担任がやたらくっついてくるんだが…… (ローリング・ビートル)
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変わり始めた日常

 夢や希望に満ちあふれて迎えた高校の入学式から早一年。漠然と何かがある、何かが起こると思っていた高校生活は、何も無いただの灰色の日々だった。

 成績の面では常に平均未満。運動神経は壊滅的なので省略。会話下手なのが災いして、異性どころか、同性の友達もできない始末。スクールカースト底辺を象徴したようなポジションで、僕はひっそりと学生生活を消化していた。

 きっと、このまま何事もなく卒業を迎えると思ってた。

 しかし、そんな日常に最近変化が訪れた。

 

「違うわよ、浅野君。この問題はね……」

「え?は、はい……」

 

 肩にそっと手を置かれ、背中には柔らかな膨らみが押しつけられ、気恥ずかしさや、思春期男子としての正常な反応で、頭の中が沸騰しそうになる。

 それに、姉とは比べものにならないくらい甘く大人な香りがした。

 

「どうかしたの?」

「い、いえ……何でもありません」

「そう……」

 

 その大人の女性は僕から離れ、残り香だけがその場にふわふわ留まっていた。

 そんな状況でも、手だけは動かし、何とかノートだけは必死にとり続ける。これ以上成績を下げるのは非常にまずいからだ。

 そこで、チャイムの音が鳴り響いた。

 

「はい、今日はここまで。皆、明日の授業の予習忘れないように」

 

 彼女の淡々とした言葉に対し、まばらに「はーい」という返事が聞こえてくる。

 彼女はそれに対し、小さな笑みを見せた後、軽やかな足取りで教室をあとにした……のだが……

 

「…………」

「っ」

 

 去り際、扉を閉める直前、眼鏡越しに真っ直ぐな瞳がこちらをはっきりと捉えていた。

 彼女の名前は、森原唯。僕の所属するクラスの担任でもある国語教師だ。艶やかな長い黒髪に、眼鏡の似合う知的な美貌。スーツ越しにうっすらとわかるしなやかなプロポーション。わかりやすい授業に、一見クールだが話しかけると優しく対応してくれたりと、男女問わず生徒から大人気の先生だ。そして、部活に入っていない上に、学校生活への興味が薄れつつある僕からすれば、本来ホームルームと授業以外にほとんど関わることのない存在、のはずだった。

 しかし、そうではなかった。

 最近僕の生活に起こった変化……それは……

 普段クールな森原先生が、授業やら何やらで、やたらと僕にくっついてくるようになったことだ。

 

 *******

 

「はぁ~、森原先生の授業って緊張するよな~」

「ああ、わかる。私語厳禁っつーか、物音立てたら怒られそうな……」

「まあ、授業はわかりやすいんだけどな」

 

 近くで駄弁っている長野君、長浜君、長塚君の話にこっそり耳をかたむけながら、窓の外に目をやり、安堵の溜息を吐く。

 よかった。今日も誰にもばれていないみたいだ。

 そう、先生の過度な密着は、奇跡的に誰にもばれていない。ていうか、ばれてたらやばい。何とか平穏だけは保っている僕の学校生活にも、想像もしたくないようなドス黒い暗雲が立ちこめるだろう。

 ほっとしたところで、いつものように思案する。

 ……先生は何でくっついてくるんだろう?

 

 *******

 

 初めてくっついてきたのは新学年のクラス発表の日だった。

 クラスメイトが変わっただけで、他は何も変わらない日々が続くのだろうと、諦めの篭った暗い溜息を吐き、いつも通り真っ直ぐ帰宅しようとしたその時……

 

「浅野君、少しいいかしら?」

「あ、はい……」

 

 人気者であると同時に、クールで知られている先生に、いきなり名指しで呼ばれ、そのことで周りの視線をちらちら浴びながらついて行くと、朝自分のクラスを確認した掲示板の前だった。

 

「これを外したいのだけれど、手伝ってもらえるかしら?」

「あ、はい……」

「浅野君は背が高い方だから。多分大丈夫」

「はあ……」

 

 確かに170後半だけど、まだ高い人はいるような……帰宅部だからかな。放課後ヒマだし。

 先生は表情はそのままで、首を少しだけ傾げた。眼鏡のレンズの向こう側にある瞳は、真っ直ぐにこちらを捉えたままだ。

 

「ダメだった?」

「あ、いえ、大丈夫で!やります」

「じゃあ、上の方からお願い」

「はい」

 

 作業の方はすぐに終わり、集めた物を職員室に持って帰り、備品を倉庫に入れている途中で、異変が起きた。

 早く帰ろうと思い、磁石を適当な戸棚に入れようとすると、突然手を掴まれた。

 

「それはこっちの棚よ」

「あ、はい、すいません」

 

 いきなり頭の奥まで刺激するようなひんやりした感触……というか女性との接触に緊張してしまう。くっ……これだからモテない男は……頼むから落ち着いてくれ……!

 

「ちょっとごめんね」

 

 今度は肩と肩が触れ合い、横を見た僕は、間近に先生の顔があることに驚き、危うく変な声が出そうになった。や、やっぱり……美人すぎる……同じ人間とは思えない。

 触れ合う肩と肩に意識を集中すると、それだけで意外なくらいに華奢で柔らかな身体を感じることができた……って何を考えてるんだ、僕は!集中集中……。

 

「……どうかしたの?手が止まっているけど」

「い、いえ、何でもないです、すいません」

「そう。お願いね」

 

 慌てて返事をし、作業に戻る。離れた後も、しばらく肩には温もりがはっきりと残っていた。

 やがて、作業は終わり、ようやく帰れるという解放感と正体不明の名残惜しさが胸の中に沸き上がる。何だ、このむずむずする感じ……。

 倉庫の鍵を閉めた先生は、にっこりと優しい微笑みを向けてきた。

 

「浅野君、手伝ってくれてありがとう。助かったわ」

「は、はい……」

「それと……末永……一年間、よろしくね」

「……はい」

 

 今、何か言い間違えなかったか?クラスメートの末永君の名前が出てきたような……まあ、いいけど。影が薄い自覚はあるし。

 

「じゃあ、気をつけて帰りなさい。また明日」

「はい。失礼します……」

 

 その柔らかな笑顔は、家に帰っても鮮明に脳裏に焼き付いたままだった。

 これが僕と森原先生の初接触。

 この日を境に、僕の灰色の日々が少しずつ、仄かに彩られていく。



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補習室

 やってしまったぁぁ~~~~~!!!

 

 浅野祐一 現代文小テスト 0点

 

 も、もちろん実力で0点を取ったわけじゃない。さすがにそんなギャグ漫画みたいなことはない。

 その……ついつい寝落ちしてしまいました。

 今年こそは!と思い、一念発起して、日を跨いでもカリカリ予習していたのだけど、肝心の試験中に寝落ちしてしまったという本末転倒な結果である。

 ……とりあえず……小テストでよかった。

 ショックは大きいけど、とりあえず自販機でジュースでも買って気持ちを……

 

「浅野君」

 

 教室を出たところで背後から声をかけられ、肩がびくんと跳ねる。

 振り向くと、ファイルを胸元に抱えた森原先生がいた。眼鏡をかけ直すだけの単純な動作も、知的な振る舞いに見え、つい見とれてしまう。いや、見とれてる場合じゃない。絶対に怒られる……!

 廊下に足を縫い付けられたように動けずにいると、先生はすたすたと距離を詰めてきて、無表情のまま、いつもの声音で話しかけてきた。

 

「小テストの件で。今日、居残りいいかしら?」

「……は、はい」

「じゃあ、放課後に補習室まで来て」

 

 先生はそれだけ言い残し、軽やかな足取りで廊下の角を曲がっていった。

 ……補習なのは仕方ないけど、それよりも先生の怒ってるかどうかわからないクールさの方が……うん、めっちゃ怖い。

 

 *******

 

「失礼します……」

 

 放課後になり、先生に後ろについて真っ直ぐに補習室へと向かう。いくら皆の憧れ・森原先生の補習といえど、補習は補習だ。さっさと終わらせたい。いや、僕が悪いんだけど……。

 もちろん先生はそんな僕の心情など知る由もなく、淡々と補習の準備を始めた。

 

「そこに座って」

「はい」

 

 早く終わらせる方法はただ一つ。とにかく真面目にやることだ。そもそも予習はやっていたのだから、集中さえすれば、早く終わるはず……!

 なんて考えたその時……

 

「じゃあ早速始めましょう」

「っ!」

 

 正面に座るかと思った先生が、何故か隣に座ってきた。

 しかも…………やたら近い!!

 いや、近いどころか肩と肩がぴったり触れ合ってる!!

 

「どうかしたの?」

「な、何でもないです……」

 

 そんな至近距離で話しかけられると何も言えなくなるのですが……そう思いながら隣を見ると、当たり前だけど先生の横顔がすぐ傍にある。

 やっぱり森原先生ってすごく綺麗だと、改めて思った……睫毛とか長くて、鼻もすらりと……

 

「浅野君?」

「あ、すいません!」

「集中して。今から、もう一度小テストの問題の範囲を……」

 

 先生はいつもと全く変わらないクールさのまま、甘い香りで補習室を包み込み、授業の復習と小テストのやり直しをしてくれた。

 

 *******

 

「……うん。合格」

「よしっ!」

 

 思わずガッツポーズをしてしまう。

 だが、先生がじぃ~っとこちらを見ているのに気づき、すぐに引っ込めた。

 その漆黒の瞳からはどんな感情も読み取れなかった。まあ、元々そんな能力ないんだけど。ものすごい美人だということしかわからない。

 窓から射し込む夕陽にほんのり赤く照らされた先生は、少し考える素振りを見せた後、静かに口を開いた。

 

「てっきり、わからないから眠っているのかと思ったのだけど……」

「あ、いえ、その……ごめんなさい」

 

 夜遅くまで勉強していたとはいえ、眠っていたのは事実なので、言い訳のしようがない。

 俯いていると、先生が再び距離を詰めてきて、今度は太ももの辺りもくっつけてきた。

 先生の顔をすぐ近くに感じ、とてもじゃないが横を向けそうもない。

 

「浅野君」

 

 耳に直接声を吹き込まれる感覚がして、体が硬直する。今さらながら、何で先生は……

 

「私の授業、つまらなかった?」

「え?」 

「その……いつも真面目なあなたが眠ってしまうものだから……」

「そ、そんなことないです。その……」

「?」

「えっと……先生の授業がわかりづらいとかはないです!あの……先生の授業は……」

「……もしかして……夜遅くまで予習してた?小テストも思ったより点数が良かったし」

「えぇ!?……いや、その……」

 

 いきなり図星をつかれ、思わず先生の方を向いてしまう。

 互いの息がかかりそうなくらいに接近した顔に驚きながらも、目がばっちり合って離れなかった。

 その黒い瞳はクールなイメージとは裏腹に優しく、それでいて胸を強く高鳴らせる。

 僕が動けずにいると、先生のほんのり紅い唇が動いた。

 

「そう……頑張り屋ね。でも、無理しすぎは良くないわ。こういうのは、一時的な頑張りよりも、できる範囲で継続的に積み上げた方が効率が良いの」

「は、はい、わかりました」

「それじゃあ、今日はもう帰っていいわ。お疲れ様。夜更かしは程々に、ね?」

「はい……失礼します……」

「ええ、また明日。帰り気をつけてね」

 

 *******

 

 ゆっくりと補習室の扉を閉める。

『頑張り屋ね』

 ……久々に人に褒められた気がする。

 その温かい響きは、下校中も自分の部屋で寝転がっていても、しばらく頭の中で、繰り返し繰り返し鳴り響いていた。

 

 *******

 

「顔……近かった……緊張した」

 

「……早く明日にならないかな」

 



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相合い傘

「はあ……」

 

 公園の東屋で雨宿りをしながら、一人溜息を吐く。

 降水確率50パーセント?大丈夫大丈夫!なんで考えて、傘を持たずに家を出たのが失敗だった。まさか、ここまでどしゃ降りになるなんて……こういう時、傘を持って行くと晴れることがよくあるので、つい調子に乗りました。

 家からはまだ結構距離があるし、本を買っているので、絶対に濡らしたくない。さて、どうしたものか……。

 

「浅野君」

 

 ここで読書に耽って雨が止むのを待つ?論外だ。いつ誰が来るかもわからない場所で、萌え系ライトノベルを読む勇気は僕にはない。クラスメートに遭遇したら、絶対気まずい空気になる。何でもオープンにすればいいわけじゃないと思うんだ……。

 

「浅野君」

「あ、はい……って、うわっ!!」

 

 いつの間にか、隣に誰かがいて、驚いた僕は危うくベンチから転げ落ちそうになる。

 

「……大丈夫?」

「だ、大丈夫です…………先生」

 

 いつの間にか僕の隣に座っていたその人は、僕の通う高校で、男女問わず皆からの憧れの存在の森原唯先生だ。先生はいつものスーツではなく、白いTシャツに青いデニムというラフな恰好をしている。

 そういえば先生の私服姿見るのは初めてだ。かなり新鮮な気分になる。

 貴重なものを見れた喜びに浸っていると、肩に温かいものが触れてきた。

 見てみると、先生が肩をくっつけてきて、僕の手に握られた書店の袋をじぃ~っと見ていた。

 距離を取ろうとしても、先生の顔が間近にあるという事実に緊張して、上手く体を動かせない。

 

「浅野君も、本屋に行ってたのね」

「え、ええ、まあ……せ、先生もですか?」

「ええ。私は欲しいのが見つからなかったけど……浅野君はどんな本を買ったの?」

「え?あ、いや……その……」

 

 やばい。何故かすごい興味を持たれてる。無表情なのに、何故かそこだけわかる。てか、本当に何故くっついてくるんだぁぁ!!?

 先生の柔らかな感触と甘い香りで思考回路はガンガンかき乱されているが、何とか適当な答えを口にする。

 

「……漫画です」

「…………そう」

 

 今、少し間があったのが気になる。

 やましいことなど何もないはずなのに、内心テンパっていると、先生は立ち上がり、僕の肩に手を置いた。

 

「そろそろ行きましょう」

「え?行くって……」

「傘が無くて困っていたのでしょう?浅野君のことだから、降水確率50パーセント?大丈夫大丈夫!なんて考えて外出してしまったのかと思ったわ」

「いぃっ!?」

「どうしたの?」

 

 心が読まれてる!?

 

「さあ、早く行くわよ」

「あ、は、はい……」

 

 *******

 

「あのー、先生……?」

「どうかしたの?」

「僕はこの辺からなら走って帰れますので……」

「ダメよ。濡れて風邪ひいたらどうするの?それより、もっとこっちに来て」

「え?でも……」

「はやくしなさい」

「は、はい……!」

 

 大人しく傘の下で体を縮こませながら歩く。

 …………先生の傘ちっちゃい!!!

 ちっちゃすぎて、さっきみたいに肩と肩がぴったり合わさっている。

 歩く度に、先生の息づかいが雨音を突き抜けて聞こえてくる。

 あと、こんな状態を誰かに見られたら……なんて、綱渡りをしているような緊張感がやばい!

 

「浅野君」

「は、はい……」

「道はこっちで合ってるかしら」

「あ、はい!大丈夫です!てゆーか、すいません。先生、遠回りになるんじゃ……」

「大丈夫よ。多分、そんなに変わらないから」

「え?」

「さ、早く行きましょう。その本、濡らしたくないのでしょう?」

「はい……」

 

 先生、僕の家知ってるのかな?いや、まさか……

 僕は先生と密着状態のまま、降りしきる雨の中を少し早足で歩いた。

 

 *******

 

「あ、先生。ここです!」

 

 自分の家の前で立ち止まると、先生は無表情のまま、こちらを見ずに頷く。きっとおいしい時間だったんだろうけど、緊張やら何やらで、それを実感できなかった……。

 僕は少し距離をとり、先生に頭を下げた。

 

「ありがとうございます!でも、本当に遠回りじゃなかったんですか?」

「平気よ。だって……」

 

 先生はこともなげに言うと、僕の家の正面の家を指さした。

 

「私、ここに住んでるから」

「……………………え?」

 

 それだけ言い残し、先生は軽やかな足取りで自分の家の中へと入っていった。

 傘……返さなきゃ。

 

 *******

 

「あ、相合い傘しちゃった♪ふふっ、今日はついてるわ……あ、傘……」



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保健室

 

「ゲホッ……ゲホッ……」

 

 あれ?おかしいな、朝は何ともなかったのに……。

 なんか寒気がするし、頭がくらくらする。視界もぼんやりとして、文字が読みづらいような……。

 ……保健室行こうかな……でも、まだ行くほどでもないような……今日はいつもより授業も少ないし……。

 

「浅野君」

「…………え?」

 

 自分を呼ぶ声に振り向くと、そこには森原先生がいた。

 

「大丈夫?」

 

 そう言いながら、こちらの顔を覗き込んでくる先生の表情は、とても心配そうに見えた。普段と違うその表情は、もしかしたら、頭がくらくらしてそう見えただけかもしれないけど。

 ぼんやりと先生の顔を見ていると、両方の頬をひんやりした何かが挟み込んできた。

 そして、それはすぐに先生の手だとわかった。

 いつもなら恥ずかしさで顔が熱くなるけど、今は頭がくらくらしてそれほど気にならなかった。

 

「ちょっと失礼するわね」

「へ?…………っ!?」

 

 先生はそのまま顔を近づけ…………自分のおでこを僕のおでこにくっつけてきた。さすがにこれは緊張する。

 目の前にある先生の顔から目を逸らせずににドギマギしていると、やがて額と額は離れ、また心配そうな瞳が僕を覗き込んできた。

 

「やっぱり熱がある……保健室まで行きましょう。立てる?」

「あ、はい……」

 

 先生に付き添われながら、何とか僕は保健室へと向かった。

 

 *******

 

「……よしっ!」

 

 私は特に意味なく気合いを入れ、勢いよく教室を出た。

 私の名前は奥野愛美。運動神経にはそこそこ自信のある女子高生。

 まあそれはさておき、今日こそ私は浅野君に話しかける……!

 事の発端は昨日の夜の電話……

 

「ねえ、アンタさぁ……」

「な、なぁに?」

「いつになったら浅野君に告白するわけ?」

「ぼふぁあっ!?」

「……うら若き乙女が何ちゅうリアクションしてんのよ」

「そっちのせいじゃん……あ~、びっくりしたぁ」

「どうやら図星みたいね。じゃ、いつ告白すんの?」

「ちょ、こ、告白って……私、浅野君と会話したこともないんだよ!?」

「むしろ、何でそんな奴が好きなのよ……」

「いや、その……だからこれは好きとかじゃなくて、そう!気になるの!何となく気になるだけなの!」

「気になる……ねえ」

 

 彼の事が気になるようになった理由は今は置いといて、とにかく声をかけなきゃ。なんか今日きつそうだったし……。

 多分、浅野君が行った方向はこっちで間違いないは……ず……。

 廊下の角を曲がった私は、衝撃的なものを見てしまった。

 

 浅野君が……森原先生と……キス、してる。

 

 ……え!?何で!?

 何で、校内人気ナンバーワン教師・森原先生と、あの地味な浅野君が!?

 てか、何でこんな不特定多数の人が通る場所で!?

 現状を上手く呑み込めない私があたふたしていると、二人は立ち上がり、階段を降りていった。

 去り際に、森原先生が一瞬だけこっちを見た気がした。

 

 *******

 

 保健室に入ると、保健の先生は不在らしく、僕はそのままベッドに寝かされた。

 先生はベッドの傍に立ち、眼鏡越しに優しい眼差しを向けてくる。

 

「多分、そろそろ戻ってくるから」

「はい……」

「……あまり、無理してはいけないわ」

「……すいません」

「謝らなくていいの。その……私は君の担任なんだから。つらい時は言って?」

「……はい」

 

 先生の白い手が、僕の額にそっと置かれる。ひんやりした柔らかいものが、火照った頭の中をじんわり冷やして、体の芯から癒されていく気がした。

 

「……おやすみ」

 

 その温かな言葉と、ぼやけた視界の中に見えた、優しすぎる笑顔に見守られ、僕はゆっくりと眠りについた。



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お見舞い

「大丈夫よ。もうすぐだから……」

「ゆっくり休んでね」

「私は……………………だから」

「おやすみ…………ん」

 

 何度か声が降ってきて、その後に柔らかな温もりが頬に触れた気がした。

 ふわふわした感覚に支配されたこの場所は、きっと甘い夢の中なんだろうと思う。

 甘い何かが敷きつめられていて、その中から一つだけほんのり苦い箇所を探すような、不思議な夢。

 その夢の中で、僕は再び意識を手放した。

 

 *******

 

「…………夕方、か」

 

 あの後のことははっきり覚えていないけれど、とりあえず僕は早退し、その翌日も学校を休み、今に至る。

 ベッドからむくりと起き上がると、体がだいぶ楽になっていることに気づく。これなら明日は問題なく登校できそうだ。

 

「祐一~」

 

 大きく伸びをしていると、母さんがノックと共に部屋に入ってきた。これじゃあノックの意味がない。てか思春期男子の息子の部屋に入るのだから、最大限気を遣って欲しい。

 

「あら、起きてるわね。具合はどう?」

「……一応、もうそろそろ大丈夫っぽい」

「そう、じゃあよかった。アンタにお客さんが来てるよ」

「え……!?」

「いや、どんだけ驚いてるのよ。はい、先生どうぞ」

「……こんにちは」

 

 母さんの背後から、ひょっこり顔を出したのは、なんと森原先生だった。クラスメートが家に来るとは思えないので、まったくの予想外というわけではないのだが、いざこうしていきなり登場されると、どうしようもなく驚いてしまう。

 

「ふふっ、よかったじゃないの。美人な先生にお見舞いに来てもらえて。それじゃ、ごゆっくり~」

 

 母さんは先生に頭を下げ、こちらにひらひら手を振り、階段を降りていった。お、おい、放置ですか。まだ少しテンパり気味なんだけど……。

 あたふたしていると、先生は遠慮がちな瞳をこちらに向けてきた。

 

「あの……入っても大丈夫かしら?」

「あ、はいっ、ど、どうぞ……」

 

 本当なら小一時間かけて整理整頓したいところだが、忙しい先生がわざわざ来てくれたのだから、そんなことをしている場合じゃない。

 先生は部屋に足を踏み入れ、ドアを閉めると、ベッド脇にちょこんと座り、いつものように顔を覗き込んできた。

 

「…………」

「…………」

 

 …………な、なんか、気まずい!しかし、先生の漆黒な瞳は、お構いなしに僕をじっと捉えたまま停止していた。

 そんなにじっと見られても、何も出てこないし、どうすればいいかわからないんですけど……。

 このまま沈黙が続いたら、どうにかなってしまいそうだったので、僕から口を開くことにした。

 

「えっと……わざわざありがとうございます……先生、忙しいのに」

「平気よ。今日はもうやることもなかったし。家が近いから」

「あ、ああ、そうですね」

 

 最近知った事実であり、ちょっとした……いや、かなりの謎。

 未だに現実味がないが、先生はうちの真向かいの家に住んでいるらしい。

 しかし、何故気づかなかったのか。

 いつから住んでいるかは知らないけど、真向かいさんなら、一回くらい見かけていてもよさそうなんだが……。

 すると、先生の視線がやけに落ち着かないのに気づいた。

 

「…………」

「どうかしたんですか?」

「いえ、何でもないわ……」

 

 なんかめっちゃキョロキョロしてるんですけど!?

 いや、落ち着け浅野祐一。別に見つかって困る物は……あるけど、しっかり隠してある。先生だって、いきなり生徒の部屋を漁ったりはしないだろうし……。

 

「ねえ、浅野君……」

「……は、はい」

「君はこういう女性が好みなの?」

「はい?」

 

 先生が掲げて見せたのは、僕の秘蔵本第三号だった。

 表紙には、茶髪で胸が大きいギャルっぽい女の人が写っていて、誘うような挑発的な視線をこちらに向けている。

 あまりにベタなシチュエーションに、僕は自分の顔が紅くなるのを感じた。

 

「な、何でそれを!?」

「ベッドの下からはみ出していたわ」

「あ、えと……すいません!」

「どうして謝るの?」

「いや、その……何というか……」

「それと、まだ私の質問に答えてないわ」

「え?」

「君は、こういう女性が好みなの?」

 

 先生がさらに顔を近づけてくる。真っ直ぐに澄んだ双眸が、今度は僕の心を捉えた。

 その視線には、これまでとはどこか違う感情が含まれている気がした。先生の淡い薄紅色の唇が、顔の近くにあるのに、何故かそれどころじゃない。

 自然と僕は口を開いていた。

 

「別に……そういうわけじゃ……いや、嫌いじゃないですけど、絶対にそういう感じの人と付き合いたいとかじゃなく……」

「……そう」

 

 先生はベッドの下に秘蔵本を戻した。これって一体どんなシチュエーションだよ。

 

「突然変なことを聞いてごめんなさい」

「…………いえ、大丈夫、です」

「お詫びにならないかもしれないけど……」

「せ、先生?…………」

 

 僕は言葉を失った。

 なんと……あの森原先生が……トレードマークの眼鏡を外していた。

 眼鏡を外した先生はやっぱりそのままでも美人で……でも、ほんのり頬を染めてるのが可愛らしくて……ていうか、何でいきなりめを外したのかわからなくて……

 

「き、君の知られたくないところを知ったから、私も、あまり見られたくないところを見せるわ……これで、おあいこ」

「おあいこ……ですか」

「そう、おあいこよ」

 

 そう言って、先生は再びスチャッと眼鏡をかけた。

 

「じゃあ、もう行くわね。お大事に」

「あ、はい……ありがとうございます」

「…………」

 

 ドアを閉める際に、先生が何か呟いた気がしたが、よく聞こえず、部屋には弛緩した空気が漂い、仄かに甘い香りも残っていた。

 夜、眠りにつくまでずっと、先生が初めて見せた素顔が頭の中に焼き付いて、胸が高鳴っていた。



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クラスメイト

 翌朝、元気になった僕はいつも通りに登校したけれど、そこにはいつもと違う何かがあった。

 その何かとは……

 

「大丈夫?ノート、取れてる?」

 

 シャーペンを持つ手に、そっと白くて柔らかい手が添えられ、肩の辺りに、意外なくらい豊かな膨らみが押しつけられる。おまけに耳元で話しかけてくるものだから、息がかかり、やたら耳がくすぐったい。

 いつもと違う何かとは……そう、先生の密着具合が激しくなってる!

 ていうか、本当に何で誰も気づかないんだ!?クラス全員で結託しているのか!?先生が何か不思議な力でも持っているのか!?

 とにかく、甘い香りやら柔らかい感触やらで、病み上がりという事実すら、すっかり意識の向こう側に飛ばしてしまい、僕は騒がしい学校生活へと戻った。

 

 ******* 

 

「あの……あ、浅野君?」

「…………」

「……浅野君!」

「え!?あ、ああ、僕?」

「そうだよ。君以外に浅野って名字の人、このクラスにいないでしょ?」

「……ああ、うん。確かに」

 

 ああ、びっくりした……。

 女子に話しかけられるのが久しぶりすぎて、自分に話しかけてるわけじゃないと思い込んでたよ……うん、悲しすぎる。

 僕に話しかけてきた女子の名前は奥野愛美さん。中学時代から同じ学校だけど、これといった接点はない。ていうか、見た目もよく、文武両道で知られる彼女と、地味な僕が接点などあるわけもない。

 見た目も華があり、肩ぐらいまでの茶色っぽい髪や、スカートから伸びたしなやかな脚は活発そうな印象を見る者に与え、それが僕のようなタイプの人間には威圧感と化す。うん、僕のせいだ。ごめんなさい。

 奥野さんは、何故か視線をキョロキョロと落ち着きなく彷徨わせながら、ハキハキしたイメージとは真逆のオドオドした感じで話しかけてきた。

 

「あの……もう、体のほうは大丈夫?」

「……え?ああ、うん、だ、大丈夫!」

 

 落ち着け僕!ただ体の調子を聞かれているだけじゃないか!そこまで挙動不審になることじゃない!

 奥野さんは特に気持ち悪がることもなく、やわらかな笑顔を見せる。

 

「その……これ……」

「?」

「昨日の分のノート。結構大事なところやってたから……よかったら……」

 

 おお……まさかこんなタイミングで人の優しさに触れるとは……たまには学校も休むもんだな……。

 

「あ、ありがとう、昼休みまでには写して返すよ」

「そんなに焦らなくても大丈夫だよ。それと、浅野君……聞きたいことがあるんだけど」

「あ、うん……何?」

「その、浅野君って……森原先生と……結構仲良かったりする?」

「…………」

 

 一瞬でも『浅野君……今、付き合ってる人とかいる?』って聞かれると思った僕を、誰が責めることができよう……。

 そして、この場で起こった勘違いも……

 

「もしかして……見られてた?」

「う、うん……たまたまなんだけど」

「……ちなみに見たのは一回だけ?」

「え?一回だけ……って、そんな何回もしてるの?」

「え、えーと、まあ、その……今年に入ってから……何回かは」

「…………!」

 

 奥野さんは驚愕していた。無理もない。かと言って、見られているのに隠し通せるほど器用じゃない。ここは何か適当な理由を……

 何て考えていると、奥野さんが耳元に顔を寄せてきた。柑橘系の甘い香りがふわりと漂い、緊張してしまう。

 しかし、奥野さんはそんな事はお構いなしに、耳打ちしてきた。   

 

「もしかして……二人って付き合ってるの?」

 

 いきなりな質問に体が硬直する。

 なんか疑われてる!?

 事実無根すぎる!

 耳元に顔を寄せたままの奥野さんにドギマギしながら、僕は思考回路をフルに働かせた。

 変な誤解をされてるのは事実だし、何とか先生の評判にも傷がつかないように……ない知恵を絞り尽くしてでも……!

 

「……ち、違う違う!そういうんじゃなくて、つい流れで」

「え!?流れで……あんなことを!?」

「ほ、ほら……教師と生徒だし、つい授業に熱が入って、距離感がおかしくなったというか」

「授業の一環なの!?あ、浅野君って意外と……」

「多分、よくあることじゃないかなあ……あはは」

「ない!絶対にないよ!」

 

 まずい。誤魔化せてる気がしない。

 何か言わなきゃ……!

 

「お、奥野さん……」

「?」

「……どちらのせいでもないんだ」

「何で悟った表情をしてるの!?も、もしかして……私が純粋すぎるの?…………うわあああん!!」

 

 奥野さんは何故か頭を抱え、教室を飛び出して行った。一応、誤魔化せたのかな?……あれ?

 そこで、背筋に悪寒が走る。

 

「…………」

 

 原因不明の圧力を感じ、それを感じた方向に目をやると、廊下から森原先生が、こっちをじっと見つめていた。いつも通りにクールな雰囲気なんだけど、どこか違う気がする。どうしたんだろう……。

 結局休み時間が終わるまで、じっと見つめられていた。



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「浅野君」

「は、はい……!」

 

 帰りのホームルームが終わり、教室から出ようとすると、森原先生に声をかけられた。ちょっと前の休み時間に、廊下から見られてたけど、何か関係があるんだろうか。

 先生は、僕の前まで歩いてきて、割と近い距離でピタリと立ち止まり、上目遣いに見つめてくる。普段なら、魔法でも使っているかのように、誰にも見られないやりとりだけど、今日は違った。

 

「……浅野君と先生が……見つめ合ってる。やっぱりあの二人……」

 

 なんか背中にめっちゃ視線感じる!!

 しかも、声からして奥野さんっぽい。やっぱり誤解はまだ解けていないみたいだ。

 前と後ろから視線で突き刺され、身じろぎ一つできないでいると、先生はそっと目を伏せてから、再び目を合わせ、やっと口を開いた。

 

「病み上がりだから、帰り気をつけて。また明日ね」

「あ、はい……ありがとうございます」

 

 淡々とした口調で告げて、先生はその場を去った。

 その颯爽とした足取りに、僕は何故か違和感を感じてしまった。

 

 *******

 

 真っ直ぐ家に帰り、予習やら復習やらをすませ、ベッドに寝転がっていると、そういや先生って真向かいの家に住んでるんだという事実を思い出す。

 母さんに聞いてみたものの、つい最近まで空き家だと思ってたとか……僕もだけど。

 ていうか、あの人……謎だらけじゃんか。

 一番の謎はやたらくっついてくることなんだけど……。

 ……もしかして……もしかしてだけど。先生……僕の事……。

 いや、ないか。

 さすがに勘違いも甚だしい。

 これはきっとあれだ。思春期のモテない男子特有の、優しくされると好きになるアレだ。

 いや、それだと僕が先生を好きみたいじゃんか。

 ……いかん。頭の中がこんがらがってきた。

 とりあえず、コンビニでも行って立ち読みでもして、頭の中をリセットしよう。

 

 *******

 

「あ…………」

 

 玄関の鍵を閉め、いざコンビニへ!と一歩踏み出したところで、まさかの遭遇。

 相手はもちろん森原先生である。

 

「こんばんは」

「……こ、こんばんは」

 

 夕陽もだいぶ沈みかけているので、夜の挨拶を交わし、そのままスルー……

 

「待ちなさい」

 

 できなかった。

 

「君は病み上がりでしょう?こんな時間にどこへ行くつもり?」

 

 先生の言うことがもっともすぎて反論できない。

 気まずそうに首筋に手を当てると、いきなり先生がこちらへ一歩踏み込み、ひんやりした手で額を覆ってきた。

 

「……もう大丈夫みたいね。でも、甘くみてはいけないわ。急な用事でなければ、明日にしなさい」

「はい……」

 

 まあ、特別な用事とかじゃないし、明日でいいか。病み上がりなのは事実だし。先生もやけに目がとろんとしてるような……あれ?

 

「せ、先生……失礼します……!」

「え?」

 

 僕は先生の額に手を当てた。学校で感じた違和感の正体に確信を持ったからだ。

 

「これって……先生、熱が……」

「あわわ……え?あ、その……これは……」

「ごめんなさい。多分、うつしたの僕ですよね」

 

 明らかに熱を感じさせる額に手を添えたまま、先生に精一杯謝る。何やってんだ僕は……先生、こんなに顔赤くなって……絶対に具合悪い……。

 しかも熱のせいか、先生がいつものクールさを失い、あわあわしている。こんなに目が泳いでる先生、初めて見た。

 一瞬でも「やばい、ハンパなく可愛い!!」とか思ってしまった僕は、なんて不謹慎なクソ野郎なんだ。

 自分で自分の頬をビンタすると、先生が驚きに目を見開く。

 

「……どうしたの?」

「いえ、昔からの癖です」

「……君と出会ってからずっと……見てたけど、そんな癖あったかしら?」

「とにかく中に入りましょう。ここで立ち話してたら、さらに具合が悪くなります」

 

 先生を促し、中に入りながら、内心慌てまくっていた僕は今さっき、大事な何かを聞き流してしまった気がしていた。

 ちなみに、自分で自分をビンタする癖などない。

 

 



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快復

 どうしよう……。

 

「……どうかした?」

「いえ、何でも……」

 

 その場の流れで付き添う形になっちゃったけど、よくよく考えたら、何で先生の家に僕まで入っちゃってるんだよ!考えすぎかもしれないが、あまりよくないことのような気がする。

 とはいえ、今は病人の先生を放ってはおけない。

 日頃の恩を返したい気持ちを確認し、ひとまず先生に声をかける。

 

「あの、先生……何か必要な物があれば、家から持ってきますけど……」

「大丈夫よ。薬は揃えてあるから」

「わかりました」

 

 うん、もう僕にできることは何もなくなった。

 やっぱり僕は、こういう場面でしっかりと人を看病できるような主人公キャラじゃない。むしろ、ここにいても邪魔になるだけなので早々に退散するべきだ。

 

「じゃ、じゃあ、僕は帰ります。先生、お大事に……っ」

 

 先生に背を向け、お暇しようとしたその時……。

 背中に柔らかな温もりがしがみついてきた。

 そして、振り向かずとも、その温もりが何なのか、すぐにわかった。

 

「え?あ、え?せ、先生?あの……」

「……ごめんなさい。熱のせいで少しふらついてしまったわ」

 

 結構僕と先生の距離が空いてたと思うんだけど……。

 いや、そんなことはさておき…………う、動けない……!

 背後からしがみつかれているのも理由の一つだけど、それ以上に、いつもより強く押しつけられている先生の胸や、背中をじんわりと濡らす湿った吐息なんかが、一丸となって僕の本能的な何かを直に刺激してくるからだ……いや、今は忘れろ!とにかく運ばなくちゃ!

 

「だ、大丈夫ですか?早くベッドに行きましょう!」

「…………」

 

 先生から返事はない。目を向けると、さっきより頬が紅い気がする。

 そこで僕は自分の言ったことに気づいた。 

 

「いや、今のはそういう意味ではなくて……!」

「ふふっ、まだ何も言ってないわ。慌てすぎよ」

「す、すいません」

「もしかして……変なこと……考えてた?」

「いえ、そんなことは……」

「じゃあ……考えてくれなかった?」

「え?」

 

 最後の方は消え入りそうな声で、よく聞こえなかった。

 先生の体が離れたので振り向くと、やわらかな微笑みを浮かべていた。いつか見せてくれた、あの包み込むような、大人の微笑み。眼鏡の向こう側の瞳は澄んでいて、僕の心なんて見透かされていそうな気がした。

 やがて、いつもより火照った唇が、優しく言葉を紡ぐ。

 

「引き止めてごめんなさい。それと、心配してくれてありがとう」

「そんな……僕は何もしてないですし、その……すいませんでした。風邪うつしちゃって……」

「別に君からうつったと決まったわけじゃないし。仮に君からうつされたとしても責める気はないわ。私も担任なのに……君が頑張ってるのは昔から知ってたのに、無理していたことは気づけなかった」

「…………」

 

 頑張ってるの、昔から知ってた?

 どういうことだろう?

 考えながら扉に手をかけると、背後から声がかかった。

 

「じゃあ、おやすみなさい」

「はい、おやすみなさい。あの……ゆっくり休んでください」

 

 結局その後、ベッドの中で考え込んでも、何も出てこなかった。

 

 *******

 

 次の日、先生は学校に来なかった。

 副担任の新井先生から森原先生の欠勤を聞かされた僕は、罪悪感やら何やらで悩んでいる内に、その日はあっという間に過ぎた。

 

「あ、浅野君……」

「……奥野さん」

「大丈夫?今日、ずっと俯いて、なんか落ち込んでるように見えるけど」

「……うん、大丈夫だよ」

 

 この前の事もあり、もう話しかけられることはないかと思っていたけど、こうやって話しかけてくれる奥野さんは、きっと優しい人なんだろう。僕が『僕に優しい人は皆に優しい』という事実を知らなかった時代なら、うっかり好きになってたかもしれない。

 なんて考えてる場合じゃないか。

 先生……大丈夫かな?

 

「……あの、大丈夫ならいいんだけど。あの、何なら今日一緒に……って、あれ?いない……」

 

 僕は何をするべきかもわからないまま、駆け足で下駄箱へと向かった。

 

 *******

 

「はあ……はあ……」

「どうかしたの?」

「うわぁっ!」

 

 先生の家の前で、今まさに呼び鈴を押そうとしていたら、背後から先生本人に声をかけられた。いきなりすぎる。場面の描写すら碌にされていないのに。

 しかも、やたら近い。

 先生の服装が、やたら分厚そうなコートにマスク着用だから、変な威圧感がある。

 

「……この香りは……新井先生ね」

「え?」

「いえ、何でもないわ」

「先生、具合のほうは……外出て大丈夫なんですか?」

「もう平気よ。今、買い物しに少し出ていただけ」

 

 先生は右手に、そこそこ大きな買い物袋をぶら下げていた。

 近くのスーパーへ、歩いて行ったのだろう。

 まあ、何はともあれ、元気になったのならよかった。

 ほっとしていると、背中に先生の手が添えられた。

 

「浅野君」

「はい?」

「少し……寄っていかない?」

「え?でも……」

「すぐに済むわ」

 

 先生のその言葉に、僕は緊張や焦りのどこかで、少しの安心感を得ていた。



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先生の家

「お邪魔します……」

 

 昨日はいきなりの出来事で、あまり他のことを考えるヒマがなかったけれど、何というか……大人の香りがする。我ながら語彙力の無さに驚くような表現だけど。

 僕は今、綺麗な畳が敷かれた、やたら高級感のある和室に通されている。

 何となくだけど高そうな掛け軸や、何となくだけど高そうな壺や……僕には本当の価値など、到底わからない物が部屋のあちこちに置かれ、場違いな気分がして、とても落ち着かない。

 そして……いや、まあ、さっきと同じ感想だけど……大人の香りがします。

 大事なことを心の中で二回言ったところで、何かを手に先生が入ってきた。

 

「お待たせ」

「先生、それ何ですか?」

「プリンよ」

「…………」

 

 今、ドヤ顔したように見えなくもない。

 

「昨日は迷惑をかけてしまったから、そのお詫びに。君は甘い物は苦手だったかしら?」

「いえ、大好きですけど……」

「じゃあ、一緒に食べましょう」

「え?そもそも迷惑かけたのは僕の方で……」

「浅野君」

 

 先生は隣に腰を下ろし、僕の方を向いて正座した。

 ついつい、こちらも同じように正座で向き合ってしまう。

 

「昨日も言ったけど、必要以上に自分を責めるのは良くないわ。君が君自身を責めているのを見るのは、私もつらいの」

「……はい」

「だから……このプリンを一緒に食べて、『おあいこ』ということにしましょう」

「……はい、ありがとうございます」

「どういたしまして」

 

 そう言って、先生は優しく微笑んだ。学校では遠巻きに見ている微笑みが、こんなに近くにあるのが、何だか現実味がない。

 そのあまりの美しさに、頭がくらりときたけど、それを悟られぬよう、黙ってプリンを食べ始める。

 先生も食べ始め、室内は静謐な空気が流れる。

 だけど……

 

「先生……」

「どうかした?」

「いえ、その……近くないでしょうか?」

 

 いつかの補習の時みたいに、先生は僕にぴったりとくっついている。右肩や右太股に、柔らかい温もりを押し当てられた僕は、顔が熱くなるのを感じ、プリンの味がよくわからなくなっていた。

 先生の方はといえば、いつも通りの無表情で、体が触れ合っていることなど、お構いなしだった。

 

「あの……」

「気にしなくていいわ。今日休んだ分の補充…………このテーブルが小さいから気にしないで」

 

 今、補充とか何とか聞こえた気がするんですけど……。

 それでも、何故か僕は反論できなかった。

 真正面に座ればいいのでは?とか言えなかった。

 は、はやく食べてしまおう。

 

「そういえば、このプリンなんだけど……」

「?」

「メーカーが違うのよ」

「…………」

 

 ……皿に出してしまえば、全く見分けがつかない。

 むしろこれ……一緒じゃないか?てか、メーカーが違うって……。

 

「だから……」

「はい?……えっ!?」

 

 先生はプリンをスプーンで掬い、こちらに差し出した。

 

「こっちの味も確認してもらえる?」

「え?あ、でも……」

「はい」

「…………」

 

 先生の有無を言わさぬ無言の圧力に気圧され、僕はスプーンを咥える。口の中には程良い甘さが広がり……うん、違いがわからない。

 し、しかも、これって……間接キス……。

 先生の方を見ると、普通にそのスプーンでプリンを掬い、口に含んでいた。薄紅色の柔らかそうな唇が、さっきまで自分が咥えていたスプーンに触れるのを見て、ドクンと鼓動が高鳴る。

 

「…………」

 

 何故か先生はスプーンを咥えたまま、こちらをじっと見つめた。

 

「そっちの味も確認したいのだけれど……いいかしら?」

「あ、はい、どうぞ……」

 

 プリンの乗った皿を先生の方に差し出すと、先生はそれをじ~っと見つめたまま動かない。もしかして……

 僕がスプーンを顔の辺りでひらひら振ると、先生はこくりと頷いた。

 …………すごく恥ずかしいけど、やるしかない。

 手の震えを何とか抑えながら、プリンを掬い、先生に差し出す。

 

「ど、どうぞ……」

「ん……」

 

 今度は先生が僕のスプーンを咥え……何だろう……なんか、すごいいやらしいことをしている気分だ。

 スプーンから口が離れる瞬間、チラリと僕を見た先生は、頷きながら呟いた。

 

「そんなに変わらないわね」

「…………」

 

 変わらないんですか。いや、知ってたけど。

 僕は急いで残りのプリンをかき込んだけど、食べ終えた後になって、こっちも間接キスだと気づいてしまい、しばらく先生の方を見られなかった。

 

 *******

 

 帰る頃には、すっかり陽も沈んでいた。

 

「ごちそうさまでした」

「いえ、こちらも結局引き止めてしまって悪かったわね」

「大丈夫ですよ。家、すぐそこですし。今日は特にやることも……」

「課題は?」

「あ……」

「……わからないところがあったら、いつでも聞きに来なさい」

「は、はい。ありがとうございます。それじゃあ、お邪魔しました」

「ええ」

 

 その日の夜、何とか自力で頑張った。

 実際、頭の中がまだふわふわしていて、これ以上は理性やら何やらが色々とやばい。夢の中にいるみたいで……そういえば、今日も聞けなかったな。

 

 *******

 

「別に遠慮しなくてもいいのに……」



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図書室

 

 放課後、たまには図書室の本を借りようと、僕は図書室へと足を運んでいた。

 この学校の図書室は、お世辞にも利用率が高いとは言えず、たまに誰かいたとしても、数人の生徒が奥の机で自習しているだけだ。旧校舎の奥にあり、行くのが面倒なのが理由かもしれない。

 すぐに選んで帰るつもりだったけど、いざ来てみると色々と目移りしてしまい、30分ぐらい経った今でも、借りる本を決められずにいた。

 

「浅野君」

 

 図書室に立ち込める静謐な空気を突き抜けて届いた声。

 すぐに誰だかわかる、クールで落ち着いた声音に、僕はすぐに返事をした。

 

「あ、先生……」

 

 帰りのホームルームを終えてから、すぐに職員室へと向かった先生は、当たり前だけど、さっきと変わらないスーツ姿でそこにいた。ここにはどんな用事で来たんだろう?

 考えていると、カモシカのような美脚とは、こういう脚を言うんだろうな、なんて納得してしまうくらいに綺麗な脚がしなやかに動き、こちらへスタスタと接近してくる。

 

「どうかしたの?もしかして、他の授業で居眠りでもして居残りさせられてるの?」

「えっ、そう見えますか?」

「冗談よ」

「…………」

 

 真顔のまま冗談を言うのは止めて欲しい……。

 

「でも、どうしたの?自習?」

「いえ、違いますよ。たまには図書室の本を借りようと思っただけです……でも、迷っちゃって」

「そう……」

 

 そう言うと先生は、僕の隣に立ち、本棚をじっと見つめた。

 肩と肩が触れ合うか合わないかの絶妙な距離感。大人の女性のほんのり甘い香り。

 いつもならくっついてくるところだけど、今日は違うようだ。授業中はいつも通りに胸を当てられたり、手を重ねられたりしたけど……。

 いや、これだと僕が先生からの接触を待ってるみたいじゃんか!全然そんなことは!いや、悪い気分じゃない……しかし、先生との接触が日常化していることに、今さらながら驚きを感じた。

 

「どうかしたの?」

「いえ、何でも……」

「読みたい本が決められないなら、私が選んであげるけど……」

「あ、はい。お願いします!」

 

 現代文を担当している先生の薦める本なら、すごく面白そうなだけでなく、勉強にもなりそうだ。

 先生は、スイッチが入ったかのように、本棚を俊敏な動きでぐるぐる回り、10冊の本を集めてきた。

 

「はい」

「あ、ありがとうございます」

 

 先生から手渡された様々な本のタイトルを見ながら、その内容について尋ねてみた。

 

「この小説はどんな内容なんですか?」

「頑張り屋の男の子と年上女性の恋愛小説よ」

「これは……未確認生物?」

「雑学よ」

「これは……」

「女教師と男子生徒の禁断の恋愛小説よ」

「これは……未解決事件?」

「雑学よ」

「じゃあ、こっちは……」

「普通の男子高校生と近所に住む年上のお姉さんとの恋愛小説よ」

「えっと、これは……世界の立ち入り禁止区域?」

「雑学よ」

「これは、小説ですね」

「運命の出会いを果たした男の子と女の子の恋愛小説ね。ヒロインは少し年上よ」

「そして、これが……歴史上の謎の人物」

「雑学よ」

「この小説は……」

「男の子が憧れの女性教師に告白するまでの日々を描いた恋愛小説よ」

「最後に……世界の解明されていない謎100選」

「雑学よ」

 

 なるほど。小説で感性を養う以外にも、こういう雑学の本も読んでおいた方がいいのか。小説が恋愛物に偏っているのも、多分何らかの意味があるんだろう。そうに違いない。

 僕は力強く頷き、それらの本を借りる手続きを済ませた。

 ……図書委員の女子が、怪しいものを見るような変な目で僕を見てた気がしたけど、一体何だったんだろう?

 

 *******

 

「あの、先生。ありがとうございます」

「いえ、いいのよ。私もおすすめの本を生徒に教えることができてよかったわ。よかったら、感想聞かせてね」

「え?あ、はい。わかりました」

「その……感想文を書いても構わないわ」

「え!?」

「……冗談よ」

「せ、先生も冗談とか言うんですね」

「ええ、たまには」

「……あはは」

「無理に笑わなくてもいいわ」

「はい」

 

 心なしか、先生の声音がいつもより弾んで聞こえた。

 そのまま僕と先生は、他愛ない話をしながら、人気の少なくなった廊下を並んで歩いた。

 カツカツと4つの音が、バラバラのリズムで、やけに大きく響いていた。



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家庭訪問?

 

「ただいまー」

「おかえりなさい」

「あ、先生。どうも……」

 

 日曜日。

 月一回の楽しみ『一人カラオケ』で熱唱し、夕方頃家に帰ると、森原先生が居間でお茶を飲んでいた。

 青いスウェットとパーカーというラフなファッションも、何だか上品に見えてしまう相変わらずの美貌だ。クラスの皆が見てもきっと同じ感想を抱くはず。

 僕はさりげなくその姿を脳内に焼き付け、自分の部屋へ……

 

「はあっ!?」

 

 森原先生がいる!!!!!

 しかも部屋着でお茶飲んでる!!!!!

 あっ、こっちに気づいた!

 

「こんにちは、浅野君。どうかしたの?」

「い、いや、何で先生がウチにいるんですか!?」

「そりゃアンタ、ご近所さんなんだからお茶くらい飲みに来るわよ」

「母さん……」

 

 母さんが台所からカステラの載ったお盆を手に、やたら嬉しそうな笑顔を向けてきた。

 

「いやぁ、改めてじっくり見たけど、息子の担任がこんな綺麗な人だったなんて……あんまりテンション上がったもんだから、思わずお茶に誘っちゃったわ」

「……先生、うちの母さんが……なんていうか、ごめんなさい」

「いえ、浅野君のお母さんの話はとても興味深いわ」

「あら、そうかしら?バカ息子の恥ずかしい話できませんけど」

「何を話したか詳しく!!」

 

 他にもっと話題あるだろ!!

 

「気にしなくてもいいわ」

「気になりますよ!」

「はいはい。まあいいじゃん。それよか先生。もう本人帰ってきちゃったから、息子のエピソードは今度お話ししますよ」

「はい。よろしくお願いします」

 

 何だ?何を話したんだ?思い当たる節がありすぎて怖い。

 

「あ、そうだ。森原先生、お夕飯も食べてってくださいよ。旦那は単身赴任中だし、娘は県外だし、息子と二人だけだと飽きるんで」

 

 さらっと酷いな、この母親。飽きてたのか。そうなのか。

 まあ、それはどうでもいいとして……おそらく断るだろうと先生に目を向けると、口元に手を当て、何やら考える素振りを……え?もしかして……

 

「じゃあ、私に作らせてください」

 

 まさかの了承。しかも、自分が作ると言い出した。

 これにはいくら失礼極まりない母さんも申し訳なさそうな表情になった。

 

「いや~、それはさすがに……ご迷惑じゃありません?」

「いえ、料理は得意ですので。むしろ生き甲斐ですので」

「そ、そう?じゃあ、お願いします~♪」

 

 こちらもあっさり承諾。「ご迷惑じゃありません」の辺りで、顔が「ラッキー!楽できる!」とばかりに、緩みかけていた。息子だからわかる表情の変化というやつです。

 

「じゃあ……浅野君……祐一君。手伝ってくれる?」

「え?あ、その……はい」

 

 今、さり気なく名前呼びに……いや、ここは浅野家だから、母親と区別をつける為だろうけど。何でこのタイミングで?

 

「じゃあ、森原先生。よろしくお願いします。祐一、脚引っ張るんじゃないわよ。じゃ、冷蔵庫にあるものは好きに使っていいからね~♪」

「はいはい」

 

 母さんは、それだけ言い残して足早に家を出た。多分、ゲーセンにでも行くんだろう。実はうちの母親は、かなりのゲーマーなのだ。僕はあまり興味がないけれど。

 先生に目を向けると、既に立ち上がり、心なしかはりきった様子で僕を待っていた。

 

「じゃあ、始めましょうか」

「は、はい」

 

 いつも通りクールなんだけど、やはり声が少し弾んでいる気がした。これは……多分、いやきっと料理が好きなんだろう。

 

 *******

 

「…………」

「どうかしたの?」

「いえ、何でも……」

 

 先生は髪を束ね、母さんのエプロンを装着しているのだが……うん…………いい。すごくいい。嬉しくて言葉にできないくらい。

 いや、落ち着け僕。この状況は本来ならあり得ないんだから。

 

「……ゆ、祐一君、いいかしら」

 

 先生が今噛んだ気がしたけど、多分慣れない場所での料理に戸惑っているだけだろう。僕がしっかりしないと。

 

「はい、何ですか?」

「冷蔵庫の中の材料で作るのなら、カレーがいいと思うのだけれど……どうかしら?」

「あ、そうですか」

「……祐一君は、カレー、好き?」

「好きですよ」

「じゃあ、カレーにしましょう」

「あ、はい!了解しました!」

 

 ……多分、僕は通常運転でよさそうな気がした。

 い、いや、こんな事ではいけない。今日くらいは頼りにならないと。

 

「先生、僕が野菜を切ります!」

「そう?じゃあ、お願いするわ。でも、まずは手と野菜を洗ってからね」

「は、はい……」

 

 *******

 

 先生がピーラーを使い、皮を剥いた野菜を、僕がどんどん切っていく……はずだったが……。

 

「手を添える時は、猫の手にしなさい。こう……」

「はい」

「包丁を持つ時は、人差し指と親指は刃元に添えて……」

「はい」

「構え方は……」

 

 先生が僕の手に自分の手を添え、正しい包丁の使い方をレクチャーしてくれている……けど……すっごく落ち着かない。いつもの甘い香りがするし。

 自分の家で、というこの状況のせいかもしれない。いや、学校でもかなりドキドキしてるけど。今、母さんがいたら、絶対にからかわれているだろう。

 

 *******

 

 調理は滞りなく進み(ほとんど先生のおかげだけど)、もうそろそろ仕上げだ。

 

「はい、味見をお願い」

 

 小皿に注がれたカレーに口を付けると、普段のカレーより少し辛く感じたが、丁度いいくらいだった。

 

「どう?」

「あ、美味しいです」

「そう。ならよかったわ」

 

 先生は頷きながら、自分もカレーに口を付ける。自分も味見するんかいというツッコミよりも、僕と同じところに口を付けたことの方が、気になって仕方がなかった。偶然とはいえ落ち着かない。

 

「……ん、美味しい」

 

 そして、小皿から口を話した後、チロリと唇を舐めた舌に、胸の奥が熱く高鳴ってしまった。

 僕はそれを誤魔化すように、コップいっぱいに水を注ぎ、思いきり飲み干した。

 



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カレー

 

 

 

「お、美味しい……」

「…………」

 

 さっきと同じ感想を口にすると、先生はじぃーっとこちらを見ていた。眼鏡のレンズの向こうにある黒い瞳からは、相変わらず感情の読めない眼差しが注がれる。

 何かあったのだろうか……も、もしかして、僕の行儀が悪いとか?

 

「あ、あの……」

「……いえ、何でもないわ。気にしないで」

「そうですか……」

「…………」

 

 まだ先生は一口カレーを含むと、またこちらをじぃーっと見ている。本当に何だろう?ていうか、女性に見られながら御飯を食べるって、こんなに緊張するのか……知らなかった。

 

「…………い」

「はい?」

「いえ、何でもないわ。そういえば、この前薦めた本はどうだったかしら?もう読み終えた?」

「えっと……今、半分読み終わったところです。僕、読むペースがあまり早くないので」

「そう、じゃあ君が1冊目に読んだ本はどうだった?」

「あ、はい。やっぱりネッシーとかロマンがありますよね!なんか小学生の頃を思い出しました」

「……そう、2冊目はどうだった?」

「そうですね、未解決事件とか気になりますよね。何か大きな力が働いてるんじゃないか、とか」

「…………そう、3冊目はどうだった?」

「やっぱり立ち入り禁止って言われると、余計にどんなのか見てみたくなりますよね!行く機会はないだろうけど……」

「………………そう、4冊目はどうだった?」

「謎の人物も気になりますね!鉄仮面の正体とか……」

「……………………そう、5冊目はどうだった?」

「世界の解明されていない謎って、なんかこう……つい読み耽ってしまいますよね!面白かったです!」

「……祐一君、残り5冊はなるべく一気に読むことをお薦めするわ。それと感想文の提出を命じます」

「ええっ!?」

 

 あれ、先生がちょっと不機嫌になった気が……てか、母さんいないのに祐一君呼びは続くんですか?別にいいですけど。

 すると、先生が何か思い立ったように立ち上がる。

 

「そういえば、そろそろ君のお母さんが帰ってくるわね」

「かもしれませんね」

「じゃあ場所を空けておかないといけないわね」

「?」

 

 我が家のテーブルは、仮に三人で食事しても十分な余裕があるんだけど……。

 先生は黙々と自分の皿を僕の皿の隣に並べ、自分も僕の隣に腰を下ろした。

 

「あ、あの、先生……?」

「どうかしたの?」

「いえ、何も……」

 

 肩と肩は触れ合っていないけど、鼻腔をくすぐる甘い香りに、落ち着かない気持ちになってくる。いや、僕だって何度も同じような場面に遭遇したのだから、多少は慣れというものが……!

 自分に言い聞かせながら、サラダにかけるドレッシングに手を伸ばす。

 すると、僕の手はドレッシングではなく、先生の手を掴んでいた。

 陶器のよいに白く滑らかな肌は……じゃなくて、いつの間に先生の手が……いや、それよりも……。

 

「す、すいません」

「気にしないで」

 

 ……僕にはまだ慣れません。無理です。

 先生の手のひんやりした感触は、僕の掌にしっかりと刻まれて、顔が赤くなるのを感じた。

 そんな自分の若さ故の情けなさを誤魔化すように、僕は勢いよくカレーをかき込んだ。

 

「急いで食べるのは消化によくないわ。それと……」

「?」

「ご飯粒、付いてるわよ」

 

 先生は、僕の口元に付いたご飯粒をとって、それをそのまま自分の口に含んだ。

 その様子を見ていると、薄紅色の綺麗な唇に目を奪われそうになり、慌てて視線を逸らす。

 てか、これってかなり……。

 また顔が熱くなるのを感じたけど、それを振りきるようにブンブン首を振った。

 

「……大丈夫?」

「え、あ、大丈夫です!カレーの美味しさに感動しただけです!」

「そう……」

 

 気のせいなんだろうけど、残りのカレーは少し甘くなった気がした。

 

 *******

 

「片付けは僕がやっときますよ」

「二人でやった方が早いわ」

 

 お客様に片付けまでさせるわけにはと思ったものの、先生の淡々とした反論に返す言葉もない。もう既に洗い物をシンクに置いてるし。

 こうして、また二人並んでの作業が始まった。

 

「ただいま~」

「あ、おかえり」

「あらあら……」

 

 帰ってきた母さんは、口元に手を当て、感慨深そうな笑顔を浮かべる。

 

「どうかしたの?」

「いや、ほら……高校生にもなって彼女の一人もウチに連れてこない息子が、こんな美人と並んで、新婚っぽい雰囲気で家事をしてるなんて……」

「っ……」

「母さん、アホなこと言ってないで……先生、どうしたんですか?」

「な、何でもないわ……ええ、本当に」

「その皿、何度も拭きすぎな気が……」

「……よし、これで終わりね。じゃあ、私は帰るわ」

 

 先生は急に帰る支度を始めた。どうしたのだろうか?急用でも入ったのだろうか?

 母さんはその背中に、機嫌よさそうに声をかけた。

 

「先生、カレーありがとうね~!」

「いえ、こちらこそ。ご馳走様でした。それでは失礼します」

「あっ、先生……」

 

 僕は先生を見送るために並んで玄関まで行った。

 

 *******

 

「じゃあ、また学校でね。感想文も忘れずに」

「あ、あれ本気だったんですか?」

「もちろん。来週末まで待つわ。君はこういうのを練習しておいた方がいいから」

「……はい。わかりました」

「じゃあ……おやすみなさい」

「あ、はい、お、おやすみなさい」

 

 先生に「おやすみなさい」って言うのはなんかこう……不思議な感じだった。もちろん、言われるのも。

 先生は小さな笑みを一瞬だけ見せ、ほのかな甘い香りを残し、帰っていった。

 僕は何故か、しばらく玄関にぼーっと突っ立っていた。

 

 *******

 

「……食べてるとこ、可愛かった」

 

「……新婚って言われた……ふふっ」

 

 



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お買い物

「ありがとうございました~」

 

 僕は学校の授業で使う水着の入った袋を片手に、足早に店を出た。

 よかった。股間の部分が破れてるのに気づいて……プールは男女別だけど、それでも恥をかくことに変わりないからな~。

 さて、せっかくショッピングモールまで来たことだし、本屋とかゲームショップでも覗いて……

 

「こんにちは、浅野君」

「あっ、こんにちは。森原先生…………ええっ!?」

 

 反射的に挨拶を返したけど、その姿を見て驚きの声を上げてしまう。

 真正面から軽やかな足取りで歩いてきていたのは、僕のクラスの担任・森原唯先生だ。いつものスーツ姿だから、すぐにわかった。

 

「奇遇ね」

「そうですね。えーと、先生も何か買い物ですか?」

「ええ。それで君を見かけたから声をかけたの。ここはスポーツショップみたいだけど、君は何かスポーツをやってるの?」

「あ、これは授業で使う水着ですよ」

「そう……水着……」

 

 先生は口元に手を当て、考える素振りを見せる。先生の持つ知的な美貌を、より一層引き立たせる仕草に、ついつい視線を逸らせずに魅入ってしまった。通り過ぎる人も何人か先生をチラ見していた。

 先生がしばらくそうしていると、ほんの少し周りの賑やかな音が遠ざかった。

 何だろう、この感覚……

 

「……そう言えば、私もそろそろ水着を買おうと思っていたのよ」

 

 あ、やっぱりいつも通りだ。唐突すぎる。

 でも、先生の水着姿かぁ…………いや、何で妄想を始めてるんだ僕は。危ない危ない。

 ちなみに、競泳水着でもビキニでも、余裕で妄想可能でした。

 

「……どうかしたの?」

「な、な、何でも、ないです!」

「そう……じゃあ、もし時間があるなら、今から水着を選ぶの手伝ってくれないかしら?」

「え?…………ええ!?」

 

 つい大声で反応してしてしまった。

 先生からの突然の申し出に、いつも通り慌てふためいてしまう自分がいる。

 せ、先生の水着選び?な、何で僕が……?

 

「ダメかしら?」

「い、いや、でもさすがに……ほら、一緒に水着を選んでるとことか誰かに見られたら……」

 

 僕と先生が付き合ってるなんて考える人はどこにもいないだろうけど、それでも休日に先生と生徒が……っていうのは大丈夫なんだろうか?今さらな気もするけど、ここは人目もあるし……。

 すると、先生は意を決したように頷いた。

 

「……そうね。ここで少し待っててくれる?」

「え?あ、はい……」

 

 先生はくるりと背を向け、颯爽と歩いて行き、そのまま人波に紛れ、あっという間に背中が見えなくなった。

 ……どうしたんだろう?

 

 *******

 

 数分後……。

 

「お待たせ」

「え……あ……」

 

 戻ってきた先生の姿に、僕は口をパクパクさせるだけで、上手く言葉を紡げなかった。

 目の前にいる先生は、眼鏡を外し、Tシャツに青いデニムというシンプルな服装になっていた。手に持っている袋には、おそらくスーツが入っているんだろう。ていうか、わざわざ買ってきたのか……。

 もう一度よく見ると、眼鏡を外した先生はやっぱり綺麗過ぎて……シンプルな服装も、そのスタイルを引き立たせている。

 そして何より……眼鏡をかけたスーツ姿の時とは違い、今は快活な魅力に満ちあふれていた。

 

「…………」

 

 ぼーっと見ていると、先生がすっと顔を逸らした。頬がほんのり紅い気がする。

 

「……あまりじっと見られると、恥ずかしいのだけれど。前も言ったように、眼鏡をかけないのは落ち着かないから」

「す、すいません!」

 

 もしかして、眼鏡をかけていない状態は、あまり見られたくないのかな?

 まあ何にせよ、これで水着を……ん?

 

「あの……先生……」

「何?」

「やっぱり僕、女性の水着売り場に行くのは遠慮したいと言いますか……」

「大丈夫よ。私がいるから」

「え?そうは言われましても、女の人しかいなかったら、気まずいというか……」

「大丈夫よ」

 

 何が?

 

 *******

 

 さっきは、スーツ姿じゃない先生となら並んで歩くのも大丈夫だと思ったけど……

 

「うわ、すっげえ美人……」

「あの人、モデルかな?」

「芸能人みたい……」

「beautiful!!」

 

 うん、これはこれで……歩きづらいです。さらに……

 

「隣にいるの男は……」

「何というか……」

「Oh……」

 

『釣り合ってない』

 

 わかってるよ!!!

 自分が一番わかってるから!!!!

 

「ねえ、浅野君」

「は、はい」

「その……私達は端から見て、どんな関係に見えるのかしら?」

「え?」

「姉弟……かしら?」

「ど、どうでしょうか?」

「それとも……」

「っ!」

 

 先生が突然腕を絡めてきた。

 ふわりと甘い香りに包まれ、肘の辺りに豊かな柔らかい感触が押しつけられる。

 途端に自分の中の何かが強烈に脈打ち、顔が熱くなった。

 

「せ、先生……」

「どうかしたの?」

「いや、その……腕……」

「二人で歩くのだから、腕を組まないのは不自然でしょう?」

 

 それは絶対に違う……!

 何だろう……眼鏡を外して雰囲気を変えただけで、なんかいつもと違う。

 僕は数秒間瞑目し、少しでも気持ちが落ち着くよう……うん、やっぱ無理だ。

 

「ほ、ほら……二人って言っても色んな組み合わせがありますし……」

「そうね。一応、冗談で言ったのだけれど……」

 

 わかりにくい!

 

「何というか……ごめんなさい」

「気にしないで。さあ、行きましょう」

「え、ちょっ……」

 

 先生に腕を引かれ、僕はそのまま水着売り場まで連行された。

 

 

 *******

 

「愛美、どしたの?」

「あ、あ、浅野君が……めっちゃ美人と……腕組んでる……」

 

 

 

 

 



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試着室

 女性用の水着売り場に行くと、想像していた通りに客も店員も女性ばかりで落ち着かない。それと、やっぱり目のやり場に困る。カラフルな水着がマネキンに着せられているだけなのに、それは思春期男子の妄想をガンガンにかき立てた。

 そんな中、先生はキョロキョロと店内を見回し、水着を物色している。

 何だろう、このウキウキしているわけでもなければ、事務的というわけでもない形容しがたい雰囲気……。

 その様子を観察していると、先生はこちらを振り向いた。

 

「ねえ、君はどんなのが私に似合うと思う?」

「え?その……先生なら、何でも似合うんじゃ……」

 

 おお……こ、これは、我ながら気の利いたことを言えたんじゃないだろうか。

 少しだけいい気になって先生の方を見ると、先生は口元に指を当て、考える仕草をしてから、スタスタと向こうの棚へ歩いて行った。

 そして、何やら派手な水着を手に取り、すぐに戻ってきた。

 

「先日、君の部屋にあった本では、女の子がこういう水着を着ていたけれど……」

「…………」

 

 うわぁ……ド〇クエのあぶない水着を彷彿とさせるデザイン。ていうか着る意味あるのか、これ……じゃなくて。

 

「いやいやいや、そんなの参考にしないでください!あれは別にそういうわけじゃ……」

「そう……」

 

 先生はすぐに水着を戻し、戻ってきた。

 いや、見たくないと言ったら嘘になる。嘘になるけど……!

 やっぱり先生にはそういうのより……

 

「じゃあ、こういうのがいいのかしら?」

「こ、これは……」

 

 先生が見せてきたのは、確かブラジリアンビキニという、お尻を強調するデザインのやつだ。先生がこれを着たら、つまり……せ、せ、先生の……お……じゃなくて。

 

「これも止めておいた方が……ていうか、何で僕が露出度高い水着が好きだという前提で話が進んでいるんですか?」

「君の部屋に置いてあった本と、君のお母さんの話を照らし合わせただけよ」

「……ちなみに母さんは何て言ったんですか?」

「思春期真っ盛りのモテない男子だから、裸に近ければ何でもいいって言っていたわ」

 

 多分、この前家に来た時に話していたのだろう。母さん……後で覚えてろよ。お小遣い下げられるから、何もできないけど。

 

「君は……私にどんなのを着て欲しい?」

「え?」

「……参考にするから」

 

 とはいえ、僕の水着を選ぶセンスなんて……。

 いや、待て。さんざん水着グラビアは見てきたじゃないか!

 ……ダメだ。グラビアを参考にすると、さっき先生が見つけたような変な水着しか思いつかな……あ、これは……。

 視界の片隅に見えたシンプルな白い水着を指さし、先生を見る。さすがに自分で手に取る勇気はない。

 

「じゃ、じゃあ、これを……」

「ええ…………っ!浅野君、早く中に」

「え?な、中って?うわっ」

 

 僕は先生に強く腕を引かれ、有無を言わさず試着室へと押し込まれた。

 

 *******

 

「おかしいなぁ……この辺りに来たと思ったんだけど」

「ねえ、ついでだから水着見てこうよ♪」

「あ、うん!いいね!」 

 

 *******

 

 どうしてこうなった。

 僕は今、先生と二人で試着室に入っている。

 先生の突然の行動に対して頭の中はこんがらがって、ただ試着室の中をキョロキョロすることしかできなかった。

 

「せ、先生、あ、あの……」

「ごめんなさい。つい」

 

 つい!?何で!?

 しかし、先生は僕の動揺など何処吹く風で、真っ直ぐにこちらを見つめてきた。

 

「では、浅野君」

「はい……」

「ちょっと後ろを向いててくれないかしら?」

「は?」

「その……今から着替えるから、後ろを向いててくれないかしら」

「じゃ、じゃあ、やっぱり僕は出ますんで」

「今外に出てはいけないわ」

「え?何でですか?」

「…………どうしてもよ」

 

 何だろう。今の言い訳を考えたけど思いつかなかった、みたいな不自然な間は。

 

「でも……」

「後ろを向いてくれるだけでいいわ…………それに…………」

「え?」

 

 最後の方は声が小さすぎてよく聞こえなかった。

 

「とにかく、早く済ませましょう」

「は、はい……」

 

 鼓動が高まるのを感じながら、僕は慌てて先生に背を向ける。

 そして、欲望を抑えつけるように、ぎゅっと目を閉じた。

 

「じゃあ、着替えるわ」

「は、はい!」

「絶対に振り返らないでね」

「もちろんです!」

「……そう」

 

 先生が静かに返事をすると、すぐにスルスルと衣擦れに似た音が聞こえてきた。き、気にするな、僕。

 続いて、カチャカチャとベルトを外す音が聞こえてきて、今度は……や、やばい、考えるな。

 

「絶対に振り返らないでね」

「はい、ぜ、絶対に見ません!!」

「…………そう」

 

 間が空いた……もしかして、疑われてる!?

 僕は拳を握り、絶対に振り向かないと心に誓った。

 

 カチッ。

 

 ……い、今の音は……も、もしかして……。

 

 スルッ。

 

 あわわわ……。

 心臓がバクンバクン鳴り、掌はじっとり汗をかいている。

 い、今、先生は……は、はだ、か……。

 

「……絶対に振り返らないでね」

 

 三度目の先生の言葉。

 ここで先生を裏切るわけにはいかない。男として!人として!

 

「はい!!ぜっっったいに見たりしません!!!」

「……………………そう」

 

 そして数分後。

 

「終わったわ」

「は、はい……」

 

 先生の言葉に頷き、ゆっくりと振り返る。

 まず、先生のこちらを窺うような表情が目に入り、そして……

 

「…………」

「どう、かしら?」

 

 僕は言葉を失っていた。

 白いビキニを身につけた先生は、その完成されたスタイルを惜しげもなく僕の目の前に晒している。

 白く細い首筋から鎖骨にかけてのライン、細身の体に対して意外なくらい豊満な胸、腰のくびれ、程良い肉付きの太股……普段は見えない部分が露わになり、先生の素の魅力が溢れている。

 水着姿の女の人は、写真で何度も見たけど、この美しさは写真から出てきたというより、二次元とか芸術作品とか、空想の作品から出てきたような美しさだと思った。

 さっきまでとは、胸の高鳴り方が違う。

 こんなの……目が離せない。

 

「あの……そこまで食い入るように見られると、さすがに恥ずかしいわ」

「あ、すいません……」

「それで、感想は?」

「……すごく……いいと思います」

「…………」

「せ、先生?」

「あ、ごめんなさい。もう一回言ってもらえるかしら?」

「え?」

「だから……もう一回、お願い」

「は、はい……すごく、いいと思います」

「……ありがとう」

「…………」

「…………」

 

 また沈黙が訪れ、店内にかかったハワイアンなBGMが小さく鳴り響いていた。

 先生は髪をくるくる指先で弄び、次の言葉を紡ぐのを戸惑っていた。その様子はいつもより幼く見え、ちょっと失礼かもしれないけど……可愛かった。

 やがて、先生は一人でこくりと頷き、いつもの調子を取り戻した。 

 

「じゃあ、着替えるから……また後ろを向いててくれる?」

「ええっ!?」

「このままでいて欲しいの?さすがにこれで出歩くのは……」

「ち、違います、けど……」

「大丈夫。すぐに済むわ。だから……」

 

 先生はいつものクールな表情のまま、少しだけ頬をほんのり紅くして、一字ずつ噛みしめるように言った。

 

「……絶対に、振り返らないでね」

「はい!ぜっっったいに見ません!誓います!!」

「…………」

 

 今度は返事はなく、着替えはさっきよりかなり早く終わった。



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恋愛シミュレーションゲーム

 ふぅ……まさか水着を買うだけで、あんなイベントに発展するとは……いや、ラッキーなのは間違いないんだけど、僕には刺激が強すぎるというか……。

 隣を歩く先生は、さっきの事などまるで気にも留めていないような、クールさ全開のオーラを纏って、僕の隣を歩いている。もちろん、周りからの容赦ない視線付きだ。こっちに関しては、もうあまり気にしないことにしたけど。

 そして、同じショッピングモール内という事もあり、次の目的地はすぐに見えた。

 

「先生、本当にいいんですか?僕の買い物に付き合ってもらっちゃって」

「ええ。私の買い物に付き合ってもらったのだから当然よ。それより……」

「は、はい……」

「今の君と私は…………と、のようなものよ。先生と呼んではいけないわ」

 

 途中、声が小さくて全く聞こえなかったけど、確かに先生と呼ぶのはまずい。その程度のことを考えてもいなかった自分が情けなく思うた。

 

「す、すいません。迂闊でした」

「気にしないで。そもそも私が買い物に付き合ってもらったんだから。それより、私のことは……唯って呼んでもらえるかしら?」

「……はい?」

「どうかしたの?」

「い、いや、だって、唯って呼んでって……」

「ええ。言ったけど」

「……名字じゃダメなんですか?」

「ダメよ。森原なんて珍しすぎる名字、誰かに聞かれたらすぐに特定されてしまうわ」

「はあ……」

 

 同じ学年に3、4人くらいはいそうな気がするんですが、気のせいでしょうか。

 年上の女性、しかも自分の担任の先生を名前呼びすることに、躊躇いを見せていると、突然先生が距離を詰め、上目遣いで見つめてきた。

 

「……嫌?」

「……っ」

 

 まさかの上目遣い。これは……は、反則すぎる!先生にそういう意図はないんだろうけど。大人の女性が上目遣いという普段とのギャップが、これ以上にないくらい心を深く抉る。あと、睫毛長っ。

 

「……嫌?」

「わ、わかりました!わかりましたから!」

 

 僕は観念して、何故か辺りをキョロキョロしてから、先生の目を見て、その名を口にする。

 

「……ゆ、唯……さん」

「……ひゃい…………はい」

 

 あれ?今、先生が噛んだような……気のせい、かな?

 先生はしばらく向こうを向きながら歩いていた。

 

 *******

 

「ゲームショップ……」

「あ、はい……なんか、先生の興味なさそうな所で申し訳ないんですが……」

「いえ、大丈夫よ。常に広い視野を持つことが人生を切り開くのだから」

「は、はい……」

 

 ゲームショップに入るだけで切り開かれる新しい人生観とは……いや、きっとそれはもう素晴らしい何かがあるんだろう。そうに違いない。

 先生は店内を見て、一人で頷きながら、口を開いた。

 

「君は普段どんなゲームをしているの?」

「えっと……ざっくり言えば、RPGやアクション、あとシミュレーションですかね」

 

 恋愛の部分は伏せておいた。恥ずかしがり屋な思春期男子の繊細さをわかって欲しい。

 僕の好きなジャンルを聞いた先生は、ゆっくり二回頷くと、真っ直ぐにこちらを見据えてきた。

 

「そう……じゃあ私がおすすめのゲームを教えてあげましょうか」

「あっ、はい……って、その……唯さん、ゲームとかわからないんじゃ?」

「……馬鹿にしないで。少しくらいならわかるわ。ちょっと待ってて」

 

 先生はまたスタスタと目的の物があるらしい棚へ行き……あれは、恋愛シミュレーションかな?……すぐに戻ってきた。

 ん?このシチュエーションはちょっと前に遭遇した気が……いや、記憶違いかな……。

 こちらをじっと見た先生は、そのまま1本のゲームソフトを差し出してきた。

 

「これはどうかしら?」

「これは……」

 

 確か先週発売されたギャルゲーだ。

 パッケージには、5人のヒロインが輪になって座っていて、どのヒロインも魅力的な笑顔をこちらに向けている。

 え~と、ヒロインは……幼馴染み、義理の妹、義理の姉、担任教師、転校生か……まあ、悪くないかも。いや、待て。1作だけ見て決めるのはさすがに早すぎる。ていうか、担任の美人教師からギャルゲーを薦められる日が来るとは……。

 

「じゃあ、とりあえずあっちのアクションゲームも見てみま……」

「…………」

 

 何故か先生が切なそうな瞳をこちらに向けている……気がする。

 

「あ、あの、ゆ、唯さん……」

「ごめんなさい。まだ決めるには早かったわね……じゃあ、こっちの……っ!」

「えっ!?」

 

 先生の目が急に、敵を見つけた肉食獣のように鋭くなり、僕の腕を掴む。

 また僕は腕を引かれ、先生と共に暖簾をくぐった。あれ、ここって……

 

 *******

 

「愛美、どうしたの?急にゲームショップなんて……」

「いえ、今どこかから、妙な気配を感じたのよね。こう、ピンク色のやつ」

「……だ、大丈夫?色んな意味で」

「大丈夫よ。さっ、探しましょ!」

「えっ、何を?ちょっと愛美!?」

 

 *******

 

 前回に引き続き、どうしてこうなった。

 先生に腕を引かれ、暖簾をくぐると、そこはピンク色の世界だった……18禁という名の。

 

「ゆ、ゆ、唯さん……これは、どういう……」

「…………え?ど、どうかしたの?」

「いや、唯さんがいきなり……って、え?」

 

 先生のリアクションがおかしいので目を向けると、顔を真っ赤にして俯いていた。

 

「あの……」

「これは……予想外だったわ。私の確認ミスね」

 

 何が!?どういうこと!?

 

「とりあえず、ここを出ましょうか」

「ダメよ。今出てはいけないわ」

「ええ!?どうしてですか?」

「……君にはまだ早いわ」

「こっちのコーナーの方が僕には早いんですって!」

 

 しかも理由がよくわからない!

 すると、背中から抱きしめられる感触がした。

 

「ふぁっ!?」

 

 みっともない声が漏れる。

 

「お願い、もう少しここにいて」

「あ、あ、ちょ、ま、え?」

 

 突然背中に当てられた柔らかい感触に、思考回路を乱されながら、僕はそのままの態勢を維持する。

 すると、背後でぽつりと呟きが漏れた。

 

「……女教師の淫らな補習授業」

「……唯さん?」

 

 こっそりタイトルを盗み見てる!?

 

「先生、僕、もう我慢できません」

 

 今のは僕が言ったんじゃない。誤解しないで欲しい。

 

「なるほど、こういう世界もあるのね」

「唯さん、手に取っちゃダメです!何がダメかなどわからないけど、とにかくダメです!」

 

 すると、二人組の男子が暖簾をめくり、中に入ってきた。 

 

「よし、今日は桃色デスティニーの発売日だ!……あ」

「楽しみだな!……あ」

「「…………」」

 

 気まずい沈黙。

 どちらが先に動けばいいかわからないでいる。

 

「「「「…………」」」」

 

 後ろにいる先生は、どんな表情をしているんだろう。

 考えたところで、何故か二人に頭を下げられた。

 

「「すいませんでした」」

「…………」

 

 頭を上げた二人の男子は、すっといなくなる。

 何というか……本当に申し訳ございませんでした。

 結局、最初に先生が持ってきたゲームを買い、僕と先生は店を出た。

 

 *******

 

 帰り道、僕と先生は並んで、のんびり歩きながら帰った。

 僕は自転車だったけど、自然と先生に合わせて、こうして歩いている。

 特に会話が弾むとか、そういうことはなかったけど、ぽつぽつと交わされる言葉のやり取りは心地良く、時間を忘れてしまいそうだった。

 

「今日はありがとう」

「い、いえ、こちらこそ……」

「ゲームの感想、聞かせてね」

「あ、はい……」

「もちろんゲームをやるのは、宿題を終わらせてから、ね?」

「うっ…………はい、わかりました」

「ふふっ」

「…………」

 

 夕焼けがほんのり赤く照らす微笑みは、学校で見せる笑顔や、これまで学校の外で見た笑顔とも違い、どこか儚げで、この一瞬をどうにかして切り取ってしまいたい気持ちになってしまう。

 

「もうじき、夏ね」

「……そうですね」

 

 頬を撫でた風は、もうひんやりとはしていなくて、すぐそこに新しい季節が待っているのがわかった。

 

 *******

 

「水着……買っちゃった。あと、名前呼ばれちゃった」

 

「一緒に、海かプールに行けないかな……行きたいな」



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唯さん

 眠い。

 昼休み明けの授業。

 空腹を満たした体は、自然と眠りを欲しがってしまう。

 今日の僕に関していえば、別の理由もあるんだけど。

 まあ、どっちにしても……眠い……

 

「……君…………浅野君?」

 

 心地よい声が聞こえてくる。睡眠を邪魔されても、ちっとも悪い気がしない。

 ああ……いつか僕も、毎朝こんな声に起こされたいなぁ。

 

「浅野君?授業中よ」

 

 授業中という言葉に反応して、肩が跳ねる。あれ、今もしかして、眠りかけてた?

 周囲に目を向けると、こちらに目を向けるクラスメートが数人いた。

 そして、黒板の前に立ち、澄んだ黒い瞳を眼鏡越しに真っ直ぐ向けてくる唯さん……じゃなくて、森原先生。何寝ぼけてんだ、僕は。

 先生はじっと僕を見ながら、そのクールな表情を崩さずに、淡々と告げる。

 

「居眠りしてたの?」

「あっ……えっと……」

 

 眠りかけていたせいか、頭と口が上手く回らない。元からそんな回転の早い方じゃないけど。

 そんな僕の様子を黙って見ていた先生は、そのまま黒板を向いた。

 そして、その背中は僕にとてつもない不安をもたらした。

 何か言わなくちゃ……何か言わなくちゃ!

 この時、僕は何を考えていたんだろう。

 腹の底から湧いてくる不安が押し出したのは、まさかの一言だった。 

 

「ちょ、ちょっと待ってください、唯さん!」

「っ!」

『…………』

 

 僕の言葉に、教室内がしんと静まり返る。

 それと同時に、はっきりと目が覚めた。

 先生が黒板に書こうとしていた文字は、途中が捩れて、謎の象形文字と化していた。

 周りのクラスメートは、今度は一斉に何ともいえない視線を向けてくる。こんなに注目されたのは、球技大会のソフトボールでエラーした時以来かも……うん、居心地悪い。 

 

「浅野、お前……勇者だな」

 

 後ろの席にいる、ほとんど話したことのない高橋君ですら、僕に賛辞を送ってきた。いや、それより……

 

「…………」

 

 黒板の前で、チョークを持ったまま固まっていた先生が、ゆらりと振り返った。

 その目は、普段以上に何を考えているのかわからない。

 僕が視線を逸らすことも、身じろぎすることもできずに立ちすくんでいると、先生がようやく口を開いた。

 

「浅野君。放課後、生徒指導室へ」 

 

 ******

 

 生徒指導室の前に立ち、僕は気持ちを落ち着けるべく、深呼吸する。

 ……あっという間にこの時間が来てしまった。

 あの後、高橋君や奥野さんに話しかけられたけど、不安やら何やらで、よく覚えていない。さらに、自分が何を怖がっているのかもよくわかっていない。

 …………そろそろ入るか。

 扉に手をかけようとしたところで、中から静かに開いた。

 そして、先生がひょっこり顔を出す。

 

「来たわね。入りなさい」

「……はい」

 

 いつも通りの表情に、心のどこかで安心しながらも、不安は拭えなかった。

 

 *******

 

「座りなさい」

「は、はい……」

 

 ピリピリした空気が肌をじわりじわり撫でていく感覚を覚えながら、僕はゆっくりとパイプ椅子に腰を下ろす。

 そして、先生は……僕の隣に腰を下ろした。何故だろう。

 しかし、先生は全く気にせず、話を始める。

 

「さて、何で呼ばれたかはわかっているわね」

「は、はい」

「君は私を何と呼んだのかしら」

「えっと……名前で呼んでしまいました。すいません」

「それではよくわからないわ。さっきと同じ呼び方で呼んでもらえるかしら」

「は、はい!……ゆ、唯さん……」

「…………ん。声が小さくてよく聞こえなかったわ。もう一回言ってもらえるかしら」

「わかりました……唯さん」

「…………ん。ありが……いい?この前は名前で呼んでと言ったけれど、あれはそういう意味ではないわ。私は教師で君は生徒なの。だから、今後はああいう呼び方はしないように、ね」

 

 確かに今回のは完全に僕が悪い。

 自分の心の中できつく反省しながら、キチンと学校とプライベートでの区別をつける先生に、また一つ尊敬の念を抱いた。

 僕は力いっぱい頭を下げる。

 

「先生、すいませんでした」

「わかってくれればいいわ」

「はいっ。この前のことは一旦リセットして、ちゃんと教師と生徒という関係なんだということを、頭にたたき込みます!」

「……そこまでしなくていいわ。この前はこの前で、大事に胸にとっておいて」

「えっ、でも……「それより、今日はどうして私のことを名前で呼んだの?」

「えっと……すいません。眠りかけてました」

「また頑張り過ぎちゃったの?」

「いえ、今回はゲームです。この前の……」

「そう。ちなみに、誰から攻略したのかしら?」

「た、担任の先生からです」

「……そう。そういえば、甘い物は好きかしら?ブ〇ックサンダーゴールド食べる?」

「え?あ、ありがとうございます」

「ちなみに、どんなエンディングだったか、聞かせてくれる?」

「あ、はい。その……結婚して、子供ができました」

「そう…………喉渇いてない?お茶があるわ」

「あ、ありがとうございます」

「それにしても意外ね。自分から年上を攻略するなんて」

「あ、違うんです。本当は転校生を攻略したかったんですけど、選択肢間違っちゃって」

「…………」

 

 先生は、僕の前に置いてあったブ〇ックサンダーを手に取り、袋を破いて、食べてしまった。

 

「せ、先生?」

「別に。急に甘い物が食べたくなっただけよ」

「はあ……」

 

 先生はポケットから普通のブ〇ックサンダーを出し、僕の前に置いた。何だろう、この微妙なランクダウン。

 

「じゃあ、反省文を書きなさい。原稿用紙一枚分」

「……はい」

 

 先生から原稿用紙を手渡され、さっそく書き始めようとすると、何かが甘い香りと共に、背中に乗っかってきた。

 

「えっ、えっ!?」

「ちゃんと書くか見るだけよ」

 

 先生は、背後から僕の肩に自分の顎を置き、机に手を置いている。

 そのせいで豊かな膨らみが僕の背中で潰れ、容赦なく理性を狂わそうとしてきた。

 しかも、僕の顔のすぐ横に先生の顔があり、耳が微かに触れ合っている。や、やばい。今までのくっつき方と違う……!

 

「じゃあ、始めましょう」

 

 先生のクールさだけがいつもと同じだった。



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ライバル

「はあ、大丈夫かなぁ。浅野君…………先生と二人っきり…………いやいや、ないない!私ったら何を……!でも、気になる……」

「愛美~帰ろうよ~」

「えっ?あ、その……え~と……」

 

 *******

 

「せ、先生……」

「どうかしたの?」

「少し書きづらい気が……」

「大丈夫よ」

「は、はい……」

 

 原稿用紙一枚分だけなのに、集中力をガリガリ削られているせいで集中できない。背中の柔らかい感触はもちろん、触れ合いそうな頬や、規則正しい呼吸の音。その一つ一つが甘やかな刺激となり、僕の心をつついてくる。窓の外が別世界みたいに見えてきた。

 このままでは色々とまずいことは間違いないんだけど、もう少しこのままでいたいという気持ちもある。

 せめぎ合う感情で頭の中がごちゃごちゃのまま、僕は口を開いた。

 

「せ、先生……」

「何?」

 

 ……声はかけてみたものの、何を……あっ、そうだ。

 僕は勢いに任せて、思いきって尋ねてみた。

 

「今さらかもしれないですけど、先生は、何で僕にくっついてくるんですか?」

「……嫌だった?」

「いえいえ、全然嫌とかじゃなくて!むしろラッキーというか!って違くて……僕の言いたいのは!っ!」

 

 言葉が途中で遮られる。

 先生の腕が、僕の首筋に絡まり、頬と頬が完全にくっついていた。

 ふわふわした極上の感触が頬に触れ、自分の言いたいことなど、飲み下してしまった。

 そして、こちらの頬を震わせながら、ぽつぽつと降る小雨のように、静かに言葉を紡いだ。

 

「私がそうしたいから、かしら」

「…………」

「私から質問するわね」

「は、はい……」

「君は……私のこと……」

「ストーーーップ!!!!」

「っ!」

「…………」

 

 突然、大声と共に背後の扉が開かれ、先生の腕が解ける。それと同時に、緊張やら何やらが吹き飛んでいった。

 今の見られた?という不安と共にゆっくり振り向くと、そこにいたのは奥野さんだ。

 その顔はひたすら真っ赤で、目には何故か涙が溜まっている。

 彼女はビシィッと先生を指さした。

 

「な、何やってるんですか!」

「奥野さん。ドアを閉めなさい」

 

 先生、まったく動じていない……。

 その様子に僕だけでなく、突入してきた奥野さんも面食らっていた。

 

「……あ、あれ?はい!じゃなくて、先生!今浅野君に……」

「何か?」

「浅野君に……抱きついてましたよね!」

「そう?」

「なっ!?」

 

 再び面食らう奥野さん。

 彼女は今度は僕の方を向いた。

 

「浅野君!先生に抱きつかれてたよね!」

「え?」

「…………」

 

 まさか、本当に見られていたとは……いや、今まで見られていなかったことの方がおかしいのか……。

 奥野さんは「ぐぬぬ……」と拳をふるわせ、先生は至近距離からじっと視線をぶつけてくる。

 な、何だろう、この空気……。

 

「ど、どうかなあ……」

「むむっ」

 

 どっちつかずの返事で何とかこの場を乗り切ろうとするも、勿論失敗。

 しかし、それだけでは終わらなかった。 

 

「絶対に抱きつかれてたよ!こう!」

「えっ!?」

「っ!」

 

 奥野さんは力任せに僕を前に向かせ、首筋に腕を絡めてきた。

 爽やかな甘い香りが鼻腔をくすぐり、背中に僅かに柔らかいものが当たる。

 

「こ、ここ、これは……抱きつかれてるって言うんじゃないかなあ?」

「お、奥野さん!?」

 

 こ、これはどんな展開!?奥野さんは何で自分から抱きついてきて、やたらテンパってるの!?一番テンパってるのは僕だけど!

 と、そこで……急に部屋の温度が変わった。

 ただならぬ気配に目を向けると、先生がこちらをじぃ~~っと見ている。

 それ自体はよくあることなのに……な、何だろう……怖すぎる。

 

「……奥野さん……離れなさい」

「っ!ごめんなさい!」

 

 奥野さんの腕が解ける。どうなっているんだ、今日は……間違いなくラッキーなんだろうけど、素直に幸福を享受できない雰囲気が……。

 そんなことを考えていると、先生から肩をポンポンと叩かれた。

 

「浅野君……」

「は、はい!」

「今日はもう帰っていいわ。次からは気をつけなさい」

「は、はあ……」

「じゃあ、今すぐ、真っ直ぐに家に帰ること。いい?」

「え?」

「……いい?」

「はいっ!!」

 

 先生の眼差しは鋭さだけでなく、よくわからない何かが含まれていて、それが僕の背中をゆっくりと押した。

 こうして僕は無理矢理帰路につかされた。

 

 *******

 

 ど、どうしよう……。

 なんか勢いで動いてたら、とんでもない事態に……。

 いや、一番驚いなのは、先生が浅野君に抱きついてたことだけど。

 浅野君も浅野君だよ!「どうかなあ」じゃないよ!いくら先生の胸がおっきいからって……やっぱり今見ても大きい……。

 

「奥野さん」

「あ、はい……」

 

 先生の真っ黒な瞳が私を捉える。

 ……正直、怖い……けど、やっぱり綺麗だなあ。

 薄紅色の唇が紡ぎ出す言葉を、私は息を呑んで待った。

 

「……あなたも帰っていいわ」

「ええぇ……」

 

 何、この肩透かし!別に引き留められていないけど!

 なんか、眼中ないって言われてるみたい!

 

「あの、先生……」

「何?」

「先生は……浅野君の事、好きなんですか?」

 

 私の言葉に先生は一瞬目を見開いたが、すぐに閉じて、髪をかき上げた。あ、これ図星っぽい……かな?

 

「私と彼は教師と生徒。それだけよ。それに教師と生徒が恋愛関係なんてドラマや映画じゃないんだから非現実的だわ確かに彼はいい子だけどそれとこれとは別よ大体なんでもかんでも恋愛に繋げようとする風潮には賛同できないわであるからして……」

「…………」

 

 わっかりやすいなぁ……ほとんど自白に近いよ、これ。

 

「わ、わかりました!わかりましたから!」

「……あなたはどうなの?」

「え……ふぇぇっ!!?」

 

 いきなりとんでもない事を聞かれ、驚きが隠せなかった。

 先生はほんの少し距離を詰め、黒い宝石みたいな瞳を再び向けてきた。

 ……も、もしかして……仕返し?

 

「好きなの?」

「うっ……そ、その……頑張り屋だなあ、と思ったり?」

「…………」

「あっ!わ、私、用事ありますので、もう行かなきゃ!あと、今日のことは誰にも言いません。私、そんな性格悪いお邪魔虫キャラじゃないんで」

「そう……」

「じゃあ、失礼します!」

「ええ、気をつけて帰りなさい。また明日」

 

 私は先生に背を向け、扉を閉めた。

 扉の向こうから感じた視線は、きっと気のせい……のはず。

 それにしても……先生がライバルかあ。いや、弱気になっちゃダメよ!あ、でも、この前の綺麗な人も……いやいや、まだ恋人って決まったわけじゃないもん!よしっ、頑張ろう!

 

 *******

 

「ライバル出現……か……」

 

「……つ、次は、ちゃんと言わないと……頑張ろう」



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家庭訪問2

 ベッドに寝転がり、目を閉じて、今日の出来事を思い浮かべる。

 ……うん、現実じゃないみたいだ。なんか夢みたいだ。

 確認の為に頬を強めに抓ってみる。

 ……うん、やっぱり現実だ。

 

「うわあああああーーーーー!!!!!」

 

 とりあえず奇声を発しながら、ベッドをゴロゴロ転がり、床に落ちる。決して気が触れたわけじゃなく、こうして自分が痛みやら何やらで、現実の世界にいることを認識したいだけだ……気が触れてると思われても仕方ないかも。

 

「息子よ。思春期を拗らせたか?」

「うわあっ!か、母さん、何でいるの!?」

「そりゃ、いるに決まってるでしょう。ここはマイスイートホームだし」

「そうじゃなくて、ノックくらいしてくれよ!」

「コンコン」

 

 うわ、イラつく。

 まあいいや。おかげで一気に現実に引き戻されたし。

 

「それで、どうしたの?」

「アンタに珍しくお客さんが来てるよ」

 

 珍しくは余計だと思いながら体を起こすと、母さんの後ろには、先程別れたばかりの先生がいた。

 意外すぎる来客に体が跳ね上がる。来客自体珍しいだろ、というツッコミはしない方向でお願いします。

 

「先生!?」

「こんにちは」

「じゃ、私は外しますね。先生、ごゆっくり~」

 

 ぺこりと頭を下げる先生と、ニヤニヤと笑顔を残して去る母親の背中にポカンとしていると、先生は部屋に入り、音を立てずにドアを閉めた。

 とりあえず、足元にある座布団を手渡す。

 

「あの、これどうぞ」

「ありがとう」

 

 ベッドに腰掛けたままの僕の近くに座布団を敷いた先生は、座るなり頭を下げてきた。

 

「その……今日はごめんなさい」

 

 いきなりすぎる来訪からの謝罪に、僕は訳がわからないまま、綺麗すぎる黒髪とつむじに向け、疑問をぶつけた。

 

「え?な、何の話ですか?今日のは僕が……」

「いえ、その……どこがどうとは言えないのだけれど、さっきの私はあまり先生らしくなかったわ。だから、ごめんなさい」

「、元々悪いのは僕ですし……」

「それもそうね。じゃあ、全て君が悪いのかも……」

「ええっ!?」

「冗談よ」

 

 ……だから冗談がわかりづらいですよ、先生。

 でも、口元に浮かぶ小さな笑みは、花が咲くようにこの場を彩り、つい僕まで頬が緩んだ。

 

「今日はゲームするのかしら?」

「え~と……少しだけします」

「誰を攻略するのかしら?」

「そりゃあ、転校生ですよ!」

 

 転校生という言葉を聞いた先生の雰囲気が、研ぎ澄まされた刃のように鋭くなった気がした。

 

「……また失敗するといいわね」

「何でですか!?」

「じゃあ、そろそろ行くわ。明日は居眠りしないように、ね」

 

 そう言って先生が立ち上がったところで、先程の反省文を提出し忘れていたことに気がついた。

 

「あっ、先生!反省文書き終わったんで……っ!」

 

 迂闊だった。

 慌てて立ち上がった僕は、足元に散らばった別のプリントに足をズルッと滑らせてしまう。

 そして、よりによって先生の方へと倒れ込んでしまった。

 

「きゃっ!」

 

 先生の意外なくらい幼く聞こえる悲鳴。

 ベッドがいつもより強く軋む音。

 顔面を覆った、ふんわりと柔らかな感触。

 全ては一瞬の出来事だった。

 

「…………」

「…………」

 

 そのいくつかの出来事が通り過ぎた後、自分が今どんな状況にあるか、気づいてしまった。

 先生→仰向けに倒れている。

 僕→その上で馬乗りの態勢になっている。

 …………え?

 間違いなくとんでもない事になってる。

 なのに、体が動かない。動けない。

 つい先生をじっと見てしまう。

 黒い宝石のような瞳は、驚きと思われる感情に揺れながら、じっと僕を見上げていた。

 滑らかな頬と形のいい唇はほんのり赤く染まり、スーツ越しにもわかる豊満な胸は、呼吸に合わせ、艶めかしく上下している。

 頭の中には、この前見た水着姿が浮かんできた。このスーツの下には……なんて想像するだけで……。

 ベッドの上だけ他の世界から切り離された感覚がした。

 そんな中、時計の針はチクタクと規則通りに動き、それだけが心と現実を繋ぎ止めていた。

 ……何でこんなに綺麗なんだろう。

 そんな陳腐な疑問が頭にじわりと湧いてくる。

 しかし、そんな静寂も長くは続かなかった。

 

「あ、あさ……祐一君、その……」

「っ!」

 

 先生の顔がいつかのように真っ赤になり、唇が微かに震えている。 

 全力で体を動かし、僕は土下座した。

 

「すいませんでしたぁっ!!」

「ふぅ……あの、そこまで謝らなくてもいいのよ?ただ、わ、私にも……心の準備が……」

 

 先生からは比較的落ち着いた声音が返ってくるが、それでも罪悪感が消えず、頭を上げることができなかった。

 

「先生!僕、先生の納得いくまで何でもしますから!」

「落ち着きなさい。浅野君」

「いえ、「お茶入ったわよー」やらせてください!」

 

 ここでまさかの母さん登場。

 部屋の空気が凍りついた。

 ていうか、今変なタイミングで入ってこなかった!?

 母さんは、考える素振りを見せ、ニヤニヤ笑いながら口を開いた。

 

「祐一。確かに孫は早い方がいいけど、高校生で父親にならなくてもいいわよ。あとがっつきすぎ」

「えっ?いや、違っ……」

 

 やっぱり誤解してらっしゃる!

 こうなったら先生に誤解を解いてもらうしか……

 

「…………」

 

 先生に目を向けると、何故かそっぽを向いていた。

 そんな……いや、僕が全面的に悪いんだけれども。

 僕が母さんに言い訳している間、先生はそっぽを向いたままだった。 

 

 *******

 

「それじゃあ、お邪魔しました」

「ええ、馬鹿息子のために、わざわざありがとうございます。またいつでも来てください」

 

 玄関まで先生を見送りに来たはいいが、今日は色々ありすぎて何を言えばいいのかわからず、母さんの隣で立ちつくしていた。

 先生も同じなのか、母さんに頭を下げた後、僕に向けて、ひらひらと小さく手を振った。

 

「また明日、学校で」

「あ、はい!今日はありがとうございました」

 

 僕の言葉に、先生はまた小さな笑みを咲かせ、あとはもう振り返らなかった。

 閉じられた玄関のドアを見ていると、隣にいる母さんが、何とも言えない表情をこちらに向けている。

 

「母さん、どうかした?」

「いや、何て言うか……うん、本当に馬鹿息子だね」

「ひどっ!?」

 

 何なの一体!?

 この後部屋に戻り、一人きりになると、さっき仰向けになった先生の表情が頭の中を占領して、動くのも面倒になってしまった。

 そういえば、さっきここで……いや、考えちゃダメだ。考えちゃダメだ……ああ、無理だ~~!!しかも、ベッドに甘い香りが!!

 結局、夕食の時間に母さんが部屋に呼びに来るまで、僕はベッドに仰向けになり、天井とにらめっこしていた。

 

 *******

 

「あわわ……ど、どうしよう。明日、ちゃんと顔見れるのかな……」

 

「何でも……か。何で断っちゃったんだろう、私……」

 

「子供……………………ふふっ」

 



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勉強会

「浅野君……好きよ」

「せ、先生?」

 

 真っ直ぐすぎる視線と声に乗せた、突然すぎる告白。

 僕は全身に電流が走ったように、微動だにすることもできなかった。

 真っ白な頭の中に浮かぶただ一つの事実。

 まさか先生が……僕の事を……す、好き?

 そうこうしている内に状況は変化する。

 先生は僕との距離を詰め、上目遣いで優しい視線を送ってくる。

 

「目を閉じてなさい」

「え?」

 

 落ち着きながらも、こちらに否定はさせないような口調で告げた後、口元を小さな笑いで緩めた先生は、僕の顔を両手で挟み込む。こ、これって……

 

「あとは私に任せて」

「先生……」

「目を閉じて」

「は、はい……」

 

 僕は目を閉じ、先生を……

 

「起きて、浅野君!」

「っ!?」

 

 慌てて体を起こす。

 すると、ふわふわした淡い夢は雲散霧消し、慣れ親しんだ教室の風景が目に飛び込んできた。あれ?何だろう、この残念な気分は……

 

「おはよ」

「え?あ、奥野さん」

 

 ハキハキした声に目を向けると、セミロングの茶色っぽい髪と、人懐っこそうな笑顔がそこにある。僕はようやく、いつもより1時間早く登校したことを思い出した。

 

「珍しいね。こんな時間から。まだ私達以外誰も来てないよ」

「あはは……まあ、その……たまには、ね」

「もしかして、夜眠れなくて勢いで早く学校へ来たはいいけど、席について落ち着いたら眠れなくなったとか?」

「うっ……」

 

 全くもってその通りです。

 ていうか、モテない思春期男子の身にあんなことがあって何もないわけがない。そこまで悟りを開いていない。

 僕の反応を図星と受け取ったのか、奥野さんは得意げに笑い、前の席に腰を下ろす。

 それと同時に、柑橘系の爽やかな香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。

 彼女は教室の扉を確認した後、僕に向けて頭を下げてくる。

 

「その……昨日はいきなりごめんね。なんか、その……つい……」

「あ、いや、その……べ、別に気にしないでいいから。僕もほら、全然大丈夫だし」

 

 本当はまだ混乱気味です。

 僕の返事に、奥野さんはそっぽを向いて、窓の外に視線を向けた。

 

「それはそれで問題なんだけど……」

「どうかした?」

「何でもない。ねえ、浅野君……」

「?」

「浅野君は、先生の事、どう思う?」

「え、ど、どうって?」

「もしかして、好きなの?」

「はい!?」

 

 タイムリーな質問に、心臓が飛び出すような焦りを感じながら、窓の外の景色と奥野さんを交互に見る。

 朝一でこんな質問が来るなんて、誰が予想できるだろう?

 昨日、ベッドで仰向けになった先生の表情が……

 

「あっ、いきなり変なこと聞いてゴメン!私、ちょっと用事済ませてくる!」

「あ、うん」

 

 奥野さんは立ち上がるなり、ものすごいスピードで駆け出し、教室を出て行った。

 リア充の人って、こんな朝っぱらから予定が詰まってるのか……。

 時計に目をやると、まだ朝のホームルームまで30分以上時間がある。どうやらもうひと眠りできそうだ。さっきので目が覚めたから、眠れるかはわからないけど……。

 僕は再び机に突っ伏し、とりあえず目を閉じた。

 

 *******

 

「朝っぱらから寝言で『先生』とか言ってるもんなぁ……さすが先生、強敵……」

 

 私はポケットの中に手を入れ、淡い緑色のハンカチを取り出す。

 

「頑張ろう」

 

 *******

 

「おはようございます」

 

 朝のホームルームが始まり、先生が教室に入ってくると、一気に空気が引き締まり、本当の意味で一日が始まる。

 ただ今日は少しだけ違った。

 

「…………」

 

 先生の視線がちょいちょいこっちを向いてくる。

 普段はくっついてくるものの、何度も視線を向けてきたりはしない。

 そのことに僕は違和感を覚えた……けど……。

 こっちはこっちで、昨日の出来事や今朝の夢やらで、まともに目を合わせられない!

 一度考え出したら、頭の中が散らかってどうにもならなくなりそうなので、固く目を閉じ、思考を中断……いや、これも無理だ。眠ってると思われるから。

 ていうか、もしかして……先生、昨日の事を気にしてるんじゃ……いや、あの時は……でも、僕に気を遣ってくれただけかも……。

 そりゃあ、誰だって好きでもない相手からあんな事されたら嫌に決まってるし……。

 うん、決めた。今日の夜、謝りに行こう。

 

 *******

 

「浅野君!」

 

 放課後になり、テストも近いので真っ直ぐ帰ろうとすると、奥野さんから声をかけられた。

 

「奥野さん、どうしたの?」

「あの……そろそろ期末テストでしょ?もしよかったら、一緒に勉強しない?」

「え?い、いいけど。ただ僕の成績じゃあ、奥野さんに教えられることあんまりないかも」

「全然大丈夫だよ!その……誰かが一緒の方が集中できるというか……」

「じゃあ、図書室行こうか」

「う~ん、いくらあの図書室でも、この時期はもう混んでるかも」

「え!?そんなことあるの!?」

「そりゃあね、てかさらっと失礼だね。ふふっ」

「あはは……」

「補習室はどうかしら?」

「「っ!!」」

 

 いつの間にか、先生が僕達の背後に立っていた。

 梅雨のジメジメなど吹き飛ぶような涼しい表情のまま、眼鏡の位置を整え、僕達をじっと見つめる。

 奥野さんは何故かジト目で先生を見ていた。

 

「私が勉強を見てあげるわ」

「いいんですか?私達だけ特別とか」

「教室の後ろの壁に貼ってあるプリントを見てないのかしら?テスト前の特別授業の告知なんだけど。誰も来なくて、どうしようかと思っていたの」

 

 後ろを振り向くと、確かにプリントがセロハンテープで貼り付けてあった……いつの間に。

 

 *******

 

 誰もいない廊下を、先生と奥野さんが並んで歩く後ろ姿を眺めながら、またまた想定外の状況になった事に、内心穏やかじゃなくなる。

 せめてもう少し時間を置いてからの方が……なんて言ってられないか。

 前の2人は話に夢中のようだ。

 

「先生、ちょっと強引すぎやしませんか?」

「全然そんなことはないけど」

「今日は私に譲ってくれてもいいんじゃないですかね」

「時間は有限よ。誰かに譲る時間なんて1秒たりともないわ」

「……ケチ」

「何のことかしら」

「まあ、いいですけど」

「……二人って仲良いんですね」

「「…………」」

「あれ?な、何か二人共、目が……」

 

 えっ、何?すごい怖いんだけど……。

 

 *******

 

「じゃあ、始めましょうか」

 

 長机に、右端から僕、先生、奥野さんの順番で座り、教科書やノートを広げる。正直、緊張しまくりだけど、勉強に集中していれば、この時間は乗りきれるはず……!

 すると、奥野さんが手を挙げるのが見えた。

 

「あの、先生」

「何かしら」

「何で先生が真ん中に座るんですか?」

「教師だからよ」

「……それらしい事を言ってるようで全然納得できない理由なんですが」

「じゃあ、始めましょう」

「ちょっと待ってください!異議あり!」

 

 何が理由かよくわからないまま、席を決めるのに10分近くかかってしまった。

 



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勉強会2

 2人がジャンケンをした結果、奥野さんが勝ち、先生は僕達の向かいに座ることになった。そして、グーを形づくる白い手を見つめる先生からは哀愁が漂っていた。先生にとっても、どの位置で教えるかはそんなに大事なんだろうか。

 やがて、気持ちを切り替えたのか、向かいの席に座った先生は、いつも通り淡々とした口調で告げた。

 

「……さあ、始めましょう」

「は~い、よろしくお願いします!」

「よろしくお願いします」

 

 出だしは躓いたものの、先生は自分の専門外の教科も教えるのが上手く、最初の緊張も落ち着き、集中して勉強できた。

 補習室の中は、シャーペンの音や時計の音や、先生の声と僕達の声が途切れがちに聞こえるだけて、それにグラウンドから響く運動部の掛け声が、妙に心地よいBGMになっていた。

 ほどほどに音がある方が、集中できるのかもしれない。

 しかし、しばらくすると変化が起きた。

 

 ススッ。

 

「っ!」

「どうしたの、浅野君?」

「いや、何でも……」

 

 今、足に何かが……まさか……。

 こっそり足元を見ると、僕の足の上に、タイツに包まれた小さな足が乗っていた。

 これは……間違いなく先生の足だ。

 先生の方に目を向けると、何食わぬ顔で奥野さんに英語の文法を教えている。

 

 ススッ。

 

「っ!」

 

 先生は左足で、僕の左足をゆっくりと撫で回してくる。

 滑らかなタイツと柔らかい肌の感触が、コンボになって僕の足を刺激してくる。

 強弱のつけ方も絶妙で、何だかずっとこうされていたい気分だ。

 な、何だこれ、気持ち良すぎる……けど、あれ?不思議と勉強はできる。

 ていうか、先生……これは何が目的なんだろう。

 ……ダメだ。この人の考えていることは、僕にはわからりそうもない。

 かぶりを振った僕は、そのままノートにシャーペンを走らせた。

 

 *******

 

「「ありがとうございました」」

「ええ。それじゃあ、家でも頑張って」

 

 勉強会を終え、下校の時刻になると、陽は沈みかけていて、グラウンドからの掛け声も聞こえなくなっていた。

 そして、先生の足からマッサージ(?)されまくった足は、何だか軽く感じた。どんな技術なんだろう、これ……。

 校舎を出て、校門を過ぎると、奥野さんも僕とは逆に体を向ける。

 

「じゃあ浅野君、私はこっちだから」

「あ、うん。それじゃあ……」 

「あはは、暗いよ!浅野君、また明日!」

「ま、また明日!」

 

 いきなり名前を大きな声で呼ばれた恥ずかしさや、華やかな笑顔に見つめられる照れくささで、僕はほんの少し声を張って、同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。

 

 *******

 

 家に帰ると、テスト勉強をしながら、先生を待つことになった。

 とはいえ、どのタイミングで帰ってくるかわかんないから、たまに窓の外を見るだけなんだけど。

 ……ああいうことしてくるんだから、多分嫌われてはいないのかな?

 すると、窓の外に見慣れた人影が見えたので、急いで窓を開ける。

 それに、向こうが気づいたので、ジェスチャーで待ってくださいと伝え、すぐに家を出た。

 先生は、茜色の空を見上げながら、待ってくれていた。

 僕が近づくと、先に声をかけてくる。

 

「浅野君?」

「あ、あの、森原先生……こんばんは」

「どうかしたの?」

「あっ、えっと、その……」

 

 いざ本人を目の前にすると、どう話を切り出そうか迷ってしまう。今日一日、碌に目を合わせることができなかったのだから。

 そこで、先生は小さく手招きした。

 

「……中、入って」

「はい?」

「ここだと話しにくいのでしょう?」

「あ、はい……それじゃあ、お邪魔します」

 

 久しぶりにお邪魔した先生の家は、相変わらず綺麗なんだけど、どこか落ち着かない。あまりに生活感がないからだろうか。

 この前の和室に通され、室内を眺めていると、すぐに先生が紅茶を持ってきてくれた。

 

「どうぞ」

 

 紅茶を僕の前に置き、先生は僕の隣に腰かける。ジャケットを脱ぎ、ワイシャツだけの上半身は、そのスタイルの良さが強調され、あまり見ない方がいい気がした。

 

「それで、どうしたの?」

「あ、いや、その……」

「……もしかして、まだ昨日の事、気にしてた?」

「は、はい……」

「まあ、驚いたのは事実だけど……」

「はい……」

「でも、本当に大丈夫よ」

「その、最初は気にしてたんですけど、いつも通りに先生がくっついてくるから、どうすればいいのかわからなくて……最初は許してもらえるなら、何でもするぐらいの気持ちだったんですけど」

 

 僕の言葉に、先生は頬を緩めた。その小さな笑みには大人の包容力があり、やっぱりこの人は大人なんだという事実を改めて認識してしまう。

 

「そう……気を遣わせたわね。お詫びにケーキ食べていく?3ホールあるのだけど」

「ええっ!?」

「冗談よ」

「……あの、先生。先生の冗談って、わかりにくいです」

「……そう、難しいわね。でも、ケーキがあるのは本当よ。食べていかない?」

「え、そうなんですか?じゃあ、いただきます」

「待ってて…………あ」

 

 先生は何かを思い出したかのように僕の方を向いた。

 その期待のような何かを滲ませた表情は、初めて見るもので、つい胸が高鳴り、見とれてしまった。

 もちろん、先生はそんなことはお構いなしに話を切り出す。

 

「そういえば……何でもするって言ったかしら」

「え?言いましたけど……それは……」

「じゃあ…………付き合ってくれる?」

「……………………え?」

 

 先生の真っ直ぐすぎる視線を受け、僕は何も言えなくなった。



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浴衣

 期末試験も終了し、あとは夏休みを待つのみとなった一学期。

 夏休みの計画の話や、部活の話で賑わう教室の隅っこで、僕は頬が緩むのが止められなかった。

 

「浅野君、嬉しそうだね。なんかあった?」

 

 奥野さんから声をかけられ、僕は自分の口元を慌てて押さえる。いかん。気持ち悪がられる。

 

「……も、もしかして、ニヤニヤしてた?」

「う~ん、ちょっとだけ。それで、なんかあったのかなって」

「実は……」

「うん」

「期末試験の成績が……自分の予想より、かなりよくて……」

「え、ほんと!?よかったね!!」

「うん。先生と奥野さんのおかげだよ。本当にありがとう!」

「そ、そんな……私は大したことしてないし」

「いや、奥野さんの教え方わかりやすかったよ?本当に」

 

 あれから、昼休みに奥野さんから誘われ、図書室でテスト勉強をしたり、途中でたまたま通りかかった先生に教えてもらったり、二人には足を向けて眠れそうもない。

 そういえば、たまたま通りかかったって言ってたけど、先生との遭遇率は100パーセントだったな……運が良かった。

 奥野さんは赤くなった頬をかいている。その意外な反応に胸が高鳴り、こちらも顔が赤くなりそうだ。

 

「もう、恥ずかしいじゃん……あはは」

「あはは……ごめん」

「じゃあ、今度飲み物でも奢ってよ」

「うん。いいよ」

 

 そういえば、いつの間にか奥野さんとも普通に話せるようになってるな。4月には想像もできなかった。

 ……一番予想外なのは、間違いなく先生だけど。

 まあ、何はともあれ、学業の面では充実感に満たされ、気持ち良く一学期を終えることができそうだ。

 あとは先日のあの話を……

 

 *******

 

「…………付き合ってくれる?」

「せ、先生……」

 

 座って見つめ合う二人。

 先生の瞳はしっかりと僕を捉え、目をそらすことを許さなかった。

 僕は静止したまま、先生の言葉の意味を何度も考えた。

 せ、先生が、僕に……付き合ってって言った?あの先生が?そんなバカな……

 僕が口をパクパクさせていると、先生の艶やかに輝く唇がゆっくりと動いた。

 

「今度の花火大会」

「……え?」

 

 室内に広がったシリアスな空気が弛緩していく。

 それと共に全身から緊張が抜けていく。

 いや、どちらも僕の勝手な感情だけれど。何をバカな事を考えていたんだ、僕は。穴があったら入りたい……。

 僕の様子に首を傾げた先生は、何故か距離を詰め、小声で話し始める。

 

「その……一人で行くのは味気ないし、私はこっちに友達がいないから、付き合ってくれると嬉しいのだけど」

 

 僕はすぐに首を縦に振った。断るという選択肢は思い浮かばなかった。

 

「……あ、はい。だ、大丈夫ですけど」

「ありがとう。あ、もちろん変装はしていくわ」

 

 あれはあれで目立つんですけど……まあ、いいか。

 こうして、僕は先生と二人で花火大会に行くことになった。

 ……そういえば、今さっき、こっちに友達はいないって言ったような……。

 

 *******

 

「……あのまま、付き合ってなんて言ってたらどうなってたんだろう……いや、ダメよ。まだ……教師と生徒だし……」

 

「花火大会、楽しみだな……ふふっ」

 

 *******

 

「え?アンタ、浅野君を花火大会に誘ってないの?」

「……一緒にテスト勉強して満足してた。ああ、私のバカァ……」

 

 *******

 

 花火大会当日。

 家が真向かいということもあり、先生の準備ができ次第、うちに呼びにくることになっている。ちなみに、今日母さんは仕事で家にいない。なので、からかわれる心配もない。

 そこで僕は、1つの事実に思い至る。

 もしかして……これってデートなのか?

 教師と生徒とはいえ、男女が2人で出かけるって事は……

 

「……そんなわけないか」

 

 あの先生が僕に対して……まあ、本当に行く相手が欲しかっただけなんだろうな。

 でも、久しぶりの花火大会だし、成績が上がった祝いも兼ねて楽しもう。緊張するけど。

 

「よしっ」

 

 気合いを入れたところで、狙い澄ましたかのように呼び鈴の音がなったので、僕はすぐに玄関へ向かった。

 

 *******

 

 玄関の扉を開けると、先生が立ってい……た……。

 

「…………」

「お待たせ。それじゃあ、行きましょうか」

「…………」

「浅野君?」

 

 言葉を失った。

 そこには浴衣を着た女神がいた。

 前回の水着姿も太陽の〇omachi angelと言えるくらいに、爽やかで開放的な魅力が弾けた素敵なものだったけど、こっち控え目な『和』の魅力が滲み出ている。

 浴衣は青を基調としたもので、ところどころに花火のような花柄があしらわれていてた。

 そはして、前回と同じように眼鏡を外し、髪はポニーテールにしてある。

 大和撫子というのは、こういう人のことを言うんだろうな……。

 

「浅野君?」

 

 先生から呼ばれて、見とれていた自分に気づき、慌てて口を開く。

 

「あっ、す、すいません!その……すごく綺麗です!!」

「っ!……」

 

 先生は俯き、黙ってしまった。

 ……僕程度の褒め言葉じゃお気に召さなかっただろうか。

 まあ、先生ならこれまでの人生で、褒め言葉など聞き慣れているだろう。

 どうしたものかと立ちつくしていると、先生はばっと顔を上げた。頬が赤く見えるのは、外の夕陽のせいだろうか。

 

「…………そ、そう。ならよかったわ。じゃあ、行きましょうか」

「そうですね」

「あ、それと……」

 

 先生は振り返り、耳元に顔を寄せてきた。

 

「今から家に戻るまで、『先生』は禁止」

 

 *******

 

「……混んでますね」

「そうね」

 

 電車で二駅先の場所が花火大会の会場なんだけど、ここまで混むとは……ちなみに、普段なら花火大会の時期は家でゲームをしている。中学時代に一人で行ったら……うん。あまり思い出したくない。

 しかし、現在の状況もかなりやばい。

 

「……大丈夫ですか」

「ええ、大丈夫」

 

 車内はこれ以上ないくらいぎゅうぎゅう詰めの満員で、身じろぎするのもしんどいくらいだ。

 そんな中、僕と先生はドア付近で向かい合って立っている。

 体はしっかり……がっつり密着していて、甘い香りと、ぎゅうぎゅう押しつぶされている柔らかい感触が、理性をガンガン削ってきた。

 浴衣越しだからか、普段よりその柔らかさを凶暴なまでに主張してくるからやばい。やばいったらやばい。

 こちらの心情などつゆ知らずの先生が、心配そうな目で見上げてきた。

 

「君の方こそ、大丈夫?」

「ぼ、僕はぜんぜ……っ」

「どうしたの?」

「いえ、何も……」

 

 顔が近い!今の密着具合からすれば当たり前なんだけど、近すぎる!今唇に息がかかった!

 甘やかな吐息を感じながらも、そっぽを向いて何とかやり過ごす。

 しかし、今度は先生が胸に飛び込んできた。

 

「せん……ゆ、唯さん!?」

「ごめんなさい。足を滑らせてしまったわ」

「大丈夫ですか?」

「大丈夫よ」

 

 先生はバランスが取れないのか、僕の背中に腕を回し、抱きついている。

 細い腕がぎゅっと絡まってくると同時に、さらに胸が押しつけられ、大人の女性の香りが鼻腔をくすぐってくる。

 結局、目的地に到着するまでの僅かな時間は、僕にとって淡い夢のようなふわふわした時間になった。

 

 *******

 

「着いた……」

 

 電車の中の熱気で、もう既に汗だくになった僕は、あまり意味がないと知りながらも、手で自分の顔を仰ぐ。

 先生もハンカチで首筋を拭ってはいるが、端から見ればとても涼しげで、マイナスイオンが出ているようだ。

 そんな事を考えていると先生が振り返る。

 さらさらの黒い髪が風に舞い、何だか不思議な生き物みたいに見えた。

 

「さあ、行きましょう」

 

 そう言って、先生は手を差し出してくる。

 

「え?」

「はぐれないように。ね?」

「……は、はい。わかりました」

 

 僕は足の震えを抑え、そっと先生の小さな手を握りしめる。さっきの熱気を忘れさせるくらい、その手はひんやりして柔らかかった。

 手を繋いだことを目と目で確認し合うと、どちらからともなく、祭りの賑わいの中へと歩き始めた。

 



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第22話

 久しぶりの祭りの風景は、意外と記憶の中のものと目立った変化はないように見えた。何年も前だからかもしれないけど。

 焼きそばのソースの匂いや、金魚すくいを楽しむ子供の声、スピーカーから流れるお祭りっぽいBGMに高揚感を覚えていると、隣で先生がキョロキョロしていた。

 

「……あの、出店見ていきますか?……唯さん」

「そうね。あの、綿菓子が食べたいのだけれど」

「わかりました。あ、じゃあ僕買ってきますよ」

「いえ、一緒に行きましょう」

 

 先生が手を握る力を強める。

 さっきまでのひんやりした感触は温もりに変わり、自分の手に馴染んではいたけれど、緊張することに変わりはなかった。

 前回のショッピングモールの時ほどじゃないけど、やはり先生をチラチラ見ていく人がそれなりにいるからかもしれない。

 ……いや、ここは男として、自分がしっかりしなきゃ。

 出店の前に立つと、髭面のおじさんがニッコリ笑顔を向けてきた。

 

「お、そこの兄ちゃん!どうだい?可愛い彼女の分も一緒に」

「いえ、全然そんなんじゃなくて。でも二つお願いします」

「…………」

 

 さすがに恋人なんて、僕ごときが名乗れるはずもない。

 

「…………」

 

 あれ?先生の爪が肌にぐいぐい食い込んできて痛いんだけど……。

 とりあえず綿菓子を2つ買った。

 

「綿菓子ってこういう時以外中々食べませんよね」

「そうね。そっちはどんな味か確認していいかしら?」

「え?同じやつですけど……ていうか、別の味ありましたっけ?」

「おそらく、おじさんの気まぐれで変わるわ」

 

 そんなシェフの気まぐれみたいなことあるんだろうか。

 考えていると、先生は僕の綿菓子にパクリと噛みついていた。

 

「……うん」

 

 そして、一人で納得した。本当にどこか違ったのだろうか。

 

「はい」

「?」

「君も確かめて」

 

 先生は僕に綿菓子を差し出してくる。

 えっと、多分ここは先生が囓ったところだから、僕はこっち側を……。

 僕が綿菓子に口をつけようとした瞬間、綿菓子がくるっと動いて、先生と同じ場所を囓ってしまう。

 

「ごめんなさい。汗で滑ったわ」

「…………」

 

 そ、そうですか……汗なら仕方ないよね。

 僕は間接キスをしたという事実に、顔が熱くなるのを感じながら、綿菓子の味を確かめる。

 

「どう?」

「……一緒のような……こっちの方が甘いような……」

「そう。やっぱり、おじさんの気まぐれかしら」

「さあ……どうでしょう?」

 

 それは気のせいに違いないのだろうけど。多分、緊張のせいだけど。

 でも、ほんの少し甘かった。

 

 *******

 

「おう、兄ちゃん!彼女のために何か取ってやんな!」

 

 おぉ、本当に言う人がいたのか。

 でも、やっぱり先生に申し訳ないというか……。

 

「あ、全然違うんです。でも、一回やってみます」

「…………」

 

 何故だろう、また先生の爪が手にグイグイ食い込んできて痛い……。

 僕が首を傾げていると、今度は僕の腕にしがみついてきた。ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐり、おじさんが「照れんなよ!」というのが聞こえ、気恥ずかしさに俯いてしまう。

 先生はそれに気づいてないのか、真っ直ぐに景品の方を指さした。

 

「あれを獲ってくれないかしら?」

「どれですか?」

「あのオモチャのペアリング…………の隣のぬいぐるみ」

 

 今、先生が悩む素振りを見せたような……どれで悩んだのかな?

 まあ、ここは男として、頼まれたぬいぐるみを獲ってみせる!

 フンスと気合いを入れた僕はさっそくお金を払い、銃を構えた。チャンスは3回。

 まずは1発目。

 かすりもしなかった。とはいえ、これは弾の速度や弾道を確認する為のものだ。

 気を取り直して2発目。

 …………また外した。いや、次こそは……ニヤニヤしているおじさんに吠え面を。

 最後のチャンス、3発目。

 ああ!ぬいぐるみ……の隣のオモチャのペアリングか……。

 おじさんから「ほらよ、おめでとう!」と、赤の石と青の石がはめ込まれた、お世辞にもオシャレとは言い難いペアリングが入った箱を渡してくる。

 僕はそれを、頭を下げながら、先生に手渡した。

 

「すいません……これしか獲れませんでした」

「…………」

「ゆ、唯さん?」

「いえ、ありがとう。祐一君」

 

 先生はオモチャのペアリングが入った箱を、大事そうに胸に抱きしめる。そんなに景品ゲットしたかったのかな?

 

「あの、祐一君……」

「はい?」

「いえ、何でもないわ。そろそろ花火が始まる時間よ」

「あ、はい!」

 

 移動中、先生は時折箱を出して見つめていた。

 その横顔は、出店から漏れる灯りに、ほんのり赤く染まっていた。

 

 *******

 

 花火は定刻通りに上がり始め、誰もがその輝きに魅せられている。

 僕と先生も例外ではなく、ぱあっと真っ暗な夜空に数秒の彩りを添え、消えていく花火を見上げ、感嘆の吐息を洩らした。

 

「綺麗……」

 

 先生は独り言のようにこぼし、夜空を見上げている。

 確かに綺麗だ。

 夜空に浮かぶ花火も…………隣に立っているよくわからないことが多い僕の担任の先生も。

 その二つは、僕の胸の奥に確かに焼き付いていた。

 こちらの視線に気づいたのか、視線は夜空を見上げたまま口を開いた。

 

「しっかり見てた方がいいわよ。久しぶりなのでしょう?」

「はい……!」

 

 慌てて先生から視線を逸らす。確かに見ておかないともったいない。

 しばらく何も言葉を交わすことなく、花火の音や周りの歓声をBGMに花火鑑賞を続ける。

 しかし、一際大きな花火が上がった瞬間、頬に柔らかい何かが触れた。

 

「っ!」

 

 ばっと横を向くと、先生はさっきと同じ表情で花火を見ていた。

 あれ?でも、今…………。

 

「どうかしたの?」

 

 先生はさっきと変わらぬ姿勢のまま尋ねてくる。

 

「いえ、何でも……」

 

 僕はただ、花火に儚げに照らされた先生の横顔に見とれることしかできなかった。

 

 *******

 

 帰りも混雑に巻き込まれたものの、先生と過度な密着をすることはなかったので、必要以上にドギマギせずにすんだ。

 そして、駅から家までの道をぽつぽつ会話しながら歩く。

 

「花火って、やっぱり綺麗ですね」

「ええ。見に来れてよかったわ」

「先生、結構はしゃいでましたね」

「名前で呼びなさい。家に着くまでという約束よ」

「ゆ、唯さん……」

「よろしい」

 

 そんなやりとりをしていると、もうお互いの家の前に到着していた。

 

「今日は付き合ってくれてありがとう。楽しかったわ」

「あ、えっと……僕も祭りに行くのは久しぶりだったんで……すごく楽しかったです。ありがとうございます」

 

 お礼を言うと、先生は小さな笑みを見せ、ポケットからスマホを取り出す。 

 

「浅野君」

「は、はい」

「君の連絡先、教えてもらえる?その……今日は何事もなかったけど、またこういう機会がある時に不便だから」

「え?あ、はい……」

 

 ……次もあるのかな。あんまり想像できないけど。

 互いの連絡先を登録し、適当な登録名を付けると、先生は居住まいを正し、真面目な顔で話しかけてきた。 

 

「浅野君」

「はい」

「夏休みも…………登校する?」

「え?いや、しませんけど」

「冗談よ」

「だ、だからわかりにくいですよ……」

「そう……やっぱり難しいわね」

 

 相変わらずわかりにくい冗談だった。ていうか、登校しなさいとか言われたら、本当に登校するかもしれない。

 先生は僕の様子を見て、また小さく笑った。

 

「それじゃあ、お休みなさい」

「は、はい、お休みなさい」

 

 お互いに背を向け、それぞれの家の玄関の扉を開く。

 つい振り返ると、先生もまったく同じタイミングでこちらを振り返っていた。

 

「「…………」」

 

 お互いの視線が絡み、耳が疼くような静寂が訪れる。

 胸が高鳴り、緊張するのに、目をそらせない。

 でも、このままではいられない。それが何故かはわからないけど。

 結局、僕から頭を下げ、身を翻し、その静寂は途切れた。

 

 *******

 

「キ、キスしちゃった……ほっぺただけど」

 

「連絡先交換もできちゃった……夢、じゃないよね……痛い。夢じゃない……」

 

「やっぱり、指輪……つけてもらえばよかったな」

 

 *******

 

「ねえねえ!夏休みになったら、本当にお兄ちゃんに会いに行っていいんだよね!ふふっ、楽しみだなぁ♪」



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第23話

 夏休みに入り、僕はクーラーの効いた部屋で一日中ゲームを……できずに、学校の図書室で真面目に勉強していた。

 正面には森原先生。

 隣には奥野さん。

 他には司書の先生が、奥の司書室にいるだけだ。

 外からセミの鳴き声や部活をやっている人達の掛け声が聞こえてくるけど、それらもどこか遠く、室内は静寂が保たれていた。

 それと同時に、身じろぎ一つさえ遠慮するような緊張感も……。

 

「ごめん、浅野君、消しゴム借りるね」

「はい、どうぞ」

「…………」

「先生?」

「いえ、何でもないわ」

「むむっ」

 

 今、目の前でバチッと火花が散ったような……気のせいだよね?

 何だろう、この空気……背筋にゾクゾクと悪寒が……エアコンが効き過ぎてるのかな?

 このままでは何かに押し潰されてしまいそうだったので、僕は無駄だとわかっていながら、とりあえず提案してみる。

 

「あの……そろそろ終わりにしませんか?」

「「ダメ」」

 

 にべもない返事に僕はがっくりと項垂れる。どうしてだ。どうしてこうなった。

 

 *******

 

 昨晩……。

 携帯がいきなり震え、誰かと思い、画面を確認すると、思いもよらぬ人物の名前が表示されていた。

 僕は深呼吸し、落ち着いて通話状態にする。

 

「はい」

「もしもし浅野君。今大丈夫?」

「え?あ、奥野さん!はい、こんばんは!!」

「わっ、びっくりしたぁ!……どうしたの?」

 

 終業式の日に連絡先は交換したけど、まさか本当にかかってくるとは思わなかった。

 

「浅野くーん、どうしたの、大丈夫?」

「あ、ごめん。同級生から連絡網以外で電話がかかってくるなんて初めてで、つい……」

「え?あ、うん、あの……今のは聞かなかったことにしておくね。あの、実は……」

 

 あれ?少し引かれたような……いや、気にするな。

 

「その、今度……」

「?」

 

 何かを躊躇うような沈黙に首をかしげていると、意を決したように息を吸うのが聞こえてきた。

 

「今度!一緒に夏休みの宿題終わらせない!?」

「え、あ、は、はい……」

 

 そのいきなりの大声と有無を言わさぬ迫力に、考える余裕もないまま了承してしまう。

 

「あぁ……わ、私ったら……本当は……」

 

 何故か彼女の呻き声が聞こえてきた。

 

「奥野さん?」

「え?ううん、何でもない、何でもないよ!じゃあ、いつにしようか?」

 

 こうして、まず奥野さんと一緒に夏休みの宿題を終わらせることになった。それにしても奥野さんって本当に勉強熱心だなあ、見習わなくちゃ。

 

 *******

 

「なんつーか、アンタ……本当に勉強熱心ね……」

「違うのよ~!本当はデートに誘いたかったんだってば~!」

 

 *******

 

 再び携帯が震えだしたので画面に目を向けると、今度は森原先生からだ。念の為『ああああ』と登録してあるので、なんか変な感じだ。そういえば先生は僕の名前を何て登録してるんだろう?

 携帯を耳に当てると、すっかり耳に馴染んだ声が聞こえてきた。

 

「浅野君、今いいかしら?」

「せ、先生……はい、大丈夫です」

 

 いつも通りの凜とした声音に、つい居住まいを正してしまう。電話越しだからか、その声はやけに無機質な響きがした。

 それと同時に、先日の花火大会のことを思い出す。

 ……あの感触ってやっぱり……。

 

「浅野君?どうかしたの?」

「いえ、いきなりだったので。その……僕、何かやらかしたんでしょうか?」

「違うわ。ちょっと電話してみただけよ」

「え?」

「冗談よ」

「で、ですよねー……」

 

 あ、今のは冗談だって何となく気づけた!

 そんな些細なことに喜んでいると、先生が淡々と告げた。

 

「浅野君、明日学校に来なさい」

「あはは。先生、また冗談ですか?」

「いえ、これは冗談ではないわ」

「…………え?」

「実は、一学期最後の小テストなんだけど、君は解答欄を全てずらして解答してたの」

「え?」

「それで、明日午前中だけ補習を行おうと思うのだけれど」

「……ええ!?」

 

 相変わらずだが、いきなりすぎる!

 

「もちろん、夏休み中だから用事があるなら無理にとは言わないけど……ただ、君のお母さんはアイツに用事なんてないと言ってたわ」

「は、はい……」

 

 確かに……まったくもってその通りだ。

 とはいえ、夏休みに学校に行くのは気が進まない。部活動にも入ってないのに。

 何かやる気を出すアイディアは……あ。

 

「そ、それじゃあ、図書室を使って補習とかできますか?」

「君から提案なんて珍しいわね。どうかしたの?」

「ええ。考えがありまして」

「?」

 

 *******

 

 当日。

 図書室の片隅で、僕は縮こまっていた。

 

「浅野君」

「これはどういうことかしら?」

「え?ほら、こっちの方が効率いいなと思って……宿題は終わるし、わからないところは教えてもらえるし……図書室だから調べ物もすぐにできますし」

 

 あれ?我ながらナイス判断だと思ったんだけど……もしかして……いや、この二人が仲悪いわけが……きっと全てまとめて済ませようとした僕の怠慢が責められているんだろう。

 申し訳ない気持ちになっていると、奥野さんはにこやかに、先生はクールに向かい合っていた。

 

「じゃあ、先生……よろしくお願いします」

「ええ、それじゃあ始めましょう」

 

 そして今に至る。

 勉強は進んでいる。それは間違いない。小テストはきっちり満点を獲れたし、宿題も順調に進んでいる。でも、何だろう……テスト勉強の時もそうだったけど、普通の授業とは質の違う緊張感が……。

 

「浅野君、ここ間違ってるわ」

「あ、はい!っ!」

 

 返事をするのと同じくらいのタイミングで、ふくらはぎを先生の脚が撫でていく。

 甘美な感触が足を優しく刺激して、何だか体が癒されていく気がした。

 

「浅野君?ん?あっ!先生、今、浅野君に変なことしてませんでした!?」

「何の事かしら」

「むむっ、あ、浅野君、ちょっとノート見せて!」

「え?あ、うん」

 

 奥野さんが椅子をこちらに動かし、距離を詰め……か、肩がめっちゃ当たってる。しかも、柑橘系の爽やかな香りが鼻腔をくすぐりだして、落ち着かない気分になる。

 

「奥野さん、少し離れなさい」

「わ、私はノートを見せてもらってるだけです!」

「…………」

「っ」

 

 このタイミングで先生から足マッサージきた!!

 片や奥野さんは周りをキョロキョロ見回し、一人で頷いた。まるで誰もいないことを確認しているみたいだ。

 

「あの、先生こそ、やけに浅野君に構いますね」

「別に。普通よ」

「じゃあ!わ、わ、私の距離感も普通です!」

 

 奥野さんはさらにくっついてくる。

 ど、どうしよう、肘の辺りに胸が……。

 先生ほどじゃないけど、それでも確かな柔らかさと弾力のある膨らみは、僕の頼りない理性をガンガンすり減らした。

 

「……浅野君」

 

 先生がじっと僕を見て、いや睨んでくる。おそらくお前が自分でどうにかしろという事だろう。

 

「えっと、奥野さん……?」

「…………」

 

 今度は奥野さんが至近距離から見つめてくる。長い睫毛が揺れ、切なげな瞳はしっかりとこちらを見据え、僕は二の句をつげなくなる。

 視線を逸らし、先生に目を向けると、無表情のまま、薄紅色の唇が小さく動き、二文字の言葉を形づくった気がした。

 

『ばか』

 

 や、やばい、どうすればいいのか皆目見当がつかない。

 あわあわと二人を交互に見て慌てていると、いつの間にか背後には司書の先生が立っていた。

 

「貴方達……図書室では静かになさい」

「「はい」」

「……すみません」

 

 ひとまず、今日の勉強会はこれでお開きとなった。

 

 *******

 

「あ~やっちゃった~!絶対に変な女だと思われてる~!」

 

「でも、肩、大きかったな…………ふふっ」

 

 *******

 

「へえ、森原先生にも意外な一面があるのね?」

「……何の事でしょうか、先輩」

 

 *******

 

「ふぅ……ようやく解放された……」

 

 勉強に付き合ってくれるのは嬉しいんだけど、夏休みに入ってから1週間も経っていないのに飛ばしすぎた。宿題はかなり進んだけど、意味なくダラダラ過ごすのも、休みの醍醐味だと思うんです……。

 考えながら自転車を漕いでいると、もう家が見えてきた。

 さて、昨日買っておいたかき氷でも食べよう……。

 午後のダラダラに思いを馳せ、ドアノブに手をかけようとしたその時、誰もいないはずの家から、誰かが出てきた。

 

「あ~!お兄ちゃん帰ってきた!」



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第24話

「お兄ちゃん、久しぶり~!会いたかったよ~!」

「え?あれ……もしかして、若葉?」

「うん、そうだよ!もしかして……お兄ちゃん、若葉の顔忘れちゃった?」

「いや、そんなことは……ただ大きくなってたから……」

 

 いきなり僕に抱きついてきた女の子の名前は日高若葉。ここから電車で2時間ほど離れた街に住む、少し歳の離れた従妹だ。現在、小学校5年である。

 若葉は赤みがかったお団子髪を震わせ、顔を赤らめ、胸元を隠し、何やら口元をもごもごさせた。

 

「も、もう!いきなり何言い出すの?お兄ちゃんのエッチ……」

「な、何で!?」

「だって……大きくなったって……」

「そっちじゃないよ!身長の話だよ!」

 

 何で久しぶりに会った小学生の従妹に、いきなり胸の話をするというのか、そんなお兄ちゃんにはなりたくない……。

 僕の言葉に、若葉は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「そっかぁ、残念。でも若葉の胸、クラスで一番大きいんだよ?」

「ふ~ん。じゃ、一緒にかき氷でも食べよっか」

「あ~、何その反応!?全然興味なさげじゃん!!」

「そりゃそうだろ……」

 

 何度も一緒に風呂に入ったことのある小学生の胸に興味などあるわけない。ていうか、小学生にそういう目を向けたことないし。

 

「むぅ……そうなんだ。私のカラダには飽きたんだ……」

「は?」

「やっぱり彼女ができたから私を捨てるんだ!お兄ちゃんの浮気者!変態!スケコマシ!」

「ちょっ……」

 

 家の前で何て事を!ご近所さんに聞かれたらどうするんだ!

 僕は慌てて若葉の口を塞ごうとするが、するりと躱された。

 

「お兄ちゃんのヘンタ~イ!」

「くっ、それ以上言わせるか!」

 

 僕は年上の身体能力をここぞとばかりに発揮して、若葉をしっかりと背後から捕まえ、口を塞ぐ。年下相手には、如何なく身体能力を発揮する僕。少し情けない。

 

「ふぅ……やっと捕まえた」

「ん~!ん~!」

「ほら、大人しくしろ。はやく家に入るぞ」

「な、何してるの、浅野君?」

「え?」

 

 突然聞こえてきた声に振り向くと、そこには、こちらを指さしてプルプル震えている奥野さんと、いつもと変わらぬ涼しげな表情でこちらをじぃ~~~~~~~っと見つめる森原先生がいた。あれ?やっぱりいつも通りじゃないかも……。

 

「…………」

 

 無言のままなのが怖い。ただ怖い。

 

「お兄ちゃん、この女の人達は?誰?どんな関係?」

 

 真っ先に口を開いた若葉の「お兄ちゃん」という単語に反応した奥野さんが、驚いた表情で僕と若葉を交互に見る。

 

「浅野君って妹いたの?」

「いや、妹じゃなくて、いと「妹じゃないもん!恋人だもん!」……」

「あはは、可愛いね。私は奥野愛美。あなたのお名前教えてくれる?」

「むむむ、子供扱いするな~!」

 

 よしよしと頭を撫でてくる奥野さんに、若葉はじたばたと抵抗している。

 

「…………恋人…………恋人…………」

 

 何故か先生はぼーっと空を仰ぎ、ぶつぶつと何か呟いていた。

 

 *******

 

 とりあえず家に上がってもらい、麦茶を出したところで、さっき別れたばかりの2人が家まで来た理由を聞かされた。

 

「え?僕、忘れ物してたんですか?」

「ええ。それで急いで届けようとしたのだけれど……」

「私が届けるって言ったら先生が……」

「「…………」」

 

 何故か見つめ合う2人。どうやら僕は教科書を2冊も図書室に忘れたらしい。まあ、あんな感じでお開きになったのだから、仕方ないという事で……。

 それで、どちらが届けるかという話になり、結局一人一冊届けてくれる事になったようだ。

 ……きっと効率悪いとか言っちゃいけないんだろう。

 

「あ、ありがとうございます。すいません、2人共忙しいのに……」

「大丈夫よ。今から休憩だったし……」

「先生、図書室で楠田先生と何か話してませんでした?」

「ただの雑談よ。それより、あなたもどうしてあの時戻ってきたの?」

「そ、それは、別に……」

「あの!」

 

 2人の間に、若葉が割って入る。

 

「2人はお兄ちゃんとどんな関係なんですか!?まさか、お兄ちゃんの彼女ですか!?」

「ん?彼女…………え?え?ええ!?」

「…………」

 

 若葉の唐突な質問に、奥野さんは驚きで、先生は無表情で応じた。どちらも頬が少し赤くなっている。や、やばい、このままじゃ若葉が怒られる。

 

「若葉、変なこと言うんじゃありません。この2人が僕にはちっとも興味なんて……あたっ!?」

 

 背中に2カ所、鋭い痛みが走った。

 慌てて振り向くと、いつの間にか背後にいた先生と奥野さんが、何食わぬ顔で座っているだけだ。

 あ、あれ?気のせいかな……いや、でも確かに……。

 

「浅野君」

「はい?」

「この前の課題図書をもう1往復読みなさい」

「え?あ、あの、この前の10冊ですか?」

「ええ」

 

 そんな……本10をもう1往復だなんて……いや、面白かったけど、小説の方を読んだ後、先生の顔をしばらく見るのが、何故か気恥ずかしかったんだよなぁ……。

 奥野さんが首を傾げながら口を開いた。

 

「課題図書なんて出てたっけ?」

「気にしないで。特別補習だから」

「……なんか怪しい」

「それより……若葉さん。さっきの恋人の件なんだけど」

「な、何ですか!嘘じゃないですよ!んっ」

 

 若葉は僕の頬に、可愛らしく口づけてくる。まだ、この癖直ってなかったのか。別に悪い気はしないけど。

 

「はいはい、ありがと。でもそろそろ止めような。小学5年なんだから」

「がーん……わ、若葉の色仕掛けが効いてない……」

「色仕掛けって……ん?」

「先生?」

「…………」

 

 何故か先生は、放心したように固まり、しばらく僕らが呼びかけても、無反応だった。

 



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第25話

 何故か窓の外を見て、悲劇の映画のヒロインみたいに佇んでいる先生はひとまず置いておくことにして……あ、復活した。

 そして、僕の隣にゆっくりと正座した。だ、大丈夫なのかな?

 何とも言えない表情をした奥野さんが先生に何事か耳打ちしている。

 

「先生、先生!何ダメージ受けてるんですか!確かに私もびっくりしましたけど、ほっぺにキスだけですよ!しかも、浅野君は全然気にしてませんよ!」

「何の事かしら……キス……キス……」

「……ああ、ダメだ。てか何で私がフォローしてんのよ」

 

 先生から離れた奥野さんは、若葉の前に座り、優しげな笑顔を向けた。

 

「若葉ちゃんはここまで一人で来たの?お父さんとお母さんは?」

「パパとママはお仕事が忙しいから1人で来たの。若葉はもう小学5年なんだから……」

 

 まだ奥野さんに対して、警戒しながら答える若葉。そっか、叔父さん達は相変わらず忙しいのか……。

 そういえば、僕が若葉ぐらいの頃は、乗り換えを間違えて大泣きしたっけなぁ……あの後の記憶がないや。どこまで行ったんだっけ?えっと……とても遠い田舎町だったような……いや、今は思い出さなくていいや。

 うっかり回想に耽りそうになり、慌てて我に返る。

 若葉と奥野さんは、どちらも持ち前のコミュ力で、もう打ち解けていた。

 

「じゃあ、今日はここに泊まっていくんだね」

「うん、今日から1週間」

「え!?」

「1週間……」

「ダメなの?」

「いや、別にいいけど。ただ母さんが出張で1週間いないから、大したおもてなしはできないよ?」

「叔母さんがいない……そっか、じゃあ……二人っきりだね」

「ん?あれ?話が変わってる?お~い。戻ってこ~い」

 

 しかし、1週間か……。

 服はもちろん持ってきてるだろうし、泊まれる部屋もある。後は食事だが、大したレパートリーもない僕の技術じゃ……まあ、仕方ないから、外食を織り交ぜながら……。

 

「じゃあ、私が時折様子を見に行くわ」

 

 先生が、さっきまでの様子が嘘みたいに、いつものクールな雰囲気を身に纏っている。どうやら具合が悪い訳じゃなさそうだけど……。

 

「あの、いいんですか?」

「ええ。何なら食事も私が作るわ。君だけでは色々と大変でしょう?」

「いや、さすがにそれは悪いですよ……」

「これは担任としてではなく、1人の大人として言ってるの。1週間だけとはいえ、小学生のお子さんを預かるという事は、君が思ってるよりも、ずっと大きな責任を伴うのよ」

「は、はい……」

「……物は言い様よね」

 

 奥野さんが何か呟くのを聞きながら、僕は自分の浅はかさが恥ずかしくなった。

 確かに、あまりにも軽く考えすぎていたかもしれない。

 こうして、優しく諭してくれる先生に、僕は心からの尊敬と感謝を覚え……

 

「え~、私がご飯作ろうと……「いや、それは勘弁して」

 

 去年食べた砂糖たっぷりのチャーハンはちょっとしたトラウマだ。砂糖と塩を間違える奴が本当にいることを、僕はこの時初めて知った。ていうか、いらんことを思い出して、感動が台無しだ。

 気を取り直し、僕は先生に頭を下げた。

 

「あの、先生……よろしくお願いします」

「大丈夫よ。じゃあ、さっそく今晩からお邪魔するわね」

「あっ、ずるい!私も……あ、もう帰らなきゃ!ていうか、明日から私、1週間長野のおばあちゃんの家に行くんだった!」

 

 何故か頭を抱える奥野さんの肩に手を置き、優しく諭すように語りかけた。

 

「奥野さん。離れて暮らすご家族に会いに行くのは大事なことよ。あなたの元気な姿を見せてあげなさい」

「……言ってることは教師としてこの上なく正しいはずなのに、何だか先生が黒く見えるんですけど」

「何の話かしら」

「……絶対に変なことしちゃダメですよ」

「まずはあなたが破廉恥な妄想を止めなさい。私は担任よ。そんな事しないわ」

「……お兄ちゃん、この人達怖い」

「…………」

 

 確かに2人の間には、覇気のような威圧感漂うオーラが……。

 いや、気のせい……だよね?

 

 *******

 

 先生は一旦学校へ戻り、奥野さんは家に帰り、再び僕と若葉だけになった。

 若葉はこちらにジト目を向けながら、やや冷たい声音で聞いてくる。

 

「それで、お兄ちゃんは私というものがありながら、どっちと浮気してるの?」

「いや、違うから。しかも浮気って……あの2人は担任の先生とクラスメートだよ」

「ふぅ~ん。でも心配だなあ、どっちも胸大っきいし」

「…………」

 

 それは否定しない。揺るぎない事実だ。

 背中やら肩やらに押しつけられた先生の柔らかい温もりが、急に脳内に蘇り、胸の鼓動を優しく揺すってくる。

 

「お兄ちゃん、目がいやらしい」

「き、き、気のせいだよ!」

「お兄ちゃんってさ、あの眼鏡のお姉さんみたいな人、好みだよね?」

「…………」

 

 いや、確かにそうかもだけど…………そうなのかな。

 先生はものすごく美人だし、気遣いできて優しいし、それでいて悪いところは悪いって言ってくれる大人の女性で……手が届かない遥か彼方の星みたいで……。

 いや、何考えてんだよ、僕は。分不相応にも程がある。

 

「……顔真っ赤だよ?」

「ち、違うよ、そんなんじゃ……」

「じゃあ、もう1人のちょっとギャルっぽい人?」

「だ、だから違うっての。その話は終わり」

「やっぱり若葉が1番だよね!」

「…………」

「あっ、無視した!」

 

 しばらくの間、夏の暑さによく似た顔の火照りはとれてくれなかった。



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第26話

「まさか、あんなに可愛らしい従妹がいたなんて……いや、でも、歳は離れてるから……私もだったわ」

 

「……いえ、悩んでる暇はないわね。夏休みの間にできる限りアピールしておかないと」

 

 *******

 

 窓から見える空が茜色に染まる頃に、予定時刻ぴったりに呼び鈴が鳴り、先生の到着を告げた。

 玄関の扉を開くと、右手に買い物袋を持った先生が立っていた。さっきのスーツ姿ではなく、一旦家で着替えてきたみたいだ。

 

「おかえり…………あ」

「…………」

 

 あ、やばい!自宅だからつい「おかえり」とか言ってしまった!

 

「あ、ごめんなさい!ついクセで!」

 

 先生は形のいい眉を少しだけピクッとさせ、鋭い刃のような目つきで、じっと僕を見つめた。も、もしかして、また怒らせたかな?

 内心、ビクビクしていると、先生は何故かゆっくりと扉を閉める。あれ?どうしたんだろう……。

 僕が扉に手をかけようとすると、再び扉が開かれる。

 

「ただいま」

 

 その言葉は普段より幾分柔らかな声音で紡がれた。いつもの涼しげな表情もどこか明るく見えた。どうやら怒ってはいないようで、僕はほっと胸をなで下ろした。

 さらに、先生が僕に「ただいま」と言うのが、あまり現実味がなくて、加えてどこかくすぐったくて、僕は頬が緩むのを抑えられなかった。

 

「…………」

 

 先生はまだ敷居を跨ぐことなく、じーっとこちらを見ている。

 あっ、そうだった。

 

「えっと……お、おかえりなさい!」

「どうかしたの?」

「いえ、何でもありません」 

「そう。お邪魔します」

「あ、はい。どうぞ」

 

 普段のテンションに戻り、先生が淀みのない所作で靴を脱ぎ、上がってくる。

 ふと視線を感じ、目を向けると、若葉が居間から顔だけを出していた。

 

「何、この茶番……」

 

 若葉はやけに冷ややかな目を僕達に向けていた。

 

 *******

 

「そういえば、若葉さんは何か苦手な食べ物はある?」

「……ありません!若葉はもう子供じゃないですから!」

 

 対抗しようとしているのか、必死に大人ぶろうとする若葉に、先生は微笑み、若葉の長いさらさらした髪を撫でた。

 いきなり頭に手を置かれ、驚いた若葉も、先生の撫で方が気持ちいいのか、目を細め、されるがままになっている。

 

「そじゃあ、今晩は肉じゃがでいいかしら」

「う、うん……いいと思います……ていうか、子供扱いしないでください!もう!」

 

 先生は若葉の抗議を聞き流し、しばらく頭を撫でた後、エプロンを身につけ、料理の準備に取りかかった。

 ……先生って子供好きなんだな。

 

「どうかしたの?」

「いえ、何でもないです」

「そう。じゃあ…………祐一君。手伝い、お願いしていいかしら?」

「はい、わかりました」

「あっ、若葉も手伝います!」

 

 こうして、3人の夕食作りが始まった。

 

 *******

 

 若葉のお兄ちゃんは世界一。

 他の人が知らなくても若葉だけは知ってる。

 あの日からずっとそう思ってた…………なのに。

 なのに、何でこうなってるの~~~~~!!?

 

「それじゃあ、包丁の持ち方の復習をするわね」

「は、はい」

 

 包丁の持ち方の復習!?小学生の私でも包丁くらいキチンと持てるよ!それにくっつきすぎだよ!お胸がお兄ちゃんの肘に当たりまくってるよ!あとさり気なく脚でお兄ちゃんの脚を撫でてる!?

 さらに……目がキラキラしてるよ。

 そして、何がすごいって……お兄ちゃん、多分先生の気持ちにちっっっとも気づいていない!いや、若葉はそれでいいんだけど!でも、あまりに鈍感すぎて、名前のある精神疾患を疑っちゃうよ!

 

「あの、先生……っ」

 

 お兄ちゃんが呼びかけると、お姉さんは人差し指をお兄ちゃんの唇に置いた。え?そんなに責めちゃうの!?この人、本当に担任の先生なの!?

 お姉さんは無表情のまま、小さいけどよく通る声で呟いた。

 

「ルール……忘れた?」

「……す、すいませんでした!その…………唯さん」

「はい。どうしたの?」

「その……さっき、肘に……当たってました」

「何が?」

「えっと……何というか……」

「何の話かはわからないけど、気のせいよ」

「そ、そうですか」

 

 そうですか、じゃねーーーーー!!!!!

 絶対に気づいてるよね!?でも「先生が気のせいって言うなら、何か意味があるんだろうな」なんて考えてるよね!?お兄ちゃんのエッチ!そりゃ確かにお姉さんのお胸大っきいけど!!

 

「じゃあ、若葉さんはこれをお願いね」

 

 お姉さんが私に目線を合わせ、とても優しい眼差しで、とても優しく話しかけてくれる。

 ……うーん、若葉は可愛いから、優しくしてくれる人は多いけど、何でかなぁ?

 今この時は、何でこんなに優しいんだろう?って思うんだけど……。

 

「……祐一君」

「はい、何ですか?」

「夏休みは旅行には行かないの?」

「あー、今のところは……父親も冬休みにならないと、帰ってこないので……」

「そう。お忙しいのね」

「あの……先生は?」

「私は仕事があるわ」

「ですよね」

 

 2人の声が、私の頭の上を行き交う。う~ん、何だろう……何かが引っかかる。

 考えながら、私は調味料を分け終えた。

 

「できました」

「そう。えらいわね……あな……祐一君。若葉さんが調味料をしっかり分けてくれたわ」

「え?あ、はい……若葉、ありがとう」

「…………」

 

 今、あなたって言おうとしてたような…………はっ!

 若葉、気づいちゃったよ!

 この並び……さっきの言い間違い……。

 この人……若葉を利用して、お兄ちゃんの奥さんを体験してる!!若葉を自分の娘に見立ててるよ!!でも……

 

「祐一君、この並びは何かを彷彿させる気がするのだけれど……家族、みたいな」

「ああ、確かに。歳の離れた兄弟というか……」

「…………」

 

 うん。お兄ちゃんが全然気づいてない。気づきそうもないよ。

 お姉さんはぷいっとそっぽを向いて、フライパンで野菜を炒め始めた。

 ……敵ながら、ちょっと可愛いかも。

 

 



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第27話

 先生の素晴らしい料理の腕前や、若葉の手伝いもあり、夕食の支度は思っていたより早くできた。

 途中から若葉が先生をずっと見てたけど、やっぱり先生くらい美人だと、女子から見ても憧れるんだろうなぁ。食い入るように見てたし。普段から見てる僕でも、授業中に見とれることがあるからなぁ。

 

「お兄ちゃん、さっきから先生の方見すぎ」

「えっ、いや別に……」

「このオッパイ星人。変態」

「違うよ!何言ってんだよ!」

「どーだか。若葉だって、あと3年たもすれば……」

 

 若葉はぷんすか怒りながら、皿をテーブルに運ぶ。まったく……確かに見てたけど、別に変なことを考えていた訳じゃなくて……しかも、オッパイ星人とか……僕はそんなんじゃ……。

 

「…………」

 

 何の気なしに視線を先生に向けると、まったく同じタイミングで先生がこちらを向き、視線が思いきりぶつかる。

 先生は、こちらに考えを悟らせないクールな表情のまま、首を傾げた。

 

「……そうなの?」

「ち、違います!違いますよ!」

「……そう」

 

 先生は自分の胸元に視線を落とし、そこに手を置いた。豊かな膨らみに細い指が微かに沈み、瑞々しい弾力がそこにあるのを想像してしまう。

 今そんな仕草を見せられると、自然とこちらの目が、そこに引きつけられてしまう。

 そこで、若葉が間に入ってきた。

 

「ああ、もう!二人共、はやく食べようよ!」

 

 *******

 

 3人で作った料理の味に満足し、片付けを終え、ひと息つくと、先生が洗面所の方へ向かい、すぐに戻ってきた。

 

「お風呂の方はいつでも入れるわ」

「いつの間に……」

 

 ていうか、お風呂の用意までしてくれたのか……先生にここまでしてもらってはさすがに申し訳なさすぎる気が……。

 はやく汗を流したいのか、若葉は嬉しそうに立ち上がり、僕に抱きついてきた。

 

「じゃあ、私入る~♪もちろん、お兄ちゃんと!」

「いや、一人で大丈夫だろ」

「え~!いいじゃんいいじゃん!…………ダメ?」

 

 ささっと目の前に来て、うるうるとした瞳と上目遣いの合体技を披露してくる若葉。正直これには僕も弱い。去年は気がつけば、ケーキを買わされてしまった。

 僕の様子を見て、もう一押しすればいけると思ったのか、若葉はさらに距離を詰め、鼻先に息がかかる位置まで顔を寄せてきた。近い。

 すると、若葉の体が宙に浮いた。

 いつ移動したのか、若葉の背後に回っていた先生が、ひょいっと抱き上げていた。

 

「若葉さん、そこまでよ。祐一君が困ってるわ」

「うう~、離して~!」

 

 若葉がじたばたと暴れても、先生のホールドが強すぎるのか、びくともしない。

 

「お兄ちゃんからも何か言ってよ~!若葉と一緒にお風呂入りたいって言ってよ~!」

 

 それはさすがに言えない。

 だってロリコン認定されるから。

 さらに、若葉を抱きかかえた先生が、凍てつく波動でも放ちそうな瞳を向けてくるから。

 とはいえ、妹分をここで無碍に扱うのも気が進まない。

 

「あの……先生、別に風呂ぐらいなら大丈夫ですよ」

「…………」

 

 若葉は喜んでいるが、その声が耳に入らないくらいに視線が冷たい。何だろう……エアコン効き過ぎてるのかなぁ?

 場の空気を取り繕うようにエアコンのリモコンを確認しようとすると、先生がゆっくりと口を開いた。あれ?顔が赤いような……。

 

「じゃあ、条件があるわ」

「?」

「……祐一君が、変なことをしないように……私が見張ります」

 

 …………………………………………………………え?

 

 *******

 

 はい。結局、先生と若葉が二人で風呂に入ることになりました。

 何というか……皆さん、ヘタレでごめんなさい……誰に謝ってんだろう、僕は。

 それよりも、今、我が家の浴槽には先生が……当たり前だけど、その……は、裸で。

 考えるだけで、妙に顔が熱くなり、頭の中に鮮明な映像が浮かんでくる。

 そういえば……ちょっと前に僕の後ろで裸になってたんだよな……その後、水着姿まで見たし……。

 

「こ、これ以上考えるのは止めよう!」

 

 あえて口に出すことで、何とか思考を断ち切り、とりあえず腕立て伏せを始めた。何でかはわからないけど。

 一回、二回、三回と繰り返している内に、徐々に意識が腕の筋肉に集中していき……

 

「お兄ちゃ~~~~ん!」

 

 ドタバタと騒がしい足音が近づいてきたので、腕立て伏せを中断し、顔を向けると、バスタオルを巻いただけの姿で、湯気をほこほこ立たせながら、こちらに駆け寄ってきた。

 

「はぁ……そんな格好で出てくるなよ」

「無反応!?お兄ちゃん、この格好を見て何とも思わないの!?」

「いや、だって小さい頃から見慣れてるし」

「はっ……お兄ちゃん、もしかして……枯れ……」

「言わせないよ!?だから見慣れてるって言ったじゃんか!」

「ふぅん。じゃあ、これはどう?」

 

 若葉はタオルのすすっと捲り、太ももをぎりぎりの部分まで露わにし出した。どこで習ったんだ、そんなの。

 と、そこで……

 

「若葉さん、何をやっているの?」

「げっ!」

「はぁ!?」

「私が髪を洗っている間に逃げ出したのね。ダメじゃない、そんな格好で」

「せ、せせせ、先生!そ、その格好!」

 

 先生は、若葉とまったく同じ格好をしていた。

 普段はスーツに包まれた、豊かな曲線を描く完璧なスタイルを、今は薄っぺらいタオルで1枚で包んでいる。

 全体的に透きとおるような白い肌は、まるで美術品のようで、露わになった深い胸の谷間や、しなやかな脚からは、飾りのように幾つもの水滴が煌めいていた。

 心音が胸を突き破って、周りに聞こえそうなくらいに高鳴り始める。

 目を離さなきゃいけないのに目を離せない。

 先生は僕の視線に気づいたのか、タオルを持つ手をぎゅっと握りしめた。

 

「……タオルを巻いてるから、気にしないで」

 

 無理です。

 先生の上気した頬がさらに赤くなり、やや伏し目がちになる。

 それがこちらにも伝わり、より一層顔が熱くなる。手で顔を仰いでみても、もちろん熱いままだ。

 そんな僕の様子を見ながら、先生は若葉に手招きした。

 

「若葉さん行きましょう。髪をきちんと乾かさないと」

「は~い……わわっ」

 

 渋々踵を返した若葉は、畳の上に置かれていた新聞紙に足を滑らせた。

 それを見て反射的に、若葉が頭を打たないように、自然と体が動く。

 しかし、若葉は前のめりに倒れ……

 

「きゃっ!」

「っ!」

 

 先生のタオルを掴んだ。

 若葉に掴まれたタオルはあっさりと床に落ちる。

 彼女に駆け寄ろうとした僕の目の前にあるのは……

 

「いたた…………あ」

「「…………」」

 

 鼻の辺りに熱いものを感じるのと同時に、僕の意識は途切れた。

 

 

 



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第28話

 道のど真ん中に僕は立っていた。

 辺りを見回すと、どうやら寂れた田舎町みたいだ。

 屋根に雀がとまっている古い家屋、畦道、田んぼで農作業をしている人。どれもが初めてのはずなのに懐かしい。

 僕はそれらを眺めながら、何処を目指すでもなく歩き続けた。

 

 *******

 

 何処かから戻ってきたような感覚と、頭をさらさらと撫でられる感触で、目が覚める。

 部屋の照明がやけに明るく感じて、目を細めると、聞き慣れた声が降ってきた。

 

「大丈夫?」

 

 やわらかな声に誘われるように、もう一度瞼を開くと、先生がこちらを見下ろしていた。

 

「せ、先生……」

「大丈夫?」

 

 さっきと同じ質問を繰り返す先生の顔を見て、今の自分の状況に気づく。

 先生は僕を覗き込むように見下ろし、後頭部には自分の枕を遥かに凌ぐ癒しの感触。こ、これは……間違いなく……ひ、ひ、膝枕!?

 

「す、すいません!っ!」

 

 慌てて体を起こそうとすると、がしっと肩を押さえられ、また先生の膝枕に後頭部がぴったりとくっつく。

 先生は、今度は咎めるような目で見下ろしてきた。

 

「まだ起きちゃ駄目よ。寝てなさい」

「あの、何で僕は先生から膝枕を……」

「覚えてないの?君は思いきり鼻血を出して倒れたのだけれど」

「は、鼻血!?」

 

 そういえば鼻の辺りがムズムズするような……あれ?何で鼻血なんて…………あ。

 確か、若葉がバスタオル1枚で出てきて、それを追いかけて先生もバスタオル1枚で出てきて、若葉が転んで、先生のタオルが落ちて、それから…………!!!!!!!

 その時の光景が、霧が晴れるように蘇ってくる。

 床に落ちたバスタオル。

 転んだ若葉。

 先生のキョトンとした顔。

 そして、紅潮していく頬。

 首から下、水滴が艶めかしく伝っていく真っ白な……

 

「…………」

「どうかしたの?」

 

 間違いない。

 間違いなく僕は先生の……裸を……見て……。

 その事実を認識しただけで、ドクン……ドクン……と鼓動が鳴る。

 や、やばい……思い出さないようにしなきゃ。

 

「……祐一君?」

「い、いえ、もう大丈夫です!」

「そう……」

 

 立ち上がり、先生の方を向くと、当たり前だが服を着ている。風邪をひいた時に見た物と同じだ。

 ……あの服の下に……いや、待て。思い出すな。

 一人懊悩している僕の方をじっと見つめながら、先生は手招きした。

 

「……祐一君。とりあえず座りなさい。また鼻血が出たらどうするの?」

「は、はい……」

 

 とりあえず畳の上で胡座をかくと、先生がぴたりと背中をくっつけてきた。

 また頭の中で先生の裸が蘇りそうになり、頭をブンブン振って、何とか記憶を振り払う。

 すると、先生は僕の隣に座る位置を変えた。

 それだけで、何となく先生が話しかけてくる気配がした。

  

「祐一君…………見た?」

「……ごめんなさい」

 

 ……そうだ。テンパり過ぎて、謝罪を忘れていた。

 頭を下げるために体を離そうとすると、肩に手を置かれ、動きを止められる。

 

 

「いえ、あれは君が悪いわけじゃないから。でも……」

「?」

 

 先生の手が僕の手にそっと重なる。

 左手から火照った体がやんわり冷めていくのを感じたが、これはこれで別の緊張が……。

 おそるおそる隣を見ると、先生もこっちを向き、口を開いた。

 

「これは、責任を取ってもらうしかないわね」

「ええ!?で、でも……いや、確かに……」

 

 確かに。いくら事故とはいえ、女性の裸を見たんだから、逃げずにその責任は取らなきゃいけない。いや、僕じゃ力不足もいいとこだけど。でも……。

 正直不安しかないけど、僕は言うべき言葉を頭の中から絞り出し、深呼吸して、覚悟を決めた。

 

「わ、わかりました!」

「……冗談よ……え?今、何て……」

「せ、先生!その……僕、まだ全然先生と釣り合いが取れる男じゃないですけど、そ、その……」

「…………え?あ、その……」

 

 先生は、珍しくポカンとした表情でこちらを見ていた。

 艶やかな唇は、震えるように動き、何やら空気が掠れるような音が聞こえる。

 

「……あ、あれ?先生?」

 

 その表情に、僕は肩透かしにも似た気分になる。あ、これ冗談だ。

 先生は向こうを見てから、ブンブン顔を振り、バシバシ頬を叩き、こっちに小さな笑みを向けた。やっぱり冗談だった。相変わらずわかりにくい。

 

「…………ふふっ、冗談よ。少し、夜風でも浴びましょうか?」

「あ、はい……そういえば、若葉は?」

「宿題があるそうよ」

「ああ、なるほど……」

 

 *******

 

「ふっふっふ……今日中に全部終わらせれば、夏休みはお兄ちゃんと……ふあぁ、眠い……」

 

 *******

 

 サンダルを履いて庭に出ると、夜風がさらさらと頬を撫で、吹き抜けていった。一人なら散歩にでも出かけたかもしれない。

 先生の方を見ると、漆黒の長い髪が風に泳ぎ、夜の闇に溶けてしまいそうに見えた。

 

「……月が綺麗ね」

「はい」

 

 その視線を追うように夜空を見上げると、数多の星が瞬き、その中央にまんまるい月が仄かに夜の街を照らしていた。

 

「……月が綺麗ね」

「は、はい」

 

 うん?大事なことだから二回言ったのかな?

 

「8月の始めに、君には課題図書を百冊用意します」

「え!?何の脈絡もなく!?」

「夏休み中に読み終わるように」

 

 ど、どうしたんだろう、いきなり……やっぱり、裸を見たことを怒ってるんだろうか?

 必死に何を言おうか考えていると、先生が動いた。

 

「せ、先生?」

「…………」

 

 先生は今度は、僕の正面に立ち、至近距離から上目遣いで見つめてきた。同じシャンプーを使ったはずなのに、何でこんなに甘い香りがするんだろう……。

 夢の中にいるようなふわふわした気分に、さっきの風景の残像がちらつきながら、何だか不思議な気分になってきた。

 しかし、そんな時間は長く続かなかった。

 

「そろそろ戻りましょう。君もお風呂に入らないと」

「あ、はい……」

 

 この後、風呂に入った僕は、湯船に先生が浸かったことを想像し、一人悶々としながら全身を洗った。

 

 *******

 

「……見られちゃった……やっぱり、さっき……お嫁さんにしてもらったほうがよかったかも……ううん、やっぱりちゃんと順序を……」

 

「……でも、少しくらい気づいてくれても……祐一君の鈍感」

 

 



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第29話

 風呂から上がり、自分の部屋に行くと、ベッドの隣に布団が3つ敷いてあった。

 もちろん、そんな広い部屋でもないので、かなりぎゅうぎゅう詰めになっている。

 そして、その真ん中の布団には、若葉がシャーペン片手に眠っていた。どうやら、夏休みの宿題を途中までやって力尽きたらしい。すやすやと安らかな寝息を立てる、その幼い寝顔を見ていると、普段のマセガキっぷりが嘘みたいだ。

 いや、今はそれどころではなく……

 

「あ、あの、これはどういう……」

 

 若葉の宿題を片づけ、シャーペンを手から外しながら尋ねると、ベッドに腰を下ろしている先生は何でもないことのように答えた。

 

「……布団よ」

「いや知ってますけど……え!?今さらですが、せ、先生も泊まるんですか!?」

「ええ。保護者役として」

「なるほど……」

「どうかしたの?」

「いえ、何と言いますか、その……」

「?」

「……お、同じ部屋で寝るのはさすがに……」

 

 さっきあんな事があったばかりだし、正直言うと、まだ先生の顔を見るのも気恥ずかしい。裸を見たのは僕の方なんだけど。

 ……先生はあまり気にしてないのかな?……って考えてたら、また思い出しそうだ。

 先生は、そんな思春期男子の心情などお構いなしに、小首を傾げる。

 

「君のお母さんには既に許可を得ているわ。だから大丈夫」

「…………」

 

 母さんとは後で話し合う必要がありそうだ。

 もちろん、嫌とかじゃない。むしろラッキーだ。クラスの皆が知ったら羨ましがるだろう。言う気はないし、言っても誰も信じないし、そもそも言う相手がいないけど。

 僕の内心の葛藤を悟ったのか、先生はこくりと頷いた。

 

「安心して。若葉さんに見られたくない本は押し入れの奥に隠しておいたから」

「いつの間に!?」

 

 全然安心できないんですけど!? 

 

「……その……性的嗜好は人それぞれだけど、メイドばかり集めるのはどうかと思うわ。その……スーツ姿とか」

「いや、そ、その話はいいですから!」

「大きな声を出すと、この子が起きるわよ」

 

 先生の言葉に慌てて口を塞ぐ。

 

「うゆ~……お兄ちゃん……お医者さんごっこしたいの?……んん」

「「…………」」

 

 何て夢を見てるんだ、こいつは。僕ってそんなキャラに思われているのか。

 考えている内に、先生はもう布団に潜り込んでいた。

 そして、眼鏡を外した素の瞳を、やわらかく細め、視線を向けてくる。

 

「さあ、寝ましょうか」

「あ、はい……」

 

 こうして、僕はそのまま眠りに…… 

 

 *******

 

「…………ん…………君」

「…………」

 

 やばい。

 こんなの……眠れるわけない。

 起き上がり、先生の方に目を向けると、艶っぽい寝息と寝言を真っ暗な部屋に響かせながら、まるで無防備な寝顔を晒していた。ちなみに、隣にいる若葉は、相変わらず気持ちよさそうに、口元をもにゅもにゅさせている。

 ……羊でも数えようかな?……一匹、二匹、三匹……。

 一週間後、僕は思い知ることになる。

 就寝時間に関しては、この日が一番平和だったという事を……。

 

 *******

 

「はあ……やっぱり心配だなぁ。先生、どんなアプローチしてるんだろ……ま、まさか、一緒にお風呂……それはないか。あはは……はは……」

 

 *******

 

 あまりの息苦しさに、目が覚めてしまう。

 暑い。

 何だ、この蒸し暑さは……。いくら8月とはいえ暑すぎる。

 しかも……視界が真っ暗闇に覆われていて、何も見えない。

 あれ?今、僕どうなってんの?いつの間にか眠ったみたいだけど。

 それに何だか顔が柔らかいもので覆われているような……なんか、凄く懐かしいような……。

 

 *******

 

「…………ん?」

 

 あ、あれ?朝?

 ……あー、多分宿題やってる途中で寝ちゃったのかなぁ?うぅ……あと少しだったのに。

 あっ、そうだ!せっかくのお泊まりなんだから、お兄ちゃんを起こしてあげなきゃ!お兄ちゃんだって、きっと年下美少女からの目覚めのキスを望んで……ん?……え?ええええ~~~!!?

 これ、ど、どうなってるの!?

 お、お姉さんが、お兄ちゃんに……だ、抱きついてる!!

 

 *******

 

「お姉さん、何してるの!?」

 

 若葉の声が聞こえる。多分、朝だというのに騒々しい。いや、それより……

 お姉さんって事は……も、もしかして……もしかしなくても、この感触は……。

 半ば確信に近いものに突き動かされるように、体を後ろに動かそうとするけど、まったく動けない。

 間違いなく僕は、頭をがっちり抱きしめられている。

 つまり、今顔を覆っている柔らかいものの正体は……

 

「ん……祐一君…………き」

 

 頭の上辺りから、甘ったるい声が聞こえてきた。先生はまだ眠っているのかな?なんか名前を呼ばれた気がするんだけど……。

 

「お姉さ~ん、起きて~!!朝から大胆に攻めないで~!!」

「…………んん……ん?」

 

 もぞもぞと先生の手やら脚やらが動き、そろそろ起きる気配がする。

 

「……………………あら」

 

 「あら」って……。

 先生の体が離れ、豊満な胸から顔が解放され、甘ったるい空気に代わり、真夏の早朝の爽やかな空気が身体を満たしていく。解放感と名残惜しさに、何ともいえない気分になった。

 先生は、とろんとした目つきで僕を見下ろし、何事もなかったかのように口を開いた。

 

「……おはよう」

「お、おはようございます……」

「もう!抜け駆けしちゃダメ!!お姉さんズルイ!」

 

 詰め寄る若葉に、先生はそっと髪を整えながら、眼鏡をかけ、いつものキリッとした顔つきになった。

 

「……ごめんなさい。私、寝相が悪いのと、あと朝が弱くて……迷惑をかけたわね」

「あっ、そうなんですか?」

「そんな後付け設定、誰も信じないよ!!」

 

 こうして、若葉の滞在2日目の朝を迎えた。

 



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第30話

「ねえねえ!お兄ちゃん、プール行こうよ!」

 

 朝食を終え、洗い物を片づけ、一息ついたところで、若葉が提案してくる。まあ、昨日あんなに宿題を頑張ってた事だし、そのぐらい連れて行ってやってもいいかもしれない。ていうか、そのぐらいしないと、年上の面目が立たない。

 

「いいよ。じゃあ、行こうか。水着は?」

「もちろん持ってきてるよ♪とってもセクシーなやつ!」

「はいはい。じゃあ、準備できたら行こうか。昼ご飯も向こうで食べればいいし」

「うん!やったぁ♪」

「……じゃあ、私も水着をとってくるわ」

「わっ!びっくりしたぁ!」

 

 いつの間にか背後に立っていた先生に、若葉が驚いて飛び退く。本当に気配消すの上手いんだよなぁ。裏でスパイや忍者をやっていたとしても不思議じゃない。

 

「どうかしたの?」

「あっ、いえ……先生、今日は休みなんですか?」

「ええ。その…………私も一緒に行っていいかしら?」

 

 先生が遠慮がちに尋ねてくる。

 僕はすぐに頷いた。

 

「もちろんですよ!」

「お兄ちゃん、鼻の下が伸びてる……」

「ち、違うよ!こういうのは人数が多いほうが楽しいから……」

「嘘だ!お姉さんの水着姿見たいだけでしょ!お兄ちゃんのエッチ!」

 

 僕と若葉の言い争いを余所に、先生は立ち上がり、ドアノブを握りながら、こちらを振り返った。

 

「じゃあ、この前の水着持って行くわ」

「……この前の水着?」

「いやいや、何でもない何でもない!さっ、早く若葉も水着に着替えて!」

「いやいや、ここで着替えてどうすんの?落ち着いてよ」

 

 一人テンパる僕に、若葉がしらっとした視線を向けてくる。いや、仕方ないじゃん。先生がいきなりあんな事言い出すから……いや、別に若葉なら知られても……よくないな。試着室での話とか特に……。

 

「さっ、お兄ちゃんも早く準備して!」

 

 若葉に背中をバシバシ叩かれながら、僕は先生の水着姿を思い出していた。

 

 *******

 

 うわぁ……。

 私が住んでる町では考えられないくらい大きなプールだなぁ。

 波が出るプールや、アスレチック付きのプール。ウォータースライダーなんかがあって、プールに入る前からテンション上がりまくりだよ!

 でも、最初の驚きは別のものに向けられていた。

 

「若葉さん。どうかしたの?」

「いえ、何でもありません!」

 

 何なの、あの体は!!

 昨日、お風呂でも見たけど、ボンッ!キュッ!ボンッ!じゃん!完璧じゃん!若葉の理想じゃん!羨ましすぎるよ!

 なんか周りの女の人達も、着替えながらこっちをチラ見してるし……。

 

「ねえ、あの人、モデルさんか何かかな?」

「肌白~い」

「スタイル良すぎじゃね?」

「めっちゃ美人……」

 

 お姉さんは、周りのそんな視線なんかまったく気にならないみたい。まあ、この人はお兄ちゃんにさえ見てもらえればいいんだろうね。

 それより…………何でこの人、お兄ちゃんの事が好きなの!?

 おかしいよ!あのお兄ちゃんだよ!?

 鈍感だし、スポーツはダメダメだし……もう若葉がお嫁さんになってあげるしかないと思ってたお兄ちゃんが……!

 理由を聞きたいけど、お風呂の時は誤魔化されたし……

 

 昨晩……

『あの……』

『?』

『どうしてお兄ちゃんの事が好きなんですか?』

『何の話かしら』

『え?……お兄ちゃんの事……好きですよね?』

『何の話かしら?』

『だって、あんなに体をくっつけて……』

『…………』

『あっ、何潜ってるんですか~!』

 

 まあ、今はいいや。どうせ今日でお兄ちゃんは年下の魅力に目覚めるわけだし。

 

 *******

 

「お兄ちゃん、お待たせ~!」

 

 適当な場所で待っていると、若葉の声が聞こえてきたので振り返……

 

「……お待たせ」

「せんせ……ゆ、唯さん」

 

 衝撃のあまり、名前呼びを忘れて、先生と呼んでしまうところだった。

 白い水着と白い肌が眩しすぎて……直視するのを躊躇ってしまう。

 その水着姿はやっぱり綺麗で……普段の真面目でクールなスーツ姿とのギャップが激しくて……ビキニタイプだから肌の露出が激しいはずなのに、束ねて胸元に垂らした黒髪から醸し出される雰囲気は、清楚な大和撫子そのもので……

 視線をあちこち彷徨わせていると、先生が距離を詰め、顔を至近距離から見つめてきた。

 

「大丈夫?熱中症かしら」

「あっ、いや、全然大丈夫です!はい!」

 

 しどろもどろになりながら返事をしていると、背後から膝カックンをされ、転びそうになる。

 

「お兄ちゃん。ここに可愛い年下の美少女がいるのに、何でさっきから、描写がないのかな?」

「ご、ごめん……ていうか、若葉。その格好……」

 

 若葉は、学校のスクール水着に真ん中に平仮名で大きく『ひだか』と書かれたワッペンを取り付けていた。

 本人はやたらドヤ顔を見せつけている。

 

「へっへーん。これでお兄ちゃんは若葉にイチコロだって聞いたもん!」

「だ、誰に?」

「パパ」

 

 叔父さん……あなたは自分の娘に何を教えているんでしょうか?

 

「……ああいう感じの水着が好きなの?」

「違います」

 

 先生も、ちょっとでも信じないでください。

 

 

 

 

 

 



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第31話

「おい、あれ見ろよ……」

「すっげえ美人……」

「お前、声かけてこいよ」

「いや、無理に決まってんだろ」

「俺はあのスクール水着の子のほうが……」

 

 そんな声が時折聞こえてくるけど、先生に声をかけてくる者は一人もいない。多分だけど、僕がいるからじゃなくて、美人すぎる人は単純に声がかけづらいのかもしれない。僕も知り合いじゃなかったら、半径10メートル以内にすら近づけないと思うし。

 まあ、最後のロリコンっぽい発言はスルーで……。

 

「じゃあ、まずはウォータースライダーから行こうよ!」

「……序盤から飛ばしすぎじゃないかな?」

「そんなことないよ~。ここウォータースライダー10種類あるし、結構並ぶから、早い内に行っとかないと、全部回れないよ?」

「え?」

 

 10種類って……確かに広い所だなぁって思ったけど……。

 先生は、現在地がわかる掲示板を見ながら、辺りをキョロキョロ見回し、こちらを手招きする。

 

「ここからなら、『Highway to hell』というウォータースライダーが一番近いわ」

「な、何ですか……その物騒な名前は……」

 

 死にはしないまでも、トラウマを植えつけられそうな気がする。マップを見ても、詳しい事は記載されておらず、『乗ってからのお楽しみ』なんて、血が滴り落ちそうな文字で書いてあるだけだ。お化け屋敷か。

 一方、若葉は僕とは真逆のリアクションをとっていた。 

 

「あっ、それ学校で話題になってたやつだぁ♪さっそく行きましょう!」

「マジか……じゃ、じゃあ、僕は見てるので、二人で楽しんで……あれ?」

 

 何故か左右から腕をロックされている。

 しかも、右肘には……せ、先生の胸が……!

 こっちは素肌で、あっちは水着1枚だから、いつもよりさらに柔らかく感じられ、あっという間に顔が赤くなるのが自分でもわかった。

 

「せ、先生……!」

「はやく行きましょう。どんなものか、全部確かめなきゃ」

 

 先生……まさか、絶叫系のアトラクション大好きなのか?

 

「むぅ……また……ああ、もう!今は置いときます!さっ、お兄ちゃん、行くよ?」

「え、ええ!?」

 

 2人に有無を言わさず連れて行かれた僕は、そのアトラクションの名前通り、地獄へ直行する羽目になった。

 

 *******

 

「あぁ~気持ち良かった♪」

「……意外と楽しめたわ」

「…………」

 

 な、何なんだ、あれ……最近のウォータースライダーどうなってるの?やたらスピードがつくし、グルグル回ったり、上がったり下がったりを繰り返し、なんか途中で体が浮いた時は、本気で地獄へ行ったのかと思ったんだけど……。

 別に絶叫系が特別苦手というわけじゃない僕でも、滅茶苦茶怖かったというのに、2人はケロッとしていた。強い三半規管をお持ちのようで……。

 

「次はどれに行こっかな~♪」

「さっきのマップを見た限りあるでは、『BACK IN BLACK』が1番近いわね」

「あっ、それも友達が話してました♪」

 

 また危険そうな名前が……そろそろ僕は見守る側に回ろうかな。

 

「じゃあ、僕はここで見てるから2人は……あれ?」

 

 再び両腕を拘束される。

 あれ、2人共……力、強いなぁ。逃げられないなぁ。

 

 *******

 

「な、何だ、これ……」

 

 今回のウォータースライダーは、外は塀に囲まれ、どんなコースになっているのか、全然わからない。時折、塀に取り付けられた扉から、笑顔で出てくるので、楽しいアトラクションのようだけど……

 

「次のお客様、どうぞ~!!」

 

 係員に呼ばれ、階段を昇り、扉を開け、中に入ると、さっそくコースの入り口となっていた。

 入り口の向こうは薄暗く、どんな風になっているのかわからないが、そのことが却って想像力を刺激してくる。それでも僕は普通に滑りたい。

 

「……なるほど」

 

 先生は口元に手を当て、1人で納得している。先生、何がなるほどなんでしょうか?

 

「ほら、お兄ちゃん。はやく行こ!」

 

 若葉は係員に3人乗りのゴムボートを用意してもらい、はやく来いと手招きをしている。

 どのみち、ここまで来たら逃げようがないので、僕は腹をくくり、真っ黒なボートに乗り、溜息を吐いた。

 

 *******

 

「わぁ~、何これ!すご~い!」

「お、おぉ……」

「…………」

 

 今回のウォータースライダーは、意外と楽しい。

 どんなキワモノかと思いきや、真っ暗な空間に、星のような鮮やかな光がぽつぽつと輝き、まるで宇宙空間をボートで駆け抜けているかのようだ。

 しかし、そんな夢体験も終わりがやってくる。

 ラストの深いプールに到着すると、若葉は残念そうな声を上げた。

 

「あ~あ、もう着いちゃった」

 

 そして、僕の傍で立ち上がる。

 すると、こちらに重さが偏りすぎたのか、ボートがバランスを崩し、ひっくり返った。

 

「わわっ!」

「っ!」

「…………」

 

 や、やばい!いきなり過ぎて、鼻に水が入りまくった!

 少しでも早くプールから上がろうと、必死に手足を動かす。

 すると、右手がぎゅむっと何かを掴んだ。

 何やら布の感触と、すべすべした何かの感触が……

 え?こ、これって……

 慌てて手を離し、そのまま水面から顔を出し、2人を探そうとしたけど、若葉は既にプールの縁に捕まっていて、先生もすぐに顔を出した。

 

「…………」

 

 何故か、半分しか顔を出さず、こちらをじっと見ている。ていうか、ジト目?…………っ!

 すぐにその理由に思い至る。

 あの時、僕が掴んだのは……!

 先生に声をかけようとしたけど、係員から声をかけられ、僕達はプールから上がり、ひとまずアトラクションをあとにした。

 

 

 



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第32話

(どうしよう……本当は手を繋ぐはずだったのに……あんなところを触られちゃった……)

 

(あれ?でも、これってラッキーなんじゃ…………でも、やっぱり恥ずかしい……)

 

 *******

 

「あの、唯さん……」

「……どうかしたの?」

「えっと……」

 

 さて、どうしたものか。

 正直、聞くのがすごい恥ずかしい!!!

 実際のところ、僕の手が先生の体のどこかに触れたという確たる証拠はない。

 しかし、その可能性は非常に高い。この手に残る柔らかな感触がそう告げている……気がする。

 ただ、先生に「あの、僕の手どこかに触れましたか」と聞くのが恥ずかしい、というか気まずい。

 かと言って、触れた気がしたから、とりあえず謝っておくというのも、誠意がない気がする。

 

「祐一君?」

 

 先生が顔を近づけてくる。

 ああ、何やってるんだ僕は。とにかく聞いてみよう。

 

「あの、僕、もしかして……」

「どうしたの、二人共!はやく行くよ~!」

「祐一君、行くわよ」

「あ、は、はい!」

 

 若葉の声に中断され、聞き出すことはできなかったが、先生の様子がいつも通りだったので、僕の気のせいかも、なんて安堵を覚えた。

 

 *******

 

 若葉の提案で、しばらく流れるプールで休憩を挟むことになった。多分、自分が疲れただけだろうけど。

 僕と先生は、ベンチに腰かけ、大きな浮き輪に乗りながらプカプカ流れる若葉を見ているんだけど……

 

「……唯さん」

「何?」

「暑くはないんですか?」

「あまり気にならないわ」

「そうですか……」

「そうよ」

 

 そう……さっきから先生がやたらくっついてくる!

 今に始まったことではないけど、まさか水着姿でくっついてくるなんて……。

 僕は海パン1枚だし、先生も素肌を殆ど晒しているから、肌と肌がぴったり密着している。もちろん暑いので、汗をかくんだけど、その密着している部分で汗が混ざり合い、何だか変な気分だ。

 しかも、若葉が僕と先生の前をプカプカ流れていく時だけ、さり気なく立ち上がったりして、見つからないようにしている。

 ……こうやって、いつも通りに近づいて来るってことは、多分僕が触ったのは別の何かだったんじゃ。

 

「あの、唯さん……」

「何?」

「いや、僕の気のせいだと思うんですけど、さっきボートがひっくり返った時、手が先せ、唯さんに当たったみたいなんですけど……」

「…………ええ」

 

 嘘っ!?

 気のせいじゃなかった!?

 先生は視線をプールに向けたまま、頬を僅かに紅潮させ、躊躇うような口調で話し始めた。

 

「あの……君はね?……さっきプールで、私の……お尻を掴んだの」

「大変申し訳ございませんでした!!!」

 

 先生が言い終える前に、僕は一瞬の内に先生の前で土下座した。

 しかし、すぐに先生に肩を掴まれ、起こされる。

 

「大丈夫よ。事故だってわかってるから」

「いや、でも……!」

「実はわざとだったとか?」

「ち、違います!違います!そんなわけないじゃないですか!」

「……そう」

 

 先生は僕の右の頬を引っ張り出した。

 しかも、結構痛い。やっぱり気にしてる!当たり前だけど!

 

「ふぃふぁいっ!ふぃふぁいっ!」

「ごめんなさい。つい……」

「いたたた……あの、本当にすいませんでした」

「……じゃあ、君が罪悪感を感じないように、1つだけ私の言う事を聞く、というのはどうかしら?」

「言う事を聞く、ですか……」

「心配しないで。悪いようにはしないわ」

「それ、悪いようにする人の台詞ですけど……」

「大したことじゃないわ。一緒にプールに入りたいだけよ」

「え?そんなのでいいんですか?」

「ええ。私はそれだけで十分よ」

 

 *******

 

「むっ……女の直感だけど、今先生が何か企んでる……」

「ま、愛美?どうしたの?」

 

 *******

 

 実際、大したことではなかった。

 先生は、若葉の浮き輪の近くを、流れに乗ってついて行くだけだったし、僕もそれについて行くだけだった。

 しかし、To LOVEる……じゃなくて、トラブルは思いも寄らぬタイミングで発生した。

 なんと……………………先生がいきなり抱きついてきた。

 それも、真正面から結構な勢いで。

 僕が驚きのあまり反応できず、先に若葉が声を上げた。

 

「あっ!!お姉さん何やってるの!?」

「せ、先生!?」

 

 何事かと思い、先生の顔を見ようとすると、至近距離から見つめられ、こっちの思考回路がショートする。

 しかし、先生は平常運転で、クールな表情を崩さずに口を開いた。

 

「祐一君」

「は、はい……」

「水着が流されてしまったのだけれど」

「……………………え?」



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第33話

「すいません。よく聞こえなかったみたいで。今……何て?」

「水着が流されてしまったの」

「う、上だけですよね?」

「……下も流されていたほうが良かった?」

「そんなこと考えてないですよ!?」

 

 水着が……流された?

 やばいやばい。先生の言葉と感触で頭の中がパンクしそうだ。

 一旦現状を整理してみよう。

 

 先生がいきなり抱きついてきた。

     ↓

 どうやら水着が脱げたらしい。

     ↓

 今は上半身裸。

     ↓

 先生は僕に抱きついている。

     ↓

 今、僕の胸に当たっている大っきくて柔らかいものは、先生の生の……!!!

 

「どうかしたの?」

「せせせ、先生……あの、あの……!」

「先生じゃないわ」

「ごめんなさい、唯さん……その、あ、当たってます!当たってますよ!」

「宝くじが?」

「違いますよ!絶対にそんなタイミングじゃないでしょ!しかも買ってませんし!」

 

 先生に対して本気のツッコミをいれる日が来るとは思わなかった。これも冗談で言ってるんだよね?

 一方、先生は特に気にした風もなく、さらに抱きつく力を強めてくる。

 

「っ!……だ、だから、唯さん……当たってます……」

「さっきの冗談、結構上手いこと言えてた気がするのだけど……」

「いや、今はそれどころじゃなくて……」

「そうだよ!若葉を置いてけぼりにしないで!ていっ!」

 

 何を思ったのか、若葉が背中にがしっと抱きついてきた。

 その勢いで前のめりになり、先生にさらに密着してしまう。

 

「若葉!?」

「なぁに?お姉さんはよくて、若葉はダメなの?そんなに大っきな胸が好きなの?」

「いや、違くて!」

「……違うの?」

「ゆ、唯さん!今はそんなこと言ってる場合じゃなくて!」

「どうしたの、お兄ちゃん?さっきから……あ、もしかして、若葉とお姉さんの胸が当たって、実は興奮してるの?」

「してないよ!」

「……興奮してるの?」

「先生まで!?実は2人で協力して僕をからかってるの!?」

「「いいえ」」

「あ、怪しすぎる……って、それどころじゃなくて、唯さんの水着を早く探さないと!僕、探してきます!」

「動かないで」

 

 先生がまた抱きつく力を強め、もう胸の感触がやばい。自分が理性を保てているのが不思議なくらいの甘い誘惑に、手足が微かに震えていた。油断したら、手を先生に向けて動かしてしまいそうだ。

 『平常心』と頭の中で何度も唱えながら(意味ないけど)、先生に話しかける。

 

「どうしたんですか?」

「君が動いたら……その……見られてしまうわ」

「た、確かに……」

「君は……私の裸が誰かに見られても、いい?」

「嫌です」

 

 頭で考えるよりはやく、口が勝手に動いていた。

 今頭の中で何かがメラッと沸いた気がした。

 

「じゃあ、このままでいてくれないかしら」

「わ、わかりました……じゃあ、若葉。その辺に水着流れてない?」

「う、うん!探してみるよ!……なんか色々と怪しいけど」

「いやいやいや!僕何もしてないよ!?」

「ああもう、そういう意味じゃないの!!お兄ちゃんの鈍感!!」

 

 若葉は吐き捨てるように言って、ザブンと水中に体を沈めた。

 その姿を見ながら、僕は1秒でも早く、先生の水着が見つかるようにと祈った。このままでは思春期男子の脆い精神がもたない。

 しかも、一度自覚してしまうと、先生の胸が他の男に見られると考えた時の、何ともいえない不快感が胸の奥で蟠っているのがわかる。無論、そんな権利なんて僕にはないんだけど。

 

「祐一君?」

 

 先生が心配そうに見上げるのに気づいて、散らかった思考を頭の隅に押しやる。

 

「大丈夫?」

「あ、は、はい、何とか……」

「……ごめんなさい。また迷惑をかけたわね」

「そんな……いつも迷惑かけてるの僕じゃないですか」

 

 僕の言葉に、先生は切なそうに目を細め、かぶりを振った。

 

「君は生徒。私は教師よ。私が迷惑かけるなんて、あってはいけないことだわ」

「唯さん」

「何?」

「今は違いますよ。その……今は……」

「…………」

 

 僕は先生の、真珠のように綺麗な黒い瞳を真っ直ぐに見て、噛まないように気をつけながら、はっきりと告げた。

 

「仲の良いご近所同士じゃないですか」

「…………」

「だから助け合うのは至って普通……あれ、先生?」

 

 先生は俯いたまま動かなくなった。

 正直自分としても、結構照れくさい事を言った自覚がある。かと言って、そこまで……

 そこで、先生が顔を上げた。

 涼しげで、鋭い双眸にじっと見据えられ、周りの視線や音が遠ざかった気がした。

 

「祐一君」

「はい」

「ナイフのように鋭い言葉ってあるけど、君のは鈍すぎて鈍器になってるわね」

「え?」

 

 あれ?先生の背後にオーラみたいなものがユラユラと……

 

「…………ちょっとだけお返し」

 

 何やらブツブツと、こちらには聞こえない音量で呟いた後、急に先生が勢いよく転んだ。それは、僕を押し倒そうとするかのような勢いだった。ど、どうしたんだ一体……。

 その勢いのまま、僕は先生を抱きかかえたまま仰向けに倒れ、視界があっという間に水に覆われる。

 突然のことに何がなんだかわからず、体を起こそうとすると、右の頬に、何かが当たった。

 それは……花火大会の時に左の頬に触れたものとよく似ていた。

 



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第34話

 慌てて水中から顔を出す。自然と右の頬に手を添えたまま。

 何だかまだ水中にいるような落ち着かない気持ちで、抱きついたままの先生を見ると、こちらの胸元に顔を沈め、その表情は窺えなかった。

 

「あの……先生?」

「何でもないわ。君の気のせいじゃないかしら」

「いや、まだ何も言ってませんけど……えっと……」

「そういえば……」

「?」

「君の夏休みの課題図書100冊を早く決めなきゃいけないわね」

「先生、それはいくら僕でも冗談だって気づきますよ~あはは……」

「本気よ」

「……あはは、またまた~」

「本気よ」

「…………」

「先生、夏休みの日数を遥かに超えている気がするのですが……それでなくても、僕は一日一冊読むのですら無理が……」

「大丈夫よ。9月までに読み終われば」

「ああ、なるほどですね……いやいや、足りないですよ」

「じゃあ……読めなかったら、さっき触ったことを君のお母さんと奥野さんに……」

「ええ!?」

「これは冗談」

「……ヒヤヒヤしましたよ、今」

「このくらいの仕返しはさせて欲しいわ」

「え?し、仕返し?」

「お姉さん」

 

 僕が先生に聞き返そうとすると、若葉がジト目で先生に声をかけた。

 

「あら、若葉さん」

「おかえり、水着見つかった?」

「うん。お姉さん……お姉さんが足で踏んづけてる布切れは何かな?」

「え?」

「……あら」

 

 キョトンとした顔の先生に、若葉が水をバシャバシャかけながら怒る。ちなみに、僕の顔にもめっちゃ水が飛んでくる。

 

「あら、じゃないよ~!若葉にはわかってるんだからね~!お姉さん、わざとでしょ~!」

「若葉さん。私は露出狂じゃないわ」

「若葉。失礼だぞ」

「お兄ちゃん、騙されちゃダメだよ!この鈍感!!ムッツリ!!」

「ええ……」

 

 ムッツリって……地味にダメージを受ける言葉だよね。

 僕がショックを受け、呆然と立ちつくしている内に、先生は物陰で手早く水着を装着し、何事もなかったような表情をしている。

 

「どうかしたの?」

「いえ、何でも……」

「祐一君、ありがとう。助かったわ」

「ど、どういたしまして……」

 

 ひと息ついて考えてみると、さっきまでの出来事がくっきり鮮明に蘇ってきて、無意識の内に、胸元や右の頬に手を当ててしまう。

 そこには確かな熱があった。

 その熱は甘く胸を締めつけるような、心を狂わせるような、とても言葉では言い表せないような熱だ。

 ……聞くタイミングをすっかり失ってしまったけど、さっきのは事故だったのかな、それとも……いや、そんなはずは。

 

「お兄ちゃん、どしたの?」

「え?あー、ちょっとお腹減ったなって……」

「そういえば、若葉も……」

「じゃあ、そろそろお昼にしようかしら。さっきは迷惑をかけたから、私が御馳走するわ」

「わ~い!ありがとうございます~♪」

「いいんですか?」

「ええ。今からなら、まだ席も取りやすいと思うわ。祐一君も、はやく行きましょう」

 

 プールから上がっても、胸元はムズムズしたままだった。

 

 *******

 

 食事をして、再びウォータースライダー巡りをしてからは、割とすぐにプールを出た。

 

「ふぅ~、すっきりしたぁ~♪」

「楽しんだようで何より……」

「うん!お兄ちゃん、ありがとう~♪」

 

 若葉がぎゅっと腕にしがみついてくる。大人ぶっていても、こういうところや、自分を名前呼びするところは変わらないから微笑ましい。

 

「…………」

 

 先生も、そんな若葉が可愛らしいのか、赤みがかった髪をさらさらと撫でる。何だか母親みたいだ。本人に言ったら怒られるだろうけど。

 

「お姉さん、若葉を子供に見立てないで」

「気のせいよ。可愛いわね」

「二人共、もうすっかり仲良しになってるなぁ」

「「…………」」

 

 夕焼けの夏空の下を、少しだけ涼しくなった風が吹き、遊び疲れた体を労るように撫でていく。

 小学生の頃のように絵日記を書いたりはしないけど、今日の事はいつまでも鮮明に思い出せる気がした。

 

「……お兄ちゃんのバーカ」

「…………鈍感」

 

 涼しいのは風のせいだけじゃない気がした。何故かはわからないけど。



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第35話

「今日はお仕事…………彼は若葉さんと二人っきりになる…………でも、行かなきゃ………」

 

「じゃあ、眠ってる間に行ってきますの……いえ、さすがにそれは……昨日、あんなにアプローチしたし……」

 

 ******* 

 

「お兄ちゃん、このゲームは何?説明して」

「…………まだ朝6時なんだけど」

 

 どうしてすっかり着替えて、僕の上に跨がっているんだ、こいつは。昨日の出来事もあって、あまり眠れてないのに……。

 僕は、眠たい目を何とか見開き、欠伸混じりに、若葉が差し出してきたゲームを手に取る。

 それは、この前先生に薦められるままに買ったゲームと同じ制作会社が去年発売したゲームだ。中古で安く売っていたから買ったのだ。

 

「お兄ちゃん、ダメだよ……」

 

 若葉は何だか残念そうに目を伏せる。まあ、確かに従兄がこういうゲームをやっているのは、あまりいい気分はしないのかもしれない。

 とはいえ、やめるつもりもないけど。

 

「若葉。個人の趣味にあれこれ口を出すのはよくないよ。お兄ちゃんだって、こういうゲームを通じて、女心を少しでも理解しようという勉強熱心さがあるからこそ……」

「違うよ。そんなクソみたいな事情はどうでもいいよ」

 

 なんかちょっと汚い言葉で罵られた……!

 

「何で……何で、このゲーム……ヒロインに年下が入ってないの!?」

「そこ!?」

 

 確かにこのゲーム、攻略キャラは皆同い年か年上だ。大抵の恋愛シミュレーションゲームは年下のヒロインがいるんだけど、このゲームはやや年上推しな気がする。

 しかし、そんなこと言われたって……。

 

「お兄ちゃん、おかしいよ!こんな可愛い年下ヒロインが傍にいるのに、ゲームですら攻略しないなんて!」

「若葉、落ち着け。お前は今、よくわからないことを言ってるから」

「しかも……ヒロインに女教師が……!!」

「たまたまだよ」

「……何だか、お兄ちゃんが洗脳されている気がする」

 

 若葉は何やらブツブツ言いながら、ようやく体をどけてくれる。しかし、もう完全に目が覚めてしまったので、ひとまず体だけ起こすことにした。

 

「先生はもう仕事に行ったのか……」

「うん。残念だったね。先生、眠ってるお兄ちゃんの隣で着替えてたよ」

「え、本当に!?」

「ウ・ソ♪」

「…………」

 

 やめてくれよ……お前まで……。

 

「じゃあ、お兄ちゃん。朝御飯食べたら、二人で私が持ってきたゲームやろうよ」

「ああ、いいよ。シューティングゲーム?パズルゲーム?」

「じゃ~ん!これだよ♪」

「えーと、どれどれ……これ、恋愛シミュレーションゲームじゃんか……」

 

 そもそも二人でやるゲームではない。もっと言うなら、従妹が薦めてくるゲームでもない気が……。

 

「これ……一人でやるゲームじゃんか。つーか、何でお前、こんなの持ってんの?」

「お父さんのベッドの下にあったよ!」

「…………」

 

 聞きたくなかった!

 叔父さん、何やってんの?いや、娯楽は自由だけど、隠すならちゃんと隠そうよ。ベッドの下とか……それじゃあ、僕と一緒か……。

 

「あれ?確か叔父さんって、叔母さんより年下じゃなかったっけ?」

「うん、なんか無いものねだりって言ってたよ♪」

「そ、そうなんだ……」

「最初は年下だと思ってたらしいよ。話した後で、お小遣いもらっちゃった♪」

「…………」

 

 今、日高家の闇を垣間見た気がする……。

 

「さ、お兄ちゃん。そんな話は置いといて、朝御飯食べたら、ゲームするよ!」

「えっ?だから、まだ朝の6時……ちょっ、おま……ジャージ引っ張らないで!シャツ脱がそうとしないで!」

 

 *******

 

 若葉に言われるままに顔を洗い、朝御飯を食べ、ゲームをセットした僕は、ソフトの説明書を読み、ヒロインの設定だけ頭に入れた。

 

「本当に全員年下なんだ……」

「何、そのやる気なさそうな言い方。年下の魅力に気づかないなんて、お兄ちゃんの人生損しかしてないよ」

 

 絶対にそんなことはない。

 昨日だってあんなに……。

 

「お兄ちゃん?」

「いや、何でもないよ」

 

 かぶりを振って、ぽわぽわと浮かんでくる昨日の映像を振り払う。しかし、全部を振り払う事は出来なかった。今、説明書をパラパラ捲っている右手には、先生の感触がしっかり蘇っていた。

 さらに、胸元にも柔らかな感触と……

 いや、待て待て……!!

 

「あ~もう!!何、一人で顔真っ赤にしてるの!?」

 

 *******

 

「おっはよ~ゆいゆい!!!」

「……楠田先生。朝から元気なのは結構ですが、頭をわしわし撫でないでください」

「なになに?やけに他人行儀ねえ?せっかくMAXハイテンションで話しかけてあげたのに」

「職場ですから」

「でも、その職場の廊下で、さっきまで顔赤くして思い出し笑いしながら歩いていたのは誰?」

「お、思い出し笑いなんて……」

「あの子ににおっぱいでも触らせたとか?」

「っ!」

「あなた、脱いだらすごいもんね~」

「……私が生徒にそんなふしだらな真似をするはずないじゃないですか。学校とは神聖な場所で、教師と生徒の関係というのは……」

「これほどわかりやすいウソもないわね。ま、頑張りなさい。何かあったら、この経験豊富なお姉さんに相談してね♪」

「……ありがとうございます。二つしか歳変わりませんけど」

 

 *******

 

「よし……私は帰ってきた……!」



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第36話

 何とか体に残る甘い感触を振り払い、僕はゲームをセットした。

 

「さて……始めるか。説明書見た限りでは、そんなに難しくなさそうだし 」

「さすがお兄ちゃん!2次元の女の子に対しては前向きだね♪」

「……全然褒められている気がしないんだけど」

「褒めてないからだよ。この鈍感お兄ちゃん♪」

「いきなり罵倒される理由もわからない……ん?誰か来た。ちょっと行ってくる」

 

 慌てて玄関まで行き、扉を開くと、そこには奥野さんがいた。

 彼女は紙袋片手に控え目な笑顔を見せ、短めのスカートを風に靡かせている。そのヒラヒラした動きに何かが高まりそうだったので、すぐに目を逸らした。

 そして、声をかけようとすると、彼女が先に口を開いた。

 

「お、おはよ!元気そうだね!」

「うん、おはよう……奥野さん、確か長野に行ったんじゃ……」

「あ、うん!本当はもうちょっといるつもりだったんだけどね?早めに帰ってきたんだー。ほら、8月の一週目には特別授業もあるし……」

「……そんなのあったかな?」

「現実逃避しないの。まあ気持ちはわかるけど……」

 

 僕らの通う学校では、今年度から8月の第1週は特別授業をすることになった。理由は色々あるんだろうと思う。まあ大人の事情というやつだ。つまり、子供には納得できないやつだ。

 世の中の不条理を心中で嘆いていると、奥野さんが紙袋をこっちに差し出してきた。

 

「ま、仕方ないよね……はい、お土産」

「え、本当に!?ありがとう!やった!クラスメイトからお土産を貰えるなんて!」

「あはは、大げさだなぁ。あと悲しい。……浅野君、その……時間あるなら、今からお邪魔していい?」

「ああ、いいよ。今若葉とゲーム始めたところだから」

「よしっ!じゃあ、お邪魔します!」

 

 そんなに若葉に会いたかったなんて。いつの間にそんなに仲良くなったのか知らないけど。でも、奥野さんは本当にいい人だなぁ。

 

「あっ、愛美お姉ちゃん……今からお兄ちゃんと二人っきりのドリームタイムだったのに」

「ごめんね?ふわふわタイムはまた今度ってことで」

 

 *******

 

「…………」

「どうしたんですかぁ、森原先生?窓の外をじっと見てぇ」

「……新井先生……いえ、何でもありません」

 

 *******

 

 画面に映った女の子の笑顔を見て、奥野さんは笑顔をやや引きつらせた。

 

「ゲームって……これ?」

「一応言っておくけど、僕の意思じゃないよ?若葉が持ってきたやだから」

 

 とりあえず事実は伝えておかねば。僕が年下の女の子相手に恋愛シミュレーションゲームを薦めてるみたいだ。

 

「愛美ちゃんもやる?」

「え?本当に若葉ちゃんが持ってきたの?」

「うん!お兄ちゃんに年下の魅力を……じゃなくて、若葉、あんまり激しいゲームは苦手で……」

「本音が隠せてないよ……行動パターンがどっかの誰かさんに似てる……」

 

 事実を理解した奥野さんは、苦笑いをしながら、若葉の隣に腰を下ろす。

 ……どっかの誰かって誰のことだろう?

 

 *******

 

「……くちゅっ」

「森原先生、風邪ですか?(可愛い……)」

「夏風邪には気をつけてくださいね(可愛い……)」

「ええ、ありがとうございます(誰か噂してる……)」

 

 *******

 

「あれ?こっちのゲームは同級生のヒロインもいるよ?ねえ、若葉ちゃん。その子を攻略し終えたら、こっちのゲームやってみていい?」

「いいよ。勝負はフェアにいかないとね」

「え?これ何かの勝負だったの?」

「「…………」」

 

 何故か2人から背中をはたかれた。

 

 *******

 

 なるほど。先生も若葉ちゃんもゲームを通じて、浅野君の好みの女の子を操作しようとしてるみたい……浅はかね。でも浅野君には、そうやって植えつけるのが1番かも。

 先生がいない内に、しっかりアピールしなきゃ!

 

 *******

 

 若葉が持ってきたゲーム『ロリプリ』は、主人公が昼休みや放課後をどこで過ごすかによって、誰のルートに入るかが決まるけど、このゲームはどこに誰がいるかわかるから、攻略難易度はそんなに高くない。これなら僕でも余裕で攻略できる!

 

「いかにも年下って感じのキャラクターばっかりだね。クラスメイトとかの絵はないんだ?」

「うん!この主人公、年下しか興味なくて、学校では誰とも話さないの」

「え?何それ……ただの危険人物じゃない?」

「そんなことないよ、正常だよ!ね、お兄ちゃん?」

「ここで僕に振らないでよ……ん?主人公の担任の先生は立ち絵があるみたいだよ」

「あ、ホントだ」

「どっかで見たことあるような……」

 

 そのキャラクターは、腰まである長い黒髪が特徴で、眼鏡の似合う知的な美人だ。

 こんな雰囲気の人は、僕の周りには1人しかいない。

 

「……このキャラクター、森原先生に似てる……」

「ホントだ!ぐぬぬ……お姉さん、ここでも私の邪魔をする気なんだね……!」

「まあまあ、説明書読む限りじゃ、攻略キャラクターじゃないんだから。大丈夫だよ」

「う、うん……お兄ちゃん、話進めて」

 

 若葉に促されながら、決定ボタンをテンポよく押し、会話を進める。

 

『浅野君』

 

「今、浅野君って言わなかった!?」

「あ、主人公の名字は浅野なんだよ。お兄ちゃんと一緒」

「あ、ああ、なるほど……びっくりしたぁ。声も似てるし」

「うん……若葉もそう思う」

 

 確かによく似てる。驚くくらいに。

 しかし、画面の中のキャラクターは、僕達の驚きを余所に、淡々と喋り続ける。

 

『浅野君、大丈夫?疲れてない?』

 

『浅野君、この後職員室へ』

 

「……やっぱり似てる。何というか、もう……さすがだわ」

「だ、大丈夫だよね?色々と……」

「大丈夫って何が?」

 

 やたら前のめりになり、画面に釘付けになる二人に、僕は首を傾げることしかできなかった。

 

 

 



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第37話

『浅野君、聞いてるの?』

 

「あ、はい!す、すいません!」

「浅野君!テレビに返事しちゃってるよ!その人、二次元だよ!」

「しっかりして、お兄ちゃん!ちょっと気味が悪いよ!」

「ごめん。つい……」

 

 何やってんだ僕は……。

 両手で頬を張り、気持ちを切り替え、再び画面に向かう。そう、これはゲームのキャラクターなんだ。断じて先生が画面の中にいるわけじゃない。

 

『浅野君、ご両親が海外で今独り暮らしらしいわね』

『はい。そうなんですよ。だから家事とか面倒で……』

 

「両親が海外に出張で独り暮らし……そんなことあり得るの?」

「しっ、そこは二次元と三次元の違いだよ。この設定はこういうゲームのお約束なんだから」

「そ、そうなんだ……わかった」

 

『じゃあ……今晩は私が作りに行ってあげる』

『え、いいんですか?』

『もちろんよ。どうせいつもインスタントとかで済ませてるんでしょう?ついでに作り方も教えてあげる』

『……ありがとうございます』

『じゃあ、君は先に帰ってて。私は食材を買って帰るから』

『いや、僕も手伝いますよ』

『誰かに見られたらどうするの?』

『あっ、そうですね。すいません……』

『ふふっ、じゃあまた後でね』

 

「……なんかこれ、おかしくない?」

「うん。でも、先生は攻略キャラクターじゃないってお父さんごが言ってた」

「多分、共通ルートのイベントじゃないかな」

 

 まあ、こういうサブキャラクターを掘り下げるイベントも、恋愛シミュレーションゲームの醍醐味だろう。普通は誰かのルートにさり気なくくっついてるものだと思うけど、これはこれでいい。決してこのキャラクターが先生に似ているから、内心ちょっとテンション上がってるとかじゃない。

 やがて、先生と料理を作るシーン(CG付き)になり、それが過ぎると食事のシーン(CG付き)へと移った。

 

「CG付くんだ……」

「ねえ、ちょっと長すぎない?さっき出てきたヒロインとの会話より長いよ」

「お兄ちゃん、何したの?これ、お兄ちゃんの仕業?」

「いやいや、何もしてないよ!そもそもこのゲーム初めてだし」

 

 僕がした事といえば、二人が話してる間に、序盤の選択肢で『先生に話しかける』を二回選んだくらいだし……それ以外は、飛び級でクラスメートになった年下女子とのイベント以外こなしていない。

 悩んでいる間も、画面の中の二人の会話は弾んでいる。

 

『先生、これすごく美味しいです!!』

『そう、ならよかったわ。はい、あーん』

『ええ!?』

『冗談よ。可愛いわね』

『もう、先生……からかわないでくださいよ』

『ダメ?』

『いや、ダメってわけじゃ……』

『ふふっ、じゃあ……たまにからかうわね。週5で』

『……多くないですか?月曜から金曜まで一日一回じゃないですか』

『そうかもしれないわね。でも、全然足りないわ。本当はもっと……』

『?』

『いえ、何でもないわ』

 

 何だか会話が長い気がする。さり気なく次のイベントが発生してるし。

 これじゃあ先生のルートに入ったみたいじゃんか。若葉と奥野さんも固唾を呑んで見守っている。

 その後も、先生との物語がどんどん進んでいった。

 

『浅野君……オイル塗ってくれない?』

『ええ!?』

 

「ええ!?」

「浅野君、ゲームの主人公とシンクロしちゃってるよ!しっかりして!」

「戻ってきて、お兄ちゃん!ガチで不気味だから!」

 

 いかんいかん。またやってしまった。このゲーム……恐ろしすぎる。でも、思春期男子なら、うっかり画面の向こうのキャラクターに返事するくらいよくあると思うんだけど……ないのかな?

 そして、物語はどんどん進んでいく。いつの間にか、年下ヒロインは一人も出てこなくなり、若葉と奥野さんは顰めっ面で画面を睨みつけていた。そんなにあのヒロインがお気に入りだったのか……

 

『浅野君、メリークリスマス。プレゼント……受け取ってくれる?』

『せ、先生……』

 

 二人の唇は徐々に距離を縮め、やがて……

 

「うわあああああああ!!!」

 

 突然の若葉の叫び声と共に、画面が真っ暗になる。どうやら電源を切られたみたいだ。

 

「若葉、いきなり切っちゃダメだろ!まだセーブしてないのに」

「いや、お兄ちゃんの方がダメだよ!なに顔真っ赤にしながらゲームしてんの!?目的忘れてない!?」

「いや、仕方ないじゃんか。こうなっちゃったんだから」

「う~ん。ネットで調べてみたんだけど、隠しルートで先生と付き合えるらしいよ。ランダムで選択肢が出てくるんだって。確率は100分の1らしいけど……」

「お姉さん……どんだけなの?」

 

 すると会話を断ち切るように呼び鈴が鳴る。時計を見ると、もう先生が帰ってくる時間になっていた。どうやらかなり集中していたみたいだ。

 出迎えに階段を降りようとすると、両脇を2つの影がものすごいスピードで駆け出す。

 僕が階段を降りる頃には、2人は先生に抗議していた。

 

「お姉さん、ゲームにまで出てくるなんてどういうこと!?」

「先生、何かまた裏で糸を引いていたんですか?どうなんですか!」

「?」

 

 当たり前だけど、先生はキョトンと首を傾げ、2人と僕を交互に見るだけだった。



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第38話

「そう……そんなことがあったのね」

 

 僕の説明を聞いた森原先生は、口元にを当て、ふむふむと頷く。まあ、仕事から帰ってきて、いきなりあんな事を言われても訳わからないだろうし……奥野さんと若葉は苦笑いしていた。

 そして、先生はゆっくりと口を開く。

 

「浅野君」

「あ、はい……」

「お疲れ様」

 

 先生は僕に向き直り、やわらかく微笑んだ。

 さっきのゲームのキャラクターより美しく、生々しく、輝く微笑は、当たり前のように心を揺さぶり、顔が熱くなるのを感じる。

 ちなみに、何を労われているのかはわからない。

 

「お姉さん……めっちゃ喜んでる」

「まあ、担任教師の反応としてはどうかと思うけど……」

 

 2人のヒソヒソ声に反応した先生は、今度はそちらに向き直った。

 

「奥野さん。帰宅を早めてよかったの?あなたの御家族はもっとあなたと家族の時間を過ごしたかったと思うのだけど。確かに友人との時間は大切だし、一度しかない高校生活だから、そういう時間を楽しみたい気持ちはわかるけど……」

「また……いいことは言ってるんだけど……うん、もういいです」

「そう……」

 

 先生、奥野さんの家族のことまで考えて……流石だな。なんというか……さっきゲームのキャラクターと比べたのが、申し訳ないくらいだ。奥野さんとのやり取りは何故かたまにハラハラさせられるけど。仲良いはずなのに。

 先生は帰りがけに買ってきた物が入ったスーパーの袋を少し掲げた。

 

「じゃあ、夕飯の支度を始めましょうか」

「そういえば、先生が食事作りに来てくれてるんだよね。朝御飯もそうだったの?」

「うん!お姉さん、私よりもずっと早起きだよ!私が起きた頃には布団が畳まれてたし……」

「へえ…………ん?ちょっと待って。布団?どういうこと?」

 

 奥野さんの視線が僕の方を向く。その視線の意味するところは、僕でもすぐにわかった。

 しかし、僕が口を開くより先に、先生が学校での真面目な雰囲気で話し始めた。

 

「保護者役よ。さすがに未成年の男の子が、1週間とはいえ、小学生の女の子を一人で面倒を見るのは難しいから、私が泊まり込むことにしたのよ」

「ま、またもっともらしい理由を……先生ダメですよ!寝泊まりするなんて!先生、美人だし……浅野君が、ま、間違いを犯しそうになったらどうするんですか!」

「大丈夫よ」

 

 奥野さんの当たり前の疑問に先生は即答する。先生……そんなに信用してもらえるなんて……。

 僕が内心感動していると、先生は目を細め、さらに続けた。

 

「考えてもみなさい、奥野さん。彼の性格はあなたもある程度理解してるでしょう?彼は私がどんな恰好で眠っていようが、指一本触れないわ、確実に」

 

 ……あれ?絶大な信頼を得ているはずなのに、何だか責められている気がする……心なしか視線も冷たいような……何でだろう?

 

「ええ。確かにそうかもしれません。浅野君、鈍感だし、そういうとこで度胸なさそうだし……あっ、ごめんね?その……悪く言うつもりはないんだよ?」

 

 うん。わかってるよ、奥野さん。でも、ちょっと傷ついたのはなんでだろう?き、気のせいだよね?

 奥野さんは先生に向かい、さらに言葉をぶつける。

 

「でも……やっぱりいけないことだと思います!うっかり先生の裸とか見ちゃったら、浅野君だってオオカミになっちゃうだろうし……!」

「大丈夫だよ?裸なら一昨日見たけど、何も起きてないし」

「ええ!?若葉ちゃん、本当!?せ、先生……裸まで見せたんですか!?そこまでやるのはさすがに卑怯です!」

「事故よ」

「せ、説得力が……」

「愛美お姉ちゃん。実は、その件は若葉のせいなの。本当に事故なの」

「そ、そっか…………でも、浅野君、見たの?」

 

 いきなり先日の話を振られ、頭の中に先生の裸が鮮明に蘇る。

 生まれて初めて見た女性の裸……そのあまりの美しさに「いいからいいから!やっぱり思い出さなくていいから!二度と思い出しちゃダメだからね!?」そんな殺生な……。

「奥野さん。強制はよくないわ。あれは事故だったのだから……もしかしたら、将来的に責任が発生するかもしれないけど」

「後半、小声でとんでもないことを口走った気がするんですが……」

「私と浅野君は、担任教師と生徒の関係よ」

「いやいや、今さらそんなんじゃ誤魔化せませんよ」

「とってつけた感がすごいよ、お姉さん……」

「…………」

 

 うわぁ、どうしよう……会話に入れないや。女三人寄れば姦しいって言うけど、本当にすごいな……ていうか、そろそろお腹空いてきたんだけど。

 

「と、とりあえず……夕飯にしませんか?先生が帰ってきて、だいぶ時間も経つし……」

「「「…………」」」

 

 3人からの視線を一身に集めて体が強張るが、何のこれしき……いや、やっぱり怖い。しかも三者三様の視線にどんな意味が込められているかわからない。わからないからこそ怖い!

 そんな中、1番最初に沈黙を破ったのは先生だった。

 

「確かにそうね。祐一君」

 

 あえて名前を強調するあたり、先生のことは唯さん呼びに切り替えなさいということだろう。

 

「あ、あの……」

 

 奥野さんがもじもじしながら、視線をあちこち彷徨わせている。

 …………これは、間違いない。

 

「トイレならそこをっぉ!?」

 

 いきなり背中に2カ所痛みが走る。い、一体何が?

 振り向くと、そこには誰もいなかった。

 

「愛美お姉ちゃんもご飯一緒に食べようよ!」

「う、うん!ありがとう!……ばーか」

「祐一君。あとで追加の課題図書を教えてあげる」

「ええぇ!?」

 

 何でこのタイミングで!?てかこれ以上増やされたら、冬休みまでかかりそうなんですけど!

 三人は僕の方を振り向きもせずにスタスタと居間へと向かう。

 この後、奥野さんも一緒に夕食の準備をし、一緒に食べた。

 

 



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第39話

 

「私も泊まります」

「「「…………」」」

 

 夕食を終えた後、奥野さんが真面目な表情で言い放った言葉に、我が家の居間は沈黙に包まれた。彼女は何を言ったのか、意味がわからなかった。

 右を見ると、森原先生は無表情のまま、奥野さんに視線を向けている。

 左を見ると、若葉が口をポカンと開けていた。

 やがて時間が経つにつれ、その言葉が頭に馴染んできて、どんな意味なのかを正しく理解する。

 奥野さんが……うちに泊まる……?

 

「……と、と、泊まるって、えええええ!?「ダメよ」

 

 僕の驚きと先生の言葉がほぼ重なった。

 そして、先生の言葉に奥野さんはすぐさま怒りを露わにした。

 

「何でダメなんですか!?先生だって泊まってるじゃないですか!」

 

 そんな抗議を、先生はいつものクールな雰囲気のまま受け流した。髪をかき分け、諭すような目つきになる姿に、何だか学校での先生が重なって見える。

 

「あなたみたいな年頃の女の子が、男の子とひとつ屋根の下で寝泊まりして間違いが起こったらどうするの?」

「さっきと言ってること違うじゃないですか!ずるいですよ!」

「私は望むとこ……私は、あなた達の担任だからよ」

「理由になってないです!しかも今、とんでもないこと言おうとしてた!」

「気のせいよ。それに、ご両親には何て説明するの?」

「うっ……そ、それは……友達の家に泊まるとか……色々と……」

「バレたらどうするの?」

「うっ……」

「……担任教師として、ここまでは言っておくわ。ただ私としても、フェアにいきたいから……」

「お兄ちゃん、今の内にお風呂入ろっか」

「「待ちなさい」」

「だって~、話終わんないんだもん!」

 

 この話、僕からはどうも口を出しにくい。

 若葉と遊びたいがために、わざわざ泊まりたがる奥野さんに対して、無下に断るのも気が引けるし、泊まりなよというのは何だかいやらしい。てか無理だ。

 僕は大人しく部屋で勉強でもして、この場は……

 

「と、とにかく!私は今日ここに泊まりたいんです!」

「…………」

「はっ……あ、浅野君、違うからね!別にそういう意味じゃ……」

「いや、でも……そこまで若葉と仲良くなってくれて嬉しいよ。ありがとう」

「爆発しろ!」

「何で!?」

 

 どうしたんだろう、一体……どこかで選択肢を間違ったのかな?いや、こんな思考になるなんて……今日どんだけゲームしてたんだよ、僕は……あまり上手くなってないけど。

 

「祐一君」

 

 先生はそんな僕の心情を見透かしたように、感情の読めない涼しげな瞳をじっと向けてきた。

 どことなく圧を感じるのは気のせいでしょうか?

 

「は、はい……何ですか?」

「君の意見も聞かずに話を進めてごめんなさい。ここは君の家だから、君の意見を優先すべきね」

「え?あー、そう、ですよね……」

 

 三人の視線がこちらに集中し、また体が強張る。やっぱりこういうのは苦手だ。とはいえ母親がいない今、1週間だけだが、家主みたいなものなので、逃げるわけにもいかない。

 僕にできることは……

 数分の沈思黙考の末、僕は多分一番安全だと思える案を口にした。

 

「あー、それじゃあ……先生達が1階の空き部屋寝るって事でどうでしょうか?ほら、それなら間違いは起きないし、二人共、若葉を好きなだけ可愛がれるし……」

「…………」

「ああもう、ありがとう!こうなったら若葉ちゃんを好きなだけ可愛がってやるわよ!」

「お、お兄ちゃん……」

 

 奥野さんは何故かヤケクソ気味に喜び、若葉は心配そうな表情を見せる。

 こうしてウチにお泊まりする女子が、また一人増えた。

 それと、ほんの一瞬だけ先生が頬を膨らませた気がした。

 

 *******

 

 ど、どうしようどうしようどうしよう!!

 勢いで泊まることになっちゃったよ!!!今、私浅野君の家でお風呂に入ってるよ!

 私、何やってんの!?バカじゃないの!?浅野君も図々しい女だって思ってるよ、きっと!

 いや、でも……このまま先生にリードされるわけにはいかないし……幸い浅野君だから、最小限の差で済んでるけど、これが普通の年頃の男子だったら……ていうか、浅野君も年頃の男子には変わりないし……。

 ああ、もう!こんがらがってきちゃった!

 ま、まあ、要するに!先生にこれ以上抜け駆けはさせないんだから!

 そういえば途中でフェアにって言ってたな……。

 

「愛美お姉ちゃん、どうしたの?」

「ん?あ、ごめんね。何でもないよ」

「ふぅ~ん。どうせお兄ちゃんの事考えてたんでしょ?」

「あはは……私ってそんなにわかりやすいかなぁ?」

「お兄ちゃん以外は気づいてるかも。チラチラ見すぎだし……」

「うわぁ……そんなに見てたんだ、私……」

「うん」

「気をつけなきゃ」

「あ、でも大丈夫大丈夫。お兄ちゃんはどうせ気づかないから」

「……だよね」

「うん。だって告白しても『え?今何か言った?』とか返してきそうだもん」

「さ、さすがにそれはないんじゃないかな?」

 

『あ、浅野君!私……あなたの事が好きなの!』

『え?今何か言った?』

 

 ……うわぁ。脳内再生余裕だわ、これ。

 

「ね?」

「うん……」

「お姉さんもよくめげずにあんなにアタックするよね~」

「先生かぁ……あれ?先生は?」

「あれ?確か洗い物は任せてって……あ」

 

 *******

 

「せ、先生……痛くないですか?大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫よ。安心して。もっと……入れて」

「わ、わかりました……じゃあ、先生……体の力抜いてください」

「ええ……その、優しくしてね」

 

 

 



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第40話

 

「先生、ほ、本当にいいんですか?」

「…………」

「先生?」

「大丈夫よ。私が手取り足取り教えてあげるから」

「さっきと言ってることが違う気が……」

「とにかく大丈夫よ。心配しないで」

「は、はい、じゃあ……脚、広げてください」

「ええ。じゃあ……来て」

 

 先生がそう呟くのを聞いた僕は、意を決してそっと手を触れ、壊してしまわぬように優しく力を込めて……その背中を押した。

 

「先生、このぐらいで大丈夫ですか?」

「もう少し力を入れてもらえるかしら。あまり気にしなくていいわ。こう見えて体は柔らか……軟らかいほうだから」

「わかりました」

 

 はい。今僕は先生のストレッチを手伝っています。別に変な事はしていません。いや、誰もそんなの考えていないけれど。ていうか、先生の言葉が時折おかしな気が……。

 とりあえず、両手から伝わってくる先生の体温に落ち着かない気分になりながら、ゆっくりとその背中を押す。

 先生の体が、息を吐く音と共に畳に沈み込む。うわ、本当に軟らかいなぁ。何だか新体操の選手みたいだと思ったが、先生の艶めかしいレオタード姿が浮かんできたので、頭を振り、その姿を取っ払う。何考えてんだ、僕は。

 気を取り直して、先生に指示されるままにストレッチの手伝いをする。

 それが静かな時間が10分くらい続いたところで、先生がこちらを振り向き、沈黙を破った。

 

「祐一君」

「はい?」

「自分に自信、ない?」

 

 何の前触れもない、意味のわからない、輪郭の掴めない問いかけ。でも、内心は何故か焦っていた。

 僕は戸惑いながら聞き返す。

 

「ど、どうしたんですか?いきなり……」

「君を見てると、たまに考えてしまうの……」

 

 無表情のまま、先生は言葉を選ぶような間を置き、ゆっくりと口を開いた。

 

「君は自分が人から好かれるわけがないとか、そんな風に自分の感情に蓋をしている気がするのよ」

「…………」

 

 先生の言葉は、スコップのように脳内から過去を掘り起こした。

 

『いや、アンタのことなんて好きなわけないじゃん』

 

 胸の奥がチクリと痛む音がした。

 とっくに忘れたと思っていたのに……。

 とっくに忘れられてるはずなのに……。

 心に棘は刺さったままだった。

 

「祐一君?」

「あ、いえ、何でもありません。その、何て言うか……っ」

 

 気がつけば、先生の両手に顔を挟み込まれていた。

 さっきまでの背中の温もりとは真逆のひんやりした感触に、火照った頭を冷やされていく。

 そして、先生としっかり見つめ合う態勢になる。何度見つめ合っても、未だに慣れない。慣れる日なんてくるのだろうか。

 その漆黒の瞳に、薄紅色の唇に目を奪われていると、清らかなせせらぎのように、すぅっと先生の声が響いた。

 

「真っ直ぐに見て」

「?」

「君はまず自分の気持ちを真っ直ぐに見て。それは悪いことなんかじゃないから。君が思ってるより、ずっと素敵なことだから」

 

 そう言葉を紡いだ後の瞳は、これまでとは違う揺れ方をしていた。

 僕はただ見とれながら返事することしかできなかった。

 

「…………はい」

「じゃあ、まず私のことを「先生、そこまでですよ」「やっぱり抜け駆けしようとしてる……」あなた達、きちんと体は温めた?湯船では100まで数えた?夏だからといって「ああ、もういいです」

 

 いつから近くにいたんだろうか、先生の言葉をかき消すように割り込んできた2人は、どこか不満げな先生の視線をさらりと受け流し、僕の顔を掴んでいる先生の両手を優しく剥がす。

 しかし、先生がそれを拒否するように、両手に力を込めた。あれ?結構力強い。ぶっちゃけ痛い!いたたたた……

 

「先生、往生際が悪いですよ。はやくお風呂に入って、汗でも流してきてください。あと煩悩も」

「そうだよ、お姉さん。湯船に入ったら、ちゃんと100まで数えるんだよ」

「……さすがに一緒に入るのはまだ……」

「「そんなこと言ってません!!」」

 

 3人のやりとりを呆然と見ていると、先生は僕の頭を解放し、今度はてっぺんをさらさらと撫でる。

 

「祐一君」

「は、はい……」

「さっき私が言ったこと、忘れないで。すぐにわからなくてもいいから」

「…………はい」

 

 先生は優しい微笑みを残し、居間をあとにした。

 真っ直ぐに見て……そんなありきたりなフレーズが、胸にじんわりと染み渡り、心の奥で凍っていた何かを溶かしていく。そこから顔を覗かせたものが何なのか……今はそれがわからなかった。

 先生の背中を見送った奥野さんは、肩をすくめ、溜息を吐いた。

 

「ふぅ……まったく、油断も隙もないんだから……ん?どしたの、浅野君?顔赤いけど」

「お兄ちゃん?」

「え?あ、いや、何でもないよ!」

 

 慌てたのを不審に思ったのか、奥野さんは目を細め、距離を詰めてくる。クラスメートの風呂上りの姿は、何だか新鮮で、やはり甘い香りがした。こんな状況じゃなければ、変な想像をしていたかも……

 でも、奥野さんはそんなことどうでもいいのか、僕の正面に膝をつき、ジロリと睨んでくる。

 

「……ちなみに、先生とは何を話してたのかな?」

「え?…………よくある世間話だけど。ほら、最近学校はどうかとか……」

「いや、先生は知ってるでしょ、そんなの……」

「そうだよ。お兄ちゃんがノートに必要のない迷路書いてるのなんて、私でもわかるよ」

「な、何言ってんだよ、そ、そんなの中学1年で卒業したよ……」

 

 隣に腰を下ろした若葉は、しょうもない過去をばらしてくる。あんなの皆やるだろ。そして、実際に攻略することはあまりない。

 

「と、とりあえず迷路は置いといて!先生と、その……エッチな話とか……」

「何で!?」

 

 何をどう考えたらそうなるんだろう?いや、僕のせいなのかもしれない。女子は男子の下心がわかるらしいし。え?でも、下心っていっても、先生に積極的に変な目を向けたりは……いや、でも……

 結局、先生が風呂から上がってくるまで、この尋問は続いた。

 その間ずっと、頭の片隅で先生の言葉の意味を考えていた。

 



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第41話

「愛美お姉ちゃん、起きてる?」

「……うん」

「眠れないんでしょ?」

「あ、当たり前じゃない!わ、私ったら、勢いで男の子の家にお泊まりなんて……!」

「大丈夫だよ。ほら、お姉さんを見て」

「?」

「すぅ……すぅ……」

「……よくここまで穏やかに眠れるよね。好きな人とひとつ屋根の下で……」

「ん?あれ、お姉さんの布団の位置ここだったっけ?もうちょっと私達にくっついていたような……」

「…………先生、本当は起きてませんか?」

「眠ってるわ」

「起きてるじゃないですか!さり気なく布団ごと移動しないでくださいよ!」

「すぅ……すぅ……」

「眠ったふりしても無駄ですよ!あと何で浴衣きてるのかも謎ですし、寝る直前まで浅野君の前で胸元や太股の辺りをはだけさせていたのもずるいです!」

「奥野さん。もう遅いから寝なさい」

「むむむ……」

 

 *******

 

『君、本当に可愛いわね』

『私?別に大丈夫よ。一人は慣れてるから』

『……また、会えたわね』

 

「……ん?……今の、夢……だよね?」

 

 あまりに生々しくて温かな夢。

 夏に見るには熱すぎる夢。

 あっという間に意識が覚醒してしまった。辺りをきょろきょろ見回し、なんとなく体をぺたぺた触ってみたけど、汗ばんだTシャツが肌に貼りついているだけで、特にこれといった変化はない。当たり前といえば当たり前なんだけど。

 そこで、今日は夕方まで一人なのを思い出す。

 先生は学校に、奥野さんはクラスメートの家に、若葉はこっちに住んでいる友達の家に行ってしまった。二度寝するまで賑やかだったせいか、普段の静けさに耳が疼く。い、いや、別に寂しくなんかないよ?

 身支度を整え、朝食をとり、一息つくと、今日やるべきことがすぐに思い浮かぶ。

 ……若葉が来てから、結構あそびまくっていたので、その間に先生から言いつけられた課題図書を少しでも読み進めておこう。確か、この前先生から本があったはずだ。倉庫から出てきたオススメの本とか……

 

「え~と、タイトルは……『近所に住む憧れのお姉さん』か……」

 

 そういえば、先生も近所に住んでるんだよな……って、何考えてんだよ!僕は!いくら先生が勧めてくれた本だからって、こんな形で自分と重ねるなんて……。

 そこで、先生の言葉が脳内で再生される。

 

『真っ直ぐに見て』

 

 ……いやいやいやいや。さすがにこれは都合よく解釈しすぎだろう、それは……いや、でも……思春期男子の一員として、たまにはこういう妄想をしたってバチは当たらないはず。

 ……じゃあ、この1冊だけ……1冊だけ、がっつり妄想してみよう。

 

 *******

 

 僕には幼い頃から憧れの人がいる。

 真向かいの家に住んでいる唯さんだ

 

『おはよう、祐一君』

『お、おはようございます。唯姉さん』

 

 小さい頃から姉弟同然に育てられてきたせいか、僕は唯さんのことを唯姉さんと呼んでしまう。しかし、今日こそは……姉さんとは呼ばない。

 

『唯……さん』

『ん?どうかしたの?、祐一く……ん!?』

 

 僕は、強引に唯さんの唇に、自分の唇を押しつけた。

 ずっと触れたかった柔らかな温もりが、自分と絡み合っていく快楽が、頭の中を支配した。

 そのまま本能に身を任せ、唇を重ねたまま、玄関のドアを開け、家の中へとゆっくり足を踏み入れた。

 

 *******

 

 何だ、これ……展開早くない?いきなりキスしてるんだけど……それに、最初の方とか端折りすぎてるし……。

 さらに、登場人物の名前が自分達と一緒とか……何て偶然なんだろう。色々とあれだが、これは妄想しやすい。

 僕は一人で頷きながら、次のページをめくった。

 

 *******

 

『ゆ、祐一君、落ち着いて!君のことは好きだけど、それは弟みたいなもので……』

『違う』

『え?』

『僕は唯さんの弟じゃない……唯さんは僕の姉でもない……』

『祐一君……』

『お願いします!僕を男として見てください!』

『…………もう、見てるわ』

『え?』

『ごめんなさい。私、ずっと嘘ついてた。君の事、弟みたいって思ってたんだけど、いつからか……一人の、大切な男の子として見るようになったの』

『唯さん……』

『来て……祐一君』

『はい…………』

 

 自然と二人の唇が重なる。さっきより甘く、深く。

 

『ん……んん……』

『…………』

 

 そのまま二人は……

 

 *******

 

「……もうくっついちゃった。」

 

 この後、遊園地やら水族館やら動物園やら海外やら異世界やら、300ページ以上イチャイチャが続いた。

 

 *******

 

 夕方になり、帰り道で出くわしたのだろうか、先生と若葉が同時に帰ってきた。

 

「ただいま」

「ただいま~!」

「お、おかえりなさい……」

 

 さっきの小説のせいだろうか、先生の顔があまり見れない。

 滅茶苦茶な展開の割に、イチャイチャの場面がやけに生々しく脳に刻まれている。

 

「ん?お兄ちゃん、どうしたの?なんか顔赤いけど」

「え?そ、そうかな……あっ、そうだ!用事思い出したから、部屋に戻るよ!」

「…………」

 

 背中に感じる視線には見て見ぬふりをして、一旦部屋へと退散した。

 

 *******

 

 ……意識、してる?

 もしかして、あの本が効いたのかしら?

 露骨過ぎるとは思ったのだけれど……ど、どうしよう……嬉しい。これまでと反応が違う……今日はいつもより、さらに美味しいものを作ってあげなくちゃ。

 

「お姉さん?なんかニヤニヤしてない?」

「気のせいよ」



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第42話

「えっ、アンタ……浅野君の家に泊まったの?」

「う、うん……」

 

 私は親友の桜の家で、ありのままを話した。もちろん先生の話は伏せて。何というか、誰かに吐き出したい気分だった。驚かれるかもしれないけど。

 しかし、小学校からの親友の目はいつもと変わらない。むしろ冷たい。

 

「どうせ、それでも何もなかったんでしょう?アンタだし」

「うっ……いや、でも、その…………うん」

 

 さすがは親友。その辺りのことはお見通しのようだ。ここまでお見通しだと、それはそれで辛いものがあるんだけど。

 

「で、でも、お泊まりだよ!何でまったく驚かないの?」

「……どうせ、親戚の女の子が泊まりに来てたけど、浅野君の親が出かけていて、心配だから泊まったとかそんなんでしょ?」

「桜ちゃん、エスパーなの!?」

「ウソっ、適当に言ったら当たっちゃった……」

「それはそれで無駄にすごいんだけど……はあ……どうせヘタレですよ~」

「ふふっ、拗ねないの。今日はゆっくり話聞いてあげるから。ね?」

「あ、うん……」

 

 さ、さすがに連日お泊まりする口実はないし、お父さんやお母さんからも怒られるよね……あー、どうしようかなぁ……先生が変なことしないように、途中で電話でもするしか……。

 

 *******

 

 やけに豪勢な夕食を平らげた後、僕と若葉は先生に勉強を見てもらえる事になったのだが……。

 

「すぅ……すぅ……」

「お、おい、若葉……どうした?食べてすぐ寝ると太るよ」

「大丈夫よ。10時間眠るツボを突いただけ…………たまにはそういう日があっていいじゃない。夏休みだもの」

「い、今、10時間眠るツボとか言いませんでした?」

「気のせいよ」

「え?でも……」

「気のせいよ」

「は、はい……」

 

 先生にじっと見つめられ、僕はただ頷くことしかできなかった。ま、まあ、あんなに安らかな寝息を立ててるし、大丈夫だよね……。

 そして、タンクトップに短パンという、かなりラフな格好に着替えた先生は正座し、当たり前のように僕にぴったりとくっついてきた。

 

「あ、あの……」

「こっちの方がやりやすいわ。だから気にしないで」

「そうですか。はい……」

 

 いや、気にするなとか無理なんですけど……。

 こうして、若葉の安らかな寝息をBGMに、夜の勉強会が幕を開けた。決していやらしい意味じゃない。

 

 *******

 

 1時間経過し、僕は一つの違いを自覚していた。

 普段なら緊張し、胸がドキドキするだけだ。でも、今は……。

 何というか、普段は理性が本能にかけているブレーキが外れそうな感覚とも言うべきなんだろうか……。

 さっきから、先生の横顔をつい何度も確認してしまう。

 やっぱり綺麗なその横顔は、すぐ隣にあって……でも、触れることなんてできなくて……。

 

「……しゅ、集中してる?」

「あ、す、すいません!」

 

 そりゃあ、この距離で見てたら、いつかは気づかれるよね……しかも、あのクールな森原先生が噛むとか、僕はどんな気持ち悪い視線を向けていたというのか……。

 そんなことを考えていたら、うっかり書き間違えてしまう。

 すぐに消しゴムを取ろうとすると、既に消しゴムの上には先生の手が乗っかっていて、そこに自分の手を置いてしまう。

 

「「…………」」

 

 な、何だろう……何回か似たような場面には遭遇したけど、感触やら温度やらが、昨日とはまるで違う気が……。

 

「祐一君?」

「ごめんなさいごめんなさい!!」

 

 瞬間移動のように部屋の端っこまで飛び退く。や、やばい……僕、どうしちゃったんだ?

 先生はキョトンと小首を傾げた後、四つん這いで距離を詰めてくる。タンクトップからは、豊満な胸の谷間が見え、気をしっかり持たないと、そこを集中的に見てしまいそうだ。

 

「緊張、しているの?」

「いえ、緊張と言いますか、何と言いますか……なんか、落ち着かなくて、先生の隣が……」

 

 先生の隣が、と言う必要はなかったのかもしれない。

 でも、このままだとヘタレな自分でも間違いを犯すような、そんな不安が胸の中に満ち溢れていた。

 

「嫌だった?」

「そんなことないです!嫌なんて……ただ、何故かいつもよりやたら緊張しちゃって……」

「……それは、私を意識しているの?」

「えっと……その……そうかもしれません」

「っ!」

 

 先生は顔を両手で覆い、部屋から飛び出していった。

 いきなりの事にポカンとしていると、廊下からドタバタと跳ねるような音がして、しばらくすると先生が戻ってきた。

 

「ど、どうしたんですか?」

「向こうから物音がしたから、気になって見に行ったのよ」

「え、本当ですか!?じゃあ、僕も……」

「大丈夫よ。何もなかったから。それより……確かめてみる?」

「へ?」

「……今から……確かめて、みる?」

「え?」

 

 先生は眼鏡を外し、距離を詰めてくる。すぐ傍で眠っている若葉の寝息が、甘やかな雰囲気に追い出されるように遠ざかる。

 先生は僕の顔を両手で優しく包み込み、そして……



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第43話

 急展開。

 まさにそんな言葉が似合う状況。どうしてこうなったのか、理解が追いつかないまま、時間が止まった感覚に支配される。

 だが、先生の顔は確かに近づいていた。

 先生の甘やかな吐息が鼻にかかり、脳を痺れさせていく。

 身動き一つ取れないのに、このままでいたいような、おかしな感覚。

 え?あれ?何で……こんな……。

 すると、先生の動きがピタリと止まり、頬にほんのりと朱が差し込み、瞳が不安げに揺れている。普段は綺麗なのに、今も綺麗なままなのに、そこだけは可愛らしく思えた。本人には絶対に言えないけど。

 

「や、やっぱり、いきなり唇というのは……はしたないわね。そう、これは逃げじゃない。逃げじゃないわ」

 

 何やらブツブツ言っているのが聞こえるけど、蕩けた聴覚では、その言葉の輪郭は掴めない。

 そして、その瞳が真っ直ぐに見つめてくる。瞳の色が変わった気がした。

 

「祐一君……」

「先生……」

 

 1センチずつ近づき、鼓動が刻まれていく。

 二つの吐息が混ざり合い、甘やかな熱になる。

 そして…………触れ合う。

 

「…………ん」

 

 優しく当たる柔らかな感触。

 夏の陽射しより熱い感触。

 そんな極上の唇が……………………額に触れていた。

 

「せ、先生?」

「……ん」

 

 数秒間してから、ゆっくり離れていく感触を、額に留めておきたいと心の片隅で願いながらも、さっきと変わらず身動き一つできないままだった。

 

「「…………」」

 

 先生も女の子座りになり、どこかぽーっとした表情になっている。

 ……これで二回目?

 この前は頬に……多分だけど。

 頭がぼんやりして、自分の身に起こっている出来事に思考が追いつかない。

 ただ、もしこんな状態じゃなければ、理性なんてとうの昔に飛んでいたかもしれない。

 火照りが冷めるのをこのまま待っていようと、視線を辺りに彷徨わせていると、先生の艶やかな唇が、静かに言葉を結び始めた。

 

「あの……」

「は、はい」

「もう一回、して欲しい?」

「っ!」

 

 甘い誘惑ともいえる問いかけに、僕は先生を見つめ返すことしかできずにいた。

 しかし、考えていることが顔に出ているのか、先生は微笑んで、僕の頭に小さな手を置いた。

 僕はごくりと唾を飲み込み、震える唇を動かした。

 

「…………せ、先生さえよければ」

「…………」

 

 何故か不機嫌そうに唇を結んだ先生から、頬を両頬をぐいっと引っ張られる。

 

「さっきから忘れてないかしら?」

「え?何を……あっ……」

「…………」

「ゆ、唯さん……」

 

 僕が言い直すと、唯さんはこくりと頷いた。

 

「その……僕なんかがこういう幸福な目にあっていいのかはわかりませんし分不相応なのはわかっているんですけど、もし唯さんが嫌じゃなければ」

「その長い前置きはいらないけど……じゃあ……」

 

 再び先生の唇が額に触れる。

 ……あれ?

 そういえば、どうしてこんな事になっているんだろう……?

 確か、自分に素直にとか何とか……そんなだったっけ?なんかもうよくわからない。

 ふと視線を落とすと、タンクトップの胸元から覗く胸の谷間や、剥き出しになった太股が見える。

 や、やばい……もう理性が……

 

「っ!」

「唯さん……」

 

 気がつけば、僕は先生を……唯さんを思いきり抱きしめていた。彼女の肩は驚きに震え、体が強張っているのを感じた。

 しかし、それでも離すことができない。

 もっとこの香りに包まれていたかった。

 唯さんの体は想像よりさらに柔らかく、華奢で、1秒毎に力を加減しながら、壊してしまわぬように、抱きしめ続ける。

 

「ゆ、祐一君……少し苦しいのだけれど……」

「す、すいません!すいません!」

 

 やはり力を入れすぎていたみたいだ。

 我に返った僕は、慌てて離れ、先日のように土下座をする。担任教師に土下座するのに慣れるなんて……なんか不思議な気分だ。母さんが知ったら泣きそう。

 

「そこまで謝らなくてもいいわ。ちょっと驚いただけど」

 

 先生はまだ頬が少し紅いけど、話し方や雰囲気はいつもの空気を取り戻していた。いや、最初から先生は冷静だったのかもしれない。

 

「あ、あの……」

「何?」

「いや、本当にすいませんでした。先生の優しさに甘えてしまって……」

「……私も甘えてるのかも」

「え?」

「何でもないわ。今はわからなくていいから。少し話さない?」

「あ、はい……ちなみにどんな……」

「君が今日読んだ本の感想とか……どうかしら?」

 

 それからしばらくの間、今日読んだ本の感想やら、最近見たテレビの話やらをだらだらと話した。唯さんのやわらかな相槌に誘われるように、すらすらと言葉は出てきた。

 今だけは、教師と生徒という関係を忘れて……って、なんかこの言い方だといやらしいような……

 

「……少しいやらしいわね」

「ちょっ……心読まないでくださいよ!」

 

 



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第44話

 

 そんなこんなで若葉が来てから早くも七日目。今日で最終日だ。帰るのは明日の朝だけど。

 言うまでもなく、先生から額にキスされた事は誰にもバレていない。ていうか、あの日以降は僕が一人で慌てているだけで、先生はいつも通りだった。

 ……夢じゃない、よね。

 そんな疑問すら抱かせる数日間。

 僕は……もしかして……

 

「あ~、お兄ちゃんったら、またエッチな事考えてる~」

「またってなんだよ、またって……」

「言葉通りだよ。どうせお姉さんの裸を思い出してたんでしょ?」

「バ、バカ!聞こえたらどうするんだよ!」

 

 しかも、そんなことを言われたら、本当に思いだしてしまう。

 人じゃなく、芸術作品を見ているかのような先生の……って何回思い出してるんだよ。いや、男だから仕方ないけど。何なら、ひっそりと忘れないように、定期的に思い出すくらいだし。

 台所の掃除をしていた先生には聞こえてなかったみたいで、首を傾げている。

 

「どうかしたの?」

「い、いえ、何でもありませんよ。ええと……ごめんなさい……」

「何で謝るの?」

「えっ?あ、いや、別に……」

「様子がおかしいわね。もしかして、熱でもあるの?」

 

 流れるような歩き方で距離詰めてきた先生は、何の躊躇もなく額と額を重ね合わせてくる。

 ちょっ……い、いきなり……!

 正直、こちらの頭の中が熱くなり、熱かどうかなんてわからなくなりそうだ。薄紅色の唇を間近に感じ、その感触がじんじんと鮮明に蘇る。

 しかし、すかさず若葉が割って入ってきた。

 

「お姉さん!いきなりそんなことしちゃダメ!お兄ちゃん、嫌がってるでしょ!?」

 

 その言葉に、先生は涼やかな瞳にやや哀しみを灯した。

 

「そう、なの?嫌だった?」

「そ、そんなことありません!」

「お兄ちゃんのエッチ!」

「何で!?」

「それは否定できないかも」

「先生まで!?」

 

 この前のはやっぱり夢だったんじゃないだろうか……いや、でも……。

 

「はい、お兄ちゃんこれ」

 

 また考え込みそうになっていると、若葉が大きなダンボールを僕に差し出してきた。

 

「な、何これ?重いんだけど……」

「若葉のお薦めの本とゲームだよ♪」

「は?」

「若葉のお薦めの本とゲームだよ♪」

「いや、それはわかったんだけど……何で?」

「もっちろん、お勉強用だよ!」

「……何の?」

「お兄ちゃんが真っ当なロリコンになるためのお勉強だよ!」

「ん?何を言ってるのかな?」

「あっ、間違えた。お兄ちゃんの勉強に役立つための資料だよ」

「…………」

 

 何故小学生の従妹に勉強のための資料を貰わなければいけないのか。いや、確かにあいつはそこそこ頭がいいけれど。

 箱を開けると……おっ、思ったよりまともそうだ。ナボコフの『ロリータ』……これは僕でも知ってるやつだ。映画版のDVDも入ってる。若葉の奴……頑張って選んでくれたんだなぁ……。

 すると、先生が顔を顰め、箱の奥に手を突っ込んだ。

 

「このゲームはなにかしら?」

「あっ、それは……」

「『ロリロリパラダイス』?こ、これ……18禁じゃんか……どうやって手に入れたんだよ、こんなの……」

「お父さんの部屋にあったよ♪全部速攻で送ってもらったの」

 

 ……うん。知ってた。

 叔父さん……叔母さんにバレないようにね。

 先生は溜息を吐き、若葉を「めっ」と叱る。

 

「教師として、これを彼がこのゲームをプレイするのを認めるわけにはいかないわ」

「ええ!?……うぅ……ケチ……」

「代わりに私がこの……」

「あーっ、何さり気なく年上ヒロインのゲームにすり替えてるの!?」

「あはは……まあとりあえず、若葉は何処か行きたい所ある?最終日だし、行ける範囲なら連れて行くけど……」

 

 若葉は少し考える素振りを見せたが、すぐに答えを決めた。

 

「う~ん、今日は家にいたい、かな。お兄ちゃんとお家でゆっくりしたい」

 

 我が従妹ながら、なんて可愛い台詞。僕は力いっぱい頷き、その小さな頭を撫でた。

 

「そっか、じゃあ何して遊ぶ?」

「…………」

「お、お姉さん!いきなり哀しそうな顔しないで!誰も仲間はずれにするなんて言ってないじゃん!お、お姉さんも一緒に!ね?あっ、こら!いきなり抱きしめないで!頭撫でないで!ほっぺたスリスリしないで!」

 

 この1週間で2人も仲良くなったなぁ。最初はどうなるかと思ったけど。なんて微笑ましい光景なんだろう。先生のスキンシップがやや過剰な気もするけど。

 

「じゃあ3人でおままごとしましょうか」

「私はそんな年じゃないよ!お姉さん、奥さん役やりたいだけでしょ!」

「…………」

「落ち込んだふりしてもダメだからね!」

「……わかったわ」

 

 ……何だろう、このやりとり。こんな先生、学校じゃ絶対に見れないよな。

 結局、その日はまたゲームを3人がかりで攻略したが、また説明書に書かれていない年上ヒロインを攻略するというミラクルが起こってしまった。

 

 *******

 

 翌日の朝……。

 僕と先生と奥野さんは、若葉の見送りに駅に集まった。

 

「じゃあ、またね!お兄ちゃん、愛美お姉ちゃん……お姉さん……本当に楽しかったよ」

「ああ。叔父さんと叔母さんによろしく。またその内、そっちにも顔出すから」

「うん、絶対だよ!」

 

 元気よく頷いた若葉は、今度は奥野さんに向き直る。こっちに戻ってきたら戻ってきたで、陸上部の助っ人を頼まれていたらしい。部活の助っ人……リア充な響きだ。

 

「昨日は来れなくてごめんね!また今度ゆっくり遊ぼうね!」

「愛美お姉ちゃん……うん!」

「……帰り気をつけてね。それと……また、来てね」

「……うん!でもお兄ちゃんにベタベタするのは程々にね」

「……何の事かしら?」

「ああ、もう!とぼけながら頭を撫でないで!」

 

 先生に頭を撫でられ、若葉はじたばた暴れる。先生、本当に子供好きなんだなぁ……子供扱いされなくない若葉からしたら複雑かもしれないけど。この1週間、何度この光景に癒やされただろう。

 ぽつぽつと話している内に、ホームに電車が入ってきた。

 若葉はほんの少し、寂しそうな表情を見せたものの、すぐににぱっと笑顔になる。

 

「よしっ……じゃあ、バイバイ!」

「うん、それじゃあ」

「若葉ちゃん、またね」

「……ばいばい」

 

 その笑顔は、小学生にしてはちょっと大人びて見えるけど、やっぱりまだ幼くて。

 でも、周りを笑顔にする不思議な魅力がそこにはあった。

 やがてドアが閉まり、ゆっくりと電車が走り出す。若葉の声は完全に遮断され、何を言っているのかはわからない。

 それでも若葉は小さな手を降り続けていた。

 僕達もそれに倣う。

 そして、どんどん加速していき、すぐに見えなくなった。

 僕達は、電車が見えなくなっても、しばらくホームでその笑顔に見とれていた。

 

 *******

 

「はぁ……お兄ちゃん、あの人のこと好きなんだろうなぁ。負けたくないけど……でも、お兄ちゃんには素直になってもらいたいなぁ」

 



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第45話

 

 8月の第2週。

 僕の通う学校では普通に授業がある。

 生徒からは非常に不評ではあるけど、まあ仕方ない。

 僕は何故か、学校に行くことに対して、特にダルいとも感じていなかった。

 その理由は多分……

 

「じゃあ、次は……浅野君、読んで」

「は、はい……」

 

 先生の指示に従い、指定された箇所を淡々と読む。最近、現代文の授業の内容が、すっと頭の中に入ってくるようになったのは、先生と若葉から薦められた本をがっつり読んでいるからかもしれない。

 読み終えて着席すると、いつの間にか先生が隣に来ていた。

 

「じゃあ、次は……」

 

 そして、次の人を指名しながら、その白い手を僕の頭の上に置いてきた。

 ……朝のホームルームの分を含めると、これで10回目だ。

 何故か今日はやたらと頭を撫でてくる。久々の登校日だからかな……いやいや、違う気がする……もしかして、若葉ロスからくるものなのか?

 そっと先生に視線を向けると、相も変わらぬ無表情で、眼鏡のレンズの向こうにある瞳は、教科書に向けられていた。さらに、クラスメイトの視線は誰もこちらに…………あ。

 

「…………」

 

 奥野さんがこっちを……いや、先生を見ていた。

 そして、当たり前のように先生はその視線を意に介していない。

 さらさらと指を髪に通していくその感触に、なんだか懐かしい気持ちになる。

 しかし、それが何なのか考えようとしたところで、その手は離れていった。

 

 *******

 

 ……やっぱり授業中に彼に触れるのは気持ちいいわね。

 よし、残りの授業も頑張ろう。

 夏休みの間、なるべく口実を見つけて接点を作っていたけれど、この前の若葉さんのような特別な事情がないかぎり、やはり限界はある。あと若葉さん……可愛い。彼に想いを寄せていなければ、まだ仲良くなれた気がする。

 年下とはいえ油断は禁物。あの子は間違いなく美人に育つだろうから。

 そこで、彼の姿が目に入る。

 あ、寝てる。

 もう……仕方ないわね。

 私は彼と接する口実ができたことを喜びながら、周りに悟られぬよう、気配を殺して近づく。こういう時、日頃の修行が役に立つ。

 彼の寝顔は、教室の中で眠っているとは思えないくらい無防備で、じっと見ていると、何だか胸が締めつけられる。

 ……よし。誰も見てないわね。

 私はその頬にそっと手を伸ばし……

 

 つんっ。

 

 指でつついてみた。

 うん、さすがは浅野君。このくらいでは起きそうもないわね。

 

 つんっ、つんっ。

 

 やだ……これ、楽しいわ。クセになりそう……。

 

 つんっ、つんっ、つんつんつんつんつんつんつんつん……つつんっ。

 

 ……そろそろ止めておきましょう。背後から奥野さんの視線も感じるし……。

 頬に触れた指先からは、じんと穏やかな熱が残っていた。

 私が彼に惹かれた理由……

 いつか彼に話す時が来るのだろうか。思い出してくれるのだろうか。

 私は思考を断ち切り、次の授業へ向かった。

 

 *******

 

「森原先生、今日よかったらお食事でも……」

「ごめんなさい。先約があるので……」

 

 男性教諭の誘いを丁重に断っていると、副担任の新井先生がトコトコと近寄ってきた。

 

「森原先生~!早く行きましょうよ~!」

 

 ちなみに、新井先生とは何の約束もしていない。つまり、助け船を出してくれたということだ。いかにも自然な感じで声をかけてくるその様子は、彼女が普段の鈍いイメージと重ならなかった。

 彼女もこういう場面に何度も遭遇しているのかもしれない。

 

「ええ。それでは、失礼します」

 

 私は遠慮なくそれに乗っかることにした。

 

 *******

 

「……ありがとうございます」

「え?あっ、全然大丈夫ですよ!森原先生、誘われること多いから、断るの疲れてるんじゃないかな~、と思って……」

「…………」

 

 私は沈黙で返した。

 その沈黙を肯定と受け取ったのか、新井先生はこくりと頷き、ふわふわの茶色い髪を揺らしながら微笑んだ。

 彼はもしかしたら、こういうふわふわした可愛らしい女の子がタイプかもしれない。彼がたまに目で彼女の後ろ姿を追っているのを見たし。

 

「あ、あの……森原先生?どうしたんですか、私の顔をじっと見て……」

「いえ、気にしないで。少し憎たらしくなっただけよ」

「な、何でですか!?えっ、私何かしましたか!?」

 

 おっといけないわ。つい嫉妬ファイヤーが……きっとこの子は私の嫉妬心を煽るフレンズなのね。副担任だけど、いや、副担任だからこそ、今後も警戒は緩められないわ。

 そんな彼女に向け、私は誤魔化すように小さな笑みを浮かべた。

 

「冗談よ。新井先生は可愛いわね」

「とってつけたように言われても全然嬉しくないんですが……あ、それより、今から本当に飲みに行きません!?」

「……え?」

「ほら、先生ってあんまり飲み会に参加しないじゃないですか!でも、たまには親睦を深めるのもいいかなぁ……なんて」

 

 彼女は上目遣いに私を見てくる。

 明らかに自分の見せ方を心得ている者の所作だけど……そ、そんな小動物みたいな目をされたら……。

 

「……わかったわ」



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第46話

 

 新井先生と入った居酒屋は、まだ客の入りも少なく、予想していたような騒がしさはなかった。

 奥のテーブル席に座り、注文したお酒に口をつけたところで、新井先生がニヤニヤと笑顔を向けてきた。

 

「先生って、どんな人がタイプなんですか~?」

「…………」

 

 やっぱり来たわね。これが女子会というものなのね。

 私はなるべく遠回しに言うことにした。

 

「そうね……年下で背はそこそこで、ちょっと頼りなくて、頭は悪くないんだけど、要領が悪くて不器用で……」

「……だ、だいぶ具体的な気がするんですが……もしかして森原先生って、誰か好きな人がいるんですか?」

「いえ、全然。いるわけないじゃない。何をどう聞いたらそうなるのかしら?」

「……じゃあ、私の気のせいということにしておきます」

「……新井先生はどんな男性が、タイプ、なんですか?」

 

 こういうのを誰かに聞くのは初めてなので、少し緊張してしまった。学生時代はそういうのがなかったから……。

 新井先生は、口元に指を当て、可愛らしく考え込む。

 ……私もこういう可愛らしい仕草をしてみようかしら。

 

「生徒だけど……浅野君かなぁ?」

 

 いえ、しかし私にはこういうのは似合わな……ん?

 

「今、何て言ったのかしら?よく聞こえなかったのだけど」

「え~、も、もう、何度も言わせないでくださいよぉ、恥ずかしいじゃないですか♪」

「ごめんなさい。今聞き捨てならな……ぼーっとしていたものだから」

 

 多分、気のせいよね。絶対に気のせいよね。

 

「浅野君とか割と好みなんですよ~♪」

「……ごめんなさい。芸能人の名前はあまり知らないのテレビをあまり見ないから」

 

 彼に薦める年上女性がヒロインの作品を探すのに忙しくて、あまり他の作品をチェックできていない。浅野君ってどんな俳優さんかしら?

 

「え?芸能人じゃありませんよ~。ウチの学校のですよ~」

「ウチの学校?」

 

 まさか……まさか……ね。

 あっ、ウチの学校の教員ということかしら。なるほど。私が知らないだけね。

 

「ああ……浅野先生ね。いいんじゃないかしら」

「え?ウチに浅野先生なんて方いましたっけ?」

 

 違うみたいだ。

 

「浅野先生……浅野先生……」

「いえ、そんな人はいないわ」

「ええ!?じゃあ何で言ったんですか!?」

「少し酔ったのかしら」

「は、早いですね……あの、ウチのクラスの浅野君の事ですよ!」

 

 ……………………。

 

「えっと……浅野祐一君と浅野健二君のどっちかしら?」

「浅野健二君!?だ、誰ですか!?」

「……私の気のせいね。そんな人はいないわ」

「さっきからどうしたんですか!?森原先生、幽霊でもみえるんですか!?」

「そんなことより、あなた……浅野君が好きなの?」

「え?す、好き?な、何言ってるんですかぁ、もう……好きとかじゃなくて、好みってだけですよ~」

「…………理由を聞かせてもらえないかしら」

「理由、ですか?う~ん……単純に昔好きだった人に似てるんですよね……横顔が」

「そう……」

 

 まあ、そのくらいの感情なら……。

 彼は私の所有物ではないのだ。

 誰が彼に好意を寄せようと、それをどうこう言う権利なんてない。

 それに、昔好きだった人に似ているなんて……可愛い理由じゃない……。

 私……何だか彼女ともっと仲良くなれそうな気がしてきたわ。

 

「いや~、この前ですね。授業中眠りかけていたから、ほっぺた突いたんですけど、顔真っ赤にして、すごく可愛いんですよ~」

 

 前 言 撤 回。

 彼の頬に手を触れた?

 

「万死に値するわ」

「い、いきなりどうしたんですかっ?目がすごく怖いですよ?」

 

 いけない。私とした事が……心の声が口から出てきたわ。平常心、平常心。

 

「そうね。確かに彼はいい子だと思う。真面目だし。不器用ながらも頑張ってるし……」

「あっ、そうそう!この前、私が廊下にプリントばらまいた時、颯爽と駆けつけて拾ってくれたんですよ~」

「そう……」

 

 そういう優しさも魅力の一つよね。あの時だって……

 

「それで、その時に前かがみになった私の胸を見て、慌てて目をそらしたりするのが、いかにも初心って感じで可愛くてぇ~」

「その話、詳しく」

 

 嫉妬じゃない。これは嫉妬なんかじゃないわ。健全な教育現場を維持する為に……彼には今度、しっかり話を聞いておく必要があるわね。ゆっくりと……二人っきりで……。

 

 *******

 

「な、何だろう……背筋に悪寒が……!」



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第47話

 

 ……寒気がする。

 どうしたんだろうか?クーラー効き過ぎてるんじゃないかな?皆寒くないのかな?

 ……いや、現実を見よう。この寒気の原因は間違いなくあの人だ。

 

「…………」

 

 そう。言うまでもなく森原先生だ。

 現在、世界史の先生が病気でお休みして、自習になり、森原先生が監督してくれているんだけど、さっきから視線がこっちに固定されていて、かなり落ち着かない。ていか…………怖い。普段と明らかに視線に含まれる何かが違う気がする。その何かまではわからないけど。

 

「…………」

 

 くっ……考えるんだ、僕!一体何をやらかしたんだ!?

 この前週刊誌のグラビアに先生似の人がいたから、つい翌週まで毎日立ち読みしたのがバレたのか?いや、そんなはずは……じゃあ、何で……

 そこで、扉が開く音がした。

 目を向けると、副担任の新井先生がひょこっと顔を見せていた。

 

「失礼しま~す。あっ、浅野くぅん♪」

 

 新井先生が教科書を掲げ、こちらに近づいてくる。そこで僕は忘れ物に気がついた。

 

「さっき、化学の授業で忘れてたよ~」

「あっ、はい……すみません」

 

 何か忘れてると思ったら……気をつけないと……ん?

 

「…………」

 

 先生が眼鏡の位置をくいっと整え、ジロリと睨んでくる……まずい、これは後で怒られるやつだ……。

 そこで先生の唇が微かに動いたのを見た。あれ?今、もしかして……

 ば か

 先生がそう言った気がした。気のせいかもしれないけど。

 ……も、もしかして、この後めっちゃ怒られるんだろうか。教科書を置き忘れるとか、たるんどる!と言わんばかりに。

 

「次からは気をつけてね~……きゃっ!」

「え?」

 

 すぐそこまで来ていた新井先生が何かに躓いたのか、こちらに倒れてきた。

 僕が気づいた頃には、新井先生の、服の上からもわかる豊満な胸がすぐ目の前に迫っていた。

 

「あわわっ」

「うぷっ」

 

 目の前が真っ暗になり、息ができなくなる。顔の火照りやら何やらが、一気にやってくる。な、何だこれ……や、柔らか……い……。

 その柔らかな温もりはすぐに離れていったけど、僕の記憶に深く深く刻まれた。

 

「ごめんね~!大丈夫!?」

「あ、は、はい、全然……」

 

 何とか平静を装っているけど、絶対顔真っ赤になってる……さらに、数人のクラスメートがこっちを見ていた。

 

「あ、あいつ……羨ましい……」

「浅野の野郎……あとで下駄箱にアレを入れといてやる」

「つーか、浅野って誰だ?」

 

 うわぁ……鈍い僕でも殺気がビンビン伝わってくるよ……ていうか、倉橋君、アレって何かな?怖くて授業に集中できないよ……あと井口君……僕の名前知らないとか嘘だよね?もう二学期になるんだよ?

 

「「…………」」

 

 さっきよりもさらにひどい悪寒がして、つい周りを見ると、先生と奥野さんが、じぃーっとこっちを見ている。

 違うんです!わざとじゃないんです!

 念を込めた視線を送るも、どうやら届かなかったみたいだ。

 二人は示し合わせたように、同時に溜め息を吐く。

 ……やっぱり仲いいなぁ。

 

 *******

 

 はい。僕はまた補習室へと行く羽目になりました。多分、学年で一番の使用率だろう。某召喚獣学園ものなら、Fクラスになっているに違いない。

 くだらない事を考えていると、こんこんとドアがノックされる。

 返事すると、先生……が?

 

「浅野くぅん。おはよ♪」

 

 なんか無駄にやわらかい声音とわざとらしい笑顔で入ってきた……先生……だよな?着ているスーツは変わらないし、いつもの黒縁眼鏡だけど、テンションが違いすぎる。

 

「浅野くぅん。おはよ♪」

 

 もう一回!?

 

「…………」

「…………」

 

 気まずい沈黙。

 僕はどうリアクションすればいいかわからないし、先生は謎のキャラをごり押ししてくる。ん?いや、待てよ……。

 先生と一緒にいる機会が増えたせいか、少しは……ほんの少しは先生の感情が読み取れるようになった。今、先生の瞳が告げるのは……

 

 あれ、違った?これじゃない?

 

 確実ではないけど、多分……内心テンパってる?

 

「…………今日、君を呼んだ理由だけど……」

 

 何事もなかったようにしてる!

 さすがに無理があるので、おそるおそる聞いてみた。

 

「……あの、先生、どうしたんですか?」

「……………………君はああいうのが好きだと思ったの」

「え?」

 

 何やら口をもごもごさせているけど、さっぱり聞こえない。

 先生は向こうを向いて、こほんと咳払いし、本当にいつもの調子を取り戻して言った。

 

「たまには……いつもと違うのもいいと思ったの。やはり変化がなさすぎるのも……飽きるから」

 

 理由はさておき、もしかして……いや、間違いなく僕に気を遣っている。いや、気を遣わせてしまっている。

 いつもしてもらってばかりなのに、これ以上気を遣わせるわけにはいかない……内心の焦りに蹴飛ばされ、僕は口を開いた。 

 

「せ、先生はいつも通りでいいと思います!!」

「え?」

 

 自分でもよくわからないまま、思いついたことをひたすら並べていく。

 

「何というか、先生には先生の魅力があるというか……あの、いつものクールさというか……いえ、今のさっきのも素敵なんですが……!」

「……そう、かしら」

「は、はいっ!」

「…………そう。なら、いいわ」

 

 先生は眼鏡をかけ直し、髪をいじる。頬がほんのり赤いのがいつもより幼く見えた。

 ……この表情、この仕草は初めて見る気がする。

 つい見とれてしまっているのに気づき、目をそらすと、先生は僕の隣に椅子を運び、いつものようにやわらかな体をくっつけてくる。

 ふわりと包み込むような甘い香りがいつもと違うのも、気を遣ってくれていたのだろうか。

 そんなことを考えていると、先生から肩をつつかれた。

 

「ところで……新井先生の胸の感触はどうだったかしら?」

「へ?」

「ところで……新井先生の胸の感触はどうだったかしら?」

「あ、あの……」

「ところで……」

「いや、あれは事故で……!」

「質問に答えなさい」

 

 結局、補習室にいながら、補習は行われなかった。

 

 *******

 

「今の、ままが、いい……」

 

「告白……じゃないわよね?……何を考えているのかしら、私は……」

 

「夏休みの後は文化祭……チャンス……いえ、その前に夏休み中にもう少し素敵な思い出を……」



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再現

 

 夏休みも気がつけば最終日。僕は問題を抱えていた。

 夏休みの宿題が終わってないとかベタな理由じゃない。むしろ宿題は7月にほとんど終わっていたくらいだ。これまでの人生で最速記録を達成している。

 じゃあ、何が問題かというと……

 

「なるほど……課題読書が終わっていないのね」

「はい……」

 

 そう。先生から与えられた課題読書がまだ半分以上残っている。

 正式な課題じゃないから無理しなくていいと言われていたけど、これはさすがに申し訳ない。

 ちなみに、今僕は先生の家の客間にいる。

 今日は休みらしいので、こうして直接報告しに行った……最初はメールですませようとしたけど、先生から、家にいるからいらっしゃいと言われた……そして、先生は僕の報告を聞くと、考え込むように口元に手を当てた。ゆったりとしたスウェットを着ているけど、そういう仕草をすると、やはり普段通りのクールな先生だ。

 眼鏡の向こうの目を伏せ、しばらく考え込んでから、そのまま当たり前のように僕の隣に正座した。

 肩と肩が触れ合いそうになるのを意識していると、薄紅色の唇がふわりと動く。

 

「そうね。確かに多すぎたかもしれないわ。若葉さんも君に課題を出してたものね」

「あはは……」

 

 まだ5冊しか読んでないと言ったら、若葉に怒られそうだ……。

 ぷんすか怒る若葉を想像していると、微笑ましく見えるけど、たまに二千円もするような高いパフェを奢らされるから、決して油断はできない。

 そんなことを考えていると、先生が肩をちょいちょいとつついてきた。

 

「裕一君」

「は、はい!」

「読書はね、ただ闇雲に数を重ねればいいというわけではないと思うの。一冊を深く読み込むのも重要だわ」

「はあ……確かに、そうですね」

 

 あれ?もしかして、これは数を減らしてくれるとか?

 内心、ほっと安堵の息を吐くと、先生は体をぴったりくっつけてきて、耳元で囁いてくる。

 

「なので、今から君が今からどれだけ深く読み込めているかテストをします」

「えっ!?あ、あの……」

 

 耳にかかる甘い吐息にどぎまぎしながらも、テストという単語に体が反応する。もしかして……休みなのに……テスト?

 

「ちなみに……どんなテストなんですか?読書感想文とかですか?」

「いえ、今から……」

 

 先生は言葉を区切り……こちらに背中を向け、深呼吸をした。どうしたんだろう……不穏な空気が……。

 室内に立ち込める緊張感に背筋を伸ばすと、先生は僕の耳元に手を添え、ひそひそ話をするような声で囁いてきた。な、何故二人しかいない部屋で……?

 

「今から小説の場面を私達で再現します」

「……え?」

「今から小説の場面を私達で再現します」

「いえ、それはわかったんですけど……え?僕と……」

「私がやるわ」

「…………えええぇ!?」

 

 突然の展開に驚く僕にはお構いなしに、先生は僕の耳に直接言葉を注いでくる。

 

「君が読んだ本のページをランダムに捲って、そこに書いてある場面を再現するの」

「…………」

 

 先生から借りた小説の内容を思い出してみる…………確か、割と過激な内容もあったような……。 

 

「い、いや、さすがに……ダメですよ、その……」

「どうかしたの?」

「……濡れ場とかありましたし」

「…………」

 

 室内に冷たい沈黙が訪れる。もしかして、引かれてしまったのだろうか?いや、一応言っておかないと……もし、そんな場面の再現になったらって……これじゃあ、僕が期待してるみたいじゃんか!!

 

「じゃあ、別の部屋でやりましょう」

「えっ、スルーされた!?」

 

 *******

 

 先生から二階の部屋に通される。そういえば、初めてだっけ?空き部屋に通されるかと思ったら、ベッドや本棚も置いてある。こ、ここはもしかして……

 

「あの、先生……もしかして、この部屋は……」

「空き部屋よ」

「そうですか……」

 

 肩透かしを食らった気分だ。別に変な期待はしてないけど。

 

「じゃあ、始めましょうか」

「は、はい……」

 

 先生は小説のページをパラパラ捲り、適当なところで止める。やたら真剣な顔しているところとか、動体視力をフルに使ってそうな目の動きが気になったけど、まあ気のせいだろう。さすがに読んだ小説の細かい場面を全て覚えられるわけないだろうし。

 

「最初は……ヒロインとの出会いね。裕一君、覚えてる?」

「確か……偶然同じ本を取ろうとして、手が重なるんですよね?」

「正解。じゃあ、始めるわよ」

 

 先生が本棚の前で、あれこれ手にとって悩み始めた。

 僕は偶然を装い、適当な本に手を伸ばす。

 

「「あ……」」

 

 手と手が重なり、慌てて二人して手を引き、お互いに顔を見る。

 

「ご、ごめんなさい……」

「いえ、こちらこそ……」

「…………」

「…………少し待ってて」

 

 先生はまた考え込むような仕草を見せ、いきなり部屋を出た。もしかして……何か間違っていたのだろうか。

 

 *******

 

「どうしてこれを今まで思いつかなかったのかしら」

 

「いえ、今思いついただけでも良しとしないと……」

 

 *******

 

「お待たせ」

「あの、先生……僕、どこか間違ってましたか?」

 

 戻ってきた先生に尋ねると、先生はやわらかく微笑んだ。

 

「大丈夫よ。この調子でいきましょう」

「はいっ、わかりました。なんかよくわからないけど」

「後々活きてくるわ。次は別の作品にするわね」

 

 先生は別の小説を取り出し、パラパラ捲る。な、何だ……あのページが止まって見えているかのようなオーラを秘めた目つきは……。

 やがて、ページ捲る手を止め、その場面を発表する。 

 

「近所に住む年上の女性を男の子が押し倒す場面を……」

「はい……って、え?そ、それって……」

「言葉通りの場面よ。そこのベッドで……」

「ちょ、ちょっと待ってください!さ、さすがに押し倒すのは……」

「別に大丈夫よ。気にしないから」

「僕が気にしますよ!先生は大丈夫なんですか!?」

「大丈夫よ」

 

 即答された。

 いくら「大丈夫よ」とごり押しされても、今すぐにやるのは……それに、もし……演技とかじゃなく、本気で押し倒してしまったら……いやいや、何を考えているんだ!これは授業というか、補習の一環であって、先生は僕のために……!

 僕は腹を括り、真っ直ぐに先生を見た。

 

「……わかりました。じゃあ……先生を押し倒します!」

「っ!」

 

 先生は僕の大声に驚いたのか、肩をビクンと跳ねさせた。やばい、うっかり変なテンションになってた……。

 とにかく、先生が指定したページを開き、しっかりと読み込む。えーと……いつものように首筋にしがみついてきた近所のお姉さんに、感情が抑えきれなくなり、ベッドに押し倒してしまう。うん、先生が薦めてくる小説によくある展開だ。50冊中20冊くらいはあったはず。

 僕は同じような場面を何度も思い浮かべながら、ベッドにゆっくり腰かける。スプリングの軋む音がやけに大きく響き、そのことが余計に緊張を煽る。

 

「それじゃあ、始めるわよ。肩の力を抜いて、楽にして」

「……はい」

 

 僕の返事を聞き終えると、先生は僕の体に首筋に腕を絡ませた。

 

「……ねー、ゆうきくーん、かまってー」

「っ!」

 

 おっそろしい程の棒読み……!

 さっきより明らかに下手な演技に、危うく吹き出すところだった。

 しかし、背中にはぐいぐい胸が当たり、次第にその違和感も薄れていく。

 僕も小説の世界の人物になりきり、なるべく感情を込め、セリフを読み上げた。

 

「ね、姉ちゃん。止めてくれよ……恥ずかしいから……」

「いいじゃないいつもこうしてるでしょーもしかして照れてるの」

 

 先生、句読点が抜けてます!ていうか、本当にどうしたんですか!?

 色々ツッコミたいけど、グッとこらえ、先に進める。

 

「……姉ちゃん!」

「きゃ」

 

 悲鳴も棒読み!?というツッコミはさておき、僕は先生をベッドに押し倒す。文字で見ると、かなり大胆なことをしているように聞こえるし、実際大胆な事をしているんだけど、僕の肩はガクガク震えていた。指先の感覚もどこか遠い。

 先生の長い黒髪がベッドに広がり、シーツの白さと合わさって、夢の中でしか見れないような不思議な海のように思える。

 そこで、変化が起こった。

 先生の唇が震え、頬が上気し、目がとろんとしていた。さっきまでの棒読みが嘘みたいな渾身の演技に、胸の中でドクンと鼓動が弾ける。

 

「ゆ、裕一君……」

「あやめ姉ちゃん」

 

 今、裕一君って言ったような……。

 いや、それより……次は……のシーンは……。

 

「どうかしたの?」

「あの……次のシーンって……」

「キス……だったかしら」

「…………」

「裕一君?」

「さ、さすがにそれは……!」

 

 僕が体を起こそうとすると、先生に腕を引かれる。まるで、甘い幻想の世界から逃がさないというように。

 しかし、思ったよりも強い力にバランスを崩し、僕は先生の上に倒れ込んだ。

 

「「っ!!」」

 

 唇と唇が本当に触れそうな距離感に、すぐに体を起こす。

 

「ご、ごめんなさい……っ!?」

「…………」

 

 急いで謝ると、先生の視線が下の方に注がれている。

 その視線を辿ると、先生の胸の上に僕の手が置かれていた。

 

「ご、ごご、ごめんなさ……っ!?」

「…………」

 

 すると、先生は僕の手を押さえつけ、胸の上で固定した。

 想像していたより、はるかに柔らかな感触が、掌で暴れ、思考を奪っていく。

 時計の秒針が時を刻む音だけが、やけに強調されていた。

 

「……先生」

「…………」

 

 設定を忘れていた事も気にならず、そのまま見つめ合う。黒い宝石のような瞳は、ほのかに潤んでいる。

 そして、薄紅色の唇が微かに動いているけど、今の蕩けた頭では、どんな言葉を結んでいるのかまではわからなかった。

 やがて、何かに誘われるように、僕はゆっくりと右手を……

 

 ピンポーン!!

 

 そこで呼び鈴が鳴り、湿った静寂を断ち切った。

 さらに、現実に引き戻すように、枕元にある先生の携帯も震えだした。

 先生は仰向けのまま、携帯を手に取り、画面を見てから眉をひそめる。

 

「……奥野さんが今、君の家の前にいるそうよ」

「え?奥野さんが?」 

 

 どうしたんだろう?何も約束はしてないはずだけど……。

 すると、先生がすっと両目を細め、どこか攻めるような目つきになった。

 

「……もしかして……デートの約束でもあった?」

「ち、違いますよ!」

「そう……とりあえず、補習はここまでね」

「……はい」

 

 名残を惜しむように、ゆっくり変わっていく場の空気に、何ともいえない空気になったが、すぐに言い忘れていた事に気づく。

 

「あ、あの、すいませんでした……」

「事故だとわかってるわ。似たような事は前にもあったし」

「…………」

「責めてるわけじゃないわ。じゃあ、行きましょう」

「あっ、はい……」

 

 僕は先生について階段を降りながら、さっき右手が覚えた感触を忘れようと、右手を閉じたり開いたりした。

 

 *******

 

「ちょっと驚いたけど……いいかも」

 

「……これは……来月の今頃にもう一回やるべきね。いえ、毎月やりましょう。うん。次はお出かけして……」

 

 *******

 

「あの……何で浅野君が先生の家から出てくるんですか?」

「補習よ」

「……本当は?」

「ただの補習」



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二学期

 

 二学期が始まり、クラスの中の空気は普段より活気づいていた。

 それもそのはず、二学期は文化祭・体育祭・修学旅行と、イベント続きなのだから。僕みたいにあまりテンションが上がっていない方が少数派になってしまう。そんな……テストの時は味方だったじゃんか……。

 

「はい。それでは文化祭の出し物を決めたいと思います」

 

 そこで、僕の思考を断ち切るように、森原先生の声が聞こえてきた。今、こっちを見てた気が……。

 今日は先生の授業がなかったからくっつかれてないけど、夏休みの事もあり、何だか前よりこう……いや、考えるのはやめよう。身の程知らずもいいところだ。

 かぶりを振って思考を断ち切ると、周りからどんどん出し物の提案がされていた。

 お化け屋敷、メイド喫茶、演劇……文化祭の定番とも呼べるような出し物が黒板につらつらと書き連ねられていく。

 僕は特に自分から進んでやりたい出し物があるわけではないので、頬杖をついて、黙って黒板を見つめていた。

 

「ねえねえ」

「あっ、はい」

 

 思春期の少年を描いた主人公気取りで、一人興味なさそうな表情を作っていると、新井先生が肩をポンポン叩いてきた。こういう時、すぐに素に戻って、作り笑いを浮かべてしまう自分が少し哀しい。

 

「浅野君は何かやりたいことはないの~」

「あ、えっと……はい。何も思いつかなくて……」

「そっかぁ。じゃあ、メイド喫茶に投票して、森原先生のメイド姿を見よっか~」

「っ!?」

 

 僕は身体中に電流が流れたかのような衝撃を覚えた。

 先生の……メ、メ、メイド姿……。

 おそらく……いや、間違いなく学校中の皆が見たいと思っているはずだ。

 

『おかえりなさいませ。浅野く……いえ、ご主人様』

 

『ご主人様……お、お背中、流します』

 

『ご主人様……その、優しくしてくださいね?』

 

「顔赤いね~。でも、最後のはメイド関係ないような気がするなぁ」

 

 こ、心を読まれた……まあ、確かに関係ない、かな……最近の思考回路は本当にどうかしている。

 

「はいはい、どうどう。どうどう。そんなに自己嫌悪に陥らなくて大丈夫だよ~。私も見たいし」

「あ、あの、さっきから新井先生は何故僕の心を読んでるんでしょうか……」

「浅野君は顔に出やすいから、すぐわかるんですよ~♪」

「っ……!」

 

 それはものすごく恥ずかしい!

 別にクールキャラになろうとは思わないし、なれっこないけど、かと言って、そんなあっさり考えてる事がばれるとか……

 

「二人とも、そろそろいいかしら?」

「「え?」」

 

 いつの間にか、森原先生が僕と新井先生のすぐ傍まで来ていた。周りからは「え?瞬間移動?」とか何とかざわめきが起こっている。

 

「さっきから二人で作戦会議をしているようだけど、何かいい案は浮かんだのかしら?」

「「…………」」

 

 僕も新井先生も何も言えなくなる。ていうか、先生の涼しげな雰囲気から放たれる、意外なくらいに重い圧力みたいな何かのせいで、微動だにすることもできない。あ、あれ?先生……怒ってるんでしょうか?

 さらに、周りの視線も集まり、何だか緊張してしまう。

 

「浅井……やっちまったな」

「浅草、こっそり新井先生と楽しくお喋りしやがって……許すまじ」

「愛美、抗議しなくていいの?とらないでって」

「ちょっ、何言ってんの!?」

 

 あれ?夏休みの間に僕の名前の記憶が抜け落ちたのかな?微妙に違う名前で呼ばれてるんだけど……端っこで何故かあたふたしている奥野さんは僕の名前忘れてないよね?いや、そんなはずないか。最終日にたまたま家の前を通ったというだけで、わざわざ訪ねてきてくれたし……よく、先生の家にいるって気づいたな……。

 

「浅野君……何か案はある?」

「あー、えっと……」

 

 ここは素直に謝ろう……そう考えたところで、新井先生が「は~い」と手を挙げた。

 

「私と浅野君は森原先生の可愛いメイド姿が見たいで~す」

 

 ああ、それは確かに見たいです……って、えっ!?

  



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初めてのメイド

 

「それでは……文化祭の出し物はメイド喫茶になりました。皆さん、明日から準備に入るので……頑張りましょう」

 

 何故だろう……新井先生の発言の後、驚くほどに皆が一致団結して、すんなりメイド喫茶に決まってしまった。どんだけ先生のメイド姿が見たかったんだ……。

 ちなみに、新井先生は後で補習室行きが決定している。副担任が補習室に呼び出されるのを見るのは、多分最初で最後の経験だと思う。

 そして、さっきから……

 

「…………」

 

 先生がチラチラこっちを見てくる!!

 もしかして……実は凄く怒ってるのだろうか?その涼しげな表情からでも、視線に何かが含まれているのはわかる。

 ていうか、言ったのは新井先生だけど……いや、それでも怖い。

 幸いなのは、この後の授業に現代文が含まれていないことだった。

 

 *******

 

「よ、四九……五、十!!」

 

 力尽きた僕は、そのまま床に倒れ込んでしまう。や、やっと……腕立て伏せ五十回できた……。

 最近、小説の登場人物の影響を受け、体を鍛え始めたけど、やっぱり……き、きつい……。

 思春期なら男女問わず経験があるはずなんだ、こういうの……いつまで続くかわからないけど。

 あの後、ホームルームもつつがなく終え、追加で呼び出されることもなく、学校から出られたけど、やけに胸の中がざわざわしている。

 何かが起こる。そんな気がしていた。少し大袈裟だけど。

 そこで狙い澄ましたかのように携帯が震え出す…………やっぱり来た。

 僕は急いでメールを開いた。

 

「こ、これは……」

 

 画面を見る前から予測はついていた。ついていたけど……当たっていたのは差出人だけで、文面は想像の斜め上をいっていた。

 その内容とは……

 

『ご主人様……はやく帰ってきてください』

 

 な、何でしょうか、これは……!いや、本当に!

 メイドのつもりだろうか……でもこれは、なんか違うような……。

 そこで、また携帯が震えた。こ、今度は何が……

 

『今から私の家に来てください』

 

 送り直した!?

 さっきのメールをなかったことにしたいのだろうか。先程の文章とは違う、いつも通りの先生からの文章だ。

 僕は慌てて身支度をすませ、家を出た。

 

 *******

 

「お帰りなさいませ。ご主人様」

「…………先生!?」

 

 玄関の扉を開くと、そこにはメイド姿で恭しく頭を下げる先生がいた。

 髪型も眼鏡も変わっていないのに、スーツからメイド服に変わるだけで……こ、ここまで……。

 いや、そうじゃなくて!

 

「あの……先生、どうしたんですか?いきなりメイド服なんて……」

「さっき補習室で新井先生が言ってたわ。君が私のメイド姿を見たがってるって」

「…………」

 

 新井先生……グッジョ……いや、何言ってるんですか……。

 

「……違うの?」

「いや、その……見たいのは見たいんですけど、そんな発言はしていないというか、何というか……」

「見たいのね」

「…………」

 

 先生の中で、僕はメイド好きになってしまった。何てこったい。

 何が厄介って、あながち否定できないところだ。むしろ事実といっていい。

 

「一応聞いておきたいのだけれど、浅野君は何故メイドが好きなの?」

「理由、ですか……」

「君は女の子に御奉仕してもらいたいの?それとも、ただ単純にこの服が好きなのかしら?」

「あー、どっちも……ですかね」

「なるほど。新井先生の言った通りね」

「…………」

 

 新井先生、何を言ったんですか!?滅茶苦茶気になるんですけど!!

 内心あたふたしていると、先生の目の色が変わった。

 

「それにしても……最近やけに新井先生と仲が良いわね」

「いえ、そうですかね……新井先生は割りと最初からああいう接し方のような……」

「……侮れないわね。灯台もと暗しとはよく言ったものだわ」

「先生?」

「大丈夫よ。ただの独り言だから」

 

 先生が距離を詰め、僕の肩に手を置き、至近距離で見つめてくる。

 鼻先を微かに吐息がくすぐり、こそばゆい気持ちになるけど、やはり高鳴る鼓動には勝たない。

 黒い瞳の奥にある何かを見つけたくなり、しばらくの間そうしていたら、先生は僕の手をつまむようにそっと掴んだ。

 

「え、えっと……」

「……さあ、上がって。早速始めましょう」

「……え?な、何をですか?」

「私はメイドをやるのは初めてだから、君を相手に練習しようと思って。もしかして、予定があった?」

「それは大丈夫ですけど……それより僕もご主人様はやったことないんですけど……」

「じゃあ、お互いに初めて同士だからバランスがいいわ」

「はあ……」

 

 そういうものかな……?よくわからないけど……。

 考えていると、先生は俯き、何やらブツブツと呟き始めた。

 

「……初めての……共同、作業……うん、いい」

「あの……先生?」

「……何でもないわ。さあ、始めましょう。文化祭を少しでもいいものにするために、できる限りのことをしましょう」

「で、でも文化祭の準備は明日からじゃ……」

「…………」

 

 僕の言葉を聞いた先生は、胸の前で両手を合わせ、ぎゅっと目を閉じ俯いた。

 

「……ご主人様……お願い」

「…………はい」

 

 メイドとは違う気がする。でも当たり前のように頷いてしまう。

 いや、だって……断れるわけがない。



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姉さん

 

「それで……まずは背中を流せばいいのかしら」

「多分、違うと思います。しかも、ここ風呂場じゃないですし……」

 

 何故、出発点がそこなのだろう。一体先生はどんな物を参考に……。

 そこで、部屋の隅っこに積まれている小説が何冊か目に入った。

 

『クールなメイドの淫らなご奉仕』

『貴女のためなら……どんないやらしい命令も~メイド発情期~』

 

 ……ぜ、絶対にアレはヤバいやつだ!!!

 先生にしては珍しい選択ミス。いや、前もこんなことがあったような……先生って、もしかして……意外と天然?

 

「天然じゃないわ」

「今、心読みました!?」

「生徒の心くらい読めて当然よ。君が授業中に新井先生を見て何を考えたかもお見通しだから、気をつけなさい」

「…………」

 

 な、何でだろう……やましい事なんて何一つありはしないのに、何でか罪悪感がふつふつと沸き上がってきた。

 た、確かに新井先生の胸は大きいけど……そう、それは先生みたいに脱いだらすごいとかではなく、脱がなくてもすごいというか……いや、それより……

 

「生徒全員って本当ですか!?」

「さあ、どうかしらね……」

「え?」

 

 先生は思わせぶりな言い方をして、珍しくジトーっと細めた目を向けてきた。何だか尋問が始まる前触れのような気配がした。

 

「……それにしても、君は授業中に新井先生の胸を気にする余裕はあるのかしら?成績が上がったからといって油断は禁物よ。それに、年頃の男の子だから仕方ないかもしれないけど、見境なしなのは関心しないわ」

「み、見境なしとかじゃ……」

「そういう挙動は君の周りからの信頼度を下げることにも繋がるわ。だから……」

「だから?」

 

 先生は立ち上がり、何故かキョロキョロと辺りを見回した。クールな雰囲気に、可愛らしいメイド服に、子犬のような落ち着きのなさという色んな要素をごちゃ混ぜにした先生は、何だか見ていて和むものがある。

 やがて、一人でうんうんと頷いて、再び僕の隣にゆっくり腰を下ろした。

 小さめのソファーは二人で座ると少しきつかった。

 柔らかな感触を右側に感じながら、あちこちに目を泳がせていると、先生が耳に直接言葉を注いてきた。 

 

「……君は……ご、ご主人様は……私だけ見ていればいいんじゃ、ないかしら」

「…………」

 

 先生らしくない歯切れの悪さ。でも、それより……

 こ、これはどういう事だろう?

 えっと……僕は見境なく女の人を見ていて……いや、自分では違うと思っているけど。それで、それはまずい事で……と、とにかく、先生だけを見ていろと……それって……まるで……いや、そんなはずは……。

 だって……先生だぞ?

 あの……校内の男子から一番人気で、ファンクラブもあって、女子からも信頼されていて……それどころか、こんな綺麗な人が僕の事なんか……いや、そう考える事すらおこがまし「はむっ」……っ!

 突然の感触に思考が中断される。

 い、今、耳、か、噛まれっ……!

 いや、噛むといっても甘噛みで、全然痛くはないんだけど……!でも問題はそこじゃなくて!

 耳に先生の歯の硬い感触が突き立てられ、肉食獣に取り押さえられた草食動物のように、微動だにできなくなる。

 や、やばい、何だ、この感じ……!

 頬に唇を当てられた時とは違う。

 何だか剥き出しの刃を首筋にそっと当てられているような感覚。

 そして、ほんの一瞬だけ湿った感触がつぅっと耳を這った。

 その生温かい感触が先生の舌だと理解した頃には、先生の顔が離れていた。

 

「せ、先生……」

「…………」

 

 先生は何事もなかったように、真正面を向いて座っている。こんな場面でも、いつも通りに振る舞えるのが先生なんだろう。こっちは心臓がバクバク鳴っているのに……。

 僕は何かを誤魔化すように、こっそりと自分の後頭部を叩き、ひとまず先生に疑問をぶつけた。

 

「先生……これってメイド関係なくなってるんじゃ……」

「……そうなの?あれはとても参考になると遠藤先生から教わったのだけれど」

 

 遠藤先生……確か図書室の……あの人、こっち方面の知識を持っていたのか。

 

「騙されてます。あれは……と、とにかく違います!」

「そう……遠藤先生、やってくれたわね……じゃあ、今夜の内に勉強し直しておくわ」

「は、はい……頑張ってください」

 

 先生とのメイドに関する勉強(?)は、今日のところはこれでお開きとなった。 

 

 *******

 

「……ごめんなさい。メイドらしい事が何一つできなくて」

「いえ、大丈夫なんで……とりあえずあの本は参考にしないほうがいいかと……」

 

 結局、文化祭の下準備は置いといて、先生のメイド姿を堪能するだけの幸せな時間てしかなったけれど、これでいいんだろうか…………うん。できれば明日も……。

 

「じゃあ、また明日ね」

「あ、ありがとうございます!」

「……?どうかしたの?」

「あっ、い、いえ、何でも……」

「あら……お客さん、来てるわよ。女の人……」

 

 先生の言葉に、我が家の玄関に目を向けると、そこには一人の女の人が立っていた。

 セミロングのふわふわした金髪に、黒いスーツ姿……あ、あれはもしかして……!

 家の前に立っている人物の正体に思い至ると、ちょうど彼女が振り返った。 

 そして、ばっちりと目が合う。

 

「あっ、いた!!」

 

 ぱあっと花が開くような笑顔になった彼女は、全力疾走でこちらに駆け寄り……思いきり抱きついてきた。 

 

「裕くん、ただいま~♪♪♪」

「うわっ、ね、姉さん!?」

 

 思いきり胸に顔面を埋められ、息がしづらくなる。

 耳元では「久しぶり~♪」という明るいトーンの声と、「あの……あの……」という暗いトーンの声が響き、こんがらがっている。

 柔らかな感触を何とか押し返し、顔を上げると、そこには……

 

「裕くん、お姉ちゃんだよ!お姉ちゃん!元気だった?」

「……姉さん、おかえり」

 

 そう。そこには姉の蛍がいた。

 

「ふむふむ……姉さん、ね……なるほど……いえ、それでも油断はできないわね」



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担任VS姉

 

 とりあえず浅野家の居間で話をすることにした。

 姉さんは鮮やかな金髪をかき分け、「暑い、暑い~」と言いながら、胸元をパタパタはだけさせる。相変わらず人目を気にしないというか何というか……こうして会うのは半年ぶりになるけど相変わらずだなぁ。

 姉さんは現在大学2年で、県外の大学に通っている。わざわざ県外の大学に通う理由は「何となく」だそうだ。大学に通ってからすぐに髪を金髪にした時の衝撃は今も忘れられない。ちなみにちょくちょく電話をかけてきて、自分と同じ大学を受けるよう説得してくるのが謎すぎる。さらに、何で今スーツを着用しているのかも謎だ。

 とまあ色々と疑問はあるけど、まずは……

 

「あの、姉さん……何でいきなり?連絡もなしに……」

「あら、弟を補充しに帰ってくるのに理由なんてあるのかしら?」

 

 ぱっちり大きな目を至近距離で向けられ、ぐっと言葉に詰まる。

 ……無駄に整った目鼻立ち……本当に同じ母親から出てきたんだよね?素直にそう思えるのが悲しい。

 いや、今はそんなことより……

 

「そ、そんなこと言われても……ほら、年齢的にあまりそういうのは遠慮したいと言いますか……」

「裕くんは私の弟だよ?」

「…………」

 

 いや、わかってたけどね?この人の説得が無理な事くらい。

 まあ、何と言いますか……いや、言わなくても既に気づいていると思いますが、僕の姉・蛍は僕が言うのもなんだけど、割と重度のブラコンです。今も……ああ、無言のまま腕にしがみついてきた……いや、別に嫌じゃないんだけど、やっぱり思春期特有の気恥ずかしさがあって……

 そこで先生が手を挙げた。

 

「あの……ちょっといいですか?」

「何でしょうか?」

「家族間のスキンシップは非常に大事かと思いますが、彼も年頃の男の子。あまり過度なスキンシップは教育上よろしくないかと」

「…………」

 

 今、空から「あなたがそれを言うのか!?」って聞こえた気がした。

 そんな先生の言葉を聞いて、姉さんはフッと得意気に笑った。

 

「ごめんなさいね。これはウチの家訓なの。『スキンシップは惜しむな』という素晴らしい家訓の、ね」

「……え?」

「……裕一君」

 

 先生がこっちを向き、問いかけるような目を向けてきた。

 僕は慌てて首を振り、否定する。そんな家訓。17年近くこの家で生きてきて、初めて聞きました。確かに良いことのように思えるけど、姉さんのスキンシップは一々過激すぎるから困る。実の姉がいきなり一糸纏わずに風呂に入ってきても、皆引くと思うんだよ……。

 

「裕一君は「そんな家訓はない」と目で訴えていますが……」

「裕くん?」

「えっと……ほら、僕も年頃だし、やっぱりそういうのは恥ずかしいというか……ね?」

「はあ……裕くんが私のお風呂を覗いたあの日から、この身は裕くんに捧げようと決めてたのに……」

「……裕一君?」

「違います違います!姉さんが入浴中なのに気づかなかっただけですよ!」

「でも見たのは事実よね?」

「うっ……」

 

 姉弟でこういう過去を責めるのはアリなんでしょうか?姉さんのドヤ顔を見ながら、恨めしい気持ちになっていると、先生もすかさず切り返した。

 

「私も裕一君に裸を見られたことくらいあります」

「なっ!?」

「先生!?」

 

 いきなり何を言い出すんだこの人!!しかも心なしかドヤ顔をしている。何でなの?絶対にそんなタイミングじゃありませんよね?

 さらに、姉さんの目が滅茶苦茶怖い。殺意の波動に目覚めたみたいだ。

 

「へえ……裕くん?どうなのかなぁ?ん?」

「いや、違う!違うよ!あれは事故で!!」

「でも、見たのは事実でしょう?」

「うっ……」

 

 先生、本当にどうしたんですか!?確かに見てしまいましたけど!何故ここで張り合うような真似を……。

 じぃーっと見つめ合う……いや、睨み合う二人。え?何、この展開。すごく逃げ出したい。

 いつまでこの胃がキリキリするような緊張感に耐えねばならないのかと気を巡らせていると、姉さんがはっとした表情になった。

 

「そういえば裕くん。今さらだけど、この人は誰なの?」

「今さら!?あ……そうか。姉さんは知らないんだったね。この人は僕の担任の森原先生」

「っ!?も、申し遅れました……私、担任の森原唯と申します」

「ふ~ん、裕くん。一つ質問あるんだけど、いい?」

 

 今、先生の肩が跳ねた。さっきまでメイドになりきって、自分の本職を忘れていたのかな……。

 姉さんは眉をひそめながら、そんな先生に冷めた視線を向けた。

 

「何で担任の先生の裸を裕くんが見たことあるの?ていうか、そもそも何でメイド服なの?最後に……何で裕くんが先生の家から出てきたの?」

「「…………」」

 

 しばらくの間、浅野家に重たい沈黙が訪れた。



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好きです……からの

 

 姉さんがすっと目を細める。ただそれだけの事なのに、僕は身のすくむ思いがした。こ、これは……小学生の時、家に来てた姉さんの友達に間違えて『お姉ちゃん』っと言ってしまった時の顔だ。確かあの時、罰として一週間お風呂で背中を流す羽目になったっけ……。

 そのまま姉さんは先生の服装を訝しげな目で見ながら、やや低めの声を発した。

 

「もしかして裕くんは……担任の先生にメイド服を着せる趣味があるの?私には一回もお願いしたことないのに?ねえ、おかしくないかな?かな?」

「いや、これは文化祭の練習を……それとその語尾は止めた方が……」

「……そうです。これは、教育の一環です」

「教育、ですか……メイド服で?」

「はい」

「…………」

 

 どうしてこの人は自信満々に肯定できるんだろう……。

 姉さんはさらに目を細め、先生との距離を詰めた。

 

「……何の教育をするのかな?しかも何で先生の家で?学校でよくない?ねえ、裕くん、裕くん……」

「えっと……その……」

 

 怖い怖い怖い怖い!!このお姉さん、弟に対してヤンデレみたいなオーラだしてるよ!!

 心臓に刃物を突きつけられたような気分になりながら、僕は誤解を解くための言葉を探した。

 ……ていうか、誤解ではない気がするような……。

 

「裕くん?怒らないから、早く浮気の理由を聞かせてくれないかな?」

 

 その言葉は間違いなく嘘だろう。もう既に怒りのオーラがビシバシ伝わってくる。

 ……ていうか浮気て。

 

「ほらほら、今ここで言いにくいなら、お風呂で聞いてあげるよ?」

「いやいや、一緒に入る気なの!?」

 

 絶対に嫌だ!今年こそは拒否したい……。

 ちなみに去年はどうだったのかという質問はナシの方向でお願いします。

 隣にいる先生がやたらこっちを見ている気がするが、今は気にしないでおくしかない……あとで何か聞かれそうだけど。

 

「お姉さん」

 

 すると、先生が僕にではなく、姉さんに声をかけた。

 

「さすがに大学生のお姉さんが、高校生の裕一君と一緒にお風呂に入るのはどうかと思いますが……」

「いいんですぅ~。これが浅野家のハウスルールなんですぅ~」

 

 おかしい。

 ハウスルールなのに僕は全然知らない。

 ウチにはそんなルールがあったのかー、きっと母さんも知らないんだろうなー。

 

「姉さん、そんなしょうもない嘘ついても絶対入らないから」

「えぇぇっ!?」

 

 何故マ○オさん風?

 先生は額に手を当て、考え込む仕草を見せた。ごめんなさい……本当申し訳ないです。

 夏の暑さのせいか、別の何かのせいか……背中にじわりと嫌な汗をかくのを感じる。とりあえず場所を変えよう。

 

「あの……よかったら中で話しませんか?」

「「そうね」」

 

 二人の綺麗な声がピッタリと揃う。

 

「「…………」」

 

 そして、それが気まずかったのか、二人は目を合わせてから、すぐ逸らした。

 

 *******

 

「ど、どうぞ、お茶です」

「「ありがとう」」

 

 実はこの二人、仲がいいんじゃなかろうか。今はそれすら言いづらい空気だけど。

 二人はあっという間に麦茶を飲み干し、真っ直ぐに見つめ合った。

 

「先生」

「何でしょうか?お義姉さん」

「裕くんとは……ん?今なんか変な感じがしましたけど……」

「気のせいではありませんか」

「……ならいいですけど」

 

 ちなみに、僕も聞いてて変な感じがしたけど、そこに関しては深くつっこまない事にした。

 

「あの……単刀直入に聞きます。あなたは裕くんが好きなんですか?」

「ちょっ……姉さん!?」

 

 突然何言いだすのだろうか。

 よりによって一番……いや、それよりも先生どう答えるつもりなんだろう?「好きです」……え?

 い、今……何て言った?

 

「い、今……何て言いました?」

 

 姉さんが僕とは違い、はっきりと疑問を震えながら口にした。

 

「好きです」

「なっ……!!」

「…………」

 

 ……や、やばい。

 今度はしっかりと聞こえた。聞いてしまった。

 先生が……ぼ、僕の事、を……。

 本来なら「えぇっ!?」とか「はぁっ!?」とか、派手なリアクションするべきなんだろうけど、本当に驚いた時に人は案外何もできないらしい。

 どうしよう……何て言えば……。

 

「生徒として」

「「…………」」

 

 ですよねー。

 いやわかってましたけど。

 

「ちょっ……紛らわしい真似しないでくださいよ!あー、びっくりしたぁ」

 

 姉さんが本気で安心している。それくらい先生の表情から感情が読み取りづらいということだろう。

 しかし、もしさっきのが告白だったら、僕は……。

 そんなありえない事を考えながら先生の横顔を見ていると、姉さんが立ち上がった。

 

「このままじゃ埒が明かないから、私もメイド服に着替えてくるわね」

「わかった……ん?」

 

 今メイド服って……何で?

 

 *******

 

 言っちゃった、言っちゃった、言っちゃった!!

 好きって言っちゃった!!

 でも自分から取り消しちゃった……ああ、もう!つ、次は絶対に……。



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メイドVSメイド

「じゃ~ん!」

「…………」

「なんで無反応なの!?裕くん!!」

「いや、だって……」

 

 実の姉のメイド服姿とか、正直反応に困るんだけど……今母さんが帰ってきたらどうするんだろう。

 しかし、それがどうしたと言わんばかりに、姉さんは先生を指さした。

 

「じゃあ先生、勝負を始めましょう」

「勝負?」

 

 何だろう、今度はどんな方向に話が進もうとしているのか、さっぱりわからなくなってきた。何だ、勝負って……先生だって訳がわからないに決まって……

 

「わかりました。その勝負、受けて立ちましょう」

 

 受けて立っちゃった!何の勝負かもわからないのに!?何でこんなにノリノリなの、この人!?

 姉さんはその返事に満足したように、ニヤリと怪しげな笑みを見せる。

 

「ふふん、そうこなくちゃ!先生、私が勝ったら裕くんに変なマネさせませんからね!」

「そんなことしたこともかんがえたこともありません」

「清々しいくらいの棒読みで嘘つかないでください」

「…………」

 

 あれ?心なしか先生が押されているような……まだ勝負とやらも始まっていないけど。あと僕を置いて話を進めるのは止めてください。

 すると、先生がちらりと僕の方を見てきた。さっきの(生徒として)愛してます発言があったので、正直目が合うだけでも気恥ずかしい……。

 

「裕くん、顔赤いわよ?私にはそんな表情見せないくせに」

「うん。見せたらやばいよね。落ち着いて、姉さん」

「ええ。裕くんは正しい倫理観を持ち合わせていると思います」

「っ!」

「ちょっ……何さりげなく先生が裕くんって呼んでるんですか!」

「失礼。つい蛍さんにつられまして……」

 

 い、今かなりドキッとしたんですけど……もう1回言ってくれないかな。さすがにやばいか、色々と。

 

「これはさすがに我慢できませんね。お母さんにすら裕くん呼びはさせていないのに」

 

 元から呼んでいない。母さんのキャラからしてあり得ない。

 

「じゃあそろそろ勝負を始めましょうか」

「…………」

 

 姉さんと先生は立ち上がり、バチバチと火花を散らせる。無論、比喩だけど、不気味なくらいに熱量が伝わってくる。あれ、何なのこの空気?普段はほんわかしたノリのはずなんだけど……。

 もういっそ二人で食戟とかしてくれればいいのに……そうすれば、僕は審査員として美味しいものが食べられる。

 しかし、思うようにならないのが人生なわけで……

 

「さて、じゃあまずは……裕くんのお背中流し対決なんてどうですか?」

「望むところです」

「いやいやいや!なんか変な方向に話進んでない!?あ、あの、二人共、もう今日はこの辺で……」

「「……裕くん?」」

「はい……」

「さあ、裕くん?」

「じっとしてて」

 

 何だ、この圧力。とてもじゃないが逆らえそうにない。あと姉さんにつられているのか、先生のテンションがおかしい。

 黒髪と金髪がジリジリと距離を詰めてくる。四つの瞳に真っ直ぐに見据えられ、何故か影が縫いつけられたかのように動けずにいると、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。

 

「あっ、誰か来た!ちょっと出てくるね!」

 

 僕は突然の来訪者に感謝しながら、逃げるように玄関へと向かった。

 

 *******

 

 まさかこのタイミングで訪ねてくるとは……。

 訪ねてきたのは奥野さんだった。

 薄手のパーカーに膝丈のスカートという私服姿で、髪もポニーテールにしてあり、何だか新鮮な気分に浸れる。だが今はそれより……

 

「浅野君、どうかしたの?なんかそわそわしてる……」

「いや何でもないよ、奥野さん」

「そう?なんか、焦ってるように見えるけど」

「ああ、ほら、僕大体いつも焦ってるから」

「そ、そうだっけ?よくわからないけど大変だね……」

 

 何がなんでも居間にいるメイド二人を見せるわけにはいかない。今後の学校生活に関わる危険性がある。おまけに一人は担任の先生だし……こんなの見られたら、何言われるかわかったもんじゃない。

 

「それより、どうしたの?いきなり」

「はい、これ。この前借りた本。読み終わったから返しにきたの」

「ああ、ありがとう。あはは……ごめんね、わざわざ……」

「ううん。私が早めに返しておきたかっただけだし」

「そ、そっか……」

「それで、新しい本借りたいんだけど、その……上がって大丈夫?」

「えっ、あ、今、その……部屋散らかってて……」

 

 まずいまずい!こんな時に……!

 すると、居間からこちらに向かってくる足音がした……あっ、もうダメだ。 

 

「裕くん、お客さん?」

「…………」

「はっ!?メイド!?てか、先生何ですか、その格好!」

「メイドよ」

「知ってます!そういうことじゃなくて!」

 

 うん。こうなるの何となく知ってた。

 

 *******

 

 結局奥野さんも上がっていくことになり、現在居間に四人で顔を突き合わせている。

 姉さんはさっき先生に向けたような瞳を奥野さんに向けていた。

 しかし、奥野さんは気づかずに呆れた表情をこちらに向けた。

 

「まったくもう……何やってるんですか。二人して……浅野君、こちらのお姉さんは?」

「この人は……僕の姉さん」

「はい、お姉ちゃんです!」

「えっ、浅野君、お姉さんいたの?」

「そういえば言ってなかったっけ」

 

 姉さんはいつの間にか奥野さんの隣を陣取り、ずいっと肩が触れ合うくらい距離を詰めていた。

 

「奥野さん、と言ったわね。初めまして。裕くんの姉の蛍です。あなたは裕くんのクラスメイト?」

「あっ、はいっ、初めまして。奥野愛美です!」

「ふむふむ……裕くんに女子のお友達ができるなんて……油断していたわ。これはまとめてチェックしておかないと……」

 

 普通に自己紹介をしたかと思えば、姉さんがまた何やらぶつぶつ呟いている。やめて!なんか怖いから!

 とりあえず、もう日が沈みかけているので終わらせたほうがいいだろう。あとこのまま流されっぱなしなのもまずい……男として……。

 

「姉さん、とりあえず今日はもう解散ということで……ね?」 

「そうね。先生、対決はまた今度にしましょう」

「わかりました」

「た、対決って何!?」

「あはは……ま、まあ、色々と……」

 

 メイド対決は何とか回避した……のかな?危うく作品タイトルが変わるところだった……。

 しかし、僕はまだ気づいていなかった。

 もう既に二人の対決が始まっている事を。

 

 *******

 

「なるほど、蛍お姉さんは確かに厄介だね。私も何度も邪魔されたもん。一緒に寝ようとした時とか、一緒にお風呂に入ろうとした時とか」

「……どんな風に?」

「必ず間に入ってくるの。川の字の真ん中は蛍お姉さんになっちゃうの」

「そう……それは手強いわね」

「ところで……強力なライバルが現れたからって、小学生に電話で相談ってどうなの?お姉さん……」

「ごめんなさい」

「あと、私がライバルの一人だってことわかってる?」

「……ごめんなさい」

「ま、まあ、別にいいけど……確かに蛍お姉さんはお兄ちゃん攻略のための最大の障壁だし。まずはあの人に踏み越えてはいけない一線を教えてあげなくちゃ」

「若葉さんも色々と危険な気がするのだけど……」

「いやいや、お姉さんもだよね」

「…………」

「…………」

「もう遅い時間ね。若葉さん、早く寝なさい。おやすみ」

「う、うんっ!おやすみっ、お姉さん!」

 



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何だかんだ……

 

「おはよう」

「…………」

「まだ寝てるわね。当たり前か……まだ5時だし」

「…………」

「あれ?机の上に小説が……裕くん、いつの間にか読書好きになっていたのね……年上の女性との恋愛モノが多いし。感心感心♪ん?いや、ちょっと待って。なんか女教師ヒロイン多くない?くっ……やるわね。あの女……こっそり姉ものの恋愛小説も混ぜておかなきゃ」

「……姉、さん?」

「はっ……にゃ~、にゃ~」

「何だ、猫か…………って、ウチ猫飼ってないよ!?」

 

 一気に眠気が吹き飛ぶ。

 すると、メイド姿の姉さんが何事もなかったかのように、ベッドの上に転がり込んできた。どんな状況でしょうか?色々ごった煮にされすぎてイミワカンナイ。

 

「ふぅ、寒い寒い」

「いや、寒くないよ。まだ9月上旬だよ……どうしたの?あと少し眠りたいんだけど」

「まあまあ、いいじゃない。私と裕くんの仲でしょ?」

「どこにでもいる普通の姉弟だよね!?変な含み持たせないでよ!」

 

 つい起き上がってツッコミを入れてしまう。まだ外は薄暗く、姉さんの顔ははっきり見えなかったけど、悪戯っぽい笑みを浮かべているのは手に取るようにわかる。まあ、姉弟だから特に緊張することもないんだけど。

 

「まったく、つれないなぁ。昔は裕くんの方から私の布団に潜り込んできてたわよ」

「……え?そうだったっけ?」

「ええ。私がうっかり布団を隠した時とか」

「絶対にうっかりじゃないよね!?あれ姉さんの仕業だったの!?」

 

 朝から知らなくていい事実を知ってしまった。今思えば、確かにそんな日もあったような……。

 あの頃の純粋すぎる自分を思い出していると、玄関の鍵がガチャリと開く音がした。

 続いて誰かが中に上がる音も聞こえてくる。

 姉さんはそれに対して、不審そうに眉をひそめ、首を傾げた。

 

「ねえ、裕くん。何か物音が聞こえるんだけど……母さんかな?」

「……普通に鍵開けて入ってきたような」

 

 しかし、母さんは昨日から出張に行ったはずだ。じゃあ一体誰が?

 顔を見合わせた僕と姉さんは、急いで階段を降りた。

 ……まあ、大体予想はつくんだけど。

 

 *******

 

 台所にいたのは、心のどこかで予想していた人物だった。

 

「……先生」

「おはよう、浅野君。お姉さん」

 

 先生がメイド姿で朝食を作ってくれていた。

 大事なことなので、もう一度言います。

 先生がメイド姿で朝食を作ってくれていた。

 

「なっ……なっ……」

 

 僕と姉さんの様子に先生は可愛らしく小首を傾げている。

 その際、ポニーテールにしてある黒髪がはらりと揺れ、何だか艶かしい生き物みたいに見えた。いや、今はそれより……

 

「先生、何で……」

「見ての通り朝食を作っているのだけど……」

「あっ、そうなんですね。ありがとうございます。すいません、朝早くから」

「気にしなくていいわ。それより、寝癖がついてるわ」

「ちょっと待ったぁぁ!!」

 

 そこで姉さんが割って入った。

 

「何でここにいるんですかぁ!?ピッキングですか!不法侵入ですか!」

「出張の間、鍵を預かったの」

「な、何で!?」

「……根強い交渉の結果……いえ、大人の事情」

「…………」

 

 姉さんは先生の言葉に、ぽかんと放心状態になった。な、何なんだ根強い交渉って……気になる。でも聞いてはいけない気がするから今はいいや。

 

「先生、メイド服は……」

「学校に行く時は着替えるわ。浅野君には本当に申し訳ないけど……」

「いや、何で僕が先生に頼んでるみたいな流れに……」

 

 先生は無言で近寄ってきて、上目遣いで濡れた瞳を向けてきた。

 そして、しっとりとした薄紅色の唇がそっと動く。

 

「ご主人様」

「っ!」

「こういう感じでいいかしら」

 

 甘く囁くような声音に、体がピタリと止まり、微動だにできなくなる。な、何だ、この破壊力……凄まじい……こんなの反則すぎる。

 しかし、姉さんが割って入ってきた。

 

「いや、今のメイドがどうとか言うより、言い方がエロいだけじゃない!」

「エロではないわ」

「エロです!」

「ちっともエロではないわ」

「ただのエロです!」

 

 早朝から実の姉と担任教師がエロエロ言い合う姿はあまり見たくはない。どちらもメイド服を着ているから、さらにシュールな光景に見えるし……。

 

「ふ、二人共、その辺で……先生も学校に行かなくちゃいけないし」

「そうね、確かに。朝から騒がしくしてごめんなさい」

「いや、その……むしろ、わざわざ朝食作りに来てくれてありがとうございます!」

「むぅ……私が作ろうと思ってたのに……」

「お昼の弁当を作ればいいのではないですか?」

「なるほどっ、裕くん楽しみにしてて!愛情をひたすら詰め込んどくから」

「……普通の何の変哲もないおかずでいいよ」

 

 姉さんの判断のみに任せるととてつもない事になりそうなので、一応釘を刺しておこう。まあ、ありがたいんだけど。

 結局眠気はどこかへ吹き飛んでしまったので、いつもより少し早めの朝食を頂き、僕は早めに家を出た。

 

 *******

 

 早朝の教室は何だかいつもと違う空間に思えてくる。部活に入っていない僕は特別な行事の時くらいしか、その独特な静謐さに足を踏み入れないからかもしれない。これは一人でゆっくり考え事をするにはもってこいの……

 

「おう、浅野。おはよう」

「え?あ、おはよう」

 

 いきなり挨拶され、少し驚いてしまう。てっきり誰もいないと思ってた……。

 顔を向けると、僕の前の席の高橋君がいた。色黒で短髪の爽やかな、サッカー部所属スポーツマンで、クラスの中心にいることが多い皆の人気者だ。

 彼は気さくな笑みと共に話しかけてきた。

 

「珍しいな。こんな時間からいるなんて」

「そっちこそ。僕の名前、覚えててくれたなんて……」

「いや、二学期になってクラスメイトの名前覚えてない奴とかいないから」

「あはは……確かに」

 

 いや、この教室には結構いるよ?間違いなく。

 

「そういや昨日文化祭の出し物決めたけど、何だかんだ言ってメイド喫茶楽しみだよな」

「うん。確かに」

 

 朝一でメイドを見たのに、学校でもさっそくメイドに関する話とか、このままじゃ『やたらメイドがくっついてくるんだが……』にタイトル変更してしまいそうだ。

 そんな事情など勿論知らない高橋君は、話を続ける。

 

「クラスの女子だけじゃなく、森原先生のメイド姿まで見れるかもしれないし」

「え?」

「浅野は誰のが見たいの?」

「あっ、僕?えーと……」

 

 今、自分の胸の辺りに何かが……あれ?何だろう、このモヤモヤ……?

 しばらく高橋君との会話は続いたけれど、胸の奥に沸き上がったモヤモヤはそのまま残り、自分がどんな受け答えをしたかも覚えていなかった。

 

 



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手作り弁当、ハート増し増し

 

「それでは、前回の続きを……」

 

 当たり前だけど、先生はいつものスーツ姿に戻っていた。

 そして、いつものクールな立ち振舞いで、生徒の目を授業に釘付けにしている。

 僕はその様子をぼんやり眺めながら、さっき胸の中に湧き上がり、今も胸の中に蟠る感情について考えた。

 さっきのって、もしかして……僕は……高橋君の発言に対して、少しイラッときたのだろうか?

 図々しくも、先生のメイド姿を変な目で見られたくないなんて考えたのだろうか?でも、それって……

 しかし、すぐに自分の胸の奥の何かがチクリと胸を刺した。

 それは……

 

「浅野君」

「っ!」

 

 いきなり名前を呼ばれ、はっと我に返る。

 気がつけば、先生が机の傍まできていた。

 

「どうかしたの?次は君に教科書を読んでもらいたいのだけれど」

「あっ、はい!わかりました!」

「…………」

 

 先生は特に叱るでもなく、さりげなく僕の耳たぶに触れ、黒板の方へ歩いていった。何故、耳たぶ?

 残りの授業中、僕は耳に残るひんやりした感触を確かめながら、機械のように淡々と黒板の内容をノートに取っていた。

 

 *******

 

 い、いきなりどうしたのかしら……あんなに熱い眼差しを向けられたら、こっちが授業に集中できなくなるのだけれど……もしかして、メイド姿が効いたのかしら……いえ、駄目よ。森原唯。さすがにメイド服を着て授業するわけにはいかないわ。

 ……代わりに、あと少しぐらいくっつく回数を増やそうかしら?

 

 *******

 

「浅野、飯食おうぜ」

「…………」

「どした?」

 

 僕の気のせいだろうか?

 今、飯食おうぜって言われた気が……!

 

「ほ、ほほ、本当に?」

「ど、どうした?嫌なら無理にとは言わないけど……」

「いや、大丈夫大丈夫大丈夫。じゃあ、食べよっか」

 

 言われなれてないせいで危うく何がなんだかわからなくなるところだったよ……いや、初めてじゃないよ?ただ話し下手の盛り下げ上手だから、次第に距離が空くようになっただけで。

 まあ、今なら多少は会話スキルは上がってるはず。高校2年だし。何の根拠もないけど。

 僕と高橋君は机をくっつけ、そのまま弁当を開い……閉じる。

 

「どうかしたのか?何か人に見られたくないとんでもないものを見たかのような顔してるけど」

「え?そ、そうかな、僕はいつもこんな顔だけど……」

 

 高橋君の詳しい解説の通り、僕は人に見られたくないとんでもないものを見てしまった。

 いや、待て。気のせいかもしれないだろ?そうだよ、きっと気のせいだ。昨日深夜2時まで読書してたから、少し疲れていたんだよ。

 気持ちを落ち着けるため、深呼吸をして体を伸ばす。

 よし、もう一度…………おおおぅっ。

 やっぱり気のせいじゃなかった。

 何だ……やたらハートが入っているんだが……。

 やばい。これを人に見られるのは恥ずかしい……ていうか、姉さん。こんなのいつ準備したんですか?

 いつもなら何事もなく食べるけど、今日に限って高橋君が目の前にいる。さて、どうしたものか……

 

「浅野、どうしたんだよ。何か変なもんでも入ってるのか?」

 

 高橋君がすっと手を伸ばし、弁当の蓋を開ける。

 そして固まる。

 そこに現れたのは、ご飯に乗ってるハムやら、卵焼きみたいな物や、ウインナーみたいなもの、肉みたいな物、野菜みたいなが、ハート型になっている衝撃的な弁当だ。

 

「…………」

「…………」

 

 やばい。何だ、この沈黙は。こんなシチュエーション初めてすぎて、どう切り抜ければいいか……。

 言い訳を考えていると、高橋君はニヤリと意味ありげに笑った。

 

「へぇ~、浅野。お前、大人しそうに見えてやるじゃん」

「え?」

 

 高橋君のリアクションに何ともいえない表情になってしまう。どういう意味だろう?

 高橋君はこちらに顔を寄せ、ヒソヒソ声で話し始めた。

 

「お前、彼女に弁当作ってもらえるとか羨ましいな」

「…………ああ」

 

 僕は深く頷いてしまった。そうか。確かにハート型の物が入ってたら、僕らの年頃なら、彼女の手作りとか考えるだろう。まさか実の姉が作るとは思うまい。ただ、ハートが多すぎてキャッチできそうもないよ、姉さん……。

 高橋君はヒソヒソ声で話しを続けた。

 

「ちなみに、彼女ってこのクラスの誰かとか?」

「え……」

 

 そうか、うっかりしてた。まあ、そういう展開になるだろうな……でも、こういう時にどう誤魔化せばいいか……僕の対人スキルでは……。

 

「勿体ぶらずに教えてくれよ~。ここだけの秘密だから」

「えーと……」

 

 ここだけの秘密がここだけに留まる確率は果てしなく低い。

 そして、何も言わないというのも気が引ける。

 とりあえず……ここは……

 

 家族に作ってもらったんだよ……駄目だ。思春期男子特有の気恥ずかしさに耐えられそうもない。

 

 先生に作ってもらったんだ……論外。何でこの選択肢出てきたの!?

 

 うん。彼女に作ってもらったんだ……後々面倒そうだ。

 

 じゃあ、選択肢は一つしかないじゃないか。

 僕は覚悟を決めた。

 

「実はこれ、自分で作ったんだよ」

「え?」

 

 高橋君は固まり、少し場の空気が冷えた気がした。さらに、教室内を賑やかに行き交う声も、どこか遠い。あ、あれ?

 しかし、高橋君はにっこりと爽やかな笑みを見せた。そりゃあもう、マイナスイオン出まくりの。男の僕でも見とれるような。

 

「さっ、早く食べようぜ。早く」

「う、うん……」

 

 その後、僕達は黙って弁当を食べ、食べ終えた高橋君は、すぐにグラウンドへ向かい、サッカーを始めていた。



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殺意の波動に目覚めそう!?

 

 蛍さん、やるわね。あんなハートだらけのお弁当を……。

 そうね。じゃあ、私は……

 

 *******

 

 放課後、西陽の射す校内のあちこちで文化祭の準備が行われている。小道具を制作する人、協力して重い荷物を運ぶ人。見回りをする先生。とにかく文化祭が終わるまで、こんな慌ただしい日々が続く。

 普段はすぐに帰宅する僕も、そんな輪の中に加わっていた。

 

「浅野君、ごめんね。クラスの作業もあるのに手伝ってもらっちゃって」

「ああ、全然。奥野さんにはいつもお世話になってるから、これくらいはしないと」

「そんな、照れるじゃんか♪もうっ!」

 

 背中をバシンッと叩かれる。

 思わずつんのめりそうになったけど、何とか持ちこたえた。ど、どうしてこんなにテンション高いんだろう……これも文化祭効果か。

 僕は今、文化祭実行委員になった奥野さんの手伝いをしている。僕自身は実行委員でも何でもないんだけど、奥野さんの友達から、こっちはいいから愛美を手伝って!と言われたのだ。

 …………あれ?もしかして、クラスの中でいらない子になってる!?

 

「ど、どうしたの、浅野君、いきなり?この世の終わりみたいな顔してるけど」

「奥野さん……僕、いらない子なのかな?」

「何か唐突に重い人生相談きた!?ど、どうしたの!?」

「いや、ごめん。ちょっと自分の存在について考えてただけだよ。気にしないで、大丈夫」

「大丈夫じゃない!なんか病んでる!どうしたの、一体!?」

「ふっふっふ~、悩んでますね~若人よ」

 

 背後から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 振り向くと、そこには新井先生がいた。ややドヤ顔気味なのが、何ともいえない。

 

「新井先生、どうしたんですか?ていうか、さっきまで校門の飾りつけしてたんじゃ……」

「あっ、奥野さん!こ、これはですね~休憩ですよ、休憩~」

「「…………」」

 

 限りなくウソくさいけど、あえてつっこまないでおこう。

 新井先生は気まずそうに笑いながら、僕と奥野さんの手を引いた。

 

「と、とにかく!君達も根詰めすぎちゃダメですよ~、というわけで、先生と休憩しましょ~」

「え?え?」

「あっ、ちょっと!もうっ、せっかく二人きりだったのに~!」

 

 *******

 

 僕と奥野さんは、新井先生に連れてこられたのは、なんと司書室だった。室内には、コーヒーの香りが充満し、隅っこの机には小説やら図鑑やらが雑に積まれている。

 荷物を床に下ろした奥野さんは、心配そうに呟いた。

 

「あの、ここ勝手に入っていいんですか?」

「ええ。もちろんですよ~。私はよくここでサボ……くつろいでますから~きっと竹内先生も許してくれます~」

「許すか、このバカ教師」

 

 いつの間にか戻ってきていた竹内先生に、頭をスパーン!とはたかれ、新井先生が「あうぅ……」と呻く。

 

「何ですか~せっかく悩める子羊達の相談に乗ろうと思ったのに~」

「ほう……アンタが他人の人生相談?じゃあ見ててやるからやってみなさいな」

「ええ、お任せください~。さっ、浅野君♪」

 

 新井先生が僕の頭に手を置く。あれ?今から人生相談が始まるのでは?

 

「あ、あの…先生?」

「何やってるんですか?」

「いや~浅野君って、実家で飼ってる柴犬に似ているから、つい甘やかしたくなるのよね~。思春期の悩みはお姉さんが癒してあげますよ♪」

 

 そう言いながら、新井先生はわしゃわしゃと僕の頭を撫でる。色々と恥ずかしい上に、先生の服の上からもわかる豊満な胸が、すぐ目の前に来て、視線の逸らしようがない。

 一番困るのは、本人がそれを何とも思っていない事だ。

 

「ふふふ~これは気持ちいい……何なら明日は手作り弁当でも作って餌付けしたひっ!!?」

 

 いきなり新井先生がビクッと跳ね上がる。

 

「ど、どうしたんですかっ!?」

「びっくりしたぁ……」

 

 僕と奥野さんが驚きに後ずさると、新井先生は両腕を胸の前で合わせ、小刻みに震えていた。

 

「い、今……ありとあらゆる負の感情に体中を突き刺されたような寒気が……!」

「「…………」」

 

 えっ、何それ。怖い。

 すると、司書の先生が。

 

「はいはい。下らん事やってないで作業に戻った戻った。ほら、アンタも仕事に戻りなさい。てか、あれのどこが人生相談だ、色仕掛けじゃないか」

「違いますよぉ……あれ?もう何ともない……」

 

 新井先生が何事もなかった(?)ようなので、僕達はほっとして、司書室をあとにした。

 

 *******

 

「もう出てきていいわよ」

「はい」

「ていうか、アンタ隠れる必要あったの?」

「いえ、自分でもよくわかりません」

「何それ。あと、あんなに恐いオーラ出さなくても。殺意の波動にでも目覚めたのかと思ったわ」

「殺意の波動って……あれはただの……」

「ただの?」

「……嫉妬、です。言わせないでください」

「嫉妬かぁ、可愛いね~。でも、人前で見せちゃダメよ。アンタ教師なんだから」

「ええ。公私混同はしません」

「……そ、そう。ならいいわ……手遅れな気はするけど。まあ、アンタなら大丈夫か」

「では戻ります」

「はいはい。せいぜいアプローチ頑張んなさい」

「……はい」



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誘惑

 放課後、僕は新井先生に頼まれ、資料の整理を手伝っていた。

 資料室といえば、初めて森原先生から手伝いを頼まれた時の事を思い出し、とても懐かしい気分になる。まだ一年も経ってないんだけど。

 

「浅野くぅん、どうかしたのかな?」

 

 思い出に浸っていると、新井先生が顔を覗き込んできた。

 すると、ふわりとウェーブのかかった茶色い髪が揺れ、同級生のものとは違う大人な香りが鼻腔をくすぐってくる。

 

「す、すいません、ぼーっとしてました」

「ふふっ、浅野君はいつもぼーっとしてるね」

「……そう、ですか」

「そうですよ~」

 

 間近で可愛らしい笑顔を向けられると、胸がどくんどくんと高鳴っていくのが、はっきりとわかる。くっ、普段森原先生と話してるから、少しくらいは年上の女の人に慣れたと思ったのに……!

 

「浅野君は彼女とかいるの~?」

「い、いません……」

「じゃあ、好きな人はいるの~?」

「え、その……」

 

 まさか副担の先生に好きな人を聞かれるとか思わなかったので、正直テンパっている。いや、クラスメイトからも聞かれた事ないんだけど。

 それに……好きな人って言われても……。

 何も言えずに、ただキョロキョロと視線をさまよわせていると、新井先生は無言でさらに距離を詰め、僕の肩にそっと手を置いた。

 

「じゃあ……年上と年下、どっちが好き?」

「それは……年上、ですかね」

 

 特に意識するでもなく、そう答えていた。まあ実際そうなのだから仕方がない。先生から借りた本の影響かもしれない。

 

「そっかぁ、年上が好きかぁ~」

 

 新井先生は、にこにこと機嫌よさそうな笑顔を見せた。

 そこで、自分の発言の内容を思い出してしまう。

 正直、そういう意味にとられてもおかしくはない。とはいえ先生は大人だから、そういう意味だったとしても、笑ってスルーされそう。

 

「ふむふむ、じゃあ童顔のお姉さんはどうかなぁ~」

 

 新井先生がさらに距離を詰めてきた。

 もはや胸と胸がぶつかって、柔らかな感触が潰れるのを感じるくらいだ。

 漂ってくる大人な甘い香りも、濃密な霧のようにこの部屋を包み込んでいる。

 

「あの、新井先生?」

「ん~?どうかした?」

「いえ、その、む、胸が当たっているような……」

 

 まさか気づいていないはずはないだろう。ていう事は……新井先生はわざと?

 

「今いやらしい事考えた~?」

「はい……って、いや考えてませんよ!?」

「ふふふふふ、今本音が漏れてたでしょ~。浅野君も男の子だなぁ」

 

 新井先生の蠱惑的な笑みについ見とれそうになると、僕の頭の中には何故か森原先生の顔が浮かんでいた。

 あれ?何だろう、この感じは……?

 すると、同じくらいのタイミングで、新井先生が頭を撫でてきた。

 

「よしよし、よ~しよし♪」

「えっと……あの、さっきもやってましたけど、人の頭撫でるのが好きなんですか?」

「さっきも言ったけど、浅野君が昔飼ってた犬に似てるからつい~♪」

「…………」

 

 ならば仕方ない、のだろうか。いや、ちょっとやばい気がする……。

 こんなところを誰かに見られたら……新井先生もかなり人気あるし。

 

「あ~モフモフしたいなぁ~」

 

 残念だがモフモフする場所がない。そこまで毛深くないし。

 優しすぎるスキンシップに、やばいやばいと思いながらもされるがままになっていると、先生の唇が微かに動くのが見えた。

 

「来年は…………したいなぁ」

 

 細かい部分は聞こえなかったけど、その桃色の唇がやけに色っぽく見えた。蜜に群がる虫のような気分になった。

 

「じゃあ、片付けも終わったし、そろそろ行こっか」

「はいっ」

 

 自分の視線が悟られたような気がして、慌てて返事をしてしまう。

 新井先生は、今日もふわふわして掴めない人だった。



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花の香り?

 校門から出ると、誰かが駆け寄ってくる音が聞こえてきた。

 振り返ると奥野さんだった。赤みがかった髪が夕陽に照らされ、普段より鮮やかに揺れているのが眩しく感じる。

 

「浅野君、今帰り?」

「うん。ようやく資料整理が終わったんだよ。奥野さんも何か用事があったの?」

「えっ?わ、私はただ友達と話してたら時間が経っただけだよっ、うん!……ん?」

 

 何かを見つけたような表情になった奥野さんは、くんくんと僕の服の近くに鼻を近づけた。

 そんなに汗臭いだろうかと、慌てて飛び退いてしまう。

 

「ど、どうしたの?」

「……うーん、新しい女の匂いがする」

「えっ?」

 

 新しい女って……昔の女もいないんだけどなぁ。ていうか、どんな匂いなんだろう。

 そんな戸惑いまじりの視線に気づいた奥野さんは、ばっと距離をとり、愛想笑いを向けてきた。

 

「あはははは、何でもない何でもない!だから気にしなくていいよ!」

「そ、そうなんだ」

 

 気にしないのは難しいけれど、とりあえず自分の胸の中に仕舞っておくことにした。

 

 *******

 

「ただいまー」

「あっ、おかえり裕くん!」

「ね、姉さん……」

 

 昼休みのハート増し増し弁当を思い出し、つい口がひきつってしまう。味はよかったんだけどね?

 しかし、作ってもらった手前、文句も言いづらい。ここは褒めながら何とかすることが最善だと長年の経験が告げている。

 

「お弁当どうだった?」

「えっ?ああ、美味しかったよ。見た目も彩り鮮やかだったし。ただ、鮮やかすぎて眩しいから、次はもうちょっと控えめにしてほしいな」

「りょ~かい♪」

 

 姉さんはにこにこと満面の笑みで抱きついてくる。これで明日は大丈夫だろう、多分。

 すると何かに気づいたように、姉さんがくんくんと僕の匂いを嗅いだ、あれ、これデジャヴ?

 

「むむむ……別の女の匂いがするわね」

「えっ?」

 

 別の女と言われても、今付き合ってる女もいないんだけどなぁ……あとこれもデジャヴ。

 一体今僕はどんな匂いを撒き散らしているというのか……かなり気になるんだけど。

 

「ねえ、裕くん?もしかして、私以外の女の人とハグしちゃったとか?あの先生とか?」

「ち、違うって!あっ、そうだ!ちょっとコンビニ行ってくるよ!」

 

 やばい気配を察知したので、慌てて回れ右をして家を飛び出した。

 

 *******

 

「あら……」

「あ……」

 

 今度は森原先生と遭遇した。まあ、帰りのホームルームからそこまで時間は経っていないけど。

 先生はふわりと風に靡く髪をかきわけ、じーっと視線を向けてくる。

 

「今からお買い物?」

「あ、はい。今からコンビニにアイスを……」

「そう……そういえば、私も買い物を思い出したわ」

 

 ポツリと呟くと、先生はさっと僕の隣に並んだ。

 そのあまりに自然な動作に見とれながら、僕は先生と並んで歩くことが当たり前のようになっていることが嬉しく思えた。

 

 *******

 

 コンビニに入ると、心地よいエアコンの風と軽快なBGM、店員さんの挨拶に出迎えられ、先生はスタスタと雑誌コーナーの前まで歩いていった。ファッション誌でも買いたかったのかな?

 すると、先生はレンズの向こう側の瞳を細め、そっと話しかけてきた。

 

「浅野君。いかがわしい本のコーナーに女教師モノが置いてあるわ」

「……は、はあ」

 

 コンビニに入ってからの第一声がそれってどうなんだろう。そして、その発言にはどんな意図があるのだろう。

 

「……まだ君には早いから絶対に見ないように」

「はい……」

 

 見るなと言われると見たくなる深層心理をついた誘導のように思えなくもないけれど、ここは我慢したほうがいいだろう。先生から軽蔑されたくはないし。

 

「眼鏡をかけた黒髪の女教師が表紙になってるから、絶対に見ないように」

「…………」

 

 このタイミングで何でそんな事を……!

 むしろこれは、見なさいという事なんじゃないかと思っていると、先生は何かに気づいたように、僕の肩に手を置き、ずいっと顔を近づけてきた。ま、まさか……

 

「これは……新井先生ね」

「っ!?」

 

 何故か体がビクッと反応する。それと、心なしか悪寒が……この店エアコン効きすぎじゃないかなぁ?

 先生はそんな僕の様子を観察するように見ながら、何故か体を寄せてきた。そして、ファッション誌を手に取り、パラパラとめくりだす。

 しかも、たまに背伸びなんかしたりして、自分の体をこすりつけているみたいだ。

 服が擦れあう音が微かに響くのを聞きながら、僕は取り繕うようにマンガ雑誌を手に取った。

 しかし、先生の温もりや甘い香水の香りのほうが気になり、内容はちっとも頭に入ってこない。

 10分くらいそうしてから、やっと先生の体が離れた。

 

「これでよし」

「ち、ちなみに今のは……」

「気になった雑誌を見ていただけよ」

「…………」

 

 こちらを見ずに答えるのを聞いてから、僕と先生はそれぞれ会計を済ませ、また並んで家路についた。

 いつの間にか外はすっかり暗くなっていた。

 そして、左肩からは確かに花のような甘い香りがした。

 



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眼差し

 

 コンビニを出ると、外はすっかり暗くなっていた。

 茜色の空に微かに星がちらつきだし、あと一時間もしないうちに、すっかり夜の帳が下りてきそうだった。

 頬を撫でる風のひんやりした感触に心地よく目を細めると、先生がこちらに目を向けていた。

 

「…………」

「あの、どうかしましたか?」

「何でもないわ。次の課題図書を考えていただけ」

「……え~と、まだ夏の課題図書が残ってるんですけど」

「ただ単純に年上推しじゃいけないわね。最近新井先生が不穏な動きを見せているし。もう少し眼鏡を推してみようかしら」

「…………」

 

 眼鏡を推すって何だ!?

 先生の課題図書を選ぶ基準に一抹の不安を感じたものの、それでも面白い小説を心のどこかで期待してしまう。

 

「そういえば、また少し成績上がってきたわね」

「あ、はい。現代文を中心に……」

「将来については考えてるの?」

「実はまだ……漠然と大学目指すくらいしか」

「そう……君は何か将来やりたいことはある?」

「やりたいこと……ですか」

 

 あまり考えたことがないかもしれない。

 周りと比べて遅いのかどうかはわからないが、はっきりと将来就きたい仕事などのイメージが湧かない。母さんからも「好きにしろ」と言われている。

 ……僕が本当にやりたいことって何なんだろう?

 

「誰か好きな人はいるの?」

「好きな人ですか。好きな人…………えっ?」

 

 あまりに自然な流れで聞いてくるものだから、普通に考えてしまってた。ていうか、聞き間違いじゃない、よね?

 先生の瞳は、心なしかさっきより真剣そうに見えた。きっと気のせいだろうけど。

 

「あ、あの、な、何故好きな人を……」

「……大事なことだからよ。他意はないわ」

「はあ……」

「他意はないわ」

「わ、わかりました」

 

 先生がそこまで言うなら、間違いなく大事なことなんだろう。

 しかし、好きな人か……。

 灰色の高校生活を受け入れていた僕は、あまりそういう事は考えないようにしていた。

 期待しなければ、ショックを受けることはないから。

 しかし、最近は毎日楽しい、というか充実感がある。何がそんな気持ちにさせるのかは言うまでもなかった。

 そして、それを与えてくれたのは……。

 先生をちらりと盗み見ると、相変わらずの無表情で、何を考えているのかわからなかった。

 間違いないのは、夜の闇に溶けてしまいそうな儚げな表情が、思わず見とれてしまうくらい綺麗なことだった……。

 

 *******

 

 み、見てる!

 熱い眼差しで私を見てるわ!

 どうしよう、どうしよう、告白されちゃったら……!

 いえ、でもまだあと1年以上は教師と生徒、まだ色々と問題があるわ……。

 でも、その後は……あ、危ない。頬が緩むところだったわ。 

 

 *******

 

「先生?」

「にゃに?」

 

 時間が止まったかのような感覚。今、何?って言おうとして噛んだんだよね?そうだよね?

 確かめようと目を向けると、先生は先程と変わらない無表情のままだった。あれ?僕の気のせいだったかな?

 

「先生、今……」

「夕陽が綺麗ね」

 

 空に目を向けると、夕陽は既に沈んでいて、あまり見えなかった。どうやら先生は空の向こうを見通すくらいに視力がいいらしい。

 じーっと見ていると、その唇が小さく動いた気がした。

 

「つい、噛んでしまったわ」

「なんか珍しいですね。先生のそういうと見たことなかったんで」

「そうかしら?私だってミスくらいはあるわ。あまりばれないだけで。それより、好きな人はいるのかしら?」

「…………」

 

 忘れてくれたと思ったのに。

 とはいえ、普段から散々お世話になっているのに、何も言わないのも申し訳ない。

 僕は今考えていることをそのまま話し始めた。

 

「あの、今僕はそういうのが、あまりわからないんです……」

「……わからない?」

「はい。実は中学時代に女の子にフラれてから、あまりそういうことを考えないようにしてたと言いますか……逃げていまして」

「……そうだったのね。だから……」

 

 先生は口元に指を当て、何事か呟いていた。だから、とか聞こえたけど何だろう?

 それと同時に、そういえば先生が薦めてくれた小説の内容を思い出していた。

 恋愛がよくわからないという主人公に対して、近所に住むお姉さんが、「だったら教えてあげる……」と迫っていた。べ、別に期待してるわけじゃありませんよ?

 すると、先生がいきなり立ち止まった。

 

「浅野君」

「は、はい」

 

 こちらに体ごと真っ直ぐに向き直った先生の表情は、さっきと同じ無表情でも、さっきとどこか違った。その眼差しには、優しさのようなものが滲み出ていた。

 

「だったら……」

「…………」

 

 さっきのイメージを拙く辿るような口調に、どくんと胸が高鳴る。

 レンズの向こうの瞳は、夜の海のような深さでこの時間を包み込んでいた。

 そして、不思議なくらい周りは静かで……

 

「あら~?浅野君と森原先生じゃないですか~」

「え?」

「…………」

 

 すべてをリセットするような、ふにゃっとした声。その声に対し、僕は驚きが声に出て、先生はやたら警戒を含んだ視線を向けている。

 そこにいたのは、さっき別れたばかりの新井先生だった。



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お姉さんズ

「「…………」」

 

 僕と森原先生は、つい顔を見合わせてしまった。まさかここで新井先生に会うとは思ってなかったのも理由の一つだけど、それ以上に二人で並んで歩いている時に、初めて顔見知りの誰かと出くわしたというのが大きかった。

 別にやましい気持ちとかじゃない。

 むしろ先生と外出して、これまで誰とも出くわさなかったほうが不思議なのだ。奥野さんみたいなパターンは、まあ置いといて……。

 

「あの~、おふたりさん?」

「今お帰りですか、新井先生。たしか家は反対側では?」

「ちょっと用事があってこっちまで来てたんですよ~。それより、二人こそ帰り道一緒だったんですか~?」

「ええ。偶然だけど。本当に。こんな偶然あるのかしらね」

「あははっ、偶然ですね~♪」

 

 新井先生がふわふわした髪を風に揺らしながら、先生と会話を始めていた。いけないいけない。ついぼーっ考え込むところだった。心なしか先生が早口に聞こえたし。

 

「ふっふっふ、また浅野くんに会えるとは……これはまさか運命では?」

「あははは……って、運命!?」

「そんなに慌てなくても~、まったく可愛いなぁ♪」

「…………」

 

 先生が僕の方をじーっと見ている。穴が空きそうな、という表現がしっくりくるくらいに。な、何だろう?先生の背後からどす黒いオーラが見えてる気がする……。

 そのオーラにまったく気づきもしない新井先生は、いつかのように僕の頭をわしゃわしゃと撫でてきた。

 

「よーしよし、よーしよし♪うん、帰宅途中でこれができるなんて、今日はついてるなぁ~」

「あの、新井先生?」

 

 甘い香水の匂いに鼻腔をくすぐられながら、されるがままになっていると、森原先生が新井先生の肩をつついた。

 

「新井先生。浅野君が困っているわ。そんなうらやま……そんな過度なスキンシップは教育上よろしくないと思うのだけど」

「…………」

 

 これはどうツッコめばいいのか悩むけど、今は新井先生もいるから黙っておくべきなんだろう……もしかしたら、先生特有のわかりづらいユーモアなのかもしれないし。

 

「今はいいじゃないですか~。それに、浅野君も嬉しそうですよ?」

「浅野君、そうなの?」

「え?えぇ?」

 

 森原先生が無表情のまま距離を詰めてきて、自然と目が泳いでしまう。何なの、この状況?

 

「迷惑なの?浅野君……」

 

 新井先生が、捨てられた子犬のような切ない眼差しを向けてくる。

 

「喜んでるの?浅野君」

 

 森原先生が、クールなんだけど、どこか艶やかな視線を向けてくる。

 あれ?これってもしかして……おいしい状況なのでは?

 漫画やアニメであるような、なんかモテてるっぽいシチュエーションに胸が高鳴るけど、いざ自分の身に降りかかると、経験値のなさからテンパってしまう。

 い、いや、僕だってこの数ヶ月間様々な参考資料に触れてきたんだ!このぐらい……

 

「せ、先生……」

「「何、浅野君?」」

 

 二人の声が気持ちいいくらいにハモる。そ、そうでした……どちらも先生でした。ていうか、さっきより距離が段々近くなっていく……!

 控えめに香る爽やかな香りと、甘いふわふわした香りが混ざりあい、容赦なく鼻腔をくすぐるのを感じながらも、思考回路はパンク寸前だった。ぶっちゃけ、童貞どころか彼女すらできた事ない男子には、この状況はやばすぎる。何もできやしないけど。

 

「こら~、そこの二人!今すぐ裕くんから離れなさい!」

「ね、姉さん……」

 

 このタイミングで姉さんが助けに来てくれるなんて……!やっぱり持つべきものは頼りになる姉だよね!

 

「裕くん、助けに来たよ!はやくお家に帰って一緒にお風呂入ろ?あっ、ご飯が先か。それとも……わ、わ、私かな?」

 

 前・言・撤・回。

 やはり姉さんは姉さんだった。

 ていうか、そんな恥ずかしい発言を人通りのある場所でするあたり、ダントツで一番やばい。ああっ、視界の端っこで、駆け足で逃げるように立ち去る親子が見える……。

 

「姉さん……」

「裕くん。これはどういう事なのかな?どうしてお姉ちゃん以外の年上の女を二人も侍らしてるのかな?」

「蛍さん、さすがにその年で一緒に入浴はどうかと。彼はもう高校生ですので、教育上よくない影響が……」

「え~?浅野君のお姉さん?はじめまして~、副担任の新井です~」

「ふ、副担任?むむっ、これまた可愛い……と、とにかく!裕くんは連れて帰ります!」

「私は進行方向が一緒なので」

「せっかくだから、もう少しお話しましょうよ~♪うふふ」

「…………」

 

 どうしよう……独特な会話テンポの三人が合わさり、場がどうしようもないくらいまとまりをなくしている。やばい……いや、たまには男らしくビシッと決めよう。

 

「えーと、じゃあ僕は先に帰りますので……」

 

 そう言い終える前に三人が無表情でこっちを見たので、慌てて言葉を飲み込んだ。これ、選択肢間違えたやつだ……。

 

「じゃあ、み、皆で一緒に帰りますか」

 

 ひとまずこの場から動こうと提案すると、新井先生が何か閃いたようにポンっと手を叩いた。

 

「そうですね~、どうせなら今から浅野君の家に行きましょうよ~。お姉さんとお話するって口実で」

「…………はい?」

「…………」

 

 突然すぎる提案に、僕は呆然として、森原先生は無表情のまま首を傾げた。何故に夕方から先生二人の家庭訪問イベントが……。

 しかし、姉さんだけはどこかテンションが違った。さらさらの金髪が風に靡き、こめかみを汗が一筋伝った。

 そして、唇をやけに重たそうに開く。

 

「い、家に?……いいでしょう!受けてたちます!」

 

 …………何を?

 

 

 

 



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ドタバタマッサージ

 数時間前。

 

「アンタ、まだ言ってないの?」

「何を?」

「何って……アンタが愛しの弟君と血が繋がってないってこと」

「……うーん、やっぱりまだ……ね」

 

 私が大して離れてもいない大学に通っているのに一人暮らしをしている理由。

 ……このままじゃ抑えきれそうにないから。

 昔からとっても優しくて強い男の子だった。

 私が男子からからかわれていたら、すぐ助けにきてくれたし、病気で寝込んだ時はいつも看病してくれた。中学の時、女の子にフラれてからは自分に自信をなくしたのか、少し卑屈になったけど、それでも優しいところは変わらない。

 最初は姉弟のままでいようと思った。

 そもそも、そういう考えを持った事もなかった。

 私自身すごく小さかったし、裕くんが物心つく前から一緒にいたから。

 でも、ある日自分達の繋がりが違うものだと知った時。

 自分の胸のときめきに気づいた時。

 自分を押さえられる自信がなかった。

 お父さんとお母さんには、まだ私が気づいたことは言ってない。

 でも、今はそれより……

 

「何でこんな事になってるの~!?」

「わっ、びっくりしたぁ……どうしたの、姉さん?」

「どうかしましたか、お義姉さん?」

「な、何でもないです……ていうかしれっとお義姉さんって言わないでください、森原先生」

 

 まったく、油断も隙もないんだから……さりげなく裕くんとの距離を詰めてるのも気づいてるんだからね!

 

「わぁ♪ここが浅野君の家かぁ。何だか落ち着くなぁ~」

 

 こっちもこっちで油断ならない。ふわふわして、なんかそこはかとなく色気があって、おっとりしているから、わかりやすく年下男子からモテそう。いつ裕くんがコロッといってもおかしくないというか……。

 

「姉さ~ん、もしも~し」

「わっ、どしたの裕くん?」

「いや、姉さんがいきなりぼーっとしてるから……具合悪い?」

 

 裕くんが心配そうにこっちを見てる……まったく、誰のせいでこうなってると思ってるんだか……。

 私は裕くんの両頬を、ちょっと強めに引っ張った。

 

「ね、ねえふぁん?」

「ふふっ、裕くんが悪い」

「ふぁ、ふぁんふぇ?」

「「…………」」

 

 そんな私達の様子を、他の二人がじーっと見ている。こういうやりとりは『姉弟』の特権だから譲れない。

 ……ほんと、自分勝手だなぁ。

 自分自身に苦笑していると、視界の隅っこにあるものが映った。

 

「ん?」

「…………」

 

 あれ?森原先生の位置がさっきより裕くんに近い?ていうか……あっ!!

 

「ちょ、ちょっと、森原先生!?何しれっと裕くんの手を握ってるんですか!?」

「あら、ごめんなさい。裕くん」

「えっ?」

「さりげなく裕くん呼びするなぁ~!」

「ふぁぁ……あの~、枕お借りしていいでしょうか~」

「この集まりを提案した張本人が寝るなぁ~!!」

 

 *******

 

「はぁ……何だか疲れちゃった」

「だ、大丈夫?」

 

 姉さんは言葉どおりの疲れた表情をしていた。いきなり僕の頬を引っ張ったり、先生達に怒ったり、あれこれ忙しい人だな。そこがいいところではあるんだけど。

 ていうか、先生がいきなり手を握ってきたのは何でだろう……?

 ひんやりとした感触が、しっかりと左手と脳裏に刻み込まれている。普段とは違う何かがそこにはあった。

 

「どうかした?浅野君」

「いえ、何も……」

 

 しかし、いつものように問いかけてくる先生は、いつも通りだった。

 だが今はそれより……

 

「♪~~~」

 

 現在楽しそうにフンフンと鼻唄を口ずさんでいる新井先生だけど、さっきから自分の足で、僕の足をマッサージしている。

 これがまたくすぐったくもあり、気持ちいいという絶妙な力加減である。目的はさっぱりわからないけど……。

 僕の靴下と先生のストッキングを隔てて感じる足の感触は、柔らかいんだけど、ほどほどにハリがあり、やけに気持ちいい。

 前に森原先生にされた時は、相手を労るような優しさを感じたけど、こちらは相手を虜にするような、小悪魔的な感じが……。

 

「新井先生、さっきからコソコソと何をやっているのかしら」

「はうっ」

「「ひっ!?」」

 

 森原先生の冷たい声に、新井先生は跳ね上がり、僕と姉さんは震え上がる。

 うわあ……オーラみたいなのが見えてるような……。

 

「あわわ、ち、違いますよ~、森原先生~」

「そう……何が違うのかしら?」

「これはですね~、そう!教師と生徒のスキンシップですよ~」

「ほう……これが健全なスキンシップと?」

「もちろんです~。なんなら森原先生もやってみたらどうですか~?」

「…………」

 

 新井先生の言葉に、森原先生の動きがピタリと止まる。もしかして、新井先生の言葉に怒ろうとしているのだろうか?

 すると、森原先生は溜め息を吐き、僕の方にしなやかに足を伸ばした。

 

「……仕方ないわね。じゃあ、浅野君。足を出して」

「はい!?」

「ちょっ、なにしようとしてるんですか!」

「安心してください。次はお姉さんに譲りますから」

「……じゃ、じゃあいいです」

 

 なんか勝手に話が進んでる!?

 そして、何故か新井先生の言う通りに、先生は早くも僕の足を自分の足でマッサージし始めた。ていうか、新井先生の時より、だいぶ絡まっている気が……。

 ふくらはぎとふくらはぎだけではなく、太ももまで……。

 

「こら~!何嬉しそうな顔してるの、裕くん!?」

「い、いや、これは……」

「ふんっ、いいもんね!じゃあ、お姉ちゃんもあちこちマッサージしちゃうからね!!」

「あっ、姉さん!?ちょっ、何やって……!」

「じゃあ、私も~♪」

「新井先生まで!?ちょ、まっ……」

「きゃっ!」

「あっ!」

 

 すると、誰かが足を滑らせたのか、一気に三人分の体重と柔らかな感触が乗っかってきた。

 な、何か今……掌に柔らかな……!いや、掌だけじゃないけど!てか、視界が塞がって、さらに呼吸が……!

 

「ん……」

「っ!?」

 

 むせかえるような熱気の中、ふわりとした夢のような感触が頬を撫でる。

 頬とはいっても、唇にかなり近い場所。

 何故かこの感触だけはずっと鮮明に思い出せる気がした。

 

*******

 

「あれ?いないのかな?」

 

 私は、浅野君の家の玄関で立ち尽くしていた。何故ここにいるのかというと、特に理由はない。何か嫌な予感がしたから。そう、ただの女の勘だ。そして、こういう予感はよく当たる。

 しかし、呼び鈴を鳴らしても誰も出ない。まあ、いないなら仕方ないか。嫌な予感が外れただけだし。

 そのまま踵を返そうとしたその時……

 

「ちょっ、せんせ……ああっ!」

「っ!」

 

 今の声……浅野君!?しかも先生って言ったような……。 

 反射的に扉に手をかけると、鍵はかかっていなかった。

 私は、悪いと思いながらも、事実を確かめるべく、おそるおそる一歩一歩足を踏み入れる。多分、茶の間の方だよね……。

 うわあ、これってもうフラグ立ってるとしか……いやいや、決めつけちゃいけない。

 私は思いきって、襖を開け放った。

 ……すると、そこには凄まじい光景が広がっていた。

 森原先生が……そして、何故か新井先生が……さらに、見知らぬ金髪のお姉さんが……か、か、絡み合って……

 

「な、な、何やってんのよ~!!!!」

 

 そう叫ばずにはいられなかった。

 

 

 

 

 



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ハーレムはイヤっ!でもないけど

 ……どうしよう。

 混乱に乗じて、こっそりキスしちゃったけど……思ったより唇に近かったわ……。

 ああ、どうしよう……顔赤いかも。

 いえ、気を引き締めなきゃ。今日はまだいける気がする……!

 

 *******

 

 僕達は、突然入ってきた奥野さんに正座させられていた。まあ、確かに……怒られても仕方ないよな。ていうか、助かった……あのままだったら、やばかったかも。色々と……それに……

 頬の辺り……割と唇に近い場所を指で触れると、そこには何か痕があるような、不思議な感覚がした。

 僕の勘違いかもしれないけど、あの感触って……。

 すると、そんな夢心地といえなくもない思考を断ち切るように、奥野さんの盛大な溜め息が聞こえてきた。

 

「はあ、まったくもう……何やってるんですか。いい大人が揃いも揃って」

「「「ごめんなさい……」」」

「浅野君も、嫌なら嫌って言わなきゃダメだよ?」

「……は、はい、いや、でも別に嫌とかじゃ……」

「…………」

 

 僕の反応に、奥野さんがジト目を向けてきた。

 

「そりゃあ、浅野君は綺麗なお姉さん達に囲まれてご満悦だったかもしれないけどさ?」

「うっ、い、いや、そんなんじゃ……」

「まあまあ、奥野さん。今回は私達も悪かったわけですし~」

「ていうか、何で新井先生がここに……最近なんか怪しいと思ったら、やっぱり……」

「何の事ですか~?」

「と、とぼけても無駄ですからね!最近、妙に浅野君との絡みが多いというか……その……」

 

 そこで、姉さんが「はい、は~い」と手を上げる。

 

「裕くん、一応聞いておくけど……この子は裕くんの彼女じゃないよね?」

「えええっ!?か、彼女!?わ、私は、えっと……「違います」何でそこで先生が否定するんですかぁ!?」

「と、とりあえず、裕くんのクラスメイトね。わかったわ」

「あの、お姉さんは?」

「私?私は裕くんの姉の蛍です。あなたは?」

「お、お姉さん?あっ、すいません、勝手に上がり込んじゃって。私は……クラスメイトの奥野愛美です」

「へえ、クラスメイト?裕くんのクラスの女子がウチに来るなんて、どんなファンタジーかしら」

「姉さん。僕への罵倒になってるよ」

「お姉さん?むむっ……」

「クラスメイト、ねぇ……」

 

 簡単な自己紹介を済ませた二人は、何故か数秒間じっと見つめ合う。そこには、初対面らしい遠慮みたいなのを、あまり感じなかった。

 やがて二人は無言のまま頷き合う。

 

「なるほど……そういうことなんですね」

「ええ。そういうことなのよ」

「浅野君……こんなところにまでライバルを……ほんともう……バカ」

「そこが裕くんクオリティだからね。許してあげて。おバカなのは同意するけど」

「…………」

 

 えっ?この二人、何で通じ合ったの?そして、さりげなく僕が罵倒されたのは何故?確かにバカなところはあるけど……。

 

「よしよし、お姉さんは味方だからね~。浅野君♪」

「……私も味方」

「は、はあ……」

 

 新井先生に頭を撫でられていると、森原先生がいつもより控えめな声のトーンで割り込んでくる。心なしか、少し顔が赤いような……。

 そこで、玄関の扉が勢いよく開く音が聞こえてきた。この音は母さんだろう。

 予想通り、スーツ姿の母さんが気だるげな表情で居間に入ってきた。出張お疲れ様。

 

「ただいまーっと。あら、今日は来客が多いわね。てか、蛍じゃない。アンタ、一体どうしたの?」

「ふふっ、裕くんに会いに来たに決まってるじゃん!」

「そっか、相変わらずやばいくらいブラコンだな。はやく彼氏でも作れ」

「反応薄っ!せっかく可愛い長女が帰ってきてるのに!」

「いや、なんかこの不思議な光景見ればねぇ?そりゃあ、それどころじゃなくなるわ……あれ?私はまだ夢の中にいるのかしら?」

「母さん、どうかした」

「どうしたもこうしたも……ウチの息子がこんなハーレム形成してるとか……あれ本当に私の息子?」

 

 母さん……間違いなく息子ですよ……。

 

「ていうか、失礼だよ母さん!いきなりそんなこと言われたら先生達も……!」

「浅野君……ハーレムがいいの?」

「違いますよ!?」

 

 ハーレムはイヤっ!とまでは言わないけれど、自分には到底無理そうだ。まず、そこまでモテないだろうし。

 

「ここに若葉も加わるのか……まあ、一人くらい年下がいたほうがバランスが……」

「ハ、ハーレム……浅野君、そういうのがいいの?」

「いや、だから違うよ!?」

「そりゃあ、浅野君ですから~」

「新井先生!?いや、何ですか。僕がそういう願望を口に出してるみたいな反応!」

「……まあとりあえず、孫は期待してもよさそうだな」

「母さん、とりあえずやめようか。それ以上母さんが喋ると、よくないことが起きそうな気がする」

 

 気がするというか、実際起きてるんだけどね……。

 

「……お任せください」

 

 今、森原先生が何か呟いた気がするけど、目を向けても、いつも通りの無表情だった……き、気のせいかな。

 すると、そこで新井先生が「あれ~?」と可愛らしく小首を傾げた。

 

「そういえば、私達は何しに来たんですかね~?」

『…………』

 

 何故か冷たい隙間風が通り抜けた気がした。

 



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もう少し

 

 文化祭の準備の為、必要な道具を取りに行く役を買って出た僕は、資材室で一人、悪戦苦闘していた。

 やたら埃っぽいし、ごちゃごちゃしてて、どこに何があるかわからない……ここ、こんなに散らかってたっけ?

 あと勇気を出して、「僕が取ってくる」と言ったら、「ああ、頼むよ……浅田君」と言われたのが少し切なかったなぁ。

 いや、考えるのはよそう。早く戻らなきゃ。

 

「ええと、これだっけ?」

 

 がさごそとダンボールの中を漁っていたら、ようやくガムテープやらノコギリやらが見つかった。あとは……

 

「浅野君?」

「うわっ、び、びっくりしたぁ……」

 

 いきなり声をかけられ、慌てて振り向くと、そこにはいつものように静かに、クールに、森原先生が立っていた。

 ていうか物音しなかったような……いつもの事だけど。

 先生は、ふぁさっと髪をかきあげ、こちらに歩み寄ってきた。

 

「何をしているの?」

「ああ、はい。メイド喫茶の準備に使う道具を取りに来ました」

「そう……メモを見せてもらえるかしら」

「あ、はい、どうぞ」

 

 先生はメモを見ながら数回頷くと、室内をざっと見回した。この状態でどこに何があるのかを把握しているのだろうか?

 

「……たしか、これはこっちの棚にあるわ」

「あっ、大丈夫ですよ、先生!それくらい自分でやりますから……」

「気にしなくていいわ。そろそろ教室に戻る頃だったし。それより、はやく探したほうがいいわ」

「……あっ、そ、そうですね!」

 

 また先生を頼ることになってしまい、ほんの少し情けない気持ちになりながら、必要な

 

「これは、確か……」

 

 すると、先生の肘がダンボールに当たり、ぐらっとバランスが崩れる

 それを見た瞬間、考えるより先に体が動いていた。

 

「あっ!先生、危ない!」

「えっ?あ……」

 

 ガラガラと鈍い音を立てて崩れ落ちていくダンボールの山。

 背中に時折走る痛み。

 そして訪れる時間が止まったような静寂。

 目を開けると、森原先生の顔がすぐ目の前にあった。

 こんな状態でも平然としているその表情に、ひとまずホッとする。よかった……ケガはないみたいで。

 ほっと一息吐いたところで、状況を確認してみると、どうやら僕は先生に覆い被さっているようだ。

 ……ま、まさか、先生を押し倒すなんて。

 さらに、背中や足には色んな物が詰め込まれたダンボールが載っかっていて、うまく動かせない。

 しかし先生に体重をかけるわけにはいかないので、腕に力を入れ、何とか突っ張った。

 やせ我慢しながら、ひとまずこちらをじぃっと見ている先生に声をかけた。

 

「だ、大丈夫ですか、先生……」

「ええ。私は大丈夫だけど、君は?」

「大丈夫ですよ。でも……何故か動けません」

「……そう。まあしばらくしたら誰か来ると思うわ。それより、ありがとう。痛かったでしょ?」

「あ、いえ、大丈夫ですよ!最近少し鍛えてるんで」

 

 本当に最近の話なので、あまり成果がでているとは言いがたいけど……。

 

「…………」

「…………」

 

 沈黙が妙に気まずい。

 いや、当たり前か。こんな至近距離でがっつり目を合わせているのだから

 もう耐えきれそうもない僕は、思いつくままに話しかけてみた。

 

「あの、すいません。こんな事になっちゃって……」

「構わないわ。むしろたまにはこういうハプニングも……」

「はい?」

「何でもないわ。それよりも、腕は疲れてないかしら?」

「ま、まあ、何とか……」

 

 実際かなりやばい。

 意外と背中に乗っかったダンボールが重く、このままでは先生とさらに密着することになってしまう。

 もしそうなれば、色々やばいことになりそう……理性とか。

 先生の唇に目が行き、視線が固定されたように見つめていると、蕾が花開くようにそっと動いた。

 

「……浅野君。こちらに倒れてかまわないわ」

「えっ、でも……」

「いいの。あなたも腕が限界でしょう?さあ……」

 

 先生は僕の頬に手を触れ、自分の指示に従うよう促してくる。

 そのひんやりした手の感触が、急に頭の中から何かを引きずり出したような気がした。

 あれ?この感触……どこかで……何でだろう?

 

「浅野君?」

「は、はい……」

 

 ぼんやりした思考を断ち切り、僕はそっと先生に折り重なった。

 まず柔らかな胸の感触がぶつかり、それだけで鼓動が跳ね上がる。

 それから密着する箇所が徐々に増えていき、やがてぴったりと重なる。

 むわっとした空気の中で、甘い香りが包み込むように、心を埋め尽くしていく。資材置き場なのを忘れそうになるくらいだ。

 

「ん……」

「す、すいません……」

「ああ、大丈夫よ。気にしないで」

 

 甘い吐息が漏れ、温かい吐息が耳たぶを濡らす。ぞくぞくするような色気に、くらくらと脳内を支配されていくのが、手に取るようにわかる。

 先生の黒い瞳は、問いかけるような眼差しを向けてきた。

 

「浅野君、もしかして……」

「はい?」

 

 そこで、ガラリと扉が開く音がした。

 

「浅野君?だいぶ時間がかかってるみたいだけど、どうしたの?……って、何これ!?浅野君、大丈夫!?」

 

 奥野さんの声だ。知ってる人でよかった。

 

「お、奥野さん、今、ちょっと……」

「大丈夫、今助けるから!それと先生、間違いなくそこにいますよね!」

「気にしないでいいわ。ただのラッキースケ……事故だから。もう少し後でも……」

「今ラッキースケベって言いましたよね!ほとんど言ってましたよね!?」

「…………」

 

 ラッキースケベは僕にとってのような……あと、もう少しこのままだったら本当にやばい。思春期男子ならわかってくれるはず!

 なるべくその事を考えないようにする為、とりあえず声をかけた。

 

「先生、ようやく出られそうですよ」

「…………」

 

 先生は何故かそっぽを向いていた。

 あれ……多分だけど、拗ねてる?

 

 *******

 

 今、思い出してくれそうだった……。

 もう少し、なのかな?

 

 

 



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開店

 文化祭当日。

 いやー、準備大変だったなー。色々すっ飛ばしたけど。

 ……はい。とにかく無事にメイド喫茶を開店することができました。おまけに大好評です。

 ただ、一つだけ問題が……

 

「お、おい、見ろよ。あれ……」

「うわ、すっごい美人!」

「お前、声かけてこいよ」

「いや、無理に決まってんだろ」

「いや、お前ならいけるって!」

「いやいや、お前のほうがいけるって!ほら、鼻高いし!」

「そ、そうか?」

「それに、鼻の形いいし!」

「おう……」

「あと……すらっとした鼻だし」

「てめえ、鼻しか褒めてねえじゃねえか!ケンカ売ってんのかぁ!」

 

 ……とまあ、こんな感じでメイド姿の先生が周りの視線を独り占めしまくっている。さっきの二人組の会話は徐々に脇道に逸れてたけど……。

 そして、本人はそれをまったく気にしていない。まあ、それはいつも通りか。

 しかし……本当に似合ってるなぁ。

 その姿に見とれていると、何かが近寄ってくる気配がした。

 

「おっ兄ちゃ~ん、久しぶり~!」

「えっ、ああ、なんだ。若葉か」

「なんだって何?可愛い彼女が来たんだから、もっと喜んだら?まったく、これだからお兄ちゃんは……」

 

 お団子ヘアにイメチェンした若葉は、ほんのちょっとだけ大人びた気がしたけど、その口調は相変わらずだった。

 というわけで、久々の若葉登場。皆さん、お待たせしました。それと、端っこのほうで「いい……あの子いいよ」とか言ってる人、通報しますよ?

 先生も若葉に会いたかったのか、いつの間にか若葉の頭を撫でていた。そして、その手をそっとどかされていた。

 

「若葉さん。久しぶりね。元気だった?」

「お、お姉さん……どうしてメイド服着てるの?」

「……実は、浅野君に頼まれたのよ」

「ええ!?お、お兄ちゃん!?」

「ち、違うよ!僕がそんなこと言うわけないだろ!」

「違うの?」

「……違うの?」

 

 若葉に続いて、しれっと先生まで首を傾げている。こんなジョークが飛び出すあたり、何だか今日はテンションがだいぶ高いようだ。

 

「ほらほら、二人ともさぼらないの。先生も、しっかりメイドしてください。あっ、若葉ちゃん来てくれたんだ!」

「愛美お姉さん、久しぶり~!」

「あははっ、今日は楽しんでいってね」

「うんっ」

「そういえば、一人で来たのか?」

「うん。……来ちゃった」

 

 若葉は大人ぶってしなを作っているが、もちろん色気などなく、ただただ微笑ましい。周りもほっこりした表情で見守っていた。さすが愛されキャラ。

 

「あ、あの!」

 

 すると、奥野さんが僕の肩を掴んだ。

 ちなみに、奥野さんも先生と同様に、可愛らしいメイド服に身を包み、忙しく働いていた。その爽やかな魅力は、メイド服と絶妙な化学反応を起こし、周りの目を惹きつけている。

 そんな視線に気づいたのか、奥野さんは頬を赤らめ、もじもじと両手を合わせた。

 

「あ、あの、今さらだけど、浅野君……どう、かな?」

「うん、楽しいよ」

「違うわ!まったく……私、メイド服似合ってるかな?」

「あ、う、うん。すごく似合ってるよ!」

「ふふっ、ならよかったわ。ありがと。浅野君も執事服似合ってるよ」

「あ、ありがとう……」

「さあ、奥野さん。仕事に戻りましょう」

「ああっ!ちょっ、先生……いきなり先生モードに戻らないでくださいよ~!」

「…………」

 

 とにかく仲が良いようで何より。さて僕も仕事に戻らなきゃ。まあ、客引きのほうはやらなくても大丈夫だろう。ていうか、これ以上客が来たらヤバい……。

 

「はあ、これだからお兄ちゃんは……」

「どうしたの、若葉?」

「何でもないよ。相変わらずお兄ちゃんはお兄ちゃんだなぁって思っただけ」

「そ、そうなんだ……」

 

 *******

 

 無難に客案内や掃除をこなしていると、高橋君からポンっと肩を叩かれた。

 

「浅野、休憩行ってきていいよ。ついでに奥野にも伝えてきて」

「ああ、うん。わかったよ」

 

 いつも通りの爽やかさに同性ながら、胸が洗われる気分になりながら、僕は奥野さんに声をかけた。

 

「奥野さん、休憩だって」

「え?あ、うん……」

 

 奥野さんは、何故かキョトンと目を丸くして僕を見た。

 

「ど、どうしたの?」

「いや、なんか浅野君が自然に声をかけてくれたのが、珍しいというか……」

「そう、かな?」

「そうだよ。中々浅野君からは声かけてくれないし」

「ああ、なんかごめん……」

「ふふっ、謝らなくてもいいよ。あとはその調子でガンガン話しかけてきてくれたら嬉しいな」

「そ、そう……それじゃあ奥野さん」

「なぁに?」

「い、今から、一緒に文化祭回らない?」

「えっ?…………い、いいよ」

 

 奥野さんは、頬に手を当てながら頷いてくれた。よかった。嫌がってはいないみたいだ。

 

「若葉も一緒でいい?」

「当たり前だよぉ!!あっはっは!!もちろんそのつもりだったよ!!!」

 

 な、なんかやたらテンションが高いんだけど……大丈夫かな?あと背中をバシバシ叩かれて、割と痛いです……。

 

「お待たせ、若葉。行こっか」

「うんっ、愛美お姉さんもよろしくね♪」

「ふふっ、こちらこそ……よしっ、切り替えよう!」

 

 じゃあ、行こうかな……っ!!?

 背中に寒気が走った気がするけど……あれ?先生?

 森原先生は、何故かこっそりと、物陰からこちらをじぃっと見つめていた。



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お化けがくっついてきたんだが……

 

「ねえねえ、ここ入ろうよ!」

「お化け屋敷か……」

 

 若葉は、E組のお化け屋敷をキラキラした瞳で見つめていた。

 まあ、定番といえば定番かもしれない。とはいえ、そこまで怖がれそうな気はあまりしないけど……。

 すると、隣にいる奥野さんがはっきりわかるくらいにガタガタ震えていた。

 

「あはは……た、たしかに面白そうだよね……うん、いいんじゃないかな……」

「奥野さん。もしかして……」

「ち、違うもん!べ、別に怖くなんてないんだからね!」

「…………」

「お兄ちゃん、察してあげて。お兄ちゃんはそういうところがダメなんだよ」

「……は、はい」

 

 怒られてしまった。

 どうやら、こういうところがダメらしい。

 

 *******

 

 とりあえず中に入ってみると、井戸のセットや破れた提灯など、想像していたよりは凝ったつくりになっていた。だが、それより……。

 

「浅野君、浅野君、ぜ、絶対にいきなりどっか行ったりしないでね?約束だからね?若葉ちゃんも離れないでね?」

「あ、うん……」

 

 奥野さんが想像以上にびくついている。これはこれで可愛い……いや、何を考えてるんだ、僕は。

 

「お兄ちゃん、こわ~い♪」

「…………」

 

 若葉はわざとやっているだけだろう。こいつは幽霊なんかを怖がるタイプじゃない。昔から遊園地のお化け屋敷で大笑いして、お化け役の係員が寂しそうにしていたのを、今でも覚えている。

 二人にしがみつかれながら、何とか暗い教室の中を歩いていると、何やらボソボソと聞こえてきた

 

「奥野さん……あとで誘おうと思ってたのに」

「ちくしょう……奈良原の奴。許せねえ」

「若葉ちゃん……可愛い」

 

 あっ、これ僕に向けられてるやつだ。ていうか、名前……かすりもしていないんだけど。あと、そこのロリコンはそろそろ通報しておこう。

 

「よし、めっちゃ驚かしてやろうぜ!」

「「おう!」」

 

 聞こえております。

 とりあえず、奥野さんも怖がってるからはやく進もう。

 すると、さっきの三人組が白い布を被って飛び出してきた。

 ……意外とそこは手抜きなんだ。 

 

「ひぃやあああああ!!」

「きゃああああああ!!」

「あはははっ!!」

「…………」

 

 ……うわあ、三人組の叫び声と奥野さんの悲鳴と、若葉の笑い声が重なって、とりあえずやかましいという感想しか沸いてこないや……。

 ここは無視してさっさと……

 

「きゃー」

「っ!?」

 

 えっ、何!?

 無機質な叫び声と共に、何か柔らかなものが腰にしがみついてきた。こ、これも演出!?ここまでする!?

 しかし、その感触はすぐに離れていった。

 

「ひぃやあああああ!」

「きゃあああああ!」

「あはははははっ!」

 

 こっちはこっちでまだやってる!何でさっきと変わらないテンションを保てるんだろうか。

 

「きゃー」

「み、皆!逃げよう!」

 

 また腰にまとわりつかれないように、僕は二人を引っ張って駆け出した。い、今こそトレーニングの成果を見せねば!(約1ヶ月)

 その後、お化け屋敷でメイド服の女の幽霊が現れたという噂が飛び交ったらしい……。

 

 *******

 

「はぁ……こわかった……」

「愛美お姉ちゃん、もう一回行く?」

「行かない!」

「と、とりあえず……た、楽しかったね。あはは……」

 

 途中、本当の怪奇現象に遭遇した気がするけど、あまり気にしないほうがいいのかな?

 そんな事に頭を悩ませていると、近くをメイドが通りすぎていった……って、あれ?

 

「先生?」

「……あら、浅野君。偶然ね」

 

 やはり、間違いなく森原先生だ。喋り方がいつもより少し硬い気がするけど、どうしたんだろう?

 

「先生も休憩に入ったんですか」

「……ええ。それで、この辺りの出し物のチェックをしていたのよ」

 

 先生は長い黒髪をふぁさっとかき分けながら、真っ直ぐに僕の方を見た。

 すると、隣にいる奥野さんはジト目で先生を見つめた。

 

「あれ?先生の休憩はまだ先ですよね?まさか……」

「お姉さん……」

「……何の事かしら」

 

 あれ?先生が、ほんの僅かだけど……たじろいでる?

 もしかしたら、この些細な変化は、クラスでも自分にしかわからないんじゃないかと、少し調子に乗っていると、廊下の向こう側からメイドが2人、こちらに駆け寄ってきた。

 

「あっ、先生いた!」

「いきなりいなくならないでくださいよ~!今大変なんですから!」

「……はい」

「やっぱり……あれ、浅野君は?」

「あれ?いない?」

 

 *******

 

「あ、新井先生、いきなりどうしたんですか?」

「ごめんね~、ちょっと付き合って~」

 

 そう、僕は先生達が会話している間に、新井先生に捕まってしまった。

 腕をがっちりと拘束され、引きずられながら歩いているのだが、肘の辺りに柔らかな感触が押しつけられていて、非常に落ち着かない。僕が悪いんじゃない。

 ちなみに、新井先生もメイド服のままだけど、いいのかな?色々と……

 

「えっと」

「実は……いえ、理由は保健室で話します~」

「はあ……えっ、保健室!?何でですか?」

「ふっふっふ~、それは保健室に着いてからの、お・た・の・し・み♪」

「…………」

 

 ふ・あ・ん・で・す。



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