天邪鬼の下克上 (ptagoon)
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1章
終わらない始まり


更紗灯弾さまから、素敵なイラストをいただきました
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 行きつけの蕎麦屋の親父に、お前ほど人間らしい奴はいないさ、と言われたことがある。

 

「お前は確かに妖怪だが、それでも人間よりも人間らしい」

 

 人里の端の、誰も寄り付かないような寂れた場所でひっそりと佇んでいる蕎麦屋だ。未だかつて、ここに人間の客が来ているところを見たことはない。その、何故潰れないか不思議な蕎麦屋を一人で切り盛りしている親父が、そんな突飛な事を言ったのだ。

 

 ついに年のせいで頭がおかしくなったのか。それとも、若い頃の不倫をネタに、蕎麦をただ食いしている事への細やかな抵抗なのか、彼は目を俯かせて呟いた。私は、お前は何を言っているんだ、という表情を作り、実際に「お前は何を言っているんだ」と声を出した。

 

「人間ってのは、可愛い生き物なんだ。俺を含めてな」

「お前は何を言っているんだ」私の言葉は聞き流され、彼の退屈な話は続く。

 

「どんなに良い奴だって、どこかで悪い感情を心の中で弄んでるんだよ。逆に、どんな悪人だって、良心を少しは持っている。蕎麦と同じだ。どんな高い蕎麦にも、どんな安い蕎麦でも、それぞれ良い所と悪い所がある」

 

 彼は苦笑いをしながら言葉を並べた。それは、どこか自分自身を非難しているようだった。

 

「それでな、面白い事に、良い人間は自分の悪い心を隠したがって、悪い人間は良い心を隠したがるんだ」

「蕎麦と同じで?」

「そう、蕎麦と同じだ」

 

 私は冗談で言ったつもりだったのだが、真顔の彼を見て、浮かべていた笑みを消した。きっとこいつは、人生は蕎麦だ、とか言うに違いない。全く、馬鹿らしい。

 

「お前は、まさにそうだ。自分は悪だ、とよく言っているが、そうは思えん」

 

 顔に深く刻まれた皺を柔らかく伸ばし、彼は薄い笑みを浮かべた。

 

「ただ、良心を隠しているだけだろう? 俺には分かる。お前はきっと、困ってるやつを見たら助けるような奴だよ」

「は?」

 

 思わず箸を止める。私が人助け? あり得る訳がない。これだから老人は。

 

「きっと、誰も信じないだろうが。俺は信じるさ」

「私じゃなくて、奥さんを信じてやれよ」

 

 私の言葉を聞いた途端、皿を洗う手が止まった。自然と頬が緩んでいく。彼の急所は、すでに他界している妻の存在だ。そこを突いてやるだけで、後悔と、忌避の感情が溢れ出す。それは、天邪鬼である私にとって、何よりの活力となった。心の奥底から、ぞわぞわとした快楽が押し寄せてくる。私の本能が、欲望が満たされていった。

 

「お前は」

 

 彼の眉間に刻まれた皺は、深さをより一層増し、入れ墨のように真っ暗になっていた。普段は気難しさを助長している瘦せこけた頬も、今では頼りなさしか思い起さない。

 

「お前はきっと、困っているやつを見たら唾を吐きかけるような妖怪だよ。誰も信じないだろうが、俺はそう信じている」

 

苦しそうに、声を出した。

 

 心地よい愉悦を感じながら、残った天かすと共に蕎麦湯を一気に飲み干す。胸いっぱいに仄かな暖かさが広がり、秋の夜の冷え切った空気を和らげた。

 

「多分、それなら皆信じてくれるぞ。良かったな」

「良くねぇ」

 

 彼のぶっきらぼうな、拗ねた子供のような言い方に思わず吹き出してしまう。還暦を過ぎて、髪も薄くなった強面の老人の拗ねる姿など、誰に需要があるのだろうか。

 

「これだから天邪鬼は。次からかき揚げでもつけてやろうと思ったのに。やっぱやめだ」

「どうせそんな気はない癖に。ご馳走様、次はこんなまずい蕎麦はよしてくれよ? じゃあな」

 

 立て付けの悪い扉を開けると、乾いて冷たい風が吹き付けた。カタカタと店が悲鳴をあげる中、私は大股で帰路を急ぐ。後ろから、これだから天邪鬼は、という声が聞こえた気がした。

 

 

 

 彼が死亡したのは、これから一週間後の事である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は寺子屋の前にいた。人里の中心地からやや北東に進んだ場所、木造の小奇麗な長屋だ。中からは甲高い子供の声が溢れ出ており、時々それを窘める女性の声も聞こえてくる。手に持った紙が、風で揺れた。雲一つない晴天にも関わらず、空気は肌を刺すように冷たい。

 

 寒いのは嫌いだ。以前は、具体的には去年の夏までは、むしろ寒さは好きであった。だが、調子に乗って氷の妖精に喧嘩を売ったのが運の尽き。体の芯の、内臓まで凍らされて、無様に池の流氷へと成り下がった。あれ以来、寒いのは嫌いだ。

 

「妖精に負ける妖怪なんて、前代未聞ですよ」と知り合いの烏にも嘲笑された。

「こんな事を記事にしても、誰も信じませんよ」と嘆いていたのは、いいザマだった。

 

 時計を見る。15時を5分ほどまわった。知り合いがくれた情報によると、そろそろ授業が終わる時間だ、と思っていると子供たちが勢いよく飛び出してきた。

 

 怪しまれないように、笠を深く被り直して、ゆっくりと寺子屋へと足を進める。扉の前で、目当ての人物が腰を落としているのが見える。帰っていく生徒の背中へと、笑顔で手を振っている彼女の姿は、生き生きとしていた。綺麗に整えられた青白い長髪は、青いワンピースによく似合っている。その優し気な笑顔も相まって、いいお母さんといった印象が強い。だが、やや吊り上がった目とよく響く声からは、意志の強さも感じられる。出来ればお近づきになりたくない人種だが、これも情報のためだ。やむを得ない。

 

 大股で、寺子屋へと歩いていく。ちょうど彼女の前を横切るタイミングを見計らって、手に持っていた紙を落とした。後ろを振り返らないよう意識しながら、少し歩幅を小さくする。

「あ」と声がした。トタトタと足音がしたかと思うと、後ろから肩を叩かれる。にやけそうになるのを抑え、慎重に振り返る。

 

「すみません。これ、落としましたよ」

 

 女性は悪意のなさそうな笑顔で、一枚の紙を差し出した。

 

「あ、ああ!」

 

 わざと大袈裟に手を上げて、驚いたふりをする。緩みそうになる頬をごまかすために、口を大きく開けた。

 

「ありがとう、助かったよ! あなたは私の恩人だ!」

「そ、そこまで言わなくても。ただ、私を拾いものをしただけで」

 

 頭をかいて、嫌そうに眉間にしわを寄せているが、口元の緩みは隠せていない。きっと、満更でもないのだろう。

 

「いや、この紙は私にとって大切なものだったんだ」

 

 小さく咳払いをして、声の調子を変える。少しの緊張と、悦楽が体に走る。今だ、言え、と頭の中で声がした。

 

「ぜひ、お礼をさせてくれ。行きつけの居酒屋があるんだ」

 

 

 

 少しは渋るかと思ったが、予想に反して彼女は意気揚々と付いてきた。人里の守護者がこんなにも騙され易くて大丈夫かと思うが、私にとっては好都合だった。

 

 目の前の美味しそうに枝豆を食べている彼女、上白沢慧音に会った目的は、人探しだ。机の上に置かれた人相書きを見つめる。私が探している人物が薄く微笑んでいた。髪が短く、人形のように可愛らしい、子供だ。ただ、その人相書きは不出来で、それ以上のことは分からなかった。

 

 だから、彼女に頼むことにしたのだ。餅は餅屋というように、子供は先生、だ。

 

 しかし、問題もあった。彼女は寺子屋の先生という一面の他に、人里の守護者なる大層な仕事も請け負っている。簡単に言ってしまえば、人里を害する妖怪をやっつける、といったものだ。これが大きな障害だった。彼女からすると、私はその“人里を害する妖怪”以外の何者でもない。わざわざ笠で角を隠して、人間のふりをしているのはこのためだ。

 

 昼時を少し過ぎているにも関わらず、居酒屋は繁盛していて、店員が忙しそうに走り回っている。妖怪である私に注意が向かない分、好都合だ。

 

「それで、こいつが誰か分かるか?」

 

シシャモをつまみながら、尋ねた。

 

「ああ、分かる。分かるんだが」

 

 彼女は、手に持った枝豆をこちらに突き付けながら、獅子のような目でこちらを睨んだ。

 

「この子をどうして探しているんだ?」

「どうしてって、そりゃあ」

 

 食べているシシャモが口から零れ落ちた。その質問は、予想していなかった訳では無い。以前、助けていただいて、とか適当にそれっぽい事を言おうと、準備していた。だが、何故か口から言葉が出ない。私はどうしてこいつを探しているのだろうか。こいつを探して一体どうするつもりなのか。そんなの、分かる訳がない。

 

「あ、会ってから考えるさ」

 

 我ながら、酷い誤魔化し方だったと思う。天邪鬼が聞いて呆れる。

 

「そうか」

「ところで、こいつは人間、妖怪どっちなんだ?」

 

 何とかして話題を変えたくて、適当に話を振る。自尊心が音を立てて崩れていくが、目的のためだ、仕方がない。返事をしない彼女へちらりと目線をずらすと、口元に手を当て何やら考えているようだった。もしかして、正体がばれてしまったかと、不安になる。

 

「分からん」彼女は大きくため息をはいた。

「私の正体が?」思わず声に出してしまい、背筋が凍った。

「いや、違う。この子が人間か、妖怪かどっちかが分からない」

 

 彼女は、深刻そうに目線を伏せながらも、枝豆を食べることは止めなかった。

 

「分からない?」

 

 目でも腐っているのか? これだから半端者は。と思わず零れそうになるが、決死の思いで飲み込む。

 

「それは、どういう」

「そんなことより」

 

 彼女は突然、勢いよく顔を上げた。思わず面食らってしまう。寺子屋の教師だからだろうか、その姿はまるで子供の様だ。

 

「そんなことより、お腹が空いた。このシロウオの踊り食いってのと、アジの開き、どっちがいいだろうか」

「は?」

 

 苛立ちのあまり、想像よりも低い声が出てしまった。いったい彼女が何を言いたいのか、さっぱり分からない。

 

「私はね、シロウオの踊り食いの方が好きなんだ。だって、生きているんだから。きっと私はどんな時でも、生きている方を選ぶよ。死んでいる方は、どうしようも無いからね。あなたが食べているシシャモのように。よく言うだろう? 死人に口なしって」

「シシャモが喋るわけないだろ」

「それもそうだ」

 

 満足そうに笑った彼女は店員を呼びつけ、アジの開きひとつと、威勢よく注文した。本当に、意味が分からない。煩わしさだけが募っていく。

 

「魚を食べるのもいいが、結局こいつに会わせてくれるのか?」

 

 机上に広げられた紙を指さしながら、怒気を含めて捲し立てる。

 

「人の金で買った魚を食べるのもいいがな!」

「分かった。分かったよ」観念したといった様子で、手をひらひらと振った。

「まぁ、百聞は一見に如かずというし、実際に会ってみるのが一番だ」

 

 届いたアジの開きを箸でほぐしながら、彼女は、はっきりとした口調でそう言った。

 

「じゃぁ!」

 

 思わず、机に身を乗り出してしまう。堪えていた頬の緩みが、決壊した。

 

「ああ、連れて行ってもいい。何か悪事を企んでいるわけでも無さそうだし、それに……」

「それに?」

 

 彼女は、目元を緩めて、破顔した。いたずらに成功した子供のような無邪気な笑みを浮かべ、小さく手を叩いた。

 

「妖精に負けるような天邪鬼には、何もできないだろう」

 

 

 

 秋の肌寒さを感じさせないくらい、人里の中央通りは活気づいていた。昨日とは打って変わり、空は青く澄み渡っている。それが、私の心にますます大きな影を落とした。昨日、あんな事があったというのに、何故平然としていられるのか。人間というものは、共同体意識が強いと聞いていたのだが、どうやらそうでもないようだ。

 

 だが、私の心に影が纏わり付いている一番の原因は、天気でも、人間でもなく、隣で鼻歌を鳴らしながら歩いている半獣の女性であった。

 

「いつから、私が天邪鬼だと分かっていた」

「いつからって、それは」

 

 居酒屋の笑顔とは違う、落ち着いた笑みを浮かべ、教え子に答えを教えるように、ムカつく程に柔らかに言葉を並べた。

 

「落とした人相書きを渡した時からだよ」

「最初からかよ。何だよ。バレているのに無様に人間の演技をする弱小妖怪の姿は、そんなに面白かったか? こんな意地の悪い先生がいるから、ガキ共が腐ってくんだよ」

「まぁまぁ、そんなに怒るな」

 

 どうどう、と馬を宥めるように両手で肩を叩いた。腹が立って仕方がない。

 

「興味があったんだ」

「興味?」

 

 大通りから少し外れると、途端に人が少なくなる。立ち並ぶ家の数もまばらになり、しかもボロ屋ばかりだ。妖怪にでも襲われたのか、大きな穴が屋根に空き、今にも崩れそうなものまである。あんなところにも、人間は住んでいるのだろうか。

 

「そう、興味だ。人妖問わず、如何なる相手に対しても馬鹿にするあなたが、特定の相手に会いたいだなんて、不思議だったんだよ。もちろん、警戒もした」

「運命の赤い糸で結ばれてんだよ。人相書きで紡いで、枝豆で梳いて、アジの開きで結んだ、血で赤くなった糸でな」

「血?」

「何でもねぇよ」

 

 彼女は、一瞬、目を細めたが、特に気にする様子もなく被った帽子を軽く触っている。

 

「気紛れだ」

 私はぶっきらぼうに、そう答えた。

「気まぐれ? 気まぐれで、こんな面倒なことを?」

「気を紛らわせたかったんだよ」

 

 実際、自分がこんな事をしている理由など分からない。気紛れというよりは、気の迷いと言った方が正しいだろう。だが、何故か気の迷いと口にしたくはなかった。迷っていると、認めたくはなかったのだ。

 

「そう、か。……気まぐれについて、面白い話があるが聞くか?」

「聞かない」

「あるところに、幽霊を信じていない人間がいた」

「おい、聞かないっつったろ。聞いてなかったのか」

 

 私の言葉は、当然のように無視される。

 

「その人間は、夜遅くに森に散歩に行った。すると、そこに奴が現れた」

「怖い半獣のおばさんが?」

「幽霊だ。人間はそれはそれは驚いたが、祖母の話をふと思い出した。“幽霊に会ったら、塩をまきなさい”という話だ」

「そんな都合よく塩がある訳ないだろ。自分の汗でも飛ばしたのか? 汚くて仕方ねぇ」

「そう思うだろう?」

 

 出来の悪い生徒を窘めるように、暖かく笑った。鳥肌が立つ。

 

「持って行ってたんだよ、塩を。気まぐれでな。家を出る直前に、懐に突っ込んだ」

 

 なぁ、面白いだろう? と得意げに語る彼女は、先生というよりは蘊蓄を話したくて仕方がない子供の様だ。

 

「実際は、無意識のうちに祖母の言葉を思い出していたんだよ。つまりだ、私が何を言いたいかというと」

「出かける時に塩を持てってか」

「気まぐれってものは、案外理由があるってことだよ」

 

 彼女は足を止め、空を見上げた。つられて私も見上げると、いつの間にか分厚い雲に太陽が隠され、陰険な空気を人里に落としていた。

 

 気まぐれってものは、理由がある。彼女の言葉は、不思議と胸へと深く吸い込まれていった。だが、それも鬱蒼とした気分を変えてくれるものでもなく、天気の悪さで相殺されてしまう程度である。

 

「どうした、そんな暗い顔をして。そんなに私の話は面白くなかったか」

「つまらないにも程がある」

 

 この言葉は、本心だった。寺子屋の子供を哀れに思う程に、絶望的に話が退屈だ。というよりも、その話はあまりにも有名で、こんな私ですら知っていた。

 

 足を再び動かし始めた彼女は、深刻そうに眉間にしわを寄せた。もしかしたら、話が退屈な事を気にしているのかもしれない。置いていかれないように、後ろをついていく。先程よりも早足だ。雨が降ることを心配しているのだろうか。

 

「なあ」

 

 顔を上げた彼女は、口角をあげて私を見つめた。ふふんと、嫌味ったらしい鼻音まで聞こえてくる。これならどうだ、といわんばかりだ。

 

「人形にとり憑いた幽霊の話、聞きたくないか?」

「聞きたくない」

 

 もちろん、私の言葉は無視された。

 

 

 目的地に着く頃には既に日が傾きかけていた。厚い雲に覆われていた太陽も、どうにか調子を取り戻したのか、さっき休んだ分だけ頑張ります! といわんばかりに爛々と輝いている。だが、そんな太陽の健闘むなしく、冷たい乾いた風の方が遥かに優勢だった。

 

「ここがその子の家だ」

「……これが家か?」

 

 家というよりは犬小屋といわれた方がしっくりくる。それほどまでに、酷い家だった。酷いといっても、さっき見たように天井に穴が空いているだとか、そういう訳では無い。傷一つなく、一寸の欠けも見られない瓦が屋根に敷かれている。素人目で分かる程に上質な木材で作られたであろう柱や壁は、鮮やかな木目が日光を反射し、幻想的ですらあった。

 

 しかし、ある一点が絶望的なまでに全てを台無しにしている。なぜ、こんな事をしたのかと、大工を小一時間とい詰めたいくらいだ。

 

 その家は、とてもとても小さかったのだ。

 

 多分、そこらの民家のトイレの方が広いのではないだろうか。いくら子供とはいえ、こんな狭い所で生活するのは不可能に違いない。それが、人間であろうと、妖怪であろうと。

 

「これは何かの罰か? 拷問か何かか? まだ野宿の方が百倍ましだと思うが」

「残念ながら、罰でも拷問でもない。けっこう快適にくらしているそうだよ」

「快適に? 嘘だろ。ここのガキは被虐趣味か、閉所依存症かどっちかだな」

「閉所依存症? そんなものがあるのか」

「ある訳ないだろ」

 

 強めに扉を叩くと、コンコンと小気味の良い音が響いた。しかし、いっこうに家主は家から出てこない。それどころか、中からは物音一つ聞こえなかった。

 

「おい、反応が無いぞ」

 

 騙されたか、という考えが頭をもたげる。まさか本当にこんな小さな家に住んでるような奴がいると思ったのか。馬鹿だなぁ。これだから天邪鬼は妖精にすら負けるんだよ。そんな罵倒が聞こえた気がした。

 

「お前も私を」

 

 騙しているのか。そう言おうとした瞬間、そいつは姿を現した。

 

 初めは、そいつが人相書きに描かれた奴だと、理解できなかった。しかし、落ち着いてよくよく見てみると、肩に届かない髪も、あどけなく、人形のような顔つきも見事に当てはまる。むしろ、そっくりと言っても良い程だ。

 

 だが、その存在を私は認めたくはなかった。ああ、なるほどと理解はしたものの、納得はしていない。 

 

 そいつは、紅色の綺麗な、おそらく特注品であろう服を着て、またそれは良く似合っていた。紫色の綺麗に切り揃えられた髪の上に、なぜか茶碗を被っている。特注品ではなく、正真正銘──半径10cmにも満たない──ただの茶碗で、頭をすっぽりと隠していた。あまりにも非現実的で、これならいっそ一反木綿のような妖怪が出てきた方がましだったかもしれない。

 

 慧音が人間か妖怪か戸惑ったのも、こんな人里の外れに家があるのも、それが馬鹿みたいに小さいのも、全て合点がいった。

 

「紹介するよ、この子は少名針妙丸。見ての通り小人だ」

 

 コビト。小さい人。まるで聞いたことがなかった。猫ほどの背丈しかない奴がいるなんて。幻想郷は私の知らない存在で溢れているのかもしれない。まだ、付喪神や幽霊と言われた方が、しっくりくる。

 

 慧音の膝下程しかないそいつは、不思議そうに私を見上げていた。その無表情な顔は、その大きさも相まって、ひな人形みたいだ。

 

 ふと、頭の片隅に思いつくものがあった。懐に手を入れ、まさぐる。小さな袋が入っている。出かける前に、何となく気まぐれで持ってきたものだ。その中の目当ての物を握りしめる。ザラザラとした感覚が指先に走る。慧音が話した、人形にとりついた幽霊の話が頭をかすめた。

 

「人形に憑いた幽霊も、塩でよかったかな」

 

 私は塩を小人に向かってまき散らした。



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白い髪と赤い錆

 行きつけの蕎麦屋の親父に、身から出た錆っていい言葉だよな、と言われたことがある。

 

「俺にも、お前にもぴったりな言葉だ」

 

 身から出た錆、自分の犯した言動が原因で、苦しんだり災いを受けたりすること。その時には意味が分からなかったが、今考えると、確かにその通りだ。私はともかく、彼にはこれ以上ない程ぴったりな言葉であろう。

 

「それはあれか? 自分の不倫を反省しているのか?」

「おい。不倫とか大声で言うんじゃねぇよ」

 珍しく椅子に座っている彼は、慌てるでもなく、怒るでもなく、淡々とそういった。

「誰かに聞かれるかもしれないだろう」

「こんな閑古鳥すら来ねぇ店に、聞き耳を立てるような奴はいない」

 

 目の前に置かれた蕎麦を一気に啜る。ズズズという威勢のいい音が店を包んだ。暖かい露と共に蕎麦の香りが口いっぱいに広がる。

 

「まぁ、お前の奥さんが天国から見てるかもしれんが」

「だったら、困る」

 

 彼は小さく咳払いをして、頬を緩めた。それはおいといて、と小さく呟いて、頭をかく。妻をおいといて、どうしようというのか。不倫か。

 

「いいか? 身から出た錆ってのは、蕎麦にも言える事なんだ」

「は? 蕎麦が錆びるっていうのか?」

 

 不倫ではなく、蕎麦の話だった。また来た、と思わず身構えてしまう。彼の、何でも蕎麦になぞらえるのは悪い癖だが、その話が長くなるのも更に悪い癖だ。

 

「そんな訳ないだろう。馬鹿かお前は」

 

 馬鹿にするように鼻を鳴らした親父に、つい、手に持った箸を乱暴に投げつけてしまいそうになる。ゆっくりと息を吐き、心を落ち着かせる。怒りを覆い隠すように、蕎麦の香りをかいだ。いきり立った心がゆっくりと冷えていく。冷静になった私は、改めて正確に彼の額めがけて箸を投げつけた。

 

「あっぶねぇな」

 不格好に、よろよろと体を傾かせた店主を見て、溜飲が下がる。

「まったく、年寄りを労われよ」

「まだ五十だろ。それに、私のほうが年上だ」

 苦虫を嚙み潰したような顔になった彼は、ゆっくりと右足を撫でた。

 

 カタカタと扉が揺れた。客が来たのかと思い後ろに目を向けるが、ただ風で揺れただけだった。どこか安心をしてしまう自分がいて、驚く。嫌悪感と罪悪感が胸を満たした。私はこのくそジジイとの二人きりの会話を楽しんでいるのか。いや、そんなはずはない。ただ、蕎麦を食べるために来ているのだ。そうに違いない。

 

「いいか、よく聞けよ」やけに大きい声が耳に響いた。

「人間は妖怪と違って、か弱いんだ。死ぬときは簡単に死ぬんだよ。だから、妖怪であるお前は人間を労わらないといけないんだ。弱い者は助ける。この世の常識だろ?」

「そんな常識は知らない」

「いいか。皆が言えばそれが嘘でも本当になる。そしてそれが常識となるんだよ。そんなんだから、蕎麦が錆びるなんて言うんだ。これでは明日のかき揚げも無しだな」

 

 彼は楽しそうに、言葉を続けた。目元を細め、どうだ? と私に問いかけているようにも感じる。腹立たしい。小癪だ。

 

「なら、身から錆うんぬんと、蕎麦はどう関係があるんだよ」

 

 反射的に口に出た私の言葉を聞いた途端、彼は顔を輝かせた。水を得た魚のような、菓子をもらった少年のような、蕎麦を打っている蕎麦屋のような、純粋無垢な笑顔だ。

 

「ほら、蕎麦にはさびがあるだろ?」

「は?」

「鈍いなぁ。わびさびっていうじゃないか」

「……まさかそんだけとかいう訳じゃないよな」

 

 もしそんな駄洒落を言いたいだけで、ここまで私を馬鹿にしていたのだとすれば、こんなに不愉快な事はない。

 

「当然、それだけじゃない」彼は不服気に眉をひそめた。

「蕎麦には、さび。わさびもついてくるじゃないか」

 私は机の上に置いてあった箸を、もう一度投げつけた。

 

 

 

 

 彼が死亡したのは、これから五日後の事である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「酷いじゃないか! いきなり塩を投げつけるなんて!」

 

 人形のような彼女は、小さな体を目一杯伸ばして、私をぽかぽかと叩いた。

 

「お前がそんなに小さいのが悪い」

 

 私たちは近場の民家へと移動していた。私が入っても大丈夫な、数少ない家のうちの一つだ。この辺りの建物にしては比較的綺麗で、しかもかなりの広さがある。とはいっても、ボロ屋には変わりはないのだが。始めは目前の少女の小さな小さな家に入ろうとしたのだが、大人二人が入るには流石に無理があったので諦めた。

 

「もしかして、ここの家主を殺して奪ったのか?」

 

 慧音が薄く微笑みながら、聞いてきた。その目は柔らかく、本気で言っている様子では無かった。きっと、妖精にすら勝てない妖怪には無理だと、高を括っているに違いない。それはそれで腹が立つ。だが、事実なので言い返すことはしなかった。

 

 私が慧音に頼んで引き合わせてもらった人物。小名針名丸という名の少女。想像したよりも大分小さかったが、それ以外は、概ね聞いていた通りだ。幼くて無知で無邪気で純粋で、壊れやすい。そんな奴に会ってどうするのか? 何が良かったかのだろうか? 疑問がふつふつと湧いてくるが、頭をふってかき消す。今はそれを考える時じゃない。

 それよりも、長細くL字型に部屋を仕切っている机の上で、足をぶらぶらと振っている少女について考えるべきだ。

 

「何でいきなり塩を投げつけたの!? 小さいから? 意味が分からないよ!」

「気まぐれだ」

「せ、せんせい。わたし、この人きらい」

 

 机の上に立ち上がり、こちらを指さした。あまりに勢いよく立ち上がったせいで、被っている茶碗がずり落ちている。

 

「大丈夫。先生もこの天邪鬼は嫌いだ」

「おい先生。人に指さしたら駄目ってことくらい教えとけよな」ゆっくりと右手をあげ、中指だけをたたせて慧音に向ける。

「教育者失格だ」

「あ、あなた。けいね先生になんてことを……」

「こんな情けない先生に代わって私が教育してあげてんだよ。反面教師だ」

「いや、そうじゃなくて」

 

 どこか哀れみを含めた目で、こちらを見つめている。可哀そうだけど、明日には鶏肉になって、美味しく頂かれるのね、といわんばかりの目だ。

 

「そんなことしたら頭突きが……」

「頭突き?」

 

 突然出てきた頭突きという単語を訝しんでいると、いきなり目の前に慧音の顔が表れた。満面の笑みだが、目に光がない。首を両手で掴まれ、彼女の真正面を強引に向かされた事に初めて気がついた。

 

 そういえば、聞いたことがある。寺子屋の先生を怒らせた生徒は、軒並み大きなたんこぶをつくって帰ってくると。それも、大概の場合は額に。なるほど、つまりは頭突きをされていたという事か。

 

「おい待て、体罰は教育によくない」

「実は私も反面教師なんだ」

「やめろよ! 子供の見ている前だぞ!」

「だからこそだ」

 

 頭を掴む力が強くなる。私の角のちょっと手前を押されているせいか、痛み自体はそれほどでもない。ただ、絶対に逃がさないという意思を感じさせて、恐怖が体を蝕んだ。弱小妖怪ならではの危険センサーが過敏に反応している。

 

「待ってくれ、弱いものいじめは良くない。止めて。止めてください。どうかご慈悲を!」

 

 痛みと、衝撃に備えて目を閉じる。ああ、どうして私はいつも痛い目に会うのだろうか。頭の片隅で、きっと身から出た錆だろうと笑う声が聞こえた。懐かしい声だ。こうなったのも全て、お前のせいなのに。それを身から出た錆というのはあんまりではないか。そう答えたが、頭の中の彼は返事をしない。

 

 ふと、衝撃が中々やって来ない事に気がついた。強いショックを受けると、辺りがコマ送りのように遅く見えるというが、余りにも遅すぎる。それに、私は今目を閉じているから、関係がないはずだ。

 

 恐る恐る目を開く。鋭い光が目についたのか、なぜか視界が少しぼやける。何度か瞬きすると視界が戻っていった。病み上がりの私の目に映ったのは、今にも振り下ろされんと、頭を仰け反らせる慧音の姿ではなく、心配そうにこちらを見つめる先生と生徒の姿であった。

 

 想像と現実の違いに、ふぅと気の抜けた声にもならない声が漏れた。

 

「せ、せんせい。もう許してあげてもいいんじゃないかな」

 

 両眉をハの字にした少女が、手足をバタバタさせながら、慧音に訴えかけた。

 

「ほとけの顔も三回だし!」

「そう、だな。私も少しやり過ぎた様だ」

 慧音は左手で長い銀色の髪をいじりながら、申し訳なさそうに口を窄めた。

「まさか、泣いてしまうとは」

「は?」思わず情けない声が出てしまう。泣いている? 誰が? 

 

「もしかして、気づいていないのか?」

「何が?」自分でも驚くような、低い声が出た。

「お前が……いや、何でもない」

 

 あくびをする振りをして、目元に手を当てた。人差し指に冷たい何かが当たる。冷たさを頼りに指でなぞっていくと、頬を緩やかな弧を描き、顎にまで届いていることが分かった。下を見下ろすと、ぽたぽたと音を立てて落ちていっている。

 

 これは涙だろうか。いや違う。誰が何と言おうと、これは涙ではない。きっと、雨水だ。外を照らす太陽が、遂に根負けして雨が降り始めたに違いない。そして、私の丁度真上に小さな穴が空いていて、垂れてきたんだ。何と合理的で信用性のある仮説だろうか。私があいつを思い出して涙を流していたなんて、トンデモ仮説よりは遥かに、ましだ。

 

「まぁ、よくあることだよ!」

 

 少女の、元気な声が頭に響いた。気づけば、いつの間にか顔を上げて彼女を見つめてしまっている。

 

 うんうんと、腕を組んで頷いている彼女は、仕草自体は大人びているにも関わらず、背伸びをした子供にしか見えない。こんな餓鬼に慰められるなんて、普段であったら耐えられない程の屈辱だ。でも、なぜだか不思議と胸が暖かくなった。

 

「私もせんせいに頭突きされたら、泣いちゃうもん」

「お前と一緒にするな」

 

 にぱっと笑った少女は、机から私の肩へと飛び乗り、肩車のように足で頭を挟んだ。その確かな温もりが、心の氷を溶かしていく。私は、その氷が解けたことによる滴を、また零さぬようにと注意しなければならなくなった。

 

 視線の陰に、写真がうつった。L字の机の、先端。私たちからは一番遠い所だ。黒髪の髪を後ろに束ねた若い女性が、優しく微笑んでいる。いつの日か私もこんな笑顔を出来る日が来るだろうか。

 

 いや、絶対に来ないだろう。

 

 

 

 

「それで? あなたは何の用で私に会いに来たの?」

 

 慧音が持ってきた握り飯を頬張りながら、針名丸が尋ねてきた。慧音はいつも握り飯を持ち歩き、生徒に配っているらしい。ペットに餌をやる様なものだろうか。

 

 手に持った握り飯がぽろぽろと零れ、私の頭の上に降り注いでいる。不愉快すぎて、咎める気もうせてしまう。

 

「慧音にも言ったけどな、気まぐれだよ。気まぐれ。暇つぶしといってもいい」

「えー、つまらなーい」

 

 声を尖らせながら、バタバタと足を振った。ぺちぺちと乾いた音が鳴り響き、額に鈍い衝撃が走る。

 

「お前には私が面白い妖怪に見えるのか」

「見えなーい」

 

 米が着いた手で、角を握る針名丸を乗せたまま、腰をあげる。

 

 壁にかかった古い鳩時計に目を落とす。年季が入っており、本来は黄色く塗装されていたであろうそれは、虎のような斑点模様となっていた。それでも、自分の背丈ほどあるそれは、言いようのない威圧感を放っている。時計は右と左を分割するかのように、短針と長針が一本の線となって真ん中を縦に仕切っていた。

 

「もう六時か。そろそろ帰った方がいい。いくら人里とはいえ夜道は危ない」

「なに先生みたいなこと言ってんだよ」

「私は先生だ」

 

 頭に乗っていた針妙丸を引き剥がし、慧音へと乱暴に投げつける。うわっという悲鳴と共に、慧音のため息が聞こえてきた。

 

「お前な、いくら仲良くなったからといって友人を投げてはいけないぞ」

「待て。まず私とこのチビは仲良くないし、まして友人でもない」

「……まぁ、天邪鬼がどういう妖怪かよくわかったよ」

 

 悲しげな笑みを浮かべた慧音は頬を膨らませている針妙丸を持ち上げた。

 

「なら、私達は帰る。もし用があるなら、また訪ねてくれ。歓迎はしないが、もてなすよ」

「いらねぇ」

「あなたはどうするの?」

 慧音の腕から抜け出して、机へとよじ登りながら、小人の少女は首を傾げた。

「帰らないの?」

「私は妖怪だぞ。夜道を恐れる妖怪がいるか」

「えー、でも」小さな声を絞り出すように、彼女は言った。

「この前、この辺で人が殺されたって聞いたし」

 

 強い風が吹いたのだろうか、カタカタと扉が音を立てた。俯いている慧音の横を通り、扉を開ける。ひゅぅと気の抜けた音がなり、冷たいそよ風が部屋に入り込んでくる。空を見上げると、威張っていた太陽の代わりに、まん丸な月が浮かんでいた。

 

「別に、珍しいことでもねぇだろ」私の声は、少し震えていた。

「でも、みんな怖がってたよ。あれは天罰にちがいない! って」

「なら、博麗神社にでも参拝に行け。まぁ、あそこには神なんざいねぇけど」

「でも……」

「あー! でもでもうるせえ! なんだ? 抗議活動でもするのか? いいか、天罰だか何だか知らねぇが、たかが人間が一人死のうがどうでもいいんだよ。そいつが弱かったから死んだ。ただそれだけだ!」

 

 頭の中の混濁を、胸に溜まった悲壮を、押し留めていた祈りを吐き出すように、私は喚き立てる。頭で考えるよりも早く、言葉が溢れてくる。目の前で涙目になっている少女のことなど、最早見えていなかった。

 

「おい、天邪鬼。それ以上の暴言はこの私が許さない」

 横にいたはずの慧音が、いつの間にか目の前に立っていた。

「ああ!?」

「生徒に対する暴言は許さないと言ったんだ」

 

 底冷えするような、慧音の声が聞こえたかと思えば、頭の両端に鈍い痛みが走った。ついさっき感じたことのある、嫌な痛みだ。

 

「お前に一ついい話を教えてやろう」

「結構だ! というか離せ」

 

 頭を動かすことができない。万力のような力で私の頭を固定した慧音から、はっきりと殺意が溢れ出ている。

 

「昔、とある村に男がいた。その男は嫌いな人に呪いをかけた。それもとびっきりに過激なやつを、だ。その男はどうなったと思う?」

「知らん!」

 頭にミシリという音が鳴り、激痛が走る。

「その男は死んだ。指先から段々と皮膚が固まっていって苦しみながら死んだ。その呪いは男が扱うには過ぎたものだったんだ。つまり私が何を言いたいかと言うと」

 

 顔をあげて、慧音の顔を見つめた。銀色の、青みがかった髪は薄く緑に変色し、二本の大きな角が威圧感を放っている。目の前にいるのは、“人間“上白沢慧音から”妖怪“ワーハクタクに変わってしまったのだという事をようやく理解した。

 

「身の程を知れ、という事だ」

「待て待て待て、仏の顔も三度までじゃなかったのか」熱くなっていた頭は急速に冷えていき、全身の産毛が逆立つ。人里の守護者は満月の日に近づいてはならない、という話を思い出した。いやという程実感している。

「残念だったな。私は仏ではない。博麗神社にでも行って祈ってろ」

 

 透き通った冷たく乾いた空気の中、人里の外れには骨が砕ける音と一人の妖怪の断末魔が木霊した。しかし、それを見届けた小人の少女は、同情するでもなく“身から出た錆だよ”と呟いたという。



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人間と妖怪

 行きつけの蕎麦屋の親父に、お前は昔から何も変わらないな、と言われたことがある。

 

「俺はもうこんなよぼよぼの爺だってのに」

 布団の上で首だけ起こした彼は、弱弱しい声で笑った。

 

「うるせぇ喋んな。もう寝てろ」蕎麦を啜りながら、私は唸った。

 

 人里の外れのこの店には、相も変わらず人がいない。親父が寝返り打つ音と、私が蕎麦を啜る音だけが鳴り響いた。心なしかいつもよりも蕎麦に風味がない。

 

「おいおい病人扱いするな」 彼は顔を赤くして、眉をひそめた。

「病人じゃねぇか」

「病気じゃねぇ。ちょっと足を挫いただけだ」

 痛てぇ、と声を漏らしながら足を摩っている老人にいわれても、説得力がない。

「ああ。若い頃はもっと元気だったんだがな、老いには勝てん」

「確かに、あんたは元気だったな」

 

 少し伸びている麵をぐにゃぐにゃと噛みながら、一昔前を思い出す。三十か四十年くらい前に私はこいつと出会った。当時は彼も若く、筋骨隆々とまではいかないが、細身ながらも芯の通った体つきをしていた。

 

「奥さんがいるのに、他の女に手を出すくらいには元気だったな」

「……お前はいつも不倫の話ばかりをする」

 彼は年甲斐もなく舌を出して、笑った。

「そんなに不倫が好きか?」

「違う。お前が嫌がる話が好きなんだ」

 

 私が彼の不倫を知ったのは偶然だった。といっても、実際に彼が密会をしている現場を目撃したわけではない。彼が、私とその不倫相手とを勘違いして、勝手に自爆をしただけなのだ。“おい、子供はそろそろ生まれるのか”と聞かれた時には開いた口が塞がらなかった。

 

「あの時は最高だったな。今でもたまに笑っちまう」

「うるせぇ、止めだ。止めだ」

 

 口をへの字にし、嫌そうに顔を顰めた彼は、ゆったりと上体を起こした。細かに身体を震わせながら、小さくうめき声をあげている。

 

「寝とけよ。お前みたいな爺は床で這いつくばっているのがお似合いだ」

「そう言われたら起きるしかないな」

「この天邪鬼め」

 

 天邪鬼はお前だろう、と笑う彼の顔には疲労がたまっていた。ただですら細い彼の頬は、骨がはっきりと見える程に痩せこけている。布団の上に置かれた薄黒い腕は、爪楊枝のように細い。それこそ蕎麦といってもいいくらいだ。

 

「……折角だ。そろそろ話してやるよ」

「は? 何をだ」

「お前の大好きな不倫の話だ」

 

 カタンと小さな音が部屋を包んだ。一瞬、何の音か分からなかったが、机の上に散らばった箸を見て、自分が箸を落とした音だと気がついた。

 

「おいおい、どういうつもりだ? あんなに毛嫌いしていただろ」

「気が変わった」

「はぁ?」

「あれは暑い夏の日だった」

「待て待て、私は爺の背徳感溢れる恋愛話なんて聞きたくねぇ」

「余りの暑さに川へと涼みに行った時に」

「聞けよ!」

 

 私の言葉を聞く気がないのか、彼は淡々と言葉を繋ぎ始めた。滑らかに、まるで予め台本を用意したように詰まることなく話を進める。もしかすると、今日私にこの話をしようと決めていたのではないか。そんな疑惑が頭をかすめた。まったくもって気にくわない。

 

 それではまるで、自分の秘密を託すようではないか。

 

「川へと涼みに行った時に一人の女性を見つけてな。顔は布で覆っていて、よく分からなかったが、酷く困っているようだったから声をかけたのだ。そうしたら、なんて言ったと思う?」

「知らねぇよ」

「子供をつくってくれませんか?」

「は?」

「そう言ったんだよ。“私と子供をつくってくれませんか? ”ってな」

「何処のひかる源氏だよ。言い訳にしてももっと考えろ」

「何をいうか」彼は口をすぼめた。

「嘘でも言い訳でも無い。それでな、情事が終わった後、その女の顔を俺は見たくなったんだ。当然だろ? 肌を重ねあった女の顔、気にならない訳ないじゃないか。それで、誘惑に負けてそいつの布を捲ったんだ。そうしたら、どうなったと思う?」

「女が鶴にでもなったのか?」

「違う」彼は眉を下げた。パラパラと皮膚が落ちる。

「その女はな、妻だったんだ」

「は?」

 

 あまりに突飛な発言に、彼の頭の調子を心配した。寝たきりになるとボケやすいと聞くが、まさかこれまでとは。それとも、単純に自分が浮気をした事実を捻じ曲げたいのか、奥さんを失くした現実を直視していないのか、どちらかだ。

 

「俺が寝言でな、いっぺんでいいから浮気をしたい、といったらしくて」

「それで?」

「それで、願いを叶えてあげたいけど、浮気はされたくないからって」

「わざわざ川まで行って夫を待ったと?」

「そうだ。わざわざそうした」

「馬鹿じゃねぇの」

 久しぶりに、本心からの罵倒が口から飛び出た。

 

「それじゃぁ何だ? 私が聞いたあの言葉は」

「妻に向けて言った言葉だ」

「マジかよ」

 

 数年越しの真実に、頭の中が真っ白になる。眩暈がして、足元がふらつく。世界がひっくり返りそうだ。

 

「なら、なんで私に蕎麦なんて奢ってたんだよ。あれは実は嘘でしたって言えばよかったじゃないか」

「だってよ」

 彼は小さく俯いて、頬をぽりぽりとかいた。目線が右往左往して、落ち着かない。

「そうすると、お前は来なくなりそうだったから」

「気持ちが悪い」

 さっきぶりに、本心からの罵倒が口から飛び出した。

 

 むぅと口を噤んだ彼は、枕元に置いてある茶のみに手を伸ばし、震える手で口へと持っていった。中身が無くなったのだろうか、不満そうに茶のみを左右に振った。

 仕方がないので、机の上に置かれている急須にお湯を入れる。なんで自分がこんな事をしないといけないのか。これではまるで介護ではないか。

 中のお湯を零さないように、ゆっくりと彼の枕元へ急須を置く。

 

「すまないな」消え入るような声で、彼はそういった。

「謝るなよ」

 

 苛立ちよりも、虚しさが心に広がる。いつも自分に食って掛かってきたこいつの謝る姿など、本来であれば飯のおかずにでも出来るはずなのに。なぜだろうか。宴会の終わり際のような切ない気持ちになる。

 

「妻もよくお茶を入れてくれたんだ」

「そうか」

「お前の入れるお茶よりおいしかった」

「そうか」

「あんなにおいしい茶を入れる妻が、なんであんな終わり方なのか、今でも不思議でたまらない。時折無性にそう思うんだ。どうしてあんな良い人が、あんな風に死んだのか。あんな風に殺されたのか」

 

 昔を思い出しているのか、目を細めて遠くを見つめていた。頬にはうっすらと、涙の線が浮かんでいる。

 

「そしてな、妻を殺した奴が今も幸せに生きていると思うとな、胸が詰まるんだ。どうして妻の代わりにそんな奴がって。博麗の巫女はどうしてそいつを退治をしないのかって」

「管轄外だからだったんだろ。人間は退治されない。当たり前だ」

 

 博麗の巫女。人に危害を与える妖怪を退治する幻想郷の警察。ただ、人間は退治しない。当然だ。仮に、妖怪になろうとしている人間がいたならば話は別だが、普通の人間を殺すようなことはしない。それは彼女の仕事ではない。そして、誰の仕事でもないのだ。

 

「分かっている。だから、その時に手を貸してくれたお前さんには一応感謝しているんだ」

「そう思うなら、次の蕎麦にはかき揚げでもつけてくれよ」

 

 上半身を左手で支えた彼は、ぽかんと口を開け、目を丸くした。だが、すぐにその張り出した頬骨を浮き上がらせて、声をあげて笑い出す。ゲラゲラと楽しそうに。彼の笑い声が、立て付けの悪い扉をカタカタと震わせる。部屋の中の鬱蒼とした空気が晴れて言ったような気がした。

 その様子を呆然と見つめていた私に、彼は大声で怒鳴りつけた。

「絶対に嫌だ!」

 

 

 

 

 

 彼が死亡するのはこれから二日後の事である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「号外! 号外です!」

 

 昨日の慧音のせいで痛む額をさすりながら、朝飯をたかりに甘味屋へと足を運んでいると、威勢のいい声が聞こえてきた。こんなに早い時間から烏天狗が新聞を配っているのか、と鈍い頭に軽い衝撃が走る。短い黒髪を揺らしながら、肌寒い朝の空気に負けないように必死に叫ぶその姿を見ると、やっぱり烏は朝方なのだな、と再認識する。鳥目では夜は動けないのだろう。

 

「ごうがーい! 号外ですよー!」

 

 しかし、元気な烏の鳴き声とは裏腹に、新聞は一向にさばけていなかった。通りがかる人も、初めは興味を惹かれて近づいていくが、新聞の一面を見た途端に顔を俯かせて早足で去っていく。一体彼女の新聞には何が書かれているのだろうか。少し好奇心がうずいた。

 

「号外でーす。私、射命丸文が、腕によりをかけて作った文文。新聞の号外です!」

「朝からガーガー煩いぞ。鶏にでも進化したのか」

 

 私が声をかけると、彼女、射命丸文は嬉しそうに振り返った。だが、私の顔を見た瞬間に口元は段々と下がっていき、はぁと大きなため息を吐いた。

 

「あややや。これはこれは天邪鬼じゃないですか。残念ながら私の持っているこれは食べ物じゃありませんよ。シンブンという文化的で素晴らしい物なのです。向こうに甘味屋があるので、食べてきたらどうですか?」

 

 烏はわざとらしく眉をあげて首を傾けた。何か臭い物でも払うようにひらひらと手を振っている。

 

「そんな分かりやすい挑発には乗らない。これだから烏天狗は駄目なんだ。折角新聞を貰ってやろうと思ったのに」

「十文です」

「金取るのかよ。しかも高けぇ」

「当然です。紙だっていい素材を使ってるんですから。なんと、火にくべても燃えにくいんですよ!」

「それ、逆に不便だろ」

 

 懐に入っている袋に手を伸ばす。塩とは別に幾らか金が入っていたはずだ。手探りでそれらを握り引っ張り出す。穴の開いたくすんだ貨幣が9枚出てきた。

 

「あややや、一文足りないですね」

「はっ」

 

 ニヤニヤしながら私の周りをぐるぐると歩いている烏を睨みつける。烏天狗なら烏らしく、空でも飛んで虫でも食べてればいいのに。どうして新聞など書いているのだろうか。

 

 まぁ、少し興味がわいただけで金を払ってまで読みたいものじゃ無い。そう自分に言い聞かせて踵を返そうとした時、彼女の抱えている新聞の見出しが目に入った。

 

 “極悪人に天罰か!? 人里の外れで謎の死“

 

 思わず、あっと声を漏らしてしまう。動悸が激しくなっていき、背中に嫌な汗が流れた。頭が熱くなっていき、息があがる。もしかして、自分の事が書いてあるのではないか、と肝が冷えた。

 

「どうしましたか? 私の新聞の魅力に取りつかれちゃいました?」

「一部よこせ」

「はい?」素っ頓狂な高い声を漏らした。

「一部よこせ、といったんだ」

「え」

「金なら後で幾らでも払う。何なら誓約書を書いていい。塩! 塩なら持っているし、何なら私が持っている物なら何でもくれてやる。土下座だってしたやっていい。だ、だから!」

「お、落ち着いてください。ほら、深呼吸」

 

 顔を近づける私を押し戻すように、両手を自分の身体の前に立てた。背中の大きな翼を小刻みに震わせて、その短い黒髪を何度も右手でいじっている。

 

「どうしたんですか。急に。本当に私の新聞の虜になったんですか?」

「……頼む。いや、どうかお願いします」一歩下がり、腰を落として頭を地面に擦り付ける。

「あやややや、すみません鳥肌が凄いんで止めてください。まぁ、元々鳥肌ですけど」

「じゃぁどうすれば!」

「いや、普通に無料であげますよ。まさか高々一文のために土下座までするとは思いませんでした」

 

 彼女の思わぬ返事に、頭が真っ白になる。目をぱちくりとさせている私を見て、烏天狗は薄く笑った。

 

「そこまで私の新聞を欲しがっている人を無下には扱いませんよ。それに号外というものは元々無料で配るものだそうですし」

「じゃぁ、何で十文なんて言ったんだよ」

 

 彼女はふふん、と楽しそうな声で笑い、手を後ろにくんだ。真っ青な空を見上げて、鼻歌を歌っているかのように、小さく息をはいている。

 

「そっちの方が面白くなりそうだったからです」

「死ね。私の土下座を返せ」

 

 彼女の左腕に抱えられている紙束から、乱雑に一部奪い取る。くしゃりと紙が潰れる感触と共にえぇ、と不満げな声が耳についた。

 

「土下座までして貰った新聞なんですから、もうちょっと丁寧に扱って下さいよ」

「分かってないな。私は捨てるためのプライドしか持ってないんだよ。土下座なんて屁でもないね」

「うわっ、情けないですね」

 

 呆れや嘲笑を通り越したのか、悲しげな笑みを浮かべた烏に背を向けて、甘味屋へと足を進める。こいつと話していると、自分が天邪鬼という事を忘れてしまう程に、言いくるめられてしまう。元々ないに等しい自尊心がガラガラと音をたてて崩れていくようだ。

 

「どこに行くんです?」

「お前には関係ない」

「へー」真っ黒な目がいやらしく光った。

「もしかして甘味屋ですか?」 

「分かっているなら聞くなよ。分かっていて聞いていいのは、愛を確かめる時だけだ」

「気持ち悪いですね」小さく口を開けて、えづく振りをした。

「でも、たった九銭では団子一つ買えませんよ」

「大丈夫だ」

 

 青空の端に、まだ上がってきたばかりの太陽が見えた。まだ眠いんだ、そっとして置いてくれよ。そう駄々をこねているように見える。だが、残念な事にそうは問屋が卸さないようで、今日は太陽が隠れる場所も無いような晴天だ。

 

 青白い空がそんな情けない太陽を必死に揺り起こして、仕事をさせているのだろうか。そんな突飛も無い事が思いついた。きっと青白い奴は、そういう運命なのだ。宿命といってもいい。

 

 後ろを振り返って、烏に視線を向ける。訝しげに見つめる彼女の視線が、私の神経を逆なでする。いつもふん反りかえって、偉そうで、馬鹿にして、私の株を奪って、でも偶に優しくて、そんな彼女のことが、私は嫌いだった。大嫌いだ。だから

 

「当てがある」

 

 だから、根拠もなくそんな虚勢をはってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで私を連れてきたのか」

 

 机の上に置かれた饅頭を口へと放り込む。仄かな塩の辛さが餡子の甘さを際立たせ、幸せが口いっぱいに広がった。やはりここの甘味屋の饅頭は最高だ。そして何より他人の金で 食べる物が不味いはずがない。まだ口の中に残っているのにも関わらず、ついつい手が伸びてしまう。

 

「大事な話があると来てみれば……。というか食べ過ぎだ!」

「いいじゃねぇか先生。困っている弱者は助けるべき、だぞ」

 

 眉をひそめた慧音は、困ったように薄く微笑んだ。騒めく彼女を他所に、団子を手に口に頬張る。彼女は不満げに少し口を動かしていたが、彼女の声は繁盛している店の活気でたち消えていった。

 

 早朝の寺子屋に慧音がいるかどうかは賭けだった。だから寺子屋の前で箒を持っている彼女を見た時には、思わず拳を握った。それから先は得意分野だ。深刻な顔をつくり、話があるというだけで、彼女はひょいひょいと着いてきた。

 

「人からの慰め物を享受するとは、さすがは天邪鬼ですね」

 隣の席から、パシャリという機械的な音が聞こえた。

「何でお前も着いてきたんだ」

「だって面白そうでしたから。もしかすると記事に出来るかもしれません」

 

 出されたお茶をすすりながら、烏は嘯いた。結局自慢の号外をさばく事は出来なかったようで、綺麗に畳まれた新聞が懐から見え隠れしている。あとでお茶をぶっかけてやろう。

 

「射命丸……。お前とそこの天邪鬼に接点があったとは、驚きだな」

「慧音先生こそ、いつの間にこんな小物と茶をかわす仲に?」

「昨日初めて話したよ。まさか泣かれるとは思わなかったが」

「詳しく教えてください!」

「止めろ」

 

 意気投合し始めた二人を引き剥がすように、団子を持った手を伸ばす。この二人を会わせたのは失敗だったか。

 

「それよりも」話題を変えようと、何とか口を動かす。

「それよりも烏天狗。お前の新聞に嘘はないか」

「あやや、突然なんですか」

 

 少し大きな声を出してしまったからか、一人甘味に夢中になっている子供を除いて、周りの客の視線が一瞬こちらに向いた。だが、すぐに興味を失くしたのか、すぐに各々の甘味へと視線が戻されていく。

 

「答えろ」

「はぁ。当然虚偽の情報なんて書かれていませんよ。清く正しい射命丸文とは私のことです」

「清く正しいだなんて自称してる奴で、真っ当な奴はいねぇよ」相手を馬鹿にするように、片方の口角をあげて笑う。

「まだ私の方がましだね」

「それは無い」慧音が断言した。

「あなたが言う事は、全て噓だと思っている」

「天邪鬼だからといって全て嘘をつく訳じゃねぇ」

 

 勝ち誇ったような笑みを浮かべている烏に舌打ちをして、懐に手を入れる。ザラザラとした紙の感触と、冷たい丸い金属が肌に触れた。少し皺が出来ている新聞を引っ張り出そうとすると、丸められた新聞に押し出されるように、小銭がするりと零れ落ちた。チャリンと小さな音が鳴り、ころころと店の奥へと転がっていく。取りに行こうとも思ったが、連れの二人はそれに気づいていないようなので、すんでの所で思いとどまる。たかが一文のために、地べたを這いつくばる姿を、記事にされてしまったら釣り合いが取れない。誤魔化すように手に持った新聞を机に叩きつける。机上の皿がグラグラと揺れた。

 

「なら、お前が清く正しいというのなら、この新聞も正しいという事でいいんだな?」

「この瓦版は……。射命丸が書いたのか」

「その通り!」烏が得意げに鼻を鳴らした。

「今回は多くの人から情報を得られましてね。力作ですよ!」

 

 顔を輝かせる烏とは対照的に、少し汚れた新聞を見つめる慧音の顔は優れなかった。まるで部屋にいる蛆を見てしまったかのような、渋い顔だ。 

 

「射命丸。この“天罰”ってのは」慧音が恐る恐る尋ねた。

「そりゃぁ、この前の殺人事件についてですよ。人里であれ程残酷な死体は珍しいですからね」

 余程自信があるのか、目の前に広げられた新聞を撫でながら楽しそうに頬を緩めた。

「しかも殺されたのが人里中から嫌われていた老人。悪評は絶えることが無いとの事でした。きっと皆が関心を持っているに違いない、と思ったんですが」

「ほとんど貰ってくれなかったと」慧音が小さく声を漏らした。

「そうなんですよ……。これだから低能な読者は困りますね」

「お前の新聞がつまらねぇだけだよ」

 ぴくりと眉をあげた烏を見下しながら、あと一つとなった饅頭を口に入れる。

 

 確か烏天狗の中では、自分達が作った新聞を評価しあう“大会”なるものがあったはずだ。目の前の自信過剰な烏がその大会について言及しないという事は、あまりいい結果では無いのだろう。それにもめげずに新聞を作り続ける姿勢は、見ていて吐き気を催すほどに、健気だ。

 

「いや、そうとも限らない」慧音が苦々しそうに口を開いた。

「人間は同族の死についての情報を好まない」

「はい? 何故です? 同族の死の原因を知ることは、自身の安全にもつながるでしょうに。しかも殺された人物が悪人であれば同情の余地もないはずです。むしろ鬱憤が晴れるんじゃないですか?」

 

 自分の選んだ題材を批判されたからだろうか、少し声を尖らせて烏が喚いた。

 確かに、と私も続ける。弱い人間が生き延びるためには、それくらいの事はしておいた方がいいに決まっている。

 

「あなた達には、きっと分からないさ」

「何がだ」

 肩をすくめて呆れている慧音に、少し腹が立った。

「お前の愚かさか? それは十分に知っている」

「違いますよ、天邪鬼」烏も私と同じ感情を抱いたのか、うすら寒い仮面のような笑顔を浮かべて言った。

「半獣の汚らわしさです」

「それも知っている」

 烏のうす気味悪さも知っている、と心の中でつけ加えた。

 

「二人とも冗談はそれまでだ」

 

 慧音が小さく両手を叩いた。私としてみれば、冗談では無かったのだが、彼女は自分が愚かであるという発想自体が無いのだろう。おめでたい奴だ。

 

「お前たちが知らないのは」

 慧音は団子の串を私たちに向けた。いちいち説教のように、偉ぶって話す感覚が理解できない。頭痛がする。不気味だ。

「お前たちが知らないのは、人間の弱さだよ。人の心はいつだって不合理で、理不尽なんだ」

「さすがはセンセイだな。とてもべんきょーになります」

 

 相も変わらず、我らが先生の話はどう足掻いても面白くない。何が人間の弱さだ。弱いのはお前の会話力だろうが。

 

「そんな事よりも!」烏が大きな声で、口を挟んだ。

「この事件についてどう思います?」

「どう、とは」慧音にしては珍しく、露骨に嫌そうな顔をした。

「そりゃぁ、犯人ですよ。犯人。気になりません?」

「ならねぇ。いつもの事じゃないか」

 

 いくら妖怪に襲われない人里だからといえども、人が死ぬことは珍しい事でもない。飢饉や病は数知れず、理性を持たない低級の妖怪や人間による殺人も度々起きている。いつの日だったか、何人かの人間と一匹の妖怪が博麗の巫女に請願しに行ったことがあった。一人の女性が何者かによって殺された時だ。まだ年は若く、笑うときに見えるえくぼが印象的な、大和撫子だった。その女性はお淑やかで、気難しい旦那を支える良き妻だったという。だが、小さな包丁で胸を一突き。たったそれだけの事で命を失った。明らかに人間の仕業だった。

 

 憤る人間の強い願いとは裏腹に、博麗の巫女は淡々と請願に来た人々にこう告げた。管轄外だ、と。そのあまりにも簡潔で、そして真っ当な宣告に、その人間たちの中心人物、その殺された女性の夫は思わず「かんかつって、キャベツと一緒に食べたら美味しそうだな」と意味不明な言葉を漏らした。

 

「いえ! 今回はいつもと違う事ばかりです。ここを見てください」烏は新聞の左上の文字列を指さした。

「全身は赤黒く変色し、肌はボロボロ。しかし火傷をした訳でも無い。それでもって直接の死因は心臓を包丁で刺した傷。ね? おかしいじゃないですか」

 

 おかしいのは、こんな糞みたいな新聞を人に渡せるお前の度胸だ。

 

「私の見解として、今回の事件は妖怪の賢者の仕業だと思っています」

「妖怪の賢者?」

 

 烏は、新聞に大きく載せられた写真をパシパシと叩いた。彼女が撮ったであろうその写真は、私のような小物が目にしてはならないような、そんな高貴さが漂っていた。それもこれも被写体の大妖怪のせいだ。絹のようで、病的なまでに白い肌と、金箔のように輝く長い髪。そして、何もかもを見通しているかのような紫の瞳。一見すると魅力的だが、何処となく不気味だ。斜め下から撮られており、顔の左半分が陰に隠れている。背景は黒く塗りつぶされており、“悪の親玉”という言葉が似合うような、そんな笑みを浮かべていた。

 

「よく写真を撮れたな」驚いたように、慧音が口を開いた。

「下手したら殺されていたかもしれないのに」

「あややや、そこまで彼女は早計じゃありませんよ。それに、この写真は博麗の巫女に撮ってもらったのです」

 

 もう一度、新聞に目を落とす。写真の向こうの賢者様が、こちらをギラリと睨んだ気がした。反射的に後ろへ逃げようとして慧音の足をけり上げてしまい、睨まれた。

 

「それでですね。私の説としては」烏が、慧音のように串で私を指しながら言葉を並べた。

「私の説としては、きっとこの老人の悪行を見かねた妖怪の賢者が、彼を殺したんだと思うんですよ」

 

 私の説としては、烏の頭の中は空っぽであると思うんですよ。

 

「でも、それなら彼以外にも悪人なんて数多くいるじゃないか。なぜ彼なんだ?」

「あー、えっと」

「それは、あの野郎が村で一番恨まれていたからですよ」

 

 慧音の質問に答えたのは烏ではなく、隣の席に座っていた男だった。長く、白色交じりの髪を後ろに結っている。突き出している腹を撫でながら、ぐへへと笑うその姿は汚らしいが、来ている服は金の刺繍が入った、綺麗なものだった。

 

「一週間ぶりですね、先生。これ、感謝の気持ちです」

「おお、喜知田か。元気そうで安心したよ」

 喜知田と呼ばれた男は、おはぎを机の上に置きながら、机上の新聞を見て眉をひそめた。

「本当に碌でもない男でしたよ。こいつは」

「詳しく教えてください!」

 

 手帳を取り出して、目を輝かせた烏に気圧されたのか、喜知田は薄く苦笑いをした。その顔はまるで子供のように幼く、ちらりと見える八重歯がそれを助長していた。きっと、実はまだ寺子屋に通っていると言い出しても、驚く人の方が少ないだろう。世間知らずのお坊ちゃま、といったところか。だが、色が抜けた髪と、目元や額の皺で、そろそろ還暦を迎えるくらいの年齢にも見える。

 

「詳しくも何も、あなたの新聞に書いてある通りですよ。窃盗、暴行は数知れず、無銭飲食をしない方が珍しい。綺麗な女性を強引に妻にしたかと思えば、すぐに不倫をしまくって、挙句の果てに」喜知田は何度か目をしばたかせた。

 

「挙句の果てに、その奥さんを殺してしまうような奴です」

 

 

 

 

「今の話は本当か。烏」

 

 このおはぎは奢りです。大丈夫、人間は二束三文にケチをつける程弱くありません。そう残し去っていった喜知田の背中を見つめながら、烏に尋ねた。

 

「おそらく本当なんじゃないですか? 人里の人間は同じような事を皆言っていましたよ」

「皆が言えばそれが嘘でも本当になる。そしてそれが常識となるんだよ」

 気がつけば、いつの間にか口から言葉が飛び出ていた。

 

「何を訳の分からない事を言っているんですか?」

「やっぱ訳分かんねぇよな」

 

 餡子が手に着くことも厭わずに、そのままおはぎを鷲掴みにして、口に運ぶ。餡子の甘さが口いっぱいに広がった。が、どこか塩辛い。彼が悪人? 窃盗? 食い逃げ? ありえない。そして、何よりありえないのは、彼が奥さんを殺したという話だ。

 

 先程、喜知田と呼ばれた男からその話を聞いた時、思わず殴り掛かりそうになった。それは彼に対する何よりの冒涜であり、そんなデマを流した奴は絶対に許さない、と私に決意させるのに十分であった。だから、思わず口を滑らせた。

 

「でもよ、奥さんを殺した犯人は分からず仕舞いって話だったじゃねぇか」

 博麗の巫女の管轄外だ、という言葉が頭に浮かんだ。

「そうなんですか? 普通の殺人なんて、面白くなかったんで調べてなかったです」

 

 殺人に面白い、面白くないの区別があるとは知らなかった。だとすれば、この一面を飾った被害者は、さぞかし鼻が高いだろう。おい、あんたの死に様は面白かったらしいぞ、と新聞に声をかけたくなる。

 

「私も詳しくは知らないのだが」

 険しい顔をした慧音が口を挟んだ。その声は心なしか少し震えている。

「あの痛ましい事件は、この男が犯人で間違いないそうだ」

「あの面白くない事件か?」

「痛ましい事件、だ」

 

 視線が右往左往している慧音は、おはぎへと手を伸ばした。が、手が汚れると気がついたのだろう。顔を赤らめて箸を掴みなおす。

 

 小さくあややと呟いた烏が、カメラを構えて、慧音へと向けた。その口はにやついて、だらしなく涎が光っている。

 

 烏がカメラの突起物に触れようとした時、あー! と叫ぶ子供の声が店に響き渡った。びくりと少し震えた烏は、どうやら上手く写真を撮ることが出来なかったようで、不服そうにその声をした方向へと目を向けた。私も釣られるように、彼女と同じ方向を向く。

 

 あー! と再び声が響いた。今度は子供の声では無く、低い、女性の声。つまり、私の声だ。

 

 先程叫んだ少年は、満面の笑みを浮かべて、母親と思われる女性と話していた。その手には、小さな円い金属が乗っている。真ん中に小さく穴が空いた貨幣だ。私が落とした一文だ。

 

 椅子を蹴り倒すようにして立ち上がり、その母子へと詰め寄る。私に気がついたのか、硬貨を握りしめた少年が、不思議そうにこちらを見つめてくる。

 

「おう少年。すまないがその金は私のなんだ。返してくれ」

 

 私の言った言葉が理解できていないのか、口を鯉のようにパクパクとさせている少年を抱きしめるように、母親が私に体を向けた。明らかに私に怯えている。私はどうなってもいいので、どうかこの子だけは、と思っているのか、それとも弱小妖怪の天邪鬼は大のおとなには敵わないと高を括っているのか、いずれにしても腹立たしい事には変わりはない。

 

 これは少しきつい言葉が必要だと、胸を高鳴らせて、とっておきの罵詈雑言を浴びせようと口を開けた時、母親に抱きかかえられた少年が手のひらを広げて、私へと伸ばした。

 

「はい、お姉さん。次はなくさないでね!」

「お、おう」

 

 穢れを知らない純粋無垢な笑顔で、小銭を渡された。呆気に取られている私を他所に、逃げるようにして母親が少年を抱いたまま、甘味屋から出ていく。その間、少年はずっと私に向けて手を振っていた。唇を強くかむ。込み上げてくる不快感と吐き気を堪えながら、小さく息をのんだ。無償の善意。私がこの世の中で一番嫌いなものだ。

 

 パシャリ、という嫌な音が耳についた。

 

 後ろを振り返ると、口が裂けたんじゃないかと思う程にやけている烏と、ため息を吐いて、頭を手で押さえている慧音の姿が目に入った。

 

「天邪鬼。さっき私は、あなたには人間の心の弱さなんて分からないといったな」

「そうだったか?」

 慧音の話は半分聞いていなかったので、覚えていない。

 

「訂正する」

「は?」

「人間は二束三文を気にするほど、弱くないそうだ」

 慧音は憐れむように、薄く微笑んだ。

「お前は人間よりも人間らしいほどに、心が弱いよ」

 パシャリという音が、もう一度甘味屋に響いた、気がした。

 



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天罰と私刑

 行きつけの蕎麦屋の親父に、天罰ってあると思うか? と言われたことがある。

「俺はな、そんな便利なものは無いと思うんだ」

「いきなり何だよ」

 

 相も変わらず寂れた店内には、布団からのそりと起き上がった老人と、湯気をあげている蕎麦だけがあった。正直、目の前の蕎麦を作れるほど、彼に元気があるとは思えないが、不思議と彼ならば何時でも作れるだろうという確信もあった。もしかすると、彼は死んでからも蕎麦をうてるかもしれない。

 

「よくよく考えてもみろ、悪人全員に天罰が下るんだったら」

「下るんだったら?」

「人間なんていなくなっちまう」彼はカラカラと楽しそうに笑って、棒読みでこう続けた。

「生態系が崩れてしまいます」

 

 どうしてこうも性根が腐ったやつがこんなに上手い蕎麦を作れるのか、甚だ不思議だ。天邪鬼の私から見ても精神がねじ曲がっている。つまりは他の人間からすれば、心がおかしい、変人と見られてもおかしくない。こんなに美味な蕎麦をうつのに、人が来ないのはそういう事だろう。

 

「もし本当に天罰があるならお前はもう死んでいるよ」

「どうして?」彼は子供のように首を傾げた。

「私に嘘をついていた」

「また不倫の話か」

 尻すぼみに呟いた彼の顔を見て、私は声をあげて笑った。

「まぁ、私のような悪人も死んでいるだろうがな」

「いや」湯呑に手を伸ばしながら、彼は小さく首を振った。

「お前は死なんだろう」

「おいおい、冗談じゃない。冗談は女癖の悪さだけにしろ。そんなんじゃ、奥さんに愛想を尽かされるぞ」

「冗談じゃない」

 

 それは、私が天罰を受けて死ぬことについて言ったのか、それとも奥さんに愛想を尽かされることについて言ったのか、分からなかった。が、机の端に飾ってある一枚の写真を見て、小さく微笑んでいる彼を見ると、きっと愛想を尽かされる可能性なんて考えたことが無いんだろう。

 

「なんで、あんなに出来た女がお前みたいなのと結婚したのだろうか」

 神は二物を与えないというが、彼女が与えられなかったのは男を見る目だろう。なんと残酷な事か。

「選択を誤ったとしか思えない」

「そりゃぁ当然」彼は痩せこけて、黒くなっている頬を緩ませた。

「俺がそれに見合う男だったからだろう」

「冗談じゃない」

 

 私とは丁度一番遠い所に置かれた写真を見る。その写真は全体的に薄くぼやけていて、中心も彼女からずれている。お世辞にも上手く撮れているとは言えなかった。だが、そんな些細なことを吹き飛ばすほどに、映る女性は綺麗だ。後ろに束ねられた黒い髪は美しく、薄く微笑む姿は絵画の様でもある。

 

「きれいに撮れているだろ」

 自慢げに鼻を鳴らした彼は、親指を自分に向けた。

「俺が撮ったんだ」

「下手すぎる」

 

 この前、知り合いの烏に見せてもらった写真を思い出した。人里の守護者と、村人が笑顔で映っている写真だ。その時には、下手だ、構図が悪い、と馬鹿にしたが、こうして比べると、やはり上手かったのだなと感じる。絶対に口には出さないが。

 

「ふん、自分でやったことのない奴はすぐに文句を言う」右腕を摩りながら、彼はそう呟いた。

「意外と難しいもんだぞ」

「素直に他の奴に任せれば良かったんだよ。烏とか」

「分かってないな」

「何がだよ」得意げに笑った彼のせいで、自然と声が低くなる。

「こういうのは自分でやる事に価値がある」

「はっ」

 

 今ではお茶を飲むことも一人じゃ満足に出来ない癖に。一体何様のつもりだろうか。

 

「いいか、人ってのは本当に必要なときは自分で行動しないといけないんだ」

「私は人じゃない。妖怪だ」彼を睨みながら、語気を強めた。

「前にも言ったろ。お前は妖怪だが、人間よりも人間らしい」

 

 記憶の奥を辿るも、そんな事を言われたような覚えはない。正確には、言われたような気がしないでもないが、彼の戯言をすべて覚えているはずもなかった。

 

「だからな、お前もいざという時には人に頼るんじゃねぇぞ。自分で何とかするんだ」

「写真を撮るときとか?」

「そうだ」

 

 神妙な顔つきで頷いた彼を見つめる。目の上には、昨日まで目立っていた白い眉毛の代わりに、赤黒いかさぶたがへばり付いている。彼が身動きするたびに、ぽろぽろと皮膚が剥がれ落ちた。

 

「それと、だな」

 のどに詰まった餅を吐き出すようにして、彼は口を開いた。

 

 彼の後ろの、古い置時計がカチリと音を立てる。黄色の塗装が所々はがれたそれは、持ち主の爺と同じように、いつ止まってしまってもおかしくない。そのくらい、年季が入っている。その時計が小さくボーンと音を立てた。低い鐘の音で、午後六時を知らせた。

 

「人に頼るのも当然駄目だが、神様なんてもっと駄目だ。いいか、覚えておけよ。神は何もしてくれないんだ。期待するな。自分でやれ」

「そりゃあ神は写真を撮ってくれないだろ」突然出てきた“神”という言葉に面食らったが、この頑固な親父がそういう類のものを毛嫌いしていたとしても不思議では無かった。むしろ、妖怪と神なんてどっちも似たようなもんだろ、とも言い出しかねない。

「そりゃ、そうだが。そうじゃなくてだな」

 

 彼は目を細めて、人差し指で頬をかいた。その度にボロボロと零れ落ちる皮膚から目を逸らし、目の前の蕎麦を注視する。つゆを飲もうと思ったが、中に浮かんでいる天かすが、剥がれ落ちた皮膚のように見えたので、止めた。

 

「神に祈って何かをするより、自分で行動する方が安全で確実という事だ」

「例えば?」

 

 きっと、上手い蕎麦を作るとかだろうな、と私は考えていた。もしくは不老不死、大穴で奥さんを生き返らせることだろうと思っていた。いや、高を括っていたといってもいい。

 

「例えば」彼はゆっくりと口を開き、私を真っすぐと見つめた。後悔と絶望が入り混じって、酷く澱んでいる。嫌な予感がした。彼の言葉を聞いてはいけないのではないか、という予感だ。急いで口を挟もうとしたが、それよりも早く彼は言葉を紡いでしまった。

 

「例えば、天罰とか、だ」

 

 

 

 

 

 彼が死亡するのは、これから一日後のことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めると、見知った少女が自分の布団で眠っていた。

 

 広い部屋には似合わない、小さな煎餅布団だ。所々黄ばんでおり、大きな穴からは綿が溢れ出ている。だが、そんな小さくみすぼらしい布団にも関わらず、決して窮屈では無かった。二人が入っているにも関わらず、だ。理由は簡単。隣で寝ている少女が圧倒的に小さいからだ。

 

 昨日甘味屋から出た後、私は真っすぐにここへと向かった。別に、ここに用事があったわけではない。こんな人里の外れにある、しかも無人のボロ屋に用がある方がおかしい。

 

 あれから、甘味屋の子供から一文を取り返してから、しばらくの間は烏に馬鹿にされ続けていた。耳元でカーッカーッと鳴かれるのは中々に鬱陶しかったが、そこまでの苦痛では無かった。そもそも烏は何をしても鬱陶しいし、鬱陶しいのには慣れている。だが、問題だったのはもう一人の方だ。もう一人の、説教くさい先生の方だ。私を寺子屋の生徒だと勘違いしているのだろうか。だとすれば、一回眼科にでも行ってきた方がいい。私はこう見えてお前よりも年上なんだぞ。あまりに長く説教を垂れ流してきたので、こう言葉を投げつけようとして、実際にそうしたのだが、結果的には説教が長引いただけだった。

 

 延々と続く、ありがたく耐えがたき説教に痺れを切らした私は、逃げるようにしてこの家へと帰ってきた。流石の慧音もここまで来るほど暇じゃないらしく、その時にゆっくりと烏の新聞を読むことが出来た。だが、期待したような内容は大してなく、男がいかに悪人で、妖怪の賢者に殺されるに足る人物かについて書かれているだけだった。それこそ、最愛の妻を殺すような奴だと。こんな記事しか書けないから、大会でも優勝できないんだ。こんなデマばかりの新聞だから、お前の新聞は台拭きに使われるんだと、一人部屋の中で喚いた。喚いているうちに、いつの間にか寝てしまった。

 

「目が覚めたか」

 

 便所の方から声が聞こえた。隣で寝ている針妙丸を引き剥がしながら、身体を起こす。小さく体を伸ばすと、ポキリと音が鳴り、鈍い痛みが腰に走った。少し寝すぎたかもしれない。

 

「良く寝ていたな。もうそろそろ昼時だぞ」

 長い銀髪を棚引かせながら、侵入者はのうのうと言った。

「何でお前がここにいる、慧音。不法侵入だ」

「あなたの家でも無いだろうに」懐からおにぎりを取り出し、私に放り投げながら、近くの椅子に深々と座り込んだ。しばらく居座る気満々だ。

「ちょっと、花を摘ませてもらったよ」

「花?」

 

 私は辺りを見渡したが、どこにも花なんて見当たらない。あるのは精々、時計と、写真と、布団くらいだ。

 

「花なんてないぞ」

「わざと言っているのか?」慧音は大きくため息を吐いた。

「花を摘むって言うのは、隠語だよ。意味は“用を足す”」

 少し頬を赤らめて、慧音は話した。どうして恥ずかしがる必要があるのか、私には理解できない。

「他にも“鷹を狩る”ってのも同じ意味だ」

「随分と格好がいいんだな」

「そうか?」

「どちらかと言えば、“鷹を狩る”ってのはもっと凄い意味で使われそうじゃないか」

「例えば?」慧音が楽しそうに、言葉を挟んだ。

「例えば、人殺しとか」

「そんな物騒な隠語なんて、使う時が無いだろう」

 

 馬鹿にするように小さく笑った慧音に、少し怒りがわいた。そもそも、人の家に勝手に来ておいて、いきなり便所から出てくるのは、かなり失礼に値するのではないだろうか。

 

「それで、何の用で来たんだよ」

 くだらない用事だったらただじゃおかないぞ、と目で訴える。

「どうして来たかといえば、昨日の続きだ」

「昨日の続き?」

「昨日の説教の続きだよ」

「おいおい嘘だろ。どれだけ暇なんだお前は」

 地獄の閻魔様もびっくりの説教狂いだ。そんなに説教が好きなら仏にでもなればいいのに。仏ほど堪忍袋は丈夫では無かったが。

 

「人を暇人みたいにいうな。私はこう見えて色々忙しいんだ。それに、今回説教をするのは私ではない」呆れているのか、小さく息を漏らした。

「お前じゃない? 私なんかに説教をしに来る酔狂な奴はお前以外、もう知らんぞ。そもそも、人に説教をしに家を訪ねるような奴が、沢山いてもらったら困る」

「別に困りはしないだろう」

「困る。生態系が崩れてしまいます」

 

 何を馬鹿な事を、と呟いた慧音は机の上に新聞を広げた。いつの間にか手に持っていた、大きな新聞だ。すると彼女はそれに目を落とし、口元に手を当て、しばらく動かなくなった。穴が空くように見つめ、呼吸を忘れてしまったかのように、意識を集中していた。

 

「何を見ているんだ」

 彼女は反応しなかった。何を思案しているのか、黙ったきりだ。

 

 私は仕方がなく、椅子に背をつけ、室内を見やる。玄関の反対側、布団ですやすやと眠っている針妙丸の近くの、大きな古びた時計が目に入った。相も変わらずボロボロで、黄色い斑点模様も少し大きくなっている。針は六と十二をまっすぐに指していた。

 

「大丈夫そうだ」慧音がぼそっと言った。

「大丈夫って、何が」

「この新聞だよ」皺を伸ばすように、大きく撫でながら彼女は満足そうに頷いた。

「内容と歴史に矛盾があっては困るからね」

 

 私には、彼女のこぼした言葉の意味が当然ながら分からない。が、彼女の話は何度聞いても分からないので、聞きなおすことはしなかった。それよりも気になったのは、その新聞に“文文。新聞”と妙に達筆な字が書かれていたことだ。

 

「おい慧音。その新聞、見せろ」

「なんだ、もしかして本当に新聞が大好きなのか。射命丸が言っていたように」余計な事を告げ口した烏の生意気な顔を思い出し、小さく舌打ちをする。

「違う。その糞烏の書いた新聞ってのが問題なんだよ」

「射命丸が大好きなのか?」

「違う!」

 

 あまりに腹立たしい問いかけに、自然に語尾が強くなってしまう。大きな声は空気を震わせ、立て付けの悪い扉をカタカタと鳴らし、机の上の新聞を捲り上げ、布団で寝ている小人の睡魔を吹き飛ばした。

 

 むぅ、と猫のような声を出した小人は、ゆっくりと上体を起こした。が、思ったよりも布団が重かったのだろう、ふぎゅぃと声にもならない声を発して、もう一度布団に倒れ込んだ。目をぱちくりさせ、自分の家の布団では無い事を思い出したのか、辺りをきょろきょろと見渡している。私たちの方を目にし、ようやく事態を認識したのか、小さく息を吐いた。が、すぐに顔が赤くなっていき、身体を小さく震わせ始める。

 

 いつの間にか、私の頬は緩んでいた。あまりの滑稽さに、愚かさに、体中に歓びが満ち満ちていく。決して針妙丸の様子が、可愛いと思ったとか、そういう訳では無い。

 

「あれだな、何でこういう時に烏はいないんだろうか。っふふ、こんなに笑えるのに」

「まぁ気持ちは分かるが。……そんなに笑ってやるな」不格好に、片方の頬を引きつらせながら言われても、説得力がない。そこまで笑いを我慢するなら、慧音も笑ってしまえばいいのに。

「おいチビ。喜べ。お前は“人に馬鹿にされる程度の能力”を持っているみたいだ。良かったな」

「良くない!」

 

 身体を起こした針妙丸は、布団の上で地団太を踏みながら、叫んだ。ぽすん、ぽすんと彼女が足を動かすたびに、布団がへこむ。その度に、体勢を崩しそうになり、あわあわと両手を振り回している。

 

 慧音がふき出した。

 私もつられる様に、声を出して笑った。腹筋が意志に反して痙攣する。息が思うようにできない。ヒィヒィと肺の隙間から空気が漏れるように、口から吐息が零れた。

 

「ひどい! 先生まで!」床に落ちた茶碗を拾いながら、針妙丸が叫んだ。

「す、すまない。あまりにも可愛らしかったから」

「いつも言ってるじゃん!」針妙丸は、ムキーッと歯を食いしばって、両手を上にあげる。そのまま慧音の方へと、とてとてと走っていき、抱きついた。きっと本人とすれば、腰辺りに抱きつきたかったのだろう、脛辺りに回った自身の手を見て、不満そうに慧音を見上げている。

 

「わたしは可愛いじゃなくて、カッコよくなりたいの! 悪い敵をばったばったと倒せるように。それこそ、先生みたいな!」

「嬉しい事を言ってくれるな」よっぽど嬉しかったのか、頬を赤らめて、これでもかという程、針妙丸の頭を撫でた。えへへと笑う針妙丸も満更ではなさそうだ。気に入らない。

 

「お前みたいなチビが、そんな事できるのか?」

「何てことを言うんだ、あなたは」慧音が眉をひそめた。

「なんてことを言うの! あなたは!」針妙丸が大声で叫ぶ。

「でも、そこら辺は心配しなくても大丈夫。だって私のお母さんは、慧音先生くらい大きかったらしいもん!」

「へぇ」

 らしい、という言葉が頭に引っかかった。いったい誰に教えてもらったのだろうか。

「だから私もゆくゆくは大きくなるはず」針妙丸は腰に手を当てて、その小さな体をぴんと伸ばした。

「いや無理だろ」

 

 雨が降ったら地面が固まるように、人里で妖怪が暴れたら巫女に殺されるように、天邪鬼が弱小妖怪であるように、針妙丸の背は小さくなくてはならない。背の大きな小人など、ありえないのだ。奇跡でも起きない限り。

 

「なんでさ!」

「簡単だよ。お前みたいな奴がでかくなってみろ。大変な事になるぞ」

「たいへんなこと?」針妙丸は小さく首を傾げた。

「どうなるの?」

 私の頬は、いつの間にか不格好に垂れさがっていた。

「生態系が崩れてしまいます」

「何てことを言うんだ、あなたは」慧音が再び眉をひそめた。

「気に入っているのか、それ」

 

 気に入っているかどうかと言われれば、存外に気に入っていた。セイタイケイという言葉の意味はよく分からなかったが、その語感や響きが心地いい。

 

「ああ、気に入っている。口は災いの元と同じくらい、好きだ」

「うちは吾輩のもの?」針妙丸は小さく首を捻った。

「違う違う。いいかい針妙丸。口は災いの元っていうのは」

 

 慧音が長い説明を始めようとした時、部屋の扉が勢いよく、開いた。扉は激しい音を立て、一回転したかと思うと壁にぶつかりすぐに跳ね返った。入ってきた男は、正確には男たちはその跳ね返った扉をさっと避けた。彼らの横で閉じた扉がけたたましい音を発し、室内が揺れた。

 

 私は何が起きたかわからなかった。いきなり扉を破壊された事よりも、この誰も来ないであろう寂れた家屋に、人間が尋ねてきたという事実に驚いた。

 

 まず、部屋に入ってきたのは、体格のいい、灰色の髪を伸ばした男だった。甘味屋であった、喜知田と呼ばれていた男だ。そいつを警護するように、五人の男が取り囲んでいる。

 

「喜知田……」慧音が、男をじっと見つめる。

 男はふくよかな腹を撫でながら、少し目を丸くした。が、すぐに目元を緩ませ、人懐っこい笑顔を浮かべた。

「慧音先生じゃないですか。こんな所でどうしたんですか?」

 

 奇遇ですね、と穏やかに話しかける男は、優しそうな雰囲気を放っていた。熊のように大きな体であるが、垂れた目つきも相まって、森のくまさんと言った方が似つかわしい。心なしか、甘味屋であった時よりも大袈裟な笑顔を浮かべている。子供に好かれそうだ。

 

 だが、どこか目の鋭さが不穏だ。腹が立って仕方がない。

 

「おい、そこのデブ」私はいつの間にか男の目の前に立っていた。

「お前は何の様で人の家に来たんだ。用もなく、こんな辺鄙なところに来るわけないよな」

「おまえなぁ」慧音が口を挟んだ。

「用もなく甘味屋に人を呼びつけたくせに、どの口が言うか」

「この口だ」

 

 ため息を吐いた慧音とは対照的に、男はふふっと小さく微笑んだ。体に似合わず、可愛らしい笑い声に悪寒が走る。気持ちが悪い。

 

「あなたは昨日の天邪鬼ですね」まるで今日の天邪鬼が別にあるかのように、男は言った。

「用もなく、家を訪ねることは悪い事なんですか?」

「悪いね」笑みを崩さずに笑っている男に殺意がわく。だが、何故自分がこれほどまでに苛立っているかが分からなかった。

「お前のせいで、崩れてしまったじゃないか」

「生態系が?」針妙丸を抱え上げた慧音が訊いた。

「違う。扉だ」

 私がそう言った瞬間、男は懐から銃を取り出した。

 

 

 

 先生、聞いてくださいよ、と愚痴を零す様に男は呟いた。言う事を聞いてくださいよ、さもなければ大変ですよ、と。

 

 気がつけば、男の傍らにいた護衛もそれぞれ武器を取り出していた。小刀や弓、札なんてものまである。そいつらは、私たちを取り囲むようにずかずかと部屋に入ってきた。

 

 それは訓練されたかのように素早い動きで、突然の出来事に困惑していた私は、何もすることが出来なかった。動いたのは、口だけだった。

 

「おいおい、人の部屋に勝手に入るなよ」私は眉をひそめた。

「せめて靴は脱げ」

「ここはあなたの家ではないでしょうに」にこやかな笑顔を浮かべたまま、男は銃を私に向けた。まるで、ここが誰の家か知っているような口ぶりだ。

 

「おい、慧音」小声で話しかけるも、返事がない。目だけを横に向けると、慧音は針妙丸と男の間に立って、両手を広げていた。

「慧音、こいつらが私に説教をしに来たってやつらか」

「そうだったら良かったんだけどな」自嘲気味に口角をあげた慧音は、小さく俯いた。

 

 男は、銃口を私に向けたまま、舐めまわす様に部屋を見渡した。視線が左から順にめぐっていき、ある一点で止まった。男の笑みが深くなる。何を見つけたのか気になり、後ろを振り向こうとするが、その前に男が口を開いた。

 

「本当は私もこんな物騒な事をしたいわけではありません。ただ、このボロ屋から出ていってくれればいいんです。そうすれば、今日は、小金持ちの私が最近買い取った小型銃を自慢しに来た。それだけの事になります」

「出ていかなかったら?」低い声で、慧音が訊いた。

「そうですね。愚かにも人里内で盗みを働こうとした天邪鬼を、正義の味方である慧音先生が捕まえようとしたけれど、最後の最後で自爆して、二人とも亡くなってしまった、なんてどうです?」

「私は自爆なんて出来ねぇ」

 

 あまりにも荒唐無稽なことをいう男に、思わず吹き出してしまいそうになる。もし本当にそんな事ができるのであれば、天邪鬼は弱小妖怪とは呼ばれない。

 

「そこの天邪鬼。あまり軽口を言わない方がいいですよ。言いすぎると、バンってなります」

 男はごく自然に、何事もないかのようだった。

「私から軽口を取ったら何が残るんだよ」

「角、とかですかね」

 

 平坦な声で、淡々とそう言った男は、銃を持ち直した。銃先の筒の空洞が、はっきりと目に映る。それは私の眉間にしっかりと狙いが定まっていた。体に緊張が走る。あんなに煽らなければよかったかな、と少しの後悔が頭をよぎった。

 

「分かった。出ていくよ」慧音が苦しそうに声を絞り出した。

「出ていくから、その物騒な物をしまってくれ」

「最初から、そう言ってくれれば良かったんですけどね」

 

 やけに物分かりがいい男が満足そうに頷くと、取り囲んでいた護衛たちが武器を下げ、玄関へと戻っていった。

 

 なぜか辛そうな慧音を横目で見る。こんな奴ら、半獣とはいえ、妖怪の血が流れている彼女からすれば、ただの雑魚のはずだ。仮にも人里の守護者を務めているのだから、私と違って、戦闘に不慣れという事も無いだろう。なのに、なぜ人間の言う事に素直に従っているのだろうか。

 

「それでは、速やかに出て行ってください。何か怪しい事をしたら撃ちますから」

「お前には人の心がないのか」

「ありますよ。妖怪のあなたとは違って」

 

 相も変わらず、笑みを浮かべている男を睨んで、舌打ちをする。せめて、男がここに来た目的だけでも知りたかった。もし私の予想が外れているならば、別に問題はない。命の危険を冒してまで、このボロ屋に居座り続けるのは、非合理的だ。彼らが去った後に、もう一度ここに戻ってこればよい。何か部屋の中にある金目の物を持っていかれる可能性もあったが、そもそも金目のものなどなかった。強いていうならば、慧音が机の上に広げた文文。新聞くらいだろう。

 

 だが、もし私の予想が当たっているとするならば、ここを動くわけにはいかない。もし彼の目的が、ここの本来の家主に関係する者ならば、ここの家主の死に関りがあるものならば、私はやらなければならない事がある。

 

「大丈夫か? そろそろ出ないと怪しまれるぞ」

 耳元で慧音がささやいた。胸がはねる。思わず飛び上がってしまいそうになった。考え事をしているうちに、いつの間にか近づいていたようだ。心臓に悪い。

 

 針妙丸をおぶった慧音は、男の方を窺いながら、指先で小さく玄関を指した。早くいけ、という事だろうか。針妙丸はというと、状況を理解しているのかいないのか、口いっぱいにおにぎりを頬張っていた。もしかすると、慧音が針妙丸を黙らせるように、と努力した結果なのかもしれない。もしそうだとすれば、それは今のところ成功している。

 

「分かった。速やかに出ていくさ、喜知田さんよ」

 

 男から目を離さずに、玄関へと歩いていく。途中で銃の引き金が引かれないかと心配になったが、杞憂に終わった。私のすぐ後ろを慧音がついて来ているのが、靴音で分かる。慧音も緊張しているのか、やや早足だ。

 

 無残に破壊された扉を避けて、敷居を超えようとした時、男が口を開いた。緊張と、奇妙な静寂が破られた動揺からか、思ったよりも足があがらず、敷居に躓いて、こけそうになる。

 

「……似ていますね」

「何がだよ」お前のせいで、私は地面に頭をぶつけそうになったんだが、と続けたが、男は私の事など最早視界に映っていなかった。

 

「慧音先生。その人形はどこで手に入れたんです?」

 慧音が背負っている針妙丸を男は指さした。

「人形? あ、ああ。これは香霖堂という店で買ったんだ」慧音はぎこちない笑顔を浮かべた。

「妖怪も良く来るから、一人では行かない方がいい」

「忠告、ありがとうございます」男の笑みは、少し崩れかけていた。

 

 一体誰に似ているのか、そもそも人形では無い事に気づかないのか、思う事はたくさんあったが、それよりも早く、ここから退散したかった。男が針妙丸に興味を持つこと自体が、おぞましく、耐えがたい事のように思えたからだ。

 

「慧音、行くぞ」

「分かっている。またな、喜知田。あんまり悪さはしないように」

 

 こんな時まで説教かよ。私はそう言おうとして、口を開き、喉に空気を入れ、吐き出そうとしたのだが、それが叶う事はなかった。

 何故か。私が話す前に、邪魔が入ったからだ。よりによって、こんな時に。どうして。頭の中に様々な思いが浮き、そして消えていった。

 彼女が、慧音が背中に抱えている小さな彼女が、くしゃみをした。別にそれ自体は普通の事だ。人間も、妖怪もくしゃみはする。確かに、彼女の口の中には米がたくさん入っていて、それが慧音の背中にべったりと付いていることを考えると、普通では無いのかもしれないが、それでも只の生理現象だ。

 

 だが、残念な事に人形はくしゃみをしない。

 

 私と慧音は同時に走り出した。目的地は分からない。とにかく、ここから離れたかった。足を進めながら、ちらりと後ろを振り返る。喜知田の笑顔は完全に消え去っており、眉間にはこれでもか皺が寄っていた。

 

「せんせい、もっと丁寧にもってよ」

 

 針妙丸の呑気な声が、後ろから聞こえた。おいおい、と思わず声に出してしまう。お前の願望通りに成長しているが、ちょっとやりすぎたかもしれないぞ、と私は呟いた。きっと、彼はそれでいい、と頷くのだろう。

 

 

 

 私たちは、人里の中心の長屋、つまりは寺子屋へとたどり着いた。中に入ると、教室と思われる部屋とは別に、布団の敷いてある小さな部屋があった。慧音曰く、休憩部屋とのことだ。寺子屋の様子は、いつもとは打って変わり、異様なまでに静まり返っている。寺子屋は土日を休日としているらしかった。

 

 結局、逃げる私たちを追ってくる奴らはいなかった。それに気がついたのは、慧音が足を止めて、正確には途中から空を飛んでいたので、足は元々止まっていたのだが、とにかく、慧音がもう大丈夫と声をかけた時だった。よくよく考えれば、人間で空を飛べる奴はほとんどいないので、そこまで焦る必要は無かったかもしれない。

 

「喜知田を責めないでやってくれ」

 移動中に眠ってしまった針妙丸を布団に寝かせながら、慧音が徐に言った。

「あの男も、かわいそうな奴なんだ」

「お前は生徒に暴言を吐く奴は許さないくせに、銃口を向けた相手は許すのか」

 

 私には、先程まで銃を向けられていた男を庇う感覚が分からなかった。自分の教え子が、命の危機に瀕したにも関わらず、激高していない慧音に違和感を覚える。人里の守護者なんて名ばかりだったのか、としばらく責問したいほどだ。教え子も守れずして、何が先生か。そう言葉を投げつけようとした時、頭にふっと考えが浮かび上がった。霧が立ち込めた洞窟に、光が鋭く差し込んだかのようだった。

 

「教え子か」私は確信を持って言った。

「あの男は、お前の元教え子なのか」

 慧音は答えなかった。眉をハの字にして、唇をかみしめている。沈黙は肯定という言葉が脳裏に浮かんだ。

 

「お前は」慧音は固く閉ざされた扉を開くように、ゆっくりと口を動かした。

「お前はどこまで知っている」

「どこまで?」あまりに抽象的な質問に、答えることが出来ない。質問は具体的にと、習わなかったのだろうか。

「喜知田について、だ」

「どこまでといっても」私は肩をすくめた。昨日知り合った男のことなど、何も知っているはずが無い。

「何も知らないだろう」

 

 一見朗らかで、優しそうな顔をしていて、甘味屋でおはぎを奢ってくれるような奴だが、その実、いきなり人の家に押し寄せて、小さな銃を使ってその家を占拠するような奴、という事だけしか知らない。

 

「私もだ」

「は?」

「私も喜知田の事を何も知らない」自嘲気味に慧音は笑った。いつものような柔らかな雰囲気は消えさり、今にも泣きだしそうだ。いきなり自分の首をくくり始めても、おかしくはない。

 

「長年、生徒として見てきても、大人になってから相談に乗っても、あいつの事は何も分からない。あいつは真面目で、優しくて、臆病で、ただちょっと貪欲だったが、それでもいい奴だった。私は、そんな事しか知らなかったんだよ」

 

 私は慧音に言い返すことも億劫で、布団で寝息を立てている針妙丸を見つめた。消え入りそうな慧音から、目を離したかったのかもしれない。

 

「たださ」慧音が言った。

「ただ?」

「喜知田は、もう二度と人を殺さない。それだけは断言できる」

「もう? 二度と?」

 

 彼女の言い方が、胸をかき回した。それではまるで、むかし一度殺したことがあるようではないか。

 

「一週間前、喜知田が私を訪ねてきた」

「え」

「あいつは、ひどく怯えていたよ」

 

 常に憎らしい笑顔を浮かべていたあの男が、怯えている姿が想像できなかった。まだ、しおらしい烏のほうが現実的だ。

 

「あいつはな、まぁ見ての通り金には困っていない。売買の仲介なんかで随分と儲けてるみたいでな。だが、少し危ない橋を渡ったりしていたせいか、商売敵からはかなり恨まれていたらしい」

「それは良かった」本当にご愁傷様です、と言ってやりたい。

「それでな。いつも護衛を引き連れているんだが」

「ああ、さっき連れていた」喜知田の後ろで立っていた5人の男を思い出す。

「でも、あれは護衛というよりは、もっと攻撃的だったな」

「きっと攻撃的な護衛だったんだ。今日は」慧音は下唇を突き出した。

「だから、今まではそんなに身の心配はしていなかったらしいんだ。命を狙われたとしても、きっと対処できるし、そもそも人里でいきなり襲い掛かってくる奴はまれだろう、って」

「高を括っていたのか」

 

 私は嘲笑を隠すことが出来なかった。人間はいつだって、楽観的に考える。慢心をする。高々人間のくせに、思い上がる。愚かで、矮小で、そんなんだから、私みたいな妖怪が生きていけてしまうのだ。

 

「そう、だな。高を括っていた。いたんだが、当てが外れた。あいつは実際に命の危機に陥った」

「何だよ。殺し屋でも雇われたのか?」

 

 人里で殺し屋を営んでいる奴がいるかどうかは知らないが、いてもおかしくはない。人間は何でも商売に結び付けるものだ。もし“殺し屋”ならぬ“殺され屋”があったとしても、私は驚かない。

 

「もし殺し屋が襲ってきたとしたら、あいつは嬉々として追い返すだろうな。あいつはそういうのが好きだったから」

「そういうの?」

「無駄な抵抗」

 

 うへぇ、と私は吐くふりをする。抵抗してきたものを、嬉々として追い返すような奴が、どうしていい奴とみなされるのか、ますます分からなくなった。と、同時に疑問も浮かんだ。

 

「なら、どうして死にそうになったんだよ。病気でもしたのか」

「惜しいな」

 

 現実はもっと残酷だ、と悲しそうに笑った慧音は、視線を床から、私へと移した。その目は、どこか睨むようで、私を捉えて離さない。

 

「呪いだ」

「え」

「呪い、と言ったんだ。もっとも、その呪いは不完全な物だったらしいんだがな。ただ、かけられた呪いが強力で、失敗してもなお効力が残っていたらしい」

 

 私は返事をすることが出来なかった。疑惑が、確信へと変わる。あの時、男を目の前にして、ぬけぬけと帰ってきてしまった後悔だけしか、思い出すことが出来ない。

 

「まぁ、あいつは専門家に頼んで“呪い返し”をしてもらったから、大丈夫だったらしいんだが、それでも心配になったらしくてな。近々、呪いの発生場所に行くと言っていたんだ」

 

 慧音の目に、鋭さが増す。だが、不思議と恐怖は無かった。おそらく、恐怖を感じる余裕すら今の私にはないのだろう。今の私の胸は、怒りと憎悪で満ちていた。私の嫌な予想は当たっていたのだ。

 

「それで、今日あいつはその場所に行ったんだ。多分な。そうしたら、私たちがいた。なぁ、教えてくれよ、天邪鬼。あの家は一体だれの家なんだ? 喜知田に呪いをかけたのはだれなんだ?」

 

 慧音の言葉など、もはや私の耳には入っていなかった。頭の中が、黒い混濁とした感情に飲み込まれていく。私の考えが正しければ、私は成し遂げなければならない。

 

「覚えているか、慧音」

 自分でも驚くほどに、私の声は冷たかった。

「強すぎる呪いをかけようとして皮膚が固まっていった男の話。お前がしてくれたよな」

「だからなんだ」

「あれな、皮膚が固まっていくんじゃなくて、錆びていくんだ。体の端からゆっくりと。骨は砕け、肉は潰れ、皮膚は錆びる。体がぐちゃぐちゃになっていくんだ」

 今思えば、彼はそんな痛みの中、笑顔を浮かべていたのだろう。

「馬鹿だったな。身の程知らずも甚だしい。馬鹿だったよ」

 

 彼の事を考えると、使命感が燃え上がる。やらなければならない、ではない。やる以外ないのだ。今の私にとって、それを奪われてしまったら、生きていけないかもしれない。

 

「二十か三十年くらい昔に、人間の女性が殺された事件、覚えてるか?」

「質問しているのは私だ」

「人里で起きた、あの面白くない事件だよ。胸を包丁で一刺し。あの犯人が捕まっていないはずの、何故かその女性の夫が犯人ってことになった事件だ」

 

 慧音は返事をしなかった。が、視線が分かりやすく右往左往している。ただでさえ、青くなっていた顔がさらに血の気を失っていった。

 

「あれの犯人って、もしかして喜知田じゃないのか?」

 

 慧音の体が少し震えた。私を見つめる目は、もはや焦点を失っている。答えを言っているも同様だった。胸の奥に潜んだ怒りが、爆発しそうだ。

 

 きっと、慧音が真実を隠していたのも、喜知田を庇っているのも、それ相応の理由があるのだろう。慧音は良い奴だ。それこそ、自分を犠牲にしてまで他者を助けるような奴だ。そんな彼女の事だから、今回も何かしら事情を抱えているに違いない。そんな事は分かっている。彼女に怒りをぶつけるのはお門違いだ。だが、私にそこまでの忍耐は無かった。

 

「慧音、お前はこの事を知っていたんだよな。罪のない女性を殺した殺人鬼を、人里の守護者であるお前が野放しにしていたってことだよな」

 

 もう二度と殺人をしない。慧音は喜知田をそう評した。でも、だからといって、それで一回目の殺人が許されていいはずがない。妖怪が人里で殺人を犯せば、巫女に殺されるように、人間が人里で殺人を犯せば、裁かれなければならない。天罰が下されないといけない。天罰を神に任せてはいけない。大事な事は自分でしなければならない。

 

 私は慧音と顔を合わせまいと後ろを向こうとしたが、その前に慧音が、なぁ天邪鬼、と私を呼び止めた。

 

「シロウオの踊り食いってのと、アジの開き、どっちがいいだろうか」慧音が虚ろな目で、そう呟いた。

「は?」

「私はね、シロウオの踊り食いの方が好きなんだ」

 

 慧音は、まるで罪を独白する犯罪者のように、胸の前に手を当てて、ぶつぶつと呟いた。突拍子の無い話に、頭がついていかない。彼女も正気を失ってしまったのだろうか。それでもいいか、と私は思ってしまっている。

 

「だって」慧音の声は、抑揚のない機械のようだった。

「生きているんだから。きっと私はどんな時でも、生きている方を選ぶよ。死んでいる方は、どうしようも無いからね」

 

 開いた口が塞がらなかった。頭の中の何か大事な線が、音を立てて切れてしまった。目の前が真っ白になる。頭が急速に冴えていった。私は冷静だ、と勘違いするくらいには混乱している。

 

「慧音、お前は」

 殺された女性をどうしようも無いと思っているのか、そう言い残して、私は慧音に背を向ける。玄関までの廊下を早足で駆けていく。そこまで距離は無いはずなのに、やけに長く感じた。

 

「どこに行くんだ」

 慧音は小さな声で訊いた。その声は酷く震えており、焦燥している。もう、涙を隠そうともしなかった。見ていて、胸が痛む。だが、ただそれだけだった。

 どこに行くのか。そんなのは決まっていた。

 

「鷹を狩りに行くんだよ」



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運命と偶然

 行きつけの蕎麦屋の親父に、胸に包丁を突き刺して殺してくれないか、と言われたことがある。

「頼む、一生のお願いってやつだ」

 

 人里の外れにある蕎麦屋は、夕飯時だというのに、何時ものように閑古鳥が鳴いていた。机の上に置かれている湯気を立てている蕎麦も、部屋の対極に置かれている女性の写真も、小さな心地いい音を立てている古びた大時計も、いつもと同じだった。

 

 いつもと違うのは、部屋の隅に敷かれた布団で寝ている男の様子だけだ。

 

 体の大半は掛け布団で覆われているが、その掛布団には所々染みが浮かんでいる。赤黒い染みだ。その布団から出ている顔や腕の色も、その染みと同じ色だった。よくよく目を凝らすと、皮膚が全て、大きなかさぶたのような物に覆いつくされているようだった。昨日までは、蕎麦みたいな腕だったのが、今日は錆びた鉄のような色になってしまっている。

 

 それを見た私は、当然酷く動揺した。眩暈がして、足元がふらつき、嘔吐しそうになり、口元に自然と手が伸びた。だが、それでも私は平静を保とうと、正しくは平静を装うとしたが、それも彼の一言で大きく打ちのめされてしまった。

 

「何、言ってんだよ」かろうじて出た私の声は、蚊の鳴く声よりも小さかった。

「嫌だ。お前、嫌だ。そんなの嫌だよ。だって、だってよ」

 

 言いたいことはたくさんあった。お前の病気はそんなに酷かったのか。何故隠していたのか。もう諦めるのか。これから私はどこで蕎麦を食べればいいのか。話したいことは、無限にあった。だが、上手く口に出すことが出来ない。天邪鬼だというのに、口から生まれた妖怪であるというのに、こういう時に限って、口が回らない。 

 

「おいおい、天邪鬼が言葉を詰まらせてんじゃねぇよ」いつもと同じ調子で、彼は笑った。

「まぁ、聞けよ」

 

 彼の様子に安心したのか、少し冷静になった私は、彼の布団のそばへと駆け寄る。途中で足がもつれかけたが、彼に覚られないように、ゆっくりと腰を落とした。

 

「俺はな、人生ってのは蕎麦だと思うんだ」長年考えていた洒落を言うように、彼は頬を赤らめ、身をよじらせた。

「何、言ってんだよ」

 私の頬はきっと、緩んでいるはずだ。

「いいから聞けよ。俺はな、妻を殺されてから、ずっとあることを考えていたんだ。何かわかるか?」

「蕎麦の事か」

「それもある」

 

 私と彼は、声をあげて笑った。一方は、呼吸をするたびに口元に血が溢れて、一方は目から涙が溢れていたが、それでも私たちは笑った。

 

「それはな、復讐だよ。いつか犯人を酷い目に会わせてやるって決意したんだ。巫女が管轄外なら、俺がやるってな。それで、この前俺は実行した」

「聞いてないぞ」

「言ってないからな」

 

 彼が復讐を考えていることは、知らない訳では無かった。あんなにも妻を溺愛していた彼が、あなたの奥さんは殺されました。犯人は分かりませんが、きっと何事もなかったかのように楽しく生きているでしょう、と言われて、はいそうですか、と納得するようにはとても思えなかった。が、人里中の人間が調べて分からなかった犯人を、彼が一人で特定できるはずがないと、そう思い込んでいた。高を括っていた。

 

「そいつは金持ちでな。正攻法じゃ無理そうだったから、搦手を使った」

「復讐に正攻法があるのか」

「まぁ、いいんだよ。要するに俺は、あいつを呪い殺そうとしたんだ」

「呪い」普段聞かない単語だったからか、鸚鵡返しに言葉をなぞった。

「そう、呪いだ。道具を手に入れて、時期を見計らって、正確にやった。やったはずだったんだけどな。どうやら失敗したらしく」

 彼は照れたように、小さく苦笑いをした。

「死ぬのが俺になった」

「何やってんだよ」思わず、声が漏れる。軽々しく自分の死を語る彼の口調に惑わされ、これも彼の冗談なのではないかと錯覚してしまいそうになる。

「馬鹿みたいだろ? でも、後悔はしていない。呪いに失敗したら体が硬くなるっていう昔話を証明できたわけだし。まぁ、実際は錆びるみたいだが」

「身から出た錆ってやつか」

「まさしくな」彼の笑顔は、弱弱しくも眩しかった。

「でもな、後悔はなくても、気がかりはあるんだ」

 

 そこの紙を見てみてくれ、と彼は枕元を視線で指した。一枚の紙が丸められている。私は言われるがまま、彼の指示に従って、紙を手に取った。ぺらりと捲ると、そこには一人の少女の人相が書かれていた。肩口にまで切り揃えられた髪と、太陽のような笑顔が印象的な少女が描かれている。

 

「可愛いだろう」自慢げに彼は鼻を鳴らした。

「俺の子だ」

「え」

 

 私は、呆然と立ち尽くすしかなかった。手に持った紙は、いつの間にか手を離れ、ゆらりゆらりと揺れながら、ゆっくりと地面に落ちていく。

 

「お前、子供がいたのか。そんな事、知らなかった」

「言ってないからな」

 得意げに口を歪めた彼は、愛おしそうに床に落ちた紙を見つめた。

「妻が殺される直前に産まれたんだ。ちょっと変わった子だったけど、かわいい子だ」

「でも、お前の娘なのに、どうして私は見たことが無いんだ?」

 

 もし仮に、彼がこの娘の存在を隠していたとしても、こうして毎日蕎麦を食べに来れば、いつか分かりそうなものではある。

 

「人里の守護者に託してある。彼女ならば、きっといい子に育ててくれるだろう」

「どうして」自分で育てなかったのか。そう言い切る前に、彼は口を開いた。

「巻き込みたくなかったんだ」

 彼は一瞬、目を伏せた。後悔と、名残惜しさを感じているのかもしれない。

 

 何に巻き込みたくなかったか。それを彼は言わなかったし、私は聞かなかった。そんな事は聞くまでもないからだ。妻の復讐。彼は、それに取りつかれて、いや、それを生きがいに生きてきたのだろう。

 

「きっと、汚れを知らない純粋で、優しい子に育っているはずだ」

 俺と違ってな、と彼は自嘲気味に呟いた。

「それで?」

 私の声はもう震えていなかった。それは、落ち着きを取り戻したというより、動揺することに慣れてしまったといった方が近い。

「それで、私にお前の娘を見せて、どうしたいんだ」

「どうって言われてもな」

 もうほとんど抜け落ちたしまった髪をなでながら、彼は口をすぼめた。

 

「特に理由はねぇよ。強いていうなら、自慢したかったんだ。俺には、こんな可愛い娘がいるんだ。妻には、こんな子を産む力があったんだ。俺達は、こんな宝物をこの世に残すことが出来たんだぞってな」

 

 彼は本当に楽しそうに、今から死にゆく者とは思えないくらい元気に、そう言った。お前は人間よりも人間らしい。この前の彼の言葉が頭に浮かんだ。だが、私からすれば、別に私が人間らしいのではない。彼の方が妖怪よりも妖怪らしいだけだ。

 

「私はてっきり、面倒を見てくれとか言い出すと思ったよ」

「馬鹿言うなよ」

 さっき言っただろ、と彼は小さくため息を吐いた。呆れているのか、それとも体力の限界が近いのか、私には分からない。

 

「この子は、汚れを知らない純粋な子に育つんだよ。お前みたいなのに会ってみろ。全部水の泡だ」

 冗談なのか、本気なのか、彼はまばたきをせずに真っすぐと私を見た。目を逸らす。しかし、頬にあたる視線が鬱陶しくて、結局彼の方を見つめ返した。

 

「それに、お前には別に仕事を頼みたいからな」

 私を見つめたまま、彼ははっきりとそう言った。その目には、一寸の迷いもなかった。きれいで、透き通った目だ。とても還暦を回った爺の目とは思えない。

「仕事」

 彼の言った仕事という言葉は、重く私にのしかかった。今まで、親しい友人の胸を刺し殺すという仕事をしたことが無かった。

 

「もしかして、悲しんでくれているのか?」

 俯いている私を見て、彼は心底楽しそうな声を発した。私がこんなにも苦しんでいるのに、なぜこいつは。

「そんな訳ねぇだろ」

「またまた」

「ただ、人里で人を殺したら、巫女に殺されるか心配なだけだ」

 

 すました顔の彼に、何とか一泡吹かせたくて、つい嘘をついてしまう。

 

「その心配はいらねぇ。ここは人里の外れだ。あと五分も歩けば、森に出る。その森の近くの墓にでも捨ててくれれば、完全犯罪成立だ」

「そんなんで完全と言える訳がない」

 

 私は吐き捨てるようにそう言った。が、彼は全く持って意に介した様子はなく、淡々と事実を読み上げるように、話を続けた。

 

「そもそも、俺は最近ここから出ていないしな。人里の連中は覚えてないんじゃないか、俺の事」

「そんなわけあるか」

「あるかもしれんだろ。それに、もし犯行がばれて、お前が巫女に殺されそうになっても、事情を話せば見逃してくれるはずだ」

 

 彼の何とも自分本位で身勝手な考えに、ため息が出る。そんな安易な方法で巫女が納得するはずがない。だが、彼の意地でも引かない姿勢を、崩せる気がしなかった。そして何より、彼がどうしてそんな願いを私に頼んだのか、理解できてしまった。理解してしまったからこそ、私は彼の頼みを聞く他なかった。

 

「分かったよ! 分かった。やってやるよ」

 両手をひらひらと振って、一息に言い切った。自分の気持ちに迷いが生じる前に、現実を直視する前に、口に出しておきたかった。

 

 いつの間にか溢れていた涙を手で拭う。ご丁寧にも包丁は枕元に置いてあった。小さな、けれども鋭い包丁だ。こんなちっぽけな物で人間の命は奪われてしまう。それは、痛い程に知っていた。

 

「ありがとうな」

 

 小さく呟いた彼の声が、私の決意を鈍らせる。彼からの感謝の言葉を初めて聞いた気がした。迷いを断ち切るように、手早く包丁を持ち上げる。

 

 部屋の片隅にあった、大きな時計が音を立てた。ボーンという重い音が、夜の六時を知らせる。

 

「何か言い残したことはあるか」

 彼の上へとまたがりながら、包丁を上へと振り上げる。

「そうだな、強いていうなら」

「言うなら?」

「来世であったら、かき揚げでもおまけしてやるよ」

 鳴っていた時計が、不自然に鳴りやんだ。

 

 

 

 

 彼が死亡したのは、これから五秒後の事である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 運命の相手。物語や陳腐な空想、または願望でしかありえない幻想。類語は白馬の王子様。聞くだけで吐き気がする単語の一つだ。あの時、たまたま彼と会ったの。きっと運命の相手だったのね。そう口にする女性は数多くいた。というよりも、恋に落ちた女性の大半は、似たような意味の言葉を口にした。だが、結局のところ運命の相手とやらは、別の相手を選択する事が少なくない。運命の相手とはすなわち、自分とあなたは特別なのよね、と思い込みたいがための、詭弁だ。二人の間の絆を深めようとする浅はかな策略だ。

 

 だから、私はこんな言葉は絶対に使う事は無いだろう、と思っていた。まして、好きでもない相手に対してかけるとは、夢にも見ていなかった。

 

 慧音の寺子屋を飛び出した私は、怒りと絶望に胸を躍らせて、喜知田の元へと向かおうとしていた。向かおうとして、挫折した。私は、まだあの男は彼の、蕎麦屋の親父の家にいると思い込んでいた。全速力で、文字通り飛ぶ鳥を落とす勢いで飛んで、あっという間にとたどり着いた。実際は、数分か数十分かかっていたはずだが、気がつけば、いつの間にか家へと着いていた。そして、自分の目を疑った。

 

 家が燃えていた。轟轟と赤い炎を棚引かせ、勢いよく黒い煙を吐き出している。大黒柱が燃え尽きてしまったからなのか、既に家は崩壊していた。追い打ちをかけるように、至る所から鈍い、木が崩れる音がする。焦げ臭く、生暖かい空気と共に灰が鼻を突き、むせて咳が出る。手で口を覆おうとした時、初めて私が座り込んでいることに気がついた。這うようにして、崩れ去った家へと近づく。パチパチと火花がはじけ、頬にあたった。皮膚を切り裂かれたかのような痛みが走る。本能が、ここから立ち去った方がいい、と警鐘を鳴らしている。今行ったところで、ただ犬死するだけだぞ、と。それでも私はひたすら前に進み続けた。ただ、写真を。彼が自慢していたあの綺麗な女性の写真を、持って帰りたくなった。ただ、それだけしか考えることができなくなっていた。控えめにいって、錯乱していた。

 

 両手を伸ばし、真っ黒に炭化している木を跨ごうとした時、爆音が耳を突いた。何が何だか分からないうちに、全身に衝撃が走る。視界がくるくると回り、身体が浮遊感に包まれる。家が爆発して、爆風で吹き飛ばされた。そう分かった時は、地面に全身を強く打ち付けた時だった。体の至るところから痛みが走り、どこを怪我しているのかが分からない。必死の思いで体を起こすと、跡形もなく吹き飛んだ家が目に入る。私は、呆然とそれを見る事しかできなかった。巻き上がる粉塵を見つめていると、何故かここの家主を思い出した。彼の、人を小馬鹿にするような笑みが、頭をかすめる。いくらあいつでも、蕎麦は爆発だとは、言ってなかったはずだ。

 

「あやややや! 大スクープです!」

 

 少し風が吹いたかと思えば、途方に暮れている私の耳に、鬱陶しい声が突き刺さった。声のした方に顔を向ける。そこには、人の気も知らないで,燃え盛る家の残骸を写真に収めている烏がいた。まるで、ゴミ箱をあさるかのように、家に近づいてパシャリとやっている。

 

 なぜこんな所に烏がいるのか気になったが、私には彼女の事など、最早どうでもよかった。ただひたすらに無力感に打ちひしがれているだけだ。たかが、家が一軒燃えただけ。被害者もいない。それだけであるはずなのに、心の穴が広がったかのようだ。この感覚は、前にも味わったことがある。彼を殺した時だ。

 

「おや? 天邪鬼じゃないですか」

 

 無事でよかったですね、と心にもないことを言いながら、烏がすり寄ってくる。鬱陶しい。鬱陶しい事には慣れてはいたが、今日だけは勘弁してほしかった。今は、気が立っている。

 

「それにしても派手に燃やしましたね。自爆でもしたんですか?」

「してない」

「まあ、これだけの火事の中、無事に脱出したのは素直に感心します。もし良ければ、しばらくの間、私の家で居候してもいいですよ。取材の協力をしてくれるのであれば、ですけど」

「ほっといてくれ」

 

 烏はここが私の家だと勘違いしているようだった。面倒くさいので訂正はしない。だが、烏と話している中で、私は冷静さを取り戻していた。冷静に、直前の怒りを思い出していた。その喜知田への怒りは、むしろ今の方が増してきている。当然だ。彼の家を爆破されておいて、怒りが増さないはずがない。

 

「何が悲しくてお前の家に泊まらなけりゃならない」

「あややや、つれないですねぇ。でしたら泊まらなくてもいいので、情報だけ下さい」

「お前なぁ」

 

 強かというか、あくどいというか。私は呆れながらも、少し気持ちが和らいでいる事に気がついた。慧音の家を飛び出た時のように、怒りに身を任せるでもなく、先程までのように絶望に浸るでもなく、喜知田に対する怒りを、きちんと胸の奥にしまい込むことが出来ている。こいつと話していると、不思議と落ち着きを取り戻すことが出来るようだ。だからだろうか。私は彼女に一連の経緯を話すことにした。

 針妙丸と慧音が謎の説教をしに家に来たこと。喜知田と呼ばれる男が私たちを追い出したこと。数年前の殺人事件に喜知田が関与していること。戻ってきたら家が爆発していたこと。これらを多少の誇張を混ぜて、話した。だが、ここの家主と私、そして殺された奥さんの関係性だけは話さなかった。記事にされては、困る。

 

 なるほどと頷いた烏は、なら早速行きますか、と顔を上げた。

 

「どこに?」

「どこって、それは」烏は不思議そうに首を傾げた。

「喜知田さんの家に決まっているじゃないですか」

「場所を知っているのか!」

 

 私の気を知ってか知らぬか、彼女は胸を張って鼻を鳴らした。

 

「当然です。私を誰だと思っているんですか?」

 

 運命の相手、という言葉が口から零れ出た。こんな誰もいない人里の外れ、それこそ、こんな爆発事件が起きたにも関わらず、誰も野次馬が来ないような所で、まさかあの男への手がかりを手に入れられるとは。珍しく、天に感謝したくなった。

 

「それに、今日の朝刊はお陰様で好評でしたから」

「鳥瞰?」

「朝に配る新聞ですよ、これです」

 

 いつも持ち歩いているのか、懐から綺麗に畳まれた新聞を取り出すと、私の前に広げた。文文。新聞とかかれたそれには、でかでかと“鬼畜天邪鬼、子供から一銭を強奪!! ”と書かれていた。一瞬、理解が出来なかったが、昨日の甘味屋での出来事を思い出す。

 

「いやぁ、これを見た慧音さんが張り切っていましてね。援軍を連れて叱りに行くって意気込んでいました」

「あの説教はお前のせいか」

 

 慧音が椅子に座り、文文。新聞を読んでいる姿が思い起こされた。なるほど、あれはこの新聞を読んでいたのか。とすれば、彼女の言う援軍とは針妙丸のことであろう。あんな小さなガキに説教されるなど、たまったものでは無い。

 

「まぁまぁ、いいじゃないですか。そのおかげで喜知田さんに殺されずに済んだのかもしれませんし」

「それは」

 どうだろうか。慧音の、あいつはもう二度と人殺しをしないという言葉が、胸に引っかかる。単純に慧音が庇っているだけかもしれないが、そうとは思えなかった。慧音は、悪事は正さないと気が済まないタイプだ。殺人を犯す可能性のある人間を、野放しにはしないだろう。できれば、人の家を爆破するような奴も野放しにして欲しくなかったが。

 

 パチパチと子気味のいい音がしている家だった残骸に目を移す。木はほとんど黒くなっており、灰やら何やらが大きく風で巻き上げられ、パラパラと頭上から降り注いでいる。私は急いで目を伏せた。灰が目に入るのを恐れたわけではない。これ以上見ていると、また怒りと絶望に支配されそうだったからだ。

 

「どうしたんですか、下なんか向いちゃって」烏が楽しそうに訊いた。

「灰が目に入ったんですか?」

「そうだ。目に入ったんだ」もちろん、嘘だ。

「あややや、それは大変です。ですが、あまり下ばかり向いていては駄目ですよ」

「どうして」

「簡単ですよ」

「まさか、嫌な事があっても前を向いて生きていこう、だなんて馬鹿みたいなことを言うんじゃねぇだろうな」

「そんな訳ないじゃないですか。そんな事を言うのは、人里の守護者くらいです」烏は苦いものを食べたかのように、べぇっと舌を出した。

「そうじゃなくて、もっと現実的です。頭の上に灰やごみがのってるんですよ」

 

 慌てて頭の上に手を伸ばすと、確かにザラザラとした感触があった。わしゃわしゃと髪をかき回すと、細かい灰とは別に、何か大きなものに手がぶつかり、後ろでぱさりと小さな音がした。頭の上にのっていたゴミが落ちた音だろうと当りをつけて振り返る。すると、想像通り燃えて薄黒くなった紙が足元に落ちていた。

 

 特にその紙を拾い上げたことに、理由などなかった。好奇心か本能か、手が吸い寄せられるように、いつの間にか紙を握っていた。少し炭化しているが、あの爆発にも関わらず、きちんと紙としての形状を保っている。不思議と、綺麗に長方形へと折りたたまれるようにして、紙が縮んでいた。表面で手をなぞり、灰を落とす。すると、“文文。”という文字が浮き上がってきた。思わず、苦笑いしてしまう。燃えていようが燃えていなかろうが、ごみには違いない物を拾ってしまった。丸めて烏に投げつけてやろうと、新聞を両手で握りつぶそうとする。が、直前で違和感に気がついた。長方形に折れた新聞の角が、少し削れている。まるで中に固いものが入っているかのように、妙にピンと皺が伸びていた。恐る恐る、新聞の端からめくっていく。ゆっくりと、慎重にめくっていくと、中から段々とその“固いもの”の正体が表れてきた。

 

 息が止まる。何度も目をこするが、映る景色は変わらない。これは幻覚ではないかと、何度も頬をつねるが、何も起こらない。これは現実だ。こんな事があっていいのだろうか。こんな偶然を、彼は許してくれるだろうか。

 

 完全に新聞をはがし終えると、私の手には長方形の、台紙のような感触がする写真が残った。新聞が被さっていたからか、少しの傷も無い。だが、それにも関わらず、そこに映る女性の姿は僅かにぼやけていた。

 

「おい烏」手に持った写真を懐にしまいながら、私は言った。

「お前の新聞は良い新聞だな」

 私の言葉がよっぽど意外だったのか、烏は目を丸くして、口を鯉のようにぱくつかせた。が、にへら、と顔をゆがませると、当然ですと、得意げに言った。

 

「紙だって、いいの使ってるんですから」

 

 

 

 烏に連れられて、私は人里の中心へと戻ってきていた。空を飛ぶのではなく、歩いて戻ってきたため一時間近く時間がかかってしまった。私はとっとと飛んでいきたかったのだが、烏が「私は人里で飛んでいるのがばれると、半獣に怒られるんですよ。以前彼女を盗撮して以来、禁止されています」と不満げに口を尖らせていたため、仕方がなく歩くことにした。私も慧音に会いたくなかったからだ。

 

 寺子屋の裏の、甘味屋についた時には既に辺りは暗くなっていた。夜だからか、人里の中心にも関わらず、妙に静かだ。慧音に会わないか心配だったが、烏曰く、彼女は人里の外へと見回りに行っている時間らしい。

 

「爆発があったのに、変に静かだな」

「まぁ、大分外れにありますしね。それに、あのくらいの衝撃は日常茶飯事ですよ」

「お前の日常がおかしいだけだ」

「そんなこと無いですよ」

 烏は真顔で呟いた。その顔は侮蔑を隠そうもせず、目には呆れすら浮かんでいた。

 

「人間が外に出るという事は、死ぬという事と同義なんですよ。あんな人里の外れで多少騒ぎがあったところで、誰も気にしませんし、気づきません」

「そうなのか? 慧音が守ってるはずだろ?」

「馬鹿ですね、あなたは本当に」呆れを通り越して、宥めるような口調で烏は言った。

 

「あの半獣だけで完全に防げるとでも? 妖怪の賢者も人里外での捕食は黙認していますし、人里の外れってだけでも、普通の人間は恐れるものなんです。人間ってのは、実際に危険かどうかよりも、危険そうな場所を避けるんですよ」

「そういうもんか」

 

 彼の蕎麦屋に人がいない理由も、もしかしたらそれかもしない。いや、人間以外も来ていないことから考えると、それだけではないはずだ。あれは確実に店主が悪い。

 

「喜知田という男は、正にその典型です」

 喜知田という名前を聞いただけで、頭に血が上りそうになる。今まで考えていたことなど、全て吹き飛び、あの忌々しい男の顔だけが頭に残る。銃を突き付けられたあの時、家を爆破しに来たその時に、何もせずに突っ立っていた自分に腹が立って仕方がない。

 

「……聞いてますか」

「聞いている」烏の声は耳をすり抜けていた。つまり、聞いていない。

「まぁ、いいでしょう。つまりです。最近の彼は警戒心が強くて、近づくことが困難なんです」

 繁殖期の熊を説明するかのように、烏は淡々と言った。

「そんな警戒心が強い奴が、人の家を爆破するなんてリスクを負うのか?」

「そのリスクに見合った報酬があるか、それとも放っておくほうがリスクがあったとか、ですかね」

「呪いをかけてきた奴がいた、とかか」

「面白くない例えですね」烏は下唇を突き出した。

 

「まあ、ともかくそんな警戒心が強い人間に会いに行くのは、中々に骨が折れますし、危険が伴います」

「何か案があるのか」

「私を誰だと思っているんですか」

「運命の相手」

「気持ち悪いので止めてください。まじで」

 

 したり顔で頷いていた烏の顔が、氷漬けにされたかのように青くなっていく。両手で腕をさすり、背中の大きな翼は細かに震えている。いい気味だ。定期的に使ってもいいかもしれない。ただ、私も悪寒が走るので、諸刃の剣といえるだろう。

 

「それで? その案って何だよ」

 嫌そうに眉間にしわを寄せたまま、烏は懐から何かを取り出した。

「実は私は喜知田さんと面識がありましてね。多分正々堂々と家に入れるんですよ。だから、私だけで行ってもいいんですが」

「おい」

「冗談です。天邪鬼が来た方が彼も驚くと思うんで、嫌だと言っても来てもらいますよ。ただ、入るときにこれを使って下さい」

 

 そう言うと、手に持ったカメラを私に差し出した。そのカメラは彼女がいつも使っている奴よりも小さく、そして所々錆びていた。正常に動くかどうか、怪しい。

 

「私のお古です。これを持っていれば記者仲間として中に入れるでしょう」

「いや無理だろ」

 私の知っている限りだと、カメラにはそんな特殊能力はない。

 

「大丈夫ですって。カメラを持っている奴なんて、幻想郷には烏天狗しかいませんから。もし顔が割れているとしても、私と同じ兜巾を被れば問題なしです」

「いや、ありだろ」

 

 人間は警戒心が強いと言った舌の根も乾かぬうちに、そんな甘い考えを意気揚々と語られるとは思わなかった。特に、爆破した家にいた私達には、人一倍注意しているはずだ。

 

「あややや、疑り深いですねぇ。いいですか。私達烏天狗にとって、このカメラも、兜巾も誇りなんです。それを他の奴に貸すなんて、普通はありえません」

 

 本当ですからね、と念を押す烏を他所に、私は懐に入っている写真の事を考えていた。彼女の言った事が本当ならば、彼はだれからカメラを借りたのだろうか。

 

「特別ですからね、感謝してください」

「普通は貸してくれないのに、どうして私には貸してくれるんだ?」

 ふふんと、いつものように嫌味な笑顔を浮かべた烏は、口をわざとらしく歪ませた。

「運命の相手だからですよ」

「気持ち悪りぃ」

 心からそう思った。

 

 

 

 喜知田の家は、思ったよりも近くにあった。寺子屋から10分くらい西に歩いた、住宅地の中央付近。そこは、大きく、荘厳な建物が並んでいるのだが、中でも喜知田の家は一際大きな豪邸であった。どっかの藩主の城と言われても、違和感が無い。違いと言えば、堀と石垣が無いことぐらいだろうか。

 

「流石金持ち。憎たらしい程に大きな家だ」

「そうですか?」

「お前みたいな強者に聞いたのが間違いだった」

 

 頭から落ちそうになる兜巾を手で押さえながら、上を見上げる。ご丁寧にも白塗りにされた壁からは、銃や弓を撃つためか、穴が無数に開いている。心なしか、誰かが自分達を見ているような気がして、背筋が冷たくなった。烏に感づかれないように、彼女の背中にゆっくりと隠れる。

 

「ところで、お前は喜知田に会ってどうするつもりなんだ? そもそもお前と喜知田はどういう関係なんだ」

「どうすると言われれば、取材ですし、どういう関係かと言われれば、これも取材の関係ですね。この前、甘味屋であった後に取材したんですよ。彼の家で。その時に、まぁ仲良くなりまして」

「仲良く」

 

 彼女のいうナカヨクの意味を、私は理解することは出来なかった。打算的に利用できると踏んだのか、一方的に弱みを握ったのか、とにかく不穏な意味であることには違いがない。もし後者であるならば、是非とも教えてもらいたいものだ。

 

「そういうあなたは、一体何をするつもりなんです」

「何ってそりゃあ」頭の中に、彼の、写真を愛しそうに見つめる笑顔が浮かんだ。

「復讐だよ」

「復讐って、たかが家を失ったくらいで。巫女に消されるリスクも考えてください」

「大丈夫だ」

「何がですか?」

「人里の外れの森に出て、その森の近くの墓にでも捨ててくれれば、完全犯罪成立だ」

「馬鹿ですね」

 

 私が反論をしようとしていると、烏の顔が僅かに強張った。かと思うと、すぐに朗らかな笑みを浮かべ、小さく会釈をする。その目は私の、少し後ろを見ているようだった。

 

 慌てて振り返る。すると、そこには男が立っていた。いつの間に後ろにいたのか、全く分からなかった。能面のように無表情で、ただ佇んでいると言った様子のその男は、懐から小さな札を取り出している。

 

 攻撃的な護衛、と小さく声が漏れた。烏が肘で私を小突く。鳩尾に入ったそれは、無視できない痛みを私に与えた。口を開くことが出来ない。

 

「あややや、あなたは喜知田様の使いですね。私は射命丸といいます。不躾ながら、喜知田様についての記事を書きたくて、取材しに来ました。突然の訪問申し訳ありませんが、どうか面会させていただけないでしょうか?」

 

 そう言いながらカメラを持ち上げた烏に倣って、私も錆びているガラクタを胸の前へと掲げる。顔を伏せたのは、正体を見破られることを恐れたのではなく、烏の言葉遣いに笑いそうになったのを誤魔化すためだ。

 

「……分かっ、た。少し、待っていろ」

 小さく呟くようにそう告げた男は、ゆっくりと歩いて家へと戻っていった。彼が一歩進むたびに、私の心臓は跳ね上がる。彼が喜知田に私の事を報告しないか、それだけが心残りだ。

 

「本当に、こんなんで誤魔化せるのか?」

「大丈夫ですって。あなたが変な事を言わなければ問題ないです」

 

 だから、黙っていてください、と言った烏の顔はいつになく真面目であった。人を馬鹿にしたように、いつも吊り上がっていた口角が、真一文字に結ばれている。僅かに身体を震わせた烏は、背中の大きな翼をピンと伸ばし、穴が空く程に私を見つめていた。

 

「天邪鬼。もしあなたが無事に帰りたいならば、ここで退いた方がいいですよ」

「は? お前、さっきは意地でも連れて行くといってたじゃねぇか」

「身の程を知れ、と言っているんです」

 

 そうしないと身体が固まっちゃいますよ、と嘯いた烏の冗談は、全く笑えなかった。ここまで来たのに、のこのこと退ける訳がない。そんな事、烏でも分かるはずだ。

 

「今回は相手が悪いです。さっきの男ですが、中々のやり手だと思います。流石の私でもあなたを庇い切れる自信がありません。弱小妖怪のあなたなら分かるはずですよね。生き残るために必要なのは、無駄な危険を冒さない事ってことぐらい」

「おい、人を勝手に弱小妖怪と決めつけるな。私は強いぞ」

「妖精に負けている時点で、戦力外です」

 

 烏の言い分は全くの正論だ。もし私が彼らと戦ったら、十秒も持たずに命を奪われるだろう。そんな事は百も承知だ。だが、退くわけにはいかない。彼の復讐を受け継ぐわけではない。これは私の問題だ。私の自己中心的な、我儘でしかない。

 

「まあ、最悪お前を盾にしてでも生き残るから、心配するな」

「いや、心配しますよ」

 

 烏は固くなっている表情を少し和らげた。いつものような、飄々として人を苛立たせるような顔に変わっていく。これは、失敗したかと後悔する。もっとしおらしい烏を目に焼き付けておけばよかった。後々馬鹿にできたかもしれない。

 

 烏の顔をまじまじと見ていると、後ろから物音が聞こえた。反射的に振り返る。そこには扉を開けて、笑顔でこちらを見ている喜知田の姿があった。

「ご本人様登場ですね」

 いつものような笑顔で烏はそう呟いた。

 

「いやぁ、ようこそ我が家へ。歓迎しますよ、天狗の記者さん」

 

 長い廊下を歩きながら、喜知田が人当たりの良い笑顔を浮かべた。外見に恥じないほど広い室内は、塵ひとつない程に掃除されていた。ただ唯一意外だったのは、彼の周りには護衛が見当たらないという点だ。外への警戒に回しているのだろうか。

 

「それで? 今回は一体何を取材しに? またあの男の件ですか?」

「いえ、今回はあなたについての記事を書こうと思いまして」

 

 愉快そうに笑っていた喜知田は、烏の言葉を聞き、少し顔を強張らせた。が、すぐに表情を柔らかくすると、そうですか、と楽しそうに笑った。

 

 私も怪しまれないように何か話そうとするが、口が震え、言葉が出ない。口を開くと、暴言を吐いてしまいそうで、天邪鬼としての本領を発揮してしまいそうで、中々話すことが出来ない。“あの男”についてもっと詳しく教えて下さいなんて、死んでも言えなかった。

 

「私の事なんて記事にしても面白くないですよ」喜知田は謙遜か、それとも本心か苦笑いをしながら手を振った。

「あやややや、そんなこと無いですよ。それに、いま私が書いているのは、寺子屋で育った子供たちの今、っていう題目なんです」

「それは良いですね」

 

 嬉しそうに話す喜知田とは対照的に、私は嫌な顔を隠すことが出来なかった。どうしてこの烏は次から次へと出鱈目を並べることが出来るのか。天邪鬼としての面目が丸つぶれだ。元々そんな面目があったかどうかは分からない。

 

 取材という名の他愛もない世間話をしている二人を他所に、ゆっくりと辺りを見渡す。ぎぃぎぃとなる床から刀が飛び出してこないか、天井から矢が飛んでこないか、心配だった。長い廊下の奥の方に見える襖には、金や銀の様々な模様が描かれていた。きっと、あそこが喜知田の部屋なのだろう。趣味が悪いったらありやしない。

 

「ふむふむ、なるほど。次は喜知田さんの好きなものを教えてくれますか?」

「好きな物、ですか」

 

 そう小さく言った喜知田は、二段になっている顎に手をやり、少し考えこんだ。微笑みながら顎を摩る仕草は、まるでお菓子をせがまれているおじいちゃんのようにも、悪だくみをしているガキ大将にも見える。もし何も言われなかったならば、こいつが悪事をするような人間には見えない。

 

 気がつけば、金の刺繍が施された襖の前までたどり着いていた。やはり、この奥が彼の部屋なのだろう。喜知田はそれへと手を伸ばした。

 

「好きな物は」ゆっくりと襖を開けながら、喜知田は口を開いた。

「好きな物は、無駄な抵抗ですかね」

 襖の奥には、檻に入れられた針妙丸の姿があった。

 

 

 

 

 

 

 一瞬、それは只の人形だと思った。なぜなら、檻の中の小さなそれは、目を閉じ、仰向けに寝かされていて、そしてピクリとも動かなかったからだ。顔を見ると、確かに針妙丸であるか、彼女がここにいるとは理解できなかった。あの健気な小人は寺子屋で眠っていたはずで、しかも人里の守護者である慧音が傍にいたはずだ。なのに、なぜこんな所にいるのか、さっぱり分からない。さっぱりすぎて、素麺もびっくりだ。

 

「安心してください。生きていますよ」

 今の所ね、と笑みを浮かべた喜知田は満足げに頷いた。きっと、私がこの現状に絶望しているのだと思っているのだろう。だが、単純に私はまだ現実を直視できていなかった。こんな最悪な展開を、認めたくはなかった。危険性を考えていなかった自分に腹が立つ。彼女だけは、絶対に巻き込んではならなかったのに。

 

「生きてるって、あの檻の中の人形がですか?」

 鳥かごのような、小さな檻に入れられた針妙丸を指さしながら、烏は鼻で笑った。

「いやはや御冗談を。人形遊びは子供の時だけで十分です」

 ですよね、と烏は私に微笑んだが、私はただうつむく事しか出来なかった。頭に被った兜巾が落ち、二つの角が露わになってしまった事も最早気にはならない。

「何とか言って下さいよ、まさか本当にあれは生き物なんですか?」

 

「小人、という種族らしいですよ。そこの天邪鬼の友人です」

 

 え、と烏が小さく声を漏らし、喜知田の方へと目を向けた。パチパチとまばたきをし、私と喜知田を交互に見くらべる。どうして彼女が天邪鬼とバレたんですか、そもそも小人なんて種族聞いたことが無いですよ、というかこの天邪鬼に友人なんていたんですか、と早口で捲し立てる烏は、珍しく動揺していた。

 

「まあまあ、落ち着いてください。急がなくても、私は逃げませんよ」

 

 逃げるのはあなた達の方ですよね、とのうのうと語る喜知田は、物珍しそうに烏を見つめていた。烏天狗、その中でも有数の実力を持つ射命丸の焦る姿は、彼にとっても目を張るものがあったのだろう。いつもであれば、私も馬鹿にするのだが、それが出来ない。狼狽える烏の姿は、余計に私の心をかき乱した。

 

「一応、質問に答えますと」まぁ答える必要はないかもしれませんが、と喜知田は前置きをし、懐から例の銃を取り出した。

「小人という種族がいたのは、私も知りませんでしたよ。まんまと騙されかけましたね。最初はよく出来た人形だと思いましたよ。まぁ、彼女によく似ていたので、疑問には思いましたが」

「彼女、ね」

 

 知らず知らずのうちに、口が動いていた。彼女に似ているのは当然だ。針妙丸はあの蕎麦屋の親父の娘である。なら、当然その奥さんの娘でもあるのだ。母が子に似るのは、何も不思議な事ではない。だが、なぜこいつがそんな事を分かるのかが、不思議だった。疑惑が、僅かに残っていた白い霧が、晴れていく。間違いなく、奥さんを殺したのはこいつだ。

 

「そんなに睨まないで下さいよ。あなたの目は鋭くて、怖いんです。それこそ、そんな陳腐な扮装では隠しきれないほど、ね」

 

 私は烏を睨みつけた。あややや、と低く唸るように言った烏の顔は、てっきり天邪鬼がちゃんとしないからですよ、と茶化す様にうざったい笑みを浮かべていると思ったが、凍り付いたかのように真顔だった。針妙丸の事を一瞬忘れてしまうほど、恐怖を感じた。

 

「いい度胸ですね、人間風情が烏天狗の正装を馬鹿にするとは。いやぁ、無知とはいかに愚かなことか、身に染みて分かります。あ、当然あなたの血が染みるんですよ? 勘違いしないでほしいですが、私はこの天邪鬼ほど優しくも弱くもない。たかが小人が一人死のうがどうでもいい、そこの所分かっていますか?」

 

 黒い羽根が、大きく羽ばたいた。恐れることも忘れ、見とれてしまう。が、すぐに烏の言葉を思い出し、肝が冷えた。私に向いていないはずなのに、烏の殺意が肌を刺し、チクチクと痛みを与える。腐っても大妖怪の端くれ、今すぐにここから飛び出して、逃げ出したいという衝動に駆られ、事実そうしたかったのだが、足が言う事を聞かない。だが、彼女を止めなければならない。重苦しい空気の中、なぜか笑みを浮かべている喜知田を出来る限り見ないようにし、何とか口を開いた。

 

「射命丸、止めろ」

「あやや、黙っていてください。あなたみたいな弱小妖怪は、やはり連れてくるべきでは無かった。記事のネタも書けないどころか足手纏いになるなんて、生きている意味があるんですか?」

「落ち着けと言っているんだ」

「煩い!」

 

 烏は完全に頭に血が上っていた。ここまで激憤している烏は見たことが無い。それこそ、普段私が投げつけている素敵な暴言の方が、遥かに烏天狗を馬鹿にしているというのに。じつは烏は私に少なくない好意を抱いていて、普段の狼藉を寛大な心で許していたのか。いや、絶対にあり得ない。むしろ逆だ。なら、なぜこんなにも烏が怒っているのか。

 

 なぜ、烏の感情が揺さぶられているのか。

 

 頭に衝撃が走った。私も烏のように、胸に溜まった絶望と怒りが爆発したのかと思ったが、違った。烏が私の襟首をつかみ、大きく揺さぶったのだ。力任せに大きく揺らされるせいで、ひどく首が痛い。頭がガクガクと揺れ、脳が震える。頭痛がし、視界が安定しない。烏が何やら喚いているが、私には只の獣の雄叫びにしか聞こえなかった。

 

 烏の首元を掴む手が離れた。その場に崩れ落ちそうになったが、なんとか持ちこたえる。烏が正気に戻ったのか、と安堵のため息が出たが、すぐにそれは間違いだったと思い知らされる。

 

 烏の手には団扇が握られていた。ただの団扇であれば、ああ、こんな肌寒い季節に団扇を持っているなんて、なんて愚かなんでしょう、と馬鹿にも出来たのだが、残念ながら普通の団扇ではない。燃え盛る炎のように、真っ赤な椛の葉団扇は、巨人の手のような威圧感を放っている。妖力なのか、霊力なのか分からないが、空気が震えたかのような錯覚を覚えた。流石の喜知田も怖気づいたのか、目を細くして、何やら呟いている。檻の中の、針妙丸へと目を向ける。こんな状況にも関わらず、身動き一つせずに眠っているようだった。

 

 烏が手を大きくあげる。その姿は演劇のように美しかったが、恐ろしくもある。喜知田の息をのむ声が私の耳へと届いた。護衛は、と小さく言った喜知田は、諦めたかのように手をひらひらと振っている。

 

 発作的に身体が動いた。烏の足に向かい、姿勢を低くして突進する。正気を失っているはずなのに、烏は予想していたかのように、上に跳んでかわそうとする。が、烏はそうはしなかった。あ、と小さく口を開いた烏は、殺気を少し緩ませ、固まる。少し焦ったのか、不格好に口が緩んでいる。一体どうしたのか、と目線だけを上にあげると、落ちてくるカメラが目に入った。彼女の胸ポケットにしまってあったカメラが、落ちてしまったのだと理解する。怒りくるっているにも関わらず、本能か、それとも執念か、烏はカメラへと手を伸ばした。

 

 それが決定的な隙となった。そこまで勢いがない私の体が、烏の体へと吸い込まれるように、ぶつかる。鳩尾に頭を入れ、腰を手に回す。そのまま床へと叩きつけるように、倒れ込んだ。ごつんと鈍い音がして、角が肉を突きさす感覚がした。一瞬、おお、と烏が声を漏らした気がしたが、とにかく、辺りはしんと静まり返った。ゆっくりと、身体を起こす。烏は、気を失ったのか目を閉じて、ぴくりとも動かさなかった。その顔は、なぜか怒りの形相や、真顔ですらなく、楽しそうに微笑んでいた。だが、カメラと葉団扇はしっかりと両手に握られている。

 

 後ろを振り返る。そこには、少し目を丸くした喜知田と、相も変わらず起きる気配のない囚われのお姫様がいるだけだった。

 

 

 

「いやぁ助けてくださって、ありがとうございました」

 

 一時はどうなるかと思いましたよ、と銃を手に持ったまま、とうとうと喜知田は言った。なぜその銃を使わなかったのかと問い詰めたいが、余計な事をいうと私に使われそうで、怖い。

 

「やっぱり、呪いというのは上手くいかないものですね」

「は? まて、呪い? どういうことだ」

 やれやれ、と肩をすくめた喜知田に、今すぐ殴り掛かりたいが、手に持った銃を向けられ、足が止まる。

「知っていますか? 烏天狗、とくに射命丸文ってのは強大な妖怪なんですよ。幻想郷最速の速さを持ち、人間の数百倍の頭脳と思考力を駆使して、腕力の強さも随一。普段は力の片鱗も見せませんが、幻想郷一の妖怪と言っても過言ではありません」

「いや、過言だろ」普段の烏からは、とてもそうは見えない。

「ですが、弱点が無い訳ではないんです」

「耳か」

「心です」

 

 もしかして、喜知田は私を馬鹿にしているのだろうか。そう思う程に、ばかげている。あの厚顔無恥な烏の弱点が心だったら、それは無敵という意味と同義だ。

 

「といっても、大概の妖怪の弱点も同じですけどね。いかに強靭な肉体を持っていても、存在の理由を人間の畏怖や恐怖に依存している以上、精神攻撃には弱いんですよ。だから、そこを突いた」

「何を言っているんだ」

「呪い、っていうのは精神を破壊するのに便利だと思ったんですがね。精々、情緒不安定にするだけにとどまるとは。見当違いでしたよ。あとで、護衛には罰を与えなくてはいけません。五人がかりであの程度の呪いとは。あやうく、死ぬところでしたね」

 

 烏が急に怒り出した理由は、それが原因だったのだろうか。だとすれば、どうして私は精神がおかしくなっていないのか、疑問に思った。が、すぐに分かった。私の精神は既にもうおかしいからだ。

 

「やっぱり、呪いなんて当てにするべきではないですね。あの男も、馬鹿な事をしたもんだ。やっぱり復讐するなら、この銃みたいな単純な暴力の方がいい。分かりやすいし、失敗しない」

「搦手を使わずに?」

「復讐に搦手も何もありませんけどね」

 

 復讐。喜知田は確かにそう言った。それは単に口を滑らせただけなのか、それとも意図的に言っているのか、分からない。ただ、私を動揺させるのには十分だった。蕎麦屋の親父の、妻が殺されたと知った時の顔を思い出す。取り乱すでも、絶望するでもなく、彼は薄く苦笑いを浮かべ、そうか、と呟いた。彼があの時、どのような心境だったかは分からない。ただ、あの日以来、彼が変わってしまった事は確かだ。

 

「ところで」

 そういえば、といった様子で、喜知田は手を叩いた。その時に、銃が暴発して自分の頭を撃ちぬいてくれないか、と期待するが、そう上手くはいかない。

「ところで、あなたはあの男とどういった関係なのですか?」

「どういうって」

「ああ、やっぱり質問を変えましょう。あなたは、私とあの男についてどのくらい知っていますか」

 

 喜知田は、口調こそ穏やかだったものの、目は全く笑っていなかった。黒いウジ虫を角膜の中に飼っているかのように、瞳孔が蠢いている。背筋に冷たい汗が流れた。ここで失言をしてしまえば、復讐劇は喜劇となって終わってしまう。そんな事は分かっていた。だが、胸の中に籠った鬱憤を堪えることは難しい。

 

「何も、知らない」

「本当に? まったくという事は無いでしょう」

「少なくとも慧音はそう言っていたが、そうだな。私が知っていることと言えば、お前はおはぎを奢ってくれるような奴だが、その実、いきなり人の家に押し寄せて、小さな銃を使ってその家を占拠する、そして」

「そして?」

「人の妻を、包丁で刺殺するってことくらいしか、知らねぇな」

 

 パンと、乾いた音が部屋に響いた。

 

 

 

 動揺を隠せなかった喜知田は、震えが収まらない手で闇雲に銃を撃った。が、標準の定まっていないそれは、壁に穴を空けるばかりで、私にはかすりもしなかった。

 

 なんて、都合よくいくはずもなく、不気味な微笑みを崩さない喜知田は、真っすぐに銃口を向け、一発で正確に私の右肩を打ち抜いた。

 

 撃たれた右肩に、手を当てる。堰を切るように血が流れだしていき、あっという間に手から溢れ出た。私の体にこんなに血が流れていたのか、という程に血が足元に溜まっていく。

 

 不思議と痛みはなかった。感覚すらなかった。ただ、撃たれたと思っただけで、それがどうした、と心が訴える。たかが、撃たれただけだ。そんなんじゃぁ、私は止まらない。

 

「どこで聞いたか知りませんが、そんなのは悪質な妄言ですよ」

 

 喜知田は、道端の吐しゃ物を見るような目で、私を見下した。撃たれた右肩を抑える手に力が入る。血は止まるどころか、勢いを増していった。

 

「慧音から聞いたといっても?」

「ええ、それは妄言です。確かに、あの女は気に入らなかったですよ。折角の私の誘いを断って、あんな薄汚い男の元へ行くとは。愚かにもほどがある。あんな女は、死んで当然だ。いや、むしろ社会のためにも死んだほうがいい。浄化ですよ。愚民を消すことによって、社会の利益につながるのです。だって、考えてみても下さい。この私が! わざわざ面倒を見てやると言っているのに! だから、私は包丁で。そう包丁だった。包丁でさばいたんですよ」

 

 傑作でしょう、と喜知田は淡々と、過去の思い出話をするかのように、言った。声には僅かな揺れも、感情も無かった。文章を朗読するよりも無感情に、事実を伝えるためと言った様子で、微笑みを浮かべながら、言ったのだ。

 

「まあ、もうあんな思いは御免ですがね。後処理が大変で。ええ、まさに動物を捌いた後のようにね。まぁ、その心配もあの男が死を持って解決してくれました。皆が言えばそれが嘘でも本当になる。そしてそれが常識となる。いい言葉ですね」

「彼の、蕎麦屋の親父の悪評は、妻を殺したというデマはお前が流したのか」

「彼、ですか。やっぱり、親しい仲なんですね。再婚相手ですか」

「随分と饒舌じゃねぇか。動揺が隠しきれていないぞ」

「人は楽しいと饒舌になるんですよ。無駄な抵抗は最高です」

 下手くそな南蛮語の訳のように、喜知田は言った。

 

 最早疑惑は確信へと、真実へと変わった。目の前の、憎らしい豚を殺さない理由なんてない。私の頭は急速に冷えていった。相手は銃を持っている。だからどうした。右肩から砕けた骨が見えている。だからどうした。烏が横で倒れている。だからどうした。

 彼が巻き込みたくないと言っていた少女が、目の前で横になっている。

 

 だから、どうした。

 

 

 床を強く蹴り、身体を前へと傾かせる。動かない右肩のせいで、体勢を崩しかけるが、気にせず勢いをつけたまま喜知田へと向かっていく。喜知田は、驚いたのか、それとも呆れているのか、表情を変えないままゆっくりと、銃を持った手を突き出した。指先が動き、引き金に人差し指がかかるのが目に入った。意識より先に、身体が動く。地面に倒れ込むように、重心を落とし、もつれる足を強引に動かす。ふらつきながらも、前に進む。頭上で、乾いた破裂音がして、頬に鋭い痛みが走った。だが、気にしない。

 

 目の前に喜知田の腰が迫る。烏の時のように、そのまま突っ込もうとするが、銃を持つ手が、腰付近に添えられているのを見て、咄嗟に体を捻り、投げ出すようにして足を出す。またしても、小さな、けれども、確実に命を奪わんとする悪意の思った音が、耳をかすめた。だが、痛みはない。なら、止まる必要も無い。滑り込むように、喜知田の左足を蹴り飛ばす。意表を突かれたのか、目を丸くした喜知田は抵抗することなく、床に倒れ込んだ。仰向けにひっくり返った喜知田の右手を思いっきり叩きつけ、銃を吹き飛ばす。すぐさま馬乗りになり、左手を首元にあてがう。ぬめりとした汗の感触に、つい手を離してしまいそうになるが、こらえる。そのまま体重をかけていき、気管を押しつぶす。

 

 喜知田の鼻の穴が膨らむのが分かった。酸素を求めているのか、それとも何かを伝えたいのか、口がぱくぱくと動いた。だが、気にしない。左手にこめる力をさらに強くする。力を込めすぎたからか、爪が食い込み、喜知田の首から血が垂れた。顔には、血管が浮かび上がっており、目玉は今にも飛び出そうとばかりに、外へと剥き出しになっている。喜知田が、身体をよじった。両足をばたつかせ、腰を浮かせる。私をひっくり返そうと、駄々っ子のように暴れはじめる。それに抗おうと、必死になって左手に体重をかける。大きく体を揺さぶった後、喜知田は抵抗を止めた。口からは泡のようなものが溢れており、目玉は上を向いている。顔に浮かんでいた血管はなくなり、真っ赤で白目をむいている顔は酔っ払いのようにも、赤子のようにも見える。左手を、首から離した。

 

 ふぅ、と息が漏れる。体から急に力が抜けていった。血を流し過ぎたからか、視界がチカチカと点滅する。右肩に手を置く。赤黒く粘りけのある液体で、服がぐしょぐしょになっていた。痛みはない。あまりに痛すぎて、脳がその痛みを認識することを拒否しているかのようだ。

 

 またしても、視界が白黒と点滅する。体が嫌な浮遊感に包まれた。平衡感覚が、曖昧になっていく。

 

 気がつけば、世界がひっくり返っていた。顔を真っ青にして倒れている喜知田を見下していたはずが、いつの間にか、天井を見上げている。自分が床に倒れたと分かったのは、すぐ左にある烏の顔に驚いた時だった。最初は、単純に体力の限界か、それとも貧血によるものかと思ったが、違った。足に、違和感を覚える。顔を上げて左足を見ると、脛の辺りが血で真っ赤に染まっていた。銃で撃たれたのだ、と気がついた時には、もう遅く、倒れていたはずの喜知田が私の腰を抑えて、馬乗りになっていた。その手には、小さな、銀色の銃が握られている。

 

「油断しましたね」

 

 かすれる声で喜知田は言った。そのまま銃口を私の眉間へと押し付ける。冷たい金属の感触が、頭を冷やしていく。

 

 死ぬ。こんどこそ死ぬ。人間に殺されるなんて、弱小妖怪らしい素敵な末路だ。きっと、烏はこんな感じで見出しをつけるのだろうな、と思った。

 

「慧音が、お前はもう人殺しはしないと言っていたが」

「ええ、人間は殺すと後処理が大変って、いったじゃないですか。妖怪なら問題なしです」

 

 それでは、地獄であの男と会えるといいですね、と言った喜知田は、銃を持つ手に力を込めた。その目には、僅かな動揺も無かった。先程まで首を絞められていたのに、ピンピンしている。あれは演技だったのだろうか。

 

 濃密な死の気配が全身を覆う。もう、声を出すことすら出来なかった。弱者らしく、惨めに床に這いつくばる事しか出来ない。

 

 私は、憎悪にも似た怒りを感じた。奥さんを失った時の、彼の空笑いが目に浮かんだ。彼を殺した時の、包丁の感覚がよみがえる。なぜ、彼らはただ懸命に生きていただけなのに、あんな目に会うのか。考えるだけで、身体が引き裂さかれたかのような痛みを感じる。ここで動かなくてどうするのか。体を懸命に動かし、上の喜知田をどかそうとする。が、まるで瓦礫に埋もれたかのように、ぴくりともしない。私は屈辱と諦めで、押しつぶされてしまいそうだった。

 

 高い声が木霊したのは、その時だ。正確には、部屋の隅におかれた、小さな檻の中の少女が叫ぶ声だ。それが、部屋に響き渡った。

 

 一瞬の事だ。その小さな檻を乱雑にガンガンと揺すりながら、針妙丸が大声で叫んでいる。その声はもはや悲鳴に近く、何を言っているか分からなかった。

 

 私は、固まっている喜知田を他所に、激しく体を揺さぶった。今のうちに、この態勢から抜け出したかった。が、抜け出すより早く、左から風の切る音が聞こえた。上に乗っていた喜知田が、いつの間にか壁際まで吹き飛ばされている。一体何が起きたのか、確認するよりも早く、身体に浮遊感が走る。強い風と、冷たい空気が肌を刺し、目を開けることが出来ない。どうやら、喜知田の家から飛び出し、人里の上空を飛んでいるようだった。あまりにも動きが速すぎる。

 

「あやややや、大丈夫ですか?」

 右から、愉快そうな烏の声が聞こえた。

「結構血が出てますよ。悪い血を出すって感じですかね」

「そうだよ! そんなに血が出て、わたしは心配だよ!」

 今度は左から、声が聞こえた。ガシャンガシャンと金属が揺れる音と共に、もー! と不満そうな声をあげる小人が地団太を踏んでいる姿が、目に浮かんだ。

「喧嘩は駄目なんだからね!」

 

 烏がふき出した。つられて、私も笑う。笑うたびに傷口が痛むが、そんな事は気にならなかった。怒りや憎しみが、霧散していくかのようだった。

 

「なんで笑うの!?」

「あやややや、すみません。つい」

 

 彼の、純粋に育ってほしいという願いはどうやら叶っているようだった。ただ、いささか純粋すぎるかもしれない。

 

「それは置いといて。烏、お前は何時から起きていたんだ?」

 

 烏は、人里で飛んではいけないという注意を忘れたのか、覚えているのか分からないが、私と針妙丸を両手に抱えながらも、弾丸のような速さで飛んでいた。流れていく景色が、川のように見える。とても、直前まで気を失っていたとは思えない。

 

「当然、最初からですよ」平然と、烏は笑った。

「あんな頭突きで、私が倒れる訳ないじゃないですか。演技ですよ、演技。いやぁ、面白かったですよ」

「早く助けろよ」

「助けたじゃないですか。致命傷を負う前に。それだけでも感謝してほしいくらいです」

 

 ニコニコと笑みを浮かべる烏に、心底呆れた。と、共に急に力が抜ける。思ったよりも疲弊していたようで、身体も、頭も限界だった、烏の手に体重をすべて委ね、重力に身を任せる。喜知田への怒りはまだある。が、何も機会が失われた訳じゃない。そう自分に言い聞かせる。そして、忘れてはいけないことを、思い出した。

 

「烏、お前に一つ頼みがある」

「あやややや、図々しいにも程がありませんか?」

「大丈夫だ。代わりにそこの人形を貸してやる」

「え? っえ!?」

「えー、いらないです」

「それも酷い!」針妙丸は、ぷりぷりと怒り始めた。が、よく見ると、眉は下がり、目の端には涙が浮かんでいる。もしかすると、血まみれの私を見て、死んでしまうのかと心配し、元気づけるために、わざとやっているのかもしれない。

 

「まぁ、どちらにせよ、私にそこまでする義理は無いです」

「なぁ、いいじゃねぇか」

 

 蕎麦を打つ彼と、笑顔で微笑む奥さんと、淡々と銃を撃つ喜知田を思い浮かべる。失敗した。弱者の私では、到底歯向かう事などできなかった。悔しいが、烏の助けがなければ、今頃死んでいただろう。感謝はしないが。だが、この失敗を、失敗で終わらせたくはない。

 

「そもそも、復讐なんて馬鹿な事をするからですよ。誰も得をしません」

「分かってないな。お前は」私は嘲笑を隠すことが出来なかった。

「復讐ってのは、誰のためでもねぇ。自分のためにやるんだよ。やりようのない怒りを、悲しみを、憎しみで誤魔化すんだ。それを醜いと笑うか? 笑えるのは強者だけだ。それに色んな理由をつけて正当化することも、悪いといえるか? 弱者の気持ちなんて、所詮はお前らには分からないんだよ」

 

 烏は返事をしなかった。代わりに口を開いたのは、針妙丸だった。

 

「そうだよ。復習は、自分のためだって、慧音先生が言ってた!」

 

 私と烏は、ため息を漏らすことしかできなかった。ここまでくると、慧音の教育に疑問を覚える程だ。純粋すぎて、眩しすぎて、私のような妖怪には辛すぎる。それは、烏も同じようで、歯に物が詰まったかのような、微妙な顔をしていた。

 

「とにかく、頼みがあるんだ。よろしくな」

「えー」

「いいじゃないか」

 私は、顔を上げ、烏の顔を見つめた。

「運命の相手なんだし」

「止めてください、まじで」

 苦笑いをする烏の声に、いつもの元気はなかった。

 



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烏天狗は分からない

 仲介業者の裕福な男に、これで手を打ちませんか、と取引を持ち掛けられたことがある。

 

 天邪鬼と共に、この館に乗り込んだのは、つい数時間前の事。草木も眠る丑三つ時に、妖怪である私をここに呼びつけたという事は、覚悟の表れか、それとも自信の表れか。どちらにしろ、子供のままごとのようなものだ。

 

 喜知田という名の愚人は、優しく微笑んではいたが、その声は枯れており、腕には包帯が巻かれている。よくみると、全身の至る所に切り傷があり、首元には大きな痣がついていた。いったい誰にやられたのだろうか。全く、酷い事をする奴もいるものだ。

 

「あややや。取引ですか? 呪いをかけようとした相手に? 虫が良すぎるとは思わなかったのですか?」

「差し出す虫が良ければ、啄んでくれると思いまして」

 

 喜知田は飄々とした様子で、近くの男に何やら耳打ちをしている。この家の前で会った、札を使うあの相手だ。その他にも、武装した男が何人か部屋の隅で座っていた。呪いなんて面倒な事をせずに、最初からこうしておけば、きっと天邪鬼は手も足も出なかったでしょうに。やっぱり、人間の考える事は分からないものだ。

 

「そんな大した事を頼むつもりはありません。もし射命丸様が条件を飲んで下さるなら、あなた方には今後一切手を出しません」

「あややや。買い被り過ぎですよ、自分自身を。あなた方が手を出そうが出さまいが、我々天狗には何の影響もありません」

「そうではありません」両手を小さく振りながら、喜知田は言った。

「天狗の皆さんではなく、昨日の連中です。天邪鬼と小人に手を出さないと言っているんです」

「それでは」

 

 私に何の利益も無いじゃないですか、そう口にしようとしたが、思いとどまる。確かに、天邪鬼が生きていても、ましてや小人が生きていても、私には何の得もない。それどころか、むしろ清々しいほどだ。だが、彼女の事を書いた記事は評判がよかった。今回、面白かったから放置していたとはいえ、結果的に彼女に恩を売ることができたし、もしかすると、今後彼女についての記事は、私が独占できるかもしれない。だとすれば、他のムカつく烏天狗より、有利にたつことができるはずだ。それこそ、引きこもりがちなあの友人との差は圧倒的になるだろう。それに、ここで人里の有力者とコネを持つことは、今後役に立つかもしれない。決して、天邪鬼が不憫で見ていられないとか、心配だとかいう訳ではないが、この件を受けてもいいと、そう納得する理由は見つけることが出来た。

 

「それでは、まず、その条件とやらを教えてくれませんか?」

「ええ、よろこんで」

 

 仕掛けていた餌に魚が食いついたように、喜知田は喜びを露わにする。表面上は真顔を貫いていたが、右眉が僅かにあがり、口元にしわが寄っていた。これでは、逆に滑稽さが増して、何かの芝居を見ているようだ。とんだ大根だが。

 

「いや、そんな難しい話でもないですよ。あなたの書く新聞に、私の指示する通り記事を載せてほしいのです」

「つまり、ネタを提供すると?」

「ええ、そういう事です」

「なぜ? どうしてそんな事を」

「真実を作り上げるために」

 

 いつの日か、天邪鬼が言っていた、大勢が言えば何とやらという言葉が、脳裏に浮かんだ。あの時は、とうとう頭がおかしくなったのか、もしそうだったら記事にできると喜んでいたものの、目の前の、豚のように肥えた人間に言われると、無性に腹が立ってくる。

 

 そんな人間に、私の新聞の記事を指定されるのは癪だ。本当に不愉快だ。だが、感情論で動くほど、私は能無しではない。

 

「分かりました。情報を提供して下さるというのなら、私は拒みませんよ」

「ご協力感謝します」

「それで? どんな内容を書けばいいので?」

 

 目元を緩めた喜知田は、待ってましたとばかりに、早口で内容を口にする。かなり綿密に練られたそれに、私は衝撃を受けた。思わず、声をあげそうになる。が、決死の思いでそれを飲み込んだ。崩れそうになった微笑みを、再度整えなおす。それは、喜知田の計画が思ったより丁寧で、興味が湧いたからでも、あまりに突飛な内容に意表を突かれたわけでも無い。

 

 

 彼が口にした内容は、昨日天邪鬼が私に書いてくれと頼んだ内容と全く同じだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「号外! ごうがーいです!」

 

 朝から忙しそうに歩き回る人々に、大きな声で呼びかける。みな一様に小走りで先を急いでいるが、私の声を聞き、少し歩調を緩めた。地面を見ていた顔を上げ、こちらを向く。いつもであれば、私の顔を見た途端に、小さく会釈をして、苦笑いを浮かべて去っていくのだが、今日は違った。私の新聞をちらりと見るや否や、顔を輝かせてこちらに迫り、競うように新聞を取り合っていく。最初は山のようにあった在庫も、まだ十分ほどしか経っていないのにも関わらず、半分ほど捌けていた。

 

 普段であれば、小躍りして喜ぶところだが、今日はそういう訳にもいかない。確かに構成を考え、文字の分配に気を配り、見出しの大きさなどの演出を施したのは私だ。それがあまりにも秀逸で、読まずにはいられないという事は分かる。それも間違いない事実だ。ただ、肝心の内容は、今回ばかりは私の足で調達したものでは無い。それが、気に入らなかった。

 

「随分と繁盛しているじゃないか」

 

 人混みをかぎ分けて、見覚えのある女性が私の前に現れた。青白い髪が、太陽に反射して、辺りを照らしているのではないかと、疑う程に彼女は美しい。一部貰うよ、と言った彼女は、新聞に折目がつかないようにと、ゆっくりと、私の手から新聞を抜き取った。

 

「あややや、まさか人里の守護者が私の新聞を読んで下さるとは。光栄の極みです」

「止めろ、私はそんなに偉くない」

 

 微笑んでいた彼女は、一転、この世の終わりのような深刻な顔へと変わった。よく見ると、目元には隈が浮かんでいて、目は赤く腫れぼったい。心なしか、顔全体がむくんでいるように見えた。

 

「何だか、お疲れのようですね」

「まあな。昨日、人里の外れで妖怪が出たって情報があってな。徹夜で見回りをしていた」

「ご愁傷様です」

 

 おそらく、というか確実にその情報は嘘だ。喜知田が慧音を寺子屋から退出させるために、何らかの力を使って情報を流したのだろう。例えば、今の私のように。

 

「にしても、あなたの新聞がこんなに人気だとは。もしかして、価値観がおかしくなる異変か何かか?」

「酷いですね。そういうのは、読んでから言ってください」

「分かったよ」

 

 慧音は、腫れあがった目をこすり、視線を落とした。手に持った新聞を広げ、見出しに目を合わせる。笑うでもなく、泣くでもなく、無表情で新聞を読み続けた。が、新聞の一番外側、いわゆる一面と呼ばれる記事を見た瞬間、彼女は顔を歪めた。髪の色と同様、顔を真っ青にして、呻いた。新聞を持つ手は小刻みに震えていて、紫色の唇の端には、泡立った唾がついている。

 

「あややや、大丈夫ですか?」

「……せいだ」

「え?」

「私のせいだ」

 

 慧音の呟いた一言は、ほんの僅かな音量であったが、私の新聞を読んでいた多くの人の耳に届いたようで、私を含め、誰もが慧音に注目していた。

 その目は、どれもが柔らかく暖かいもので、あちらこちらから優しい声が聞こえてくる。

 私がこの長い妖生で経験したことのない程、異様な雰囲気だ。

 

 “あんたが頑張ってるのは、みんな知っているから、そう気張るな” 

 “悪いのは貴方じゃなくて、この妖怪なんだから、私達はいつも助かっております” 

 “先生、俺たちゃ、あんたの味方だ。たかが一匹の妖怪の悪事を見逃したくらい、誰も責めやしないよ”

 

 誰もが慧音を慰め、励まし、同情する。なんて美しい光景だろうか。慈愛と親愛に満ちた、感動的な場面だ。私の目にはきっと、薄っすらと涙が浮かんでいるに違いない。なんて素晴らしいのだろうか。これもひとえに慧音の日ごろの行いと、人望によるものだ。それが人々の心を動かし、こうして還元されている。やっぱり人間は見ていて飽きることはない。最高だ。

 

 そんな人間の言葉が、何よりも慧音の心を傷つけているのだから。

 

 

 

 刃物で切り付けられた傷が中々治らないように、心についた傷は全然治らないんだ、と昔の上司に言われた事がある。その上司は、嫌な事があったのか、酒をこれでもかという程飲んでいた。が、よくよく考えると、彼女はどんな事があろうと、いつも浴びるほど酒を飲んでいた。

 

 その小さな背丈にも関わらず、次々と酒瓶を開ける姿に、思わず作り笑いが崩れる。さすが“鬼”の四天王は格が違う。酒呑童子の伊吹萃香とはよく言ったものだ。萃香様は、その小さな体に似つかわしくない大きな角を振り回しながら、酒をがぶがぶと飲んでいる。それだけなら良かったのだが、時々、お前も飲め、と強引に口に瓶を突っ込んでくるのだから、堪ったもんじゃない。

 

「分かっているのか、射命丸。妖怪ってのはぁ、心が弱いんだよ、心が」

「は、はぁ」

 

 もう仕事も終わったというのに、強引に部下に酒を飲ませるような彼女の心が弱いとは、到底思えなかった。その時の私は酷く疲れていた。非番だというのに、鬼である萃香様の遊び相手を任せられ、さらには侵入者の対応をして、やっと帰宅できると思ったところで、「今日は世話になったから、お礼をしてやるよ」と強引に酒屋に引きずり込まれてしまった。これでは、どちらかと言うとお礼参りだ。私が何をしたというのだ、と問い詰めたかった。

 

 薄い茶髪の長い髪を後ろに撫でた萃香様は、大きく息を吐いた。風圧で酒瓶が吹き飛び、机がひっくり返る。店員の河童はカタカタと震えてしまっていた。他の客は当然のように、帰ってしまっている。少し目が合って、焦るように目を逸らして帰っていった白狼天狗は、絶対に後で絞めると決意した。

 

「最近、人間が喧嘩をしてくれなくなってよぉ。私は悲しいんだ」

「そ、そうですか」

「もう、私の心は死にかけだよ。死にかけ」

 

 酔っぱらっているのか、私の肩に手をまわした萃香様は、私達は死にかけだぁ、と大声で叫び始めた。私まで一緒にされているのは気に入らなかったが、萃香様に反論できるほど、私は強くなかった。

 

「死にかけた心は、やっぱり酒で直さないとな」

「ええ、そうですね」

「ほら、怪我をしたら傷口に焼酎をかけるだろ? それと一緒で、心の傷にも焼酎が効くんだよ。刃物の傷も、心の傷も治します。どうだ? いいうたい文句だろ?」

「ええ、そうですね」

 

 そうだろ、そうだろ、と満足そうに頷いた萃香様は、お前の傷も治してやるよ、と私の口に焼酎をぶち込んだ。喉が焼けるように熱くなり、むせる。上等なはずの焼酎の味は、もはや分からなかった。

 

 ばれないように、小さくため息をついた。私も酒の強さには自信はあったが、流石に焼酎をがぶ飲みして、全く酔わないなんてことは無い。今の私は酔っているのだろうかと考え、そんな考え事をしている時点で、既に酔っていることに気がついた。

 

 かっぱー! と叫んでいる萃香様には悪いが、流石にこれ以上飲むと明日に響く。そう思い、会計を頼もうと辺りを見渡すも、店員らしき人物は誰もいなかった。代わりに、包丁が机の上に置いてあるのを見つけた。魚を捌いた後なのか、少し刃が湿っている。何の気も無しに、手に取った。萃香様が厨房に立っている河童をいじめている。手に持った包丁を見つめる。

 

 発作的に、包丁を振り下ろした。何にか。萃香様にだ。特に理由は無かった。今なら言えるが、あの時は確実に泥酔していて、血迷っていた。真っすぐ萃香様のうなじへと向かった包丁は、萃香様の肌に当たった瞬間、異様な感覚を手に伝えた。木の棒を地面に思いっきり叩きつけたかのような感触だ。手がびりびりと痺れる。包丁は、綺麗に真っ二つに折れていた。私の手の中にあるのは、柄の部分だけだ。萃香様のうなじは、当然のように無傷であった。

 

「あややや、やっぱり刃物で切り付けても、傷なんて出来ないじゃないですか」私はこのような事を言ったと思う。

「だったら、きっと心の傷も気のせいですよ」

 

 その後の事は、よく覚えていない。気づいた時には、引きこもりの友人の家の布団に寝かせられ、枕元にはごめんごめんと謝る萃香様がいた。

 

「悪かった、いやぁ、いきなりだったから、ついぶっ飛ばしてしまったよ。でも、もう大丈夫だ。だって、きちんと焼酎を体にかけといたからさ」と楽しそうに笑った萃香様を見て、二度と鬼には関わらないでおこうと決意した。

 

 

 慧音の心は、まさに死にそうだった。

「いつまでも暗い顔をしていると、ひどい目に会いますよ」

 めそめそと子供のようにうな垂れている慧音に、私は声をかけた。まるで、子供をたしなめる母親の様だな、と思い、笑みがこぼれる。人里の守護者もまだまだ青臭いガキということか。

 

 私は、急に反省モードとなってしまった慧音を引きずって、寺子屋へと来ていた。本当は私の家へと連れていきたかったが、流石に人里の守護者を妖怪の山へ連れていくのはまずかったので、しぶしぶ寺子屋に運ぶことにした。当然飛んで、だ。

 

「黙っていては分かりませんよ。ほら、何があったか話してみてください」

 

 普段、慧音が教え子に言っているように、優しくさとすように言った。もちろん、馬鹿にするように片眉をあげることも忘れない。

 

 それだけ馬鹿にしても、慧音は顔を上げなかった。床にへたりこんだまま、乱雑に敷かれた新聞に目を落としている。あんなに丁寧に扱っていたはずの新聞は、いつの間にか皺だらけになっていた。こんなに打ちひしがれた慧音を見たことが無かった。無様だ。

 

 このまま置物とかしている慧音を見るのも悪くは無いが、もう記事にするための写真も撮ったので、そろそろ動いてもらいたい。停滞は何も生み出さないとはよく言ったものだ。

 

 本当は、天邪鬼にでも使おうと思ったが、こうなってしまっては仕方がない。

 

 胸に忍ばせていた、小さな瓶を取り出す。中には、安物の焼酎が入っている。蓋をあけ、ためらわず慧音に頭からかけた。どぼどぼと音がなって、ゆっくり焼酎が零れ落ちていき、慧音の青白い長い髪に焼酎が纏わりついていく。突然頭に液体をかけられて驚いたのか、慧音は目を丸くして上を向いた。と、当然焼酎が慧音の顔に注がれる。うぅ、と呻いてすぐに顔を背けたが、それに合わせて瓶の位置を調整する。また慧音が避ける。合わせる。避ける。合わせる。避ける。合わせる。手を掴まれた。瓶をはたき落される。ガシャンと音がしたが、幸運なことに瓶が割れることはなかった。

 

「何を、なんてことをするんだ。あなたは」

「半獣のくせに湿ったらしいからですよ」

「だからって……。酒臭いな。焼酎か? 何で焼酎をかけようと思ったんだ」

「実体験ですよ。こうすると、身体の傷も心の傷も治ります」

「消毒は体の傷にしか効果は無い」

「効果があると、信じるんですよ。信じる者は救われるんです」

 もちろん、私は信じてはいない。

「まったく、お前はまともな妖怪だと思ったんだがな」

 

 呆れるように、苦笑いをした慧音の目には、心なしか光が灯っているような気がした。本当に心の傷が癒えたのか、それとも単純に焼酎が目に染みて、涙が滲んで光を反射しているのかは、私には分からなかった。が、慧音が口を開くようになったことは確かだ。

 

「それで? どうしたんです?」

「どうした、とは」

「言ってたじゃないですか、私のせいだって。そこの新聞に載ってる妖怪とあなたの間に、天邪鬼とあなたの間に何かあったんですよね?」

 

 慧音は、口をもごもごとさせ、新聞を指さした。私の考えた秀逸な見出しが、大きく印刷されていて、目を惹く。“天邪鬼【鬼人正邪】の凶行!! 殺人、恐喝、爆破の数々!! ”と太く独特な書体で書かれている。天邪鬼からは、びっくりしすぎだろ、と苦情が来たが、全身に巻かれた包帯に塩をまぶすと、素直に受け入れてくれた。

 

「射命丸は、本当に天邪鬼がこんな悪事をすると思っているのか?」と慧音は目を鋭くして言った。

「少なくとも、恐喝はしてましたね。一文だけ」

「殺人は、したと思うか?」

「どうでしょう。していたとしても不思議ではありません」

 

 そもそも人を殺していない妖怪の方が稀なのだ。ここ幻想郷というぬるま湯に浸かっていると忘れそうになるが、人間は妖怪の餌であり、天敵でもある。生き延びる都合で殺していたとしても、何ら不思議ではない。

 

 それに、私の予想が正しければ、確実に天邪鬼はひとり、人間を殺している。

 

「言い方を変える。あの天邪鬼が30年かけて、夫妻を殺害するような、そんな妖怪に見えるか」

 

 相も変わらず、私の新聞を指さしたまま、慧音は続けた。その指の位置は、僅かに右にずれている。天邪鬼による夫婦への復讐。何とも興味深く面白い内容だ。それも、つい先ほどまで人里を騒がせていた、奇妙な殺人事件の被害者の男性と、その被害者が殺したとされていた妻の二人を殺したというのだから、関心が湧かないはずがなかった。特に関心を集めたのは、三十年前の女性殺害事件の犯人が、天邪鬼だったという事だ。心臓を一突きしたのは、人間ではなく、妖怪であったという事実に、彼らは、大いに喜んだ。やっぱり、あの男の人はそんな悪い人には見えなかった。奥さんが亡くなって。一番悲しんでいたのは彼だったと口々に語り合っていた。

 

「射命丸。結論からいうと、この記事は間違っている」

「え?」

「三十年前のあの事件を起こしたのは、天邪鬼じゃない」慧音の顔が、また絶望的なものへと変わった。

 

 私は、喜知田の家での天邪鬼の言葉を思い出していた。確か、喜知田が昔の殺人を犯したという事実を、慧音から聞いたと言っていたような気がする。

 

「私のせいだ。私があんな事を言ってしまったから」

「あややや、落ち着いてください。そろそろ貴方と天邪鬼の間に何があったか、教えて下さいよ。喧嘩でもしたんですか?」

「喧嘩、か。強ち間違ってはいないかもしれないな」

 

 天邪鬼がみせるような、卑屈な笑みを慧音は浮かべた。が、詳しく話す気はないのか、お茶はいるか? と立ち上がり、席を離れようとして「ぶぶ漬けもいるか?」と付け加えた。

 

 私は考える。慧音はなぜ話そうとしないのか。なぜ私を帰そうとしているのか。寺子屋にいない針妙丸を心配しているのだろうか。いや、多分慧音はまだ針妙丸がいない事に気がついていないはず。昨日、無人の寺子屋に侵入し、小さな布団に身代わりの人形を入れておいた。実際の針妙丸は、私の家で天邪鬼と仲良くやっているはずだ。身代わり人形を見て、全然似てない! と元気に喚いていた姿を見て、天邪鬼はにやにや笑っていた。気持ちが悪い。

 

 では、なぜか。色々な案が頭に浮かんでは消える。が、とても単純なことに気がついた。人里の守護者である前に、こいつは寺子屋の教師である。だとすれば、生徒を守ろうと、そう思っていてもおかしくない。その生徒が、もはや還暦を迎えようとしていても、だ。

 

「三十年前の犯人が、喜知田という男だってことくらい、もう知っていますよ」

 扉を開けようとしていた慧音の手が止まった。ギクシャクと、機械のようにこちらを振り返る。その目は獣のように鋭く、部下の白狼天狗よりも、狼に似ていた。

 

「天邪鬼から聞いたのか」

「いえ、違いますよ。関係筋からです」

 

 咄嗟に嘘を吐いた。慧音には、昨日の出来事を知られたくなかった。出来れば、私と喜知田との関係性は皆無だと思わせたい。それは、デマの新聞記事だとばれる事を防ぎたいからでもあったが、何より、人里で妖怪が人間を襲おうとしたなんて、巫女案件に関わったと知られたくなかった。妖怪の山に伝わると、厄介だ。

 

「関係筋なんてある訳ないだろ」

「いえ、私の交友関係は広くてですね。風の噂ならすぐに耳に届くんですよ。烏天狗は風を操れますから」

「そんな事を言っていると、鬼に殺されるぞ」

 

 慧音は、しかめていた眉をほぐすように、手でぐりぐりと揉んでいた。手をひらひらと揺らし、分かったよ。言うよ、と頷いた。

 

「お前を野放しにする方が怖い。でも、絶対に記事にはするなよ」

「分かっていますよ」

 

 本当だろうな、と慧音は訝しむように、首を傾げた。私は大きく首を縦に振った。が、約束を守る気はさらさらない。いい記事を書くためには、いくつかの犠牲が必要なのだ。

 

「昨日、喜知田が天邪鬼のいた家に来てだな、彼女を追い出したんだ」

「ああ、あの爆発した家ですね」

「爆発?」

「ああ、気にしないでください」

 気にしてしまうと、話がややこしくなる。

「その後、ここで少し話をしたのだが、その、なんて言えばいいんだろうか」

「簡潔にお願いします」

「多分、近ごろ不審死した男と天邪鬼は親しかったんだな」

「へぇ」

「それで、男の奥さんを殺した犯人が喜知田だと漏らしてしまって」

「はいはい」

「おそらく、天邪鬼は、アジの開きを選んだんだ」

「はいはい、は?」

 

 思わず、自分の耳を疑った。さっきの焼酎で酔っぱらってしまったのではないかと、心配になる。彼女の言った情報は知っていた。天邪鬼が、たかが家を爆破されたぐらいで、あそこまで突飛な行動に出るはずがない。彼女があんな行動に出るとしたら、友人を殺されるか、御馳走を取り上げた時くらいだ。だが、その後の言葉の意味が分からない。アジの開き? 何かの隠語か? 分からない。分かるはずがない。分かってたまるものか。

 

「射命丸。お前に聞きたいことがある」

「ないです」

「ある。この新聞の件だ」

 

 床に落ちていた新聞を、慧音は丁寧に拾い上げた。皺がついてしまった、と少し申し訳なさそうに呟く姿は、いつもの先生然としたものだった。

 

「この新聞の内容、もしかして天邪鬼に頼まれたものじゃないのか?」

「え?」

 

 無意識に、翼が震える。どう反応したものか、分からない。まさか図星を突かれるとは思っていなかった。しかも、あの人里の守護者なんぞに、だ。正確には喜知田と天邪鬼の二人に頼まれたものではあるが、それでも悟られないようにと、意識していたはずだった。人の記事を流用するなんて、絶対にばれてはいけなかった。

 

「どうして、そう思うんですか?」

「簡単だよ」悲しそうに、慧音は目を伏せた。

「天邪鬼は、それはもう怒っていた。弱小妖怪なんて、いくら怒ろうが怖くはないはずなのに、私は恐怖で震えたよ。だが、なぜそれほどまでに彼女が怒っていたのか、分かるか?」

「そりゃあ、友人の奥さんを殺した犯人が分かったからじゃないですか? よくも! って憤りを感じても、おかしくはないです」

「違うな」

「え?」

「たぶん天邪鬼は、友人である男が悪人に仕立てあげられているのが許せなかったんだよ。特に、奥さんを殺したということが。だから、その犯人を見つけた時に、怒ったんだ。“どうして罪をなすりつけたんだ”ってね」

「知っているかのように話しますね」

 

 いけしゃあしゃあと、天邪鬼について話す慧音が、どことなく気に入らなかった。顔が段々と熱くなり、喉が震える。彼女の言った事を認めたくはなかった。認めてしまったら、彼女の怒りの原因の一つを、“悪人に仕立てあげる”作業を私が行ってしまった事になる。そうなると、彼女への貸しが相殺されてしまうかもしれない。

 

 慧音は、私の正面まで歩いてきて、ゆっくりと座った。その目は、完全に教育者のものへと戻っている。見下されているような気がして、腹が立った。千を超える年月を過ごしてきた私に、随分とご挨拶ではないか。そう口にしようとしたが、先に慧音が口を開いた。

 

「私は何も知らないよ。天邪鬼のことなんて何も知らない。彼女が普段何を考え、何を信じて、どう行動するかなんてしらない。ただ」

「ただ?」

「彼女は身の程をわきまえる。弱小妖怪という自覚を持っている。卑屈なぐらいに自分の弱さを認識している。それは知っているんだよ」

「はぁ」

「だから、私には天邪鬼が短絡的に復讐をするとは思えない。なぜか。失敗することを知っているからだ。だったら、どうするか。どうやって友人の名誉を取り戻すか。答えは簡単だ」

「その悪評を自分が被る、ですか」

 

 無言で頷いた慧音は、また私のせいだ、と呟いた。私のせいだ。私のせいで彼女は、こんな罪を背負って生きていくことに、と呪いのように繰り返している。私のせいだ。

 本当に? 

 慧音の言っていることは本当なのか。天邪鬼は、そんなにも冷静に物事を判断できる妖怪なのか。いや、違う。実際、天邪鬼は喜知田の家に直接乗り込んで、復讐へと走った。慧音の言っていることは間違っている。

 本当に? 

 本当に間違っているのか。確かに天邪鬼は冷静では無かった。爆発した家の前で地面に抱きついている様子は、どうみても発狂していた。だから、彼女の心の留め金が、喜知田によって外されてしまっただけなのかもしれない。

 本当に? 

 いや、確かに彼女は発狂していた。だが、腐っても妖怪。自分の危機については人一倍敏感なはずだ。でなければ、生き残れるはずはない。ならば、なぜ彼女は直接喜知田に復讐を試みたのか。なぜそんな愚行に走ったのか。

 

「私のせい、か」

 

 知らず知らずのうちに、声が零れていた。慧音が不思議そうにこちらを見つめているのに気がついた時、初めて自分の口が動いていたことが分かった。このまま、無かったことにしてくれたら良かったのだが、「どういう意味か説明してもらおうか」と慧音が突っついてきた。思わず舌打ちが出る。信じられないほどに頭が高い。見越し入道もびっくりだ。

 

「黙秘権を行使します」

「……そういえば近頃大天狗様と会談があったな」

「是非とも話させてください」

 

 汚らわしい半妖の心は、同じように汚らわしいものだった。辛酸を舐めさせられるとは、まさにこのことだ。上下関係が尊重される妖怪の山にいる以上、上司に失態を知られるのは避けたい。

 

「貴方の天邪鬼が喧嘩した後、彼女に会ったんですよ。たまたまですけど。それで、その後に喜知田の家にカチコミに行ったんですけど」

「おい」

「結局失敗して、私が回収して帰ったって感じですかね」

 

 慧音は、開いた口が塞がらないといった様子で、しばらく呆然としていたが、首を何度か振って、大きくため息を吐いた。

 

「言いたいことは無数にあるが、取り敢えず怪我はなかったか?」

「ええ。きちんと手加減したんで。人間の基準で言うと、全治一週間といったところですかね」

「そっちじゃない。天邪鬼の方だ」

「あややや、そっちですか。まぁ、天邪鬼には優秀な介護人がついているので、多分大丈夫ですよ。ちょっと、穴が空いてますが」

「まあ、大丈夫であればいいが」

 

 もしかすると、天邪鬼に空いた風穴ならば、あの素敵で小さな介護者ならば、くぐれるのではないか。そんな事を考えていると、慧音が「それで、何でそれがお前の責任になるんだ?」と訊いてきた。

 

 その質問は、私が初めからお前にしているだろ、と怒鳴りつけたくなったが、大天狗様のしかめっ面が目に浮かんで、言葉を飲み込んだ。

 

「いえ、もしかしたら、天邪鬼は私にたまたま会ったから、喜知田の家に向かったのかと思いまして」

 

 弱小妖怪一匹なら不可能でも、烏天狗という反則じみた妖怪が仲間にいたならば、もしかすると上手くいくかもなんて、そんな幻想を抱かせてしまったのかもしれない。

 

「いや、それはないだろう」

 にべもなく、慧音は言い切った。

「きっと、天邪鬼は最初からこの新聞を書いてほしくて、あなたと行動したんじゃないか?」

「あややや、流石にそれはないですよ。だって、あの天邪鬼がですよ?」

 

 彼女は本気で喜知田を殺そうとしていた。憎悪は溢れんばかりに発していたし、怒りのあまり我を見失っているようだった。その狂気は針妙丸がいなければ、彼女を死に追いやっていたはずだ。そんな彼女が、計算だてて行動していたとは、演技だったとは、とても思えない。

 

「気まぐれってものは、案外理由があるんだ」

「はい?」

 

 塩を持った人間の話、知っているか? と慧音が訊いてくる。知らなかったが、そう言ってしまえば、話が長くなりそうなので、知っているに決まっているじゃないですか、と嘘を吐いた。

 

「天邪鬼は、多分無意識に、本能的にこの計画を実行したと思うんだ。自然と、頭に刷り込まれていて、それが自動で飛び出した」

「いや、無理がありますよ」

 

 彼女にそんな事ができる訳がない。普通に考えればそうだ。だが、なぜか納得してしまう自分がいて、驚く。慧音の教育じみた言い方によって、説得力を感じてしまったのか、天邪鬼ならば、と力を認めてしまっているのか、自分にも分らなかった。

 

「もしそうだとすると、私達は彼女の手の平だったって事になるな」

「絶対認められないですね、それは」

 

 慧音と私は頬を緩めた。まだ思う事はあるだろうが、自己解決したのか、慧音は清々しい表情に戻っている。その表情に見合うような、綺麗な声で言った。

 

「ところで、この新聞なんだが」

「何ですか?」私の自慢の新聞は、もはや行間まで読み込まれていた。

「この“鬼人正邪”っていうのは天邪鬼の名前か」

「ああ、それは」

「私が考えたんだよ!」

 

 私が答えるよりも早く、後ろから高い声がした。幼く、無邪気なその声は、一寸の悪意も存在しない。なぜ彼女がここにいるのか、疑問に思ったが、後ろを向くことでそれは解決した。全身を包帯でぐるぐる巻きにされ、顔と角を隠している天邪鬼が、腐った魚のような目で針妙丸を睨んでいる。哀れな天邪鬼は、慧音に謝らされるために、強引にここに連れてこられたのだろう。ちらりとこちらを見た天邪鬼は、助けれくれと確かに呟いた。絶対に助けない。

 

「針妙丸じゃないか。お前は寺子屋で寝てたんじゃないのか?」

「ううん、文さんの家でお泊り会してたの!」

「そうか。それは良かったなぁ。なぁ? 射命丸」

 

 説明しろ、と慧音の目が訴えている。流石にこれ以上は勘弁願いたい。何とかして、天邪鬼に慧音をなすりつけよう。

「それで? 先生どう思う? 鬼人正邪。いい名前だと思わない?」

「ああ、そこの天邪鬼には似合わないくらいにいい名前だ」

 

 えへへー、とにこやかに笑いながら、撫でている慧音の手に、猫のように頬を擦りつけた。それを見ている天邪鬼の目が、ますます濁っていった。いい気味だ。記事にしよう。

 

 しばらく撫でられていた針妙丸だったが、何かを思い出したかのように、ああ、と小さく声をあげて、天邪鬼、もとい正邪の元へと、とてとてと歩いていった。

 

「ほら、正邪。先生に言いたいことがあるんでしょ」

 

 顔の大部分が包帯につつまれているが、その澱んだ目は隠せていなかった。おそらく、正体を隠すために包帯を巻いているのだろうが、その目ではすぐにばれてしまうだろう。

 

 いやいやといった様子で、正邪は首を縦に振った。腕を組んで仁王立ちしている慧音の元へと、のそりのそりと歩いていく。顔が当たるのではないかと思うほど近づいた正邪は、腰を90度に曲げて、頭を下げた。しばらく、無言でその状態を維持していたが、観念したのか、少しずつ口を動かした。

 

「慧音。お前に言いたいことがある」

「何だ」

「あのだな」

 

 照れくさそうに頬をかいた正邪は口をもごもごさせ、唾を飲んだ。包帯のせいで表情は見えないが、はみ出た耳は真っ赤に染まっている。

 

「えっと、あれだ。その」

「落ち着いて、言ってくれ」

「じゃあ、言うが」

 

 すぅ、と息をのむ音が寺子屋を包んだ。

 

「慧音。お前って結構大根足なんだな」

 

 寺子屋が静寂に包まれた。針妙丸は呆気にとられ、本当の人形のように固まっている。慧音は、おそらく謝罪が来た場合、自分も頭を下げようと思っていたのだろう、中途半端に腰を落としていた。

 

 かくいう私は、この面白い状況を逃すまいと、急いでカメラのシャッターを切る。カシャカシャと機械的な音だけが、部屋にこだましていた。

 

「射命丸」

 

 硬直状態から最初に抜け出したのは、慧音であった。最初の絶望的な顔でも無く、先程の清々しい顔でも無く、怒りに満ちた顔で、正邪を見下している。口角は上がっていたが、目に光は無かった。

 

「焼酎はまだ余っているか?」

 

 きっと、正邪の頭にかけるのであろう。だが、それが、正邪のひん曲がった心を治すためか、これから頭突きを行うという意思表示なのか、私には分からなかった。



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大人と小人

 行きつけの蕎麦屋の親父に、お前は人間よりも人間らしい、と言われたことがある。言われたといっても、その時彼は既に死んでいた、私が殺していたので、正確には、書置きにそう記されていた、といった方が正しい。

 

 いつもならば、机の向こう側にいるはずの彼の姿が見えない。当然だ。彼は今頃人里の外の墓場で優雅に眠っているはずなのだから。そうと分かっているはずなのに、よう、と陽気に手を上げる彼の姿が頭から離れない。頭を振って、その幻覚を消し去る。それでも消えない。目をつぶり、机に手を置き、身を乗り出した。思ったよりも勢いがつき、そのまま反対側へと転がり落ちてしまう。世界がくるくるとまわり、気がつけば、尻餅をついて床に座り込んでいた。何をやっているんだ、とつい口に出てしまう。

 

 書置きを見つけたのは偶然だった。立ち上がろうと、床に手を置いた時に、何かざらりとした感触がし、摘まみ上げてみると、一枚の紙きれであることが分かった。端が折れ曲がっているそれは、ところどころ赤黒い染みがついていて、ふやけている。墨で書かれているのか、ふやけている部分だけ、文字が変に滲んでいた。が、間違いなく彼の字であることは分かった。

 

 文の書き出しは、彼らしからぬ丁寧な書き出しで、"拝啓、天邪鬼"と書かれていた。つい、頬が緩む。拝啓だなんて、似合わな過ぎて、寒気がするくらいだ。うるむ目をこすりながら、ゆっくりと手紙を読み進める。

 

 "拝啓、天邪鬼。前にも言ったが、お前は人間よりも人間らしい。いいか。これは誉め言葉だ。お前は人間よりも弱い。身体能力も、忍耐力も、精神力も、妖怪であるにも関わらず、人間よりも弱い。いいか、一見これは短所にみえるし、実際短所だ。だけどな、視点を変えろ。逆に考えるんだ。それは何よりもお前の長所になりうる。いいか、逆に考えるんだ。分かったな。逆だ。あと、もしお前が良ければでいいのだが、娘の様子を見守ってくれ。いいか、見守るだけだぞ。お前みたいな短所しかない奴は、悪影響しか与えないから。絶対だぞ。それじゃぁ、お休みだな"

 

「勝手な事ばかりいいやがって」

 

 くしゃりと紙がひしゃげた。いつの間にか手に力が加わって、手紙を握りつぶしてしまっていた。

 

 誰がお前の言う通りになんて動いてやるか。私を誰だと思っている。天邪鬼だぞ。そう呟く。私の声は、虚空に消えていき、静寂だけが残った。ひとまず、これからどうするか、考えた。だが、思いつかない。今まで通り、適当な奴から飯をたかり、馬鹿にして、嫌がらせをする生活に戻る。これは間違い無い。だが、それだけでいいのだろうか。何かをした方がいいのではないか。

 

 そうだ、と思いつくことがあった。確かな目標があったわけではない。何となく、こうしようと思っただけだ。きまぐれで、思っただけだ。

 取り敢えず、こいつの娘に会おうか。

 

 馬鹿馬鹿しい、と立ち上がろうとした時、視界の端に見覚えのあるものが映った。一瞬、現実を理解することができず、目を擦り、もう一度それを見つめる。長く、途中で直角に折れた机の真ん中付近、そこにそれはあった。

 

 そこに蕎麦があった。

 

 自分が見落としていたのか、存在するのが当然かのように蕎麦は平然と佇んでいる。彼を殺してから、もう半日が過ぎようとしているのに、大きな器からは湯気が立ち昇っていた。どう考えてもおかしい。おかしいが、納得してしまう。懐かしさと、切なさで胸が絞られる。まさか本当に、死んでからも蕎麦を作ったのだろうか。尊敬よりも呆れの方が先に浮かんだ

 

 箸をつかみ、ゆっくりと蕎麦へと近づく。いつもの香ばしい匂いが鼻を覆い、目頭が熱くなる。彼の得意げな顔が頭から離れない。

 

 蕎麦に箸を付けようとした時、初めて違和感に気がついた。いつもは、鰹節のような透き通った茶色のつゆに、石臼のような色の細い麺があるだけだった。だが、今回は違った。その、いつもの蕎麦の上に、見慣れないものが浮かんでいたのだ。

 

 黄金色で、ところどころ焦げ茶に色づいている円形のそれは、よく見ると小さな海老や、シソの葉が一つに纏まっている。汁でふやけているが、そのきれいな形は崩れていなかった

 

「絶対に嫌だとか言ってやがったくせに」

 

 彼が何かと口にしていたかき揚げを口へと運ぶ。今考えると、彼はかき揚げを練習していたのだろう。それを私に食べさせたくて、わざとあんなことを言ったのかもしれない。本当に、どっちが天邪鬼なのだか、分からない。

 

「ああ、まずいなぁ」

 

 今度はもっとうまいのを頼むぜ、と笑う。今でもうまいだろうが、と返事が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めると、木で出来た天井が目に映った。やけに高く、また、見たこともないくらいに綺麗な縦じまの木目だった。それが、規則正しく縦横と網のように交差していて、籠のような形になっている。いつから、蕎麦屋の親父は芸術家の親父へと転職したのだろう、と不思議に思いながら、目をこする。

 

「あ、起きた!」

「え」

 

 彼にしては、みょうに甲高く、無邪気な声に一瞬戸惑ってしまった。ゆっくりと、声のした方へ体を回そうとする。が、鈍い痛みが全身を走り、断念した。そのまま、倒れ込むように布団にうずくまる。よく見てみると、布団から綿が出ておらず、赤茶色の染みも無い。さらさらと肌触りは、まるで絹の様だ。

 

「わわ、大丈夫? 無理しちゃだめだよ」

 

 混乱する頭に叩き込むかのように、大きな声が耳を突いた。頭の中にある液体が、声によって波を打ち、脳みそをガンガンと打ち付けているようだ。

 

 だが、そのおかげで状況が分かってきた。思い出してきたと言った方が正しいかもしれない。昨日、喜知田の家からむざむざと敗走し、配送された私は、烏の家で治療という名の拷問を受け、布団で寝かせられていたのだ。情けない。とは思わなかった。よく失敗は成功の元、という言葉が持て囃されているが、私みたいな弱小妖怪からすれば、それは誤りだ。正しくは、失敗は失敗の元である。どんなに失敗しようが、成功はしない。反省を生かすだけで成功するのならば、努力家はみな報われるのだ。だから、失敗を失敗のままにしてはいけない。

 

 だが、後悔はなくも無かった。それは、目の前で"死んじゃだめ! "と目の端に涙を浮かべながら私の体を揺さぶろうとしている小人の存在だ。彼女を巻き込んではいけなかった。彼女は慧音の元で、平和で、和気藹々と、それこそ蝶よ花よと育てられなくてはならない。やはり、彼女に会いに行ったのは失敗だったか。彼の言う通り、このままでは私は水の泡にしてしまう。何をか。全てをだ。

 

「おい、人が寝てるんだから静かにしてくれ」

「うわっ」

 

 しゃべった! と大袈裟に手を振り回しながら、ペタンと尻餅をついた針妙丸は、その小さな体全体を使って「大丈夫なら言ってよ!」と怒り始めた。顔をタコのように赤くし、胸の前に出した腕を上下に揺さぶっている。

 

「なんだそれは。カマキリの威嚇か」

「違うよ! 心の準備ができてなかったからびっくりしたの!」

「馬鹿か。準備なんていらねぇよ。怪我をする前に包帯を巻くやつがどこにいる」

 

 憤る針妙丸に背を向け、また布団を被ろうとする。そこで、自分の腕がうまく動かないことに気がついた。昨日の怪我が響いているのか、それとも烏の塩水のせいなのか、分からない。

 

「ところで、烏はどうした」

「烏? ああ、文お姉ちゃんのこと?」

 あやおねえちゃん、と口の中で言葉を転がす。なんて不気味な単語だろうか。こんな残虐な言葉がこの世に存在していたのか。戦慄し、鳥肌が立った。

 

「昨日は恰好よかったよね。私もあんな風になりたいな」

「絶対にやめろ」

「なんで?」

「細かい事は気にするんじゃねぇ。それより、烏はいないのか?」

「文お姉ちゃんは出かけたよ」と部屋の奥に積まれている新聞を指さしながら、針妙丸は笑った。

「なんか、たくさん紙を持って出かけていった」

「そうか」

 

 きっと、朝刊を配りに行ったのだろうとあたりをつける。昨日の今日で、新聞が出来上がるものなのかどうかは分からなかったが、自称幻想郷最速の名は伊達ではないようだ。

 

 痛む体に鞭を打ち、布団から体を起こす。大丈夫? と声をかけてくる針妙丸を無視して、左手を軸に立ち上がる。電流が走ったかのような衝撃が体を蝕むが、無視した。思うように動かない左手を庇うようにして、部屋の奥へと足を進める。きれいに整頓された紙の塔の中から、一枚上にあった物を抜き取った。昨日、必死に作ったのであろう。"射命丸文は天才かもしれない"と記事の端に走り書きがあった。安心しろ。お前はちゃんと凡才だ。

 

 意識したわけではなかったが、鬼人正邪ってのはいい名前だな、と声を漏らしていた。烏の新聞にでかでかと書いてあったその文字は、心にすっと溶け込んでいく。

 

 名前。人間にとってはそうでもないかもしれないが、妖怪にとっては重要なものだ。存在の証明。恐怖の源泉。信仰の対象。とにかく、人々に忘れられることが、そのまま死に直結する妖怪にとって、名前というものは大事なのだ。ではなぜ私には今まで名前がなかったのか。理由は単純。いくら私が名前を名乗ろうが、人に強制的に呼ばせようが、結局のところみなは私を天邪鬼と呼んだ。私以外の天邪鬼がいたなら良かったが、残念ながら見たことがない。だが、それも今日で終わりだ。"天邪鬼では、インパクトが足りません"と嘆いた烏の一言から、私の名前がなし崩し的に決まってしまった。別にそれに思うところはなかった。結果的につけられた名前にも文句はない。ただ、唯一気に入らないのは。

 

「そうでしょ。なんてったって、私がつけたんだから」

 

 針妙丸が発案したという事だ。

 

 

 鬼人正邪。鬼と人。正と邪。そして貴人聖者と"鬼人正邪"。どこをとっても私の、天邪鬼の性質を表している。当然、針妙丸はそんな事を意識したつもりもなければ、そもそもそんな漢字も熟語も知らなかった。では、なぜそんな名前をつけたのかと訊ねると

 

「なんとなく、頭に浮かんだの」とのことだった。

 

 そんな、何となくで決められた名前は、烏によって人里中にばら撒かれているのだろう。それも、とびっきりの悪評と共に。むしろ、そうでなくては困る。

 

「ねぇ、せいじゃ」

「なんだ」

「これからどうするの?」

「そりゃ」

 

 何も決めていない。本当に、これからどうしようか。人里で暮らせるか分からないが、それ以外に生きる当てもない。このまま烏のヒモになるのも悪くはないかもしれない。

 

 ただ取り敢えず言えるのは、私は二度と針妙丸と関わるべきではないという事だ。

 

「なぁ、チビ」

「チビじゃないもん」

「突然だが、私はお前が嫌いだ」

「え?」

「もっといえば、慧音も、烏も嫌いだ。目障りだ。存在が邪魔だ」

「ひ、ひどい」

「酷くねぇよ。事実をいって何が悪い。お前みたいなガキと関わるのは疲れるんだよ。住む世界が違うんだ」

「何いってんの?」

 

 てっきり怒り出すと思っていたが、針妙丸はこてんと首を傾げた。不思議そうに目を丸くしてこちらを見つめている。まるで子猫のようだ。

 

「住む世界がちがうって、おなじ人里に住んでるじゃん」

「そうじゃなくてだな……」

 

 張り詰めていた心が、すとんと軽くなった。呆れてものも言えない。能天気にもほどがある。もしかすると、こいつは自分が殺されそうになっているときも、こんな風にのほほんと見当違いのことを言い出すのではないか、と心配になる。もし眉間に銃を、武器を突きつけられた時、「私は食べても美味しくないよ」と本気で言い出しそうだ。

 

 銃を突きつけられる、というイメージから、つい昨日のことを思い浮かべる。昨日、針妙丸はあの喜知田との血生臭い“喧嘩”を、ほとんど眠らされていたとはいえ目撃していた。その事実が心の重しとなって私を苦しめる。喜知田とこの少女との関りは是が非でも絶たないといけない。彼女のためでも、彼のためでもない。私のために、だ。

 

「いいか。私は不良なんだよ。悪人なんだ。お前らみたいな平和ボケした奴と一緒にいたら、腕が鈍っちまう」

「なんの腕がなまるの?」

「慧音を怒らせる腕だよ」

「そんな腕があるの?」

「ねぇよ。何だよ慧音を怒らせる腕って。千手観音かよ」

「千手観音さまにもそんな腕はないと思う」

 

 もう一度部屋を見渡し、金目になりそうなものが落ちていないのを確認して、ベッドに戻った。スプリングが軋み、身体を押し返してくるのが心地良い。隣でベッドに座っていた針妙丸が反動で宙を舞ったのはもっと心地よかった。

 

「とにかく、お前らと一緒にいると駄目なんだよ」

「えー」

 不服そうに眉を下げた針妙丸は、でもさー、と不貞腐れるように、口を尖らせた。体をこちらに寄せ、よりかかってくる。避けようとするも、痛みのせいか動くことができなかった

 

「でも、人ってそんな風にいい人とわるい人って分かれないんじゃないかな?」

「え」

「寺子屋でも、どんなにいい子でも授業中寝るときあるし、どんな悪い子でもけいね先生に褒められることもあるよ。それに、悪い子もけいね先生に謝ったら、いい子になるの。だから、いい人とわるい人って、あんまりちがわないと思う」

「蕎麦と同じでか」

「そば?」

「何でもねぇよ」

 

 針妙丸の頭を包帯で巻かれた手で強く撫でる。いたいよー、と満更でもなさそうな声を出す彼女を無視して、さらに力を加えて、顔を押し込むように髪をわしわしとかき回す。彼女の言葉に感激し、褒め称えているのではない。今の私の顔を見られたくなかったのだ。涙こそ流れていないはずだが、不自然に顔が熱い。やはり、あいつの子だ。口元のにやけが収まらない。分かっていたはずなのに、それでも喜びがあふれた。

 

「というか、そもそもせいじゃは悪人じゃないと思うんだけど」

「そうか?」私の声は、わずかに震えている。

「うん。たぶん、みんなは信じてくれないと思うけど」

「きっと」 

 

 彼の言葉が頭に響く。さっきまで、全く覚えていなかった会話が、鮮明に思い出されていく。なつかしく、それが何よりうれしかった。私が忘れない限り、彼は私の心に生き続ける。そんなクサくて、阿呆らしくて、反吐が出るようなことが頭に浮かんだ。そんなことを一瞬でも考えてしまった自分が恥ずかしくて仕方がない。彼が知ったら、天邪鬼とは何だったのか、と呆れるだろう。私もそう思う。が、それでも胸の切なさと高揚感は消えない。

 

「きっと、お前以外にも一人ぐらいそう言ったやつがいたかもな」

「まさかー」

「なんで信じねぇんだよ」

「あなたみたいな悪い人の言うこと、信じる人はいないよ」 

 

 こらえきれず、私は大きな声で笑った。包帯の奥の傷が痛むが、それすら気にならないくらいだ。こころなしか、部屋の扉が私の声で、カタカタと震えた気がした。

 

「お前らはやっぱりあれだな」

「あれ?」

「まあ、血は争えないってやつだな」

「ち? また喧嘩でもするの?」

「ばーか」

 

 起きたときの鬱蒼とした気分はもはや消え去り、かえって清々しい気分へ変わっていた。喜知田への憎しみや、針妙丸への罪悪感は確かに残っている。それでも、どこか心が軽い。気が晴れたからか、昨日から何も食べていないことにやっと気がつき、急速に腹が減ってくる。烏が帰ってくる前に食いもんでも食べ尽くしておくか、とベッドから立とうとしたとき、腰の違和感に気がついた。目を落とすと、服とベッドを固定するかのように裁縫針が突き刺さっている。隣にいたはずの針妙丸は、いつの間にか私の体をよじ登っていた。振り落とそうとするも、怪我のせいか上手くいかない。

 

「おい、降りろ。何をする気だ」

「何って巻こうと思って」

「なにをだよ」

「ほうたい」

 

 そう言うやいなや、私の頭まで上った彼女は、どこから取り出したのか包帯を手に持ち、ぐるぐると私の頭に巻き付け始めた。当然私は振り落とそうともがくが、上手くいかない。結局、頭だけでなく、全身をぐるぐる巻きにされてしまった。ミイラ男みたいだ。そんな私をみて、満足そうにうなづいた彼女は、両手をあげて、やったー! と喜んでいる。

 

「おいガキ。何しやがる」

「だって、準備が必要だとおもって」

「は?」

「けがをするまえに、包帯をまいたほうがいいって、いってたじゃん」

「言ってねぇし、もう怪我もしねぇ」

 

 それはむずかしいと思う、と俯きがちに呟いた彼女は、同情するような生暖かい目でこちらを見つめてくる。無性に腹が立ち、彼女のかぶっていた茶碗を軽くつついた。

 

「なんで私がまた怪我をするんだよ」

「だって、慧音先生のとこに行かなきゃならないじゃん」

「は? 何でだよ」

 

 ちゃんと人の話を聞いといてよ、と慧音のように指を立てた彼女は、生意気に鼻を鳴らし、小さな胸を張った。もう一度つっついてやろうか、迷う。

 

「悪い子は慧音先生に謝れば、いいこになるんだ!」

 

 それは大人には通用しないし、したとしても私は行かない。そんなようなことを私は口にしたが、無駄だろうということは分かっていた。彼女は誰かに似て頑固なのだ。

 

 結局、寺子屋にいる慧音に頭突きをされることになるのだが、その時の痛みと怒りですら、後々むしろ楽しい思い出として感じることになるとは、このときの私は思ってもいなかった。



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2章
今までとこれから


 今ほど動物を羨ましいと思ったことはなかった。あいつらみたいな毛皮があれば、ここまで辛い思いはしないだろう。

 

 人里の上空にある厚い雲は、真昼間にも関わらず、街灯が必要なほどに辺りを暗くしていた。そのせいか、初秋にも関わらず酷く寒い。寒いのは苦手だ。はやく、暖かい蕎麦でも食べに行きたい。だが、もはや私にはそれをすることは出来ない。心が、重くなる。

 

 結局、妖怪の山を出た私は人里へ戻ってきていた。本来ならば、烏に永遠に養ってもらう腹積もりだったのだが、「流石に部外者を匿っていることがばれたら、私もまずいです」と情けない事をいう烏に追い出されてしまった。最初こそ人里外の各地で生活していたが、病み上がりの体で妖怪に襲われる危険性を考えると、ここに戻ってくるしかなかった。

 

 幸いな事に、寝床には困らなかった。かつて彼の家があった跡地。その瓦礫の山に体を隠し、休むことができる。布団も、時計も無いが、そこまでの苦ではない。写真はある。

 

 そう考えると、今までの生活と大して変わらないのかもしれない。唯一違うとすれば、甘味屋も、居酒屋も私には食べ物を出してくれなくなったことだろうか。

 

 冷たい風が肌を刺した。木にこびりついた煤が鼻をかすめる。組み合わさるように連なっている瓦礫の隙間に落とした腰が、酷く痛んだ。手元にある焼けて黒くなった木片を持ち上げ、軽くはたく。ぽろぽろと黒い表面が剥がれ落ち、比較的きれいになったところで、口に放り込んだ。硬く、筋だらけで喰えたもんじゃない。苦みとえぐみが舌を襲い、反射的に吐き出しそうになる。が、堪えて強引に飲み込んだ。何かを腹に入れなければ、このまま動けなくなりそうだった。妖怪なのに、なんで腹が減るのだろうか。どうせなら、もっと効率的な体に産まれたかったものだ。それこそ、小人ならば、僅かな食糧で生きていけるに違いない。

 

 平たい場所を手で探し、横になる。硬く、冷たい地面が体を蝕んでいった。閉じそうになる目に力を入れる。真っ黒に曇った空が目に映った。じっと見つめると、鼻先に冷たい何かが触れる。雨だ。ぽつぽつと音を立て始めたかと思うと、蛇口をひねるように段々と勢いが強くなっていく。服が肌に張り付いて気持ち悪い。だが、雨宿りをする場所なんて、心当たりはなかった。

 

 目の端に小さなものがこそこそと動くのが見えた。反射的に手を伸ばし、つかむ。小さな爪が皮膚に引っかかり、くすぐったい。顔の前に持っていって、初めてそれの正体が分かった。蜘蛛だ。八本の足を不規則に動かしている。黄と黒のまだら模様が目に付いた。運がいい。ついている。大きく口を開き、重力に任せるまま、蜘蛛を口に放り込もうとした。

 

 その時ふと、蜘蛛の糸の話を思い出した。地獄に落ちたカンダタという男が、生前に蜘蛛を助けたことがあったという理由で、仏に手を差し伸べられる、という話だ。もしかすると、この蜘蛛を食べずに助けたら、私も地獄から助けてもらえるのだろうか。

 

 そんなことを考えている内に手から蜘蛛が零れ落ち、カサカサと逃げていった。これで、救われるのだろうか。いや、絶対に無理だ。そもそも、本当に私は地獄に行けるのかさえ、怪しい。もし行けるのならば、連れて行ってほしいものだ。

 

 今の現実は、地獄よりも、辛い。

 

 

 

 

 私は寺子屋の前にいた。人里の中心地からやや北東に進んだ場所、木造の小奇麗な長屋だ。中からは甲高い子供の声が溢れ出ており、時々それを窘める女性の声も聞こえてくる。手に持った写真が、風で揺れた。真っ暗な不気味な雲が空を覆い、人里の気温をより下げている。

 

 寒いのは嫌いだ。以前から嫌いであったが、最近はますます嫌いになった。夜、蒲団代わりに使っている薄いベニヤ板が霜でぬれ、身体の隅々から寒さで感覚が無くなっていくあの状況は、耐え切れないほどに恐ろしい。

 

 時計を見る。15時を5分ほどまわった。知り合いがくれた情報によると、そろそろ授業が終わる時間だ、と思っていると子供たちが勢いよく飛び出してきた。

 

 怪しまれないように、笠を深く被り直して、ゆっくりと寺子屋へと足を進める。扉の前で、目当ての人物が腰を落としているのが見える。帰っていく生徒の背中へと、笑顔で手を振っている彼女の姿は、どこか寂しげに見えた。綺麗に整えられた青白い長髪は、青いワンピースによく似合っている。だが、その顔には暗い隈が刻まれている。不自然に吊り上がった頬は痩せこけ、くぼみができていた。見るからに疲労がたまっており、それは子供たちも薄々感づいているのだろう、どこか労わるように去っていく。出来ればお近づきになりたくない人種だが、これも情報のためだ。やむを得ない。

 

 大股で、寺子屋へと歩いていく。ちょうど彼女の前を横切るタイミングを見計らって、小さく声をかけた。後ろを振り返らないよう意識しながら、少し歩幅を小さくする。

 

「あ」と声がした。トタトタと足音がしたかと思うと、後ろから無邪気な声で呼びかけられる。

 

 振り返らずに、後ろの様子を伺う。慧音の陰から飛び出し、お椀を揺らしながらミニマムな少女が近づいているのが分かった。追いつかれないように、無言で走る。待ってー! と声が聞こえた気がしたが、気にせず足を進めた。慧音の、宥めるような声が聞こえてくる。あいつも大変だろうに、子守りまでするとなると、きっと過労死してしまうだろう。

 

 まあ、知ったことではないのだが。

 

 

 

「まさか正邪から話しかけてくるとはな」

 枝豆の皮をぷにぷにといじりながら、慧音は笑った。

「いったい、どういう風の吹き回しだ?」

 

 昼過ぎにも関わらず、居酒屋は混雑していた。だが、酒の席特有の活気はなく、誰もが沈んだ顔で黙々と酒を飲んでいる。愛想を振りまきながら酒瓶片手に店内を駆け回っていた店員も、今日は淡々と食器を片付けていた。カチャカチャと皿の擦れる音だけが耳につく。

 

「室内だから風なんて吹くわけないだろ」

「そういう意味じゃない」

 

 弱弱しく慧音は微笑む。明らかに衰弱していて、人間の老婆のように覇気がない。ここまで疲れている人里の守護者を見るのは、久しぶりだ。何が彼女をここまで追いつめているのか、大した理由は無いが、気になった。

 

「慧音に話しかける理由なんて、一つしかないだろう」

「針妙丸の近況報告か?」

「なんであいつが出てくる」

 

 充血した目を細め、にやにやと笑っている慧音に箸を向ける。烏の家を追い出されてから、針妙丸とは一度も会っていない。正確にいえば、姿を見かけることはあるが、会話をしたことはなかった。特に残念とも思わないし、会話したいとも思わない。むしろ、煩わしさが減って、気分がいいくらいだ。

 

「そうじゃねぇよ。もっと単純だ。ただ飯を食いに来たんだよ」

「はあ?」

 慧音が呆れのあまり机に肘をつけるのと、店員が皿を落とし、ガチャリと悲痛な音が鳴るのは同時だった。

「私に奢ってもらうためだけにわざわざ呼び出したのか?」

「悪いか」

「なんで悪くないと思うんだ」

 

 乾いた笑い声を上げようとし、上手くいかずにため息を吐いた慧音は、すみませーん、と店員に声をかけた。先程皿を落とした、女性店員だ。どうやら皿が割れてしまったらしく、箒で床を掃いていた彼女は、慧音の声が聞こえていないのか、なかなかやってこない。

 

 慧音がもう一度声を張った。声帯が直に擦れているんじゃないかと思えるほど、がさついた声だったが、それでも店中に響くくらいには大きい声だ。だが、店員はやってこない。私が慧音の皿に載っていた枝豆を食べつくしても、まだ来なかった。ちなみに、私の頼んだシシャモは当然のように来ていない。

 

「慧音先生、困りますよ」

 

 店員の代わりに来たのは、二つ右の席に座っていた大柄な青年だった。短く刈り上げた髪と、黒縁眼鏡は絶望的なまでに似合わず、髪を伸ばすか、それとも眼鏡を変えるかしたほうがいい、と思わず助言してしまったほどだ。

 

 私の素敵な助言を鼻で笑った青年は「この妖怪は」と私に箸を向けた。人に箸を向けるのは人生で一番やってはいけないことだ、と指摘すると、机の下で慧音に爪先を踏まれる。

 

「この妖怪は、あの仲のいい夫婦を殺したような奴ですよ。そんな奴と一緒にいたら、あなたの品格すら疑われてしまう。まして餌付けだなんて、絶対にやっちゃだめです」

「私は野良猫か何かか」

「可愛げがないから、イノシシじゃないか?」慧音は、また力なく笑う。

「何でだよ。イノシシ可愛いだろ」

「可愛くない」

「何でもいいんですよ! 猪でも豚でも!」

 

 青年は声を張り上げた。そのあまりの剣幕に、私は少し後ろに仰け反ってしまう。慧音も同じようで、不格好に椅子にもたれていた。

 

「とにかく、鬼人正邪と関わるのを止めてください。迷惑なんです。慧音先生と一緒だったから店員さんも自重しましたが、本当だったらこんな奴店に入れませんよ」

 

 青年は視線を店員に移した。当の彼女は、私たちに目もくれず、延々と箒で地面を掃いている。すでに欠片はないにも関わらず、だ。二、三回虚空を掃いた彼女は、私たちの視線に気がついたのか、はっと顔を上げた。だが、またすぐに俯き、手に持った箒を壁にかけ、店の奥へと去っていく。手垢で色が変わっている柄の部分を地面につけ、ボサボサの竹の細い枝を土壁に引っ掛けるようにして、器用にバランスをとっている。つまりは、彼女は箒を逆さに立てかけた。

 

 箒を掃く音がなくなった居酒屋はしんと静まり返った。よくよく周りの客を見てみると、団体客や個人客問わず、酒を飲むばかりでつまみはほとんど頼んでいなかった。中には、誕生日だろうか、子供を中心に両親が座り、竹とんぼや水鉄砲をその子の手に持たせている。が、彼らの顔に笑顔はない。

 

 眉を下げ、肩をすくめた慧音は、悪かった、と青年に謝った。

 

「どうやらお邪魔だったようだ。私たちは出ていくとするよ。迷惑をかけてすまなかった。お代はここに置いておくと伝えておいてくれ」

「お、おい。私はまだ奢ってもらって」

「いいから、行こう」

 

 にべも無く言い切った慧音は、強引に私の襟を掴み、引きずるように店をでた。納得がいかない私を無視するように、ずんずんと歩みを進める。

 

「別に出ていかなくてもいいじゃないか」

 慧音の手を引き離しながら、私は言った。

「居酒屋は枝豆専門店じゃない」

「そんな店があるのか」

 

 今までのような取り繕った笑顔は消え去り、身体の内に溜まった疲れを吐き出すように、慧音は大きく深呼吸した。黒々とした雲で包まれた空と同じように、彼女の吐息にも黒色が混じっている。どうやら相当参っているようだ。

 

「さっきの店員、箒を逆さまに置いただろ? あれ、ぶぶ漬けと同じで、早く帰れって意味なんだ」

「へえ。折角ならぶぶ漬けを出してくれれば良かったのに」

「正邪なら帰らずに食べてしまうと思ったんじゃないか?」

「まさか」

 おかわりを要求し、さらには酒も頼むに決まっている。

 

 私たちの足は自然に寺子屋へと向かっていた。人里の中央付近にある寺子屋へ行くには、大通りを通るしか方法はない。今の時間は、昼飯を食べ終えた人々が盛んに外出するためか、非常に混雑していた。笠をより深く被りなおす。こんなもので顔が隠れるかは怪しかったが、他に手段もなかった。道行く人は私の顔を見るなり、舌打ちをし、睨みつけてくるが、気にしない。

 

 人の波に流されないように、慎重に前へ進む。早足だった慧音の足も緩み、それどころかふらふらと千鳥足になっていた。酒に酔っぱらっているのか。先生が昼間っからなんて、いい身分だな。そう言おうと思ったが、それは叶わなかった。

 

 視界の端に、恰幅のいい白髪の男が見えた。急いで振り返り、その男の背中に目を向ける。紺色のゆったりとした甚兵衛を羽織っていて、ぱっとみは人がいいおじさんのように見えた。が、その男の前に二人、後ろに二人と、明らかに堅気でない人間が付き添うように彼を囲んでいる。

 

 喜知田だ。

 

 胸がざわめく。頭の中に鉛が入ったかのように、重い。頭に血が上ぼりすぎて、頭頂部から鯨の潮吹きのように飛び出していないか心配になる。動悸が収まらない。足がふらつき、手に力が入る。私は怒ると、周りが見えなくなるのかと、驚いていた。蕎麦と同じだよ、と彼の口癖が頭をよぎる。蕎麦と同じで、お前は怒ると周りが見えなくなるんだ。そんなこと、言われたことがあったか? 

 

「おい、大丈夫か?」

 

 後ろから、しわがれた女性の声が聞こえた。今は忙しいから話しかけないでほしい。喜知田は私に気づいた様子はない。今ならば、こっそりと後ろに忍びより、彼を殺すことができるのではないか? いや、できるはずだ。タイミングを見計らえ。飛び出す準備と、あいつの首を締め上げる手順を頭に入れろ。そんな声が頭の中にこだましていた。

 

「正邪! 返事をしろ!」

 

 目の前で火花が散った。最初は、自分の目の前で誰かが手持ち花火でもやったかと思ったが、違った。額に、もはや慣れてしまった痛みが走る。暗くなっていた視界が戻ると、すぐそこに慧音の顔があった。ぼろ雑巾のようにガサガサな肌は、とても清潔とは言えない。

 

「酷い顔だな、先生」

「お前に言われたくない」

 ふっと笑い、両手を胸元に当てた慧音は、いったいどうしたんだ、と私の肩を撫でた。今日初めて見せる、本心からの笑みだ。

「急に震えだすから、心配した」

「発作だよ」

 

 慧音を宥めるように、もう大丈夫だ、と繰り返し言う。後ろを目線だけで振り返るが、喜知田の姿はもうなかった。よかった。今行動を起こしても、返り討ちにあうことは分かっている。まだその時じゃない。彼は三十年も待ったんだ。私だって待とうじゃないか、そう自分に言い聞かせる。

 

「発作? なんの?」

 空元気だろうが、いつものような調子で慧音が突っかかってくる。

「お前もたまにあるだろ。ほら。満月の時に角が生えてくるじゃないか。あれと同じだよ。私もたまに、頭に角が生えそうになるんだ」

「もう生えてるじゃないか。それに、あれは発作じゃない。白沢に変身しているんだ」

「同じだよ。私だって、変身するさ」

「何に?」

「イノシシ。どうだ、可愛いだろ」 

「可愛くない」

 

 声を上げて、慧音は笑った。

 

 

 

「生徒以外では、正邪が一番ここに来ているかもしれないな」

 

 散らかっているが座ってくれ、と申し訳なさそうに言った慧音は、お茶を入れてくる、と部屋から出ていった。彼女が口にした、散らかっているという言葉は謙遜ではなく、じっさいに部屋はかなり汚かった。足の踏み場もないというほどではないが、本やちり紙があちらこちらに散乱し、不潔だ。几帳面な彼女の性格を考えると、仕方がなくこうなってしまったのだろう。

 

 その、床に無造作に置かれている本の中から一冊を手に取る。かなり古い物なのか、全体的に茶色に変色していて、表紙が薄く削れている。表面についている埃を払っても、擦れていてタイトルを読むことはできなかった。

 

「その本、気になるか?」

 

 いつの間にか戻ってきていた慧音は、机の上に湯呑を置くと、よいしょと腰を下ろした。

 

「もし良ければ譲ってやってもいい。やっぱり、お前もその本は気になるか」

「別にそういう訳じゃない。単純に邪魔だったからだ」

「あげるよ」

「いらねぇ」

「いいから貰っておけ。いらないなら、嫌いな奴にでもおしつけてくれ。”あなたの肌はこの本にそっくりですね”って」

「もらおう」

 

 正邪らしいな、と薄く微笑んだ彼女は、両手を上にあげ、身体を捻り、大きくうなった。右肩を左手で殴りつけるように叩いている。その振動で、湯呑のお茶に輪が広がっていた。

 

「ずいぶんとお疲れだな」

「ん、まあな」

「何かあったのか?」

 

 あー、と気の抜けた声を出した慧音は、頬をかき、目線を上にあげた。そうすると顔の疲れが強調され、より一層悲惨に見える。

 

「あれだよ、あれ」

「どれだ」

「最近、食糧不足が深刻になってきてな。どうにかしてくれと」

「面倒だな。というか、お前にどうこうできるもんなのか」

 

 冷える指先を温めるように、湯呑に両手を重ねる。じんわりとした温もりが私の心まで染み渡った。そういえば、お茶を飲むのも久しぶりだ。最近は文字通り泥水を啜るような生活だったから、それだけでも特別に感じてしまう。

 

「まあ、精々博麗の巫女に頼みに行くぐらいしかできんな」

「行ったのか」

「行った、だけど会えなかった。妖怪の賢者に足止めされてね。“まだ、その時じゃない”だそうだ」

「妖怪の賢者?」

「八雲紫だよ。この前の射命丸の新聞に載っていただろう」

 

 甘味屋でみた烏の新聞を思い出す。写真にも関わらず、圧倒的な存在感を放っていた妖怪の写真が鮮明に頭に浮かんだ。あの、みるからに恐ろしい妖怪と話をする自分の姿が想像できない。私ならば、悲鳴をあげて逃げ出してしまうだろう。

 

「でも、原因は教えてもらえたよ。この前の異変、覚えているか」

「この前っていつだよ。あの神霊とかいう奴が大量発生した奴か?」

 

 あれのおかげで塩がたくさん売れたと、満足そうに商人たちが喜んでいた。

 

「違う、もっと前だ。赤い霧が出たり、冬が長引いたりした時があったろ」

「ああ」

 

 確かに、何年か前にそんなことがあったような気がする。結局は博麗の巫女が無事解決したという話だったはずだ。

 

「夏に霧が出たせいで農作物は駄目になり、冬が長引いたせいで備蓄が底をついた。そのしわ寄せがきているらしい」

「まあ、いずれにせよ私には関係ないがな」

「どうして?」

 

 私は答える代わりに、湯呑を口元に運んだ。芯まで冷え切った体が段々と暖まっていく。どうして関係がないか。その答えは簡単だ。誰も私に物を売ってくれない。それどころか店にすら入れてもらえないのだから。

 

 痺れた足を組みなおしていると、慧音が徐に腰を上げた。かと思えば、右足から膝立ちになり、自分のかかとに尻をのせる。そして綺麗な正座をしたかと思えば、私に向かい両手を合わせた。

 

「正邪に頼みがあるんだが」

「嫌だ」

 まだ何も言ってないじゃないか、と困ったように眉を下げた彼女は、私が断ったにも関わらず、概要を話し始めた。寺子屋の先生は人の話を聞かなくてもいいと思っているらしい。

 

「霧の湖って分かるよな。お前がチルノに氷漬けにされたところだ」

「知らない」

「その奥に真っ赤な西洋風な建物があるんだ。紅魔館っていって、強力な妖怪が住んでいるんだが、そこに行ってきてくれないか? 行って、食べ物を恵んできてもらいたい」

「断る。というか、なぜ私なんだ」

 

 合わせていた両手を組み替え、人差し指を互いにくるくると回している。あー、恥ずかしながら、と一寸の恥じらいもなく彼女は言った。

 

「頼れる友人が今いないんだ。射命丸は最近忙しそうだし」

「あいつは? あの白髪の人間だよ。人間なのに妖怪みたいなやつ。手から火とか出す」

「ああ、妹紅か」

 

 あいつはなー、と首を捻った慧音は、いつの間に妹紅と知り合ったんだ? と訊いてきた。いつの間にも何も、そもそも知り合っていない。私が一方的に知っているだけだ。人間のくせに妖力を使えて、そして不老不死。そんな彼女が人里に受け入れられている理由が分からなかった。彼女が受け入れられて、私や針妙丸が隠れて生活しなければならない理由が分からなかった。

 

「妹紅はいま忙しいらしいんだ。何か変な商売をやっているらしい」

「変な商売?」

「殺され屋なんか名乗ってる。物騒だから止めろって言ってるんだがな」

 殺され屋。まさか本当にあるとは。驚かないといったものの、それは無理な話だった。

 

「でも、一度も客は来てないらしいから、まだ殺されたことはないんだと」

「じゃあ、暇じゃねぇか」

 

 しまった、という表情を隠そうともしなかった慧音は、わざとらしく咳払いをした。わざとであるはずなのに、口の端に血が滲んでいる。病気なのか疲れによるものなのか、どちらにしろ重症であることには変わりなかった。仕方がない。これは彼女のためでなく、自分のためだ。喜知田を殺すための人脈作り、そういう事にしよう。

 

「分かった、行ってやるよ」

「本当か!」

「ただし条件がある。成功したら、しばらく居候させてくれ」

 

 もちろん! と威勢よく慧音は返事をした。私がいたんじゃ生徒は来なくなりそうだと思ったが、都合の悪いことは伏せておく。

 

 これで少しは肩の荷が下りた、と意気揚々と席を立った慧音は私の横に来て、肩を掴んだ。力任せに引っ張り上げ、強引に私を立たせる。なんだよ、と文句を言う私を無視して、私の首元に何かを結びつける。最初はマフラーかと思ったが、そうではなく、手ぬぐいのようなものだった。紫色の市松模様が描かれた、大きめの布だ。それを器用に片結びにし、七夕の日に短冊を括りつけるようにして、首に固定した。

 

「何だこれは」

「まあ、お守りのようなものだ。貰っておけ」

「だせえ」

 

 子供が付ける前掛けのようだ。こいつは本当に私を児童と勘違いしているのではない。そんな疑念を知ってか知らずか、一歩下がって私の全身を見た慧音は、よし、と呟いた。何が良しなのかまったく分からない。

 

「これで吸血鬼が来ても安心だな」

「そんな効果があるのか?」

「市松模様には子孫繁栄の意味があるんだ」

「関係ねぇじゃねえか。まだ石を投げつけたほうがいい」

「石じゃなくて、豆の方がいいぞ」

 

 適当なことを嘯いた慧音は、いそいそと部屋を出ていった。いったい何をしに行ったのかと、一人ぽつんと部屋で佇んでいると、すぐに彼女は戻ってきた。右腕には丸まった布団が抱えられていて、左手には古びた竹ぼうきが握られている。その二つで何をしようというのか、さっぱり分からない。

 

 呆然と立ち尽くしている私を尻目に、慧音はてきぱきと机を移動させ、その場所に布団を敷き始めた。ご丁寧に枕まで持ってきている。少し黄ばんだ掛布団を広げ終わると、思い出したかのように地面に置かれていた竹ぼうきを拾い上げた。

 

「竹ぼうきは外掃除用だぞ」

「分かっているよ」

 

 面倒くさそうにのんびりとした声を出した慧音は、最近眠れていなかったんだ、と大きなあくびをした。そんなことは一目見た時から分かっている。

 

 ふらふらと壁際によろけていった彼女は、よいしょと声を出し、箒を壁に立てかけた。細い竹が重力で垂れ下がり、まるで枯れた杉の木のようだ。つまり、そう。逆さまだ。

 

「私は寝るから、出ていってくれ」

「口ではっきり言うなら箒いらねえじゃねえか」

 

 私がそう言い終わる頃には、すでに布団の中で寝息を立てていた。どこか釈然としないが、まあいいだろう。これで目的は達成された。

 

「慧音がしけた顔してると、あいつにも影響が出るからな」

 

 眠っている慧音が、わずかに震えたような、そんな気がした。



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富裕と貧困

 慧音にお使いを頼まれてから三日、私はまだ人里にいた。何か事情があったわけではない。単純に出発するのが面倒だっただけだ。確かに仕事は引き受けたが、すぐに出発するとは言ってない。そもそも私は紅魔館なる建物についての情報はほとんど持っていなかった。どういう妖怪がいるのか、友好的なのか、何人いるのか、さっぱり分からない。

 

 やはり、引き受けたのは間違いだったか、と後悔していると目の前を何かが通り過ぎた。考え事をしていたからか、反応に遅れ、大袈裟に尻餅をついてしまう。

 

 右から、ゲラゲラと大きな笑い声が聞こえた。立ち上がり、尻についた土を払いながら、声がする方を見た。若い男だ。中肉中背で、大した特徴もなく、また大した能力もないように見える。強いて言えば少し髪の毛が縮れているぐらいか。彼の周りには色とりどりの野菜が綺麗に並べられていて、大きく“一つ20文! ”と書かれていた。八百屋を営んでいるのだろうか。それにしては値段が法外に高い。

 

 縮れ毛の男は、私を指差してばーかと叫んだ。もう少しマシな罵倒は浮かばないのか。そんなんじゃ、慧音を怒らすことすらできないぞ、と心の中で呟く。

 

「正邪さんやぁ。せっかく人が食べ物を恵んでやったのに、きちんと受け取らないかんわ」

 

 何が面白いのか、私と投げたものを見比べ、キヒヒと独特な笑い方をした。足元に落ちている何かに目を落とす。よく見ると、それはトマトだった。だが、色は赤でも、青ですらない。真っ黒に変色している。トマトの独特な甘酸っぱい香りは一切せず、吐しゃ物のような、ツンとした匂いが鼻に刺さる。屈みこんで、躊躇なくそれを掴み上げた。ドロッとした感触がするが、気にしない。木よりはましだ。

 

「おいおい、本当に食うのか。豚より卑しいなぁ。人間様に感謝しろよ」

「残念だったな。私はイノシシに変身できるんだぜ」

 

 何言ってんだ、と鼻の穴を大きくした縮れ毛は、今度はトマトではなく石を投げてきた。避けようと一歩下がるも間に合わず、右頭に直撃する。鈍い痛みが走り、思わず地面に崩れ落ちた。頬を伝って血がぽたぽたと垂れてくる。喜知田にやられた古傷が開いてしまった。

 

 また、ゲラゲラと笑い声が聞こえた。今度は男ではなく、女の声だ。道行く人々が私をちらりと見て、笑いながら去っていく。その大半は、自業自得ね、無様だ、と話し合っていた。まさしくその通り。自業自得で無様だ。

 

 流石に地面に座り続ける訳にはいかないので、重い腰を何とか持ち上げる。体をくねらせて、キヒヒと笑い転げている縮れ毛を睨み、馬鹿にするように鼻を鳴らす。が、笑う事に必死なのか、見ていなかった。このまま笑い死ねばいいのに、そう思っていると、縮れ毛の後ろで不審な動きをしている人物が目に入った。

 

 丁度私が首につけているような布を顔に巻いて隠しているそいつは、笑い転げている縮れ毛の後ろから素早く手を回し、野菜をつかみ取る。同じような動作を何回か繰り返し盗った野菜を平然と担いで、去っていった。いつの間にか目で追ってしまう。

 

「おいおい焦点があってねぇぞ。妖怪のくせに貧弱だな」

「お前こそ商店は似合わねぇよ。一生地べたで野菜でも売ってるんだな」

 

 何だと! と憤っている縮れ毛を無視して、去っていった野菜泥棒を追う。いまだ傷口から血が流れていたので、慧音に貰った手ぬぐいをほどき、頭に押し付けた。縮れ毛の喚き声が聞こえたかと思えば、後ろから石が飛んでくる。が、私には当たらず、そのまま地面に落ちていった。

 

「石を投げるのは良くない」

 振り返らずに、私は言った。

「豆の方がいいらしいぞ」

 

 

 小走りで去っていった野菜泥棒だったが、途中で疲れたからかゆっくりと歩きはじめた。細い路地裏を縫うように走っていったので、見失いそうになることが何回かあったが、それでも余裕をもって尾行することができた。私ですら尾行できるということは、きっとこういうことは不慣れなのだろう。手練れの泥棒ではない。

 

 しばらく一定の距離を保って歩いていたが、突然泥棒が立ち止まった。バレたかと思い冷や冷やするが、単純に疲れただけらしく、壁にもたれかかるようにして座り込んだ。盗んできた野菜を置いて、肩を上下に大きく動かしている。

 

「よお、どうした野菜泥棒。へこたれたか?」

 右手をあげ、昔ながらの友人のように声をかけた。

 

 突然声をかけられ、泥棒はかなり焦っていた。立ち上がろうと必死に地面を蹴るも、滑って転ぶ。それを何回も繰り返していた。滑稽だ。蟻地獄にはまった蟻のように、無駄な抵抗を繰り返している。無駄な抵抗。この言葉が頭に浮かんだ途端、浮かべていた笑みが消えた。忘れない。忘れてはいけない。私は彼女をもう巻き込まないと決めたのだ。

 

「あ、あの。ごめんなさい」

「は?」

「ごめんなさい!」

 

 いつの間にか、私は泥棒の目の前まで歩いて来ていた。そして件の泥棒は私に向かって、土下座している。いきなり土下座をする奴など、私以外知らなかった。こんなことをする予定はなかったのだが、なってしまったものは仕方ない。

 

「とりあえず、頭を上げろ」

「う、うん」

 

 情けないほどに裏返った声を出した泥棒は、勢いよく頭を上げた。近くで見ると、その背丈は小さく、流石に針妙丸ほどではないが、まだ子供のようだ。寺子屋に行ってるくらいの年齢だろうか。

 

「今、縮れ毛から野菜を奪っただろ」

「ごめんなさい。ごめんなさいでした」

 

 顔を俯かせ、何度も謝る泥棒は、なんとも惨めなものだった。ぐるぐる巻きにされた手ぬぐいの隙間から、涙がぽたぽたと零れ落ちている。震えた声はまだ高く、声変わり前の少年独特のものだった。

 

「謝んなって。私はむしろお前を褒めてんだよ」

「え?」

「いや、あの縮れ毛うざかったからな。むしろ気が清々した。よくやったぞ、少年」

「え、あの」

 

 泥棒はかなり困惑していた。ぽかんと口を開け、私の顔をまじまじと見ている。確かに、泥棒をした帰りにいきなり、よく盗んだ! と褒めれば困惑してもおかしくない。というより、私も困惑していた。本当ならば、適当に脅して野菜を分捕るつもりだった。なのに、いつの間にか褒めていたのだ。もしかすると、人を褒めたのは初めてかもしれない。

 

「あの、あの」

「なんだ? 阿野なんてやつは知らんぞ」

「もしかして、あの時の」

 

 そう言うと、泥棒は頭に巻かれていた手ぬぐいを脱ぎ始めた。着物の帯を外す時のように、くるくると回している。頭頂部からゆっくりと彼の素顔が露わになっていった。完全に顔が明らかになっても、いったい誰なのかすぐには分からなかった。が、彼がにこっと屈託のない笑みを浮かべた時、やっと思い出した。我ながら、よく覚えていたと褒めたいくらいだ。

 

「おまえ」

 彼の顔をじっくりと見つめ、懐に手を入れる。もはや使い道のなくなった円い金属が指に触れた。つまみあげ、少年に見せつけるように指ではじく。

 

「おまえ、甘味屋の一文少年か」

 

 

 

 こっち! と私の腕を引く少年の言う通りに細い路地をくねくねと進んでいく。途中、私では通れないような狭いスキマもあったが、身体を折るようにして何とかついていった。そのせいか、相変わらずの曇天で、冷たい風が吹いているにも関わらず、少し体が火照っている。少年を抱えて飛んで行っても良かったが、そこまでしてやる義理は無かった。

 

「おまえ、何で野菜なんて盗んだんだ」

 

 トタトタと駆けていく少年に声をかける。そうでもしないと、私を置いてどこかに行ってしまいそうだった。私は少年の親からたっぷり謝礼を搾り取らなければならない。何の謝礼かと言われても私には分からないが。とりあえず、野菜泥棒の件で脅そうと考えていた。

 

「えっと、ごめんなさい」

「怒ってるわけじゃねぇ。単純に疑問に思っただけだ」

 

 眉をハの字に下げた少年は、口にしようか迷っているのか、何度か口をぱくつかせた後、力強く頷いた。あのね、とゆっくり話始める。そんなに簡単に弱みを話すと、悪い妖怪に付け込まれてしまうぞ。例えば、私とか。

 

「お母さんが病気になっちゃってね。だから、お野菜食べないといけないの」

「病気?」

「うん。咳が止まらないんだって。お医者さんに診てもらうお金がないから、家で寝てるの」

「親父はいねぇのか」

「お父さんは生まれた時からいないんだ」

 

 へぇー、ざまあねぇな、と適当に返事をする。珍しい話ではない。男手はいつだって足りない。妖怪の討伐に出て帰ってこない奴もいるし、田畑仕事で疲れ果てて死ぬ奴もいる。川に流される漁師もいれば、女を捨てて逃げる奴もいる。だから、この少年は特別哀れな訳でも、不遇なわけでも無かった。だから、同情をする理由なんてないはずだ。

 

「野菜を盗むのは初めてか?」

「ううん。2回目」悲しそうな顔で、少年は顔をふった。

「なんだよ。まだまだ甘いな。トマトぐらい甘い」

「トマトは甘くないよ。美味しくない」

「そうか?」

 

 そうだよ、と口を尖らせた少年は、急に顔を輝かせ、私を置いて走り出した。野菜を抱えているにもかかわらず、風を切るように速い。どこからあの元気が出てくるか不思議だ。

 

 少年が向かった先は、小さな民家だった。こんな細い路地の中に人が住む家があるとは、驚きだ。表札はなかったが、少年の家であることは間違いなかった。小さな、といっても針妙丸の家ほどではないが、それでも人間二人が住むには窮屈そうな家だった。瓦もボロボロで半分以上が崩れ落ちている。それでも今の私の住処よりは、遥かにましだ。

 

「おかあさん、ただいまー!」

 威勢の良い声がここまで聞こえてくる。さっきまで泣きながら謝っていたとは思えない。

「またお野菜もらってきたよー」

 

 平然と嘘をついた少年の前に、あらあらと困ったような笑みを浮かべた女性が現れた。上手く立てないのか、両手を壁につきながら、おかえりなさいと柔らかな声で言う。そして、少年の手を握りながら部屋へと戻っていった。

 

 私はその様子をただ見つめていた。呆然と突っ立っていることしかできない。大切にしまってある写真を、折目がつかないように慎重に取り出す。

 

 似ている。いや、似ているどころの話ではない。瓜二つだ。彼の奥さんの生き写しと思えるくらいに。もしかして、奥さんは生きていたのだろうか、と思うほどだった。だが、少年の母とこの写真がそっくり、つまりは三十年前の奥さんと似ているという事に考えつき、即座に首を振った。流石に三十年も同じ顔でいられるはずがない。

 

 甘味屋で見かけたとき、どうして気がつかなかったのだろうか。きっと、今の彼女の、優しく、そしてどこか儚げな雰囲気が、より一層奥さんと同じ空気を醸し出しているのだろう。甘味屋の時、彼女は恐怖で怯えていた。

 

「ほら、あの時の甘味屋のおねえちゃんが手伝ってくれたの」

 

 ぼぅ、と突っ立っていると、いつの間にか少年が私の前に立っていた。隣に母親の姿はない。家の中で布団にくるまっているのだろう。小さな声で「お礼をしたいから、連れてきて」と言っている。

 

 行こう、と手を引っ張られ、あれよあれよという間に家の中に入っていた。開けっ放しの扉の向こうには、擦り切れてしまった畳の上に煎餅布団が引かれ、その上に女性が横たわっている。まだ若いだろうに、黒い髪に混じって白いものもぽつぽつと見えている。白い服も相まって、まるで死人のように、儚い。

 

「ほら、せいじゃさん。甘味屋で会ったでしょ?」

 

 せいじゃ。私の名前を聞いた途端、彼女は柔らかな笑みを消し、顔をひきつらせた。恐怖で歪むというよりは、困惑を隠しきれないといった様子で、私を見て、ため息をついている。てっきり、恐怖されるか、馬鹿にされるかのどちらかだと思っていたので、拍子抜けした。安堵の感情を悟られないように、傘を脱ぎ、それを立てかける振りをして、顔を背けた。

 

 体を横にし、私と向かい合うようにした母親は、ゆっくりと、けれどもはっきりとした声で言った。

「三郎。すこし、このお姉ちゃんと話したいことがあるから、お茶を汲んできておくれ」

「分かった!」

 

 なるほど、あの泥棒少年は三郎というのか。長男なのか? だとしたら三郎とつけるのはどうなんだ。そんな事を口にしたが、彼女は反応しなかった。その代りに、私に向かい小さく頭を下げた。

 

「あの子が迷惑をかけました」

「は?」

「本当にすみません」

 

 まさか謝られるとは思っていなかったので、反応に困る。こいつら家族は謝らないと生きていけない呪いにでもかかっているのだろうか。

 

「なぜ謝る。私は別に謝罪はいらねぇ。というか、今話題の天邪鬼が来たんだぞ。もっと驚けよ」

「ああ。確かに話題ですね。でも、どうせあの人の嘘なんでしょ」

 

 口の端を上げながら、淡々と彼女は言った。あの人ってだれだ? 嘘ってなんだよ、と問い詰めたいが、それよりも早く彼女は口を開いた。

 

「喜知田さんでしょ、どうせ。あの人はいつも同じことをする」

 

 喜知田。ここであいつの名前が出てくるとは思わなかった。胸の奥から、熱い血液が全身を駆け巡るような、そんな錯覚がする。落ち着け、と小さく自分に声をかける。冷静になれ。震える手を掲げるのは、今ではない。まだだ。まだ、チャンスはある。

 

「その反応を見ると図星みたいですね」

 

 まったく、いやになっちゃうわ、とゴホゴホと咳をしながら彼女は天を仰いだ。同感だ。あいつは嫌だ。単純で、これ以上なくわかりやすい。

 

「私もね、あの人に困らされているんです」

「何をされた」

「求婚ですよ。お父さんが死んでから、定期的に来るの。息子がいるからと断っているんだけどね」

「断っただけであいつが諦めるとは思えない」

「その通り。油汚れみたいにしつこい」

「油汚れに失礼だ」

 

 ふふっと彼女は微笑んだ。頬に小さなくぼみができ、口元が綺麗な三日月のように輝いている。笑うとますます奥さんみたいだ。針妙丸にも似ている。なるほど、喜知田が狙うのも頷ける。

 

「でも、段々外堀を埋められてきてね。私が彼と付き合っているってことは、みんな知ってるみたい」

「付き合ってないのにか」

「付き合ってないのに」

 

 まるで思春期のガキみたいだな、と呆れたが、彼も私もそのガキみたいなことで痛い目にあったので、笑うことはできなかった。

 

「ほら、この前の甘味屋でも喜知田のやつ、いたでしょ」

「いたな」

「あれ、私に会いに来ていたんです。私たちが決まった時間に甘味屋が来るの知って、わざわざ。ほんと、見つけた時には息が止まりそうで」

「ああ。てっきり、私を恐れているかと思った」

「馬鹿にしないで下さい」

 

 彼女はせき込みながらも、胸を張った。そうすると、細い首とこけた頬が目立ち、痛々しさが増す。それでも彼女の顔は勇ましい。

 

「あなた如きを恐れるほど柔じゃないです」

 

 私はこらえきれず、声を上げて笑った。顔はそっくりだが、性格はまるで違う。正反対といってもいいくらいだ。

 

 突然笑い始めた私に対して、呆れるように肩を落とした彼女は、辛いのかそのまま布団へと倒れ込んだ。大きく、ゆっくりと呼吸をしている。

 

「ほんと、偉い奴らはずるい。私みたいな貧乏はご飯すら碌に食べれないんですもの」

 

 自然と口から零れたのか、ぽつぽつと彼女は呟く。三郎少年の前で強気にふるまっているからか、堪っていた不満が体の奥底から溢れ出ているようだった。

 

「ほんと、いい商売よね。農家から買い占めて、割高で庶民に販売するんですもの。そんなの、ずるいじゃないですか」

「どういうことだ。値段が高いのは食糧不足だからじゃないのか」

「それもあるけど」

 

 彼女は一度大きく息を吸った。何度か咳をして、唾を飲みこみ、ようやく話し始める。

 

「それもあるけどね、食糧不足に付け込んで、利益を得ているような奴らがいるんです。食料なんて買わなきゃ生きてられないから、高くても買うでしょ?」

「買えてないじゃないか」

「それは貧乏人だけ」

 

 ほんと、貧乏は嫌ねぇ、と笑う彼女の目には、少し涙が浮かんでいるような気がした。

 

「でも、悪いのは貧乏じゃないのよ」

「そうなのか? じゃあ、何が悪いんだ」

「悪いのは喜知田。そうですよね」

「そうだ。その通りだ」

 

 悪いのは喜知田。口の中で何度も呟く。悪いのは喜知田。いい言葉だな、と思った。

 

 

 二人してため息を吐いていると、部屋の奥から元気な声と共に三郎少年が現れた。すると、彼女は飛び跳ねるように起き上がり、目をぬぐうとすぐに凛々しく優しい顔に戻る。舌っ足らずで、滑舌が良くない三郎の言葉に頷き、ありがとう、と満面の笑みを見せた。

「ところで三郎」

「なあに、おかあさん」

 

 こてんと首を傾げた三郎少年に、彼女は厳しい口調で訊ねた。

 

「あなた、手洗いうがいはしたの?」

 

 あっ、と声を漏らした三郎少年は、一瞬顔を青くしたが、すぐに頬を膨らませ「今からやろうと思ったのに、言われてやる気がなくなった」と子供にありがちな、屁理屈を述べた。

 

 とても野菜を泥棒してきたとは思えないほどに、無邪気で間抜けだ。きっと、彼は彼なりに母親のことを考えているのだろう。なんて献身的なんだ。反吐が出る。

 

「ほんと、すみませんね」

 

 また、ゴホゴホと咳をしながら、彼女は頭を下げた。三郎少年は心配そうに母親を見ている。

 

「病気、酷いのか?」

「いえ、そこまでではないと思うけど。ほんとに食べ物が高くて。一日二食きちんと食べれない日が続いちゃって」

 

 この子だけでも食べさせてあげたいわねえ、とわしわしと三郎少年の頭を撫でる。くすぐったそうに目を細めた少年の顔は、針妙丸にどことなく似ていた。

 

 そうだ。食糧不足は貧乏人にしわ寄せが来るのだ。だったら、仕方がないが、やるか。

 

「おねえちゃん!」

 考え事をしている私に向かい、三郎少年がトコトコ歩いてくる。不自然に手を後ろに組んで、今にも転びそうだ。

「これあげる」

「これ?」

「トマト。好きなんでしょ?」

 

 後ろで母親が肩をすくめるのが見えた。きっと、私も同じような仕草をしているのだろう。

 

「それ、お前が嫌いなだけだろう」

「ちがうもん!」

 

 絶対に違わないな、と呟きながら、懐の中から一文を取り出す。右手に持ったそれを、三郎少年のトマトをもつ反対の手にのせた。

「ほら、トマト代だ」

 

 それだけ言い残し、背を向けた。そのまま家を出る。一文じゃトマトは買えないよ、と大声で叫ばれたような気がするが、きっと気のせいだろう。細い路地を振り返らずに進んだ。

 

 いつの間にか雲は無くなっていた。太陽はまだ高い所にあり、澄んだ青色が人里を見おろしている。絶好の散歩日和だ。だが、肌寒さだけはどうすることもできなかった。

 

 三郎少年のことを頭に浮かべる。どことなく針妙丸に似ている少年は、無邪気さと共に、どこか暗い雰囲気も持っていた。それがどこから来るものなのか、分からない。ただ、嘘吐きは泥棒の始まりというように、泥棒とは正しい人の道を外れた行為だ。私が正しい人の道について語るのも馬鹿らしいが、これは真実だろう。

 

 だが。それでも、だ。例外は無いのか。家族のために金持ちから野菜を盗むことも、人の道を外れる行為なのだろうか。きっと、そうなのだ。例外なんてないのだ。彼の暗い雰囲気は、泥棒をしてしまったという罪悪感。そうに違いない。もし、針妙丸が同じ道を辿ったら。そう思うと、居ても立っても居られなかった。どんなに眩しい光でも、汚れる時は一瞬だ。

 

「こんなところで何をしている」

 

 底冷えをする低い声が後ろから聞こえた。気を抜いていたからか、大きな声を上げ、尻餅をついてしまう。全く反省をしない自分に嫌気が差し、腹が立ってくる。その怒りをぶつけてやろうと、声をかけてきた相手に食って掛かろうとしたが、止めた。止めざるをえなかった。

 

「正邪。おまえ、紅魔館に行っているはずだよな。何でいるんだ」

 

 これでもかと眉間にしわを寄せた彼女は、どういうことだ、と詰め寄ってくる。青い髪と赤い顔が対照的だった。

 

「け、慧音は随分と疲れがとれたな。この前は死にそうだったのに」

「今まさに怒りで死にそうだよ」

 

 一歩、また一歩と慧音が近づいてくるたびに、私はゆっくりと後ずさりをする。また頭突きをされてしまってはたまらない。今日はただですら怪我をしているのだ。

 

「でも、別にいつ行くかは決まってなかっただろ?」

「そうだな」

 

 慧音が足を止めた。威圧感がゆっくりと薄れていく。般若のような顔だった慧音の顔は、あっという間に普段の表情に戻った。情緒不安定、と口にしようと思ったが、また般若に変わりそうなので、止めた。

 

 ふーむ、と腕を組んでいた慧音だったが、私をちらりと見て、手を叩いた。

 

「今からいったらどうだ? 珍しく天気もいいし」

「実は、私も今日行こうと思っていたんだ」

 

 なら、と笑顔を見せる慧音を手で制し、小さく舌打ちする。頬を膨らませて、いじけるように言った。

 

「行こうと思ったのに、言われてやる気が無くなった」

 

 頭突きを避けることは、当然不可能だった。



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ピンチとチャンス

 ピンチはチャンスとはよく言うが、逆にいえばチャンスはピンチなんじゃないか? 

 

 痛む頭をさすりながら、私はそんなことを慧音に訴えかけた。

 

「何の話だ」

「例えば、だ。私が今から紅魔館に行って、無事食料を貰えたとする。でも、それが食えるという保証はないじゃないか。もしかすると、腐っている物を押し付けられるかもしれないし、毒入りの可能性もある」

「そうじゃないのを貰ってこい」

 早く行けと、コバエを払うように手を振った慧音を無視し、言葉を並べる。

 

「つまりだ。私が言いたいのは、リスクが大きすぎるってことだ。目の前の大きな餌には大抵釣り針が刺さってんだよ。チャンスなんてものは巡り巡って自分の喉を締めることになる」

「大丈夫」やさしく私の肩を撫で、にこりと笑った。寺子屋でよく見かける先生としての笑顔だが、どういう訳か私には獲物を前に舌なめずりする猛獣にしか見えない。

 

「釣り針にかかるのはお前だけだし、餌を食べなかったら私が手づかみにしてやる」分かったなら早く行け! という叫び声と同時に、私は一目散にその場から飛び出した。

 

 

 怖い怖い半獣のおばさんに脅された私は、しぶしぶながらも紅魔館へと向かった。まだ怪我も完治していないというのに、あいつは労わりという言葉を知らないらしい。満身創痍な状態で、危険で溢れている人里の外に出るのは不安だった。だったが、拍子抜けするほど簡単に目的地に着くことができた。例の憎き氷の妖精にも会うことなく、それどころか他の妖精すらに一度も遭遇せずにたどり着いた。逆に恐ろしいくらいだ。

 

 紅魔館、とはよく言ったもので、目的の館は壁、天井、門にいたるまで全てが赤く、まさしく血塗られた館という表現がぴったりなところだ。ちょうど西日に照らされて、赤黒い外装が不気味に輝いている。正直、今すぐにでも帰りたいが、このまま帰ったら慧音の説教が待っているに違いない。それに比べればましだ。あれは酷い。

 

 とりあえずどうやって中に入ろうかと、門の中を覗き込む。門といっても、精々5mくらいの塀のようなもので、空を飛べる妖怪で溢れる幻想郷では大した意味を持たない。精々見栄えを良くするためのオブジェだ。

 

「私の管轄をオブジェだなんて、口が達者ですね」

 

 後ろから、いきなり声をかけられる。威圧感のある低い女性の声だ。背筋が凍る。全く気配を感じなかった。あたふたと慌てふためいた私は、そのまま地面に落下し、盛大に門に頭をぶつけてしまった。大丈夫ですか? とおろおろとした声が聞こえる。どうやら独り言をつぶやいていたらしい。

 

「大丈夫じゃねぇよ。なんでお前らは後ろから急に話しかけてくるんだ。死ぬことになるぞ、私が」

「大丈夫そうですね」

 

 いやー、すみませんでした。とにこやかに笑いながら、座り込んでいる私に手を差し伸べてくる。緑色の大陸風な服を着た女性だ。人当たりの良さそうな笑顔を見せ、私より高いであろう背を少しかがめていた。ごつごつした、丸太のような腕にぐいっと引きよせられる。勢いがつきすぎて、少し体が浮いた。女性であるが、かなり力が強い。何の妖怪かは分からないが、明らかに人間の力を凌駕していた。

 

「もしかして、あなたが鬼人正邪さんですか?」

 

 帽子に隠れた紅色の長い髪を揺らしながら、彼女は太陽のような笑みを見せた。

 

「待ってましたよ。私は紅魔館で門番をやっている紅美鈴です。慧音さんのご友人の鬼人正邪さん、でいいですよね?」

「いいわけないだろ」

 

 私が慧音の友人だと? 冗談にしても勘弁してほしい。私にとって慧音とは、よくいえば天敵、悪く言えば害悪だ。確かに、たまにご飯を奢ってもらえるのは助かるが、それ以外が致命的に私と合わない。白と黒、ハブとマングース、イノシシと人面牛だ。

 

「人面牛って、慧音さんのことですか? 怒られますよ」

「慧音を怒らせることに関しては専門家だからな。というか、私はまた口に出していたのか」

 

 あー、と気の抜けた声を出した彼女は、えへへと誤魔化すように笑い、後ろ手に頭をかいた。ちろりと舌を出す仕草は子供らしく、長身の彼女がやるには似つかわしくないように思えたが、不思議と様になっている。根が子供に近いのだろうか。慧音と同じだ。

 

「実は私、耳がいいんですよ。ほら、こう見えても門番なので」

「なんで門番は耳が良くないといけねぇんだ。コンサートの指揮でもとっているのか?」

 

 紅い門の前にずらりと楽器や騒霊が並び、門番が指揮棒を振っている姿が頭に浮かぶ。が、そんなわけないじゃないですか、と彼女はすぐに否定した。

 

「門番も大変なんですよ。他にも体力、集中力、あとは耐久力が必要ですかね。そして何より大切なのが、忍耐力です」

「忍耐力? 門の前に立っているだけだろ。何に堪えるんだ? 空腹か」

「あはは、あなたとは違いますよ」

 

 どういう意味だ、と睨むも、彼女は再びあははと笑うだけだった。心底不愉快だ。彼女は妖怪にしては珍しく親切で、俗にいう良い人なのだろう。私と違って。だからこそ気に入らない。そして何より腹が立つのは、自分と相手の能力を比べ、弱いと判断した相手にはそれ相応の態度をとっていることだ。馬鹿にするのではない。壊れ物を扱うように、慎重に対応している。それこそ、子供を相手にした大人のように、無意識に優しく接しているのだ。それが見下すことと同義だとも知らずに。

 

「空腹じゃないなら、なんで忍耐が必要なんだよ。お前みたいな強い妖怪に我慢は似合わない」

 

 私の渾身の皮肉を前に、彼女はまた、あははと笑った。

 

「そうですね。例えば来客を待つときなどは気を使います。特に、その来客がなかなか来ない時は」

「へぇ」

「最悪なのは、日を跨ぐときですかね。今日中に来ると聞いていたのに、その日に来なかったら、疲れがどっと来ます。まして」

 

 そこで彼女は少し笑顔を崩した。口元は相変わらず緩んではいるが、目元には少し影が見える。それが帽子の陰か、疲れによる隈か、それとも怒りによる皺かは分からない。

 

「まして、三日も待たされたとなると、それは疲れますよ」

 

 ああ、これは怒っているなと分かった時には、すでに門の中へと引きずり込まれていた。

 

 

 

 

「正邪さんは、この館についてどう思いますか?」

 

 長い廊下を歩きながら、紅美鈴は訊ねてきた。あの恐ろしいと噂の紅魔館の門番を怒らせた。これは指の一本や二本は切られてもしかたない。そう思っていたが、彼女はあっけらかんといった様子で、びっくりしました? と笑った。

 

「いやあ、正邪さんの反応が面白いから、つい」

 

 悪びれもせず朗らかに言う様子は、どこかの誰かを彷彿とさせる。この世界にはこんな奴しかいないのか、と頭を抱えていると、いつの間にか紅魔館の扉をくぐっていた。

 

「どう思うもクソも」

 

 円を描くように、ぐるりと辺りを見渡す。が、見渡したはずなのに視界に映るものにほとんど変化はなかった。紅。紅紅紅紅! この館は外も内も紅に染まっていた。窓すらないのには驚きだったが、そんなことが些細に感じるくらいだ。

 

「目に悪いしセンスもない。この館を設計した奴は赤色以外認識できない病気だったんだな。無様だ」

「それ、絶対に本人を前に言わないでくださいね。怒りますから」

 

 彼女はその場面を想像したのか、ぶるりと震え、自分の身体を抱きしめるように腕を背中に回した。その本人とやらはかなり恐れられているらしい。出来れば会いたくないものだ。

 

「にしても、趣味が悪すぎだ。限度というものがある。紅は紅でもこんな血のような色にしなくてもいいのに」

「もし」

 

 彼女は人差し指を立てて、天井を見つめた。カツンカツンと私たちの足音が響く中で、その鈴のような声は透き通り、よく響く。そういえば、結構歩いたにもかかわらず、廊下の終わりが見えないな、とそんなことを呑気に考えていた。だからだろうか。彼女の言葉は、頭の中をかき回すように、深く染み渡った。

 

「もし、本当に血だと言われたらどうします?」

「え?」

「壁を塗るために、数多の人間の血を搾り取ったといわれれば、どう思います?」

 

 前を歩いていた紅美鈴が急に立ち止まった。一体どうしたのだろう、と首をかしげていると、「どうかしましたか?」と逆に訊かれる。どうかしているのはこの館だ。そう呟き、腰を上げようとした時、初めて自分が床に崩れ落ちていたことに気がついた。大丈夫ですか? と差し伸べてくる手をはねのけ、自力で立ち上がる。まだ少し足が震えているが、痺れているふりをした。

 

「そんなに驚くとは。逆にこっちが驚きましたよ」

「驚いてねぇ。あまりに馬鹿な事を言うから、拍子抜けしただけだ」

「拍子抜けして、腰が抜けたんですね」

 

 あははと笑う彼女に舌打ちし、天井を見上げる。少し前までは、ペンキで塗られたかのように色むらなく均一に見えた紅色も、心なしか血しぶきを擦り付けたように、黒と赤のまだら模様に見えてきた。

 

 彼を包丁で刺した時を思い出す。彼の命が消えようとしているにも関わらず、血は噴水のように勢いよくふき出した。そんなに血を出す元気があったのか、と感心するほどだった。赤く染まった服は捨てた。丁寧に床を吹き、これでもかと手を洗った。それでも部屋に残る血生臭さは消えなくて、一晩中部屋を拭きまくった。その時のことを思い出す。

 

 頭を下げ、自分の手のひらを見つめる。一瞬、その手に赤黒い液体がこびり付いているように見え、悲鳴を上げそうになる。目を閉じ、もう一度手の平を見ると、その赤色は消えていた。

 

「もうそろそろ、お嬢様の部屋につきます」

「お嬢様?」

「紅魔館の主ですよ。くれぐれも失礼のないように」

 

 緑色の帽子を脱いだ紅美鈴は、素早くそれを折りたたみ、強引に懐へと押し込んだ。手で何度も髪の毛をいじり、私から見れば何が変わったか分からなかったが、大丈夫、と頷き、頬を両手でペチンと叩く。顔にきれいな紅葉が二つ刻まれた。

 

「これでばっちりです」

「何がだ」思わず、聞き返す。

「心の準備ですよ。お嬢様に怒られないためにも、心の準備が大切なんです」

「心の準備が大切とか、あまり口にしない方がいい」

 

 口元のにやけが抑えられなかった。自然と、手が額へとのびる。はたしてあの“準備”に意味があったかどうかは分からない。ただ、焼酎で痛む傷口を守ってくれたのは確かだ。

 

「包帯でぐるぐる巻きにされるぞ」

「何です、それ」

「実体験だ」

 

 怪訝そうに私の目をみる彼女に向かい、私はあははと声をあげて笑った。

 

 

 

 長い廊下の一番奥にあったのは豪華絢爛な扉だった。色は例に漏れず真っ赤だが、まず大きさが異常だ。館の周りを覆っている門よりも高い。その大きな赤いキャンパスを埋め尽くすかのように金の装飾やダイヤモンドが埋め込まれている。喜知田の家の扉よりも、はるかに上等なものだった。その、触れることすらおこがましいような扉を紅美鈴は躊躇なく開けた。ノックすらしないのか、と驚く。

 

「お嬢様。客人をお連れしました」

 

 恭しく礼をした紅美鈴だったが、返事は返ってこない。彼女を盾にするように後ろに隠れながら、中の様子を窺う。気づかぬうちに、ため息が漏れた。あまりの豪華さに感動したわけでも、お嬢様と呼ばれる妖怪の威圧感に気圧されたわけでもない。またか、と呆れたのだ。また、紅色か。

 

「ようこそ、お客人。待っていたよ」

 

 前にいた紅美鈴の背筋が、ピンと伸びた。これ以上伸ばしたら背筋が脱臼しそうだ。かくいう私も気づけば背筋が伸びていた。そうしたくてしたわけではない。せざるを得ないような迫力が、その声には籠っていた。高く、そして幼い。少女の声だ。寺子屋の子供たちの声と混ぜても、違和感がない。だが、不思議とその声には高貴さが混じっている。有無を言わさぬ強制力が含まれていた。恐怖のあまり、卒倒しそうになる。喜知田の家での烏と同じくらいに恐ろしい。

 

 その、声を発した妖怪は私たちの目の前にいた。金色で縁取られた大きな玉座に座り、不敵な笑みを浮かべている。自分の想像よりも遥かに小さく、そして幼い。今朝の三郎少年と同じくらいの背丈だろうか。雪のように白い肌は陶器のような輝きを放ち、肩口までに切られた銀の髪は、どこか浮世離れしている。薄紅色のドレスとナイトキャップを纏い、身体より大きな黒い禍々しい羽根が小刻みに震えている。紅の館に住み過ぎたせいか、瞳は真っ赤になっていた。かわいそうに。

 

 その少女は肘置きに体重をかけ、頬を右手に載せている。左足の上に右足をのせ、つま先をぶらぶらと揺らしていた。身長と服装も相まって、幼子のようにも見える仕草だが、どういう訳か彼女がやると、威厳に溢れた行動に見える。

 

「そんなに怖がらないでくれよ。私たちはあなたが来るのを楽しみにしていたんだ。何ていったって、あの八雲紫のお墨付きだからね」

「は? え?」

「おっと。口が滑ったか。まあ、土産話という事にしてくれ」

 

 クツクツと笑う彼女を前に、私の頭は真っ白になっていた。八雲紫のお墨付き? 会ったこともない大妖怪に、いつの間に墨をつけられていたのか。どうして。なぜ。

 

「それは置いといて。私に頼みがあるんだろう? 遠慮なく言うがいいわ。このレミリア・スカーレットがその望み、聞いてやろう」

「その置かれた情報が気になるんだが」

「気にするな。早く頼みを話せ」

 有無を言わさぬように、彼女は小声で、それでもはっきりと言った。

「……頼みというか、慧音からの伝言だ」

 

 ここで慧音の名前を出したことに、大した理由はなかった。事実、食料調達を頼んできたのは慧音であったし、何の間違いもないはずだ。下心があるとするならば、レミリアが不機嫌になった時に、責任をなすりつけることができるかも、と思ったぐらいか。

 

「慧音? ああ、あのワーハクタクか」

 

 人里の半獣だったかな、と淡々と口にする彼女の顔は、どこか嬉しそうだった。自分の子供の成長を思い出しているかのように、過去を懐かしんでいる。

 

「ああ思い出してきたぞ。寺子屋の教師をやってる、石頭の」

「そうだ。あいつはかなりの石頭だ」

 

 ニタリと口を開いた彼女は、喉を鳴らすように笑う。二本の尖った犬歯が光り、真っ赤な口の中を照らしているようだった。

 

「そうか。あいつが私に頼みごとがあるのか。面白いな」

「面白い?」

「あの頑固者が紅魔館の主である私に借りを作るとは、意外だったからね」

 

 まあ、それも運命か。とよく分からないことをいっている彼女を尻目に、私は隣で突っ立っている門番の脛を膝で小突いた。この小さな支配者は機嫌がいいのか。頼みごとをするタイミングは今でいいのか、と呟くと、彼女は小さく頷いた。

 

「その頼みなんだが、まあ単純だ。人里の食糧が不足しているので、少し分けてくれ、いや分けてください、だってよ」

「ふむ。なるほど」

 

 顎に手を置き、なぜか片目だけ閉じた彼女は、熟考しているのか低い唸り声を上げた。ビリビリと空気が震え、その迫力に思わず後ずさってしまい、後ろにいた紅美鈴に支えられるように受け止められる。振り返ると、彼女はレミリアをじっと見つめ、焦るようにパクパクと口を動かしていた。何と言っているかは分からない。

 

「いやだ」

「は?」

「いやだ、と言ったんだ」

「お嬢様!」紅美鈴が、責めるように、叫んだ。

「打ち合わせと違うじゃないですか!」

 

 打ち合わせってなんだよ、と突っつくも、紅美鈴は返事をしない。彼女は混乱しているようだった。あたふたとその場で足踏みをし、あれだけ恐れていたはずのレミリアに向かって、馬鹿ですか、何してんすか、いつもの我儘ですか、と捲し立てている。

 

「考えてもみろ。私は高貴な吸血鬼だぞ。なんで人間なんぞに施しを与えなければならん」

「で、ですが」

「美鈴」

 

 レミリアの声は、決して大きいわけではなかったが、研ぎ澄まされた剣のような鋭さがあった。私に向けられたものではないにも関わらず、気が遠くなりそうだ。

 

「私に同じことを二度言わせる気か」

「はい!」

 

 椅子上のレミリアの頭がカクンと落ちた。張り詰めていた空気に綻びが生じる。巨大な空気の塊が肩にのしかかっているような感覚だったが、それが急激に薄れていった。

 

 お前はそういう奴だったな、と苦笑いをしたレミリアは、片頬を上げたまま私に視線を移した。体が強張り、今すぐ背中を見せて逃げたくなるが、足が動かず、それすらできなかった。しかし、口は動く。

 

「紅魔館の主がここまで貧乏性だとは驚きだな」

「なんだと」

 

 右眉をピクリと動かしたレミリアにおののき、口が固まるが、何とかして言葉を紡ぐ。今朝の三郎少年の暗い顔が頭をよぎった

 

「自分の尻ぬぐいもできないなんて、赤子よりも間抜けだ」

「おい待て。いま尻ぬぐいと言ったか」

 

 てっきり、顔をこの館のように真っ赤にして怒ってくると思っていたが、予想に反し彼女は冷静だった。冷静でないのは後ろの門番の方で、そうだそうだ! 間抜けだ! と大声で叫んでいる。普段の鬱憤を晴らそうとしているのだろうか。

 

「ああ言った。お前らの霧のせいで作物が育たなかったツケがきているんだ。いつだってそうだ。強者の気まぐれで弱者が犠牲になる。あんたらはそんなことすら知らんのだろうがな。哀れだよ。弱い者は助ける。常識だろ?」

「そんな常識は知らない」

「奇遇だな。私もだよ」

 

 大きく息を吐いたレミリアは、目頭に人差し指を重ね、ぐりぐりと押し込んでいる。そんな仕草ですら、私にとっては驚異的で、恐ろしい。

 

 しばらくレミリアは動かなかった。後ろにいる門番は、相変わらず空気を読まずに馬鹿、チビ、歩くゴミ! と暴言を吐き続けているが、それにすら反応していない。そんなレミリアに目をやろうとするも、溢れ出る威圧感に負け、そのまま奥の壁の方を向いた。もはや慣れつつある赤色に、金色の額縁に飾られた写真がかかっている。この館全員の集合写真だろうか。後ろで騒いでいる門番と、前で考え込んでいる館主。その他にも4人の女性が映っていた。ピンボケはしていない。天狗にでも撮ってもらったのだろう。

 

「写真、気になるか?」

 

 私の視線を辿ったのか、彼女は一瞬振り返り、愛おしそうに写真を見つめた。

 

「大切な私の家族だ」

「家族」

「そうだ。我らが紅魔館は血のつながりよりも強固な運命で結びついている。運命の赤い糸でな。それは、私にとってはかけがえのないものだ。お前には分からないかもしれんが。……まあ、そこの門番は今日から家族で無くなるけど」

「え」

 

 私を追い越して、玉座の前に座り込み、レミリアの足に縋るように纏わり付いている門番を嘲笑しながら、私はレミリアが言った家族という言葉について考えていた。

 

 家族。私とは最も縁遠い存在だ。暖かくて、優しくて、きっとそれは素晴らしいものなのだろう。だが、そう思えば思うほど、この世の理不尽さに嘆息する。妻が死んだときの、彼の苦笑いが頭に浮かんだ。弱者は、家族を失うのをただ黙って見過ごすしかないのか。強者の犠牲になるのを、我慢するしかないのか。

 

「どうした天邪鬼。なぜそんな悲しい顔をしているんだ」

「は?」

「お前にも家族がいたのか」

 

 いる訳がない。私は天涯孤独で生まれながらの天邪鬼だ。

 

「そもそも、私は悲しい顔なんてしてねぇよ。してたとしても、お前らの愚かさ加減に同情していただけだ。“ああ、なんて阿呆な妖怪なんでしょう。神様は残酷だわ”ってな」

 

 で、でも。と何かを言おうとした門番を手で制したレミリアは、 ゆったりとした佇まいで玉座から降りた。腰に手を当て、威張るように胸を張りながら私に近づいてくる。俯いているので表情は見えない。以前のような肺を直接潰すような威圧感はもうないが、それでも本能的に足がすくみ、身体が震え、ぺたんとその場に座り込む。最近、足がよくすくむな。年だろうか、なんて現実逃避をしたくなる。

 

「鬼人正邪。お前に一つチャンスをやろう」

 

 凍えるような冷たい目で見下ろしてくる。その手には門番の帽子が握られていた。

 

「お前には友人がいるか? 自分のために命を懸けてくれるような、そんな仲間がいるか? 私の家族のような、赤い糸を持っているか?」

「人相書きで紡いで、枝豆で梳いて、アジの開きで結んだ、血で赤くなった糸なら」

「お前は何を言っているんだ」

 

 なにか不味いものでも食べたかのように口を噤んだ彼女は、私の顔の前に手を掲げた。人差し指だけを突き立てて、愉快そうに一日だ、と笑う。

 

「一日の猶予をやる。それまでに命を懸けてくれるような友人を連れてこい。ああ、慧音は駄目だぞ。あいつは友人以外でも命をかけてきそうだ」

「もし、連れてこれたなら」

「いくらでも食料を提供してやる。言ったろ、これはチャンスだ」

 

 私は座り込んだまま、そのまま背中を地面につけ、寝転んだ。紅の天井が私を馬鹿にするかのようにあざ笑う。それにつられて、私も口から乾いた笑い声が零れた。カラカラと、壊れた玩具のように同じ音を繰り返す。友人を連れてこい。そうすれば、望み通り食料をやろう。いいか、これはチャンスだ。何度も同じ言葉が頭を巡った。まったくもって馬鹿らしい。

 

「せめて、釣り針を隠す努力をしろよな」

 

 お前は何を言っているんだ、と嘆くレミリアの声が赤い館に吸い込まれていった。



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疎外と受容

 人里に着く頃には、既に空は赤くなっていた。今日はいったりきたりと、忙しい一日だ。だが、やらねばいけないことは多い。猶予は一日。それまでにとびっきりの友人を見つけなければならない。それこそ、私のために死んでくれるような。心当たりを探すが、当然見つからない。死んでほしい奴ならばいくらでも見つかるのに。

 

 とりあえず、慧音のところに事情を説明しに行くか、と寺子屋へと足を進めようとした時、自分が笠を被っていないことに気がついた。懐を漁るも、手ごたえはない。紅魔館で落として来たのだろうか。

 

 意味もなく後ろを振り返るが、ただ寂れた民家が並んでいるだけだった。一度疑問に感じてしまえば、そうとしか思えなくなり、あの時か、あの時かと色々な場面が浮かぶ。門から落ちた時か、廊下で腰が抜けた時か、レミリアの部屋で寝転んだ時か。どれもありそうで、特定ができないが、それでも紅魔館で落としたことは間違いない。結局はそう結論づけた。

 

 まあ、あの笠を被っていないところで、大して影響はないだろう。今朝もすぐに正体を見破られ、石をぶつけられる羽目になったのだ。気休め程度しかなかったと、そういうことにしようと決め、予定通り寺子屋へと足を進めたのだが、この判断を後悔することになるのは、すぐのことだった。

 

 

 

 いつもは人が少なくなる時間帯なのだが、どういう訳か今日は溢れんばかりに人が大通りを覆いつくしていた。怪しまれないように、道の端辺りを慎重に進んでいく。が、どうやら烏の新聞は私の想像以上に優秀だったらしく、一瞬にして周りから人が去っていった。乾いた地面に水を垂らし、ぐんぐんと流れていくなか、油の塊を中央に置いたように、きれいな円状の空間が生まれる。

 

「歩きやすくなったな」

 

 私が一歩進むたびに、その円も前へ進み、生まれる空間も大きくなる。一、二、と初めこそは順調に歩みを進めたが、三歩と右足を前に出した時、思わず足を止めた。大柄な男が、円の中から飛び出してきて、私の目の前に現れたのだ。大量の人をかぎ分けてきたからか、大きく肩で息をし、はぁはぁと辛そうに膝に手を置いている。坊主頭と黒縁眼鏡が特徴的だった。確か、甘味屋で難癖をつけてきた、慧音の知り合いの青年だ。

 

「おい鬼人正邪。おまえ、どういうつもりですか」

 

 いきなり現れた青年は、人差し指を突きつけ、親の仇を見るような目で私を見下した。

 

「どの面下げてのこのこ歩いてるんだ!」

「残念ながら、私は選ぶほど顔をもってねぇ。この顔だけだ」

「ふざけないで下さい!」

 

 息を荒らげたまま、顔を赤くし、勢いよく私に掴みかかってきた。避けようと後ろへ下がるも、予想していたかのように距離を詰められ、そのまま首元を締められる。明らかに素人の動きではない。

 

 その男は、私に顔を近づけて、ふざけないで下さい! とまた叫んだ。とんだ唾が頬につき、自然と眉間にしわが寄る。それを反抗の兆しと勘違いしたのか、青年は喉にかける力をさらに強くした。息ができなくなり、その場で足をばたつかせ、脇腹を蹴り飛ばす。が、痛がるどころか、小さく口角をあげ、血走った目を見開いた。怒りのあまり歯を食いしばり、口の端で唾を泡立てている。さらに気管が締められるのを感じながら、私は納得していた。彼の表情は何度も見ていた。怒りに震える自分の顔にそっくりだ。

 

「僕はお前が人間にした仕打ちを絶対に忘れない。あの無垢で、何の罪もない女性を殺したことも、貧乏ながらもひっそりと余生を過ごしていた老人を殺したことも!」

 

 青年が声をあげると、周りの群衆が騒めきたった。一度起きたざわめきは、ドミノ倒しのように広がっていき、一体を包み込む。怒りが辺りを満たしていく。そんな中、私は首を掴まれつつも、こらえきれずに笑っていた。ひっそりと余生を過ごしたというには、彼の余生は過激すぎる。呪いで体が錆びていくのをひっそりというのであれば、地獄の底で暮らすこともひっそりというに違いない。

 

 クツクツと喉を鳴らしていると、不愉快だったのか、男に腹を殴られる。目の前が暗くなり、胃液が込み上げてきた。

 

「みんなもそう思うだろ!? なんでこんな奴が堂々と里を歩いているんだ。そんなの許されて良いはずがないじゃないか! 彼の、彼女の無念を晴らさなくていいわけないだろ!」

 

 そうだ! 出ていけ! ぶっ殺せ! 全方向から飛んでくる罵声と共に、小さな石が飛んできた。首を締め上げられているので、避けることができず、そのまま頭にぶつかる。

 

 急に空中で首を離され、そのまま地面に倒れ込んだ。息を吸い込もうともがくが、いきなり肺を動かしたからか、咳が止まらない。ゴホゴホと喉を押さえながら、口元を手で覆った。少なくない血が手のひらについている。喉を切ってしまったようだ。

 

「今すぐ出て行ってください」

 怒りに声を震わせながら、男は言った。

「出ていけ!」

 

 その青年の声を切欠に、周りの人々も声を張り上げ始めた。出ていけ! 出ていけ! と声を会わせて叫ぶ。その団結力に驚かされながらも、私は何とか立ち上がった。前に立っている男を見る。この人殺しが、と何度も罵っている。彼の胸をナイフで貫いた瞬間を思い出した。その場でうずくまり、耳を塞ぎたくなる。ああそうだ。私は彼を殺した。人殺しだ。

 

 逃げ出すように、事実逃げ出したのだが、私は地面を蹴った。ふらふらと慌てふためきながら、空を飛ぶ。空気を掴むように何度も腕を振った。目の前にいる蕎麦屋の親父の背中を追いかける。だが、追えば追うほどその姿は遠くなり、そして消えていった。残ったのは、血のように真っ赤な夕暮れと、頭にこびりついた、出ていけ! という叫び声だけだった。

 

 

 

 

 いつの間にか、私は彼の家の跡地に来ていた。どうやって来たのか、いつ着いていたのか、まるで覚えていない。気がつけば、真っ黒な瓦礫の上で寝そべっていた。

 

 冷たい風が吹き、舞い上げられた煤のつんとした匂いが鼻につく。手足は凍ったかのように冷たく、内臓が冷え切ってしまい酷く腹が痛い。慧音が首元に巻き付けた、紫色の手ぬぐいをほどき、腹の上に載せる。昨日、石が当たった箇所を押さえていたからか、真ん中が赤黒く色づいていた。紅魔館の壁の色とそっくりだ。うんざりとし、目を閉じる。

 

「あれ、正邪じゃん! こんな所でどうしたの?」

 

 疲れと寒さからか、高い子供の声が聞こえてくる。懐かしい、無邪気な声だ。あまりに能天気で場違いに明るい声だったので、一瞬幻聴かと勘違いしてしまう。足が地面を擦る音が段々と近づいてきて、腹付近に衝撃を感じた。重い何かが空から降ってきたかのようだ。耐え切れず、ふぐぅとくぐもった声が洩れる。

 

「ふぐぅって。何て声出してるのさ!」

 

 閉じている瞼を強引に手で開かれる。ぼやけていた視界が安定していくと、そこには予想通り、えへへと笑う針妙丸の姿があった。腹に敷いてある手ぬぐいに身体を擦り付け、気持ちよさそうに身体を伸ばしている。従順な子犬のように愛らしく、憎たらしい。

 

「おいチビ、何してる」

 

 低い声ですごもうとしたが、思いの外高い声が出てきて、驚く。もしかして、私は喜んでいるのか。いったいなぜ。どうして自分が喜んでいるのか理解できなかった。

 

「金輪際わたしに近づくなといっただろ」

 

 先程の、出ていけ! という男の声が耳の奥に響く。名実ともに人里の嫌われ者となった私に関わることは、針妙丸にとっても、私にとっても良くない。そして何より、地獄で待っている彼に怒られてしまうのだ。「水の泡にしやがって」と掴みかかってくる姿が目に浮かぶ。

 

 私の腹の上で立ち上がった針妙丸は、ふっふっふと不敵に笑った。無性に腹が立ったので、赤色の着物をつまみあげ、その額をつつく。被っているお椀がグラグラと揺れ、面白い。

 

「何するのさ!」

「お前が私に近づいてくるのが悪い」

 

 バタバタと足を揺らし、はなせーと喚いている針妙丸の姿は滑稽だった。親猫に運ばれる子猫のようだ。

 

「そんなこといったら、正邪がこんなところで寝てるのが悪いよ」

 

 流石にいじめすぎたからか、不貞腐れるように頬を膨らませ、私を睨んでくる。だが、迫力という言葉とは縁遠く、睨むというよりかは見上げると言った方が正しい。気圧されたわけではないが、その場にゆっくりとおろした。

 

「どこで寝ようが私の勝手だろ」

「でも、こんなところで寝たら風邪ひいちゃうよ。つい最近まで大怪我してたんだから」

「私はお前ほど弱くねぇ」

 

 ほれ、と起き上がり、その場で屈伸運動をしてみせる。さっきまで痛かった腹はいつの間にか治っていた。寒さで感覚がなくなっていた両手足も、しっかりと動く。

 

 俊敏に身体を動かす私を見た針妙丸は肩をすくめた。目を半開きにし、馬鹿にするように鼻を鳴らす。

 

「私が言いたいのはそうじゃなくて、もっと自分を大切にしてってことだよ」

 

 胸を張り、はきはきと言った。自分を大切に。単純だが、難しく曖昧な言葉だ。このクソみたいに理想的で、薬にも毒にもならない標語にも関わらず胸を張って言う勇気に感動する。どうせ、慧音の受け売りなのだろう。あの先生は本当に傲慢だ。自分を大切にできる奴など、ごくわずかしかいないというのに。

 

「わたしは、正邪と話すのが好きなの。もし正邪が風邪ひいたら、わたしも困るの。分かる?」

「分からねぇ。というか、もう私と関わるなと言っただろ」

 

 私の言葉が聞こえているのか、いないのか。針妙丸は心配そうに眉を下げ、言葉を続けた。

 

「わたしはきっと、正邪がみんなを助けてくれると思うんだ。それでね、正邪が人里のみんなから感謝されて、けいね先生にもほめられて」

 両手を胸の前で組んだ針妙丸は夢見がちに語る。その顔には歓びが浮かんでいて、やがて訪れる未来に期待をしているようだった。

「それでね、私たちはもっと仲良くなって、きっと世界を変えちゃうの。私の夢は悪者を倒すかっこいいお姫様になることだから、正邪は従者にしてあげるよ」

 

 そんなあり得ない未来予想図を語る針妙丸を、何故か馬鹿にすることができない。私が人助け? 感謝される? 絶対にない。それでもって、弱者である私たちが世界を変えることなんて、もっとあり得ない。だが、あまりに嬉しそうな彼女の顔を見ると、何故だか私もその夢へと引き込まれそうになる。慌てて、首を振る。

 

「そんな叶いっこない夢を追いかけても、人生を棒に振るだけだぞ」

「そんなことないもん!」

 その小さな体をこれでもかと広げ、大の字にに手足を伸ばした。蟷螂の威嚇にそっくりだ。

「人生はね、夢なんだよ!」

「は?」

「大きな夢に向かって走り続けるのが人生なんだ! だから私もきっと夢をかなえるよ!」

 

 酷すぎる。理想と欺瞞にまみれた、綺麗ごとだ。この世で私が一番嫌いな類の妄言だ。だが、何故だろうか。不思議と非難する気になれない。馬鹿にすることができない。それどころか、悪くないなと思っている自分がいて、驚く。

 

「それ、慧音がいってたのか?」

 針妙丸は胸に手を置いたまま、目を丸くした。ただですら大きな目をこれでもかと見開いている。

「何でわかるの!?」

「そりゃ分かるよ」

 

 あの先生は、きっと子供の様に純粋なのだろうか。決してそんなことはないはずだ。半獣という自身の境遇ゆえに、迫害されたこともあるだろう。それなのに、どうしてここまで素直でいられるのか。愚直にいられるのか、不思議だ。

 

 そう思っていると、どこからか声が聞こえた。針妙丸の声ではない。かすれた男の声だ。ああ、これは確実に幻聴だなと確信する。彼の声だ。

「お前は人生は蕎麦だと思うか?」

 いつの間にか声に出していた。人生は蕎麦で、また人生は夢である。つまり、蕎麦は夢だ。

「どうしたの正邪。何笑ってんの?」

 腹の奥に埋もれた熱い炎が、じりじりと湧きたっていくのを感じた。

 

 

 

 いつの間にか針妙丸とかなり話し込んでいたらしく、日が沈みかけていた。赤くなっていた空に黒が混じり、世界の終わりすら感じさせる。うっすらと浮かび上がる星が見おろしていた。

 

「もう暗くなってきたから、帰れ」

 なんで私が先生のような事を言っているんだろうか、と内心で苦笑いしつつ針妙丸を急かす。

「正邪は?」

「私はまだやらなければならないことがある」

 

 あと半日。その間に友人を見つけなければならない。目の前の、小さな少女に頼めば嬉々としてついてくるだろう。だが、駄目だ。こいつをあんな禍々しい館に連れて行くわけにはいかない。

 

「ちゃんと、布団で寝てよね!」

 あと手洗いうがいと歯磨きも! と叫びながら去っていく針妙丸の背中を見つめる。慧音といい針妙丸といい、私のことをガキと勘違いしていないかと心配になった。

 

 はぁ、と気の抜けた息が洩れる。が、それと共に疲れも抜けた気がした。頑張る、という陳腐な言葉は嫌いだが、それでも頑張る、と声に出した。自分を鼓舞するというより、声に出すことで、頑張らざるをえない状況に自分を追い込むつもりだった。だから、まさか返事が返ってくるとは夢にも思っていなかった。

 

「何を頑張るんですか?」

 

 針妙丸が去っていた道の反対、人里の外に繋がる道から男の声が響いた。慌てて振り返る。壊れたボロ屋が乱立している入り組んだ細路から、青年が現れる。ついさっき私の胸倉を掴み上げた、体格のいい男だ。そいつがまた私の前にいる。

 

「ねえ、教えて下さいよ。人を殺した妖怪が、今度は何を頑張ると言うんですか!」

「友達探しだ」

「はぁ?」

 

 一瞬、きょとんとしていた青年だったが、私の言葉が聞き間違いではないと分かるや否や、大声で笑い始めた。口から涎を垂らしながら、だらしなく声を上げる。

 

「冗談ですか!? お前なんかに友達が出来る訳がない」

「そう思うか?」

「当たり前だ!」

「私もそう思う」

 

 男は露骨に嫌そうな顔をした。唇をかみ、肩を細かく震わせている。きっと、馬鹿にされたと思っているに違いない。良かったな。正解だ。

 

「お前、自分の立場ってもんを分かってるんですか?」

 

 熱い胸板に張り付くようになっている甚兵衛から、男は何かを取り出した。距離がそんなにある訳ではないが、それが何かが分からない。

 

「立場を気にするのは人間くらいだ」

「あまり人間を舐めないで下さい。お前は人里にいてはいけないんですよ。みんなが嫌っている。同じ空気を吸うのも我慢ならないくらいに!」

 

 怒りの形相で男は左手を伸ばした。この時になって初めて取り出した物体の正体がわかる。黒く光る筒のようなものが途中で直角に曲がり、男の手のひらへと伸びていた。見覚えのある武器だ。

 

「銃ってやつか」

 

 喜知田の顔が思い浮かぶ。あいつも確かこの武器を使っていたはずだ。流行っているのだろうか? 

 

「いいでしょう。高かったんですよ」

 

 悪い妖怪を退治するために買ったんです、となぜか得意げに青年は笑う。とある少年は食料すら買えないのに、この青年のように武器を買うような愚かなことをする人間までいる。彼らは一体どこで差がついたのだろうか。

 

「金さえあれば、何でも買えるのかよ」

 

 意識していなかったが、いつの間にか口が動いていた。それは一種の皮肉だったのかもしれない。天邪鬼としての本能が、無意識に口を動かすのは珍しいことではなかった。だが、男は腹を立てるでもなく、いきいきとした表情で頷いた。私の本能は相手を怒らせることすらできないらしい。天邪鬼としても無能だ。

 

「その通りです。金さえあれば何だって手に入る。武器も、女も、仲間も、愛情も、名誉すら買えるんです。酷い世の中でしょう」

 

 そこで、男は浮かべていた笑みを消した。真顔になると、眉が下がり、困っているかのような顔になる。緊張しているのか、息をのみ口をもごもごとさせた。

 

「鬼人正邪。これ以上人里に手を出さないと誓いますか? 誓えば、とりあえず今日のところは退いてやる」

「は?」

「答えろ!」

 

 男の顔はトマトのように赤くなっていた。口をまごつかせていたのは、緊張のせいではなく、怒りのせいだったのだ。本当は今すぐ私を撃ち殺したいのだろう。それほどまでに彼の怒りは強い。だが、そうはしない。彼は喜知田と違い、純粋な正義感に突き動かされているのだ。慧音と同じ、青臭さを感じる。だが、甘い。天邪鬼にそんな質問をしてはいけない。そんな事を言われたら、私はこう返すしかないのだ。

 

「嫌だ。死んでも嫌だね」

 青年が素早く動くのを見た時、私は目を閉じた。

 

 

 

 銃を向けられた私は動くことができなかった。恐怖で足がすくんでいたわけではない。今になって、腹の痛みが増してきたのだ。絞められた喉も焼けるように痛い。てっきり、寒さが原因だと思っていたが、内臓がやられたのは、青年による殴打のせいだった。

 

 今撃たれたのか、まだ撃たれていないのか、分からない。何度も自分の身体に痛みがないかと確認するも、元の痛みのせいで判断ができなかった。おそるおそる目を開ける。

 

「驚いたか?」

 

 悪戯が成功したかのような声がすぐ近くで聞こえた。青年の声ではない。愉悦に満ちた女性の声だ。

 

 顔を前に向ける。青年と私の間に一人の女性が立っていた。私を庇うように両手を広げている。いつ来たか、どうして庇ったか、まるで分らない。

 

「おいおい、そんな物騒なものを人に向けるんじゃない」

 

 銀色の髪を揺らしながら、女性は腕をぐるぐると回していた。その姿は勇ましく、可憐で、そして浅ましい。

 

 赤いもんぺを身に着け、札のような物をたくさん張り付けている彼女は、武器を持っている青年へと歩いていった。知り合いなのか、気楽に右手を上げている。

 

「ふ、藤原さん」

「妹紅と呼べっていってるだろ」

 

 藤原妹紅。聞き覚えがある名前だ。慧音の親友。不老不死。人外の人間。急に現れた彼女にどうしたらいいか分からず、私はただ立つ事しかできない。

 

「何してんの? 喧嘩? それとも殺し合いか」

「い、いえ。ちょっと威嚇を」しどろもどろと答える。銃は既にしまい、大きく手を広げて必死に弁明している。私の時とは態度が大違いだ。

「威嚇?」

「そ、そうです。ほら、今慧音先生がいないじゃないですか。だから、怪しい妖怪は早めに脅して、大人しくしてもらおうと」

「だからって人に武器を向けたらだめだよ」

「あ、いえ」

 申し訳なさそうに青年は呟いた。

「こいつは妖怪です」

 

 頭をガシガシと掻き、小さく息をついた妹紅は、青年の肩を掴んだ。

 

「ま、まあ。君の自警団としての正義感には目を見張るものがある。だけど、今日は私が慧音の代わりに見回りをするから、そこまで気を張らなくていい。いつも通り、ただ外を見張っといてくれ」

「はい、分かりました!」

 

 きびきびとした動きで礼をした青年は、走って去っていった。きちんと、私を睨みつけるのを忘れなかったのは、流石だと思う。よっぽど私のことを憎んでいるようだ。

 

 どこか気だるそうに振り返った妹紅は、私を見るなり悪かったな、と謝った。

 

「あいつ、幼いころに親を妖怪に殺されてんだよ」

 

 聞いてもいないの青年の過去を話し始めた。慧音の影響だろうか。

 

「だから、妖怪ってだけですごい警戒するんだ」

「だから何だよ」

「許してやってくれ」

 

 絶対許さない、そう言おうとしたところで、私は地面に倒れ込んだ。私の気力は限界だった。喉が裂かれるように痛み、腹には釘が入っているようだ。この痛みを与えた相手をただで許せというのは聖人君子でも難しいだろう。そもそも私はあいつの親を殺していない。

 

「あ、おい。大丈夫か」心配そうに妹紅が駆け寄ってくる。

「大丈夫じゃない。介抱してくれ」

「介抱つってもな。なんでこんな時に慧音はいないんだ」

「慧音か」

 

 ん? と片眉を上げた彼女は、私の隣に座り込んだ。怪我を治療してくれる気はさらさら無いらしく、困ったなぁと気楽に笑う。

 

「慧音が今人里にいないから、私が代理で見回りしてたんだよ。暇だったからな。でも、見回りっていってもやり方が分からないから、適当にぶらぶらしてたんだ」

 

 ぶらぶら、と気に入ったのか何回か呟き、実際に足を何度かぶらぶらと振った。その爪先が腹に当たり、焼けるような痛みに襲われ、うめき声がもれる。

 

「あ、悪い悪い。感覚が麻痺してたけど、かなり酷いじゃないか。何でこんなことになってんだよ。首にも絞められた跡があるし」

「チャンスはな」

「ん?」

「チャンスは、巡り巡って自分の首を絞めるんだ」

 

 彼女は顔に手をかざし、天を仰いだ。手をひらひらと振り、私の頭を撫でる。

「やばいな、頭までおかしくなってやがる。重症だ。ほんと、不幸中の幸いだよ。感謝するんだな」

「感謝? だれに」

「こいつだよ、ほれ、地面の」

 

 そういった彼女は、私の顔のすぐ横を指差した。ぼやけた目では、そこに何かがあるようには見えなかったが、よくよく目を凝らしてみると、真っ暗な空に映えるような黄色が見えてきた。そして、だんだんと見覚えのある姿に変わっていく。長い、八本の足を器用に動かし、妹紅の靴へとのぼろうとしている。黄色と黒のまだら模様が綺麗だった。

 

「蜘蛛か」

「そうそう。暇だったから蜘蛛を追いかけてきたら、ここに着いたんだ。すごいな」

 

 彼の家で見かけた蜘蛛を思い出す。見れば見る程、あの時見た蜘蛛とそっくりだ。もしかして、同じ蜘蛛だろうか。私が逃がしてやった恩を、返してくれたのだろうか。

 

「そんな訳ないか」

「どうかしたか?」

「なんでもない。今、暇か?」

「暇じゃなかったら、見ず知らずの怪我人なんかと話さないよ」

「お前、殺され屋やってんだよな」

 

 慧音が言っていた殺され屋。不老不死で、何度も死ぬことができる彼女のみができる画期的で、全く栄えていない商売。こんな怪我人でも客として扱ってもらえるか不安だったが、予想に反し彼女は「初めての客だ!」と喜んだ。

 

「仕事、頼んでいいか」

「もちろんだ。怪我の治療はおまけしといてやるよ」

「助かる」

 

 急に浮遊感に包まれ、視界が変わる。私の首とひざの下に手を通し、妹紅が持ち上げたのだ。このまま、どこかへ移動するつもりだろう。

 

 あの、高慢ちきな小さな紅魔館の主を思い出す。きっと、あのケチなコウモリは私には不可能だと考え、こんな妙な指令を突きつけたのだろう。あいつの苦悶に満ちた表情が頭に浮かび、胸が弾む。

 

 紅魔館に行ったら、真っ先にあいつに言ってやろう。自慢の家族に包まれた彼女を前に、啖呵を切ってやるのだ。

 

「命をかけてくれる友達も、金で買えるんだってな」

 

 ああ、治療が間に合うか不安になってきた、と妹紅がつぶやいた。



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悪人と救世主

「やっぱり、私は無茶だと思うよ。引き返した方がいい。その方が身のためだ」

「うるせぇ」

 

 真っ暗闇の空を突き切るように、私たちは進む。風が体の穴という穴から入り込み、身体の内側を蹂躙している。殴られた腹に振動が伝わり、その度に激痛が走った。体のあちらこちらに針が埋め込まれ、その針に電気を流し込まれているようだ。

 

「これ、本当に治療したのか?」

「したさ。応急処置だけど」

 

 黄ばんだ包帯が巻かれている腹をなでる。その包帯は腹だけでなく、怪我していた部分全て、つまりは全身をぐるぐる巻きにしていた。古傷が開きかけていたらしい。生身でいるよりも、包帯に身体を隠している時間の方が多いのではないか、と一人笑う。針妙丸だったら、笑い事じゃないよ! と鬱陶しいくらいに心配してくるだろうか。

 

「といっても、あくまで応急処置だからな。あまり動くとまずい。まあ、妖怪なら五日もすれば完治するだろうけど」

 

 代わってやれたらいいんだけどねぇ、と雲を突き抜けた妹紅はのんびりと言った。極力私に振動を伝えないようにしているのか、基本的に高度を変えず、一直線に飛んでいる。その速さは人間とは思えないくらいに速く、私なんかの比ではなかった。

 

「にしても、治療し終わった途端に紅魔館に連れて行ってほしいだなんて、正気か? しかもこんな深夜にだ。もしかして、自殺志願者だったりするかい?」

 

 彼女の銀色の髪が風で棚引いた。鼻をくすぐるようにさらさらと舞っているそれを掴み、軽く引っ張る。安定していた彼女の体が少し傾いた。

 

「いてて、冗談だよ。でも、正気を疑ったのは本当。そんないつ死んでもおかしくない状況で人里の外に出ること自体がおかしい」

 

 いまや、私にとって人里も安住の地でなくなってしまったが、それを言う事はしなかった。単純に、喜知田のことを思い出すと、感情を抑えることが難しいと思ったからだ。

 

「文句を言うなら、慧音にいえ」

「慧音?」飛んでいる彼女の体がびくりと震えた

「お前さんは慧音と知り合いなのか」

「不本意ながら」

「そうか」

 

 彼女の声は弾んでいた。背負われているので顔は見えないが、きっとだらしない笑みを浮かべているはずだ。慧音と仲がいいとは知っていたが、まさか慧音の友人に会えただけで喜びを露わにするとは思わなかった。顔が引きつる。仲良しこよし、なんとも気持ち悪い。

 

「あの石頭の先生が、私に紅魔館に行くよう強制したんだ。食糧を貰ってくるようにってな。酷いだろ?」

「慧音のことだから。何か考えがあったんだ」

「ねえよ。暇な奴が私しかいなかったらしい」

「私も暇だったけど」

 

 そんなことは知っている。でも、だからといって慧音が、あの死にそうな顔をしていた人里の守護者が、何かを考えて私を紅魔館へ送り込んだとは限らない。ただの偶然だ。たまたまあの日、私が慧音の様子を見に行ったからに違いない。

 

「たぶん、慧音はあなたに手柄を取らせたかったんじゃないかな?」

「手柄だと?」その、手柄という言い回しが随分とちんけなものに聞こえ、呆れる。

「そうそう。ほら、もしあなたが紅魔館から食料を持ってきました。これでしばらくは人里も安泰ですっていえば、大手柄じゃないか。だから、慧音はあなたをヒーローにしたかったんだよ」

「ヒーローだぁ? 笑わせるなよ。というか、何で慧音がそんなことをするんだ」

 

 口を噤み、妹紅はしばらく黙り込んだ。飛ぶ速度も段々と遅くなっている。仕方なく、首を上に向ける。満天の星空が空を覆っていた。腹が立って仕方がない。まるで、己の優位性を誇示しているかのように世界を照らしている星々が憎い。全部を照らしているようで、その実本当に僅かな奴らにしか恩恵を与えていない星々が憎い。そして、そんな星空を憎むことしかできない自分が、憎い。

 

「そういえば」

 思い出した、と妹紅は声を上げた。そうだったそうだった、と同じ言葉を繰り返す。

 

「慧音が最近えらく元気がなかったから、心配してたんだよ。理由を聞いても答えてくれないし。けど、最近ようやく調子を取り戻したみたいで、何かいいことでもあったのかって聞いたんだ。あいつ、なんて言ったと思う?」

「知るか」知りたくもない。

「あいつな、“私のせいで不名誉を被った友人が、何とか人里に溶け込める算段がついたんだ”と胸を撫でおろしていたよ。あれは寺子屋の生徒を心配するような顔だったね。何があったか知らないけどさ、慧音はあなたの不名誉に責任を感じて、何とかしなきゃって思ったんじゃないか? それで、救世主にしようとした」

 そうに違いない、と自分の言葉に納得するように、大きく頷いた。

 

「馬鹿馬鹿しい」

 思わず、息が洩れる。私が救世主だと? こんな私が救世主になれるなら、みみずも、おけらも、蕎麦屋だって救世主になれるのではないか。でも、もしなれるなら。私が救世主になったなら。人里で怯えて暮らす必要はなくなるのか。私が人里の連中に認められれば、針妙丸と普通に会うことができるか。彼は許してくれるだろうか。水の泡にならないだろうか。もし大丈夫ならば、それはいいなと思った。

 

「でもさ、そんなに嫌なら」ぽつりと妹紅がつぶやいた。

「だったら、行かなきゃいいじゃん。こんな大怪我をしたから、って説明すれば流石に許してもらえるだろ」

「そうだな」

「でも、行くんだろ?」

「そうだな」

「それって、慧音のことを信用しているからじゃないのか?」

「違う」

 

 私はしっかりと言った。「ち・が・う」と明確に否定する。そんな恐ろしいことを認めるわけにはいかなかった。

 

 では、なぜ行くのか。針妙丸が語った夢を思い出し、三郎少年の暗い顔をそれに重ねた。彼らが関係するのか? と自分自身に語りかける。いや、関係ない。

 

「慧音のためにやってんじゃねぇ。私のためだ。紅魔館の食糧を分捕って、私がそれを消費するんだよ。その為にわざわざこんな場所まで来たんだ」

「うわっ、悪いやつだ」

 

 言葉に反し、妹紅はケラケラと子供のように笑った。私もつられて笑う。腹に力が入り、体中がギシギシと音を立てるが、気にしない。

「悪い奴だなんて、当たり前じゃないか」包帯を少し下げて、得意げに言った。

「私は天邪鬼だぞ」

 

 

 

 どんなことにも理由がある。

 

 燕は、雨の前日になると低空飛行をするというが、これは何も燕が雨を察知しているわけでない。高い湿度のせいで虫の翅に雨粒がつき、餌である昆虫が高く飛べなくなったところを狙い、食べる。その結果、雨の前に燕が低空飛行するということになるのだ。

 

 その他にも、太陽が東から昇り西に落ちていったり、春の朝には雨が多かったり、烏天狗が生意気だったり、針妙丸の背が小さいことにすら理由がある。

 

 だとすれば、霧の湖の上空を4回も通過したのにも関わらず、一度もそこを縄張りとしている氷精と出会わなかった事にも当然理由がある。その理由が、私たちの目の前で繰り広げられていた。

 

 紅魔館の正門のちょうど裏側、木々が生い茂り、普通ならば絶対に人が通らないような、そんな怪しげな場所に彼女たちはいた。無数に立ち並ぶ木を何本か切り倒したのか、人数分の切り株の上に、それぞれが立っている。遠目で見ていても異様な光景だ。

 

「なにやってんだ? あいつら」

「さあ」

 

 紅魔館のすぐ近くにまで来た妹紅は、一度、様子を確認した方がいいと言い張り、高度をぐんぐんとあげ、館を見おろした。真夜中で碌に見えないだろうと思っていたが、なぜか館全体が淡い赤色に光っており、逆に鮮明に状況を把握することができた。

 

 その光に映し出されるように、彼女たちの奇妙な集まりが目に飛び込んできたのだ。そのあまりの珍妙さに、私と妹紅はお互いの頬をつねり合った。

 

 ゆっくりと、門の裏の集会へと近づいていく。よく見ると、そこいる氷精以外の人影も、霧の湖の近くに住んでいる妖精たちだった。紅魔館の主と同じように幼い風貌をした彼女たちは、大口を開け、楽しそうにはしゃいでいる。自由気ままな妖精にしては珍しく、きれいに一列に整列していた。その誰もが無邪気で溌剌とした表情だ。不思議と、針妙丸の笑顔が頭に浮かんだ。あの、世の中の不安とは一切の関わりが無さそうな純粋な笑顔を思い出す。それだけで、胸にこもる重い空気が薄れていったような気がした。

 

「どうかしたか? 笑い声なんてあげて」

 妹紅が不思議そうに訊ねてきた。

「そんなにあの妖精たちが面白いか?」

 自分の口に手を当てる。節々が悲鳴をあげ、包帯のざらざらとした感触が肌を撫でる。だが、それよりも自分の口から笑い声が洩れていることに驚いた。そうか。私は笑っていたのか。

 

 ぐんぐんと妖精たちに向かって加速していく。風景を切り裂き、音を置き去りにして矢のように飛ぶ。向かい風に振り落とされそうになりながら、必死に身体にしがみついていると、どすんと振動が響き、土煙が舞った。視界が一瞬で奪われ、コホコホと咳をする声が聞こえてくる。大きく口を開いていたからか、妖精たちは特に酷くむせていた。いいざまだ。

 

「お、おおっと。何ごとですか!?」

 

 土煙の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。焦っているためか、少し声はうわづっているが、自信と幼稚さが同居したかのような、独特の低い声は忘れようもない。

 

「さっきぶりだな、門番」

 

 ゆっくりと視界から茶色が引いていき、また赤色の光に照らされる。私の目の前でだるそうにポケットに手を突っ込んでいる妹紅が、着地に失敗したわ、と赤い舌を出した。確実にわざとだ。

 

「って。正邪さん……ですか?」

「そうだ。見りゃ分かるだろ」

「そんな包帯をぐるぐる巻きにしていたら分かりませんよ。変装じゃないんですから」

 

 参ったなぁ、と頭の後ろを掻いた門番は、私の前にいる妹紅を見つめ、目を丸くした。一歩後ろに下がり、そんな馬鹿なと繰り返し呟いている。

 

「もしかして、彼女は……」

「私の友人だ」

 

 何か言いたげに口を開いた妹紅の背中をつねり、睨みつける。

「食料が欲しいなら、友人を連れてこいと言われたんだ」

 あたふたと歩き回っている門番にバレないように、小さく呟いた。

 

 苦笑いする妹紅から目を逸らし、門番へと歩み寄る。が、足の自由が利かないことを忘れていて、その場に倒れ込みそうになり、慌てて妹紅が体を支えてきた。自分の間抜けさに乾いた笑いが零れる。それを見ていた門番は、ますます混乱し始めた。

 

「嘘かと思ったのに本当に仲良さそうじゃないですか。うわー、参ったなあ。まさかあなたに本当に友達がいるとは。これでは計画どころか時間稼ぎすら」

「計画が何だって?」

 

 ぎくりと背中を伸ばした門番は、な、なんのことでしょうととぼけ、口笛を吹いた。音はならず、ただ空気がふしゅぅと唇の隙間から漏れているものを口笛と呼んでいいか分からなかったが、彼女はいかにも、動揺してます! という反応を見せる。わざとらしいくらいだ。

 

「そんなことより、みんな。妖精のみんなは大丈夫ですかー!」

 

 焦りをかき消すように大声で叫んだ門番の声に対し、大丈夫でーす、と威勢のいい返事が聞こえてきた。紅魔館から一番遠く、茂みの中にいる彼女らは、切り株から転げ落ち、全身草まみれになっていたが、それでも白い歯を見せて笑っている。

 

「って、なんだ。あの早いのは藤原だったのか!」

 

 妖精たちの中でも一際元気な、真ん中の奴が妹紅を指差した。特徴的な氷の羽が揺れ、青い髪が逆立っている。私を氷漬けにした氷精チルノだ。

 

「やっぱり、藤原は大人げない!」

「藤原と呼ぶなと言ってるだろうが」

 

 ずかずかとチルノに近づいていき、脳天に軽くチョップを決めた妹紅は、腕をぶんぶんと振り回すチルノの頭を押さえながら、門番に目をやった。ほっぽりだされて地面に崩れ落ちた私のことなど見ていない。

 

「こんなところで妖精を集めて何をしていたんだ。まさか、良からぬことを考えているわけじゃないよな」

「そんな訳ないじゃないですか。えっと、藤原さん」

「妹紅だ」

 

 門番の被る緑色の帽子が揺れる。おそらく風で揺れただけだろうが、鋭い妹紅の視線がそれを動かしたのではないかと私は思った。なぜ彼女がそこまで怒っているか分からない。妖精愛好家か? 

 

「えっと、落ち着いてください。私はただ妖精の指揮をとってただけでして」

「しき?」

「そうだよ!」

 

 頭を押さえられていたチルノは、いつの間にかその手から逃れ、妹紅に抱きついていた。羨ましそうに他の妖精がチルノを見つめている。

 

「なんだよ、随分と懐かれてるじゃねぇか」

 私は、妹紅の体をよじ登ろうとしているチルノを指差し、肩をすくめた。

「餌付けでもしてんのか?」

「違うよ。こいつらも慧音の授業を受けてるから、よく会うんだ」

「あいつは妖精にも勉強は教えてんのか」

 

 暖簾に腕押し、糠に釘、馬の耳に念仏、妖精に授業と呟く。こいつらに勉強を教えるとは、慧音はどれだけ暇なんだろうか。

 

「馬の耳に、なんだって?」

「何でもねえ。妖精が慧音から授業を受けてるとは世も末だなって思っただけだ」

「偉いでしょ」

 

 へへーん、とうざったらしく頬を緩めたチルノに、妹紅がまたもやチョップをかました。あいたっ、と頭に手を当てるチルノも、楽しそうに笑っている。

 

「チルノお前、いつも脱走してんじゃないか」

「凄いでしょ。頑張ってトイレに抜け穴を作ったんだ。秘密の抜け穴だよ!」

「凄くねえ、勉強しろ」

 

 チルノのこういう態度には慣れているのか、ぽんと頭を叩いた妹紅は、それで? と言葉を続けた。

 

「それで? こんなとこで何やってたんだ?」

「私たちはめーりんから歌を教わっていたのさ!」

 

 ぽかんと口を開けている妹紅に、我慢ならないといった様子で他の妖精たちが抱きついた。赤いもんぺに頬を擦り付け、もこーと甘えた声を出している。のんきなものだ。針妙丸はもっと小さいが、あれで頼りになるとこもあるというのに。

 

「うたの練習をしてたの!」「ずっとしてたんだから、えらいでしょ」「わがあるじレミリアって歌なの!」「がんばって練習していたんですよ」

 

 思い思いに妹紅に声をかける妖精たちは、じれったそうに目を細めた。親猫に群がる子猫のようだな、と思っていると「親猫に群がる子猫みたいですね」と隣にいた門番に声をかけられる。地面にへたり込んでいる私の隣に座り、隣いいですか、と訊いてきた。もう座っているのに、だ。

 

「お前、昨日私が言った通りだったじゃねえか」

「昨日? 何の話ですか?」

「言ったろ。門前でコンサートの指揮でも執るのかって」

「ああ、まあコンサートというには稚拙すぎますが」

「というか、何で妖精に歌なんて教えてんだよ。暇なのか?」

 

 あはは、と例の笑い声をあげた門番は、組んでいた足をほどき、地面を蹴った。ころころと転がっていく小石が門にぶつかり、子気味のいい音を立てる。その音に気分を良くしたのか分からないが、門番は「まあ、言っちゃっていいか」と表情を崩した。

 

「実はお嬢様の命令なんですよ」

「は? あのチビ吸血鬼の?」

「そうです。なんか、運命がどうこうで、怪我をした鬼人正邪という妖怪が来る。その妖怪は妖精にすら負ける貧弱な奴だから、それまで妖精を引き留めておいてくれって」

「よくそんな命令を聞く気になったな」

 

 今思えば、レミリアの部屋でのあの暴言は、理不尽な命令に対する意趣返しだったのかもしれない。そう思うと、確かにあの反応も仕方がないと言える。妖精に歌を教えるなんて苦痛でしかない。

 

「運命だなんて胡散臭い命令を信じたのか?」

「我が主様は、一応運命を操れるらしいんですよ」

 

 自称ですけど、と笑う門番の目は、冗談ではなく、本気のものだった。本気で運命を操るという言葉を信じている。

 

「例えばです。“門の前に不審者がでたら、そいつに慧音の友人かと聞け。もし否定したら、そいつが鬼人正邪だ”とか“血の話をすれば、きっと弱気になるはずだから、予めしておけ”だとか色々指示が出てるんですよ。計画を立てて」

 

 胡散臭い占い師。門番の話を聞いて浮かんだのはそんな言葉だった。レミリアが大きな水晶玉の前に手をかざす姿が頭をよぎる。そんなの、普段の私を知っていればいくらでも言えることだ。血に関する話だって、弱小妖怪が大妖怪にそんな話をされて、びびらないはずがない。それを運命というには無理がある。

 

「でも、たまに外れるんですよね。今回も正邪さんが帰ってくるのはもう少し後の予定でしたし」

「やっぱり出鱈目じゃねぇか」

 

 そうですかね、と照れくさそうに笑った彼女は急に肩を落とした。嫌なことを思い出したのか、苦悩に満ちたため息を吐いている。

 

「どうかしたか?」

「いえ。お嬢様の間違いで酷い目に遭ったので、つい」

 あなたのせいでもあるんですよ、と半目でこちらを見てくる。

「鬼人正邪が来ると言われてから、三日。一向に来ないあなたを待ちながら、私は延々と妖精に歌を教え、挙句の果てにもう一日追加されたんですから」

 

 よく門番の顔を見ると、目の辺りには相変わらず暗い影が浮かんでいた。なるほど。無邪気で、疲れ知らずの妖精相手に延々と歌を教え続ける自分を想像してみる。きっと、意地でも逃げ出すだろう。拷問となんらかわりもない。

 

「門番には忍耐力が必要なんです」

 こんどの彼女の言葉は、最初よりもうんと重く感じた。

 

 

 

「残念ながら、今お嬢様は外出中です」

 暴れる妖精を宥めながら、門番は疲れきった顔で薄く笑みを浮かべた。見ていて痛々しく、なぜか罪悪感を覚える。私は悪くないのに。

「でも、中に入って右にずっと進めば、お嬢様より頼りになるお方がいらっしゃるので、そっちに訊ねてください。きっと力になってくれますよ」

 

 そう言った門番は、また妖精たちを整列させ始めた。きっと、レミリアの指示があるまでは妖精の相手をしないといけないのだろう。不憫すぎて笑える。この私が不憫に思うほどだから、よっぽどだ。

 

 そんな哀れな門番を放置してきた私たちは、その遺言通りに紅魔館の廊下を進んでいた。視界が赤で覆われるこの感覚はいつだって慣れそうにない。

 

「すごい赤いな、この家は」

 初めて来たのか、辺りを見渡した妹紅は雪を見た子供の様にはしゃいだ。

「長い間生きてきたけど、ここまで真っ赤な家は初めてだ!」

「こんな家が他にあってたまるか」

 

 げんなりとした私は、妹紅により深く体重をかけた。速く歩けと急かす。はいはい、と分かったか分かってないような生返事をした妹紅は歩くのを諦め、飛び始めた。が、速度は歩いているときと一切変わらず、とろとろと進んでいる。ほへー、とよく分からない声で目をきらきらさせている妹紅は、何故か分からないが感動していた。

 

「なんだよ。この館を作った奴はいいセンスしているな」

「嘘だろ、お前」

 “嘘でしょ、あなた”

 

 私の声に被るように、どこからか声が響いた。また私の幻聴かと思ったが、どうやら妹紅にも聞こえているらしく、念話か、と冷静に呟いている。心当たりがあるらしい。

 

 いったい何が起きているか分からないうちに、急に視界が光で包まれた。館の壁や床、天井が一瞬で蛍光灯に変わったかのように、強烈な光が襲ってくる。思わず目を閉じた。平衡感覚が無くなり、どちらが上か下か分からなくなる。不安のあまり、妹紅にしがみついた。苦しいと耳元で言われるが、無視する。

 

 目を開くと、既に光は収まっていた。ほっと胸を撫でおろし、辺りを見渡す。あまりの光景に腰を抜かしそうになる。相も変わらず天井も床も赤いが、それ以外の光景が一変していた。単調に一本だった廊下にいたはずだが、いつの間にか他の場所へと移動させられていたのだ。

 

 最初、目の前にあるのは大きな壁かと思った。茶色の、高そうな木でできた仕切り用の壁だと。しかし、それは壁ではなく本棚だった。不自然に高い天井は30mは優に超えており、その天井に届く程の高さの本棚が無数に乱立している。そのどれもに本がみっちりと詰まっており、ここにある本だけでも私の知らない桁数まで数えなければならなそうだ。

 

「どう? 私の図書館は」

 

 落ち着いた、淡々とした声が聞こえ、視線を向ける。妹紅に抱えられているため、自由に動けなかったが、それでも私は後ずさった。こいつはヤバいと脳内の鐘が煩いくらいに鳴り響く。レミリアと同じくらいにまずい。慧音なんかより、よっぽどだ。

 

 無数の本が並んだ大きな机の前に座っている少女。彼女がその威圧感を放っていた。紫色の長い髪を垂らし、それは青白い顔と対照的に輝いていた。紫と薄紫の縦じまが入った、ゆったりとした服を着て、レミリアと同じような帽子を室内なのに被っている。目の辺りは暗く、酷く疲れているように見えるが、それが逆に彼女の不吉さを強調している。恐ろしい。恐怖のあまり、失禁しそうになる。

 

「なんだかなぁ」

 

 そんな私とは裏腹に、妹紅はずかずかとその声の主の方に近づいていく。止めろと繰り返し言うが、聞いてもらえない。せめて下ろせ。

 

「なんか辛気臭いよ、この部屋。どうせならこの本棚も赤く塗っちゃえばいいのに」

「嘘だろ」

 

 思わず私は口を出した。どうしてこんな強者に物怖じせずに生意気な口が叩けるか不思議だった。そんなことができるのは、天邪鬼である私ぐらいだと思っていた。

 

「嘘でしょ」

 

 私が言ったすぐ後に不健康そうな彼女も声を上げた。表情こそあまり動かなかったが、声色に驚きが混じっている。信じられない、と頭を抱えてすらいた。

 

「レミィと同じセンスの人が本当にこの世にいたなんて。やっぱり長生きしないと分からないこともあるものね」

 

 見た目は少女の様だが、やはり彼女も年齢と見た目が一致し無いらしく、すこしババ臭い仕草で髪を弄った。その大きな机に肘をつけ、偉そうに私たちを見ている。

 

「えみぃ?」

 妹紅が誰だそいつ、と乱暴な口を叩いた。

「えみって、そいつも魔女か?」

「知らないわよ。誰よ、エミって。レミィよ、レミィ。ここの主のレミリア・スカーレットのこと」

 

 呆れているのか、肩を震わせ、本の表紙をコツコツと叩いた。相変わらず声は単調で、表情は硬いままだが、意外に会話が好きなのかもしれない。私がそう思いたいだけか。

 

「ところで、あなた達は? レミィの言った話とはだいぶ違う展開なんだけど」

「人に名前を聞く前に、自分で名乗れと習わなかったのか」

 私も習っていないし、おそらく習ったやつの方が少ないだろうが、私は言った。

 

「面倒な性格してるわね。パチュリー。パチュリー・ノーレッジ。生まれながらの魔女よ。どう? 満足したなら、教えなさい」

「私が生まれながらのイノシシで、こいつが後天性の豚だ」反射的に私は言った。

「ちょっと待て」

 妹紅が私を支える手を離し、代わりに肩を掴んだ。ゆさゆさと揺さぶられる。あまり揺らされると、漏れてしまうからやめてほしい。

 

「誰が豚なのさ。どっちかといえば私がイノシシだろ。というか、後天性ってなんだよ」

「お前、豚を馬鹿にすんなよ。豚だってすごい。何ていったって、喰うとうまいんだぜ」

「だから何だよ!」

 

 バンと何かが音を立てた。戸惑ったが、それがこの部屋の主が机をたたいた音だと分かると、妹紅は気にせず、私は豚じゃないぞ、と私の肩を揺らし始める。

「ちょっと。私はあなた達の名前が知りたいんだけど」

「うるせぇ、鶏ガラ」

 

 おいおい妹紅。そんな失礼極まりない事を言ったら流石に怒られるぞ、私も同じことを思ったけど。そう口にしようとし、妹紅に目をやると、当の本人は何故か引きつった笑みを浮かべていた。

 

「正邪。それは言い過ぎだ」

「は?」

「せめて動物にしてあげてくれ」

 

 哀れみの目を向けてくる妹紅を見て、やっと、さっきの鶏ガラという言葉は私から発せられたものだと分かった。また、本能のせいだ。だが、後悔はない。当然だ。悪口を言うのは楽しい。

 

 しばらく、返事もせずに私を見つめていた鶏ガラだったが、意を決したかのように立ち上がった。ふわふわと浮かぶようにしてこちらに近づいてくる。その手には当然とばかりに分厚い本が握られていた。

 

「そこの包帯の妖怪。やっぱり、あなたは名乗らなくていいわ」

 

 頬を紅潮させて、小さな声で彼女は言った。その、しおらしく、いじらしい言い方は恋する乙女にも見えなくはないが、元の肌が白いせいで、久しぶりに外出した引きこもりが日焼けしたようにしか見えない。

 

「その異様な口の悪さと、図々しさから判断したわ。あなた、天邪鬼ね」

「違う」

「文献によれば、天邪鬼は逆のことしか言わないらしいわね。ていうことは、今のはあっているという事なのかしら」

「違う!」

 

 鶏ガラは笑っていた。が、頬を僅かにぴくりと震わせ、わざとらしく面白い、と手を叩いている仕草から察するに、彼女は怒っている。よっぽど鶏ガラが気に入らなかったらしい。私の本能も、まだまだ捨てたもんじゃないのかもしれない。

 

「そういえば、食料を貰いに来たのだったかしら。ああ、だから包帯なんて巻いているのね。残念だけど、今日はハロウィンじゃないのよ。というか、あなたは妖怪なのだから仮装なんてしなくても。ああ、あまりに弱すぎて、誰も妖怪と認識してくれないのね、可哀そうに」

 

 表情を一切変えずに、一息で言い切った。怒ると饒舌になるのか、すらすらと言葉が出てくる。魔力だろうか、彼女が口を開くにしたがって、後ろで得体のしれない何かが炎のように空間を揺らしていた。恐怖のあまり、身体が強張る。それが私に来ないよう祈るしかない。

 

「訳の分からないこと言わないでさ」

 

 妹紅が口を挟んだ。途中で言葉を切られたからか、ただですら細いその目を鶏ガラはさらに細めた。空間のぼやけが一瞬で消え去る。

 

「来た理由を知ってるなら、早く食料をくれよ。ほら、私という友人もいるし。これでそっちが出した条件を満たしたでしょ」

「あら? 本当にそうかしらぁ」

 もったい付けるように、語尾を伸ばした鶏ガラは、うふふと魅力的な笑みを浮かべた。首を傾げ、唇に人差し指を這わす姿は妙に艶めかしく、どきりとする。

 

「確か、レミィは“命を懸けてくれるような友人”を連れてこいといったはずよ。そこの白髪の人間が何者かはしらないけれど、本当にこんな奴に命をかける慈悲深い心はあるの?」

「慈悲深い心があるかは分からないけど、命をかけるのは得意分野だ」

「へぇ、そう」

 

 鶏ガラは目を細めた。試すように妹紅を見つめ、面白そうに頬を歪める。まるで、童話に出てくる悪い魔女のような、そんな表情だ。

 

「なら、これで頭を撃ちぬけと言われれば、出来るかしら?」

 

 鶏ガラの持つ本から光が溢れ始めた。コップから水が零れ落ちるように、輝きが漏れ出ている。何事かと緊張し、手を顔の前で交差する。彼女が魔法を使って攻撃してくると思い、妹紅の後ろに隠れようともがくが、そうした時には既に光は収まっていた。そして、その本の上に浮かんでいる物を見て愕然とする。

 

 見慣れた、直角に曲がった黒い金属がくるくると宙に浮かんでいた。中心に赤色で何か書いてあったが、知らない言語なので読むことができない。つい、真っ赤な天井を見上げて、いい加減にしろよ、と声を零した。馬鹿の一つ覚えのように、どうして誰もがこれを選ぶのか、と呆れる。弓や剣でもいいじゃないか。やっぱり、最近流行っているに違いない。

 

「この銃で、頭を撃ち抜いてみてくれるかしら?」

 顔に見合わない元気な声で、鶏ガラは笑った。

 

 

 

「ここを頭に当てて、そしてこれをひけばいいんだな」

 鶏ガラから銃を受け取った妹紅は、意気揚々とそう言った。竹トンボをもらった少年が、使い方を親に教わるように、ふむふむ、なるほどと何度も頷いている。その目は期待に溢れていた。

 

「ほら、ここを開けるとどんぐりみたいなのがあるでしょ。これが弾丸となって貫くのよ」

「へえ。これは魔女専用の武器なのか?」

「違うわ。人間が今もっとも使っている武器よ」

 

 それは私専用の特別製だけどね、と誇らしげに言った鶏ガラだったが、その目には僅かながら困惑が浮かんでいる。それもそのはずで、これから死ぬ人間が楽しそうに武器を弄る姿は普通ではなかった。が、残念なことに彼女は、普通の人間ではない。

 

「それなら、ちょくら死ぬとするか」

 

 その辺を散歩してくる、と言わんばかりの気軽さで、妹紅は銃を頭にあてがった。血が飛び散ってもいいようにか、私たちから距離を取り、棒立ちで佇んでいる。その姿は、敬礼している兵士のようであったが、兵士とは違い一切の緊迫感もない。

 

「本当にいいのね」

 鶏ガラが念を押す。それは妹紅にではなく私に向けられていた。

「本当に、友達が死ぬのよ。いいの?」

「死なない。こいつは多分死にやしない」

 

 だって、こいつは不老不死だから。その答えが不満だったからか、鶏ガラは面倒そうに視線を妹紅へと移した。が、落ち着かないのか、手元の本をしきりにいじり、中身が空のコップの持ち手を撫でている。

 

 私はふと、博打に行った時のことを思い浮かべた。暇だから、という理由で烏に誘われて、天狗が主催する賭博場へと連れていかれた時のことだ。

 

 妖怪の山にあるその賭博場に人間の姿はなく、河童や天狗など、妖怪の山の妖怪で溢れていた。その中では余所者の私は目立ったらしく、積極的に声をかけられた。チンチロをしないかい? と声をかけてきた河童もその内の一人だ。「このわくわく感はたまらないよ!」と楽しそうに笑う彼女たちを断ることができず、しぶしぶ参加させられた。

 

 結論から言えば、私はこてんぱんにされた。後から烏に聞いたが、河童が用意したサイコロには仕掛けがしてあり、狙った目を出せるようにしていたらしい。つまりはイカサマだ。河童たちは、自分達の勝ちという結果が分かっていたのだ。

 

「このわくわく感がたまらないよ」と嘯く河童の顔が憎らしく思えた。

 

 いま、強ばった面持ちで妹紅を見つめる鶏ガラを見た私は、得も言われぬ高揚感を感じていた。口元が緩み、皮膚が引っ張られ首が痛む。それでも私は笑みを堪えられなかった。「このわくわく感がたまらないよ」なるほど。確かにたまらない。死なない人間なんて、サイコロなんかよりよっぽどタチが悪いイカサマだ。絶対にバレることは無いだろう。

 

「いちにのさんで撃つぞー」

 間延びした妹紅の声が響くと、すぐにいーち、とカウントダウンを始めた。

「にーの」

 

 図書館内に緊張が走る。誰かが唾を飲む音がした。誰か。私だ。そもそも緊張しているのは私だけで、鶏ガラは面白くなさそうに本を読み、当の本人にいたっては、むしろ清々しい表情だった。

 

 妹紅の息を吸う音が聞こえた。来るぞ来るぞと胸が沸き立つ。頭を銃弾が貫通したにも関わらず、けろりとしている妹紅を見て、その眠そうな目を見開く鶏ガラの姿を想像する。素敵な光景だ。私の視線は既に鶏ガラに向けられている。彼女の驚いた表情を見逃さないためと、後は単純に、脳漿をぶちまける妹紅の姿を見たくなかった。

 

「さんっ!」

 

 妹紅が叫び、バン、と一際大きな爆発音がなった。

 

 

 

 おかしいと気がついたのは、一度大きな爆音を響かせた銃が、間髪入れずにまた大きな音を鳴らした時だ。おいおい、いくら死なないからといって二回も撃つ奴があるかと振り返ると、もう一度音がし、それを切欠に立て続けに音が響いた。無数の爆竹に同時に火を点けた時のような、耳が痛くなる音だ。

 

 驚いた私はその場に座り込み、まじまじと妹紅の方を見つめた。見て、愕然とする。妹紅は銃を持った手を上に掲げ、ぽかんと口を開けていた。彼女に一切の怪我はなく、絨毯には一滴の血もついていない。

 

 彼女の持つ銃の、ちょうど持ち手と砲塔が交差するあたり、Lという字の直角に曲がる場所から、天井に向かい数多の花火が打ちあがっていた。

 

 訳が分からないが、事実なので仕方がない。赤、青、緑と様々な色の小さな打ち上げ花火が図書館を輝かせている。虹色の菊の花が宙に浮かび上がり、消えたかと思えばまた浮かび上がる。赤色の天井が花火の色を引き立て、美しい。

 

 私は、その花火が銃から発せられているものだということすら忘れ、しばらく見入っていた。雨のように垂れてくる花火が打ちあがったかと思うと、それを打ち消すように一際大きな花火が上がった。この館のように真っ赤なその花火は、赤い月のように輝き、そして消えていく。キラキラと光る火花が消え、焦げ臭い火薬のにおいと、天井に漂う白い煙だけが残った。一気に静寂がおとずれる。

 

「と、いうわけで」

 突然声をかけられ、びくりとする。声のした方を向くと、本を閉じた鶏ガラが自慢げに笑っていた。

 

「ドッキリ大成功ってところかしらね」

「は?」

 

 彼女の言葉の意味が分からず、私は呆然としていた。いったいどういう事だと、あたふたと妹紅に訊ねる。いま何が起きたんだ。

 

「あっはっは。これは傑作だ。いいね! 面白い」

 

 私を無視し、妹紅は腹を抱えて笑った。繰り返し銃を、いやそれはもう銃ではないことは分かっていたが、とにかく手に持った銃のようなものを弄っている。妖精に負けないくらいに無邪気で純粋だ。慧音と仲がいい理由が分かった気がする。

 

「どう? 天邪鬼はびっくりした?」

「何がどうなってんだ」

 状況を飲み込めていない私を馬鹿にしているのか、鶏ガラは鼻で笑った。座り込んでいる私の前に立ち、本を開く。

 

「言ったでしょ、ドッキリよ。レミィが企画したの」

「悪趣味だ」

「この館を設計したのよ。悪趣味に決まってるじゃない」

 鶏ガラが本に何かを書き込んでいるのが、音で分かった。

 

「本当は、もう少し感動的にしてほしかったのだけれど。“お前のために、私は死ぬ”“そんな! こんな下賤な天邪鬼なんかの私のために! ”ってね。意外にさばさばしてて、面白みにかけたわ」

「面白い天邪鬼がいてたまるか。何だってこんな面倒なことをしたんだよ」

「レミィの言葉を借りれば“真の友情を見せた者にのみ、慈悲をくれてやる”らしいわよ」

「なにが真の友情だ。あほくせぇ」

 

 鶏ガラが言うには、本来であれば、私が連れてきた友人は銃を見て恐れ、怯えつつも何とか私のためと自死を決意し、それを涙ながらに見守る私は、その友人の慈悲深い心に心酔する。そして、銃が偽物であると分かった瞬間、たまらず抱きしめ合い、二人の仲を祝福するかのように花火が空を覆いつくす、なんて予定だったらしい。だが、思いの外に妹紅が死に対して躊躇せず、私も一切の動揺を見せなかったので、鶏ガラは困惑したのだ。

 

「まあ、何にせよ食料は貰えるわけだな」

「そうね。あ、動かないで。あと少しで終わるから」

「さっきから私の前で本を広げて何をしているんだ。写生か?」

「違うわよ」

 

 そうは口にしつつも、本とペンが奏でるカリカリとした音は止まらない。体を動かそうにも上手くいかなかったので、仕方なしに妹紅に視線を移した。遠くにいたはずが、いつの間にかすぐ近くまで来ていて、驚く。

 

「なあ、これどうなってんだ? こんな小さな筒の中に花火がしまい込んであったのか?」

 

 妹紅の背がみるみる縮んでいき、針妙丸と同じくらいの大きさになった。鶏ガラのスカートのすそを引っ張り、教えてよー教えてよーと駄々をこねている。目をぎゅっと閉じ、頭をふる。そして重い瞼を持ち上げると、妹紅の背は高くなっており、握っているのはすそではなく、肩になっていた。だが、教えてよーと駄々をこねているのは変わらない。

 

「ちょっと、揺らさないで。魔法よ魔法。魔法を使ったのよ」

「マジか。凄いな魔法」

「当然でしょ。魔法は何でもできるのよ。ほら、その銃だって本物そっくり。実は人里にも結構な数それを売り払っていたりするのよ。凄いでしょ。私にとって、見た目だけ完全に同じで、性質がまったく異なるものを作る事なんて、朝飯前よ」

「こんな時間になって朝飯を食わねえからそんな鶏ガラみたいに血の気が悪いんだ」

「煩いわね。魔法使いは食事をしなくても生きていけるのよ」

「マジか。凄いな魔法は」

 

 そう言いつつ、なぜか妹紅は私の懐にその銃を押し込んできた。いらない、というがいいからいいからと強引につめていく。そういうところも慧音にそっくりだ。

 

 そんな下らないことを考えていると、急に体が軽くなった。全身に刺さっていた針が消え、傷がみるみる塞がっていくかのように痺れが取れていく。突然のことに驚きながらも、ためしに立ち上がり、ぴょんぴょんと跳ねてみた。問題なく体は動く。それどころか、普段よりも調子がいいようにさえ思えた。

 

「どうかしら? しっかり怪我はなくなっているんじゃない?」

 腹の包帯の隙間から、様子を窺う。青黒く変色していた鳩尾が、きれいな肌色へと戻っていた。軽く押してもまるで痛みがない。信じられないが、完全に傷が治っている。

 

「これも魔法か?」

「感謝してほしいわね。普通だったら一生分の財産ぐらい要求するけれど、今日はそうね。本一冊で許してあげるわ」

「ただではないのか」

 けちだ、と指さして妹紅が笑う。

「ほら、よく言うじゃない。ただより高いものは無いって」

「言わねぇよ」

 

 そうは言いつつも、私は懐を探った。鶏ガラに本を渡そうと思ったのだ。慧音の家から拝借した、あのボロボロの本を取り出し、投げつける。綺麗な弧を描いて鶏ガラへと向かっていった本は、途中で軌道を変え、落ち葉が落ちていくように机へと着地した。

 

「驚いた。まさか本当に本を持っていたなんて」

 

 よっぽど意外だったのか、彼女は私が投げた本を手に取り、偽物じゃないわよね、と呟きながら弄っている。そして、それが本物だと分かると、太陽のような笑みを浮かべた。今までの、隠屈とした顔からは想像もできないような、いい笑顔だ。壊しがいがある、幸せな笑みだ。

 

「あなたの肌はこの本にそっくりですね」

 

 どういう意味よ、とまた暗い顔にまで戻った鶏ガラを見て、私は頬を歪めた。

 

 このわくわく感がたまらない。



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ハッピーエンド

「食料って言ったって、まさかなぁ」

 人里の前で妹紅が声を零した。腕を組みなおし、何度も首をかしげている。

「まさか野菜しかないとは」

 

 しばらくは図書館でくつろいだ、正しくはお菓子と紅茶を貪るように腹に入れた私は、久しぶりの満腹感を堪能しつつ、鶏ガラを馬鹿にしていた。それに耐えられなかったかは分からないが、鶏ガラは、どこから取り出したのか籠一杯の野菜を私に持たせ「これで満足でしょ? もうそろそろ帰って」と面倒くさそうに言った。野菜しか入っていないことに腹を立て「私たちは馬じゃないんだが」と反論してみたが、「あら? イノシシも豚も野菜さえ食べれば生きていけるじゃない」と早口で巻くしたてられ、退散するしかなかった。意外に根に持つタイプらしい。

 

「まあ、食えればなんでもいいだろ」

「そういうもんか」

 

 地面に置かれた籠を、膝と両手を使い何とか持ち上げる。ふらふらとよろけながら、籠についている紐に手を通し、背中に背負った。想像よりも重く、後ろに引っ張られる。

 

「はやいとこ慧音に届けに行こうぜ」

 そして、慧音の家にひっそりと居候しようぜ、と私は続けた。

 

「あれ? 貰った食料は自分で食べるとか言ってなかったか」

「言ってない」

「嘘だ、絶対いったね。さすが天邪鬼だ」

 

 ニヤニヤと笑う妹紅に舌打ちし、人里へと歩みを進める。のっそりと、一歩一歩踏みしめるように道を進んだ。周りの雑草は綺麗に刈り取られており、地面が剥き出しになっている。よく人が通るからか、土が削れ、水が溜まっていた。その水たまりに真っ青な空が反射している。その時、初めて朝日が昇っている事に気がついた。清々しいな、と思う。清々しくて、ムカつく。近くの土を蹴り飛ばし、水たまりに入れた。一瞬にして茶色く濁り、清々しさは消えていく。何でこんなことをしたのか分からず、自分が馬鹿らしくなった。いったい、何をしてるんだ、私は。

 

 しばらく道なりに進むと、人里が見えてきた。ちらほらと古い民家が現れはじめ、心なしか町の喧騒がここまで聞こえる気がした。少し、うんざりする。

 

「じゃあ、私はこの辺で別れるとするよ」

 

 唐突に妹紅がそう切り出した。私はてっきり、慧音の家に野菜を届けるまでついて来てくれると思ったので、何でだよ、と怒るような口調で文句を言った。

 

「あと少しぐらい、来てくれてもいいじゃないか」

「何だよ、寂しいのか?」

 

 違う、とは言い切れなかった。寂しいわけではないはずだが、一人でいるのも落ち着かない。人里に入った瞬間、どこからともなく人が現れ、帰れ帰れ! と騒がれるような、そんな予感がした。それだけだったら別に屁でもないのだが、また殴られて怪我をするのは御免だ。鶏ガラのおかげで喜知田から受けた傷が完治したのは不幸中の幸いだった。この幸いを何とか維持しなければいけない。そうしなければ、喜知田への復讐を果たすことなんて、夢のまた夢だ。

 

「何だよ、急にしおらしくならないでくれ」

「なってねぇよ」

「そうか? ならいいけど」

 

 銀色の髪を手で撫で、妹紅は真面目な顔で私の目を見つめた。赤色の大きな瞳に吸い込まれていくように、自然と私も彼女を見つめる。なぜか緊張して、汗が垂れた。

 

「その野菜は、正邪が持っていくべきだ。それが、慧音の願いなんだ」

「あの救世主が云々ってやつか」

「少しの間、正邪と一緒にいたけど」

 

 妹紅は照れくさそうの頬を掻き、目を逸らした。あー、うー、とうなり声をあげ、小さな声でぼそぼそと言う。

 

「少しの間一緒にいたけど、それなりに楽しかったよ。正邪が悪い奴じゃないってのは分かった。慧音がお前を救おうとしている理由が分かった気がするよ。言いたいことはそれだけ、じゃあな!」

 

 私が返事をする前に、彼女は風のように去っていった。あっという間に姿が見えなくなり、間抜けに口を開けた私と野菜が入った籠だけがその場に残される。

 

「悪い奴じゃない、か」

 

 高々半日いっしょにいたお前に何が分かる。慧音が私を救うだと。誰がそんなことを頼んだ。救ってほしいなんて、誰が言った。そもそも私は救われなければいけないような高尚な妖怪じゃない。慧音も他人を救えるような器ではない。何もかもが役不足で、足りていないのだ。

 

 正邪は悪い奴じゃない。何度も頭の中で同じ言葉が繰り返される。この私が悪人ではないだと? 針妙丸や彼にもさんざん言われた。馬鹿馬鹿しい。この私が悪人で無かったら、誰が悪人なんだ。

 

 もうここにはいない妹紅の首を掴み、ぐらぐらと大きく揺さぶる。いつの間にか妹紅の顔は、赤いかさぶたが目立つ、老人の顔に変わっていた。それでも私は揺するのを止めない。一回大きく揺する度に、皮膚がはがれ、顔が砂のように砕けていった。ボロボロと地面に落ちていく。気がつけば、目の前には何もなくなっている。あるのは、血にぬれた包丁と、私の手だけだ。

 

「悪人に決まってるだろうが」

 

 喉の奥から、声を絞り出した。ずしりとした重みが肩にかかり、ふらつく。秋の朝独特の、冷たい風が肌を刺した。どいつも、こいつも、いったい私を何だと思っているんだ。

 

「私を誰だと思ってるんだよ」

 天邪鬼だろ? どこからか、声が聞こえたような気がした。

 

 

 

 そういえば、紅魔館で笠を探すのを忘れていたな、と思い出したのは自警団の男に胸倉を掴まれた場所が見えてきた時だった。流石に早朝に外出する人はわずかで、昨日のような人混みは無かった。ほっと胸を撫で下ろす。最初は、顔を隠すようにいそいそと身を縮めて歩いていたが、堂々と歩いていた方が返って目立たないのではいかと思い立ち、何で私が隠れるように歩かなきゃならないんだ、と馬鹿馬鹿しくなって、結果的にいつも通り顔を上げて歩いた。

 

 道行く人々はまばらで、私と目を合わす者もいれば、俯き早足で去っていく者もいる。だが、いきなり糾弾してくるような奴はいなかった。昨日のあれは、もしかすると偶々ではないか。慧音がいないという非常時ゆえの悲劇だったのではないか。そんな甘い考えが脳裏に浮かんだ。このまま私は、慧音の家に居候して人里で暮らせるのではないか。楽観的にもほどがあるが、そうとでも考えなければやってられない。人里の外で生活するなんて無謀であるし、何より喜知田への復讐のチャンスが遠のくからだ。

 

 私の背中に積まれている野菜の重みで肩が悲鳴をあげ始める。この野菜を慧音にあげれば、あなたは救世主だ。妹紅の言葉を思い出した。救世主になれば、堂々と人里を歩くことができ、元の生活に戻れる。野菜を届ければ、彼は、台無しになってしまうという言葉を地獄で撤回し、私は針妙丸と普通に暮らすことができる。罪を清算できる。そう自分に言い聞かせ、慧音の家までの長い道のりを進む。

 

 しばらくは、大した問題もなく歩くことができた。精々が、野菜の重みでよろけ、溝へと足をすべらせたぐらいで、順調に人里の中心へと近づいていった。だからだろうか。前方に見えた人だかりに気づいていたにも関わらず、私はそのまま歩き続けた。油断していたのだ。きっと、また烏が新聞でも配っているのだろうと思い込み、呑気に鼻歌を歌ってすらいた。

 

 よくよく考えれば、あのクソみたいな烏の新聞に人だかりができる訳もなく、しかもそこにいるのが男ばかりだったことからも、危険な匂いがプンプンしていたが、私は気づくことができなかった。頭からその可能性を排除していた。いや、排除したかったのだ。

 

「あ、あいつ」

 

 その、人混みの中にいた男の内の一人が私に気がついた。周りの連中に声をかけ、険しい顔で何やら喚いている。この時やっと私は、これはまずいと気がついた。背筋が凍る。恐怖のためか足がすくみ、逃げることすらできなかった。ただ、男たちが群を成して向かってきているのを、黙ってみている事しかできなかった。

 

「いや、流石だわねぇ正邪さんはよぉ。むしろ惚れ惚れするくらいだ」

 

 背が高い男連中のなかに埋もれている小さい男がキヒヒと笑った。どこかで見たことがあるような、と記憶をまさぐるが、中々思い出せない。

 

「やっぱ、お前みたいな弱小妖怪でも、腐ったトマトだけじゃ満足いかなかったようだな」

 

 くしゃくしゃの髪を撫であげ、小さな男は鼻を鳴らした。その仕草を見て、ようやく思い出す。道端で野菜を売っていた縮れ毛の男だ。そいつが偉そうに私をあざ笑っている。

 

「お前みたいなやつがいるから、食い物が無くなるんだっての」

 

 いつの間にか、私の前にいたはずの男たちが後ろに回り込んでいた。円を書くように、私を取り囲んで、じりじりと近づいてくる。

 

「何だよ、お前ら」

 通りすがりの一般人にしては余りにも物騒すぎる。

「私に何か用か?」

「本当は分かっているくせに、しらを切っているつもりか?」

 

 縮れ毛は顔を歪める。状況を理解できていない私に苛立っているようにも、これから起こる何かに期待を寄せているようにも見えた。

 

「最近、よく盗まれるんだよなぁ。いくら優しい俺たちでも、みなの命がかかっているなら、一肌脱ぐしかねえ」

「何の話だ」

「最近、食料の値段が上がっているのは知っているよな」

 

 さも、嘆かわしいといった表情で男は首を曲げた。周りの男たちも同調するように頭を垂れている。お前のせいだ、と責めらているような気がし、腹が立つ。

 

「知っている、というよりもお前らのせいだろう」

「え?」

「お前ら金持ちが、食い物を買い占めてるって聞いたぞ。それを割高で売っているとも」

 

 確かに、この縮れ毛は路上で野菜を法外の値段で売っていた。こんな裕福そうな男が店を構えないのは不思議だったが、何のことはない。こいつは普段野菜なんて売っていないのだ。食糧が不足している状況に便乗して、安い値段で買った野菜を横売りしていた、そんなとこだろう。

 

「酷い言いがかりですな」

 縮れ毛の隣にいた、肥えた老人がそう言って、腹を撫でた。

「我々は、ただですら少ない食料を腐らせぬよう専用の倉庫に貯蓄しているのです。その為に食料を買い集めた。売るときには管理費を上乗せしなければなりませんから、相当の値段になってしまいますが、仕方ないと言えるでしょう」

「言えねぇよバーカ。どうせならもっとましな言い訳をしろよ。子供よりも酷いぞ、それ」

「そうですか」

 

 男は表情を変えない。そう言うのが分かっていたかのようだ。隣の縮れ毛も、満足そうに笑っている。嫌な予感がした。

 

「なら、あなたはもっと良い言い訳をしてくれるんですか?」

「言い訳? なんで私がそんなことをしなきゃならない」

「それですよ」

 

 男が私に指を向ける。それに追従するように、とり囲んでいた男たちも人差し指を突き出した。それと言われても分からねぇよ、そう呟こうとした時、彼らが何を指差しているのか、分かった。分かってしまった。

 

「たんまりと背負ったその野菜はよぉ。うちらから盗んだもんだろ? 最近多かったんだよ。盗みはいかんわ。そんなようけぇ盗りよってからに。広い堪忍袋もぷちんよ」

「違う。これは盗ったもんじゃねぇ」

「なら、なんだってんだよ」

 

 縮れ毛の男は、さあ、言えよと意気込んでくる。愉悦と嗜虐心に満ちたその顔には見覚えがあった。あの時の、喜知田の表情とよく似ている。無駄な抵抗をするものを、いたぶろうとする顔だ。

 

「これはな」

 

 頭を咄嗟に動かす。お前は誰だ。天邪鬼だ。なら、こんな奴らを言いくるめことなんて楽勝だろ、と思い込む。が、一向に言い訳を考えることができない。頭が真っ白になる。

 

「この野菜はな、あれだ。紅魔館から貰ってきたんだ」

 

 その場が静まり返った。さっきまではしゃいでいた縮れ毛も、太った男も呆然と口を開けている。きっと、私も彼らと同じような表情をしているだろう。なぜ、こんな時に限って本当のことしか言えないのか。いや、とすぐに考え直す。逆に考えろ。案外こういう時は正直に言った方が、信ぴょう性が高まるはずだ。そうに違いない。

 

「お前」

 

 縮れ毛が小さな声で言った。眉を下げ、少し申し訳なさそうにも見える。もしかして、と思った。信じてもらえたか? 

 

「流石にその言い訳は子供よりも酷いぞ」

 私もそう思う、と言うことしかできない。

 

 

 

「もう、お前が俺から野菜を盗んでるのは分かってんだよぉ!」

 

 縮れ毛が叫ぶ。その声は早朝の人里に染み渡り、町の至るところまで届きそうだった。朝っぱらからそんなに大声を出したら迷惑にならないのだろうか、と心配になるが、案の定何事かと家の中から様子を窺おうと人々が出てくる。

 

「逃げられねぇからな。お前のせいで食料が足りなくなってんだ」

「いや、ちげぇよ。私にそんな力はない」

「証人もいるんだからな」

 

 もはや、彼らにとって私の言葉はどうでもいいようだった。何でだよ、と呟く。話が違うじゃねえか、慧音。

 

「証人なんて、いくらでもでっち上げれる」

「おいおい、俺たちを信じねぇのかよ」

「なんで信じると思ったんだ」

 

 周りを見渡すと、騒ぎを聞きつけた人々が集まってきていた。単純に野次馬根性で駆け付けた奴もいれば、野菜泥棒に対する怒りを露わにする奴、または、単純に弱小妖怪が責められているのが楽しいのか、やれ、殺せ! と歓声を上げる奴すらいた。

 

 分が悪い。とっととこの重い荷物を捨てて立ち去ろう。救世主だなんて、似合わないことをするからこんな目に遭うんだ。こんな奴らにかまってる暇はない。とっとと逃げるしかない。どこへ? どこへ逃げるというんだ。私に逃げる場所なんてあるのか。そんなの、ない。

 

「ほら、ここにいるぜ。その証人は」

 

 威勢の良い縮れ毛の声に押し出されるように、一人の少年が前へと出てきた。自発的に歩いてきたというよりは、誰かに押されて無理矢理出されたと言った感じだ。

 

 その少年の顔は青ざめていた。よく見ると瞼に青い痣があり、顔が全体的に腫れている。嘘だろ、と私は呟いていた。一瞬何かの間違いだと思い、何度も頭を叩いた。どうして、なんでお前がそっちにいるんだよ。三郎。

 

「ほら、三郎くん。君がみた泥棒はこいつで合っているかい?」

 

 縮れ毛が拳を見せながら、優しく三郎少年に話しかけた。びくりと体を震わせた少年は、涙ながらにこくこくと何度も頷いている。その顔は恐怖で引きつっていた。

 

「お前」

 

 自分でも気づかぬうちに声を出していた。その声は野獣の唸り声のように低く、そこで初めて、あ、私は怒っているのか、と気づく。

 

「お前、そいつに何をした。おい、何をしたんだよ」

「何もしてないっつの」

 

 へらへらと縮れ毛は笑う。握っていた拳を解き、その手で少年の頭を撫でた。ぎゅっと目を閉じ、ひぃと悲痛な叫び声を上げた少年は、その場に尻餅をついた。つまらなそうに縮れ毛が見下げている。

 

「ほら、証人もいるだろ? それともなんだ。お前はこのガキが嘘をついてるとでも言うんか? だとすれば、このガキにも痛い目に遭って貰わないかんけどな」

 

 喜知田といい、こいつといい、どうして人里の連中はこんな奴らばかりなのだとため息が洩れる。だが、私は天邪鬼だ。こんな未熟な悪人とは違う。正真正銘の悪人だ。そんな悪人の私が、三郎少年を売らないメリットはあるか。ない。こんな糞ガキは痛い目にあって当然だ。だから、私は今すぐに、こいつが本当の犯人で私はやってない、と言い張ればいい。そう頭では理解しているが、口から出た言葉は、反対の言葉であった。

 

「ああ、私が犯人だよ! この野菜はお前から盗んだんだ」

「知ってたっつの」

 

 三郎少年は、縮れ毛が「もう帰っていいぞ」と言った瞬間に一目散に去っていた。どこか安心している自分がいて、嫌気が差す。私は天邪鬼だ。悪人だ。悪人だったら、この状況で何をするだろうか。答えは簡単だ。逃げる。ただそれだけ。

 

 荷物を置き、地面を蹴った。逃げる場所なんて分からなかったが、それでも逃げるしかなかった。垂直に飛び上がり、空へと舞い上がる。追ってこないかと不安になり、後ろを振り返る。流石に空を飛んでは来ないようで、すぐに追ってはこないようだった。が、男たちが蜘蛛の子のようにばらけ、必死に私の進む方へと駆けだす。先回りをしようと企んでいるようだ。速度を上げ、大きく旋回する。人里の外へ逃げるようなしぐさを見せ、私から、奴らが見えなくなったところで、急いで降りた。結果的に降りた場所は人里の中心付近だったが、遠くへ逃げたと思い込んでいるのか、人の気配はない。やっと胸を下ろすことができた。

 

「いったい、何だってんだ」

 

 私はわざわざ野菜を持ってきてやったというのに、どうしてこんな目に遭わなきゃならない。別にあいつらに嫌われるのは構わないが、それでもムカつくことに変わりはない。そもそも、私が食料を持ってくるなんて、間違っていたんだ。

 

 ゆっくりと足を進める。民家が入り組む細い路地に入り、音を立てぬよう慎重に歩く。逃げる場所に心当たりはないが、目的地は決まった。

 

 困っている人を助けるのは、いつだって先生の役目のはずだ。

 

 

 

 

 寺子屋へは意外にすんなりと着くことができた。途中、何度か人とすれ違ったが、流石に人里中の人々が私を追っているわけもなく、ただ目を逸らして去っていくだけだった。扉を開け、中をのぞく。しんと静まりかえっていて、物音一つしなかった。

 

「慧音、いるかー」

 

 返事はない。まだ帰ってきていないのか、それともまだ寝ているのか。乱雑に靴を脱ぎ捨て、中に入る。がらんとしている教室を抜け、奥の休憩室へと向かう。扉を開けた瞬間、待ち伏せしていた男どもが飛び出してくるのではないか、と緊張が走るが、ただ無人の部屋があるだけだった。ほっとし、座り込む。

 

 部屋は相変わらず汚いままだった。布団も敷いたままで、掛布団に至っては、起きた後そのままほったらかしにしていたのか、くしゃくしゃと丸められていた。

 

「時間ができたとか言った割には整頓してねぇじゃねえか」

 

 相も変わらず本は散乱していて、机の上に物の置き場もくらいに積まれていた。机の使い方を完全に誤っている。その内の、一番上の本を手に取った。よく見るとそれは子供向けの絵本のようで、周りの分厚い古びた本とは異彩を放っている。表紙には、太めのひらがなで「いっすんぼうし」と書かれていた。有名なおとぎ話だ。小人が打ち出の小槌を使い鬼を退治するというのは、新鮮で面白い。何よりも気に入っているのが、弱者である一寸法師が鬼を倒すという奇抜さだ。まさしく、おとぎ話らしく現実的でないところが好ましい。弱者が強者に勝つというのは、不可能だという事を暗に教えてくれるから、好きだ。

 

 本を戻し、立ち上がる。足元にあった紙を蹴とばしてしまったが、気にしない。明らかに前よりも部屋が散らかっている。

 

 壁にかかった箒を見た時、初めは何も思わなかった。単純に、慧音はまだ片づけていなかったのか、と呆れただけだ。だが、この前来た時、慧音は入り口近くの壁に箒を立てかけていたはずだったが、なぜか部屋の隅に移動しているのに気づき、おや、と思った。

 

 確かに、いくら慧音が忙しかったと言っても、流石にここまで汚い部屋をしばらく放置しておくとは思えない。しばらく外出するなら尚更だ。しかも、私は何のためらいもなくここに入ってきたが、普通に考えて、しばらく家を後にするにも関わらず、鍵をしないのは余りにも不自然だ。

 

 怪しい。逆さまにひっくり返った箒を見つめる。意味は、この部屋から出ていけ。胸が騒めく。急いで、この部屋から出なければ。だが、焦ったせいで、床に散らばっている書類に足をすべらせ、その場に倒れ込んでしまう。顔面をぶつけ、目の前が真っ暗になる。顔を擦りながら立ち上がると、足元の書類の中に長方形の紙切れがあるのを見つけた。所せましと文字が書かれ、遠くから見るとその文字が模様のようになっていた。どこからどう見ても、お札だ。

 

 胃が締め付けられる感覚に陥る。喜知田の護衛のうちの一人に札を使う奴がいたことを思い出した。なんで、どうして。こんな所に札があるのだ。

 

 すぐにこの部屋から出ようと廊下に出た時、入り口の扉が開く音が聞こえた。思わず、悲鳴を上げそうになる。近くの戸を開き、急いで飛び込んだ。

 

「靴がある、いるぞ」

 

 男の唸るような声が聞こえ、どたどたと慌ただしい足音が響いた。動悸が激しく胸を打ち、その音が男たちに聞こえないか心配になる。

 

 

 ガタンガタンと忙しなく戸を開いたり閉じたりする音が聞こえてくる。どうやら男たちは一つ一つの部屋を虱潰しにしているようだった。時間はそう残されていない。

 

 何とかできないかと、飛び込んだ部屋を観察する。どうやらトイレに入ってしまったらしく、狭い縦長の空間に一つの便器があるだけだった。窓もない。武器になるようなものもなかった。

 

 手詰まりか、と諦めかけた時、ふとチルノの言葉を思い出した。心に再び希望が生まれていく。

 

「抜け穴」

 

 狭い部屋に身体を押し込めるようにして、周りを調べる。壁を叩き、便器の中をのぞき、床を踏みしめる。音で居場所がばれないか心配だったが、恐怖心を押し殺す。

 

 便器右上の床を押した時、軽い感触が手に伝わった。おっ、と声が洩れてしまい、心臓が止まりそうになる。はやる気持ちを押さえつつ、慎重に力を加えていく。すると、パタンと子気味のいい音を立て、床が抜けた。小さなトンネルのようになっていて、光が差し込んでいる。外へと繋がっているようだ。胸の中で、小躍りした。流石チルノ。お前が寺子屋に通っていて本当に良かった。

 

 音を立てぬように、身体を折り曲げてゆっくりと降りていく。どうやらここは少し高い位置にあるらしく、下には地面が見えていた。妖精が通るための穴なのか、酷く狭かったが、何とか通り抜けることができた。思わず拳を握る。寒々しい風が吹いていたが、それが脱出できたという達成感を伝えてくれた。すぐに立ち去ろうと、地面を蹴る。が、空を飛ぶことができなかった。なぜだ、と不思議に思っていたが、その理由はすぐにわかる。後ろにいた誰かに身体を引っ張られていたからだ。慌てて、後ろを振り返る。

 

「捕まえたぞ、この野郎」

 

 知らない男が、私の腕を掴んでいた。必死に抵抗するが、相手は全く動かず、それどころか関節を固定される。やっぱり罠だったのだ。

 溢れ出る憎しみに意識が覆われていく中、私はチルノに文句を言わずにはいられなかった。

 

 何だよ。全然秘密じゃないじゃねえか。

 

 

 

 

 唖然としていた私は、寺子屋前の大通りにそのまま放り投げられた。受け身を取る事すらできず、身体を強く地面に打ち付ける。皮膚が地面にこすれ、ずりずりと嫌な音を立てた。

 

 なんとか仰向けになり、芋虫のように体を這わせ、辺りを見渡す。入るときには誰もいなかったはずの寺子屋の前に、溢れんばかりの人が押し寄せていた。その誰もが這いつくばった私を舐めるように見ている。先頭の男が、大きく声を上げた。その手には、大きな枝が握られていた。真っすぐに伸びたその枝は、先が小刀のように尖っている。とても、道端に落ちている物とは思えなかった。

 

 しなるように体を反らし、大きく腕を振り下ろした。手に持っていた尖った枝がくるくると回転しながら私に向かってくる。地面に飛び込むようにし、何とか躱そうとするも、右腕にかすり、電気が走ったかのような痛みが襲う。

 

 歓声が上がった。甲高い悲鳴のような絶叫があちらこちらから聞こえてくる。まばらに起きた拍手をかき消すような大声で、男は叫んだ。

 

「今こそ、この鬼人正邪に正義の鉄槌を下す時が来た! 人里に住み着く虱を駆除するのは誰だ? 慧音先生に頼りっきりでいいのか? 駄目だ! 俺たちが、俺たちこそが立ち上がらなければならない!」

 

 一際大きな声が人里に木霊した。周りにいる人間が腕をあげ、彼の言葉に追従するように言葉を発している。いつの間にか、私を取りかこむ人の輪は巨大化しており、人里中の人間が集まっていると言われてもおかしくない。それくらい、多くの人間が集まっていた。そして、彼らの手には石や枝など、思い思いの武器が握られている。その武器を掲げ、正義のために! と不穏なことを合唱していた。彼らの目は充血しており、息は荒い。その誰もが憎々しげに私を睨み、愉悦の笑みを浮かべている。嫌な予感しかしない。

 

「やれ!!」

 

 誰が発したか分からないが、その一言を切欠に、その喜劇は始まった。悪い妖怪に人里の人間が力を合わせて立ち向かう、素敵で楽しい物語だ。だが、その実態は満身創痍の弱小妖怪を遠距離から滅多打ちにするという残酷なものだった。

 

 初めのうちは、小さな石がまばらに飛んでくるだけだったが、私の膝に直撃し、痛みに眉が下がったのを見た彼らは興奮し、放ってくる弾幕に厚みが増した。たまらず空を飛ぼうと地面を蹴るが、何かに引きずり降ろされるように、地面に叩き落された。体が重くなり、動くことすらできない。人混みの中をよく見ると、見知った顔があった。右手になにやら札を持ち、ぶつぶつと呟いている男。間違いなく、あの攻撃的な護衛だ。そいつが、私に向けて何やら術をかけている。

 

「喜知田ぁっ!」

 

 私の叫び声は、大量の弾幕にかき消された。避けることを諦め、頭を守るように体を丸くする。背中に何度も鈍い痛みが走り、くぐもった声が出てしまう。その声を聞いたからか分からないが、より一層激しさは増していった。

 

 右の手の甲に大きな石が当たる。耐え切れない痛みに脳が焼ききれそうになり、その場で体をくねらせる。横目で見ると、直角に手首が折れていた。その手を庇うように体の中に入れるが、今度はがら空きになった頭に枝が突き刺さる。目がチカチカとし、猛烈な吐き気に襲われ、その場で吐しゃ物をまき散らし、その上に倒れ込んだ。それでも、彼らは石を投げるのを止めない。顔を上げようとすると、狙いすましたかのように顔面に泥が直撃する。視界が一瞬で奪われ、左手で必死に拭う。そして、これが泥ではなく肥である事に気がついた。また、嘔吐する。目が何度も針で指されているかのように痛み、涙が止まらない。

 

 もうどこが痛いのか、目が開いているのか、骨が折れているのかいないのか、内臓が潰れているかどうかすら分からくなったころ、唐突に弾幕が止まった。なぜ止まったのか分からないし、知りたくもない。何も考えることができない。

 

「おやおや、皆さんお揃いで。いったい何ごとですか?」

 

 この場に相応しくない、のんびりとした声が聞こえた。その声は決して大きいわけでも、鋭く通る声でもないが、不思議と頭の中に入り込んでくる。その悠然とした態度と、柔らかく優しい声から、人里のリーダーを任されているような貫禄がにじみ出ている。別に任されていないはずだが、本人がそう思い込んでいるのだ。

 

「おお、来て下さりましたか」

 

 野太い声が、僅かにうわづっている。最初に私の前に躍り出た、あの体格のいい男の声だ。よく来てくださいました、と宴会に上役が来たかのように言った男は、こいつが人里を堂々と歩いていたんですよ、と私を指差した。その声には感情がまるで籠っておらず、台本を読み上げるように、淡々と言った。

 

「この妖怪は……」

「鬼人正邪ですよ。あの射命丸さんの新聞に会った」

「ああ、あの」

 

 まるで初めて見たかのように、確かに目つきが悪人のそれですね、と私を見つめる。その口は真一文字に結ばれており、悲しそうに眉を下げていた。薄気味悪い。

 

「ああ、おいたわしい姿に」

 

 地面を擦るような音がしたかと思えば、そのふくよかな男は私に向かって歩き出していた。円から外れるようにし、一人でゆっくりと進んでくる。私の頭のすぐ近くにまでくると、彼は腰を下ろし、私の耳元で囁いた。

 

「会いたかったですよ、天邪鬼」

 

 薄れていた意識が急激に戻ってくる。荒れ狂う波が思考を流し、怒りのみしか頭に残らない。止まりかけていた鼓動がバクバクと音を立てた。潰れていた喉に力が入る。

 

 私も会いたかったよ、喜知田。

 

 

 

 

「この世で最も愚かな行為は何だと思いますか?」

 

 周囲をぐるりと見渡した喜知田は声を張り上げた。出来の悪い生徒に物を教えるように、ゆっくりとした口調だ。だが、その質問に応えさせる気はないらしく、すぐに言葉を繋げた。

 

「それはですね、復讐です」

 

 ふくしゅう、とぽつぽつと囁くような声が聞こえてくる。

 

「そうです。復讐とは愚かで、意味のない行動です。よくよく考えてみてください。いくら憎い相手を痛めつけたところで、殺したところで、愛しいあの人は返ってくることはありません。それどころか、時間を無駄にし、使わなくてもいい労力をかけることになります」

 

 人々の先頭にいた男が確かに、と頷いた。その通りだとあちらこちらで声が聞こえる。それはまるで私に向かい言っているように聞こえた。

 

「みながこの妖怪を憎む気持ちは分かります。ですが、ここは一つ私に免じて退いてもらえないでしょうか」

 

 喜知田は頭を下げた。その行動に人々は驚き、おののいている。どうしたもんかと互いに困惑し、困惑している人を見てさらに混乱しているようだった。かすれる声で、何を考えている、と喜知田に声をかける。私の声を無視した喜知田は、後ろ足をあげ、折れた私の右手を思い切り踏みつけた。ぐしゃりと嫌な音がし、無意識に身体が痙攣する。叫び声を上げることすらできない。

 

「黙っていてください」

 小さく、そう言った喜知田は正面を向き、がたいのいい男と向かい合った。微かにだが、小さく頷き、目で合図を送った。やはり、あの男と喜知田はぐるだったのだ。

 

「でも、喜知田さん」怒りが抑えきれないといった様子で男が言う。

「それでは、私たちの気が収まらない。どうして人間を殺した妖怪が、盗みを働いた妖怪が人里で暮らせるのか、巫女は動かないのか、納得がいかないんですよ」

 

 そうだそうだ! と同調する声を尻目に、喜知田は顎をさすりながら、何やら考え込んだ。正確には、二重になっている顎をたぷたぷと揺すりながら、考えている振りをしている。気に入らないが、身体が全く動かない。歯を食いしばる事しかできない。

 

「では、こうしましょう。今から私が鬼人正邪を説得します。それで、心を入れ替えていたら、チャンスをやる。これでどうでしょうか?」

「でも、心を入れ替えたかどうかなんて、どうやって判断するんですか?」

 

 分かっているだろうに、教えて下さいと熱心に喜知田に質問をする。

 

「それは、私の匙加減次第ですね」

 なるほど、と男は大袈裟に頷いた。

「みなさんも、これでいいですね?」

 

 疑問形であったが、反論は受け付けないと、暗に言っているようなものだった。周囲の人々も、反論を言う勇気がないのか、それともそこまでの興味はなく、単純に日々溜まった鬱憤を私で晴らしたかっただけなのか、文句もなくただじっと見つめている。その中に、縮れ毛の姿を見つけた。愉快そうに私を見下し、大口を開けて笑っていた。キヒヒと声を出しているに違いない。

 

 冷たい風が吹いた。いつの間にか、太陽が完全に昇り、辺りを眩しいくらいに照らしている。冷たい風が体を撫で、傷口をつんざいていった。目の前の汚物のツンとした匂いが充満し、また吐きそうになる。

 

「危ない所でしたね、正邪さん」

 

 嫌そうに鼻をつまみ、私の前に立った喜知田は汚らわしそうに私の顔を蹴った。折れた歯が口の中から飛び出し、コツンと音を立てた。

 

「私が来なかったらどうなっていたことか」

 

 立ち上がり、彼の顔を殴ろうとするも、地面に押し込まれるような感覚が強まっていき、もぞもぞともがくことしかできない。喜知田を殺す千載一遇のチャンスだというのに。悔しさで、顔がくしゃくしゃになる。

 

「どうして、こんなことをしたか。不思議ですか?」

 

 聞いてもいないのに、喜知田はそうですよね、と微笑んだ。殺す。絶対に殺す。

 

「理由なんてないです。強いていえば、弱者をいたぶるのは楽しいから、ですかね。私にかかれば、大衆を動かし、一人の弱小妖怪をいじめることなんて、娯楽と同じですよ」

「お前の力じゃないだろ」

 血を泡立てながら、私は言った。

「どうせ、金の力だろ」

 

 少しの間、きょとんとしていた喜知田だったが、しばらくすると腹を抱えて笑い始めた。ゲラゲラと品無く笑い、私の鳩尾を蹴り上げる。視界が反転し、仰向けに転がったことがやっと分かった。

 

「ええ、その通りです。あの大男も、途中で行けと叫んだ男も、便乗するようにそうだと言った女も、全員私が金で雇ったんです。金さえあれば何でもできるんですよ」

 

 そういえば、と喜知田は手を叩いた。シンバルを両手に持ち、シャンシャンと鳴らす熊の人形のように、陽気で無邪気な笑顔を見せた。

 

「そういえば、何でも願いが叶うってものを最近手に入りましてね。どうですか? 羨ましいですか?」

「羨ましくねぇ」

「まあ、いずれにせよ、あなたはここで終わりなので、関係ないですが」

「チャンスをやると、いっていたじゃないか」

「知ってますか? チャンスはピンチなんですよ」

「違いない」

 

 喜知田は満足そうに息を吐いた。激痛を無視し、身体を動かそうともがくが、まったく動かない。まるで自分の身体ではなくなってしまったかのようだ。

 

 せめて、と喜知田を睨みつける。どこかの神話の化け物みたいに、私が睨めば相手が石になったりしないかと期待を込めて、顔を上げた。

 

 喜知田は固まっていた。銃を出そうとしたのか懐に手を突っ込んでいるが、その奇妙な体勢のまま人混みを凝視していた。

 

 何事かと、そちらを向くと坊主頭の男が、私たちのすぐ近くに近づいていた。黒縁眼鏡をかけた、大柄な男だ。そいつが、鬼気迫る表情で私を睨んでいる。彼が右手を真っすぐに伸ばしているのが分かった。

 

「枳殻さん。手を出すな、といったはずですが」

 

 私と少し距離を取るように歩いた喜知田は優しく男に声をかけた。その頬は面白そうに吊り上がっている。全てが予想通りにいった、と喜んでいる顔だ。

 

「ですが! こいつは、こいつだけは私に殺させてください!」

 腰をかがめ、押し込むように私の額に銃口を当ててくる。真っ黒な銃が目に入った。恐怖で、身が固まる

「私の両親を殺した仇だけは、私が!」

 

 こいつは何を言っているんだ、と最初は思った。頭がおかしくなったのか、と心配になるくらいだ。だが、神妙な顔で俯く喜知田を見て全てを察する。きっと、喜知田がまた情報を弄ったのだ。この男の両親を殺したのが私だと、納得できるだけの証拠をでっちあげ、男を騙した。金があればなんだって買える。その通りだ。情報も、人間の心だって買える。

 

「分かりました。残念ですが、任せます」

 非常に残念ですが、と喜知田は繰り返した。感情の抜けた棒読みの声は、余計に私を苛立たせる。

「待て、私はやってない」

「うるさい! 犯人は誰だってそう言うんだ!」

 

 余計な一言が男を刺激してしまったのか、額にあたる銃口の強さが増した。カタカタと震える手を左手で押さえながら、男は引き金に指を掛けた。

「お前のせいで、お前のせいで!」

 

 寒空の青白い空が私を見おろしていた。どうして、こんな目に遭っているんだ。私はお前らのために野菜を取りに行ってたってのに。ただ、もう一度だけ、針妙丸と何の心配もなく話し合いたかった、それだけだったのに。それすら、許されないというのか。

 

 男が大きな声を上げた。掛けられた指が沈んでいくのが見える。彼の悲痛な絶叫をかき消すように、大きな爆発音が青空に溶けていった。

 

 

 爆発音の直後、私は恐る恐る目を開き、まだ生きていることに驚いた。何度も体の痛みを確認するが、新たな痛みはなかった。最初は玉詰まりかと思ったが、違った。

 

「何だよ、これ」

 

 男が呟く声が聞こえる。その目は上空を向いていた。他の人々もみな一様に空を見上げていた。私も、それにならう。そこには、大きな花があった。青空を塗りつぶすかのような赤い色の巨大な花が視界に飛び込んでくる。

 

「花火だ」

 

 大きな音が、もう一度空に響いた。太陽がもう一つ現れたのではないか、と思うほどの光が辺りを包む。誰もが呆然と空を見上げていた。どうやらそれは札を使っている奴も例外では無い様で、身体が自由に動く。痛む体を無視して、何とか立ち上がり、地面を蹴った。必死に足を動かし、路地裏へと進む。魔法って凄いでしょ、と自慢げに話す鶏ガラが思い浮かんだが、すぐにかき消す。逃げる私に気づいたのは、丸刈りの男だけだった。待て、と叫んだが、その声もまたすぐに爆発音にかき消されていく。

 

「ドッキリ大成功ってね」

 

 私の言葉が彼に聞こえたかどうかは分からなかった。

 

 

 

 しばらく路地裏をくねくねと曲がり続けていたが、内臓が傷ついているのか、口から大量の血を吐き出し、その場に座り込んだ。血を出し過ぎたからか、目の前がぼやける。折れた右腕は赤黒くはれ上がり、骨が皮膚を突き破っていた。もはや、痛みすら感じない。

 

 空にはまだ花火があがっていた。どれだけあいつらの注意を引き付けられるか分からないが、綺麗だねー、と和気藹々と鑑賞するほど馬鹿ではないはずだ。のんびりしている暇はない。

 

 立ち上がり、前へ進む。肩を壁に押し付けるようにし、ふらつく足で前に進んだ。肩から溢れた血が壁に赤い線を描いている。これでは、居場所がばれてしまうのではないか、と心配になる。包帯を巻いておけばよかった、と後悔した。

 

 目の前にいきなり人が現れたのは、引きづっている右足をさすっているときだった。一瞬のことに戸惑い、すぐに後ろへ下がる。背を向け、一目散に駆けだそうとするが、身体はいう事を聞かず、気持ちだけが先走る。逃げろ、逃げろと頭の中の信号が騒ぎ立てた。そうだ。私は逃げなければならない。逃げて、生きて、そして喜知田の野郎を殺す。せめてそれくらいは許されるような気がした。何から? この世のしくみから。

 

「ちょっと待って!」

 

 逃げようとする私に難なく追いついた追跡者は、私の腰に抱きついた。勢いに負け、そのまま地面へと叩きつけられる。今日は何回地面とキスをすればいいんだろうか、と苦笑いしていると、その追跡者の顔が見えた。目に涙をためている、子供の顔だ。

 

「あの、その」

 

 私の胸の上に乗ったそいつは、まじまじと私の顔を見つめた。血で汚れた口元に気づいたのか、小さく悲鳴をあげ、飛びのいた。蛙のように地面に這いつくばり、額を地面に擦り付ける。首に紐でくくられた一文がぷらぷらと揺れた。

 

「ごめんなさい。僕のせいで、僕のせいで!」

 

 土下座をする三郎少年を前に、私は乾いた笑いをあげることしかできない。全身には痛覚が戻り、身悶えするほどの痛みが襲うが、意識ははっきりとしていた。驚かせやがって、と笑う。

 

「まったく。お前らは謝るのが大好きだよな、ほんと」

 

 左手をつき、身体を持ち上げる。支えはなくとも歩くことは出来た。さっきよりも、歩みはしっかりしている。もはやふらつくこともない。そのまま、地面にひれ伏している三郎少年へと近づく。

 

「ごめんなさい! その、あの人に泥棒がバレちゃって。そしたら、言う事を聞いたら許してやるって。断ったら、殴られて。お母さんも殴るって言われて。それで」

「ああもう、分かった分かった」

 

 涙と鼻水で顔をぐちゃくちゃにしながら、三郎少年はもう一度、ごめんなさい、と謝った。痣だらけの顔と腕が、彼が何をされたのかを鮮明に語っていた。何故か悔しくて、歯ぎしりをする。

 

「それ、首に掛けてたんだな」

「え?」

「私があげた一文だよ」

「あ、うん」

 少し表情を緩めた三郎少年は、胸の前のそれを両手で掴み、神に祈るような格好で頷いた。

「お守りにしたの」

「そうか」

 

 少年の頭を撫で、涙をぬぐう。お前は何をしているんだ、と声が聞こえた気がした。懐かしい男の声だ。しわがれた、偉そうな声で天邪鬼はそんなに優しい妖怪じゃないだろ? と挑発するように、語尾が上げる。うるせぇ、と叫んだ。蕎麦と同じだ馬鹿野郎、と怒鳴る。

 

「お前は悪くねえよ」

「でも」

「でもじゃねぇ。お前は悪くねえ。悪いのは喜知田ってやつだ」

「でも」

「だから、でもじゃねぇんだって。喜知田だよ、喜知田。悪いのは喜知田。ほれ、言ってみろ」

「わ、悪いのは喜知田」

 

 どこか不満そうに私を見上げる三郎少年をよそに、私はもう一度彼の頭を撫でる。悪いのは喜知田。いい言葉だな、と思った。

 

「そんなに私に負い目を感じているなら、お前の家へ案内してくれよ。少し、休みたいんだ」

 

 私の言葉を聞いた途端、三郎少年は顔を輝かせた。こっち、と元気に指を刺し、私に気を使うようにゆっくりと歩きはじめる。単純で、いい奴だ。

 

 小さな三郎少年を見つめる。そこで、彼の頭に血がついている事に気がついた。私の血が、撫でた時についてしまったのだ。

 

 ただ、それだけであるはずなのに、私は黒い髪についた赤い色の液体から目を離すことができない。言いようもない不安に襲われ、嗚咽を漏らしそうになる。もしかして。もしかしてこいつは、私と関わったばかりにこんな目にあったのか。あの日、たまたま私と会ったから、全身痣まみれになるまで、殴られたのか。違う、とすぐに否定する。そんなはずはない。どちらにせよ、三郎少年は殴られていたはずだ。

 

 本当にそうか? お前のせいじゃないのか? そう声が聞こえる。今度は彼の声ではない。誰の声でも無かった。本当にそうなのか。私のせいなのか。お前と一緒にいると、水の泡になってしまう。

 

 本当に、そうだったのか。

 

 

「ただいまー」

 

 少し小さな声で、三郎少年は扉を開いた。かけるように部屋へと入っていく。私も後に続いた。

 

 部屋の様子は前来た時と変わっていなかった。もしかすると、さっきの男たちに荒らされてないかと、心配していたが、杞憂だったようだ。

 

 部屋の真ん中に敷かれている布団に、母親が眠っていた。寝相が悪いのか、右手を中途半端に上げたまま、安らかな顔をしている。

 

「お母さん、最近よく寝てるんだ」だから、うるさくしちゃだめだよ、と口元で人差し指を立てた。

「そうか」

 

 靴を脱ごうとして、慧音の家に置きっぱなしだったことを思い出した。足の裏を見ると、砂でこすれたのか、血まみれになっている。部屋に足を付けないように、膝立ちになって布団に近づいた。そして、はっとする。絶望にも似た恐怖が胸に流れ込んだ。

 

「少年、頼みがあるんだが」

「ん、何?」

「少し、外を見張っていてくれないか。誰か来ても、何もしなくていい。ただ立っていてくれ」

「よく分かんないけど、分かった!」

 

 とたとたと去っていく三郎少年に、小さくよろしくと声をかけた。分かっているのか、分かっていないのかどっちなんだ、と軽口をいう元気すら私には残っていない。

 

 母親が寝ている布団を引き寄せ、彼女の額を撫でる。さらさらとした髪が手に纏わり付いた。それでも、彼女は起きない。奇妙な形で固まっている手を胸の前へと動かし、そのまま心臓に左手を置いた。人間とは思えないほどに冷たく、硬い。鼓動はしていなかった。

 

「どうして」

 

 すがるような気持ちで、手首をつかむ。ぷらりと力なく垂れた手は、青白く変色し、爪の隙間からは蛆が湧いている。必死になって肩をゆするも、首が激しく揺れるだけで、返事はない。

 

「どうしてだよ」

 

 何でこんなことになってんだよ。あいつはどうするんだ。お前が育てずに、あの罪を背負った少年はどうするんだ。そう喚くも、彼女は当然目が覚まさない。

 

「なんだってんだよ!」

 

 彼女の肌に水滴が垂れた。私の涙だ。それが彼女の目へと垂れていき、まつ毛にしみ込んでいく。だが、そこから生命が蘇るなんて奇跡は当然なく、そのまま水滴は頬へと落ちていった。

 

 なんで彼女が死ななきゃならない。どうして。おかしいじゃないか! 彼女が何をしたっていうんだ。私が何をしたって言うんだ。何で私の周りでこんな事ばかり起きるんだ。私はただ人里に野菜を持ってきただけじゃないか。少しでもこいつらの役にたてればと、必死に天邪鬼の自分を騙したのに、なのに! 

 

「なんで、こんな目に遭うんだ」

 

 物音一つしないボロ屋に私の声は吸い込まれていく。私には、資格が無いのか。幸せになる資格が無いのか。ああ、神様と願わずにはいられない。この結末はあまりにも理不尽すぎやしないか。釣り合いが取れない。

 

「いいか、人ってのは本当に必要なときは自分で行動しないといけないんだ」彼の言葉が頭に響く。「人に頼るのも当然駄目だが、神様なんてもっと駄目だ。いいか、覚えておけよ。神は何もしてくれないんだ。期待するな。自分でやれ」

 

 そうだ。神なんて当てにならない。こんな理不尽は認められない。なら、私がどうにかするしかない。自分でやるしかない。手段なんて、もう選んでられないんだ。

 

「正邪お姉ちゃん。お腹空いた」

 

 呑気な顔で、三郎少年が帰ってきた。痣だらけの顔を輝かせて、無邪気にトマト以外なら何でもいいかな、と笑う。

 

 そんな彼に顔を見せないように、私は「お母さんが寝てるから、静かにしろよ」という事しかできなかった。



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3章
小槌と大義


――天邪鬼――

 

「打ち出の小槌を振ればいいの?」

 何も理解していない哀れな針妙丸が、私に向き合い、首を傾けた。

 

 人里と妖怪の山のちょうど中間地点に私たちはいた。清々しい青空に、憎々しげに浮かんでいる太陽が私たちを見下している。にも関わらず、肌を切るような寒さは一向に和らいでいない。風が吹いていないのに、草原がざわめいた気がした。そんな些細なことすら気になる程に、私は緊張している。

 

「私の、いや、私たちの野望のためだ」

 言葉を一つ一つ紡ぎ出すように、慎重に言う。そうしないとボロが出てしまいそうだった。

 

「私たちって、その野望には私も関わっているの?」

「むしろ当事者だ」

 

 大きく息を吸う。自分の腹が膨らむのが分かった。鶏ガラの「止めておいた方がいいんじゃないかしら」と珍しく心配そうな表情が浮かぶ。いや、そういう訳にはいかないのだ。もし実行しなかったら、私は死んでも死にきれない。

 

「お前、自分以外に小人を見たことがあるか?」

「ないよ。だから寂しい」

「理由を考えたことは」

「ないなー」

 

 そうだよな、と相槌を打つ。今の言葉に不審な点はないか、頭の中で何度も確かめた。が、針妙丸が私の言葉を疑うほど、捻くれた心を持っているとは思えなかった。

 

「迫害されたんだよ」

「え?」

「強者に酷い目に遭わされたんだ」

 

 どういうこと? と針妙丸は眉を傾ける。言葉尻から不穏な気配を感じ取ったのか、顔が強張っていた。どういうことか、と聞かれても困る。私もそこまでは考えていなかった。

 

「むかしな、強い奴らに酷い目にあわされたせいで、小人はひっそりと暮らさなきゃならなくなったんだ。そのせいで、幻想郷にはお前しか小人がいねえんだよ」

「そんな! 酷い!」

 

 ああ、その通り。酷すぎる嘘だ。私もついにこんな嘘しかつけなくなったのか、と呆れる。

 

「お前がその小槌を振れば、願いが叶う。そうだろう? だったら、見返してやろうぜ」

「見返すって、どうやって」

「ひっくり返すんだ。逆に考えろ」

 

 奥歯を噛みしめ、悔しさをこらえる。目的のためとはいえ、針妙丸に嘘をつくのは、なぜか心苦しい。が、戸惑ってはいけない。多少の犠牲はもはや仕方ないのだ。

 

「強者が弱者を支配するのではない、弱者が強者を支配するんだ。幻想郷を本当の理想郷に変えようぜ。さあ、弱者が見捨てられない楽園を築くのだ!」

 

 だらしなく口を開けたまま、針妙丸は突っ立っていた。私の言葉が理解できなかったのか、と心配になったが、その口元を段々とにやけさせていき、手を叩いた彼女を見て、安堵の息が漏れる。こんなところで棒に振っては、たまったものではない。

 

「いいね! 面白そう」

 

 ご先祖様の無念を晴らすんだね! と満開の向日葵のように、辺りを照らす暖笑を見せる。そこには一切の影もなく、清らかなままだった。少しの安堵と後ろめたさに襲われる。私のせいで、と口走りそうになった。

 

「でも」

 

 晴れ晴れとした表情を一瞬にして曇らせた針妙丸は、不安そうに手に持つ小槌を見つめた。どこか不思議そうに小槌を撫でる彼女の仕草を前に、私は内心どぎまぎしていた。大丈夫だろうな、鶏ガラと心の中で何度も呟く。

 

「でも、なんて願えばいいの?」

「簡単だ」

 

 ほっと胸を撫で下ろしながら、私はその言葉を彼女に告げた。正真正銘の魔法の言葉だ。間違えないようにと、噛みしめながら一音一音発音すると、なぞるように針妙丸も繰り返す。にこやかに口を動かす彼女を前に、私は怯える心を強引に立て起こした。

 

 覚悟はあるか。自分自身に問いかける。イノシシは、自分の身を省みず、とにかく前に進むのだ。例え、その先が奈落の底だろうとも。覚悟はあるか。あなたに、世界を捨てる覚悟はあるか。世界に捨てられる覚悟はあるか。すでに答えは決まっていた。

 

「なら、振るよ!」

 

 そう云うや否や、右手に持った小槌を一目見た彼女は、軽々とそれを上下に振った。止める暇すらなかった。躊躇する私の心を無視するかのように、彼女は元気に小槌に声をかける。まあ、いいか。これで損をする人物はいなくなった。ハッピーエンドに向かうはずだ。一寸法師の物語のように、最後は円満でみんな笑顔に。何とも現実離れしているが、それでも私はそれを望まずにはいられない。“お前は人間よりも人間らしい”その通りだ。夢見る天邪鬼。もはや、この言葉の羅列が矛盾しているが、それでもいいかと思った。

 

「それなら、正邪も一緒に叫んでね」

 いくよー、と声をかけられる。震える心を奮い立たせ、喉に空気を入れた。何を恐れる必要がある。地獄よりも恐ろしい所なんて、今と変わらないじゃないか。

「せーの」

「「すべてをひっくり返せますように!」」

 

 小槌がシャリンと音をたて、視界が光に包まれる。体に黒い何かが押し寄せてくるような、そんな気がした。胸の内を虫に食い破られている気分だ。その穴に確かに何かが押し込まれていく。間違いない。地獄への片道キップだ。

 

 光が段々と退いていく。どこか嬉しそうに微笑む針妙丸が、両手を開き、私の胸に飛び込んだ。支えきれず、そのまま草むらに倒れ込む。彼女の手に持った小槌が点々と転がっていくのが見えた。えへへーと、子供の様に笑う彼女の胸を小突く。

 

「何しやがる」

「いやー、これで正邪も仲間だなって」

「どっちかといえば、共犯だな」

 まとわりつく彼女を引き剥がし、空を見上げる。そこには、立派な城が上下逆さまで宙に浮かんでいた。

 

 

 

 

 

――魔女――

 

「二度あることは三度あるというけれど」

 目の前に座る、もはや紅魔館の常連となりつつある妖怪に向かい、私はわざとらしくため息を吐いた。

「だからといって、なにも何度も怪我しなくてもいいじゃない」

 

 開いた本を閉じ、彼女をちらりと横目に見る。どこでどうしたらそんな怪我を負うのだろうか。あまりの多種多様な怪我に、むしろ称賛を送りたくなる。たくさんの怪我をしたで賞を勝手に心の中で授与した。

 

「仕方ないだろ。二度あることは三度あるなら、三度あることが四度あっても」

「死ぬわよ、あなた」

「私は死なねぇよ」

 

 貧乏ゆすりをしながら、正邪は刺々しく言った。その、鋭い目で図書館を見渡し、落ち着きなく額をさわっている。顔は青白く、一向に私と目を合わそうとしない。そのいじらしく微笑ましい仕草のせいか、まるで人間のように見えるが、怪我のせいか心的外傷のせいか、死人のように生気がない。気合で軽口をたたいているようにも見えた。それでも、うわ言のように、「私がやるしかない」と唱えていた時よりは、ましだ。

 

 今日の紅魔館はいつにも増して騒がしかった。レミィが妖怪の山の会議から帰ってきてからというもの、様々な細かい指示が私たちに出されていたが、その密度が今日になって急に増した。

 

 やれ壁のこの位置に札束をぶら下げておけだの、本の並びを少し変えておけだの、正直言って面倒くさいことばかりだったけれど、珍しく真面目な親友の頼みを断ることはできなかった。そのせいで、正邪が来た時には館の誰もが疲れ切っていた。あの美鈴ですら「いい転職先知りませんか? 図書館の司書とか」と不満をこぼすほどだ。

 

 だから、正邪が傷だらけで門の前に来た時、私は喜びのあまり拳を握った。「しばらく正邪の面倒を見てくれ」レミィの最後の命令を思い出す。無駄に広いこの館をいったりきたりするよりは、口の悪いこの弱小妖怪と話す方がまだマシだ。

 

「いいから、早く治してくれ」

「私は医者じゃないんだけれど」

「お前みたいな不健康な顔つきの医者がいてたまるか」

 

 あなたは本当に治してもらう気があるのか、と言い返そうとしたが、止めた。彼女が怪我をしてここに来るのは初めてのことではなかったし、暴言を吐き続けるのも初めてではなかった。そして何より、そんな失礼極まりない彼女に呆れながらも、回復魔法をかけてしまうのも初めてではないのだ。私はいつからこんなに優しい魔女になったのかしら、と自嘲気味に呟いてしまう。いったい、誰から影響を受けたのやら。

 

 手早く詠唱をすまし、魔法を発動する。最近ではこの魔法を使いすぎて、魔導書が勝手にこの魔法のページを開くようになった。そのことを部下に笑いながら話したら「そんなんだから、いつまでたっても本の虫どまりなんですよ。いつかは蛹になって、蝶にならないと」と馬鹿にしているのか励ましているのか、よく分からないことを言われた。それもこれも、全て正邪のせいだ。

 

「おい、まだか」

「え?」

「正直に言えば、もう結構きついんだ。早くしてくれ」

 

 青白い顔で、正邪はカタカタと震えていた。魔法をかけたのにも関わらず、相変わらず腹からは内臓が覗いている。どういうことか、と首を捻ったが理由はすぐにわかった。単純に、彼女の傷が私の魔法の治癒力で足りないほどに重症なのだ。分かりやすく言えば、死にかけている。焦りを感じつつも、私は呆れていた。どうして一月の間に2回も致命傷を負うのか。しかも、いずれも人里で、だ。

 

 魔導書をひっくり返し、急いで目当ての項を開く。手早くも慎重に術式を唱えると、先に束ねた毛がついた細い杖が飛び出した。それをつかみ、レミィを念話で呼び出す。

 

 そうこうしてるうちにも、正邪の容態は悪くなっていった。はやる気持ちを抑え、レミィの登場をまだかまだかと待ち続ける。図書館の、無駄に大きい扉を見つめていると、バタンと大きな音がし、小さな吸血鬼が飛び込んできた。間髪入れずに手に持った杖を正邪に持たせ、レミィに向けて振るように伝える。その時の掛け声も忘れないように、と念を押した。

 

「痛いの痛いの飛んでいけ」

 

 正邪とレミィが同時に珍妙な掛け声を叫ぶと杖の端から光が溢れだした。かと思えば、一瞬にしてレミィの体に傷が刻まれた。あちらこちらから血を吹き出し、骨が折れる音が聞こえる。だが、それでも親友は一切動じることなく、ただそこに立っていた。

 

「私だって痛みは感じるのだぞ」

「そんなことは知っているわ」

 

 はぁと息を吐いたレミィは、ちらりと正邪を見た。そして、あっと声を漏らし、私の元へと歩いてくる。腕を組みコツコツと歩いている姿は、幼さと共に気品が感じられた。

 

「パチェ、ケチャップ知らないか?」

「ケチャップ?」

「ああ。一週間くらい前におやつ用に買ったんだが、無くなっていた」

「ケチャップをおやつにするなんて、まるで吸血鬼みたいね」

「私は吸血鬼だ」

 

 諦めたのか、それともケチャップなんかのために時間を使うのが惜しくなったのか、何も言わずに去っていった。 そんなレミィの背中から目を離し、床に座り込んだままの正邪に目を落とす。顔は青白いままだったが、傷は無くなっていた。剥き出しだった内臓もきちんと皮膚の下へと戻っている。

 

「魔法ってのは何でもありなんだな」淡々と正邪は言った。

「何でもじゃないわよ。さっきの魔法だって、傷を治したんじゃなくて、レミィに移しただけなんだから。この魔法はどんな怪我も呪いも治せる。正確には治ったようにみせる事ができるけれど、実際はただ移動させているだけなのよ。強い力には代償がつきものなの。レミィに感謝しなさい」

「それにしても、痛いの痛いの飛んでいけとは滑稽な掛け声だな」

「うるさいわね。文句はレミィに言いなさい」

 

 そこで会話は終わるだろうと思っていたが、彼女は予想の他興味を持ったのか「その魔法は変な杖が必要なのか?」と訊いてきた。誰であっても魔法に関心を持ってくれるのは大歓迎だ。自然と頬が緩んでいるのが自分にもわかった。

 

「杖が必要というか、この杖に魔法を仕込んであるのよ。特定の言葉を言えば魔法が発動するように」

「魔法の杖ってわけか」

「レミィ曰く“痛いの痛いの飛んでい毛”らしいわよ。だからわざわざ馬の毛を杖の先に」

「馬鹿じゃねえの」まだ痛みが引かないのか、床に座り込んだまま正邪は抑揚なく言った。

 

 時計に目をやる。15時ぴったり。吸血鬼のくせに昼型の生活に挑戦しているレミィが、眠い眠いと文句を言いはじめる時間帯だ。かくいう私も、朝から忙しかったからか眠気が押し寄せてくる。

 

「そういえば、ケチャップが無くなったとか言ってたが」

 椅子に深く座り直した正邪は、切れ目が入った服に手を入れ、ごそごそと弄っていた。

「私が前貰っていってたんだ」

「何してんのよ」

「まあ、穴が空いて全部ぶちまけたんだけどな」

「本当に何してるのよ」

 

 ふん、と不敵に笑った彼女は、怪我の具合を確かめているのか、ペタペタと自分の身体を触り、思いついたかのように席を立った。私に背を向け、本棚の方へ歩いていく。

 

 奇しくもそこは、今朝レミィに整頓をさせられた本棚だった。これも、運命によって決まっていたのだろうか。その本棚に積まれているのは日本の童話だった。幻想郷に引っ越す際に、民間伝承を調べる資料にしたものだ。一度目を通してからしばらく放置してあったが、今日久し振りに整頓をした。その内の一冊を、正邪は乱暴に抜き取った。もっと丁寧に扱ってほしいものだ。

 

「なあ、この本貰っていってもいいか」

「良いわけないじゃない」

「なんでだよ。こんなにあるんだから一冊くらい無くても平気だろ」

 断ったにもかかわらず、彼女はすでに本を懐に入れようとしていた。

 

「その理屈でいえば、あなたの歯から一本抜いてもいいってことね」

「良いわけないだろ。本はまた買えばいいが、歯はもとに戻らない。価値がちげぇよ」

「あら。歯の一本や二本は魔法で何とかなるわよ」

 

 おお怖い怖い、と馬鹿にするように鼻を鳴らした正邪は、不貞腐れたのか、舌打ちをして、何も言わずに席に戻った。その手にはきちんと本が握られている。ちゃっかりしているというか、意地汚いというか。

 

 広い机に私と向かい合うように座った彼女は、表紙をめくり、真剣な顔つきで見つめている。とても、童話を読んでいるようには見えない。そもそも、天邪鬼が真剣に本を読んでいる姿は、それだけで新鮮だった。

 

 ぺらりと、紙が互いにこすれる音だけがその場を支配する。乾いたインクと、埃の匂いが鼻につく。嗅ぎなれた本のいい匂いだ。目の前に広がる文字列、そして香りは、私を優しく包み込み、溢れる知識の毛布にそっと添えてくれる。頭に新たな情報が加わる度、得も言われぬ快楽が押し寄せてきて、思考はその都度加速した。

 

 その加速した私の脳が、ふと、一つの疑問を紡ぎ出した。手に持っている魔導書の様子が、いつもとは違うのだ。魔導書、といっても本には違いないのだから、様子も何もあるはずないのだけれど、明らかな違和感があった。ページを捲ろうとすると、不自然に紙が手に吸い付き、きれいに目当ての場所まで移動する。逆に、一つのページを熟読しようとすると、本の折目が伸ばされ、分厚い本の最初のページにも関わらず、手で押さえることなく読むことができた。

 

 最初は、この本にかけられた魔法のせいだと思ったが、それにしては本に魔力が籠っていない。そもそも、術式すら存在しなかった。

 

 疑問が確信に至ったのは、正邪が読んでいる本の様子だった。彼女が読んでいるのはただの童話で、魔導書ではない。当然魔法は一切かかっていないはずだ。けれど、その本はまるで生きているかのように蠢いていた。正邪の手から逃げるように右に逃げ、上に飛び、捲られているページを強引に閉じようとしている。普通の本がしていい動きではなかった。

 

 しかし、それよりも妙だったのは、そんな本の態度を意に介さず、無理矢理押さえ付けている正邪の方だ。暴れ狂う本に眉一つ上げず、体重をかけて熟読している姿は異様としかいえない。まさか、彼女は普段から凶暴な本を読んでいるわけではないはず。だとすれば、彼女はこの違和感の原因を知っているに違いない。

 

 そう思うと、肝が冷えた。正邪に馬鹿にされることを恐れたわけでも、身の危険を感じたわけでも無い。もし、正邪がこの本にこびり付いている力に心当たりがあるなら、発生源に関与しているなら、面倒なことになる。

 

「なあ、少しばかり鶏ガラに聞きたいことがあるんだが」

 私が彼女の手に持つ本を注視していたからか、正邪の方から私に切り出してきた。

「もしも。もし、異変を起こしたとしたら、その妖怪はどうなるんだ」

「急にどうしたの?」

「いいから、答えろ」

 

 本から目を離さずに、彼女は言った。その声にはどこか危機感が溢れている。私は今まで異変を起こした連中の現在を思い起こしていた。

 

「まあ、一度巫女に締められれば、あとは結構自由よ。よっぽどのことをしでかさなければ、逆に巫女と知り合いになれて、色々得することも多いわ」

「よっぽどのことって、どんなことだ」

「そんなの知らないわよ。幻想郷を壊そうとするとかじゃないの?」

 

 博麗神社を地震で壊した天人崩れの生意気な声が頭に響いた。確かあの時、八雲紫はかなり怒っていたはずだ。それでも彼女が殺されたり、封印されていないことを考えると、それくらい大それたことをしない限りは大丈夫だろう。まあ、それでも巫女に怒られるのは生半可な恐怖ではないけれど。

 

「幻想郷を壊す、ねえ」どこか意味深に声を漏らした正邪の顔は、心なしか青白い。窓がないのに、外の様子を気にしているのか、しきりに西を見つめていた。

「安心しなさい。あなたみたいな小物に異変なんて起こせないわよ」

「小さい奴ほど、何をしでかすか分かんねぇんだよ」

 

 苦々しく口を歪めて、もしも、と小さく呟いた。言いづらいのか口をまごつかせている。いい知らせでないのは分かった。自然と、手に力が入る。

 

「もしも、逆さまの城を幻想郷に生み出したとしたら、願いの対価に発生させてしまったとしたら、これは異変になるのか?」

「え?」

「だから、逆さまの城だよ。あるだろ、外に」

 

 開いていた本がぱたりと閉じた。声にならないような、小さな悲鳴が図書館に木霊する。私の声だ。聞き間違いじゃないかと、何度も正邪の言葉を頭でなぞるも、結果は変わらなかった。妖怪の山と人里の間に浮かぶ、逆転した城。つい先ほど、レミィが発生を予言し、そしてその十分後に誕生した悪意の城。その禍々しい姿は、既に脳裏に染みついていた。暗い顔をしたレミィの顔と、残酷な言葉がガンガンと胸を叩く。

 

「何だよ。なに黙ってんだよ」不安を隠そうともしない正邪の声が、どこか遠くに聞こえた。その反応で、あの城とこの弱小妖怪との関係性は既に明らかになっているようなものだ。

 

「死ぬわよ、あなた」

 口から出たのは、心底辛そうに笑うレミィの運命の言葉だった。

 

 

 

 

――白沢――

 

「ふざけんじゃねぇよ!」

 

 胸ぐらを捕まれ、壁に体を打ち付けられる。木の軋む鈍い音が響いた。妹紅の強すぎる力に寺子屋が悲鳴をあげているみたいだ。

 

「離してくれ。帰ってきたばかりで疲れているんだ」

「慧音!」

 

 服を握る手に血管が浮かび、顔を近づけてくる。妹紅の白い髪が鼻をかすめた。荒い鼻息が頬を撫で、彼女の赤い目が私を糾弾してくる。許してくれ、と口の中で呟いた。こんなつもりじゃなかったんだ。

 

「お前、今正邪がどんな状態か知ってんのか。あいつがどんな思いで食料を貰ってきたか知っているのか!」

 

 妹紅がここまで怒るのも久しぶりだな、とどこか他人事のように考える。ただ罪悪感から逃げたかっただけかもしれないが、それでも妹紅が私に食って掛かるのには驚いた。私が自殺をしようとした時以来だろうか。正邪のために感情を露わにするなど、想像もしていなかった。この二人が知り合うとも思わなかったが、そもそもタイプ的に反りが合わないと勝手に思い込んでいたのだ。

 

 あの天邪鬼には、どこか人を惹きつける何かがあるのだろうか。あの憎らしくも憎めない弱小妖怪は、人に好かれやすいとでもいうのだろうか。いや、絶対にない。むしろ、逆だ。どう足掻いても彼女は嫌われるに違いない。それが、今回の事の顛末であり、結論であった。

 

「私は」

 

 唇が乾いていたからか、口を開くと顔に痛みが走った。言い訳なんてしなくていいか、と一瞬思いなおしたが、妹紅との間で隠し事をするのも憚られる。結局、私は思いの丈をぶつけようと決めた。妹紅となら、そんなことで溝が生まれることもない。そう信じることにした。

 

「私はただ、彼女がこれ以上人里で嫌われるのを防ぎたかっただけなんだ」

「知ってるよ」

「もし、正邪が食べ物を持ってきたら、少しは人里のみんなも受け入れてくれると思ったんだ。“意外にこいつは優しい奴だ”って、分かってくれると、射命丸の新聞は何かの間違いだったかも、って少しは信じてもらえると思った。それが、正邪の望むところではないことも知っていたけど、それでも私は」

「知ってたんだよ、そんなことは!」

 

 尖った犬歯を剥き出しにした妹紅にもう一度壁に叩きつけられる。痛みはそれほどない。正邪の受けたものに比べたら、いや、比べることすら烏滸がましいか。正邪の受けた痛みは、身体的にも精神的にも、尋常ではない。それこそ、大妖怪ですら哀れみの目を向ける程に。

 

「慧音があいつを紅魔館に行かせた理由は知っている。何年の付き合いだと思ってるんだ。慧音の考えてることは大体わかる。だけど。だけどなぁ、正邪がその持ってきた野菜を盗んだと勘違いされたのを、それで村八分にされているのを黙認しているのが気に入らないんだ!」

 

 妹紅の瞳には涙が溢れていた。「あいつはな、口では嫌だとか渡さねえとか言ってたけどな、どこか嬉しそうだったんだよ。魔女から野菜を受け取った時なんて、子供の様に七面相してたんだ。それなのに、こんな結果って。こんなのありかよ!」

 

 寺子屋に静寂が訪れる。どうしてこんなことに、と声が零れてしまう。まさか、人里に帰ってきたら、私のせいで正邪が更なる悪評を被っているとは思いもしなかった。人里に燻ぶる不穏な雰囲気に気がつかなかった自分に腹が立つ。安易に行動を起こし過ぎた。だが、いくら後悔したところで、時間は戻らなければ、正邪の立場も回復することはない。

 

「私だって、何とかしたいさ」

「なら」

「でも、もう遅いんだよ」

 

 人里に帰ってきた瞬間のことを思い出す。たくさんの人たちが表情を明るくし、「先生のいない間に自分たちで悪い妖怪を退治したんだ」と意気揚々と話しかけてきた。そのたびに私は、その妖怪は悪い妖怪ではない。彼女は本当に紅魔館から野菜を貰ってきたんだ。私がそう頼んだんだ、と主張した。

 

 が、そうすると決まって彼らはこう笑うのだ。「先生、何もあんな妖怪まで庇わなくてもいいんですよ」と。当然私は何度も反論した。が、全く取り合ってもらえなかった。おそらく、妹紅もそうなのだろう。私と同じように、いや私以上の時間をかけて正邪の無罪を訴えたに違いない。だが、誰もまともに受け持ってくれなかったのだ。

 

「正邪は私が紅魔館へ運んだよ」

 消え入りそうな声で、妹紅は言った。その顔からは既に怒りは退いていた。ただ、悲しみだけが溢れている。

 

「人里の外の墓場で座ってたんだ。全身に怪我を負ってな。この私が認める重傷だったよ。訳を聞いてもはぐらかされてね。紅魔館に連れていけの一点張りだった。それで、門番にあずけたんだ。ま、私は追い出されたけどな」

「どうして、紅魔館に」

 

 レミリアの幼いながらも邪悪な姿が目に浮かぶ。まさか、と恐怖した。まさか、彼女は正邪を殺したりはしないだろうか。

 

「魔女に怪我を治してもらう腹積もりらしいよ。まあ、上手くいったかは分からないけどね」

 

 ひとまず安堵のため息を吐く。が、それを見透かされたのか、ただ、と強い口調で妹紅が口を挟んだ。

「ただあいつ、凄い顔していたよ。死人のように無表情でさ、見てられねえよ。ずっとうわ言のように“私がやるしかない”って呟いていた。正直、怖かった」

 

 でも、紅魔館に着いた時にはもう意識を失ってたな、と呟いている妹紅を尻目に、私はその場に座り込んだ。身体も、精神も限界が近い。

 

「おい慧音、大丈夫か」

「大丈夫、とは言い難いな」

 気を抜くと、すぐにでも目を閉じてしまいそうになる。考えなければならないことは数多くあるが、もう頭が回らなかった。

 

 耳元で、よいしょと囁く声が聞こえたかと思えば、身体が宙に浮いた。妹紅が身体を持ち上げてくれたのだ。

 

「ありがとう、妹紅」

「気にすんな」

 

 固めていた頬を、ふっと緩めた。真っ白い彼女の顔には一切の疲れはない。文字通り、死ぬ気で人里を走り回り、何回か死んだのだろう。それが、何らかの事故によるものか、疲労によるものか、それとも疲労を回復するために自ら命を絶ったのかは分からない。だが、身体の疲労以上に精神が疲弊しているのは明らかだった。

 

「私も、その、言い過ぎたよ。ごめん」

「謝らないでくれ」

 

 妹紅が私に謝る理由なんて無いし、私にはもうその価値すらない。そう自分を卑下することで、救いを求めている自分にますます嫌気が差す。

 

「奥の部屋でいいよな」

「ああ」

 

 絹のような肌を僅かに上気させた妹紅は、寺子屋の奥にある休憩部屋へと私を連れていく。ギシギシと廊下を歩き、半開きになっている戸を開け、中に入った。

 

「うわ。整頓ぐらいしとけよ、慧音」

「え?」

「汚くて、足の踏み場がない」

 

 寝ぼけていた頭に叩き込むように、多くの情報が目に映った。一瞬、これは夢で、そもそも今まで起きていた正邪に対する悲劇は無かったのではないかと、疑うほどに現実を見たくなかった。

 

 部屋が荒らされている。ただ、それだけなら別に大して驚くことではない。腹は立つが、金目のものが盗られていないか確認し、部屋を整頓して、何か盗まれていたとしても、残念だったね、と酒のつまみにすればいいだけの話だ。だが、今は訳が違った。目の前が真っ白になる。嘘だといってくれ、と何度も呟いた。

 

「降ろしてくれ」

「ど、どうしたの、急に」

「いいから!」

 

 理不尽だとは分かっていたが、妹紅に怒りをぶつけてしまう。そんな私に対しても、優しく分かった、と言ってくれる彼女に、懺悔にもにた感情を抱く。が、今はそれどころじゃなかった。

 

 疲労と混乱によって思考は既に限界を超えていた。床に散らばった紙をかき分け、目当ての物を探す。

 

「あれ? 慧音こんなもの持ってたっけ?」

 

 私の心境を知ってか知らずか、のんびりとした声で妹紅が言った。いや、ついさっきまで激怒していたとは思えないほどに、平然としていることを考えると、焦る私を見て、敢えてそのような態度をとっているのだろう。本当にいい友人を持ったものだ。

 

 妹紅のおかげか、少し落ち着いた私は手を止め、妹紅が持っているものへと視線を移した。紫色の帯が目立つ、安物の草履だ。流石にここまで質の悪い物を売るような人はいないだろうから、おそらく手作りだろう。そしてその手作りの草履に、私は見覚えがあった。

 

「嘘だろ」

 

 思わず、天を仰いだ。目に映るのは、綺麗に整った天井の木目のはずだったが、なぜかそれが私を取り囲み、くるくると回っているように感じた。なんで、正邪の草履がここにあるのか。いや、あるだけならいい。何の問題もない。そう自分に言い聞かせる。

 

 再び、捜索を始める。がさごそと散らばっている書類を漁っていると、そう時間がたつことなく、目当ての物を見つけることができた。木で出来た、小さな鍵だ。だが、一応仕掛けがあり、容易に複製ができないようになっている。本来ならば常に持ち歩きたいところだったが、寺子屋で保管していた。それが仇となった。

 

 そのカギを掴み、震える手で机に積んである本を漁る。よくよく確認すると、その内の一冊の位置が変わっていた。平仮名で書かれた“いっすんぼうし”と書かれた本だ。その表紙に僅かに黒い染みができている。匂いをかぐ。まるで腐ったトマトのような腐乱臭がした。嫌な予感は加速する。塔のように連なっている本を崩し、真ん中の下から二番目、分厚く、だが、どこか安っぽい本を引っ張り出した。心なしか軽く感じ、それを認めたくなくて細かく振った。

 

 本を裏返し、背表紙の表面に張られた薄い紙をめくる。ぺりぺりと音を立て、表紙がはがれていき、無骨な金属が露わになる。手で触れると、特有の冷たさが肌を刺し、それが全身に広がっていった。

 

「それ、なんだ?」

「預かりものだよ」

 

 興味深そうに屈みこんでくる妹紅を他所に、鍵を握りなおす。剥き出しとなった金属の下部分に、小さな穴があった。鍵穴だ。そこに右手にある鍵を慎重に突き刺した。ゆっくりと捻り、かちゃりと音を立てたのを確認すると、大きく息を吐いた。

 

「それ、もしかして箱になっているのか」

 

 妹紅からの質問を無視し、鍵を机に置く。答えなかったのは、苛立っていたからではない。それどころではなかっただけだ。両手で上下に抱え込むように持ち、右手を引き上げていく。ずりずりと金属同士がこすれ合う嫌な音と共に、少しずつ中身が見えてくる。本に偽装した、金庫のようなこれは、中は空洞になっており、そこに物をしまえるようになっていた。そして、そこには八雲紫に託された、大事という言葉では表せないくらいに大切なものが入っていた。はずだった。

 

「何だよ、何も入ってないじゃん」

 

 妹紅がぽつりと声を零した。何も入っていない。本に偽装し、特殊な鍵で施錠した強固な箱の中には、ただぽっかりと巨大な空間が存在するだけだった。

 

 声にもならないような、小さな呻きが口から洩れる。なんで入っていないんだ。どこへ行ったんだと心の中で何度も唱えた。まさか。持っていったのか。誰が。正邪が。

 

「その箱の中には何が入っている予定だったんだ?」

「小槌が」

 

 私は震える声で、何とか言葉を紡ぐ事しかできなかった。

 

「打ち出の小槌が無くなっているんだ」



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焦燥と油断

――白沢――

 

 目が覚めると隣に妹紅の顔があり、驚いた。眠い目を擦り、自分の部屋を見渡す。昨日と変わらず、散乱し、汚いままだ。もしかすると、昨日のあれは夢か何かで、布団から起きると、予定通り私の部屋で居候をしている正邪が、生意気にも私の部屋で大の字で眠っているのではないか、と期待したが、残念なことにそんなことはなかった。足元にある金属の箱をたぐり寄せる。未練がましく、もう一度箱を開くが、当然なにも入っていない。分かっていたはずなのに、ついため息が漏れる。

 

 打ち出の小槌。一寸法師のおとぎ話に出てくる伝説の道具。鬼の秘宝であり、願いを言いながら一振りすれば、たちまちそれを叶えてくれるという反則アイテム。ただ、その代償はすさまじく、使ったものは少なくとも無事ではいられないとも言われている、曰くつきのものだ。あの日、巫女に食糧不足の解決を頼みに行ったあの日、突然八雲紫に託された。押し付けられたといってもいい。

 

「だって、あなたは危険物取り扱いの資格を持っているでしょ?」

 

 ふと、その時の八雲紫の言葉を思い出した。こんな大層な物は寺子屋には置けない。あまりにも危険すぎる、と打ち出の小槌を返そうとすると、彼女は平然とそう言ったのだ。もちろん、私はそんな免許は持っていない、と反論したが、妖怪の賢者はそんな私の言葉に耳を貸そうともしなかった。

 

「いいじゃない。だったら、いま私がその資格をあなたに授与するわ。おめでとう」

「そんな適当な」

「あら? こう見えて私は幻想郷の賢者なのよ。私が烏は白いといえばそうなるし、眠れと命じれば荒れ狂う動物も静まる」

「だから、私に危険物取扱の資格を授与すると言えば」

「あなたはこれからそういう立場にもなる」

「馬鹿な」

 

 口元で扇子を隠し、意味ありげにうふふと微笑んでいる彼女に寒気がした。虚ろな目で縁側に座り、こちらを見下ろしている彼女は、何を考えているか分からず、気味が悪い。有り体に言えば胡散臭かった。

 

「いったい、何を考えているんだ。この小槌を私に預けてどうするつもりだ。針妙丸に関係があるのか?」

「まあまあ、お茶の出がらしでも飲んで、ゆっくり話を聞いてちょうだい」

 

 そう言うや否や、どこから取り出したのか、彼女は湯のみを縁側に置き、急須を傾けた。だが、「あら」と小さく呟いたかと思えば、急須のふたが開き、勢いよくお湯が溢れだす。烏龍茶でも入れていたのだろうか、出がらしといった割には真っ黒な液体が縁側の木を濡らし、じわりじわりと広がっていった。

 

「早く拭かなきゃいけないわね」

 そう言った割にはのんびりと雑巾を取り出した彼女は、丁寧にお茶をぬぐい、どうやってやったかは知らないが、木にしみ込んでいた水分すらも拭き取っていた。

 

「お前は何がしたいんだ。質問に答えてくれ」

「少しは、自分で考えなさいよ。一応、先生なんだから」

 

 おそらくわざとだろうが、神経を逆なでするような、突き放すような声で彼女はそう言った。手に持った雑巾を適当に地面に投げ捨て、足で土をかぶせ始める。

 

「おい、なんで埋めているんだ」

「なんでって」

 

 質問の意図が分からないといった様子で首を傾げ、さも当然かのように口を開いた。

 

「だって、もう汚れちゃったじゃない。汚れを拭きとった後の雑巾なんて、ただの汚物よ。とっとと捨てるに越したことはないわ」

「まだ洗えば使えるじゃないか」

「分かってないわね」

 

 これだから半獣は、と言われた気がしたが、聞こえなかった振りをした。

 

「汚れた雑巾なんて、どんなに水洗いしても完全には落ちないじゃない。それに、その汚れは水に移って川を汚すかもしれない。だったら埋めるしかないでしょ?」

「でも、その理屈でいえば、地面に汚れが移るんじゃないか?」

「それは別にいいのよ」

 

 結局、私は八雲紫との会話にうんざりし、逃げるように寺子屋に帰ってきてしまった。だが、どうもその時の八雲紫の顔には、どこか悔しそうな、そんな感情が浮かんでいるような気がした。 

 

 

 

「おはよう慧音、よく眠れたか?」

 

 妹紅の間延びした声が聞こえ、意識が引き戻される。まだ重い頭をふり、妹紅に目を向けると、彼女も私と同じく眠そうに目を擦っていた。ふわぁ、とあくびもしている。

 

「ああ、よく眠れたよ」

 

 この言葉に嘘はなかった。あれだけ衝撃的なことが立て続けに起きたのにも関わらず、私はぐっすりと眠っていた。自分でも驚いたことに、疲れは悩みを通り越し、むしろ清々しいくらいに頭はさっぱりしている。思考もまとまってきた。

 

 のそのそと布団から這い出て、朝ごはん替わりなのか懐から取り出した昆布を舐め始めた妹紅を見ていると、何だか私もお腹が空いてきた。事態は緊迫しているが、それでも生理的欲求には逆らえない。部屋の片隅に置いてあった乾パンを掴み、口に入れる。

 

「そういえば、この草履は慧音のなのか」

 

 もごもごと口を動かしながら、足元に落ちている不格好な草履を指差した。まだ少し寝ぼけているのか、口から涎が垂れている。

 

「違う。それは正邪のだ」

「正邪って、あの正邪か!?」

「どの正邪か分からないが、多分思い浮かべている正邪で合っている」

 

 眠気で垂れ下がっていた目尻をきつく吊り上げた妹紅は、落ちている草履を拾い上げ、まじまじと見つめた。つられて私もその不出来な履き物に視線を移す。それが、いつからここにあるかは分からない。だが、正邪がここに来たという事は確かだ。

 

 しかし、だからといって。正邪が打ち出の小槌を盗んだとは限らない。あの捻くれつつもどこか優しい彼女がそんなことをするだろうか。しないと、私は信じたかった。でも、決めつけてはいけない。私は彼女のことなんて、何も知らない。

 

「なあ妹紅」

「なんだよ」

「お前、打ち出の小槌って知ってるか?」

「昨日、無くしたと騒いでいた奴か」

 

 うーん、と首を傾げた妹紅は、聞いたことあるけど、と言葉を濁した。

 

「それ、本当に実在するのか?」

「したんだ。そして何処かへ行った」

 きっと、私はとても渋い顔をしていたのだろう。「そっか」と優しく声をかけてくれた妹紅は、私の肩に手を置き、力強く頷いた。

「なら、やることは一つだろ」

 

 そうだろ? と私に微笑む彼女は、とても頼もしく思えた。

 

「探すしかないじゃないか」

 

 

 

 寺子屋の外に出ると、冷たい風が襲い掛かってきた。帽子が吹き飛ばされないようにと手で押さえる。空は見たこともないくらいに曇っていて、その雲が地上に降りてくるようにすら感じた。視界も非常に悪く、地上ならば問題ないが、空を飛ぶのは一苦労だろう。

 

 目の前の大通りでは、多くの人が集まっていた。ちょうど、皆が朝起きて活動を始める時間だからか、少し眠そうなものの、笑顔で挨拶を交わしている。最近授業を休んでしまっていることを思い出し、少し憂鬱になるが、それでも顔には出さないように努めた。

 

「何か、みんな元気になったな」

「正邪のおかげだよ」

 妹紅が私を睨みつけるのが分かったが、それでも私は口を止めなかった。

「みんな溜まっていたんだ」

「何が? 貯金か?」

「不満だ」

 

 徐々に在庫が無くなっていく食料と、それに比例して吊り上がる値段。段々と腹を満足に膨らませることが出来なくなってくると、彼らは恐怖し、憤った。その、目には見えない爆弾は、日に日に大きくなっていき、そして正邪が野菜を抱えてきたあの日、爆発した。数少ない食料を邪悪な妖怪が泥棒したとならば、それも仕方ないだろう。

 

 明確な敵を持った人間は強い。そのことは身に染みて分かっていた。人々を団結させるのは、カリスマ溢れる指導者と、共通の敵だ。前者の存在が許されていない幻想郷の人里において、正邪という起爆剤はあまりにも十分すぎた。豪雨の後の洪水のように、彼らは怒りに飲み込まれ、そしてその怒りは燃え尽きた。

 

 いまだ食料は足りていないにもかかわらず、彼らの不満は明らかに減少している。頑張って、協力していきましょうと意気込んですらいた。つい前までは、隣で芋を食べる家族をすら憎々し気に見ていたのに、だ。

 

 つまりは、私が正邪にお使いを頼んだばかりに、彼女はスケープゴートにされたのだ。

 

 鬱蒼とした気分のまま、人混みをかぎ分けて前に進む。そのすぐ後ろを妹紅がついてくるのが足音で分かった。その音に励まされるように、前へと進む。正邪には、私にとっての妹紅のような、頼りになる存在がいないのだな、とそう思うだけで胸が苦しい。

 

「あそこだけ人が少ないな」

 

 しばらく当てもなく歩いていると、人の波が一か所だけ薄くなっていることに気がついた。私の言葉に素早く反応した妹紅は、さっと視線を移したが、すぐにうんざりとした顔になる。

 

「原因は分かったよ」

「私も想像がつく」

 

 太陽が昇ったばかりの早朝。そして人通りの多い大通り。なるほど。確かに彼女にとっては、一番の稼ぎ時なのだろう。だが、彼女はやはり人間というものを分かっていない。朝っぱらから新聞を読むほど暇な奴は、この時期には少ないのだ。

 

「それに、あんな格好をしてちゃダメだろ」

 

 妹紅の言葉に、私は頷く。なぜ、そんな恰好を選んでしまったのかと、その場で嘆いてしまうほどだ。

 

「文文。新聞の号外ですよー!」

 

 威勢よく声を上げる射命丸は、いつものような烏天狗の装束を着ていなかった。白く、そして不謹慎極まりない服。白装束を着ていたのだ。

 

「烏が白いって、そういうことか」

 

 あー、お二人とも是非新聞をー、と声を張る烏に向かい、私たちは大袈裟に肩をすくめた。

 

 

 

 

――魔女――

 

 私は既に百年という時を生きてきた。その人生の大概を魔法の研究に費やし、そして時間以外に、地位も名誉も金も、そして倫理すら捨てて、ただひたすら魔法を極めようと、それだけを求め続けてきた。幸か不幸か今では愉快で鬱陶しい仲間に囲まれ、それなりに魔法以外のことにも手を出してはいるが、それでも魔法研究が一番の楽しみであることは変わらない。

 

 そんな楽しい魔法研究だが、主として魔導書を読み知識を蓄えるのが一般的だ。必要な知識を得て、改良し、蓄積する。それを血液の循環のように何度も繰り返していくうちに、高度な魔法理論が形成されていく。それが魔法研究の基礎であり、全てだ。

 

 しかし、それはあくまで机上の空論に過ぎない。私のような高等な魔女は、ただ知識を得るだけではなく、実践もしなければならない。ただ、実践とひとえに言っても、種類は様々で、単純に理論通りに魔力を練り上げればいいものから、様々な道具、生物、環境を整える必要がある大掛かりなものまで、千差万別だ。後者においては、必要な生物、あるいは道具の内に人間が含まれることも少なくない。

 

 とはいっても、生きている人間を使うことは稀で、ほとんどの場合は既に息絶えた死体を使っていた。だからだろうか。私にとって人間の死体など驚くに値しないものであるし、見慣れたものであった。もし、その死体は立派な木に毎年なるものなんだ、と言われても、へえそうなの、としか思えないくらいにありふれたものだった。それは、いつも手元にあり、集めるまでもなく数をそろえられたからだ。一切の血が通っておらず、青白く、そして不気味に固まっている死体の顔は、嫌というほど見てきたし、見慣れたはずだった。ぱっと見ただけで、死後どのくらい経っているか判断できるほどだ。

 

 だから、今私に向かい怒り勇んでいる正邪の真っ青な顔を見て、その顔を本能的に死人と判断してしまい、驚いた。それほどまでに彼女の顔に血の気がなく、青ざめている。

 

「おいおい、冗談にしては面白くないぜ」

 冗談だと言ってくれよ、と縋るように彼女は叫んだ。言葉の端を震わせて、机を強く叩く。

「たかが変な城が出てきただけじゃないか。それで何で死ななきゃならない」

 

 さっきまで、どこか他人事で、心ここにあらずといった様子だったが、彼女は急に感情を露わにした。思い切り手を打ち付けた机が悲鳴をあげ、文字通り飛び跳ねる。こんな所にも影響が出ているのか、と少しは驚いてほしい。

 

「何とか言ったらどうだ!」

「そういう運命だからよ」

 

 面倒くさくなった私は、適当に彼女を突き放した。が、絶望に打ちひしがれ、何をするか分からない彼女を放っておくわけにもいかず、しぶしぶ説明をすることにした。意外に面倒なことになったわね、と愚痴を零すことも忘れない。

 

「輝針城を出したのは別にどうでもいいわ。ただ、そこから溢れている力が問題なのよ」

「きしんじょう? ちから? あの城に力なんかあるのか」

「違うわよ。あの城が何なのか、もしかして知らないの?」

「それを調べるためにこの本を貰ったんじゃないか」

 

 正邪は床に落ちた本を拾い上げ、表紙をぱんぱんと強く叩いた。本をあげた覚えは無いし、そんなに強く叩いてほしくないが、今はそれどころじゃない。正邪が持っている本をまじまじと見る。薄く、そして小さな子供用の絵本だ。表紙にはでかでかと一寸法師と書かれている。

 

「そんなちんけな本で一体何が分かるというのよ」

「おい、私の本にケチをつけるのか」

「私の本よ」

 

 ため息を隠すことができなかった。彼女は事の重大さを理解していないのか。それとも理解していて、そんな頓珍漢な行動をとっているのか、分からない。

 

「そもそも、あなたはあの城とどういう関係なの? もし当事者なら、そんな冗談を言ってないで真面目に対策しないと、目も当てられないことになるわよ」

「冗談? 私は冗談なんて言った覚えはない」

「本気でその絵本を参考にしようとしたの?」

「そうだ」

 

 呆れて声を出すこともできない。幻想郷を混乱に落としうる城を作り出しておいて、絵本でどうにかしようなど、愚かにもほどがある。いくら弱小妖怪といえど、そこまでとは思いもよらなかった。

 

「馬鹿ね。そんな本でどうにかなるなら焦る必要なんて無いわ。もう少し頭を使いなさいよ。もっと専門的な古文書なら右に積んであるわよ」

 

 丁寧にその本を何冊か取り出し、彼女の前へもっていってあげた。が、当の本人は腕を組み、ソファに身体を沈めている。私に向かいわざとらしく鼻で笑い、手をひらひらと振った。

 

「馬鹿だな。これだからお前らみたいな視野狭窄に陥っている強者は。もう少し頭を使えよ。私は弱小妖怪だぞ。お前らみたいに長生きでも無ければ、際立った知恵もある訳じゃない。人望なんてもってのほかだ。そんな私が古文書なんて読める訳ないだろ。私にはな、こんなちんけな絵本しか頼れるものがねぇんだよ。今まで、そんな綱渡りみたいな人生を送ってきたんだ。立派な図書館に引きこもって、溢れ出る才能で無双して、ただただ知識欲を満たしているようなお前には分からんだろうがな、私たち弱小妖怪はすべてを犠牲にしてでも生きるのに必死なんだよ。私たちにはな、資格が無いんだ。何の資格か分かるか?」

「さあ、古文書を読む資格かしら」

 

 自嘲気味に笑みを浮かべ、次々に言葉を発する正邪に、私は面食らっていた。忘れかけていたが、彼女が天邪鬼だという事を再認識する。天邪鬼は面倒くさいが、怒らせるとさらに面倒くさくなる。それがよく分かった。

 

「古文書なんて読む機会のある奴の方が珍しい。もっと根本的だ。幸せになる資格だよ。私たちにはそれがない」

「なんで、そう決めつけるのかしら」

 

 彼女に反論したのは、何のことは無い。このまま彼女の好きなように話されるのが癪だったからだ。反骨心と言ってもいい。もしかすると、自分が強者であるという立場に胡坐をかいていると、暗に言われたような気がして、腹が立っていたのかもしれない。が、いずれにせよ、ほんの軽い気持ちで私は言った。

 

「そんなことを決めつけるのは、酷いんじゃない? もしかすると、あなたが知らないだけで、弱小妖怪でも幸せに暮らしている奴がひとりくらい」

「いない」

「でも」

「いないといっているんだ!」

 

 彼女の声で、図書館がビリビリと震えた。本棚に声が共鳴し、部屋全体が細かく震えている。正邪に目をやった。俯いている彼女は、弱小妖怪であるはずなのに、なぜか威圧感を放っていた。部屋の震えは、彼女の怒りによって起きているのだと、半ば本気で信じそうになるくらいだ。

 

「いいか、よく聞け。弱小妖怪はな、虐げられる星の元で生まれてきてるんだよ。お前らの好きな言葉でいえば運命だ。そういう運命なんだ。どんなに善行を積んだところで、どんなに自分を犠牲にしたところで、バッドエンドしかないんだよ。お前らが何気なく使いつぶしてる日用品ですらな、私たちは命がけで手に入れてるんだ。お前、土を喰ったことあるか? 腐った猫の死骸を喰った事があるか? 自分の吐しゃ物を喰った事はあるか? ないだろ。そんなことまでしないと私たちは生きていけなかったんだよ。分かるか?」

「分かりたくないわね」

 

 叫ぶでもなく、呪いを呟くように抑揚なく言葉を紡ぐ彼女は不気味だった。正直に言えば、久しく感じていなかった恐怖という感情を思い出すほどだった。いったい彼女の身に何があったかは分からない。だが、何かによって彼女の心が壊れる寸前だという事は分かった。

 

「私たちにはな、何も無いんだ。力がないだけじゃない。信じられる友人も、頼れる仲間も、お前らが大好きな家族だって中々手に入らないんだよ。それこそ、願い事で友達が欲しいって願う程な。でもな、そういうものも大抵誰かに奪われるんだよ。そういう奴らは大抵強者なんだ。自覚的にしろ無自覚的にしろ私たちが必死に守ろうとしたものをあっさり奪い、蹂躙し、捨てる。そういう仕組みなんだよ。ああ、そうだ。あいつらは、そうやって捨てられていったんだ。ほんの僅かな幸せを願ったばかりにな、死んだんだよ。分かるか? お前らが当たり前だと思っている家族を守ろうと、弔おうとするばかりに、あいつらは死んでいったんだ。それでなんだ。今度は、今度はあいつすら奪おうというのか。殺そうというのか!」

 

 目に涙をためながら、力強く唾をとばす彼女を前に、私は何も言葉を発することができなかった。いったい、何が彼女をここまで追いつめたのか、何が琴線に触れたのか、と客観的に考えるように努める。そうしなければ、彼女の感情の波にのまれてしまいそうだった。自分が今、どんな表情をしているか分からない。顔に手を当てる。微かに濡れた頬に、指が滑っていく。まさか、天邪鬼の言葉なんかで、私は泣いてしまったのか。

 

 目を擦ると、彼女の背中に、三人の人間が立っているように見えた。よく似た二人の女性と、一人の老人だ。彼らが憎々しげに私を睨んでいる。その顔は誰もが青白く、間違いなく死人のそれだった。見慣れているはずなのに、鳥肌が立つ。“こいつに怪我をさせてみろ、ただじゃおかねえからな”聞いたことのないしわがれた声が耳に響く。怨霊かと思ったが、それとも違う。私にしか聞こえない幻聴の類だろうか。もう一度目を擦ると、その人影は消え去っていた。

 

 強張っていた体の力が抜ける。正邪の鬼気迫る表情が目に映った。弱小妖怪の実情なら知っていたつもりだった。この世は弱肉強食。力ないものが淘汰されるのは当然のことで、そしてそれに対して何の感慨も抱いていないし、事実今もそうだ。私には必要ないが、人間だって豚や牛という弱者を捕食して生きている。だったら、妖怪が人間を、大妖怪が弱小妖怪を糧に生きるのだって普通のことだし、悪いことではない。頭ではそう分かっていた。今、正邪に力を貸すのは、ただの傲慢だ。彼女よりもっと悲惨な目に遭っている弱者など掃いて捨てる程いる。そう分かっていた。が、私の意思とは無関係に口が勝手に動く。

 

「長生きでも無ければ、際立った知恵もある訳じゃない。人望なんてもってのほか。だから、こんなちんけな絵本しか頼れるものがない。そう言ったわね」

「ああ、言ったよ」語気を強めた正邪は、まだ怒りが沈まっていないようだった。私に対してではなく、私の後ろにある何かに怒っているような、そんな気がした。

「だからどうした」

「私を頼りにしてもいいのよ」

 

 怒りの形相のまま、彼女は固まった。きっと、私も間抜け面で固まっているだろう。こんな嫌味で、救う価値のないような妖怪にこの私が手を貸すなんて信じられない。冷静に考えれば、今すぐにでも冗談よ、と言うべきなのだろう。けれど、なぜか私の口は思うように動かなかった。まさか、同情したわけじゃないわよね。頭の中でそう問いかける。同情なんてしていない。私がこんな妖怪に手を貸す必要もない。じゃあ、どうして? 魔女は常に論理的であるはずよ。その通りだ。でも、理由ならある。

 

「今回の異変で、あなたが何をして、どういう立場にいるかは知らない。けれど、紅魔館の動かない大図書館。七曜の魔女として約束するわ。私はあなたに協力する」

「どうして」

 

 机を手に置いたまま佇んでいる正邪に向かい、手を伸ばす。彼女の顔は相変わらず死人のように白く、生気が宿っていない。怒りを露わにしていたにも関わらず、一切顔に赤みが見られない。

 

「レミィよ」

「は?」

「“しばらく正邪の面倒を見てくれ”ってレミィに言われたの。親友の頼みは裏切れないでしょ?」

 

 今思えば、レミィの言ったしばらくという言葉は、私の思ったよりも遥かに長い期間なのかもしれない。とんだ貧乏くじだ。だが、それも悪くない。

 

「なんで紅魔館の主は私にかまうんだ」

 

 吐き捨てるように彼女は笑った。どうせ、お前らも裏切るんだろ、と諦観している。本当に何があったのよ、と聞きたかったが、止めた。今の彼女は、きっと答えてくれないと思ったからだ。その代わり、くるりとその場で回り、宙に浮く。暗い顔の彼女を見おろしながら、気取った態度で唇を撫でた。

 

「そういう運命だからよ」

 

 

 

 

――天邪鬼――

 

「そういう運命だからだ」

 

 目の前で、ぎゃあぎゃあと喚いている針妙丸にそう告げた。だが、どうやらそれでも納得いってないらしく、ああだこうだと文句を言っている。こんな時なのに無邪気なものだ。

 

「いいじゃん別に! 遊んでくれたって」

「嫌だ」

「えー」

 

 小槌を針妙丸に振らせた後、一度紅魔館に寄った私は、輝針城へと来ていた。不機嫌な針妙丸を無視し、近くの窓から外を覗き込む。空はもう暗くなっていた。地上を見下ろすと、人里の明かりがちらちらと見える。あれのどの光が寺子屋なのだろうか、と探すもすぐに諦めた。

 

「でも、意外だったな」

「何が?」

「逆さの城なのに、中は普通だってことだよ」

「そりゃあ」

 

 針妙丸がぴょんと跳ねた。癖なのか、身体を大の字にしてその場でくるくると回る。今の彼女がやると、酔っぱらった大人がふざけているようにしか見えなかった。

 

「部屋まで逆さまだったら、住みにくいでしょ」

 

 答えになってないような針妙丸の言葉を無視し、鶏ガラのことを思い出す。紅魔館での鶏ガラは、いつもに比べ少しやつれていた。元々骨のように生気がない彼女であったが、一段と疲れているようだった。そんな彼女の忠告を思い出す。真面目に対策しないと、大変なことになる。しかし、誰がどう見ても今の私たちは真面目という言葉からは程遠かった。

 

「というか、正邪一回ここに来てるじゃん」

「そうだったか?」

「ほら、なんか小槌をカメラで撮ってたよ」

「ああ」

 

 確かにその時来ていた。が、あまりに焦っていたため、ほとんど覚えていなかった。つい最近のことなのに、はるか昔のようにも感じる。

 

「楽しみだね、下克上!」

「そうだな」

 

 今や、私と同じ背丈になってしまった針妙丸に目をやる。右手に打ち出の小槌を持ち、それを軽々と振り回していた。打ち出の小槌が一体どのくらい恐ろしいものか知らずに、おもちゃのように気軽にくるくると弄んでいる。

 

「それにしても、やっぱ変だよな」

「変って何が?」

「お前」

「酷い!」

 

 ぷんすか! と怒りながら、私に文字通りつっこんでくる。手に握った打ち出の小槌を放り投げ、腹に突進してきた。ボスンと鈍い音を立て床に落ちた小槌を見て、肝が冷える。焦りと恐怖で体が固まり、届かないにも関わらず反射的に手を伸ばした。

 

 だが、何を勘違いしたのか知らないが、針妙丸は私と同じように両手を広げ、鳥のような格好で私に飛び込んだ。小さい時の頃と同じくらいの勢いで体重をかけられるので、当然支えきれるはずもなく、そのまま床に押し付けられる。ギシギシと木が軋む音が聞こえ、そこでやっと彼女の手が私の腰にまわっている事に気がついた。懐に隠している物がばれないかと、不安になる。

 

「おい、私に下克上しても意味ないぞ」

「正邪が私のことを変とかいうからじゃん」

 

 怒っていると言いたいのか、頬を膨らませながら不満を口にしているが、その目からは喜びが溢れ出ていた。理由は容易に想像できる。小さかった昔の自分では、私の膝までしか届かなかった手が腰にまで伸びているのが嬉しいのだろう。なんとも単純だ。

 

「変ってのはあれだよ、お前の背だ」

 

 えー、とよく分からない声を漏らしている彼女を私は見ていなかった。床に落ちた小槌を見つめ、それから自分の懐にこっそりと手を伸ばす。ほっと胸を撫で下ろし、焦った昔の私に文句を言いたくなった。大丈夫だと分かっていたのに、手を伸ばしてしまった事が悔やまれる。打ち出の小槌の恐ろしさを、私は身に染みて感じていた。文字通りで、だ。

 

「どうして私の背が変なの? むしろ、普通になったでしょ」

 

 こてんと首を傾げた彼女は、頭のお椀が気になるのか、手で弄っていた。そのお椀はもはや鍋くらいの大きさになっている。間違いなく、幻想郷最大のお椀だ。

 

「だから変なんだよ。小人の身長が普通だったら、おかしいだろ」

「そうかな?」

「そうだ。背の大きい小人、空飛ぶ魚、昼行性の吸血鬼、全部おかしなものばかりだ」

「そこまで変じゃないよ!」

 

 私にまたがったまま、針妙丸はポカポカと胸を叩いてきた。大して痛みは無いが、無視できるものでもない。左手で体を起こし、彼女を振り払う。鶏ガラに怪我を治してもらっていなかったら、こんな風に起き上がれることもできなかったはずだ。そう思うと、恐ろしい。

 

「変なんだよ。お前だって、頭突きをしない慧音がいたら、驚くだろ?」

「それは……驚くけど」

「それと一緒だ」

 

 そうなのかな、と納得したのかしてないのかよく分からない声を出した彼女は、そんなことより! とまた声を張った。どこからそんな声が出ているのか分からないが、鼓膜を直に殴りつけるような、暴力的なまでの大声だ。もしかすると、彼女が窮地に陥った時は、大声で叫べば、相手を失神させることもできるのではないか、とそう思うほどだった。

 

「そんなことより、遊んでよ!」

「だから、嫌だと言っただろう」

「いいじゃん、どうせ暇なんだし」

「それはお前だけだ」

 

 地面に寝転び、駄々をこねるように転がる彼女に目を落とす。いくら体が大きくなろうが、根は子供のままだ。

 

「でも、正邪も悪いよ。セキニンってやつがあると思う」

「ねぇよ。何だよ責任って。説明してみろ」

 

 口にはしたものの、どうやら責任という言葉の正しい意味は分かっていないようで、あのねあのね、としどろもどろに口を動かしている。

 

「セキニンっていうのは、えっと、あれでしょ。お祝い事の時に食べる、あのもちもちした」

「それは赤飯だろ、馬鹿じゃねぇの」

「うるさい! どっちも似たようなもんでしょ!」

 

 へそを曲げてしまった彼女は、そっぽを向き、「だったら、悪いことをした人が来たら赤飯をあげればいいじゃん」と支離滅裂なことを言った。

「責任をとって、赤飯を食べさせるのか? それ、逆に喜ばせるじゃねぇか。毒でも盛るのかよ」

「そうだよ!」

 

 私の言葉をまともに訊いていないのか、彼女はそれ以降なにを言っても生返事しかしなくなった。相も変わらず頑固者だ。こんなところばかり彼に似てしまって、不憫としか言えない。

 

 畳に座り込み、私と目を合わせようとしない針妙丸に構うのを止め、部屋を見渡す。呆れるほどに広く、そして豪華な城だ。緑のい草を敷き詰め、そこに黒と金の混じった漆のようなもので線を引き、最後に梅の花の香りを練り込みました。そう言われても違和感がないほどに、部屋中に高貴さが漂っている。正直にいえば、落ち着かない。それはどうやら針妙丸も同じようで、部屋を見渡してはどこか不満そうに頬を膨らめた。

 

「やっぱ、暇だよ。なんで外に遊びに行っちゃいけないの?」

「なんでって」

 

 当然、危険だからに決まっている。だが、直接そのことを伝える訳にはいかない。そう伝えると、彼女は必ず「何で?」と聞いてくるだろうし、そうなると、私は確実に答えることができないからだ。

 

「ねぇ、いいでしょ。晩御飯までには帰るからさぁ」

「駄目だ」

「いいじゃん!」

 

 ばさりと着物を翻し、身体をバタバタと床に打ち付けている彼女は、小さかった時はただの子供のおふざけにしか見えなかったが、今では川際に打ち上げられた魚のようだ。

 

「いいか、よく聞け。晩御飯までには帰るって言葉は信用しちゃいけないんだよ」

「そうなの?」

「そうだ。絶対に誰にも言わないからって約束する奴と同じくらい信用してはいけない」

「なんで?」

 針妙丸は不思議そうに首を捻った。

「考えてもみろ。晩御飯がいつできるかなんて、分からないだろ? それに、いつの晩御飯か言ってないじゃないか。これだと、別に今日じゃなくて、違う日だとしてもおかしくない」

「おかしいよ」

「おかしくない。だから、そもそも晩御飯までに帰るとかなんとか言った時点で、お前はもう外に遊びに行く権利は無くなってんだよ」

 

「えー」と眉を下げた針妙丸だったが、「でも、正邪は今さっき紅魔館に行ってたじゃん」と恨めしげに見つめてくる。その目は半分閉じられており、非難するというよりは、呆れているようだった。

 

「私はいいんだよ」

「何で?」

「晩御飯までに帰るってのは、温かいうちにご飯を食べれるために帰るってことだ。おいしく食べるために」

「そうだね」

「私は別に、もうその必要がないからな」

「正邪は美味しいご飯を食べられなくてもいいってこと?」

「ああ。今はそれどころじゃない」

 

 私はまた嘘をついた。できれば、美味しくご飯を食べたいに決まっている。しかし、それは過ぎた願いだ。毎日食事ができ、生きていけることだけで私たち弱小妖怪にとっては幸運といえる。それ以上を願うのは高望みというものだ。だから、後悔なんてしていない。

 

 まだ少し納得していなかったようだが、膨らませていた頬からふしゅぅと空気を抜き、分かった、と頷いた。

 

「正邪がそこまで言うなら、止めとく」

「そうしろ」

 

 とぼとぼと立ち上がり、私にもたれかかるように座り込んだ彼女の重みを感じながら、窓の外を見やる。地上よりもかなり上に浮いているはずだが、星との距離は相変わらず遠い。弱者と強者の差も、同じようなものなのだろうか。絶対に手が届かないのだろうか。そんなはずはない、と自分に言い聞かせる。そうしなければ、心が折れてしまいそうだった。

 

「あ、あれって、もしかして人じゃない?」

 

 そんなことを考えていると、針妙丸が突然声を上げた。あまりにも急だったため、体が震え、隣にいた針妙丸の背中に肘をぶつけてしまう。が、彼女は痛がる素振りもなく、けろりとしていた。

 

「やっぱり。あれは絶対人だよ。ほら見てみて!」

 

 頬と頬をくっつけるようにして私の顔の位置を変えた針妙丸は、窓の外を指差した。いやいやながらも、彼女の指の先に視線を移す。

 

 結論から言えば、窓の外に人はいなかった。当然だ。こんな深夜に外に出る人間なんていないし、そもそも空に浮かんでいる逆さの城に来られる方がおかしい。では、針妙丸が見間違えたのかといわれれば、そうでもない。確かに、輝針城の外には動く影があった。窓にへばりつくようにこちらを見て、何かを伝えようと必死に口を動かしている。しかし、肝心の内容は分からない。 

 

 そいつは、縦にくるくると巻いた髪を棚引かせていた。和装にスカートという奇妙な格好をしており、ひらひらと白いフリルが印象的だ。暗くてよく見えないが、青い髪が良く似合う少女。ぱっと見はそう見えた。だが、実際はただの少女ではない。明らかに異常な点が何か所かあった。

 

「背の高い小人はおかしいと言ったけど」

 

 まず、その少女には耳がなかった。本来耳がある箇所には先のとがった、ヒレのようなものがついている。だが、それよりも圧倒的に印象的だったのは、足だ。

 

「まさか本当に空飛ぶ魚がいるとはな」

 

 彼女の足は、魚の尾びれと全く同じだったのだ。



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迎合と別離

 更紗灯弾さまから素敵なイラストを頂きました。本当にありがとうございます。
【挿絵表示】



――白沢――

 

「踏んだり蹴ったりっていう言葉があるじゃないですか」

 似合わない白装束を来た烏が、私たちに向かい、そう愚痴を零した。

「でも、あの言葉って普通に考えれば“踏まれたり蹴られたり”だとは思いませんか」

 

 早朝の人里の大通りで射命丸に絡まれるとは思わなかった。冬の朝は肌寒く、私なんかは中に重ね着をしてるというのに、彼女は本当に白装束しか身に着けていないようだった。にも関わらず、全く寒そうな様子はなく、むしろ溢れ出る熱が抑えきれないといった様子で私たちに話し続けている。

 

「だから、勇敢な私はそう伝えてあげたんですよ。踏んだり蹴ったりするのは別に苦ではないですよって。そうしたら、大天狗様が」

 

 そこで、ようやくなぜ彼女が私に話しかけてきたかが分かった。この前の妖怪の山の会議で、うっかり私が射命丸と正邪とのあの事件について口をすべらせてしまったのだ。そのせいで大天狗に叱られたのだろう。気の毒だとは思うが、自業自得だ。

 

「大天狗様がですよ、踏んだり蹴ったりするのが苦じゃないのなら、萃香さまを踏んだり蹴ったりするまでは、天狗の装束を着るのを禁止する、とか言い出しましてね。他の連中もそれに悪乗りしだしまして」

「それで、そんな恰好なのか」笑いを堪え切れないといった様子で、妹紅が訊いた。

「そうなんですよ。まさに踏まれたり蹴られたりです」

「私はてっきり、新聞に訃報がのっているのかと思ったよ」

 

 そうでは無かったと分かり、安堵の息を吐く。もし、新聞の雰囲気に合わせて、その格好にしたとか言われてしまったら、彼女の新聞を地面にたたきつけるところだった。と、思っていると、「いえ、白装束を選んだのは新聞の雰囲気に合わせたんです」と平然と彼女は言ってのけた。

 

 受け取った新聞を右手に持ちかえ、思い切り地面にたたきつける。ぼふんと砂煙が舞い、新聞に茶色の染みがついた。少しの罪悪感に襲われる。

 

「あややや、何するんですか」

「それはこっちの台詞だ。不謹慎にもほどがあるだろう」

 

 射命丸は本当に何が悪いか分からない、といった様子で首を傾げた。ぽかんとしている彼女を見て、また妹紅が笑う。

 

「駄目だよ慧音。そこんとこは伝わらない。人間と妖怪の人生観は絶対に違うんだ。むしろ、

 お前と正邪が人間よりなのが異常なんだよ。妖怪は知らない奴の死なんてまるで気にしないし、弔いもしない」

 

 そんなことはないですよ、と否定する射命丸は、なぜか少し不満げだった。が、すぐに、もしかして新聞が売れない理由はこの格好なんですか、と大袈裟に驚き、翼を震わせ始める。

 

「確かに、それもあると思う」

「やっぱ、そうですか! 変だと思ったんですよ」

 

 あやや、と声を上げながら頷いた彼女は、私が投げつけた新聞を拾い、ぱんぱんとはたいた。そして、それをもう一度私に差し出してくる。ブン屋としての執念を感じた私は、断る事なんて出来なかった。

 

「こんなに質がいい新聞なのに、どうして売れないかと不思議だったんですが、そういうことだったんですね」

「それは単純にお前の新聞がつまらないからだ」

 

 はっきりと断言した妹紅は、私の手から新聞を奪いとると、乱暴に開き、読み始めた。なんだかんだ言いつつも、しっかりと内容を確認する彼女はやはり優しい。

 

 妹紅に顔を寄せ、私も新聞を読む。てっきり、正邪が野菜を盗んだという情報が載っていると思ったが、違った。全ての記事を丸々使い、人里の民家で一人の女性が亡くなったことについての論評を延々としている。その民家の具体的な場所は書かれていないものの、ピントを意図的にずらした写真は掲載されていた。それだけでも、大体の位置は把握できた。とはいっても、具体的に誰が亡くなったかまでは分からない。

 

「私はてっきり、正邪のことをやると思ったよ」悪びれもせず、妹紅が嫌味をぶつけた。

「そういうのに烏共は目がないからな」

「やりませんよ」

 

 浮かべていた嘘くさい笑みを急に消した射命丸は、冷たくそう言った。怒るでも、茶化すでもなく真面目にそう言ったのだ。あの烏天狗の射命丸が、だ。

 

「私の新聞は、清く正しくっていう理念でやってるんですよ」

「そういえば、いつの日か言ってたな」

 

 記憶を辿り、言われたのはいつだったかと過去の場面を振り返っていると「あの、赤黒く変色した死体の時ですよ」と感慨深そうに射命丸は言った。

 

「もう懐かしく感じるな。あの甘味屋の時か」

「懐かしの甘味屋ですね」

 

 少し表情をやわらげたかのように見えたものの、あの時も言いましたが、と彼女は語調を強くした。

 

「清く正しい新聞に、正邪が野菜を盗んだなんて内容は書けないんですよ」

「どういうことだ?」

「そんな嘘情報載せられるわけないって言ってるんですよ」

 

 僅かに眉を上げ、息を荒くした彼女は、苛立っているのか、強く地面を蹴った。見開いた眼からは、吸い込まれそうなくらいに真っ黒な瞳がこちらを覗いている。反射した私の顔は、確かに怯えきっていた。

 

「お前も正邪が犯人じゃないと思うのか」

 

 震える声を奮い立たせ、私はそう言った。後半は言葉尻が詰まり、言葉にすらなっていなかった。

「あの弱小妖怪にそんな度胸があったら、もっと出世してますよ」真っ黒に曇った空を見上げた射命丸は、口元を緩めた。ですよね、と屈託のない笑みで私たちを見つめてくる。

 

 私の胸に、何か熱いものが込み上げてくるのが分かった。何人に彼女の無罪を、私の罪を言い続けたのだろうか。それでも彼らは認めてくれなかった。正邪は悪で、私は善で。それだけはどうしようもないくらいに変えられないことだと、そう思っていた。だが、彼らは知らない。この世に善悪を明確に区別することはできないのだと。強いて言うのであれば、明確に区別しようとする奴こそが悪だということを、知らないのだ。そして、その知らない内の一人が私だった。

 

「それに、この事件はそんなガセネタより遥かに興味深いんです」

「おまえ、そっちが本心だろ」

 

 妹紅の突っ込みに、あややと微笑んだ彼女は、まあそうですが、と笑った。それが本気であるのか、それとも照れ隠しであるかは分からない。きっと、彼女自身も分かっていないだろう。

 

「そういえば、私まだ朝ご飯食べてないんですよね」

 

 わざとらしく腹を撫でた彼女は、ちらりと私を窺った。あまりにも唐突だったため、一瞬呆然としてしまったが、物言いたげな彼女を見て、ようやくその意図に気がついた。場所を変えたい、ということだろうか。だったら、素直にそう言えばいいのに。

 

「久しぶりに行きませんか?」

「行くってどこへ」

 

 そうは言いつつも、私は彼女がどこに行きたいのかは想像がついていた。

 

「そりゃ、懐かしの甘味屋へ」

 

 

 

 

「やっぱり、甘味も値上がりしてるんだな」

 

 高い高いと大袈裟にはしゃいだ妹紅は、まあ、私は死んでも大丈夫だから、遠慮しておくよとメニュー表を私に突き返した。

 

「別に遠慮しなくてもいいんだぞ。金は払うんだし」

「いいんだいいんだ。それに、私たちは甘味を食べにここに来たんじゃない。そうだろ?」

 辺りを見渡した妹紅は、私の肩を叩いた。

 

 甘味屋にはほとんど人がいなかった。朝ということもあるが、単純に甘味屋に行ける余裕のある人が減ってきているのだろう。少しのおはぎを買うよりも大量の雑穀を買いたい。今はそういう時なのだ。だが、秘密の話をするにはうってつけといえる。

 

 私たちが射命丸とここに来た目的は、ただの雑談以外にもあった。無くなった打ち出の小槌の情報を、彼女から引き出したかったのだ。いったい彼女がどれだけの情報を握っているかは未知数だったが、今は藁にもすがりたかった。ただ、残念なことに掴むことができたのは藁ですらなく、烏だったというわけだ。

 

「それで、この新聞の記事ですが」

 どう切り出そうかと思っていると、射命丸が先に口火を切った。

「気になりませんか?」

「気になるかならないかでいえば、そりゃ気になるけど」新聞から目を逸らしながら、妹紅は曖昧に答えた。

「でも、その女性は純粋な病死だったんだろ」

「純粋な病死、ですか。まあいうなればそうですけど、気になる点はそこではなく、その息子の方です」

 

 ここです、と新聞を指差したが、私も妹紅も見ようとしなかった。ただですら正邪の件で精神的に疲弊しているのに、これ以上いやな事件を目にしたくなかったのだ。

 

「息子の方が姿をくらましているらしいんですよ。不思議じゃないですか?」

 謎です、と言い切った射命丸は、大きな声でおはぎ下さーい、と叫んだ。厨房の奥から威勢のいい返事が聞こえてくる。

「その息子さんはいくつなんだ」

「数え年で7歳らしいです」

「幼すぎるな」

 

 とても一人で生きていけるとは思えないほど、幼い。そんな子が母を病気で亡くし、そして姿をくらませた。確かに気がかりだ。

 

「その少年の名前は分かるか?」

「おそらく、三郎という少年です」

「慧音。寺子屋の生徒でそんな名前のやつっていたか?」

「いや、いない」

 

 一先ず、自分の受け持っている生徒ではないことが分かり、胸を撫で下ろした。そしてすぐに、その行為自体に嫌気がさす。自分の知っている子供であろうとそうでなかろうと、いなくなった事実は変わらない。目を背けてはいけない。

 

「分かった。私たちの方でもその少年を捜してみるよ」

「見つかったら絶対連絡くださいね。記事にしますから」

 

 死体でもいいですから、と笑う彼女の言葉は冗談だと聞き流し、そのかわり、と指を立てた。妹紅が頷いているのが視界の端に映る。

 

「そのかわり、私たちからも探してほしいものがあるんだ」

「何ですか。半獣のいい所ですか。確かに難問ですね」

 

 おい、と声を上げた妹紅をなだめ、射命丸に向き合う。どうやら怒る妹紅を写真に撮りたかったようで、今の一瞬でカメラを出し、シャッターを切っていた。幻想郷最速という異名をまさかこんな形で理解するとは。

 

「私のいいところよりも、きっと探すのは大変だ」

「無い物を探すことより難しいことがあるんですか?」

「打ち出の小槌って知ってるか?」

 

 馬鹿にされたと思ったのか、眉を少し引きつかせた射命丸は、にこにこと笑い「私は寺子屋の生徒ではないのですが」と言い捨てた。そうじゃない、とゆっくり息を吐く。

 

「打ち出の小槌は実在するんだ。そして、それが無くなった」

「面白くない冗談ですね」

 

 下唇を突き出し、これだから半獣はと楽しそうに笑った彼女だったが、無言で顔をしかめる私たちを見て、ようやく事実だと気がついたようで、本当ですか、と小さく呟いた。

 

「本当だ。私の部屋から打ち出の小槌が盗まれた。私たちはそれを捜している」

「ビッグニュースじゃないですか」

「そうだ。だから、騒ぎが大きくなる前に、人里に更なる不安を与える前に回収したい。絶対に口外するなよ」

「分かってますよ。こう見えて私、口が堅い方なんです」胸を張った彼女は、目を輝かせて私の手を握った。

 

 へい、お待ちと男の店員がおはぎを持ってくる。この前来た時よりも、サイズが小さくなり餡子の量も減っている。店員の顔を見上げると、頬が少しこけていた。

 

「やっぱり、大変そうだな」

 

 大変そうという抽象的なことしか言えない自分が嫌になる。が、それ以外に今の現状を表す言葉も見つからない。

 

「そりゃあ大変ですよ。なんていっても食うもんが足りて無いんですから」

「だよな」

「まあ、でも」

 中年男性特有の、人の良さそうな笑みをみせた店員は恥ずかしそうに前髪を撫でた。

「野菜を盗んでいた鬼人正邪が退治されたらしいですから、これからマシになるでしょう」

 

 妹紅が息を飲むのが分かった。私は知らず知らずのうちに、席を立っている。照れくさそうに笑っている店員に近づき、首を掴もうとして、何とか思いとどまった。この店員に悪意がないのは分かっていた。きっと、そういう出来事があったと誰かから聞いたのだろう。だから、怒りをぶつけるのはお門違いだ。

 

「もし、その弱小妖怪は野菜を盗んでいないといったら、信じるか?」

「え?」

「鬼人正邪の持っていた野菜は、私が持ってこさせたといったら、信じるか」

 

 気を抜けば、その場で声を荒らげてしまいそうだったので、必死に口に力を入れる。目の前の店員の眉が下がったのが分かった。陽気さと真面目さが同居していた店員の顔から、そういった感情がごっそりと抜け落ち、不安に満ちた表情に変わる。大の大人がおろおろとし、口をぱくぱくとさせていた。が、しばらくすると、はっと目を見開き口元を緩める。

 

「慧音先生」

「なんだ」

「面白くないですよ」頼みますよ、と縋るような声で店員は言った。

「そんな冗談はまったく笑えません」

 

 分かっていたはずなのに、心の中の何かが崩れ落ちていくのが分かった。いや、違うんだ。と小さく呟いたものの、彼に聞こえてはいない。正邪はやっていない、と大声で叫びたい衝動に駆られる。が、そうはできなかった。

 

 いま、人里の支えとなっているのは、根拠のない希望だ。正邪が退治されたから、卑劣な野菜泥棒が退治されたから、食糧問題も解決するだろうといった、虚構に満ちた希望。それを私がへし折ってしまえば、人里はそれこそ今より大変なことになる。人里の守護者として、それは避けなければならないことだった。

 

 私のとなりで悲しそうに目を伏せる妹紅の肩を撫で、射命丸に目をやる。彼女は、一切の怒りも悲しみも見せず、美味しそうなおはぎですね、と目を輝かせていた。何を考えているのか分からない。

 

「困窮する人間が作る贅沢品は本当に美味しいです」

「それ、嫌味か?」妹紅がつまらなそうに訊いた。

「嫌味なんかじゃないですよ。ただ、自分ですら満足に食事ができない中、他の人の食事を作るのはどんな気分なんだろうか、と想像すると面白くて」

 

 気まずそうに頭を掻く店員に向かい、射命丸は笑顔で言った。にこやかに、歌うように言葉を紡いでいるが、目は笑っていない。ようやく私は彼女が怒っていることに気がついた。

 

「まあまあ、とりあえず話したいのは、小槌のことだから」

 

 手で店員に退くように合図し、射命丸の目の前におはぎを引き寄せる。おっかなびっくりと去っていった店員に心の中で頭を下げた。

 

「食料問題が解決すれば、きっと大丈夫だ」

 

 食糧問題の解決は時間の問題。妖怪の山の会議ではそう結論が出た。春になれば、全てが解決する。確かにその通りだ。だが、私が求めているのはそういうことではない。冬の被害をいかに無くすかが重要だ。ただ、残念なことに私にできることは皆を励ますことぐらいしかない。

 

「それで? 小槌がどこにあるか見当はついているんですか?」

 

 運ばれてきたおはぎを手で鷲掴みにした射命丸は、大きな口を開けながら、そう訊いた。その顔は飄々としたもので、さっきのことなど忘れているかのようだ。

 

「見当がついていたら、射命丸には聞かないさ」頬杖をつき、手をひらひらと振りながら妹紅が答える。

「私たちが知っているのは、寺子屋にはないってことぐらいだ」

 

 はぁ、とわざとらしく大きなため息を吐いた射命丸は、あのですね、と面倒くさそうに口を開いた。なんで私がこんなことを教えなきゃならないんですか、と半目で睨みつけてくる。

 

「普通、こういうのは他の人に頼む前に、自分で出来る限り探してみるんですよ」

「とはいっても、当てが」

「あるじゃないですか」

 

 右手を頭の辺りに持っていき、くるくると回した彼女は、くちゃくちゃと音を立てながらおはぎを咀嚼した。その仕草は、もっと頭を回せと注意しているのか、それともお前の頭はくるくるだ、と非難しているのか分からないが、呆れていることは確かだ。

 

「打ち出の小槌といえば、答えは一つでしょう」

「一つ?」

「小人ですよ」

 

 ガンと強く頭を叩かれたかのような気分だった。そういえば、と声が零れる。私は今まで、家に忍び込んで、打ち出の小槌を盗んだ奴はどんな奴か、そればかりを考えていた。だが、逆に考えれば。犯人を特定するのではなく、犯人が行きそうなところに先回りすればいいのではないか。分かってしまえば簡単で、どうしてもっと早く思いつかなかったのかと、自分を叱責する。

 

「行こう。針妙丸の家に」

「針妙丸?」妹紅が誰だそいつ、と呟いた。「打ち出の小槌と関係があるのか?」

 

 そういえば、妹紅は針妙丸と面識がなかったか、と驚きつつ「会えば分かるよ」と彼女に微笑みかけた。打ち出の小槌を見つける算段がついたことで、私は完全に浮足立っていた。

 

 だが、私は経験で知っていた。暗屈とした状態で、僅かながら差し込んだ光に胸を寄せた時、大抵なにか水を差すような出来事があると。その予感に従うように、外から何かが甘味屋に飛び込んできた。

 

 扉を押し倒すように突っ込んできたそれは、身体を大の字に広げ、扉に張り付くようにしてこちら側に倒れ込んできた。ドスンという音と共に、壁を切り抜いたかのようにできた四角い穴から、数人の男が押し寄せてくる。いつも頼りにしている自警団の団員だ。真剣な顔の彼らは、甘味屋に倒れ込んだそれを乱暴に蹴り、外に連れ出そうとしている。

 

「あややや、噂をすれば何とやらと言いますが」

 

 ぼこり、と嫌な音が甘味屋に響く。倒れているそれを自警団が踏みつけていた。それとは何か。正邪だ。正邪が自警団のみんなに蹴られている。

 

「久しぶりですね。それにしては、無様ですが」倒れ込んだ正邪に向かい、射命丸は楽しそうに微笑んだ。

 

「まさに、踏まれたり蹴られたり、ですね」

 

 

 

 

 

――魔女――

 

「何でも願いが叶う魔法の道具なんて、そんな都合のいい物ある訳ないじゃない」

「別にあってもいいだろ」

 

 天邪鬼としての本領を発揮していた正邪をなんとか宥め、打ち出の小槌の話を聞いた後、私は驚きのあまり声を荒げてしまった。まさか彼女の口からそんなメルヘンな考えを聞くことになるとは思わなかったのだ。おそらく、正邪自身も薄々世の中はそんなに甘くないということは分かっていたのだろう。が、それを認めたくないのか、私の言葉を中々受け入れようとしなかった。

 

 空に浮かぶ輝針城。正邪はその城と深くかかわっている。この事実だけですでに気が重くなった。しかも、レミィの嫌な運命の予言付きだ。

 

「あなた、一寸法師の童話は知ってるわよね」

「当然だろ。小人が鬼を殺して打ち出の小槌を使って幸せになる。ハッピーエンドだ」

「馬鹿ね」

 

 気のせいか、頭が少し痛くなってくる。すぐに回復魔法をかけるが、一向に痛みは変わらない。必要なのは精神安定剤のようだ。

 

「その後には少し話が続くのよ。一寸法師の末裔が小槌で自分の欲を叶え始め、最後に“豪華な城を建てて民を支配したい”と小槌に願って輝針城を造り上げたところで、小槌の魔力は尽きてしまうの。その途端、出現した輝針城は逆転し、民のいない鬼の世界へ小人族もろとも幽閉されてしまうっていう救いのない話がね」

 

 そんなことも知らないの、と危うく馬鹿にしそうになったが、なんとか飲み込んだ。思ったよりも深刻そうな彼女の顔を見ると、軽口をたたくことすらできない。

 

「だから、巫女に退治されるくらいならいいのよ。別に死ぬわけでもないしね。問題は小槌の代償。一種の呪いと言っても良いわ。小槌の魔力が切れた時、幽閉されてしまうのね。“民のいない鬼の世界”って場所がどんな場所か分からないけど、まあそう易々と返ってこれる場所じゃないでしょう」

「その代償ってのは」

 

 聞いていて不安になるくらいか細く、震える声で正邪は言った。顔はレミィのように青白く、信じられないくらいに表情がない。適温に保っている図書館にも関わらず、額に汗のつぶが浮かんでいる。

 

「代償ってのは、誰が負うことになるんだ」

「そんなの簡単よ」彼女にもまだ希望があるのだという事を強調するように、力強く口を開く。

「打ち出の小槌を振った小人よ。当然でしょ」

「嘘だろ」

 

 勢いよく立ち上がった正邪は机に飛び乗り、私に向かい手を伸ばしてくる。が、それを嫌がった机が自発的に倒れ、正邪もそれに巻き込まれた。痛てぇと頭をさすった正邪だったが、その目には怒りが浮かんでいる。

 

「何であなたに嘘をつかなきゃいけないのよ」

「敵を騙すにはまず味方からっていうじゃねえか」

「意味、違うわよ」

 

 憤る正邪をなだめようと、コップを取り出し、紅茶をいれた。心なしか、コップが楽しそうに跳ねているようにも見える。

 

「そんなにその小人が大事なら、危ない橋なんて渡らなきゃいいのに」

「……小人はどうでもいい。事情があるんだよ。私にはやらなきゃならないことがある」

「何? どうせ下らないことなんでしょう?」

「まあ、そうだな」

 

 眉間にしわを寄せ、顔を険しくした彼女は自分の拳を強く握った。私がやるしかない。多少の犠牲は仕方がない、と呪いのように呟いている。俯きがちな彼女の瞳には、もはや何も映っていなかった。

 

「こんな糞みたいな世界、ひっくり返っちまえばいいんだよ」小さな声で、吐き捨てるように彼女は呟いた。

「少しくらい、弱者が救われてもいいじゃねぇか」

 

 血を吐くように、苦しげな表情で言葉を紡いだ彼女は、一度大きく息を吐くと、まだその時じゃないと自分に言い聞かせるように嘆いていた。その時っていうのは大抵訪れないということを、私は知っていたが、口には出さない。代わりに、疑問を投げかけた。

 

「そういえば、不思議に思っていたことが二つあったんだけど」

「なんだよ」

「どんな願いで小槌を振ったの?」

 

 如何なる願いも叶える魔法の小槌。それがどんな願いを叶え、そして輝針城を顕現させたかに興味があった。

 

「友達ができますように、とかだったら、どうする」

「冗談でしょ」

 

 自嘲気味に、一度大きく鼻を鳴らした彼女は「これだから鶏ガラは」とだけ呟いて返事をしなくなった。

 

「そんな馬鹿げた願いだったら、私はあなたを尊敬するわよ。尊敬のあまり肖像画を額縁で飾ってあげる」

「友達なんて、金で買えるっての」

 

 軽口を言う彼女からは表情が消えていた。真顔で、半ば反射的に言葉を発している。流石は天邪鬼と言うべきか、それともこれだからと嘲笑するべきか、迷った。

 

「それで、もう一つの疑問ってなんだよ」

「え、ええ」

 真顔で床を見つめたまま正邪は訊いてきた。

「打ち出の小槌は小人しか扱えないでしょ? 幻想郷に小人がいるなんて、私は知らないんだけれど。どういう関係なの?」

 

 これが一番の謎だった。現れた逆さまの城と、溢れ出るおぞましい魔力から打ち出の小槌の影響だということはすぐに分かった。が、肝心の小人の存在が見えない。幻想郷の表舞台に立たないように、ひっそりと暮らして来たか、意図的に隠されていたか。いずれにせよ、好奇心が大いに刺激された。

 

「針妙丸と私の関係か」一瞬だが、ふわりと頬を緩ませた彼女は、何か楽しい夢でも見ているような、儚げな笑顔を浮かべた。

「あいつは、私にとって」

 

 幸せそうに語ろうとする正邪を遮るように、バタリと大きな音と共に図書館の扉が開かれた。何事かと目を向けると、そこには息を切らした美鈴が立っていた。なぜか全身から血を流し、片足を引き摺っている。

 

「いやぁ、失敗しました」あはは、と笑う彼女の声にはいつもの覇気がなかった。急いで彼女の元へと駆け寄り、治療をする。最近、誰かの怪我を治してばっかりだな、と思い、つい正邪を睨みつけてしまったが、彼女は気にしていないのか、ただやる気なく美鈴を見つめていた。

 

「いったい、誰にやられたのよ」

「そんなの、霊夢さんしかいないじゃないですか。暇つぶしでやられたんですよ」

「おいおい」

 

 たまらず、といった様子で正邪が声を荒らげた。ふらふらとおぼつかない足取りで美鈴に近づいていき、首元に手を置いた。

 

「巫女はそんなに暴力的なのかよ」

「いやぁ、どうですかね。あ、でも異変の関係者に対しては厳しい態度をとることが多いような気がします」

 

 黙り込む正邪の顔に、僅かながら焦りの感情が浮かんでいた。なぜ、彼女が焦る必要があるのかと首を捻る。

 

 美鈴の傷は思ったよりも早く塞がっていった。正邪の時とは大違いだ。彼女自身の治癒力も相まって、目に見え彼女に活気が溢れていく。数分経てば、彼女はいつもの調子を取り戻し、元気にアハハと笑い始めた。

 

「それで? どうして正邪さんは辛気臭い顔をしているんです?」

「さあ?」

「更年期ですかね」

「うるさい黙れ」

 

 天邪鬼に黙れと言われてしまってはおしまいですねと、楽しそうに美鈴は笑った。その姿は子供の様に無邪気で、純粋だ。子供。頭に浮かんだこの言葉をきっかけに、そういえば、まだ正邪と小人の関係を聞けていないことを思い出した。

 

「結局聞き逃してしまったけれど、正邪と小人はどんな関係なの?」

 

 なんの話ですか? と首をかしげている美鈴を無視して、正邪を真っすぐ見つめる。髪の毛をくしゃりとやり、唇をかみしめた正邪は、ゆっくりと口を開いた。

 

「私にとってあいつは」

「あいつは?」

「あいつはただの道具だ。私の願いを叶えるために必要だったから利用したに過ぎない。そういう関係だよ」

「あっそう」

 

 思ったよりもつまらない答えに拍子抜けする。ただ、同時にこの天邪鬼がそんなことをするか、と疑問が浮かんだ。このお人好しな弱小妖怪は、願いを叶えるために他者を踏み台にしたりするだろうか? 

 

「正邪さんの願いって何ですか?」

 

 にこにこと微笑みながら、美鈴が口を開いた。きっと、何も状況を理解せず、単純に雑談だと思っているに違いない。輝針城も小槌も彼女には伝えていないからだ。が、偶然にもそこで初めて私は結局彼女の願いについての質問の時、はぐらかされてしまった事を思い出した。

 

「私の願いは」

 

 目をきょろきょろと動かし、せわしなく足の位置を組み替えている正邪は、小さな声で逆に考えろ、と呟いた。

 

「逆。そう。この世の中を逆にしようと思ったんだ。ひっくり返すんだよ」

「ひっくり返すって、どういうことですか?」目を白黒させ、しきりに首を横にしながら、美鈴は訊いた。

「下克上ってことですか?」

「そうだ!」

 

 勢いよくそう叫んだ正邪は、下克上。最高に最低だな、と一人納得していた。なぜ楽しそうなのか分からない。そんな彼女とは対照的に、私は冷静になれ、と自分に言い聞かせていた。

 

 下克上。この言葉がさす意味はあまりにも広く、限定することはできない。だが、もしも。もしもこの幻想郷のしくみの根幹を揺るがすものであれば、流石に八雲紫も黙っていないのではないか。そんなうすら寒い予感がする。

 

「友人を作るのではなかったの」

「さあな」

 楽しそうに笑った正邪は、人の気も知らないで、平然と言った。

「敵を騙すにはまず味方からっていうしな」

「意味、違うわよ」

 

 

――天邪鬼――

 

 人魚、と聞けば普通はどのような印象を抱くだろうか。おそらくは、優雅で美しく、放漫な体と人を魅了する歌声で人間を虜にする魔性の存在。そんなことを考えるのではないだろうか。

 

「あの、始めまして、であってますかね」

「当たり前だろ、私はお前なんて知らない」

 

 間違っても、いま私の前で、おどおどと怯えるように周りを見渡している小魚のことを思い浮かべる人はいないはずだ。

 

 輝針城。私たちがいる空に浮かんだ逆さまな城を、鶏ガラはそう呼んだ。当然、ただの城ではなく、無駄に広く、そして迷路のように入り組んでいる。警備も万全の様で不審者が入ってこれば、様々な罠が発動するらしい。その不審者の判断基準は定かではないのが恐ろしいところだ。目の前で、ピチピチと跳ねている小魚は、どうやら不審者には該当しなかったようで、平然と輝針城へと入ってきた。警備という言葉の意味を、私ははき違えていたのかと、心配になる。

 

「私はわかさぎ姫といいます」

「姫! 私と同じだね」

 

 何が同じなのか分からないが、針妙丸はそうはしゃぎ、わかさぎ姫に勢いよく抱きついた。見るからに弱気なわかさぎ姫は、きっと、針妙丸の勢いに気圧されてしまうだろう、と考えていたが、予想に反し、元気がいいですね、と優しく微笑んだ。

 

「私、霧の湖に住んでいるので、妖精の扱いには慣れているんですよ」

 

 そいつは妖精じゃない、と口では反論したものの、私は納得していた。確かに霧の湖の妖精たちは、針妙丸よりも騒がしく、幼く、そして愚鈍である。そんな彼女らと共に過ごしていれば、嫌でも寛大になるはずだ。

 

「それで? 何の用で来たんだ。まさか珍しい建物が浮かんでたから、なんて馬鹿な理由で来たわけでも無いだろ」

「まあ、それも少しはありますが」

 

 苦笑いをした彼女は、その太い尾びれをくねらせながら、魔女さんに頼まれたんです、と口元を歪めた。

 

「実は、これを届けに来たんです。あなたにとって大事な物と聞いたので」

 

 笑みを崩さずに、懐をまさぐった彼女は、円錐状の茶色い物体を取り出した。一瞬、それが何だか分からなかったが、にこにこと笑みを携えながら頭に被るわかさぎ姫をみて、何時の日か無くした笠だという事に気がついた。

 

「この笠って、正邪のなんだ!」

 

 久しぶりに私以外の奴と会ったからか、針妙丸は浮足立っていた。くるくるとその場で踊り、わかさぎ姫にえへへーと笑いかけている。それに答えるように、小魚も首を傾けた。なぜだか、無性に腹が立つ。

 

「遅せぇよ、馬鹿野郎」

 だからだろうか、つい語調が強くなってしまった。

「遅いって、何か使う予定でもあったの?」

「おいおい自称茶碗蒸し姫様。あなたは笠の使い方も知らないのですか? 」

「ちょっと! その丁寧な言い方止めてよ。正邪がいうときもちが悪い」

 

 私はてっきり、笠の使い方ぐらいわかる、だとか、私は茶碗蒸しではない、と怒られると思っていたので、少しの間ぽかんとしていた。まさか、敬語を叱られるとは思っていなかったのだ。

 

「きもちが悪いとは、酷いですね。姫様」

「止めてって!」

「良いことを教えてあげますよ、姫様」

 

 自分を抱きしめるように両腕を肩に回している針妙丸を見ると、心が躍った。顔がにやけていくのが自分でも分かる。大きくなっても小人は小人、その単純な性格は変わっていない。

 

「敬語には不思議な力があるんですよ。一見、相手に敬意を払っているように見えますが、時と場合によっては相手を馬鹿にしているようにも聞こえます。そして何より、相手との距離感がより広く感じられるのです。だから、姫も相手と距離を置きたいと思った時には敬語で話してみてはどうですか?」

「だから、止めてって。それだと、正邪は私と距離を置きたいってことになるじゃん」

「ご明察です」

 

 もー、と牛のような呻き声をあげた針妙丸は、これまた牛のように私に突っ込んできた。大きくなった針妙丸の扱いにもだいぶ慣れてきた私は、受け止めるふりをして、さっと横へ躱す。「なんで~」と奇声をあげながら床へと這いつくばる針妙丸を見下し悦に浸っていると、不敵に笑った彼女は地面に倒れ込んだ反動で、間髪入れずに起き上がり、もう一度私に突っ込んできた。虚を突かれ、反応が遅れた。身体を床に押し付けられ、素っ頓狂な声が漏れる。えへへ、といつものように勝ち誇った笑い声が上から聞こえた。

 

「今日も私の勝ちだね」

「勝ち負けなんて、主観で変わるものだろ? そんな物に意味はない」

 

 負け惜しみだー、と私を指差す針妙丸を無視し、痛む腰を撫でる。

 

「ねえ、大丈夫?」

「大丈夫じゃねえ」

「大丈夫って聞いて、大丈夫じゃないって返さえたのは初めてだよ」

「文句は慧音に言ってくれ」

 

 打ち出の小槌の影響で身長が大きくなって以来、彼女はやけに私の腰へ飛びついてくるようになった。いや、飛びつくなんて可愛いものなんかではなく、もはや突進に近い。段々とその技術は上がってきている。もしかすると、誰かに襲われた時は、突進をすれば逃げ出せるのでは、と思うほどだ。 

 

「ずいぶんと、仲がいいんですね」

 

 腹の上に乗っている針妙丸をどかそうと脇の下をくすぐっていると、小魚が口を開いた。くすくすと、口元を裾で隠して笑っている。その仕草は確かに姫様じみていた。

 

「仲がいい? 冗談だろ」

「え? むしろ、冗談じゃないくらいに仲がいいって感じですけど」

「良かったね、正邪。褒められたよ」

「良くねえし、褒められてもねえ」

 

 私たちを交互に見て、また声をこぼすように笑った小魚に舌打ちをする。奥歯を噛みしめ、息をのみ込んだ。「あなた達は仲が良すぎるのよ」鶏ガラが言ってきた言葉を思い出す。「そんなんだと、痛い目に遭うのはあなたよ」そんなことは分かっていた。分かっていたはずなのに、何故かこいつとの距離を離せない。血まみれで泣いている三郎少年の姿が頭に浮かんだ。このままでは、水の泡だ。

 

「いいか小魚、私はこいつをただ利用しているだけなんだよ。下克上をするための、ただの手駒に過ぎねぇんだ」

「そうなんですか?」小魚が針妙丸に向かい首をかしげる。

「え、違うよ」

「ですよね」

「何で信じねえんだよ」

 

 私の言葉はいつだって信じてもらえない。逆に、「こいつと私は仲良しなんだぜ」と言い張れば、信じてもらえるのではないか、と半ば本気で考えるほどだ。

 

 楽しそうに針妙丸と雑談を始めた小魚の頭から、笠を奪い取る。お世辞にもきれいとは言えないそれの、飛び出した管が手に引っかかったが、気にせず自分の頭にのせた。心なしか、魚特有の生臭さが鼻につき、顔の前で手を振る。

 

「おい、もう笠は受け取ったから、とっとと帰れよ。用事はもう済んだだろ」

「確かに、頼まれていた任務は完了しましたが」任務を完了するという言い回しがその口調と似合わず、吹き出しそうになってしまう。

「でも、なぜだかここから離れたくないんですよね。なんだか、この城に引き寄せられたというか、ここであなた達に会えた運命を大事にしたいというか……。あ、でも、単純に針妙丸さん達とお喋りするのは楽しいですよ。でも、なんか違う感覚があって」

 

 自分でもよく分かっていないのか、不思議そうに肩をすくめ、どこか要領を得ない話し方をする小魚を前に、私と針妙丸は顔を見合わせていた。私自身はどんな顔をしているか分からなかったが、針妙丸はいたずらに成功した子供の様に、無邪気な笑みを浮かべている。

 

「やっぱり、打ち出の小槌の力は本物だったんだね」

 

 小声でそう囁き、私に見せつけるように小槌を振った彼女は、よっぽど嬉しかったのか、小魚の元へ歩み寄り、その手を掴んだ。ぶんぶんと大袈裟に振っている。

 

「そうだな」

 

 私の言葉は小魚の叫び声にかき消された。あっ、と短く、けれど人を惹きつけるような独特な声で叫んだ彼女は、そうでしたそうでしたと手を叩いた。

 

「言うのが遅くなりましたけど」

「遅せぇよ、馬鹿野郎」

 

 言葉を遮られ、不機嫌だった私は、彼女に対して分かりやすく敵意を剥き出しにしたが、彼女は平然と無視した。

 

「仲間達からきいたんですけど、近々本格的に動くらしいですよ」

「動くって何が?」

「さすがに、ずっと放置しているわけにもいかなかったらしいですね。付喪神が突然大量発生したことが決め手だったそうです」

「だから、何が動くんだよ」

 

 私に顔を向け、少し眉を下げた。ぴたんぴたんと尾びれで床を叩いている。言おうかどうか迷っているのか、黙って俯いていた。少しの間、針妙丸の鼻歌だけが辺りを包んだが、意を決したように小魚は頷き、口を開いた。

 

「巫女ですよ。巫女が異変解決に向け、動き出したのです」

 

 一瞬、私は呆然とし、自分の耳を疑った。巫女が動くのは分かっていた。覚悟していたと言ってもいい。だが、心のどこかで実は来ないのではないか。来るとしても、来年あたりなのではないかと期待していた。慢心していた。高を括っていた。だから、その言葉をすぐに受け入れることはできなかった。この曖昧で、どこか平和ボケした瞬間が終わりだと認めたくなかった。覚悟をしていたはずなのに、それでも恐怖心は拭えない。終わる決意が出来ていなかった。

 

「やっぱり、言うのが遅かったでしょうか?」

「遅せぇよ、馬鹿野郎」

 

 自分でも驚くほどに、声に生気がこもっていなかった。

 

 

 

 あなたは氷を作ったことがありますか? 突然小魚がそう切り出した。

 

「霧の湖には氷精がいるので、氷についての知識はそれなりにあるんですよ」

 

 そんなことよりも、さっき言っていた巫女についての話をしろ、とすごんだが、耳がないせいか私の声は聞こえなかったようで、「氷を作るのは案外難しいんです」と続けた。

 

「確かに普通に池の水を冷やすだけでも氷はできるんですけど、それだと汚い、濁った氷になるんですよ」

「何の話だ」

「綺麗に氷をつくるためには、綺麗な水が必要なんです。それに、こう見えても私は人魚なので、水には煩いんですよ」

「何の話だ」

「綺麗な水ってことは、不純物を取り除かなくてはいけません。ほんの少しでも不純物が入っていると、台無しになってしまうんです。でも、最近は汚い氷ばかりで困ってて」

「だから、何の話だよ!」

 

 憤った私を宥めるように、まあまあ、と私と小魚の間に割って入った針妙丸は、「面白そうだし、聞いてみようよ」と肩を撫でた。ますます気に入らない。

 

「つまりですね、私が何を言いたいのかといいますと」そこで小魚は言葉を切った。得意げに鼻を鳴らし、挑発するかのように両手を広げる。

「水こすことが出来ないってことです」

「は?」

「あれ? 分かりませんでしたか? 見過ごすと水をこすってのをかけているんです」

「止めろ、説明すんな」

 あまりにも下らなすぎて、怒る気力も失せてしまう。

「どうですか? 面白かったですか」

「これを面白いというお前が滑稽で面白いよ」

 

 くすくすと笑う小魚は、よほど自信があるのか、思い出して自分で笑っているようだった。だが、そんな姿ですら私と違い、どこか気品に溢れている。こんな寒い洒落を言う妖怪がいるとは世も末だ。

 

 ふと、針妙丸が声を出していないことに気がつき、隣に目を向けた。てっきり私は、あまりにもつまらなすぎて、あんぐりと口を開けているか、それとも話をそもそも聞いていないかのどちらかだと思っていたが、違った。予想に反し、彼女はその大きくなった体をよじり、声を殺して笑っていた。両手を口に当てて、顔を真っ赤にしている。

 

「おい何で笑ってんだよ」

「っ……。だって、面白いんだもん」

「嘘だろ」

 

 堪えることが出来なくなったのか、声を出しながら腹を抱え始めた針妙丸は、足をバタバタと床に打ち付けた。つられるように、小魚も大声で笑いはじめる。

 

 どこか静かで、厳かな雰囲気だった輝針城が、一転むかしの寺子屋のような活力の溢れる場になった。もう夜も大分更けてきたにもかかわらず、部屋の中は明るくなったかのように感じる。

 

 沈んでいた心が不思議と明るくなる。勇気はあるか? 頭の中で声が響いた。絶望する勇気はあるか? 今であれば、はっきりと返事はできる。

 

「少し、元気な顔になりましたね」

「は?」

「巫女の話をした途端、急に顔が暗くなったので、びっくりしました」

 

 やっぱり、笑いは人を救いますね、ともの知り顔で語った小魚は、「まあ、仲間の言葉なんですけど」と照れくさそうに笑った。

 

「さっきから仲間とか言ってるが、もしかしてあのクソみたいな妖精たちのことか?」

「違いますよ。草の根妖怪ネットワークって知ってますか?」

「なにそれ?」

 

 まだ笑いが収まりきらないといった様子ではあったが、一応話は聞いているようで、針妙丸が口を挟んだ。

 

「むだ骨妖怪ネットワーク?」

「違いますよー」

 

 穏やかに微笑んだ小魚は、そのなんちゃらネットワークとやらがよっぽど誇らしいのか、わざとらしく胸を張った。

 

「草の根妖怪ネットワークです。弱小妖怪で集まって、色々な情報を共有したり、一緒に遊んだりしてるんですよ」

「井戸端会議みたいなものか」

 

 馬鹿にされたと思ったのか、少しむっとした小魚は声を少し大きくして、語尾を強めた。

 

「もっと凄いんですよ。例えば、今回の巫女の情報だって、その内の一人が拾ってきてくれたんですから」

「それはすごいね」

 うんうんと頷いている針妙丸を見て気を良くしたのか、「あなたも是非入って下さいよ」と針妙丸に手を伸ばした。嬉しそうに微笑んだ針妙丸は、少しだけ私を横目で窺ったものの、私が首を縦に振った瞬間に勢いよく手を握った。

 

「これも、小槌の力だね!」とはしゃいでいる針妙丸は心底嬉しそうに顔をくしゃりとさせた。小槌の力で得た友人がいいものかどうか私には分からなかったが、目の前の二人を見ていると、きっと小槌なんて無くったって、仲良くなっていたに違いない、と確信できる。それほどまでに彼女たちは馬が合っていた。ほっと安心している自分がいて、驚く。私がいなくても、針妙丸は何とかなりそうだ。

 

「そうだ! 正邪も入ろうよ。正邪も弱小妖怪なんだし」

「ああ、ごめんなさい。正邪さんは駄目なんです」

「おい、何でだよ」

 

 別段入りたくもなかったが、いざ拒否されるとそれはそれで気に入らなかった。仲良く手を握っている小魚の肩を掴み、小さく揺する。

 

「それはあれか? 私は弱小妖怪というには強すぎるってことか」

「違いますよ」

 

 御冗談を、と眉を傾けた小魚は申し訳なさそうに首を振った。

 

「私は草の根妖怪ネットワークが好きなんですよ。だから駄目なんです」

「なんでだよ」

「だって、ほんの少しでも不純物が入っていると、台無しになってしまうんです。私は草の根妖怪ネットワークを台無しにしたくありませんから」

 

 おいおい、私は不純物なのか、と嘆く声に返事をしてくれる者は誰もいなかった。



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素敵な再会

――白沢――

 

「お前ら何やっているんだ!」

 

 甘味屋の薄い壁をぶち抜くような勢いで、私は叫んだ。その声をまじかに聞いた正邪が耳を両手で抑え、うずくまっているのを尻目に大声でまくしたてる。もはや自制心は何処かへ行っていた。

 

「私は悪い妖怪が来たら時間稼ぎをして、知らせろと言ったはずだ。抵抗しない弱小妖怪をいたぶれとは言っていない」

「ですが」

 

 私の言葉に被せるように自警団の内の一人、部隊長を務めている男が口を開いた。直立不動で胸に手を当てている姿は、いつも通り真面目さと力強さを醸し出している。

 

「ですが、こいつは鬼人正邪ですよ」

 

 淡々とそう言った彼は、さもそれが当然かのように「どうして排除しなくていいんですか」と続けた。身体が何かで地面に押しつぶされるような、そんな感覚に襲われ、事実私はいつの間にかその場に崩れ落ちていた。

 

 信頼を置いていた自警団のみんなが、急に私に対し心を閉ざし、遠くへ行ってしまったと錯覚する。彼らに悪意がないことはすぐに分かった。だからこそ、私は余計に動揺した。私の知っている彼らは、いつの間に悪意もなく弱者を甚振るようになってしまったのか、私がいない間に人里の何かが崩れ落ちてしまったかのように思えた。

 

「あー。この天邪鬼については私と慧音が何とかするから。お前らは持ち場に戻れ」

「ですが」

「いいから」

 

 私の前に出て、ほら行った行った、と猫を振り払うように手をぶらつかせた妹紅は、彼らが行ったのを確認すると、「大丈夫か」と私に声をかけた。情けなさと絶望でどうにかなりそうだったが、何とか立ち上がる。どうやら私なんかより、正邪の方がはやく立ち上がっていたようで、射命丸と何やら楽しそうに口喧嘩していた。自分の打たれ弱さにほとほと嫌気がさす。

 

「無事だったのか、正邪」

 

 彼女の顔を真っすぐと見つめる。罪悪感ですぐに目を離したくなるが、こらえた。自分の罪から、目の前の悲劇から目を背けてはいけない。

 

「無事じゃねえよ」

「え」

「ほら、ここ見てみろ」

 

 右腕を曲げ、ひじを指差した彼女は、「ほら、ここ擦り剥いちまった。あの人間たちのせいで」と拗ねるように言った。まるで、転んでしまった子供が怪我を自慢する様だ。

 

「なんだよそれー」妹紅が正邪の傷を覗き込み、薄っすらと浮かんでいる血をこすり取るように指を這わせた。

「痛い痛い! 何しやがる」

「いやぁ、あんなに心配したのにピンピンしてたから腹が立って」

「知らねぇよ」

 

 ぎゃあぎゃあと呑気に騒いでいる二人を見ていると、何故か心が落ち着いた。正邪を取り巻く環境は未だに厳しく、しばらくは人里で暮らすことすらできないだろう。だが、それでも。妹紅と仲良く話している姿を見ると、微笑ましく思えた。むかし、人間から疎外されていた私を慰めている妹紅の姿が頭に浮かぶ。その姿と今の彼女は、同じような表情をしていた。

 

「いやぁ、いいですね」

 

 カメラのファインダーを覗きながら、射命丸は私に近づいてきた。しかし、視線は完全に妹紅と正邪に向いている。カシャリと無機質な音が何度も響いた。

 

「いいって、何がだ」

「泥沼の三角関係みたいです」

「頼むから止めてくれ」

 

 あややや、とよく分からない声を発した彼女は、私の言葉を無視して写真を撮り続けた。烏天狗の新聞にかける熱意は知らない訳ではなかったが、限度はある。わざと、射命丸のカメラを遮るように正邪たちへと近づいていった。カシャリとカメラが音を立てたが、私の背中しか写していないはずだ。

 

「やっぱり、魔法ってのはすごいな。あんな怪我まで治せるのか」妹紅は少し興奮し、正邪の体をペタペタと触っていた。男たちに蹴られた部分に触れたからか、小さく身震いしている。

 

「知らねぇよ。気づいたら図書館で寝てたんだ」

「あの、だな。正邪」二人の会話に割り込むようにして、私は声を出した。正邪には聞きたいことが無数にあった。もう大丈夫なのか。今までずっと紅魔館にいたのか。人間を恨んでいないか。数えだしたらキリが無いほどだ。だけど、その前に私はやらなければならないことがあった。まずは、謝らなければ。

「私がお前を紅魔館に行かせたばかりに、取り返しがつかないことになってしまった。その、本当にすまなかった」

 

 頭を目一杯下げる。地面にぽたりぽたりと滴が垂れている。私の涙だ。いつの間にか泣いていた。

 甘味屋からは音が消えていた。風がそよぐ音と、私の鼓動だけが頭に響く。

 

「とりあえず、だな」やけに溌剌とした声で正邪は呟き、店の奥の壁を指差す。

「場所、変えようぜ」

 

 そこには店員によって逆さまに立てられた箒が置かれていた。

 

 

 

 

 

 

 

「それで? もう一度言ってくれよ先生」

 顎で私を指しながら、正邪はカラカラと笑った。

 

 場所を変えると言っても、今の状況で正邪を連れて店に行くことは難しいと思った私は、結局いつも通り寺子屋へと向かった。大通りを歩く際に、私と射命丸、そして妹紅が正邪を取り囲むように進み、人目につかないようにと注意しながら進んだが、そんな奇妙なことをしてしまったからか、逆に目立っているようにも思える。まあ、何はともあれ無事に寺子屋まで戻って来れたので良しとしよう。問題は、目の前で生意気な態度を取っている天邪鬼の方だ。

 

「さっき、甘味屋で私に何を言ったんだ? よく聞こえなかったなぁ。もう一遍言ってみろ」

 

 右耳に手を被せるようにし、ぬめりとこちらに近づいてくる。思わず後ずさってしまい、隣にいた射命丸の足を蹴っ飛ばしてしまった。謝ろうと思ったが、彼女がニヤニヤと笑いながら私にカメラを向けていたので、止める。きっと、私が謝る姿を写真に収めたいのだろう。そんなことは、もちろん嫌だ。屈辱だ。だが、正邪の受けた痛みに比べれば、屁でもない。そう思い、もう一度頭を下げようとしたが、直前に妹紅が、おい正邪と険しい声を出した。

 

「おまえ、無理してるだろ」

「は?」

「虚勢を張っているだろ。私には分かる。おまえ、精神的にも身体的にも限界なんじゃないか?」

「何を言って」

「ほら見ろ。いつものお前なら“そうなんだ。だから美味い飯でも持ってこい”とでも言うだろう。何を無理しているか知らないけど、弱小妖怪が無理をして生き長らえた例はないよ」

 

 正邪は黙り込んだ。口元は緩んでいるものの、へへっと力なく笑う様子は弱弱しい。よく見ると、顔からは脂汗が出ていた。もしかすると、まだ体調も万全ではないのかもしれない。

 

「いいから、寝とけよ。別に急ぐ用も無いんだろ。というか、どうして人里に来たんだ。紅魔館を追い出されたのか?」

「いや」勘弁したのか、それとも遠慮が無くなったのか、床にゆっくりと倒れ込んだ正邪は小さく首を振った。

「草履を取りに来たんだよ。裸足じゃ足が冷える」

 

 そういえば、と私は思い出した。どういう訳か正邪の草履が寺子屋に転がっていたはずだ。そこら辺にあったような気がし、汚い部屋をがさごそと漁っていると、簡単に見つかった。

 

「草履って、これだろ?」

「ああ、それだそれ。壊してねえよな」

「ない。元々壊れそうだったけど」

 

 うるせえ、と小さく言った彼女をまじまじと見る。彼女の草履がここにあるということは、私が留守の間に寺子屋に来たということで間違いないだろう。だとすれば、打ち出の小槌について何か知っているかもしれない。

 

「なあ、正邪」おまえ、打ち出の小槌って知っているか? そう口にしようと思ったが、直前で言い淀んだ。本当にいいのか? 正邪が打ち出の小槌を盗んだ可能性は無いのか? 分からない。私は彼女のことなど何も知らない。

 

「なんだよ」 

 

 いつものように鋭くも、いつもと違い酷く澱んだ目を私に向けた正邪は、額の汗をぬぐった、ように見えた。が、私は彼女がさり気なく目元を拭う瞬間を見てしまった。見えてしまった。彼女がなぜ泣いているかは分からない。だが、それが私のせいであることは明らかだった。床を滑るようにして正邪の元へと近づく。

 

「本当になんだよ。その変な目はどういう意味だよ」

 

 よく見ると、彼女の服はボロボロだった。身体こそ魔法で治ったものの、服までは元には戻っていないようだ。その傷の多さと荒み具合から、いかに酷い暴行を受けたかが分かる。正邪を訝しむ気持ちは最早何処かへいっていた。

 

「ごめんな。私のせいで酷い目に遭わせてしまって」

「止めろ、憐れむな。本当に憐れなのは私じゃない。私なんてまだマシだ。私が巻き込んでしまったんだ」

 

 地面に寝そべったままだったが、彼女はしっかりとそう言った。顔を赤くして、怒りのせいか奥歯を強く噛みしめている。おそらく、その怒りは自分自身に対してだろう。

 

「本当にすまなかった」

 

 仰向けに寝ている正邪の腹部を優しく撫でる。初めこそは逃げようと体をくねらせていたが、観念したのか動きを止めた。彼女を安心させようと、ゆっくりとさするように体重をかけていく。すると、奇妙な感覚が手のひらを襲った。何かを押しつぶしてしまい、具体的には芋虫を押しつぶしてしまい、体液で手を汚してしまったかのような、そんな感触がした。慌てて手を引っ込め、掌をまじまじと見つめる。ごくわずかにだが赤い色が手に移っていた。

 

「慧音、それ」恐る恐るといった様子で妹紅が私の手を覗き込む。カシャリと射命丸がカメラを切る音が聞こえたが、それもどうでもよくなっていた。

 

「正邪、もしかしてお前」

「もしかして血だと思ったか?」

「え」

「馬鹿だな。半獣のくせに嗅覚までだめとは」

 

 空元気か、それとも自然に浮かんだものなのか、ふぅと頬を緩めた彼女は服の中に手を突っ込んだ。漏れてやがると嫌そうに顔をしかめたものの、私の呆然とした顔を見たからか、すぐににやりとした。

 

 彼女が腹から取り出したものを見た私は、なんでと呟いていた。なんでそんなものを腹に入れているんだ。なんでケチャップなんかを腹の中に隠しているんだ。

 

「なんでって、そりゃあ人は腹の中に一つや二つ隠している物がある」

「お前は人ではないし、その言葉の意味も違う。それに、どっちにしろ普通ケチャップは入れないだろ」

「分からねえじゃねえか。ケチャップは役に立つんだよ」

「例えば?」

「料理にアクセントを加えたり、非常食になったり、もしかすると盾代わりになったりするかもな」

「最後のは無理だろ」

 

 呆れて肩をすくめた私と違い妹紅は笑いで肩を震わせていた。

 

「驚いたか?」

「ああ、驚いたよ」

「驚いたなら驚天動地! って叫べよ」

「なんなんだ、それは」

 

 腹を抱えて笑った正邪は、若干引くくらいに足をバタバタと振って身をよじらせている。また、カシャリと射命丸が写真を撮った音が聞こえた。咎めようと彼女の方へ目を向けたが、すぐにその目は丸くなった。あの、いつも仮面のような笑みを浮かべていた射命丸が、笑いを堪え切れずに身震いしていたのだ。手に持ったカメラも震え、ピントを合わせるどころではなさそうだった。

 

「いやぁいいですね」射命丸は、こらえきれないといった様子で息を吐いた。

「泥沼の三角関係ってかんじで」

 

 どちらかといえば血みどろの三角関係じゃないか、そう抗議する私の声は、笑い声にかき消されていった。

 

 

 

 

 

「小人の家に行く前に寄り道をしたいのですが、いいでしょうか?」

 

 後ろを振り返りこてんと首を傾けた射命丸は、私の返事を聞く前に細い路地へと入っていった。説教をしようと思ったが、考えている内にもずんずんと進んでいく彼女は、明らかに訊く耳を持っていないので、諦めてしぶしぶ着いて行く。

 

 結局、正邪に小槌の件を言い出せないまま私は射命丸と一緒に針妙丸の家へと向かうことにした。精神面が酷く傷ついたせいかか、体調面が優れない正邪が心配だったので、妹紅は寺子屋で彼女の看病をすることになった。「命に代えても守るよ」と胸を張った彼女は、まあ私にできることは紅魔館に連れていくことぐらいだけど、と眉を下げていが、それで十分だ。

 

「寄り道って、どこに行くつもりだ」

「行方不明になった女性の家ですよ。子供が帰ってきてないかと思いまして」

 

 くだらない用事であれば文句を言うところだったが、そう言われてしまえば強く言い出せない。実際は、単純に次の記事の下調べをしたいのだろうということは分かっていた。が、もし私が急かそうとすると、「あやや、寺子屋の先生のくせに、子供のことなんてどうでもいいんですか?」と言ってくるに違いない。

 

 そう考えていると「そんな不満そうな顔をして。寺子屋の先生のくせに、子供のことなんてどうでもいいんですか?」と訊いてきた。ニヤニヤと馬鹿にするように笑う射命丸に、私は何も言い返すことが出来ない。

 

「ここですね」

「ここ、か」

 

 くねくねと入り組んだ路地を曲がり、苦労してたどり着いた先にあったのは、まごうこと無きボロ屋であった。辺りにある民家は全て小さく、みすぼらしいが、その中でも群を抜いて酷い。そんな醜い家の扉を、躊躇もなく射命丸は開いた。慌てて咎めようとするも、中には誰もいないのは分かっていたので、慎重にな、とだけ口にする。

 

 射命丸に続いて家へと入っていく。ただ、真ん中付近に布団が敷いてあるだけで、目ぼしいものは何もないように思えた。少しの腐敗臭が鼻を突くが、気のせいだと思い込む。

 

「やっぱり、面白いものは何もないですね」

「面白い物なんて、病死された人の家にあるわけないだろ」

「そうですか? 遺産があるかもしれないじゃないですか」

「不謹慎だ」

 

 そうですか、と抑揚なく言った彼女は、部屋の奥に向かっていった。流石に土足では上がっていないようで、靴は脱いでいる。私もとりあえず脱ごうか、と足元に目を落とした時、妙なものが目に付いた。茶色の、円錐状のそれは、どこかで見覚えがあるような気がした。

 

「これは」

「あややや、ありました? 遺産」

「遺産はない。その代わりに何故か笠があった」

 

 掴み上げるようにして、目の前へもっていく。ところどころに菅が飛び出しているが、まだ使えそうだ。私だったら、新しいのを買いなおすが。

 

「ちょっと失礼しますよ」

 

 そう言った彼女は、私の返事を聞く前に笠を奪い取った。左手を伸ばし、片手で器用に写真を撮った彼女は、まじまじとそれを見つめている。

 

「なんでこの笠がこんなところにあるんですかね」

「さあ。どこかで見覚えがあるような気がするんだが」

「分からないんですか?」

 

 馬鹿にするというよりは、心底驚いたといった様子で声をあげた射命丸は、その口を大きく歪ませた。短く切られた真っ黒な髪が私を取り込むかのように、ゆらりと蠢く。

 

「さすが半獣です」

「教えてくれ射命丸。その笠は一体何なんだ」

「用事も済んだし、行きましょうか」

「おい」

 

 私の言葉を無視した射命丸は、さっさと外に出て、扉の前でニヤニヤと笑っていた。強引にここに来た割には、随分とあっさり帰ろうとしていることに、驚く。

 

「どうしたんです? 早くしましょうよ」

 

 私の脇をすり抜けるようにし、扉から出ていった彼女は、次は小人の家ですね、と満面の笑みで振り返った。なぜだか分からないが、寒気がする。

 

「何なんだ、いったい」

 

 不思議と、正邪の卑屈な笑みが頭を掠めた。

 

 

 

 外に出ると、いつの間にか分厚い雲は遠ざかり、爛々と輝く太陽が顔を出していた。寒空の澄んだ空気に見合うような、気持ちのいい陽射しが体を包み込む。私の抱え込んだ不安を全てきれいに拭い去ってくれるような、そんな気がした。きっと、打ち出の小槌は八雲紫が勝手に回収したに違いない。正邪も時間をかけていけば、いつか人里に受け入れられるはずだ。そう何度も自分に言い聞かせ、その言い聞かせている時点で自分がそう信じていないことに気がついた。

 

「おや、こんなところで珍しいですね。どうしたんですか?」

 

 針妙丸の家へと続く、人通りの少ない荒れた道を進んでいると、突然後ろから声をかけられた。聞き覚えのある、男の声だ。慌てる心を隠すようにゆっくりと振り返る。

 

「あやや、まさかここで出会うとは」

 射命丸のうすら寒い笑みがより深みを増した。まさかここで出会うとは。射命丸のこの言葉が私の気持ちを代弁していた。正邪を連れてきていなくて、本当に良かった。

「そっちこそどうしたんだ?」

「野暮用ですよ」

 

 にこり、と人懐っこい笑みを浮かべながら、彼はその丸々と大きくなった腹を撫でた。白い髪が太陽に照らされて、キラキラと光っている。

 

「お陰様で、私は忙しいんですよ。慧音先生」

 

 朗らかな声で、喜知田は子供の様に、自慢げに言った。一切の悪意もなく、優等生然としたその態度は昔から変わらない。まさかこいつがあんな事をするなんて夢にも思わなかった。

 

 三十年前、恐怖で顔を青くして、泣きながら寺子屋に駆け込んできた彼の姿を思い浮かべる。歯をカチカチと震わせ、人を殺してしまいました、と独白する姿は、大事な何かが無くなってしまったように映った。そんな彼を庇った事を後悔はしていない。ただ、正しい行為ではないことも同時に分かっていた。

 

 私は人里の守護者だ。もし一を犠牲に十を救えるのであれば、まして亡くなってしまった御方の死因を隠蔽することで人里が繁栄の方向へと向かっていくのであれば、そちらを優先しなければならない。それほどまでに、喜知田は人里に影響力を持っていたし、頼りにされていた。そして何より、幾度となく人里の危機を救ってきていたのだ。

 

「それは食糧不足が関係するのか?」

 だからだろうか、今回も彼が人里のために奮闘しているのではないか、と勝手に期待してしまう。

「え。いや違います」一瞬ぽかんとした喜知田だったが、すぐにまた照れ笑いのような顔になった。

「食料不足は私たちに何とかなる範疇を超えてしまいましたから。為すすべ無しってやつですね」

「そうだよな」

 

 なぜか、不敵に鼻を鳴らした射命丸に目をやるが、彼女は何も言わず首を振るだけだった。

「そういえば、面白い話が二つあるんですが、聞きますか?」

 

 突然、私の口癖を真似するように唇を突き出した喜知田は、指を二本たて、私と射命丸を見比べるように首を振った。あまりに唐突で驚いたが、それよりも、話をはぐらかされたことにむっとしてしまう。

 

「私より面白い話が出来たら、おはぎでも奢るよ」

「あややや、逆に半獣よりつまらない話ができる人妖を私は知らないんですが」

「どういう意味だ」

 

 くすくすと私たちを興味深そうに見ていた喜知田は、目元の皺をより深くし、顔をくしゃりとさせた。そのまま

 

「実はですね」と快活な声で続ける。

「実は、霧の湖に妖精以外の妖怪が住んでいるんです。知ってました?」

 

 いきなり何を言い出すのか、と首を捻っていると、隣にいた射命丸が私の肩をつかみ、身を乗り出した。

「それは本当ですか!?」

 

 正直、私はそこまで興味を惹かれなかったが、射命丸は違った。異常ともいえる程に関心を持ち、喜知田に詰め寄っている。さっきまでの澄ました顔を興奮で歪ませ、鼻息を荒くしていた。

 

「いったい、どんな妖怪ですか? いえ、まだその妖怪は生きていますか?」

「え、ええ。生きていますよ」

 

 まさかそんなに食いつかれると思っていなかったからか、喜知田は両手で射命丸を制しながら、後ろへと下がった。彼にしては珍しく露骨に恐怖している。いったい、射命丸は喜知田にどれほどの事をしたのだろうか。彼女のカチコミという言葉は、比喩ではないということを改めて見せつけられた。

 

「まあ、落ち着け。射命丸は霧の湖に興味があるのか?」

「そんな訳ないじゃないですか」

 

 がばりと勢いよくこちらを向いた彼女は「賭けをしてたんです」と目を輝かせた。

「賭け?」

「妖怪の山には賭博場があるんですよ。そこで、霧の湖には妖怪が住んでいるかどうか、っていうのが賭けの対象になってまして。私は住んでいるに賭けたんです」

 

 なるほど、と納得しかけたが、一つ疑問点が浮かんだ。あの射命丸文が、嬉々として賭け事をしている姿が想像できなかったのだ。

 

「ちなみに、賭けているのは金か?」

「違いますよ。この賭けで勝てば、今よりいい現像機を使わせてもらえるんです!」

 

 こうしてはいられません! と射命丸は目にもとまらぬ速さで飛び立っていった。頭にはボロ屋で見つけた笠を被ったままだ。どれだけ新聞に命を削っているのかと、逆に心配になる。

 

「人里では飛行禁止といったろうに」

「結構平気で飛んでますよ、彼女」

 面白そうに射命丸を見上げていた喜知田は、どこか安堵したように見えた。そんなに射命丸が怖かったのだろうか。

 

「それで、二つ目は何だ」

 どっと疲れた私は少し投げやりに訊いた。嵐のように去っていった射命丸のことを考えるだけで、頭が痛くなる。

「二つ目はですね。まあ、大した話では無いんですけど」

「けど?」

「最近思ったんですよ。物は使いようなんだなって」

「どういう意味だ」

 

 げんなりとしている私を諭すように、彼はゆっくりと言った。その顔は喜びに満ちているが、どこかいびつだ。背中に嫌な汗が流れる。

 

「例えばですよ。多くの馬を動かすのには人参一本でいい、っていうじゃないですか。仕事をこなせば、これを食わせてやる、とお願いする。それをたくさんの馬に行うんですよ」

「でも、結局は全ての馬に渡さなければならないじゃないか」

「まあ、その例え話だとそうですけど、現実ではそうとも限らないじゃないですか。だから、物は使いようなんです」

 

 よっぽどその話が気に入っているのか、うっとりとした表情を浮かべていた。物は使いよう。確かにその通りだ。

 

 喜知田としばらく雑談するのも悪くなかったが、早いところ針妙丸の家に行きたかった私は、彼に別れを告げようと右手を伸ばした。別れの握手をするつもりだったのだ。だが、その手に一匹の蝶が止まった。真っ赤な翅を羽ばたかせているそれは、チリチリと音を立て、私の手のひらに無視できない熱さを伝えてくる。それは、妹紅の幻術だった。

 

「珍しい蝶ですね」呑気な声で、喜知田は笑った。

 

 ふと上を見上げる。一度退いたはずの雲がまた空を覆い、いつの間にか人里に影を落としていた。その、薄黒い空のキャンバスに点々と赤い点が浮かんでいる。まるで空に浮かんだ道のように一直線に私の元へと続いていた。それが指し示しているのは確かに寺子屋だった。

 

「悪い喜知田、急用が入った」

 

 返事を聞くより早く、私は地面を蹴った。空に浮いている蝶に沿うように全力で宙を蹴る。一瞬、寺子屋が視界に映ったかと思えば、みるみるその影が大きくなっていった。手前の大通りに人がいないことを確認すると、砂ぼこりがあがることも気にせず、乱暴に着地する。その勢いのまま地面を駆け、扉を勢いよく開いた。鍵はかかっていない。

 

「妹紅! 何があった!」

「け、慧音か」

 

 緊迫した声が奥の部屋から聞こえた。散乱した休憩室だ。大声で叫んでしまった事を後悔する。叫んだところで、悪いことしかない。

 

 靴を脱ぎ、足音を立てないように廊下を進んだ。大丈夫だ、と自分に声をかける。だから、そんなに絶望的な気分になるな。

 

 閉じている襖を、ゆっくりと開く。強張った顔で、呆然と立っている妹紅の顔が見えた。身体を滑り込ませるように部屋の中へと入っていく。次に目に入ったのは立ち上がった正邪の姿だった。緊張感に満ちた妹紅の顔とは裏腹に、どこか余裕のある飄々とした表情で笑っている。私を見つけ「先生は遅刻してもいいんだな」と口笛を吹いてさえいた。

 

 そして、その正邪に相対するように、一人の少年が立っていた。まるで土俵で睨みあっている力士のように、距離を開けて立ち尽くしている。知らない少年だった。が、目に涙をためて、ごめんなさい、ごめんなさいと連呼する姿は、それだけで胸を打った。だが、それよりも衝撃的だったのは、その少年が手に持っている物だ。

 

「相変わらず、お前は謝るのが好きだな」

 

 普段の彼女からしたら考えられないくらい優しい声で、正邪は微笑んだ。

 

「なあ、三郎」

 

 首に掛けた一文の首飾りをチャリンと鳴らした少年は返事をせず、俯いている。ただ、手に持った包丁を両手で構え、ごめんなさい、と呟くだけだった。

 

 

 

 

――魔女――

 

「小槌のレプリカを作ってくれ!」

 

 図書館に入ってきた正邪は、私を見るや否やそう叫んだ。あまりにも唐突で、意表を突かれた私は、手に持っていたカップを机に落としそうになり、咄嗟に魔法でカップを浮かせた。

 

「急に入ってこないで。危うく貴重な魔導書に紅茶がかかるところだったじゃない」

「優雅に紅茶なんて飲んでるやつが悪い」

 

 近くにあった椅子を手繰り寄せ、乱暴に座った正邪は、「私には紅茶が無いのか」と眉をひそめた。あまりの図々しさに乾いた笑いが零れる。むしろ清々しいほどだ。

 

「それで、急にどうしたのよ。出ていったかと思ったら、すぐに帰ってきて」

 

 急用がある、と出ていった正邪は、五時間もたたないうちに帰ってきた。確か、途中で妖怪に襲われてもいいようにと美鈴が護衛でついて行ったと聞いている。まさに至れり尽くせりだ。どうしてレミィが彼女に対してここまで協力するか分からない。が、どうせ下らない理由なので聞くことはしなかった。そのせいで、美鈴が常に疲労困憊なのは可哀想だが。

 

「これを作りに行ってたんだよ」

 

 急いでいたからか、ぜえぜえと息を整えながら、彼女は懐から一枚の写真を取り出した。美しい女性の写真だ。が、どうやら見せたかったのはそれでは無かったらしく、はっと息を飲んだ彼女はすぐにそれをしまい、別の写真を取り出した。

 

「これが打ち出の小槌の写真だ」

「え」

「参考にしてレプリカを作って欲しい」

 

 急いで作れ、と生意気に言った正邪を前に私は固まっていた。恐る恐る写真に手を伸ばす。そこには確かに小槌の写真があった。顔に血がのぼり、身体に活力が漲ってくる。好奇心が大いに刺激されているのが自分でもわかった。

 

 写真に写っているのは、正邪のものと見られる手と、打ち出の小槌だった。背景には何も映っていない。真っ黒だ。全体的に金色があしらわれたそれの大きさは、小槌というだけあって、片手で軽々持てるくらいのようだった。中心部に大きく松が描かれており、どことなく神聖で、それでいて禍々しい雰囲気を漂わせている。ただの写真にも関わらず、体が震えた。

 

 興奮を悟られぬように正邪に目を向ける。表情こそはいつも通りで不愛想だったが、その鋭い目で落ち着きなく辺りを見渡し、時々ちらりちらりとこちらの様子を気にしていた。

 

「ねえ、正邪」私の言葉にびくんと体を震わせた正邪は、なんだよ、とぶっきらぼうに呟いた。彼女にしては珍しく緊張している。

 

「この写真、どうしたの?」

「どうしたって、撮ったんだよ」

「だから、どうやって撮ったのよ。カメラなんて、あなたは持っていないでしょ。烏にでも撮ってもらったの?」

 

 私の質問を前に、彼女は意味ありげに頷いた。緊張を増すどころか、逆に心を落ち着かせているようにも見える。

「いいか。写真ってのは、自分で撮った方がいいんだよ」

「え?」

 

 得意げにそう笑った彼女は、懐からカメラを取り出した。いつだったか、ブン屋が持っていた物に似ているが、細かい傷が目立ち、お世辞にも綺麗とは言えない。が、どうやらまだ使うことはできたらしい。

 

「でも、折角なら烏天狗の誰かに頼めばよかったじゃない」

「分かってないな。こういうのは自分でやる事に価値があるんだ」

「あなたは何を言ってるのよ」

「さあな、私が知りたい」

 

 神様ってのは、写真を撮ってくれないらしいぞ、と笑いながら言った彼女は、丁寧に机の上にカメラを置いた。そのカメラも付喪神化しているからか、少しぶるりと体を震わせたものの、すぐに静かになった。

 

 どこを見るでもなく、ぼんやりと虚空を見上げている正邪を見つめる。愛おしそうに何かを思い浮かべ、過去を懐かしんでいるようにも、悲しそうに後悔しているようにも見えた。ただ、一つ言えることは、彼女の目の端に零れている涙のことは触れない方が良いということだ。

 

「でも、普通に考えれば、得意分野はそれぞれのプロに任せた方が良いと思うわよ。適材適所ってやつね」

「なんだそれ」

「例えば、写真は烏天狗に、教育は慧音に、魔法は私にって感じで」

「なら、私は何なんだよ」

「さあ。嫌われることじゃないかしら」

 

 はっ、と短く息を吐いた正邪は椅子に深く座り直した。てっきり、私は馬鹿にしてんのか、と文句を言われると思っていたが、自嘲気味に笑った彼女は「お前も、そう思うか」とうなだれた。乾いた笑いを仮面のように張り付け、目を細めている。

 

「嫌われるプロってやつだな」

「まあ、でも嫌われることが特技といっても役には立たないと思うけど」

「馬鹿と鋏は使いようっていうじゃないか」

「自分が馬鹿だと自覚していたのね。驚きだわ」

 

 白い顔でクツクツと笑う正邪から目を離し、彼女から受け取った写真を見ようと、手元を注視する。と、違和感に気がついた。写真に対する違和感ではない。正邪の様子がどことなくおかしいのだ。左手を使い紅茶を飲んでいる。これだけなら何の不思議もない。ただ、私の記憶の限りだと、彼女は右利きだったはずだ。出来損ないの推理小説のような着眼点だが、少なくとも、目の前の弱小妖怪はそんな器用な真似をするような奴では無い。

 

「あなた、右手を見せてみなさい」

「え、嫌だ」

「いいから」

 

 直接確認しようと腰を上げると、慌てふためきながら椅子を蹴り飛ばして後ずさる正邪の姿が見えた。咄嗟に魔法を使い、動きを封じる。不格好な体勢でピタリと固まった正邪は、ゆっくりと糸を地面に下ろすように絨毯に座り込んだ。彼女を怯えさせないように、大丈夫だから、と優しく声をかけながら近づく。これでは、まるで子供の面倒を見ているみたいだ。こんな捻くれた子供がいたら困るが。

 

 悪かったよ、分かったから魔法を止めてくれ、と力なくいった正邪の言葉に頷く。正直に言えば、魔法を使ったのはほんの僅かな時間で、とっくの昔に解いていたのだが、彼女は気づいていないようだった。ぷらりと垂れ下がった正邪の右手を掴み、目の前へと持っていく。血の気が引いて真っ白になった手の爪先に、こっそりと隠し持った針を突きさす。が、正邪は眉を顰めるどころか、身じろぎ一つしなかった。確信とともに、呆れもした。

 

「二度あることは三度ある」

 正邪はなぜか誇らしげに言った。私が以前言った言葉を真似しているのだ。

「これで、右手を怪我するのも三回目だ」

「今度はなんで怪我したのよ」半ば義務的に私は聞いた。

 

 別に興味も無いし、知りたくもなかったが、そうでも言わなければやってられない。気がつくと、目の前には既に魔導書が回復魔法のページを開いていた。いつになれば私は本の虫から蛹へと変われるのだろうか。

 

「今回は簡単だ」

 いつもは複雑だったのか、と聞くも無視される。

「打ち出の小槌ってな、写真を撮ろうとすると逃げるんだよ。意識があるみたいにな。しかも、小人以外は触れると痺れるんだ。それで、右手で抑えていたら、このざまだ」

「馬鹿じゃないの。小人に抑えてもらいなさいよ」

「私は、あいつの写真を撮る権利なんて無いんだよ」

 

 珍獣を撮るのにも許可が必要なように、珍しい妖怪である小人を撮影するのにも許可が必要なのだろうか。そんなことを考えながら、手早く回復呪文をかける。この程度であれば、痛いの痛いの飛んでい毛を使わなくても大丈夫だろう。

 

 ぽわりと暖かい光が辺りを包む。これも、最早見慣れてしまった風景だ。一瞬視界が光で奪われ、眩んだ目が段々と安定してくる。もう治ったかしら、そう声をかけようとしたものの、できなかった。口を塞がれたわけではない。開いた口が塞がらなかったのだ。

 

 正邪の後ろ。図書館の扉と椅子の中間地点。そこに彼女はいた。身体の下半分は透けていて、後ろの扉が映っている。魔法の気配は感じないので、きっと違うものを使っているのだろう。おそらく、機械か何かだ。

 

 右手をぶらぶらと揺らし、手を固く握りしめた正邪は「やっぱ、利き手が動かないと不便だなあ」と笑った。なら隠そうとしなければいいのに。文句を言いたくなるが、これから起こることを考えると、胸がすくような気持ちだった。

 

 透けていた彼女の体は、いつの間にか完全に露わになっていた。不敵に笑った彼女の表情からは何をしようとしているかが、ありありと分かる。両手を前に出し、足音を立てないようにそろりそろりと正邪へと進んでいく。そして、真後ろに来たかと思えば、大きく息を吸い込み、胸を膨らませた。気体と、期待でだ。

 

「この糞弱小妖怪が!」大きな声が図書館に木霊する。

「ひぃっ」

 

 正邪の反応は早かった。声が響いた瞬間、猫の様に飛び上がり、一直線に私の元へと駆けてくる。私の目で追えないほどの速さで逃げ出した彼女は、私の背中の後ろへとあっという間に回り込み、腰に抱きつくように両手を回してきた。顔をほんの僅かに傾け、声のしたほうを窺っている。

 

 情けない反応だったが、私は感心していた。弱小妖怪としての本能か、咄嗟に私を盾にするという最善の対策をとったこと、そして、仮に私が逃げたとしてもついて行けるようにと、体に手を回したことは称賛されるべきことだった。だが、それも滑稽な叫び声と情けない今の姿を覆すほどでもなく、私は込み上げてくる笑いを堪えることが出来なかった。どうやら、それは正邪を驚かせた当の本人も同じようで、腹に手を置き、ケラケラと大きな声で笑っている。正邪が舌打ちするのが聞こえた。

 

「このわくわく感はたまらないよ!」

 

 満足そうに笑った河童は、正邪に向かい赤い舌を見せた。

 

 

 

 

 

 

 

「これで天邪鬼を出し抜くのは二回目だ」

 

 ふふんと鼻を鳴らした河童は、びしりと右手を伸ばし、人差し指と薬指を立てた。ちょきちょきと馬鹿にするように指を動かしている。怯えて私に抱きついた正邪が、怒りのせいか震えているのが分かった。そんな彼女を振り払った私は、ゆっくりと河童に近づいていった。どうして、紅魔館に、そして私の図書館に来たか、来ることができたのか不思議だったのだ。

 

「私は河城にとりさ。レミリアに呼ばれたんだ。“いい発明品を作りたかったらこい”って」

「発明品?」

「おいおい。紅魔館の魔女は知識が豊富と聞いていたけど、発明品すら知らないのか」

 

 高慢な態度が、どこかの天狗を彷彿とさせて、苛立ちがつのる。妖怪の山の連中はどうしてこうも性格が悪いのだろうか。

 

「我々河童は素晴らしい発明品を数多く世に生み出しているんだ。例えば、いま私が着ている光学迷彩とか」

「それでさっき姿を消していたのね」

「ああそうだ、一つ買うかい? というか、見たからには買ってもらうよ。偶然にも販売用のものがあるからさ」

 

 河童の技術力は知っていた。魔法とは違うやり方で、同じような効果を発するものを量産している、と聞いたことがある。だが、ここまで商魂たくましいことは知らなかった。断ろうにも、すでにそれを図書館の適当な場所に広げ、いつの間にか壁にかかっていた札束を手に持っている。別に、強制的に取り返してもよかったが、止めた。その札束はレミィが置いておけと指示したもので、つまり私は、きっとこれにも何らかの意味が、運命による導きがあるのだろうと思ったのだ。

 

「何しに来たんだよ」

 腰が抜けたのか、地面に座り込んだ正邪が憎らしそうに言った。格好は情けないが、その目は鋭い。

「ちゃんと聞いてくれよ。レミリアに唆されたんだ。それで? いったいここに何があるというんだ? 遠路はるばるここまで来たんだ。つまらないものだったら弁償してもらうぞ」

「口悪いわね」

 

 水色の髪をツインテールにしている彼女は、その可愛らしい顔を卑屈に歪め、これまた水色の服のポケットから何やらバールのようなものを取り出した。脅しのつもりだろうか。だとすれば、可愛いものだ。

 

「私はてっきり、また博打を誘いに来たかと思ったよ」

「あ、ああ。そんなこともあったな」今思い出したよ、と手を叩いた彼女は浮かべていた笑みをさらに深くした。なるほど、と大きく頷き、座りこんでいる正邪に近づいていく。そして、机の上にあった写真を手に取った。

 

「この写真、どうやったんだ?」

「どうって、このカメラで撮ったんだ」心なしか、正邪の声は引きつっていた。河童に目を合わさず、後ろへじりじりと下がっている。

「そうじゃない。このカメラはフィルム型だ。だとすれば、どこかで現像しなければならないんだよな。あれ、そういえば私の現像機が勝手に使われていたような気がするなー。んんぅ? おかしいな。この写真の出来上がり具合にはすごい見覚えがあるぞー」

「そこら辺で止めておいてあげて」

 

 あまりにも正邪が惨めで、つい河童の肩を掴み、静止してしまう。

「止めろって? こちとら遊びじゃねえんだよ」

 口調こそヤクザのようだが、彼女はそこまで怒っていないようでニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていた。彼女も本気で現像代を払ってもらうつもりはないのだろう。単純に、へこたれている正邪をいじめて、楽しんでいるのだ。気持ちは分からなくもないが、見ていて気持ちのいいものでもない。

 

 ひらひらと河童の手で揺れている写真をつかみ取り、奪う。そのまま椅子に腰かけ魔導書を開いた。忘れかけていたが、私はこの写真の通り、打ち出の小槌のレプリカを作らなければならないのだ。そこまで律儀に正邪の依頼を聞かなくてもよかったが、単純に私の好奇心によるものだった。

 

「その写真で何をするつもりなんだい?」正邪をいじめるのに飽きたのか、河童が目を輝かせて聞いてきた。発明家としての嗅覚はどうやら鋭いらしい。

「この写真にある小槌のレプリカを作るのよ。そこで座っている弱小妖怪の頼みでね」

「もう立ったぞ」うんざりとしながら、正邪は呟いた。

「とにかく、私は今から作業にとりかかるから、あまり話しかけないでね」

「それって」

 

 服の前についたポケットからガチャガチャと工具を取り出しながら、河童は口元を緩めた。先程の悪意に満ちた笑顔とは打って変わり、子供の様な純粋無垢な笑顔で写真を見つめている。発明に目がない、という河童の噂はどうやら本当の様だ。

 

「特別な道具か何かなのか? 天邪鬼、もしよければ魔女じゃなくて、私に頼んでみなよ。品質は保証するよ」

「駄目よ」反射的に私は言った。

「なんで」

「得意な事は得意な人に。適材適所よ。私にとって、見た目だけ完全に同じで、性質がまったく異なるものを作る事なんて、朝飯前なの。あなたが得意なのは、そういうのじゃないでしょ?」

 

 そう口にはしつつも写真をまじまじと見つめ、それを頭の中で組み立てていく。私の言葉に納得したかどうかは分からないが、とくに不満も言わず河童は頷いた。

 

「まあ、でも得るものはあったから、そろそろ帰ろうかな」

「もう帰るのかよ」まるで、もっと居てほしかったと言わんばかりに正邪が言った。それがおかしかったのか、声を立てて笑った河童は、またいつでも会いに来るよ、と体をくねらせた。

 

「そんなに寂しいのなら、これを持っていくれ。私の代わりと思って」

「気持ち悪い」

 

 本当に、えづきそうな声が聞こえた。気になり、意識を途切れさせないように注意しつつ、後ろを振り返る。正邪の手には、お守りのようなものが大量に積まれていた。宗教嫌いの河童にしては珍しい。

 

「じゃあな、天邪鬼。私は案外お前のことを気に入ってるんだ。いい鴨だし。達者でな」

 

 そう言い残した河童は、廊下をかけるように去っていった。いったい、彼女が何をここで得たのかは分からなかったが、本人が満足そうなのでいいだろう。

 

「気に入ってるなら、もっと優しく接しろよな」

「いいじゃない。素敵なお守りを貰えたわけだし」

「いらねえよ」

 

 そうは言いつつも、何だかんだいって気になるようで、たくさんある内の一つだけを取り出した彼女は、その紐へと手を伸ばした。中にはきっと、下らない、例えばそこら辺の流木を薄く砕いたものでも入っていると思ったが、違った。驚きのあまり、打ち出の小槌の作成は完全に頭から抜けてしまう。

 

 お守りの口を開いた瞬間、中から煙が勢いよく飛び出した。ゴホゴホと正邪のむせる声が聞こえる。私は、浦島太郎の玉手箱の話を思い出していた。正邪も、歳をとってしまうのだろうか。それもそれで面白いと思ったが、現実はもっと面白いものだった。

 

 明らかに物理法則を無視した、大きな爆弾のようなものが彼女の手にのっていたのだ。仕組みは分からないが、そうなのだから仕方がない。咄嗟に本棚と正邪に防御魔法をかける。

 

 その爆弾が爆発するのと、私の魔法が発動するのはほぼ同時だった。凄まじい爆音と熱が部屋を覆い、目の前が真っ赤になる。もともと真っ赤だったが、とにかく、突然の炎に私は度肝を抜かれた。冗談にしては、思いの外威力があったからだ。そこら辺の妖怪であれば、一時的に動けなくなる程度だろうが、人間や正邪が喰らってしまえば、一週間は治療が必要だろう。

 

「あのクソ野郎が!」威勢のいい正邪の声が聞こえる。段々と煙が晴れていくと、髪の毛をチリチリとさせた正邪が拳を握り、憤っていた。元気そうで何よりだ。

「あいつ、絶対同じ目に遭わせてやるからな」

 

 怒りながらも、どこか楽しそうな正邪を暖かい目で見ていると、空からひらひらと紙が落ちてくることに気がついた。最初は爆風で本のページがちぎれてしまったかと思い、焦って掴んだが、違った。内容を見て、思わず笑ってしまう。

 

「正邪、ちょっとこれ見てもらえないかしら?」

「何だよ」

「いいから」

 

 面倒くさそうに目を細め、こちらを向いた正邪は、むっとした顔をすぐに破願させ、ふふと小さく笑った。いつも通り、どこか憂鬱そうな顔をしながらも、愉快げに手紙を見つめている。

 

「あの河童らしいわね」

「暇すぎだろ、あいつ。準備してたのかよ」

 

 もしかすると、発明品が云々というのはただの言い訳で、実際は正邪に会いに来たのではないか、ふとそんなことを思った。もしそうだとすれば、素直じゃないにも程がある。

 

「これで、私が天邪鬼を出し抜いたのは三回目だ! 二度あることは三度ってね!」

 

 河童の声を真似て、正邪が高らかに手紙を読み上げた。

 

 

 

 

――天邪鬼――

 

 姉妹とは何か。普通に考えれば、同じ母親から生まれた二人の女性のことを指すだろう。場合によっては、例えば別腹の姉妹だとか、義理の姉妹といった例外が存在するだろうが、それでも何となく納得することはできる。

 

 だが、同時に生まれた付喪神を姉妹と呼ぶかは私には分からなかった。

 

 輝針城の天守閣を離れた私は、色々な部屋を見て回っていた。何か、妙なものが無いかと心配になり、無数にある部屋を一つ一つ確認していたのだ。が、そこにはただ高級な畳があるだけだった。

 

 急いで針妙丸と小魚がいる天守閣へと走る。そんなに時間も立っていないはずだが、この短時間の間に巫女が攻めに来て、全てが終わっていましたでは、まあそれも問題は無いが、できれば避けたかった。

 

 長い廊下を進み、襖を開く。すると見慣れぬ人影が現れた。それも、二人もだ。小人と魚と、それに加え楽器を持った美しい何者かが呑気に畳に座り、雑談をしている。こんな様子では、巫女が来たとしてもすぐにたどり着いてしまうのではないか、とため息が漏れた。

 

「おい、いつから輝針城は託児所になったんだよ」

「あ、正邪。お帰り」

「お帰りじゃねぇよ」

 

 無邪気にこちらを振り返った針妙丸は、紹介するねと笑顔を向けた。隣に座った二人の背筋がピンと伸びる。まるで恋人を紹介されているように感じて、奇妙な気持ちになった。雑念を振り払うように強く首を振る。

 

「えっと、付喪神の九十九弁々さんと九十九八橋さん。九十九が苗字らしいよ。弁々さんが琵琶の付喪神で、八橋さんが琴の付喪神だって!」

「だってじゃねぇんだ。何でそいつらがいるのかと聞いてるんだよ」

 

 琵琶と琴の違いも碌に知らない癖に、意気揚々と語る針妙丸が気に食わなかった。そして何より、そんな甘い針妙丸と親しげに話し合っているその付喪神が怪しく、危険なものに思えた。

 

「なんでって」二人の九十九姉妹の右側、八橋と呼ばれた少女は短い茶色の髪をわしわしと掻きながら、無邪気な笑顔を浮かべた。

「せっかく付喪神になって、動けるようになったから。ね、姉さん」

「そうだ」今度は後ろに二つ括られた弁々と呼ばれた少女が口を開く。

「誰だって、動けるようになったら自由に動きたくなるし、こんな変な建物があったら来たくなる。仕方がない」ベンベンと琵琶の音を鳴らしながら言った彼女に、軽く怒りを覚える。付喪神というのは、どうやら随分と生意気の様だ。

 

「お前らみたいな楽器風情が歩いてんじゃねぇよ。大人しく倉庫で眠ってろ」

「お前さん」弁々は悲しそうに、笑った。

「笑いのセンスがねえな」

 

 ぷちり、と頭の何かが切れた音が聞こえた。彼女らに向かい、ずかずかと近づいていく。こんな奴ら、小魚もろとも追い出してやる。そう意気込んでいたが、ニコニコと頬を上げながらこちらに向かってくる針妙丸に歩みを止められる。何だよ、と呟くも、口に手を当てた彼女は私の耳元で小さく呟いた。吐息が当たってくすぐったいが、我慢する。

 

「ねえねえ、もしかして、これもあれなのかな」

「あれって、なんだよ」

「小槌の力」

 

 その一言に、私ははっとした。確かに、あり得ない話ではなかった。どうしてこの願いで道具に付喪神が宿ったかは、ほとほと不思議だったが、もしこれがそうであるならば、この九十九姉妹と出会うことが小槌の目的によるものだとすれば、不自然ではあるものの納得できるのではないか。そう思えた。

 

「なあ、針妙丸」

「何?」

「お前から見て、あいつらはいい奴だと思うか?」

「もちろん!」

 

 考えることもなく、彼女は即答した。その目には一切の迷いもなく、キラキラと輝いている。あなた達は仲が良すぎるのよ。また、頭の中で声が響く。もしも、彼女たちが針妙丸の仲間になるのならば、後々役に立つのではないか? ふと、そんなことを思った。だが、腹が立つことには変わらない。

 

「もしかして、あなたが鬼人正邪かい?」

 

 腕を組み、必死に頭を回していると、弁々がにやにやと笑いながら声をかけてきた。どこか面白がられているように感じて、気に入らない。畳に足を叩きつけるように腰を下ろす。

 

「いや、見えないねぇ」

「見えないって何がだ」

「あんたが下克上を企んでいる天邪鬼ってことだよ」

 

 口の中に、苦い液が充満してくる。何か言葉を発しようと口を開くも、喉に何かが詰まったかのように言葉が出てこない。ただ、ふしゅうと空気が漏れる音がしただけだった。

 

「姫から聞いたよ。姫のために下克上を決意するなんて、あんた、粋だねえ」

「止めろ。針妙丸のためじゃねえ。あと姫ってよぶな」本心で私は言った。

「でも、すごいよ。強者に立ち向かおうとするのは」八橋が屈託のない笑顔を見せる。

「ですね。中々できることではありませんよ」小魚もそれに続いた。

 

 これ以上ない居心地の悪さを私は感じていた。今すぐにでもここから飛び出し、どこでもいいから頭を冷やしに行きたかった。実際に、畳から腰を上げ、外へと向かおうとしたが、その途中で、足元に打ち出の小槌が転がっていることに気がついた。慌てて針妙丸の方を見ると、彼女はそれを意に介した様子もなく、ぺちゃくちゃとお喋りに興じている。軽く眩暈を覚えた。こんな大切なものを放置しておくなんて、慧音が訊いたら悲しむだろう。もっとも、この小槌を最初に紛失したのは慧音なので、人のことは言えないだろうが。

 

 無意識に、それを拾おうと手を伸ばしていた。が、小槌に触れた瞬間、何かに弾かれるような衝撃が走り、手を引っ込めてしまう。忘れていたわけでは無かったはずだが、驚く。

 

「おい針妙丸」

「ん? どうかしたの」

「どうかしたのじゃねぇよ。小槌置きっぱなしじゃねぇか」

 

 あっと声を漏らした彼女は、トタトタと大きな体を軽やかに動かし、こちらへ向かってくる。えへへと全く反省の様子もなく笑った彼女は、ほら、正邪も一緒にお喋りしようよ、と手を引っ張ってきた。本当ならば断わらなければならないはずだが、何故だかそうすることが出来ない。最後の思い出なんてものではないが、後ろ髪が引かれたのは事実だ。

 

「何だか、正邪さんは姫のお父さんみたいですね」

「は?」

「あー、確かに」

 

 まず、針妙丸が当然のように姫と呼ばれている事実に困惑したが、それよりも、その後の言葉が衝撃的過ぎて、そんなことはどうでもよくなった。私が似ている? こいつの父親に? 

 

「冗談だろ」口から空笑いが零れた。

「あいつは私なんかより、よっぽど天邪鬼してたよ」

 

 蕎麦を打ちながら、こちらを見下すように笑う彼の姿を思い浮かべる。口が動いているが、何と言っているかは分からない。そこで私は、初めて彼の声を思い出せないことに気がついた。愕然とし、その失意を忘れるように頭を振る。彼の顔は消え、喜知田の顔が浮かんだ。ああ、そうか。私が唯一心残りだったのは、喜知田への復讐がまだだったことでも、針妙丸を残してしまった事でもない。彼と同じ場所へ。地獄か天国は知らないが、そこへ行けないことが心残りだったのだ。

 

「ねえ、正邪」

 

 しばらくぼうっとしていた自分の身体を揺さぶり、針妙丸が声をかけた。気がつけば、皆が私を見て、神妙な顔つきをしている。それは、針妙丸も例外ではなく、眉をきりりと真っ直ぐにし、責めるような口調で訊いてきた。

 

「どうして正邪が私のお父さんのことを知っているの?」

「え」

「ねえ、どうして?」

 

 背筋が凍った。世界がくるくると暗転し、この世の中に自分以外の存在が消え去ったかのように思えた。後悔という言葉では生温いような感情が私を襲う。何か。何かを言わなければ。そう思えば思うほど、頭の中がぐちゃぐちゃとかき回されているような感覚に陥る。

 

「また」いま、どんな声が出ているか、分からなかった。声が震えていないことだけを祈る。

 

「また、今度言うよ」

 空気が固まった。音が無くなり、自分の鼓動しか聞こえない。冷や汗が背中を伝っていくのが分かった。

「……ぷ」

「ぷ?」

「……くく。あはは!」

 

 目の前の針妙丸が、突然笑い始めた。それに続き、周りにいた小魚や付喪神も笑いはじめる。ただ、私だけが呆然と佇み、間抜け面をさらしていた。彼女たちがなぜ笑っているのか理解できない。

 

「いやー、そんだけ溜めといて」間延びした、のんびりした声で八橋が笑った。

「また今度はないですよ」小魚が、着物で口を隠し、細かに震えている。

 

 初めはくすくすと含み笑いをするだけだったが、突然、爆発するように皆が一斉に笑い始める。針妙丸も体をくの字にして大笑いしていた。バシバシと私の肩を叩き、指をさして笑ってくる。訳が分からなかった。

 

「分かった。また今度ね」目に涙を浮かべながら、針妙丸は息も絶え絶えに言った。

「何がおかしいんだ」

「だって、正邪が真面目な顔で、また今度っていうのがおかしくて。いつもなら、うるせぇとか、知るかっていうのに」

 

 そこで、ようやくこの事実に、針妙丸の父親、つまりは蕎麦屋の親父に関する暗い事情を知っているのが私だけだという事実に気がついた。他の連中からすれば、いきなり友人の父親について聞きだしたら、挙動不審になって回答を先延ばしにしたということになるのだろう。なるほど、確かにそれは笑える。

 

「でも、“私なんかよりよっぽど天邪鬼”とか何とか言ってたけどさ」弁々が愉快げに私に向かいあった。

「少なくとも、あんたより私たちの方が天邪鬼らしいよ」

「冗談だろ。私は正真正銘、卑劣で狡猾な生まれ持った天邪鬼だ」

 

 私の言葉を受け、アハハと一際大きく笑った弁々は、朗らかに言った。

 

「訂正するよ。あんた、笑いのセンスがあるわ」

 

 

 

 

 

 

 

「それで、どうやって博麗の巫女に対抗するつもりですか?」

 一通り笑い終わった小魚が、首を傾げた。

 

 結局、笑いの大合唱が終わった後、彼女たちはより団結力を深めたようで、私の下克上に対して、各々話し始めた。下克上したら何をやりたいか、どんなことをしたいかについて語り合っている。「道具による天下を目指す」と九十九姉妹が意気込めば、「草の根妖怪ネットワークの規模を拡大する」と小魚が対抗し、「私はみんなが幸せになれればいいかな」と針妙丸が呟いた後、みなが気まずそうに流石姫と褒め合う。そんな茶番じみた行為を繰り返し行っていた。が、小魚が巫女に関することを言った瞬間にその議論は柔らかく、微笑ましい物から、激しく刺々しいものに変わっていった。

 

「私たち生まれたばかりでよく分かんないんだけど」八橋が針妙丸に肩をあずけながら、口元に手を当てた。

「その巫女ってのは強いの?」

「控えめにいって、最強ですね」

 苦笑いをする小魚に同調するように、針妙丸も頷く。

「よく慧音先生が言ってたよ。今の巫女さんは凄いって」

「そんなすごい人に勝てるのかい?」

 

 弁々が私に向かい指を出した。突然話を振られ、たじろぐ。正直に言えば、巫女に勝つ方法なんて、私には思い付かなかった。いや、そもそも考えていなかったと言った方が正しい。巫女に挑むということは即ち敗北である。私たち弱小妖怪にとっての常識とすれば、巫女にいかに勝つかではなく、巫女にいかに襲われないかが重要だった。そもそも巫女に勝とうという発想がそもそもないのだ。だが、それを口にすることはできなかった。私は下克上を是が非でも達成しようとしている。少なくとも彼女たちにはそう見せなければならない。

 

「まあ、私たちに切れる手札は少ない。なら、全部使うしかないだろ」

「どういうこと?」針妙丸が期待に満ちた目を私に向けた。

「単純だよ。お前らも巫女と戦うんだ。こんだけ人数がいれば、誰かは勝てる」と私は堂々と言い、小さな声で「かもしれない」と続けた。

「え、私たちも戦うの?」

「まあ、いいじゃないか八橋。道具もそこそこできるということを世の中に知らしめてやろう」

「いいの? もしかしたら、姉さんも私も折角動けるようになったのに幻想郷にいられなくなってしまうかもよ」

 

「大丈夫さ」片目をパチリと閉じた弁々は、私から見ても魅力的に思えた。が、八橋はそうは思わなかったらしく不満そうに眉をひそめている。

「姉さんが大丈夫っていうと酷い目に遭うよ。毒キノコを食べる羽目になったりとか」

「あれは酷かったな。食いきれなくて、まだ持ってるよ」

 

 ケラケラと笑う弁々を八橋が小突いた。私は、予想以上に彼女たちが乗り気なことに驚いていた。てっきり、そんな危なっかしいことは御免だ、と突き返されるとばかり思っていたのだ。だから、実際に巫女との戦いに巻き込まれる気でいる彼女たちに、いいのか? とらしくもなく訊いてしまった。

 

「巫女と戦うということが何を指しているか。下克上ということがどういうことか分かってんのか?」

 

 傷だらけで図書館に這ってきた門番の姿を頭に浮かべる。願いを下克上ということにしよう、と決めた時のことだ。確かに彼女は巫女にやられたと言っていた。人里や弱小妖怪に被害が及んだとはいえ、たかが赤い霧を出しただけでそうなるのだ。しかも、末端であるはずの門番が、だ。

 

 ならば、もし幻想郷の存在を否定する下克上なんてものに関わってしまえば、今までの異変で一番悪質になる予定の私たちの陰謀に足を入れてしまえば、ひとたまりもないはずだ。そのようなことを、曖昧にぼかしながら、私が彼女たちを気にかけていないということを前面に押しつつ、無謀な付喪神に力説した。が、彼女たちは聞く耳をもたかった。

 

「大丈夫さ」

 親指を立てた弁々は八橋と共に笑った。

「お前の大丈夫は酷い目に遭うんじゃないのか?」

「大丈夫さ」

 

 誇らしげに笑った弁々はまた、琵琶をベンベンと鳴らし、何かを懐から取り出した。大きな、青色の布だ。

 

「これ、あげるよ。餞別だね」

「餞別ってどういう意味だ。それに、何だよこれは」

「見て分からないのかい?」

 

 見下し、鼻を鳴らした弁々は八橋を肘で小突いた。説明してやれよ、とくすくす笑っている。

 

「これは、青い布だよ」

「は?」

「青い布。具体的には、そこら辺に落ちてた大きな青い布だよ。この寒い季節には役に立つと思うな」

 

 開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだった。ただの布がどうして餞別になるのか、理解できない。

 

「おまえ、本当にこんなんで巫女と戦うつもりなのか」

「大丈夫さ」憎たらしい笑みを浮かべ、弁々は私の肩に手を置いた。

「いざとなれば、リーダーである鬼人正邪様が責任を取って下さる」

 

 その、あまりのふてぶてしさに唖然とした私は、助けを求めるように八橋に目をやった。が、彼女も両手をあげ、細かく首を振っている。姉妹なんだから、しっかり手綱を握って欲しかった。

 

「あなたがリーダーなんだから、責任を取ってよね」

「なんで私がリーダーなんだ」

「そりゃ、首謀者だもの」

「たかが道具のくせに生意気だな。分かった、もしお前らが何か言われたら、私に脅されたといってもいい」そっちの方が、私にとっても好都合だった。

「どうしてだい? やけに物分かりがいいじゃないか」

「私は天邪鬼だぞ。悪名を轟かせることが好きなんだ。それと、お前らみたいな出来損ないのガラクタを巫女の当て馬にするのも、悪くない」

「あんたが私たちのことが嫌いだということと、被虐趣味なのは分かったよ」

 

 それぞれの楽器を鳴らし、満足そうに話しあっている二人は、完全に巫女と対決するつもりらしかった。これは説得できない、と途方に暮れていると「手札と言ってましたけど」と小魚が声を高らかに上げた。

 

「それなら、草の根妖怪ネットワークの皆にも協力してもらいましょうか?」

「お前も一枚かむつもりなのか」

「一枚どころか、三枚ぐらい噛ませてもらうつもりです」

 

 クスクスと笑った彼女だったが、ふざけている様子では無かった。本気だ。本気で下克上に加担しようと、巫女を倒そうとしている。

 

「お前、巫女の強さは知っているだろう」

「もちろんですよ。あの高名な巫女さんのことは知っています」

「なら」

「憧れなんですよ」

 

 その声は、決して大きくはなかったが、どこか熱を帯びており、私たちを困惑させた。

 

「一度でいいから、巫女さんと戦ってみたかったんです」

「なんで」

「だって、あの博麗の巫女さんですよ。私たちにとって、雲の上の存在じゃないですか」

「別に会いに行こうと思えば行けるけどな」

 

 そういうこと言わないで下さい、と不貞腐れた小魚は、両手を畳につけ、尾びれを細かく震わせている。夢見がちにぽぅと上を向いた姿は、人魚と呼ぶに相応しく、美しかった。が、「巫女を倒すには、毒でも盛ればいいのかしら」と聞き捨てならない言葉を発している彼女を美しいと呼ぶことは、私には出来ない。

 

「ならさ、チーム名とか決めようよ」

 

 わいのわいのと盛り上がっている内に、針妙丸が突然そう切り出した。あまりに突然すぎて、彼女の言葉を理解できない。

 

「なんだよチーム名って」

「例えばさ」慧音の真似をするように、指を立てた針妙丸は私たちの顔を順に見回した。

「草の根妖怪ネットワークとか、守屋とか、紅魔館みたいに、みんなチーム名を持ってるじゃん」

「紅魔館は建物の名前だけどな」

「とにかく」私の言葉を無視し、彼女は嬉々として言葉を並べる。

「私たちもチーム名を作った方がいいと思うの。楽しそうでしょ」

 

 流石に馬鹿らしいと笑った私をよそに、やろうやろうと他の四人は盛り上がり始めた。輪に入るのも億劫で、窓の外を眺める。巫女はまだ来ていないか、小槌の魔力はどうなっているか。それだけが気がかりだった。そうして、しばらく外を見ていると、頭がぼんやりとし、瞼が下がってくる。単純に疲労がたまってきたからか、それとも小槌のせいか。

 

「正邪! チーム名決まったよ」

 

 頬杖をつき、危なく寝そうになっていたところで、針妙丸が声をかけてきた。びくんと体が震え、それを誤魔化すように大きく伸びをする。

 

「どうでもいいけど、一応何になったか聞いといてやるよ」

「天邪鬼」

「は?」

「天邪鬼になったよ」

「何が」

「だから、ちーむ名だって」針妙丸の後ろにいた弁々が言った。

「ちーむあまのじゃく。いい響きじゃぁないの」

 

 ちーむあまのじゃあく、ちーむあまのじゃくと音を楽しむように繰り返した弁々は「これで一曲作ってもいいかもな」と嘯いた。

「止めろ」

「その止めろってのは、ちーむ名を天邪鬼にすることか? それともちーむあまのじゃくという曲を作るということか?」

「どっちもだ」

 

 どうしてそんな最悪な結論に至ったのだ。というか、それは最早チーム名としての意義を果たしていないのではないか、言いたいことはたくさんあった。だが、そもそも肝心なところを彼女たちは勘違いしている。

 

「私はお前らの仲間なんかじゃない。お前らは道具なんだよ」

「そりゃあ、私たちは道具さ」弁々と八橋が、不思議そうに首をかしげる。

「そうじゃない、比喩だよ」

「比喩?」

「お前らは私のために奮闘し、傷つき、そして捨てられるんだよ。決して対等じゃない。そこら辺を忘れるな。これは私の下克上なんだよ。そのためにお前らがどうなろうと知ったこっちゃない」

「怖いなぁ」ねぇ、姉さんと声を出した八橋の顔には、言葉とは裏腹に一切の恐怖も浮かんでいなかった。

「そもそも何だ。天邪鬼ってのは私の種族じゃねえか。なんでそれをチーム名にするんだよ」

「語呂がいいから」

「ふざけんじゃねぇよ」

 

 まあまあ、と宥めるように柔らかい言葉を発した小魚を無視し、私は喚き立てる。が、その小魚ですら、楽しそうに「良いじゃないですか、天邪鬼で」と同意した。比較的まどもだと思っていた彼女がそちら側に回ったことは、少なからず私を動揺させた。

 

「別に天邪鬼に迷惑をかけているわけでありませんし」

「かけてるんだよ、私に。生まれ持っての天邪鬼の私にな!」

「それは」

 

 ふふんと鼻を鳴らした小魚は、尾びれの鱗を撫で、楽しそうに言った。

 

「それは、生まれながら私たちのチームの一員ということですね!」

 

 ああ、と思わず声が零れる。頭に生えた二本の角に手を伸ばす。堅く、短い自慢の角だ。もしかして、私を天邪鬼たらしめているのは、これだけじゃないか、と不安になる。

 

「やっぱり、お前らの方がよっぽど天邪鬼してるよ」

 

 せめて、こいつらよりは狡くならなければ、と決意した。



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悲劇と喜劇

――白沢――

 

「いったい何が起こっているんだ」

 

 誰に聞くでもなく、自然と私の口からはそんな言葉が零れ出た。だが、それも仕方がないだろう。どうして寺子屋に帰ったら、射命丸の探していた少年が正邪に包丁を向けているのか、そもそも彼女たちは知り合いなのか、何一つ分からなかった。ただ、一つ言えることとすれば、かなりまずい状況ということだ。

 

 焦る頭をなんとか落ち着かせようとするも、考えれば考えるほど混乱していく。ただ、そんな混乱した状態でも、一つの解決法が思い浮かんだ。それは、驚くほど単純で、だからこそ混沌としたこの状況では有効に思えた。

 

 その解決法とは何か。目の前の小さな少年を、力づくで取り押さえる。ただ、それだけだ。いくら包丁を持っていようが、流石に半獣の私であれば、労せず取り押さえることができるはずだ。その後で、何があったかを問いただし、反省させよう。そう思い付いた。

 

 姿勢を低くし、タイミングを見計らう。正邪と少年の間に向かって飛び出し、後は包丁を叩き落すだけ。そこまで難しくはない。少年が、大きく息を吐いた瞬間、私は地面を蹴ろうと、足に力を入れた。が、そこで思わぬ邪魔が入った。

 

「止めてくれ、慧音」

 その少年の向かい側にたっている正邪が、軽口をたたくように私を止めたのだ。

「お前の出る幕はねぇよ。こんなガキ相手に本気になるなっての」

「だが!」

「うるせぇな。私がこんな子供相手に後れを取る訳ないだろ?」

 

 耳を小指でほじりながら、正邪は私に向けて舌を出した。一切の怯えも見せず、生意気にふふんと鼻を鳴らしてさえいる。どうしてそんなに余裕なのか分からない。

 

 歯ぎしりをし、正邪の言葉を無視して飛びこもうとしていると、隣にいた妹紅が肩にそっと手を置いてきた。振り返ると、目を閉じたまま、首を横に振っている。

 

「たぶん、私たちは介入しちゃいけない。正邪の問題だ」

「でも」

「大丈夫だ。さすがの正邪も子供一人に負けたりしない」

 

 力強く頷き、大丈夫だ、と再び口にした妹紅は、自分に納得させるように「そうだろ?」と私に訊いてきた。

「そうだな」

 

 私も大きく首を縦に振る。正直に言えば、あの妖精にすら負ける正邪が、いくら子供とはいえ刃物を持った相手に無事で済むとは思い辛かった。だけど、大丈夫だと、そう信じるしかない。

 

「それで? もう怪我は平気なのか、三郎」

「ごめんなさい」

「謝ってちゃ分かんねぇっての」

 

 正邪に声をかけられた少年は、分かりやすく動揺していた。顔は真っ白で、涙でぐちゃぐちゃになっている。来ている服も、正邪と同様酷い有様だった。その、破けた服の隙間から、青い痣が見え隠れしている。そんな痣を隠そうともせず、少年は正邪と対峙し、身体を震わせていた。

 

「それで? なんだその包丁は。もしかしてあれか? 私に対する謝罪の粗品か? 残念だが私の怪我はもう完治したんだ。そんなもんいらねぇよ」

「ほんとうに、ごめんなさい」

 

 はぁ、とため息を吐き、肩をすくめた正邪はじれったそうに頭をかいた。寺子屋で子供の面倒を見ている私を見直したのか「慧音も大変だったんだな」と感慨深そうに眉を下げている。が、私からすれば、今の正邪の方がよっぽど大変だ。

 

「お前の口は謝るためにあるのか? 違うだろ? いいから、なんでそんなプレゼントを持って私に会いに来たか教えろよ。トマト食わせるぞ」

 

 正邪の言葉にびくり、と体を振るわせた少年は、唇を震わせて、所々言葉を詰まらせながらも、なんとか口を開いた。

 

「あのね、あの。お母さんがね」

「ああ」

「おかあさんが、死んじゃったんだ」

 

 頬から流れ落ちる涙の粒が大きくなった。鼻をすすり、歯をカタカタと震わせながらも、手に持った包丁の切っ先は真っすぐに正邪に向けられている。

 

「正邪お姉ちゃんが出ていったあともね、おかあさん目を覚まさなかったんだ」

 

 それでね、と続ける少年は口調こそ幼く、可愛らしいものだが、涙で枯れた声と、薄暗い雰囲気は背筋をぞっとさせるものだった。

 

「それでね、きっと僕が頑張れば、起きてくれると思ったんだ。だから、部屋を掃除したり、おかゆを作ってみたり、落ちているたべものを探しに行ったりしたんだけど」

「その話はもういい」

「だけどね、全然おかあさん起きなくて」

 

 私と妹紅は、少年の話に聞き入っていた。あまりにひどい現実に、目を覆いたくなる悲劇に、吸い込まれるようにただ立って聞いていた。何かがあればいつでも動けるようにと、そう準備していたはずなのに、いつの間にか体重をどっしりと後ろに置いていた。ただ、正邪だけが違った。正邪は、少年が一言一言発するたびに、頭を抱え、目を見開き、唇をかみしめている。よくは聞こえなかったが、水の泡だと小さく呟いていた。

 

「おかあさん、てっきり怒ってるかと思って、謝ったけど起きなくて。だから、起きてって体を揺すったの、そしたら!」

 

 感極まった少年は大声を出して、言葉を詰まらせた。少し腰をかがめ、包丁を持った手を腰にまで引いている。

 

「そしたらね、首がガクガクして、変な風になっちゃったの。口から芋虫が出てきてね。びっくりして手を離したら、バタンって布団に倒れてね」

 

 そこで少年は、その当時の状況を思い出したのか、口元を左手で抑えた。嗚咽に混じって、込み上げてくる吐き気を必死に我慢しているようだ。心配だったのか、正邪が少年に駆け寄っていく。彼が包丁を持っているにも関わらず、気にした様子もなく背中をさすっていた。

 

 しばらく口元を抑え、うずくまっていた少年だったが、収まったのか、また顔を上げた。正邪とは目を合わせず、ただ包丁を見て、呪いのようにぽつぽつと言葉を零し始める。

 

「倒れた拍子に、お母さんの首が取れちゃって、そこから芋虫がもっと出てきて、慌てて部屋から飛び出したの。そうしたら、外には人が集まってきてて、臭い臭いって文句を言って部屋に入っていったの。そしたら、死んでるってみんなが騒ぎ初めて、こわくて。逃げちゃって。そのとき初めておかあさんが死んだって分かって。どうしたらいいか分からなくて」

「もういいんだ。言わなくていい」

「おかあさんもおとうさんも死んじゃった」

「大丈夫だ、私は死なない」

 

 眉間を、これでもかと顰めた正邪は、三郎少年をきつく抱きしめ、背中をさすっていた。その目には光が灯っていない。少年よりも深い絶望に囚われていると言われても、納得してしまうほどだ。

 

「なあ慧音」

 そんな中、突然妹紅が声をかけてきたので、私はかなり驚いた。

「これ、どっかで射命丸が隠れていたりしないか」

 

 だとすれば面倒だ、と辺りを見渡している妹紅は、私とは違いまだ冷静だった。未だ包丁を離していない少年に注意しつつ、神経をとがらせている。

 

「あいつは霧の湖に向かったから、その心配はないよ」

「そうか」

 安心したわけではないだろうが、ふぅと息を漏らした妹紅は、それにしても、と私の耳に顔を近寄せた。

「正邪とあの少年はどういう関係なんだ」

「さあな。ただ、正邪とあそこまで踏み込んだ関係を持っているのは、あと針妙丸ぐらいだ」

 

 だから、それって誰だよ、と恨めしげに見てくる妹紅だったが、少年が口を開いた途端、反射的に意識をそちらへ戻した。慌てて私も正邪と少年を見やる。少年はまだ泣いていた。正邪はもう笑っていた。だが、はたから見て、正邪の方が悲しい顔に見えるのは何故だろうか。

 

「でも、やっぱりおかあさんにもう一回会いたいの。あって、謝りたい」

「これ以上謝るのかよ」少年の言葉に苦々しく口を歪めた正邪は、心底辛そうに首を振った。

「でも、それは無理だ」

「どうして」

「死んだ人間は生き返らない。絶対にだ」

「ごめんなさい」

 

 その時、少年の目の色が変わった。悲しみと絶望に濡れた黒色の瞳は、使命感と自己暗示に満ちた漆黒へと落ちていく。鳥肌が立ち、頭の中の信号が自動的に全て赤色になった。発作的に正邪の元へと駆けだす。

 

「正邪お姉ちゃんごめんなさい」

 

 最初は、それが何の音かは分からなかった。ザンと鈍い音が、決して大きな音で無かったにも関わらず、嫌に耳にこびり付いた。背中に冷たい汗が流れる。

 

 少年を抱きしめていた正邪の腕が緩んだ。そのまま、ゆっくりと後ろへ下がっていく。最初は、彼女も何が起きたか理解していないようだった。だが、自分の腹を見た途端、彼女は目を丸くした。糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ち、白い顔を粘り気のある液体で赤くなった手で覆っている。

 

 少年が正邪の腹に包丁を刺した。頭ではそう理解したものの、どうしてこんなことになったのか、何一つ理解できていない。頭をぐるぐると回転させている内に、いつの間にか少年の前に立っていた。当の少年は、私が目の前に立っているにも関わらず、倒れ込んだ正邪の方を呆然と見つめている。そして、自分の手についた赤い液体を見て、大声で叫んだ。

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。なんでこんなことを。一体どこでまちがえちゃったんだろう」

 

 正気に戻ったのか、それとも発狂したのか、手にこびり付いたものをこすり、とれないとれないよ、と虚ろな目で呟いている。

 

 どうしてこんなことをしたんだ、そう少年に怒鳴りつけたいのは山々だったが、今はそれどころじゃない。正邪は無事か。それだけが気がかりだった。

 

「謝んじゃねぇよ。馬鹿野郎」

 

 後ろから、絞り出すような正邪の声が聞こえた。心配そうに手を差し伸べている妹紅を退け、自分の足で立ち上がっていた。腹に刺さった包丁を右手で掴み、大きく息を吐く。そして、目を瞑ったかと思うと、一息に引き抜いた。ぽたぽたと音がし、彼女の足元に赤色の水たまりができる。

 

「正邪!」

「大丈夫だってのに。焦んなよ慧音」

 

 顔を真っ青にしながら、気丈に笑った彼女は、自分の服の中に手を突っ込んだ。唖然とする私たちを前に、ごそごそと何かを手探りで探し、取り出した。ぶらぶらとそれを得意げに揺すり、人を食ったかのような不敵な笑みを浮かべている。

 

「言ったろ? ケチャップは盾代わりになるんだよ」

 

 

 

 

 

 

「正邪おねえちゃん!」

 私の脇を通り過ぎ、少年が勢いよく正邪へと飛び込んでいった。よろけながらも、何とか少年を受け止めた正邪は、だから言ったじゃねえか、と少年の頭を撫でた。

 

「私は死なねぇよ」

「ごめんなさい」

「だから謝んなって」

 

 二人とも、体中を赤く濡らしていながらも、絵の具を使って遊んだ子供の様に無邪気に戯れていた。私は心底安堵し、気が抜けたせいか、柄にもなく妹紅へ走り寄って行き、肩を組んだ。一瞬ぎょっとした妹紅だったが、すぐに表情を緩め、同じように肩に手を回してくる。

 

「何だかよく分からんが、無事に解決したみたいだな」

「本当に何だかよく分からなかったけどな」

 

 おいおいと泣き続ける少年を宥めている正邪は、温かい目で見ている私たちに気づいたのか、ぴくりと眉を動かした。何か込み上げてくるものを飲み込むように口を固く結び、すぐに解く。そして、ゆっくりと語りだした。

 

「私とこいつは単なる知り合いだよ」

「にしては仲が良すぎないか?」妹紅がケラケラと笑いながら言った。彼女も緊張の糸が切れたからか、どこかだらりとしている。

「知らねぇよ。勝手に懐かれたんだ」

「でも、なら」

 

 私は少年の絶望的な顔を思い出した。正邪に包丁を刺した後の、あの真っ白な顔だ。

 

「ならなんで包丁で刺したんだよ」

「さあな」

「さあなって」

「不倫でもしたからかしら?」つまらなそうに真顔でそう言った正邪は抱きついてくる少年を引き剥がし、よっこらしょと床に座り込んだ。

「だがな、今日、こいつは偽物の包丁で私を脅かしに来た。ただそれだけなんだよ」

「何を言って」

「そういうことにしてくれ」

 

 そういうことにできるだろ、と呟く正邪の言葉には、これ以上ない説得力があった。彼女は既に二度“そういうこと”の影響を強く受けている。一度目は、夫婦殺害の罪を被り、二度目は、野菜泥棒の罪を被った。ただ、今回の件に限って言えば、目撃しているのは私と妹紅だけだ。だったら、何の問題もない。そもそも何も無かったことにするからだ。

 

「なあ、少年」少し泣き止み始めた少年に、妹紅は声をかけた。正邪の後ろに隠れながらも、しっかりと妹紅の方を向いた少年は「なに?」と可愛らしい声を出した。返事ができてえらいぞ、と笑ってみせる。

「なんで正邪を包丁で刺そうとしたんだ?」

 

 正邪の袖をぎゅっと掴み、顔を強張らせた少年は、おさまり始めていた涙をまた目にためだした。だが、心を決めたのか、強く頷きゆっくりと口を開いた。私はまた、えらいぞ、と相打ちを入れる。

 

「おかあさんを生き返らせたくて」

「はい?」素っ頓狂な声を出した妹紅は、聞き間違いだと思ったのか、私に向かって首を傾げた。「いま、なんていった?」

「死んだおかあさんを生き返らせたくてって言った」

 

 おっかなびっくりといった調子で話す少年は、自分の行いを反省しているのか、ごめんね正邪おねえちゃんと声を震わせていた。

 

 残念なことに、私も妹紅も少年の言葉の意味が理解できなかった。目をぱちくりとさせ、どうして正邪を刺せば彼の母親が生き返るのか、と真面目に考えていたが、分からないものは分からない。

 

「どうして正邪を刺せば、おかあさんが生き返ると思ったのかな?」

 

 極力おびえさせないように、目線を下げてゆっくりと言った。それでも少年はびくりと体を震わせ、その場にうずくまる。だが、ぽつりぽつりとひねり出すように、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「約束したの」

「約束?」

「正邪お姉ちゃんを刺せば、おかあさんを生き返らせてくれるって」

 

 馬鹿げている。傷心した子供の隙につき込み、そんな物騒なことを頼むような奴が、人里にいるという事実自体が信じられなかった。怒りのあまり、唇が震えたが、それでも私は笑顔を崩さず、少年に声をかけた。

 

「誰に言われたの?」

「男の人」

 

 男の人。あまりにも範囲が広すぎて特定できない。正邪に恨みをもつ男の人。このように考えても結果は同じだ。逆に、村人の中で正邪に好印象を抱いているような人はいない。

 

「どうして、それを信じようと思ったんだ?」いつになく不躾に、妹紅が訊いた。

「ふつう、そんな嘘信じないだろ」

「持ってたの」

「持ってたって、何を」

「何でも願いが叶う魔法の道具」

 

 少年の言葉を訊いた正邪は、愉快そうに歯を見せた。フフと肺から直接息を吐き出すようにし、馬鹿だな、と少年の頭を撫でている。

 

「何でも願いが叶う魔法の道具なんて、都合のいいものある訳ないだろ」

 

 眉を下げながら、変な笑い方をする正邪を尻目に、私と妹紅は戦慄していた。何でも願いが叶う魔法の道具に、一つだけ心当たりがあるからだ。

 

「なあ、それって打ち出の小槌のことか」恐る恐る妹紅が訊ねる。

「そうだよ、知ってるの?」

「打ち出の小槌なんて、実在するわけないだろ」

 

 正邪が、馬鹿にするように鼻を鳴らした。身をよじらせ、笑っている。

 

「実はあるんだ」切ない笑みを浮かべる正邪を窘めようと、真剣な顔をしている妹紅を手で制し、正邪に向かい合う。正邪に白を切った様子はなかったし、彼女の嘘を見抜けないほど私は節穴ではない。が、一応確認しておきたかった。

 

「正邪、お前妹紅に紅魔館に連れてかれたんだったよな」

「ああ、鶏ガラに怪我を治しにもらいにな。つっても、意識がなくてほとんど覚えてないが。ああ、ケチャップはそこで貰った」

「その後は」

 

 はぁ? と不服そうな顔をした彼女だったが、真面目な私たちの雰囲気に気圧されたのか、ぶつぶつと呟くように答えた。

 

「知ってるだろ。人里に草履を取りに来たんだよ。そしたら、阿保みたいに殴られて、お前らがいる甘味屋に突っ込んだんだ」

「針妙丸には会ってないのか」

「なんであいつに会わなきゃならねぇんだよ」

 

 つまらなそうにそう吐き捨てた彼女は、もう人里には戻らねえから、針妙丸とも会う事ねえよ、と自嘲気味に笑った。

 

 正邪は、小槌のことを本当に知らない。だとすれば、少年の言った事は事実だろう。そうなると、少年にそんなことを唆したのは誰なんだ。そいつのことを思うと頭が沸騰する。ふつふつと怒りが湧き、居ても立っても居られなくなった。

 

「誰が持っていた!」

 

 私は考えるよりも早く少年に詰め寄っていた。肩を掴み、強引に揺する。

「なあ、男の人ってどんな人だったか覚えているか。髪型は? 年齢は? どんな背格好だ。教えてくれ!」

「慧音、落ち着け」

 

 ガツンと首に衝撃が走り、目の前に妹紅の顔が現れる。少年から引き剥がすように私を引っ張り、もう一度落ち着け、と強い口調で言った。

 

「そんなんじゃ、答えられないだろう」

「あ、ああ。すまない」

 

 頭に昇っていた血が少しずつ冷えていく。これでは駄目だ、と額に手を置いた。常に冷静でいなければ、人里の守護者は務まらない。そんなことすら忘れていた。

 

「あ、あの」私の言葉に面食らったのか、おろおろとしていた少年だったが、はっきりとした口調で「白髪の太った人でした」と私たちに向かい言った。

「あと、高そうな着物を着て、周りに怖い人を引き連れていました」

 

 胸が押し潰されるような感覚に襲われた。目の前が真っ暗になり、世界中から自分が責められているように後悔が押し寄せてくる。白髪で、太っていて、護衛を連れている人間。そんな奴は、一人しか心当たりがいなかった。

 

「喜知田か」

 気づけば、口からそう言葉が出ていた。座っていた正邪が立ち上がり、目をまん丸にしている。

 

『最近思ったんですよ。物は使いようなんだなって』

 頭の中で、喜知田の言葉が再生された。彼の口元がぽぅと画面に映り、それを私は眺めている。そんな気分だった。

『多くの馬を動かすのには人参一本でいい、っていうじゃないですか。仕事をこなせば、これを食わせてやる、とお願いする。それをたくさんの馬に行うんですよ』

 

 まさか。まさか喜知田は。打ち出の小槌を使って、願いを叶えてやると嘘をついて、こんな年端もいかない少年を騙したのか。正邪を殺させようとしたのか。嘘だろ。私は喜知田のことなんて何も知らない。ただ、こんな非情なことをするような子ではなかったと、そう思っていた。思い込んでいた。なぜ、どうして。

 

 そこでふと、記憶の重箱から中身が零れ落ちるかのようにして、数十分前の光景が頭に浮かんだ。射命丸と共に、針妙丸の家に向かっている途中で、後ろから喜知田に声をかけられた場面だ。なぜ、あんなところに彼はいたのか。後ろから声をかけてきたということは、私たちの先に用があったということだろう。私たちの進行方向にあるもの。そんなもの、一つしかなかった。

 

「針妙丸が危ない!」

 

 正邪の顔が、本当の鬼ように恐ろしい顔になっているのが、私には分かった。

 

 

 

 

――魔女――

 

 河童の置き土産がさく裂した図書館には、まだ僅かに紫煙が漂っていた。火薬の焦げ臭いにおいが充満し、とても図書館に相応しい雰囲気ではなくなっている。だが、そんなことすら気にならないほどに、私は作業に没頭していた。打ち出の小槌という秘宝の道具を、レプリカとはいえ作り上げる。それほど難しくはないが、胸が高鳴った。いつもよりも凝って、極細部にもこだわろうと決意していた。

 

「なあ、鶏ガラ」

 

 そんな集中した私に水を差すように正邪が声をかけてくる。しばらくは河童に対する恨みつらみを吐露していたが、吹っ切れたのか、それとも落ち着かないのか、私をじっと見つめていた。

 

「何よ、私は今いそがしいのよ」

「お前が言っていた鬼の世界ってどんなところだ?」

「人の話を聞きなさいよ」

 

 写真という平面をもとに、立体を想像する。頭の中に蓄積された打ち出の小槌の情報を引っ張り出し、全体像を組み立て、それに対応する術式を組む。確かに多少難解な作業ではあるが、会話をしながらもできる範囲ではあった。忙しいと言ったのは単純に、正邪と会話するのが面倒になってきただけだ。

 

「小槌の代償ってので鬼の世界に連れてかれるんだろ? もしかすると、以外にその鬼の世界とやらは快適だったりしねぇのか?」

「する訳ないでしょ」

 

 だよな、とため息を吐く正邪は、本当にそう思ったわけでは無いらしく、希望的に私に訊いてきただけのようだった。それにしても、楽天的過ぎるが。

 

「諦めなさい。小人はただの道具なんでしょ? 全てを救おうとするのはただの傲慢よ」

「分かってるよ。ただ、一応知っておきたいじゃねえか」

 

 優しいのか、それとも臆病なのか。机にだらりと顔を付けた正邪は、教えろよ、と懲りずにまた訊いてきた。呆れて、息が漏れる。だが、こうなった彼女は質問に答えない限りネチネチと訊いてくるのは分かっていた。また、息が漏れる。

 

「例えば、そこは何もない世界なのかもしれない」

「何もない? 鬼の世界なのに鬼もいないのか」

「そう。誰もいないし、何もない。光もなく真っ暗で、時間すらない。死ぬことすらできず、永遠にそこで漂い続けるの」

「そんな場所があるのか」

「例えばよ」

「例えばにしては、随分と具体的だな」

「まあ、実際にそういう場所があるってのは知っているわ。それが鬼の世界かどうかは知らないけど」

「まるで地獄みたいだな」

「馬鹿ね。地獄なんかよりよっぽど地獄よ」

 

 そうか、と呟く正邪の顔には生気がなかった。今更になって怖気づいたのかもしれない。だが、こればかりはどうしようもないのだ。憐れな小人の辿るべき運命としか言いようがない。関われば、私たちですら無事でいられるか分からないのだ。

 

 そうこうしている内に、着々とレプリカは完成に近づきつつあった。設計図は既に頭の中で完成している。後はそれを元に術式を整え、魔力を籠めるだけだ。手元にある魔導書をペラペラと捲り、案の定探していたページのところで綺麗に開いたので、早速作業に取り掛かろうとする。と、そこで正邪がまたもや口を挟んだ。

 

「レプリカ、もうそろそろ出来そうか?」

「誰かさんが話しかけてくるから遅れたけれど、あと少しよ」

「なあ、鶏ガラ」気まずそうにそっぽを向きながら、正邪は頬をポリポリとかいた。

「お前、私にとって、見た目だけ完全に同じで、性質がまったく異なるものを作る事なんて、朝飯前なの、ってムカつく顔で言ってたよな」

「ムカつく顔ではなかったけれど、確かに言ったわね」

「ならよ」

 

 ガタリと乱暴に席を立った正邪は、あー、と間の抜けた声を出し、一つお願いがあるんだが、と小さく呟いた。

 

「そのレプリカに魔法を付け加えて欲しいんだ」

「なに? 振れば花火が打ち上がったり?」

「違げえよ。どんだけ花火が好きなんだ」

 

 じっとしていられないのか、ぐるぐると同じ場所を回り、口元を手で覆っていた。草履が床に擦れ、ずりずりと音を立てている。その、正邪の煮え切らない仕草がじれったく、私はつい、早くしなさいよ、と語気を強めてしまった。あと少しでレプリカが完成するという時に作業を中断させられていて、やきもきしていたのだ。

 

「あの、だな」

「なによ」

 意を決したのか、私の方を真っすぐに見た正邪は大きく息を吸い込んだ。

「痛いの痛いの飛んでい毛」

「はい?」

「だから、痛いの痛いの飛んでい毛の魔法を、レプリカにつけて欲しいんだ」

 

 予想外の願いに、私は呆気に取られていた。馬鹿なことを言うな、と憤る気持ちよりも、なぜそんな魔法を頼むのか、疑問だった。ただ、いずれにせよ褒められたことではない。

 

「止めといた方がいいんじゃないかしら?」

「どうしてだ」

 むっとした表情を隠そうともせずに、正邪は指を突きつけた。

「難しいってわけじゃないだろ」

「確かに難しくはないけれど、問題はあるのよ」

「問題って何だよ」

「あなたよ」

「はあ?」

 

 目を三角にしてこちらを睨む正邪に対し、私はわざとらしく肩をすくめた。いったい彼女は何を考えているのだろうか。どうせ碌でもないことだろう。

 

「魔法を使う側に問題があるって言ってるのよ。もしかすると、あなたは自分の怪我を他の誰かに移そうと考えているのかもしれないけれど、そう上手くはいかないわ」

「なんでだ」

「この魔法は、同時に決められた言葉を言わなければならないの。レミィの時もそうだったでしょ? あなたが急に一緒に声を合わせて叫びましょう、だなんて言われても誰も相手にしないわよ」

「なあ、鶏ガラ。一緒に叫ばないか?」

「嫌よ」

 

 ふん、と鼻を鳴らした正邪は、なぜか自慢げな笑みを浮かべて椅子に腰を落とした。怪訝な表情をする私を見つめ、にやにやと笑っている。

 

「それでも大丈夫だ。四の五の言わずにやってくれ」

「ほんとに、碌でもないわね」

「ってことは三か?」

 

 何が面白いのか、腹を抱えだした正邪は、よろしくな、と無責任に私に告げた。少しの困惑と、多大な苛立ちが胸をかき乱すが、深呼吸をして、なんとか落ち着く。

 

「分かったわよ、やればいいのね、やれば」

「ああ、そうだ」

 

 礼の一つもよこさない正邪に、怒りどころか笑いが込み上げてくる。が、それでいい、と同時に思った。鬼人正邪はこれでいい。不遜で、人を馬鹿にする態度を常にとる、嫌な奴。それでいて、どこか放っておけない不器用で優しい捻くれもの。そんな彼女のことを、私は存外気に入っていた。

 

 早速、くみ上げた術式に変更を加え始める。本当に大丈夫なのか。少しの不安が首をもたげた。正邪が何を企んでいるか知らないが、あの弱小妖怪にできることなど、高が知れている。きっと、たいしたことにはならないだろう。そう自己弁護しながら、魔導書に手を掲げる。

 

「あっ、そういえば」

「何だ」

「いえ、さっき、魔法を発動するには同時に特定の言葉を叫ばなければならないと言ったけれど、何がいいかしら?」

「あ、ああ」

 

 どうしようか、と首を傾げた正邪は、腕を組み熟考し始めた。そんなに悩まなくてもいいのに、と声をかけるも返事は返ってこない。これは、意外に長期戦になるかもしれない、と思っていると、彼女は手を叩き、その言葉を私に告げた。

 

 あまりにも彼女らしい言葉に苦笑いしつつも、その通り術式に入れる。そして、魔導書に意識を集中させた。頭の中から、余計な情報が一切消え去っていく。ただ、目の前の魔導書と、レプリカの術式。それだけを考える。本の中から、湧水がふき出すように、光が漏れる。目を閉じているにもかかわらず、視界が明るくなった。加える魔力を更に増やす。すると、カチリと頭の中で何かがはまった感触がし、魔導書を持つ手に更なる重みが加わった。明るくなった視界が徐々に戻っていく。

 

 期待と、ほんの僅かな不安を胸に抱きつつ、ゆっくりと目を開く。私の手の上には、想像した通りの小槌が乗っかっていた。思わず、やった、と声が零れた。正邪に聞かれてないか心配になり、彼女の方を見やる。正邪は、レプリカを見て、片頬を上げていた。眉を下げ、これでいいんだ、と卑屈な笑みをみせている。どうやら聞かれては無かったようだ。

 

「どう? ご期待に添えるできかしら?」

「ああ、完ぺきだ」

 

 目を見開きながら、一歩一歩踏みしめるようにして私に近づいてくる。魔導書の上に乗っかっているレプリカを恐る恐る手を取ると、舐めまわすようにそれを見つめていた。

 

「やっぱ、魔法はすげえな」

「そうでしょ」

 

 鼻を高くし、自慢げに胸を張る。正邪はよっぽど気に入ったのか、これでいいんだ、と幾度も繰り返していた。

 

 私は達成感と疲労で浮ついていた。椅子に深く腰掛け、声にもならない声を出す。そんな私と対照的に、正邪はぎくしゃくとした動きで、図書館の扉の前へと歩いていった。

 

「それなら、ちょっとばかし行ってくるよ」

「行ってくるって、何しに」

「そりゃあ下克上に決まってるじゃないか」

「あら? もう小槌に願ったなら、下克上は始まっているんじゃないの?」

「願わねえよ」 

 

 じゃあな、と言い残し、例によって礼も言わずに正邪は去っていった。行ってしまえば呆気ないもので、あんなに騒がしかった図書館も一瞬で、静かになる。心の中に、何かもやもやとした感情が芽生えた。寂しさと、そして不安だ。正邪に何か、よくないことが起こるのではないか、と心配だった。なぜ、そこまで正邪に自分は肩入れしているのか。そう客観的に確認するほどには、気に病んでいる。

 

 彼女の、レプリカにかけた魔法を発動する際の言葉を思い出す。何度聞いても、彼女らしく、愚かで小物らしい言葉だ。

 

「すべてをひっくり返せますように、か」

 

 しんとした図書館に染み渡った私の声は、不安をより膨らませていった。

 

 

――天邪鬼――

 

「みんな行っちゃったね」

「そうだな」

 

 それでは、各自巫女に喧嘩を吹っ掛けるように! と何とも物騒な号令の下に、付喪神と小魚は勢いよく輝針城から飛び出していった。

 

 あれだけ賑やかだったここも、しんと静まり返り、壁際に置かれている白い光を発する提灯の、じりじりという音だけが部屋を覆っている。その静けさが、私を責め立てていた。覚悟をしたのだろう? 巫女が来る前に言わなければならないじゃないか。諦めろ。そう頭の中で声が響く。

 

「そろそろ下克上の山場ってところだね」

「山場なんて言葉よく知ってたな」

 

 私は馬鹿にするつもりで言ったのだが、針妙丸は褒められたと思ったようで、えっへんと胸を張った。

 

「たぶんだけど、巫女とたたかって、勝てば下克上は大きく進むと思うんだ」

「勝てると思っているのか?」

 

 ふんふんと鼻歌を歌っている針妙丸に対し、私はつい、責めるような口調になってしまっていた。いくら小槌の力で体が大きくなっているとはいえ、あの針妙丸が巫女と戦う、ましてや勝つことなど不可能だ。むしろ、そうでなくては困る。

 

「正直に言えば、私は勝てないと思う」

「え、そうなのか?」

「うん。よっぽど運がないと無理だよ。だって、あのけいね先生でも勝てないっていってたもん」

 

 意外だった。無鉄砲ではしゃいでばかりいる彼女が、純粋に巫女と自分との力量差を見極めることができるとは思いもしなかった。負けるわけないじゃん! と怒り狂うと思っていた。

 

「巫女に勝てる見込みはないってか」

「面白くないよ、それ。わたしはね、巫女に伝えたいんだ」

「伝えたい? 何を」

「弱者の気持ちだよ」

 

 どこか遠い目で彼方を見つめた針妙丸は、眉を下げ、力なく笑った。身長が大きくなったからか、その表情はどこか憂を帯びていて、色気づいている。そんな彼女を見て、私は愕然としていた。彼女は、平和で穏やかな世界で生きていると、私はそう思い込んでいた。いや、そうでなくてはならないとすら考えていた。が、そんな彼女ですら、弱者でいる苦しみを、逃れられようもない理不尽を感じていたというのか。いったいなぜ。答えは明確だった。私のせいだ。

 

 落ち着かない心を誤魔化すように、畳に置かれていた布を掴む。九十九姉妹が餞別にくれた、青い布だ。非常に薄く、寒さを防ぐことすら出来そうになかった。懐に入れるため、小さく折りたたむ。ふわりと、嗅ぎなれた匂いが鼻についた。紅茶とインクの混じった匂いだ。どうして、鶏ガラの匂いがするのか、と疑問に思ったが、すぐにそれどころではなくなった。布にくるまっていた手が、見えなくなったのだ。透明になったといってもいい。慌てて手を布からだし、無理矢理懐に突っ込んだ。その時に、隠している物が針妙丸にバレていないかと不安になったが、気づかれた様子はない。

 

「それで、弱者の気持ちを伝えたいって、どういうことだよ」

 誤魔化すように、早口でそう尋ねた。

「きっとね、強者は弱者の気持ちなんて考えたこともないと思うの。だから、もしわたしが負けても、そのきっかけになればいいかなって思ったり」

「馬鹿じゃねぇの」

「も、もちろん勝つ気ではいるよ!」

 

 私が馬鹿と言ったのはそこではなかったが、面倒だったので訂正するのはやめた。まさか彼女が、彼女たちが下克上にここまで興味を抱くとは思わなかった。選択を完全に間違えた。もっと、適当なものにしておけばよかった。だが、今更変更はできない。だったら、今やるべきことをするしかない。今やるべきこと。それは何か。針妙丸と縁を切ることだ。

 

「なあ、針妙丸。お前って、私の口にする言葉は嘘だと思うか?」

「突然なに?」

「いいから」

「思わないよ」一切の逡巡も見せず、彼女はそう言った。いつものような浮ついた笑みすら浮かべずに、真剣にそう言ったのだ。

 

「正邪は、確かに捻くれてて間抜けで意地悪で救いようがないけど」

「おい」

「けどね、本当に優しい人はそういう人だと思うんだ。けいね先生も優しいけど、正邪の方がもっと優しいよ。だから、私は正邪の言葉を信じる」

 

 顔を赤らめもせず、当然の事実を述べるようにそう語った針妙丸を前に、私は固まっていた。まさか、そんなことを面と向かって言われるとは。末恐ろしい奴だ。心に芽生えていた暗い感情がすっと晴れていく。固まったのは身体だけではない。僅かに揺らいでいた決意も固まった。

 

「ならよ、もし」自分を落ち着かせるために、一度大きく息を吐いた。大丈夫だ。どちらにせよ、今更引き返せない。だとすれば、憂いはすべて断っておくべきだ。

「もし、私がお前を騙していたといったら、信じるか?」

「騙すって、どういうこと?」

「例えばだ」私は針妙丸と目を合わせないように下を向きつつ、言葉をなんとか並べる。

「幻想郷に小人がいないのは、別に強者に迫害されたからではないといったら」

「え?」

「私が下克上をしたいがためにお前に吐いた嘘だと言ったら、信じるか?」

「どういうこと」

 

 あたふたと慌て始めた針妙丸は、手に持っていた小槌をそこら辺に放り投げ、私に詰め寄ってきた。私なんかより、よっぽど小槌の方が大切なのに。

 

「だから、幻想郷の強者はそこまで暴虐じゃなかったんだよ。小人が幻想郷にいないのは偶然だ。ただ、私がお前を、幻想郷を支配するための、小槌の力を利用するための嘘だったんだ」

「嘘でしょ」

「ああ、嘘だったんだ。よくあんな嘘で騙されてくれたよ」

 

 言葉を切らないまま、一息でそう言い切った。途中で言葉を止めてしまうと、躊躇してしまいそうだった。何度も心に決めたはずなのに、それでも言い訳が頭に過る。別に、嫌われる必要はないんじゃないか? 単純に姿を消すだけで、しばらく旅に出るとでも言っておけばいいんじゃないか? そう声が聞こえる。だが、それでは駄目なのは分かっていた。共犯ではいけない。彼女に一切の罪を背負わせてはいけない。だったら、こうするしかないはずだ。

 

「驚いたか? こうも上手くことが運ぶとは思わなかったが、結果往来だ」

「どうして、そんなことを?」

「私がやるしかなかったからだ」

 

 大きなお椀で顔を隠し、俯きがちに発した針妙丸の声は震えていた。そんな物悲しい声を聞きたくなくて、食い気味に返事をする。

 

「いいことを教えてやる。本当に大事なことってのは、自分でやらなきゃならないんだ。人に頼らずな」

「だから、自分で下克上をしようとしたの?」

「そうだ」

 

 全く質問の答えになっていなくて、驚いた。だが、それも仕方がない。私は天邪鬼のくせに、嘘をつくのが苦手なのだ。針妙丸を騙したのは下克上のため、ということですら嘘なのだから、まともに辻褄を合わせられるはずがなかった。

 

「私は信じないよ」手をぎゅっと握り、勢いよく立ち上がった彼女は、私の目をはっきりと見つめた。私より高い位置にあるその目には、僅かに涙が溜まっている。が、身じろぎするほどに鋭く、強い意思に満ちていた。慧音のようだとも思ったが、それよりも彼に似ていた。

「嫌だよ。私は信じないよ」

 

 ぶんぶんと首を振った針妙丸は、ぽつりぽつりと言葉を零した。

 

「そんなの信じない。信じられないよ」

「さっき、私の言葉を信じるっていったじゃねぇか」

「だったら、わたしは正邪の言葉は全部嘘だと思う」

「そんなのありかよ」

 

 この頑固者が、と内心で歯ぎしりする。家族揃って分からず屋だ。

 

「家族」

「え?」

「ちょうどいい機会だ」

 

 針妙丸に背を向け、一歩二歩と足を進める。畳が僅かに沈み、小さく音を立てた。そんなことすらも煩わしい。大きく体を伸ばし、天井に顔を向ける。そうしなければ、涙がこぼれてしまいそうだった。

 

「お前の父親と私の関係について話してやるよ」

「お父さん?」

 

 事態の急な展開についていけていないのか、えっえっと何度も繰り返し呟いていたが、そんな彼女を無視して話を続ける。そういえば、蕎麦屋の親父も私の言うことなんか無視していたな、と思い出した。

 

「お前の父親はな、ごく普通の人間だったよ。一応蕎麦屋をやっていたが、それでも普通の人間だった。確かに、お前に似て頑固で、変なところにこだわる奴だったが、芯の通った心が強い奴。そんな範疇に収まる程度だ」

 

 嘘だ。人生をかけて妻の復讐をするような奴が普通の人間であるはずがない。

 

「そんな父親だったが、ある時命を落としてしまうんだ」

「え」

「まあ、人間はいずれ死ぬけどな。そうじゃなくて、彼は殺されたんだよ。どんないい人間だって死ぬときゃ簡単に死ぬ。そして死んだら生き返らねぇんだ。当然だがな」

「正邪は」

 

 か細い声が後ろから聞こえる。いま、針妙丸がどのような心境かは分からない。だが、少なくとも、涙を流していることは分かった。

 

「正邪はお父さんとどんな関係だったの?」

「いい質問だな」

 

 気取ったように右手を上げ、拳を握る。親指だけを突き立て、自分の首近くまで持っていった。そのまま、切るように鋭く動かす。

 

「さっき言っただろ、お前の父親は殺されたって。包丁で一突きだ。凄かったぞ。目を見開いてな、顔がみるみる白くなっていくんだ。血で辺りは赤くなっているのに。残念なことに悲鳴は無かったな。痛みを堪えたのか、それとも出すことすら出来なかったのか。断末魔はどんな感じか興味があったんだが、残念だった」

「止めて」

「刺したのは腹だったか、胸だったか。もう覚えてねぇけど、たぶん即死だったはずだ。楽に死ねてよかったじゃねぇか。まあ、死体は人里の外でしばらく野ざらしになっていたが」

「止めてって!」

 

 大きな金切り声が耳を貫いた。足元から細かい振動を感じ、壁際の提灯がちかちかと白い光を点滅させる。あまりに大きな声に、頭が真っ白になった。

 

「どうしてそんな酷いことを、酷い嘘を言うのさ!」

「嘘? どうして嘘だと思ったんだ」

 

 だって、と絞り出すような声が聞こえたが、その先に続く言葉を彼女は続けなかった。代わりに、どすんと、針妙丸が畳に座り込んだ音がむなしく輝針城を覆う。

 

「だって、そんなことは殺した奴しか分からない、って言おうとしたのか」

 

 自然とはっ、とあざ笑う声が零れる。その通りだ。こんなことを知っている奴は、この世に一人しかいない。

 

「その通りだ。お前の父親が死ぬ瞬間なんて、殺した奴しか分からない」

 

 彼の死ぬ直前の顔が脳裏に浮かんだ。振り払おうと頭を叩くも、こびりついて離れない。あいつは普通の人間ではない。殺される直前に、あんな安らかな笑みを浮かべるなんて、おかしいじゃないか。

 

「つまりだ。私が何を言いたいかと言えば」

 

 娘を見守ってくれ、懇願するように目を細める彼の目には涙が浮かんでいた。

 

「お前の親父を殺したのは私ってことだよ」

 

 

 針妙丸は押し黙っていた。もしかすると、彼女の心には、拭い切れない深い傷が刻まれているかもしれない。そう思うと、自分の胸が切り裂かれるように、痛い。だが。それでも、幻想郷を混乱に陥れた事件の共犯だと、輝針城を出現させてしまった加害者だと認定されるよりは、ましなはずだ。

 

「どうして」

 

 畳と何かが擦れる音が聞こえた。気になり、僅かに首を動かして、後ろの様子を窺う。音の正体は単純だった。目を真っ赤にし、涙を畳にこぼしていた針妙丸が、それを着物の裾で拭いていたのだ。

 

「どうして、そんなことをしたの?」

 

 今度は嘘だな、と言わないのだな、と安堵のため息を吐く。その息と共に、僅かに嗚咽が零れ出て、驚いた。胸の中に黒い液体が流れ込み、身体を重くしていく。その液体は段々と上へあがっていき、瞼から零れ落ちそうになった。

 

「どうして、父親を殺したか、か。それは簡単だ。打ち出の小槌の場所を知りたかったからだ。あいにく、最後まで口を割らなかったけどな」

「そこまでして、下克上をしたかったの?」

「ああ。そうすれば、私が幻想郷を支配できると思ったからな。妖精より弱い私なら、ひっくり返った世界では誰よりも強い。あ、でもお前の父親よりかは私の方が強いか」

 

 カラカラと乾いた声で笑う。私があいつより強い? あり得ない。我ながら、冗談にしても荒唐無稽だ。

 

「でも、もし正邪が言ったことが本当だとしても」

 

 その言い回しが、すでに私の言葉を受け入れていると言っているようなものだった。右手に、何かぬめりとした液体がたれる。あまりに強く握り過ぎて、爪が皮膚を突き破っていた。

 

「別にわたしに言わなくてもいいじゃん。言わなかったら、今まで通りに」

「それは」

 

 こいつは、父親を殺した奴とでもできれば仲良くしたいと、そう考えているのか。呆れを通り越して尊敬すら感じる。どれだけ友達が欲しかったのだろうか。

 

「それは?」

「私が天邪鬼だからだ。人の嫌がることをするのが大好きな、そんな妖怪だからだよ」

 

 そう言い残し、私は部屋から出ていこうと、廊下へと足を進めた。後ろから追ってくる気配はない。これで良かったのだ。そうに違いない。自分を納得させるように、繰り返し呟く。

 

「ねえ、正邪」

 

 針妙丸の声は、もはや震えていなかった。むしろ、怒気が含まれており、私の心を直接刺すような、そんな声だった。

 

「いつ頃に帰ってきますか?」

 

 騒めく胸を黙らせる。引きつる頬を何とか整え、満面の笑みを向けて、針妙丸に振り返った。

 

「晩御飯までには帰りますよ、姫様」

 



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天邪鬼の下克上

──白沢──

 

「なんで針妙丸が危ないんだよ」私の背中に捕まっている正邪が、低い声でそう訊いてきた。「いったい何が起きてやがる!」

 

 喜知田が小槌を盗んだ張本人だと知った私は、焦りに焦っていた。一刻も早く針妙丸の家へ向かおうと、寺子屋を飛び出していきたかった。が、流石に少年を放ってはおけない。

 

「私が少年を預かっとくよ」

 そのことが顔に出ていたのか、妹紅は得意げに胸を張った。

「今度は包丁を持って誰かが乗り込んできても、きちんと対応するからさ」

 

 頼もしい友人は、そう言うや否や私の背中を強く押し、早く行け、と叫んだ。その声に押し出されるように寺子屋から飛び出し、そのまま飛び立とうと、足に力を入れた。

 

 予想外だったのは、正邪が私の背中に飛び乗ってきたことだ。

 

「どうして着いてきたんだ」

 私の背中を抱きしめた正邪の手は、力がなく、震えている。

「お前、私が喜知田をどう思っているかぐらい知っているだろ」

「恋人か」

「冗談にしても殺意が湧くな、それは」

 

 結局、私は正邪という重りを乗せたまま針妙丸の家へと向かっていた。正直、正邪と喜知田を鉢合わせさせるのは気が引けたが、説得している時間はない。それに、喜知田の今回の所業が本当だとすれば、あまりにも度が過ぎている。流石に見逃せる範囲ではなかった。

 

「何が起きているか、話せば長くなる」

「短く話せ。私は正しく、はらわたが煮えくり返りそうなんだ。冗談抜きにな」

「分かった分かった」

 

 そうは答えつつも、私は針妙丸の家へ一刻も早く着こうと必死だった。荒れる息を必死に整え、なんとか言葉をひねり出す。

 

「正邪、打ち出の小槌って知ってるか?」

「だから知らねぇっていってるだろ」

「あれはな、使うと厄介なんだ。少なくとも巫女は確実に出てくるような、異変と呼ばれる事態に陥る」

 正邪からの返事はない。だが、気にせず話を続けた。

「その小槌は小人にしか使えない。そして、その小槌が喜知田に盗まれたんだ」

「慧音にしては分かりやすいな」

 

 馬鹿にするように私の頭を撫でた正邪は、そういえば、と声を漏らした。自然と力が入ったのか、撫でる手をそのまま強く握り、私の髪の毛を掴んでいる。

 

「あいつ、願いが叶う道具とか何とか言ってたな」

「本当か?」

「多分な。気づかなかったか? 寺子屋に攻撃的な護衛の札があったぞ」

「え」

「なんでお前が気づいてねえんだよ」

 辛そうに笑った彼女は、喜知田への怒りを目に滲ませていた。

 

 どういう意図で喜知田が寺子屋から小槌を奪ったのかは分からない。もしかすると、単純に興味本位だったかもしれないが、それにしては、手際が良すぎる。

 

 考えても仕方がない、と私は速度を上げた。しつこかった雲は再び晴れ、もはやその面影すらも残していない。真っ青な空を貫き、澄んだ空気を裂くように進む。そんなに距離はないはずだが、嫌に遠く感じた。はやく着いてくれ、と意味も無いのに足をばたつかせる。

 

 針妙丸の家が見えたとき、私は思わず息をのんだ。その家の前で、喜知田が悠然と突っ立っていたからだ。護衛もつれず、たった一人で。大声で喜知田と叫ぶも、向かい風に押し流されていく。重力に従うように、一直線に地面へと向かっていった。

 

 喜知田から少し離れた場所に着地した私は、そのまま足を動かし、喜知田へと向かっていった。流石の喜知田も私たちに気がついたようで、目を細めてこちらを見つめていた。

 

「あれ、どうしたんです? 慧音先生にしては珍しく焦ってますけど」

「とぼけないでくれ」

 

 喜知田は私が来たにもかかわらず、一切の動揺を見せなかった。それどころか、嬉しそうに頬を緩め、手を振ってさえいる。その仕草が、ますます私を焦らせた。

 

「打ち出の小槌だよ。私の部屋から奪っただろう!」

「あ、ああ。小槌ですね」

 

 そんなの知らないですよ、ととぼけることもなく、喜知田はとうとうと言った。一切の悪意も見せず、むしろ誇るようですらある。小さく、開き直りやがって、と正邪が呟いた。

 

「確かに、慧音先生の家から小槌を持っていったのは私です。けれど、決して盗んだわけではありません」

「どういうことだ」

「知ってますか? 私は優しい善良な人間なんですよ」

「馬鹿じゃねぇの」

 たまらず、といった様子で正邪が口を挟んだ。

「お前が善良だったら、この世に悪人が私一人になってしまう」

「あ、あなたは彼の悪名高き鬼人正邪さんじゃありませんか」

 

 初めから分かっていたはずなのに、さぞ今気づいたといった様子で驚いてみせた喜知田は、大袈裟に手をバタバタと振った。

 

「どうしてこんなところに」

 

 口をあんぐりと開け、私と正邪を交互に見つめている。彼がいったい何故そんな過敏な態度を取っているか分からない。

 

「慧音先生、あまり褒められたことではありませんよ」

「何がだ」

「その妖怪と一緒に行動することが、ですよ」

 

 それは打ち出の小槌を利用して少年を騙すことよりもか、と口にしたが、無視された。

 

「その妖怪は人里の敵ですよ? そんな妖怪と人里を一緒に行動していては、どんな悪評が立つか分かりません」

 

 喜知田は私ではなく、正邪に向けて言っていた。未だ私に抱えられているので、正邪がどんな顔をしているかは分からない。だが、必死に私の手から抜け出そうとしていることを考えれば、今すぐにでも喜知田を殺したい、と憤慨しているのは明らかだった。正邪を離さないように、しっかりと体を固定させる。今はとにかく、喜知田から情報を引き出したかった。

 

「それで? 私の部屋から小槌を持っていくのが、どうして盗みじゃないんだ? まさか部屋に落ちてました、とか子供みたいな言い訳するんじゃないだろう」

「先生。こう見えてもう還暦ですよ」

 

 朗らかに笑った喜知田は、私の顔を覗き込むようにじろりと見てくる。表情こそはいつも通り親しみやすさに溢れていたが、どこか暗い雰囲気を感じさせた。私の知っている喜知田とは似ても似つかない。

 

「届けようと思ったんです」

「届けるって、誰に?」

「本来の持ち主に」

 

 あまりに堂々と、悪びれもせず語る喜知田のせいで、なるほどそうだったのか、と納得しそうになる。が、喚く正邪の声で、目が覚めた。

 

「どうして寺子屋にあるものを勝手に本来の持ち主に返そうとするんだ」

「それは当然」

「当然?」

「そっちの方が面白いと思ったからですよ」

 

 その時だけ、彼の後ろにあった暗い雰囲気が消え去り、彼の表情が子供の様になった。無邪気で、一切の悪意もない溌剌としたその表情は、私のよく知る喜知田の笑顔だった。

 

「面白いって、お前は事の重大さを理解しているのか?」 

「重大さ、ですか?」

 

 両手を擦り合わせ、寒いですねぇと呑気に息を吐いている彼の様子を見ると、とても理解しているようには思えない。

 

「打ち出の小槌はな、単に願いを叶えるだけじゃないんだ。もっと危険で、恐ろしい物なんだよ」

「知ってますよ、そんなこと」

 

 平然とそう嘯いた喜知田は、私の背中で力なく手をバタバタと振っている正邪を見て煽るように笑った。息を荒くした正邪が、ますます体を大きく震わせる。ケチャップだろうか、何か湿った物が背中に触れた。

 

「もし危険じゃなかったら、私が小人に使わせてますよ。危なそうな感じがしたから、わざわざ使わずに、色々利用してるんじゃないですか。物は使いようです」

「それであの少年を正邪に差し向けたのか」

「ああ、三郎に会ったんですか」

 

 だから、正邪が生きているんですか、と何の気も無しに口にした喜知田は、つまらなそうに地面を蹴った。

 

「あの少年は私とは何の関係もありませんよ」

「でも、あいつはお前と約束したと!」

「慧音先生」

 

 憤る私たちとは対照的に、喜知田は落ち着き払っていた。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。ここで熱くなってしまえば、相手の思うつぼだ。いったい、いつから喜知田はこんな風になってしまったのだろうか。やはり、あの時。彼が一人の女性を殺してしまった時、きちんと裁かなかったのは間違いだったのか。冷静になろうと心掛けると、余計に雑念が頭を覆った。

 

「私の言う通りにした方がいいですよ、先生」

 

 太い体を大きく揺すった彼は、その丸々とした腹を撫でた。多くの人々が痩せこけている中、彼だけはそのふくよかな体型を維持している。

 

「三郎のことを思うなら、私とは無関係ということにした方がいいでしょう。彼が包丁で鬼人正邪を殺そうとしただなんて、無かったことにした方がいいに決まっています」

「それはそうだが」

「この世の中には知らなくていいこと、知らせなくていいことがたくさんあるんです。先生も、知らない訳じゃないでしょう?」

 

 笑みを浮かべたままの彼の目は、ぐるぐると渦巻いていた。小さな蠅が角膜に無数に張り付き、蠢いているように見える。いつから、と声が漏れる。いつから喜知田の心は、こんなにも絶望に呑まれてしまったのか。今から、彼をその闇から抜け出させることは本当にできるのだろうか。寺子屋の先生として、人里の守護者として私はどうしたらいいのか。

 

 また、頭が混乱し、堂々巡りを始めたところで、ふと、妹紅の言葉が頭に浮かんだ。「困ったなら、即行動だ」 目の前に広がっていた霧が、立ち消えていく。そうだった。うだうだ考えている暇はない。いまは小槌について考えなければ。

 

 背中で抑え込んでいた正邪をほどき、ゆっくりと地面に下ろす。うぅと声を漏らし、顔をしかめながらも、正邪は喜知田に飛び掛かっていきそうだった。それより早く喜知田へと体をすべらせる。右足で宙を漕ぎ、喜知田の正面へと肉薄した私は、彼の左足を躊躇なく蹴り上げた。どこかに護衛が隠れていないかと警戒を怠らないようにしつつ、そのまま喜知田へと体重をかける。体勢を崩した喜知田はそのまま地面に倒れ込んだ。彼の飛び出した腹に膝を置き、馬乗りになる。打ち出の小槌を探そうと、身体をまさぐる。

 

「先生。人里の守護者が人間に手を出したらまずいんじゃないですか?」

「小槌を盗んだ人間なら、妖怪の賢者も許してくれるさ」

「持ってないですよ」

 

 組み伏せられながらも、余裕を崩さない喜知田に違和感を覚える。急いで、彼の金の刺繍があしらわれた着物の懐に手を入れる。が、手ごたえはない。慌てて腹や肩などに手を当てるが、隠し持っている様子でも無かった。目の前に浮かんでいた光が途切れていく。

 

「おい、どこだ」

「はい?」

「どこに隠した!」

 

 首元を掴み、大きく揺さぶる。だが、相も変わらずその不敵な笑みを崩さない喜知田は、隠してなんかないですよ、と優しく頬を緩めた。

 

「最初に言ったじゃないですか、本来の持ち主に返すって」

「まさか」

「もう、小人に渡しましたよ。残念でしたね」

 

 満面の笑みを浮かべた喜知田を乱暴に倒し、急いで針妙丸の家の前に立つ。その小さな扉を力いっぱい引っ張ると、大した手間もなく開いた。中を覗きこむ。が、どこからどう見ても、もぬけの殻だ。

 

「おまえ、針妙丸を」どこへやった。そう喜知田に怒鳴ろうとしたが、それは叶わなかった。人里から少し離れた地点。ちょうど妖怪の山との中間地点から、禍々しい魔力が溢れ出してきたのだ。喜知田は気がついていないようだが、ゾンビのように喜知田に迫っていた正邪は、足を止め、悲痛な顔でそちらを見つめていた。間違いない。小槌の魔力だ。

 

 考えるよりも早く、体が動いた。正邪を掬い取るように背中に乗せ、肌をピリピリと刺す魔力の発生源へと飛び出す。どうしたんですか? と訊いてくる喜知田の声は、一瞬で小さくなっていった。

 

「なんだよこれ」うろたえているのか、小さな声で正邪が呻いた。

「これ、まさか針妙丸と関係しているとか言わないよな」

「その、まさかだ」

 

 私にかかる正邪の体重が、ぐっと重くなる。水の泡だ、と呟く声が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 魔力の発生源へと近づくにつれ、胸の奥のざわめきは増していった。もしかして、もう小槌を振ってしまったのか。そんな辺鄙な場所では、妖怪に襲われるかもしれないじゃないか。そんな心配が胸を刺す。

 

 だから、青々とした広い草原の真ん中に立つ針妙丸を見つけた時、私は心底安堵した。正邪の、ほぅと零れ出た息が耳をくすぐる。

 

 おーい、と声をかけながら針妙丸に近づくも、彼女は聞こえていないようだった。緩んだ緊張の糸が、再び引き締められる。そして、彼女に近づくにつれて、その糸は引きちぎれそうになった。

 

 なぜか。彼女が打ち出の小槌を持っていたからだ。大声で、それを手放せと叫ぶも、案の定聞こえていないようだった。

 

 急いで、彼女の元へと突っ込む。すると、妙な違和感に襲われた。彼女の姿がやけに大きいように感じたのだ。最初は、単純に距離が離れているせいで、私が見間違えているのかと思った。だが、彼女の手に持つ小槌の大きさと、近づくにつれ分かってくる彼女の背丈が、そのあり得ない事実を私の目に突き付けてくる。針妙丸の背が、私たちと同じくらいまで大きくなっていた。

 

「針妙丸、聞こえるか! その小槌を離せ。離してくれ!」

 

 頼む、頼むから、と鬼気迫る声で叫んだ正邪の声も、彼女の耳には届いていないようだった。あと少しで地面に着く。針妙丸に聞こえないはずはないのだが、それでも彼女は聞こえていないようだった。

 

 針妙丸が大きく小槌を振り上げるのが見えた。止めろ、と声が零れる。足に草の感触がした。目の前に針妙丸がいる。だが、それでも彼女に気がついた様子がない。そこで初めて私は、彼女の目が小槌に集中していることに気がついた。止めてくれ、と叫びながら彼女に近づこうとするも、溢れ出る魔力のせいか、足が動かない。

 

 針妙丸の握った小槌が無慈悲にも振り下ろされていく。正邪の、声にもならないような呻き声が耳を突いた。それをかき消すように、シャリンと音がする。私は何もできず、ただ、小槌から漏れ始めた光を見ていた。

 

「友達ができますように!」

 

 威勢のいい彼女の願いは、小槌から溢れる光と共に世界を覆っていった。

 

 

 

 

 

 光が収まったにも関わらず、私は立ちあがることができなかった。遅かった。間に合わなかった。まんまと喜知田の罠に引っかかった。なんて私は愚かなんだ、と自分の頭を強く殴りつける。

 

 ふと、晴れているにもかかわらず、影に包まれていることに気がついて、空を見上げた。青々とした澄んだ寒空が視界を覆うはずだったが、違った。ゆっくりとであるが、何かが空中に出現していく。まるで、薄っすらと霧の奥から現れるように、その姿は段々と鮮明になっていった。元々そこにあったかのように、自然な様子で佇んでいるそれに、私は心当たりがあった。小槌の代償の代名詞。美しく、そして禍々しい絶望の城。上下が逆さまになっている空上の城は、確かに針妙丸の願いを叶えたことを表していた。輝針城が現れてしまったのだ。

 

 もはや、乾いた笑いを出すことしかできなかった。

 

「あ、けいね先生!」

 

 そんな私の絶望など、つゆほど知らない針妙丸は、やっと私に気がついたのか、とてとてと駆け寄ってきた。あまりにも気がつくのが遅すぎた。

 

「みてみて! わたし、ついにけいね先生と同じくらい大きくなったよ」

 

 いつの間にか地面に座り込んでいた私の頭を、嬉しそうに針妙丸は撫でた。その顔は、幸せに満ち満ちている。

 

「ああ、よかったな」

 

 私は、そんなことしか返すことができない。彼女には、いつか小槌の代償についての話をしなければならないのだろうか。そう思うと、心が痛んだ。この世には知らなくていいことがたくさんある。喜知田の言葉が言い訳がましく心を蝕んだ。

 

「なあ、針妙丸。その小槌はどうしたんだ?」

「これ? 凄いでしょ」

 

 目をキラキラと輝かせ、胸を張った彼女は、おじさんから貰ったの、と嬉しそうに小槌を叩いた。

 

「無表情で、怖そうな人だったけど、こんな凄い物をくれるなんて、いい人だったんだね」

「どうやってこんな所に来たんだ?」

「そのおじさんと話してたら、気づいたら眠くなって、いつの間にかここにいたの」

 

 なんでだろうね、と笑う彼女は、大きくなれたことがよっぽど嬉しいのか、しきりに自分の身体を弄っている。

 

 その、おじさんは喜知田の護衛で間違いないだろう。ということは、私が射命丸と共に彼と会った時には、既に彼の手に小槌がなかったということか。完全に虚を突かれた。時間稼ぎに引っかかってしまった。針妙丸の家の前で、彼が護衛もつれず立っているのは、よく考えればあまりにも不自然だった。今更気づいた自分に腹が立つ。

 

「おいチビ」

 

 後ろから、苦しそうな正邪の声が聞こえた。振り返ると、草原で横になった正邪が、真っ白な顔で輝針城を見上げていた。

 

「おまえ、なにしてやがる」

「もうチビじゃないもん!」

 

 私の脇を抜けて、正邪へと駆け寄っていった針妙丸は、ほら、大きくなったでしょ、と体をくるくると回転させた。草の上に座り込んでいる正邪は、渋い顔で、馬鹿じゃねぇのと笑っている。

 

「それになんだ。友達が欲しいだなんて、しょうもないことを願いやがって」

「しょうもなくない! だって、正邪ぐらいしか友達がいないんだもん」

「なら、一人もいないな。私はお前の友達じゃない」

 

 ええー、と大声で叫んだ針妙丸は、ほっぺたを膨らませた。体が大きくなったとしても、彼女は何も変わっていない。それが唯一の救いのように思えた。

 

「というか、なんでお前大きくなってんだよ。それも願ったのか?」

「ううん。なんか小槌を持ったら大きくなった」

「それはまずいな」薄っすらと涙を浮かべている正邪は、ひねり出すように口を動かした。

「大変な事になるぞ」

「たいへんなこと?」針妙丸は小さく首を傾げた。

「どうなるの?」

「生態系が崩れてしまいます」

「何てことを言うんだ、あなたは」発作的に、私は口を挟んでしまった。その私の答えに満足そうに頷いた正邪は、ゆっくりと肩を下ろしたかと思うと、うめき声を漏らした。

 

 そこで、正邪の様子がおかしいことに気がついた。顔こそ針妙丸の方を向いているものの、その虚ろな目は何も映していない。きゅっと、胃が締め付けられるような感覚に陥る。

 

「針妙丸、お前は安全なところに身を隠しておいてくれ」

 正邪の頭を撫でている針妙丸の肩に手を置き、笑顔を作る。

「急にどうしたの?」

「ちょっと、急用ができてな」

 

 少し悲しげに眉をハの字にした針妙丸だったが、うん、と力強く頷いた。ちらりちちらりとこちらを名残惜しそうに見ているものの、それでも私たちに背を向け、また後で、と手を振っている。いい子だ。こんな、暗くて鬱屈とした悲劇には、絶対に巻き込んではならない、とひとり胸に決意をする。

 

 針妙丸が離れていったのを確認して、というより、輝針城へと向かっていったのを見た私は、正邪に向かい合った。頬をあげ、馬鹿にするように笑っているが、身体はガクガクと震えている。

 

「おい、正邪。大丈夫か」

「大丈夫か、と訊かれて大丈夫じゃないって答える奴がいると思うか?」

「正邪なら言いそうだ」

 

 今度聞かれたらそう返すよ、と力なく笑い、ばたりとその場に寝転んだ。息も荒く、辛そうだ。

 

「お、おい。どうしたんだ」

「さっき、言ったじゃねえか」

 

 笑おうとしているのか、不格好に顔を歪めた正邪は、吐息で喉をかすり、妙な音を立てた。

 

「はらわたが煮えくり返りそうだって」

「お前」

 

 慌てて正邪の腹に目をやる。いつの間にかケチャップの染みは大きくなっていた。彼女の服が、たぷたぷと液体を吸って、膨らんでいる。その服の、腹辺りに出来た切れ目から、薄黒いぬめりとした光が見えた。私は思わず尻もちをつき、悲鳴をあげてしまう。込み上げてくるものを堪えることができず、嘔吐く。酸っぱいものが口を覆った。

 

「おいおい慧音、大丈夫か?」

「大丈夫じゃない」

 口元を拭った私は、おずおずと正邪に声をかけた。

「お前、ケチャップが盾代わりになったって」

「馬鹿じゃねぇの。無理に決まってるだろ。あんな薄っぺらいもん、貫通するに決まってるじゃねぇか」

「じゃあなんで」そんな嘘をを吐いたのか。そう言おうと思ったが、止めた。この捻くれた弱小妖怪の、残酷なまでに優しい天邪鬼の考えが分かってしまったのだ。

「少年のためか」

 私の声は震え、湿り気が混じっていた。

「あの少年がお前を刺したことでショックを受けないように!」

「そんな訳ないだろ」

 

 こひゅ、と血と共に息をを吐いた彼女は、焦点の合わない目でこちらを見た。その口は僅かに笑っている。

 

「あんなガキに負けたなんて、認めたくなかったんだよ」

 

 そう軽口をたたきつつも、このままでは長くはもたないのは明らかだった。鋭く裂かれた彼女の服の隙間から、薄黒い内臓が露わになっている。どうする、どうすると頭の中で必死に考える。と、そこで彼女の首にかかっていた一枚の布切れがふわりと宙に浮かんだ。私が預けた、市松模様の手ぬぐいだ。それが吸い寄せられるように彼女の腹に滑っていき、傷口を覆うように被さった。

 

「つ、付喪神か」

「なんだって?」

「なんでこの布が付喪神に? 小槌の影響なのか」

 

 どうして”友達ができますように“という願いで付喪神が宿ったかは分からないが、彼女の布に付喪神が宿っているのは確かのようだった。

 

 もしかすると、針妙丸の友達である正邪を助けるということも小槌の内容に含まれているのではないか、と邪推してしまう。そんな訳ないか。

 

 菌が入ってしまってはまずいと思い、彼女の首に再び布を括りつけた。同時に、頭に手を当てる。べたりと汗がついたが、その割には体が冷たすぎる。そこで、ふと、妹紅のことを思い出した。正邪の白い肌が彼女を想起したのかもしれない。妹紅は、傷だらけの正邪を見つけてどうしたのだったか。

 

「パチュリー」

「え」

「紅魔館の魔女のとこへ行くぞ」

 

 ああ、鶏ガラのことか、とよく分からないことを呟いた正邪を腕に抱きかかえ、私は遠くに見える真っ赤な館へと目を向けた。

 

 

 

 

 

「またですか」

 

 正邪が目を閉じ、死んでしまうんじゃないか、と恐怖しながら紅魔館にたどり着くと、門の前に立っている美鈴は、大きなため息と共に私たちを向かい入れた。普段の気さくな彼女とは違い、なぜか今日は気が立っているようだ。

 

「また、って。正邪はいつもこんな死にそうになっているのか?」

「なってねえよ」

「なってますね」

 

 正邪の言葉を遮るように、美鈴が口を挟んだ。その言葉には覇気がなく、疲れ切っている。

 

「彼女は何回かここに来ているんですよ。というか、慧音さんがお使いを頼んだんでしょう?」

「ああ、まあ、そうだが」

「なんでお使いをするだけで彼女はあんな怪我を負うんですか」

 

 私は答えることができなかった。もごもごと口を動かして、何と答えようかと逡巡していると、後ろから「まあ、いいじゃないの、美鈴」と淡々とした声が聞こえた。

 

「そんなことより、今は彼女の治療が先でしょ」

 

 相変わらず辛気臭せぇな、と無表情で言った正邪を私から受け取った彼女は、その紫の髪をたなびかせながら、あなたも大変ね、と微笑んだ。

 

「久しぶりだな、たまには人里に来てくれよ、パチュリー」

「気が向いたらね」

 

 そう短く言った彼女は、正邪を見て、大きくため息を吐いた。そして、美鈴の方を一瞥すると、疲れ切った彼女を見て驚いたのか、辛そうね、と目を丸くしている。

 

「パチュリーさまぁ、私もう疲れました。お嬢様の命令多すぎませんか?」

「頑張って、としかいいようがないわね。門番になった自分を恨みなさい」

「いい転職先知りませんか? 図書館の司書とか」

「知らないわ」

 

 そう言い残した彼女は、門に背を向け、紅魔館へと入っていった。私も彼女に続き、中に入ろうとするも、美鈴に止められる。どうやら、私はお呼びじゃないらしい。

 

「いま、パチュリー様の仕草みました?」

「え、いや。見てないが」

「右手でこぶしを握ってましたよ。正邪さんの相手が楽だからって、ずるくないですか?」

「はあ」

「ほんと、忙しくて目が回ります」

 

 アハハと笑った彼女は、本当にお嬢様にも困ったものです、と愚痴を零し始めた。よっぽど疲れているのか、門にもたれかかるようにした彼女は、仕切りにあくびを連発し、「妖怪の山の会議から帰ってきてからも酷かったんですが、最近は特に酷くて」と喚いている。

 

「本の並びを変えたり、図書館の壁に札束をかけたり、大変なんです」

「図書館の仕事はパチュリーがやるんじゃないのか?」

「私も手伝ってるんですよ」

 眉を下げ、やつれた頬を掻いている彼女は不憫だったが、今はそれよりも気になることがあった。

 

「正邪さんのことが心配ですか?」

「え、どうして」

「顔を見れば分かりますよ」

 

 心配性ですね、と暖かい目で見てきた彼女は、大丈夫ですよ、と当然のように言った。

 

「パチュリー様の魔法は凄いですから。なんなら、下半身が吹き飛んだとしても、きっと大丈夫ですよ」

「それ、普通なら即死だからな」

 

 また、アハハと笑った彼女は、「もしかして、あの城と関係したりするんですか?」と首を傾けた。

 

 どう答えようかと逡巡していると、彼女は小さく頭を掻き、感慨深そうにその城を指差した。その目には、恐れと尊敬が浮かんでいる。

 

「あれ、お嬢様がついさっき出現を預言したんですよ」

「え」

「なんか、そういう運命らしいですよ」

 

 その言葉をどう受け止めればいいか、私には分からなかった。だが、レミリアに対し、怒りが浮かんだのは確かだ。どうして事前に教えてくれなかったのか。もしかしたら、止められたかもしれないのに、といった理不尽な怒りだ。実際に教えてもらったとしても、できることなんてないというのに。

 

 そんな複雑な私の感情を読み取ったのか分からないが、美鈴は「二度あることは三度あるというけれど」と突拍子もなく言った。

 

「急にどうしたんだ」

「いえ、パチュリー様の声が聞こえてきましてね」

 

 私、耳がいいんですよ、と胸を張った彼女は、自慢げに耳を叩いた。

 

「この館の声なら、大体聞こえますよ」

「凄いな」

「“仕方ないだろ。二度あることは三度あるなら、三度あることが四度あっても”ですって。正邪さんの言葉です。結構余裕そうですね」

 

 彼女の言葉に、私は胸を撫で下ろした。とりあえず正邪が無事だと分かっただけで、肩の荷が下りたような気がしたのだ。だが、「え」と美鈴が素っ頓狂な声を上げるのを聞いて、私の不安はまた大きくなった。

 

「お嬢様のケチャップを持っていったのって、正邪さんだったんですか」

「はい?」

「いや、許せませんね。八つ当たりで仕事を増やされたんですよ。酷くないですか?」

 

 きっと、野菜を人里に持って行って、すぐに妹紅さんに担がれて帰ってきた時ですね、と憤慨し、もう昔のようにも思えます、と目を細くした。

 

「パチュリー様が、正邪さんの歯を抜きたくなる気持ちも分かりますよ」

「そんな物騒なことを言っているのか、パチュリーは」

「ええ、正邪さん相手だと、結構饒舌になるんです」

「そうなのか?」

「はい。“歯の一本や二本は魔法で何とかなるわよ”なんて軽口も言っちゃってますよ」

「普段はそうでもないのか?」

「少なくとも、私は言われたことありません」

 

 妬けちゃいますよね、と朗らかに笑った彼女は、私に向かい片目を閉じた。

 

「驚きました?」

 

 美鈴の言葉に頷いた私は息を思いっきり吸い、美鈴に向かい大きく口を開く。心の中のもやもやをかき消すようにと、全力で叫んだ。

 

「驚天動地!」

 

 なんですかそれ、と笑う美鈴の声が、宙に浮かぶ輝針城にまで届いた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

──魔女──

 

 

 正邪がいなくなった図書館で、私はひとり呆然としていた。魔導書を読むでもなく、紅茶を飲むでもなく、ただ図書館の扉を名残惜しそうに見つめている。

 

 どうして、ここまで胸騒ぎをするのか、分からない。だが、何か大事なものを見落としたような気がしてならないのだ。正邪を追っていくべきだ。理由なんてものは無かった。でも、追っていかないと後悔する。これだけは確かだった。

 

「外出は億劫だけど、仕方ないわね」

 

 誰に言うでもなく、独り言をつぶやいた私は、ドアノブへと手をかけた。そこで、ふと、視界の端に見慣れないものが映った。図書館の本棚の隅に、布のようなものがかかっていたのだ。水色で、かなりの大きさのあるそれは、人ひとりであれば平気でくるめそうだった。

 

 確か、名前は光学迷彩とかなんやらだったはずだ。河童が強引に売りつけていった発明品。それが、不思議と気になった。考える間もなくそれを手に取り、頭から被る。はじめは、ただ単純に布を被った時と同じように、目の前が真っ暗になっただけだった。

 

 騙されたか、と落胆するも、すぐに変化が現れた。足元から、段々と周りの風景が布越しに見え始め、ついには完全に視界が開けたのだ。布ですっぽりと体を覆っているにもかかわらず、普段と同じように辺りを見渡せる。私は素直に感心していた。魔法でこれと同じものを作ってみようと胸に決める。鏡の前に移動すると、そこには確かに何も映っていない。まるで透明人間になった気分だ。これは使える。

 

 もう一度、図書館の扉の前に立ち、ゆっくりとドアノブを開く。すると、目の前に美鈴が立っていて、驚いた。何か図書館に用があったのだろうか。

 

「こ、これが噂の自動ドアってやつですか」

 

 よく分からない事を言って図書館に入っていった彼女を尻目に、長い廊下を進む。美鈴がパチュリー様、と叫んでいたが、無視した。

 

 いったい正邪はどこに向かっているのだろうか。そう考えると、すぐに結論は出た。空に浮かぶ逆さの城。そこにいったのだろう。

 

「どうして、私は彼女にここまでかまうのでしょうね」

 

 きっと、そういう運命だからだ。そう声が聞こえた気がした。

 

 霧の湖をこえ、妖怪の山へと続く草原に、正邪はいた。上空には輝針城が悠然と浮かんでいる。紅魔館から見た時と違い、その大きさと、威圧感に圧倒された。かなりの高さにあるはずなのに、その大きさから近くにあるようにも見える。黒々とした瓦が、日光を反射し、煌びやかに輝いていた。だが、決して美しくはない。その見た目など気にならないような、不穏な魔力を放っていた。

 

 その魔力は、輝針城の真下にいる少女が持つ小槌へと続いている。身長は正邪と同じくらいだったが、不思議とかなり幼く見えた。かなり大きな茶碗を頭に被っているが、そんな奇天烈な格好にも関わらず、違和感が無い。

 

 彼女たちは、何か楽しそうに話していたが、内容までは分からなかった。そして何より、正邪をつけるようにした私自身が、何がしたいのかが分かっていなかった。ただ、迷っていても仕方がないのは確かだ。

 

 取り敢えず、正邪たちの会話が聞こえる辺りまで近づこうと、草原に足をつける。なにか隠れるものはないかと見渡すが、今自分の姿は消えているのだということを思い出し、堂々と彼女たちに向かい、歩いていった。

 

「正邪がわたしに用があるだなんて、珍しいね!」

 快活な声が、耳に届いた。足を止め、耳をそばたてる。

「もしかしたら、明日は雪が降るかもな」

「冬だから降ってもおかしくないじゃん」

 

 楽しそうに笑ったお椀の少女は、身体をくるくると回し、喜びを全身で表していた。右手に握った打ち出の小槌を、くるくると同じように回している。私が作ったレプリカではない。正真正銘、本物の打ち出の小槌だ。ということは、その小槌を持っている彼女こそが小人なのだろう。それにしては、全然小さくない。小槌の影響だろうか。そんなことを考えていると、あっと短い叫び声が聞こえた。慌てて目を彼女たちに戻す。

 

「返してよー。小槌は小人族の宝なんだよ」

「うるせぇ」

 

 右手で針妙丸の顔を鷲掴みにしている正邪の反対の手。左手には、打ち出の小槌が握られていた。さっきまで小人が持っていた、本物の小槌だ。彼女がよそ見をしている内に、強引に奪ったのだろう。小人は、うがーと手を振り回している。そういえば、小槌を強引に掴んだせいで、右手を駄目にしてなかったかしら、と首を捻っていると、案の定正邪の左手は一瞬でくたりと垂れ下がり、手から零れた小槌はころころと転がっていった。だが、小人はそれに気がついていないようだった。

 

「分かった分かった、返すよ」

 

 左手をちらりと見た正邪だったが、すぐに視線を戻し、小人に向かい合った。右手で懐を漁り、小槌を取り出す。今度は私が作った、偽物の小槌だ。それを針妙丸に手渡した。嫌な予感がする。

 

 まったく正邪は、とぷりぷりと怒ったような仕草をみせた小人は、「用って何?」とジト目で正邪を見つめていた。

 

 正邪が一度大きく息を吸うのが、私にも分かった。彼女は口を開かずに、小人の持つ小槌を指差す。そして、そのまま指を上下に振った。

 

「打ち出の小槌を振ればいいの?」

 どこか嬉しそうな小人は、こてんと首を傾げた。

「何か願い事があるの?」

 

 無邪気な小人とは対照的に、顔を真っ青にさせた正邪が、「私の、私たちの野望のためだ」と震える声で言った。そこで、私は、あれ、と首を捻った。確か正邪は下克上を願って城を顕現させたはずだ。ならば、なぜ改めて野望やら何やらを小人に説明しているのだろうか。

 

「私たちって、その野望には私も関わっているの?」

「むしろ当事者だ」

 

 正邪の顔が酷く歪むのが、ここからでも分かった。落ち着きなく、腕を組み替えている。一体、彼女が何を考えているのか、分からない。

 

「お前、自分以外に小人を見たことがあるか?」

 

 突然正邪が、そんなことを言い出した。「ないなー」と答えた小人を見て、満足そうに頷いていた。何を言い出すのか、と不安になる。授業参観に来た親のような気分だ。

 

「迫害されたんだよ」

「え?」

 

 思わず声が漏れてしまい、焦る。バレたのではないか、と焦って身を隠そうとするものの、彼女たちは気づいた様子もなく、話し続けていた。

 

「強い奴らに酷い目にあわされたせいで、小人はひっそりと暮らさなくきゃならなくなったんだ。そのせいで、幻想郷にはお前しか小人がいねえんだよ」

 

 あまりにも安直な嘘に、私は逆に驚かされた。こんなので騙されるような奴はいるのかしら、と呆れていると、「そんな! 酷い!」と叫ぶ小人の声が聞こえてくる。なぜ、こんな見え見えの嘘に引っかかってしまうのか、とまたもや驚かされた。

 

 見返してやろうぜ、とはしゃいでいる二人は、輝針城の下という何とも言えない場所にいたが、とても仲がよさそうに見えた。それこそ、姉妹のようだ。だが、それと共に危うさも覚える。特に、あの小人の方だ。あまりにも正邪の言う事を真に受けている。

 

「強者が弱者を支配するのではない、弱者が強者を支配するんだ。幻想郷を本当の理想郷に変えようぜ。さあ、弱者が見捨てられない楽園を築くのだ!」

 

 威勢の良い正邪の声が辺りに木霊した。弱者が見捨てられない楽園。彼女自身が、弱者は幸せになれないと断言していたにも関わらず、そんなことを嘯いている。やはりおかしい。

 

 いったい、彼女は何をしようとしているのか。もう一度下克上を願うのか。分からない。が、「でも、なんて願えばいいの?」と首を傾げた小人の言葉を聞いて、やっと彼女の意図に気がついた。気がついて、背筋が凍った。まさか、と声が漏れる。例の言葉を彼女らが呟いているのが聞こえた。小人が持っている偽物の小槌に目を向ける。それは、既に高々と振り上げられていた。なぜ。どうして。小人なんて道具だって言ってたじゃないか。正邪を止めようと、そう思ったが間に合わないのは明確だった。現実を直視したくなくて、背を向けてその場を去る。

 

「「すべてをひっくり返せますように!」」

 

 シャリンという音が響き、まばゆい光が溢れ出す。見慣れた、私の魔力による光だ。私がレプリカにかけた魔法がしっかりと発動するのが分かった。小槌の呪いが、小人から正邪へと移っていく。それに目を逸らすように、私は早足で紅魔館へと進んだ。

 

 

 

 

 

 失意に明け暮れ、泥酔者のようにふらつきながら、私は飛んでいた。後ろには、憎々しい輝針城がこちらを見下ろしている。やはり、あの魔法を、痛いの痛いの飛んでい毛の魔法を、レプリカにかけるべきではなかった。正邪に使わせるべきではなかった。まさか、あんな使い方をするなんて、自分に呪いを移すなんて考えてもいなかった。

 

 そんな考え事をしているときに、急に強い風が吹いた。身を切るような冷たい風だ。突然の寒さに、私は思わず布を握っていた手を離してしまった。ぶわりと一度大きく舞った光学迷彩は、水色の大きなそれを翻しながら、ゆっくりと下へと落ちていく。ぼんやりとそれを見つめていた私だったが、霧の湖のほとりに落ちたそれを見て、ようやく取りに行こうと降下を始めた。あまりの出来事に思考がまとまらない。

 

「見て見て姉さん」

 

 ゆっくりと降りていると、その布を見つけたからか、陽気な声を出した女性が姿を現した。光学迷彩を拾い上げ、

 

「布があったよ、水色の」と叫んでいた。

「でかした八橋」

 

 すると、奥の方からもう一人、姉さんと呼ばれた女性が現れる。そんな彼女たちは、なんの悪意もなく、「餞別だ、餞別だ」とはしゃぎながら光学迷彩を持ち去ってしまった。取り返しても良かったが、そんな元気もない。諦めて、その場を去ろうすると、いきなり後ろから肩を掴まれた。慌てて振り返る。

 

「もしかして、紅魔館の魔女さんですか?」

 

 見たこともない妖怪が、そこにはいた。湖の中から出てきたからか、全身が湿っている。こちらを見てニコニコと微笑んでいるその妖怪は、青い髪と妙な耳が印象的だったが、その下半身はより印象的だった。

 

「こんな近所に人魚がいたなんて、驚きね」

「知られてなかったんですか。それは悲しいですね」

 

 およよ、と袖で目元を拭った彼女は、「私はわかさぎ姫と申します」と恭しく頭を下げた。ぽたぽたと水滴が垂れている姿は、どこか官能的にも思える。

 

 いきなり現れた人魚に面食らったものの、すぐに不愉快になった。私はこんなところでおしゃべりをしている暇はない。

 

「それで? 結構な期間ここに住んでいるにも関わらず、中々声をかけなかったあなたが何の用かしら? 私は今疲れているのだけど」

 

 いじめようと思ったわけではないが。私の口調は強くなっていた。疲れと自身への苛立ちがつのり、相手に気をやる元気すら残っていなかったのだ。だが、そんな失礼な私の態度にも関わらず、彼女は平然としていた。彼女から感じる力は、確かに弱所妖怪のそれにも関わらず、それに見合わないほど肝が据わっていた。不思議と、頭が冷えていく。

 

「実は、相談がありまして」

 

 頬に手を当て、眉を下げているその姿には、可愛らしさと共に、いかにもなお姫様のように見えた。彼女の話など聞かず、はやく紅魔館に帰りたかったが、しぶしぶ聞くことにした。

 

「先日、いきなりこれを押し付けられてしまって、困っていたんです」

「これって何よ?」

「これです。この笠です」

 

 そう言い、彼女は懐に手を突っ込んだ。がさごそと漁ったかと思えば、みすぼらしい、ぼろぼろの笠を取り出す。あまりにも酷いその笠に、私は見覚えがあった。

 

「これ、正邪の笠じゃない」

 

 私のぼやけていた頭は、はっきりとした輪郭を持ってきていた。相も変わらず、気分は暗く、訳もなく泣きだしたいが、正邪の笠がここにあるという事実だけは、何とか頭に入った。

 

「この笠はどこで、いつ拾ったの?」

「拾ってないんですよ。貰ったんです」

「貰ったって、誰に。正邪?」

「射命丸さんです」

 

 予想外の返事に、私は戸惑った。ここで、射命丸の名前が出てくるなんて、考えもしなかったのだ。どうして射命丸が正邪の笠を持っていたのか、ふつふつと疑問が湧いてくる。

 

「なんか、人里の民家で見つけたらしいですよ」

 

 そんな私の疑問を感じとったからか、わかさぎ姫は訊いてもいないのに、答えた。

 

「事故物件のボロ屋に落ちてたとか言ってました」

「それで? どうしてあなたがそれを持っているのかしら」

「報酬らしいです」

「報酬? 何の」

「取材の」

 

 ああ、と私は声を漏らしてしまう。こんな愚問は全く意味がなかった。彼女が報酬を渡す相手なんて、取材相手以外にあるわけがない。

 

「それでも、人の物を勝手に報酬として渡すのはどうかと思うけれど」

「正邪さん、でしたっけ」

「ええ。最近よくこの上を通っているはずだけど、知らない? 目が鋭くて、頭に小さな角のある」

「ああ、あのいつもボロボロの」

「そうそう」

 

 だから笠もこんなにボロボロなんですね、と笑った彼女は、そういえば、と声を零した。記憶を辿っているのか、目を上に向けている。

 

「確か、射命丸さんの取材が終わったすぐ後にも、正邪さんは湖の上を通ってましたね。おんぶされてましたけど。ほら、あの浮かんでいる城が出来た時です」

 

 きっと、正邪が内臓を剥き出しにして紅魔館に来た時のことだろう。慧音に抱えられ、不敵に笑っている彼女の姿は鮮明に覚えている。どうして草履を回収しに行くだけで腹に穴が空くのか、甚だ不思議だった。

 

「わかさぎ姫、っといったかしら」

「はい。なんでしょう」

「あなたに一つ任務を命じるわ」

「任務、ですか」

 

 怪訝そうな顔を見せるかと思ったが、予想に反し、彼女は楽しそうにこちらに身を乗り出した。いきなり、親しくもないような私に命令されたにも関わらず、嬉々としてそれを聞こうとしている。

 

「この笠を、正邪に届けてくれないかしら」

「届けに?」

「ええ」

 

 どうしてこんなことを言っているか、自分でも分からなかった。きっと、正邪がどこか遠い所へ行ってしまうことに、少なくないショックを受けていたのだろう。だから、彼女と私のつながりが欲しかった。そんなところではないか、と自分自身に言い聞かせる。

 

「分かりました。正邪さんに届けに行きます。ただ」

「ただ?」

 

 びしりと指を突きさし、真剣な顔つきになった彼女は、湖の表面を軽く撫でた。この寒さで、薄く氷が張っている。よく見ると、彼女がいるところだけ、氷の色が少し違っていた。

 

「綺麗な氷ができてから、行きます」

 

 やっと冴えてきた頭に、どかりと疲労がたまるのが分かった。

 

 

 

 

 

 霧の湖で余計な道草をしてしまったからか、紅魔館につくまでにいつもより長い時間がかかった。輝針城を見上げる度に、どこか重い気分になり、意識が朦朧とする。どうやってここまで来たのかも覚えていない。

 

 門をくぐり、扉を開ける。美鈴はいなかった。門を守らない門番の存在価値はあるのか、と下らないことを考える。空を見上げると、真っ青な空に輝針城がよく映えていた。幻想的というよりは、狂気的だ。太陽の位置はいつの間にかずっと西に寄っている。どうやら、随分遠回りしてきたらしかった。そのせいか、酷く疲れている。いや、疲れたのはそのせいではないか。

 

 紅魔館へと入り、図書館までの長い廊下を進む。途中で、訳もなく立ち止まったり、壁にもたれかかったりしていると、そこでも時間が経ってしまった。やっとのことで図書館にたどり着くと、そのまま倒れ込むようにして転がり込んだ。絨毯に寝転び、力なく手を投げ出す。もう何も考えたくなかった。こんな姿、誰にも見せられないな、とひとり自嘲気味に呟いていると、「遅いじゃねえか」とせせら笑う声が聞こえた。

 

 ぎょっとし、慌てて立ち上がる。声がしたほうへ急いで目をやる。そこには、不遜な態度で椅子に座る正邪の姿があった。

 

「なんで、いるのよ」

「そりゃあ」

 

 あんなことをしたというのに、彼女は一切の後悔も見せていなかった。むしろ清々しそうですらある。

 

「怪我をしたからに決まってるだろ」

「あなたねぇ」

 

 こんなにも憂鬱な気分にも関わらず、つい口元が緩んでしまう。体を起こし、いつも通り、正邪の体面に座る。怠けている脳を叩き起こすために、大きく身体を伸ばした。正邪の前で情けない姿を見せるのは、癪だったのだ。机を挟んだ正面にいる正邪に目を向ける。彼女が向こう側にいることが、もはや当然のように思えた。

 

「少しは学習しなさいよ。小槌を持ったら駄目だって、分かってたじゃない」

 

 小人の前で、本物の小槌を握った彼女の姿を思い浮かべた。今も正邪の左手は、プラプラと力なく揺れている。

 

「だから、今度は利き手じゃない左手で」

 

 右手で頬杖をつき、面倒くさそうに言った正邪は、そこで言葉を切った。一度目を大きく見開き、すぐに鋭く細める。その険しい目つきで私を睨んだ。一体どうしたのだろうか。

 

「お前、どうして分かった?」

「どうしてって、何が」

「私が左手を小槌で怪我をしたって、どうして分かった」

 

 ああ、と気の抜けた声が漏れる。そういえば、そうだった。自分自身が、姿を消してあの場面を覗き見していたということすら忘れていた。

 

「いい演技だったわよ。ただ、小人が迫害される、ってとこが現実味に欠けていたけど」

「お前、どこから見て」

「さあね。ただ、あなた達は仲が良すぎるのよ。そんなんだと、痛い目に遭うのはあなたよ」

 

 これでもかと顔を顰めた正邪は、頭をがしがしと掻きむしった。うう、とうめき声をあげ、しきりに足を組み替えている。

 

「説明してもらおうかしら」

「説明って何を」

「全部よ」

 

 がくりと顔を落とした彼女は、観念したのか両手を上げ、息を吐いた。その耳は興奮したからか、それとも羞恥のせいか真っ赤に染まっている。

 

「分かったよ」

 吐き捨てるようにそう言った正邪は、がばりと顔を上げた。

「ただ、絶対に他言無用だからな」

「大丈夫よ。絶対に誰にも言わないから」

 

 私の言葉に納得したかどうかは分からないが、彼女はぽつりぽつりと説明を始めた。その顔は、一見無表情のようにも見えるが、溢れ出る感情を必死にこらえていることが、私には分かった。やけに素直な彼女に違和感を覚える。もしかすると、彼女は私にこれを伝えたくて、それが目的で来たのではないか。そんな気がした。だとすれば、気に入らない。それではまるで、もう二度と会えないと言っているようなものでは無いか。

 

「野菜を人里に届けにいって、満身創痍になってここに来たことがあったろ。私はあんまり覚えてないが」

「妹紅に連れてこられた時ね」

 

 忘れるはずもない。あの時の彼女は、意識がないに等しく、ただ、私がやるしかない、とうわ言のように呟いていた。

 

「あの後、人里に草履を取りに戻ったら、甘味屋で慧音たちに会っちまって」

「ええ」

「そのまま寺子屋まで行って、そこで何とか草履を回収できたんだが」

「良かったじゃない」

「その後に、色々あって私の腹に穴が空いた」

「なんでよ」

「さあな。色々あったんだ」

 

 これ以上ないほどに苦々しい顔をした彼女は、小さく首を振った。答える気はない、ということだろうか。

 

「そこでだな、打ち出の小槌が慧音の家から盗まれたと知ったんだ。取り返そうとしたが、まあ失敗した」

 

 両手を強く握り、机を思いっきり叩いた。彼女の鋭い目に、黒い何かが宿っているようにも見える。

 

「そうしている内に、小槌は針妙丸の手へと渡ったんだよ。代償のことなんて、何も知らない無邪気なあいつの元ヘな。そして、当然のように彼女はそれを使ったんだ。なあ、なんて願ったと思う?」

「知らないわ。分かるわけないじゃない」

「友達ができますように」

「え?」

「そう願ったんだよ、あいつは」

 

 馬鹿みたいだろ、と微笑む正邪は、呆れというよりも、馬鹿な娘を思い出すような、そんな表情をしていた。

 

「純粋だろ?」

「純粋といっていいのか分からないけれど」

「あいつは眩しすぎるんだよ」

 

 小人は道具だと言っていたくせに、とつい声に出してしまったが、聞こえてないようだった。

 

「それで? その眩しすぎる小人を置いて、あなたは慧音にここへ連れ込まれたのね。腹に穴を空けて」

「連れ込まれてねえ。遊びに来たんだ」

「これ以上嬉しくない言葉もないわね」

 

 慧音が彼女を連れてきてから、色々なことがあった。本は勝手に漁るし、いきなり怒り出す。河童と喧嘩をしたかと思えば、レプリカを作れと無茶を言う。だが、そんな日々も悪くないと私は思っていた。

 

「あなたはこれからどうするのよ」

 

 このまま正邪が私の手の届かない場所に行きそうで、怖かった。が、そんな私の気持ちを知ってか知らずか、「決めてねえ」と彼女は呑気に笑った。

 

「とりあえず輝針城にでも行くさ」

「小人のことが心配なの?」

「そんな訳あるか。あんな立派な城はあいつには勿体ないだろ。だから、私が貰ってやるんだ」

 

 そこで、正邪は浮かべていた笑みを消した。目に怒りをためたかと思えば、かき消すように頭を振り、頬を叩く。パチンと子気味いい音が図書館に反響した。

 

「私には義務がある」ぽつりと、正邪は抑揚なく言った。

「義務?」

「あのバカで綺麗な針妙丸を、私たちの汚れた世界に引き込んじゃいけねえんだよ。弱者には幸せになる資格がないなんてことをな、分からせちゃいけないんだ。だから」

「だから、あなたがその代償を引き受けたの? 痛いの飛んでい毛で」

 

 正邪は、否定も肯定もしなかった。彼女の胸の中にあるだろう、小槌のレプリカからは、確かに禍々しい魔力が溢れている。どんな怪我も呪いも他人に移すことができる使い勝手の悪い魔法。彼女がそれを欲しがった理由は、小人の呪いを自分に移すためであった。

 

「でも、だとしても、願いが下克上だなんて変な嘘をつかなきゃいいのに。面倒なことになるわよ」

「あいつが、幻想郷を壊すような異変の引き金だと分からせてはいけない。共犯じゃいけねえんだよ。だったら、私が下克上を起こすための道具として騙したと言えば、同情があつまるだろ」

「だとしても、別の方法があったはずよ。別にあなたじゃなくても、他の誰かに押し付けてもいいじゃない」

 

 たまらず、私は言った。どうして正邪がそこまで小人を庇うのか。小人のために泥をすするのかが分からなかった。文字通り、残りの人生を犠牲にしてまで彼女を守る必要があったのか。彼女のために、そこまでの悪評を被るのが正邪の役目だったのかと、喚いた。納得いってなかったのだ。だが、どうやら納得していなかったのは、私だけのようだった。

 

「普通に考えれば、得意分野はそれぞれのプロに任せた方が良いと思うだろ? 適材適所ってやつだ」

 

 得意げに正邪は笑った。その目には一切の迷いもなかった。

 

「私は嫌われるプロだからな」

 

 面白そうにクツクツと笑った正邪は、きっと上手くいくと自分に言い聞かせるように呟いた。恐怖と決意が入り混じった、澱んだ目で私を見つめてくる。

 

「確か、小槌の代償で、私は鬼の世界とやらに封印されるんだろ? だったら、そのついでだよ」

「そんなにうまくいくかしら?」

「いかせるんだよ」

「誰が」

「お前が」

 

 はあ、と息が漏れる。それは、あまりにも自分勝手すぎる頼みで、面倒くさいもので、呆れた。ただ、それよりも、その願いを叶える気でいる自分自身に呆れる。

 

「だったら、初めから言えばいいじゃない。別に私にまで、小槌に下克上を願ったとか、小人は道具だとか言わなくても」

 

 そんな大事なことを最後まで隠されていたことに、少し腹が立った。天邪鬼に信用という言葉があるかどうか分からないが、とにかく、彼女にとって私はそこまで軽率な奴だったのか、と悲しくなる。

 

「ほら、よく言うじゃないか」そんな私をちらりと見上げた正邪は、嫌味に鼻を鳴らした。その顔は、いつもの彼女と変わらず、憎たらしい笑みを浮かべている。

 

「敵を騙すにはまず味方からだって」

「意味、違うわよ」

 

 微笑む私の目から、一筋の水滴がぽとりとたれた。

 

 

 

 

 

 

 

──天邪鬼──

 

 針妙丸に今生の別れを告げた私は、輝針城の長い廊下を歩いていた。何をしに行くのか。単純だ。巫女と戦い、そして負ける。そのために私は足を進めていた。

 

 “いつ頃に帰ってきますか? ”

 

 針妙丸の、冷たい声が頭に何度も木霊する。私と彼女を結んでいた繋がりが、確かにぷつりと切れたような気がした。敵を騙すにはまず味方から。私は間違ったことはしていない。そのはずだ。きっと、針妙丸は巫女たちに、私は鬼人正邪という妖怪に騙されたんだ、と主張するに違いない。それが信用されるかどうかは鶏ガラの努力次第だ。だが、逆に私が悪事をしたと言われて、信じないような奴の方が少ないように思えた。

 

 きっと、あの鬼人正邪が下克上をたくらみ、幻想郷を混乱に陥れようとしました、と言われても、多くの人は、ああやっぱり、と納得するに違いない。今までの私の行動によって、私の信用は、大きく下へと振りきれている。

 

「身から出た錆っていい言葉だよな」

 

 何の気も無しに、頭に浮かんだ言葉を呟く。それは間違いなく彼の言葉だった。思わず、笑みがこぼれる。なんだよ、まだ声を覚えてるじゃねえか。

 

「まあ、私の呪いはお前と違って、錆びないけどな」

 

 その私が呟いた声は、すぐに轟音にかき消されることとなった。ごうごうと、山なりのような音が、輝針城全体に響き渡ったのだ。その大きな音に驚いた私は、その場で飛び跳ね、辺りをきょろきょろと意味もなく見渡した。

 

 目の前のものすべてが、徐々に左に傾いていく。最初は、私の目がおかしくなったかと思った。針妙丸と縁を切ったことが堪えたのか、眩暈に襲われたのかと、そう勘違いした。ただ、視界が左に傾いていたのは、私が疲れていたからではなく、実際に輝針城の天井が動いているせいだった。

 

 床、天井、壁がゆっくりと、しかし着実に回転していく。床から壁に滑り落ちた私は、たまらず宙へと浮かんだ。結局、ちょうど逆さまに、天井と床の位置が入れ替わったところで、止まった。いったい何が起きているのか、混乱した頭で考える。そんな私をあざ笑うかのように、後ろから猛烈な魔力の風が吹きつけてきた。あまりの激しさに、吹き飛ばされそうになる。振り返ることすら出来なかった。

 

 この城に何が起きているのか。もしかして、もう小槌の魔力が切れようとしているのか。鬼の世界へと封印されてしまうのか、と恐怖したが、違った。廊下のはるか先、辛うじて白い提灯に映し出されているその姿を見て、私はようやく理解した。これは、輝針城の罠だ。侵入者が来た時の合図だったのだ。その、遠くにいる侵入者に目を向ける。

 

 あまりにも早すぎる。流石と言うべきか、それとも恐ろしいと言うべきか。その侵入者は、頭に付けた赤いリボンを揺すりながら、恐ろしい速度でこちらへ近づいて来ていた。くるくると体を回転させ、舞うように突っ込んでくる。赤と白の特徴的なその服も相まって、可憐な梅の花の様だ。だが、私にとってはそんな美しさですら、恐ろしく思える。その巫女の手にはお祓い棒は握られていなかった。私たちを倒すには、それすら必要ないということだろうか。

 

「やっとお城についたっていうのに、これじゃ休めそうにないわね」

 

 気づけば、すぐ近くにまで巫女が近づいていて、驚く。恐れを悟られないように、胸を張り、彼女を睨みつけた。

 

「何だ? お前は。ここはお前たちの人間が来る場所でない。即刻立ち去れ」

「はいそうですか……って立ち去る訳がないでしょ? 空中にこんなお城を建てて何考えているのよ」

「何考えてるか、ねぇ」

 

 この輝針城を経てた張本人。彼女が一体何を考えていたか。おそらく、この巫女が考えている以上に、下らなく、それでいて切実なことを考えていたのだろう。だが、そんなことはどうでもいい。針妙丸、いや、私がこの城を建てた理由はただ一つだけ、下克上をするために決まっている。決まっていなければならない。

 

「聞きたいか? 聞きたいよな? 何を隠そう我らは下克上を企んでいるのだ!」

 

 柄になく、気取った態度でそう言った。身体をぐるりと回し、鶏ガラがよくやっていたように、唇を手で撫でる。余計なことを口にしてしまわないか心配だったが、それでも、私の口は勝手に動いた。

 

 私の言葉に、へー、と単調に返した巫女は、半目で私を睨んできた。その目は凶弾してくるというよりは、呆れや哀れみに満ちている。ますます腹が立った。

 

「本気で下克上を考えている奴がいたのね。そんなの、成功すると思っているの?」

「なんだ? 驚かないな」

「だってさっきお琴の付喪神がそんな話してたもん」

 

 お琴の付喪神、九十九姉妹の片割れの、八橋のことだと分かるまでに、そう時間はかからなかった。

 

「会ったのか? 琴の付喪神に」

「会ったわよ。下克上が云々とか言ってたわね」

 

 さすが八橋だ、と小さく呟く。同じ姉妹でも弁々とは違う。

 

「他に何か言ってなかったか?」

「えっと、そういえば、私は悪くないよー、天邪鬼が悪い、とか何とか言ってたかな」

 

 その時のことを思い出しているのか、うーん、と首を傾げた彼女は、見慣れない妖怪が暴れているから、頭がこんがらがってきたわ、とどこか他人事のように首を捻った。

 

「もしかして、小魚も暴れていたりしてたか?」

「あ、ああ。してたわね。弱かったけど」

「弱かったのか」

 

 なんて名前だったかな、と一瞬だけ考える素振りをした彼女だったが、すぐに諦めたのか、小さく息を吐いた。答えを教えてやろうとも思ったが、止めた。おそらく、それを聞いたところで彼女は興味を持たないと思ったからだ。

 

「とにかく、こんな面倒なことをしでかしたのは、あなたってことでいいわね」

「まあ、な」

「だったら、すぐに止めてちょうだい」

「そいつは無理な相談だな」なんていったって、輝針城から溢れる魔力の止め方を知っている奴なんている訳ないんだから。

「そんなに下克上したいの?」

「当たり前だろ?」

 

 何が当たり前なのか私にも分からなかったが、その心を覆い隠し、得意げに鼻を鳴らした。片方の口角だけ、嫌味に上げる。

 

「これからは強者が力を失い、弱者がこの世を統べるのだ!」

「あんたねぇ」

 

 その大きなリボンをひらひらと揺らした彼女は、じりじりと私に近づいてくる。背中を向けて逃げたくなったが、必死にこらえた。ここから、外へ脱出する経路を必死に頭の中で考える。私は死なない。三郎少年との約束を思い出した。死ぬもんか。鬼の世界に封印されるまでは、絶対に死ぬわけにはいかない。

 

「呆れたわ。そんな誰も得をしない事をする妖怪がいるなんて」

「誰も得をしない?」

 

 恐怖のあまり、凍り付いたかのように固まっていた体が熱くなっていくのが分かった。何かが頭の中でぶくぶくと泡を立て、沸騰し始める。顔が熱くなっていくのが分かった。きゅっと視界が狭まり、巫女の姿だけが鮮明に映っている。その巫女の後ろに、血まみれの三郎少年と、笑顔の針妙丸が左右に並んでいるのが見えた。軽く頭を振ると、その姿は立ち消えていった。

 

「誰も得をしない……だと? 我ら力弱き者達が如何に虐げられていたか、お前達人間には判るまい」

「虐げられてきた、ねえ」

 

 不服そうに眉をひそめた彼女は、ぽりぽりと頭をかいた。こちらは命がけなのに、その余裕な態度が気に入らない。これだから人間は、と吐き捨てる。そして何よりも、私の選択を否定されたようで、怒りが込み上げてきた。

 

「誰も得しないなんて、どうしてお前に分かるんだよ。私たちが味わった苦労を、屈辱を、悲劇をどうせお前は知らないのだろう。いつだってそうだ。どうせ、人里で殺人があったと請願していっても、管轄外だと言うんだろ?」

「何の話よ」

「こんな世界なんてひっくり返っちまえばいいんだ。弱者を糧に生きて、そしてその罪悪感にすら目を逸らし続けてる世の中なんて、クソ食らえだ。何もかもひっくり返る逆さ城で念願の挫折を味わうがいい!」

 

 彼女に向かい、一直線に突っ込んでいく。背中側からふいてくる魔力が私を後押ししているような気がした。

 

 巫女は逃げもせず、ただその場に立っていた。眠そうに欠伸をしてすらいる。なめやがって。

 

 速度を上げ、両手を突き出す。巫女がすぐ目の前で突っ立っている。そのまま突進しようとしたところで、目の前が急に明るい光で包まれた。身の毛がよだつ、恐ろしい光だ。反射的に横へと身を投げ出す。身体のすぐそばを、熱い光の弾が通過していくのが分かった。くるくると無様に身をよじり、そのまま壁にぶつかる。慌てて体勢を立て直し、巫女へと振り返った。彼女は何の気も無しに、手をぶらぶらさせている。

 

「初っ端から突進だなんて、裏を突いたつもりかしら」

「裏も表もねえよ。それしかできねえだけだ」

 

 面倒ね、と首をがくりとさせた彼女は、何やら呟き始めた。すると、陰陽玉が現れ、札のようなものが彼女の後ろに大量に出現した。ふよふよと浮かんでいるそれらは、一つ一つが私の全力を凌駕している。

 

「おいおい嘘だろ」

「何が嘘かどうか知らないけれど、とっとと終わらせるわよ」

 

 不敵に笑った彼女は、身体をくるりと回し、勢いよくこちらへ飛び込んできた。それと共に、周りの札が私の方へと向かってくる。四方八方から、流れ込むように辺りを覆いつくすそれは、嵐の中の雨粒のようだった。到底避けられそうにない。

 

 懐に手を入れたことに理由は無かった。何時もの習慣か、それとも、もしかしたら無意識的にそれの存在に気がついていたのかもしれない。懐には、小槌のレプリカの他に、何か小さな袋のようなものが大量に入っていた。それが何かが分からなかったが、焦っていた私はそれを取り出し、乱暴に投げる。その袋は、すぐに巫女の札とぶつかり、破れた。が、それと共に大きな爆音がし、周囲の札をも巻き込み破裂する。視界が炎で包まれた。一瞬の判断だった。身体が熱で悲鳴をあげるのを無視し、その隙間へと入り込む。爆風と炎で身体に傷ができているのが分かるが、それでもあの博麗の巫女の札に当たるよりかはマシだ。

 

 爆発の光が収まっていき、視界が回復する。体中が痛かったが、まだ痛みを感じている内は大丈夫だということを、経験から知っていた。札がこないかと、辺りを見渡すも、なぜか札はすべて消えていた。一枚の紙が、ペラペラと上から落ちてくる。拾おうと思ったが、止めた。内容は分かりきっていたからだ。あの憎たらしい河童もたまには役に立つ。

 

 巫女の方に目を向ける。一瞬、どこにいるか分からなかったが、自分の真下にいることに気がつき、心臓が止まりそうになった。慌てて後ろへ下がる。が、彼女は追ってこなかった。一体どうしたのか、と訝しんでいると、彼女はふらふらと酔っ払いのように動き、頭を押さえている。

 

「何がどうなっているのよ」と混乱しているのか、焦燥を滲ませていた。もしかすると、輝針城の魔力に当てられたのかもしれない。

 

 チャンスだ。どこからともなく、行けと自分を鼓舞する声が聞こえた。懐から河童のお守りを取り出し、巫女に近づく。こちらをきつく睨んだ巫女だったが、まだふらふらとしていた。握りしめた大量のお守りを思い切り投げつけ、距離を取る。まばゆい閃光と共に、けたたましい爆音が辺りを包んだ。爆風で吹き飛ばされた私は、無様に打ち上げられ、畳に頭を打ち付ける。そして、そのまま天井へと落下していった。

 

 手をつき、立ち上がる。煙が深く、先を見通すことができない。これで勝っただろうか。いや、無理だ。巫女があの程度の攻撃で負けるはずがない。だが、善戦と呼べるくらいにはなっただろう。下克上の首謀者と、認められるくらいの活躍は見せただろうと、そう思っていた。 

 

 だが、現実はそんなに甘くなかった。煙が晴れた先にあったのは、一切の傷を負っていない巫女の姿だった。忌々しそうにこちらを見下し、また、面倒ね、と呟いている。

 

「なんで無傷なんだよ、おかしいだろ」

「そういうのは、もう少し後にやった方がいいわよ。万全な状態で絨毯爆撃をくらっても、結界とかで防げるでしょ?」

「時期尚早だったか」

「そういうこと」

 

 そもそも、普通の人間は結界なんて張れないと思ったが、彼女は普通の人間ではないことを思い出した。妹紅といい、こいつといい、人間離れした人間が多すぎる。もっとも、普通の人間にすら、私は勝てないのだが。

 

「下克上だなんて……幻想郷を混乱に貶める行動は許さないわ!」

 

 使命感に満ちた目で、私を見つめてくる。それは勇ましく、貴くて、素晴らしい目だった。幻想郷を守ろうと、そのために彼女は戦っているのだろう。なんて感動的なのだろう。人の身でありながら、死屍累々の妖怪と戦うなんて、泣かせるじゃないか。だが、だからこそ私はそれを否定する。薄気味悪いものだと嫌悪する。なぜか? 私が天邪鬼だからだ。

 

「混乱だと? だから人間に何が判る。ただ力が無いだけで悪の汚名を着せられ虐げられてきた私の歴史。今こそ復讐の時だ!」

 

 巫女の頭上に色とりどりの光の弾が集まっていた。それは、まるで自分が今まで不幸にしてきた者たちを、自分が関わってしまったばかりに、酷い目に遭った奴らを代弁するような、そんな気がした。

 

 私は悪人だ。これだけは誰がなんていようと変わらない。変えてはいけない。悪人は、追いつめられたらどうするか? そんなの決まっていた。

 

 私は巫女に背を向け、全力で窓へと向かっていく。爆発のせいか、開けっぴろげになっていた。後ろから、光の弾が近づいてくるのが分かる。どうやら追尾性のようだ。その威力は明らかに、一匹の弱小妖怪に加えるにしては過ぎたものだった。避けることもできないだろう。窓から勢いよく飛び出した。冷たい空気が肌を刺し、風が身体を覆う。眩しい太陽の光が目を貫く。

 

 ちらりと後ろを振り返ると、光弾がすぐ後ろにまで迫っていた。躱そうと身をひるがえすも、瞬時に方向を変え、近づいてくる。こんなの反則じゃねえか、と悪態をつく。

 

 追えばいいんでしょ! と巫女の叫び声が聞こえたかと思えば、身体に強い衝撃が加わった。目の前が真っ暗になり、妙な浮遊感に身体を包まれる。これでいい。輝針城異変はもう終わりだ。薄れゆく意識の中、私はなぜか、困ったように笑う針妙丸の顔を思い浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

「あら、目が覚めたようね」

 

 気がつくと、私は輝針城のすぐ下の草原で横になっていた。目の前には、真っ青な青空が浮かんでいる。太陽の位置はさほど変わっていない。痛む頭をさすりつつ、何が起きたのかを思い出していた。確か、私は巫女に負けて、そのまま気を失ったはずだ。そう気がついた瞬間、私はがばりと立ち上がり、空を見つめた。相も変わらず輝針城は浮かんでいて、その魔力に変化もない。拍子抜けした私は、その場にぺたりと座り込んだ。そこで、ようやく隣に誰かが座っていることに気がついた。

 

「それにしても、霊夢にあんな喧嘩を吹っ掛けるなんて、死ぬところだったわよ?」

「え」

 

 ぼうっとした頭で、声をしたほうを向く。そこには、金色の長い髪を手で撫でている白い肌の女性がいた。どこかで見たことがある、禍々しい妖怪だ。私は、再び気が遠くなるのが分かった。

 

「ちょっと、人の顔を見てその反応は酷いんじゃない?」

 

 その威圧感に見合わないほど、軽々しい口調でそう笑った妖怪の賢者は、手に持っていた扇子を口元で開いた。そんな一挙手一投足にも、私の防衛本能は反応する。いっそのこと、ここで舌を噛み切った方がいいのではないか、とそう思うほどだった。だが、私は天邪鬼。口から生まれた妖怪が、その舌を失うなんて、あり得ない。

 

「どうして、お前がここにいる。なんで八雲紫がいるんだ。私をどうするつもりだ」

「あら、命の恩人に対して随分と敵対的じゃない。あなた、あのまま落ちてたら死んでたわよ」

「何が命の恩人だ。私はお前みたいな強者が大嫌いなんだよ」

「奇遇ね。私もあなたみたいな弱者は大っ嫌いよ」

 

 うふふ、と笑った彼女は私の頭に手を置いた。そのまま首を捻り殺されるのではないか、と背筋が凍る。

 

「長い事私は幻想郷を見守っていたけれど、あなたみたいな妖怪は初めて見たわ。でも、私は妖怪の賢者なのよ? 弱小妖怪の嘘なんて全てお見通しなんだから」

「何の話だ」

 

 要領を得ない彼女の言葉に、私は苛立ちではなく、恐怖を感じていた。命の恐怖ではない。今までの私の準備が、計画が狂ってしまう恐怖だ。折角の演じたピエロが台無しになってしまう。そんな危機感を覚えた。

 

「一度目は、夫婦殺害の罪を被り、二度目は、野菜泥棒の罪を被った」

 微笑みながら、彼女は歌うようにそう言った。

「三度目は、小槌を使った事の罪を被るのかしら? 下克上の罪を。二度あることは三度あるというけれど、あまりにも安直ね」

「何の話だ。私は正真正銘下克上の主犯だ。小人を騙し、弱小妖怪を脅し、付喪神を利用した、悪名高いただの天邪鬼だよ。そんな事も知らないのか?」

 

 必死に絞り出した声だったが、その声は震えていなかった。彼女の目をしっかりと見つめ、怒気を含めて話す。恐怖はあった。絶望もあった。だが、針妙丸が目の前の妖怪の毒牙にかかることに比べれば、幻想郷から拒絶されることに比べれば、屁でもない。

 

「天邪鬼は嘘しか言わないと聞いたのだけど」

「誰からだよ。そんな訳ないだろ」

「まあ、いいわ。納得してあげる。下克上を起こしたのは、鬼人正邪だということにしてあげるわ」

「してあげるじゃない、事実だ。私がやったんだ」

 

 頑固ねぇ、と微笑んだ妖怪の賢者は、輝針城へと目線を移した。つられて、私も同じ方向を見ようと、顔を上げる。が、丁度その時に、身体に重い何かが入り込んでくるのが分かった。体中の力が抜け、その代わりに、重い鉛が血管中に入り込むような、そんな感じがした。胸元のレプリカから黒々とした重い物が全身を覆い、息すらできないほどの圧迫感が襲う。その場に這いつくばり、なんとか呼吸しようと、口をパクパクとさせた。

 

「まったく、情けないわね」

 

 頭上から、妖怪の賢者の声が聞こえたが、私は返事をすることができなかった。草むらに顔を突っ込み、体中を襲う不快感に必死に耐えていた。このまま鬼の世界へと引きずり込まれるのだろうか、と恐怖に襲われる。

 

 大きく息を吸い、吐く。少し、不快感が和らいだような気がし、腰を上げようとしたが、吐き気が込み上げてきた。言いようもなく気持ちが悪いが、段々と慣れてきたのか、体が動くようになってくる。

 

 身体をこてんと回転させ、仰向けになる。そのまま空を見上げた。輝針城は当然のように空に浮かんでいる。が、そこからはもう魔力は発せられていなかった。あれ、と疑問に思う。

 

「あそこ、霊夢じゃない?」

「え?」

「ほら、そこよ」

 

 私の頭のすぐ横に腰を落とした妖怪の賢者は、扇子で城のすぐ横を指示した。目を凝らし、見つめる。確かに、そこには巫女がいた。所々服は破れているものの、体に傷はないようだ。だが、そんな巫女のことなど、どうでもよかった。彼女の手には鳥かごが握られていた。そして、その中には見慣れた少女が、見慣れた姿で笑っている。針妙丸が、小さな、本来小人としてあるべき姿でそこにいたのだ。内容は分からないが、何やら巫女と楽しそうに談笑していた。それは、彼女がいつも見せる、無邪気で、眩しい笑顔だった。友達が欲しいと願った彼女の願いは、巫女にまで及んだのだろうか。

 

「どうして泣いているのかしら?」ふふ、と笑った八雲紫は顔を歪めた。

「もしかして、あの小人に感情移入しちゃったの? 騙したと言っていた彼女に」

「馬鹿な」

 

 体を起こし、八雲紫に向き合う。私が針妙丸に感情移入? あり得ない。あいつのことなんか大嫌いだ。

 

「私は天邪鬼だぞ。人の嫌がることをするのが大好きなんだ。下克上が失敗したことが悔しかっただけだよ」

「そう」

 

 そうだ。私は天邪鬼。そもそも針妙丸たちとは住む世界が違ったんだ。これからは、文字通り住む世界が変わるが、それも微々たるものだろう。

 

「なら、そんな天邪鬼にとっては悲しいかもしれないけれど、一つ伝えないといけないことがあるわ。あの小人についてだけれど」

 

 虚空に手を伸ばした彼女は、空を切るように扇子を振り下ろした。すると、まるで空間に裂け目が現れたかのように空が割れ、真っ暗な隙間が現れた。無数の目がこちらを窺っている。その隙間に腰かけながら、彼女は笑った。

 

「こう見えて私は幻想郷の賢者なのよ。私が烏は白いといえばそうなるし、眠れと命じれば荒れ狂う動物も静まる。私が慧音に危険物取扱の資格を授与すると言えば、彼女はそういう立場にもなるわ」

「急にどうした」

「だからね」

 

 魅力的な笑みを浮かべながら、彼女は目を細めた。それは、私をぞっとさせると共に、どこか悲しい印象を持たせた。

 

「この私が、小人に幸せになる資格を授与するわ。私がそういえば、彼女はそういう立場になるのよ」

 

 そう言い残し、彼女は隙間へと消えていった。残された私は、冷たい風が頬を撫でる中、一人で呆然と突っ立っている。空を見上げると、逆さまになった城が、私を見下ろしていた。その姿は、かつてあったような恐ろしいものでは無く、ただのちんけな建物へと変わっている。

 

「ざまあみろってんだ」不思議と、笑みがこぼれた。一度湧いたそれは、中々おさまらず、勢いを増していく。しまいにはケラケラと大きな声で腹を押さえていた。

 

 巫女と楽しそうに笑っていた針妙丸の姿を思い浮かべる。私がいなくても、彼女は大丈夫だ。満足な友達にめぐまれた。妖怪の賢者に、幻想郷にも認められた。これからは、博麗の巫女が守ってくれるだろう。私の選択は正しかった。小人という弱小妖怪が、幸せになる権利を得たんだ。誰もが傷つくことがない、糞みたいなハッピーエンド。その代償が弱小妖怪一匹なんて、なんと気前がいいのだろうか。多少の代償は仕方がない。やっぱり私の選択は間違っていなかった。弱肉強食という、世界の摂理に勝った。この理不尽な運命に、抗うことができた。最高に最低で、それでもやっぱり最高だ。

 

「これが、私の!」

 

 笑いながら、私は叫ぶ。“お前はきっと、困ってるやつを見たら助けるような奴だよ”と懐かしい声が聞こえた気がした。違げえよ、と頭の中で返事をする。視界はなぜかぼやけていた。

 

「天邪鬼の下克上だ!」



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3.5章
白沢


【注意】こちらは第三章の整頓版でございます。文章自体は全く同じですが、順番を一部入れ替えております。第三章と合わせて読んでいただけると幸いです。また、読み飛ばしていただいてもストーリー上問題ありません。


――白沢――

 

「ふざけんじゃねぇよ!」

 胸ぐらを捕まれ、壁に体を打ち付けられる。木の軋む鈍い音が響いた。妹紅の強すぎる力に寺子屋が悲鳴をあげているみたいだ。

「離してくれ。帰ってきたばかりで疲れているんだ」

「慧音!」

 服を握る手に血管が浮かび、顔を近づけてくる。妹紅の白い髪が鼻をかすめた。荒い鼻息が頬を撫で、彼女の赤い目が私を糾弾してくる。許してくれ、と口の中で呟いた。こんなつもりじゃなかったんだ。

「お前、今正邪がどんな状態か知ってんのか。あいつがどんな思いで食料を貰ってきたか知っているのか!」

 妹紅がここまで怒るのも久しぶりだな、とどこか他人事のように考える。ただ罪悪感から逃げたかっただけかもしれないが、それでも妹紅が私に食って掛かるのには驚いた。私が自殺をしようとした時以来だろうか。正邪のために感情を露わにするなど、想像もしていなかった。この二人が知り合うとも思わなかったが、そもそもタイプ的に反りが合わないと勝手に思い込んでいたのだ。あの天邪鬼には、どこか人を惹きつける何かがあるのだろうか。あの憎らしくも憎めない弱小妖怪は、人に好かれやすいとでもいうのだろうか。いや、絶対にない。むしろ、逆だ。どう足掻いても彼女は嫌われるに違いない。それが、今回の事の顛末であり、結論であった。

「私は」

 唇が乾いていたからか、口を開くと顔に痛みが走った。言い訳なんてしなくていいか、と一瞬思いなおしたが、妹紅との間で隠し事をするのも憚られる。結局、私は思いの丈をぶつけようと決めた。妹紅となら、そんなことで溝が生まれることもない。そう信じることにした。

「私はただ、彼女がこれ以上人里で嫌われるのを防ぎたかっただけなんだ」

「知ってるよ」

「もし、正邪が食べ物を持ってきたら、少しは人里のみんなも受け入れてくれると思ったんだ。“意外にこいつは優しい奴だ”って、分かってくれると、射命丸の新聞は何かの間違いだったかも、って少しは信じてもらえると思った。それが、正邪の望むところではないことも知っていたけど、それでも私は」

「知ってたんだよ、そんなことは!」

 尖った犬歯を剥き出しにした妹紅にもう一度壁に叩きつけられる。痛みはそれほどない。正邪の受けたものに比べたら、いや、比べることすら烏滸がましいか。正邪の受けた痛みは、身体的にも精神的にも、尋常ではない。それこそ、大妖怪ですら哀れみの目を向ける程に。

「慧音があいつを紅魔館に行かせた理由は知っている。何年の付き合いだと思ってるんだ。慧音の考えてることは大体わかる。だけど。だけどなぁ、正邪がその持ってきた野菜を盗んだと勘違いされたのを、それで村八分にされているのを黙認しているのが気に入らないんだ!」

 妹紅の瞳には涙が溢れていた。「あいつはな、口では嫌だとか渡さねえとか言ってたけどな、どこか嬉しそうだったんだよ。魔女から野菜を受け取った時なんて、子供の様に七面相してたんだ。それなのに、こんな結果って。こんなのありかよ!」

 寺子屋に静寂が訪れる。どうしてこんなことに、と声が零れてしまう。まさか、人里に帰ってきたら、私のせいで正邪が更なる悪評を被っているとは思いもしなかった。人里に燻ぶる不穏な雰囲気に気がつかなかった自分に腹が立つ。安易に行動を起こし過ぎた。だが、いくら後悔したところで、時間は戻らなければ、正邪の立場も回復することはない。

「私だって、何とかしたいさ」

「なら」

「でも、もう遅いんだよ」

 人里に帰ってきた瞬間のことを思い出す。たくさんの人たちが表情を明るくし、「先生のいない間に自分たちで悪い妖怪を退治したんだ」と意気揚々と話しかけてきた。そのたびに私は、その妖怪は悪い妖怪ではない。彼女は本当に紅魔館から野菜を貰ってきたんだ。私がそう頼んだんだ、と主張した。が、そうすると決まって彼らはこう笑うのだ。「先生、何もあんな妖怪まで庇わなくてもいいんですよ」と。当然私は何度も反論した。が、全く取り合ってもらえなかった。おそらく、妹紅もそうなのだろう。私と同じように、いや私以上の時間をかけて正邪の無罪を訴えたに違いない。だが、誰もまともに受け持ってくれなかったのだ。

「正邪は私が紅魔館へ運んだよ」

 消え入りそうな声で、妹紅は言った。その顔からは既に怒りは退いていた。ただ、悲しみだけが溢れている。

「人里の外の墓場で座ってたんだ。全身に怪我を負ってな。この私が認める重傷だったよ。訳を聞いてもはぐらかされてね。紅魔館に連れていけの一点張りだった。それで、門番にあずけたんだ。ま、私は追い出されたけどな」

「どうして、紅魔館に」

 レミリアの幼いながらも邪悪な姿が目に浮かぶ。まさか、と恐怖した。まさか、彼女は正邪を殺したりはしないだろうか。

「魔女に怪我を治してもらう腹積もりらしいよ。まあ、上手くいったかは分からないけどね」

 ひとまず安堵のため息を吐く。が、それを見透かされたのか、ただ、と強い口調で妹紅が口を挟んだ。

「ただあいつ、凄い顔していたよ。死人のように無表情でさ、見てられねえよ。ずっとうわ言のように“私がやるしかない”って呟いていた。正直、怖かった」

 でも、紅魔館に着いた時にはもう意識を失ってたな、と呟いている妹紅を尻目に、私はその場に座り込んだ。身体も、精神も限界が近い。

「おい慧音、大丈夫か」

「大丈夫、とは言い難いな」

 気を抜くと、すぐにでも目を閉じてしまいそうになる。考えなければならないことは数多くあるが、もう頭が回らなかった。

 耳元で、よいしょと囁く声が聞こえたかと思えば、身体が宙に浮いた。妹紅が身体を持ち上げてくれたのだ。

「ありがとう、妹紅」

「気にすんな」

 固めていた頬を、ふっと緩めた。真っ白い彼女の顔には一切の疲れはない。文字通り、死ぬ気で人里を走り回り、何回か死んだのだろう。それが、何らかの事故によるものか、疲労によるものか、それとも疲労を回復するために自ら命を絶ったのかは分からない。だが、身体の疲労以上に精神が疲弊しているのは明らかだった。

「私も、その、言い過ぎたよ。ごめん」

「謝らないでくれ」

 妹紅が私に謝る理由なんて無いし、私にはもうその価値すらない。そう自分を卑下することで、救いを求めている自分にますます嫌気が差す。

「奥の部屋でいいよな」

「ああ」

 絹のような肌を僅かに上気させた妹紅は、寺子屋の奥にある休憩部屋へと私を連れていく。ギシギシと廊下を歩き、半開きになっている戸を開け、中に入った。

「うわ。整頓ぐらいしとけよ、慧音」

「え?」

「汚くて、足の踏み場がない」

 寝ぼけていた頭に叩き込むように、多くの情報が目に映った。一瞬、これは夢で、そもそも今まで起きていた正邪に対する悲劇は無かったのではないかと、疑うほどに現実を見たくなかった。

 部屋が荒らされている。ただ、それだけなら別に大して驚くことではない。腹は立つが、金目のものが盗られていないか確認し、部屋を整頓して、何か盗まれていたとしても、残念だったね、と酒のつまみにすればいいだけの話だ。だが、今は訳が違った。目の前が真っ白になる。嘘だといってくれ、と何度も呟いた。

「降ろしてくれ」

「ど、どうしたの、急に」

「いいから!」

 理不尽だとは分かっていたが、妹紅に怒りをぶつけてしまう。そんな私に対しても、優しく分かった、と言ってくれる彼女に、懺悔にもにた感情を抱く。が、今はそれどころじゃなかった。

 疲労と混乱によって思考は既に限界を超えていた。床に散らばった紙をかき分け、目当ての物を探す。

「あれ? 慧音こんなもの持ってたっけ?」

 私の心境を知ってか知らずか、のんびりとした声で妹紅が言った。いや、ついさっきまで激怒していたとは思えないほどに、平然としていることを考えると、焦る私を見て、敢えてそのような態度をとっているのだろう。本当にいい友人を持ったものだ。

 妹紅のおかげか、少し落ち着いた私は手を止め、妹紅が持っているものへと視線を移した。紫色の帯が目立つ、安物の草履だ。流石にここまで質の悪い物を売るような人はいないだろうから、おそらく手作りだろう。そしてその手作りの草履に、私は見覚えがあった。

「嘘だろ」

 思わず、天を仰いだ。目に映るのは、綺麗に整った天井の木目のはずだったが、なぜかそれが私を取り囲み、くるくると回っているように感じた。なんで、正邪の草履がここにあるのか。いや、あるだけならいい。何の問題もない。そう自分に言い聞かせる。

 再び、捜索を始める。がさごそと散らばっている書類を漁っていると、そう時間がたつことなく、目当ての物を見つけることができた。木で出来た、小さな鍵だ。だが、一応仕掛けがあり、容易に複製ができないようになっている。本来ならば常に持ち歩きたいところだったが、寺子屋で保管していた。それが仇となった。

 そのカギを掴み、震える手で机に積んである本を漁る。よくよく確認すると、その内の一冊の位置が変わっていた。平仮名で書かれた“いっすんぼうし”と書かれた本だ。その表紙に僅かに黒い染みができている。匂いをかぐ。まるで腐ったトマトのような腐乱臭がした。嫌な予感は加速する。塔のように連なっている本を崩し、真ん中の下から二番目、分厚く、だが、どこか安っぽい本を引っ張り出した。心なしか軽く感じ、それを認めたくなくて細かく振った。

 本を裏返し、背表紙の表面に張られた薄い紙をめくる。ぺりぺりと音を立て、表紙がはがれていき、無骨な金属が露わになる。手で触れると、特有の冷たさが肌を刺し、それが全身に広がっていった。

「それ、なんだ?」

「預かりものだよ」

 興味深そうに屈みこんでくる妹紅を他所に、鍵を握りなおす。剥き出しとなった金属の下部分に、小さな穴があった。鍵穴だ。そこに右手にある鍵を慎重に突き刺した。ゆっくりと捻り、かちゃりと音を立てたのを確認すると、大きく息を吐いた。

「それ、もしかして箱になっているのか」

 妹紅からの質問を無視し、鍵を机に置く。答えなかったのは、苛立っていたからではない。それどころではなかっただけだ。両手で上下に抱え込むように持ち、右手を引き上げていく。ずりずりと金属同士がこすれ合う嫌な音と共に、少しずつ中身が見えてくる。本に偽装した、金庫のようなこれは、中は空洞になっており、そこに物をしまえるようになっていた。そして、そこには八雲紫に託された、大事という言葉では表せないくらいに大切なものが入っていた。はずだった。

「何だよ、何も入ってないじゃん」

 妹紅がぽつりと声を零した。何も入っていない。本に偽装し、特殊な鍵で施錠した強固な箱の中には、ただぽっかりと巨大な空間が存在するだけだった。

 声にもならないような、小さな呻きが口から洩れる。なんで入っていないんだ。どこへ行ったんだと心の中で何度も唱えた。まさか。持っていったのか。誰が。正邪が。

「その箱の中には何が入っている予定だったんだ?」

「小槌が」

 私は震える声で、何とか言葉を紡ぐ事しかできなかった。

「打ち出の小槌が無くなっているんだ」

 

 目が覚めると隣に妹紅の顔があり、驚いた。眠い目を擦り、自分の部屋を見渡す。昨日と変わらず、散乱し、汚いままだ。もしかすると、昨日のあれは夢か何かで、布団から起きると、予定通り私の部屋で居候をしている正邪が、生意気にも私の部屋で大の字で眠っているのではないか、と期待したが、残念なことにそんなことはなかった。足元にある金属の箱をたぐり寄せる。未練がましく、もう一度箱を開くが、当然なにも入っていない。分かっていたはずなのに、ついため息が漏れる。

 打ち出の小槌。一寸法師のおとぎ話に出てくる伝説の道具。鬼の秘宝であり、願いを言いながら一振りすれば、たちまちそれを叶えてくれるという反則アイテム。ただ、その代償はすさまじく、使ったものは少なくとも無事ではいられないとも言われている、曰くつきのものだ。あの日、巫女に食糧不足の解決を頼みに行ったあの日、突然八雲紫に託された。押し付けられたといってもいい。

「だって、あなたは危険物取り扱いの資格を持っているでしょ? 」

 ふと、その時の八雲紫の言葉を思い出した。こんな大層な物は寺子屋には置けない。あまりにも危険すぎる、と打ち出の小槌を返そうとすると、彼女は平然とそう言ったのだ。もちろん、私はそんな免許は持っていない、と反論したが、妖怪の賢者はそんな私の言葉に耳を貸そうともしなかった。

「いいじゃない。だったら、いま私がその資格をあなたに授与するわ。おめでとう」

「そんな適当な」

「あら? こう見えて私は幻想郷の賢者なのよ。私が烏は白いといえばそうなるし、眠れと命じれば荒れ狂う動物も静まる」

「だから、私に危険物取扱の資格を授与すると言えば」

「あなたはこれからそういう立場にもなる」

「馬鹿な」

 口元で扇子を隠し、意味ありげにうふふと微笑んでいる彼女に寒気がした。虚ろな目で縁側に座り、こちらを見下ろしている彼女は、何を考えているか分からず、気味が悪い。有り体に言えば胡散臭かった。

「いったい、何を考えているんだ。この小槌を私に預けてどうするつもりだ。針妙丸に関係があるのか?」

「まあまあ、お茶の出がらしでも飲んで、ゆっくり話を聞いてちょうだい」

 そう言うや否や、どこから取り出したのか、彼女は湯のみを縁側に置き、急須を傾けた。だが、「あら」と小さく呟いたかと思えば、急須のふたが開き、勢いよくお湯が溢れだす。烏龍茶でも入れていたのだろうか、出がらしといった割には真っ黒な液体が縁側の木を濡らし、じわりじわりと広がっていった。

「早く拭かなきゃいけないわね」

 そう言った割にはのんびりと雑巾を取り出した彼女は、丁寧にお茶をぬぐい、どうやってやったかは知らないが、木にしみ込んでいた水分すらも拭き取っていた。

「お前は何がしたいんだ。質問に答えてくれ」

「少しは、自分で考えなさいよ。一応、先生なんだから」

 おそらくわざとだろうが、神経を逆なでするような、突き放すような声で彼女はそう言い、手に持った雑巾を適当に地面に投げ捨て、足で土をかぶせ始める。

「おい、なんで埋めているんだ」

「なんでって」

 質問の意図が分からないといった様子で首を傾げ、さも当然かのように口を開いた。

「だって、もう汚れちゃったじゃない。汚れを拭きとった後の雑巾なんて、ただの汚物よ。とっとと捨てるに越したことはないわ」

「まだ洗えば使えるじゃないか」

「分かってないわね」

 これだから半獣は、と言われた気がしたが、聞こえなかった振りをした。

「汚れた雑巾なんて、どんなに水洗いしても完全には落ちないじゃない。それに、その汚れは水に移って川を汚すかもしれない。だったら埋めるしかないでしょ?」

「でも、その理屈でいえば、地面に汚れが移るんじゃないか?」

「それは別にいいのよ」

 結局、私は八雲紫との会話にうんざりし、逃げるように寺子屋に帰ってきてしまった。だが、どうもその時の八雲紫の顔には、どこか悔しそうな、そんな感情が浮かんでいるような気がした。 

 

「おはよう慧音、よく眠れたか?」

 妹紅の間延びした声が聞こえ、意識が引き戻される。まだ重い頭をふり、妹紅に目を向けると、彼女も私と同じく眠そうに目を擦っていた。ふわぁ、とあくびもしている。

「ああ、よく眠れたよ」

 この言葉に嘘はなかった。あれだけ衝撃的なことが立て続けに起きたのにも関わらず、私はぐっすりと眠っていた。自分でも驚いたことに、疲れは悩みを通り越し、むしろ清々しいくらいに頭はさっぱりしている。思考もまとまってきた。

 のそのそと布団から這い出て、朝ごはん替わりなのか懐から取り出した昆布を舐め始めた妹紅を見ていると、何だか私もお腹が空いてきた。事態は緊迫しているが、それでも生理的欲求には逆らえない。部屋の片隅に置いてあった乾パンを掴み、口に入れる。

「そういえば、この草履は慧音のなのか」

 もごもごと口を動かしながら、足元に落ちている不格好な草履を指差した。まだ少し寝ぼけているのか、口から涎が垂れている。

「違う。それは正邪のだ」

「正邪って、あの正邪か!?」

「どの正邪か分からないが、多分思い浮かべている正邪で合っている」

 眠気で垂れ下がっていた目尻をきつく吊り上げた妹紅は、落ちている草履を拾い上げ、まじまじと見つめた。つられて私もその不出来な履き物に視線を移す。それが、いつからここにあるかは分からない。だが、正邪がここに来たという事は確かだ。しかし、だからといって。正邪が打ち出の小槌を盗んだとは限らない。あの捻くれつつもどこか優しい彼女がそんなことをするだろうか。しないと、私は信じたかった。でも、決めつけてはいけない。私は彼女のことなんて、何も知らない。

「なあ妹紅」

「なんだよ」

「お前、打ち出の小槌って知ってるか?」

「昨日、無くしたと騒いでいた奴か」

 うーん、と首を傾げた妹紅は、聞いたことあるけど、と言葉を濁した。

「それ、本当に実在するのか?」

「したんだ。そして何処かへ行った」

 きっと、私はとても渋い顔をしていたのだろう。「そっか」と優しく声をかけてくれた妹紅は、私の肩に手を置き、力強く頷いた。

「なら、やることは一つだろ」

 そうだろ? と私に微笑む彼女は、とても頼もしく思えた。

「探すしかないじゃないか」

 

 寺子屋の外に出ると、冷たい風が襲い掛かってきた。帽子が吹き飛ばされないようにと手で押さえる。空は見たこともないくらいに曇っていて、その雲が地上に降りてくるようにすら感じた。視界も非常に悪く、地上ならば問題ないが、空を飛ぶのは一苦労だろう。

 目の前の大通りでは、多くの人が集まっていた。ちょうど、皆が朝起きて活動を始める時間だからか、少し眠そうなものの、笑顔で挨拶を交わしている。最近授業を休んでしまっていることを思い出し、少し憂鬱になるが、それでも顔には出さないように努めた。

「何か、みんな元気になったな」

「正邪のおかげだよ」

 妹紅が私を睨みつけるのが分かったが、それでも私は口を止めなかった。

「みんな溜まっていたんだ」

「何が? 貯金か?」

「不満だ」

 徐々に在庫が無くなっていく食料と、それに比例して吊り上がる値段。段々と腹を満足に膨らませることが出来なくなってくると、彼らは恐怖し、憤った。その、目には見えない爆弾は、日に日に大きくなっていき、そして正邪が野菜を抱えてきたあの日、爆発した。数少ない食料を邪悪な妖怪が泥棒したとならば、それも仕方ないだろう。明確な敵を持った人間は強い。そのことは身に染みて分かっていた。人々を団結させるのは、カリスマ溢れる指導者と、共通の敵だ。前者の存在が許されていない幻想郷の人里において、正邪という起爆剤はあまりにも十分すぎた。豪雨の後の洪水のように、彼らは怒りに飲み込まれ、そしてその怒りは燃え尽きた。いまだ食料は足りていないにもかかわらず、彼らの不満は明らかに減少している。頑張って、協力していきましょうと意気込んですらいた。つい前までは、隣で芋を食べる家族をすら憎々し気に見ていたのに、だ。

 つまりは、私が正邪にお使いを頼んだばかりに、彼女はスケープゴートにされたのだ。

 鬱蒼とした気分のまま、人混みをかぎ分けて前に進む。そのすぐ後ろを妹紅がついてくるのが足音で分かった。その音に励まされるように、前へと進む。正邪には、私にとっての妹紅のような、頼りになる存在がいないのだな、とそう思うだけで胸が苦しい。

「あそこだけ人が少ないな」

 しばらく当てもなく歩いていると、人の波が一か所だけ薄くなっていることに気がついた。私の言葉に素早く反応した妹紅は、素早く視線を移したが、すぐにうんざりとした顔になる。

「原因は分かったよ」

「私も想像がつく」

 太陽が昇ったばかりの早朝。そして人通りの多い大通り。なるほど。確かに彼女にとっては、一番の稼ぎ時なのだろう。だが、彼女はやはり人間というものを分かっていない。朝っぱらから新聞を読むほど暇な奴は、この時期には少ないのだ。

「それに、あんな格好をしてちゃダメだろ」

 妹紅の言葉に、私は頷く。なぜ、そんな恰好を選んでしまったのかと、その場で嘆いてしまうほどだ。

「文文。新聞の号外ですよー!」

 威勢よく声を上げる射命丸は、いつものような烏天狗の装束を着ていなかった。白く、そして不謹慎極まりない服。白装束を着ていたのだ。

「烏が白いって、そういうことか」

 あー、お二人とも是非新聞をー、と声を張る烏に向かい、私たちは大袈裟に肩をすくめた。

 

「踏んだり蹴ったりっていう言葉があるじゃないですか」

 似合わない白装束を来た烏が、私たちに向かい、そう愚痴を零した。

「でも、あの言葉って普通に考えれば“踏まれたり蹴られたり”だとは思いませんか」

 早朝の人里の大通りで射命丸に絡まれるとは思わなかった。冬の朝は肌寒く、私なんかは中に重ね着をしてるというのに、彼女は本当に白装束しか身に着けていないようだった。にも関わらず、全く寒そうな様子はなく、むしろ溢れ出る熱が抑えきれないといった様子で私たちに話し続けている。

「だから、勇敢な私はそう伝えてあげたんですよ。踏んだり蹴ったりするのは別に苦ではないですよって。そうしたら、大天狗様が」

 そこで、ようやくなぜ彼女が私に話しかけてきたかが分かった。この前の妖怪の山の会議で、うっかり私が射命丸と正邪とのあの事件について口をすべらせてしまったのだ。そのせいで大天狗に叱られたのだろう。気の毒だとは思うが、自業自得だ。

「大天狗様がですよ、踏んだり蹴ったりするのが苦じゃないのなら、萃香さまを踏んだり蹴ったりするまでは、天狗の装束を着るのを禁止する、とか言い出しましてね。他の連中もそれに悪乗りしだしまして」

「それで、そんな恰好なのか」笑いを堪え切れないといった様子で、妹紅が訊いた。

「そうなんですよ。まさに踏まれたり蹴られたりです」

「私はてっきり、新聞に訃報がのっているのかと思ったよ」

 そうでは無かったと分かり、安堵の息を吐く。もし、新聞の雰囲気に合わせて、その格好にしたとか言われてしまったら、彼女の新聞を地面にたたきつけるところだった。と、思っていると、「いえ、白装束を選んだのは新聞の雰囲気に合わせたんです」と平然と彼女は言ってのけた。

 受け取った新聞を右手に持ちかえ、思い切り地面にたたきつける。ぼふんと砂煙が舞い、新聞に茶色の染みがついた。少しの罪悪感に襲われる。

「あややや、何するんですか」

「それはこっちの台詞だ。不謹慎にもほどがあるだろう」

 射命丸は本当に何が悪いか分からない、といった様子で首を傾げた。ぽかんとしている彼女を見て、また妹紅が笑う。

「駄目だよ慧音。そこんとこは伝わらない。人間と妖怪の人生観は絶対に違うんだ。むしろ、

 お前と正邪が人間よりなのが異常なんだよ。妖怪は知らない奴の死なんてまるで気にしないし、弔いもしない」

 そんなことはないですよ、と否定する射命丸は、なぜか少し不満げだった。が、すぐに、もしかして新聞が売れない理由はこの格好なんですか、と大袈裟に驚き、翼を震わせ始める。

「確かに、それもあると思う」

「やっぱ、そうですか! 変だと思ったんですよ」

 あやや、と声を上げながら頷いた彼女は、私が投げつけた新聞を拾い、ぱんぱんとはたいた。そして、それをもう一度私に差し出してくる。ブン屋としての執念を感じた私は、断る事なんて出来なかった。

「こんなに質がいい新聞なのに、どうして売れないかと不思議だったんですが、そういうことだったんですね」

「それは単純にお前の新聞がつまらないからだ」

 はっきりと断言した妹紅は、私の手から新聞を奪いとると、乱暴に開き、読み始めた。なんだかんだ言いつつも、しっかりと内容を確認する彼女はやはり優しい。

 妹紅に顔を寄せ、私も新聞を読む。てっきり、正邪が野菜を盗んだという情報が載っていると思ったが、違った。全ての記事を丸々使い、人里の民家で一人の女性が亡くなったことについての論評を延々としている。その民家の具体的な場所は書かれていないものの、ピントを意図的にずらした写真は掲載されていた。それだけでも、大体の位置は把握できた。とはいっても、具体的に誰が亡くなったかまでは分からない。

「私はてっきり、正邪のことをやると思ったよ」悪びれもせず、妹紅が嫌味をぶつけた。

「そういうのに烏共は目がないからな」

「やりませんよ」

 浮かべていた嘘くさい笑みを急に消した射命丸は、冷たくそう言った。怒るでも、茶化すでもなく真面目にそう言ったのだ。あの烏天狗の射命丸が、だ。

「私の新聞は、清く正しくっていう理念でやってるんですよ」

「そういえば、いつの日か言ってたな」

 記憶を辿り、言われたのはいつだったかと過去の場面を振り返っていると「あの、赤黒く変色した死体の時ですよ」と感慨深そうに射命丸は言った。

「もう懐かしく感じるな。あの甘味屋の時か」

「懐かしの甘味屋ですね」

 少し表情をやわらげたかのように見えたものの、あの時も言いましたが、と彼女は語調を強くした。

「清く正しい新聞に、正邪が野菜を盗んだなんて内容は書けないんですよ」

「どういうことだ?」

「そんな嘘情報載せられるわけないって言ってるんですよ」

 僅かに眉を上げ、息を荒くした彼女は、苛立っているのか、強く地面を蹴った。見開いた眼からは、吸い込まれそうなくらいに真っ黒な瞳がこちらを覗いている。反射した私の顔は、確かに怯えきっていた。

「お前も正邪が犯人じゃないと思うのか」

 震える声を奮い立たせ、私はそう言った。後半は言葉尻が詰まり、言葉にすらなっていなかった。

「あの弱小妖怪にそんな度胸があったら、もっと出世してますよ」真っ黒に曇った空を見上げた射命丸は、口元を緩めた。ですよね、と屈託のない笑みで私たちを見つめてくる。

 私の胸に、何か熱いものが込み上げてくるのが分かった。何人に彼女の無罪を、私の罪を言い続けたのだろうか。それでも彼らは認めてくれなかった。正邪は悪で、私は善で。それだけはどうしようもないくらいに変えられないことだと、そう思っていた。だが、彼らは知らない。この世に善悪を明確に区別することはできないのだと。強いて言うのであれば、明確に区別しようとする奴こそが悪だということを、知らないのだ。そして、その知らない内の一人が私だった。

「それに、この事件はそんなガセネタより遥かに興味深いんです」

「おまえ、そっちが本心だろ」

 妹紅の突っ込みに、あややと微笑んだ彼女は、まあそうですが、と笑った。それが本気であるのか、それとも照れ隠しであるかは分からない。きっと、彼女自身も分かっていないだろう。

「そういえば、私まだ朝ご飯食べてないんですよね」

 わざとらしく腹を撫でた彼女は、ちらりと私を窺った。あまりにも唐突だったため、一瞬呆然としてしまったが、物言いたげな彼女を見て、ようやくその意図に気がついた。場所を変えたい、ということだろうか。だったら、素直にそう言えばいいのに。

「久しぶりに行きませんか?」

「行くってどこへ」

 そうは言いつつも、私は彼女がどこに行きたいのかは想像がついていた。

「そりゃ、懐かしの甘味屋へ」

 

「やっぱり、甘味も値上がりしてるんだな」

 高い高いと大袈裟にはしゃいだ妹紅は、まあ、私は死んでも大丈夫だから、遠慮しておくよとメニュー表を私に突き返した。

「別に遠慮しなくてもいいんだぞ。金は払うんだし」

「いいんだいいんだ。それに、私たちは甘味を食べにここに来たんじゃない。そうだろ?」

 辺りを見渡した妹紅は、私の肩を叩いた。

 甘味屋にはほとんど人がいなかった。朝ということもあるが、単純に甘味屋に行ける余裕のある人が減ってきているのだろう。少しのおはぎを買うよりも大量の雑穀を買いたい。今はそういう時なのだ。だが、秘密の話をするにはうってつけといえる。

 私たちが射命丸とここに来た目的は、ただの雑談以外にもあった。無くなった打ち出の小槌の情報を、彼女から引き出したかったのだ。いったい彼女がどれだけの情報を握っているかは未知数だったが、今は藁にもすがりたかった。ただ、残念なことに掴むことができたのは藁ですらなく、烏だったというわけだ。

「それで、この新聞の記事ですが」

 どう切り出そうかと思っていると、射命丸が先に口火を切った。

「気になりませんか?」

「気になるかならないかでいえば、そりゃ気になるけど」新聞から目を逸らしながら、妹紅は曖昧に答えた。

「でも、その女性は純粋な病死だったんだろ」

「純粋な病死、ですか。まあいうなればそうですけど、気になる点はそこではなく、その息子の方です」

 ここです、と新聞を指差したが、私も妹紅も見ようとしなかった。ただですら正邪の件で精神的に疲弊しているのに、これ以上いやな事件を目にしたくなかったのだ。

「息子の方が姿をくらましているらしいんですよ。不思議じゃないですか?」

 謎です、と言い切った射命丸は、大きな声でおはぎ下さーい、と叫んだ。厨房の奥から威勢のいい返事が聞こえてくる。

「その息子さんはいくつなんだ」

「数え年で7歳らしいです」

「幼すぎるな」

 とても一人で生きていけるとは思えないほど、幼い。そんな子が母を病気で亡くし、そして姿をくらませた。確かに気がかりだ。

「その少年の名前は分かるか?」

「おそらく、三郎という少年です」

「慧音。寺子屋の生徒でそんな名前のやつっていたか?」

「いや、いない」

 一先ず、自分の受け持っている生徒ではないことが分かり、胸を撫で下ろした。そしてすぐに、その行為自体に嫌気がさす。自分の知っている子供であろうとそうでなかろうと、いなくなった事実は変わらない。目を背けてはいけない。

「分かった。私たちの方でもその少年を捜してみるよ」

「見つかったら絶対連絡くださいね。記事にしますから」

 死体でもいいですから、と笑う彼女の言葉は冗談だと聞き流し、そのかわり、と指を立てた。妹紅が頷いているのが視界の端に映る。

「そのかわり、私たちからも探してほしいものがあるんだ」

「何ですか。半獣のいい所ですか。確かに難問ですね」

 おい、と声を上げた妹紅をなだめ、射命丸に向き合う。どうやら怒る妹紅を写真に撮りたかったようで、今の一瞬でカメラを出し、シャッターを切っていた。幻想郷最速という異名をまさかこんな形で理解するとは。

「私のいいところよりも、きっと探すのは大変だ」

「無い物を探すことより難しいことがあるんですか?」

「打ち出の小槌って知ってるか?」

 馬鹿にされたと思ったのか、眉を少し引きつかせた射命丸は、にこにこと笑い「私は寺子屋の生徒ではないのですが」と言い捨てた。そうじゃない、とゆっくり息を吐く。

「打ち出の小槌は実在するんだ。そして、それが無くなった」

「面白くない冗談ですね」

 下唇を突き出し、これだから半獣はと楽しそうに笑った彼女だったが、無言で顔をしかめる私たちを見て、ようやく事実だと気がついたようで、本当ですか、と小さく呟いた。

「本当だ。私の部屋から打ち出の小槌が盗まれた。私たちはそれを捜している」

「ビッグニュースじゃないですか」

「そうだ。だから、騒ぎが大きくなる前に、人里に更なる不安を与える前に回収したい。絶対に口外するなよ」

「分かってますよ。こう見えて私、口が堅い方なんです」胸を張った彼女は、目を輝かせて私の手を握った。

 へい、お待ちと男の店員がおはぎを持ってくる。この前来た時よりも、サイズが小さくなり餡子の量も減っている。店員の顔を見上げると、頬が少しこけていた。

「やっぱり、大変そうだな」

 大変そうという抽象的なことしか言えない自分が嫌になる。が、それ以外に今の現状を表す言葉も見つからない。

「そりゃあ大変ですよ。なんていっても食うもんが足りて無いんですから」

「だよな」

「まあ、でも」

 中年男性特有の、人の良さそうな笑みをみせた店員は恥ずかしそうに前髪を撫でた。

「野菜を盗んでいた鬼人正邪が退治されたらしいですから、これからマシになるでしょう」

 妹紅が息を飲むのが分かった。私は知らず知らずのうちに、席を立っている。照れくさそうに笑っている店員に近づき、首を掴もうとして、何とか思いとどまった。この店員に悪意がないのは分かっていた。きっと、そういう出来事があったと誰かから聞いたのだろう。だから、怒りをぶつけるのはお門違いだ。

「もし、その弱小妖怪は野菜を盗んでいないといったら、信じるか?」

「え?」

「鬼人正邪の持っていた野菜は、私が持ってこさせたといったら、信じるか」

 気を抜けば、その場で声を荒らげてしまいそうだったので、必死に口に力を入れる。目の前の店員の眉が下がったのが分かった。陽気さと真面目さが同居していた店員の顔から、そういった感情がごっそりと抜け落ち、不安に満ちた表情に変わる。大の大人がおろおろとし、口をぱくぱくとさせていた。が、しばらくすると、はっと目を見開き口元を緩める。

「慧音先生」

「なんだ」

「面白くないですよ」頼みますよ、と縋るような声で店員は言った。

「そんな冗談はまったく笑えません」

 分かっていたはずなのに、心の中の何かが崩れ落ちていくのが分かった。いや、違うんだ。と小さく呟いたものの、彼に聞こえてはいない。正邪はやっていない、と大声で叫びたい衝動に駆られる。が、そうはできなかった。いま、人里の支えとなっているのは、根拠のない希望だ。正邪が退治されたから、卑劣な野菜泥棒が退治されたから、食糧問題も解決するだろうといった、虚構に満ちた希望。それを私がへし折ってしまえば、人里はそれこそ今より大変なことになる。人里の守護者として、それは避けなければならないことだった。私のとなりで悲しそうに目を伏せる妹紅の肩を撫で、射命丸に目をやる。彼女は、一切の怒りも悲しみも見せず、美味しそうなおはぎですね、と目を輝かせていた。何を考えているのか分からない。

「困窮する人間が作る贅沢品は本当に美味しいです」

「それ、嫌味か?」妹紅がつまらなそうに訊いた。

「嫌味なんかじゃないですよ。ただ、自分ですら満足に食事ができない中、他の人の食事を作るのはどんな気分なんだろうか、と想像すると面白くて」

 気まずそうに頭を掻く店員に向かい、射命丸は笑顔で言った。にこやかに、歌うように言葉を紡いでいるが、目は笑っていない。ようやく私は彼女が怒っていることに気がついた。

「まあまあ、とりあえず話したいのは、小槌のことだから」

 手で店員に退くように合図し、射命丸の目の前におはぎを引き寄せる。おっかなびっくりと去っていった店員に心の中で頭を下げた。

「食料問題が解決すれば、きっと大丈夫だ」

 食糧問題の解決は時間の問題。妖怪の山の会議ではそう結論が出た。春になれば、全てが解決する。確かにその通りだ。だが、私が求めているのはそういうことではない。冬の被害をいかに無くすかが重要だ。ただ、残念なことに私にできることは皆を励ますことぐらいしかない。

「それで? 小槌がどこにあるか見当はついているんですか?」

 運ばれてきたおはぎを手で鷲掴みにした射命丸は、大きな口を開けながら、そう訊いた。その顔は飄々としたもので、さっきのことなど忘れているかのようだ。

「見当がついていたら、射命丸には聞かないさ」頬杖をつき、手をひらひらと振りながら妹紅が答える。

「私たちが知っているのは、寺子屋にはないってことぐらいだ」

 はぁ、とわざとらしく大きなため息を吐いた射命丸は、あのですね、と面倒くさそうに口を開いた。なんで私がこんなことを教えなきゃならないんですか、と半目で睨みつけてくる。

「普通、こういうのは他の人に頼む前に、自分で出来る限り探してみるんですよ」

「とはいっても、当てが」

「あるじゃないですか」

 右手を頭の辺りに持っていき、くるくると回した彼女は、くちゃくちゃと音を立てながらおはぎを咀嚼した。その仕草は、もっと頭を回せと注意しているのか、それともお前の頭はくるくるだ、と非難しているのか分からないが、呆れていることは確かだ。

「打ち出の小槌といえば、答えは一つでしょう」

「一つ?」

「小人ですよ」

 ガンと強く頭を叩かれたかのような気分だった。そういえば、と声が零れる。私は今まで、家に忍び込んで、打ち出の小槌を盗んだ奴はどんな奴か、そればかりを考えていた。だが、逆に考えれば。犯人を特定するのではなく、犯人が行きそうなところに先回りすればいいのではないか。分かってしまえば簡単で、どうしてもっと早く思いつかなかったのかと、自分を叱責する。

「行こう。針妙丸の家に」

「針妙丸?」妹紅が誰だそいつ、と呟いた。「打ち出の小槌と関係があるのか?」

 そういえば、妹紅は針妙丸と面識がなかったか、と驚きつつ「会えば分かるよ」と彼女に微笑みかけた。打ち出の小槌を見つける算段がついたことで、私は完全に浮足立っていた。

 だが、私は経験で知っていた。暗屈とした状態で、僅かながら差し込んだ光に胸を寄せた時、大抵なにか水を差すような出来事があると。その予感に従うように、外から何かが甘味屋に飛び込んできた。

 扉を押し倒すように突っ込んできたそれは、身体を大の字に広げ、扉に張り付くようにしてこちら側に倒れ込んできた。ドスンという音と共に、壁を切り抜いたかのようにできた四角い穴から、数人の男が押し寄せてくる。いつも頼りにしている自警団の団員だ。真剣な顔の彼らは、甘味屋に倒れ込んだそれを乱暴に蹴り、外に連れ出そうとしている。

「あややや、噂をすれば何とやらと言いますが」ぼこり、と嫌な音が甘味屋に響く。倒れているそれを自警団が踏みつけていた。それとは何か。正邪だ。正邪が自警団のみんなに蹴られている。

「久しぶりですね。それにしては、無様ですが」倒れ込んだ正邪に向かい、射命丸は楽しそうに微笑んだ。

「まさに、踏まれたり蹴られたり、ですね」

 

「お前ら何やっているんだ!」

 甘味屋の薄い壁をぶち抜くような勢いで、私は叫んだ。その声をまじかに聞いた正邪が耳を両手で抑え、うずくまっているのを尻目に大声でまくしたてる。もはや自制心は何処かへ行っていた。

「私は悪い妖怪が来たら時間稼ぎをして、知らせろと言ったはずだ。抵抗しない弱小妖怪をいたぶれとは言っていない」

「ですが」

 私の言葉に被せるように自警団の内の一人、部隊長を務めている男が口を開いた。直立不動で胸に手を当てている姿は、いつも通り真面目さと力強さを醸し出している。

「ですが、こいつは鬼人正邪ですよ」

 淡々とそう言った彼は、さもそれが当然かのように「どうして排除しなくていいんですか」と続けた。身体が何かで地面に押しつぶされるような、そんな感覚に襲われ、事実私はいつの間にかその場に崩れ落ちていた。信頼を置いていた自警団のみんなが、急に私に対し心を閉ざし、遠くへ行ってしまったと錯覚する。彼らに悪意がないことはすぐに分かった。だからこそ、私は余計に動揺した。私の知っている彼らは、いつの間に悪意もなく弱者を甚振るようになってしまったのか、私がいない間に人里の何かが崩れ落ちてしまったかのように思えた。

「あー。この天邪鬼については私と慧音が何とかするから。お前らは持ち場に戻れ」

「ですが」

「いいから」

 私の前に出て、ほら行った行った、と猫を振り払うように手をぶらつかせた妹紅は、彼らが行ったのを確認すると、「大丈夫か」と私に声をかけた。情けなさと絶望でどうにかなりそうだったが、何とか立ち上がる。どうやら私なんかより、正邪の方がはやく立ち上がっていたようで、射命丸と何やら楽しそうに口喧嘩していた。自分の打たれ弱さにほとほと嫌気がさす。

「無事だったのか、正邪」

 彼女の顔を真っすぐと見つめる。罪悪感ですぐに目を離したくなるが、こらえた。自分の罪から、目の前の悲劇から目を背けてはいけない。

「無事じゃねえよ」

「え」

「ほら、ここ見てみろ」

 右腕を曲げ、ひじを指差した彼女は、「ほら、ここ擦り剥いちまった。あの人間たちのせいで」と拗ねるように言った。まるで、転んでしまった子供が怪我を自慢する様だ。

「なんだよそれー」妹紅が正邪の傷を覗き込み、薄っすらと浮かんでいる血をこすり取るように指を這わせた。

「痛い痛い! 何しやがる」

「いやぁ、あんなに心配したのにピンピンしてたから腹が立って」

「知らねぇよ」

 ぎゃあぎゃあと呑気に騒いでいる二人を見ていると、何故か心が落ち着いた。正邪を取り巻く環境は未だに厳しく、しばらくは人里で暮らすことすらできないだろう。だが、それでも。妹紅と仲良く話している姿を見ると、微笑ましく思えた。むかし、人間から疎外されていた私を慰めている妹紅の姿が頭に浮かぶ。その姿と今の彼女は、同じような表情をしていた。

「いやぁ、いいですね」

 カメラのファインダーを覗きながら、射命丸は私に近づいてきた。しかし、視線は完全に妹紅と正邪に向いている。カシャリと無機質な音が何度も響いた。

「いいって、何がだ」

「泥沼の三角関係みたいです」

「頼むから止めてくれ」

 あややや、とよく分からない声を発した彼女は、私の言葉を無視して写真を撮り続けた。烏天狗の新聞にかける熱意は知らない訳ではなかったが、限度はある。わざと、射命丸のカメラを遮るように正邪たちへと近づいていった。カシャリとカメラが音を立てたが、私の背中しか写していないはずだ。

「やっぱり、魔法ってのはすごいな。あんな怪我まで治せるのか」妹紅は少し興奮し、正邪の体をペタペタと触っていた。男たちに蹴られた部分に触れたからか、小さく身震いしている。

「知らねぇよ。気づいたら図書館で寝てたんだ」

「あの、だな。正邪」二人の会話に割り込むようにして、私は声を出した。正邪には聞きたいことが無数にあった。もう大丈夫なのか。今までずっと紅魔館にいたのか。人間を恨んでいないか。数えだしたらキリが無いほどだ。だけど、その前に私はやらなければならないことがあった。まずは、謝らなければ。

「私がお前を紅魔館に行かせたばかりに、取り返しがつかないことになってしまった。その、本当にすまなかった」

 頭を目一杯下げる。地面にぽたりぽたりと滴が垂れている。私の涙だ。いつの間にか泣いていた。

 甘味屋からは音が消えていた。風がそよぐ音と、私の鼓動だけが頭に響く。

「とりあえず、だな」やけに溌剌とした声で正邪は呟き、店の奥の壁を指差す。

「場所、変えようぜ」

 そこには店員によって逆さまに立てられた箒が置かれていた。

 

「それで? もう一度言ってくれよ先生」

 顎で私を指しながら、正邪はカラカラと笑った。

 場所を変えると言っても、今の状況で正邪を連れて店に行くことは難しいと思った私は、結局いつも通り寺子屋へと向かった。大通りを歩く際に、私と射命丸、そして妹紅が正邪を取り囲むように進み、人目につかないようにと注意しながら進んだが、そんな奇妙なことをしてしまったからか、逆に目立っているようにも思える。まあ、何はともあれ無事に寺子屋まで戻って来れたので良しとしよう。問題は、目の前で生意気な態度を取っている天邪鬼の方だ。

「さっき、甘味屋で私に何を言ったんだ? よく聞こえなかったなぁ。もう一遍言ってみろ」

 右耳に手を被せるようにし、ぬめりとこちらに近づいてくる。思わず後ずさってしまい、隣にいた射命丸の足を蹴っ飛ばしてしまった。謝ろうと思ったが、彼女がニヤニヤと笑いながら私にカメラを向けていたので、止める。きっと、私が謝る姿を写真に収めたいのだろう。そんなことは、もちろん嫌だ。屈辱だ。だが、正邪の受けた痛みに比べれば、屁でもない。そう思い、もう一度頭を下げようとしたが、直前に妹紅が、おい正邪と険しい声を出した。

「おまえ、無理してるだろ」

「は?」

「虚勢を張っているだろ。私には分かる。おまえ、精神的にも身体的にも限界なんじゃないか?」

「何を言って」

「ほら見ろ。いつものお前なら“そうなんだ。だから美味い飯でも持ってこい”とでも言うだろう。何を無理しているか知らないけど、弱小妖怪が無理をして生き長らえた例はないよ」

 正邪は黙り込んだ。口元は緩んでいるものの、へへっと力なく笑う様子は弱弱しい。よく見ると、顔からは脂汗が出ていた。もしかすると、まだ体調も万全ではないのかもしれない。

「いいから、寝とけよ。別に急ぐ用も無いんだろ。というか、どうして人里に来たんだ。紅魔館を追い出されたのか?」

「いや」勘弁したのか、それとも遠慮が無くなったのか、床にゆっくりと倒れ込んだ正邪は小さく首を振った。

「草履を取りに来たんだよ。裸足じゃ足が冷える」

 そういえば、と私は思い出した。どういう訳か正邪の草履が寺子屋に転がっていたはずだ。そこら辺にあったような気がし、汚い部屋をがさごそと漁っていると、簡単に見つかった。

「草履って、これだろ?」

「ああ、それだそれ。壊してねえよな」

「ない。元々壊れそうだったけど」

 うるせえ、と小さく言った彼女をまじまじと見る。彼女の草履がここにあるということは、私が留守の間に寺子屋に来たということで間違いないだろう。だとすれば、打ち出の小槌について何か知っているかもしれない。

「なあ、正邪」おまえ、打ち出の小槌って知っているか? そう口にしようと思ったが、直前で言い淀んだ。本当にいいのか? 正邪が打ち出の小槌を盗んだ可能性は無いのか? 分からない。私は彼女のことなど何も知らない。

「なんだよ」 

 いつものように鋭くも、いつもと違い酷く澱んだ目を私に向けた正邪は、額の汗をぬぐった、ように見えた。が、私は彼女がさり気なく目元を拭う瞬間を見てしまった。見えてしまった。彼女がなぜ泣いているかは分からない。だが、それが私のせいであることは明らかだった。床を滑るようにして正邪の元へと近づく。

「本当になんだよ。その変な目はどういう意味だよ」

 よく見ると、彼女の服はボロボロだった。身体こそ魔法で治ったものの、服までは元には戻っていないようだ。その傷の多さと荒み具合から、いかに酷い暴行を受けたかが分かる。正邪を訝しむ気持ちは最早何処かへいっていた。

「ごめんな。私のせいで酷い目に遭わせてしまって」

「止めろ、憐れむな。本当に憐れなのは私じゃない。私なんてまだマシだ。私が巻き込んでしまったんだ」

 地面に寝そべったままだったが、彼女はしっかりとそう言った。顔を赤くして、怒りのせいか奥歯を強く噛みしめている。おそらく、その怒りは自分自身に対してだろう。

「本当にすまなかった」

 仰向けに寝ている正邪の腹部を優しく撫でる。初めこそは逃げようと体をくねらせていたが、観念したのか動きを止めた。彼女を安心させようと、ゆっくりとさするように体重をかけてく。すると、奇妙な感覚が手のひらを襲った。何かを押しつぶしてしまい、具体的には芋虫を押しつぶしてしまい、体液で手を汚してしまったかのような、そんな感触がした。慌てて手を引っ込め、掌をまじまじと見つめる。ごくわずかにだが、赤い色が手に移っていた。

「慧音、それ」恐る恐るといった様子で妹紅が私の手を覗き込む。カシャリと射命丸がカメラを切る音が聞こえたが、それもどうでもよくなっていた。

「正邪、もしかしてお前」

「もしかして血だと思ったか?」

「え」

「馬鹿だな。半獣のくせに嗅覚までだめとは」

 空元気か、それとも自然に浮かんだものなのか、ふぅと頬を緩めた彼女は服の中に手を突っ込んだ。うわ、漏れてやがると嫌そうに顔をしかめたものの、私の呆然とした顔を見たからか、すぐににやりとした。

 彼女が腹から取り出したものを見た私は、いつの間にか、なんで、と呟いていた。なんでそんなものを腹に入れているんだ。なんでケチャップなんかを腹の中に隠しているんだ。

「なんでって、そりゃあ人は腹の中に一つや二つ隠している物がある」

「お前は人ではないし、その言葉の意味も違う。それに、どっちにしろ普通ケチャップは入れないだろ」

「分からねえじゃねえか。ケチャップは役に立つんだよ」

「例えば?」

「料理にアクセントを加えたり、非常食になったり、もしかすると盾代わりになったりするかもな」

「最後のは無理だろ」

 呆れて肩をすくめた私と違い、妹紅は笑いで肩を震わせていた。

「驚いたか?」

「ああ、驚いたよ」

「驚いたなら、驚天動地! って叫べよ」

「なんなんだ、それは」

 腹を抱えて笑った正邪は、若干引くくらいに、足をバタバタと振って身をよじらせている。また、カシャリと射命丸が写真を撮った音が聞こえた。咎めようと、彼女の方へ目を向けたが、すぐにその目は丸くなった。あの、いつも仮面のような笑みを浮かべていた射命丸が、笑いを堪え切れずに身震いしていたのだ。手に持ったカメラも震え、ピントを合わせるどころではなさそうだった。

「いやぁ、いいですね」

 射命丸は、こらえきれないといった様子で息を吐いた。

「泥沼の三角関係ってかんじで」

 どちらかといえば、血みどろの三角関係じゃないか、そう抗議する私の声は、笑い声にかき消されていった。

 

「小人の家に行く前に、寄り道をしたいのですが、いいでしょうか?」

 後ろを振り返り、こてんと首を傾けた射命丸は、私の返事を聞く前に細い路地へと入っていった。説教をしようと思ったが、考えている内にもずんずんと進んでいく彼女は、明らかに訊く耳を持っていないので、諦めてしぶしぶ着いて行く。

 結局、正邪に小槌の件を言い出せないまま、私は射命丸と一緒に針妙丸の家へと向かうことにした。精神面が酷く傷ついたせいかか、体調面が優れない正邪が心配だったので、妹紅は寺子屋で彼女の看病をすることになった。「命に代えても守るよ」と胸を張った彼女は、まあ、私にできることは紅魔館に連れていくことぐらいだけど、と眉を下げていが、それで十分だ。

「寄り道って、どこに行くつもりだ」

「行方不明になった女性の家ですよ。子供が帰ってきてないかと思いまして」

 くだらない用事であれば文句を言うところだったが、そう言われてしまえば強く言い出せない。実際は、単純に次の記事の下調べをしたいのだろうということは分かっていた。が、もし私が急かそうとすると、「あやや、寺子屋の先生のくせに、子供のことなんてどうでもいいんですか?」と言ってくるに違いない。そう考えていると、「そんな不満そうな顔をして。寺子屋の先生のくせに、子供のことなんてどうでもいいんですか?」と訊いてきた。ニヤニヤと馬鹿にするように笑う射命丸に、私は何も言い返すことが出来ない。

「ここですね」

「ここ、か」くねくねと入り組んだ路地を曲がり、苦労してたどり着いた先にあったのは、まごうこと無きボロ屋であった。辺りにある民家は全て小さく、みすぼらしいが、その中でも群を抜いて酷い。そんな醜い家の扉を、躊躇もなく射命丸は開いた。慌てて咎めようとするも、中には誰もいないのは分かっていたので、慎重にな、とだけ口にする。

 射命丸に続いて家へと入っていく。ただ、真ん中付近に布団が敷いてあるだけで、目ぼしいものは何もないように思えた。少しの腐敗臭が鼻を突くが、気のせいだと思い込む。

「やっぱり、面白いものは何もないですね」

「面白い物なんて、病死された人の家にあるわけないだろ」

「そうですか? 遺産があるかもしれないじゃないですか」

「不謹慎だ」

 そうですか、と抑揚なく言った彼女は、部屋の奥に向かっていった。流石に土足では上がっていないようで、靴は脱いでいる。私もとりあえず脱ごうか、と足元に目を落とした時、妙なものが目に付いた。茶色の、円錐状のそれは、どこかで見覚えがあるような気がした。

「これは」

「あややや、ありました? 遺産」

「遺産はない。その代わりに何故か笠があった」

 掴み上げるようにして、目の前へもっていく。ところどころに菅が飛び出しているが、まだ使えそうだ。私だったら、新しいのを買いなおすが。

「ちょっと失礼しますよ」

 そう言った彼女は、私の返事を聞く前に笠を奪い取った。左手を伸ばし、片手で器用に写真を撮った彼女は、まじまじとそれを見つめている。

「なんでこの笠がこんなところにあるんですかね」

「さあ。どこかで見覚えがあるような気がするんだが」

「分からないんですか?」

 馬鹿にするというよりは、心底驚いたといった様子で声をあげた射命丸は、その口を大きく歪ませた。短く切られた真っ黒な髪が私を取り込むかのように、ゆらりと蠢く。

「さすが半獣です」

「教えてくれ射命丸。その笠は一体何なんだ」

「用事も済んだし、行きましょうか」

「おい」

 私の言葉を無視した射命丸は、さっさと外に出て、扉の前でニヤニヤと笑っていた。強引にここに来た割には、随分とあっさり帰ろうとしていることに、驚く。

「どうしたんです? 早くしましょうよ」

 私の脇をすり抜けるようにし、扉から出ていった彼女は、次は小人の家ですね、と満面の笑みで振り返った。なぜだか分からないが、寒気がする。

「何なんだ、いったい」

 不思議と、正邪の卑屈な笑みが頭を掠めた。

 

 外に出ると、いつの間にか分厚い雲は遠ざかり、爛々と輝く太陽が顔を出していた。寒空の澄んだ空気に見合うような、気持ちのいい陽射しが体を包み込む。私の抱え込んだ不安を全てきれいに拭い去ってくれるような、そんな気がした。きっと、打ち出の小槌は八雲紫が勝手に回収したに違いない。正邪も時間をかけていけば、いつか人里に受け入れられるはずだ。そう何度も自分に言い聞かせ、その言い聞かせている時点で自分がそう信じていないことに気がついた。

「おや、こんなところで珍しいですね。どうしたんですか?」

 針妙丸の家へと続く、人通りの少ない荒れた道を進んでいると、突然後ろから声をかけられた。聞き覚えのある、男の声だ。慌てる心を隠すようにゆっくりと振り返る。

「あやや、まさかここで出会うとは」

 射命丸のうすら寒い笑みがより深みを増した。まさかここで出会うとは。射命丸のこの言葉が私の気持ちを代弁していた。正邪を連れてきていなくて、本当に良かった。

「そっちこそどうしたんだ?」

「野暮用ですよ」

 にこり、と人懐っこい笑みを浮かべながら、彼はその丸々と大きくなった腹を撫でた。白い髪が太陽に照らされて、キラキラと光っている。

「お陰様で、私は忙しいんですよ。慧音先生」

 朗らかな声で、喜知田は子供の様に、自慢げに言った。一切の悪意もなく、優等生然としたその態度は昔から変わらない。まさかこいつがあんな事をするなんて夢にも思わなかった。三十年前、恐怖で顔を青くして、泣きながら寺子屋に駆け込んできた青年の姿を思い浮かべる。歯をカチカチと震わせ、人を殺してしまいました、と独白する彼の姿は、大事な何かが無くなってしまったように映った。そんな彼を庇った事を後悔はしていない。ただ、正しい行為ではないことも同時に分かっていた。私は人里の守護者だ。もし一を犠牲に十を救えるのであれば、まして亡くなってしまった御方の死因を隠蔽することで人里が繁栄の方向へと向かっていくのであれば、そちらを優先しなければならない。それほどまでに、喜知田は人里に影響力を持っていたし、頼りにされていた。そして何より、幾度となく人里の危機を救ってきていたのだ。

「それは食糧不足が関係するのか?」

 だからだろうか、今回も彼が人里のために奮闘しているのではないか、と勝手に期待してしまう。

「え。いや違います」一瞬ぽかんとした喜知田だったが、すぐにまた照れ笑いのような顔になった。

「食料不足は私たちに何とかなる範疇を超えてしまいましたから。為すすべ無しってやつですね」

「そうだよな」

 なぜか、不敵に鼻を鳴らした射命丸に目をやるが、彼女は何も言わず首を振るだけだった。

「そういえば、面白い話が二つあるんですが、聞きますか?」

 突然、私の口癖を真似するように唇を突き出した喜知田は、指を二本たて、私と射命丸を見比べるように首を振った。あまりに唐突で驚いたが、それよりも、話をはぐらかされたことにむっとしてしまう。

「私より面白い話が出来たら、おはぎでも奢るよ」

「あややや、逆に半獣よりつまらない話ができる人妖を私は知らないんですが」

「どういう意味だ」

 くすくすと私たちを興味深そうに見ていた喜知田は、目元の皺をより深くし、顔をくしゃりとさせた。そのまま「実はですね」と快活な声で続ける。

「実は、霧の湖に妖精以外の妖怪が住んでいるんです。知ってました?」

 いきなり何を言い出すのか、と首を捻っていると、隣にいた射命丸が私の肩をつかみ、身を乗り出した。

「それは本当ですか!?」

 正直、私はそこまで興味を惹かれなかったが、射命丸は違った。異常ともいえる程に関心を持ち、喜知田に詰め寄っている。さっきまでの澄ました顔を興奮で歪ませ、鼻息を荒くしていた。

「いったい、どんな妖怪ですか? いえ、まだその妖怪は生きていますか?」

「え、ええ。生きていますよ」

 まさかそんなに食いつかれると思っていなかったからか、喜知田は両手で射命丸を制しながら、後ろへと下がった。彼にしては珍しく露骨に恐怖している。いったい、射命丸は喜知田にどれほどの事をしたのだろうか。彼女のカチコミという言葉は、比喩ではないということを改めて見せつけられた。

「まあ、落ち着け。射命丸は霧の湖に興味があるのか?」

「そんな訳ないじゃないですか」

 がばりと勢いよくこちらを向いた彼女は「賭けをしてたんです」と目を輝かせた。

「賭け?」

「妖怪の山には賭博場があるんですよ。そこで、霧の湖には妖怪が住んでいるかどうか、っていうのが賭けの対象になってまして。私は住んでいるに賭けたんです」

 なるほど、と納得しかけたが、一つ疑問点が浮かんだ。あの射命丸文が、嬉々として賭け事をしている姿が想像できなかったのだ。

「ちなみに、賭けているのは金か?」

「違いますよ。この賭けで勝てば、今よりいい現像機を使わせてもらえるんです!」

 こうしてはいられません! と射命丸は目にもとまらぬ速さで飛び立っていった。頭にはボロ屋で見つけた笠を被ったままだ。どれだけ新聞に命を削っているのかと、逆に心配になる。

「人里では飛行禁止といったろうに」

「結構平気で飛んでますよ、彼女」

 面白そうに射命丸を見上げていた喜知田は、どこか安堵したように見えた。そんなに射命丸が怖かったのだろうか。

「それで、二つ目は何だ」

 どっと疲れた私は少し投げやりに訊いた。嵐のように去っていった射命丸のことを考えるだけで、頭が痛くなる。

「二つ目はですね。まあ、大した話では無いんですけど」

「けど?」

「最近思ったんですよ。物は使いようなんだなって」

「どういう意味だ」

 げんなりとしている私を諭すように、彼はゆっくりと言った。その顔は喜びに満ちているが、どこかいびつだ。背中に嫌な汗が流れる。

「例えばですよ。多くの馬を動かすのには人参一本でいい、っていうじゃないですか。仕事をこなせば、これを食わせてやる、とお願いする。それをたくさんの馬に行うんですよ」

「でも、結局は全ての馬に渡さなければならないじゃないか」

「まあ、その例え話だとそうですけど、現実ではそうとも限らないじゃないですか。だから、物は使いようなんです」

 よっぽどその話が気に入っているのか、うっとりとした表情を浮かべていた。物は使いよう。確かにその通りだ。

 喜知田としばらく雑談するのも悪くなかったが、早いところ針妙丸の家に行きたかった私は、彼に別れを告げようと右手を伸ばした。別れの握手をするつもりだったのだ。だが、その手に一匹の蝶が止まった。真っ赤な翅を羽ばたかせているそれは、チリチリと音を立て、私の手のひらに無視できない熱さを伝えてくる。それは、妹紅の幻術だった。

「珍しい蝶ですね」呑気な声で、喜知田は笑った。

 ふと上を見上げる。一度退いたはずの雲がまた空を覆い、いつの間にか人里に影を落としていた。その、薄黒い空のキャンバスに点々と赤い点が浮かんでいる。まるで空に浮かんだ道のように一直線に私の元へと続いていた。それが指し示しているのは確かに寺子屋だった。

「悪い喜知田、急用が入った」

 返事を聞くより早く、私は地面を蹴った。空に浮いている蝶に沿うように全力で宙を蹴る。一瞬、寺子屋が視界に映ったかと思えば、みるみるその影が大きくなっていった。手前の大通りに人がいないことを確認すると、砂ぼこりがあがることも気にせず、乱暴に着地する。その勢いのまま地面を駆け、扉を勢いよく開いた。鍵はかかっていない。

「妹紅! 何があった!」

「け、慧音か」

 緊迫した声が奥の部屋から聞こえた。散乱した休憩室だ。大声で叫んでしまった事を後悔する。叫んだところで、悪いことしかない。

 靴を脱ぎ、足音を立てないように廊下を進んだ。大丈夫だ、と自分に声をかける。だから、そんなに絶望的な気分になるな。

 閉じている襖を、ゆっくりと開く。強張った顔で、呆然と立っている妹紅の顔が見えた。身体を滑り込ませるように部屋の中へと入っていく。次に目に入ったのは立ち上がった正邪の姿だった。緊張感に満ちた妹紅の顔とは裏腹に、どこか余裕のある飄々とした表情で笑っている。私を見つけ「先生は遅刻してもいいんだな」と口笛を吹いてさえいた。

 そして、その正邪に相対するように、一人の少年が立っていた。まるで土俵で睨みあっている力士のように、距離を開けて立ち尽くしている。知らない少年だった。が、目に涙をためて、ごめんなさい、ごめんなさいと連呼する姿は、それだけで胸を打った。だが、それよりも衝撃的だったのは、その少年が手に持っている物だ。

「相変わらず、お前は謝るのが好きだな」

 普段の彼女からしたら考えられないくらい優しい声で、正邪は微笑んだ。

「なあ、三郎」

 首に掛けた一文の首飾りをチャリンと鳴らした少年は返事をせず、俯いている。ただ、手に持った包丁を両手で構え、ごめんなさい、と呟くだけだった。

 

「いったい何が起こっているんだ」

 誰に聞くでもなく、自然と私の口からはそんな言葉が零れ出た。だが、それも仕方がないだろう。どうして寺子屋に帰ったら、射命丸の探していた少年が正邪に包丁を向けているのか、そもそも彼女たちは知り合いなのか、何一つ分からなかった。ただ、一つ言えることとすれば、かなりまずい状況ということだ。

 焦る頭をなんとか落ち着かせようとするも、考えれば考えるほど混乱していく。ただ、そんな混乱した状態でも、一つの解決法が思い浮かんだ。それは、驚くほど単純で、だからこそ混沌としたこの状況では有効に思えた。

 その解決法とは何か。目の前の小さな少年を、力づくで取り押さえる。ただ、それだけだ。いくら包丁を持っていようが、流石に半獣の私であれば、労せず取り押さえることができるはずだ。その後で、何があったかを問いただし、反省させよう。そう思い付いた。

 姿勢を低くし、タイミングを見計らう。正邪と少年の間に向かって飛び出し、後は包丁を叩き落すだけ。そこまで難しくはない。少年が、大きく息を吐いた瞬間、私は地面を蹴ろうと、足に力を入れた。が、そこで思わぬ邪魔が入った。

「止めてくれ、慧音」

 その少年の向かい側にたっている正邪が、軽口をたたくように私を止めたのだ。

「お前の出る幕はねぇよ。こんなガキ相手に本気になるなっての」

「だが!」

「うるせぇな。私がこんな子供相手に後れを取る訳ないだろ?」

 耳を小指でほじりながら、正邪は私に向けて舌を出した。一切の怯えも見せず、生意気にふふんと鼻を鳴らしてさえいる。どうしてそんなに余裕なのか分からない。

 歯ぎしりをし、正邪の言葉を無視して飛びこもうとしていると、隣にいた妹紅が肩にそっと手を置いてきた。振り返ると、目を閉じたまま、首を横に振っている。

「たぶん、私たちは介入しちゃいけない。正邪の問題だ」

「でも」

「大丈夫だ。さすがの正邪も子供一人に負けたりしない」

 力強く頷き、大丈夫だ、と再び口にした妹紅は、自分に納得させるように「そうだろ?」と私に訊いてきた。

「そうだな」

 私も大きく首を縦に振る。正直に言えば、あの妖精にすら負ける正邪が、いくら子供とはいえ刃物を持った相手に無事で済むとは思い辛かった。だけど、大丈夫だと、そう信じるしかない。

「それで? もう怪我は平気なのか、三郎」

「ごめんなさい」

「謝ってちゃ分かんねぇっての」

 正邪に声をかけられた少年は、分かりやすく動揺していた。顔は真っ白で、涙でぐちゃぐちゃになっている。来ている服も、正邪と同様酷い有様だった。その、破けた服の隙間から、青い痣が見え隠れしている。そんな痣を隠そうともせず、少年は正邪と対峙し、身体を震わせていた。

「それで? なんだその包丁は。もしかしてあれか? 私に対する謝罪の粗品か? 残念だが私の怪我はもう完治したんだ。そんなもんいらねぇよ」

「ほんとうに、ごめんなさい」

 はぁ、とため息を吐き、肩をすくめた正邪はじれったそうに頭をかいた。寺子屋で子供の面倒を見ている私を見直したのか「慧音も大変だったんだな」と感慨深そうに眉を下げている。が、私からすれば、今の正邪の方がよっぽど大変だ。

「お前の口は謝るためにあるのか? 違うだろ? いいから、なぜそんなプレゼントを持って私に会いに来たか教えろよ。トマト食わせるぞ」

 正邪の言葉にびくり、と体を振るわせた少年は、唇を震わせて、所々言葉を詰まらせながらも、なんとか口を開いた。

「あのね、あの。お母さんがね」

「ああ」

「おかあさんが、死んじゃったんだ」

 頬から流れ落ちる涙の粒が大きくなった。鼻をすすり、歯をカタカタと震わせながらも、手に持った包丁の切っ先は真っすぐに正邪に向けられている。

「正邪お姉ちゃんが出ていったあともね、おかあさん目を覚まさなかったんだ」

 それでね、と続ける少年は口調こそ幼く、可愛らしいものだが、涙で枯れた声と、薄暗い雰囲気は背筋をぞっとさせるものだった。

「それでね、きっと僕が頑張れば、起きてくれると思ったんだ。だから、部屋を掃除したり、おかゆを作ってみたり、落ちているたべものを探しに行ったりしたんだけど」

「その話はもういい」

「だけどね、全然おかあさん起きなくて」

 私と妹紅は、少年の話に聞き入っていた。あまりにひどい現実に、目を覆いたくなる悲劇に、吸い込まれるようにただ立って聞いていた。何かがあればいつでも動けるようにと、そう準備していたはずなのに、いつの間にか体重をどっしりと後ろに置いていた。ただ、正邪だけが違った。正邪は、少年が一言一言発するたびに、頭を抱え、目を見開き、唇をかみしめている。よくは聞こえなかったが、水の泡だと小さく呟いていた。

「おかあさん、てっきり怒ってるかと思って、謝ったけど起きなくて。だから、起きてって体を揺すったの、そしたら!」

 感極まった少年は大声を出して、言葉を詰まらせた。少し腰をかがめ、包丁を持った手を腰にまで引いている。

「そしたらね、首がガクガクして、変な風になっちゃったの。口から芋虫が出てきてね。びっくりして手を離したら、バタンって布団に倒れてね」

 そこで少年は、その当時の状況を思い出したのか、口元を左手で抑えた。嗚咽に混じって、込み上げてくる吐き気を必死に我慢しているようだ。心配だったのか、正邪が少年に駆け寄っていく。彼が包丁を持っているにも関わらず、気にした様子もなく背中をさすっていた。

 しばらく口元を抑え、うずくまっていた少年だったが、収まったのか、また顔を上げた。正邪とは目を合わせず、ただ包丁を見て、呪いのようにぽつぽつと言葉を零し始める。

「倒れた拍子に、お母さんの首が取れちゃって、そこから芋虫がもっと出てきて、慌てて部屋から飛び出したの。そうしたら、外には人が集まってきてて、臭い臭いって文句を言って部屋に入っていったの。そしたら、死んでるってみんなが騒ぎ初めて、こわくて。逃げちゃって。そのとき初めておかあさんが死んだって分かって。どうしたらいいか分からなくて」

「もういいんだ。言わなくていい」

「おかあさんもおとうさんも死んじゃった」

「大丈夫だ、私は死なない」

 眉間を、これでもかと顰めた正邪は、三郎少年をきつく抱きしめ、背中をさすっていた。その目には光が灯っていない。少年よりも深い絶望に囚われていると言われても、納得してしまうほどだ。

「なあ慧音」

 そんな中、突然妹紅が声をかけてきたので、私はかなり驚いた。

「これ、どっかで射命丸が隠れていたりしないか」

 だとすれば面倒だ、と辺りを見渡している妹紅は、私とは違いまだ冷静だった。未だ包丁を離していない少年に注意しつつ、神経をとがらせている。

「あいつは霧の湖に向かったから、その心配はないよ」

「そうか」

 安心したわけではないだろうが、ふぅと息を漏らした妹紅は、それにしても、と私の耳に顔を近寄せた。

「正邪とあの少年はどういう関係なんだ」

「さあな。ただ、正邪とあそこまで踏み込んだ関係を持っているのは、あと針妙丸ぐらいだ」

 だから、それって誰だよ、と恨めしげに見てくる妹紅だったが、少年が口を開いた途端、反射的に意識をそちらへ戻した。慌てて私も正邪と少年を見やる。少年はまだ泣いていた。正邪はもう笑っていた。だが、はたから見て、正邪の方が悲しい顔に見えるのは何故だろうか。

「でも、やっぱりおかあさんにもう一回会いたいの。あって、謝りたい」

「これ以上謝るのかよ」少年の言葉に苦々しく口を歪めた正邪は、心底辛そうに首を振った。

「でも、それは無理だ」

「どうして」

「死んだ人間は生き返らない。絶対にだ」

「ごめんなさい」

 その時、少年の目の色が変わった。悲しみと絶望に濡れた黒色の瞳は、使命感と自己暗示に満ちた漆黒へと落ちていく。鳥肌が立ち、頭の中の信号が自動的に全て赤色になった。発作的に正邪の元へと駆けだす。

「正邪お姉ちゃんごめんなさい」

 最初は、それが何の音かは分からなかった。ザンと鈍い音が、決して大きな音で無かったにも関わらず、嫌に耳にこびり付いた。背中に冷たい汗が流れる。

 少年を抱きしめていた正邪の腕が緩んだ。そのまま、ゆっくりと後ろへ下がっていく。最初は、彼女も何が起きたか理解していないようだった。だが、自分の腹を見た途端、彼女は目を丸くした。糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ち、白い顔を粘り気のある液体で赤くなった手で覆っている。

 少年が正邪の腹に包丁を刺した。頭ではそう理解したものの、どうしてこんなことになったのか、何一つ理解できていない。頭をぐるぐると回転させている内に、いつの間にか少年の前に立っていた。当の少年は、私が目の前に立っているにも関わらず、倒れ込んだ正邪の方を呆然と見つめている。そして、自分の手についた赤い液体を見て、大声で叫んだ。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。なんでこんなことを。一体どこでまちがえちゃったんだろう」

 正気に戻ったのか、それとも発狂したのか、手にこびり付いたものをこすり、とれないとれないよ、と虚ろな目で呟いている。

 どうしてこんなことをしたんだ、そう少年に怒鳴りつけたいのは山々だったが、今はそれどころじゃない。正邪は無事か。それだけが気がかりだった。

「謝んじゃねぇよ。馬鹿野郎」

 後ろから、絞り出すような正邪の声が聞こえた。心配そうに手を差し伸べている妹紅を退け、自分の足で立ち上がっていた。腹に刺さった包丁を右手で掴み、大きく息を吐く。そして、目を瞑ったかと思うと、一息に引き抜いた。ぽたぽたと音がし、彼女の足元に赤色の水たまりができる。

「正邪!」

「大丈夫だってのに。焦んなよ慧音」

 顔を真っ青にしながら、気丈に笑った彼女は、自分の服の中に手を突っ込んだ。唖然とする私たちを前に、ごそごそと何かを手探りで探し、取り出した。ぶらぶらとそれを得意げに揺すり、人を食ったかのような不敵な笑みを浮かべている。

「言ったろ? ケチャップは盾代わりになるんだよ」

 

「正邪おねえちゃん!」

 私の脇を通り過ぎ、少年が勢いよく正邪へと飛び込んでいった。よろけながらも、何とか少年を受け止めた正邪は、だから言ったじゃねえか、と少年の頭を撫でた。

「私は死なねぇよ」

「ごめんなさい」

「だから謝んなって」

 二人とも、体中を赤く濡らしていながらも、絵の具を使って遊んだ子供の様に無邪気に戯れていた。私は心底安堵し、気が抜けたせいか、柄にもなく妹紅へ走り寄って行き、肩を組んだ。一瞬ぎょっとした妹紅だったが、すぐに表情を緩め、同じように肩に手を回してくる。

「何だかよく分からんが、無事に解決したみたいだな」

「本当に何だかよく分からなかったけどな」

 おいおいと泣き続ける少年を宥めている正邪は、温かい目で見ている私たちに気づいたのか、ぴくりと眉を動かした。何か込み上げてくるものを飲み込むように口を固く結び、すぐに解く。そして、ゆっくりと語りだした。

「私とこいつは単なる知り合いだよ」

「にしては仲が良すぎないか?」妹紅がケラケラと笑いながら言った。彼女も緊張の糸が切れたからか、どこかだらりとしている。

「知らねぇよ。勝手に懐かれたんだ」

「でも、なら」

 私は少年の絶望的な顔を思い出した。正邪に包丁を刺した後の、あの真っ白な顔だ。

「ならなんで包丁で刺したんだよ」

「さあな」

「さあなって」

「不倫でもしたからかしら?」つまらなそうに真顔でそう言った正邪は抱きついてくる少年を引き剥がし、よっこらしょと床に座り込んだ。

「だがな、今日、こいつは偽物の包丁で私を脅かしに来た。ただそれだけなんだよ」

「何を言って」

「そういうことにしてくれ」

 そういうことにできるだろ、と呟く正邪の言葉には、これ以上ない説得力があった。彼女は既に二度“そういうこと”の影響を強く受けている。一度目は、夫婦殺害の罪を被り、二度目は、野菜泥棒の罪を被った。ただ、今回の件に限って言えば、目撃しているのは私と妹紅だけだ。だったら、何の問題もない。そもそも何も無かったことにするからだ。

「なあ、少年」少し泣き止み始めた少年に、妹紅は声をかけた。正邪の後ろに隠れながらも、しっかりと妹紅の方を向いた少年は「なに?」と可愛らしい声を出した。返事ができてえらいぞ、と笑ってみせる。

「なんで正邪を包丁で刺そうとしたんだ?」

 正邪の袖をぎゅっと掴み、顔を強張らせた少年は、おさまり始めていた涙をまた目にためだした。だが、心を決めたのか、強く頷きゆっくりと口を開いた。私はまた、えらいぞ、と相打ちを入れる。

「おかあさんを生き返らせたくて」

「はい?」素っ頓狂な声を出した妹紅は、聞き間違いだと思ったのか、私に向かって首を傾げた。「いま、なんていった?」

「死んだおかあさんを生き返らせたくてって言った」

 おっかなびっくりといった調子で話す少年は、自分の行いを反省しているのか、ごめんね正邪おねえちゃんと声を震わせていた。

 残念なことに、私も妹紅も少年の言葉の意味が理解できなかった。目をぱちくりとさせ、どうして正邪を刺せば彼の母親が生き返るのか、と真面目に考えていたが、分からないものは分からない。

「どうして正邪を刺せば、おかあさんが生き返ると思ったのかな?」

 極力おびえさせないように、目線を下げてゆっくりと言った。それでも少年はびくりと体を震わせ、その場にうずくまる。だが、ぽつりぽつりとひねり出すように、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「約束したの」

「約束?」

「正邪お姉ちゃんを刺せば、おかあさんを生き返らせてくれるって」

 馬鹿げている。傷心した子供の隙につき込み、そんな物騒なことを頼むような奴が、人里にいるという事実自体が信じられなかった。怒りのあまり、唇が震えたが、それでも私は笑顔を崩さず、少年に声をかけた。

「誰に言われたの?」

「男の人」

 男の人。あまりにも範囲が広すぎて特定できない。正邪に恨みをもつ男の人。このように考えても結果は同じだ。逆に、村人の中で正邪に好印象を抱いているような人はいない。

「どうして、それを信じようと思ったんだ?」いつになく不躾に、妹紅が訊いた。「ふつう、そんな嘘信じないだろ」

「持ってたの」

「持ってたって、何を」

「何でも願いが叶う魔法の道具」

 少年の言葉を訊いた正邪は、愉快そうに歯を見せた。フフと肺から直接息を吐き出すようにし、馬鹿だな、と少年の頭を撫でている。

「何でも願いが叶う魔法の道具なんて、都合のいいものある訳ないだろ」

 眉を下げながら、変な笑い方をする正邪を尻目に、私と妹紅は戦慄していた。何でも願いが叶う魔法の道具に、一つだけ心当たりがあるからだ。

「なあ、それって打ち出の小槌のことか」恐る恐る妹紅が訊ねる。

「そうだよ、知ってるの?」

「打ち出の小槌なんて、実在するわけないだろ」

 正邪が、馬鹿にするように鼻を鳴らした。身をよじらせ、笑っている。

「実はあるんだ」切ない笑みを浮かべる正邪を窘めようと、真剣な顔をしている妹紅を手で制し、正邪に向かい合う。正邪に白を切った様子はなかったし、彼女の嘘を見抜けないほど私は節穴ではない。が、一応確認しておきたかった。

「正邪、お前妹紅に紅魔館に連れてかれたんだったよな」

「ああ、鶏ガラに怪我を治しにもらいにな。つっても、意識がなくてほとんど覚えてないが。ああ、ケチャップはそこで貰った」

「その後は」

 はぁ? と不服そうな顔をした彼女だったが、真面目な私たちの雰囲気に気圧されたのか、ぶつぶつと呟くように答えた。

「知ってるだろ。人里に草履を取りに来たんだよ。そしたら、阿保みたいに殴られて、お前らがいる甘味屋に突っ込んだんだ」

「針妙丸には会ってないのか」

「なんであいつに会わなきゃならねぇんだよ」

 つまらなそうにそう吐き捨てた彼女は、もう人里には戻らねえから、針妙丸とも会う事ねえよ、と自嘲気味に笑った。

 正邪は、小槌のことを本当に知らない。だとすれば、少年の言った事は事実だろう。そうなると、少年にそんなことを唆したのは誰なんだ。そいつのことを思うと頭が沸騰する。ふつふつと怒りが湧き、居ても立っても居られなくなった。

「誰が持っていた!」

 私は考えるよりも早く少年に詰め寄っていた。肩を掴み、強引に揺する。「なあ、男の人ってどんな人だったか覚えているか。髪型は? 年齢は? どんな背格好だ。教えてくれ!」

「慧音、落ち着け」

 ガツンと首に衝撃が走り、目の前に妹紅の顔が現れる。少年から引き剥がすように私を引っ張り、もう一度落ち着け、と強い口調で言った。

「そんなんじゃ、答えられないだろう」

「あ、ああ。すまない」

 頭に昇っていた血が少しずつ冷えていく。これでは駄目だ、と額に手を置いた。常に冷静でいなければ、人里の守護者は務まらない。そんなことすら忘れていた。

「あ、あの」私の言葉に面食らったのか、おろおろとしていた少年だったが、はっきりとした口調で「白髪の太った人でした」と私たちに向かい言った。

「あと、高そうな着物を着て、周りに怖い人を引き連れていました」

 胸が押し潰されるような感覚に襲われた。目の前が真っ暗になり、世界中から自分が責められているように後悔が押し寄せてくる。白髪で、太っていて、護衛を連れている人間。そんな奴は、一人しか心当たりがいなかった。

「喜知田か」

 気づけば、口からそう言葉が出ていた。座っていた正邪が立ち上がり、目をまん丸にしている。

『最近思ったんですよ。物は使いようなんだなって』

 頭の中で、喜知田の言葉が再生された。彼の口元がぽぅと画面に映り、それを私は眺めている。そんな気分だった。

『多くの馬を動かすのには人参一本でいい、っていうじゃないですか。仕事をこなせば、これを食わせてやる、とお願いする。それをたくさんの馬に行うんですよ』

 まさか。まさか喜知田は。打ち出の小槌を使って、願いを叶えてやると嘘をついて、こんな年端もいかない少年を騙したのか。正邪を殺させようとしたのか。嘘だろ。私は喜知田のことなんて何も知らない。ただ、こんな非情なことをするような子ではなかったと、そう思っていた。思い込んでいた。なぜ、どうして。

 そこでふと、記憶の重箱から中身が零れ落ちるかのようにして、数十分前の光景が頭に浮かんだ。射命丸と共に、針妙丸の家に向かっている途中で、後ろから喜知田に声をかけられた場面だ。なぜ、あんなところに彼はいたのか。後ろから声をかけてきたということは、私たちの先に用があったということだろう。私たちの進行方向にあるもの。そんなもの、一つしかなかった。

「針妙丸が危ない!」

 正邪の顔が、本当の鬼ように恐ろしい顔になっているのが、私には分かった。

 

「なんで針妙丸が危ないんだよ」私の背中に捕まっている正邪が、低い声でそう訊いてきた。「いったい何が起きてやがる!」

 喜知田が小槌を盗んだ張本人だと知った私は、焦りに焦っていた。一刻も早く針妙丸の家へ向かおうと、寺子屋を飛び出していきたかった。が、流石に少年を放ってはおけない。

「私が少年を預かっとくよ」

 そのことが顔に出ていたのか、妹紅は得意げに胸を張った。

「今度は包丁を持って誰かが乗り込んできても、きちんと対応するからさ」

 頼もしい友人は、そう言うや否や私の背中を強く押し、早く行け、と叫んだ。その声に押し出されるように寺子屋から飛び出し、そのまま飛び立とうと、足に力を入れた。

 予想外だったのは、正邪が私の背中に飛び乗ってきたことだ。

「どうして着いてきたんだ」

 私の背中を抱きしめた正邪の手は、力がなく、震えている。

「お前、私が喜知田をどう思っているかぐらい知っているだろ」

「恋人か」

「冗談にしても殺意が湧くな、それは」

 結局、私は正邪という重りを乗せたまま針妙丸の家へと向かっていた。正直、正邪と喜知田を鉢合わせさせるのは気が引けたが、説得している時間はない。それに、喜知田の今回の所業が本当だとすれば、あまりにも度が過ぎている。流石に見逃せる範囲ではなかった。

「何が起きているか、話せば長くなる」

「短く話せ。私は正しく、はらわたが煮えくり返りそうなんだ。冗談抜きにな」

「分かった分かった」

 そうは答えつつも、私は針妙丸の家へ一刻も早く着こうと必死だった。荒れる息を必死に整え、なんとか言葉をひねり出す。

「正邪、打ち出の小槌って知ってるか?」

「だから知らねぇっていってるだろ」

「あれはな、使うと厄介なんだ。少なくとも巫女は確実に出てくるような、異変と呼ばれる事態に陥る」

 正邪からの返事はない。だが、気にせず話を続けた。

「その小槌は小人にしか使えない。そして、その小槌が喜知田に盗まれたんだ」

「慧音にしては分かりやすいな」

 馬鹿にするように私の頭を撫でた正邪は、そういえば、と声を漏らした。自然と力が入ったのか、撫でる手をそのまま強く握り、私の髪の毛を掴んでいる。

「あいつ、願いが叶う道具とか何とか言ってたな」

「本当か?」

「多分な。気づかなかったか? 寺子屋に攻撃的な護衛の札があったぞ」

「え」

「なんでお前が気づいてねえんだよ」

 辛そうに笑った彼女は、喜知田への怒りを目に滲ませていた。

 どういう意図で喜知田が寺子屋から小槌を奪ったのかは分からない。もしかすると、単純に興味本位だったかもしれないが、それにしては、手際が良すぎる。

 考えても仕方がない、と私は速度を上げた。しつこかった雲は再び晴れ、もはやその面影すらも残していない。真っ青な空を貫き、澄んだ空気を裂くように進む。そんなに距離はないはずだが、嫌に遠く感じた。はやく着いてくれ、と意味も無いのに足をばたつかせる。

 針妙丸の家が見えたとき、私は思わず息をのんだ。その家の前で、喜知田が悠然と突っ立っていたからだ。護衛もつれず、たった一人で。大声で喜知田と叫ぶも、向かい風に押し流されていく。重力に従うように、一直線に地面へと向かっていった。

 喜知田から少し離れた場所に着地した私は、そのまま足を動かし、喜知田へと向かっていった。流石の喜知田も私たちに気がついたようで、目を細めてこちらを見つめていた。

「あれ、どうしたんです? 慧音先生にしては珍しく焦ってますけど」

「とぼけないでくれ」

 喜知田は私が来たにもかかわらず、一切の動揺を見せなかった。それどころか、嬉しそうに頬を緩め、手を振ってさえいる。その仕草が、ますます私を焦らせた。

「打ち出の小槌だよ。私の部屋から奪っただろう!」

「あ、ああ。小槌ですね」

 そんなの知らないですよ、ととぼけることもなく、喜知田はとうとうと言った。一切の悪意も見せず、むしろ誇るようですらある。小さく、開き直りやがって、と正邪が呟いた。

「確かに、慧音先生の家から小槌を持っていったのは私です。けれど、決して盗んだわけではありません」

「どういうことだ」

「知ってますか? 私は優しい善良な人間なんですよ」

「馬鹿じゃねぇの」

 たまらず、といった様子で正邪が口を挟んだ。

「お前が善良だったら、この世に悪人が私一人になってしまう」

「あ、あなたは彼の悪名高き鬼人正邪さんじゃありませんか」

 初めから分かっていたはずなのに、さぞ今気づいたといった様子で驚いてみせた喜知田は、大袈裟に手をバタバタと振った。

「どうしてこんなところに」

 口をあんぐりと開け、私と正邪を交互に見つめている。彼がいったい何故そんな過敏な態度を取っているか分からない。

「慧音先生、あまり褒められたことではありませんよ」

「何がだ」

「その妖怪と一緒に行動することが、ですよ」

 それは打ち出の小槌を利用して少年を騙すことよりもか、と口にしたが、無視された。

「その妖怪は人里の敵ですよ? そんな妖怪と人里を一緒に行動していては、どんな悪評が立つか分かりません」

 喜知田は私ではなく、正邪に向けて言っていた。未だ私に抱えられているので、正邪がどんな顔をしているかは分からない。だが、必死に私の手から抜け出そうとしていることを考えれば、今すぐにでも喜知田を殺したい、と憤慨しているのは明らかだった。正邪を離さないように、しっかりと体を固定させる。今はとにかく、喜知田から情報を引き出したかった。

「それで? 私の部屋から小槌を持っていくのが、どうして盗みじゃないんだ? まさか部屋に落ちてました、とか子供みたいな言い訳するんじゃないだろう」

「先生。こう見えてもう還暦ですよ」

 朗らかに笑った喜知田は、私の顔を覗き込むようにじろりと見てくる。表情こそはいつも通り親しみやすさに溢れていたが、どこか暗い雰囲気を感じさせた。私の知っている喜知田とは似ても似つかない。

「届けようと思ったんです」

「届けるって、誰に?」

「本来の持ち主に」

 あまりに堂々と、悪びれもせず語る喜知田のせいで、なるほどそうだったのか、と納得しそうになる。が、喚く正邪の声で、目が覚めた。

「どうして寺子屋にあるものを勝手に本来の持ち主に返そうとするんだ」

「それは当然」

「当然?」

「そっちの方が面白いと思ったからですよ」

 その時だけ、彼の後ろにあった暗い雰囲気が消え去り、彼の表情が子供の様になった。無邪気で、一切の悪意もない溌剌としたその表情は、私のよく知る喜知田の笑顔だった。

「面白いって、お前は事の重大さを理解しているのか?」 

「重大さ、ですか?」

 両手を擦り合わせ、寒いですねぇと呑気に息を吐いている彼の様子を見ると、とても理解しているようには思えない。

「打ち出の小槌はな、単に願いを叶えるだけじゃないんだ。もっと危険で、恐ろしい物なんだよ」

「知ってますよ、そんなこと」

 平然とそう嘯いた喜知田は、私の背中で力なく手をバタバタと振っている正邪を見て煽るように笑った。息を荒くした正邪が、ますます体を大きく震わせる。ケチャップだろうか、何か湿った物が背中に触れた。

「もし危険じゃなかったら、私が小人に使わせてますよ。危なそうな感じがしたから、わざわざ使わずに、色々利用してるんじゃないですか。物は使いようです」

「それであの少年を正邪に差し向けたのか」

「ああ、三郎に会ったんですか」

 だから、正邪が生きているんですか、と何の気も無しに口にした喜知田は、つまらなそうに地面を蹴った。

「あの少年は私とは何の関係もありませんよ」

「でも、あいつはお前と約束したと!」

「慧音先生」

 憤る私たちとは対照的に、喜知田は落ち着き払っていた。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。ここで熱くなってしまえば、相手の思うつぼだ。いったい、いつから喜知田はこんな風になってしまったのだろうか。やはり、あの時。彼が一人の女性を殺してしまった時、きちんと裁かなかったのは間違いだったのか。冷静になろうと心掛けると、余計に雑念が頭を覆った。

「私の言う通りにした方がいいですよ、先生」

 太い体を大きく揺すった彼は、その丸々とした腹を撫でた。多くの人々が痩せこけている中、彼だけはそのふくよかな体型を維持している。

「三郎のことを思うなら、私とは無関係ということにした方がいいでしょう。彼が包丁で鬼人正邪を殺そうとしただなんて、無かったことにした方がいいに決まっています」

「それはそうだが」

「この世の中には知らなくていいこと、知らせなくていいことがたくさんあるんです。先生も、知らない訳じゃないでしょう?」

 笑みを浮かべたままの彼の目は、ぐるぐると渦巻いていた。小さな蠅が角膜に無数に張り付き、蠢いているように見える。いつから、と声が漏れる。いつから喜知田の心は、こんなにも絶望に呑まれてしまったのか。今から、彼をその闇から抜け出させることは本当にできるのだろうか。寺子屋の先生として、人里の守護者として私はどうしたらいいのか。

 また、頭が混乱し、堂々巡りを始めたところで、ふと、妹紅の言葉が頭に浮かんだ。「困ったなら、即行動だ」 目の前に広がっていた霧が、立ち消えていく。そうだった。うだうだ考えている暇はない。いまは小槌について考えなければ。

 背中で抑え込んでいた正邪をほどき、ゆっくりと地面に下ろす。うぅと声を漏らし、顔をしかめながらも、正邪は喜知田に飛び掛かっていきそうだった。それより早く喜知田へと体をすべらせる。右足で宙を漕ぎ、喜知田の正面へと肉薄した私は、彼の左足を躊躇なく蹴り上げた。どこかに護衛が隠れていないかと警戒を怠らないようにしつつ、そのまま喜知田へと体重をかける。体勢を崩した喜知田はそのまま地面に倒れ込んだ。彼の飛び出した腹に膝を置き、馬乗りになる。打ち出の小槌を探そうと、身体をまさぐる。

「先生。人里の守護者が人間に手を出したらまずいんじゃないですか?」

「小槌を盗んだ人間なら、妖怪の賢者も許してくれるさ」

「持ってないですよ」

 組み伏せられながらも、余裕を崩さない喜知田に違和感を覚える。急いで、彼の金の刺繍があしらわれた着物の懐に手を入れる。が、手ごたえはない。慌てて腹や肩などに手を当てるが、隠し持っている様子でも無かった。目の前に浮かんでいた光が途切れていく。

「おい、どこだ」

「はい?」

「どこに隠した!」

 首元を掴み、大きく揺さぶる。だが、相も変わらずその不敵な笑みを崩さない喜知田は、隠してなんかないですよ、と優しく頬を緩めた。

「最初に言ったじゃないですか、本来の持ち主に返すって」

「まさか」

「もう、小人に渡しましたよ。残念でしたね」

 満面の笑みを浮かべた喜知田を乱暴に倒し、急いで針妙丸の家の前に立つ。その小さな扉を力いっぱい引っ張ると、大した手間もなく開いた。中を覗きこむ。が、どこからどう見ても、もぬけの殻だ。

「おまえ、針妙丸を」どこへやった。そう喜知田に怒鳴ろうとしたが、それは叶わなかった。人里から少し離れた地点。ちょうど妖怪の山との中間地点から、禍々しい魔力が溢れ出してきたのだ。喜知田は気がついていないようだが、ゾンビのように喜知田に迫っていた正邪は、足を止め、悲痛な顔でそちらを見つめていた。間違いない。小槌の魔力だ。

 考えるよりも早く、体が動いた。正邪を掬い取るように背中に乗せ、肌をピリピリと刺す魔力の発生源へと飛び出す。どうしたんですか? と訊いてくる喜知田の声は、一瞬で小さくなっていった。

「なんだよこれ」うろたえているのか、小さな声で正邪が呻いた。

「これ、まさか針妙丸と関係しているとか言わないよな」

「その、まさかだ」

 私にかかる正邪の体重が、ぐっと重くなる。水の泡だ、と呟く声が聞こえた。

 

 魔力の発生源へと近づくにつれ、胸の奥のざわめきは増していった。もしかして、もう小槌を振ってしまったのか。そんな辺鄙な場所では、妖怪に襲われるかもしれないじゃないか。そんな心配が胸を刺す。

 だから、青々とした広い草原の真ん中に立つ針妙丸を見つけた時、私は心底安堵した。正邪の、ほぅと零れ出た息が耳をくすぐる。

 おーい、と声をかけながら針妙丸に近づくも、彼女は聞こえていないようだった。緩んだ緊張の糸が、再び引き締められる。そして、彼女に近づくにつれて、その糸は引きちぎれそうになった。

 なぜか。彼女が打ち出の小槌を持っていたからだ。大声で、それを手放せと叫ぶも、案の定聞こえていないようだった。

 急いで、彼女の元へと突っ込む。すると、妙な違和感に襲われた。彼女の姿がやけに大きいように感じたのだ。最初は、単純に距離が離れているせいで、私が見間違えているのかと思った。だが、彼女の手に持つ小槌の大きさと、近づくにつれ分かってくる彼女の背丈が、そのあり得ない事実を私の目に突き付けてくる。針妙丸の背が、私たちと同じくらいまで大きくなっていた。

「針妙丸、聞こえるか! その小槌を離せ。離してくれ!」

 頼む、頼むから、と鬼気迫る声で叫んだ正邪の声も、彼女の耳には届いていないようだった。あと少しで地面に着く。針妙丸に聞こえないはずはないのだが、それでも彼女は聞こえていないようだった。

 針妙丸が大きく小槌を振り上げるのが見えた。止めろ、と声が零れる。足に草の感触がした。目の前に針妙丸がいる。だが、それでも彼女に気がついた様子がない。そこで初めて私は、彼女の目が小槌に集中していることに気がついた。止めてくれ、と叫びながら彼女に近づこうとするも、溢れ出る魔力のせいか、足が動かない。

 針妙丸の握った小槌が無慈悲にも振り下ろされていく。正邪の、声にもならないような呻き声が耳を突いた。それをかき消すように、シャリンと音がする。私は何もできず、ただ、小槌から漏れ始めた光を見ていた。

「友達ができますように!」

 威勢のいい彼女の願いは、小槌から溢れる光と共に世界を覆っていった。

 

 光が収まったにも関わらず、私は立ちあがることができなかった。遅かった。間に合わなかった。まんまと喜知田の罠に引っかかった。なんて私は愚かなんだ、と自分の頭を強く殴りつける。

 ふと、晴れているにもかかわらず、影に包まれていることに気がついて、空を見上げた。青々とした澄んだ寒空が視界を覆うはずだったが、違った。ゆっくりとであるが、何かが空中に出現していく。まるで、薄っすらと霧の奥から現れるように、その姿は段々と鮮明になっていった。元々そこにあったかのように、自然な様子で佇んでいるそれに、私は心当たりがあった。小槌の代償の代名詞。美しく、そして禍々しい絶望の城。上下が逆さまになっている空上の城は、確かに針妙丸の願いを叶えたことを表していた。輝針城が現れてしまったのだ。

 もはや、乾いた笑いを出すことしかできなかった。

「あ、けいね先生!」

 そんな私の絶望など、つゆほど知らない針妙丸は、やっと私に気がついたのか、とてとてと駆け寄ってきた。あまりにも気がつくのが遅すぎた。

「みてみて! わたし、ついにけいね先生と同じくらい大きくなったよ」

 いつの間にか地面に座り込んでいた私の頭を、嬉しそうに針妙丸は撫でた。その顔は、幸せに満ち満ちている。

「ああ、よかったな」

 私は、そんなことしか返すことができない。彼女には、いつか小槌の代償についての話をしなければならないのだろうか。そう思うと、心が痛んだ。この世には知らなくていいことがたくさんある。喜知田の言葉が言い訳がましく心を蝕んだ。

「なあ、針妙丸。その小槌はどうしたんだ?」

「これ? 凄いでしょ」

 目をキラキラと輝かせ、胸を張った彼女は、おじさんから貰ったの、と嬉しそうに小槌を叩いた。

「無表情で、怖そうな人だったけど、こんな凄い物をくれるなんて、いい人だったんだね」

「どうやってこんな所に来たんだ?」

「そのおじさんと話してたら、気づいたら眠くなって、いつの間にかここにいたの」

 なんでだろうね、と笑う彼女は、大きくなれたことがよっぽど嬉しいのか、しきりに自分の身体を弄っている。

 その、おじさんは喜知田の護衛で間違いないだろう。ということは、私が射命丸と共に彼と会った時には、既に彼の手に小槌がなかったということか。完全に虚を突かれた。時間稼ぎに引っかかってしまった。針妙丸の家の前で、彼が護衛もつれず立っているのは、よく考えればあまりにも不自然だった。今更気づいた自分に腹が立つ。

「おいチビ」

 後ろから、苦しそうな正邪の声が聞こえた。振り返ると、草原で横になった正邪が、真っ白な顔で輝針城を見上げていた。

「おまえ、なにしてやがる」

「もうチビじゃないもん!」

 私の脇を抜けて、正邪へと駆け寄っていった針妙丸は、ほら、大きくなったでしょ、と体をくるくると回転させた。草の上に座り込んでいる正邪は、渋い顔で、馬鹿じゃねぇのと笑っている。

「それになんだ。友達が欲しいだなんて、しょうもないことを願いやがって」

「しょうもなくない! だって、正邪ぐらいしか友達がいないんだもん」

「なら、一人もいないな。私はお前の友達じゃない」

 ええー、と大声で叫んだ神妙丸は、ほっぺたを膨らませた。体が大きくなったとしても、彼女は何も変わっていない。それが唯一の救いのように思えた。

「というか、なんでお前大きくなってんだよ。それも願ったのか?」

「ううん。なんか小槌を持ったら大きくなった」

「それはまずいな」薄っすらと涙を浮かべている正邪は、ひねり出すように口を動かした。

「大変な事になるぞ」

「たいへんなこと?」針妙丸は小さく首を傾げた。

「どうなるの?」

「生態系が崩れてしまいます」

「何てことを言うんだ、あなたは」発作的に、私は口を挟んでしまった。その私の答えに満足そうに頷いた正邪は、ゆっくりと肩を下ろしたかと思うと、うめき声を漏らした。

 そこで、正邪の様子がおかしいことに気がついた。顔こそ針妙丸の方を向いているものの、その虚ろな目は何も映していない。きゅっと、胃が締め付けられるような感覚に陥る。

「針妙丸、お前は安全なところに身を隠しておいてくれ」

 正邪の頭を撫でている針妙丸の肩に手を置き、笑顔を作る。

「急にどうしたの?」

「ちょっと、急用ができてな」

 少し悲しげに眉をハの字にした針妙丸だったが、うん、と力強く頷いた。ちらりちちらりとこちらを名残惜しそうに見ているものの、それでも私たちに背を向け、また後で、と手を振っている。いい子だ。こんな、暗くて鬱屈とした悲劇には、絶対に巻き込んではならない、とひとり胸に決意をする。

 針妙丸が離れていったのを確認して、というより、輝針城へと向かっていったのを見た私は、正邪に向かい合った。頬をあげ、馬鹿にするように笑っているが、身体はガクガクと震えている。

「おい、正邪。大丈夫か」

「大丈夫か、と訊かれて大丈夫じゃないって答える奴がいると思うか?」

「正邪なら言いそうだ」

 今度聞かれたらそう返すよ、と力なく笑い、ばたりとその場に寝転んだ。息も荒く、辛そうだ。

「お、おい。どうしたんだ」

「さっき、言ったじゃねえか」

 笑おうとしているのか、不格好に顔を歪めた正邪は、吐息で喉をかすり、妙な音を立てた。

「はらわたが煮えくり返りそうだって」

「お前」

 慌てて正邪の腹に目をやる。いつの間にかケチャップの染みは大きくなっていた。彼女の服が、たぷたぷと液体を吸って、膨らんでいる。その服の、腹辺りに出来た切れ目から、薄黒いぬめりとした光が見えた。私は思わず尻もちをつき、悲鳴をあげてしまう。込み上げてくるものを堪えることができず、嘔吐く。酸っぱいものが口を覆った。

「おいおい慧音、大丈夫か?」

「大丈夫じゃない」

 口元を拭った私は、おずおずと正邪に声をかけた。

「お前、ケチャップが盾代わりになったって」

「馬鹿じゃねぇの。無理に決まってるだろ。あんな薄っぺらいもん、貫通するに決まってるじゃねぇか」

「じゃあなんで」そんな嘘をを吐いたのか。そう言おうと思ったが、止めた。この捻くれた弱小妖怪の、残酷なまでに優しい天邪鬼の考えが分かってしまったのだ。

「少年のためか」

 私の声は震え、湿り気が混じっていた。

「あの少年がお前を刺したことでショックを受けないように!」

「そんな訳ないだろ」

 こひゅ、と血と共に息をを吐いた彼女は、焦点の合わない目でこちらを見た。その口は僅かに笑っている。

「あんなガキに負けたなんて、認めたくなかったんだよ」

 そう軽口をたたきつつも、このままでは長くはもたないのは明らかだった。鋭く裂かれた彼女の服の隙間から、薄黒い内臓が露わになっている。どうする、どうすると頭の中で必死に考える。と、そこで彼女の首にかかっていた一枚の布切れがふわりと宙に浮かんだ。私が預けた、市松模様の手ぬぐいだ。それが吸い寄せられるように彼女の腹に滑っていき、傷口を覆うように被さった。

「つ、付喪神か」

「なんだって?」

「なんでこの布が付喪神に? 小槌の影響なのか」

 どうして”友達ができますように“という願いで付喪神が宿ったかは分からないが、彼女の布に付喪神が宿っているのは確かのようだった。

 もしかすると、針妙丸の友達である正邪を助けるということも小槌の内容に含まれているのではないか、と邪推してしまう。そんな訳ないか。

 菌が入ってしまってはまずいと思い、彼女の首に再び布を括りつけた。同時に、頭に手を当てる。べたりと汗がついたが、その割には体が冷たすぎる。そこで、ふと、妹紅のことを思い出した。正邪の白い肌が彼女を想起したのかもしれない。妹紅は、傷だらけの正邪を見つけてどうしたのだったか。

「パチュリー」

「え」

「紅魔館の魔女のとこへ行くぞ」

 ああ、鶏ガラのことか、とよく分からないことを呟いた正邪を腕に抱きかかえ、私は遠くに見える真っ赤な館へと目を向けた。

 

「またですか」

 正邪が目を閉じ、死んでしまうんじゃないか、と恐怖しながら紅魔館にたどり着くと、門の前に立っている美鈴は、大きなため息と共に私たちを向かい入れた。普段の気さくな彼女とは違い、なぜか今日は気が立っているようだ。

「また、って。正邪はいつもこんな死にそうになっているのか?」

「なってねえよ」

「なってますね」

 正邪の言葉を遮るように、美鈴が口を挟んだ。その言葉には覇気がなく、疲れ切っている。

「彼女は何回かここに来ているんですよ。というか、慧音さんがお使いを頼んだんでしょう?」

「ああ、まあ、そうだが」

「なんでお使いをするだけで彼女はあんな怪我を負うんですか」

 私は答えることができなかった。もごもごと口を動かして、何と答えようかと逡巡していると、後ろから「まあ、いいじゃないの、美鈴」と淡々とした声が聞こえた。

「そんなことより、今は彼女の治療が先でしょ」

 相変わらず辛気臭せぇな、と無表情で言った正邪を私から受け取った彼女は、その紫の髪をたなびかせながら、あなたも大変ね、と微笑んだ。

「久しぶりだな、たまには人里に来てくれよ、パチュリー」

「気が向いたらね」

 そう短く言った彼女は、正邪を見て、大きくため息を吐いた。そして、美鈴の方を一瞥すると、疲れ切った彼女を見て驚いたのか、辛そうね、と目を丸くしている。

「パチュリーさまぁ、私もう疲れました。お嬢様の命令多すぎませんか?」

「頑張って、としかいいようがないわね。門番になった自分を恨みなさい」

「いい転職先知りませんか? 図書館の司書とか」

「知らないわ」

 そう言い残した彼女は、門に背を向け、紅魔館へと入っていった。私も彼女に続き、中に入ろうとするも、美鈴に止められる。どうやら、私はお呼びじゃないらしい。

「いま、パチュリー様の仕草みました?」

「え、いや。見てないが」

「右手でこぶしを握ってましたよ。正邪さんの相手が楽だからって、ずるくないですか?」

「はあ」

「ほんと、忙しくて目が回ります」

 アハハと笑った彼女は、本当にお嬢様にも困ったものです、と愚痴を零し始めた。よっぽど疲れているのか、門にもたれかかるようにした彼女は、仕切りにあくびを連発し、「妖怪の山の会議から帰ってきてからも酷かったんですが、最近は特に酷くて」と喚いている。

「本の並びを変えたり、図書館の壁に札束をかけたり、大変なんです」

「図書館の仕事はパチュリーがやるんじゃないのか?」

「私も手伝ってるんですよ」

 眉を下げ、やつれた頬を掻いている彼女は不憫だったが、今はそれよりも気になることがあった。

「正邪さんのことが心配ですか?」

「え、どうして」

「顔を見れば分かりますよ」

 心配性ですね、と暖かい目で見てきた彼女は、大丈夫ですよ、と当然のように言った。

「パチュリー様の魔法は凄いですから。なんなら、下半身が吹き飛んだとしても、きっと大丈夫ですよ」

「それ、普通なら即死だからな」

 また、アハハと笑った彼女は、「もしかして、あの城と関係したりするんですか?」と首を傾けた。

 どう答えようかと逡巡していると、彼女は小さく頭を掻き、感慨深そうにその城を指差した。その目には、恐れと尊敬が浮かんでいる。

「あれ、お嬢様がついさっき出現を預言したんですよ」

「え」

「なんか、そういう運命らしいですよ」

 その言葉をどう受け止めればいいか、私には分からなかった。だが、レミリアに対し、怒りが浮かんだのは確かだ。どうして事前に教えてくれなかったのか。もしかしたら、止められたかもしれないのに、といった理不尽な怒りだ。実際に教えてもらったとしても、できることなんてないというのに。

 そんな複雑な私の感情を読み取ったのか分からないが、美鈴は「二度あることは三度あるというけれど」と突拍子もなく言った。

「急にどうしたんだ」

「いえ、パチュリー様の声が聞こえてきましてね」

 私、耳がいいんですよ、と胸を張った彼女は、自慢げに耳を叩いた。

「この館の声なら、大体聞こえますよ」

「凄いな」

「“仕方ないだろ。二度あることは三度あるなら、三度あることが四度あっても”ですって。正邪さんの言葉です。結構余裕そうですね」

 彼女の言葉に、私は胸を撫で下ろした。とりあえず正邪が無事だと分かっただけで、肩の荷が下りたような気がしたのだ。だが、「え」と美鈴が素っ頓狂な声を上げるのを聞いて、私の不安はまた大きくなった。

「お嬢様のケチャップを持っていったのって、正邪さんだったんですか」

「はい?」

「いや、許せませんね。八つ当たりで仕事を増やされたんですよ。酷くないですか?」

 きっと、野菜を人里に持って行って、すぐに妹紅さんに担がれて帰ってきた時ですね、と憤慨し、もう昔のようにも思えます、と目を細くした。

「パチュリー様が、正邪さんの歯を抜きたくなる気持ちも分かりますよ」

「そんな物騒なことを言っているのか、パチュリーは」

「ええ、正邪さん相手だと、結構饒舌になるんです」

「そうなのか?」

「はい。“歯の一本や二本は魔法で何とかなるわよ”なんて軽口も言っちゃってますよ」

「普段はそうでもないのか?」

「少なくとも、私は言われたことありません」

 妬けちゃいますよね、と朗らかに笑った彼女は、私に向かい片目を閉じた。

「驚きました?」

 美鈴の言葉に頷いた私は息を思いっきり吸い、美鈴に向かい大きく口を開く。心の中のもやもやをかき消すようにと、全力で叫んだ。

「驚天動地!」

 なんですかそれ、と笑う美鈴の声が、宙に浮かぶ輝針城にまで届いた気がした。



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魔女

【注意】こちらは第三章の整頓版でございます。文章自体は全く同じですが、順番を一部入れ替えております。第三章と合わせて読んでいただけると幸いです。また、読み飛ばしていただいてもストーリー上問題ありません。


――魔女――

 

「二度あることは三度あるというけれど」

 目の前に座る、もはや紅魔館の常連となりつつある妖怪に向かい、私はわざとらしくため息を吐いた。

「だからといって、何も何度も怪我しなくてもいいじゃない」

 開いた本を閉じ、彼女をちらりと横目に見る。どこでどうしたらそんな怪我を負うのだろうか。あまりの多種多様な怪我に、むしろ称賛を送りたくなる。たくさんの怪我をしたで賞を勝手に心の中で授与した。

「仕方ないだろ。二度あることは三度あるなら、三度あることが四度あっても」

「死ぬわよ、あなた」

「私は死なねぇよ」

 貧乏ゆすりをしながら、正邪は刺々しく言った。その、鋭い目で図書館を見渡し、落ち着きなく額をさわっている。顔は青白く、一向に私と目を合わそうとしない。そのいじらしく微笑ましい仕草のせいか、まるで人間のように見えるが、怪我のせいか心的外傷のせいか、死人のように生気がない。気合で軽口をたたいているようにも見えた。それでも、うわ言のように、「私がやるしかない」と唱えていた時よりは、ましだ。

 今日の紅魔館はいつにも増して騒がしかった。レミィが妖怪の山の会議から帰ってきてからというもの、様々な細かい指示が私たちに出されていたが、その密度が今日になって急に増した。やれ壁のこの位置に札束をぶら下げておけだの、本の並びを少し変えておけだの、正直言って面倒くさいことばかりだったけれど、珍しく真面目な親友の頼みを断ることはできなかった。そのせいで、正邪が来た時には館の誰もが疲れ切っていた。あの美鈴ですら「いい転職先知りませんか? 図書館の司書とか」と不満をこぼすほどだ。だから、正邪が傷だらけで門の前に来た時、私は喜びのあまり拳を握った。「しばらく正邪の面倒を見てくれ」レミィの最後の命令を思い出す。無駄に広いこの館をいったりきたりするよりは、口の悪いこの弱小妖怪と話す方がまだマシだ。

「いいから、早く治してくれ」

「私は医者じゃないんだけれど」

「お前みたいな不健康な顔つきの医者がいてたまるか」

 あなたは本当に治してもらう気があるのか、と言い返そうとしたが、止めた。彼女が怪我をしてここに来るのは初めてのことではなかったし、暴言を吐き続けるのも初めてではなかった。そして何より、そんな失礼極まりない彼女に呆れながらも、回復魔法をかけてしまうのも初めてではないのだ。私はいつからこんなに優しい魔女になったのかしら、と自嘲気味に呟いてしまう。いったい、誰から影響を受けたのやら。

 手早く詠唱をすまし、魔法を発動する。最近ではこの魔法を使いすぎて、魔導書が勝手にこの魔法のページを開くようになった。そのことを部下に笑いながら話したら「そんなんだから、いつまでたっても本の虫どまりなんですよ。いつかは蛹になって、蝶にならないと」と馬鹿にしているのか励ましているのか、よく分からないことを言われた。それもこれも、全て正邪のせいだ。

「おい、まだか」

「え?」

「正直に言えば、もう結構きついんだ。早くしてくれ」

 青白い顔で、正邪はカタカタと震えていた。魔法をかけたのにも関わらず、相変わらず腹からは内臓が覗いている。どういうことか、と首を捻ったが理由はすぐにわかった。単純に、彼女の傷が私の魔法の治癒力で足りないほどに重症なのだ。分かりやすく言えば、死にかけている。焦りを感じつつも、私は呆れていた。どうして一月の間に2回も致命傷を負うのか。しかも、いずれも人里で、だ。

 魔導書をひっくり返し、急いで目当ての項を開く。手早くも慎重に術式を唱えると、先に束ねた毛がついた細い杖が飛び出した。それをつかみ、レミィを念話で呼び出す。

 そうこうしてるうちにも、正邪の容態は悪くなっていった。はやる気持ちを抑え、レミィの登場をまだかまだかと待ち続ける。図書館の、無駄に大きい扉を見つめていると、バタンと大きな音がし、小さな吸血鬼が飛び込んできた。間髪入れずに手に持った杖を正邪に持たせ、レミィに向けて振るように伝える。その時の掛け声も忘れないように、と念を押した。

「痛いの痛いの飛んでいけ」

 正邪とレミィが同時に珍妙な掛け声を叫ぶと杖の端から光が溢れだした。かと思えば、一瞬にしてレミィの体に傷が刻まれた。あちらこちらから血を吹き出し、骨が折れる音が聞こえる。だが、それでも親友は一切動じることなく、ただそこに立っていた。

「私だって痛みは感じるのだぞ」

「そんなことは知っているわ」

 はぁと息を吐いたレミィは、ちらりと正邪を見た。そして、あっと声を漏らし、私の元へと歩いてくる。腕を組みコツコツと歩いている姿は、幼さと共に気品が感じられた。

「パチェ、ケチャップ知らないか?」

「ケチャップ?」

「ああ。一週間くらい前におやつ用に買ったんだが、無くなっていた」

「ケチャップをおやつにするなんて、まるで吸血鬼みたいね」

「私は吸血鬼だ」

 諦めたのか、それともケチャップなんかのために時間を使うのが惜しくなったのか、何も言わずに去っていった。 そんなレミィの背中から目を離し、床に座り込んだままの正邪に目を落とす。顔は青白いままだったが、傷は無くなっていた。剥き出しだった内臓もきちんと皮膚の下へと戻っている。

「魔法ってのは何でもありなんだな」淡々と正邪は言った。

「何でもじゃないわよ。さっきの魔法だって、傷を治したんじゃなくて、レミィに移しただけなんだから。この魔法はどんな怪我も呪いも治せる。正確には治ったようにみせる事ができるけれど、実際はただ移動させているだけなのよ。強い力には代償がつきものなの。レミィに感謝しなさい」

「それにしても、痛いの痛いの飛んでいけとは滑稽な掛け声だな」

「うるさいわね。文句はレミィに言いなさい」

 そこで会話は終わるだろうと思っていたが、彼女は予想の他興味を持ったのか「その魔法は変な杖が必要なのか?」と訊いてきた。誰であっても魔法に関心を持ってくれるのは大歓迎だ。自然と頬が緩んでいるのが自分にもわかった。

「杖が必要というか、この杖に魔法を仕込んであるのよ。特定の言葉を言えば魔法が発動するように」

「魔法の杖ってわけか」

「レミィ曰く“痛いの痛いの飛んでい毛”らしいわよ。だからわざわざ馬の毛を杖の先に」

「馬鹿じゃねえの」まだ痛みが引かないのか、床に座り込んだまま正邪は抑揚なく言った。

 時計に目をやる。15時ぴったり。吸血鬼のくせに昼型の生活に挑戦しているレミィが、眠い眠いと文句を言いはじめる時間帯だ。かくいう私も、朝から忙しかったからか眠気が押し寄せてくる。

「そういえば、ケチャップが無くなったとか言ってたが」

 椅子に深く座り直した正邪は、切れ目が入った服に手を入れ、ごそごそと弄っていた。

「私が前貰っていってたんだ」

「何してんのよ」

「まあ、穴が空いて全部ぶちまけたんだけどな」

「本当に何してるのよ」

 ふん、と不敵に笑った彼女は、怪我の具合を確かめているのか、ペタペタと自分の身体を触り、思いついたかのように席を立った。私に背を向け、本棚の方へ歩いていく。奇しくもそこは、今朝レミィに整頓をさせられた本棚だった。これも、運命によって決まっていたのだろうか。その本棚に積まれているのは日本の童話だった。幻想郷に引っ越す際に、民間伝承を調べる資料にしたものだ。一度目を通してからしばらく放置してあったが、今日久し振りに整頓をした。その内の一冊を、正邪は乱暴に抜き取った。もっと丁寧に扱ってほしいものだ。

「なあ、この本貰っていってもいいか」

「良いわけないじゃない」

「なんでだよ。こんなにあるんだから一冊くらい無くても平気だろ」

 断ったにもかかわらず、彼女はすでに本を懐に入れようとしていた。

「その理屈でいえば、あなたの歯から一本抜いてもいいってことね」

「良いわけないだろ。本はまた買えばいいが、歯はもとに戻らない。価値がちげぇよ」

「あら。歯の一本や二本は魔法で何とかなるわよ」

 おお怖い怖い、と馬鹿にするように鼻を鳴らした正邪は、不貞腐れたのか、舌打ちをして、何も言わずに席に戻った。その手にはきちんと本が握られている。ちゃっかりしているというか、意地汚いというか。

 広い机に私と向かい合うように座った彼女は、表紙をめくり、真剣な顔つきで見つめている。とても、童話を読んでいるようには見えない。そもそも、天邪鬼が真剣に本を読んでいる姿は、それだけで新鮮だった。

 ぺらりと、紙が互いにこすれる音だけがその場を支配する。乾いたインクと、埃の匂いが鼻につく。嗅ぎなれた本のいい匂いだ。目の前に広がる文字列、そして香りは、私を優しく包み込み、溢れる知識の毛布にそっと添えてくれる。頭に新たな情報が加わる度、得も言われぬ快楽が押し寄せてきて、思考はその都度加速した。その加速した私の脳が、ふと、一つの疑問を紡ぎ出した。手に持っている魔導書の様子が、いつもとは違うのだ。魔導書、といっても本には違いないのだから、様子も何もあるはずないのだけれど、明らかな違和感があった。ページを捲ろうとすると、不自然に紙が手に吸い付き、きれいに目当ての場所まで移動する。逆に、一つのページを熟読しようとすると、本の折目が伸ばされ、分厚い本の最初のページにも関わらず、手で押さえることなく読むことができた。最初は、この本にかけられた魔法のせいだと思ったが、それにしては本に魔力が籠っていない。そもそも、術式すら存在しなかった。

 疑問が確信に至ったのは、正邪が読んでいる本の様子だった。彼女が読んでいるのはただの童話で、魔導書ではない。当然魔法は一切かかっていないはずだ。けれど、その本はまるで生きているかのように蠢いていた。正邪の手から逃げるように右に逃げ、上に飛び、捲られているページを強引に閉じようとしている。普通の本がしていい動きではなかった。

 しかし、それよりも妙だったのは、そんな本の態度を意に介さず、無理矢理押さえ付けている正邪の方だ。暴れ狂う本に眉一つ上げず、体重をかけて熟読している姿は異様としかいえない。まさか、彼女は普段から凶暴な本を読んでいるわけではないはず。だとすれば、彼女はこの違和感の原因を知っているに違いない。そう思うと、肝が冷えた。正邪に馬鹿にされることを恐れたわけでも、身の危険を感じたわけでも無い。もし、正邪がこの本にこびり付いている力に心当たりがあるなら、発生源に関与しているなら、面倒なことになる。

「なあ、少しばかり鶏ガラに聞きたいことがあるんだが」

 私が彼女の手に持つ本を注視していたからか、正邪の方から私に切り出してきた。

「もしも。もし、異変を起こしたとしたら、その妖怪はどうなるんだ」

「急にどうしたの?」

「いいから、答えろ」

 本から目を離さずに、彼女は言った。その声にはどこか危機感が溢れている。私は今まで異変を起こした連中の現在を思い起こしていた。

「まあ、一度巫女に締められれば、あとは結構自由よ。よっぽどのことをしでかさなければ、逆に巫女と知り合いになれて、色々得することも多いわ」

「よっぽどのことって、どんなことだ」

「そんなの知らないわよ。幻想郷を壊そうとするとかじゃないの?」

 博麗神社を地震で壊した天人崩れの生意気な声が頭に響いた。確かあの時、八雲紫はかなり怒っていたはずだ。それでも彼女が殺されたり、封印されていないことを考えると、それくらい大それたことをしない限りは大丈夫だろう。まあ、それでも巫女に怒られるのは生半可な恐怖ではないけれど。

「幻想郷を壊す、ねえ」どこか意味深に声を漏らした正邪の顔は、心なしか青白い。窓がないのに、外の様子を気にしているのか、しきりに西を見つめていた。

「安心しなさい。あなたみたいな小物に異変なんて起こせないわよ」

「小さい奴ほど、何をしでかすか分かんねぇんだよ」

 苦々しく口を歪めて、もしも、と小さく呟いた。言いづらいのか口をまごつかせている。いい知らせでないのは分かった。自然と、手に力が入る。

「もしも、逆さまの城を幻想郷に生み出したとしたら、願いの対価に発生させてしまったとしたら、これは異変になるのか?」

「え?」

「だから、逆さまの城だよ。あるだろ、外に」

 開いていた本がぱたりと閉じた。声にならないような、小さな悲鳴が図書館に木霊する。私の声だ。聞き間違いじゃないかと、何度も正邪の言葉を頭でなぞるも、結果は変わらなかった。妖怪の山と人里の間に浮かぶ、逆転した城。つい先ほど、レミィが発生を予言し、そしてその十分後に誕生した悪意の城。その禍々しい姿は、既に脳裏に染みついていた。暗い顔をしたレミィの顔と、残酷な言葉がガンガンと胸を叩く。

「何だよ。なに黙ってんだよ」不安を隠そうともしない正邪の声が、どこか遠くに聞こえた。その反応で、あの城とこの弱小妖怪との関係性は既に明らかになっているようなものだ。

「死ぬわよ、あなた」

 口から出たのは、心底辛そうに笑うレミィの運命の言葉だった。

 

 

 私は既に百年という時を生きてきた。その人生の大概を魔法の研究に費やし、そして時間以外に、地位も名誉も金も、そして倫理すら捨てて、ただひたすら魔法を極めようと、それだけを求め続けてきた。幸か不幸か今では愉快で鬱陶しい仲間に囲まれ、それなりに魔法以外のことにも手を出してはいるが、それでも魔法研究が一番の楽しみであることは変わらない。

 そんな楽しい魔法研究だが、主として魔導書を読み知識を蓄えるのが一般的だ。必要な知識を得て、改良し、蓄積する。それを血液の循環のように何度も繰り返していくうちに、高度な魔法理論が形成されていく。それが魔法研究の基礎であり、全てだ。しかし、それはあくまで机上の空論に過ぎない。私のような高等な魔女は、ただ知識を得るだけではなく、実践もしなければならない。ただ、実践とひとえに言っても、種類は様々で、単純に理論通りに魔力を練り上げればいいものから、様々な道具、生物、環境を整える必要がある大掛かりなものまで、千差万別だ。後者においては、必要な生物、あるいは道具の内に人間が含まれることも少なくない。とはいっても、生きている人間を使うことは稀で、ほとんどの場合は既に息絶えた死体を使っていた。だからだろうか。私にとって人間の死体など驚くに値しないものであるし、見慣れたものであった。もし、その死体は立派な木に毎年なるものなんだ、と言われても、へえそうなの、としか思えないくらいにありふれたものだった。それは、いつも手元にあり、集めるまでもなく数をそろえられたからだ。一切の血が通っておらず、青白く、そして不気味に固まっている死体の顔は、嫌というほど見てきたし、見慣れたはずだった。ぱっと見ただけで、死後どのくらい経っているか判断できるほどだ。

 だから、今私に向かい怒り勇んでいる正邪の真っ青な顔を見て、その顔を本能的に死人と判断してしまい、驚いた。それほどまでに彼女の顔に血の気がなく、青ざめている。

「おいおい、冗談にしては面白くないぜ」

 冗談だと言ってくれよ、と縋るように彼女は叫んだ。言葉の端を震わせて、机を強く叩く。

「たかが変な城が出てきただけじゃないか。それで何で死ななきゃならない」

 さっきまで、どこか他人事で、心ここにあらずといった様子だったが、彼女は急に感情を露わにした。思い切り手を打ち付けた机が悲鳴をあげ、文字通り飛び跳ねる。こんな所にも影響が出ているのか、と少しは驚いてほしい。

「何とか言ったらどうだ!」

「そういう運命だからよ」

 面倒くさくなった私は、適当に彼女を突き放した。が、絶望に打ちひしがれ、何をするか分からない彼女を放っておくわけにもいかず、しぶしぶ説明をすることにした。意外に面倒なことになったわね、と愚痴を零すことも忘れない。

「輝針城を出したのは別にどうでもいいわ。ただ、そこから溢れている力が問題なのよ」

「きしんじょう? ちから? あの城に力なんかあるのか」

「違うわよ。あの城が何なのか、もしかして知らないの?」

「それを調べるためにこの本を貰ったんじゃないか」

 正邪は床に落ちた本を拾い上げ、表紙をぱんぱんと強く叩いた。本をあげた覚えは無いし、そんなに強く叩いてほしくないが、今はそれどころじゃない。正邪が持っている本をまじまじと見る。薄く、そして小さな子供用の絵本だ。表紙にはでかでかと一寸法師と書かれている。

「そんなちんけな本で一体何が分かるというのよ」

「おい、私の本にケチをつけるのか」

「私の本よ」

 ため息を隠すことができなかった。彼女は事の重大さを理解していないのか。それとも理解していて、そんな頓珍漢な行動をとっているのか、分からない。

「そもそも、あなたはあの城とどういう関係なの? もし当事者なら、そんな冗談を言ってないで真面目に対策しないと、目も当てられないことになるわよ」

「冗談? 私は冗談なんて言った覚えはない」

「本気でその絵本を参考にしようとしたの?」

「そうだ」

 呆れて声を出すこともできない。幻想郷を混乱に落としうる城を作り出しておいて、絵本でどうにかしようなど、愚かにもほどがある。いくら弱小妖怪といえど、そこまでとは思いもよらなかった。

「馬鹿ね。そんな本でどうにかなるなら焦る必要なんて無いわ。もう少し頭を使いなさいよ。もっと専門的な古文書なら右に積んであるわよ」

 丁寧にその本を何冊か取り出し、彼女の前へもっていってあげた。が、当の本人は腕を組み、ソファに身体を沈めている。私に向かいわざとらしく鼻で笑い、手をひらひらと振った。

「馬鹿だな。これだからお前らみたいな視野狭窄に陥っている強者は。もう少し頭を使えよ。私は弱小妖怪だぞ。お前らみたいに長生きでも無ければ、際立った知恵もある訳じゃない。人望なんてもってのほかだ。そんな私が古文書なんて読める訳ないだろ。私にはな、こんなちんけな絵本しか頼れるものがねぇんだよ。今まで、そんな綱渡りみたいな人生を送ってきたんだ。立派な図書館に引きこもって、溢れ出る才能で無双して、ただただ知識欲を満たしているようなお前には分からんだろうがな、私たち弱小妖怪はすべてを犠牲にしてでも生きるのに必死なんだよ。私たちにはな、資格が無いんだ。何の資格か分かるか?」

「さあ、古文書を読む資格かしら」

 自嘲気味に笑みを浮かべ、次々に言葉を発する正邪に、私は面食らっていた。忘れかけていたが、彼女が天邪鬼だという事を再認識する。天邪鬼は面倒くさいが、怒らせるとさらに面倒くさくなる。それがよく分かった。

「古文書なんて読む機会のある奴の方が珍しい。もっと根本的だ。幸せになる資格だよ。私たちにはそれがない」

「なんで、そう決めつけるのかしら」

 彼女に反論したのは、何のことは無い。このまま彼女の好きなように話されるのが癪だったからだ。反骨心と言ってもいい。もしかすると、自分が強者であるという立場に胡坐をかいていると、暗に言われたような気がして、腹が立っていたのかもしれない。が、いずれにせよ、ほんの軽い気持ちで私は言った。

「そんなことを決めつけるのは、酷いんじゃない? もしかすると、あなたが知らないだけで、弱小妖怪でも幸せに暮らしている奴がひとりくらい」

「いない」

「でも」

「いないといっているんだ!」

 彼女の声で、図書館がビリビリと震えた。本棚に声が共鳴し、部屋全体が細かく震えている。正邪に目をやった。俯いている彼女は、弱小妖怪であるはずなのに、なぜか威圧感を放っていた。部屋の震えは、彼女の怒りによって起きているのだと、半ば本気で信じそうになるくらいだ。

「いいか、よく聞け。弱小妖怪はな、虐げられる星の元で生まれてきてるんだよ。お前らの好きな言葉でいえば運命だ。そういう運命なんだ。どんなに善行を積んだところで、どんなに自分を犠牲にしたところで、バッドエンドしかないんだよ。お前らが何気なく使いつぶしてる日用品ですらな、私たちは命がけで手に入れてるんだ。お前、土を喰ったことあるか? 腐った猫の死骸を喰った事があるか? 自分の吐しゃ物を喰った事はあるか? ないだろ。そんなことまでしないと私たちは生きていけなかったんだよ。分かるか?」

「分かりたくないわね」

 叫ぶでもなく、呪いを呟くように抑揚なく言葉を紡ぐ彼女は不気味だった。正直に言えば、久しく感じていなかった恐怖という感情を思い出すほどだった。いったい彼女の身に何があったかは分からない。だが、何かによって彼女の心が壊れる寸前だという事は分かった。

「私たちにはな、何も無いんだ。力がないだけじゃない。信じられる友人も、頼れる仲間も、お前らが大好きな家族だって中々手に入らないんだよ。それこそ、願い事で友達が欲しいって願う程な。でもな、そういうものも大抵誰かに奪われるんだよ。そういう奴らは大抵強者なんだ。自覚的にしろ無自覚的にしろ私たちが必死に守ろうとしたものをあっさり奪い、蹂躙し、捨てる。そういう仕組みなんだよ。ああ、そうだ。あいつらは、そうやって捨てられていったんだ。ほんの僅かな幸せを願ったばかりにな、死んだんだよ。分かるか? お前らが当たり前だと思っている家族を守ろうと、弔おうとするばかりに、あいつらは死んでいったんだ。それでなんだ。今度は、今度はあいつすら奪おうというのか。殺そうというのか!」

 目に涙をためながら、力強く唾をとばす彼女を前に、私は何も言葉を発することができなかった。いったい、何が彼女をここまで追いつめたのか、何が琴線に触れたのか、と客観的に考えるように努める。そうしなければ、彼女の感情の波にのまれてしまいそうだった。自分が今、どんな表情をしているか分からない。顔に手を当てる。微かに濡れた頬に、指が滑っていく。まさか、天邪鬼の言葉なんかで、私は泣いてしまったのか。

 目を擦ると、彼女の背中に、三人の人間が立っているように見えた。よく似た二人の女性と、一人の老人だ。彼らが憎々しげに私を睨んでいる。その顔は誰もが青白く、間違いなく死人のそれだった。見慣れているはずなのに、鳥肌が立つ。“こいつに怪我をさせてみろ、ただじゃおかねえからな”聞いたことのないしわがれた声が耳に響く。怨霊かと思ったが、それとも違う。私にしか聞こえない幻聴の類だろうか。もう一度目を擦ると、その人影は消え去っていた。

 強張っていた体の力が抜ける。正邪の鬼気迫る表情が目に映った。弱小妖怪の実情なら知っていたつもりだった。この世は弱肉強食。力ないものは淘汰されるのは当然のことで、そしてそれに対して何の感慨も抱いていないし、事実今もそうだ。私には必要ないが、人間だって豚や牛という弱者を捕食して生きている。だったら、妖怪が人間を、大妖怪が弱小妖怪を糧に生きるのだって普通のことだし、悪いことではない。頭ではそう分かっていた。今、正邪に力を貸すのは、ただの傲慢だ。彼女よりもっと悲惨な目に遭っている弱者など掃いて捨てる程いる。そう分かっていた。が、私の意思とは無関係に口が勝手に動く。

「長生きでも無ければ、際立った知恵もある訳じゃない。人望なんてもってのほか。だから、こんなちんけな絵本しか頼れるものがない。そう言ったわね」

「ああ、言ったよ」語気を強めた正邪は、まだ怒りが沈まっていないようだった。私に対してではなく、私の後ろにある何かに怒っているような、そんな気がした。

「だからどうした」

「私を頼りにしてもいいのよ」

 怒りの形相のまま、彼女は固まった。きっと、私も間抜け面で固まっているだろう。こんな嫌味で、救う価値のないような妖怪にこの私が手を貸すなんて信じられない。冷静に考えれば、今すぐにでも冗談よ、と言うべきなのだろう。けれど、なぜか私の口は思うように動かなかった。まさか、同情したわけじゃないわよね。頭の中でそう問いかける。同情なんてしていない。私がこんな妖怪に手を貸す必要もない。じゃあ、どうして? 魔女は常に論理的であるはずよ。その通りだ。でも、理由ならある。

「今回の異変で、あなたが何をして、どういう立場にいるかは知らない。けれど、紅魔館の動かない大図書館。七曜の魔女として約束するわ。私はあなたに協力する」

「どうして」

 机を手に置いたまま佇んでいる正邪に向かい、手を伸ばす。彼女の顔は相変わらず死人のように白く、生気が宿っていない。怒りを露わにしていたにも関わらず、一切顔に赤みが見られない。

「レミィよ」

「は?」

「“しばらく正邪の面倒を見てくれ”ってレミィに言われたの。親友の頼みは裏切れないでしょ?」

 今思えば、レミィの言ったしばらくという言葉は、私の思ったよりも遥かに長い期間なのかもしれない。とんだ貧乏くじだ。だが、それも悪くない。

「なんで紅魔館の主は私にかまうんだ」

 吐き捨てるように彼女は笑った。どうせ、お前らも裏切るんだろ、と諦観している。本当に何があったのよ、と聞きたかったが、止めた。今の彼女は、きっと答えてくれないと思ったからだ。その代わり、くるりとその場で回り、宙に浮く。暗い顔の彼女を見おろしながら、気取った態度で唇を撫でた。

「そういう運命だからよ」

 

 

「何でも願いが叶う魔法の道具なんて、そんな都合のいい物ある訳ないじゃない」

「別にあってもいいだろ」

 天邪鬼としての本領を発揮していた正邪をなんとか宥め、打ち出の小槌の話を聞いた後、私は驚きのあまり声を荒げてしまった。まさか彼女の口からそんなメルヘンな考えを聞くことになるとは思わなかったのだ。おそらく、正邪自身も薄々世の中はそんなに甘くないということは分かっていたのだろう。が、それを認めたくないのか、私の言葉を中々受け入れようとしなかった。

 空に浮かぶ輝針城。正邪はその城と深くかかわっている。この事実だけですでに気が重くなった。しかも、レミィの嫌な運命の予言付きだ。

「あなた、一寸法師の童話は知ってるわよね」

「当然だろ。小人が鬼を殺して打ち出の小槌を使って幸せになる。ハッピーエンドだ」

「馬鹿ね」

 気のせいか、頭が少し痛くなってくる。すぐに回復魔法をかけるが、一向に痛みは変わらない。必要なのは精神安定剤のようだ。

「その後には少し話が続くのよ。一寸法師の末裔が小槌で自分の欲を叶え始め、最後に“豪華な城を建てて民を支配したい”と小槌に願って輝針城を造り上げたところで、小槌の魔力は尽きてしまうの。その途端、出現した輝針城は逆転し、民のいない鬼の世界へ小人族もろとも幽閉されてしまうっていう救いのない話がね」

 そんなことも知らないの、と危うく馬鹿にしそうになったが、なんとか飲み込んだ。思ったよりも深刻そうな彼女の顔を見ると、軽口をたたくことすらできない。

「だから、巫女に退治されるくらいならいいのよ。別に死ぬわけでもないしね。問題は小槌の代償。一種の呪いと言っても良いわ。小槌の魔力が切れた時、幽閉されてしまうのね。“民のいない鬼の世界”って場所がどんな場所か分からないけど、まあそう易々と返ってこれる場所じゃないでしょう」

「その代償ってのは」

 聞いていて不安になるくらいか細く、震える声で正邪は言った。顔はレミィのように青白く、信じられないくらいに表情がない。適温に保っている図書館にも関わらず、額に汗のつぶが浮かんでいる。

「代償ってのは、誰が負うことになるんだ」

「そんなの簡単よ」彼女にもまだ希望があるのだという事を強調するように、力強く口を開く。

「打ち出の小槌を振った小人よ。当然でしょ」

「嘘だろ」

 勢いよく立ち上がった正邪は机に飛び乗り、私に向かい手を伸ばしてくる。が、それを嫌がった机が自発的に倒れ、正邪もそれに巻き込まれた。痛てぇと頭をさすった正邪だったが、その目には怒りが浮かんでいる。

「何であなたに嘘をつかなきゃいけないのよ」

「敵を騙すにはまず味方からっていうじゃねえか」

「意味、違うわよ」

 憤る正邪をなだめようと、コップを取り出し、紅茶をいれた。心なしか、コップが楽しそうに跳ねているようにも見える。

「そんなにその小人が大事なら、危ない橋なんて渡らなきゃいいのに」

「……小人はどうでもいい。事情があるんだよ。私にはやらなきゃならないことがある」

「何? どうせ下らないことなんでしょう?」

「まあ、そうだな」

 眉間にしわを寄せ、顔を険しくした彼女は自分の拳を強く握った。私がやるしかない。多少の犠牲は仕方がない、と呪いのように呟いている。俯きがちな彼女の瞳には、もはや何も映っていなかった。

「こんな糞みたいな世界、ひっくり返っちまえばいいんだよ」小さな声で、吐き捨てるように彼女は呟いた。

「少しくらい、弱者が救われてもいいじゃねぇか」

 血を吐くように、苦しげな表情で言葉を紡いだ彼女は、一度大きく息を吐くと、まだその時じゃないと自分に言い聞かせるように嘆いていた。その時っていうのは大抵訪れないということを、私は知っていたが、口には出さない。代わりに、疑問を投げかけた。

「そういえば、不思議に思っていたことが二つあったんだけど」

「なんだよ」

「どんな願いで小槌を振ったの?」

 如何なる願いも叶える魔法の小槌。それがどんな願いを叶え、そして輝針城を顕現させたかに興味があった。

「友達ができますように、とかだったら、どうする」

「冗談でしょ」

 自嘲気味に、一度大きく鼻を鳴らした彼女は「これだから鶏ガラは」とだけ呟いて返事をしなくなった。

「そんな馬鹿げた願いだったら、私はあなたを尊敬するわよ。尊敬のあまり肖像画を額縁で飾ってあげる」

「友達なんて、金で買えるっての」

 軽口を言う彼女からは表情が消えていた。真顔で、半ば反射的に言葉を発している。流石は天邪鬼と言うべきか、それともこれだからと嘲笑するべきか、迷った。

「それで、もう一つの疑問ってなんだよ」

「え、ええ」

 真顔で床を見つめたまま正邪は訊いてきた。

「打ち出の小槌は小人しか扱えないでしょ? 幻想郷に小人がいるなんて、私は知らないんだけれど。どういう関係なの?」

 これが一番の謎だった。現れた逆さまの城と、溢れ出るおぞましい魔力から打ち出の小槌の影響だということはすぐに分かった。が、肝心の小人の存在が見えない。幻想郷の表舞台に立たないように、ひっそりと暮らして来たか、意図的に隠されていたか。いずれにせよ、好奇心が大いに刺激された。

「針妙丸と私の関係か」一瞬だが、ふわりと頬を緩ませた彼女は、何か楽しい夢でも見ているような、儚げな笑顔を浮かべた。

「あいつは、私にとって」

 幸せそうに語ろうとする正邪を遮るように、バタリと大きな音と共に図書館の扉が開かれた。何事かと目を向けると、そこには息を切らした美鈴が立っていた。なぜか全身から血を流し、片足を引き摺っている。

「いやぁ、失敗しました」あはは、と笑う彼女の声にはいつもの覇気がなかった。急いで彼女の元へと駆け寄り、治療をする。最近、誰かの怪我を治してばっかりだな、と思い、つい正邪を睨みつけてしまったが、彼女は気にしていないのか、ただやる気なく美鈴を見つめていた。

「いったい、誰にやられたのよ」

「そんなの、霊夢さんしかいないじゃないですか。暇つぶしでやられたんですよ」

「おいおい」

 たまらず、といった様子で正邪が声を荒らげた。ふらふらとおぼつかない足取りで美鈴に近づいていき、首元に手を置いた。

「巫女はそんなに暴力的なのかよ」

「いやぁ、どうですかね。あ、でも異変の関係者に対しては厳しい態度をとることが多いような気がします」

 黙り込む正邪の顔に、僅かながら焦りの感情が浮かんでいた。なぜ、彼女が焦る必要があるのかと首を捻る。

 美鈴の傷は思ったよりも早く塞がっていった。正邪の時とは大違いだ。彼女自身の治癒力も相まって、目に見え彼女に活気が溢れていく。数分経てば、彼女はいつもの調子を取り戻し、元気にアハハと笑い始めた。

「それで? どうして正邪さんは辛気臭い顔をしているんです?」

「さあ?」

「更年期ですかね」

「うるさい黙れ」

 天邪鬼に黙れと言われてしまってはおしまいですねと、楽しそうに美鈴は笑った。その姿は子供の様に無邪気で、純粋だ。子供。頭に浮かんだこの言葉をきっかけに、そういえば、まだ正邪と小人の関係を聞けていないことを思い出した。

「結局聞き逃してしまったけれど、正邪と小人はどんな関係なの?」

 なんの話ですか? と首をかしげている美鈴を無視して、正邪を真っすぐ見つめる。髪の毛をくしゃりとやり、唇をかみしめた正邪は、ゆっくりと口を開いた。

「私にとってあいつは」

「あいつは?」

「あいつはただの道具だ。私の願いを叶えるために必要だったから利用したに過ぎない。そういう関係だよ」

「あっそう」

 思ったよりもつまらない答えに拍子抜けする。ただ、同時にこの天邪鬼がそんなことをするか、と疑問が浮かんだ。このお人好しな弱小妖怪は、願いを叶えるために他者を踏み台にしたりするだろうか? 

「正邪さんの願いって何ですか?」

 にこにこと微笑みながら、美鈴が口を開いた。きっと、何も状況を理解せず、単純に雑談だと思っているに違いない。輝針城も小槌も彼女には伝えていないからだ。が、偶然にもそこで初めて私は結局彼女の願いについての質問の時、はぐらかされてしまった事を思い出した。

「私の願いは」

 目をきょろきょろと動かし、せわしなく足の位置を組み替えている正邪は、小さな声で逆に考えろ、と呟いた。

「逆。そう。この世の中を逆にしようと思ったんだ。ひっくり返すんだよ」

「ひっくり返すって、どういうことですか?」目を白黒させ、しきりに首を横にしながら、美鈴は訊いた。

「下克上ってことですか?」

「そうだ!」

 勢いよくそう叫んだ正邪は、下克上。最高に最低だな、と一人納得していた。なぜ楽しそうなのか分からない。そんな彼女とは対照的に、私は冷静になれ、と自分に言い聞かせていた。

 下克上。この言葉がさす意味はあまりにも広く、限定することはできない。だが、もしも。もしもこの幻想郷のしくみの根幹を揺るがすものであれば、流石に八雲紫も黙っていないのではないか。そんなうすら寒い予感がする。

「友人を作るのではなかったの」

「さあな」

 楽しそうに笑った正邪は、人の気も知らないで、平然と言った。

「敵を騙すにはまず味方からっていうしな」

「意味、違うわよ」

 

 

「小槌のレプリカを作ってくれ!」

 図書館に入ってきた正邪は、私を見るや否やそう叫んだ。あまりにも唐突で、意表を突かれた私は、手に持っていたカップを机に落としそうになり、咄嗟に魔法でカップを浮かせた。

「急に入ってこないで。危うく貴重な魔導書に紅茶がかかるところだったじゃない」

「優雅に紅茶なんて飲んでるやつが悪い」

 近くにあった椅子を手繰り寄せ、乱暴に座った正邪は、「私には紅茶が無いのか」と眉をひそめた。あまりの図々しさに乾いた笑いが零れる。むしろ清々しいほどだ。

「それで、急にどうしたのよ。出ていったかと思ったら、すぐに帰ってきて」急用がある、と出ていった正邪は、五時間もたたないうちに帰ってきた。確か、途中で妖怪に襲われてもいいようにと美鈴が護衛でついて行ったと聞いている。まさに至れり尽くせりだ。どうしてレミィが彼女に対してここまで協力するか分からない。が、どうせ下らない理由なので聞くことはしなかった。そのせいで、美鈴が常に疲労困憊なのは可哀想だが。

「これを作りに行ってたんだよ」

 急いでいたからか、ぜえぜえと息を整えながら、彼女は懐から一枚の写真を取り出した。美しい女性の写真だ。が、どうやら見せたかったのはそれでは無かったらしく、はっと息を飲んだ彼女はすぐにそれをしまい、別の写真を取り出した。

「これが打ち出の小槌の写真だ」

「え」

「参考にしてレプリカを作って欲しい」

 急いで作れ、と生意気に言った正邪を前に私は固まっていた。恐る恐る写真に手を伸ばす。そこには確かに小槌の写真があった。顔に血がのぼり、身体に活力が漲ってくる。好奇心が大いに刺激されているのが自分でもわかった。

 写真に写っているのは、正邪のものと見られる手と、打ち出の小槌だった。背景には何も映っていない。真っ黒だ。全体的に金色があしらわれたそれの大きさは、小槌というだけあって、片手で軽々持てるくらいのようだった。中心部に大きく松が描かれており、どことなく神聖で、それでいて禍々しい雰囲気を漂わせている。ただの写真にも関わらず、体が震えた。

 興奮を悟られぬように正邪に目を向ける。表情こそはいつも通りで不愛想だったが、その鋭い目で落ち着きなく辺りを見渡し、時々ちらりちらりとこちらの様子を気にしていた。

「ねえ、正邪」私の言葉にびくんと体を震わせた正邪は、なんだよ、とぶっきらぼうに呟いた。彼女にしては珍しく緊張している。

「この写真、どうしたの?」

「どうしたって、撮ったんだよ」

「だから、どうやって撮ったのよ。カメラなんて、あなたは持っていないでしょ。烏にでも撮ってもらったの?」

 私の質問を前に、彼女は意味ありげに頷いた。緊張を増すどころか、逆に心を落ち着かせているようにも見える。

「いいか。写真ってのは、自分で撮った方がいいんだよ」

「え?」

 得意げにそう笑った彼女は、懐からカメラを取り出した。いつだったか、ブン屋が持っていた物に似ているが、細かい傷が目立ち、お世辞にも綺麗とは言えない。が、どうやらまだ使うことはできたらしい。

「でも、折角なら烏天狗の誰かに頼めばよかったじゃない」

「分かってないな。こういうのは自分でやる事に価値があるんだ」

「あなたは何を言ってるのよ」

「さあな、私が知りたい」

 神様ってのは、写真を撮ってくれないらしいぞ、と笑いながら言った彼女は、丁寧に机の上にカメラを置いた。そのカメラも付喪神化しているからか、少しぶるりと体を震わせたものの、すぐに静かになった。

 どこを見るでもなく、ぼんやりと虚空を見上げている正邪を見つめる。愛おしそうに何かを思い浮かべ、過去を懐かしんでいるようにも、悲しそうに後悔しているようにも見えた。ただ、一つ言えることは、彼女の目の端に零れている涙のことは触れない方が良いということだ。

「でも、普通に考えれば、得意分野はそれぞれのプロに任せた方が良いと思うわよ。適材適所ってやつね」

「なんだそれ」

「例えば、写真は烏天狗に、教育は慧音に、魔法は私にって感じで」

「なら、私は何なんだよ」

「さあ。嫌われることじゃないかしら」

 はっ、と短く息を吐いた正邪は椅子に深く座り直した。てっきり、私は馬鹿にしてんのか、と文句を言われると思っていたが、自嘲気味に笑った彼女は「お前も、そう思うか」とうなだれた。乾いた笑いを仮面のように張り付け、目を細めている。

「嫌われるプロってやつだな」

「まあ、でも嫌われることが特技といっても役には立たないと思うけど」

「馬鹿と鋏は使いようっていうじゃないか」

「自分が馬鹿だと自覚していたのね。驚きだわ」

 白い顔でクツクツと笑う正邪から目を離し、彼女から受け取った写真を見ようと、手元を注視する。と、違和感に気がついた。写真に対する違和感ではない。正邪の様子がどことなくおかしいのだ。左手を使い紅茶を飲んでいる。これだけなら何の不思議もない。ただ、私の記憶の限りだと、彼女は右利きだったはずだ。出来損ないの推理小説のような着眼点だが、少なくとも、目の前の弱小妖怪はそんな器用な真似をするような奴では無い。

「あなた、右手を見せてみなさい」

「え、嫌だ」

「いいから」

 直接確認しようと腰を上げると、慌てふためきながら椅子を蹴り飛ばして後ずさる正邪の姿が見えた。咄嗟に魔法を使い、動きを封じる。不格好な体勢でピタリと固まった正邪は、ゆっくりと糸を地面に下ろすように絨毯に座り込んだ。彼女を怯えさせないように、大丈夫だから、と優しく声をかけながら近づく。これでは、まるで子供の面倒を見ているみたいだ。こんな捻くれた子供がいたら困るが。

 悪かったよ、分かったから魔法を止めてくれ、と力なくいった正邪の言葉に頷く。正直に言えば、魔法を使ったのはほんの僅かな時間で、とっくの昔に解いていたのだが、彼女は気づいていないようだった。ぷらりと垂れ下がった正邪の右手を掴み、目の前へと持っていく。血の気が引いて真っ白になった手の爪先に、こっそりと隠し持った針を突きさす。が、正邪は眉を顰めるどころか、身じろぎ一つしなかった。確信とともに、呆れもした。

「二度あることは三度ある」

 正邪はなぜか誇らしげに言った。私が以前言った言葉を真似しているのだ。

「これで、右手を怪我するのも三回目だ」

「今度はなんで怪我したのよ」半ば義務的に私は聞いた。別に興味も無いし、知りたくもなかったが、そうでも言わなければやってられない。気がつくと、目の前には既に魔導書が回復魔法のページを開いていた。いつになれば私は本の虫から蛹へと変われるのだろうか。

「今回は簡単だ」

 いつもは複雑だったのか、と聞くも無視される。

「打ち出の小槌ってな、写真を撮ろうとすると逃げるんだよ。意識があるみたいにな。しかも、小人以外は触れると痺れるんだ。それで、右手で抑えていたら、このざまだ」

「馬鹿じゃないの。小人に抑えてもらいなさいよ」

「私は、あいつの写真を撮る権利なんて無いんだよ」

 珍獣を撮るのにも許可が必要なように、珍しい妖怪である小人を撮影するのにも許可が必要なのだろうか。そんなことを考えながら、手早く回復呪文をかける。この程度であれば、痛いの痛いの飛んでい毛を使わなくても大丈夫だろう。

 ぽわりと暖かい光が辺りを包む。これも、最早見慣れてしまった風景だ。一瞬視界が光で奪われ、眩んだ目が段々と安定してくる。もう治ったかしら、そう声をかけようとしたものの、できなかった。口を塞がれたわけではない。開いた口が塞がらなかったのだ。

 正邪の後ろ。図書館の扉と椅子の中間地点。そこに彼女はいた。身体の下半分は透けていて、後ろの扉が映っている。魔法の気配は感じないので、きっと違うものを使っているのだろう。おそらく、機械か何かだ。

 右手をぶらぶらと揺らし、手を固く握りしめた正邪は「やっぱ、利き手が動かないと不便だなあ」と笑った。なら隠そうとしなければいいのに。文句を言いたくなるが、これから起こることを考えると、胸がすくような気持ちだった。

 透けていた彼女の体は、いつの間にか完全に露わになっていた。不敵に笑った彼女の表情からは何をしようとしているかが、ありありと分かる。両手を前に出し、足音を立てないようにそろりそろりと正邪へと進んでいく。そして、真後ろに来たかと思えば、大きく息を吸い込み、胸を膨らませた。気体と、期待でだ。

「この糞弱小妖怪が!」大きな声が図書館に木霊する。

「ひぃっ」

 正邪の反応は早かった。声が響いた瞬間、猫の様に飛び上がり、一直線に私の元へと駆けてくる。私の目で追えないほどの速さで逃げ出した彼女は、私の背中の後ろへとあっという間に回り込み、腰に抱きつくように両手を回してきた。顔をほんの僅かに傾け、声のしたほうを窺っている。情けない反応だったが、私は感心していた。弱小妖怪としての本能か、咄嗟に私を盾にするという最善の対策をとったこと、そして、仮に私が逃げたとしてもついて行けるようにと、体に手を回したことは称賛されるべきことだった。だが、それも滑稽な叫び声と情けない今の姿を覆すほどでもなく、私は込み上げてくる笑いを堪えることが出来なかった。どうやら、それは正邪を驚かせた当の本人も同じようで、腹に手を置き、ケラケラと大きな声で笑っている。正邪が舌打ちするのが聞こえた。

「このわくわく感はたまらないよ!」

 満足そうに笑った河童は、正邪に向かい赤い舌を見せた。

 

「これで天邪鬼を出し抜くのは二回目だ」

 ふふんと鼻を鳴らした河童は、びしりと右手を伸ばし、人差し指と薬指を立てた。ちょきちょきと馬鹿にするように指を動かしている。怯えて私に抱きついた正邪が、怒りのせいか震えているのが分かった。そんな彼女を振り払った私は、ゆっくりと河童に近づいていった。どうして、紅魔館に、そして私の図書館に来たか、来ることができたのか不思議だったのだ。

「私は河城にとりさ。レミリアに呼ばれたんだ。“いい発明品を作りたかったらこい”って」

「発明品?」

「おいおい。紅魔館の魔女は知識が豊富と聞いていたけど、発明品すら知らないのか」

 高慢な態度が、どこかの天狗を彷彿とさせて、苛立ちがつのる。妖怪の山の連中はどうしてこうも性格が悪いのだろうか。

「我々河童は素晴らしい発明品を数多く世に生み出しているんだ。例えば、いま私が着ている光学迷彩とか」

「それでさっき姿を消していたのね」

「ああそうだ、一つ買うかい? というか、見たからには買ってもらうよ。偶然にも販売用のものがあるからさ」

 河童の技術力は知っていた。魔法とは違うやり方で、同じような効果を発するものを量産している、と聞いたことがある。だが、ここまで商魂たくましいことは知らなかった。断ろうにも、すでにそれを図書館の適当な場所に広げ、いつの間にか壁にかかっていた札束を手に持っている。別に、強制的に取り返してもよかったが、止めた。その札束はレミィが置いておけと指示したもので、つまり私は、きっとこれにも何らかの意味が、運命による導きがあるのだろうと思ったのだ。

「何しに来たんだよ」

 腰が抜けたのか、地面に座り込んだ正邪が憎らしそうに言った。格好は情けないが、その目は鋭い。

「ちゃんと聞いいてくれよ。レミリアに唆されたんだ。それで? いったいここに何があるというんだ? 遠路はるばるここまで来たんだ。つまらないものだったら弁償してもらうぞ」

「口悪いわね」

 水色の髪をツインテールにしている彼女は、その可愛らしい顔を卑屈に歪め、これまた水色の服のポケットから何やらバールのようなものを取り出した。脅しのつもりだろうか。だとすれば、可愛いものだ。

「私はてっきり、また博打を誘いに来たかと思ったよ」

「あ、ああ。そんなこともあったな」今思い出したよ、と手を叩いた彼女は浮かべていた笑みをさらに深くした。なるほど、と大きく頷き、座りこんでいる正邪に近づいていく。そして、机の上にあった写真を手に取った。

「この写真、どうやったんだ?」

「どうって、このカメラで撮ったんだ」心なしか、正邪の声は引きつっていた。河童に目を合わさず、後ろへじりじりと下がっている。

「そうじゃない。このカメラはフィルム型だ。だとすれば、どこかで現像しなければならないんだよな。あれ、そういえば私の現像機が勝手に使われていたような気がするなー。んんぅ? おかしいな。この写真の出来上がり具合にはすごい見覚えがあるぞー」

「そこら辺で止めておいてあげて」

 あまりにも正邪が惨めで、つい河童の肩を掴み、静止してしまう。

「止めろって? こちとら遊びじゃねえんだよ」

 口調こそヤクザのようだが、彼女はそこまで怒っていないようでニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていた。彼女も本気で現像代を払ってもらうつもりはないのだろう。単純に、へこたれている正邪をいじめて、楽しんでいるのだ。気持ちは分からなくもないが、見ていて気持ちのいいものでもない。

 ひらひらと河童の手で揺れている写真をつかみ取り、奪う。そのまま椅子に腰かけ魔導書を開いた。忘れかけていたが、私はこの写真の通り、打ち出の小槌のレプリカを作らなければならないのだ。そこまで律儀に正邪の依頼を聞かなくてもよかったが、単純に私の好奇心によるものだった。

「その写真で何をするつもりなんだい?」正邪をいじめるのに飽きたのか、河童が目を輝かせて聞いてきた。発明家としての嗅覚はどうやら鋭いらしい。

「この写真にある小槌のレプリカを作るのよ。そこで座っている弱小妖怪の頼みでね」

「もう立ったぞ」うんざりとしながら、正邪は呟いた。

「とにかく、私は今から作業にとりかかるから、あまり話しかけないでね」

「それって」

 服の前についたポケットからガチャガチャと工具を取り出しながら、河童は口元を緩めた。先程の悪意に満ちた笑顔とは打って変わり、子供の様な純粋無垢な笑顔で写真を見つめている。発明に目がない、という河童の噂はどうやら本当の様だ。

「特別な道具か何かなのか? 天邪鬼、もしよければ魔女じゃなくて、私に頼んでみなよ。品質は保証するよ」

「駄目よ」反射的に私は言った。

「なんで」

「得意な事は得意な人に。適材適所よ。私にとって、見た目だけ完全に同じで、性質がまったく異なるものを作る事なんて、朝飯前なの。あなたが得意なのは、そういうのじゃないでしょ?」

 そう口にはしつつも写真をまじまじと見つめ、それを頭の中で組み立てていく。私の言葉に納得したかどうかは分からないが、とくに不満も言わず河童は頷いた。

「まあ、でも得るものはあったから、そろそろ帰ろうかな」

「もう帰るのかよ」まるで、もっと居てほしかったと言わんばかりに正邪が言った。それがおかしかったのか、声を立てて笑った河童は、またいつでも会いに来るよ、と体をくねらせた。

「そんなに寂しいのなら、これを持っていくれ。私の代わりと思って」

「気持ち悪い」

 本当に、えづきそうな声が聞こえた。気になり、意識を途切れさせないように注意しつつ、後ろを振り返る。正邪の手には、お守りのようなものが大量に積まれていた。宗教嫌いの河童にしては珍しい。

「じゃあな、天邪鬼。私は案外お前のことを気に入ってるんだ。いい鴨だし。達者でな」

 そう言い残した河童は、廊下をかけるように去っていった。いったい、彼女が何をここで得たのかは分からなかったが、本人が満足そうなのでいいだろう。

「気に入ってるなら、もっと優しく接しろよな」

「いいじゃない。素敵なお守りを貰えたわけだし」

「いらねえよ」

 そうは言いつつも、何だかんだいって気になるようで、たくさんある内の一つだけを取り出した彼女は、その紐へと手を伸ばした。中にはきっと、下らない、例えばそこら辺の流木を薄く砕いたものでも入っていると思ったが、違った。驚きのあまり、打ち出の小槌の作成は完全に頭から抜けてしまう。

 お守りの口を開いた瞬間、中から煙が勢いよく飛び出した。ゴホゴホと正邪のむせる声が聞こえる。私は、浦島太郎の玉手箱の話を思い出していた。正邪も、歳をとってしまうのだろうか。それもそれで面白いと思ったが、現実はもっと面白いものだった。明らかに物理法則を無視した、大きな爆弾のようなものが彼女の手にのっていたのだ。仕組みは分からないが、そうなのだから仕方がない。咄嗟に本棚と正邪に防御魔法をかける。その爆弾が爆発するのと、私の魔法が発動するのはほぼ同時だった。凄まじい爆音と熱が部屋を覆い、目の前が真っ赤になる。もともと真っ赤だったが、とにかく、突然の炎に私は度肝を抜かれた。冗談にしては、思いの外威力があったからだ。そこら辺の妖怪であれば、一時的に動けなくなる程度だろうが、人間や正邪が喰らってしまえば、一週間は治療が必要だろう。

「あのクソ野郎が!」威勢のいい正邪の声が聞こえる。段々と煙が晴れていくと、髪の毛をチリチリとさせた正邪が拳を握り、憤っていた。元気そうで何よりだ。

「あいつ、絶対同じ目に遭わせてやるからな」

 怒りながらも、どこか楽しそうな正邪を暖かい目で見ていると、空からひらひらと紙が落ちてくることに気がついた。最初は爆風で本のページがちぎれてしまったかと思い、焦って掴んだが、違った。内容を見て、思わず笑ってしまう。

「正邪、ちょっとこれ見てもらえないかしら?」

「何だよ」

「いいから」

 面倒くさそうに目を細め、こちらを向いた正邪は、むっとした顔をすぐに破願させ、ふふと小さく笑った。いつも通り、どこか憂鬱そうな顔をしながらも、愉快げに手紙を見つめている。

「あの河童らしいわね」

「暇すぎだろ、あいつ。準備してたのかよ」

 もしかすると、発明品が云々というのはただの言い訳で、実際は正邪に会いに来たのではないか、ふとそんなことを思った。もしそうだとすれば、素直じゃないにも程がある。

「これで、私が天邪鬼を出し抜いたのは三回目だ! 二度あることは三度ってね!」

 河童の声を真似て、正邪が高らかに手紙を読み上げた。

 

 

 河童の置き土産がさく裂した図書館には、まだ僅かに紫煙が漂っていた。火薬の焦げ臭いにおいが充満し、とても図書館に相応しい雰囲気ではなくなっている。だが、そんなことすら気にならないほどに、私は作業に没頭していた。打ち出の小槌という秘宝の道具を、レプリカとはいえ作り上げる。それほど難しくはないが、胸が高鳴った。いつもよりも凝って、極細部にもこだわろうと決意していた。

「なあ、鶏ガラ」

 そんな集中した私に水を差すように正邪が声をかけてくる。しばらくは河童に対する恨みつらみを吐露していたが、吹っ切れたのか、それとも落ち着かないのか、私をじっと見つめていた。

「何よ、私は今いそがしいのよ」

「お前が言っていた鬼の世界ってどんなところだ?」

「人の話を聞きなさいよ」

 写真という平面をもとに、立体を想像する。頭の中に蓄積された打ち出の小槌の情報を引っ張り出し、全体像を組み立て、それに対応する術式を組む。確かに多少難解な作業ではあるが、会話をしながらもできる範囲ではあった。忙しいと言ったのは単純に、正邪と会話するのが面倒になってきただけだ。

「小槌の代償ってので鬼の世界に連れてかれるんだろ? もしかすると、以外にその鬼の世界とやらは快適だったりしねぇのか?」

「する訳ないでしょ」

 だよな、とため息を吐く正邪は、本当にそう思ったわけでは無いらしく、希望的に私に訊いてきただけのようだった。それにしても、楽天的過ぎるが。

「諦めなさい。小人はただの道具なんでしょ? 全てを救おうとするのはただの傲慢よ」

「分かってるよ。ただ、一応知っておきたいじゃねえか」

 優しいのか、それとも臆病なのか。机にだらりと顔を付けた正邪は、教えろよ、と懲りずにまた訊いてきた。呆れて、息が漏れる。だが、こうなった彼女は質問に答えない限りネチネチと訊いてくるのは分かっていた。また、息が漏れる。

「例えば、そこは何もない世界なのかもしれない」

「何もない? 鬼の世界なのに鬼もいないのか」

「そう。誰もいないし、何もない。光もなく真っ暗で、時間すらない。死ぬことすらできず、永遠にそこで漂い続けるの」

「そんな場所があるのか」

「例えばよ」

「例えばにしては、随分と具体的だな」

「まあ、実際にそういう場所があるってのは知っているわ。それが鬼の世界かどうかは知らないけど」

「まるで地獄みたいだな」

「馬鹿ね。地獄なんかよりよっぽど地獄よ」

 そうか、と呟く正邪の顔には生気がなかった。今更になって怖気づいたのかもしれない。だが、こればかりはどうしようもないのだ。憐れな小人の辿るべき運命としか言いようがない。関われば、私たちですら無事でいられるか分からないのだ。

 そうこうしている内に、着々とレプリカは完成に近づきつつあった。設計図は既に頭の中で完成している。後はそれを元に術式を整え、魔力を籠めるだけだ。手元にある魔導書をペラペラと捲り、案の定探していたページのところで綺麗に開いたので、早速作業に取り掛かろうとする。と、そこで正邪がまたもや口を挟んだ。

「レプリカ、もうそろそろ出来そうか?」

「誰かさんが話しかけてくるから遅れたけれど、あと少しよ」

「なあ、鶏ガラ」気まずそうにそっぽを向きながら、正邪は頬をポリポリとかいた。

「お前、私にとって、見た目だけ完全に同じで、性質がまったく異なるものを作る事なんて、朝飯前なの、ってムカつく顔で言ってたよな」

「ムカつく顔ではなかったけれど、確かに言ったわね」

「ならよ」

 ガタリと乱暴に席を立った正邪は、あー、と間の抜けた声を出し、一つお願いがあるんだが、と小さく呟いた。

「そのレプリカに魔法を付け加えて欲しいんだ」

「なに? 振れば花火が打ち上がったり?」

「違げえよ。どんだけ花火が好きなんだ」

 じっとしていられないのか、ぐるぐると同じ場所を回り、口元を手で覆っていた。草履が床に擦れ、ずりずりと音を立てている。その、正邪の煮え切らない仕草がじれったく、私はつい、早くしなさいよ、と語気を強めてしまった。あと少しでレプリカが完成するという時に作業を中断させられていて、やきもきしていたのだ。

「あの、だな」

「なによ」

 意を決したのか、私の方を真っすぐに見た正邪は大きく息を吸い込んだ。

「痛いの痛いの飛んでい毛」

「はい?」

「だから、痛いの痛いの飛んでい毛の魔法を、レプリカにつけて欲しいんだ」

 予想外の願いに、私は呆気に取られていた。馬鹿なことを言うな、と憤る気持ちよりも、なぜそんな魔法を頼むのか、疑問だった。ただ、いずれにせよ褒められたことではない。

「止めといた方がいいんじゃないかしら?」

「どうしてだ」

 むっとした表情を隠そうともせずに、正邪は指を突きつけた。

「難しいってわけじゃないだろ」

「確かに難しくはないけれど、問題はあるのよ」

「問題って何だよ」

「あなたよ」

「はあ?」

 目を三角にしてこちらを睨む正邪に対し、私はわざとらしく肩をすくめた。いったい彼女は何を考えているのだろうか。どうせ碌でもないことだろう。

「魔法を使う側に問題があるって言ってるのよ。もしかすると、あなたは自分の怪我を他の誰かに移そうと考えているのかもしれないけれど、そう上手くはいかないわ」

「なんでだ」

「この魔法は、同時に決められた言葉を言わなければならないの。レミィの時もそうだったでしょ? あなたが急に一緒に声を合わせて叫びましょう、だなんて言われても誰も相手にしないわよ」

「なあ、鶏ガラ。一緒に叫ばないか?」

「嫌よ」

 ふん、と鼻を鳴らした正邪は、なぜか自慢げな笑みを浮かべて椅子に腰を落とした。怪訝な表情をする私を見つめ、にやにやと笑っている。

「それでも大丈夫だ。四の五の言わずにやってくれ」

「ほんとに、碌でもないわね」

「ってことは三か?」

 何が面白いのか、腹を抱えだした正邪は、よろしくな、と無責任に私に告げた。少しの困惑と、多大な苛立ちが胸をかき乱すが、深呼吸をして、なんとか落ち着く。

「分かったわよ、やればいいのね、やれば」

「ああ、そうだ」

 礼の一つもよこさない正邪に、怒りどころか笑いが込み上げてくる。が、それでいい、と同時に思った。鬼人正邪はこれでいい。不遜で、人を馬鹿にする態度を常にとる、嫌な奴。それでいて、どこか放っておけない不器用で優しい捻くれもの。そんな彼女のことを、私は存外気に入っていた。

 早速、くみ上げた術式に変更を加え始める。本当に大丈夫なのか。少しの不安が首をもたげた。正邪が何を企んでいるか知らないが、あの弱小妖怪にできることなど、高が知れている。きっと、たいしたことにはならないだろう。そう自己弁護しながら、魔導書に手を掲げる。

「あっ、そういえば」

「何だ」

「いえ、さっき、魔法を発動するには同時に特定の言葉を叫ばなければならないと言ったけれど、何がいいかしら?」

「あ、ああ」

 どうしようか、と首を傾げた正邪は、腕を組み熟考し始めた。そんなに悩まなくてもいいのに、と声をかけるも返事は返ってこない。これは、意外に長期戦になるかもしれない、と思っていると、彼女は手を叩き、その言葉を私に告げた。あまりにも彼女らしい言葉に苦笑いしつつも、その通り術式に入れる。そして、魔導書に意識を集中させた。頭の中から、余計な情報が一切消え去っていく。ただ、目の前の魔導書と、レプリカの術式。それだけを考える。本の中から、湧水がふき出すように、光が漏れる。目を閉じているにもかかわらず、視界が明るくなった。加える魔力を更に増やす。すると、カチリと頭の中で何かがはまった感触がし、魔導書を持つ手に更なる重みが加わった。明るくなった視界が徐々に戻っていく。

 期待と、ほんの僅かな不安を胸に抱きつつ、ゆっくりと目を開く。私の手の上には、想像した通りの小槌が乗っかっていた。思わず、やった、と声が零れた。正邪に聞かれてないか心配になり、彼女の方を見やる。正邪は、レプリカを見て、片頬を上げていた。眉を下げ、これでいいんだ、と卑屈な笑みをみせている。どうやら聞かれては無かったようだ。

「どう? ご期待に添えるできかしら?」

「ああ、完ぺきだ」

 目を見開きながら、一歩一歩踏みしめるようにして私に近づいてくる。魔導書の上に乗っかっているレプリカを恐る恐る手を取ると、舐めまわすようにそれを見つめていた。

「やっぱ、魔法はすげえな」

「そうでしょ」

 鼻を高くし、自慢げに胸を張る。正邪はよっぽど気に入ったのか、これでいいんだ、と幾度も繰り返していた。

 私は達成感と疲労で浮ついていた。椅子に深く腰掛け、声にもならない声を出す。そんな私と対照的に、正邪はぎくしゃくとした動きで、図書館の扉の前へと歩いていった。

「それなら、ちょっとばかし行ってくるよ」

「行ってくるって、何しに」

「そりゃあ下克上に決まってるじゃないか」

「あら? もう小槌に願ったなら、下克上は始まっているんじゃないの?」

「願わねえよ」 

 じゃあな、と言い残し、例によって礼も言わずに正邪は去っていった。行ってしまえば呆気ないもので、あんなに騒がしかった図書館も一瞬で、静かになる。心の中に、何かもやもやとした感情が芽生えた。寂しさと、そして不安だ。正邪に何か、よくないことが起こるのではないか、と心配だった。なぜ、そこまで正邪に自分は肩入れしているのか。そう客観的に確認するほどには、気に病んでいる。

 彼女の、レプリカにかけた魔法を発動する際の言葉を思い出す。何度聞いても、彼女らしく、愚かで小物らしい言葉だ。

「すべてをひっくり返せますように、か」

 しんとした図書館に染み渡った私の声は、不安をより膨らませていった。

 

 

 正邪がいなくなった図書館で、私はひとり呆然としていた。魔導書を読むでもなく、紅茶を飲むでもなく、ただ図書館の扉を名残惜しそうに見つめている。

 どうして、ここまで胸騒ぎをするのか、分からない。だが、何か大事なものを見落としたような気がしてならないのだ。正邪を追っていくべきだ。理由なんてものは無かった。でも、追っていかないと後悔する。これだけは確かだった。

「外出は億劫だけど、仕方ないわね」

 誰に言うでもなく、独り言をつぶやいた私は、ドアノブへと手をかけた。そこで、ふと、視界の端に見慣れないものが映った。図書館の本棚の隅に、布のようなものがかかっていたのだ。水色で、かなりの大きさのあるそれは、人ひとりであれば平気でくるめそうだった。

 確か、名前は光学迷彩とかなんやらだったはずだ。河童が強引に売りつけていった発明品。それが、不思議と気になった。考える間もなくそれを手に取り、頭から被る。はじめは、ただ単純に布を被った時と同じように、目の前が真っ暗になっただけだった。騙されたか、と落胆するも、すぐに変化が現れた。足元から、段々と周りの風景が布越しに見え始め、ついには完全に視界が開けたのだ。布ですっぽりと体を覆っているにもかかわらず、普段と同じように辺りを見渡せる。私は素直に感心していた。魔法でこれと同じものを作ってみようと胸に決める。鏡の前に移動すると、そこには確かに何も映っていない。まるで透明人間になった気分だ。これは使える。

 もう一度、図書館の扉の前に立ち、ゆっくりとドアノブを開く。すると、目の前に美鈴が立っていて、驚いた。何か図書館に用があったのだろうか。

「こ、これが噂の自動ドアってやつですか」

 よく分からない事を言って図書館に入っていった彼女を尻目に、長い廊下を進む。美鈴がパチュリー様、と叫んでいたが、無視した。

 いったい正邪はどこに向かっているのだろうか。そう考えると、すぐに結論は出た。空に浮かぶ逆さの城。そこにいったのだろう。

「どうして、私は彼女にここまでかまうのでしょうね」

 きっと、そういう運命だからだ。そう声が聞こえた気がした。

 

 霧の湖をこえ、妖怪の山へと続く草原に、正邪はいた。上空には輝針城が悠然と浮かんでいる。紅魔館から見た時と違い、その大きさと、威圧感に圧倒された。かなりの高さにあるはずなのに、その大きさから近くにあるようにも見える。黒々とした瓦が、日光を反射し、煌びやかに輝いていた。だが、決して美しくはない。その見た目など気にならないような、不穏な魔力を放っていた。その魔力は、輝針城の真下にいる少女が持つ小槌へと続いている。身長は正邪と同じくらいだったが、不思議とかなり幼く見えた。かなり大きな茶碗を頭に被っているが、そんな奇天烈な格好にも関わらず、違和感が無い。

 彼女たちは、何か楽しそうに話していたが、内容までは分からなかった。そして何より、正邪をつけるようにした私自身が、何がしたいのかが分かっていなかった。ただ、迷っていても仕方がないのは確かだ。

 取り敢えず、正邪たちの会話が聞こえる辺りまで近づこうと、草原に足をつける。なにか隠れるものはないかと見渡すが、今自分の姿は消えているのだということを思い出し、堂々と彼女たちに向かい、歩いていった。

「正邪がわたしに用があるだなんて、珍しいね!」

 快活な声が、耳に届いた。足を止め、耳をそばたてる。

「もしかしたら、明日は雪が降るかもな」

「冬だから降ってもおかしくないじゃん」

 楽しそうに笑ったお椀の少女は、身体をくるくると回し、喜びを全身で表していた。右手に握った打ち出の小槌を、くるくると同じように回している。私が作ったレプリカではない。正真正銘、本物の打ち出の小槌だ。ということは、その小槌を持っている彼女こそが小人なのだろう。それにしては、全然小さくない。小槌の影響だろうか。そんなことを考えていると、あっと短い叫び声が聞こえた。慌てて目を彼女たちに戻す。

「返してよー。小槌は小人族の宝なんだよ」

「うるせぇ」

 右手で針妙丸の顔を鷲掴みにしている正邪の反対の手。左手には、打ち出の小槌が握られていた。さっきまで小人が持っていた、本物の小槌だ。彼女がよそ見をしている内に、強引に奪ったのだろう。小人は、うがーと手を振り回している。そういえば、小槌を強引に掴んだせいで、右手を駄目にしてなかったかしら、と首を捻っていると、案の定正邪の左手は一瞬でくたりと垂れ下がり、手から零れた小槌はころころと転がっていった。だが、小人はそれに気がついていないようだった。

「分かった分かった、返すよ」

 左手をちらりと見た正邪だったが、すぐに視線を戻し、小人に向かい合った。右手で懐を漁り、小槌を取り出す。今度は私が作った、偽物の小槌だ。それを針妙丸に手渡した。嫌な予感がする。

 まったく正邪は、とぷりぷりと怒ったような仕草をみせた小人は、「用って何?」とジト目で正邪を見つめていた。

 正邪が一度大きく息を吸うのが、私にも分かった。彼女は口を開かずに、小人の持つ小槌を指差す。そして、そのまま指を上下に振った。

「打ち出の小槌を振ればいいの?」

 どこか嬉しそうな小人は、こてんと首を傾げた。

「何か願い事があるの?」

 無邪気な小人とは対照的に、顔を真っ青にさせた正邪が、「私の、私たちの野望のためだ」と震える声で言った。そこで、私は、あれ、と首を捻った。確か正邪は下克上を願って城を顕現させたはずだ。ならば、なぜ改めて野望やら何やらを小人に説明しているのだろうか。「私たちって、その野望には私も関わっているの?」

「むしろ当事者だ」

 正邪の顔が酷く歪むのが、ここからでも分かった。落ち着きなく、腕を組み替えている。一体、彼女が何を考えているのか、分からない。

「お前、自分以外に小人を見たことがあるか?」

 突然正邪が、そんなことを言い出した。「ないなー」と答えた小人を見て、満足そうに頷いていた。何を言い出すのか、と不安になる。授業参観に来た親のような気分だ。

「迫害されたんだよ」

「え?」

 思わず声が漏れてしまい、焦る。バレたのではないか、と焦って身を隠そうとするものの、彼女たちは気づいた様子もなく、話し続けていた。

「強い奴らに酷い目にあわされたせいで、小人はひっそりと暮らさなくきゃならなくなったんだ。そのせいで、幻想郷にはお前しか小人がいねえんだよ」

 あまりにも安直な嘘に、私は逆に驚かされた。こんなので騙されるような奴はいるのかしら、と呆れていると、「そんな! 酷い!」と叫ぶ小人の声が聞こえてくる。なぜ、こんな見え見えの嘘に引っかかってしまうのか、とまたもや驚かされた。

 見返してやろうぜ、とはしゃいでいる二人は、輝針城の下という何とも言えない場所にいたが、とても仲がよさそうに見えた。それこそ、姉妹のようだ。だが、それと共に危うさも覚える。特に、あの小人の方だ。あまりにも正邪の言う事を真に受けている。

「強者が弱者を支配するのではない、弱者が強者を支配するんだ。幻想郷を本当の理想郷に変えようぜ。さあ、弱者が見捨てられない楽園を築くのだ!」

 威勢の良い正邪の声が辺りに木霊した。弱者が見捨てられない楽園。彼女自身が、弱者は幸せになれないと断言していたにも関わらず、そんなことを嘯いている。やはりおかしい。

 いったい、彼女は何をしようとしているのか。もう一度下克上を願うのか。分からない。が、「でも、なんて願えばいいの?」と首を傾げた小人の言葉を聞いて、やっと彼女の意図に気がついた。気がついて、背筋が凍った。まさか、と声が漏れる。例の言葉を彼女らが呟いているのが聞こえた。小人が持っている偽物の小槌に目を向ける。それは、既に高々と振り上げられていた。なぜ。どうして。小人なんて道具だって言ってたじゃないか。正邪を止めようと、そう思ったが間に合わないのは明確だった。現実を直視したくなくて、背を向けてその場を去る。

「「すべてをひっくり返せますように!」」

 シャリンという音が響き、まばゆい光が溢れ出す。見慣れた、私の魔力による光だ。私がレプリカにかけた魔法がしっかりと発動するのが分かった。小槌の呪いが、小人から正邪へと移っていく。それに目を逸らすように、私は早足で紅魔館へと進んだ。

 

 失意に明け暮れ、泥酔者のようにふらつきながら、私は飛んでいた。後ろには、憎々しい輝針城がこちらを見下ろしている。やはり、あの魔法を、痛いの痛いの飛んでい毛の魔法を、レプリカにかけるべきではなかった。正邪に使わせるべきではなかった。まさか、あんな使い方をするなんて、自分に呪いを移すなんて考えてもいなかった。

 そんな考え事をしているときに、急に強い風が吹いた。身を切るような冷たい風だ。突然の寒さに、私は思わず布を握っていた手を離してしまった。ぶわりと一度大きく舞った光学迷彩は、水色の大きなそれを翻しながら、ゆっくりと下へと落ちていく。ぼんやりとそれを見つめていた私だったが、霧の湖のほとりに落ちたそれを見て、ようやく取りに行こうと降下を始めた。あまりの出来事に思考がまとまらない。

「見て見て姉さん」

 ゆっくりと降りていると、その布を見つけたからか、陽気な声を出した女性が姿を現した。光学迷彩を拾い上げ、「布があったよ、水色の」と叫んでいた。

「でかした八橋」

 すると、奥の方からもう一人、姉さんと呼ばれた女性が現れる。そんな彼女たちは、なんの悪意もなく、「餞別だ、餞別だ」とはしゃぎながら光学迷彩を持ち去ってしまった。取り返しても良かったが、そんな元気もない。諦めて、その場を去ろうすると、いきなり後ろから肩を掴まれた。慌てて振り返る。

「もしかして、紅魔館の魔女さんですか?」

 見たこともない妖怪が、そこにはいた。湖の中から出てきたからか、全身が湿っている。こちらを見てニコニコと微笑んでいるその妖怪は、青い髪と妙な耳が印象的だったが、その下半身はより印象的だった。

「こんな近所に人魚がいたなんて、驚きね」

「知られてなかったんですか。それは悲しいですね」

 およよ、と袖で目元を拭った彼女は、「私はわかさぎ姫と申します」と恭しく頭を下げた。ぽたぽたと水滴が垂れている姿は、どこか官能的にも思える。

 いきなり現れた人魚に面食らったものの、すぐに不愉快になった。私はこんなところでおしゃべりをしている暇はない。

「それで? 結構な期間ここに住んでいるにも関わらず、中々声をかけなかったあなたが何の用かしら? 私は今疲れているのだけど」

 いじめようと思ったわけではないが。私の口調は強くなっていた。疲れと自身への苛立ちがつのり、相手に気をやる元気すら残っていなかったのだ。だが、そんな失礼な私の態度にも関わらず、彼女は平然としていた。彼女から感じる力は、確かに弱所妖怪のそれにも関わらず、それに見合わないほど肝が据わっていた。不思議と、頭が冷えていく。

「実は、相談がありまして」

 頬に手を当て、眉を下げているその姿には、可愛らしさと共に、いかにもなお姫様のように見えた。彼女の話など聞かず、はやく紅魔館に帰りたかったが、しぶしぶ聞くことにした。

「先日、いきなりこれを押し付けられてしまって、困っていたんです」

「これって何よ?」

「これです。この笠です」

 そう言い、彼女は懐に手を突っ込んだ。がさごそと漁ったかと思えば、みすぼらしい、ぼろぼろの笠を取り出す。あまりにも酷いその笠に、私は見覚えがあった。

「これ、正邪の笠じゃない」

 私のぼやけていた頭は、はっきりとした輪郭を持ってきていた。相も変わらず、気分は暗く、訳もなく泣きだしたいが、正邪の笠がここにあるという事実だけは、何とか頭に入った。

「この笠はどこで、いつ拾ったの?」

「拾ってないんですよ。貰ったんです」

「貰ったって、誰に。正邪?」

「射命丸さんです」

 予想外の返事に、私は戸惑った。ここで、射命丸の名前が出てくるなんて、考えもしなかったのだ。どうして射命丸が正邪の笠を持っていたのか、ふつふつと疑問が湧いてくる。

「なんか、人里の民家で見つけたらしいですよ」

 そんな私の疑問を感じとったからか、わかさぎ姫は訊いてもいないのに、答えた。

「事故物件のボロ屋に落ちてたとか言ってました」

「それで? どうしてあなたがそれを持っているのかしら」

「報酬らしいです」

「報酬? 何の」

「取材の」

 ああ、と私は声を漏らしてしまう。こんな愚問は全く意味がなかった。彼女が報酬を渡す相手なんて、取材相手以外にあるわけがない。

「それでも、人の物を勝手に報酬として渡すのはどうかと思うけれど」

「正邪さん、でしたっけ」

「ええ。最近よくこの上を通っているはずだけど、知らない? 目が鋭くて、頭に小さな角のある」

「ああ、あのいつもボロボロの」

「そうそう」

 だから笠もこんなにボロボロなんですね、と笑った彼女は、そういえば、と声を零した。記憶を辿っているのか、目を上に向けている。

「確か、射命丸さんの取材が終わったすぐ後にも、正邪さんは湖の上を通ってましたね。おんぶされてましたけど。ほら、あの浮かんでいる城が出来た時です」

 きっと、正邪が内臓を剥き出しにして紅魔館に来た時のことだろう。慧音に抱えられ、不敵に笑っている彼女の姿は鮮明に覚えている。どうして草履を回収しに行くだけで腹に穴が空くのか、甚だ不思議だった。

「わかさぎ姫、っといったかしら」

「はい。なんでしょう」

「あなたに一つ任務を命じるわ」

「任務、ですか」

 怪訝そうな顔を見せるかと思ったが、予想に反し、彼女は楽しそうにこちらに身を乗り出した。いきなり、親しくもないような私に命令されたにも関わらず、嬉々としてそれを聞こうとしている。

「この笠を、正邪に届けてくれないかしら」

「届けに?」

「ええ」

 どうしてこんなことを言っているか、自分でも分からなかった。きっと、正邪がどこか

 遠い所へ行ってしまうことに、少なくないショックを受けていたのだろう。だから、彼女と私のつながりが欲しかった。そんなところではないか、と自分自身に言い聞かせる。

「分かりました。正邪さんに届けに行きます。ただ」

「ただ?」

 びしりと指を突きさし、真剣な顔つきになった彼女は、湖の表面を軽く撫でた。この寒さで、薄く氷が張っている。よく見ると、彼女がいるところだけ、氷の色が少し違っていた。

「綺麗な氷ができてから、行きます」

 やっと冴えてきた頭に、どかりと疲労がたまるのが分かった。

 

 霧の湖で余計な道草をしてしまったからか、紅魔館につくまでにいつもより長い時間がかかった。輝針城を見上げる度に、どこか重い気分になり、意識が朦朧とする。どうやってここまで来たのかも覚えていない。門をくぐり、扉を開ける。美鈴はいなかった。門を守らない門番の存在価値はあるのか、と下らないことを考える。空を見上げると、真っ青な空に輝針城がよく映えていた。幻想的というよりは、狂気的だ。太陽の位置はいつの間にかずっと西に寄っている。どうやら、随分遠回りしてきたらしかった。そのせいか、酷く疲れている。いや、疲れたのはそのせいではないか。

 紅魔館へと入り、図書館までの長い廊下を進む。途中で、訳もなく立ち止まったり、壁にもたれかかったりしていると、そこでも時間が経ってしまった。やっとのことで図書館にたどり着くと、そのまま倒れ込むようにして転がり込んだ。絨毯に寝転び、力なく手を投げ出す。もう何も考えたくなかった。こんな姿、誰にも見せられないな、とひとり自嘲気味に呟いていると、「遅いじゃねえか」とせせら笑う声が聞こえた。

 ぎょっとし、慌てて立ち上がる。声がしたほうへ急いで目をやる。そこには、不遜な態度で椅子に座る正邪の姿があった。

「なんで、いるのよ」

「そりゃあ」

 あんなことをしたというのに、彼女は一切の後悔も見せていなかった。むしろ清々しそうですらある。

「怪我をしたからに決まってるだろ」

「あなたねぇ」

 こんなにも憂鬱な気分にも関わらず、つい口元が緩んでしまう。体を起こし、いつも通り、正邪の体面に座る。怠けている脳を叩き起こすために、大きく身体を伸ばした。正邪の前で情けない姿を見せるのは、癪だったのだ。机を挟んだ正面にいる正邪に目を向ける。彼女が向こう側にいることが、もはや当然のように思えた。

「少しは学習しなさいよ。小槌を持ったら駄目だって、分かってたじゃない」

 小人の前で、本物の小槌を握った彼女の姿を思い浮かべた。今も正邪の左手は、プラプラと力なく揺れている。

「だから、今度は利き手じゃない左手で」

 右手で頬杖をつき、面倒くさそうに言った正邪は、そこで言葉を切った。一度目を大きく見開き、すぐに鋭く細める。その険しい目つきで私を睨んだ。一体どうしたのだろうか。

「お前、どうして分かった?」

「どうしてって、何が」

「私が左手を小槌で怪我をしたって、どうして分かった」

 ああ、と気の抜けた声が漏れる。そういえば、そうだった。自分自身が、姿を消してあの場面を覗き見していたということすら忘れていた。

「いい演技だったわよ。ただ、小人が迫害される、ってとこが現実味に欠けていたけど」

「お前、どこから見て」

「さあね。ただ、あなた達は仲が良すぎるのよ。そんなんだと、痛い目に遭うのはあなたよ」

 これでもかと顔を顰めた正邪は、頭をがしがしと掻きむしった。うう、とうめき声をあげ、しきりに足を組み替えている。

「説明してもらおうかしら」

「説明って何を」

「全部よ」

 がくりと顔を落とした彼女は、観念したのか両手を上げ、息を吐いた。その耳は興奮したからか、それとも羞恥のせいか真っ赤に染まっている。

「分かったよ」

 吐き捨てるようにそう言った正邪は、がばりと顔を上げた。

「ただ、絶対に他言無用だからな」

「大丈夫よ。絶対に誰にも言わないから」

 私の言葉に納得したかどうかは分からないが、彼女はぽつりぽつりと説明を始めた。その顔は、一見無表情のようにも見えるが、溢れ出る感情を必死にこらえていることが、私には分かった。やけに素直な彼女に違和感を覚える。もしかすると、彼女は私にこれを伝えたくて、それが目的で来たのではないか。そんな気がした。だとすれば、気に入らない。それではまるで、もう二度と会えないと言っているようなものでは無いか。

「野菜を人里に届けにいって、満身創痍になってここに来たことがあったろ。私はあんまり覚えてないが」

「妹紅に連れてこられた時ね」

 忘れるはずもない。あの時の彼女は、意識がないに等しく、ただ、私がやるしかない、とうわ言のように呟いていた。

「あの後、人里に草履を取りに戻ったら、甘味屋で慧音たちに会っちまって」

「ええ」

「そのまま寺子屋まで行って、そこで何とか草履を回収できたんだが」

「良かったじゃない」

「その後に、色々あって私の腹に穴が空いた」

「なんでよ」

「さあな。色々あったんだ」

 これ以上ないほどに苦々しい顔をした彼女は、小さく首を振った。答える気はない、ということだろうか。

「そこでだな、打ち出の小槌が慧音の家から盗まれたと知ったんだ。取り返そうとしたが、まあ失敗した」

 両手を強く握り、机を思いっきり叩いた。彼女の鋭い目に、黒い何かが宿っているようにも見える。

「そうしている内に、小槌は針妙丸の手へと渡ったんだよ。代償のことなんて、何も知らない無邪気なあいつの元ヘな。そして、当然のように彼女はそれを使ったんだ。なあ、なんて願ったと思う?」

「知らないわ。分かるわけないじゃない」

「友達ができますように」

「え?」

「そう願ったんだよ、あいつは」

 馬鹿みたいだろ、と微笑む正邪は、呆れというよりも、馬鹿な娘を思い出すような、そんな表情をしていた。

「純粋だろ?」

「純粋といっていいのか分からないけれど」

「あいつは眩しすぎるんだよ」

 小人は道具だと言っていたくせに、とつい声に出してしまったが、聞こえてないようだった。

「それで? その眩しすぎる小人を置いて、あなたは慧音にここへ連れ込まれたのね。腹に穴を空けて」

「連れ込まれてねえ。遊びに来たんだ」

「これ以上嬉しくない言葉もないわね」

 慧音が彼女を連れてきてから、色々なことがあった。本は勝手に漁るし、いきなり怒り出す。河童と喧嘩をしたかと思えば、レプリカを作れと無茶を言う。だが、そんな日々も悪くないと私は思っていた。

「あなたはこれからどうするのよ」

 このまま正邪が私の手の届かない場所に行きそうで、怖かった。が、そんな私の気持ちを知ってか知らずか、「決めてねえ」と彼女は呑気に笑った。

「とりあえず輝針城にでも行くさ」

「小人のことが心配なの?」

「そんな訳あるか。あんな立派な城はあいつには勿体ないだろ。だから、私が貰ってやるんだ」

 そこで、正邪は浮かべていた笑みを消した。目に怒りをためたかと思えば、かき消すように頭を振り、頬を叩く。パチンと子気味いい音が図書館に反響した。

「私には義務がある」ぽつりと、正邪は抑揚なく言った。

「義務?」

「あのバカで綺麗な針妙丸を、私たちの汚れた世界に引き込んじゃいけねえんだよ。弱者には幸せになる資格がないなんてことをな、分からせちゃいけないんだ。だから」

「だから、あなたがその代償を引き受けたの? 痛いの飛んでい毛で」

 正邪は、否定も肯定もしなかった。彼女の胸の中にあるだろう、小槌のレプリカからは、確かに禍々しい魔力が溢れている。どんな怪我も呪いも他人に移すことができる使い勝手の悪い魔法。彼女がそれを欲しがった理由は、小人の呪いを自分に移すためであった。

「でも、だとしても、願いが下克上だなんて変な嘘をつかなきゃいいのに。面倒なことになるわよ」

「あいつが、幻想郷を壊すような異変の引き金だと分からせてはいけない。共犯じゃいけねえんだよ。だったら、私が下克上を起こすための道具として騙したと言えば、同情があつまるだろ」

「だとしても、別の方法があったはずよ。別にあなたじゃなくても、他の誰かに押し付けてもいいじゃない」

 たまらず、私は言った。どうして正邪がそこまで小人を庇うのか。小人のために泥をすするのかが分からなかった。文字通り、残りの人生を犠牲にしてまで彼女を守る必要があったのか。彼女のために、そこまでの悪評を被るのが正邪の役目だったのかと、喚いた。納得いってなかったのだ。だが、どうやら納得していなかったのは、私だけのようだった。

「普通に考えれば、得意分野はそれぞれのプロに任せた方が良いと思うだろ? 適材適所ってやつだ」

 得意げに正邪は笑った。その目には一切の迷いもなかった。

「私は嫌われるプロだからな」

 面白そうにクツクツと笑った正邪は、きっと上手くいくと自分に言い聞かせるように呟いた。恐怖と決意が入り混じった、澱んだ目で私を見つめてくる。

「確か、小槌の代償で、私は鬼の世界とやらに封印されるんだろ? だったら、そのついでだよ」

「そんなにうまくいくかしら?」

「いかせるんだよ」

「誰が」

「お前が」

 はあ、と息が漏れる。それは、あまりにも自分勝手すぎる頼みで、面倒くさいもので、呆れた。ただ、それよりも、その願いを叶える気でいる自分自身に呆れる。

「だったら、初めから言えばいいじゃない。別に私にまで、小槌に下克上を願ったとか、小人は道具だとか言わなくても」

 そんな大事なことを最後まで隠されていたことに、少し腹が立った。天邪鬼に信用という言葉があるかどうか分からないが、とにかく、彼女にとって私はそこまで軽率な奴だったのか、と悲しくなる。

「ほら、よく言うじゃないか」そんな私をちらりと見上げた正邪は、嫌味に鼻を鳴らした。その顔は、いつもの彼女と変わらず、憎たらしい笑みを浮かべている。

「敵を騙すにはまず味方からだって」

「意味、違うわよ」

 微笑む私の目から、一筋の水滴がぽとりとたれた。



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天邪鬼

【注意】こちらは第三章の整頓版でございます。文章自体は全く同じですが、順番を一部入れ替えております。第三章と合わせて読んでいただけると幸いです。また、読み飛ばしていただいてもストーリー上問題ありません。


――天邪鬼――

 

「打ち出の小槌を振ればいいの?」

 何も理解していない哀れな針妙丸が、私に向き合い、首を傾けた。

 人里と妖怪の山のちょうど中間地点に私たちはいた。清々しい青空に、憎々しげに浮かんでいる太陽が私たちを見下している。にも関わらず、肌を切るような寒さは一向に和らいでいない。風が吹いていないのに、草原がざわめいた気がした。そんな些細なことすら気になる程に、私は緊張している。

「私の、いや、私たちの野望のためだ」

 言葉を一つ一つ紡ぎ出すように、慎重に言う。そうしないとボロが出てしまいそうだった。

「私たちって、その野望には私も関わっているの?」

「むしろ当事者だ」

 大きく息を吸う。自分の腹が膨らむのが分かった。鶏ガラの「止めておいた方がいいんじゃないかしら」と珍しく心配そうな表情が浮かぶ。いや、そういう訳にはいかないのだ。もし実行しなかったら、私は死んでも死にきれない。

「お前、自分以外に小人を見たことがあるか?」

「ないよ。だから寂しい」

「理由を考えたことは」

「ないなー」

 そうだよな、と相槌を打つ。今の言葉に不審な点はないか、頭の中で何度も確かめた。が、針妙丸が私の言葉を疑うほど、捻くれた心を持っているとは思えなかった。

「迫害されたんだよ」

「え?」

「強者に酷い目に遭わされたんだ」

 どういうこと? と針妙丸は眉を傾ける。言葉尻から不穏な気配を感じ取ったのか、顔が強張っていた。どういうことか、と聞かれても困る。私もそこまでは考えていなかった。

「むかしな、強い奴らに酷い目にあわされたせいで、小人はひっそりと暮らさなきゃならなくなったんだ。そのせいで、幻想郷にはお前しか小人がいねえんだよ」

「そんな! 酷い!」

 ああ、その通り。酷すぎる嘘だ。私もついにこんな嘘しかつけなくなったのか、と呆れる。

「お前がその小槌を振れば、願いが叶う。そうだろう? だったら、見返してやろうぜ」

「見返すって、どうやって」

「ひっくり返すんだ。逆に考えろ」

 奥歯を噛みしめ、悔しさをこらえる。目的のためとはいえ、針妙丸に嘘をつくのは、なぜか心苦しい。が、戸惑ってはいけない。多少の犠牲はもはや仕方ないのだ。

「強者が弱者を支配するのではない、弱者が強者を支配するんだ。幻想郷を本当の理想郷に変えようぜ。さあ、弱者が見捨てられない楽園を築くのだ!」

 だらしなく口を開けたまま、針妙丸は突っ立っていた。私の言葉が理解できなかったのか、と心配になったが、その口元を段々とにやけさせていき、手を叩いた彼女を見て、安堵の息が漏れる。こんなところで棒に振っては、たまったものではない。

「いいね! 面白そう」

 ご先祖様の無念を晴らすんだね! と満開の向日葵のように、辺りを照らす暖笑を見せる。そこには一切の影もなく、清らかなままだった。少しの安堵と後ろめたさに襲われる。私のせいで、と口走りそうになった。

「でも」

 晴れ晴れとした表情を一瞬にして曇らせた針妙丸は、不安そうに手に持つ小槌を見つめた。どこか不思議そうに小槌を撫でる彼女の仕草を前に、私は内心どぎまぎしていた。大丈夫だろうな、鶏ガラと心の中で何度も呟く。

「でも、なんて願えばいいの?」

「簡単だ」

 ほっと胸を撫で下ろしながら、私はその言葉を彼女に告げた。正真正銘の魔法の言葉だ。間違えないようにと、噛みしめながら一音一音発音すると、なぞるように針妙丸も繰り返す。にこやかに口を動かす彼女を前に、私は怯える心を強引に立て起こした。

 覚悟はあるか。自分自身に問いかける。イノシシは、自分の身を省みず、とにかく前に進むのだ。例え、その先が奈落の底だろうとも。覚悟はあるか。あなたに、世界を捨てる覚悟はあるか。世界に捨てられる覚悟はあるか。すでに答えは決まっていた。

「なら、振るよ!」

 そう云うや否や、右手に持った小槌を一目見た彼女は、軽々とそれを上下に振った。止める暇すらなかった。躊躇する私の心を無視するかのように、彼女は元気に小槌に声をかける。まあ、いいか。これで損をする人物はいなくなった。ハッピーエンドに向かうはずだ。一寸法師の物語のように、最後は円満でみんな笑顔に。何とも現実離れしているが、それでも私はそれを望まずにはいられない。“お前は人間よりも人間らしい”その通りだ。夢見る天邪鬼。もはや、この言葉の羅列が矛盾しているが、それでもいいかと思った。

「それなら、正邪も一緒に叫んでね」

 いくよー、と声をかけられる。震える心を奮い立たせ、喉に空気を入れた。何を恐れる必要がある。地獄よりも恐ろしい所なんて、今と変わらないじゃないか。

「せーの」

「「すべてをひっくり返せますように!」」

 小槌がシャリンと音をたて、視界が光に包まれる。体に黒い何かが押し寄せてくるような、そんな気がした。胸の内を虫に食い破られている気分だ。その穴に確かに何かが押し込まれていく。間違いない。地獄への片道キップだ。

 光が段々と退いていく。どこか嬉しそうに微笑む針妙丸が、両手を開き、私の胸に飛び込んだ。支えきれず、そのまま草むらに倒れ込む。彼女の手に持った小槌が点々と転がっていくのが見えた。えへへーと、子供の様に笑う彼女の胸を小突く。

「何しやがる」

「いやー、これで正邪も仲間だなって」

「どっちかといえば、共犯だな」

 まとわりつく彼女を引き剥がし、空を見上げる。そこには、立派な城が上下逆さまで宙に浮かんでいた。

 

 

「そういう運命だからだ」

 目の前で、ぎゃあぎゃあと喚いている針妙丸にそう告げた。だが、どうやらそれでも納得いってないらしく、ああだこうだと文句を言っている。こんな時なのに無邪気なものだ。

「いいじゃん別に! 遊んでくれたって」

「嫌だ」

「えー」

 小槌を針妙丸に振らせた後、一度紅魔館に寄った私は、輝針城へと来ていた。不機嫌な死針妙丸を無視し、近くの窓から外を覗き込む。空はもう暗くなっていた。地上を見下ろすと、人里の明かりがちらちらと見える。あれのどの光が寺子屋なのだろうか、と探すもすぐに諦めた。

「でも、意外だったな」

「何が?」

「逆さの城なのに、中は普通だってことだよ」

「そりゃあ」

 針妙丸がぴょんと跳ねた。癖なのか、身体を大の字にしてその場でくるくると回る。今の彼女がやると、酔っぱらった大人がふざけているようにしか見えなかった。

「部屋まで逆さまだったら、住みにくいでしょ」

 答えになってないような針妙丸の言葉を無視し、鶏ガラのことを思い出す。紅魔館での鶏ガラは、いつもに比べ少しやつれていた。元々骨のように生気がない彼女であったが、一段と疲れているようだった。そんな彼女の忠告を思い出す。真面目に対策しないと、大変なことになる。しかし、誰がどう見ても今の私たちは真面目という言葉からは程遠かった。

「というか、正邪一回ここに来てるじゃん」

「そうだったか?」

「ほら、なんか小槌をカメラで撮ってたよ」

「ああ」

 確かにその時来ていた。が、あまりに焦っていたため、ほとんど覚えていなかった。つい最近のことなのに、はるか昔のようにも感じる。

「楽しみだね、下克上!」

「そうだな」

 今や、私と同じ背丈になってしまった針妙丸に目をやる。右手に打ち出の小槌を持ち、それを軽々と振り回していた。打ち出の小槌が一体どのくらい恐ろしいものか知らずに、おもちゃのように気軽にくるくると弄んでいる。

「それにしても、やっぱ変だよな」

「変って何が?」

「お前」

「酷い!」

 ぷんすか! と怒りながら、私に文字通りつっこんでくる。手に握った打ち出の小槌を放り投げ、腹に突進してきた。ボスンと鈍い音を立て床に落ちた小槌を見て、肝が冷える。焦りと恐怖で体が固まり、届かないにも関わらず反射的に手を伸ばした。

 だが、何を勘違いしたのか知らないが、針妙丸は私と同じように両手を広げ、鳥のような格好で私に飛び込んだ。小さい時の頃と同じくらいの勢いで体重をかけられるので、当然支えきれるはずもなく、そのまま床に押し付けられる。ギシギシと木が軋む音が聞こえ、そこでやっと彼女の手が私の腰にまわっている事に気がついた。懐に隠している物がばれないかと、不安になる。

「おい、私に下克上しても意味ないぞ」

「正邪が私のことを変とかいうからじゃん」

 怒っていると言いたいのか、頬を膨らませながら不満を口にしているが、その目からは喜びが溢れ出ていた。理由は容易に想像できる。小さかった昔の自分では、私の膝までしか届かなかった手が腰にまで伸びているのが嬉しいのだろう。なんとも単純だ。

「変ってのはあれだよ、お前の背だ」

 えー、とよく分からない声を漏らしている彼女を私は見ていなかった。床に落ちた小槌を見つめ、それから自分の懐にこっそりと手を伸ばす。ほっと胸を撫で下ろし、焦った昔の私に文句を言いたくなった。大丈夫だと分かっていたのに、手を伸ばしてしまった事が悔やまれる。打ち出の小槌の恐ろしさを、私は身に染みて感じていた。文字通りで、だ。

「どうして私の背が変なの? むしろ、普通になったでしょ」

 こてんと首を傾げた彼女は、頭のお椀が気になるのか、手で弄っていた。そのお椀はもはや鍋くらいの大きさになっている。間違いなく、幻想郷最大のお椀だ。

「だから変なんだよ。小人の身長が普通だったら、おかしいだろ」

「そうかな?」

「そうだ。背の大きい小人、空飛ぶ魚、昼行性の吸血鬼、全部おかしなものばかりだ」

「そこまで変じゃないよ!」

 私にまたがったまま、針妙丸はポカポカと胸を叩いてきた。大して痛みは無いが、無視できるものでもない。左手で体を起こし、彼女を振り払う。鶏ガラに怪我を治してもらっていなかったら、こんな風に起き上がれることもできなかったはずだ。そう思うと、恐ろしい。

「変なんだよ。お前だって、頭突きをしない慧音がいたら、驚くだろ?」

「それは……驚くけど」

「それと一緒だ」

 そうなのかな、と納得したのかしてないのかよく分からない声を出した彼女は、そんなことより! とまた声を張った。どこからそんな声が出ているのか分からないが、鼓膜を直に殴りつけるような、暴力的なまでの大声だ。もしかすると、彼女が窮地に陥った時は、大声で叫べば、相手を失神させることもできるのではないか、とそう思うほどだった。

「そんなことより、遊んでよ!」

「だから、嫌だと言っただろう」

「いいじゃん、どうせ暇なんだし」

「それはお前だけだ」

 地面に寝転び、駄々をこねるように転がる彼女に目を落とす。いくら体が大きくなろうが、根は子供のままだ。

「でも、正邪も悪いよ。セキニンってやつがあると思う」

「ねぇよ。何だよ責任って。説明してみろ」

 口にはしたものの、どうやら責任という言葉の正しい意味は分かっていないようで、あのねあのね、としどろもどろに口を動かしている。

「セキニンっていうのは、えっと、あれでしょ。お祝い事の時に食べる、あのもちもちした」

「それは赤飯だろ、馬鹿じゃねぇの」

「うるさい! どっちも似たようなもんでしょ!」

 へそを曲げてしまった彼女は、そっぽを向き、「だったら、悪いことをした人が来たら赤飯をあげればいいじゃん」と支離滅裂なことを言った。

「責任をとって、赤飯を食べさせるのか? それ、逆に喜ばせるじゃねぇか。毒でも盛るのかよ」

「そうだよ!」

 私の言葉をまともに訊いていないのか、彼女はそれ以降なにを言っても生返事しかしなくなった。相も変わらず頑固者だ。こんなところばかり彼に似てしまって、不憫としか言えない。

 畳に座り込み、私と目を合わせようとしない針妙丸に構うのを止め、部屋を見渡す。呆れるほどに広く、そして豪華な城だ。緑のい草を敷き詰め、そこに黒と金の混じった漆のようなもので線を引き、最後に梅の花の香りを練り込みました。そう言われても違和感がないほどに、部屋中に高貴さが漂っている。正直にいえば、落ち着かない。それはどうやら針妙丸も同じようで、部屋を見渡してはどこか不満そうに頬を膨らめた。

「やっぱ、暇だよ。なんで外に遊びに行っちゃいけないの?」

「なんでって」

 当然、危険だからに決まっている。だが、直接そのことを伝える訳にはいかない。そう伝えると、彼女は必ず「何で?」と聞いてくるだろうし、そうなると、私は確実に答えることができないからだ。

「ねぇ、いいでしょ。晩御飯までには帰るからさぁ」

「駄目だ」

「いいじゃん!」

 ばさりと着物を翻し、身体をバタバタと床に打ち付けている彼女は、小さかった時はただの子供のおふざけにしか見えなかったが、今では川際に打ち上げられた魚のようだ。

「いいか、よく聞け。晩御飯までには帰るって言葉は信用しちゃいけないんだよ」

「そうなの?」

「そうだ。絶対に誰にも言わないからって約束する奴と同じくらい信用してはいけない」

「なんで?」

 針妙丸は不思議そうに首を捻った。

「考えてもみろ。晩御飯がいつできるかなんて、分からないだろ? それに、いつの晩御飯か言ってないじゃないか。これだと、別に今日じゃなくて、違う日だとしてもおかしくない」

「おかしいよ」

「おかしくない。だから、そもそも晩御飯までに帰るとかなんとか言った時点で、お前はもう外に遊びに行く権利は無くなってんだよ」

「えー」と眉を下げた針妙丸だったが、「でも、正邪は今さっき紅魔館に行ってたじゃん」と恨めしげに見つめてくる。その目は半分閉じられており、非難するというよりは、呆れているようだった。

「私はいいんだよ」

「何で?」

「晩御飯までに帰るってのは、温かいうちにご飯を食べれるために帰るってことだ。おいしく食べるために」

「そうだね」

「私は別に、もうその必要がないからな」

「正邪は美味しいご飯を食べられなくてもいいってこと?」

「ああ。今はそれどころじゃない」

 私はまた嘘をついた。できれば、美味しくご飯を食べたいに決まっている。しかし、それは過ぎた願いだ。毎日食事ができ、生きていけることだけで私たち弱小妖怪にとっては幸運といえる。それ以上を願うのは高望みというものだ。だから、後悔なんてしていない。

 まだ少し納得していなかったようだが、膨らませていた頬からふしゅぅと空気を抜き、分かった、と頷いた。

「正邪がそこまで言うなら、止めとく」

「そうしろ」

 とぼとぼと立ち上がり、私にもたれかかるように座り込んだ彼女の重みを感じながら、窓の外を見やる。地上よりもかなり上に浮いているはずだが、星との距離は相変わらず遠い。弱者と強者の差も、同じようなものなのだろうか。絶対に手が届かないのだろうか。そんなはずはない、と自分に言い聞かせる。そうしなければ、心が折れてしまいそうだった。

「あ、あれって、もしかして人じゃない?」

 そんなことを考えていると、針妙丸が突然声を上げた。あまりにも急だったため、体が震え、隣にいた針妙丸の背中に肘をぶつけてしまう。が、彼女は痛がる素振りもなく、けろりとしていた。

「やっぱり。あれは絶対人だよ。ほら見てみて!」

 頬と頬をくっつけるようにして私の顔の位置を変えた針妙丸は、窓の外を指差した。いやいやながらも、彼女の指の先に視線を移す。

 結論から言えば、窓の外に人はいなかった。当然だ。こんな深夜に外に出る人間なんていないし、そもそも空に浮かんでいる逆さの城に来られる方がおかしい。では、針妙丸が見間違えたのかといわれれば、そうでもない。確かに、輝針城の外には動く影があった。窓にへばりつくようにこちらを見て、何かを伝えようと必死に口を動かしている。しかし、肝心の内容は分からない。 

 そいつは、縦にくるくると巻いた髪を棚引かせていた。和装にスカートという奇妙な格好をしており、ひらひらと白いフリルが印象的だ。暗くてよく見えないが、青い髪が良く似合う少女。ぱっと見はそう見えた。だが、実際はただの少女ではない。明らかに異常な点が何か所かあった。

「背の高い小人はおかしいと言ったけど」

 まず、その少女には耳がなかった。本来耳がある箇所には先のとがった、ヒレのようなものがついている。だが、それよりも圧倒的に印象的だったのは、足だ。

「まさか本当に空飛ぶ魚がいるとはな」

 彼女の足は、魚の尾びれと全く同じだったのだ。

 

 

 人魚、と聞けば普通はどのような印象を抱くだろうか。おそらくは、優雅で美しく、放漫な体と人を魅了する歌声で人間を虜にする魔性の存在。そんなことを考えるのではないだろうか。

「あの、始めまして、であってますかね」

「当たり前だろ、私はお前なんて知らない」

 間違っても、いま私の前で、おどおどと怯えるように周りを見渡している小魚のことを思い浮かべる人はいないはずだ。

 輝針城。私たちがいる空に浮かんだ逆さまな城を、鶏ガラはそう呼んだ。当然、ただの城ではなく、無駄に広く、そして迷路のように入り組んでいる。警備も万全の様で不審者が入ってこれば、様々な罠が発動するらしい。その不審者の判断基準は定かではないのが恐ろしいところだ。目の前で、ピチピチと跳ねている小魚は、どうやら不審者には該当しなかったようで、平然と輝針城へと入ってきた。警備という言葉の意味を、私ははき違えていたのかと、心配になる。

「私はわかさぎ姫といいます」

「姫! 私と同じだね」

 何が同じなのか分からないが、針妙丸はそうはしゃぎ、わかさぎ姫に勢いよく抱きついた。見るからに弱気なわかさぎ姫は、きっと、針妙丸の勢いに気圧されてしまうだろう、と考えていたが、予想に反し、元気がいいですね、と優しく微笑んだ。

「私、霧の湖に住んでいるので、妖精の扱いには慣れているんですよ」

 そいつは妖精じゃない、と口では反論したものの、私は納得していた。確かに霧の湖の妖精たちは、針妙丸よりも騒がしく、幼く、そして愚鈍である。そんな彼女らと共に過ごしていれば、嫌でも寛大になるはずだ。

「それで? 何の用で来たんだ。まさか珍しい建物が浮かんでたから、なんて馬鹿な理由で来たわけでも無いだろ」

「まあ、それも少しはありますが」

 苦笑いをした彼女は、その太い尾びれをくねらせながら、魔女さんに頼まれたんです、と口元を歪めた。

「実は、これを届けに来たんです。あなたにとって大事な物と聞いたので」

 笑みを崩さずに、懐をまさぐった彼女は、円錐状の茶色い物体を取り出した。一瞬、それが何だか分からなかったが、にこにこと笑みを携えながら頭に被るわかさぎ姫をみて、何時の日か無くした笠だという事に気がついた。

「この笠って、正邪のなんだ!」

 久しぶりに私以外の奴と会ったからか、針妙丸は浮足立っていた。くるくるとその場で踊り、わかさぎ姫にえへへーと笑いかけている。それに答えるように、小魚も首を傾けた。なぜだか、無性に腹が立つ。

「遅せぇよ、馬鹿野郎」

 だからだろうか、つい語調が強くなってしまった。

「遅いって、何か使う予定でもあったの?」

「おいおい自称茶碗蒸し姫様。あなたは笠の使い方も知らないのですか? 」

「ちょっと! その丁寧な言い方止めてよ。正邪がいうときもちが悪い」

 私はてっきり、笠の使い方ぐらいわかる、だとか、私は茶碗蒸しではない、と怒られると思っていたので、少しの間ぽかんとしていた。まさか、敬語を叱られるとは思っていなかったのだ。

「きもちが悪いとは、酷いですね。姫様」

「止めてって!」

「良いことを教えてあげますよ、姫様」

 自分を抱きしめるように両腕を肩に回している針妙丸を見ると、心が躍った。顔がにやけていくのが自分でも分かる。大きくなっても小人は小人、その単純な性格は変わっていない。

「敬語には不思議な力があるんですよ。一見、相手に敬意を払っているように見えますが、時と場合によっては相手を馬鹿にしているようにも聞こえます。そして何より、相手との距離感がより広く感じられるのです。だから、姫も相手と距離を置きたいと思った時には敬語で話してみてはどうですか?」

「だから、止めてって。それだと、正邪は私と距離を置きたいってことになるじゃん」

「ご明察です」

 もー、と牛のような呻き声をあげた針妙丸は、これまた牛のように私に突っ込んできた。大きくなった針妙丸の扱いにもだいぶ慣れてきた私は、受け止めるふりをして、さっと横へ躱す。「なんで~」と奇声をあげながら床へと這いつくばる針妙丸を見下し悦に浸っていると、不敵に笑った彼女は地面に倒れ込んだ反動で、間髪入れずに起き上がり、もう一度私に突っ込んできた。虚を突かれ、反応が遅れた。身体を床に押し付けられ、素っ頓狂な声が漏れる。えへへ、といつものように勝ち誇った笑い声が上から聞こえた。

「今日も私の勝ちだね」

「勝ち負けなんて、主観で変わるものだろ? そんな物に意味はない」

 負け惜しみだー、と私を指差す針妙丸を無視し、痛む腰を撫でる。

「ねえ、大丈夫?」

「大丈夫じゃねえ」

「大丈夫って聞いて、大丈夫じゃないって返さえたのは初めてだよ」

「文句は慧音に言ってくれ」

 打ち出の小槌の影響で身長が大きくなって以来、彼女はやけに私の腰へ飛びついてくるようになった。いや、飛びつくなんて可愛いものなんかではなく、もはや突進に近い。段々とその技術は上がってきている。もしかすると、誰かに襲われた時は、突進をすれば逃げ出せるのでは、と思うほどだ。 

「ずいぶんと、仲がいいんですね」

 腹の上に乗っている針妙丸をどかそうと脇の下をくすぐっていると、小魚が口を開いた。くすくすと、口元を裾で隠して笑っている。その仕草は確かに姫様じみていた。

「仲がいい? 冗談だろ」

「え? むしろ、冗談じゃないくらいに仲がいいって感じですけど」

「良かったね、正邪。褒められたよ」

「良くねえし、褒められてもねえ」

 私たちを交互に見て、また声をこぼすように笑った小魚に舌打ちをする。奥歯を噛みしめ、息をのみ込んだ。「あなた達は仲が良すぎるのよ」鶏ガラが言ってきた言葉を思い出す。「そんなんだと、痛い目に遭うのはあなたよ」そんなことは分かっていた。分かっていたはずなのに、何故かこいつとの距離を離せない。血まみれで泣いている三郎少年の姿が頭に浮かんだ。このままでは、水の泡だ。

「いいか小魚、私はこいつをただ利用しているだけなんだよ。下克上をするための、ただの手駒に過ぎねぇんだ」

「そうなんですか?」小魚が針妙丸に向かい首をかしげる。

「え、違うよ」

「ですよね」

「何で信じねえんだよ」

 私の言葉はいつだって信じてもらえない。逆に、「こいつと私は仲良しなんだぜ」と言い張れば、信じてもらえるのではないか、と半ば本気で考えるほどだ。

 楽しそうに針妙丸と雑談を始めた小魚の頭から、笠を奪い取る。お世辞にもきれいとは言えないそれの、飛び出した管が手に引っかかったが、気にせず自分の頭にのせた。心なしか、魚特有の生臭さが鼻につき、顔の前で手を振る。

「おい、もう笠は受け取ったから、とっとと帰れよ。用事はもう済んだだろ」

「確かに、頼まれていた任務は完了しましたが」任務を完了するという言い回しがその口調と似合わず、吹き出しそうになってしまう。

「でも、なぜだかここから離れたくないんですよね。なんだか、この城に引き寄せられたというか、ここであなた達に会えた運命を大事にしたいというか……。あ、でも、単純に針妙丸さん達とお喋りするのは楽しいですよ。でも、なんか違う感覚があって」

 自分でもよく分かっていないのか、不思議そうに肩をすくめ、どこか要領を得ない話し方をする小魚を前に、私と針妙丸は顔を見合わせていた。私自身はどんな顔をしているか分からなかったが、針妙丸はいたずらに成功した子供の様に、無邪気な笑みを浮かべている。

「やっぱり、打ち出の小槌の力は本物だったんだね」

 小声でそう囁き、私に見せつけるように小槌を振った彼女は、よっぽど嬉しかったのか、小魚の元へ歩み寄り、その手を掴んだ。ぶんぶんと大袈裟に振っている。

「そうだな」

 私の言葉は小魚の叫び声にかき消された。あっ、と短く、けれど人を惹きつけるような独特な声で叫んだ彼女は、そうでしたそうでしたと手を叩いた。

「言うのが遅くなりましたけど」

「遅せぇよ、馬鹿野郎」

 言葉を遮られ、不機嫌だった私は、彼女に対して分かりやすく敵意を剥き出しにしたが、彼女は平然と無視した。

「仲間達からきいたんですけど、近々本格的に動くらしいですよ」

「動くって何が?」

「さすがに、ずっと放置しているわけにもいかなかったらしいですね。付喪神が突然大量発生したことが決め手だったそうです」

「だから、何が動くんだよ」

 私に顔を向け、少し眉を下げた。ぴたんぴたんと尾びれで床を叩いている。言おうかどうか迷っているのか、黙って俯いていた。少しの間、針妙丸の鼻歌だけが辺りを包んだが、意を決したように小魚は頷き、口を開いた。

「巫女ですよ。巫女が異変解決に向け、動き出したのです」

 一瞬、私は呆然とし、自分の耳を疑った。巫女が動くのは分かっていた。覚悟していたと言ってもいい。だが、心のどこかで実は来ないのではないか。来るとしても、来年あたりなのではないかと期待していた。慢心していた。高を括っていた。だから、その言葉をすぐに受け入れることはできなかった。この曖昧で、どこか平和ボケした瞬間が終わりだと認めたくなかった。覚悟をしていたはずなのに、それでも恐怖心は拭えない。終わる決意が出来ていなかった。

「やっぱり、言うのが遅かったでしょうか?」

「遅せぇよ、馬鹿野郎」

 自分でも驚くほどに、声に生気がこもっていなかった。

 

 あなたは氷を作ったことがありますか? 突然小魚がそう切り出した。

「霧の湖には氷精がいるので、氷についての知識はそれなりにあるんですよ」

 そんなことよりも、さっき言っていた巫女についての話をしろ、とすごんだが、耳がないせいか私の声は聞こえなかったようで、「氷を作るのは案外難しいんです」と続けた。

「確かに普通に池の水を冷やすだけでも氷はできるんですけど、それだと汚い、濁った氷になるんですよ」

「何の話だ」

「綺麗に氷をつくるためには、綺麗な水が必要なんです。それに、こう見えても私は人魚なので、水には煩いんですよ」

「何の話だ」

「綺麗な水ってことは、不純物を取り除かなくてはいけません。ほんの少しでも不純物が入っていると、台無しになってしまうんです。でも、最近は汚い氷ばかりで困ってて」

「だから、何の話だよ!」

 憤った私を宥めるように、まあまあ、と私と小魚の間に割って入った針妙丸は、「面白そうだし、聞いてみようよ」と肩を撫でた。ますます気に入らない。

「つまりですね、私が何を言いたいのかといいますと」そこで小魚は言葉を切った。得意げに鼻を鳴らし、挑発するかのように両手を広げる。

「水こすことが出来ないってことです」

「は?」

「あれ? 分かりませんでしたか? 見過ごすと水をこすってのをかけているんです」

「止めろ、説明すんな」

 あまりにも下らなすぎて、怒る気力も失せてしまう。

「どうですか? 面白かったですか」

「これを面白いというお前が滑稽で面白いよ」

 くすくすと笑う小魚は、よほど自信があるのか、思い出して自分で笑っているようだった。だが、そんな姿ですら私と違い、どこか気品に溢れている。こんな寒い洒落を言う妖怪がいるとは世も末だ。

 ふと、針妙丸が声を出していないことに気がつき、隣に目を向けた。てっきり私は、あまりにもつまらなすぎて、あんぐりと口を開けているか、それとも話をそもそも聞いていないかのどちらかだと思っていたが、違った。予想に反し、彼女はその大きくなった体をよじり、声を殺して笑っていた。両手を口に当てて、顔を真っ赤にしている。

「おい何で笑ってんだよ」

「っ……。だって、面白いんだもん」

「嘘だろ」

 堪えることが出来なくなったのか、声を出しながら腹を抱え始めた針妙丸は、足をバタバタと床に打ち付けた。つられるように、小魚も大声で笑いはじめる。どこか静かで、厳かな雰囲気だった輝針城が、一転むかしの寺子屋のような活力の溢れる場になった。もう夜も大分更けてきたにもかかわらず、部屋の中は明るくなったかのように感じる。沈んでいた心が不思議と明るくなる。勇気はあるか? 頭の中で声が響いた。絶望する勇気はあるか? 今であれば、はっきりと返事はできる。

「少し、元気な顔になりましたね」

「は?」

「巫女の話をした途端、急に顔が暗くなったので、びっくりしました」

 やっぱり、笑いは人を救いますね、ともの知り顔で語った小魚は、「まあ、仲間の言葉なんですけど」と照れくさそうに笑った。

「さっきから仲間とか言ってるが、もしかしてあのクソみたいな妖精たちのことか?」

「違いますよ。草の根妖怪ネットワークって知ってますか?」

「なにそれ?」

 まだ笑いが収まりきらないといった様子ではあったが、一応話は聞いているようで、針妙丸が口を挟んだ。「むだ骨妖怪ネットワーク?」

「違いますよー」

 穏やかに微笑んだ小魚は、そのなんちゃらネットワークとやらがよっぽど誇らしいのか、わざとらしく胸を張った。

「草の根妖怪ネットワークです。弱小妖怪で集まって、色々な情報を共有したり、一緒に遊んだりしてるんですよ」

「井戸端会議みたいなものか」

 馬鹿にされたと思ったのか、少しむっとした小魚は声を少し大きくして、語尾を強めた。

「もっと凄いんですよ。例えば、今回の巫女の情報だって、その内の一人が拾ってきてくれたんですから」

「それはすごいね」

 うんうんと頷いている針妙丸を見て気を良くしたのか、「あなたも是非入って下さいよ」と針妙丸に手を伸ばした。嬉しそうに微笑んだ針妙丸は、少しだけ私を横目で窺ったものの、私が首を縦に振った瞬間に勢いよく手を握った。

「これも、小槌の力だね!」とはしゃいでいる針妙丸は心底嬉しそうに顔をくしゃりとさせた。小槌の力で得た友人がいいものかどうか私には分からなかったが、目の前の二人を見ていると、きっと小槌なんて無くったって、仲良くなっていたに違いない、と確信できる。それほどまでに彼女たちは馬が合っていた。ほっと安心している自分がいて、驚く。私がいなくても、針妙丸は何とかなりそうだ。

「そうだ! 正邪も入ろうよ。正邪も弱小妖怪なんだし」

「ああ、ごめんなさい。正邪さんは駄目なんです」

「おい、何でだよ」

 別段入りたくもなかったが、いざ拒否されるとそれはそれで気に入らなかった。仲良く手を握っている小魚の肩を掴み、小さく揺する。

「それはあれか? 私は弱小妖怪というには強すぎるってことか」

「違いますよ」

 御冗談を、と眉を傾けた小魚は申し訳なさそうに首を振った。

「私は草の根妖怪ネットワークが好きなんですよ。だから駄目なんです」

「なんでだよ」

「だって、ほんの少しでも不純物が入っていると、台無しになってしまうんです。私は草の根妖怪ネットワークを台無しにしたくありませんから」

 おいおい、私は不純物なのか、と嘆く声に返事をしてくれる者は誰もいなかった。

 

 

 姉妹とは何か。普通に考えれば、同じ母親から生まれた二人の女性のことを指すだろう。場合によっては、例えば別腹の姉妹だとか、義理の姉妹といった例外が存在するだろうが、それでも何となく納得することはできる。

 だが、同時に生まれた付喪神を姉妹と呼ぶかは私には分からなかった。

 輝針城の天守閣を離れた私は、色々な部屋を見て回っていた。何か、妙なものが無いかと心配になり、無数にある部屋を一つ一つ確認していたのだ。が、そこにはただ高級な畳があるだけだった。急いで針妙丸と小魚がいる天守閣へと走る。そんなに時間も立っていないはずだが、この短時間の間に巫女が攻めに来て、全てが終わっていましたでは、まあそれも問題は無いが、できれば避けたかった。

 長い廊下を進み、襖を開く。すると見慣れぬ人影が現れた。それも、二人もだ。小人と魚と、それに加え楽器を持った美しい何者かが呑気に畳に座り、雑談をしている。こんな様子では、巫女が来たとしてもすぐにたどり着いてしまうのではないか、とため息が漏れた。

「おい、いつから輝針城は託児所になったんだよ」

「あ、正邪。お帰り」

「お帰りじゃねぇよ」

 無邪気にこちらを振り返った針妙丸は、紹介するねと笑顔を向けた。隣に座った二人の背筋がピンと伸びる。まるで恋人を紹介されているように感じて、奇妙な気持ちになった。雑念を振り払うように強く首を振る。

「えっと、付喪神の九十九弁々さんと九十九八橋さん。九十九が苗字らしいよ。弁々さんが琵琶の付喪神で、八橋さんが琴の付喪神だって!」

「だってじゃねぇんだ。何でそいつらがいるのかと聞いてるんだよ」

 琵琶と琴の違いも碌に知らない癖に、意気揚々と語る針妙丸が気に食わなかった。そして何より、そんな甘い針妙丸と親しげに話し合っているその付喪神が怪しく、危険なものに思えた。

「なんでって」二人の九十九姉妹の右側、八橋と呼ばれた少女は短い茶色の髪をわしわしと掻きながら、無邪気な笑顔を浮かべた。

「せっかく付喪神になって、動けるようになったから。ね、姉さん」

「そうだ」今度は後ろに二つ括られた弁々と呼ばれた少女が口を開く。

「誰だって、動けるようになったら自由に動きたくなるし、こんな変な建物があったら来たくなる。仕方がない」ベンベンと琵琶の音を鳴らしながら言った彼女に、軽く怒りを覚える。付喪神というのは、どうやら随分と生意気の様だ。

「お前らみたいな楽器風情が歩いてんじゃねぇよ。大人しく倉庫で眠ってろ」

「お前さん」弁々は悲しそうに、笑った。

「笑いのセンスがねえな」

 ぷちり、と頭の何かが切れた音が聞こえた。彼女らに向かい、ずかずかと近づいていく。こんな奴ら、小魚もろとも追い出してやる。そう意気込んでいたが、ニコニコと頬を上げながらこちらに向かってくる針妙丸に歩みを止められる。何だよ、と呟くも、口に手を当てた彼女は私の耳元で小さく呟いた。吐息が当たってくすぐったいが、我慢する。

「ねえねえ、もしかして、これもあれなのかな」

「あれって、なんだよ」

「小槌の力」

 その一言に、私ははっとした。確かに、あり得ない話ではなかった。どうしてこの願いで道具に付喪神が宿ったかは、ほとほと不思議だったが、もしこれがそうであるならば、この九十九姉妹と出会うことが小槌の目的によるものだとすれば、不自然ではあるものの納得できるのではないか。そう思えた。

「なあ、針妙丸」

「何?」

「お前から見て、あいつらはいい奴だと思うか?」

「もちろん!」

 考えることもなく、彼女は即答した。その目には一切の迷いもなく、キラキラと輝いている。あなた達は仲が良すぎるのよ。また、頭の中で声が響く。もしも、彼女たちが針妙丸の仲間になるのならば、後々役に立つのではないか? ふと、そんなことを思った。だが、腹が立つことには変わらない。

「もしかして、あなたが鬼人正邪かい?」

 腕を組み、必死に頭を回していると、弁々がにやにやと笑いながら声をかけてきた。どこか面白がられているように感じて、気に入らない。畳に足を叩きつけるように腰を下ろす。

「いや、見えないねぇ」

「見えないって何がだ」

「あんたが下克上を企んでいる天邪鬼ってことだよ」

 口の中に、苦い液が充満してくる。何か言葉を発しようと口を開くも、喉に何かが詰まったかのように言葉が出てこない。ただ、ふしゅうと空気が漏れる音がしただけだった。

「姫から聞いたよ。姫のために下克上を決意するなんて、あんた、粋だねえ」

「止めろ。針妙丸のためじゃねえ。あと姫ってよぶな」本心で私は言った。

「でも、すごいよ。強者に立ち向かおうとするのは」八橋が屈託のない笑顔を見せる。

「ですね。中々できることではありませんよ」小魚もそれに続いた。

 これ以上ない居心地の悪さを私は感じていた。今すぐにでもここから飛び出し、どこでもいいから頭を冷やしに行きたかった。実際に、畳から腰を上げ、外へと向かおうとしたが、その途中で、足元に打ち出の小槌が転がっていることに気がついた。慌てて針妙丸の方を見ると、彼女はそれを意に介した様子もなく、ぺちゃくちゃとお喋りに興じている。軽く眩暈を覚えた。こんな大切なものを放置しておくなんて、慧音が訊いたら悲しむだろう。もっとも、この小槌を最初に紛失したのは慧音なので、人のことは言えないだろうが。

 無意識に、それを拾おうと手を伸ばしていた。が、小槌に触れた瞬間、何かに弾かれるような衝撃が走り、手を引っ込めてしまう。忘れていたわけでは無かったはずだが、驚く。

「おい針妙丸」

「ん? どうかしたの」

「どうかしたのじゃねぇよ。小槌置きっぱなしじゃねぇか」

 あっと声を漏らした彼女は、トタトタと大きな体を軽やかに動かし、こちらへ向かってくる。えへへと全く反省の様子もなく笑った彼女は、ほら、正邪も一緒にお喋りしようよ、と手を引っ張ってきた。本当ならば断わらなければならないはずだが、何故だかそうすることが出来ない。最後の思い出なんてものではないが、後ろ髪が引かれたのは事実だ。

「何だか、正邪さんは姫のお父さんみたいですね」

「は?」

「あー、確かに」

 まず、針妙丸が当然のように姫と呼ばれている事実に困惑したが、それよりも、その後の言葉が衝撃的過ぎて、そんなことはどうでもよくなった。私が似ている? こいつの父親に? 

「冗談だろ」口から空笑いが零れた。

「あいつは私なんかより、よっぽど天邪鬼してたよ」

 蕎麦を打ちながら、こちらを見下すように笑う彼の姿を思い浮かべる。口が動いているが、何と言っているかは分からない。そこで私は、初めて彼の声を思い出せないことに気がついた。愕然とし、その失意を忘れるように頭を振る。彼の顔は消え、喜知田の顔が浮かんだ。ああ、そうか。私が唯一心残りだったのは、喜知田への復讐がまだだったことでも、針妙丸を残してしまった事でもない。彼と同じ場所へ。地獄か天国は知らないが、そこへ行けないことが心残りだったのだ。

「ねえ、正邪」

 しばらくぼうっとしていた自分の身体を揺さぶり、針妙丸が声をかけた。気がつけば、皆が私を見て、神妙な顔つきをしている。それは、針妙丸も例外ではなく、眉をきりりと真っ直ぐにし、責めるような口調で訊いてきた。

「どうして正邪が私のお父さんのことを知っているの?」

「え」

「ねえ、どうして?」

 背筋が凍った。世界がくるくると暗転し、この世の中に自分以外の存在が消え去ったかのように思えた。後悔という言葉では生温いような感情が私を襲う。何か。何かを言わなければ。そう思えば思うほど、頭の中がぐちゃぐちゃとかき回されているような感覚に陥る。

「また」いま、どんな声が出ているか、分からなかった。声が震えていないことだけを祈る。

「また、今度言うよ」

 空気が固まった。音が無くなり、自分の鼓動しか聞こえない。冷や汗が背中を伝っていくのが分かった。

「……ぷ」

「ぷ?」

「……くく。あはは!」

 目の前の針妙丸が、突然笑い始めた。それに続き、周りにいた小魚や付喪神も笑いはじめる。ただ、私だけが呆然と佇み、間抜け面をさらしていた。彼女たちがなぜ笑っているのか理解できない。

「いやー、そんだけ溜めといて」間延びした、のんびりした声で八橋が笑った。

「また今度はないですよ」小魚が、着物で口を隠し、細かに震えている。

 初めはくすくすと含み笑いをするだけだったが、突然、爆発するように皆が一斉に笑い始める。針妙丸も体をくの字にして大笑いしていた。バシバシと私の肩を叩き、指をさして笑ってくる。訳が分からなかった。

「分かった。また今度ね」目に涙を浮かべながら、針妙丸は息も絶え絶えに言った。

「何がおかしいんだ」

「だって、正邪が真面目な顔で、また今度っていうのがおかしくて。いつもなら、うるせぇとか、知るかっていうのに」

 そこで、ようやくこの事実に、針妙丸の父親、つまりは蕎麦屋の親父に関する暗い事情を知っているのが私だけだという事実に気がついた。他の連中からすれば、いきなり友人の父親について聞きだしたら、挙動不審になって回答を先延ばしにしたということになるのだろう。なるほど、確かにそれは笑える。

「でもよ、“私なんかよりよっぽど天邪鬼”とか何とか言ってたけど」弁々が愉快げに私に向かいあった。

「少なくとも、あんたより私たちの方が天邪鬼らしいよ」

「冗談だろ。私は正真正銘、卑劣で狡猾な生まれ持った天邪鬼だ」

 私の言葉を受け、アハハと一際大きく笑った弁々は、朗らかに言った。

「訂正するよ。あんた、笑いのセンスがあるわ」

 

「それで、どうやって博麗の巫女に対抗するつもりですか?」

 一通り笑い終わった小魚が、首を傾げた。

 結局、笑いの大合唱が終わった後、彼女たちはより団結力を深めたようで、私の下克上に対して、各々話し始めた。下克上したら何をやりたいか、どんなことをしたいかについて語り合っている。「道具による天下を目指す」と九十九姉妹が意気込めば、「草の根妖怪ネットワークの規模を拡大する」と小魚が対抗し、「私はみんなが幸せになれればいいかな」と針妙丸が呟いた後、みなが気まずそうに流石姫と褒め合う。そんな茶番じみた行為を繰り返し行っていた。が、小魚が巫女に関することを言った瞬間にその議論は柔らかく、微笑ましい物から、激しく刺々しいものに変わっていった。

「私たち生まれたばかりでよく分かんないんだけど」八橋が針妙丸に肩をあずけながら、口元に手を当てた。

「その巫女ってのは強いの?」

「控えめにいって、最強ですね」

 苦笑いをする小魚に同調するように、針妙丸も頷く。

「よく慧音先生が言ってたよ。今の巫女さんは凄いって」

「そんなすごい人に勝てるのかい?」

 弁々が私に向かい指を出した。突然話を振られ、たじろぐ。正直に言えば、巫女に勝つ方法なんて、私には思い付かなかった。いや、そもそも考えていなかったと言った方が正しい。巫女に挑むということは即ち敗北である。私たち弱小妖怪にとっての常識とすれば、巫女にいかに勝つかではなく、巫女にいかに襲われないかが重要だった。そもそも巫女に勝とうという発想がそもそもないのだ。だが、それを口にすることはできなかった。私は下克上を是が非でも達成しようとしている。少なくとも彼女たちにはそう見せなければならない。

「まあ、私たちに切れる手札は少ない。なら、全部使うしかないだろ」

「どういうこと?」針妙丸が期待に満ちた目を私に向けた。

「単純だよ。お前らも巫女と戦うんだ。こんだけ人数がいれば、誰かは勝てる」と私は堂々と言い、小さな声で「かもしれない」と続けた。

「え、私たちも戦うの?」

「まあ、いいじゃないか八橋。道具もそこそこできるということを世の中に知らしめてやろう」

「いいの? もしかしたら、姉さんも私も折角動けるようになったのに幻想郷にいられなくなってしまうかもよ」

「大丈夫さ」片目をパチリと閉じた弁々は、私から見ても魅力的に思えた。が、八橋はそうは思わなかったらしく不満そうに眉をひそめている。

「姉さんが大丈夫っていうと酷い目に遭うよ。毒キノコを食べる羽目になったりとか」

「あれは酷かったな。食いきれなくて、まだ持ってるよ」

 ケラケラと笑う弁々を八橋が小突いた。私は、予想以上に彼女たちが乗り気なことに驚いていた。てっきり、そんな危なっかしいことは御免だ、と突き返されるとばかり思っていたのだ。だから、実際に巫女との戦いに巻き込まれる気でいる彼女たちに、いいのか? とらしくもなく訊いてしまった。

「巫女と戦うということが何を指しているか。下克上ということがどういうことか分かってんのか?」

 傷だらけで図書館に這ってきた門番の姿を頭に浮かべる。願いを下克上ということにしよう、と決めた時のことだ。確かに彼女は巫女にやられたと言っていた。人里や弱小妖怪に被害が及んだとはいえ、たかが赤い霧を出しただけでそうなるのだ。しかも、末端であるはずの門番が、だ。ならば、もし幻想郷の存在を否定する下克上なんてものに関わってしまえば、今までの異変で一番悪質になる予定の私たちの陰謀に足を入れてしまえば、ひとたまりもないはずだ。そのようなことを、曖昧にぼかしながら、私が彼女たちを気にかけていないということを前面に押しつつ、無謀な付喪神に力説した。が、彼女たちは聞く耳をもたかった。

「大丈夫さ」

 親指を立てた弁々は八橋と共に笑った。

「お前の大丈夫は酷い目に遭うんじゃないのか?」

「大丈夫さ」

 誇らしげに笑った弁々はまた、琵琶をベンベンと鳴らし、何かを懐から取り出した。大きな、青色の布だ。

「これ、あげるよ。餞別だね」

「餞別ってどういう意味だ。それに、何だよこれは」

「見て分からないのかい?」

 見下し、鼻を鳴らした弁々は八橋を肘で小突いた。説明してやれよ、とくすくす笑っている。

「これは、青い布だよ」

「は?」

「青い布。具体的には、そこら辺に落ちてた大きな青い布だよ。この寒い季節には役に立つと思うな」

 開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだった。ただの布がどうして餞別になるのか、理解できない。

「おまえ、本当にこんなんで巫女と戦うつもりなのか」

「大丈夫さ」憎たらしい笑みを浮かべ、弁々は私の肩に手を置いた。

「いざとなれば、首謀者である鬼人正邪様が責任を取って下さる」

 その、あまりのふてぶてしさに唖然とした私は、助けを求めるように八橋に目をやった。が、彼女も両手をあげ、細かく首を振っている。姉妹なんだから、しっかり手綱を握って欲しかった。

「あなたがリーダーなんだから、責任を取ってよね」

「なんで私がリーダーなんだ」

「そりゃ、首謀者だもの」

「たかが道具のくせに生意気だな。分かった、もしお前らが何か言われたら、私に脅されたといってもいい」そっちの方が、私にとっても好都合だった。

「どうしてだい? やけに物分かりがいいじゃないか」

「私は天邪鬼だぞ。悪名を轟かせることが好きなんだ。それと、お前らみたいな出来損ないのガラクタを巫女の当て馬にするのも、悪くない」

「あんたが私たちのことが嫌いだということと、被虐趣味なのは分かったよ」

 それぞれの楽器を鳴らし、満足そうに話しあっている二人は、完全に巫女と対決するつもりらしかった。これは説得できない、と途方に暮れていると「手札と言ってましたけど」と小魚が声を高らかに上げた。

「それなら、草の根妖怪ネットワークの皆にも協力してもらいましょうか?」

「お前も一枚かむつもりなのか」

「一枚どころか、三枚ぐらい噛ませてもらうつもりです」

 クスクスと笑った彼女だったが、ふざけている様子では無かった。本気だ。本気で下克上に加担しようと、巫女を倒そうとしている。

「お前、巫女の強さは知っているだろう」

「もちろんですよ。あの高名な巫女さんのことは知っています」

「なら」

「憧れなんですよ」

 その声は、決して大きくはなかったが、どこか熱を帯びており、私たちを困惑させた。

「一度でいいから、巫女さんと戦ってみたかったんです」

「なんで」

「だって、あの博麗の巫女さんですよ。私たちにとって、雲の上の存在じゃないですか」

「別に会いに行こうと思えば行けるけどな」

 そういうこと言わないで下さい、と不貞腐れた小魚は、両手を畳につけ、尾びれを細かく震わせている。夢見がちにぽぅと上を向いた姿は、人魚と呼ぶに相応しく、美しかった。が、「巫女を倒すには、毒でも盛ればいいのかしら」と聞き捨てならない言葉を発している彼女を美しいと呼ぶことは、私には出来ない。

「ならさ、チーム名とか決めようよ」

 わいのわいのと盛り上がっている内に、針妙丸が突然そう切り出した。あまりに突然すぎて、彼女の言葉を理解できない。

「なんだよチーム名って」

「例えばさ」慧音の真似をするように、指を立てた針妙丸は私たちの顔を順に見回した。

「草の根妖怪ネットワークとか、守屋とか、紅魔館みたいに、みんなチーム名を持ってるじゃん」

「紅魔館は建物の名前だけどな」

「とにかく」私の言葉を無視し、彼女は嬉々として言葉を並べる。

「私たちもチーム名を作った方がいいと思うの。楽しそうでしょ」

 流石に馬鹿らしいと笑った私をよそに、やろうやろうと他の四人は盛り上がり始めた。輪に入るのも億劫で、窓の外を眺める。巫女はまだ来ていないか、小槌の魔力はどうなっているか。それだけが気がかりだった。そうして、しばらく外を見ていると、頭がぼんやりとし、瞼が下がってくる。単純に疲労がたまってきたからか、それとも小槌のせいか。

「正邪! チーム名決まったよ」

 頬杖をつき、危なく寝そうになっていたところで、針妙丸が声をかけてきた。びくんと体が震え、それを誤魔化すように大きく伸びをする。

「どうでもいいけど、一応何になったか聞いといてやるよ」

「天邪鬼」

「は?」

「天邪鬼になったよ」

「何が」

「だから、ちーむ名だって」針妙丸の後ろにいた弁々が言った。

「ちーむあまのじゃく。いい響きじゃぁないの」

 ちーむあまのじゃあく、ちーむあまのじゃくと音を楽しむように繰り返した弁々は「これで一曲作ってもいいかもな」と嘯いた。

「止めろ」

「その止めろってのは、ちーむ名を天邪鬼にすることか? それともちーむあまのじゃくという曲を作るということか?」

「どっちもだ」

 どうしてそんな最悪な結論に至ったのだ。というか、それは最早チーム名としての意義を果たしていないのではないか、言いたいことはたくさんあった。だが、そもそも肝心なところを彼女たちは勘違いしている。

「私はお前らの仲間なんかじゃない。お前らは道具なんだよ」

「そりゃあ、私たちは道具さ」弁々と八橋が、不思議そうに首をかしげる。

「そうじゃない、比喩だよ」

「比喩?」

「お前らは私のために奮闘し、傷つき、そして捨てられるんだよ。決して対等じゃない。そこら辺を忘れるな。これは私の下克上なんだよ。そのためにお前らがどうなろうと知ったこっちゃない」

「怖いなぁ」ねぇ、姉さんと声を出した八橋の顔には、言葉とは裏腹に一切の恐怖も浮かんでいなかった。

「そもそも何だ。天邪鬼ってのは私の種族じゃねえか。なんでそれをチーム名にするんだよ」

「語呂がいいから」

「ふざけんじゃねぇよ」

 まあまあ、と宥めるように柔らかい言葉を発した小魚を無視し、私は喚き立てる。が、その小魚ですら、楽しそうに「良いじゃないですか、天邪鬼で」と同意した。比較的まどもだと思っていた彼女がそちら側に回ったことは、少なからず私を動揺させた。

「別に天邪鬼に迷惑をかけているわけでありませんし」

「かけてるんだよ、私に。生まれ持っての天邪鬼の私にな!」

「それは」

 ふふんと鼻を鳴らした小魚は、尾びれの鱗を撫で、楽しそうに言った。

「それは、生まれながら私たちのチームの一員ということですね!」

 ああ、と思わず声が零れる。頭に生えた二本の角に手を伸ばす。堅く、短い自慢の角だ。もしかして、私を天邪鬼たらしめているのは、これだけじゃないか、と不安になる。

「やっぱり、お前らの方がよっぽど天邪鬼してるよ」

 せめて、こいつらよりは狡くならなければ、と決意した。

 

 

「みんな行っちゃったね」

「そうだな」

 それでは、各自巫女に喧嘩を吹っ掛けるように! と何とも物騒な号令の下に、付喪神と小魚は勢いよく輝針城から飛び出していった。あれだけ賑やかだったここも、しんと静まり返り、壁際に置かれている白い光を発する提灯の、じりじりという音だけが部屋を覆っている。その静けさが、私を責め立てていた。覚悟をしたのだろう? 巫女が来る前に言わなければならないじゃないか。諦めろ。そう頭の中で声が響く。

「そろそろ下克上の山場ってところだね」

「山場なんて言葉よく知ってたな」

 私は馬鹿にするつもりで言ったのだが、針妙丸は褒められたと思ったようで、えっへんと胸を張った。

「たぶんだけど、巫女とたたかって、勝てば下克上は大きく進むと思うんだ」

「勝てると思っているのか?」

 ふんふんと鼻歌を歌っている針妙丸に対し、私はつい、責めるような口調になってしまっていた。いくら小槌の力で体が大きくなっているとはいえ、あの針妙丸が巫女と戦う、ましてや勝つことなど不可能だ。むしろ、そうでなくては困る。

「正直に言えば、私は勝てないと思う」

「え、そうなのか?」

「うん。よっぽど運がないと無理だよ。だって、あのけいね先生でも勝てないっていってたもん」

 意外だった。無鉄砲ではしゃいでばかりいる彼女が、純粋に巫女と自分との力量差を見極めることができるとは思いもしなかった。負けるわけないじゃん! と怒り狂うと思っていた。

「巫女に勝てる見込みはないってか」

「面白くないよ、それ。わたしはね、巫女に伝えたいんだ」

「伝えたい? 何を」

「弱者の気持ちだよ」

 どこか遠い目で彼方を見つめた針妙丸は、眉を下げ、力なく笑った。身長が大きくなったからか、その表情はどこか憂を帯びていて、色気づいている。そんな彼女を見て、私は愕然としていた。彼女は、平和で穏やかな世界で生きていると、私はそう思い込んでいた。いや、そうでなくてはならないとすら考えていた。が、そんな彼女ですら、弱者でいる苦しみを、逃れられようもない理不尽を感じていたというのか。いったいなぜ。答えは明確だった。私のせいだ。

 落ち着かない心を誤魔化すように、畳に置かれていた布を掴む。九十九姉妹が餞別にくれた、青い布だ。非常に薄く、寒さを防ぐことすら出来そうになかった。懐に入れるため、小さく折りたたむ。ふわりと、嗅ぎなれた匂いが鼻についた。紅茶とインクの混じった匂いだ。どうして、鶏ガラの匂いがするのか、と疑問に思ったが、すぐにそれどころではなくなった。布にくるまっていた手が、見えなくなったのだ。透明になったといってもいい。慌てて手を布からだし、無理矢理懐に突っ込んだ。その時に、隠している物が針妙丸にバレていないかと不安になったが、気づかれた様子はない。

「それで、弱者の気持ちを伝えたいって、どういうことだよ」

 誤魔化すように、早口でそう尋ねた。

「きっとね、強者は弱者の気持ちなんて考えたこともないと思うの。だから、もしわたしが負けても、そのきっかけになればいいかなって思ったり」

「馬鹿じゃねぇの」

「も、もちろん勝つ気ではいるよ!」

 私が馬鹿と言ったのはそこではなかったが、面倒だったので訂正するのはやめた。まさか彼女が、彼女たちが下克上にここまで興味を抱くとは思わなかった。選択を完全に間違えた。もっと、適当なものにしておけばよかった。だが、今更変更はできない。だったら、今やるべきことをするしかない。今やるべきこと。それは何か。針妙丸と縁を切ることだ。

「なあ、針妙丸。お前って、私の口にする言葉は嘘だと思うか?」

「突然なに?」

「いいから」

「思わないよ」一切の逡巡も見せず、彼女はそう言った。いつものような浮ついた笑みすら浮かべずに、真剣にそう言ったのだ。

「正邪は、確かに捻くれてて間抜けで意地悪で救いようがないけど」

「おい」

「けどね、本当に優しい人はそういう人だと思うんだ。けいね先生も優しいけど、正邪の方がもっと優しいよ。だから、私は正邪の言葉を信じる」

 顔を赤らめもせず、当然の事実を述べるようにそう語った針妙丸を前に、私は固まっていた。まさか、そんなことを面と向かって言われるとは。末恐ろしい奴だ。心に芽生えていた暗い感情がすっと晴れていく。固まったのは身体だけではない。僅かに揺らいでいた決意も固まった。

「ならよ、もし」自分を落ち着かせるために、一度大きく息を吐いた。大丈夫だ。どちらにせよ、今更引き返せない。だとすれば、憂いはすべて断っておくべきだ。

「もし、私がお前を騙していたといったら、信じるか?」

「騙すって、どういうこと?」

「例えばだ」私は針妙丸と目を合わせないように下を向きつつ、言葉をなんとか並べる。

「幻想郷に小人がいないのは、別に強者に迫害されたからではないといったら」

「え?」

「私が下克上をしたいがためにお前に吐いた嘘だと言ったら、信じるか?」

「どういうこと」

 あたふたと慌て始めた針妙丸は、手に持っていた小槌をそこら辺に放り投げ、私に詰め寄ってきた。私なんかより、よっぽど小槌の方が大切なのに。

「だから、幻想郷の強者はそこまで暴虐じゃなかったんだよ。小人が幻想郷にいないのは偶然だ。ただ、私がお前を、幻想郷を支配するための、小槌の力を利用するための嘘だったんだ」

「嘘でしょ」

「ああ、嘘だったんだ。よくあんな嘘で騙されてくれたよ」

 言葉を切らないまま、一息でそう言い切った。途中で言葉を止めてしまうと、躊躇してしまいそうだった。何度も心に決めたはずなのに、それでも言い訳が頭に過る。別に、嫌われる必要はないんじゃないか? 単純に姿を消すだけで、しばらく旅に出るとでも言っておけばいいんじゃないか? そう声が聞こえる。だが、それでは駄目なのは分かっていた。共犯ではいけない。彼女に一切の罪を背負わせてはいけない。だったら、こうするしかないはずだ。

「驚いたか? こうも上手くことが運ぶとは思わなかったが、結果往来だ」

「どうして、そんなことを?」

「私がやるしかなかったからだ」

 大きなお椀で顔を隠し、俯きがちに発した針妙丸の声は震えていた。そんな物悲しい声を聞きたくなくて、食い気味に返事をする。

「いいことを教えてやる。本当に大事なことってのは、自分でやらなきゃならないんだ。人に頼らずな」

「だから、自分で下克上をしようとしたの?」

「そうだ」

 全く質問の答えになっていなくて、驚いた。だが、それも仕方がない。私は天邪鬼のくせに、嘘をつくのが苦手なのだ。針妙丸を騙したのは下克上のため、ということですら嘘なのだから、まともに辻褄を合わせられるはずがなかった。

「私は信じないよ」手をぎゅっと握り、勢いよく立ち上がった彼女は、私の目をはっきりと見つめた。私より高い位置にあるその目には、僅かに涙が溜まっている。が、身じろぎするほどに鋭く、強い意思に満ちていた。慧音のようだとも思ったが、それよりも彼に似ていた。

「嫌だよ。私は信じないよ」

 ぶんぶんと首を振った針妙丸は、ぽつりぽつりと言葉を零した。

「そんなの信じない。信じられないよ」

「さっき、私の言葉を信じるっていったじゃねぇか」

「だったら、わたしは正邪の言葉は全部嘘だと思う」

「そんなのありかよ」

 この頑固者が、と内心で歯ぎしりする。家族揃って分からず屋だ。

「家族」

「え?」

「ちょうどいい機会だ」

 針妙丸に背を向け、一歩二歩と足を進める。畳が僅かに沈み、小さく音を立てた。そんなことすらも煩わしい。大きく体を伸ばし、天井に顔を向ける。そうしなければ、涙がこぼれてしまいそうだった。

「お前の父親と私の関係について話してやるよ」

「お父さん?」

 事態の急な展開についていけていないのか、えっえっと何度も繰り返し呟いていたが、そんな彼女を無視して話を続ける。そういえば、蕎麦屋の親父も私の言うことなんか無視していたな、と思い出した。

「お前の父親はな、ごく普通の人間だったよ。一応蕎麦屋をやっていたが、それでも普通の人間だった。確かに、お前に似て頑固で、変なところにこだわる奴だったが、芯の通った心が強い奴。そんな範疇に収まる程度だ」嘘だ。人生をかけて妻の復讐をするような奴が普通の人間であるはずがない。

「そんな父親だったが、ある時命を落としてしまうんだ」

「え」

「まあ、人間はいずれ死ぬけどな。そうじゃなくて、彼は殺されたんだよ。どんないい人間だって死ぬときゃ簡単に死ぬ。そして死んだら生き返らねぇんだ。当然だがな」

「正邪は」

 か細い声が後ろから聞こえる。いま、針妙丸がどのような心境かは分からない。だが、少なくとも、涙を流していることは分かった。

「正邪はお父さんとどんな関係だったの?」

「いい質問だな」

 気取ったように右手を上げ、拳を握る。親指だけを突き立て、自分の首近くまで持っていった。そのまま、切るように鋭く動かす。

「さっき言っただろ、お前の父親は殺されたって。包丁で一突きだ。凄かったぞ。目を見開いてな、顔がみるみる白くなっていくんだ。血で辺りは赤くなっているのに。残念なことに悲鳴は無かったな。痛みを堪えたのか、それとも出すことすら出来なかったのか。断末魔はどんな感じか興味があったんだが、残念だった」

「止めて」

「刺したのは腹だったか、胸だったか。もう覚えてねぇけど、たぶん即死だったはずだ。楽に死ねてよかったじゃねぇか。まあ、死体は人里の外でしばらく野ざらしになっていたが」

「止めてって!」

 大きな金切り声が耳を貫いた。足元から細かい振動を感じ、壁際の提灯がちかちかと白い光を点滅させる。あまりに大きな声に、頭が真っ白になった。

「どうしてそんな酷いことを、酷い嘘を言うのさ!」

「嘘? どうして嘘だと思ったんだ」

 だって、と絞り出すような声が聞こえたが、その先に続く言葉を彼女は続けなかった。代わりに、どすんと、針妙丸が畳に座り込んだ音がむなしく輝針城を覆う。

「だって、そんなことは殺した奴しか分からない、って言おうとしたのか」

 自然とはっ、とあざ笑う声が零れる。その通りだ。こんなことを知っている奴は、この世に一人しかいない。

「その通りだ。お前の父親が死ぬ瞬間なんて、殺した奴しか分からない」

 彼の死ぬ直前の顔が脳裏に浮かんだ。振り払おうと頭を叩くも、こびりついて離れない。あいつは普通の人間ではない。殺される直前に、あんな安らかな笑みを浮かべるなんて、おかしいじゃないか。

「つまりだ。私が何を言いたいかと言えば」

 娘を見守ってくれ、懇願するように目を細める彼の目には涙が浮かんでいた。

「お前の親父を殺したのは私ってことだよ」

 

 針妙丸は押し黙っていた。もしかすると、彼女の心には、拭い切れない深い傷が刻まれているかもしれない。そう思うと、自分の胸が切り裂かれるように、痛い。だが。それでも、幻想郷を混乱に陥れた事件の共犯だと、輝針城を出現させてしまった加害者だと認定されるよりは、ましなはずだ。

「どうして」

 畳と何かが擦れる音が聞こえた。気になり、僅かに首を動かして、後ろの様子を窺う。音の正体は単純だった。目を真っ赤にし、涙を畳にこぼしていた針妙丸が、それを着物の裾で拭いていたのだ。

「どうして、そんなことをしたの?」

 今度は嘘だな、と言わないのだな、と安堵のため息を吐く。その息と共に、僅かに嗚咽が零れ出て、驚いた。胸の中に黒い液体が流れ込み、身体を重くしていく。その液体は段々と上へあがっていき、瞼から零れ落ちそうになった。

「どうして、父親を殺したか、か。それは簡単だ。打ち出の小槌の場所を知りたかったからだ。あいにく、最後まで口を割らなかったけどな」

「そこまでして、下克上をしたかったの?」

「ああ。そうすれば、私が幻想郷を支配できると思ったからな。妖精より弱い私なら、ひっくり返った世界では誰よりも強い。あ、でもお前の父親よりかは私の方が強いか」

 カラカラと乾いた声で笑う。私があいつより強い? あり得ない。我ながら、冗談にしても荒唐無稽だ。

「でも、もし正邪が言ったことが本当だとしても」

 その言い回しが、すでに私の言葉を受け入れていると言っているようなものだった。右手に、何かぬめりとした液体がたれる。あまりに強く握り過ぎて、爪が皮膚を突き破っていた。

「別にわたしに言わなくてもいいじゃん。言わなかったら、今まで通りに」

「それは」

 こいつは、父親を殺した奴とでもできれば仲良くしたいと、そう考えているのか。呆れを通り越して尊敬すら感じる。どれだけ友達が欲しかったのだろうか。

「それは?」

「私が天邪鬼だからだ。人の嫌がることをするのが大好きな、そんな妖怪だからだよ」

 そう言い残し、私は部屋から出ていこうと、廊下へと足を進めた。後ろから追ってくる気配はない。これで良かったのだ。そうに違いない。自分を納得させるように、繰り返し呟く。

「ねえ、正邪」

 針妙丸の声は、もはや震えていなかった。むしろ、怒気が含まれており、私の心を直接刺すような、そんな声だった。

「いつ頃に帰ってきますか?」

 騒めく胸を黙らせる。引きつる頬を何とか整え、満面の笑みを向けて、針妙丸に振り返った。

「晩御飯までには帰りますよ、姫様」

 

 

 針妙丸に今生の別れを告げた私は、輝針城の長い廊下を歩いていた。何をしに行くのか。単純だ。巫女と戦い、そして負ける。そのために私は足を進めていた。

 “いつ頃に帰ってきますか? ”

 針妙丸の、冷たい声が頭に何度も木霊する。私と彼女を結んでいた繋がりが、確かにぷつりと切れたような気がした。敵を騙すにはまず味方から。私は間違ったことはしていない。そのはずだ。きっと、針妙丸は巫女たちに、私は鬼人正邪という妖怪に騙されたんだ、と主張するに違いない。それが信用されるかどうかは鶏ガラの努力次第だ。だが、逆に私が悪事をしたと言われて、信じないような奴の方が少ないように思えた。きっと、あの鬼人正邪が下克上をたくらみ、幻想郷を混乱に陥れようとしました、と言われても、多くの人は、ああやっぱり、と納得するに違いない。今までの私の行動によって、私の信用は、大きく下へと振りきれている。

「身から出た錆っていい言葉だよな」

 何の気も無しに、頭に浮かんだ言葉を呟く。それは間違いなく彼の言葉だった。思わず、笑みがこぼれる。なんだよ、まだ声を覚えてるじゃねえか。

「まあ、私の呪いはお前と違って、錆びないけどな」

 その私が呟いた声は、すぐに轟音にかき消されることとなった。ごうごうと、山なりのような音が、輝針城全体に響き渡ったのだ。その大きな音に驚いた私は、その場で飛び跳ね、辺りをきょろきょろと意味もなく見渡した。

 目の前のものすべてが、徐々に左に傾いていく。最初は、私の目がおかしくなったかと思った。針妙丸と縁を切ったことが堪えたのか、眩暈に襲われたのかと、そう勘違いした。ただ、視界が左に傾いていたのは、私が疲れていたからではなく、実際に輝針城の天井が動いているせいだった。床、天井、壁がゆっくりと、しかし着実に回転していく。床から壁に滑り落ちた私は、たまらず宙へと浮かんだ。結局、ちょうど逆さまに、天井と床の位置が入れ替わったところで、止まった。いったい何が起きているのか、混乱した頭で考える。そんな私をあざ笑うかのように、後ろから猛烈な魔力の風が吹きつけてきた。あまりの激しさに、吹き飛ばされそうになる。振り返ることすら出来なかった。

 この城に何が起きているのか。もしかして、もう小槌の魔力が切れようとしているのか。鬼の世界へと封印されてしまうのか、と恐怖したが、違った。廊下のはるか先、辛うじて白い提灯に映し出されているその姿を見て、私はようやく理解した。これは、輝針城の罠だ。侵入者が来た時の合図だったのだ。その、遠くにいる侵入者に目を向ける。あまりにも早すぎる。流石と言うべきか、それとも恐ろしいと言うべきか。その侵入者は、頭に付けた赤いリボンを揺すりながら、恐ろしい速度でこちらへ近づいて来ていた。くるくると体を回転させ、舞うように突っ込んでくる。赤と白の特徴的なその服も相まって、可憐な梅の花の様だ。だが、私にとってはそんな美しさですら、恐ろしく思える。その巫女の手にはお祓い棒は握られていなかった。私たちを倒すには、それすら必要ないということだろうか。

「やっとお城についたっていうのに、これじゃ休めそうにないわね」

 気づけば、すぐ近くにまで巫女が近づいていて、驚く。恐れを悟られないように、胸を張り、彼女を睨みつけた。

「何だ? お前は。ここはお前たちの人間が来る場所でない。即刻立ち去れ」

「はいそうですか……って立ち去る訳がないでしょ? 空中にこんなお城を建てて何考えているのよ」

「何考えてるか、ねぇ」

 この輝針城を経てた張本人。彼女が一体何を考えていたか。おそらく、この巫女が考えている以上に、下らなく、それでいて切実なことを考えていたのだろう。だが、そんなことはどうでもいい。針妙丸、いや、私がこの城を建てた理由はただ一つだけ、下克上をするために決まっている。決まっていなければならない。

「聞きたいか? 聞きたいよな? 何を隠そう我らは下克上を企んでいるのだ!」

 柄になく、気取った態度でそう言った。身体をぐるりと回し、鶏ガラがよくやっていたように、唇を手で撫でる。余計なことを口にしてしまわないか心配だったが、それでも、私の口は勝手に動いた。

 私の言葉に、へー、と単調に返した巫女は、半目で私を睨んできた。その目は凶弾してくるというよりは、呆れや哀れみに満ちている。ますます腹が立った。

「本気で下克上を考えている奴がいたのね。そんなの、成功すると思っているの?」

「なんだ? 驚かないな」

「だってさっきお琴の付喪神がそんな話してたもん」

 お琴の付喪神、九十九姉妹の片割れの、八橋のことだと分かるまでに、そう時間はかからなかった。

「会ったのか? 琴の付喪神に」

「会ったわよ。下克上が云々とか言ってたわね」

 さすが八橋だ、と小さく呟く。同じ姉妹でも弁々とは違う。

「他に何か言ってなかったか?」

「えっと、そういえば、私は悪くないよー、天邪鬼が悪い、とか何とか言ってたかな」

 その時のことを思い出しているのか、うーん、と首を傾げた彼女は、見慣れない妖怪が暴れているから、頭がこんがらがってきたわ、とどこか他人事のように首を捻った。

「もしかして、小魚も暴れていたりしてたか?」

「あ、ああ。してたわね。弱かったけど」

「弱かったのか」

 なんて名前だったかな、と一瞬だけ考える素振りをした彼女だったが、すぐに諦めたのか、小さく息を吐いた。答えを教えてやろうとも思ったが、止めた。おそらく、それを聞いたところで彼女は興味を持たないと思ったからだ。

「とにかく、こんな面倒なことをしでかしたのは、あなたってことでいいわね」

「まあ、な」

「だったら、すぐに止めてちょうだい」

「そいつは無理な相談だな」なんていったって、輝針城から溢れる魔力の止め方を知っている奴なんている訳ないんだから。

「そんなに下克上したいの?」

「当たり前だろ?」

 何が当たり前なのか私にも分からなかったが、その心を覆い隠し、得意げに鼻を鳴らした。片方の口角だけ、嫌味に上げる。

「これからは強者が力を失い、弱者がこの世を統べるのだ!」

「あんたねぇ」

 その大きなリボンをひらひらと揺らした彼女は、じりじりと私に近づいてくる。背中を向けて逃げたくなったが、必死にこらえた。ここから、外へ脱出する経路を必死に頭の中で考える。私は死なない。三郎少年との約束を思い出した。死ぬもんか。鬼の世界に封印されるまでは、絶対に死ぬわけにはいかない。

「呆れたわ。そんな誰も得をしない事をする妖怪がいるなんて」

「誰も得をしない?」

 恐怖のあまり、凍り付いたかのように固まっていた体が熱くなっていくのが分かった。何かが頭の中でぶくぶくと泡を立て、沸騰し始める。顔が熱くなっていくのが分かった。きゅっと視界が狭まり、巫女の姿だけが鮮明に映っている。その巫女の後ろに、血まみれの三郎少年と、笑顔の針妙丸が左右に並んでいるのが見えた。軽く頭を振ると、その姿は立ち消えていった。

「誰も得をしない……だと? 我ら力弱き者達が如何に虐げられていたか、お前達人間には判るまい」

「虐げられてきた、ねえ」

 不服そうに眉をひそめた彼女は、ぽりぽりと頭をかいた。こちらは命がけなのに、その余裕な態度が気に入らない。これだから人間は、と吐き捨てる。そして何よりも、私の選択を否定されたようで、怒りが込み上げてきた。

「誰も得しないなんて、どうしてお前に分かるんだよ。私たちが味わった苦労を、屈辱を、悲劇をどうせお前は知らないのだろう。いつだってそうだ。どうせ、人里で殺人があったと請願していっても、管轄外だと言うんだろ?」

「何の話よ」

「こんな世界なんてひっくり返っちまえばいいんだ。弱者を糧に生きて、そしてその罪悪感にすら目を逸らし続けてる世の中なんて、クソ食らえだ。何もかもひっくり返る逆さ城で念願の挫折を味わうがいい!」

 彼女に向かい、一直線に突っ込んでいく。背中側からふいてくる魔力が私を後押ししているような気がした。

 巫女は逃げもせず、ただその場に立っていた。眠そうに欠伸をしてすらいる。なめやがって。

 速度を上げ、両手を突き出す。巫女がすぐ目の前で突っ立っている。そのまま突進しようとしたところで、目の前が急に明るい光で包まれた。身の毛がよだつ、恐ろしい光だ。反射的に横へと身を投げ出す。身体のすぐそばを、熱い光の弾が通過していくのが分かった。くるくると無様に身をよじり、そのまま壁にぶつかる。慌てて体勢を立て直し、巫女へと振り返った。彼女は何の気も無しに、手をぶらぶらさせている。

「初っ端から突進だなんて、裏を突いたつもりかしら」

「裏も表もねえよ。それしかできねえだけだ」

 面倒ね、と首をがくりとさせた彼女は、何やら呟き始めた。すると、陰陽玉が現れ、札のようなものが彼女の後ろに大量に出現した。ふよふよと浮かんでいるそれらは、一つ一つが私の全力を凌駕している。

「おいおい嘘だろ」

「何が嘘かどうか知らないけれど、とっとと終わらせるわよ」

 不敵に笑った彼女は、身体をくるりと回し、勢いよくこちらへ飛び込んできた。それと共に、周りの札が私の方へと向かってくる。四方八方から、流れ込むように辺りを覆いつくすそれは、嵐の中の雨粒のようだった。到底避けられそうにない。

 懐に手を入れたことに理由は無かった。何時もの習慣か、それとも、もしかしたら無意識的にそれの存在に気がついていたのかもしれない。懐には、小槌のレプリカの他に、何か小さな袋のようなものが大量に入っていた。それが何かが分からなかったが、焦っていた私はそれを取り出し、乱暴に投げる。その袋は、すぐに巫女の札とぶつかり、破れた。が、それと共に大きな爆音がし、周囲の札をも巻き込み破裂する。視界が炎で包まれた。一瞬の判断だった。身体が熱で悲鳴をあげるのを無視し、その隙間へと入り込む。爆風と炎で身体に傷ができているのが分かるが、それでもあの博麗の巫女の札に当たるよりかはマシだ。

 爆発の光が収まっていき、視界が回復する。体中が痛かったが、まだ痛みを感じている内は大丈夫だということを、経験から知っていた。札がこないかと、辺りを見渡すも、なぜか札はすべて消えていた。一枚の紙が、ペラペラと上から落ちてくる。拾おうと思ったが、止めた。内容は分かりきっていたからだ。あの憎たらしい河童もたまには役に立つ。

 巫女の方に目を向ける。一瞬、どこにいるか分からなかったが、自分の真下にいることに気がつき、心臓が止まりそうになった。慌てて後ろへ下がる。が、彼女は追ってこなかった。一体どうしたのか、と訝しんでいると、彼女はふらふらと酔っ払いのように動き、頭を押さえている。

「何がどうなっているのよ」と混乱しているのか、焦燥を滲ませていた。もしかすると、輝針城の魔力に当てられたのかもしれない。

 チャンスだ。どこからともなく、行けと自分を鼓舞する声が聞こえた。懐から河童のお守りを取り出し、巫女に近づく。こちらをきつく睨んだ巫女だったが、まだふらふらとしていた。握りしめた大量のお守りを思い切り投げつけ、距離を取る。まばゆい閃光と共に、けたたましい爆音が辺りを包んだ。爆風で吹き飛ばされた私は、無様に打ち上げられ、畳に頭を打ち付ける。そして、そのまま天井へと落下していった。

 手をつき、立ち上がる。煙が深く、先を見通すことができない。これで勝っただろうか。いや、無理だ。巫女があの程度の攻撃で負けるはずがない。だが、善戦と呼べるくらいにはなっただろう。下克上の首謀者と、認められるくらいの活躍は見せただろうと、そう思っていた。 

 だが、現実はそんなに甘くなかった。煙が晴れた先にあったのは、一切の傷を負っていない巫女の姿だった。忌々しそうにこちらを見下し、また、面倒ね、と呟いている。

「なんで無傷なんだよ、おかしいだろ」

「そういうのは、もう少し後にやった方がいいわよ。万全な状態で絨毯爆撃をくらっても、結界とかで防げるでしょ?」

「時期尚早だったか」

「そういうこと」

 そもそも、普通の人間は結界なんて張れないと思ったが、彼女は普通の人間ではないことを思い出した。妹紅といい、こいつといい、人間離れした人間が多すぎる。もっとも、普通の人間にすら、私は勝てないのだが。

「下克上だなんて……幻想郷を混乱に貶める行動は許さないわ!」

 使命感に満ちた目で、私を見つめてくる。それは勇ましく、貴くて、素晴らしい目だった。幻想郷を守ろうと、そのために彼女は戦っているのだろう。なんて感動的なのだろう。人の身でありながら、死屍累々の妖怪と戦うなんて、泣かせるじゃないか。だが、だからこそ私はそれを否定する。薄気味悪いものだと嫌悪する。なぜか? 私が天邪鬼だからだ。

「混乱だと? だから人間に何が判る。ただ力が無いだけで悪の汚名を着せられ虐げられてきた私の歴史。今こそ復讐の時だ!」

 巫女の頭上に色とりどりの光の弾が集まっていた。それは、まるで自分が今まで不幸にしてきた者たちを、自分が関わってしまったばかりに、酷い目に遭った奴らを代弁するような、そんな気がした。

 私は悪人だ。これだけは誰がなんていようと変わらない。変えてはいけない。悪人は、追いつめられたらどうするか? そんなの決まっていた。

 私は巫女に背を向け、全力で窓へと向かっていく。爆発のせいか、開けっぴろげになっていた。後ろから、光の弾が近づいてくるのが分かる。どうやら追尾性のようだ。その威力は明らかに、一匹の弱小妖怪に加えるにしては過ぎたものだった。避けることもできないだろう。窓から勢いよく飛び出した。冷たい空気が肌を刺し、風が身体を覆う。眩しい太陽の光が目を貫く。

 ちらりと後ろを振り返ると、光弾がすぐ後ろにまで迫っていた。躱そうと身をひるがえすも、瞬時に方向を変え、近づいてくる。こんなの反則じゃねえか、と悪態をつく。

 追えばいいんでしょ! と巫女の叫び声が聞こえたかと思えば、身体に強い衝撃が加わった。目の前が真っ暗になり、妙な浮遊感に身体を包まれる。これでいい。輝針城異変はもう終わりだ。薄れゆく意識の中、私はなぜか、困ったように笑う針妙丸の顔を思い浮かべていた。

 

「あら、目が覚めたようね」

 気がつくと、私は輝針城のすぐ下の草原で横になっていた。目の前には、真っ青な青空が浮かんでいる。太陽の位置はさほど変わっていない。痛む頭をさすりつつ、何が起きたのかを思い出していた。確か、私は巫女に負けて、そのまま気を失ったはずだ。そう気がついた瞬間、私はがばりと立ち上がり、空を見つめた。相も変わらず輝針城は浮かんでいて、その魔力に変化もない。拍子抜けした私は、その場にぺたりと座り込んだ。そこで、ようやく隣に誰かが座っていることに気がついた。

「それにしても、霊夢にあんな喧嘩を吹っ掛けるなんて、死ぬところだったわよ?」

「え」

 ぼうっとした頭で、声をしたほうを向く。そこには、金色の長い髪を手で撫でている白い肌の女性がいた。どこかで見たことがある、禍々しい妖怪だ。私は、再び気が遠くなるのが分かった。

「ちょっと、人の顔を見てその反応は酷いんじゃない?」

 その威圧感に見合わないほど、軽々しい口調でそう笑った妖怪の賢者は、手に持っていた扇子を口元で開いた。そんな一挙手一投足にも、私の防衛本能は反応する。いっそのこと、ここで舌を噛み切った方がいいのではないか、とそう思うほどだった。だが、私は天邪鬼。口から生まれた妖怪が、その舌を失うなんて、あり得ない。

「どうして、お前がここにいる。なんで八雲紫がいるんだ。私をどうするつもりだ」

「あら、命の恩人に対して随分と敵対的じゃない。あなた、あのまま落ちてたら死んでたわよ」

「何が命の恩人だ。私はお前みたいな強者が大嫌いなんだよ」

「奇遇ね。私もあなたみたいな弱者は大っ嫌いよ」

 うふふ、と笑った彼女は私の頭に手を置いた。そのまま首を捻り殺されるのではないか、と背筋が凍る。

「長い事私は幻想郷を見守っていたけれど、あなたみたいな妖怪は初めて見たわ。でも、私は妖怪の賢者なのよ? 弱小妖怪の嘘なんて全てお見通しなんだから」

「何の話だ」

 要領を得ない彼女の言葉に、私は苛立ちではなく、恐怖を感じていた。命の恐怖ではない。今までの私の準備が、計画が狂ってしまう恐怖だ。折角の演じたピエロが台無しになってしまう。そんな危機感を覚えた。

「一度目は、夫婦殺害の罪を被り、二度目は、野菜泥棒の罪を被った」

 微笑みながら、彼女は歌うようにそう言った。

「三度目は、小槌を使った事の罪を被るのかしら? 下克上の罪を。二度あることは三度あるというけれど、あまりにも安直ね」

「何の話だ。私は正真正銘下克上の主犯だ。小人を騙し、弱小妖怪を脅し、付喪神を利用した、悪名高いただの天邪鬼だよ。そんな事も知らないのか?」

 必死に絞り出した声だったが、その声は震えていなかった。彼女の目をしっかりと見つめ、怒気を含めて話す。恐怖はあった。絶望もあった。だが、針妙丸が目の前の妖怪の毒牙にかかることに比べれば、幻想郷から拒絶されることに比べれば、屁でもない。

「天邪鬼は嘘しか言わないと聞いたのだけど」

「誰からだよ。そんな訳ないだろ」

「まあ、いいわ。納得してあげる。下克上を起こしたのは、鬼人正邪だということにしてあげるわ」

「してあげるじゃない、事実だ。私がやったんだ」

 頑固ねぇ、と微笑んだ妖怪の賢者は、輝針城へと目線を移した。つられて、私も同じ方向を見ようと、顔を上げる。が、丁度その時に、身体に重い何かが入り込んでくるのが分かった。体中の力が抜け、その代わりに、重い鉛が血管中に入り込むような、そんな感じがした。胸元のレプリカから黒々とした重い物が全身を覆い、息すらできないほどの圧迫感が襲う。その場に這いつくばり、なんとか呼吸しようと、口をパクパクとさせた。

「まったく、情けないわね」

 頭上から、妖怪の賢者の声が聞こえたが、私は返事をすることができなかった。草むらに顔を突っ込み、体中を襲う不快感に必死に耐えていた。このまま鬼の世界へと引きずり込まれるのだろうか、と恐怖に襲われる。

 大きく息を吸い、吐く。少し、不快感が和らいだような気がし、腰を上げようとしたが、吐き気が込み上げてきた。言いようもなく気持ちが悪いが、段々と慣れてきたのか、体が動くようになってくる。

 身体をこてんと回転させ、仰向けになる。そのまま空を見上げた。輝針城は当然のように空に浮かんでいる。が、そこからはもう魔力は発せられていなかった。あれ、と疑問に思う。

「あそこ、霊夢じゃない?」

「え?」

「ほら、そこよ」

 私の頭のすぐ横に腰を落とした妖怪の賢者は、扇子で城のすぐ横を指示した。目を凝らし、見つめる。確かに、そこには巫女がいた。所々服は破れているものの、体に傷はないようだ。だが、そんな巫女のことなど、どうでもよかった。彼女の手には鳥かごが握られていた。そして、その中には見慣れた少女が、見慣れた姿で笑っている。針妙丸が、小さな、本来小人としてあるべき姿でそこにいたのだ。内容は分からないが、何やら巫女と楽しそうに談笑していた。それは、彼女がいつも見せる、無邪気で、眩しい笑顔だった。友達が欲しいと願った彼女の願いは、巫女にまで及んだのだろうか。

「どうして泣いているのかしら?」ふふ、と笑った八雲紫は顔を歪めた。

「もしかして、あの小人に感情移入しちゃったの? 騙したと言っていた彼女に」

「馬鹿な」

 体を起こし、八雲紫に向き合う。私が針妙丸に感情移入? あり得ない。あいつのことなんか大嫌いだ。

「私は天邪鬼だぞ。人の嫌がることをするのが大好きなんだ。下克上が失敗したことが悔しかっただけだよ」

「そう」

 そうだ。私は天邪鬼。そもそも針妙丸たちとは住む世界が違ったんだ。これからは、文字通り住む世界が変わるが、それも微々たるものだろう。

「なら、そんな天邪鬼にとっては悲しいかもしれないけれど、一つ伝えないといけないことがあるわ。あの小人についてだけれど」

 虚空に手を伸ばした彼女は、空を切るように扇子を振り下ろした。すると、まるで空間に裂け目が現れたかのように空が割れ、真っ暗な隙間が現れた。無数の目がこちらを窺っている。その隙間に腰かけながら、彼女は笑った。

「こう見えて私は幻想郷の賢者なのよ。私が烏は白いといえばそうなるし、眠れと命じれば荒れ狂う動物も静まる。私が慧音に危険物取扱の資格を授与すると言えば、彼女はそういう立場にもなるわ」

「急にどうした」

「だからね」

 魅力的な笑みを浮かべながら、彼女は目を細めた。それは、私をぞっとさせると共に、どこか悲しい印象を持たせた。

「この私が、小人に幸せになる資格を授与するわ。私がそういえば、彼女はそういう立場になるのよ」

 そう言い残し、彼女は隙間へと消えていった。残された私は、冷たい風が頬を撫でる中、一人で呆然と突っ立っている。空を見上げると、逆さまになった城が、私を見下ろしていた。その姿は、かつてあったような恐ろしいものでは無く、ただのちんけな建物へと変わっている。

「ざまあみろってんだ」不思議と、笑みがこぼれた。一度湧いたそれは、中々おさまらず、勢いを増していく。しまいにはケラケラと大きな声で腹を押さえていた。

 巫女と楽しそうに笑っていた針妙丸の姿を思い浮かべる。私がいなくても、彼女は大丈夫だ。満足な友達にめぐまれた。妖怪の賢者に、幻想郷にも認められた。これからは、博麗の巫女が守ってくれるだろう。私の選択は正しかった。小人という弱小妖怪が、幸せになる権利を得たんだ。誰もが傷つくことがない、糞みたいなハッピーエンド。その代償が弱小妖怪一匹なんて、なんと気前がいいのだろうか。多少の代償は仕方がない。やっぱり私の選択は間違っていなかった。弱肉強食という、世界の摂理に勝った。この理不尽な運命に、抗うことができた。最高に最低で、それでもやっぱり最高だ。

「これが、私の!」

 笑いながら、私は叫ぶ。“お前はきっと、困ってるやつを見たら助けるような奴だよ”と懐かしい声が聞こえた気がした。違げえよ、と頭の中で返事をする。視界はなぜかぼやけていた。

「天邪鬼の下克上だ!」



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4章
災いと幸い


「私はね、有言実行をモットーにしているのよ」

 

 赤色の大きなソファから立ち上がった紅魔館の魔女は、そう高らかに宣言した。小さな声だったが、物音一つしない図書館では、その傲慢な息遣いまで鮮明に聞こえてくる。高々百年しか生きていないのに、どうしてこんなに生意気なのだろうか。せめて、私の隣で俯いている半獣ぐらいにはしおらしくなってもらいたいものだ。もしかすると、ここが自分の家だからと安心しているのかもしれない。だとすれば、滑稽だ。

 

 そんな滑稽な魔女が、輝針城異変が終わって一週間が経ったときに、いきなり呼び出してきたのだ。折角新聞の売れ行きがよくていい気分だったのに、台無しになってしまった。

 

「だから、約束は当然のこと、些細な発言にも責任を持つわ。魔女として、ね」

「それで? そんな責任を持つ魔女さんが私たちをわざわざ呼び出したのには、どんな理由があるのですか?」

 

 まさか、話がしたいからなんて理由ではないですよね、と念を押す。もしそうであるならば、そっちが妖怪の山に来るのが道理だ。紅魔館と妖怪の山とでは、立場も、戦力も、価値も違う。ぽっと出の西洋妖怪がもしそこまで驕っているのだとすれば、それはそれで面白い記事が書けそうだったが、不愉快なことには変わりはない。当然、その感情は絶対に顔には出さないが。

 

「まあ、落ち着け射命丸」隣の慧音が、虚ろな目で私を見上げてきた。

「落ち着くんだ」

「少なくとも、あなたよりは落ち着いていると思いますが」

 

 紅魔館が悪趣味な場所だというのは知っていたが、図書館までも悪趣味だとは思わなかった。目の前に掲げられた大きな肖像画を見る。どうやってこんな物を仕入れたか分からないが、おそらく魔法だろう。よく見ると、図書館の端に大きなキャンパスがいくつか転がっている。心なしか、有機溶剤の独特の臭いが漂っている気がして、居心地が悪い。

 

 だが、ここの居心地の悪さと、死にそうな顔で呆然としている慧音の態度とは関係がないことは分かっていた。どうして彼女がここまで精神を疲弊させているのか。その理由は明らかだ。未だに浮かんでいる輝針城を思い浮かべる。

 

「打ち出の小槌を無くした私のせい、だなんて思ってるわけじゃないですよね」

 

 びくり、と身体を震わせた慧音は、まじまじと私を見つめてきた。あまりにも分かりやすい反応に逆に驚かされてしまう。どうして彼女はここまで打たれ弱いのだろか。こんなんで、人里の守護者が務まるのか、と不安になる。

 

「思い上がりですよ、悪いのはあなたじゃありません」

「なら、誰が悪いっていうんだ」彼女の目元は真っ黒に染まっていた。しばらく眠れていないのか、髪や肌はからからに枯れている。この前の、正邪が二人の人間を殺した、と記事を書いた時と同じ、またはそれよりも酷い。

 

「悪いのは喜知田ですよ」

「え」

「ほら、この前の行方不明の少年がいたじゃないですか。母を亡くした。その少年の目撃情報がありまして。その時に、そう呟いていたそうです」

「悪いのは喜知田って?」

「ええ。悪いのは喜知田。いい言葉ですね」

「おまえ」

 

 むくりと顔をこちらに向けた慧音は、その表情の抜け落ちた死人のような顔をこちらに向けた。目に光が灯っていない。

 

「おまえ、本当は知っているんじゃないのか?」

「知っているって、何をです?」

 

 さも、とぼけているように笑みを浮かべながら首を捻る。残念なことに、彼女が本当に何を示しているかは分からなかったが、知っていると思わせたかった。

 

「何って、小槌を盗んだのか喜知田ってことをだ」

「そうだったんですか!」

 

 思わず、声をあげてしまった、といった感じで叫ぶ。正直に言えば、そんな記事にもならないようなことに興味はなかった。単純に、慧音に仕返しがしたかったのだ。やっと天狗の装束を着る許可が出たとはいえ、それまでの屈辱を忘れたわけではない。

 

「いや、忘れてくれ」

 苦々しくそう言った慧音に向かい、無理ですと断言する。そうすると、彼女はますます眉間にしわを寄せた。楽しくて仕方がない。

 

「口は災いの門ですよ。気を付けた方がいいです」

「うるさい」

「ブン屋。そこまで虐めないであげて」私と慧音を遮るように、魔女が口を挟んだ。

「彼女も大変なの」

「そんな大変な中呼び出したあなたが何を言うんですか」

「要件は分かってるでしょうに」

 

 そう言うと、魔女は机の上に広げられている、この世に類を見ないほど完成された一枚の新聞に目を落とした。どうして、ここまで優れたものを書けるのか。私の才能が怖いくらいだ。

 

「この輝針城異変に関する新聞は、あなたが書いたのよね」

「もちろんです。こんなに素晴らしい新聞は私以外に書けませんよ」

 

 輝針城が現れたあの時、つまりは人魚の取材を終えたすぐ後、私はあまりの驚きのあまり声を上げてしまった。輝針城の威圧感に驚いたのではない。そのあまりの都合のよさに驚いたのだ。慧音が小槌を無くしたことは知っていた。小人の存在も知っていた。そして、小槌と逆さ城との関係も、私は知っていた。これは、無条件で私が一歩リードして、この異変についての記事が書ける、と意気揚々と取材を行い、それで完成したのがこの新聞なのだ。しかも、八雲紫のお墨付きでもある。

 

「この新聞には真実が書かれているのよね」意味ありげに目線をよこした魔女は、その冷たい声で淡々と言った。感情が全く読み取れないが、あまりいい雰囲気ではない。

「当然です。清く正しい射命丸とは私のことですから」

「嘘だ!」

 

 今まで、ずっと床とにらめっこしていた慧音が、急に顔を上げた。机を思い切りたたき、私の新聞を掴み上げる。皺がつかないかと不安だったが、彼女は無意識のうちに丁寧に扱っているようで、綺麗なままだった。ほっと胸を撫で下ろす。

 

「この記事は間違っている!」ぱんぱんと叩きながら、彼女は叫んだ。

「輝針城異変の犯人は鬼人正邪だと? 犯行動機は下克上だと? そんなのあり得ない! あの小槌の叶えた願いはそんなもんじゃない!」

 

 輝針城異変。突如現れた逆さな城から溢れ出した魔力が、至る所に影響を及ぼした、幻想郷に対する宣戦布告ともとれる異変。すでに巫女によって解決され、一週間がたっているが、未だに皆がその異変について面白おかしく話している。実は、あの城はハリボテだったとか、紅魔館が関わっているだとか、様々な憶測が飛び交っているが、一つだけ共通している認識があった。それは、首謀者が鬼人正邪であり、その目的が下克上であったということだ。

 

「でも、八雲紫も言っていたじゃないですか。犯人は鬼人正邪で、下克上が目的だったと。それとも、それ以外の何かを知っているのですか?」

「あれはな」目に涙を浮かべながら、慧音は言葉を零し続ける。魔女もそれを遮ろうとはしない。

「あれは、下克上なんかじゃない。願いはもっと優しい物なんだ。友達が欲しい。ただ、それだけを。そんなものを願っただけなんだ。針妙丸の、儚い願いだったんだよ」

「知ってますよ、そんなことは」

 

 涙をこぼす半獣の顔を覗き込むように見上げる。当然、そんな情報は知らなかったし、知る必要はなかった。その理由は簡単だ。それは、真実ではない。

 

「あの天邪鬼に、そんな大層なことができる訳ないことぐらい、知ってますよ。ただ、本人がそう言ってたんです」

「本人って」

「当然、正邪です」

 

 巫女が異変を解決した次の日、私は魔力の気配が消えた輝針城へと向かった。何があったのかを確認したかったのだ。すると、そこには消耗しきっている正邪の姿があった。まだ、彼女が異変の首謀者だと広がる前の話だ。てっきり私は、いい寝床ができたから、住み着いているのかと思ったが、どうも違うようだった。

 

「下克上って難しいんだな」

 

 確か、彼女は私に向かい、いきなりそう言ったと思う。急に何を言い出すのか、と訝しみ、とりあえず写真を撮ったはずだ。

 

「小槌の願いで下克上を願ったんだが、巫女に負けてしまってよ」

 

 聞いてもいないのに、そう口にする彼女に、私は違和感を抱いた。彼女は酷く辛そうで、肩で息をしていたが、その目はギラギラと燃えていた。いい意味でなく、悪い意味でだ。そして、その目には見覚えがあった。夫婦殺害の記事を載せてくれ、と頼んできた時と同じ目をしていたのだ。

 

「また、ですよ」

 

 憤っている慧音に向かい、私は肩をすくめた。正邪が何を考えているかは知らない。妖怪の賢者はなおさらだ。だが、彼女たちの真実はもう決まっていた。ならば、外野が騒ぎ立てても仕方がない。

 

「皆が言えばそれが嘘でも常識になるって、正邪が言っていました。つまり、これが真実なんです。夫婦殺害の時と同じですよ。実際に起きたことなんてどうでもいいんです。真実は、これです」

「二度あることは三度あるらしいわよ」魔女がつまらなそうに口を挟んだ。

「正確には一度あることは二度ある、ですけど」

 

 悪く言えば、馬鹿の一つ覚えだ。だが、そんな一つ覚えにほいほいと引っかかってしまう自分がいるのも、また事実だった。

 

「お前はこれでいいのか」まただ、と小さく呟いた慧音は、焦点の合っていない目をぶるりと震わせた。

「また、正邪が罪を」

「慧音、それ以上は言わなくていいわ」

 

 ぱたり、と本を閉じた魔女は、小さく息を吐いた。澄ました顔をしているが、きっと、彼女は彼女なりに思うところがあるのだろう。その、閉じた本には微かに手跡がついていた。

 

「さっきも言ったけど、私は有言実行なのよ。何を血迷ったのか、正邪の力になるだなんて口走ってしまったから、私は彼女の意思を尊重するわ。それに」

「それに?」

「重要なのはそこじゃないでしょ」

 

 ふぅ、とまたもや息を吐いた彼女は、慧音の手に持っていた新聞を手繰り寄せ、もう一度机の上に置きなおした。そして、私が作り出した秀逸な見出しへと手を重ねた。

 

「妖怪の賢者が、鬼人正邪を指名手配。しかも、生死は問わないだなんて、本当なの?」

 

 慧音の顔が、より一層深みを増していった。絶望しているのかと思ったが、そういう訳でもないようで、拳を強く握りしめている。人里の守護者は本当に大変そうだ。

 

「本当ですよ。本人が直々にそう言ってきましたから。そう記事を書けと」

「あの妖怪の賢者がわざわざ?」

「はい。わざわざ。下克上が失敗して、さらに指名手配されるなんて、踏まれたり蹴られたりですよね」

「それを言うなら、踏んだり蹴ったりでしょ」

 

 怪訝な表情でコツコツと指で机をたたいている魔女は、眉間に指を当て、ぐりぐりと押した。

 

「もしかすると、妖怪の賢者は正邪を救おうとしているのかもしれないわね」

「はい?」疲れのせいで頭がおかしくなったのか、魔女はそんな突飛もないことを口にした。

「正邪が受ける苦痛は、きっと凄いものになるはずよ。だったら、その前に死んでしまった方が楽だと思ったのかも」

 

 色々清算できるしね、と淡々と言った彼女は、手に持ったコップを口元へと運んだ。が、その中にはすでに紅茶は入っていない。

 

 なぜ正邪が死ぬよりつらい苦痛を受ける羽目になるのか、仮にそうだとして、なぜ妖怪の賢者がそこまで彼女に構うのか、聞きたいことはたくさんあった。が、それを口にする前に、半獣の異様な雰囲気に気がついてしまい、言葉が止まった。唇をかみ切って赤い血を流している半獣は、身体を震わせ、その場に立ち上がっている。彼女の目には、明らかな怒気が浮かんでいた。

 

「パチュリー、違うぞ、それは」

「違う?」

「言われたんだ。妖怪の賢者に」

 

 頭をガシガシと掻きむしった彼女は、大きく息を吐いた。ばちんと頬を叩き、よし、と呟いている。いきなりの奇行に、私は彼女の頭が心配になった。

 

「正邪は雑巾だったんだ」

「え」

「八雲紫は言っていたよ。汚れを拭きとった後の雑巾なんて、ただの汚物よ。とっとと捨てるに越したことはないわ、ってな。きっと彼女は、正邪を、少し汚れた雑巾を利用するつもりなんだ」

「どういうことですか」

 

 たまらず、声を上げる。彼女が何を言いたいのか、まるで分らなかった。

 

「野菜の時と同じだよ」

「野菜?」

「スケープゴートだ」

 

 また、二度あることは、と呟き始めた魔女を無視し、慧音を見つめる。自嘲気味に笑う彼女は、どこか危なっかしい。

 

「正邪が野菜泥棒と決めつけられた時、人里は救われたんだ。希望が生まれた。根拠のない希望がな。もしかすると、八雲紫は幻想郷でそれをやろうとしているのかもしれない」

「どういうことですか」

「だからな」

 

 彼女の目は澱んでいたが、それでも表情は柔らかかった。誰かに物を教えるという行為の際に、自然とそのような表情になってしまうのだろう。だが、その歪さは見ているこっちが辛くなるものだった。ざまあみろ、とすら思えないほどに。

 

「幻想郷に溜まった不満を、どこかで感じ取っている不安を、取り除こうとしているんじゃないか? 下克上で汚れた雑巾を使って、ふき取る気なんだよ。それこそ、縁側にしみ込んだ汚れまで」

「つまりは」要領を得ない慧音の言い方にしびれを切らしたのか、魔女が口を挟んだ。

「正邪をサンドバッグにして、幻想郷の妖怪の憂さ晴らしをしようってことね。幻想郷の転覆を狙った奴はこうなるぞ、って見せつける意味も重ねて」

「そう、だな」

 

 ふん、とつまらなそうに鼻を鳴らした魔女は「他に八雲紫は何か言っていなかったの?」と続けた。が、彼女の視線は既に魔導書へと移っている。

 

「汚れた雑巾なんて、どんなに水洗いしても完全には落ちないから、埋めるしかない、とか言ってたよ」

「埋めるしかない、ね」

「埋めるってどこにですかね。やっぱ墓ですか」私の冗談に、くすりともせず魔女は呟いた。

「鬼の世界に決まってるじゃない」

 

 鬼の世界って何ですか、と疑問を投げかけるも、彼女は答えてくれなかった。慧音も同じように首を傾げている。その代わり、「正邪も随分と出世したものね」と毒にも薬にもならないことを言い、一人笑っていた。

 

「パチュリーはどうするつもりなんだ」

 

 ぬるりと顔を上げた慧音は、その閉じかかった目で私たちを睨んだ。痙攣するように瞳孔が蠢き、時々ぴくりと瞼がはねている。

 

「正邪が指名手配されたと知ったあなたは、これからどうするつもりなんだ」

「何度も言っているけれど」

 

 はあ、と魂が抜けそうなほど深く息を吐いた魔女は、手に持った魔導書を放り投げ、慧音に向かい合った。ぶわりと紫の髪をなびかせ、得意げに胸を張っている。

 

「私は正邪の言うとおりにするわ。彼女が殺してくれと言えば殺すし、助けてくれと言えば助ける。ただそれだけよ」

「きっと、あの天邪鬼なら、助けなんていらねえよ、って言うくせに、紅魔館に居座るんじゃないですか?」不貞腐れた顔で、図書館で横になっている彼女の姿が、ありありと頭に浮かんだ。

「ああ、でしょうね」

 

 ふふっと小さく笑った魔女は、あなたはどうするのかしら、と慧音に向かい首を傾げた。私も慧音へと視線を移す。いつの間にか椅子に座っていた慧音は、顔を俯かせ、もごもごと口を動かした。景気づけの焼酎を忘れたことが悔やまれる。今の彼女なら、たぶんかけたとしても怒らなかっただろうに。

 何時の日か出版する半獣の写真集に思いを馳せていると、「分からない」と慧音が呟いた。

 

「私は何も分からない。八雲紫の真意も、正邪の気持ちも、自分自身の考えすら分からない。分かるのは、私のせいで、小槌を無くした私のせいで取り返しがつかないことになってしまったことだ」

 

 いつもの自己嫌悪か、とうんざりする。これだから半獣は、と嫌味をぶつけようとしたが、それより早く「ただ!」と慧音が叫んだ。喉の奥から絞り出したその声は、悲痛なまでに震えていた。顔を上げた慧音の顔を見つめる。想像通り、目には涙が浮かんでいたが、予想外なことに彼女の頬は緩んでいた。

 

「ただ、私も約束を守るよ」

「約束?」

「正邪がいつ来てもいいように、居候ができるように掃除でもして、待ってるさ」

 

 ああ、待つとも、と遠くを見つめている慧音に舌打ちする。勝手に自己嫌悪して、勝手に解決して。彼女はいつもそうだ。きっと、不死身の友人もやきもきしているだろう。その一喜一憂が私たちを振り回しているなんて、知らないに違いない。そして、そんな彼女に振り回されることを期待している私のことも、知らないに違いないのだ。

 

「射命丸はどうするんだ」

 

 お返しとばかりに、慧音が訊いてきた。迷いのない屈託のない目だ。今まで悩んでいたのは何だったのか、と問い詰めたくなる。が、どこか安心してしまう。

 

「これから、どうするつもりだ」

 

 どうするつもりか。そんなのは決まっていた。口元に手を当てる。真顔でいようと努めていたのに、いつの間にか笑っていた。烏天狗がやることなんて、一つしかない。

 

「そりゃあ、新聞を作りますよ」

「まあ」

「でしょうね」

 

 ケラケラと笑う彼女たちを前に、知らず知らずのうちにカメラを取り出していた。少し後ろに下がり、シャッターを切る。目を真っ赤にはらしながら笑う慧音と、興味のないふりをしつつも、にやけている魔女。中々にいい写真だ。記事にするにはもったいないほどに。そして何より気に入ったのは、その二人の後ろにでかでかと掲げられている肖像画だった。まるで、笑いあっている二人を見守るかのように、そこに描かれている妖怪は笑っていた。見守るというには、あまりにもムカつく笑いだったが、それでも私は気に入った。

 

「なあパチュリー、さっきから気になってたんだが」

 

 どうやら慧音も同じことを思ったらしく、目を細めながら、その大きな肖像画を指差した。厳かな図書館の雰囲気にはあまりにも似合わないそれは、ある意味彼女らしかった。

 

「この肖像画は何だ?」

「ああ、これね」照れくさそうに笑った魔女は、こほん、と小さく喉を鳴らした。彼女のそんな表情など見たことがなかったので、慌ててカメラを向ける。

 

「私は有言実行をモットーにしてるのよ。約束は当然のこと、些細な発言にも責任を持つわ」

 

 さっきも言ったわね、と微笑んだ彼女は、愛おしそうに肖像画を見つめた。私ももう一度肖像画に目を向ける。片目をつむり、人を見下すかのような表情は、彼女がよくするものだった。その絵は決して写実的ではなく、むしろどこか歪んでいたが、捻くれている彼女にはピッタリに思えた。正邪が見れば、何と言うだろうか。想像するだけで面白い。同じことを考えたか分からないが、魔女がふふ、と笑い声をあげた。

 

「正邪に言ってしまったのよ。友達が欲しいなんて馬鹿げた願いだったら、尊敬のあまり肖像画を額縁で飾ってあげるってね。だから、頑張って描いたのよ」

 

 口は災いの元だ、と乾いた笑い声が、肖像画から聞こえた気がした。

 



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吉報と凶報

「いいニュースと悪いニュース、どっちから聞きたいかしら」

 いきなり現れた妖怪の賢者は、これまたいきなりそんなことを言いだした。

 

 輝針城異変が終わってから一週間がたった。巫女にやられた傷も大分塞がり、動く分には問題がないくらいまで回復している。だが、そんなことを気にする必要は、もうない。どうせ鬼の世界とやらに封印されるのであれば、怪我があってもなくても大差ないからだ。てっきり私は、輝針城の魔力がつきた瞬間に封印されるものだと思いこんでいた。だが、予想に反して、一週間たっても、まだこうして輝針城の中にいる。

 

 しかし、その呪いは着実に身体を蝕んでいる。段々とだが、体の感覚が鈍くなっていた。だからだろうか、あれだけ恐ろしかった妖怪の賢者が現れても、驚きもしなかった。驚くことすら、できなくなっていった。

 

「どうしたのかしら、黙り込んじゃって。黙っている天邪鬼に存在価値があるのかしら」

「うるせえよ」

 自分の想像以上に、出た声はか細い。

「あまりにも存在感が無くて、気づかなかっただけだ」

「あなたみたいな弱小妖怪にそんなことを言われたのは、初めてだわ」

「そりゃ、良かった」

 

 そんな弱小妖怪に構うほど、こいつは暇なのだろうか。ふと、そんなことを思った。自分の知っている妖怪の賢者は、弱小妖怪のことなど、昨日の朝食並みにしか考えていないはずなのに。

 

「どうして、ここまで私に構うのか、って顔してるわね」

「お前、心が読めるのか」図星を突かれ、戸惑いのあまり突拍子もないことを言ってしまう。

 

 馬鹿にされる、と身構えたが、八雲紫は予想に反し、少し狼狽えていた。あの妖怪の賢者の狼狽える姿を見られる日が来るとは思わなかったが、全く嬉しくない。こいつの挙動は、全てが演技臭く見える。

 

「心が読めたなら、きっと私は失敗しなかったわ」

「失敗?」

「そう。私は一度失敗したらしいのよ」

「は?」

「まあ、私は幻想郷の賢者だから、二度あることは三度あるなんて、馬鹿な真似はしないわ。ただ、前の失敗を二回目と数えていいのかは微妙なのだけれど」

 

 一から寺子屋で日本語を学んで来い、と言いたくなるほどに、事実口にしたのだが、それぐらい彼女の言葉の意味が分からなかった。慧音の授業を彼女が受けている姿を想像すると、笑える。

 

「それで? あなたはどっちを選ぶの? 良い方と悪い方」

「生憎、弱小妖怪は選択権なんて与えられたことがなくてな、分かんねえわ」

「そう、なら悪い方から話すわね」

 

 だったら、初めからそうすればいいのに。妖怪の賢者は意外に面倒くさい奴なのかもしれない。彼女の行動、言動すべてが鼻につく。

 

「まあ、簡潔にいえば、小槌の魔力が尽きるまで、あと少ししかないってことよ」

「え」

「余命僅かってことね」

 

 どうしてお前にそんなことが分かるのか。それを私に伝えてどうするのか。聞きたいことはたくさんあったが、全てのみ込む。どうせ、八雲紫の返事など、聞いても理解できない。と、そう自分に言い訳する。本当は、単純にその結末を受け入れたくなかった。分かっていたはずなのに、それでも恐怖してしまう。あの八雲紫が余命と言ったのだ。鬼の世界とやらは、一体どんな場所なのか。鶏ガラの言った、何もない場所というのを思い出した。

 

「鬼の世界というのは、どんな世界か知っているか?」

 

 少し緊張しながら、八雲紫に訊ねた。彼女ならば意気揚々と、私だったらすぐに帰ってくこれるわ、と豪語するのではないか。そう期待していた。だが、その言葉を聞いた彼女は返事をしない。少し顔を俯かせ、扇子を持った手を虚空へと掲げた。それを真っすぐ振り下ろす。すると、空間が裂け、スキマが現れた。

 

「私は行きたい場所があれば、こういう風にスキマを作って移動できるのだけれど」

「そんなことしてるから太るんだ」

 

 私の軽口を無視し、スキマを閉じた妖怪の賢者は、先ほどと全く同じように手を上に掲げ、振り下ろした。しかし、今度は何も起こらない。ふざけているのかと思ったが、そうでもないようだ。

 

「その“鬼の世界”とやらに行こうとすると、こうやってスキマを作れないのよね。しかも、試すだけで多大な妖力を持っていかれるの。そんな場所、危険に決まってるわ。死後の世界が平和に思えるほどね」

 

 八雲紫の言ったことは、どこか遠い場所で起きている話で、自分とは関係のないことなのではないか。そう思いたかった。あの妖怪の賢者が恐れる場所。そんな場所に連れていかれると言われて、恐怖しない奴などいない。八雲紫なんかより、よっぽど怖かった。

 

「それで、良いニュースっていうのは」

 

 その恐怖を悟られないように、語気を強めた。それでも声の震えは覆い隠されていない。わざとらしく咳こみ、ごまかした。

 

「ああ、ごめんなさい」

「なんで謝るんだ。やっと自分の傲慢さに気づいたか」

「悪い知らせ、もう一つあるのよ」

 

 顔の前で扇子を開き、目を細めている彼女は、どこか楽しそうだった。何を考えているか、まったく分からない。それが、余計に彼女の胡散臭さを助長していた。

 

「あなたって、自分では悪人って名乗ってたわよね」

「名乗ってねえよ」

「ひとつ、質問よ」

 

 長い金髪をぶわりとあげ、うふふと微笑んだ彼女は、ぱちんと扇子を閉じた。

 

「もし、悪人が悪人らしく逃げたのなら、普通はどうするかしら」

「それより、どうして扇子をあおぎもせず閉じたんだ」

「カッコウツケ、かしらね」

 

 いいから質問に答えなさい、と怪しげな笑みと共に言う彼女の姿は、どこかの寺子屋の先生なんかより遥かに頼もしく思えた。だが、実際にこんな先生がいたら、誰も寺子屋には寄り付かないだろう。少なくとも私はいかない。

 

「悪人が逃げたらか。相手が強そうだったら見て見ぬふりをするな。弱かったら脅して利用する」

「そんな出来もしないことを」

 

 はぁ、と片頬に手を添え、大きく息を吐いた。哀れんでいるようにも呆れているようにも見える。ただ、馬鹿にしているのは確かだった、

 

「正解は、指名手配する、よ。それはあなたも例外じゃないわ。つまり、私が何を言いたいのかといえば」

「いえば?」

「あなたはこれから幻想郷の皆から襲われるようになるわ」

「おいおい」

 自分の頬が緩むのが分かった。妖怪の賢者も実は大したことないのかもしれない。

「今更何言ってんだよ」

 

 今まで私の歩んできた道の中で、共に歩んでくれるものがいたか。いない。いたかもしれないが、私はそれを拒絶する。だって、天邪鬼だから。なら、逆はどうか。私を憎む奴はいたか。そんなの、考えるまでもなかった。

 

「幻想郷の連中から襲われるだ? そんなのは今までと変わらねえよ。私は天邪鬼だぞ。嫌われることを、蔑まれることを望んでいるんだ」

「でも、あなたにはないじゃない」

「え」

 

 いきなりそんなことを言われた私は、ナイジャナイと繰り返してしまった。

 

「ないって、何が」

「才能が」

「才能って、なんの」

「嫌われる才能よ」

「いや、ある。むしろ、私はプロだ」

 

 そう反論したが、彼女は馬鹿にするように鼻で笑った。妖怪の賢者は、人を見下さなければ、生きていけないのだろうか。

 

「まあ、悪い話はこの辺にして、次はいいニュースといきましょうか」

「あと少しで封印される奴にとって、いいニュースなんてあるのか」

 

 懐に入っているレプリカへと手を伸ばす。鶏ガラが作った、頼もしい道具だ。彼女は今何をしているのだろうか。分からない。が、もう会うことはないだろう。だったら、彼女のことなど忘れてしまうべきだ。

 

「さっきも言ったけど、あなたは指名手配されたのよ。鬼の世界に行く前に殺されたら、情けないじゃない」

「私は死なねえよ」

 

 一瞬、封印される前に死ねば、あの世で彼に会えるんじゃないかと、そんなことが脳裏に浮かんだ。が、すぐに頭を振ってその考えを消し去る。私は死なない。包丁を持った三郎少年のことを思い出した。父親を失い、母親を亡くした少年は、どんな思いで生きているのだろうか。あんなひ弱で儚い少年ですら生きているのだ。負けるわけにはいかない。三郎少年のためでは決してない。あいつに意地を見せたいだけだ。だから、絶対に私は死なない。そんな、思ってもいないことを、私は考えていた。死にたいだなんて、思ってはいけないはずだ。

 

「死んでも、生きてやる」

 

 自己暗示をかけるように、そう呟く。八雲紫の眉が少し上がったのが分かる。驚いたようにも、馬鹿にしたようにも見えたが、きっと後者だろう。妖怪の賢者のなすことは、全てが計算づくだと言われても、反論することができない。それくらいの威圧感を放っている。

 

「そう。なら、よかったわ。いいニュースというのはね、プレゼントがあるってことだったのよ」

「いらねえよ」

「素直じゃないわね」

「素直な天邪鬼なんているわけないだろ」

 

 どうして自分からの贈り物は喜ばれると思っているのだろうか。その自信満々な態度が気に入らない。そして何より、その自信満々な態度が、決して自信過剰ではないことが歯がゆくて仕方がなかった。これだから強者は。

 

「いいじゃない。無償で支援を貰えるなんて、弱者の特権よ。なんなら、あなたの言うことなら聞いてあげてもいいわ」

「弱い者は助ける、ってか? 下らねえ。そんなの、誰が頼んだんだよ」

「あら? 助けを求めるなら、早い方がいいわよ。遅いと間に合わなくなるわ。時間切れですってね」

「頼まねえから安心しろ」

「時間より早く、堪忍袋の緒が切れそうね」

 

 相も変わらずよく分からないことを言った彼女は、虚空に向けて小さく手を振った。すると、その先の空間が裂け、漆黒のスキマが現れる。何度見ても慣れる気はしなかった。そして、その隙間から吐き出されるように、何かが出てきた。数は二つだ。ぼとりと音を立てたそれらを見つめる。どこか、見覚えのある霊力と、妖力に包まれていた。

 

「陰陽玉と折り畳み傘。どっちが欲しいかしら?」

「は?」

「プレゼントよ」

 

 いらない。凄くいらない。床に落ちた二つのガラクタを見る。弱者を助けるやら何やら言った割には、随分とちんけなものではないか。

 

「さあ、どっちが欲しいかしら」

「どっちもいらない」

「遠慮はいらないわ」

 

 本心から、いらないと思ったにも関わらず、彼女はそうは捉えなかったようで、急かすようにその二つを差し出してきた。右手に陰陽玉を、左手に傘を持ち、ぐいぐいと押し付けるように近づけてくる。その並々ならぬ勢いに気圧された私は、しぶしぶながらも「なら、傘を」と言ってしまった。口にした瞬間、後悔に襲われる。こいつの思い通りに行動するのが癪だった。

 

「傘ね、分かったわ。なら」

 

 薄気味悪い笑みを浮かべた彼女は、差し出していた手のうち、左手をすっと引っ込めた。つまり、傘を持っていた手を戻し、右手に持っている陰陽玉を押し付けてきたのだ。

 

「おい、傘って言っただろ」

「ええ、言ったわね」

「なら、なんで陰陽玉の方を渡してくるんだよ」

「なんでって」

 

 さぞかし不思議そうに首を傾げた彼女は、乱暴に陰陽玉を投げてきた。触れば、痺れたりするだろうか、と警戒しつつも、そのまま受け取ってしまう。運がいいことに、その陰陽玉には特に仕掛けはしていなかった。自分の軽率さに呆れる。

 

「さっき、あなたが言ってたじゃない」

「言ってた? 何を」

「弱小妖怪は選択権なんて与えられたことがないって」

 

 思わず、陰陽玉を叩きつけてしまった。だが、誰がそれを責めることができるだろうか。きっと、鶏ガラも、烏も、慧音だってそうするに違いない。あれだけ恐ろしかった妖怪の賢者が、今では腹立たしい鬱陶しい奴としか思えない。いや、思わされてしまっている。そのことに気がついたとき、忘れていた恐怖がまたぶり返した。

 

 陰陽玉を拾いなおし、ポケットにしまう。そのまま八雲紫に背を向け、窓の外を覗いた。どうやら今日も晴れているようで、はるか下の地上まで見通せる。どちらにせよ、傘は必要ではなさそうだ。

 

「輝針城で籠城しようなんて、考えない方がいいわよ」

 

 突然後ろから声をかけられ、驚く。いつの間にか、すぐ後ろに八雲紫が立っていた。

 

「そろそろ指名手配されたことを知った妖怪が首を狙いに来るかも」

「そんなに暇な奴がいるのか?」

「まあ、賞金をあげるといったから、結構いるんじゃないかしら」

 

 なるほど、と納得してしまう。たった一匹の弱小妖怪を倒すだけで金がもらえるのならば、参加しない理由はないだろう。

 

 不思議と、なんでそんなことをしやがった、と文句を言う気分になれなかった。どうせ封印されるから、と達観しているのだろうか。それとも、諦めてしまったからだろうか。何かを。やりたかったことを。やるはずだったことを。

 

 やらなければならなかったことを、諦めているのではないか。

 

「そうだった」

 

 はっと、頭に電流が流れた。私はまだ封印されるわけにはいかない。黙って余生を過ごすわけにはいかないのだ。どうして忘れていたのか、と自分を殴りたくなる。そうだ。まだ、やり残したことがあるじゃないか。

 

「急に目に光が灯ったわね」

「まあな」

 

 頭の奥底に、メラメラと炎が燃えている。その炎からは、真っ黒な木々がふき出し、パラパラと灰が舞い上がっていた。跡形もなく燃え尽きてしまった彼の家から、うめき声が聞こえてくる。蕎麦屋の親父の声だ。その声を頼りに近づこうとするも、目の前に大きな壁が降ってくる。その壁の上には、憎らしい笑顔を浮かべ、銃を持っている喜知田の姿があった。絶対にそこから引き吊り下ろしてやる。死ぬ前に、封印される前に殺してやる。そう、決意した。

 

「なあ、妖怪の賢者さんよ」

「なにかしら」

「復讐って、どう思う?」

「急にどうしたのかしら」

 

 さも、驚いたと言わんばかりに身体を仰け反らせているが、表情は何一つ変わっていない。

 

「お前みたいな強者からしたら、やっぱり復讐って下らないものなのか」

「どうかしらね。状況によるわ。でも、オトシマエは大切よ。秩序を保つためにはね。例えば、下克上を起こした犯人を懲らしめたりするのは、必要ね」

「多分、その犯人は今ごろ面倒な妖怪に絡まれているな」

「素敵な妖怪とお話ししているはずよ」

 

 彼女の息遣いから、胡散臭さが漏れ出ているような気がする。それほどまでに、掴み所がない。

 

「私の友人がね、こんなことを言っていたのよ」

「突然なんだ」

「“迷ったら、やれ”ってね。だからとりあえず迷ったなら、実行してみるのも手よ」

 

 随分とその言葉を気に入っているようで、何度も“迷ったら、やれ”と繰り返していた。あの計算高い八雲紫とは思えないほどに曖昧な言葉だ。だが、少なくとも私のような弱小妖怪にはお似合いの言葉だった。

 

 迷ったら、やれ。だったら、迷っていない私が躊躇する理由なんて無かった。

 

「おい、心優しい八雲紫」

「なあに?」

「さっき、一つぐらい言うことを聞いてくれる、みたいなこと言ってたよな」

「ああ、言ったわね」

「ならよ」

 

 懐に入ったレプリカに手を重ねる。呪いの小槌だ。私を奈落の底へ落とすためのものだが、不思議と勇気を与えてくれた。何の勇気か。終わらせる勇気だ。

 

「なら、頼みたいことがある」

「残念だけれど」

 

 私の言葉を遮った八雲紫は、全く残念そうではなく、むしろ楽しそうだった。今まで浮かべていた強張った微笑みをふわりと解いた彼女は、少女のような屈託のない笑みを浮かべた。

 

「時間切れよ」

 

 

 

 そう一方的に断言した彼女は、「でも、可哀想だから、一回だけチャンスをあげるわ」と嘯きながらスキマを開いた。

 

「次に会った奴に、あなたが悪人かどうか聞いてみなさい。それで、もし違うと言われたならば、助けてやってもいいわよ」

「なんだそれ」

 

 それじゃ、次に会うときは、お別れの時ね、と言い残し、彼女は姿を消した。文句を言う暇すらなかった。そんなの、無理に決まっている。私を悪人じゃないだなんて、慧音ですら言わないだろう。きっと、最初から言うことを聞く気なんかなかったのだ。妖怪の賢者なんて、所詮そんなものなのか。

 

 もう一度、窓から外を覗く。澄んだような青空が視界を覆った。それが、また私を苛立たせる。彼が死んだ時だって、この空は、人里は何も変わらなかった。きっと、私が封印されても何も変わらないのだろう。たかが弱者が一人死んだところで、世界は何も変わらない。

 

 だが、視界は変わった。真っ青で、雲一つない寒空に、一つの影が現れた。その影は段々と大きくなっていく。姿こそ見えないが、人影なのは明らかだった。ぎょっとし、尻餅をつく。分かっていたはずなのに、気分が暗くなった。本当に来るのかよ。

 

 急いでここから逃げようと駆けだすが、床にあった何かに躓いてしまい、そのまま倒れ込んでしまう。焦っていたからか、受け身を取ることもできずに、無様に顔面を打ち付けた。鼻がひりひりとし、目に涙が浮かぶ。誰もいないのに、つい悪態を吐いてしまった。

 

「なんだってんだ」

 

 痛む顔をさすりながら、顔を上げる。一体何に躓いたのかと顔を背けると、見慣れない、けれども見覚えのあるものが転がっていた。荒んだ心が、少し落ち着いてくる。面白くも無いのに、無性に笑えてきた。

 

「なんだよ」

 

 紫色の、その独特の傘を摘まみ上げる。陰陽玉と一緒に差し出してきた、あの傘だ。全くもっていらないが、それでも懐に入れた。てっきり、貰えないとばかり思っていた。もしかして、忘れていったのだろうか。いや、あの妖怪の賢者がそんなへまをするとは思えない。だとすれば、やっぱり意図的に置いていったのだろう。私に渡すために。

 

「お前の方がよっぽど素直じゃないじゃねえか」

 

 素直な妖怪の賢者がいるわけないじゃない。頭の中で、そんな声が響いた。

 

 

 

 

「いやあ、久しぶりだね」

 

 輝針城を出ようと、廊下を進み扉を開けたところで、そいつは現れた。ちょうど扉から入ってこようとしたところだったらしく、手を不格好に伸ばし、苦笑いを浮かべている。それを誤魔化したかったからかしらないが、そのまま私の手を掴み、ぶんぶんと上下に揺さぶっていた。乱暴に手を離す。

 

 そもそも、輝針城へと迷いなく来ることができて、しかもすぐにその入り口を見つけることができる奴など、限られている。妙に分かりづらい扉をきちんと使ってくる奴は更に稀で、窓を蹴破ったり、巫女のように強行突破してきたりと、それ以外の手段で侵入し来る奴の方が多いと踏んでいた。だから、私はご丁寧にも扉から出ようと思ったのだ。

 

 それが、裏目に出た。

 

「まさかお前が来るとはな」

「いやー、私もびっくりだよ」

 その短めの茶色い髪を撫でた彼女は、私と距離を取りたかったのか、少し後ろに退いた。私も輝針城を出て、間合いを詰める。

「まさか最初に来るのが八橋だとは」

 

 眉を下げ、苦笑いをした彼女は、まあね、と言葉を濁した。どうして彼女が私の元へ来たかは分からない。まだ、弁々の方が可能性はあった。自己中心的な彼女であれば、金のために私を倒すなど、普通にやりそうだ。だが、八橋が来ることなんて、考えてもいなかった。

 

「いったい何の用だ。私は雑魚道具に構ってる暇なんてないぞ」

「雑魚道具ってなんか語呂がいいね。タコ坊主、揚げ豆腐、雑魚道具」

「お前はその二つと一緒でいいのか」

 

 うんうんと、何かに納得したように頷いた彼女は、「なら、きっと私が揚げ豆腐で、姉さんがタコ坊主だね」と嬉しそうに私に微笑みかけた。さりげなく自分をタコ坊主にしない辺り、腹黒さを感じる。

 

「姉さんは、甘いたこだ」

「たこは甘くねえだろ」

「詰めが甘いんだよ、姉さんは」

「たこに爪はねえよ」

 

 はあ、と肩をすくめた八橋は、でも、と口をすぼめた。

 

「でも、私は雑魚じゃないよ。本気を出せば、爆音で相手を驚かせる」

「地味すぎる」

「今度、聞かせてあげるよ」

「お前とはもう金輪際会わねえよ」

 

 そう言うと八橋は、「私は揚げ豆腐なのに?」と不思議そうに首をかしげた。思わず、ため息が漏れる。

 

「いっておくが、揚げ豆腐もタコ坊主も絶対に誉め言葉じゃねえぞ」

「そうかな」

「そうだ。もしタコ坊主って言われたら、大抵の連中は怒り出す」

「またまたー」

 

 なぜか納得しない彼女は、この凍えるような寒さの中で、大きく身体を広げた。突然の奇行に驚く私をよそに、妖力を体へと蓄え始める。その妖力は以前のものとは大きく異なっていた。

 

「私はまだ生まれたばかりだけどさ」

 

 訝しむ私をよそに、楽しそうに八橋は笑っていた。相も変わらず彼女の目的が読めない。

 

「生まれたばかりでも、美味しいものがいいものということは分かるよ。そして、タコも揚げ豆腐も美味しいものでしょ? だったらそれは褒め言葉だよ」

「ちげえよ。なんだその毒にも薬にもならねえ理屈は」

「毒も薬も美味しくないから、いいものじゃないね。悪いものだ」

 

 そんな下らない冗談を言う八橋に私は少し呆れそうになった。つまり、実際には呆れなかった。呆れではなく本気で心配になったのだ。何が。彼女の頭が。

 

 私が冗談だと捉えた彼女の言葉は、冗談でも何でもなかった。彼女は本心からそう言ったのだ。真顔で、タコと揚げ豆腐はよくて薬と毒はだめだと呟いている。馬鹿馬鹿しい。

 

「そんなことより、早く来た目的を言えよ」

「そんなことって何さ。あれだね。正邪は薬だね」

「うるせえ。なんで私が薬なんだよ」

「本当はいいものなのに、悪いものだからさ」

「それは、私が悪人じゃないってことか?」

「そんなわけないじゃん。正邪は悪人だよ」

 

 だよな、と思わず返事をしてしまう。八雲紫がどこかから、私をせせら笑っているような気がした。 

 

「そういえば毒で思い出したけど」

 

 私の、お前の目的は何か、という質問に一切答えようとしない八橋はそう言った。なぜ毒で思い出すことがあるのか、とバカにしようと思ったが、口を閉じる。自分にも心当たりがあった。赤飯に毒を入れると嘯いていた針妙丸の怒りと悲しみの混濁した顔が頭をよぎる。今思えば、その時の表情は彼に似ていたような気がした。まあ、もう二度と見ることはないだろう。だが、私の予想に反し、八橋が話したのは、小人ではなく人魚のことだった。

 

「わかさぎ姫。巫女に対して毒をとか呟いていたけど、あれけっこう本気だったらしいよ」

「はあ?」

「まあ、結局は用意できなかったから、複雑な模様の氷を飲ませようとしたらしいけど」

「それ、意味あるのか?」

「お腹を壊すかもしれないし、もしかしたら案外効くかもよ」

「毒じゃないのに?」

「毒じゃないのに」

 

 どこまで本気なのか、微笑しながら淡々と言葉を並べていた八橋は、急に表情を消した。乾いた冷たい風が彼女の綺麗な髪を揺らす。その髪のすきまから見えた彼女の目には、確かに怒りが浮かんでいた。

 

「正邪、あなた姫に何をしたの?」

「姫ってわかさぎ姫のことか」

「針妙丸に決まってるじゃん」

「決まってねえよ」

 

 私が針妙丸に何をしたか。何もしていない。何もすることができなかった。そしておそらく、最初から何もするべきではなかったのだろう。私が彼女と一緒にいて、いいことなんて、一つもない。

 

「あのチビと私はもう無関係だ。ただの他人だよ」

「そういうこと言うから、こんなことになるんだよ」

「こんなこと? 何の話だ」

 

 はあ、と大きくため息を吐いた八橋は、生まれたばかりの雑魚道具のくせに、いっちょ前に肩をすくめた。その仕草は、間違いなく私を真似たものだ。

 

「この前、巫女にぼこぼこにされた後に、博麗神社に行ったんだ。姉さんと一緒にね。その時に針妙丸に会ったの。そこで巫女と一緒に住んでるらしいんだけど」

「どうだった」

「酷かった」

 

 酷かった。その言葉で一瞬にして私の頭に怒りが込み上げてくる。巫女と一緒に住んでいることは別に構わない。幻想郷で一番安全なところといっても過言ではない博麗神社に匿ってもらうのは、むしろ願ったり叶ったりだ。だが、もし巫女が。博麗の巫女が針妙丸を痛めつけたりするのであれば、酷い目に遭わせているのであれば、私は許すことができない。でも、どうして許せないのか。その理由は私にも分からなかった。

 

「酷かったって、何があったんだよ。殴られていたのか?」

「殴られ? ちがうちがう。むしろ快適そうに過ごしてたよ」

「はあ?」

 

 なら何が酷かったのだろうか。

 

「そうじゃなくて、凄く悲しそうだったんだよ。正邪が悪い妖怪だと知って、頭を抱えていた。更生させなきゃって」

「更生?」

「いい妖怪にしないとってね」

 

 そこまで一息に言い切った八橋は、こてんと首を傾げた。依然としてその目は鋭く、何を映しているかよく分からないが、私に何か不満を抱いているのは確かだ。

 

「つまりは、正邪のせいで姫の心は酷いことになってるんだよ。どう? 少しでも姫に謝ろうという気になった?」

「なる訳ないだろ」

「なんで」

「なんでって」

 

 そんな質問をする意味が分からなかった。

 

「私は天邪鬼だぞ。天邪鬼が謝るのは演技か、それとも煽るときだけだ」

「そう言うと思ったよ」

 

 なら、交渉決裂だね、と不敵に笑った八橋は、その身にまとっていた妖力を辺りに拡散させた。それが一つずつ大きな光の弾へとなっていき、視界を覆いつくす。雑魚だとあれ程馬鹿にしたが、私ではとても太刀打ちできそうになかった。

 

「だとしたら、力づくで姫の前に突き出すことにするよ」

 

 持っている琴をかき鳴らした八橋は、わたしに向かい敵意を剥き出しにした。だが、それは憎悪とかそういった類のものではなく、むしろ楽しんでいるようにすら思える。現に、彼女は頬を見せ、白い歯を見せていた。

 

「それに、正邪を捕まえれば、報奨金が出るらしいし」

「おまえ、そっちが本当の目的だろ」

 

 どうだろうね、と微笑んだ八橋は、浮かべていた光の弾を私に向かい投げつけてきた。

 

 

 

 

 

 生まれたばかりの雑魚道具にもかかわらず、八橋が放つ弾幕は私を圧倒していた。輝針城のすぐ下を通り抜けるようにして弾幕を躱しているものの、当たるのは時間の問題だった。

 

「頑張ってよ。我らが天邪鬼のリーダーさん」

「何が我らがだ。馬鹿野郎」

 

 巫女の時と同じように、河童から貰ったお守りを投げつける。ぴしりと嫌な音がしたかと思えば、視界が光に包まれた。その間に八橋と大きく距離を取り、そのまま逃げようとする。が、すぐに後ろから弾幕が襲ってきた。慌てて身体を捻るも、右腕に熱が走る。歯を食いしばり、無視して八橋の方を振り返った。

 

「おまえ、そんなに強かったのかよ」

「強くないよ。正邪が弱いんだよ」

「私は弱くねえ」

 

 そう言っている間にも、数えきれないほどの光弾が飛んできた。躱すのに精いっぱいで、何もすることができない。せめて、懐に入り込めれば爆弾を当てられるのだが。

 

 そう思った瞬間、身体に妙な違和感を覚えた。どこか心当たりのある、輝針城の魔力とも違う何かが、発せられている。

 

 いったい何だろうか、と困惑していると、胸元が少し熱を帯びているのが分かった。その熱源を手探りで探し、取り出す。その正体は、八雲紫から貰った陰陽玉だった。それが発熱している。巫女が発した霊力のようなものが、纏わり付いていた。

 

 そんなことを考えていると、目の前に八橋の光弾が迫っていた。それは、他の奴よりもかなり大きく、その代わりに動きも遅かった。きっと、行動をけん制しようとしたものだったのだろう。だが、ちんたらしている内に、避けられない距離にまで近づいてしまっている。そして何より、そのことに一番驚いているのは八橋のようだった。目をまん丸にし、口元に手を伸ばしている。そんな人の心配をする時間があったら、自分の心配をしろよ、と言いたかったが、それは自分自身に言えることだった。

 

 ああ、せめて八橋には勝ちたかったな。そう思い目を閉じると、また陰陽玉が熱くなった。これを投げれば、この光弾と相殺してくれないだろうか。そう思い、闇雲に投げる。

 

 すると、予想外のことが起こった。光弾に押しつぶされると思い、目を閉じたものの、中々衝撃がやって来ない。恐る恐る目を開けると、その光弾ははるか遠くにあった。最初は、その光弾が逸れ、そのまま通過していったのかと思ったが、違った。それが分かったのは、目の前に八橋の後ろ姿が見えたときだ。彼女は、自分の放った弾幕を見ながら、ただ茫然としている。

 

 瞬間移動をした。そう実感するのに時間がかかった。どうしてそんなことが起きたのか、そもそもあり得るのか、色々な疑問が脳裏をよぎったが、全部無視する。今すべきことはたった一つ。逃げることだけだ。

 

 ばれないように、慎重に踵を返す。ついでに、と河童にもらったお守りの封を開け、八橋に放り投げた。ぴしり、と音が響いたかと思えば、八橋の悲鳴が聞こえてくる。それを無視し、全力で進む。

「ちょっ、正邪。待った待った」

「時間切れだ。お前にはいい薬だろ」

 

 やっぱ、薬は嫌いだよ、という断末魔が聞こえ、爆風が舞う。きっと、そこまでの怪我は追わないはずだ。八橋だったら、うまく避けることができるだろう。そう八橋のことを考えていると、その爆風が、いつの間にかすぐそばへと迫っていた。光と熱に巻き込まれ、身体に衝撃が加わる。

 

 やっぱり、人の心配なんてするもんじゃねえな。そう呟いた私の声は、爆音にのまれていった。

 



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過去と未来

 トラウマ。個人にとって心理的に大きな影響を与え、その影響が長く続くような体験、あるいは出来事。大抵の場合は、会話の種として軽々しく使われる。

 だが、本当にトラウマを抱えている奴からすれば、誰かに話すことすら憚られるはずだ。その体験を思い出すだけで、気分は憂鬱になり、挙動不審になる。だから私は毎回トラウマという言葉を聞くたびに思うのだ。お前、それ本当はトラウマじゃないだろ、と。

 

 けれど、今目の前で楽しそうに私に向かってくる存在は、まごう事なく、私のトラウマと言っていい存在だった。

 

 

 八橋と戦い、爆風に吹き飛ばされた私は、見慣れた場所で目を覚ました。輝針城のすぐ下の草原だ。痛む体を強引に動かし、辺りを見渡すも、八橋の姿はなかった。

 

 そのまま草原でじっとするのも悪くなかったが、私に残された時間は少ない。とりあえずは、動かないと駄目だ。そう思い、当てもなくふらついた。それが失敗だった。今なら分かる。迂闊に行動するべきではなかった。よしんば動いたとしても、こっちに来るべきじゃなかった。きっと、見知った紅魔館への道を無意識のうちに進んでいたのだろう。その先に行っても、何もすることがないと知っていたのに。道の途中に霧の湖があると知っていたのに。

 

 その湖に、あの憎き氷精がいると知っていたのに。

 

「あんたが噂の天邪鬼か?」

 霧の湖に入ったことに気がつき、引き返そうとしたところで、そいつと会った。会ってしまった。青い髪と特徴的な羽が、私のトラウマを刺激する。

「指名手配犯って思ったよりも弱そうだな」

 氷精チルノは、生意気そうな顔で笑った。品定めするようにこちらをじっと見ている。

 だが、つい最近妹紅と一緒に紅魔館で会ったというのに、彼女は私のことを覚えていないようだった。いくら妖精の頭が残念だからといっても、さすがに二、三回も会えば覚えるはずだ。それでも覚えていないということは、そもそも覚える気が無かったということだろう。つまり、眼中にすら入っていなかったのだ。妖精にすら見下されているという事実に腹が立つが、ぐっとこらえる。逆にこれはチャンスだ。誤魔化せるかもしれない。

 

「まあ、落ち着けよ氷精。私は天邪鬼じゃない」

「え?」

「私はただの、そうだな。通りすがりの付喪神だよ」

「付喪神? なんの?」

 意識的か無意識か。チルノから身を刺すような冷気が漂ってくる。これは、返答を間違えると危ういかもしれない。だが、いい考えが思い浮かばなかった。

「なんのって、それはあれだよ」

「あれって?」

「薬だ。薬の付喪神だ」

 

 眉を下げ、口を変な風にあけたチルノは、いかにも、なんだこいつ、といったような表情を作り、実際に「なんだこいつ」と言葉に出した。その顔からは、呆れが滲んでいる。

 

「薬の付喪神だったら、もっといい感じになるはずじゃん。そんなに目つきは悪くないはずだって」

「薬ってのは悪いもんらしいぞ。知らなかったか」

「何言ってんだこいつ!」

 

 馬鹿にするようにそう叫んだチルノは、その阿保面をくしゃりと歪ませ、笑みを作った。妖精らしい、無邪気で、純粋な笑みだ。私の大っ嫌いな笑みだ。私たちは、その笑顔をしたくても、できない。させたくても、させられないというのに、こいつらはどうして。

 

「それに、付喪神は、そんな怖い顔をしない。弁々も八橋ものんきだったよ」

「それはあいつらが異常なんだよ」

 

 思考が深みにはまる前に、慌てて首を振った。さり気なく後ずさり、この場から立ち去ってしまおうとする。が、それに引っ張られるようにチルノも近づいてきた。舌打ちが零れる。

 

「あんたに質問があるんだけど!」

「ねえよ」

「あるの!」

 その場に地面がないにも関わらず、地団太を踏んだチルノは、頭を乱雑にガシガシと掻きむしった。何かを思い出そうとしているのか、人差し指を顎に当て、唸り声をあげている。

「えっと、あんたは」

「なんだよ」

「あんたは、人生って何だと思う?」

 

 は? と気の抜けた声が出てしまう。まさか妖精からそんな質問をされるとは思わなかった。人生とは何か。そんなの、分かるわけが無かった。

 

「人生は蕎麦なんじゃないのか?」

 

 気がつけば、そんなことを口走っていた。すぐに後悔の念に襲われる。不敵に笑う蕎麦屋の親父の姿が見えた気がした。何度考えても意味の分からない言葉だ。

 

「そばが人生って、あんたは蕎麦屋でもやるつもりなのか?」

「死んでもやらねえよ」

 

 ふうん、と興味なさそうに喉を鳴らした氷精は、自分から質問したにもかかわらず、すでに飽きているようだった。いったい何なのだろうか。

 

「それで? なんでそんなこと聞いたんだよ」

「えっとね。確かこう聞けば天邪鬼かどうか分かるって言われたの」

「誰に」

「八雲紫」

 

 妖怪の賢者はどれほど暇なのだろうか。それとも、なにか裏があって、そうする必要があったのだろうか。分からない。だが、今一番気にしなければならないのは、目の前の氷精を誤魔化せたかどうか、ということだった。

 

「私が天邪鬼じゃないって、これで分かったか?」

「えっとねえ」

 腕を組み、しばらくうーんとうなった彼女だったが、急に顔をぱっと輝かせた。その目には確かに喜びが浮かんでいた。

「分かんない!」

「は?」

「でも、こうも言われたんだ」

 

 その小さな体に似合わないほどの暴力的なまでの冷気を纏った彼女は、にこやかに言った。

 

「迷ったら、やれってね」

 周囲の気温が、より一層低くなっていった。

 

 

 

「待て待て待て待ってくれ!」

 

 両手を振り回しながら、闇雲にチルノから逃げる。だが、寒さのせいで、まともに動くことすら出来ない。手はかじかむという段階を優に通り越し、もはや感覚が無かった。真っ白に変色したそれは、軽く丸まっており、血の気が通っていない死人のようだ。カチカチと自分の歯が音を立てる。体の震えは止まらず、身体を抱きかかえるようにしても、収まる気配はなかった。息を吸うたびに内臓を針に刺されたかのような痛みが襲う。顔は涎と涙でぐしゃぐしゃになり、それすらも即座に凍っていった。

 

「鬼ごっこで待つ奴がどこにいるのさ!」

「鬼ごっこじゃねえよ」

「あたいにとっては鬼ごっこなの!」

 

 なんだその理屈は、と吐き捨てるも、状況は変わらない。反撃しようにも、体が動かないんじゃどうしようもなかった。私はこのまま死ぬのだろうか。

 

「あんた、もしかして」

 氷の鋭い弾幕を放ちながら突っ込んできたチルノの叫び声が聞こえた。

「もしかして、一回あたいに負けたあの弱い妖怪じゃないか?」

「え?」

「喧嘩を売ってきたでしょ。あやと一緒にいた!」

「なんでそっちを思い出すんだよ」

 

 チルノが思い出したのは、妹紅と共に歌を歌っている場面ではなく、もっと昔に私がチルノに敗北したときの記憶だった。私のトラウマが生まれた瞬間だ。忘れたいが、忘れることができない苦い思い出だった。

 

「だったら、今回も勝てるね! 前も楽勝だったし」

「過去は過去だ。そんなものに何の意味もねえよ」

「過去に意味はないって、どうしてそんなことが言えるの?」

「今回は私が勝つからだよ」

 

 そう口にしたものの、今すぐにでも私は敗北しそうだった。今自分がどのように身体を動かしているかすら分からない。とりあえずは、霧の湖から離れよう。そう思いチルノから目を逸らし、前を見る。だが、妙な違和感に襲われた。なぜか目の前に湖があった。輝針城の時のように、周りの風景が逆さまになったかと思ったが、そうではないとすぐに悟る。

 

 逆さまになっているのは自分だった。

 

「湖の中に隠れるつもり!?」氷精が笑いながら訊いてくる。

「そんなわけっあるかぁ!」

 そんな馬鹿なことは考えていない。ただ、あまりの寒さに体を動かすことができず、落ちているだけだ。

「隠れようったって、そうはいかないぞ! 追い打ちだ!」

「死体蹴りじゃねえか」

「あんたは死体でもないしあたいは蹴ってもない!」

「だまれ!」

 

 そう言っている間にも、段々と湖が近づいてくる。表面には薄い氷が張っていた。目だけで後ろの様子を確認する。鋭く先を尖らせた無数の氷の塊が、今にも私の体を貫こうとしていた。

 

 ああ、どうして霧の湖なんかに来てしまったのだろうか。今まで紅魔館に行くときに遭遇しなかったから、と油断していたのか。それとも、今の私なら、八橋を退けた私なら何とかなると思ったのか。馬鹿だった。視界が真っ白に染まっていき、目を開けることも難しくなる。

 

 固く瞳を閉じ、せめて右腕一本くらいで勘弁してくれと祈っていると、横から強い衝撃を受けた。横風が頬を撫で、浮遊感に襲われる。身体に痛みはなかった。

 

「あれだけ大口をたたいていたのに」

 

 耳元で聞き慣れた声が響き、慌てて目を開ける。わきに抱え込まれているのか、視界には湖しか映らなかった。が、ちらりと見えた足で、それが誰だかわかる。どうやら、そいつは湖へと落ちている私を捕まえ、氷の弾幕から逃げているようだ。その速さは大したものでは無かったが、私なんかと比べると、まだましだ。

 

「まさか、我らがリーダー様が、妖精程度に負ける程弱いとは、驚きでした」

 

 後ろから、待てー、と甲高い声で叫ぶチルノの声が聞こえてくる。だが、その声も段々と遠のいていった。ほっと胸を撫で下ろす。

 

「というより、大丈夫ですか? 手とか真っ白じゃないですか。凍傷になりますよ」

 

 言葉自体は私を気遣うような内容だったが、その声色は高かった。きっと、たかが妖精一匹の前で醜態をさらしていた私を見て、笑っていたのだろう。

「もっと早く来るべきでしたね。やっぱり来るの、遅かったですか?」

「遅せえよ、馬鹿野郎」

 

 小魚のよく澄んだ声は、今の私にはあまりにも綺麗過ぎた。

 

 

 

 

 

 霧の湖のほとり、紅魔館とは反対方向の、人里寄りの場所に私たちはいた。チルノに氷漬けにされそうになっている所で、横やりをいれた小魚に運ばれた私は、乱雑に地面に置かれている。起き上がろうと思えばできなくもなかったが、そんな気力は残っていなかった。指の端は凍傷になってしまったのか、赤く腫れあがり、風が当たるだけで酷く痛む。まだ、腐り落ちなかっただけマシだ。

 

「それにしても、危なかったですね」

 うふふ、とその緑色の長い袖で口元を覆った小魚は、私の近くへと腰を下ろした。ぺたりと尾びれが音を立てる。

 

「あと少しで、帰らぬ人になってたんじゃないですか?」

「誤差だよ」

「誤差?」

「今助かっても、いずれ私は帰らぬ人になる」

「それは、いずれ人は死ぬということですか?」

 

 あまりに壮大なことをいう小魚に向かい、つい吹き出してしまう。いずれ人は死ぬ。確かにその通りだ。

 

「でも、私は死なねえよ」

「え?」

「死ぬことすら許されねえんだ」

「さっき、死にそうだったじゃないですか。というか、生きてますか?」

「何だよ、その質問。生きているに決まってんだよ」

「そういう時は、活け作りになりそうでしたって答えるんですよ」

「勝手になってろ」

 

 寝ころんだまま、小魚の顔を見上げる。草原に座り込み、覗き込むようにこちらを見下ろす彼女は優雅だった。だが、その表情はとても優雅とはいえない。眉をぐっとあげ、上唇を噛みしめている。とても姫と呼ばれる妖怪がしていいものではない。荒い鼻息が私の髪をくすぐる。怒りで熱くなった鼻息だ。

 

「指名手配、されたそうですね」

「らしいな。天邪鬼冥利に尽きるってもんだ」

「怒ってましたよ。針妙丸」

 怒っているのはお前じゃないか。

「優しい針妙丸があんなにカンカンになるんですもの。はやく謝って下さい」

「それは無理だ」

 八橋といい、こいつといい、どれだけ針妙丸に謝らせたいのだろうか。

「いいか。謝るってのはな。相手に許してもらうためにやるんだよ。私は別にあいつに許してもらう必要もないし、もらいたくもない」

 

 逆に考えれば、針妙丸はまだ私を許す気があるということだろうか。更生させる気が。下らない。どうして自分の父親を殺した奴を更生させようというのか。

 

「せめて、会うぐらい」

「駄目だ」

 

 あんな馬鹿正直で、純粋で、呆れるほどに分かりやすい針妙丸に会うことなんてできない。会いたくない。あんなやつは、一生、私の知らないところで生きていればいい。

 

「私はもうあんな馬鹿と関わるのは御免なんだよ。お前もだ。二度と私に近づくな。次に会うときは、葬式の時だ」

「助けてあげたというのに、随分ですね」

「幻想郷でもっともズイブンだからな、私は」

「何ですか、それ」

 ぬるっと下唇を出した小魚は、その怒りの形相のまま、私を睨んだ。

「これからどうするつもりですか?」

「お前には関係ないだろ」

「逃げ切れると思っているんですか?」

「逃げるって」

 乾いた口からは、自分の想像以上に暗く、そして汚い声が出た。

「どこにだよ」

 

 身を切るような冷たい風が髪を逆立てた。小魚の服がばさりと翻る。いつだってそうだ。別に今に始まった話ではない。逃げ場なんてどこにもない。悪人にできることといったら、逃げる事ぐらいしかないのに、その逃げ場がないのだ。今更悲観するようなことでもない。

 

「お前も、私に構うのを止めろ。私はお前のことが嫌いなんだよ」

「奇遇ですね、私もです。でも、私は嫌いな相手ほど助けたいタイプなんですよ」

「どんなタイプだよ」

 

 どうやら彼女の怒りは根深い様で、表情に一切の変化はなかった。きっと、私が謝るまで許す気はないのだろう。だが、残念なことに、幸運なことに、私に謝る気はさらさらない。

 

「草の根やら何やら知らないがな。お前らだって本当はそうだろ。逃げ場なんてない癖に、さも自分は安全圏にいるだなんて気取りやがって。弱者同士で傷をなめ合ってばかりいる連中と私を一緒にするな。気持ち悪い」

「草の根妖怪ネットワークのみんなを、馬鹿にしないで欲しいです」

「馬鹿にしてねえよ。事実だ。あの話知ってるだろ。矢を三本重ねれば折れないっていうクソみたいな話」

「くそではないと思います」

「よくよく考えてみろ。細い矢三本なんてより、そこら辺の丸太の方が折れにくいに決まってんだよ。私たちが必死になって積み重なってもな、強者からしたら大差ないんだ。無駄なあがきだよ」

「でも」

「弱い奴が群れても、意味はない。むしろ、まとめてへし折られるだけだ。私たちが生きるためにはな、けっきょく強者に頼るしかないんだよ。無駄な抵抗は、強者を喜ばせるだけだ。事実、一人そういう奴がいたしな」

「でも!」

 

 普段の清らかな声とは思えないほど低い声で、小魚は叫んだ。その声は震えている。目には涙がたまっていたが、その目は普段の彼女からは想像もつかないほどに鋭かった。

 

「無駄な抵抗でもいいじゃないですか。傷のなめ合いでもいいじゃないですか。それでも、別にいいじゃないですか。なんでそんな酷いこと言うんですか」

「そりゃあ」

 

 小魚の声は、自分の想像よりも激しいものではなかった。てっきり、大声でわめき、捲し立ててくると思ったが、むしろその逆だった。まるで生徒を叱りつける先生のように、淡々と、けれど有無を言わさぬような口調だ。あなたは反省していますか? どうして謝らなきゃいけないか分かりますか? なんでそんな酷いこと言うんですか? 答えてください。そう言われているような気がした。だが、どちらにしろ、私の答えは変わることはない。

 

「そりゃあ、私が天邪鬼だからだよ」

 

 ひゅっと、小魚が息を飲むのが分かった。呆然と、虚ろな目で私を見ている。何度も見たことがある目だ。絶望的なまでに、嫌われた時の目だ。だが、これでいい。

 

「蟷螂の斧って諺、知ってますか?」

 ふわりと跳んだ彼女は、私から顔を背けた。顔もみたくないといわんばかりだ。

「相手がどんなに強くてもカマキリが前足をあげて立ち向かうことから、自分の実力を省みず、強者に立ち向かうことを意味しているそうです」

「だから何だよ」

「私は、鬼人正邪が下克上を企んでいると知って、思ったんです。あなたはきっと蟷螂に違いないって。私たち弱小妖怪のために、無駄なあがきをしてくれる蟷螂なんだって思ったんですよ。さっきまで思っていたんです。だから、嬉しかった。妖精に負けそうになっているあなたを見て、ああ、こんなに弱いのに立ち向かっていたなんて、格好いいなって、思ったんです」

「そんな訳あるか。私は自分のことしか考えてねえよ。お前らは単なる当て馬だ」

「そのようでしたね。とんだ見込み違いでした」

 

 心底辛そうに冷笑を浮かべた彼女は、馬鹿でした、と呟いた。

 

「あなたに協力したのは間違いだとは思いませんよ。いい友達に出会えたのも事実ですし。ですが、あなたと。鬼人正邪と知り合ってしまったのは過ちでした」

「ああ、よく言われる」

「当て馬でもいいと思ってましたが、やっぱり嫌ですね。当て馬の誇りを傷つけてしまいました」

「なんだよそれ」

「さあ。自分が当て馬になれば分かるんじゃないですか」

 

 彼女の目に何が映っているのか、私には分からなかった。もしかすると、今まで出会った妖怪たちのことを思い出しているのかもしれない。ただ、その中に私が含まれていないのは確かだった。

 

「お前も、私を捕まえる気なのか?」

 私が声をかけても、小魚はピクリとも動かない。

「指名手配犯である私を連れ出す気なのか?」

「最初はそのつもりでした」

 

 顔だけこちらに向けた彼女は、じっと私を見つめた。相も変わらず、虚ろな目で、私への怒りを露わにしている。だが、なぜだろうか。その顔を見ていると、どこか懐かしい気分になるのは。

 

「でも、やっぱ止めます」

「ああ、なんともお優しいんですね。流石姫様です」

「優しくないですよ」

 

 振り返らず、そのまま私から遠ざかっていく小魚を、私は寝ころんだまま見ていた。その後ろ姿は、とてもただの弱小妖怪とは思えないほどに堂々としている。

 

「私はね、人の嫌がることが好きなんです」

 その言葉は、私の真似をしたものだった。

「やれと言われればやりたくなくなる質なんですよ」

 

 彼女がなにを考えているか分からない。だが、なぜだか私の考えをすべて見通されているような気がした。八雲紫と話しているときとも違う。たかが小魚一匹のはずなのに、嫌な胸騒ぎがした。

 

「正邪は、蟷螂じゃなかった。けど、鬼でもない」

「鬼だよ」

「それ、本物の鬼の前でも言えますか? とにかく、あなたは私たちを理由なく陥れようとするような奴じゃないと思うんです」

「理由なく陥れようとする奴って、天邪鬼以外にいないだろ」

「人間とかですよ」

 

 私は言葉を詰まらせた。そんなこと、痛いほどに分かっていた。だが、あの平和ボケしていそうな小魚が口にするにしては、残酷すぎる言葉だ。彼女も人間からひどい目に遭わされたことがあるのだろうか。草の根妖怪ネットワークにいるのは、その傷を癒すためなのだろうか。

 

「正邪は、私に捕まりたいんじゃないんですか?」

「そんな訳ないだろ」

「捕まりたいというか、私と敵対したかったんじゃないですか? そしてそのまま、殺されたいと、そう考えているんですよね」

 そんな訳あるか。私はこんなところで捕まっている暇も、怪我をしている暇もないのだ。どうして、小魚と戦いたいなんて発想になるのか。やっぱり、魚は頭が悪い。

「さっきも言いましたけど、やれと言われればやりたくなくなる質なんです。だから、そんな捕まえて欲しそうなあなたを捕まえるようなこと、私はしませんよ」

 

 そう言った小魚は、進む速度を上げた。段々とその姿は遠のいていき、すぐに見えなくなる。追わなければ。そう思ったものの、身体はいうことを聞かない。チルノとの戦いで想像以上に消耗していたのか、それとも小槌の呪いのせいか。黒ずんでいく空を見上げながら、私はゆっくりと目を閉じた。

 

「やっぱり、私なんかよりよっぽど天邪鬼だよな」

 

 唐突に押し寄せてくる微睡の中、チーム天邪鬼とはしゃいでいた輝針城でのことを覚えていた。付喪神と、小魚と、針妙丸が楽しそうに笑い、その中には当然のように私がいる、あの時のことだ。どうしてそれを思い出したかは分からない。だが、忘れるべきだ。あんなのは夢だった。後悔なんてしていないはずなのに、頭にこびり付く。ぬるま湯はこちらから願い下げだ。傷のなめ合いだなんて死ねばいいのに。そう言った舌の根も乾かぬうちに、私は過去の記憶に浸っていた。

 

「過去は過去だ。何の意味もねえよ」

 

 自分で言ったにも関わらず、なぜか胸が締め付けられるように苦しくなった。

 



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公職と私情

「二度と来ることはないんじゃなかったのか」

 

 腕を組み、さぞ怒っていますというように仁王立ちしている慧音の顔は、思いの外優しいものだった。そんな人里の守護者を前に、思わず嘆息してしまう。彼女のことは忘れていたわけではない。ただ、こんなに早く遭遇するとは思わなかったのだ。人里とはいえ、中心地に行かなければ、まず会わないと予想していた。だが、その予想はことごとく裏切られることとなる。

 

 小魚に嫌われ、霧の湖のほとりに寝そべっていた私は、いつの間にか眠っていた。寒空の下で、しかも水辺で眠っていたにも関わらず、寒さで目覚めることなく、熟睡できていた。それが逆に恐怖をかき立てた。一応、九十九姉妹に餞別として貰った青い布を被ってはいたものの、薄く、軽いそれでは全く寒さなど防げなかったはずだ。なのに、まったく寒くない。凍傷で腫れ上がっている手足ですら、痛くなかった。身体の感覚が鈍っている。今の私なら、指の一本や二本切り落とされても気がつかないんじゃないだろうか。

 

 目が覚めた私は、最初は紅魔館へ行こうとしていた。が、もう一度霧の湖に向かうような勇気は私にはなかった。だから、人里へと向かったのだ。目的を果たすためにはいかなければならなかったし、うまく潜伏できれば、他の妖怪からの攻撃を防げると期待した。人里の中では妖怪はそこまで乱暴なことはしないだろうと、そう考えた。今回はたまたま大丈夫だったが、眠っている間に妖怪に襲われたら、ひとたまりもない。

 

 ただ、どこに潜伏するかは当然決まっていなかったし、妖怪なんかより人間の方がよっぽど恐ろしいことも知っていた。用心しなければ、と気を使ってもいた。

 

 だが、人里の守護者についてはまるで考えていなかった。

 

「久しぶりだな。正邪」心底安心したのか、慧音は自分の胸をさすっていた。

「会いたかったよ」

「私は会いたくなかった」

 

 冗談だと捉えたのか、慧音は懐かしい友人に出会った時のように、ふっと表情を緩めた。冗談でもなんでもなく、本心からの言葉だったというのに。相変わらずおめでたい奴だ。

 

「お前らも、私を捕まえようとしているのか?」

 

 私は半ば投げやりに聞いた。幻想郷の皆から襲われる。たしかに八雲紫はそう言っていた。だが、それ以前に、今から人里の人間を殺そうとしている私は、人里の守護者にとって、退治しなければならない妖怪に違いない。

 

「どうだろうな」

 やけに優しい声で、慧音は微笑みかけてきた。

「ただ、まだ人里に入れる訳にはいかない」

「なんでだよ」

「分かるだろ?」

「分からないから聞いてんだよ。お前、先生向いてねえぞ」

「よく言われるよ」

 

 慧音はなぜか誇らしげに笑いながら、こちらへと近づいてきた。逃げるように一歩下がる。草木が生い茂り、砂利が転がる舗装されていない道だ。まだ、人里に入るかどうかという微妙なところで、まさか慧音に会うとは思っていなかった。思わず、天を仰ぐ。ちらほらと雲が出ている空の東には、まだ出てきたばかりの太陽がこちらを覗き込んでいた。早朝にもかかわらず、どうしてこいつはこんなところにいるのか、不思議だ。

 

「人里でも大分話題になってるぞ」

「お前の無能さが?」

「正邪の指名手配だよ。そのせいで私は、こんな時間まで見回りだ」

「大変だな」

「誰のせいだと思ってるんだ」

 

 ずんずんとこちらに向かってきた慧音は、徐に私の腹辺りに手を置いた。壊れ物にさわるようにおっかなびっくりとしたものだったが、その手はたくましい。

 

「怪我、治ったんだな」

「けが? なんのことだ」

「腹が裂けていたことを、どうやったら忘れるんだ」

 

 ああ、と私はやっと慧音の言いたいことを理解した。喜知田に唆された三郎少年が、私の腹に包丁を刺した時のことだろう。もう、随分と昔のようにも思える。あれから色々なことが起き過ぎた。

 

「あいつは元気なのか」

「あいつって」

「三郎少年だよ」

 

 私がそう口にした瞬間、慧音は浮かべていた薄い笑みを消した。何かを話そうとしたのか、口を不格好に開いたが、慌ててそれを手で押さえている。取り繕うように眉間にしわを寄せ、肩をがしりと掴んできた。

 

「あの少年はまだ見つかっていない」

「見つかっていない?」

 

 三郎少年の保護者や住むところの話だと思ったが、慧音の悲痛な表情を見てそんな甘い話ではないということに気がついた。

 

「最初は寺子屋でしばらく預かっていたんだが、ある時、行きたい所があると書置きして、ふらりといなくなったんだ。それ以来、人里を探しているんだが、見当たらない」

「なんで離したんだ」

「ん?」

「どうして目を離した!」

 

 昼間は寺子屋で授業を行い、夜は見回りをしている彼女が、一人の少年をずっと見張っておくことなんて無理なのは分かっていた。そして、三郎少年が行方をくらまして、一番後悔したのが彼女であろうことも分かっていた。それでも声を荒らげずにはいられない。

 

「行きたい所がある、って言えば、監視の目が途切れるような魔法が掛かっているのかよ」

「そんな訳ないじゃないか」

「じゃあ、なんであいつから目を離したんだ!」

「人里のみんなに情報を集めてもらっているし、妹紅にも捜索を頼んだ。目撃情報もよく聞くから、無事なのは確かだ」

 

 私を安心させようとしているのか、優しく慧音は語りかけるようにそう言った。だが、その声色とは裏腹に、彼女の引きつった笑いからは悲壮感がにじみ出ている。もしかすると、こうして人里の端まで来ているのは、どこかの馬鹿な指名手配犯を警戒するというよりは、三郎少年が危険なところにいないか、と心配した結果なのかもしれない。

 

「寺子屋からごっそりと乾パンもなくなっていたし、今のところは大丈夫なはずだ」

「今のところは、な」

 

 心底嫌そうな顔をした慧音は、自分に言い聞かせるように、大丈夫だ、と繰り返し呟いていた。だが、顔を顰めて、大丈夫大丈夫と口にしている奴が大丈夫だった例はない。

 

 顔を俯かせている慧音の脇を通り過ぎ、人里の中心へと足を進めようとする。が、当然というべきか、案の定というべきか、慧音が私の前にするりと身体を入れてきた。避けようとするも、私の体に合わせるように左右に動き、進路を塞いでくる。鬱陶しい。

 

「なんだよ。邪魔するな」

「まだ駄目だといったじゃないか」

「あれから五分はたっただろ。もういいじゃねえか」

「一応指名手配犯なんだから、少しは危機感を持ってくれ」

 

 危機感といわれても、どうせすぐに鬼の世界に封印されてしまうのだから、そんなの持てるわけがない。今から殺される死刑囚に向かい、「あなた、このままだと糖尿病になりますよ」と注意しているようなものだ。

 

「まあでも、すぐに誤解は解けてくれると信じているけどな」

 慧音は私を押し、ずんずんと人里から遠ざけていった。

「そうしたら、寺子屋で居候させてあげるさ」

「無理だ」

「大丈夫」

 根拠もないだろうに、慧音はまたそう笑う。

「お前は下克上なんて起こしてないじゃないか。あの小槌の願いはもっと違うものだっただろ? なら、みんな分かってくれるよ」

「違わねえよ。あの後でもう一回願ったんだ」

「どうして、そんな嘘を」

「嘘じゃねえよ」

 

 そうだ。これは嘘ではない。私は針妙丸を騙し、付喪神を、小魚を利用して下克上を企てた。これが真実だ。真実でなければならない。

 

「いいか。私が下克上を起こしたんだ。それ以上でも以下でもねえよ」

「でも」

「でも、なんだよ」

「少なくとも、私は待っているよ」

 

 きっと、いつもは寺子屋の生徒に見せているだろう、柔らかな笑みを浮かべた彼女は、待っているよ、ともう一度繰り返した。下らない。お前が待っていようがなかろうが、結末は変わらないというのに。

 

「人里で私が住むなんてことは、もうねえよ」

「そんなの、分からないじゃないか」

「分かるんだよ。絶対に無理だ」

「この世に絶対なんてない。こんな話知っているか?」

「知らないって、いつも言ってるだろ」

 

 当然、彼女は私の言葉など無視して、勝手に話し始める。少し背筋を伸ばし、指を立てる仕草も、いつも通りだ。偉そうで、傲慢で、面白くない彼女の仕草だったが、なぜだろうか、少し胸の辺りが暖かくなった気がした。きっと、太陽が昇り始めて、昨日冷え切った体を温めているからに違いない。そのはずだ。

 

「むかし、絶対に風邪をひかない、っていう生徒がいたんだ」

「もうオチが見えたんだが」

「いいから聞け」

 

 いつの間にか、私たちは足を進めていた。どこに向かっているか分からないが、少なくとも人里の方向ではない。足を止めようとも思ったが、なぜか彼女について行ってしまう。

 

「その生徒はな、確かに毎日元気で、風邪とは無縁だったんだ」

「まあ、馬鹿は風邪をひかないというしな」

「でも、そいつは風邪を引いていた」

 

 私を見ながら、そう話す彼女はいきいきとしていた。その目には、案の定くまが浮かんでいて、疲労もたまっているように見える。が、それでも彼女は元気だった。ほっと安心している自分がいて、驚く。こいつが元気であろうとなかろうと、私には関係ないのに。

 

「その生徒はな、昔から言われてたんだよ。お前は元気で風邪をひかない子だって。だから、実際に風邪をひいても、分からなかったんだ。本人は風邪をひかないって信じているんだから。事実、そいつは風邪をひいていても元気だったから、周りの大人も気がつかない」

「ただの馬鹿じゃねえか」

「つまり、私が何を言いたいかというと」

 

 彼女はそこで、私から目を離し、前を向いた。おつかれ、と手を上げている。警戒して、慧音の後ろに隠れつつ前を向くと、そこには見知った人間がいた。

 

「思い込みって怖いなってことだ」

 

 そうだぞ、と事情も知らないにもかかわらず、私たちの前にいる人間はこちらへ歩いてくる。なぜ彼女がこんな人里の外側にいるのか分からなかった。

 

「久しぶりだな、正邪」

「殺され屋は繁盛しているのか」

「そんな訳ないだろ」

 

 満面の笑みで、こちらに微笑みかけてくる妹紅を睨み、隣にいる慧音を肘でつつく。

 

「おい。こいつは三郎少年を探しているんじゃなかったのか」

「ああ、そうだが」

「なんで、ここにいる」

 

 私の質問がよっぽど面白かったのか、慧音はにんまりと笑った。馬鹿にされているようで腹が立つ。

 

「人里で、少年を探しているって言ったじゃないか」

「瞬間移動したんだよ」妹紅がにやにやと笑った。

「なんてね」

「瞬間移動なら、私もできたぞ」

「正邪のことだから、どうせトイレにでも行ったんだろ?」

 

 ケラケラと笑う妹紅に舌打ちし、慧音の足を思いっきり踏む。悪かった、と悪びれもせずに笑った慧音は、眉を下げ、困ったように口を伸ばした。

 

「確かに妹紅は三郎少年を探していると言ったが、人里にいるとは言ってない」

 

 ぽかんと口を開けている私の肩をバシバシと叩きながら、慧音は満足げに言った。

 

「な? 思い込みって、怖いだろ?」

 

 

 

 

「私は少年が外に出ないように監視するのと、あとはお前が入ってこないかの警備してんだよ」

 妹紅は真っ白に輝く髪を棚引かせ、私に顔を寄せてきた。

「まあ、後半は名目だけどね」

 

 彼女は、初めこそ私に対し、今まで何をしていた、とか、大丈夫だったのか、と質問してきたが、私に大した怪我がないことを知ると、頬を緩ませ、自分について話し始めた。てっきり、指名手配について聞いてくると思ったので、驚く。驚きのあまり、「私って、指名手配されたんだよな?」と頓珍漢な言葉が零れ出てしまった。

 

「なんで私に聞くんだよ」

 

 顔を近づけたまま妹紅が笑う。口から飛び出た唾が顔に当たったが、不思議と不快ではなかった。

 

「お前が聞いてこなかったからだよ」

「聞いてほしかったのか?」

 

 慧音が、わざとらしくごほんと咳払いをした。私と妹紅の顔を掴み、引き離すように両腕を広げる。彼女の手を乱暴に振り払った私は、その場に尻餅をついた。

 

「いきなり何するんだよ」

「久しぶりに会えて嬉しいのは分かるが、あまりはしゃぐな」

 

 窘めるように語気を強めた慧音に腹が立った私は、文句を言おうと口を開いた。が、彼女が声をかけているのが私ではなく妹紅だということに気づき、口を閉じる。羞恥で顔が赤くなっているのが分かった。誤魔化すように、頬を両手で強く叩く。

 

「どうしたんだ? 急に自分の頬を叩いて」

 

 ガミガミと捲し立てている慧音の前で両手を小さく振っていた妹紅は、私の奇妙な仕草に気づき、訊ねてくる。

 

「被虐趣味にでも目覚めたか?」

「いつも自殺しているお前に言われたくない」

「いつもはしてないよ」

「たまにはしてるのか」

 

 ぎくり、という擬音が聞こえるくらいに背中をピンと伸ばした妹紅は、恐る恐ると慧音の方へ頭を動かした。その頭を抱きかかえるように掴んだ慧音は既に頭を上にあげている。あっと、私が声を漏らしたのを合図に、一気に彼女たちの額はぶつかり、ごん、と割と洒落にならない音が響いた。違う極の磁石が一気にぶつかる様に合わさった二人は、同時に額を押さえ、地面にうずくまる。

 

「痛いなあ。やっぱり慧音の頭突きはえげつないよ。右足がもげた時と同じくらい痛い」

「妹紅、命を大事にってあれだけいったじゃないか。死んじゃだめって」

「いま、死にそうになったよ」

 

 大の大人が地面に座り込み、額を押さえている姿は滑稽だった。だが、私は笑うことができない。慧音の言った、死んじゃだめ、という言葉がやけに頭にこびりついていた。どういうわけか、その言葉を受け入れることができない。死んじゃだめ? なんで駄目なんだよ、と詰め寄りたくなった。

 

 “殺されたいと、そう考えているんですよね” 

 

 小魚の言葉が胸を打つ。そんな訳ない。私は死なないに決まっている。死なずに、鬼の世界へ行くんだ。

 

「なあ、正邪」

 

 声をかけられ、はっと顔を上げる。そこには、心配そうに私を見つめる二人の姿があった。

 

「お前いま、死にたいと思っていなかったか?」

 妹紅はその台詞とは裏腹に、とても楽しそうだった。

「は?」

「いや、言わなくてもいいよ。私にはわかる。おそらく自殺した回数がもっとも多いのは私だからな」

「なんで妹紅は自慢げなんだ」

 

 呆れたのか、大きく息をついた慧音は、懐からお握りを取り出した。それを、こちらへ投げてくる。

 

「どうせ、碌な物食べてないんだろ」

「決めつけるなよ」

「腹が減っているから憂鬱になるんだ。腹一杯になったら死ぬ気もなくなるぞ。ほら、言うじゃないか。食べ物は嘘をつかない」

「言わねえよ」

 

 もの知り顔で語る慧音に向かい、手に持った握り飯を投げつけたくなる。どうして彼女はそんなにも得意顔でそんなにも適当なことが言えるのだろうか。もしかすると、先生に必要なものは、正しいことを教えるのではなく、どんなことでも自信満々に言うことかもしれない。

 

 だが、結局私は握り飯を投げつけるようなことはしなかった。慧音の言う通り、輝針城を出てからはほとんど何も口にしていない。だからだろうか、いつの間にか握り飯を口に運んでいた。

 

「そんなに焦らなくてもいいだろうに」

 

 朝食のつもりだろうか、乾燥わかめをしゃぶりながら、妹紅は言った。

 

「食い物は逃げないからね」

「分からねえぞ。食い物だって逃げるかもしれない」

「どういうことだよ」

「知らねえのかよ。おむすびころりん。食べられそうになったおむすびが全力で地下へと逃げる話」

「それ、私の知ってる話と違う」

 

 慧音のため息と、妹紅の笑い声が早朝の空に響いた。

 

「もし、それが本当だったら、慧音はいつも持っているお握りを必死に捕まえていることになるな」

「そんな子供でも馬鹿にするようなことを言うなっての」

 

 お前が言い出したんじゃないか、と笑う妹紅を無視し、慧音を見つめる。彼女は、子供同士の掛け合いを見ていると勘違いしているのか、暖かい笑みを浮かべて、こちらを愉快そうに眺めている。その保護者面が気にいらなかった。

 

「というか、なんでお前はいつもお握りを持ち歩いているんだよ。餌付けのつもりか?」

「餌付けなわけがないだろ。ほら、正邪みたいに腹をすかせた奴にあげるためだよ」

「どうせなら、もっといい奴をくれよ。私だったら、そいつの好物を見抜いて、持ってくる」

「だったら、次会った時は頼むよ」

「もう会わねえし、会ってもお前には絶対に渡さねえよ」

 

 くだらない話をしていると、私があと少しで鬼の世界へと封印されるなんて、何かの間違いのように感じてくる。あれは鶏ガラの冗談か何かで、実際は何も起きないのではないか。期限の日に鶏ガラと八雲紫が、悪戯に成功した子供の様に無邪気な笑みを浮かべて、私の前に現れるのではないか、とそんな幻想を抱いてしまう。つまり、私はまだ実感していなかった。破滅がすぐそこに迫っていることを、理解できていないのだ。

 

「それで? 正邪はこれからどうするつもりなんだ」

 いつの間にかわかめを食べ終わった妹紅が訊いてきた。

「また紅魔館に行くつもりなのか?」

「おい。なんでいつでも私が紅魔館にいるみたいになってんだよ」

「事実そうだろ」

「違げえよ」

 

 まるで、私があそこの連中と仲がいいみたいじゃないか。

 

「これから私は人里へ行こうとしたんだよ。それをこいつに止められたんだ」

「むしろ、なんで止められないと思ったんだ」

 

 一応指名手配犯なんだぞ、と指を突き付けてくる慧音に対し、私は舌を出し、唾を飛ばした。そんな指名手配犯と仲良くご飯を食べている人里の守護者に、文句を言われる筋合いはない。

 

「さっきも訊いたが、お前らは、私を捕まえようとしないのかよ」

 

 人里に入れないと、お前は指名手配犯だと口にするくせに、矛盾している。

 

「指名手配犯を見逃すのかよ」

「なんだよ。まるで捕まえてほしいみたいじゃないか」

 

 妹紅が、ぐいっと顔を寄せてくる。思わず後ろに飛び退いてしまった。

 

「それとも、殺してほしいのか?」

 

 違う。たったそれだけを口にするだけなのに、なぜだか言葉が出てこなかった。私は殺しほしいと思っているのか。そんなことはない。殺されてたまるか。なら、鬼の世界に封印されるのと、殺されるのはどちらがマシか。そう思うと、急に不安に襲われた。

 

「まあ、流石にみすみすと見逃したりしないさ」

 慧音は、妹紅の頬を軽くはたき、言った。

「だから、このまま巫女に引き渡す」

「え?」

「悪く思うなよ」

 

 まあ、流石に巫女もいきなり手を加えたりしないだろ、と慧音は噛み含めるように言った。だが、逆にあの巫女が私を前に、何もしてこない光景が思い浮かばない。

 

「私たちから逃げ出そうなんて、考えない方がいいぞ。こう見えても、お前よりは強い」胸を張った妹紅に向かい、私は手をひらひらと振った。

「それはあれか? 逃げ出したいのなら、私を倒してからにしろ! ってやつか」

「そんなことを言うやつは演劇者だけだよ。しかも、大根のな、おまえみたいな」

 

 妹紅は、「だから、逃げようとするなよ」と続けた。当然、その声には、愉悦が浮かんでいる。

 

「もし逃げて人里に向かったら、人里中で叫ぶからな。今話題の鬼人正邪が来ています! って」

「なんだそれ」

「要するに、逃げるなと妹紅は言いたいんだよ」慧音は、口を開きかけた妹紅を遮った。

「分かってるよ。食い物は逃げないんだろ?」

「お前は食べ物じゃない」

「私は大根らしいぞ」

 

 真剣な顔つきで怒る慧音とは対照的に、妹紅はニヤニヤとこちらを見ていた。何を考えているか分からない。実際、何も考えていないのだろう。

 

 だから、私が彼女たちから逃げ出して、人里へ行こうと考えていることだって、ばれていないはずだ。

 

「そういえば、あいつはどうなったんだ」

 いかにも、今思い出した、というように慧音に訊ねる。

「あいつって誰だ」

「喜知田だよ」できるだけ、表情に変化がない様にと心掛けたが、そのせいで、余計に変な顔になっていないか、と心配になる。

「あれだけのことをしでかしたんだ。何かしら罰があったんだろ」

「あいつが何をしたんだ?」

「え?」

「だから、喜知田は一体何をしでかしたんだ」

 

 慧音の顔は険しかった。その苦しげな声は、喉を締めつけながら話しているほどに、か細い。実際に彼女は、自分自身の手を首元に持っていき、締め付けていた。

 

 喜知田が何をしたか。そんなのは、忘れるわけがない。打ち出の小槌を慧音の家から盗み、針妙丸を唆したのだ。幻想郷に影響を与えるほどのことをしでかした。許されるはずがない。

 

 本当に? 本当にそうか。あいつは、そんなことをしたのか。いや、していない。なぜか。針妙丸を唆し、小槌を使わせたのは、あいつではない。誰か。それは、他でもない私だった。私ということにしたのだった。

 

「何もしていないだろ」

 慧音は、私とは一向に目を合わせようとしなかった。

「何もしていないということになっているだろう」

「だからといって、あいつを野放しにする理由はないだろ。少なくとも、お前はあいつの危険性を知っているじゃないか!」

「駄目なんだよ」

 

 慧音はもう一度、私を落ち着せたいのか、ゆっくりと駄目なんだ、と呟いた。そんなんで、私が落ち着くはずもないのに。

 

「何が駄目なんだよ」あいつが駄目だったら、他に危険な奴なんていない。

「あいつの影響力は、いい意味でも悪い意味でも人里を覆っている」

「いい意味なんてある訳ないだろ」

「指導者がいない人里において、金持ちは大きな権力者の一人だ。もちろん、あいつ以外にも金持ちはいるし、あいつより権力を持っている奴はいる。それでも、あいつを捕まえることはまずいんだ。権力のバランスが崩れると、人里は混乱に陥る。特に、食料不足の今ではな」

「どういうことだ」

「人里の守護者が、人間の重鎮を捕まえることはできない。それは、混乱の元だ」

「は?」

「駄目なんだ」

 

 私は、彼が死んだ次の日のことを思い出していた。針妙丸の似顔絵を片手に、寺子屋まで慧音に会いに行った日のことだ。あの日は、憎々しいまでに晴天で、人里は活気づいていた。それこそ、いつもと変わらないくらいに。彼が死んだことなど、誰も気に留めていなかった。気づいてもいなかった。なのに、喜知田は駄目だというのか。なぜだ。そんなの、理不尽じゃないか。まるで世界が、あいつに贔屓しているようで、そしてそれが当たり前だということに気がつき、絶望する。そうだ。強者は世界に贔屓されているからこそ強者なんだ。何を今更悲しんでいるんだ。そんなこと、分かりきっていたじゃないか。

 

「さっき、人里の守護者が人間の重鎮を捕まえるのはまずいって言ったよな」

「ああ、そう言ったが」

「だったら、例えばだ」

 

 慧音に背を向け、こっそりと懐を漁る。陰陽玉を取り出そうとしたが、既に何処かへと消え去っていた。落としてしまったのだろうか。代わりに、八雲紫が置いていった傘を取り出す。はたして、この傘は何か効果があるのか。分からないが、試してみる価値はある。

 

「例えば、指名手配されている悪い妖怪がそいつを殺したとしたら」

 

 その傘を、ばさりと広げる。すると、そこには目を疑う光景が広がっていた。その笠の内側には、ぎょろりとした目と、漆黒の空間が広がっていたのだ。八雲紫がよく使っている、あのスキマと呼ばれる空間に違いなかった。

 

「下克上に失敗した憐れな弱小妖怪が殺したとしたら、特に問題はないってことだよな」

「おい正邪。馬鹿なことは考えるな」

「馬鹿なことなんて考えてねえよ。私は真面目なことしか考えていない」

「逃げる気なのか?」

 

 妹紅の声は、思ったよりも気楽そうだった。

 

「さっき、逃げないっていたじゃないか」

「知ってるか? おにぎりは逃げるんだぞ」

「でも、食べ物は嘘をつかない」

「私は食い物じゃねえ」

 

 慧音が、こちらへゆっくり歩いてくるのが見えた。俯いていて、その表情は見えない。だが、このまま捕まる気はさらさらなかった。大人しく巫女に捕まって、鬼の世界に封印されるまで拘束されるなんて、死んでも御免だ。

 

「なあ、慧音。一つ言いたいことがある」

「なんだ」慧音の後ろには、既に妖力が溢れていた。

 

 それから目を逸らし、ほっと息を吐く。優しい慧音は、甘い慧音はきっとその妖力を私に当てることは無いだろう。だが、それでも怖いものは怖い。だが、その恐怖を押し殺し、私は笑顔で振り返った。

 

「私には行きたい所があるんだ」

 

 広げた傘の内側へと突っ込む。得体の知れない浮遊感と共に、視界が暗くなった。どうか、人里へと繋がっていますように。そう祈る。八雲紫の薄気味悪い笑顔が、頭に浮かんだ。

 



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記憶と忘却

 八雲紫の折り畳み傘を抜けた先には、見覚えのある光景が広がっていた。まず目に飛び込んできたのは、木で出来た壁だ。所々黒ずんでいるそれは、とても綺麗とは言い難く、木の棒か何かで削られたであろう傷が無数にあった。中には落書きと思しきものもあったが、あまりに汚いそれは、何が描かれているか分からなかった。

 

 ぐるりと部屋を見渡す。人ひとりが入るので精一杯なくらいに狭い。つんとした刺激臭に、思わず顔を顰めてしまう。が、それ以前にすでに私の顔は険しいものとなっていた。なぜか。今いる場所に、悪い印象しかなかったからだ。それこそ、トラウマといえるくらいに。

 

 そこは、寺子屋のトイレだった。

 

 なんでよりによってこんな場所についてしまったのか。これも、八雲紫の策略によるものなのか、と文句を言いたくなる。視線を下げ、足元をみる。使い古されているものの、綺麗に掃除されている便器の横には、例の、抜け道である床があった。ただの木の板であるはずなのに、それを目にするだけで背筋が凍り、動けなくなる。思い出したくもない記憶が、堅牢な扉の隙間から漏れ出る冷気のように、じわりじわりと浮かび上がってきた。この床を出た先には、徒党を組んだ人間がいるのではないか、とそう考えてしまっている。そんなはずはないのに。

 

 息が苦しくなった私は、扉を開け、廊下に飛び出した。いくら慧音がいないと分かっていたとはいえ、他の人間がいる可能性もあったが、幸運なことに誰の姿もなかった。ほっと胸を撫で下ろした後に、苦笑いが零れてしまう。慧音の、一応指名手配犯なんだから、少しは危機感を持ってくれ、という言葉が脳裏に浮かんだ。正しくその通りだ。今の私は、姿を見られてしまうだけで、問答無用で捕まってしまう。人里だとなおさらだ。

 

 意識するまでもなく、いつの間にか慧音の休憩室へと足が動いていた。人里に来て一番初めにすることが休憩なのか、と一人で笑う。

 

 その部屋は、以前来た時とは比べ物にならないくらいに整頓されていた。机の上に何冊か本は積まれているものの、書類等は整頓され、ぱっと見ただけで綺麗だと呟いてしまう程に、清潔だった。

 

 だが、ただ一つ。その清潔な部屋において異彩を放つ物があった。それは、極力目立たないようにと、部屋の片隅にさり気なく置かれていたが、それでも私の目には引っかかった。どうして、これがここにあるのか。単純に慧音が片づけるのを面倒くさがったのか、それとも、隠し場所としてここが打ってつけと判断したのかは分からない。だが、そんなことは私にはどうでもよかった。それを見ていると、抑えようとしていた怒りの炎が燃え上がる。

 

「やっぱ、許せるわけがねえだろうがよ」

 

 本と本との間に隠すように置かれていたそれを手に持つ。思ったより軽かったが、それの鋭さは、文字通り身をもって知っていた。新品のように綺麗で、すでに血は洗い流されている。刃こぼれもなさそうだ。

 

 三郎少年が使っていた包丁をじっと見つめた私は、刃先が体に向かないように注意し、ゆっくりとしまった。これを持ち出して、一体どうするかなんて考えていない。三郎少年のことを考えたとかそういう訳でもない。武器を手に入れたかっただけだ。何の力もない私にとってみれば、少しでも多くの道具を手にいれるに越したことはない。そのはずだ。

 

 包丁をしまい込んだ私は、机のすぐ近くに敷かれていた座布団に座り込んだ。緊張で張り詰めた体が解れたからか、ほぅと息が零れる。思えば、最近は何かと気を張る場面が多く、ゆっくりと休める時間が無かった。そんなことを考え、すぐに馬鹿らしくなる。どうせ鬼の世界へ行くことになるのに、休んでいる暇なんてある訳が無かった。

 

 だが、頭ではそう思っているものの、体が言うことを聞かない。座布団に身体を縛り付けられたかのように動くことができなかった。よっぽど疲労がたまっていたのか、足が小刻みに震えている。こんなところで立ち止まっている時間はないというのに。

 

 葛藤していると、ふと、机の上にある鉛筆が目に留まった。積んである本のすぐそばにあった物だ。知らず知らずのうちに手が伸びていた。

 

 この鉛筆で、何か慧音に伝言でもしよう。そう思ったのは気まぐれだった。そして、書き終わったら出ていこう、と決めた。もしかすると、少しでも休みたいという願望によるものなのかもしれない。

 

 机の上に、コツコツと黒鉛を当てながら、何を書こうかと考える。が、よくよく考えると、あいつに言い残したいものなんて何もなかった。むしろ、忘れ去られたいくらいだ。どうせ二度と会えなくなるのだから。だったら、何を書くか。天邪鬼が書けるものなんて、憎まれ口しかなかった。

 

 迷った末に、私は「説教反対!」とでかでかと書くことにした。これなら、妖精か子供の悪戯に見えるだろう。

 

 迷いを断ち切るように立ち上がる。これからどうするか。この格好のまま街を出かければ、すぐに見つかってしまうのは明らかだ。

 

 扉が開いた音がしたのは、その時だった。胸が跳ね、嫌な記憶が蘇る。なぜだ。もしかして、私の居場所がばれたのか。そんなはずはない、と思いたかったが、誰かがここに来ているのは事実だ。どこかに隠れようと休憩室を出ようとするも、すぐに立ち止まる。トイレの裏口から逃げようとした時のことを思い出した。このままでは、二の轍を踏んでしまう。かといって、この部屋に隠れる場所があるようにも思えなかった。段々と足音が近づいてくる。焦りだけが募っていく。こんなことなら、机に落書きなんてせずに、とっとと脱出しておけばよかった。そう後悔している間にも、時間は過ぎていく。

 

 もしかして慧音だろうか。いや、流石にあの距離をこんな時間で移動することはできないだろう。それに、私が寺子屋にいるだなんて、思わないはずだ。だとすれば、いったい誰が来るというのか。分からない。分からないが、とにかく隠れなければ。

 

 迷った末に、私は机の下へと隠れることにした。隠れ切る自信は当然なかった。ただ、こんな馬鹿なところに隠れるような奴はいない、と逆に慢心してくれるのではないか、と期待した。まさか、指名手配犯が机の下に隠れるなんて、まぬけなことをするとは、誰も思わないだろう。

 

 思ったよりも狭いそこに、身体を折り畳むようにして何とか入ろうとする。が、腰がつっかえて上手く入れない。足をばたつかせ、なんとか身体をねじ込ませようとするも、あまり音を立てる訳にもいかず、中途半端な体勢になってしまった。

 

 カシャリ、と音がした。

 

 それは、あまりにも軽く、心地の良い音だった。何の音か分からなかったが、どこかで聞き覚えがあった。だが、机の下で蛇のように体を曲げ、隙間から見えた黒い翼を見て、それが何の音か理解してしまう。

 

「あややや、寺子屋に来てみれば」もう一度、カシャリと音がした。同じ音のはずなのに、少しも心地よくない。それどころか、虫唾が走った。もがくようにし、机から出ようとする。

「まさか指名手配犯がいるとは。しかも、そんな奇妙な格好で。あれですか。頭隠して尻隠さずってやつですか」

 

 相も変わらず鬱陶しい彼女の言葉を無視し、机から頭を出す。狭い所に無理矢理入ったからか、体中が痛んだが、それを誤魔化すように笑みをつくった。せせら笑い、そいつに目を向ける。

 

「おい、烏」

「なんですか?」

「不法侵入だぞ」

「それ、あなたもじゃないですか」

 ふっと噴き出した彼女、射命丸文はもう一度カメラを取り出し、シャッターを切った。

 

 

 

 

「運命の相手とは赤い糸で結ばれていると言いますが」

 私の正面までわざわざ移動し、向かい合うように座った烏はそう言ってきた。

「これはもはや、赤い鎖じゃないですか?」

 

 いきなり現れた烏に、私は焦り、指名手配犯として捕まるのではないか、とあたふたしていたが、彼女は落ち着いた様子で、いつも通り私を馬鹿にし、写真を撮ってきた。正面に座ったのは、単純に写真が撮りやすかったからかもしれない。

 

「なんだよ赤い鎖って。そんなのあるわけないだろ」

「会いたくない相手に必ず会ってしまう魔法の鎖ですよ」

「ああ烏、会いたかったよ」

「もう少し感情を込めてください。いや、やっぱ込めなくていいです。気持ち悪いんで」

 

 お前よりは気持ち悪くない、と内心で毒づいていると、烏は急に雰囲気を変えた。薄く張り付いていた仮面のような笑みを引き剥がし、能面を付け替えたかのようだ。表情こそ変わっていないものの、なぜか少し威圧された。

 

「それで? あなたは何をしに寺子屋に来たんですか?」

「お前は何をしに来たんだよ」

「私は単純です」

「確かに烏は単純だが」

 

 それ、馬鹿にしてます? と眉をひそめた彼女だったが、声色は変わらず、口元の緩みも収まっていなかった。

 

「仕事ですよ仕事。慧音に頼まれたのを、すっかり忘れてまして」

「烏の仕事って何だよ。魚でも捕ってくるのか?」

「何ですか、それ」

 眉を下げ、カメラの端をトントンと叩いた彼女は、頭をガシガシとかいた。

「そういうあなたは、どうやって、何のためにここに来たんですか?」

「さあな。慧音に愛の言葉でも囁きに来たんだろ」

「それ、記事にしてもいいですか?」

「駄目だ」

「なら、真面目に答えて下さいよ」

 

 まさか、こいつの口から真面目という単語が飛び出してくるとは思わなかった。不敵な笑みが、私を挑発する。だが、その口調は断定的なもので、有無を言わせなかった。苛立ちと恐怖の入り混じった、複雑な感情が溢れてくる。

 

「それは、あれだよ」

 焦った私の頭には、何も言い訳が浮かばなかった。だが、口は勝手に動いていく。

「トイレに抜け穴があるんだ。そこから勝手に入ったんだよ。ここに来たのは、単純にいい隠れ場所だと思ったからだ」

「へえ」

 

 彼女の、その真っ黒な目が怪しく光った。吸い込まれそうなくらいに綺麗なその目を見ていると、全てを洗いざらい話してしまいそうになる。慌てて目を離し、自分の懐に手を入れた。小槌があることを確かめ、しっかりと握る。烏よりも、もっと恐ろしいものがあるんだ、とそれは教えてくれた。

 

「ねえ、知ってますか?」

 その彼女の口ぶりは、私が知っているはずもない、と決めつけていた。

「そのトイレの抜け穴ですが、もう封鎖されてるんですよ。当然です。見つかった抜け穴は閉じられます」

「そうか」

「なら、あなたはどうやってここに入ったんですか?」

「きっと、瞬間移動でもしたんだよ」

「真面目に答えて下さい」

 

 烏の言葉を背中に受け、席を立つ。烏と雑談をしている間に、慧音が帰ってきたりしたらたまらない。少し痺れた足をほぐしながら、部屋を出ようとした。

 

「どこへ行くんですか?」

 烏は、私が立ったのと同時に立ち上がり、すぐ後ろにぴたりとついて来ていた。

「どこへ行けると思っているんですか?」

「少し、野暮用があってな」

 

 どこへ行けるか。そんなの、分からない。強いて言うならば、鬼の世界に行けるが、それまでは、今のようにこそこそと移動するしかない。八雲紫の傘を使っても良かったが、何処へ出るか分からない以上、今は使いたくなかった。

 

「野暮用って、なんですか?」

「聞きたいか?」

「ええ、聞きたいですね」

 

 さっと、烏が手帳を取り出した。あまりに素早いその挙動に、私は肩をすくめた。記者魂とは恐ろしい。

 私は、その記者の模範のような彼女に向かい、首だけで振り返った。にやりと口角をあげ、馬鹿にするように笑う。こんなこと、彼女に言うべきではないと分かっていた。言ってどうにかなるわけでも無ければ、むしろ記事にされ、行動に支障が出る可能性が高い。それでも、私はそれを彼女に言おうと思った。協力してくれるなんて思っていない。ただ、なぜだろうか。口が勝手に回っていった。

 

「失敗を取り戻すんだよ」

「失敗?」

「今度こそ、復讐をするんだ」

 

 誰に対してか、私は言わなかった。言わなくても烏は分かると思ったからだ。現に彼女は、私の言葉を聞いた瞬間、ペンを止め、呆気に取られている。彼女のそんな顔など、見たことがなかった。

 

「今度は協力しませんよ」

「え?」

「もう大天狗様に怒られるのは、こりごりですからね」

 烏は冗談を笑い飛ばすかのように、大袈裟に手を振った。

 

「いいじゃねえか。少しくらい手伝ってくれても」

「嫌ですよ。それに、対価が必要ですよ、対価が。鯛を釣るのにだって海老が必要なんですから」

「なら、烏をつるのには新聞でいいのか」

「あなたが書く新聞なんて、面白くないですよ。文字が逆さまになってそうです」

 

 新聞によほど自信を持っているのであろう、鼻で笑い、鍋おきにしますと宣言する彼女の目には、同情の色すら浮かんでいた。

 

「私は手伝いませんよ。どうしてもと言うのであれば、大声で泣き叫びながら、助けて、と叫んだら考えてあげてもいいですが」

「誰がそんなことを」

「なら、復讐は止めといた方がいいです」

「なんでだよ」

「いいから」

 

 協力はしないだろうと予想していたものの、まさか止められるとは思っていなかったので、驚く。烏のことだから、どうせ、いい記事になりそうですね、といつものようにニヤニヤと笑いかけてくると思った。

 

「なんで止めるんだよ。いいだろ、別に」

「本気ですか?」

「本気に決まってるだろ」

 烏の顔が引き攣った。それに追従するように、背中の大きな黒い翼も、ぴくりと動く。

「あなたのような弱小妖怪が、たった一人で復讐なんて、無謀すぎます」

「できるかもしれねえじゃねえか」

「無理ですよ」

 

 断定した烏の口調は、刺々しいものだった。もしかして、怒っているのだろうか。表情は変わらない。以前、喜知田の家で見せたような、威圧感も放っていない。それでも、なぜだか彼女が怒りを露わにしているように見えた。

 

「復讐なんて、カメラで撮るとかでいいじゃないですか」

「なんで、それが復讐になるんだよ」

「そいつが死んだら、面白く脚色して、その写真を載せるんですよ。だから、写真を撮るときに、“笑って下さい”と声をかけるんですよ。そうすると、相手は歪で不格好な顔になりますから」

「陰湿だな」

 

 今頃分かったんですか、と淡々と言った烏は、一度大きく息を吐いた。頭を振り、こちらを見据えてくる。そして、思わぬ質問をしてきた。

 

「弱小妖怪のいい所がなにか、知ってますか?」

「そんなのあるわけ無いだろ」

 私の言葉を無視し、烏は話し続ける。

「それは、危機管理能力ですよ。どんなに怒り狂っても、正気を失っても、自分が死ぬようなことは決してしないんです。回避できるんです。だからこそ、弱くても生き残れた」

「何が言いたいんだ」

「あなたもそうですよ」

 

 最初は、私に対する皮肉かと思った。いつものように、烏天狗が弱小妖怪を馬鹿にしているのだと、そう勘違いした。

 

「あなただって、わざわざ危険な場所に首を突っ込まないはずです。確かに何回か死にそうになってましたが、なんだかんだ生き残ってますし、逃げ延びています」

「何が言いたい」

「前回の復讐の時は私が一緒にいました。半獣は、それすらもあなたの策略だとか言っていましたが、今はそれは置いときましょう。とにかく、私が言いたいのは、私がいなければ確実に死んでいたであろう経験をしたのに、今度は同じことを一人でやるのか、と聞いているんです」

 

 そこで私は、ようやく彼女が何を言いたいのか分かった。烏はきっと、手伝わない、といった時点で私が諦めると思ったのだろう。一人で復讐に向かうなんて、馬鹿なことはしないと、そう予想していたのだ。

 

「いや、私はやるよ」

 自信満々に胸を張って、私は高笑いした。

「やらなければならないんだ」

 

 そう言い残し、今度こそ部屋を出ようとしたが、またしてもそれは叶わなかった。一瞬で私の前へ回り込んだ烏が、通せんぼするように両手を広げている。なんで邪魔をするんだ、と訊ねても返事をしなかった。

 

「もしかして正邪は」

 彼女の声は、いつもよりも虚ろな気がした。

「あなたは、死ぬつもりなんじゃないですか?」

「は?」

「復讐を成功させようだなんて、考えてないんじゃないですか?」

 

 そんなはずはない。おまえはやはり単純だ。私はあいつを絶対に殺さないといけない。そう言い返せばいいだけなのに、私の口は動かなかった。私は死ぬつもりなのか? そんな馬鹿な。

 

「今のあなたからは、以前のような切実さを感じないんですよ。ただ、死ぬために時間を費やしているようにしか思えません」

「私は死なねえよ」

「いいえ。あなたは死ぬ気です。強者に弱者が勝てないことなんて、あなたが一番知っていることじゃないですか」

 小さく息をついた烏は、私の肩に手を置き、目をまっすぐに見てきた。

「なら、どうやって復讐するか考えているんですか? 失敗した後のことは? 万一成功したとき、巫女にどうやって対処するんですか? 言ってみてくださいよ」

「そんなの、後で考えるさ。たかが人間一人に負けはしない」

「あのですね!」

 

 烏が声を荒らげた。どこか演技臭く感じるほどに、憤激している。それは、喜知田の家の時と同じくらいに、空気を震わせた。

 

「どうしてあなたがそんなことを私に言ってくるのか不思議でしたが、やっと分かりましたよ。最初は記事にするための情報をくれているものとばかり思っていましたが、もっと最悪なものでした。あなたは、私に最後の雄姿を伝えたかった。ただそれだけだったなんですね。そんな下らないあなたの置き土産のために、私はこんな面倒な!」

 そこで彼女は言葉を切った。手をぶらぶらと下ろし、力なくうつむいている。

「こんな面倒なことに巻き込まれたんですよ」

 

 烏はガバリと体を起こし、私に一歩近づいてきた。翼をこれでもかと広げている姿には、神々しさすら感じる。が、それよりも恐怖と困惑が打ち勝った。おいおい、と思わず声を出してしまう。こんなところで始める気なのか。

 

「だから、もし復讐にいきたいのならば」

 

 彼女は右手にはカメラを、左手には私の小槌と同じくらいに禍々しい紅葉のような団扇を持っていた。それを、舞のようにくるくると回し、スタリと私に突きつけた。

「私を倒してからにしろ!」

 この大根が、と叫ぶも、私の言葉は彼女に届いているとは思えなかった。

 

 

 

 

「これはあなたのためなんですよ。身の程をわきまえないと、悲痛な思いをするのは知っているでしょうに」

「身体がさびたりするしな」

 

 何ですかそれ、とつまらなそうに吐き捨てる彼女の顔には侮蔑が浮かんでいた。この世でこんなにも愚かな妖怪がいたのかしら、と驚いているに違いない。私も同感だ。こんなにも無様な妖怪は私以外にいないだろう。

 

「まあ、お前が動く気がないというのなら、どかすだけだ。あの強大な烏天狗に勝てたなら、きっと人間にも勝てるだろ」

「驚きました」

 そう口にした彼女の顔には、一寸の驚愕の表情はなかった。

「ここまで殺意を向ければ、戦意を喪失し、跪くと思ってましたよ」

「足が固まって、動けないんだよ」

 

 強ちそれも間違ってはいなかった。実際に私の足は情けないほどにガクガクと震えていたし、震えすぎて、自分の意思で動かすこともできなかった。だが、不思議と怖くはない。感じていた恐怖もどこかへ行ってしまった。彼女の威圧感が増せば増すほど、警戒感が薄れてくる。これも、小槌の影響だろうか。感覚が鈍っているのだろうか。いや、違う。

 

「やっぱり、あなたは死ぬ気なんですね。命を粗末に扱う妖怪なら、確かに私の威圧感にも耐えられるでしょう。命の危機なんて、どうでもいいんですから」

「まるで見たかのように話すな」

「見たことありますからね。自暴自棄になる妖怪なんて、そう珍しくもないんです」

 

 だから、あなたは決して特別ではないんですよ。烏はそう淡々と言ってくる。きっと、私の自尊心を崩そうと、指名手配され、やけを起こしている私の悪あがきを、蟷螂の鎌を壊そうとしているのだろう。だが、そんなものは私にとって痛くも痒くもなかった。私が特別ではないことなんて知っていたし、自尊心なんて元々ある訳がない。自暴自棄になったわけでも、やけになったわけでもない。死んでもいいだなんて思っていないはず。ただ、結果的に私の命が消えそうになっているだけだ。

 

「私が復讐をするのはな、死にたいからでも、まして自尊心なんてちんけなもんじゃねえよ」

「じゃあ、なんですか?」

「自分のためだ。前も言っただろ」

 

 そうだ。これはただの私の自己満足だ。誰のためでもない。あいつが気にくわない。だから殺す。このやり場のない怒りを晴らすためだけに、喜知田を殺すのだ。針妙丸も三郎少年も、蕎麦屋の親父も関係がない。ただ、私のためだ。

 

 烏の塞いでいる扉以外に、どこか外に出られる場所がないかと見渡すも、特には見当たらなかった。隙を見て突破しようにも、そんなものあるわけがない。自然と、懐に手が伸びる。傘を使うか、迷っていた。

 

「相変わらず頑固ですね」

「お陰様でな」

 烏の顔に一瞬緩みが出たように見えたが、すぐに能面のような真顔へと戻った。

「これだけは言いたくありませんでしたが」

「だったら、言わなきゃいいだろ」

「針妙丸のこと、忘れたわけじゃないですよね」

 

 突然出てきたその名前に、私は狼狽した。どうして、今あいつの名前を言ったのか。関係ないじゃないか。喉がきゅっと締まり、口から空気が出てこない。

 

「あなたが復讐を企んでいることなんて、喜知田が想定していないはずがないです。というより、あの危機感の強い男は常に何かしら対応をとってますよ。この前もそうだったじゃないですか」

「対応ってなんだよ」

「針妙丸とかいう小人を、人質に取ったりとか」

 

 目の前にいた烏の姿が一瞬にして消え去った。視界がチカチカと点滅し、頭がクラクラする。壁に手をつき、目を閉じた。動悸が激しい。痛む頭を押さえながら、ゆっくりと顔を上げる。そこは、寺子屋ではなかった。

 

「無駄な抵抗は最高です」

 

 ぬちゃり、と唾を絡ませたような声がすぐ前から聞こえた。嫌な声だ。声だけでどれほど不快にできるか競い合う大会があれば、きっと優勝できるだろう。

 未だ視界は明瞭でないにもかかわらず、ここがどこだか分かった。喜知田の家だ。ふと左を見る。そこには烏が安らかな顔で倒れていた。いつの間に倒れたのだろうか。

 

「小人という種族がいたのは、私も知りませんでしたよ」

 

 また、気色の悪い声が聞こえた。かすかに見えたその顔は、忘れもしない、喜知田の顔だ。そいつが私の右側を指さし、楽しそうに目を輝かせている。その指さした方へと、ゆっくりと視線は動いていった。

 

 いやだ。見たくない。どうしてこんなことに。

 

 頭は拒絶しているにもかかわらず、勝手に頭は動いていく。このままだと、何かが壊れてしまうような、そんな気がした。それでも止まらない。

 

 鉄の小さなかごが見えた。そこには何かが倒れている。その倒れている何かのすぐ横に、金属製の筒のようなものが見えた。その筒先はまっすぐ倒れている小さな人影へと向いていた。

 

 止めろ。

 

 視界がぎゅっとせばまり、双眼鏡でのぞいたかのように、その人影へとよっていく。真っ白なその顔は人形のようだった。頭の片隅で、パンと破裂音が聞こえる。すると、その顔は真っ赤に染まり、私の頭も真っ赤に染まった。頭に風穴があいたそいつは、にっこりと笑い、むくりと起き上がった。私を見て、ケラケラと笑っている。違う。こいつは針妙丸じゃない。

 

「お前のせいだ」

 

 針妙丸とは似ても似つかない声で、そいつは大声を出した。気がつけば、全身が血塗れになっている。その真っ赤になっている手から、無数の顔が浮かび上がった。

 

 お前のせいだ。お前がいたから私たちは酷い目に遭ったんだ。お前のせいだ。お前のせいだ。そうだ。私のせいだ。お前のせいで、私のせいで、こいつらは、一体私は何をしているのか。こんなところで、何をしているのか。死ななきゃいけないのは誰か。誰なのか。それは、私ではないのか? その通りだ。私は死ななきゃならない。

 

「正邪!」

 

 薄暗い世界が、ぐらりと歪んだ。真っ赤な世の中が急激に遠のいていく。頭の中にかかっていた靄が晴れていき、体に力が入ってくる。

 

 胸の奥から空気があふれてきた。それを思いっきり吐き出す。そのとき、初めて自分が息を止めていたことに気がついた。息を吸うたびに、視界がだんだんと明るくなっていく。

 

「どうしたんですか、急に」

 

 顔を上げる。目の前にあったのは、喜知田の姿ではなく、烏の顔であった。その顔は、すでに不気味な笑顔ではなく、普段のムカつくものへと変わっていた。

 

 体を伸ばすようにして、あたりをぐるりと見渡した。何の変哲もない、いつもの寺子屋だ。さっきまで見ていたのは、一体何なのだろうか。夢かとも思ったが、それにしては現実味があった。

 

「さっきまで、私は何をしていた」

「え?」

「何をしてたんだよ」

 

 ついに惚けたのですか、と笑う烏の声はどこか小さかった。背中で広げていた翼も縮こまり、団扇もいつの間にかしまわれている。ただ、カメラだけは相変わらず手にしていた。

 

「急に目を閉じたかと思えば、ずっと下を向いてうなされていたんですよ。もしかして、やっぱり私の恐怖に耐えきれなかったんですか?」

「トラウマだよ」

「安易にトラウマとか言うやつは、信用しないことにしているんですよね、私は」

「私もだ。それはトラウマじゃなくて、ネコロバだろって言いたくなる」

「面白くないですよ、それ」

 

 霧の湖の氷精も、寺子屋のトイレだって、トラウマと呼ぶには下らなすぎた。それこそ、ネコロバと呼んでもいいほどだ。そんなことより、私には根深い、トラウマにふさわしい記憶があった。本当のトラウマは、そもそも体が思い出すことを許可せず、ずっと奥深くに封印されているのだと、やっと分かった。

 

「それで? いきなり地面を見つめる情緒不安定なあなたは、まだ復讐を考えているのですか」

「いや」

 

 私は首を振った。それは、彼女の言葉を否定したかったからではない。頭にこびりついたあの忌々しい記憶を吹き飛ばしたかったからだ。

 

「まだその時じゃない」

 

 そうですか、と呟いた彼女の声は、どこか暖かかった。どうしてこいつが、ここまで私の復讐に反対するのだろうか。もしかすると、私を心配してくれたのだろうか。いや、まさかな。

 

「そういえばさっき、何事にも対価が必要です、とか言ってたよな」

「まあ、言ってましたけど。それが何か?」

「だったら、私が復讐を止める代わりの対価をよこせ」

「はあ?」

 

 眉をハの字にし、心底不快そうな顔を見せた烏は、頭がおかしくなった相手に接するように、目を泳がせ、少し後ずさりした。

 

「なんでそんなんで対価を払わなきゃならないんですか。もしかして、前みたいにまた新聞の内容を指定してきたりはしませんよね」

「その、まさかだ」

 

 私のあまりにも無茶苦茶な論理に鼻白んだのか、それとも単純に面白いと興味を持ったのか、彼女は微妙な笑みを見せた。

 

「一応聞きますけど、なんて書いてほしいんですか?」

「喜知田がもし死んだりいなくなったりしたら、天邪鬼の呪いって書いといてくれ」

「なんでですか」

「いいじゃねえか。かっこいいだろ」

「かっこよくないですよ」

 

 はぁ、とわざとらしく息を吐いた彼女は、「どこか安全な場所まで運んであげますから、それで勘弁してください」と扉を開けた。

 

 今ならば、彼女の目を盗んで逃げ出せるのではないか。そう思い、外の様子をうかがおうとすると、異様に騒がしい音が聞こえた。がやがやと、人が外で何やら話し合っている。

 

「あややや、何事ですか。祭りでも始まるんですかね」

 首を傾げていると、外から大きな声が聞こえてきた。聞き覚えのある声だ。

「いま話題の鬼人正邪が人里に来てるってよ! 家から出ないように!」

 妹紅が人里の上空で、大声で叫んでいた。思わず、笑ってしまう。笑い事ではないにもかかわらず、だ。

 

「あややや、あれではいたずらに人里の人間を混乱させるだけじゃないですか。彼女は何を考えているんですかね」

「きっと、何も考えてねえよ」

「ですね」

 

 外の喧噪が収まるまで待機しなければならなくなった私は、自分の心を落ち着かせるために、もう一度息を大きく吸った。

 

 やはり、私は喜知田に復讐することなんて、できないのだろうか。あいつは憎いし、許すつもりも毛頭ない。どうして蕎麦屋の親父があんな死に方で、あんな奴がのうのうと生きているのか理解できなかった。殺しても殺したりない。そんな奴だ。だが、私は殺せない。天罰なんて信じてはいけない。自分でやるべきだ。そんなことは分かっていた。でも、私はそれを期待してしまう。天罰なんてあるわけないのに。

 

「静かになりましたね」

 烏が、耳に手を当てながら、私を見た。

「それなら、行きますか」

 

 烏とともに寺子屋を出ると、正面に男が立っていた。物音一つしなくなった大通りで悠然とたたずんでいる男は、こちらをまっすぐに見据え、微笑んでいる。が、その目はわずかに見開いていた。ちょうど寺子屋に入ろうとしていたのだろうか。そこで、予期せぬ人物が出てきて、驚いたに違いない。男の後ろには、不自然な動きをする何人かの護衛の姿も見えた。だが、彼らも急な事態に面食らったらしく、もたついている。

 

「あややや、これはこれは」

 

 隣で烏が何かを呟いているが、聞こえない。先ほどまでの考えなど、どこかへ消えていた。全身に警鐘が鳴り響く。止めろ止めろと私を止めてくる。だが、それでも私の体は前へとかけ出した。

「赤い鎖って、本当にあるんですね」

 私の沸騰した頭には、目の前の喜知田しか映っていなかった。

 

 

 

 



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約束と違約

「お前ほど人間らしい奴はいないさ」

 彼は笑った。

「身から出た錆っていい言葉だよな」

 彼は笑った。

「お前は、昔から何も変わらないな」

 彼は笑った。

「生態系が壊れてしまいます」

 彼は笑った。

「包丁を突き刺して殺してくれないか」

 彼は死んだ。

 

 そう死んだ。もうこの世にはいない。二度と会うことはない。会うことはできない。悲しくなんて無かった。悲しむことすらできなくなっていた。私たちはいつか死ぬ。確かにその通りだ。だが、本当にそれだけでいいのだろうか。いつかっていつだろうか。まだ、その時じゃない。私はそう思っていた。でも、それは誤魔化したかっただけじゃないか? 復讐ができないなんて事実を認めたくなくて、自分を騙していただけなのではないか?

 

「迷ったらやれ」

 どこからか、そんな声が聞こえた。八雲紫の声だ。そうだ。迷ったらやれ。やらなければならない。

 

 気がつけば、地面を蹴り、駆け出していた。手には包丁が握られている。寺子屋で見つけた、三郎少年の包丁だ。それを腰に構え、全力でかけていく。

 

「落ち着いてください」

 

 だが、すぐに出鼻をくじかれた。いつの間にか足が地面を離れ、宙を漕いでいる。烏に羽交い締めにされたと分かるまでに、少し時間がかかった。

 

「何しやがる!」

「さっき、復讐はしないって言ったじゃないですか」

「天邪鬼の言うことを真に受けてるんじゃねえよ」

 

 体を大きくばたつかせる。包丁で彼女の手を切ろうとするものの、うまくいかない。むしろ、彼女の力は強くなっていった。肩の骨が削れたかのような、嫌な音がする。

 

「離せよ。離してくれ! 私はこいつを、この糞野郎を!」

「だから、落ち着いてください」

「落ち付けだぁ!?」

 

 私の声は裏返っていた。烏の顔がどうなっているか分からない。興味も無い。今は、目の前にいる喜知田を殺すこと以外、どうでもよかった。

 

「なんで落ち着けるんだよ。どうしてこいつが生きているんだよ。どうしてこいつが幸せなんだよ。どうしてこいつを殺しちゃならないんだ。言ってみろ!」

 烏は答えない。ただ、私を離す気もなさそうだった。

「なんであいつらが死んで、苦しんでいるってのに、こいつは人生を謳歌しているんだ。おかしいだろ。バランスがとれていない。彼は腹に包丁を刺した方がましと思うほどに、自らそう望むような人生を歩んできたってのに、こいつはなんでこんななんだ。殺してやる。お前も包丁を腹に刺されなきゃ、おかしいんだよ!」

 

 最初こそ、呆気にとられ、立ち尽くしていた喜知田だったが、私を見て、憎たらしく笑った。どうして笑えるのか分からない。理解したくもなかった。

 

「どうせ、こいつはなんとも思ってねえんだよ。死んだ奥さんの写真を見つめる彼の顔も、儚げに弱々しく笑う曲がった背中も、体が少しずつ動かなくなっていって、目の端に涙を浮かべている姿だって、考えたことがないに決まってるんだ」

「あなたが何を言っているかは分かりません」

 

 喜知田は、私に近づこうともしなかったが、逃げようともしなかった。悠然とした態度で、こちらを見つめている。

 

「私は人を殺したことはないですよ。殺したのはあなたです。早く巫女に退治されてください」

 

 何か、獣のような獰猛な声が聞こえた。誰の声かと思ったが、すぐに分かる。私の声だ。これでもかと体を動かすが、万力で固定されているかのように動かない。

 

「おい離せって。離してくれよ!」

「できませんよ。気持ちは分かりますが」

「分かるわけ無いだろ!」

 

 そうだ。強者に弱者の気持ちなんて分かるわけがない。いくら烏が同情したところで、憐れんだところで、それは分かったわけではない。

 

「おい喜知田。お前は死んでも許さねえぞ。楽に死ねると思うな。体を少しずつ削って、動物の餌にしてやる!」

「恐ろしいことを言いますね」

 その丸々と出ている腹をなでた喜知田は、余裕綽々といった様子で鼻を鳴らした。

「でも、あまりそういうことを言わない方がいいです」

「なんでだよ」

「暴言は自分に返ってくるからですよ。よく言うじゃないですか。馬鹿という方が馬鹿って」

「言わねえよ馬鹿」

 

 せせら笑う喜知田に向かい、殺意が爆発する。だが、そんな私の気も知れず、烏は手に加える力を変えない。離せ、頼むから、お前の新聞は面白いから、と叫ぶも、烏の表情に変化はなかった。

 

 烏の表情に変化が出たのは、それからすぐのことだ。

 

 近くにある烏の顔が、ぽかんと間の抜けたものとなった。まるで、土から鳥が、水底から蝶が、空から魚が降ってきたような顔だ。

 

「なんで、空から魚が落ちてくるんですか」

 

 耳を疑った。慌てて空を見上げると、そこには確かに無数の魚があった。喜知田の護衛が放ったのか、何匹かの魚は弓に打たれ、はじけ飛んでいる。

 

 唖然としている私たちの前に、ぼたぼたとそれが落ちてくる。生臭いそれは、私たちを煽るように地面でピチピチと跳ねていた。

 

「何なんですか、これは」

 喜知田はそういったものの、私ほどは狼狽えてはいなかった。目を細くし、こちらを睨んでくる。

「天邪鬼の仕業ですか?」

「いや」

 違う。そう口にしたのだが、その声は爆音によってかき消えていった。

 

 耳をつんざくような強烈な音に、私は思わず手で耳を押さえようとした。だが、烏に羽交い締めにされているせいで、それすらできない。頭痛がし、視界が揺すられる。流石の烏も驚いたようで、え、っと声を漏らしていた。顔を上げると喜知田たちも耳を押さえ、音のした方へと意識が奪われている。

 

 私も同じ方向を見る。そこには、信じがたい光景が広がっていた。見覚えのある二人が、妖力を全力で漲らせながら、手に持った楽器をかき鳴らしていた。

 

「何やってんだよ」

 私は叫ぶが、その声は誰にも聞こえていないだろう。それほどまでに彼女の出す音は果てしなく、大きかった。

「私たち付喪神の力を見くびってもらっては困るな」弁々の声が、音に反響しながら響いた。

「やればできるんだよー」のんびりとした八橋の声でさえ、その音量では勇ましく感じた。

 

 突然、肩に加わっていた力が抜けた。急に離されたせいで、その場に崩れ落ちてしまう。すると、顔に勢いよく何かがぶつかってきた。後ろに尻餅をつき、顔を揺する。ごしごしと顔を拭うと、冷たい何かが頬を伝った。考えるまでもなくそれがなんだか分かる。水だ。

 

「あややや。これは予想外ですね」

 

 上空で、烏の声が聞こえた気がしたが、すぐに爆音にかき消されていく。きっと、水がこちらへ飛んでくるのが分かって、私を盾にしたのだろう。腹が立ったが、今はそれどころじゃなかった。何が起きたか分からず、ただ狼狽えるしかない。

 

 人里中に木霊するほど強烈な音がゆっくりと近づいてくる中、私は誰かに手を引張られ、立ち上がった。立ち上がらされたと言ってもいい。その奥にいる喜知田たちのことが気になったが、とりあえずは、私の手を握る彼女の方が問題だった。

 

 ふと、不自然に音が鳴り止んだ。何事かと八橋たちの方へと顔を動かす。喜知田の護衛のうちの一人、弓を構えた男が、矢を繰り返し放っていた。それを、ひらひらと回転しながら避ける付喪神の姉妹の姿が見える。だが、流石に楽器を鳴らす余裕はないようで、音は鳴り止んでいた。そのままゆっくりと私の方へと近づいてくる。

 

「なんなんだよ」

 私は未だ手を握り続けているそいつに向かい、唾を飛ばした。

「何しに来たんだ」

「ほら、言ったじゃないですか」

 得意げにそう笑う彼女の目には、喜びが浮かんでいた。

「私は嫌いな相手ほど助けたいタイプなんです」

 そう微笑みを浮かべた小魚は、得意げに胸を張った。

 

 

 

 

「その妖怪たちは、天邪鬼のお仲間ですか?」

 

 さっと前に出てきた護衛の陰で、喜知田は淡々とそう言ってきた。特に動揺した様子はない。単純に弱小妖怪が多少増えた程度では、問題がないと思っているのだろうか。それとも、人里で妖怪が人間を襲うことなどといった、巫女に殺されてしまうような蛮行をしないと、高を括っているのだろうか。

 

 それは、紛うことなき正論だった。

 

「私たちは、正邪の仲間ではないですよ」

 なぜか嬉しそうに、小魚は微笑んだ。

「チーム天邪鬼です」

「なんですか、それ」

 

 肩をすくめた喜知田だったが、その目に呆れは浮かんでいなかった。見下しつつも、警戒心は滾らせている。それが、何とも腹立たしかった。

 

「下克上をしたチームですよ。ま、私たちは我らがリーダーに騙されていただけでしたが」

「リーダーじゃねえよ」

「いや、リーダーだよ」

 八橋は、口を尖らせた。

「だって、責任をとるのがリーダーの仕事だもん」

 弁々が、耐えきれず吹き出した。この場に似つかわしくない、のんきな声で、だねぇー、と笑っている。

 

「あなたは好かれているのか、嫌われているのか分かりませんね」

 ふわりと翼を一度揺すった烏は、音もなく私の隣に降り立った。小魚たちは、恐怖を感じたのか、さっと後ろに下がっている。

「チーム天邪鬼だなんて、愛されてるじゃないですか」

「愛されてねえよ、嫌われてるに決まってんだろ」

 

 私の陰から、弱小妖怪三匹がそうだー、と声を上げた。烏の表情に、笑みが浮かぶ。私が嫌いな、腹がたつ笑みだ。やっぱり、愛されてるじゃないですか、そう言いたいに違いない。が、それよりも先に、横やりが入った。文字通り、喜知田の護衛の一人が、烏と私たちとの間に槍を鋭く突き刺したのだ。風の切る音が耳に残る。恐怖を感じる暇すらなかった。

 

「あややや、いったいどういうつもりですか?」

 烏は、私に向けていた暖かい笑みのまま、喜知田へと顔を向けた。

「この烏天狗である私に、烏天狗である射命丸文に対して、そんな無礼が許されていると思っているのですか?」

 

 びくり、と小魚たちの体が震えた。楽しげに笑う烏の姿は、確かに恐ろしい。だが、そんな私たちとは違い、喜知田たちはずいぶんと落ち着いていた。

 

「無礼は詫びますよ。ですが、あなたのためでもあるんです」

「私のため? 世迷い言を。あなたのような人間風情に私の何が分かるというのですか」

「大天狗様、でしたっけ」

 

 勝ち気に笑っていた烏の顔が、みるみる凍り付いていった。おいおい、と思わず声をかけてしまう。情けないにもほどがあるだろ。

 

「確か、妖怪の山は今回の鬼人正邪の指名手配にあたり、捕獲または殺害に協力する、と表明したはずですよね。大天狗様直々に。それに刃向かうのはまずいんじゃないですか?」

 

 隣の烏が殺気立っていくのが分かる。空気がピリピリと震え、すさまじい濃度の妖力がこぼれ出ていた。あの、感情を表に出さない烏が、だ。きっと、彼女にとって、人間にそれを指摘されることは屈辱なのだろう。彼女の笑みに、冷たいものが混じっている。

 

 そんな烏を前にしても、喜知田は堂々としていた。偶然私たちに鉢合わせした割には、随分と落ち着いている。

 

「烏、お前帰れよ」

 鋭い目で喜知田を睨み付けている烏に向けて、声をかけた。

「お前は関係ない」

「あややや、さっきあれほど協力しろと言ってたじゃないですか」

「言ってねえ。というより、邪魔しかしてねえだろうが」

「そりゃ、犬死されても困りますし」

「何で困るんだよ」

 

 烏の翼が、ほんの少し動いた。それに伴い、後ろから八橋の小さな悲鳴が聞こえてくる。確かに烏は怖い。恐ろしく、強大で狡猾だ。だからこそ、私は彼女が私を助ける理由が分からなかった。

 

「別に私なんて、どうなってもいいだろ。お前の知ったことじゃない。わざわざ上司に怒られてまで、助けようとしなくていいじゃねえか」

 

 烏は返事をしなかった。俯き、地面を見つめている。口は細かく動いていたが、良く見えない。場に静寂が訪れる。風で土が巻き上げられる音と、喜知田の護衛たちの息をのむ音しか、聞こえない。

 

「人里に、綺麗な桜があったんです」

 その静寂を打ち破った烏の声は、いつもより更に感情がなかった。

「甘味屋の向かいにある並木の一つだったんですがね。随分昔から咲かなくなってしまったんです」

「何の話だ」

「咲いている時は別に何とも思っていませんでしたが、いざ無くなると、ああ、どうせなら、もう少し見ておけばよかった、と後悔するんですよね。今、そんな気分です」

「その枯れ木に新聞でも貼っておけば、咲くんじゃないのか」

「咲きませんよ」

 

 頭をガシガシと掻いたせいで、被っていた烏帽子が脱げたが、彼女は気にした様子もなかった。自分自身でも、何を口走っているのかよく分かっていないのか、苦笑いを浮かべている。

 

「確かに、愚かで、馬鹿で、救いようのない弱小妖怪を助ける義理も、理由もありません。あなたをネタにしようにも、指名手配犯の動向なんて、二番煎じもいいとこですから。そうですね。やっぱり、あなたを助ける理由は、今のところ私にはない。」

 

 そう半ば義務的に呟いた烏は、私に背を向けた。ただ、それだけなのに、何故だろうか。見限られたような気がした。自分から彼女を遠ざけたにもかかわらず、喪失感に襲われる。そんな自分が馬鹿らしかった。

 

「帰ります」

 烏は小さな、けれどもはっきりとした声で言った。

「残念でしたね。あなたを助ける理由は私にはありませんでした」

「残念じゃねえよ」

 

 何かを期待するようにこちらをちらりと見た彼女だったが、すぐに失望の色を見せた。張り詰めた顔を更に厳しくし、その表情を一気に緩める。無理矢理糸を丸めたかのようなその顔は、歪に床んでいた。

 

「喜知田さん。少しいいですか?」

「なんでしょう」

 突然質問を投げかけてきた烏に恐怖したのか、それとも、単純に理解できなかったのか、喜知田は首をひねった。首が据わっていない赤ん坊のように無邪気で、後ろを気にする熊のように獰猛だ。

 

 そんな喜知田に向けて、烏は手に持ったカメラを向けた。その口はいつもより深い笑みが浮かんでいる。だが、その頬はぴくりと震えていた。

 

「笑ってください」

 

 烏のその言葉の直後、パシャリと無機質な音が響いた。続いてばさりと翼が羽ばたく音が耳元でなる。烏の姿はもうなくなっていた。

「なんだったんでしょうか」

 喜知田は私に向かい、首をかしげた。鳥肌が立つ。馬鹿にするように舌を出し、烏の飛び立っていった空を見つめる。これで、復讐はチャラにしろと、言っているのだろうか。

 

「陰湿だな、本当に」

 

 今更ですか、と返事が聞こえた気がした。

 

 

 

 

「それで? そんなに沢山妖怪を集めて、また異変でも起こすつもりですか?」

 だとすれば、見過ごすことはできませんねえ、と喜知田は笑った。人里の中央にいるにも関わらず、通りがかる人間は一人もいない。妹紅の言いつけ通りに、閉じこもっているのだろう。

 

 私は、この状況に未だに戸惑っていた。鋭くこちらを睨んでいる護衛たちを見て、隣にいる暢気な連中を見る。あまりに非対称的なこいつらに、私は混乱していた。目の前にいる殺さなければならない奴を、幸せになってはいけない醜い人間を私はこの手で、なんとしても殺す。だが、それをこいつらの。自称“チーム天邪鬼”の奴らの前で実行することには、気が引けた。怒りが収まったわけではない。ただ、怒りを感じる余裕すらなくなっていた。

 

「なに考えてるんだよ」

 小魚たちに向かいそう言う私が、一番何も考えていなかった。

「助けに来ただ? 誰が頼んだんだ、そんなこと。そもそも私は助けなんていらねえ」

「何さ、助けってのは、貰っておくもんだぞ」

 

 弁々は、こちらへと一歩足を踏み出したが、動きを牽制するように護衛から矢が飛んできて、足を止めた。一瞬不満そうに目を向けたが、口は止めていない。

 

「弱者は助け合わないと生きていけない」

「どうせ、時間切れになるんだ」

「時間切れ?」

「何でもねえよ」

 

 こいつらを、どうにかしてここから退かせなければならない。私の復讐は、私がやらなければならない。寺子屋で、一度諦めた私に呪いを吐く。大事なことは自分でやれ、大丈夫だ。彼の言葉ならば、まだ覚えている。覚えたくはなかったんだがな、と呟くと、小魚が不思議そうにこちらを振り返った。

 

「何か、言いました?」

「帰れと言ったんだ」

「え?」

「お前らが来ても邪魔なんだよ。本当に私を助けたいと思ってるなら、今すぐ帰ってくれ」

「私、やれと言われればやりたくなくなる質なんですよ」

「なら、帰るな」

「分かりました」

 

 そう笑うと、彼女は九十九姉妹に向かい目配せした。急に真剣な顔つきになり、小さく頷いている。何かをしでかす気だ。

 

 だが、私がそう分かるのならば、喜知田たちにも当然のように伝わる。

 

 突如、膝が崩れた。息が詰まり、その場に立っていられない。上から巨人が体を押しつけているかのように錯覚する。私は、踏まれた蛙のように地面に張り付くことしかできなかった。懐に入った小槌が胸に当たり、痛い。

 

 野菜を持ち帰ったあの日、何もできずに痛い目に遭った日を思い出した。悔しさと憤怒で顔に血が上る。二度あることは三度ある。ふざけるな。そんなこと、認めてたまるものか。

 

 何とか体を浮かせようとするも、うまくいかない。胃から何かがこみ上げてくる。たまらず吐き出すと、鉄臭さが鼻を覆った。だが、それも無視して、必死に懐へと手を伸ばす。小槌によって空いた隙間を這うように滑らせ、目当てのものへと伸ばした。

 

「く、苦しい」

 耳元で声が聞こえ、目だけで隣を見る。そこには、無様に腹ばいで呻いている小魚たちの姿があった。情けない声だ。上から何かに踏まれているように、頬がひしゃげている。

 

「蟷螂の鎌って、いい言葉ですよね」

 

 小魚の方から、そんな声が聞こえた。が、実際に彼女が口を開いたようには見えない。現に、彼女の口からは、赤色の混じった泡がこぼれ出ていた。ひゅっと風が切る音が聞こえ、小魚の肩に、矢が突き刺さる。うっと、小さく息を吐いた彼女は、ピクピクと蠢いていた。痛みで目を見開かせ、逃げようとしているのか、激しく痙攣している。だが、動くことすらできていなかった。

 

「あなたはきっと蟷螂に違いないって、思ったんですけどね」

 

 肩からじんわりと赤色が広がっていった。彼女の顔は真っ白になっており、目には涙がたまっている。上からの圧力のせいで、その矢が、ずぶりと音を立ててゆっくりと肩に入っていく。その度に彼女は、その尾びれを地面にたたきつけ、細かく震えていた。歯を食いしばり、その歯の隙間からあふれる胃液を地面にぶちまけている。かつてあった優雅さなんて、微塵もなかった。

 

「ああ、こんなに弱いのに立ち向かっていたなんて、格好いいなって、思ったんです」

 

 彼は三十年かけて、こいつを殺そうとして、失敗した。私も失敗した。二度あることは三度ある。次もまた、失敗するのではないか? そんな恐怖が体を襲う。耳元で、何か音がした。だが、それも隣の小魚の絶叫に上書きされている。声にもならない、悲痛な叫びだ。

 

 まだその時じゃない。

 

 彼を殺すのは、殺せるのは今ではない。遠くの方で、八橋が悲鳴を上げるのが聞こえた。手が滑り、懐にうまく入らない。

 

 まだその時じゃない。

 

 前を向くと喜知田と目が合った。顔をくしゃりとさせ、子供のような笑顔を見せている。酷い目に遭っている私たちを見て、楽しんでいるようだ。

 

 まだその時じゃない。

 

 彼の、真っ赤な姿が頭に浮かんだ。三郎少年の、血に濡れた姿が脳裏をかすめる。少年の母親が冷たくなった姿が目の裏にこびりついている。

 

 まだその時じゃない。

 

 

 いや、今がその時だ。

 

 

 小さな袋のようなものが手に触れた。それを思い切り引き出し、乱暴に前へ投げた。すぐに顎を地面に打ち付け、目がくらむ。うまく投げられたかどうかは分からなかった。目をこらして、前を向く。彼らはまだ反応していない。袋からゆっくりと光が漏れ始め、三寸ほどの火薬玉が一瞬にして現れた。口が歪むのが分かる。

 轟音と共に、あっという間に視界は土煙に覆われた。

 

 爆風に体が吹き飛ばされ、ごろごろと地面を転がった。痛みはない。ただ、平衡感覚が失われた。闇雲に体を動かし、体勢を整える。地面に手をつけ立ち上がった。足はふらつくものの、問題ない。体は軽くなっていた。

 

「おい、無事か」

 未だ視界が安定しない中、手で煙を払いながら、声をかける。だが、返事はなかった。背筋が冷えた。嘘だろ、と声を漏らすも、それでも返事はない。

「生きているなら、返事をしろ!」

 

 土煙はゆっくりと引いていった。それにつれ、だんだんと小魚の姿があらわになっていく。ぴくりとも動かない尾びれが見えた瞬間、私は思わず彼女に駆け寄った。

 

「おい!」

「危うく」

 

 目の前から、小さな声が聞こえてきた。小魚の声だ。うたれた右肩に手を置き、苦しそうに全身で息をしている。だが、それでも無事のようだった。

 

「危うく、活け作りになりそうでした」

 

 結構余裕があるじゃないか、そう呟く私を前に、彼女は悲しそうに笑った。

 

 

 

 

「おーい、無事かい?」

 

 弁々の声が近づいてきた。その声は、間延びしたものだったが、どこか震えている。もしかすると、今までの彼女のそういう態度は、緊張を誤魔化すためのものだったのかもしれない。

 

「無事ですよ」

 小魚が、精一杯に声を張り上げた。

「軽傷です」

 

 視界の奥から、煙をくぐり抜けて九十九姉妹が現れた。彼女たちは私たちを見て、少し胸を下ろしたように見えたが、すぐに顔を強張らせる。

 

「全然無事じゃないじゃん!」

 悲鳴を上げそうになった八橋の口を弁々が慌てて塞いだ。弁々の表情は優れない。それは、小魚の肩から伸びる矢を見たからかと思ったが、すぐに違うと分かる。

 

 彼女の頭から、血がぽたりと垂れていた。どこをどう怪我したのか分からないほどに服が血を吸っている。それは、八橋も例外じゃなかった。

 

「まあ、生きてるから軽傷ってんだね」

 八橋と肩を抱き合いながら歩いた弁々は、私たちをぐるりと見ると、小さく息を吐いた。

「それでも、全員満身創痍じゃないか」

 

 確かに、皆が大怪我を負っていた。さすが弱小妖怪の集まりと言ったところか。だが、全員というのは語弊がある。

 

「おい、私は特に怪我をしていないだろ」

 自力で立ち上がろうとする小魚に手を貸しながら、私は胸を張った。

「お前らと違って、無傷だ」

 

 全身を真っ赤に染めた三人は、私の言葉を聞いて、ぽかんと口を開いていた。それぞれが、痛みで顔をしかめていたはずなのに、皆一様に真顔で、私を見てくる。その異様な雰囲気に、私は訝しんだ。いったい、どうしたのだろうか。

 

「なあ、正邪」

 弁々が右手を伸ばし、私の左手を指さした。その手はぶるぶると震えている。

「あんた、その手」

「手?」

 目を落とし、左手を見つめる。最初は、小魚の返り血だと思った。ぬめりとした赤い液体が手のひらを覆い、それが服の裾へと落ちていく。

 だが、よくよく手を見ると、違和感に気がついた。足りないのだ。何が。

 

 指が足りない。

 

 驚いた私は、急いで左手を押さえ、まじまじと見つめる。五本あったはずのそれは、小指と薬指がきれいさっぱりなくなっていた。いつの間に。全く気がつかなかった。血が止めどなく流れているせいで、傷口はよく見えない。それが、恐ろしさを倍増させた。急いで地面を見下ろす。私が這いつくばっていた場所に、血だまりと共に二本の指があった。慌てて拾うが、どうしたらいいか分からない。とりあえず、ポケットに突っ込んだ。

 

「気がついてなかったの?」八橋の顔は、苦虫を噛み潰したように、渋い。

「せめて、布かなんかで血を止めなよ」

 

 気が動転していたが、何とか市松模様の布を取り出し、手に巻き付ける。一瞬で色が変わったが、それでも血の勢いは緩んだかのように思えた。

 私は戸惑っていた。指がなくなっていたことにも当然驚いていたが、それよりも、痛みを全く感じなかったことに、絶望した。今も、痛みはない。ただ、血のぬめり気が気持ち悪いだけだ。

 

「でも、まあ」

 その衝撃を隠すように、布が巻き付けられた左手をひらひらと振る。

「利き手じゃなくて、本当によかった」

 

 

 

「いや、驚きましたよ」

 いつの間にか土煙は晴れていた。傷をなめ合っていた私たちに向かい、楽しそうな声が発せられた。嫌な声だ。

「まさか、爆弾を隠し持っていたなんて」

「知らなかったのか? 指名手配犯は爆弾を皆持ってんだよ」

 

 当然と言うべきか、案の定というべきか、喜知田は無傷だった。だが、彼を取り囲む護衛はそうもいかないらしく、焼けた服を風で棚引かせている。躊躇なんてしていられなかった。

 

「そして、指名手配犯に慈悲もねえ」

 

 ありったけの小さなお守りを右手で引っ張り出し、下手投げで高々と放り投げる。落ちていく間にそれはあっという間に火薬玉へと変わり、喜知田たちの頭上へと降り注いだ。一人の護衛が喜知田を抱え、中心から避けようとしている。他の連中は逃げもせず、何かを呟きながら霊力を放っていた。とっとと逃げればいいのに。そんなに、金の力というのは偉大なのだろうか。命をかけるまでのものなのだろうか。

 

 ふわりと、彼らの前に薄い膜のようなものが現れた。内側からぼんやりと輝いているそれは、美しい。だが、それよりも力強さを感じる。私なんかが触れれば、ひとたまりもないだろう。

 

 爆弾が降り注ぎ、視界がまたしても光に覆われる。喜知田たちがいた所を中心に、何度も何度も破裂音が響いた。

 

「今のうちに、お前らは帰ってろ」

 その爆音にかき消されぬようにと、私は大声で叫んだ。

「後は私にやらせろ。これは私の問題だ」

 

 人里で人間を殺せば、流石に巫女に殺される。そんなこと、こいつらも分かっているはずだった。だが、私の方をチラリと見た三人は、まったく動こうともしない。声が聞こえていないのかと思い、もう一度叫ぶが、彼女らはふるふると首を振った。

 

 一際大きな爆音が鳴った。近隣の家が爆風で揺れ、瓦が崩れ落ちている。その家から悲鳴が聞こえた気がした。気のせいだとそう思い込む。

 

 “あの喜知田が何も対策していないとは思えません”

 

 烏の言葉が頭をよぎる。流石の喜知田も、今回ばかりは禄に対策できていないはずだ。そう思いたかった。

 

 爆発音が鳴り止み、光が止まった瞬間、九十九姉妹が駆け出した。手に楽器を持ち、それを力一杯かき鳴らす。その音は質量を持ち、土煙を吹き飛ばしていった。何を企んでいる、と叫ぶ私の声など、自分自身ですら聞き取れない。

 

 喜知田たちの姿が露わになる。残念なことに、彼らは思ったよりも平気そうだった。人間のくせに、と悪態が漏れる。だが、堂々とこちらを見下している喜知田とは違い、結界を張っていた護衛たちは疲れ切っていた。弁々たちの音から耳を守ろうと、両手で頭を抱えている。

 

 それを見て、小魚が駆け出した。一人で悠揚とたたずんでいる喜知田の元へとまっすぐ向かっていく。懐から、喜知田が銃を取り出したのが見えた。が、小魚はひるまない。空中を泳ぐようにするすると進み、銃声をかき分けながら、肉薄していった。少し目を丸くした喜知田の懐をつかみあげると、鼻をつまみ、強引に口を開く。そして、何かを口に入れ、急いで帰ってきた。

 

 その勢いのまま情けなく腰を落とした喜知田は、こちらを睨み付けている。弱小妖怪だからと嘲っていたのか、それとも人里でまさか私以外に人間に攻撃するという暴挙を犯す連中がいるとは思わなかったのか。いずれにせよ、あっさり喜知田は小魚にあしらわれていた。ざまあみろ。

 

 今なら、こいつを殺せる。そう思い、私も小魚のように前へ進もうとするが、何もない場所で思いっきり滑ってしまった。喜知田と同じような格好で、地面に腰を打ち付ける。何やってんだ、と自分の足下を見ると、すねに矢が刺さっていた。なるほど、と声が出る。これでは歩けない。

 

「ま、こんなもんかね」

 息を切らしながら、弁々と八橋が戻ってくる。怪我をしている状態で力を出したからか、歩くことすらままなっていなかった。

「作戦成功だ」

 作戦って何だよ。そう聞こうと思ったが、その前に喜知田が口を開いた。どことなく焦りが混じっているようにも思える。

 

「聞きたいことがあります」

「なんでしょう。何でも答えますよ」

 肩を押さえ、苦しそうに声を出した小魚は、私なんかよりよっぽど悪人じみていた。

「一つ、人里で人間に攻撃すると言うことが、どういう意味か分かってますよね」

「もちろんです」

 

 よっこらせ、と余裕綽々で立ち上がった喜知田は、へばっている護衛たちを見て、顔をしかめた。情けないですね、とつまらなそうに吐き捨てている。

 

「なら、いいです。では二つ目ですが、今私の口の中に入れたものは、一体なんですか?」

 小魚の笑みが、一層深くなった。輝針城での作戦会議で見せたような、妖艶な笑みだ。

「毒」

「はい?」

「毒を飲ませたんですよ」

 驚きました? と微笑む小魚の口端から、ぽたりと血が垂れた。

 

 きっと、喜知田は、小魚たちが人里で攻撃をしてきたという名目で、退治するつもりだったのだろう。妖怪は人里で人間を加えてはいけない。このルールを利用し、挑発をして、思わず殴りかかったところを返り討ちにするつもりだった。だから、逃げもせず、突っ立っていたのだ。そうに違いない。

 

 だが、予想以上にチーム天邪鬼は頭がおかしかったらしい。

 

 小魚のその言葉を聞いた喜知田は落ち着いた様子で、護衛に何か声をかけた。その二重になった顎をたぷたぷと震わせながら、喉に指を突っ込んでいる。だが、その脂肪のせいか、うまく吐き出せないようだった。

 

「まさか、いきなり殺しにかかってくるとは」

 そんな状態にもかかわらず、喜知田は私たちへ不敵に微笑んだ。

「あなたたち、巫女に殺されますよ」

「大丈夫さ」

 弁々がぐっと拳を握った。

「いざとなれば、リーダーである鬼人正邪様が責任を取って下さる」

 

 喜知田の体がゆらりと揺れた。平衡感覚がつかめないのか、千鳥足でふらふらと体を揺すっている。近くの護衛が彼の体を支えようとするものの、霊力を出し切ったからか、彼ら自身も千鳥足だった。

 

 私の胸は弾んでいた。高揚感と達成感で自然と口に笑みが浮かぶ。まさか本当に。本当にこいつを殺すことができるのではないか。そう思い、足の矢を強引に抜き取った。血があふれ出るが、痛みはない。服をちぎって太ももに巻き付けた。

 

 震える足で地面に立ち、ゆっくりと喜知田へと向かっていく。その場に落ちていた三郎少年の包丁を拾い上げた。喜知田の前に護衛が立ち塞がり、武器を構える。だが、彼らも私と同じく満身創痍だ。差し違えてでも、殺す。

 

「笑えるなぁ」

 こちらをぼんやりと見つめる喜知田を睨んでいると、後ろから暢気な弁々の声が聞こえてきた。くすくすとした含み笑いも聞こえる。

「まさか、そんなになるなんて」

 

 ですね、と小魚の返事が聞こえた。今は目の前の憎き喜知田を殺すことだけを考えなければならないのに、なぜか後ろの会話が気にかかった。

 

「毒を飲ませたって言ったけど」やけに高い小魚の声が頭に響いた。

「あれ、嘘でしたのに」

 

 は? と気の抜けた声が漏れた。私の声だ。

 

「私が毒なんて作れるわけないじゃないですか。あなたに飲ませたのは、私渾身の」

「渾身の?」

「きれいな、複雑の模様の氷です」

 

 案外効いたでしょ? と微笑む彼女を前に、私たちは呆然としていた。嘘? 氷? どういうことだ。

 

「つまり、こいつはただの氷を飲んで苦しんでたってことだよ」耐えられない、と言った様子で弁々は笑った。

「勝手に毒だと思い込んでたんだ」

 

 思い込みって怖いだろ、そう自慢げに笑う慧音の姿が頭に浮かんだ。

 

 

 

 本来ならば、ただの氷で無様な醜態をさらした喜知田を馬鹿にし、作戦の成功を祝ってもいいと思えなくもないような場面だったが、彼女たちは重大なミスを犯した。それは何か。もっとも単純で、そしてもっとも重大なことだった。どうしてそんなことも分からないのか、と彼女たちに文句を言いたくなるほどだ。

 

「随分と、こけにされていたみたいですね」

 子供のいたずらに引っかかったかのような、朗らかな笑みを浮かべた喜知田は、平然と起き上がった。その足はもう震えていない。

「ですが、ネタばらしを本人の前でするのは愚かです」

 

 全くもってその通りだ。喜知田に同意するのは癪だったが、私も頷いてしまう。

 

 やっと、なぜ彼女たちがそこまで喜知田と対峙することに余裕だったかが分かった。彼女たちは、単純にこいつらを、喜知田を私を捕まえようとしている人間としか思っていないのだ。それもそうだ。こいつらは何も知らない。その、ただの人間にちょっとした悪戯をしかけようと、そう企んでいたに違いない。それで、思いのほかに相手が手強く、大怪我を負って、むきになった。そんなところだろう。だとしたら、甘すぎる。

 

 体に衝撃を感じたのはその時だった。中途半端な位置でただ立ち尽くしていたからか、護衛のうちの一人に体当たりをくらい、吹き飛ばされる。視界がぐるぐると回り、地面に落ちたからか、目の前が真っ暗になった。体を起こし、辺りを確認する。痛みはなかった。

 

「これで、形勢逆転ですね」

 喜知田がそう笑った。どちらも満身創痍であるのだから、別に形成は逆転していないのではないか、そう思ったが、その甘い考えは即座に打ち破られる。

 

 小魚が護衛たちの中心で羽交い締めにされていた。

 

「なんで余計なこと言っちゃったのさ、姉さん」八橋が小魚の方を凝視しながら、弁々の肩をたたいた。

「怒らせちゃったじゃない」

「いや、いたずらに成功したら、言いたくなるじゃないか。それに、普通の人間なら、今ので戦意を喪失するさ」

「そんなんだから、甘いたこ坊主なんだよ」

「それ、褒め言葉か?」

 

 口調こそ軽やかだったが、弁々の顔は引きつっていた。汗と血が入り交じった液体が彼女の足下をつたっている。

 

「天邪鬼、さっきあなたは、体を少しずつ削って、動物の餌にするとかなんとか、言ってましたよね」

 まるで世間話をしているのではないか、と錯覚するほどに喜知田は軽々と言った。

「言ってねえよ」

「そして、私はこう返事をしたはずです。そういうのは、逆に返ってくると」

 

 何が言いたい、そう口にしようと思ったが、それは叶わなかった。喜知田の野郎が何を言いたいのか、分かってしまったからだ。

 喜知田の手には、いつの間にか銃ではなく、包丁が握られていた。先ほどまで私が持っていたものだ。それを小魚に突きつけている。三枚おろしっていいですよね、と呟いていた。つまりは、こいつは。喜知田は小魚を。

 

「止めろ」

 

 小魚は、両手を捕まれたまま、体をばたつかせていた。右肩の傷口が広がったからか、顔をしかめている。

 

「止めてくれ」

 

 水の泡。まさにこの言葉が頭に浮かんだ。哀れな人魚姫が水の泡へと変わってしまったように、私は彼女も。やはり巻き込むべきではなかった。逃げるチャンスならいつでもあったじゃないか。私のせいで、こいつらは。

 

「みなさん」

 小魚は、頬を強引につり上げ、笑みを作った。

「逃げてください」

「何言って」

「やっぱり、正邪さんの言う通りでした」

 喜知田が手に持った包丁を振り上げたのが見えた。

「細い矢三本なんてより、そこら辺の丸太の方が折れにくい。私たちが必死になって積み重なっても、強者からしたら大差ないって。無駄なあがきだって、言ってたじゃないですか。あれ、本当だったんですね」

 

 誰か、と私は柄にもなく叫んだ。誰か助けてくれ、と。慧音はどうして人里でこんな騒ぎが起きているのに来ないんだ。寺子屋の前だぞ。妹紅だってそうだ。さっき通りかかったくせに、どうして。そう叫ぶ。広い人里の中で、たまたま私たちの存在に気がつく方が稀と分かっていながらも、それでも願わずにはいられない。みっともなく、地面に這いつくばりながらも、叫んだ。

 

 誰か、助けてくれ。

 

「しょうがないですね」

 

 どこか遠くからそう声が聞こえた。かと思えば、立っていられないほどの強風が私たちを襲う。急な暴風に地面にしがみつくようにして耐える。喜知田の方へと目をやる。確かに、どうしてですか、と口が動いていた。

 

 護衛たちに羽交い締めにされていた小魚の前に、さっと黒い影が現れ、一瞬で消える。小魚の姿も同時に消え去っていた。

 

「そこまで無様に泣いて助けを求められたなら、吝かではないですし」

 

 いきなり耳元で声がして、驚く。黒い翼が神々しく輝き、私の体を覆っていた。

 

「それに、魚を捕るのが烏の仕事、なんですよね」

 

 小魚を抱えた烏は、私たちに向かい、いつものように微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

「助けないんじゃなかったのかよ」

 得意げに胸を張っている烏に向かい、私は呟いた。

「大天狗には逆らえないー、て泣いてたじゃねえか」

「泣いてませんよ」

 

 ボロボロじゃないですか、と私たちを一瞥した烏は、小魚をおろし、そのまま目線を喜知田たちへと戻した。そして、そのままそちらへと歩みを進め、威圧するかのように団扇を取り出している。

 

「烏天狗は約束を守るんですよ」

「約束?」

「言ったじゃないですか。大声で泣き叫びながら、助けて、と言えば助けてあげなくもないって」

 

 はにかんだ烏は、すぐに険しい表情に戻り、喜知田へと足を進めていった。

 

 いきなり現れた烏に、九十九姉妹も、小魚も困惑していた。どうして強者である烏天狗が、人間の味方に着くと表明したはずのあの烏天狗が助けてくれるか、理解できていないようだ。困惑していないのは、私と、喜知田たちだけだ。

 

「それに、思い出したんですよ」

「思い出したって、何をですか」喜知田は、そこで初めて焦りを見せた。毒を飲ませられたといっても動揺しなかった彼が、やっと表情を大きく崩す。

「というより、烏天狗が、指名手配犯をかばってもいいんですか」

「あややや、私は別にこいつらをかばうつもりなんてありませんよ」

 思い出したと言ったじゃないですか、と烏は鼻を鳴らした。

「だから、一体何を」

「約束ですよ。したじゃないですか。天邪鬼たちには手を出さないって」

 

 ああ、と喜知田が頷くのが見えた。そしてすぐに顔を曇らせる。どうしてこいつらが、そんな約束をしているのか、私には分からなかった。だが、そんな約束なんて、全く守られていないのは確かだ。

 

「天邪鬼を助けに来たのはおまけですよ。当然です。どうしてこんな弱小妖怪を好んで助ける必要があるんですか。私はただ、約束を破ったあなたに事情を聞きに来たんです。一体どういうつもりですか。何様のつもりですか、とね」

 

 遠くにいる私たちですら、ぶるりと身が震えるほどの威圧感が、烏から放たれていた。喜知田は一歩下がり、逆に護衛は前へと出た。足を引きずりながらも、喜知田の盾となろうとしている。あそこまでいくと、もはや執念のようなものを感じた。

 

「今のうちに逃げてください」

 烏が、目だけでこちらで振り返り、言った。

「早く!」

 

 私は考える間もなく、懐から例の傘を取り出した。ばさりと開き、小魚たちに向かい放り投げる。傘の内側には、薄気味の悪い空間が広がっていた。

 

「何ですか、これ」

 小魚が顔を引きつらせた。

「まさか、この傘の内側の中に突っ込めって言わないですよね」

「その、まさかだ」

 

 力なく笑う小魚の背中を強引に押し、無理矢理傘の中へと押し込んだ。吸い込まれるように中に入った彼女の姿は、一瞬で見えなくなる。一体どこへ出たかは分からないが、ここよりはましな場所だろう。

 

「お前らも、入れ」

「正邪は?」八橋が聞いてきた。

「正邪も入るんだよね」

「当たり前だ」

 

 そう、と頷いた彼女は、弁々の手を握り、思い切り飛び込んだ。それに引っ張られるようにして、弁々も落ちていく。悲鳴を上げようとしていたのか、奇妙な顔をしていたが、口から零れていたのは声ではなく、血だった。

 

 ぽとりとその場に落ちた傘を持ち上げ、中をのぞき込む。ぎょろりとした目が暗闇の中に蠢いていた。彼女たちの姿は、もうない。その傘を、私は遠くへ放り捨てた。

 

「あややや、あなたも逃げるんですよ」

 こちらを見てもいないのに、烏は早口で言った。

「足手纏いはもうこりごりです」

「分かってないな、烏は」

 

 烏の方へと、一歩足を進める。矢で打たれたからか、力が入らず、その場に崩れ落ちそうになる。が、必死に耐えた。歯を食いしばり、そのまま足を動かす。

 

「こんなお誂え向きのチャンス、逃すわけないだろ」

 

 目の前の、喜知田を見やる。頼みの護衛はぼろぼろ。野次馬はいない。今までと違い、偶然であったからか、対策も禄にできていないはずだ。それこそ、小魚たちの陳腐な作戦に引っかかってしまうほどに。

 

「逆に、こいつを殺した後に慧音と妹紅に見つからないかが心配だ」

「随分と、余裕そうですね」

 腹をなで、満面の笑みを浮かべる喜知田にそう言われると、殺意を通り越し、吐き気を覚えた。お前ほど余裕そうな奴は世界のどこにもいない。

「たかが天邪鬼のくせに。まだ、蕎麦屋の方が」

「てめえ!」

 

 包丁も、火薬玉もなくなった今、私には武器となりそうな物なんてなかった。強いていうなら、小槌ぐらいだ。だが、それでも私は喜知田に突っ込もうとした。護衛たちなんて、見えていなかった。どこか浮かんでいた憂いも消え去った。あいつらがいなければ、躊躇する理由なんてない。

 だが、またしても烏に止められた。

 

「だから、落ち着いてください。何回このやりとりは繰り返せばいいんですか」

「なんだよ。協力してくれるんじゃなかったのか!」

「あの連中を逃がす協力はしますが、復讐の協力はしません」

「話が違うじゃないか」

「そもそも、話なんてしてませんよ」

 そう言った烏は、私の体を上から下まで見渡すと、やっぱり無理ですよ、と薄く笑った。

「もう、ぼろぼろじゃないですか」

「むしろ、私はボロボロじゃないときの方が珍しい」

「確かに」

 

 喜知田の護衛が放った矢が、烏の翼へと突き刺さった。私に飛んできたものを烏がかばったのだ。だが、彼女は嫌な顔一つせず、それを抜き取った。一滴の血も垂れていない。

 

「さっきも言ったじゃないですか。この男がどんな対策をしているか分かりませんよ」

「でも、今は何も」

「三郎という名の少年、また行方不明になったんですよね」

 

 私の背筋に冷たい汗が流れた。慌てて喜知田の方を見る。奴は、何も言わなかったが、それが逆に恐ろしく感じた。まさかこいつは、またあいつに何かをしたのか。だとしたら、私はどうすれば。

 

「なら、こうしましょう」

 逡巡する私の肩を、烏がつかんできた。その手には、いつの間にか私が放り投げたはずの傘が握られている。

「私がその少年はどうにかしますよ」

「本当か」

「もちろん、しかし、ただでとはいいません」

 

 何事にも対価が必要ですからね、と指を立てた烏は、喜知田の護衛の一人に対し、指を振った。すると、札を持った男が、大きく吹き飛んでいく。

 

「対価って、なんだよ」

「逃げてください」

 

 ばさり、と烏が傘を開いた。そして、強引に私に押しつけてくる。だが、なぜか彼女は私から顔を背けていた。その耳は少し赤くなっている。

 

「逃げて、生きてください。がむしゃらに、生き延びるんです。生きていれば、なんとかなります」

 

 馬鹿にするような笑い声でそういった。顔こそ見えないが、きっと、ムカツク嘲笑を見せているに違いない。生きていれば、なんとかなる。烏らしくない、陳腐で、くだらない言葉だ。理想論にもほどがある。あまりに幻想的で、無意味な言葉だ。身の毛がよだち、反吐が出る。そんな言葉で私が復讐の機会を諦めると思っているのだろうか。だとすれば、馬鹿だ。だが、なぜだろうか。その言葉に私は泣きそうになった。迷っていた心がきちりとはまっていく。復讐に失敗した。またもや失敗した。でも、悲しくなんてない。大きく息を吸い、胸にたまった雑念を吐き出す。諦めるのか? 内なる自分が私を責め立てる。憎い喜知田が目の前にいるんだぞ。いいのか? よくない。だが、それでも、私は生きる。生きていれば、なんとかなる。諦めるわけではない。

 

「当然だ」

 傘の中に足を入れながら、私は言った。

「私は死なねえよ」

 約束ですからね、と烏が笑ったような気がした。



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期待と失望

「ねえ、あなたに聞きたいことがあるのだけれど」

 もともと悪いその目つきをさらに悪くした鶏ガラは、私の頭を本で軽く小突いた。

「招かれざる客が来た場合ってどうすればいいのかしら」

「何でも言うことを聞けばいいんだよ」

 呆れで重くなった息を、彼女は私に向かい吐き出した。

 

 傘をくぐると、そこには図書館が広がっていた。もはや見慣れた大きな魔法の図書館だ。どこか安心している自分がいて、驚く。大妖怪のすみかに忍び込んで安心するなんて、どうかしている。

 

 予想外だったのは、そこに私以外の連中も放り込まれていたということだ。喜知田に負わされた傷はきれいさっぱり治っている。だが、戦闘による疲労によるものか、それともいきなり目の前に現れた圧倒的なまでに強者な魔女に絶望したからか分からないが、彼女たちはソファで寝かせられていた。乱雑に積まれているといった方がいいかもしれない。

 

「いきなり弱小妖怪がスキマから図書館になだれ込んでくるんですもの。思わず殺してしまいそうになったわ」

「面白くない冗談だな」

「冗談じゃないわよ」

 

 ふふ、と笑う鶏ガラの顔は、どこか生暖かかった。私が以前来たときは、それこそ本物の鶏ガラのような顔色だったのに、少しましになったようにも思える。だが、それでも陰気くさいことには変わりはない。

 

 紙とインクの入り交じった独特の匂いが鼻をついた。立つことができず、地べたに座り込む。そうすると、ここがより一層広く感じられた。私からあふれた血が、じわりと床にしみこんでいく。

 

「それで? いきなりどうしたのよ」

 鶏ガラが、本を取り出しながら訊いてきた。

「八雲紫の傘でしょ、それ。それでどうして私の図書館に来たのよ。しかも弱小妖怪を引き連れて、まさか、下克上にでも来たのかしら?」

「お前は馬鹿だな」

 

 立ち上がろうとしたが、膝が震えてうまくいかない。痛みはなかったが、それが逆に恐怖を加速させた。だが、鶏ガラには満面の笑みを浮かべる。こんな怪我、どうってことないと、そう思わせたかった。

 

「下克上ってのは、弱者が強者に刃向かうことをいうんだよ」

「それは、私が弱者だと言いたいのかしら」

「ちげえよ。私が強者なんだ」

「自虐も大概にしなさい」

 夕闇のように輝くその長い髪を撫でた彼女は、面倒そうに私の前に立った。いつもの、あの魔法を使うのだろう。

「言っておくけど、呪いまでは解けないからね」

「分かってるよ」

 

 そう、と小さく呟いた彼女は、素早く言葉を並べた。温かい光が体を包み、傷口がみるみる塞がっている、はずだ。いつもは体が軽くなっていくのだが、今回に限ってはそうではなかった。ずんとした重い何かが体に張り付いている。輝針城の魔力が消え去ったとき感じたような重みが、体を覆っていた。

 

「ぼちぼちかもな」

 思わず声が零れる。立ち上がってみると、すんなりと足が動いた。だが、倦怠感はとれていない。ぼちぼち、鬼の世界に封印されるのだろう。

「ぼちぼち? 何がよ」

「さあな。お前のとこの門番が過労死するのがじゃねえの」

「人の心配なんて、してる余裕ないでしょうに」

 その通りだ。人の心配をしてる暇なんてないし、する必要もない。私に残された時間は、残り僅かだ。

 

「指だって、足りていないじゃない」

「指?」

「左手よ。流石に欠損までは治せないわ。痛いの痛いの飛んでい毛を使えば別だけれど」

「使えばいいじゃないか」

「馬鹿じゃないの。誰が好んであんな恐ろしい呪いにかかりたがるのよ」

「私だ」

 

 むぅと口をつぐんだ鶏ガラを尻目に、左手を見つめる。確かに指が二本ほど足りていなかった。巻き付けていたはずの布は解け、床に広がっている。慧音から貰った市松模様の手ぬぐいだ。慌てて拾い、左手にぐるぐると巻き付ける。大分不格好だが、ないよりはましだ。

 

「ほんと、あなたは何回ここで治療をしたら気が済むのよ。いいご身分ね」

「なんだよ、いいご身分って。お前の方がよっぽど身分的にはいいだろ」

「私の身分なんて、大したもんじゃないわ」

「ペットか?」

「そこまで酷くもない」

 

 目を閉じ、肩をすくめた魔女は、ソファに向かった。チーム天邪鬼。そう呼ぶのには気が引けるが、ともかく、眠っている弱小妖怪たちに向かい、何やら魔法をかけている。小さな声で、しばらく寝ときなさい、と聞こえた。彼女たちが横たえていたのは、疲労によるものでも、恐怖によるものでもなく、魔法のせいだった。

 

「ねえ、正邪。天邪鬼っていったい何か、教えてくれないかしら」

 ソファで眠っているはずの連中が目を覚まさないか、と確認していた鶏ガラは、いきなりそんな意味不明なことを言いだした。

「あなたなら分かるでしょ?」

「馬鹿かお前は。天邪鬼ってのは私のことだよ」

「そうじゃなくて」

 肩をすくめた彼女は、寝息を立てている弱小妖怪共を指差した。そして、そのまま八橋の頬をつつき始める。

「彼女たちが言っていたのよ。私たちは天邪鬼だってね」

「チーム天邪鬼な」

「それよ。なんなの、それ」

 

 輝針城で、いきなり決まった下克上のための弱小妖怪の団体。針妙丸の、友達が欲しいという願いを叶えた小槌の賜物。いや、もしかすると、小槌とは関係なしに、針妙丸に惹かれただけかもしれないが、とにかく。輝針城異変を切欠に出来た、馬鹿で間抜けで、そして針妙丸を中心とした妖怪のチーム。それが天邪鬼だ。

 

「まあ、そうだな。簡単に言えば」

「簡単に言えば?」

「針妙丸親衛隊だな」

「へぇ」

 鶏ガラの顔が、厭らしく歪んだ。顎を引き、ニヤニヤとこちらを見てくる。

「なんだよ。何だその顔は」

「言ってたのよ。彼女たちが」

「言ってたって」

「チーム天邪鬼の、我らが天邪鬼のリーダーはあなただって」

 

 こちらへ歩み寄り、ずりっと顔を私のすぐ近くへ持ってきた鶏ガラは、その半開きの目を更に細め、私を見上げてきた。寒気がして、鳥肌が立つ。

 

「生まれながらにして、私たちのリーダーだって、言ってたわよ。しかも、自分からそう口にしたって」

「してねえ」

「てことはね」

 私の言葉を無視した彼女は、楽しそうに言葉を紡いでいる。

「てことは、あなたは、生まれながらにして、針妙丸とかいう小人の親衛隊だったってことね」

 

 もはや、呆れて返事をすることもできない。鶏ガラは、私が慌てふためき、そうじゃねえ、と反抗することを楽しみにしているのだろう。だが、そう言い返す元気すら、私にはない。もし、仮にだ。仮に、針妙丸を守らなければならないのならば、そもそも私はあいつと関わってはいけない。どこか遠くから、見守る。そうしなければいけなかったのだ。

 

「何よ、ぶすっとしちゃって」

 つまらなそうに、鶏ガラは口を尖らせた。

「指が無くなったのが、そんなにショックだったの? どうせすぐ封印されるのに」

「あ、ああ。そうだな」

 

 針妙丸のことを考えていたと悟られたくなくて、私は大袈裟に笑みを作った。

 

「また今度治してくれよ」

「え?」

「左手、鬼の世界から帰ってこれたら、治してくれ」

「あなた、それ本気で言ってるの?」

 信じられない、と目を丸くした彼女は、ずかずかと私に近づいてきた。いつもの彼女らしくもない。

「もちろん本気だ。お前の仕事は私の治療だろ?」

「違うわ」

「違わねえよ」

「そうじゃなくて、本気で鬼の世界から帰ってこられると思っているの?」

 ああ、と声を漏らしてしまう。そっちか。

 

「今思ったんだよ。もしかしたら帰ってこれるんじゃないかって」

「無理よ。何を今更言っているの」

 口調こそいつもと同じように淡々としたものだったが、その口が途切ることはなかった。

「いったでしょ。鬼の世界ってのは、地獄よりも地獄らしい、そんな場所なのよ。あなたみたいな弱小妖怪が帰ってこれるわけないじゃない。無茶よ」

「いいじゃないか。信じるだけならただだぞ」

「あなたはいつからそんな楽天的になったのよ。そんな都合のいい話、あるわけないじゃない」

「生きていれば、なんとかなるかもしれんだろ」

「ならないわ」

 

 強情な魔女は、眉をきりりとたて、力強くそう断言した。どうして彼女がそこまで否定するのか分からない。

 

「なら、賭けをしようぜ」

「賭け?」

「私がもし帰ってこられたら、甘味屋で死ぬほど奢って貰う。帰ってこれなかったら、逆に奢ってやるよ」

「帰ってこられなかったらどうやって奢るのよ」

「さあな」

 

 私自身も、帰ってこられるだなんて、思っていなかった。この世の中はそんな都合がよくない。すべてがすべて裏目にでる、虐げられる星の下で生まれた弱小妖怪が、救われる可能性なんてない。ただ、覚悟をしたかったのだ。永遠に鬼の世界で閉じ込められる覚悟を。

 

 鶏ガラは、私の言葉を聞き、俯いていた。被っていたナイトキャップがぽすんと落ちる。だが、それにも彼女は反応しなかった。ぼそぼそと、口を小さく動かして、静かに呟き始める。

 

「この世の中で、持ってはいけない物って知っているかしら?」

「さあな。面倒な知り合いとかか?」

 鶏ガラは、私の言葉なんて聞いていないようだった。

「それはね、期待よ」

「期待?」

「もったところで、大して得もないくせに、いざ裏切られると失望し、悲しくなる。百害あって一利なしとはこのことね。そんなもの、持たない方がいいに決まっているわ」

 

 顔を上げ、こちらを見た鶏ガラは、にやりと口角を上げた。いつも見せる、得意げな物ではない。眉を下げ、皮肉げに笑うその姿は、悲壮感に満ちていた。

 

「だから、私は頑張って捨てたのよ。期待をね」

「どういうことだ」

「あなたが無事で済むかもしれないって期待を捨てたのよ」

 

 なのに、と再び目を伏せた彼女は、ふわりとその場に浮き、本を開いた。いったい彼女が何をしようとしているのか、そもそも何を言っているのかすら分からない。

 

「なのに、そんな甘言で私を惑わさないで。これ以上言うなら」

「言うなら、なんだ」

 

 静寂が図書館を包んだ。小魚たちが身じろぎし、服同士がこすれ合う音だけが耳につく。鶏ガラの表情はさえない。最初に浮かんでいた笑みは消え、ふて腐れた子供のような顔をしていた。

 

「もしかして、お前」

 そんな鶏ガラを前に、私は思わず吹き出してしまう。彼女がどうしてそんな顔をしているか、分かってしまったからだ。

「お前、寂しいのか」

「え?」

「私がいなくなって、寂しいんだろ」

 

 鶏ガラは何も答えなかった。ただ、一瞬目を開かせたかと思えば、すぐに顔を伏せ、慌てて手に持った本を顔の前へ持っていく。羞恥心を隠すと言うよりは、私にそんなことを言われる屈辱に耐えているように思えた。それもそのはずだ。私のような嫌われ者など、いなくなってしまえばいいと考えるのが普通で、寂しがるような奴は、自分は頭がおかしいです、と白状しているも同然なのだから。

 

「おいおい。あの冷静沈着な魔女様が、なんて醜態をさらしてるんだよ。本当に寂しいのか。慧音のお世話にでもなればいいんじゃないか」

「うるさいわね。なんでそこで半獣が出てくるのよ」

「少なくとも寺子屋では、指名手配犯に感情移入しましょうだなんて、習わねえからだ」

「その言い方、レミィみたいよ」

 

 はぁ、と大きく胸を上下させた彼女は、「なんだか馬鹿らしくなってきたわ」と微笑みながら言った。

 

「むかしね、レミィと鬼ごっこをしたことがあったのよ。レミィが鬼で、私が逃げるの」

「ガキかよ」

「もっと本格的よ。魔法を使ったり、ナイフで刺したりしてね」

 それは、鬼ごっこではなくただの殺し合いではないか。

「その時にね、結局レミィが体の一部を蝙蝠に変身させて、それで触れたから私の勝ち、とか言い出して」

「せこいな」

「でしょ? 当然私は抗議したわ。でも“私がそう言ったから、それでいい”とか言い出して。なんだか勝ち負けとか、馬鹿馬鹿しくなっちゃってね」

 

 あのレミリアが、そんなことを言うだなんて、想像もつかなかった。あの恐ろしい吸血鬼が、そんな子供じみたことを言うなんて、にわかに信じられない。

 

「今も、同じ気持ちなのよ。あなたの中では、もう決着がついていると知っていたのに、私はあなたが助けを求めれば助ける、そうでなければ放置すると決めていたのに、勝手に騒ぐのは、おかしいわね」

「私にそれを聞くなよ」

「なら、誰に聞けばいいのかしら」

「私にでも聞けばどうだ、パチェ」

 

 いきなり後ろから鶏ガラ以外の声がした。高く幼く、そして高貴なその声には、聞き覚えがあった。隠しきれない威圧感が背中を襲う。しかし、かつてほど恐怖は感じていなかった。やはり、感覚が麻痺しているのか。それとも、さっきまでの戦闘で気が立っているのか。いずれにせよ、私にとって居心地のいい雰囲気ではなくなってしまった。

 

「急に入ってこないでっていってるじゃない。レミィ」鶏ガラは、なぜか少し焦っていた。もしかすると、さっきの会話が聞かれていたか、心配しているのかもしれない。

「それどころじゃないだろう?」

 この館の主、レミリア・スカーレットは偉そうに腕を組んだ。

「指名手配犯と仲良くお話だなんて、いいご身分じゃないか」

 

 それって、ペットということか、と呟いた私の声は、誰にも拾われることなく、そのまま消え去っていった。

 

 

 

 

「お前が来ることは分かっていたさ」

 青白い髪をくるくるといじりながら、レミリアは言った。その声は、自信と気品であふれている。腹立たしい。

「運命で、見えていたからね」

「なんだよ、運命って」

 

 私は彼女と目を合わさず、口をすぼめた。彼女と目を合わせるのが怖かったからではない。運命という言葉に嫌気がさしたのだ。

 

「だとすれば、弱小妖怪が幸せになれない運命ぐらい変えてくれればいいじゃないか」

「それは無理だ」

 何が楽しいのか分からないが、彼女は朗らかに笑う。

「不幸にすることはたやすいがな」

 弱小妖怪なんて、放っておいても勝手に不幸になるに決まっていた。

 

 くつくつと、喉の奥をならした彼女は、ソファで眠っている小魚たちを一瞥すると、鶏ガラの方へと歩み寄っていった。近くにある椅子を引き寄せ、座る。仲がいいのか、距離は随分と近かった。私と向かい合い、机に偉そうに肘をついている。その、偉そうな態度のまま、彼女は嘯いた。

 

「ひとつお前に訓辞を垂れてやろう」

「私は説教がこの世で二番目に嫌いなんだ」

「一番はなんだ?」

「お前」

 

 ふぅと、小さく鼻から息を吸い、おもむろに右手を上げた。その手にはどこから取り出したのか、袋に入った墨汁が握られている。

 

「天邪鬼。お前はこれから言動に注意した方がいい。いまの立場を考えろ」

「立場? 指名手配犯ってことか?」

 

 何を言いたいのか分からず、首を傾げていると、レミリアは思い切り手に持った墨を投げつけてきた。咄嗟に顔を背けたが、肩に当たり、ピシャリと音を立てる。あまり広い範囲ではないが、円状に目立つ黒々とした染みが出来てしまった。なにしやがる、と憤る私を見て、邪悪な笑みを浮かべた彼女は、真っ赤な口を三日月のように広げた。

 

「なんていったって、お前は妖怪の賢者様のお墨付きなんだぞ」

「嬉しくねえな」

「諦めろ。そういう運命だ」

 

 時間切れよ、と微笑を浮かべながら扇子を口元に持っていく八雲紫の姿が脳裏に浮かんだ。

 

「運命運命うるせえよ。私はそんな未熟な人間の自己陶酔に使われそうな陳腐な言葉をありがたがるほど、若くもないし馬鹿でもねえ」

「おいおい。馬鹿にしすぎじゃないか?」

「してねえ。事実だ」

 

 ふるふると体を震わせた彼女を見て、怒ったのではないか、と一瞬焦ったが、にやりと開いたその真っ赤な口を見て、胸をなで下ろす。

 

「お前は分からんかもしれんがな、運命ってのは案外凄いものなんだ」

「へえ」

「例えば、だ。運命を操ることができれば、どんな勝負にも負けることはなくなる。その勝負が始まる前からな」

「どういう意味だよ」

 そもそも、吸血鬼という圧倒的な強者が負ける姿がうまく想像できない。

「運命ってのは、お守りみたいに持っておくものなのか?」

「違う。もっと論理的だ」

 

 はん、といつの間にか私は鼻を鳴らしていた。論理的な運命だなんて、その言葉自体が既に矛盾している。

 

「運命だかなんだか知らないがな、そんな曖昧な物を信じる気にはならねえよ」

「確かに運命は曖昧だ」

 

 何故か楽しそうに笑った彼女は、意地を張る少女のように指を立て、ただ、と呟いた。

 

「ただ、色々なことを知ることができる」

「はあ?」

「例えば、だ」彼女の黒い無骨な翼が、僅かに動いた。

「例えば、おまえが復讐に失敗して、無様に鬼の世界に封印されることは分かる」

「え?」

 

 私は思わず、鶏ガラの方を見た。だが、彼女はぶんぶんと首を振っている。

 

「どうして、私が復讐に失敗したことを、鬼の世界に封印されることを知っているんだ」

「何でだと思う?」

「それも、運命か?」

「いや」

 彼女はにやりと笑い、赤い舌を出した。

「八雲紫から聞いた」

 なんなんだこいつは。そう口にするも、彼女は不敵に、まあ、運命からも分かっていたがな、と笑うだけだった。

 

「なら、お前にはこれから私がどうなるか、分かっているというのかよ。私の運命を占ってみせろ」

「占いなんぞと一緒にするな」

「私からすれば、変わらねえよ」

 

 紅美鈴の、疲れ切った笑顔が目にかんだ。確かあいつは、お嬢様の予測が外れて、大変です、と零していたような気がする。だとすれば、占いと何ら変わりはない。

 

「ほら、早く言えよ。これから、私はどうなるんだ」

「どうしてお前はそんなに強気なんだ」

「いいから」

 

 その大きな翼をぶるりと震わせた彼女は、おもむろに立ち上がった。小さな体を目いっぱい伸ばし、つり上がった目でこちらを見てくる。

 

「教えてやるのも悪くない」

「なら」

「だが、面白くもないな」

 

 彼女から放たれる威圧感が大きくなった。体の芯を直接殴られているような、そんな気分だ。彼女の真っ赤な目が、怪しく輝いている。

 

「面白くないって、一体何するつもりなのよ」

 鶏ガラはいつの間にか、私たちから距離を取っていた。小魚たちが眠っているソファの近くで座り込んでいる。何するつもり、と聞いておきながら、何が起こるか察しているようだ。

「普通に考えてみろ。目の前に指名手配犯がいたら、どうする?」

「怪我を治す?」

「違う」

 ちろりと舌を出した彼女は、妖力を弾幕という形で漂わせた。

「捕まえるんだよ」

 

 

 

「なあ、この世の中で一番持ってはいけない物って何だと思う?」

 いきなり図書館で弾幕を展開するレミリアから後ずさりしながら、私は聞いた。

「さあ、パチェはよく期待、といってるがな」

「正解は、固定概念だよ」

「はあ?」

「指名手配犯は捕まえなければならないなんて固定概念、捨ててしまえ」

 

 今すべきことを、必死に頭の中で考える。別に、捕まってもいいんじゃないか? 捕まったところで、いずれは鬼の世界へ行くことになる。ならば、問題ないのではないか。

 

「ああ。やっぱり、捕まえるってのは固定概念にとらわれていたな」

 考え込んでいると、上から楽しそうな声が聞こえてきた。無邪気な、子供のような声だ。

「捕まえるんじゃなくて、殺すことにするよ」

 

 だが、口にした内容は全く無邪気ではなかった。自然と、鶏ガラの方へ目をやる。だが、彼女はふるふると首を振った。さっき、助けを求めればとか言ってやがったのに。その口は、諦めなさい、と確かに動いた。何を諦めろというのだろうか。命か。

 

「だったら、諦めるわけにはいかねえな」

「お、やる気になったか。まあ、流石に私もお前と対等にやり合おうなんて、思っていない」

「なんだよ。怖じけづいたのか」

「逆だよ。弱者をいたぶって楽しむ趣味なんてないからな」

「よく言うよ」

 だったら、そもそも殺そうとしてくるな。

「ハンデをやろう」

「ハンデ?」

 

 そうだ、と鼻息を荒くする彼女から目を離し、図書館をぐるりと見渡す。きれいに列になった巨大な本棚が整列し、その一つ一つに魔法がかけられている。真っ赤な床や天井は目に悪いが、どんなに暴れてもありあまるほどの空間があった。だが、そんな巨大な図書館にもかかわらず、出入り口は一つしかない。ソファのすぐ近くにある、巨大な扉だけだ。

 

「そうだな。ハンデとして、もしお前が私に触れることができれば、勝ちにしよう」

「そんなの」

「余裕、とでも言いたいのか?」

 

 そんなの、できるはずがなかった。人間である喜知田に近づくことすらできなかった私が、吸血鬼であるこいつに触れることなど、不可能だ。それこそ、そういう運命だ。だから、私はレミリアと勝負する気なんてさらさらない。だが、勝つ気はあった。逃げるが勝ち。まさにその通りだ。

 

 真っ赤な絨毯を見下ろしていると、少し血のにじんだ辺りに、傘が落ちていた。レミリアに訝しまれないように、足を痛めたかのように装って、それを拾いあげる。彼女から弾幕が放たれたのが分かった。手早く傘を広げ、中に足を突っ込む。私の体はスキマへと吸い込まれ、図書館にはそれを呆然と見つめるレミリアの姿だけが残る。はずだった。

 

 足下でズサリと音がした。何が起きたのか、確認しようと視線を下ろす。そして、思わず笑ってしまった。私の足は、何の変哲もない傘を突き破り、そのまま床へとついていた。周りを見渡す。当然、図書館のままだ。

 

「残念だったな」

 レミリアから放たれた弾幕がすぐ目の前に迫っていた。

「その傘は、もう使えないよ」

 それも運命によるものなのか、そう言い切る前に、私は大量の弾幕を浴び、吹っ飛ばされた。

 

 

 ゴムまりのように体が跳ね、棚にぶつかりようやく止まる。目が回り、意識が混乱している。何が起きたのか、理解できていなかった。

 

「おいおい。いくら弱小妖怪といえ」

 視界はチカチカとして、何も見えなかったが、声は聞こえた。うざったい声だ。

「あまりにも情けなくないか?」

「弱小妖怪をいじめるお前よりかはましだ」

「指名手配犯をいじめているんだ」

 痛みはない。手で体を触るも、特に血は出ていなかった。手加減してくれたのだろうか。いや、違う。遊ばれているだけだ。

 

 背中の本棚を支えにして、何とか立ち上がる。傘という切り札が失われた私には、もう打つ手なんて残っていなかった。どうする、どうする。胸の鼓動が高まっていく。いくら鶏ガラの友人とはいえ、こいつらにとってみれば、私なんて虫けらほどの力しかない。彼女にとって殺す気がなくても、簡単に死んでしまうのが弱小妖怪だ。まして、殺す気があるのであれば、助かる道筋なんてない。まさか鶏ガラの前で私を本気で殺そうとはしてこないだろう、なんて考えは、とうに消え去っていた。

 

「なあ、見逃すっていう選択肢はないのか?」

「あると思うか?」

「思う」

「だとすれば、お前の頭がおかしい」

 

 わざとらしく舌打ちをして、地面を蹴る。本棚をレミリアとの間になるようにして、できるだけ早く駆け出した。後ろから、光弾が飛んでくる。横に大きく飛び、何とかいなす。

 

「おいおい。今ので精一杯だったら、流石に面白くないぞ」

「なら、止めればいいじゃないか」

「私は中途半端ってのが嫌いなんだ」

「人に好みを押しつける奴は嫌われるぞ」

「お前よりはましだ」

 

 そう言っている間にも、躊躇なく色とりどりの光弾が放たれていた。体をねじるようにしながら空を飛び、かわそうとする。が、左肩に当たり、体がはじけたかのような感覚に襲われる。くるくると視線がまわり、どちらが上か下か分からなくなった。

 

「もう止めたら?」

 鶏ガラが、心配そうな声を出した。

「悪人をいたぶるなんて、悪趣味よ」

「私が悪趣味なのは知ってるだろ? それに、悪人ってのはいたぶってもいいから、私は好きなのさ」

「弱者はだめなのに、悪人はいいのね」

 

 レミリアの注意が逸れている間に、本棚の裏へとまわる。彼女の視界から私が消えたかどうかは分からなかったが、それでも一息つきたかった。丈夫な木にもたれかかり、大きく深呼吸をする。弾幕はまだ飛んできていない。

 

 爆弾は使い切った。傘も陰陽玉もない。どうする。どうする。闇雲に懐やポケットを漁る。小槌のレプリカが右手に触れた。これでどうしろというのか。

 そのレプリカを取り出そうとしていると、別の物が手にまとわりついた。勢いよくそれを引き出す。

 

「餞別」

 

 つい、本棚から顔をのぞかせ、九十九姉妹の眠っているソファに目を送ってしまう。すると、隣で暢気にレミリアと談笑している鶏ガラと目が合った。私が持っている布を見て、目を丸くしている。そして、両手をあげ、そのまま肩口へと下ろしていった。かぶれ、ということなのだろうか。

 

 輝針城で、布を持った手が透明になったことを思い出した。迷う暇なんてない。勢いよくそれをかぶり、ポケットに手を入れる。

 

 最初こそ単純に毛布を被ったときのように真っ暗だったが、だんだんと視界がはれていった。しまいには、被っていないときと同じように、視界が確保される。いま、自分があのときと同じように透明になれているかは分からない。ただ、これにかけるしかないのは確かだった。もう一度、本棚から顔を出す。あれほど啖呵を切っていたレミリアは、まだ鶏ガラと話し込んでいた。もう飽きてしまったのだろうか。私を、悪人を甚振ることより、鶏ガラと話す方に夢中のようだ。中途半端は嫌だと言ったくせに。

 

 だが、私にとっては好機だ。足音を立てないように、ゆっくりと前へ進む。レミリアは、ちょうど私に背を向けるようにして、突っ立っていた。だが、その周りにはふよふよと弾幕が浮かんでいる。彼女の意図が読めない。どうして、それをさっき私が本棚の奥に隠れているときに撃たなかったのだろうか。きっと、遊んでいるから。そうに違いない。

 

 その光弾がふっと消えた。思わず、立ち止まる。が、レミリアに特に動きは見られない。息をのむ。その音が聞こえていないか、心配になり、そのせいでまたもや鼓動がうるさくなった。その音が聞こえないか、とまた不安になる。悪循環だ。

 

 意を決し、するすると彼女の元へと進む。念のため、ポケットにかかっていた指を出し、レミリアをすぐに触れられるようにと、右手を引いた。

 

 一歩足を進め、右手を前へ突き出し、指をレミリアの方へと放つ。その瞬間、視界が変わった。目の前にいたはずのレミリアは消え去り、いつの間にか真っ赤な色が広がっていた。何度も感じたことのある感覚だ。いつの間にか、天井を向いている。何が起きたか、分からない。

 

「愚かだな、お前も」

 

 すぐ近くで、レミリアの声が聞こえた。なんとかして顔を起こし、前を見る。彼女は私の方を向き、悠然とした態度でくつくつと笑っていた。

 

「姿を消したところで、気配を消せなきゃ意味ないだろうに」

「普通の妖怪が気配を消せるわけないだろう」

 

 どうして私が天井を見上げているのか分からず、体を動かそうとする。が、うまくいかない。芋虫のように体を曲げると、ようやくその原因が分かった。両足が、ロープのような物で固定されている。

 

「もう勝負は決まっただろ。離してくれ」

「何言ってるんだ。これからだろ?」

「はあ?」

「今から、甚振るんじゃないか」

 おいおい、と私は声を荒らげてしまう。こいつは頭がおかしいんじゃないか。

「もう勝ってるじゃねえか。終わりだ終わり」

「忘れたのか? 私はおまえを殺すといったぞ。だから、おまえが死ぬか、それとも私に触れるかしないと、勝負は終わらない」

「だから、終わってんだよ」

「どういうことだ」

「触れてるじゃねえか」

 

 私は、無様に這いつくばったまま、レミリアの襟の指を指さした。そう指だ。いつの間にか切り落とされ、混乱したまま拾い上げた私の左手の薬指。それが、彼女の襟首に引っかかっている。先ほど、闇雲に投げた物だ。

 

「何を投げたと思ったが、まさか指とはね」鶏ガラの呆れる声が聞こえた。

「まさかだめとは言わないよな。鶏ガラから聞いたぜ。蝙蝠を使った鬼ごっこの話。おまえが決めたルールを破ったりしないよな」

 

 指をつまみ、こちらへ放り投げた彼女は、ふん、と鼻から息を吐いたかと思えば、いきなり笑い出した。先ほどまでの、くつくつとした押し殺したものではなく、腹を抱えて爆笑している。そんなことより、早く足のロープを解いてほしかった。

 

「いや、予定と違うが、これも悪くない」

「は?」

「おまえの勝ちだよ天邪鬼。完敗だ」

「なら、早くこの足のロープ解いてくれ。左手が使えないんだ」

「いや、それは無理だ」

 

 レミリアは、笑いすぎて浮かんだ涙を拭いながら、首を振った。そんな些細な仕草にも、どこか威厳を感じられる。

 

「無理って、何でだよ」

「要望だよ」

「要望?」

「お客人からの要望だ」

 

 ちょうどだな、とレミリアが呟くと共に、ギィと鈍い音が図書館に響いた。相も変わらず爆睡している連中のすぐ横、鶏ガラが座っている左にある扉が、ゆっくり開かれていく。

 最初は、ただの見間違いかと思った。チラリと見えた赤色の裾が、異様な存在感を放っている。扉が開かれるにつれ、彼女の姿が露わになるにつれ、気のせいかもしれない、といったかすかな期待が消え失せていく。黒い髪の上に結ばれた大きなリボンがフルリと揺れた。

 

「鬼人正邪。迎えに来たわよ」

 博霊霊夢は、お祓い棒を肩にかかげながら、面倒そうに言った。

「言っただろ? 勝負は始まる前から決まってるんだ」レミリアは、悪戯が成功したガキのように、にんまりと笑みを浮かべている。怒りよりも、笑いこみ上げてくる。

「なんで、ここに巫女が」

「お前の客人だからだよ」

 

 どうして紅魔館に彼女が、博霊の巫女が来るのか、分からない。必死に足のロープをほどこうとするが、当然のようにぴくりともしなかった。

 

「なあ、鶏ガラ」

 緩んだままの口で、私は訊いた。

「招かれざる客が来た場合ってどうすればいいんだ?」

 面倒そうに眉を顰める鶏ガラの顔には、今までの彼女のような、暖かい笑みが戻っていた。

 

「何でも言うことを聞けばいいんじゃないかしら?」 

 

 

 

 



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夢と現実

 人間。それは、私たち妖怪にとってみれば、獲物でもあり、天敵でもある存在。力はなく、大した知恵もなく、馬鹿で間抜けな連中。まあ、私よりか力はあるかもしれないが、そもそも比べられている時点で、大した力ではない。

 だが、彼らは強い。なぜか。群れるからだ。統率がとれるからだ。烏天狗たちよりも強固な何かで、結ばれているからだ。

 けれど、何事にも例外はある。群れなくても、強い人間はいる。私を抱えて空を飛ぶ彼女は、その代表例だった。

 

「なあ、どこに向かってるんだよ」

 冷たい風が、頬を殴りつける。口を開けば、たちまち唾が喉奥へと押し込まれていくが、なんとか声を出した。

「私は行かなければならないところがあるんだ」

「それ、どこよ」

「鬼の世界」

「それ、どこよ」

 

 紅魔館にいきなりやってきた巫女は、レミリアによって足を縛られた私を見て、満足そうに頷いた。そして、いきなり乱雑に担いだかと思えば、「それなら、回収していくわね」と一方的に言い残し、猛烈な速度で外へと飛び出していった。まさか、廃品業者に回収される家具の気持ちを味わうことになるとは、予想だにしていなかった。全く嬉しくない。

 

「というより、あなた、自分が指名手配犯ってこと、分かってるの?」

「分かってるさ」

「指名手配犯である妖怪が博霊の巫女に捕まったのよ。普通に考えれば、これからどうなるか分かるんじゃない?」

「駆け落ちか?」

「馬鹿じゃないの」

 

 心なしか、彼女の速度が増した気がした。世界が素早く後ろに流れていく。木々が線となり、地面は川のように見えた。今、自分がどこにいるのかさえ分からない。

 

「本当だったら、今すぐ殺してもいいんだけど」

 いきなり物騒なことを、巫女は言い出した。にもかかわらず、彼女は表情一つ変えない。彼女にとって、悪さをする弱小妖怪を殺すことなんて、日常茶飯事なのだ。指名手配されていようが、私はその中の一つでしかない。

「だけど、その前にやらなければいけないことがあるのよ」

「なんだよ、それ」

「あなたが今、一番してほしくないことをするのよ」

 

 面倒ね、と頭をガシガシとかいた巫女は、ちらりと目だけでこちらを見た。飛びながら、器用に左手を動かし、お祓い棒で私の足付近をつついている。すぱん、と鋭い音が聞こえたかと思えば、きつく縛られていたロープが切れた。風で流され、すぐに見えなくなる。

 

「なんだ? 逃げていいってことか」

「違うわよ。そんなものなくったって、逃がしはしないもの。レミリアも心配性なんだから」

「どういうことだ」

 小さな体を大きくくねらせて、ケラケラと笑う吸血鬼の姿を思い浮かべた。

「レミリアがね、教えてくれたのよ。指名手配犯がうちにいるから、確保してくれって」

「それも運命か」

「違うわよ」

 そういえば、結局私の運命を教えてもらえていないことを思い出した。

「運命なんかじゃないわ。レミリアが、時間稼ぎをしておくから、すぐに来てくれって、門番に伝言を頼んで、わざわざ神社まで来させたのよ」

 

 ということは、彼女がいきなり図書館に入ってきたのも、運命について語り出したのも、いきなり戦闘を仕掛けてきたのも、すべては時間稼ぎのためだったということだろうか。だとすれば、回りくどすぎる。

 

「だったら、図書館の扉を塞ぐなりすればいいじゃねえか」

 思わず、思っていることが声に出てしまっていた。

「なんで、いきなり光弾を放ってきたんだよ」

「暇だったんじゃない?」

 なるほど、これ以上なくわかりやすい理由だ。暇つぶしに悪人をいたぶる。いかにも、強者が考えそうなことだ。

 

 あの小さな吸血鬼は、本当に運命を操れるのだろうか。ふと、そんなことを思った。私の運命も、彼女に操られているのではないか。下らない。

 

「あのお子様吸血鬼が、本当に運命を操れるわけないじゃない」

 私の考えを読んだわけではないだろうが、巫女はうんざりと言った。

「そうなのか?」

「そりゃそうでしょ。だって、もし本当なら今頃幻想郷は彼女の手の平の上でしょ」

「確かに」

「それっぽいことをいって、誤魔化しているだけよ。結局結果論なんだから」

 

 私だって、レミリアが運命を操れるなんて、信じていなかった。だが、彼女がそんな下らない嘘とも冗談ともつかないことを言うとも思えない。

 

「今回だって、あなたに何を吹き込んだかは知らないけれど、どうせ適当に事実を伝えて、それっぽく言ってるだけよ。いつもそう」

「あいつ、運命によって私は負けないとか言ってたぞ。勝負は始まる前から決まってるって」

「運命は関係ないわ。門番の使いっ走り根性のおかげよ」

 

 勝負は始まる前から決まっている。確かにその通りだった。あの吸血鬼は初めから巫女に引き渡す気でいたに違いない。だから、私が彼女の意表を突いたことも、下らない殺し合いに負けたことも、どうでもよかったのだ。勝っていると、知っていたのだから。

 

「ほんと、いけすかねえな」

 思わず、声が漏れる。まるで、強者の思い通りに行動をさせられているようで、レミリアの作り出した運命という道筋に従っているようで、気に入らない。もし運命とやらを本当に操ることができるのなら、彼女は弱小妖怪の運命を、幸せになれない私たちの無様な呻きさえ、楽しんでいるのだろうか。

「ほんと、嫌な奴だ」

「あら? 私は結構気に入っているわよ」

「仲がいいんだな」

「さあね」

 

 彼女は否定も肯定もしなかった。だが、妖怪と博霊の巫女との関係は、その程度がいいのかもしれない。

 

「まあ、あんたよりはましだと思うわ」

「なんでだよ」

「最初に突進をしてくるような奴に、碌な奴はいないでしょ」

「だから言っただろ。それしかできないって」

 

 自由になった足をぶらぶらと振り、その反動で体を上に向けた。澄み切った寒空が視界を覆う。輝針城を出てから、大分時間が経ったようにも、すぐだったようにも感じる。だが、私の体の限界が近いことも確かだった。

 

「そういえば、一つ聞いた話があるんだけど」

 沈黙が気まずかったわけではないだろうが、巫女はいきなりそう切り出した。

「あなた、蕎麦屋になるんだって?」

「はあ?」

「でも、指名手配犯が蕎麦屋をやっても誰も来ないと思うわよ。多分その前に殺されるし」

「まてまてまて」

 

 いきなり突拍子もないことを言い出す彼女に、私は面食らっていた。私が蕎麦屋? 無理だし、やりたくもない。あいつと私は違うんだ。

 

「それ、どこの情報だよ」

「チルノからさっき聞いたのよ。天邪鬼に会ったっていうから、一応話を聞いたってわけ」

「あいつか」

 

 氷精のことを思い出すと、体が冷たくなっていくような感覚に襲われる。だが、少なくともあいつにも蕎麦屋になるなんて口走ったことはないのは確かだった。

 

「それで? 本当に蕎麦屋をやるつもりなの?」

「そんなわけないだろ」

 口調を直して、私ははっきりと言った。

「死んでもやらねえよ」

 そもそも、妖精の言葉を真に受ける方がおかしい。まあ、それと同じくらい天邪鬼の言葉を真に受けるのもおかしいが。

 

 そう、と興味もなさそうに呟いた彼女は、急に速度を落とした。そのせいで、体が前につんのめり、落ちそうになる。急速に流れていた景色も、やっと目に見えるくらいには落ち着いていた。そこで、ようやく今自分がどこにいるのかが分かった。分かってしまった。

 

 視界の奥に、鬱蒼とした森の中に佇む、厳かな建物が見えた。昔、一度だけ来たことがあるそこは、何も変わっていなかった。立派な真っ赤な鳥居も、高そうな木でできた本殿も、鬱陶しいほどに輝く瓦も、何一つ変わっていない。それが、なぜだか腹立たしい。彼は、あんなにも変わり果てたのに、どうしてここは、博麗神社は変わっていないのか。

 

「神社に私を連れて行って、どうするつもりだ」

「知らないわよ」

「知らないって」

「それを決めるのは私じゃないわ」

 

 じゃあ誰が決めるんだ、そう口にした瞬間、急激に高度が落ちた。最初は、巫女が私を抱え、落下していると思ったが、違った。なんとかして体勢を整えようともがきながら、空を見上げる。そこには手をひらひらと振る巫女の姿があった。放り投げられた、そう分かった瞬間に、ごつんと鈍い音がし、体に衝撃が走る。浮遊感は消え、代わりに冷たい石の感覚が頬を覆った。いきなり人を地面にたたきつけてはいけないと、習わなかったのだろうか。

 

 右手をつき、何とか起き上がる。後ろを向くと、清々しいほどに真っ赤な鳥居が目に入った。紅魔館なんかより、よっぽどきれいな赤色だ。

 

 ふと、昔の記憶がよみがえった。彼と一緒に、ここに来た日のことだ。今の巫女ではなく、一つ前の、先代の巫女の時、私は何人かの人間とここに来た。そして、請願をしたのだ。奥さんを殺した人間をどうにかしてくれ、と。

 

 苦い記憶だ。押しつけようとすればするほど、かえって溢れてくる。喜知田への憎しみが、またぶり返してきた。決死の思いでそれを押さえる。生きていれば、なんとかなる。そう言い聞かせる。

 

「遅いよ」

 

 鳥居の反対側、本殿の方から、聞き慣れた声が聞こえた。思わず、びくりと体が震える。そうだ。博霊神社には、今こいつがいることを、すっかり忘れていた。逃げようと足を動かそうとするも、なぜだか動かない。こいつと関わってはだめだ。どうせ鬼の世界に封印されるんだから、会っても意味もない。そんなことは分かっていた。水の泡にしてしまう。だが、それでも体は言うことを聞かない。意思に反して、声のした方へと振り返ってしまう。こいつとは縁を切ったじゃないか。もう話すことなんてない。そんなこと、分かっていた。

 

「待ってたんだからね、正邪」

 

 腕を組み、眉をつり上げた針妙丸は、私を見上げている。

 

 “あなたが今、一番してほしくないことをするのよ”

 

 巫女の言葉を思い出す。なるほど。確かに一番してほしくない。

 

 

 

「今まで何してたのさ」

 その場で地団駄を踏みながら、針妙丸は怒鳴った。

「探しても見つからないし!」

「何してたって、逃げてたんですよ、姫様」

「……敬語、やめてよ」

 

 私の言葉を聞いた針妙丸は、わかりやすく頬を引きつらせた。眉を下げ、悲しそうにこちらを見ている。その顔を見ているだけで、なぜか胸が痛くなった。酷い、と言った八橋の言葉が頭に浮かぶ。

 

「それに、別に逃げなくても」

「指名手配犯は、悪人は逃げることしかできないんです」

「謝ればいいじゃん!」

 手をぶんぶんと振り回しているせいで、被った茶碗は既に脱げ落ちていた。

「悪い子は慧音先生に謝れば、いいこになるんだよ」

 

 無邪気にそう笑う彼女に向かい、私は吹き出してしまった。以前言われた言葉にも関わらず、だ。本気で彼女はそう思い込んでいる。指名手配犯も、慧音に謝れば許されるだなんて、都合のいい世の中だったら、私はここまで苦労してきていない。

 

「無理ですよ、姫様。下克上をした責任は、そこまで軽くないようです」

「だったらさ」

 両手をぽんとたたき、すがるようにこちらを見てきた彼女は、声を大きくした。

「赤飯を食べればいいんだよ。責任を取って」

「はい?」

「だって、正邪は晩ご飯までには帰ってくるって言ったじゃん。だから、私と一緒に晩ご飯を食べるの。それでいいじゃん。そうして、ただいまって言えば、それで解決だよ」

「解決じゃないですよ」

 

 あまりに無茶苦茶な論理に、開いた口が塞がらなかった。どうしてそれで解決になるのか、さっぱり分からない。

 

「ね? いい案でしょ」

「よくないですよ」

「なんでさ」

「もし私が謝ったところで、殺されるのが関の山です」

 それに、殺されなかったところで、どうせ鬼の世界に封印されてしまう。

「なら、私も一緒に謝るからさ」

「小人が謝ったところで、誤差ですよ。背も小さいですし」

「関係ないじゃん」

 

 ぷんすかと頭から湯気を出していた針妙丸だったが、私にとてとてと近づいた瞬間、急に真顔になった。ただですら大きいその目をさらに見開き、呆然としている。

 

「ねえ、正邪」

 おそるおそる針妙丸は口を開いた。

「どうして?」

「何がですか?」

「魔力があるの」

「魔力?」

「どうして小槌の魔力が、正邪から感じられるの?」

「え」

「もう、異変は終わったはずなのに」

 

 思わず、たじろいでしまう。なんで、私から魔力が感じられるか。その理由は簡単だ。呪いを、私が受けているから。だが、それを針妙丸に言いたくなかった。決して、心配をかけたくないとか、罪悪感を与えたくないとか、そういうわけではないはずだ。三郎少年に、暗い影を帯びた姿が彼女に重なる。避けなければならない。幸せになる資格を得た彼女に、私が影を落としてはいけない。

 

「それは、だな」

「それは?」

「それは」

 必死に言い訳を考える。だが、何も思いつかない。考えろ。私は天邪鬼だ。何か、何か言うんだ。

「それは、私がまだ下克上を諦めていないからですよ」

「え?」

 

 針妙丸がきょとんとした顔で、首を傾げた。一体何を言い出すのか、と困惑しているのだろう。私も、同じように困惑していた。何を言っているんだ、私は。

 

「小槌の魔力が纏わり付いた道具を使って、もう一度下克上を起こすんです。ほら、これ見てください」

 

 そう言って、私は鶏ガラ作の、小槌のレプリカを取り出した。そこからは、禍々しいまでの魔力があふれ出て、私へとなだれ込んでいる。

 

「そ、それは」

「模倣品ですよ。ただ、威力だけなら本物と大差ないでしょう」

 

 針妙丸は、わかりやすく動揺していた。あたふたと落ち着きなく体を動かし、転がっていた自分の茶碗に足をぶつけ、ひっくり返っていた。にやけそうになる頬を必死にきつく閉じる。

 

「だから、私はどちらにしろ謝りませんよ。私の下克上はこれからです」

「だったら!」

 

 針妙丸は声を張った。相も変わらず、大きな声だ。どこからそんな声が出るのか、本当に不思議だ。

 

「だったら、私が止めるよ」

「え?」

「ここで正邪を倒して、下克上を止めるよ」

 

 どうしておまえに負けたら、私が下克上を止めると思っているのか、そもそも逃げられるという発想はないのか、言いたいことは無数にあった。だが、どこか生き生きとしている彼女を見ると、言葉が出てこない。口だけがパクパクと動く。

 

「私にはね、夢があるんだ」

 どこか懐かしむように、彼女は言った。

「私の夢は悪者を倒すかっこいいお姫様になることなんだ」

「そうですか」

「だから、正邪を倒して、夢を叶えるよ! そうしたら、従者にしてあげるからね」

 

 私はその、あり得ない世界に思いをはせた。自分勝手にはしゃぐ針妙丸に、私がいやいやついて行く、そんな世界だ。面倒くさくて、疲れて、うっとうしいことこの上ない。きっと、私は年がら年中愚痴を言いまくっているだろう。だが、なぜだろうか。そんな世界に私は憧れた。けれど、それは叶いようもない夢だ。期待だ。持ってはいけない。よしんば私がやり直せたとしても、絶対にその未来は訪れない。私は彼女と関わってはいけなかった。遠くで見守るだけでよかったのだ。ああ神様。もしもう一度やり直せるならば、なんて。糞みたいな発想すら浮かぶ。きっと、あの世の彼に、嘲笑されてしまうだろう。

 

「だから、大人しく捕まってね!」

 そう針を構えた針妙丸から、私は顔を背けた。涙を拭い、それを誤魔化すように懐をいじる。小槌をしまい、代わりにカメラを取り出した。こんなもので、どうしたらいいのか分からないが、構える。いつの間にかシャッターを切っていたが、彼女は気づいていないようだった。

「なら、いくよ!」

 突っ込んでくる彼女に向かい、私は舌を出した。

「最初に突進をする奴に、碌な奴はいませんよ」

 

 

 

「なんだか、懐かしいね」

 小さな体を滑るようにして投げ出し、私へと突っ込みながら、針妙丸は笑った。

「輝針城での時を思い出すよ」

「いや、思い出さないですよ」

 思い出していた。体が大きくなったからか、やたらと取っ組み合いをしたがる彼女に翻弄されていたときのことが、鮮明に頭に描かれている。

 

 あの時、すでに私は決めていたはずだ。鬼の世界に行くことを。こいつと縁を切ることを。小魚たちともう関わらないことを、決めていたはずだ。それなのに、こうして会ってしまっている。自分の心の弱さに嫌気がさした。さっき、あれほど人里で水の泡になってしまうと、そう悲観したばかりではないか。私と関わると、碌な目に遭わない。まして、どうせ封印されるのだから、なおさらだ。

 

「だから、もう関わらないでください」

 私はできるだけ感情を込めずに、そういった。

「鬱陶しいんですよ」

「酷いなぁ」

 そういう割に、彼女はなぜか嬉しそうだった。

「でも、それでこそ正邪だよ」

「は?」

「天邪鬼は、嘘しか言わないって霊夢が言ってたもん」

「私が言うことは嘘だとは思わないって、言ってたじゃないですか」

「言ってない!」

 声高々に叫びながら、私の腰めがけ、飛び込んでくる。体をひねり、軽々とかわす。

「もういい加減諦めなよ。下克上は無理だよ」

「大丈夫です。これからですよ、本当の下克上は。いつだって幻想郷中の妖怪を支配下におけますよ」

「無理でしょ」

 

 その通り。無理だ。なんだ、意外に賢いじゃないか。そう言いたかった。だが、口をつぐむ。つい、普通に話し込みそうになってしまう。自分の弱い心をたたき直す。私はこいつと縁を切らなければならない。彼の言うとおりだ。そもそも関わるんじゃなかった。どこか違う立ち位置で、彼女の成長を見守るべきだったんだ。関わってしまったがばかりに、こいつは。

 

「でも、どちらにしろ、姫様では私には適いませんよ」

「なんでそう決めつけるのさ」

「蛙の子は蛙って言うじゃないですか」

「それがどうしたの?」

「父親ですら私に適わなかったのに、まして姫様なんて」

 

 針妙丸の顔つきが変わった。いきなり立ち止まり、不自然な格好で足下を見下ろしている。憂を帯びたその顔は、どことなく彼に似ていた。

 

「そんなの、どうでもいいよ」

「え?」

「正邪がお父さんを殺したとしても、正邪は正邪だもん。何も変わらないよ」

「いや、変わりますよ」

「どうせ、何か理由があったんでしょ?」

「何かって」

「例えば、お父さんに殺してくれ、と頼まれた、とか」

 なんで、と私は口走っていた。なんで知っているんだ。

「とにかく、私は正邪にもう怒ってないんだよ。だから、下克上なんてやめて、一緒に謝ろう。そしたら、許してくれるよ」

 

 じりじりと私を距離を詰めながら、彼女はにこやかに言った。右手に持ったカメラがカタカタと音を立てる。手が震えていた。こいつは私を。親父を殺した私を許すと言ったのか。馬鹿だ。糞みたいに間抜けだ。それは絶対に許してはいけない。私だって許さない。なのに、どうして。

 

「だって、正邪は我らが生まれながらの“チーム天邪鬼”のリーダーなんだから」

 

 彼女が、性懲りもなく私に飛び込んでくる。先ほどと同じように、体を動かそうとするが、できなかった。足がまるで鉄のように動かない。焦りながら自分の足を見ると、後ろの地面が透けて見えていた。例の布を被ったわけではない。なのに、なぜか色が透けている。つまり、そういうことだろう。時間が来た。終わりの時間だ。

 

 小さな彼女の体当たりをかわすことができなかった私は、そのまま押し倒されるように横になった。腹の上にちょこんと座った彼女は、やったー、と喜んでいる。彼女の顔を見て、そして空を見上げる。相も変わらずムカツクほどの寒空だ。だが、なぜか今はそれを見ていると、晴れやかな気分になっていった。

 

「これで、下克上は止めてくれるよね。正邪」

 

 正邪、目の前の小さな少女がくれた大切な名前。捨てよう捨てようと思いながらも、そのたびに何かと理由をつけて、なあなあにしてきた。もう、いいか。そう思った。もうここまで来たなら、今更どうこうしないだろう。

 

「降伏してくれるよね」

「お言葉ですが」

 

 私は腹にためていた息を大きく吐いた。もう、小さな針妙丸を押しのけて立ち上がるほどの気力も残っていない。それでも声を振り絞り、叫んだ。

 

「やなこった! 誰が降伏するもんか」

 

 一寸法師。小人が鬼を倒すなんて、荒唐無稽で、現実離れしたお話。私はこの話が好きだ。彼女の夢は、おそらくこの話から来ているのだろう。勇敢で小さな勇者が、悪い鬼を倒す。これにてハッピーエンド。その鬼の顛末なんて、書かれていない。だから、これでいいのだ。私と針妙丸の話はこれで。

 

「どんな奴に命を狙われようと、地獄のような環境で過ごそうと、私は死なねえよ」

「正邪、口調が……!」

「なんていったってな」

 

 目の前で笑みを浮かべている針妙丸に笑いかけた。来世は、こいつをどこか遠くで見守ることができますように、そう願う。

 

「なんていったって、我が名は正邪!」

 目を細め、暖かい笑みを浮かべている針妙丸を見ていると、自然と右手に力が入った。パシャリとカメラから音が聞こえる。

「生まれ持っての“天邪鬼”だ!」

 

 視界がきゅっと狭まっていく。 正邪! と嬉しそうな声で叫ぶ針妙丸の声が、だんだんと遠くなっていった。

 

 私の体は、どういうわけか、地面に落ちていた。まるで地面に裂け目が生まれたかのように、ゆっくりと落下している。私の上に乗っていた針妙丸は、驚き、飛び退いていた。私に手を伸ばし、引き上げようとしている。だが、私はその手をはたいた。

 

 地面に裂け目が生まれたよう、といっていたが、それは例えではなく、本当に裂け目が生まれていた。八雲紫のスキマだ。ぐるりと見渡すと、薄気味悪い空間に覆われていることが分かる。針妙丸の姿はもう見えなかった。

 

 ああ、最後に針妙丸の顔が見られてよかった。もう二度と会うことはない。正真正銘の最後。だが、これでいい。鬼を倒して幸せになる一寸法師。私たちの話は、これにて完結だ。

 

 夕飯食えなくて、すまない。そう呟いた私の声は、きっと彼女には届いていないだろう。

 



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予想と結果

「いいニュースと悪いニュース、どっちから聞きたいかしら」

 いきなり現れた妖怪の賢者は、これまたいきなりそんなことを言いだした。

 

 針妙丸に負け、そのままスキマに落とされた私は、いつの間にか地面に横たわっていた。地面、といったものの、それが本当に地面かどうかは分からない。全身の感覚が、もはや失われていた。首は鉛のように重く、禄に視線を動かせない。風の音は聞こえ、青い空が見える。だが、それ以外はほとんど分からなかった。分かることと言えば、八雲紫の胡散臭さくらいだ。

 

「大丈夫かしら」

 そんな、今にも封印されそうな私に向かい、八雲紫は楽しそうに声をかけてきた。

「もしかして、もう喋る元気もないの?」

「天邪鬼が喋れなくなるのは、死ぬときだけだ」

 

 私の頭の近くへと近づいてきた彼女は、顔を寄せてきた。眉が下がり、口元は緩んでいる。何を考えているか分からない顔だ。だが、漏れ出る吐息はどこかか細いような気がした。

 

「それで? 針妙丸に負けた哀れな私なんかを、どうして連れ出したんだ。まさか、最後を看取ってあげる、なんて傲慢なこと言うわけじゃないよな」

「その、まさかよ」

 得意げに鼻を鳴らした彼女は、扇子を開き、口元へと持っていった。

「次に会うときは、お別れの時って言ったじゃない」

「覚えてねえよ」

「まあ、いいわ。それで? あなたはどうするの」

「どうするって」

「いいニュースと悪いニュース、どっちから聞きたいかしら」

 

 魅力的な笑みでそう呟く彼女の声は、どこか靄がかかっている。眼球に傷がついたかのように視界もぼやけてきた。もしかすると、このまま段々と感覚を失っていき、何も感じられなくなるのだろうか。鬼の世界には何もない。鶏ガラの言葉が繰り返し聞こえてくる。

 

 ふと、蕎麦屋の親父のことを思い出した。きっと、彼も今のような感覚だったに違いない。だが、彼は。少しずつ体が錆びていった彼は、そんな状態でも暢気に笑っていた。だったら、私も負けるわけにはいかない。

 

「なら、いいニュースから教えろよ」口角を上げ、腹から声を出したつもりだったが、出た声は小さい。

「もういなくなる奴にとって、いいニュースなんてあるわけないがな」

 

 私の返事を聞き、にんまりと目を細めた八雲紫は、ぴんと人差し指を立てた。

 

「なら、悪いニュースから話すわ」

「は?」

「言ったじゃない。弱小妖怪に選択肢なんてないって」

 

 なら訊くなよ、と呟いた私の声に、八雲紫はまた、くすくすと笑った。同じ手に引っかかった私を見て、愚かだと思っているのだろうか。

 

「悪いニュースってのはね、あなたが鬼の世界に封印されるまで、あと5分も残されていないってことよ」

「そうか」

「あら? 案外驚かないのね」

 

 思わず、苦笑してしまう。いま、私の体がどうなっているか分からない。ただ、足が透けていたように、段々と全身が消え去っていくのだ、と予想はできた。むしろ、この状態でしばらく放置されても、困る。

 

「さっき、次に会うのはお別れの時って、言ってたじゃねえか」

「そうだったかしら?」

「そうだ。まさか妖怪の賢者様に看取ってもらえるとはな。気色悪いにもほどがある」

 

 舌を出そうとしたが、うまくいかなかった。顔の感覚すらなくなってきている。真っ青な空が見えることを確認し、少し胸をなで下ろした。最後に見る青空だろう。

 

「今、私の体はどのくらい残っているんだ」

 そう訊くと、八雲紫はぴくりとその眉を上げた。

「へえ。自分の体が消えかかっていることに気がついていたのね」

「いいから、教えろ」

「いやよ」

 

 彼女の姿が視界から消えた。かと思えば、私と向かい合うようにふわりと宙に浮かんでいる。髪が垂れ、鼻先をくすぐった。

 

「代わりに、いいニュースを教えるわね」

「嬉しくねえな」

「実を言うとね、あなたは生き残れないと思っていたのよ」

「私は死なねえよ」

「よく言うわよ。あんなに死にたがっていたのに」

 

 烏のムカツク笑みが、脳裏に浮かんだ。そうだ。私は死なない。たとえ鬼の世界に封印されても、誰が死んでやるものか。

 

「それでね。折角生き残ったのだから、一つぐらい、願いを聞いてあげようと思って」

「え?」

「無償で支援してあげると、言っているのよ」

 

 自分の喉から、カラカラと不気味な声が響いた。笑おうとするも、その元気すらなく、ただ空気が喉を擦る音だけが響く。

 

「いらねえ」

「いいじゃない。無償で支援を貰えるなんて、弱者の特権よ」

「今更支援されてもな」

 

 あまりにも遅すぎる。今更なにかをして貰っても、意味がない。鬼の世界へ土産でも持っていけばいいのだろうか。

 

 耳元で、一際大きな風の音が聞こえた。ゆっくりと世界が右に流れ、ずれていく。真っ青な空が傾いていき、視界の端へと消えていった。まるで、世界が私を中心に動いているかのようだ。だが、実際は私の体が風に流され、こてんと横へと傾いただけだった。視界の半分が地面に覆われ、自分の手が見える。左手だ。いつの間にか布は解けていた。いや、見えた、というのは間違いかもしれない。もはやそれは、手だとは分からないほどに透けて、地面と同化していた。分かっていたはずなのに、恐怖に身体が固まる。

 

 だが、その恐怖をかき消すほどの衝撃が、私の頭に流れ込んでくる。身体が横を向いたことで、ようやくここがどこだか分かった。

 

 辺りに目ぼしいものはほとんどなかった。乾いた地面と、ボロボロの木々。ただそれだけだ。それだけなのに、頭が真っ白になった。その、真っ黒に炭化した木を真っすぐに見つめる。風でぽろぽろと剥がれ落ちていく表皮が、彼の錆びた肌に重なった。もはや、そこに蕎麦屋があったことなんて、誰も分からないだろう。

 

「あなたの最後には、相応しい場所だとは思わないかしら」

 

 頭上から、八雲紫の声が聞こえた。狼狽え、その場を駆けだしたくなる。しかし、身体はピクリともしない。どうして私と彼のことを知っているのか。それだけは誰にも言わないと決めていたのに。腹が立った。だが、それよりも。爆発した建物、ということすら分からないほどに風化し、ただの木のたまり場となった蕎麦屋の跡地を見て、泣きだしそうになる。これでは、誰も分からないではないか。あの捻くれた蕎麦屋の親父がいたことなんて。あそこで、人気がない蕎麦屋がひっそりと佇んでいたことなんて、私がいなくなれば、封印されれば、知っている奴なんて、いなくなってしまうではないか。そんなの、私の知ったことでは無いのに、どういう訳か胸が締め付けられ、息が詰まった。

 

「おい八雲紫」

「なにかしら」

「一つ、願いがある」

 

 顔は見えなかったが、八雲紫は口を三日月のように開いているに違いない。すぅと息をのむ音が聞こえてきた。

 

「いいでしょう。何でも言いなさいな」

「なおしてほしいんだ」

 自分の発した声なのに、とてもそうとは思えなかった。

「なおすって、何をかしら」

「蕎麦屋だよ」

 

 音が消えた。ついに、耳も聞こえなくなってしまったのか、とまたしても恐怖がぶり返しきたが、違った。単純に、八雲紫が黙り込んだだけの様で、ひゅうと風が空気を切る音が耳に響く。

 

「あっただろ、目の前に。あの蕎麦屋を建て直してほしい。かつてあったようにな」

 

 私の声が上手く聞き取れなかったのかと思い、力を振り絞り、もう一度言った。だが、それでも八雲紫は返事をしない。もしかして、もう去ってしまったのだろうか。弱小妖怪が僅かな希望に縋る様を見て、満足して帰ってしまったのだろうか。そう思った時に、すぐ真上から八雲紫の声がいきなり聞こえてきた。驚き、そちらへ振り向こうとするも、もはや視線を動かすことすら出来ない。

 

「驚いたわ」

 短くそう言う彼女の声は、酷く暗かった。

「まさか、最後にそんなことを願うなんてね」

「そんなことってなんだよ。弱小妖怪からすればな、お前らにとって息を吐くようにできることも、一生費やしてもできねえんだよ」

「これから息を吐くことさえ困難なあなたに言われると、説得力が凄いわね」

 そうじゃなくてね、と言い訳するように早口で言った妖怪の賢者は、大きく息を吐いた。

「私の予想した願いと違ったから、驚いたのよ。まったく。予想を外したのはこれで二回目ね」

「二度あることは三度ある」

「言われなくても分かってるわよ」

 

 話しているうちに落ち着いてきたのか、彼女の口調はいつも通りに戻っていた。それか、単純に私の聴力が落ち、聞き分けられなくなっているのか、どちらかだ。

 

「私はね、あなたが助けてくれ、と言うと思ったのよ」

「は?」

「封印されたくない。助けてくれってね」

 

 ふっと、目の前に暗幕を垂らされたかのように視界が失われた。目を開いているはずなのに、瞼の裏を見ているような気分だ。何も見えない。何も分からない。

 

「助けてくれ、か」

 

 私はそう口にしたのだが、実際に声に出ているかどうかは分からなかった。終わる。分かるのは、それだけだ。

 

 お前は人間よりも人間らしい。蕎麦屋の親父の言葉が急に脳裏をよぎった。今なら、はっきりといえる。そんなことはない。私は人間なんかより、よっぽど臆病で、惨めで、卑しくて、愚かな妖怪だ。愚鈍で救いようがない。だから、救われなかったのだ。身から出た錆だ。

 

 私がいなくなったら、針妙丸は悲しむだろうか。それが、唯一の気がかりだった。そして、それを気がかりだと思っている自分自身にため息が漏れる。人のことを心配しても、碌なことはないと知っているのに、それでも気にせずにはいられない。

 

 悲しませまいと、縁を切ろうとしたものの、結局あいつは、それを許してはくれなかった。あいつは強い。私なんかより、よっぽど強い。それこそ、人間のように。なら、きっと大丈夫だ。懺悔するように、そう自分に言い聞かせる。

 

 どうして八雲紫が、いきなり願いを一つ叶えてくれる、だなんて言い出したのか、そこでようやく分かった。彼女は期待していたのだ。私が助けを求めることを。期待なんて、持ってはいけないのに。どうして彼女が私にここまで肩入れするかは分からない。だが、彼女は、私が助けを求めれば、封印されたくないと言えば、もしかしたら助けるつもりだったのかもしれない。だったら、何も言わずに助けてくれればいいものを。やっぱり、妖怪の賢者は素直じゃない。

 

「なら、優しい妖怪の賢者さんよ」

 

 きちんと声が出ているのか。それすら分からなかったが、私は言葉を続けた。

 

「助けてくれ」

 

 意識がすっと引いていく。写真がコマ送りで高速で流れていくように、懐かしい場面が頭に浮かんだ。蕎麦屋、寺子屋、紅魔館、輝針城。そのどれもが糞みたいな記憶しかない。それでも私は満足だった。私は死ぬわけではない。生きていればなんとかなる。溢れ出る恐怖を誤魔化すように、そう呟く。

 

「残念だけど」

 

 遠のいていく意識の中、八雲紫の悲しげな声が聞こえた気がした。

 

「時間切れよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 強い風が私の髪を掻き上げ、そこでようやく、ぼうっと突っ立っていたことに気がついた。軽く首を振り、意識を整える。妖怪の賢者とは思えない醜態だ。

 

「残念ね」

 誰に聞かせるでもなく、ぽつりと声が漏れた。

「本当に残念ね」

 

 どうして自分がここまで残念に思っているのか、分からない。それでも、何かに失敗してしまったかのような、そんな虚無感に襲われていた。

 

 足を一歩進ませ、先ほどまで弱小妖怪が寝転んでいた地面を踏みつける。何の抵抗もなく、すとんと地面に足がついた。当然だ。そこには地面しかないのだから。彼女は、鬼人正邪は、もう鬼の世界へと封印されてしまった。彼女がいなくなったところで、何の問題もない。弱小妖怪が一匹死のうが封印されようが、私の世界に狂いは生じない。

 

「けれど」

 

 私は試しに、スキマを開いてみた。特に意味があったわけではない。何となく、鬼の世界へと続くスキマが開けるか、気になったのだ。妖力もほとんど使っていない。当然のように何も起きなかった。失望は無い。そんなこと、分かりきっていたからだ。

 何かないか。彼女を救う手段は、他に何かないだろうか。どういう訳か、そんなことを考えていた。

 頭を振り、すぐにその考えを打ち切る。たかだか弱小妖怪一匹に、そこまでしてやる義理も時間も執着もなかった。

 

「ああ、そういえば」

 

 諦めて、踵を返そうとした時に、彼女と交わした言葉を思い出した。輝針城で彼女に言い残した、条件ともとれない約束だ。

 

「次に会った奴に、あなたが悪人かどうか聞いてみなさい。それで、もし違うと言われたならば、助けてやってもいいわよ」

 

 気まぐれで、彼女に伝えた無理難題。結局、彼女が悪人ではないと、否定する存在は現れなかった。当然だ。天邪鬼は悪い奴。それは、もはや揺るがしようのない真実なのだから。

 

 なぜそんな言葉を今になって思い出したのか分からない。けれど、思い出したからには、何か意味があるのではないだろうか。気まぐれには意味がある。どこかで聞いた言葉が頭に響いた。

 

 そう考えていると、視界の端から一人の人間がこちらに歩いてくるのが見えた。こんな人里の端にたった一人で来るなんて、度胸があるのか馬鹿なのか。

 

 この人間に聞こう。それで駄目だったら、それまでだ。これは単なる余興。消え行った弱小妖怪を使った暇つぶし。そう自分を納得させ、人間へと近づいていく。

 

 私に気がついた人間は、哀れなほどに動揺していた。声にもならないような悲鳴をあげ、その場に尻餅をついている。典型的な人里の人間だ。他の人間の意見に流されやすく、どこか暗い影を帯びている凡庸。これは駄目ね、と内心でため息を吐く。

 

「ねえ、あなたに質問があるのだけれど」

 無様に地面に這いつくばっている人間に、私はゆっくりと声をかけた。そのまま逃げてしまわれては、興醒めもいいところだ。

「な、なんですか」

 のっそりと立ち上がりながら、人間はこちらを見た。しゃがみ込み、目線を合わせる。身体も細く、華奢だ。

「鬼人正邪って知っているかしら?」

「は、はい」

「彼女についてなのだけれど」

 

 私は大きく息を吸い、雑念を消した。迷ったらやれ、そんな言葉が思い起こされる。

 

「彼女は悪人だと思うかしら」

 

 返事はない。人間は黙りこくっていた。訝しみ、目を向ける。その人間は、どういう訳か少し笑っていた。あれだけなよなよしく、情けない態度だったにもかかわらず、いつの間にか筋の通った、光ある目でこちらを見てくる。その目には見覚えがあった。昔、どこかで見たことのある目だ。だが、それ以上は思い出せなかった。

 

 その人間は、ゆっくりと首を振り、口を開いた。身体を少し揺さぶり、息を肺にためている。表情に、先ほどまでの怯えは無かった。

 

「悪人じゃ、ないです」

「え?」

「悪いのは」

 

 勢いよく顔を上げた人間の顔は勇ましかった。この妖怪の賢者である私ですら感心するほどに、真っ直ぐで純粋だ。最初に浮かんでいた黒い影はいつの間にか消え去っている。人間が胸に掲げていた一文が風に揺られ、ちりんと音を立てた。

 

「悪いのは喜知田」

 

 微笑みを浮かべながら、人間はそう言った。私も、思わず笑みを浮かべてしまう。助けてくれ。そう最後に言い残した彼女は、なぜかこの人間と同じような微笑みを浮かべていた。憎たらしい笑みだ。だが、なぜだろうか。私はその笑みが嫌いではなかった。

 

「悪いのは喜知田」

 

 一度、口の中で呟いてみる。頭に浮かんでいた迷いが、吹っ切れたような気がした。

 

「ああ、いい言葉ね」

 

 

 



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遺言と証明

──烏──

 

「号外! ごうがいでーす」

 

 満開の桜の下で、私は大きく声を張り上げた。昇ったばかりの太陽が、その桜を照らし、幻想的な風景を醸し出している。人里で一番きれいな桜と言ってもいいだろう。きっと、この桜を見に、多くの人間がここに訪れると思い、私はここで朝刊を配ると決めた。

 

「文文。新聞の、号外でーす!」

 

 だが、不思議なことに、道行く人々は桜に目もくれず、ただその場を去って行くばかりだ。どうやら、この桜は思いの外人気がないらしい。この私の新聞の魅力をも相殺してしまうほどの不評ぶりとは、逆に感心させられる。

 

「何やってんだよ」

 

 桜の木を憎々しげに睨んでいると、後ろから声をかけられた。振り返ると、だらしなくポケットに突っ込んでいた手をだし、よう、とだるそうに一人の人間が声をかけてくる。

 

「これはこれは妹紅さんじゃないですか。どうしたんですか?」

「いや、お前が新聞を配ってたからな、冷やかしにきた」

「貰いに来て下さいよ」

 

 自慢の新聞を持ち直し、その表紙を見る。我ながら、秀逸な見出しだ。

 

「その見出し、酷いな」

 うっとり見とれていると、蓬莱人が水を差してきた。

「ありえない」

「そうですか?」

「一年越しの呪いって、意味が分からないだろ」

「もう、一年が経つんですね」

 

 時間が経つのは早い。そんなこと分かっていたはずなのに、それでも驚いてしまう。あれから一年。下克上を引き起こし、幻想郷を混乱に陥れた鬼人正邪が死亡した、と八雲紫が通達してから、一年が経った。だが、それでも人里は、幻想郷は何も変わっていない。彼女という歯車が抜けたくらいで、世界が変わったりはしなかった。

 

「それで? この見出しの何が酷いんですか」

「何がって、すべてだろ」

「すべて?」

「そもそも、ありえないって」

 苦笑いをしながら、妹紅は指を突き出した。

「あの正邪が、呪いなんて引き起こせるわけがないだろ」

 

 もう一度、新聞を見下ろす。“喜知田氏行方不明に。鬼人正邪の呪いか!? ”と書かれている。我ながら惚れ惚れする見出しだ。

 

「正邪が見れば、怒るんじゃないか? 弱小妖怪を舐めるんじゃねえって」

「いや、彼女に頼まれたんですよ」

「頼まれた?」

「ええ」

 

 喜知田が行方不明になったと聞き、私は急いで情報を集めた。だが、結局得られた情報はごく僅かだ。誰もが、彼は昨日までは普通に過ごしていた、と証言し、優しかった彼がいなくなった、と心から嘆いていた。これからどうすればいいのか。折角人里が落ち着てきたのに、と取り乱し、もう終わりだと泣き出す人間もいたが、少なくとも今、人里が混乱に飲み込まれている、というわけではない。彼の穴を、慧音が必死に埋めていること、あまりにも突然彼がいなくなったことで、実感が沸かないこと、などが人里の安定を助けているのだろう。天邪鬼がいなくなったところで、特に何もなかったにも関わらず、あのでっぷりと太った仲介業者がいなくなるだけで、ここまで対策が必要だとは。これが信用の差だろうか。

 

 喜知田について、唯一他のことを言ったのは八雲紫だ。とはいっても、「きっと、代わりに鬼の世界にでもいるんじゃないかしら」とよく分からないことを言うだけだった。しかし、むしろ私にとって、それは好都合だ。どうせ誰にも分からないのであれば、彼女の願いを叶えてもいいんじゃないか、そう自分を納得させることができた。

 

「なら、正邪も今頃地獄で喜んでるんじゃないか」妹紅は少し悲しそうに顔を伏せ、言った。

「あいつは天国にはいけそうにないし」

「いや、違うと思いますよ」

「天国に行くと思うのか?」

「そうじゃないです」

 

 一年前、正邪に最後に会った時のことを思い出す。相も変わらず、捻くれたようなことしか言わなかった彼女だったが、それでも、どういうわけか私は彼女の言葉を信じていた。天邪鬼の言葉なんて、信じていて得はないのに。どうしてだろうか。

 

「多分、正邪は生きてますよ」

「お前」

「憎まれっ子は、世に憚るんですから」

 

 どこか憐れむような目で私を見つめてくる妹紅に舌を出し、私は自分自身に言い聞かせるように、もう一度、生きてますよ、と呟いた。約束したんですから、と。

 

 妹紅から目を離し、人里を俯瞰する。無数の人間が、慌ただしく道を行き交い、生きている。彼らの顔には、一年前の食糧不足の時のような、悲壮さはない。喜知田が急に姿を消したからか、どこか不安そうな人間もいたが、それでも、明るく、元気だ。

 

 遠くをずっと見ていたからだろうが、その、通り行く人々のうちの一人が近づいていることに、私は気づかなかった。ぶつかり、新聞を地面にまき散らしてしまう。その、ぶつかってきた奴は、謝りもせず、逃げるように去って行ってしまった。

 

「やっぱ、酷い奴だな」

 妹紅はその、去っていった奴を睨み、笑った。

「拾うの、手伝うよ」

「あややや、珍しいですね、あなたが私に手を貸すだなんて」

「そうか?」

 

 なぜか楽しそうに新聞をかき集め始めた彼女は、一枚、一枚と新聞を拾い上げていく。だが、そのうちの一枚を拾い上げた瞬間、眉をひそめた。ちらりと私を見て、肩をすくめている。

 

「おいおい、だめじゃないか」

「あやや、どうしたんですか?」

「不良品だよ」

「不良品?」

 

 これ、見てみろ、と差し出された新聞を手に取る。何が不良品なんだ、と気になりつつ目を通すと、すぐにおかしい箇所が見つかった。というより、おかしい所しかなかった。内容はうまく読み取ることができないが、私の新聞でないことは明らかだ。さっきのやつが、おいていったのだろう。慌てて先ほどぶつかってきた奴を目で追うも、すでに姿は消えていた。

 

「あやや、これはこれは」

 

 妹紅に顔を見られないように後ろを向く。腹からこみ上げてくる笑いが止まらない。表情を保つことができなくなっていた。手を目元に持って行き、素早く涙を拭う。

 

「対価が必要とは言いましたが」

 

 もう一度新聞に目を落とす。彼女がどのようにこれを作ったかは分からない。端の方に、このわくわくがたまらない、と書かれていた。

 

「まさか、本気で烏天狗を新聞で釣ろうとするとは」

 

 こんなの、鍋おきにするしかないじゃないですか。そう呟きながら、文字が逆さまに印刷されている新聞を、もう一度バサリと広げた。

 

 

 

 

──魔女──

 

「急に人里にいこうだなんて、どうしたのよ」

 騒がしい大通りをうんざりと歩きながら、隣のレミィを軽く小突いた。

「私は忙しいのよ」

「たまにはいいだろ。親友と外出というのも」

 ケラケラと笑うレミィに向かい、私はため息をはいた。

 

 空には、爛々と太陽が輝いている。昼間っから吸血鬼が外出するのはどうなんだとも思ったが、今更なので聞いたりしない。そんなことより、どうして私を連れ出したのかが、分からなかった。

 

 ふと、視界の端に美しい桜が映った。大きく、そして可憐なそれに目が奪われる。ひらひらと舞い落ちる花びらが、春の訪れを教えてくれた。けれど、それと共に、一匹の弱小妖怪のことも思い出される。結局彼女は、春を待つことなく封印されてしまった。桜の花びらほど綺麗ではなかった、それでも私はそれなりに気に入っていたのに。あれから一年が経ったなんて、信じられなかった。今でも図書館のあの席に、彼女がいるような気がしてならない。

 

「文文。新聞の号外でーす!」

 

 その桜の下で、見苦しい妖怪が一匹騒いでいた。あんなに美しい桜が台無しだ。急いで目を離す。彼女に絡まれるのは、かなり面倒くさい。今すぐにでも図書館に帰りたくなった。

 

「私は特に人里なんかに用はないのだけれど」暗に帰りたいと含めながら、レミィに言った。が、彼女は聞く耳を持っていない。もう一度、用はないのだけれど、と強く口にする。

「お前に用があるんだよ」

「はあ?」

「そういえば、昼ご飯を食べていなかったな」

 

 私の答えなんて聞かず、彼女は私の手を引き、近くの店にずかずかと入っていった。その時に、一人の客が店を出ようとしていたのも無視して、ずんずんと押し進む。私はそんな彼女に引っ張られるだけだった。

 

「どうしたのよ、急に」

「まあ、たまにはいいじゃないか」

「返事になっていないわよ」

 

 煮え切らない親友の態度に疑問を抱いたが、入ってしまったものは仕方がない。近くにあった二人がけの椅子に座る。他の席は、すべて埋まっていた。店は、昼時だからか、かなり繁盛している。威勢のいい声が響き渡り、客が楽しそうに談笑していた。皿を持った店員が、狭い机の隙間を縫うように、せわしなく歩き回っている。

 

「案外いい店じゃないか」

 満足そうに、レミィは頷いた。

「今度、みんなで来てもいいかもな」

「そうね」

 

 彼女の言うとおり、なかなかにいい店だった。掃除も行き届いているし、店員も笑顔だ。少々騒がしいが、それも繁盛している証拠だろう。

 

「いらっしゃいませ。ご注文はどうしますか」

 店を観察していると、店員が訊ねてきた。その手には二つの水が入ったコップが握られている。まだ幼さの残る少年だ。なぜか首には一文を紐にくくりつけている。

「ここのおすすめを、二つ」

 レミィが指を二本たてて、言った。

 

 かしこまりました、と笑いながら元気な声を出した少年は、とてとてと店の奥へとかけていく。あの年から働くなんて、大層なものだ。

 

「こうしてパチェと二人で食事をするのも久しぶりだな」

 レミィの言葉に、私は頷いた。

「大分ふさぎ込んでいたからな、天邪鬼がいなくなって」

「そんなことないわ」

「よく言うよ。夜な夜な一人でソファに座って、本を開いてたじゃないか。怪我を治す魔道書を」

 

 まさか見られていたとは思わなかった。自分の耳が赤くなっていくのが分かる。私がこんな思いをするのも、すべて正邪が悪い。何とか平静を装おうと、喉も渇いていないのに出された水を飲み干した。

 

 なんて言い訳しようか、と考えを巡らせていると、店員が大福を持って、こちらに近づいてきた。先ほどの少年ではない。中年の男性だ。

 

「お待たせいたしました。こちら、おすすめの大福です」

「大福?」

 つい、聞き返してしまう。

「ここ、もしかして甘味屋?」

「知らずに入ったのか」

 

 レミィがまた、ケラケラと笑う。あなたが強引に連れてきたから分からなかったのよ、そう抗議するも、彼女はただ笑うだけだった。

 

 微妙な顔で、私たちを交互に見つめた店員は、私に向かい、一枚の紙を丁寧に差し出してきた。紙の端に、伝票とかかれている。それを受け取り、確認する。

 目を疑った。何にか。金額だ。私の想定した額よりも、0の数が4つほど多い。たかが二つの大福で、こんなにもするのだろうか。

 

「ちょっと」

 立ち上がり、店員に向かい、詰め寄る。

「な、なんでしょう」

「これ、あまりにも高すぎるんじゃない? 二つの大福にしては、法外よ」

「ちょ、ちょっと伝票を確認させて下さい」

 

 泡を食いながら、いそいそと伝票を目の近くまで持っていった店員は、ああ、と気の抜けた声を出した。焦っていた自分自身を落ち着けるような、そんな声だ。

 

「これ、大福二つだけの料金じゃありませんね」

「え?」

「他にも、色々な甘味の料金が含まれています」

 

 にしては食べ過ぎですけどね、と笑った店員にたいし、私はもう一度詰め寄った。何も、このくらいの額でいちゃもんをつけたくはない。が、良さそうな店だっただけに、ぼったくられるのは、心外だった。

 

「私たち、大福しか頼んでないのだけれど」

「ええ、存じています」

「なら」

「ただ、ツケられていったんですよ」

 

 つけ? と私は首を傾げる。初めて来たのに、どうしてツケがあるのか。

 

「さきほどのお客様が、料金はあなた持ちで、とおっしゃっていましたので」

「それ、誰よ」

「さあ。ですが、伝言を承っております」

 

 えーと、と頭をコツンと叩いた店員は、そいつを真似ているのか、少し高めに声を出した。

 

「賭けは、私の勝ちだ、っていってました」

 

 賭け。その一言で、記憶が蘇ってくる。一年前の記憶だ。目尻が熱くなり、また、耳が赤くなっていった。いつの間にか、私は椅子に腰掛けていた。隣のレミィが、心配そうにこちらを見つめてくる。

 

「準備、しないとね」

「準備? なんのだ」

 こてんと首を傾げたレミィに対し、私は記憶の中の彼女のように、憎たらしい笑顔を見せた。

 

「左手の指を治す準備よ」

 

 

 

──白沢──

 

「寺子屋ってのは、案外狭いんだな」

 入ってきてそうそう、九十九弁々はそう言ってきた。

「こんなんで、子供は悲しまないんですか?」わかさぎ姫が首を傾げた。

「大丈夫だよ」八橋が、それに答える。

「慧音先生にも、考えがあるんだ」

 あ、ああ、と曖昧に答えることしかできない。考えなんて、特にない。昔からここでやっているだけだ。

 

 彼女たちをここに呼んだのは、他でもない、正邪についての情報を得るためだった。彼女が死んでから早一年。正直に言えば、今でも立ち直れてはいない。だが、私なんかより、よっぽど辛いであろう針妙丸が、「私はもう、大丈夫だよ」と微笑んでいるというのに、私だけがうじうじするわけにはいかなかった。

 

「それで? 情報っていったって、何を話せばいいんだよ」

 ベンベン、と琵琶を鳴らしながら、弁々は乱暴に言った。

「どうせ、どんなに正邪が悪い奴だったか、話せって言うんだろ?」

「違う違う」

 

 きっと彼女は、同じような質問を散々されてきたのだろう。それこそ、烏天狗や、人里の人間から。そのたびに、彼女は正邪のことを話した。が、結局採用されるのは、彼女の悪い印象ばかりだった、と言ったところか。確かに可哀想だが、それは正邪の身から出た錆だ。だが、今私が必要な情報は、そうではない。

 

「チーム天邪鬼として、下克上に参加していたあなたたちから見て、正邪がどんな奴かを聞きたいんだよ。幻想郷縁起っていう、妖怪辞典にのせる情報を集めろって、編纂者から頼まれたんだ」

 

 チーム天邪鬼。下克上を引き起こし、その後、人里で騒ぎを起こした弱小妖怪の集まり。実際は、鬼人正邪に魔法の道具を使われ、武力によって従わされていたと見なされ、無罪放免となった、らしい。詳しい事情は知らない。が、射命丸が言っていたので、間違いはないだろう。いや、やっぱりあるかもしれない。彼女の言うことが本当かどうかは、怪しい。

 

「私たちから見た正邪かあ」

 八橋が、うーん、とうなった。

「まあ、間違いなく悪人だったね」

 ですね、とわかさぎ姫も頷く。

「私は今でも彼女のことを許していませんよ。はっきり言って、彼女のことは嫌いです」

「そうなのか」

「だって、私たちのことを騙していましたし、草の根妖怪ネットワークのことも馬鹿にしてました。そして何より、結局姫様に謝りませんでしたしね」

「ああ、それは許せない」

 弁々はそういった割には、随分と楽しそうだった。

「それに、礼もなく死んじまったしなあ」

 

 彼女はどこか、遠くを見るような目で上を向いていた。きっと、正邪のことを思い出しているのだろう。他の連中も、同じような表情をしていた。嫌い、許せない、と口にしたにもかかわらず、彼女たちはどこか懐かしそうに笑っている。

 

「まあ、一言で言うのであれば、彼女は“人の嫌がることを進んでやる妖怪”でしたね」

 優雅に体を揺すりながら、わかさぎ姫は、ですよね? と他の連中に尋ねていた。

「そうだな」

「そうですね」

「そう、なのか」

 私は頷きながら、メモを取る。

「正邪は、“人が嫌がることを進んでやる妖怪”だったんだな」

「違うよ、先生」八橋が柔らかい笑みを浮かべ、首を振った。

「人が、じゃなくて、人の、だよ」

 

 先ほど書いたメモの下に、が、を、のに変えて同じ文を書く。そこで、ようやく彼女たちの言わんとすることが理解できた。

 

「どうせ、鬼人正邪は悪い妖怪ってことになるんだから、私たちも考えたんです」

「人の嫌がることを進んでやる妖怪、ね」

 なるほど。確かにこれだと、どちらともとれる。思わず、笑みが浮かんだ。捻くれた、彼女らしい通称だ。

 

 さて、次は何を聞こうか、と思案を巡らせていると、こんこんと扉が叩かれた。来客だろうか。ご飯時に来客というのも珍しい。

 

「すまないが、待っていてくれ」

 

 彼女たちにそう言い残し、席を立つ。ぎしぎしと音を立てる廊下を進み、扉を開いた。が、そこには誰の姿もない。悪戯だろうか。

 

「なんだったんだ」

 

 迷惑な奴もいるんだな。今度会ったら説教してやろう。そう思い、寺子屋へ踵を返すと、足下に落ちている何かを蹴飛ばしてしまった。慌ててしゃがみ、それを手に取る。透明な袋に水が入っている。表面には文字が書かれていた。つまみ上げて、顔の前へと近づける。すると、中に何かがいることに気がついた。気がついて、驚いた。腰が砕け、その場に崩れ落ちてしまう。よかった、と声が零れた。通りがかる人が、心配そうにこちらを見つめてくる。が、そんなことはどうでもよかった。

 

「確かに好きだとは言ったけどなあ」

 涙混じりの声が溢れ出た。

「まさか、生きたシラウオを渡されるとは」

 

『おにぎりよりはましだろ?』と書かれた袋の中で泳ぐシラウオを見て、私はため息を吐く。"私だったら、そいつの好物を見抜いて、持ってくる" 一年前なのに、どういうわけか、彼女の言葉をはっきりと覚えていた。

 

「お前には渡さないとか言ってたのに」

 

 やっぱり、天邪鬼だな。そう呟く。彼女の得意げな笑い声が聞こえた気がした。

 

 

 

 



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始まらない終わり

 行きつけの蕎麦屋の店員さんに、お前ほど人間らしい奴はいないさ、と言われたことがある。

 

「お前は確かに妖怪だが、それでも人間よりも人間らしい」

 

 人里の端の、誰も寄り付かないような寂れた場所でひっそりと佇んでいる蕎麦屋だ。未だかつて、ここに他の客が来ているところを見たことはない。その、何故潰れないか不思議な蕎麦屋を一人で切り盛りしている店員さんが、そんな突飛な事を言ったのだ。

 

「私は小人だよ。そもそも妖怪じゃないんじゃないのかな?」

「そんな小さな人間がいてたまるか」

 中性的な声の店員さんは、くすくすと笑った。

 

 

 正邪が死んでから、一年が経った。最初は悲しくて、むなしくて、霊夢のそばでわんわんと泣いたけれど、きっと正邪は、泣いている私なんて見たくないだろうと、そう自分に言い聞かせ、何とか立ち上がることができた。今でも無性に悲しくなるときもある。だけど、私は強くならなきゃいけない。なんていったって、あの指名手配犯だった鬼人正邪の下克上を止めたのは、他でもない私なのだから。

 

「どうしたの、急に黙って」隣で蕎麦をすする霊夢が、心配そうにこちらを見てきた。

「やっぱり、おいしくない?」

「やっぱりって、どういう意味だよ」店員さんが、大声でそれをとがめた。

 

 正直に言えば、確かに蕎麦はそこまでおいしくなかった。きっと、夕飯時だというのに、私と霊夢以外で客がいないのは、そのせいだろう。だが、それ以外にも明らかにお客さんが来ない原因はあった。それは、私を馬鹿にしてくる店員さんの格好だ。

 

「ねえ、店員さん」

「なんだ?」

「どうして、顔中に包帯を巻いているの? 怪我をしているの?」

 

 隣の霊夢が、ぶほぅと蕎麦を吹き出した。変な場所に入ったからか、ゴホゴホと咳をしている。

 

「なんでって、そりゃあ準備だよ」

「準備?」

「怪我をする前に、包帯を巻いといた方がいいに決まってるだろ?」

「よくないよ」

 

 適当なことを言い、ケラケラと笑った店員さんは、おもむろに私の蕎麦に何かを入れた。黄金色をした、円状のそれは、香ばしい香りを放っている。

 

「ねえ、これ」

「おまけだ」

「いいの?」

「かき揚げってのは、こういうときにつけるべきなんだってよ」

「へー」

 

 霊夢の生返事を横に聞きながら、私はそれを思いっきり口に入れた。私の体にしては大きすぎるそれを、必死に口へと運ぶ。ふらふらと体が震え、蕎麦の容器をひっくり返しそうになった。

 

「おっと、大丈夫? 針妙丸」

「あ、ありがとう霊夢」

 

 ひっくり返りそうになった器を手で押さえた霊夢は、気をつけなさいね、と短くいい、また蕎麦を食べ始めた。今度こそ慎重に、食べる。

 

「お前は昔から何も変わらないな」

 

 ほとんど会ったこともないにもかかわらず、店員さんはそう言った。反論しようとするも、口の中に溢れたかき揚げのせいで、もごもごとくぐもった声を出すことしかできない。急いで飲み込もうと必死に口を動かす。

 

「ねえ、聞きたいことがあるのだけれど」霊夢が、店員さんに向かって、囁いた。

「死んでも蕎麦屋はしないんじゃなかったの?」

「死んでからしないとは言ってない」

 

 死んでないじゃない、と短く呟いた霊夢は、視線を店の奥の方へとずらした。塗装がはげた置き時計の隣、机の一番奥を見ている。いったい、そこに何があるのだろうか。気になり私もそこに視線を移す。

 

「あ!」

 

 私は思わず叫んでいた。口に入っていたかき揚げが、ぽろぽろとこぼれ落ちるが、そんなのも気にならないくらいの衝撃だった。

 

 写真は二枚あった。そのうちの、左には、とても綺麗な女の人が映っている。少し大人びた表情で微笑むその姿には、どこか引き寄せられた。私のお母さんも、こんな感じだったのかな、なんて考えてしまう。

 

 だが、私が衝撃を受けたのは、その写真じゃない、右側の写真の方だった。そこには、楽しそうに満面の笑みを浮かべる一人の少女の姿が映っていた。見覚えのある少女だ。

 

「これ、私じゃん!」

 いつ、どこで取られたのか分からなかったが、それは私の写真だった。それが、綺麗な額縁に入れられ、机に立てかけられている。

 

「よく撮れてるだろ」

 店員さんは、自慢げに鼻をこすった。

「私が撮ったんだ」

「下手よ」

 にべもなく、霊夢が否定した。

「烏天狗の誰かに撮って貰った方が、よっぽど綺麗に撮れるわ」

 

 もう一度、私の写真を見つめる。確かに、どこかぼやけていて、いつも文お姉ちゃんが見せてくれる写真よりも、色が薄かった。

 

「素直に任せればよかったのに」

「分かってないな」

 店員さんは、得意げに笑った。

「こういうのは自分でやることに価値があるんだよ」

 

 そう言った店員さんは、愛おしそうに写真を見つめていた。自分の写真を飾られていると、少し気恥ずかしい。だが、嬉しいのも事実だ。思わず、にへりと頬が緩んでしまう。

 

 蕎麦を口に入れ、食べる。確かにあまりおいしくない。だが、それでも私は幸せだった。理由は分からない。正邪と一緒に来たかったな、とそんなことを思った。

 

「ねえ、一つ聞いてもいい?」

 包帯の裏側をいじくっていた店員さんに、声をかける。

「なんだよ」

「鬼人正邪って妖怪、知ってる?」

 

 もう一度、霊夢が口から蕎麦を吐き出した。辛そうにこちらを見ている。大丈夫だろうか。

 

「鬼人正邪、ねえ」

 

 顔が隠されているようで、表情は見えない。けれど、店員さんはどこか懐かしそうな顔をしているような、そんな気がした。

 

「一年前に死んだ悪い弱小妖怪だろ?」

「そうね」つまらなそうに、霊夢が答える。

「もし今生きていたら、もう一度私が殺してあげるわ」

「大丈夫だって」店員さんは、けらけらと、どこか聞き覚えのある声で笑い、霊夢に箸を向けていた。

「鬼人正邪は死んだよ。指名手配犯はもういない。だから、お前が殺す相手もいないし、必要もない。そうだろ?」

「そういうことにしてあげるわ」

 

 よくわからないことを言った二人は、薄気味悪い笑みを浮かべていた。霊夢に向かい首をかしげるも、「なんでもないのよ」とはぐらかされてしまう。後でもう一度問いただそうと、心に決めた。

 

 蕎麦を食べきり、つゆを飲み干す。小さな器だったが、私にとってはこれで十分だった。

 

「食べきったか?」

 もごもごと口を動かしながら、店員さんは声をかけてきた。

「うん、おいしかった」

「そうか」

「ところで、あなたは何を食べているの?」

 

 夕飯時だから、おなかが空いたのだろうか。懐から取り出した何かを、むしゃむしゃと咀嚼していた。おにぎりのようにも見えるが、色が違う。

 

「夕飯だよ。今日は赤飯だ」

「いいことがあったの?」

「責任を取ってるんだよ」

 

 外の扉がカタカタと揺れた。きっと、春の暖かい風に揺すられたのだろう。ごちそうさま、と声をかけ、立ち上がる。霊夢と一緒に、その立て付けの悪い扉を開け、薄暗くなってきた外へと出た。奥の時計が、ポーンと音を立てた。振り返り、店員さんを見る。包帯まみれの口が、確かに、ただいま、と動いた気がした。

 

 

 彼女たちが死亡するのは、きっと、もっと先のことだ。

 



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