【完結】崩恋 ~くずこい~ (月島しいる)
しおりを挟む

01話

七年前に書いた完結済み小説の加筆版です。
個人サイトと並行投稿しています。


「私と付き合って下さい」

 夕陽が差し込む空き教室に、少女の上擦った声が響く。

 声の主である少女は頬を赤く染めて、濡れた瞳で正面の少年を熱っぽく見ていた。

 その視線を受け止める小柄な少年、如月椎(きさらぎ しい)は何度か瞬いた後、一拍遅れて動揺した様子で視線を泳がせた。

 二人の間に沈黙が落ちた。

 外から響く演劇部の発声練習が妙に大きく聞こえた。春には羞恥心が混じっていた発声練習も、初秋を迎えた今では良く響く大声になっている。

 演劇部の発声練習に進歩が見られたように、椎もまた入学当初から部活と学業に励んできた。小柄でありながら、美少年と呼んでも差し支えない容姿に加えて、部員に恵まれないテニス部でひたむきに汗を流す椎は、女子にはそこそこ人気がある。

 そして今、椎はずっと片思いをしていた水無月優香(みなづき ゆうか)から、理想的な告白を受けていた。

 相思相愛。

 実らない片思いと思い込んでいた椎は、突然の告白に返す言葉を失っていた。

「き、如月君?」

 優香が真っ赤になった顔で、上目遣いに覗きこんでくる。

 そこで椎は我に帰り、小動物のように小さく肩を震わせた。

「えっと……本当にボクで良いの?」

「う、うん。き、如月くんが、良いの」

 囁くような小さな声で、しかしはっきりと優香は思いを口にした。

 椎は胸の奥から温かい何かが滲み出すのを感じながら、大きく息を吸った。

 心臓が早鐘のように打っていた。

「あの、ボクも水無月さんのこと、ずっと前から好きでした。ずっと気になってて、でも相手にされないだろうなって思ってて。だから、ボクからも改めて言います。好きです」

「え、あ、じゃ、じゃあっ!」

 椎の返事に、優香が嬉しそうに距離を詰めてくる。

「うん。末永くよろしくおねがいします」

 椎はにこりと笑って、冗談っぽく頭を下げた。

「あ、あの、よろしくおねがいしますっ!」

 優香も釣られるように頭を下げる。

 その様子がおかしくて、椎はクスっと笑った。

 優香も緊張がとけたようにクスクスと笑う。

 そして、彼女はぐったりと近くの机にもたれかかった。

「良かったーっ! 今日一日中、告白のことばっかり考えてて何もできなかったよ。ノートなんて全部白紙だったし」

 優香の脱力した様子に、椎はクスっと笑って鞄を手に取った。

「あ、ノート見る?」

「今日は勉強する気分じゃないからやめとく。あー、これで如月くんと恋人同士かぁ。あ、如月くんって呼び方も他人行儀で嫌だね。椎くんって呼んで良い?」

「うん。いいよ。えっと、じゃあ、優香、ちゃんって呼んで良いかな?」

 慣れない呼び方に詰まりながら言うと、優香は花が咲いたような笑みを浮かべた。

「うんっ。よろしくね、椎君!」

 それから思い出したように、もたれかかっていた机から立ち上がる。

「椎君って今日は部活あるの?」

 その言葉に、椎も慌てて壁時計に視線を投げた。

 授業が終わってからかなりの時間が経っていた。

「あ、もう行かないと!」

「ね、今日くらいはサボっちゃわない? 色々話がしたいな」

 ボソッと優香が言う。

 しかし椎が困った表情を浮かべると、両手を振って慌てて取り消した。

「あ、冗談だよ! ごめん! 帰る方向も逆だもんね。また夜に連絡……電話するから!」

「うん。部活終わったらすぐに電話するね。じゃ、部活あるから本当にごめんっ!」

 椎は最後に手を振って、空き教室から飛び出した。

「がんばってねー!」

 後ろから優香の声。

 心臓が早鐘のように鳴っていた。

 誰もいない廊下を走りながら、何度も優香の顔を頭に思い浮かべる。

 恋人。

 もっと早く告白しておけばよかった、と思いながら階段を下りて校庭に繋がる戸口へ向かう。

 夕焼けに照らされた校庭。その端に人影のないテニスコートが二面広がっている。

「あれ?」

 椎は首を傾げ、上靴のままテニスコートに向かった。

 しかし、いつもいるはずの友人が誰もいない。

「遅い」

 不意に、横から棘のある声をかけられた。

 びくん、と肩を震わせて反射的に振り向くと、テニスコートを囲むネットに背を預けて座る神無月弥生(かんなづき やよい)が不機嫌そうな表情を浮かべていた。

「遅れてごめん! 他の皆は?」

 謝りながら駆け寄ると、弥生はジャージについた土を払いながら立ち上がった。それに連動するように彼女の綺麗な黒髪がはらりと落ちる。

「秋村が来てたけど、椎が来ないから帰ったよ。後はバイトとサボり」

 椎の所属するテニス部には部員が四人しかいない。そして、マネージャーである弥生を入れて五人。

「せっかくだから飲む?」

 弥生はそう言って、お茶の入った容器を指差す。

 お茶を用意するのはマネージャーの仕事の一つだ。椎が来ると思ってずっと待っていたのだろう。

「うん。ほんと、ごめんね」

 弥生が紙コップを取り出すのを眺めながら、もう一度頭を下げる。

 別に気にしてない、と弥生は無表情に言って、コップにお茶を注ぐ。

「で、何で遅れたの? 先生に仕事でも押しつけられた?」

 弥生の感情の見えづらい瞳が、椎を見上げるように動く。

 椎はにこりと笑って、それからわざとらしく胸を張った。

「えっとね、それが何と! 女子に呼び出されて告白されたのです!」

 カサ、と小さな音とともに弥生の手からコップが草の上に落ちた。

 中に入っていたお茶が草むらに広がり、小さな水たまりを作っていく。

「わ、弥生、大丈夫?」

 椎の言葉を無視するように、弥生の顔がゆっくりと椎に向けられる。

 夕陽を反射した彼女の瞳が燃えるように赤く染まっていた。

「ねえ、誰に告白されたの?」

 抑揚のない声で、弥生は椎をじっと見つめたままそう言った。

 感情が全て削ぎ落とされたような声と顔色だった。

 何故か責められているような気分になり、先程までの浮ついていた気分が霧散していく。

 椎は動揺したように瞳を揺らし、弥生の機嫌をうかがうように辿々しく答えた。

「あ……あの、同じクラスの水無月さん……だけど……えっと、弥生?」

「へえ……それで、椎は何て答えたの?」

 弥生の瞳の奥で、暗い何かが蠢いていた。

 一切の嘘を許さないような威圧的な視線だった。

「あの、ボクも前から好きでしたって……」

 弥生は何も言わなかった。

 沈黙の中、彼女は転がったコップをそっと拾い上げ、それからお茶の入ったタンクを片手で持ち上げた。

「帰ろっか」

 小さく呟いて、弥生は容器を持ったまま洗い場へ歩き始める。

 椎は慌ててその後を追った。

「や、弥生?」

 椎の困惑した声を無視するように、弥生はずんずんと歩を進め、洗い場に辿りつくと無言で容器を洗い始めた。

 椎はその横で困ったように弥生の顔を覗きこんだ。

「や、弥生? ごめん。告白で浮ついて遅刻した事怒ってる? 今度から遅れる時は連絡するね」

 弥生は何も答えない。

 椎は一歩下がって息をついた。

 傾いた夕陽が洗い場を照らし出し、遠くで吹奏楽部が奏でるメロディが響く。

 不意に、水道の水が止まった。

「……部室、行こっか」

 弥生は短くそう言って、濡れた容器を手に校庭の端にある部室へ向かって歩き始めた。椎も黙って彼女の続く。

 校庭では野球部が雑談していて、遠くでは廃部の危機に晒されているラグビー部が走り込みをしていた。

「ねえ」

 背を向けたまま弥生が口を開く。

「水無月さんのこと、好きだったの?」

「う、うん。前からずっと、可愛い人だなって」

 素直に答えると、弥生はそれっきり黙り込んだ。

 沈黙が続いたまま、クラブハウスに辿りついた。テニス部の部室は一番奥にある。弥生が扉を開けて中に入り、椎もその後に続いた。

 部室は五平方メートルほどの空間で、壁際には古びた青いベンチが置いてある。その隣には棚に予備のボールが積まれ、床には誰かの荷物が散らばっている。

 あまり綺麗な部屋ではない。

「椎は」

 弥生が軋み声を上げる扉を閉めながら、軽い口調で言う。

「今まで誰かと付き合った事あるの?」

 扉を閉め終えた弥生は、次は窓際に足を進め、色褪せたカーテンを閉めた。部室が一気に暗くなる。

「全くないよ」

 弥生から何か得体の知れない雰囲気を感じ、椎は電灯をつけようと壁際のスイッチに向かいながら答えた。それを制するように、弥生が椎の腕を掴む。

「椎。そこのベンチに仰向けで寝転がって」

 弥生は無表情にそう言った。

 暗がりの中、彼女の瞳だけが妖しく光っていた。

「ど、どうして?」

 椎が困惑の声をあげると、弥生は無言で椎の肩をドン、と押した。不意打ちに踏鞴を踏んで、ベンチに座り込む形になる。

 椎は息を飲んで、弥生を見上げた。突然の弥生の行動に、理解が追いつかない。

「や、弥生?」

 弥生は答えず、ゆっくりと椎に近づいて、それから一度警戒するようにカーテンで閉め切られた窓に目を向けた。

 それからすぐに視線を戻し、椎に覆い被さるようにしなだれかかってくる。

 何が起きたのか、理解できなかった。

 弥生の唇が押しつけられ、彼女の柔らかい身体が圧し掛かってきた。

 椎は耐えきれず、そのままベンチに倒れ込んだ。それを待っていたように、弥生が上から覆い被さり、椎の両腕を拘束するように抑え込む。

 椎はくぐもった声を上げると同時に、弥生を突き飛ばそうとした。しかし、それを察知したように弥生が右手の拘束を解き、空いた手を振り上げた。

 弥生の手が振り下ろされ、鈍い音と鋭い痛みが頬に走る。一拍遅れて、殴られたのだとわかった。

「騒いだらまた殴るよ」

 暗がりに、弥生の低い声が響く。

 今まで聞いた事がない威圧的な声だった。

「弥生……?」

 何が起きたかわからないまま、弥生の手が椎の身体を撫で回し始める。

「や、弥生……」

 弥生が何をしようとしているのか、朧気に理解する。

 同時に、何故、という疑問が噴出した。

「弥生、まって、何を――」

 弥生の身体を跳ね除けようと、みじろぎする。

「動かないで」

 弥生の手が再び振り上げられ、次は腹部に振り下ろされた。

 躊躇のない攻撃だった。

 椎は呻き声を上げて、お腹を抑えながらベンチに倒れこんだ。

「すぐ終わるから」

 耳元で弥生はそう囁いて、再び唇を落とした。

 柔らかい感触。

 それから、口内に何かが侵入してくる。

 抵抗しようと弥生の肩に手を当てると、再び弥生の拳が腹部に撃ち込まれた。

 激痛に呻き声をあげようとしたところを、弥生が口で塞ぐ。

 何が起きているのか、わからなかった。

 薄暗い部室の中を、獣のような弥生の呼吸音が支配していた。

 荒々しく侵入してくる彼女の舌と、容赦無い打撃が、椎の抵抗意識をみるみるうちに削ぎ落とした。

「好きだよ、椎」

 全ての疑問に答えるように、弥生の低い声が密室に木霊した。

 そこからの流れを、椎はよく覚えていない。

 ただ、その行為には苦痛が伴った。

 弥生はぐったりとした椎の上で、貪るように腰を動かしていた。

 女性は初めての時に痛い思いをする、という知識はあったものの、男も同様に痛みを覚える場合があることを椎は初めて知った。

 それでも、機械的な終わりがやってくる。

 全てが終わった後、激しい呼吸音が暗闇の中に満ちていた。

 弥生は満足そうに椎を見下ろして、椎から離れた。そして、何事もなかったようにジャージに着替え始める。

 椎はベンチでぐったりと仰向けになったまま、そのまま彼女が無言で部室を出て行くのを見送ることしかできなかった。古びたドアが錆びた音を立てて、光のなくなった世界を映しだしていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

02話

 気付けば、マンションの前に立っていた。

 どうやってここまで帰ってきたのか記憶にない。

 暗闇の中、マンションの明かりに釣られるようにふらふらとエントランスに入る。それからパスワードを入力し、エレベーターホールへ向かった。

 タイミング良くエレベーターの扉が開き、中から若い女が出てくる。椎は女と入れ替わるように、中に入った。すれ違いざまにきつい香水の臭いが鼻をつき、吐きそうになった。次いで、軽い眩暈を覚える。

 椎はエレベーターの中で壁に背中を預け、それから手探りでボタンを押した。扉が閉まり、静かな駆動音と共にエレベーターが動き出す。一人きりになった途端、無性に泣きたくなり、椎は我慢するように天井を見上げた。

 エレベーターが目的の四階につき、扉が開く。

 椎は一度袖口で目元を拭い、それから薄暗い廊下に足を進めた。ポケットから鍵を取り出し、自室の扉に鍵を差し込む。ガチャリ、と手錠を外したような音が静かな廊下に響いた。

 扉を開けると、真っ暗な玄関と廊下が広がっていた。奥の扉が開き、母が柔和な笑顔を覗かせる。

「おかえり。随分遅かったけど、部活頑張ってたの?」

「部活終わった後、ちょっと話しこんじゃって」

 椎は曖昧な笑みを浮かべて答えた。自分でも驚くほど、すらすらと嘘が飛び出した。

「ちょっと疲れたから、部屋で休むよ。夕飯はいいや。ごめんね」

「あら、食欲ないの?」

「うん。ごめん。今日はすぐ寝るから」

 椎はそう言って、心配そうな顔をする母を振り切って自室に向かった。

 部屋に入るなり、鍵を閉めてベッドに倒れ込む。

 今は何も考えたくなかった。

 それでも、何故、という疑問が頭の中をグルグルと回る。

 椎は枕に顔を埋めて、そのまま目を瞑った。

 神無月弥生とは、入学式の時からの友人だった。

 しかし、一度も恋愛関係に繋がった事はない。それらしい兆候もなかった。

 教室では機会があれば言葉を交わすものの、昼食を一緒にとるような仲でもない。テニス部でも、特別親しい仲にある訳でもない。

 仲の良い女友達。

 それが、弥生に対する椎の評価だった。

 何故。

 何度も、その疑問が湧き起こる。

 椎は寝返りを打って、白い天井をぼんやりと見つめた。

「どうしよう」

 自然と、呟きが漏れた。

 明日、どういう顔をして登校すればいいのだろう。

 弥生と会った時、どういう対応をすればいいのだろう。

 今日の事だけでも既に整理が追いつかないのに、明日の事を考えると全身が重くなった。

 明日は休もう。

 そう考えた時、ポケットの携帯が振動した。

 突然の事に、心臓が跳ねる。

 制服のまま着替えていない事に今更気づいて、それからゆっくりと携帯に手を伸ばした。

 画面には、水無月優香からの着信が表示されている。

 椎はじっと携帯を見つめて、そのまま着信が切れるのを待った。

 昨日までなら最上の喜びに繋がったであろう優香の電話が、今は重荷にしか感じられなかった。

 しつこく鳴り響いた後、着信が切れた。

 椎は奇妙な安堵を覚え、それから携帯を枕元に放り投げた。途端、再び携帯が振動を始める。低い音が静かな部屋に響き渡った。

 責められているような気になり、椎は振動が収まるのをじっと待った。

 今度は随分長い間、電話が鳴り続けていた。

 椎はすぐに携帯を手にとって、それからメッセージを入力し始めた。

『ちょっと気分が悪くて、電話できそうにないです。明日、休むかも。ごめんなさい』

 簡素な一文を、椎は三度読み直してから送信した。それから携帯の電源を落とし、鞄の中に放り込む。

 椎は息をついて、ぼんやりと虚空を見つめた。

 高校を辞めようか、などといった自暴自棄な考えが頭を掠める。

 頭が麻痺したように、思考がまとまらない。

 学校には行きたくない。

 でも、親にはどうやって説明しよう。

 ベッドに倒れ込み、毛布を頭から被る。

 普通に学校に行く振りをして、そのままサボろう。

 そこまで考えて、椎は思考を手放し、暗闇に身を委ねた。

 

◇◆◇

 

 朝がやってくる。

 身体が酷く重たかった。

 無理矢理身を起こし、いつも通り制服に着替え、洗面所に向かう。リビングから父がパジャマ姿で現れ、眠たそうにトイレへ向かうのが見えた。

 椎は普段通りに顔を洗ってから髪を梳かした。心なしか、冷水を浴びると気が楽になった。

 洗面所からリビングに向かうと、丁度父もトイレから出て、椎に続くようにリビングに入った。母がいつもの柔和な笑みを浮かべて二人を迎える。

「椎、今日は食欲ある?」

 母の柔らかい目が、椎に向けられた。

「うん。今日は大丈夫」

「なんだ。昨夜はまた食べなかったのか? お前はもっと太ったほうが良い」

 父が席につきながら、呆れたように言う。

「うん。ごめんなさい。昨日はちょっと疲れちゃって」

「部活もほどほどにな」

 父はそれだけ言って、朝食のトーストをゆっくりと食べ始める。

 椎は、うん、と小さく頷いてトーストを無理矢理口の中に詰め込んだ。何の味もしなかった。

 それからいつも通りの時間に朝食を済ませ、椎はいつも通りの時間に家を出た。

 自転車置き場に向かって、それから昨日歩いて帰ってきた事を思い出す。自転車は恐らく、学校に置いたままだ。

 椎は溜め息をついて、学校とは反対方向にある駅を目指そうとマンションの敷地から出た。

 その時、遠くから声がかけられた。

 今一番聞きたくない声だった。

「どこ行くの? そっち、学校とは反対だよ」

 椎は、ゆっくりと振り返った。

 歩道の先に、自転車を押して近づいてくる制服姿の神無月弥生の姿があった。

 視線が絡み合うと、彼女は薄い笑みを浮かべた。

「いつもの自転車は? 盗まれたの?」

 弥生は、極自然にそう言った。

 何事もなかったように、全てが夢であったかのように。

 全く想定していなかった状況に、椎は呆然と弥生を見つめた。

 弥生は椎の前で立ち止まって、妖しい笑みを浮かべる。

「ついでだし、一緒に登校しない?」

「なん、で」

 自然と、呟きが零れた。

 弥生は小さく首を傾げる。

「どうしたの?」

「弥生、だって、家、全然違うところ、何で、ここに――」

 自然と、言葉が掠れていく。

 弥生は薄い笑みを浮かべたまま、何も答えない。

 そっと、弥生の手が椎の手と重なる。

 絡みつくように、指と指が交差する。

 その瞬間、ポケットで携帯が震えた。

 着信。

「出ないの?」

 弥生がバイブに気付いて、極自然に言う。

 椎はゆっくりとポケットから携帯をとりだし、それを耳に当てた。

「……もしもし」

『あ、椎くん? 体調、大丈夫? 今日学校来れないならノートとか届けるけど!』

 水無月優香の明るい声が妙に大きく響く。

「……いいよ。今日、学校行く事になったから」

『そうなんだ。良かった! 無理したらだめだよ?』

「うん。ごめん。通学中だから、切るね」

『あ、ごめん! うん。じゃあ、また学校でね』

 通話が切れる。

 弥生はそれを満足そうに見て、じゃあ行こうか、と繋いだ手を引っ張った。

 椎は、それに従う事しかできなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

03話

 無言で自転車を押す弥生の後ろ姿を見ていると、全てが夢であったかのような錯覚に襲われた。

 しかし、生々しい記憶の断片が椎の頭で何度も蘇り、あれが現実であったことを告げる。

 残暑を残した九月の太陽の下、椎は黙々と弥生の後に続いた。

「二限目の数学って、小テストあるよね。復習した?」

 不意に、弥生が沈黙を破った。

 いつも通りの、何気ない会話。

 椎は答えず、じっと弥生の背中を見つめた。

 何を考えているのか、わからない。

 なかった事に、したいのだろうか。

 あれは一度だけの過ちで、これからは日常の、いつもの関係に戻ろう。

 暗にそう言っている気がした。

 椎は背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、ゆっくりと口を開いた。

 酷く喉が渇いていた。

「……勉強、何もやってないよ」

「それ、まずいんじゃない?」

 弥生は振り返らない。

 椎は大きく息を吸って、言葉を続けた。

 いつも通りに、何もなかったように。

「うん、まずいよ。前の小テストもあまりよくなかったし」

「それ、結構やばいじゃん」

 クス、と笑って弥生が振り返る。

 いつも通りのどこか気怠い印象を受ける笑い方だった。

 すうっと気が楽になっていく。

 あれほど憂鬱だった弥生との顔合わせは、思っていたほど大した事がなかった。

 弥生はいつも通りで、だから、多分、あれは一度きりの間違いだったのだろう、と思った。

 何かの弾みで、日常から外れてしまっただけ。

 すぐに引き返せば、何事もなかったように全てが解決する。

 椎の思考を肯定するように、弥生は穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。

「今日、熱くない? 天気予報だと曇りだったのに」

 思わず、椎は空を見上げた。ちょうど、太陽が黒い雲に呑み込まれていくところだった。

 

◇◆◇

 

 学校に着いた時には既にホームルームが始まっていた。

 静かに教室に入った椎と弥生にクラス中の視線が集まる。担任は二人を見ても何も言わず、無言で着席を促した。どうやら見逃してくれるようだった。

 弥生は廊下側の席に、椎は窓際の席にそれぞれ向かう。途中、最後列の席に座っていた水無月優香が小さく笑いかけたのが分かった。椎はチラリと目で挨拶して、そのまま自分の席に座った。

「珍しいな。寝坊か?」

 隣の秋村傑(あきむら すぐる)が小声で話しかけてくる。傑は椎と同じテニス部の一員だ。

「今日は歩いてきたから時間かかっちゃって」

 椎はそう言って、一限目の準備を始める。傑は何か言いたそうな顔をしたが、すぐに担任の方へ視線を戻した。

「既に大学受験は始まっているようなものだ。指定校推薦を狙っている場合は、今から常日頃の行いを正し、予習復習する癖をつけておく必要がある。それ以外も同様だ。この二年で、お前たちの人生が決まると言っても過言じゃない。学歴が全てを決める訳じゃない。しかし、それによって選択肢が増減するのは事実だ。今の段階では大きな夢もなく、全入時代だからと、とりあえず進学を目指す奴が多いだろう。だからこそ、選択肢を増やす為に勉強しろ」

 担任の中年教師が何回も聞いた話を繰り返しているのを聞き流しながら、椎は何となく後ろを振り返った。

 水無月優香と目が合う。

 優香は小さく首を傾げて、可憐な笑顔を見せた。椎はその笑顔に見とれて、動きを止めた。

「家で何時間も勉強しろ、とは言わん。ただ、学校にいる間は勉強に力を入れろ。時間を無駄にするな。遊ぶ時は多い遊び、勉強する時は勉強に集中しろ.余った時点でバイトでも何でもして、色々な経験を積め」

 担任の声が大きくなり、椎は我に帰って視線を担任に戻した。

「以上」

 最後に教室を見渡して、担任は教室から出て行った。途端、教室が騒がしくなる。

「なあ、今日は部活来るか? 昨日サボっただろ」

 傑が一限目の用意をしながら声をかけてくる。椎は一瞬躊躇する素振りを見せた後、結局頷いた。

「今日は行くよ。昨日はごめん。急用が出来ちゃって」

 いつも通りに。

 日常から離れないように。

「ちょっとジュース買ってくるね」

 椎はそう言って、席から立ち上がった。

 ああ、と生返事する傑に背を向けて、教室の後ろから廊下に向かう。

 廊下に人影はなく、各教室からざわめきが漏れているだけだった。

 一階に下りて、剣道場前に続く裏口に進む。

 その時、背後から足音と共に透き通った声が響いた。

「椎くん!」

 振り返ると、水無月優香が小走りで駆け寄って来るところだった。

「飲み物買いに行くの?」

「うん。みなづ……ゆうかちゃんも?」

「うん。一緒に行こ!」

 優香は満面の笑みを零し、極自然な動作で椎の手を握った。

 とくん、と心臓が跳ねる。

「ね、今日も部活あるの?」

「うん。基本的に毎日あるよ。ボクと傑以外はあまり来ないけど」

「へえ。皆あまり熱心じゃないんだね」

「顧問も何も言わないから」

 自販機に辿りつき、椎は足を止めて無言で優香に先にいくように促した。

「椎くんは、何飲む予定?」

「カフェオレ」

「じゃあ、私も!」

 優香はそう言って、財布から硬貨を取り出す。自然と、椎の視線は優香の横顔に吸い寄せられた。綺麗だった。

 カラン、と軽い音とともに取り出し口に紙パックが落ちてくる。優香はそれを取り出して、一歩後ろに下がった。椎は一歩前に出て、優香と同じように財布から硬貨を取り出し、自販機がそれを呑み込んだ。その後ろで、優香が紙パックにストローをいれて、口に含む。椎はその様子をぼんやりと眺めながらボタンを押した。次いで、取り出し口から紙パックを取り出すと、何故かいちご牛乳の紙パックが手に収まっていた。どうやら、ボタンを押し間違えたらしい。

「あれ? いちご牛乳にしたの?」

 優香も気づいて、声をかけてくる。

「ボタン押し間違えちゃったみたい」

 椎が苦笑いしながら言うと、優香は少し考える素振りを見せてから、はい、と飲みかけのカフェオレを差し出した。

「一口飲んじゃったけど、交換しよ!」

 半ば強引にイチゴ牛乳が奪われ、カフェオレが押しつけられる。椎が何か言う前に優香はいちご牛乳にストローを差し込み、笑顔でストローを口に含んだ。

 椎はその様子を見て何度か瞬きしてから、機械的にストローを口元に持っていった。いつもより甘ったるい味がした。

「椎」

 不意に、低い声がした。声のした方に目を向けると、裏口の前に神無月弥生が無表情で立っていた。

「テニス部のことで、話がある」

 弥生はそう言って、椎の隣に立つ優香に冷たい目を向けた。

 優香がその視線に気づき、申し訳なさそうに両手を顔の前で合わせる。

「あ、ごめん。じゃあ私先に行くね」

「え、あ、うん」

 椎が言い切る前に、優香が弥生の横を通り過ぎて校舎の中に消えていく。

 後には、椎と弥生だけが残された。

 弥生は無言で椎に歩み寄ると、椎の手から紙パックを奪い去り、それをゴミ箱に向けて放り投げた。中身がぶち撒かれながら、ゴミ箱の前に落ちる。

 冷水をかけられたように、一瞬にして全身が硬直した。

「や、弥生?」

 椎の問いかけに弥生は何も言わず、財布から硬貨を取り、自販機に突っ込んで新しいカフェオレを取り出す。それを椎の手に握らせてから、ねえ、と低い声をあげた。

「今日、いつも通りに部活来るよね?」

 確認するように言いながら、弥生の手が突然椎の腰に触れ、それから撫で回すようにお尻の方へ移動する。

 椎は金縛りにあったように動く事ができなかった。

「ねえ?」

 吐息が首元にかかるほどの距離で、弥生が質問を繰り返す。

 その間、弥生の手が椎のお尻を鷲掴みにした。それから揉みしだくように激しく手が動き出す。

「……うん……行くよ」

 何とか声を絞り出すと、弥生は手を止めて満足そうに笑った。

「椎のそういう仕草、本当に可愛い」

 それから、弥生はストローを取り出して紙パックに差し込んだ。そして、ゆっくりと口に含み、それを椎に向ける。

「ほら、飲んで」

 奇妙な圧力を覚え、椎は言われるがままに弥生が口を付けたばかりのストローで一口飲んだ。何の味も感じられなかった。

「放課後が楽しみ」

 弥生は妖艶な笑みを残し、残ったジュースを飲みながら椎に背を向けて校舎の中に消えていった。椎は、チャイムが鳴るまでその場から動く事ができなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

04話

「飯行こうぜ」

 傑の声で、椎は四限目の授業が終わった事に初めて気づいた。何も書いていないノートと教科書を慌てて鞄に放り込み、立ち上がる。ホームルーム後の出来事が頭の中でずっと繰り返され、全く授業に集中できなかった。

「椎? 大丈夫か?」

 傑が怪訝な表情を浮かべる。

 椎は、何が? といつも通りに振る舞った。

「お前、ずっとぼんやりしてないか? 寝不足か?」

「昨日、寝る前に古いゲームにはまっちゃって」

 その説明に、傑が納得したように、ほどほどにしろよ、と呆れ気味に言って歩き出す。椎もそれに続き、二人揃って教室を出た。

 椎と傑は基本的に食堂で昼を摂る事が多い。その例に漏れず、今回も二人は食堂を目指して一階におりた。一階の廊下は一年生で溢れ返っていた。

「混んでそうだな」

 傑が面倒臭そうに言って、人混みを掻き分けていく。椎は傑の後を追って、楽に人混みを進む事ができた。

 校舎の外に出ると、テニスコートを三年生のグループが使っているのが見えた。その光景をぼんやりと見つめながら、ゆっくりと足を進める。

「あの人、上手いな」

 前を歩く傑がポツリと言う。傑の言う通り、一人だけ経験者らしい動きを見せる三年生がいた。

「もっと前に見つけてたら絶対勧誘してたんだけどな」

 傑は残念そうに呟いて、すぐに興味を失ったように視線を外した。

 テニス部は基本的に緩い部員で構成されている。その中で、傑はこの現状に満足していない事を度々漏らしていた。

 食堂に辿りつき、冷房が効いた中に入る。既に券売機の前には行列ができていた。

「席、とっといてくれ」

 傑が券売機に向かって歩き出す。椎は慌ててその背中に声をかけた。

「ボクの分はカツ丼でお願い!」

「ああ、わかったよ」

 傑は振り返らずに返事だけして、人混みの中に溶けていった。

 残された椎はキョロキョロと周囲を見渡して、近くの誰も座っていないテーブルに座った。鞄を隣の席に置いて、傑の席も確保する。

「ね、ここ良い?」

 不意に、女の声がした。

 顔を上げると、菓子パンを手に持った水無月優香が向かいの席に立っていた。

「あ、えっと、傑も――秋村もいるけど良いかな?」

「うん。こっちも怜奈と亜樹がいるから」

 視線をずらすと、優香の後ろに同じクラスの島田怜奈(しまだ れな)と倉井亜樹(くらい あき)の姿があった。

 怜奈は真っ先に斜め向かいの席に着くなり、ニヤニヤと椎に目を向けてきた。

「如月さあ、優香とはもうキスしたの?」

 かあっと頬が熱くなるのがわかった。

 それを見て、怜奈が声をあげて笑う。

「うわ、漫画みたいに真っ赤じゃん」

「怜奈!」

 優香が窘めるように声を荒げると、怜奈はごめんごめん、と笑いながら謝って、それから優香に目を向けた。

「ふーん。如月と優香がねぇ。まあ、結構合ってるんじゃない?」

「そ、そうかな?」

 優香が満更でもなさそうな顔をする。

「お互い自己主張しないタイプだよねー。如月が男らしくリードしないと進展しなさそうー」

 それまで黙っていた亜樹が値踏みするように椎を見つめて言い、怜奈の隣に座って弁当を広げ始める。

 椎は困ったように笑って、努力します、と冗談っぽく返すに留めた。

「椎くんは何食べるの?」

 優香が向かいの席に腰を下ろしながら言う。

「今日はカツ丼の予定。今、秋村がまとめて買いに行ってくれてる」

「何? 如月って秋村をパシってんの?」

 怜奈がからかうように言う。椎は不服そうに怜奈を見やった。

「ボクが行くと人混みに呑まれそうだからって、いつも秋村が買いに行くんだよ」

「お前、チビだもんな」

 怜奈が笑いながら菓子パンの包装を破り始める。

 ずっと怜奈とばかり話している気がして、椎は優香に目を向けた。

「優香ちゃんは、いつも食堂で食べてるの?」

「うーん、結構バラバラだよ。教室だったり、中庭だったり、食堂だったり。強いて言えば、教室が一番多いかな」

 でも、と優香は柔らかい笑みを浮かべて言葉を続けた。

「椎くんはいつも食堂みたいだから、私もこれからは食堂で食べるつもり」

 椎は優香の笑顔に目を奪われ、息を止めた。

 全ての喧騒が遠ざかり、優香の微笑みだけが五感を支配する。

「なんだ。今日は島田たちも一緒なのか」

 不意に、背後から傑の声が届く。同時に椎の前にカツ丼が置かれた。

 振り向くと、物珍しそうに怜奈たちの方を見る傑の姿があった。

「おじゃましてまーす」

 怜奈がひらひらと手を振って言う。

 傑は、ああ、と小さく頷いて椎の隣に腰かけた。

「カツ丼、ありがと。助かったよ」

「ああ。席サンキューな」

 傑はそれだけ言って、そそくさと日替わり定食を食べ始める。

「えっと、秋村くん、私達がいると迷惑かな?」

 無言の傑を見て、優香が躊躇したように言う。

 傑は顔を上げて、いや、とそれを短く否定した。

「えっとね、傑はいつも食べてる時は喋らないから。怒ってるわけじゃないよ」

 不器用な友人に思わず苦笑してフォローすると、優香は安堵したように小さく息をついた。

「ね、明日も一緒に食べて良い?」

「ああ。好きにするといい」

 傑はそれだけ言って、食事を再開する。

「ま、男二人で食うより華やかで良いだろー?」

「もっと美人が相手なら文句ないんだがな」

 ぼそっと呟いた傑に、玲奈が面白くなさそうな顔をする。

 こうして、穏やかに昼休みは過ぎていった。

 二十分ほどかかって全員が食べ終わると、五限目の用意してくる、と言って傑が席を立った。

 それに釣られるように、僕も、とお盆を持って立ち上がる。

「オッケー。私たちはまだ残ってるから」

 怜奈が言って、それに優香と亜樹が頷く。

「じゃあね」

 椎はそう言って、傑とともに返却口に向かって歩き出した。

「ついでに何か買っていくか」

 お盆を返却すると、傑は傍にあった自動販売機の前で立ち止まり、硬貨を入れた。

「椎は何か飲むか?」

「僕はやめとく」

「そうか」

 取り出し口からコーヒーの缶を取り出す傑を見つめていると、ふと背後に視線を感じて椎は振り返った。

 人で溢れる食堂。

 その奥。

 遠くで数人の女子と食事をしている弥生と目が合った。

 黒く、濁った瞳。

 弥生はただじっと椎を見つめるだけで、何も行動を起こそうとはしない。

「行くか」

 傑が言う。

 椎は弥生から視線を外して、うん、と歩き始めた。

 食堂から出る直前にもう一度振り向くと、じっとこちらを向いたままの弥生と目が合った。椎はその視線から逃げるように食堂を後にした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

05話

 六限目が終わり中年の担任教師が最後の連絡を済ませると、教室は喧騒に包まれた。

「部活行くか」

 傑が鞄を背負って急かす。

 椎は頷いて、雑談を始めたクラスメイトの間を縫って廊下に出た。

「如月、今から部活?」

 別のクラスから出てきた数人の友人が声をかけてくる。

「うん。ちょっと急いでるからまたね」

 椎はそう言って、先にどんどん進む傑の後を追った。

 校舎を出て、クラブハウスへ向かう。

 野球部の部室前に数人の一年生がいるのが見えた。どうやら、一年生は先に授業が終わったらしい。

 椎と傑は野球部の部室を横切って、一番奥にあるテニス部の部室の鍵を開けた。

 中に入るなり、傑は機嫌が良さそうな様子で手早く服を着替えて三分もかからずに出て行ってしまった。椎はその様子を苦笑して見送って、ゆったりと服を着替えた。

 遅れてコートに出ると、既に傑は準備体操に入っていた。椎もラケットをネットに立てかけて、その隣で軽いストレッチを始める。

「まずはサーブ練習でもするか」

 傑はそう言って、ボールの入った籠を片手にベースラインまで下がる。

 椎もいつも通り、対角線上のサービスライン後方まで下がった。

「始めるぞ」

 傑が声を張り上げ、ボールをトスする。直後、傑の腕が円を描くように動き、浮き上がったボールが気持ち良い音とともに弾き飛ばされた。

 地を蹴り、手前に落ちたボールを拾い上げて空いたスペースに叩き返す。傑はそのボールを追わず、すぐに籠から次のボールを取り出し、サーブを始める。

「椎君、がんばれー!」

 不意に、黄色い声がコート外からあがった。

 反射的に声のした方をちらりと見ると、優香と亜樹の姿があった。

 心臓が、とくん、と跳ね上がる。

「椎!」

 傑の声に視線をコートに戻す。ボールがネットを超えたところだった。

 一歩下がって、態勢を崩しながらラケットを無理やり振り抜いてレシーブする。

 それを確認した傑がすぐに籠からボールを取り出し、機械的な動作でトスする。その動作には乱れがない。傑は本気でテニスをやっていて、椎より遥かに高い技量を持っている。

 有り体に言えば、その技量から傑は孤立していた。他のテニス部のメンバーは本気で部活に取り組もうとはしていない。傑に付き合って毎日のように部活に参加しているのは椎とマネージャーの弥生だけだった。

 椎は小さく息をついて、次のサーブに備えてラケットを構え直した。

 籠の中のボールがなくなるまで、二人の練習は続いた。

「いつからだ」

 練習後、散らばったボールを拾っていると傑が小声で言った。

「なにが?」

 首を傾げると、傑はコートの外に立つ優香と亜樹に無言で目を向けた。

「ああ、えっと、昨日から」

「なるほど。初々しいわけだ」

 傑は納得したように頷いた。

 それから笑って、短く言う。

「似合っているよ」

「えっと、そうかな。ありがと」

「ああ。十分休憩をいれよう。水分とっとけよ」

 傑がボールの詰まった籠を持って、コートの外に向かって歩き始める。椎もラケットを置いて、それに続いた。

「お疲れー」

 優香が満面の笑みで傑と椎を出迎える。椎は柔らかい笑みでそれに答えた。

「テニス部って本当に椎くんと秋村くんしか来てないんだね」

「うん。一年生の子が一人いるんだけど、バイトが忙しいみたい。他に先輩が一人いるけど、こっちは部活自体に熱心じゃないから」

 椎はそう言って、軽く背伸びした。ポキリ、と小気味良い音が腰から響く。

「椎」

 不意に、低い声が響いた。

 ゆっくりと振り返ると、優香と亜樹の背後に制服姿の弥生が無表情で立っていた。

「雑談もいいけど、先に水分補給したら?」

 弥生はそう言って、お茶の入った容器を地面に置いた。

 それから、もう片方の手に持っていた紙コップの束を容器の上に重ねる。

「あ、うん……そう、だね」

 椎は絞り出すように答えて、優香を横切って弥生の前まで足を進めた。

 胃の中に重りが詰め込まれたような、奇妙な重みが身体に圧し掛かっていた。

 椎がコップを手に取ると、弥生は一瞬満足そうな笑みを浮かべ、それからすぐに冷え切った瞳を優香に向けた。

「水無月さんは、椎を待ってるの?」

「う、うん。そうだよ」

 弥生は、残念だけど、とあまり残念そうな様子を見せずに告げた。

「残念だけど、今日は椎が後片付けの当番だから遅くなるよ。今日はもう帰ったら?」

「あの……遅くなるって、どれくらい?」

 おずおずと優香が問いかけると、弥生は少し考える素振りを見せてから微笑を浮かべた。

「さあ。どれくらいかな。でも、今日は随分と遅くなると思う。ねえ、椎?」

 弥生の暗い双眸が、椎に向けられた。粘りつくような視線だった。

「え、あの」

 意味をなさない声が喉から零れた。

「部活後、色々やることあるでしょ? ほら、色々さ」

 弥生の瞳には、深い暗闇が広がっていた。

 椎は反射的に、肯定の返事を口から絞り出した。

「あ……うん、そう、だね」

 弥生は椎の返事を聞いて満足そうに頷き、優香に視線を戻した。

「そういうわけだから、今日はもう帰ったら?」

「えっと……」

 優香の瞳が迷うように揺れる。

 弥生は薄い笑みを浮かべて、そんな優香の様子をじっと見つめていた。

 沈黙が訪れようとした時、それまで優香の横で黙っていた亜樹が不意に口を開いた。

「あのさ、もしかして私達って練習の邪魔になってる?」

「いや、俺は構わないよ」

 すぐに傑が答えた。

 自然と弥生と優香の視線が残った椎に集中する。

 椎は優香と弥生を交互に見つめた後、ゆっくりと慎重に言葉を選びながら口を開いた。

「僕も見学くらい邪魔なんて思わないよ。でも、今日は片付けで遅くなるから早めに帰った方がいいと思う」

 弥生と優香がこれ以上一緒にいると良くない事が起きる気がした。

 優香は、そっか、と素直に頷いた。

「うん、じゃあ、私達はもう帰るよ。部活頑張ってね」

 優香はそこで言葉を切って、それから真っすぐに椎を見つめた。

「夜、また連絡するね」

 そう言って、優香は椎たちに背を向けた。

 亜樹もチラリと弥生に目を向けてから、すぐに優香と並ぶように去っていった。

「なあ、後片付けってそんなに時間かからないだろ」

 傑がお茶を汲みながら、不思議そうに言う。

 椎は傑から視線を外して、うん、と曖昧に濁した。

「次のサーブ、僕の番だね」

 そう言って、逃げるようにコートへ向かう。

 遅れてお茶を飲み終えた傑がコートに出てきた。

「行くよ」

 籠からボールを取り出し、対角線上に立つ傑に向かってサーブする。

 ボールはサービスラインを僅かに越えて、フォルトとなった。ボールがコート外に垂れ下がったネットの近くまで転がっていく。その先には、先程まで優香がいた位置に立つ弥生の姿があった。弥生は椎の視線に気づくと、静かに微笑んだ。

 怖い程、穏やかな笑みだった。

 

◇◆◇

 

 練習が終わったのは、午後六時を少し回った頃だった。

「椎、今日は整地当番だよね」

 釘を刺すように、弥生が言う。

 コートは芝ではなく、土で構成されている。練習後は交代で部員が整地する事になっていた。

「じゃあ後は頼んだ」

 傑がタオルで額を拭いながら言う。椎は、うん、と小さい声で答えた。

「随分疲れてるみたいだな。整地、軽くやるだけでいいぞ」

 最後に傑はそう言い残して、クラブハウスの方へ消えていった。

 残された椎は、コート外で立ったまま動かない弥生におずおずと目を向けた。

「弥生は、帰らないの?」

 弥生は薄い笑みを浮かべるだけで、何も答えない。

 椎は重い足取りでコート外の端に立てかけられていたトンボに向かい、それを引きずり始めた。ちょうど、野球部がクラブハウスへ戻っていくところだった。急速に空が暗くなり始める。

 静かになったグランドで、椎は黙々と整地を続けた。

 弥生は何も言わず、ただ絡みつくような視線を向けてくるだけだった。

 五分ほどで整地作業は終わった。トンボを元にあったところへ立てかけた時、それまで微動だにしなかった弥生が動いた。

「ねえ、椎」

 薄暗いコートを横切り、弥生が近づいてくる。

 辺りは酷く静かで、弥生の足音だけが夕闇に小さく響いた。

「ようやく、二人っきりになれたね」

 弥生はそう言って、椎を優しく抱きしめた。

 さわり、と弥生の手が椎の胸元に触れる。

 椎は全身を硬くして、息を止めた。

「椎の匂いがする」

 弥生が首元に顔を埋め、小さく囁く。

 椎は抵抗もせず、耐えるように目を瞑った。

「ねえ」

 腰に回された腕が強まり、自然と弥生の柔らかい肢体が押しつけられる形になる。

 胸元を撫でまわしていたもう片方の手がゆっくりと下の方へ移動を始めた。

「部室、行こうか」

 弥生はそう言って、ゆっくりと椎から離れた。

 椎は金縛りが解けたように大きく息を吐いて、一歩後ずさった。

「ほら、早く」

 右手を掴まれ、そのまま引っ張られるように歩きだす。

 椎は一瞬躊躇した後、ねえ、と声を上げた。

「ねえ、弥生、もうやめよう」

 弥生は何も言わず、歩き続ける。

 返事の代わりに、握られた右手が折れそうなほど強く掴まれた。

 椎が小さく悲鳴をあげると、弥生はすぐに力を抜き、そのまま何事もなかったかのように無言で前に進み続けた。

 抵抗が無駄であることを知り、椎は大人しく弥生に従って後に続いた。

 クラブハウスに着くと、弥生は他の部室に誰もいない事を注意深く順番に確認し、それからテニス部の扉を開けた。蛍光灯に頼りない明かりが灯り、椎が中に入ると同時に扉が閉められる。

「……さっきの続きしよっか」

 弥生はそう言って、椎を壁に押し付け、それから身体をまさぐり始める。

 椎は諦めたようにぐったりと身体の力を抜き、目を瞑った。

 そして、椎にとって苦痛でしかない行為が始まった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

06話

 暗闇に荒い息遣いが響く。

 椎は疲労と虚脱感でぐったりと項垂れながら、汗ばんだ肢体を絡みつかせてくる弥生をぼんやりと見つめた。

 視線に気づいた弥生が、クスリと笑う。

「ねえ」

 囁くように、弥生は小声で言った。

「キスしようか」

 次の瞬間には弥生の腕が背中に回され、柔らかい唇が押しつけられた。直後、生温かいものが唾液とともに口腔内に侵入してくる。

 椎はそれをじっと受け入れながら、何故こうなったのか、についてぼんやりと思考を巡らせた。

 神無月弥生と初めて出会ったのは、入学後、テニス部に仮入部した時だった。

 当時は三年生が五名、二年生が二名しかいなかった為、初日に仮入部の申請をした椎と弥生は熱烈に歓迎された。そんな中、弥生は上級生に対して無表情に頭を軽く下げるだけで、無愛想な子だな、と感じたことを覚えている。

 神無月弥生は、酷くドライな性格をしていた。

 何事にも無関心で、感情の起伏を他人に見せることが少なかった。それは思春期特有の無気力さに類する幼さの表れのようにも見えたし、あるいは逆に達観した大人びた雰囲気を纏っているようにも見えた。神無月弥生という人物像を掴む事は、難しかった。それは他のクラスメイトも同様だったようで、初めは周囲も彼女を避けられる事が多かった、と椎は他のクラスメイトから聞いた事があった。

 振り返れば、一年生の頃の弥生は、テニス部以外の生徒と関わりがなかったように思える。無愛想な性格に、どこか冷徹な印象を他人に与える端麗な容姿が重なった結果だろう。しかし、二年生に上がってからはいつの間にか特定の女子グループと付き合っている姿をよく見るようになった。相変わらず気怠い様子を見せる事が多かったが、少しだけ愛想良くなったように見えて、椎はそんな弥生の変化を内心喜ばしく思っていた。

 椎と弥生の関係はそれだけで、それ以上の繋がりはどこにもなかった。

 部活を通したどこにでもあるレベルの交友関係。それだけの、はずだった。

「そろそろ、終わりだね」

 名残惜しそうに彼女はそう言って、唇を離す。

 それからすっと立ち上がって、何事もなかったように制服に着替え始める。

「また明日」

 最後に確認するように弥生は椎に暗い目を向けて、扉の向こうに広がる暗闇へ溶けていった。

 残された椎の瞳から流れる雫には、誰も気づかない。

 

◇◆◇

 

「昨日も遅かったけど、最近部活忙しいの?」

 帰宅後、椎を出迎えた母は心配するようにそう言った。

 椎はただ、うん、とだけ答えてすぐに浴室へ向かい、シャワーを浴びた。胸元に残った爪痕を、椎は無感動に見つめ、上書きするようにボディソープを塗った。

 傷は、消えなかった。

 浴室から出ると、いつの間にか帰ってきていた父がリビングから顔を覗かせ、早く食事を済ませろ、と短く言った。

 椎は、食欲がない、と言ってそのまま自室に向かい、鍵を閉めた。

 全てが嫌になってベッドに倒れ込み、目を瞑る。

 鞄の中で携帯が震える音が聞こえ、椎は無視するように両耳を塞いだ。すぐに振動が収まり、静寂が戻る。

 そして、椎は静寂の中に意識を沈めていった。

 

 朝。

 重い身体を起こし、椎はリビングに向かった。

 父が既に朝食を食べていて、椎が起きてきた事に気付いた母が、おはよう、と気遣うような笑みを浮かべた。

「最近、調子悪いの?」

「少し疲れてるだけだよ。ごめんね」

 椎はそう言って席に座り、機械的に朝食を食べ始めた。

 先に父が朝食を終え、いつものように家を出る。

 椎は、行ってらっしゃい、と言って残りのトーストを口に無理矢理詰め込んだ。

 登校時間が迫り、憂鬱な気分で家を出た。

 マンションの一階に下りて、エレベーターホールから出る前に椎は深呼吸し、恐る恐ると自動ドアをくぐって外に出た。

「おはよう」

 横から女の声がした。

 弥生の声ではない。

 振り向くと、自動ドアの横に水無月優香が座り込んでいた。

 予想していなかった彼女の登場に、思わず足が止まる。

「優香、ちゃん?」

 反射的に呼びかけると、優香は弱々しい笑みを浮かべて立ち上がった。

「いくら電話しても出ないから、心配で来ちゃった」

「電話?」

 少し考えてから、寝る前に鞄の中で携帯が震えていた事を思い出し、椎は反射的に携帯を取り出した。

 着信十四件という文字が視界に飛び込んでくる。

 その全てが優香からのものだった。メッセージも二十六件届いていた。

 携帯を操作する指先が自然と止まり、椎は思わず優香を見た。

 優香は表情を変えずに、弱々しい笑みを見せる。

「あ……ごめん、昨日、疲れてたから早めに寝ちゃって」

 椎は言葉に迷った後、素直に謝罪の言葉を口にした。

「椎くんって、あんまり携帯を確認したりしないの?」

 優香が頬を膨らませ、不満そうに言う。

 電話をかけすぎた、といった反省の色は見られない。椎とは電話やメッセージの頻度について、少し感覚が違うらしかった。

「寝る前に確認とかもあまりしないかな。ごめん。見落とすこと多いかも」

「気づいたらちゃんと返してよね。寂しいから」

 優香の手が椎の手に自然と絡まる。柔らかく、女の子らしい手だった。

「お説教は終わりです。ほら、行こ?」

 優香が恥ずかしそうに頬を赤らめ、優しく手を引く。

 椎は彼女の表情に目を奪われ、うん、と上の空で答えた。

 彼女の髪が風で揺れ、ほのかに甘い香りがした。

 優香に引っ張られるように、マンションの敷地を出る。

 椎は反射的に周囲を見渡した。

 弥生の姿は、見当たらなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

07話

「なんだか、夢みたい」

 手を繋いで並んで通学路を歩いていると、優香は幸せそうに笑みを零した。

「こうして椎くんと並んで登校できるなんて、ちょっと前だったら全く考えられなかった」

 繋いだ手が、ぎゅっと強く手を握られる。

「私ね、ずっと椎くんのこと遠くから見てたの。教室でもそうだし、テニスやってるところもそう」

 優香の笑みに、椎は曖昧な笑みを返した。

 頭の中には、薄暗い部室で肢体を絡ませてくる弥生の体温と、息遣いがリフレインしていた。

 乱暴な弥生の手と違って、優香は控えめに手を重ねているだけで、その違いに罪悪感のようなものが募った。

 大通りに出て、赤信号で立ち止まる。

 椎は優香の横顔をチラリと見て、それから迷うように口を開いた。

「明日、休みだよね。優香ちゃんは予定とかある?」

 優香が驚いたように振り返る。それからすぐに笑顔で、ううん、と頷いた。

「じゃあ、良かったら一緒にどこか遊びにいかない?」

「うん!」

 彼女は満面の笑みを浮かべて、嬉しそうに何度も頷く。

 その様子に椎は苦笑混じりに言葉を続けた。

「と言っても、まだ全然プラン考えてないんだけど」

「じゃあ、一緒に考えようよ。椎くんの好みとか、色々知ることができるし一石二鳥だね!」

 信号が青に変わる。

 椎は微笑んで、優香と手を繋ぎ直して横断歩道を進んだ。

 学校に近づくと、椎たちと同じ制服に身を包んだ生徒の姿がちらほらと見えるようになった。その中に見知った顔を見つけ、椎は声をあげた。

「空(そら)先輩!」

 数メートル先を歩いていた長身の男が振り返る。

 橋原空人(はしはら そらと)。テニス部に所属する唯一の三年生で部長を務めている。

 空人は椎を見るなり、意外そうな顔を浮かべた。

「よお。久しぶりだな」

 それから、隣の優香を見て眉を寄せる。

「その子、彼女か?」

「え、あ、はい」

 反射的に繋いだ手を離そうとすると、優香の手に力が入った。

「はじめまして。椎くんとお付き合いしている水無月優香といいます。テニス部の部長さんですか?」

 上級生相手に物怖じする様子もなく、礼儀正しく頭を下げる優香を空人が観察するように見る。

「ああ、そうだが……」

「椎くんの練習してるところ見学させて貰う事が度々あると思います。よろしくお願いします」

 優香はそう言って、ニコニコと空人を見上げる。

「……俺は殆ど部活に顔を出してない。上級生の目をわざわざ気にする必要はないぞ」

 空人はそこで一度言葉を切って、じっと椎を見据えた。

「それよりも意外だな。別の子と付き合うと思ってた」

「え?」

 問い返すと、空人は意味深な笑みを浮かべて、何でも無い、と首を横に振った。

「それより、今日こそは部活来るんですか?」

「すまないが、今日も休ませてもらう。スタジオの予約入れてるんだ」

 空人は微かに身をよじり、背中に担いだギターケースを見せた。

「わかりました。傑にも伝えておきます」

「いつも悪いな。俺はどうせもう引退だ。二年のお前らが好きにやればいい」

 空人は最後に優香に目を向け、思い出したように言った。

「少し頼りない後輩だが、よろしく頼む」

「え? あ、は、はい」

 優香が慌てたように頭を下げる。

 空人は椎たちに背を向け、颯爽と校門に向かって歩き始めた。

 優香がその後ろ姿を見つめながら、何が嬉しいのかにやにやと笑みを浮かべる。

「少し頼りない椎くんをよろしくされちゃった。これで周りからも公認だね」

「……あんまり付き合ってる事を広げすぎると変な噂になるからほどほどにね」

「だめだよ」

 普段聞かないような、低い声だった。

 思わず、優香を見る。

 真顔の彼女と視線があった。

「ちゃんと交際してる事を周知していかないと、変な子が寄ってきたりするでしょ」

「え?」

「わたし結構嫉妬深いから、どんどん皆に言っていくよ。椎くんのこと、大好きだもん」

 それから、優香は照れ隠しのように椎の手を強く引っ張った。

「ほら、行こ。チャイム、鳴っちゃうよ」

 椎は頷いて、一緒に校門を抜けた。

 一瞬だけ、優香と弥生の表情が重なったような気がした。

 

◇◆◇

 

 昼休みの食堂。

 いつも通り二人分の席をとって、傑が食券を買ってくるのを待っていた。

 明日の優香とのデートに思いを巡らせる。

 初デートだ。軽く遊ぶ程度で良いだろう。

 カラオケでも行って、一緒にご飯を食べて。無難なコースを計画していく。

 不意に、後ろで誰かが立ち止まった。

 ぼんやりと振り返ると、椎を見下ろす黒い瞳があった。

 弥生だった。

「ねえ、ここ空いてるよね?」

 弥生はそう言って、椎の返答を聞く前に正面の椅子に腰を下ろした。

 椎は顔を強張らせて、無表情な弥生をじっと見つめた。

「弥生、何で、いつもは別の人と――」

「たまには良いじゃない。なに? 嫌なの?」

 遮るように、弥生が暗い眼差しを向けてくる。

 椎は言葉を失って、嫌じゃないけど、と目を逸らしながら小さく答えた。

「あれ? 今日は神無月も一緒なの?」

 怜奈の声。

 視線を戻すと、弥生の後ろに怜奈、優香、亜樹の三人の姿があった。

 怜奈は許可も取らず、それが当然のように弥生の隣に座り、それから優香を椎の隣に座るように促した。残った亜樹が弥生のもう片方の隣の席につく。

「あの、ごめん。もしかして部活のことで何か大事な話でもしてた?」

 優香がおずおずと言う。

 弥生はチラリと優香を一瞥して、別に大丈夫だから、と素っ気なく答えた。

 その反応に優香は安堵したように柔らかい笑みを浮かべ、椎とくっつくように並んだ。途端、弥生の黒い瞳がゆっくりと椎に向けられ、粘りつくように固定される。椎はその視線に気がつかなかった振りをして、何もないテーブルをじっと見つめた。

「今日は随分と多いな」

 後ろから声がした。

 隣の残った席に傑がやってきて、椎の分の定食をテーブルの上に置いた。

「今日もお邪魔してまーす」

 怜奈が傑に向かって手を振る。

 傑は、ああ、と短く答えながら割り箸を割って、椎と同じ定食を食べ始める。

 椎もそれに倣って、食事を始めた。

 隣で優香が弁当箱の包みを広げ始める。怜奈や弥生もそれに続いた。

「あ、それ、美味しそう」

 隣の優香が椎の定食を覗きこんで目を輝かせる。椎は箸を止めて、優香をチラリと見た。

「食べる?」

「食べる!」

 即答する優香に椎は小さく笑って、はい、とトレイごと優香の方に押し出した。優香が嬉しそうな顔で小さなコロッケを箸でつまみ、口へと丁寧に運ぶ。すぐに優香の頬が綻んだ。

「これ、お返し!」

 そう言って、優香が自分の弁当箱から卵焼きを取り出し、椎の皿に乗せる。その様子を見ていた怜奈が呆れたように言った。

「あーあ、見てられねえわ。妬けるねえ」

「予想以上に順調そうじゃん」

 亜樹が携帯を見ながらどうでも良さそうに相槌を打つ。

 それに乗じるように、弥生が表情のない顔で言った。

「今日の朝も、一緒に登校してたでしょ」

 椎は思わず弥生の顔をじっと見つめた。

 弥生の家は、椎の家から随分と離れたところにある。登校ルートが被るようなことは有り得ない。椎と優香が一緒に登校しているところを弥生が見ているはずがない。

 背筋に寒気が走った。

 やはり、今日もマンションの前で待ち伏せしていたのかもしれない。たまたま優香が来たから引き下がっただけで、ずっと見られていた可能性が高い。

 椎は動揺を隠すように、無言で目の前の定食に箸をのばした。

 早く昼食を片づけて、この場から逃れたかった。

「ね、明日のことだけど、椎くんはどこか行きたい場所ある?」

 椎とは反対に、ゆっくりと食事を続けている優香がにこにこと問いかけてくる。

 椎が何か言う前に、怜奈が食いついた。

「何? どっか出かけんの?」

「うん。初デート!」

 優香が嬉しそうに答えると同時に、正面の弥生が立ち上がった。

 椅子が床に擦れ、低い音が鳴り響く。

「ごちそうさま」

 弥生はそう呟いて、席を離れていく。

 それから、思いついたように振り返って、短く言った。

「椎。食べ終わったら部室に来て。話がある」

 椎は表情を凍らせて、視線を下げた。定食は、殆ど残っていなかった。

 周囲の喧騒が、遥か遠くのもののように感じられた。

「部活、大変だね」

 優香は何の疑いもなく笑いかけてくる。

「それでね。どこか行きたい場所ある? 何でもいいよ」

「……ごめん、まだ何も思いついてないや。考えておくね」

 椎はそれだけ言って、残りの昼食にゆっくりと手をつけた。

 思考が定まらず、何も考える事ができなかった。

「あ、うん。急に聞かれても困るよね。じゃあ、うん、適当にブラブラする?」

「そう、だね」

 椎はそれだけ言って、立ち上がった。そして、呟く。

「ごめん、もう行くね。ごちそうさま」

「え?」

「また電話するから」

 椎はそう言い残して、お盆を持って返却口に向かった。

 機械的にお盆を置き去り、そのまま出口へ踵を返す。

「椎、顔色悪いぞ。大丈夫か?」

 元いたテーブルの近くを通り過ぎた際、傑が心配そうに声をかけてきた。

 椎は曖昧な笑みを浮かべ、大丈夫だよ、と告げた。それから食堂を出て、真っすぐ部室を目指す。

 昼休みのクラブハウスの周囲には、人の気配がなかった。

 一番奥の扉を開き、中に入る。

 暗闇の中で神無月弥生が待ちかまえていた。

 弥生は椎の姿を認めると同時に口端を吊りあげ、明かりつけて、と言った。扉の近くのスイッチを押すと、頼りない照明が椎と弥生を照らし出した。

「こっち来て」

 言われるがままに、椎は弥生の近くまで歩み寄った。

 弥生はじっと椎を見下ろし、唇を舐める。

「その場で跪いて」

 椎は何も言わず、黙って膝をついた。

 弥生は満足そうな笑みを浮かている。

 彼女の両腕がスカートの端を掴んで持ち上げた。自然とスカートが捲りあがり、健康的な太股が露わになる。

「や、よい?」

 椎は反射的に後ろへ下がろうと動いた。

 それを制するように、弥生の手が椎の髪を力任せに掴む。椎は思わず悲鳴をあげた。

「何をすればいいか、わかるよね?」

 諭すように、弥生が言う。

 そして、空いたもう片方の手でスカートをたくし上げる。

「ほら早く。時間ないんだから」

 椎は顔を歪ませながら、首を横に振った。途端、弥生の顔から表情が消える。

「いいから」

 低い怒鳴り声と同時に、髪が思いきり引っ張られる。

 嫌な音とともに、何本かが抜けるのがわかった。

 椎は両目に涙を浮かべ、懇願するように弥生を見上げた。

「今頑張れば、今日の放課後は許してあげる。明日の準備、必要でしょ」

 弥生はそう言って、人が変わったように優しく微笑んだ。

 明日の準備。

 その言葉に椎は動揺するように瞳を揺らした後、力なく項垂れた。そして、ゆっくりと弥生の太股に顔を近づける。

 クス、と上で弥生が笑みを零すのがわかった。そして、髪を掴んでいた手が離され、優しく頭を撫で始める。

 弥生の乏しい表情に、はっきりと嗜虐的な色が宿る。そして瞳には歪んだ執着心が浮かんでいた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

08話

「お前、本当に大丈夫か?」

 五限目が終わると同時に、傑が顔を覗きこむようにして声をかけてきた。

 椎はぼんやりと傑を見つめ返し、数秒間考えるような素振りを見せてから口を開いた。

「なにが?」

「なにが、って。昼休み終わってから、お前ずっと授業聞いてなかっただろ。ノート見せてみろ」

 傑が椎の手元に広がっていたノートを引き寄せ、素早く目を走らせる。椎は突然の傑の行動に反応することもできず、あ、と小さく声を漏らしただけだった。

「やっぱり白紙じゃないか。具合悪いなら早退しろ」

「……そんなんじゃ、ないよ。大丈夫」

「とても大丈夫そうには見えない」

 傑はキッパリと告げて椎の瞳を正面から覗きこむ。椎は何となく視線を逸らして、そうかも、と控えめに認めた。

「でも、後一時間だけだから頑張るよ。それが終わったら部活休んで真っすぐ帰る」

「ああ。そうした方がいい」

 傑はそう言って、自分の席に戻る。

 彼の後ろ姿をぼんやりと見届けてから、何もない机の上をじっと見つめた。何も考えたくなかった。

 チャイムが鳴り、数学の教師が教室に入ってくる。椎はノートを広げ、無気力にペンをとった。

 教師が黒板に数式を書き、説明を始める。何かを説明しているのはわかったが、中身を全く理解できなかった。言葉が、すり抜けていく。何も考えられない。

 椎はチラリと後ろを振り返った。弥生はいつも通り、静かにノートを向き合っていた。

 何故、と思った。

 何故、いつも通りに振る舞えるのだろう。自分が何をやっているのか、理解しているのだろうか。

 疑問が浮かび上がる中、視線に気づいた弥生が顔を上げる。彼女の黒い瞳と目が合った。ゆっくりと口端が持ちあがり、弥生は微笑を浮かべる。いつも通りの、どこか気怠い印象を受ける笑い方。

 椎はすぐに視線を外し、前方の数学教師に焦点を合わせた。心臓が激しく波打ち、嫌な汗が全身から噴き出す。

 そういう人間が存在するのは、知っていた。

 中学の時の同級生が、類似したタイプだった。

 普段は目立たない大人しいタイプだったが、彼が校庭の隅でアリの巣に水を入れて笑みを浮かべているのを何度も見た事があった。だから、彼が放火で補導されたと聞いた時も、それほど驚かなかった。倫理観が麻痺したような、あるいは初めから何かが欠落している人間。神無月弥生は何かが麻痺し、そして初めからそんなものなかったように欠落している。

 椎は背中に弥生の視線を感じて、耐えるようにじっとノートを見つめた。ノートは椎の頭の中を表すように真っ白なままだった。

 

◇◆◇

 

 六限目の後、椎は真っすぐ家に帰った。

 珍しく早く帰ってきた椎を見て、母は少し心配そうな表情を見せたが、結局何も言わなかった。

 椎は帰るなりシャワーを浴びて、それから自室に閉じこもった。誰の顔も見たくなかった。

 ベッドの中、暗鬱な思考に身を委ねる。

 出口が、見えない。

 神無月弥生の行為は、一時的な気の迷いなどではなかった。

 彼女はあの日のアレを一時の過ちとしてなかった事にするつもりはない。

 それどころか彼女の行為は段々とエスカレートしている。

 初めは、ショックで何も考えられなかった。まだ現実味がなく、どこかで終わりがあるように考えていた。しかし、徐々に椎はそれが浅はかな希望的観測であったことを痛感するに至っていた。

 神無月弥生には、この関係を終わらせる気がない。

 この関係は、一体いつまで続くのだろうか?

 わからない。

 水無月優香の顔が脳裏に浮かぶ。

 知られたく、ない。

 終わらせたく、ない。

 そこまで考えた時、サイドテーブルの上で携帯が震えた。椎は毛布をどけて、携帯に手を伸ばした。

 着信は、水無月優香からだった。

『もしもし』

『あ、椎くん? 明日のことでお話ししようと思って。今時間大丈夫かな?』

 優香の柔らかい声がスピーカーから響く。

 その声を聞いた途端、安堵感が胸の中に広がっていった。

「うん。大丈夫だよ」

『ほんと? じゃあね、早速だけど明日行きたい場所とかある?』

 楽しそうな優香の声。

 椎は少し思案して、無難なプランを口にした。

「優香ちゃんは、カラオケとか大丈夫?」

『うん。大丈夫。歌うの、結構好きだよ』

「それじゃあ、十二時に駅前で待ち合わせして、近くのお店で昼食とってからカラオケ。それから近くのお店見回ったりとかでいいかな?」

『うん。あ、駅前のね、美味しいお店知ってるよ。お昼は私に任せてもらっていい?』

 優香が弾んだ声で提案する。

 電話ごしでも分かるほど、明日を楽しみにしているようだった。

「うん。いいよ」

『うー、今からすっごく楽しみ。今から準備しないと! もう切るね!』

 椎が答える前に、通話が切れる。

 椎は携帯をサイドテーブルの上に置いて、それからベッドの上で横になった。

 かつて夢のように望んでいた優香とのデートだったが、素直に楽しめそうになかった。

 今はそれよりも、弥生との歪んだ関係をどう解決するか、で頭がいっぱいだった。

 話し合う必要がある。

 雰囲気や暴力に流されず、弥生の考えを正面から聞く必要がある。そうしないと、この捻じれた関係はずっと続いていくだろう。

 気が重い。

 寝返りを打って、目を瞑った。

 眠りを妨げるように、携帯が振動する。

 椎は硬い表情を浮かべ、ゆっくりと起き上がった。そして、そっと携帯を手にとる。

 一件のメッセージが届いていた。

 送り主は水無月優香。

 その文字を見て、椎は安堵の息をついた。

『明日、楽しみだね。天気予報だと晴れるみたい』

 椎は文面をじっと見つめた後、少し考えてから返信を打ち始めた。

『そうだね。ちょっと暑くなりそうだから薄着の方がいいのかな』

 送信してから二分ほどで返信が届く。

『エッチ』

 椎は短い文面を見るなり目を瞬いて、そういう意図がなかったことを真剣に弁解すべきか悩み、結局冗談だろうと思って、返信せずに携帯を放り投げた。

 それから気晴らしに部屋の掃除を始める。掃除をしている間は、何も考えなくて良い。気が楽だった。

 夕食の時間になり、椎は掃除を中断して部屋から出て行った。父はまだ帰っていなくて、椎は母と二人で静かに食卓を囲んだ。食べ終えると、椎はすぐに部屋に戻り、掃除の続きを始めた。いつもなら絶対に捨てないようなものも簡単に捨てる事ができて、掃除は恐ろしい程までに捗った。

 十時を回ると、椎はようやく掃除を終えてベッドに倒れ込んだ。その時、ベッドに放りだしていた携帯が光っているのが見えて、椎は何気なく携帯を手に取った。

 メッセージが五件。

 いずれも水無月優香からだった。

『ごめんなさい。椎くんがそういうつもりで言ったんじゃないのはわかってる。冗談だよ。真に受けないでね』

『ごめんなさい。もしかして、怒ってる? 本当にごめんね。変に茶化しちゃって……』

『ごめんなさい。本当に、ただの冗談。椎くんにそういう下心がないのは知ってます。悪ふざけが過ぎました』

『本当にごめんなさい。返信待ってます』

『まだ怒っていますか? ごめんなさい。私、本当に椎君を怒らせるつもりなんてなくて……』

 その後に、着信が二件入っていた。

 何か、勘違いが発生しているようだった。

 椎は奇妙な不安を覚えて、急いで返信を打ち始めた。

『ごめん。部屋の掃除してたからメール忘れていました。冗談なのはわかってるから、怒ってなんてないです』

 打ち終えると同時に、ろくに見直しもせずに送信する。

 すぐに返信の代わりに電話がかかってきた。

『っ、椎くん? ごめんなさい! 嫌われたのかと思って……何回もメッセージ送ってごめんね。こういうの、うざいよね』

 捲し立てるように、優香が謝罪の言葉を口にする。

 どこか切羽詰まった様子に、椎は思わずたじろいだ。

「え、あ、こっちこそごめんね。変な心配させちゃって、ほんと、ごめん」

『何か舞い上がってふざけちゃって、そしたら返信来なくなって、私、調子に乗って何かやっちゃったのかって思って……』

「ううん。優香ちゃんは、別に何もしてないよ。僕が不注意だっただけ。ごめん。普段から携帯放置してること多いから、こういうこと結構あるかも。その、怒ってるわけじゃないから気にしないでね」

『うん……うん。怒ってなくて良かった。夜遅くにごめんね。じゃ、切るね』

「うん、また明日」

『……また明日』

 通話が切れる。椎は携帯を見つめて、息を吐きだした。

 疲れた。

 ほんの少し、そう思ってしまった。

 そして、次の瞬間には、その思いはすぐに四散してしまった。

 椎は欠伸をして、ベッドに潜り込んだ。そして、一日が終わる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

09話

 午前十一時三十分。

 休日の駅前。

 人混みの中、椎はロータリーの一角に立つ優香の姿を見つけて思わず駆けだした。

 優香も椎の存在に気付いて、柔らかい笑みを浮かべる。

「おはよう、椎君。人のこと言えないけど、早いね」

 優香が声を弾ませて言う。

 白のブラウスに黒のアウター、淡色のフレアスカートといった服装が夏らしい清涼感を振りまいていて、初めて見る優香の私服姿に椎は目を奪われた。

「おはよう。待たせちゃってごめん。いつから待ってたの?」

「今来たとこだよ。なんてね」

 冗談っぽく笑いながら、優香は肩を竦める。

「本当は十五分前くらいからかな。家にいても落ちつかなくって、早めに出てきちゃった」

「ボクと同じだね」

 椎は苦笑して、困ったように優香を見つめた。

「それで、どうする? ちょっと早いけど、お昼にする?」

「そうだね。並ばなくて良さそうだし。椎くんは今からでも大丈夫?」

 優香が上目遣いで椎を覗き込むように首を傾げる。そうした小さい仕草の一つ一つが彼女の愛らしい容姿に良く似合っていた。

 思わず見惚れながら、大丈夫だよ、と頷く。それだけで彼女はにこっと笑った。

「じゃ、行こうか」

「あ、うん」

 優香から視線を外し、ゆっくりと歩き出す。

 立ち止まっていると、気まずい沈黙が落ちそうで嫌だった。

「あ、待ってよ。椎君、意外とせっかちなのかな?」

 優香がわざとらしく不満そうな顔を浮かべ、腕に手を絡ませてくる。

 突然の柔らかい感触に、全身の筋肉が不自然に硬直するのがわかった。

 椎は諦めたように笑って、優香に向き直った。

「せっかちというか、緊張してるんだよ。正直に言うと、女の子と二人っきりで遊ぶの初めてだから、落ちつかなくって」

「へえ……初めてなんだ」

 椎の言葉を聞いた途端、優香の口端が吊りあがった。

「頼りなくて、ごめんね」

「ううん。私、逆に嬉しいよ。だって、他の女の子と比べられたりするの、嫌だもん。それに私、きっと嫉妬しちゃう。デートしたり、手を繋いだり、私以外ともそういうことしてたってわかったら、我慢できないもん」

 優香は一気にそう言って、にこりと笑った。

「私、結構嫉妬するタイプだから、他の子と隠れてデートなんてしたら駄目だよ」

 それから思い出したように言葉を続ける。

「あ、でもその代わり結構尽くすタイプだから! 怖いだけじゃないよ!」

「覚えておくよ」

 次々と目まぐるしく表情を変える優香を見ていると、自然と笑みが溢れた。

「それで、お勧めのお店って?」

「もうちょっと歩いたら見えてくるよ」

 優香が前方に目を向ける。釣られて、椎もそちらに視線をやった。

「ほら、あの茶色の看板」

 通りの向こうにそれらしい店が見えた。個人経営の喫茶店のようだった。ちょっとしたお城のような綺麗な外装をしている。

 店の前に辿りつくと、大きな窓から見える店内で空席が目立っていた。

 優香が慣れた様子で自動ドアをくぐり、店の奥に向かって歩いていく。

「椎くん、こっちこっち」

 そう言って、優香は空いている奥の席に座る。

 すぐそばには中庭があり、小さな泉があった。わざわざ奥まで案内した事に納得し、優香の対面に腰を下ろす。

 すぐに店員がメニューを持ってやってきた。

「私、たまごサンドとコーヒー、ホットでお願いします」

 優香がメニュー見ずに注文する。椎は慌ててメニューを開き、結局優香と同じものを頼んだ。

 店員が去っていくのを見ながら、優香が申し訳なさそうに笑う。

「ごめんね。ちょっと急かしちゃった?」

 ちょっとだけ、と椎は苦笑して、すぐに話を変えた。

「優香ちゃんは良くここに来るの?」

「うん。週一回は来るかな。私、こういう所で何も考えずぼーっとするのが好きなの」

 優香は水の入ったコップに口をつけて、それに、と言葉を続ける。

「それに、こういうところにいると、寂しくないしね」

 そう言う優香の顔にはどこか陰があり、椎は言葉に迷った後、結局何も言わずにコップに口をつけた。

 嫌になるほど、よく冷えていた。

 

◇◆◇

 

 昼食を済ませ、店を出た時には一時を回っていた。

「この時間だと、ちょっと混んでるかな?」

 優香が携帯で時刻を確認しながら呟く。

「うん、でも、満室になってるところ見たことないから大丈夫だと思うよ」

 椎はそう言って、優香とともにすぐ近くのカラオケ店に入った。

 床も壁も黒く、照明が抑えられてる為に全体的に暗い印象を受けるロビーで受付を済ませ、指定された個室へ向かう。

「カラオケ、ちょっと久しぶりかも」

 部屋に入るなり、優香が弾んだ声で言ってソファに倒れ込む。その際、スカートが捲れて椎は咄嗟に視線を外した。

「あの、スカート、気を付けた方がいいと思うよ」

 遠慮気味に指摘すると、優香は特に気にした風もなく笑う。

「椎君しかいないから、大丈夫だよ」

 そう言って、選曲用の端末を手に入力を始める。

「あ、前のお客さん、親子連れだったのかな。子供向けの歌がいっぱい。ほらほら、懐かしい!」

 優香が楽しそうに端末を椎に見せてくる。画面には選曲履歴が映っていて、有名な子供向けアニメのオープニングソングが並んでいた。

「その前は……わ、ちょっとアダルトな歌が並んでる。これ、歌詞凄いよね」

 学校ではあまり見る事のない姿だった。はしゃいだ様子の優香に椎は頬を緩ませて、身を寄せて端末を覗きこんだ。

「あ、ごめんね。そろそろ歌う? でも、その前にドリンク取りに行こっか」

「うん。そうだね」

 同時に立ち上がって、部屋を出る。

 その際、自然と優香の手が椎の手に絡みついてきた。

「せっかくのデートだしね」

 椎が何か言う前に、優香が顔を真っ赤にしながら冗談っぽく言う。

 暗闇で優香の顔が赤くなっていることに気付かなかった振りをして、椎は彼女の手を握り返した。

 何となく、上手くやっていけそうだと思った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10話

「今日はありがと。凄く楽しかったよ」

 帰り道。

 赤く染まった空を見上げながら、優香が穏やかな笑みを浮かべて言う。

 隣に並ぶ椎は、それを見て頬を緩め、それから迷ったようにずっと気にかかっていた事を尋ねた。

「ずっと疑問だったんだけど、優香ちゃんは何でボクに告白してきたの?」

「何でって」

 駅前の雑踏の中、優香は足を止めた。

「椎君のことが、好きだからだよ」

 椎も立ち止まり、正面から優香の瞳を見つめた。

「うん。それはわかるよ。でも、優香ちゃんに好意を寄せられるようなきっかけに心当たりがなくて」

 椎の言葉に優香は微かに首を傾げて、それから微笑んだ。

「椎君は、人を好きになるのに理由がないと納得できないの?」

「納得できないというか、不思議というか。なんで僕なんだろうって思って」

 椎の言葉に、優香は何かを思い出そうとするように空を見上げた。椎は通行の邪魔にならないよう、歩道の端に寄って優香の返答を待った。

「そうだね。きっかけは、何だったかな。うん。椎くんと一緒の委員会になった友達から良い人だよって話を耳にしたのが一番のきっかけだったかも。あるいは、あまり飾った言動がなくて、いつも素直な振る舞いをしてるところに惹かれた可能性もあるし、今思えば一目褒れだったのかもしれない」

 私はね、と優香は優しい眦を椎に向けた。

「人を好きになるきっかけなんて、ないと思うよ。日頃の小さな事が積み重なって、好きとか嫌いって感情が生まれるんだと思う。ドラマみたいに何かトラブルが訪れて、情熱的な愛情が生まれて、なんて大きなきっかけがあるのは安っぽいとすら思う」

 優香はそう言って、遠くを見るように視線を逸らした。

 その横顔はどこか寂しそうで、今にも消え入りそうな儚さがあった。

「だって、離婚だってそうじゃない? 一度愛し合った人たちが、徐々に冷めていっちゃう。そこに明確なきっかけなんて、ないと思う。小さな事が積み重なって、ゆっくりと心が離れていくんじゃないかな」

 優香はそこで言葉を止めて、再び椎に向き直った。優香の瞳が、真っすぐ椎に注がれる。

「だから私は、いつも椎くんの事を好きになるように意識してるよ。心が離れないように、もっと好きになるように。高校を卒業しても、互いに違う大学に進んでも、業種の違う仕事に就いても、ずっと一緒にいられるように」

 そこで優香はにこりと笑い、恥ずかしそうに視線を逸らした。

「なんてね。あー、偉そうに恋愛観なんて語っちゃって、恥ずかしいなあ」

 行こっか、と照れを隠すように優香が歩き出す。椎は微笑んで、その後を追った。

 夕陽を浴びて、街中に光が灯り始める。

 赤く染まった景色の中、椎は彼女の小さい手を遠慮気味に握った。

 一拍置いて、優香が強く握り返してくる。

「椎くんは」

 前を向いたまま、優香が口を開く。

「私のことを好きになる明確なきっかけなんてあった?」

 椎は少し考えて、首を横に振った。

「ないよ。初めは、何となく気になるくらいだった。それで、視線で追うようになって、そうしたら、色々と中身の事も見えてきて。優香ちゃん、人の悪口とか全然言わないよね。例えば誰かの悪口に同意を求められても、困ったように笑うだけで。そういう姿を見て、他人のことをちゃんと見ようと努力する子なんだなって思って。だから僕は――」

 優香が振り向き、視線が絡み合う。

「――うん。優香ちゃんを好きになった明確なきっかけは、なかったと思う」

 優香は優しく微笑んで、そっか、と嬉しそうに呟いた。

「きっかけなんて、ない方が良いんだよ。そうしたら、いつも、どんな時でも、きっかけなんていらないまま、ずっと好きになっていける」

 そして優香は足を止め、可愛らしく小首を傾げた。

「いっぱい、好き合えるように頑張ろうね」

 鮮やかな夕陽が世界を照らし、赤くなった優香の頬を覆い隠す。

 優香の笑みに見惚れながら、椎はコクリと頷いた。

 繋いだ手が、自然と深く絡み合う。

 ――心が離れないように。 

 優香の言葉が、妙に心に残った。

 

◇◆◇

 

 自宅に帰ったのは、八時を回ったところだった。

 椎は真っすぐと自室へ向かい、服を着替えた。

 それから携帯を開く。優香からメッセージが届いていた。

『今日は、楽しかったよ。ありがとう』

 椎はじっと画面上の文字を見つめて、それから微笑んだ。

『僕も楽しかったよ。来週も良かったらどこか遊びに行こうか』

 すぐに返信を打ち、送信する。

 それから椎はベッドに寝転がり、返信を待った。

 遊び疲れたせいで、少し眠たい。

 ウトウトとし始めた時、携帯が震えた。椎は緩慢な動作で携帯に手を伸ばし、寝転がったまま携帯の画面を見つめた。

 如月弥生。

 送信元の名前を見て、思考が止まる。

 考えるより先に手が動き、メッセージを開く。

『今日は、楽しかった?』

 とくん、と心臓が跳ねた。

 椎は画面を見つめたまま固まり、息を止めた。

 間を置かず、携帯が震える。優香からのメッセージだった。

『うん。来週もいっぱい遊ぼうね』

 更に、携帯が震える。今度は弥生からだった。

『明日、暇だよね。十二時に駅前に来て』

 椎は表情を強張らせてを、弥生に対して返信を打ち始めた。

「駅前で何をするの?」

 簡素な一文を送る。

 すぐに返信が届いた。

『何って、デートだよ』

 椎は軽い眩暈を覚え、目を瞑った。

 肺腑の底から、深い息を吐き出す。

 神無月弥生の考えている事が、読めない。

 彼女は一体何がしたいのだろう。

 恋人になりたいのだろうか。それとも、都合の良い遊び相手が欲しいのだろうか。

 着地点が見えない。読めない。

 しかし、従わないわけにはいかない。逆らえば、弥生は何をしでかすか分からない。

 椎には選択肢が用意されていなかった。主導権は神無月弥生が握っている。

 椎は震える指で『わかった』と返信を打つしかなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

11話

 翌日。十一時四十五分。

 約束通り駅前で待っていた椎の前に、私服姿の神無月弥生が現れた。

「早いね」

 弥生はいつもの気怠そうな微笑を浮かべて、椎のもとにゆっくりと歩いてくる。灰色のパーカーに、プリーツスカートがよく映えていた。

 椎は無言で弥生を見つめ、それから迷うように口を開いた。

「今日はどこに行く予定なの?」

 クス、と弥生が小さく笑う。

「なに? 緊張してるの?」

 弥生はそう言って、クルリとその場で一回転する。スカートがふわりと舞い、健康的な太股が露わになった。

「まずは、服装を褒めるのがデートの定番じゃない?」

「……似合ってるよ」

 椎が絞り出すように言うと、弥生は上機嫌で椎の手をとった。

「さ、行こうか」

 椎は何も言わず弥生に手を引かれるままに歩き始めた。何を言っても無駄な気がした。

「椎は」

 前を向いたまま弥生が口を開く。

「お腹減ってる?」

「……あまり」

 正直に答える。

 昨夜、弥生からデートの誘いが来てから一向に食欲が湧かなかった。

「軽いものだったら入るでしょ? まあ、無理に食べなくてもいいけど」

 弥生の問いに、多分、と短く返す。

 それで会話が途絶えた。

 互いに何も話さないまま、歩道をゆっくりと進む。

 見覚えのある道だった。

 向こうの通りに、昨日優香と昼食をとった喫茶店が見えた。

 弥生は迷わず、喫茶店に向かって歩いていく。

 嫌な予感がして、横目で弥生の表情を盗み見る。いつもの表情に乏しい顔をしていて、全く考えが読めない。

「食事、ここで良い?」

 喫茶店のすぐ前までくると、弥生は足を止めて椎の顔を覗きこんできた。まるで椎の反応を楽しんでいるようだった。

 椎は感情の籠らない声で、いいよ、と短く答えた。

 弥生が先頭に立って中に入る。昨日と同じ店員がいた。

 昨日とは違う窓際の席に向かい、弥生と向かい合う形で席につく。

「何食べる?」

「たまごサンドとホットコーヒー」

 反射的に、昨日注文したものが口から出た。

「ふうん。じゃあ私も同じやつにしようかな」

 そう言って、ちょうど水を持ってきた店員に弥生が二人分の食事をまとめて注文する。

 確認を終えた店員が去っていくと、椎は警戒するように弥生を見つめた。視線に気づいた弥生が微笑を浮かべて気怠そうに首を傾げる。

「なに?」

「……いきなり呼び出したってことは、なにか話があるんじゃないの?」

 その問いに、弥生は目を瞑って首を横に振った。

「何も」

 一瞬の沈黙。

 椎は困惑したように、問い返した。

「何も?」

「そう、別に大事な用件があるわけじゃない。ただ、遊びに誘っただけ」

 弥生の表情はいつもと変わらないままで、その真意はわからなかった。

 直後、店員が食事を運んできた。

 沈黙が訪れ、そのまま食事が始まる。

 食欲が湧かないまま、椎は無理矢理たまごサンドを口の中に詰め込んだ。

 早く、店を出たかった。

 

◇◆◇

 

「次、カラオケでいい?」

 昼食を終えて喫茶店を出ると同時に、弥生が言った。

 椎は弥生の目的を図りかねて、警戒するように弥生を見つめた。

 黙り込んだ椎に、弥生が怪訝そうな顔をする。

「なに? カラオケ苦手だったりするわけ?」

「……大丈夫だけど」

「すぐそこにあるから」

 そう言って、弥生が椎の手を引く。彼女が向かったのは、昨日優香と入ったカラオケ店だった。

「……弥生。ずっと見てたんだ」

 呟くと、弥生が暗い笑みを見せた。

「私は、椎の事ならずっと見てたよ。ずっと。椎が気づいていなかっただけ」

 繋いだ手が一層強く握られた。

 弥生が受付を済ませ、そのまま一緒に部屋へ向かう。

 部屋に入るなり、弥生は選曲用の端末を手にとって無言で操作を始めた。

 そんな弥生の姿を見ながら、椎は意を決して口を開いた。

「ねえ、弥生」

「なに?」

 端末に目を落としたまま、弥生が聞き返してくる。

 椎は彼女から視線を外し、何もない壁を見ながら告げた。

「ボクは弥生に対して恋愛感情、全く持ってないよ」

 端末を操作する弥生の手が止まった。

 それを横目で見ながら言葉を続ける。

「弥生は――」

 端末を見下ろしていた弥生の顔が勢いよくあがる。

「うるさい」

 低い声が響くと同時に、端末が投げつけられる。

 咄嗟に身体を庇うように前に出した右腕に直撃し、鈍い痛みが響いた。

「うるさい。そんな事、誰も聞いてない」

 右腕を抑えて苦痛に顔を歪める椎に、弥生が立ち上がって詰め寄る。

 乱暴に顎を掴まれ、上を向かされる。そして、そのまま弥生の唇が無理矢理押しつけられた。

「……んっ……っ!」

「飲んで」

 一瞬、弥生の口が離れ、次いで唾液が流しこまれる。

 同時に弥生の腕が背中に回され、ソファの上に押し倒された。

 椎は痛む右腕に顔を歪ませながら、弥生の凌辱をぼんやりと受け入れた。

 何故か、怖いとは思わなかった。

「もういい。出る」

 不意に弥生が唇を離し、立ち上がる。

 椎も黙って立ち上がり、弥生の後を追って部屋を出た。

「ねえ、弥生」

 薄暗い通路を歩きながら、声をかける。

 弥生は前を向いたまま、何も言わない。

「こんなこと繰り返しても、ボクが弥生を好きになることはないよ」

 弥生は、振り返らない。

 受付につき、弥生が会計を済ませる。

 そのまま、無言で店を出た。まだ日は高く、暖かった。

「ついてきて」

 短く言って、弥生が歩き出す。

 椎は黙ってその後に続いた。

 徐々に駅前から離れ、怪しげな雰囲気が辺りに漂い始める。

「……弥生」

 制止の声を無視して、弥生は先を進んでいく。

 弥生は物怖じせず、建ち並ぶ建物の前で足を止めた。

「来て」

 暗幕の垂れた駐車場から弥生が先にエントランスをくぐった。椎も僅かに躊躇した後、中に入った。

 ロビーにはパネルが並んでいた。弥生が端末を操作して部屋を選択する。それからフロントへ向かい、鍵を受け取るのを椎はぼんやりと見つめた。

 フロント係は、どう見ても未成年である椎と弥生を見ても何も言わなかった。

「いくよ」

 弥生が小さく言って、エレベーターに向かって歩き出す。椎は黙ってその後を追った。

 エレベーターに乗り込み、沈黙のまま目的の階に辿りつく。エレベーターから出ると狭くて静かな廊下が広がっていた。

 弥生がきょろきょろと部屋を見渡しながら進んで、ある部屋の前で立ち止まった。鍵を回すと、かちっと小さな音が鳴った。

 ドアが開き、弥生に手を引っ張られるように中に入る。芳香剤の香りがした。

「ねえ。弥生。こんな事続けたって――」

 唇を塞がれ、言葉は失われる。

「うるさい」

 弥生の冷たい声とともに、視界が反転する。

 そして、上から弥生の華奢な身体がのしかかる。

「今日の椎は随分と反抗的だね」

 昏い瞳が、椎を見下ろしていた。

 彼女の細い手がするりと服の中に忍び込む。柔らかく冷やりとした不思議な感触だった。

「さて、お仕置きしないと」

 弥生は気怠げで妖艶な笑みを浮かべてそう言った。

 背筋を嫌な汗が伝った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

12話

 つう、っと服の中に忍び込んだ弥生の手が椎の胸部を撫でる。

 椎が視線を背けると、弥生は椎の上に覆いかぶさったまま、満足そうな笑みを浮かべた。

「椎のそういう仕草、すっごく可愛い」

 椎は視線を逸らしたまま、無言を貫いた。

 弥生が笑みを濃くする。

 直後、肌に弥生の爪が食い込んだ。突然の痛みに、身体が小さく跳ねた。

「ねえ、知ってる?」

 食い込んだ爪が一度離れ、彼女の冷たい指先が爪痕を撫でる。

 額に汗が滲むのがわかった。

「私、椎のこと好きだよ」

「……それは、初耳だね」

 上から覆い被さる弥生の瞳をじっと見ながら、椎は呟くように言葉を続けた。

「そういうのって、ちゃんと言葉にしないと、伝わらないよ」

 そうだね、と弥生が気怠そうに微笑を浮かべる。

「でも、それを言葉にしてたとして、今と何か変わってたと思う?」

 そう言って、弥生は胸元に顔を埋めた。

 静かな息遣いとともに、弥生が柔らかい肢体を擦り寄せてくる。

 次第に弥生の腕が絡まり、椎の身体を支配しようとするように組み伏せられる。それに伴い、弥生の息遣いが段々と荒くなるのがわかった。

 肌に弥生の唇が吸いつき、衣服が乱暴に剥ぎとられる。

 椎は目を瞑って、行為が終わる事を願い、全身の力を抜いた。

 嫌になるほど甘ったるい香りが鼻をついた。

 

◇◆◇

 

「弥生って弁当が多いよね。母親が作ってくれるの?」

 今ではないいつか。

 神無月弥生にそんな質問を投げかけた事があった。

 特に何の意図もない、何気ない疑問だった。

「作ってるのはおばあちゃんだよ。私、親いないから」

 弥生は無表情にそう答えた。いつも通りの、どこか抑揚のない声。

 親が、いない。

 思わぬ返答に、次の言葉が見つからなかった。

 口を噤んだ椎に、弥生がどうでも良さそうに言う。

「別に気にしなくていいよ。椎にとっては重い話かもしれないけど、私にとっては親がいないのが普通だったから」

 そして、弥生の暗い瞳が椎に向けられる。瞳の奥には深い暗闇が広がっていて、そこからは何の感情も見出す事ができなかった。

「物心ついた時には亡くなってた。母親は肺癌で、父親は胃癌。二人とも、私にとっては知らない人でしかない。だから、こういうこと話しても何も思うことなんてないよ」

 弥生はそう言いながら視線を外し、椎は、と短く言った。

「椎はいつも学食だけど、親は?」

「母さんは専業主婦だよ。父さんの弁当は毎日作ってるけど、僕が食堂の方が好きだから、そうしてもらってるだけ」

「へえ……」

 相槌を打ちながら、弥生はどこか遠くを見つめる。

「そういう親の普通の夫婦生活見れなかったのは、残念かな。結婚とか恋愛って言葉が、未だによくわからない」

 今ではない、いつかの話。

 最後の弥生の言葉が、椎の中で妙に印象に残っていた。

 

◇◆◇

 

 獣のような、荒い息遣いが響く。

 身体の上から、弥生がしがみつくように手足を絡め、身体を擦り寄せてくる。

「そろそろ、時間だね」

 そう言って、弥生はキスを落とした。それから、名残惜しそうに身体を起こし、椎から離れる。

「シャワー浴びないと。ほら、立って。一緒に浴びよう」

 ぐったりとしていた椎は、言われるがままにゆっくりと身を起こした。それを手伝うように、弥生が肩を抱き起こす。

「結局、おしおき忘れちゃった」

 弥生は一糸纏わぬ裸体のまま、気怠そうな薄い笑みを浮かべる。

「こうやって普通のベッドでやるの初めてだったもんね」

 ほら、と弥生が手を引いてバスルームへ歩きだす。椎は弥生の背中をぼんやりと見つめながら、その後に続いた。

 

◇◆◇

 

「あの子は、学校でうまくやっていますか?」

 過去に一度だけ、弥生の祖母と話をしたことがあった。

 高校一年生の時だったと記憶している。

 三日連続で学校を無断欠席した弥生を心配して家を訪ね、彼女の祖母と顔を合わせたのだ。

 結局、弥生は風邪で寝込んでいるだけで、単純に学校への連絡を忘れていただけだった。椎がその事に安堵した様子を見せると、彼女の祖母は心配そうな顔で言った。

「あの子は、昔から感情表現があまり得意ではありません。友達と遊ぶ姿も、殆ど見たことがありませんでした。あの子は、ちゃんとクラスに馴染めていますか?」

 その問いに椎は少し悩んだ後、嘘偽りなく答えた。

「……正直に言うと、馴染めているとは言えないです。愛想が良くないから、怖いっていう人もいます」

 でも、と椎は柔らかい笑みを浮かべて言った。

「大丈夫だと思います。感情表現が豊富って、良い事だけじゃないです。ネガティブな感情をすぐに表に出す人だっています。でも、弥生は、あの、弥生さんは絶対に人に悪意ある感情を見せないです。テニス部の仕事だって、嫌な顔一つせずやってます。少し一緒に過ごしたら、感情だって見えてきます。だから、大丈夫です。時間があれば、必ず馴染めると思います」

 そして、椎は言った。

「少なくとも、僕は弥生さんのこと好きですよ」

 祖母は少し意外そうな顔をした後、優しく微笑んだ。

「あの子は、良い友人を持ったようです」

 それから、祖母は頭を下げた。白髪がはらりと落ち、その姿が酷く老いて見えた。

「あの子は、あまり人を頼りません。甘え方を、知らないんです。この年齢まで、ついに教えることが叶いませんでした。どうか、あの子をよろしくお願いします」

 

◇◆◇

 

 シャワーの音。

 黒髪を濡らした弥生が、肢体を絡めてくる。

「何だか、ずっとぼんやりしてるみたいだけど。いま、なに考えてるの?」

 耳元で囁く弥生に、椎はゆっくりと目を向けた。

「うん……昔のこと」

「ふうん……」

 興味なさそうに弥生は相槌を打って、それから残念そうに目を伏せる。

「サービスタイム終わる前に、出ないと。また明日……ね?」

 また、明日。

 いつまで、続くのだろう。

 わからない。

 バスルームの外で、着信音が鳴った気がした。電話に出る気には、なれなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

13話

「疲れてるみたいだが、睡眠不足か?」

 月曜日の朝。

 昇降口で偶然出会った傑が、椎の顔を見るなり心配そうな様子を見せた。

「ううん。ちゃんと眠れたよ。今日は体調も大丈夫」

 答えながら、機械的な動作で靴を履き替える。

 その傍を、数人の生徒が通り過ぎた。

 大きな笑い声が耳に響く。

 そうした喧騒が、妙に遠く聞こえた。

「……無理に部活来なくていいぞ」

「大丈夫だよ」

 大丈夫、と繰り返して椎は歩き出した。傑は何か言いたそうな顔をした後、結局何も言わず、肩に担いたラケットケースを目で示した。

「教室に行く前に部室にラケット置いてくる」

「うん。じゃあ、また教室でね」

 部室に向かう傑を見送ってから、椎は騒がしい昇降口から教室に続く廊下へ向かった。 

「おはよう」

 喧騒の中、女の子の声が耳にはっきりと届いた。

 足を止め、声のした方に首を向ける。予想通り、神無月弥生が気怠い微笑を浮かべて立っていた。

「今来たところ?」

 ゆっくりと弥生が近づいてくる。

 距離がゼロになると同時に、弥生の手が制服越しに椎の太股を撫でた。

「今日も、部活頑張らないとね」

 そう言いながら、弥生は自分の身体で椎を人混みから隠すように立ち、さわさわと太股の上へゆっくりと手を這わせる。椎は身を硬くして、辺りを見渡した。幸い、弥生の行為に気付いている生徒はいないようだった。

 弥生の手が、椎のお尻を撫でまわし始める。椎が弥生の腕を掴んで控えめに抵抗すると、彼女はクスっと小さく笑ってすぐに手を離した。

「教室、行かないと」

 椎は震える声でそう言って、弥生から逃げるように歩き出した。弥生がその後を追うように、ゆっくりと歩く。

 階段を昇り終えた時、椎の暗い気持と反するような明るい声が背後から投げかけられた。

「うっす、おはよう」

 振り返ると、怜奈の顔がすぐ近くにあった。

 先程まですぐ後ろにいた弥生は、無表情に椎の横を通り過ぎていく。

「……おはよう」

「なに? 元気ないじゃん。優香とのデート失敗したの?」

 怜奈がずい、と顔を近づけてくる。

 椎は苦笑して、首を横に振った。

「上手くいったと思うよ。来週も一緒に出かける事になったし」

「お、ちゃんと次に繋げたんだ。よしよし。順調そうで安心だ」

 怜奈が自分のことのように嬉しそうに笑う。

 椎は前方を歩く弥生をチラりと見た後、後ろめたさを隠すように曖昧な笑みを返した。

 教室につき、怜奈と別れて自分の席に向かう。その途中、教室の中心で数人の女子と雑談している優香と目が合った。こっそりと優香が手を振るのが見え、椎は、おはよう、と軽く声だけかけた。

 自分の机の上に鞄を置いて、席につく。そして、椎は何となく黒板に目を向けた。今日の掃除当番欄に椎と怜奈の名前が書かれているのが見えた。

 

◆◇◆

 

「はあ、疲れた。もう帰ろうかな」

 放課後の教室に怜奈の呟きが響く。

「まだ掃除始めてすらいないよ」

 椎は苦笑しながら箒を怜奈に差し出した。それから黒板前のゴミ箱に向かい、ゴミ袋の交換を始める。

「それ、結構重いんだよな」

 やる気なさそうに床を掃きながら、怜奈が椎に向かって言う。

「ゴミ袋のこと?」

 中の空気を抜きながら聞き返す。紙類が大半だった為、あっという間にゴミ袋が圧縮されていくのが少し面白かった。

「そう。それ、重いから面倒な上にしんどくない?」

「……確かに、女子だとしんどいかも」

 括り終えた後、椎はそれを両手で持って戸口の横に持っていった。

 そして、立てかけていた箒を手に取り、ちりとりに埃を集める。

「……如月ってさ、本当に真面目だよな」

 さっきからずっと同じところを掃いている怜奈がやる気なさそうに言う。

「誰だってこれくらいはやってると思うけど……」

 椎はそう言って、教室から目立つ汚れがなくなったことを確認した。それから怜奈の箒を受け取って、掃除用具入れにしまう。

「ゴミはボクが出しとくから、島田さんは先に帰ってていいよ」

「いや、流石に悪いから私も行くよ」

 ゴミ袋を持って教室を出ようとすると、怜奈が慌てたようについてくる。その様子に椎は小さく笑ってから、教室に残っている女子グループに向かって声をかけた。

「最後の人、施錠お願いします」

「はーい」

 女子グループの一人が元気よく返事する。

 椎は怜奈に目を向けて、行こっか、と告げてから廊下に出た。

「本当に先帰っていいよ。わざわざ二人で行かなくてもいいし」

「いや、だから流石に丸投げはできないって」

 怜奈がそう言って、椎の持っていたゴミ袋を奪う。

「……結構重いな」

「やっぱり、ボクが持つよ」

 椎はそう言って、手を差し出した。怜奈が一瞬迷うような素振りを見せるが、渋々といった様子で椎にゴミ袋を預けた。

「なんかさ」

 階段を降りた時、怜奈がポツリと言った。

「ずっと小さいと思ってた弟が意外と背が伸びてる事に気付いた時みたいな感じなんだけど」

「なにそれ」

 怜奈のよくわからない例えに小さく笑う。

 それっきり会話が途絶え、椎は怜奈と並んで上履きのまま裏口から外に出た。

 裏口方面には基本的に人がいない。

「なあ」

 裏門までもう少しというところで、怜奈が口を開く。

「優香とは、上手くやっていけそうか?」

「うん。今のところは大丈夫だよ」

 その答えに、怜奈が笑みを見せる。

「あいつ、周囲の顔色うかがうところが結構あるからな。がんがん距離詰めた方がいいぞ」

「……うん、ありがと。考えとく」

 裏門につき、ゴミ置き場にゴミ袋を置く。

「まあ、如月が良い奴そうで安心したよ」

 怜奈が笑いながら踵を返す。椎もそれに続いた。

「じゃあ、私こっちからショートカットするから」

 そう言って、裏口の方に怜奈が歩き出す。

「うん。ボクは部活があるから。また明日」

 椎はそう言って、校庭の方へ足を進めた。

 その時、正面の第二クラブハウスの影から優香が姿を現した。偶然顔を合わせたという雰囲気ではなく、掃除が終わるのを待っていた様子だった。

「あ、ごめん。もしかして掃除が終わるの待っててくれてた?」

「うん。今日はあまりお話しできなかったから、最後にちょっとでもって……」

 どこか暗い表情で優香が言う。

「ねえ、椎君……」

「うん」

「椎君って、怜奈と仲良かったんだ」

 その言葉に、椎は首を傾げた。

「島田さんと? そんなに仲良くないと思うけど」

「だって今朝も一緒に教室入ってきたし、放課後だって……」

「朝はたまたまだよ。放課後は掃除当番だっただけだし」

 椎は苦笑して、それから校庭の方へ目を向けた。

「ごめん。部活これ以上遅れる訳にいかないから」

「え、あ、ごめんね」

「またメールするね」

 椎はそう言って駆け出した。

 これからのことを考えると、優香の顔をまともに見る事ができなかった。

 校庭の端を抜けて、テニスコートに向かう。既に傑がコートに入り、一人でサーブ練習をしているのが見えた。

「傑、遅れてごめん!」

 声をあげると、椎に気付いた傑が動きを止める。

「ああ。掃除当番だったんだろ。良いから着替えてこい」

「うん! ちょっと待ってて!」

 そう言って。コート脇を通ってクラブハウスに向かう。

 チラリと周囲を見渡してみるも、弥生の姿は見当たらなかった。

 恐らく、部室にいるのだろう。

 重い足取りで、クラブハウスに辿りつく。

 奥のテニス部の扉を開くと、予想通り弥生の姿があった。

「待ってたよ」

 暗がりの中、弥生が気怠そうに微笑を浮かべて言う。

 椎は何も言わず、明かりをつけた。そして、鞄を床に下ろす。後ろで扉が嫌な金属音を立てて閉まった。

「ほら、早く着替えないと」

 弥生が促す。

 椎は何も言わず、ネクタイをほどいて、シャツを脱いだ。

 弥生の視線が絡まるように集中するのがわかった。極力それを無視して、テニスウェアに袖を通す。

「……そういうの、楽しい?」

 着替えをじっと観察してくる弥生に堪りかねて、問いかける。

 弥生は気怠そうにクスクスと笑いながら頷いた。

「私ね、椎の恥ずかしそうな顔とか仕草が凄く好きなの」

 椎は視線を外して、ベルトに手をかけた。素早くズボンを脱ぎ、着替える。

 そのまま急いで部室を出ようとした時、背後から声がかけられた。

「また、後でね」

 椎はそれを無視して外に出た。

 うだるような暑さが広がっていた。




同時投稿している暗黒街の法王もよろしくお願いします。
様々な種類のヤンデレを網羅する事をコンセプトにした修羅場系ファンタジーです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

14話

 薄暗くなったコートに、ボールを打つ音が響く。

 走り回りながら椎は小柄な身体を精一杯使って、ラケットを振り抜いた。

 身体を動かしている間は何も考えなくて良い。

 ネットの向こうでは、傑が荒い息を吐きながらテニスボールに食らいつこうとしていた。

 次の瞬間にはボールはネットに吸い込まれ、コート上に転がった。

 椎は肩で息をしながら、薄暗くなった空を見上げた。

「そろそろ、終わりにするか」

 傑がボールを拾いながら、疲れたように言う。

 椎は手で額の汗を拭って、そうだね、と息をついた。

「整地、今日は俺の番だったな」

 傑が立てかけていたトンボの方へ向かう。

「うん。後、お願いしていい?」

「ああ。お疲れ」

「お疲れ様」

 最後に短い言葉を交わして、コートから外に出た。

 外で座りこんでいた弥生が立ち上がり、お茶の入った紙コップを差し出してくる。

「お疲れ。ちゃんと水分摂っておきなよ」

「……ありがと」

 礼を言って、紙コップを受け取る。

「汗、かいてる。早く着替えないと風邪ひくよ」

「……うん」

 お茶を飲み干し、近くのゴミ箱に紙コップを放り投げる。

 それから椎は部室の方へ歩き出した。弥生も立ち上がり、その後からついてくる。

「ねえ」

 後ろから囁くように弥生が言う。

「今日は、口でしてあげる。いつも私だけ気持ちよくなってるもんね」

 椎は何も言わず、足を速めた。

「そうやって強がるところも、可愛いな」

 クス、と弥生が気怠そうに笑う。

 しかし、次の瞬間、その笑みが消え失せた。

 前方に、一つの影があった。

 椎は足を止め、その影を見つめた。影がゆっくりと近づいてきて、夕闇の中で徐々にはっきりとした形を帯びてくる。

「優香、ちゃん?」

 前から歩いてきたのは、先に帰ったはずの優香だった。

 優香はおずおずと椎の顔色を窺うように見つめてくる。

「あの、今日はあまりお話し出来なくて、椎くんも忙しいみたいだったから、やっぱり残って、一緒に帰ろうかなって……ごめんなさい、私、ちょっとうざいかなって思ったんだけど、もう少しお話ししたくて……」

「声、かけてくれれば良かったのに」

 椎が微笑むと、優香は安心したように笑った。

「うん、でも、椎くん、部活中だから迷惑かなって思って」

 そこで優香は初めて椎の隣にいる弥生に気付いた様子を見せた。

「あ、ごめんなさい。マネージャーさんと何か話とかあった?」

「別に」

 弥生が素っ気なく言う。その顔からは先程までの表情が抜け落ちていた。

 注意深く弥生の顔をうかがう。弥生は椎の視線に気づかないように、優香を睨みつけるように見つめていた。

 優香は弥生の視線を気にするような素振りを見せた後、椎に視線を戻して躊躇するように言った。

「あの、それなら、途中まで一緒に帰れないかな?」

 逡巡が生まれる。

 弥生の表情を確認するのが怖かった。

 僅かな沈黙の後、結局頷く事にする。

「……うん。いいよ」

 途端、優香は花が咲いたような笑顔を見せた。

「じゃあ着替えるの待ってるね」

 それから優香は思い出したように椎のもとへ駆け寄り、小さく唇を突き出した。

 一瞬の、交錯。

 ふわり、と柔らかい感触。

 椎が事態を理解した時には既に優香は一歩後ろへ下がり、恥ずかしそうに笑っていた。

「じゃあ、待ってるから」

 そう言って、彼女は背を向けて駆け出した。

 残された椎は呆気にとられ、その姿を見送る事しかできなかった。

「へえ」

 弥生の低い声が耳に届き、ようやく現実に帰る。

「あの女、ああいうことするんだ」

 振り返ると、弥生は表情のない顔をしていた。

 彼女の粘りつくような視線は、夕闇の中に消えていく優香の後ろ姿へ注がれている。

 椎は警戒するように一歩後ろへ下がった。今の弥生を刺激したくなかった。

「ねえ、あの女、私に見せつけたんだよ。あいつ、椎が他の女といるだけで、不安なんだ」

 底冷えするような、低い声だった。

 弥生が椎に向かって一歩距離を詰める。彼女の影が椎を食らうように動いた。

「馬鹿みたい。もう、椎は私のものなのに」

 弥生の手が、椎の胸元を撫でる。

 椎は全身を強張らせながら、目を閉じた。

 頭の奥で警鐘が鳴っていた。

「なのに今更キス一つで、一体何が変わるんだろうね」

 椎は、何も答えなかった。

 肺腑の奥から息を吐き出し、踵を返す。

 無言で逃げ出すように部室へ足を向けた。その後を、弥生が無言で着いてくる。

 心臓が、嫌な鼓動を打っていた。

 唇を重ねた後、恥ずかしそうに笑う優香。昏い瞳で見つめてくる弥生。

 二人の顔が、頭の中で交互に浮かんでは消えていった。

 クラブハウスに辿りつき、一番奥の部室に入る。

 明かりをつけると、頼りない光が室内を照らした。途端、弥生が乱暴に椎の肩を抱き、唇を押しつけてくる。

 舌が絡まり、弥生の腕に力が込められる。唾液が流し込まれるのを、椎はただ機械的に受け止めた。

「いいよ、椎。行ってきたら良い。それだけであの女が満足するなら。本当、めでたい女」

 唇が離れると、弥生は上気した顔でそう囁いた。

 椎は黙って口元を拭うと、テニスウェアを脱いで制服に着替えた。

 ネクタイを結び、鞄を手に持つ。最後に弥生の顔色をうかがうと、彼女はクスと笑って、小さく手を振った。

「また、明日」

「……うん」

 短く返して、部室を出る。

 一層深くなった夕闇の中、椎は正門の方へ向かった。

 優香は門に背を預けるように待っていて、椎に気付くと笑顔で駆け寄ってきた。

「さっきはいきなりごめんね」

 開口一番に、優香は恥ずかしそうに謝った。

 暗闇の中でも、顔が赤くなってるのがわかった。

「椎くんって神無月さんとよく一緒にいるよね。そういうのじゃないってわかってても、なんだか不安になって、衝動的に……ごめんなさい」

 椎はどういう表情をしていいか、わからなかった。

 世界が暗闇に包まれている事に、安堵する。

「うん。別に、ボクは、気にしてないよ」

「うん。うん。なんか、私、駄目だ。昼は、怜奈にも嫉妬しちゃった。椎くんがね。他の女の人といるとすっごく不安になるの」

 でも、と優香は言葉を続けた。

「でも、キスしたら、全部吹っ飛んじゃった。えへへ。私達、付き合ってるんだもんね。椎くんが他の女の人と何とかなるなんて、ありえないもん」

 世界が、暗闇に包まれていて本当に良かった。

 今、自分は一体どんな顔をしているんだろう。

 椎は表情を隠すように、視線を逸らした。

 優香の顔を直視する事ができなかった。

「……帰ろっか」

 溢れだしそうになる感情を押し殺し、呟く。

「うんっ」

 今にも弾みそうな優香の返事。

 彼女の手が、そっと椎の手に絡まる。

 椎はその手を強く握り返した。

 優香が幸せそうに笑う。

 椎も、笑った。

 上手く笑えたか自信はなかったが、それでも笑みを返した。

 ゆっくりと歩き始めると、優香も歩調を合わせるように歩き出す。

 日が落ち、前には暗闇が広がっていた。

 先の見えない暗闇の中、繋いだ優香の手は燃えるように熱く、栄養を求める蔦のように絡まっている。

「ねえ、椎くん」

 彼女の呼びかけに振り返る。

 ふわっと甘い香りがした。

 すぐ眼前に彼女の整った顔があり、唇に柔らかいものが触れた。

 そっと触れたそれは、暗闇の中、離れる事なくいつまでもじっとしていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

15話

「昨日は邪魔が入ったけど」

 翌日の放課後。

 部室を訪れた椎を、いつもの気怠そうな笑みを浮かべた弥生が迎える。

「今日は、ね?」

 椎は何も言わず、いつも通りテニスウェアに着替える。

 そして、ラケットを持って部室を出た。その後に弥生が続く。

「今日は、どうしようか。前のおしおき、結局流れたままだったよね」

 耳元で弥生が囁く。

 椎は怯えるように小さく肩を震わせた。

 その反応に、弥生が満足そうにクスッと笑う。

「嫌なの? じゃあ、椎が望むなら今日は優しくしてあげる」

 椎は足を止めて、弥生に顔を向けた。

 弥生が嗜虐的な笑みを浮かべる。

「ほら、椎。嫌ならちゃんとおねだりしないと」

「……弥生は」

 椎は静かに弥生を見つめて、僅かに躊躇するように言い淀んだ。

「そういうことを繰り返せば、何でも自分の思い通りになると思ってるの?」

 弥生の笑みが、固まる。

 椎はそれだけ言うと、弥生から目を離して歩きだした。

「椎?」

 弥生の声。

 椎は、振り返らなかった。

 すぐにコートが近づいてくる。

 テニスコートを囲むネットの傍に、人影があった。

 椎に気付いたように、人影――水無月優香が笑顔で手を振る。

「椎くん! 頑張ってねー!」

 後ろから弥生の憎悪の籠もった声。

「水無月……今日も……」

 椎はそれを無視して、水無月の元へ足を進める。

「また見学来ちゃった! 迷惑じゃないかな?」

 優香が駆け寄り、上目遣いで首を傾げる。

「大丈夫だよ。ただ、見てても暇だと思うけど」

「うん、椎くんなら何時間見てても飽きないよ」

 優香が楽しそうにはにかむ。

 椎は笑い返して、それからコートの中に入った。中で待っていた傑が、ラケットを振るのが見えた。

「これじゃあ、今日は下手なところ見せられないな」

「頑張るよ」

 苦笑しながら答えて、サービスラインに向かう。

「先にサーブ権やるよ」

 傑がボールを投げる。

 椎はそれを受け取って、それから大きく息を吸うと、ボールを上方にトスした。初秋の太陽に、ボールが煌めく。

 小気味良い打撃音がコートに響いた。

 振り抜いたラケットがボールを叩き、向かいのサービスエリアへ吸い込まれていく。即座に傑が反応し、ボールを拾い上げる。しかし、それはネットを越えることなく、虚しい音を立ててコートに転がることとなった。

「フィフティーン、ラヴ!」

 椎は大声で叫んだ。

 コート横から、優香の歓声。

「やりづらいな」

 傑が苦笑しながらボールを拾いに行く。

「今日は負けないよ」

 傑からボールを受け取ると、冗談っぽくそう宣言した。

 傑が呆れたような顔をする。

「空回りして怪我するなよ」

 

◆◇◆

 

「ねえ、マネージャーの仕事で何か手伝うことないかな?」

 コートの外側の、校舎の影で座り込む弥生に優香はそう言った。

 弥生の表情に乏しい顔が、ゆっくりと優香に向けられる。

「別に」

 短い言葉だった。

 明確な拒絶を含んだ声色に、優香は困ったような苦笑を浮かべる。

「神無月さんって、一年の頃からずっとテニス部のマネージャーやってるんだよね」

 コートで走り回る椎の姿を眺めながら雑談を続ける。

 弥生は黙ったまま答えない。

「この前、テニス部の部長さんに会ったよ。三年生は殆ど部活に顔を出してないって言ってた。今って椎くんと秋山くんしか殆ど活動してないんだよね」

 ボールを打つ音が、リズムよく響く。

「それなのに、神無月さんは毎日サボらず部活に出てる。テニス、好きなの?」

 弥生は答えない。その目は、ずっとコートに向けられている。

「これは私の想像なんだけど」

 優香の声色が、やや硬くなる。

「神無月さんは、テニス部に好きな人がいるのかな」

 弥生の昏い瞳が、ようやくコートから離れて優香を見た。

「だったら何なの」

 抑揚のない声が、小さく零れた。

 優香の瞳が動揺したように、僅かに揺れる。

「そっか」

 呟いた言葉は、まだ暑さを残す初秋の空へ溶けていく。

 ボールを打つ音がメトロノームのように響く中、弥生は興味を失ったように優香から視線を外した。

 校庭では、野球部が大きな声を出して守備練習をしている。

 遠くの練習風景を眺めながら、優香はゆっくりと口を開いた。

「私ね、明日も見学にくるよ」

 弥生はもう、振り向かない。

「明後日も来るし、その次も来る」

 私は、と優香の声に力が籠もる。

「ずっと、椎くんのそばにいるから」

 弥生はもう、一切の反応をしなかった。その双眸は、テニスコートへ真っ直ぐと向けられて離れない。

 太陽が傾いていく。

 校舎の影が、テニスコートにいる椎を呑み込むように広がっていった。




既に最後まで書き上げていましたが、数話分の加筆と調整のため暫くお時間を頂きます。
空白を埋めるため「偽悪皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネ」の投稿を開始しました。
皇帝を救うためにたった一人で国家と敵対する事を選んだ女魔術師のヤンデレファンタジーものです。
こちらも既に書き上がっているものを推敲しながらアップロードするだけなので、他の更新頻度に特に影響はありません。
よろしくお願い致します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

16話

「ね、今日も見学行っていい?」

 次の日。

 終礼が終わると同時に、優香が声をかけてきた。

 椎は鞄に教科書を詰め込みながら、目を瞬いた。

「いいけど、毎日見てても暇じゃないかな?」

「ううん。そうしたいの。一緒に帰りたいしね」

 優香の手が、椎の手をそっと掴む。

 周囲の女子から、小さくどよめきが上がった。

「行こ?」

 優香は周囲の反応を気にした風もなく、にっこりと首を傾げて、ほら、と廊下に向かって歩き出す。

 教室の中央にいた数人の女子グループの中から囃し立てるような声が届いた。

「うわ、やっぱりバカップルになった」

 呆れたような玲奈の声も、喧騒に混じって聞こえた。

 優香は一度教室を振り返って、だって大好きなんだもん、と悪戯っぽく笑った。教室から女子たちの悲鳴のような声が轟く。

 そのまま廊下に出て、帰路につく生徒の間を縫って歩く。

「まだまだ外は暑そうだねー」

 廊下の窓の向こうには、雲ひとつない青空が広がっていた。

 階段を降りて一階に辿り着き、靴を履き替える。その間も優香はぴったりと引っ付くように傍にいた。

 いつもより随分と距離の近い優香に、思わず首を傾げる。

「……何かあったの?」

「ううん。ただずっと一緒にいたいなって思っただけ」

 それより、と優香が言う。

「部室、一緒に入ってもいい? 一度だけ見てみたいなあ」

「部室? うーん、どうせ傑しか来ないからいいけど……」

 途端、優香が嬉しそうに手を引く。

「よし。じゃあ決定! 早速見に行こ!」

 何が楽しいのか、優香はころころ表情を変える。

 椎は釣られるように微笑んで、彼女と一緒にクラブハウスへ向かった。

「そういえば」

 校庭の端を歩きながら、優香が思い出したように口を開く。

「土曜日、晴れるみたいだよ。降水確率ゼロだって」

 ふと、空を見上げる。

 暖かい日差しが眩しい。

「そっか。どこか行きたいところある?」

「んー。椎くんとなら、どこでも良いよ」

 なんちゃって、と彼女は照れを誤魔化すように冗談っぽく言う。

「先にご飯食べるところだけ決めておいて、後は適当にぶらぶらしない? 服屋さんとか一緒に周りたいな」

「うん。そうだね。その時に決めようか」

 クラブハウスが見えてくる。

 手前の部室から騒がしい声がした。着替えている最中らしい。

 そこを通り過ぎて、一番奥の扉をノックしてから開く。

「おはよう」

 部室の中には、青いベンチに座ってこちらを見つめる神無月弥生の姿があった。

 彼女は椎を見た途端、口端を吊り上げた。

 そして何かを言おうと彼女の唇が動いた時、その表情が凍りついた。

「あれ? 神無月さん?」

 椎の隣から、優香が部室内を覗き込むように顔を出す。

「へえ、中はこうなってるんだ。薄暗いし、ちょっとした倉庫みたいな感じだね」

 優香が興味深そうにゆっくりと部室に足を踏み入れ、きょろきょろと首を回す。

「水無月……」

 ベンチに座ったままの弥生が、昏い瞳で優香を姿を追う。

 優香は視線に気づいて振り返ると、小さく首を傾げた。

「あ、ごめんね。休んでるところだったかな?」

 弥生は何も言わないまま、固い表情で弥生をじっと見つめるだけだった。

「椎くん、これから着替えるんだって。出ないとセクハラになっちゃうよ」

 冗談っぽく言う優香に、弥生が無言で席を立つ。

 それから、僅かな沈黙が落ちた。

 弥生は部室を出ていこうとはせず、じっと優香を睨みつける。

「ここはテニス部の部室だから。部外者が入っていい場所じゃない」

「あ、うん、ごめんね。見学してみたくって。すぐ出るから」

 優香はそう言って、言葉通り外に出た。それからドアノブを持って扉を開けたまま、にこにこと動きを止める。

「神無月さんも早く外に出ようよ」

 弥生はすぐには動かなかった。

 場の不穏な空気に、椎の視線が不自然に泳ぐ。

 喉がカラカラだった。

 外では、扉を開けたままの優香がじっと弥生を見ている。

 椎は二人を交互に見た後、意を決して口を開いた。

「……弥生、ボクはこれから着替えるから、少しだけ外に出ていてくれないかな」

 弥生の目が、ゆっくりと椎を見る。

 薄暗い部室の中、僅かに開いた瞳孔がくっきりと見えた。

「……わかった」

 短く言葉を残して、優香が開けたままのドアから部室の外に出ていく。

 弥生の後ろ姿が、いつもより小さく見えた。

 

◇◆◇

 

 コートに、ボールを打つ音が響く。

 校舎の影に座り込んで、弥生はじっと練習風景を眺めていた。

 テニス部のマネージャーの仕事は、決して多くない。

 お茶を作って、部室を整理して、たまに球拾いを手伝う。それが主な仕事だった。

 データの集計や計算をするような規模ではないし、外部のコートを予約することもない。

 殆どは待機時間で、弥生は二人が練習する光景をじっと眺めながら二年を過ごしてきた。

 特に、如月椎の動きはずっと見てきた。

 テニスにおける椎の動きは単調で読みやすい。

 反射的に対角へ返す癖があるし、膂力に自信がないからか、バックに来たボールを必要以上に浮かせてしまう事が多い。

 如月椎に、テニスの才能はなかった。

 それは恐らく弥生だけでなく、本人も含めて全員が分かっている事だった。

 それでも椎は、傑の練習に付き合うためにずっとテニスを続けている。

 弥生はそれを好ましく思う。

 愚直で単調なプレイスタイルも含めて、如月椎は素直でどうしようもない善人だった。

 弥生はそれを、一人でずっと見てきた。

 ずっと。

「流石に夕方になると涼しくなってくるね」

 横から、柔らかい声が聞こえる。

 水無月優香だ。

 弥生はテニスコートに目を向けたまま、相槌すら打たずにそれを無視した。

「神無月さんは、私のこと嫌ってるのかな」

 独り言のようなか細い声が、涼しい風に乗って届く。

「椎くんにはまだ言ってないけど、私、母子家庭なんだ」

 弥生はようやく、隣に座る優香に目を向けた。

 優香は制服のスカートの端を指で弄りながら、淡々と言葉を続ける。

「小学生の時に親が離婚しちゃったの。原因は色々あって。母親のギャンブル好きとか酒好きとか、父親の残業とか親戚付き合いとか」

 小さな溜息。

「お母さんは今でもお父さんの事を悪く言うけれど、私から見ればどっちもどっちだったかな。小さな事が積み重なって、どうにもならなくなって、離れていっちゃって」

 弥生は何も言わなかった。

 夕陽がコンクリートで照り返し、世界がオレンジ色に染まっていく。

「昔はね、仲が良かったんだよ。家族三人で遊園地に出かけたり、温泉に行ったり。でも、ダメになっちゃった。ちょっとずつ壊れていったの。大きなきっかけなんてなかった。気づけばバラバラになってたの」

 だから、と優香の視線が弥生を射貫いた。いつもの穏やかな眦だったが、その奥には冷たい色が宿っている。

「私は隙を作りたくないの。心が離れないように、バラバラにならないように、ずっと好きになって、ずっと好きになってもらって。ずっとそうありたい」

 弥生は彼女の視線を正面から受け止め、いつもの気怠そうな笑みを浮かべた。

「だから?」

 飛び出したのは、挑発的な言葉だった。

 優香の瞳が、一度だけ怯んだように揺れ動く。

「私はずっと椎くんの傍にいて、隙を見せないから。ずっと私が一緒にいるから。だから、怨まないでね」

 弥生は薄い笑みを浮かべたまま何も言わず視線を外した。

 コートから練習を終えた椎と傑が出てくるところだった。

「今日もお疲れさま」

 優香が立ち上がって労いの言葉をかける。

 弥生はそれを横目で見ながら、準備していた容器からお茶を紙コップに注ぎ、椎と傑に手渡した。

「ありがと」

 椎が微笑む。

 無防備な笑みだ。

 だから、繰り返してしまう。

「後の整地、俺がやっておくから。先に水無月と帰ってろ」

 そう言い残して、傑が再びコートに向かう。

「あ、ごめんね。ありがとう」

 椎が飲み終えた紙コップをゴミ箱に放り投げて、立ち上がる。

「着替えてくるね」

 当然のように優香も立ち上がって椎に寄り添うように並んで部室へ歩き出す。

 残された弥生は、肺腑の奥から深く息を吐いた。

 身体の芯で、何かが軋みをあげた。

 燃えるような怒りと、凍えるような冷たさが胸の内に同居していた。

 離れていく椎の背中を見ながら、思う。

 まだだ。

 まだやれる。

 水無月優香は、未だに気づいていない。

 あくまで正攻法に拘る彼女の裏を突くのは難しい事ではないはずだった。

 お茶の入った容器を手にして立ち上がる。

 重い。

 弥生は手元の容器に視線を落とし、それから上部の蓋を開けた。

 なみなみと残ったお茶が、中で揺れている。

 弥生は躊躇なく容器を蹴飛ばして、横倒しにした。

 音を立てて容器が転がり、中からお茶が溢れ出してくる。

 汚れていくコンクリートをじっと眺めた後、弥生は軽くなった容器を持ち上げた。

 滴り落ちた水が、ぽつぽつと涙のように落ちていった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

17話

「亜樹ってさ、ちょっとうざくない?」

 二年生に上がったばかりの、五月の出来事だった。

 昼休憩中に、そんな声が聞こえた。

 声のした方をそっと振り返ると、目立つ女子グループが集まって嫌な笑い方をしているところだった。

 その中に、話題に上がっている倉井亜樹の姿は見られない。

 陰口なのだとすぐに分かった。

「うちらが話してる時でもずっと携帯いじってるしね。成績いいし他を見下してるんじゃない?」

「あー、前々からそんな感じだよね」

 陰口で盛り上がっている女子は五人。

 粘りつくような悪意が、椎の耳に流れ込んでくる。

「今度さ、亜樹が話してる時に皆で携帯いじって無視しようよ」

 嫌な笑い声があがった。

 そこに、どこかのんびりとした声が重なった。

「亜樹が成績良いのは亜樹が頑張ってるからだし、携帯依存症なのは前からだし、亜樹にはそんなつもりないんじゃないかな」

 水無月優香だった。

 彼女はにこにこと、隙のない笑顔で言う。

「示し合わせたように、そんな事するのって良くないよ。それっていじめみたいじゃない?」

 一瞬の沈黙。

 誰かが誤魔化すように笑う。

「うっわー、優香って本当に天使すぎでしょ」

「本当に可愛いー」

 冗談っぽく抱きついてくる他の女子に対し、優香は表情を崩さずにこにこと笑い続けている。

 その笑顔から視線が離せなかった。

 教室の扉が開かれ、亜樹と玲奈が姿を現す。

「おかえりー」

 女子グループは、何事もなかったように次々と亜樹に声をかけた。

 同時に優香が輪から外れるように亜樹に方へ歩き出す。

「亜樹。自販機行こうよ。喉かわいちゃった」

「良いけど」

 亜樹が無愛想に返事して、二人して教室から出ていく。

 椎はその後ろ姿を、廊下に消えて見えなくなるまでずっと見ていた。

 まだ肌寒い五月のゴールデンウィーク前の出来事だった。

 

◇◆◇

 

「今日は火星が綺麗だね」

 部活の帰り道。

 住宅街で足を止めて、優香は空を見上げていた。

 手を繋いでいた椎も足を止めて、並ぶように夜空を仰いだ。

「えっと、火星ってどれ?」

「一番赤く光ってる星だよ。今年は地球に接近する年なんだって」

 夜空には数えるほどしか星がない。それらしいものはすぐに見つかった。

「火星って地球と離れたり、近づいたりを繰り返すんだって」

 優香の視線が、椎に向かう。

 椎もそれに答えるように、彼女の視線を正面から受け止めた。

「私はね」

 闇夜に溶ける優香の瞳は、何かを期待するように濡れている。

「椎くんとずっと近づいていたいよ」

 繋いだ手が離れ、優香の手が頬に触れた。

 距離が近づく。

 椎は思わず一歩下がった。

「ま、待って、いま、汗かいてるから……」

 今更のように部活後の汗をかいた身体が気になった。

 そんな椎を見て、優香がクスッと笑う。

「大丈夫だよ」

 今度は優香の手が頬ではなく、首に回された。

 少しだけ彼女の踵が浮くのがわかった。

 そして、柔らかいものが唇に触れる。

 一瞬だった。

 気づけば、数センチ先にはにかむ優香の顔があった。

「私、椎くんの匂い好きだよ」

 そう言って、もう一度距離がゼロになった。

 今度は、肩に顔を埋めるように。

「なんだか、安心する」

 すんすんと鼻を鳴らす優香に椎は思わず苦笑して、そのまま彼女の肩を抱き寄せた。

「なんだかそれ、犬みたいだよ」

「そうだね。私は椎くんの犬だよ。ずっと着いていくの」

 遠くでクラクションの音がした。

 目を閉じると、優香の体温を感じられた。

「ね、私邪魔じゃないかな。ずっと部活に張り付くみたいに見学してるけど」

 肩に顔を埋めたまま、優香が静かに言った。

「ううん。大丈夫だよ」

「ほんと? 学校も一緒だし、部活も一緒だし、帰りも一緒だし。うざくないかな?」

「ううん。ずっと一緒にいられて嬉しいよ」

 腕の中で身動ぎする感覚があった。

「そっか」

 優香が顔をあげて、嬉しそうに笑う。

 椎も笑い返した。

「ね、もう一度」

 そう言って、彼女の唇が再度触れた。

 今度は一瞬ではなく、長い口付けだった。

 どこかで、子供の騒ぐ声がした。

 慌てて口を離し、周囲を見渡す。

 住宅街に人影は見られない。

 互いに顔を見合わせ、小さく笑い合う。

 優香の頬が仄かに赤く染まっているのが暗闇の中でもわかった。

「じゃあ、また明日。朝、家まで向かいに行くから」

 名残惜しそうに、優香が別れの言葉を口にする。

「うん。またね。お疲れ様」

 それから、週末の事を思い出す。

「それと、土曜楽しみにしてるね」

「……うん。私も」

 屈託のない笑顔が、街灯の下でも眩しかった。

 

◇◆◇

 

 コートにボールを打ち合う音が響く。

 五月のゴールデンウィークが明けた後だった。

 傑と打ち合う中、新入生の見学者が三名、コート外にいた。

 少し遅めの見学者にいいところを見せようと出来るだけラリーを繰り返す。

「もらい」

 浮いてしまったボールを、傑が力強く叩く。

 角度がついたそれは、椎の数歩先を勢いよく抜けていった。

 荒い息を吐きながら、見学者に目を向ける。

 あまり興味はなさそうだった。入部する見込みは少ないだろう。

 椎はラケットを手の中でくるくる回転させながら、傑がサービスラインに立つのを待った。

 その時、校舎に沿うようにテニスコート横の道を水無月優香と倉井亜樹、島田玲奈の三人が歩いてくるのが見えた。

「お、如月じゃん。頑張れよー」

 こっちに気づいた玲奈が大声を出す。

 その横でつまらなさそうに携帯をいじる亜樹と、静かに微笑む優香。

 答えるようにラケットを頭上で振った時、優香と目が合った気がした。

「椎」

 傑の声。

 振り返ると、既にサーブの準備が整っていた。

 構えると同時に、傑がボールを頭上に放り投げ力強くサーブする。深く入り込んできたボール目指して地面を蹴り、いつものようにラケットを振り抜く。

 手応えがなかった。

 後ろで跳ねるボールの音で空振りしたのだと気づき、羞恥心で顔が赤くなるのが分かった。

「下手くそぉ!」

 玲奈のからかうような声。

「玲奈、ダメだよ」

 嗜めるような優香の声。

「ごめんね。如月くん。邪魔しちゃって」

「……ううん。見学は自由だから」

 優香は微笑んで、そのままコート外からこちらを見ている。立ち去る様子はない。

 ラケットを持つ手に汗が滲んでいた。

「椎」

 傑の声。

 サーブの準備が整った彼に向き直り、腰を落として構える。

「行くぞ」

 さっきと同じように頭上に放り投げられたボールが、綺麗なフォームで叩き込まれる。やや手前に落ちたそれを拾おうと地面を蹴った。

「がんばれー!」

 優の声援。

 それだけで全身の筋肉が硬くなるのがわかった。

 手前のボールを拾い上げ、ネットの向こうに返す。すぐに傑が動き、いつも通り走らされるようにボールが反対側に打ち込まれる。

 コート上を駆けながら、視界の隅に優香の目があった。

 優香、亜樹、玲奈の三人が並ぶ中、優香の視線だけがはっきりと意識の中に上った。

 心臓の鼓動がいつもより早い。

 汗で乱れた髪が気になった。

 無様な姿を見せたくない、と思った。

 前方から放物線を描いてボールが迫る。いつもなら無難に拾おうとするだけのコース。それを無理やり前に出て、相手コートに力の限り叩き込む。

「お、意外とやるじゃん」

 傑の横を抜けていったボールに、玲奈が歓声をあげた。

 荒い息を吐きながら、ちらりとコート外を見る。

 微笑む優香と目が合った。

 とくん、と心臓が跳ねた。

 熱を持ったように全身が熱い。

 少しだけ、乱れた前髪を整える。

 唾を飲み込んだ音が、妙に大きく聞こえた。

「椎」

 傑の声。

 椎は小さく頷いて、腰を落として構えた。

 視界の隅には、優香の視線。

 もう、新入生の見学者の事なんて頭になかった。

 まだ肌寒い、五月の出来事だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

18話

 土曜日。

 一週間ぶりの、二度目のデートだった。

 駅前で待っていた椎の元に、優香が駆け寄ってくる。約束よりも三十分早い邂逅だった。

「椎くん、早いね」

 息を切らせながら優香が言う。

「前は優香ちゃんの方が早かったから、今度は頑張ろうと思って」

「これだと段々待ち合わせが早くなっていきそうだね」

 優香が肩を竦める。椎は小さく笑った。

「そうだね。お互い早く来過ぎたら徐々に気疲れするかも。これからは待ち合わせ十分前より早く来たらダメってことにしよっか」

「あ、それ凄く恋人っぽい。二人だけのデートのルール決めていくのって、なんだか凄く良い!」

 優香が幸せそうに笑い、それからどこか恥ずかしそうに言う。

「あ、あのね、まだご飯には早いし、ご飯行く前にカラオケ行きたいな」

「カラオケ? いいよ」

 頷くと優香はどこか緊張した様子で笑って、そっと椎の手を取った。

「じゃあ、行こっか」

 優香が椎を引っ張るようにして歩き出す。

 いつもより、動きがぎこちない気がした。

「優香ちゃん? 緊張してるの?」

「……椎くんといる時は、いつだって緊張してます」

 優香が冗談っぽく頬を膨らませて言う。

「それに、カラオケって密室に二人きりになるから尚更だよ」

 その言葉に、椎も奇妙な気まずさを覚えて黙りこんだ。

「あ、椎くん、今、変なこと考えた」

「……少しだけ」

「やっぱりー」

 優香がころころと笑う。椎も釣られて微笑んだ。

 店につき、受付へ向かう。

 前回と同様に、待ち時間もなくそのまま個室へ向かう事ができた。

 部屋に入るなり、ディスプレイ前のマイクを二つ取りにいく。

 その時、部屋の中が突然暗くなった。振り返ると、入口に立った優香が調光スイッチを操作しているところだった。

 ドアが、静かに閉まる。

 薄暗い密室の中で、優香が微笑んだ気がした。ディスプレイの放つ仄かな光が優香の瞳に反射し、暗闇で光った。

「曲、入れるね」

 優香が無言で端末を手に取り、素早く選曲する。

 入力が正しく行われた事を示すように、室内に有名な曲のイントロがかかった。

「優香ちゃん?」

 椎の声は、音楽に掻き消される。

 優香は暗闇の中で頬を赤らめながら、椎をじっと見つめて微笑を浮かべた。それから、ゆっくりと椎のもとへ歩み始める。

「椎くんは」

 優香が恥ずかしそうに椎の方を見つめながら口を開く。

 その間にも、距離は縮まっていく。

「どれくらいの速度で恋人同士が距離を縮めていけばいいか知ってる?」

 優香の発言の意図が掴めなかった。

 椎が困惑している間に、優香との距離がすぐ触れ合う距離まで近づく。

「私、よくわからなくて。だから調べたんだ。三回目のデートでエッチする人が、多いんだって」

 吐息がかかるほどまで、優香の顔が眼前に迫る。

 暗闇の中で開く瞳孔すらはっきりと見える距離。

 そこでようやく、優香の足が止まる。

「今、私達は二回目のデート。キスまではもうしたよね。だから、あの、もうちょっと、進みたいなって」

 そして、優香はそっと顔を近づけた。

 唇が触れあう。

 この一週間、何度もしたことだった。

 突然の行為に少し驚いたものの、椎はそっと優香の肩に手を添えた。

 そして、ゆっくりと唇を離そうとする。その時、反発するように優香が強く身を寄せた。

 唇が押し付けられ、生温かい舌が、口腔内に入ってくる。直後、優香の腕が椎の背中に回され、 優香の身体が椎と密着する。

 弥生との行為が咄嗟に脳裏によぎり、反射的に筋肉が強張った。優香はそれを抑え込むように、強く身体を絡めてくる。

 後ろのソファへ崩れ込むと、そこでようやく優香は唇を離した。

「雰囲気も何もなくて、ごめんね」

 暗闇の中、上から覆いかぶさった優香は赤く上気した顔で、どこか媚びるような表情で謝る。

 室内には、どこかで聞いたような音楽が鳴り響き続いている。

 心臓が怖いほど脈打っていた。

 鼻腔を甘い香りがくすぐり、判断能力を奪っていく。

「もう、キスはしちゃった。次の三回目は、エッチ。じゃあ、今日はどこまでする?」

 優香の手がそっと椎の胸元に触れ、すうっと撫でる。

 椎はその手を握り、止めた。

 そして、優香の瞳を正面からじっと見つめる。

「優香ちゃん。無理に他人とペース合わせる必要ないよ。僕たちは、僕たちなんだから」

 その言葉で、優香は慌てたように飛び退いた。

「ご、ごめんなさい! 私、そういうつもりじゃなくって、ただ、あの、ごめんなさい……椎くんがどれくらいのスピードで距離を縮めたいのかわからなくって、だから、一般的な――」

「うん。わかってるよ。気を遣わせて、ごめんね」

 椎はそう言って、ソファから起き上がった。部屋にかかった曲が間奏に入るところだった。

「優香ちゃんは」

 椎は少し乱れた服をなおしながら、おどおどとした様子の優香に目を向けた。

「そういうのに、興味があったの?」

「あの、別に誰でも良かったとかじゃなくて、違う、そうじゃなくて、椎くん相手でも、別に、あの、そういう事だけが特別したい訳じゃないけど――」

「うん。大丈夫。わかってるよ」

 次第に声が小さくなっていく優香を誘導するように、椎は言葉を選んだ。

「優香ちゃんが、特別そういう事がしたい訳じゃないなら、急がなくていいと思う。困ったり、迷ったりしたら、まず話して欲しいな。言いづらいことでも、ちゃんと話し合えるような関係が一番だと、僕は思うから」

「……うん。そう、だね。私、何となく恋人って関係に縛られてて、他の人達はどうなのかなって気になって……うん、でも、これは私達二人の事だもんね。周りは、関係ないよね」

「少なくとも、僕はそう思うよ」

 優香はそこで考える素振りを見せた後、恐る恐る口を開いた。

「……じゃあ、キスして欲しいかな」

「キス?」

 唐突な言葉に、思わず聞き返す。

「うん。キス。あの、まだ、エッチは早いかなって思うんだけど、でも、キスはいっぱいしたい。椎くんは……その、そういうのあまり好きじゃない? つまり、迷惑じゃないかな?」

 椎は何度か瞬いた後、微笑み、そっと優香の頬に手を添えて顔を寄せた。

 室内に響く間奏は激しい三重奏へ繋がり、まだ終わる様子を見せない。

 

◇◆◇

 

「幸せ過ぎて、怖いな、って時々思います」

 帰り道。

 カラオケの後は昼食を食べ、最後に映画を見てそのまま解散の流れとなった。

 椎は優香と並び、集合場所に指定していた駅に向かっていた。

「告白して良かったなって。何もかも、上手くいきすぎて凄く怖いの。何かの拍子でこの幸せが突然なくなるんじゃないかって」

 だから、と隣を歩く優香は椎の手を強く握った。

「この幸せが続くように、私、頑張るから。駄目なところがあったら、言ってね」

「……うん」

 椎は、短く頷いた。

 駅が近づいていた。

 すなわち、デートの終わりだった。

「じゃあ、私、あっちだから」

 ロータリーの前で、優香が立ち止まる。椎も立ち止まって、うん、と微笑んだ。

「じゃあ、また月曜日に」

「うん。またメールするから」

 最後の言葉を交わし、それぞれの帰路につく。

 椎は駅の方へ進み、改札へ繋がる階段をのぼった。

 風が吹く。

 夕方の、涼しい風だった。

「椎」

 風に混ざり、そんな声が聞こえた。

 足を止める。

 階段の向こう、改札口の前に神無月弥生が立っていた。

「椎、待ってたよ」

 弥生はそう言って、能面のように表情のない顔で近づいてくる。

「ずっと待ってた」

 頭上の蛍光灯が、瞬いた。

 明滅する光の中、弥生の手が椎に伸びた。

「今から私に付き合って。嫌とは、言わないよね?」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

19話

 いつもと違う駅で、椎は電車を降りた。

 椎の横には無表情な神無月弥生が並び、その手を強く握っている。

「こっち。西口から出た方が、近い」

 弥生がそう言って、先導する。椎は黙ってそれに続いた。

 夕暮れの駅は、会社帰りの人たちで溢れている。

 人混みの中を抜けていく弥生が、いつもよりも小さく見えた。

 階段を下りて、駅を出る。

 少し、肌寒かった。

「椎は」

 不意に弥生が口を開いた。

 やや前を歩く彼女の表情は、椎からは見えない。

「水無月優香が、好きなの」

「……好きだよ」

 はっきりと答えた。

 弥生は前を向いたまま、どこか他人事のように、そう、と呟く。

「水無月優香の、どこが好きなの? 顔? 身体? 性格?」

「……どこが好きなのか、自分でもわからないよ。明確なきっかけも特になかった。人を好きになるって、そういうことだと思う」

 以前、似たようなことを優香と話したことを思い出し、最後に彼女の言っていた言葉を付け足す。

 優香の言う通りだと思った。

 気づけば好きになっていて、それ故に悩むのではないか。そう結論づける。

「ふうん」

 弥生は興味なさそうに言って、それっきり黙り込んだ。

 椎も、それ以上口を開こうとはしなかった。

 景色は、住宅街へと徐々に姿を変えていく。

 歩きながら、過去の記憶を辿った。

 過去に、無断欠席した弥生を心配して家を訪れた事があった。確か、もう少し歩くと辿りつくはずだった。

「もうすぐだから」

 椎の思考に答えるように、弥生がポツリと言う。

 同時に、手を握る力が強くなった。

 ある二階建て建築物の前で、弥生は足を止めた。

 比較的大きい家で、小さな庭がある。表札には、神無月の文字があった。

 門扉を開けて、弥生が先に進む。椎はやや躊躇した後、ゆっくりと彼女に続いた。

 まず視界に入ってきたのは、荒れた庭だった。ろくに手入れもされておらず、伸び切った雑草が枯れている。

 寂しい庭だと思った。

 庭を横目で眺めている間に、弥生が鍵を取り出して鍵穴に差し込む。

「入って」

 弥生がドアを開け、先に入るように促す。

 玄関ドアの向こうには、暗い廊下が広がっていた。人の気配はない。

 椎は弥生の表情をチラリと確認した後、ゆっくりと中に入った。

 ドアが軋みながら閉まる。同時に明かりがついた。

「あがって」

 弥生が催促する。

 椎は黙って靴を脱ぎ、廊下を進んだ。弥生が後ろから椎の腕を強く握る。

「こっち」

 そう言って、彼女は入れ替わるように先に廊下を進む。

 廊下を歩いている間、明かりがついている部屋は見当たらなかった。

 家が広い為に薄暗さが強調され、無機質な印象を受ける。

 階段をのぼり、二階にあがる。

 そこに、彼女の寝室があった。物が少なく、整然とした印象を受ける部屋だった。

「……家に、誰もいないの? おばあちゃんは?」

 椎の問いかけに、弥生はゆっくりと振り返った。

 いつも通りの、無表情な顔。

 表情がないというよりは、表情を殺しているように見えた。見た事のない弥生の顔だった。

 その瞳に、感情は見られない。

 ただ昏い瞳が、そこにあった。

「死んだよ」

 呟くように、弥生はそう言った。

「脳梗塞だった」

「……え」

 思わず、意味のない言葉が口から零れた。

 弥生は表情のない顔で、言葉を続ける。

「だから、この家には私一人しかいない。財産管理だけ後見人に任せてるけど」

 椎は言葉を失って、ただ弥生を見つめることしかできなかった。

 荒れた庭。

 広い家。

 暗い廊下。

 椎は整然とした部屋をゆっくりと見渡した。その中で、ポツリと佇む弥生が酷く寂しそうに見えた。

「ねえ、椎はさっき、人を好きになるきっかけなんてないって言ったよね」

 弥生が一歩前に踏み出す。

 椎は動けなかった。

「私は、あるよ。椎を好きになったきっかけ。椎は、もう覚えていないのかもしれない。でも、私は、ずっと覚えてる。だから、私は――」

 弥生はそう言って、椎の胸に飛び込んだ。弥生の腕が椎の背中に回される。

「――こんな奪われるだけの世界で、まだ生きてるんだよ」

 唇が、触れる。

 椎は本当の意味で初めて抵抗できなかった。

 抵抗しなかった。

 その腕を振り払う事なく、顔を逸らすこともなく。

 華奢な弥生の身体を、抱きしめてしまった。

 

◇◆◇

 

 神無月弥生が物心ついた時には既に両親は他界していた。

 母親は肺癌で、父親は胃癌。

 闘病の末に亡くなったと後に聞いた。

 まだ幼かった弥生は、祖母の手によって育てられる事になった。祖母は人格的にも優れていたし、経済的な余裕もあった。比較的恵まれた環境だったと言える。

 ただ、物心ついた時から自分の居場所がどこにもないような、漠然とした孤独感があった。

 祖母に迷惑をかけては駄目だ、という出所不明の抑圧感があった。

 そうした捉えどころのない気持ちが、弥生を内向的な少女へと成長させた。

 自己主張は悪で、沈黙は美徳。

 何故そうなったのか、弥生自身にもよくわからなかった。

 わからないが、弥生はそう育った。

 そして無口な少女時代を送る事になった。

 祖母は厳しくもあり、優しくもあった。

 過失は諭し、故意的な悪事には厳しく当たり、褒めるべきところは褒めてくれた。怒ることと、叱ることの区別がついている人だった。

 弥生は、祖母が好きだった。尊敬していた。

 だからこそ、祖母は、親の代わりにはならなかった。

 祖母は無条件で弥生を受け入れてくれる存在では、なかった。

 弥生の中の孤独感は、癒える事がなかった。

 入学式。授業参観日。運動会。

 行事がある度に、自分には親がいないということがはっきりと感じ取れた。

 ただ、そうした理不尽に対する反発心を祖母に向ける事はできなかった。弥生は祖母が好きで、祖母を悲しませたくなかった。弥生の孤独感は外部へ出力されることなく、ひたすら内部へ蓄積していくことになった。

 そうした鬱積は弥生の内向的な性格を、他人に無関心な性格へと徐々に変容させていくことになった。

 他人はどこまでいっても他人で、孤独感を癒す事はできず、心を開く事ができなかった。

 そうした心情は自然と周囲にも伝わり、弥生の周りからは人が消えていった。弥生の孤独感はますます加速し、他者への関心も薄れていった。

 両親の闘病について祖母から詳しい話を聞かされたのが、この頃だった。

 癌。

 その概念が、まだ弥生にはよくわからなかった。

 ただ、死亡率が高い病気という漠然とした知識しかなかった。

 そのメカニズムについても、祖母は説明してくれた。

 人体を構成する数十兆の細胞の中の一部の異常変異。

 正常なコントロール下を離れ、自律的な増殖を行い、その増殖の為に多大なエネルギーを奪い始め、その生体は急激に弱っていく。

 やがて増殖した異常細胞は正常な臓器を侵食し、機能不全を引き起こしてその生体構造を破壊していく。

 その話を聞いた時、弥生は奇妙な納得を覚えた。

 父と母は、裏切られたのだ。

 自己に、自己を構成する細胞に裏切られたのだ。

 エネルギーを奪われ、その人体を侵食され、遂には殺された。

 自分自身の身体すら裏切るというのに、他人など一体どうして信用できるのだろう。

 物心ついた時から胸の内にあった孤独感が、両親を死に追いやった癌によって肯定された気がした。

 理屈は、どうでもよかった。

 ただ、ストン、と何かが落ちた。

 それから、弥生はますます他人との接触を嫌うようになった。

 感情の起伏は薄れ、他者への無関心は世界への無関心へと移ろっていく。

 ただ、それでも、弥生は祖母が好きなままだった。

 尊敬していたし、感謝もしていた。

 だから、神無月弥生は生きていた。

 空虚な世界を祖母の為に、怠惰に生きた。

 高校へ入学すると、祖母を心配させない為にテニス部のマネージャーとなった。

 人数が少なく、やるべきことが殆どないのがテニス部を選んだ理由だった。

 そして、神無月弥生は如月椎と出会った。

 

 椎に対する第一印象を、弥生は覚えていない。つまり、どうでもいい存在だった。

 何ヶ月か同じテニス部で過ごすうちに、とても人懐っこい人だと感じるようになった。同じテニス部の傑と非常に仲がよく、クラスの中でも誰とでも気軽に話していた。自分とは反対の人種だ、と思った。

 弥生の評価通り、椎は人懐っこい性格で弥生が最低限の受け答えしかしなくても気にせず話しかけてきた。悪い人ではないのだろう、と思って特別邪険に扱うことはなかった。次第に椎は弥生の学校生活の中で、最も会話の多い人物となった。

 そのまま、緩やかに時が過ぎた。

 転機が訪れたのは、一年生の夏休み明けだった。

 九月。

 残暑が残る中、弥生は風邪で寝込む事となった。

 中々熱が引かず、家で安静にする日々が続いた。

 その三日目。チャイムが鳴った。

 祖母が応対に出て、弥生は二階の自室で横になったままだった。

 祖母は応対に出たまま、中々戻らなかった。

 気になった弥生は、重い身体を起こして一階へと下りた。

 そこで、応接間から響く声に気付き、足を止めた。

 客人のようだった。

「あの子は、学校でうまくやっていますか?」

 祖母の声が届き、心臓がとくんと跳ねた。

「あの子は、昔から感情表現があまり得意ではありません。友達と遊ぶ姿も、殆ど見たことがありませんでした。あの子は、ちゃんとクラスに馴染めていますか?」

 ばれている。

 心配させてしまっている。

 その事実に心が揺れた。

「……正直に言うと、馴染めているとは言えないです。愛想が良くないから、怖いっていう人もいます」

 如月椎の声がした。

 彼の言葉に、嘘はなかった。

 弥生はクラスに馴染めていなかった。ただ、そのことを祖母に知られたくなかった。心配をかけたくなかった。

 でも、と椎の声が続く。

「大丈夫だと思います。感情表現が豊富って、良い事だけじゃないです。ネガティブな感情をすぐに表に出す人だっています。でも、弥生は、あの、弥生さんは絶対に人に悪意ある感情を見せないです。テニス部の仕事だって、嫌な顔一つせずやってます。少し一緒に過ごしたら、感情だって見えてきます。だから、大丈夫です。時間があれば、必ず馴染めると思います」

 穏やかな声だった。

 弥生は息をするのも忘れて、椎の言葉に聞き入った。

 救われた気がした。

 幼い頃に憧れた両親の温もり。ずっと感じてきた孤独性。

 それが、満たされた気がした。

 ダメな部分をも受け入れて、肯定してくれた。

 そのことが、嬉しかった。

 そして、椎は最後にこう締めくくった。

「少なくとも、僕は弥生さんのこと、好きです」

 ひどく大人びた声だった。

 周囲の同年代の男子とは違う気がした。

「あの子は、良い友人を持ったようです」

 祖母の声。

「あの子は、あまり人を頼りません。甘え方を、知らないんです。この年齢まで、ついに教えることが叶いませんでした。どうか、あの子をよろしくお願いします」

 最後に託すような言葉を残し、その三ヶ月に祖母は脳梗塞で倒れた。

 意識が戻ることはなく、そのまま帰らぬ人となった。

 享年七十四歳。

 唯一心を許していた祖母の死によって、弥生は大きな家と莫大な資産を手に、一人で生きていく事になった。

「本当に一人になっちゃった」

 墓前の前で、弥生は一人呟く。

「でも、おばあちゃん。私、大丈夫だよ。私、ちゃんと、生きていくから」

 一人、語り続ける。

「好きな人が、できたから。その人は、こんな私でも肯定してくれて。だから、大事なものを神様に奪われ続けるだけの世界でも、ちゃんと、生きていくから。最後まで心配かけさせてごめんね。でも私はもう大丈夫。私一人でも、歩いていける。だから、安らかに眠ってください」

 祖母との誓いを果たすように、弥生は少しずつ変わっていった。

 性格はもうどうにもならなかったが、他人を拒絶することを止めた。

 二年生になってからは特定の女子グループと関わり合いを持つようになり、食事もそのグループと食べるようになった。

 徐々にではあったが、弥生は確実に変化していった。

 ただ、如月椎との関係は何も進展しなかった。

 椎は基本的に誰とでも話すタイプで、自分がその中の一人でしかないことがよくわかっていた為、弥生はそれ以上の関係を望まなかった。ただ、椎のそばにいるだけで幸せだった。

 椎が、水無月優香と付き合うまでは。

 その日、部活には秋村傑しか来ていなかった。

 元々集まりが悪いテニス部では、珍しい事ではない。

 誰も来ないと判断した傑はそのまま帰路につき、暇を持て余していた弥生はコートの横で椎を待ち続けていた。

 今日はもう来ないだろう、という予想に反し、如月椎は夕暮れのコートに現れた。

 どこか、そわそわした様子だった。

 胸騒ぎがした。

 遅れた理由をたずねると、椎はにこりを笑い、わざとらしく胸を張った。

「えっとね、それが何と! 女子に呼び出されて告白されたのです!」

 世界が暗闇に包まれた。

 全ての音が遠のき、光が消えていく。

 神無月弥生という人格を形成していた何かが崩壊を始めた。

「誰? 誰に告白されたの?」

 自分でも驚くほど低い声が、口から零れた。

 夕焼けの中、世界が燃え尽きていくような錯覚。

「あ……あの、同じクラスの水無月さん……えっと、弥生?」

「へえ……それで、椎は何て答えたの?」

「あの、ボクも前から好きでしたって……」

 燃えていた世界は、黒ずんでいく。

 夕陽は落ち、暗闇が世界を覆う。

 頭の中がぐちゃぐちゃになった。

 これ以上、奪われたくないと思った。

 だから、弥生は、選んだのだ。

「……部室、行こっか」

 致命的な一言だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

20話

「ごめんね」

 唇が離れ、弥生がそっと囁く。

 目の前の彼女の瞳は、しっとりと濡れていた。

 肩に絡まった彼女の腕に力が籠もり、華奢な身体が押し付けられる。

「それは、何に対して?」

 眼前の弥生に問いかけると、彼女は薄い笑みを浮かべた。

「これまでのことと、これからの事について」

 弥生はそう言って、椎の腰に腕を回し、ベッドへ向かって歩き出す。

「私は、これからも椎に酷いことをするから」

「……自覚、あったんだ」

 椎の呟きに彼女は微笑んで、とん、と椎を優しく突きとばした。

 ふわり、と柔らかいベッドが椎を受けとめる。

「この行為が酷いことになるのは、つまり、合意の上じゃないから」

 弥生が馬乗りになる。

 椎はぼんやりと弥生を見上げた。

「酷いことじゃなくなれば、いいのにね。私は常にそれを願ってるよ」

 暗闇の中、弥生が身体を寄せてくる。

 椎は目を閉じた。

 誰もいない家は、酷く静かだった。

 彼女の荒々しい息だけが、耳に届いた。

「ごめんね」

「どうして椎が謝るの?」

 弥生が小さく笑う。

 そして、唇が塞がれた。

 弥生の髪が、椎の頬をくすぐる。

 椎が身じろぎすると弥生はすぐに唇を離し、それから上気した顔を椎の首元に埋めた。

「椎の匂いがする」

 すぐそばで、吐息がかかる。

 椎は胸元の弥生の体温を感じながら、ふとそれを思い出した。入学当初、弥生に仄かな好意を抱いていた事を。

 テニス部の雑用を黙々とこなす彼女を、自然と視線が追っていた。

 他の女子と群れる事なく一人で過ごしている彼女が、どこか気になった。

 何となく、放っておけないと思った。クラスでもテニス部でも、いつも気にかかっていた。

 他人と距離を取ろうとする彼女に、よく話しかけた。孤立しないように気を配っていた。

 淡い何かが、心の中にあった。

 もしかしたら、それは初恋だったのかもしれない。

 けれど弥生はどこか鬱陶しそうな反応を見せていて、だからそれ以上踏み込もうとは思えなかった。

 その気持ちが育つ前に、椎はすぐに蓋をした。

 本当に短い間の出来事だった。

 どうにもならない感情は変わらない日常に溶けていって、いつの間にか忘れていた。

 一年と半年近くの時間は、長かった。

 気持ちが移ろうには、十分すぎる時間だった。

 本当に僅かな期間だけ抱いていた気持ちは、既に別の方向を向いてしまっている。

「みんな、何かに取られてしまう」

 ぽつりと、弥生が零す。

「椎だけは、取られたくなかったの」

 彼女の言葉に答える言葉を、椎は持ち合わせていなかった。

 一年と半年前ならば、違ったのだろう。

 別の未来があったはずだった。

 けれど、それは既に椎の手を離れてしまっていた。

 何もかもが手遅れだった。

 彼女への感情は崩れて、もう原型が分からないほどぐちゃぐちゃになってしまっていた。

 弥生の細い腕が、身体に絡まる。

 痛いほど締め付けられた。

「弥生、痛いよ……」

 彼女の瞳と視線が交差する。

 目尻から透き通った涙が筋を作って落ちるところだった。

 暗闇の中、彼女の嗚咽が長い間響き渡った。

 

◇◆◇

 

「今日の椎くん、何だかずっとぼんやりしてるね」

 部活の帰り道。

 顔を覗き込むようにして見上げてくる優香に、椎は足を止めた。

「えっと……そうかな?」

「そうだよ。ずっと考え事してるみたい」

 優香の瞳がじっと椎を見る。

「何か悩みごと?」

「……ううん。そんなんじゃないよ」

「……なにか悩んでるんだったら、相談してね」

「……うん」

 真っ直ぐ注がれる優香の視線から逃げるように視線を逸らし、無言で帰路を歩く。

 いつもの曲がり角にくると、椎は弱々しく笑って手を振った。

「じゃ、また明日」

「うん。またね」

 優香が去っていくのを見送ってから、ゆっくりと歩き出す。

 脳裏に昨日の事が何度も甦った。

 暗い家で一人佇む弥生の姿が、頭から離れない。

 零れ落ちる涙の跡が、忘れられない。

 暗闇の中で絡む弥生の肢体と体温。

 どこか泣き出しそうな表情。

 響く嗚咽。

 それらがぐちゃぐちゃになって、何度も何度も頭の中で再生された。 

「椎」

 風に乗って、声が届いた。

 俯いていた顔を上げると、正面に弥生が立っていた。

 彼女はいつもの気怠そうな顔で、にいっと笑った。

「水無月と別れる場所、いつもワンパターンだよね」

 一歩、弥生が踏み出す。

「だから、待ってたんだ」

 二歩、三歩と踏み込んだ弥生が、椎の手を握る。

「家、来てよ」

 椎の返事を待たず、弥生が歩き出す。

 引っ張られるように彼女の背中を追いながら、椎はじっとその後姿を見た。

「いいよ」

 遅れて零れた言葉に、弥生が足を止める。

 振り向いた彼女の瞳は、大きく見開かれていた。

 椎は足を止める事なく彼女の横に並び立ち、そのまま追い越した。

 それまでとは反対に、弥生を引っ張るように歩く。

「どういうつもり?」

 背後から弥生の低い声。

 椎は振り返らず、そのまま足を進めた。

 

 

 

 会話らしい会話もないまま弥生の家に辿り着くと、彼女は繋いでいたようやく手を離した。

 門扉を開け、奥の玄関ドアに鍵を差し込む。

「入って」

 先に入るように促す弥生の言う通り、先に玄関へ入る。

 暗闇が続く廊下が見えた。

 後から入ってきた弥生が電灯スイッチを押し、どこか無機質な印象を受ける蛍光灯が点灯した。

 椎は靴を脱ぐと、そのまま廊下の奥へ向かった。そして、迷わずキッチンに入る。

「……椎、どこ行くの」

 弥生の声を無視して、冷蔵庫を開ける。

 想像通り、中には大したものが入っていなかった。

「やっぱり、まともなもの食べてないんだ」

 振り返ると、困惑した顔をする弥生が立っていた。

「ご飯、作るよ」

「……どうして」

 どうして。

 そう聞かれて、すぐに答えが出なかった。

 冷蔵庫の隣にある米櫃の中身を確認しながら考える。

「ねえ、弥生」

 収納棚を開き、調理器具が揃っているか見ていく。

「今ならまだ、戻れるよ」

「……どうして、そんな事言うの」

 振り返る。

 薄暗い台所で、どこか所在なさげに立つ弥生がいた。

「戻ろう。前みたいな関係に。普通の関係に」

 弥生は何も言わなかった。

 ただ、黒い瞳で椎を見るだけだった。

「お婆ちゃんが亡くなってたこと、気づかなくてごめん。弥生が大変なこと、何も気づかなかった」

 足元の床が軋む音が、妙に大きく聞こえた。

「でも、僕が付き合っているのは優香ちゃんであって、弥生じゃないから。僕が友人として出来るのは、これくらいしかないから」

 優香の名前が出た途端、弥生の視線が剣呑なものになる。

「いらない!」

 弥生はそう叫んで、足を踏み込む。

「そんなこと、頼んでない! そんな優しさ、求めてない!」

 弥生の手が、椎の首元を掴む。

「私はッ! 私が欲しいのはッ!」

 至近距離で叫ぶ弥生はいつもの気怠い表情を投げ捨てて、今にも泣きそうな顔をしていた。

 過去に見たことがないほど感情を爆発させる彼女を前に、椎は動くことが出来なかった。

「私は、ただ……」

 最後は消え入りそうな声とともに、その手が椎の頬に添えられた。

 飛びつくように、彼女の唇が押し付けられる。

 細い腕が背中に回り、痛いほど締め付けられた。

 スカートから覗く足が、椎の足に絡まるように密着する。

 長い間、彼女はそうしていた。

 それから満足したように身体を離すと、荒い息を吐きながら頬を上気させて口を開いた。

「戻る必要なんてない。そんなこと、させない。最後に椎の隣にいるのは私なんだから」

 それはどこか予言めいた、確信を持った響きを持っていた。

 頬に添えられていた手が、ゆるりと首筋を撫でるように移動する。

「……寝室、行こうか」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

21話

 十月に入り、中旬を迎えようとしていた。

 水無月優香は相変わらず、毎日のように部活の見学に来ていた。

「椎くん、がんばれー!」

 その日は珍しく、テニス部の部長である空人が来ていた。

 空人と対峙した椎は、息を荒くしてコート中を走り回っていた。

 高い打点から繰り出される彼のスマッシュは普段の傑との練習では経験することのないもので、一方的な試合展開になっていた。

「おい、サボり魔先輩にだけは負けるなよ」

 傑の応援の声。

「いや、ちょっと無理、かも……」

 乱れた息を整えながら、弱気な本音が漏れる。

「椎、お前は動きが素直すぎる。相手の嫌がるところに打て。テニスは性格が悪いやつの方が強いんだ」

「はい!」

 向かいのコートに立つ空人の指導に、椎は大声で返事した。

「あのなあ、そういう素直なところがダメなん、だッ!」

 空人のサーブが、抉るように叩き込まれる。

 ぎりぎりで拾い上げたボールは浮いてしまい、ネット際に駆け上がってきた空人が空高く飛んだ。

 空いた反対側をカバーしようと動いた時、空人が笑った気がした。

 真下に叩きつけられたボールが、拾いづらい足元に来る。

「ッ!」

「ゲームセット」

 弥生の低い声がした。

 椎は荒い息を吐いて、その場に座り込んだ。

「お前、全然うまくならないな」

 空人が呆れた様子で近づいてくる。

「ダメダメみたいですか?」

「ダメダメだ」

 けど、と空人は言葉を続けた。

「呆れるくらい素直だ。部活はただの学内活動に過ぎない。別にプロになるわけじゃないんだ。お前みたいなやつがいた方が来年の一年生には良いだろう」

 そう言って、空人は息をついた。

「俺はあまり良い先輩じゃなかったな。来年の一年生はよく可愛がってやってくれ」

「一年生、一人も入らないかもしれませんよ」

 椎が冗談っぽく言うと、空人は肩を竦めた。

「……伝統ある我らがテニス部も終わりだな」

 小さく笑い合い、立ち上がってコートの外へ向かう。

 お茶の入った容器の横で座り込んでいた弥生が立ち上がり、紙コップを用意する。

 そこへ見学していた優香がやってきた。

「はい。椎くんはこれ。お茶よりスポーツドリンクの方がいいよ」

 差し出されたペットボトルを受け取ると、奥から低い声が届いた。

「椎はお茶いらないの?」

 無表情の弥生の瞳が、じっと椎を見ていた。

「……うん。ごめんね」

「そう……」

 視界の隅で、優香が笑った気がした。

 

 冬が近づき、暗くなるのが早くなった。

 部活後、制服に着替えてから優香と肩を並べて校門を出る。

 すっかり寒くなった気候の中、繋いだ手が熱を持っていた。

「毎日、部活見てるだけだと暇じゃない?」

「ううん。家にいるよりは、退屈しないよ」

 優香はそう言って、うーん、と思案する素振りを見せた。

「椎くんは、私が毎日見学に来ると嫌かな?」

「そんなことないよ」

 即座に否定すると、優香は穏やかに微笑んだ。

 そのまま無言で、最寄りのコンビニ辿りつく。

 優香は真っすぐレジ前のホットスナックを見にいき、椎もそれに続いた。

「ほら。これが昼に言ってたやつ。オススメなんだ」

 優香が新作の唐揚げを指差して、無邪気に笑う。

「へえ。じゃあ、ボクもこれ買おうかな」

「あ、どうせなら違うの二つ買って、半分ずつ食べようよ」

「じゃあ、これとそれにする?」

「うん」

 優香が嬉しそうに頷く。

 椎も釣られて小さく笑って、レジに向かった。

 会計を済ませて、外に出る。

 冷たい風が吹いた。

「夕方になると冷えるね。早く食べよう」

 優香が唐揚げを爪楊枝で刺して、椎に向ける。

「はい。あーん!」

 椎は僅かに躊躇した後、ぱくりと口に含んだ。

「おいしい?」

 椎の顔を覗き見ながら、優香は残りの唐揚げを自らの口へと運び、頬を緩ませた。

「ん、おいしい」

 優香が幸せそうに微笑む。

 夕闇の中、彼女の髪が風で静かに揺れる。

「そういえば」

 椎は思い出したように言った。

「毎日帰り遅くなってるけど、お母さんとか心配したりしていないかな? 大丈夫?」

 優香は唐揚げを食べる手を止め、うん、と大通りへ視線を移した。

「家、誰もいないから。お母さん、居酒屋で調理師やってるんだ。昼に仕事に出て、深夜に帰ってくるの。多分、私が最近帰り遅いってことさえ知らないよ」

 大型トラックがすぐ前を横切る。

 排気ガスの強い臭いが鼻をついた。

「ねえ、椎くん。今から家来ない? 今、誰もいないから」

 大通りを見つめたまま、優香が言う。

「え?」

「晩ご飯、作るよ。あまり上手くできないかもしれないけど」

 どこか媚びるように、優香が上目遣いで椎を見る。

「……せっかくの申し出だけど、やめとくよ」

 弥生との関係は拗れたまま、修復できそうになかった。

 このまま優香の家にあがるのは、不義理な気がした。

 そっか、と優香は寂しそうに呟いて、顔を伏せた。

 そして彼女はゴミ箱にゴミを投げ捨てると、くるり、と椎の方を振り返った。

「ねえ、椎くん」

 なに、と聞き返す前に優香の唇が押し付けられた。

 すぐに離れ、優香は悪戯っぽく微笑む。

「私、テニス部のマネージャーになろうと思うんだ」

 すぐ前の大通りから届く騒音の中、彼女の言葉は奇妙なほどはっきり聞こえた。

 如月椎は息を呑んで、優香の瞳を真っすぐと見つめた。

 言葉が出てこない。

「そんなに驚くことかな? もしかして、嫌?」

 優香が困ったように笑う。

「……いきなりだったから、ビックリして。でも、突然どうして?」

 尋ねると、優香はもったいぶるように言った。

「ずっと椎くんの傍にいたいから……って言いたいところなんだけどね」

 優香はそう言って、視線を落とす。

「神無月さんって、椎くんと一年生の頃から同じクラスメイトで、部活中もずっと一緒だよね」

 不意に弥生の名前が出て、とくん、と心臓が跳ねた。

 ばれたのではないか、という予感に反して、優香は俯いたまま言葉を繋げる。

「私の推測でしかないけど、多分、神無月さんは椎くんのことを好きなんだと思う。もちろん、異性としてだよ」

「……どうして、そう思うの?」

 問いかけに、優香は小さく首を横に振った。

「明確な根拠はないよ。でも、そういうのって視線とか仕草、声色でわかるよ。私が椎くんと仲良く話したりしてると、凄く怖い目してる」

「……気のせいじゃないかな。弥生は恋愛とかに興味ないと思う」

「うん。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。事実はどうでもいいよ。私はただ、不安なの。わかるでしょう?」

「だから、マネージャーに?」

 問いかけに、優香は微笑みを浮かべて頷く。

「そう。不安で、不快で、だから今よりも、もっと、ずっと近くに」

 優香が何かを期待するように、じっと視線を向けてくる。

 椎は何も言わず、視線を外した。

「……そっか。優香ちゃんがマネージャーになるのは、僕も嬉しいよ」

「テニス部、なくならないように頑張ろうね」

 優香がにっこりと微笑む。

 椎はただ頷く事しかできなかった。




新たに「樹界の王」の投稿を開始しました。
ヤンデレ三角関係ものです。
よろしければこちらもご応援お願いいたします。

崩恋はあと少しで完結です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

22話

 二学期の中間試験が迫っていた。

 如月椎が登校すると、先に来ていた弥生が机の上にノートを広げて勉強していた。

「数学?」

 ノートを覗きこむと、椎の存在に気付いた弥生が顔をあげる。

「おはよう」

「うん。おはよう。弥生って数学得意じゃなかったっけ?」

「だから、確実にとれるように勉強してる」

 弥生はそう言って、ノートを捲る。

 左側に数式が、右側に公式が並んでいた。

 綺麗にまとめられている。

「椎はテスト勉強してるの?」

「まだしてないよ」

 即答すると、弥生は微かに眉をよせた。

「今日、一緒に勉強する?」

「図書館で?」

「そう。いつも通り」

 いつも通り。

 弥生の言葉通り、試験前に一緒に勉強したことが何度かあった。

 弥生との関係が変わってしまう前の話。

 それが酷く懐かしく感じた。

「うん。じゃあ、お願いしようかな」

 昔の弥生に戻った気がして、それが嬉しくて、椎は迷わず頷いた。

 弥生が小さく笑みを浮かべる。

 直後、教室の引き戸が開き、優香が顔を見せた。

 椎と弥生が一緒にいるのを見た途端、僅かに動きを止めて、真っすぐ近づいてくる。

「おはよう。二人ともどうしたの?」

 机の上に広げられたノートを見て、優香が首を傾げた。

「勉強中?」

「あ、放課後、図書室で勉強会しようって話してたところ」

 椎が説明すると、優香はノートを見つめながら、へえ、と声をあげた。

「神無月さんって、数学得意なんだね。私も教えてもらっていい?」

「……別に構わないけど」

 弥生が素っ気なく答えると、優香はにこりと笑みを零した。

「ありがとう。じゃ、今日は三人で勉強しよっか。ねえ、椎くん?」

「え、あ、うん。そうだね」

 同意の言葉を口にした直後、優香が手を掴んでくる。

「椎くん、ちょっと話があるからこっち来て。神無月さん、ちょっとごめんね」

「え?」

 優香の意図を理解する前に廊下まで引っ張られる。

 まだ人が少ない廊下で、優香が睨みつけてくる。

「椎くん、私、昨日言ったよね。神無月さんは椎くんの事が好きかもしれないって。それが不安だって」

 小声でゆっくりと言う優香に、椎は視線を外した。

「ごめん」

「いいよ。私も、ごめん。でも、神無月さんと二人っきりになるのは止めて欲しいな。椎くんだって、私が他の男の子と二人きりで勉強してたら嫌でしょ?」

「うん……軽率だった」

 ごめん、と椎が繰り返すと優香は溜め息をついて、呟いた。

「椎くんって、たまに無防備すぎて本当に怖いんだよね……」

 

◇◆◇

 

 放課後。

 約束通り椎は弥生と優香と一緒に図書室へ向かった。

 傑も誘ったが、今日は基礎練をやる、と断られてしまった。

「人、いないね」

 図書室に入って開口一番に優香がポツリと呟いた。

 色褪せた本棚が並び、室内には図書室独特の匂いが充満している。

 並んだ長机には誰もいない。

 つかつかと弥生が机に向かう。

 椎と優香もそれに続いた。

「何からやる?」

 机に鞄を置き、中を漁りながら弥生が言う。

「ボクは数学からがいいな」

「私も」

 優香が賛同の声をあげる。

 弥生は黙々と数学の教科書とノートを取り出し、机の上に広げた。

 椎は弥生の正面に座ると、同じように鞄から教科書とノートを取り出した。

 その間に、優香が隣の席に腰を下ろし、身を寄せてくる。

「まず、どこが苦手なのか見る為に基本問題一通りやって」

 弥生がそう言って、問題文が書かれたページを示す。

 椎は頷いて、黙々と問題を解き始めた。

「ねえ、椎くん」

 隣でペンを走らせながら、優香が口を開いた。

「ん?」

「次の土曜日、デートしよっか。付き合ってからもう一ヶ月経つんだよね」

 椎は思わずペンを止めて、顔をあげた。

 向かいの弥生は、表情のない顔で教科書を見つめたまま動かない。

「……もう一ヶ月経つんだね」

 当たり障りのない言葉を返して、再び問題の続きを解く。

 集中できない。

「うん。あのね、土曜、私の家、誰もいないから」

 シャーペンの芯が折れた。

 思わず、手が止まってしまう。

「そう、なんだ」

 カチカチ、と芯を出す音が静かな図書室に妙に大きく響いた。

「あ、そうだ。神無月さんに言い忘れてたことがあったんだ」

 優香が明るい声をあげる。

「私ね、テニス部のマネージャーになろうと思うんだ」

 時間が止まった気がした。

「椎くんの彼女としてね、部活でも椎くんを支えたいなって思って」

 優香の楽しそうな声が、静かな図書室で妙に浮いていた。

 思わず向かいの弥生の顔を盗み見る。

 そして、椎は動きを止めた。

 神無月弥生は、嗤っていた。

 唇を歪め、楽しそうに嗤っていた。

「……何がそんなにおかしいの?」

 優香の声のトーンが低くなる。

 弥生は、別に、と短く言って、それから吹きだした。

「そうやって頭の中の予定で浮ついてるから、私の勝ちで終わるんだ」

「勝つ?」

 優香が怪訝な顔で聞き返す。

 弥生は笑い声を抑えるように手を口に当てて、肩を震わせていた。

 そんな笑い方をする弥生を見るのは、初めてだった。

「もちろん、テストのこと」

 弥生は最後にそう言って、それからいつも通りの無表情に戻った。

 隣の優香は不快そうに顔をしかめていたが、何も言わなかった。

 後には嫌な沈黙が残り、椎は無言で問題を解き続けた。

 ノートがもう残り少ないことに気づいて、帰りに新しいノート買わなくちゃ、とぼんやりと思った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

23話

「神無月さんって、不気味じゃない?」

 勉強会が終わった帰り道。

 優香が不機嫌そうに愚痴を零した。

「今日のあれ、何? 神無月さんのああいうところ初めて見たからビックリしちゃった」

 優香がここまで他人に露骨に嫌悪の感情を示すのは、見た事がなかった。

 椎は黙って自転車を押しながら、彼女の言葉に耳を傾けた。

「前から変わってるなぁって思ってたけど、今日のはちょっと異常だよ」

 ふと、脳裏に弥生の姿が浮かんだ。

 暗く、広い家の中でポツリと佇んでいる弥生。

 気怠そうに、そしてどこか寂しそうに笑う弥生の表情。

「椎くん?」

 優香の声に、椎は小さく肩を震わせた。

「あ、ごめん。少し、ぼんやりしてた」

「……神無月さんの話してたんだよ。ああいうタイプは予想もしない行動をとるから気をつけてね、って」

「……うん」

 椎は適当に相槌を打って、足を止めた。

 いつもの分かれ道だった。

「じゃあ。僕はこっちだから」

 そう言って、別の道に進む。

「椎くん!」

 不意に、優香が叫んだ。

 何も言わず、振り返る。

「また明日!」

 右腕を力いっぱい振る優香の姿があった。

「うん。またね」

 椎も小さく手を振って、帰路についた。

 

◇◆◇

 

 その日は、酷い雨が降っていた。

 バケツをひっくり返したような豪雨で、傘を差していても足元がずぶ濡れになった。

 昇降口に辿りつく頃には靴の中が水でいっぱいになり、歩く度に不快な音と感触があった。

 靴を履き替えて教室に向かうと、教室の一角でドライヤーに群がってる女子の姿があった。

 誰が持ちこんだのか、ヘアーアイロンもあった。

「椎くん、おはよう」

 椎に気付いた優香が笑みを浮かべて近づいてくる。

 雨に濡れて前髪が額に張り付き、いつもの髪型が崩れていた。

「おはよう」

 答えて、自分の席に向かう。

 そこで弥生の姿がないことに気づく。

 珍しい、と思った。

 席についてタオルでズボンを拭く。

 水を吸ったズボンが重い。

 ホームルーム間近になると、ドライヤーに集まっていた女子が一斉に散り始めた。

 持ち主らしき一人の女子が遅れて席につく。いつの間にかヘアーアイロンもなくなっていた。

 引き戸が開き、担任教師が現れる。

「今日の雨は酷いな」

 担任がそう言って、日誌を開く。

「出席いくぞ。青山」

 はい、と前の方から声があがる。

 担任はチラリと声の主を見てから、次の名前を順番に呼んだ。

 椎はじっと弥生の席を見つめた。まだ空席のままだった。

 結局、神無月、という担任の無機質な言葉に声が返ってくることはなかった。

 

 二限目が終わる頃になっても、雨は止む様子を見せなかった。

 授業間の休憩時間、教室の中はいつもより騒がしかった。

 外に出る者が少ないせいだろう。

 喧騒の中、引き戸が勢いよく開けられた。

 椎は視線を向けて、息を止めた。

 引き戸の奥に立っていたのは、神無月弥生だった。

 傘を差してこなかったのか、頭からびっしょりと濡れていた。ポタポタと水滴が床に落ちている。

「弥生?」

 椎の呟きに反応したように、弥生が教室の中に一歩踏み出す。びしゃ、と靴から水の音が聞こえた。

 そこで、気づく。

 弥生は上履きに履き替えていなかった。

 外靴のまま、教室まで上がってきているようだった。

「弥生、靴――」

 椎が立ち上がって口を開いた途端、弥生は足を止めてにんまりと笑った。

 見たことがない笑みだった。

 弥生の近くにいた生徒たちが怪訝そうな顔をして、視線を向けてくる。

「ねえ、椎」

 他の生徒の喋り声に混じって、弥生の声が妙に大きく響いた。

「私ね」

 窓の外で閃光が走った。

 教室の中が一瞬だけ明るくなる。

「妊娠したよ」

 一拍遅れて、雷鳴が轟いた。

 教室中が水を打ったように静まる。

 椎は弥生の言葉が理解できず、ただ彼女を見つめる事しかできなかった。

 弥生は笑みを深くして、幼い子供に説明するようにゆっくりと繰り返す。

「子どもができたの。椎と、私の赤ちゃん」

 弥生は幸せそうに、腹部をゆっくりと撫でた。

 妊娠。

 言葉の意味が、徐々に頭へ染み込んでいく。

 椎は呆然と弥生の腹部を見つめた。

 今更のように、避妊していなかったことを思い出す。

 周囲で静かなどよめきが起こった。

「ちょっと、妊娠って、どういうこと?」

 優香が青白い顔をして近づいてくる。

 弥生は仮面のように張り付いた笑みを浮かべ、穏やかな声で答えた。

「椎の子どもが、ここに宿ってるわけ」

 周囲の女子のざわめきが大きくなる。

 優香は信じられない、といった表情で弥生と椎を交互に見つめ、なんで、と呟いた。

「嘘、なんで、だって――」

「なんでって、それはもちろん……」

 弥生が椎に視線を移し、クス、と笑う。

「貴方が恋人ごっこをしてる間に、私が椎といっぱいセックスしたからに決まってるじゃない」

 優香がゆっくりと椎に視線を向ける。

 優香だけではない。教室中の視線が集まり、誰もが動きを止めていた。

「うそ。椎くん、ねえ、嘘だよね?」

 椎は言葉を失って、視線を落とした。

 眩暈がした。

 黙った椎に代わって、弥生が答える。

「本当だよ。部室でもね、何度もセックスした。水無月とデートした後だって、私達、ずっとセックスしてたんだよ」

 優香の足がよろよろと椎に向かう。

「何で、何で……椎くん? ねえ、椎くん?」

 優香の声が震え、徐々に大きくなる。

 椎はただ、ごめん、と小さく呟く事しかできなかった。

 それを聞いた優香の顔が徐々に歪んでいく。

「水無月。言ったでしょう。私の勝ちだって」

 弥生が嘲笑う。

 興奮しているのか、いつもの抑揚のない声ではなく、どこか楽しそうな声だった。

「いつから? ねえ! いつから!?」

 優香が声を荒げる。

 椎は黙ったまま、弥生に目を向けた。

 言葉が出てこない。

 無意味に呼吸だけが早くなっていく。

「今から五週間前。水無月が椎に告白した日からだよ。だから、あんたが恋人ごっこやってるの見て、凄い滑稽だった」

 あは、と弥生が歪んだ笑い声をあげる。

 直後、パン、と乾いた音が響いた。

 同時に周囲から悲鳴があがった。

 優香が弥生の頬を叩いたのだと、遅れて理解する。

 頬を抑えた弥生がゆっくりと顔をあげ、にい、と笑う。

「負け犬」

「この――」

 激昂した優香が近くの椅子を両手で掴み、弥生に向かって振るう。

 それは周囲の机にぶつかり、甲高い音が響いた。

 女子の悲鳴に混じって、おい、と男子生徒の制止の声がかかる。

 優香はそれを無視して、別の椅子を掴み、弥生に向かって振り被る。

「水無月! おい! やめろ!」

 男子の制止を振り切って、椅子が投げられる。

 激しい音を鳴り響き、女子の甲高い悲鳴が多く上がった。

「だれか、先生呼んできて!」

 怒声と悲鳴が上がる中、優香の呪詛のような声が一際大きく響いた。

「そのお腹、潰してやる」

 横薙ぎに振るわれた椅子が、弥生の腹部へ向かう。

「優香ちゃん!」

 椎は叫び声をあげて、優香を横から抑え込もうとした。

「うるさい!」

 優香が金切り声をあげて、手にしていた椅子ごと椎を振り払う。

 椎は後ろに大きく押し飛ばされ、周囲の机を巻き込みながら倒れた。凄まじい音が教室中に響く。

「椎!」

 傑の声がした。

 椎は打ちつけた頭を抑え、その場に突っ伏した。

「水無月! 落ち着け!」

 複数の男子生徒の声。

「殺してやる」

 騒音に紛れて、優香の低い声が聞こえた。

「おい、椎」

 傑の声。

 立ち上がろうと床に手をついたところで、違和感を覚える。

 力が入らない。

 思った以上に強く頭を打ったようだった。

「絶対に殺してやるッ!」

 優香の怒声。

 彼女が振り回した椅子によって、周囲の人だかりが後ずさる。

 どこか勝ち誇った顔で立ち尽くす弥生に、再度それが向けられた。

「弥生!」

 弥生を守るように、優香との間に飛び込む。

 横薙ぎに振るわれた椅子が、椎の側頭部を強く打った。

 視界が大きく揺れる。

「なんでッ!」

 優香の叫び声。

 急速に、全ての音が遠ざかっていく。

 視界がぼやけた。

 担任教師の怒声が耳に届いたところで、如月椎の意識は失われた。

 

◇◆◇

 

 全てが遠い昔のことのように思えた。

 一体何が正解で、何が間違いだったのだろう。

 入学当初、椎はずっと弥生の事を視線で追っていた。

 多分、初恋だった。

 あの時、想いを口にしていれば全てが違っていたのだろうか。

 いや、それも違っただろう、と椎は思った。

 きっとあの頃の弥生は、椎に興味を持っていなかった。

 すれ違った想いは、もうどうにもならない。

 あるいはもし弥生が想いを口にしていれば、何かが変わっただろうか。

 多分、それも違う。

 椎は長い間、水無月優香に片思いをしていた。きっと、弥生の告白なんて断ってしまっていただろう。

 崩れてしまった恋心は、原型を残さず粉々に壊れてしまった。

 バラバラになったそれはパズルのピースのようで、どこにもうまくあてはまらない。

 

「だって、離婚だってそうじゃない? 一度愛し合った人たちが、徐々に冷めていっちゃう。そこに明確なきっかけなんて、ないと思う。小さな事が積み重なって、ゆっくりと心が離れていくんじゃないかな」

 

 ふと、水無月優香の言葉が頭に浮かんだ。

 多分、きっかけなんてなかった。

 徐々に好きになって、徐々に離れていった。

 そうして生まれたすれ違いは、気がつけばどうにもならないほど大きくなっていた。

 無数にあった選択肢の中、どこにも正解なんてなかったように思えた。

 目を覚ますと、清潔感のあるベッドに横たわっていた。

 消毒液の香りがした。

 保健室なのか病院なのか、判断がつかない。

 薄く目を開けると、すぐ傍から声がした。

「おはよう」

 神無月弥生が薄い笑みを浮かべ、ベッドの傍に立っていた。

 椎はぼんやりと弥生を見つめて、目を瞑った。

「妊娠したって、本当?」

「本当。市販の複数の妊娠検査薬ではっきりと陽性反応が出た。生理も来てないし、強い眠気とだるさがある。病院に行ったけど、胎のうはまだ確認できないから一、二週間後にまた受診することになる」

 椎は目を瞑ったまま、弥生の言葉に耳を傾けた。

「産むの?」

「もちろん」

「そう」

 短いやりとりの後、椎は小さく息をついた。

「学校は、どうするの?」

「辞める。暫くは困らないだけの財産がある。どうせ妊娠中は何もできないから、その間に高認のための勉強をする」

 椎は弥生の瞳をじっと見つめた。

 弥生の瞳には揺るぎのない光が宿っている。

「はじめから全部、決めてたの?」

「こうなればいい、とは思ってた」

 弥生の意思に関わらず、この高校には在籍できないだろう、と思った。

 そして、それは椎も同じだった。

 親には、何と説明すればいいのだろう。

 最後まで裏切り続けた優香には、何と謝罪すればいいのだろう。

 結局、テニス部は傑に全て押しつける形となってしまった。

 これから産まれるであろう子どもに、どうやって接すればいいのだろうか。

 わからない。

 眩暈がした。

 椎は自らの額を抑えた後、ゆっくりと弥生に目を向けた。

「弥生、お腹、触ってもいい?」

 無言で弥生が前に出る。

 椎はそっと、弥生の腹部を撫でた。

 当然ながら、生命の名残はまだ感じ取れない。

 ただ、命の源が宿っているのは確かで、椎は大きく息をついた。

「ねえ、弥生」

 遠くから、複数の足音が聞こえた。

「ボクたちは多分、色々な、本当に色々な環境に投げ出されることになると思う」

 足音が近づいてくる。

 学校の関係者か、親か、医者か。

 きっと、大人たちが大勢やってくる。

「ボクたちは今の環境で過ごし続けることはできないし、とても苦労する事になると思う」

 外で声がした。

 揉めているような声だった。

「色々な人に迷惑をかけることになって、多分、ボクたちは上手く立ち回れないと思う」

 部屋の中に複数の人達が入ってくるのがわかった。

「でも、一つの生命が生まれた事は絶対的に祝福されることで、弥生の身体に大きな負担がかかることになっても、どんな困難が待っていても、ボクは出産するべきだと思う」

 弥生の瞳に、驚きの色が宿る。

 椎は弱々しい笑みを浮かべて、呟いた。

「だから、精一杯の虚勢を込めて言うよ。これが最善の選択肢で、ハッピーエンドだって」

 大人たちの声とともに、カーテンが開かれる。

 椎は弥生の小さな手を握った。

 弥生が驚いたように椎を見る。

 椎は一度頷いて、それから降り注ぐ複数の視線を受けとめた。

 不思議と、不安はなかった。

 そして少年と少女は、子どもであることをやめる。

 

 

 

 

 

 2012/02/15連載開始

 2012/07/16連載完結

 2018/06/14リメイク開始

 2018/08/04リメイク完結



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。