ついこの前、席替えが行われた。クラス内で話せる友達がさほど多くない僕にとっては、このイベントはあまり心躍るものではなく、後ろの方になれればいいかな、程度のものだった。
席替えはジャンケンの結果、廊下側の人からクジ引きで行うことになったが、引く順番は真ん中の席の僕にはあまり関係ない幸運なことに──彼らにとっては不幸だろうが──前の席はどんどん埋まっていき、残っていたのは中央から後ろの席ばかりだった。しかしながら、前列になることはほとんどないとわかっていても、やはり緊張はするもので、僕は自分の番が近づくにつれて、胸の鼓動が早くなるのを感じていた。
そして僕の番になった。
「ケイ〜。しっかり俺の隣引けよー」
カイからの声援を受けながら、僕はクジを引いた。それに書かれた番号を見ると、後ろの席、それも窓側の方を示していた。カイの近くではなかったが、これはなかなかいい結果だ。
「うわ、ケイ窓側かよ〜。いいなあ」
「だろ?」
今回は最前列になってしまっていたカイの嘆きの声を聞き流しつつ、自分の席に戻る。改めて、黒板に描かれた簡易的な座席表で、自分の席を確認する。場所の素晴らしさは言わずもがなだが、その他にも、隣の席の人も重要だ。できれば男子に来て欲しいけれど、この学校は数年前まで女子校だった影響で、女子の生徒数の方が多い。そんな中で隣に男子が来るという確率は、あまり高いとは言えない。
僕がそんなことを考えている間に、クジ引きも終盤に差し掛かり、もうかなりの数の席が埋まっていた。その埋まっていた席の中には、僕の隣の席も含まれていた。恐る恐る、そこに書かれている名前を確認する。
女子か、男子か、さあどっちだ。
──美竹蘭。
それが、僕の隣の人の名前だった。
***
そんなこんなで、僕の隣が美竹さんになった。美竹さんはあまり話すタイプではないようで、新しい席になってから一週間近く経つが、お互いに無干渉だった。僕としても、それはありがたいことだった。
けれどもやはり、話さなければいけない状況というのはやってくるもので、今僕たちが置かれている状況が、まさしくそれだった。
英語の授業。先週は行事やら何やらで、英語の授業が無かったから忘れていたけれど、僕たちの英語の先生は、よく隣の人と何かをやらせる先生で、それは英文を読むことであったり、単語の確認であったり。今回は一文交代で英文を読む、というパターンだった。
「……」
「……」
周囲が、読み上げる声が聞こえ始まるなか、僕たちは沈黙。ああまずい。何か話さなければ。でも美竹さんってちょっと怖いし、何話しかけてんだみたいなこと言われたら立ち直れる自信がない。
ああどうしようどうしようと内心右往左往していると、何故かこちらを見ていた美竹さんと目があった。
──ちょっと待ってこの人可愛過ぎない?
自分でも気持ち悪いと思うが、それが真っ先に思ったことだった。
実を言うと僕は、今まで美竹さんとちゃんと向き合ったことがなかった。だから、その吸い込まれそうになるほどきれいな赤い目も、艶やかな黒髪も、白磁みたいに滑らかそうな肌も、しっかり見たのはこれが初めてなわけで。
まずい。ただでさえ緊張しているというのに、自分の隣にこんな美人が座っているとわかったら、さらに緊張してきた。
──でも。
美竹さんの目にも、僕と同じ、緊張と戸惑いの色がある、ように思えた。もしかしたら、僕の勝手な思い込みで、本当はそんなこと全然思ってないのかもしれない。
でももし、あれが本物だったら。
そう思うと、迷いはいつの間にか消えていた。
「えっと、美竹さん。僕からでいい?」
情けないことに、声は少し震えてしまったが、何とか1歩踏み出せた。
「……うん」
そんな会話とも呼べない会話が、僕たちが、互いの存在をしっかり認識したきっかけになった。
あと、美竹さんは意外とカッコイイ声だった。
*
「起立、礼」
英語の授業を切り抜けた僕は、解放感から礼が終わってすぐに座り込んでしまった。ふぅ、と一つ息を吐こうとして、まだ美竹さんと机を繋げたままだったのを思い出し、何とかそれを呑み込んだ。
机を離すために、美竹さんを横目に見ながら立ち上がる。すると、またまた美竹さんの視線と僕の目線がぶつかった。すぐに目をそらして、机を離そうとする僕の耳に、美竹さんの声が響いた。
「あ、あのさ」
僕は再び焦点を彼女にあてる。
「……さっきはありがと、篠原」
美竹さんのその言葉に、僕は胸の中が暖かいもので満たされるのを感じた。別に大したことはしていないけれど、それでもあの時、声を出してよかった。
「……どういたしまして」
僕がそう言うと、美竹さんはもう話すことはないと言わんばかりにそっぽを向いてしまった。でもそれは僕のことを不快に思ったのではなく、ただ照れているだけだろうというのは、美竹さんの形のいい耳が赤くなっているのを見れば、容易に想像できた。
それがなんだか嬉しくて、思わずニヤけそうになるのを堪える。
「何固まってんだよケイ」
カイのその声で現実に戻った僕は、急いで机を離した。
***
「ていうか、僕の名前覚えてたんだ」
学校の帰り道、カイから一緒に行こうと誘われた本屋から出たところで、僕は思い出したかのようにそう言った。
「ん? 篠原啓介だろ? 何を今更」
「いや、カイのことじゃなくてさ、美竹さん」
僕の訂正にカイはああそっちね、と納得する。
「でも、隣のやつの名前くらい分かるだろ、普通」
「そうだけど……ほら、美竹さんってあんまり周りに興味なさそうって言うか」
「まあ、確かにそんな感じはするな」
「でしょ? だから意外だった」
休み時間とかでも、美竹さんはクラスの誰かと喋ったりせず、一人でいることが多い。良くない言い方すれば、浮いてしまっている。多分、クラスメイトの多くは、美竹さんに対して僕と同じような印象を抱いているか、ちょっと話しかけづらいと思っている。僕も今までそれを疑うことはなかったし、実際その通りの人なんだろうと考えていた。でも、あの時の美竹さんを見ると、本当は違うんじゃないかと思えて仕方がないのだ。最も、何の確証もないし、僕が勝手にそう思っているだけかもしれないので、カイには話さないが。
「もしかして、美竹さんのこと気になってるのか?」
「別にそこまでじゃないけどさ」
そういう気持ちが全くないかと聞かれれば、嘘になるが、僕にとって美竹さんはただのクラスメイトに過ぎないし、あっちだってそうとしか思っていないだろう。席替えだって、別に今回限りって訳でもないし。
「そっか。あっ、俺コンビニ寄ってくわ。ケイは?」
「僕はいいや」
「分かった。じゃあまたな」
「ああ」
軽く手を振って、コンビニに向かうカイと別れる。
もう歩き慣れた道で、景色だって見慣れてる。でも今日の夕焼けは、いつもより眩しかった。
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四月の帳
四月ももう終わりが近付いてきたけれど、僕と美竹さんの関係は英語の授業で一言二言話すだけという、相変わらずのものだった。
何か変化があったとすれば、たまに美竹さんから話しかけてくれるようになったことくらいか。そういうときは、ちょっと嬉しかったりもする。
それはともかくとして、昨日数学の課題が出ていたことを寝る前に思い出したせいで寝不足な僕は、寝惚け眼をこすりながら、通学路を歩いていた。
今は動いているから幾分かマシだが、授業中は寝てしまいそうだ。というか絶対寝る。美竹さんも授業中寝ていることが多いから、一緒のタイミングで寝てしまうのはなるべく避けたい。もしそんなことになったら、確実にいじられるだろうし、美竹さんだってそんなことになるのは嫌なはずだ。
そうこうしているうちに、学校が目に映り始め、ぼちぼちと他の生徒の姿も見えてきた。誰か知ってる人いないかな、と辺りを見回して知り合いを探すと、今はもう見慣れた赤メッシュが入った黒髪が見えた。美竹さんはこちらに気付いていないようだったが、それよりも何も、僕は美竹さんが誰かと一緒に登校していることに驚きを隠せなかった。
こんなことを言ってしまうと、かなり失礼だけど、僕は美竹さんには友達はいないと思っていた。でもそれはクラス内での美竹さんを見て感じた僕が抱いたイメージに過ぎず、美竹さんには美竹さんの人間関係があって、それは僕の知らないところにあった。心の中で美竹さんに謝る。
──でもまあ、なんて言うか。
結構派手な人達なんだな、とは思った。長身の赤髪の人に、銀髪の人。茶髪の人は確か生徒会の人だったと思うけれど、名前は思い出せない。ピンク髪の人はテニスコートで見たことあるような、ないような。
兎にも角にも、クラスの外での美竹さんの姿を目撃した僕は、美竹さんに対して勝手なイメージを持っていたことに軽く罪悪感を感じながら、学校への残り僅かな道のりを歩いた。
*
「数学の課題、後ろから集めて来てください」
はいきた。朝のSHRでさえ寝そうになっていた僕の意識は、数学の教科係のその声で一気に覚醒した。僕はこの数分間のためにわざわざ徹夜したのだ。さあさあどこからでもかかってこい僕は逃げも隠れもしな──。
「ね、ねえ」
一瞬変な方向に飛びかけた僕の思考は、美竹さんの声で何とか軌道修正することが出来た。
「どうしたの?」
美竹さんは焦ったような表情を浮かべていた。
「数学の課題なんてあった?」
ああなるほど、どうやら美竹さんも僕と同じで、課題の存在が頭から抜け落ちていたらしい。
「うん、あったよ」
僕のその言葉に、美竹さんの顔がいよいよ絶望の色に染まる。僕が言うのも何だが、課題を一度忘れたくらいでそこまでなるものなのだろうか。もしかすると、美竹さんは勉強があまり得意ではなくて、提出物を出さないと成績がやばいのかも。このまま課題を出してしまうのが、自分のためにはいいんだろうけど、でも、あんな顔をしている美竹さんを放っておくことは出来なかった。
「美竹さん、僕の写す? ちょっと字汚いけど」
「え、でも……」
「僕は放課後までに出せればいいからさ」
「……分かった。ありがと」
「いえいえ」
僕の課題を回収しに来た人に、後で出すことを告げてから、美竹さんに渡す。
あとは美竹さんが終わるのを待つだけだが、結構な量があったし、それなりに時間がかかると思う。僕もひとまずは、今日の授業を寝ないで乗り越えなければ。
*
そんな決意も虚しく、一時間目から思い切り寝てしまった僕は、先生から度々注意を受けながら、なんとか昼休みに辿り着いた。
正直言ってまだ眠い。これは午後からも爆睡コースかなあと憂鬱になっていると、カイが声をかけてきた。
「今日は随分眠そうだなあケイ」
「ああ、昨日徹夜しちゃって」
「へえ、珍しいじゃん。何で?」
「数学の課題寝る前に思い出したんだよ……」
「うわー、それは災難」
苦笑するカイにつられて、僕も笑ってしまいたくなる。
「飲み物買い行こうぜ。コーヒーでも奢ってやんよ」
「ありがとうございます……」
カイの優しさに感謝しつつ、まだ眠気が残る体を動かす。軽く伸びをしながら、隣を横目で見る。そこには美竹さんの姿はなかった。美竹さんが昼休みにどうしているのかは、今までは謎だったけれど、今はおおよその検討がつく。きっとあの人たちと一緒にいるのだろう。
「ケイ、早く行こうぜ」
「ああ、悪い」
*
カフェインパワーもあってか、午後の授業をあまり寝ずに済んだ──それでも寝てしまったときはあったが──僕は、一度トイレに行ってから、教室に戻ってきた。放課後の教室には部活の準備を始めている人や、帰る準備をしている人がいて、僕はその人たちを横目に見ながら、自分の席に向かった。
美竹さんが課題が終わったのか、机の上に僕のノートと、自分のを広げたまま一息ついていた。
「美竹さん、課題終わった?」
「あ、篠原。うん、ちょうど今終わった」
「よかった。ごめんね、汚い字で。大変だったでしょ?」
「そんなことない」
僕は気圧されてしまった。とにかく、課題を返してもらおう。
「それじゃあ、美竹さん」
手を出して課題を返してほしいとジェスチャーをする。
「あ、いや、いいよ。あたしが一緒に出してくるから」
なんと。まさか、そこまで考えてくれていたとは。美竹さん、律儀なんだな。でも、流石にそこまでしてもらうわけにはいかない。
「美竹さん、僕自分で出すから、大丈夫だよ」
「でも、篠原が出すの遅れたのはあたしのせいだし……」
「それなら課題を見せた僕だって同じだよ」
いやいや、いえいえと互いに譲らないでいると、しびれを切らした美竹さんがじゃあ、と一際大きな声を上げた。
「い、一緒に行こ」
「え?」
「だ、だから、一緒に行こうって言ったの!」
美竹さんはそう言って、赤くなった顔を隠すように俯いてしまった。
──めっちゃ可愛いかよ。
*
「……」
「……」
というわけで、二人で廊下を歩いてるわけだけど、結構気まずいことになっている。部活をやってる生徒の声がなかったらもっと大変だった。もしかしたら僕だけかもしれないが、それでもこの空気は耐え難かった。だから、今日の朝、疑問に感じたことを聞いてみることにした。
「ねえ、美竹さんってさ、勉強あんまり得意じゃないの?」
「……なに、悪い?」
まずい。ストレートすぎた。気を悪くさせてしまったかもしれない。
「いやいや、そういうわけじゃないよ。僕だってあんまり出来ないし」
「今日もずっと寝てたもんね」
「うっ、それは……」
何とか間を持たせることに成功し、職員室に到着した。僕が先に中に入って、数学の先生のところに行く。
「先生。すみません、遅れました」
「おう、篠原に美竹か。次は気をつけろよ」
「はい、すみません」
幸い、何かを言われることもなく、無事に提出することが出来た。職員室から出て、ほっと胸をなでおろす。
「良かったね、何も言われなくて」
「うん」
取り留めのない世間話をしながら、教室に戻る。最近は雨が多くて嫌だね、とか、嫌いな教科は何だ、とか。二階の教室につくと、もう中には誰もいなかった。僕が教室に入ろうとすると、後ろにいた美竹さんが声をかけてきた。
「ねえ、篠原」
「ん?」
「今日はありがと」
「いやいや、僕は別に……」
大したことはしてない、という言葉は美竹さんの声に遮られた。
「それでも、ありがとう」
僕は、初めて見る美竹さんの笑顔に固まってしまった。夕日に照らされたそれが、あまりにも綺麗だったから。
絵になるっていうのは、こういうことを言うんだな、と頭の片隅で冷静に考えている自分がいる。
「篠原?」
「えっ、ああ、大丈夫」
美竹さんのその声で、はっと我に返る。
「そ。ならいいけど」
教室の入口で固まる僕を置いて、美竹さんはぱぱっと帰り支度を済ませてしまったようで、もうリュックを背負っていた。
「じゃあ篠原、また明日ね」
「ああ、うん。またね」
また、明日。何の意味もない、ただの別れの挨拶だと言うことは分かっている。それでも、美竹さんがその事を言ってくれたことに、何故だか分からないけれど、僕は喜びを隠せなかった。
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喫茶店にて
土曜日の夜。僕は自分の部屋でのんびり映画を鑑賞していた。クモに噛まれて超人的なパワーを手に入れた少年の話、というヒーローものなのだけれど、これがなかなか面白い。アクションシーンはさることながら、ストーリーも最高。主人公がヒーローに成長する姿がいい。最後のシーンが終わり、ついにエンドロールが流れ始めた。いやあいい映画だったなあと余韻に浸っていると、テレビの横に置いていたスマホが震えた。手に取って画面を見てみると、カイから電話がかかってきていた。
「もしもし」
「もしもしケイ? 今何してた?」
「映画見てた」
「ほう、随分余裕だな」
余裕といわれても、来週は特段何もなかったはずだ。
「余裕って何がさ。来週は何もないだろ?」
「ああ、そっか。お前寝てたもんな。そりゃあ知らないわけだ」
「……?」
「月曜日、数学のテストだぜ?」
「……え?」
──え?
*
ちくしょうあの教師。僕が徹夜疲れで寝ている隙にサラッと小テストの告知をしていたらしい。この前僕が徹夜してやった課題がテスト範囲になるようだ。たかが小テスト、されどテスト。数学が苦手な僕にとってはこういう小テストで如何に点数を稼ぐかが重要になってくる。
これは先輩から聞いた話だが、小テストで頑張って点を取っておけば、定期テストであまり点が取れなくても成績はあまり悪くならないし、その分他の教科に勉強時間を回せる。らしい。もちろん全ての学年に当てはまるわけではないだろうが、いい点を取るに越したことはない。
だから僕は本来あった日曜日の予定を急遽変更し、勉強することにした。別に家でしてもよかったのだが、たまには違う場所でやってみようと思い、僕は商店街に来ていた。いい店か何かないかな、と足を進めていると、一件の喫茶店が僕の目に留まった。
──羽沢珈琲店。
よし、ここにしよう。
僕は扉を開けて、ドアベルの音と一緒に店に入る。軽く見渡すと、店内は比較的空いていて、勉強しても問題は無さそうだった。
「いらっしゃいませ、おひとり様ですか?」
「……!」
僕の方にやってきた店員さんの顔を見て感じた僕は思わず硬直してしまった。今僕の目の前にいるこの人は、あの時、美竹さんと一緒にいたあの茶髪の人だった。
「お客様?」
「えっ、ああすみません。一人です」
「では、お好きな席へどうぞ」
僕は店員さんのその言葉を聞いて、カウンター席の隅の方に少しだけ早足で移動した。
「ご注文が決まりましたら、声をおかけください」
店員さんはそう言って、店の奥の方に消えていった。僕は店員さんが完全に見えなくなってから、ほっと息を吐いた。
というか、よくよく考えてみれば、焦る必要はどこにもない。確かに僕はあの店員さんを知っているけれど、それは僕が一方的に知っているというだけで、別に休みの日に鉢合わせたからって気まずくなるような関係でもないし、向こうからしてみれば僕はただの客でしかない。だから別に変に気を遣うこともない。
もう一度深く呼吸をして、気持ちを切り替える。よし、勉強しよう。
*
ペンを動かしていた手を止めてイヤホンを外し、携帯で時間を確認する。僕が勉強をし始めて、一時間ほど経っていた。
ちょっと休憩しよう。僕は注文したコーヒーとケーキーを頂く。うん、美味しい。
改めて店内を見ると、他のお客さんも増え始めていた。流石にお昼頃に勉強のために居座るのは迷惑だろうし、それくらいの時間になったら退散しようかな。
ケーキを食べ終え、勉強を再開しようとしたところで、ドアベルの音が店内に響いた。僕はその音を気にせず、またイヤホンをはめて音楽を流そうとする。どの曲にしようかと、画面をスクロールする。よしこれだ、と決め、再生しようとしたところで、店員さんの声が僕の耳に入った。
「あ、いらっしゃい蘭ちゃん」
──ん? 蘭ちゃん?
僕はその声に反応して、思わずドアの方を振り向いてしまった。そしてすぐに振り向かなければよかったと思った。そこには案の定、反骨の赤メッシュ、美竹さんがいた。いつもの制服とは違うストリートファッションな美竹さんはまだ僕には気付いていないようだ。今僕の頭の中にある選択肢は二つ。このままバレないようにやり過ごすか、それともタイミングを伺って帰るか。ベストは後者だけど、まだ僕が会計を済ませていないこともあり、それはなかなかリスキーだ。さあどうする僕。さあさあどうする。さあ──。
「……あ、篠原」
普通にバレました。
*
ああ気まずい。できる限り休日に知り合いと会いたくないタイプの僕は、当初予定していたお昼よりも早く、この店から帰りたくなっていた。それは店が悪いのではなく、何故か僕の隣に座っている美竹さんに、原因がある、わけでもないけど、とにかく帰りたい。僕の隣の美竹さんは、学校にいる時と同じように、何も話さずに、さっき注文していたコーヒーがくるのを待っているようだった。
僕の方はというと、当然勉強なんて出来るはずもなく、ただノートと教科書を広げているだけの状態だった。隣に美竹さんがいる以上、イヤホンをするのも悪いような気がするし、どうしたものか。僕が一人考えていると、美竹さんが声をかけてきた。
「ねえ篠原」
まさか声をかけられると思っていなかった僕は、少しビクッとしてしまった。恥ずかしい。
「な、何?」
けれど美竹さんは、そんな僕なんてお構いなしに言葉を続けた。
「ここにはよく来るの?」
「いや、今日が初めて」
「そっか」
そう言うと美竹さんは視線を僕から下にやり、手元の物をじっと見つめた。
「それ、何聞いてたの?」
「えと、ゲームミュージック」
「へえ。ロックとかは聞く?」
「いや、あんまりかな」
「ふーん」
美竹さんはまた話題を変えてきた。
「勉強しにきたの?」
「うん、テスト勉強」
美竹さんは怪訝そうに首を傾げた。どうでもいいけどその仕草可愛いですね。
「……テストなんてまだ先じゃない?」
どうやら美竹さんも小テストの存在を知らなかったようだ。これは教えてあげた方がいいだろう。
「明日、数学のテストあるんだって」
「何それ」
「うん。僕も昨日知った。授業中に言ってたらしいよ。僕が寝てた時」
僕がそう言うと、美竹さんは明後日の方向を見つめて、あー、と思い出したかのように呟いた。
「そういえば、言ってたような気がする」
「やっぱりか」
それから美竹さんは何か考えているような仕草をして、また僕に言った。
「篠原、まだここにはいる?」
「うん、一応、お昼くらいまではいるつもりだけど」
「そっか、ならよかった」
何がいいのだろう。
「私に勉強教えてよ、篠原」
*
美竹さんのその、突拍子もない提案があってすぐに、美竹さんは勉強道具を取りに戻った。
どうしてこんなことになったんだ。超美人なクラスメイトと、休日に喫茶店で一緒に勉強。字面だけ見ればワクワクドキドキなものだが、僕の心臓は別の意味でドキドキしていた。
そもそもの話、僕は数学が大の苦手なのだ。生物とかはまだ何とかなるのだけれど、数学はどうしてもダメだった。数学に関しては誰にも勝てない自信がある。そんな僕が美竹さんに何を教えられようか。美竹さんの方が絶対出来るって。いっそのことこのまま帰っちゃダメかな、なんて最低なことを考えいるうちに、カランカランという音とともに、トートバッグを肩に掛けた美竹さんが、戻ってきた。ああ来てしまった。美竹さんはなんの躊躇もなく僕の隣に座った。美竹さんはバックから勉強道具を取り出して、テーブルの上に広げた。
「テスト範囲ってどこ?」
「この前の課題のとこだよ」
ありがと、と返事をした美竹さんは早速ノートに向き合って、手を動かし始めた。僕もしなければ。しかし手は全く動かない。それを不思議に思ったのか、美竹さんが僕に疑問を投げかけてきた。
「勉強しないの?」
「ああ、いや大丈夫。するする」
「……篠原、もしかしてあたし、邪魔になってる?」
表情を不安そうなものに一変させた美竹さんの口から、そんな言葉がでた。何をやってるんだ僕は。美竹さんの言葉で僕は冷静になった。
「まさかとんでもない。そんなことないって」
「なら、いいけど」
これ以上美竹さんに変に気を遣わせてしまわないよう、僕もペンを握って、教科書と向き合い始めた。
テスト範囲である課題を徹夜で終わらせたせいで、僕はどんな問題があったのか全く覚えていなかった。とりあえず一から問題を解いて、そこからやるところを絞ろう。僕も美竹さんに倣って手を動かし始める。
僕たちはしばらく無言で勉強していたが、美竹さんが僕の方を見て言った。
「篠原、ここなんだけどさ」
ああ来てしまったこの時が。
落ち着きはしたものの、美竹さんに数学を教えなければいけないという事態は変わっていないのだった。でもこれで僕数学出来ないんだごめんね、なんて言えるわけもない。ああもう。こうなったら、やれるだけやってやる。
*
昼になったら帰るつもりだったのに、結局夕方まで居座ってしまった。一度は帰宅を試みたが、美竹さんの「えっ帰るの?」みたいな目と、さらにあの店員さん──羽沢つぐみさんというらしい──からまだいても大丈夫ですよと言われたことで、その選択肢は無くなった。
肝心の勉強は、僕の持っているそう多くない知識を総動員して、美竹さんになんとか数学を教えることに成功した。教え方下手だなコイツとか思われてないといいけど。ちなみに、美竹さんはもう少し残っていくらしい。
僕は帰り道を歩きながら、今日一日を振り返ってため息をつきたくなった。でも、確かに緊張はしたものの、嫌な気持ちにはならなかった。
家が見えてきたところで、そういえば、とふと思った。何だが今日の美竹さん、いつもよりテンション高かったような。
***
「そこまで」
テスト監督の先生のその指示で、僕は持っていたペンを置いた。
昨日の勉強の甲斐あってか──テストが簡単だったのもあるが──僕にしては珍しく、それなりに手応えを感じていた。結果もおそらくそれなりだろう。1番後ろの席の人が僕のテストを回収していくのを尻目に、僕は小さく伸びをした。美竹さんはいつもと変わらず、窓の外を眺めていた。
*
それからちょっと時間が経って、昼休み。前の時間が自習で、早々に自習課題を片付けた僕は、テストの疲れもあり、真面目に勉強することもせずに寝ることを選んだ。そのせいでまだぼうっとしていたのだけれど、缶のアイスココアが机の上に置かれたことによって、僕は目を覚ました。
視線を上げると、そこには美竹さんの姿が。どうしたのだろう。
「これ、昨日のお礼だから」
「?」
昨日はお礼を言われるようなことはしていないはず。
「ほら、勉強教えてくれたじゃん」
なんと。でも、あんな至らぬ教え方でお礼を貰うのは気が引けた。
「お礼なんてそんな。気にしないでいいよ」
「篠原は良くても、あたしの気が済まないの。だから、ほら」
そう言われて差し出されてしまえば、受け取らないわけにはいかなかった。
「ありがとう。美竹さん、律儀なんだね」
「べ、別に、そんなんじゃないから。 ただ無理に引き留めて、何もしないのは悪いって、思っただけだから。」
「やっぱり律儀じゃん」
僕の言葉で、自分が自爆したことに気付いたのか、顔を真っ赤にして教室から出ていってしまった。その反応は可愛かったけれど、怒らせてしまったかも。後で謝ろう。
「あれ、ケイ、いつの間に買ってきたんだよそれ?」
「これ、貰ったんだよ。美竹さんに」
カイは大袈裟に声を出して驚いた。
「えっ!? マジで?」
「うん」
「何したんだよケイ!?」
「あー、まあ、いろいろあって」
流石に、昨日喫茶店で一緒に勉強してました、とは言えなかった。
「何だよいろいろって」
「いろいろはいろいろだよ」
カイはいやー、と感慨深そうな声を出した。
「ついにケイにもそういう時期が来たかー」
「いや、別にそういうのじゃ──」
「ようし、今日は俺も何か奢ってやるよ! 行こうぜ!」
僕の反論も虚しく、僕はカイに引き摺られて購買に連行されてしまった。
そして。決して言葉には出さないけれど、美竹さんと僕の距離は、初めて話したあの時よりも、縮まっているような気がした。
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Cleaning in school!
「校内清掃の班、黒板に貼っといたから見とけよー」
SHRの終わり際に担任が言ったその言葉にで、僕は暗い気持ちになった。
この学校には校内清掃、というものが存在している。普段やっている掃除とは別の、簡単に言ってしまえば大掃除だ。これは定期的に行われるもので、僕たち一年生にとってはこれが二回目になる。校内清掃の班は先生たちが学校混合のクジ引きで決めるらしいのだが、これが僕の悩みの種だった。前回の僕の班は、一年生は僕一人で、他が全員三年生というクジちゃんと混ざってんのかこれ、と言いたくなるような、酷い有様だった。まあそもそも、クラス内と部活にしか交友関係を持たない僕にとって、知り合いと一緒になるほうが珍しいのだけど。
「起立、礼」
SHRが終わり、みんなが一斉に黒板に集まる。僕もその一人で、カイと一緒に後ろの方から見ようとしていた。
「今回は誰となんのかなー」
「頼むから全員三年生はやめてくれ……」
「はは、前回悲惨だったもんなあ、ケイ」
確認し終わった人たちが徐々に自分の席に戻って行き、ようやく僕たちも紙を確認できるようになった。
まだ少し残っている人の間から、紙をのぞき込む。A4サイズのそれの下の方に、僕は自分の名前を見つけた。掃除場所を確認すると、三年のB組だった。校舎の外まで掃除の範囲になる校内清掃では、教室が掃除場所というのは比較的当たり、だと思う。冬とか夏とかに外になったら大変だな、とまだ先のことに思いを馳せながら、一番大事な班員を確認するために、一歩前に出た。
「うわ、こっち一年俺だけかよ~! ケイはどうだった?」
「ちょっと待って。えっと……あ」
「どうしたよ?」
「……僕、美竹さんと同じ班だ」
*
最近、何かと美竹さんと一緒になることが多い気がする。別に嫌というわけではないけれど、一緒の席になるまで話したこともなったのに、不思議なもんだな、とは思った。
今回の僕の校内清掃の班は、僕と美竹さんの他に三年生が一人、二年生が二人だった。男子は僕しかいなかったが、知り合いがいる分、前回よりは確実にマシと言える。
そんなことを考えながら、僕は廊下を歩いていた。校内清掃は掃除場所によって集合する場所が違っているのだけど、教室が掃除場所の場合は基本的に現地集合になっている。
B組の前まで行くと、二年生一人、三年生一人が既に来ていた。僕は先輩方に挨拶する。
「よろしくお願いします」
「うん、よろしくね」
それから少しして、美竹さんが来た。
「……よろしくお願いします」
そう言う美竹さんの声は明るくはなかった。
程なくして全員が集まり、掃除が始まった。指示は先輩方がしてくれたので、僕と美竹さんはそれに従って、教室内を箒で掃く。流石に無言でやるわけにもいかず、僕と後藤先輩は適当な世間話をしながら掃除をしていた。といっても、主に話題を提供してくれたのは先輩で、僕はそれに合わせただけだが。
そして全く話に入ってこない美竹さんを見兼ねた、のかどうかは分からないけれど、先輩が美竹さんに話しかけた。
「美竹さん。そういえばさ、こないだのライブ見たよ~」
ライブ。ライブって、歌手とかバンドがやる、あのライブだろうか。
「……あ、ありがとうございます」
その言葉が予想外だったのか、美竹さんは顔を赤くしていた。可愛い。
「後藤さーん。ちょっと来てくれない?」
「あ、はーい」
後藤先輩が三年生に呼ばれたことで、この話は打ち切りになった。
しかし、美竹さんがどうしてライブの感想なんて言われているのか気になった僕は、本人に聞いてみることにした。もしかしたら、音楽活動か何かをやってるのかな。
「ねえ美竹さん、ライブって──」
「そ、その話はいいから。ほら、掃除しよ」
まだ顔が赤いままの美竹さんにそう言われてしまったので、今度こそその話は終わった。
*
校内清掃もあまり時間がかからずに終わり、僕は自分の教室に向かっていた。廊下にはまだ掃除中の生徒が見られた。カイはもう終わっているだろうか。
教室に向かう最中、ちょうど保健室の辺りで、僕は羽沢さんと会った。あの喫茶店での一件以来、僕と羽沢さんは軽く話をするくらいの関係にはなっていた。
「あ、羽沢さん」
「篠原くん。掃除はもう終わった?」
羽沢さんの両手には掃除用具があり、まだ終わっていないことは見て取れた。
「うん。羽沢さんはあとどのくらい?」
「もう少しかなあ。最後の仕上げところ」
羽沢さんから疲れは一切感じられず、僕は凄いなあと感心すると同時に、暇だし、手伝おうかな、とも思った。
「羽沢さん、」
手伝おうか、と口に出そうとしたところで、つぐー、と恐らくは羽沢さんを呼んでいるであろう声が、保健室の中から聞こえた。
「あっ、ひまりちゃん、今行くね! じゃあ篠原くん、またね!」
「……ああうん、またね」
少しテンションの下がった僕は、保健室に入って行く羽沢さんを見てから、教室への道のりを歩き始めた。
A組前の廊下に着くと、そこには窓側の壁に寄りかかっている美竹さんがいた。僕はひとまず美竹さんに話しかけてみる。
「美竹さん、中入らないの?」
「まだ終わってないから」
会話はそこで途切れてしまった。でも僕と美竹さんの間には特に気まずさはなかった。することがなかった僕は、美竹さんから少し離れたところで寄りかかる。
すると、今度は美竹さんが僕に話しかけてきた。
「篠原」
「ん?」
僕を見る美竹さんの目には、緊張や期待の色があるように見えた。
「普段、どういう音楽聞いてるの」
そんな突拍子のない質問に、僕は面食らったけれど、すぐさま返答する。
「ゲームミュージックかな」
なんだろう、この前もこんな会話をしたような。
「ロックは好き?」
「別に嫌いではないけど、好きって程でもないかなあ。全然詳しくないし」
「じゃあさ」
美竹さんはそこから、一拍置いた。
「ガールズバンドって、知ってる?」
ガールズバンド。言葉の意味も、それがどういうものかも知っているが、美竹さんが言っているのはそういうことではないだろう。
だから、僕は素直に知らない、と返した。
美竹さんはそっか、と短く返事をすると、今度は深呼吸していた。
「篠原、あたしね──」
「お前ら。そんなとこで突っ立ってないで手伝えよ」
美竹さんは何かを言おうとしていたが、教室から顔を出した担任の声によって、それは遮られてしまった。
「はい、すぐ行きます」
僕はとりあえず、そう言って、美竹さんの話の続きを聞こうとする。
「じゃあ美竹さん。続きをどうぞ」
僕は担任に向けていた顔を、美竹さんの方に戻す。そして驚いた。
そこには、口を尖らせて拗ねたような顔をしている美竹さんがいた。
──めっちゃ可愛いですねその表情。
僕は動揺しながらも、なかなか話そうとしない美竹さんに続きを促す。
「あ、あの、美竹さん?」
「……中、入ろ」
「え? でも……」
「いいから。掃除手伝うんでしょ」
「あ、ああうん」
僕のその言葉を聞くと、美竹さんはずけずけと教室に向かった。正直言って、ちょっと怖かったです。
その日は一日中、ろくに口を利いてもらえなかった。
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二人の距離
ふぅ、と深く息を吐きながら、体育館の隅に腰を下ろした。窓を開けると、心地良い風が吹いてきて、バスケで熱くなった体には最高だった。タオルで汗を拭いながら、コートにの様子を見ると、女子たちがのんびりバスケをやっていた。そして備え付けの時計に目を遣ると、あと一試合は可能な時間が残っていた。嬉しくも悲しくもあるその事実に、なんとも言えない気持ちになったところで、カイが俺の隣にやってきた。
「いやー、暑いな」
そう言うカイの顔にも汗が浮かんでいた。
「だな」
暑いと言っても、気温自体はそこまで高くないからまだいいが、夏の体育は地獄であろうことが予想できた。
「ナイス美竹さん!」
「おっ、美竹さん決めたみたいだな」
コートから聞こえたその声と、カイの声につられてコートを見ると、確かに美竹さんがシュートを決めたみたいだった。美竹さんは同じチームメイトになった女子に囲まれいる。美竹さんは確かにクラス内で浮いてはいるものの、それは嫌われているということではなく、ただ単に話しかけづらいだけだ。何かきっかけがあれば、きっとこんなものだろう。
それにしても美竹さん、この前やった時も決めてたような。勉強はあんまりみたいだけど、運動は得意なのかもしれない。
試合終了のブザーがなった。結果は美竹さんたちのチームの勝利だったが、みんな勝ち負けはそこまで気にしていないので、あまり意味はない。さて、次は僕たちの番だ。
「おーい、啓介に快斗、早くしろよなー!」
「ああ、悪い! ケイ、行こうぜ」
「ああ」
*
恥ずかしいことに、突き指をしてしまった。怪我の程度はそこまでではなく、数日もすれば治るらしいが、まだ僕の右手はズキズキと痛みを発していた。利き手じゃなかったこと、あまり使わない薬指だったのが救いだ。
そんなこんなで、僕は今カイの隣で弁当をつついているわけだが。
「にしても、一時間目から怪我するなんて災難だったな」
「ああ。まあでも、すぐ治るらしいし」
「ならいいけどな。おっ、お前の推しチーム勝ったってさ」
「マジで?」
ほら、と差し出されたカイのスマホには、確かに僕の好きなNBAチームの勝利のニュースが載っていた。
「でも、優勝は厳しいかなあ」
「まあな」
僕とカイが仲良くなったきっかけもNBAだけど、その話はまた今度。
そうして二人で話しながら食べていると、カイがあっ、と声を上げた。
「どうしたよカイ」
「そういや今日の体育ノート、お前だったぞ」
「マジか。持ってきてない……」
「まだ時間あるし、取ってくれば?」
「ああ、ちょっと行ってくる」
僕は食べ終えた弁当を片付け、体育館に向かった。
*
「失礼しました」
体育館についたが、中にノートがなかったために体育館職員室に入るはめになった。ここに入ったことはあまりなかったから、少し緊張してしまった。体育館の入口の時計を見る。昼休みはまだ十分程残っていた。時間に余裕もあることだし、ゆっくり帰ろう、と踵を返そうとしたら、目の前に美竹さんがいた。
「あれ、美竹さんどうしたの?」
「ノート取りに来た」
「美竹さんも今日ノートなんだね」
「うん、篠原も?」
「そうなんだよ。ほら」
僕は左手に持ったノートを美竹さんに見せる。美竹さんの視線は一旦はノートに行ったが、その後に包帯に巻かれた僕の右手に行った。
「それ、大丈夫?」
美竹さんの目はいつになく心配そうだった。
「うん、大丈夫。そこまでひどくないらしいから」
「そう」
これも短い付き合いで分かったことだけど、美竹さんはかなり優しい。なんだかんだ言って心配してくれたりするし。
「美竹さんっていい人だよね」
「な、なに急に」
「いや、今も心配してくれたし」
「べ、別にそういうのじゃないし。クラスメイトが怪我してたら、普通心配するでしょ」
美竹さんは赤くなった顔を隠すように、そう捲し立てた。それが美竹さんなりの照れ隠しだということは簡単に分かった。
「でもこの前だって──」
「そ、その時の話はいいから! じゃああたし行くから」
美竹さんはそう言って体育館職員室に向かった。僕も教室に戻ろう。
*
放課後の教室。僕は周りの喧騒の中で、体育ノートを書いていた。本当は放課後までに終わらせるつもりだったが、移動教室が重なったりと、いろいろあって時間が取れなかった。体育ノートに書くことは授業の内容と、やったことの感想とか反省だったりするのだけど、今日に限っては書くことがあまりない。試合も今日はそこまで盛り上がらなかったし。反省だって、今度は怪我しないようにしますくらいしかない。
一度ペンを置いて隣の席を見る。美竹さんはいなかった。もう書き終わって出しに行ったのかもしれない。
それから少しスマホをいじってから、僕は再び書き始めた。なんとか内容を絞り出して、ノルマにはギリギリ足りた。よし、出しに行こう。僕は立ち上がって体育館に向かうために、教室から出る。
すると、今買って来たのか、ペットボトルを手に持った美竹さんが教室に戻ってきた。僕が美竹さんの横を通り過ぎようとすると、美竹さんがねえ、と僕に声をかけた。僕、ほんとに綺麗な目だよなあ、という気持ち悪い感想と共に、美竹さんを見る。
「ノート、今から出し行くの?」
「うん、そうだけど」
「じ、じゃあさ」
じゃあなんだろう。ついでにあたしの分も出してきて、とかかな。美竹さんにはいろいろ助けられてるし、それくらいなら全然──。
「い、一緒に行かない?」
*
部活をしている生徒の声に混じって、僕と美竹さんの廊下を歩く音が響く。僕と美竹さんは適当に話をしながら体育館に向かっていた。まさか美竹さんから誘ってくるとは思わなかった。それだけ美竹さんの中で僕の好感度が上がったのか、それともただの気まぐれか。間違いなく後者だろうけれど、それでもこうして美竹さんと一緒に何かをできるということは、僕にとって嬉しいことだった。
「美竹さんって運動得意なの?」
「なんで?」
「いやだって、今日もこの前もシュート決めてたじゃん」
「あれはパスが良かったの。決めたのはたまたま。そういう篠原だって──」
そうやって話しているうちに、いつの間にか体育館についていた。僕と美竹さんは体育職員室の横にあるカゴにノートを提出した。あとは戻るだけだ。
「よし、じゃあ戻ろっか」
「うん」
教室への帰り道でも僕たちの会話は途絶えることはなかった。話題は学校生活のことから、美竹さんの友達のことになっていたが、とりあえず羽沢さんが天使だということは理解出来た。
教室に戻ると僕たちは帰る準備を始めた。そうだ、美竹さんが帰ってしまう前にお礼を言わないと。
「美竹さん、付き合ってくれてありがとう」
「別に良いよ。あたしから誘ったんだし。それに──」
それに。美竹さんはその言葉の続きを少し溜めてから言った。
「篠原と話すの、た、楽しいから……」
「────」
美竹さんが林檎みたいに顔を真っ赤にしながら言ったその言葉に、僕は思わず固まってしまった。だって、クラス一の美人に──これは僕が勝手に思ってるだけ──そんなこと言われてみろ。それで何も思わないほうが無理だろう。
美竹さんは冷静になって自分がとんでもないことを言ったことに気づいたのか、鬼のような速さで荷物をまとめてから教室を出て行った。教室に一人取り残された僕の鼓動は、まだドキドキしたままだった。
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授業での一幕
ペラペラとページを捲る。
図書室にはこの広い図書室にいるのは僕と司書の先生くらいで、あとは放課後勉強しに来た生徒がちらほら。図書委員の仕事はこの時期はあまりないようで、カウンター当番くらいしかなかった。文化祭の時期は忙しくなるらしいが。
僕が着々と小説を読み進めていると、図書室のドアが開かれた。そちらに目を遣ると、そこにはリュックを背負った美竹さんがいた。
本を借りに来たのか、それとも勉強しに来たのか。近いうちにテストがあるとか、そういうことはないはずなので、恐らくは前者だろう。
美竹さんって、どんな本を読むのだろう。なんとなくだけど、漫画はあまり読まなそうだ。美竹さんはあれ、こいつ図書委員だったんだみたいな目をしながら、僕に──というよりもカウンターに──近づいてきた。
「美竹さん、どうしたの?」
「本、探しに来たんだけど」
「どういう本?」
「えと、ゴミ関係のやつ」
「そうなんだ。環境問題とか興味あるの?」
「いや、別にそういう訳じゃないけど」
「? ならどうして?」
僕のその疑問に対して、美竹さんは訝しげな顔をした。
「篠原、もしかして忘れてる?」
「忘れてるって、何を?」
美竹さんはさっきまでの表情とは打って変わって、今度はからかうような笑顔を浮かべた。
「保健の授業」
「あっ」
*
「篠原って、意外と抜けてるところあるよね」
隣でくすくす笑っている美竹さんに、僕は何も言い返すことができなかった。
ついこの前、保健の授業でやったことをすっかり忘れていた。ゴミ関係か食品関係。そのどちらか、興味のある方について調べ、考察するという授業をやっていて、明後日くらいに一度点検があったはずだ。あくまで途中点検だから、完成していなくてもいいが、流石に何も書かないで出すわけにはいかない。
調べるのはインターネットか本で、できれば本が好ましいということだった。それで美竹さんは本を探しに来たのだろう。
僕は委員の仕事という名目で、美竹さんと一緒に本を探していた。
幸い、僕も美竹さんと同じゴミ関係で、探すのにさほど面倒はなかった。しかし、さっきから中々いいのが見つからない。これは諦めてインターネットに切り替えた方が賢明かもしれない。
「あんまりいい本ないね」
「だね」
美竹さんも本探しはやめることにしたのか、手に持っていた本を棚に戻した。
「篠原ってどんな本読むの?」
本棚に目を向けたまま、美竹さんはそんなことを聞いてきた。
「う〜ん。いろいろだけど、ラノベはあんまり読まないかな」
「オススメとかある?」
「えっとね──」
オススメというよりかは、僕の好きな本を紹介しただけだけになってしまったが、それでも、いつの間にか図書室が閉まる時間になっていて、僕は司書の先生に挨拶してから美竹さんと一緒に図書室を出た。
「付き合ってくれてありがと、篠原」
「こちらこそ。美竹さんのおかげで思い出せたし」
「ふふ、じゃあまたね」
「うん、じゃあね」
そう言って昇降口に向かった美竹さんを見送ってから、僕も帰り支度のために教室に向かった。
教室のドアを開けて中に入ると、そこには部活をしているはずのカイがいた。
「カイ、どうしたの?」
「おおケイ。ちょっと忘れ物してさ、取りに来たんだよ。ケイは図書委員の仕事だっけか」
「ああ。今終わったよ」
自分のカバンからごそごそと忘れ物を探しているであろうカイを尻目に、僕はトートバッグに荷物を入れ始める。もちろん、保健のレポートも忘れずに。そういえば、カイはどれくらい進んでいるのだろうか。
「カイ、保健のやつやった?」
「えっ? 何だよそれ」
お前もかよ。
***
そして、次の保健の授業は僕の記憶通り、あの日から二日後、つまり今日だ。この二日間でレポートをしっかり仕上げてきた僕に敵はいない。僕は万全を期して保健の授業に臨むことができる。
「ケイ、そろそろ行こうぜ〜」
「ああ」
保健の授業は大体は教室でやるが、今回のレポート作成に関しては図書室で行うことが多かった。というか最初の説明のとき以外は全部図書室だ。
僕たちは図書室に向かい、入口のところで靴を脱いでスリッパに履き替え、室内に入った。もう既に何人かの人が来ていて、その中には美竹さんの姿もあった。座席は自由で、もうみんな各々の定位置を決めていた。それは僕たちも同じで、いつもと同じ場所に座った。
授業が始まるまでカイと話して待つ。
「カイ、どの辺まで進んだ?」
「俺まだ全然。とりあえず調べただけって感じだわ」
「マジ? それって結構ヤバくない?」
「だよなあ。まあなんとかなるだろ。ケイは?」
「僕は──」
「はい、じゃあ授業始めます」
先生が来たことで話は中断になった。日直の号令に合わせて礼をし、着席する。その後、僕たちは先生の説明を黙って聞いていたが、その説明の中に衝撃的な言葉が──少なくとも僕にとっては──あった。
「それじゃあ、前に言ったように、グループ内で発表してもらいます」
えっ何それ聞いてない。
*
僕たちはまずゴミ関係と食品関係の二つに分かれ、その中でさらに少人数の班に分かれた。僕のグループは男子が僕一人で、残りは女子三人だった。
今回の発表は、自分の調べたことや意見が他人の目から見たらどうなのか、ということを知るためのものらしく、真面目に聞かなければならない。発表の順番は僕が一番最初で、その後に女子が発表した。僕もちゃんと三人の話を聞き、誰でも思いつくような疑問点を伝えた。グループの全員が発表を終えたけれど、授業の時間は残っている。レポートは授業終わりに集めると言っていたし、あとの時間は何をするのだろう。
「じゃあ、次は違うグループの人と一緒にやって下さい」
先生の話を聞くと、違うグループと言っても、同じジャンルでないとだめらしい。グループは自由に作ってもいいみたいで、みんないつもの、クラス内でよく見るようなグループになっていた。僕も男子に混ぜてもらおうと立ち上がり、男子がいる方を見る。そして、驚くべきことに気づいた。
──あれ、もしかしてゴミ関係の男子って僕だけ?
僕は思わずその場で頭を抱えたくなった。男子の方は気の毒そうな目を僕に向けているけれど、そんなことは全く気にならない。とにかく、早くどうにかしなければ。
どこか人数が余っているところに入れてもらうと、辺りを見回す。既にほとんどのグループが出来上がってしまっていた。けれどその中に、ポツンと一人でいる女子を見つけた。美竹さんだ。クラス内で特定のグループに属しておらず、特に仲のいい友達がいるとも言えない美竹さんにとって、こういう活動は地獄だろう。まあ、今の僕にも同じことが言えるのだろうけど。さらに周りを見ていると、二人で固まっている女子を見つけた。よし、美竹さんを誘って、あそこに混ぜてもらおう。
「美竹さん、もし良かったら、一緒にやらない?」
「……」
僕が声をかけても、美竹さんは固まったままだった。もしかすると、僕と一緒にはやりたくないのかも。それはそれで中々につらいけれど、仕方ない。
「美竹さん、もし嫌なら──」
「そんなことないよ」
「う、うん」
若干食い気味に言ってきた美竹さんに押されはしたものの、とりあえずは一段落だ。
*
その後は特に波乱もなく、無事に授業は終わった。カイは一足先に帰ってしまった。僕も荷物をまとめて教室に戻ろうとすると、隣に座っていた美竹さんに呼び止められた。
「ねえ篠原」
「ん?」
「篠原はさ、どうして──」
その後の言葉は、聞けなかった。
「いや、何でもない。引き止めてごめん。それと、さっき声かけてくれてありがと」
「気にしなくていいって。僕も美竹さんがいてくれて助かったし」
「ほんとに?」
「うん」
さっきだけじゃない。美竹さんには助けられることが多い。
「なら、良かった」
そう言う美竹さんの笑顔はいつになく綺麗で、だから、僕は思わず見惚れてしまった。
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スポーツテスト
スポーツテストという行事がある。
僕の学校では、ゴールデンウィークの少し前に行われる。しかしこの学校、体育館もグラウンドもあるのに、何故か近くの陸上競技場を借りて行うのだった。
だから僕は今こうして制服ではなくジャージを着て、いつもの通学路とは違う道を歩いている。
今日は雲ひとつない快晴で、絶好の運動日和だった。とはいえ、僕は別にこれが楽しみなのではなく、面倒だな、というのが正直なところだった。何か一つずば抜けて得意なものがあるわけではない僕は、全ての競技で平均的な記録を出す自信がある。
というか、こういうイベントが楽しみなのはカイみたいな運動部だけなのではないだろうか。
もう何年も新シリーズが出ていないゲームの音楽を聞きながら歩いていると、競技場に到着した。僕はイヤホンを外して先生の案内に従い、観客席に上がった。そこには既に多くの人が来ていて、みんなそれぞれの過ごし方をしていた。
僕は周りの邪魔にならないようにしつつ、クラスメイトの姿を探した。
「おっ、啓介。こっちこっち」
その声に反応すると、僕のクラスの男子が固まっている場所があった。しかしその中に、カイの姿はない。
「カイは?」
「あいつなら、準備とかいろいろあるんだってよ」
ほら、と俊が指差した方を見ると、カイが忙しなく走り回っていた。陸上部って、こういうとき大変だよなあ。
僕も他のクラスメイトと同じように、足元に荷物を置いて椅子に腰掛ける。そのまま皆と話していると、集合を呼びかけるアナウンスが入った。
観客席から降りてフィールドに向かう。そのまま自分のクラスが並ぶであろう場所で突っ立ていると、カイがこちらに歩いてきた。
「よっ、ケイ。お互い頑張ろうぜ」
「ああ。でも確か、陸上部って僕たちとは別に測定するんじゃなかったっけか」
「1500メートル以外な。なんか意味あんのかね」
カイと話していると、皆もぼちぼち並び始めたので、僕もカイも自分の位置に向かった。
先生からの諸注意や、校長先生が話をしたあとに、準備体操をする。
そこからはいよいよ競技開始だ。一年生は立ち幅跳びだから、砂場に向かう。そこには当然、美竹さんの姿もあった。
立ち幅跳びに関してはする順番は決まっておらず、勝手にやっても大丈夫なようだった。僕は最初の方にやるのは嫌だったので、他の人がやり始めてから列に並んだ。
「はいどうぞー」
自分の番が来たので、僕は跳ぶラインの少し手前に足を置いた。そのまま勢いをつけてジャンプ。ズサっという音とともに着地する。どれくらい跳んだかな。自分の身長くらいは跳べているといいけど。
「篠原くん、1メートル83ね」
「はい、ありがとうございます」
結果としては自分のより少し高いくらいで、思ったよりもいい結果だった。立ち幅跳びは2回測定しなければならないので、僕は記録係に自分の記録を伝え、またさっきと同じように並ぶ。
僕がぼうっと突っ立っていると、いつの間にか、隣の列に美竹さんが来ていた。美竹さんもこれが面倒だと感じているのか、いつにも増して気だるげな顔をしていた。僕はいつもみたいに美竹さんに話しかける
「美竹さん」
美竹さんは緩慢な動きでこちらに首を向けた。
「一回目、終わった?」
「いや、まだ。篠原は?」
「僕は終わったよ。これから二回目」
「そうなんだ。それにしても面倒だね、スポーツテスト」
「だよね……。早く帰りたい」
そうやって話しているうちに、僕よりも先に美竹さんの番がきた。
互いに話をやめて、前を向く。でも、美竹さんの跳ぶ姿が見たかった僕は、美竹さんの方を首を動かさない程度に見ていた。そしてそれを見て、美竹さんってやっぱり運動得意なんじゃないかと思った。
*
午前中は立ち幅跳び以外にもソフトボール投げと、50メートル走をやったが、そのどちらも平凡な結果に終わり、今は昼休憩。
僕は俊たちの話に耳を傾けながらも、目の前で測定している陸上部の姿を見つつ、パンをかじっていた。カイが走る姿を体育以外では見たことがなかった僕は、カイが他の陸上部員と一緒に走ったり、ボールを投げたりしているところが、とても新鮮に感じられた。といっても、カイは長距離が専門だからか、他の人に負けている姿もちらほら見られた。
それはともかくとして、あとは午後からの1500メートル走だけなのだが、これがまた。1500メートル走は一年の男子からで、その後は二年生の男子、三年生の男子、そして女子も同じように学年ごと、といった順番でやる。一番最初に終わるのはいいが、それでも緊張はする。
昼休みが終わるまではまだ少し時間がある。今のうちに、飲み物を買っておこう。
「ちょっと飲み物買ってくる」
「おう」
僕はその場から立ち上がり、財布を持って自販機のある場所に向かった。僕は自販機の前で立ち止まって、どれにしようかと考える。一番無難なのはスポーツドリンクだが、麦茶にしようかな。麦茶のボタンを押そうと指先を向けた瞬間、後ろから声をかけられた。
「篠原」
情けないことに僕はその声に驚いて隣のボタンを押してしまった。自販機から出てきたのは真っ黒なコーラだった。
僕は何とも言えない気持ちのまま、それを取り出し、美竹さんの方を向いた。
「……コーラ、好きなの?」
美竹さんは僕の手を見て、何かを探るような目をした。
「いや、好きじゃないよ。むしろ苦手」
「じゃあ何で買ったの?」
真っ当すぎる疑問だった。美竹さんの声に驚いたからです、なんて口が裂けても言えない僕は、適当な答えでお茶を濁した。
「気分」
いや誤魔化すの下手すぎだろ、と思ったが、美竹さんはそれ以上追求してこなかった。
「美竹さんも飲み物買いに来たの?」
「そうなんだけど……やっぱりいいや」
「そうなんだ。じゃあ美竹さん、午後からも頑張ろうね」
「午後からって1000メートルだよね……。はあ……」
男子の僕と女子の美竹さんで走る距離が異なるが、それでも僕たちにとって、嫌なことに変わりはなかった。僕は美竹さんと別れ、観客席に戻る。携帯で時間を確認すると、もうすぐトラックに集合する時間になるところだった。
「あれ、ケイ珍しいじゃん。コーラ買うなんて」
「ああ、カイ。これあげるよ」
「マジで? ありがとなケイ!」
測定を終え、戻ってきて昼食を食べ終えていたカイにコーラを押し付けることに成功した僕は、それからタオルを持ってすぐにトラックに向かった。フィールドの芝生に腰掛けて先生の説明を聞く。それによると、1500メートル走は二回に分けて行い、一回目と二回目に分かれてペアを組むようだ。僕は真っ先にカイと組んだ。
「カイ、どっちやる?」
「実は陸上部のヤツらと競走することになっててさ。俺二回目でもいいか?」
「分かった。じゃあ僕が一回目だね」
「ごめんな、ケイ」
「いやいやいいって。じゃあ行ってくる」
「おう、頑張れよ」
カイの応援を背に、僕はスタート位置につく。
「よーい、スタート!」
先生のその声を合図に、僕たちは一斉に走り出した。僕は遅くもなく速くもなく、かといって他の男子からの差が開きすぎない程度のスピードで走る。
1500メートルは、このトラックを三周と約半分。長い旅の始まりだ。
黙々と走り、一周目の終わりに差し掛かったところで、応援に来ていた女子たちの姿が見てた。女子たちはみんな声援を送っているが、それが僕に向けられているわけじゃないことは分かっているので、特に何も思わず、そこを通過しようとした、のだけれど。
その中に、美竹さんたちの姿もあった。僕は驚いて足を止めそうになったが、何とか進み続けた。どうして、何で、という疑問よりも先に、今まではなかった緊張感と高揚感が、僕の体を包み込む。
そしてついに、美竹さんと目があった。
「……篠原、がんばれ」
それは小さな声だったけれど、でも確かに、僕の心に響いた。
*
あれから、らしくもなく全力で走り、怒涛の追い上げを見せまさかの三位でゴールインした僕は、汗の始末をしたあとに自販機に向かい、今度こそ麦茶を二本買った。一本はもちろん僕のだけど、もうひとつは美竹さんに渡すつもりだ。美竹さんは一人で、トラックの外側の水飲み場の近くに座り込んでいた。
羽沢さんたちと一緒にいたら諦めようと思っていたので、ラッキーだった。
「美竹さん」
僕が声をかけると、美竹さんはビクッと肩を震わせて立ち上がった。驚かせてしまったみたいだ。
「な、なに?」
「美竹さん、応援ありがとう。これ、よかったら受け取って」
美竹さんは暑さからか、顔を赤くしながらも、受け取った。
「……別に、気にしなくていいのに」
「いやいや、いつも美竹さんには助けてもらってるから」
「……そっか」
「うん。美竹さんも頑張ってね。応援してるから」
「し、しなくていいってば」
「いやでも──」
「一回目の人でまだ記録伝えてない人、いますかー?」
記録係の人のその言葉で、僕は伝えていないことを思い出した。行かないと。
「美竹さんごめん、僕行くね」
「……あ、うん」
そして僕は歩き出そうとしたが、美竹さんに呼び止められた。
「し、篠原」
僕は振り向く。美竹さんはさっきより顔を赤くしていた。
「さっきは、その……か、かっこよかったよ……」
僕は、カイに呼ばれるまでそこから動けなかった。そして、嬉しくてニヤニヤしてたら、カイに引かれたのは、また別の話。
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ガールズバンド
カイが最近、ガールズバンドにハマったらしい。
ガールズバンドと言われたら、真っ先に思い浮かぶのは美竹さんだけど、あの言葉の続きは未だに聞けていない。
というわけで、今カイが僕にそのことについて熱弁しているのだが、カイには悪いけれど、僕はガールズバンドというものにあまり興味が湧かなかった。しかし邪険にすることもできず、僕は適当に聞き流してした。
「でもケイ、いくらお前でもパスパレくらいは知ってるだろ?」
「まあ、名前くらいなら」
パスパレ。ちょっと前までテレビのニュースでずっと流れていたからか、その名前は頭に残っていた。そのニュースの内容は決して良くないものだったはずだが、ふーん、くらいにしか思わなかった僕は詳細な内容は覚えていなかった。
「でもそのアイドルグループ、確か炎上してなかった?」
「それはそうなんだけどな、ケイ。でも今は──」
その時、昼休みの終わりを告げるチャイムがなった。いつもなら僕がカイの席の方に行って食事をするのだが、今日はそっちが何故か使われていたために、カイが僕の隣の席、つまりは美竹さんの席に座っていた。
「昼休み終わったぞカイ。早く自分の席に戻った方がいいんじゃない?」
僕がカイの席をちらりと見ると、今そこは空いていたし、荷物も置いていなかった。
「まあ待てって、もう少しだけ話させてくれよ」
そう言うとカイはまた話し始めた。僕が何とかしてカイを自分の席に戻らせようとしているうちに、美竹さんが教室に帰ってきていた。美竹さんは僕の隣の近くまで来て、こいつどうにかしろよ、と目で訴えてきた。
「ほらカイ。美竹さん困ってるよ」
「あ、悪い美竹さん。全然気づかなかった。じゃあケイ、また後でな」
カイはそう言って席を離れた。美竹さんはようやく解放された自分の椅子に腰掛ける。
「何の話してたの?」
「ガールズバンド。最近ハマったんだってさ、カイ」
僕のその言葉に、美竹さんは何かを期待するような目で問いかけてきた。
「篠原は? そういうのは、聞いたりする?」
「いやあ、僕はあんまりかな」
何せ、普段聞いている音楽がゲームミュージックな男だ。そういったものには全くと言っていいほど精通していない。
「……ふーん。そっか」
僕は美竹さんその一言で、美竹さんのテンションが一気に下がったのが分かった。今の会話に、美竹さんのテンションを下げる要因があったことは間違いないが、何がいけなかったのだろう。例えば、美竹さんがガールズバンドの熱狂的ファンで、それに興味がないと言ってしまったことが原因なのかも。いろいろと考えてみたけど、どれも憶測にすぎず、謝ろうにも謝れなかった。美竹さんは結局、その日はずっとテンションが低かった。
***
日曜日。普段なら家でゆっくりしている日だけど、僕は『CiRCLE』というライブハウスに足を運んでいた。
もちろん、これにはれっきとした理由がある。昨日の昼にカイにガールズバンドのライブを見に行かないか、と誘われたのだ。
特にすることもなかった僕は、たまにはいいか、と思ってそれを了承した。現地集合ということになっているので、携帯のマップを頼りにここまで来たが、カイはまだ来てないようだ。
それにしても、と僕は思った。随分と女性客が多いんだな。カフェテリアを見てもほとんどが女性で、男性は数えるほどしかいない。
僕は適当なテーブルに行ってカイを待ちながら、今日行われるライブのパンフレットに目を通す。今日は三組のバンドが合同でライブを行うみたいだったが、当然知らない名前ばかりだ。
パンフレットに一通り目を通したところで、カイがやってきた。
「悪い悪い。待ったか?」
「いやいや全然」
僕は立ち上がってカイについて行く。僕はライブハウスに来るのすら初めてなので、勝手なんて分からない。チケットは流石に自分で買ったが。
「ケイ、どこで見る?」
「後ろがいいかな」
「えー、せっかくなんだし前の方で見ようぜ。ちょうど空いてるし」
カイの言う通り、前の方にはまだスペースがあった。確かに、後ろで見て、全く見えませんでした、では来た意味がない。僕はカイにわかった、と伝えて一緒に前に向かった。
「いやあ、お前の驚く顔が楽しみだよ」
「え? それってどういう──」
僕がカイにその言葉の意味を聞く前に、ライブが始まってしまった。ライブ中に喋る訳にもいかないので、あとで聞くことにしよう。
*
一組目はPoppin'Partyというバンドだった。ボーカルの人はすごい元気いっぱいで、いかにも女子高生、っていう感じだった。曲の方もポップなものが多く、観客はかなり盛り上がっていて、僕も初心者ながら、楽しむことが出来た。
僕はこの短時間で、ガールズバンドの魅力に取り憑かれていた。これは、カイに感謝しないといけないかもしれない。
二組目はさっきのとは打って変わって、本格派な、Roseliaと言うバンドだった。
Poppin'Partyのような元気さはないものの、確かに本格派というだけあって、素人目で見ても、レベルの高いバンドだということは分かったし、楽曲も、僕が好きな雰囲気のものが多かった。あとは、メンバーの何人かは、学校で見たことがある気がした。
そして、最後のバンド。名前はAfterglowと言うらしい。カイは隣でお前にこれを見てもらいたくて誘ったんだよ、と言っているが、どんなバンドかは全く想像もつかなかった。
Roseliaの演奏が終わってからちょっとして、Afterglowの番がきた。一体どんなものを見せてくれるのだろう、と心を踊らせていた僕は、ステージ袖から出てきた人を見て、言葉を失った。
だってそこには、いつか見た私服と同じような雰囲気の衣装を纏った、美竹さんがいたからだ。美竹さんは僕には気づいていないようだった。僕はカイの目をやる。カイはしてやったり、みたいなウキウキした表情をしていた。確かにこれは、やられた。
僕が恨みを込めた視線を送っているうちに、演奏が始まった。Afterglowの曲は王道なロック調のもので、歌詞も高校生らしいというか、身近に感じられた。他のメンバーの人も、よく見たら全員知っている顔だった。羽沢さんなんかはキーボードだったし。
何曲か演奏し終えた後でMCが入った。話すのは美竹さんではなくベースのピンク髪の人だった。
そしてついに、時間の問題かとは思っていたけれど、美竹さんに気づかれてしまった。確実に目があった。美竹さんも固まってしまっている。僕は申し訳ない気持ちになる。
「でね──って蘭、どうかした?」
「い、いや、なんでもない」
*
僕の心配も杞憂に終わり、Afterglowの演奏は無事終了した。そして僕はというと、完全にAfterglowのファンになっていた。今日演奏した他のバンドももちろん、素晴らしかったが、それでも、僕の心に一番響いたのは彼女たちだった。
「今日は誘ってくれてありがとな、カイ」
僕は帰り道でカイにそう言った。
「おっ、お前もガールズバンドの魅力に気づいたか」
「ああ、おかげさまで。でも、美竹さんのことは言ってくれてもよかったんじゃない?」
「それじゃ面白くないだろ?」
そんな会話をしながら、僕たちは帰り道を歩いた。途中でカイと別れて、僕は一人で帰路につく。いつもはしているイヤホンは、今はしていなかった。
あ、そういえば。明日学校で、美竹さんになんて言えばいいんだろう。
*
月曜日の昼。いつもなら僕は弁当なのだけど、リビングのテーブルを上に置いてあった千円札で全てを察した僕は、購買に足を運んでいた。僕の場合、購買に行く機会はあまりないので、しっかり選んで決めたい。何がいいだろう。取り敢えずは、無難に焼きそばパンにしよう。焼きそばパンを手に取って、他のところに向かおうと、顔を上げると、ちょうど反対側に、美竹さんがいた。
全く気づかなかった。昨日のこともあってか、僕にはちょっとした気まずさがあった。かといって、このままだんまりというわけにもいかない。
「美竹さんも今日は購買?」
いつもは何なのか知らないのに、今日は、なんて言ってしまったが、そこまで頭が回らなかった。
「うん。篠原も、お弁当じゃないんだね」
二人の間に、再び沈黙が流れる。ああ、何か言わないと。しかし、こんな感覚になったのは随分久しぶりで、言葉は全く出てこなかった。
そんな中、美竹さんが意を決したかのように切り出した。
「篠原、昨日は何で、あそこにきてたの?」
「カイから誘われたんだよ。ライブ見に行かないかって」
「なるほどね。でさ、篠原」
美竹さんはそこから一呼吸置いた。
「どうだった?」
どうだった、というのはAfterglowの演奏がどうだったか、ということだろう。だったら、僕が返す答えはただ一つだ。
「最高だった。また見に行くよ」
僕のその言葉に、美竹さんは今まで緊張があった表情が一気に柔らかいものに変わった。
「ありがとう」
「いやいや、こっちこそ。あんないいものを見せてくれてありがとう」
ふふ、美竹さんが穏やかに笑う。気持ち悪いことを言うけど、こういう時の美竹さんは、本当に可愛い。
「あっ、でも、次からは後ろの方で見てね。目が会うと恥ずかしいから」
「えっ」
冗談だよ、と笑った美竹さんには勝てないな、と思った。
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美竹蘭
最初は特に、何も期待していなかった。
席が変わったってあたしが変わるわけでも、周りの状況が変わるわけでもない。クラスのみんなは浮き足立っているけれど、あたしはただ憂鬱なだけ。
みんなが次々にクジを引いて、席を決めていく。誰かが引く度に盛り上がりを見せているが、あたしには関係のないことだ。自分の番が近づいてくるたびに、あたしの気持ちは沈んでいく。
ああ、ついにあたしの番が来てしまった。席を立って前に出る。この時間が早く終わって欲しくて、あたしは乱雑に箱に手を突っ込んで、適当にクジを取り出す。自分で番号を見ることもせずに先生に手渡した。
そのまま自分の席に戻り、腰掛けて、黒板を見る。先生があたしの名前を黒板に書いていて、もうあたしの隣は埋まっているみたいだった。
名前は──。
***
あいつは、他の人とは違った。
あたしがクラスで孤立しているのも、その原因が自分にあることも分かっている。つらくはあるけれど、あたしの気弱さでは、そんな状況をどうにかすることはできないし、でもそれよりも、あたしには、みんながいれば十分だった。
とはいえ、それとこれとは別問題なわけで。どうしてもクラスの人と関わらなければならない時間はある。
新しい席になってからの最初のそれは、英語の時間だった。こういうとき、あたしは大体だんまりで、隣の人も喋らない。これは別に珍しいことではないと思う。辺りを見てみても、そういうところはたくさんあった。
本当は、あたしから話しかけるべきだ。でも、モカ達と話すときみたいに、口は動いてくれない。別に、クラスの人と話すのが嫌なわけじゃない。でももし、拒絶されたらどうしよう、そんな余計な恐怖心が邪魔をして、何も言えなくなってしまう。こんなんだから、父さんにあんなことを言われ続けるのだ。
あたしはどうすればいいか分からなくて、でもどうにかして欲しいなんて、どうしようもなく身勝手な思いを込めて隣を見る。すると驚いたことに、隣の席の人、篠原も、こちらを見ていた。顔は知っていたけれど、こうしてちゃんと向き合うのは初めてだ。短めの黒髪に、四白眼。こんなことを言ってしまうと失礼だけど、特別カッコいい顔ではないと思う。
そんなことは置いておいて、多分だけど、篠原もあたしと同じ気持ちでいるのだと思う。でも、それも当然だろう。クラスの中で間違いなくいい印象を持たれていないあたしと、話したがる人なんていない。悪いのは、こんな無愛想なあたしだけど、それでも、どうしようもなく悲しくて、顔を伏せようとした時──。
***
それからは、英語の時間に話すだけの関係が続いた。
ある時から、授業以外にも話すようになった。
たまには、勇気を出して自分から話しかけることもあった。
自分でも何故だか分からないけれど、篠原と話している時間は好きだった。だから、羽沢珈琲店で彼と会えた時は、すごく嬉しかった。
そんなふうに、篠原のおかげで楽しくなった学校生活を送っていたある日、校内清掃が行われた。あたしは席替えの時と同じように憂鬱だったが、班員のリストの中に、彼の名前を見つけた時は──いや、これは恥ずかしいから言わない。
あたしは篠原を誘って、一緒に掃除場所まで行こうと考えていたのだが、篠原の姿はもう教室にはなかった。
だからあたしは一人で掃除場所に向かい、そこで、先輩達と楽しく──あたしにはそう見えた──篠原を見て、ちょっとだけテンションが下がった。本当に、ちょっとだけ。
掃除は、あたしと篠原、それに後藤先輩が同じ担当になった。こういうとき、怖いのは沈黙だが、篠原も後藤先輩も、そんなものは知らんとばかりに話に花を咲かせていた。本当はあたしも加わるべきなのだろうけど、そんな気にはなれなかった。
あたしが全く話に入ってこないのを気遣ってくれたのか、後藤先輩があたしにライブの感想を伝えてくれた。まさか、こんな身近にファンの人がいるなんて。
そのことは素直に嬉しかったけど、篠原に知られるのは恥ずかしくて、その時は誤魔化した。
でも、掃除が終わったあとに、篠原と二人きりになった。言うなら今だ。しかし、彼にそれを伝えてどうする。クラスメイトから、バンドやってます、なんて言われても困るだけだじゃないか。言うか言わないか。ええい。当たって砕けろ。あたしは意を決して、篠原に話しかけた。でもいきなり言うのもおかしいかな、と思い、ひとまずは普段聞いている音楽から尋ねた。すると彼はゲームミュージックと答えた。ゲームミュージックか。あこなら詳しいかもしれない。今度、どういうのがあるか聞いてみよう。
それからもいくつか質問をして、あたしはついに本題を切り出そうとした。
でも、篠原が先生に呼ばれてしまったから、続きは言えなかった。
***
それからも、スポーツテストでかなり恥ずかしいことを言ってしまったりと、色々あったが、Afterglowのことを言う機会は終ぞなかった。しかし、今はそれでもいいと思っている。あのときは、ちょっとどうかしてた。
「でさ──って、蘭、話聞いてるか?」
巴から掛けられたその声で、あたしは現実に引き戻された。
「えっ、ああごめん。何の話だっけ」
「だから、あこが最近ハマってるゲームの話」
ゲームと言われて真っ先に思い浮かぶのは彼の顔だ。篠原って、どんなゲームをやるんだろう。今度聞いてみよう。
「ああ〜。蘭、またあの人のこと考えてる〜」
「い、いや別に考えてないって」
「またまた〜。そんなこと言って〜」
顔が赤くなるのを感じる。モカ達は直接篠原と話したことはないが、あたしが篠原と話している場面を何度も目撃されてしまっている。
「蘭ってほんと篠原くんのこと好きだよね」
ひまりがしみじみと言った。あたしの顔はその言葉に反応して、さらに熱を帯びる。
「すっ……!? だ、だから違うって」
この空気はまずい。
あたしが密かに助けを求めると、それに応えてくれたのか、昼休みの終了を告げるチャイムがなった。
「ほ、ほら昼休み終わったよ。帰ろ」
「ええ〜。これからがいいとこなのに〜」
モカの追撃を何とか振り切り、教室に戻る。するとあたしの席には、いつもはいないはずの人がいた。高橋快斗。篠原からはカイと呼ばれている、彼の友達だ。
いつもなら二人はここではなく、高橋の席のところで食べているはず。あたしは確認のためにそっちの方に視線をやると、そこは女子達に占領されていた。大体の事情はわかったけど、それとこれとは話が別だ。あたしは篠原にどうにかしてくれ、と目で訴える。
「ほらカイ、美竹さん困ってるよ」
それを察してくれた篠原がそう言ってくれて、あたしはようやく座ることが出来た。
それにしても、随分とヒートアップしてたみたいだけど、何の話をしてたのだろう。あたしは篠原に尋ねた。
すると篠原は、ガールズバンドの話をしていたと答えた。ガールズバンド、という単語が出てきた時はドキッとしたが、篠原自体はガールズバンドのことはあの時同様知らないみたいで、それは悪いことじゃない。でも、それでも、あたしの自分勝手な心は、それで落ち込んでしまった。
***
その週の日曜日、つまり今日は、CiRCLEというライブハウスでライブがある。今日はあたし達だけのライブじゃなくて、ポピパ、ロゼリアとの合同になる。順番はポピパ、ロゼリア、そしてあたし達Afterglow、といった形になる。いつもこういう時はロゼリアがトリを務めることがほとんどで、らしくもなく緊張しているけれど、きっとステージに立てばそんなものは消し飛ぶだろう。みんなだってそのはずだ。
楽屋内で各々が好きな時間の過ごし方をしていると、ロゼリアの演奏が終わって、いよいよあたしたちの番だ。ひまりのあれはいつものようにやらなかったけど、あれにはいつも勇気をもらってる。
そして、ステージに立つ。ステージはもう既にかなりの熱気に包まれていたが、そんなのは関係ない。あたしたちは、いつも通りの演奏をするだけだ。
みんなの音に合わせて、でも引っ張るようにギターを弾き、歌い上げる。
Afterglow。今以上に子供で、わがままだったあたしのために、みんなが作ってくれた居場所。
あたしは思いを込めて、叫ぶように歌う。あたしはここにいる、あたしの居場所はここなんだって。
会場の熱に負けることなく、無事に前半戦は終了。ここからはMCの時間だ。MCも、本来ならあたしがやるべきなのだけど、こんな大勢の前で話すのなんてハードルが高すぎる。あたしにできるのは、歌うことだけだ。普段の立ち位置よりも一歩前に出て、話してくれるひまりに感謝の視線を送り、ステージの観客も見る。もしかしたら、あいつがいるかも、なんてありえないことを思いながら。
しかし、それは現実に起きてしまった。ステージの前列。そこに、篠原はいた。隣には、高橋の姿もある。
どうして、なんで。そんな疑問があたしの頭を駆け回ったけど、どれも口に出すことは出来ない。そして、さっきからずっと見てくれてたんだ、と思うと、恥ずかしさと嬉しさでいっぱいになってしまった。
「でね──って蘭、どうかした?」
あたしの異変に気づいたひまりに声をかけられたけど、まさか篠原が来てるなんて言えるはずもなく、あたしはなんでもない、としか言えなかった。
***
それでも、ライブはつつがなく終わった。あたしも、再開してすぐは緊張したものの、だんだんとそれは高揚感に変わっていった。
それに、もっとあたしを見てほしい、なんて気持ち悪い思いも抱いてしまった。
篠原、今日のライブどう思ったかな。なんて考えてながら、帰り道を歩く。みんなは今日のライブの感想を言い合っていて、あたしはそれに相槌を打ったり、たまに自分でも意見を言ったりしていた。
「いやーでもまさか、篠原くんが来てるなんて、モカちゃんびっくりだったよ〜」
モカが突然言い放ったその言葉に、あたしは驚きを隠せなかった。てっきり、気づいてるのはあたしだけだと思っていたのに。
「え!? 篠原くん、来てたんだ」
つぐみも同じように驚いている。
「いえす〜。ねっ、蘭?」
「い、いや、あたしもわかんなかった」
「またまた〜。一番早く気づいたくせに〜」
ああ、これは何を言ってもダメなやつだ。
「ああ、だからMCのとき変だったんだね」
「それに、後半から前半以上に気合い入ってたのも、そのせいか」
ひまりと巴が好き勝手に言っている。聞くだけ無駄だ、と分かっているのに、あたしの耳はその音をキャッチしてしまう。
「あっ、蘭赤くなってる〜」
「ほ、ほっといてよ!」
***
翌日。篠原に学校でいろいろ疑問をぶつけようと思ったけれど、結局何も聞けないまま昼になってしまった。あたしはご飯を買うために購買に足を運ぶ。
何を買おうか、と適当に見ながら考える。よし、取り敢えず焼きそばパンにしよう。そう決めて焼きそばパンに手を伸ばして、顔を上げる。するとそこには、篠原がいた。篠原はいつもはお弁当のはずだけど、今日は購買らしかった。篠原は目の前の焼きそばパンを買うか悩んでいるようだった。
──ちょっとカッコいいかも。
って、何考えてんだあたし。その思いを振り払うように首を振った。傍から見たら、完全に変なやつだ。
篠原も焼きそばパンを買うことにしたみたいで、パンを手に取って、あたしと同じように視線を上げた。すると当然、目が合うわけで。あたしはすぐさま目を逸らしたくなったけど、それはなんとか堪えた。
このままではいけないと篠原は思ったのか、あたしに今日は購買なんだね、言ってきた。でも不器用なあたしは話を広げることができず、結局は沈黙が流れた。
でも、昨日のことを聞けるのは、今しかない。あたしは覚悟を決めて、切り出す。
「篠原、昨日はさ、なんであそこに来てたの?」
すると篠原は、高橋に誘われたからだと答えた。なるほど。高橋はガールズバンドにハマっているらしいし、それは十分ありえることだ。あたしは内心、ナイス高橋と感謝を送った。
「なるほどね。でさ、篠原」
あたしは一度、小さく深呼吸した。そう、大事なのはここからだ。もし、つまらなかったなんて言われたら、この場で大泣きするくらいには凹む自信がある。
「どうだった?」
すると、篠原はいつもみたいに笑顔で言ってくれた。最高だった、また見に行くって。それを聞いた瞬間、あたしは思わずニヤけてしまいそうになったけど、気合いで我慢した。
そして、そう言ってくれたことが嬉しくてたまらなくて、ついつい篠原をからかってしまった。
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一歩前進
練習の休憩時間に、隣でSNSを見ているひまりを見て、あたしはふと思った。
篠原って、ツイッターとかやってるんだろうか。あたしでもやってるのだから、やっていると考えるのが自然だ。といっても、あたしはただ見るだけだし、フォローしている人も、Afterglowのみんなと、湊さんや香澄、あとは好きなバンドくらいのものだ。
リュックから携帯を取り出して、ツイッターを開く。新しい投稿を適当に眺めて、気になったものはブックマークに追加する。あらかた見終えたところで、あたしの指はあるワードを打ち込んでいた。
篠原啓介、と入力したところで、あたしははっと我に返って、慌ててそれを消した。
何をしてるんだあたしは。そもそも、彼がツイッターをやっているなんて保証はないし、やっていたとしても、急にあたしなんかにフォローされたって困るに決まってる。
気持ちを切り替えるために時計を見ると、休憩に入ってからそこそこ時間が経っていた。そろそろ再開しよう。
「蘭〜? 何かあった〜?」
モカが発したその声であたしは驚いて肩を震わせてしまった。
「な、なに?」
「いや〜、蘭が携帯を見て、一喜一憂してるみたいだったから〜、もしかしてって思ってー」
「も、もしかしてって何が?」
あたしは自分が発したその言葉を、すぐに後悔した。
「篠原くんと〜、ラインでもしてたんじゃないの〜?」
「し、してないって。あいつの連絡先知らないし、あたし」
それを聞いたモカは珍しく、ハッキリと驚いているとわかる表情になった。いや、モカだけじゃない。それは、この場にいるみんなに言えることだった。揃いも揃ってどうしたんだろう、みんな。
「……蘭、それほんと〜?」
「そうだけど……」
あたしの返答にモカはふむふむ、と呟いて、考え込んでいる様子だった。しかしそれも束の間、すぐにいつもの表情に戻った。
「ではでは、そんな蘭ちゃんに質問です〜」
「……急になに?」
「篠原くんとラインしたいですか〜?」
「……は?」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。しかしあたしの頭はすぐにモカの質問の意味を理解してしまった。
「ちょ、何言って──」
「ほらほら、顔赤くしてないで答えなさい〜」
あたしの抗議の声も全く聞き入れてもらえず、あたしに逃げ道はなくなってしまった。適当に答えることもできたのだろうけど、あたしの脳内にこびりついたモカの言葉が、それを許してくれなかった。
篠原と、ライン。もし、それができたら、今みたいに学校だけだったり、休日にたまたま会うだけじゃなくて、毎日。毎日、話したりできる。
「おお、これは完全に乙女スイッチ入ってますな〜」
モカ達が何か言っているけれど、どれもあたしの頭には入ってこなかった。
「──たいです」
「ん〜?」
「……ライン……したいです……」
「おほ〜。蘭、りんごみたいになってる〜」
「う、うっさい!」
ああしまった。モカに乗せられてしまった。あたしはようやく、自分がとんでもないことを口走ったのを理解した。周りをよく見ると、みんな、生暖かい目であたしを見ていた。今日のことは、しばらく忘れられないかもしれない。
***
それから数日後。この間あんなことがあったから、あたしは篠原と──あたしの一方通行ではあるが──顔を合わせにくくなっていた。とはいえ、知っての通り、あたしと篠原は隣同士なので、顔を合わせるどころか、話す機会の方が多い。なんとか平静を装えているとは思うけど、これからはどうなるか分からない。
篠原の隣になってからは、楽しいことばかりだったが、今回ばかりはこの席を恨む。最近は普通に話すだけでもドキドキしてしまう。
あたしも大分キてるな、と思いながら、視線を隣に向ける。
今は朝のSHRが終わった時間で、篠原は顧問の先生に呼び出されて、職員室に向かっていた。篠原は文芸部で、どうやら小説を書いているらしい。そのことを知った時に是非ともそれを読ませてほしい、と頼んだのだが、恥ずかしいから、と断れてしまった。あのときの篠原はAfterglowのことを知らなかったし、今なら、それを武器にしたら読ませてくれるかな。
1時間目の準備をしていると、ようやく篠原が戻ってきた。篠原の手には現代文の教科書があった。戻ってくる際にロッカーから持ってきたのだろう。
あたしの頭に浮かんでいた思いはいつの間にか消えていて、あたしは自分の席に腰掛けた篠原に話しかけた。
「戻ってくるの、遅かったね」
「顧問の先生が話長くてさ」
篠原は苦笑を浮かべていた。それにつられてあたしも笑みを浮かべる。良かった。今なら普通に話せてる。でも、あたしの脳裏にはいつも、あのときのモカの言葉が浮かんでいた。
*
「でも、実際のところどうするの? いくら篠原くんの連絡先知りたくても、肝心の蘭がこんな感じなんだし」
こんな感じって。そういうひまりに文句のひとつも言いたくなったが、今はあたしが圧倒的に不利な状況なので、下手なことは言えない。
「うーん、そうだな……」
みんな真剣に考えてくれるのは嬉しいけど、それはもっと違うところで発揮するべきなんじゃないかな。
みんなが唸っている中で、そうだ、と一番に声を上げたのはつぐみだった。
「篠原くんって、私たちのライブ見に来てくれてるんだよね?」
「うん、そうだけど……」
それが何か関係あるの、という言葉を言う前に、つぐみが自分の意見を伝えてきた。
つぐみが言ったことをまとめると、あたしがライブがある時は、その日程とかを教えたいから、ラインを交換しよう、というものだった。これはいい方法かもしれない。
「おおー、つぐ、ナイスアイディア〜」
「でも、これだと業務連絡だけになっちゃわない?」
ああそうか。そういう可能性もあるのか。
「てか、普通に聞けばいいじゃんか。それじゃ駄目なのか、蘭?」
「無理。絶対無理」
あたしみたいな気弱な人間は、何かちゃんとした理由がなければ、そういうことは出来ないのだ。ただ話したいから、なんて彼の目の前で言う羽目になったら、消えてなくなる自信がある。
「まあでも、取り敢えず交換しないと何も始まらないよね。蘭ファイト!」
*
というわけで、そのことを言うタイミングを探っているのだけど、なかなか上手くいかない。でも今がそのチャンスかも。あたしは覚悟を決めて、事前に何回もシュミレートした言葉を言う。
「そういえば篠原って、ツイッターとかやってるの?」
あまり不自然さがないように、自分なりに必死に考えたことではあるが、どうしても不安がつきまとう。
「うん、やってるよ。美竹さんは?」
「あたしも」
「そうなんだ」
篠原は、意外だというふうに言った。それに対して文句を言いたくなったが、今はそれよりも優先することがある。
「ねえ、もしよかったら、フォローしてもいい?」
「うん、全然いいよ!」
よし、今のところ順調だ。この流れでいけば、特に怪しまれることもなく、自然に交換できるはずだ。
「でさ、篠原──」
ちょうどそこで、1時間目の始まりを知らせるチャイムが鳴った。それと同時に先生が入ってきて、話を終えざるを得なかった。
*
それからも言い出す機会はあったものの、悉く何かに邪魔され、目的を果たせないまま、昼休みになってしまった。
「……はあ」
ため息が零れた。
「蘭ちゃん、落ち込んでるね……」
こういうのは、今に限った話ではなかったAfterglowのことを言い出そうと思ったときも、今みたいな感じになった。
全く、つくづくツイてない。あたしはお弁当の卵焼きをつつきながら、もう諦めようかな、なんて終了モードに入っていた。
「お、おいどうするよ。蘭、負のオーラ全開だぜ」
そうだ、ツイッターのことを知れただけでも儲けものじゃないか。アカウントはあとで教えてもらうとして、この件はこれで終わりにしよう。
「蘭、モカちゃんのグリンピースあげるから、元気だして〜」
「うん、ありがと……」
「あ、あの蘭がグリンピースを……!」
グリンピースは本当は苦手だけど、今はすんなり食べることができた。そのまま黙々と弁当を食べていると、ガチャ、と中庭の入口が開かれた。流れでそこに目をやると、そこには、篠原の姿が、
あたしは手に持っていた箸を落としそうになった。どうしてここに。篠原はあたしの姿を見つけると、こちらに向かって歩いてきた。
ああまずい。ちょっとドキドキしてきた。
「美竹さん、良かった。ここにいたんだね」
「う、うん。どうしたの?」
「これ、先生から渡すように頼まれてさ。ごめんね、折角のお昼に」
篠原から手渡された物を見ると、今朝提出した英語の課題だった。ご丁寧に、再提出の印である付箋が貼られている。
「ううん、全然大丈夫」
「そう? なら良かった。美竹さん、じゃあまた後でね」
「ああうん、またね」
そう言って去っていく篠原の背中をあたしは黙って見ていた。そうだ、これでいい。
「蘭、今がチャンスだよ!」
でも、そう言ってくれるひまりの声があったから、あたしは思わず、その背中に篠原、と声をかけてしまった。
「どうかした?」
ああどうしよう。咄嗟に声をかけたものの、言うべきことなんて何一つ浮かんでいない。どうしようどうしよう。それはきっとほんの数秒だったろうけど、あたしにしてみれば何十分にも感じられた。
ついに周りの視線に耐えられなくなったあたしは、
「ラ、ライン交換してください!」
さっきまで考えていたことなんて全部ぶち壊して、シンプルに、そう言った。
*
それからは、拒絶されることもなく無事にラインを交換し、ツイッターのアカウントも教えてもらった。
自室の布団の上で、ラインを開く。そこに登録された、新しいもの。何故かアイコンはつくねの画像だったけれど、本人は気にしないで、と言っていたので、あたしもあまり深くは考えないようにする。
そこから、まだ試しに送られた会話しかないトークルームを開く。
なんて送ろうか、と考える前に、あたしにはまず真っ先にやらなければいけないことがあった。
『あんなふうに交換させちゃってごめん。嫌じゃなかった?』
そう、今日のことを謝らなければならない。あんな、断りようのない雰囲気で、交換させてしまったのだ。これは素直に謝るべきだろう。
既読はすぐについた。どんな返信が来るんだろう。これで嫌だった、なんて言われてたら、あたしはもう学校には行けないかもしれない。
『全然そんなことないよ! 僕も美竹さんとラインできて嬉しいし』
「〜〜っ!」
あたしは思わず枕に顔を埋めて、足をバタバタさせてしまった。
ああ、本当に嬉しい。これを見れただけで、今日は頑張った甲斐があった。
その日の篠原とのトークは、あと少しして終わったけれど、あたしは嬉しすぎて、ろくに眠れなかった。
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お出かけ
とある土曜日。いつもなら昼近くまで寝ているというだらしない生活をしている僕だが、今日はそうはいかなかった。
休日には設定していないはずのアラームの音で起こされた、と思っていたのだか、スマホの画面を見ると、美竹さんからの電話だった。まだ寝ぼけていた頭が一気に覚醒し、布団から飛び上がって、慌てて電話に出る。
『もしもし』
頭は目覚めても、体はそうではないみたいで、普段より低めの、掠れた声が出てしまった。
『……寝てたでしょ』
呆れた顔をしている美竹さんが容易に想像できた。ここで否定することもできたが、上手い言い訳が出てこなくて、僕は、まあうん、と曖昧な肯定をした。
『ごめんね、起こしちゃって』
『いや、全然大丈夫。それで、どうしたの?』
『うん、えっと……』
美竹さんは言いにくそうにしていた。こういう時は大体、僕に何かを頼んでくる時だ。美竹さんの頼みならほとんどのことは聞き入れられる自信があるけど、一体何がくるのだろう。
『き、今日、あたしに付き合ってくれない?』
それは、寝起きの僕には衝撃が強すぎるお誘いで、思わず間抜けな声を出してしまった。
*
それからというもの、僕は急いで準備を済ませた。といっても、時間には大分余裕がある。美竹さんから電話がかかってきたのが10時半くらいで、正午にCiRCLEのカフェテリアで昼食をとってから、買い物に行くということだった。CiRCLEは僕の家からさほど遠くはないので、僕は11時半に家を出るつもりだ。
それまで時間をどうしようか、と色々考えたが、結局は家にいることにした。
出かけるための服装で、自室にいるのは嫌だったので、僕は一階のリビングに降りる。
そこには父と母の姿はなかった。僕はソファーに腰掛け、テレビを付ける。土曜の朝ということもあって、面白そうな番組はやっていなかった。僕は適当にニュースを流したまま、スマホの音ゲーをすることにした。
少しの間、リビングに1人そこそこの音量で、音ゲーをするという普段なら絶対にありえない状況が続いたけれど、姉がリビングにやってきたことで、それもその時間も終わった。
「あれ、珍しいね。どっか行くの?」
姉はこの春大学生になったばかりで、自宅から大学に通っている。
「うん。友達と遊び行ってくる」
「へえ。カイくん?」
「いや、違うよ。それより、父さんと母さんは?」
「あの二人は買い物。仲いいよね、ホント」
姉は僕と違って、休日でもちゃんと起きている。まあ僕も、たまに買い物に連れ出されることもあるが。
腕時計で時間を確認する。そろそろ、家を出た方がいいだろう。
「じゃあ、行ってくる」
「はいよ。気をつけてね」
僕はそのままリビングを出ようとしたのだか、姉の、あ、そうだ、という声に引き止められた。
「帰り、もし覚えてたら、アイス買ってきてくれない?」
僕はそれに適当に返事をして、家を出た。
*
そこからは特に何事もなく、待ち合わせ時間10分前にCiRCLEに到着した。辺りを見回しても、美竹さんの姿はない。美竹さんが来るまで僕は足湯に入って待とうかと思ったけど、すぐに美竹さんが来るかもしれなかったから、それはやめておいて、無難にテーブルに腰掛けることにした。ここ、足湯なんてあったんだな。
「こんにちは、篠原。待った?」
「全然大丈夫だよ」
美竹さんは、僕の向かい側に腰掛けた。
「取り敢えず、ご飯にしよっか」
「だね。篠原は何食べるの?」
ぱっとメニューを眺める。うーん。チョココロネじゃ足りないだろうし、マカロンタワーなんて完全におやつだ。
ここは無難に、ミートソースパスタにするか。
「ミートソースパスタにする。美竹さんは?」
「あたしもそれで」
店員さんを呼んで、それを2つ頼んだ。待っている間に、今日の目的を聞いておこう。
「美竹さん、今日はどこ行くの?」
「楽器店に行ってから、ショッピングモールに行こうと思ってる。ちょっと遠回りになっちゃうけど、大丈夫?」
楽器店。この辺で楽器店って言ったら、江戸川楽器店だよな。あそことショッピングモールはちょうど反対側に位置するが、それくらいなら問題ない。
「わかった。美竹さん、今日はよろしくね」
「うん、こちらこそ」
*
自動ドアが開く音とともに、店内に入る。16年間生きてきたが、こうして楽器店に来るのは初めてだ。改めて店内を見てみると、使い方どころか、名前すら知らない物もあった。
楽器のことなんてまるで分からない僕はただ美竹さんについて行くだけだ。
「ねえ、どっちがいいと思う?」
その声に反応して美竹さんを見ると、その手にはギターのピックがあった。形はどちらも同じだったが、色が違った。右手に握られているのは赤色で、左手は青。
どちらも悪くないと思うが、美竹さんに合っているのは赤色だろう。
「赤の方が美竹さんぽくていいと思うよ」
だから思ったままを伝えたのだが、美竹さんは恥ずかしいのか、顔を赤くしてしまった。
「あ、ありがと……」
今更かもしれないけど、美竹さんって結構シャイだよな。もっと自分に自信を持ってもいいと思うんだけどなあ。
「美竹さんって恥ずかしがり屋だよね」
「そ、それはいいから! さっさと買うよ!」
*
楽器店での買い物も終わり、僕達はショッピングモールに来ていた。ここにくれば大体の物は揃うので、重宝している。ここでは何をするのだろう。
「見たい映画があって」
映画か。最近はレンタルしたのばかり見ていたから、映画館でみるのは久しぶりな気がする。
「何の映画?」
これだよ、といって美竹さんが僕に向けたスマホの画面を見ると、確か、今CMとか、動画の広告でよく宣伝されている話題のものだった。今朝も見たような気がする。
でも、こういう映画ってそこまで面白くないんだよな。しかし、見ないで決めるのも良くない。
僕達は映画館に入り、チケットを買う。
「高校生2枚でお願いします」
「はい。座席はどちらにいたしましょうか?」
「あー……。美竹さん、どうする?」
「後ろの方がいいかな」
「じゃあ、こことここで」
「はい、承知致しました」
僕と美竹さんはチケットを受け取り、劇場内に入ろうとしたが、すぐに考え直した。今日は美竹さんと一緒に来ているんだ。僕は映画館で見る時は、ポップコーンは買わないのだが、美竹さんはどうだろう。
「美竹さん、何か買う?」
「飲み物だけ。篠原は?」
「僕も飲み物だけにしようかなあ」
またまた、二人して同じ爽健美茶のSサイズを頼んだ。
それから劇場に入り、上映されるのを待つ。劇場内の明かりが少し暗くなったところで、いつものように、盗撮の注意喚起の映像が流れた。そういえば、前にネットニュースか何かであれの中の人は超イケメン、という記事を見たことがある気がするが、本当なのだろうか。
そんなどうでもいいことを考えていたら、いよいよ映画が始まった。
映画のストーリーは良くあるファンタジー映画のもので、攫われたヒロインを主人公が助け出しに行く、といった感じだった。
ストーリーの筋自体はさほど珍しさを感じなかったが、アクションがかなり良くできていて、思ったより楽しめそうだ。
そして、映画も中盤に差し掛かったところだろうか。なんだか唐突にホラー映画のような雰囲気になってきた。
こういうときは突然脅かしに来るから、気をつけておこう。僕が警戒しながら続きを見ていると、やはり、急に驚かせに来た。
僕はホラーがそこまで得意ではないから、警戒しておいて良かった。
気を取り直してもう一度映画に集中しようと思った瞬間、僕の左手に暖かい感触がした。
気になって見てみると、僕の左手を、少し涙目になっている美竹さんが握っていた。
──えっ。
突然の事態に僕は混乱してしまって、手を放すという選択肢は頭から追いやられてしまった。むしろ、握り返すというかなり気持ち悪いことをやってしまったが、そんなことを気にしている余裕は僕にはなく、何この子手柔らかすぎでしょ、なんて思考が頭をぐるぐる回っているうちに、エンドロールが始まっていた。
*
美竹さん、もしかしてホラーが苦手なんだろうか。でも僕もあの映画にホラー要素があるなんて思いもしなかったし、仕方ないことだ。でも、一応聞いておきたい。
「美竹さん、もしかして──」
「何も言わないで」
「あっはい」
美竹さんのその言葉で僕は全てを察した。しばらく二人の間に沈黙が流れたが、いつまでもこうしているわけにはいかない。
「美竹さん、この後はどうするの?」
「うーん……。特に考えてなかった。篠原は、行きたいとこある?」
行きたいところか。ぱっと浮かぶのはゲームショップだけど、女の子と一緒に行くところではないだろう。ああそういえば、欲しい本があったんだった。
「なら、本屋に行かない?」
「わかった」
美竹さんの了承を得られたので、僕達はモール内の本屋に向かった。僕が欲しい本は発売から1週間ほど経っていたので、残っているか不安だったが、なんとか買うことができた。
本屋からでて、近くのベンチに腰掛けて休んでいるときに、美竹さんがこんなことを聞いてきた。
「どんな本が好きなの?」
「特にこれっていうのはないかなあ。気になったのを片っ端から読んでる感じ」
「そうなんだ。おすすめとか、あったら教えてよ」
「うん、もちろん!」
「ああ、そういえばあたしさ──」
*
それからもいくつかの店を回って、買い物は終了した。今は家に帰ってきて晩御飯を済ませ、部屋で今日買ってきた本を早速読んでいるところだ。
ううん。せっかく買ったけれど、これは微妙かもしれない。一旦休憩にするか。飲み物を取りに行くためにリビングに向かおうとすると、ちょうど良くスマホが鳴った。手に取って見ると、美竹さんからのLINEだった。
『今日は楽しかった。ありがとう』
その文章は簡潔なものだったけど、でも、十分、美竹さんの気持ちは伝わってきた。
『こちらこそ、誘ってくれてありがとう! 僕も楽しかった』
その文章を送信してから、リビングに向かうために部屋を出る。階段を降りようとしたところで、姉さんに出くわした。といっても、喋ることは特にないし、僕はスルーしようとしたのだが、
「ニヤニヤしてる啓介くん、アイスは買ってきてくれたのかな?」
あっ。
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お出かけ②
1、篠原視点メイン
2、篠原視点オンリー
3、蘭視点メイン
4、蘭視点オンリー
5、どれでもOK
この選択肢の中で、どの展開にしてほしいか、となります。
活動報告の方に同様のアンケートを掲載しておきますので、そちらの方で回答をお願いします。協力して頂けると助かります!
それでは、今回も楽しんでいってください!
彼とLINEを交換してから、もう数日が経った。あの日からあたしと彼は毎日やり取りしている。学校で篠原と話す頻度は前とさほど変わっていないが、LINEを含めると、明らかに彼とのやり取りは増えている。
そのことはあたしにとってすごく嬉しいことだし、そういうふうになるために、あんな思いをしてまで連絡先を交換したのだから、あたしの目的は達成されていた。
ただ、あたしが心配なのが──。
「蘭〜? また篠原くんのツイッター見てるの〜?」
これだ。あたしがからかわれる回数が、前よりも増えた。みんなのことは、その、何というか……大好きだけど、本当に恥ずかしいから、やめてほしい。
あたしはスマホをロックして、リュックの中に戻した。
「違うよ。タイムラインを適当に眺めてただけ」
「ほんとに〜?」
「ホントだって。そろそろ練習再開するよ」
あたしはモカにそう促したのだが、モカの、まあでもそうだよね〜、という言葉に上書きされてしまった。
「蘭、篠原くんのツイートほとんどいいねしてるもんね〜」
「なっ……!」
「ほかの人のツイートなんてたまにしかしないのに、篠原くんのは別だもんね〜、蘭?」
「い、いや別にそういうわけじゃ……!」
いやそういうわけなんだけども。それを素直に認めてしまったら、あたしは羞恥で死んでしまうので、頑なに否定することしかできなかった。
*
「……はあ」
全く、散々な目にあった。最近はこんなことばっかりだ。
あたしは隣に座っているモカに文句の一つでも言いたくなったが、すぐに反撃されるのは目に見えているので、黙ってコーヒーが来るまで待つことにする。
向かい側にいる巴とひまりはそれぞれスマホをいじっている。あたしもそうしたいが、そうしたらまたいじられることは目に見えているので、流石にやめておく。
「おっ、この映画、蘭が見たかったやつじゃないか?」
巴があたしに向けてきたスマホの画面を見ると、そこには確かにあたしが気になっていた映画の広告が流れていた。
「明日上映開始だってさ」
明日か。明日なら特に予定もないし、見に行ける。みんなはどうだろう。あたしが聞いてみると、どうやらみんな都合が悪いらしかった。
なら一人で行こうかな。いやでもなあ。あたしが思索していると、ひまりが妙案でも思いついたみたいに、そうだ、と声を上げた。
なんだろう。嫌な予感がする。
「蘭、篠原くんと一緒に行ってきたら?」
「は?」
あまりに突拍子のないその発言に、あたしの口から間抜けな声が出た。
「篠原くん、映画の感想とかちょくちょくツイートしてるし、映画好きなんじゃないかな? 誘ってみなよ!」
「えっ、いや、でも……」
そう言って否定するあたしだったが、こういう時のひまりの勢いには当然勝てるわけもなく、渋々それを了承させられた。
あたしはスマホを取り出し、LINEを開く。トーク欄の一番上にある、彼とのトークルームをタップする。そこにはついさっきまでやり取りをしていたメッセージが残っているけど、それは恥ずかしいからあまり見ないようにして、手早くメッセージを打ち込む。
『明日、一緒に映画見に行かない?』
あとは送信するだけなのだが、本当に送ってもいいのだろうか。断られたらどうしよう。
そう考えると、どうしても躊躇ってしまう。
「蘭〜? 送んないの〜?」
「うひゃあ!?」
いつの間にか画面を覗き込んでいたモカに驚いて、また変な声を出してしまった。
「うひゃあだってー。かわいい〜」
「う、うるさい!」
もう一度画面を確認する。どうやら驚いた拍子に送信していた、なんてことはないようだ。
「それで、送らないの〜?」
「うん……。断られるかなって思って」
「ええ〜。篠原くんなら断らないと思うよ〜」
「そ、そうかな?」
「そうだよ〜」
しかしそうとは言っても、まだ不安があるのは事実なわけで。結局、その日のうちに誘うことは出来なかった。
***
翌日。休日だからといって、昼まで寝ているなんてことはなく、9時にセットしてあるアラームで起きた。
あたしは結局、一人で映画を見に行こうと考えていた。やっぱり断られるのが怖いし、そもそも誘う勇気なんてない。
しかし、あたしが顔を洗いに行こうと布団から起き上がったところで、スマホが鳴った。手に取って画面を見る。
『もし今日映画見に行くんだったら、篠原くんちゃんと誘うんだよ?』
お母さんか、と突っ込みたくなるような内容のメッセージが、ひまりから届いていた。
すぐに返信する気にはなれなかったが、取り敢えず既読は付けておいた。
それから、あたしはため息をついた。
篠原を誘うか、どうするか。今のあたしの心にはそれしかなかった。
今まではマイナス方向に動いていたものが、あのメッセージのせいで──おかげとも言えるが──急にプラスに向かおうとしている。
もし断られたら、という思いは、今でも胸の中にある。
──でも、一緒に行ってみたい。
よし、誘おう。
*
そう決意したのが1時間ほど前で、あたしはさっきのそれをまだ実行に移せていなかった。
もう既にメッセージは入力してあるから、あとは送信ボタンを押すだけだ。でも、そのあと1動作が出来ずにいた。
ああもう。こうやっていつまでもうじうじしてしまうのは、あたしの悪い癖だ。誘うと決めたんだから、それを曲げちゃだめだ。
あたしは送るはずだったメッセージを消去し、思い切って篠原に電話した。
彼はすぐにはでてくれず、何コールかしてから電話に出た。
『……もしもし』
最初は、普段よりも低めの掠れた声に驚いたが、すぐに彼が寝ていたことを察した。
『……寝てたでしょ』
起こしてしまったことへの申し訳なさと、それでも電話に出てくれたことの嬉しさがごちゃ混ぜになって、ぶっきらぼうな言い方になってしまった。
それからちょっと間が空いて、肯定の返事が来た。
『ごめんね、起こしちゃって』
『いや、全然大丈夫。それで、どうしたの?』
ここからが本番。
『うん、えっとね……』
あたしは彼に聞こえないように、小さく深呼吸した。
『き、今日一日、あたしに付き合ってくれない?』
返事はしばらくなかった。恐らく驚いているか、予定を確認しているかのどちらか。
だんだん心配になってきたあたしは、声をかけてしまった。
『……篠原?』
『え、ああごめん。今日は予定ないから、大丈夫だよ』
その言葉に、あたしは胸の鼓動が高鳴るのを感じた。
『ほんとに? ほんとにいいの?』
『うん。美竹さん、どこに行くの?』
あたしは昨日から考えていたプランを話そうとしたが、了承してもらったことで浮かれていたのか、待ち合わせ場所と時間しか彼に伝えていなかったことに気づいたのは、家を出たあとだった。
『うん、じゃあまた後でね、篠原』
それからもいくつか言葉を交わしてから、あたしは電話を切った。
「……やった!」
思わず一人でガッツポーズしてしまったが、誰にも見られなくて良かった。
*
いつもなら待ち合わせ時間ギリギリに到着するあたしだか、今回は5分前くらいには着くように家を出た。
あたしがCiRCLEに着くと、そこにはもう彼の姿があって、あたしは小走りで篠原に近づいた。篠原に待ったかどうか聞くと、篠原は待ってないよ、と答えた。その答えにほっとすると同時に、ちょっとデートっぽいかも、なんても思ったりもした。
あたしは篠原の向かい側の席に腰掛けて、取り敢えずご飯にしようと提案した。篠原もそれを了承して、メニューを眺め始めた。
篠原、何を食べるのだろうか。あたしが尋ねると、篠原はミートソースパスタにすると言った。確かに、軽食が多いここのメニューの中では、お昼ご飯にするのならそれが一番無難だろう。あたしも篠原と同じのを頼んだ。
そして食べている時に、やはりと言うか、当然というか、篠原に今日はどこに行くのか聞かれた。
あたしは今度こそプランを説明した。
「わかった。美竹さん、今日はよろしくね」
「うん、こちらこそ」
*
それから江戸川楽器店でまた恥ずかしい思いをしたりと、色々あったが、無事にショッピングモールに到着することが出来た。
篠原に見たい映画があることを話し、スマホでその広告を見せて、篠原は横からそれを覗き込む。
そこであたしはあることに気づいた。
──ねえちょっと待って近くない?
あたしと彼の身長差を考えると、画面を見るために距離が近くなってしまうのは仕方ないことなのだけど、いつになく近いこの距離に、あたしはドキドキを隠せなかった。
心音とか、聞こえてないかな。赤くなった顔を見られないように、篠原のちょっと後ろを歩いていたら、いつの間にか映画館に到着していた。
あたしと篠原は当たり前だけど、二人で一緒に並んでチケットを買った。
篠原から何か買うか、と聞かれたけれど、あたしは基本的には飲み物しか買わないので、飲み物だけ、と返した。どうやら篠原もそれは同じだったみたいで、あたしたちは二人揃って爽健美茶を買った。
そして劇場に入り、あとは上映されるのを待つ。本編が始まる前にいくつかほかの映画の予告をやっていたが、特に気になるものはなかった。
いよいよ劇場内が本格的に暗くなり、映画が始まった。
映画の内容自体は目新しくなかったが、主人公の心情などが細かく描かれているし、映像も迫力がある。これは楽しめそうだ。
そして、映画の中盤あたりだろうか。まるでホラー映画のような雰囲気になってきた。
──ちょっと待って聞いてないよそれは。
あたしが内心あたふたしていると、突然スクリーンにアップでゾンビの映像が流れた。
悲鳴をあげるのはなんとか堪えたが、あたしは恐怖心から、隣にいた彼の手を握ってしまった。あたしはすぐに離そうとしたけれど、彼が握り返してくるという予想外の反応を取ったから、それは叶わなかった。
──あったかい。
あたしはもう、彼の手の感触にドキドキしてしまって、映画どころではなくなっていた。
*
情けないところを見せてしまった。驚くだけならまだしも、手を握ってしまうなんて。
「美竹さん、もしかして──」
ホラーが苦手なのか、と聞こうとしたのだろうけれど、今それを聞かれたらどうにかなってしまいそうだったから、何も聞かないで、と返した。
それから少し沈黙が流れて落ち着いたころ、篠原がこれからどうするのか聞いていた。映画のあとのことなんて全く考えていなかったあたしは、篠原に行きたいところがないか聞いた。
「なら、本屋に行かない?」
本屋か。篠原がどんな本を読むのか興味があったがあたしは、篠原について行った。
しかし篠原は驚くくらいの速度で本を買っていたので、何の本を買ったのかは分からなかった。もしかしたら、前々から欲しかったやつなのかもしれない。
そこからはベンチで腰掛けて、少し休憩ということになった。せっかくだし、普段学校ではしないような話をしたい。
まずは、好きな本の種類から聞いてみよう。
*
そこからもいくつか店を回って、今日の買い物は終わった。今は自分の部屋でのんびりしている。
さっきひまりに一緒に行ってきたよ、というメッセージを送ってしまったので、明日からかわれることは確定だが、そんなのが気にならないくらい、今のあたしは上機嫌だった。
あたしは篠原にもメッセージを送る。
『今日は楽しかった。ありがとう』
いろいろ考えてたけれど、こんな素っ気ないことしか言えない自分を恨みたくなった。篠原からの返信はすぐに来た。
『こちらこそ、誘ってくれてありがとう! 僕も楽しかった』
あたしはその文章を見て、彼も同じ思いだったことが嬉しくて、枕に顔を埋めてしまった。
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たまにはこんな美竹さん
それでは、本編をどうぞ!
篠原と話したい。彼のことをもっと知りたい。最近、そう思うことが多くなってきた。LINEは毎日やっているし、学校でも話している。でも、何か物足りない。
そんな状態がずっと続いている。どうすればいいんだろう。
今は授業中だけど、机の上の教科書を読む気分にはなれなくて、窓の外を眺めている。
今日の天気は晴れ。最近は晴れてばかりだから、そろそろ雨が降ってもおかしくない。
「じゃあ……美竹さん。続き読んで」
あたしは先生のその声に反応して、慌てて教科書に視線を戻したが、どこを読めばいいのか分からなかった。
「篠原、どこ読めばいいの?」
あたしがそう尋ねると、篠原は自分の教科書を指してここだよ、と教えてくれた。
「ありがと」
篠原ともっと話したいという思いは変わらずにある。でも、こんな些細な会話でも満たされた気持ちになってしまうのだから、あたしはもう相当キてると思う。
*
「それで〜、篠原くんとは何か進展あったの〜?」
「別に何も。いつも通りだけど」
「またまた〜。そんなこと言っちゃって〜。デートしてきたんでしょ〜?」
「それはまあ、そうだけど」
休み明けには絶対にいじられるだろうと思っていたけど、本当に予想通りだった。
「楽しかった〜?」
「うん、楽しかったよ」
「……」
「モカ?」
「今日の蘭、なんか素直だね〜」
モカの言葉にみんなも頷いている。普段と変わらないと思うのだけど。
「うん、絶対そうだよ!」
ひまりにまでそう言われてしまった。どうやら今日のあたしは素直らしい。自分では全く分からない。
「それに、なんと言うか……。なんか幸せオーラが出てるよな……」
なんだそれは。あたしはそんなオーラを出せる特殊能力は持っていない。
「じゃあ、素直な蘭ちゃんに質問です〜」
こういうときは大抵ろくでもない質問が来ることは、長い付き合いから分かっている。
いくら警戒したって、あたしの予想の斜め上を行くことを聞かれるに決まってる。あたしは特に身構えることなく、さっき自販機で買ってきたお茶を飲みながらモカの質問を待った。
「篠原くんのこと、好き〜?」
「うん、好きだよ」
どんな質問が来るかと思ったら、あんまりに簡単な問いだったので、あたしは即答してしまった。
みんなからは何の反応もなかったので、ペットボトルを一旦置いて、周りを見てみると、揃いも揃って唖然としていた。あのモカでさえ、人目で驚いていると分かる表情だった。
「……ねえ、蘭。何か悪いもの食べた? それとも、素直になれる薬でも飲んだの?」
ひまりがまるでこの世の終わりみたいな表情で言った。
「なにそれ」
「だって、いつもなら顔赤くして誤魔化すところじゃん! 今日の蘭、絶対おかしいよ!」
おかしいとは心外な。あたしは至って普通だ。
「なあ蘭、その好きってさ、友達として、ってことだよな?」
「それももちろんあるよ」
「それも、ってことは……」
「でも、恋愛的な意味で好きか、って聞かれたら、正直わかんない」
子供の頃からずっとモカ達と居て、恋愛経験なんて皆無だったから、その辺はてんでダメだ。リサさん辺りなら、よく分かるのかもしれないけれど、あたしには、人を好きになるということが、いまいち分からなかった。
友達としてならまだ分かるけど、恋愛になると特に。
もっとあたしがいろんな人と関わりを持っていたら、こんな痛々しいことで悩まなくて済むのだけど、それを今嘆いたって仕方ない。
「じゃあじゃあ、もし篠原くんから告白されたらさ、付き合う?」
「付き合うよ」
「それって篠原くんが好きってことでしょ?」
「あ、じゃあ篠原のこと好きなんだね、あたし」
「そんな簡単に言わないでよー!」
*
ひまりにはああ言ったものの、本当にそうなのだろうか。あたしは教室に戻る途中で、歩きながら考えていた。
やっぱりこれは、自分で結論を出すべきだ。
教室の前に着くと、入口のところに篠原が見えた。あたしは彼に話しかけようとしたのだが、彼が見覚えのない女子と話していたから、それはできなかった。
誰だろう、あの人。2年生であることはわかったけれど、それ以上のことは知らなかった。
もし、彼女だったら。不意に、そんな思考が頭をよぎった。
──だったら、嫌だなあ。
*
あたしは今日はそれから、篠原とは1度も話さなかった。話そうとはしたのだけれど、あのことが頭から離れてくれなかった。
あたしは今、座椅子の上で体育座りをして、スマホをじっと見つめている。
『お昼に話してた女の人、誰?』
このメッセージを送ろうか、送らないか、ずっと迷っている。めんどくさい女だとは思われないだろうか。嫌われないだろうか。もし彼女だったらどうしよう。
そんな思考がぐるぐる駆け回って、いつものようにうじうじしていた。
『美竹さん、今日午後から体調悪かったりした? 大丈夫?』
突然篠原からのLINEが届いたから、あたしは驚いてスマホを落としそうになった。しかも、トークルームを開いたままだったから、すぐに既読がついてしまった。
ああまずい。急いで返信しないと。あたしはさっきまで送るか迷っていたメッセージを消して、新しいのを打ち込んだ。
『心配してくれたの?』
なんてことを聞いてるんだろうあたしは。そう思った時には遅くて、もうそのメッセージを送信してしまった。
篠原からの返信はすぐに来た。
『もちろん、心配だったよ』
あたしはそのメッセージを見て、思わず息を呑んだ。
──心配、してくれたんだ。
そして同時に、嬉しくてたまらなくて、膝に顔を埋めた。
こんなあたしでも、心配してくれるんだ。
『心配かけてごめん。ちょっと気持ち悪くて。今は全然大丈夫だよ』
『そっか。ならいいんだけど』
あたしはさらに篠原にメッセージを送る。
『ねえ、今日電話しない?』
『今から?』
『いつでもいいよ』
『わかった。ちょっと待ってて』
次のメッセージが来たのは、10分ほど経ってからだった。
『ごめん、もう大丈夫だよ』
『じゃあかけるね』
『どうぞどうぞ』
あたしは電話用のイヤホンを挿してから、通話ボタンを押した。お決まりのコール音が流れて、篠原はすぐに電話に出た。
『もしもし』
イヤホンをしているからか、いつもより篠原の声が近くから聞こえて、あたしはもうそれだけで満足なのだけど、当然それで終わるわけにはいかない。
『なんかこうして用事もないのに電話するの、緊張するね』
自分から提案しといて何言ってんだ、と思ったが、篠原も少しは緊張しているみたいで、だね、という返答があった。どうしよう。電話したのはいいけど、話すことがない。今はあのことを聞く気もなれないし。
申し訳ないけれど、ここは篠原に投げよう。
『篠原、なんか話してよ』
『ええ、そうだなあ──』
*
『ふわあ……。もうそろそろ寝る?』
あれからあたしと篠原はずっと話していて、気づけばもう日付が変わっていた。
電話の中であの人のことを聞いたけれど、どうやら部活の先輩みたいらしく、彼女ではないらしい。それを知った時は心底安心した。
それはともかく、もう時間も時間だし、今日はそろそろお開きにした方がいい。
『だね……』
篠原も大分眠そうだ。夜遅くまで付き合わせてしまって申し訳ない。
『あ、そうだ篠原。最後に1つ聞いていい?』
『うん、何?』
『これからもたまにさ、こうやって電話していい?』
『もちろんいいよ!』
あたしはその言葉に布団の中で人知れずガッツポーズをした。
『よかった。ありがと、篠原』
『ううん、こちらこそ、話せて楽しかった。じゃあ美竹さん、また明日……じゃなくて今日、学校でね』
『うん、おやすみ』
『おやすみなさい』
通話を終了した。名残惜しさはあるけれど、それよりも何よりも、あたしは幸福感の方が大きくて、いつも以上にゆっくりと眠ることが出来た。
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文芸部
唐突だけど、あたしは部活に入っていない。あたしの周り──といっても、さほど交友が広いわけではないが──でも、入っているのはひまりくらいだ。
部活に入っていなかったとしても、モカはバイト、つぐみは店の手伝い、巴は太鼓の練習だったりと、練習がない時でもそれぞれ時間の使い方がある。あたしは……ないわけではないけど、放課後は暇を持て余していることの方が多い。
だからといって、今まで部活に入ろうと思ったことはなかったのだが、今はそうではない。
文芸部。篠原の所属している部活。
昨日篠原に電話していた時に聞いてみたら、あまり活動的な部活ではないようで、活動日は火曜日と金曜日の週二回、それも自由参加らしく、部員がちゃんと集まるのは集まりがあるときくらいだとか。でも、締切を守らないと怒られるらしい。
そんなわけで、火曜日の放課後、あたしは文芸部の活動場所である多目的C教室に向かって歩いていた。
さっき顧問の先生に、文芸部に入部しようか考えている、ということを伝えたら、それなら今日とりあえず部活に行ってみて、それから考えたらいい、ということを言われた。
1年生の教室から多目的教室までは少し距離があって、そこに至るまでの道中で運動部がランニングをしてたりして、あたしは邪魔にならないように端っこの方を歩いた。
ちょっとの不安と緊張が胸に残ったまま、目的地についた。
あたしはノックすることさえ忘れて、ドアを開けた。
「でもさあ水戸ちゃん、こういうのはね──」
教室の中にあったのは、あたしが想像していたのとは違った光景だった。
中にいたのは、名前も知らない2年生と、この前話していた先輩。それに、3年生が2人。
ここはあたしたちの教室の半分ほどの大きさしかなく、そこに長机が2列分置かれていて、水戸ちゃんと呼ばれた先輩はその前列に座って、教卓で何かを熱弁している先輩の話に耳を傾けていた。
3年生は話に入ってはいないものの、それを聞いて笑っていた。
あたしはというと、どうしたらいいのか分からなくて、立ち往生していた。
最後まで、声を出すかどうか迷ったけれど、このまま放置されるのも耐え難かったあたしは、渋々声を出すことにした。
「……あの」
*
「いやーごめんね美竹さん。気づかなくて」
あたしにそう謝るのは、さっき自己紹介してくれた2年の有村佳奈先輩。
「いえ、どうかお気にならさず」
今あたしは水戸先輩の隣に座っていて、先輩達の自己紹介を聞いていた。さっき有村先輩と話していたのが水戸先輩。メガネをかけているのが北原先輩で、少し暗めの茶髪なのか安藤先輩。
あたしの自己紹介も終わり、今は質問タイムなので、あたしは気になっていることを聞いてみる。
「他に部員はいますか?」
「うん、いるよ〜。2年生があと4人、3年生があと1人だね」
「1年生は、篠原だけですか?」
「だね」
「へえ、そうなんですね」
念の為に言っておくけど、決して嬉しい訳ではない。
「普段は何をしてるんですか?」
「特に何も。いっつもこうして各々好きなように過ごしてるよ」
それから色々と質問して、あたしの疑問は解消されたけど、ひとつ気になったことがあった。
「あの、篠原って、いつも部活に来ないんですか?」
「ううん。ちゃんと来てくれるよ。今日は用事があるんだってさ」
「そうだったんですね」
篠原の用事。なんだろう。帰ったら聞いてみようかな。
「よし、じゃあ美竹さんに質問!」
あたしの質問も一通り片付き、今度はあたしが質問される番だった。
好きな食べ物とか、そういう個人的な質問が多かった気がする。
「美竹さん、どうして文芸部に入りたいと思ったの?」
ああ来てしまった。この質問は正直して欲しくなかったけど、されてしまったのなら仕方がない。
篠原と一緒の部活に入りたい、という不純な動機ももちろんあるけれど、それ以外にだって当然理由はある。
「実はあたし、バンドをやってて……」
あたしのその声に、先輩方はみんな、ああそういえば、と思い出したかのように声をあげた。
どうやらみんな、Afterglowのことを知っているらしい。それは嬉しくもあるけれど、その上でこんなことを言うのは恥ずかしい。
「どうりで見たことあると思ったよ〜。美竹さん、Afterglowのギターボーカルだったよね」
「はい、それで、あの……」
あたしは顔に熱を感じながらも、答えた。
「文芸部で小説を書いたりしたら、何かの役に立つんじゃないかな、と思って」
こんな自分勝手な理由、できれば言いたくなかった。
「ええーすごいじゃん! 私とか楽そうだから入っただけなのになあ」
「あんたと一緒にしないの」
有村先輩に対する水戸先輩のツッコミで、場が和んだ。
*
気づいたらもう時刻は18時になっていて、日も少しずつ落ち始めていた。
今日はこの辺で、という北原先輩の声であたしたちは帰り支度を始めた。戸締りをして、電気を消して、教室の外に出たところで、有村先輩に声をかけられた。
「美竹さん、楽しかった?」
あたしはその問いに、はい、と答えた。
「ならよかった〜! 私たちってさ、普段あんな感じに好き勝手やってるから、不安でね」
「全然大丈夫ですよ。先輩方のお話、すごく面白かったです」
「そう? ありがとっ。ああでも、無理して文芸部に入ることないからね? 篠原くんも、それは望んでないだろうし」
「はい、分かりました。今日は本当にありがとうございました」
「いえいえー。それじゃ美竹さん、バイバイ!」
手を振って去っていく有村先輩に、あたしも手を振り返しながら、足を職員室に向けた。
有村先輩は無理して入らなくていい、と言っていたけれど、あたしの心はもう既に決まっていた。
***
今日は金曜日。文芸部の週に2回しかない活動日のひとつだ。火曜日は用があって参加できなかったけれど、今日は特に何もないから、参加できる。
僕は今日最後の授業が終わってから、部活に行くためにリュックに荷物を詰めていた。
大体の整理が終わり、席から立ち上がってさあ行くぞ、という時に放送がかかった。
「1年生から3年生までの文芸部員は、今すぐ多目的C教室に集まって下さい。繰り返します。1年生から──」
呼ばれなくても行くつもりだったけれど、どうしたのだろう。こうして呼び出しがかかることは珍しくはないが、急に呼び出されることはあまりない。
火曜日に何かあったのかもしれない。できるだけ急いだ方がいいだろう。
少し早足で多目的教室までに向かう。ドアを開けて中に入ると、ぼちぼち部員が集まって来ていた。
「あ、篠原くん。こんにちは〜」
「有村先輩、こんにちは。今日、なんで呼ばれたんですか?」
「さあ、なんででしょう?」
ああ、先輩のこの笑顔は僕をからかってるときのやつだ。こういうときは何を言っても無駄なので、僕は大人しく先生が来るのを待つことにした。
そこからすぐに先生がやって来て、軽く挨拶をした。
「よし、それじゃあ本題に入る前に、新入部員の紹介だ」
新入部員。毎年途中から入ってくる人もいるとは聞いていたけど、まさかこのタイミングで来るとは。
先生の、入ってきて、という言葉のあとに、またドアが開かれて、新入部員の姿が見えた。
そして僕は、言葉を失った。
「1年A組の美竹蘭です。よろしくお願いします」
絶句する僕に、美竹さんが向けてきた満面の笑みを、僕は一生忘れないだろう。
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初仕事
ではでは、本文の方をどうぞ!
美竹さんの文芸部電撃加入から、数日が経った。
あの日はあれから、先生の話があった後に、美竹さんの歓迎会をやった。歓迎会といっても、大したことをするわけではなく、ただお菓子を食べたりしながら駄弁っているだけのものだけど。
それでも、美竹さんはクラスにいる時よりもずっと笑顔で、僕はそれが嬉しかった。
それはともかくとして、今日は美竹さんの文芸部としての初仕事だ。といっても、やることはさほど大変じゃない。ただ紙を印刷するだけだ。
以前にもこの作業をやったことがあるが、その時は僕一人だったので、大変というよりかは、精神的に辛かったことを覚えている。
今回は美竹さんがいるから、全然大丈夫だ。
「篠原、いつもこんなことしてるの?」
隣でコピー機とにらめっこをしている美竹さんから声がかかった。
「いつもじゃないよ。たま〜にかな」
印刷が終わった原稿を取り出して、次の原稿に差し替える。
今僕達が作っているのは自己紹介誌というもので、本来なら僕が入った時に作るつもりだったらしいのだが、いろいろあって先延ばしになっていた。それを、美竹さんが入ってきたこの機会にやってしまおう、ということになったらしい。
だからこれが、一応美竹さんの文芸部としての処女作ということになる。
「でも、美竹さんが入ってきてくれてよかった」
「? どうして?」
「どうしてって、そりゃあ──」
その続きを言おうとして、僕は慌てて口を閉じた。
なんてことを言おうとしてたんだ、僕は。しかし、このまま黙っているわけにもいかないので、どうにかしないと。
「1年生は僕だけだけで、肩身が狭かったから。美竹さんが入ってきてくれて、ホントよかった」
「そうなの? 有村先輩とかと、楽しそうに話してたじゃん」
「いや、まあ……確かに先輩たちと話すのも楽しいけど。でもやっぱり、美竹さんといる時間の方が好きだし、楽しいよ」
「ふーん、そっか。そうなんだ」
誤魔化そうとして言ったことも、結局かなり恥ずかしいことになってしまった。
美竹さんはというと、そう言ってコピー機の方を見始めたけど、その顔は赤くなっていた。
*
それから原稿の印刷を終え、あとはさっき印刷した紙を折るらしい。紙折りをする場所はいつもの部室ではなく、図書室のようで、1階の印刷室から図書室まで、紙を運ばなくてはならない。
あたしも手伝うと言ったのだが、篠原はそういう訳にはいかないと言って、譲らなかった。確かにあたしに任せるのは不安かもしれないけれど、それくらいならできるのに。
あたしが篠原の後ろで不貞腐れているうちに、図書室についた。
靴を脱いでスリッパに履き替えてから、中に入ると、そこには有村先輩たちが話し合いをしていた。
「おっ、ふたりとも待ってたよー」
「お疲れ様です、先輩。何してたんですか?」
「次の部誌で、対談みたいなのをやらないか、って話になってね。その内容を考えてたの」
「そうだったんですね」
そして篠原がよいしょ、と机の上にダンボールを置いた。
「よし、それじゃあ紙折りしよっか。篠原くん。美竹さんにやり方、教えてあげてね」
「分かりました」
部長のその声でみんな作業を始めた。あたしは篠原について行って、篠原の隣に座った。
「じゃあ美竹さん、やり方教えるね」
「うん、お願い」
それから篠原の説明を聞いてから、あたしも紙折りを始めた。篠原も言っていたけれど、特に何も難しいことはなく、ただひたすらに紙を折っていくだけだ。部誌を作る時は、こういう単純作業ばかりなのだとか。
「そういえば美竹さん、どうして文芸部に入ったの?」
紙を折りながら、篠原が聞いてきた。あたしが文芸部に入った理由は大きく分けて二つだけど、片方は絶対に言えない。
でももし、篠原と一緒にいたいから、文芸部に入ったんだよ、と言ったら、篠原はどう思うのだろう。気持ち悪がられるだろうか。
「ここで小説とか、書いてみたら、何かの役に立つかな、と思って」
「ああそっか。美竹さん、作詞とかも自分でやってるもんね。ホントすごいと思う」
「そ、そんなことないって」
「そんなことあるよ。しかも、その歌詞に心を動かされてる人がたくさんいるんだから」
「そうかな」
「そうだよ。僕もその1人だし」
「え、そうなの?」
「うん。美竹さんの書く歌詞、すごい好きなんだ。ほかのバンドのも勿論いいけど、でも、Afterglowの等身大の自分、って感じのがすごく好き」
「あ、ありがと……」
まさかここまで褒められるとは思ってなかったから、嬉しさよりも恥ずかしさが勝ってしまった。あたしは熱を帯びた顔を見られたくなくて、なるべく俯いて作業した。
*
紙折りの作業も無事に終わって、あとは折ったものをまとめて、ホッチキスで綴じて終わり、らしい。
ちゃんとした部誌のときはホッチキスでとめるのではなく、業者さんにやってもらうみたいだ。
紙を順番にまとめて、綴じる。完成した物のページをパラパラとめくってみると、ひとつのものを作り上げた実感が湧いてきた。家に帰ってからじっくり読むとしよう。
「よし、じゃあ今日はこれでお終い! お疲れ様でしたー!」
部長のその声で、あたしの文芸部としての初仕事は終わった。
「美竹さん、お疲れ様」
「うん、篠原も。お疲れ」
篠原と一緒に教室に戻りながら、ああだったね、とか他愛のない話をする。
あたしはこういう時間がたまらなく好きで、幸せで、でもどうしても、不安に思うことがあった。
篠原は、あたしのことが嫌いではないのだろうか。自分で言うのもなんだけど、かなり篠原に頼ってしまっているし、振り回している自信もある。
そんな女と一緒にいるのは、どう考えたっていやなはずだ。
普段なら、こんなこと絶対に聞かないけれど、でも何故か今日は、あたしの口は止まってくれなかった。
「ねえ、篠原」
もう外も暗くなり始めてきた時間。あたしの隣で、帰り支度をする篠原に、そう切り出した。
「ん?」
「篠原はさ」
篠原がこちらを振り向く。あの眼に見つめられるのは、いつもはすごく嬉しいけど、今は不安にしかならない。
「あたしのこと、嫌いじゃない?」
「嫌いじゃないよ」
答えは、すぐに帰ってきた。
「なんで?」
「嫌いだったら、あんな風に話したり、毎日電話したりしないよ」
篠原が苦笑混じりにそう言った。
「それに、さっきも言ったけど、美竹さんといる時間はすごく楽しいんだ。だから、心配しなくても、美竹さんを嫌いになんてならないよ」
「ほんとに?」
「もちろん」
あたしは篠原のその言葉に、思わず泣きそうになってしまったけれど、今ここで泣いてしまったら、それこそ篠原に迷惑をかけてしまう。
だからあたしは、今のあたしにできるであろう、精一杯の笑顔で、こう言った。
「ありがとう」
*
それから家に帰って、あたしは一人悶絶していた。
本当に、なんで、あんなことを言ったのだろう。あたしのことを嫌いか、なんて、下手したらトラウマもので、まるで、カップルみたいな──。
「〜〜っ!」
あたしは枕に顔を埋めて、それ以上の思考をやめた。うん、これ以上考えるのはやめよう。
ああ、でも。篠原がああ言ってくれて、本当に嬉しかったのは事実だ。
今、あたしの枕元にあるのは、さっき作った自己紹介誌。まだ読んでいないけれど、篠原のも載っていることは、目次を見てわかった。
それを手元に持ってきて、篠原のページを開く。そこには篠原が自分で書いた自己紹介と、作品が載っていた。
あたしはそれを、寝落ちするまでずっと読んでいた。
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ぶらぶら歩く
「研修会、ですか?」
あたしは有村先輩の言葉に首を傾げた。
「そうそう。年に何回かあるんだけど、そのうちの2回目が再来週の金曜なの」
そのまま先輩の話を聞いていると、どうやらちょっと規模が大きめな研修会らしく、丸一日かかるみたいだった。
「でね美竹さん、その日って学校来れないーっとかってない?」
頭の中にカレンダーを思い浮かべるが、特にそんな予定はなかったはずだ。
「いえ、大丈夫ですよ」
「そっか! ならよかったよー」
先輩は満足げにうなづいている。
「それで、研修会って何をするんですか?」
「ああそうだった! ちょっと待っててね……」
そう言うと先輩はリュックからクリアファイルを取り出して、1枚のプリントをあたしに渡した。
プリントにざっと目を通すと、今回の研修会の概要みたいなことが書いてあった。その中で気になったことを先輩に聞いてみる。
「先輩、このプロット提出って……」
「そう。今日はその事を伝えようと思って。本当は昨日に伝えられたら良かったんだけどね」
「すいません、休んでしまって」
「いいのいいの。気にしないで。私こそ、わざわざ呼び出しちゃってごめんね。それで、プロットなんだけど……」
それからの先輩の説明で、プロットのことはだいたい理解出来た。
要は、小説のプロットを考えて、来週の火曜日まで提出する、とのことだった。
「わかりました。ありがとうございます」
「うん、詳しいことはまた次の部活の時に説明されると思うから、とりあえずプロットを忘れずにね」
「はい、ありがとうございました」
「うん、篠原くんによろしく! じゃ、またねー」
先輩は手を振りながら去って行った。あたしも先輩の姿が見えなくなったのを確認してから、部室から出た。
***
本当は放課後になったらライブハウスに直行するつもりだったのだが、さっきの件があったために来るのが遅れてしまった。
当然だけど、もうみんな練習を始めている。
「ごめんみんな、遅くなった」
「おっ、蘭〜。やっときたね〜」
「大丈夫だよ蘭ちゃん。部活のことだったんだし、しょうがないよ」
あたしはつぐみにお礼を言ってから、練習の準備を始めた。
「しっかし、蘭が部活に入るとはなあ」
「かなり驚きだったよね。これも篠原くん効果かー」
巴とひまりが何か言っているけれど、気にしてはいけない。
「最近は通話もしまくってるみたいだしね〜」
気にしては──いやこれは気にしないとまずい。
「そ、それは関係ないでしょ」
「でも〜、篠原くんとLINE交換してからの蘭って、凄くるんって感じになってるし〜」
「い、いや、前からそんな感じだったって! 絶対気のせいだから!」
「ええ〜? そうかな〜」
「そうだよ、前からるんってしてたから! さあさあ練習しよう!」
必死すぎて自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。
「なんか最近、朝とか眠そうにしてるなあって思ったんだけど、そういうことだったんだね」
「余計なこと言わなくていいからぁ!」
***
「……はあ」
あれから、無事にとは言えないが、取り敢えず練習は終わった。携帯を取り出して時間を確認すると、19時になるところだった。
──ご飯、どうしよっかな。
いつもなら家に帰れば用意してくれているけれど、今日はそうではない。自分で作るという選択肢もあるが、はっきり言って面倒だ。
外食にするのは確定として、どこで食べよう。篠原はもう済ませてしまっただろうか。
LINEを開いてメッセージを送る。
『もう晩ご飯食べた?』
すぐに既読がついた。
『まだだよー。今から食べに行く』
『外で食べるの?』
『うん。今日は家に誰もいなくてさ。自分で作るのも面倒だし』
あたしと一緒だ。そうだ、いいことを思いついた。
『ね、篠原さえ良ければ、一緒に行ってもいい?』
『もちろん大丈夫だよ! 美竹さん今どこ?』
『商店街。釣具屋の辺り』
『おっけー。すぐ行くね』
それから、近くのベンチに腰掛けて篠原を待っていると、ほどなくして篠原はやってきた。
「お待たせ美竹さん」
「ううん、大丈夫」
篠原はあたしのその言葉にほっと一息ついた。
「それで篠原、どこに食べ行くの?」
「それなんだけど、実はまだ決めてなくて。適当にぶらついて決めようと思ってたんだ」
そうだったのか。それは悪いことをしてしまった。
「……ごめんね。急にあんなことは言っちゃって」
「いやいや、全然気にしなくていいよ! 美竹さんに誘ってもらって凄く嬉しかったから」
「そ、そっか。ならいいんだけど」
あたしは赤くなった顔を見られないように咄嗟に下を向いた。
「美竹さんは? どこで食べるか決めてた?」
「ううん、あたしもまだ」
「じゃあどうしよう。2人で歩いて決める?」
「うん、だね」
***
それから商店街を歩き回って、目に付いた定食屋で食べることにした。中に入って、2人並んでカウンター席に座る。店内はそれなりに混雑していて、家族連れや友達同士で来ている人がたくさんいた。あたし達は、どういうふうに見られているのだろうか。
「美竹さん、ほんとに羽沢珈琲店じゃなくてもよかったの?」
そう。歩いてるときに、篠原から羽沢珈琲店でも構わないという提案があったのだが、モカや巴がいるかもしれなかったから、それはやめておいた。篠原と2人でいるところを見られたら、なんて言われるか分からない。
「うん。モカとかいるかもだし。それよりほら、何にするか決めよっ」
メニューを手に取って、篠原と一緒に眺める。思っていたよりも種類が多くて、何にするか悩んでしまう。
「篠原はどれにする?」
「うーん……。とんかつ定食にしよっかな」
「じゃあ、あたしもそれで」
「わかった。すいません──」
料理が来るのを待つ間に、篠原にプロットのことを聞いてみる。
「篠原、プロット終わった?」
「プロット?」
「ほら、研修会に出すやつ」
「あー……」
「忘れてたの?」
「うん、忘れてた……」
篠原は苦笑いを浮かべている。彼はしっかりしているように見えて、意外と抜けているところがある。そういうところが可愛いんだけどね。
「あれって火曜日までだよね?」
「だね」
「なら、まあ大丈夫かなあ。ちょうど書きたいと思ってたのあったし」
「どんなの?」
「えっとね──。あっ、先に食べてからにしよっか」
「うん、そうだね」
ちょうど料理が運ばれて来たので、あたしは篠原の提案に素直に頷いた。
***
それから黙々と料理を食べ、商店街を2人でぶらぶらしながら、小説のこととか、いろいろなことを話した。
歩きながら、デートしてるみたい、なんて1人で勝手に思って赤くなってしまって、篠原に心配されてしまった。
気が付いたらもう辺りはすっかり暗くなっていた。彼と一緒にいると、本当にあっという間に時間が過ぎ去っていく。みんなと一緒にいる時間は大事だし、楽しいし、大好きだ。
彼と一緒にいる時間も、それと同じくらい──。
「美竹さん?」
「えっ、ああなんだっけ」
「大丈夫? 疲れてない?」
「うん。ごめんね、心配かけちゃって」
「気にしないでね。それよりも、ほんとに送っていかなくて平気?」
「うん。ここからそんなに遠くないし。平気だよ」
篠原の言葉はとても嬉しいものだったけど、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないので、断った。
「わかった。気をつけてね」
「ありがと、篠原。じゃあまたね」
「うん、またね」
そして、互いに背を向けて歩き始めた。
当たり前だけど、あたしと篠原の帰る家は違う。でもいつか、いつかは──。
***
家に帰ってすぐにお風呂に入って、そのまま布団に潜り込んだ。これはまずい。やらなければならない課題があるのに、このままでは寝てしまう。
無理、寝る。あたしは意識を投げ出す決意をして、携帯を充電し、寝る体勢を取った。さあ寝るぞ、と目を瞑ったところで、携帯に通知が来た。ひまり辺りからのラインだろうか。いつもならこういうときは、見ないでそのまま寝てしまうところだけど、今日は何となくその気にならなかった。携帯を手繰り寄せて、画面を見る。
そこに表示されていた名前は、ひまりではなくて、篠原だった。あたしは驚いて、思わず布団から飛び上がった。
『美竹さん、今日は誘ってくれてありがと! 楽しかったよ!!』
もう、本当に──。あたしは思わず枕に顔を埋めたくなったが、そういうわけにもいかない。
『こっちこそありがと。あたしも楽しかった』
こんな無愛想な文章しか打てない自分が嫌になってしまう。今度みんなに聞いてみようかと一瞬考えたけれど、その考えはあたしの脳内ですぐに却下された。
『うん。でさ、美竹さん。古典の課題終わった?』
『ううん、まだ』
『じゃあもしよかったら、一緒にしない?』
『やります』
その一言で、眠気なんて吹き飛んでしまった。
課題自体はすぐに終わったけれど、結局夜遅くまで話してしまって、またモカ達にイジられるハメになってしまったが、それはまた別の話。
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お名前で呼びましょう
「そういえばさ、蘭って篠原くんのこと下の名前で呼んだことあるの?」
「……えっ? 急に何?」
ひまりの唐突すぎるその質問に、あたしは手に持っていたポテトを落としそうになった。
「ほら、篠原くんと蘭ってさ、知り合ってからもうそれなりに時間経つでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
「だから、名前で呼ばないのかなーって」
全然意味が分からない。
「それとこれとは別でしょ」
「でも、名前で呼んでみたくない?」
「呼んでみたくない。全然呼んでみたくない」
ほんとは、呼んでみたいけど。それを今言ってしまったら、まずいことになるのは目に見えてる。
「ええ〜。ほんとに〜?」
モカも横槍を入れてきた。何だか、こういうパターンがもう定番になってきてしまっているような。でも、何度もなっているからこそ、回避する方法も分かってきた。あたしだってそんなにバカじゃない。
「ほんとだって」
あたしはそれだけ言って、またポテトをつまみ始めた。あたしが余計なことを言って、自爆してしまうことが多いから。
「でもでも〜、蘭この前さ〜、携帯の画面見つめながら〜、篠原くんの名前呼んでたよね〜」
「モカぁ!」
余計なことは言わなかったけど、余計な行動をしていたあたしは、色んな意味で恥をかくハメになった。
***
それからというもの、あたしは啓介、じゃなくて篠原のことを意識してしまって仕方ない。
いやいつも意識はしてるんだけど。そういうことではなくて、彼の名前。
篠原啓介。あの時ひまりが言ってきたように、あたしは1度も彼を名前で呼んだことがない。別に無理にするようなことではないし、いつか名前で呼び合うようになればいいな、くらいの気持ちでいたのだ。
でも、まあ、確かに。ひまりの言うように、あたし達はもう知り合ってそれなりの時間が経つのだから、そうなってもいいのではないか。うん、そうだ。何もおかしなことはない。そうしよう。
「美竹さん、続き読んでくれる?」
「はい」
先生のその声であたしはその思考を1度止めた。今日は部活があるし、その時に篠原に提案してみよう。
***
「失礼します」
そう言ってから部室に入ったが、案の定、中には誰もいなかった。今日、2年生の先輩達は何か学年全体で、集会のようなものがあるらしく、部活にこれないと言っていた。部長はもともと、必要な時にしか顔を出さないので、今日も来ない。来るのはおそらく次の部活の時だろう。
よって。今日は篠原と二人きりだ。この絶好のチャンスを活かさないなんてありえない。なんだか変なテンションになっているのは自覚しているが、こういう時は勢いがあったほうがいいことは分かっている。
直接言うよりもLINEで言う、もしくは通話している時に言った方がいいのでは、と思わないでもないが、なるべく早いうちに聞くほうがいい。それに、もしLINEで聞くとすると、返信を待つ時間の緊張がものすごいことになる自信があるので、やはり直接言ってみよう。
「失礼します」
あたしが結論を出してからあまり時間が経たないうちに、篠原も部室に来た。
「ああ、そういえば今日は先輩達いないんだったね」
篠原はそう言ってあたしの隣に座った。
「うん、だね」
それから篠原はリュックの中からプリントを取り出した。あれは、世界史の授業で出されていた課題だ。
実を言うと、部活の時に篠原と二人きりになるのは今回が初めてではない。今までも何度かあったのだ。その時も今のように、各々が好きなように時間を使った。その事に対する気まずさはなかったし、むしろ心地よかった。でも、今日は言わなければならないことがある。
よし、言うぞ。
「ね、ねえ篠原」
「んー?」
「その課題っていつまでだっけ?」
違う。何を言ってるんだあたしは。そんなことが聞きたいわけじゃない。いや確かに大事なことではあるけれども。
「次の授業までだから、木曜までかな」
「わかった。ありがと」
だから違う。そうじゃないんだよあたし。
***
結局言い出せないまま、部活も終わりに差し掛かっていた。このままではダメだ。何としても今、この時間の中で言いたい。隣に座る篠原を見る。篠原は今は課題をやめて、本を読んでいる。
よし。今度こそ言おう。
「篠原」
「どうしたの?」
「あたし達ってさ、もう知り合ってけっこう経つよね」
「ああ、確かにそうだね。なんやかんや言って、もうそれなりだね」
「だ、だからさ」
あたしは1度大きく息を吸った。
「そ、そろそろ名前で呼んでみない?」
篠原は驚いたような表情をしたが、すぐにいつもの優しい顔に戻った。
「うん、いいよ」
やった。
「えっと、それじゃあどうしよっか。僕から呼ぶ?」
「うん、お願いします」
「蘭ちゃん」
「〜っ!」
あたしはもっと、こう、ゆっくり言ってくれるものだと思っていたのだが、しれっとさらっと言われてしまった。それもまさかのちゃん付け。
でも。でも、めちゃくちゃ嬉しい。顔が緩んで仕方ない。
「蘭ちゃん、大丈夫?」
「う、うん! 大丈夫!」
まずい。まともに喋れない。顔も見れない。次はあたしの番だって言うのに、このままではいけない。
あたしはいったん落ち着いて深呼吸した。
「啓介」
呼んだ。呼んだけれど、篠原、いや啓介は特に驚いた様子もなく、嬉しそうに笑うだけだった。ああもう。恥をかくのはいつもあたしだけだ。
「蘭ちゃん、ほんとに大丈夫?」
ああダメだ。名前を呼ばれる度に頬が緩んでしまう。これではまともに会話すら出来ない。
「や、やっぱり名前で呼ぶのやめよっ」
「ええー」
篠原からは非難の声が上がったが、そんなものは聞き入れてやらない。このままではあたしの心臓が持たない。
「ダメなものはダメ!」
「ううん、まあ、わかったよ」
よし、これであたしの心臓は守られた。
「そろそろいい時間だし、今日はお開きにしよっか、美竹さん」
ああ、でも。ちょっと寂しい気がしないでもない。だから。
「た、たまにならいいよ……」
「え?」
「だ、だから、たまになら呼んでいいよ!」
篠原は、また嬉しそうな表情をした。
「わかった。改めてよろしくね、蘭ちゃん」
「たまにって言ったじゃん!」
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一幕
まずい。プロットが進まない。あたしはペンを放り投げて机に突っ伏した。締切は明後日だけど、このままでは良くない。全く内容が浮かばない。歌詞を考える時とはまた違った感覚だ。
本棚からいくつか小説を引っ張り出して、パラパラとめくる。けれどそれで何か思いつくわけもなく、プロットは一向に進行しない
そもそもプロットって、どういうふうに作るものなのだろう。何を書けばいいのかは知っているけれど、どう書けばいいのかは分からないあたしは、ネットでいくつか例を検索してみることにした。篠原に聞くことも考えたが、いつもいつも彼に頼るのは良くない。
ふむふむ。なるほど。とりあえずはこれを参考にするとして、次は問題の内容だ。
当然だけど、あたしにとってはこれが初めての小説になる。けど、小説はそれなりに読んできたから、どう書けばいいのかはわかる。
よし、まずはテーマを決めよう。
友情。真っ先に思い浮かぶのは、Afterglowのみんな。悪くはないけれど、みんなとのことは歌にすることが多いから、出来れば避けたい。
恋愛。恥ずかしいから、あまりテーマにしたくはない。でも、今1番しっくり来るのがこれだった。
悩んでいても仕方ない。とりあえずテーマは恋愛にするとして、内容をぱぱっと考えてしまおう。
***
そうしようと思った。思ったのだが、普通に寝てしまったあたしは、朝起きてかなり焦った。
なんとかいつもと変わらない時間に学校に着くことができたので、昨日やるはずだったものを終わらせるために、今はノートと睨み合っている。
ふと、隣の席を見る。彼はまだ学校に来ていない。彼はいつもあたしよりも少し遅いくらいの時間に、眠たそうな顔でやってくる。その顔を見るのが、密かな楽しみなのだ。
ああそうだ。これだ。こういうことを書けばいいんだ。よし、そうと決まったら早速──。
「おはよ、美竹さん」
「うひゃあ!!」
いつの間にか教室に入ってきていた篠原に気づかなかったあたしは、その声にかなり驚いてしまった。みんなこちらを見たけれど、教室の中の人が少なくて良かった。
「も、もう。びっくりさせないでよ」
「ごめんね。何書いてたの?」
篠原はもう座っていて、あたしの方を向いている。
「プロットだよ。ほら、明日までの」
「そうだったんだ。どう? もう終わりそう?」
「うん、何とかなりそう。篠原は?」
「僕はもう少しかかるけど、間に合うかな」
「どんなのにするの?」
「スポーツ系のにしてみよかなって思ってる。美竹さんは?」
「あたしのは秘密」
「ええ〜。なんで?」
「秘密です」
言えるわけない。だって、あたしのは──。
***
午前中の授業は理数系ばかりだったので、ほとんど真面目に聞かずに、プロットに費やした。1度書き始めると止まらないもので、もう大方書き終えた。
自分で物語を作ることが、こんなに楽しいことだとは知らなかった。途中からはもうプロットという枠をはみ出して、本編のようになってしまっていた。
さて、ご飯を食べよう。今日は弁当ではないので、食堂で食べるか、購買で何か買うかのどちらかなのだが、どうしようか。とりあえずはモカ達のところに行ってから決めよう。
あたしは自分の席を立って教室から廊下に出る。
けれど、いつもなら廊下で待っていてくれるはずのみんなの姿はなかった。
──なんでだろ。
そう思ったあたしは、ポケットから休み時間の間は使用を許されているスマホを取り出した。通知がならないために設定している機内モードを解除して、LINEを開く。
グループのメッセージを見ると、どうやらみんな、昼休みに何かしらの用事が入ってしまったらしい。
そういうことなら仕方ない。今日は1人で食べるとしよう。となると、購買にした方がいい。
あたしが購買に足を進めようとすると、向こう側から篠原が歩いて来るのが見えた。プリントを持っているので、職員室に行ってきたのだろう。
篠原、と声をかけそうになったのをすんでのところで堪えた。篠原はいつも他の男子と食べているし、一緒に食べることは出来ないだろうから。
あたしは何も言わずに彼の横を通り過ぎようとしたけれど、彼はあたしに話しかけてきた。
「午前中お疲れ様、美竹さん」
「うん、篠原もお疲れ様」
「今日は青葉さん達は?」
「みんな用事があるみたい」
「へえ、そうなんだ」
そこから、少し間が空いた。
「美竹さん、もし良かったら一緒に食べる?」
その申し出は、あたしにとって願ってもない事だった。
「えっ、いいの?」
「うん、大丈夫だよ」
「でも、いっつも男子と一緒じゃん」
「……まあ、そうなんだけど。その辺は大丈夫、気にしないで」
とにかく、問題はないらしい。
「美竹さん、購買行くんだよね?」
あたしは素直に頷いた。
「なら、ちょっと待っててもらっても大丈夫?」
「うん」
「ありがとう、じゃあ行ってくるね」
篠原は教室に入って行き、弁当を持って戻ってきた。
「僕も一緒に購買に行っていい?」
「うん、大丈夫だけど。なんで?」
「実は飲み物持ってくるの忘れちゃってさ……」
***
あたしは適当にパンを何個か買って、篠原は麦茶を選んだ。あたしも飲み物は篠原と同じにした。
屋上に続く扉を開けると、やはりそこには誰もいない。ここにご飯を食べに来る人なんてそうそういないから、こういう時は有難い。
「篠原と一緒にお弁当食べるの、初めてな気がする」
正確に言えば、あたしはお弁当ではないけれど。
「確かに。休みの日とかに一緒になることはあったけど、学校では初めてかもね」
篠原はそう言って笑った。
あたしと篠原は、まだ一緒にしていないことがたくさんある。海に行ってみたい。山に行ってみたい。ライブを見に行きたい。考え出すと止まらなかった。
「そういえば、研修会終わった後って、三連休だったよね」
篠原があたしに確認してきた。確かにそうだったはずだ。
「だね」
「美竹さん、何か予定ある?」
「今のところは特にないかな」
「だったらさ、2人でどっか遊びに行かない?」
それを聞いたあたしは驚いた。篠原を誘うのはいつもあたしで、こうして彼から行ってくることは稀だったから。
「例え地獄だろうとついて行くよ」
「いや、さすがにそこまでは……。美竹さん、どっか行きたいところある?」
「んー……」
いろいろと考えてはみたけど、ぱっとは浮かばなかった。
「いや、そんなには。篠原はある?」
「誘っておいてあれだけど、実は僕もまだなんだよね……。とりあえず、休みまでに考えとくね」
「うん、わかった」
改めて、三連休のことを考える。1日くらいは、みんなとも遊びたい。あとで提案してみよう。
スマホで時間を見ると、昼休みも終わりに差し掛かっていた。
「午後からの授業って何だっけ?」
あたしは篠原に確認する。未だに時間割を覚えていないなんて、我ながら不真面目さが現れていると感じる。
「現代文、英語、世界史だよ」
それを聞いたあたしは、思わずうわ、と声を上げてしまった。
「あたし寝るかも」
「うん、僕も寝る自信がある」
いつもなら、文系の授業は真面目に聞いているけれど、今日は無理かもしれない。特に昼食終わりの現代文なんて地獄だろう。寝てしまう人の方が絶対に多い。
「まあ、その時はその時だね。僕もなるべく寝ないようにはするけど」
それからもしばらく話していると、予鈴が鳴ってしまった。もう教室に戻らないと。
「よし、じゃあに戻ろっか、蘭ちゃん」
名前で呼ばれた、と分かった瞬間に、あたしは自分の顔が熱くなるのを感じた。もう何回か呼ばれているけど、こればっかりはいつまで経っても慣れる気がしない。
呼ばれる度にドキドキする。もっと呼んで欲しい気持ちもあるけれど、それだと確実にあたしがもたないので、あの時言ったように、たまにならいい、ということにしてもらっている。
でも、急なのは心臓に悪い。
「急に呼ばないでってば」
「すごい今更だけど、蘭って可愛い名前だよね」
「か、かわっ……! だから呼ぶなってえ!」
可愛い名前なんて、今まで言われたことがなかったから、余計に恥ずかしかった。
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研修会
『明日だね、研修会』
篠原のその言葉に、あたしはそうだね、と返した。そう、いよいよ明日だ。だからといって緊張しているとか、そういうわけではないが、何故だか落ち着かなかった。
明日の予定が書かれたプリントをもう一度見てみると、時間的には学校に行く時と大して差はない。強いて言うなら、移動の時間が少し長いくらい。
あとは準備の関係とか何とかで、昼休みが長く、外出も許可されている。だから篠原と外で食べることにしていた。
『そういえば篠原、どこでご飯食べるか決めた?』
『うん、大体ね。美竹さんは? 行きたいとこある?』
会場周辺の飲食店は調べてみたけれど、特に行ってみたいところはなかった。
『んー……。特にないかな。篠原に任せる』
『わかった』
あとは特に確認するようなこともないだろう。持ち物もいつもと大して変わらない。
そこからはまた他愛もない話をして、そうしているうちに大分時間がたった。
『美竹さん、そろそろ寝よっか』
『うん、だね。篠原、また明日ね』
『うん、またねー。じゃあおやすみ』
そう言って篠原は通話を切った。
あたしはその後直ぐには眠らず、念のために荷物を確認した。
筆箱。ノート。手帳。などいろいろ。そんなに遠くには行かないし、泊まるわけでもないけれど、あたしは遠足を楽しみにする小学生みたいに、少しワクワクしていた。
部活で、みんなとどこかに行くなんて、あたしには初めての経験だから。
──早く明日にならないかな。
***
「おはよー美竹さん」
昨日は寝れないかと思ったが、蓋を開けてみれば全然そんなことはなく、普通に熟睡したあたしは、集合時間の20分前に駅についた。
「おはようございます」
有村先輩に挨拶を返したあたしは、辺りを見渡してみる。この駅にはよく行くが、こんな朝に来るのは初めてだ。
駅には、通学に電車を利用している、他の学校の生徒がたくさんいて、なんだか不思議な気持ちになった。
「あの、有村先輩。篠原はもう来てますか?」
「うん、来てるよー。今は飲み物とか買いに行ってる。まだ時間あるし、美竹さんも行ってきたら?」
「ありがとうございます。そうしますね」
あたしは先輩にお礼を言って、駅内のコンビニに向かった。あたしも飲み物くらいは買っておこう。
ちょっと歩いてコンビニの中に入ると、そこには先輩の言った通り、篠原の姿があった。
あたしは後ろから近づいて、彼の肩を叩いて、あたしの方を振り返らせた。
「おはよ、篠原」
「うわ、美竹さんか。びっくりした。おはよ」
あたしは篠原の驚いた表情を見て、満足した。
「うん、何買うの?」
「コーヒーとか。あんま寝れなくてさ」
あたしと違って篠原は寝れなかったみたいだ。あたしもお茶かコーヒーを買おう。
それからさっきの場所に戻ると、もうほとんどの人が集まって来ていた。
あとは顧問の先生を待つだけだ。
「おっ、2人とも戻ってきたね」
「すいません、お待たせさせてしまって」
篠原がそう謝った。
「ううん、全然大丈夫。まだ時間あるし。そんなことより2人とも、緊張とかしてない?」
先輩の言葉にあたしと篠原は顔を見合わせた。緊張か。全くしていないと言えば嘘になるけれど、特に問題は無い。篠原もそれは同じみたいだ。
「はい、大丈夫ですよ」
「ええ〜なんだよー。可愛くないな〜」
そうやって先輩といろいろな話をしていると、顧問の先生が着いた。
「うん、全員いるね。じゃあ行こうか」
***
目的地の最寄り駅には、電車で1時間ほどかかる。車内ではみんな、他の人の迷惑にならないようにではあるけれど、好き勝手に時間を過ごしていた。あたしの隣にいる篠原はイヤホンを耳にはめて窓の外を眺めている。
あたしは一応持ってきておいた小説を読もうとしたが、内容は頭に入ってこなかった。
出来れば篠原と話したかったけれど、さすがにそれはやめておいた。文字列をいくら目で追っても、これぽっちも読んだ気がしないので、あたしは諦めて小説をリュックにしまった。
あたしも篠原と同じように、音楽を聞こう。
以前まではロックばかり聞いていたけど、最近は篠原がよく聞いてるのを教えてもらって、それを聞いている。
──やば、ちょっと眠くなってきた。
ゆらゆらと電車に揺られ、だんだんと眠気に襲われてきた。目的地までまだ時間はあるし、一眠りしようかな。
あたしが眠気に身を任せようとした瞬間──。
篠原が、あたしの肩に寄りかかってきた。
思わず飛び上がりたくなるのをじっと堪えて、イヤホンを外して隣を見る。
篠原は寝息を立てて夢の世界に行っていた。さっき買っていたコーヒーは飲んでいる様子がなかったので、向こうについてから飲むつもりだったのだろう。
なんて、冷静に言っているけれど、あたしは、今にも爆発してしまいそうなくらいドキドキしていた。彼と一緒にバスや電車に乗ったりしたことは今までも何度かあったが、こんなことは初めてだ。
最高に嬉しいけれど、最高に恥ずかしい。
視線を前に向けると、有村先輩がニコニコ顔でこちらを見ていた。
──そんな顔で見ないでください。
その願いは、もちろん届くはずがなく、あたしは駅に着くまでその目線に晒された。
***
「篠原、起きて」
「ふわあ……。美竹さんごめん、寝てた」
無事に──あたしは無事ではないが──駅についたので、あたしは篠原を起こした。
「ううん、大丈夫」
「美竹さん、顔赤くなってるけど……」
「大丈夫だから」
「でも──」
「大丈夫だから」
「う、うん」
みんなで電車を降りて、駅から出る。とりあえずはひと段落だ。ここからちょっと歩けば、会場に着くはず。
篠原と並んで、先輩たちについて歩いていくと、数分もしないうちに目的地のホールについた。
中に入ると、そこにはあたしが想像していたよりもずっと多くの人がいて、驚いた。
どうやら席は決まっているらしくて、受付でもらった案内を見て、自分の場所を確認する。
指定された場所──といっても学校ごとだったが──に座り、もう一度案内に目を通す。
それによると、午前中、というか今からは講演会のようなものをして、午後からが分科会らしい。
講演会はどこかの大学の先生が来るみたいだったが、正直言って、あまり期待していない。
分科会は真面目に聞くつもりだけど、これは出来そうにない。
──早くお昼にならないかなあ。
***
思った通り、講演会は退屈だった。先輩達もあまり面白そうに聞いているようには見えなかったし、つまらなかったのはあたしだけではないのだろう。
そして今、長かった講演も終わり、ついに昼休みになった。篠原と一緒にご飯だ。
行く店は篠原が決めておいてくれたので、あたしは彼について行く。
「いや〜……。それにしても長かったね」
「だね……」
篠原もあれは大分堪えたようだ。
「まあ、あういうのってそういうものだと思うし、仕方ないんだろうけどね。あっ、あそこだよ」
まだ会場から出てじ10分ほどしか経っていないが、早くもお店が見えてきた。
彼の後に続いて店内に入る。時間的に混んでるかな、と思ったけれど、そこまで人はいなかった。
カウンター席に座って、メニューを手に取ると、和食のメニューが並んでいた。外装を見た感じではとてもそうとは思えなかったが、ここは和食屋さんらしい。
篠原は何を食べるのか前もって決めていたみたいで、ぱぱっと決めていた。
かく言うあたしも、こういうのはあまり悩まないタイプなので、すぐに決められた。
料理を待つ間に、午後からの予定を確認しておこう。
「篠原、午後からもあのホールでいいんだよね?」
「うん、だね。移動するのは部長だけかな。あ、ご飯来たね」
そこからは二人とも黙々とご飯を食べて、会場に戻った。ただ、あたしも篠原もとんかつ定食を頼んだので、少し胃もたれしてしまったが。
***
午前中の講演会とは打って変わって、ためになる話をたくさん聞くことができた午後からの分科会は、あたしにとってかなりの収穫になった。
小説を書くことに関しては全くの素人であるあたしにとっては、特に。
分科会が終わったあとは閉会式をして、解散となった。といっても、あたし達は同じ電車に乗って帰るので、まだ一緒だが。
駅のホームで帰りの電車を待っている間、あたしは有村先輩と話していた。
「美竹さん、今日の研修会どうだった?」
「楽しかったです。いろいろ参考になりました」
「そっか。ならよかったー。といっても、私が開催したわけじゃないけどね」
あはは、と有村先輩は笑う。こういう明るいところが、先輩の魅力なのだろうな、と最近は感じることが多い。
「それに、篠原くんともいろいろあったみたいだしね〜。主に行きの電車とか」
「そ、それは言わないでください!」
その明るさに振り回させることも多いけれど。
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2人で
研修会が終わって、すぐの日曜日。あたしは駅で篠原が来るのを待っていた。
この三連休のうちの今日、あたしは篠原と遊ぶことになった。昨日は研修会の疲れもあって、ずっと家で小説を読んだり、映画を見たり、篠原と話していた。
その時に、今日どこに行くか、ということも話した。2人でいろいろと考えたけれど、ちょっと遠出して、研修会で行った街に行ってみよう、ということになった。
あの時はそんなに長い時間ブラブラ出来なかったし、じっくり見てみたかったから。
そんなわけで、あたしは篠原を待っているのだけど、待ち合わせの時間よりも大分早く来てしまった。
別に篠原と遊びに行けるのが楽しみだから、こんなに早く来たわけではない。ただ単に待たせてしまうのが申し訳なかっただけだ。
そうだ。本当に楽しみだったとか、そういうわけじゃ──。
「美竹さん、おはよ。待たせちゃった?」
あたしが自分との闘いを繰り広げているうちに、篠原も駅に来ていた。
あたしはすぐさま不毛な闘いを終わらせ、篠原の方を向いた。
「おはよ、篠原。全然待ってないよ」
「ならよかった。早めに行こうと思って駅に行ったら、美竹さんがいたから驚いたよ」
電車が来るまではまだ時間があるので、あたしたちは駅構内のカフェで時間を潰すことにした。
篠原はコーヒーを頼んだので、あたしも同じのにした。
「2人で遠出するのって初めてだよね」
コーヒーを飲みながら、篠原があたしに言ってきた。
「だね。それに、篠原から誘ってくるのも珍しいんじゃない?」
「ええ? そうかな」
「そうだよ。いつもはあたしから。誘うときちょっと迷ったでしょ?」
「う、うん。まあね」
「ふふ、だよね」
そういう所が可愛い。
そんな話をしてるうちに、だんだんと時間が近づいてきた。あたしと篠原は、会計をして駅のホームに向かう。
車内は日曜日ということもあって、それなりの人がいた。幸いなことに席は空いていたので、あたしと篠原はそこに座った。
ガタンゴトンと、電車に揺られる。
前はこの揺れに、眠気に誘われたけれど、今回はさほど眠くならなかった。カフェで飲んだコーヒーのおかげだろうか。
それは篠原も同じみたいで、隣を見ても、平気そうに窓の外を眺めていた。
あたしも、彼と同じように景色を見る。
子供の頃から、ずっと見てきた景色。
あたしにも、いつか、この街を出ていく日が来るのだろうか。
もしそうなったとしても、あたしはみんなと、そして彼と一緒にいたいな。
***
研修会の時と同じように、1時間ほどで駅に着いた。あの時とは違って、篠原は起きていたが。
駅から出て、改めて街並みを見てみると、既に1度見ている風景なのに、なんだか新鮮な気持ちになった。
篠原はあたしの横で伸びをしていて、やっと着いたね、とあたしに向かって言った。
あたしはそれに、そうだね、と返す。
一応ではあるが、どこに行くか、何を見るかは大まかに決めておいたので、それに従って歩く。
「それじゃあ行こう、篠原」
***
「そろそろご飯にする?」
あたしは篠原の提案にうん、と返し、2人で近くにあったパン屋に足を運んだ。人気店なのか、店内はそれなりに混雑していて、座れる席を見つけるのは大変に思えた。
とにかく、食べるものを決めよう。何にしようか。陳列してあるパンをざっと眺める。どのパンも美味しそうで、決めるに決められない。
あれでもないこれでもないと、店内を右往左往していたが、ずっと悩んでいても仕方ないので、あたしは、『当店イチオシ!』と書いてあったカレーパンにすることにした。何個かとってトレーにのせ、篠原の後ろに並んで会計をする。
あたしたちが会計を終えたタイミングで、ちょうどよく席が空いたので、そこに座ることにした。
「ひとまずお疲れ様、美竹さん」
「うん、篠原も」
あたし達はそう言って、互いに選んだパンを食べ始めた。
うん、美味しい。
「中々大変だったね」
あたしが篠原にそう言うと、彼も苦笑いを浮かべた。
「あはは……。だね」
午前中は主に、神社とか、そういう観光地的な場所を見て回ったのだが、まあ、いろいろあった。詳しくは言わないけれど。
午後からも歩き回るのは変わらないが、午前ほど疲れはしないはずだ。
あたしと篠原は昼食をすませて、パン屋を後にした。
***
午後からは、街のショッピングモールに立ち寄って見ることにした。当たり前だけど、外観が違うだけで、中身の方は普段あたし達が利用するところと大差なかった。
それでも、あたしも篠原も欲しいものがあったので、行っておきたかった。
まずは篠原から。
篠原は新しいイヤホンが欲しいらしくて、モール内の家電を取り扱っているところに足を運んだ。
「美竹さん、何かおすすめのある?」
「えっとね……。これがいいよ、あたしも前に使ってたから」
本当は、現在進行形で使っているのだけど、それを言うと篠原が買いにくくなってしまうだろうから、言わないでおいた。品質がいいのは本当だし。
それに、これで篠原とお揃いだ。自分でも気持ち悪いことをしている自覚はあるけれど、止められなかった。
「うん、じゃあそれにするね。ありがとう、美竹さん」
「うん、どういたしまして」
ものすごい眩しい目で見られてしまったあたしは、どうしていいか分からなくて、適当にお茶を濁した。
閑話休題。
次はあたしの番。
最近は少しづつ暑くなってきたから、帽子が欲しい。
2階の洋服屋に移動して、あたしはいくつか帽子を選ぶ。
どれも悪くないけれど、いまいち決め手がない。篠原にも聞いてみよう。
「篠原はどれがいいと思う?」
「うーん……。全部似合ってて可愛いと思うけど」
その言葉が嬉しくて、選んだのをすべて買ってしまいたくなったけれど、そこまでしている余裕はない。
「ど、どれか1つって言われたら?」
「そうだね、それじゃあ……。これかな」
篠原が選んだものを被る。
「どう? 似合ってる?」
「うん、可愛いよ」
いよいよ我慢の限界に近づいてきたので、あたしは篠原に顔を見られないようにそっぽを向いた。
***
「いろいろあったけど、楽しかったね」
帰りの電車を待つ間に、あたしと篠原はそんな会話を交わした。
「うん、楽しかった」
あまり知らなかった街で新鮮だった、というのもあるけれど、それを抜きにしても、篠原と出かけるのは、最高に楽しいし、幸せだ。
「ね、篠原」
「ん?」
「また、来ようね」
あたしは、今日1番の笑顔でそう言った。
***
そして次の日。篠原から選んでもらった帽子を被り、集合場所の羽沢珈琲店に向かったあたしは、店内でみんなを待っていた。さすがに店内で被るのはどうかと思うので、帽子は横に置いているが。
今日は珍しくあたしが一番乗り──つぐみを除いて──だった。
つぐみと話しながらみんなと待っていると、ひまりが店にやってきた。
「あれ、珍しいね蘭。いつもは遅いのに」
「そういう時もあるでしょ」
「そっか。あ、その帽子可愛い! どうしたのそれ?」
やはり篠原のチョイスは正しかったみたいだ。あたしよりもよっぽど女子力があるひまりが言うのだから、間違いない。
「それは秘密──」
「あ、分かった! 篠原くんに選んでもらったんでしょ?」
秘密にしておきたかった事実は、一瞬で見破られてしまったが。
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ちょっとずつ
「……はあ」
あたしは布団に倒れ込んで、思わずため息をついた。
あたしの頭を悩ませるのは、家のこと、と言うよりも、あたしの父さんのこと。以前から、父さんとは仲がいいとは言えなかったけど、近頃は特にそうだ。
最近は、父さんからいろいろ言われることが多くなっている。別に華道が嫌いなわけじゃないし、父さんのことだって尊敬してる。
ただ、あたしの気持ちだって、少しは考えて欲しい。
自分で言うのもなんだけど、あたしは性格が悪い。愛想は良くないし、口は悪い。素直じゃない。コミュ障。
こんなのと仲良くしてくれる人なんて、いないんじゃないかと思う。
だから、みんなには本当に感謝してる。
だから、みんなとずっと一緒にいたい。
そのためにバンドを始めたのに、それを遊びでやってるみたいに言うなんて、父さんはなんにも分かってない。
いやまあ、あたしが自分のことを話さないというのもあるけれど。それにしたって、あんなふうに言われ続けたら、反抗したくもなる。
そこまで考えて、あたしはまたため息をついた。そんな子供みたいなことばかり考えてるから、あたしは駄目なんだ。
こうやって、自分の中だけで完結してたって、何も変わらない。
いくら親子って言ったって、言葉無しに通じ合えるわけじゃない。父さんと、ちゃんと向き合わないといけない。あたしの気持ちを伝えないといけない。
どこに行こうとしても、自分はいる。
いつまでも逃げてなんていられない。
でも、向き合う勇気がないあたしは、こうして蹲って、閉じこもることしか出来ない。
本当に、情けなくて泣きそうになる。
こんなとき、彼なら。篠原なら、どうするのかな。
***
次の日。あたしは──というかあたし達は──ひまりに呼び出された。場所は羽沢珈琲店。なんでも、ガルジャムから出演案内が届いたらしい。ひまりは嘘をつくような人じゃないから、本当なのだろう。
「蘭〜。おはよー」
「蘭、おはよ」
あたしがドアを開けて店内に入ろうとすると、モカと巴が一緒に来ていた。
「うん、二人ともおはよ」
二人に挨拶して、あたしは中に入った。
*
「……変わったよね〜、蘭」
「確かにな。大人になったというか。これも恋してるおかげなのかね」
*
ひまりが持ってきたガルジャムの出演案内を見せてもらった。巴も言っていたけど、実際にこの目で見ると、気持ちが引き締まるというか、実感が湧いてくる。
ガルジャムに出ることができる。それはあたし達にとってはいい経験になるし、大きな1歩だ。でも、あたしは素直に喜べないでいた。父さんがこのことを知ったら、なんて言うだろう。それを考えると、頭が痛くなる。
みんなの前では、決して表情に出さないようにしたけれど。
***
そのあとは、少し練習をして、今日は解散になった。あたしはギターケースを家に置いて、商店街をふらふらしていた。今は、あまり家に居たくない。
外から見る街並みは、昔とあまり変わっていなかった。でもこうして歩いて見ると、かなり変わったところがある。
そりゃあ、何十年も経てば変わるのは当たり前だ。変わらないものなんて、きっとない。
あたし達は、ずっと一緒にいるために、いつも通りでいるために、バンドをやっている。
けれど、それはいつまでも続けられることじゃない。
今は、みんな高校生で、家だって近いから成り立っているが、この先ずっとは、きっと無理だ。
いつかは、諦めなきゃいけない時が来る。
──これ以上考えるは、やめよう。
これから先のことを考えたって、あたしが今向き合わなきゃいけない問題は変わらない。
とにかく今は──。
「美竹さん?」
「……篠原」
その声を出して、あたしはハッとした。こんな弱々しいところ、篠原には見せられない。
「どうしたの? こんなところで」
「ちょっと欲しい本があって。美竹さんは?」
「あたしは適当に歩いてた。練習が早く終わって、暇だったんだよね」
本当は違う。
実を言うと、篠原に家のことを言うかどうかは、かなり悩んだ。悩んだ末に、言わないことにした。
これはあたしの問題だ。篠原を巻き込んでしまうわけにはいかない。それに、こんな弱い所を見せてしまったら、ガッカリさせてしまうかもしれない。
「そうだったんだ。練習お疲れ様」
「うん、ありがと」
篠原と話していると、つらいことを忘れられる。
「ねえ美竹さん、もし良かったらさ、僕も一緒に行っていい?」
断る理由なんてない。
「もちろん。一緒に行こっ、篠原」
***
気づいたら、夕方になっていた。篠原と過ごす時間は本当にあっという間で、このまま時が止まってくれればいいのに、とも思った。
「そろそろ帰らなきゃね」
「……うん、そうだね」
篠原と別れて、家に帰らなきゃならないと思うと、気が重い。
「……。ねえ、美竹さん。あそこの公園で、ちょっと話していこうよ」
あたしはそれにうん、と返して、篠原について行った。
篠原がよいしょ、と公園のベンチに腰掛けたので、あたしもその隣に座る。
「美竹さん、今日は楽しかった?」
「うん、めちゃくちゃ楽しかった」
篠原はそっか、と嬉しそうに言った。
「美竹さん、最近元気なかったから。心配だったんだ」
それを聞いて、あたしはドキッとした。
「そうかな。いつも通りだと思うけど」
「見るからに辛そうだった」
「…………」
あたしは、何も言えなかった。
「美竹さん」
「……篠原には、関係ない。ほっといてよ」
こんなこと、本当は言いたくない。でも、こうでもしなきゃ、優しい彼は、きっと引き下がらない。これはあたしの問題だから、あたしが自分でどうにかしないといけないんだ。
「関係あるよ」
「何が? あたしがどうなろうたって、あたしの勝手でしょ」
言う度に、胸が裂けそうになる。
「そんな悲しいこと、言わないでよ」
「だったら、あたしのことなんてほっといてよ」
「放っておけないよ」
「……っ。だから、あんたには関係ないって言ってるじゃん。あたしのことはもう──」
「美竹さんがつらそうにしてると、僕もつらい」
「なに、それ」
「だから、僕も関係ないわけじゃない」
「…………」
「美竹さん、僕なんかが力になれるか分からないけど、話してほしい」
「……うん」
***
全部と言うほど、たくさんのことで悩んでいいたわけじゃないけど、全部話した。家のこと、父さんのこと。
「……そっか。そんなことが、あったんだね。話してくれてありがとう」
「……うん」
篠原に、こんなあたしを見せたくなかった。でも、話してみて、少しスッキリした。一度思いを吐き出すと、堤防が決壊したみたいに、どんどん言葉が溢れてきた。
「やらなきゃいけないことは、分かってるんだ。でもあたしには、それをする勇気がない。本当に情けないよね、あたし」
「僕が美竹さんの立場でも、同じだったと思うよ」
「そう、なの?」
「うん。誰かに自分の気持ちを伝えるのって、簡単なことじゃないよ。たとえそれが親でもね」
「…………」
「でも、すごいよね美竹さん」
「……え? 何が?」
「自分でちゃんと、何をしたらいいのか分かってる。それって、すごいことだと思う」
「……うん、ありがとう。話聞いてくれて」
「どうしたいまして。ごめんね、無理に話させちゃって」
「ううん、大丈夫。気が楽になった」
「ならよかった」
篠原は、ほっと肩をなでおろした。
「……ひどい事言って、ごめん。傷つけたよね」
「全然大丈夫だよ」
「嘘つかないで」
「ま、まあちょっとていうか、大分堪えたけど、全然大丈夫だから!」
数分前の自分をぶん殴ってやりたい。
「もう電話しない」
「え?」
「LINEもしない」
こうでもしないと、彼に申し訳ない。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
「やだ。帰る。じゃあね」
「待っててば」
「なに?」
「美竹さん、僕と話すのは嫌?」
その質問はずるい。
「……いやじゃない」
「だったら問題ないね。これからもよろしく」
「……うん、分かった」
それからも、少しだけ話して、今日は解散になった。
「でも、本当にありがとね」
「うん。といっても、大したことは出来なかったけど」
「十分だよ」
本当に、彼には感謝しきれない。
「ねえ、啓介」
「ん?」
「啓介くんに、一つお願いがあります」
自分で言うのは、なかなか恥ずかしいけれど。
「なに?」
「蘭ちゃん頑張って、って言ってくれませんか……」
なかなかなんてレベルじゃなかった。穴があったら入りたいなんて、人生で初めて思ったかもしれない。
「蘭ちゃん、頑張って」
たった一言ではあるけれど、その言葉で、あたしは大丈夫だ。
「ありがとう。あたし頑張る」
「うん、でも無茶しないでね。僕も力になるから」
「うん、ありがとう、啓介」
まずは家に帰って、それからだ。
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