたら、そちらに乗り換えるのか?」

 

 リシュリューは意外にも心の底から楽しそうに笑った。そういう笑みを浮かべるとき、臈たけた美女のリシュシューが無垢な少女のようになることを、提督はこのときはじめて発見した。

 

「言うじゃない。しつこい人はキライだけど、あんまりあっさり退()かれたら、それはそれでいい気はしないのよ。ちなみにRichelieuはいまだれとも付き合ってないわ。これで満足? じゃあ、口説いて」

 

 退路を絶たれたことに提督はようやく気づいた。あえて選択肢を与えることで誘導する。その術中に提督はまんまと()まった。リシュリューは最初の1手ですでに王手を詰めていた。

 

 リシュリューは真珠色の歯を覗かせた楽しげな笑顔で、じっと待ち続けている。

 

 しかし、真正面から女を口説いたことのない提督からすれば、いまの状況は戦艦に竹槍で立ち向かうような絶望的な戦いにほかならなかった。勝てるか? できない相談だ。だが乾坤一擲、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある。瓦全(がぜん)を画策するとかえって身を滅ぼすのだ。玉砕を怖れず勝負にでれば自ずと運も向いてこよう。提督は腹をくくった。とっさに口をついてでた口説き文句は、これだった。

 

「ジュ、ジュテ~ム?」

 

 一部始終をみていた早霜によれば、そのときの提督の惨敗っぷりは、先の大戦時の大本営さえ黙って首を横に振るレベルであったという。

 

  ◇

 

 ……訓練幕僚(クレサ)司令官()、海上における水上標的及び航空標的に対する実弾射撃演習(エン)計画、実施日時○○(ツキ)××()1100から同日1700、実施区域は次のア、イ、ウ、エの4地点を順次結んだ線により囲繞される海面、ならびに同区域の海面から高度5500メートルの上空、(ア)北緯()3447東経()14114、(イ)北緯()3447東経()14127、(ウ)北緯()3433東経()14127、(エ)北緯()3433東経()14114、気象幕僚(キセサ)、同日同海域は上空に高気圧(コウ)、晴れ、波高(ハコ)2.5から3メートルなるもうねり(ウネ)なしの予報、参加艦娘の対水上及び対空射撃の技量向上ならびに戦闘行動中の燃料在庫量(ネザ)管理意識の徹底を目的とし、訓練(クン)燃料及び弾薬、自走標的、曳航標的、無人標的機お願いする(オネ)、同日の同海域または同海域周辺を航行する船舶及び航空機について法務幕僚(ホムサ)が……

 

 仕事は仕事である。業務に集中することは、恋愛という戦場においてあえなく一敗(いっぱい)地にまみれた提督に傷の痛みを忘却させる救済となった。そうして麻痺させたまま快癒するまで待つのもいい。折よく仕事の量がうなぎ登りで、忙殺のあまり1日1食、それも例の即席ラーメンだけという日がつづいた。

 

 ときにはうわさを聞きつけた長波あたりが、提督をみかけるや、バレエのプリマのようにつま先立ちで回転しながら接近し、眼前でひざまずいて、

 

「ジュテ~ム?」

 

 とからかった。それもまた、茶化すことで提督の傷心を癒す目的であった。提督もわかっていたので「勘弁してくれ」と、かたちだけうんざりしてみせては、一緒になって爆笑した。

 

 そんなある日、超人的に勤勉な作戦課のあげてきた何十という草案から決裁すべき作戦を選ぶ作業の合間、一息いれながら、

 

「で、つぎはいつ仕掛けるんだ?」

 

 茶をすすった初月が藪から棒に口を出した。

 

「つぎ?」

「リシュリューだ」

「ええ? もう駄目だろう」

「おまえの口説きかたが悪かったからだろ? なら、そこを改善すれば今度はうまくいく理屈だ」

「そういうものか?」

「おまえ自身が嫌われているんじゃなければまだ芽はある」

 

 提督は腕を組んでうなった。実際、リシュリューは提督の下手くそなアプローチに雪色の喉をのけぞらせて笑いながら「不合格」と両腕を交差させてバツ印をつくったにすぎなかった。「出直してきなさい」とも。

 

 初月はため息をついた。

 

「おまえはどうしたいんだ。状況終了、用具収めか?」

「本音を言えば未練たらたらだ」

「認めることができただけでも一歩前進だな。おめでとう。僕は優しいから教えてやるが今のは嫌味だ。とにかく方針は決まった。あとは戦術を詰めるだけだ」

「しかし……うまくいくかどうか」

「迷っているうちにほかの男に取られても知らないぞ」

「向こうがこちらをどう思っているかわからないから、いまひとつ自信が持てないんだ。いっそリシュリューのほうからアプローチしてくれるという都合のいい展開はないものか……」

 

 提督は捨て鉢に嘆いた。

 

「振り向いてほしいくせに、自分に勇気がないからって相手から声をかけてもらうのをただ待つのか? それは草食系とかじゃなくて、ただのヘタレだぞ」

 

  初月の声には弾劾の響きがあった。

 

「リシュリューがおまえに好意をいだいてないなら、好意を育ててやればいい。おまえが欲しいものは、セブンイレブンやアマゾンで買えるものじゃないんだ。世界中さがしてもどこにもない。だからおまえがつくるしかない。いいか、知らないかもしれないがリシュリューは超能力者じゃあないんだ。なにも言わずに気持ちが伝わると思ってたら大間違いだぞ。こちらに興味をもってない相手に、能動的に自分がどんな人間か知ってもらって、時間をかけて信頼を勝ちとり、そばにいたいと許可を得る、その過程にこそ、価値があるとは思わないか?」

「いかにも」提督は思い直した。「いかにもそのとおりだ。わたしが悪かった。いまのは忘れてくれ」

 

 とはいえ、気の利いた口説き文句などそうそう思いつくものではない。

 

「そんな魔法の言葉があれば人類から悩みごとがひとつ消える。どう口説かれたいか、女性として率直な意見を聞かせてくれないか」

「僕なら“こんどふたりで映画でもどう?”でじゅうぶんだけど」

「パンチが足りないな」

「砲撃を食らいたいのか?」

 

 と初月は微苦笑をみせたのち、咳払いした。

 

「とはいっても、リシュリューはおそらく、完成された男しか認めないってわけじゃない。未熟でも向上心さえあれば尻を叩きながら成長させてくれるタイプとみた。おまえにチャンスがないわけじゃない」

「援護射撃を背中に食らった気分だが、ありがとう」

 

 かんじんの愛の言葉は、日本語がよいかフランス語がよいか、提督と初月は忌憚のない意見を交わした。初月はフランス語がよいと勧めた。

 

「残念ながらわたしはフランス語はさっぱりでね……」

「第2外国語はなにを?」

「ドイツ語だ」

「理由を訊いても?」

「その当時ドイツ人になってたんだよ。数を数えるときは意味もなくアイン、ツヴァイ、ドライといってた。男にはそういう時期があるんだ」

 

 初月にはさっぱりである。

 

「付け焼き刃のふざけた発音でいくと、バカにしてると思われるかもしれない。やはり自分の母国語のほうが反感は少ないと思うが」

 

 ジュテ~ムで失敗した苦い記憶から日本語を推す提督に、初月はなにかを思いついたように人差し指を立てて、

 

「仮に、仮にだが、あくまで仮定の話だが、おまえを好きだという外国人の女の子がいたとしよう」

「そんな反吐が出そうみたいな顔で言わなくても」

「そういう女の子がだな、おまえに愛を伝えるためにいっしょうけんめい日本語を勉強して、たどたどしい言葉遣いで“好きです、付き合ってください”って言ってきたら、どう思う?」

「よし、フランス語にしよう」

 

 しかし提督も初月もフランス語に明るくないので、特別顧問を招聘することにした。フランスの水上機母艦娘コマンダン・テストである。

 

「私用で呼び出して申し訳ない。単刀直入に言うがリシュリューを口説きたい。だがわたしはフランスの習慣や文化に疎い。有識者として知恵を授けてはいただけまいか」

 

 提督はコマンダン・テストに相談をもちかける対価として間宮でお茶を奢った。

 

 金色のやわらかい髪にトリコロールのメッシュを入れているこの水上機母艦娘は、チーズパイに舌鼓を打って、フォークを置き、南仏を燦々と照らす健やかな太陽のような笑顔を浮かべ、言った。

 

Je t'ai~me(ジュテ~ム)

 

 提督は先行きに一抹の不安をいだかずにはいられなかった。

 

「国が違っても、基本は変わらないと思います。むずかしいことではありません。相手のどこが好きになったのか素直に伝えれば、それでいいと思います」

 

 コマンダン・テストは片言ながらも答えた。

 

「言い方しだいでは見てくれで惚れたと思われかねない。注意しなければ」

 

 じつのところはそのとおりである提督は恥じる思いで自戒した。

 

「いいのではないですか? 出会ったばかりでは内面まではわからないでしょう。外見やしぐさできみに興味をもった、もっときみのことが知りたい。お付き合いはそうしてはじまるものでしょう」

 

 リシュリューのどこを褒めるか、それは当然のことながら提督に一任することとして、フランスではどの程度まで歯の浮くような台詞が許されるのか、コマンダン・テストが例文を出した。

 

「“きみと出会ってから毎日が花で彩られているように楽しいんだ”、これでどうでしょう?」

「さすがは自由と平等と博愛、そして愛を語る言語だ。それのフランス語をお教え願いたい」

Français(フランス語)? なぜですか?」

「外交でもそうだが、相手の母語で意思を伝えることは誠意の表明として効果的だ」

Je vois(なるほど). 調べたり練習する手間をかける価値があなたにはあると、言外に告げるわけですね」

 

 わかりました、とフランス語訳を口にしようとしたところで、コマンダン・テストにある計略が浮かんだ。この陽だまりのような水上機母艦娘が紡いだ言葉は、こうだった。

 

「“La lune est belle, n'est-ce pas?”」

 

 提督はまったく疑わずに発音を見よう見まねで繰り返した。フランス語とドイツ語はともに印欧語族ではあるものの、たとえばフランス語は母音の連続を避けるためのリエゾンという偏執的な仕組みがあるがドイツ語にはなく、フランス語特有のあえぎ声のような鼻母音がドイツ語にはあるはずもなく、ドイツ語の名詞の格は4格に対しフランス語のそれは格変化なし、というふうに、両者は似ているようでまったく異なる体系の言語であり、あまり流用がきかず、習得はほとんどゼロからのスタートを強いられたので、たった1文を覚えるだけでもそれなりの根気を必要とした。

 

 コマンダン・テストも提督のみっともない発音に嫌な顔ひとつせず、イントネーションに至るまで的確に修正させた。その努力が実を結び、及第点が得られる程度には、違和感のない発音ができるようになった。

 

 その調子で1日練習すれば大丈夫だろうとコマンダン・テストにおだてられた提督は、礼を述べて伝票を手に席を立った。

 

「で、ほんとはどういう意味なんだ」

 

 残った初月はチーズパイをほおばるコマンダン・テストに訊ねた。

 

「なにがですか?」

「提督に教えたフランス語だ。フランス映画で覚えた程度の僕のちっぽけな知識を参照すると、la luneは月を指すはずなんだが」

 

 世界最古のSF映画といわれるフランスの『月世界旅行』の原題は“Le Voyage dans la Lune”である。

 

 コマンダン・テストは、揃えた指先で口許を隠して上品に笑った。

 

「日本語には、とても素敵な口説き文句があると聞きました」

 

 初月は嫌な予感がした。月。まさか。

 

「月がきれいですね、を直訳するとこうなります」

 

 コマンダン・テストはいけしゃあしゃあと告げた。初月から力が一気に抜ける。

 

「おまえを悪く言うつもりはないが、正直、かなり手垢のついたフレーズだ。使われすぎてもはや思考停止の定型句と化した感さえある」

「古いから価値がないとはかぎりません。中途半端ならただの中古ですが、古さも度を越せばAntiquité(アンティーク)になります。それに、とても素敵だと思います、月がきれいですね、だなんて」

「月がきれいなことがか?」

「この言葉には、一緒に月を見ようよ、という誘いが隠されています」コマンダン・テストはそこで紅茶を飲んだ。カップを受け皿に置く。「愛しあうとは、お互いを見つめあうことではありません。ふたりでおなじ方向を向くことです。自分がきれいだと思うものを一緒に見てくれないか。これを愛の言葉と言わずして、なんと言うのでしょう」

 

 チーズパイを完食したコマンダン・テストは両の肘をテーブルに立て、冴えた顎を両掌に乗せた。

 

「ずいぶん楽しそうだ」

 

 初月が呆れると、

 

「楽しいです。とてもRomantique(ロマンティック)じゃないですか」

 

素敵(ロマンティック)ならともかく、頭がおかしい(ルナティックな)展開にならないよう祈るよ」

 

 自身もコーヒーを飲み干しながら水上機母艦娘を眺めていて、初月は重大な懸念が存在することに気づく。

 

「フランスの男は世界でもっともでかいと聞く。提督はリシュリューを満足させられるだろうか?」

 

Marseille(マルセイユ)にはこんなことわざがあります。――“ぐったりした大きな魚より、小さくても活きのいい魚をこそ”。人体ですからある程度は舟のほうが合わせてくれますし、杞憂だと思います」

 

 舟とは女性器の隠喩である。舟を上から見たかたちが似ていることに由来する。

 

「初月こそ、ずいぶん提督の世話を焼きますね」

「男ってのは、となりを一緒に歩いてくれる女がいないと成長しないんだよ。これであいつも、仕事ができるだけのただのヘタレから、少しはまともな男になるだろう」

 

 初月はコーヒーカップを手にしたまま愚痴をこぼした。

 

「まるで保護者ですね。ああ、そういうところで初月とRichelieuは似ているのかも知れませんね」

「僕と?」

「日本語でいうなら、そうですね……」

 

 コマンダン・テストが眉間に可愛らしいしわを刻んで悩み、ついに適切な言葉を発見して顔を輝かせる。

 

「オカンです、オカン!」

 

 おっとりとした金髪碧眼の美人には似合わない意外な単語に、初月はおかしさのあまり反論する気も失せて、ただ口許を皮肉げに綻ばせるだけだった。

 

「でもまあ、たしかに、臍から下の付き合いは僕たちが手助けすることではないな、それは、オカンの役割じゃない」

 

 初月にコマンダン・テストはめずらしく声をあげて笑った。

 

  ◇

 

 翌日の昼、コマンダン・テストはリシュリューをランチに誘った。自分のほうが早く日本に着任したので地理案内もかねて、と申し出ると、リシュリューは快諾した。祖国の言葉だけで話せることも手伝ったのかもしれない。連れられた店はフレンチで、雰囲気もよく、接客も行き届き、味も申し分なかった。雑然とした日本の街並みにも、探せば優良なレストランがいくらでもあるのだとコマンダン・テストは語った。

 

「鎮守府の近くにもこんないいお店があるなんてね」

「近くでお魚が揚がるからでしょう。鎮守府近辺はかえって安全ですし」

「Richelieuに気があるとか言ってきた割には、amiralったらこういうお店とかに全然誘ってくれないんだもの、わけわかんないわ」

 

 それにコマンダン・テストは微笑した。

 

「最近のRichelieuは提督のことばかりですね」

「ええ、おもしろいもの。最近はなにを食べても、なにを飲んでも、amiralと一緒だったらもっとおいしかったりするのかしら、と考えてしまうわ」

「あら、いまもですか?」

「悪く思わないでね」

 

 澄まし顔でメインの白身魚のポワレを口に運ぶリシュリューに、コマンダン・テストはおどけた表情をしてみせた。

 

「ではRichelieuのほうからデートにでも誘ってみては?」

「それもいいんだけど、amiralがなにか企んでいそうなの。顔を潰さないためにもこちらからは誘わないわ」

 

 めんどくさいふたりだな、とコマンダン・テストは内心で思った。ただしそれは、手のかかることが一目でわかるパズルを前にしたときのような、好意的な面倒臭さだった。

 

「Japonの言葉は愛情表現にいささか乏しいのですが、とても含蓄に富んだ伝統的な言い回しがあることをご存じですか?」

 

 食後のコーヒーが運ばれてきたあたりで、コマンダン・テストが思い出したように口にした。

 

「興味深いわ」

「それはですね……」

 

 コマンダン・テストはたたずまい直して披露する。「“La lune est belle, n'est-ce pas?”」

「“月がきれいですね”。詩的な表現だけど、どういう意味かしら」

「ありていに言えば、愛している、ということになるんですけれど」

 

 コマンダン・テストは人目をはばかるように身を乗り出して、

 

「Japonの男性は、この言葉を生涯にひとりの女性にしか使ってはいけないのだそうです」

 

 ないしょ話をするようにささやいた。

 

「一生にひとりだけ」

 

 脚を組んでコマンダン・テストのほうへ上体をかたむけるリシュリューも、声をひそめた。

 

「ええ。もしその誓いを破ってしまった場合」ふたたび席に腰をおろしたコマンダン・テストが、口角を吊り上げる。「男性はセップクをするそうです」

「セップクを!」愕然としたリシュリューの桃色のくちびるが震える。

「それくらい、この言葉は重いものなんだそうです」

「ちょっと待って、Japonais(日本人の男性)はいまでもセップクをするの?」

「もちろんです。Japonaisはみんな例外なくサムラーイです」

 

 自らを落ち着かせるために紅茶を含んだリシュリューは、コマンダン・テストから視線を外したまま、人差し指を立てた。

 

「Amiralも、そうなのかしら」

 

 それにコマンダン・テストは胸を張った。

 

「提督も男です。愛する女性は彼女だけ、という相手にのみ、この言葉を贈るでしょうし、約束をたがえばきっとその場でセップクするでしょう」

「その場で!」

「その場で」

「すごいわね、Japonって」

 

 完全に信じ込んでいるリシュリューは、思いつめたような愁いにその美貌を染めた。

 

「ちなみに、“月がきれいですね”は暗号のようなもので、女性が応じる場合には、これまた伝統に則った返答があります」

「合言葉ね」

「そうです。女性が愛を受け入れるときの言葉は、こうです……“Je mourir pour tu(死んでもいいわ)”」

 

 リシュリューはたじろいだ。

 

「セップクといい、応答の言葉といい、Japonって恋愛には淡白なのかと思ってたけど、意外に命がけなのね……」

 

 リシュリューはもう一度、コマンダン・テストに“月がきれいですね”に対応する返答を確認して、ナプキンを置いた。コマンダン・テストはしてやったりとにこにこ顔である。

 

 なお、それまでフランス語だった美女ふたりの会話に、突如としてセップクという物騒な単語が頻出したことで、ほかの客らは彼女たちのあいだでいったいなにごとが話されているのか、その好奇心と戦うのに必死で、ランチを楽しむどころではなかったという。

 

  ◇

 

 アール・ヌーヴォーは「新しい芸術」の名のとおり、機械による量産が容易な直線的、画一的な様式から脱却して、自然こそ見本にすべき最高のデザイナーと讃歌し、曲線を意識的に取り入れて、かつ、作品には芸術家自身の個性と感受性もおしみなく投入しようとする機運である。

 

 たとえば印象派と写実派はほぼ絵画の世界にのみ存在するのに対し、アール・ヌーヴォーは「窮屈な殻を脱いで、新しいものをつくろう!」という概念であるため、ありとあらゆる芸術に適用でき、建築、宝飾、家具や食器のデザインにまで波及した。アール・ヌーヴォーを代表する芸術家としては、フランスのガラス工芸家にして家具作家エミール・ガレ、サグラダ・ファミリアを設計したスペインの建築家アントニ・ガウディ、また、ティファニー創業者の息子であり、絵画、ステンドグラス、ランプ、ジュエリーなど多岐にわたって非凡なデザインの才能を発揮したアメリカの芸術家ルイス・カムフォート・ティファニーが挙げられよう。

 

 なかでも、アール・ヌーヴォーが宣伝用ポスターや看板、挿絵といった商業イラストレーションに与えた影響を語るうえで、アルフォンス・ミュシャの名を避けて通ることはできない。ミュシャの代表作に、20点の大作からなる『スラヴ叙事詩』を掲げてよもや異論が挟まれることはないだろうが、提督はむしろ、彼の手がけたポスターや挿絵にこそ惹かれた。それらはクライアントから依頼された商品や芝居の広告であり、純然たる芸術ではなく、次から次へと消費されることが前提の商業イラストではあるが、ミュシャのポスターや装飾パネルや挿絵は――アール・ヌーヴォーがえてしてそうであるように――女性像が主役を務めていることが多く、植物や花で彩られ、ジャポニズムの影響を受けた世代であるためか浮世絵にも通じる太い輪郭線と微妙な色調、それでいて緻密な細部の表現、さらには象牙色に煙がかったような官能美が、画家の独創的な観点と洗練された表現方法により天衣無縫に統合されて、1枚の絵としての美術的価値を高める創造的な試みに成功している。

 

 そこに描かれる女性は、往々にして奔放な、自立心に溢れた婦女で、豊かに流れる髪は写実からは距離をおいてデフォルメされており、衣裳とともにデザインの一部として装飾の役目を果たしているという共通点がある。いずれにも通底する独特な雰囲気は、制作を重ねるうえで自然に醸成された作風というよりも、画家が意識して確立させた様式とみるべきかもしれない。

 

 カウチに腰かける提督の前では、その様式で構成された画面で、アラベスクのように垂れ下がる金色の髪をした、上半身裸の肉感的な女性がほほえんでいる。ミュシャが美術を寓意的に表現したとされる『サロン・デ・サン第20回展のポスター』である。彼女は頬杖をつき、恍惚とした笑みを浮かべ、その左手は絵筆と羽根ペンをにぎっている。髪を飾る白いヴェールは左の乳房のところまで垂れ下がり、その周りには星がちりばめられている。歯を濡らす唾液さえ感じられるような生々しさや、成熟した肉づきは、どことなくリシュリューを思わせる嬋妍(せんけん)さがあった。見れば見るほど、提督の目にはリシュリューが描かれているようにしか映らなくなった。

 

「やっぱりamiralだわ。偶然ね」

 

 だから、リシュリューが目の前に現れ、顔を覗きこんできたときは、ポスターの女性がそのまま飛び出してきたのかと驚いた。言葉が泡のように喉から昇ってきては弾けて消えた。

 

「まさかamiral, このRichelieuの顔を忘れたんじゃないでしょうね」不機嫌そうに麗々しい眉が吊り上げられる。

 

「まさか。びっくりしただけだよ。きみもミュシャ展を?」

「はい。MuchaはFranceで売れっ子だったから」まだほんの少し日本語がこなれていないリシュリューはすぐに笑みに戻した。ミュシャは現在のチェコで生を()けたが、その名を一躍世界にとどろかせたのはパリだった。何千人もいたほかの芸術家志望の若者たちとおなじように青雲の志をいだいてパリに出てきて、芽がでるまで糊口をしのぐためにやむなく雑誌の挿絵の仕事をこなす毎日であったが、クリスマス・イヴに「本命のイラストレーターがクリスマス休暇で捕まらなかったから、たまたま」依頼を受けることになったミュシャが、舞台女優サラ・ベルナールの公演『ジスモンダ』のポスターをデザインし、町辻に張り出されるやこれが一夜にしてパリ中で話題沸騰となり、ポスター作家としての地位を確立したというシンデレラ・ストーリーはあまりにも有名である。

 

「Franceとゆかりのある芸術家の絵が見られるから、気晴らしにと思って、来てみたの」

 

 隣、いいかしら。提督はあわてて席を詰めた。リシュリューが礼を述べながら腰を沈めた。

 

「Amiralはこの絵が好きなの?」

「まあね」

「裸だから?」

 

 提督は吹き出した。冗談とわかっている。

 

「ギュスターヴ・クールベの『世界の起源』をはじめてみたとき、わたしはまだ子供だったんだが、むしろ恐怖さえおぼえた」迷いながら提督は話した。だれかに聞かせるのははじめてだ。「Vラインのエチケットができてなかったからじゃない。あのとき感じた恐怖こそヴァギナ・デンタタというのかもしれないし、つねに生は死と表裏一体だから、生まれてくる場所である陰裂から覗く肉の赤さに、わたしが無意識のうちに死をも透視したからかもしれない」

 

 提督は『サロン・デ・サン第20回展のポスター』を見据えた。

 

「やはり子供のころ、画集でこの絵をみたときは、単純に美しさとデザインの妙に心を奪われると同時に、わたしのなかで、彼女と、『世界の起源』の下半身とが、なぜだかごく自然に結合した。なにせ子供だから整合性なんて考えない。彼女こそが、『世界の起源』の画家の前で、白い布をかぶり、腰から下をさらけだした女性なのではないか……そう思えてならなかった。それ以来、『世界の起源』に恐怖を感じなくなった。わたしなりに作品の価値と正面から向き合うことができるようになった。だから、大げさにいえば、彼女は恩人のようなものなんだ。もっと言えば、『世界の起源』やこのポスターで、子供がドキドキしていられる、そんな呑気な時代をつくる一助になりたくて軍に入ったようなものだから、わたしにとっての戒めでもあるのかも」

 

 めずらしく能弁に話してから、提督は、自分がとんでもなく恥ずかしい告白をしている気がして、激しい後悔にはらわたを引きちぎられそうになった。よりにもよってリシュリューに! かなり無理があるがすこし飲んで酔っていたことにしようか。そう負け犬思考に陥っていると、

 

「あなた、やっぱり面白い人ね」

 

 リシュリューは真剣な顔で提督を見つめ、笑いもせずに、またその清澄な青い瞳は、提督の与太話をあまさず聞き取って吸収していたことを、ありありと物語っていた。

 

「仕事の虫かと思ってた」

「この職を志すきっかけではあるから、まったく関係ないわけでもないよ」

「長年逢いたかった恋人のようなものね。そういうことなら、Richelieuがいては邪魔かしら」

 

 腰を浮かしかけたリシュリューに、提督は慌てた。

 

「そんなことはない。ご自由に。ただ、わたしはたぶんこの絵から離れないと思うが」

「そう。なら好きにさせてもらうわ」

 

 リシュリューはふたたび座り直し、その動作に連動した黄金の髪がふわりと上下に揺れたせいか、甘やかな芳香が、みえない妖精のように提督の鼻腔をくすぐった。

 

 それからふたりは、おもに目の前の、ポスターの範疇を超越した芸術品について、ほかの観覧者のさまたげにならないよう小声で言葉を交わした。「あの右の乳房、一見するとシンプルな輪郭だが、重力を感じるすばらしい形状に描いていると思う。そして、あの二の腕のやわらかそうなこと……」「でもちょっと太ってない?」「わたしはこのくらいが理想だなあ、実に健康的、官能的じゃないか」「じゃあRubens(ルーベンス)の描く女は?」「わ、悪くないと思いますよ」静粛な館内で、リシュリューと声をひそめてのやりとりは、ときに互いが笑いをこらえたりもして、提督の胸を高鳴らせるにあまりあるものがあった。

 

「昼はもうすませた?」

 

 ひとしきり話したあと、提督が『第20回展のポスター』を見ながら、自らを鼓舞して訊いた。昼過ぎだった。

 

「いいえ、まだ」リシュリューも正面の絵を見たまま答えた。

 

「この美術館のレストランは、前に何度か利用したけど、お勧めでね」提督は早口にならないように、噛まないように、せいぜい気をつけた。「よければ、食事でもどうかな」

 

「喜んで」

 

 返答は提督が驚くほど円滑にもたらされた。提督はごく自然に立ち上がり、これもまたごく自然に、リシュリューに手を差しのべた。戦艦娘も笑顔でその手をとった。

 

 美術館らしくレストランの店内も席にいながらにしてアートが楽しめる工夫が凝らされている。一時でも戦争を忘れるにはちょうどよい。食事を楽しみながらふたりのとりとめもない会話は弾んだ。「もし、なにかの間違いで大金持ちになったら、『20回展のポスター』を手もとに置いておきたい」おおむね提督が話すのをリシュリューがうなずきと相づちで受け止めるのであったが、彼女は決して退屈しているとはみえず、美しい面上にはいつわりのない信頼があった。それがうれしくて提督は、つい、ひとりよがりに話しすぎてしまったので、それを恥じ、

 

「きみは、もしなんでもひとつ買えるとしたら、世界一のドレスとかかな」

 

 と水を向けてみた。丸テーブルを挟むリシュリューはグラスのワインに口をつけてから、肩をそびやかしてみせた。

 

「そういうものは、見せる相手がいてはじめて価値が生まれるのよ」

「深いな」

「もしひとつだけRichelieuの自由になるなら、そうね」金のまつ毛に彩られた、前人未到の楽園の海のように青い双眸には、提督が映っていた。「amiralをそばに置いておくかも」

「わたしを?」

 

 不整脈ものである。

 

「そう。さっきみたいな面白い話をしてくれたり、Richelieuの服を品評したりするの。他人の時間はいちばん高い買い物だから」

「それは無駄な買い物だと思うよ」

「どうして?」

「わたしなんかでいいなら、ただでもきみのそばに居るからだよ」

 

 この美しい女は、意表をつかれたように口を開けていたが、やがて喉を鳴らし、必死に笑いを噛み殺した。

 

「やっぱり、面白いわ。あなた」

 

 提督は照れ隠しに水を飲んだ。悲しいかな、昼から飲酒はできない。

 

「きみも話しててけっこう面白いよ」

「そう?」

「じつを言うと、きれいなだけだと思ってた」

「あなたは正直ね」

「“きれい”のところは否定しないんだな」

「当然じゃない」

 

 食事が終わって、リシュリューが手洗いに立った。初月や長波といるときとおなじ感覚で「大きいほう?」と声をかけてしまいそうになるのを、提督はかろうじてこらえた。化粧を直すのだろう。女性は大変だなと思いながら提督はふたりぶんの会計をすませた。

 

 戻ってきたリシュリューは、自分の支払いもすんでいることを知って、大そう驚いていた。

 

「いやあ、提督ともあろうものが外国からきた艦娘とごはんを食べてワリカンなんかしたって伝わったら、日本の評判にかかわるから」

 

 提督がいうと、リシュリューの美貌がわずかに翳った。

 

「あら。Amiralとして、なのね」

「え?」

「いえ、ありがとう」彼女はすぐさま繚乱に咲き誇る艶笑に戻して、心からなるごちそうさまを言った。

 

「また逢えるかしら」

 

 美術館のエントランスを出る直前にかけられた問いに、提督は首をひねった。

 

「鎮守府で毎日会ってるだろう?」

「そうじゃないわ。ふたりでってこと」

 

 提督は歩きながら日付を考えた。ガラスの自動ドアが開く。空調効率と外からの強風を防ぐための風除室へ足を踏み入れる。

 

「あと1回ミュシャ展に来られるから、二番煎じみたいで申し訳ないが、今度はふたりで回ってみるっていうのは、どうだろう」

 

 リシュリューが提督の前へ踊り出て、『20回展のポスター』のように白く美しい歯(なら)びを覗かせた。

 

「きっとよ」

 

 風除室と外をつなぐ自動ドアが左右へ(すべ)る。

 

 最も気温の高い時間帯だった。館内は絵を保護する目的で冷蔵庫のように冷やされている。冷房に慣れた体に重く湿った熱風が抱擁を浴びせた。

 

 そのとき、提督の足元が、時化の船上のように傾いで揺れた。自分が頼りなく積み上げられた積み木でできているかのようだった。膝から崩れていく。薄れる意識の向こうで、リシュリューが提督の名を呼ぶ悲鳴がこだまするのを遠くにきいた。

 

  ◇

 

「集中できないとか、立ちくらみがするとか、疲れるとか」病室で、初月はできの悪い子供をみるような非難を隠そうともしなかった。「ぜんぶ栄養失調の症状じゃないか。バカかおまえは。即身仏にでもなりたかったのか」

 

 ベッドで点滴を受ける提督には返す言葉もない。付き添いのリシュリューも苦笑いしている。穴を掘ってでも入りたい。

 

「刑務所なみに規則正しい生活を強要される現代の軍隊でむしろどうやったら栄養失調になんかなれるんだ」

「わたしくらいの立場になると、わりと好きなものを好きな時間に食えるんだよ」

「自己管理能力の欠如を露呈してるだけだが、わざとなら尊敬するよ、まぶしすぎて僕には真似できない」

 

 これみよがしに長いため息をついた初月は、應揚に片手をあげて、

 

「僕は秘書艦の仕事があるから、先に帰る」リシュリューに鳶色の目を動かした。「悪いけど、この中身三才児の点滴が終わるまでみててやってくれないか」

 

 リシュリューが快諾したのが救いだった。

 

 戸が閉まると、外界など存在しないような静寂に包まれる。

 

「やせ型とは思ってたけれど」

 

 椅子に腰かけたリシュリューが半身を起こしている提督とおなじ目線となる。

 

「言い訳するようだけど、鎮守府のやることなすことの最終チェックはぜんぶわたしにかかってくるからね、規定で残業が禁じられているから、時間内に片付けるには、どうしても食事を削るほかはなく……いやはや、面目ない」

「訴えたら?」

「残念ながら、われわれ防衛省職員には労働三権が認められてなくてね」

「現代に奴隷がいるなんて。ところで」リシュリューの声音がいくぶん低くなった。「なんであっち向いてるの。後頭部と話してもつまらないわ」

 

 と言われても、いまの提督にとってリシュリューの顔をじかにみるのはたいへんな難題である。

 

「いきなりぶっ倒れるとか、かっこわるすぎる」

 

 提督は素直な自己嫌悪を口にした。すると女は笑いだした。笑いはだんだん激しくなって、彼女はほとんどむせながら、なおも笑った。さすがの提督も首を回したが、リシュリューは座ったまま、体を折って、まだ笑っている。

 

 やがて笑いから醒め、提督の顔を見つめると、またも発作のように吹き出し、目尻に滲む涙を指で拭った。

 

「びっくりはしたけれど、かっこわるいだなんて。意外にかわいいところもあるのね」

 

 提督はこれまでかわいいなどと評されたことがなかったので、なんと反応すればよいのか困った。

 

「ああ、苦しい。あんまり笑いすぎたから、ここが苦しくなったわ」

 

 とリシュリューは胸を押さえた。肩を大胆に露出させるリシュリュー級戦艦娘専用の制服が、胸のところだけ盛り上がり、大げさに動いている。

 

「ここが、苦しくなった」

 

 リシュリューは重ねた。

 

「どうすればいい?」

 

 提督ははなはだ戸惑った。

 

「押さえててもらったら、楽になるかも」

 

 提督の鼓動までが早く打ちはじめた。点滴が挿入されている腕とは反対の手をおずおずと伸ばしてみる。リシュリューは逃れない。もう指先は張り出した胸の先端に触れかかっている。やはりリシュリューはほほえんだまま動かない。手は一双の膨らみの間に沈んだ。体温が手を通して流れ込んでくるようだった。リシュリューが手首をつかんで自らに押しつけたまま身を乗り出した。ふたりの鼻はたいへん近くなった。吐息は熱いままお互いにかかった。唇と唇が触れあった。温もりがあった。その瞬間が過ぎると、提督は自分がとてつもなく大それたことをしたようなうしろめたさから、またあさっての方向を向いた。

 

「まだ約束は生きてる?」

 

 リシュリューが平静そのものという口調で沈黙を破った。

 

「約束?」

「ふたりでMuchaをみるっていう約束」

 

 これについて、もちろんだという以外の答えを提督は持ち合わせていない。

 

「あなたと回れば、もっと楽しめそう」

 

 自分もだ、きみといるととても楽しい、と言おうとして、提督は、コマンダン・テストから教えてもらったあの言葉の出番だと確信した。提督は咳払いをした。なにかあらたまって宣言しようとしているのだと察したリシュリューが耳を傾けた。提督は言った。

 

「La lune est belle, n'est-ce pas?」

 

 たちまち、リシュリューの冴えたほほには赤味が差し、目はせわしなく泳いだ。あきらかに度を失い、火照った顔を冷まそうと両手でぱたぱたと扇いだ。提督もまた内心で困惑した。ともあれリシュリューは、彼女らしくもなく動揺しつつも、このような返事をひねり出した。

 

「Richelieuは、栄えあるMarine nationale(フランス海軍)classe Richelieu(リシュリュー級戦艦)、そのNavire de tête(ネームシップ)よ。無責任に死ぬなんて言えないわ」

 

 死ぬ。なんのことだ。

 

「だから、Richelieuの返事はこうよ……」

 

 リシュリューは喉の調子を整えた。

 

Les poètes utilisent souvent beaucoup de mots.(詩人はしばしば多くの言葉を使うわ)

 Parce que moi avons besoin de beaucoup de courage.(でも、それはとても勇気が要るからなの)

 Je traduirai au fur et à mesure.(わかってもらえるように説明するわね)

 

 それに続いて、戦艦娘はささやくようにして韻律に乗せた。彼女の祖国の言葉だった。

 

 提督はとんとフランス語を解さない。しかしリシュリューの歌う旋律は知っていた。わたしを月に連れていって。星々のあいだであなたと遊びたい。木星や火星の春がどんなものか、見てみたいの。

 

 それは、つまり。



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La mémoire est aussi menteuse que l'imagination.(記憶は空想とおなじくらい嘘つき)

 いつも弄ばれている感が強い提督はリシュリューに奇襲を決意した。給湯室でふたりきりになった好機を逃さず、彼女を壁際に追いつめる。迫られたリシュリューの極上の陶器のようなほほが淡く色づく。においたつ色香に息を呑みながらも提督は余裕をよそおう。

 

「リシュリュー……いい?」

 

 提督を見上げていたリシュリューが、黄金の長いまつ毛を伏せて、その身を委ねた。提督が内心で勝利の快哉を叫びながら顔を近づける。

 

 そのときである。

 

「提督ー? どちらに行かれたのでしょう、アイオワとガングートがTu-160はB-1Bのパクリか否かで揉めているので仲裁をお願いしたいのですが……」

 

 部屋の外でコマンダン・テストの声がした。毒気を抜かれてしまった提督は、ばつのわるそうな笑みで体を引き剥がし、踵を返して出入り口に向かおうとした。

 

 背後から手首をつかまれた。

 

 振り返ると同時にリシュリューに引っ張られ、流れるように位置を入れ替えられる。逆に提督が壁に追い込まれるかたちとなる。

 

 そのまま有無を言わさずリシュリューが提督の唇を奪った。みずみずしい弾力。さらに熱を帯びたやわらかい肉が侵入し、提督の口内を味わいつくすかのように蹂躙する。ついばむ音が室内に反響する。甘いにおいに頭がくらくらする。リシュリューの唾液は甘い。かと思えば、リシュリューが水音を立てて提督の口からつばきを根こそぎに吸う。わざとその雪色の喉を鳴らして飲み下す。舌にリシュリューの舌が触れるたび、麻痺したように腰から力が抜けそうになる。

 

 ようやく解放された提督は水底から浮かび上がったように酸素をむさぼった。捕食者の表情で眺めていたリシュリューが婀娜(あだ)っぽく微笑み、それから片目をつむってみせる。

 

「まだまだね、Mon amiral.」

 

 優雅な立ち居振る舞いを崩すことなく室を辞去する彼女の背を見送りながら、提督は再戦を胸に誓うのだった。

 

  ◇

 

「すこし息抜きするか」

 

 提督にリシュリューが応じて伸びをした。人間の集中力が持続するのはおおよそ2時間少々が限界といわれている。多くの映画の上映時間が2時間前後なのはそのためだ。提督は限りない書類仕事にひと区切り入れるべく腱鞘炎予備軍の手からペンを置いた。未決の書類がまだ山脈をなしている。ノートパソコンの液晶画面をにらんでいたためか眼球の内部に(おり)が沈殿していて、提督は目頭を二、三度揉んだ。

 

「お疲れみたいね」

 

 提督の執務机の左にテーブルを寄せて本国あての文書を作成していたリシュリューが、光の加減によりパウダーブルーにきらめく瞳で流し目をよこした。提督は椅子に身を沈めたまま体を伸ばして生返事した。

 

「疲れが飛んでいくおまじない、してあげましょうか」

 

 これにも生返事をしたにすぎなかったが、リシュリューは席を立ち、提督の背後に回った。

 

 肩もみでもしてくれるのかと思っていると、戦艦娘の手袋に包まれた指が、提督の(おとがい)をなぞり、くい、と上げさせる。

 

 頭がのけぞるかたちとなった提督の視界は上下逆さまとなったリシュリューの花顔(かがん)で占められていた。彫りの深さもあって、陰影が芳容(ほうよう)に誘い込むような妖艶さを加えている。

 

 なにかと思う間もなく、唇が重ねられる。リシュリューの舌が提督の口唇を舐める。ついばむように吸い、ぬめりを帯びて踊る肉は提督の歯列をねっとりとこじ開ける。

 

 抵抗する意思を溶かされた提督が迎え入れ、舌を触れさせようとしたとき、脊髄から腰に甘い電流が走った。

 

 上下逆に顔を合わせている状態だと、正対しているときよりも舌がよく絡みつく。人間は、皮膚の2ヶ所に刺激を与えたとき、背中では5センチの間隔が開いていなければ1ヶ所のときと区別がつかない。鋭敏とされる指先でも2ミリの間隔を要する。人体で最も触感が敏感な部位は舌で、わずか1ミリの間隔でも判別できる。

 

 鋭敏な器官のほとんど全体が触れ合うのだから、快感の波もまた、怒濤のように押し寄せて当然だった。双者はより広い面積の摩擦を望んで、ときに螺旋に結びついた。混ざりあった唾液が泡立つのがわかった。さらに、リシュリューは、提督の歯茎や、歯の裏までも舐め回した。同時に提督の腕に手を這わせ、てのひらへ到達させると、指を絡めて握った。

 

 肉体的な快楽はいうまでもないが、淫靡な水音に、ときおり吐息に混じるリシュリューの悩ましげな声や、彼女が求めに応じてくれているという充足感が、幸福に輪をかける。

 

 貪欲な交歓は、ふたりのあいだに流れる不思議な霊感により終わりを告げられるまで続き、名残惜しそうにつなぎ止める糸がひかれ、もう一度リシュリューが唇を押しつけるように吸って、離れた。

 

「元気になった?」

 

 後ろから被さるリシュリューの端麗な横顔が、提督の右肩に乗った。絹のようなほほが押しつけられる。白皙(はくせき)の美形に泣きぼくろと艶ぼくろがアクセントとなっている。

 

 提督はなんとかうなずいたが、戦艦娘の視線が下りる。

 

「どこを元気にしてるのよ」

 

 責めるようでもあり、目論見が当たって楽しげでもある響きだった。

 

「しかたがないだろう、雨が降れば濡れるのとおなじだよ。ほっとけば治まるから……」

 

 リシュリューはまだ指を絡めたままの提督の手を握っている。ふふ、と耳元でささやく。離した手を伸ばし、指で確認する。

 

「硬い」

「ほ、ほら、きみもわたしも仕事が山積みだ。休憩は終わり」

「あら、ほったらかしなんて、この子が可哀想」

 

 形をなぞると、提督は小さく呻いた。リシュリューが舌なめずりをする。

 

「生理現象だけ、解決してあげる」

 

 リシュリューが提督の座る回転椅子を回し、自分のほうへ向けさせ、ひざまずく。提督は電気椅子に拘束された罪人のように動けない。

 

「前、初月にバレたじゃないか、まただれか来たら……」

「あなたが早く出せばいいだけの話でしょ」

 

 そんな無茶な、と抗議するひまもなく、リシュリューが右手の手袋を外す。現れる彫刻のような指。そんななにげない仕草にさえ欲情してしまう自分に、提督は罪悪感を覚える。しかし、リシュリューは、それを受け入れると目で語って微笑する。安らぎに胸が満たされる。そのせいでファスナーを下ろされるときに拒絶ができなかった。下着から取り出され、スローモーションのように頭をもたげる。

 

「危なくなったら言って」

 

 ためらいなく顔をうずめる。肌より高い体温にじかに包み込まれ、提督は思わず腰がひけたが、座っている以上、逃げ場はない。リシュリューの後頭部に両手を添える。

 

 彼女を汚すことに、提督はいまだにかすかな引け目を感じずにはいられない。いつかリシュリューは言った。あなたが汚すんじゃないの。わたしがあなたを汚すのよ。それを額面どおりに受けとるほど、提督は子供ではない。怯えて足を踏み出せない男に、許可をあたえるという体裁で、関係を進める決心をつけさせたのだ。あなたは悪くない、そう許しを得なければ欲望を開陳することもできない自分のために。

 

 リシュリューがときおり上目遣いで視線を送ってくる。自分は彼女の恋人を名乗るに値する存在だろうか。その疑念が頭によぎるたび、どうやってかリシュリューは察知し、きょうのように誘惑するのだ――あなたを愛している、その証をみせてあげる、だから心配しないで、と。

 

 両脚を広げて腰かける提督は膝を軋ませた。絞り出すような呻きとともに上体が前へ傾斜していく。

 

「やばいっ……」

 

 先端が右手で緩く包まれる。脈動。手首にゆるく伝いだす。

 

「ティッシュ、ティッシュ……」

「ほら、どこも汚さず完璧にできたでしょ。手を洗ってくるわ」

 

 笑い、じゃれあいながら後始末をし、すべて終わったところで、ドアがノックされる。今度はうまくいったと胸を張って迎える。

 

 開けられた扉の隙間から、初月が道徳の教科書に載っているような無表情の顔を出す。

 

「終わったか? 僕もひまじゃないんだ。難しいことを言うかもしれないが、非番中にやってくれ」

 

 提督とリシュリューは、ふたり揃ってずっこけた。

 

  ◇

 

 夏の洋上および沿岸は万華鏡のように天候が変わる。風の強い日には、じっと仰ぎ見ていると足が浮かんでしまいそうな青空が広がっていても、陽に輝く雨に降りこめられてしまうことがある。日本ではそのような天気雨(てんきあめ)を狐の嫁入りと呼び習わした。また、近年では驟雨(しゅうう)にゲリラ豪雨という俗称が定着しつつある。

 日本語の習得に日々余念がない仏戦艦リシュリューは、どうやらそれらふたつを混同してしまっていたらしい、ずぶ濡れになって帰還するや、提督にこう愚痴を漏らしたのである。

 

「鎮守府までもう少しのところで、ゲリラの嫁に遭ったわ」

「そんなのコロンビアでもなかなか会わないだろう」

 

 日本語はむずかしい。「生」だけでも、(なま)菓子、(せい)物、()蕎麦、(しょう)得、誕(じょう)()き物、()まれる、()い立ち、()える、芝()(あい)憎、壬()(なり)業など、50近い読み方がある。

 

 機械翻訳も英語、フランス語、ロシア語あたりは精度が高いが、日本語がからむととたんに意味不明な誤訳を連発するのも、膠着語のなかでも難解をもって鳴る日本語の宿命といえる。

 

 で、雨にまつわる言葉について訂正させると、リシュリューは予期せぬ雨のいたずらにしてやられたことよりも、日本語の複雑さのほうに不満を――どういうわけか――提督にぶつけはじめたのである。のみならず、いったんシャワーを浴びて、ふわふわモコモコしたガーリーなルームウェアに着替えたあとも、わざわざ執務室を訪れてまで、いかに日本語が意思伝達に不適当な言語であるかについて懸河の弁を振るった。その話術たるや、傾聴しているうち、提督もだんだんと一理あるなどと思いはじめるほどの職人芸に達していて、なかなかどうして不思議な感覚であった。欧米で教育されるディベートは、自分に非があってもいかにして相手に譲歩させるか、要求を呑ませるかという外交術の習得が主眼におかれている。会話とは利益を引き出すための道具であるとする契約社会の論理と、知性の弱肉強食ゆえだろう、と提督は実にいいかげんな推論を脳内で組み立てながら、表面上はあくまでもリシュリューの力説に熱心に耳を傾けているという演技(ふり)をし続けた。

 

「どうして日本語はこうも母音が多いのよ」

 

 リシュリューの矛先は日本語の構造そのものにまで向けられた。執務室には提督とリシュリューのふたりだけ。当然ながら提督が彼女の文句のすべてを引き受けることになる。

 

「母音が多いうえに連続するのが気に入らないわ。どうにかしてよ」

 

 力説するリシュリューの透き通るような金の髪は獅子のたてがみのようにはためき、長い手足の身振りは、音声さえシャットダウンすれば、まるで身を焦がす情熱的な愛を主題とした歌劇の一節をみているようで、提督はむしろ感心した。

 

 フランス人の「母音の連続」に対する悪感情はもはや憎悪といってよい。フランス語の「私」にあたるjeには、jeとj’という2種類の表記がある。通常はjeの方を使うが、jeの次に母音、もしくは無音のhで始まる単語がくる場合には、j'と省略する。この省略をエリジョンという。例文としてはこうである……

 

“Je t'aime(きみを愛している).”

 

 ここではjeとなっているが、

 

“J’étais tout séduit à l'instant même où nos regards se sont croisés(きみと目があった瞬間に恋に落ちてしまった).”

 

 これは次にくるétaisの頭が母音であるためにJ’とエリジョンされている、というわけである。

 

 で、リシュリューが長々と日本語について責め立て、やや落ち着いたところで、

 

「そういうわりには、きみはずいぶん日本語が流暢だな」

 

 と提督は口を挟んだ。

 

「当然よ」

 

 リシュリューは顔を提督から逸らした。完璧な造形美の容貌が憂いに湿り、陶器のようなほほがほのかに色づく。

 

「……だって、あなたともっとお話がしたいもの」

 

 提督はこのとき、無条件降伏を決意したという。

 

  ◇

 

 レクリエーションルームにて再生していた映画『バンビ』のお母さんが猟師に殺されてしまうシーンで駆逐艦巻雲(まきぐも)が号泣しているのを、駆逐艦深雪(みゆき)が「いつまでびーびー泣いてんだ」とリモコンで巻き戻して「ほら、生き返った!」などと慰めにもならない慰めで紛らわせているそばで、初月がタブレットを操作し、長波(ながなみ)が脇から覗きこむ。初月がスワイプしているのは艦娘たちがこの鎮守府に着任したときの記念写真だった。楚々とした佇まいの翔鶴(しょうかく)と弾けんばかりの笑顔でピースサインをしている瑞鶴(ずいかく)の画像もあれば、伊168と鈴谷(すずや)大和(やまと)のスリーショットもある。

 

「初月がここに来たのは礼号作戦のときだったっけ」

「ああ。沖波やザラとおなじ時期だな。長波がここに来たときは、いろいろと鎮守府がすさまじかったらしいな」

「当時は右も左もわかんなかったけど、なんかすげえ潜水艦と重巡と戦艦がいてさ、ビーム射ってたんだぜビーム。あとすんげえ賑やかな連中だった。また会いたいもんだな」

 

 そこへリシュリューが通りがかった。

 

「あら、ここへ着任した順番の名簿? 写真付きなのね」

「ときどき眺めるんだ。このときはこんなことがあったなとか、いろいろ思い出に浸れる」

 

 初月がタブレットを示した。各地で撮影した写真もある。被写体の艦娘を写真ごとにタグづけしてあるので、たとえばリシュリューでタグ検索すれば、彼女が写っている画像を列挙させることもできる。

 

「このManteau de printemps(スプリングコート)はサセボに行ったときね。ちょうどオハナミの季節だったわ。これは去年の秋の連休ね、このcache-col(スカーフ)はお気に入りだったんだけれど、amiralったら全然見てくれないのよ、頭きちゃう。この水色のla jupe évasée(フレアスカート)の写真を撮った夜は縁日(エンナイチ)とかいうお祭りだったから、ユカタを仕立ててみたの、でもamiralのお部屋に迎えに行ったら雨が降ってきて、雨宿りしようかってなって、結局そのまま。着てる時間より着付けしてる時間のほうが長かったわ。まったく」

「それはおまえも悪いんじゃないかっていうか、おまえ、服と日付を紐付けしてるのか?」初月が呆れる。

「たしかに、マジで服がダブってる写真が1枚もないよな」長波も信じられない顔で液晶の写真をスワイプしていく。

「本当に着道楽だな。おなじフランスのコマンダン・テストは常識的な範囲なのに」

「道楽じゃないし、それにRichelieuはRichelieuだもの、おなじ国の出だからってCommandant testeは関係ないわ」

 

 初月にリシュリューは即答した。

 

「おまえは素材(もと)がいいんだから、着飾らなくたってじゅうぶん以上に映えるだろう」

 

 リシュリューは乳白色のほほに手をあてて、やや考えてから、

 

「Amiralは、Richelieuのどこを好きになってくれたんだと思う?」

「いまはそんな話をしてないぞ」

「答えただけよ」

 

 おなじ女にもかかわらず初月にはちんぷんかんぷんである。

 

 長波も、

 

「もっとさあ、ほら、着飾らないありのままのわたしを見て、とかなんねえの?」

 

 と乗っかった。

 

「ありのままのわたしを、だなんて、女がそんな考えじゃだめよ」

 

 リシュリューは大げさに肩をすくめて、巻かれた金髪がなびくほどかぶりを振った。

 

「ありのままっていうのは、お料理でいえば玉ねぎをそのまま出すようなものよ。おいしく食べてほしいなら、土を払って、皮を剥いて、きれいに切って、飴色になるまで炒めるなりなんなりして、そうして手間暇かけないと。女の美しさは努力して磨いてはじめて手に入るものなのよ。そういう努力もしないで、土も皮もついたままで“はい食べて”だなんて、そんなのはただ自分の怠惰を棚に上げて、そのくせ都合のいい結果だけを欲しがっているただの横着にすぎないわ」

 

 初月も長波も気圧された。

 

 しかしその一見もっともらしい強弁は、ただ単に服を買うための口実にすぎないのではないかと初月が気づいたのは、深雪に巻き戻されたせいでまたも森の女王が猟師に殺されることになってしまった『バンビ』が、感動のエンディングを迎えたあとだった。

 

 というわけで別の日、初月はなにげなく提督に、

 

「いまさらだけど、リシュリューのどこが好きになったんだ」

 

 と訊いてみた。しかしてその返答は、

 

「全部」

 

 まったく参考にならないものだった。

 

 リシュリュー本人に携帯電話で伝えると「でしょう? Richelieuが訊いたときもそうだったのよ」そう苦笑された。

 

 初月も電話をかけているのとは反対の肩をすくめた。「まあ、提督はおまえにぞっこん参ってるんだから、気にしなくていいんじゃないか」

 

 その夜、リシュリューはひとり、鏡と向き合った。

 提督が自分のどこを好きになったのかがわからない。

 美人だから? もしそうだとすると、自分より美人な女性が現れたら、提督はそちらを好きになるのではないか? そう思うといいようのない不安が百万の蟻となって足元から這い上がってくる。

 だから、リシュリューは毎日、丁寧に髪を巻き、きれいに着飾ることに余念がない。

 提督が夢中になってくれた自分を維持するために。ほかの女が目に入らないように。

 

  ◇

 

 提督とリシュリューが付き合いはじめて、まだ間もないころ……。

 

 リシュリューが初月と長波に間宮のランチを奢るのと引き換えに相談をもちかけた。趣旨はこれだった。

 

「Amiralは、どうしてRichelieuを泊めてくれないんだと思う?」

 

 水滴を宿した瑞々しい前菜サラダ盛り合わせを平らげていく長波をよそに、初月は、これは面倒な事態に巻き込まれたぞ、とイタリアンに釣られた軽率さを後悔した。

 

「Richelieuのなにが気に入らないのかしら。faire l’amour(セックス)がしたくて口説いてきたと思うんだけど……」

「おまえらってデート何回したの」

 

 長波が遠慮なしに尋ねた。

 

「考えようによっては1回」

「1回! そんならまだだろう」

「どうして?」リシュリューが心の底から理解不能という顔で訊いた。

「どうしてっておまえ、そういうのは何回かデートして、関係を深めてからだろ」

「関係を深めるために、faire l’amour(セックス)するんでしょう?」

「え、ある程度人となりがわかって、信頼できるやつだってわからないと、チンコ挿れたくなくない?」

「挿れて味見をしないと体の相性がわからないし、もし相性が合わなかったらそれまでにかけた時間が無駄になるんだから、まずはfaire l’amour(セックス)でしょう、faire l’amour(セックス)の好みの違いで我慢を強いられる関係なんてどうせ長続きするわけないもの」

「だめだ、意外とこいつ話が通じねえ!」

 

 長波が頭をかかえた。フランス女おそるべしという認識は初月の胸にも刻まれた。

 

 リシュリューは運ばれてきたメインの甘とろ豚のグリルを味わって、持論を展開する。

 

「お話したり、映画をみたり、食事をしたりするだけなら、ただのお友だちと変わりがないわ。l'amour(セックス)する関係かどうかが、友だちと恋人の違いでしょ」

 

 初月がパスタをフォークに巻きつけて息を吐く。「おまえは、することしか頭にないのか」

 

 これにリシュリューは昂然と抗議した。

 

「女がfaire l’amour(セックス)のことばっかり考えていられるのが、真の平和じゃないの!」

 

 初月も長波も腕を組んで「うーん」と唸るばかりである。

 

「つーかさあ、したいんならおまえのほうから言やあいいじゃんか」

 

 長波が魚介を贅沢に使ったペスカトーラ・ビアンカのピッツァをかじって、チーズの糸を伸ばしながら呆れた。

 

Japonais(日本人の男)はあまり積極的な女は嫌うって聞いたわ。だから、はしたない女だって思われちゃいそうで」

 

「安心しろ。僕たちにそんな相談をする時点でじゅうぶんはしたない」

 

 初月が言うと長波も繰り返しうなずいた。

 

「ハツヅキやナガナミにどう思われようといいんだけど、あの人、Richelieuに妙な憧れをもってるみたいで。幻滅されたり、嫌われたりしたくないのよ」

 

 明眸皓歯(めいぼうこうし)のリシュリューが悩みに沈むと、ちょうどジャン=フランソワ・ミレーの絵画『晩鐘』のような薄暮の風情がある。

 

 それをみて初月は皮肉ぬきの優しい笑みを浮かべた。

 

「なに?」

「いや、おなじなんだなと思って」

 

 リシュリューが意味をはかりかねていると、初月は、

 

「日本とフランスということ以上に、人間と艦娘でも、そういうところは普通なんだな」

 

 引き受けることを約束した。

 

 間宮を出て、ひとりになってから、思い出したように呟いた。「結局、あいつらの臍から下の面倒までみてるじゃないか……」

 

  ◇

 

 というわけで、初月は秘書艦業務の合間に、提督とふたりになる機会を見計らって、リシュリューから相談された旨を伝えた。

 

 自らの行いが少なからず想い人を傷つけてしまっていたことに、提督は自責の念に眉を曇らせたが、やがて訥々と語りはじめた。

 

「彼女があまりに美しすぎて、エロいことをするのが申し訳なくなってくる」

「世紀の大発見だ、目を開けて立ったまま寝言をいうやつをはじめて見た」

「それは冗談としても、あまりに美しすぎて、わたしなんかが手を出していいのか、いざとなると不安になるんだ」

 

 提督は半分以上は本気で返した。

 

「彼女は本当にきれいなんだ。外見だけじゃない。素直で、前向きで、努力家だ。どんな画家でも彼女がいかに現世の至宝か表現はできないよ」

 

 提督は途方に暮れた。

 

「彼女を独占していいのか不安になる。彼女にはもっとふさわしい相手がいるんじゃないか。わたしなんかでは許されないんじゃないか、と」

「許されないって、だれにだ」

「それは……」

 

 初月に提督は言葉を詰まらせた。

 

「いるかどうかもわからないものに遠慮して、現実に存在してるあいつの気持ちをないがしろにするのか? そっちのほうがよほど不誠実だとは思わないか?」

 

 初月が肩をつかんだ。

 

「世界中のだれもおまえを責められない。おまえたちふたりだけの問題だからだ。ほかのだれにも文句をつける資格はないんだ」

 

  ◇

 

 私室にリシュリューを招いて、ふたりで夕食をつくり、やはりふたりで洗い物を片付けているとき、提督は初月とのやりとりを話して聞かせた。きみを独占することがうしろめたい。それにリシュリューは快活に笑った。

 

「独占してるなんて、そんなのお互いさまじゃない」

「きみとわたしは等価値ではないよ。きみは特別なんだ」

「Richelieuにとっても、amiralは特別よ」

「そういうまっすぐなところがね」羨望が口をつく。「きみのとなりにいるのがわたしでいいのか、不安になる」

 

 提督が軽く水洗いをした食器を食洗機にセットしていきながら、リシュリューは、

 

「Richelieuはあなたに惹かれる自分に不安なんて感じたことないわ。あなたは素敵な人だもの」

 

 と、当たり前のように返すのである。

 

「ねえ、なんでもひとつだけ買えるなら、Richelieuがなにが欲しいって言ったか、覚えてる?」

 

 作業を終えたリシュリューが背中から被さるように抱擁し、鼓動が跳ねあがる。“Amiralをそばに置いておきたい。他人の時間はいちばん高い買い物だから”。忘れるはずもなかった。

 

「Richelieuもamiralも、相手を独占する贅沢を互いの時間を対価にして満喫する、それでいいんじゃない?」

 

 提督はまだ逡巡している。

 

「きみが欲しいのは事実だ。でも、きみを汚すのが怖いという自分もいるんだ……」

 

 くすくすという笑いが耳をかすめる。

 

「だいじにしてくれてるのね。それは嬉しいけれど、でもね」

 

 リシュリューが提督を振り返らせ、向き合う。甘い蜜の香りで強烈に誘惑する花の(かんばせ)

 

「あなたがRichelieuを汚すんじゃないの。Richelieuが、あなたを汚すのよ」

 

 踏み切りをつかせるため、言い訳を用意してくれたのだとわかった。提督は悔いた。自分の不甲斐なさを改めて思い知らされた。

 

 だからこそ、心を定めなければならない。

 

「きみがわたしとの時間を後悔しないように、きみといるすべての時間を素敵な思い出にするよ」

 

 リシュリューが本心からの喜びに笑顔となる。宝石をまき散らしたような輝きだった。提督の首に新雪のような腕を絡めるようにして引き寄せ、口づけする。着衣に手をかける。

 

  ◇

 

 何年も前であるにもかかわらず、提督と初めて寝た次の朝、とても天気が良く、まぶしいほどに青い空が広がっていたことを、リシュリューはいまでも覚えている。

 

 朝の澄み切った青のもと、艦娘たちが出勤しているなか、ひとりだけ、まだ夜の残滓(ざんし)をまとっているようなやましさと、「自分は愛する相手とセックスしたのだ」とだれかれ構わず肩を揺すぶって自慢したくなるほどに浮かれる気持ちで、ない交ぜになっていたことを、鮮明に覚えている。

 

「きみと初めて抱き合った日の翌朝は、とてもいい天気だったんだ」

 

 ベッドの上で、リシュリューの膝を枕にしている提督が、ふとそんなことを口にして、この戦艦娘は軽い驚きから反応らしい反応が示せなかった。おなじことを覚えていた?

 

「で、ちょっと気になってね、こないだ、あの朝の気象記録を調べてみたんだ。ネットは便利だね」

 

 提督はリシュリューの内心などつゆ知らず話を続け、おかしそうに笑いをこぼした。

 

「そうしたら、あの日の天気は、雲量6だったんだよ」

 

 リシュリューは目を丸くした。雲量6とは、見上げたときの空の6割が雲で覆われているという意味である。

 

「気象学的にはたしかに晴れではあるんだが、お世辞にもいい天気とはいえない空模様だったんだ」

 

 なら、あの空の青さは?

 

「だからわたしは、そのとき思ったんだ」

 

 閉じていたまぶたを薄くひらいた提督が、寝返りを打ち、リシュリューを見上げる。

 

「きみは、わたしの見る天気すら変える女性だってね」

 

 リシュリューは、整いすぎて冷たささえ感じるその容貌を春の色に染めた。

 

「あなたもずいぶんお上手になったわね」

「きみは、照れるようになった」

 

 提督が手を伸ばす。金に輝く髪の流れをさかのぼり、リシュリューの滑らかなほほに添えられる。

 

「Je t'aime.」提督は言った。

「愛してる」リシュリューも言った。

 

 互いに相手の国の言葉で告げて、リシュリューは提督の肌の温度を感じながら、未来に思いを馳せた。これからも自分たちは、つまらないことで衝突したり、迷ったりしながらも、記憶のなかだけとはいえ空の色さえ変えてしまう相手と、何度も越えていくのだろう。

 

 胸の高鳴る夜を。青く美しい朝を。



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La vie est un sommeil,l’amour en est le rêve,et vous aurez vécu,si vous avez aimé.

 戦艦娘の大和が振り袖の晴れ着衣装に身を包み、おなじように和装で着飾った海防艦娘対馬や駆逐艦娘荒潮らを連れて出かけていく。入れ替わりに、空母艦娘加賀と駆逐艦娘山風が、草履の音をさせながら矢を1本ずつ携えて鎮守府に戻ってくる。皆いずれも華やかな殷賑(いんしん)のなかにあった。

 

「日本にもsemaine de la mode à Paris(パリコレクション)があるの?」

 

 あきらかに機能美より造型美を優先した、きらびやかな装いの艦娘たちを指差して、リシュリューがたまたま隣の席にいた水上機母艦娘の日進(にっしん)に尋ねた。

 

「ありゃあ初詣じゃ」鳳翔(ほうしょう)から朱塗りの屠蘇器で注いでもらったお屠蘇を啜りながら日進は答えた。

 

「ハツモーデ?」

「新年に神社行ってな、神さんにお願いごとするんよ。“ことし一年ぶじに過ごせますように”とかの」

「日本人って宗教に無関心だって聞いたけど、ちゃんと神さまがいるのね」

「うちらぁ節操()うもんがないけぇ」日進は苦笑いして語った。「宗教いうんは法律みたいなとこもあるじゃろ? 神さまが見とるけぇ悪いことせんほうがええでぇいうわけじゃ。日本でも“お天道さんが見とる”とか、因果応報云うてな、()ぇことしたんも悪いことしたんも全部自分に()んてくるぞいうて刷り込んだんじゃ。ほじゃけど、自分のやったことと自分の運命にほんまに因果関係がある云うわけじゃなかろ? じゃけぇ、だれぞ一人が悪いことしたら、連帯責任で村のもんみぃんなに(ばち)を与えんなさる、なんか人智超えたもんがおる、云うことにしたんじゃ。そやって相互監視させたんじゃね。じゃけぇ日本人は周りと合わせようとするんじゃ。それを宗教いうんなら宗教じゃろうな」

 

 自身もお屠蘇に口をつけながらリシュリューは興味深く聞き入る。山椒の実や桔梗の根、白朮(びゃくじゅつ)(キク科オケラまたはオオバナオケラの根茎)など複数の生薬からなる屠蘇散(とそさん)を日本酒と本みりんで漬け込んだ清澄な霊薬が五臓六腑にしみわたる。酒よりみりんの割合を多くしているので口当たりもまろやかだ。

 

「ただ、ユダヤ教やらキリスト教やらみたいに一神教じゃあなかったんよ。キリスト教なら異教の神さんは悪魔にするじゃろ」

「中東の神話のBaal(バアル)が、Christianisme(キリスト教)ではBelzébuth(ベルゼブブ)になるとかね」

 

 リシュリューに日進が、杯を静かに呑み干して頷く。

 

 紀元前2000から1000年ごろに古代カナン地方(地中海の東岸。現在のシリアやパレスチナあたり。農耕が中東からはじまったことを踏まえると、まさに同地は文明の中心地といっても過言ではなかった)で広く信仰されていたバアルは、天空の神エルの実子であるとされていた。

 

 エルは神々の父にして天の全権を握る最高神だったが、基本いつも玉座に座って過ごすだけでなにも仕事をしないニートであった。バアルはそんな父の代わりに地上の戦乱と混沌を収め、親の七光りという評判のスタートから実力で最高権力者にまで成り上がり、ときに仲間たちの助けを得ながら、天災を象徴する敵と戦って打ち倒すことで大地に実りの雨と豊穣をもたらす、まさに主人公のような神だったのである。バアルに、「いと気高き神」という意味のバアル・ゼブルという尊称があったことからも、乾燥地帯である中東で干天(かんてん)の慈雨を降らせるこの神がいかに慕われていたかがわかる。

 

 カナン地方のひとつ、ウガリット(紀元前6000年から紀元前1190年まで現在のシリアの地中海沿岸で栄えた都市国家)もバアルを厚く信仰しており、バアルに関する物語を粘土板文書で残している。ウガリット神話である。

 

 それによるとバアルにはアナトという妹がいた。アナトはウガリット神話において、ほかの女神の美しさを描写するさいに「アナトのように美しい」と比喩に用いられているので、見目麗しい絶世の美少女とイメージされていたものと思われる。アナトは実兄のバアルに狂おしいほどの慕情を寄せていた。よって処女である。バアルに仇なす敵との戦いにおいては兄以上の勇猛さと凶暴性をふるってことごとく勝利をおさめている。ところがあるときバアルは死神モトに殺されてしまう。豊穣を意味するバアルは、干魃と凶作を神格化したモトには絶対に勝てないのだ。

 

 兄を亡きものにされたアナトの悲しみは深く、怒りはそれ以上にすさまじかった。アナトはモトを一撃で斬殺しただけではあきたらず、死体を焼いて臼でひいて灰にしたうえで地にばらまき、畜生の餌にすることで復讐を果たす。「干魃と凶作」であるモトが死ぬということは、作物の育たない季節が終わるということなので、豊穣神のバアルはふたたびよみがえる。こうしてカナン人は季節の移り変わりを「神々の戦い」と見なし、恵雨が降ると「女神アナトがモトを倒してバアルを復活させてくださった」と天に感謝を捧げていたのである。

 

 女神アナトを簡潔に表すと、「妹属性の美少女で、お兄ちゃんが大好きで、最強の戦闘力を持っていて、お兄ちゃんのためにどんな敵でもやっつけちゃうヤンデレ気味の処女」ということになる。民衆が好むキャラクター像は3000年以上前からさほど変わっていないのかもしれない。

 

 さて、そんなバアルとアナトを信仰していたウガリットは、紀元前1200年ごろに地中海の西からやってきた侵略者〈海の民〉の一集団であるペリシテ人に滅ぼされる。地中海東岸に移住したペリシテ人はそこを「ペリシテ人の土地」という意味のパレスチナと名付けた。

 

 しかし信仰というものはその土地の気候風土を土台にして生まれるものである。米作ゆえ日照時間が重要な日本では太陽を最高神としたが、沙漠の国々では太陽はむしろ忌むべきもので、雨や月こそが敬うべき神だった。イスラム圏の国旗に月が取り入れられていることが多いのはこのためである。

 

 降水の少ない中東ではありがたい存在である雨の神バアルも、入植者であるペリシテ人によって引き続き豊穣神として信仰された。バアルをバアル・ゼブルと讃えていたのもペリシテ人である。

 

 さて、ときをおなじくしてヘブライ人がヨルダン川東岸の山岳地帯を越えて、カナン地方に進出してきた。ヘブライ人はユダヤ教徒にあらずんば人間にあらずという排他的な一神教集団である。生活様式も、ヘブライ人が乳幼児の死亡率が極めて高いために人口が増えにくい半遊牧民であるのに対し、ペリシテ人は大所帯を養える農耕社会という違いがあった。

 

 ヘブライ人は、自分たちとは社会構造のまったく異なるペリシテ人が目障りでしかたがなかったらしく、経典である旧約聖書の列王記、民数記、士師記、ホセア書などで、バアル信仰を偏執的なまでに攻撃している。

 

「聖典いうてもじゃな、神さんが天国からファクスで送ってきたわけじゃないけぇ」

 

 日進の言葉にリシュリューがまばたきをする。

 

「まさか、日本ではいまだにfaxを使ってるの?」

「なん()よん。まだまだ現役よ」日進は脱線した話を戻す。「聖典は神じゃのうて人間さまが書いたもんじゃろ。聖書もコーランも仏典も、()うたら神さん仏さんを材にとって人間が好き勝手に書いた同人誌なんよね。人気の出んかったやつは淘汰されるけぇ、出来のええやつだけが残ったんじゃろうけど」

 

 そうしてユダヤ教クラスタに支持されて人気の出た、創世記やヨブ記といった“出来のいい同人誌”は、傑作選集として一冊の本にまとめられることになった。こうして編纂された“合同誌”が、旧約聖書である。

 

「で、ヘブライ人は聖典云う名の同人誌でバアルをバッシングしまくったんじゃ」

 

 おせち料理に箸を伸ばして日進が続けて、

 

「列王記の、Hébreux(ヘブライ)の預言者Élie(エリヤ)と王妃Jézabel(イザベル)との対決ね」

 

 リシュリューが先取りした。

 

 イザベルはヘブライ王妃だが、ヘブライ人ではない。バアルを信仰するカナンの王族の出自である。

 

 敵であるはずの彼女をヘブライ王アハブが(きさき)としたのは、融和政策の一環だったのだろう。しかし、イザベルはヘブライ人には異教であるバアル信仰を宮廷に堂々もちこみ、ユダヤ教徒たちにも崇拝を強要した。列王記ではイザベルは「欲しいものを他人が持っていれば奸計を弄し亡き者にしてでも奪い取る」という稀代の悪女として描かれている。

 

 だがイザベルは、のちにヘブライ王となるエヒウの起こしたクーデターで権力を失い、廷臣(ていしん)らによって宮殿の窓から投げ落とされた。血が壁に跳ね返り、そばにいた馬にも飛び散った。驚いた馬が虫の息のイザベルの頭を踏みつけた。さらには彼女の死体は犬にむさぼり食われた。これらの壮絶な最期は、預言者エリヤが予告していたとおりだった。

 

「悪趣味な殺しかたじゃろ? 列王記じゃあ、イザベルはバアルそのものと見てええ。それをエリヤやエヒウといったヘブライ人が成敗する云うんはじゃな、“自分を投影させた主人公が、作者の嫌いな人物やキャラクターを作者の代わりにボコボコに痛めつける”云うタイプの同人誌と、やりよることはおんなじなんよ。そういうのを秋雲(あきぐも)はアンチ・ヘイト云うんじゃて云うとったけどな。ほんな感じで、ヘブライ人は“われの神よりわしらの神のほうが強いんやでー”とばかりに、ペリシテ人の信仰しとったバアルやほかの土着の神を、ボコボコにする同人誌を書きまくっての、嫌がらせしたんじゃ。それが旧約聖書の大筋じゃの」

 

 ペリシテ人にはバアルを讃える儀式として家畜の生け贄を捧げる習慣があった。生け贄には蠅がたかる。このことから、尊称であるバアル・ゼブルを、発音のよく似たバアル・ゼブブともじって揶揄した。バアル・ゼブブとは「蠅の王」という意味である。

 

「名前で大喜利してバカにする云うんは、古今東西で変わらんのじゃねぇ」

 

 日進が呵々と大笑してからおせちを味わう。

 

 そもそもヘブライ人がユダヤ教を興したのにも理由がある。ヘブライ人はもともとカナンに住んでいたが飢饉により放浪のすえエジプトに移住した。だがエジプトでヘブライ人が増えすぎたため、エジプト王が脅威に感じ、奴隷として酷使するようになった。

 

 ヘブライ人指導者モーセに解放されたヘブライ人たちは、シナイ半島経由で40年かけてさまよいつつもカナンに戻る。このときにカナンに定住していたペリシテ人と衝突したのである。

 

 やがてカナンを征したヘブライ人は、悲願だったイスラエル王国を建国する。

 

 しかし内乱から王国は南北に分裂。

 

 北はアッシリアに滅ぼされた。

 

 南はエジプトに破れ、エジプトの支配下に入った。ところがそのエジプトが新バビロニアに敗北したことから、南も宗主国と同様の運命をたどる。南のヘブライ人は新バビロニアの虜囚となった。バビロン捕囚である。

 

 さらに新バビロニアはペルシアとの戦いで滅亡した。ペルシア王に解放されたヘブライ人は、バビロンからカナンへ帰還し自治国を復興する。だがその国はローマ帝国の属国でしかなかった。

 

 このように放浪と迫害を2000年近くも強いられ、国すらも持てなかったヘブライ人の救いは、「いつか神さまが降臨して、自分たちをいじめた連中をこてんぱんに罰してくださる」というメシア論だった。ヘブライ人にとって神とは2000年も艱難辛苦(かんなんしんく)に耐えてきた自分たちだけを救うものと信じられてきた。何百世代も自分たちを迫害してきた諸方の民族が信じる神が、もし本当の神だったりしたら、あまりに報われない。神と認めるわけにはいかない。だから異教の神と異教徒をはげしく憎悪したのである。

 

 そんなヘブライ人のなかで、まったく空気を読まないものがひとりいた。ユダヤ教には異教徒の血に触れてはならないという戒律がある。だからユダヤ教徒は異教徒が道端でけがをして助けを求めていても無視して通りすぎる。だがその男は異教徒だろうがかまわず手当てをしてやった。しかめ面をする同胞たちに男は言った。「困っている者を助けるのに理由が必要だろうか」

 

 その男は、名をナザレのイエスと言った。のちのイエス・キリストその人である。

 

 イエスの影響力は絶大で、ついにはユダヤ教から新たに分派するにまで至った。キリスト教の成立である。だがイエスの死後、その神格化が際限なく進められ、信者が増大して組織として急成長するにつれて、しだいに権力拡大のためだけにキリスト教を利用する魍魎(もうりょう)跋扈(ばっこ)しはじめる。信者が増えれば上納金も稼げる。どんどんキリスト教を布教して営業成績を上げなければならない。

 

 新興宗教にすぎなかった時代のキリスト教が勢力を拡大するにあたって最大の障害だったものは、親玉のユダヤ教にとってもそうであったように、各地で信仰されていた土着の神々である。キリスト以外の神を崇められていてはキリストを布教できない。信者が増やせない。

 

「そこでキリスト教はぁの、それら土着の神を、“あんたらが信仰してる神な、それ悪魔やで”とか、“悪魔崇めるとか情報弱者か。神はキリストだけじゃから”、云うて、煽りまくって貶めた。反感()うてもええけぇとにかく過激な煽り文句で注目を集めようとしたんじゃ」

「いまでいう炎上商法ね」

「悪名は無名に勝る云うことじゃね」日進は(かずのこ)をほおばる。「動画サイトであるやん、くそ邪魔な広告。あれな、“この広告の商品だけは絶対買わん”て言いよるやつ多いけどな、そやって名前知ってもろうて、覚えてもろとる時点で、広告出しとる企業の術中にハマッとんよな。名前すら知られとらんいうんがいちばんまずいけぇ。広告ではがえぇな(ムカつくなと)思た悪感情は、わりと時間が経ったら忘れるもんなんじゃ。ほじゃけど名前は覚えたまんま。ほんでから店先でその商品を見たら、名前知っとるけぇ手ぇが出やすなるんよな」

 

 同様に、神を悪魔と貶めるという禁忌は強い反発を呼んだが、宣伝効果もばつぐんで、キリスト教の名は急速に広まった。

 

 バアルも悪魔に堕とされた神の一柱だった。新約聖書には、悪霊に憑依された人を奇跡の力で祓ってみせたイエスに、律法者(もちろんユダヤ教徒)がこう難癖をつけているシーンがある。「これはまったく悪魔のかしらベルゼブブの力を借りているのだ」(=“悪魔と手を組んでマッチポンプやってるんだろう?”)

 

 ユダヤ教では「蠅の王」と蔑称をつけられながらも、あくまで異教の神であったのが、キリスト教では、バアル・ゼブブがベルゼブブに訛化するとともに完全に悪魔という設定になっていた。当然のことながらベルゼブブは蠅の姿で描かれる。輝かしい活躍で民を守ってきたバアルが蠅の悪魔に貶められたのである。

 

「そがして一神教はほかの神さんを排斥するわけじゃけど、日本はよその神さんも神さんとして、のべつまくなしに受け入れてしもうてね。おまけに土着の神とごちゃ混ぜにして新しい神にする。カレーはうまい、豚カツもうまい、ほんじゃその二つ合わせりゃもっとうまい()うてカツカレーにするみたいなもんじゃ」

 

 他教の神を折衷して合体させるせいで、もともとその神に付与されていた教訓が変質したり忘れ去られてしまうこともある。サンタクロースはその一例だ。発祥地のフィンランドではサンタクロースは煙突から家に入ってくるとされている。フィンランドの長く厳しい冬をしのぐためには暖炉が不可欠である。そこで冬がくる前に子供に暖炉の煙突の掃除を手伝わせる方便として、「煙突をきれいにしておかないとサンタクロースがプレゼントを持って入ってくることができない」と教えた。子供は家の仕事を手伝う報酬としてプレゼントを獲得できたのである。煙突から入ってくるサンタクロースとは、暖炉の使い方を子々孫々に伝えていくための工夫だった。それが暖炉も煙突もない日本では無条件でプレゼントをもらえる行事となった。

 

「日本じゃあ、自然にはもうありとあらゆる種類の神さんが住んどって、うちら人間は後からきて間借りさせてもろとるだけ()う多神教じゃけぇ、よその神さんも神さんとして吸収する下地があったんよ。ただし自分らの手に負えん存在をなんでもかんでも神って呼ぶけぇ、一神教の神さんと違って、必ずしも感謝したり拝んだりするともかぎらん。疫病神みたいに厄介なやつもおるし、いつもは()ぇ神さんもなんかのきっかけで機嫌損ねて天変地異起こしたりしなさるんじゃ。日本の神さんはgodじゃのうてdeityて訳すべきじゃの」

 

 要は節操がないのだ、と最初に示した結論を日進はふたたび持ち出した。

 

「じゃけぇクリスマス祝った一週間後に初詣で神道の神さんを拝みに行ったりするんじゃ。むしろ宗教が生活に密着しすぎとって、宗教じゃ云うて認識しにくんかもしれんね。自分の着とる服が自分では視界に入らんみたぁに。お屠蘇もおせちも、“いただきます”も宗教じゃ。けど宗教じゃて意識することはほとんどないね。初詣に行っとる連中の大半も、信仰心とかじゃのうて、おめかしして出かけるんが好きなだけじゃろ。うちら艦娘は半分命乞いみたいなとこあるけんど」

 

 冗談めかす日進にリシュリューは笑みをもらしてから、

 

「じゃあ、amiralもハツモーデには行けるのね?」

 

 と確認した。信仰上の理由でという意味かと日進が訊くとリシュリューは顎を引いた。日進は「もちろん」と返した。「日本じゃあ、新年の初でぇとに初詣するもんもおるな。二人(ふたぁり)で行ってきんさい」とも付け加えた。

 

 リシュリューは氷肌玉骨(ひょうきぎょっこつ)の美貌に悔しさをにじませた。

 

「Amiralとつながったまま年を越したけれど、日本の新年にはまだそんなévénement(イベント)があっただなんて」

「しれっとセクハラ混ぜるんやめぇや」

「さっそくキモノを手配しないと」

 

  ◇

 

 私室でノートPC相手に仕事をしていた提督をおとなう者があった。迎えた提督は、御来迎(ごらいごう)を目の当たりにしたのかと思った。早春に燃える日の出のような明るい茜の花が繚乱と咲き誇る、上等な振り袖姿のリシュリューがそこにいたからである。単なる和装のお仕着せではなく、着物とおなじ柄の水兵帽を被り、黒革の手袋、足元はピンヒールのブーツを合わせている。ブラックミンクのストールが華やかさをプラスしながらも、全体の印象を引き締める効果を発揮していた。

 

 着物という和のファッションにリシュリュー独自のアレンジが加えられ、それでいて奇抜すぎることもないのは、彼女の天成の佳容と、引き算を絶妙にわきまえる傑出したセンスのたまものであろう。

 

「きみの和服姿が見られて、わたしの両の目がよろこんでいるのがわかる。きょうは鎮守府でパリコレでもやるのか?」

 

 リシュリューは憤然と、黒手袋に包まれた両手を腰に当てた。

 

「ハツモーデよ。Richelieuをescorte(エスコート)しなさい」

「わたしは構わないが、きみは宗教的に大丈夫?」

「神は寛大よ。あなたとのrendez-vous(デート)なら許してくださるわ」

 

 リシュリューは微笑みながら肩をすくめてみせた。

 

「素晴らしい神さまだ。日本には女性に嫉妬する神さまが多いのだが」

「神が多いっていうのは、Richelieuには違和感があるけど新鮮ね」

「まあ、日本の神さまは、godというより……」

「Deity?」

「そういうこと」

 

 提督は手早く外出の用意をした。とはいえ外出時も私服ではなく制服の着用が義務付けられているので大した手間はない。せいぜい上着をまとって制帽をかぶるくらいだ。

 

「自分を表現できなくて嫌じゃない? 制服しか認められないなんて」

「これさえ着ておけばいいっていうのは、わたしみたいなセンスない人間にはありがたい。あと軍服はかっこいい」

「Richelieuがあなたに合う服を見繕ってあげましょうか」

「わたしの?」

「男も女も基本は変わらないわ」

 

 任せて、とリシュリューは器用に片目を(つむ)ってみせた。提督は苦笑して右腕を差し出した。リシュリューが腕を絡ませる。

 

 肩を寄せ合いながら歩いて鎮守府の門を出たあたりで、提督が気付く。

 

「わたしをダシにしてショッピングを楽しみたいだけでは……」

 

 リシュリューは音速で顔を逸らした。

 

 

 最寄りの神社への道中で参詣から戻る艦娘たちに冷やかされたりもしながら、手袋や帽子を外して鳥居の前で一礼してくぐり、手水舎(ちょうずや)でリシュリューに作法を教えながら手と口を清め、おおぜいの参拝客で賑わう参道の端を通って拝殿前の列に加わる。先客らの、硬貨や紙幣を賽銭箱に投げ込んで鈴を鳴らし、手を叩いて拝礼するという一連の所作を、リシュリューが興味津々に観察する。

 

「お金を入れるのは寄付かなにかかしら」

「宗教が集金する理由がたいていそうであるように、あれは神社のためじゃなくて自分のためという建前なんだ」

 

 リシュリューが涼やかな目許とぷっくりした唇に笑みを含ませたまま提督に説明の続きをうながす。

 

「むかしの日本では貝を通貨に使ってた。買う、()る、貸す、賭ける、財産など、お金関係の漢字に貝の字が入っているのはその名残でね」

 

 指で空書しながら解説する。

 

「その貝というのが、その、なんだ、女性のアレに似てたわけだ」

 

 リシュリューがふんふんと頷いてみせる。フランス語でムール貝を意味するmouleは女性器の隠語でもある。

 

「きみを前にして言いにくいことだが、中世以降の神道では女性、とくに月経血をケガレとして嫌っていてね」

「どこの国の宗教でもそんなものよ、気にしないで。経血が汚いことは確かだもの」

「日本では女性の天皇がいらっしゃったり、そもそも最高神が女神だったりするから、むしろ神道は女性を神として敬っていたんだ。お神酒も巫女の口噛み酒だった。相撲の土俵が女人禁制なのは力士が神事に集中するためだった。逆に女相撲なら男子禁制になる。山の女人禁制も、それだけ山が危険な場所だったので、女性を守るために立ち入り禁止にしたという事情がある。なにより人は女性から生まれる。古代日本の宗教観では“この世”と“あの世”のふたつしかなかった。この世で死んだ人間はあの世に逝く。あの世とは神のいる国でもある。そして死後の世界とは、生まれる前の世界とおなじ。すなわち人が生まれてくる女性器は神の国であるあの世とつながっていると尊ばれた」

「あなたが以前言っていたGustave Courbet(ギュスターヴ・クールベ)の『世界の起源』とおなじ考えね」

「そのとおり。そういうわけで古代の神道では経血はケガレどころか神聖なものとされていた。鳥居が赤いのも、生命の源泉たる経血の色である朱を使うことでその霊的な力にあやかり、魔除けや、災厄を防ぐ意味合いが込められていたと考えられる」

 

 リシュリューはうしろを振り返った。言われてみると丹塗(にぬ)りの門は女性器を模しているようにも見える。額束がクリトリスに当たるのだろうか。参道は産道にも通じよう。

 

「6世紀に仏教が公伝して、仏もまたdeity(神さま)の一種として、神道はその世界観ごと吸収した。輸入された当時の仏教はヒンドゥー教を巻き込んだりしてすでに変質していて、女性は生まれながらにして罪深く汚れているものと定義していた。9世紀後半には、家は長男が継いでいくもの、女性は家に嫁いで跡継ぎを産むものとする家父長制を貴族社会が定着させる過程で、女性の社会的地位を低下させるために仏教が利用された。

 同時に人口が増えはじめ、衛生面の悪化から疫病が大きな問題になってくる。清潔にしていないと病気になりやすいということは当時の人々も経験でなんとなく理解していた。薬師如来の功徳が書かれた薬師瑠璃光如来本願功徳経にも“つべこべ言わずに手を洗え”とある。さっき手と口をゆすいだだろう? あれは手洗いとうがいを庶民に習慣づける狙いがあったものと思われる」

 

 列を進みながら語る提督に、リシュリューが手水舎で洗った手を見つめる。

 

「ケガレとは“気枯れ”、つまり憂鬱で落ち込んでいる状態を指すが、時代とともに物理的な汚れとごっちゃにされ、神のいる神社、つまり人混みのできるところからは排除すべきものと考えられるようになった。ここにきて、男性優位社会の確立を画策した権力者による女性へのネガティブキャンペーンと、ケガレを嫌う風潮が絡み合い、経血は汚らわしいものだという考えに発展した、らしい。そういういい加減ないきさつがあるので、日本では初潮をお赤飯でお祝いしておきながら経血はケガレとして神さまが嫌う、というちぐはぐなことになっている。後付け設定の弊害だね」

「複雑な事情があるのね」

「経血がケガレなら、それを出す女性器もまたケガレの源という論理になる。で、お金の貝は女性器に似ている。だからお金にもケガレがついているとされた。それを神社に納めることでケガレを祓うということにしたんだ」

 

 提督とリシュリューの前に並んでいた参拝客が畳んだ千円札を賽銭箱に投げた。

 

 それを見ていたリシュリューが、

 

「オサイセンはいくらが相場なの?」

 

 と訊ねた。提督は論理を整理する。

 

「女性器に似ている貝を貨幣に用いていたから、お金にはケガレがあるとされた。だから逆にいえば女性器に似た貨幣でないとお賽銭の意味がないことになる。貝に代わって金、銀、銅、鉄、真鍮などの金属を統一された規格で鋳造したコインが通貨となってからも、貝こそが貨幣の源流という伝統は守られていてね。江戸幕府が発行した寛永通宝(かんえいつうほう)は丸いコインの中心に穴が開けられていた。この穴は貝の口をモチーフにしていると思われる」

 

「知ってるわ。ゼニガタヘージでしょ」

 

 どこからそんな情報を仕入れたのだろう。微笑ましさがこぼれる。

 

「貝が貨幣のルーツという思想は現代にも引き継がれてる。だから5円玉と50円玉には穴が開いているんだ」

 

 リシュリューがすこし考えて、

 

「じゃあ、紙幣なんかじゃなくて、5円玉か50円玉でいいのね」

「むかしそれをテレビでぶっちゃけた神主さんは、全国の神主さんから総スカン食らったらしいけど、お賽銭の意味を厳密にとらえるなら、そうなるかな」

 

 順番が回ってくる。神前に進んだ提督が「まずわたしがやるから、見ててごらん」と、一礼して賽銭を賽銭箱にそっと入れる。垂れた縄を揺らして鈴を派手に鳴らし、二拝ののち拍手(かしわで)を二回打ち、無言で祈って、また一礼して横に移動する。「どうぞ」

 

 リシュリューは苦笑をにじませた。

 

「けっこうややこしいのね」

「むずかしかったら、お賽銭を入れて鈴を鳴らして、手を叩いてお祈りするだけでもいい。はるばる海の向こうから来たお客さんに拝んでもらえるだけでも神さまは喜ぶ」

 

 リシュリューは提督の言ったとおりにした。金髪碧眼の美女が着物姿で合掌して祈念しているというのも、提督にはなかなか不思議な光景だった。祈っているとき、リシュリューが片目を開けて提督に視線をよこして、

 

「なにを祈ればいいの?」

 

 と訊いてきたので、

 

「なんでも。去年一年間守ってくれたことの感謝とか、ことしもよろしくお願いしますとか」

 

 と答えた。リシュリューはふたたび瞑目して祈った。

 

 顔を上げ、瞳を開け、最後に頭を下げてから、ブーツの足音も高らかに提督のもとへ歩み寄る。

 

「いちおうこれで参拝は終わり」

「まだ手袋をしてはいけないの?」

「境内は神さまの家だから、出るまではね」

 

 じゃあ、とリシュリューが提督の手をつかむ。

 

「あなたの手で温めて」

 

 提督が手を開く。その指に、リシュリューが自身の指を絡ませる。互いの手を握って歩く。

 

「せっかくだから、おみくじ引いていこうか」提督が社務所を示す。「ことし一年の運勢を占うものだが」

「面白そうね」

 

 列に並んでそれぞれおみくじを買う。リシュリューが紙を開封する。

 

 

 凶

 願望・遅くとも叶う

 失物・辛抱強く探せ 遅ければなし

 相場・無理すると損

 造作・必要なところだけを

 待人・来ず

 学問・安心して勉学すべし

 転居・さわがぬ方がよし

 旅行・吉日にすべし 盗難に注意

 恋愛・いい人 しかし優柔不断

 争事・気を長くもて

 

 

 ……などと印刷されている。

 

「当たり障りのないことばかりね」

「占いはバーナム効果でなければならないからね」

「これはどういう意味?」

 

 リシュリューがおみくじを半分に折って上半分を見せる。

 

「凶か。いいじゃないか」

「上のほう?」

「いちばん下」

 

 リシュリューが柳の眉根を寄せる。

 

「どこがいいのよ」

「おみくじの凶はたしかにいちばん下の運勢だが、これからよくなるという意味でもあるんだ。底だからあとは上がるだけってこと」

 

 リシュリューは「ふん」と鼻を鳴らした。

 

「いま以上に幸せになんてなれるのかしら」

「努力しよう。ちなみに、気に入らないおみくじは、ほら」無数のおみくじを枝に結ばれて、純白の桜が満開に咲いたようになっている木を指さす。「ああしておけば、まあ、なかったことにできるといえば語弊があるが、ネガティブな運勢を持ち帰らずにすむ」

 

 感心したリシュリューの顔が戻ってくる。

 

「あなたのは?」

 

 提督は気安くおみくじを差し出す。リシュリューが確かめるところはひとつである。

 

 

 恋愛・未来に出会いあり

 

 

「結んで」

 

 リシュリューはおみくじをひったくった。その速度はほとんど神速といってよかった。運勢のところしか興味がなくて見ていない提督は困惑するばかりである。

 

「あの、それ大吉……」

「いいから、Richelieuと一緒に結ぶの」

 

 言い出したら聞かない。リシュリューに急かされ、監視されながら、提督は不承不承、人生初の大吉のおみくじを枝にくくりつけた。

 

 鳥居を出て、振り返ってまた頭をさげる。

 

「日本も意外と敬虔なのね」

 

 提督のその姿を見てリシュリューが言った。提督は制帽をかぶる。

 

「宗教に関心があるかないかで言えば、多分、ない。神社での作法も信仰心というより周りの人に礼儀知らずと笑われたくないからやってる部分が大きい。だいいち初詣は明治に入ってから始まった、比較的新しい習慣だしね。現代日本人で宗教といえば壺売りつけるかサリン撒くか自爆テロやるかくらいしかイメージないと思う。宗教を信じている奴はなにするかわからないから危ない、と思っている人がけっこう多いんじゃないかな」

「Richelieuからすれば、無宗教だと倫理がないから、なにするかわからなくて怖いわ」

 

 べつの艦娘たちが初詣に来たらしく、提督やリシュリューにあいさつしていく。彼女たちもたたずまいを直して鳥居に一礼してからくぐる。

 

「だが、きみはキリスト教の国の女性だけど、べつに普通だ」

「Richelieuも、宗教を持たない人は危ないと思ってたけど、あなたは普通よね」

 

 互いに知らないことを、目の前のひとは教えてくれる。

 

「あとは、寄り道せずに帰って、初詣は終わり。ご利益を家まで持って帰らないといけないからね。わたしたちの場合は鎮守府だが」

 

 早口で説明する提督に、手袋をはめようとしていたリシュリューが止まる。

 

「なら、正確には、帰るまでがハツモーデね」

「帰るまでが遠足、帰るまでが作戦だね」

「そういうことなら、鎮守府までは手袋をしてはいけないってことよね、Mon amiral(わたしの提督).」

 

 リシュリューが素手の左手をさまよわせる。提督も素手の右手で受けとる。共有された体温は手袋より暖かい。

 

「Amiralは、なにをお願いしたの」

 

 連れ歩いて帰路に就きながら、自分の手汗でリシュリューの手を汚しやしないかと気が気でなくてなにも話題を振ることができずにいた提督に、彼女のほうから話しかけてきた。

 

「お願い?」

「ほら、オサイセンのあとの」

 

 提督は笑いをこぼす。

 

「わたしは提督だからね。艦娘たち皆の息災だよ」

「あら。Richelieuのこともひとくくりに?」

「お願い事をしすぎると罰があたるかもしれないし」

「妬いちゃうわ」

 

 リシュリューのほうを向くと、澄んだ蒼空の瞳と目が合った。提督はあわてて前へ向き直った。一瞬だけ垣間見たリシュリューの美姫の顔は、見間違いでないなら、わざと怒ってみせているように思われた。

 

「じゃあ、きみはなにをお願いしたんだ」

 

 苦し紛れに水を向けてみると、

 

「Amiralがそうなら、Richelieuは教えてあげない」

 

 提督は白旗をあげるしかなかった。

 

 提督と手を繋いで帰りながら、リシュリューの胸中には、ただひとつの想いが渦を巻いていた。その想念とは、こうであった。

 

 ――艦娘みんなのことを祈っていたなんて言われたら、Richelieuが“ことしもあなたのそばに居たい”ってお願いしていたなんて、恥ずかしくて言えないじゃない。




La vie est un sommeil,l’amour en est le rêve,et vous aurez vécu,si vous avez aimé.
(だれかを愛したとき、あなたは本当に人生を生きたことになる)


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L'amour n'est pas aveugle. Mais malheureusement, Les choses stupides sont souvent.

「あなたがここまでわからず屋だったとは想像もしてなかったわ!」

「そっちこそ! きみがこれほど聞き分けのない女性だとは思わなかった!」

 

 四隣(しりん)寂寞(せきばく)を破るその怒声は、リシュリューと提督のものに相違なかった。

 執務室へ書類一切を届けに来ていましもノックしようとしていた秘書艦初月は、射すくめられたように手をぎくりと硬直させた。扉の向こうに耳を澄ませてみる。

 

「だいたいあなたはRichelieuの話をこれっぽっちも聞いてくれない! あなたの部屋ね、艦のオモチャどうにかしなさいって去年から言ってるのに、いつになったら片付けるの。Richelieu以外の艦を飾るなんて!」

「きみこそ、クロゼットに服が入りきらなくて、クリーニング屋に預けっぱなしだそうじゃないか。クリーニング屋はきみのワードローブじゃないぞ」

「預けておきたくて預けてるんじゃないわ、着たいときに手元にない不便があなたにわかるの!」

「ならわたしもどこかに貸倉庫でも借りて、そこへ模型を預けようか」

「そんなことするくらいなら要らないものから処分すればいいでしょ!」

「その言葉をそっくり返すよ!」

 

 初月がわざとドアを派手に開けて室に入っても、なお気づかないまま、日仏の男女は互いに指を突きつけて怒鳴りあうばかりである。

 

「下関戦争の続きでもやってるのか? そうでないなら、きょうの開戦理由は?」

 

 呆れた初月は応接用のソファで我関せずとワインを楽しんでいるコマンダン・テストに小声で質した。

 

「知らないほうがいいです。知っているだけでも知性への冒涜で罪になりますよ。ですが、わたくしは親切ですので、遺憾ながらハツヅキの共犯者になってさしあげます」

「主犯と共犯が違ってないか?」

「提督がRichelieuに、“きょうもきれいだ。愛している”といつものようにおっしゃったのです」

「あいつにしては殊勝な心がけだ。で?」

「Richelieuが、“Richelieuも愛してるわ”と返しました」

「火災報知器を切っておくべきだな。熱すぎて誤作動を起こすかもしれない」

「それに提督が“いいや、わたしのほうが愛している”と反論いたしました」

「反論しなきゃいけないことか?」

「するとRichelieuが、“なにを言ってるの。Richelieuのほうがもっと愛してるわ”と応じました」

「リシュリューの声真似がうまいな」

「提督がさらに“わたしの愛はそれよりも大きい”と声を荒げはじめると、Richelieuさんが……」

「“わたしのほうがもっと好きよ!”とエスカレートしていって、ああなった?」

「ああなった。そのとおりです」

 

 初月が予想してみせると水上機母艦娘は大きく頷いた。

 初月は心底見下げ果てたという顔をして、ソファに腰かけたまま上体だけよじって、提督とリシュリューへ馬鹿馬鹿しそうな視線を投げかけた。

 

「Amiralがそんなだから、Richelieuがいちいち小言を言わないといけなくなるんでしょ」

「こっちの台詞だ。買うときに収納する場所のことを考えたりしないのか?」

「服っていうのは、着るために買うの。着てないときのことを心配して買わないなんて本末転倒よ!」

「本末転倒が泣いているぞ!」

 

 初月は「泣いているのは納税者だぞ」とため息をついて、

 

「喧嘩のあとは格別だというが」

「喧嘩がおふたりの前戯になっていると?」

「きょうは金曜だしな」

 

 コマンダン・テストも得心した。

 直後、初月の跳ねているその頭髪が自身の動きに連動して小さく上下に揺れた。初月と付き合いの長いものが見れば、それは彼女がなにかを――多くの場合はろくでもないことを――思いついたとき、無意識に表出させるしぐさであることがわかっただろう。

 果たして初月は、耳打ちするようにして、

 

「提督がリシュリューの部屋に泊まるか、リシュリューが提督の部屋に行くか、賭けてみないか。負けたら間宮(まみや)奢りで」

 

 と持ちかけた。コマンダン・テストも顔を輝かせて乗った。

 

「言い出しっぺだが僕からでいいか? 僕は、“提督がリシュリューの部屋に”に賭ける」

「わたくしも、“提督がRichelieuのお部屋に”だと思います」

 

 ベットしてから両者は頭を抱えた。ふたりともが一方に賭けてしまっては賭けが成立しない。

 そこへ、英空母艦娘のアークロイヤルが形ばかり扉打して「Admiral, 最近特別なズイウンが市場を賑わせているようだが、出来のいいSwordfishの模型があるならぜひお教えを」と入って来るなり、耳も貸さずいまだ終息の気配を見せない金切り声の泥仕合に、

 

「なんだ、下関戦争の続きでもしているのか?」

 

 と、初月とコマンダン・テストに犬の喧嘩を見るような目を向けた。

 ここで初月の元より鋭い目に怜悧(れいり)な光が閃き、コマンダン・テストはそれに気づかぬふりをするため、ワイングラスをわざと高々とあおった。

 

「アークロイヤル、ひとつ僕らと賭けをしないか」

「わたしを世界に冠たる大英帝国の艦娘と知っての誘いか。いいだろう」

 

 初月に英空母艦娘は不敵な笑みを浮かべて応じた。賭けの内容だけを聞かされて、経緯を知らないアークロイヤルは「わかりきったことだろう?」と、むきだしの感情をぶつけ合う提督、リシュリューの両人へ顎をしゃくる。

 

「あんな状態で、きょう一暴れしようかなどとなるわけがない。わたしは“どちらの部屋にも行かない”に賭ける」

 

 初月とコマンダン・テストは勝利を確信しながらも、歓喜が表情に出ないよう、これまでで最大となる自制心を総動員し、かえって無表情になりすぎて、なにか裏があるのではと怪しまれそうになった。

 この秋月型にせよ、仏水上機母艦娘にせよ、すでに約束されたも同然の甘味に思いを馳せてにやつきそうになるのをこらえるのに必死で、平静をよそおう余力がなかったのである。

 さあ、なにを注文してやろう。普段は懐事情ゆえ頼めないあれやこれを心置きなく味わう夢想に今から酔いしれる。なんといっても、他人におごってもらったスイーツは2割増しで美味いのだ。

 

  ◇

 

「み、水……」

 

 仰臥(ぎょうが)したまま提督は首をめぐらせ、枕元にある水差しに手を伸ばそうとした。

 

 その手首を上から掴まれ布団に押しつけられる。顔を正面に戻す。しどけなく浴衣を引っ掛けて、またがるようにして提督と繋がっているリシュリューの嗜虐的な笑みが待っていた。えてして女の裸身は闇夜でもほんのりと燐光を発しているかのように輝いて見える。彼女の彫りの深い顔に浮かんでは流れる汗の珠、艶めいた唇を舌なめずりする所作、人間が生まれて最初に口をつけるカップに透ける静脈まで、提督にはありありと見えていた。

 

「水が飲みたいの……?」

 

 自由を奪われ身動きのとれない提督へ残酷に微笑みかける。汗だくの提督は五体が渇ききっていまや絞られたぞうきんそのものだった。

 閉めきった畳敷きの和室の空気には、ふたりの(はだえ)から放散された熱気が闇と一緒に充満していて、吸うたびに提督の肉はゆるみ、筋は溶け、それでいて腹の下から底知れぬ血が駘蕩として湧いた。

 リシュリューが腕を伸ばす。腋の下から生ぬるい、濃くも郁々(いくいく)たる薫香(くんこう)が天下ってきて、提督の脳髄を甘く痺れさせる。

 戻った手は水差しを持っていた。提督に艶かしい視線をもういちどくれてから、リシュリューは注ぎ口からじかにあおる。零れる水が白い喉を淫らに濡らす。

 戸惑っていると、リシュリューが覆い被さってくる。重ねられた唇から滑り込んできた舌が合図する。降伏勧告だ。開城するように受け入れた瞬間、生温かい水が流し込まれる。

 思わぬ水攻めに提督は溺れまいと必死にむさぼったが、リシュリューの体温が宿った水はまた、天上の甘露のようでもあった。飲み込むたびに臓腑から彼女に染められていく気がした。指先に至るまでがリシュリューで満たされていった。

 すべて吐き出し終えた彼女が唇を離す。名残を惜しむように唾液の糸が引かれる。わずかに気管に入ってむせる提督を見下ろして目を細める。

 

「おいしかった?」

 

 訊ねたあと、内側からくすぐられる感覚にリシュリューが、あは、と笑う。

 

「また大きくなった。いままででいちばん大きいかも」

 

 そのあとは、言葉も不要だった。ふたりは言語よりも原始的で、よほど直截的な交歓に、混じりあった汗と体液が敷布団にしみわたるまでふけった。リシュリューがどうしてほしいのか提督には手に取るようにわかった。リシュリューもまた、提督の触ってほしいと願うところを口にせずとも的確にもてあそんだ。提督の意識は五彩の雲を踏んで、はるか浄土の空まで踊躍(ゆやく)した。

 ひととおり終わったあと、すっかり夜も更けていたことと、それまで休むことなく抱擁していたことにはじめて思いが至った。

 

「お風呂はどうする。リシュリュー、先に入りたいならどうぞ」

「一緒に入りましょうよ。コンヨクっていうんでしょ」

「個室の風呂で混浴とは言わないが」

 

 鎮守府から日帰りしようと思えばできる距離にあるこの温泉宿のぬるい鉱泉でじゃれあいながら汗を流したあと、また女がしなだれかかって求めてきて、ふたりはいつの間にか夢うつつのなかに迷いこみ、窓からの澄明(ちょうめい)な朝陽でようよう現世(うつしよ)へ引き戻された。

 

「もう1泊する?」

 

 着替えて部屋を出る準備をしていると、まだ乱れた浴衣姿のままのリシュリューがささやくようにいった。その誘惑が(しとね)のなかだったなら危うく応じていたかもしれなかった。だがさすがにきょうまでは空けられない。

 

「冗談よ」

 

 提督が答える前に、リシュリューは身支度をはじめた。

 

  ◇

 

 鎮守府へ戻ったのが昼過ぎで、中途半端な時刻だったので、甘いものでもと、提督は久しぶりにひとりで間宮へ寄った。

 ほら、胃袋が意地でも空きスペースをつくるであろう芳香がただよってくる。

 店内では先客のアークロイヤルが上機嫌に大粒のイチゴを口に運んでいるところだった。

 彼女のテーブルには、蒸し焼きにしたふわふわのパンケーキを中心に、薔薇の花のカットを施したいくつものイチゴが花畑のように盛りつけられ、新雪色の練乳と生クリーム、深紅のイチゴソースの組み合わせが目にも鮮やかな皿。

 もう一枚の皿には、軽く揚げて粉砂糖をふりかけたバンズのあいだにアイスクリームとイチゴを挟んで、ブルーベリーやラズベリーがちりばめられ、おまけにチョコレートソースが格子状にかけられてある。

 間宮でもイチゴのシーズンにしか食べられない限定品の二品が、自分を味わえと(けん)を競っていた。

 

「こちらHQ。ランゲルハンス島守備隊、応答せよ。状況を報せ」

 

 手で口を覆った状態で威厳ある声をよそおうと、アークロイヤルが、ボブカットにしてあるストロベリーブロンドをなびかせて振り返る。提督だと知ると生クリームがそばについた口の端をわずかに吊り上げる。

 

「おかえりなさいAdmiral. あなたも一口どう? Admiralのおかげみたいなものだから」

 

 提督にはなんのことかさっぱりである。

 

「ありがとう。だけど」自分の口角を指差してさりげなくクリームのことを教えながら、「女性と甘いものをシェアしたと知れるとリシュリューに怒られる」

「具体的には?」

「良くて鉄拳。歯を食いしばれと言っといて腹をやってくるタイプの」

「悪いと?」

「アッパーで空中に打ち上げられたのち、そのまま着地も許されず拳の連打を食らいつづける」

 

 アークロイヤルが苦笑する。「あなたも冗談が上手くなった」しかし提督は沈痛な面持ちで、ここではないどこかを見つめていた。顔色も悪い。アークロイヤルの匙が止まる。

 

「まさか、本当なのか……?」

 

 沈黙のまま緊張が極限まで高まる。

 ふいに、提督が表情筋を弛緩させた。

 

「冗談だ」

 

 アークロイヤルもわがことのように胸を撫で下ろす。

 

「……何日か徹底的に無視されるうえ、ベッドの上でのわたしの醜態を鎮守府中に言いふらされるくらいなものだよ」

「Oh……」

 

 提督の注文を間宮みずからが運んでくる。「ありがとう」

 

「しかし、そんな女とよく付き合っていられるものだな」

 

 提督が食べているとアークロイヤルが不思議だという顔で漏らした。

 

「惚れた弱味だろうね」

「外交的敗北か」

「目の前の小さな勝利にこだわることなく、中長期的な観点で可能なかぎり最大限の利益をつかみとるための戦略的判断と言ってほしい」

「それ、うまくいった試しが歴史上ひとつでもあるの?」

「ないならわたしが最初のひとりになる」

「なれるとでも?」

「わたしを信じろ。この目を見ろ」

「あさっての方向を向かれては見えない。実はあなたよりRichelieuのほうが我慢強いのでは?」

 

 そうかもしれなかった。よく考えなくともリシュリューと自分は釣り合っているとは言いがたい。リシュリューが自分と過ごすために時間を費やすことは世界にとっての損失のような気さえ提督にはしてきた。

 

「で、ご機嫌とりに1泊2日の温泉か。喧嘩したその日によく行けるな」

 

 アークロイヤルが理解できない顔をしてイチゴ尽くしの甘味を平らげる。

 

「わたしは交際経験がリシュリューを含めて二人しかいないし、前に付き合ってた女性とは一度も喧嘩をしたことがなくてね」

「初月、いや初耳だ」

「だからリシュリューと何度か喧嘩して、ようやくわかってきたんだが、どうやら喧嘩してる最中というのは、双方ともに理性が働いていないみたいでね」

「まるで普段は理性が働いているとでも言いたげね」

「喧嘩している状況とは、言い換えれば、その状況が喧嘩を生み出している、と考えることもできる。この状況というのはいくつかの要素に分解できて、そのうちのひとつでも変えればクールダウンのきっかけになる。怒っているときの脳は一種のパニック状態になっているから論理的に物事を考えられない。クールダウンして怒りを解除すれば、自分たちがいかに馬鹿馬鹿しいことで言い争っていたかが客観視できる」

「時間を置くとか?」

「そう。時間が経てば自然と怒りは解除される。しかしこれはリシュリューに限っては有効ではない」

「どうして?」

「頭を冷やして自分がいかにどうでもいいことで怒っていたかがわかっても、謝れば“自分はどうでもいいことで怒ってました”と認めることになるからだ」

「たしかに、そんなRichelieuは想像がつかない」

 

 言ってアークロイヤルが納得して何度も首を縦に振った。

 

「ちなみにわたしのほうから謝ると、“謝ればすむと思ってるんでしょ! そんな安売りの謝罪で……”と、さらに怒りを買うことになる。というか、なった」

「Admiralも、意外と苦労しているんだな……」

「だから、ほかの要素を変える。つながりとか」

「つながり?」

「属性と言ったらほうがいいのかな。

 たとえば、わたしときみは、男と女だ。これが性別のつながり。

 日本と英国。これが出身のつながり。

 提督と艦娘。これが立場のつながり。

 わたしは事務方で、きみは現場。これが仕事のつながり」

「I see. 夫婦なら、夫が洗濯、奥方が料理と、家事を分担していれば、これは役割のつながりになるわけか」

「そのとおり。で、喧嘩になった属性のつながりをまず考える。今回の喧嘩は、どちらも引かないというわたしとリシュリューの、性格のつながりだった。だからまずは相手の性格のことは忘れて、べつの属性に目を向ける。顔が好きだ、匂いが好きだ、料理を作ってくれるのが好きだ、髪が好きだ、などなど。そうしていくと、好きなところ多いなと気づき、自分の怒りが解除される」

「その方法論だとRichelieuが苦労しそうだが」

 

 否定できないのがつらい。

 

「怒りが解除できると、喧嘩の原因となった属性、この場合は性格だな、引かないからこそ彼女は魅力的なんじゃないかと前向きに解釈できるようになる」

「なあAdmiral, わたしはいったい何を聞かされているんだろう?」

「この方法の欠点は、相手もおなじことをしてくれる、と期待するしかないということだ。きみがさっき言ったように、リシュリューのほうはやろうにもやれない可能性もある」

「そこまで自虐的にならなくても」

「というわけで、ふたりともが強制的に要素を変える方法が、場所を変えるということだ」

「喧嘩した場所が鎮守府だから、べつの場所に移るということ?」

 

 デミタスカップでコーヒーを飲みながらかすかに笑うアークロイヤルに、提督が同意する。

 

「まあ、最初はダメ元だったんだ。宿の客室番号と列車の切符を同封してリシュリューの部屋にこっそり届けて、わたしは先に宿に行って待ってた。来なかったら来なかったで、わたしだけでも場所を変えれば冷静になれるからとね」

「……それで本当にRichelieuが来たと」

「正直いって信じられなかった。もう少しで“正気か!”って言いそうになった」

 

 そのときは、温泉宿なのにチェックアウト間際になってようやく大慌てで湯を浴びた。

 

「それ以来、喧嘩したときは、おなじように番号のメモと切符だけの封書を届けている。あの宿には世話になりっぱなしだ」

「そろそろ湯(あた)りするのではないか?」

 

 実に有意義な間食を終えて、店を出たのち、最近は薄れていた懸念が提督のなかでにわかに頭をもたげていた。自分はリシュリューにふさわしい男なのか? そうでないにもかかわらず彼女から愛してもらえることを当然だと驕っていたのではないか? だから少なくない頻度で喧嘩をするのでは?

 提督は急に不安になって、何度もため息をつきながら帰った。

 

  ◇

 

 2月13日である。

 

 戦艦娘の寮で甘い匂いがするので、リシュリューが辿ってみると、出所は厨房だった。「姉さまに、去年をさらに上回るスペシャルなチョコを」と、戦艦山城が鬼気迫る凄絶な笑みで板チョコを湯煎している。

 

「お菓子作り? めずらしいわね」

 

 リシュリューは気さくに声をかけた。

 

「そりゃせっかくのバレンタインだもの……総力戦で臨まなきゃ……改二になってようやく伊勢と日向に勝ったと思ったら、烈風が積めるってなによ……。しかもマージンがもう一枠あるってなによ……大和型ならわかるわよ……どうしてよりにもよって伊勢型……? 結局わたしたち姉妹は、平時も大規模作戦時も、鎮守府でお留守番するしかないんだわ……札すらつかずにイベントが終わるのよ……」

 

 笑いながら泣き言を並べる山城の背に、リシュリューはどんな反応を示せばよいのかわかりかねた。

 唐突に山城が首だけ振り向かせて、

 

「あんたは提督に作らないの」

 

 と、深淵のような瞳でリシュリューを射抜いた。

 

「なにを?」

「チョコよ」

「どうして?」

「どうしてって」

 

 山城は1+1がわからない出来の悪い生徒でも見る教師のような顔になった。

 

「バレンタインは、女性が意中の相手へチョコを贈るもんでしょ」

「女が? は? 女が、男に?」

 

 リシュリューは晴天の霹靂という表情になった。

 

「意味がわからないわ」

「フランスにはバレンタインがないの?」

「あるけど」

「チョコを贈ったりはしないの?」

「ないわ。そもそも、la Saint-Valentin(バレンタインデー)は、男が女に贈り物をする日でしょ」

 

 当然だという態度のリシュリューに山城は目が点になった。溶かしたチョコを攪拌する手も止まろうというものである。

 

「フランスは、男が女にチョコを贈るの?」

「贈り物がchocolat(チョコレート)というのは聞いたことないけど、いずれにしても、どうして女のほうがあげなきゃいけないのよ」

 

 山城は、フランス女性の血に脈々と流れる「男になにかしてもらって当然」「女が主役なんだから」という行動規範を知らない。ついでにいうと、恋人がいないフランス人男性にバレンタインデーについて訊ねると「あんなの商業主義に踊らされてるだけさ」と強がるくせに、恋人ができたとたん「なんたってきょうはバレンタインデーだからね!」とお高いレストランを予約したりするという、かの国の変わり身の早さも、知らない。

 

「フランスじゃどうか知らないけど、日本はバレンタインには女が男にチョコをあげるのよ」

 

 わたしは姉さまにだけど、と山城は猫なで声で付け足した。

 

「なんで女が男に贈るのよ」

 

 フランス艦のリシュリューには甚だ理解不能である。カワセミのオスが魚をメスにプレゼントして求愛するように、もともと自然界の動物でも、オスがメスに婚姻贈呈することはあっても、その逆はない。有性生殖である以上、選択権は常にメスのほうにあるからだ。ちなみに、キリギリスのオスは精液でつくったゼラチン状の栄養豊富な精包(せいほう)をメスにプレゼントする。メスはこれを食べて滋養をつけ、同時に生殖器へ塗りつけて受精させる。

 

「日本じゃ、女が男に、ってことになってるのよ。バレンタインにかこつけて告白するとか」

「好きなら好きと正々堂々言えばいいじゃないの」

「そんなの知らないわよ、面と向かって言うのが恥ずかしいとかそんなんでしょ」

「人を好きになることは恥ずべきことなんかじゃないわ。恥ずかしいと思うことこそ、恥ずかしいんじゃない」

「あんたたちと違って、奥ゆかしさが日本の美徳なの」山城が口を尖らせる。「この国じゃ、人間の女の子たちはバレンタインデーには好きな男の子の下駄箱やなにかにチョコを入れて、告白の代わりにするのよ」

 

 リシュリューの氷点下の美貌が青ざめる。

 

「口にするものを、下駄箱に……?」

「あ、いや、まあ、机のなかとかでもいいらしいけど」

「女が食べ物を使って愛を告げるあたりは、なんだか英国野郎(ライミー)に似てるわね……」

 

 16世紀のイギリスには、貴族女性が皮をむいたリンゴを腋の下にはさんでワキガの臭いをたっぷり染み込ませ、それを意中の男性へ贈ってI love youとするラブアップルなる習慣があった。

 

「いくらなんでも倒錯しすぎでしょイギリス……」

 

 山城がまるで生まれてはじめて酸っぱいものを食べさせられた赤子のような顔になる。そのころ作戦海域でウォースパイトとアークロイヤルが揃ってくしゃみしていたことなど知る由もない。

 

「まあ、あんたからチョコもらったりなんかしたら、あの提督のことだからアホみたいに舞い上がるでしょ」

 

 山城は余った業務用チョコレートの袋をつまんでよこした。受け取ったリシュリューはなおも困惑を隠せなかった。

 

「Chocolatなんかで、そんなに喜ぶものかしら……」

 

  ◇

 

 翌日の朝。

 

 リシュリューは丁寧にラッピングした手作りのチョコレートを渡そうと、執務室の前まで来て、立ち止まった。手を伸ばそうとして、ためらっている自分に驚く。なぜだ。チョコを渡すだけではないか。小娘でもあるまいし、たかがそんなことでなぜ緊張しなければならないのだ。リシュリューは深呼吸してからノックした。

 

「おや、リシュリュー、ちょうどよかった」

 

 返事はドアの向こうからではなく、左からだった。

 廊下を歩いてくる提督はなぜか右手を後ろに回している。

 気に留める余裕はいまのリシュリューにはなかった。気を取り直す。跳ねる心臓を落ち着かせる。

 

「Mon Amiral, これを受け取りなさい。いいから!」

「ハッピーバレンタイン、リシュリュー。気に入ってくれるといいが」

 

 リシュリューがチョコレートを突き出すのと同時に、提督も大きな花束も差し出した。スタンダードの真っ赤な薔薇101本が情熱的に燃え上がり、隙間を埋める白く小さなカスミソウと、葉の鮮やかな緑が、みごとに引き立てている。

 リシュリューも、提督も、目を丸くしていた。

 

「日本では、Saint-Valentin(バレンタインデー)に女がchocolat(チョコレート)を贈るって……」

「フランスでは、男が女性に花を贈ると……」

 

 またも同時に言って、しばらくしてから、ふたりは吹き出した。

 

「せっかくだから、もらうわ。Merci chéri(ありがとう).」

「もしかして手作りかい? ありがとう」

 

 花束とチョコを交換してから、提督は、

 

「実は、フランスのバレンタインについてはコマちゃんに訊いたんだ」

 

 と歯切れも悪く続けた。

 

「フランスでは、花束と一緒に下着を贈ると言われたんだが……」

 

 なお、そのときコマンダン・テストは「小窓つきのエグいやつなんていかがでしょう」と勧めてきたのだった。

 

「する人はするわね」

「それはさすがにむずかしくて……」

「どこが?」

「男が女性用の下着売り場で物色なんかしてたら通報されるだろう?」

「そう? Richelieuの国では、男が彼女に穿かせたい下着を吟味してるなんて、めずらしくもないけど」

「わたしのセンスで選んだものが喜んでもらえるとも思えないし……」

「逆に訊くけど、女が着けたくないような下着を、お店がわざわざ置いておくと思う?」

 

 言われてみればそのとおりである。

 

「それにね」リシュリューは薔薇の香りを楽しんで、「Richelieuからなにか貰えたとして、あなたは嬉しくないって突き返したりする?」

「まさか。きみから贈られるならわたしは」

 

 そこまで言った提督は、ようやく気づいた。それとおなじだとリシュリューは言いたいのだ。

 

「じゃあ、今度、ふたりで買い物に行きましょう。Richelieuがamiralの私服を選んで、amiralがRichelieuに着けさせたい下着を選ぶの」

 

 薔薇の花束を抱きかかえるリシュリューは、彼女自身が発光しているようだった。花も彼女に渡されて輝きを増している、というより、リシュリューが持ってはじめて本来の美しさを発揮できているといってよかった。あるがままでしかなかった花は、いまやあるべき花へと変貌し、薔薇は同胞たちと同様の無名の植物ではなくなって、薔薇の本質というべきものの詩情の、この上なく簡潔かつ直抒的なあらわれとなっていた。提督は、自分とリシュリューとの間に次元の壁があるように思えてならなかった。

 

「どうしたの?」

 

 執務室の扉を開けて入ろうとしたリシュリューが、その場に立ったままの提督をいぶかしむ。

 

「いや、ごめん。なんでもない」

 

 それにリシュリューの眉間が険しくなる。

 

「すぐに謝ってごまかさないで。隠し事は嫌いよ」

 

 提督は逡巡したが、勇を奮って、重い口を開いた。

 

「きみが、わたしにはとてももったいない女性だという気がしてならないんだ。いつもきれいにしているし、外見だけでなく、内面のアップデートも怠らない。きみはひとりの人間として素晴らしい魂の持ち主だ。こんなわたしにさえ、チャンスをくれる」

 

 提督は恥と知りつつ内心を披瀝していった。

 

「ひきかえ、わたしは“こんな”だ。街できみと歩いていて、なぜあんな美人があんなやつと、という目をひしひしと感じる。実際きみと付き合っていい男じゃないんじゃないかと不安になるんだ。わたしは優柔不断だし、きみほど自分を高められる性分でもないし、顔に自信があるわけでもないし、機転は利かないし、ユーモアも足りてないし、自分でも嫌になるほど器も小さいし、あとは」

 

 まだまだ探し出せそうだったが、リシュリューの人差し指が口にあてがわれて、提督の言葉をさえぎった。

 

 リシュリューを見る。女は寂しそうな笑みをしていた。

 

「ねえ、Amiral. それ以上、Richelieuが好きになった人の悪口は、やめて」

 

 提督は自らのあやまちを思い知らされた。提督が自分を卑下することは、そんな男と付き合っているリシュリューのことをも貶めることになるのだ。改めてリシュリューの正しさを認識した。だれかを愛するためには、まず自分自身を愛さなければならないのだ。

 

「それにね、あなたはRichelieuがお情けであなたと付き合ってるとでも思ってるみたいだけど」

 

 リシュリューが雌豹(めひょう)の足取りで間合いを詰め、有無をいわさず彫像のような顔を近づける。塞がれた唇に、リシュリューの果肉のような口唇が吸い付く。やわらかく、温かく、吐息は甘い。

 

 顔を離したリシュリューが、好戦的な笑みとともに提督に指を突きつける。

 

「あなたはこのRichelieuを、好きでもない男とbaiser(キス)する女にしたいの?」

 

 提督は、苦笑いして降参の意を示した。おそらく自分は、リシュリューに未来永劫、敵わないだろう。

 

「花瓶、なかったかしら」

 

 なにごともなかったかのように執務室へ入っていったリシュリューを追う。彼女に言うべきことを言わなければならない。そうすることでしか、リシュリューの隣に立つ資格を得られない気がした。

 

「きみを愛している」

 

 リシュリューが、背を向けたままくすっと笑った。

 

「Richelieuのほうが愛してるわ」

「いやいや、わたしのほうが……」

「なに言ってるの。Richelieuのほうが……」

 

 この後、ふたりは人生初の湯中りを経験することになる。




L'amour n'est pas aveugle. Mais malheureusement, Les choses stupides sont souvent.
(愛は盲目ではないが、残念ながら馬鹿馬鹿しいことがよくある)


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Il n’est si méchant pot qui ne trouve son couvercle.(どんな鍋であろうと、ふたはきっと見つかる)

 非番が重なったので、リシュリューはおなじ戦艦娘の陸奥と女だけの買い物とランチを楽しんだ。その帰るさ、陸奥が、

 

「ことしの夏はペールトーンとニュートラルカラーらしいわ」

「へえ、Ivoire(アイボリー)blouse peplum(ペプラムブラウス)なら、持ってたかも」

 

 ということで、リシュリューは部屋のワードローブをひとり漁った。すると、

 

「こんなétole(ストール)あったのね、これに合う服は……あら」

 

 やさしいイエローのタイトスカートが目に入る。ペールカラーなのでこれも今夏に投入したい。足元はどうしようか。探していたら、買ってからまだ履いたことのない蛇柄のサンダルが出てきた。一見すると自己主張が激しそうだが、ベースがグレーで意外にもさまざまなアイテムと相性がよいので、奇貨居くべしの精神で買っておいたのだった。イエローのスカートとも合うだろうかと実際に着用して姿見で確認などしてみる。悪くはない。ではトップスはどうしよう、いっそシンプルな黒いノースリーブを合わせて、大きめのバングルをアクセントにするのもいいかもしれない。たしかウッド素材のがあったはず、おや、この円いかごバッグも個性的だ、これにアクセントを任せるのもいいかもしれない……。

 だいぶ部屋を散らかしたあたりで、リシュリューはふとわれに返った。

 

「しまった。Blouse(ブラウス)探してるんだったわ」

 

 なお、それとおなじころ、提督は自室の掃除をしていたが、主人公が1話でいきなり自動車に轢かれて死んで幽霊になって、生き返るために閻魔大王の小倅(こせがれ)の使い走りをさせられるバトル漫画の単行本を見つけてしまい、夢中になって読みふけっているうち部屋が暗くなっていることに気づいて、電灯をつけようとしたところで、

 

「しまった。掃除してるんだった」

 

 とわれに返っていた。

 

  ◇

 

「リシュリューと提督ってさあ、なんで付き合ってんだろうな。ああも趣味が違うのに」

 

 と長波は、ちまたで流行しているというタピオカミルクティーを太いストローで吸った。タピオカパールが気管に飛び込んだ。「んぐぉ、ぼっ、ぶへぁあ!」鼻と口からミルクティーごと吐いて5分くらいむせた。

 初月が長波の背をなでながら言った。「タピるどころかタヒってるぞ」

 咳き込んだり、左の鼻の穴を塞いで「ふんっ!」と、もう片方の鼻孔からタピオカを射出させたりし、鼻水とよだれをぬぐってから、長波は思い出したように初月に言った。

 

「いや、こないだ、リシュリューが愚痴ってきてさ……」

 

 長波はこの場にいない二人を爼上(そじょう)に載せて語って聞かせた。長波が言うには、過日、リシュリューは提督とふたりでとくに目的もなくそぞろ歩きして、道すがら鎮守府御用達の百貨店へ寄った。そこのモードファッション専門フロアを横切っていたとき、いたく気に入った服があった。リシュリューいわく「服のほうからこちらの目に飛び込んできた」らしい。彼女としては、今よりさらにきれいな装いをして提督に喜んでほしかったのと、提督と一緒に買った服という思い出がほしかったのだという。「これ、買おうかしら」売り場が渦潮であるがごとく吸い寄せられていくリシュリューに、提督がかけた言葉は、こうだった。

 

「うわ、高っ。そんなのいらないと思うけど」

 

 初月は、絶対温度でいえば0ケルビン、つまりそれ以下はないという無表情でタピオカドリンクを飲み続けた。あのバカ。「今のままでもじゅうぶんきれいだよ」という意味だったのだろうが、言葉が足りなさすぎる。

 

 いっぽうで、初月には類似した記憶が呼び起こされる。

 

「たぶんそれとおなじ日のことだと思うが、提督が僕に愚痴ってきて……」

 

 その百貨店では、ちょうど『画家の最後と最期』と銘打った企画展が催されていた。画家の一生をしめくくる絶筆、もしくは画家でなく絵のモデルとなった人物が最期を迎えた作品ばかりをあつめた展示会である。自身やモデルに迫りくる死期をさとりながらも絵筆をとりつづけた作品には、画家の死生感と執念、死と隣り合わせだった運命が言い知れぬ熱量となって、見るものに絵の題材のみならず、描かれた背景にまで想いを巡らせる一種独特のしずかな迫力がある。展示会はその週までだった。

 

「萬鉄五郎の『T子像』や古茂田守介の『芦ノ湖』もあるんだって。おお、木下晋(きのしたすすむ)の『流浪Ⅱ』も。木下晋は鉛筆だけで、おもに老人やハンセン病患者を描きつづけた人でね。しわの1本、白髪の1本に至るまで詳細に描写する鉛筆画家の最高峰なんだ。『流浪Ⅱ』は木下の実のお母さんがモデルだ。彼女はこの絵の完成後に亡くなった。彼と母親はひとかたならぬ確執があってね。お母さんにモデルとなってもらい、絵を描く作業を通じて和解したともいわれている。観ていこうか」

「こないだ雑誌で見てたじゃない。それにお金だすなら服を買う足しにしなさいよ」

 

 そういうわけで二人は互いに、どうしてそんな興ざめするようなことばかり言うのだ、一緒に楽しみたいだけなのに、と喧嘩になってしまったのだという。

 

「あいつら、ああも価値観食い違っててしんどくないのかね」

 

 長波が大げさに呆れてみせた。

 

 初月は頬杖をついて、タピオカドリンクのカップをいじりながら「でも、まあ」と返した。

 

「それだけ話が合わないのに、ふたりとも自分なりに相手を楽しませようとしてるってことは、たぶん特別なことなんだろ」

 

 長波は、そういう考え方もあるのかと腑に落ちた顔をした。初月はさらに鼻で笑って、

 

「それに、案外そっくりだろう?」

「なにがだよ」

「愚痴に見せかけて、喧嘩したってのはフリだけで、結局はのろけ話になってるってところだ」

 

 初月に長波が閉口する。

 

「あたし、愚痴じゃなくてのろけ聞かされてたのか……」

「リシュリューではむずかしいだろうが、提督相手なら時間外手当てを請求しておけ。僕はそうしてる。おかげで姉さんたちとうまい飯が食える。気をつけろ。やつらはおなじ話を何度でもするからな」

「じつは」長波は小声で明かした。「リシュリューからその話、10回は聞かされてんだ」

 

 そのころ……。

 

 酒保では補えないこまごまとしたものを購うためひとりで街に出ていたリシュリューは、通りがかったブティックのディスプレイで、とてもアーティスティックなストールと出会った。マゼンタを基調とした、よく目立つ色使いと柄模様だった。まるでイスファハンの絨毯みたいだ。民族調でインパクトが強いのでへたをするとくどい印象になるが、へたをしなければよいのだ。金の髪にも映えるだろう。

 しかし、とリシュリューは思いとどまった。これを買わなかったらamiralと旅行できるかしら。

 

 提督もまた、風呂あがりの余暇にスマートフォンで美術館の展示スケジュールを確かめていて、おそらく閲覧履歴をはじめとしたウェブ行動データから有効であるとAIに判断され表示された、大手通信販売サイトの広告に、出品者の思惑どおり目を奪われた。とある夭逝の画家の作品を、完成作はもちろん素描や習作にいたるまで収録した、鈍器になりそうな大型本、全編カラーの画集である。すでに絶版していて再版の見込みもない。提督が何年もほうぼうの古書店を当たったりして探していたものだ。この機をのがせばもう一生、手に入らない公算が高い。

 本能のまま購入のボタンを押そうとしたところで、提督の手が止まった。画集は喉から手が出るほどほしい。

 しかし、これを買わなかったら、リシュリューと旅行ができるだろう。

 提督は未練を断ち切るように断腸の思いでブラウザごと閉じた。電話番号を呼び出す。そのときまるで狙いすましたように着信があった。リシュリューからだった。

 

「ねえ、つぎの週末のことなんだけど」

「ああ、わたしもそれを聞きたかったところなんだ」

 

 そして、二人は同時に言うのだ。

 

「予定は空いてる?」

 

  ◇

 

「愛している」「きょうもきれいだよ」くらいなら、ヘタレと誉れ高い提督も恥ずかしがらずに毎日リシュリューに言えるようになった。しかしまだ伊達男にはなりきれない。リシュリューはそのような女性ではないとわかっていても、背伸びしてきざな台詞を舌に乗せて、もし「なにそれ。似合わないわ」と笑われたら、と思うと、なかなか1歩を踏み出しがたいものがある。

 思えば相手がだれであってもその場にふさわしい言葉を出せない人生だった。ふいに知人と再会したときなどのように予期しない会話だととくに顕著だった。必死に言葉をさがしても、どの引き出しにも答えはしまわれていなかった。時間がない。時間がない。開け放たれた引き出しの中身は要らないものばかり。なにか言わなくては。とっさに手に取った言葉が、満点の解答をもらえるものではなかったということは、相手の表情や返答の声音で、なんとはなしにわかった。言葉をうまく使えないくせに、相手の感情の機微だけは敏感に理解できてしまうのがよけいに歯がゆかった。いっそなにに対しても共感できないほど鈍感だったほうが幸せだった。しかも、会話が終わったあとになってから、落ち着いて引き出しを整理していたら、正解の言葉があっさり見つかってしまうのである。これをさっき言っていれば。そうしてひとり、脳内で先刻の会話を再現して、もしも自分が、いまやっと発見した正解の言葉をあのとき口にできていたら、と夢想する。再現された相手は記憶のなかよりも良好な反応を示した。心地よさにその場面を何度も何度も反芻する。そうしているうち、自分はあのとき正解の言葉をちゃんと言えたのだ、と思い込む。そうして精神を保つ。

 こういう生き方をしている人間は会話の語彙が貧困になる。どうせ会話の最中には正解の言葉が見つからないのだからと探すのを最初からあきらめる。そして決まった引き出しによく使う言葉を準備しておく。だから、あいさつや当たり障りのない社交辞令ははきはきとした口調ですらすら出てくるのに、アドリブが要求されるととたんにしどろもどろになるのだ。

 

 そんなある日、せっかくだからと提督はひさしぶりに艦娘たちとともに食堂で昼食をとった。となりの席には当然のようにリシュリューが腰を下ろした。

 

「Admiral, あとでいいんだけど、美術館の割引券まだあったらくれない?」

 

 食事しながら米戦艦娘コロラドが声をかけた。「ああ、バレル・コレクションの?」「ええ」(つて)でいくらか譲り受けたのが余っている。興味があるならと艦娘たちに伝えておいたのだ。すでに何隻か鑑賞した。人間は美術品を創造して愛でることができるのだということを伝えたかったからだ。提督は快諾した。

 

「Admiralはもう観たの?」

「まだ。でもこの機会をのがしたら英国に行かないと観られないからね、なんとかして行くつもり」

 

 自分の選んだ言葉に減点対象はないはずだ。提督は期待感に輝くコロラドの顔から答え合わせをして安堵する。英国でしか観られなくなる、という応答はじつに当たり障りのない事実を述べただけのものであるから、難なく引き出しから取り出すことができた。

 

 産業革命期に、海運王として巨万の富を築いたスコットランド出身の実業家ウィリアム・バレルは、生涯をかけて蒐集した膨大な数の美術品のうち、9000点以上を郷里グラスゴー市に寄贈した。バレルの死後、グラスゴー市は遺言にしたがってコレクションを一般公開する美術館『バレル・コレクション』を開館する。

 先年、同館は施設の老朽化のため数年がかりの大規模な改装工事に迫られた。閉館しているあいだ、これまで門外不出だったコレクションの海外展覧を特例として解禁し、バレル・コレクションの国際的な知名度向上をはかる運びとなった。その一環として、バレルの審美眼をもって集められた名作の数々が海を越えて来日。作品数は印象派を中心とした80点あまりだが、そのほぼ全数が日本初上陸ということで話題を呼び、各都市で展覧会が巡業され、美術ファンの目を楽しませていた。深海棲艦との戦争が本格化して七つの海と空の安全が保証されなくなったのはそのさなかである。どのようにしてコレクションを本国へ里帰りさせるかが問題となった。

 日本への輸送は空路だったが、いまとなってはむやみに航空機を使うのはリスクが高い。とはいえ、むかしむかしドイツの客船が日本に寄港しているときに戦争になって帰れなくなったので空母に改造して日本海軍に編入したというようなまねはまずい。戦争がいつ終わるともしれなかった。意地でも本国へ返還するべく、日英の美術関係者たちが結託して、両政府をまきこんで、陸路でユーラシア大陸内陸部を横断し、フランスからドーバー海峡をわたって英国に安着させるという、気合いと根性の一大事業が計画された。この年に日本が敢行する予定の欧州遠征作戦には、ドーバー海峡の対潜掃討任務もふくまれている。これに便乗して海峡の脅威度が低下したところでバレル・コレクションを英国まで輸送する手はずだ。ふだんドーバー海峡は悪名高い潜水新棲姫に封鎖されている。そこを突破するのである。英国海軍の全面的な支援があるとはいえ、輸送船の乗組員はさだめし心穏やかではないだろう。

 

「そうまでして大事にしなければいけないものか? 美術品なんて生きていくには不要だろうに、英国人はなぜそんなものにわざわざ命を懸けるんだ」

 

 同席していた初月が難色を示した。提督はこれに答えて、

 

「たしかに不要だ。だが、必要なものしか持たないのでは昆虫とおなじだ。よけいなものに人生を懸けてこその人間なんだ」

 

 それに初月は、理解はできないでもないが共感はできないというように肩をすくめるばかりであった。よし、自分の返答は及第点ではあったようだと、提督は胸を撫でおろす。コロラドが礼を行って辞去した。

 

「Amiral. わたし、美術館誘ってもらってない」

 

 執務室に帰ったとたん、ずっと無言だったリシュリューが両手に腰をあてて、提督と正対した。なにを間違えたのかと提督は頭を回転させる。以前に百貨店で企画されていた展覧会に彼女を誘ったときは断られた。だから誘わないほうがいいと学習したのだ。

 

 提督は慎重に言葉を選んだ。「リシュリューはこういうの興味ないかと思ってたんだけど」そうだ、たしかバレル・コレクションは、バレルの祖国イギリスのアートのみならず、写実の鬼ギュスターヴ・クールベ、そのクールベとともに写実主義運動に尽力し日常の風景を緻密に描いたフランソワ・ボンヴァン、踊り子画家エドガー・ドガ、静物と肖像の巨匠アンリ・ファンタン=ラトゥール、そしてモネの師としても知られるウジェーヌ・ブーダンなど、フランス画家の作品も数多い。だからリシュリューも興味をもったのかもしれない。「割引券ならまだあるよ」

「ひとりで行ったってしょうがないでしょ。もういいわ。どうせRichelieuがいたら自由に観られないから邪魔だっていうんでしょ」

 

 リシュリューがそっぽを向いた。提督は矢継ぎ早に放たれた砲弾の対処に四苦八苦していた。どう答えたら正解になるのか。

 

「ああ、いや、その」

 

 その場しのぎの意味をなさない文字列は、およそリシュリューの心証を悪化させる以外の効果はないだろうということは、提督自身にもわかった。早く探せ。どこだ。どの引き出しに答えがある? だめ元で開け放った引き出しに、きらりと光るものがあった。それは宝石を嵌めた指輪のように転がっていた。美しい光だった。それだけに、自分に似合うかどうか自信がなかった。提督はその引き出しを押し込んだ。もしこんな宝石の言葉を贈ろうとして、笑われて拒まれたら、きっと立ち直れない。

 書類を整理する初月は我関せずである。

 狼狽する提督を、リシュリューは一瞥し、これ見よがしにため息をついた。提督は、もうだめだと思った。なぜ自分は他人を喜ばせる気の利いた言葉が出せないのか。

 つぎのリシュリューの行動は、提督の予想を超えていた。彼女はまず、

 

「Amiral, あなた、ときどき言葉をよそおってる気がする。いえ、逆ね。本心からの言葉をもらったことのほうが少ないかも。それは喧嘩をしたとき。ふだんはまるで、Richelieuに嫌われたくなくてうわべだけ取り繕ってるみたい。訊くけど、そんな言葉をあなたからかけられて、このRichelieuが嬉しいと思う?」

 

 執務机の上にむっちり肉づきのよい尻を乗せ、上体だけをひねって、提督へ身を乗り出した。互いの鼻先が触れあいそうだった。リシュリューの美貌が提督の視界を占領する。紺碧の真摯な光がこもった瞳は、視線を逸らすことを許さない。

 

「ねえ、Richelieuってそんなに信用できない? わたしは本当のあなたが知りたいの。たぶんあなたはそれを恐れてる。だからあなたに勇気をあげる。Amiralの本当の言葉をちょうだい。あなた自身の言葉は、どこにあるの? Richelieuがお願いしたら見せてくれる?」

 

 リシュリューはある意味で土足で提督のなかに踏み込んできていた。引き出しを庇おうとする提督に詰め寄る。そうして提督が指輪を差し出すきっかけを与えようとしている。提督が隠れたがる薄暗い部屋から、自分のいる明るい世界へ引きずり出そうとしている。そちらのほうが楽しいに決まっているとリシュリューは信じて疑っていないようだった。その傲慢さが提督には心地よかった。だから決心を定めなければならなかった。

 

「笑わない?」

「それは保証できないわ」

 

 息のかかる距離のままリシュリューは微笑みながら即答した。とことん自分を偽ることのない女性だった。かえって気が楽になった。提督は一度閉めた引き出しを開けた。指輪をつまみ、そのきらめきを確かめてから、リシュリューに贈る。

 

「すぐ隣にわたしのためだけに微笑んでくれるきみがいると、どんな名画が飾られていても、きみばかりを見てしまうからだよ」

 

 リシュリューの瞳孔がひらく。一拍おいて、蕾がほぐれるように吹き出す。甘酸っぱい香り。

 

「なに、それ」

 

 白い歯を見せていた女は、ひとしきりそうしていたが、やがて真剣な顔に戻した。真正面から提督の目を覗きこむ。そして、はっきりと告げた。

 

「すごくうれしい」

 

 リシュリューは提督の言葉の指輪を受け入れた。提督は一気に全身から力がぬけて、ただ苦笑いするしかなかった。

 

「やめてくれよ、心臓に悪い」

「あなたが本音を言わないからよ。このさいRichelieuに言いたいことがあるならそうしたら?」

「怒らない?」

「それはあなた次第」

「まず、たびたび机に座るのをやめてほしい」

「ほかには?」

「人前だろうがところ構わずキスをしてくるのはかんべんしてほしい」

「いやなの? Richelieuはいつでもあなたの口づけがほしい」

「きみがキスする顔をわたし以外に見られたくないんだ」

「そういうことなら考えてあげるわ。ね、こんど一緒にLa Collection Burrell(バレル・コレクション)を観に行きましょうよ。あなたの解説を聞きながら鑑賞したいわ」

「では今週末にでも」

 

 そんなふたりをしり目に、初月は能面みたいな顔のまま携帯電話で電話をかけた。

 

「瑞鶴か? 僕だ。近接航空支援を大至急要請する。目標は執務室。なんでもいいからとにかく爆弾を落とせ」

 

  ◇

 

 約束どおりふたりで美術館に行った帰り、唐突に天気がぐずつき、沛然(はいぜん)とした雨に降り込められた。

 

「夕立だな」

「あら、どこ?」

「ああ、いや、駆逐艦じゃない。こういう雨のことさ。しかし、まいった」

 

 提督の官舎よりリシュリューの部屋のある寮のほうが近かったので、ふたりは驟雨の下を走った。そのあいだ提督は、美術館で購入していた目録を気休めにでもなればとリシュリューの頭上に翳していたが、さほど努力は報われなかった。しかし黄金色の髪もおしゃれな服もびしょ濡れになっている彼女は、むしろ心底楽しそうに笑っていた。

 やはり、女心はわからない。

 

「Amiralも、雨宿りしていきなさいよ。風邪をひくわ」

 

 送ってから帰ろうとすると、なかば強引に引きずりこまれた。導くリシュリューの髪や高い鼻や秀でた顎から滴り落ちる水滴の一粒一粒が、七色に輝く真珠のようだった。彼女は床が濡れるのも構わず部屋のなかへ進んだ。その自由闊達、奔放なふるまいが、提督にはとてもまぶしく思えた。

 

「洗濯機貸してくれないか? いまから回せば、あしたの朝にはなんとかなるだろうし」提督は遠慮しいしい部屋に上がりながら言った。

「そのあいだは素っ裸?」

「目に毒かな」

 

 リシュリューはためらいなく服を脱ぎながら「いいえ、見慣れてるもの」と笑って、

 

「この部屋に何着かあなたの服を置いておけばいいんじゃない? どうせここに泊まることもあるんだし」

 

 と提案してきた。提督には逡巡があった。女性の部屋に自分の服や下着を置くのはいささか踏ん切りを要する。

 

「そうだわ。Richelieuがamiralの部屋に泊まるときのために、Richelieuも服を置かせてもらえる? これでおあいこってことでいいでしょ?」

 

 提督はリシュリューの力強い曳航のような人となりにまたも救われる思いだった。リシュリューはいつも関係を前へ進めるための言い訳を用意してくれる。だがいつまでも彼女の優しさに甘えていてはいけないだろう。自分から前進しなければならない。いつから? いまからだ。

 

「冷えるとまずいから、一緒にシャワーを浴びさせてもらっても?」

 

 提督が声をかけると、鏡台の前でピアスを耳から外している下着姿のリシュリューは、鏡のなかで口角を吊り上げた。

 

「そうこなくっちゃ」

 

 しかし、脱衣室で洗濯かごに放り込まれた彼女の服を見て、提督の脳内に恐るべき仮説が急浮上した。

 

「もしかして、どさくさにまぎれて、クロゼットに入りきらない服をわたしの部屋に置こうとしてないか……?」

 

 リシュリューは鼻歌を口ずさみながらも目を合わそうとしなかった。

 

  ◇

 

 ともに朝を迎えた日は、互いに身支度を整えながら、リシュリューがかならず、

 

「いつもの、してちょうだい」

 

 と提督にスカーフを渡す。リシュリューは体ごと左へ向いて、澄ました玲瓏な横顔を見せつける。窓からの透き通った朝陽が彼女の高い鼻梁に引っかかって、雨の上がった雲間から光芒が射すときのような、光の条と陰影を演出している。

 

 左手を腰に当てた、女王様然とした立ち姿は、爛漫と咲きあふれている百花の華麗さのなかにも、いま咲いたばかりの一輪の百合の花のような楚々としたにおいをかすかに見つけることができた。

 

 なんの変哲もないトリコロールのスカーフだが、いざリシュリューの身に着けるとなると、当初のころ提督は、へたな結びかたはできまいぞ、と緊張したものである。海軍なのでロープワークはお手のものだ。しかしおしゃれのためにまとうスカーフとなると話は違う。いかに提督とはいえロープとスカーフの区別はつく。せいぜい彼女が恥をかかないよう見映えに腐心して結び、リシュリューからもこれといって苦言らしいものもなく、毎度のように任されるので、及第点はとれているのだろうと、しだいに提督はあまり深く考えないようになった。

 

 その習慣ももうとっくに両手では数えられないほどとなる。スカーフの衣ずれだけが響く静謐のひとときのなか、提督は、こんなふうにだれかのために新しい習慣ができて、それが生活の一部になるのも悪くない、と考えている。

 

「ひとつ訊いても?」

 

 ちゃんと結び目が左右対称になるよう注意しながら声をかけると、リシュリューが促す。

 

「なんでこんなところにスカーフを着けるんだい? なにか意味が?」

「いやなの?」

「まさか。きみのことが知りたいだけだよ」

 

 実際のところたいして重要な疑問でもなかった。提督としては、単なるファッションだ、という答えが返ってくるだけだろうな、とあたりをつけていた。それはそれで、彼女の服のセンスまたは好みを知ることになる。

 

「決まってるじゃない」当のリシュリューはこともなげに言った。「こんなところ、ひとりじゃ結べないでしょ」

 

 当然だ、二の腕にスカーフを結ぶなんて自分では……そこで提督の手が止まった。

 

「なによ。いまさら恥ずかしがるような歳?」

 

 リシュリューが提督の様子を見てとって、非難めいた声で弾劾した。

 

「そういうわけではないが……わざわざアピールするようなものかな」

 

 リシュリューは、ばかばかしいといわんばかりに鼻を鳴らすのみである。

 提督はなんとか彼女の左腕を飾り終えた。しかし頭に懸念が渦巻く。

 

「みんな気づいてるんだろうか……」

「あなたが鈍すぎるのよ。それにRichelieuは、みんなに自慢するためにこれをしてるんだから」

 

 と、リシュリューはスカーフの端をつまんだ。

 

 いったんスカーフの正体を知り、現状を事実として受け入れると、散らばっていた星々が意味ある星座となって認識されるように、恐ろしい事実が浮かび上がってくる。

 

「ええと、その、これは、いつからだったっけ」

 

 狼狽を必死に隠す提督に、リシュリューは、ようやく桃色の口許をほころばせる。

 

「空が青かった日から、よ」

 

 そうだった。提督は間抜けに口をぽかんと開けるしかなかった。

 

「さ、行くわよ」

 

 颯爽と部屋を後にするリシュリューに提督はなすすべもなく従った。

 

 明石に艤装を預けてあるリシュリューと途中で別れる。

 

 執務室への行きしな、出会う艦娘たちがあいさつしてくる。その屈託のない笑顔や視線、すれちがったあとの連れとの話し声に、きのうまでと違うものがあるように感じてしまうのは、彼女たちにではなく、むしろ自分に要因があるのだ、と提督はおのが愚鈍さを恥じた。



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Seul l'amour qui a pris fin vous fera grandir.(終わった恋だけが、あなたを成長させる)

「いいことを教えてやろう」

 

 証憑(しょうひょう)書類や会計監査報告書、くさぐさの物品や工事について相見積もり(あいみつ)をとった各業者からの見積書とそれらの比較表、産業廃棄物の収集運搬ならびに処理の委託契約書などなど、どうしてこうも増やすことができるのか不思議でならないほど大量の書類を提督が捌いているとき、いちどに7枚しか穴を開けられない年季の入ったパンチに体重をかけながら初月が傲岸に言い放った。

 おそらくは多忙からくるストレスの捌け口を提督への嫌がらせに見いだしたらしいこの防空駆逐艦娘がいうには、1998年のフランスで、バイアグラで男性機能をみごと復活させた夫に2ヶ月間、連日連夜セックスの相手をさせられた36歳の細君が身を投げた。遺書には「もうこれ以上、わたしの体はあなたの求めに耐えられません」と悲痛な訴えがしたためられていたという。

「リシュリューは嫌なときは嫌とはっきり断るタイプだろうが、くれぐれも調子に乗って自分の都合だけで抱こうとしないことだ。嫌われたくないならな」

 もっともなことと提督は肝に銘じた。美人は3日で飽きるという言葉はリシュリュー相手には当てはまらない。なぜならリシュリューは、日一日とさらに美しく魅力的になっていくので、毎日新鮮な心持ちで愛することができるからだ。しかもたいてい彼女に誘われるかたちで開戦するので、ついつい甘えてしまっていた点は否めない。いちど、頻度について話し合っておいたほうがいいかもしれない、と心に決めた。

 その機会はすぐに訪れた。自身が旗艦をつとめる艦隊の装備や物資の使用申請書やら報告書やらを届けに、リシュリューが執務室の扉を叩いた。けさ目にしたばかりのはずなのに、その白皙(はくせき)長身は提督の記憶にある麗姿よりもさらに輝きを増していて、白い(はだえ)のすぐ下に流れる性霊閑似鶴(せいれいかんにつるににたり)ながらも熱情を秘めた血潮と、彼女自身によって砥礪(しれい)された生き方とで、日常のとるに足らない些末な挙措さえひとつの美へと昇華しているのだった。初月は所用で席を外していたのでふたりきりになった。

「仕事とはまったく関係ない話をしていいかな」

 提督にリシュリューが長いまつ毛と垂れた目尻とに微笑を漂わせた。

「珍しいわね。なに?」

「夜のことだが」

 腕を組むリシュリューの冷ややかなパウダーブルーの目のなかで、瞳孔がすうっと収縮した。そこに映る提督は失敗を悟った顔をしていた。

「夜がなに? Richelieuは日本語の回りくどい言い回しがわからないの。はっきりと言って」

 弱腰をたしなめられた提督は、芝居がかった咳払いをして、喉の奥に逃げ込もうとしている台詞を引きずり出した。

「セックスのことだが」

 よろしい、とばかりに、ようやく問題の解けた出来の悪い生徒を見る教師のようにリシュリューが軽くうなずいて見せる。

「セックスの回数について、なにか不満とかあるかな。無理に付き合わせてたらいけないから」

 提督にリシュリューは(おとがい)に指を当てて、視線を外して考えていたが、

「不満は、あるわ」

 と断言した。

 提督は直剣で胸を刺されたようだった。やはり彼女の気持ちを無視して肉欲に溺れてしまっていたのだ。提督は恥辱と申し訳なさで小さくなるばかりだった。

「では……週に何回がいいとか、1回につきどれくらいの時間するのがいいとか、きみの要望は?」

 あまりしたくない、と言われたらそれは彼女の意向として素直に受け入れねばならない。相手に付き合うだけのセックスほどむなしいものもあるまい。リシュリューという女性にそれを強要することは、提督のレンズ豆みたいに小さな自尊心が許さなかったのである。

 覚悟を決める提督をよそに、リシュリューは左目のそばと下唇のほくろに、どこか酷薄な冷笑をにじませた。そして言った。

「毎日、どちらかがくたばるまでしたいわ」

 聞きたいことはそれだけかどうか確認すると、リシュリューは光の当たった部分が虹色に輝く金の髪をなびかせて颯爽と執務室を辞していった。仕事を再開したあともなお、すぐそばにリシュリューの妖艶な笑みがあるような気がして、初月に手が遅いと何度か尻を蹴られることとなった。

 

  ◇

 

 秋は、来年度に防衛大学卒業見込みの艦娘部隊指揮官志望者、つまり提督の卵が研修のため、鎮守府に派遣されてくる時期である。

「研修があるとは、軍も親切になった。わたしのときは拙速で開設したばかりの前線基地にいきなり飛ばされて、段ボール箱しかない部屋で寝泊まりしたものだ。ほかの基地の提督たちと情報を共有してああでもないこうでもないといいながら手探りで戦ったっけ。戦艦に46㎝三連装砲を載せられるだけ載せていたこともあった」

「あまり思い出したくないから黙って仕事をしろ」

 ヘタレ提督は秘書艦の初月とともに受け入れ準備に忙殺され、リシュリューとの時間がとれない日がつづいた。リシュリューはわざと意地悪く訊いてみた。

「ねえ、仕事とRichelieuと、どっちがだいじ?」

「じゃあわたしは、きみのストールと靴を人質にとって、どちらが大事かを選ばせる」

 合格である。

 しかし物足りないことは事実なので、夜にこっそり合鍵で提督の部屋を訪ねた。提督は不在だった。仕事熱心なことである。リシュリューは胸いっぱいに部屋の空気を吸い込んでみた。ところが期待に反してなにも手応えがなかった。さすがにベッドのシーツは匂うだろう。丹念に確かめながら寝台の上を這う。隅々まで這う。リシュリューは舌打ちした。これは未使用のシーツだ。どれだけ嗅ぎとっても彼女の嗅覚細胞が手持ちぶさたのあまり気まずそうにしている。

 彼女は追いつめられていた。まるでフランス革命の最終盤となるテルミドールのクーデターで、ジャコバン派独裁勢力に対するプロスクリプティオが決議され、法の外に置かれて四面楚歌になったロベスピエールたちのような焦燥感がつのる。どこかに残り香だけでもないか……金の長い髪を振り乱していたリシュリューが固まった。目に止まったのは枕だった。いくらなんでも枕になら匂い分子の1個や1000個はあるだろう。男は自分の匂いのするものに安心する習性から枕カバーをなかなか洗わないという。果たしてリシュリューは枕を自身の顔に押しつけて深呼吸した。鼻腔から脳へ爽やかな薫風が駆け抜けていく。ああ、なんていい匂い。清潔で透明感のある自然な石鹸の香り。

 リシュリューは真顔で枕をベッドにたたきつけた。どこの世界に枕カバーをこまめに替える男がいるのか。男たるもの皮脂で黄ばんだ枕を愛用するべきだ。提督は恥を知らねばならない。リシュリューの脳裡には提督の勝ち誇った笑みがよぎる。脳内で断頭台に送っても、その顔は地面を転がりながらなお笑っていた。

 しかし枕にすら体臭をまったく残さないとは不自然だ、という疑問が浮上する。ここにある枕はダミーなのか? だとするならば本物の枕がこの部屋のどこかにあるはずだ。それはとても魅力的な仮説だったので、リシュリューは一縷の望みをかけて室内を徹底的に捜索することにした。

 クロゼットに頭をつっこみ、タンスを1段ずつ慎重に探ったが、枕の影もかたちもない。残るは棚だ。文房具など細々したものがしまわれているに過ぎないが、ひとつだけ、ダイヤル式の鍵がかけられている棚があった。よもや枕を隠すのにわざわざ施錠までするとは考えにくいが、いささか興味はある。ダイヤルは4桁。組み合わせは1万通りだ。いまは1105に揃えてある。まずはそのままシャックル(南京錠のUの字の部分)を引き上げてみる。開かない。さすがに施錠のあとにちゃんとダイヤルをずらしたようだ。しかし、なかにはダイヤル式南京錠をかけるとき、ダイヤルをまとめて回す人間もいる。だから1105の並びを維持したまま、ダイヤルを4つ同時に回しながら抜いてみる。1周したが忠義に堅い鍵はシャックルを手放さなかった。

 ここからがスタートラインだ。暗証番号4桁の組み合わせでもっとも人気の高い1111、1234、ほかゾロ目、連番を試す。開かない。提督の誕生日。開かない。ないとは思うが戦艦〈リシュリュー〉の起工日、進水日、就役日。開かない。だめもとでリシュリュー枢機卿の生没日。開かない。

 リシュリューは大きく息を吐いて気合いを入れ直した。最後の手段だ。まず0000に合わせる。シャックルを引っ張りながら、下一桁をゆっくり回す。0001、0002、0003……。0008のとき、それまで変化のなかったシャックルが、抜けはしないまでも、ほんのわずかに緩んだ気がした。つまり下一桁は8だ。

 おなじ要領で下二桁に挑戦する。0018、0028、0038……。1周して0のときにかすかな手応えがあった。下二桁は0でよかったようだ。

 そうして番号を合わせていって、ついに南京錠が白旗をあげた。番号は1108だった。提督はダイヤル式南京錠の下一桁を少しずらすだけというタイプの人間らしい。

 満を持して棚の引き戸を開ける。なかでリシュリューを待っていたのは、予想に反して、なんだか円筒形の餅のような、見慣れない物体だった。片手で握るのにちょうどいい大きさだ。ぷるんぷるんしていて、なにやらかわいい。持ち上げてみると、外見のイメージどおり軟体動物のようにやわらかく、肌色に近い彩色とシリコンのすべすべした手触りもあって、なんともいえぬ愛嬌がある。ほほずりしてみると、ひんやりとした触感が気持ちいい。さらに仔細に観察してみると、物体の一方の先端には穴があった。口のようにも見える。ナマコのフィギュアだろうか。たしかに提督は変わった生物が好きそうではある。口に指を突っ込んでカクレウオの気分が味わえるおもちゃなのかもしれない。人差し指で試してみたが、内壁の(ひだ)やざらつきが感じ取れたくらいで、とくにこれといった発見はなかった。枕でないことはわかる。リシュリューは正体を探るため、物体をさまざまな角度から観察することにした。

 提督が帰ってきたのはまさにそのときである。

「あ、電気がついてる。リシュリューきてたのかい? あしたからも忙しくなりそうだから、きみにはしばらく迷惑をかけるが……」

 物体を捧げ持つようにしているリシュリューと目が合って、提督が息を呑んだ。

 ぶきみな沈黙が流れた。提督とリシュリューは互いに見つめあっていたが、あきらかに提督には動揺があった。

 やがて提督はようやく意味のある言葉を発した。命乞いにもひとしいそれは、こんな言葉であった。

「違うんだ!」

「浮気現場を押さえられた女の言い訳みたいね」

「とにかく、それをもとあった場所に戻してくれ、いや、そこらへんに置いてくれたんでいい、もうどこでもいいから、とにかく放して」

「そんなに大事なものなの?」

「わけありでソースは出せないが、それ以上さわるのをやめたほうが……」

 リシュリューにはちんぷんかんぷんである。ひとまず物体を棚へ戻す。それから彼女は話題を変えた。

「ところでAmiral, きょう泊まっていってもいい?」

 このとき提督は、上ずったすっとんきょうな声をあげた。

「どうしたの」

「あ、そうだ! あしたインターンがくるから、よもや朝、きみがわたしの部屋から出るところなんて見られでもしたらめんどうなことになるから、きょうは……」

「艦娘と人間は愛しあえるってことを教えてあげたらいいじゃないの」

「すまない、とにかくだめだ」

 めずらしく本気で拒まれ、リシュリューはやむをえず戦略的撤退した。

 

 戦艦寮の自室から初月に電話をかけてみる。

「鍵つきの棚に、ナマコのおもちゃみたいなものがあって、Richelieuがそれを触っちゃったのが気に入らなかったらしいの。あれってそんなだいじなものなの?」

「ナマコ」初月が歯を吸う音がした。「シリコンの筒みたいなやつで、盲管の穴がある?」

「そう、それ」

 初月は率直に物体の正体を教えた。「それはな……」

 聞かされたリシュリューは、鼻で笑った。

「そんなものを使うくらいならRichelieuを呼べばよかったのに。こっちだって待ってたんだから」

「鍵の棚に入ってたやつだろう? だいぶ前からある」

「Richelieuが来るよりも?」

「あいつが提督になったときのものらしい」

「へえ。Amiralも、なんだかんだ男なのね。それで寂しさをまぎらわすなんて」

「まあ、あれが自分で買ったわけじゃないからな」

 意外な言葉にリシュリューは興味がわいた。

「だれかが贈ったの?」

「だれって……なんだ、あいつ、まだおまえに言ってなかったのか。なら直接訊け。僕からは言いにくい」

「……………………女?」

「あっ、いや、ちょっと待てリシュリュー、落ち着け……」

 初月が必死にとりつくろおうとした。「とにかく、あいつとじかに話してくれ」

 

 明くる朝、インターンが来訪する直前、リシュリューは執務室の戸を叩いた。危険を察知した初月がさりげなく辞去した。提督とリシュリューの1対1となった。

「あれは、だれから貰ったの?」

 あらましを知っていると悟ったらしい提督は、昨夜の取り乱した言動を詫びてから話しはじめた。

「大学時代に付き合っていた女性がいた。はじめての彼女だった。3つ年下でね。自慢ではないが向こうから告白してきた」

 リシュリューも真剣に静聴した。

「はじめて尽くしだったから、どうすればいいかわからなかった。おなじ年頃の男女がどんなふうに遊んでいるか想像もできなかった。だいいち彼女がわたしのどこを好きになったのかがわからない。嫌われないようにするのが精いっぱいだった。いつも彼女の顔色を窺っていた。それがいけなかったのかもしれない」

 提督の顔に後悔の念と、それを掘り起こす苦しみが滲んだ。

「ある日、わたしに提督の適性があることがわかった。それで軍に引き抜かれた。発つ前日、彼女がいった。“あなたがわたしと一緒にいて楽しいのかどうかわからない”。恥ずかしい話だが、そのときですら、わたしはその言葉に対する最適解を探していたんだ。自分の本心を正直に伝えるんじゃなく、どう答えれば正解なのかとね。いま思えば、あのときの彼女の表情は、わたしへの憐れみだったんだな」

 リシュリューは黙って続きを待った。

「それで別れぎわ、彼女がプレゼントをくれた。たしかこういっていた……」

 “いろいろ指で試してみたけど、これがいちばんわたしのに近いと思うの”

「帰って開けてみたら、あれが入っていた、というわけだ。5年前のことだ」

 提督が長い息を吐いた。

「まあ、おまえにはこれでじゅうぶんだっていう皮肉だろうね。たしかにわたしにはお似合いだったかもしれない」

「具合はどうだったの? 本当に似てた?」

「使ったことがないからわからない」

「捨てればよかったのに」

「踏ん切りがつかなかった。きょうまでずるずると」

「その女性とは、それからは?」

「なんの連絡もとっていない。本当だ」

「それはいいけど」リシュリューには違和感があった。「電話も、SNSも、手紙も、なにもないの?」

「誓って」

 リシュリューは提督が勘違いをしている可能性に気づいた。

「それ、相手はまだ別れたとは認識してないかも」

 提督は何度かまばたきをした。

「おもちゃを貰ったとき、自分たちはこれっきりだってはっきりと言った?」

「いいや」

「どちらとも?」

「ああ」

「相手からしたら、遠距離恋愛になるからこれを自分だと思って持っていってっていうつもりだったんじゃない?」

「だが、楽しいかどうかわからないと恨み言を……」

「自分を責める言葉だったのかも。あなたではなく」

「どうかな……先方からいっさい連絡もないが……」

「あなたの仕事の邪魔をしたくないから、自分からは連絡しないと決めているとか?」

 提督はにわかに狼狽しはじめた。もしリシュリューのいうとおりだとすれば、5年ものあいだほったらかして待たせているばかりか、べつの女性と付き合っていることになる。

「きょうにでも電話してみるよ」と提督はいった。「もし向こうも別れたつもりだったんなら、わたしが恥をかくだけですむからね……」

 そのとき、ノックの音が響いた。初月が顔を覗かせる。「来たぞ。応接室に待たせてある」

 提督はあらためて自分の服装を確認したが、リシュリューにも点検された。初月を加えた3人で応接室に回る。

「話はついたか?」

 先行して歩きながら初月が両者に尋ねた。提督が苦笑いする。「なんとか」

「ハツヅキはその女性を知ってるの?」

「話だけは。こいつがここに来る前のことだからな」

 リシュリューに答えた初月が応接室の扉を開ける。

 なかでソファに掛けていたインターンが立ち上がった。

 提督はよそゆきの笑顔と声に切り替えた。「お待たせしました。わたしが」インターンの顔を認めた瞬間、提督の言葉が消えた。

 インターンは、純白の制服を着込んだ、ひっつめ髪の、まだ少女かと疑うほど若い可憐な女性だった。折り目正しく頭を下げる敬礼をした彼女は、

「このたび、海上歩兵部隊指揮官訓練の一環として、提督の補佐を任じられました。みじかいあいだですが、よろしくお願いいたします」

 はきはき名乗って、提督を真正面から見据えた。提督がゼロ除算をさせられた計算機みたいに固まっていた。補佐は、朝露に濡れた彼岸花のように表情をほころばせてみせた。

「お久しぶりです。本当に提督になられたんですね」

 親しみを込めた補佐の言葉に、リシュリューは右目の下をひくつかせ、初月は頭を抱えた。

 

  ◇

 

「ではまず、鎮守府のなかを案内してくださいますか?」

 なぜか補佐が主導権をにぎり、提督が否も応もなく付き合わされた。立ち去りぎわ、補佐がリシュリューを一瞥し、愛想笑いとは異なるような、妖しい薄笑いを残していった。

 勤務時間中、補佐はまるで提督との記憶を失ったかのように私事を差し挟まなかった。それが提督にはかえって不気味に思えた。しかし実務能力はすこぶる優秀だった。また艦娘たちともすぐに打ち解けた。同性である以上にひとえに彼女の人柄のなせるわざといえた。とくに駆逐艦娘らと談話しているさまは、生徒と教育実習生のように平和な光景であった。「遠征で被弾することがあるんですか?」補佐が驚いたような顔をすると、「あるある。死にゃしないけど」長波が旧友のように話した。表情が豊かな補佐との会話をだれもが楽しんだ。

「リシュリューさん、ですよね。フランスからいらっしゃった」

 艦娘たちのあいだから補佐がたまたま通りかかったリシュリューに声をかけた。

「なにか用」

 とげとげしい物言いにも補佐はまったく意に介さなかった。

「あなたともお話がしたいのですが」

「Richelieuは話すことなんてなにもないわ」

 足早に立ち去ろうとした。

「提督のこと、いろいろ教えてあげようと思ったのに」

 リシュリューは一瞬たちどまったが、自制心により振り返ることなくその場を立ち去った。

「提督とは以前から?」

 コマンダン・テストが興味津々に訊いた。

「ええ、大学の先輩なの」

 補佐はどうとでもとれるような答え方をした。

 

 昼食の時間も補佐は提督のそばから離れなかった。華奢ながらその小糠雨(こぬかあめ)のような風情が、どことなく提督の隣に似合っているように見えて、リシュリューはその思いを必死に振り払った。リシュリューは自分の二の腕をつまんでみた。

「ねえ、Amiralは、細い女のほうが好き?」

 ふたりになれる隙を見つけて提督に質した。

「なぜ?」

「Richelieuって、太ってるかしら。もっと痩せたほうがいい?」

「そんなことないよ。謝肉祭だよ」

 提督はむしろ困惑していた。

「リシュリューらしくもない。自分の審美眼を信じるのがきみだろう?」

「そうだけど……もういいわ」

 置いていかれた提督は口をぽかんとあけるばかりであった。

 

 女はうわさを宝石よりも好む。艦娘たちのあいだではすでに補佐と提督が交際していたことが知れ渡っていた。

「日本には、“焼けボックイには火がつきやすい”というコトワザがありマス」

 コマンダン・テストがリシュリューを焚きつけた。

「マツボックリ……?」

「焼けボックイ、デス。つまり、別れた男女が時間を置いて再会すると、また火がつく、という意味デス」

 だが、この仏水上機母艦娘の意に反して、リシュリューは口から魂が出そうなため息をした。

「やっぱり……」

「え?」

「やっぱりAmiralは、人間の女とのほうが幸せになれるのかしら……」

 予想外の反応にコマンダン・テストはたじろいだ。

「本当に愛しているなら、より幸せになれる選択をさせてあげるべきよね……」

 コマンダン・テストは、ここで退いてはならない、と自らを奮い立たせた。

「それでも欧州最強の戦艦Richelieuデスか!」

 トリコロールのメッシュを入れた金髪を逆立てた。

「自分が愛しているから手に入れる。そのまっすぐなところに、提督も惹かれたのではないデスか!」

 コマンダン・テストはリシュリューの胸倉をつかんだ。

「おふたりが、どれほどイチャイチャしてワタクシたちに見せつけてきたか、知ってマスか。そのさまにワタクシたちだって、辟易しながらも、励まされたりもしたのデス。人間と艦娘、日本とフランス、生まれも育ちも違う、考え方だってまるっきり違う、なにかあると喧嘩ばかり、はたから見ると全然似合ってないデコボコカップル。なのに、おふたりがお互いをとても愛しあっているのが手に取るようにわかるからこそ、ワタクシたちもだれかを愛せるんだって、証明してくれたのデス」

 胸倉をつかむ手に力をこめる。

「このままサヨナラなんて、絶対に許しませんよ。せめて、はっきりとご自分の気持ちを伝えて、シロクロつけてきてくだサイ。提督だってRichelieuに当たって砕けるつもりで告白したんデス。“本当に愛しているなら、より幸せになれる選択をさせてあげるべき”? ハッ。そんなの、傷つくのが怖いから逃げてるのを言いつくろってるだけでしょう。本当に愛しているのなら、それこそ提督とおなじ勇気をだしてくだサイ。あなたが欲しいからそばにいろって」

 リシュリューの瞳に光が戻りはじめる。コマンダン・テストが手を放す。

「行ってくる」

 リシュリューはただひとこと、そう告げて後にした。

 

 酒の力を借りるため、リシュリューはBar早霜に寄った。提督が下手くそな口説き方をしてきたのが、遠い昔のようにも、きのうのことのようにも思える。頼んだカクテルはブラッディ・マリー。そのカクテル言葉は「断固として勝つ」。

 そのとき、店のドアが開いた。早霜の顔がわずかにひきつったようにも見えた。

 リシュリューが顔だけ振り向かせる。そこにはいまいちばん会いたくなかった相手がいた。

「隣、いいですか」

 答えを聞くまでもなく、補佐はリシュリューの隣に腰を据えた。

 

 補佐とリシュリューがBar早霜にいるという情報は瞬時に艦娘たちのあいだに駆け巡った。長波が懸念を示した。

「リシュリューの奴、ついカッとなってぶん殴ったりしないだろうな」

 そうなっては一大事である。折悪しく提督が捕まらない。初月が大急ぎでBar早霜に駆けつけた。すでに店の外まで喚き声がもれている。初月は仲裁に入ろうと勢いよくドアを開けた。

 

「だいたいあの男はヘタレすぎるんですよ! デートひとつとっても、どこに行きたいか訊いたら“きみが行きたいところでいいよ”。こっちはあんたに訊いてんだっつうの! 受け身すぎるわ! 草食系通り越して牧草系ですよ。風にそよがれながら食われるのをただ待ってるだけ」

「わかるわ」

「あいつはですねぇ、自分からはエッチに誘わないことが誠実さだと勘違いしてるんですよ。もっと食いついてこいよって話ですよ。あれはただ単に断られたときに自分が傷つくのがイヤなだけなんですよ。いっつもこっち任せ」

「たしかに、Richelieuから誘うことがほとんどね」

「やっぱり! こんな美人がいながら。なんにも成長してねーなーあの野郎」

 補佐はそこでブランデーサワーをぐいとあおった。ブランデーサワーのカクテル言葉は、「甘美な思い出」だ。

「わたし、憧れのシチュエーションがあったんですよ。彼を起こさないようにベッドを脱け出して、朝ごはんつくってたら、音とか匂いで起きたあの人に、後ろから襲われてそのまま……っていうの。いっぺんもありませんでした。いっぺんもありませんでした! だから思いきって言ったんですよ。襲われたいって」

「なんて答えたか当ててあげましょうか。“火や刃物を扱ってるときに手を出したら危ないじゃないか”」

「そう! そうなんですよ! 真面目か!」

 バーテンダーの早霜にソウルキスをオーダーしてさらに続ける。ドライベルモットとスイートベルモット、デュボネ、オレンジジュースをシェークしたそのカクテル言葉は「どうにでもなれ」である。

「こっちだってスタンバってるんだから大丈夫なんですよ。そこがあいつはわかってない。ときにはむちゃくちゃに求められたいって女心が」

「“そうね、あなたにとってわたしの魅力は理性で抑えられる程度のものなのね”って感じね」

「リシュリューさん、話がわかる。わかりすぎる! そしてそんなやつを矯正できないまま送り出してしまってもうしわけない」

 と、補佐はカウンターに両手をついてみせた。

「Richelieuよりもあなたのほうが苦労したでしょうね」リシュリューは次にジントニックをオーダーした。

「嫌味だな~」補佐が赤ら顔で笑った。ジントニックの隠された意味は「いつも希望を捨てないあなたへ」。リシュリューは「あら、美味しいから頼んだだけよ」と涼しい顔である。

「まあ、でも、ぶっちゃけ、そうかも」

 補佐は競うようにセプテンバーモーンを流し込んで、大きくため息をついた。カクテル言葉は「あなたの心はどこに」。いまの補佐の吐息を浴びただけで下戸なら酩酊するだろう。

「わたしあの人からエッチ誘われたことないんですよ。こっちが先手打ちすぎてるのかと思って、あえて誘わなかったんですよ。何日経ってもだめ! 意地になってずーっとほっといたら、ずーっとそのまま。10日目に我慢ならなくなって問い質したら……」

「“気分じゃないのかと思ってた”?」

 補佐は髪が上下に揺れるほど激しく何度も首肯した。

「何度あの人にレイプされてむりやり中出しされるシチュで自分を慰めたことか」補佐がアメール・ピコン・ハイボールの苦味に顔をゆがめて堪能する。カクテル言葉は「分かり合えたら」だ。

「あいつたぶんレディコミかなんかで、ヒロインに強引にセックスを求める男でも見て、こうはなるまいとか思ったんでしょうね。漫画とかマニュアルとかじゃなくて、わたしを見ろよって話ですよ!」

 レディコミとやらはそんなにエグイ書物なのかとリシュリューはぼんやり思った。

「お掃除フェラだってしたかった! それで復活して、またやってのループで、朝までセックスしたかった! 朝っぱらからまだ歯も磨かずにベロチューされたかった! 優しさなんていらなかった!」

 思いの丈を吐き出し、一気に目の据わった補佐がアプリコットフィズを頼む。カクテル言葉は「振り向いてください」。彼女の肩にほとんど素面と変わらないリシュリューがそっと手を置く。

「それでも、好きなのね? いまでも」

「好きになる人を選べたらなぁ」

 補佐はしばらくタンブラーを弄んでいたが、やがて、

「でも、リシュリューさんにはあいつのほうから告白したんですよね」

「ええ」

「うおお、ストレート。傷つきました」

「傷つけるために言ったもの」

「そっかあ。あのクソヘタレ牧草系が、自分から告白かあ。なんだ。成長してんじゃん」

 カウンターに突っ伏して、左腕を枕がわりにし、右肘を立てた状態で、補佐はしみじみ言った。

「負けたなあ」

 リシュリューは自身のグラスを飲み干した。それから「この人にアメリカーノを、わたしにハイライフを」と早霜に注文した。早霜がたじろいだ。アメリカーノは「届かぬ思い」を、ハイライフは「わたしはあなたにふさわしい」を意味する。ハイライフの「あなた」にリシュリューがだれを代入しているのか、早霜にもわかりきっていた。

 だが、補佐は心底から楽しそうに、

「普通さあ、そこは、わたしにフローズン・マルガリータ(元気を出して)とかさあ」

 と毒づいた。

 リシュリューはメニューを眺めながら「リュヌ・ブルー(できない相談)も頼もうかしら」と受け流した。

 補佐がアメリカーノをおいしそうに味わったあと、

「リシュリューさんは、あいつと喧嘩はしたことあります?」

「痴話喧嘩なら、しょっちゅう」

「そっかあ」

 悲しそうに笑った。

「わたし、あいつと一度も喧嘩したことないんですよね。わたしが押してあいつが引くばっかりだったから。そっかあ。リシュリューさんとは喧嘩するんだあ」

 くつくつと笑って、どこか吹っ切れたように、

「なんか、あいつもリシュリューさんも勘違いしてるみたいだけど、わたしはもうあれとは別れたつもりっすよ」

 と言った。

「だから、わたしのことは気にせずに」

 補佐は、迷いを振り払うように、はっきりとした口調で早霜に頼んだ。

「ギムレットを」

 リシュリューはカクテルを楽しみながら苦笑した。

「うそつき」

 

 帰ってきた初月は、憔悴しきった顔で「とにかく、提督は縛り首になるべきだ」と長波に語った。

 

  ◇

 

 翌日、鎮守府はとくになにごともなくスケジュールを消化した。補佐はあした鎮守府を離れる。

「あのコのことだけど」

 夜の港が窓から見下ろせる執務室でリシュリューがどこかよそよそしく言った。

「そんなに悪い人間じゃなかったわ」

「わたしよりいい提督になるだろうな」

「あなたのことが、本気で好きみたいだった」

 リシュリューは目をそらしたまま続けた。

「1日くらいなら、かまわないわ」

「え?」

「最後の思い出でもつくってきたら?」

 一拍置いて、提督が立ち上がり、リシュリューに直線で詰め寄った。

「それはきみの本心か?」

 リシュリューは目を合わせられなかった。

「Richelieuの気持ちは関係ないでしょ。あなたとあのコの問題なんだから」

「それできみはいいのか?」

「だから、Richelieuは関係ないって……」

「きみの気持ちを聞いているんだ。きみがいながら、ほかの女性を抱く。それでいいのか? きみにとって、わたしはその程度の存在なのか?」

 リシュリューは自分で自分をぎゅっと抱きしめた。

「やっぱり人間のあなたには、人間の女のほうがいいのかなって……」

「それは本心じゃないな。自分が艦娘だろうがなんだろうが、欲しいものはなんとしてでも手に入れるのがリシュリューだ。きみにとってわたしは、そうではないのか?」

 提督の声には真摯な怒りがあった。

「なぜ、彼女ともう二度と連絡もとるなと言わない? わたしは全員を納得させられる答えが出せるほどできた人間じゃない。わたしの腕はきみを抱きしめるためだけにあるからだ。わたしはきみを選ぶために必要ならほかのすべてを捨てる覚悟でいるつもりだ。それで彼女を悲しませたとしてもだ。なのに、きみは違うのか?」

「Richelieuだって!」

「なら言ってくれ。わたしを愛しているのなら、いつものように、きみのわがままな本心をぶつけてくれ。きみがしてほしいことをわたしにぶつけて、わたしもきみにしてほしいことをぶつける。正面から本音をぶつけあって、そうしてはじめて本当の絆が育まれるのではないのか?」

 リシュリューがしゃくりあげて、目尻を指で拭った。桃色のくちびるが動いた。

「本当は、彼女のところになんて行ってほしくない」

「ああ」

「あなたを死ぬまで独り占めしていたい」

「うん」

「彼女とつくった思い出を、ぜんぶRichelieuで上書きしたい」

「うん……」

「でも、嫉妬深い女だって思われてあなたに嫌われたくない」

「相手に合わせようとするなんてきみには似合わない。わたしは、はっきりと自分を主張するきみに惚れたんだ」

「じゃあ、あのコの連絡先も、ぜんぶ消去してほしい」

「そうこなくては」

「それから」

 リシュリューが透明な涙をほくろへひとすじ流しながら、提督をまっすぐに見て、爽やかな笑みを浮かべた。

「あのおもちゃも、捨ててほしい」

 提督はしっかりと頷いた。

「いますぐ捨てよう」

 提督がリシュリューを力強く抱き寄せた。互いが火のかたまりのように熱かった。

La lune est belle, n'est-ce pas?(月がきれいですね)

 揺るぎのない静かな宣言に、リシュリューは蒼天の瞳いっぱいに提督を受け止めた。それから美貌をくしゃくしゃにしながら提督の背に腕を回した。

Je mourir pour tu.(死んでもいいわ)

 その夜は、やけに提督が優しかった。「乱暴にして」リシュリューは熱い吐息をもらした。「Richelieuを傷つけて」

 

  ◇

 

 翌朝。

 補佐を提督とリシュリューが見送った。

「貴官の栄達と壮健を祈る」

「提督も、お元気で」

 秋風に吹かれる補佐は美しかった。

 提督が門に立つ補佐の名前を呼んだ。

「わたしたちは、もう終わりだ」

 佳麗な補佐は稚気に富んだ笑みを見せた。

「リシュリューさんにも言いましたが、いまさらですよ。わたしはずっと前からそのつもりです」

 すると、リシュリューが提督の腕に、みずからの腕をからませた。これには補佐も苦笑した。

「見せつけますね」

「ちょっとでも望みがあると思われたらいけないから」リシュリューはいけしゃあしゃあと言い放った。「完全にあきらめがつくように、これはRichelieuなりの優しさ」

 提督は立つ瀬がなかった。

「だから、もう終わってるんですってば」

 補佐は清々しく笑って、スイッチを入れたように威儀を正した。

「お世話になりました」それからいくぶんの情をにじませて、「お幸せに」

 颯爽ときびすを返し、ふたりに背を向け、確固たる意志を感じさせる足取りで、前へ、前へと歩いていった。

 その背に、提督は「ありがとう」と言おうとして、すんでのところで呑み込んだ。ありがとう? ありがとうだって? おまえはいまさら善人面をするつもりか。よくもまあそこまで自分に酔えるもんだ! それが脳裏によぎった。

 いい人を演出してはならない。補佐は優しい女性だ。きっと、本心がどうであれ、提督を傷つけないよう、飛びっきりの笑顔で「どういたしまして」と返してくるに決まっている。だから提督が「ありがとう」と彼女に言うのは、この期に及んで「わたしに華を持たせろ」と補佐に強要するようなものだ。

 だから、提督はただ無言で見送った。提督はなにもしてはならなかった。

 

 だいぶ鎮守府から離れたところで、補佐とすれ違った親子連れがあった。男の子は手を繋いでいた母に訊いた。「ねえ、あの女の人、なんで泣いてるの」

 

  ◇

 

 提督とリシュリューは連れ立って執務室へ足を向けた。きょうも仕事が山積みになっている。

「あのコ、きっと泣いてるわよ」

 隣を歩く提督にリシュリューが言った。

「わたしたちのせいでね」

「あら、Richelieuも?」

「共犯みたいなものじゃないか」

 あらためて指摘されたリシュリューがわずかな自己嫌悪を見せた。

「Richelieuって、嫌な女ね」

「じゃあわたしは、嫌な男だ。お似合いだな」

「言うようになったじゃない」

 だれもが人生の主人公だ、と偉人たちは言う。だが、一生懸命に生きていれば、そのつもりがなくとも、だれかの人生にとっての悪役になってしまうのだ。敵がいないのは、本気で生きたことがない証だ。

 だからこそせめて、という思いをこめて提督は言った。

「きみを幸せにしたい」

 リシュリューは彫像のような横顔のまま、

「勘違いしないで。Richelieuが、あなたを幸せにするのよ」

 と応じた。

「いいや、わたしがリシュリューを幸せにしたいんだ」

「されるだけなのは性に合わないの。Richelieuが幸せにしてみせるわ」

「わたしだってもらうだけなのは嫌だ。わたしがきみを幸せにしたいんだ」

「いい度胸ね。できるものならやってごらんなさい」

「いいとも。リシュリューがくれる以上に幸せにしてみせよう」

「Richelieuの愛に勝てるかしら」

「わたしにはリシュリューを幸せにできる自信がある」

「いいえ、きっとそれ以上にRichelieuがあなたを幸せに……」

「いやいや、わたしがそれ以上にリシュリューを幸せに……」



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J'aimerais avoir un ange.(わたしに天使がいてくれたなら)

 年度末進行のあまりの忙しさに提督とリシュリューは軽く発狂し、土曜の朝っぱらから鎮守府近くの草地にて二人でミッドサマーごっこに耽った。花の冠をかぶって倒れるまで踊っては、顔を突き合わせて意味もなく叫び合ったり、笑い合ったり、泣き合ったりを繰り返した。日が暮れるころには、全身に詰めこまれていた泥濘がすっかり吐き出されて、代わりに爽快感が風のように体を吹き渡っていた。おそらく古の祖先たちも終わりなき重労働から解放される非日常を欲したがために「祭り」を発明したのに違いない。正気にもどった二人は真顔でそう結論をだして、その夜はリシュリューの私室に泊まった。

 

 互いの匂いが混じる寝台で、一糸まとわぬ提督とリシュリューはいつもとりとめのない会話を交わす。「ところで」とか「そういえば」から始まる、たわいもない会話。ベッドのなかの男女にありがちな、生産性のない受け答え。余韻に浸りながらその日あったことを語り合い、聞きあう、紅茶の最後の一滴のようなひととき。

 

 スマートフォンではなくお互いの瞳だけをじっとみつめて、その奥にある宇宙を覗く夜語りの時間に、提督は体がほぐれていくような安らぎをおぼえる。リシュリューの、黄金のまつ毛で縁取られた双眸は、健やかな日の光の下だと澄み切った蒼穹の色をしているが、いまのようなベッドサイドランプだけの薄闇では、日没直後のほんのわずかな隙に世界が青く染まる魔法の時間帯に似た落ち着いた色合いとなる。その瑞々しい瞳の向こうにあるやわらかな光こそ、愛や信頼というのだと、提督に教えたのはリシュリューだ。リシュリューいわく「Richelieuだけを見てくれるamiralにも、おなじ光があるからよ」だそうである。

 

 目にどんな色が浮かんでいるか、自分ではわからないのではないか、きみはわたしの目に宿っているという光を、どうして自分の目にある輝きとおなじものだと言い切れるのかと、提督が愚かにもばか正直に尋ねると、リシュリューはさもおかしそうに笑ったものだ。「Amiralがわたしの目をきれいって思うのと同じよ。そうでしょう?」

 

 これが、リシュリューという女性だった。

 

「ところで」きょう見聞きしたことをとりとめもなく語って聞かせていたリシュリューが、指をからめるようにつないだ提督の手を握りながらいった。「こんど、イタリアたちがオハナミをするっていってたわ」

 

 まだ汗はひいていなかった。滲む汗が、リシュリューの冴えた全身を薄い膜のように覆い、しどけない髪までも湿らせていた。熱と、女のにおいとが寝台に籠っていた。彼女のすべてが愛おしい、と思えた。

 

「へえ?」

「みんなでお料理とお酒を持ち寄るんですって。桜を見ながら。お祭り騒ぎをしたい口実がほしいだけでしょうけど」

「まあ日本人のお花見もだいたいそんなものだよ、なんだかんだ理由つけて、酒が飲みたいだけなんだ」

「ねえ、Mon amiral.(わたしの提督)」リシュリューは提督をしばしば単なるamiralではなくMon amiralと呼ぶ。今のように寝室で二人きりだと、その傾向は顕著になる。「オハナミ、いかないの」

 

 春爛漫である。鎮守府近くの河川敷ではことしも変わらず桜が美しく咲き誇っていると提督も耳にしていた。八重桜なので見応えがあると評判である。

 

「わたしは行かないかな」

「どうして? 日本人は桜が好きなんでしょう?」

「フランス人がみんなエッフェル塔を好きだとは限らないだろう。桜を見ても心躍らない日本人もいる」

「たとえば、あなた?」

「桜よりきみを見ているほうがいい」

 

 提督としては気を利かせたつもりである。桜の鑑賞が性に合わないのも事実であった。

 

 あくる日、休憩室で、

 

「なんでだよ、二人でいってきたらいいじゃんか。キレーだぞー、見頃で」

 

 リシュリューと花見にいったかどうか訊いて、その予定はないと提督が缶コーヒーを放り投げつつ答えると、片手で受け取った長波は老婆心全開で、たいそう不服そうな顔をした。

 

「桜が嫌いなんだ」

 

 提督がめずらしくかたくなに拒絶するので、秘書艦として付き従っていた初月も実験動物の反応を見る研究者のような興味を示した。

 

「どうしてだ? みんなとおいしいものを食べるいい口実になるだろう? なあ長波」

「桜見ながら()る酒は一味違うよな」

「夜桜を堪能しながら露店を食べ歩くのも乙なものだ」

「ポ酒でもモノホンのビールなみに美味くなる。あ、ごめん、ポ酒はやっぱポ酒だわ」

 

 しかし、提督の表情は晴れない。

 

「きみたちは、桜並木が目の前にある家で育った人間の苦労を知らない」

 

 提督が暗い目をする。

 

「桜が咲けば、必ず散る。つまりゴミが積もる。わたしの実家は商店だった。店先だからきれいにしておかなければならない。それなのに、いつまでもいつまでもだらだらと散るから掃除が終わらないんだ。掃いても掃いても翌日にはリセットされる。まるで賽の河原だ。しかも桜が散る時期は、たいてい雨が降る。アスファルトにへばりついた花びらほどタチの悪いものはない。散ったあとは葉桜だ。これも散ればゴミになる。桜を好きな人がいるのは理解できる。だがわたしにとって桜は、仕事を増やすやっかいなオブジェクトでしかない」

 

 あまりに強烈な負の念に、初月も長波もちょっと引いた。

 

「では、花見は?」

 

 初月が訊いた。ゴキブリの脳を局所的に破壊して、どのような行動の変化があるか、つまり破壊箇所がどんな役割を担っていたか実験で確かめて、手探りでゴキブリの脳のマップを作成する昆虫学者と、いまの初月の心境は、おそらく相似であろう。

 

「わたしの家族は花見をついぞしなかった。そもそも野外で食事する趣味が家族のだれにもないようだった。わたしもそうだ。足元は安定しないし、地べたに座って食べると喉の通りが悪いし、いきなり雨になるかもしれないし、虫や花びらが食べ物に入るかもしれない。弁当を用意するくらいなら家で食べるか、どこかお店でちゃんと椅子に座って外食するほうがいいという家だった。というわけで、桜を憎悪することこそあれ、愛でる気にはなれない」

 

「ただの陰キャ一族じゃねえか」

 

 長波に初月も肩をすくめて同意を示した。

 

 そのときである。

 

「そうなの、それじゃあ」

 

 3人は、休憩室に可憐な花びらが光風(ひかりかぜ)に乗って舞い込んでくるのを、たしかに見た。チェリーとフリージアの甘く透明感のある香り立ちが、現実には存在しない花びらの幻覚を見せたのだとわかったとき、出入り口にリシュリューの光輝くような姿があった。

 

 プラチナゴールドに輝く髪を、ていねいに編みこんでサイドアレンジにして左肩へ流し、鎖骨から胸の谷間がわずかに覗く程度に胸元がひらかれた薄い桜色のシルクブラウスと、桃色のアコーディオンプリーツスカートが、生命の芽吹く春の訪れを聖歌のように寿(ことほ)いでいる。足元に合わせたマリンカラーのパンプスが、アクセントとして全体を引き締める。

 

 提督も、初月も長波も、万華鏡を覗いているような圧倒的な絶美に眩しささえ覚え、「ウオッ」と、思わず上体をひねりながら手を翳した。

 

 そんなことにはお構いなく、春の使者と化したリシュリューが提督に高らかと告げる。

 

「このRichelieuといっしょにオハナミにいけるとしたら、桜が好きになるかしら?」

 

 提督は桜が大好きになった。

 

  ◇

 

 さて当日は春霞(はるがすみ)の優しい青空と陽気に恵まれた。鎮守府の面々がめいめい桜を愛でるなか、花見に慣れていない提督はぶっちゃけどう楽しめばいいのかわからず、艦娘たちに酌などして回って、むしろ恐縮されたり呆れられたりした。

 

「提督、そんな気を遣ってくださらなくても」

 

 空きそうになっていた紙コップにワインを注ごうとすると、イタリアが驚いた顔をして言った。提督はボトルを勧めながら、

 

「これを無礼講っていうんだ」

「ブレイコー。聞いたことあります。なんでも、上司が上下関係を気にしなくていいと自分からいっておいて、上司のグラスが空いてるのを放っておくと、あとでねちねち蒸し返されるトラップだとか」

 

 恐ろしい話であった。花見とはそのような心理戦の場であったのかと提督は戦慄した。

 

 と、そのとき、人のかたちをしたアルコールが提督にタコかイカのように絡んできた。

 

「ていとくぅ~、飲んでますか~」

 

 ポーラである。すでに全身がとろけきっている。

 

「こらっ、ポーラ! すみません提督、この子ったらちょっと目を離したら……」

 

 飛んできた姉のザラが引き剝がそうとするが、なかなかどうしてポーラは提督に器用に手足を絡みつかせてくる。服が引っ張られて襟首が絞まる。

 

「うへへへ、ていとくぅ、ポーラはうれしいんですよぉ~?」

「わたしは苦しいよ」

「らってぇ、こういうのあんまりこないじゃないれふかぁ~。ていとくはぁ~、ていとくなんですからぁ~、ちゃんと顔出さないとだ~めで~すよぉ~。うぇっへっへ……」

「くっ、なんて粘り強さ! お酒でリミッターが外れてる! わたしたちじゃ敵わない!」

 

 参戦したイタリアやローマやガリバルディやアブルッツィとともに思いっきり上体を反らせながら妹を引っ張るザラが決断する。「かくなるうえは……ウォースパイトさん!」

 

 呼ばれた英戦艦娘が姿を見せた。

 

「なにか御用?」

「この愚妹に笑いかけてください!」

「手を貸さなくてもいいの?」

「大丈夫です!」

 

 ウォースパイトはいささか困惑しながらも、提督という木に留まるセミと化しているポーラのそばに寄り、腰をかがめて視線を合わせ、サイドの髪を耳の後ろに流してにこりと微笑んでみた。

 

 提督に顔をこすりつけていたポーラが、ふとかたわらのウォースパイトを視界に認める。硬直。弛緩しきっていた酔いどれの笑みが青ざめていき、「あびゃー」と謎の奇声を漏らす。全身の力も緩む。そこを見計らって一気に提督から分離させることに成功した。ザラからイタリア料理を山ほど載せた紙皿をお礼に持たされたウォースパイトは、最後までなにがなんだかわからないという顔だった。

 

 提督もザラに謝罪とともに渡された山盛りボンゴレビアンコの皿を手に、ウォースパイトに苦笑いした。

 

「助かったよ」

「これからAdmiralには、朝昼晩とあの子に抱きつかれてもらおうかしら」

「畑から料理が獲れるならね」

「きっと“食事なんていくらでも出てくるのだ!”って言ってくれるわ」

「なら、きみがボルジアからラ・ヴィラーゴ・ディターリアを救ったのさ。なんせ、ボルジアもチェーザレだから」

 

 ウォースパイトはその横顔に高原の涼風のような笑みをさざめかせた。むかしむかし、イタリアがまだいくつもの都市国家にわかれていたころ、ミラノ公の妾腹の娘として生まれたカテリーナ・スフォルツァはフォルリ領主たる夫を暗殺され、しかも6人の子供たちも人質にとられた。家臣らとともに城塞にたてこもっていたカテリーナに反逆者たちは、降伏しなければおまえの子供らを殺すと脅した。これに対して、カテリーナは城壁にのぼって仁王立ちし、おもむろにスカートをまくりあげ、下着も穿いていない下半身を見せつけて、「それがどうした! 子供など、ここからいくらでも出てくるのだ!」と豪語し、反逆者たちを圧倒したという。この逸話からカテリーナはイタリア第一の女(ラ・ヴィラーゴ・ディターリア)の勇名をヨーロッパ中に轟かせた。

 

 そんなカテリーナも、のちにマキャヴェリの『君主論』のモデルとなる梟雄(きょうゆう)チェーザレ・ボルジアに攻め込まれ、あえなく敗北を喫してしまう。なおイタリアでは単にチェーザレといえばこのボルジアではなく、ジュリオ・チェーザレ、すなわちユリウス・カエサルを指す。第二次世界大戦では、イタリアの戦艦〈ジュリオ・チェーザレ〉は、当時地中海艦隊旗艦だった戦艦〈ウォースパイト〉から21,000メートルの超長距離射撃を食らって後退を余儀なくされている。これは移動目標に対する艦砲射撃ではいまなお最長の命中記録のひとつである。

 

 提督の冗談に気をよくしたのかウォースパイトが、

 

「せっかくですから、Admiral, わたしたちのところにも寄ってくださる?」

 

 と誘った。

 

 ウォースパイトのぶんの皿も引き受けて()いていくと、桜の木の下で、戦艦娘ネルソンや空母艦娘アーク・ロイヤル、軽巡艦娘シェフィールドにパース、駆逐艦ジャーヴィスそしてジェーナスたちが、日本語で歓談しているところだった。素朴な疑問が浮かんだ。

 

「なんで英国出身同士なのに日本語で話してるんだい」

「わたしたちも、日本で再会したおり、最初の集まりで故郷(くに)の言葉で話そうとしたんです。でも……」

 

 ウォースパイトが片頬に手を当てて悩ましそうに曰く……。

 

 慣れ親しんだ母語を全開にしたら、ネルソンは「やはりシェイクスピアの言葉は人類の財産だ」とBBCのキャスターみたいな容認発音。

 アーク・ロイヤルは「()じめて日本語のレクチャーを受けたときは大変(たいふぇん)だった、犬の骨(電話)()とつとるだけでもクリームクラッカー(へとへと)だった」とコックニー訛り。

 シェフィールドは「母語(おご)実家(いっく)のような安心(くん)がある、や()り国語こそふるさと(うるさっ)だな」とヨークシャー訛りで話し、

 ジェーナスは「んちゃ使い慣りたるくとぅばー肩肘張らんなてぃ楽やー」とジョーディー訛りになり、

 パースは「まこちよかけ? 慣れん言葉でんしっただれとったもんでこいでええちょなったらほんのこてあいがてわぁ」とオーストラリア訛りになった。

 

 なおウォースパイトは「おいもいっときぁお国言葉薄めるべど努力したんだども、でもやっぱ受げ継いだ言葉ぁ大事だべな」とブラックカントリー方言だった。

 

「それで、訛りの違いで宗教戦争になりそうだったので、いっそ日本語にしようということに」

「はぁ、いっそ全員外国語のほうが発音の差が気にならないと」

 

 イギリス英語話者の意外な苦労を知った提督であった。なまじ同国だからこそわずかな訛りもかえって気になるのかもしれなかった。

 

 ネルソンたちからは特製ローストビーフをおすそ分けされた。断面が見事なロゼで美しい。

 

「ブリテンにはシェイクスピアより素晴らしいものがある」と提督が礼のあとに続けた。ネルソンが興味を示した。

 

「ほう?」

「この新鮮(fresh)(flesh)さ!」

 

 寒風が吹きすさんだ。花冷えだと思いたかった。

 

「日本人は、ほんとうにLとRの発音の区別がへたくそだな?」

 

 ネルソンが芝居がかった嘲笑をその秀でた鼻にひっかけてみせた。彼女流の助け舟だった。

 

「そりゃそうさ」提督は自信満々に胸を張った。「なんてったってわたしには、舌が1枚しかないんだからな」

 

 それにネルソン含む英国艦娘たちは揃って感心して拍手した。

 

 キリのいいところで提督は元の場所に戻った。初月がリシュリューや長波らと談笑している。

 

「落ち着きのない奴だ。どんと構えていられないのか?」

 

 腰を下ろすと初月がいった。意訳すると「おかえり」である。

 

「おかげでお土産がある。ローストビーフ」

「あら、唯一食べられる英国料理じゃない」

 

 リシュリューがわざと大声を張った。喧騒のなかにあってもネルソンの耳にも届いたようで、

 

「聞こえているぞカエル食い」

「餌でなく食事を出すレストランが英国にあるの?」

「いくらでもあるぞ。ドーバー海峡を越えればな!」

 

 リシュリューはまなじりを下げて笑った。「まったく、ライミーときたら」

 

 ふわりと、花びらに乗って、フローラルブーケのような華やかさのなかに青みのある爽やかな香りが鼻腔を掠める。暖かい日和と、リシュリューの柔らかいブラウスによく調和していた。しかしきょう最初に見たときと香りが違う気がする。

 

「さっきと香水を変えたの?」

 

 提督が訊くとリシュリューはきょとんとした顔で「いいえ?」と答え、それから珊瑚礁の海の瞳に理解の色を浮かべた。

 

「ミドルノートになったからじゃないかしら。さっきのは、トップノート」

「ノート?」

「香水は時間が経つと香りが変わるの。つけたてはトップノート。ちょっと経つとミドルノートになる。だから、香水を買うときは、つけた瞬間のトップの匂いだけじゃなくて、ミドルノートに変化するまで待ってから判断しないと、失敗することがあるのよ」

「女性は大変だな」

「でも変わったのをわかってくれたでしょ。それがうれしいからできるの」

「肝に銘じるよ」

 

 いうと、落ちてくるような桜を背景に、ワインで頬を上気させたリシュリューが目を細めて笑いかけてくる。

 

「でもたしかにいい匂いだなこれ。なに使ってんの?」

 

 長波がくんくんと鼻をひくつかせて興味津々に尋ねた。

 

「もの自体はロクシタンよ」

 

 リシュリューが化粧ポーチからマッチ箱くらいのサイズのケースを取り出した。だがどこにもロクシタンのロゴがない。

 

「こんなんあったっけ?」

「自作の練り香水なの。瓶のままだと邪魔だし液漏れするから」

 

 ケースを開くと、オロナインみたいな白い半練りのクリームが詰められていて、甘い芳香が立ち昇った。

 

「自作ってすげえな」

「簡単よ。薬局で白色ワセリンを買ってきて、こういう手ごろな容器に入れて、香水をワンプッシュして、あとは馴染むまで爪楊枝かなんかで混ぜるだけだから。体温の高い場所に塗るとすっと溶けるわ。耳の裏とかでもいいし」

「へえ~、いいこと聞いた。プシュッてやるより量の調節もしやすそうだしな」

 

 という感じで花見はつつがなく進み、日が沈んできたあたりで提督たちはお開きにした。ほとんどの艦娘たちはそのまま夜桜の監視任務を続行した。提督とリシュリューは二人並んで夜桜を(いと)いながら帰路に就いた。

 

「きょうはどうするの? Richelieuの部屋にくる?」

「うちに来てほしいな。地酒を冷やしてあるんだ」

「いいわね。飲み直しましょう、ふたりで」

 

 提督の部屋に上がるなり、リシュリューはすぐに服を脱いでたちまち下着姿になった。ハンガーに丁寧に服をかける。

 

「高速戦艦ったって気が早すぎる」

「しわになったら困るもの。もしかしたらRichelieuにムラムラっときたamiralに襲われるかもしれないし」

 

 あっけらかんとしたリシュリューに苦笑いしながら、

 

「面白いものをね、見つけたんだ」

 

 未開封の化粧箱から2枚の盃を取り出した。底に枝振りのよい孤木が描かれている。

 

「見ててごらん」

 

 冷やしておいた日本酒を注ぐ。隣で微笑とともに覗き込んでいたリシュリューが、直後、「C’est incroyable (すごいじゃない)!」と驚きのあまり母国語で声を上げた。

 

 冷酒に満たされた瞬間、盃の底の木に、満開の桜が咲き誇ったのだ。鮮やかなる変身だった。寂しげにさえ見えた樹影は、今や、むしろ箱庭のごとく、盃のなかに日本人が桜に寄せる抒情のすべてを体現する、世界でいちばん小さな花見の景勝となっていた。手品か奇跡でも見ているようだった。

 

「冷温に反応して桜が浮き出るんだって。こないだ見つけてね」

「本当にきれいね。オハナミで使えばよかったのに」

 

 提督は自分の盃にも酒を満たして、

 

「この桜を最初に見るのは、きみと二人でって思ったんだ」

 

 リシュリューに軽く掲げ、ぐいと飲み干した。リシュリューも、飴を塗ったような唇に柔らかな笑みを浮かべ、盃を傾けた。

 

 提督は鼻先をくすぐるほのかな香りに気づいた。まるで、夕闇に沈むフランスの畑で妖艶な寡婦が誘惑してくるような、妖しく、それでいて抗いがたい蠱惑的なイメージが脳裏に浮かぶようだった。

 

「なんか……また匂いが変わったような」

「気づいてくれたの? これはね、Richelieuのラストノート」

「きみの?」

「そう。香水のトップとミドルがすっかり飛んで、最後にいちばん揮発しにくい香り成分が残る。この香水ならアンバーとローズウッドね。で、それが本人の汗とか体臭と結びついてできる残り香が、これ」

「きみだけの香りか」

「そう。そして、朝に香水をつけたら、ラストノートに変わるのは夜」

 

 盃をローテーブルに置いたリシュリューが、提督の手と指をからませて、体を密着させる。

 

「だからね」リシュリューが耳元で囁く。「この香りを知っているのは、amiralだけ」

 

 提督は暴れる動悸を抑えて「そりゃ光栄だ」とリシュリューのうなじと黄金の髪に顔をうずめた。リシュリューがくすぐったそうに吐息を漏らした。

 

「きょう、たくさんの女の子とお話ししてたわね」

 

 提督の首に腕を絡ませて、リシュリューがからかう。提督は苦笑する。

 

「それも仕事だからね」

「わ・か・っ・て・る・わ。Richelieu以外の女としゃべるな、なんてばかなことは言いません」

 

 手を引かれてゆっくり立ち上がる。

 

「もしRichelieuが、ほかの男と楽しそうにおしゃべりしてたら?」

「なるほど」

「でしょう。Richelieuの気持ちだって考えて」

 

 まるでキゾンバを踊るようにしっとりと体を揺らすリシュリューは、なかば冗談という調子で毒づいてみせた。提督もリシュリューと額をくっつけて、リズムを合わせて微笑む。

 

「でもいまのわたしなら、妬かずにすむ」

 

 提督にリシュリューが小さく噴き出す。「Richelieuに飽きたの?」

 

「逆だよ」引き締まっていながらも女性の丸みも兼ね備えた腰に手を回す。二人はゆっくりと回転する。「きみに愛されているって自信がある」

 

 ふたりは鼓動を共有するように胸を密着させ、自分たちの緩い痴話喧嘩を音楽がわりにしてダンスする。型もなにもない即興。それだけに、相手の思いと動きを汲み取らなければ、たちまちバランスを崩したり足を踏んでしまう。だがリシュリューと提督は流れるように踊る。

 

「それに」と提督は当たり前のように言った。「わたしの心はリシュリューからの愛でいっぱいだ。ほかの女性が入る余地なんてないよ」

 

 リシュリューは、豊かな乳房が軽く潰れるくらい提督と体を密着させたまま、真珠色の歯を覗かせた。

 

「やっと、ここまで来てくれた」

 

 提督も理解していた。愛に必要なものはなにか。知恵か。駆け引きの巧緻か。ユーモアか。

 きっとそのどれも間違いではないだろう。だがリシュリューとの日々が、いちばん大切なものを教えてくれた。

 

「きみが、その勇気をくれたんだ」

 

 勇気。愛を告げて拒絶されたら、という、まともな感性の持ち主なら持ち合わせていて当たり前の怯懦(きょうだ)を、なお乗り越えて一歩を踏み出す勇気が、提督にはいちばん必要だった。

 

 リシュリューの隣に立つ勇気。それはいかばかりのものか。

 

「そう、勇気ね」リシュリューは楽しそうに提督と踊る。「いい女ほど、ろくでもない男と付き合ってるってことがよくあるけれど?」

 

 わざと話の腰を折ってきた。試されている。

 

「個人的な見解になるが」

「それが聞きたいのよ」

「まともな男は、自分では釣り合わないと思って、最初からあきらめる。身の程知らずというか怖いもの知らずというか、そういう男はかまわずアタックする。結果、いわゆるいい女性っていうのは、言い寄ってくるのが“そういう男”ばかりになる……のではないかな」

「あなたはそうじゃないって言い切れる?」

「リシュリューを信じてるからね。リシュリューは、わたしがわたしを信じていいってことを、辛抱強く教えてくれたんだ」

「そうよ。大変だったんだから」

「痛いほどわかるよ」

 

 ふたりは心底から笑いあった。リズムを刻みながら、互いの鼻梁が触れ合う近さで、互いの吐息を感じながら、幸福を分かち合う。

 

「きちんとお返しをしないとね」

「あら。どんなふうに?」

 

 提督は、間を置いて、

 

「一生かけて、返していきたい」

 

 それにリシュリューが、あは、と少女のように朗らかに笑った。期待以上の答えがきたら、こんなふうに笑う女性だった。

 

「実をいえば、わたしがリシュリューと一緒にいたいだけなんだけどね」

 

 リシュリューは、提督の肩に(おとがい)を乗せた。優しく、力強い抱擁。そのまま溶け合って一体化してしまいたいといわんばかりに、提督をぎゅっと抱きしめ、潤んだ声でささやいた。

 

「知ってるわ」

 

 リシュリューは、いつものように「Mon amiral.(わたしの提督)」と呼ぼうとして、途中であえて言葉を切った。だから彼女の呼びかけはこうなった。

 

「Mon ami.」



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L’amour, on ne le discute pas, il est.(愛は語るものではない。そこにあるじゃないか)

時系列の概念は置いてきた
考慮はしたが、ハッキリいって俺のわがままにはついていけない


「こないだ、amiralの部屋にpornographique(ポルノグラフィーキ)があったのよ、痴漢モノの」

 

 スワロフスキーのシャンデリアで演出された半個室で、蒸し若鶏に甘酸っぱいキュウリ漬けの糖醋黄瓜(タンツゥホワングァ)、クラゲの冷製など5種の前菜と、若い紹興酒が運ばれてくるや、リシュリューは初月と長波に切り出した。リシュリューが、話がある、とふたりを誘ったのである。

 

「ポルノグラフィティー?」

 

 無邪気なくらいにさっさと箸をつけていた長波が訊き返した。

 

「pornographique. セックスのビデオ」

 

 リシュリュー自身が翻訳した。

 

「ああ、AVか」

「あいつ、見つかるようなところになんてものを……」どうせまた提督の愚痴だろうと高を括っていた初月が頭を抱えた。

 

「“わたしがいるのにAV観るなんて許せない”ってか?」

 

 長波が豚肉のサワースープを掬いながら茶々を入れた。

 

「それのどこが面白いのか、ふたりで見ながらレクチャーしてもらったの」

「ジャコバン派も真っ青の拷問だな」

 

 初月はガーリックソースを纏った豚肉ボイルを苦み走った顔で齧った。

 

「Amiralがいうには、“だめ”とか“やめて”とかの拒絶の言葉が、日本ではあえぎ声として認識されているとか。逆に女性が乗り気すぎたら冷めるんですって。これがオクユカシサってやつなのかしら」

「あくまでフィクション限定の話だ」

「Amiralもそう言ってたわ。でも、ファンタジーには多かれ少なかれ理想を投影するものでしょう? Amiralも理想(AV)を現実の女に再現されたらうれしいはずなのよ」

 

 初月と長波は、参考資料としてリシュリューが渡してきたスマホで男性向け成人漫画を読んでみた。リシュリューはわざわざ漫画の定額サイトに入会して成年漫画を読み漁ったのだという。

 

「ところで、官能小説専門の出版社の名前がフランス書院っていうのだけれど、これはなぜ“フランス”なの?」

 

 とリシュリューが訊いてきたので、初月は顔も上げず、これ以上なく道義的かつ人道的に正しい答えを返した。「さあな」

 

「どらどら」長波もクラゲをすすりながら覗き込む。画面の中では、ヒロインがセックスの最中に「だめぇ、そんなにされたらあなた専用の子宮になっちゃう~」だの、「すごいぃ~! バカになるぅ~!」だの、「卵子の逃げ場がないくらい射精して!」だの、なかなか気の利いたユニークな台詞を叫んでいる。

 

「男ってこんなんで興奮すんの? ヤッてるときに実況とかされたら笑うでしょ」長波が理解不能といった笑みを片八重歯とともにもらした。

 

「それで、ある法則を見つけたの」長い足を組んだリシュリューが長波に頷きながら海老入り蒸し餃子を口に運ぶ。「実写の、“えーぶい”だったかしら、それに比べると、漫画のほうがより詳細に女性が実況してるのよ」

 

 公序良俗に配慮してイヤホンを装着した初月と長波が、アダルト配信サイトでAVのサンプル動画をいくつか視聴する。たしかにAVでは女優は基本的にあえいでいるだけで、行為中にはあまり台詞を発していない。せいぜい「だ、だめ、中はだめ」とか「いっぱい出たね」くらいである。成人漫画のように女優が行為中に淫語で実況するAVはむしろフェチスト向けの二ッチなジャンルとして区別されていた。淫語を連発するAVはスカトロやアナルのようにユーザーの好みがかなり分かれるのかもしれない。

 

「じゃあなんで漫画のほうはほぼ100%実況してんだ?」

 

 長波にリシュリューは肩をすくめた。

 

「漫画と実写映像の違いからすると」

 

 初月が口火を切った。

 

「声のあるなしの違いじゃないか?」

 

 長波とリシュリューが興味ありげに防空駆逐艦娘を見つめる。

 

「AVは映像作品だから声がある。おそらく女のアノ声は、男にとっては極めて刺激的な要素なんじゃないか? このサイトにも音声だけのアダルト作品が一ジャンルを築いている。ということは、男は女の“声”を求めているのかもしれないな」

 

「あー、たしかにあえぎもしないマグロは嫌われるっていうよな」

 

「だが漫画には声がない。だから性的興奮を補うため、やたらと凝りに凝った台詞という手段が編み出されたんじゃないか」

 

 いっそ吹っ切れた顔で推論を述べた初月に、リシュリューも長波も(たなごころ)を打った。

 

「そう考えると、逆にAVで女が実況しないのは、あくまで実況はあえぎ声がないメディアにおける苦肉の策であって、音声があるなら素直にあえいでいたほうが遥かに効果的で、あえぐ時間を減らしてまで実況するのは映像作品としての利点を捨てているだけともいえるな」

 

 長波も自分でいって何度も頷いていた。そして正気に戻る。「なんの話をしてたんだっけ?」

 

「そうそう、だからAmiralにいったの。“えーぶい”みたいに、amiralのしたいようにしてって」

 

「いいことを教えてやる」初月が貝柱入り春巻きを齧りながら牽制射撃する。「江戸時代、まあ今から200年以上むかしに詠まれた歌だ。――“馬鹿夫婦 春画の真似して 手をくじき”。ポルノは見て楽しむファンタジーだ。教科書じゃない」

 

「そのまま真似するってわけじゃないわ。ただシチュエーションに変化をもたせようって」

 

 リシュリューは提督とともに簡単な台本をつくったのだという。提督の私室の本棚を図書館の書架に見立てて、そこで立ち読みしていたリシュリューに提督が痴漢行為を働き、最初は嫌がって抵抗していたリシュリューもしだいに快楽に抗えなくなり、最後は受け入れてしまう、という大筋だけ決めて、基本的にはふたりのアドリブで進行した。

 

「で、基本的にあえぎ声が“いや”とか“だめ”とかだから、本当にそれはしてほしくないときとの区別がしにくいでしょう?」

「台本つくったんじゃないのか」

「アドリブありきのセックスだもの。だから、痛かったり本当にだめなときの合図として、セーフティサインをあらかじめ決めておいたの、amiralの提案でね。これをRichelieuがしたらその場で中断するって」

「歯医者みたいだな」初月に長波が続ける。「歯医者は痛かったら手あげてっつったくせに手あげても無視するけどな」

「だからもう、どんなすごいことするつもりかしらって、ドキドキして」

 

 リシュリューは胸に手を当てて、南仏の太陽のような笑顔をほとばしらせた。かと思うと、感情が急速冷却。つまらなさそうに頬杖をついた。

 

「でも、そのセーフティサイン、一度も使わなかったのよ、結局」

 

 フランスでは、会話の途中に訪れる妙な沈黙を、天使が通り過ぎた、と表現する。だがいま通り過ぎようとしていた天使は、なにか気まずさを感じて引き返していったように初月には思えた。ため息をつく。

 

「なんか癪だが、ランチに免じて訊いてやる。いいことなんじゃないのか。嫌なことはされなかったんだろう?」

 

 リシュリューは待ってましたといわんばかりに完璧な造形の顔を活き活きと輝かせて、

 

「だって、こっちとしては限界まで試してほしいじゃない(これに初月と長波はまったく同じ動作でかぶりを振ったが、リシュリューは患者に手を上げられた歯科医よろしくまったく無視した)。Richelieuは100までいけたはずのに、60や70で止められたのよ。手加減されたの! それじゃ意味がないわ」

 

「そこまであいつにしてやる義理がこの星のどこにあるんだ」

 

「Richelieuほどの美人で、しかもほかの女にはできなそうなセックスができるってなったら、もう絶対離れられないでしょ?」

 

 初月は想像した。いや、してしまった。リシュリューが「いや」だの「やめて」だのと抵抗するも提督に組み敷かれ、最終的には頬を赤らめながらもおねだりする……そのさまだけを切り取れば、あたかも提督がリシュリューを支配しているように見える。しかし実際は、提督はむしろリシュリューに支配され骨抜きにされているのだ。

 

「胃袋ならぬ金玉袋をつかむってやつか」

 

 長波の薄笑いは実に正鵠を射ているといってよかった。これがフランス女の手管かと初月は提督に同情しかけ、やはりそんな必要はないと思い直した。

 

「離れてほしくないもの。思ってるだけじゃ伝わるわけないんだから、できるだけの努力はするべきでしょ」

「努力の方向を間違えている」

 

 初月の指摘もリシュリューは意に介さない。「で、けっきょく、“たとえリシュリューの合意があっても、リシュリュー自身が楽しめないことはしたくないよ”っていわれたわ。まだRichelieuに溺れきってないのね。だからきょうも仕掛けるつもり」

 

「きょう?」焼き飯をかきこんでいた長波の瞳に疑問。「おまえら週に何回やってんだ」

 

 リシュリューは手帳を取り出して確認した。

 

「先週は13回ってなってるわ」

「待てよ、勝手に新しい曜日を作るな」

「だってそうなんだもの」

 

 リシュリューがふたりに手帳を見せた。フランス語で数字が書かれてある。月曜に1回、火曜は3回、水曜は2回……たしかに先週1週間を合計すると13回であった。

 

「これは、amiralが達した回数」

「汚らわしい数字だ」

「ああ、数字がかわいそうだな」長波も同意した。「だいいち、それは“回数”っていえるのか?」

「逆に訊くけど、セックスの回数って、どこまでが“1回”なの?」

「そりゃあおまえ」長波が答えようとして、笑みが硬直。しだいに思案顔となり、視線を宙にさまよわせて、腕を組んでうなり、息を吸いながら首をひねって、ふたたびリシュリューを見る。「……射精の回数……?」

 

 リシュリューが我が意を得たりと無言で長波を指差した。

 

「男には残弾数の概念があるからな。まあ男に合わせてやるのが世の情けだろう」

 

 初月がデザートのシャーベットをすくいつついった。

 

「よくそんなにできるなー。疲れないか?」

「おしゃべりみたいなものだもの」

 

 長波にリシュリューは即答した。

 

「おしゃべりが音声言語による会話なら、セックスは肉体言語による会話よ。どれだけ大切にしてくれているか、セックスでは人はうそをつけないの。言葉では伝わらない想いをお互いに伝え合うのがセックス。だから愛し合ってる関係だとセックスはとても気持ちがいいの。それを幸せっていうのよ」

 

 長波はたじたじとなった。

 

「結局あたしたちはなにを聞かされたんだ……タダ飯食えたけど」

 

 店を出てリシュリューと別れたあと、長波が初月に訊くでもなく訊いた。

 

「話を聞いてもらいたかっただけだろう」

「なんかアドバイスが欲しいとかじゃなくてか?」

「あれは自分のなかですでに結論を出して、その上で他人に聞いてもらうことで再確認したり、背中を押してほしいタイプの女だ」

「女心って面倒だなー」

「おまえも女だろ……」

 

 なお、鎮守府でコマンダン・テストに長波が、

 

「でもさすがフランスだよなー、毎日だぜ毎日」

 

 げらげら笑いながらいうと、リシュリューと付き合いの長いこのフランスの水上機母艦娘は、

 

「いえ……さすがにフランスといえども毎日は……」

 

 と困惑しきりであった。

 

  ◇

 

 大学時代の同期の結婚式に招待された提督は、花婿らと久闊を叙していたおり、不穏な話を小耳に挟んだ。それは花嫁の招待客らしい女性陣の屈託のないおしゃべりであった。会場の喧騒のなかでも彼女らの砲声は確実に提督の耳朶へと流れ弾を飛ばしてきた。

 

「――でも、そういえば会うたびすぐエッチだし……」

「大丈夫? セフレじゃないそれ?」

「前いってた正社員の彼でしょ?」

「でもいつもは優しいよ……」

「去年のクリスマスも仕事でデートドタキャンされたっていってなかった?」

「うう……やっぱりあたし大事にされてないのかなあ……こないだ生理だったとき、生理きたからできないっていったら逆ギレされたし……“それくらいコントロールしろよ!”って」

「えーなにそれ信じらんなーい!」

「モラハラでしょモラハラ。別れちゃいなよそんな男」

「そうよそうよ男なんていくらでもいるでしょ、ほらここだって旦那がエリートだからランク高いのいっぱいいるよ?」

「別れたほうがいいのかなあ……」

「見なよほら、あの女なんかいい年してなにあの真っ赤なドレス、背中出しすぎでしょ、完全に男狙いに来てんじゃん。あんたはあのバイタリティ見習うくらいでいいよ」……

 

 提督は、花婿を男連中で胴上げしながら、わが身を顧みて戒めた。そういえば自分もリシュリューと会うたび交わっている。体目当てだと内心思われていたらどうしよう。そのうえ、無意識のうちに、生理くらい、と逆上したくだんの男のような振る舞いをしていたらどうしよう。

 

 思い悩んでいたら花婿が「どうした、実は深海棲艦に降伏することが決まったんだみたいな顔をして」と心配してきた。提督はとっさに「おまえごときに先を越されたのが悔しくて……」と泣くまねをしてごまかした。場は満座の爆笑に包まれた。

 

  ◇

 

 二次会で引き上げた提督はその帰りしな、リシュリューに電話を入れた。終わったら連絡してほしいと言われていたのだ。

 

「いま電話大丈夫? うん、いま帰り」

「疲れてるでしょう? きょうはAmiralの部屋に行くわ。どこかで待ち合わせる?」

「そうだね、きみの現在位置は……」提督はGPSで確かめ、「近くに画廊があるだろう? そこの前にしようか」

「え? どこ?」

「消火栓の標識がないかな、赤いくるっとしたやつ。お店の前にあるんだが」

D’accord(ああ). ブルガリの斜向かいね」

「え? どこ?」

 

 さて待ち合わせ場所に向かうと、夕刻の雑踏のなかに、提督は黄金の光芒を見た気がした。探すまでもなかった。きょうは黒を基調としたパンツスタイルで、冬のパリの曇天を思わせるスカイグレーのロングコートを合わせている。厚着なのに洗練された着こなしはさすがといったところか。向こうもこちらに気づいた。曇り空よりさらに高い天空を覗いているような空色の瞳が光を増す。薄桃色の唇が芽吹くようにほころぶ。左の目元のほくろと、みずみずしい下唇に乗ったほくろとが、微妙な動きで花を添える。それ自体が発光しているかのような金鉱脈の髪は、彼女が手を軽く振るたびに波打って踊った。彼女がもたれかかっている、ブルガリの瀟洒な構えのそばのウインドウに並ぶ光り輝く品々さえ、その魅力を引き立てるための舞台背景と化してしまっていた。

 

「待たせたかな」

 

 提督が詫びながら近づくと、リシュリューは含み笑いした。

 

「きょう一日中、起きてからずーっとね」

 

 提督はただばつの悪い笑いを浮かべるほかなかった。

 

「引き出物のカタログもらったんだけど、いっしょに選んでほしい」

「あなたにくれる引き出物でしょう?」

「ペアグラスとか、ふたりで使えるものもあるからね」

 

 部屋で割と分厚いカタログをふたりして見た。夜は更けていった。とりとめのない話をしながら下着姿のリシュリューが、わざとスプリングを軋ませてベッドに腰掛ける。提督はわざと気づかないふりをする。

 

 ――どうだリシュリュー。わたしはきみの体だけを愛しているわけじゃないんだぞ、いや体も非常に魅力的だと思ってはいるが、何度セックスをしても飽きないどころか毎日新しい発見があって驚かされて、できるのであれば毎日でもしたいとは思っているが、セックスは愛し合う手段のひとつにすぎないのであって、べつにセックスだけが目的じゃないんだ。セックスできないからへそを曲げる男なんてもってのほかさ。きみとの関係を真剣に考えている、わたしの誠実さを、とくと知ってもらおうではないか。……

 

 背中にリシュリューの気配が近づいた。香水とリシュリューの体臭の混ざった、脊髄に直接作用するような妖しい甘い匂い。もし媚薬が実在するなら、それはこんな香気なのだろう。

 

 出し抜けに、背後から右手を下からすくうように握られた。たっぷり肉を持った弾力のあるリシュリューの掌は、提督の人差し指と中指をなだめるように開いた。次の瞬間、柔らかく、熱く、ねっとりとした感触が指の股をなぞった。ぞくぞくっと、背中をなにかが駆け抜けていった。

 

「知ってる? Amiralって、手の指の股を舐めると否応なくスイッチが入るの」

「ぬおお……」

「おおかた、自分は体が目当てでこのRichelieuと付き合ってるんじゃない、とでもいいたいんでしょう」

 

 提督は自分の心臓の右心房と左心房が「えっ!」とお互いに顔を見合わせた錯覚に襲われた。

 

「女に手を出さないのが誠実さだと思った? それはね、お話がしたいのに断られるのと同じくらい悲しいの。わかる? Richelieuは、“お話”がしたいの。Amiralはとても誠実だから、毎日でも楽しいのよ」

 

 提督は腹の底から、いや、全身の細胞にいたるまで敗北した。指を絡めるようにリシュリューと手を繋ぐ。「あは」リシュリューが磁器のほほを上気させながらも心底からうれしそうに笑った。

 

「ねえ、きょうは“えーぶい”のまねはいいの?」

 

 提督は、リシュリューの冴えた白の下にうすい青の血管が広がるうなじに顔を埋め、異国の花園を訪れたならきっとそうするように、胸いっぱいに味わいながら、

 

「やっぱり、なにかのまねじゃなく、リシュリューとしたい」

 

 リシュリューはそんな提督を力強く抱きしめ、肉をさらにさらに密着させた。

 

  ◇

 

 呼吸も落ち着いたころ、ベッドのなかで提督は、結婚式場で女性陣の会話を盗み聞きしてしまったことを素直に白状した。

 

「そんなことがあったの」

「わたしもそういうところがあったらまずいなと思ってね……」

「Richelieuは嫌なら嫌とはっきりいうでしょ。いわないってことは嫌じゃないのよ」

「そういえば、あ、いや……」

「なに? いって」

「うーん、かなり失礼なことなので……」

「いわないほうが失礼よ。ほら」

「その、きみに生理で断られたことってなかったな、と」

「Richelieuはピルでずらしたりしてるから」

「そういえばわが鎮守府はピルが経費で落ちるんだった……」

「いい制度ね。でも体質に合う合わないもあるし」

「女性は大変だな」

「大変じゃない人なんて、いやしないのよ。性別関係なくね。それぞれの事情を、それぞれが折り合いつけていくしかないの。わたしたちにできるのは、言い訳して逃げるか、逃げずにどうにかするか、それか」リシュリューは手の甲で提督のほほをやさしくなでた。「いっしょに大変さを分かち合ってくれる人を見つけるか」

 

 提督はこのとき、自分の気持ちを嘘偽りなく伝える言葉が見つからなかった。これは音声言語で伝えられる感情ではない。提督は、リシュリューとおなじように、手指の背中でリシュリューの滑らかなほほをなでた。美しい女はくすぐったそうに笑った。見つめ返してくる青い瞳は、提督の想いが伝わったといっているように見えた。

 

「いやはや、それにしても彼女は大変だよ」提督はわざと増長してみせた。「いい出会いが待っているといいんだが」

 

 リシュリューが長いまつ毛を(またた)かせた。

 

「Amiral, それ恋愛相談かなにかだって本気で思ってる? その子がほんとうに悩んでるって?」

「え、違うの?」

「その場に居合わせたわけじゃないけれど、あぁ、日本語でなんていうんだったかしら、ノ、ノロ、ノロウイルス……?」

「ノロケかな」

C'est ça(そう、それ)! ただ恋人との仲を自慢したかっただけじゃない?」

「どう聞いても愚痴だったが……」

「愚痴も自慢のひとつよ。女どうしで集まって、恋人や旦那の悪口をいってるふうを装って、ノロケるの。ふつうに自慢したら煙たがられるから」

「なんて高度な情報戦なんだ……男は平文(ひらぶん)でしか会話しないのに」

 

 提督はそこで恐るべき可能性に気づいた。

 

「リシュリューも、女性どうしでおしゃべりしてるとき、わたしのことを、その、なんかいったりするのかい?」

 

 リシュリューは目を細め、真珠色の歯をこぼした。枕に顔を半分沈めながら、とびっきりの笑顔で提督を見上げ、いった。

 

「よく“自慢”してるわ」



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Tu ne te souviens pas du moment où nous sommes tombés amoureux.(あなたは覚えていないでしょう、わたしたちが恋に落ちた瞬間を)

 提督は最近、スマートフォンをあまり見なくなった。というのも、私室でリシュリューとふたりでいるときに、うっかりスマホをいじろうものなら、

 

「そんなもの見てるひまがあるなら、リシュリューの顔を見てれば?」

 

 と言ってくるので、そのとおりにしていたのである。

 

 リシュリューの美貌はほとんど暴力である。頭蓋骨が存在するのか疑わしいほど小さな顔に、麗々しい眉のアーチが描かれ、天上の国に広がる晴空のごとく明るい青の双眸が健やかに光る。その清浄な青き瞳を、金にきらめく長いまつ毛が(ひさし)となって豪奢に彩っている。左目の涙の通り道に置かれたほくろの、なんと悩ましいこと……。潤い豊かな桃色に色づく口唇はいくぶんだらしなく開かれ、唾液に濡れた歯が覗く。下唇にもひとつあるほくろが、涙ぼくろとともに、彼女の完璧な均衡の上に成り立つ美姫の造形をわずかに崩し、それがかえってリシュリューという唯一無二の美を演出しているのだった。

 

 かように暴力的な美しさを至近で、真正面から受け止めさせられた提督は、神のまします至高のセレストブルーを宿した瞳を凝然(じっ)と見つめた。視界がリシュリューだけになる。世界にはリシュリューしかいない。時間の流れまでもがゆったりとなる。それ自体が発光しているかのように眩い黄金の髪が新雪の首を滑り落ちた。女がくすりと笑う。

 

「どう? このほうがよっぽど有意義な時間でしょう?」

「わたしの目を、リシュリューを見るためだけの目にしたいね」

 

 提督が心底から詠嘆すると、リシュリューはしたり顔で微笑んで、首を傾けてみせた。

 

「あたりまえでしょ」

 

 これが、リシュリューという女だった。

 

  ◇

 

 リシュリューは服のセンスがずば抜けてよい。衣装のアイテムという「語彙」が豊富なためだ。状況に応じて、およそこれ以上の解答はないとだれもが陶然とせざるをえないほど完璧なコーデを導き出す。長波など、軽い気持ちでリシュリューに服を選んでもらった結果、試着室の鏡に映る、それまでの男勝りな自分と同一人物だとは思えないほどフェミニンに生まれ変わった姿を見て、感激のあまりその場で奇声をあげたものである。

 

「自分じゃねーみてーだ」

 

 昂奮のまま試着室から出てきた長波の肩に、リシュリューは手を置いて、

 

「いいえ、それが本当のあなたよ。リシュリューはナガナミの本当の魅力を引き出せる子を選んだだけ。いまの自分がすてきに思える? じゃあ胸を張って。最強のファッションは自信よ。服なんて自信をつけるためのただの道具」

 

 などというものだから、リシュリューがおしゃれの指南役として鎮守府の艦娘たちから相談を受けることもしばしばだった。

 

 ではそんなリシュリューに、彼女の美学に反する服を着せたらどうなるのか。

 

 提督はデートの中途、そろそろ冬物を並べ始めた、スペイン発のファッションチェーン店で彼女にお願いしてみた。

 

 まず目に留まったのは黒のオーバーコート。提督が着たら電脳世界でカンフーを駆使してエージェントと戦うサーバーパンク映画の出来の悪い物真似にしかならなそうなそのロングコートを、無理言ってリシュリューに試着してもらった。カーテンから出てきたリシュリューは、長身に長い裾が外套のようにはためき、元から穿いていたグレーのゆったりしたハイウエストのパンツも相まって、全体として凛とした佇まいを見せていた。

 

「かっこよすぎるから、写真撮っていいか」

 

 提督にリシュリューはにべもなく断った。「リシュリューの好みじゃない自分をamiralのスマホに残したくない。このパンツにこのコートは似合わない」とのこと。提督の美的センスの敗北である。

 

 次にヒョウ柄のド派手なロングシャツを着てもらった。さすがにこれは悪趣味だろうと思っていると、試着室から出てきたリシュリューは意外に上機嫌で、しかも彫りの深い顔によく似合っていた。デコルテを見せるデザインが首をほっそり長く見せ、小顔をより効果的に引き立てる。

 

「このチュニックはけっこう使い勝手いいかも。買おうかしら」

 

 一方、提督は脳内で自分にそのヒョウ柄のロングシャツを着せてみた。どう見ても堅気ではなかった。それもせいぜい鉄砲玉がいいところである。

 

 ならばと提督が最終兵器をハンガーラックから手に取る。恐ろしいデザインだった。赤い達磨と「手も足も出ねえよ」の吹き出しがフロントプリントされている異様なTシャツである。

 

「知ってるわ。困っている人の願いを叶えるために、自分の片目をくりぬいて手足を切り落として生贄になった尊い宗教家がモデルなんでしょう?」

「オイゲンにはわたしから注意しておくよ」

 

 いざ試着してもらう。しばらくしてカーテンが開かれる。室内にもかかわらず、一陣の爽やかな風が吹いた。

 

 提督は腰を抜かしそうになった。

 

 そこには、どう考えても、年甲斐もなく奇抜さで社会から浮くことが独自性だと勘違いしているタイプの人間にしか受けないはずのおもしろTシャツを着ているのに、裾を絞ってへそを大胆に出し、片手を腰に当て、プラチナブロンドの髪を獅子の(たてがみ)のようになびかせ、サングラスを頭にかけて威風堂々と立つリシュリューがいた。あまりの神々しさに後光が差しているとさえ提督には思えた。

 

 フレンチのコース料理ではしばしばジビエが主役となる。ジビエ、つまり野生動物の肉は例外なくクセがある。適切な調理法を駆使し気の遠くなるような手間ひまをかけなければただの臭い肉になってしまう。フレンチとはそのクセを個性に昇華する魔法である。

 

 まさにリシュリューは、クセという糸で縫製されたかのような達磨Tシャツを、砥礪(しれい)を極めた肢体と美貌、着こなしのノウハウ、そして自信という魔法によって、唯一無二の個性に昇華してみせたのだった。

 

「どう? Mon amiral」

「ファッションとは、なにを着るかじゃなくて、だれが着るかが重要なんだなってことがよくわかったよ」

 

 白旗をあげた提督に、リシュリューは意地の悪い顔になって、

 

「今度はリシュリューの番。前からamiralに試してほしいのがあったの」

 

 と、どこから探してきたものか、メンズの黒いプリーツスカートを掲げてみせた。

 

「男がスカートを? スコットランド人か?」

「おなじ島国でしょ。いいから穿いてみて」

 

 試着室に幽閉され、ため息をつき、意を決してリシュリューが押しつけたロングスカートに穿きかえる。

 

 顔を上げた提督は、かつて同様の状況で長波があげたものとおなじ奇声を発した。鏡には別人がいたからである。

 

 ドレープスカートの、流れるようにゆるやかな(ひだ)のふんわりと広がるシルエットのおかげで、タイトなトップスと合わせて、絵画でいうところの三角構図となっている(悲しいかな、提督はAラインという言葉を知らなかった)。男はズボン以外ありえないという固定観念が戦艦砲でみごとに打ち砕かれた思いで、提督はしばらく鏡の前から動けなかった。

 

 リシュリューの呼ぶ声で我に返った提督がカーテンを引いた。リシュリューが笑顔の花を咲かせて手を叩く。

 

「思ったとおり。やっぱり似合ってるわ」

 

 リシュリューが似合うというならそうなのだろう。ことコーデに関して相手を騙して晒し者にするような性分ではない。服に対するリシュリューの誠実さは提督も全幅の信頼を置いている。

 

 スカートを収めた紙袋を提げ、リシュリューと次の店へと向かいながら、提督はふいに彼女の横顔を見やった。リシュリューが視線に気づく。

 

「どうしたの?」

「いや、リシュリューはいろいろわたしの価値観を壊してくるなって。リシュリューと出逢わなかったら、たぶん一生スカートなんか穿かなかった」

「嫌なの?」

「自分という人間を変えられていくことが楽しいって思える、わたしにとってリシュリューは、そんな女性だってことだよ」

 

 美しい女は果実の唇から白い歯を見せた。

 

「Amiralも、リシュリューをどんどん変えていってるのよ。これはamiralが好きだって言ってた画家だってわかったり、amiralとの予定を中心に日程考えるようになったり」

「そうなんだ、じゃあ……」

 お互い様、とふたりの声が重なって、ふたりはまた笑った。

 

「ところで、クロゼットに入らなかったらわたしの部屋に持って来ればいいやと、さらに服を買う量が増えたのも、わたしの影響ってことになるのかな?」

 

 これにリシュリューは、笑いながらすたすたと歩いて、答えはしなかった。

 

  ◇

 

 こんどこそ欧州を深海棲艦の魔手から取り戻す。その狼煙として、長躯インド洋から三度(みたび)地中海へ抜けて北大西洋に跋扈する敵艦隊を撃滅してNATO軍と合流、北アフリカと西ヨーロッパを奪還するための大規模反攻上陸を企図した「トーチ作戦」がついに発動され、小島のような輸送艦が抜錨のときを今や遅しと待っていた。わけても欧州から日本に派遣されている艦娘らはみな例外なく意気軒昂であった。故郷から深海棲艦を駆逐する布石となる作戦なのだから当然である。彼女らは港でそれぞれの国ごとに固まって、それぞれの母国語で決意表明し、母語話者以外にはテニスの審判でもなければ理解できないスラング交じりの怒声をあげては呼応し、荒々しく互いの結束と紐帯を確かめていた。その士気の高さたるや、酒豪の代名詞をうわばみから奪った女と名高い伊重巡ポーラが素面であったという驚愕すべき事実からも窺えた。

 

 異国語の蛮声で満たされる港で、艦娘たちの間を縫ってリシュリューが提督に近づいた。

 

「なにか忘れ物?」

「ええ。とっても大切な忘れ物」

 

 それからリシュリューは、まばたきするのも惜しいかと思うほど、提督の顔を直視し続けた。放っておけば一週間でもそうしていただろう。

 

「出港までずっとこうしているつもりかい?」

「だって、これからリシュリューは祖国のために戦いに行くのよ。景気づけにamiralの顔をじっと見ておきたいなと思って」

 

 以前バーゲンのために里帰りしただろう、とは口に出さない。さしもの提督もカボチャの種ほどくらいには思慮を持ち合わせているのだ。そんな葛藤を露ほども知らぬであろうリシュリューが提督の首に腕を絡めた。互いの額を合わせる。

 

「リシュリューのいない国で夜を一人で過ごせる?」

「そうだなあ、わたしに夜がくるとき、代わりに太陽がリシュリューを照らしていると思えば励みになる。リシュリューこそわたしがいなくて耐えられる?」

「無理に決まってるわ。ねえ、Mon amiral, あなたわかってる? Amiralの顔が見られるだけでリシュリューがどれだけ幸せになれるか。あなたはこのリシュリューを幸せにできるのよ。その自覚あるの?」

「肝に銘じるよ」

「それに、amiralも、リシュリューの顔を見て、元気が出たでしょう?」

「いや、やっぱりだめだな」

 

 かぶりを振る提督に、リシュリューが興味を示した。

 

「きみとしばらく会えない日々を想像させられた。胸が張り裂けて、血が止まらないかも」

「あら。じゃあ、止血しないとね」

 

 リシュリューが提督を抱きしめる。固く強く抱擁する。提督の胸板で、リシュリューが軍服に押し込んだ豊満な胸を潰す。提督も女のむき出しの背中に手を回す。

 

「リシュリューの勝利を祈っていて、Mon amiral.」

「信じているよ。忘れないでほしい、遠く離れていても、きみのいる同じ空の下に、わたしもいるってことを。わたしの時間はリシュリューの時間だ。いつでも電話してくれ」

「Amiralからはしてくれないの?」

「そりゃするさ、何度もかけるよ。いつでも最新のきみを知りたいからね」

「そうこなくっちゃ」

 

 提督はリシュリューを抱き上げ、その場でくるくると回った。突然の稚気に仏戦艦娘は悲鳴を上げながらも笑い、美しい金髪がなびくに任せた。周囲からの好奇の視線も気にせず、回りながら、提督はフランス童謡の『マルブルーは戦争に行く』を口ずさんだ。リシュリューは「縁起が悪い!」とさらに爆笑した。

 

 大規模作戦に参加するのは初めてとなる駆逐艦早潮(はやしお)が一部始終を見て、指さしながら振り返った。

 

「あれ、いつもやってんの? マ?」

 

 訊かれた初月と長波とコマンダン・テストは、目を瞑ったまま、まったく同じ動作で荘重に頷いた。

 

 なおリシュリューは、カサブランカ沖を支配下に置く敵要塞在泊艦隊撃滅作戦において、「Les mers de Casab(カサブランカの海は)lanca veulent vous sang(おまえたちの血を欲している)!」と鬼神のごとき獅子奮迅の働きを見せ、敵旗艦を自慢の四連装砲による圧倒的火力で粉砕する大金星をあげた。

 

 旗艦だった重航空戦艦大和(やまと)は「リシュリューさんだけは怒らせてはいけないと思いました」と戦艦仲間にその頼もしさを喧伝したという。

 

  ◇

 

 全作戦を遂行し、艦娘たちがぶじ日本に帰ってきた。間宮(まみや)で開かれた、今次の作戦で新たに艦隊に合流した艦娘たちの歓迎会で、ポーラが己にふさわしい称号を欧州遠征のあいだだけ預けていたうわばみから奪還しているのをよそに、リシュリューが初月や長波らに、妹のジャン・バールを紹介した。

 

 リシュリュー級戦艦2番艦ジャン・バール。姉とよく似た顔立ちの戦艦娘だった。顔が相似形なら骨格もしかり、口腔や鼻腔、咽頭腔からなる共鳴腔もまたしかりだから、声も似ることになる。初月も長波も、両者を双子だと疑った。「違うわよ。わたしとジャン・バール、そんなに似てる?」「おまえそっくりのべっぴんさんだよ。まあ双子でも似てねえやついるしな。浦風と時津風とか」長波がリシュリューとの相違点を探そうと試みた結果、ジャン・バールは左目尻の下に、ほくろがふたつ、縦に並んで、ちょうど涙のように見えるところに活路を見出した。

 

 ジャン・バール本人は、劣勢だったカサブランカで突貫でのロールアウト後は守勢に徹していたため、今もって艤装が未完成のままでの日本赴任が心残りだったようだが、工廠の主たる明石の腕の良さを聞くにつれて、まだ若干の硬さを残していた表情を徐々にほころばせた。気を許すと、アルコールの海を泳ぐ脳の命令のままに裸族となろうとして同郷のイタリア艦娘らの手を焼かせているポーラを尻目に、駆逐艦娘ふたりに、

 

「あのイタリアの重巡のマナーのなさは、なんなの、かしら……」

 

 と苦言を呈したので、初月ならびに長波は、このフランス戦艦娘を良識ある新たな仲間として改めて、快く迎え入れたのだった。そして、事件は、この宴が端緒となったのである。ほろ酔いの長波がリシュリューに、

 

「もし提督が体目的だったらどう思うよ」

 

 と何の気なしに訊ねたのがきっかけだった。

 

 リシュリューはワインを転がして優雅に足を組み替えた。

 

「男はね、“好き”を“性欲”で嵩増ししてる生き物なのよ」

「なんか始まったぞ」

「男のいう“好き”は、“愛”と“性欲”の合計値なの。たいして愛していなくてもその女とセックスしたい欲が恐竜みたいに大きかったら、ふだんはとても彼女を愛しているように振舞うし、たぶん男のほうも口では彼女のことを心から愛しているとか言うでしょう。ところがセックスをすると性欲がなくなるでしょ、男は。そこになにが残るか、まだ“愛”が残ってるかっていうのが大事なのよ。

 “愛”から“セックス”を引いたときに残るのが、ほんとうの“好き”なの。これ覚えといて。男の好きの公式。好き=愛+性欲。petite mortにこそ男の本性は現れるのよ」

 

 性行為の直後に訪れるぐったりとした無我の境地をフランス語ではpetite mort(小さな死)という。

 

「射精を終えたあとが男の本当の姿ということよ。終わったあとさっさとシャワーを浴びに行く。話しかけようとしたら疲れたからちょっと静かにしてくれとかキレる。帰れと追い出す。もしこれを、男ってそういうものだからって思ってたら大間違い。そういう男は、彼女とセックスして、“愛”から“性欲”を引いたらほんの少ししか残らなかったか」

「むしろマイナスか」

「マイナスか。そう。好き=愛+性欲。じゃあ、愛が10で、性欲が190だったら、ふだんは200も好きだけれど、セックスしたら性欲の190が引かれて、10の愛だけになる。ふだんの20分の1しか好きじゃなくなる。だから顔を見るのも嫌になって、それでさっさとシャワー浴びて帰れってなる。でも何時間とか何日とか間を置いたら、また性欲って回復する。10の愛だけだったのが、性欲の190で上積みされる。するとまた彼女のことが200も好きになるから優しくなる」

「男の事後の手のひら返したようなムーブってそういう……」

「そう、だからセックスしたあとの振る舞いが、彼女に対する男の本当の気持ち。セックスした直後が男の本当の姿。本性」

「そんじゃあ提督は?」

「一晩じゅう腕枕してくれる」

「腕しびれんだろ」

「それでもしてくれる。何時間でもおしゃべりしてくれる。汗と体液まみれのリシュリューを、もうぎゅっと抱きしめて“好きだ”って嫌味なく言ってくれる。カピカピになるまで。これが愛よ。Amiralは愛1000、性欲500だから、引いても500の好きが残ってる。それがわかるのがうれしくて、毎日してる」

「じゃあ、提督とやったあと優しくされるのが好きであって、提督とセックスすること自体はそんな好きっつうほどでもない?」

「好きよ。好きじゃなかったら毎日何回もするわけないじゃないの」

 

 すっかり赤ら顔の長波が苦笑いした。

 

「性欲が恐竜みたいにでかいのは、おまえのほうなんじゃないか」

「じゃ、リシュリューは失礼するわね。ジャン・バール、あなたはみんなと楽しんでてちょうだい。(イタリア艦娘らの卓を親指で指しながら)あの連中も悪い連中じゃないわよ」

「姉さんは?」

「Amiralと“おしゃべり”をしてくるわ」

 

 リシュリューは妖しい笑みを残して間宮を後にした。長波がにやにやとする。初月は我関せずで秋月型の姉妹とともに料理の掃討戦にとりかかっていた。

 

「あのamiralは、ほんとうに姉さんのこと愛してるのかしら」

 

 ジャン・バールがぽつりとこぼした。

 

「愛しているなら、わたしが姉さんの格好してても、きっとわかるはずよね」

 

  ◇

 

 翌朝。リシュリューが提督とデートする日である。昨夜はともに過ごしたふたりだったが、朝はそれぞれ用事があるので、昼ごろに待ち合わせをすることになっていた。

 

 それを聞いたジャン・バールは、戦艦寮にて姉にゆうべの思いつきを提案した。当然のことながらリシュリューは眉間に不快感を刻んだ。

 

「邪魔して楽しいの?」

「わたしを姉さんと間違わなければ、なんの邪魔にもならないでしょう?」

 

 理屈である。長波に誘われて同席していた初月も、姉に変装すべくメイクを始めたジャン・バールの背中にため息をついた。

 

「そんな進んで『気狂いピエロ』にならなくても」

「Amiralがわたしを姉さんだと思って部屋に連れ込んだら、彼は『山椒太夫』のラストシーンを自分の目で再現するでしょうね」

 

 ふたつ並ぶ涙ぼくろのひとつを消し、下唇に付けぼくろを貼った。すみれ色の光彩はカラーコンタクトでブルーに変える。リシュリューのファッションを模倣すべく服をセレクトする。

 

「どう?」

 

 そこにはもうひとりのリシュリューがいた。初月も長波も目を疑う。並んでさえ見分けがつかない。

 

 昔からジャン・バールは姉と似た自分の顔が気に入らなかった。姉が優秀であればあるほど比較の俎上に載せられた。派遣先における歓迎の文句が「リシュリューの同型艦(・・・・・・・・・・)がきた」だったことも一度や二度ではない。姉はネームシップなのだからそれもやむを得ないのかもしれない。とはいえあくまで彼女の扱いは「戦艦ジャン・バール」ではなく、「リシュリュー級高速戦艦の2番艦」でしかなかった。つまりは2隻目のリシュリューである。姉に対して悪感情はない。むしろ同じ戦艦娘として憧憬の念さえある。しかし矜持になんらのかすり傷もないといえばうそになる。

 

 ジャン・バールとしては、これまで自身の胸中にわだかまりを沈殿させてきた根源たる「顔」を使った、ちょっとした茶目っ気のつもりであった。リシュリューはあきれ顔で、ただ肩をすくめた。

 

「で、待ち合わせは何時なの?」

 

 ジャン・バールが訊ねた。長波が腕を組む。

 

「そういやリシュリューが時間守ったことねえな」

「失礼ね。仕事では守ってるわ」とリシュリューが憤懣やるかたないといった調子で両手を蜂腰にあてた。「長波たちと待ち合わせるときは“何時くらい(・・・)に行く”って言ってるでしょ。日本の新幹線みたいに何時何分定刻に着くって明言しておいて、もし遅れちゃったら、そりゃあリシュリューだってちゃんと謝るけど、“くらい”って前もって言ってあるもの。だから遅刻じゃない」

 

 長波と初月は顔を見合わせた。ここらへんの自己弁護はさすがフランスである。

 

「姉さん、まさかamiral相手にもそんな調子じゃ……」

 

 ジャン・バールは頭を抱えた。

 

 のちにジャン・バールが提督からこっそり聞いたところによれば、リシュリューはふたりの待ち合わせでも「ちゃんと時間を守っている」らしい。しかし提督は「まあでもだいたい2、30分くらいは待つかな」と付け加えた。「……どういうこと? 理解できない。Amiralが着くのが早すぎるということ?」「ああ、つまり、リシュリューは待ち合わせより早く着くと、時間つぶしに服屋をめぐるんだ。そのうち買い物に夢中になって、予定より遅れて来る。だから、ちゃんと時間前に来ているが、遅れる、ということになる。なんなら2周くらいしてきて、すでに紙袋で両手いっぱいになってる状態で来る」「姉さん……!」「わたしも床屋に行って順番待ちをしているときに漫画読んでて、いざ順番がくると“いいところだからちょっと待って”と言いたくなるから、リシュリューの気持ちもわかる」「それでamiralはいいの?」「そういうのが苦にならない女性を見つけられて、わたしは幸せだね」……そういうことである。

 

 さて、待ち合わせに向かうには頃よい時刻となった。ジャン・バールの目論見を妨害するなら、リシュリューは「服屋めぐり」なぞせずに妹より先に提督と合流すればよい。しかしそれをすると提督を信じていないと言外に示すことになる。リシュリューのプライドが許すはずもない。よってリシュリューは常と変わらぬ行動を強いられる。姉の性分を熟知しているジャン・バールの企図した通りにことは運んだ。

 

 剣呑な姉妹をよそに長波は初月の肩に腕を回した。

 

「じゃあ、あたしらも妹と間違える提督のマヌケ面拝ませてもらうか」

「僕もか?」

「興味ないか?」

「ないとでも?」

 

 初月と長波は互いの握りこぶしを軽くぶつけた。抜錨、作戦開始。

 

  ◇

 

「目標発見、十二時の方向」

 

 休日朝の雑踏のなか、手で目庇(まびさし)した初月が目視確認する。すでに提督は横浜駅西口の目と鼻の先にある老舗百貨店入り口で持参の文庫本を閲読しつつ待っていた。しばしば提督とリシュリューが使う待ち合わせ場所である。

 

 ジャン・バールと初月、長波、そしてリシュリューは、百貨店入り口から北に50メートルほどの商業ビルがひしめく交差点近くに、街路樹として植樹されている一本の(かつら)に身を寄せ合うようにして、こっそりと提督の様子を窺っていた。皆サングラスをかけて偽装もばっちりである。

 

「ところでなんでリシュリューもいる」

 

 初月が無表情で振り返りもせずに訊いた。

 

「いいじゃないの別に。リシュリューは自由の国から来たんだから」

「提督がジャンにのこのこついてくかどうか心配だったんだろ~」これは長波。

「い・い・か・ら! 静かにして。ばれたらどうするつもり?」

「この距離と人通りじゃばれないわよ、ちょっと姉さん押さないでよ」

 

 一本の細い街路樹の陰を奪い合うこの4人の奇行は目立たぬはずもないように思われたが、通行人たちはいずれも関わり合いにならないほうがいいと本能で悟って見て見ぬふりをしたので、彼女らに目立っている自覚はなかった。

 

「じゃあ行ってくるわ」

 

 ジャン・バールが髪を手で払って颯爽と出陣する。後ろ姿も歩くさまも、周囲に纏う空気もリシュリューそのものである。初月と長波はトトカルチョを始めた。「僕らでさえ見分けがつかない。香典が惜しいな」「あれじゃあ間違えちゃってもしょうがねえよ」「まいったな。賭けにならないぞ」

 

「Mon amiral. 待たせたかしら」

 

 ジャン・バールに声をかけられた提督が、文庫本から顔を上げ、面上に笑みを乗せた。

 

「やあ。きょうもきれいだね」

「当然でしょう?」

「うん。そのネイルもとても素敵だよ」

「ありがと。で、きょうはどこに連れて行ってくれるの?」

 

 提督が不審に思っている気配はなかった。提督とジャン・バールのあいだに親密な空気が漂った。提督は文庫本をひらいたまま、少しだけ考えてから、

 

「前回はわたしに付き合ってもらったから、きょうはリシュリューの番だよ。冬物の買い物と批評と、荷物持ちかな」

「そうだったわね」

「けっこう歩くだろうから、そうだね、そういうウェッジサンダルとかのほうがいいんだろうけどね。いいねその靴。アプリコットで落ち着いていて」

「そうでしょう? Amiralもとても素敵よ」

「そうかい? ありがとう」

 

 相好を崩す提督にジャン・バールはほくそ笑む。提督の腕に、みずからの腕を絡ませる。

 

「じゃあ、行きましょう、Mon amiral」

 

 ジャン・バールは勝利を確信した。提督はジャン・バールをリシュリューだとすっかり信じ込んでいる。たかがメイクで似せただけで! やはり男など、女のうわべしか見ていないのだ。そしてそんな男を選んだ姉の見る目もないことが証明された。遠巻きに双眼鏡で監視する初月と長波も、近くのダイナーで買ってきたバンズから肉がはみ出んばかりのハンバーガーにかぶりつきながら固唾を呑んだ。

 

 しかし、腕を引き寄せられても、提督は動かなかった。

 

「ごめんね、ジャン・バール。いまリシュリューを待ってるから」

 

 提督は苦笑いして言った。

 

 ジャン・バールは瞬時、唖然として、しばらく二の句が継げなかった。理解が追いつくのに少々の時間を要した。なぜだ。変装は完璧だったはずだ。

 

「いつから、気づいてたの」

「気づくもなにも、そりゃ最初からだよ。ジャン・バールとここで会うのは奇遇だなと……ああ、リシュリューのまねをしてたのか。どうりでメイクとか服のセンスがお姉さんに似てると」

Pourquoi(どうして)?」ジャン・バールは母国語が漏れるほどにとまどった。「見分けなんてつかないはず?」

「そんなの間違えようがないよ」

「なぜですか。それは、姉さんより、顔が違うということ?」

「いや、だって、ジャン・バールはジャン・バールだろう」

 

 提督はさも当然のことだといわんばかりに返した。

 

 ここでジャン・バールのスマホが鳴った。初月からの着信だった。「もういいぞ、帰ってこい。……おいリシュリュー、いつまでガッツポーズしてる」ともかくジャン・バールは助け舟に飛び乗った。「わかったわ。――じゃあamiral、 お時間とらせたわね」「いや。よい一日を」

 

 三人のもとへ戻ったジャン・バールは、姉の手を痛いほど握って釘を刺した。「あのamiralだけは逃がしちゃだめよ」これにリシュリューは微笑で答えた。「当然よ」

 

 ジャン・バールと入れ違いのようにリシュリューが来て、提督は鷹揚に手を挙げつつ文庫本を胸ポケットにしまった。

 

「きみが来てくれるといつも安心するよ。そのピアスかわいいね。リシュリューの髪の色にもよく似合ってる。髪の巻き方っていうのかな、変えたりしたのかい」

「ええ。前のリシュリューは内巻きだったけど、きょうはミックス巻き」

「わたしが見るのは初めてだよね? とてもきれいだよ。華やか」

「そうでしょう? あなたもとても素敵よ」

 

 お互いの存在を確かめあうような抱擁を交わしたあと、提督は視線をリシュリューと名門百貨店に往復させた。

 

「そっちから来たからびっくりしたよ。てっきり百貨店(こっち)から来るかと」

「たまにはね」

「珍しい。珍しいといえば、さっき、妹さんに会ったよ」

「へえ?」

「妹さんはリシュリューのことが好きなんだね」

「自慢の妹よ」

「一人っ子だから憧れるよ」

「あら。あなたにも妹ができるでしょ? 義理の」

 

 リシュリューが提督の手に指を絡ませる。軽く引っ張る。提督も握り返す。

 

「そうだね」

 

 雑踏はもはや舞台装置にすぎない。世界にはふたりしかいない。リシュリューと提督はおなじ歩調で前へ進む。

 

 リシュリューはふと、あることに思い至る。

 

「――もしかして、時間通りに来たから偽物だってわかった、とかじゃないでしょうね」

 

 それに提督は大笑しながら、答えはしなかった。



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