ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです (飴玉鉛)
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十二の試練
0.1 其れは神の栄光のためでなく


あ、兄者ぁー!


 

 

 

 ――汝は不義の子、罪ありき――

 

 ギリシア神話のオリンポス十二神を統べし神、ゼウス。

 宇宙をも溶解させる雷霆を持つ、並ぶ者なき全知全能の主神。

 

 彼の神はその権能の強大さに比例するかの如く、好色な性を持つ好色漢であった。

 

 時には実の兄妹を、男神でありながら紅顔の美少年を愛し、美しき女であれば他者の妻子を節操無く手籠めにした。それでいながら自身を凌ぐ子孫を赦さず、その誕生を恐れて妊婦を丸呑みにすることもあった。

 ゼウスは全知全能である。だがその性が限りなく人間に近しかった故か、その全知は全てを見透すことは能わず、その全能を万物に通ずることは叶わなかった。強すぎ、大きすぎる力を行使するには、ゼウスという『性格()』は余りに大きかったのだ。

 主神でさえなければ。神でさえなければ。その身が人でしかなければ……。あるいはゼウスはただの小人に過ぎなかったというのが、ゼウスという神格に与えられて然るべき評価であろう。

 

 しかしそんな不完全な神であるが故に、彼の統べる神話は様々な英雄豪傑を生み、後の世にまで続く文明文化の礎を築けたとも言えるかもしれない。

 そう――全ては主神ゼウスにより端を発していた。ゼウスの蒔いた種が様々な悲劇を生み。そして時にはあらゆる英雄を凌ぐ無双の大英雄をも産み出したのである。

 

 ミュケナイ王家に生まれし男児、アルケイデス。彼こそがゼウスの生んだ、ギリシア神話最大にして最強、無双の大戦士である。

 

 これは人類史の続く限り、連綿と受け継がれる不朽の英雄譚。『ヘラの栄光(ヘラクレス)』と呼ばれることを拒まずとも、その生涯に於いて自らその名を口にする事はただの一度もなかった漢の軌跡である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――なんだ?

 

 其れ(かれ)の自意識が芽生えたのは、その女の乳房に吸い付いた時である。

 さながら天に流れる箒星が如く、乳から己の口に流れ込んでくる力の奔流。あまりに大きなそれは赤子の身には過ぎたるもので、彼は思わず生まれ落ちてより生え揃っていた歯を閉じた。

 力の大きさに耐えかねて嘔吐き、それを本能的に拒むために口を閉じたのだ。彼に乳を与えていた女は乳房を噛まれ、その痛みによって咄嗟に赤子を放り出した。その時に零れ落ちた母乳は天に跡を残し、それは『天の川』となった。

 自意識の覚醒と共に、自身に宿った女神の性に赤子はその意識を闇に落とす。女神は赤子の正体に気づかぬまま、されど乳を噛まれた痛みに肩を怒らせてその場を去る。

 

 女神の名はヘラ。彼女が自らの憎む赤子に乳を与えたのは意図してのものではない。ゼウスが己の子に不死の力を与えるべくヘラの母乳を吸わせるため、寝所にて眠っていたヘラの胸に赤子を預けたのだ。ヘラが赤子の正体にこの時気づいていれば、後のヘラクレスの命はなかっただろう。

 

 次に赤子の意識が戻ったのは、自身の母らしき女と寝所で眠っていた時だった。

 

 穏やかな眠りに浸っていた彼は、母の悲鳴で目を覚ました。薄っすらと目を開いた彼は、寝所から飛び出して助けを求める姿である。そして自身の間近に迫る、見るからに悍ましい蛇。大口を開けて毒牙より毒液を滴らせ、今に自らへ噛みつかんとする蛇の存在は赤子の本能を直撃した。

 赤子は遮二無二に蛇に掴み掛かる。ただの毒蛇ではなかった故に知能があったのか、まさか無力なはずの赤子が反撃に打って出るとは思わなかったのだろう。その頭を鷲掴みにされた蛇は体をうねらせ、なんとか赤子の手から逃れようともがいた。

 だが、なんとしたことか。大の大人すら絞め殺す毒蛇は、なんと赤子の小さな手から逃れることすらできなかった。万力に締め付けられているかの如く、びくともしない。赤子の小さな腕に体を巻き付かせ、腕を粉砕しようとしても力は微塵も緩まなかった。やがて赤子は毒蛇の頭を握り潰す。生まれ落ちてよりはじめて発揮した無双の怪力、その片鱗。天地すら支えた剛力は、女神の寄越した刺客を一切の慈悲無く圧殺した。

 

 ――なんだ?

 

 赤子は懐疑する。これはなんだ、と。自らの手の中にあるモノの死骸、己の身に余る力の大きさ、自身の置かれた寝所、その風景。何もかもが未知のものだった。

 しかしそれよりも、何よりも。己自身の姿にこそ驚いていた。

 小さな手。小さな体。思ったように動かない、もどかしい肉体。これは誰だ(・・・・・)? 自分の体、なのか。これが?

 そうであるのが当たり前であり、そうであるのが違和の元である。自身はもっと大きな、大人の体を持っていたはずだという懐疑があり、しかしこうであるのが自然であると感じる。

 何がなんだか分からない。知識は何もなく、だというのに自身の置かれた環境が理不尽なものであると感じるのだ。

 白紙であるはずの赤子の意識は、不自然なまでに成熟された理性を持っていた。まるで知識を焼かれ、記憶を溶かされ、ただ意識だけが赤子のそれと混ざりあったかのような異物感。純粋であったはずの彼は、しかし自意識の芽生えと共に純粋ではなくなっていたのである。

 

(………)

 

 赤子は以来、注意深く自身を取り巻く環境を観察した。自身の最も近くに、頻繁に姿を現すのが『母親』と呼ばれる者で。それと親しい『男』が『父親』らしい。

 言葉を解せる頃になると、自分の名が『アルケイデス』であると理解した。漫然と流れる時の中で、アルケイデスは異様に澄み切った意識で周囲を俯瞰していた。

 

 己の名はアルケイデス。母がアルクメネ、父がアムピトリュオン。自身の近くに寝かされている赤子が、アルケイデスの双子の妹のイピクレス。アムピトリュオンはミュケナイという国の王家に連なる血筋で、アルケイデスは王位継承権を持つらしい。

 本来ゼウスの計らいによって、アルケイデスがミュケナイ王になるはずだったが、アルケイデスを憎むヘラの妨害がありエウリュステウスというペルセウスの子孫が王位を継ぐ権利を得たようだが、神ならぬ人の身である者らにそれを知る術はない。そして周囲の者が知らぬのに、赤子であるアルケイデスが自身の運命がヘラに捻じ曲げられたことを知ることができるはずもなかった。

 

「………」

 

 月日が経ち、やがてアルケイデスは少年となった。

 その身に滲む神性故か、見目麗しい紅顔の美少年となったアルケイデスの所作は、自身の世話をする侍女達の関心をよくよく集めていた。

 だがそんな侍女達の目など、アルケイデスの興味を引く対象とは成り得ない。彼はただ只管に不思議だったのだ。自身が生まれ落ちてより十年、片時も想わなかったことはない。

 

 この空に感じる(視える)モノはなんだ。まるで父だと思っていたアムピトリュオンが異父で、そうと知った途端によそよそしくなる前に向けていた視線のようだ。

 実の父が己に向ける、愛情のようなモノを空から向けられている気がする。常にだ。そしてそんなものをはっきりと感じられる自分が不思議で仕方がない。自分はこの空に一体何を視ているのか、自分のことであるのにはっきりとは判じられなかった。

 

「また空を見てるんだね、兄さん」

「――ああ」

 

 宮殿の外れにある庭へ広がる庭園。そこに佇み、空を見上げるアルケイデスに声を掛けたのは、異父兄妹にして双子という奇妙な関係の妹イピクレスである。

 後にカリュドンの猪狩りにも参加したという英雄イピクレスも、この時はまだあどけない少女に過ぎなかった。

 

 イピクレスは想う。この神の血を引くという異父兄は、どこか他の人と違う雰囲気がある。それが神の血に由来する異質さなのか、はたまた異父兄だからこそ持つ特別なものなのか、イピクレスには判断がつかない。しかしどうしてだろう……イピクレスは、この異父兄の見ているものが気になって仕方がなかった。アルケイデスと同じものを見たい。彼と自分は違う(・・)のだと幼心に悟っていても、そう願わずにはいられなかった。

 

「兄さんは、どうして空を見ているの?」

「……さあな。私は別に、理由があって空を視ているわけではない」

 

 早熟に過ぎる――否、既に完成された精神を持つアルケイデスは、幼い身であるが故に歪な少年であった。彼を取り巻く環境が、アルケイデスをそうしてもいる。

 彼の実母であるアルクメネは夫のアムピトリュオンから愛されることはなくなった。というのも、ゼウスは己の子を次代のミュケナイ王にしたいと思い、アムピトリュオンが隣国との戦争に出ている時にアムピトリュオンに化け、アルクメネと一夜を三倍の時間に引き伸ばしてまぐわっていたのだ。アルクメネは相手がゼウスとは知らず、夫を相手にしているつもりであったが、その時に孕んだのがアルケイデスであり。アルクメネに非はないとはいえ、自分以外の男と寝てアムピトリュオンの子と双子として生んだアルクメネを疎むようになっていたのだ。

 愛していた夫に疎まれる原因であるゼウスの子であるアルケイデスは、実母アルクメネに愛されることはなかった。そして人間離れした美貌を持つアルケイデスの世話を侍女に任せたきり、遠ざけるようになっていたのだ。

 

 神の子であり、王家の血筋。そしてアルケイデスが見せる子供のものではない知性。その容貌とも合わさって、アルケイデスはミュケナイ王家の中で孤立しているに等しい幼年期を送っていたのである。

 

 そんなアルケイデスが、その性根を破綻させずにいるのは、傍らに自分を慕う異父妹がいるから――ではない。異父妹がいる必要性は皆無であった。この時点で、あるいは自意識が芽生えた時点で、アルケイデスの精神は既に大人のそれだったのだ。

 神の血を引く故の強固な精神は、孤立している自身を孤高なものとして、一切の苦を感じることがなかったのである。むしろ独りでいられる時間は、彼にとって救いであった。どうしようもなく自身を苛む違和感を、独りでいると忘れていられるのだから。

 

「お前は感じるか? この天空より落とされるものを」

「落とされる、もの……?」

「分からないならいい。私にも分からないものだ」

 

 愛のような慈しみ。それを感じるか否か、禅問答をしたいわけではない。故にアルケイデスはこの空より視線を切る。頭を振って庭園から去るようにイピクレスを促した。

 

「兄さん」

 

 異父妹は呼ぶ。兄は淡く微笑んだ。双子であるというのに、顔の造りから髪の色まで違う少女を、彼は庇護すべき存在であると認識していた。

 父は違えど母を同じくし、血を分けた肉親であるからだろうか。それとも自身よりも遥かに劣る存在だからか。恐らくはどちらでもあり、どちらでもない。曖昧な情がアルケイデスの中にある。

 

「父さんがわたし達に戦車の操術を教授してくれるんだって。兄さんを呼んで来いって、わたしが遣いに来たんだ」

 

 イピクレスの言葉に「そうか」と短く返し、アルケイデスは異父妹と連れ立って異父の許へ向かった。

 

 ――アルケイデスの精神は完成している。

 

 しかしその知は未だ拙く、その力は到っていない。その特異さ故か、アルケイデスは物事を学ぶことに真摯な姿勢を持っていた。

 例え自身を疎み、神の血を色濃く継ぐ半神としての自分を利用するつもりなのだとしても、異父が戦車を操る術を授けてくれるというのなら拒む理由はない。やがて長じれば育てられた恩義に報い、期待しているであろう己の力を振るうことになんら躊躇いはなかった。

 

 後にアルケイデスは異父から戦車の扱いを。

 アウトリュコスよりレスリングを。

 エウリュスより弓術、カストルから武器術、リノスから竪琴を学んだ。

 

 そして――余りにも強過ぎ(・・・)賢明に過ぎる(・・・・・・)と全ての師から匙を投げられ。彼はケンタウロス族の賢者ケイローンに預けられることとなる。

 

 

 

 

 

 



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0.2 無窮の武をこの手に掴む

 

 

 

 

 

 

 ミュケナイ国はアルゴス地方の影響を受け、後のミュケナイ文明を築くに至る。その文明はミノア文明と同じく地中海交易によって栄え、ミノア文明との貿易によって多種多様な芸術文化が流入した。

 故にミュケナイ国は豊かな都市国家であり、その芸術性は一国民にすら広まって心が豊かになると共に、治安の向上にも繋がることとなるが――しかし。ミュケナイ国の内情は、決して平穏なものであるとは言えないものだった。

 

 というのもアルケイデスの義父アムピトリュオンはテーバイ国に属し、テーバイはアルケイデスの出生の地でもあったのだが、アムピトリュオンはテーバイを苦しめていた魔獣『テウメッソスの狐』を討伐。それによってタポス国やエウボイア国との戦争に勝利した過去がある。その後、アムピトリュオンは誤って嘗てのミュケナイ王を殺してしまったことを契機に追放され、テーバイに身を寄せたのだ。アムピトリュオンはミュケナイへの帰還を熱望し、それがテーバイとミュケナイの蜜月に不穏な空気を醸し出していたのである。

 

 文化的にも栄えていたミュケナイだが、元々は『牛の国』と呼ばれる土地で、豊かな牧場が数多くある。逞しく雄々しい牛は権力者の権威、権力の象徴でもあり、この時のテーバイの王がミュケナイの牛が欲しいと溢したという噂が伝わって、二国間には緊迫した空気が流れていた。

 これを良くない傾向と捉えていたのは、他ならぬアムピトリュオンである。彼はテーバイに追放されたミュケナイの者だが、テーバイにも深い恩義があり、二つの国が争いかねない状況に心を痛めていたのだ。

 そこで彼は一計を案じ、テーバイがオルコメノス国という外敵と戦い一時的に国力を落としてしまえばミュケナイと争うどころではなくなり、そのまま二国間の戦争の気運は消滅すると考えた。

 しかし問題があった。オルコメノスの軍は精強で、テーバイの軍だけでは敗北は必至である。テーバイも大事な国であるから不幸な結末を迎えさせてしまうのは偲びない。心強い味方が不可欠であると彼は思案し、そこである男の存在を思い出した。

 

 自身の義理の息子、アルケイデスである。

 

 半神である彼をテーバイの味方につければ勝利することも叶うはず。ケンタウロス族の賢者ケイローンに預けていたアルケイデスが戻り次第、アムピトリュオンは彼をテーバイに呼び寄せる事にした。自身の生まれ故郷のためならば、アルケイデスもまさか協力を渋りはすまいと考えて。

 そうしてアルケイデスの過酷な運命が廻り始めるのは、彼がケイローンの許で武術を学び始め、六年の月日が流れてのことである。全てはアルケイデスが、テーバイとオルコメノス間の戦争に参加してからであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アルケイデスは異様なまでに大人びた少年だった。

 

 生まれついてより持ち得ていた剛力。他者とは一線を画し、両親より疎まれて育った彼の境遇から言えば、自制の利かぬ幼年の身にありがちな癇気によって暴れん坊となるのが自然な流れだったろう。

 しかしそうはならなかった。―――アルケイデスは王家の才ある者として、各地より優れた勇士や学者を招き師として就けられた。中でも太陽神アポロンより弓術を授けられたオイカイア王エウリュトスと、卓越した剣士でもある英雄カストルはアルケイデスを絶賛し、それぞれが『アルケイデスは大人になる頃には自分を遥かに超える英雄となるだろう』と評価した。中でも彼に竪琴を教えたリノスなどは、普段の硬骨漢然とした佇まいを崩してまで褒めちぎってある。

 というのも、リノスの竪琴に対する情熱は比類ない。故に自身の教え子に対しても厳しい指導をし、時には体罰も辞さない性格であった。そんなリノスはアルケイデスが竪琴の扱いを苦手として、なかなか思ったように上達しなかったことに腹を立て、アルケイデスを打擲したのである。

 

 その瞬間、アルケイデスは激怒した。

 

 例え成熟した精神を持とうとも、彼の血の気の多さは半神故に苛烈なものだ。彼の発した凄まじい怒気に周囲の者は顔を青褪めさせ、次の瞬間にリノスを殴り殺す様がありありと目に浮かんだ。

 しかしアルケイデスは我慢した。我慢(・・)したのである。信じがたいことだった。顔を真っ赤にして怒りを抑え、なんとか握り締めた拳をほどいたのである。

 これにリノスは仰天した。彼はアルケイデスが怒り狂って自身を殴り殺すだろうと、体罰を加えた瞬間に悟ってしまっていた。それほどの怒気だったのだ。そして彼がゼウスの子であり、人間を遥かに超える怪力を誇ることも思い出した。殺されることを覚悟し――しかし、彼は怒りを抑えた。まだ二桁の歳にもならぬ少年が、彼のような境遇の少年が、癇癪を起こさなかったのである。

 

 驚嘆すべき自制心であると言えた。

 

 リノスは我に返るとアルケイデスに謝罪し、彼の我慢強さを褒め称えた。冷や汗すら浮かべながら自身を褒めるリノスに、アルケイデスは複雑そうな顔をしたものの、リノスを遠ざける真似はせず最後まで竪琴の扱いを学びきった。

 そうしてアルケイデスは、全く与り知らぬところで評価されることとなる。すなわち『彼のミュケナイ王家のアルケイデス、半神としての荒ぶる力に驕ることなき自制の人である。その精神の気高さは、既にして英雄の其れだ』と。

 

 アルケイデスとしては、一回殴られただけで人を殴り殺すのはいかんと思い留まっただけのことだ。自身の力の強さを知る故に、下手に手を出せば人を死なせてしまうと理解していたが故の我慢だったのである。別に讃えられるようなことをした覚えなど欠片もなかった。

 殴り返さなかった。それだけで称賛されるなど慮外の事態である。数年の時を跨いで自身の評価を知ったアルケイデスは、さぞかし困惑するだろう。そして自分以外の人間の倫理観が、己にとっては野蛮人のそれだと知った時――アルケイデスは何を思うことになるのか……なんであれ、今のアルケイデスには関わり合いのないことである。

 

「はじめまして、私はケイローン。貴方の師となる者です」

 

 ――アルケイデスがその半馬の賢者の許へやって来たのは十歳の頃である。太陽神の弓術、英雄カストルの武器術、アウトリュコスからレスリングを学び、全てを会得した才児であるアルケイデスは、その集大成として偉大なる賢者の許に弟子入りすることになった。

 ペーリオン山の洞窟に住まう彼は、賢者の名に違わぬ本物の智者であった。加えて、彼自身が優れた洞察力を持つことも相俟って、己の下に弟子入りを請いに来た少年にただ事ではない何かを感じ取った。

 

「お初にお目にかかる。私はミュケナイのアルケイデス。我が父母は神ゼウスとアルクメネ。急な訪問にも関わらず迎え入れてくれたこと、深く感謝いたす」

(これは……)

 

 ケイローンは静かに瞠目した。礼節の確りとした所作、王族故に遜らず、かといって傲慢にも振る舞わない態度。

 聞けば十歳だという。――とても信じられない。名君と名高い王や、余程に高潔な英雄でもない限り示さない品がある。しかしその王や英雄、賢臣は裏に打算や一物を抱えていたりするのだが、この少年のそれには一切の不純がなかった。

 

(私に彼を育てろと。……責任重大ですね)

 

 彼は王に仕える賢人の如き佇まいと、神々をも捩じ伏せる剛力を持ち合わせている。それも、生まれた時から。ケイローンが関わらずとも、彼は一廉の英雄となるだろう。しかしもしも自分が彼の力に成れたのなら……並ぶ者のない大英雄、否、ただ英雄であるよりも遥かに価値あるモノとなると、未来を視る眼を持つケイローンは視ずにして確信した。

 

(それにしても……)

 

 見たことがないほどの美貌の少年だった。惜しむらくは、彼の中にあるゼウスの血によって、青年になる頃には見る影もない巨漢となっているだろうことか。

 勿体無い。本当に勿体無い。いや、それはいいのだ。英雄たる男とは筋骨秀でた好漢でなければならないのだから。

 彼を教え、導くのは自分の役割。性にまつわるものも、目上の者として目下の者の手ほどきをするのは何もおかしなことではない。そう、自分が彼を愛し、その愛を以てアルケイデスを立派な男にする。それが自分の使命だ。

 

 アルケイデスは得体の知れない悪寒を感じる。ケイローンの自分を見る目に、艶のようなものがあることに気づいたのだ。早熟であるからこその悟りは、今までに感じたことのない戦慄を未来の英雄に齎した。

 それを気のせいだと思うことにしたアルケイデスである。そんな悍ましいことを、この見るからに紳士なケンタウロスの賢者がするとは思わなかった。

 

「……して、師よ。弟子入りの儀をお受け下さったのなら、まず私は何をすればよいか指示をいただきたい」

「そうですね。私は太陽神より医学、音楽を。月女神より狩猟を教わっていますが、貴方には医や音の心得は不要でしょう。狩猟については少々齧る程度で充分。弓、剣、槍にいたっては……聞いた話ですが、私の教え子のひとりであるカストルが太鼓判を押したのなら専科とするには及ばない。であれば――」

 

 半馬の賢者は薄く微笑みを湛えながら、馬の四肢を動かして無造作にアルケイデスへ歩み寄ってきた。そして手を差し出してくる。握手だろうか。

 握手。それは女神ヘラと女神アテナが交わした友好、あるいは和解の印である。アルケイデスは怪訝に思いながらもその手を取った。この話の流れで握手をする意図が読めなかったのだ。

 大きく、分厚い手の平。ケンタウロスは槍や弓を用いる闘法を主に用いる故か、ケイローンの手もそれに準じるように無骨なものだった。ケイローンはアルケイデスと握手を交わすと笑みを深める。そして、あっ、と思う間もなくアルケイデスの世界が反転した。

 

 トッ、と優しく背中から地面に投げられたアルケイデスは驚愕する。投げられた、と悟る間もない早業だった。ケイローンは柔和に笑みながら、アルケイデスを軽々と助け起こす。

 

「――このような武術を授けましょう」

 

 悪戯っ気のするケイローンの微笑みに、アルケイデスはニッ、と少年らしい笑顔を浮かべた。

 これまで誰からも感じたことのなかった、己より強き者(・・・・・・)であるという確信。それがアルケイデスの中にあった、絶対強者としての驕りを密かに瓦解させたのだ。それはひどく悦ばしく、同時に孤高であった故の寂しさを癒やす妙薬だった。

 そう、寂しかったのだ。

 触れれば壊れる、全力を出せない。強すぎる力を持つがために自身に枷を嵌め、息苦しい日々を過ごしてきた。これで自制する精神がなければ、自身を打擲したリノスを殺し、自由奔放に振る舞っていたことだろうが……アルケイデスはこのギリシアには有り得ないほど、自分の力を厳しく律していたのだ。

 

 ――意味もなく人に暴力を振るってはならない。

 ――人のものを盗んではならない。

 ――みだりに偽りを口にしてはならない。

 ――困っている人には救いの手を差し伸べねばならない。

 

 人としての道徳。言葉にしてみればそれだけのことだ。口にしてみれば当たり前のそれを、アルケイデスは厳格に守っているに過ぎなかった。

 だがそれ故に窮屈で、心の何処かで力を開放する場をずっと求めていたのかもしれない。しかし己の力は強すぎる、人に向けて良いものではない。だから堪えて、自制して……そして今、アルケイデスは今まで一度も出したことのない『全力』を、目の前の男に出しても良いのだと直感した。

 

「師よ。その術に、名はあるのだろうか」

「ええ」

 

 ケイローンは、やはり優しく微笑むだけだ。少年が、自身を師であると認めたのだと察した故に。

 

「たった今、貴方に見せたのは技の片鱗に過ぎません。アルケイデス、貴方に授ける技の名は――全ての力(パンクラチオン)といいます」

 

 ペーリオン山にて。これより後、一組の師弟は毎日のように組み合った。

 アルケイデス。若き日の大英雄(ヘラクレス)。余りにも短い、青春の時代だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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0.3 語るべきものは何もない

 

 

 

 

「貴方に武術を授ける前に、他にも教えなければならないことがあります」

 

 大真面目に――実際にケイローンは極めて真面目だった――ケンタウロス族の賢者は言った。

 アルケイデスは居住まいを正し、生真面目に聞きの体勢になる。彼がこれほど真剣になるなら、それはとても大切なことである気がしたのだ。

 賢者は語る。此の世で最も重大かつ尊い教えを説くために。

 

「それは、愛です」

「……あい」

 

 あい。それはどういう意味なのか、未熟なアルケイデスは、不覚にもすぐには思い至らなかった。

 だが何故だろう。無性に嫌な予感がする。一歩、詰め寄ってきたケンタウロスの賢者に、アルケイデスは本能的に身構えてしまっていた。

 

「命を慈しむ心、他者を慮る義侠心。己を愛し、己の妻子を愛し、己を慕う者を愛し、時には仇敵の心情を汲み和解することのできる穏やかな精神。それを育むこともまた、師たる者の務め。私は貴方に愛を伝えましょう」

「…………」

「アルケイデス。怖がることはありません。私に身を委ねなさい、さすれば私は、貴方に愛のなんたるかを伝えることができます」

「…………………あい、とは。もしや愛情のことなのだろうか」

 

 ケイローンが歩み寄ってくる度に、一歩、二歩と後退するアルケイデス少年の額には冷や汗が浮かんでいた。

 直感する。これはあれだ、アルケイデスにはどうにも理解に苦しむ、いわゆる高尚な文化というやつである。目上の者が目下の者を導く云々というあれだ。

 ケイローンは我が意を得たりと頷いた。逃れたい一心で、アルケイデスは言った。

 

「そ、それならば、私には無用だ」

「何故です? 一廉の英雄には、とは言いません。立派な男になるには必要なことですよ。愛は何よりも尊い、それを知らずしてどうして名を成せましょうか」

 

 心底不思議そうなケイローンだが、強要する気配はない。そこに一縷の希望を見出して、生まれた時から持ち合わせていた心眼(偽)による活路を切り開く。

 

「あ、愛のなんたるか、私は既に弁えている。師よ、偉大なる賢者よ。愛する心、愛するための術、それらを私は知っているのだ」

「ふむ。しかし知っているだけでは……」

「た、体験もしている。何を隠そう、私は私を慕ってくれる妹をよく導き、慈しむ心を得ているのだ……っ! 故に断じよう、師の手を煩わせるまでもないと……!」

 

 両手を前に出して早口に述べる。アルケイデスの生涯に於いて、ただ一度だけ見せた『待て話し合おう』のポーズである。無様である、しかしそんなことよりも大事なものがあった。無様を晒さない誇り高さよりも、貞操の危機を脱さんとする行為の方が余程重大だった。

 アルケイデスの必死の訴えが届いたのか、ケイローンは残念そうに眉を落とした。端正な顔立ちのケイローンのそれは、ひどく罪悪感を煽るものだったが……彼は残念そう(・・・・)だったのだ。油断は絶対にできなかった。

 

「そこまで言うのでしたら……しかし……むぅ……」

「…………」

「分かりました。しかしもしも愛を見失い、道に迷うことがあったらいつでも言いなさい。私は貴方のためにひと膚脱ぎましょう」

「…………!」

 

 その言葉に、アルケイデスは心底安堵した。

 話し合えば人は分かり合える。対話の尊さを学んだ一幕であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――全ての力(パンクラチオン)は打撃技と組技(グラップリング)を組み合わせた格闘技である。

 掴めば必ず壊す。打てば必ず穿つ。打撃の威力を上げるための呼吸法も実在し、これより千年先に開発されるはずの稽古法『ピリクス』も用いられた。

 げに恐ろしきはケイローンの指導力であろう。弟子入り以前からアルケイデスに弓、剣、槍をはじめとしたあらゆる武器術、レスリングなどによる下地があったとはいえ、アルケイデスはケイローンの指導を受けるなり、最初から知っていたようにして全ての力(パンクラチオン)を習得していったのだ。

 

 ――まるで砂漠に水を撒いている気分ですよ。

 

 苦笑するケイローンだが、アルケイデスは師への畏敬の念を強めていた。何故なら彼は理解しているからだ。

 自身には、己すら持て余すほどの大力がある。生まれついてより持ち合わせていた、常人を遥かに超えた勘の良さがあり、英雄カストルやオイカリア王エウリュトスすらも舌を巻く才気があった。

 しかしそれが故の陥穽があったのを、アルケイデス自身理解していたのである。

 過ぎたるは、及ばざるが如し。……アルケイデスは、強すぎた。鍛えるまでもなく、彼の力は剛力に過ぎ、故にこそ武芸を学び始めるや否や彼は自らを縛らねばならなかったのだ。

 

 殺してしまう(・・・・・・)

 

 英雄という名声を持つカストル、アポロンより弓術を学んだエウリュトスすら、師として仰いだ時点で――まだ齢が二桁になる前からそう悟ってしまった。

 力を抜かねば殺してしまう。彼らが弱かったのではない。脆かった。生き物としての規格が違い過ぎた。その気になって戦っていれば、アルケイデスは二人を叩き殺せていただろう。技量云々の通じる手合ではないのだ、アルケイデスという半神は。

 その二人だけに限った話ではない。身の回りの全てに於いて言えることだった。故にアルケイデスは意識して、無意識でも手加減してモノに触れるようにしてきた。そうしなければ、何もかもを壊してしまう気がして恐ろしかったのだ。

 

 ――だがどうだ。ケイローンは幾らアルケイデスが殴りかかろうと、腕を掴もうと、一向に壊れない。壊す前に投げられ、飛ばされ、打ち据えられる。幾らか実力を着け、マグレとはいえ誤って全力の拳を師に叩きつけた時も、ケイローンは痛そうにするだけで死にはしなかった。

 ケイローンはオリンポスの神々と同じく不死だったのだ。つまり――どれだけ本気でぶつかっていっても、ケイローンは絶対に死なないということである。

 

 これがどれほど嬉しかったか、さしものケイローンにすら推し量れまい。アルケイデスだけの歓喜である。殺しても死なない、壊しても壊れない、その心配をして手加減をする必要がない。

 

「は――ハッ、ハハハハ……!」

「やれやれ……いつまで経っても腕白ですね……!」

 

 アルケイデスの力の解放への歓びは、まさに原始のそれである。その身に流れる神の血が飽くなき闘争の喜悦に浸らせ、六年の歳月を経ても翳る気配はまるでなかった。

 ペーリオン山を舞台に繰り広げられるのは拳舞の宴である。十六歳となり逞しく成長したアルケイデスは、今日も山野を駆けて偉大な師へと拳を振るっていた。

 

 ボッ、と大気に風穴を空ける亜音速の拳撃。自身の頭に迫る面積の拳を、ケイローンは絶妙の見切りで躱す。アルケイデスの拳に手を添えて横に逸し、間合いに踏み込むのと同時に勢いよく反転。馬の強靭な後ろ足が、アルケイデスの胸をしたたかに打ち据えた。

 岩石を蹴り抜いたような衝撃である。人間のみならず、巨人の頭蓋をも蹴り砕くケンタウロスの蹴撃は――しかし、アルケイデスを微かによろめかせただけだった。

 不死ではないとはいえ、アルケイデスの肉体は、彼自身の無双の剛力を捻出するに相応しい強靭さを備えていた。自分自身ですら壊せない体である、アルケイデスの怪力を上回る一撃でなければ彼の肉体を壊すことは叶わない。

 

 だがそれは力で対抗しようとした場合に過ぎない。

 

 怯むことなく瞬時に反撃へ転じるアルケイデスの、コンパクトに纏められた拳撃の雨がケイローンを襲う。しかしケイローンはそれを一つずつ丁寧に捌き、隙を見つけては胸の中心に鋭い拳穿を叩きつけた。

 アルケイデスの顔に苦悶の色が宿る。何度も同じ場所を打撃され、凄まじい頑強さを誇るさしもの半神も、ダメージが蓄積しているのを自覚せざるを得なかった。

 一度の打撃だけでは痛痒を与えられずとも、積み重ねればその限りではない。痛みよりも、何度も打撃を喰らい続けることのまずさを自覚したアルケイデスは、果敢に攻めるだけではまずいと防御にも意識を向ける。

 

 その攻めから守りにやや意識が傾いた瞬間を、ケイローンは見逃さなかった。

 

 一転してケイローンが攻める。守りを考慮していないような逆襲である。アルケイデスは師の教えの通りに、ケイローンの拳を丁寧に捌く。つい先日、二メートルを越えたばかりの体躯からは想像もつかない軽妙な体捌きで。

 やがてケイローンの攻めの手より、僅かな隙を見出した。アルケイデスの目が光る。ケイローンの拳を態と額で受け、カウンターとして縦拳を繰り出したのだ。果たしてその一撃はケイローンの顔面を貫く――

 

「ぬッ……!」

「功を焦りましたね」

 

 手応えが軽い。ケイローンは首を廻して、アルケイデスの拳の威力を完璧に逸してのけたのだ。次の瞬間、ケイローンの体がぐるりと回る。馬脚がアルケイデスの顎先を掠めた。

 それだけで、アルケイデスの視界が揺れる。あ、と思う間もあればこそ、ケイローンが軽く胸の中心を小突いてくると、立っていられず尻餅をついてしまった。

 

「筋力の差が激しすぎて関節は壊せない……生半可な打撃では通じる気配もない、であればやりようはいくらでもあります。これはその内の一つの手管です」

「……参った」

「ええ」

 

 ケイローンは手を差し伸べて、アルケイデスを助け起こした。ケイローンは朗らかに、しかし難物を扱う学者のように苦笑する。

 

「困りましたね……教えることが何もない。最初の一年で全ての武術を吸収され、後の五年はひたすらに私と組み手を続けただけとは」

「貴方のお蔭で、私は楽しめた。感謝しています」

「今では三割負けてしまいますよ。やれやれ……これから何年かすれば、私ではもう貴方には太刀打ちできなくなりそうです」

「………」

 

 ケイローンの言葉に、アルケイデスは沈痛な表情になった。

 悟ったのだ、次に彼が何を言うのかを。

 

「貴方に必要なのは、もう経験しかありません。私だけではなく、もっと別の相手との経験を積めば、アルケイデスは真実無双の大英雄と呼ばれるようになるでしょう」

「………」

「合格です。いえ、語弊がありますね。合格というのならそれは五年前に過ぎている。言い直しましょう……山を出なさい、アルケイデス」

 

 山を使った修行の日々だった。

 組み手をして、狩りをして、武器で戯れる……原始の時間だった。

 一生をこの山で過ごしてもいいと、心の奥底で思っていたのを見通したように、ケイローンは一切の反駁を赦さない断固とした眼差しで告げたのである。

 抗弁は無為。アルケイデスは瞑目し、頷く。荷物はない、去れと言われたのなら今すぐに去ろう。アルケイデスは深く頭を下げた。

 

「……いつか、また。貴殿と過ごしたこの六年は、私の生涯の宝だ」

「貴方は鍛え甲斐のない弟子でした。何せ鍛えるまでもなく最強の存在になるのは見えていた未来でしたからね。――行きなさい、今度来る時は、土産を期待していますよ」

「心得た」

 

 それだけを言って、すっぱりと。さっぱりと別れた。

 唐突な別れである。しかしそれでよかった。そうでなければ、いつまでもここに居座り続けていたかもしれないから。

 アルケイデスは、いつか彼にも恩を返そうと心に決めた。

 

 その決意が、後のトロイア戦争の英雄、その幼年期との出会いを齎すのだが――それはまだ、随分と先の未来の話である。

 

 

 

 

 

 

 



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0.4 狂気の気配は音もなく

型月では、ヘラクレスの双子の弟イピクレスが、実は妹だったんだ!ということを感想で言われてはじめて知りました。
なのでイピクレスを急遽妹に変更。まさかの性転換に作者もびっくり。

日本人倫理、妹、狂気、妹の子を自分の子と一緒に炎に投げて殺……あっ()





 

 

 

 

 

 アルケイデス、帰還する。

 

 その報を聞いたアムピトリュオンは、義理の息子を大袈裟に見えるほど歓迎した。

 彼の喜びようときたらとうのアルケイデスが困惑するほどで、何か打算があるのではと疑わせた。

 自身の義理の息子であるアルケイデスを、彼は疎んでいたはずである。アルクメネとゼウスの一件がある故に致し方ないこととはいえ、この掌を返したような態度には流石のアルケイデスも閉口した。

 しかしこれは別段、アムピトリュオンだけが厚かましく、おかしい態度というわけではない。この世界の中で、人は自身に都合がいい事柄に対しては異様にポジティブになるのだ。そこに申し訳なさやらを感じることは余りなかったりする。アルケイデスならそんなことはないのだが、それは彼がおかしいのだ。この時代、この地域では。

 

 初老の男が、両手を開いて満面の笑みでアルケイデスに歩み寄ってくる。宴の準備も万端で、上座の方へアムピトリュオンは親しく義理の息子を案内した。

 

「立派になったな、アルケイデス! 見違えたぞ、よもやこれほどの偉丈夫となり帰ってくるとはな!」

「……」

 

 二メートルを超える巨体は、しかしまだ成長の途上である。神の血(ゼウス・ファンダー)により筋骨格の隆々たる漢となるのが宿命づけられているとはいえ、今のアルケイデスは十六歳。まだ紅顔の美少年だった頃の面影のある、身長とも相俟ってかなりの美丈夫としての偉容があった。

 そんなアルケイデスは、周囲の侍女達――や男達――の熱い視線を受けて居心地が悪い気分だった。ケイローンの許へ修行に出て、それなりの年数を過ごしていたからか、一層他者からの不躾な視線が堪えた。救いを求めるように視線を周囲に向けると、淡く微笑みながら自分を見る異父妹のイピクレスがいるのを見つけた。

 同じく十六歳となり、美しく成長していた妹の姿に、アルケイデスは懐かしいやら愛おしいやらで眼を細めた。

 

 軽くウェーブした金髪に、ゆったりとした衣服の上からでも分かる豊かな肢体。母に似て穏やかな美貌の中に、父と同じ気の強さを感じさせる。アルケイデスがイピクレスを手招くと、たおやかな所作で彼女は側に寄ってきた。

 

「兄さん、お久しぶりです」

「ああ。美しくなったな、イピクレス」

「兄さんこそ」

 

 久闊を叙する気持ちで言うと、なんとも反応に苦しむ応えが返ってきた。

 二メートル超えの身長の、美丈夫となったアルケイデスだが、美しくなったという形容は間違っている気がしてならない。

 

「……」

「ふふふ、その顰めた顔、昔と一緒ですね」

「……お前は昔とは違うぞ。随分と女らしく笑うようになった」

 

 アルケイデスがケイローンの許へ修行に出る前、イピクレスは何かと兄の真似をして武芸を習うことに熱心だった。アルケイデスと比較するのは可哀想だが、女の身でありながら彼女はなかなか筋がよく、カストルも褒めていたような覚えがある。

 和やかに語り合う兄妹に、アムピトリュオンは特に思うところはなかったようだが、早く本題に入りたいのか割って入ってきた。昔から懐いてくれていた妹との会話に割って入ってこられても、それが悪意によるものではないと感じられるからこそアルケイデスは気分を害しはしなかった。

 

「イピクレスは昔からお前の真似をしたがっていたが、それは今でも変わってはおらんよ。女だてらに剣で男を打ち負かし、弓を使っての狩りでも男顔負けだ。しかしまあ、母となって(・・・・・)以来は落ち着いてきたがな」

「! イピクレス、子を生んだのか」

「はい。名はイオラオス。元気な男の子ですよ」

 

 アムピトリュオンの言葉に、アルケイデスは驚愕した。微笑むイピクレスは幸せそうだったが、まだ十六歳の妹が子供を生んでいることは彼にとって衝撃的だった。

 しかし別段おかしな話でもない。むしろ当たり前である。アルケイデスにも子供がいてもおかしくない年齢だった。自分以外はそういう倫理観なのだと、山に籠もっていた彼は忘れていたのである。浮世離れしてしまっていたなとアルケイデスは呆然とする。

 

 イピクレスが侍女に目配せすると、年若い侍女がひとりの男児を連れてくる。その少年を眼にした時、アルケイデスは今日二度目の驚愕を味わった。

 その少年はどう見ても四歳かそこらといった年頃だったのだ。アルケイデスを見上げる純粋な瞳に、アルケイデスは唖然とした顔でイピクレスとアムピトリュオンを見た。

 

 アムピトリュオンは連れてこられたイオラオスを見て露骨に顔を緩め抱き上げた。孫が可愛くて可愛くて堪らないといった風情で、彼がアルケイデスを歓迎するほど丸くなっていたのは、打算はあっても含むものがなくなっていたからかもしれないと、漠然と直感する。

 

「イオラオス、この方はわたしの兄、アルケイデスです。ご挨拶なさい」

「はい! ぼくはイオラオス、三……四歳です! よろしくお願いします伯父上!」

「あ、ああ……アルケイデスだ。イオラオス、元気に育てよ」

「うん! じゃなかった、はい!」

 

 にこにこと祖父の腕の中でアルケイデスを見るイオラオスに、アルケイデスは内心で頭を抱えていた。四歳ということは、イピクレスは十二歳の時にこの子を生んでいることになる。妹の夫はとんだロリコンらしい、今度会ったら殴ってやろうかと思ったが、別におかしな婚姻ではないのだと思い至る。

 周囲との価値観、倫理観の違いには慣れていたつもりだったが、これはなんとも頭が痛い。下手に妹の旦那を殴れば、実は自分が妹に懸想していて、情欲の相手として見ていた女を取られたから殴ったのだと誤解されかねない。もどかしい話だった。

 

「アルケイデス、頼みがある。義父の頼みを聞いてくれ」

 

 宴がはじまると、アルケイデスは酒を勧められた。お酒は二十歳からと決めていたアルケイデスであるが、目上の人間から勧められた酒は断りづらい。渋々酒に口をつけたアルケイデスだが、ちびちびと飲むだけで酔うような飲み方はしなかった。

 イピクレスを隣に座らせ、自分の膝の上にイオラオスを座らせる。というより、イピクレスが押し付ける形でイオラオスを預けてきたのだ。わたしの代わりに、この子を側に仕えさせてくださいと――何か物悲しげに言われては断れなかった。

 アムピトリュオンはそれを見て、義理の息子が押しに弱い性格になったのだと見切った。これならいけると踏んだアムピトリュオンは、長年の悲願を叶えるために告げる。

 

 アルケイデスは義父の言葉に、居住まいを正した。

 

「聞かせてもらおう。育てられた恩義に則り、仁義に悖るおこないでなければお引き受けさせていただく」

「おお! そう言ってくれるか!」

 

 頼みを聞く前から快諾されたアムピトリュオンは感激した。なんとよい男になったのか、なんと義理堅い言葉なのか。胤が違う息子とはいえ、疎んでいたのが間違いだったと、アムピトリュオンの中でアルケイデスへの蟠りが氷解する。

 現金な心変わりだが、やはりこの世界ではおかしくはない反応だ。アムピトリュオンは感激したまま言う。

 

「実は儂の故郷のミュケナイと、第二の故郷とも言えるテーバイが事を構えようとしておるのだ。この二国間で争うのを見るのは偲びない。そこで儂は、二国の争いの漁夫の利を狙っておるオルコメノスの軍とテーバイをぶつけ、テーバイの軍事力を落とさせて争いが起きぬように計った。テーバイのクレオン王は儂の思惑通りオルコメノスとぶつかる気でおる。しかしオルコメノスの軍は強敵だ、テーバイの軍だけでは負けかねん。そこでアルケイデスよ、テーバイに味方してオルコメノスを打ち破ってはくれんか?」

「承った。テーバイに味方し、私はオルコメノスを討とう」

 

 戦争。つまり、人を殺すこと。それは忌避すべきことだが、この世界では珍しいものではない。いつかは体験することであると覚悟はしていた。

 アルケイデスの精神力であれば、倫理が反発するとはいえ、覚悟を固めてしまえばそれを無視することもできた。自身の倫理観よりも、恩義に報いることの方が彼にとって大切だったのだ。それは義侠心である。

 

 即答したアルケイデスに、イピクレスは微笑み。膝の上のイオラオスは訳は分からずとも無邪気に笑い。アムピトリュオンはもう涙ぐんですらいた。義父は言う。

 

「そうか……そうか、そう言ってくれるか……! ふふふ……その心意気、嬉しく思う。……戦勝の暁には、そなたにクレオン王が娘を妻として与えると言っておった。励んでくれよ。二つの意味でな。そなたの子も、儂の孫であるからな」

「!?」

 

 知らぬところで婚姻が決まっているらしいことに、アルケイデスは本日三度目の驚愕に固まった。

 酒を飲み上機嫌な義父に、アルケイデスはこめかみを揉む。色を知る年頃ゆえ、そういうことに興味はあったのだが、まさか一足飛びに妻を得ることになるとは……。

 

 せめて事前に噺を決める前に、相談ぐらいはしてほしかったが……機嫌の良い義父を見ると、どうにも責める気になれないアルケイデスだった。

 

 

 

 



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0.5 英雄は光を望み、その背に迫る闇に気づかなかった

 

 

『ウィキより抜粋』

 

 ヘラクレス。ギリシア神話の英雄。実在した(・・・・)のではと目する学説を展開する歴史学者もいる。ギリシア神話に登場する多くの半神半人の英雄の中でも最大の存在であるが、同時に最もギリシア神話の英雄に相応しからぬ存在でもあると名高い。

 というのも彼は決して略奪を働かず、姦淫を唾棄し、当時は当たり前とされていた同性愛を行わず、目上の者を敬い、目下の者を慈しんだ。不当な暴力を振るわず、助けを請われれば報酬がなくとも手を差し伸べ、罪もない人々を虐げる者には例えどれほどの権力者であっても立ち向かった。

 一方で自己主張が薄く、交渉事に弱かったという。その性格からか他者に良いように使われることも多く、そのことで終生の従者であるイオラオスが嘆いていたという。

 情に脆く、妻とした者をよく愛し、子煩悩でもあった。ここまで言うと、力が強く、優しく礼儀正しい、まさに理想的な父であり夫であるが、彼もまたギリシア神話の英雄であり、その本性は極めて苛烈で陰湿なものだった。

 理不尽な目に遭っても我慢して我慢して我慢して、ある日突然爆発する様から、一部から『まるで日本人の外交姿勢のようだ』と揶揄される行動原理を持つヘラクレスが、どうして苛烈で陰険な行いに手を染めたのかは後述するとして、まずはヘラクレスの別名を紹介するべきだろう。

 ヘラクレスを称号とすると、その本名はアルケイデスといい、祖父の名のままアルカイオスとも呼ばれていた。後述する十二の功業を行う際に、ティリュンスに居住するようになった彼をデルポイの巫女が『ヘラの栄光』を意味するヘラクレスと呼んでから、周囲の者にヘラクレスと呼ばれるようになった。しかし彼自身はただの一度も(・・・・・・)その名を自ら名乗ることはなかった。

 その一事からして、内心含むところがあったのではと指摘する声は多い――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――雄ォォオオオッ!――

 

 英雄アルケイデスのために鍛えられた、彼の身の丈ほどもある巨大な剣が颶風を纏って振るわれる。策も何もなしに敵軍勢に真っ向から突撃し、暴れ回る様はさながら竜巻である。

 人の身では抗うことの能わぬ暴風雨――天災が如き暴力装置――敵の戦士を当たるを幸い薙ぎ倒し、肉片に変える獰猛な人災。その脅威に直面させられたオルコメノス軍は恐れ慄き士気を崩壊させた。味方であるはずのテーバイの軍勢すら畏怖の念を隠し切れず、この戦場はたった一騎の英雄による蹂躙劇の様相を呈していた。

 恐れをなして遠巻きに矢を打とうとも、剣の一閃で巻き起こる旋風で撃ち落とされ、オルコメノス随一の勇士の呼び声高き戦士が挑めば、たったの一撃で武器ごと、防具ごと叩き潰された。一万のオルコメノス軍は、五千のテーバイ軍など歯牙にも掛けぬはずが――たった一騎の半神を前に壊走させられてしまう。

 

 この戦いでアルケイデスが討った英雄は三騎。討ち果たした敵兵は三千を数えた。敵軍の三割が、アルケイデス一人のために討たれたのである。途中で敵兵が逃げずに戦い続ければ、百万いたところで全滅していただろう。

 

「こっ、こっ、こここ、降伏するぅ――!」

 

 威厳ある髭を蓄えたオルコメノス王クリュメノスが、恥も外聞もなくアルケイデスの前に平伏し、命乞いをしたのをテーバイの誰も馬鹿になどできなかった。あの化物(・・)を前にすれば、自分達もまた同じ様を晒していただろうと悟っていたから。

 

 オルコメノス軍の兵士達と、その王の目はアルケイデスを化物のように見ていた。目は口ほどに物を言う。実際に化物めと、戦場で罵られもした。

 

「………」

 

 人生で初の戦場、初の殺人。それそのものに感じるものがないと言えば嘘になる。

 己より明確に弱いものを殺すことに抵抗はあった。罪悪感も、ある。忸怩たる思いがあった。こんなにも弱い人間達を、己はただ殺し、潰し、轢いたのだ。

 達成感も、安堵もない。こうなるのが分かりきっていた。世界はこんなにも脆い生き物ばかりで、そう認識してしまう自分は確かに化物なのだろう。やはり己は人間ではないのだ。自分の中の倫理感が周囲の人々から乖離しているのも、自分が人間ではない証なのかもしれない。

 

 神の子。

 

 その血が齎す運命があるのだと、この時に漠然と感じていた。強すぎるが故の孤高、それは断じて心地よいものではなく、ひたすらに虚しいだけだった。

 

「よくやってくれた! お前こそまさに英雄の中の英雄だ!」

 

 実際の戦場を見ていないテーバイ王クレオン、義父のアムピトリュオンはアルケイデスの武勇を称賛した。勝てないはずの敵国を、ほとんど被害もなく下せたことに興奮しているのだろう。アルケイデスがオルコメノス王に戦の賠償を支払うことを約束させ、テーバイに富を齎したこともクレオンの機嫌を上向かせていた。

 クレオンが欲したのは牛である。権力の象徴ともなる牛。それをオルコメノスから得られるのだ、もはやテーバイがミュケナイの牛を欲する理由がなくなり、アムピトリュオンも満足していた。

 

「褒美をやらねばな。我が娘のメガラ、約束通りお前の妻として与えよう。これからも何かあれば頼らせてもらうかもしれん、その時はまた頼むぞ、アルケイデスよ」

「………」

 

 戦勝の宴の最中アルケイデスは終始無言であり、テーバイ王クレオンの労いにも黙って頭を下げただけだった。

 己の娘を、女を……人間を物のように扱うクレオンと口を利きたくなかったという心情もあったが、硬い表情で自身の側に寄ってくる自身より若い――有り体に言って幼い少女がやって来たのに閉口したのだ。

 しかしアルケイデスは頭を振った。顰め面をしていては、メガラを無為に怖がらせるだけだと悟ったのである。体を固くして己を見る少女の肩を、アルケイデスは優しく抱き寄せた。妻として貰い受けるのは既定路線、断ることなどできない。ならばできる限り心の籠もった対応をしようと今、決めた。

 メガラは美しいながらも幼い顔をきょとんとさせ、アルケイデスの腕の中で夫となる青年の顔を見上げた。ぎこちないながらも微笑むアルケイデスに、少女は怖い人に嫁がされるわけではないのだと感じたのだろう。ホッと安心したように表情を緩めた。

 

 そうなればメガラにとって、アルケイデスは理想的な男だった。美しく、力強い。この世界の女の視点で見れば、体が逞しく優しい男は、よほどのブ男でない限り掛け値なしの優良物件なのだ。アルケイデスに抱かれるまま宮殿を出たメガラは、この人なら愛せると安心していた。結婚に女の意志など介在する余地のない時代、アルケイデスに嫁げたのは望外の幸運なのだとメガラは思う。

 

 その後、アルケイデスは妻と親睦を深めるべく語り合いたいと言って、その場を辞した。

 

 しかしアルケイデスには語るものなどない。趣味と言えるものがなく、幼い少女と何を話せばいいか分からなかったのだ。星々の煌めく夜空を、妻となったばかりの少女と見上げると言えば詩的かもしれないが、アルケイデスにとっては気まずいだけで……。だがメガラにはそれが、夫が自分を気遣って黙っているのだと感じた。

 

「あ、あの……旦那様」

「………なんだ、メガラ」

 

 旦那様と呼ばれると、なんとも体が痒くなる。アルケイデスは女を知らない、しかも己と比べることすら憚られるほど脆弱な体なのだ。壊れ物を扱うように恐る恐る反応すると、メガラは華が綻んだように可憐な貌を見せる。

 

「わたし、旦那様のお子を、きっと沢山生んでみせます。だから、愛してください。わたしも、旦那様を……旦那様だけを愛しますから」

「………」

 

 一瞬、アルケイデスは呆気に取られた。

 こういうことを、女に……それも年端もいかない少女が言う世界なのだ。遣る瀬ない気持ちになる。アルケイデスは言葉を選び、努めて優しく返した。

 

「私もそのように努力しよう。しかしまだ子を生む必要はない」

「え……」

「お前に魅力がないわけではない」

 

 愛してくれないと思ったのか、不安そうになるメガラにアルケイデスは言った。

 

「まだ幼いではないか。その歳で子を生むと、体に悪い。子供云々を言うのは、もう少し成長してからの話だろう」

 

 己はロリコンではない。アルケイデスは『ロリコン』という言葉は知らずとも、そのような意味合いのことを思った。

 メガラは夫の言葉にパッと顔を明るくした。彼は身の回りの男と違って自分を気遣って言ってくれたのだ。自分を情欲の対象として見てくる男とは違う……。英雄と呼ばれる夫であり、そして他とは違う優しさを感じて、アルケイデスにメガラは尽くそうと決めた。結婚相手を選べない家の女が望む、理想の存在だった。 

 

 ひしりと自身にしがみついてくるメガラを、アルケイデスは見据える。

 

 体に直接纏った衣服から覗く足首の儚き細さと、少女然とした細い腰周り。ようやく実りはじめた果実のような胸の膨らみと、腰元よりもやや下方まで伸ばされた金の髪の隙間から覗く白いうなじ。そのうなじの美しさときたら、倒錯的な嗜好のものなら首を絞めて手折ってしまいたくなるほどだろう。

 将来は誰が見ても美女と讃えるに足る女になる。その蕾のような可憐さに、アルケイデスは目を背ける。彼は理解していた。美しい女というのは、時に争いを招くのだと。

 

(私が守らねばならん)

 

 彼は誓った。メガラを守ろうと。それが望まぬ相手と結ばされた少女への、最低限の報いである。せめて自分がいる間だけでも、あらゆる争いから遠ざけられるように。この少女には、何よりも平和が似合うのだ。

 

 守ろうと、明確に意識してはじめて誓った少女、メガラ。これより五年の後、二十一歳となったアルケイデスは、十九歳のメガラとの間に第一子をもうける。そしてそのまま一年ごとに二人の子を生み、それぞれをテリマコス、クレオンティアデス、デイコオンと名付けた。

 長男と次男、長女の三人と妻を、アルケイデスは心から慈しみ、育てていく。

 愛があった。彼女達を守って、生涯を終えるのだと……誰にも負けない力を持つアルケイデスはそう信じていた。

 

 そんなアルケイデスの前途には、暗雲が立ち込めていて――

 

 ――ひとりの女神が、幸せな家庭を築いていたアルケイデスを、嫉妬と憎しみの籠もった目で見続けていた。

 

 

 

 



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0.6 序章を終えたと人は見る

Sheeenaさん、度重なる誤字脱字修正ありがとうございます!
なくなるように努力します。





 

 

 

 

 

『――――』

 

 耳元で、何かが、囁いている。

 耳に、糸が入れられるような。

 黒く、粘ついた液体が流し込まれてくるような。

 そんな……破滅的な情動に。ココロが絡め取られていく。

 

 抗った。

 懸命に、必死に。

 打ち払えぬものなどないと自負する豪腕を、遮二無二に振るって抗う。

 だが払えども払えども、絡みつく糸は絶えることがない。

 怨念、と呼ぶには陳腐な声。

 醜く狭量な金切り声。

 耳障りな癇癪。

 

 吼えた。

 

 力の限りに、声も枯れよと。魂魄すらも燃料として。

 しかし、何かが足りなかったのか。するりと、ほんの僅かな隙間を声がすり抜ける。

 吼えた。それは、断末魔にも似て――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日も、平和だった。

 

 神話に記され、人理に刻まれ、人類史に燦然とその名を輝かせる大英雄といえども、常にその人生が激流の如きものであるとは限らない。

 平穏があった。戦火とは程遠い静寂な日々があった。

 川のせせらぎが聞こえる。木々の葉が風に吹かれて擦れ合い、涼やかな風情を届けてくれる。山の中、仕留めた魔猪の骸を前に膝をつき、両手を合わせた。

 命への感謝。狩った獲物への、感謝。その命と、その肉を貰い受けることへの、ささやかな自己満足の儀式。

 健康的に日焼けした上半身を晒し、腰布を巻いただけの男は、背中にまで届く艷やかな黒髪を首元で束ねている。鍛え上げられた肉体には、満遍なく筋肉の甲冑が(よろ)われていた。

 身長二メートル二十センチほどの偉丈夫は、精悍な面構えの中に充足感を満たして。自作した大弓を肩に掛けるとその反対の方に大岩ほどの大きさの魔猪を担ぎ上げる。

 

 日輪は中天に。狩りの成果は上々であるが、冬が本格的に始まる前に、今少しの蓄えがほしいところだった。

 

「…………」

 

 偉丈夫の名は、アルケイデス。この年、二十七歳となっていた。

 彼の体に流れる神の血によって、幼き頃の美貌はその面影を残してはいない。しかし如何なることか、外見的なものに限るとはいえ、彼の肉体は人間の規格を超えることはなかった。 

 その剛力は伝承の如くに。その武威は経験を抜かせば等しく変わらず。されど並外れた肉体は、決して人間離れはしていない。その貌も、精悍な勇士の趣を湛えた美丈夫のそれである。

 

 彼に宿る神性、神の血に不備があったわけではない。その証拠に彼の力はなんら衰えることなく、成人したことで完成したものと相成っていた。今のアルケイデスならば天地を支え、大地を割り、山脈を砕いて海底に沈めることも叶うだろう。これより先、経験を重ねれば何者にも劣ることはあるまい。

 本来なら二メートル半ばを超える巨漢となり、その顔や体も岩から削り出された巌の如きものと化していたはずが、なにゆえに怪物じみたそれに変わっていないのか。その原因は……実を言うとアルケイデス本人にも分かっていない。

 

 ――理由は、ささやかなものだった。

 

 彼は神を好んでいない。己に流れる血を好んでいない。――その事実が、彼の中の神性を翳らせ、結果として肉体の不必要なまでの膨張を妨げているのだ。

 何もアルケイデスは、神を嫌っているわけではなかった。好いていないだけで。極論してしまうと無関心だったのだ。

 

 己の父はゼウスである。……それがどうした? 顔も見せず、世話になった覚えもなく、言葉を交わした記憶もない。それでどうして父だと思える。

 単純な話だ。他者とは異なる倫理観を持って生まれたアルケイデスは、この神代に於いて当たり前に持っていて然るべき神への信仰を、寸毫たりとも持ち合わせていなかったのだ。神はいる……だからなんだ? 自分の生活には関係がない。神を信じるも信じないも好きにすれば良い、だがその価値観を押し付けるな。己も自分の価値観を他者に押し付けたことはない。

 

 中立だった。正や負の感情のない、極めて無関心な形での。

 

 故にアルケイデスの神性は、本来のそれよりも濃度が下がっている。神代のこの地域では、王家は大概が神の血を引いた者ばかりで、その中でも最高の神性を持つはずのアルケイデスのそれは、あくまで平均的なものに過ぎなくなっていたのだ。

 彼は本当なら月女神アルテミスを信仰し、何よりも敬愛し、月女神への礼拝を欠かしたことはただの一度もなかったはずが、このアルケイデスはそもそもどの神にも祈ったことも信仰したこともない。まさに――無関心の極みである。

 

 何年か前、そんなアルケイデスを不遜であると、罰するべくとある神が獣を放った。しかしアルケイデスは、それが神からの刺客であると気づくこともなく仕留め、その亡骸は彼の一家の胃袋に消えていた。

 そんなものだ。神々をも超える膂力を持つアルケイデスは、誰に憚ることもなく平穏に過ごしていた。あらゆる英雄を凌駕する武力を振りかざさず、名声と富を求めて冒険することもない。近隣諸国の抑止力として、小さな集落でほそぼそと生活していただけだった。

 

「む……」

 

 そんな彼の顔に、ひた、と冷たいものが触れる。

 雪だった。山道を歩いていたから気づくのが遅れたが、太陽が隠れて雪が降り始めていた。今年最初の初雪である。

 アルケイデスは口の中で呟く。もう雪が降り始めるのか、と。気持ち歩き足を早め、アルケイデスは帰り道を急ぐ。その途上、木の根に足が取られて危うく転倒するところだった。

 舌打ちする。体のキレが、明らかに悪い。二年ほど前からだったか、その頃から満足に眠れない夜が続いているせいで、どうにもアルケイデスは精彩を欠いていた。

 病なのかと疑ってみたが、医者が言うには健康そのものだという。なら何かがあるはずだが、その原因がとんと思いつかない。

 

 テーバイの外れにある小さな集落につく。そこはアルケイデスがクレオンに求めた、自分の一家と親族のみが足を踏み入れられる小さな領地である。領地と言っても、実態は小さな村ほどもないのだが、アルケイデスにはそれで充分だった。

 

「あっ――とと様!」「わぁ、とと様帰ってきたー!」「かか様ー! とと様帰って来たよー!」

「………」

 

 アルケイデスが建てた、集落の中心にある大きな館に近づくと、敏感に父の帰還を察知した小さな子供たちの声がこだまする。

 四歳である末の娘のデイコオンが、短い手足をばたつかせるようにして駆け寄ってきた。「とと様ー!」危なっかしい足取りだが、満面に笑顔を咲かせて駆け寄ってくる愛娘に、アルケイデスは頬を緩めて大弓と魔猪を地面に放り出し、愛娘の両脇に手を差し入れて高々と抱き上げる。

 きゃっきゃっと喜ぶ娘にアルケイデスは微笑んだ。金髪のメガラと、黒髪のアルケイデスとは異なり、白い髪の妖精のような幼子である。顔立ちが似ているのはメガラで、その神の血ゆえの赤い瞳がアルケイデスと同じだった。尤も、瞳の色は他の子供たちも同じではあるのだが。

 

「良い子にしていたか、デイコオン」

「うん! あっ、そうだ聞いてとと様! にい様がひどいんだよ、わたしのお人形とって返してくれないの! とと様とかか様がくれた大切なものなのに!」

「ほう? まったく、やんちゃな小僧どもが……誰に似たんだろうな……」

 

 呆れて館の方へ目を向けると、出迎えにきたメガラの影に隠れる二人の男児がいた。

 長男のテリマコスと次男のクレオンティアデスだ。それぞれ黒髪と金髪で、両親の血を別個に継いだような印象がある。

 二人の息子たちは、妹がやはりアルケイデスに泣きついたのを見て苦い表情をしていた。こうなると分かっていたのだろう。分かっていて、妹の大事にしている人形を取ったらしい。単に意地悪がしたかっただけなのか、それとも別に理由があるのか。

 さて。アルケイデスは頭ごなしに叱りつけたりはせず、息子たちに声を掛けた。

 

「テリマコス、クレオンティアテス、なぜデイコオンの宝物を盗った? 場合によっては折檻せねばならん。正直に訳を話せ」

「いーっ、だ!」

 

 アルケイデスにしがみついて、兄二人に対して舌を出すデイコオンに、二人の兄は顰め面をするばかりだった。

 だがメガラに背中を押されると、渋々といった様子で話し出す。口火を切ったのは次男のクレオンティアデスだ。

 

「だって……」

「デイコオンばっかり、ずるい。とと様、デイコオンばっかり構う」

「おれ達にも何かくれるって、前、約束したのに……」

「全然何かくれる感じしない」

「………」

「旦那様」

 

 息子達の言い分に、アルケイデスは口籠った。

 確かに約束していた。二人にも贈り物をすると。しかしその約束を履行する気配が感じられなかったから、こんな形で抗議してきたのである。

 微笑ましげにメガラに呼びかけられ、父親は嘆息した。デイコオンを離して魔猪と大弓を担ぎ、館の裏に向かう。ついてこい、と短く告げて。

 

 理由が理由だから、叱るに叱れなかった。仕方ないと諦めて、観念する。できればもう少し時を置いてからにしたかったが、もうそうも言っていられないだろう。

 

 良いことがある予感がしたのか、わくわくした様子で二人の息子達はアルケイデスの後を追った。デイコオンは目をぱちくりとさせ、メガラに連れ添われてゆっくり男達を追う。

 

 裏庭に行くと、アルケイデスは猪の脚を庭木に吊るし、小さな倉庫に入っていく。そしてすぐに出てくると、息子達に言いづらそうに告げた。

 

「……お前たちにはこれを贈ろうと思っていた」

 

 そう言って差し出したのは、不格好な青銅の剣と槍、弓だった。

 アルケイデスの手製である。息子達が眼を輝かせるのに、父親はばつが悪い気分だった。

 

「もう少し形にしてから渡そうと思っていたのだがな……いかんせん、鍛冶仕事は不慣れだった故、手間取っていた。不細工だが……受け取ってもらえるか?」

「うん!」「もらうよ!」

「そうか……」

 

 嫌がる素振りもなく、嬉々としてアルケイデスから武器をもらうと、きらきらとした目でそれを見詰めた。

 男の子だからだろう、こういったものに目がないのである。アルケイデスは咳払いをしてテリマコス達に言った。

 

「危ないから振り回すな。今度稽古をつけてやる。それまで大人しくしていろ。わかったな?」

 

 はーい! と返事だけは立派な二人に、アルケイデスはもう苦笑するしかない。

 元気に駆け出して――思い出したのか、クレオンティアデスが懐から衣服の切れ端に綿を詰めて編まれた人形を、妹のデイコオンに返した。

 

「ごめんな。これ、返すよ」

「むー……なんか、納得いかない……」

「ごめんって」

「いいよ、許す。けど一緒に遊んで!」

「えー……」

 

 えーって、何よ! とデイコオンは兄にぷりぷりと怒ってみせたが、傍から見ているアルケイデスとメガラにとっては微笑ましいだけだ。

 メガラはアルケイデスに寄り添う。武骨な腕で夫は妻を抱き寄せた。

 結婚して十年以上が経っている。当初は義務感からだったが、アルケイデスは次第に本心からメガラを愛するようになり、メガラは変わらず夫に尽くしていた。たとえ王族らしくない、猟師のような生活であっても厭うものもなく、贅沢も言わず、今の生活を愛おしく思ってくれている。

 幼かった少女は美しく成長し、その淑やかで母性と少女性の両立した佇まいは、メガラの美貌を容姿以上に魅力的なものにしていた。

 

「良い子に育ってくれている。お前のお蔭だ、メガラ」

「旦那様のご教育のお蔭です。わたしなんて、ただ甘やかしてるだけですもの」

「……お前がいるからだ」

 

 どちらからか、軽く口づけを交わす。身長差は激しい、故にアルケイデスは身をかがめているのか少し可笑しくて、メガラは母であり乙女の顔で夫に微笑む。その笑顔に、アルケイデスがどれほど救われているのか、彼女には分かっているのかもしれない。

 

「今年の冬は、余裕があるな」

「はい。この猪、すごい大物ですもの。お客様を招いても、まだ余裕がありそうです」

「……呼んだのか?」

「ふふふ。イピクレス様と、そのお子様達を。もうそろそろ着く頃合いではないでしょうか。旦那様のお誕生日ですもの」

 

 そう言って悪戯っぽく言われ、アルケイデスは苦笑いする。確かに妹に会いたい気もしていた。イピクレスに、自分の子供達と妻を自慢したいのだ。

 お見通しか。まったく、敵わんな。――アルケイデスは肩を竦めメガラを離した。魔猪を捌くことにしたのだ。こういうのは早い方が良い。

 

 そして少しすると、本当に人の気配が外から近づいてくるのを感じた。メガラはアルケイデスの反応で察したのだろう。お食事の用意をしてきますねと断って、楚々とした足取りで館に入っていく。

 その背中を見送り、アルケイデスは肉を捌き。

 

 兄様、と声がした。イピクレスだ。妹の子供で、立派な少年に成長していたイオラオスもいた。その兄弟たちも。

 

 よく来たな、歓迎しよう――そう言ったアルケイデスは、

 

 次第に、その意識を暗転させていった。

 

 

 

 



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0.7 神託は下った

 

 

 

 

 どうしたの? たかいたかいしてくれるの?

 

 とと様……? 火、どうするの……?

 

 うわぁ?! とっ、とと様ぁ、やめて! やめてぇ!

 

 とと様、とと様! かか様を離して!

 

 ぅ、ぁ……()ぅ……ど、どうなさったのですか! どうしてこんな!?

 

 やめて! その子を離して! ぁ……あなた、旦那様じゃない……?

 

 うわぁ! 熱い、熱いィィイ!

 

 ぁあぁああああああ!

 

 デイコオン! ……お、お前ぇ! とと様を返せぇ! 誰だよ、お前!

 

 旦那様! 帰ってきて、帰ってきてください、そんな奴に負けないで!

 

 ああぁぎぃぁあああ………。

 

 あ、ああ……。

 

 旦那、様……。

 

 ……。

 

 ……旦那様。わたしは貴方を、

 

 愛しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 兄さん。

 

 ――声がした。

 

 兄さん。

 

 ――声が、したのだ。

 

 体皮を焼く熱気に、脳漿まで沸騰しているようで。冒涜的な火炎の舌に、剥き出しの神経を嘗められているかのようだった。

 深酒をして、酩酊した夜の宴を思い起こされるような、頭の重い最低の心地。

 頭の中に掛かっていた靄を、死に物狂いで掻き分ける。底のない泥沼に肩まで浸かってしまったような……悪い夢の中にいたような気分だ。

 

「兄さんっ!」

「ぐ……!」

 

 頭に走る疼痛に呻き声を上げる。生半可な苦痛になど、小揺るぎもしないはずが、この痛みには耐え難い不快感があった。

 目の前に掛けられた垂れ幕が除かれたように感じる。アルケイデスはふらつく脚でなんとか踏ん張ろうとして、自身を支えるようにして腰にしがみつくイピクレスとイオラオスに気づいた。

 

「どう、した……? 何をしている……?」

「! 正気に戻ったんだ、兄さん!」

 

 ――いや、支えているのではない。

 その非力な腕と体で、アルケイデスを拘束しようと必死になっているのだ。

 しかし生憎と、どれだけ力んだところで、普通の人間でしかないイピクレスとイオラオスではアルケイデスをどうこうできるはずもなかった。

 恐る恐る離れる二人を尻目に、アルケイデスはまだはっきりとしない意識を起こすために頭を振った。

 

 そして今更のように――館が紅蓮の炎に呑まれているのに気がついて驚愕した。

 

「なっ――なんだ、これは!?」

 

 泡を食って動転するなどアルケイデスらしくもない。しかしそれも無理のない話である。なぜならアルケイデスの主観では、やって来たイピクレスとその子供達を歓迎するために、組み立てた櫓に火を点けて魔猪を丸焼きにしようとしていた所だったのだ。

 それが突然気を失ったかと思えば、十年来の住み慣れた我が家が燃え盛っていたのである。これで動揺するなというのが酷なことであるのは誰から見ても明らかであろう。

 

「な、にが……イピクレス、これは一体何事だ!? なぜ私の館が燃えている!」

 

 動転するまま妹に詰問すると、イピクレスは炎に照らされた顔を顰めた。悲しげに、遣る瀬ないように。その表情の意味するところを理解できないでいると、イオラオスが泣きながら叫んだ。

 

「伯父上が燃やしたんだよ!」

「……あ?」

「突然狂気に侵された伯父上が、自分で館に火を点けたんだ!」

 

 十代も半ばであろう少年の叫びは悲嘆に塗れたものだった。

 私が火を……? 唖然とするアルケイデスは、自身が狂気に陥った事実を受け止められなかった。同時に漠然と理解する。……この二年間、満足に眠れぬ日々が続いていたのは……朧げにしか覚えていないが、あの『声』のためで。狂気はその『声』の主が齎したのだと、明晰な頭脳が直感させてしまっていた。

 その勘が、先程から五月蝿いほど警告を……否、既に起こってしまった現実の出来事を報せる。アルケイデスはハッとした。ここには自分とイオラオス、イピクレスしかいないことの不自然さに、ようやっと気がついたのである。

 

「ッ――! メガラ! テリマコス、クレオンティアデス! デイコオン! 返事をしろ! 何処にいる!?」

 

 アルケイデスは焦燥に駆られ、顔を真っ青にして吠え立てた。

 返事がない。なぜ? なぜだ? 館が轟々と燃えている。まさか中に? 衝動的に駆け回り、辺りを探し回った。愛する妻と、子供達を探して。

 しかしその姿を見つけることはできなかった。アルケイデスは錯乱寸前の様相で、イピクレスに駆け寄るとその肩を両手で掴んで問いただした。

 

「イピクレス、私の妻は!? 子供達はどこだ!?」

「っ……」

「……」

「どうした? なぜ二人共黙っている! よもや二人して私を謀る気か? それともまさか、あの館の中か!? 狂気に呑まれたと、私が火を放ったと言ったな。私は何をしてしまった?!」

 

 狂気。そんなものに呑まれるほど、アルケイデスは脆弱な精神をしていない。神性による肉体的苦痛への強さに等しく、あるいはそれ以上の精神力を彼は備えていた。

 例え万の人間の魂を燃料にした、膨大な呪詛の海に漬かることになろうとも、アルケイデスはその自我を損なうことはない。単体で人間数万人分の魂の総量に比するアルケイデスが、生半可な狂気如きに身を任せることなど有り得ないことだ。

 

 だが、その有り得ないことが起こっているのを、アルケイデスは認めざるを得なかった。

 

 メガラや子供達は、悪戯で館に火を点けたりはしない。アルケイデスが探し回っているのに、隠れ続けるわけがない。イピクレスやイオラオスにしたってそうだ。

 そして、アルケイデスは事の直前までの記憶がなかった。ならば本当に狂気がアルケイデスを襲ったのだろう。

 

 考えられる原因は三つ。アルケイデスの内包する神の血が、アルケイデスを狂わせる代物であった可能性。もしくはアルケイデス個人の資質として、突如狂人と化す二重人格者である可能性もある。それか、アルケイデスは何者かの奇襲を受けて昏倒し、その間に館に火を点けられ、あまつさえ妻子を誘拐していったのか。

 この二つは現実的ではない。アルケイデスが突然狂い出すような人間なら、とっくの昔にそれに似た体験をしていないのはおかしい。アルケイデスを奇襲で打ち倒せるような者はいない。これは自負であるが、事実でもある。彼の危機察知能力は天性のもの、不意打たれた程度で倒されはしない。では、最後の可能性はなんだ。

 

 ――神の権能だ。

 

 それならば、アルケイデスを狂わせることも叶うかもしれない。いや――不意にアルケイデスに閃きが齎される。

 この二年、ろくに眠れなかったのは? まさか、二年前から延々と、しつこく狂わせようとしていたのか? なら……。

 

(仮に私が権能による狂気の吹き込みに堪えられたとしても、二年も続けられれば抵抗も虚しい)

 

 その考えが正しい気がしてならない。あの夢は、こうなることを暗示していたのではないか。抵抗が無為となったのは、自分に神に狙われる覚えがないから、無意識に抵抗が弱くなっていたからではないか。

 もしそうだとすると、己は憎まれている。何者かは知らない、だがなんの所以があってか神がアルケイデスを憎悪しているとしか思えない。憎んでいなければ、二年も狂わせようとはしてこないだろう。

 

「ッ――イピクレス、イオラオス! 私の妻子は――いや、お前たち二人だけか? イピクレス、お前は子供を連れてきていたのではないのか?」

 

 はたと気づく。イピクレスはイオラオスの兄弟たちも連れてきていたはずだった。まだ幼い、テリマコス達と同年代の。

 なのになぜ二人だけなのか。……押し寄せる嫌な予感を。絶望的な結末への直感を打ち払いながら問い掛ける。イピクレスとイオラオスは悲しげに目を伏せた。それは母のそれで、兄のそれだ。 

 しかし安堵した。その悲しみようは軽く、最悪の事態を齎すものではないと感じたからである。

 

 だが、思い違いをしてはならない。

 

 如何にアルケイデスと幼少の頃からの付き合いがあるとはいえ、イピクレス達の倫理観は周囲のそれと似通っている。アルケイデスからの影響で、多少は周りからすると異色に見えているが、それだけなのだ。

 すなわち、彼らの価値観で(・・・・・・・)命は軽い(・・・・)のだ。それは己の子、兄弟たちに対しても例外ではない。

 身内は死ねば悲しい。殺されれば怒り、報復するだろう。だがどうしようもなかったり、報復が終われば悲しみも怒りも長続きしないのだ。何故なら人間の命は軽いものだから。神という絶対者、恐ろしい獣達や、怪物の跋扈する大地で――その精神性がなければ、心が壊れやすくなってしまうためである。

 

 故に、アルケイデスには理解できない。イピクレスは悲しみながらも、起こった事実をそういうもの(・・・・・・)として受け入れていた。

 

「殺されたよ」

「何……?」

「殺されたんだ。狂った兄さんに」

「…………」

 

 まるで、遠い昔の出来事を語るような口ぶりに、アルケイデスは数拍もの間、思考が停止した。何を言っているのか分からなかったのだ。そんなにも平然と言えてしまう理由が。

 イピクレスは言う。この世界の基準で言えば、大袈裟に見える悲しみ様で。どうしようもない災害に直面したかのように。

 

「わたしの子供達は、イオラオス以外みんな、兄さんに殺された。まだ……小さかったのに……」

「な、にを……殺した……? 私が……?」

 

 そしてイオラオスもまた、嘆き悲しみながらも……アルケイデスの受け入れられないことを、唐突に……あまりにも突然に、無造作に告げるのだ。

 

「みんな、殺されたんだ。おれの兄弟は。……メガラさんも、テリマコスも、クレオンティアデスも、デイコオンも。みんな」

 

 

 

「――――――ぁ?」

 

 

 

 誰も彼もが、誤解していた。

 アルケイデスは豪勇無双の大英雄で、その精神もまた誰よりも強いのだと。

 いや、それは誤解ではない。事実である。アルケイデスほどに強い者など、人間の内には存在しない。その精神力もまた同様だ。

 だからそれは誤解ではない。勘違いですらない。深い付き合いの、双子の妹であるイピクレスですら――アルケイデスという男を『理解しきれていなかった』だけのことなのである。

 

 アルケイデスなら家族の死も受け止め、その上で超然としているだろう――なんて。

 

 それは、余りにも。

 アルケイデスという男の情の深さを、情の濃さを、情の密度を低く見積もり過ぎていた。

 

「   」

 

 頭が真っ白になった。

 気がつくこともなく、アルケイデスは駆け出していた。そしてようやく気がついた頃には、燃えていた館をものの数十秒で跡形もなく吹き飛ばし、中から無数の亡骸を運び出して、地面に横たわらせていた。

 

「   」

 

 何も考えられないまま、男は亡骸を見る。

 

 小さな亡骸が、七体。黒焦げて、生前の面影は微塵もない。

 数を数えた。数を思い出した。イピクレスの子供は、五人。イオラオスがいることを見るに、四人が死に。……三人の死体が、誰のもの、なのか。

 妹の子供を殺してしまったことすら、罪深いことに意識の外。そして、成人女性の、焼死体が一体。

 

「  ぁ う  」

 

 ふらふらと、死体を検める。異様な雰囲気に、イピクレス達は絶句して、見守るしかない。

 

 小さな、亡骸。並べたのは、三体。

 見間違えるはずがない。黒焦げても、父なのだから。見間違えるはずが、ない。

 そして、此の世で最も愛して、最も強く守ろうと誓った女を――見間違えるなど。

 

 ふらふら、

 

   ふらふら。

 

 ふらふらと、男は鎮火した館に向かう。

 雨が降っていた。豪雨である。しかし気にもせず、気にすることもままならず、瓦礫の山を漁り亡者のように何かを探した。

 見つけたのは、小さな人形。置いていたところが良かったのか、たまたま難を逃れて燃え尽きてはいない人形。そして、同じ場所に、不格好な青銅の剣が二本、あった。

 

「  ぉ 、  ぁ  」

 

 それらを、小さな焼死体に添える。そして大人の焼死体の手を掴んだ。

 がくりと膝が落ちる。全身が震えていた。涙が――流れ。

 男は。夫は。父は。

 

 叫んだ。

 

「ぉぉおおおおお! おおぉぉぉぁぁああああああ――ッッッ!!」

 

 恥も何もない。あらん限りの力を振り絞って、絶叫する。喉が裂けて血を吐いても、流れる涙に血が混じり、やがて血涙を流しながらも。男はひたすらに吼え続け、慟哭する。

 その内面を慮れる者など存在しない。その怒りや悲しみ、喪失感に悶え苦しむ男の苦しみを、万分の一程度も斟酌できるものではない。

 

 

 

アッ、ハハハハハ!大の男が、仮にも英雄とも呼ばれる男が、妻子を亡くした程度で壊れよったわ!

 

 

 

 男は胸を掻き毟り、地に伏せて地面を叩き、惨めに泣き叫び続けた。

 どれほどそうしていただろうか。何時間も降り続けた雨が止んだ頃、男はもはや叫ぶことすらままならなくなっていた。

 地面に伏せたきり、震えるだけ。未だに声にならぬ声で、血を吐きながら、血を流しながら呻いている。イピクレスも、イオラオスも、それを呆然と――ずっと見続けていた。助け起こし慰めることすらできないで。

 男の絶叫で天地は震えた。叩いた地面は地底まで陥没し、地割れを起こし、地震が起こった。その震撼を、災害跡地の如き様相を呈した地の真ん中で、男は震えている。震えて、いた。

 

「………」

 

 男は体を起こした。そして、黙った。

 空を見上げ、ゆっくり立ち上がると、幽鬼のような足取りで何かを探す。

 持ち出したのは、自分の剣だった。名工の鍛えた大剣。それを持ったまま、妻子の骸の前に向かうと、男は何事かを呟くとおもむろに刃を首に添えた。

 

「!? 兄さん! いけない!」

「伯父上!!」

 

 慌てて二人が止めに入るも、男はびくともしなかった。

 力尽きているはずなのに、この期に及んで男の膂力は人外のそれである。

 男は二人の存在など意識の内にもないのか、静かに剣を引く――

 

 ――その時である。突如として雷光が迸った。

 

「っ……」

 

 雷光はアルケイデスに飛来し、その剣だけを溶解させた。

 突然のことにイピクレスとイオラオスは仰天して後ずさる。

 アルケイデスは澱んだ目で下手人に問い掛けた。

 

「何、者、だ」

 

 しわがれた声は、死に瀕した老人のようだった。

 誰何に応え、姿を現したのは……天より暗雲を裂き、降臨した一柱の神である。

 

 逞しく、大きな体。腹が出ているが、それすら筋肉を詰めたもの。太い腕と、体。白い髪と豊かに蓄えられた髭が相俟って、さながら獅子の鬣のようだ。

 万物を超越した威厳がある。高き空に佇む雷神は残念そうにぼやいた。

 

『死のうとするでない、戯けめ』

 

 名乗りはしなかった。しかしその偉容、威光、見誤るわけがない。イピクレスが愕然と呟く。

 

「ゼウス、様……」

 

 雷神、主神、天空神。呼び名は数あれど、その姿と力は誰もが伝え聞いていた。

 自然と平伏する妹とその子供を背に、男は苛立ちを隠しもしない。

 なにゆえに死なせないのか。なにゆえに現れたのか。己の最愛の妻子を殺めてしまった罪を償おうとしたのに。狂気如きに負けた己を殺そうとしたのに。

 それを阻んだ神が、呪わしい。

 

『自死は赦さぬ。それは、英雄のそれではないぞ』

「それが、どうした」

『ふむ?』

「そんな呼び名になど、興味はない。私は……妻と子を殺めた。妹の、子も。その償いを、しようとしただけだ」

『そうか』

 

 神は訝しげだったが、一定の理解には至ったのか頷いた。

 この神が己の父なのかと曖昧に感じるものがある。しかしどうでもよかった。なんとなれば己を殴打し続けて死ねばよいだけのことで、妻子の苦しみを考えれば剣で楽に死のうとするのは軽率だったと思う。

 

 神は言った。神は神の尺度でしか物事を見ない。故に、やはりアルケイデスの心境を真に理解することはなかった。

 理解していれば、こんなことを言うはずがなかったのだから。

 

『では償えばよかろう』

「……?」

『アルケイデスよ、そなたに死なれると儂が困る。いや、死んでもよいが自死を選ぶ軟弱な者を使いたくはない』

「何を、言っている……?」

『故に償いの機会を与えよう。ティーリュンスの神殿へ行け、そこで神託を受けるが良い。それに従えば償いとなろう』

 

 なるわけがなかった。

 他者から示されたものに、なんの価値があるというのだ。

 

 神は、言う。言ってはならないことを。神にとっては問題のないことを。

 

『償いが終われば、そなたに狂気を吹き込んだ者が誰か教えよう。なんとなれば罰を与える権利もな』

「――」

 

 それは。

 

 その、甘言は。

 

 罪と悪、結末の行方を己にのみ向けていた男へ、明確な復讐(・・)という意識を与える言葉だった。

 

 神、神、神……己に妻子を殺させ、妹の子供を殺させたのは神……神が(・・)憎い(・・)。憎くて、憎い。

 己を使い、ある意味で直接、妻子を殺した神を罰する……?

 そんな発想はなかった。神なんてどうでもよかったからだ。だがその発想を得て、アルケイデスの空虚な瞳に光が灯る。

 

 その光が、危険な火花を散らしているのに――やはり神だからこそ、察しない。

 

 オリンポスの神々は不死である。絶対的超越者である。それでどうして、わざわざ察しようとするのか。半神とはいえ、人を。

 

『確かに伝えたぞ。本来ならば儂が直接出向くことはない。此度はやり過ぎた馬鹿者を折檻しに参ったのみよ』

「………」

『やれやれ、アルケイデス。妻と子を喪い悲しむのは分かるが、余り囚われるでない。新しい妻と子を作ればよいではないか』

 

 まったく、難儀な奴よ。そう溢して去っていった神を、男の妹とその子供は平伏したままやり過ごす。故に誰も見ていない。ぴくりと反応した男の顔を。

 それは、どう言い繕っても誤魔化し切れぬ――

 

 嫌悪と、侮蔑であった。

 

 

 

 男は神の残した言葉を反芻していた。

 

 ティーリュンスの神殿。神託。償い。その後の権利。

 そして、神の言った『アルケイデスが死ねばゼウスが困る』という言葉。

 何に困る。何故困る。意味がわからない。神は絶対者だ。その神が困ることといえばなんだ。

 

 考え込むアルケイデスの心には、決して消し去れぬ暗い火が宿っていた。

 

 

 

 

 



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0.8 選定した先に剪定されるのか

前話の修正。ゼウスのセリフの「デルポイの神殿に行け」を「ティーリュンスの神殿に行け」に変更しました。






 

 

 

 二つ折りにした厚織りの黒いヒマティオンに、それを留めるための青銅のポルパイを着け、ある神が刺客として繰り出してきた熊の魔獣から剥ぎ取った、赤い毛皮の衣の一式を纏う。旅支度を整え大弓を手に取った。

 弦の張り具合を確かめる。十人の男達が総出で掛かっても引くのが難しい弓の弦も、アルケイデスにとっては脆弱に過ぎ、扱いには細心の注意を要する。大弓を担ぎ矢筒を腰に括りつけ、鉄の剣を背中に帯びる。短剣を二つ懐に忍ばせ、準備は整った。

 

「………」

 

 一瞬、逡巡する。迷った末に、亜麻の袋に薄汚れた人形を詰めた。自分の手で補修して、中には青銅の剣の欠片を織り込んでいる。袋に入れたそれを腰紐に吊るし、己の首に亡き妻の衣服の切れ端で編んだ布を巻き付けた。

 テーバイを出る。もう二度と戻らないつもりだった。クレオン王の娘メガラを殺した故の後ろめたさもあるが、何より娘を殺されたというのにアルケイデスを憎まず、さして悲しんでもいなかったクレオン王に会いたくなかったのだ。

 喪に服した後に旅に出る。鋭利な眼光には鋼の硬さがあった。神性の真紅の双眸は、ちらりと傍らに向けられ、短く最後の確認をする。

 

「何度も聞くようだが、本当にいいのか。私に付き従っても」

「うん。おれは伯父上に着いて行く」

 

 イオラオスだ。イピクレスはミュケナイに行き、エウリュステウスに仕えるらしい。父アムピトリュオンの故郷に戻り、彼の居場所を作るために。

 そんなイピクレスは自身に残された最後の息子を、アルケイデスの従者として差し出した。兄さんには旅の道連れが必要です、と。その心遣いに罪悪感を感じる。妹の子であり、甥の兄弟を殺したのはアルケイデスだ。神が原因であるとは言っても、普通の人間からすれば直接的な仇はアルケイデスである。それなのに甥を傍に置くのはどうにも気が引けてならない。

 

「……お前に報いてやれるか分からんぞ」

「構わないよ。だって好きで伯父上と行くんだ。報いて欲しいんじゃない、一緒に行かせてくれ」

「物好きだな」

 

 私が憎くないのか、殺してやりたくないのか。喉元まで出掛かった言葉を呑み込む。

 不毛な問いである。憎み、怒り、呪っただろう。しかしアルケイデスに非がないのであれば長く想うだけ徒労であると、あの忌まわしい日の出来事を『過去』にしている。

 それができるイオラオスや、ギリシア世界の人々を『強い』と見るか……はたまた理解の及ばぬ異人と見るか。あるいは己を女々しいと嗤うか。アルケイデスはその思惟を切って捨てる。無為だ。

 

(例え『弱さ』の証だとしても、私は忘れん)

 

 愛した妻を。己の腕に抱いた子供達を。

 ――わたしは貴方を、愛しています。

 その最期を、思い出せた。この手で炎に投げ込まれる前に、メガラはアルケイデスに微笑みかけてくれた。その記憶を魂に烙印し、永劫忘れまい。

 咎を背負ったまま生きていく、などという殊勝な想いはない。彼が想うのは、己が想い、己が想われていたという思い出だ。

 神に祈ったことはない。神は忌むべきもの、唾棄すべきもの。嫌悪と侮蔑の対象だ。何者かは知らないが、一柱に関しては間違いなく憎むべき仇だ。しかし一柱の……否、二柱の神だけは例外として祈っても良い。

 家庭の守護神であるヘスティア、死後の世界である冥界の神ハデス。もしも神の加護とやらが本当にあるのなら、呪わしき神に破壊されるまで健やかで在れた家庭での思い出を、祭祀神ヘスティアは与えてくれたのだろう。そして万物に平等な、畏敬を捧げるべき死を統べる神も、また。

 

(冥界の神よ。冥府神ハデスよ。どうか我が子らと我が妻に安らかなる眠りのあらんことを。そしていずれこの私が死したる後は、如何なる裁きも受け止めよう。願わくば我が魂に永劫の責め苦を与えたまえ――)

 

 生と死は特別だ。その特別で神聖であるべき死を司る神に関して悪い印象はない。それはギリシア世界に於いては異端の感性ゆえだろうか。アルケイデスはある意味で最も敬虔なハデスの信徒なのかもしれない。本人にそのつもりなどなくとも。

 ――後の世にあるかもしれぬ神話に於いて、冥府神との拝謁の栄誉を賜った時、ハデスはアルケイデスに対して非常に好意的であったという。その所以を知る者は、少なくともこの時はハデス一柱のみに限っていた。

 

「……()くぞ」

 

 何処へ征くのか。ティーリュンスの神殿? 否、そんな目先のことではない。

 償いのための神託。されどそんなものをアルケイデスは欲していなかった。妻子殺しの咎を濯がねば、英雄の名声が地に落ちると迫られてもどうでもよい。償いは他者に強いられるものに非ず、己が心の向くままにおこなうが償いである。

 しかし神託には従うつもりだ。なぜかと自問するまでもない。問題は、その後。神託を受け、名目上の償いを済ませた後のこと。復讐を遂げた後に、果たして己は何をすべきなのか。

 

 ひっそりと山の深奥で生きるか? 人との関わりを捨て俗世を離れ、己を見詰め続けて生きるのを是とするか。そうして生きていくのか。そうするために征くのか。

 

(それこそ、どうでもよい。今は何を置いても目先のことだ)

 

 甥を伴い道を行く。ティーリュンスに向かう途上、アルケイデスは口を真一文字に噤み、甥の歩みの速さに合わせて黙々と歩を進めた。

 無為な思考を有為とする。なんの実りがなくともやらねばならぬ。遂げねばならぬ。己の妻子の仇を取るため、漢は考えた。

 

 何を以て罰とするのか。己は何をしたいのか。

 

 悶々と、滾々と、考える。己の裡にある本当の願いを見つけるために、見詰める。醜くともよい、女々しくともよい。妻と子の顔が、何度も脳裏に去来した。

 お前は何がしたいのだ。問う、己自身へ。

 混沌とし、千々に散らばる願望を見据え、整理し纏める。醜悪な己の渇望から目を逸らさず。残虐で陰惨な願いを形にする。

 

 ニッ、と口元に自嘲の笑みが浮かぶ。醜く凄惨な願いを汲み取った。自身の本性もまた、軽蔑していた野蛮なギリシア世界のおこないに等しい。

 だがそうと弁えた上でなお、やってやろうと決めた。決めたのならもはや迷わぬ。断固とした姿勢で断行する。しかし思案した。その道を征くのはいい、だがそれを成せる力と知恵が己にあるだろうか。沈思する中で、アルケイデスはかぶりを振る。

 並ぶ者のない剛力がある。比類ない武技がある。恐らくは神にも、勝てずとも負けることはあるまい。だが決定的に足りぬものがあった。それが何かはひとまず横に置くとして、計画を立てる必要がある。

 

 表立って無闇に立ち向かう気はなかった。勇敢に、大義と復讐を叫んで立ち上がるのも男の道だろう。しかしそんなものは自己満足でしかない。蛮勇というのだ、それを。そしてあくまでも復讐が自己満足の産物であるのだから、ことの正負の性質を問うのは愚かというもの。安易に、短慮を犯すのは愚昧の所業。ならば幾ら謗られても構うものかと割り切って、確実に事を実行する。

 水面下で動け。何者にも思惑を悟らせるな。表向きは従順に振る舞い、あくまで闇の中で遂行しろ。泥水を啜り、毒を飲み、その上で華々しさの欠片もなく、復讐者の本懐を遂げるのだ。すなわち、忍従の道だ。

 

 ――『ヘラクレスの選択』と故事に語られるそれは、敢えて苦難の道を選び、想いを果たすおこないを指す。

 

 今はまだ、その第一歩。それを踏み出したばかり。

 何もかもが足りない。アルケイデスはイオラオスに言った。

 

「先にティーリュンスに行け、イオラオス」

 

 足を止め、アルケイデスは別の方角に歩き出す。イオラオスは慌てて問い掛けた。

 

「どこに行くんだよ、伯父上!」

「寄り道だ。行くべきところがある。なに、用はすぐ済む。お前がどれほど先に進もうと追いつこう。ティーリュンスには共に入れるだろう」

 

 翻すことのない決定事項を伝える語調に、イオラオスは訝しげにしながらも渋々従ってくれた。ティーリュンスに向けて歩いていく少年の背中を見送って、アルケイデスは走り出す。一日中高速で走り続け、目的の地に向かった。

 目指すは懐かしの青春の山、ペーリオン山である。

 知らぬものを知らぬままにしては、綻びとなる。なんとしても知る必要があり、誰ならば知っているかを考えると、心当たりは一人しかいなかったのだ。

 それは――本来ならばこの時のアルケイデスが訪ねるはずのない人物だった。

 ある意味この世界線に於ける岐路。この世界線が『剪定事象』の対象となるか否かの瀬戸際。

 

 ペーリオン山の麓に辿り着いた時、目的の人物はアルケイデスの来訪を知っていた(・・・・・)ように待ち構えていた。

 賢者は静謐とした面持ちで頷く。十年以上の月日を越えた再会に、師は言った。

 

「来て、しまいましたか……アルケイデス」

「来た。我が師ケイローンよ、貴方の知恵を――あるいは知識を借りたい」

 

 『未来視』の千里眼を持つケイローンは、沈鬱な表情で――されどその声はあくまで平静なまま答える。

 

「いいでしょう。……こちらへ」

 

 招かれるまま、山に入る。

 運命の分かれ道、剪定される枝として伸びるか。それとも剪定を免れる道を辿るか。いずれにせよ、決めた(・・・)アルケイデスは惑うことはない。

 不確かな神話の中、それだけが確かな事柄であった。

 

 

 

 




世界の運命よりも、独善の報復を。
生きるも死ぬも、栄えるも滅びるも、彼の英雄の歩む道に委ねられる。


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0.9 抑止力となるか盟友となるか

現在公開可能な情報

真名・アルケイデス(ヘラクレス)
身長・223cm
体重・130Kg
属性・混沌.中庸
(釈迦に説法かもだが、これは精神的な傾向。秩序・中立・混沌からなる重んじる方針と、善・中庸・悪からなる性格の要素によって決定される。混沌の精神傾向は、世の中の善と悪を指針とせず自身の価値観で動く。性格は中庸ぐらい。今後変動する可能性も)

スキル
・神性C
 主神ゼウスの子であり、半神ペルセウスの子孫との間に生まれたため最高ランクの神性を誇るが、本人が神を忌み嫌っているため大幅にランクダウンしている。その影響で本来ほど身長が規格外になっていない。ただしステータスに影響はないものとする。
 なお元々神に対しては無関心で信仰心が皆無だったことが影響し、成人しても原作ほどの身長にはなっていなかったが、何事もなければ三十代半ばの頃に原作の姿になっていた。が、二十七歳時点で修復不能なほど神への嫌悪が染み付いたので、身長の数値が変動することはなくなった。

・心眼(偽)B
・勇猛A+
・戦闘続行A





 

 

 ペーリオン山を登る。懐かしい道だ。思えば青春の時代はここでの日々だった。

 ひたすらに師と打ち合った修行の月日。鮮明に思い出せるそれは、『あの日』までなら素直に懐かしみ振り返れただろう。

 しかし今は違う。疎み、厭うことはない。だがそれだけだった。師への敬意と恩義は変わらないが、過去を思い出そうとすると幸せだった頃を想起してしまい、どうしても辛くなってしまう。ともすれば膝を折ってしまいそうになるほどに。故に、アルケイデスは極力過去については想わないようにしていた。

 あらゆる恩讐の果てを見るまで、無為な想念に囚われる訳にはいかない。立ち止まる気のない路だ。どんな困難があろうと必ずやり遂げる。所詮はこの身も野蛮なるギリシア世界のもの、ならば蛮族らしく振る舞うまでのこと。

 

「十年……いえ、十一年でしたね。貴方も変わりましたか」

 

 先導するケイローンは蹄の音を鳴らし、振り返ることなく出し抜けに言う。

 アルケイデスは黙殺しようと口を噤んだが、それは礼を失するとかぶりを振る。

 

「師よ、それは愚問というもの。善きにしろ悪しきにしろ、人は変わるものだ。私も例外ではなかった、それだけのことだろう」

「そうですね。月日は残酷だ……あれだけ可愛らしかった貴方が、今や堂々たる偉丈夫と成ったのですからね……」

「………」

 

 的の外れた返答に、思わず閉口する。何を言っているのだと反駁しかけ、

 

「しかし、今は今で趣があります。もしやいつぞや私が言ったように、愛の道を見失ったから此処へ来たのですか? ならば私にも応じる準備がありますが」

「……悪ふざけには拳で応える用意があるぞ、ケイローン」

 

 懐かしくも嫌過ぎる感覚が背筋を伝う。殺気すら込めて警告すると大賢者は笑った。冗談ですよと。

 絶対に本気だという確信があるが、それはいい。今となってはもうこちらの方が強い(・・・・・・・・)のだ。実力行使で来られても問題ない。そうなったら遠慮なく撃退する覚悟があった。

 

 これにはケイローンも苦笑いをする。それは諦観からのもの。ケイローンは本当に冗談で言ったのに、それが通じないほど精神的に余裕がないのを読み取ったのだ。

 これほどまでにアルケイデスが追い詰められているのは、やはり噂に伝え聞いた事件が原因だとしか思えない。

 噂が流れるのは早いものだ。特に英雄の名声を持つ者ほど、あっという間に広がって醜聞はあちらこちらで囁かれる。アルケイデスが己の妻子と妹の子供を狂って殺した、なんて。悪い冗談でしかなかった。彼ほどの精神力の持ち主を狂わせられるのは、オリンポスの神々ぐらいなもので、これまでアルケイデスと関わりを持った神がいないとなれば、必然的にこれまでの所業からある女神しか容疑者はいなくなる。

 またか、とケイローンは思う。そしてよりにもよって彼にすら牙を剥くとは、なんと嫉妬深いのか。彼の女神の凶行の原因は夫にあるとはいえ、相手が悪すぎる。彼を狂わせて破滅させてしまえば、それは神々の黄昏となるのが分からないのか。

 

 あらゆるモノの母、ガイア。それに疎まれているオリンポス。オリンポスを滅ぼすためにガイアが何をしようとしているのか、それは神々の間で周知の事実だろう。きたる決戦の切り札なのだ、アルケイデスは。

 

(分かっていても嫉妬を抑えきれないのですね、ヘラ……)

 

 擁護しておくと、貞節と結婚を司る神々の女王ヘラは、夫ゼウスが浮気をせず、人間の女が美しさを競おうとせず、ヘラの容色を認めさえしていれば、大概のことに関しては寛容で慈悲深い存在だ。

 その本質を覆い隠してしまうほど嫉妬深く、それが原因で数多の悲劇を生んでしまっているが、元を辿れば諸悪の根源はゼウスの好色さにあるのだ。姉弟であるにも関わらず、姉の美しさに惚れて求婚したというのに、ゼウスは一向に一途にならない。ヘラのプライドの高さと、嫉妬深さを誰よりも思い知っているにも関わらずだ。

 

(………申し訳ありませんが、この件に関して弁護の余地はありませんよ、ゼウス)

 

 ケイローンはゼウスの父クロノスの子だ。すなわち異母兄弟ということになる。故に面識があり、多少の情はあるが、今回ばかりはケイローンはアルケイデスの肩を持つ。

 

「アルケイデス、私に聞きたいことがあるのではないですか?」

 

 道すがら、ケイローンは前ふりもなく唐突に本題に入った。戸惑うことなくアルケイデスは一瞬思案し、彼に倣って淡々と応じる。

 

「ああ。ケイローン、偉大なるケンタウロスの賢者よ。私が貴方に問いたいのはただ一つだ。――我が血縁上の父ゼウスは私の前に現れ、こう言った。私に死なれるのは困ると。それが何を意味するのかを教えてもらいたい」

 

 ゼウスは口を滑らせたのか。全知全能でありながら、そう在れないのは彼の神の最も至らないところだ。

 死なれたら困る。それはそうだ。ケイローンはそれを知っている。その光景を視て(・・)いるから知っているのだ。

 

 しかし意外だった。てっきりアルケイデスを狂わせた張本人が誰かを聞きたいのだと思っていたからだ。

 

「下手人が誰か、訊かないのですね」

「問うまでもない。女神ヘラだろう」

 

 あっけらかんと、アルケイデスは断じた。

 思い返してみれば、彼は明晰な頭脳も持ち合わせていた。ただの猪武者ではない。狩人としても傑出した技能を持つ彼は、己に絡んだ因縁を読み解いていたのである。

 ゼウスとヘラのことを知っていれば、自身がゼウスの子であることからして、仇はヘラであると容易に結び付けられる。そこを読み違うアルケイデスではなかった。

 なのに、わざわざケイローンの許へ来た。それはつまり、今の問いに真意が隠れているということ。

 

「私は己の父を知り、女神ヘラのことを知った時、真っ先に自身の身の安全を守るべく常に気を張っていた。しかし私がヘラのことを知ってから十年以上が経っても何もされずにいたから油断をしてしまった。私は愚かだ。ゼウスの落とし胤であること以外になんの関わり合いもなく生きていた私に、嫌がらせ以上のことはするまいなどと――」

 

 ギシリ、と周囲一帯が軋む。ケイローンの体にも物理的な圧力が伝わった。

 ただアルケイデスが、自責の念から渾身の力で握り拳を作っただけだ。それだけで、ケイローンが圧迫感を感じるほどの圧力。

 桁外れだ。無理に彼を止めようとしても、自分では叩き潰されるだけだろう。技量ではそう劣っていない自負があるが、腕力の差が激しすぎる。

 

 ケイローンはアルケイデスの怨みの深さを察した。それに比する哀しみと気の狂わんばかりの赫怒を。彼は悲哀しながら憤怒し、同時に憎しみと虚無感を同居させていた。

 これは、駄目だ。遥か先まで人類史が記されたとして、その中でも確実に十指に入るだろう賢者ケイローンをして、もはや後戻りはできぬのだと確信せざるを得ない。何を言って聞かせても無駄だ、彼は止まらない。他の者ならば――アルケイデス以外ならばどれほどの大英雄でも非業の死を遂げるだろう難路を、彼は硬い決意を握り締めて踏破しようとしている。

 

「確かに……」

「……?」

「私は確かに、貴方の知りたいことを知っています」

「……知っているが、教えられないか?」

「いいえ。交換条件があります。それを呑んでくださるのなら、お教えしましょう」

「聞こう」

 

 知っていると言うと、微かに剣呑な目をケイローンの背中に向けてくるアルケイデスに、ケイローンは条件を提示する。内容を聞きもせずに即答する最強の存在に、彼の師を自負する賢者は重苦しい表情で言った。

 

「今、私が養育している幼い英雄に会ってください。そしてその鼻っ柱をへし折り、彼にとって超え難い壁であると示してくれたなら、貴方の求める答えを与えましょう」

「分かった。名は?」

 

 やはり、迷いがない。なさ過ぎる。危険なほどに。

 彼の前途に漂う暗雲に、思いを馳せてしまいながら、ケイローンは運命を口にした。

 

「英雄ペレウスと女神テティスの子、アキレウスと云います」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その男児は、生まれながらにして英雄となることを決定づけられていた。

 

 名のある英雄ペレウスの子であり、父親以上の力を持った子供を生む運命を持った女神テティスに産み落とされ、ペレウス以上の才覚を誇るのは生まれる前から決まっていた。

 ペレウスは友人のケイローンに息子の養育を頼み、英雄の英才教育を受けることになる。そうしてアキレウスは、ケイローンを師として、同時に兄であり親でもある存在として敬服していくこととなる。

 ケイローンの課す修練は過酷だった。アキレウスは歯を噛み締めてそれに堪え、順調に成長していっていたが、次第に彼の中にある種の『驕り』が生まれてしまう。

 

 ――俺より強ぇ奴なんて、先生ぐらいしかいねぇんじゃねぇのか?

 

 子供故の狭い世界での増長と侮れない。井の中の蛙大海を知らずと言うが、井戸の中にいるのは幼竜である。事実として、この時点でアキレウスは武勇を誇る英雄に匹敵、あるいは凌駕する傑物だった。

 この傲慢は折れることはあるまい。それはケイローンにすら除けない、環境が作った悪しき思想である。そして悪質なことに、そんな傲慢さがあってすら、アキレウスはどんな死地も笑って駆け抜けられることだ。そして英雄として華々しく、怨嗟と栄光とに彩られた人生の果てに死ぬ。数多くの悲劇と英雄潭を残して。

 人類史上に冠たる偉才が、飛躍する好機を得られぬまま果てる結末を、ケイローンは憂いていた。ただ、それだけのこと。

 故にアキレウスは、出会う。数奇な運命に導かれるようにして。

 

 客が来ると言って、山を降りていた『先生』は、ある一人の巨雄を伴っていた。

 

 見上げんばかりの偉丈夫である。健康的に日焼けした、精悍な面構えをしていた。アキレウスはその漢を視た瞬間、笑顔で先生に駆け寄ろうとしていた足を止め、意識の全てを占拠されてしまう。

 圧倒、されていた。

 その分厚く、重厚で、重苦しい――まるで一つの世界が人型となって目の前に立ちはだかっているかのような存在の厚みに、ひたすらに圧倒されてしまっていた。

 アキレウスは、我に返る。圧倒されていた自分に気づき、愕然とすると共に好戦的な笑みをその漢へ向けた。

 

 分かることがある。

 

 この漢は強い。強すぎるほどに強い。おそらくは――先生よりも。アキレウスは笑った。笑って先生に訊ねた。先生、コイツは誰だよ? と。

 その瞬間だ。アキレウスの意識を縫うようにして、いつの間にか目の前に立っていた漢に驚愕した。咄嗟に飛び退こうとしたが間に合わず、アキレウスは脳天に拳骨を落とされていた。

 

 悲鳴を上げた、と思う。確かなのは地面に倒れ、頭を抱え、のたうち回ったこと。痛くて痛くて、声すら出たか記憶にない。神性を持たぬ者に対して不死身のはずが、頭を殴打されただけでそれである。すなわちこの漢もまた神性を持つ証だ。

 だがそんなことはどうでもいい。頭に血を昇らせて立ち上がったアキレウスは、敵愾心も顕に叫んだ。

 

「いきなり何をしやがるッ!」

「阿呆。目上の者に対し、肩越しに他者に名を教えろとは何事か。まずは己から名乗り礼節を示せ。それすらできぬなら、貴様は度し難い愚物と成り果てよう」

「――テメェ……。ああ、いいぜ。なら教えてやる。俺は英雄ペレウスの子、アキレウスだァッ!」

 

 幼くとも未来の大英雄、駿足のアキレウスである。その敏捷性、初速から最大速度は全盛期ほどではないにしろ、目に映る範囲全てを間合いとしている。

 全力で地面を蹴り、アキレウスは目の前の漢へ殴りかかった。自身に手を上げた落とし前を、自分でつけるつもりだったのだ。

 果たして――アキレウスの小さな拳は、漢の大きすぎる手の中に収まった。

 

「なッ!?」

 

 平然と。いとも容易く。漢はアキレウスの拳を初見で受け止めてみせたのだ。その場から微動だにせず。再び驚愕したアキレウスが、掴まれた手を振りほどかんと暴れるも小揺るぎもしない。

 

「そうか。ではアキレウスよ、私も名乗ろう。私はアルケイデス。……ただの、アルケイデスだ」

 

 言うや否や、アルケイデスは軽く腕を振ってアキレウスを虚空に投げた。空中で身を翻し、樹木の面を蹴って軽やかに地面に降り立ったアキレウスは、信じられない思いで漢を見詰める。

 見切られた。たったの一回で。自慢の速さを。

 唇を噛む。屈辱だった。なんとしても恥を濯がんと、ここで挑まねば英雄にはなれないと、アキレウスは再度突貫する。今度は正面からではなく、背後に回り込んで首を狙った。鋭い蹴撃は、しかし半身になって身を躱し、掲げられた腕に阻まれる。アキレウスの脚を掴もうとした挙動が止まった。

 その反応速度、条件反射的な動きの速さから、その気なら捕まっていたと悟ったアキレウスは、今度こそ完全に激昂した。

 

「手加減、してやがるのか……? ……、……ふざっけんなクソがァッ!」

 

 開戦である。そしてそれはすぐに決着する。

 俊敏に漢の周りを駆け回り、機敏に仕掛けるアキレウスの猛攻は、既にして魔獣を嬲り殺しにするだけの力と技、機転の良さがあった。

 だが、相手が悪い。この漢はアキレウスの兄弟子であり、その技や呼吸を完全に、最初から見抜いていたのだ。同門故にその技は通じない。速さに物を言わせた攻撃も、彼の心眼を出し抜けない。そしてアルケイデスは一度見た攻撃は完全に見切る洞察力の持ち主だった。同じ技は通じないのである。

 アキレウスは悟る、何もかもで負けていると。認めがたいことだった。だが例外がある、速さだけなら誰にも負けない。勝機を掴むには唯一勝る速さで翻弄するしかない。

 

 そう方針転換して仕掛けようとした瞬間――アキレウスは信じられない思いから、今度こそ呆然としてしまった。

 

 駆けた。

 ――目の前にアルケイデスがいる。

 走った。

 ――目の前にアルケイデスがいる。

 怖気(おぞけ)に襲われ遮二無二に撒こうとした。

 

 それでも、目の前からアルケイデスがいなくならない。

 

 ぴたりと張り付かれた。引き離せない。手の届く範囲に常にアルケイデスがいる。それはつまり、漢はいつでもアキレウスを捉えられるという証明だ。

 

(俺より速ぇだとッ!?)

 

 そう錯覚する。そしてアキレウスはそう思い込んでしまった。

 だが事実は違う。恐ろしいことに、この幼い英雄の卵は、純粋な速さの一点に於いて現時点でアルケイデスに並んでいるか、僅かに速かったのだ。

 だから本気で駆け回るアキレウスに、脚で追いつける道理はない。純粋な速力なら、という注釈はつくが。

 

 最初、漢はわざと全速よりも一段遅く動いていた。そしてアキレウスが絶対の自信を持つ速さで翻弄しようとしたのに合わせ、全速を出したのだ。

 突然速く動いた漢に、アキレウスは「速い」と錯誤する。そして後は簡単だ。驚いた隙に漢はアキレウスの走る道を誘導(・・)し、常に一歩速く先回りしていただけのことなのだ。つまり、速力ではなく技術でアキレウスの速さを封じてのけたのである。

 

「小僧、貴様に驕り高ぶれるだけの力はあるのか? ――弱い(・・)。これで英雄に成ろうなどとは笑わせる」

 

 漢は一笑し、軽く、割れ物に触れるようにして、軽くアキレウスの額を小突いた。

 その場で三回転して吹き飛んで、ケイローンの腕に抱きとめられた少年は気絶していた。

 

 アルケイデスは嘆息する。嫌な役回りだ。

 弱いと言ったが、弱くて当然の年齢である。それに大上段に構えて厭味ったらしく指摘するなど英雄の名が聞いて呆れる。大人として情けなくも思った。

 が、約束は約束だ。アルケイデスは少年を抱きとめ、慈しむように微笑んでいるケイローンに確認する。

 

「これで満足か」

「ええ」

 

 満足だ。ケイローンは喜んでいる。

 アルケイデスが自分より強くなっていることの確認ができて。

 アキレウスが現時点では自身よりも格上の英雄を知ることができて。

 そして――もしもアルケイデスが道を踏み外した時、それを止めることができる英雄に、アキレウスが成れる可能性を作ることができて。

 満足の行く結果だ。故にこちらも約束を果たす。

 大賢者は言った。

 

「ギガントマキア――ゼウスは来たる巨人達との決戦に、貴方の……正確には神以外の力を借りねば勝てないと予言されているのです」

 

 その言葉に。

 

 大英雄は、嗤った。

 

 

 

 

 

 



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1.0 『ヘラクレスの選択』

 

 

 

 

 

 ――その後、アルケイデスは無事イオラオスと合流する。

 

 イオラオスは普通の人間で、まだ十代も半ばの少年だ。普通に歩いて徒歩で四日は掛かるティーリュンスを目指していたのだから、アルケイデスが本気で追えば半日と経たずに追いつけるのは当然のことである。

 寄り道と称して別れてから一日だ。

 僅か一日、されど一日、野盗や獣の数多くいるギリシアで少年が一人で歩むには中々過酷な道のりだったかもしれない。

 しかしアルケイデスは知っている。イオラオスは普通の人間だが、並の英雄に比肩するイピクレスの息子で、アルケイデスの甥なのだ。魔獣や反英雄が相手でもない限り、たかが野盗や獣如きに遅れは取らない。機転も利く。尤もそうでもなければアルケイデスの従者は務まらないだろうが。

 

「どこに行ってたんだよ」

「なに、昔馴染みの顔を見にな」

 

 それでも一人旅が危険なのに変わりはない。不貞腐れたように伯父を責めるイオラオスだが、伯父の返答に答える気はないと悟り溜息を吐いた。

 

「別に伯父上がどこ行ってもいいけどさ、今度からは行き先ぐらい教えてくれよ。おれの手に負えないことがあった時に、どこに逃げればいいか分からないんじゃあ困っちまうじゃないか」

「一から十まで私に面倒を見させる気か? そんな心構えならミュケナイに行ったイピクレスの許に帰れ。これから先、何があるか分からんのだからな」

「うぇ……勘弁してよ、従者辞めて帰ったら母上に何言われて何されるか……」

 

 ぶるりと震えるイオラオスである。男上位の世の中、母とはいえ女を恐れるイオラオスを臆病者と嘲笑する声もあるかもしれない。しかしイピクレスは女の身ではあってもテーバイに於いてアルケイデスに次ぐ戦士だったのだ。イオラオスを嗤うのはイピクレスを知らぬ者だけである。

 

「まったく、母上ってばいつまで経っても伯父上のこと好き過ぎるっての」

 

 イオラオスは頭を掻いてぼやいた。そのぼやきにアルケイデスはなんとも言えない。

 双子だから、というのもある。女のくせに剣なんか振るなと、貞淑さを求められていた幼少期、常にイピクレスの味方をしていたのはアルケイデスだけだった。そんな背景があるものだから、妹が兄を敬愛すること甚だしく、心ない者達は二人の関係が不貞のそれではないかと邪推していたのを知っていた。

 勿論そんな事実はない。アルケイデスには親族と姦淫を行う気は絶無である。また、そんな爛れた欲望を持ち合わせてもいなかった。

 

 淡々と旅の路を歩む。道中、肉食の獣が散見されたが、アルケイデスを見るなり脱兎の如く逃げ出したので何事もなく進むことができた。

 ようして数日間歩き詰め、目的の地に到達する。

 

「……見えたぞ」

 

 ティーリュンス神殿だ。

 魔術的な結界の張られた神聖な領域。荘厳な趣の大神殿は、来る者を包み込むような寛容さを漂わせている。

 しかしアルケイデスに対してだけは、疎んじているような雰囲気があった。

 祀られている女神が、アルケイデスに対して良い感情を持っていないのだろう。生憎とこんな底の浅い嫉妬による排他的な圧力よりも、この男の方が遥かに煮詰めた憎悪を抱いていることを女神は知るまい。尤も彼の女神だけではなく、あらゆる神々が家畜に等しい人間の心情を慮る気など皆無に等しいのだから、この神殿の女神だけが格別に浅ましい訳ではないのだが。

 

「すごい……これがティーリュンス神殿……」

 

 傍らで息を呑むイオラオスは、何も感じることなく神聖な神殿の偉容に感動しているようだ。無邪気なものだと苦笑いする男は女神の圧力など歯牙にも掛けていなかった。

 堂々と、誰に憚ることもなく道の真ん中を歩く。武装したまま歩む偉丈夫の迫力に、神殿の神官達は気圧されて道を空けた。そうして祭祀の間に続く門の前で立ち止まる。城塞の門にも比する重厚なそれだ。高さは五メートルにも及ぶだろう。

 居並ぶ神官。淑やかな女性たちの姿もあった。それらはやって来た男の正体が既知なのか、道を空けては聞こえぬようにひそひそと何事かを囁き合っている。それを横目にすることもなく、アルケイデスは神殿の祀る秘宝を目にも入れたくない思いで、その場で朗々と大音声を発した。

 

「――聞け。我が父はゼウス、母はアルクメネ。そして我が名はアルケイデス。オリンポスを統べし神、ゼウスの命によって参上した。狂気に駆られ妻子を殺めたこの罪を償うべく神託を受けよと。いと高き者、ゼウスの意に叛する不敬は何者であろうとも赦されん。神意を告げる舌を持つ者が在るならば速やかに姿を現し、この身に贖いへの道を示すがいい」

 

 敢えて傲然と命じた。

 その姿勢、その在り方、その名乗り。ティーリュンスがどの神を奉じているか知らぬでもないのにそうしたアルケイデスからは、あたかも贖罪を求めているのではなく、女神に挑戦しているかのような気概が感じられた。

 ざわめきは神官達のもの。驚く者、怒る者、恐れる者――千差万別の関心を向けられたアルケイデスは、後ろめたさは欠片もないとでも言うように胸を張っていた。

 

 俄に神威が天より落ちてくる。凄まじい圧迫感だ。誰もが跪き鎮静の祈りを捧げる中で、アルケイデスだけは仁王立ちをしていた。イオラオスは全身に鳥肌を立たせながらも伯父を見ている。神への畏れは薄い、アルケイデスへの信頼があった。伯父であるが主人である。主人が阿らぬのに従者が遜ったりしては主人の品位を損なうと、冷や汗を流しながらも毅然と立っていた。

 

 ゼウスの命で来たと言われては、彼の女神も無下にはできない。夫を立てねば顰蹙を買うのは自分なのだ。女神とて夫は恐ろしい。敵わないことを知っていて、恐れているからこそ主人の浮気を本人ではなく相手の咎として罰してきたのだから。

 かと言って直々に神託を授けるのは癪だ。自身の神体を悍ましい不義の子などに晒すのは矜持に反する。ましてや敬意を示さぬ不遜なる者なのだ。ゼウスの意を受けたからと、安易に降臨するのは品位を損なうとさえ言える。故に女神は命じた。自身の数いる巫女の一人に。

 

 門越しに、女神の意を受けた代弁者、デルポイより参内していた巫女が応じた。この時、巫女は女神に進言していた。この不届き者に皮肉となり、女神の溜飲を下ろす手を打ちましょう、と。女神はその内容に嗤った。それはいい、そうしてやれと。

 

『わたしは貞節を司り、あらゆる者より美しき光輝の君に仕えし者。神意を告げましょう。汝、己が妻と子、兄妹の子を殺めし咎人である』

「………」

 

 巫女の貞淑な声音。なるほど巫女の資格を有するに相応しい美しい声だ。

 しかしアルケイデスの罪の真実をこの巫女は知らぬらしい。知っていればそんな恥知らずなことを言葉にはすまい。知っていて口にしているのなら大した面の皮の厚さだ。

 ある意味で知っていて言葉にしている方が、厚顔無恥であの女神の巫女らしいとすら思えてしまう。

 アルケイデスは扉越しに語り掛けてくる巫女の背後に、憎悪する女神の嫌らしい笑みを幻視して。内心この場で神殿の全てを破壊し尽くしてやろうかと、短気に走りかけてしまいたくなる。それをしないのは、安易な行動で齎す結末では、到底満足できないと知るがため。今少し己に知恵と自制が足りねば目に着く神という神を滅ぼすべく武器を取っていただろう。その先には己が身の破滅しかないと分かっていても。

 

『これより先、汝は罪を償うことを望むのなら、我が神の神託に従いなさい。否やはありませんね』

「ない」

『ではアルケイデス。貴方はこれからミュケナイ王エウリュステウスに仕え、彼より仰せつかった十の勤めを果たしなさい。その儀を以て汝の償いは為されたものとします』

「なっ――」

 

 その神託に、アルケイデスよりもイオラオスの方が驚いていた。

 ミュケナイ王とは、本来アルケイデスがなっているはずのものである。ゼウスの真意がそれであり、しかしヘラの奸計によってそれは阻まれた。

 故にそれは悪辣な神託だ。自分がなるはずだった王位に就く者に仕えねばならないなどと、馬鹿にしているにもほどがある。普通ならアルケイデスは自尊心を傷つけられたことだろう。何よりエウリュステウスは、本来ミュケナイ王になっていたはずのアルケイデスが、王位を狙うのではないかと恐れ、無理難題を吹っかけてくるのが目に見えている。なんて悪質なとイオラオスは女神に反感を抱いた。

 

 しかし、アルケイデスは無関心だった。自分がミュケナイ王になるはずだったということを、幼い頃に聞いた覚えがあるが……それだけだ。関心がなかったから今の今まで忘れていたほどである。

 故にこそ、アルケイデスにとって痛烈な苦痛と成ったのは、その神託の後に続いた巫女の完全な善意。巫女の――否このギリシア世界に於いてはまず栄誉であると考えられる認識であり、女神にとって憎たらしい存在の名とするのに痛快な施しだった。

 

『アルケイデス。これより汝は名を【ヘラの栄光(ヘラクレス)】と改めなさい。さすれば汝の赤心は罪を栄光へと昇華できましょう』

「ッッッ――!」

 

 ヘラクレス。ギリシア神話に名高き大英雄の名。その身の由来と来歴、秘めた心情を想えば余りに皮肉な通称。その誕生の瞬間である。

 以後アルケイデスはその容姿から、誰が見てもヘラクレスであると伝わるようになり――以来アルケイデスは名を改めさせられた故に、自ら名乗ることを決してしなくなった。

 

 誰もがこの男をヘラクレスと呼ぶ。アルケイデスと呼ばない。

 ヘラクレスと呼ばれる度に、彼が何を思ったのか。それは、本人にしか分からぬものであり。彼の生涯に於いて、己をアルケイデスと呼んでほしいと願ったのは、僅かに三人のみであった。

 今はまだ、その一人とも出会えていない。

 

 

 

 

 



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2.1 ネメアの谷の獅子

 

 

 

 

「――すると、なんだ。貴様、神託で命じられたから俺に仕えるのか」

 

 臣になるというのに跪きもせず、高台の上の玉座に坐す王の顔を見据える半神半人の化物がいる。戦慄が過ぎった。 

 エウリュステウスは自身の王位が盤石ではなく、臣下にも侮られていることを知っている。というのもミュケナイ王の座は、本来自分のものになるはずがなかったのだ。

 自分が生まれる前、神々の首魁たるオリンポスの主神ゼウスは、目の前の化物をミュケナイの王にするべくこう宣言した。『次に生まれるペルセウスの子孫をミュケナイの王にする』と。それがこの化物だ。しかしゼウスの不貞の子への嫉妬からヘラが出産を司る女神に手を回し、化物の後に生まれるはずだったエウリュステウスが先に生まれるようにした。ゼウスはまさか自分の宣言を翻すわけにも行かず、結果エウリュステウスがミュケナイ王となったのだ。

 エウリュステウスは正当な王に非ずと、口さがない者が噂をしている。エウリュステウスは常々それが面白くないと思っていたが、これまでは無視していられた。しかし、今日この日から無視できなくなってしまう。他者が言うところの正当な王アルケイデスがミュケナイに来て、神託があったから自分に仕えるなどと言い出したからだ。

 

 この化物が王位への野心を持っていない保証はない。仮に王位を望まぬと言われたところで信じられるものか。一目で悟ったのだ。この男は紛れもない怪物だと。半神半人の英雄? ゼウスの子? だからどうだという。神託があった以上、この男はたしかに十の勤めを果たすまでは己に仕えるだろう。だがその後は? 禊は済んだと言って王位を望まないと? もしもアルケイデスが王位を望まなかったとしても、その血族はどうだ。アルケイデスの子供が『正当な王の子だから王位を継ぐ』などと言い出せば、己の王権を脅かすのではないか。

 その恐れを妄想だとは、エウリュステウスには思えなかった。半分だけとはいえ奴も人間。欲がないわけがない。むしろ半分が神であるなら野心が大きくとも不思議ではないし、欲があるなら王位を得ようとしても不思議ではない。力のある英雄が目指すものなど己の栄達以外に有り得ないのだから。ならこの澄まし顔の男もまた、エウリュステウスを殺そうとするだろう。

 恐ろしい。エウリュステウスはアルケイデスの――ヘラクレスという、神の栄光を意味する名の持ち主に脅威を感じた。神の栄光という名をデルポイの巫女に与えられたのだ、英雄として以外の格もエウリュステウスを遥かに凌駕している。

 

(十の勤めを果たす前に、この男が死ぬようにしなければ俺の未来はない)

 

 エウリュステウスがそのように思い詰めるのは、至極当然の心情であると言える。

 ――ヘラクレスは終始、そんなエウリュステウスを無感動に見ていた。彼の意識に、そしてその目の中に、エウリュステウスの存在は寸毫たりとも収まっていない。

 究極的に無関心だった。例えるなら仕事の関係上、派遣先の上司から仕事を割り振られるだけと感じているのだ。業務を片付け契約期間が満了すれば二度と顔を見ることもあるまいと、ヘラクレスの中では綺麗に完結していたのである。

 

 エウリュステウスはおよそ不可能と思われる試練を出すだろう。しかしヘラクレスに否はない。彼は不可能としか思えない願望のために動いている。ただの人間の出す試練も乗り越えられずして、それが果たせる道理はない。ともするとエウリュステウスがヘラクレスを殺そうとすればするほど、己を高めるいい材料になるとすら思っていた。

 故に傅かない。阿らない。むしろ挑発的に嘯く。我が身に艱難辛苦を与え給え、それでこそ償いとなる、などと。果たしてエウリュステウスの腹は決まった。十の勤めなどとは言わない、最初の勤めで死なせてやると。

 

「ヘラクレスに命じるぞ!」

 

 玉座から立ち上がった男は、眼下の化物を見据えて怒鳴るように言った。

 

「ここより南東へ進んだ先に谷がある。そこを通り掛かった民草や商人、旅人が恐ろしい神獣に襲われ無残に食い殺されてしまう事例が山のように報告されている! これを見事討ち果たしてみせろ! これを第一の勤めとする!」

 

 それは、本来ミュケナイ王エウリュステウスが解決せねばならない使命だった。

 しかしその件の谷に住む神獣は、幾多の人々を喰らい、何度か討伐に向かったミュケナイの軍勢を散々に打ち破った真正の怪物だ。

 それも当然の結果である。なにせその怪物とは『ネメアの谷の獅子』だ。あの強大な魔獣を何体も産み落とした『魔獣母胎エキドナ』と、ゼウスに匹敵する巨大にして強大なる怪物の王テュポーンの間に生まれた、魔性の怪物の御曹司。

 聞くところによるとネメアの谷の獅子は、人の生み出したあらゆる道具を無効化する特性を持つらしい。そしてあらゆる魔獣の上位に君臨するに相応しい爪と牙を持ち合わせ、その強靭な四肢から繰り出される純粋な力はまさに神の如き獣のもの。魔術師達による魔術も効果がないというのだから、半分しか神ではないヘラクレスでは勝てないだろう。

 

 これは、神が出張って片付けるべき案件なのである。

 

 俗世とは離れて暮らしてきたヘラクレスだ。ネメアの谷の獅子の恐ろしさを知らないはず。行って殺されてしまえと睨まれて――しかしヘラクレスは淡々と応じた。

 例え国を落としてこいと言われたところで、彼はただ一言こう言っただろう。

 

「承知した」

 

 ――言うなればそれは、討伐を成し遂げれば叙事詩の主人公として語られるに足る難行である。

 偉大な英雄が生涯を賭け、さらに長い年月を掛けて成し遂げられるかどうか、といった難度。ネメアの谷の獅子とはそうした位階の存在なのだ。

 しかしヘラクレスは颯爽と去っていく。神獣と聞いた時点で、相応に梃子摺るか死ぬ羽目になるかもしれぬと感じたが、こうも思ったのである。たかが獅子一頭を殺せずして、どうして望みを果たせるのかと。

 

 それに、なんの特別な宝具を持たない身だ。いっそのことこの十の勤めの中で、自分だけの特別な武具防具を揃えるのもいいかもしれない。

 ヘラクレスは大望成就のため、死線に赴く。事実上、ヘラクレスが最も梃子摺った三つの勤め、その一つ目の幕が上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 肉を貪っていた。最初こそ何やら喚いていたが、体を押さえ込み腸を食い破ると、それだけで虫の息となり、更に暫くもしない内に息絶えた。

 美味なのかと問われれば、黄金の獅子は否と言うだろう。普通の家畜、普通の人間、そんなものはただの『肉』でしかなく、長い年月を過ごしてきた獅子にとって味気ない代物に過ぎない。

 

 それでも飯は飯だ。喰らわねば飢えるのだから、選り好みはしない。死ねば肉、死んでおらずとも肉、そこになんの違いもありはしない。

 

 骨も残さず肉を平らげると、ざらりとする舌で口を嘗めた。血の味がする。これも一応は栄養源だ。それなりに愉しめる。むしろ肉よりもこの血の方がまだ美味い。

 住み慣れた谷のねぐらに戻る。本能の赴くまま狩りをし、眠り、大地を駆け、また狩りをする。それだけで満たされていた。

 獅子は極めて高い知能と、獣王としての誇り高さを自然と備えていた。大岩に比する雄大な体躯、丸太の如き柔靭な四肢、あらゆるものを切り裂く爪と杭のような牙。うねる黄金の鬣と、人理を弾く皮膚、皮膚の内に蠢く竜の鱗の如き甲羅の硬さを発揮できる筋肉。何者も敵たり得ない、彼が警戒するのは神格の持ち主のみ。王者として、彼は在るがままに在る。偉大な父と愛しい母の許を巣立ち、ただ一個の生命として、己のみを率いる王者として己の領土に君臨していた。

 

 そんな獅子の王が楽しみとしているのは、特別な狩りだった。

 

 時折、己から逃げるのではなく、立ち向かってくる肉が有る。その肉は、他の肉とは違うご馳走だった。皮膚は張り、筋肉はそれなりに固く、ほどよい噛みごたえが有る。

 知っていた。それは英雄と呼ばれる特上の肉であると。その肉を蹴散らし、逃げ惑わせ、追い散らし、追い縋り、そして追い詰めた果てに喰らうとイイ声で鳴き、その肉を献上させるのだ。これが堪らなく愉しい。唯一の娯楽である。

 獅子は人理に属するモノ全てに対して一切の例外なく無敵だった。己が捕食者であると知る。だがかといって驕り高ぶってはいない。そうであるのが自然で、曲がりなりにも『喧嘩』や縄張り争いになるのは同じ神獣ぐらいなもの。ましてや闘争の相手と成り得るのは、この谷に住み着く前に邂逅した『神』ぐらいなものだ。

 相応に高位の神だったのだろう。神は基本、不老不死だ。神獣の獅子は苦戦し、かなりの深手を負わされたものだが――その神は今、獅子の腹の中で(・・・・)今も生きている。肉片となり、こまかい肉塊に成り果てても、不死身故にまだ生きているのだ。その神の悲鳴と断末魔を、獅子は今も玩弄している。手傷を負った故にかつての住処から離れたのは、神との連戦は流石に手に余ったからだ。その傷も癒えた今、例え神がこの身を滅ぼしに来たとしても撤退はしない。

 

 寧ろ、神こそが極上の餌である。誇り高さも相俟って、逃げる道理はない。

 

 が、獅子は無謀でもなかった。自身を殺し得るモノに、いたずらに戦いを挑みはしない。挑まれれば逃げないが、そうでないなら放置する。黄金の獅子は慎重さも持ち合わせていた。

 

(――?)

 

 ふと、獅子は知覚する。横たえていた体を起こした。

 気配がしたのではない。そんなものは感じない。臭いがしたのでもない。そんな間抜けではないのか。

 知覚したのは『異物』だ。この谷は獅子の領土である。領域である。其処に侵入したモノは、冥界の神の『ハデスの隠れ兜』でもない限り獣の王の知覚を逃れる術はない。

 のっそりと起き上がる。本能が警鐘を鳴らしていた。己に気配を感じさせず、五感にも悟らせず、神獣としての本能でなければ察知できない相手など――『肉』では有り得ないことだ。

 

 神か。

 

 そう思う。王に油断はなかった。物音一つ立てずにねぐらから出て、侵入者を肉眼で捉えるつもりで動く。しかし相手が例え神であっても逃げるつもりはない。これは、迎撃のための行動だ。

 密かに歩み、谷に出る。あちらこちらに盛んに視線を走らせ姿を探す。

 その時だった。不意に察知した殺気に機敏に反応し、獅子は瞬時にその場から跳び退いた。ほんの紙一重、鬣を掠める閃光。レーザーの如く飛来した大矢が、獅子の残像を貫く。地面が爆ぜた。地表が抉れ、砂塵が舞う。神獣の獅子でなければ、当たれば痛手を避けられないもの。

 しかしその矢自体は人間の道具だった。避ける必要はない。獅子には通じない。だがその考えを獅子は改めさせられた。

 

 見たのだ。奇襲の一撃を避けられると、獅子の機敏な動きから例え己の弓であっても仕留めきれぬと判断し、射撃のみではなく接近戦を演じるべく剣を手に姿を現した男の姿を。

 

 それは英雄だった。『肉』ではない『英雄』である。神の臭いがし、別の臭いもすることから、これまでにない存在だと嗅ぎ分けた。

 偉丈夫。その身から滲み出る強者の臭い。獅子は――ネメアの谷の獅子は臨戦態勢を取った。大きな手で、器用にも剣を握りながらも大弓を構え、矢を放ってくる。それを獅子は躱した(・・・)。通じないそれを避けたのだ。

 

(………)

 

 ネメアの谷の獅子は強者である。他とは隔絶した神秘の獣。その本能は目の前の男と『闘争(たたか)』わねばならぬと洞察した。すなわち効かぬからと矢を受け、己の能力を無意味に知られる真似は避けるが上策。同等の敵だと断じた。

 己の血が叫んでいる。あれこそが生涯最大の宿敵であると。――それは期せずして、己の父テュポーンと『英雄』の父ゼウスの因縁を占う前哨戦の様相を呈している。

 獅子は唸った。

『英雄』は構えた。

 己の頭の位置よりも僅かに高い位置に視線のある獅子を目の前に、『英雄』は感嘆の念を示している。

 

「デカイな」

(………)

 

 貴様こそ、と神獣は笑う。表情では伝わらぬものがあった。

 敬意を払うつもりなのか、『英雄』は構えながらも動かない。

 

「その充溢せし生命の気高さに敬意を払おう。いざ尋常に勝負」

 

 応――そう応えるようにして黄金の獅子は咆哮した。

 谷が震撼する。

 

 それはあたかも、誇り高き戦士と戦士が決闘を行うかのような荘厳な趣があった。

 邂逅してまだ間もない。そして以後、永遠に会うことはあるまい。一期一会、生きるか死ぬか、どちらかが死にどちらかが生きる。

 だがその結末がいずれであろうと、神獣と英雄は同じ事を思った。――勝てばその勝利を誇りとしよう。負ければ勝者を永劫に讃えよう。

 

 生まれながらに逸脱した存在同士は奇妙なシンパシーを感じ合い、そして。

 

 英雄が挑み、王者が迎撃に打って出た。

 

 

 

 

 




第一の試練「ネメアの谷の獅子」戦、開始。


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2.2 英雄の証、獅子の星 (上)

 

 

 

 

 

 野生に生きている限り。あるいは戦場に身を置く限り。

 運命に紐付けられた死の邂逅は、いつだって突然で理不尽に降り掛かる。

 

 勤めとして人に害なす神獣の退治を命じられた『英雄』からすれば、その邂逅は意図してのものである。しかしどれほど血塗れたものであれ、平凡な日々に身を窶していたネメアの谷の獅子にとって、『英雄』の襲来は宿命を感じながらも唐突なものだ。

 日常が突然に闘争のそれへと侵食される。常ならば事態の急変を呑み込むのに難儀するだろう。だが獅子に恨み言はない。自然界に於いて不意の殺し合い、喰らい合いは当たり前のもの。そこに文句などあるはずもない。情けなくも不平不満を態度に出そうものなら、ネメアの獅子は恥の余りに自死を選ぶ。寝込みを襲われ満足に戦えないまま殺されたとしても、それは相手の方が上手だっただけだと獅子は割り切るだろう。

 

 今、黄金の獅子は――後世『英雄』との対決により、『獅子こそが百獣の王である』という人類の共通認識を築くに至った神獣は――全くの未知の狩場に立っていた。

 

 神ではなく、人でもなく、『肉』でもなく、獣でもない。半神半人の『英雄』が、対等の個として目の前に立ちはだかっていた。

 敵として。己の命を奪うため。

 獣の王には分かる。神格を持つ獣には分かった。この『英雄』は己の欲のために来たのではない。己の意志以外の何かに従って此処にいる。そして逃げない、己の姿を見た者は余程の戯けか神以外逃げ去ったというのに。己の敵として戦おうとしている。

 見事。王としてはその勇気を讃える他ない。故に讃えながら殺し、喰らう。何よりも誇り高き『英雄』として、何よりも丁寧に血の一滴も無駄にせず喰らい尽くそう。神の獣は『英雄』を見据える。

 

 『英雄』はその偉容に感嘆し、感動の念を禁じ得ないでいた。

 

 四肢で地に在る状態ですら、獅子の視線は己の身長を超えている。後ろ足で立ち上がれば己よりも二倍は大きい。見たことも聞いたこともない獣だ。

 何よりもその、不純なものなど一寸たりとも介在しない純粋な生命に感動した。

 ただ強く、ただ大きく、ただただ気高く誇り高い。純然たる王気というものをはじめて肌に感じた。この獣と比べたら、あらゆる神や人の王など畜生にも劣るのではないか――畏敬の念を懐かずにおれない。これが神獣か、と。そしてそれを有するという神に侮蔑の気持ちが湧く。これほどの品格、気品だ。所有物にするのではなく、対等の友にするべきではないのか。言葉が通じずとも築ける想いがあるのではないか。

 その想いを秘めたまま『英雄』は剣を構える。名剣の類だが、ネメアの獅子……その名を住処になぞらえて『ネメアー』と呼ばれる獣の爪牙に比べれば、まるっきし子供の玩具に思えてしまう。

 

 だが獅子は侮らない。野生を生きる者が闘争に於いて油断することはない。ネメアーは『英雄』を見る。名も知らぬ、知る必要もない強き敵手を。

 ネメアーは重心を落としたまま、慎重に『英雄』の出方を待った。さあどうする、挑みに来たのは貴様だろう。ならばそれに相応しい姿勢があるのではないか。来い、己からは往かぬぞ。

 

 その獣にあるまじき知性と、豪壮な王者の余裕が宿った瞳に『英雄』は微笑む。真実裸一貫、剥き出しの魂だけで相対しているかのようだ。

 野生の戦いも悪いものではないと、この時『英雄』は初めて思った。笑う。ネメアーも笑っている気がする。こんな出会い方でなければ友になれたのかもしれぬと。尤も、ネメアーは徹頭徹尾喰おうとしてくるだろうが。

 

「往くぞ」

 

 『英雄』が馳せる。獣の神王が迎え撃つ。

 神速で踏み込む『英雄』の疾さを、獣は余裕を持って見定めた。構えは刺突、片手を自由にするために空けた、槍のように伸びる剣穿。狙いは眉間だ。

 

 ネメアーは言語を持たぬ。それ故に曖昧模糊として漠然とした、それでいて何よりもダイレクトな思考が弾けた。

 

 疾い。迅い。速い。桁外れの膂力が目で見ただけで解る。突き込む剣身が空間を紙のように引き裂き迫ってきた。

 凄まじい剣速による負荷に、剣の方が堪えられず軋んでいる。あれではとても長くは振るえまい。――残念だ。決着は早く、呆気ないものとなる。

 強者には相応しい武器というものが必要だ。ネメアーにとっての爪と牙のように。それがない『英雄』は武器が通じるのが前提で振るっている。口惜しいがネメアーは容赦なく勝ちにいくことを選択した。只管に攻撃を躱し、『英雄』の武器の限界寸前に自らの体に斬撃を当てさせ、得物を砕かせ驚いた隙に『英雄』を噛み砕く。どんな強者でも武器の破損には、戦闘時であれば驚きで必ず一瞬の隙が生まれるのだと理解していた。 眉間への刺突は飛び退いて躱す。そして怒涛の勢力で突貫してくる『英雄』から、ネメアーは一貫して一定の距離を保った。自滅を待っての様子見ではある、しかしその前に隙があれば、当初の狙いに拘らずに爪で切り裂くつもりだった。

 

 『英雄』は剣を振るう。自身を遥かに上回る雄大な体躯の獣を向こうに回して恐れもせず。ネメアーの体を両断せんと振りかぶった名剣を閃かし――ネメアーに躱される。

 ネメアーは徹底していた。その眼光は『英雄』を喰らう隙を狙い、無闇に脅威へと身を晒さない。しかし注目すべきはそこではなかった。

 『英雄』は膂力に於いて並ぶ者がいないが、その技量に於いても当代無双に限りなく近い。長ずればその武練は並み居る英雄豪傑の中でも頂点に君臨するだろう。果ては座に刻まれし全英霊の中で、最強の一角に数えられるに至る。――その『英雄』の剣が、ネメアーに掠りもしないのだ。ネメアーは自前の反射神経と、危機を察知する嗅覚のみで『英雄』の剣技から逃れているのである。

 

 無論『英雄』が当てる(・・・)ことのみに注力した場合、防ぎもせずに躱し続けられる者は余程に特異な存在でもない限りいないと言える。だが当てるだけでは駄目なのだ、ネメアーの皮膚は特別な特性を考えなくとも分厚く、簡単には切り裂けない。

 渾身の一刀のみが痛打となる。『英雄』は手傷を負う覚悟を見せた。ネメアーの爪の脅威を受けながら踏み込み、前肢を断ち落とさんと裂帛の気勢で剣を薙いだ。

 

 瞬間、脳裏に警鐘。危機を察知し本能的に身を捻った。剣を振り抜く寸前であった故に体勢が崩れる。『英雄』の剣は虚空を掻いていた。

 ネメアーが跳んだ(・・・)。後肢のみの脚力で地面を蹴り、『英雄』の動体視力ですら捉えきれぬ速度でその脇を掠めていったのだ。激痛が走る。

 

「グ……ヌッ」

 

 『英雄』の脇腹から鮮血が吹き出た。浅く肉が抉れている。喰われた――戦慄するよりも先に『英雄』は背後に振り返ることすらせずに横っ飛びに跳躍した。左肩に浅い裂傷が刻まれる。『英雄』の脇を通り抜けたネメアーは谷の絶壁に着地し、跳ね返るようにして敵手の背中を襲ったのだ。

 再び『英雄』の目前に戻ったネメアーは、口元に着いた血をぺろりと嘗めた。そして挑発するように前肢で顔を掻く。退屈だとでも言いたいのか……『英雄』は苦笑し、背負っていた弓と矢筒を棄てた。右手で剣を構え、左手を添える。退屈にさせて申し訳ない、此処からは試し合いは終わりとしよう――言葉もなく目で語りかけると、ネメアーは『英雄』の意志が伝わったのか地に伏せるようにして身構える。『英雄』が地を蹴った。ネメアーも応じて跳んだ。

 

(此度の特別な狩りはこれまでか)

 

 ネメアーは言語として紡いだらそのような意味合いになる思惟を抱く。

 まだ『英雄』は本気を出していない。いや、本気ではあっても全力ではない。これから全力を出すのだろう。

 だが間違ってはならない。ネメアーは王であるが、獣である。その死生観は狩るか、狩られるか。悠長に全力を発揮させる気はない。黄金の獅子は得難い宿敵を相手に、心躍る死闘を望んではいたが、狩猟の場に於いてそんなものなど僅かにも価値はない。

 ネメアーは跳び、真っ向から『英雄』に向かう。己の爪で『英雄』を切り裂くべく。『英雄』の剣は正確にネメアーの眉間を貫かんとしていた。先に剣が直撃するだろう。そして黄金の獅子は剣を受けるしかない。

 それでいい。それがいい。その剣はネメアーには通じない。決着の時だ。

 

 ――この一合、釣り師は『英雄』ヘラクレス。

 

 剣の切っ先がネメアーの眉間に直撃した。ヘラクレスの度重なる剣箭による負荷を掛けられ、ネメアーの神速の突進を受けた剣は粉々に砕け散った。

 黄金の獅子の狙い通りだ。ヘラクレスはネメアーを仕留めたはずが、剣の方が砕け散るなど慮外のはず。その驚いた隙を――隙、を……。

 ネメアーは見た。誇り高き獅子の神王は目撃した。剣が砕けた瞬間、最初から分かっていたかのように剣の柄から手を離し、素早く身を屈めたヘラクレスの動きを。

 獅子の鋭利な爪が空を切る。その真下を通り抜けたヘラクレスは、無防備なネメアーの腹部に鉄拳を刳り込む。掬い上げるかのような拳撃は正真正銘掛け値なしの全力だ。地面を蹴る震脚に谷が振動し、握り込んだ力の塊がネメアーの腹に解放される。

 

 ネメアーが撃ち出された砲弾のように弾け飛んだ。その巨大な体が吹き飛んで谷の断崖絶壁に叩きつけられる。

 

 ヘラクレスは、狩人(・・)だ。であれば無論、獲物となる獣のことなど()()()調()()()()()。といってもできたのは聞き込み程度であるが、それでも幾つか知ることができた。

 

 ミュケナイの戦士隊は幾度かネメアーを退治に向かっている。仲間を見捨てて逃げた僅かな生き残りがいた。彼らに聞くところによると、刃が通らない、棍棒が効かない、矢が効かない――そして頭が良く狩りの獲物にされたかのようだった、と証言してくれた。

 ヘラクレスは『英雄』だ。しかしギリシア世界に於ける一般的な英雄の尺度に収まらず、またその価値観と行動原理は全く異なる。

 敵の持つ情報というものを軽視しない。敵を過小に評価したりはしない。武器が効かない、それを前提に動くことにしていた。無論自分が扱うなら通じるだろうという自負はあるが、生憎と今のヘラクレスは全幅の信頼を置ける武器という物を持っていなかった。

 

 人の作った名もなき剣を使う。自作の弓と矢を使う。はっきり言ってしまえば、そんなものはヘラクレスという五体の持ち主にとって拘束具(・・・)でしかないのだ。

 最強の武器は己である。この腕と拳、脚と足、肘、膝……剛力より繰り出す腕力こそ(・・・・)最強無比。ならば神の名を冠する獣を相手に手加減は無用、全力で殺しに掛かる前提で、最初から徒手空拳で挑むつもりだったのだ。

 

 奇襲の矢は、ただの撒き餌。武器を使うぞという宣言。剣を使っていたのはネメアーの反応と身体能力を測るため。ネメアーの知能が高いならヘラクレスが剣を振る度に、その剣が自壊していくのに着目する。わざと受けて破壊しようとするだろう。

 その読みは当たった。後はあらゆるモノを破壊し尽くす己の力の全てを叩きつけるだけ。それで決着である。この豪腕を受けて生きていられるとすれば、総ての神々の首魁が集うオリンポスの神ぐらいなものだろう。

 

 そう、思っていた。

 

「――――」

 

 だがその手応え(・・・)は――ネメアーを殴り飛ばした拳は、異様な感触をヘラクレスに覚えさせていた。

 

 硬い。そして軟らかい。殴り飛ばした瞬間に獣の五体が四散し、弾けるだろうと無意識に思っていたヘラクレスは、五体が無事なまま吹き飛んだ獣王に呆気に取られた。

 生き物が形を持ったまま……? 己に殴打されたのにか……?

 信じられない思いで、ヘラクレスは崖に叩きつけられたネメアーを見詰める。

 瓦礫を散らし、尾を振って砂塵を払い、地面に四肢で着地した獣の王は、口元から一筋の血を吐いてこそいたが未だ健在であった。

 

 苦痛がある。苦悶がある。膝を折ってしまいたい。だが立った。立って、ネメアーはヘラクレスを見ている。その目は据わり、何かを伝えようとしているようだ。

 

(……策に嵌ったか。侮っていたのは、こちらの方だったのだな。貴様を敵であると見ていながら、狩りの獲物と同列に見ていたらしい。詫びよう。これより先は『狩り』ではなく『闘争』である。喰らってやろうなどとは思わん、跡形もなく粉砕してくれん)

 

 そんな、思惟。神通力でも働いたのか、ヘラクレスはネメアーの思惟が感じられたような気がした。それが錯覚ではなかった証か、ネメアーは不意に、その身に神々しい神威を纏い始めた。

 黄金の神気。粒子となって光り輝くそれを纏った獅子の王の鬣が揺らぐ。息が詰まりそうになるほどに眩い神性と、渦を巻く神秘の結晶。揺らぐ金色の炎のような鬣の下、鋭利な牙が肥大化し、全身の筋肉が膨張していく。

 

 もとより巨大だった獅子が、更に一回りも大きくなった。これが恐るべき神獣の真の姿。もしもこの宿命の出会いがなくば、それだけで特異点化が決定するほどの猛威を振るう特異点級の神獣。名をネメアー。父を魔獣神テュポーン。あらゆる怪物達の神の子の中で最強と目される長兄。

 その覇気と神気、王気の溢れる荘厳な姿に、ヘラクレスは暫し呆然と見入っていた。

 やおらヘラクレスは笑い出す。絞り出すように、抑えきれぬように。そして大口を開いて呵々大笑した。

 

「は、ははは、ハハハハハハハ――ッ!!」

 

 圧倒され、勝てるわけがないと怯懦に侵され気が狂ってしまったのか。笑い転げんばかりの『英雄』を、真なる姿を顕した獅子王は静かに見守った。

 気が触れたのではない。悦んでいるのだ。ならばその無防備を突くことはしない。この己を讃え、敵として相対することを悦ぶ者を、どうして王者である己が咎めようか。ネメアーは『英雄』の笑いが収まるのをジッと待つ。

 そのネメアーの目に、ヘラクレスは徐々に歓喜の笑いを収めていく。そして拍にして六十、押し黙った。ヘラクレスは獅子の瞳を見詰める。

 

 ヘラクレスは、獣に対して頭を下げた。

 

「すまない、待たせた。望外にもまみえた強大な敵だ……つい嬉しくなってしまった」

(………)

「どうしてか……貴様が他人とは思えん。長年連れ添った友のように感じてしまう。貴様を討てと命じられた時から、あるいは貴様を狩るためにその力を知ろうとした時から……なぜだろうな……私は今ここで貴様と対峙できたことが、堪らなく幸運な巡り合わせに思えてならない」

 

 深く呼吸した。――ここからは本気だ。全力だ。そう宣言する。

 

 言ってしまえば最初から本気だった。剣を捨てた瞬間から全力だった。だがヘラクレスの言う全力とは、まさしく全身全霊。己の全てを出し尽くす気概を言う。

 遥か時の果てに待ち受ける英霊同士の戦争舞台、そこで相まみえる英雄王をして『人間の忍耐の究極』であると絶賛された男が、その強靭な意志力を攻撃性に転換する意識の変動――半神半人の英雄の断固とした決意。それが力になる存在だった。

 

 はじめてだった。否、師であるケイローンが最初か。否、否だ。ネメアーこそが真実最初の相手となる。全身全霊の殺し合い……そんなもの、体験するのは本当にはじめてなのだ。誰もヘラクレスと対等の敵足り得なかったのだから。故に昂揚する。故に心が沸き立つ。ヘラクレスは己の上半身を覆う衣服を剥ぎ取る。魔獣から剥ぎ取った赤い毛皮の衣を棄て去った。腰に巻き付けていた布一枚、ヘラクレスはそれだけで特異点級の神獣と正面から対峙した。

 

 そしてこの時。ヘラクレスは(・・・・・・)自らの限界を超えようと足掻いた(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 このままでは負ける、殺される。力及ばず敗れるのなら仕方ない。しかしまだだ、まだ己には上がある。まだ先に行ける、もっと先へと到れる。己のためではなく、その力を目の前の気高き王に示したくて仕方がない。

 ヘラクレスは全身に魔力を漲らせる。初の試み、されど『こうしたらいい』という直感がある。力よ(・・)、力よ――我に宿れ。我が身に降りよ。咆えろ、勇ましく。

 

「ォッ、ォォオオオ……!」

 

 活性化していく。神性が、肉体が、魂が――神話最大の大英雄の総ての細胞が。

 全身の筋肉が膨張していく。ぶわ、と肩に掛かっていた黒髪が波打った。そして彼の肉体に、赤い紋様が浮かび上がっていく。ヘラクレスが持つ霊格が飛躍した。

 

「オオオオオ――ァァアアッ!」

 

 爆発したかのようだ。――顕現するは豪力の具現。天地を支え、世界を支えた宇宙最強の怪力無双。充溢するは神威に非ず、溢れんばかりの生命力だ。ヘラクレスは此処にその素養を覚醒させた。

 凄絶な力の波動はまさに鬼神。人の身に在りながら神の域に在る、人であり人でなく神であり神ではない理不尽の権化。唯一無二の敵の誕生を目にし、ネメアーは頷くように頭を下げる。

 

(重ねて讃えよう。……見事だ。認めるしかあるまい。貴様こそが――)

「――そうとも。貴様は私の、私だけの宿敵だッ!」

 

 獅子が満身より力を溜め、咆哮する。まさに獅子吼。咆え声一つで谷は崩れ、天と地に在るモノが軋んだ。

 『英雄』が解放の雄叫びを上げ、突進する。赤く輝く紋様の魔力に呼応して万物が戦慄し、あらゆるモノの生存本能が狂ったように意識を薄れさせた。

 あたかも天変地異、どうしようもない天災を前にして観念してしまったかのように、周囲一帯の生あるモノは例外なく静寂に堕ちた。

 

 激突する。今の一人と一頭の世界には、互いしか存在しなかった。

 これより三日の間、死闘は片時も止むことなく続けられることとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――最初に気づいたのは神々であった。

 

 その存在を識る。恐れと共に放置する。彼のモノの名はテュポーン。神々が心底より畏れ、恐れる怪物の神。それに似通った力の片鱗を察知した。

 総ての神が戦慄した。全身に鳥肌を立たせ、恐慌に陥り掛けさえした。それはオリンポスの神も例外ではない。ゼウスは己に勝ち得るとしたらテュポーン以外に有り得ぬと知っているからこそ、誰よりも過敏に反応したと言える。

 ゼウスは最強の神具『雷霆』を手に外界を覗き込んだ。自身の属神に命じ最強の鎧の準備さえさせた。テュポーンが現れたのなら自分が出るしかない。そう決意しての遠見は、果たしてその血戦を目撃させるに至る。

 

 咆哮がこだまする。信じ難いものを目撃した。

 

 片やテュポーンの血を感じさせる凄まじい神威の獣。黄金の獅子。オリンポスの神々以外の高位神格が、完全武装でようやく戦えるか否かといった桁外れの怪物。下手に暴れまわれば世界が荒廃しかねない規格外。この獣がテュポーンと結託して襲い掛かってくれば始末に負えない。テュポーンだけで手一杯になるからだ。故にゼウスは瞬間的に雷霆を投じんとする。此処で殺しておかねばまずいと最高神が判断したのだ。

 しかし直前でその手を止めた。争乱の元凶、そのもう一方を知っていたからである。

 ヘラクレスだ。その究極的なまでに鍛え上げられた肉体に宿った腕力のみで、最高位に近い神獣を相手に奮闘している。獣の爪牙を躱し、蹴り穿ち、殴り貫く。何度も、何度も、何度でも神獣を殴打していた。

 

(よもや……これほどか……)

 

 己の血が流れているとはいえ、ここまでの英雄に成った子を、ゼウスは他には知らなかった。

 目が吸い寄せられる。ヘラクレスは全身を血に塗れさせている。総て己の血だ。全身傷のついていない所はなく、しかし凄絶に笑っている。歓喜しながら闘っていた。

 そして信じられないほど急激に強くなっていっている(・・・・・・・・・・)。その闘争にゼウスは()を見た。完成された英雄の美。力強く、逞しく、勇敢で恐れを知らない。強敵に怯えるのではなく喜び、相手を上回ってやろうと足掻き抜く。これを英雄と言わずしてどうするというのか。

 戦女神アテナが目を奪われている。玲瓏たる声音を熱っぽく湿らせ賛辞した。

 

『素晴らしい英雄だ。私は彼を応援したい』

『やめろ』

 

 ゼウスはヘラクレスに加護を与えようとしているアテナを止めようとした。

 だがそれよりも先に、あろうことか軍神アレスがアテナに待ったをかけた。

 

『無粋だぞ。これは奴と、あの獣の闘争だ。戦を司る二柱の一方が、神聖な決闘を穢すことはこの俺が赦さん』

『ほう……まさか戦の暗黒面、狂乱を司るお前に言われるとはな。どんな風の吹き回しだ?』

 

 アテナの揶揄に、アレスは鼻を鳴らした。まともに答えるつもりはないようだ。

 しかし気が変わったのだろう。端的に、一言だけ漏らした。

 

『……あの闘争は、男を熱くする。女の貴様には解るまい』

『………』

 

 その物言いは、アテナを激高させるにたる。だがアテナは激さなかった。

 不思議とアレスの顔が熱意を帯び、その視線が外界での戦いに釘付けになっていたからだろう。毒気を抜かれる。

 ゼウスは内心、アレスの評価を改めていた。まさかな、と。あの愚息がそんなことを言うようになるとは……。

 

 さても呆れるは己の妻だ。神々の女王は、ゼウスの子でありながら己の子ではない者が、あれほどの英雄であるのに嫉妬している。

 ヘラは自分で生んだ子供が悉く愚かであったり、醜かったりするのが受け入れられない。これではまるで、母胎としての自分が劣等であるかのようではないか。

 ――案の定、ヘラはアレスの言葉を聞いていなかった。ゼウスは嘆息する。そう嫉妬深くて束縛が強すぎるのも、ゼウスの浮気性の原因の一端なのだが……。

 

 そして、誰よりも英雄に対して入れ込んだのは、鍛冶の神ヘパイストスだった。

 

 彼はヘラからの仕打ちや境遇にひどく同情していた。同時に彼ほどの英雄が、武器も使わず肉体のみで闘っている姿に物足りなさも感じていた。

 あの英雄に剣があれば。あるいは弓があれば。そう思わずにはいられない。しかし生半可な武器では到底あの怪力には耐えられない。使う端から壊れていくだろう。

 ヘパイストスは密かに決める。あの者に剣を贈ろうと。尽きぬ矢を収めた筒と、豪腕に相応しい弓を贈ってやりたい。それは鍛冶の神としての欲求だった。

 それに――アレスに同意するのは癪だが、胸を熱くさせられる闘いである。個人的に後押ししてやりたいと思ったのはアテナだけではない。ヘパイストスは一人うなずき、自分の工房に引き返していった。

 

『……これならば、予言に間に合うか』

 

 ゼウスは確信する。我が血を受けたこの英雄がいれば、巨人族ギガースの軍勢に勝てると。ギガースは神には殺されない強大な相手だが、ゼウス一柱のみで負けはしないのである。勝てないだけで、負けることは絶対にない。

 勝ち切るための切り札があそこにいる。喜ばしいことだ。問題は……対ギガースの切り札に私情で絡むヘラだ。罰する必要がある。夫としてではなく神々の王として。

 

 だが、

 

『………』

 

 今だけは、あの英雄と獣の血戦を見守ろう。

 

 オリンポスの首魁、ゼウスは玉座の上で結末を見届ける。どこか他とは違う変わり種の英雄の闘いを。

 

 

 

 

 

 

 

 




長くなったので分割。次に続く。


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2.3 英雄の証、獅子の星 (下)

 

 

 

 

「グゥウウ……! 雄ォォオオオ――ッ!」

 

 肉を食い破る杭の如き牙の鋭さに苦悶の呻き声を漏らし、次いでそれを塗り潰すようにして咆哮した。

 左の二の腕を黄金の獅子の顎が捉えている。岩石より削り出したような太い犬歯が、束ねた棍棒の如き太腕の皮膚を突き破り、濁々と鮮血を噴出させていく。牙が骨に達すれば左腕は喪失するものと考える他にない。死に物狂いで抗う。

 荒い息が掛かる。獅子の猛々しい、されど必死な形相。三日目の激闘、ついに捉えたヘラクレスの腕をネメアーは離そうとしない。ぐいぐいと顎を鳴らして腕を噛み砕かんとしている。己の顔のすぐ近くにある獅子の顔に、ヘラクレスは右拳を叩きつけた。

 離せ、離せ、離せ――! 全身傷だらけだ。噛み付いてくる獅子の脳天に、眉間に、顎に、豪腕を幾度となく打擲する。顔面を殴打されながらも、獅子もされるがままではない。前肢を遮二無二に振るい、その大爪で英雄の肉体を掻き毟った。ヘラクレスの胴体に刻まれている裂傷が更に増える。背にも前にも傷しかない。比喩ではなく全身が傷だらけなのだ。

 

 牙を塞き止める筋肉の厚み。左腕に力を溜めたまま、ヘラクレスは狙いを変えた。この三日間の内に何度か痛撃を与えた犬歯に狙いを定め拳を振るう。

 

 硬質な牙を打撃する原始の音色。拳が割れ、血を噴出させながら、ヘラクレスはそれでも自慢の剛力を発揮し続けた。

 犬歯に皹が入る。左腕の筋肉を破り骨に牙が届く。ギャリ、ギャリと削られる骨の音を聞きながら、総身から深紅の血を噴き出すほど拳に力を籠める。

 

 先に砕けたのは、神獣の牙だった。凶悪な大岩の如き牙が殴り割られ飛び散る。それを掴み取ったヘラクレスは、神獣の砕けた牙をネメアーの左眼に突き込んだ。

 世界に満ちる精霊が狂騒に陥る絶叫を残し、黄金の獅子は顎の力を緩めてしまった。振りほどいてなんとか獅子の顎から逃れると、獅子の間合いからよろめきながら離れてヘラクレスは絶息する。

 

「ハァ、ハァ、ハ、ァ……」

 

 血を流し過ぎた。

 意識が朦朧としている。全身を大爪で刻まれ、流した血の上を更に血が流れる。左腕はだらりと肩から脱力し、力が入らなくなっていた。

 もう立っているのがやっとだ。だがそれは、ネメアーもまた同じである。

 後肢の内の一本は圧し折れ、全身に打撲の後を残し、至るところの骨が砕けている。神威も減じ、鬣も気力と共に縮れている。世界を支えるほどの腕力から繰り出された拳と蹴撃を、千回以上受けたがためだ。左眼にも己の折れた牙が突き刺さっている。

 

 共に死に体。されど、両者の目は炯々と光を放ったまま。

 

 まだだ、まだ宿敵が生きている。立って戦おうとしている。ならばここで倒れる訳にはいかない。満身創痍の有様で、体を支えているのは最早気力だけだ。

 勝ち筋は、実を言うと見いだせていた。とっくの昔に。何年も昔に見て取った友人の癖のように。獅子はその体の構造上、前肢の真横に張りついてしまえば相手の牙と爪は届かない。そこからネメアーの首に腕を回し、絞め続ければ絞め殺せる。ヘラクレスの洞察眼は勝ち筋を見抜いていた。

 だがそうはしない。正面切っての闘いをやめない。これはくだらない拘りだ。純粋に勝ちだけを目的としていられる領域に立っていなかった。いや、もはや勝ち負けではない。生死を争っているのではない。

 これは、対話だ。ヘラクレスはネメアーとの命のやりとりを、かけがえのない語り合いにしていた。噛みつかれる度、拳を叩きつける度、交わされる思惟。ヘラクレスはネメアーを理解し、ネメアーもまたヘラクレスを理解した。何よりも互いのことを――あるいは自分以上に分かり合っていた。

 

(実を言うと、嬉しいのだろう?)

 

 ヘラクレスはよろめきながら獅子に歩み寄ると、見る影もない拳撃を放つ。

 それを顔面で受けたネメアーは、踏ん張れずに無様に転倒した。追撃できない。肩で息をして、ネメアーが立ち上がるのを待つ。

 黄金の獅子は、血を吐いた。それでも立った。そしてもたつきながらヘラクレスに突進する。胴の真ん中に獅子の体当たりがまともに入る。

 

(死に体になっていながら、恥ずかしげもなくほざくな)

 

 今度はヘラクレスが転倒した。血を吐いて咳き込み、肋骨が折れているのを今更自覚する。ネメアーはヘラクレスの上に圧し掛かった。大口を開け、欠けた牙ばかりの顎でヘラクレスの首に噛みつかんとする。

 動かない左腕はそのままに、右手でネメアーの鼻面を抑えて防ぐ。そのまま押しのけようと力を込めても、ネメアーの情けない膂力に拮抗する程度だった。

 

(対等の友と出会えた故に、年甲斐もなく喜び、孤高の王の座を降りてしまった。それが照れくさいのだろう)

(戯言を。貴様が言えた口か? 気色の悪い怨念をぶつけ、八つ当たりをし、鬱憤を晴らした分際で)

(すまん。貴様にしか吐き出せないと思った。だが受け止めてくれただろう?)

(くどい。王に友など要らん。これまでも、これからも、孤高のままに在る。惑わせるな)

(そうは言うが何事にも例外はつきものだ。貴様にとっての例外を、私にすればいい)

(………)

 

 ――そんな思惟の交感。力の緩んだネメアーを押しのけ、獅子を蹴り飛ばして立ち上がったヘラクレスは笑った。久し振りに自然と溢れた、晴れやかなまでに快活な好漢の笑みだった。

 魅入られたように獅子王はそれを見詰める。そしてフッとネメアーは笑ったようだった。

 

(ばかめ。貴様は真正の戯けだ。だが――そうだな。そんな戯けだからこそ、いいのだろうよ)

 

 ネメアの谷の獅子は。特異点級の神獣は。周囲と自身の魔力を掻き集め、口腔に溜める。知っていた。それは大陸を削り取るだけの破壊力を秘めた魔力砲撃であると。

 だがその凄まじい天災が如き破壊の力は、やはり大幅に規模が縮小している。それでは辺り一帯を灰燼とし、死にかけのヘラクレスを殺すのが精々だろう。

 全霊を賭していた。なけなしの全力を費やしていた。これで殺す、殺してみせると、矜持に掛けて最後の一撃を放った。

 

 ヘラクレスはそれを迎え撃つ。最初に見た時は力任せの拳撃で相殺した。だがもうそれだけの腕力は捻出できない。これは無駄な足掻きである。

 だが無駄でも良い。無駄な闘いだからだ。殺すだけならヘラクレスはネメアーを絞め殺せていた。そうできるほど闘いの中で急成長していたのだ。だがそうしなかった。しなかった時点で、この血戦は蛇足である。余分な闘いで、全く合理的ではない。

 それでいい。それがいい。ヘラクレスは緩やかに拳を構えた。なけなしの魔力を振り絞り、体力を絞り尽くし、力を握る。だが体は疲弊し尽くしていた。もはやまともに動かせない。力を入れた端から抜けていく。強すぎる力で固まっていた、固めていた体が脱力しかけていた。

 

 黄金の粒子が獅子の口腔より迸る。決着を望む獅子王の魔力砲撃がヘラクレスを襲った。

 

 ヘラクレスは吼える。吼えて体に活力を取り戻す。ケイローンの下で身につけた呼吸法は、辛うじて体を動かせるだけの力を捻出した。

 しかしそれだけだ。それだけでは力が足りない。どうする、どうすればいい。光の帯が迫りくる。ヘラクレスは己の死を直感しながらも、信じた。己を。

 英雄は己の肉体に任せることにした。本能に託す。これまでの修練を信じる。さあ、この絶体絶命の死地をお前はどう脱するのだ、アルケイデスよ――自らへ向けた問いに体は応えた。

 

 そうするのか、と感心する。拳を腰の位置まで落とし、握った拳は柔らかく、肩から手首まで柔軟だ。それでいて足は大地を踏み締めて、重心が地の底まで伸びている。

 全身から無駄な力が抜けた。強すぎる力故に、ここまで追い込まれねば抜けない力が抜けた。手を伸ばした先にまで黄金の光の帯が迫っている。ヘラクレスの肉体は、長年の研鑽と本能を融合させ、その一撃(・・・・)を導き出す。

 

 ――対象を消し飛ばす神威の光。放たれた神聖なる破滅の力。それに向かって振るわれるは英雄ヘラクレスの集大成。

 

「――――」

 

 気がつけば、黄金の破壊の光は消滅していた。

 綺羅綺羅と光の粒子が夕焼けに溶けていく。ヘラクレスは呆気に取られた。自身の放った一撃は、絶体絶命の死地を正面から打ち破ったのだ。

 

 記憶にない。己は何をした。直前まで覚えている動きと力の加減、技量の粋を集めたそれを再現しながら、体が覚えていたそれを虚空に放つ。

 閃光が瞬く。己自身の目にも留まらぬ、神速を超えた超高速の九連撃。淡い魔力の光を燐光として散らしながら、ヘラクレスの拳撃の極致が結実していた。余波で谷が振動する。死に体の体で振るった一撃でだ。

 

 無駄な闘いだと思っていた三日間の激闘。それがヘラクレスに齎した一つの極限、究極の一撃。ただの技量を、技を宝具の域にまで高めたヘラクレスだけの力。

 真名(なまえ)はまだない。ヘラクレスはこれが宝具の域に達したそれだとまだ自覚していないからだ。

 

 ネメアーは驚愕していた。己に残された命の全てを結集しての砲撃が掻き消されたのである。勝利して飾ろうと放った最期の思いが儚く散っている。しかし虚空に放たれたヘラクレスの技撃の極致を目にすると、ネメアーは仕方なさそうに地面に横たわった。

 

「……!」

 

 ヘラクレスは血みどろの死闘を繰り広げていた神獣に駆け寄った。

 闘いは終わった。ヘラクレスにとっては予期しない形で。

 ネメアーは己の全てを出し切ったのだ。命を使って放った魔力砲撃でヘラクレスを倒し、それを見届けて自分も死ぬことを良しとしていたのである。

 ヘラクレスを殺せなかった時点でネメアーの敗北は決定した。もはや立ち上がる力がない。気力はあっても体が言うことを聞かない。それに、異様に眠くなっていた。これが死か、と縁遠いはずの概念にネメアーは穏やかな表情をしていた。

 ヘラクレスは得難き友の最期の顔を見る。死んだと思った、だが抗った。すると無自覚に放った一撃でネメアーのそれを相殺し、これで勝てると勇んだ時にネメアーが倒れたのだ。無性に悔しくて悲しかった。

 

「――ひとりだけ満足して逝くなッ!」

 

 大喝した。理不尽にも立ち上がることを要求した。

 しかしネメアーは穏やかに、薄く開いた目でヘラクレスを見るだけで。

 まるで勝ったのに負けた気分にされる。ネメアーは心底満足していて、ヘラクレスはまだやれると息巻いている。頼む、もっと闘ってくれ――懇願するようにネメアーの体に触れると、最後に今までの曖昧なそれではなく、はっきりと伝わる思惟があった。

 

(貴様の、勝ちだ)

「ッ……! なぜ、そんなことを……」

(自然の掟だ。この身を如何様にもするがいい。我が身は人理に属する遍く道具を無効とする力を持つ。この身に打ち勝った貴様にこそ、我が力を纏うことを赦そう)

「ばかな! 私はまだ、まだ足りない……!」

(フン。ばかは貴様だ。気づいておらんと思ったか? 貴様はそう傷を負わずともこの身を滅ぼせた。貴様は……強すぎた(・・・・)

「――――」

 

 神獣の思念に、ヘラクレスは喉を詰まらせる。そんなことはない、とは言えない。だがネメアーには、ネメアーにだけはそう言われたくはなかった。

 

(ばかめ。大虚(おおうつけ)が。ああ、だからこそなのだろうよ。勝者に敬意を。強き者に権利を。貴様の行く末を見届けたい。我が力と共に、征け)

 

 そう言ったきり、ネメアーは目を閉ざして、二度と眼を開くことはなかった。

 打ちのめされたように呆然とする。最期の瞬間まで気高く、自然の掟に従う姿勢に、畏敬の念を抱けるだけの心的余裕がない。

 そのまま座り込んだ。どうしてだ、とヘラクレスは嘆く。なぜこの身は強く生まれてしまったのだ。強者の傲慢と笑わば笑え。もう少し己が弱ければ、今少し力がなければ――己は友に対等ではない(・・・・・・)と突き放されずに済んだというのに。

 

 意気消沈する。血戦の最中には有り得なかった空虚が心を支配した。

 しかし、ヘラクレスは動く。対等ではないと言われても、友だと思ったのだ。その友の思いを無為に貶めたくはない。それに、彼の力はヘラクレスに必要だった。

 ネメアーの爪を剥ぎ取る。その爪で死したネメアーの毛皮を剥ぎ取っていった。雄大な王者の骸が無残な姿になっていくのに涙が溢れそうになる。こんなことはしたくないと心が抵抗する、だがそれを抑えつける。やがて毛皮を全て剥ぎ取ると、獅子の鬣を半分削いで束ねた。そして、呟く。

 

「自然の掟、か」

 

 ヘラクレスはネメアーの血を啜った。そして一口だけ肉を喰らう。そして無言で王者の骸を前に佇む。ここから離れる気に、どうしてもならなかった。

 いったいどれほどそうしていたのか。時間は平等に流れ、その経過は否応もなくヘラクレスの気力を回復させていく。

 はた(・・)と気がつくと、自身の傷が殆ど塞がっていた。痕こそ残っているものの、流血は止まり痛みもない。ネメアーの血を呑んだからか、それとも自前の回復力なのか。ここまでの負傷をしたことがないヘラクレスには判断がつかない。だがそんなことはどうでも良かった。

 

 ネメアーの骸を供養しよう。せめてもの礼儀だ。だが、ふいに重く硬い神威が降臨してくるのを感じ取る。

 ちらりと視線を向けると、そこには小柄で醜い……しかし筋骨逞しい太腕をした、虎髭の小男が立っていた。その姿からなんとなく察する。この神はオリンポス十二神の内の一柱、ヘパイストスだろう。

 

 体ごと振り向くと、礼を示そうとするヘラクレスに、ヘパイストスは面倒そうに首を振った。そういった格式張った儀礼などどうでもよいと。

 

『英雄ヘラクレスよ。見事な闘いだった』

「……は」

『此度の用向きはな、そこもとに頼みがあるのだ』

「頼み……?」

 

 唐突に現れ突然本題に入るヘパイストスに、面食らわない部分がないとは言えない。けれどもそうでなければヘラクレスは億劫に感じていただろう。神への非礼をしてしまう恐れがある。今そんな真似をするわけにはいかない故に、ヘパイストスの態度は助かるものだ。

 しかし鍛冶の神の頼みとはなんだろう。鍛冶仕事ばかりに熱意を傾ける神だ。それに類するものなのだろうが……。

 

『その神獣の毛皮と骸、魂の半分を貰い受けたい』

「……なんだと?」

 

 思わず、であった。剣呑に殺意を見せるヘラクレスは、己の不覚を悟る。

 しかしヘパイストスはヘラクレスに理解を示した。虚を突かれる。

 

『そこもとの憤りは解る。戦利品を奪いたいわけではない。ましてやその気高き魂を貶めたいわけでもないのだ』

「……?」

『防具に仕立ててやろうというのだ。儂がな。そこもとの武具は見た、弓もだ。酷い出来栄えだ……そんな腕で毛皮を防具としてみよ、粗悪な代物しか出来上がるまい』

「……それは」

 

 それは、そうだ。ヘラクレスは自覚している。己に鍛冶の才能はない。それにヘパイストスと比べたら、およそ総てのモノは鍛冶の腕で劣るだろう。張り合えるのは極少数だ。

 呆気に取られるに足る申し出になんとも言えないでいると、ヘパイストスは重ねて言う。

 

『これは素晴らしい戦を魅せてくれた礼だ。そこもとが纏うに相応しい神獣の鎧を仕立ててやる。儂に任せろ』

「………分かった。持っていくがいい」

『うむ』

 

 長考の末、ヘラクレスは友の亡骸をヘパイストスに預けることにした。

 話してみたところ、そう邪険にする手合いでもないと判断したのだ。なら鍛冶の神が仕上げたものを見てみたい。そう思った。

 

 そうしてネメアーの亡骸と毛皮を持ったヘパイストスは、去り際にヘラクレスに発破を掛ける。彼が自ら武具防具を鍛えるに足ると見た英雄が、いつまで経っても消沈しているのが見ていられなかったのだ。

 

『ヘラクレスよ』

「……」

『……獅子の王の魂の半分は、鎧としてそこもとと共に在る。そしてもう半分は骸と共に主神の手で星座に上げられる。神獣は常にそこもとを見ているであろう。そんな様で奴に誇れる己であると思うか? 己の胸に聞け』

「……ッ!」

 

 帰するヘパイストスの言い残した言葉に、ヘラクレスはハッとした。

 慌てて目を向けると、既に鍛冶神の姿はない。しかしその激励は確かに胸に届いた。

 そうだ。己はあのネメアーに勝ったのだ。それがこんな様では、ネメアーに笑われてしまう。失望さえされるだろう。

 怖いな、と思う。友に失望されるのは怖い。ならこんなところで立ち止まってはいられないだろう。ヘラクレスは発奮し立ち上がる。

 

 ミュケナイに戻ろう。イオラオスが心配して待っているだろう。そして次の勤めを果たそう。総ての勤めを終わらせよう。ヘラクレスの望みはまだ先に在る。それまで立ち止まる気はない。そして同時に、友に恥じぬ強者で在り続ける。そう誓った。

 

 ――後日届けられたヘラクレスの鎧は、獅子の鬣を着けた鋼の兜と、人理に属する全ての道具を弾く外套(マント)、毛皮を宿した神秘に輝く黄金の甲冑と成っていた。

 それを身に着けたヘラクレスは、ネメアの谷の獅子の力を内包し、その能力を増大させた。ヘラクレスがネメアーの認めた英雄で在る限り、その力は決してなくならず。またヘラクレス以外が身に着けると、全身から血を噴いて死ぬ呪いを発揮した。

 

 剪定事象を免れたとしたら――後の時代。ヘラクレスの鎧は散逸し、中でも兜と外套を家宝としたマケドニアの王は自身をヘラクレスの子孫であると称し征服王と号される。

 そして、遥か未来。西暦二千年以降にも現存するその兜が或る探検家によって発見され、神話の英雄ヘラクレスが実在したという証明であると考えられるようになる。

 

 呪いも現存し、ヘラクレス以外に纏えたものはいない。そしてその黄金の鬣のなびく兜の存在が、ヘラクレスは最期までネメアーの認めた英雄で在り続けた証であった。

 

 

 

 

 

 

 

 




バタフライエフェクト? 神秘の漏洩? 知らぬ知らぬ、なんだそれは何も聞こえぬ。
神秘の秘匿は協会の役目でしょ! 僕は悪くない。


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3.1 第二の勤め

はたけやま氏より授かったイラストを挿絵として使用させてもらいました。
失禁不可避の画力を見よ!(虎の威を借る狐




 

 

 

 

 自身の肉体に備わった力なのか、はたまたネメアーの贈り物なのか。あれほどの死闘を制した後だというのに、全身の傷が塞がり血色も良くなった。

 血を流しすぎていたがそちらも問題はないらしい。失血死する可能性もあったのが、本人に自覚もなしに解消されているのになんとも言えない気分になる。

 だが死にたいわけではない。生きられる限り生きる。それでいい。傷が癒えた由縁が己の肉体なのか否かについては、ネメアーのお節介だとでも思っておくことにしよう。その方が些か気分が良い。

 

 今回の勤めにイオラオスは連れて来てはいなかった。というのも相手が『神』の名を冠する獣だということで、あの少年は力不足も甚だしく、足手纏いにしかならないのが目に見えていたのだ。

 故に彼はミュケナイでヘラクレスの帰還を待っている。三日以上帰っていないのだ、さぞかし心配しているだろう。安心させてやるためにも早く帰らねばならない。

 そう思うのに、どうにも足が重い。傷は癒えて、気力が戻ろうとも、流石に疲労そのものは回復していないらしかった。生まれて初めて体験した全力での殺し合い、それを三日間も掛けて続けたのだから、この疲労感も当然のものだろう。ヘラクレスはやむなくゆっくりとした足取りで帰還していく。

 

 道中は穏やかなものだった。ヘラクレスとネメアーの死闘の余波で、周囲に生息していた獣達は軒並み逃亡したのだろう。そうして二日も掛けてミュケナイに戻っていく途上のことだ。醜い小男が、荷台に腰掛けてヘラクレスの前で待ち構えていた。

 ヘパイストスである。まさかのタイミング――というより早さだ。ぴくりと眉を動かして、ヘラクレスは問い掛けた。

 

「オリンポスの神ヘパイストス。何用だ? まさかもう鎧を仕立ててきたとでも言うつもりか」

 

 まさかそんなはずはあるまい。その内心を隠さずに言うと、ヘパイストスはニヤリと笑った。

 

『そのまさかよ。そこもとから借り受けたネメアの獅子の骸、確かに鎧として鍛え直して来てやったわ。ついでに剣と弓、矢も持ってきてやったぞ』

「……何?」

 

 驚目に瞠らせ、二の句を告げずにいるヘラクレスに、ヘパイストスは率爾にからくりを説明した。そこは勿体振るところではない。

 

『我が父ゼウスは時を引き伸ばす権能も持つ。例えば一夜を三倍にするなどな。天候を司る故に昼と夜もゼウスの領分であると拡大解釈しておるのだろう。儂がゼウスに頼み工房内の時間を引き伸ばし、ザッと二ヶ月ほど掛け仕事をしたまでのことよ』

「……なぜ私にそこまでする? 同じ神を父とする以外に縁はあるまい。貴様に目を掛けられる由縁が分からん」

 

 疑問だった。ヘパイストスはゼウスの雷、アイギスの盾など様々な武具防具を仕立て上げた鍛冶の神だ。それが先日会ったばかりのヘラクレスのために、ゼウスに権能の行使を頼んでまで急ぎ、こうして自ら渡しに来てくれたことが理解できない。

 猜疑心の滲んだヘラクレスの詰問に、しかしヘパイストスは言う。ヘラクレスに『神とは度し難い愚か者ばかりではなく、中にはハデスやヘスティアのように悪神とは言えぬ者もいる』のだという認識を与える言葉を。それは後に、人類に火を与えた或る善神を救う端緒となった。ヘパイストスがヘラクレスの中にある、およそ総ての神へ無差別に向けていた憎悪の熱量をそのままに、限定的な指向性を与えたのだ。

 

惚れた(・・・)のよ』

「……は?」

『誤解はするな。儂は父とは違い男色の気はない。そこもとの武と、獣を相手に尋常に勝負しようという心意気が気に入ったのだ。ネメアの獅子とのアレは、血湧き肉踊る佳き戦であった。闘争を極限まで高めた尊いものであったよ。しかしな……そこもと程の英雄がなんの武器も持たず、防具も纏わずに闘ったのが儂には物足りんくてなぁ。しゃあないからな、儂が自らそこもとの戦装束と無二の武具を誂えてやろうと思ったまでのこと』

「………」

『儂が自ら持って参ったのは、自発的に鍛えた武具を遣いに渡して贈るのは筋が違うと考えたからよ。気にするでない』

 

 偏見に曇っていた目が、晴れたかのようだった。

 ヘパイストスの純粋な好意で、わざわざ神の身でありながら骨を折ってくれたという事実に、ヘラクレスは無性に恥ずかしくなった。

 ネメアーの毛皮と骸を半ば強引に持っていかれた時は気に入らないと思っていたが、そんなヘラクレスに対してこの神は無償の好意を示してくれた……。人と神ではなく、一個の人格としての器の違いをまざまざと感じてしまう。

 ヘラクレスはヘパイストスに詫びた。貴方を見縊っていたと。そう言うとヘパイストスは無骨に笑った。黙っておれば気づかんかったものを、わざわざ口に出して謝るとはばかな男よな、と。

 

 鍛冶の神は英雄を促した。さっさと手に取ってみよと。早速渡されたのはひと振りの剣である。

 

 223cmもの体躯を誇るヘラクレスと同程度の刃渡りを持つ、極めて長大な白鋼の剣。聖剣ではなく、魔剣でもない。ましてや神剣などでもない。飾り気はなく、柄頭まで白い雪のような剣だった。ヘラクレスをしてやや重量を感じるほどの重さと、異様な頑丈さを感じる。手に馴染んだ。これは? 視線を向けるとヘパイストスは腕を組む。

 

『儂が鍛えておった聖剣にネメアの獅子の牙と爪を込め鍛造したひと振りよ。生意気なことにな、儂の剣が持つ聖剣としての格を食い潰しおってな……だがまあ如何なる穢れにも染まらず、如何なる善業にも揺らがぬ中庸の剣となっておる。ただ硬く、欠けず、曲がらぬ。そこもとの魔力を刀身が増幅させ、圧縮・加速を繰り返す特性を持つように成った。いや、した(・・)。ついでに細工も施してな、そこもとの鎧とパスを繋いでおる故、鎧を着ておれば、喚べば何時何処であろうとも召喚できる』

 

 差し詰め銘は『誓約されし栄光の剣(マルミアドワーズ・ネメアー)』であろうなとヘパイストスは結んだ。

 

 試しに白剣を振るう。無造作に、されど精密な剣捌きを以て。

 ひゅ、と鋭利な風切り音が鳴る。一閃の余波は大地に裂傷を刻みつけ、深い斬線が残された。その剣技は既にして無窮の域へと届いている。

 しかしそんなものなど気にもならぬほど感動していた。剣の重心、癖、バランス。それをひと振りで把握したヘラクレスは、かつてない共感を得物に感じていたのだ。

 剣が軋まない。己の力で振るっても。ネメアーの牙と爪を束ねた白鋼を振るっているのだ、当たり前のことなのかもしれないが……全力で使える武器というのは、ヘラクレスにとって望外の宝であった。

 

 次いで渡されたのは同じく白い大弓である。普通の弓の三倍はある。弦は金色だ。

 

「これは……」

『察したか? 儂の鋼と獅子の脊髄で鍛え、鬣で編んだ弦を持つ弓よ。それで射た矢はダイレクトにそこもとの膂力を叩き込まれる。要は使い手の腕力次第で威力が増減するものだ。これもくれてやろう』

 

 矢筒を押し付けられる。筒と言っても、細身の剣の鞘の様だ。矢が無い。訝しげにヘパイストスを見る。

 

『そこもとが魔力を込めればよい。イメージした矢が精製されよう。物質の矢と魔力の矢、好きに使い分けるがいい』

 

 言われるがまま白身の筒に魔力を送る。すると不格好な矢が手の中に現れた。わざわざ手を翳さなくとも手の中に直接矢が精製されたのだ。

 失敗作を棄てると消滅する。改めてイメージを確りと持って矢を作る。槍のような大矢だ。金色に煌めく魔力の矢を、天に掲げて撃ち放つ。それは何処までも飛んでいき、ヘラクレスの視力でも捉えられない遠方まで飛来していった。

 呆気に取られる。その顔にヘパイストスは笑った。そこもとの作ったガラクタとは違うのだ、と。ヘラクレスは少し傷ついた。ガラクタか……。いや確かに、この弓と比べたらガラクタなのだろうが……。

 

 どうにも素直に喜べずとも、有り難く頂戴する。そしてヘラクレスは、着付けられるまま鎧を纏う。

 纏った感覚にヘラクレスは頷いた。全幅の信頼を寄せるに足る、と。改めて心の底からヘパイストスに礼を言った。そして誓約する。「これより先、我が振るうは鍛冶の神の鍛えた武具のみとする。命を預ける鎧はこれのみとする」と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヘラクレスが帰ってきた。

 

 その報に酒宴を開いていたエウリュステウスは驚愕し、酒杯を取り落としてしまう。

 ネメアの谷の獅子と、ヘラクレスの死闘の気配は、近隣諸国にまで伝わる夥しいまでの魔力反応と轟音、熱気を放っていた。三日間にも及ぶ血戦にエウリュステウスは恐怖し、それが途絶えてからやっと落ち着くことができた。

 それから幾日か過ぎ、ヘラクレスが一向に帰ってこないことで、ヘラクレスが死んだと思ったエウリュステウスは祝杯を上げていたのだ。

 これで枕を高くして眠れる。王位を脅かされることはない。そう思っていたのに、ヘラクレスは無事生きて帰ってきてしまった。

 

 いや、帰ってきただけならまだいい。

 

 帰還したヘラクレスの偉容に、獅子を退治した英雄の姿を一目見ようと大通りに押し寄せた民衆が魅入られてしまっていたのだ。

 ――人理を弾く金色の外套を翻し、獅子神王の鬣をなびかせる白鋼の兜と、見たこともない形状の全身鎧で身を包んでいる。その背には神威すら感じる無垢な獣の魂を形にしたような白剣と、同じ材質で出来た弓を帯び。腰に鞘のような矢筒を提げた姿。武勇に長けた無双の英雄の存在感も武装に見劣りしない。寧ろ互いが互いの格を高め合うような、ある種の共生関係が築かれているかの如き完成度があった。

 兜で顔は見えない。しかしこれはヘラクレス以外に有り得ない。誰もがその確信を強制的に抱かされる。圧倒的な武威と神々しさだった。力と力の融合により、もはやこれは神域の芸術品とすら形容できる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 呆然自失する民達の真ん中を進み、ヘラクレスが通り過ぎると民衆は腰砕けになる。宮殿へ辿り着いたヘラクレスは、宮殿から飛び出、期せずして出迎える格好となった上段のエウリュステウスを見上げる。両手で兜を外すと、顕になったのはやはりヘラクレスの顔だった。

 ざんばらとなった黒髪と精悍さの増した面構え。心中を見透かす紅い瞳。獅子の威風を身に着けたヘラクレスは、ただただ狼狽する王に宣言する。

 

「ネメアの谷の獅子、確かに退治した。これにて一つ目の勤めを終えたことを宣言しよう。さあミュケナイ王エウリュステウス、次の勤めを言え。迅速に片付け、我が身の禊としよう」

「な……」

 

 絶句する。エウリュステウスは唖然としていた。

 ネメアの谷の獅子はミュケナイ国の軍の総力を結集してなおも一蹴される化物だ。それも当然、獅子は神獣なのである。人が勝てる相手ではない。

 それを倒した。しかもその鎧と武器という、明確な証拠まである。それはつまり、つまりだ。ヘラクレスは――ミュケナイ全体を敵に回しても、単騎で上回るという証明に他ならないではないか。

 

 恐怖の余り気が遠のく。しかし自尊心と虚栄心で踏み留まった。本来なら国が解決すべき案件を勤めとして告げて、今は一刻も早く目の前からこの化物を遠ざけたい。その一心でエウリュステウスは早口に言った。

 

「わ、分かった……ヘラクレスよ、大儀である。だがすぐに行ってしまえ! 第二の勤めとして、レルネーに住み着いている多頭蛇を退治してこい! 分かったな!?」

「承知した」

 

 ヘラクレスは帰還したばかりだというのに、帰還したその足で早速とばかりに身を翻した。その背に煌めく金色の外套を、エウリュステウスは畏怖と忌避の籠もった眼差しで見詰め続ける。

 伯父を追ってイオラオスが駆けていく。それを見てやっと我に返ったエウリュステウスは自身を安心させるために自らへ言い聞かせた。

 

(だ、大丈夫だ……いくら奴が化物とはいっても、レルネーの蛇はネメアの獅子とは別種の怪物。腕っ節でどうこうできる手合いではないんだ。だが……)

 

 不安がある。

 

 レルネーの蛇とは、テュポーンとエキドナを親に持つ、ネメアの獅子の兄弟。獅子と同じくギリシア世界を代表する怪物。その名をヒュドラ。全宇宙最強の猛毒を持つ、解毒の出来ない最悪の毒を持つ不死の蛇。

 ヒュドラ種という毒の大蛇が各地に蔓延っているが、それらは所詮ヒュドラの子か、その模造品に過ぎない劣等種。総てのヒュドラの原典にして原種である神蛇の毒を受ければ神さえも苦悶の内に発狂し、その神格を腐らせてしまうだろう。ヘラクレスとて命はあるまい。

 だが……あの(・・)ネメアの獅子を退治したあの(・・)ヘラクレスだ。もしかすると、倒してしまうかもしれない。あの鎧を見て、エウリュステウスは絶望しそうだった。誰も奴を殺せないかもしれない――その予感は確信になりつつある。

 

 故にエウリュステウスは決断した。

 

(今、奴の甥がついて行ったな。もしも無事に帰ってきてしまったとしても、この勤めは独力で果たしたものではないと言い張って無効にしてやる。そして次からは……)

 

 ……もう、化物退治を勤めにするのはやめよう。厄介で面倒なだけの、遠方に出向かねばならないものだけにしよう。

 

 力で殺せないなら、奴が生きている間にミュケナイに寄りつけないような、時間の掛かる勤めばかりにしてやる。エウリュステウスはそう考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




誓約されし栄光の剣(マルミアドワーズ・ネメアー)
 ランク・A+
  種別・対軍宝具
 レンジ・1〜50
最大捕捉・500
ギリシア神話最大の英雄ヘラクレスの愛剣。広範囲を高火力で薙ぎ払うビームの出る剣だが、その種別は聖剣や魔剣、神剣ではない。強引に例えるとするなら、剣の形をしたネメアの獅子である。
かなりの強度を誇り、ヘラクレスすら破壊は至難。ヘラクレスが三日間全力で殴り続ければ折れる。鎧とセットで運用すると、喚べば空間転移してやって来る仕様。盗難対策。なおアーサー王伝説でこれを見つけたアルトリアは歓喜して聖剣から持ち替えようとしたが、とうのマルミアドワーズから拒否られてショボーンとすることに。おかげでマーリンに怒られずに済んだ。
「この世に残してたらネメアの獅子が再臨しかねない」と察知したマーリンに世界の裏側に送り込まれる。が、以後の伝説でも結構な頻度で出没したお騒がせ要員。鎧が現存している限り、どこに飛ばされても現世にしがみつくしつこさが売り。

なおヘラクレスはこれを流派ナインライブズで対人対軍対城対幻想種などなどの様々な種別で振るうものとする。


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3.2 怪物狩りの名手

 

 

 イオラオスはヘラクレスの甥であり従者である。

 

 ――少年にとって英雄と呼べる男はこの地上に於いてただ一人。ヘラクレスのみだ。

 小さな頃から遊んでくれる優しい伯父で、誰よりも強く、誰よりも頼りになった。そんなヘラクレスに少年は憧れ……しかし同時に近すぎる関係であり過ぎたから。だから少年は伯父の凄さというものを正確には感じ取れなくなっていた。

 だがその近視眼的錯誤は取り除かれる。伯父がネメアの谷の獅子を討ち、圧倒的な武威と共に金色の鎧を纏って帰ってきたからだ。

 伯父の鎧姿を見た瞬間、イオラオスの心は震えた。世界で最高の、最強の英雄を伯父に持てた幸運を思い知ったのである。伯父の冒険に付いていきたい。伯父と一緒にいたら伝説になる冒険をこの目で見られる。その思いに取り憑かれイオラオスはヘラクレスのヒュドラ退治について行ってしまった。

 

 咎めるべき妄動であり軽挙だ。だがヘラクレスはあくまで叱責するに留める。

 

「私に付いてくるということは、それだけで命を縮める危険を犯すということだ。それを解っているのか?」

「解ってるよ。だけど伯父上、おれだって男だ。自分の命には責任を持つ。それに伯父上の冒険に付いていったら、いつかおれも伯父上ほどじゃないにしても英雄になれるかもしれないだろ?」

 

 意志は固いのか生意気に胸を聳やかし、少年は強がってみせる。成人の扱いとはいえまだまだ子供だ。子供の強がりを尊重し、導いてやるのも大人の務めか……。変に反発されて制御不能になられたのでは始末に負えない。

 

 イオラオスはヘラクレスに憧れている。しかし憧れとは理解とは程遠いものだ。英雄の名声など、ヘラクレスは惜しくもない。成りたいと思っていたわけでもない。利用できるから棄てないだけのことだ。それにその冒険とやらの終焉に待っているのは、甥が想像しているような栄光ではないとヘラクレスは思っている。

 だが構わない。ヘラクレスはイオラオスを突き放さなかった。今のところ風聞ばかりだが、ヘラクレスは英雄と呼ばれる――己からすると野蛮人でしかない男達を知っている。罷り間違ってイオラオスがそんな輩に成り下がる可能性があるなら、自分の傍に置いて勝手に理想の英雄像を作ってもらった方が良い。せいぜい英雄らしく――あくまで己の思い描く、イオラオスに良い影響を与える振る舞いをすれば、イオラオスはヘラクレスが内心軽蔑している『英雄』とやらになることはないはずだろう。

 

 謂わば甥の教育のために、付いてくることを許したのだ。それ以外の意図はない。

 

 危険の付き纏う、ヘラクレスにすら何が起こるか分からない旅路だ。イオラオスというお荷物を抱えて旅するのを油断、慢心、傲慢となじる声もあるかもしれない。だがしかし、ヘラクレスは傲慢であっても構うものかと考えていた。

 己は獅子神王を討ちし勇者である……その自負と誇りが、ヘラクレスを大胆不敵にしていた。そうで在ることがあの闘争の勝者に相応しいと信じている。甥の一人も守れずして何が誇りかとも思う。

 

「英雄になれるかも、か……お前も男だ。お前が決めた道を、私がどうこうと口出しする訳にもいかんな。だがイオラオス……解っているとは思うが、お前がそうしたいと言うのなら、例え何があろうと泣き言だけは口にするな。そしてよく私を見ろ、私がお前に英雄の何たるかを見せてやる」

「……! 解った。伯父上のこと見てるよ。けど伯父上がピンチになったら助けるよ、おれ」

「生意気な」

 

 フッと笑みを零し、くしゃりと甥の髪を掻き回す。首がぐるぐると回ってイオラオスは慌てた。やめろよぉ! 暴れるイオラオスに、ヘラクレスは慈しみを向けた。

 

 そうして伯父と甥の冒険が始まる。二人がまずはじめに取り掛かったのは、退治する怪物についての調査であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レルネーの沼に住み着いているという大怪物、ヒュドラ。

 後世の魔術世界に於いて『ヒュドラ』と呼称される多頭竜とは完全に別物の、全生命体を絶命させる宇宙最強の猛毒を持つという神蛇。あのネメアの獅子の兄弟である。

 神々の権能ですら解毒不能なそれは、風に乗って流れてきた毒液の臭いだけで、およそ総てのモノを行動不能に陥らせ、臭いを嗅ぎ続ければ筆舌に尽くし難い苦痛の中で死に絶えるという。その危険性はネメアの獅子の兄弟であるだけで、まさに推して知るべしといったところだろう。

 

 目撃者の証言、実際に襲われた近隣の村落から発見した毒の残留物から、噂に違わぬ脅威であるとヘラクレスは判断した。

 岩に付着していた一滴の毒液だけで、ヘラクレスですら激痛の余り死を選ぶだろうと直感する。それを採取し、白剣の柄に納める。中庸の剣はヒュドラの毒でも穢れずに、保存された。これは使えると、邪悪な笑みを一瞬だけ覗かせて。

 

 ヘラクレスはイオラオスを伴い、レルネーの沼を一望できる崖の上にやって来た。

 といってもヘラクレスほどの視力がなければ、まずまともに視認することも難しい。

 

「こんな所に来てどうするんだよ?」

 

 甥の疑問に、ヘラクレスは肩を竦めた。

 

「毒の残留物は見ただろう。あれは近づくのも危険だ。私ですらな。ならば近寄らなければいい。それだけのことだ」

「はあ? でもさ、近づかないとどうしようもないだろ? 沼の周りには林も群生してるし……木が邪魔で見えっこないよ」

「そうか? そうでもないぞ」

 

 ヘラクレスは白剣を地面に突き立て、白弓を手に取る。矢筒に魔力を込めて大矢を精製すると金色の弦に番えた。

 そうしながら講義する。といっても、イオラオスには真似なんて出来ないのだが。

 

「テュポーンの子たるヒュドラはかなりの巨体だという。その巨体が通った後らしき道の痕跡からして、サイズはザッと私の五倍ほど。頭が九つあり、それぞれがあの毒を吐くのだとしたら、奴の住処には膨大な毒霧が発生しているはずだ。ならば……」

 

 よく目を凝らせば、遠方からでも沼に異常が見つかる。

 その推測通り、林の中の沼地辺りが毒々しい霧が発生しているのが見て取れた。

 

 ヘラクレスは大雑把に狙いを沼に定める。ネメアの獅子の脊髄と、ヘパイストスの神鉄によって造られた白弓が、無二の担い手の魔力と戦意に呼応して唸りを上げる。

 

「覚えておけ、イオラオス。怪物狩りに於ける常道は、徹底して敵の土俵に立たぬことにある。我が祖ペルセウスもまた、怪物を相手に正面から戦う真似はしていない」

「伯父上はしたじゃん」

「……私の真似ができるならするといい。だができないと判断できる頭があるならやめておけ。お前では例えその身が不死であっても怪物狩りなどできん。やりたければ神に請い、加護と宝具を授かるのだな」

「ちぇっ……そりゃそうだろうけどさ……」

「――まずは炙り出す」

 

 言うなり、ヘラクレスは限界まで引き絞った弦から大矢を解放した。

 さながら獅子神王の咆哮が如き風切り音を発し、大矢はレーザーの如く一直線に虚空を奔る。20Km以上離れた地点から一切の減速・高度変更もない、直撃すれば同じ半神の英雄であろうと消し飛ばす威力の狙撃が飛翔した。

 狙いは過たず、沼地の中心部を穿った。弾け飛ぶ樹木の欠片と、跳ねる沼の泥を遠くに見ながらヘラクレスは自嘲した。これで私が他の英雄と同じなら、真っ向から戦いを挑んで苦戦していたのだろうな、と。

 

 彼の常軌を逸した動体視力は捉えていた。姿の見えない蛇を炙り出すための一矢が、見事に命中してその巨体に風穴を空けていたのを。

 

 だがどうだ。林の沼地にあった木は軒並み剥がれ、高所から望める沼の中心にいた神蛇は、瞬く間に傷を癒やしていくではないか。

 九つあった首は全再生し、一つの大きな首以外が二つずつ増え、十七の首となっている。蛇の瞳が忙しなく辺りを探っていた。襲撃者を探しているのだ。

 

「ふむ」

 

 狙撃手の一撃を受けていながら、悠長に狙撃手を探している姿を見ていると、一つの考えが浮かぶ。

 馬鹿なのか、それとも己が不死であるからどうとでもなると考えているのか。いずれにせよ今少しの観察が必要だ。

 

「怪物狩りに際して必要なのは知恵だ。怪物は特異な力を持つことが多い。それを知らずして挑むは愚か者以外に称せず、敵を知らずして対策は立てられん。さあイオラオスよ、考えてみると良い。敵は不死。首は九つだったのが、吹き飛んだ八つの首は倍に増え、中心の大きな首だけはそのままだ。加えて最も最初に再生した首も真ん中のそれ。お前が私だとしたらどうする?」

「え? えっと……」

 

 ヘラクレスの質問に、イオラオスは考える素振りを見せた。その間にヘラクレスは弓を速射する。悉く的中させ、首は三十三となった。着弾の轟音が凄まじい。遠く離れているのにイオラオスの耳にも聞こえる。

 

「……首が増えるんだよな?」

「ああ、その通り」

「上限はないのか知りたい、かな。後はどうやったら再生を阻害できるか、不死の怪物をどうやったら退治できるのか……うーん……吹き飛ばした首の痕を焼いて、再生できなくする?」

「良い考えだ。だが真ん中の首はどうする? どうやらそれは本物の不死らしいぞ」

 

 何せ何度吹き飛ばしても瞬く間に再生される。的撃ちの台としては面白いが、些か飽きが来てしまう。

 そんなふうに揶揄していると、不意に神蛇の目がヘラクレスを捉えた。見えたのではなく、いる方角を把握したらしい。狙撃手なら一射ごとに狙撃地点を変えるべきだし、どんな事情があっても位置が割れたなら逃げねばならないのが鉄則。しかしヘラクレスはそうしなかった。

 

 獰猛に笑う。蛇が真っ直ぐこちらに躙り寄りながら、毒液を固めたレーザーを放ってくるのを視認したのだ。ヘラクレスは真っ向からそれを迎撃する。

 物質の矢では溶けてしまう。故に魔力の矢を精製して放ち毒のレーザーを相殺した。

 

「……伯父上、なんか遠くに土煙が見えるんだけど」

「そうだな」

「そうだな……って、もしかしてあれ……」

「ヒュドラだ。なるほど大した速さだぞ。私はともかくお前は逃げられん。さあどうするイオラオス。早くヒュドラを仕留める方策を考えねば、お前は死ぬことになる」

「はあ!?」

 

 まさかの宣告にイオラオスは目を剥いた。 

 地響きが聴こえる。遠くから間にある障害物を踏み潰し、轢き潰し、巨大な質量を持つ何かが津波のように押し寄せてくる。

 それを肌に感じるようになるにつれ、イオラオスに危機感が募る。やがてイオラオスの目でもヒュドラの金色の玉体を視認できるようになると、いよいよ以ってイオラオスは狼狽した。

 

 何度もヒュドラとヘラクレスを見比べる。伯父がなんとかしてくれるはずだと希望を持って。しかしヘラクレスは動かない。イオラオスをジッと見ていた。早く考えろ、その眼がはっきりとそう言っているのを感じたイオラオスは、もうヤケになって吠え立てた。

 

「ああっ――もう! くそ! ばか伯父上! 鬼畜! なんでも良いから一回全部の首吹き飛ばして、デカイ首は岩かなんかの下敷きにして封印しちまえばいいだろ!」

「――ではそうしよう」

 

 ニッと骨太な笑みを見せ、ヘラクレスはやっと白弓に再度大矢を番えた。

 最初からそのつもりだったのだろう。ヘラクレスは危機が迫りくる恐怖をイオラオスに与えようとしていただけだ。そうと悟ったイオラオスは、弓を構えているヘラクレスの脛を蹴りつけた。ばか伯父上! と。しかし蹴った自分の足が痛いのか、ピョンピョンとその場で跳ねている。

 それを尻目に、ヘラクレスは無茶無謀を平然と断行する。――総ての首をほぼ同時に消し飛ばし、大岩の下敷きにする。それはいいとして、まずどうやって首を吹き飛ばすのか。

 

 弦を引き、矢を放つ。速射のそれ。

 

 首が飛ぶ。しかしほぼ同時とはいかなかった。

 

 弦を引く。こうか? と自問しながら矢を放つ。精度が増し速射速度が早くなった。

 

 首が飛ぶ。まだ遅い。

 

 ネメアの獅子との戦いで、最後に繰り出した一撃の感覚。あれを転用できないかと考え試してみる。すると明確に威力が増大し、速射の回転率が跳ね上がった。

 

「なるほど、こう(・・)か」

 

 納得して頷く。幾度かの試行錯誤の結果、ヒュドラの首は百を数えていた。

 

 ――白弓を構える。全身を魔力で強化し、剛力を発揮しながらも随所を脱力し、力を溜め、技量の粋を掻き集め――速射ではなく九本の矢を同時に番える。

 無理のある装填に、金色の弦は当たり前のように応えた。それに膨大な魔力を装填して射出する。

 

 撃ち出されたのは九本の矢。込められた莫大な魔力が竜の形を象り、一斉にヒュドラへと襲い掛かる。それは百の首を悉く殲滅した。激甚なる破壊力に、ヒュドラが間近に迫っていたこともあり甚大な地震が起こった。

 ヘラクレスは自身が奥義を開眼したのだと感じつつも、弓を収めると白剣を引っ掴みイオラオスを肩に担いだ。素早く剣を地面に振るい、崖を切り崩してその場から離脱する。崖の下まで迫っていたヒュドラは瓦礫に下敷きにされてしまった。

 

「名付けるなら……差し詰め『射殺す百頭(ナインライブズ)』か?」

 

 そう溢し、離れた地に着地してイオラオスを降ろし、したり顔で言った。

 

「どうだ、怪物狩りの参考になっただろう」

「なるかぁっ!?」

 

 また脛を蹴られる。鎧の足甲もあるのだから、まるで何も感じないのだが、ヘラクレスは奇妙なくすぐったさを感じて含み笑った。

 そうしてヘラクレスによるヒュドラ退治は無事に終わり――

 

「ん?」

 

 ふと、ヘラクレスの腰の高さまで届く大きさの化け蟹を発見した。

 

「………」

『………』

「………」

 

 ヘラクレスとイオラオスは黙り込み、化け蟹も神妙に沈黙している。開いたハサミを閉じたり開いたり。口から泡がぶくぶくと出ている。

 そのつぶらな瞳が、押し潰され身動きのできなくなっているヒュドラの方へ向けられて、悲しそうに湿った気がした。

 

「………」

「………」

『………』

 

 こほん、とヘラクレスは咳払いをする。

 反応してこちらを見た化け蟹に、ヘラクレスは訊ねてみることにした。言葉が通じるかは分からないが。

 

「奴は、貴様の友人だったのか?」

『………』

 

 そうだ、と頷いた気がする。気がするだけだ。はっきりとはしない。

 しかしなんだろう、この謎の罪悪感は……。ヘラクレスは頭を下げて侘び、イオラオスを伴いその場を後にする。

 

 化け蟹は無言でヒュドラの惨状を見詰め続け、自分の来援が遅すぎた故に友が死んだのだと自責の念に駆られ、彼は悲嘆の内に自害して果てた。

 

 流石に哀れに思ったゼウスは、ヒュドラと化け蟹を星座に上げた。これがウミヘビ座と蟹座となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




書いてて最後らへんで蟹の存在を思い出し、急遽書き足したらこうなった。

……どうしてこうなるまで放っておいたんだ!


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4.1 女神が告げる女神の近況

そういやなんでアレスはヘラクレスに半殺しにされたんだっけか……(ど忘れ







 

 

 

 ヒュドラの神蛇が持つ、全生命体を侵す宇宙最強の猛毒。

 

 有用性は計り知れない。不死の存在であろうと蝕む激毒は、ヘラクレスにとっても重大な切り札と成り得た。これをヒュドラの亡骸から採取しない手はなかったが、それでは量が多すぎる。扱い切れぬとは思わないが、神々は下手をするとヒュドラとヘラクレスの対決を見ていたかもしれない。故に採取しなかった。ヘラクレスはヒュドラの毒を持っていないと思わせる必要がある。

 ヘラクレスが所持するヒュドラの猛毒は中庸の剣の柄に秘めた少量のみ。刀身に滴らせて振るえば二回しか使えないが、矢の鏃にのみ付着させて射つだけなら十二回使えるだろう。かなりの少量でも体内に送り込めれば効能の程度は同じ。狩りに移る前の下調べで、ヒュドラの痕跡から毒を入手していた場面さえ神に見られていなければいい。そして見られている可能性はグッと下がった。

 

 なぜならヒュドラを狩ったヘラクレスが帰路につこうとすると、戦女神アテナが降臨して助言してきたのだ。『ヘラクレス、当世随一の英雄よ。あの蛇から毒の詰まった肝を抜き取ると良い。きっと貴様の助けになるだろう』と。

 戦女神アテナといえば、オリンポスでも発言力と存在感の高い女神だ。それがそんなことを言いに来たということは、神々はヘラクレスが毒を手に入れた場面を見ていないと親切にも教えてくれたことになる。狂喜に顔が歪みそうなのを抑え、ヘラクレスはイオラオスを跪かせると自身は立ったままアテナに答えた。

 

「いと麗しく尊ぶべき、芸術と工芸を保護する文明の守護神よ。他の者ならばいざ知らず、この私にとって斯様な毒は不要なものだ」

『ほう?』

 

 こんな賛辞など聞き飽きているだろうに、アテナは機嫌良さげに賛美を受け止めた。面白そうに呟く。戦女神としての私ではなく、知恵の女神としての私を賛美するかと。『英雄』というモノへの評価が低いヘラクレスだからこその陥穽だ。『英雄』なら戦女神としてのアテナを賛美し加護を欲するものなのである。

 加護を請わぬでも、『英雄』なら戦女神を信奉するというのに。珍しい奴、とアテナは一層ヘラクレスへの関心を深めた。これほどの英雄だ、もはや後の世にこの偉丈夫を超える英雄は現れまい。ともすると人の身でありながら、神へと祀り上げられるやもしれぬとアテナをして思わせるほどなのである。

 

(半神とはいえ人の身でこの私を超える膂力……武勇のみ(・・)で見ればオリンポスの神に並び……あるいは私をも超えるか? 我が父の子、つまりは私の弟ヘラクレス。ふむ……可愛げのないアレスよりは目を掛ける価値があるが……)

 

 ――アテナは世辞抜きに美しき女神だ。スッと通った鼻梁、司る芸術品のような白皙の美貌、豊かな金髪を馬の尾のように束ねて覗かせる、ハッとするほど細く絞めつけてやりたくなるうなじ。鋭利な双眸には深い知性と勇敢さが滲んでいる。

 戦装束ではなくゆったりとした衣服を纏った女神は、ヘラクレスの言葉をさも意外そうに聞いていた。その内心に含むものがあるのを今は秘め、とりあえずは会話の流れに乗ってやる。

 

『――折角の戦利品なのにか。テュポーンの子にして神格を持ちし大蛇、宇宙最強の毒をただ消えるに任せると。如何なる思惑がある?』

「思惑など……武器に求められる格があるように、道具にも扱う者の格が求められる。過ぎたるものは持ち主をも滅ぼすだろう。そもこの私に毒などという小細工の種など不要のもの。総てこの身に積んだ研鑽と、我が身のみがあればいい。それだけで私は我が身に降り掛かる艱難辛苦の全てを乗り越えてみせよう」

『不死のモノを相手にして、同じことが言えるか? ヒュドラめは不死だ、その毒は厄介に過ぎる故に、封印され動けぬのを良いことに我が父ゼウスが星座にして無力化してしまったが、次も同じ事をするとは限らんぞ』

「愚問。たかが(・・・)不死身である程度、問題にもならない。打ち倒すのは造作もない話だ」

 

 絶対の自負を覗かせた宣言に、アテナは上機嫌に頷いた。それは聞き様によっては、不死身のオリンポスの神々に対する不敵な宣告である。しかしそれが却ってアテナを刺激して満足させたのだ。

 不遜な物言いである。しかし明確にオリンポスの神々に対して不敬を働く言葉でもない。なじればこじつけが過ぎると逆に批難されるだろう、ギリギリのラインを突いた言葉運びだ。これは、先程から気になっていたことを指摘しても、あっさりと躱されてしまうなと悟れてしまう。逆に小気味よく、アテナは薄い笑みを浮かべる。

 

 ヘラクレスは極めて飛び抜けた、理想的な偉丈夫である。しかしそれでいて知恵にも秀で、武勇では並ぶ者がなく、勇敢で誇り高い。かといって狂気とは程遠く、戦で戦利品を略奪することに腐心する醜さもない。この人の血の混ざった弟は、アテナにとって絵に描いたように理想的な英雄だった。

 試してやろう、少しでも慌ててしまえば失望するぞ――理不尽な期待は、神にとって当たり前のもの。しかし理不尽だからこそ報酬が高い。期待に応えた者には寛大で寛容なのがアテナである。アテナは言った。ヘラクレスに。

 

『なあ、ヘラクレス』

 

 猫なで声に、ヘラクレスは微塵も顔色を変えない。控えている子供は顔を青褪めさせているのに。

 

なぜ跪かない(・・・・・・)?』

 

 虎のような笑みで問う。

 アテナは女神だ。誰よりも気位は高い。神々の女王を向こうに回しても引かないほどに。しかし下の立場の人間を、いたずらに嬲る邪悪さはなかった。

 これは礼節の欠如を糺すもの。神は人よりも高位の存在だ。例え神が、人が存在しなければ消えてしまうものだとしても、人が神に超越者であれと願われているのだから、それは揺るがない。

 傅くべきだ。遜れと言っているのではない。高位の存在に不遜な様を見せて良い道理はない。神と人の関係だけではなく、人と人の関係でも同じこと。目上の者を態度の上だけでも敬わないのは上手くない。賢くない。ヘラクレスにそれが分からぬわけではないはすだ。分かった上で跪かないのなら、ネメアーとの戦いで勝利したことで、要らぬ誇りでも入ってしまったと判断するしかない。そうならば灸を据えてやるのが『英雄』を導く女神の務めだろう。

 

 ヘラクレスはそんなアテナの思惑と迫力に、一寸たりとも動揺することはない。己の方が強い、そう驕っているのではなく。彼はただ単純に――極めて明快に、呆れるほど純粋に――神に跪きたくない(・・・・・・・・)だけだった。

 愚かである。愚昧である。忍従の時であると解っているはずだ。どんな無様も屈辱も呑み込み、嫌なことでもやってやるという気概が必要不可欠なのである。

 

 しかしヘラクレスは……否、アルケイデスは。

 

 言い逃れの余地があるなら、跪かない。阿らない。媚びない。流石に相手は選ぶが、幸いにもアテナは『自尊心と誇り高さの違いが解る』稀有な女神である。理屈と筋さえ通れば問題なくやり過ごせるだろう。

 

『驕ったか、ヘラクレス。貴様は神の御前にしていながら心得違いをしていないか?』

 

 そう問いかける時点で試しているのだと理解できる。試す気がなく、咎める気なら、問答無用で罰を与えようとする。少なくともあの、例え善なる側面があろうと断固として赦さぬと誓った女神ならそうするはずだ。相手がヘラクレスともなれば確実に。

 故にヘラクレスは言った。あくまで堂々と。右手で天を、左手で地を指さして。

 

「我が身は人であり、女神()の身は神である。我は地に生きる人、貴様は天に座する神だ。何処に在りながらにしても、神なる者は人の上にある至尊の柱。それを前にして示すべき礼節はなく、胸に抱くべきは畏敬である。人が神に対し問われるべき在り方は礼儀の有無ではない。それが分からぬ御身ではないだろう」

『……ック、ハハハ……なるほど、分からぬならば馬鹿だ(・・・・・・・・・・)と言いたいわけか。ハハ、これはいい、そう言われてしまえば何もできん。下手に短気を起こせば問われるのは私の器というわけか!』

 

 好きに解釈しろ。ただしその解釈は正しい。ヘラクレスは言葉にも態度にも、目や表情にも出さずに女神を見据える。

 その威風堂々とした在り方に、真の誇り高さと意志の強さ、そして女神の慧眼に掠める底知れぬ激情を見て取ったアテナは愉快げに目を細めた。

 

『試すはずが試される。不敬であり処断すべきだが、形式的には問い掛け、あるいは諫言であるか。良いだろう気に入ったぞヘラクレス。その不遜を赦そう。相手が神であっても変えぬ物言いと姿勢も認めよう。ふふふ、久し振りに興じさせてくれた礼だ、何ぞ加護でもやろうではないか』

 

 要らぬ。そう言ってやりたいが、断れば面倒なのがアテナの押しつけ。

 が、歯牙にも掛けずに断ってやろうと思ったヘラクレスだが、不意に考えを改めた。

 ささやかな嫌がらせ。あるいは神々に不和を投げ込む火種の元。ともすると保険にもなる一挙両得の計略を思いついたのだ。

 

 ヘラクレスは一瞬考え込む素振りを見せながら、アテナについて考える。彼の女神は知恵も司る賢神だが、全知ではない。ならば問う。問える。

 

「加護を授かる前に、女神アテナに問いたい。答えてくれるか」

『ふむ? まあ物による。いいぞ、問いを投げるが良い』

「貴様は私が如何なる由縁によって禊の儀をおこなっているか、知っているか?」

『否だ。知っているのだろうが、私は全知ではない。見聞きしたこと以上のものは知り得ぬ。無論この私との知恵比べで勝るものなど、それこそ全知である我が父ぐらいなものだろうがな。……まあその知恵を発揮する機会はそうそうないわけだが……』

 

 その答えで充分だ。加護を与えると言った手前、前言撤回は女神の気位からして有り得ない。そしてそれはヘラクレスの計略(嫌がらせ)の成就を約束するものだった。

 

「女神アテナよ。勿体無いながらも希う加護がある。与えてくれるだろうか」

『勿論だ。といっても私の権能に収まる範疇に限るがな』

「では――私に狂気を跳ね除ける(・・・・・・・・)力を与え給え」

 

 その願いに、アテナは『ほう』と短く唸った。

 流石に何か勘づくものがあるらしい。知恵の女神は伊達ではない。

 

『……意図を聞こう』

「言わぬが華となるものがあるように、聞かぬが華となるものもある。なに、いずれ貴様を愉しませる種になるだろう。無論見逃さなければだが」

『ック、なんだ貴様。私の笑いのツボでも抑えられてしまったか? ああ分かった、ノセられてやろう。面白いよ、ヘラクレス。貴様のように頭の回る英雄ばかりなら、私も退屈しないのだがな』

 

 口元を抑えてクツクツと上品に笑い、アテナは心底愉快だと言わんばかりにヘラクレスの目の前まで歩み寄ってきた。

 視線の高さから見下ろす英雄。見上げる女神。視線がぶつかろうと重さの変わらない瞳の色に、アテナはほぉ、と悩ましげに嘆息した。大した男ぶりだな? その笑みに、ヘラクレスは何も言わない。鎧を纏ったままだが、流石に兜は外している。そのヘラクレスの顔に手を添えて、膨大な神気を匂い立たせながら女神は権能を行使する。

 

 己に流れ込む神威に嫌悪感を抱くヘラクレスだが、噛み殺す。強い精神力で嫌悪感を隠し抜く。アテナが離れた。そして言う。

 

『これで貴様はもう二度と狂わぬ。例え何者の干渉があろうとな。と言っても狂えぬ精神(・・・・・)は時として呪いともなるが、それが分からぬ貴様ではあるまい?』

「無論」

『では良い。よき狂気を、ヘラクレス。狂えぬ魂でどこまでも狂い抜け。狂わぬ狂気を飼いならす貴様ならば、その狂気を糧にさらなる飛躍を目指せよう』

 

 アテナは天上に去っていく。その去り際に、アテナはふと思い出したように言った。

 

『――ああ、最後に予言をしてやろう。予言はアポロンの領分だが、知恵を巡らせれば未来を読み解くこともかなう』

 

 女神は楽しげだ。ヘラクレスの受難を楽しんでいる。それは不幸を玩弄しているのではない、受難を乗り越えんとする英雄を愛しているのだ。

 難儀な女神だ、二度と会いたくない。そう思うヘラクレスにアテナは彼女が知り得たものから推測できる未来を、予言としてヘラクレスに与えるのだった。

 

『貴様の次の勤めは、アルテミスの阿呆が絡むだろう。戦車を牽く神獣を五頭探し、四頭までは揃えたが、最後の一頭がどうしても捕まらぬと喚いておった。

 フフン、もっと私を愉しませろよ、大英雄。褒美に私の名を使うことを、一度だけ赦してやろう。出来の良い弟というのは、なかなか可愛いものだからな』

 

 

 

 

 




アテナの御手
 ランク・A
狂気を祓う女神の加護。これによって他者からの精神干渉を無効化するが、自身の裡から溢れる狂気は対象外。
ヘラクレスはその総ての始まりとなる逸話の知名度から、サーヴァントとして召喚された場合高い狂化適正を持つ。しかしこの加護によって狂化を受け付けず、バーサーカーで召喚されたとしても理性を保つ。狂化の恩恵は授かれないが、バーサーカーはヘラクレスのクラス適性としては燃費が良い方なので実質バーサーカークラスはマスターにとってメリットばかり。

なおこの女神の加護は歴史秘話的なもので後の世には伝わっていない。剪定事象として切り捨てられなかった場合の未来、逸話の認知度から狂化可能と判断した雪の城の一族さんはヘラクレスをバーサーカーで召喚する。その結果、燃費の良い(当社比)ヘラクレスを喚び出すミラクルを果たす。それが良いことか悪いことかは別として。


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4.2 ケリュネイアの報われぬ恋

 

 

 

 

 ヒュドラが退治された。

 

 神蛇はオリンポスの主神によってウミヘビ座とされ、今またヘラクレスの功業が一つ加算されたのだ。

 

 その報を聞いたエウリュステウスはやはりと思う。もはや如何なる怪物も忌まわしい化物の英雄譚を彩る華になるだけだ。かくなる上は以前考えた通り、今回の件は独力によるものではないと難癖をつけ、勤めを果たしていないという扱いにするしかない。その上でヘラクレスを遠方に差し向け、面倒を片付けさせるのである。

 本当ならすぐにでも次の勤めを考えるべきだが、幸いにもその厄介事が向こうから転がり込んできてくれた。これを利用しない手はない。どう考えても時間がかかる上に、最悪……いや最高なことに勤めを果たせない可能性もある。

 

 月女神アルテミス。

 

 狩猟・貞潔の女神であり、神々の長からヘスティアやアテナと同様、処女神でいることを赦された神格だ。その女神がミュケナイの宮殿に押しかけてきた。

 出迎えたエウリュステウスはその美しさに目を奪われた。危うく魅了されるかと思ったほどだ。しかしすぐに恋の予熱は冷めきってくれる。女神の態度と性格、金切り声にうんざりさせられたためだ。

 

「だーかーらー! ヘラクレスを呼んでって言ってるでしょ!? 言うこと聞かないと神罰下すわよ!」

「いえ、ですから……ヘラクレスはまだヒュドラ退治から戻っておりません。レルネーからミュケナイまで戻るのに今暫しの時が……」

「私はもう待てないの! 遣いでもなんでも出して、早く命じなさいってば!」

「………」

 

 なんだこれは。これが、女神……? これでは駄々甘に甘やかされて育てられた王女だ。理屈が通じない。自分も娘は甘く育てているし、目に入れても痛くないほどかわいがっているが、ここまでひどくはない。ワガママは言う、しかし娘は無理だと言われたことを無理強いしようとはしないのだ。

 だというのに、これだ。アルテミスの態度にエウリュステウスは内心唖然としてしまう。こんなものが女神だと? まるで力と権力を与えられただけの子供ではないか。

 確かに美しい。そのウェーブの掛かった髪は月光を形にしたようだし、女神の美貌と瞳は殊更に夜を弾く淡い風のようである。その肢体は垂涎のもの。一晩の体だけの関係なら大歓迎だ、しかしそれ以上の関係は頼まれたとしても御免被りたい。

 

 エウリュステウスは嘆息してしまいたい。しかしこんなものでも女神は女神。疎かにする態度を見せたらミュケナイに災禍を招くし、何より己の身に危険が降り注ぐ。頼む早く帰ってきてくれ……エウリュステウスは今回唯一ヘラクレスに対してそう願った。後にも先にもあの化物の帰還が待ち遠しかったのはこの件だけであった。

 

「ミュケナイ王! ヘラクレスが戻りました!」

「おお! やっとか!」

 

 家臣の男が大急ぎでやって来て、ヘラクレスの帰還を報せてくれる。エウリュステウスは待ち侘びたと言わんばかりに声を上げた。

 とは言ったが、充分以上に早すぎる。どんな脚をしてるんだあの化物は。だがいい、こんな奴はさっさとヘラクレスに押し付けてくれる。エウリュステウスは玉座から離れてアルテミスから逃げつつ、家臣に対して申し伝えろと命じた。

 

「ヘラクレスに言え、女神アルテミスからの命令が第三の勤めだとな! ……ああ、あとヒュドラの件は、一人ではどうしようもなかったんだろ? そうに決まって……甥の手を借りたに決まっている。一人で果たしたわけではないんだ、ヒュドラ退治は勤めを果たしたとは言えんから無効だ。そう伝えろ!」

「え? は? ……え、今のを、わたしが、ヘラクレスに……?」

 

 怒り狂ったヘラクレスに殴り殺されるのではないか……エウリュステウスの家臣は恐怖に打ち震えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あっ! 貴方がヘラクレスね? 早速だけど私の命令を聞いてもらうわ」

「………」

 

 エウリュステウスの家臣にアルテミスと引き合わされ、ついでに第二の勤めは無効だと聞かされたヘラクレスは無言だった。

 イオラオスなど、ヒュドラ退治がカウント外だと言われ怒り心頭に発していたが、まあそれはいい。精々無理難題を考えて押し付けてくるが良い。そう思っていた。思っていたのだが……これはない。ヘラクレスは頭を抱えたくなっていた。

 玉座の間に通されるとエウリュステウスの家臣は早々に退散した。そこに月女神がいて。なにやら頭が痛くなるようなことをさせられる予感がしたのだ。エウリュステウス……無理な勤めは望むところだが、もう少しこう……あれだ、真っ当な手合いを引き合わせてほしかった。

 

 アルテミスは喜色満面だ。これで悩みが解消されるとでも思っているのかもしれないが……ヘラクレスは心の中で呟く。気儘に振る舞う阿呆の類か、と。ヘラクレスのアルテミスへの第一印象は、控えめに言ってよろしくないものだ。やはりハデスやヘスティア、ヘパイストスのような神は希少で、アテナのような神も少ないのだろう。

 月女神は親しげに言う。言うことを聞くのは当たり前とでもいうように。まあ実際、ギリシア世界では当然のことなのだが……この手の阿呆は体罰なくしてまともな性質を身につけられはしないと、子供を育てたことのあるヘラクレスは評価を下していた。

 

「ねえ、貴方ケイローンのところで修行したんでしょ? だったら狩猟のイロハぐらい知ってるわよね? ちょっと捕まえて来てほしい子がいるの。ね?」

「………」

 

 ね、ではないが。

 しかしその無垢な表情を見ると、なんとなく……どつき回したくなる。神という連中はやはりどうしようもないと再認識させられた気分だ。この手の神は他の神より貢物が少ないと癇癪を起こし、その国に災いを送り込む手合いに違いない。子供の癇癪のように悪気もないに決まっていた。

 決めつけはよくないと思うが、そう思わされる。アルテミスの信奉者に猛烈に同情したくなってしまう。この女神を直接見たら、信奉者はグッと減るのではないかと思わざるを得ない。まあその加護からして、狩人などからは奉じられるのかもしれないが、加護がなければ信仰は減るだろう。神としての威厳もクソもない。

 

 ヘラクレスは鉄壁の無表情で淡々と応じた。

 

「捕まえてほしい、というのは人の子か? であれば断らざるを得ん。そうでないなら承る」

「やたっ! 話が分かるわねぇ、さっすがケイローンのお弟子さん。そういうとこポイント高いわよ?」

「………」

 

 なんのポイントだ、と混ぜっ返したくなるのを堪える。

 師はこんなのと知り合いなのか、とか。こんなのに狩猟を学んだのか、とか。女神の孫弟子に当たってしまう我が身の不幸を嘆きたくなる。

 アルテミスは嬉々として言った。やはり、頭が痛くなった。

 

「実はね、私、五頭の神獣の兄妹を捕まえようとしたの。私の戦車を牽かせるのに、この子達ほど相応しい子はいないのよ。でも四頭は捕まえたんだけど最後の一頭がすっごく脚速くて……私でも捕まえられなかったの。だから代わりに貴方が捕まえてきて」

「………」

 

 なぜに狩猟の神をして追いつけない、捕まえられない神獣を人の身に捕まえろと命じるのか。ヘラクレスは目を細める。オリンポスの神々の中でも随一の脚を持つ伝令神に頼れと言いたい。ヘルメスなら追いつけるかもしれないではないか。

 まあヘルメスはゼウスの子で、神々の伝令を任される神だ。ゼウスの赦しもなく気軽に頼れないという事情もあるのかもしれないが、だからといって自分を当てにするなと思い――ふと狩猟の女神が捕まえられないと言っているのに、ヘラクレスなら捕まえられると考えている節から、アルテミスの真意をヘラクレスは看破した。

 

(この女……)

 

 内心舌打ちする。この女神は根気強く掛かれば捕まえられるのだろう。だが途中で追い掛け回すのが面倒になったに違いない。

 そこで半神であるヘラクレスが目当ての獣を捕まえられるだけの力量があると見て、これ幸いと押し付けることにした……そう考えれば筋が通る。女神とは総じて気位が高い、自分に無理だったからと他の者に頼るのは面子に関わる。そう考えるとやはり、アルテミスはその気になれば捕まえられると思っているのだと感じた。

 苦言を呈するのも馬鹿らしくなったヘラクレスは、アルテミスに最低限の情報を求めることにする。どのみち女神からの命令は断れず、エウリュステウスからはこれが第三の勤めだと言われてしまった。二重に逃げ道は塞がれているのだから是非もない。やるしかなかった。まさかこんな形で忍耐力を試される羽目になるとは……ヘラクレスも全く予想していなかった。

 

「承知した。では女神アルテミスよ、御身が求める神獣の姿形をお教え願いたい」

「あ、そうね。それ知らないとどうしようもないか……」

 

 当たり前だ。

 

「ケリュネイアに住んでるとっても大きな牝鹿よ。神馬並みに大きいわ。黄金の双角と青銅の蹄を持ってて、小麦色の毛並みが綺麗で、それからとんでもなく疾いの! 空まで駆けちゃうし……傷つけないように捕まえるの大変なのよね……」

「………? ………!」

 

 ヘラクレスはアルテミスの説明に首をひねり、次いで絶句した。

 

 なんと言った? 傷つけないように捕まえる、だと? 道理で狩猟の女神が捕獲を諦めるわけだ。神獣を相手に傷つけてはならないとは、とんでもなく無謀で無茶でしか無いのだから。

 アルテミスはにっこりとヘラクレスに笑い掛ける。ヘラクレスのこめかみに青筋が浮かんだのに、女神はきっと気づいていない。

 

「私の戦車を牽かせる子にするんだから、傷つけちゃ駄目よ(・・・・・・・・)

「……その牝鹿はどこにいる?」

「このギリシア中のどこかね」

「………」

「大変よー? あっちこっち逃げ回ると思うから、根気強くやるんだぞっ。がんばっ」

「………」

 

 ヘラクレスは心を無にし、その試練を甘んじて受け入れた。

 

 ――しかし、事の顛末は意外なものになる。

 

 相手は話に聞く限り慎重で、臆病で、戦うよりも逃げることを選択し、凄まじく脚が速い。であれば無闇矢鱈と追い掛け回すのは愚の骨頂、罠に掛けるか、小動物にするように穏やかに近づいて捕まえるしかないだろう。習性を観察して待ち伏せするというのも一つの手だ。

 ヘラクレスはそう考え、まずはギリシア中を探し回る。牝鹿の生息しやすい森や山を中心に。最悪ギリシアからトラキア、イストリア、ヒュペルボレイオスまで追い掛ける覚悟を固めつつ。

 

 そうしてヘラクレスは、ある山中に黄金の双角と青銅の蹄を持つ、大きな牝鹿を発見した。間違いなくケリュネイアの牝鹿だろう。威圧感を与えないために獅子の鎧を脱いで、裸で相対するべくゆっくりと歩を進める。

 丸腰だ。ヘラクレスは敢えて姿を隠さず、牝鹿の真正面に立った。

 案の定びくりと背筋を震わせ、牝鹿が脚を曲げてこちらの様子を窺い始める。いつでも逃げられるようにする構えだ。

 

 ヘラクレスはぴたりと止まり、牝鹿の目を遠くから見詰めた。つぶらな瞳がヘラクレスを見詰めたまま動かない。ヘラクレスは敵意がないことを目で訴えかけ、素振りでも見せない。一時間かけて一歩を踏み出す。その度に牝鹿は警戒するが、その警戒心がほつれる度に一歩ずつ近づいていく。

 朝に見つけ、夜にまで続く。牝鹿は立ち疲れたのかこちらを見たままその場に座り込む。ヘラクレスも音を立てずゆっくりと座った。ずっと目を合わせ続ける。

 

 やがて目が離された。牝鹿からだ。しかしヘラクレスは動かない。目を離した今が一番警戒心が強くなっていると見たのだ。夜が明ける。朝になると、牝鹿はちらりとヘラクレスを見た。ヘラクレスは、動いていない。

 

(………)

 

 牝鹿は急に立ち上がり、駆け去った。ヘラクレスは動かず、牝鹿の姿が見えなくなると、適当にその場を散策して木の根を齧って飢えを凌いだ。

 逃げられたか? そう思うも、神獣の神聖な気配は薄れていない。まだ近くにいる。ヘラクレスは動かないことを選択した。

 そうして朝が昼になり、夕方に差し掛かると牝鹿が密かにヘラクレスの前に現れた。

 樹木に背を預け、座ったまま動かないヘラクレスの肩を鼻面で小突いてくる。ヘラクレスは声を出さずに笑った。牝鹿が小突いたり、角で軽く叩いたりしてくるのを、甘んじて受け続ける。そしてふと、左腕に唯一残り続けていたネメアの獅子に噛みつかれた牙の痕を舐めると、牝鹿は信じられないものを見たようにヘラクレスの顔を見詰めてくる。

 

「どうか……したのか……?」

(………)

「……ネメアーの痕跡だと気づいたか」

(………)

 

 小さく頷くような素振りがある。ヘラクレスは言葉を選び、告げた。

 

「恐ろしく強い、宿敵だった。命のやりとりをしたが、友になれたと思っている」

(………)

「………」

 

 お前を捕まえに来たと、告げるべきか。思い悩む。間近にいるのだ、捕まえるのは容易い。しかし騙し討にするのは気が引けた。

 なぜ獣は、こんなにも美しい。ヘラクレスはふいに思う。ネメアーも、ヒュドラも、あの名も知らぬ化け蟹も、どこか犯し難い美しさがあった。ヒュドラは遠目に見ただけだが、化け蟹が殉死したのを不思議には思わせない何かがあった。

 人は、汚い。神は悍ましい。そうした者ばかりだ。しかし獣はそうではない。亡き妻子と過ごした山の麓……そこで出会った総ての獣も、この牝鹿も、総て美しかった。

 純粋だからか、と思う。だから……心が惹かれるのか。野蛮としか思えない人と神ばかりの世界で、擦り切れようとしているヘラクレスの心が、獣と自然に癒やされているのかもしれない。

 

 騙し討にしたくはない。しかし、捕まえないわけにもいかない。

 

 ヘラクレスは更に二日間、牝鹿と過ごした。その頃になると牝鹿はヘラクレスにすっかり気を赦したのか、隣を歩くことを認め、触れることにも気にした素振りを見せなくなっていた。旦那様は、よく動物に懐かれますね――亡き妻の声が思い出される。苦笑した。しかしその笑みはすぐに消える。

 意を決して、ヘラクレスは牝鹿を制止した。牝鹿は訝しげにヘラクレスを見る。その眼を見て、男は一個の生命として、真摯に謝罪した。

 

「すまない」

(……?)

「私はお前を捕まえに来た。女神アルテミスの命を受け」

(……!)

 

 牝鹿は信じられないというように、目を見開いた。全身の毛を逆立たせている。裏切られた、目が潤んでいる。ヘラクレスは諭すように言った。

 

「女神に気に入られてしまった以上、いつかは捕まる。いつまでも逃げられはしない」

(………)

「そんなことはないと言いたいのか? ……困ったな、言いたいことがよく分からん。無口なんだな……」

(………)

「……ケリュネイア。お前の生地にちなみ、そう呼ぼう。ケリュネイア――今なら無傷で済ませられる……だから……」

(……!)

「っ……」

 

 牝鹿はヘラクレスの腕に噛み付いた。歯型が残る。腕に力を込めて弾き飛ばすのは簡単だ。あまり痛いとも思わない。しかしそのまま噛み付くのに任せる。

 

「……そんなに、嫌か?」

(………)

「……そうか。なら、仕方ない」

 

 此度の勤めは失敗か。ヘラクレスは苦笑する。失敗の責はどう取らされるのか、あまり考えたいものでもない。だがどうにも、無理強いして牝鹿を連れて行くのは気が引けた。ヘラクレスは立ち上がり、牝鹿の体を撫でてやる。毛並みを整えるように。

 

「さらばだ。私は去る。二度と会うことはあるまい」

(――!!)

「っ……? どうした……?」

 

 去ろうとしたヘラクレスの前に、牝鹿は先回りして通せんぼをした。困惑していると牝鹿は何かを訴えかけようとしているのか、何度もヘラクレスに体当たりしてくる。

 びくともしない。ケリュネイアが本気でぶつかってきているのではないと察した。

 何が言いたいのか。ふと――ヘラクレスは、ケリュネイアの目が記憶の隅に掠めた。あれは……そう、穏やかで、遠い思い出の中で見た。……妻や、子が、己を見る目……。

 

「………」

 

 ヘラクレスは唇を噛む。どうしようもなく遣る瀬ない。肩を落として、観念したふうに嘆息すると、その場に座り込んだ。

 

「……分かった。どうにかしてやろう。女神の聖獣とされるのが気に食わんのだろう。私もお前を献上するのは気に食わん。鼻を明かしてやろう」

(……!)

「ただし、今後お前は私と共に居続けねばならなくなる。それでも構わないか?」

(……!)

 

 激しく地面を蹴り、黄金の双角を振るケリュネイアに、ヘラクレスは「そうか」と頷いて笑った。

 

 

 

 ――そうして、ヘラクレスはケリュネイアに乗って(・・・)ミュケナイに戻った。

 

 

 

 ヘラクレスは宣言する。まだ赦しを得て間もないが、早速彼の戦女神の名を使わせてもらおう、と。

 

 

 

「このケリュネイアの牝鹿は月女神に献上する。しかし私にはヒュドラ狩りの際に戦女神より課せられた誓約がある。今後、神々に対する際には己を窓口とせよと。然るに牝鹿を献上するのに戦女神を通した。が、アテナは私への恩寵としてこの牝鹿を与えると言った! 故にこのケリュネイアの牝鹿は私のものだ!」

 

 

 

 この宣言に世界は揺れた。否、神々にも衝撃が走った。

 

 アテナは腹を抱えて笑い、どういうことだと怒鳴り込んできたアルテミスに「そういうことだ」と言って取り合わなかった。

 アルテミスとの間に亀裂が奔るのは必然、しかしそんなことなど気にもならない。アテナは愉快だったのだ。元より一度だけ己の名を使っていいと赦しを与えている。なら――こういうのもたまにはあり(・・)だと受け入れた。面白いのである、アルテミスの脳天気な顔が真っ赤になっていたのが。

 アテナはアルテミスを揶揄する。

 

『面倒くさがり、他者に労を強いた怠け者に灸が据えられただけの話よ。反省して今後に活かすと良い。……良かったな? 私が寛大で』

 

 最後の一言はヘラクレスに向けてのものだったが、アルテミスはそう取らなかったようで。以後、アテナとアルテミスは何かにつけては張り合うことになる。無論のこと、そういう時に限ってアテナは常に上機嫌だったという。

 そうして、第三の勤めは呆気なく、誰にとっても予想外な顛末をむかえたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ここまでの試練でのヘラクレスとこの作品のヘラクレスの突破姿勢。おふざけ関西弁でお送りします。

ネメアー
 ・原典(おそらく原作も)。武器通じねぇ! まともにやったんじゃ勝てなくはないが面倒やな。せや、絞め殺したろ!
 ・ここ。武器通じないのは調べた通り。でも強くなるために自分で難易度上げるで。敢えて正面から殴り合ったろ!=技量早熟、ネメアーとの殴り愛友情芽生え。神の男の血を熱くして恩寵を。

ヒュドラ
 ・原典or原作。正面から挑むで! くっ、毒きつっ!? 首増えるし不死やし面倒臭! こうなったらこうや! 射殺す百頭開眼! 毒袋? まるごとゲッチュや!
 ・ここ。調べた通りに厄介やな。近づかんでネメアーとの戦いで開眼した射殺す百頭で安全圏から射殺したろ。あ、ゲットする毒は少しでいいよ。

ケリュネイア
 ・原典or原作。めんどくさっ!? 追いかけ回したろ!(威圧感ばりばり全力全開蛮族スタイル) 最後は待ち伏せでフィニッシュや!(一年掛かりました)
 ・ここ。こいつマジか(女神に真顔)、言うても相手は野生動物みたいなもんやろ? せやから警戒させたり怖がらせたりせんように慎重に行こな(威圧感消し消しの紳士スタイル)。……あれ? なんでこいつワイに懐いたねん(白目) え、兄弟たちを戦車を牽く馬扱いされて許せない? あの女神むかつく? ワイの方がええ? ぇぇ……。ま、しゃあないわ。アテナの名前使わせてもらお!(ケリュネイアを騎獣としてゲット)

なお技量的にはここも原作も大差なし。違うのは性格、属性、スキル、宝具、身長体重ぐらいなもの。


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5.1 軍神来たりて斯く語りき (上)

ケリュネイアの牝鹿で一年どころか一週間掛からなかったため、試練を考えるエウリュステウスにネタが尽きた模様。

王(考える時間をくれ!)

というわけでバタフライエフェクト発生。試練の順番が前後することに。
比較的簡単に思いつきそうで、時期的にいつでも構わない奴に変更。







 

 

 エウリュステウスは激怒した。必ずやあの化物を誅さねばならないと決意した。

 

 多少は時間を潰せると踏んでいた女神の命令を、あの理解不能の化物は七日も掛けずに達成してのけたのだ。もはやエウリュステウスにはあの男こそがネメアの獅子やヒュドラに通ずる怪物に思えてくる始末である。

 ミュケナイ王は激怒する。それが逆上でしかないと解っていながらも怒りに猛る。立場上今の所は安全と解っているからこそヘラクレスを面罵できた。

 

「貴様! 解ってるのか!? 俺は普通の人間なんだ、そうポンポンと神託の勤めの内容を考え出せるわけじゃない!」

「………」

「貴様の罪を濯ぐのに相応しい勤めなんぞそうはないんだ、いくら最近ミュケナイが怪物の溢れる魔境扱いされていると言っても限度がある! 解っているのか!?」

「………」

「解っていない! 全く以て全然解っていない! いいか、聡明で可愛い俺の娘に感謝しろよこの化物め! 俺の娘が貴様の勤めに相応しいものを考え出してくれた、なんでもアマゾネス族の女王の持つ戦帯が欲しいのだとさ! くれぐれも! そう『くれぐれも』だ! あんまり早く片付けて帰ってくるんじゃないぞ!? 少しはゆっくり時間を掛けてから勤めに臨め! 俺の頭は勤めのことばかりでいっぱいなんだ、いい案が出るまで戻ってくるんじゃない! 解ったか!?」

「……善処しよう」

 

 そういうことになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヘラクレスは今、無性にエウリュステウスに対し罪悪感を感じていた。

 

 彼の王は良縁を持ってきてくれる恩人とも言える男だが、さしものエウリュステウスも無茶振りのネタが切れてきたらしい。

 強すぎて申し訳ない――そんな台詞を億面なく一切の嫌味なしに言えてしまうし、言われてもヘラクレスなら仕方ないで流されるのがこの男。しかし己の強さを自覚するヘラクレスは、まるで自重する気はなかった。

 折角の勤め、全力で取り掛からなくては勿体無い。種々の経験を積み上げるのに、己へ恐怖し殺意を持つ者からの試練は都合がいいのだ。

 だがまあクオリティの高い勤めを考えてもらうためにも、それなりのインターバルが必要だと言われてしまえば是非もない。アマゾネス族の女王の戦帯を手に入れるのは、ゆったりと気長にやっていこうと思う。強奪など論外なので交渉して終わらせたいものである。交渉力も必要になる未来もあるかもしれないのだ、知恵を絞っていこう。

 

 そういうわけで、ヘラクレスはその旨をエウリュステウスの家臣に伝えた。いつぞやヒュドラの件を無効とすると伝えに来た若い男で、その青年はヘラクレスに話し掛けられると挙動不審となり、話の内容を理解すると唖然とした。

 

「確かに言付けたぞ」

 

 言うだけ言って、ヘラクレスは旅支度を整える。イオラオスに馬と馬車を与えて御者とし、天幕付きの馬車の中には食料と水の満ちた壺を幾つも積んでいる。ヘラクレスは獅子の鎧と武具を身に着け、勇壮な紅い敷布を纏ったケリュネイアに跨った。

 さあ往くぞ。せいぜい大回りし、寄り道をしながらゆっくりとな――ヘラクレスはそう言って、これからの旅路に思いを馳せようとする。そんなヘラクレスの一行に、ある女神官が駆け寄ってきた。

 

「お待ちなさい、お待ちなさいヘラクレス!」

「………」

「なんだ、神官! 大上段に構えて偉そうに伯父上を呼ぶんじゃない!」

 

 イオラオスが怒鳴り返した。最近のイオラオスは機嫌が悪い。自分がヘラクレスについていったせいで、ヒュドラ退治の勤めが無効にされる口実にされたのだと自分を責めているのだ。

 ヘラクレスとしては気にしなくていいと本気で思っている。これからも是非付いてきてもらいたい。例え幾つ無効扱いされてもエウリュステウスが根負けするまで勤めを果たせばいいだけのこと。エウリュステウスのうんざりした顔が目に浮かぶようである。

 英雄の甥の怒声に、幾分か冷静さを取り戻したのか、女神官は立ち止まると呼吸を整え、居住まいを正して歩み寄ってくる。イオラオスの苛立たしげな様子を視線で制し、女神官を促した。

 

「そのように急いて何用だ? 私はこれより勤めに出る。余程のことでもない限りは用向きに従わんぞ」

「いいえ、従ってもらいます。太陽神アポロン様より授かった神託です」

 

 ぴくり、とヘラクレスの眉が動いた。鬣の翻る兜を外し小脇に抱えると、豪勇無双の大英雄は女神官を見据えた。威圧するまでもない。女神官はその視線の深さにたじろぐも、なんとか威厳を保ってあくまで厳かに告げる。

 

「――これより先、デルポイの参内路の途中にあるパガサイの野に巨人キュクノスが待ち伏せ、通行する旅人やアポロン様の信者の首を刎ね、それを以て自らの父である軍神アレスの社を作ろうとしています。トラキアではいざ知らず、アポロン様の領域であるデルポイでこのような暴挙は赦されません。アポロン様は神託を下し、ヘラクレスに巨人キュクノスの討伐を命じると申しました」

「この私に神々の諍いへ首を突っ込めと? 太陽神は私が軍神に睨まれることなど知らぬというわけか」

「ヘラクレス!」

 

 咎める神官の鋭い叱責が耳を打撃した。しかしヘラクレスは無表情に女神官を見据えたままだ。

 

「海神ポセイドンの子が軍神アレスの娘を犯した顛末を知らぬとは言わせん。アレスの丘と呼ばれる、神々の裁判の地にまつわる件は有名だ。軍神が司るは戦の暗黒面、凶暴で短絡的な面が目立つが、彼の神の子を想う心は真のもの。私が軍神の子を討てばその恨みは手を下した私に向くだろう。アレスは命じた者へ目を向ける性質ではない。太陽神は軍神の子を討った私に何か報いる物があるというのか?」

「ではヘラクレスよ、罪もない者を殺めるキュクノスのおこないは何とするのです。捨て置くというのですか?」

「問いに問いで返すな。無論捨て置けるものではない。おこないを改めさせ、罪を償う意志の是非を問い、償う気がないならば討とう。――それで。太陽神は軍神に睨まれる私に対する手当はないのか?」

 

 ――『これは、聞いていた話と違うかな?』

 

 ふと、声が天上より降ってきた。

 太陽の光が一筋、女神官とヘラクレスの間に降り注いでいる。ハッとして跪く女神官を尻目に、ケリュネイアの上から降りもせずヘラクレスは口を閉ざす。

 

「何が違う? 太陽神(・・・)よ」

 

 手振りでイオラオスを馬車の御台より降ろさせ、跪かせるとヘラクレスは堂々と訊ねた。それに神経質そうな、しかしそれを寛大な声音で覆い隠した気配がする。

 姿も表さずに太陽神は言う。

 

『ヘラクレスは神をも畏れぬ無双の勇者である。しかし道義を弁え、神に反する者ではない……そんなふうに聞いていた。わたしの命を聞かないとは思わなかったよ』

「聞かぬとは言っていない。神と神の諍いの種を撒くのだ、それに対する是非を問うていたまでのこと」

『へえ……ヘラクレスも恐れるものがあると見える。乱暴なだけのアレスに睨まれるのが恐ろしいのか』

「恐ろしい、恐ろしくないの話ではない。筋を違えるな、太陽神。我が身にのみ降り掛かる火の粉ならば如何様にも払おう。だが後の禍根となるのが解っているものを、むざむざそのままにしておくのは愚者の愚行である。私の言に一分でも粗があるのならば正すがいい」

『粗はあるとも。指摘してあげようじゃあないか』

 

 勿体ぶって、アポロンは居丈高に告げる。

 確信した。如何なる悪神にも受容の姿勢を見せよう、しかし()()は駄目だ。生理的に合わないし、合わせられない。

 衝動的に噴出するモノに、ヘラクレスは怒りを抑える努力を放棄した。

 

()()()()()()。命じられたのなら粛々と従うものだろう』

「――――」

 

 粗とはそれ。わざわざ言うまでもないだろうとでも言いたげですらある。

 す、とヘラクレスはケリュネイアの体に括りつけていた白弓を抜き取る。金色の弦を引き絞るや、大矢を精製して一息に射ち放つ。射ってから自身の自制心の脆さに苦い顔をしたのを、兜を被って覆い隠した。

 ヘラクレスの放った矢は、一切の高度変更も減速もなく、真っ直ぐに飛来して遠方のアポロンの神殿に突き立った。驚異的な精度、威力である。幾重にも重ねられた結界を突き破り、神殿の一角が倒壊したのに――場が凍りつく。冷え冷えとした、殺意すら滲む声音でアポロンは訊ねた。

 

『なんの、つもりだい?』

 

 女神官は恐怖に縮こまり……しかし、イオラオスは顔を伏せたまま喝采したいのを懸命に押し殺していた。そんなものなど意にも介さず、アポロンはヘラクレスを睨んでいる。大英雄は悪びれもせずに言った。

 

「粛々と従おう」

『………』

「だが軍神に牙を剥かれた際には、このように言わせてもらう。『私は軍神の子を討てと命じられたが、できるなら討ちたくないと太陽神に抗議した。しかし太陽神はあくまで討つことを望み、私はやむなく抗議の証として太陽神の神殿に矢を射掛けた。私には軍神に対し含むものはない』とな」

 

 ――往くぞ。

 

 ヘラクレスはイオラオスに言う。イオラオスは頷き、ニヤつきながら馬車を牽く馬の手綱を振るった。ケリュネイアは軽く地面を蹴って身を翻し、上機嫌に鳴いて走り出した馬車と並走する。

 去りゆく獅子の英雄の背に、底冷えのする神の声が掛けられた。

 

『……その傲慢、高く付くぞ。ヘラクレス』

 

 応えず、ヘラクレスは自問していた。なぜこのような振る舞いをしてしまったのか。生理的に受け付けないからと、衝動に突き動かされるなど未熟も良いところである。

 まだまだ精進が足りん。ヘラクレスはその一点のみを深く反省していた。

 

 ――第四の勤め、軍神の戦帯の入手。そこに至るまでの三つの大冒険……軍神との一悶着、一組の夫婦を巡っての冥府神ハデスへの謁見、英雄船アルゴノートへの参加……その始まりを告げる一幕であり、太陽神アポロンと英雄ヘラクレスの確執、その始まりを見た瞬間であった。

 

 

 

 

 



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5.2 軍神来たりて斯く語りき (下)

 

 

 

 

 何時もと違うと判断できるほど長い付き合いではない。だがケリュネイアの脚は明らかに軽やかだった。

 

「どうしたケリュネイア、いやに機嫌が良いな」

 

 毛並みの良い双角の付け根を撫でてやると、牝鹿は上機嫌に嘶き天を仰ぎ青銅の蹄で地を蹴った。

 言わんとすることをなんとなく察したヘラクレスは苦笑する。なるほど、アルテミス嫌いはアポロン嫌いに通ずるか、と。

 ヘラクレスはアルテミスよりもアポロンの方が余程に嫌悪に値した。というより概ね総てのオリンポスの男神は侮蔑している。下半身事情の宜しくない連中が勢揃いで、女性に対しての扱いが目に余るものばかりだからだ。例外は今のところ、ヘパイストスぐらいか……。

 風の噂に伝え聞く限りでも、男神連中の素行の悪さは目を覆うほどで、中でも生理的に受け付けないと感じてしまったアポロンへの印象は最低値である。これもある意味で例外だろう。ヘラクレスをして自制し切るのは今後も難儀すると確信している。

 

 知性あるモノというのは不思議なもので、嫌っているものに共通事項があるとグッと共感しやすく感じてしまうものだ。主従揃って月と太陽を毛嫌いしているともなれば、些か可笑しさを覚えてしまいもする。

 揃って含み笑いを溢していると、馬車の手綱を握っているイオラオスが呆れたように言ってきた。

 

「なに笑ってんだよ。もう巨人が出るっていう野まで来てるんだぞ。気を緩めすぎて怪我しましたってのだけはやめてくれよな。そうなったら情けないったらないぞ」

「案ずるな。相手が誰であろうとも、そうそう遅れを取りはしない」

 

 慢心のつもりはなかった。優れた師に学び、経験を積んで強敵と戦い、類稀な装備と友を得た。今のヘラクレスは根拠のある自負を持ち、己の力量を信じて疑っていない。

 嘯いた伯父の台詞に、イオラオスは反感を懐いたわけではない。実際彼はヘラクレスが誰かに遅れを取る光景が全く想像できなかった。

 だからこそなのか。イオラオスは少年らしい生意気さで反駁する。

 

「そういうの、油断っていうんじゃないのか。……ま、伯父上はそれぐらいで丁度良いのかもしれないけどさ」

「む……」

 

 思わぬ指摘に虚を突かれる。ヘラクレスは知らず知らずの内に気が大きくなりすぎていることを自覚した。

 とみに想像の中でとはいえ太陽を射落とし足蹴にして溜飲を下ろしていたところでもある。不必要に大胆で不注意な言動を取りかねない要素を持ちつつあったのだ。そうと気づいたヘラクレスは気を引き締め、甥の金言を戒めとする。

 

「忠告に感謝しよう、イオラオス。どうやら驕りつつあったらしい。また気がつくことがあれば遠慮せず諌めてくれ」

「えっ……?」

 

 フゥ、と細く鋭い呼気を吐く。ケリュネイアの手綱を振り意志を伝えると、軽やかに地面を蹴って馬車の前に躍り出た。

 甥は伯父の様子に暫し呆気にとられていたが、嘆息して頭を振ると後ろに手を回し、封のされた壺を掴んで伯父に投げる。振り向かずに掴み取ったヘラクレスの手の中で、ちゃぷ、と水の音がする。気遣いなのか、単なる気の紛らわしか。ともあれ一口飲んで封をし直し――気配を察知する。無造作に水壺をイオラオスに投げ返すと片手を上げて馬車を停止させた。

 

 前方に大きな岩がある。ヘラクレスはイオラオスを待たせたままケリュネイアを進ませて岩の近くまで来た。

 

 すると五メートルはある大きな人影が飛び出してくる。風を切る不細工な質量の音源を、指示を受けるまでもなくケリュネイアは飛び退いて躱した。

 空を切り地面を叩いた棍棒が地鳴りをさせ、砂塵が舞う。ヘラクレスは粗末な軍旗を体に巻き付けただけの格好の巨人を視た。大きかった。……大きいだけとも言えるが。

 突然の襲撃にも動揺はない。上手く気配を隠していたが、いるだろうとは悟っていたのだ。兜の下にある表情にさざ波一つ立てず誰何する。

 

「巨人キュクノスだな」

「お……? おでをしってんのか……?」

 

 巨人は殺意を持って棍棒を振るい、襲撃した当人とは思えない無垢な表情で応じてくる。ヘラクレスの鎧と英雄本人、ケリュネイアから無意識に放たれている力の格ともいえるものを感じてもいないらしい。仮にも戦いの場に出てきた神の子とも思えない、鈍感で純朴な顔にヘラクレスは気が重くなってしまうのを自覚する。

 念の為、切り刻むような目を巨人の体に走らせた。……大きな体はそれなりに筋肉が付いているが、そこまででもなく。感じる力の密度、波動のようなものは脅威としては感じない。オリンポスでも一、二を争う美貌の神の血を引いているからか、あどけない顔は意外なほど整っていた。

 

 それだけだ。本当にそれだけ。物悲しい気持ちになる。邪気がないのだ。キュクノスの性根を感じたヘラクレスは天を仰ぎたくなる。これは――幼子だ。

 肉体年齢も、実年齢もそうではないかもしれない。しかし中身は子供なのである。手に掛けることが確定している故に遣る瀬ない気持ちにさせられた。

 

 そんなヘラクレスの様子など、気にするものでもないのかキュクノスは言った。

 

「ま、かんけいねえな。おではいまからおまえらころして、おまえらのムクロでりっぱな(トト)のヤシロをつくる。ここらだとトトはあなどられ、きらわれ、うとまれてる。トトがそんなふうなのはきにいらねえかんな」

「……故郷に帰れ。今ならば腕の一本で見逃してやろう」

 

 苦しいながらも一応は生き延びられる道を示す。殺さなくてはならない、だがそうする必要があるのはキュクノスがアポロンの領域で軍神の社を作ろうとしているからだ。それを取りやめて故郷に帰るのであれば、見逃せる。

 無論のことキュクノスの犯した罪は赦されるべきではない。なんらかの償いは必要で……それを腕の一本で済ませてやらうというのが、ヘラクレスの精一杯の慈悲だった。

 

 だがキュクノスは、きょとんとしていた。

 

「……? おまえ……おでのこと、ばかにしてるな?」

「………」

「おまえらは、しぬ。おでがころす。トトのヤシロのもとにしてやるんだ」

「……駄目か。許せ、弱き者。罪も知らぬ痴愚の巨人。――せめて一撃は受けてやろう」

 

 背に負う白剣を抜き取る。獅子の遠吠えが耳鳴りのように聞こえた気がした。獲物を狩るのだと……これは闘争ではないと告げるかの如く。

 やはり、キュクノスの反応は鈍い。しかしゆっくりとヘラクレスの言葉の意味を咀嚼し理解すると、あからさまに不快そうに吼えた。

 

「おまえ……おでのこと、ばかにしたな。ちびのくせに……ばかにすんなぁっ!」

 

 巨大な体躯を活かして一気に飛び掛かってくる。力任せに振り下ろされてくる棍棒を一瞥もせず、ヘラクレスはケリュネイアに一応声を掛けた。堪えろと。

 白剣を掲げ、棍棒を受け止める。衝撃が駆け抜けケリュネイアの足元が陥没した。ヘラクレスの腕はぴくりとも動かず、一切の痛痒を覚えていない。軽いなと嘆くだけだ。ケリュネイアもまた狩猟の女神から逃げ切れる脚力の持ち主、もろに受けた衝撃にも微動だにせず、それを確認するとヘラクレスは無造作に白剣を跳ね上げた。

 へっ、と間の抜けた声がする。棍棒を弾き飛ばされ、万歳する形で両手を上方にカチ上げられた巨人の前で神獣の牝鹿が回転していた。後ろ足での蹴りがキュクノスに炸裂する。吐瀉を撒き散らして吹き飛んだキュクノスは、地面を何度も転がって、なんとか立ち上がろうとするも体に力が入らない。

 

 山なりに擲たれた白剣が、キュクノスの胸の真ん中を穿ち、心臓を破壊して地面に巨人を縫い止めたのだ。キュクノスは訳が分からないといった表情で事切れる。

 

「あ、呆気ない……」

 

 一部始終を見ていたイオラオスが呟いた。

 呆気なくて当然だろう。戦士としての力量、膂力、技量、気概……総ての面に於いてキュクノスはヘラクレスの影さえ踏めない弱者だったのだ。

 戦いなど成立しない。ただの誅戮である。物憂い気分だ。こんなに気分が良くないのはやはり、相手が弱く精神が幼かったからだろう。

 

「来い」

 

 短く命じると、キュクノスの骸から白剣がひとりでに抜け、真っ直ぐにヘラクレスの手に飛来した。それを掴み取り血振りをする。血痕が地面を汚した。

 

 問題は此処からだ。

 

 キュクノスは軍神アレスの子である。それが殺められた。このヘラクレスに。子煩悩の気があるアレスなら怒り狂って襲い掛かってきても不思議ではない。

 例えキュクノスがアレスに愛されていなかったとしても、キュクノスはアレスの社を作ろうとしていた。それを阻止したのだ、侮辱されたと受け取って怒り心頭に発していても驚きはしないだろう。

 

 白剣を背中の留め具に固定し、ケリュネイアから飛び降りる。どうかしたのかと問いたげな牝鹿をイオラオスの方に向かわせた。

 何かあったのかと不可解そうなケリュネイアだったが、不意にケリュネイアの全身の毛が逆立つ。びくりとして、ケリュネイアは慌てて離れていった。

 随分と早かったなと驚く。そして――爆発的な神威の膨張を肌に感じた。

 光った、と思った瞬間である。城壁が倒壊したかのような爆音が轟く。膨大な神性が天上より降臨し、大きすぎる故にその形に収まらぬはずの人型を象っていった。

 

 血の色の赤い光……彼の神が司る火星の燦めき。夥しい神性の暴力が顕現する。

 

 光が収まると、そこには神が立っていた。

 

 人間を遥かに超えた美貌と、邪魔にならぬように乱雑に整えられた金の髪。纏うのは青銅の鎧であり、身の丈以上の巨大な神槍を携えている。常に従えている属神はおらず戦車もないが、あれはまさしく軍神そのものであった。

 軍神アレスはキュクノスの大きな骸の傍に忽然と出現し、その骸に手を触れていた。そして密やかに呟く。『遅きに逸したか』と。その噂で聞くのとは正反対な落ち着いた表情である。軍神は己の子の骸から目を離し、ヘラクレスに視線を向けた。

 

 その目を見て理解する。軍神は冷静ではなかった。その瞳の中に狂気じみた憤怒の炎が燃え盛っている。殺意に漲り、閉じた口の中で歯軋りしている。表情だけなら冷静なもの故に、却ってその怒りの総量が深刻なものであるのが洞察力の鋭いものからすると明々白々であった。

 体を動かさず、構えもせず、密かに戦闘態勢を整えておく。場は緊迫感に張り詰め、英雄の意識は戦闘のそれへと切り替わりつつある。そんなヘラクレスの警戒など歯牙にも掛けず、軍神は竜の顎のように重々しく口を開いた。

 

『貴様、ヘラクレスだな』

「……如何にもその通りだ。御身は軍神アレスだな」

『チッ』

 

 誰何には応えず、アレスは露骨に舌打ちした。分かりきったことを訊くなと。

 

 一瞥が向けられたイオラオスとケリュネイアが、緊張の余り身を凝固させる。彼らは神という存在に怒気と狂気、殺気を向けられたことがないのだ。

 アレスは別段、イオラオスらを害する気はない。目の前の英雄に総てを向けている。なのに恐ろしい。軍神の放つ殺気に一帯は澱み、酸素が鉛のように重くなって、呼吸が困難なものになったかのようだ。

 ヘラクレスだけは平然としている。威圧感に警戒心を高めてはいるが、それだけだ。ヘラクレスはアレスと事を構える気はない。どう交渉したものかと言葉を紡ぎかける。それに先んじて、アレスが言った。ぼやくような語調だった。

 

『戦いの形式は取ったらしいな。俺のガキと』

「………」

『見りゃあ解る。貴様の剣と、アレの粗末なガラクタが触れ、原型を留めてんのはある種の僥倖だ。そんで以て蹄の跡と、胸の風穴で経過も瞭然。すぐに仕留めてくれたお蔭で苦しんではいねえみてえだな。そこだけは、認めてやる。本来戦いの形も成り立たねえってのに、俺のガキを戦士として死なせてくれたんだ。認めるしかあるめえよ』

「……私を罰さんと、鉾を向けはしないのか?」

 

 曲がりなりにも軍神、戦の跡から情報を読み取るなど、破壊と狂乱、侵略の蛮神でもおこなえるものらしい。

 忌々しげに認めてやると吐き捨てた軍神は、英雄の懐疑的な問い掛けに眉を顰め、バツが悪そうに視線を逸らすと絞り出すようにして溢す。

 

『馬鹿が……んな真似をするものか。貴様がアポロンの神殿に矢を射かけた噂はオリンポスに鳴り響いた。神託への抗議の証だってんだから笑わせてもらったぞ。そん時の奴の顔を思い浮かべたら、腹がよじれて死ぬんじゃねえかってくらい笑ってやった。だが噂の詳細を聞いたら笑いも引っ込んじまったよ。アポロンのクソ野郎が俺のガキを殺すように刺客を差し向けたって聞いて、呑気に笑ってなんぞいられるものか』

「………」

『しかも刺客はヘラクレスだっていうじゃねえか。こんな不出来なクソガキが敵う相手じゃあない。ぶっ飛んで来たんだが……間に合わなかった。ああ、率直に言って俺は貴様を殺してやりてえ。だが今貴様に死なれるのは困る。何せ来たるオリンポスとギガースの戦で、貴様が切り札の役を担うってんだからな』

「――――!?」

 

 なんのけなしに、あっさりと、今のヘラクレスには伏せられている機密をバラしたアレスに驚愕した。まさかそこまで愚かだったかと。こんなところでヘラクレスがギガースについて()()()()()と神々に()()()()()のは困る事情もある。

 愚かさも極まれば反転した成果を叩きつけられるものなのか。よもやそこまでアレスは考えなしの愚物だったのか……。苛立ちを覚え怒りによって内心そう思いかけるも、決めつけるのは早計であると気付かされる。

 

 晴天に雷鳴が轟いた。

 

 そこからのアレスの反応が、これまた意外なものだったのだ。雷はゼウスの怒りを顕している。勝手に機密を漏らした軍神に激怒しているのだ。

 例え今は伝える気がなくとも、いずれ自分で報せるつもりだったのか……明確に感じられる怒りの波動に、アレスは萎縮するものかと思われた。だが、アレスはこともあろうか雷鳴を迸らせる天に怒鳴り返したのだ。

 

『何時かは知らせなきゃなんねぇことだろうが! 偉大なる神々の王よ、まさか奴に何も知らさず、いきなり参戦を命じる気だったのか!? 準備が出来ておらず満足に戦えませんでした、なんて言われたらお仕舞になっちまうんだぞ! ガイアの差し向ける連中とはお遊びじゃ済まない、他とは違う本当の戦になる。負けたら終わりでやり直しも何も利かねえんだ、なら最低限の情報伝達ぐらいはしてねぇとマズイだろ!?』

 

 正論、だった。軍事的な観点から見て、ぐうの音も出ない真っ当な指摘だった。これがアテナの口から出た言葉ならすんなり納得もいったが、怒号を発したのはアレスだ。

 ゼウスすら唖然としたのか、雷鳴が消える。アレスは暫し空を睨んでいたが、やにわに視線を切った。居た堪れなくなったゼウスが去ったらしい。アレスは瞠目するヘラクレスの方を見ると、犬歯を剥き出しにして野卑な笑みを見せた。

 平坦に鎮められた殺意は噴火寸前の火山を彷彿とさせられる。煮え滾る殺意を隠しもせず、軍神はその三白眼で英雄を睨む。そして嗤い、言った。

 

『――ってのは、建前だ』

「………?」

 

 建前とはどういうことか。眉を顰めると、流石に戦闘にならないなら兜を被り顔を隠したままなのは無礼であると判断して素顔を晒す。

 ヘラクレスの精悍な顔を見ながら、アレスは本音を明かした。

 

『俺は理屈じゃ止まらねえよ。んな理性的に振る舞えるんなら、破壊と狂乱なんぞ司れるものか。俺が貴様に報いを与えねえのは、アポロンのクソ野郎の神殿に矢を射掛け、抗議したっつう証があるからだ。アポロンのクソ野郎の鼻を明かした功績に報い、殺さないでいてやるだけなんだよ、ヘラクレス』

「……なるほど」

 

 神託に抗議してまで不服を申し立てるなど前代未聞。しかもその相手は軍神が常日頃から気に入らないと思っている太陽神であり、故に愉快で堪らなかった。

 我が子を殺めるのに神に抗議した証があり、ある程度は溜飲が下がっていた。それがあったから建前を出せる程度には冷静でいられた。でなければ殺していたとアレスは暗に言っている。納得して頷いたヘラクレスは思った。これからは定期的にアポロンの神殿に矢を射掛けてやろうかと。

 流石にやらないが、軍神の殺意を押し止める効果がある点では太陽神の加護を得られたとも言えないこともないのかもしれない。そんな加護なら是非ほしいと思わなくはなかった。衝動的なおこないだったが、存外役に立ってヘラクレスは矢を射かけてよかったと内心アポロンに感謝した。次も機会が有ればお世話になるぞと。

 

 冗談である。陰湿で執拗な気質も併せ持つヘラクレスならば、限りなく実行の可能性が高い冗談だが。

 

 だがヘラクレスは思う。我が子への情愛の深さはよく分かった。加えて真正の間抜けでもないことも。だからこそ分からぬことがある。

 軽侮に値する愚かな神だと、内心見下げ果てていたわけだが……彼の怒りには、軍神が困惑しかねないほど深く共感してしまった。我が子を殺されればヘラクレスも平静ではいられない。己の手で殺すように仕向けられたともなれば尚更に。しかし、だからこそだ。子を持つ親として共感してしまったからこそ問わねばなるまい。

 ヘラクレスは踵を返して帰ろうとするアレスを呼び止める。そして問いを投げた。何の意図もない、駆け引きも計算もない、親としての問い。同じ親であるアレスがどう答えるかを知りたかった。他の神では見え透いた、しかしアレスだけは違う答えを出す予感がして。

 

「軍神よ、私の問いを聞いてほしい」

『……あ? 問いを投げるか、神たるこの俺に向けて』

「御身にとっては愚問であるのかもしれん。しかし問い掛けずにはいられなかった。例え御身の不興を買ったとしても」

『は、その覚悟はあるか。ならいい、この俺に問うことを許す。事と次第によっては答えてやるのも吝かではない』

「……軍神アレス。貴様はキュクノスのおこないを知っていたな。己の社を作らんとする我が子の健気さを。事もあろうに反目し合うことの多い太陽神の領域で……。ならば太陽神が刺客を差し向けること自体は予測できたはず。なにゆえにキュクノスの軽挙を諌め故郷に帰らせなかった? キュクノスが通行人を無数に殺めているのを、なぜ止めなかった」

『……本当に愚問だったか』

 

 アレスは鼻を鳴らす。足を止めたのは間違いだったとでも言いたげに、やれやれと首を左右に振ってみせる。

 

『親としての俺に訊いたな?』

「………」

『だが、俺は神だ。親である前に神で、神である前に神々の王と女王の子だ。ならば俺が第一とするのは神としての神権で、それ以外は総て雑事とせねばならん。比べるのは愚かしいことだが、人間が言う王とやらもそうでなければならんものだろ』

「それは、そうだ」

 

 子であるからと、親であるからと、役職に就いている者が私情で公務に支障をきたすなど論外である。理解できる話であり、理解できる話をするアレスの見方がヘラクレスの中で変容しつつあった。

 その身の起こした醜聞や逸話からは、とても想像できないほど話の解る神であると。印象としては戦女神に似ている。しかし独身を貫くアテナとは違い同性で、同じ親で、だからこそ軍神の方が話しやすい気がする。少なくとも気兼ねがない。軍神はヘラクレスの、狭量ならば腹を立てるだろう態度をまるで気にしていないのだ。

 馬鹿だから気にならないのか、それとも度量が大きいから気にしていないのか。普通なら前者であると断じられる蛮神であるが、もしかすると後者かもしれないとヘラクレスは思いつつある。

 

 馬鹿だったら、こうも筋道を立てて話せはしない。狭量だったらわざわざこうして同じ地平に立ち話をしてはくれない。アポロンのように天界から語りかけるのみだ。

 思えば――ギリシア世界からすると、蛮族の地であるとされる国々では、このアレスこそが誰よりも厚く信仰されている。それこそゼウス以上に。アレスを信仰するのは、野蛮で血と酒を好むような蛮族とはいえ、ヘラクレスからするとギリシア世界も充分に野蛮だ。色眼鏡を抜きにするとアレスとは案外、賢神……善神の類である気がする。

 

 次第に己を見るヘラクレスの目が変わりつつあるのに気づいているのか、いないのか……後に英雄神とも呼ばれる偉大なる軍神(マルス)の未熟な時代、まだ覚醒していないアレスは構わずに続けた。

 

『火星を司りし猛き軍神とはこの俺のことだ。破壊と狂乱、侵略の神である俺は戦の暗黒面を体現する責務がある。トラキアをはじめとする俺の膝元で、斯く在れかしと祈られ、ギリシア世界に於いてはあのいけ好かねえアテナのクソと正反対の闇として望まれている。だがな、戦とはどれだけ綺麗に飾り立てようともクソを煮詰めたクソだ。あるのは略奪、殺戮、そして死。蛾を誘う光なんざ虚栄の塊でしかねえ』

「………」

『だからこその俺よ。知っているか? ギリシア世界で最も神であるこの俺の在り方を望んでいるのは、何時だって弱い女子供だ。奪われる側の弱者だ。戦を疎み、嫌い、憎み、そこに栄光と名誉と富を求めるあらゆる者を貶めてやりたいと望んでやがる。アテナはクソだ、そんな汚ねぇもんは見ようとも触ろうともしねえ。小奇麗な英雄とやらを贔屓するしか興味がねえ。自分以外の殆どを見下し、処女でいるのは自分に見合う男がいねえからだってお高くとまってやがる。英雄を贔屓すんのは、謂わば男漁りみてえなもんだ。いつかテメェに見合う男が出てくるって夢見てやがる。それ以外は見てねえのよ。なんせ自分の男を探すのに夢中なんだからな。女神に見合う人間の男なんざぁ、おしなべて人間としてブッ壊れてるってのを知らねえ。見たくないもんは見ねえ、触りたくないもんは触らねえ、女だから潔癖で、弱者は視るに値しないと本気で思ってやがる。なら――俺が掬い上げてやるしかねえだろうがよ。戦に関わる奴らは一切の例外なくクソだと示すために、俺が体現するしかねえだろうが。戦の暗黒面とやらが戦の正体だと訴え続ける必要がある。戦を司る二柱の片割れである俺が、愚かで醜く、下手やらかすばかりの間抜けだと見せ続けてやらねえとならねえのよ! ――人間総てが()()()()()、戦争はクソだと認めるまで。

 

 ――俺の子が血と怨嗟を振り撒き、愚かで野蛮な俺の社を作るってんなら大歓迎だ! それは俺の在り方を肯定し、俺の鮮血みてえに不気味な火星の神としての勤めを助ける最高の親孝行なんだからな! しかもガキは俺を慕ってくれやがる。なら神としても親としても、せめてその死や不幸に激怒してやらねえでどうするってんだッ!』

 

 長年溜め込んでいたからか。アレスは一旦吐き出すと止まらないまま一気に言った。

 沈黙が流れる。英雄は静かに軍神を見ていた。このギリシア世界では誰よりも異端である意味誰よりも傲慢な、しかし誰よりも情が厚く真摯な男は胸を打たれていた。

 バツが悪そうに軍神は目を逸らす。母から疎まれ、他の神々に侮られ、父からすらも呆れられる、報われていない神。その真意を図らずも、親としての質問で暴いてしまった男はただ、偉大な軍神の青い信念に感じ入っていた。その視線が堪らず、軍神は不機嫌そうに吐き捨てる。

 

『……今のは忘れろ。神命だ、拒否は赦さん。俺はこれからも無様に在る。人が相手であってもわざと負けもしよう、神々の中で醜態を晒しもしよう。だがこのことを口外すれば、一切の慈悲なく掛け値なし、正真正銘の本気で貴様を殺す』

「承った。――偉大なる軍神よ」

『……はあ? ……貴様、やはり変わってやがるな。ネメアの獅子を相手に殴り合う奴は頭がイカれてやがるとは思っていたが、本物だな。……だがまあ、あれは……あれだけはいい戦だった』

 

 ぶっきらぼうに言い捨てて、今度こそ踵を返したアレスは己の子の骸に歩み寄る。

 キュクノスの死骸に手を触れ、神気を込めて魔力を放った。粉微塵に爆散した骸は消え、その魂が冥府にいく。『ハデス、ガキを頼む』そう口が動いた気がする。

 軍神は戦死者を冥府の神ハデスに送り届ける……死者を冥府の住人にして、ハデスの国を大きくするためだ……と、言われているが。アレスの其れは、善き神に対して死を遂げた者を、平等に住める場所に案内しているだけのように見えた。

 死は誰にでも平等だ。そしてハデスは公平で平等な裁きを下す。その繋がりにヘラクレスは溢した。それは、彼の中にある確信であった。

 

「それでも人間は……未来永劫に争いを止められぬだろう」

『………』

「導く者が必要だ。そしてそれは、御身のような神にしかできるものではない」

『………阿呆。誰がそんな面倒なことなんざやるものかよ』

 

 唾を吐き、アレスは天上に戻る。光の粒子となって消えていくアレスは、しかし呟いた。

 それは、ヘラクレスにある行動を決意させる呟きだった。

 

『だが……俺は神だ。人間がそう望むってんなら……やってやらんでもないのかもな』

 

 ヘラクレスは神の消えていった空を見上げる。夕焼けに染まる空は火星の色に見え、誰かが導かねば人は変わらぬというなら、その役はあの()()だけがこなせるだろう。

 

 決意を懐く。誰よりも声望を高め、英雄として祀られる男に成ろうと。はじめて自らの意志で英雄への道を志す。

 そして誰も並ぶ者のない大英雄と成り、言うのだ。己が信仰せし第一位の神は軍神アレスであると。人の信仰を、アレスに集めようと。

 余計なお世話かもしれない。しかし、頂点に君臨する神がいるとすれば、それはあの神しかいないと……この身が真実、心から仕えられる神がいるとすれば、軍神アレスしかいないと思った。親として、人として、ヘラクレスはそう思ったのだ。

 

 異端の英雄は異端の思想を持つ神に惹かれた。これはただ、それだけのことであり。このギリシア神話世界に、覚醒するはずのない軍神()()()が誕生する可能性を生み出した邂逅であった。

 

 今はまだ、軍神の真の姿を誰も知らない。今はまだ――ヘラの栄光と呼ばれる英雄の立志を、本当の意味で理解している者はいなかった。

 故にまだ、彼はヘラクレスと呼ばれる。剪定されない未来に於いてもそう呼ばれる。だが彼の英雄を真に理解する者のみが、彼の真の名はヘラの栄光ではなく、マルスの栄光(アルケイデス)と――そう、呼ぶのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 



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5.3 死の神に物申す (上)

匿名希望?のある御方から支援絵をいただきました。
ネメアの獅子の鎧を着たヘラクレスです。
これだ。


【挿絵表示】


すごい(コナミ)
すごすぎて、震えた。夜見たから迫力と威厳に(え、このイラストに負けない風格をここのヘラクレス出し続けないと駄目なの?)と戦慄してました。この場を借りて至高の御方に感謝を捧げ、この作品を完結させることをお約束します。目指せ毎日更新!(おととい? なんのことかしらんなぁ)

Q.こんなヘラクレスが敵として目の前に居ます。どうしますか?

A.しめやかに失禁。のち失神。もしくは心臓発作。





 

 

 

 

 掛け替えのない思い出がある。愛し、愛され、慈しんだ妻と子供達。

 それを害され、事もあろうに我が罪とされた屈辱と、気が狂わんばかりの憤怒は忘れられるものではない。いや、あるいはもう狂っているのか。

 

 心の原風景は燃え盛る我が家、降り注ぐ豪雨。――懐いたのは不退転、恩讐の果てを望む復讐の道。

 

 今の己の第一の渇望は、例え何があろうとも変質することのない純粋な殺意と害意。この世のありとあらゆる激痛と呪詛を絡めて一切の慈悲なく奈落(タルタロス)に落とし、永劫に己が不死の身を嘆かせ苦悶の裡に魂を捻じ曲げさせ、この身に味わわせた以上の狂気の渦に浸らせる。

 最優先だ。何もかも、この恩讐の渇望より上位となる願いなど存在しない。これは決定事項であり、行動指針や原理の根底にして根幹である。ヘラの栄光などという名を付けられた恥辱も、その名が残り続ける絶望も、総て受け入れよう。呪わしき仇敵が神々の女王としての名声を残し続けたとしても構うものか。ただ報復を成就させ、その命と魂を冒涜し尽くす。其処に迷いなど介在する余地は絶無である。

 

 だが――矛盾があるのに気がついた。気づいてしまった。

 

 人生の総てを捧げる恩讐の路、その最中に懐いたのは戦士としての誇り、誇り高き友を下した故の英雄としての矜持。妹と甥という守るべき人々を再認し、彼らの子孫にも安寧をと願いはじめていた。

 そしてそのために担ぎ上げるべき神を見た。その神になら忠誠と信仰を捧げられると確信し、そのためなら労を惜しまぬという心意気を生み出し、英雄への道を志した。

 しかし陥穽がある。その神は忌むべきモノの子であり、神は父母を敬愛している。己はその父母の片割れか、あるいは双方を蹂躙する路に身を置いていた。

 親を想う子から……信仰し人々を導く神として担ぎ上げる神から……敬愛する親を奪い取り辱めるのだ。それは恥ずべきおこない、されど譲れぬもの。だがもしも目的を果たせたとして、己はその神に合わせる顔があるのだろうか。何喰わぬ顔で戦士として尽くしてもよいのか。煩悶する。苦しい矛盾だった。

 

「……だが、私はやる」

 

 やるべきことをやる、やると決めたことをやる。己が栄光のためでなく――仇を取り子々孫々の安寧のために泥を啜り、恥を呑み、背信した忠誠を示して……悪鬼羅刹、下劣畜生と罵られたとしても、仇の子である神を人々の仰ぐべき光とする。

 やはり私は、冥府にて永劫の責め苦を受けるべき卑劣漢だ。ヘラクレスはそう自嘲する。矛盾を抱えたまま突き進み、相反する想いと罪を隠し抜き、その報酬として尽きることのない裁きの炎で焼かれ続けよう。己に相応しい結末に向けて疾走する。断罪を受け入れる覚悟が免罪符などにはならないと弁えている。それでも往くのだ。

 迷わない。迷えない。ヘラクレスが往くのはそうした畜生の路。今更引き返せない、引き返すつもりもない。ならば邁進するのみなのは確定的に明らか。光り輝く英雄と成り、英雄の末路に相応しい幕引きに従う。輝く者は失墜する運命にあるものだから。

 

 小さな声で囁いたヘラクレスの覚悟。聴こえるはずもないのにケリュネイアは耳をぴこりと動かし、傍らを歩くヘラクレスの顔をぺろりと嘗めた。

 

「……どうした、気になるものでもあるのか?」

(………)

 

 気遣わしげなケリュネイアは、つぶらな瞳で主人をじっと見詰める。引き締まった表情のままヘラクレスは肩を竦める。流石に鎧兜を身に着けたまま行き続けると人目を引きすぎる故に今は平服姿である。武装は総て馬車の中で、馬車の車輪の廻る音がなだらかな風の吹き抜ける野の中に鳴り続けている。

 

 ケリュネイアから目を逸らし、淡々と歩き続けた。

 

 目的の地はアマゾネスの住む未開の地。熱帯雨林のうだるような暑さの国だ。そこに至るまで宛もなく、無意味に遠回りをしているのが現状である。

 軍神との邂逅から何日間も歩き通していた。もともとたっぷりと、不必要に時間を掛けておこなうつもりの第四の勤め。しかし無意味に時間を潰していたのでは勿体無い。近場の都市国家にでも出向き、何か困りごとがないか訊いて回りでもしようかと考えてみる。手頃な怪物でも、ネメアに匹敵するような怪物でも構いはしない。なんとなれば祖ペルセウスが相対したというゴルゴンでも構いはしなかった。

 英雄として名を上げるという実利と、困っている人を見過ごせない生来のお人好しな部分を満たせる一石二鳥のボランティア活動というわけだ。尤もそうした者がいない方がよほどマシなのは確かではあるのだが。

 

 雨の日も、曇の日も、晴れの日も、道を歩む。

 

 困ったことに何も見当たらない。魔獣、野盗の類は散見されるが、ヘラクレスを見るなり逃げ出す始末で、時折り見かける竜種は羽ばたいて大急ぎで飛び去っていく。どう見てもヘラクレスから逃げていた。

 ヘラクレス自身の発する強者の武威、ケリュネイアの保有する神獣としての格、ネメアの武具一式の神秘濃度。それらが放たれる一行になど誰が好きこのんで因縁を付けにいくものか。ヘラクレスは逃げるものは追わない、物悲しい目で見送る。仮にも魔獣、怪物と呼ばれるモノがそれでいいのか……嘆かわしいものだ。

 

 これはもう諦めて、諸国漫遊と洒落込んだ方がまだしも有意義だ。ヘラクレスは嘆息して行き先を考える。現在地はテッサリア地方だから、ここから最も近い都市は確かペライ――

 

「………む」

 

 卓越した視力を誇るヘラクレスの目が、あるものを捉えた。それは遠くに見えた城壁であり、その上の角に一人の女性が立っている。

 気に掛かり目を凝らすと、その女性は目を閉じて、何者かに祈りを捧げている。そして手にしていた盃を呷り、城壁から飛び降りた。ヘラクレスは目を見開いて即断する。ケリュネイアに飛び乗ると鋭く命じた。疾走(はし)れ!

 ケリュネイアが風となる。最初の一歩で全速力に到達した牝鹿は衝撃波すら撒き散らして五十Kmをものの数秒で駆け抜けた。ヘラクレスはケリュネイアに合わせて速力を殺すと、堕ちてきた女性を無傷で抱きとめる。

 

 予想外の感触に、女性は驚いて目を開いた。

 

 美しい、気品のある王女だ。アイスブルーの瞳と栗色の髪を持つ、貞淑な乙女――彼女は戸惑って誰何する。

 

「あ、あなたは……?」

「私が何者かなどどうでもいい。なぜ身を投げた。お前が死を選ぶ理由はなんだ」

 

 ケリュネイアから降り、女性を降ろしてやると、彼女は咳き込んで血を吐いた。蹲る乙女に苦い顔をする。飛び降りる前に毒を飲んでいたらしい。ヘラクレスは何か乙女が所以あっての死を選択したのだと察した。

 

「……貴方様には、関わり合いのないことです」

「そうだな。だが死に逝く者を見過ごせはしない。乙女よ、お前が死なんとする理由を話せ。場合によってはお前が死を選ぶに至った原因を解決してやろう」

「そんな……いえ、もしかすると、死ぬ前に貴方様に出会ったのは、神様の思し召しなのかもしれませんね……」

「………」

 

 薄れゆく意識を繋ぎ止める気がないのか、朦朧とした口調で乙女は語りだす。

 

 自分はペライ王アドメトスの妃であり、夫を愛していること。夫は昔、ゼウスの雷霆を創った巨人を殺した罪で、人間の奴隷として一年間仕えることになった太陽神アポロンを従えていたこと。夫は自分を娶るための試練に際してアポロンの力を借り、アポロンは夫の力となったこと。そしてアポロンは運命の三女神モイライから、アドメトスは若くして死ぬが、身内が身代わりになって死ねば助かる運命にあると聞き出したこと。そしてその運命の日が近づき、病に倒れたアドメトスが衰弱していっていること。しかし息子が死に瀕しても、アドメトスの父と母は代わりに死のうとはせず、自分が死んで夫を死の運命から救おうとしていること……。

 

 それらを、とつとつと語った。アルケスティスと名乗った乙女は、そうして語り終えるとひっそりと息を引き取った。

 

「………」

 

 ヘラクレスは苦虫を纏めて百匹噛み潰したような顔をしていた。忌々しい太陽神の名が出たのが非常に気に喰わない。

 死は絶対だ。しかし……これは駄目だろう。ヘラクレスはアルケスティスの遺体を抱き上げるとケリュネイアに乗り、城壁を示して飛び越えろと命じた。牝鹿は軽い跳躍で城壁を飛び越え、主人の命じるまま王宮に駆ける。

 自分達の頭の上を飛び越えていくヘラクレスに、ペライの人々は仰天して騒ぎを起こしていたが気にもしない。宮殿の前に来るとケリュネイアから降り、そのまま王宮に入る。

 

 直前、兵士たちが慌てて槍を交差させて言った。

 

「と、とまれ!」

 

 勇敢だった。だがヘラクレスは端的に告げる。

 

「どけ」

「ひっ、」

 

 恫喝しているふうではない。しかし兵士たちはヘラクレスの迫力に気圧され、思わず道を空けてしまっていた。ズンズンと進んでいったヘラクレスは、王の寝室を探る。何度か関係ない部屋を開け放ち、中の者をひっくり返るほど驚かせてしまいながら。

 そして見つけ出したのは、寝台で横たわる王らしき青年と、その傍らに侍る医者らしき初老の男。医者はヘラクレスを見るなり腰を抜かせた。無視して寝台に歩み寄る。そしてアルケスティスの遺体を王の横に寝かせると、眠っている青年を一喝した。

 

「――起きろッ!」

「……うわっ!?」

 

 最悪のモーニングコールである。静かな怒りを滲ませたヘラクレスが、押し殺した怒声で起床を促しているのだ。

 世界の終わりを見たかの如く、死人でも跳ね起きかねない勢いで、青年は死に瀕していた者とは思えない機敏さで寝台から飛び出した。

 

 そしてアルケスティスに気づく。顔が青褪めた。

 

「アドメトスだな。貴様、自らの死の運命を覆すために、己の妻を生贄にしようとしたのか」

「な……あんたは……? いや、そんなわけがあるか!」

 

 アドメトスはヘラクレスが何者か、聞こうとした。しかしそんなものよりも、認め難い問いを受けて激昂し、即座に否定する。それにヘラクレスはやや意外に思う。どうやら早合点してしまっていたらしい。激して黒髪を波打たせていたヘラクレスは怒りを瞬時に鎮め、溜息を吐くとアルケスティスの死に際を伝えた。

 

「この娘はお前が死の運命から逃れられるようにと、身代わりになって死んだ。貴様が強要していたのだとしたら、この場で貴様も後を追わせていたところだが……違うらしいな。どうやら悪であると断じられるべきはアポロンか」

 

 吐き捨て、ヘラクレスは踵を返す。

 嵐のように現れ、嵐のように立ち去るヘラクレスに、アドメトスは唖然としながらも問いを投げる。

 

「ど、どこに行こうっていうんだ……?」

「知れたこと」

 

 首をめぐらし、顔を半分後ろに向けたヘラクレスは、真紅の瞳で若きペライ王に告げる。余りにもあっさりと、なんでもないように。

 

「直にアルケスティスの魂を冥府に連れ去ろうと、死の神タナトスが来るだろう。その者の後を尾行()け、冥府に向かい冥府神ハデスに苦言を呈する。不当な運命により死に別れた者に、今一度の生を与え給えとな」

 

 死は、絶対である。しかし此度は例外だろう。

 

 知らなくても良い運命を知ったがために、愛する者を救うため、死ななくてもいい者が死ぬ。死の運命を漏洩したモイライも度し難いが、聞き出したアポロンはもっと気に喰わない。死は平等に訪れるもの……知らずにいれば、あるいは逃れる術があると聞かされなければ、アドメトスはそのまま死に……遺族は哀しみながらも喪に服することができた。

 人の死を、簡単に狂わせる。生と死は人の営みに欠かせないものだ。それを狂わせたモイライとアポロンにこそ責がある。愛する者同士を筋を違えた運命で死に別れるのを見るのも、聞くのも、知るのも我慢がならなかった。

 

 故にヘラクレスは、ハデスにすら物申すつもりだった。

 

 ――アルケスティスを返し給え。それが成らぬものならば、運命の三女神と太陽神アポロンに然るべき報いを与え給え。

 

 二つに一つを求める。なんとなれば一戦交える覚悟すら固めていた。

 

 

 

 愛し合う夫婦。そこに神が関わることは、ヘラクレスという男にとって最大の地雷の一つであった。それだけのことである。

 

 

 

 

 

 

 




ヘラクレス「今、会いに行きます」
ハデス「……え?」


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5.4 死の神に物申す (下)

えー、前回。アドメトスの件に関してはアポロン悪くない……悪くなくない? という声がありまして候。
コレに関しては、マジで悪くはない……いや悪いかもしれないけど、少なくとも悪意はないものと作者にも考えられます。
が、ヘラクレスはアポロンを嫌っております。嫌いな奴が関わると、途端に何もかもあいつが悪いと感じてしまう一種の人間心理が発動したのです。人間味を感じられるヘラクレスの暴走というか、高潔で紳士的なだけではない人間らしさを出そうとした結果の行動でした。
あれ? となった方は正常です。何もおかしくない。でもヘラクレスだっていつも正しい、間違わないわけではないんだよという感じにしたかったわけでありまして、その、なんというか……うん、そういうことなんだ!(曖昧)






 

 

 

 

 死の神タナトスは『死』という概念そのものが神格化した神である。

 

 (ニュクス)の子であり、眠り(ヒュプノス)を兄弟に持つ。職務に忠実なタナトスがいなければ人は死ぬことができないとされる重大な職権を担い、必要に応じてか鉄の心臓と青銅の心を持つようになった。情に絆され死者をそのままにしないために、非情に徹することに関しては並ならぬ覚悟を持っていたのだ。

 しかし心が無いわけではない。彼は本来死者を悼み、死後の安息を願う人格神であった。英雄の魂は伝令神ヘルメスが冥府に運び、凡人の魂はタナトスが冥府に運ぶ……彼は自身の運ぶ魂が、神の関与により運命の摂理から外れた死を迎えたのだと感じ取り、せめて死後は静かな世界で安らかに眠れることを祈っていた。

 タナトスに休息日は無い。地上で人が死なぬ日など無いからだ。しかしそれでも死者の魂を運ぶ彼が、魂を粗雑に扱うなど有り得ず、冥府への門を開いて魂を連れ去る際にも細心の心遣いで乙女アルケスティスを案内していた。

 

 そうして、タナトスは冥府の玉座にアルケスティスの魂を持ち運ぶ。総ての死者を統べる冥府の王にして神、端睨すべからざる超越者が玉座に腰掛けてタナトスを迎えた。

 仰々しい刺繍と宝石に彩られた暗色のローブを着込む彼の神は、雄大な骨格をした大男である。そう――()()をした神であるのだ。白雪のように白い骸骨の眼窩に赤い光が灯り、精緻に配された骨のパーツの数々は芸術的な配置だった。

 死の領域を支配する至尊の神。威厳溢れる骸骨の姿の神は、勤勉で生真面目な部下を労う。恐るべき神に相応しい、重圧感のある重々しい声音で。

 

『戻ったか。ご苦労だったな、タナトスよ』

『は』

『……ふむ。……()()か』

 

 ハデスは権能を行使し、死者の魂を裁くために生前のおこないを視た。

 悩ましげに溜め息を吐く。肘掛けに立てた腕に顎を乗せ、死を統べし神は嘆かわしい気分で物憂げに呟く。

 

 神に関わったせいで死ななくてもいい者が死ぬ、そんなことは日常茶飯事だ。別段、珍しくもない。しかし珍しくないからといって愉快になれるわけでも、無関心に徹せられるわけでもない。死を迎えたうら若き乙女を悼み、ハデスは裁きを下した。

 

『この者に罪はない。清らかな心の持ち主だ。せめて安らかに眠らせてやるがいい』

 

 了解の意を示してタナトスは去っていく。この後もタナトスのタイムスケジュールはびっしりと埋まっているのだ。あまり時間を取るのも悪いと考えている。

 ハデスは嘆息し、タナトスの背中が見えなくなるのを見計らうと――ガバッ、と骨の手で頭を抱えた。

 

 

 

(――だから人手が足りないって言ってんだろうがゼウスぅ! 勤務時間超過し過ぎて休暇もないタナトスが倒れたらどうするんだ!? 何回も言ってるがいい加減死の神増やせよ女漁ったり胤撒いたりする暇があるならぁ! どうするの? タナトス倒れたら地上には死ねない人間で溢れかえるんだぞ!? そうなったらお前も困るだろうが! というかタナトスばかり酷使するとか胸が痛むんだけど! 胸ないんですけどね!)

 

 

 

 ハデスは勤勉で、真面目で、不死であるのを良いことに休みを一時も取らない部下の現状に大いに頭を痛めていた。

 冥府やそこの神であるハデスは元より、死そのものであるタナトスは地上で非常に恐れられている。故に多少の暴行にも躊躇いなく踏み込んだり、挑んできたりする者がいるのだ。例えば以前の惨劇なんてひどいものである。死者の魂を回収しに来たタナトスを取り押さえる愚物がいたのだ。

 油断して、騙されて、後ろから襲われたタナトスは自由を奪われた。結果として下手人が死なせまいとした者は死ななかったが、死者を冥府に誘うタナトスがいなくなったせいで地上から『死』がなくなってしまい、誰も死なない悪夢のような光景が生まれてしまったのだ。ハデスはゼウスへ厳重に抗議し、タナトスを取り戻して、下手人は相応の罰としてタルタロスに叩き落としてやったが、その後の激務はまさに拷問。余りの仕事量に無いはずの胃が爆発四散したかと思ったほどである。

 

(ちくしょう……なんだって俺ばっかりこんな目に遭わなくちゃ……いやいや! 辛いのはタナトスだって同じなんだ! ペルセポネに心配は掛けられない……いっそヘカテーをゼウスの馬鹿にけしかけるか? ……だめだ、ゼウスの八つ当たりでひどいことが起こりそうな気がする……ポセイドンなんか役立たずだし……アレスの鼻垂れは拗らせて死者送り込んで来すぎだし……仕方ないのは解るよ? 解るけどさぁ、一日ぐらいお前も休めよ! お前が休まないと俺も休めないんだから! くそぅ、こんなことならアレスを甘やかして、『お前はお前の想う信念を貫くと良い。私はお前のおこないを支持しよう』とかカッコつけるんじゃなかった! でも言わなきゃ駄目みたいな感じだったんだよ……もう駄目だ、ペルセポネに慰めてもらおう……)

 

 意気消沈して、諦める。諦めた。……諦めようとはした。しかし無理だった。

 やおらハデスは玉座の肘置きに拳を叩きつけ、内心怒号を発しながら頭を抱えたまま身を捻りはじめる。

 

(俺だってなぁ! 地上に出て色んなもん見たり触ったり、誰かと話したり遊んだりしたいんだよバカヤロー! ヘラクレスとか意味分からんぐらい信仰捧げてきてるし今の地上マジでどうなってんの!? しかも妻と子供達を安らかに眠らせてくれとか……ふふふっ、あれ、なんか嬉しい……愛情深いのが伝わってくるし、俺を騙して死者を地上に連れ出そうとはしてないみたいだし……みんなヘラクレスを見習えよクソが!)

 

 冥府神は情緒不安定になっていた。是非もなし、おそらく世界で一番激務で仕事環境の劣悪な職場に勤務しているのだから。

 24時間営業年中無休、休み時間なしのタルタロスも真っ青な暗黒環境。怒っていたと思えば笑いだしたり嬉しがったり悲しんだりしてしまう。

 

(こんな暗黒(ブラック)冥府に誰がした! 可愛い部下を休ませてやれて、俺も嫁さんとイチャイチャできて! 俺にも部下にもご褒美上げられる真っ当(ホワイト)な仕事場が欲しい! こうなったら叛乱かましてゼウスかポセイドンに冥府を押し付けて……だめだ! 奴らが真面目に仕事するとは思えん! なんなんだよもぉー! 仕事しろよお前らぁ!)

 

 わっ、と泣きが入る至高の三柱の神ハデス。

 

 ――そう、彼は疲れていた。

 

 疲労は蓄積される一方で、理解者は少なく、人と触れ合う機会は少ない。故に些細な嘘に騙され、簡単に情に絆され、何度騙されても(今度はきっと……)なんて甘すぎる希望的観測を持ってしまう。

 ハデスはとりあえず『愛』の一文字を文言に織り込み説得すれば、九割は騙されてしまい特例の温情を連発してしまう神だった。その度に死そのもので死の神であるタナトスに死にそうな顔で、もういい加減にしてくださいハデス様……と嘆かれてしまう。ちなみに騙されて最も傷ついているのはハデスだったりした。

 

 ハデスは骨の我が身を省みる。死の神としての威厳を出すために偽った姿だが、彼は割と今の姿を気に入っていた。例え他者から邪悪の権化にしか見えずとも、ヘカテーからは『滑稽』と一言で切って捨てられていても、以前仮装パーティーを内々で開いた際に嫁のペルセポネに『似合ってますね。まさに死の支配者です』と褒められたから。

 骨神様は呟いた。世知辛く、物悲しく、情けない声音で。

 

『ペルセポネに会いたい……もう七日も会ってない……ヘカテーのやつ、なに企んでんだよ……冥府内で収めるの割りと大変なんだぞ……』

 

 骸骨で表情なんて無いのに、まるで悲嘆に暮れて涙しているような雰囲気があった。ペルセポネの母性に惹かれる、そんな部分がハデスにはあった。

 疲れていた。本当に至高の三柱の神で、主神の兄弟であるのか疑わしいほど疲れていた。仕事漬けの神などハデスを抜かせば太陽神ヘリオス、タナトス、アトラスなど、極少数のみだろう。

 

 ――それを。一向に自分に気づかないハデスに、出ていくタイミングを見失ったヘラクレスは居た堪れない表情で見ていた。

 

(なんだこれは。なんなのだこれは……私にどうしろと云うのだ……?)

 

 初見のハデスの、威厳も何もない姿にヘラクレスは唖然としていた。本人は心の中でしか話していないつもりなのだろうが、小さな声とはいえ表に出ている。故にその心の叫びは総てヘラクレスに聞こえている。他に音のない静寂な世界故にだ。

 あれだ、長年人付き合いもなく一人きりで暮らしていたりすると独り言が増えて、それが当たり前になってどこに出ても独り言がなくならなくなるアレだ。そんな本心、聞きたくなかった。ヘラクレスはハデスの本気の嘆きに、頭に冷水を浴びせかけられた気分だ。

 

 流石に勇み足だった。アルケスティスの件でもほとんど勢いで飛び出て、タナトスを尾行して冥府にまで来てしまった。反省する。せねばならない。しかし……。

 

(いつ声を掛ける……?)

 

 頭が痛い。冷静になると、冥府に命があるまま来るものではなかった。

 帰りたいのだが、流石に勝手に来たのに黙って帰るのも悪い、気がする。それに何もしないで帰れば、それこそ何をしに来たのか全く分からなくなるだろう。

 若気の至りで流せる年齢は過ぎていた。仕方ないのでヘラクレスは頭を抱えて俯くハデスの前に跪き、少しずつ遮断していた気配を出し始めた。

 

(………)

『………』

(………)

『………』

(………)

『……? ……うぉわっ!?』

 

 ハデスは微かに感じた違和感に、のろのろと顔を上げる。

 すると前方に、金色の獅子の鎧を纏い、白剣を携えた漢がいるではないか。仰天して声を上げたハデスを、ヘラクレスはなんとも言えない表情で見つつ、そっと兜を外す。

 ヘラクレスの素顔を見て、その身の血を感じ、更に獅子の鎧を目にして、ハデスの中でこの漢が何者かが導き出される。

 

『へ、ヘラクレス……?』

「……如何にも。お初にお目にかかる、静謐なる死後の世界の神ハデスよ」

 

 かこん、と顎の骨が落ちて、唖然とした顔をするハデス。顔はないのだが。

 しかし流石は神だ。状況を認識すると瞬時に取り繕い、重苦しい空気を発して厳かに言った。

 

『うぉっほん! ……ほぉ、この冥府に客人か。私に何か用かな?』

「………」

『いや、不法侵入者だったか。ならばもてなす必要はあるまい。ヘラクレスよ、地上に名高き英雄よ。我が死の領域に赦しもなく入るとは何事だ。話だけはまず聞いてやろうではないか。貴様を煮るも焼くも、然るべき罰は後で与えよう』

「………」

『………おねがい、なにかいって………』

 

 威厳が完全に崩壊しているのに必死に取り繕うハデスだったが、ヘラクレスの無言の目に屈服した。その眼がハデスを憐れんでいるものに見えて心が痛かったのだ。

 ヘラクレスは別にハデスを弄ぶつもりなどない。先程の本心の吐露で、ハデスは邪神とは程遠い慈悲深き神だと分かったからだ。軽く咳払いをしてヘラクレスは口を開く。暗に『私は何も見なかったし聞かなかった』という体で通すというのだ。ハデスはハッとして、ヘラクレスの慈悲深さに感動した。何気にハデスにとって、最も自身への信仰心が厚いヘラクレスとの出会いは晴天の霹靂で、ヘラクレスと会うことがあればできる限り優しくしてあげようと思っていたのに……これだ。

 

 威厳たっぷりに接するつもりだった相手への醜態にもう泣きたくなっている。

 

「赦しなく、命のあるまま冥府に参じた非礼、深くお詫びする」

『う、うむ……』

「今はその気はないが、つい先程まで私はアルケスティスの魂を取り戻しに来ていた」

『先程まで……?』

 

 嫌な予感にハデスは震えた。カチャカチャと全身の骨が鳴る。震えた声で訊ねた。

 

『……いつから居た?』

「……死の神タナトスが御身の前に跪いた時からだ」

『最初からじゃないか!? もしかして声に出していたのか、俺!?』

「それはもう……」

 

 ヘラクレスは錯乱しかけるハデスになんと声を掛けたら良いか分からなくなった。なのでとりあえず言いたいことだけを言っておく。

 

「血迷ったおこないを、今は恥じている。しかし私が血迷って冥府にまで来た理由を聞いていただきたい」

『うぅ……分かった、聞く。だからこっち見ないで……』

「………」

 

 墓穴があったら入りたい。そんなハデスの様子にヘラクレスはやり辛さを感じつつ、なんとか事情を説明した。

 

 アドメトスとアルケスティスのこと、アポロンとモイライのこと。そして彼はハデスに物申すのだ。それは至極真っ当で、極めて正しい人としての意見だった。

 

「アポロンに悪気はなかったのだろう。己の罪によってアドメトスに奴隷として仕えていたとはいえ、悪いようにはされず、一年も共に居たから情が湧き……だからこそ善意でやったのかもしれない。しかし神の善意とは人にとって呪いにも成り得る。此度の一件は典型的な例だ。アドメトスの死は、身内の死で逃れられるものとなったせいで、代わりに死ななかったアドメトスの父母は周囲から白い目で見られ、父母も生き延びたアドメトスと気まずくなるだろう。神が関わる故に長く語り継がれかねない上に、アドメトスは最愛の妻の死によって生き永らえたことで罪悪感を懐き生き続けることになる。

 アドメトスの運命を知ってしまったが故に、見過ごせば見殺しにした罪悪感でアルケスティスは後を追いかねんし、どのみち見殺しにした形になった父母だけが後に残されかねない。これはどう控えめに言っても呪いの類いだ。例え善意から出た行動であったとしてもアポロンのしたことは赦されるものではない。此度も死ななくても良かったアルケスティスが死に、愛する者を喪ったアドメトスは嘆き悲しむだろう。故に冥府の大神ハデスよ、今後このようなことが起こらないように、御身から厳重にオリンポスへ抗議していただきたい」

 

『………ん? それだけか?』

 

 ハデスはヘラクレスの長い口上の結びに意外そうにした。その反応こそ意外だったのはヘラクレスの方である。

 

「それだけ、とは?」

『だから……アルケスティスの魂を取り返しに来た! とか……最愛の妻子に一目会いたい……とか……ほら、そういうのは無いの?』

 

 完全に素であるハデスの問いに、ヘラクレスは心外といった顔と目でハデスを見詰める。それは本心だ。

 

「死は絶対だ。歪められた運命とはいえ、それは変わらない。血迷って乗り込んできたことに関しては潔く罰を受けよう。……妻と子供達に会いたくないと言えば嘘になる。だが未だ生ある我が身が会うわけにはいかん。そして……その資格もない」

『………』

 

 最後の呟きは聞こえたのか否か。ともあれハデスは、じーん、と感じ入っていた。

 死は絶対。当たり前のことなのに、当たり前のこととして受け入れる人間のなんと少ないこと。神までも安易に死の運命を変えようとしたりするし……。死んだのに諦めず生き返ろうとするし……。ここまで潔い者に会ったのは久し振りか……もしくははじめてに近いかもしれない。

 ハデスは感動していた。もうヘラクレスは免罪しようと決めてしまうぐらいに。というかまだ生きているヘラクレスを、積極的に罰する必要性を見いだせないのもある。自分のお気に入りを贔屓することは地上や天上の神には珍しくもないのだし、自分だって信徒に慈悲を示すこともあるのだと理論武装した。

 

 其れに言っていることは一々ハデスも共感してしまうものでもあった。上機嫌になったお骨様は腕を組んでしきりに頷き、ウンウンとヘラクレスに賛意を示す。

 

『よく分かった。お前の云う通りにしよう。だがお前は無罪だヘラクレス。私を恐れず諫言しに来たその忠勤に免じ赦そう。なんならお前の妻子に会わせてやってもいいのだぞ? 遠慮するな』

「いや、それは……」

『固い奴め。だが好ましい固さだ。みんなお前みたいだったらいいのにな……』

 

 さらりと重い台詞である。返す言葉を咄嗟に見つけられなかったヘラクレスを責めるのは酷だろう。

 

 どうしたらよいのか黙っていると、ハデスは思いついたように言った。何はともあれ非は神にある、贔屓の英雄に箔の一つでもつけてやりたくなった神は一計を案じた。

 

『そうだ、ではアルケスティスを連れて行け』

「……は?」

『死は絶対……しかしなぁ、愛する者同士を神の身勝手で引き裂くのは心が痛む。そこでだ、アドメトスとアルケスティスは同じ日に死するものとして、改めて生き直させてやりたい。お前はアルケスティスを連れて行け』

「は、いや……待った。死は絶対なのでは……?」

『何事にも例外はつきものだぞ。愛は総てに優先する』

「………」

 

 分からなくはない、分からなくはないが……釈然としないヘラクレスである。そんなヘラクレスの心境を読み取ったハデスは笑った。

 

『ではこれが罰だ。アルケスティスを連れて行け。それで罪を免じてやる……ということにしてやろうじゃないか。なぁに、この夫婦から愛が失われた日も命日となるし、死ぬ時はタナトスが迎えにいく。心配することはない』

「……御身がそう仰るなら……」

 

 ヘラクレスは悟った。ハデスは本当に『愛』が絡むと甘すぎる。弱点と云うか、なんというか、そこだけは厳格になりきれない。

 だが悪くない。冷酷なだけの神とは違うのだ。ずっと親しみやすい神なのだと感じられた。甘すぎるのは玉に瑕だが……。まあそこは誰かが補佐すればいい。そしてもし何かがあれば力になってやりたいと思わされる魅力があった。

 

 そうして、ヘラクレスはアルケスティスの魂を取り戻して地上に帰った。

 

 ――だがハデスは抜けていた。うっかりしていた。地上でのハデスの風評は最悪の一言であり、ヘラクレスは英雄としての名声を着実に高めていることを忘れていた。

 

 結果、相対的に悪対正義の構図となり、ヘラクレスがハデスと戦いアルケスティスの魂を取り戻してきたのだと噂され、それが事実だと見做されてしまったのだ。

 真実は全く違うのに……。しかしまあ……ハデスはそのことを気にしないだろう。元々そういうふうに見られているのは知っている。

 

 故に、今回の一件で後ろめたさを感じるのはヘラクレスだけだった。自分が先走り、血迷わなければ、ハデスの醜聞となることはなかっただろうに、と。

 あまつさえ英雄としての名が上がる始末。もうヘラクレスは良心の呵責に苛まれるばかりで、今後は例え嫌いなモノが関わっていたとしても暴走してしまわないようにしようと強く自戒した。

 

 教訓だ。ハデスの名誉に傷を付けてしまったことを深く反省する。今度手が空けば、捧げものを贈ろうと固く心に決めたのだった。

 

 

 

 

 




ハデス様書いててなんか、あれ? ってなった。
なんでだ……?


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5.5 英雄船への招待

謝罪とスーパー言い訳タイム。読み飛ばし可。

ハデス=某墳墓の支配者じゃ?
と感想で溢れんばかりに言われ(ああ書いてた時の違和感はそれか)と遅まきながら気づく間抜けな作者……。
そんなつもりはなかった……死後の世界の神だから骸骨(エレちゃん的な偽りの姿)にしよ→冥府ってブラック企業だよね→今回はコメディチックにしつつブラックな背景を匂わせよう。ってやっただけなんだ……。
申し訳ない。他作品ネタをやる気はなかったんです。以後気をつけます

あとコメディチックに書いたのは、真面目に今までの作風で通せば間違いなく一話に収まらない上に、ダークでシリアス極まり話の本筋から逸れまくって二話ヘラクレス不在となりかねなかったからです。あとどう考えても胸糞な解釈しかできない点もあり、不必要にヘイトを高める存在がいて、読者の皆様に作者の意図していない部分での心的圧迫現象、要は愉悦を贈ることができないのではと危惧したためです。

今後は作風を崩すシーンはありませんので、そこはご安心ください。





 

 

 アドメトスの治めるペライ国はテッサリア地方にある。何やら死の神タナトスと格闘し、絞め上げてやってアルケスティスの魂を取り戻しただの、冥府に行きハデスと闘ってアルケスティスを奪い取っただの、そうした噂がまことしやかに囁かれていた。

 時折り見掛ける吟遊詩人や行商人などが、根掘り葉掘り聞いてくるのに対し幾度否定しても信じてもらえないのは、ヘラクレスという『英雄』への偏見や先入観が原因だった。『英雄』である。ならばそれらしい振る舞いをするだろう――という。

 つまり力こそ正義、というわけだ。ギリシア世界のみならず、近隣世界はおよそ力が正義で。その力、武に於いて人中無双の評を持つヘラクレスは『正義として、力で解決したのだろう』と思い込まれている。話し合いだので終わった、と言っても現実味がないのだ。世間の常識で言えば。

 

 お蔭様でというべきか、英雄としての名声は更に高まった。好ましいとは言えない過程を経たが、覆せないのであれば利用するしかない。ヘラクレスという英雄は、決して邪道を往かぬ高潔な武人にして英雄であるのだと知らしめる。

 風評による先入観の構築は、日々の積み重ねが物を言う。意図してやるのであれば、なおのこと己の言動には気をつけねばならない。英雄の理想像として大多数が理想的と称する、弱者の庇護者になることで……例え何をしても、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と信頼されるようにする。人間のみならず、神々からすらも。

 

 それが、大前提。我が願望を成さしめるための橋頭堡。

 

 故にだ。『ヘラクレス』という虚像の英雄は、余程の理由がない限りは()()()()()()()()()()()。拒絶する理由は特に見当たらず、誘いを受けることにする。時間潰しには丁度いいかとすら考えていた。これは慢心か? それとも油断? いいや違うだろう。これは自信、そして何があろうと乗り越えてみせられるという自負だ。人界に起こり得るあらゆる総てを捻じ伏せられずして、己が悲願を遂げられるはずがない。

 

「……面白いな。良いだろう、その船旅に同道する。貴様の主にそう伝えるが良い」

「っ! 彼の大英雄が参加してくれるとなれば、もはや目標は成し遂げられたも同然! 急ぎこの朗報を持ち帰らせてもらう!」

 

 ヘラクレスの返答に、眼下に跪いていた青年は喜び勇んで立ち上がると、礼を示して馬に飛び乗り駆け去っていった。

 あの青年は伝令神ヘルメスの子であるアイタリデスと名乗った。アルゴー号を建造したイアソンの下、使者の役を務めるのだと。高名なヘラクレスが同じテッサリア地方にいると聞いたイアソンが、自分の目的を成就させるためならなんでも使おうと決意し、ヘラクレスに誘いを掛ける程度はしておくべきだと判断したらしい。それでのんべんだらりと旅をしていた自分が招かれたのだ。

 

 ヘラクレスは馬に乗って駆けていくアイタリデスから視線を切り、馬車の御台に座るイオラオスを一瞥した。

 

「お前も来るか?」

「当たり前だろ! 伯父上の行くところにはどこにだっていくさ!」

「そうか……まあ、いいが」

 

 若干の困惑を滲ませ、ヘラクレスはイオラオスの元気の良い返事に眉を落とした。

 少年は書物をしたためるようになっていたのだ。なんでも、ヘラクレスが何度否定しても解けない誤解があるのを見て、ヘラクレスの冒険の正しい伝記を自分が書き残さねばならないという使命感に駆られたらしい。

 ご苦労さまなことだ。だが英雄に成りたいのではなかったのかと問い掛けてみたが、それはそれでこれはこれなのだとか。切り替えの早さは流石イピクレスの息子だ。ヘラクレスとしては文句はないが、何を記されるか分からず、後世に書き残されるのなら甥の前でも気を抜かない方が良さそうである。ヘラクレスとて恥は知っている、あられもない姿を書き残されたくはない。

 

 しかしアルゴー号とやらの船員となって、イオルコス王の求めたコルキスの金羊毛皮を手に入れに航海をするらしいが、他国の宝を略奪する旅に出るのはどうにも気が引ける。コルキスの王と民が不憫ではないか。なんとか穏便に事を終えられるように、船長を務めるらしいイアソンの人となりを良く見ておこう。

 それより気掛かりなのはケリュネイアだ。ヘラクレスは手癖のように牝鹿の毛並みに触れながら訊ねてみる。

 

「ケリュネイア、お前は海は平気か?」

(………)

 

 なんとも言えない顔である。いや鹿に表情筋なんてないので、それらしい雰囲気しか分からないのだが……ケリュネイアは言うまでもなく陸の生物、船の上に出て平気なのか判断が難しい。

 体調的には問題がなかったとしても、不安や恐怖を感じるのであれば、陸でお留守番でもさせるしかない。が、そうなった場合は誰がケリュネイアの面倒を見るのか……一番の悩みどころはそこだ。女神あたりが略奪に来たら大惨事確定である。無論奪われれば取り返すために殴り込みに行くが、できる限り神々との間に禍根を残したくはない。

 どうしたものか頭を捻ってみる。するとケリュネイアは決然とした眼差しで頭を上下した。軽く跳躍して虚空を蹴り抜き、空を走った。

 

「ああ――そういえば空を駆けられるのだったな……」

 

 ならいざとなれば船を飛び出し、空に離脱できるわけである。ケリュネイアの牧歌的な佇まいや、動物らしい愛らしさのせいで女神に己の聖獣にしようと狙われるほどの、飛び抜けた脚力の神獣であることを忘れていた。

 思い出してしまえば不安に思うことでもなかった。ヘラクレスはケリュネイアをアルゴー号の航海に連れて行くことにする。獣風情を乗せたくないと言われれば、その時はヘラクレスも船に乗らないだけだ。

 

 尤も目的地であるアマゾネス族のいる国は黒海の向こう側で、コルキス国のある地方であるという。であるならどのみち向かう方角は同じになる。乗船の如何に関わらず、彼らの姿を見る機会はそれなりに多くなるだろう。『英雄として手助けする』形で干渉し名誉を得るのは可能だ。

 なんであれ最低一度は顔を合わせることになる。招きに応じてイアソンとやらの許に着けば、彼の集めた船員達と邂逅するのだ。アイタリデスは、イアソンは英雄を集めていると言った。自分の船に乗るのなら英雄でなければならないという、自尊心の強い漢のようだ。

 ヘラクレスは英雄という人種を知っている。初対面の第一印象で侮られると面倒臭いことになるのは必然。ならば舐められぬ装いで出向こう。平服姿では駄目だ、完全武装で赴くことにする。

 馬車から獅子の鎧と白剣、細剣の鞘の如き矢筒と白弓を引き出して装備する。ヘラクレスは己の体躯が秀で、威圧感があるのを自覚していた。無駄に力む必要は装備を整えるだけで無用だろう。そうして招かれた地、イオルコスの港に向かった。

 

 ――活気に溢れている、と言えば陳腐に落ちるだろう。海に面した都市国家には海の幸と言える海鮮物を露店で売り捌く漁師や商人の一団がおり、英雄たちの船と言われる船舶を建造したばかりだからか船大工達や、船舶の材料となる資材を持ち込んだ者達で賑わいを見せている。稼ぎを得て、派手に酒宴を開いている者達が見えた。

 そこをケリュネイアに騎乗したまま往く。荷物は馬車ごとイオラオスに売って歩かせて身軽になり、イオラオスも荷を牽いていた馬に乗ってヘラクレスに続いた。それだけで、喧騒が死ぬ。静まり返った。太陽の光を受けて金色に輝く鎧、潮風に揺られる兜の鬣、そして神獣の外套と偉容高らかなる武具。跨る黄金の双角と青銅の蹄を持つ神獣の牝鹿――威風堂々たる大英雄の闊歩に誰しもが圧倒されて自ら道を空けていた。

 

 愉快な光景、と悦に浸れる性根ではない。当然だ、と受け止められる性格ではない。やはりかという諦念と、畏れられる分には構わんかという諦観があるのみ。

 例え英雄を見る目ではなく、化物を見るそれであろうとどうでもいい。弱者を無為に怖がらせる趣味はないが、外見から怖がられるのであれば是非もなし。流石のヘラクレスでも自身の尊厳を損なう変装や、自慢の武具を貶める塗装をおこなうのは屈辱以外の何物でもないからだ。ありのままの自分が畏れられるなら仕方がない。

 港に近づくにつれてヘラクレスは感じた。常人を遥かに超える覇気を有した集団の気配がする。数にして四十は超えている。全員が英雄と讃えられるに足る戦士か、或いは独自の技能を有する者達なのだろう。ヘラクレスはイアソンへの評価を上向かせる。ギリシア世界に限らず、英雄とは我が強い者ばかり。それをこれだけの数を集め、自身を船長だと認めさせているのなら、確かな手腕があることの証となるだろう。

 

 やがてヘラクレスが港の桟橋付近に辿り着くと、そこにいた男達は一斉にヘラクレスを見て――戦慄に震え上がった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「あっ――あんたが、ヘラクレスか?」

「如何にも。イオルコスの王子イアソンの招きによって参上した。招かれた者として礼は尽くそう、到着した旨を告げるためにもまずは挨拶がしたい。イアソンはどこだ?」

 

 声を掛けてきたのは、金髪がカールした青年。一目で目を引かれるのは、その背にある白い翼だった。物珍しさに思いを馳せると、そういえばハルピュイア三姉妹の一人の子供にゼテス、カライスという有翼の英雄がいると聞いたことがある。この青年がその片割れだろうか。

 応えたヘラクレスの圧倒的な武威は、呼吸をする程度に自然なものだった。しかし青年――ゼテスは凝固したまま動けない。その他大勢ではなく個人として認識したヘラクレスの視線を受けて、動けなくなってしまったのだ。

 

 嘆息してヘラクレスは辺りを見渡す。しかし誰も動かない。動けない。英雄である故に、無力な民草とは違って彼我の力の差を――ヘラクレスが強すぎる故にその力の天井は解らずとも――理解できたのだ。逆立ちしても絶対に勝てない、武勇に於ける超越者で、死後は神王によって星座とされるか、神々の席に列されるだろうと。

 それほどの規格外。疑う余地のない生まれながらの英雄(ナチュラルボーン・ヒーロー)だ。存在の規格からして桁外れ、そんなモノを前にしては、余程の精神力がなければ自我を主張できまい。彼らは畏怖の念によって縛られていた。

 

 ヘラクレスは船員達を見渡す。案内を受けられないのなら自分でイアソンを探すしかあるまい。すると――おや、と毛色の違う者がいるのに気づいた。

 

 女だ。深緑のドレスを纏い、剛弓を手にしている。美しいかんばせの中に、野生の中にある気品を感じた。狩人なのだろうと雰囲気で洞察する。紅一点だ。

 ヘラクレスは自身の妹が英雄級の実力者であることを知っている。故に女だからと侮りはしないし、見下したりはしない。しかし女一人で大丈夫かと心配はした。英雄は荒くれ者が多い、強引な求愛を受けてもおかしくはない美貌だ。目につけば助け舟は出すとしよう。そう密かに心に留める。

 その狩人は、しかし動けないでいた。ヘラクレスの武威に。そして底の知れなさに。まるで赤子の群れに一騎当千の大人の勇者が現れ、赤子たちの中で存在を示威しているかのような、一種の場違い感すら感じてしまっている。狩人として、そして野生に近い感性の持ち主として、できれば近寄りたくない相手だと苦手意識を持った。

 

 ヘラクレスは嘆息する。気づいたのだ。なにやらペライ王アドメトスがいると。

 なぜこんなところに、と思う。アドメトスはヘラクレスに見られたと気づくと、乾いた笑いを溢した。男の性として英雄船に参加したくなって、こうしてやって来たのだろう。アルケスティスを待たせる気か、戯けが……そう悪態をつきたくなるが、もはや彼の人生は彼のもの。自分から関わろうとするのはやめておく。

 

 見渡したところ、イアソンらしき王子はいなかった。容姿は知らないが、これだけの荒くれ者共を集め、束ねている手腕の持ち主が、ヘラクレスの姿を見ただけで固まる臆病者ではないと思っていた。もしこの中にいたのなら、期待外れも良いところである。

 自分でも場違いな所に来たな、と感じなくもない。というか疎外感を受ける。立ち去ろうかと迷い始めていると、ふと目の前にまだ若い青年が立ちはだかった。

 

「ほう……」

 

 感心する。歳はイオラオスよりやや上、十代後半といったところか。それなりに立派な名剣と、体の動作を阻害しない程度の鎧を着ている。甘いマスクと知性の滲む瞳が印象的で、コバルトブルーの瞳には強い意志と、燃え盛らんばかりの勇気を宿していた。

 他の英雄たちは動けもしない中、完全武装形態のヘラクレスの前に立ち、挑まんばかりに睨みつけてくる青年にヘラクレスは好感を持つ。大英雄は問い掛けた。

 

「良い面構えだ。お前の名を聞いておこう」

「テセウスだ」

 

 テセウス。

 

 その名は生憎と、聞き覚えがない。まだ英雄を志したばかりなのかと思う。コバルトブルーの瞳は眩しそうに、憧憬の滲んだ眼差しでヘラクレスの鎧を見て。青年は一瞬の躊躇の後、しかし決然と告げた。

 

「ミュケナイ王エウリュステウスの課した勤め……ネメアの谷の獅子の退治、ヒュドラの退治、ケリュネイアの牝鹿の捕獲……そして最近になって成した、冥府神から哀れな乙女の魂を取り戻して生き返らせた偉業……どれも、並の英雄なら生涯を掛けて一つ成し遂げられるかどうかといったほどの難行だ。それを後幾つも成し遂げていかないといけないと聞く。だが貴方はいずれも乗り越えていくだろう……目にしただけでそう確信した。特にヘラクレス、貴方の防具となっているネメアの獅子は、貴方以外には決して斃せない怪物だったんだろう」

「そうだな。この場にいる総ての者が力を結集したとしても、ネメアーに勝ることはあるまい」

 

 暗にそのネメアの獅子を斃した私が最も強いと断言したヘラクレスに、しかしテセウスは嫌味を感じなかった。事実であると認めさせられる力の差がある。

 腕に自信のあったテセウスにはいっそ爽快ですらあって、笑いだしてしまいながらテセウスは剣を抜き放つ。

 

「ははは! はっきり言う人だなぁ……だが、それでこそだ。大英雄ヘラクレス! そんな貴方に、僕は敬意を持って挑ませてもらいたい。英雄になるために、本物の英雄を知りたいんだ!」

 

 凛と輝く魂の燦めきに、ヘラクレスは密かに確信する。この青年は間違いなく、この場で最も偉大な英雄になると。無論、己を除けばだが。

 面白い、と思う。この真っ直ぐな青年と、こうして出会えただけで出向いた価値がある。ヘラクレスはしかし、どうするかを考えた。そして結論する。彼らの流儀に則り、絶望的なまでの力の差を教えてやろうと。それでもこの青年なら折れないという予感がある。

 

「いいだろう。掛かってくるがいい。私はこの腕一本で相手をする」

「っ……! その傲慢、油断、慢心――遠慮なく突かせてもらう!」

 

 ヘラクレスは右腕一本を掲げ、言った。

 ざわめきが起こる。テセウスは怒ったのか、最初から全力で斬り掛かってきた。

 

 素早い踏み込んだ。――この場で四番目に速い。一番はケリュネイア、二番目がヘラクレス、三番目が女狩人……。

 裂帛の気合で剣を突き出してくる。――この場で二番目に鋭い。一番はヘラクレス。

 確かな鍛錬を感じされる武練。――ヘラクレスの、影すら踏めない。

 

 一瞬だった。

 

 テセウスは視た。辛うじて見えた。ヘラクレスが拳を握り、真っ向から剣の切っ先に拳の甲を当てて軌道を逸らし、拳撃の一撃で剣を捌くのと攻撃を同時に行ったのを。

 顎下に寸止めされた、大きな拳に……テセウスは静止する。冷や汗が吹き出た。内包された力の圧力から、殴り抜かれていたら頭が爆散して死んでいた、と。

 

「弱い」

「くっ……」

 

 ヘラクレスは身を引いて、端的に言い捨てた。

 青年は自尊心を傷つけられる。しかし、無双の英雄はこう続けた。

 

「だがいい思い切りだった。鍛錬と経験を積めば強くなるだろう……研鑽を忘れるな、テセウス」

「はっ――はい!」

 

 褒められた。才能を認めてもらえた。この最強の大英雄に。テセウスは思わず敬語で返事をし、顔を赤くした。傷ついた自尊心は一瞬で修復され、その胸に確かな憧れが芽生えた。

 

 興が乗る。ヘラクレスは人を相手にすることは滅多にない。相手が格下ばかりだからだ。故にテセウスを相手にしてすら稽古をつけてやった程度の感覚である。

 格下なのは此処にいる全員もだ。彼らにも稽古をつけてやっていいと思ってしまう。

 圧倒的強者故の気紛れで彼は言う。言ってしまった。

 

「どうした。他に掛かってくる者はいないのか?」

 

 答えは沈黙だった。ヘラクレスは気づく。英雄たちは一人残らず、ヘラクレスを化物を見る目で視て、恐れで固まっていた。

 言葉に詰まる。自分は他とは違う存在だと、まざまざと感じさせられる目。何故なら彼らには見えなかった……傍目で見ていたにも関わらず、テセウスを下した一撃がまるで視認できず、英雄と呼ばれるだけの力があるだけに、ヘラクレスがまるで本気ではなかったことを見抜いてしまっていたのだ。

 あんな化物に使命もなく挑みたくない。それが彼らの本音で……気まずさに、ヘラクレスも固まった。

 

 軽い気持ちで言った。それを後悔する。幸いにも己の往く英雄の道に、今の軽はずみな言葉は反していない。他とは隔絶した存在になるのだ、格の違いを誰もに見せつける必要がある。故に彼らの反応は望むところで……しかしそれでも、人としての心が微かに痛んだ。

 

 そんな時である。桟橋に繋げられていたアルゴー号から、一人の青年が出てきた。

 

 最初から見ていたのだろう。その金髪の青年は、傲岸不遜に言い放つ。

 

 

 

「――なるほど、君がヘラクレスか」

 

 

 

 その青年こそ、ヘラクレス終生の友の一人。

 

 

 

「素晴らしい、羨ましい! 確かに噂通りの化け物だ!」

 

 

 

 力なく、弱い、捻くれた、しかし優しい心を持つ船長。

 青年は讃えるように、謳うように、言葉通り羨望を滲ませながら――ヘラクレスが、深層心理内で求めていた言葉を告げる。

 

 

 

「安心してほしい。私は君を優遇し、使ってみせる」

 

 

 

 お前が何者で、例えどれほどの力を持っていても構うものかと宣う、ある種の愚かさ――根拠のない自信、無意味に尊大な性格。

 根底にある確かな志を立脚点に、青年は優しげに、そして怪物じみたカリスマ性を発揮して断言した。

 

 

 

「私……オレと共にいる間だけ、君は化け物じゃあなくなるよ。未来の王を護りし、大英雄だ」

 

 

 

 それが、ヘラクレスとイアソンの出会いだった。

 

 

 

 

 

 




テセウスはまだ、旅に出たばかり。王になるための第一歩を踏み出してません。従ってミノタウロス退治や、様々な英雄としての逸話も残しておらず……というかテセウスは時系列のおかしい人の一人なので、どうしても時系列は書き手側が調整する必要があります。
あれ? となっても(ギリシア神話故致し方なし)と受け流してください。おねがい(震え

イアソンは原作で言ってた。
「ヘラクレスだぞ!? 俺達の誰もが憧れ! 挑み! 一撃で返り討ちにされ続けた男だぞ!」
つまりテセウスすら一撃だった。無情……。


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5.6 ヘラクレスの機略

 

 

 

 強さ故の孤高。誰も同じ目線に立てぬ価値観。生じる孤独……。

 

 そんなものは生まれた時からの付き合いだ、今更辛いと感じるはずもない。事実『英雄』と称される傑物達にまで忌避するような目を向けられても(ああ、またか)ぐらいにしか思わなかった。

 だが、それでも望んではいたのかもしれない。誰もが当たり前のように価値観を共有し、友誼を結んでいるのを見て、己もまた心の奥底では自分にもそうできる存在が現れるのを待ち望んでいたのかもしれなかった。いやもっと単純に、強すぎる己を化物や、理解の及ばぬ『英雄』とラベリングせず、自然と受け入れてもらいたかったのだろう。だから自分を受け入れ、愛してくれた亡妻を掛け替えのない宝だと執着していた。もうきっと、妻のような者とは出会えないと思っていたから。

 

 故にその意外と言えば意外、望外の言葉と声に、ヘラクレスは我知らず問い掛けてしまっていた。その眼力は一目でイオルコスの王子が非力で、ひ弱で、吹けば飛ぶ雑魚と言える弱者であるのを見抜いていたから問わずにいられなかったのだ――貴様の集めた英雄たちは、例外なくこの身に恐怖している。なにゆえ貴様は恐れぬのだ、と。

 

「ん? 俺が何故君を恐れないかって……そんな当たり前の事を聞くのか?」

 

 そんな問いに、金髪の優男としか見えない王子は、あくまで自信満々に、傲岸不遜に告げるのだ。信じて疑わない確信を、彼にとっての事実を高らかに。

 

「それは、俺が神すら越える叡智をこの身に宿した賢者だからに決まっているだろう」

「――――」

 

 類稀な洞察力と、人間の域を超えた直感力で確信する。

 この男は掛け値なしに本気で言っている。そしてそう信じた、本物の愚者であると。愚か極まり力の差云々を気にしない――あるいは自身の麾下に付いたのなら、ヘラクレスの力すら自分のものだと思い込むような、真正の虎の威を借る狐であると。

 普通ならそれまで。しかしそのカリスマ性と弁舌の巧みさは一級以上なのは察せられる。そうでなければアルゴー号に集った乗組員達、アルゴノーツの英雄たちに船長だと認められはすまい。愚かさ極まり、反転した力を発揮しているのだ。

 

 ヘラクレスは笑い出したくなる。

 

 嬉しかったのだ。嬉しくて堪らなかったのだ。己の力を知り、なおも平然と受け入れて、さらにヘラクレスの力を自分のものとして使おうとする傲慢さが。

 度を超えた愚者の性質こそが、あらゆるものから外れたヘラクレスの友足り得る、世にも稀な気性なのかもしれない。愚かでなく少しでも賢明であれば、ヘラクレスには絶対に距離を置くものなのだから。これまで誰一人としてヘラクレスの友となれた人間がいない以上は、そう確信せざるを得ない。

 堪らなく愉快で、爽快な気分だ。なんて現金なのだろう、少し受け入れたような姿勢を見せられただけで、こうも簡単に心を開きつつある。出会って一言しか言葉を交わしていないにも関わらずだ。あるいは愚者とは己のことではないかとすら思ってしまう。いやきっとそうだ、変に超越者然として他を下に見ていたのは否定できないだろう。

 

「愉快な男だ」

 

 ふっ、と笑みを溢し、纏っていた武威を四散させて、穏やかに称する。イアソンは少しムッとしたのか言い返してきた。

 

「ではその愉快な男の下につく君は、私よりもっと愉快な男なんだろうな」

「は――」

 

 なんだその、口の減らない子供のような言い分は。そんな言い方ではアルゴノーツ自体愉快な連中だということになるだろう。負けず嫌いにもほどがある。

 イアソンと愉快な仲間達――そんな名称が浮かんできて、可笑しくて笑ってしまう。

 ヘラクレスが不覚にも思わず笑っているのに、周囲の戸惑ったような反応を見せているのを気にも掛けず、ヘラクレスはイアソンの早とちりを訂正した。

 これは確認しておかねばならないことだ。否と出ればそれで破綻する。

 

「まだ私はお前の船出に参加すると決めたわけではない」

「はあ? なんだ、せっかくオレが……この私が歓迎したんだぞ。感激して滂沱の涙を流し感謝する場面だろう、ここは」

「そこまでか? 大袈裟だな。……一つの了承を得、一つの質問に答えてもらえれればそれでいい」

「ああはいはい、解った。解ったよ。了承してやろうじゃないか。だから聞きたいことがあるならさっさとしてくれ。私は気が長く慈悲深い方だが、時間を無駄にするのは好きじゃないからね」

 

 まだ何も言っていないのに、あっさりと投げ渡される了承の言質に苦笑する。頼み事の内容を聞かないでいいのかと訊ねると、イアソンは至極当然のように言った。

 

「君はヘラクレスだ」

「……?」

「だから……解れよ。いいか? 君はヘラクレスなんだぞ? 豪勇無双の半神半人! 私の集めた英雄達が、揃って腰抜けになってしまう大英雄だ! 君の成し遂げた偉業の総ては真実だと証明されたも同然で、なら私の目的を達成するのに君の力を宛にするのは当然だ! ここまで言えば馬鹿でも解るだろう?」

「なるほど。では私の従者イオラオスと、我が友ケリュネイアの乗船を認めるのだな」

「えっ? 鹿を……? あ、ああいや、もちろん。一旦了承したんだから受け入れる。未来の王に二言はないからな、うん」

 

 流石に予想していなかったのだろう、ケリュネイアの乗船の許可申請に目を瞬いたイアソンだったが、自分の発言を思い返してなんとか頷いた。

 そんな様にすら好意的な笑いが出てくる辺り、いとも容易く誑し込まれてしまったらしい。いやこれは、単に自分が容易い手合だったというだけのことだろう。まったく嫌になる。しかし……不愉快ではなかった。

 

「ではもう一つだ。アルゴー号の船長、アルゴノーツを率いる首魁イアソンよ。私は貴様がコルキスの金羊毛皮を求めていることは知っている。しかし何故求めることになったのか、どうやって手に入れる気なのか、持ち帰れたとしたら金羊毛皮をどうするのかは知らない。それを私に聞かせるがいい。要は総てだ」

「うっわ……めんどくさ……。……いや何も言ってないぞ。本当だ」

 

 ばっちり聞こえていたわけだが、聞こえていなかったふりをする慈悲はあった。

 アルゴー号から降りてきたイアソンは、酒宴の席に我が物顔で座ると手の届く範囲にあった杯を取り酒を呷る。口を潤わせて、面倒臭そうながらも語り出した。

 

「あー……うん。話すなら()()からか。――私は先代イオルコス王アイソンの子だ。しかし先王が逝去した後、まだ私が幼かったのを良いことに、叔父のペリアスが王位を簒奪した。母は身の危険を感じ、女神ヘラの神殿に逃れたが、刺客を差し向けてきたペリアスに殺されたよ。だが流石この私の母だけあって咄嗟の機転が利いてね、私をヘラの像へ抱かせていたからペリアスも手が出せず命を拾えたんだ。その後は知っているかもしれないが、私は馬小屋臭いところでケンタウロスの賢者に育てられ、王権を取り戻すためにイオルコスに戻ってきたというわけ。だってどう考えてもペリアス如きより、私の方が遥かに優れた治世をおこなえるからね。民のためを想ってのことだよ。だが……ペリアスは余程王位が惜しいのか、およそ不可能と思われる黒海の向こう側……コルキスの国が持つ秘宝を手に入れろと宣ってきやがった。それを持ってくれば王位を返還するってね。しかし私に不可能はない、敢えてこの難題に臨み、成功させてペリアスの鼻を明かしてやって王位を取り戻すことにした。以上が旅に出る理由だ」

 

 ヘラ。

 

 その名が出たのに一気に機嫌が悪くなった。だがヘラクレスはそれを押し殺す。あの名を聞くだけで吐き気を催す、邪悪にして不倶戴天なるヘラが関わっていようが、イアソン自身の人柄や能力には関係ないと割り切るのは造作もない。

 イアソンはそこまで語り、次いで手段について語り出す。

 

「私は野蛮なバカとは違う。コルキスに乗り込んで、無理矢理に秘宝を略奪なんかはしないさ。向こうからしたら海の果てから来た連中に、いきなり秘宝を寄越せと言われるんだからね。普通に考えて拒否されるだろう。しかし平和的に話し合って向こうに条件を出させる。それをクリアして穏便に済ませるつもりだ」

「そうか……考えてはいるようだな。だが……」

 

 英雄という名の、腕っ節の立つ荒くれ者が四十人以上いて要求されるのだ。それはコルキスからすれば恫喝でしかない。

 旅の途上で何か、コルキスにとって金羊毛皮に代わる物を調達するしかないか。そう考える。しかしそれ以上に気掛かりな箇所があった。おそらく誰も気にしていないだろう、だがヘラクレスは気づく。気づける。幼少より親しい友の一人もおらず、ジッと遠目に人間を見続けたヘラクレスだからこそ。

 

「迂闊だな」

 

 ヘラクレスがそう溢すと、イアソンはまたもやムッとした顔をする。挑みかかるように噛み付いてきた。

 

「何がだい? 私のどこが迂闊だって?」

「貴様は自分で答えを言ったぞ。ペリアスとやらは王位を欲し、兄王が死した後を襲って簒奪したのだろう? 後の禍根を立つために貴様の母と貴様自身の命を狙いすらした。そして今、正統な王位継承権を持つ貴様が王位の返還を求めたというのにペリアスは拒んで、奴にとっておよそ不可能と思われる難題を出した。要はペリアスは、貴様にこの船旅で死んで来いと命じたに等しい。そして二度とイアソンが帰らぬものと確信している。であれば――例えコルキスより金羊毛皮を持ち帰ったとしても、王位を返そうとはしないのではないか?」

「あ……」

 

 イアソンは虚を突かれた顔をする。盲点だったとその顔に書いていた。しかしすぐに得意げな顔に戻る。短慮を思いついたのだろう。

 欠点の多そうな男だが、無駄に自信家で足元が見えておらず、些細な陥穽に嵌って身を滅ぼしてしまいそうだ。詰めの甘さが見て取れる。約束は守るもの、守られるものと考えているのも甘い。人としては美点だが、律儀に約束を守るような男が亡くなった兄弟の子から王位を簒奪するなんて真似など、するはずもないと気づいて然るべきだ。

 

「ふん。そうなったら私は奴を粛清するまでだ。私の手に掛かれば奴の命も儚い。約束を守らないのなら当然の報いだ」

「戯け。民が反発するだろう。見たところペリアスは暴政を敷いているわけではない。名君とは言えんにしても、それを暗殺なりしたと露見すれば王座を追われるのは貴様になる。それとも反発する民を貴様は力で抑えつけるのか?」

「そんなことするものか!」

 

 イアソンは本気で怒ったのか、顔を真っ赤にして怒号を発した。

 

「オレは王になるんだ! 皆がオレを王と讃え、オレに傅く総ての民が幸福に暮らせる理想の国を作るんだよ! そのオレが! どうして民を虐げねばならない?!」

「ならば民より国を追われれば、貴様は何も出来ないというわけだ」

「ぁ……」

「ペリアスが約束を守るなら良い。だがその手の男は王位を手放しはせんだろう。なら約束が履行されることはない。貴様は激怒しペリアスを暗殺したとする。そして貴様が王位に就けば不審に思う輩は必ず出てくるだろう。なぜペリアスが死に、王位を要求していたイアソンが王になったのだ、とな」

「………」

「調べる者が出てくれば、貴様がペリアスを殺した事実は露見する可能性は高い。何せ新王となった貴様の家臣となるのは長年ペリアスに仕えた者達だ。探られれば秘密を隠せる力を付けられていない貴様の所業は明るみに出る。本来は貴様がイオルコスの正当な王だったと主張しても、十年以上王位に就いていたペリアスの方が死んでいたとしても人望や権威は上と見做される。ペリアスを殺した貴様はイオルコスから追われるのはほぼ間違いない」

「な……なら! オレはどうすればいいんだ!? そんなことになるんだとすれば、オレのこの旅は完全に無駄になるじゃないか!?」

 

 イアソンは明晰な頭脳はあるのだろう。理路整然とヘラクレスが未来予想図を語るとそれが充分に有り得ると理解してしまい、混乱してしまい掛けている。

 しかし……なんだろう。ヘラクレスは自覚している。自分は頭は悪くない。だが人並外れているわけではなかった。イアソンの頭の出来が平均以下ではないなら、ヘラクレスに思いついたことを思いつけないとは考えられないのだが。こういうところも、自分と他人がズレているところなのだろうか……?

 

 内心首を捻りながらも、ヘラクレスはイアソンに自身の考えを伝える。彼とて好意を懐いた相手を、こうして言葉で嬲って悦べる性根はしていない。

 それにヘラクレスは、イアソンに肩入れしたくなっていた。ペリアスのような卑劣漢より、好意を持った男の方に味方したい。

 

「どうしたらいい、か。簡単な問題だぞ。今すぐにでも解決できる」

「そうなのか!? どうやって?!」

「いや……寧ろなぜ思いつかない? 私としてはやって当然のことなのだが……保険は何事にも不可欠だろう」

 

 思わず呆れてしまう。ヘラクレスはイアソンの腕を掴んだ。

 

「お、おい」

「どうやって、と訊いたな? こうやってだ」

 

 イアソンを肩に担ぎ上げる。肩車の形だ。狼狽えたイアソンの声を無視し、ヘラクレスはアルゴノーツに呼びかける。

 

「どうする。これから貴様達の船長は、帰還後の王位を盤石なものとしに向かう。ここで座して待つか?」

「――オレはついていくぞ。ヘラクレスが何をするのか……見たい!」

「僕もだ」

 

 真っ先に声を上げたのは、白髪に褐色の肌をした、槍と盾を持つ美貌の男の戦士だった。続いてテセウスも名乗りを上げる。

 ヘラクレスは白髪の槍遣いに誰何する。

 

「貴様の名は?」

「カイネウスだ。最強の英雄、大英雄と言われる『男』の手並、拝見させてもらうぞ」

 

 先程までヘラクレスの武威に呑まれていたのを恥じているのか、カイネウスは英雄に相応しい強気な顔でヘラクレスを睨んでいた。それに頷きを返し、背を向けると王宮に向かい歩き出す。アルゴノーツの面々は、互いの顔を見合わせると、何やら伝説に居合わせられる好機の臭いを嗅ぎ取って追いかけてきた。

 英雄船に乗る男達と、紅一点の女狩人がついてくる。ヘラクレスのすぐ後ろには当然といった顔のイオラオスと、カイネウスとテセウスが付き従っていた。その更に後ろに英雄達である。港にいた民衆は何事かと様子を伺ってくるのに対して、ヘラクレスは大音声を発した。

 

「――付き従えッ!」

 

 ビリ、と電撃が走ったような衝撃だった。打たれたように震えた民衆は動けない。

 しかし何度も繰り返す。付き従え! 付き従え! 付き従え! するとイオラオスが唱和し、テセウスとカイネウスが続いて、アルゴノーツが唱えた。英雄たちの咆哮に、イアソンもようやく乗ったのかヤケクソ気味に叫んだ。

 

「付き従え!」

 

 付き従え! 付き従え! ――民衆はその扇動に等しい叫びに支配されたかの如く、戸惑いながらアルゴノーツに続いてぞろぞろと歩き出した。

 頭数が揃う。しかし足りない。もっとだ。ヘラクレスとアルゴノーツは叫び続け、イオルコス国の中心を突っ切っていく。聞きつけた民や兵士が何事かと顔を出し、アルゴノーツとそれに付き従う民衆の数、迫力に気圧されて道を空け、そして戸惑いながらも後に続いた。

 

 これでいい。ヘラクレスは王宮の前まで来ると、イアソンを神輿にしたままさらなる大音声を発した。

 

「聴こえるかッ! イオルコス王ペリアスよ、イアソンが来た――今すぐにこの場に現れるがいいッ!!」

 

 ヘラクレスが民を囃し立てるように腕を突き上げると、訳が分からないままに彼らは喚声を上げた。

 これを無視できるはずもない。すわ叛乱かとペリアスは大慌てで王宮より姿を現す。隠れていればいいものを、出てきてしまえばこちらのものだ。ヘラクレスは笑い、己の上にいるイアソンを示した。

 

「これなるはイオルコスの正統なる王、イアソンである。此度のコルキスへの船出の成果による報酬について確認がしたい」

「な――」

 

 顔を真っ青にするペリアスに、イアソンは漸く理解に至ったのか余裕を取り戻していた。悠然と微笑み、黙ってヘラクレスに任せる。

 

「イアソンに王位を返す約束は、コルキスより金羊毛皮を手に入れてくれば果たされるものだと聞いた。イアソンはそのために我らを集めたと! では問うぞ、イオルコスの王よ。我らが長たるイアソンが約束のものを持って帰れば、確かに王位を返還するのだな? これを違えたのならば、天地に存在するあらゆる総ての笑いものとなるぞ!」

 

 民が聞いている。それだけだ。誤魔化せばいい、それだけでいい。

 だがここにはアルゴノーツがいた。約束した当の本人であるイアソンがいた。ペリアスは嵌められたことを悟り、震えるも、否定すればアルゴノーツが黙ってはいないと察してしまえた。

 顔を青くしたり、赤くしたり、ペリアスの全身が震える。しかし無数の視線の圧力に負け、絞り出すようにペリアスは肯定した。するしかなかった。

 

「そ、そうだ……」

「肯定したな? では違えるな。契約を違えたのなら、私が貴様に報いを与えに来る。そうなればこの地上に貴様が安息を得られる日はなくなるものと知れ」

 

 言うだけ言って、ヘラクレスは踵を返した。船出だ! アルゴノーツに向けて笑いながら言うと、アルゴノーツも事態を飲み込んで大口を開けて笑いだした。

 特にイアソンなど笑い死にしそうなほど、ヘラクレスの上で笑っている。

 

「あ――は……はは、ははは、はははは、ハハハハハハハ――!! 見たか?! 見たかお前たち! あのペリアスの顔! あの顔を! アハハハハハ! なんだ、なんだヘラクレス! 君は……最高じゃないか!?」

 

 大声で笑うイアソンが、上から転がり落ちないように抑えながら、ヘラクレスも釣られて笑う。クツクツと声を殺して笑っていると、カイネウスがヘラクレスの背中をバンバンと叩いて笑いながら声を掛けてきた。

 

「なんだよ、なんだ……?! オマエ……イアソンの言う通りほんっと最高だ! こんな笑える船出ならいつだって大歓迎だぜ、オレは! ああ、オマエが来てくれてよかったよ、こんなに笑わせてもらえたんだからな――!」

「そうか……楽しんでもらえて何よりだ」

 

 笑う。みんな笑っている。今この時、ヘラクレスは確かに人々の中心に居た。

 孤立して、孤高に生きてきた男が……。

 経験のない未知の体験に、ヘラクレスは珍しく……本当に珍しく、少なくともイオラオスの記憶にない――声を上げての大笑いを見せた。

 

 アルゴー号の冒険……アルゴノーツの仲間達。このギリシアに浮かび上がっていた異端は、この時に多くの仲間達と絆を結ぶ。

 ヘラクレスの齎す影響に、アルゴノーツの英雄たちがどのように変化するかは、この時はまだ誰も知らない……これから記される未来の、未知の物語だ。

 

 英雄たちの冒険が、はじまる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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6.1 アルゴノーツでの一時 (上)

前話あらすじ

言質を取るため集団心理と苛めっ子的陰湿なやり口を駆使し、現日倫理を利用するギリシア人の鏡〈ヘラクレス


今回と次回はコミュコミュのおはなし。





 

 

 

「綱は放したな? よぉし桟橋より離れェ、帆ォ張れェ――! 錨上げェ――ッ! 我が船の同胞(はらから)達よ(かい)を持て、左舷と右舷に十人ずつ別れ、力一杯に漕ぎ出すんだ! 出港ォ――!」

 

 イオルコスのパガサイ湾より船出を迎えた、ギリシア世界を代表する英雄達(アルゴノーツ)。意気軒昂としたイアソンの檄に応え、威勢のいい男達の返答が返る。

 船長なんだからと宣ったイアソンは、一度として櫂を握る気はないらしい。それに文句はなかった。船長だからというだけでなくイアソンはどう見ても非力で、アルゴノーツの中で最も弱いのではないだろうか。腕力も、武力も。故に端から戦力外と見做され期待されていない。

 逆の意味でヘラクレスも同様だった。ヘラクレスの場合、最初こそ櫂を握ったのだが力が強すぎ、どんなに手加減しても周りに合わせられなかったのだ。力が強すぎて船首が傾くのだから、漕ぎ手として失格であり船に乗っているだけでいいと端に追いやられてしまっている。

 尤も力加減に関しても一級以上であるヘラクレスが周りに合わせられなかったのは、故意だ。櫂を漕ぐのが面倒臭かったからではなく二つの懸念事項があった故に、わざと櫂の漕ぎ手から外されるように仕向けたのである。

 漕ぎ手からヘラクレスが外れても、アルゴノーツに反発はない。ヘラクレスがいる、それだけであらゆる困難を乗り越えるのに不安がなくなるのだ。無論アルゴノーツにヘラクレスに頼り切る軟弱者は一人もいない。いないが、やはり絶対強者の存在は、どうしても安心感に繋がるものなのである。

 

 ヘラクレスが懐く一つの懸念事項はケリュネイアだ。神格を持つ獣で、他者から見たら凄まじく価値のある宝なのだ。その毛皮を欲し傷つけようとする者が現れるかもしれない。だからできる限り自由な時間を作り、傍で見張っておこうと考えたわけである。

 そしてもう一つ。アルゴノーツの中に、イオラオスを性的な目で見る男がいた……。伯父として見過ごせない懸念材料である。断じてイオラオスの後ろの純潔を散らせるわけにはいかない。自分の旅の道連れが処女ではない……それは色んな意味で耐え難い、ある意味精神的な死活問題だった。間違ってもイオラオスにその手の趣味に目覚めては欲しくなかった。被保護者の身の安全を守る義務があると自認している。

 

 それにしてもこのアルゴー号とやらは、今まで見たことがないほど快速の船である。帆で風に乗り、櫂を漕ぎ、波を切って進む様は気持ちがよく、当たる潮風が心地よい。ヘラクレスは海上を往くアルゴー号と、その帆を操るイアソンに感心していた。己も帆の操術には通じているが、イアソンには勝てる気がしない。帆を操ることに関しては、イアソンはギリシア一の天才だろう。

 

 何もしないで漫然と佇むのは時間が勿体無い。誰かに話し掛けてみようか、とヘラクレスは考えてみる。今まで人間の友人が出来た試しはなかったが、此処でならできるのではないかという仄かな期待が芽生えていた。

 かといってケリュネイアという、人外の友を疎かにしたのでは不義理だろう。まずはケリュネイアの機嫌でも取っておくかと、ヘラクレスは船内の倉庫の一つに居場所を造られた、牝鹿の部屋に向かうことにする。

 

「む、貴様は……」

 

 藁を敷き簡易な獣の寝台となったそこに先客が居た。すわ不届き者かと殺気を放とうとして、しかし意外な光景が飛び込んできたことで殺気を霧散させる。

 そこには深緑の衣を纏った女狩人が居たのだ。四肢を畳んで座し寛いでいるケリュネイアの隣に座って、ケリュネイアに何かを語り掛けている。何が気に入らないのか、ケリュネイアは女狩人の髪を噛んで引っ張り「い、いたっ、痛い……や、やめてくれ……」と殆ど泣かせているではないか。

 だがまあ女狩人を苛めてはいるが、傍にいるのを嫌がってはいない。自分より弱いと見て苛めているのか、はたまた気に入らないことを言われて抗議しているのか……嘆息して声を掛ける。

 

「何をしている?」

「――ヘラクレスっ」

 

 跳ね起きて身構えようとする女狩人。しかし髪を噛まれたままだったからか、そちらに頭を持っていかれて体勢を崩した。

 眉を落とし弱った顔をしてケリュネイアを見るも、素知らぬ顔で牝鹿は女狩人の髪をモシャモシャと咀嚼しはじめる。やめてくれー! そう悲鳴を上げるのは、一応女の意識があるからなのだろう。再度嘆息した。

 

「やめてやれ」

(………)

 

 ヘラクレスが言うと、パッと離してやったケリュネイアが、感謝するんだなとでも言いたげに鼻を鳴らした。唾液で粘ついた髪を梳きながら、女狩人は涙目でヘラクレスを睨む。

 

「な、なんの用だ、ヘラクレス」

「………」

「……そんな目で私を見るなっ」

「ハァ……なんの用か、だったか。そのケリュネイアは私の友だ。友の許を訪ねた、そこに貴様が居た。それだけのことだ」

「む……そうか……」

「それより貴様は何者だ? そちらだけが私の名を知っていたのではやり辛い。せめて名乗れ」

「……私はアタランテ。女神アルテミス様を信奉するアルカディアの狩人だ」

「……」

 

 アルテミスの信奉者。その名乗りを聞いたヘラクレスは、ケリュネイアの当たりの強さの理由を察した。

 彼女の何処かから因縁の女神の臭いを感じ取り、女神嫌いが発作的に現れ、しかしアタランテ個人は気に入ったので傍にいることを赦した。だがアルテミスの気配のせいで苛めたくなったからあんな真似をしていたのだろう。ヘラクレスとしてはアルテミスは嫌いではない。単に二度と関わり合いになりたくないと思っているだけで……。

 アタランテは情けない顔でケリュネイアを横目に見た。それに、彼女は何用でケリュネイアの所に来たのか気に掛かる。害意があれば基本臆病なケリュネイアのこと、ヘラクレスに助けを求めるべく鳴き声を発するか、自分の所に逃げ込んでくるはず。獣はそうしたものに敏感だ。どれほど優れた狩人でも、不意打ちを仕掛けた上でさえ仕留めるのは困難である。

 

「同じ問いを返そう。アタランテ、貴様の方こそ私の友に何用だ?」

「それは……」

「答えられんといえば、なんらかの疚しい理由があったものと判断し、相応の対応をしなければならん。潔く正直に答えた方が賢明だと忠告しておこう」

「………」

 

 アタランテは答えたくなさそうだ。しかしヘラクレスが徐々に威圧感を発し始めると観念したのか、やや緊張した面持ちで口を開く。

 

「……この仔は、アルテミス様が欲され、汝に捕獲を依頼した牝鹿だと聞いている」

「そうだ」

「そして汝は見事、ケリュネイアの牝鹿を捕らえた。だが汝は自身の誓約に従い戦女神を通し、その女神よりこの仔を授けられたらしいな」

「ああ。それがどうした?」

 

 先を促すと言いづらそうに口をモゴモゴさせる。ヘラクレスに苦手意識がある故か、あるいは既にケリュネイアに拒絶されでもしたのか……。

 ともあれ此処で口を噤むのも情けない。アタランテは渋々白状した。

 

「……本来はアルテミス様の聖獣となられるはずだったんだ。なら幾ら戦女神よりヘラクレスの許に身を寄せるよう取り計らわれたとしても、アルテミス様の許へ向かうべきではないのか――と、そう説得しに来たんだ」

「………」

「な、なんだ……睨むな……すこしこわい……」

 

 悪気はないのだろう。しかし仄かに滲んだ怒気にアタランテは怯んでしまっていた。

 か弱い婦女子を怯えさせるのも悪い。なんとか怒りを抑え、ヘラクレスは固い声で問い掛ける。

 

「貴様の論理で言えば、確かに月女神へケリュネイアを捧げた方がいいのかもしれん」

「む、分かってくれるか」

「だが曲がりなりにも戦女神より授かったのだ、それを無碍にしては要らぬ怒りを買うことになろう。それに……貴様は私とケリュネイアを引き裂く気か? 先も言ったが私とケリュネイアは友誼を結んでいる。それとも『獣との友情など』と嗤うか」

「嗤いなどしない。私の兄はアルテミス様の聖獣だった。人と獣の間にも想いは通じると私は知っている」

「ならばこれ以上の問答は無用だ。ケリュネイアを手放す気はない」

 

 アタランテの目を見詰めて断言する。アルテミスの信徒故に話を聞かず、強引に事を進めようとするのではないかという危惧はあった。もしそんなことをするのなら、男女平等の理念に基づき行動する。

 殺気は隠している。全力で抑え込んだ。悟られてはならない。諦める気がないのなら一撃で気絶させ、縛り上げ、最寄りの島に立ち寄った時に置き去りにしてやろう――そんなヘラクレスの危険な気配は、類稀な狩人であるアタランテも気づかなかった。それだけ巧妙に隠されているというのもある、しかしこの程度の殺気も隠せずして、神々への害意を隠し通せる道理はない。ヘラクレスはさざ波一つ立てぬ静かな瞳でアタランテの答えを待った。

 

 アルカディアの狩人は、そのヘラクレスの瞳に本気の色と、ケリュネイアに対する真摯な友情を感じ取っていた。ふっ、と肩から力を抜く。

 

「分かった。私は既にある友情を引き裂いてまで、アルテミス様へこの仔を捧げようとは思っていない。この仔も嫌がってるから……」

「……分かってくれるか」

 

 安堵する。アルテミスの信奉者だというのが信じられないほど話が通じた。それが途轍もなく意外ではあったが、喜ばしいことである。

 友と言えるのは今のところケリュネイアとネメアーのみ。ネメアの鎧、武具と共に、ケリュネイアもまた手放せる存在ではない。無論ケリュネイアに愛想を尽かされたり、嫌われたりして、あちらから去っていくのなら見送るしかないとも思うが……。

 

 ホッと息を吐いたヘラクレスに、アタランテもまた心底意外そうだった。

 

「……印象と違うな」

「何がだ?」

 

 思わず口に出してしまったといった様子だったが、訊ねてみる。するとアタランテはバツが悪そうに目を逸らした。

 

「……汝は我が子を手に掛けたと聞いた。故に武勇は凄まじくとも、その内面は唾棄すべき外道なのではないかと邪推していた。私が糺せぬ強者だ、苦手意識を持っていたのだが……」

「――その認識は遺憾だ」

 

 カッ、と頭に血が上りかける。それを瞬時に封殺して、ヘラクレスは殊更冷静に真実を伝える。このことに関して誤解されるのは我慢がならない。また隠しておかねばならない事情もない。

 

「私が妻子を手に掛け、殺めたのは女神ヘラから狂気を吹き込まれたが故だ。下手人は私であり、私が咎を負うものとされたが……この罪は女神ヘラのもの。贖罪として勤めを課されたこと自体納得がいっていない」

 

 この船にはゼウスの意思が宿っていると聞く。しかし聞かれても構わない。何故ならゼウスはヘラクレスという対ギガースの切り札を破滅させようとするヘラを苦々しく思い、勤めをヘラクレスが終えれば裁きを下す権利を与えるとまで言っているのだ。

 この程度のヘラクレスの不満は聞き流すだろう。実際自分の境遇に置かれたら、誰もが我慢ならずに投げ出している可能性は高い。ゼウスからしてみれば、ヘラクレスを罰して禍根を作れば、ギガースとの戦争にヘラクレスが参戦しない可能性が出ると考えているはずだ。

 ギガースとの戦争、ギガントマキアには参加するつもりではある。味方してオリンポスとゼウスを勝たせてもやろう。大願成就はまだその先になるだろうから。

 

「そうなのか? 結婚と母性、貞節を司る神々の女王がそんなことを……」

 

 アタランテの美貌は明確に嫌悪に歪んでいる。その顔は言っていた。『何が母性を司る、だ。とんだ邪神ではないか――』と。しかし口に出しはしない。迂闊に言葉にすれば我が身の破滅を齎されると弁えている。

 狩人は頭を下げる。なぜ頭を? 意味が解らずにいると、アタランテは悔やむように謝罪してきた。

 

「すまなかった。勝手に誤解して、勝手に苦手意識を持ち、汝を避けていた。汝の騎獣である牝鹿に、許可もなく近づいたのも先入観からの短慮だった。悪かったと思う。この通りだ、赦して欲しい」

「――気にするな。誤解されるのには慣れている」

 

 それだけを、なんとか口にした。安心したような表情になるアタランテを、複雑そうに見る。

 こうして頭を下げて謝られるのは妙な気分だ。弱肉強食を良しとする、獣に近い雰囲気の狩人だと思っていたのだが、意外なほど律儀で筋が通っている。

 時間は余っていた。だからだろうか、どちらともなく相互理解を深めるように、互いの身の上話をはじめた。

 

「――そうか、それで月女神を信仰していたのか……」

「ああ。しかし意外だな……汝の信奉する神が冥府神、そして軍神とは」

 

 アタランテは赤子の頃にアルテミスに拾われ、彼の女神の聖域である森の中で育ち、聖獣によって見守られながら健やかに成長したのだという。故にその恩義から信仰し、彼の女神に倣い処女を守って生きていくことにした。これまでは慣れ親しんだ森で狩りに勤しんできたが、イアソンがアルゴノーツを結成する話を聞いて腕試しがしたくなり参加したらしい。

 

「死は神以外の何者にも訪れる人生の終着点だ。死に別れた愛する者達、親しき者達の安寧を願うのは可笑しな話ではあるまい。私は実際に冥府神に拝謁の栄誉を賜ったことがある。そして知った。彼の神は偉大だが愛に脆く、非情な神ではないと。死したる我が子らと妻の安息を願い、信仰するには充分な御方だ。軍神は――」

 

 そうだな、と一拍置いて言葉を選ぶ。意外なほどアタランテは、話を真剣に聞いてくれていたからだ。

 

「――その大器、まさに晩成せしもの。長じたならば必ずやオリンポスに名を連ねるに相応しい、ゼウスの子らの中でも突出した……ゼウスすらもが誇りに思う偉大な戦神と成られるだろう。今は大衆の偏見や、彼の神の司りしもの故に斯様に振る舞われておいでだが、私は彼の神の忍従の時を支えるべく信仰を捧げることにした」

「……聞いていた話と、今の汝の話とは、軍神から受ける印象が違うな。その心象を懐くに至った理由は何だ?」

「それは話せない。口止めされた。誰にも話すなと厳命された故に、お前はおろか誰にも話すつもりはない」

 

 命令は守ろう。しかしヘラクレスが信仰していることを口外するなとは命令されていない。そもヘラクレスに信奉されるなど慮外の出来事だろう。

 難しい顔をするアタランテと、向かい合って座っている。身を寄せてくるケリュネイアの首筋を撫でながら、訥々と語りを続けた。

 

「――汝は己の子を愛していたか?」

「無論だ。我が妻と同様に何よりも愛していた……違うな、()()愛している。それがどうかしたのか?」

「いや……善き父で、善き夫だったのだな……」

「そうで在りたいと願い、彼女達に相応しい夫であり父で在ろうと努めていただけだ。愛とは諦めであると何処ぞの戯けがしたり顔で語っていたが、私はそうは思わん。互いが互いに愛し続けられるように努力する。その意志が作る関係こそが、善き家庭を形成するに至るのだ。諦めではない、寧ろ諦めないもの。それが愛だ。諦めないものが愛故に、私のそれは永遠だろう」

「そ、そうか……ふ、ふふふ」

「……何か可笑しいか?」

「いや……まさか汝がそこまで熱心に『愛』について語るとは思わなくて……つい笑ってしまった。不快に思ったなら謝ろう」

「謝らなくてもいいが……」

「変だな。汝は変だ。力と容姿はまさしく豪勇無双、圧倒的な強者であるというのに、その内面は温かい人のものだ。父性……というのか? 私の父が、汝であれば……いや詮無きことだ……うん、ともかく汝は変人だということだ」

 

 その結論はおかしい。反論したい。しかしヘラクレスは熱を込め言い返しはしなかった。

 

 思えばアタランテは、見たところ十代後半から二十歳そこらといった若さだ。ヘラクレスとは十年近い歳月の隔たりがある。

 そんなうら若き女性が狩人として生計を立て、アルゴー号に乗り込みアルゴノーツの一員となっている。数奇な人生を辿っているなと、なんとなく不憫な気持ちが湧いてきた。ヘラクレスの方が余程だと、アタランテが知れば呆れてしまいそうな心情である。

 故にヘラクレスは、なんとなしに彼女の問い掛けから気になったことを訊ねてみる。愛について、我が子について話に上がったからだ。

 

「アタランテ。お前は己が子をその腕に抱きたいと思ったことはないのか?」

「それは……」

 

 疑問を投げられ、アタランテは言い澱む。何か含むものがあるのだろうか。

 

「何も狩人として、英雄として生きるだけが道ではない。これだと定めた道があるなら口出しするのは無粋なのだろうが……」

「無粋とは思わない。……実を言うと、汝の言う己の道という物が私には分からない。ただ流されるまま生きていた……自分の子を抱きたいかと言われれば、その願望がないとは言えない。しかし私はアルテミス様に倣い純潔を守ると決めている。だから……」

「私にはその決意が、簡単に揺らぎそうに見えるがな。その誓いを月女神に強要されたわけでも、誓いに対して強制力があるものでもないからだ。寡聞にして聞き及んだことがないが、月女神は自身の信徒が純潔ではないからと罰を下したことはなかったはず」

「………」

 

 怒りを見せても不思議ではないヘラクレスの断定的な指摘に、アタランテは気まずげに目を逸らす。

 ヘラクレスはまだ若い乙女を諭した。訳知り顔で導くのではなく、彼女には見えていなかった選択肢を提示するために。誘導したいのではない、諭したいだけだ。余計なお世話を焼きたいだけである。

 気分は近所の子供の人生相談に乗っているかのよう。内面が無垢な獣のように幼い気配のあるアタランテに、野生を感じてケリュネイアに近しいと感じてしまったが故だろう、余計なお世話だと拒まれるかもしれないが、年長者として言わずにおれなかった。

 

「月女神はお前が純潔ではなくなったからと、見捨てるような手合ではあるまい。寧ろ幼い頃からお前の世話をしていたのなら、アタランテが幸せになることを望むはずだ。それぐらいの良識と善良さは持ち合わせているはずだ」

 

 多分、きっと。持っていたらいいなと希望的観測を交える。外れていたら謝ろう。

 

「狩人として生きるか、家庭を持ち我が子を抱くか……それとも大望を定め、その道に邁進するか。あるいは柵を捨て自由奔放に生きる選択肢もある……それは自分で決めることだ。頑なになるにはお前はまだ若い。柔軟に生き……やりたいことを見つけ、確固とした道を断固とした覚悟を懐き往くがいい」

「……狩人として生きるのは、悪くないと思っている」

「悪くないとも。自然に向き合い、自然の中に死ぬ。それも一つの道だ」

「家庭を持とうと思ったとしても、伴侶としたい男などいない」

「条件を言えば、それに合う者を私が探してもいい。手伝おう、なんでも言うがいい」

「大望……夢はある。しかし非現実的だ。とても叶えられるとは思えない……」

「夢は叶わぬから夢だと? 違うな、諦めなければ必ず夢は叶う。何もせぬ内から膝を折る者に夢は掴めん。それを成し遂げてこその英雄だ。参考までに聞くが、お前の望みとは何だ?」

「……笑わないか?」

「他者の夢を笑う悪趣味は持っていない」

 

 アタランテは俯き、躊躇いがちに告げる。

 かぁ、と顔を赤くし、幼稚な願望であると感じながら。

 

「私は……捨て子だというのは話したな。だから……私は私のような子が総て救われて欲しい。誰もが父母に愛され、健やかに育って欲しい。……馬鹿げているだろう?」

「馬鹿げてはいない。正しい願いだ。しかし一つ思ったことがある。言っていいだろうか?」

「……ああ」

 

 厳しい指摘が来る。そう思い身構えるアタランテに、ヘラクレスはできるだけ真面目腐って言った。彼女にとって痛恨の一撃となる言葉を。

 

「その願いがあるなら、信奉するべきは月女神ではなく祭祀神ヘスティアなのではないか?」

「ぁっ」

 

 ヘスティア。ギリシア世界に於いて、国家とは家庭の延長線上にある。故に家庭の中心にある炉を司るヘスティアは、家庭生活の守護神であると共に、全国家の守護神でもあるのだ。故にヘスティアの神殿にある炉は、国家の重要な会議の場とされていた。

 それでいてヘスティアは総ての孤児の保護者であり、常に身につけている青い紐は捨てられた赤子を抱くためのものであるとされる。

 

 アタランテの願いは、ヘスティアへの信仰とも言えた。信奉する神を間違えてはいないかと指摘され、アタランテは可哀相なぐらい顔を青くして固まってしまう。

 

「……私は二柱の神を主に信奉しているが、他にも鍛冶神や戦女神にも敬意を持っている。何も月女神だけを戴かねばならぬ理由はないはずだ。不安なら念のため、月女神に供物を供儀し、祭祀神も信奉してよいか訊ねればいいだろう?」

「そ、それもそうだな……いや! それぐらいきちんと考えていたに決まっている!」

「……そうか。ああ、すまない。余計な助言だったな」

 

 アタランテの名誉のために、敢えて引いて答えを譲る。

 なんとなく話を続ける空気ではなくなった。折り合いもいい。そろそろお開きとするかと立ち上がると、ヘラクレスは本心からアタランテに感謝した。

 

「人とこれだけ長々と言葉を交わしたのは随分と久しいことだ。お蔭でなかなか楽しい一時を送れた。感謝するぞアルカディアの狩人、アタランテ」

「む……こちらこそだ。汝とのこの時間は有意義だったと思う。それと……その……」

 

 言いたいことがあるが、恥ずかしくて中々口に出せない素振りでアタランテは頬を朱に染める。なんとも愛らしいことだと微笑ましく思って見守っていると、アタランテは決意を固められたのか握手を求めてきた。

 どういう意味か解らず視線で問うと、麗しの美貌を持つアタランテはわざと強い語気で捲し立てた。

 

「汝は私の夢を笑わず、幾つかの道を示し導いてくれた。この恩にいつか報いたいと思う。それとは別に汝とは友誼を結びたいと思った。それだけだっ」

「そういうことなら、この手を取ろう。性別を超え、歳を超え、生まれと育ちも超越し褪せぬ友情を誓おう」

 

 さらりと重いことを言いつつ握手すると、手の大きさの差からアタランテの手を半ば包み込む形になってしまう。アタランテは苦笑した。距離感はともかく情が重いぞと。

 重いのではなく深い性質なだけだと反論すると、アタランテは可笑しそうに小さく噴き出した。漸く見せた笑顔にヘラクレスは頬を緩める。

 

 こうして、ギリシア最大の英雄と、アルゴノーツの紅一点は縁を結んだのだ。

 

 ――その縁とは、意外なほど長い付き合いになることを、二人は心の何処かで予感していた。

 

 

 

 

 

 




アタランテ(パパってこんな感じなのかな……パパクレス……)


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6.2 アルゴノーツでの一時 (下)

 

 

 アルゴー号が波を捕まえ、張られた帆が風を掴んだ。

 後は櫂を漕ぐまでもない、海と風の流れに任せれば、コルキスへの航海の途上にある最初の中継点『レムノス島』に到達するだろう。

 アルゴノーツの一員である預言者の一人イドモンがそのように予言する。件のレムノス島にまでは、遅くとも半日もかからずに辿り着くだろうと。ただその後の出来事についてはまだ分からないと、何故か鼻の下を伸ばしながら言った。

 一言で言えば助平親爺の顔である。だらしないったらない。良い歳した中年親爺が。

 

「突然すまん。ヘラクレス、折り入って頼みがあるんだが……」

 

 訝しげにイドモンの様子を窺っていたヘラクレスに、アルゴー号の甲板から声を掛けてきたのはヘラクレスよりやや年配の男だった。

 年の瀬は四十代手前だろうか? 一般的な勇士の纏う青銅の鎧とマントを羽織った、歴戦の風格を漂わせている。浅黒い肌に黒い髪と無精髭、厳つい風貌に反して穏やかな眼をした彼は、甲板から船首で風に当たっていたヘラクレスに近づいてくる。

 自分が有名で傍目に見ただけで名前を知られようと、こちらはそういうわけにはいかない。ヘラクレスは誰何する。

 

「名は?」

「サラミス島の王テラモンだ」

「………」

 

 何故に王がアルゴノーツに加わっているのか……。

 アドメトスもそうだが、王が国を空けて冒険に出るなどヘラクレスの感性では信じられない。微妙な気分になりながら、早くも船旅に飽き始めていたヘラクレスは暇潰しのために話に応じることにする。

 

「……いいだろう。無聊を慰める手段が思いつかずに悩んでいたところだ。貴様の頼みとやらを聞くだけはしてやろう」

「感謝する」

 

 我ながら一国の王に対する態度ではないと思ったが、テラモンの人柄を図るには丁度いい。様子を窺いながら言うと、テラモンは至極あっさりと王に対するには無礼な態度を受け入れた。

 自覚がなく興味も関心もない故に、ヘラクレス自身完全に忘れているが彼もまた王家に連なる者。ミュケナイ王国の正統な王者となる資格を持つと見做され、主神ゼウスの子でもある半神半人なのだ。彼の血筋と有する資格だけで、ギリシア世界に於いてほぼ総ての人間が目下の存在になるのである。加えて大英雄と称するしかない偉業の達成者でもあった。

 ヘラクレスの『無礼な態度で器を図ろう』という考えは破綻している。彼の態度は当然のものであり、それに反感を持つのは身の程知らずの愚か者だけなのだから。むしろヘラクレスのそれは鷹揚で余裕に満ちた、寛大なものであるとテラモンに認識された。なんと風格のある方なのだ……テラモンは敬意を持ってヘラクレスに礼を示す。

 

「貴殿には関わり合いのないことだが、わたしは妻を亡くしてな」

「む……」

「ああ、いや、気にしないでいい。悲しくはあるが割り切った。それよりもだ、困ったことに妻との間に子宝に恵まれなかったんだ。わたしに胤がなかったのか、妻が不妊の畑だったのかは分からんが……このままだとわたしの国を継がせるべき子がいないままになる。そこでわたしは新たに妻を娶ろうと考えているんだ」

「……断っておくが、貴様に宛てがえるような女に心当たりはない。私と縁戚になりたいのなら諦めるといい」

「そんな大それたことは考えてないぞ」

 

 そうは言うが、ヘラクレスは早くもテラモンとの会話を終わらせたくて仕方なくなっていた。

 妻を亡くした。だが割り切り、早くも再婚しようとしている。

 悪いとは思わない。テラモンのように割り切れないでいる己が女々しいだけなのだ。それに……妻メガラはヘラクレスの考え得る限り最高の女だった。どんな女を見ても、メガラと比べて一段も二段も格が落ちて見えるのである。

 メガラは美しかった。が、誰よりも美しかったわけではない。探せばいる程度の美、家庭的なところも珍しくはない。それでも……愛情補正か、思い出補正か……メガラは、どんな女神よりも遥かに美しかったと思っている。

 

 テラモンは気遣いのできる男だ。同時に他者の顔色を窺うことにも長けている。危機意識も高い。そんなふうに、心の動きに敏感な男だから、テラモンはヘラクレスが疎ましく感じつつあるのを悟る。(何かマズイことを言ってしまったか……?)テラモンは内心首をひねる。しかし折角話し掛けたのだから、変に話を流されては少し困る。

 あまり長々と前置きをしたら、ヘラクレスから追い払われるかもしれないと考えたテラモンは、早々に本題に入ることにした。

 

「前妻との間には子に恵まれなかったが、新たに妻を娶れば子を成せると思っている。しかしそれでも確実に生まれる確証はない。そこでヘラクレス、貴殿に将来生まれるかもしれんわたしの子の名前を考えて欲しい。男児のだ」

「……? 待て、まるで意味が分からんぞ」

「名付け親になってほしいだけだ。他意は……なくはないが、彼の大英雄が名付け親となれば箔がつくというもの。頼む、男児の素晴らしい名を考えてはくれないか? 生まれたら我が子に貴殿への恩義も語り継ぐ。わたしも貴殿に従おう。だから……頼むっ」

 

 テラモンは必死だった。

 

 彼は分かっていたのだ。前妻との間に子が生まれなかったのは、自身に胤がないからなのだと。テラモンは前妻と契る前より女の体を知っていたが、一度として子供を孕ませたことがないのである。

 どう考えても原因は自分だ。自分の子供は望めない。子孫が残せない。男として、王として、これ以上ない屈辱だった。

 そこでテラモンはイアソンのアルゴノーツに参加することを決意した。イアソンは女神ヘラのお気に入りだという。ヘラは結婚も司り、出産や妊娠などに関する権能を持つ娘達を持っている。イアソンに頼めば自分も子を授かれるはずだと考えた。

 

 しかしヘラクレスがアルゴノーツに参加したことで考えが変わった。

 

 ゼウスの子である。しかも人の身でありながら、神に匹敵する武勇を持つという大英雄でもあった。ならば確実にゼウスに気に入られ眼を掛けられているはずだと踏んだ。ヘラクレスがテラモンの子の名付け親になったとなれば、ゼウスは気を利かせて子供が生まれるように取り計らってくれる可能性はある。

 どうせ生まれるなら、ヘラよりもゼウスに子を授けてもらいたい。ヘラクレスに名付け親になってもらえるなら最高だとテラモンは考える。

 

 そんな打算を知りもせず、ヘラクレスは一応頼まれるまま思案した。こうまで必死に頼まれれば、名前の一つぐらいは考えてもいいという気になっている。三人の子供達の中で、自分で名前を付けたのは娘だけだ。息子達はメガラが名付けた。子を成す前に、男の子ならメガラが、女の子ならヘラクレスが名付けようと約束し合っていたから。

 故に男児の名を考えるのはこれが初。折角なら勇ましい名を考えてみよう。そうして思案することしばらく、ヘラクレスは重々しくテラモンにその名を告げた。

 

「……アイアスだ」

「っ?」

「貴様が子を授かったのなら、()()()()と名付けるがいい」

 

 おっ、おお! 声を上げて感激し、涙すら流しながら己に縋り付くテラモンに、ヘラクレスは曖昧な顔で慰める。大袈裟な男だと呆れながら。

 ――果たしてアルゴー号での冒険を終えた後のテラモンは、数年の後に大恋愛の末、子を授かった。その子供は後に英雄として名を馳せる稀代の盾戦士、七枚の花弁を咲かせし大アイアスその人であり……己の名はヘラクレスにつけられたものだと、生涯に亘って誇りとし続けたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 謎の男泣きに崩れ落ちたテラモンは、ヘラクレスに従うことを固く誓った。何かあれば呼びかけて欲しい、すぐに駆けつけて力になると。

 要らん、と言い捨てれば面倒臭くなると考えたヘラクレスは、これまた曖昧に頷くに留めた。意味不明なほど大袈裟でも感謝されて悪い気はしないし、彼に頼る未来がないとも言い切れない。縁と貸しは作っておくに限るかと、安い値札を心の中でテラモンに貼っておく。それなり以上に失礼な認識だったが、こと戦力計算に於いてシビアな価値観を持っているのがヘラクレスだ。

 死と隣合わせの乾いた死生観から来る冷徹さではない。単純に、純粋に淡白なのだ。これはヘラクレスが国家を単騎で傾けるのを容易としているが故の感覚である。国家の興亡を胸三寸で決められる暴力災害たる存在からしてみれば、テラモンに下した評価はまだ甘く優しいものだと言えるだろう。

 

「なんだ、また妙なことでも仕出かしたのかよ?」

 

 今度はカイネウスである。不敵に笑いながら声を掛けてきた男に、ヘラクレスはふと彼に纏わる噂を思い出した。

 先日アルゴー号の中で小耳に挟んだ程度だが、なんでもカイネウスは元女であるという。ポセイドンに強姦され、悲嘆に暮れていたカイネウス――カイニスは、代償としてなんでも願いを叶えてやると言われ、もう二度とこんなひどい目に遭わなくても良いように、自分を不死身の体を持った男にしてくれと願ったことで男になったらしい。それを嘲笑を滲ませながら語っていたのは……有翼のゼテスとカライスだった。

 

 悪意ある解釈かもしれない。本当はカイニスからポセイドンに願いにいき、体を差し出してから願いを叶えてもらった可能性もある。いずれにしろ胸糞の悪い気分になり、その場から離れたものである。不快な話を面白おかしく語るカライスの神経を疑った。奴ら兄弟とは仲良くはなれんなと見限った瞬間でもある。

 

「さてな……子供の名付け親になってもらいたいと頼まれ、名を考えてやっただけだ。ああも喜ばれてはこちらの方が困惑してしまうが……」

「へぇ? 煩わしいってんなら無視すりゃよかったじゃねえか。なんだかんだ暇なんだな、大英雄様はよ」

「煩わしいのは貴様だ。……()()を消せ。それとも私の無聊を慰めに来てくれたのか?」

 

 カイネウスから感じられる隠された殺気を言い当てる。するとカイネウスは獰猛な笑みを溢した。ニヤニヤとした品のない笑みに、ヘラクレスはにこりともしない。

 本気で煩わしいだけだ。挑発のつもりなのだろうが――生憎と。子猫に牙を剥かれたとて、本気で怯えたり警戒する獅子はいないだろう。柳に風と涼し気な顔を崩さないヘラクレスに、カイネウスは殺気を漂わせながら肯定した。

 

「応よ。オレも暇でな、天下無敵の最強さんの力が見たくなっちまった。ちょいと運動に付き合わねえか?」

「運動か……」

 

 鎧を外して甲板の真ん中に立ち、上半身裸で手招きするカイネウスに対してヘラクレスは思案する。にやついた顔には、初日の自分の怯えで忘れていた不死性を思い出しての自信が貼り付いている。ヘラクレスは溜め息を吐きたい気分だった。

 

「……いいだろう。相手をしてやる」

 

 ヘラクレスはカイネウスの驕りを的確に見抜く。憐れにさえ見えた。仮染めの不死だけが自信のもとであるのは軽薄で、神様から恵んでもらった力で得意になっているのは滑稽である。

 才気はあるのだろう。だが飛び抜けたものではない。

 鍛錬はしているのだろう。だが歴戦の猛者には届かない。

 不死身ではあるのだろう。だが――幾ら不死身でも、無敵ではない。

 少し教育してやろう、とアタランテに近しい年頃の若者に対して、ヘラクレスは意図的に年長者として振る舞うことにした。そんな義理はないが、放っておけばその傲慢さで身を滅ぼすだろうと確信したからである。

 

 鎧を脱ぎ、上半身を晒すと、カイネウスは口笛を吹いた。健康的に日焼けした肌には満遍なく筋肉が張り詰められ、左肩には獅子神王の牙の痕が残っている。

 気負わずとも漲る力の波動に、カイネウスは本能的に畏怖を懐きながらも、どこかで惹かれる自分がいるのを無視して強気に笑ったのだ。

 何事だと仲間達が集まってくるなり、二人を囲んでくる。イオラオスが書物にペンを走らせているのを横目に見つけて笑ってしまいそうになるのを堪えた。

 人だかりが出来ていく中、カイネウスが言った。ヘラクレスは肩を竦め、返す。

 

「知ってるかもしれねえが、オレは不死身だ。手加減は要らねえ。オレは殺す気でやるぞ」

「構わん。貴様に()られる私ではない。ついでに遊びも交えてやろうか」

「あぁ? 遊びだぁ……?」

「貴様は弱い。傲り高ぶる前に、その鼻を圧し折ってやろう。――貴様が疲れるまで存分に打たせ、その後に私は一撃のみ反撃する。丁度良いハンデだと思わないか? 壁を知れ未熟な戦士よ」

 

 腰を落として戦闘態勢を取る。

 カイネウスはヘラクレスの言葉にポカンとして、その意味を呑み込んだのか顔を真っ赤にして怒りを露わにした。

 もはや殺気を隠そうともせず、カイネウスはそれ以上の言葉を費やさずに仕掛けてきた。

 

 カイネウスの性格上、こんな挑発をされて、簡単に我を見失いはしない。それが余裕のない攻勢を仕掛けたのは、彼自身も理解しているからだ。彼我の格の違いを。

 認めたくない。なんのために不死身の体を手に入れたのだ。

 認めたくない。不死身なのにヘラクレスに恐怖してしまっていたことを。

 誰にも殺されないという自信を失わないために、カイネウスはヘラクレスに喧嘩を売った。最強の英雄を自分の当て馬にしてやると意気込んだ。

 

 カイネウスが鋭い拳を突き込む。ヘラクレスは最小限の所作でその甲に己の手を添えて受け流す。体勢を崩さず動作を連続して、不死身の戦士は果敢に拳を、肘を、額を、膝を……ありとあらゆる打撃をヘラクレスに叩き込む。

 その総てを受け、逸らし、透かし、捌き、完全に見切って完璧に処理する。ヘラクレスは冷めた目で、灼熱の呼気を吐き続けるカイネウスが疲弊するのを待った。

 

 アルゴノーツの面々は、最初はカイネウスを嗤った。おいおい一発も当てられないのか、と。しかし一時間以上もカイネウスが打ち続け、その総てを完全に遮断され続けるのを見ると、次第にアルゴノーツのメンバーも黙り込んでしまう。

 珠のような汗を噴き出し、激しく動く度に汗を散らすカイネウスの息は完全に上がっていた。ヘラクレスはそれを見守り、時折りカイネウスの顔を覗き込む動きを混ぜる。もう終わりか? そう言われているようで、激怒したカイネウスが気炎を燃やす。

 

 だがそれまでだ。誰がどう見ても限界を超えて、疲労困憊したカイネウスの体のキレは見る影もない。ヘラクレスは拳を握った。

 

 ギュゥゥウウウ! ――圧迫される。圧縮される。一つの世界がヘラクレスの拳に握られていく。その圧力に総ての者が圧倒され――その矢面に立ったカイネウスの顔に、絶望が過ぎった。

 

「不死の身に感謝するといい。これだけでは死にはしないだろう」

 

 歯を食い縛れとは言わなかった。ただ拳を振り抜いた。

 カイネウスがノロノロと防御の姿勢を取ろうとしたのを無視し、その水月に拳を掬い上げるように放つ。

 直撃した瞬間、不死でなければ確実に死んでいる衝撃がカイネウスを貫通した。

 吹き飛びはしない。飛ばないように工夫したのだ。だがカイネウスはもんどり打って転倒し、全身を赤黒くするほど藻掻き苦しんで悶絶し、甲板の上で腹を抱えて転げ回った。血反吐を吐き、吐瀉を吐き、驕りも自尊心も何もかもを砕け散らせ。

 

 ヘラクレスは嘆息する。本当にただの運動程度の感覚だった。

 

 沈黙の帳が落ちる。はたと、それに気づいた。やりすぎたか? 今更のようにそう思い、また初日の空気が戻ってきつつあるのに苦笑いしたくなる。

 まあ、仕方ない。ヘラクレスにとってはカイネウスのための一撃だったが、他から見たらたちの悪い弱い者苛めに見えたのだろう。或いはヘラクレスが化物にしか見えなくなったか。

 

 と、そんな時だ。

 

「――やるなぁ! 流石はヘラクレスだ。折角だ、君たちもヘラクレスに挑みなよ。私に君たちの勇姿を魅せてくれ」

 

 舵の方から声がした。

 イアソンである。飄々と、なんでもないように。何も脅威や恐怖を感じていないように彼はアルゴノーツをけしかけていた。いっそ無責任さまで感じる。

 

「? どうしたんだ? なんで挑まない。武力の頂点がそこにいるんだぞ? 挑まないなんて英雄らしくないだろう」

 

 心底不思議そうなイアソン。それに、誰かが笑った。

 ヤケクソぎみである。飛び出したのは誰だったか――まずはその男は舵の方まで走りイアソンを捕まえた。

 

「なっ!? 何をする?! 私は船長だぞ! 船長にこんなことをして赦されるとでも――」

「うるせえ! まずは言い出しっぺからやれや!」

 

 ヘラクレスは、自分の前に蹴り出されてきたイアソンを見下ろす。

 みっともなく尻もちをつき、唖然とした顔で自分を見上げる船長を。

 

「………」

「………」

「………」

「………や、やあヘラクレス。御機嫌如何かな?」

「悪くない。遊んでいくか、イアソン」

「い、いやぁ……遠慮するよ。ほら、私って頭脳労働担当だから。君みたいな筋肉担当とは部署が違うというかジャンルが違うっていうか。歴史の史書に記される私と、伝記に記される君とでは、生きる世界が違うだろう? そういうことだから……」

「ふむ。しかし見識は広めるべきだろう。一つ遊んでいけ。なに、何事も経験だと言うだろう?」

「……見逃して……くれないか……?」

 

 濡れた瞳で懇願してくるイアソンの額に、そっと手を触れて――デコピンする。

 

 あピャっ――間抜けな悲鳴が一つ。無様に転がり柵にぶつかったイアソンは、額を抑えながら怒声を発した。

 

「おっ、オレの叡智を宿した頭になんてことを!? 頭に筋肉しか詰まってないくせによくもやってくれたな!? 手加減しろ馬鹿! この馬鹿! アホ! 助け舟出してやったのになんだこの仕打ちは?! くっそもう赦さん、海より深い私の慈悲はたった今枯渇したぞ! みんなやれぇ! 私に続け、あの筋肉野郎をぶちのめせ! これは船長命令だぁ!」

 

 ――その。イアソンの命令に。

 

 男達は互いに顔を見合わせて、吹き出すように笑い出した。

 笑いながら……上半身の服を脱ぎ、ヘラクレスに向けて拳を鳴らしながら歩み寄る。

 

「――ってワケだ。すまねぇなヘラクレス。全員で掛からせてもらうぜ」

「悪く思うなよ。おまえはヘラクレスだ。むしろ手加減してください!」

「うぉぉおお! 俺は今から顔面殴るフリするから優しく倒してくれ!」

「おぉおお! おれの妹を嫁にやるからおれだけは見逃してくれぇ!」

 

 口々に情けないことを言いながら、男達はヘラクレスに殴りかかってくる。

 それに、思わず笑ってしまっていた。

 男達に応え、ヘラクレスは優しく拳を作る。そして期待に答えて、言った。

 

「いいだろう……()()()

 

 ――それなんか意味が物騒な感じじゃないですよね!?

 誰かの悲鳴で、船は喧騒に満ちる。

 一人、また一人と、男達が空に舞い。ヘラクレスに挑み、一撃で返り討ちにされ、空を舞うのがアルゴー号での定番な光景となっていく。

 

 そんな……のどかな時間。半日後、レムノス島が見えてきた。ヘラクレスはなんとなく、イアソンに感謝しなければならない気がして、また借りができたというのに、それが無性に嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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6.3 レムノス島に醜女を視る

 

 

 

 レムノス島の浜辺に乗り上げたアルゴー号から、アルゴノーツの面々は続々と島内へ乗り込んでいく。

 

 水と食糧の補給のためだ。食糧などを求めて来島したアルゴノーツを、島の住人らしい女達は盛大に歓待する。あたかも待ち侘びた救い主を迎えるかのように。

 はじめは戸惑ったアルゴノーツだが、歓迎されて悪い気はしない。酒宴を開くという女達に誘われるまま、石造りの神殿にまでやってきた。しかし何気なく辺りを見ていたイアソンが、此処に来るまでに男の姿は見られず女しかいないことに気づく。

 なぜ男が居ないんだ? その疑問は当然のもの。王権とはアマゾネス以外では基本的に男のものである。この島に王がいるならそれは男でないのはおかしい。そして王ならば出迎えるか挨拶の使者を出してくるはずだろう。イアソンの当然の質問を受け、トアス王の娘だというヒュプシピュレは、アルゴノーツの頭目イアソンに事情を説明した。

 

 此処レムノス島の女達は、アプロディーテを信仰・崇拝しなかった故にアプロディーテから呪われたのだという。その呪いは女の全身から常に悪臭を発するというもの。

 男だって人間だ、臭い女と一夜を共にしたいとは思えず、そも近くにいることすら拒絶するようになった。男達はトラキア付近から略取してきた女を夜の共にし、それを侮辱と取った女達は夫や父親を皆殺しにしたという。

 

「……皆には言えないことだけど、わたしだけは父王を船に乗せて逃したわ。王の血筋ということでここの女王にされてしまったけど……夫や父親を平気で殺すような女達の王様なんて、本当なら真っ平よ!」

 

 ヒュプシピュレは激しながらそう吐き捨てる。その体から悪臭はしない。夫や父親を皆殺しにし、月日が流れたことで呪いが解かれたのだろう。

 猛烈な不快感に襲われた。一刻も早くこの島から出ていきたいと思うほどの嫌悪感に顔を顰める。

 何が不快なのか、何を侮蔑するのか。愚問である。

 

(アプロディーテ……)

 

 美の女神、愛の女神、性の女神――総じて春の女神とされる神格。己を崇拝しなかった、それを理由に呪いを振り撒く女の醜い気稟を隠しもしない、品のない女の神。

 無論それはヘラクレスの気に障った。内心吐き捨てる。徒に人を罰する器量の小さい女め、この島にいた女の悪臭は貴様の心魂より漏れ出た本性だろう、と。美しく飾った体と顔も、薄皮一枚除いて裡を覗けば、さぞかし濃厚な腐臭が漂うだろう。

 だがアプロディーテに対するのと同等に不快なものもある。その一つはアルゴノーツの振る舞いだ。男の居ない島ゆえに子を成せず、水と食糧を提供する代わりに英雄達の子種を求めてきたのだ。断ればいい、とは言わない。提供されたものへの対価に子種を求めるのなら、やむを得ないとヘラクレスも判断する。

 しかしヘラクレスにその気はなかった。女達が秋波を送ってきても完全に黙殺する。宴の席だったが堪りかねて外に出た。悪臭はなくなっているが、女達の媚びる目が堪らなく不快だったのだ。

 

(男の性だ、女にだらしなくなる気持ちは分からなくもない。だが……)

 

 いくらなんでも、デレデレとし過ぎてはいないか。女を連れてどこかに向かう男の姿を見る度に、仮にも仲間である男の情けない顔に反吐を吐きたくなる。

 仕方ない。見目は悪くない女達だ。誘われればその気になるのは……仕方ない。

 だが旅の目的を早くも忘れていそうなのはどうなんだ? 頭が痛くなる。やむをえまい、とヘラクレスは進んで嫌われ役を買って出ることにした。三日だ、三日待ってもここから出ていこうとしなければ、脅しつけてでもアルゴノーツを船に戻す。レムノス島にいれば子を成して幸せに成れる者も出てくるのかもしれないが、ヘラクレスとしては三日待つというのは最大限の譲歩だった。

 

 と、そんなヘラクレスの視界に、見知った男の姿が掠めていくのが見えた。

 

(イアソン……)

 

 その男はヒュプシピュレを連れ、夜の闇の中に消えていっていた。なんとなく安堵するが複雑な思いでそれを見送る。ヒュプシピュレはこの島の中では唯一まともだ。その女を選んだイアソンの見る目は確かなものなのだろう。

 しかしイアソンのだらしのない顔ときたら……ヘラクレスも呆れるしかない。

 やることもないのだ、船で三日を過ごしていよう。どのみち誰かが番をしていなければならないのだ。

 

 そんなヘラクレスに、近づく者がいた。一瞥すると、この島の女である。

 

「あの、ヘラクレス様、ですよね」

「………」

「あたし、ヘラクレス様にお慈悲を賜りたいです。ほら! ヘラクレス様が一番いい感じがするから!」

 

 女は優れた容姿をしていた。その態度にはしかし、水と食糧の対価なんだから、当然の権利としてヘラクレスを選んでやった――という高慢な態度が見て取れる。

 ヘラクレスは堪える気もなく吐き捨てた。

 

「臭いな」

「……え?」

「鼻が曲がる。女神の呪いが染み付いているのではないか?」

「えっ!? そんなことは……!」

 

 指摘され、女は慌てて自身の体臭を確かめるように鼻を鳴らした。ヘラクレスは目を細め、侮蔑する。

 

「ああ、臭い。哀れだな、呪いが魂にこびりついている。その悪臭は貴様の心肝より漏れ出たものだ。如何な理由があれ、己が夫と父を手に掛けた貴様らの性根は腐り果てている。それが臭いの元なのだろう。――寄るな毒婦、臭いが移る」

「なっ!?」

 

 女神の所業が原因である。臭いからと妻を相手にしなくなった夫の責任でもある。だが悪臭をどうにかしようとはせず、真っ先に夫と父を殺すことを選んだ女達は、ヘラクレスの目からすると吐き気を催す畜生でしか無い。例え絶世の美女であろうと、そんな性根の女には、例え神々に命じられたとしても指一本触れたくもなかった。

 女に背を向ける。激怒した女が喚いて、ヘラクレスの背中に短刀を突き出した。無論刃物を抜き放った気配は感じている。しかし完全に無視した。躱すまでもない。女の短刀がヘラクレスの背中に当たるも、その刃先は皮を破ることも出来なかった。ヘラクレスの肉体の尋常ではない筋肉密度が、貧弱な女の腕力で突き出された短刀の切っ先を食い止めたのだ。

 

 存在自体を黙殺して去っていくヘラクレスに、女は唖然として。我に返ると癇癪を起こしたように怒鳴り散らす。

 

「おまえは対価を拒んだ! あたし達の出す水と食べ物に手を触れる資格はないぞ!」

 

 言われるまでもない。ヘラクレスは船に戻った。

 そこには意外なことにイオラオスがいて、少し驚いてしまう。

 性欲の盛んになる年頃だ。にも関わらず女達の誘いに乗っていないらしいイオラオスに問い掛ける。

 

「どうした、こんなところで。女達に求められなかったのか?」

「伯父上……」

 

 イオラオスは情けない顔をしていた。眉を落とし、清らかな身の少年はぶるりと震える。

 

「おれだって男だ、そりゃあそういうことにも興味はあるし、体験はしたいよ。でもあれはない、目がギラギラしてるんだぜ? 怖くなっちゃったよ……」

「………」

「あっ!? 笑ったな?! 伯父上、今絶対笑っただろ!?」

「笑っていない」

「笑った! 見たもん! 今絶対笑ったって!」

 

 顔を真っ赤にして怒鳴るイオラオスに、ヘラクレスは堪えきれず声を上げて笑ってしまった。はっはっは! ――それはイオラオスが、女の見る目があったことに対する喜びかもしれないし、意気地なしな姿勢に関するものだったかもしれない。

 飛び掛かってヘラクレスの腹に拳を叩きつけるイオラオスに、ヘラクレスはなおも笑う。笑うな! 笑うな! と殴打を続けるイオラオスだったが、やはりというか先にイオラオスの拳が限界を迎えた。手を真っ赤にして痛がる少年に、ヘラクレスはさらに笑う。しかし笑ってばかりもいられない。ヘラクレスはイオラオスに言った。

 

「フゥ……さてイオラオス。我らは共にレムノス島の女達からの要求に応えなかった。となれば私とお前にあの女達の差し出したものを口にする資格はないことになる」

「えぇ……ってことは」

「狩りだ。お前は船で番をしつつ魚でも釣っていろ。私は島の山に入り、山菜と獣を狩る」

「ちぇー……分かったよ」

 

「ヘラクレスか?」

 

 魚と山菜、獣の肉が有れば次の中継点まで保つだろう。役割を割り振り、弓を取りに船に入ると、そこから出てきた女と出くわした。

 アタランテだ。どことなく疲れた顔をしている。ヘラクレスを見るなり意外そうに目を瞬いた。

 

「なんだ……あの女達を抱かなかったのか?」

「ああ。生憎と程度の低い女には勃つものも勃たなくてな。安い女に食糧を恵まれるぐらいなら、自分で獲物を狩った方が遥かにましだ」

「そうか……」

 

 どこか安心したような、感心したような表情だ。アタランテは船内に引き返し、ヘラクレスの弓と自分の弓を持ってくる。

 

「付き合おう。女の身である私も、あの者らの要求には応えられないからな」

「ここで番をしてくれるだけでもいい。お前の分も私が――」

「いい。自分が口にするものを、自分で調達するだけだ」

 

 強硬に突っ撥ねられる。好意のつもりだったのだが、押し付ける気もない。肩を竦めて船から降りると、アタランテはイオラオスの方を向いて得意げに鼻を鳴らした。

 「ふふん」「っ!」「……?」

 何をしているのか、イオラオスはアタランテを悔しげな目で睨みつけている。それになんとなく思い当たるものがあった。ヘラクレスが娘を可愛がっていると、息子が気に喰わなさそうな顔をしていた。それに似ている。可笑しくて、懐かしくて、ヘラクレスは口元に小さな弧を描かせた。

 

(やれやれ……)

 

 まだまだ子供だなと、なんとなく思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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6.4 出航し、ドリオニアの航路を

二話目です。前のお話を見落としなく。




 

 

 

 

 

 漲る獣欲の目で性的な誘いを掛けてくる女達から、イオラオスは這う這うの体で逃れアルゴー号に駆け込んだ。

 

 まさか女から性的な意味で狙われるということが、こんなにも恐ろしいものだとは夢にも思っていなかった。女が父や夫をも手に掛ける類の毒婦だったというのも恐ろしさの理由なのかもしれないが、未だ清き身であるイオラオスである。伯父と義理の伯母に当たる女性の関係を知っているだけに、その手のことには綺麗な理想像が出来上がっていたのがそもそもの原因かもしれない。

 アルゴー号に逃げ込んだイオラオスは、長い付き合いのある伯父のことも理解している。ヘラクレスも戻ってくる気はしていた。義理の伯母と死別して何年か経っているというのに、未だに再婚せずにいるのだ。操を立てているというのもあるが、伯父の女の価値基準は亡妻なのだろう。とてもこの島の女達がお眼鏡に適うとは思えなかった。

 

 これからどうしようか、と頭を捻る。アルゴノーツの男達は逞しいもので、レムノス島の毒婦達が相手でも()()()になれているらしい。帰ってくるのにそれなりの時間が必要かもしれなかった。具体的な日数はよく分からないが……。

 そうしていると、船の中に誰かが残っていることに気づく。気配がするのだ。暇が有ればヘラクレスに稽古を付けてもらっているイオラオスである。本人に自覚はないが、その実力はアルゴノーツの英雄たちにも劣らないものとなっていた。尤もイオラオスの判断基準がヘラクレスであるため、自分なんて取るに足らない力しか無いという思いしかないのだが。

 

 もしや盗人か? イオラオスは自分が武器を持っていないことに歯噛みし、警戒心を強めつつ船内に入る。するとそこにいたのは見知った女だった。

 

「アタランテ?」

 

 イオラオスよりも二つか三つ年上の――アルカディアの狩人アタランテだ。深緑の衣を纏った緑髪の乙女は、ケリュネイアの傍に寄り添っている。何をするでも、何を語るでもない。そんなアタランテはイオラオスに視線を向けると、さも退屈そうな目をしていた。

 

「……なんだ、汝か……」

「おまえ……何してるんだ?」

「……此処の女達は男にしか用がない。それに盛りのついた男の近くにいるのも、男女の交わりを見聞きするのも気味が悪いだろう。業腹だが自主的に留守を預かっている」

「ふぅん……ま、それもそうか……」

 

 女のアタランテにレムノス島の女達が関心を示すはずがなく、その逆も然りだ。

 納得したイオラオスだが、アルゴノーツが戻ってくるまで――ヘラクレスが戻ってくるまで、まともに話したこともない女といるのは気が引ける。

 なんとなく気まずくなったイオラオスは踵を返した。しかし船外に出ようとするその背中に、アタランテは退屈を紛らわせるためにか声を掛ける。

 

「汝は女とまぐわってこないのか?」

「はあ?」

 

 素っ頓狂な声を上げる、とうの『女』がそんなことを訊ねてくるのは不意打ちだ。

 普通の女じゃない。英雄級の女なら母であるイピクレスがいるが、そのイピクレスはこうもあけすけな物言いはしないのだ。若干鼻白んだ少年は、照れくささのようなものを感じつつ吐き捨てた。

 

「おまえには関係ないだろ。……此処の奴ら、普通じゃない。近くにいたくもないね」

()()、か……」

 

 ふ、と笑みを浮かべたアタランテに、イオラオスはたじろいだ。見透かされたような目だった。

 

「な、なんだよ……」

「汝の言う『普通』とはなんだ? 私からすれば、此処に戻ってきた汝の方が普通の男の行いとは思えない」

「……いいだろ、別に」

「当ててやろうか? 汝はヘラクレスの影響を受けたから、此処の女の相手をする気になれない。確信したぞ、汝が戻ってきたんだ……ヘラクレスも直に戻ってくる」

「………変な女」

「そういう汝は、変な男だ」

 

 とびきりの変人は、ヘラクレスなのだろうが。まあ……

 

「私としては、汝らの変人ぶりの方が余程好感を持てる」

「……もしかしておまえ、伯父上に()があるのかよ?」

「……? どういう……いや、そうか。……そう見えるか?」

「見えるっていうか、聞こえる口振りだぞ」

 

 指摘するとアタランテは思案する素振りを見せた。形のいい頤に指を添え、考え込んだアタランテはしかし、すっぱりと否定する。

 

「いや、それはない」

「ほんとかよ……」

「本当だ。なんと言えばいいのか……ヘラクレスは確かに好意を持つに値する男だ。私も女だ、強い男には惹かれるものはある。だが……そうだな……うん、ヘラクレスと男女の()()()になりたいとは思わない。あの男は私に、私の知らない()()というものを感じさせてくれた。口に出すのは気恥ずかしいが……その、ヘラクレスの子供に、なりたいな……とな」

「!」

 

 照れたふうにはにかむアタランテは、己に嘘を吐くということができないのだろう。その告白にイオラオスは無性に腹が立った。出会ってまだ日が浅いくせに、と。

 実を言うとイオラオスは、実父を知らないのだ。母のイピクレスは自分の夫とは別居し、女手一つで育ててくれた。顔も知らない実父と母は肉体関係しか無いのである。そんな中でヘラクレスは、母の兄でありながらイオラオスにとって父親に等しい存在だった。横から出てきていきなり何を、とイオラオスが面白く思わないのは当然である。

 

 今の自分はヘラクレスの従者で、一緒に旅をする仲だ。ケリュネイアをカウントしないのであれば、ほとんど独占してきたと言っていい。イオラオスがアタランテに敵愾心を持つに至るほど、少年の伯父に対する敬愛は深かった。

 

「父というよりは、歳の離れた兄というのが近いのかもしれないがな。なんというか、寄りかかっても赦してくれそうな所に安心感を感じる。こんな感情を持ったのははじめてだ」

「……そうかよ。でも言っとくけどな、伯父上には娘が居たんだ。息子も。変に思い出させるようなことはするなよ。伯父上に辛い思いさせたらタダじゃおかないからな!」

「……? 汝は……いや、そうか。ふふ……可愛いな、汝は」

「はぁ!?」

 

 敵愾心を持った相手に可愛いなどと評され、イオラオスは声が裏返るほど反感を示した。しかしそれにアタランテは微笑むばかりで、イオラオスは顔が怒りで赤くなるのを感じる。

 

 その後、戻ってきたヘラクレスと二人で狩りに出掛けたアタランテが、からかうようにイオラオスに向けて鼻を鳴らすと、ますますイオラオスは女狩人への怒りを深めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「貴様ら己が使命をなんと心得るかッ! 何時まで此処で足を止める気だ!? よもや女に骨抜きにでもされたか? 英雄としての最低限の誇りすら腐らせたかッ!? この地に骨を埋める気になったというのなら望む通りにしてやろう。そうでないと否定できる者だけが今すぐ船まで戻れ! 半刻待つ!」

 

 島全体に轟くヘラクレスの大喝に、アルゴノーツの男達は我に返った。女の体と供される酒に溺れ、何時までも此処に居たいと思っていた英雄達だったが、使命を思い出して身支度を整える。女達に別れを告げるとすぐさま駆け出し、続々と船に帰還した。

 肩を怒らせて仁王立ちするヘラクレスの眼光を受け、自分達が情けない様を晒していたことを思い知ったアルゴノーツは各々がヘラクレスに侘びた。彼――とその甥――だけが女にうつつを抜かしていなかったことを悟ったのだ。

 

「すまなかったね、ヘラクレス……待たせてしまった」

 

 そう言ったのは、幼い頃のヘラクレスに武器術の基礎を仕込んだ英雄カストルだ。

 かつて評した通り、あっという間に自分を超える大英雄となったヘラクレスに思うところがないわけではない。しかしカストルも恥は知っていた。そんな素振りは見せられない。

 嘗ての師……と思うほど思い入れがあるわけではない。しかし知己の人物に謝意を示され上から目線で叱責するヘラクレスでもない。無言で頷き謝意を受け入れ、何も言わずにおいた。変に声を掛けるより流した方がいいと判断したのだ。ヘラクレスが何か言えば、逆にカストルに恥を掻かせることになるのだから。

 

 しかしヘラクレスは威厳のある佇まいを崩すことになる。

 

 半刻経っても戻ってこなかったイアソンが、ヒュプシピュレに連れ添われてやって来たのだ。

 

「ヒュプシピュレ……」

「イアソン様、大丈夫です。きっと貴方様のお子を生んでみせます。いつか子供達の顔を見に来てくれたなら望外の幸せです」

 

 どう見ても未練タラタラで、別離を惜しんでいる。ヘラクレスは呆れてしまった。情が移るのが早すぎるのではないか……。

 情が湧くのは悪いことではない。ないが、それにしたって別れが来るのは分かっていたこと。相応の付き合い方をすれば良かったではないか。

 アルゴノーツの旅の主目的はイアソンの助勢であり、イアソンこそ一刻も早くコルキスに辿り着いて、目的を達した後にイオルコスの王に成らねばならないのだろう。

 

「イアソン。此処で旅を終えるか?」

「ヘラクレス……」

「お前の旅だ、お前が決めろ。此処で根を下ろしたとしても私は止めん。だがな、お前はイオルコスに秘宝を持ち帰り、正統なる王位を取り戻すのだろう」

 

 諭すような諫言に、イアソンは目を閉じる。そしてヒュプシピュレの髪を梳くように撫でると、イアソンは決然と告げた。

 

「ヒュプシピュレ。私は往く。もしも男児が生まれたのならエウネオスと名付けて欲しい。そして成長したら、いつかイオルコスに寄越してほしい」

「イアソン様、それは……」

「ああ、王位継承権を与える。だけどレムノスに帰りたいと言うなら素直に帰そう。私は君を忘れない、だが君は私を忘れていい。勝手な願いなのは分かっている、それでも言わせてくれ。……幸せな人生を、ヒュプシピュレ」

「……はい」

 

「出航だ! 長居が過ぎた。急ぎ次の陸を目指そう、親愛なる同胞達!」

 

 イアソンの号令に、男達は未練を断ち切るように吼えた。応! と。アルゴー号を海まで押し出し、次々と乗り込んでいく。勿論補給した物資は船に持ち込んでいた。

 一段と凛々しく見えるイアソンの横顔に、ヘラクレスは苦笑する。どうせ一時限りの強がりだろうと。弱音を吐きたくなったのなら、酒でも飲ませて愚痴に付き合うぐらいはしてやろうとヘラクレスは思った。

 

 

 

 

 



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6.5 神への不信感、悲劇を起こさず

繋ぎ回。流していくので、次回が本番?です。





 

 うだるような熱さだった。

 

 ()()のではない、()()のである。

 

 手に汗握り、全身から珠のような汗を噴き出し、興奮の余りに血潮を滾らせ、熱した鉄板の上に立っているような灼熱の闘気に燃えている。

 誰かが叫んだ。雄叫びだ。昂揚した気合は超え難き壁を乗り越えんと挑むもの。この場に冷静な者など一人も居ない。平静を装える者など一人も居ない。超えるのだ、超えたいのだ。是が非でも我が身の限界の先にある領域に一歩でも多く踏み込みたいのだ。渇望する、力を。希求する、技を。身につけんとする、武を。武人として覚醒した戦士は英雄の何たるかを思い知る。これが英雄、これこそが英雄。

 超えたい。その身が立つ領域に立ちたい。頂点の座に手をかけ、同じ世界を見たい。望むのは其れだけ。望みは其れだけ。同じ地平を見んがため只管に疾走する。体ごとぶつかって玉砕する。何度砕け、挫け、膝を折ろうと何度でも立ち上がり挑み続ける。止まればこの武人として最高の一時が終わるという強迫観念に突き動かされている。こんな夢のような、自身が練磨され一秒ごとに進化していく時間が終わってしまう。打ち続けろ、撃ち続けろ、殴り続け、挑み続け、駆け続ける。

 

 絶えることのない気炎を燃やす挑戦者を迎える絶対強者、最強という名の玉座に腰掛ける王者もまた獅子の如く静かに燃えていた。

 解るのだ。一分一秒ごとに、挑戦者達が加速度的に強くなっていくのが。無駄を削ぎ落とし続けて、洗練されていく武の技が。知らず笑みを浮かべる。担う武量、未だ並ぶ者なく。懐く力量、古今に於いて最大無比。故に手加減はしている、枷は負っている、しかし自身に赦した限りの力を尽くし、最大限の敬意を以て相対するものの熱気に応じていた。

 

 ――此処はドリオニア。レムノス島より出航したアルゴノーツが、ヘレスポントスを経て、半月の航海の後に立ち寄ったドリオニア人の王国。

 

 治めるはドリオニア人の王キュージコスである。腕の立つ益荒男達に対して殊更に友好的だった。彼自身がゼウスらの母神レアーの聖獣である獅子を討ち取る猛者であり、アルゴノーツがドリオニアを訪れるのと時を同じくして、長くドリオニアの王国を苦しめた六本の腕を持つ巨人を退治したのを、王として感謝し手厚く歓迎してくれたのだ。

 そんなアルゴノーツはキュージコスに対して友情を感じた。故に彼らはキュージコスの求めに応じて武闘祭に参加し、そこで変則的な試合をおこなったのだ。

 

 ギリシア最強の英雄であるヘラクレスと、総ての英雄たちの総当たり戦である。

 

 ドリオニアの腕に覚えのある戦士たちも参加し、武闘祭はキュージコスの記憶にないほどの盛り上がりを見せた。ヘラクレスはイアソンによって縛りを与えられている。

 地面に刻んだ真円より一歩も出てはならない。左腕は防御にしか使わず、右腕は攻撃のみ。両脚は攻撃にも防御にも使ってはならない。また一人に対して五回攻撃を受けたらそこで敗北の判定を下す――理不尽なほどに厳しいルールだ。だがヘラクレスはそれを是とした。不条理なまでに過酷な柵の中でも勝利して魅せてこそ英雄だと嘯いてみせたのだ。

 

 テセウスが挑んだ。力を律しているとはいえ、一人で真っ先に――猛然とヘラクレスの立つ領域に近づかんと挑戦した。

 カストル、ポリュデウケス、ゼテス、カライス、テラモン、アドメトス、ペレウス、カイネウス、アタランテ、イオラオス――ドリオニアの戦士たち。誰もが勇んで挑み、限界まで粘り続けて己の限界を超えようとした。

 

「いけっ、右だ! ああっ、そうじゃない! 左に回り込め! いけいけヘラクレスも疲れてきてるぞ! 休ませるな!」

 

 イアソンは握り拳を作って手に汗握り、盛んに声援を送っていた。彼もまた英雄たちの生み出す熱気に当てられ血を熱くしていたのだ。

 叡智こそを尊び、部下の武力は己のものと考えるイアソンだが、この時ばかりは自分に武力がないことを悔しがり、それを誤魔化し紛らわせるために誰よりも熱心に声を上げている。アルゴノーツもそれに応え、ヘラクレスに土を付けるために果敢な姿勢を崩さない。

 

 やがて日が沈むと武の宴は終わる。アルゴノーツも、ドリオニアの戦士たちも地べたに座り込んで疲労困憊のまま互いの健闘を称え合い、ヘラクレスは最後まで立っていたが全身から汗を噴き出し肩で息をしていた。

 危なかった、とヘラクレスは思う。特に最後に対峙したテセウスの粘り腰は舌を巻く思いで、何度か良い(もの)を貰ってしまい下手をすると円の外に追い出される所だったのだ。

 

 キュージコスはアルゴノーツに多くの食糧と水を工面してくれて、アルゴー号の整備までしてくれた。壮年の王は爽やかにアルゴノーツを送り出し、またいつかアルゴノーツのメンバーが訊ねてきたら歓迎すると満面の笑みを浮かべていた。

 気持ちの良い王である。ヘラクレスは大いに感心したものだ。自身に良縁を齎してくれるミュケナイ王エウリュステウスやアドメトス、テラモン以外はロクデナシの王ばかりを見てきたヘラクレスは、彼のような王ばかりであればまだ迎合しやすい世界だったろうにと胸中に溢したほどに良心的だった。

 

 ふと、思いつく。ヘラクレスは神への不信感から、それとなくイアソンやアルゴノーツに警戒を呼びかけた。

 

「キュージコス王は気持ちの良い男だった。だがそれとは関係なく、彼の王はティタンの神の一柱にしてオリンポスの神王の母である女神、レアの聖獣を殺めている。領地を荒らす害獣故に退治したらしいが、神がそんな人のおこないを斟酌するとも思えん。ともするとキュージコス王に害を成さんとする可能性がある。何が起こっても冷静に対処することだ」

 

 それとは別に、アルゴノーツやヘラクレスも与り知らぬことだったが、六腕の巨人は女神レアがキュージコスを罰するために遣わしたモノである。それを殺めているアルゴノーツもまた、レアに睨まれていた。

 ――女神に呪われ、多くの神々と出会い、その器と性根を図ってきたヘラクレスの言である。心配のし過ぎだと笑い飛ばす者はいなかった。英雄ともなると必然的に神々と接触する機会を得る者もいる。彼らの知る神ならば有り得ると、却って納得されたほどだ。

 

 そうして夜に航海に出たアルゴノーツは、凄まじい逆風を受けた。キュージコス王に持たせてもらった海図を見るに、不自然なほど強い風である。ヘラクレスは嘆息した。イアソンは冷や汗を流し、不安げにアルゴノーツの預言者に訊ねる。

 

「な、なあイドモン……君はどう見る?」

「……予言はそんなに便利でもないぞ。が、まあ……出来過ぎではあるわな」

 

 自身の死の運命をアルゴノーツの冒険に見ていながら参加し、レムノス島でも自ら進んで女を抱いていた好色な預言者は、イアソンの不安を煽るようにあっけらかんと返した。予言するまでもなくおかしいだろうと暗に言っている。

 ほどなくしてアルゴー号は凄まじい逆風に負け、元来た航路に押し戻されていく。すると夜の闇の中、後ろから何隻かの船が薄っすらと見えてきた。

 軍船である。殺気を感じた。応戦の構えを見せるアルゴノーツを制止する。ヘラクレスは半ば確信していた。自身の手は下さず、人によって相討たせる神の常套手段であると、普遍的な神への嫌悪感から決めつけてすらいた。レムノス島でアプロディーテを軽蔑していた意識も手伝って、ヘラクレスは強い風にも掻き消されない大音声を発する。

 

「貴様らは何者だ! 我らはイアソンを戴くアルゴノーツであるッ! 我らをそれと知りながら襲い戦うというのなら、欠片ほどの慈悲もなく――皆殺しにするぞォッ!!」

 

 その怒号に夜の闇の向こう側にいる軍船から動揺が感じられた。戦意が萎えたのを確認したヘラクレスはイアソンらを振り返る。

 我らを相討たせんとする神の奸計だ、戦う必要はない。ヘラクレスがそう言うと、アルゴノーツは神の陰湿な手口に顔を顰めていた。恩義を受けたキュージコスと戦い、手に掛けてしまうかもしれなかったのだ。神への不信感が蔓延する。その空気はむしろ、ヘラクレスにとっては居心地の良いものだったが……抜け目なく、そして周到なヘラクレスはこの船にゼウスの意志が宿っているのを忘れていなかった。

 これ以上神への不信感を強くする前に行動する。アルゴー号がキュージコスの乗る船に寄ると、ヘラクレスは彼の王に助言した。これは女神レアがキュージコスの罪を、我らと相討たせて下すつもりのものに違いない。狩りで得た獲物を生贄にし、供物として捧げる祭典を開くといい、と。そしてヘラクレスは預言者イドモンに言った。

 

「イドモン、お前はアルゴノーツを代表してドリオニアに残れ」

「なんだと?」

「お前はイアソンに付き合えば死の運命が待っているのだろう。死ぬと分かっていながら敢えてやって来たお前の勇気は買うが、死なずに済むならそれに越したことはあるまい。ドリオニアでの祭典に参列し、女神レアの機嫌を窺い、その後に陸路でコルキスを目指すと良い。我らがコルキスに着いた後、最低一ヶ月は待つ」

「ぬ……。……イアソン、ヘラクレスはこう言っているが船長はお前だぞ。お前の決定に従おう」

 

 イドモンは悪あがきのようにイアソンに水を向けるが、とうのイアソンはあっけらかんと告げた。

 

「いいんじゃないか? 言う通りにしてくれ」

「イアソンッ、貴様……わたしは船に不要だと言うかッ」

「違うって。君の予言の力は惜しい。死なないで済むんならその方がいいし、もし無事に生きて帰ってこれたら君には私の補佐をしてほしいんだ。未来の王の補佐をする預言者なんて、この船の大事な仲間である君にしかできないことだ。信頼してるからこそ、イドモン……君が陸路でコルキスを目指すのは充分に『有り』だと思う。駄目かい?」

 

 そうも頼まれればイドモンの面子は保たれる。溜飲を下ろしたイドモンは、忌々しげにヘラクレスを睨んでからキュージコスに付き従った。

 それから数日間、アルゴー号は逆風に悩まされ続けたが、やがて順風が吹き始めアルゴー号は進めるようになる。キュージコスとイドモンはやり遂げたのだ。

 

 イドモンは後に、コルキスで合流する。険しい陸路を乗り越えてやって来た彼は、開口一番にヘラクレスに嫌味を言ったという。『女神レアは六腕の巨人を殺した、我らアルゴノーツについてもお怒りだった。ワシに感謝しろよ、ワシが行って女神の怒りを鎮めねばきっとそちらの旅はもっと過酷になっていただろうからな』と。それにヘラクレスは陳謝し、彼にいつか借りを返すことを約束したことで和解することになる。

 斯くしてアルゴノーツは一路、コルキスを目指す。途上、ミュシア国で山や自然を守る精霊ニュンペー達の踊りを見たり、ベブリュクス人の王国で来訪した外国の者を拳闘試合で撲殺していた王アミュコス――海神ポセイドンの子から拳闘を求められ、応じた不死身のポリュデウケスが返り討ちにして撲殺したり、殺到したアミュコスの部下を根切りにしたりと冒険は続いた。

 

 そうして彼らは、サリュミュデソスの地に住まうという盲目の預言者ピネウスに、航海の助言を求めることになる。

 

 ――しかしそこでヘラクレスは一時アルゴノーツから離脱することになるのだ。

 

 何故ならその近辺には、ヘラクレス本来の目的の地である、アマゾネス達の国があるのである。そしてその道中にはカウカソス山――人類に火を齎した神プロメテウスが鎖に繋がれている。ヘラクレスは此処でプロメテウスと会い、その足でアマゾネス族の国へ乗り込んで、その後にイアソン達に追いつくことを誓った。

 

 こうしてアルゴー号の冒険から、暫しの間ヘラクレスと()()()()は離脱したのだった。

 

 

 

 

 

 

 




今回は端折っていったわよー。


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7.1 運命(Fate)

 

 

 

 ――アルゴノーツより離れ、此処に集い足るは人理の分岐路に立つ者達。

 

 本来ならば()()()()()()()()を意味する字義。其れがこの世界線に於いて変形して、結成されたのが【ヘラクレスの一党(ヘーラクレイダイ)】と呼称される一団である。

 血族に限らず、ヘラクレスに最も影響された英雄達が集う事となる、ギリシア神話に燦然とその名を輝かせる英雄旅団。彼らはヘラクレスの持つ異端の英雄性に惹かれて、死が互いを分かつまで共に歩んだ勇者達だ。そう……()()達なのだ。

 勇気ある者、それを勇者と呼ぶ。この時代この世界に於いて、真の勇気を持った者は英雄旅団のみであるとすら謳われ、()()を超えた()()という名称の語源となった者達こそが彼ら。

 

 人は語り継ぐ。神と人の関係を刷新し、その生を駆け抜けた大英雄の軌跡を。伯父の生涯に亘る冒険、偉業、戦争に纏わる総てを詳細に記録した従軍者にして、自身もまた類稀な知勇を以て知られる輝ける同行者を。

 

 人類史全体を見渡しても十指に入るだろう賢者が懸念した剪定事象。歴史が書き換わりかねない一つの運命(Fate)。出会ってはならぬ異端の英雄と、戦神を父に持つ猛き女達の女王はしかし、邂逅を運命づけられて。今神々すら予期できぬ()()が噛み合い、静かにその歯車を廻しはじめた。

 

 誰が呼んだか大いなる栄光(ヘラクレス・メガロス)。由来は忌み名でしかなかったそれは、その意味を真実、栄光の其れへと変遷させる事となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「契約しよう。神に課されし我が勲を以て、その身の咎を晴らすものと」

 

 カウカソス山の山頂で鎖に繋がれ、生きながらに肝臓を鷲に啄まれる責め苦を負わされていた姿を見たヘラクレスは、人類に慈愛を以て火を授けた神プロメテウスにそう告げた。

 己が勤めを果たした時、ヘラクレスはゼウスより褒美を授けられる。それは神々の女王に罰を与える権利。それを放棄して、ゼウスに免罪を請いプロメテウスを解放すると言ったのだ。

 

『お前は――』

 

 震えた声は、肝臓を鷲に啄まれる痛みを堪えるためのものではない。

 顔を青褪めさせ、戦慄したようにヘラクレスを見るプロメテウスは、その先見性と優れた洞察力を以てして、その内面に潜むものを的確に察知したのだ。

 

 ヘラクレスは、()()()()()

 

 責め苦を負うプロメテウスを、ではない。まるで探していた最後のピースを見つけたかのように、邪悪に……純粋な悪意を滴らせるように……無垢な笑みを浮かべたのだ。

 あらゆる痛みを忘却するほど、背筋が凍る。ろくに言葉も交わさぬ内からそう申し出た巨雄が、何よりも恐ろしいものに見えてしまう。救命を誓ってくれた彼の英雄には感謝せねばならない、だがプロメテウスは背を向けて去っていく英雄を畏れた。神が人を畏れたのである。

 ――捨て置いてはならない。自由にさせてはならない。何かが致命的に()()()()()()気がする。

 神々にとってあの英雄は決して野放しに出来ない男だ。天に配されし星々の総てを束ね、総力を結集してでも封殺すべきだ。警戒すべきはギガースではない、テュポーンではない、その親たるガイアですらない。あの男こそこのギリシア世界の神々の黄昏。オリンポスに終焉を齎す者。

 

 だが……と、プロメテウスは思った。プロメテウスは人に慈愛を以て火を授けた者。その魂は神々の時代よりも人の時代の到来に歓ぶ神だった。

 故にプロメテウスは言葉を飲み込む。おそらく己だけが気づいた秘密を、決して口外することなく胸の中に秘めておこうと。神としての畏怖を忘れ、慈父としての慈しみで彼の者の道程を見守ることにした。

 

 ――カウカソス山を降る。獅子神王の鎧を纏う男は歩む。山麓でヘラクレスを待っていた者達に、その男は柔和な表情で声を掛けた。

 先刻の悪意は寸毫たりとも見られない。毛筋の先ほども邪悪さはない。身近な者に向ける、人の温かい情があるだけだ。

 

「待たせたか」

「別に。それよりまさか本当に、勤めの報酬をプロメテウス神の解放に宛てるって契約したのかよ?」

 

 やや不満げに迎えたのはイオラオスだ。ケリュネイアはイオラオスに気を赦したらしく、ヘラクレスがいない時はイオラオスのすぐ傍にぴたりと張り付いている。ヘラクレスを見るなり駆け寄ってきたケリュネイアを手癖で撫でながら、ヘラクレスはなんでもないように頷いた。

 

「元よりこれは私にとって贖罪の勤め()()()()()()。神によるマッチポンプでしかないものだ。そんなものに価値を見いだせはせん。冒険や修練のために付き合ってやっているだけのこと。こんなものに付随する報酬など、こちらから捨て去ってやるとも。有効活用できるのならそうするだけのことだ」

「有効活用とは穏やかではないな」

「どうでもいいでしょう。勤めを果たすのも、報酬を受け取るのもヘラクレスだ。僕らじゃない。僕らはあくまで同行しているだけの身分なんですから」

 

 テラモンはヘラクレスの言葉に反駁するも、テセウスは関心なさげに切って捨てた。

 実際にテセウスが関心を寄せるのは、心より敬愛の念を懐いた偉大な英雄の足跡。英雄のなんたるかを学ぶためにヘラクレスの従者となったテセウスは、いつか彼に並ぶ英雄になることを志している。その振る舞い、その言葉一つ本来なら根掘り葉掘り真意を問いただしたいが、事が自分以外(ヘラクレス)の受け取る報酬についてである。

 関心を示すことは高潔なテセウスには有りえないことだ。アテナイの王になる自分が他者の功績への報いに口出しすべきではないと考えている。

 

「汝の言う通りだ。ヘラクレスに同行したい――そう無理を言って付いてきたんだ、無粋な問は控えた方がいい」

 

 アタランテはテラモンを窘める。異口同音にそう言われてはテラモンも口を噤むしかない。

 

 ヘラクレスは苦笑した。揃いも揃って物好きばかりだ。よもやアルゴー号より一時降りてまで同行を申し出てくるとは。

 自身の勤めの手伝いをさせる気はないが、旅の道連れが増える分には拒む理由もないと同行を赦した。が、まさかイオラオスを除いて三人も増えるとは思わなかった。

 

「さて……私もアルゴノーツに追いつかねばならん。出来る限り急いで事に当たろう。無駄口を叩くのはいいが遅れるな」

「分かってるよ。でもケリュネイアを走らせるのは無しだからな。誰も追いつけない」

 

 イオラオスが念を押す形で言うのに肩を竦める。言われるまでもないことだ。

 ヘラクレスは一行の先頭を進む。背後に付き従う新参の三人が、これまでヘラクレスと共に行動していたイオラオスに質問を浴びせていた。ヘラクレスのことを訊いているのである。

 少年は心底嫌そうに、面倒臭そうにしていたが、あまりのしつこさに根負けする形で渋々話し出していた。

 

 困ったのはヘラクレスだ。自分の成してきたことを、自分の後ろで話しているのだ。気恥ずかしいやら、なんやら……気持ち急ぎ足になりつつ歩む。

 辿り着いたのは熱帯雨林。川が幾筋にも別れて流れているからか、地面の土は常に水気を帯び、所によっては沼地となっている。底なし沼もあった。湿気が強く、木々の陰から獣が様子を窺ってくるのが解る。来るなら来い、寧ろ来て欲しい。希望に満ちたヘラクレスの目を見るなり脱兎の如く逃げていく様は悲しくはあったが、それは気にしないことにする。

 

 と、一日を歩き通してアマゾネス族の領域に入った頃だ。木々の隙間を縫うようにして、一本の矢が先頭のヘラクレスに射掛けられた。

 不意打ち、それも死角からの的確なそれ。しかしこともなげに掴み取ったヘラクレスは、矢を握撃で圧し折る。動揺する気配を感じたヘラクレスは声を上げた。

 

「アマゾネスの戦士と見受ける。早々の挨拶痛みいるが、時候の挨拶を返されても返事に困ろう。私としては女王に目通り願いたいが……」

 

 返答はさらなる矢だった。首を傾けてさらりと避け、ヘラクレスは一行を振り返って肩を竦めた。巻き込まれて死ぬなよと視線で告げる。当たり前だと気構えを作るイオラオス達にも無数の矢が降り注いだ。

 如才なく捌く面々を尻目に、ヘラクレスは途中から避けるのも面倒になっていた。アタランテがヘラクレスに訊ねる。

 

「蹴散らすか?」

「急くな。我らは招かれざる客、それが突然女王に会わせろと言ったのだ。物騒ではあるが当然の対応だろう。今暫し付き合ってやれ」

「……迂遠なことをしますね」

 

 テセウスは不満そうだ。蹴散らせるだけの力があるのに何故そうしないのかと言いたげである。

 折角だ。自分の考えをテセウスが受け入れやすいように語ろう。鎧に当たる矢を無視して、躱しもしなくなったヘラクレスは言った。

 

「テセウス。お前の知る『英雄』ならば強行突破するだろうし、一旦退いて対策を練り突入するのだろう。だがな、テセウス。そんな十把一絡げの安い『英雄』に成りたいのか? 真の英雄とは他とは違う行いを以て、人の意識と在り方を変えるもの。他の者がそうしている、他の者ならこうしている……そんな価値観に倣ってなんとするか。多少の困難はあれど、そんなものは乗り越えてこその英雄だろう。訊くが……お前は既存のギリシアの英雄に成りたいのか? それともテセウスという名の英雄に成りたいのか? 他とは違う道を往き、開拓してこそお前はお前という英雄に成れる。少なくとも私はそう信じて進んできた。そして今の私がいる」

「……なるほど……そういう考え方もあるんですか……」

 

 目から鱗といったふうに呟き納得したテセウスに、ヘラクレスは少し心配になった。簡単に誤魔化され過ぎやしないか? と。誤魔化したとうの本人が言うのは間抜けな話ではあるが。

 それを横目で聞いていたイオラオスは、しかしふと考えついたのか息を吸い込んだ。そして叫ぶ。

 

「――此処にいるのはヘラクレスだぞッ! 姿も見せずに遠巻きにした、そんな腑抜けた矢の雨なんかで傷つけられるものかッ! これ以上はヘラクレスへの挑戦と受け取るぞッ!」

「………」

「イオラオス、それは少し情けない……」

 

 ヘラクレスとテセウス、テラモンが微妙な目でイオラオスを見た。アタランテにいたっては呆れを隠さないで呟くと、イオラオスは逆に言い返してきた。

 

「だってこんなことしてたって時間の無駄だろ。伯父上の名で偉ぶる気はないけどさ、とっとと話を進められるならそうした方がいいに決まってる」

 

 道理だった。全く以てその通りである。ヘラクレスはバツが悪くなるが、無表情の裏にそれを隠す。偉そうにテセウスに語った手前、不甲斐ない顔はできなかった。

 ヘラクレス。その名を聞いたアマゾネス達に動揺が走った。こんな遠い国にまでその名は轟いているのか。面映い気分だ。そんな場合ではないのだが……彼女達になんら脅威を覚えないからだろう、敵意を向けられてもなんともない。虎が子猫に威嚇されたからと、大人気なく牙を剥かないのと同じである。

 

 矢が止んだ。暫くすると、一人の女が姿を見せる。此処に伏せていた者達の首魁だろうか。

 

 黒髪の乙女である。まだ幼さの残る顔立ちは整っているが、戦士と称して不足とならぬ精悍な面構えだった。この地に適応するために薄着で、健康的に焼けた小麦色の肌を晒していた。

 びくり、とテセウスが震える。その若い青年の瞳に熱が奔った。

 

「我が名はメラニーペ。偉大なる軍神アレスの子にして、アマゾネスの女王ヒッポリュテが姉妹である。此処には港に着いた船より降りた貴様らが、アマゾネスの領域に近づいた場合これを討つ任を賜っていた。貴様がヘラクレスか?」

「如何にも」

 

 メラニーペの誰何にヘラクレスは応じる。

 乙女は鋭い眼光でヘラクレスを見る。そして納得したように頷いた。

 

「……金色に輝く獅子の鎧と白き弓、剣、そして神獣の牝鹿。なるほど確かに貴様はヘラクレスのようだ。噂通り……いや噂以上の武威を感じる。本物と認めよう」

「………」

「我らは強き男は歓迎する。姉を呼んでこよう」

「いや、押し掛けたのは我らだ。こちらから出向こう。案内を頼みたい」

 

 ヘラクレスがそう言うと、メラニーペは意外そうに目を瞬いた。

 本当に意外だったのだ。彼女達はギリシアの英雄について知っている。自己中心で傲岸不遜、強き者ほど我を通し、礼を尽くす者など極めて稀。

 まさかヘラクレスほどに高名な英雄が、その稀な気質を持ち王たる位の者に道理を尽くすとは想像していなかったのだ。メラニーペは呆気にとられたが、頭を振って了承する。

 

「……良いだろう。ついてくるといい」

 

 背を向けて歩き出すメラニーペに従い、陰から陰に女戦士達が付き従う。

 常に張り付く視線は、ヘラクレス達が何か不穏な動きを見せないか監視するものだ。よく鍛えられている、と感心する。女だてらにやるものだと。

 ヘラクレスの一行も先導するメラニーペについていく。そこではたと気づいた。呆然と立ち尽くし、メラニーペの背中を見詰める青年に。

 

「……どうした、テセウス」

「あ……」

「……?」

「……なんでもありません。ただ、美しい方だと……」

 

 テセウスの独白に近い、溜息を乗せての言葉にヘラクレスは頭痛がした。念の為、釘を刺しておく。

 

「攫おうとはするなよ」

「……!?」

「そんなことをしようとすれば、私はお前を斬る。礼を尽くした私の顔に泥を塗ることになるからだ」

「………」

「……攫うなとは言った。だが口説くなとは言っておらん。合意を得て連れ帰る分には何も言わんよ。ただ先の私の言葉は忘れるな。十把一絡げの英雄と同じ真似はするものではない。男ならば女の方から惚れさせろ。真の男であれば女の方から言い寄って来るものだ。分かったな」

「……はい」

 

 噛んで含めるように言い聞かせると、アタランテが自分を見ていることに気づいた。なんだ、と水を向けると目を逸らされる。

 本当になんなのだ。言いたいことは言ってもらいたいものなのだが……。

 

「変人め。……そう思っただけだ」

「………」

 

 不本意である。己の価値観を押し付けたいのではない、単に自分の目の届く範囲で不快な真似をされたくないだけだ。

 

 やがてメラニーペの案内に従って歩いていると、石造りの荘厳な神殿が見えてきた。

 開けた空間である。先に遣いが報せに走っていたのか、弓や槍、剣と盾で武装した女達を従えた一人の女が立っているのが見えた。その女の後ろには、白髪の幼い少女が隠れてこちらを睨んでいる。

 

 どことなくメラニーペに似た女だ。

 

 赤みを帯びた黒髪は艶を帯び、陽の光を弾いているように白い肌。鍛えられていながら女らしさを失っていない細い首と、流麗な肢体のライン。凛とした眼差しには力が宿り、女王の威厳と乙女の可憐さが違和感なく融合していた。

 美しい。一目見てそう思う。その眼に赫と燃える気高さは犯し難い光を放っている。知らず兜を外していた。この女王を前に兜で顔を隠したままなのは非礼であると……礼を尽くさせる魂の尊さを感じさせられた。

 

 彼女こそがアマゾネスの女王なのだろう。傅く女戦士達は彼女のためなら躊躇いなく命を投げ出すものと確信できる。我知らず見惚れてしまいそうだった。女であるとか男であるとか、そんなものは関係のない、自然の中にある美しさだ。

 ヒッポリュテの目がヘラクレスを捉える。来訪者の中で最も目を引く男がヘラクレスであると報告を受けていた。故に必然、彼女の目は誰よりも先にヘラクレスに向けられて――

 

 彼女の目に、電撃が奔った。

 

「………!!」

「………?」

 

 ――な、なんだ……見ただけで分かるこの()()()()()()()は――

 

 急激に赤くなっていく顔。この地の日差しの強さに反した白い肌が赤くなったのだ。

 頬に桜色を散らして、女王は声を上擦らせる。

 

「おっ! お前っ!」

「………?」

「お前がヘラクレスか!?」

「……そうだ。お前がアマゾネスの女王ヒッポリュテか」

「そ、そうだ。私が、ヒッポリュテ。アマゾネスの戦士長! 誇り高きアマゾネスの女王だ!」

 

 ヘラクレスは困惑した。ヒッポリュテは錯乱しているのではないかと疑ってしまうほどに動転している。何があったのか……。

 

「そっ、それで? お前たちは私に会いにきたそうだな。なんの用か、言ってみると良い!」

「……ミュケナイ王エウリュステウスに出された勤めとして、お前の軍神の戦帯を譲り受けたくやって参った。どうかそれを譲ってもらいたい」

「い、いいだろう。我が宝物、お前に与えるのも吝かではない」

 

 目を見開く。要求を伝えただけで、まだ良く知りもしない相手に宝物を譲ろうというのだ。ヘラクレスは内心唖然としそうになった。正気か、と失礼にも口に出しそうになったほどである。

 しかしヒッポリュテは正気だった。だがある意味では狂ってしまったのかもしれない。そう、それはまさしく、

 

 一目惚れ、だった。

 

「ただし、条件がある! ……私とまぐわい、子を成すがいい、ヘラクレス!」

「……。………………ん?」

 

 出されたその交換条件に、さしものヘラクレスも呆気にとられ、次いで己の耳を疑い――掛け値なしに本気の目と視線がぶつかって――口を半開きにしたまま固まった。

 そんなヘラクレスを、テセウスは尊敬の眼差しで見ていた。

 

 『真の男であれば、女の方から言い寄ってくるものだ』と彼は言った。それは本当だったのだとテセウスは感銘を受けたのである。

 無論、ヘラクレスにはそんなもの、知ったことではなかったのだが。

 

 

 

 




一目惚れとは、される方にとっては暴力である。


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7.2 女の情念侮りがたし

 

 

 

 

 

 

 真っ先に疑ったのは己の聴覚。次いで正気である。またぞろヘラの仕業で気が狂ったのかと警戒しかけたが、アテナの加護により自身が狂わぬのを思い出すと別の可能性について考えついた。

 美の女神アプロディーテの忠実な従者、恋心と性愛を司る神エロースである。極めて幼稚で無自覚な邪悪であり、人の心を操り遊んでいた最悪に類する唾棄すべき邪神。機がくれば処すのに躊躇いのない神の一柱。それの宝具である矢にヒッポリュテが射られたのかと疑った。

 ヘラが善からぬことを企て、アプロディーテを介しエロースを遣わして来たのではないか? 疑念でありながら半ば以上そう断定したヘラクレスは憎しみを募らせる。

 しかし募った憎悪はそのままに、はたと思い至った。エロースの権能たる矢は金の矢と鉛の矢である。金の矢を射られた者は最初に目にした者へ激しい恋心を懐き、鉛の矢で射られた者は恋を嫌悪するようになる。だがこの場に神性の発露は感じなかった。ヘラクレスは自身に神の血が流れているからか、多くの強大な神格を目で見、肌で感じたことでその気配を覚え察知できるようになっている。不覚を喫しエロースの気配を見落としたのだとしても、放たれた権能の残滓を見逃すほど間抜けではない。

 

 エロースの権能の気配はない。すなわちヒッポリュテのそれは自身の裡から溢れたものなのだろう。

 

 天を仰ぐ。これが運命やらに仕組まれたものだというなら、運命の三女神モイライとやらはさぞかし性根のイカレた女神なのだろう。八つ当たり気味なヘラクレスの怒りがモイライに向く。しかし流石に理不尽だと自制したヘラクレスは頭を振った。

 現実逃避をしている場合ではない。テセウス、テラモン、メラニーペ、他アマゾネスは当然のようにヒッポリュテの要求を聞いていた。応えて当然といった雰囲気である。アマゾネスなどは流石偉大な戦士長、アマゾネスの女王! とその判断を讃えてすらいる始末。目を白黒させているのはイオラオスだけで、ケリュネイアは歯を剥いてヒッポリュテを威嚇していた。

 

「これが『普通』という奴だ、ヘラクレス」

「………」

 

 アタランテは呆れていたが、驚いてはいない。アマゾネスならそう来るだろうな、と最初から有り得るものと考えていた節がある。考えついていたのなら教えてくれても良かっただろうと、少し恨めしく思った。アマゾネスの習性というか、男とは一夜限りの関係を持つものだと忘れていたのである。つまり貞操観念がガバガバというわけだ。

 ヘラクレスは必死に思考する。ヒッポリュテの要求に、即座に頷く判断ができなかった。価値観が違うと今また強く痛感していたのだ。ヘラクレスは今なお尽きぬ愛情を亡き妻メガラに懐いているが、特別に操を立てているつもりはない。メガラ以上とは言わないまでも、それと同等に愛せる女性に巡り会えず、そしてメガラ以外の女を愛せると思えないでいるだけなのだ。

 

 こんな気持ちで女性と肉体関係を結ぶなど不誠実極まりない。そも、プラトニックな関係しか知らないヘラクレスに、肉食系という比喩がよく似合う求愛は恐ろしかった。

 恐れを知らぬ我が身がはじめて恐れたモノ……それはアマゾネスであるとイオラオスにだけは知られるわけにはいかない。後世まで語り継がれてしまえば一生の恥だ。腹の底から溢れる畏怖の気持ちを押し隠し、ヘラクレスは正直に……出来る限り格好のつく断り文句を捻り出す。

 

「――未だ嘗て授かったことのない、魅力的な提案だ。美しく気高い女王よ、私はその身に触れる栄誉を賜わったことを嬉しく思う」

「そう……だろう?」

 

 受けて当然の賛美にアマゾネス達は誇らしげだ。ヒッポリュテもまた期待を孕んだ目をする。ヘラクレスは気圧されながらも泰然とした姿勢を崩さずなんとか舌を廻した。

 

「しかしその願いは受け入れかねる」

「な――」

 

 続けられた言葉にアマゾネスは騒然とした。ヒッポリュテは驚愕する。断る理由が全く想像できなかったのだ。アマゾネス達は殺気を迸らせる。戦士長にして女王である、偉大なヒッポリュテが至宝たる戦帯を譲る対価だと言ったのに、それを拒んだのだ。

 許せる話ではない。ヒッポリュテの後ろに隠れていた白髪の少女が飛び出してきた。直情な瞳にはこれでもかと憤怒が詰め込まれている。ハッとするほど可憐な少女は、ヘラクレスの許に駆け寄るなり殴りかかった。

 無論鎧を纏ったヘラクレスに痛痒はない。武器に依らぬ打撃であろうとかなりの硬度を誇る鎧は完璧に少女の拳による威力を遮断した。例え鎧がなくともヘラクレスはなんとも思わなかったろうが、打撃が効かぬと悟るなり剥き出しの手に噛み付いてきた少女に目を向ける。

 

「この娘は?」

「……私の妹だ。名をペンテシレイアという」

「ポルテ姉上に恥を掻かせたな、ヘラクレス! 赦せん、赦せるものかっ!」

 

 殺気走ったペンテシレイアは、軍神の血が色濃いのだろう。十代前半の幼い身の顎の力でしかないのに、微かな痛みを噛まれている手から感じる。

 ヘラクレスはしかし、微塵も怒りを発さなかった。ペンテシレイアの暴挙に殺気を霧散させ、顔を青褪めさせたアマゾネス達の脳裏に撲殺されるペンテシレイアの姿が浮かぶ。ペンテシレイア様をお助けしろ! その声が上がる前、ヘラクレスは優しくペンテシレイアの頭に手を置いた。

 大きな手である。すっぽりペンテシレイアの小さな頭が収まるほどに。握り潰す気かと戦慄する女戦士達の予想に反し、最後まで睨みつけてきていたペンテシレイアの頭を柔らかく撫でた。

 

「姉想いの良い子だ」

「……!?」

「だが私以外には控えた方がいい。幼い身では返り討ちに遭おう。――ああ、しかし流石は軍神の御子だ。この私に痛みを感じさせるのだからな。長ずれば侮り難い戦士と成ろう」

 

 ペンテシレイアは困惑した。流石は軍神の御子……その言葉に、何よりも偉大な軍神への確かな敬意を感じたのだ。

 噛み付いていた手を離し、ペンテシレイアはヘラクレスを見上げる。優しい瞳と目が合い、幼い故にペンテシレイアは呆然とした。そこに神たる父の愛に通ずる穏やかさを見たのだ。

 

 ヘラクレスはペンテシレイアの頭に手を置いたまま、彼にとっては充分に有り得る断り文句を口にする。――実を言うと、それこそがヘラクレスに再婚などを躊躇わせる最たる理由でもあった。

 

「私がお前を抱けぬのは、何もヒッポリュテ……お前に魅力がないからではない」

「……では、なんだ? 魅力を感じずとも、私は対価として求めたのだ。相応の訳もなく断るのなら、私も女王としての面子にかけ報いを与えねばならなくなる」

 

 そんな真似はさせないでくれと、ヒッポリュテは声なく訴えていた。

 無論軽い理由ではない。亡き妻メガラへの愛もある、だがそれ以上に――

 

「アマゾネスの女王よ。私が英雄としての偉業を成し遂げねばならなくなった由縁を、お前は知っているか?」

「……? いや、知らない。成した勲については充分に知っているつもりではあるが」

「私は女神ヘラによって狂わされ、愛する妻と我が子を手にかけてしまっている」

「……!?」

 

 ヘラクレスの告白に、ヒッポリュテは顔を険しくさせた。断られた理由を察したのだろう。頷く。

 

「彼の女神は私ではなく、私の出自を憎んでいる。見当違いなものだがな。しかし無視はできん。もしも私が子を成せば、憎悪に駆られた女神が凶行に及ぶ可能性がある。私は戦女神アテナにより狂気を祓う加護を賜った。故に私は狂わぬ。だが、だからこそ女神ヘラは私ではなく私の子を狙うだろう。その母ともなれば無事は保証できん。私の柵に誰かを巻き込むわけにはいかん」

 

 それに――場は沈黙に支配された。

 仕方ない理由だと納得できる。寧ろ自身の快楽を優先してヒッポリュテを抱こうとはせず、己の因果を告げたヘラクレスは誠実そのものだと理解できた。

 ペンテシレイアもだ。バツが悪そうに目を逸らし、自身のおこないが道理にそぐわぬものと判断してぶっきらぼうに謝罪する。

 

「……すまなかった。ポルテ姉上に恥を掻かせる意図はなかったのだな」

「いいさ。麗しい姉妹愛を見れた、お前が後ろめたく思うことはない」

 

 ヘラクレスはペンテシレイアから手を離す。小さな少女はどこか複雑な表情でヒッポリュテの許に引き返す。

 しかし、ヒッポリュテは俯けた顔を、決然とした表情で固めてヘラクレスを見た。

 ……侮っていたのだろう。いやアマゾネスの女王というものを知らなさ過ぎたのだ。完璧な断り文句だと自画自賛するヘラクレスをよそに、ヒッポリュテは断固として告げる。

 

「――訳は理解した。だがそれでも私はお前の子を孕みたい」

「……んんッ?」

 

 間抜けな声が漏れる。ヘラクレスは彼らしからぬ唖然とした面を晒す羽目になった。

 本音を言えば、ヘラクレスはヒッポリュテに大いに魅力を感じている。メガラを知らなければ心が揺れていただろう。

 しかし必死に頭を廻して断り文句を捻り出し、本音を交えて拒絶したのは、あらゆる意味でヒッポリュテの言う対価を承服できなかったからだ。

 

 子を孕ませる。それではい、さよなら……そんな不誠実な真似はしたくない。ヤリ捨て同然ではないか、それは。アマゾネスがどういう部族なのかは知っている。しかし、それとこれとは話は別だ。女だけで子を育てる? 男は部外者なら一夜で別れる? ヘラクレスの価値観としては有り得ない。妻のことがなくとも、である。故に断るのだ。

 だがその程度で退くほどヒッポリュテは弱気な女ではなかった。()()()()()諦めるほど……彼女の恋心は安くなかった。例え誤解から戦闘になり、ヘラクレスに殺されそうになっても、無抵抗のまま最後まで説得を試みるほどに、彼女はヘラクレスに対して限りなく本気だったのである。

 

 女の恋心は執念に似る。そして女の執念は時として道理を超越する。ましてやその女とはアマゾネスだ、さらに言えばその戦士長であり女王なのである。奥手でプラトニックな恋と愛しか体験していないヘラクレスに太刀打ちできる手合ではなかった。

 こういうのを『相手が悪かった』というのである。

 

「女神ヘラが何をしようと構うものか。そんな障害で私の裡にある炎を消すことはできん!」

「は、いや……しかし……」

「私を抱け! 子など出来なくともいいんだ、今は私がお前に抱かれたい! 結果として子を孕む! それだけだ!」

「――――」

 

 完全に気圧される。ヘラクレスは頭が真っ白になった。なんだこれは、なんなのだこれは! 私にどうしろというのだ!? もはやなんと断ればよいか考えもつかない。こうまで迫られなおも断るようだと本格的に無礼である。ヘラクレスには理解できない類の『無礼』だが、少なくとも自分以外にとってはそういうことになるのだとは理解していた。

 一方、困惑していたのはアマゾネスもである。ヒッポリュテのそれが、アマゾネスとして強い男の胤を部族に入れるものではなく、女としての本気の求愛だと漸く悟ったのだ。完全に蚊帳の外に置かれた女達と、ヘラクレスの一行。ヘラクレスはなんとか応じるべくあらん限りの知恵を絞った。

 

「い、一身上の信念がある。勤めとしての性交でないならなおのこと受け入れ難い」

「信念? それはなんだ」

「………」

 

 なんだろう、とヘラクレスは自問した。捏造してたった今生まれた信念だ。口からでまかせとも言う。いっそ清々しいまでに非礼に当たるのだが、これもまたヘラクレスの偽らざる本当の気持ちだった。

 

「……私は嘗て最愛の我が子を喪った。もしもまた子を授かることがあれば、自身の手で慈しみ、独り立ちするまで見守っていきたいと思っている。女を抱くことがあればその者を妻として、最後まで添い遂げたい。故にその二点から、子が産まれればアマゾネスの部族に入り、抱いた女とそのまま別れねばならんそちらの要求には応じられない」

「ならば私はアマゾネスから出よう」

「!?」

「妹のメラニーペに女王の座を譲る。私はお前の妻になろう。子を授かろう。共に慈しめばいい。強き子を育てればいい。……いやいっそのことお前がアマゾネスの身内となれ! そうなれば私はアマゾネスから離れなくともいい、ヘラクレスも信念を通せる。アマゾネスは繁栄するぞ!」

 

 おお、とアマゾネスは声を上げた。トチ狂ったのではないかというヒッポリュテの言に驚いていたが、ヘラクレスをアマゾネスの身内にすると言い出した瞬間に肯定的な雰囲気が出始めていた。

 焦る。焦燥に神経が焼き切れそうだ。しかしなおもヘラクレスは抵抗した。この論戦だけは負けるわけにはいかん! 強迫観念に突き動かされ、ヘラクレスはもうなりふり構う余裕を完全に喪失しテセウスを引き合いに出した。

 

「ま、待て! 冷静になれ! こ、この者は名をテセウスという――」

「……ヘラクレス、何を?」

 

 テセウスは困惑した。いきなり名を出され困惑すること頻りである。

 しかしそんなものに構わなかった。後で冷静になれば自己嫌悪で死にたくなることを口に出す。

 

「テセウスはメラニーペに一目惚れをした!」

「!?」

 

 とんだ流れ矢である。自身の恋心を暴露されたテセウスは愕然とした。だがヘラクレスは止まらない。暴走していた。

 が、結果としてテセウスはヘラクレスに感謝することになる。

 

「メラニーペよ、このテセウスは並ならぬ英雄となる強き男だ。この者の真心は本物だ……どうするメラニーペ!」

「む……」

 

 突如水を向けられたメラニーペはテセウスを見る。テセウスはいきなりのことに戸惑いながらも胸を張って其れに応えた。メラニーペの尋常ならざる殺気が向けられても、テセウスは怖気づかない。それを見てメラニーペは頷いた。

 

「応えよう。テセウスの子を生んでもいい」

「ンンッ?!」

「ヘラクレス! 貴方に感謝を! やはり貴方は僕如きでは測れないっ!」

 

 ヘラクレスはもう訳が分からなかった。しかし光明を見た気がする。

 

 錯覚だった。

 

「ひ、ヒッポリュテ。メラニーペの進退は決まった。彼女に女王の座は譲れば、私の譲れぬ点に抵触するぞ」

 

 支離滅裂だ。滅茶苦茶である。ヘラクレスの一行は、おそらく人生唯一であろうヘラクレスの動揺の激しさに笑いを堪えている。

 しかし頭が茹だっているのはヒッポリュテもだった。ある意味互角だったのだ。

 

「ならペンテシレイアを女王にする」

「ポルテ姉上!?」

 

 今度はヒッポリュテからの流れ矢がペンテシレイアを襲った。意表を突かれ声を上げる末妹を頼もしげに見るヒッポリュテは、末妹がかなり喜んでいるように見えた。

 

 錯覚だった。

 

「わ、私は今勤めの最中にいる。仮に条件を全て満たしたとしても、これが終わらぬ限り前提は覆らん。私は長期間、それこそ何年もこの地に訪れることは出来ないだろう。つまりどう足掻いてもお前とは契れんというわけだ!」

 

 これで論破だといきり立つヘラクレス。しかしヒッポリュテは逆に勝ち誇った。

 冷や汗が吹き出る。まずい――自身の窮地をヘラクレスは心眼にて感じ取ってしまった。

 

「ならばヘラクレス、お前の勤めに私も同行しよう」

「ンンンッ!?」

「いいだろう? お前に付き従う者達もいるんだ、私が入っても構うまい。私の後はペンテシレイアが引き継ぐ。私はお前と共に在れる。勤めが終われば私と共にアマゾネスに戻るもよし、気が済むまで冒険するもよしだ。最終的に私達の子がアマゾネスに入ればいいだけなんだからな!」

 

 反論は!? ヒッポリュテの鋭い目にヘラクレスは息を呑む。何かを言う前に、その間を了承と強引にとったヒッポリュテが手を打ち鳴らした。

 

「決まりだ! 皆、宴の準備をしろ! 今日は目出度い日だ!」

 

 おお! 歓声が上がる。完全に置いてけぼりにされたヘラクレスは茫然自失する。

 笑いを堪えて顔を赤くし、震えながらテラモンがヘラクレスの肩を叩いた。

 

「諦めた方がいい、ヘラクレス。あんたの負けだ」

 

 この身、不敗にして常勝なれば。

 ヘラクレスは往生際悪く言い募った。

 

「ま、まだだ、まだ終わらんよ……!」

 

 負けずの男ヘラクレス。この間に態勢を立て直すべく気を強く持ち直した。

 アタランテとイオラオスは互いに顔を見合わせ、揃って肩を竦めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 




さりげにアテナの加護に言及し、以前のアテナの御手なるスキル発現の条件を満たしにいくスタイル。

なおサーヴァントとして喚ばれる場合、『ヘラクレス』と『アルケイデス』の二つの側面で、条件次第で一方が喚ばれるという感じで抜け穴を考えてたり。スキルと宝具の差別化のため。


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7.3 暗き火が注がれる

■■警報発令。


 

 

 

 ――()()は、酷く不快な見世物を見せられた気分だった。

 

 忌むべき不義の子。その行く末に災いあれと呪い、これまでの不義の子達に相応の報いを与えてやってきたようにして、その疎ましき出自に釣り合った破滅をくれてやるべく暗躍していたが、あまりにも滑稽な顛末を見せつけられて神経を逆撫でにされた。

 これほど不愉快な気持ちになったのは随分と久しいことなのではないか。

 忌々しきは戦女神である。何が英雄達の守護神……自身があの不義の子をどのように想っているか知っているだろうに、事もあろうか加護などを与え、幾ら狂気を吹き込もうとまるで用を成さなくなってしまった。目の前の不愉快な演目を破綻させてやるべく行動してはじめてそれに気づいた時など、般若の如き形相で憎しみを募らせたものだ。

 妻子を作ればこれを滅ぼし、友誼を結ぶ者あらばこれを殺めさせ、その生が続く限り罪と業を重ねさせ、生命ごと魂魄を悔恨の内に潰えさせてやりたい。だがたった一つの加護でそれらの想いは頓挫してしまった。これで主人に可愛がられている戦女神でなければ神々の女王としての力と立場で罰してやるものを……。

 

 ならばと趣向を変え、アマゾネスの一人や女王その人に変じ、不義の子がアマゾネスの国を乗っ取ろうとしている――あるいは女王を亡き者にしようとしているなどと吹き込み、不義の子が正気のまま手を汚させてやろうと目論んだが、これも不可能だった。

 不義の子と女王の契約が成る場には多くが居合わせ、知らぬ者にも瞬く間に広まっている。今更何を吹き込んだところで意味がない。空回りするだけだ。却ってこちらが道化になるだけである。

 

 心底憎たらしかった。存在するだけで罪深いというのに、神々の女王たる身に手間を掛けさせるなど身の程知らずという他ない。如何にして苦しませてやろうかと頤に指を這わせ思案する。

 こともあろうに主人はこちらを掣肘してきた。あなたが悪いんでしょう! と、金切り声で糾そうにも力の差は歴然。力づくで黙らされるのが関の山だ。あるいは反省したとしてもそれは見せ掛けだけで、何度でも同じことをするだろう。だから自分は悪くない。徹底的に主人と交わった女と、その子供を破滅させることで少しでも自らの行いを省みさせるしかないのだ。行き過ぎたことはするなと、些かこちらに気を遣った言い方をしたが、主人の怒りを買わない範囲でならしてもいいと解釈するまで。

 実際に神々の女王の溜飲を下ろさせるためにある程度は黙認すると分かっている。分かっているだけに腹立たしくもあるが、かといって何もしないという選択肢は有り得ない。“やり過ぎるな”……? いいだろう、やり過ぎないとも。少なくともアレと深い関係の者には手を出さない。だが……深い関係でなければいいのだろう。そして仮にソレと深い関係とやらになったとしても、最初から継続的に罰を与えると決めていたのなら関係ない。

 

 女神はこの世の何よりも美しい微笑みを浮かべた。それは――この世のものとは思えぬほど美しく醜悪で、可憐なまでに毒々しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヒッポリュテにされるがままだった。

 

 酒宴の席に招かれ、他の者よりも上座に位置するヒッポリュテの隣の席に座らされたヘラクレスは、押し付けられた盃にアマゾネスの女戦士から酒をなみなみと注がれる。

 アタランテ、テラモン、イオラオスはこの場にいる。しかしテセウスだけはいなかった。メラニーペと連れ立ってどこかに行ってしまったのだ。窮地にある主人を見捨てて女と消えるなど、なかなか泣かせる従者ではないか。この恨みは忘れられるものではない。――テセウスを巻き込んだ自分を棚上げしてそう思う。

 酌をしてくれた女戦士が肉食獣の笑みで言う。女王に濃い精を注ぎ込んで下さいな、そして強き子を孕ませて差し上げて欲しい、それがアマゾネスの幸せだ、と。それを聞いたヒッポリュテは上機嫌そうで。照れたふうにそっぽを向き酒を呷った。ヘラクレスは複雑そうで、逃れるように目を逸らし酒を呷った。

 

「これより偉大な戦士長と、この世で最も強き男の婚礼……いや婚約の儀を祝す剣舞を舞い奉る!」

 

 女戦士達が剣を持ち、宴の席でそのようなことを宣った。武張っていながら華麗さを内包した見事な舞だ。テラモンが感心したように唸りつつ、宴の料理に舌鼓を打つ。イオラオスは粉を掛けてくる女戦士を懸命に透かし、アタランテは愉快げにそれを眺めていた。いかん、と思う。助け舟がない。何故だ、仮にも一行の首領は己のはず、首領を助けようともせずに各々楽しんでいるのに納得がいかない。

 剣舞をおこなう女戦士の中には、未だ幼いペンテシレイアも混じっていた。たしかな才気を感じる身のこなしをぼんやり眺めていると、傍らのヒッポリュテが語りかけてくる。

 

「よかった」

「……何がよかったのだ」

 

 全く良くない。突然押しかけ、女王の至宝の譲渡を要求した側故に、無体な振る舞いも憚られる。最初から不利であるのが決まりきっているとはいえ、どうにも釈然としない気持ちは拭えなかった。

 しかし凛とした貌をほころばせ、華やかに微笑む乙女を見ると気も晴れる。二十歳を超えたばかりといった容貌の女王は、スッと肩から力の抜けた笑みを湛えたまま告白した。

 

「私は未だ処女の(きよき)身だ。はじめて男を求めた。その男がヘラクレスで……お前と契れる望みがあるのは幸運なことだと思う」

「……何?」

「ふふ、なんだ? 私が処女であるのが意外か? そう不思議なことでもないさ。これまで私の眼に適う男がいなかっただけのことなんだから」

「………」

 

 酒を呷り驚いた顔を隠す。アマゾネスという部族からして、その女王ともなれば、既に子供の一人でもいるものとばかり思っていた。見た所ヒッポリュテは二十歳かそこらで、アタランテより幾つか年上という程度にしか見えない。処女であるのが信じられないほど晩婚と言える。アマゾネスに結婚という文化があるかは別として。

 ヘラクレスはヒッポリュテを憎からず想ってはいる。出会い頭からとはいえ、こうも好意を寄せられ悪い気はしない。これが他の女なら突然のことに過ぎ、些か以上に身を引いてしまうほど気味悪がっただろうが、ヒッポリュテはアマゾネスである。アマゾネスというだけで、その強引な姿勢に違和感はなく理解も及んだ。要は女としての本能に忠実なのだ。これだと思った男に一直線で、だからこそ迷いも邪心もない。彼女の妹であるメラニーペがいい例だ。テセウスを見て、ほぼ直感で交わるのをよしとしている。

 理解は出来る。しかし……理解と納得は別だ。ヘラクレスはまだ納得していない。無駄な意地を張らずに自分を分析すると、ヘラクレスは現在に至ってすらメガラに対する引け目を感じているのだ。

 

 ヘラクレスはメガラを愛した。

 メガラはヘラクレスを愛した。

 ヘラクレスはメガラを、殺した。

 メガラはヘラクレスに、殺された。

 

 妻は死に、己は生きている。今も亡き妻への愛情は色褪せていない。妻はもう永遠に変わらなくなってしまったのに、自分が変わってしまえば、それはメガラの愛してくれたヘラクレスではなくなるのではないか、という恐れがあった。

 臆病であると言える。自覚していた。メガラはヘラクレスが変わっても愛してくれると確信している。なのにそんな感情が拭い去れない。言ってしまえば、ヘラクレスは単純に、心の何処かでメガラの死を認めていないのだ。

 

 何が『死は絶対』だ。

 

 死した者と生ある者は違う世界にいる。時間も、運命も、交わることはない。にも関わらず、亡妻の残影を今も探し求めて――それが今の冒険にも繋がっているのだ。

 メガラはまだ生きていて、子供達と共にこの世界の何処かにいて、ヘラクレスを探しているのではないか、なんて……そんな馬鹿げた妄想が心の何処かに棲み着いている。

 ヒッポリュテが掛け値なしに本気の恋心をぶつけてきたことで、それを自覚できた。自嘲も出てこないほど愚かな男である。

 結論すると、ヘラクレスがヒッポリュテの恋に応えられないのは、たった一つの単純な答えしかない。

 

 ――感情が他者から向けられる恋心を拒んでいる。

 

 それだけだった。それだけだったのだ。色々なものから外れている身と心でも、伴侶と死別したのなら再婚しても良いとは思っている。しかしそれを拒んでいるのは、己の意志ではないとはいえこの手で妻子を殺してしまった事実から目を逸らしたがり、何もかもから逃避しているからである。ヘラクレスは愕然とする思いだ。こんなにも小さな男だったのか、私は……。絶望的な矮小さだ。

 ヒッポリュテに申し訳ない。ひたすらに、ただただ申し訳ない。もはやヒッポリュテの顔を直視できなかった。そんなヘラクレスの様子には気づかず、ヒッポリュテは機嫌良さげに剣舞をおこなう末妹に呼びかけた。

 

「ペンテシレイア、こっちに」

「む……なんだポルテ姉上」

 

 手招きされ寄ってきたペンテシレイアは剣を置いた。激しく舞っていたからか全身から珠のような汗を浮かばせている。ペンテシレイアをヘラクレスと自分の間に座らせたヒッポリュテは、若干の稚気を滲ませて酒の入った壺を末妹に持たせる。

 

「酌をしてくれ。お前に注いでもらいたい」

「……仕方のない姉上だな」

 

 ペンテシレイアは苦笑した。寂しさを紛らわせるために激しく舞っていたところを、こうして呼びかけたのはヒッポリュテが末妹の気持ちを察したからだと気づいたのだ。暫しの離別となる。その前に、少しでも触れ合っておこうという姉の気遣いがペンテシレイアには嬉しかった。ヒッポリュテとメラニーペ、ペンテシレイアの三姉妹は仲の良い姉妹で、これからもそれが変わることは絶対に無いと断言できる。

 ヒッポリュテは直情的で、誇り高いが短気で、怒りっぽく、そうなったら口を滑らせてしまう迂闊さもあるが、ペンテシレイアにとってはこの世で父の次に尊敬する戦士であった。軍神の巫女としての役割も持つ姉は、まさにアマゾネスの誇りそのものなのである。

 

 そんなヒッポリュテは、ペンテシレイアと和やかに会話を楽しみ。ペンテシレイアが今よりも小さかった頃の思い出を語る。よく修練に付き合ってやったものだが、最初は野生児そのものだったなと揶揄されると、白磁の肌を上気させたペンテシレイアは食って掛かる。その遣り取りも楽しい。

 ヘラクレスはそれを横目に、懐かしさを感じていた。目を細める。良い雰囲気だと、彼女達を微笑ましげに見ていて――

 

 ふと、ヘラクレスの勘が無意識に働きかけ、ぴくりと指が跳ねる。

 

(……?)

 

 内心首を捻った。自分でも正体の判然としない胸騒ぎがする。なんだ、と神経を尖らせた。

 

「ほら、ペンテシレイア。ヘラクレスにも酌をしてやれ」

「む、むむ……」

 

 ヒッポリュテに水を向けられたヘラクレスは気を紛らわされる。

 大好きな姉を取る男に酌をする、ペンテシレイアは心底嫌そうだった。その幼い表情が可愛らしく、思わず笑みを浮かべてしまった。

 ほら、ほら、と繰り返し急かされ、ペンテシレイアは渋々、嫌そうに酒壺をヘラクレスの持つ盃に寄せてくる。

 

「感謝しろ。次期女王が酌をしてやるんだ。一生に何度もない栄誉だと知れ」

「……ふ」

「何が可笑しい!?」

「義兄になる男にそんな物言いをするからだ。だろう、ヘラクレス?」

「違う」

 

 とりあえずヒッポリュテの前向き過ぎる解釈を否定しておく。――嫌な予感がする、何故?

 

「はははは」

 

 とくとくとヘラクレスの盃に酒を注ぐペンテシレイアの、堪らなく不服そうな顔を見ていたヒッポリュテは声を上げて笑っていた。

 恥辱で顔を赤くするペンテシレイアはヘラクレスを仇か何かのように睨んでくる。

 

「くっ……覚えていろヘラクレス! この屈辱、私が成人した暁には貴様を地に叩き伏せることで晴らしてくれる!」

「はははは!」

「……ポルテ姉上!? さっきから笑い過ぎだ!」

「ははは――は、は……?」

 

 ――その時。

 

 ヘラクレスの黒髪が波打つように揺らいだ。察知した何かに瞬間的に反応して殺気が迸る。瀑布の如く膨張したそれに誰しもが身を凝固させ。

 とうのヘラクレスは、全身に鳥肌を立たせていた。

 

 朗らかに笑っていたヒッポリュテが固まっている。無作為に放たれたヘラクレスの殺気に恐怖したのではない。何か信じられないものを見たような、驚愕した顔色だった。

 ヒッポリュテは弾かれたように動いた。咄嗟に手近にあった、ペンテシレイアが剣舞で使っていた剣を掴む。そして勢いよく立ち上がり、

 

 ペンテシレイアを、殺気奔った目で、睨んだ。

 

 

 

()()()()()ッ!?」

 

 

 

「え……?」

 

 ペンテシレイアは唖然とした。敬愛する姉からの殺気と誰何に反応できない。ヒッポリュテは侮蔑するように嘲笑する。

 

「愚か者め。私は身近に置く女戦士の顔と名は全て記憶している! アマゾネスに化けたとてこの私を騙せるものか!」

「あ、姉上、何を……!?」

「この私の命を狙った刺客……め……?」

 

 ヒッポリュテの体が傾ぐ。一瞬、倒れかけたヒッポリュテは踏み留まると、顔を俯かせた。そして再び顔を上げたヒッポリュテの目は、黒く染まり。その瞳は真紅に侵されていた。

 その身に宿る軍神の血が瞬間的に励起されている。迸る神性は軍神直系の子のもの。ヘラクレスにすら引けを取らない暴圧のそれ。ヒッポリュテが突如として()()した。その眼には()()()()()いるのか。

 

「――きっ、きさっ! 貴様ァアア!!」

 

 呂律すら回らない深度量れぬ怒りの津波。

 嘗て優しき姉から向けられたことのない憤怒と殺意に、ペンテシレイアは完全に萎縮してしまっていた。彼女が愚かで臆病なのではない。事態の急変と混乱から来るもの。

 ヒッポリュテが宴席を破壊する脚力で踏み込み、剣を振りかぶる。

 

「貴様! ペンテシレイアを、()()()()()()()()()()()()()()――ッッッ!」

 

 軍神招来・狂戦咆哮(アーレウス・アマゾーン)

 

 軍神の御子にして巫女である、ヒッポリュテが死に物狂いで仇を討たんと、完全に狂気に呑まれて襲い掛かる。

 軍神が司るは戦の狂気。その子供であるヒッポリュテは、殊更にその呪詛への耐性が低く、そして相性が良すぎた。戦いの高揚の中で覚醒するはずの全霊を一瞬にして発揮したヒッポリュテは正真正銘の全力だった。腕に巻き付けていた戦神の軍帯(ゴッデス・オブ・ウォー)が莫大な神気を発する。振るう剣の一撃はもはや災害のそれ。ヘラクレスをも吹き飛ばす膂力を発揮する――実の妹に向けていいものではなかった。

 

 ペンテシレイアは呆然としていたのを、死の危機を悟るや我に返り、咄嗟に回避しようとする。しかし遅い。間に合わない。あの剣の一撃で己は跡形もなく消え去るのだと理解してしまった。

 だが、そうはならない。ペンテシレイアの細腕を掴んだ、大きな手。それに引っ張られ、ペンテシレイアは殺傷領域から強制的に脱出させられる。

 

 代わりに前に出たのはヘラクレスだった。狂気に呑まれたヒッポリュテに――その狂気を吹き込んだであろうモノの正体を知るが故に――堪え難き殺気を放って臨戦態勢を取っていたから間に合った。掲げた腕で剣の一撃を防ぐ。獅子神王の金色の鎧は、人理の内にある剣を完全に遮断する。

 切り傷一つ無い。だがヒッポリュテは戦神の軍帯によって莫大な神気を纏っていた。その膂力自体は無効化出来ない。女王の一撃によってヘラクレスの立つ足場が、両足を基点に大きく陥没し神殿全体に亀裂を奔らせた。

 

 顔を顰める。ヒッポリュテはぎょろりと神性の瞳で恋した男を睨む。

 

()()()()!?」

「……ッ!」

「お前は……あの刺客を、この場に紛らわせるために……? 私を、裏切ったな!?」

「違う! ヒッポリュテ――」

「呼ぶなァッ! 敵、敵ィ……敵はッ! 殺すッ!」

 

 ヘラクレスをも敵と認識したヒッポリュテは標的を変える。誰よりも厄介で強いのがヘラクレスだと理解する理性はない。本能で倒すべき敵の順序を組み立てただけ。

 それだけに厄介なのだ。だからこそ危険なのだ。ヘラクレスは全力で防御を固める。間違っても攻める訳にはいかない。絶対に殺す訳にはいかない。例えこの身が殺されようと――

 

「ヒッポリュテ! 眼を覚ませ、そんなモノにいいようにされる女かッ!」

「黙れ!」

 

 瞬き一つする間に無数の剣撃が閃く。流麗にして暴虐、卓越した戦士の技と軍神の子としての暴威が高次元で融合し、ヘラクレスを本気にさせるほどの脅威となる。

 防御の一辺倒でやり過ごせる相手ではない。守り続ければ負け、負けたらこの国は惨劇に呑まれるだろう。

 だが、それでも、ヘラクレスは攻めなかった。

 

「その程度なのか、お前は……お前の心は、その程度なのかッ!?」

「黙れェェエエッッッ!!」

 

 ヘラクレスの専守を崩す剣の打撃。カチ上げられた腕の隙間を縫い、流れるような廻し蹴りがヘラクレスの胴に叩き込まれる。暴風雨に晒された木っ端の如く吹き飛んだヘラクレスは自ら跳んでいた。

 

「ヘラクレスッ!?」

「来るな、お前たち!」

 

 アタランテとイオラオス、テラモンを制止する。それには逆らえぬ迫力があった。

 

 神殿の外に飛び出したヘラクレスは着地した足で地面を削り、吹き飛んでいた体を無理矢理地面に縫い止める。即座に顔を上げると、同じく神殿から飛び出してきたヒッポリュテが高々と跳躍し、上方より飛来してヘラクレスに襲い掛かった。

 神気を纏った脚撃を両腕を掲げて受け止める。今度は受け流し、ヒッポリュテを真横に逸らした。力の流動に逆らわずに地面に触れたヒッポリュテは体勢を崩すことなく、そのまま屈むと足払いを掛けてくる。それを一歩退いて躱し、反射的に反撃しようとする体を制したヘラクレスは後方に跳んだ。

 

 鎧を脱ぐ。背負っていた白剣を地に捨てる。

 

 両手を広げ交戦の意志がないのを全身で示した。ヒッポリュテはヘラクレスを認識していた。それは単に、ヘラクレスほどの強さを、そこいらの刺客が持つはずがない故にその認識に至っただけで、狂気が祓われているわけではない。

 だがヘラクレスはそこに光明を見た。ヒッポリュテから狂気が去るまで耐え忍ぶ道を見つけた。ヒッポリュテは戦う意志を示さないヘラクレスにも構わず突貫してくる。

 鎧を脱いだヘラクレスになら剣は通じる。躊躇いはない。ないはずだ。しかし、心の何処かで、悲鳴を上げている声がある。それが、切っ先の向きを狂わせた。ヒッポリュテは突撃し、男の心臓を睨んでいた剣が下を向く。

 

 ズ、と剣の切っ先が腹の皮膚を貫く。肉を掻き分け、骨の隙間を通り、背中から突き抜けた。

 

 鮮血に塗れた剣を体から生やしたヘラクレスは、自身が心臓から狙いを逸らしたことに戸惑うヒッポリュテを、そのまま両腕で抱き締めた。

 

「ッ!? は、放せッ!」

「………」

「放せ、放せ、放せェェエエッッッ!」

 

 ヒッポリュテが暴れる。刺さったままの剣を捏ね繰り回して男の肉体を傷つけ、力の限りに暴れる。神気を爆発させて拘束を解こうとすらした。

 だが放れない。

 両腕の上から抱き竦められたヒッポリュテは腕を動かせない。手首から先の動きだけで剣を操り、ヘラクレスを責める。足を踏み、脛を蹴り、腕に噛みつきすらした。

 だが放さない。

 ヘラクレスはヒッポリュテを抱き締め続けた。血を吹き出させながら、激痛の海に神経を浸したような中、ぴくりとも動かなかった。神気の爆発を至近距離で受けても小揺るぎすらしなかった。

 

 ヒッポリュテが力尽きるまで、ずっと。――半日間、ヘラクレスはずっとそうしていた。

 

(護らねばならん)

 

 ヘラクレスの胸にあるのはその想い。

 自分に関わったばかりに、ヒッポリュテは狂気を吹き込まれた。最愛の妹を殺そうとしてしまった。

 私が悪い。私のせいだ。自責の念がある。悍ましいあの邪神は、恐らくこれからも、ヒッポリュテに狂気を送るだろう。例えヘラクレスがいなくなっても。

 故に守らねばならないのだ。狂わぬ我が身で、巻き込んでしまった乙女を。

 

(そうか――)

 

 ヒッポリュテは完全に力尽きた。最後の最後まで妹の仇を取ろうと暴れていたからか意識すら残らぬほど力を振り絞り、遂には昏倒するように気絶したのである。

 胸の奥に、零れ落ちる思念。

 怨念。

 想念。

 ヘラクレスは、無限の呪詛を、胸の内で呟いた。

 

(――そうか。そんなにも……憎いか。この私が)

 

 だが、

 

(私もだ)

 

 そう、

 

(要らぬのだな、貴様は)

 

 もはや、彼の中にある、越えてはならぬ最後の一線が、踏み躙られた。

 

()()()()()()()()()()()()と、そう云うのだな)

 

 ゆっくりとヒッポリュテの体を抱き上げ神殿に戻るヘラクレス――アルケイデスは、腹部から血を流しながらも確りとした足取りで歩む。

 アルケイデスのその双眸には、これにて決して拭い去られることのない怨念が宿っていた。

 

 ――善き神に出会った。忠を尽くせる神を見出した。道理の通じる神と話した。眼を掛けてくれる神に与えられた。

 

 もしかすると。

 もしかすると……まだ、話し合う余地はあるかもしれぬと、思いかけていた。総てを水に流すとは言えない。だがどこかで赦せるかもしれないと、愚かにも思いかけていたのだ。

 

 本当に愚かだった。

 

(感謝する。ヘラよ)

 

 もはや、一片の情けすら無い。

 

(貴様を惨殺し、永劫の責め苦をくれてやる。他の何者かにとっては善き神であったとしても――我が憎悪、思い知ってもらう)

 

 

 

 

 




乳母からの熱いエール。
ヘラ「妾を忘れるでないぞ」


ヘラクレスの最も梃子摺った三つの試練
一、ネメアの谷の獅子の退治
二、アマゾネスの女王の戦帯奪取←NEW!(なお後世でネタにされる
三、???



奇しくもヘラクレスがヒッポリュテに懐いた想いはメガラとの初邂逅に似ていた。
守らねばならないという義務感だ。


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7.4 祖神、憤りて

二話目の出荷よー。幕間的な何かです。前話見落としなく。


 

 

 

 またも不発。ただ事ならぬ傷を負わせられはしたが殺すには至らなかった。

 

 結果は不服だが過程はまあ良しとしよう。苦悶に歪んだあの顔は愉快だった。

 女神ヘラは天上の己が領域にて嗤っていた。アマゾネスはヘラクレスと深い関係ではない。出会ったばかりなのだ。故に『親密』ではない。

 アルゴノーツに関しては、自分が加護を与えて冒険を成功させようとしている故に見過ごすが、アマゾネスに関しては破滅させても主人は苦言を寄越すだけだろう。

 いい気味だ。しかし流石に憐れではある、あの不義の子などに擦り寄りさえしなければよかったものを。

 

 そうだ、と思いつく。アマゾネスに神託を下し、ヘラクレスを追討すれば今後神罰を下しはしないとでも言おうか。

 あの腑抜けの輩であれば逃げるだけだろう。殺しはすまい。関係を断絶させるだけで済ませようとは、自分も甘くなったものだと自賛する。

 

 

 

 だが、女神は知らなかった。

 

 

 

 自身が狂わせたアマゾネスの女王が、自身が不出来であると烙印を押した軍神の子であることは知っていても。

 その軍神が――自身の娘を陵辱した海神ポセイドンの子を撲殺するほどの子煩悩であることを知っていても。

 母である自分にまで、怒りの矛先を向ける神であることを、女神ヘラは知らなかったのだ。

 

 ――彼方より巨大な槍が飛来する。ヘラの座する住まいを突き破り、神威に守られた女王の間に軍神の槍が突き立った。

 

『ひっ――』

 

 眼前に突き立った槍にはこれでもかというほどの赫怒が籠もっている。思わず喉を鳴らした神々の女王は不届き者の正体を悟った。

 果たして神槍を追うようにして、火星が如き紅い神性が出現する。

 城壁を打ち崩したが如き轟音を引き連れ、二頭の神馬に牽かれた戦車に乗った男神が降り立つ。青銅の鎧を纏った神の双眸の眼球は黒く変質し、目は悍ましい真紅に。黄金に煌めいていた髪は白く濁り、神々しいまでの武威を放っていた。

 これは、知っていた。その姿は軍神が死力を尽くした戦に参陣した時の姿。――それは知らなかった。白く濁った……遥か古代に襲来した最強無比なる外宇宙の遊星と戦い、()()()()()()()、戦った総ての神格の中で()()()()()と認められた戦神の雛形の発展系。その闘争形態を、女神ヘラは知らなかった。

 誰も知らなかった本気の――()()()()()()()()()()()()()()()()()()力の塊を知らなかった。

 

 アレスだと思った。

 

 だが、誰だこれはと思った。

 

 三色に煌めく神剣を手に戦車より降り立った軍神は、無言でヘラに歩み寄る。

 恐怖のあまり固まるヘラの眼前で止まった軍神は、玉座の上で身動きすらできずに己を見る母神を見下ろす。

 

『……我が母よ』

『ぁ……アレ、ス……か?』

『我が敬愛せし、神々の女王よ』

 

 その声で、ようやく我が不出来の子だと気づくも、軍神は無表情だった。氷のように凍てついた目が、ヘラを見据える。ヘラの誰何に応えずに、淡々と訊ねた。

 

()()()()()()()()?』

『――――』

『俺は……いい。俺はいいのだ。貴女は自身の胎から生まれ落ちた俺が、アテナと比べ見劣りする故に俺を疎んだ。……それはいい。俺が選んだ在り方への、当然の報いだ。だから俺はいい』

 

 俺はいい、と軍神はくどいほど繰り返した。静かに。

 

『母は子を選べん。子も母を選べん。母が何を望んでいようと、母が如何なる気質であろうと、母が己の期待に応えぬ子に不満を感じようと、不出来な子に愛を抱かぬとも、俺は構わん。子である俺は母である貴女を無条件に敬愛した。愛した。何故なら俺は貴女の胎から産まれたのだ。貴女がおらねば俺は存在せん。故にその一点に於いて俺が母たる貴女を敬愛するのは当然ですらある。母よ、貴女が俺にどんな悪感情を懐こうと、他人のように振る舞おうと、俺は受け入れる。だがな。だが――』

『――――』

 

『――()()()()()()()! ()()()()()()()()()()()!!』

 

 その口腔より迸った凄まじい怒気は、物理的な衝撃波を発して神々の女王の居城を震撼させた。主神ゼウスが怒り狂ったが如き圧迫感に天界が軋む。ヘラは玉座にへたりこんだ。恐怖に縛られ威厳すら出せない。我が子の反抗にどうしようもない。

 ただ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――()()()()()()()

 己の座を脅かす脅威であると。これまで頑なに愚物を、道化を演じていたアレスの資質を、やっと知った。

 

 そんなことなど知らぬと若く、青く、未熟な戦神は猛る。まだ向こう見ずさの発露と言えるそれは、しかし。

 真の父性を持つ、偉大な戦神の本質でもあった。

 

()()()()。警告するぞ』

 

 母への愛とその立場への敬意すら投げ捨てて、犬歯を剥き出しにした凶相の軍神は、三原色の神剣をヘラの首、その真横に突き立てた。

 暴圧的な神威と威力によってヘラの玉座に風穴が空く。ヘラの美貌に、それに劣らぬ美貌を近づけたアレスは、押し殺した声で囁きかける。

 

()()()()。次、同じことをしたんなら……俺に、この俺に! 戦を仕掛けたんだと判断するぞッ!』

 

 ――海神ポセイドンの子に、愛娘を犯された時。辛うじて下手人を撲殺する『だけ』で堪えきれたのは、命までは取られていなかったからだ。

 これまで多くのアレスの子、アレスの寵愛を得た獣が奪われ、殺されても心の底から激怒しなかったのは、アレス自身が司る戦の暗黒面を、間接的に知らしめる親孝行としての末路だったからだ。

 ……今回。もし、ヒッポリュテがヘラクレスに殺されていたとしても。誰かの計略の末に仲違いを起こし、誤って殺害されたのだとしたら、薄汚い殺しという戦の暗黒面に通ずるものであると、鬱憤は溜まるだろうが堪えきれただろう。

 

 だが、それは。

 

 ()()()()()赦せなかった。

 

 よりにもよって己の子を狂わせ、あまつさえ己の子が好いた男の手で殺させようとする……?

 それは、己の子の心と、矜持と、魂を侮辱し、踏み躙り、貶める……最低最悪の所業である。

 

 アレスの逆鱗だった。誰も踏んだことのない、越えてはならない一線だった。

 

 奇縁である。奇遇である。総ての基点はヘラクレスだった。

 ヘラクレスが培ってきた縁が、ヘラの行動を変えた。ヘラクレスが心からの忠誠と、信仰をアレスに捧げていた故に――人間が持つ究極の忍耐力、精神力を持つ極大の個であるヘラクレスの信仰を受けていたが故に、人間の想念で在り方を変じさせる神という種、軍神アレスは格段にその父性と行動原理、逆鱗の大きさを変えていたのだ。

 最初からアレスは子煩悩だった。あるいは自分が得られなかった分の親の愛を、己の子には与えてやりたいという想いの現れだったのかもしれない。増大した精神性の気高さが、ヘラの行動を許容できなかったのである。

 

 当然の帰結としての絶縁状。ヘラは、己が不出来と見做した子が……ゼウスとの間に産まれた子が、真実神々の王と女王の嫡男に相応しい男神が――絶縁を申し伝えてきたその時に本当の姿を知った。

 もはや用はないと立ち去るアレスの背中を、ヘラは呆然と見送るしかない。その胸中にあるのは如何なる想いか。省みてくれる情深き嫡男は、二度とヘラを母とは呼ぶことはなくなって。それで終わり。

 ――オリンポス十二神でありながら、その女王との間に確執を生んだ。類稀なる叡智を隠し持つ軍神は、そのマズさが分かる。強大にして偉大なる父神が、きっと自分を危険視するということも分かる。だが己の怒りに任せたこの行動には、欠片ほどの後悔もない。そんな自分にこそ、アレスは舌打ちした。

 

 来たる神々の黄昏。その最終戦争にて、自身が一つの陣営の頭となる未来を――彼はまだ予想すらしていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……私は、貴様を憎まん」

 

 こうべを垂れ、謝罪したアルケイデスに、ペンテシレイアはそう告げた。

 

「巻き込んだ? 関係あるか。どんな意図があるにしろ、やったのは()()で阻止したのは()()()。我が父は道理を弁えている。軍神なら憎むのは下手人だろう。だから私は貴様を憎まない。むしろ……感謝する。私の姉を……狂った獣として殺さず、その誇りを守ってくれた。ありがとう……ヘラクレス、お前は我々アマゾネスの恩人だ。何かあれば、我々は全軍を以て貴様を支援する。貴様が拒んでもだ。受けた恩は絶対に返すぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヘラクレス……は、はは……私は、本当に……弱いな……」

 

 消沈するヒッポリュテは、容易く狂気に支配された己に自嘲していた。アルケイデスはそれを否定する。僅かでも剣の切っ先を下ろせたお前が弱いはずがない、と。

 

「……本当にそう思うか?」

 

 自身が作った、アルケイデスの腹部の傷に触れ、ヒッポリュテは気弱に訊ねる。掛ける言葉を探す前に、男は言った。巻き込んだ責任は取る、と。

 

「お前は悪くない。私だ、私が悪い……すまない。私はお前とは共にいられない。また狂気に支配されるようなことがあれば、私は……」

「――私と共に来い。その恐怖ごと、私が救おう。私に寄り掛かれ、お前が拒んだとしても私はお前を守る」

「――――」

 

 アルケイデスは、力強く宣言した。ヒッポリュテは呆然とし、次いでその目を潤わせて、破顔してしまう。

 

「なん、だ……それは。私を、守る? アマゾネスの誇り高き戦士長を?」

 

 関係ない。

 

「ヘラクレス……」

 

 ああ――そうだ。これは伝えておこう。

 

「……?」

 

 私のことは、アルケイデスと――そう呼ぶがいい。いや、そう呼んでくれ。

 

「何故だ?」

 

 言わせるな。

 アルケイデスは明言は避けた。だが、ヒッポリュテは微笑んだ。

 

「分かった。――……()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

「………」

「どうした、イオラオス」

 

 無言で筆を取り、無心で紙に走らせる少年にアタランテは声を掛けた。

 アタランテの他にテラモンと、事の顛末を知ったテセウスがいる。

 

「……別に。おれはただ自分に任じてるだけさ。伯父上の冒険と、偉業、そこに関わったものを正確に、客観的に記録するってな」

「そうか……」

「テセウス。おまえ、大丈夫だったのか?」

 

 イオラオスの問いに、テセウスはバツが悪そうに頷く。

 

「……何事もなかったですよ。騒ぎの原因を聞いた時は青褪めましたが。しかし……女神ヘラは狂気を司る神でしたっけ?」

「んなわけあるか、馬鹿」

「ところで神々の女王ってなんでしたっけ……」

「……おれに聞くなよ」

 

 ケリュネイアは、彼らを静かに見守っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「………やっとか、ばかめ」

 

 愚弟の発した怒気と神威に、総てを見ていた戦女神は苦笑した。

 彼女は気づいていた。嫌われ者の軍神の本性を。流石に隠していた力の総量は予想外だったが、なんとなく自分より上なのではないかという予感はあった。

 これから先に起こり得る未来を想定する。叡智持ちし戦略の女神は策定する。ろくでもない未来ばかりが脳裏に描けてしまった。末は……破滅か、栄光か。

 父神のことは知悉している。それ以外の神についても。さて――勝ち馬に乗るのは面白くはない。だが負け戦と分かっていて乗るのも詰まらない。かといってそれらを理由に動くのは情けない。

 故に美しき戦女神はこう決める。

 

()()()()()()()()()()()()()()()。私は、英雄を愛している」

 

 英雄達の守護神は、その在り方に殉じるだろう。しかし、アテナは嗤った。

 

「まあ――結果は見えているか。なあ、ヘラクレス」

 

 総ての原因、渦中にある大英雄の行く末こそアテナが見守る世界である。

 

 

 

 

 



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8.1 ジャーニー・ター・コルキス

 

 

 

 

 

 言葉だけでは変わるはずのなかった価値観が、根底から崩れ去るのを実感した。

 

 其れは――ひどく美しく、荘厳で、一枚の絵画に描かれた風景のようで。騒ぎを聞きつけ駆けつけたテセウスは、全身を打ち据えられたような衝撃を覚えた。

 強大な暴威の化身となって狂乱する女王の剣に、体を刺し貫かれた上で女王を抱き締めて。暴れる女王に剣を捻られ出血しても、微塵も動じずに佇んでいる。

 雲の隙間から射し込む木漏れ日に照らされたその光景は、テセウスの中にあった英雄観が根こそぎ覆るほどの衝撃を伴っていた。

 

 綺麗だ。

 

 そんな場合でもないのに、魅入られる。

 英雄が女王の狂気を鎮めるために見せた献身が、見たことがないほど聖なるものに感じられ――そしてその衝撃と感動はテセウスだけのものではなかった。

 テラモンも、アマゾネス達も、その余りに貴い光景に目と心を奪われている。

 

(あれが……これが、英雄……)

 

 その強さに憧れた。成した功業に到達点を見た。だがそんなものはほんの氷山の一角に過ぎず、目に見えるだけで底の浅い認識でしかなかったのだ。

 浅はかだった。強ければいい。強大な敵を討ち、度し難い悪党に報いを与えればいいのだと思っていた。僕如きでは貴方を測れない、少し前にそう言った自分の言が奇しくも証明されている。テセウスの理解と想像を超えた場所で、貴い意志が痛いほど肌を打つ。今この瞬間、言語を超えた領域で、魂で理解した。

 

(英雄とはただ強く在るに非ず。その魂と偉志の気高さにこそ、真の英雄性が現れる)

 

 ヘラクレスこそが真の英雄だ、と出会った時から憧れていた。だがその本質を理解すると、途端に己の矮小さを痛感する。

 目指さねばならないのは、武力ではない。功績でもない。あの在り方こそが何よりも尊く、眩い光なのだ。求めて駆け抜けるべきはあの光の道なのである。

 

 はらはらと、透明な涙を溢していた。

 

 溢れ落ちるそれに気づくこともなく、呆然と英雄の献身を見守り続ける。そうするのが此処に居合わせた者の義務であり使命だとテセウスの心ではなくテセウスそのものの総てが信じた。

 誰も動かない。金縛りに遭ったように。誰も話さない、無粋な音で英雄が挑む過去の超克を穢したくない。

 誇り高く勇猛な女戦士達も落涙する中、誰もが静かにそれを見守っている。女王の求めた英雄が、事実その心すら最たる者なのだと認めたから。

 

(僕は……()()成りたい)

 

 強くなりたいという想いは変わらない。追いつきたいという意志にも翳りはない。

 けれど何よりあの在り方にこそ憧れ――明確な理想像として焼き付いた。

 

(あの人に、僕はついていく)

 

 テセウスは王となる青年だ。アテナイの王になる。王たる者の器と力を持っていた。だがそれでも、王たる者であるテセウスは、その心に曇りなき敬意と忠を懐く。

 例え近くに居なくても。遠く離れていても。せめて心だけは共に在りたい。

 大英雄……大いなる英雄。それはまさにこの人のためにある称号だ。

 共に在っても彼の輝きを曇らせない者に成らなければならない。そうでなければあの人に憧れる資格はない。そして『憧れる』だけでは駄目だ。相応しい行動を、在り方を永遠に続けていく覚悟が必要だ。テセウスは確信している。あの女神の凶行を知った今となっては間違いのない確証を得たと感じていた。

 ヘラの栄光などという名を持つあの人と、名の由来となった彼の女神は決して相容れない存在だ。あるいは神とすら事を構える時が来ると……漠然と予感する。

 

 

 

「ヘラクレス。僕は王になる」

 

 

 

 女戦士達の国から出る時、テセウスはヘラクレスにそう告げた。

 

「アルゴノーツとしての旅を終えたのなら、僕は僕の使命を果たしてアテナイの王になる。だからどうか、遠く離れていたとしても、この心が貴方と共に在り続けることを赦して欲しい」

 

 千の覚悟と万の想いを秘めた、毅然とした眼差しを受けて。ヘラクレスは厳粛な面持ちで笑わずに応じてくれた。

 

「私はお前の運命を縛り付けはしない。自由で在れ、テセウス。お前の心がいずこに在ろうと、私は私のままで在り続けるだろう。故に私から言えるのは一つだ。自らに恥じぬ心で自由に生きよ――私と共に在るということは、そういうことだ」

 

 否とも是とも答えず、自由をと彼は言った。

 およそ誰よりも自由ではない人が、それを口にする。それが痛ましく、けれど雄々しく見えたテセウスは、無言で忠なる礼を示した。

 

 彼はアルゴノーツの冒険を終えた後、一時“英雄旅団(ヘーラクレイダイ)”を離脱し自身の使命を果たしに往く。アテナイの王となるための旅路の中、六つの功績を成し、アテナイ王と成った後に恐るべきミノタウロスを討ち果たす偉業を遂げた。

 テセウスは公正明大なる賢王としてアテナイに君臨し、周辺諸国を纏め上げると数多くの勇士や賢者を集め食客とした。そうして威名高らかなる英雄旅団の基礎を築き上げることとなる。

 

 後の伝説にて、アレスの子ロムルスの盟友となったと伝えられるが……その真偽や過程については多くの謎が残されることになる。果たしてまだ生誕していないはずのロムルスは何者なのか、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ケリュネイアは、面白くなかった。

 

 誰も背に乗せずに往く牝鹿は蹄を鳴らす。嘶きは呻き声に通ずるものがあり、その胸中を掻き乱す複雑な感情を感じさせた。

 面白くない。非常に、とっても面白くない。一行の最後尾をノロノロとついていく牝鹿は生誕以来、月女神との一件に匹敵するぐらい内心お冠だった。

 イオラオス。彼はいい。この少年は自分よりも主人との付き合いが長く、その血は薄いながらも僅かに繋がりがあり、ほんの微かに似た匂いもする。近くに居ても不快にならないどころか、イオラオスなら最愛の主人以外で唯一背中に乗せてもいいし、毛並みの手入れをされても不快にならない。主人という例外を除けば、ケリュネイアにとって最も親しい人間だと言えた。

 アタランテ。彼女も……まあ……いい、と言えないこともない。月女神の信奉者に通ずる匂いは不愉快以外の何物でもないが、最近は別の女神への信仰も懐いているようで、嫌な匂いが中和されるどころかいい匂いがするようになった。元々人柄や雰囲気、神獣が読み解く魂の色彩も親しめるものであったし、主人への態度には含むものを感じなくもないが、其れは自分が兄弟たちに懐くものに似ている気がする。だからいい。

 テラモン、テセウス。彼らも赦せる。自分との距離感は程よい。主人に対する態度、心情は群れの首領を敬う立派なものだ。群れの中に置いてやっていい。主人はそこのところが無頓着だから、自分が確りと見定めるのだと自認しているが、そんなケリュネイアの目から見てもこの二人は合格だと言える。

 

 だがヒッポリュテ。この牝は駄目だ。

 

「アルケイデス、実際どうなんだ? お前の勤めは私の持つ戦神の軍帯(ゴッデス・オブ・ウォー)をエウリュステウスとかいうのに献上することなんだろう? 私が持っていていいのか?」

「正確にはエウリュステウスの娘だ。それと勤めは『献上』ではない。アレはこう言った。『自分の娘が貴様の勤めに相応しいものを考え出してくれた、アマゾネス族の女王の持つ軍帯が欲しいらしい。ただあんまり早く帰ってくるな。ゆっくりして来い』と。手に入れてこいとは言われたが、献上しろとは言われていない。奴の娘にくれてやるかは直接お前が会ってから決めるといい。以後は私が関知するところではない」

「詭弁だぞ……それは……」

「勤め以上のことをする気がないだけだ。無駄は省く、私のためになるなら労は惜しまんが、そうでないなら最低限のことしかせん」

「そうか……だがそうなるとその娘とやらが余程の豪の者でもない限りは、とてもじゃないが私の至宝を下賜するわけにはいかんな」

 

 いたずらっぽく笑うヒッポリュテは、主人を気安く『アルケイデス』などと呼び、その傍らにぴたりと張り付いて離れない。その顔は完全に幸せ絶頂、蕩けきって腑抜けた家畜のもの。誇り高き獣ケリュネイアはその牝が気に入らなかった。

 ぽっと出の新参のくせして横から嘴を突っ込み、さも発情した畜生が如く主人にすり寄っている。許し難い。度し難い。なんだそれは身の程を知れ。弁えろ、主人に相応しいのは自分と同格か格上のモノのみ。軍神の娘だかなんだか知らないが、自分の前で、こうも馴れ馴れしくされると反吐が出る思いだ。群れから追い出してしまいたい。

 それをしないのは……主人に嫌われたくないから。主人と自分は……種が違うから。主人もやはり……人間がいいのだろう。それは分かるし、最初から報われるとは思っていない。望んでもいない。あの日……救ってくれた主人にケリュネイアは思慕の念を懐いたが、生き物としての種の壁を乗り越えられるものではない。また、乗り越えていいものでもない。道ならぬ想いを懐く自分こそが罪深いと、言語にはならないまでも似た思念を懐いていた。故に、主人が人間の牝と親密になるのを邪魔はしない。自分は主人の近くに居られるだけで満足なのだから。

 

 だが。だからといって、新入り風情に主人を穫られるのだけは我慢できない――!

 

「……? どうした、ケリュネイア」

 

 強引に主人と人間の牝の間に割って入り、人間の牝を黄金の双角で突き放す。

 主人は訳が分からなさそうだ。幾ら以心伝心の仲である主人と云えど、まさかケリュネイアが嫉妬しているとは思うまい。

 

 ケリュネイアは戦が嫌いだ。だって怖い。死ぬかもしれない。主人は無敵だから大丈夫でも、自分はそうとは限らないのだ。戦いに出れば死ぬかもしれない。

 痛いのは嫌だ、怖いのも嫌だ、だけれども今は。この牝がいる間は戦場に出たくて仕方がない。だって戦場に出たら主人は自分に乗る。そうなったら誰も割って入れない。自分は速い、何よりも誰よりも速い。全力で走っている間だけは世界には自分と主人しかいなくなる。二人きりだ。自分が主人を独占できる唯一の時間だ。

 戦場に行きたい。戦いたい。怖いけど頑張って敵を轢こう、傷つくかもしれないけど勇気を出して双角で敵を貫こう。転んじゃうかもしれないけど力一杯青銅の蹄で敵を踏みつけよう。だからそんな牝と仲良くしないで。主人にそんな気はないのは分かっている、けれどよく知りもしない牝が主人に張り付いているのは我慢がならない。

 ましてやどんな理由があったとしても、この牝は主人を傷つけた。今だってお腹の傷は完治してないから凄く痛いはずで、全身にも凄い爆発の痕として皮膚が爛れている箇所がある。鎧と兜で隠してないと、何も知らない奴なら顔を顰めるぐらいには。

 こんなことは赦せたものではない。せめて主人の傷が完治するまでは、徹底的に邪魔をしてやりたくて仕方がなかった。せめてもの意趣返し……八つ当たり……仕返し? なんでもいい。とにかくねだるように、甘えるように頭を主人に擦り付ける。

 

 主人は困惑していた。困らせたいわけじゃない。……ごめんなさい。でも今だけでいいから、どうかお願い、ワガママを聞いて――

 

「……何処かに行きたいのか?」

(………)

「………」

 

 ヒッポリュテは目を白黒させていた。いきなり割って入ってこられて、どうしていいか判断できずにいる。

 

 怪訝そうに主人は目を覗き込んできた。主人は思い出話でネメアーとは明確に意志の疎通ができたと言っていた。けれどお前はなんとなくしか気持ちが分からないとも。

 口惜しい。ネメアーと自分、何が違うのだろう。雄と雄だから? 自分もそうなりたい。牝になんか生まれたくなかった。意志が正確に伝わらないのがもどかしい。だからできるのは、精一杯祈ることだけ。

 

「……狩りに出たい……? だがお前は草食だろう。獲物を狩ってどうする?」

(………)

「いや、狩りではない……戦か? ……何を逸る。無用な戦は望むものでは……」

「……待て。流石はアルケイデスの騎獣だ、この地の異変を察知していたか」

 

 ヒッポリュテは得心がいったという表情で、何やら頷いていた。ケリュネイアは理不尽に怒りたくなる。お前には言ってない。

 そんなケリュネイアの鋭い視線を誤解したのか、ヒッポリュテは感心してケリュネイアの角に手を伸ばした。触れたいのか。だが触れさせない。頭を振って拒絶すると、アマゾネスの女王は苦笑して言った。

 

「この一帯には強大な(ドラコーン)がいると聞いたことがある。そのドラコーンは七つの頭を持ち、十の角をそれぞれが備え、七つの冠を被った赤き竜だ。予言者によるとその竜はいずれ黒海を越え、エーゲ海を渡り、更に向こう側にある軍神の領域に辿り着く。其処で築かれる七つの丘はこのドラコーンの骸である――らしい」

「ほう……」

 

 寡聞にしてそんな竜がいるとは聞いたことがない……そう溢した主人は、ケリュネイアがその気配を察知したのかと探ってみた。

 牝鹿はつぶらな瞳で見詰め返した。すると主人は苦笑いする。どうやらその竜種の存在を感知したわけではなさそうだと。バレてしまっては仕方ない、ケリュネイアは早く行こうとせっついた。

 

「……竜か」

 

 ――ドラコーンとは財宝を集め、護り、近寄る者を殺める災害だ。しかしだからこそアレスの泉の竜やコルキスの金羊の毛皮を守る不眠竜などの例があるように、挑むだけの価値はあるのではないかとアルケイデスは思った。どのみち人様に害なす災いであるのに変わりはない、ならば。

 

 主人はヒッポリュテに訊ねた。

 

「そのドラコーンは財宝は蓄えているか?」

「なんだ、宝が欲しいのか、アルケイデス」

「いやなに、コルキスに遅参したとしても、手土産の一つもあれば申し開きは容易になる。どうせあの男(イアソン)のことだ……国宝と交換できる何某かの宝も入手してはいまい。どうせなら人助けついでにその竜の宝を一部拝借し、コルキスの王への交渉材料にしてやろうと思ったまでだ」

 

 望み通りの戦だ、竜を相手にした、な――主人は臆病な牝鹿をからかうように言って。

 

(竜、かぁ……)

 

 ケリュネイアは少し、後悔した。だって怖いものは怖いから。

 

 ――コルキスを目指す道中、合流するまでのごく僅かな時の中で、アルケイデスとその一行は竜に挑む。尤も……挑まれる側からすると堪ったものではなかっただろうが。

 

 完全装備のアルケイデス、猛き女戦士長ヒッポリュテ、輝ける同行者イオラオス、アルカディアの狩人アタランテ、守勢に長けた大アイアスの父テラモン、知勇兼備なる未来の賢王テセウス。

 綺羅星の如き英雄達に挑まれる、赤竜の心境や如何に。

 ともすると予言の推移は、英雄旅団の襲撃から逃れるためのものだったのかもしれない。

 

 

 

 

 




明言しておくと、ケリュネイアは絶対に擬人化しません。
後世の某国が某媒体で何をするかについては認知しません()


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8.2 英雄旅団の進撃

 

 

 ――殺気――轟音、驚愕、激痛――奇襲、応戦――

 

 後の救世主の教えを弾圧せし国の象徴、その元となる神竜は不届きな挑戦者達に向け咆哮した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (ドラコーン)の棲家は既に、一国を燃やし尽くして余りある火炎地獄の様相を呈していた。

 

 十Km四方は最早火の海と化し、激甚なる劫火に呑まれている。開けた平原には爆炎によって草木の一つすら残っていない。今後数十年は不毛の死の大地と化していた。

 全長二百メートルはあろうか。地下より這い出た巨大な蛇の如き体がうねるだけで大地に轍が残される。禍々しき蛇身は焔のように紅く、鱗は紅玉のように煌めいていた。七つの首から伸びた七つの頭には王冠を貫く形で大剣が如き大角が生え、広げた両翼が大気を掴まえると飛翔する。

 引き裂かれた絹の如き音を発し、渦を巻きながら空に飛翔した竜はまさに強大な竜種の中でも頂点に近い霊格の持ち主だ。あるいは君臨者そのものと言えるだろう。幻想種最強の種の名は伊達ではない。

 だが羽撃(はばた)く竜に、最強の種としての慢心、ましてや油断など寸毫たりとも存在しなかった。そんなもの――その身に刻まれた裂傷に、余裕諸共に切り捨てられている。胴に刻まれた傷跡から鮮血が噴き出て、侮れば敗れるのは己であると超越者たる魔竜は悟っていた。

 

 (ころ)さねばならない。滅ぼさねばならない。これから先、滅多なことでは相対することのないだろう恐るべき強敵である、出し惜しめる相手ではない。

 七つの顎が開かれる。口腔に膨大な……神の権能に等しい莫大なる魔力が溜め込まれていく。これまで幾度となく放った豪炎を遥かに凌ぐ全力の竜王の砲声(ドラゴン・ブレス)だ。回避は赦さぬ、防御もさせぬ、掛け値なし全身全霊の一撃を以て恐るべき敵手を殲滅する――!

 七つの冠が紅く光った。放たれた其れは焔の津波。光と熱を孕む燃焼現象を極限まで高めた其れは、太陽神の権能による火炎の掃射に匹敵する。世界の四分の一を焼け野原とし、大陸の一部を溶解させ世界の表層(テクスチャ)をも損傷させる至大の破壊炎。もはや敵を滅ぼすだけでは飽きたらぬ、何もかもを焼き払う災害の極致。

 

「――(これ)なるは獣の骨。神なる鉄器を打ち鳴らし、剣打つ音色に威を載せよ。

 “誓約されし栄光の剣(マルミアドワーズ・ネメアー)”――友よ、謳え。“射殺す百頭(ナインライブズ)”ッ!」

 

 ――其れを。正面から斬り裂き霧散させる不条理こそが竜なる王の敵。

 

 手にした白剣は激大の白光を放ち、万物の視界を潰さんばかりに燦めいて。担い手の意に応え在りし日の神威を纏う。大英雄の込めた魔力を刀身の裡で圧縮、加速し、放たれる光の斬撃が担い手の奥義によって縦横無尽に振るわれた。

 波高五百メートルの津波に等しい豪炎の絨毯が、地より這い上がり天を目指す九つの白光の柱に斬り裂かれる。七対の金色の眼に力が籠もり、空に羽撃く巨いなる蛇竜は刮目した。

 

 劫炎の津波を斬り裂くや、其処から金色の影が飛び出してきたのだ。

 

 四足の獣。神速で疾走する金色の牝鹿には、黄金の獅子の鎧兜を纏い、獅子神王の毛皮で編まれた外套をはためかせし勇者が騎乗している。振るった剣は白い残光を発し、その柄を口に咥えた勇者は後ろ手に白弓を取り出した。竜をも超える神速で駆ける獣の上で狙いなど定まらぬはず、竜はそう思う。だが本能的に防御と回避を同時におこなうようにその力を使った。

 死の大地と化した領域に、青々とした草木が復活の息吹を上げる。豊かに実り、壮大に成る大樹は聖なるもの。竜の首にも比する遠大な幹が多数の壁となって勇者の眼前に聳え立つ。邪なる破壊の炎と聖なる国造りの森林生成、それこそが後に戦神マルスへ討たれる魔竜パラディウムの真髄である。

 

射殺す百頭(ナインライブズ)

 

 ――意に介さず。精製した大矢を九本同時に弦に番え、間を置かずに射つ。放たれるは対幻想種へ形態変化した奥義。如何なる弓の名手であっても、放った矢の軌道は変えられぬ摂理があるのに――射線から逃れた魔竜パラディウムは驚愕した。

 躱せない。神造の城壁にも匹敵する大樹の連なりを貫通し、何処までも追尾してくる竜頭を模した光の矢。その数を九つから五つに減衰させながらもその脅威は健在。木片と倒壊する大樹の隙間を縫って走る牝鹿が一瞬減速した。

 

「我が弓と矢を以って太陽神と月女神の加護を願い奉る――」

 

 僅かな間に追い縋ってきた俊足の女狩人が、真横に伸ばした勇者の腕を足場に跳躍する。天穹の弓は限界まで引き絞られ、片目を細めてその指が狙うは天を舞う赤き竜。

 魔竜は自身を追う光の矢を、蛇行するように飛行して辛うじて間を稼ぎ、五つの首が溜めた魔力で火焔を吐き出し相殺したところだ。

 

「この災厄を捧がん――『訴状の矢文(ポイボス・カタストロフェ)』!」

 

 其れは『弓に矢を番え、放つという術理』そのものが具現化したアタランテの切り札たる祈りの結晶。雲より高き天の御座へと二本の矢を撃ち放ち、太陽神アポロンと月女神アルテミスへの加護を訴える。太陽と月の神々はその訴えに対し、敵方への災厄という形でアタランテに加護を与え、暫しの間を要した後に豪雨のような光の矢による広範囲射撃をおこなう。

 敵味方の区別すらない絨毯爆撃。魔竜は自身の上空に神意が集まるのを感じて、反射的に上方を見上げた。

 

 その隙を得られると端から見抜いていたのだろう。英雄旅団の連携に遅滞はない。

 

 脚を止めた牝鹿の真横に二人の英雄が駆けつける。魔竜が気づいた時にはもう遅かった。左右に広げた大英雄の手に片足を乗せた左右の英雄、“輝ける同行者”イオラオスと軍神の子たる戦士長ヒッポリュテ。高々と天高く投げ飛ばされた両者は全力を尽くす。

 

「カッコいい文句が無くて悪いねぇ!『強靭を示せ、縫い目絶ちの短剣(キュプリオト・スパタ)』ァアッ!」

 

 第一撃は、魔竜の蓄えていた財宝の山に眠っていた短剣、その一刀。剣柄に獅子の刻印が成された宝玉を持つ、豪奢な拵えの名剣である。その強靭な造りに反して軽量であり、扱いやすさが最大の特徴だ。イオラオスは器用な少年だった、その技と気構えは偉大な伯父に叩き込まれている故に、扱いの容易な宝具を極僅かな時間のみで使い熟すに至っている。

 その鋭利な斬撃は、アルケイデスに付けられた裂傷を拡大する。自身の剣が強大な竜なる王の体を傷つけるには至らぬと弁え、最大限の効果を発揮する攻撃を見切った。

 

 ――しかし曲がりなりにもその剣は、遥か後のマケドニア王家に受け継がれる宝剣である。彼の生涯に亘る酷使に堪えた結果その力の大半を喪失し、強靭さしか残さないものだが、それでも今現在は充分以上の効力を発揮した。

 『あの小さき者は脅威とはならぬ』という魔竜の見切り。それが正確だった故に、正面切っての正々堂々なる奇襲となった。弱き者でも立ち回りと的確な攻撃を効果的におこなえば、それは絶対強者に痛痒を刻む一矢となる。侮りの報いに魔竜は虚を突かれ、一瞬体が凝固する。そしてその一瞬の間に、続けざまに飛来した女戦士長がアルケイデスに次ぐ損傷を刻んだ。

 

 しごいた名槍と彼女の肢体に、『戦神の軍帯(ゴッデス・オブ・ウォー)』より注ぎ込まれた神気が宿る。そして想像を超える戦への高揚に軍神の血が励起し、軍神招来・狂戦咆哮(アーレウス・アマゾーン)が発動していた。

 増大した身体能力は神の域。半神としての神の部分が最大限に発揮された軍神の巫女は凄絶に嗤った。手にした宝槍もまた魔竜の財宝の一部ゆえに、ヒッポリュテは皮肉めいて宣い勇躍する。

 

「自らが溜め込んだ宝に貫かれる自滅の因果を馳走しよう。なに――遠慮はするな。これは私の奢りだッ!『不毀の大槍(マルテ・イレクトリズモス)』!」

 

 棍棒のように太い赤い柄、岩石のように巨大な穂先を持つ大槍は、さながら軍神アレスの所有する二本の巨槍に近しい意匠だった。

 自滅の因果とはよく言ったもの、それは鍛冶神が軍神に渋々贈った両槍の試作の槍であり、習作なるそれは廃棄されたものだった。魔竜はそれを見つけ、蓄え――その槍が軍神の娘に渡って自身に突き立てられたのである。

 

 胸に突き刺さる大槍。心臓には届かなかった。だが穂先より迸る悍ましき紫電から、軍神の神気と血を発露する女戦士長によって、傷ましい狂乱の気が魔竜へと送り込まれた。

 

 絶叫が上がった。身の毛もよだつ魔竜の悲鳴。眼が眩んだ魔竜の頭に、アルケイデスほどではないが怪力を誇るテセウスが或る物を投擲する。魔竜が生成した大樹を地面より抜き取るや、それを投げ槍の要領で無数に投げつけたのである。

 凄まじい質量の衝撃に昏倒しかける魔竜の全身に、下からアルケイデスの矢が無数に襲い掛かり、更に上空からアタランテの宝具が降り注ぐ。敵味方の区別すらない殲滅の雨が、地面に着地したイオラオスとヒッポリュテ、そして近くに居たテセウスに降り注ぐ。

 それを、大盾を装備したテラモンが護った。

 降り注ぐ矢から、両手に持った大盾で三人の仲間を守護する。テラモンは他の者達と違いそこまでの武勇はない。しかしせめて防御という一点に限っては、仲間の足を引っ張らぬと気負えるだけの重量感がある。果たして激闘の末、半死半生に陥った魔竜パラディウムは、もはや竜の誇りをズタズタに切り刻まれて、死に物狂いで飛び去っていく。

 

 脇目も振らず一目散に逃げていく魔竜を見ながら、アルケイデスは仲間達を振り返った。

 

「追撃するか?」

「やめてあげて」

 

 真顔でイオラオスが応じる。その眼には魔竜への哀れみもある。流石に酷かった。しかしそれよりも懸念すべきは、

 

「これ以上追い詰めたら、辺り構わず破壊しまくって、目も当てられない惨状が広がるだけだろ」

「……それもそうか」

 

 アルケイデスは納得する。その惨状を超えて生き残り、勝利は掴めるだろう。しかし周囲の被害を無視してまで仕留めようとは思わなかった。

 少なくともあれだけ痛めつけたのだ、復讐を目論まなければ二度とこの地には戻るまい。

 

 ――魔竜パラディウムの受難は続く。遠く逃れた魔竜が休むために大地に降り立つと其処には苛立ち収まらぬ軍神がいたのだ。

 女神ヘラに絶縁を申し伝えた直後の、隠す気のない真の姿を晒している戦神が、いたのだ。

 果たして魔竜は断末魔の悲鳴を上げる。多くの神にも劣らぬ幻想種も、溢れ出る力を持て余している闘争の概念の化身たる者には敵うべくもなかった。

 結果として七つに分割された魔竜の骸はその地の肥やしとなり、丘となる。中でも一際立派な丘はパラディウムと呼ばれるようになった。

 

 こうして魔竜の棲家から財宝を回収した英雄旅団は、一路コルキスへの道を往く。その道中でまた幾つかの諍いと、喜劇とも言える逸話を残しながら。

 だがまあ、それはまた別の話である。ヒッポリュテとケリュネイアの決闘、テラモンの嫁探しに始まる酒乱アルケイデスの出現、アタランテとテセウス決死の挺身による酒乱轟沈――それらはイオラオスの伝記のみに記されているのだろう。

 

 舞台は移ろい、英雄旅団はコルキスに到着する。

 

 そこでは既に、到着したイアソン達がいて。アイエテス王に謁見している最中であった。

 

 

 

 

 

 




本当は三話ぐらい使いたかった。けど話の本筋じゃないから一話にした。
本当はもっと手強く激闘する魔竜さんを書こうとしたんだ。割を食わせてすまない
すべては次の魔女リリィさん登場のために。早く書きたかったんだ…


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8.3 逆鱗を射る

眠いなりぃ←昨日(寝落ち
あっ、書いてねぇや←今(書き始め
毎日投稿を目指すとはなんだったのか……






 

 

 

 バタフライ効果。

 それは力学系の状態にほんの微かな変化を与えてしまうと、その微小な変化が無かった場合とは、その後の状態が大きく異なってしまう現象のことを云う。

 遠くで羽撃いた蝶の羽で、気候に変化が生じるのなら、観測誤差を完全になくせない限り、正確な長期予測は根本的に困難なものとなる――無論そんな提言はこの神代に成されるものではない。

 

 しかしそれが正しい推論であったのなら。

 蝶の羽撃き一つで多くの予測を変えられてしまうのなら。

 もしも蝶ではなく竜が、定められたものより外れ力強く羽撃いた時、それは予測や予想を遥かに超えて、運命すらも歪めるものとなるのではないか。

 

 言うまでもなく暴論である。だがしかし、暴論故に成立してしまうものも確かにあるのだ。

 

 ()()()()ならこうはならなかっただろう。しかし、其処に居たのは神ならぬ人の栄光。ギリシア神話に於ける最大最強の大英雄だ。

 彼が本来のものとは異なる在り方を定め、その通りに歩んだ結果、生じた狂いは竜の翼による羽撃きを超える変化を齎してしまう。

 それが善きものであれ、悪しきものであれ、狂った歯車は既に回りだしているのだ。起こり始めた変化は今、大きく加速していく。

 

 

 

 

 

 

 

 目にした者の眼球が潰れるのではないか、そんな妄想を掻き立てられる華美な一行であった。

 獅子を象る兜と金色の鎧、日差しを照り返し己が威光を示す存在感はただならぬ物。神獣の牝鹿に跨がり先頭を往く者の名は誰もが知る。『ヘラクレス』だ。

 それに並び、鍛え込まれた筋肉の目立つ見事な駿馬に騎乗せしは、不毀の大槍を手に提げている黒髪の女戦士。精悍としていながら凛と咲く花弁の如き美貌は真っ直ぐ前を向き『ヘラクレス』に付き従っている。

 そして見るからに突出した二人の後ろには、これ以上は積み切れない山ほどの金銀財宝を荷とした、豪奢で上質な装飾の施された馬車が続いている。それを牽く二頭の馬を御者の少年が操り、同じ馬車の天蓋の上に野生の中に佇む姫が如き深緑の美女、優美な美貌の少年、無精髭を生やした逞しい男が乗っていた。

 

 大通りを真っ直ぐ進む彼らを止める衛兵はいない。

 

 この一団が先刻来訪したアルゴノーツを名乗り、これらの財宝はコルキス王アイエテスへの贈り物であると言われたのだ。その財宝の煌めきに目を奪われた群衆だったが、まさか王への贈り物を届ける一団を阻むわけにはいかない。憧憬の眼差しで『ヘラクレス』率いる英雄達が王宮を目指すのを見守るしかなかった。

 

 ――しかし。彼らの到着に仲間であるアルゴノーツも気づいてはいなかった。

 

 先にコルキスに到達していたイアソン率いるアルゴノーツは、遅れてくるであろう英雄旅団を待つことはなく、ひと足先にアイエテスに謁見を願い出ていたのだ。気づけと言う方が無理がある。

 ここでイアソンらがアルケイデスが追いついて来るのを待っていれば、と責めるのは簡単だ。しかしそれは流石に酷というもの。イアソンは一応、コルキスに到着した折に仲間達へ提案はしている。陸路で来る予言者や、アルケイデスを待ってから行こうと。しかし逸るゼテス、カライスの兄弟はヘラクレスが追いついてくるのを待つ必要はないと言い募った。カイネウス含む一部の者達もその意見に賛同した。

 ゼテスらのそれは、決して自信過剰で軽率な振る舞いではない。確かにゼテス兄弟については『ヘラクレス』にいい感情を懐いてはいなかった。その強さや功績に嫉妬を懐いている。だが態々何時来るのか分からない連中を待つまでもなく、自分達なら使命を遂げられると信じていた。実際に『ヘラクレス』抜きに果たした幾つかの冒険もある。このまま彼に頼り切った姿勢で居たら、アルゴノーツの得られる栄光は『ヘラクレス』に齎されたものだと噂されかねない。

 アルゴノーツにも名誉欲はあった。寧ろそれは人一倍強い。イアソン自身、自分の力でアイエテスを説き伏せられる根拠のない自信があった。故にイアソンが結局、彼らに圧される形でアイエテスとの交渉に臨んだのは責められる話ではないだろう。実際に、彼らには女神の加護があるのだから。

 

 それに。

 

 イアソンらはアルケイデスの離脱後、金羊毛をコルキスに齎したプリクソスの子供の船が難波し、のっぴきならない状態にいるのを助け出していた。

 プリクソスの子をアイエテスは邪険に出来ないだろう、彼の父親の存在なくしてコルキスに金羊毛は無かったのだ。彼を助けて国に帰らせたとなれば、アイエテスはイアソンらに会わないわけにはいかない。その計算は正しかった。

 

 ――計算違いがあるとすれば、それは彼らが遠い異国の地の王であるアイエテスの人柄や血筋を知らなかったことにある。

 

 アイエテスは太陽神ヘリオス、女神ペルセイスの子供だ。魔女キルケーの兄であり、キルケー同様魔術に長け不死である、ミノタウロスの母パーシパエの兄である。

 純粋な神と女神の子であるアイエテスもまた霊格こそ低いものの受肉した神だった。司るもののない雑多な神の内の一柱でありながら、人間の国を直接統べる王の座に就いているのは、このコルキスでの王位が父母からの贈り物であるから。本心では王の座に興味も関心もないが、敬愛する父母からの贈り物とあっては粗雑にも扱えない。その意識と王位への関心の無さからくる無欲な統治によって国は栄え、アイエテスは国民からも深く敬愛される王であると認められていた。

 神ゆえにだろうか。身内への愛情は殊更に深い。イアソンがプリクソスの子供を助け出して来たことには素直に喜んだものだ。だが低位ではあるが神である故に、アイエテスは猜疑心が強く、また迂遠な手法を好むところがあった。アイエテスはプリクソスの子を都合よくイアソン達が救出したという事象に陰謀があると深読みする。

 

 深読みはしたがアイエテスの考えは正しい。イアソンが使命を果たせるように手助けする女神ヘラによる陰謀だ。プリクソスの子をイアソンが救ったのは偶然ではない。

 しかしアイエテスは誤解した。他の神による謀略ではなくイアソンの奸計であると認識したのだ。そうとなると途端に胡散臭い者に見えてしまう。アイエテスは完全にイアソンらが煩わしい者に見え、早々に殺してしまいたくなった。

 しかし遥か遠方よりやって来たアルゴノーツを刑死させたのでは風聞が悪い。そこでアイエテスは神らしい一計を案じる。すなわち無理難題を吹っ掛けて失敗させるのである。アイエテスにはイアソンらへ国の秘宝を与えてやる気など欠片もなかった。

 

「――貴兄らの欲するところは理解した。なるほど、正統な王位を手にするためには、我が国の秘宝が不可欠と。知っておるだろうが金羊毛は所持する者の国を富ませる秘宝中の秘宝だ、しかしそんなものがなくともコルキスは豊かに成れているし、よほどの無能が王でもない限りは現在の繁栄を保てるだけの土台がある。そして予は無能ではない。であるならば、元より我が国でも有効に扱えているわけでもない……と、言えないこともないのだろう。金羊毛を貴兄らに与えるのも吝かではないな。プリクソスの子を保護してもらった恩義もある」

「話が分かりますね。いや、助かります」

 

 アイエテスの言葉にイアソンは笑顔を見せた。楽勝だという思いが顔に出ている。どこか人を見下したような軽薄さが見え隠れしていた。

 人に近い神である。彼の子供は神としての血脈に連なっていても、司るものがなければ魔力が膨大なだけのただの人となるだろう。しかしアイエテスは神なのだ。不快げに眉を顰め、イアソンという英雄を内心評価する。

 

(この男……果たして予が格別の慈悲を賜わすに値する者か? ただの俗物ではないか……魂が捻れておる、正統な王とやらに成ったところで理想とする統治などできまい)

 

 人ならざる視界と視点を持つ神にして王である。その洞察力はイアソンの本質を見抜いていた。己の課す試練をとても突破できるとは思えない。

 何の問題もないなとアイエテスは結論した。ここで死なせてやるのがこの男にとっても幸福だろう。この男に統治されることになる民にとっても。

 

「だが予とて一国を預かる王だ。大事な客人とはいえ言われるがまま国宝を譲り渡したとなれば予の沽券に関わる。近隣の国々の侮りにも繋がろう。故にイアソン、貴兄に試練を課そう」

「……試練、ですか?」

「如何にも。力と勇気を試させてもらう。コルキスを彷徨う青銅の蹄を持つ二頭の雄牛に引き具をつけ、軍神アレスの野を耕し、カドモスがテーバイで播いた竜の歯の半分、それを戦女神より予が賜ったものを播くのだ。そうすれば耕された土から兵士が湧いてくる。その儀を以て試練の完遂と認めよう」

「な――」

 

 不満げだったイアソンは、アイエテスの言に目を剥いた。

 青銅の蹄を持つ二頭の雄牛というのは軍神アレスの所有物。火を吹く聖獣だ。そしてアレスの土地に竜の歯などを播けば、強力な兵士が出現するのは目に見えている。

 剛力な上に火を吹く雄牛に焼き殺されるか、その後に現れる兵士に斬殺されるか。それを超えろとアイエテスは言ったのだ。イアソンの独力のみで。

 

 イアソンは自覚している。自分の武力なんて大したものではない。雑多な兵士一人には引けを取らないが、それだけだ。自分は智慧で戦う英雄なんだぞ! 心の中で自分に合わない試練を出すアイエテスを罵る。

 だが否とは言えなかった。すぐ後ろにはアルゴノーツがいる、彼らの前で恥を晒すことはとてもではないが出来なかった。アルゴノーツのカリスマ的リーダーである自分だからこそ。アルゴノーツに誇りを持っているからこそ。絶対に情けない姿は見せられない。苦渋を呑み込む心地でその試練を受諾するしかなかった。

 

「わか、りました。ええ、この私が見事その試練を突破してみせましょう」

(安い鍍金を貼りおって。もう少しばかりからかえば、小賢しい面も掻き消えようが。こんな小僧の面を変えても面白くもないな)「……鎧兜も付けず、剣と盾も持たず、よくも強がるものだ……大方おんぶにだっこで此処まで来たのだろうが……」

 

 小さくアイエテスは呟いた。遠い異国の地であるコルキスまで、更に遠方にまで鳴り響く勇名の持ち主『ヘラクレス』ならば余裕綽々に成し遂げるだろうと。そもそのヘラクレスが来れば、アイエテスも大人しく宝を引き渡すことも考えたかもしれない。だがいない、いないのならその可能性を考える必要はない。

 

「……なんか、思ってたのと違います……」

 

 遠い国の勇者達が謁見を願ったということで、愛娘のメディアは物見遊山の気分でここに顔を出していたが、大した見世物にもならずに落胆していることだろう。

 物足りなさそうにメディアは呟く。

 純真無垢で夢見がち、目に入れても痛くない可愛い娘には悪いが、早々に失望してもらおう。どだい英雄といわれる人種など、ろくなものではないのだ。素敵な王子様と吟遊詩人の詠う物語のような恋に憧れているのはいい、しかし憧れは憧れのまま終わらせて、身の丈に合った相手を見繕って婿に宛てがうことで幸せにしてやりたい。アイエテスの親心は愛娘の残念そうな表情に、彼女の儚い理想が崩れ去りそうなのに喜んだ。

 

 その、時。

 

 ふとアイエテスは自分に近い気配を感じて顔を上げた。神の気配だ。それも――何も司らぬ己よりも、遥かに高位な神の気配。

 金縛りに遭ったように愕然とした。『何者だッ!』と神としての側面で誰何する。応える声はない、しかし権能が放たれるのを確かに知覚した。

 

 それが、金色の矢の形をしていて。その金の矢が、メディアの胸の真ん中に突き立った瞬間、アイエテスは総てを悟った。

 

 イアソンの後ろ盾になっている神がいる。そしてその神はイアソンを成功させるべく小賢しい真似をした。それは恋心を司る神エロース。

 金の矢は、射られた者に堪えられない燃え滾る恋心を植え付ける――

 

『メディアッ!?』

 

 アイエテスは脆弱ながらも神威を発しながら悲鳴を上げた。

 訳が分からないのはイアソンである。アイエテスが玉座を蹴倒す勢いで立ち上がったかと思えば、突然娘を振り返って叫んだのだ。

 そのメディアは、可憐な貌を呆然とさせ、自身の胸に突き立った只人に視えぬ矢を見詰める。そして再び貌を上げたメディアの目は、既に正気のそれではなくなっていた。

 自身を襲った何もかもを忘却し、目に入ったイアソンを熱い眼差しで見詰める。

 ここでもまた、イアソンは戸惑った。彼にはレムノス島の女王に対する想いがある。ついでに言えば未成熟な乙女など眼中にもない。鈍くもないイアソンは、自分に慕情を向ける王女の視線を敏感に察知していた。

 先程まで自分になんの関心も寄せていなかった王女が、突如自分への恋に落ちた。控えめに言って訳がわからない。もっと言えば気色悪かった。なんの由縁もない相手との恋物語など、イアソンの感性からすれば理解不能であり、メディアのそれもまた同様でしかないのである。

 

 端的に言って、不気味だった。

 

 アイエテスは咄嗟に叫ぶ。吼えるようにイアソンに命じた。

 

「ッ……! イアソン殿、悪いが謁見の儀はこれまでとする! 召使いに案内させるゆえ、今宵は離れの別宅にてゆるりと休むといい!」

「え、ええ……分かりました。私も旅の疲れがあります、ここは一旦――」

 

 下がらせてもらいます。

 

 イアソンはそう言おうとして、言えなかった。背後から生じた爆発的な殺気を感じたのだ。

 アルゴノーツは元より、この場に集っていた総ての者が戦慄し、鳥肌を立たせ、咄嗟に殺気のする方に目を向ける。その気配は玉座の間に向かっていた。

 だんだん近づいてくる。すわ不届き者かと全員が身構え、その余りに強大な殺気に誰もが絶望していた。扉の向こうまで来た輩は、途轍もない化物だと。

 

 玉座の間に通じる鉄門が、弾き飛ばされるように開いた。

 

「へ、ヘラクレス……?」

 

 真っ先に反応したのは、この瞬間に彼の手を借りたいと願っていたイアソンである。

 獅子神王の鎧兜で身を固めたヘラクレス――アルケイデスは殺気だったままイアソンを一瞥し、そのまま視線を切ると、ズンズンとアイエテスの前まで進み出た。

 

 あまりの恐ろしさに歯を鳴らす。アイエテスは固まった。傍らのメディアなど、恋の熱を忘れたように震え上がり、腰が抜けたのかペタンとその場に座り込んでしまう。

 この時、全員がやっと気づいた。

 アルケイデスは、その右手に一人の少年とも青年ともつかない、有翼の男の首を掴んでいたのだ。凄まじい握力で握られているのだろう、首はへし折れ、貌は赤黒く変色し浮き出た血管は破裂して血が噴出していた。人間なら既に死んでいる。生きているということと、その身の神性からして、神なのだろう。アイエテスは頭の片隅で、コヤツはエロースだと確信する。

 

 アルケイデスは憤怒に染まった形相をエロースに向け、アイエテスに問うた。

 

「――許可無き登城の段、平にお詫び申し上げる。しかし悍ましき神威を感じ、こうして押し入らせてもらった。処罰は如何様にも受けよう。だがその前に、一つ聞きたい。この人心を操る外道めが権能を行使した疑いがある。誰かが被害に遭ったはずだ。それは――誰だ?」

「…………」

 

 アイエテスは、反射的に、腰砕けになっている愛娘を見た。その視線を辿り、アルケイデスはメディアに視線を向ける。

 

 か弱き王女は、その視線に震え上がり――恐怖の余りその場で失神した。

 

 

 

 

 




トラウマ&逆鱗に触れる(心を操るor狂気in)
ダブルを突かれたら温厚で慎重なアルケイデスも、つい殺っちゃうんだ☆

感想でエロスはカオスから生まれた始原の神。真の愛を司る超偉い神だという情報をいただきました。
しかし作者はその説をはじめて知りました。アレスとアプロディーテの子供で、アプロディーテの忠実な下僕という説を採用してます。拙作ではその設定だとご理解いただければ幸いに存じます。


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8.4 戦神、猛りの捌け口を欲す (上)

二回目のお話。前のお話を見逃さないでね。

――神統記についての知識は皆無な作者だッ!いい子の皆、それについては完全スルーで御願いする!作者との約束だッ!
エロースについてマウント取られて作者の心はボロボロなのは秘密。

作中、はたけやま氏より頂いた支援絵を掲載してます。本当はもっと後に、神話編のラストに使うべきだと理性は言ったんですけど、どうしても早く使いたい衝動に負けてしまい載せちゃいました☆
すみません、はたけやまさん。作者の脆弱な精神力だと我慢が! 効かなかった! けどはたけやまさんの絵が凄かったのが悪い(責任転嫁)





 

 

 

 

『わたしの伯父、ヘラクレスはわたしに武器の扱いと、戦いの術を与えてくれた。それはわたしが伯父の旅に追い縋れる力をつけた。

 だが真にわたしを助けたのは、ヘラクレスが授けてくれた智慧の財産だと断言する。伯父は誰も敵わない勇者だったが、同時に思慮深い賢者でもあり、わたしはここに伯父の言葉の一部を書き残しておきたくなった。

 

 まだ旅の道連れがわたしと、何やら小動物のように、動くもの全てを怖がっているような、臆病な牝鹿だけだった時のことだ。夜となり、火を焚き、その灯りに照らされながら、わたしと伯父は星を見上げていた。

 

 【イオラオス。お前は私の如くに強くは成れん。しかし人としての強さとは、精神力と武力の他に、その思慮深さにこそ宿るものだ。思慮の健全さこそ最大の能力であり智慧である。それは自らの本性に従って物事を理解する力であり、真実をその言動にて実行することを可能にするだろう。力で及ばぬならば智慧を絞れ。考える力だけは如何なる者にとっても唯一無限となるもの、扱う者が真に思慮深ければ、それだけで賢者と呼ばれるに足る。

 心に刻めイオラオス。魂には眼があるのだと。その眼だけが真理を見透かせる。この世は何処に向かえど争いばかりが目につくだろう、そしてその数多の諍いが最初に犠牲にするのが真実だ。難しいのは争いに於いて死を避けることではない、不正を避けること。不正とは死よりも速く走り、降り積もった過ちが禍を招く。この旅の中でお前は賢者となれ、知識の多寡では量れぬ真実の賢者となるのだ。これから先、お前よりも優れた者と幾らでも出会うことだろう。だが嫉むな。嫉妬は魂の腐敗となる。魂が腐ればそこにある瞳も曇り、お前を度し難い愚物へと貶めるだろう】

 

 当時のわたしは伯父の言葉の半分も理解できなかった。どこか世界から浮いているような、浮世離れしていた伯父は変わり者で、また変なことを言っているだなんて思ったものだ。だが、だからこそわたしは、愚かだった。そしてその時は愚かでよかったと思う。なぜなら愚かだったからこそ、特に考えもせずに伯父の言葉に従い、そして今のわたしがいる。

 誇りとは、根拠が必要だ。そしてその根拠とは、自らが歩んできた過去にある。だからわたしは胸を張って自分を誇ろう。わたしの人生に、わたしは何も恥じるものがないのだ。そしてこれからも偉大なるヘラクレスについていこう、わたしの使命は伯父の真実をこの書に書き記し、残し続けることだと固く信じる。

 以後、伯父を語り継ぐ者は多くなるはずだ。その中で伯父の姿が歪み、誤り、間違った形で伝えられることもあるかもしれない。わたしはそれは我慢のならないことだと感じている。故にここに伯父の姿を絵に描いておこう。どうか失われることなく、わたしが何よりも敬愛するヘラクレスの真実が歪むことがありませんように。

 

【挿絵表示】

 

 

【挿絵表示】

 

 

 そういえば、一つ書き忘れていたことがある。

 伯父は勇者であり賢者であるが、時に短慮を働き、向こう見ずに行動する愚者でもある。怒りの値が一定を超えると、ヘラクレスは暴威の化身となってしまうのだ。

 およそ短所と言えるものの見つからない英雄ヘラクレスの欠点らしい欠点は、其れだけだと思う。後、酒だけは飲ませてはならない。

 

    −イオラオスの手記−より抜粋』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 憐れにも気を失った王女の姿に、臨界を振り切っていた怒りへ冷水を浴びせられた。

 アルケイデスは自嘲する。湧き上がった赫怒の念に血を沸騰させ、瞬間的に短慮な手に訴えた己の底の浅さを。自身の振る舞いは侮蔑してやまない器の小さな小人のそれ。力を持った幼稚な男のものである。

 自制心を取り戻す。が、怒りは弱まれど一向に鎮まる気配なし。己の手を引っ掻き、悶え苦しむ邪神を一瞥する。喉を掴んだ腕の力は弱めておらず、むしろエロースの抵抗に煩わしさを感じて強めてしまっていた。

 本気で握力を強めれば、そのまま胴と首が泣き別れになるだろう。さぞかし凄惨な光景となる。不死とはいえそうなれば治癒するのに時間は掛かるはずだ。そうしていないだけまだ有情ではあるまいかと自問する。

 

 恐怖に染まったアイエテスの目を思い出し、アルケイデスは嘆息した。

 

「……なるほど。コルキスの王女が被害を受けたか。では相手は……」

 

 探るまでもあるまい。アルゴノーツの旅には女神ヘラと戦女神アテナの加護がある。王女を惑わして得をする人物と言えば、他ならぬイアソン以外に有り得ない。

 イアソンに視線を向けると、本能的にかぶんぶんと首を横に振るイアソンがいた。オレは関与していない! 必死にそう訴えかけてきている。それは事実だろう。イアソンは性根の捻じ曲がった輩だが外道ではない。助けを請うたとしても幼気な王女を惑わそうという発想はないはずだ。

 

「諒解した。この手口、ヘラの仕業か。アプロディーテはこんな迂遠な手は打つまい。……ハッ! 侮られたものだな、イアソン! アルゴノーツ!」

 

 事態を察し発露したのは嘲笑である。

 凡そアルケイデスらしからぬ憎しみの滲んだ放言に、イアソンのみならずアルゴノーツの面々もまた困惑した表情で顔を見合わせた。

 女神であるヘラとアプロディーテを呼び捨てに言い捨てたアルケイデスに、頭をガリガリと乱暴に掻いたカイネウスが進み出てくる。そして皆の疑問を代弁する形で問いを投げた。

 

「ヘラクレス! いきなり出てきて何を抜かすかと思えば……誰が舐められてるって? そこの船長はともかくよ」

「おい、それどういう意味だカイネウス! ……後これは親切心で言うんだけどさ、相手見て態度選べよ? ヘラクレスのヤツ明らかにブチキレてるぞ」

「ぁっ……」

 

 イアソンの忠告を受けたカイネウスが、腹を抑えて顔を青褪めさせた。いつぞやに、アルケイデスの拳を受けて悶絶させられた記憶が呼び起こされたらしい。生まれたての子鹿の如く脚を震えさせ、体を萎縮させていくカイネウスに、アルケイデスは不服げな気分を味わいながらも断言した。

 

「……フン。愚問だな。いいか、ヘラはお前達を愚弄している。何故なら奴はこう言ったも同然だ。『イアソンを助け、その旅を無事に終えさせるには、アルゴノーツではなくコルキスの王女の力が必要だ』と。つまり私やお前達は不要だと断じている。そうではないと言うなら何故、エロースを遣わし権能を行使させ、王女に恋心を植え付けた? 何故イアソンに助力させようとするのが我々ではなくコルキスの王女になる? 順当に考えればイアソンに必要なのは我々だろう。苦楽を共にした同胞である我々でなければならない。それを妨げるように、こんな幼気な王女に恋心を植え付け助力させようとした。ヘラは私達を馬鹿にしているのだ! お前達などではなんの力にもならんと!」

 

 ざわめきが生まれた。自尊心の強い英雄という人種には耐え難い屈辱となるだろう。

 

 ――古代。ギリシア世界に於いて、原初の人類は『黄金の時代』に生きていた。クロノスが最高神であった時代だ。働かなくとも大地には豊かな実りが生まれ、神々の飲み物ネクタルが川に流れていた故にそれを飲んで暮らしていた。限りなく長寿であり、その時代の人々は神に近い存在だった。

 クロノスよりウラノスに、その後のゼウスが最高神の座に就いた当初、時代は『白金の時代』と呼ばれた。百年間を子供のまま過ごし、大人になると僅かにしか生き残らなかった。神を敬わぬからとゼウスに滅ぼされたのである。その後に『青銅の時代』が誕生したが、似たような末路を辿った。

 

 そして当代。最高神ゼウスはこの時代の人類を称して『英雄の種族』と名付けた。後には『英雄の時代』と題されるのだろう。

 英雄の種族には神々との間に生まれた半神半人が数多くおり、彼らは誇り高く、優れた能力を備え、膨大な数の冒険譚を遺した。英雄達は死後、至福の世界エリュシオンに送られるという。

 これはギリシア世界に生きるなら常識であるとすら言えた。であるからこそ英雄達は至福の世界エリュシオンに導かれるために、自分にとっての誇りと英雄らしさを保とうとすることに躍起になっている。そんな彼らが何を嫌うのか、それは単純明快。

 

 面子を潰されること。

 

 それは総ての英雄の逆鱗である。一度受けた仇を忘れず、必ず復讐しようとする者が多いのは、彼らの価値観がそうであるように、仇をなされていながら泣き寝入りをするのは()()()()()()()という認識が共通事項だからなのだ。

 異端の思想と思考を持つアルケイデスとてこの世界に三十年近く生き、暮らしてきたのだ。そんなもの把握している。何を言われるのが我慢ならぬのか、どう焚き付ければ同意を得られるのかを知っていた。そしてアルケイデスのヘラへの憎しみは本物、彼が語る言葉はこれ以上無いほど真に迫っており、何よりも熱が籠もっていた。

 

 最も感化されたのは、意外なことにカイネウスだった。

 元はカイニスという名の女だった彼は、その美しい容姿に目をつけられ海神ポセイドンに強姦されている。その悲劇を二度と体験したくなかったカイニスはポセイドンに願い、不死身の男の体を授かった。

 その背景があるカイネウスは、アルケイデスほどの熱量はなくとも神嫌いであることに間違いはなく、彼の心情に無意識に共感し誰よりも強く煽られたのだ。

 

「ふっ――ふざっけんなぁ! オレ達が要らねえだと!? オレ達の力が、オレの力が役に立たないだと!? ふざけんな、例え神であっても赦せねぇ! 最悪の侮辱だ!」

 

 それはヘラへの不信。怒り狂うカイネウスにアルゴノーツにも怒りが伝播していく。

 口々に怒号を発する英雄達を見渡したアルケイデスは、鷹揚に頷いてみせる。遅れて玉座の間へ入ってきたヒッポリュテやイオラオス、アタランテ、テセウス、テラモンが何事だという顔をしていたが、アルケイデスは扇動者のごとくに言い放った。

 悲劇というよりも単なるすれ違いだ。

 アルケイデスはイアソンとアイエテスの交渉の内容に大方のあたりをつけていたが、イアソンのみに試練を課しているとは思わなかったのだ。アルゴノーツとイアソンは彼の中で等号で結ばれており、試練を課すならアルゴノーツ全員に対するものだと思い込んでいたのである。

 

 そしてアイエテスは『ヘラクレス』に絶大な恐怖を懐いていた。彼が放った放言を否定する気力など無かったのだ。必然、アルケイデスの言が押し通される。

 アルケイデスの誤解が、自身の嫌う強者の傲慢による押し付けであると気づかなかったのは幸いだと言えよう。場の勢いのまま押し通した結果――少なくともこの場の『人間』には不幸な結末が齎されなかったのだから。もし誤解に気づいていれば即座に撤回して陳謝し、悲劇が起こっていただろう。

 

「ならば思い知らせてやろう。我らの力はアルゴノーツとして在る限りイアソンのものだ! 我らの剣はイアソンのために振るわれる! その意志の下に我らはイオルコスに集い、この壮大な冒険に出た。それをヘラの侮りで最後を穢されるなど赦されるものではない! そうだろう!?」

『然り! 然り! 然り!』

「イアソン、号令を掛けるがいい。私も含め、我らアルゴノーツはお前の武器として力を振るうだろう。その意志の固さをお前は今、目にしたはずだ」

 

 ――この時、アルケイデスの誤解を冷静に認識していたのはイアソンのみだった。いや、アイエテスも認識していたが、口をつぐんでいる。

 いける、とイアソンは確信した。なし崩しに仲間達の力を借りられる。アイエテスは完全にアルケイデスに萎縮していた。無理もない、同じ神であり、それも遥か高位のエロースの惨状を現在進行形で見せつけられているのだから。エロースは未だ、アルケイデスに首を鷲掴みにされ、暴れ回っていても大英雄の手はぴくりとも動いていない。

 意に反せば同じ目に合うと誤認するのも無理はない。イアソン達はアルケイデスがそんな真似をする男ではないと知っているが、アイエテスはアルケイデスもまた乱暴で粗野なギリシアの英雄の種族の一員だと決めつけているのだ。

 

 それに、イアソンはアルケイデスの言葉に感動していた。

 

 仲間達はその力をイアソンのものだと言ってくれた。アルゴノーツとして在る今だけは、誇り高い英雄達が自分のために力を使うと宣言してくれたのだ。

 これに勝る喜びがあるか? イアソンは歓喜していた。仲間達との強烈な絆を感じていた。

 

「……ああ! ありがとう、皆! 私……オレのために、皆の力を貸してくれ!」

 

 応! その返事が繰り返される。イアソンは満面の笑みでアイエテスを見た。

 憎たらしくも勝ち誇った顔に、アイエテスは悔しげだ。――と、そこにまた、アルケイデスによる無自覚な追撃が入った。

 

「……そういえば、コルキス王。貴国の至宝を戴くのに、試練を受けたとあってもタダで貰い受けたのでは座りが悪い。そこで私がコルキスに辿り着くまでに集めた財宝を献上する。どうか納めて欲しい」

「………」

「ぶっ……! へ、ヘラクレス、君もしかしてわざとやってるのかい?」

「……? 何がだ?」

 

 アルケイデスの合図で、コルキスの兵士が荷台を牽いて玉座の間にやってきた。

 そこにあった金銀財宝は山のようであり、アイエテスが呆然とするのを見たイアソンは、財宝の量とアイエテスの様子に噴き出してしまった。

 案の定気づいていないアルケイデスに、イアソンはもう堪える気にもならずに大笑いをする。

 

 魂の捻れた青年の、快活で爽快な笑い声が木霊し、それが収まると、アルケイデスは漸く思い出したかのように手に握る神を見下ろした。

 

「――さて。エロースよ。コルキスの王女に射た矢の呪いを解くがいい。そうすれば今回だけは見逃そう」

 

 握力を弱めると、気道が広がりエロースは咳き込んだ。折れていた首が治っていく。

 そうしてエロースは憎悪すら籠もった目でアルケイデスを睨み据えて。

 

 アルケイデスの言葉を、拒絶――した。

 

『ごど、わる……ゴホッ、がホッ』

「……今、なんと言った? 私の耳が遠くなっていたかな……断ると言ったのか?」

 

 絶対零度の眼差しに殺気が宿る。並の神経の持ち主なら即座に前言を撤回するだろう威圧感に、しかしエロースは叫んだ。

 大英雄の恫喝に屈しないかのように。

 

『断る、と言った! わたしはアプロディーテ様の、忠実なる下僕! アプロディーテ様の命令を果たした、それを無かったことにする気は、わたしにはない!』

「ほう……大した忠義だ。心底不愉快だがな」

 

 アルケイデスにとっても、エロースの忠義は見上げたものだ。しかし今は意識のないメディアにとってははた迷惑なものである。

 そしてアルケイデスにとって、人の心に関する領分は、例え信仰する軍神や死の神からの要請であっても譲らぬものである。今……アルケイデスの脳裏に、中道の剣に秘めた切り札と言える神毒の存在がよぎった。

 

 だがそれはまさに秘中の秘。使い道は既に決まっている。こんな所では使えない。

 

 アルケイデスは通告する。最後通牒だった。

 

「エロース。私は貴様に掛ける慈悲は持ち合わせていない。それを踏まえて答えよ。貴様が神であっても、手心を加えると思うな。……呪いを解け。さもなくば……」

『断ると、言ったぞ! ヘラクレス!』

「………」

 

 『ヘラクレス』の目に、危険な光が宿る。エロースは己は不死の神であるからと、恐れた様子はない。

 大英雄は、短く告げる。来い、と。

 空間を跳躍して召喚された白剣が左手に握られる。エロースを片腕のみで宙吊りにしたアルケイデスが、エロースの体を白剣で串刺しにする構えを見せた。

 

「……最後だ。呪いを解け、エロース」

『神に、対する、その不遜……不敬……万死に値すると、知れ……! ヘラクレス!』

 

 露骨な嘆息は誰のものか。アルケイデスは白剣を突き込まんとし、

 

「よせっ! アルケイデス!」

 

 唯一止められる女が、アルケイデスの暴挙を食い止めた。

 

 

 

 




今回は上・中・下に分ける予定です


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8.5 戦神、猛りの捌け口を欲す (中)

 

 

「らしくもない、筋を違えるなアルケイデス。いいか? エロース神はアプロディーテ神の従属神だ、その者はあくまでアプロディーテ神の命を実行したに過ぎない。糾すならばアプロディーテ神だろう」

 

 憤怒の臨界点に達する寸前のアルケイデスを止める。それは命が幾つあっても足りぬ難行であると断じられよう。

 アルケイデスの力は強大だ。そしてその殺気もまた比例するほどに巨大である。そんな武と暴の化身と云える傑物に、自らの名誉や命が懸かっているでもなしに誰が真っ向切って諫言できるのだ。余程の阿呆か大器の者でもなければ、とてもではないが成せるものではない。

 それをこともなげに成し遂げた美貌の女戦士へ、アルゴノーツの面々は一人残らず驚愕の眼差しを向けた。そして誰もが思う。誰だこの女は、と。

 気高き女戦士長は訝しむ顔が散見されるのに気づくと、堂々と歩を進めて胸を張る。何にも憚ることなき我が名を聞けというかのように。

 

「アルゴー号の船団員、イオルコスのイアソンの下に集いし勇士らよ。私は軍神アレスの子ヒッポリュテ。アマゾネス族の戦士団を率いし戦士長だ。元と付くが女王でもあった。今は一身上の都合でアルケイデス……ああ、いや……ヘラクレスに付き従っている。この場は私が預かろう。なに、これより先は身内の不始末だ。栄えあるアルゴノーツの英雄達の目を汚すことはない、下がって一足先に旅の疲れを落として欲しい」

 

 アマゾネスの元女王。そんな者が何故ヘラクレスに付き従う? それにアルケイデスとはヘラクレスのことか? 彼らの間に何があったというのだ。気に掛かる点は多々あるが、そのように元女王に言われたのでは聞き入れてやってもいいという気になる。

 あー! 疲れた! そう態とらしく大声を上げ、ひと足早く玉座の間から立ち去っていくのはイアソンである。それに釣られる形でアルゴノーツの面々も下がっていった。

 英雄旅団のテラモンが言う。「流石に王女殿をこのまま寝かせておくわけにもいかんだろ。わたしに任せろ、貴様らに付き合ったせいで体の節々が痛い。王女を休ませられる所に連れて行ったら、そのままわたしも別宅に向かって休んでおくからな」と。

 

 ヒッポリュテはそれを見届けると、アルケイデスを毅然と見詰める。激情の冷めるような言い含めるような口調で、柔らかな声音と共に語りかけてきた。

 

「……アルケイデス」

「………」

「落ち着け。エロース神をどうこうしたとて無意味だ。冷静になって考えろ。な?」

「………フゥ」

 

 普段から直情的なヒッポリュテの説得は、やはりその性格の通りに真っ直ぐな物だ。アルケイデスは大きく息を吐き出すと剣を降ろし、そのまま背中に帯びる。エロースは露骨にホッとした表情になった。ヒッポリュテと血の繋がりがあるのを知ったからか、感謝するような視線を女戦士長に向ける。

 アルケイデスはエロースの首から手を離した。地面に膝から崩れ落ちたエロースは、何度も咳き込んで、打って変わった憎々しげな表情で大英雄を睨みつける。

 

『げほっ、げほっ……ヘラクレス……貴様、覚えていろ。わたしにこんな事をしたんだ、相応の罰を――』

「黙れ」

『――は?』

「口を閉じろ。誰が声を発することを許した?」

 

 エロースは呆気に取られた。そしてアルケイデスの目を見て察してしまう。この男は未だにエロースに殺意を懐いている。動くな、逃げるな、そう眼が言っていた。

 少しでも妙な動きを見せた瞬間に叩き斬ると、その剣気が雄弁に物語っている。その眼に煮え滾る憎悪の熱量が、己を遥かに凌駕するものと気づいた瞬間に、エロースの背中に嫌な汗が伝った。

 

「一応、断っておこう。もしも貴様が自らの権能で私に復讐しようとした場合、あるいは私の関係者に余計な真似を仕出かそうとした場合も、私はギガースとの戦に参戦しない。この意味が分かるか?」

『――――』

 

 分かるに決まっている。それはつまり、来たる巨神戦争(ギガントマキア)でオリンポスが敗北することを意味する。エロースは歯噛みした。たかが人間という想いはあるが、アルケイデスだけは例外なのだ。

 その強さもそうだが、神々の長である最高神ゼウスが造った対巨人の切り札こそが彼なのである。そんなアルケイデスを、高位の神とはいえ自身の一存で破滅させるわけにはいかない。その分別がエロースにはあった。己の立場を笠に着て、よくもそこまで恥ずかしげもなく言い放てるものだと怒りを募らせる。

 

「先程、最後だと言った。だが撤回しよう。私の存在はオリンポスの神々の中でも最高神のみが処断できるモノだ。貴様がどうこうと云える立場ではない。巨神戦争をオリンポスの勝利で終えるまでは、私の存在はアプロディーテよりも遥かに重要だ。貴様の返答次第ではアプロディーテの進退にすら関わる可能性もある。それを踏まえた上で答えろ。私の言うことを聞き、コルキスの王女の呪いを解くか否か」

『……さっきから黙って聞いてたら……様をつけろ、ヘラクレス! アプロディーテ様を何度も呼び捨てにするとは何事だ!?』

「なぜ敬称をつける必要がある? 私が敬意を払う対象は決まっている。軍神を筆頭に冥府神、鍛冶神、戦女神……最高神――」

 

 最後、微かに言い澱んだように聞こえた者はいない。

 アルケイデスの存在の威力が凄まじい領域にあるからだ。気圧されているエロースに気づけるだけの余裕はなかった。

 

「――いずれも敬意を払える威厳と力がある。貴様の主にはない。それだけのことだ」

『――――』

 

 主を侮辱されたエロースの顔が赤黒くなる。忠実な下僕として母神に仕えるエロースは激怒していた。

 堪えきれぬように、絞り出す。

 

『……貴様、巨神戦争後に災いがあるぞ。奴隷としてアプロディーテ様に仕えるなら、まだ赦される可能性はある。今の内に下僕になれ、そうするならこの場に於いてわたしは貴様を赦してやる』

「何を勘違いしている? 巨神戦争の後の話をしてなんになるのだ」

 

 さも呆れているといった表情に、エロースは嫌な予感がした。

 ヒッポリュテは止めようかと思った。しかしイオラオスは元よりアタランテ、テセウスも何も言わない。

 黙っているのがアルケイデスのためになるのか? 次に出る言葉は確実に避けられない災いを齎すことになる。エロースは神だ、神ゆえに不死だ。しかしアルケイデスの言動を注意深く観察していると、明らかに不死であることを危険視していなかった。

 不死の存在を殺す手段を知っている? それとも封印する方法を知っているのか? いずれであっても善からぬ事態を招くのではないかという懸念がある。

 

 エロースは恋心を司る神だ。それを抹殺、あるいは封印した場合、人はもう二度と誰にも恋をしなくなる恐れがある。それどころか今ある恋心すら霧散しかねない。

 概念を司る神とはそういうものなのだ。仮に不死の神をどうこうできるとしても、軽はずみに害してはならない。神代とはそうした理不尽の横行する世界なのだから。

 

 そんな懸念などアルケイデスが思い至っていないとは思えない。まさかそれにすら対策があるというのか?

 

「冷静になって考えてみると貴様は所詮、主に遣わされただけの配下に過ぎんな。責を負うべきは命じた側だ。貴様に負わせるべき罪と罰――アプロディーテに取らせよう」

『なっ!?』

「さて、どうしてくれようか」

 

 にやりと残虐な笑みを浮かべるアルケイデスにエロースは慄然とする。エロースの忠誠心は本物だ。主を害すると告げられ顔色が変わる。

 陰湿な手口だ。ねちねちと、弱いところを突く――まるで何かを聞き出そうとしているような、引き出したい言葉があるかのような物言いに、ヒッポリュテは意外な思いを懐いた。公正明大、質朴剛健とした人柄しか知らなかったヒッポリュテであるが、そんな姿を見ても失望しなかった。

 聖人ではないかと疑いたくなる男にも、こうした穢れめいた側面がある。人間らしくて逆に好ましいと、柵がないまま恋に生きているヒッポリュテは思う程度だ。

 

 エロースは咄嗟にアルケイデスがアプロディーテをどうこうできるか考えた。

 

 ――可能だ。

 

 結論はそれ。巨神戦争はこの英雄の力がなければ勝利できない。アルケイデスがおらずとも敗北はしないだろうが、神を相手に殺されることのない性質を持つギガースを相手に勝ち切るにはどうしても人間が必要なのだ。

 ゼウスは勝利のために、余程のことがない限りはアルケイデスの蛮行を見過ごすだろう。アプロディーテに乱暴を働いたところで、神と人間を対等の天秤に乗せて裁こうとするはずだ。そうなるとアルケイデスにも情状酌量の余地ありとし、どれほど残忍なことをアプロディーテがされていても軽い罰で赦してしまうかもしれない。

 アルケイデスとは巨神戦争以前では、まさに天下御免の免状を持っているのに等しいのだ。故にアルケイデスに巨神戦争のことを知られるのはマズイのである。

 

 誰がこの男に教えた! エロースはそう叫びだしたくなる。しかしそれを抑え、何よりも優先される主の身の安全のためにこう言うしかなかった。

 

『――ま、待て! わたしは確かにアプロディーテ様の命で動いた! だがそのアプロディーテ様にわたしを遣わすよう依頼したのは女神王ヘラ様だッ、そのヘラ様のご意向に反するつもりか――!?』

 

 それに。

 

 酷薄な笑みが、己を見た。

 

 背筋が凍る。死なぬ神が、死の無い神が、死を幻視する。

 暗黒の帳に包まれたような殺気が迸っていた。比類ない偉丈夫から。

 くつくつと嗤い、アルケイデスは憎悪に軋んだ笑みを浮かべる。恐怖で舌の根を凍らせるエロースを見下ろして、アルケイデスは呟いた。「やはりか」と。

 

「そうだろうとは思っていたがな。決めつけてすらいた。そしてそれを事実として吹聴した。後出しとはいえこれで証明されたわけだ」

『ぁ、ぁ……』

「……そうか、そうか……よく分かった。では質問しよう。その答え次第で貴様やアプロディーテについて考える。心して答えるのだな」

『わ……分かった』

 

 エロースは英雄の不遜な態度を肯んじるしかない。完全に呑まれ、怯えていた。この男は神すら殺すのではないかと。

 故に嘘は吐かない。そうしなければならない。不死の神にはないはずの生存本能が叫んでいた。

 

「貴様は何があろうと、何をされようと呪いを解く気はない。そうだな?」

『……そうだ』

「しかしアプロディーテには非はない。あるにしてもあくまで依頼に応じただけだ」

『その通りだ』

「だが私とて神々の女王をどうこうしようとは思わん。畏れ多くも最高神の妃故に。そこで問おう、貴様の呪いはどうすれば解ける? その方法を伝えるだけでいい。貴様に使命を放棄せよなどとは言わん。どうだ?」

『………』

 

 エロースは迷った。教えていいものなのかと。

 だが己の使命には抵触しない。アプロディーテにも累は及ばない。ヘラの面目も立つと判断できる。それさえ分かるならもうエロースにはどうでもよかった。今はただ、すぐにでも眼の前の男の視界から消えてなくなりたい一心である。

 故に答えた。正直に。嘘偽り無く。

 

『――わたしの射た矢は、金色の矢だ。射られた者に恋心を植え付ける。通常なら死が分かつまで解けることはない。しかし今回は別だ。……イアソンが使命を遂げた時に、その矢は抜ける。ヘラ様のお達しだ。利用はするが使い潰しはしないと』

「………」

 

 アルケイデスはその言を聞き、一瞬沈黙した。悪鬼羅刹も斯くやといった形相で黙り込む。しかし何も噴出しない。自制心を取り戻していた。

 王として、神として、双方の意地で辛うじて意識を保っていたのは、取り残されていたアイエテスである。そちらを向いたアルケイデスは短く言う。

 

「――そういうわけだ。心苦しいのはそちらもだろう。しかし呪いが解けるまでの間、貴殿のご息女をお預かりしたい。あの魔力……魔術師として相当の研鑽を積んでいるのだろう。狂気に駆られ暴走し何を仕出かすか分かったものではない。悪いようにならぬようにしたいのだ。その代わり責任を持って王女を守り、呪いが解けた後にコルキスへ送り返すことを約束する。だからどうか、お預け願えないだろうか?」

 

 アイエテスは頷くしか無かった。アルケイデスが恐ろしいのはある、しかし今の話を聞けば、愛する娘のメディアが呪いの解けた状態で帰ってくると理解できた。

 この男が約束したのなら、メディアは万が一にも傷一つ負わない。約束を果たして、彼は必ずメディアをコルキスに帰してくれる。そう信じられた。いや、信じたいというのが本音か。アルケイデスの恐ろしさは骨身に染みた、もはや何をされても泣き寝入りするしか無いのである。信じるしか無かった。

 不安げで、恐怖に固まっているアイエテスに、アルケイデスは罪悪感を感じて身じろぎする。怖がらせるのは本意ではなかった。なんとか安心させてやりたい。だがその方法は思いつかなかった。故に重ねて言う。

 

「……私の奉ずるあらゆる神々に誓おう。この約定を違えることはない」

 

 それしか言えなかった。アルケイデスはこの場を去ることにする。己が近くにいれば安堵の息を吐き出せもしないだろう。

 と、思い出したようにアルケイデスは言った。

 

「ああ――エロース、貴様はまだ帰さん。イアソンが使命を果たすまではな」

 

 その通告に、エロースの端正な顔は絶望に染まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ここまで前置き。


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8.6 幕間の物語「ヘカテー・マジック」

 

 

 

 ――()()は、死の女神であった。

 

 魔術の祖神であった。

 月の女神であった。

 霊の先導者であった。

 女魔術師の保護者であった。

 死者達の王女であった。

 ラミアの母であった。

 救世主(ソテイラ)であった。

 

 そして、無敵の女王であった。

 

『ほぉ。ほぉ――ふふ。ふふん。ふふふふふ。……フン』

 

 月の如く婀娜として。死の如く冷厳として。

 酷薄な微笑みを湛えた女神、ヘカテーは。

 冥府の底にいながらにして、その越権に凍えるような笑みを深める。

 

()の巫女に、こうも軽々しく手を出すとは……神々の女王の名に驕り、()を侮るのか。それとも……()が手出しはせぬと、思っておるのか』

 

 他の神の巫女に手を出す軽挙。

 女魔術師の保護者である領分を侵す越権。

 公的の眼で見ただけでも、これだ。

 幼い頃から特別に眼を掛けて、自ら錫杖を下賜した王女に手を出す愚行、度し難い。

 私的な眼で見た場合、甚だ不快である。

 

 これで今現在、ヘカテーの手が空いていたなら。相応の報いを与えんとしただろう。そして相手がヘラですらなければ。

 

『……哀れな女よ。神々の女王……其の名のなんと薄いことか』

 

 憐れで、哀れだ。ヘカテーは識っている、ゼウスすら無視できない力と発言力を有する女神は識っている。

 ヘラの起源を。唄うように唱えた。

 

『ヘラの故郷はサモスの島。信仰せしはアカイアの民。ミュケナイ、スパルタ、アルゴスを支配下に置いていた古来の神。カタチは貞節でなく畏れ奉じられし大地母神であった。しかし――北方より侵略してきたゼウスに国を支配され、和合のカタチとして婚姻を結ぶ……元は敵対関係にあった神王とヘラが仲睦まじくなるはずもあるまいよ。豊かでありながら過酷な大地母神が貞淑に在れるはずもない。耳が早く手が遠く、夫の浮気が耳に入るのは大地母神だった頃の名残であろう。それを妻とし妃に祀り、好色さを隠さぬゼウスの狡猾な計算の意図も微かに見える。……ヘラ。哀れな女。()はそなたを罰しはせん。目も当てられぬ悲惨な境遇によく堪えてきた。しかし……筋は通さねばメディアが可哀想で仕方ない』

 

 ヘカテーは()()()()()意趣返しとして、海神ポセイドンを唆し叛乱を起こさせるつもりだった。太陽神アポロンと戦女神アテナを巻き込み、ヘラを首魁に仕立て上げ、その上で叛乱をゼウスに密告して懲らしめてやる()()で抑える気だった。

 冥府神ハデスはヘカテーが何かを企んでいると警戒していたが、なんてことはない。ヘカテーは単に、ヘラがイアソンに加護を与え、ペリアスがイアソンに金羊の皮を求めたと聞いて、こうなるかもしれないと予想し罰を与える準備をしていただけのことだ。

 

 しかし、少々風向きが変わった。予想していなかったカタチに変わったのだ。もう少し()()()で勘弁してやろうと、ヘカテーが思うぐらいには。

 尤も。

 それは。

 ヘカテーという、ゼウスに好意の欠片もない女神の、()()()()()嫌がらせである。

 

 つまり。

 

『猿芝居を辞めた軍神めに、ちょいとばかし告げ口してやろう』 

 

 ――そなたの子が苛められておるぞ?――

 

 それはつまり。

 

『この一言で充分であろうが、悲しい擦れ違いは起こしたくないな。ふふん。ではもう一言』

 

 ――そなたの信者が、そなたの子を矯正してやると、さ――

 

 つまりは。

 後世からの印象を決定づける、ギリシア神話のトリックスター。その地位を盤石にする一手だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お父さまとお母さま、ナマイキでかわいくない妹、素直でかわいい弟。

 お師匠(ヘカテー)さまとお姉(キルケー)さま。

 そして静かで穏やかな山に囲まれた、大切なわたし達の家(コルキス)

 

 国の皆はとっても優しくて、みんな仲良し。

 外の世界には憧れるけど、外の世界(そんなもの)より皆で幸せに暮らせてる方が嬉しくて。

 きっとわたしは――お城の中で、外に憧れるまま幸せに生きていくんだろうなと、漠然と思っていた。

 

 何もかもが変わったのは、たぶん金羊の皮(アルゴンコイン)をプリクソスさんがわたしの家に持ち込んだからだったんじゃないかと思う。

 

 お父さまは侵略だったと言っていた。よくわからない。

 コルキスもギリシアという神代(テクスチャ)に侵食されて、その一部となった。わたしは覚えてないけど、元々はわたしも女神さまだったらしい。

 金色の瞳を持つ土着の女神さまだったんだよって、お師匠さまは教えてくれたけど。まだ神格を保ってるお父さまとは違って、わたしはもう普通の人間になってしまった。耳の形は女神だった頃の名残……らしい。よく分からないし、女神さまだった頃の記憶なんてないから、他人事を聞かされた気分だ。

 お師匠さまは、ギリシア世界の勢力(テクスチャ)にコルキスが侵略される前から女神さまだったわたしと親交があったんだって。だから人間になってしまったわたしのことを保護して、弟子にしてくれた。総ての女の人の魔術師の保護者となったのは、わたしみたいな娘が出てこないようにするためなんだって。やっぱりよくわからないけどお師匠さまがとっても優しくて、可哀想な娘を助けてるんだってことはわかった。

 そんな凄いお師匠さまの弟子で良かったと思う。わたしなんかを神殿の巫女にしてくれて、とっても嬉しかった。

 

 満ち足りていた。

 

 魔術を教えてくれたお姉さまと、見守ってくれてるお師匠さまと、わたし。その三人で魔術の修行をしていた時は……ちょっぴり怖かったけど、頑張った。お師匠さまの神殿の巫女として恥ずかしくないように成りたかったし、意地っ張りでちょっとヘンな人のお姉さまや優しいお師匠さまに褒められたかったから。

 いつかきっと、生まれてくる未来のわたしの子供にも、魔術を教えてあげたい。お父さまは素敵な人とお見合いさせてくれるって小さな頃から言ってたから、素敵な人とたくさんお話できたらいいなと幸せな未来を想っていた。

 

 そんな時、アルゴー号って船に乗って、遠くの国の王子さまがコルキスに来た。

 

 ――そこでわたしは運命(Fate)に出会った。

 

 イアソンさま。とても優しそうで、賢そうで、かっこいい人。

 わたしは一目でイアソンさまへの恋に落ちた。彼のためなら()()()()()()。いや()()()。無条件になんでもしてあげたくて、イアソンさまを困らせる全てを排除して。全部捨てて。わたしの全部をイアソンさまに捧げたくて仕方なくなった。 でもいいよね? だってわたしはこんなにもイアソンさまのことが好きになっちゃったんだもの。皆仲良しなのが一番だけど、イアソンさまが今では一番だ。

 イアソンさま……イアソンさま。イアソンさま。イアソンさま。イアソンさま……わたしに笑いかけて。微笑みかけて。わたしだけを見て。わたしに溶けて。イアソンさま。イアソンさまイアソンさま。イアソンさまイアソンさまイアソンさまイアソンさま――

 

 

 

『許可無き登城の段、平にお詫び申し上げる』

 

 

 

「ヒッ」

 

 ――それは、急激に膨れ上がる恋の熱情を、一瞬にして鎮火せしめた。

 

 王女メディアは、蝶よ花よと愛でられ可愛がられ、荒々しいものとは無縁の世界に生きてきた少女である。そんなメディアにとって、生まれて初めて肌に感じた殺気が。

 よりにもよって。

 この世で最も強き男が、逆鱗に触れられた憤怒を激発させているものであった。

 人によっては喜劇にも見えるが、しかし当人にとっては惨劇である。突然眼の前に現れた暴威の嵐に晒されたが如き衝撃に、か細い悲鳴をその蕾のような唇を開いて発していた。

 筋骨隆々、悪鬼羅刹。恐ろしさしか無い形相。力の波動を増幅しているような鎧兜。極めて高次の領域で融合し合一した武威が場を席巻し、幼く未熟でか弱いメディアの精神を打ち据えた。メディアの生涯に於いて何よりも恐ろしい恐怖の象徴が心に刻まれてしまう。メディアにとって何よりも恐ろしいモノのカタチとは、怒れる大英雄そのものとなった。

 

 彼が近づいてくる。そしてメディアを一瞥した。メディア当人に向けられたものでもない、赫怒の炎に燃え盛る真紅の神性の双眸に捉えられた瞬間、メディアの意識はふつりと断絶した。許容できぬ錯乱に近い恐怖の感情の入力に、メディアの脳は全く堪えられなかったのだ。

 

 ――次に眼を覚ました時、メディアは未だ戦慄と畏怖の念から解放されておらず、ガチガチと歯を鳴らした。震える体を掻き抱き、寒さを堪えるように体を丸める。

 自室の寝台にいた。気絶した自分を誰が運んでくれたのか思いを馳せる余力はない。恐怖から逃れるために、魔術の神にして月の女神でもある師、ヘカテーより賜った月を模した錫杖を握り締める。しかしそうしても震えは治まらない。思い出したくもないのに、彼女の脳裏に刻まれた恐ろしいモノの象徴が浮かび上がる。

 動悸が激しくなる。無垢で常識に疎い王女のメディアにも分かる、これは恋だとかそんな甘い感情ではない。ひたすらに怖い、鮮烈なまでの忌避感。呼吸が浅くなり、再び意識が遠退いた。痛いほど錫杖を握って必死に堪えていると、ふと自室の扉が開いた。

 

「だっ、誰ですかっ!?」

 

 咄嗟に錫杖の先を向け、魔力を込め、魔術式を瞬時に構築し、魔力砲撃をおこなおうとしてしまった。それを咄嗟に自制できたのは、やって来たのがあの『ヘラクレス』ではないかと思ってしまったからだ。

 敵意や悪意を感知して起動する、十重二重の結界や悪霊召喚のデストラップ、姉弟子直伝の変豚術や猛毒の術式、監獄へ隔離する異界への強制転移――本人はそこまでしなくても、と思っているが、仮にもヘカテーの巫女なら自分の城、工房の防備ぐらい固めておくものさと嘯いたキルケーの教えに従って築いた守りが働いていないのも、ヘラクレスではないかと疑った要因である。

 あの恐怖の化身なら、あらゆる防備を容易く破ってここまで来られる。悪意と敵意を燃やして此処まで来られる。本能的な確信だ。自分の魔術がまるで通じないだろうという。

 

 しかし、杞憂だった。

 

 やって来たのは、見も知らぬ男だった。中年に差し掛かった大人の男。敵意も悪意もない、ただの来訪者。メディアは安堵する。ヘラクレスではない、その一点で安心するには充分だ。

 

「起きていたか。すまないな、貴様の持ち物だと思うが……落ちていた物を届けに来ただけだ」

「ぁ……」

 

 男はメディアに、金羊の皮を守る竜の姿を模して刻印された宝石を見せた。

 これはコルキスの王家に連なる証。確かにメディアの物だった。此処に運ばれる際に落としていたのだろう。

 

「ありが、とう……ございます」

「いや礼はいい。わたしが貴様を運んだのだ。その時に落としたのだとしたら、わたしの過失だろう。未婚の王女の部屋に男が訪ねたとなれば風聞が悪い、気にしなくとも早々に立ち去るゆえ、これで失礼する」

 

 男は宝石を手近な棚に置いて、さっさと背を向けた。本当に立ち去る様子の男に、警戒心の欠片もないメディアは咄嗟に呼び止めて訊ねた。

 

「あのっ! それでもやっぱり、ありがとうございます。あなたは誰ですか? 今度お礼をさせてください」

「む……名乗るのを忘れていた。すまない。わたしはテラモン、重ねて言うが礼はいいぞ。気にすることはない。……迷惑を掛けた。では」

 

 誰が迷惑を掛けたのか、聞けばヘラクレスの名が出るだろう。彼を敬愛し主としているテラモンである。隠そうとはしないはずだ。

 だがメディアはテラモンとヘラクレスが頭の中で結びつかず、何が迷惑なのか首を傾げ、問い掛ける前にテラモンはさっさといなくなってしまった。

 間を外されたことで暫くそこに佇んでいたメディアだったが、ハッと我に返ると思い立つ。今はただ、イアソンに会いたい。その一心でメディアは「えいっ」と錫杖を振るい、その場から空間転移で移動してイアソンを探しにいくのだった。

 

 

 

 

 




サブタイの意訳。「ヘカテーさんの(*ノω・*)テヘ(๑´ڡ`๑)ペロ」


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8.7 戦神、猛りの捌け口を欲す (下)

本日二度目デス


 

 

 

 

 

 

「あー……うん」

 

 自分に注がれる生暖かい視線に、イアソンは居心地悪そうに身じろぎした。

 自分の服の袖を掴み、今にも泣き出しそうな表情で後ろに隠れている王女メディア。彼女の視線は獅子神王の鎧兜で武装し、白き中道の剣を装備したアルケイデスに固定され、明らかに怯えている様子であった。

 アイエテスに試練を申し伝えられた翌日、明朝。いざ試練を超えんと息巻くアルゴー号の英雄達の真ん中に突如大きな魔力反応が発生した。いち早く察知しすわ敵襲かと戦闘態勢を呼び掛けたアルケイデスに応え、アルゴノーツは俊敏に身構えた……のだが。

 現れたのはコルキスの王女メディアである。

 アルゴノーツのど真ん中に転移してきたことよりも、まずその魔術の腕に驚嘆した。難度の高い空間転移、それを自身の工房や神殿でもない所で成したのである。しかし、驚いたのはメディアもだった。()()()()()イアソンの気配を辿って何度か転移してみれば、そこにいたのは逞しい英雄達ばかりであり。アルゴノーツの実質的な指揮官格に無自覚に立っていたアルケイデスは、当然のようにイアソンの傍に居たのだ。

 

 「ひぃっ」とアルケイデスを視認するなり怯え、イアソンに抱きついてその背中に隠れたメディアに、アルケイデスは少なからずショックを受けたものだが。流石に初対面で怖がらせてしまった手前、その反応も仕方がないものだとその場の全員が理解した。

 

 イアソンとて、彼女の態度や反応にも理解がある。エロースの矢で自分への恋心を植え付けられてしまったのだと。

 本来なら気色悪さを覚えるところだが、事情が分かっていれば相応の態度も取れる。イアソンは取り敢えず無難な対応をしておこうと決めていた。下手なことをして、遠い異国とはいえ王に睨まれても良いことはないのである。

 メディアは子供だ。恋に恋して盲目になっているものと思い、大人の対応をしようと決めていた。だからアルケイデスに怯え、自分の後ろに隠れるメディアを邪険に振り払いはしない。ただ……ここでさり気なく自分の後ろに隠れるあたり、なにげに計算高いんじゃないかと微妙な気持ちになったものだが。

 

「おいおい、イアソン。そんなに好かれてたんじゃあ、実はまんざらでもないんじゃねえか? 性的に食っちまうか、ん?」

「ありえないね……」

 

 肘でイアソンの脇腹を小突き、カイネウスが揶揄するとイアソンは嫌そうに吐き捨てた。もちろんメディアには聞こえないように小声でだ。そのぐらいの気遣いはする。面倒だが相手は王女なのだから。……それに。

 

「後さ。君、ほんと学ばないな。この娘はヘラクレスが保護するんだぜ? 下手なこと言うなよ」

「ぁっ」

 

 眼中にない小娘に欲情するイアソンではなく、外交に絡みそうであるからなんとか煩わしいのを我慢しているが、そんな手間を掛けている最大の理由はアルケイデスが睨むからだ。

 

 メディアが来る前に、アルケイデスはイアソンに説いていた。メディアを無事に返せばイオルコスとコルキスに国交を築けるだろう、だから邪険にはするなと。そしてアイエテスに私はメディアを無傷で帰らせると約束したと。体だけでなく心も無傷で帰すのだと力説していた。それを見て、聞いて、まさか反するような真似をする度胸は、さしものイアソンにもなかった。

 それに――こうした国同士が交わすべき交渉のヴィジョンを持ち、ただ押し付けてくるだけでなく利益を作って受け入れやすくしてくれるアルケイデスを、イアソンは誰よりも信頼している。何より最強の英雄なのだとこれまでの旅で思い知っていた。加えて船長として顔を立ててくれるともなれば、全幅の信頼を置かないはずがない。

 イアソンからすると、自分が王になった後の政策に繋がる提案をしてきたアルケイデスへの好感度は、これまでの交友関係の中で断トツでトップに躍り出ている。そして恐らくこれから先、頼れる男としてアルケイデスを押しのける人間は出てこないだろう。彼の国策への理解の深さは、武勇だけの猪武者ではない証である。強くて賢く、自分を立ててくれるとなれば、イアソンがアルケイデスに好意を持つのは当然と言えた。

 

 イアソンの呆れ顔に、カイネウスはサッと顔を青褪めさせた。これはいつもの事だ、誰も気にしない。余計なことを口走ったカイネウスを無視する。

 そんなことよりも、アルケイデスはメディアが気になって仕方なかった。一歩、歩み寄る。

 

「……王女メディア。昨日は怖がらせてしまい、すまな――」

「い、嫌ぁああ!? ち、ち、近寄らないでくださいっ!」

 

 すまなかった、と言い切る前にメディアは悲鳴を上げた。固まるアルケイデス。これにはイオラオスやアタランテ、イアソンも苦笑いするしかない。

 これまでその溢れ出る父性のようなもので、子供に嫌われたことのなかったアルケイデスである。史上初となる化物を見るような子供の目に、アルケイデスは凄まじい衝撃を受けて沈黙させられた。愕然とするアルケイデスに、テセウスが苦笑しながら言う。

 

「仕方ないですよ。だって誰がどう見たって今のヘラクレスは怖いですから」

「………」

 

 テセウスが示したのは、左腕に鉄の輪を嵌められたエロースの、そこに繋がれた鎖を握るアルケイデスの手である。

 神をそのように扱っていながら平然としているのは、アルゴノーツをして畏怖を禁じ得ない。それを抜きにしたって絵面が大変不健全だ。エロースは押し黙ったまま、この奇妙な寸劇に呆れている。諦めムードを漂わせて大人しくしているエロースの図は、客観的に見て様々な意味合いで恐ろしいものである。例えメディアとの出会いが不幸なものになっていなくても、これを見たら確実に苦手な存在に位置づけられていたに違いないのだから。

 

 「嫌、嫌、いやぁ……」とうわ言のように繰り返すメディア。心的外傷を負っているのが確定的に明らかだ。自分も捕まる、鎖に繋がれる。そんな余分な憂懼はなく、純粋にアルケイデスという存在への恐怖心しかない。

 

 アルケイデスは忌々しげにエロースを睨む。貴様さえ余計なことをしなければと、八つ当たりに等しい殺気を受けてエロースは愕然とした。わたしにどうしろと!? 上司の命令と現場のクレーマーに挟まれた中間管理職の悲哀が其処にはあった。

 そして声を発しこそしなかったが、その言わんとすることは全員に伝わっていた。哀れなエロース、と。後に『ヘラクレス』の友人となり改心した善神である、などと捏造されて語り継がれるなんて、誰も予想だにしない現実が此処にある。

 

「あー……ああ、うん。悪いんだけど、そろそろ本題に入っていい……?」

 

 言いづらそうにイアソンが口火を切る。傍らで小さくなり、更に強く袖を引っ張るメディアはなるべく意識しないようにしながら。

 

 

 

「コホン。――知っての通り、私はアイエテス王に試練を課された」

 

 

 

 滑り出しは滑らかに。共通認識を下敷きにする語り出し。()()()になって口を開けば空気が変わる。

 扇動の天才であるわけではない。しかしアタランテをして『化物じみたカリスマ』と称された男は、周囲を焚きつけるまでもなくその気にさせる。自身の望む方向に意志の矛先を収斂させられる。

 人類史に名を刻まれた稀代の扇動家(アジテーター)は理内の者、しかしイアソンはギリシア世界の五つの区分の四つ目の時代、英雄の種族に属する()()()()()()()()()()()()だ。存在が人の心と魂を駆り立てる、理外の怪物であると云える。そのカリスマ性は既に呪いの域にあるのだ。

 

「国の頂点に立つ者から、秘宝を対価に無理難題を仰せつかる。ああ、それはまさに英雄の道だ。私や諸君が歩むのは当然だろう。しかし私だけは間違わない。神々の叡智にすら劣らないモノを秘める賢者の私は、決して大義を見失わない。私は英雄に成りに来たわけじゃないんだ。私は諸君の英雄としての格を上げさせるが、私は英雄には成らない。そんな称号(もの)、後から勝手に付いてくる」

 

 水を打ったように静まり返る仲間達を気にせず、イアソンは極々自然な様子を崩さない。彼にとって呼吸をしているのと同じぐらいに当然なことをしているだけなのだ。ただ願っていることを、思っていることを口にするだけ。

 

「私は――ああ、敢えて飾らず言おう。

 オレは王になる」

 

 平凡な脚本を凡庸な声音で読み上げているだけとも言える、そんな語調。

 しかしそれで充分だ。扇動という一種の技術を使うまでもなく、イアソンはただ『イアソンである』というだけで人の心を熱くする。

 

「私の本命はあくまで金羊の皮(アルゴンコイン)をイオルコスに持ち帰ることだ。諸君の力を借りる前に、それを改めて言っておきたかった。それ以外は些事だと断言しよう。故に私は、私に課された試練で諸君の力を借りることを恥だとは思わない。私は王だ、王が権威の論拠とする英雄から力を借りて何が悪い? どうか最後まで私を見捨てずに、共に来て欲しい。私を助けて欲しい。確約できる報酬は英雄としての名声しかなく、旅が終わったとしても諸君は永遠にアルゴノーツであるという誇りだけが得られる見返りの全てだ。その上で訊こう、皆はそれでも私に力を貸してくれるかい?」

 

「愚問だぞイアソン! 我々は此処まで苦楽を共にして来た同胞だ! 今更要らないと言われても無理矢理にでもついていくまでだ、そうだろう皆!」

 

 ゼテスが興奮気味に言った。イアソンの語り様は平凡な台詞でも人を惹き付け、容易く人をその気にさせる。弁論の天才でもあるが、イアソンのカリスマこそ化物じみていると言えた。そんなイアソンに、アルケイデスへの恐怖が薄れたのか、メディアはきらきらとした目で恋した人を見詰めている。

 危険な光である。王への道を歩まんとするイアソンだ、お節介かもしれないが伝えておこうとヒッポリュテは思い立つ。猛き女戦士達を束ねていた、ヒッポリュテにすらそうさせるのがイアソンだった。王女の様子を見かねたといった体で、ヒッポリュテがイアソンに近寄り耳打ちをする。

 

「イアソン。彼女のことだが……」

「ん? 心配しなくても手なんか出さな――」

「そうじゃない。耳を貸せ。……いいか、イアソン。彼女は貴様が何をしようと、何を言ったとしても肯定して、それを後押しするだろう。耳に心地良い言葉しか言わないはずだ。だがそれに慣れてはいけないぞ。自分を肯定する声しか聞こえない耳を、王になろうという者が持ってはならない。これは私の、女王としての助言だ」

「………」

 

 それにイアソンは僅かに目を見開く。

 彼は褒められるのが好きだ。頼られるのが好きだ。肯定してくれる人物には無条件に一定の好感を持ってしまう。

 実際、メディアが目を輝かせてこちらを見る様には悪い気がしなかった。

 重々しく頷く。最近まで女王であったヒッポリュテの忠告だから素直に聞き入れられた。自分こそ理想の王になるのだと思っているが、今のイアソンは王でも何でも無い。そして実績すら無いのだ。自身の理想に絡む先達からの忠告に、耳を傾ける程度の度量は彼にもあった。

 

「……君は、確かヘラクレスの婚約者だったかな」

「そうだ。まあ自称だがな」

 

 苦笑するヒッポリュテに、イアソンは薄く微笑みながら言う。彼という人物には珍しい、素直な賛辞のつもりだった。

 

「自称でもなんでも、お似合いだよ。婚礼の儀には是非呼んでくれ。盛大に祝ってやるから」

「嬉しいことを言ってくれる。私が本懐を遂げられたならそうさせてもらおう」

 

「……むぅ。何を話してるんですか?」

 

 二人が近距離で、小声で話し合う様にメディアは頬を膨れさせて引き剥がしに掛かった。可愛らしい嫉妬だ。ヒッポリュテは微笑んでメディアに言う。なんでもないから気にしなくていいと。私の想い人は貴様の言うヘラクレスだ、と。

 ヒッポリュテのその告白に、メディアは信じられないことを聞いたと言わんばかりに目を丸くした。うそ……呆然と呟くメディアに、肉食系(アマゾネスの)女王はにやりと笑う。証拠を見せてやろうと。

 

 駆け出すや否や、ヒッポリュテは大声でアルケイデスを呼んだ。

 

「アルケイデスっ!」

「――――」

 

 果たして、何を言うつもりだったのか。好きだ、愛している、結婚してくれ。子供を作ろう、なんなら今すぐに――とでも言うつもりだったのか。

 メディアの反応に消沈した表情で、なるべく離れた位置にいようと集団の輪からアルケイデスは外れていた。メディアは守るが、怖がらせたくもない。非は完全に自分にあると認めていた。

 そこに自分の真名を口にしながら駆けてくるヒッポリュテに気づいた。アルケイデスは、訝しげにそちらに振り返り――不意に並外れ、卓越し、理屈や技術を超越した“心”の“眼”が見開かれる。

 

 

 

「――ッ!」

 

 

 

 虚空に手を翳し、脊髄反射で白剣を召喚する。鎧の背部にある留め具に固定していたのを、抜き放つ動作を省略して手の中に出現させたのだ。

 ヒッポリュテは驚いて立ち止まる。それを視界にも入れずにアルケイデスはエロースを繋ぐ鎖から手を離して白剣を振るった。満身の脱力からの剛力を発揮し両手で柄を握り、重心を落とし、腰から肩までの捻転の力まで加え、渾身の力で振るったのである。唐突な其れは、紛うことなき全力の迎撃だった。

 

 あ、と思う間もなかった。

 

 彼方より、次元を貫き飛来する神の剣。三原色の燦めきは衛星軌道上に顕現した光の巨剣。【戦闘】の概念がカタチとなった化身たる、真なる軍神の剣で広範囲を殲滅する衛星兵器。知られざるその真名は、紅き星、軍神の剣(マーズ・ウォー・フォトン・レイ)である。

 個人戦闘能力に於いては全盛期に到達している、神話最強の英雄が担う剣は白き極光を纏い、振るわれたるは誓約されし栄光の剣(マルミアドワーズ・ネメアー)

 激突し、鍔迫り合う光の巨剣と白き中道の剣。桁外れの魔力と質量の激突は周囲の者の意識を空白にした。アルケイデスの顔に苦悶と汗が浮き上がる。巨剣を受け止めた白剣より伝わる威力に手が痺れ、踏み締めている大地を削りながら徐々に後退させられていく。

 

「ォッ、」

 

 兜の下で、黒髪がうねる。噛み締めた奥歯が鳴る。力を溜め、口腔を開き、獅子神王と一体となって咆哮した。

 

「雄ォオオッ!!」

 

 光の巨剣の芯を逸らし、神業めいた剣捌きで光の巨剣を遥か後方の中天へ受け流す。地平線の彼方まで飛翔して、光の剣は誰の視界からも消え失せた。

 その余波で地面が大幅に抉れ、掠めた山脈に大きな穴が生まれた。現象が思い出したかのように動き出し爆風が起こる。その破壊力は克明に死を彷彿とさせられるもの。呆然とする一同の頭上に、快活な笑声が轟いた。

 

 

 

『ハッ。ヘラクレス……八割の力とはいえ、俺の剣を受け切りやがったか』

 

 

 

 傲然と言い放たれた圧は、全員の肩に絶望的な重さとなって圧し掛かる。

 ぺたん、とその場にメディアが腰砕けになって座り込んだ。気絶すら出来ずに、茫洋とした目で姿を現した奇襲の主、最高位の神格を見上げるしかない。

 そしてそれはメディアだけではなかった。アルゴノーツも、ヒッポリュテら英雄旅団やエロースも例外ではなく。自我を保っているのはアルケイデスだけであった。

 

 手の痺れを握り潰す。アルケイデスは如何なる感情も窺い知れぬ瞳でその神を見上げた。

 

 全てが様変わりしている。狼の毛並みの如き灰白の髪を野放図に伸ばし、青銅の鎧兜は捨てたのか真紅のマントを簡易な黒鎧に備えているのみ。精悍な面構えには英邁な知性と勇気が宿り、紅い双眸はあらゆる戦の闇と父性の光を灯していた。

 白い髪、白い肌、人間を超越した美貌と人界より隔絶した武威。己の中の狂気を完全に制御している軍神――否、真なる戦神の姿が其処にある。

 誰も、そう誰も……エロースすら、実の父だと思わなかった。軍神ではない、誰だあれは。どこの世界のどんな神だ。発される神性の性質から、猛々しい戦の神であるとはエロースにも分かる。しかしこの、最高神ゼウスにも匹敵する神がこの星にいるだなんて聞いたこともない――

 

 しかし、ヒッポリュテは。エロースと同じく彼の神を父とする女戦士は。

 唇を震えさせ、呆然と呟く。はらはらと涙すら流して。それは感動の涙だった。

 

「とうさま……」

 

 呼び掛けには一瞥のみが与えられる。しかしそこには暖かな慈しみだけがあった。

 視線はすぐにアルケイデスに向いたが、不満は何もない。父様、だって? エロースは信じられない思いで彼の神を見上げ、その風貌が確かに軍神アレスのものだと気づき愕然とする。

 

 ――愚かだと言われるわたしの父……? あれが? まさか……。

 

 信じられない。有り得ない。なんだこれは。エロースは呆然とする。アルケイデスが問い掛けた。それはまだ立ったまま、目を開けたまま、自失しているアルゴノーツの総意とも言える疑問だった。

 

「……軍神よ。なんの真似だ? 私でなければ死んでいたぞ。如何なるつもりで仕掛けてきたかお聞かせ願いたい」

『うるせえ。相変わらず、意味分かんねえぐらい信仰しやがって……』

 

 無表情、平坦な声音。しかし自身に向けられる深く濃い信仰に、戦神はうんざりしたようにぼやいた。

 

『お蔭でご覧の有様だ。力の抑えが利かねえ。どんだけ俺のことが好きなんだ貴様? 本当はかるーく(こいつ)を投げつけてやるぐらいのつもりだったのが、八割もチカラ出しちまったじゃねえか』

 

 両手を広げ、大仰に嘆く戦神だが。どこか愉快げである。

 アルケイデスは眉を顰めた。てっきり自らの子であるエロースへの仕打ちに怒り狂っているのかと思えばそうでもないらしい。そうであるなら全力で謝り倒すつもりだったのだが……。

 ともあれヒッポリュテに視線を向け、アルケイデスは感謝の意を目に込める。ヒッポリュテの呼び掛けがなければ反応が遅れていたかもしれない。無視できない傷を負っていた可能性がある。とうのヒッポリュテにその気はなかったが、アルケイデスはそれには気づいていない。

 

 戦神は嘆息した。

 

『なんの用か、だったか』

「………」

『知れたことよ。貴様らを()()しに来たんだ。……可哀想だが俺の娘もな』

「ッ!?」

 

 アルケイデスだけではなかった。戦神の殺気がアルゴノーツらを舐め回す。英雄達は全身から大量の汗を流しながら武器を構えた。

 勝ち目は視えない。殺される。その確信が全員の胸に宿った。しかしただで殺されてやる気はない。抵抗する気で、青白い顔で戦闘態勢を取った。

 それに待ったをかけたのは、ただ一人。アルケイデスである。父に殺すと言われ絶望に染まったヒッポリュテを横目に、彼は重ねて問う。

 

「何故だ。エロースに対する仕打ちへの代償か?」

『いいや? んなこたぁどうでもいい。確かにソイツは俺のガキだ。情もある。だが死んだわけじゃあるまい。それに悪戯遊びを幾つになっても卒業しねえガキの仕置きを俺に代わってやるってんなら是非どうぞと投げてやるよ。だがどうでもいいって言ってんのは――俺がヘラと絶縁したからだ』

「――――絶縁?」

 

 それは、アルケイデスにとって福音だった。

 信仰する神の親を憎んで良いのか、という悩みはあった。悩みがあるまま突き進むつもりだったのが、それが取り払われたのである。

 嬉色が滲むのを、こんな時なのに抑えられなかった。

 

『応ともよ。思い出したくもねえから詳しくは言わん。が、そのヘラの企てに加担したあの馬鹿女と馬鹿息子は、この俺に対し絶縁を申し伝えたに等しい。潜在的には俺の敵だって見方も出来るんだぜ。なんなら……俺が殺ったっていいんだ。それを仕置きで済ませるってんなら、むしろ俺は貴様に感謝してやる。甘い裁定で済ましてくれてどーもありがとうございました、ってな。俺は手前のガキはなるべく殺したくはねえ』

「………」

『ってなワケだ。その馬鹿息子は関係ない。じゃあなんで俺が貴様らを殺すのか? これも簡単だわな。考えてもみろ、此処は……何処だ?』

 

 問いに、智慧の巡る者はハッとした。

 此処は【アレスの野】である。

 

『此処で貴様らは何をしようとしている?』

 

 軍神の持ち物の雄牛に引き具をつけ、【アレスの野】を耕そうとしている。

 

『其処に何を蒔こうとしている?』

 

 竜の歯……アレスが対立している戦女神に、アイエテスが与えられた物。

 

『つまりだ。貴様らは俺の土地で、俺の所有物を勝手に使い、男日照りのアテナの奴を介したモンをばら撒こうってワケだ。……ちょっとばかし気が立ってたところでよ。少しばかり発散しねえと、今の俺だと何を仕出かすか分かったもんじゃねえ。ヘカテーのヤツはなんのつもりかは知らねえが……それもどうでもいい。こんだけ腕利きの英雄が雁首揃えてんだ、抵抗してくれたら少しは梃子摺れる。ストレス発散の運動にはなんだろう。ついでにこの苛つきも収まるってんなら……やらねえって理由はねえよな? なあ……俺の庭に来たんだ。少し遊んでいけ。安心しろ、退屈はさせねえからな』

「………」

 

 やるしかないのか。悲愴な覚悟を固めつつあるアルゴノーツに、しかしアレスは悪戯っぽく笑う。

 

『おいおい辛気臭えぞ。ったく、仕方のねぇ奴らだ。気が乗らねえってんならルールを設けてやる』

「ルール?」

『応よ。俺が貴様らを皆殺しにするまでに、アイエテスの小僧が課した試練ってのを果たしてみろ。そうしたら、生き残ってる奴らを殺しはしねえ。……どうだ? 生き残る芽は見えたか? んなら上等ってなもんだが』

 

 その通告に、アルケイデスは頷く。

 光明は見えた。アレスは本当は、殺す気はないのだろう。しかし漲り、溢れる力をどうしてか抑えられなくなっている。それを抑制するために戦闘を求め、数多の英雄が集うアルゴノーツに目をつけたわけだ。

 遣り様はある。アルケイデスはそう確信する。

 凶暴で悪辣な戦の負の神としての顔、それに反する慈父の神の顔。そのバランスを整えてやれば……あるいは片方に傾けてやれば、アレスは勝手に満足する。そう判断していいはずだった。

 

「軍神アレスよ」

『あ? ああ……ヘラクレス。その名で俺を呼ぶな』

「……?」

『ソイツは縁を切ったヘラが付けた名だ。最近面白い竜と会ってな、名乗って死合ってみたら、末期に俺を【マルス】と呼びやがったのよ。呂律が回ってなかったのか、生まれ故郷の言葉で喋ったら訛ったのか……なんでもいいが、その響きを気に入った。俺のことは以後マルスと呼べ。敬意を込めて、な』

「……承知した。では軍神マルス、私もヘラクレスとは呼ばないでもらいたい」

『……ほぉ? ならなんと呼べばいい、不本意ながら我が第一の信徒よ』

「アルケイデスだ」

 

 言いつつ、白剣を構える。そしてイアソンらアルゴノーツに背を向けたまま大喝した。

 

「此処は私に任せ、先にいけ」

「ヘラクレス……!?」

「私がマルス様をお止めする。その間に、皆で力を合わせ試練を越えよ。私の命をお前たちに託す、故にお前たちの命を私に寄越せ。総て背負い、見事成し遂げよう」

 

 アルゴノーツは一斉にイアソンを見た。英雄旅団はアルケイデスの判断に従った。

 共に戦うと言っても足手まといになる。なら早急にイアソンの試練を片付けたほうがいい。

 イオラオスがイアソンを小突いた。号令しろ、皆が待ってる! あんたの命令を! 伯父上の意志を無駄にする気か!?

 その怒号にイアソンは正念場に立たされた。アルケイデスが死ねば次は自分達――その差し迫った危機に顔色を変え、英雄としての威風をはじめて発しながら彼は命じる。

 

「……ッ! アルゴノーツ! オレの親愛なる同胞達! ヘラクレスに此処を任せる、オレ達はすぐに試練を片付けるぞ! ちんたらするな、往くぞぉ――!」

 

 イアソンは素手のまま駆け出した。武器も何もない。必要なのは意志を示すこと、動き出すことだと彼は悟っていた。そのイアソンの行動に、引っ張られてアルゴノーツも死にものぐるいに駆け出している。なるほど、英雄だとマルスは笑った。

 後ろを向いてイアソンがアルケイデスに叫ぶ。

 

「――おい! なんとか早くしてやるから、足止めちゃんとやれよ! オマエが殺られちまったら次はオレ達なんだからな!? 簡単に殺されるのだけは勘弁しろよ!?」

 

 アルケイデスは笑った。マルスに釣られて。そしてイアソンの必死さが嬉しくて。

 彼は今、自分もだろうが、その次ぐらいにアルケイデスを死なせないために叫んだのだ。これが嬉しい。堪らず、強がりを口にする。

 

「ああ。足止めをするのはいい。だが――別に。軍神を倒してしまっても構わんのだろう?」

 

 その放言に、マルスは噴き出し。声が聞こえていたアルゴノーツは唖然とし、イアソンは盛大に笑った。

 確かな信頼を感じさせる。ぶっ倒せ、ヘラクレス! 大英雄は不敵に口端を歪め、腕を掲げて勝利を宣言する。

 

 ぶはっ、とマルスは再び噴き出した。

 

『貴様――は、ははは! 貴様まさか、この俺に勝つ気でいるのか?』

「生憎だ。私はこれまで、武器を取って負ける気で振るったことは一度もない」

『そう言うなよ。わざと敗ける戦も割と面白いもんだ――ぜッ!』

 

 堪らぬ狩りの獲物を目にしたように。その気なら他の面子を狙えるだろうに、アルケイデスにのみ狙いを定めたマルスが、いつの間にやら召喚していた光の剣を握り襲い掛かってくる。

 三原色の神剣は真紅に染まっている。戦神たるマルスの真の権能、三機能権(イデオロギー)――の一つ。『主権』『戦闘』『生産』の二番目、『戦闘』形態の神剣だ。

 やるからには本気で遊んでやるよ――猛りの捌け口を欲する戦神が馳せ、敬意を胸に懐く英雄が迎え撃つ。

 

 戦神とその第一の信徒、その数少ない私闘とも云える決闘の決着は――死者ゼロ名、その結末のみが物語った。

 短期間では決着つかず。されど戦神は溌溂として。またいつか、鬱憤が溜まったら相手しろよと、立場の垣根を超えた友情を示すように拳を出し、アルケイデスはそれに己の拳を合わせたのだった。

 

 

 

 




いつかやるかもしれない外伝予定。

(ケリュネイアとヒッポリュテの決闘)
(実録! 酒乱アルケイデス)
(マルスとアルケイデスの私闘)

まあ予定でしかないのだけど。


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8.8 イオラオスの手記より

拙作最大の便利キャラを使っての、重要情報放出回。
情報過多なのでお見落とし無く。見落としても問題はないけど。




 

 

 

 

『英雄に不可欠なものは何か。病床に伏したわたしは死期を悟っていたものだが、過去を振り返り懐かしむ時間はあまりなかった。わたしが旅ばかりをしていて話を聞けないとぼやいていた詩人が、食い扶持を稼ぐためによく訪ねてくるようになったのだ。

 英雄の逸話に数多く触れるにつれ、ある種のしたり顔で持論をほざく非英雄の常人ども。そうした輩は決まってその手のことを聞きたがる。そして大抵が訳知り顔で頷くものだ。だがわたしからすればちゃんちゃらおかしい。ばかめ、と侮蔑すらする。英雄を理解するにはその逸話に触れるのではなく、自ら交友を持ってその人物について直接知らねば、どれほどの賢者であれ到底理解などできるはずがない。

 わたしは多くの縁に恵まれた……自称するのは些かの気恥ずかしさを覚えるが、誰にも恥じぬ格を持つ英雄である。そのわたしを折角訪ねてきたのだ、賢しらげな詩人共の相手をするのは少々面倒ではあるものの、昔語りの好きな老人らしく無駄話の一つでもしてやっている。

 

 わたしはまず、断言する。英雄に不可欠なのは運だ、と。

 

 力や智慧、勇気も不可欠だが、まず運が()()()()()()始まらず、運が()()()()()()生き残れない。だから英雄に不可欠なのは()()だろう。

 人によっては天運とも言うかもしれない。そういう意味で、わたしの知る英雄は誰も彼もが悪運に長けていたように思う。

 ただ、一人だけ例外がいた。彼女は純粋に運が悪かっただけで、運は良くなかった。なのに波乱万丈な受難の海を泳ぎ切ったことには脱帽するしかない。

 

 これまでにわたしが出会ってきた中で、最も幸薄く憐れだと思ったのは、アルゴー号の冒険で出会ったコルキスの王女メディアだった。

 

 彼女は様々な意味で受難の人だったと、改めて過去を振り返るまでもなく断言できる……できてしまう。ほんとうに……喜劇めいて不運で、一周回って幸運なのではないかと疑ってしまいたくなるほどに忙しない人生を送っているだろう。

 ほんとう、どうしてそんなことになったのか。

 事の始まりは、やはりアルゴノーツが彼女の故郷、コルキスに金羊の皮を求めに行ったことだろう。そこで女神の奸計によってイオルコス王イアソン、当時はまだ王ではなかったイアソンへの恋に落とされ、終生の恐怖の象徴となってしまったヘラクレスと出会い、あまつさえイアソンの試練に現れた戦神マルス様とヘラクレスの戦いの余波に晒された。その後も何が彼女を駆り立てたのか、恐怖の象徴と共にいなくてはならないのにイアソンに付いていき、彼が王となってエロースの矢が抜けるまで共にいた。

 彼女の運命の歯車はやはりそこで狂っていたんだろう。まあ……ほんとうに色々と、そこから先もあり続けた。エロースはそんなメディアに流石に同情したのか、ヘラクレスに願い出てメディアの保護者になった。彼は生涯に亘って彼女の傍らにいて、従者同然に仕えていた。わざわざ戦神に願い美の女神の許から一時的に離れてまで。

 神にとって人の一生など短いものだから、エロースの行動を主人の女神は咎めなかったようだ。エロースにとってはせめてもの罪滅ぼしなのだろうが、それでわたしや仲間達の彼への見方が変わったものだ。

 

 割愛するがほんとうに沢山の不幸がメディアを襲った。一度は伯父上に連れられてコルキスに帰れたのに、忘れ物をしたと言って放浪の旅に出たのが本格的な不幸の連続のはじまりだったろう。

 本当は忘れ物ではなく、彼女の未練を果たすために旅に出たのであるが、自発的に旅に出たのだから文句は誰にも言えないのが辛い所なのではないだろうか。

 

 これは人づてに聞いた話だが、人を訪ねて幾つもの国を訪ね、行く先々でその美貌と魔術の腕に目をつけられて権力者達に付け狙われたらしい。

 時に賊を罰し、時に悪しき王を懲らしめ、時に貞操を狙ってくる好色な神を欺き、気の休まる間がない日々を送ったようだ。エロースの手伝いがあり辛くも切り抜けられた場面もあり、彼がいなければどこかで破綻していただろう。元の無垢さが擦れて、段々まともになっていったのには笑うしかないが。

 なぜエロースがメディアを保護したのか? ……巷だとエロースがメディアに惚れたから、なんて言われているがそれは無い。絶対だ。わたしの想像だが、メディアは恐らくコルキスにアルゴノーツが訪れた時、【彼】に恋していたのだろう。しかしエロースの矢が原因でその想いは覆い隠され、呪いが解けた後も暫くは自覚がなかった。しかし何かがキッカケで本当の恋心を自覚し、いてもたってもいられなくなりコルキスを飛び出したのかもしれない。名前と顔、その人柄しか知らない相手を探し求めて旅に出たメディアに、エロースが罪悪感を覚えたから仕えたのだと思う。ほら、エロースは恋心を司る神だろう? 自分の矢で自分の司るものを捻じ曲げてしまったのが、彼の神としての矜持に反したから、エロースはメディアに仕えたのだと思う。

 

 結果としてメディアは二年間の旅を経て、探していた人物と再会した。その頃にはメディアも今ぐらいにはまともになっていたから、押し掛けた挙げ句に好きだと、恋していると告げるのが恥ずかしかったのだろう。すったもんだの騒ぎの末、受け入れられた時がメディアの絶頂期のはじまりであり、同時に受難の第二章のはじまりでもあった。尤も子供が生まれ、成人するまでの間に幸せを噛みしめる時間はあったようだが。

 メディアはギリシアの侵略によって神格を失い、神だったことを忘れた土着の神の一柱だ。人に貶められたとはいえ元は神、かなり長寿で歳をとっても美貌が衰えることはなかった。まあ……当然、噂になる。美しい王妃がいると。すると戦争が起こる訳だ。わたしには理解不能で野蛮極まるが、略奪婚のために戦争を起こすのが当然の世間である。メディアは夫とした男と共に、国難に立ち向かうことになった。

 

 ここで登場するのが、成長したメディアの()()だ。そう、次代の英雄旅団の頭目だとも。名前はギリシアの民なら誰もが識っている、あの()()()()()だ。

 メディアは夫の()()()()、溺愛している愛娘のアイアスと共に戦いをはじめて、生まれ故郷のコルキスや、何かと縁のあるイオルコスと同盟を結び、テラモンの縁を伝ってわたしの伯父が率いていた英雄旅団と、テセウスのアテナイ国と連携をとって戦い出した。そうして完成したのが数年後の一大同盟軍なのだが……詳細を知りたければそこらのオペラを覗けばいい。メディアの受難はそこで詳しく知れるだろう。そんな中を逞しく生き抜いて幸せを掴んだメディアをわたしは尊敬する。

 

 だが……いけないとは思っていても笑ってしまうのだ。今でもメディアの顔を見れば思い出し笑いをして、魔力砲撃を食らわされる。死期の見えた老人なのだから手加減してほしいものだが、()()イオラオスに手加減なんてできるものですか、なんて言われてしまう。老い耄れを相手に買い被りが過ぎると思うが。

 

 彼女の人生の足跡を伝え聞いた吟遊詩人が歌を作り、そこから子供がごっこ遊びで歌いながらメディアを演じ、それに目をつけた目端の利く吟遊詩人が新たに歌劇(オペラ)なんてものを創業して始めた。

 ヘラクレスの死後、わたしは余生をゆるりと過ごしていたが、まさか今をときめき遠い未来にまで廃れないだろう歌劇の始まりが、メディアの人生を追った喜劇であるなどとは伯父上も想像していなかっただろう。

 メディア、という名前も、いつの頃からかメディウム、その複数形のメディアと名を変えて、マスメディアというマスコミュニケーションの媒体の語源になっていた。吟遊詩人はいつしかマスコミなどと呼び名を変えていったもので、王女の方のメディアはその手の話を蛇蝎の如く忌み嫌い、特に演目の中で定着した魔女の呼び名で呼ぶと烈火の如く怒り狂うほどだった。失礼な話かもしれないが、それを聞く度にわたしも笑いを堪えきれない。

 

 ともあれ、そんな不幸続きのメディアだったが、その中でも良い出会いというものはあったようだ。

 後に彼女の夫となるテラモンとの縁、メディアのよき友で居続けたアタランテとヒッポリュテ。なんだか非常に生暖かい優しさを向けるケリュネイア。最後のは友なのか? と首を捻るが、第三者が定義するものではないだろう。本人達が決めることだ。カイネウスが交ざりたそうにしていたが、アタランテに腕を折られて追い散らされていた。

 

 無事に金羊の皮を入手したアルゴノーツの面々は、厭味ったらしい後のイオルコスの宰相にしてイアソンの右腕イドモンと合流し、特に誰かに妨害されることはなく、穏やかながら騒がしい航海を経てイオルコスに帰還していっていた。

 イアソンとイドモンを指して、捻くれ者が重なって真っ直ぐに見える、とテセウスが言っていたが、その意味はいまいちよく分からない。

 その航路の中、メディアは頻りにイアソンに求愛していたし、薬や魔術を駆使して振り向いてもらおうと頑張っていた。頑張り方が致命的にズレているが……メディアの感情の発信源と、その事情を知るイアソンはやんわりとメディアの求愛をいなし続け、時に顔を引き攣らせながらも、伯父上を盾にしてやり過ごしていた。盾にされる伯父上はなかなかに愉快な見世物だったなと懐かしくなる。何せ自分を前にすると固まるメディアに、自分まで固まるのだ。どうしたらいいか分からないのだろう。

 

 ……戯れに、何年かぶりに筆を執ったのだが、興が乗ってきた。あの時のことを思い出しながら書いてみようと思う。冗長な文となっているのは、構成を考えずに思いついたことを殴り書いているからだ。このわたしの手記を読み解いている者がいるなら気にしないで欲しい。所詮は老い耄れの手慰みの手記なのだから。

 

 あれは、わたしにとって輝かしい時代だった。何分昔のことなので不確かなこともあるが、わたしが関わった事柄に関してはなんとか書き記せる。

 あれはそう……戦神と伯父上の戦いが加熱していく中、次第に劣勢に追い込まれていく伯父上の歓喜の雄叫びを背にしていた時だ。メディアは無我夢中、一心不乱だった。何も考えたくない、後ろの戦いを見たくない、そんな感じで脇目も振らずに大魔術を連発していたと思う。火事場のなんとかというヤツだろうか? 戦いの経験なんてないのに、野に播いた竜の歯から生まれた強すぎるほど強い竜牙兵――多分だが戦神が間近にいたからその影響だろう――を相手に、ローブを翼のように広げて飛び、空間転移を連続して柱のような魔力砲撃を繰り返していた。それだけじゃなく、触れてもいないアルゴノーツ全員に強化の魔術を叩き込んで支援も同時に熟していたのだから凄まじい。

 後で聞いたがメディアはその時のことを覚えていなかった。むしろ戦神が現れたことも忘れていた。しかし朧げには自分のしたことを覚えていたのか、それに関しては我ながら神懸かっていたと述懐している。あと十年は研鑽を積まなければ同じことはできないだろうとも。

 

 眠らない竜が金羊の皮を護っていた。が、これはすんなり圧殺してしまう。眠らないはずなのにメディアの魔術で眠らされ、アルゴノーツの間隙のない波状攻撃で瞬殺されていた。正直わたしが剣を振る合間すら見いだせない、まさに数の暴力で。

 金羊の皮を手に入れたことをイアソンが宣言すると、戦神と伯父上の戦闘が中断された。鎧は無事だったが肩で息をし、鎧の下の皮膚は打撲痕を多量に拵えられ、疲弊している伯父上を見た時の驚きは、きっとわたしにしか分からない。無敵だと心の何処かで信じていた大英雄が、明らかに劣勢のままだったのだ。対して戦神も息は乱していたがまだ余力が残っているのを感じられる。

 わたしは戦神の『引き分けだな』という声に、勝者の余裕があるように見えて。『次があるならば更に御身の力を引き出してみせよう』という伯父上の台詞に敗者の潔さを見た。しかし形式上は引き分けだという。両者ともにそれで納得していた。戦神はまだ切ってない札があるだろうと伯父上を小突き、伯父上はなんのことか分かりかねると惚けて笑っていた。戦神は権能を使わず、伯父上は奥義を使っていなかったらしい。

 

(肩慣らしも済んだ。褒美だ、この後の航海では俺が貴様らの守護神になってやる)

 

 それにアルゴノーツは歓呼の声を上げた。強き者を奉ずる傾向のある英雄たちだ、戦神の力を知った彼らは戦神を崇拝し、わたしもその中の一人になっていたものだ。

 アルゴノーツの絆を語るのに欠かせないのはイアソンだが、解散後のわたし達が離れ離れになってもいつまでも同胞でいられたのは、同じ神を崇拝しているという共通項があったからかもしれない。

 アルゴー号が海の上を行っている時、船内でのメディアは常に男達に怯えているようだった。主に伯父上のせいで。

 

 彼女は常日頃からイアソンにべったりだったが、そのイアソンが気疲れして堪えられなくなると伯父上が現れる。するとメディアは悲鳴を漏らして逃げる。その後は暫く数少ない女性陣に加わって嵐が過ぎるのを待つ。というような光景が繰り返し見られた。

 わたしとしてはそんな女の集まりになんて興味はなかったわけだが、どうしてかアタランテとヒッポリュテはわたしをそこに引き摺り込んだものだ。個人的にはテセウスやテラモンと話したいことがあったので、当時はとても不満を覚えたものである。そしてその時のわたしはまだ若く、女達の話の肴にされるのは苦痛だった。

 覚えている限りの会話をとりあえず書き出してみよう。まず記憶にある限りだと、そうヒッポリュテが口火を切ったのだったか。

 

(イオラオス。ものは相談という。アルケイデスを振り向かせるにはどうしたらいいと思う?)

 

 伯父上のことが苦手なくせして、メディアも若い娘らしく恋に関しては関心が強く、興味津々にこちらを見ていた。

 

(とりあえず押せ押せでいいだろ)

(……その心は?)

 

 わたしの助言はだいぶ投げやりだったが、的外れではなかったと思う。

 ヒッポリュテは良い奴だ。ちょっと直情的で頭に血が昇るとうっかり口を滑らせたりする傾向があるが、裏表がなく、子供好きで、これと見定めたことに一直線だから。

 そういう点でアタランテとも気が合っていたようで、何かと二人で何事かをしている場面を何度も見られた。

 伯父上にほんとうの名を呼ぶように言われた三人の一人なのだから、わたしも彼女には気を許すことにして。一応は相談に乗ってやったものである。

 

(伯父上はあれで女に対しては奥手だからな。自分からは何もしないから、そっちが受け身に回ると何も成らないぞ)

(なるほど。分かった、では今度酒を――)

(酒はヤメロォ!)

(――すごいです。怖いですけど、ヘラクレスさんはすごく良い人なんですね)

 

 横でメディアがそう言った。

 彼女は伯父上を天敵とし、目にするだけで震え上がっていたが、嫌っていたわけではない。

 狂気に駆られたヒッポリュテを抱き締め続けた話を本人から聞かされたのもあるだろう。初対面の衝撃さえなければ案外良い関係を築けていたかもしれなかった。

 

(もっと怖い人だと思っていましたから、ヒッポリュテさんから聞いた時は誰のことかわかりませんでした)

(そりゃそうだろ。知り合ってまだ間もないんだから、お互いのことなんかまだ全部は理解できるもんか。伯父上にも怖いところはあるけど、それ以外の顔もあるんだって知っててくれたらいい)

(はい。――ところで、イオラオスくん)

(く、くん?)

 

 これまで誰かに()()()()で呼ばれたことのなかったわたしは、メディアからそう呼ばれて戸惑ったものだ。

 この頃のメディアはまだかなりの天然で、無自覚に火種をばらまくから始末に終えない。この時もそうだった。

 

(イオラオスくんは誰かに恋したことはないんですか? 恋はとっても素敵ですよ! 世界が変わるっていうか、何もかもが鮮やかに見えるんです!)

(ふ、恋か。どうなんだ、イオラオス。言って……ああ、そういえば童貞だったか)

 

 なんでかアタランテが反応した時は、わたしは顔を真っ赤にしたものだ。

 懐かしい。ほんとうにうぶだった。そういえばその時だろう、アタランテが口にした台詞にわたしは全力で言い返したものだ。

 

(童貞で何が悪い!? そ、それに恋ぐらいおれだってしたことある!)

(! 相手は……誰だ?)

(おまえには関係ないだろ!?)

(関係ならある! だって私は

 

 ――ああ、だめだ。思い出したら気恥ずかしくて、とても文に残せない。ここは割愛しよう。

 まったく、アタランテめ。ほんとう……迷惑な奴だった。今になっても老い耄れのわたしは彼女に勝てる気がしない。

 よそう。思い出せば、辛くなるだけだ。

 

 話を進めよう。アルゴー号がイオルコスの海岸に着いた時、わたし達はアルゴノーツを解散した。後の始末はイアソンとメディア、それと伯父上を筆頭とする英雄旅団がつけることになった。

 金羊の皮を持ち帰ったイアソンを迎えた時、イオルコス王ペリアスは愕然と見た。あんなものはただの口約束だ、王位を返す気はない。そう言ったペリアスを、伯父上は重い声で恫喝していた。ここを発つ前、私のした宣言を忘れたか? と。どうも熱さも喉元を過ぎれば忘れてしまう性質だったらしいペリアスも、伯父上に脅されてしまえば大人しくならざるを得なかったようで。

 式典が開かれた。ペリアスからイアソンへ王冠が渡され、イアソンは正式にイオルコスの王となった。その時、突然我に返ったメディアに、彼女に課せられていた呪いが完遂されて矢が抜けたのだと悟った。

 王になったイアソンは感激して、伯父上の手を取り、君はオレにとって無二の友だ! と感謝していたのをよく覚えている。何故ならその言葉に伯父上も感激し、アルケイデスと呼べとイアソンに言っていたから。そう、伯父上が自身をアルケイデスと呼ばせた生涯三人の者は、ヒッポリュテ、戦神、イアソンだったのだ。

 

 終生の友として、友誼を結んだ彼らは――

 

 だめだ。余計なことを思い出したせいで、気分が削がれた。わたしの、生涯でたった一人の妻、ああ、まったく……。

 一旦筆を置こう。気分が乗れば、またこの時のことを書き連ねようと思う。

 わたしの使命は、偉大なヘラクレスに関する記録を正確に書き残すこと。死ぬまでに後少し、後少しで完成する文を結ばねばならない。

 ……伯父に、アルケイデスと呼ぶことを許されても、英雄としての彼のありのままの姿を記録する使命を自ら帯びたわたしが呼ぶ資格はない。

 

 キリは悪いが、これ以上は文脈が滅茶苦茶になる。続きはまた今度だ。

 

 

 

   −イオラオスの手記・アルゴー号の冒険と英雄旅団−より抜粋』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……神秘に纏わる部分は添削しなくてはな」

 

 ――後世の時計塔の魔術師は、世界を賑わす世紀の発見を成した後、資料として写本を作りながら悩ましげにそう溢した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




この世界のメディア

歌劇(オペラ)開闢のキッカケ。
・最古の歌劇(オペラ)の演目にされる。
・その中でマスメディアとかそういうのの語源にされる。
・演目の中で誰かが適当につけた【魔女】の呼び名が定着する。抑止力(余計な)仕事してメディアを魔女呼ばわりさせる。
・某国の某ジャンルの大きな友達たちに、少女時代を指して人類サイコの……もとい最古の魔法少女呼ばわりされる。
・リリィ時のサイコ度、イアソンに中和され、様々な受難の中でマイルドになり、原作に近い性格へ。
・世界的知名度は良い意味でも悪い意味でもヘラクレスに匹敵。
・【悲報】(お○ぱいも)大アイアス氏、母がメディアになった影響か女になる。あれれぇ、男児が生まれるはずだったのに……【てぃーえす】
  (原因、娘がほしいの!と細工したメディア)
・「ギリシア神話詳しくないけどメディアなら知ってる!人類最古の魔法少女でしょ」との証言が某国から多数挙げられる。
・某アイドル皇帝、ヘラクレスの真似をする。しかしメディアの真似もして「もちろん、余だよ☆」したりした。

メディア氏、無事発狂。


身内の相関図。
テラモン→アルケイデスを尊敬。仕える。
アルケイデス→テラモンに請われ彼の子供の名前を考える。
メディア→筋肉英雄トラウマ、テラモンと結婚、生まれた娘に男の名前のアイアスと付けられる。なお名付け親が筋肉と知って発狂。
アイアス→テラモン大好き。メディア大好き。筋肉も大好き。メディア発狂。

メディアはアルケイデスから逃げられない。



こんなハチャメチャなネタを先に出して大丈夫か? と思われるかもだが布石の一つなのでお気になさらず。


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9.1 栄光を往く、王道を征く

 その者の良い所と悪い所も、付き合いを持つに至って半年でおおよそ把握できた。

 美点がある。口を開けば苦言を呈し、可愛がられれば憎まれ口の飛び出る難儀な性格をしているものの、性根は頗る善性で生真面目だ。何よりひたむきに憧れを追い続ける少年らしさが失われていないのが良い。

 まだ見ぬ彼の母よりも、なお色濃く彼の英雄の影響を受けているのだろう。アタランテの持つ常識や価値観から見れば、可笑しいぐらい奥手である。まさか十代後半に差し掛かった年齢で、未だに清き身であるとは信じられない。女性に対してのみならず、アタランテが弱者であり奪われる側であると認識する者にも鷹揚で、慈悲深い。強き者に対しても勇敢で、智慧を絞り、戦っては恐らくアタランテを下すほどかもしれない。

 

 アタランテより強く、賢く、勇敢で、誠実。忍耐強く情に脆く、それでいて几帳面で克己心に優れる。そこまで美点を羅列してみれば、くすりと笑みを溢してしまうのだ。

 まるで、超越的な大英雄を、スケールダウンして辛うじて現実的にしたかのような、まさに小さな英雄(ヘラクレス・ミクロス)である。自分という器の限界を知っていながら、なお挑む姿は眩しいものがあった。

 それは、狩人である自分には持ち得ないものだから。

 生きるか死ぬか、狩るか狩られるか。生きる糧とは奪うものであり、弱者は強者にあらゆる財産を奪われるか、与えられるかでしかない。――そんな思想を育んで育ってきた。育てられたのではない、自然とそう育ったのである。

 

 そういう自分を、アタランテは嫌いではなかった。好きでもなかったが。ただそういうものだと自然体に受け入れているだけで。

 

 故に自分の在り方を自らの意志で規定し、定めた道をひたむきに駆け続ける様には素直な好意を持った。色欲も友愛もない、純粋な好感情を。

 アタランテが知らぬ父性をヘラクレスに見いだし、密かに父のように想いつつあるのと同じ様に、アタランテはヘラクレスの甥である年下の少年に対して、知らず知らずの内に姉弟のように触れ合うようになっていた。

 率直に言って、傍で見ていると、どうにもいじらしくて可愛く見えるのだ。年齢で言えばイオラオスも成人しているのに、そんな思いがあると言えば烈火の如く猛り狂うだろうが、そんなところまで可愛らしくて仕方ない。

 

 旅の道中にヘラクレスは、暇さえあればアタランテに様々なことを教えてくれた。

 礼儀作法にはじまり、ペリオン山の半人半馬の賢者より教わったという薬学、食えればそれでいいと思っていた狩りで得た獲物の調理の仕方、格闘術、武器術、作法。およそ彼自身の知り得るものを惜しみなく。そしてアタランテが林檎が好きだと言っていたのを覚えていたのか、林檎に限らず果実の類いが手に入ると優先的に回してくれた。

 段々と甘えたくなる。甘えさせてくれる。何があっても護ってくれるという安心感が強くて、暖かくて……これはもう離れられないなと苦笑してしまいそうだ。そして……わざとヘラクレスに擦り寄り甘えていると、面白くなさそうに顔を顰めるイオラオスが見られる。その顔が見たくてヘラクレスに甘えていると言っても過言ではないかもしれない。そんなアタランテの意地悪に、ヘラクレスは気づいているらしくひどく微笑ましげだ。その擽ったさもやめられない理由である。

 

「可愛いな、アタランテ」

 

 いつか含みを持たせてヘラクレスはそう言って、笑った。途端に恥ずかしくなり、頬を桜色に染めてしまう。彼の傍らを歩くケリュネイアが、その尾でぺちりとアタランテの腕を軽く叩いた。

 その時は二人が持たせた含みの意味を読み取れずにいたが、アタランテの反対側に移動していたヒッポリュテが比喩を溢す。左手をケリュネイアに噛まれながら。

 

「アルケイデスも辛いな? イオラオスにヤキモチを妬かれて」

「それは言わなくとも良い。これを見られるのは後少しだろうからな」

「……? 汝は何を……」

「ああ、解らずとも良い。その内解るだろう」

「可愛いな、アタランテ」

「……?」

 

 ヘラクレスだけでなく、友人のヒッポリュテにまで同じ事を言われてアタランテは困惑した。可愛いだなんて、言われたこともない。自分で思ったこともなかった。この二人の目は腐っているのではないか? こんな筋張った手足と、女らしくない体、愛想の欠片もない自分を捕まえて可愛いなどと。血迷っていると言っても過言ではない。

 ケリュネイアが唸りヒッポリュテをヘラクレスから引き剥がそうとする。それに余裕綽々と応じて踏ん張り毛並みに触れてやる女王。触れるなと牝鹿が噛みつき、微笑んでいなすヒッポリュテ。いつもの格闘風景だ。

 

 こんな時テセウスがいれば、二人が何を思ってこんなことを言い出したのかを吐かせてやるのに。無駄に察しが良いテラモンがいれば、力尽くでもどういうことか聞き出していたのに。

 テセウスはアルゴノーツが解散したらアテナイに向かった。テラモンは様子のおかしいメディアをコルキスに送り返すところまでは一緒だったが、王としての責務がある故にサラミス島へと帰っていった。ミュケナイへと向かう途上、からかわれ続けるのかと思うと憂鬱になりそうだ。

 

「イオラオス、私は可愛いのか?」

「は!?」

 

 ゴロゴロと転がる馬車の車輪。それを牽く馬の手綱を御台で握る少年に、アタランテはあの二人の真意を確かめたくて訊ねてみた。

 イオラオスは賢い。私に解らなくてもイオラオスなら解る、とアタランテは思っていた。それ故の問い掛けに、イオラオスは声を裏返らせて反駁した。

 

「ヘラクレスもヒッポリュテも、私なんかを可愛いという。どういうことなんだろうか……」

「んな、こと……おれに訊かなくてもいいだろ!?」

「だがあの二人は教えてくれそうにない。そうなると訊ける者が他にいないだろう。どうなんだ?」

「がっ……ぎ、ぐ……!」

 

 歯を食いしばって変な顔をするイオラオスに、肩口まで伸びた緑髪を風に吹かれながらアタランテは首を傾げる。

 そんなに言いづらいのだろうか。ということはやはり、私は可愛くはないという証明だなと思う。しかしどうしてか、瞭然とした事実を再認しただけなのに、胸がむかむかする。

 そんなアタランテの様子に、イオラオスは顔を背けながら言った。

 

「かっ、かわ……いい……」

「……?」

「可愛いよ! ついでに美人だ! どうだ、これで満足か!?」

「! そうか、私は可愛いのか……汝がそう言うならそうなんだろうな」

「んなっ……」

 

 どうしてか絶句するイオラオスを尻目に、足が軽くなったかのように気分が軽やかになる。

 傍目に見ていたヘラクレスは、ふるふると肩を震えさせ、やがて堪えきれないように声を上げて笑い出した。

 

「はーはっはははははは! は、はは、ハハハハハ!」

「……ッ! なに笑ってんだよ!? 笑うな!」

「クッ、クハ、な、なんだイオラオス、うぶなねんねじゃあるまい……いやねんねだったか? クッ、ハハハハハ!」

「笑うなって言ってるだろぉ!?」

 

 顔を真っ赤にして怒鳴るイオラオスに、ヘラクレスは辛抱ならぬとばかりに呵々大笑する。遂に堪えきれなくなったイオラオスが御台から飛び降りてヘラクレスに掴み掛かるも、すんなり受け止められて御台の上に投げ戻されていた。

 それを見てヒッポリュテまで噴き出して、笑い声が増えてしまう。イオラオスはそれを掻き消そうと叫び声を上げた。賑やかでありながら穏やかな、そんな道中だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一年。戦神との邂逅、冥府の神との謁見、アルゴー号の冒険、そしてメディアをコルキスに帰し、帰路についてからミュケナイに戻るまで掛けた時間である。

 アルケイデスが帰ってきたことで、エウリュステウスは我が世の春が終わったことを悟った。

 暫く時間を掛けろと確かに言った。だがまさか本当に一年も掛けるとは思わなかったのだ。エウリュステウスはまだ、彼がどこを冒険して来たのかなど知らない。じきに知ることにはなるが、この時のエウリュステウスはてっきりどこかで野垂れ死んだものと希望的観測を懐いていた故に、アルケイデスの帰還に小さくない失意を覚えていた。

 

「……それで、どうしてアマゾネスの女王などを連れてきた」

 

 エウリュステウスが謁見を赦したのはアルケイデスのみである。にも関わらず、平然と乗り込んできた女戦士を兵につまみ出せと命じたのだが、女戦士がアマゾネスの女王を名乗ったことでとりやめざるを得なかった。アルケイデスは肩を竦める。

 その所作一つと表情で、エウリュステウスは内心眉をひそめる。コイツ、変わったか――? 巌のように不動を保っていた重く、固かった表情に人間らしい感情が出ていたのである。この一年の間に良縁に恵まれたらしかった。エウリュステウスとしてはその血色の良い顔色が憎たらしいのだが……。

 

「私に課せられた勤めは、彼女の持つ戦神の軍帯を貴様の許へ導くことだろう」

「……? 何を言っている?」

「手に入れて来いとは言われておらん。貴様は私に、貴様の娘が欲していると聞かされ出来る限り時間を掛けろと言われたのみだ。そら――第四の勤め、確かに果たしたぞ」

 

 『いいか、聡明で可愛い俺の娘に感謝しろよこの化物め! 俺の娘が貴様の勤めに相応しいものを考え出してくれた、なんでもアマゾネス族の女王の持つ戦帯が欲しいのだとさ! くれぐれも! そう『くれぐれも』だ! あんまり早く片付けて帰ってくるんじゃないぞ!? 少しはゆっくり時間を掛けてから勤めに臨め! 俺の頭は勤めのことばかりでいっぱいなんだ、いい案が出るまで戻ってくるんじゃない!』

 ――エウリュステウスの脳裏に、一年前の自分の台詞が去来する。

 確かにそうだ。手に入れてこいとも、献上しろとも言っていない。娘が求めていると言っただけで、アルケイデスはエウリュステウスの命じたことを何一つ破っていなかった。

 

「ッ! 屁理屈を……!」

「惑乱していた貴様の不覚だな。今度からは確りと己が発言に気をつけることだ」

「……熱くなっている所すまないが、私から一つ言いたいことがある。エウリュステウスよ、心して答えよ」

 

 激昂して玉座より立ち上がろうとしたエウリュステウスを、ヒッポリュテが冷めた声で縫い止めた。

 やおら殺気立ち、凄まじい凝視を寄越されたエウリュステウスは、ヒッポリュテのその眼光に慄く。しかしそれが却って彼を冷静にした。腰を深く落としながら玉座の肘置きに凭れ、小さく息を吐いて呼気を整えると女王に応じた。

 

「……なんだ、アマゾネスの女王。わざわざヘラクレスに付き合い、遠くミュケナイまで罷り越したのだ。言われずとも丁重にもてなそうとも」

「要らん。履き違えるな、ミュケナイの王。貴様は私に――否、アマゾネスの戦士たちに戦を望んだのだからな」

「な、なに?」

 

 思わぬ台詞だったのだろう。エウリュステウスは露骨に困惑した。

 その反応をこそヒッポリュテは侮蔑する。見下しさえした。

 

「そうだろう? 貴様はアルケイデス……ヘラクレスを遣わし私の秘宝を奪い取らんとしたのだ。当然の解釈だと思うが。故に私はヘラクレスに請い、こうして貴様の面を拝みに来たのだ。さて――私と、アマゾネスとの一戦が望みか?」

「待……て。待て。ヘラクレス! 貴様アマゾネスの地で何を言った? まさか焚き付けたのか!?」

「………」

 

 血相を変えたエウリュステウスの詰問に、アルケイデスは沈黙で返した。彼の目は剣呑な発言をしたヒッポリュテに向けられている。心なし困惑しているのだ。

 なんのつもりだとヒッポリュテに目で問う。アルケイデスとしてもヒッポリュテがこんなことを言い出すつもりとは聞いていなかった。エウリュステウスを縁結びの王と目し密かな好意を懐いている彼としては、あまり無体な目に遭わせたくないのがアルケイデスの本音である。

 アルケイデスからの視線に頬を朱色に染めながらも、ヒッポリュテは小声で任せておけと言う。彼女の反応に微妙な気持ちになりながらも、そう言うなら任せてみようとだんまりを決め込んだ。

 

「話しているのは私だぞ。女王の肩越しに別の者と口上を交わすとは舐められたものだな」

「そんなつもりはない! 俺はアマゾネスと戦をする気はないんだ、信じてくれ!」

「うん、信じよう」

「……は?」

「信じると言った。ヘラクレスは誠実な男だ、むざむざ貴様と私を相討たせようとはしないだろう。貴様に戦の意志がないのを確かめに来た。そして貴様と、貴様の娘が我が父の分体である軍章旗を帯とした秘宝を持つに値するか見定めることもできた。戦を望まぬと言うならそれでいい」

 

 あっけらかんと告げるヒッポリュテに、エウリュステウスは目を白黒させる。直前までの殺気は消えていた。

 そうして絶句するミュケナイ王へ、ヒッポリュテはいけしゃあしゃあと宣う。

 

「貴様らは我が秘宝を持つに能わん。よって私の帯は譲れない。しかしヘラクレスは貴様の課した勤めを果たした。何せ軍帯を持った私を貴様の前まで案内したのだからな」

「――――」

「そうだな? ヘラクレスは……勤めを確かに果たしたはずだ。そうだろう?」

 

 にっこりと微笑みながら、再び殺気を溢れさせるヒッポリュテのそれは、確認の言葉の裏にはっきりと恫喝の響きを持たせていた。

 否と言ったら一戦を交わすことも辞さない、その強硬な姿勢にエウリュステウスは折れるしかなかった。自分に仕えているアルケイデスを使えば負けはなく、確実に勝てるだろうが、自分の城にいる他国の王を殺したとあってはエウリュステウスの名声は失墜する。そうなればアルケイデスに王位を奪われるかもしれない不安が現実のものとなるだろう。たとえアルケイデスに奪われなくとも、他の誰かが王位簒奪を目論むかもしれない。王はその振る舞い一つにも気を配るものだ、特に自身の保身のためなら。

 項垂れるようにエウリュステウスはヒッポリュテの言に頷いた。満足げな様子のヒッポリュテだが、アルケイデスとしては彼の王に対して罪悪感を懐く。彼を心理的に圧迫するのは本意ではない。なんとか彼の気を持ち直させようと、漸くアルケイデスは己の本音を告げることにした。

 

 元はエウリュステウスに無茶な試練を課してもらい、自身のスキルアップを目論んでいたアルケイデスだが、それはもういいと感じていたのだ。

 既に沢山の縁を結んでいる。これ以上は無駄に時間を掛ける気はない。元々エウリュステウスが懸念していることは察していたのだ。無欲なアルケイデスである、現状に満足してしまえば、恩人が苦しむところを捨て置けはしない。

 

「エウリュステウス。私はミュケナイの王位は望まん」

「……は? いきなり何言ってるんだ、貴様は」

「まあ聞け。長らく貴様の心を蝕んでいた不安を取り払ってやろうというのだ。いいかエウリュステウス、私はミュケナイの王位への野心など無い。あらゆる神に誓っても良い、私は償いを終えたとしても貴様から王座を奪い取ろうとはしないと。無論害するような真似もしない」

 

 呆気にとられてそれを聞いていたエウリュステウスは鼻を鳴らす。何を言うかと思えば、と。

 

「……はっ。戯言だな。仮にそれが本当だとしても、貴様の子はどうだ? 正統な王の血筋だと宣い、ミュケナイを手に入れようとしないという保障はあるのか? ないだろう」

「ある。もし私に子孫が出来たとしても、貴様を害してまでミュケナイを手に入れようとはさせん。それに――」

「ヘラクレスはアマゾネスに婿入りするから問題ないな」

「――ヒッポリュテの戯言はともかく、

 大いなる力には、大いなる責任が伴うものだ。強すぎる力は時として大禍を招きもする。故に確約しよう。宣言しよう。私は償いを終えた後、王となる。

 無論、ミュケナイではない何処かでだ」

 

 突拍子もない宣言だった。目を丸くするヒッポリュテとエウリュステウスに、アルケイデスは頬を緩める。

 如何なる心境の変化なのか。それはアルケイデスの胸だけに秘められている。

 

 ――イオラオス。妹のイピクレス。ケリュネイア。アタランテ。ヒッポリュテ。守るべき者が増えた。マルス、ハデス、ヘパイストス、アテナ、プロメテウス。奉じるべき神が増えた。

 信仰の心は自由だ。だがもし奉じている神が邪な者なら? 災いを齎す類の神など、不要だろう。かといって人々の心がどの神を奉じるかなど律せるものではない。

 故に王になろう、とアルケイデスは決めた。透徹とした眼差しでそう決意していた。

 善き神を戴き、神殿を建て、信仰を篤くする。自身の力と名声、人脈の限りを尽くして。そして故あらば邪な神に狙われかねない、自身の身内も同時に守護するための国でもある。

 

 それは、立志だった。復讐以外に懐いた大志である。

 

 武人としてのそれとは違う、英雄や狩人としてのそれとも違う。鮮烈な王者としての威風が穏やかな陽射しのように彼から発されていた。

 ヒッポリュテが息を呑む。エウリュステウスが圧倒される。それらを気にせず、アルケイデスはエウリュステウスの不安を取り払って、告げた。要求した。

 

「さあ、エウリュステウス。次の勤めを言え。残りの総て、迅速に片付けた後に、我々はミュケナイより立ち去るだろう」

 

 ――その宣言を以て、エウリュステウスの恐れは拭い去られた。

 それから半年。アルケイデスはエリュマントスの猪を生け捕りにし、川の神より権能を借り受けてアウゲイアスの家畜小屋を洗い流し、ステュムパリデスの鳥を撃退して、クレータの牡牛と、ディオメデスの人食い馬をミュケナイに連行した。

 試練を課されてより二年としない内に、彼は九つの偉業を成し遂げたのである。遺憾ながらアウゲイアスの家畜小屋の一件は、川の神の権能を借り受けた故に、無効とされてしまったが、申し訳なさそうなエウリュステウスに対しアルケイデスは気にするなと言って笑い飛ばしたのだった。

 

 

 

 ――間もなく。再び交わるはずのない運命が交錯しようとしていた。

 

 

 

 後のアルケイデス王が、自分以上の王と認め、その知識を借り受けたことで多くの神殿を建造する助けとした偉大な太陽王との。

 彼こそはエジプトのファラオ、ラムセス二世――メリアメンとも、オジマンディアスとも呼ばれる王だった。

 

 

 

 

 

 



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9.2 私にこの手を汚せというのか

 

 

 

 

 

 オリンポス十二神を統べし神々の王、全知にして全能なる最高神ゼウスは、古今東西の神格を横並びにし比較した中でも図抜けた権威と権能を誇る。

 単純な武勇、智慧、能力。いずれも強大無比であり、光鎧を着装し雷霆とアダマスの魔法鎌で武装を整えたゼウスに勝る者などまず存在しないと云える。

 彼は弱者の庇護者であり、全宇宙と天候の支配者である。正義と慈悲の神であり、悪を罰する至高神である。世界そのものの混沌を統制し、平穏に保つためなら神であっても処分する荒ぶる神格でもあり、人類と神々の秩序を司り、総ての人間と大多数の神々の父であるともされた。

 

 そんなゼウスに死角など、本来ならあるはずもない。彼は運命の三女神を支配下に置く故に、運命さえゼウスを縛れないのだ。彼の存在さえ健在ならば、神代は永劫に保ち続けるだろう。

 しかしそれは――あくまでも器、能力面を評価した場合に過ぎない。

 ゼウスには弱点がある。全知を曇らせ、全能を翳らせる最大の欠点が。それはゼウス自身の性格、神としての性質である。

 

 元々ゼウスに限らずあらゆるギリシアの神々は、どこか人間的な感情を持ち合わせている。それが魅力であり、時に過大な加護を人に与え、栄華を極めた者や非業の破滅を齎すことも多々あった。

 ゼウスはそんな中、例外なく慈悲深き神として当初は君臨していたが、同時にどの神よりも冷徹に秩序の支配のために支配者の采配を振るい、そのために自身の強大な力を部分的に継承する神々を生み出した。運命の三女神などは自身が運命を超越するために利用した代表例である。クロノス、ウラノスより世代交代をした例もある。自身もまた同じ轍を踏まぬように、彼の行動には常に合理的で冷徹な計算があり、彼は支配体制を盤石にするためなら一夫一妻の倫理を平然と踏み越えたものだ。

 多くの子を生み、しかし単独ではゼウスに及ばぬ神を支配し、絶対の支配権を確立させる。それがゼウスの狙いだった。そこに快楽を求める気持ちはなかったと云える。ゼウスは慈愛と慈悲、そして冷徹さを矛盾無く兼ね備えた最高神に相応しい神格だったのだ。

 

 ――それが歪んでしまったのは、彼が余りにも完全にして強大な神であったが故だ。

 

 人はゼウスを慕い、ゼウスを崇めて、他の神などよりも厚い関心と信仰を捧げた。しかしその最中にゼウスのおこないを知った人々は、自身らの一夫一妻の倫理とは掛け離れた行動を多々見せるゼウスのおこないを誤解したのだ。

 ゼウスにも低俗な、女好きで好色な一面もあるのだと。気持ちは解ると共感した。

 完璧過ぎる支配者故の悲劇であったと言えよう、欠点の一つでもないと恐ろしいと感じる人の性が、人の信仰によって在り方を変容させる神の内の一柱であるゼウスを歪めたのだ。それが故に好色さがゼウスの神格を多大に制限した。

 冷徹な支配者であるのに変わりはない。慈悲深き神であることにも変わりはない。しかし余りある性欲が、彼の知能を大いに曇らせ、より人らしい欠点を抱えてしまった。すなわち人と同じく悩み、失敗することもある、色欲に突き動かされることもある神格へと変容したのだ。

 

 しかし冷徹さは健在である。色欲に突き動かされることは多々あるものの、彼は混沌を内包するあらゆる原始の女神ガイアを律し、世界に平穏と安寧を齎すために様々な布石を打ち、そんな自分を疎みティターン神族やギガース族をけしかけてくるガイアに対策を執っていた。

 

 ティターンとの決戦、ティタノマキアでは勝利した。

 次はギガースとの決戦、ギガントマキアである。

 

 これに打ち勝つには、切り札が必要だった。ギガースはガイアの加護によりあらゆる神格には殺されない力がある。彼我の力の差で言えば、ほぼ総てのギガースなどゼウス一人で殺戮の限りを尽くせるのだが、殺せないのならどうしようもない。物量で押し掛けられれば、ゼウスすら危ういだろう。

 そこで一計を案じて生み出したのが――アルケイデスである。

 人の肉を纏う不死なる神。その存在がギガースを打ち破る決戦力となるのだ。彼の誕生を知ったガイアは、ギガースに人にも殺せぬ加護の果実を与えようとしたが、その動きを最初から読んでいたゼウスは先回りしてその果実を根こそぎ雷霆で焼き払った。こうしてギガースは人に殺されぬ加護を得ることが出来ず、この時点で卓越した頭脳を持つゼウスはオリンポスと自分の勝利を確信した。

 

 如何にしてガイアの力を削り、自分のものにするかに腐心するゼウスは――ここで最悪の過ちを犯す。

 

 生み出されたアルケイデスが、女の腹より誕生する間際に、要らぬ親心を発揮してしまったのである。好色さと慈悲深さが連結し、歪んだ彼の知能は、自身の現在の妻が嫉妬深い女神であることを失念させていた。

 元は貞潔の女神ではなく、大地母神であるヘラは耳が速い。情報収集能力は神々の中でも随一だろう。しかしその元の神格のために、完全な貞潔さを持つわけではないヘラは、荒ぶる大地の女神としての側面で激しい感情を秘めていた。それが貞淑さや結婚などの女らしい神格と結びつき、過大なまでの嫉妬心を生み出していたのである。

 ゼウスの行動をいち早く察知したヘラは、ギガースを倒すには必要な存在と知りながらも、その激しすぎる嫉妬を抑えられずアルケイデスを破滅させようとした。ゼウスが翳った精神で我が子にして決戦力たるアルケイデスを、栄光を約束されたミュケナイの王にしようとしているのが我慢ならなかったのだ。

 結果としてアルケイデスは王にならず、エウリュステウスがミュケナイ王となった。そしてアルケイデスはそれでも無事に生まれたため、注目していたヘラの憎しみを買ったのである。

 

 ゼウス痛恨の失敗である。

 

 彼は理解していた。不死の神としての側面を持つ我が子であるが、その肉と血、精神は人のものである。そして人であるからには常に変化し続けるものであり、故にこそゼウスは親としての情はあるにしても、冷徹な計算に基づきアルケイデスを恩義で縛ろうとした。

 ゼウスは激怒した。アルケイデスが万一、ギガースのことを知った場合、その時の保険として好感を懐いていてもらえば問題なくなるはずが、悪感情を懐かれてしまえば協力を得られなくなる恐れがある。激怒したゼウスはヘラを罰し、放逐してやろうとすら考えた。だが――できなかった。

 ヘラを放逐すれば、神々の女王としての権能が失われ、大地母神に戻ってしまう。そしてそれはガイアに通ずるものであり、ガイアの力を削いだとしてもヘラが新たな脅威と成りかねない。ヘラを貞潔なる女神の殻に押し込めて、大事にしているのは主に封印の意味合いが強いのだ。

 

 故にヘラを罰さなかった。

 

 なんとかしなければ、とゼウスは焦る。だが幾ら諌めても、ヘラは止まらない。アルケイデスを破滅させようとする。事此処に至りゼウスは猛省した。そして自覚した。

 遙か太古、ヘラから大地母神の権能を取り上げるために侵略し、和合の証として妻としたが、それは失敗だった。その美しさに目が眩んだばっかりに、殻とするなら他の神格でも良かったというのに女王としてしまったのだ。

 大地母神に貞潔な女神は不似合い、不釣り合い。その落差がヘラの元々の苛烈さを嫉妬へと変換させてしまっている。もはやヘラを情で庇い立てすることはできない域にまで至っていた。アルケイデスの神への悪感情を、ヘラ一人に向かわせる。そのために、敢えてアルケイデスにヘラを罰する権利を与えようと、順序として妻子殺しの償いの勤めを果たさせることにした――のだが。

 

 よりにもよってヘラは、ヘラクレスなどという、アルケイデスにとって皮肉でしかない屈辱の名を与えてしまった。

 もう目も当てられない。アルケイデスがヘラを罰した後は、もはや大地母神にヘラが戻ってしまっても構わないから女王の座を取り上げようとゼウスは観念した。そのヘラへの対策を今から考えておこうとすら思っていた。

 だが――

 

 

 

『何時かは知らせなきゃなんねぇことだろうが! 偉大なる神々の王よ、まさか奴に何も知らさず、いきなり参戦を命じる気だったのか!? 準備が出来ておらず満足に戦えませんでした、なんて言われたらお仕舞になっちまうんだぞ! ガイアの差し向ける連中とはお遊びじゃ済まない、他とは違う本当の戦になる。負けたら終わりでやり直しも何も利かねえんだ、なら最低限の情報伝達ぐらいはしてねぇとマズイだろ!?』

 

 

 

 ヘラクレスと邂逅した愚かな嫡男が、よりにもよってヘラクレスにギガースの一件を暴露した。

 しかしその言は愚かとは言えない。ゼウスも納得できる理があった。――まるで、アテナの如き叡智を宿したかのような。

 馬鹿な、と思う。あれはアレスだぞと。それでも、ゼウスはアレスの諫言を聞き入れた。正しい言い分だ、認めようと。しかしこれでヘラクレスが自身の存在価値を知ってしまった。いよいよ以て、彼の神への悪感情を拭わねばならない。

 そこでゼウスはさらなる一手を打つ。ヘラクレスの価値基準を読み解き、彼が好感を持てる神へ会えるようにしたのだ。ヘパイストスはよくやってくれた、アテナもよくぞやってくれた。アレスは想定外だが、ヘラクレスから好感を持たれた。後はハデスとヘスティアだ。彼らと引き合わせるように動けば、ヘラクレスから神への悪感情は薄まるだろう。

 

『え? ヘラクレスに会え? うーん……嫌だ』

『姉上!』

 

 しかしヘスティアはこれを拒んだ。ゼウスが守護する処女神は、呑気な表情でのほほんとしながらも、どこか沈鬱にしている。ゼウスが唯一強硬な姿勢を取れない女神はこう言った。

 

『だって原因はヘラの戯けだ。アレは妹だけど、流石にやり過ぎだろ。わたくしとしては、わたくしの領分を侵したヘラの尻拭いに動いてやる気にはなれないな。痛い目を見るなら良い薬になる。まあ馬鹿につける薬はアポロンの子の医神にも作れないけどね』

『しかし……!』

『あのさ、ゼウス。あなたには感謝してる。恩もある。言うことを聞いてあげたいけどわたくしはヘラクレスには会えない。……わたくしが護ってあげられなかった家庭の、家長だ。彼は。その愛と慈しみを知るわたくしには、合わせる顔がない。だからこれからも会わない。陰ながら見守るぐらいだ』

 

 ヘスティアは動かなかった。臍を噛むゼウスだが、それ以上は言い募れなかった。

 しかしハデスと会ったことで、ヘラクレスの怒りはなんとか薄まろうとしている。このままいけば、とゼウスは胸を撫で下ろしていた。が――またしてもヘラがやってくれた。

 

 彼の眼前で、彼の逆鱗を、これでもかと踏み躙り。

 

 もはやヘラクレスの悪感情は、拭えぬものとなった。

 

 ――戯け! 儂の苦心を知らぬとは言わせんぞ、ヘラ……!

 

 遂に激怒したゼウスは、例えヘラクレスが罰した後であっても、ヘラを償わせようと決めた。人に落とし、奴隷として仕えさせるだけでは飽きたらぬ。反省するまでタルタロスに落としてくれると怒りの炎に燃えた。

 そんなゼウスに、ヘスティアは憐憫の眼差しを向ける。

 

(神であるが故の歪みを負わされた、憐れな弟。けどね……ヘラを罰するなら、自分もまた罰されるべきだと気づいた方が良い。ヘラクレスの怒りはオマエにも向けられても不思議じゃないんだ)

 

 ゼウスはそれでも、ヘラクレスの憎しみを鎮火させる手を考え続けた。

 ここでヘラクレスを殺し、別の胤を仕込んで最初からやり直すという手もあったが、もう遅い。今から切り札を作り直そうにも、ギガースが動き出そうとしている。間に合わないだろう。

 

 しかしここでゼウスにも想定外のことが起こった。

 

 ヘラが狂わせた女王が、アレスの子であり。アレスが猛り狂い、ヘラに絶縁を申し伝えたのだ。その時に発した力の奔流は、このゼウスにも伍する有り得ないほど強大なもので。

 ゼウスは狼狽えた。何故あのアレスが、と。何故アレス如きがここまでの力を、と。

 だが可笑しい話ではない。アレスはゼウスとヘラの嫡男だ。最高神と、大地母神の血を引いているのである。これで愚かで惰弱なわけがない。

 しかしこれまでその発想に至らなかったのは、アレスが愚かな戦の神を演じていたからで。それは、ゼウスをも欺いていた。すなわち、アレスは――マルスと名を改めた戦神は、アテナやゼウスにも劣らぬ叡智を持っている証である。

 

 その時、ゼウスの脳裏に、ガイアの不吉な予言が蘇った。

 

 ――オマエが父より神の長の座を簒奪したように、オマエもまた我が子から簒奪を受けるだろう。オマエの妻が生んだ長女と、()()()()()()()()長男によって。

 

 この予言は、アテナの母神を丸呑みにし、ゼウス自身がアテナの生みの親となることで潰えたと考えていた。なぜならアテナの母神はゼウスの叡智となって一体化しているのだ。もはや子など生まれない。

 だが――()()()()()()()()()()というのが、後妻であるヘラとの間に生まれた嫡男のことであったとしたら? アテナとマルスは共に戦神。強大な力を合わせれば予言が成就するのではないか?

 まさか、と恐れる。ゼウスはマルスを恐れた。そしてそのマルスを信仰したアルケイデスに、悪い流れを覆せぬと悟らざるを得ない。

 

『……情は捨てよ。そういうことか』

 

 ポツリと呟く。

 

 総てはギガントマキアが終わってからだ。ゼウスは腹を決める。禍根となるものは、粛清する、冷徹な神の王としての顔が覗いていた。

 

 しかし、ふとゼウスは感じ取る。

 何やら脆弱な人理が動いているのを。なんだ? と注視していると、吹けば飛ぶ程度の抑止力が動いているではないか。

 この流れは、ゼウスにとっては悪いものではない。しかし何をする気なのか。不利益に繋がるのではないかと見張ることにした。

 

 果たして抑止力は、数多の病原菌を発生させる。それはミュケナイの過半の牛を死滅させ――ゼウスは頷いた。時間を稼ぐには丁度よいか、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ミュケナイの牛たちが死んでいく。

 牛は国力だ。そして王の権威にも繋がる。その数が激減したことは、すなわちミュケナイ王家の零落を意味する。

 エウリュステウスは大いに狼狽え、打開策を求めた。そして苦渋の末に、彼はアルケイデスを呼ぶ。

 

「……すまんが、ミュケナイのためだ。オケアノスの西の果てに浮かぶ島より、赤い牛の群れを奪ってきてくれ」

 

 彼にはアルケイデスへの負の感情はない。

 しかし私情を殺して、命じるしか無かった。国のためなのだ。他に手はない。

 なるべく波風たてぬ相手を選ぶのが、彼の限界で。

 

 初の、生涯に一度として関わる気のなかった略奪に手を染めろと命じられたアルケイデスは、心底より苦々しく顔を歪めて……拒む権利を持たず、ミュケナイの危機も見過ごせず、苦渋の思いで頷くしか無かった。

 

「……承知した」

 

 十番目の試練は、アルケイデスの良心を蝕む、最も彼の心を苦しめるものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




赤竜「あ、あの……ワイは……?」
アル「おまえ害獣だろ。ノーカン」


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9.3 幕間の物語【ヒッポリュテは寄り添う】

二話目だゾ☆ 前の見逃しちゃ駄目なんだからね!





 

 

 

 最初はその身に充謐する強者の佇まいに惹かれた。

 其の名を知り、彼の強さを証明されて体が求めた。

 狂気を吹き込まれ、狂ってしまった己を鎮める為に成した献身に――

 

 高潔な魂と、異端とも言える在り方へ……魅了された。

 

 一目惚れだった。彼にとっては傍迷惑極まりないと冷静になってみると理解出来る。

 私とて、彼の基準に合わせるなら強さを見ないにしても――見ず知らずの男から求婚されたとしても応えようとはしない。

 むしろ私なら邪険にあしらい、付き纏わぬように手を打っていたはずだ。

 それをしないで、同行を赦してくれた彼の優しさと甘さには頭が下がる。あまつさえもしもまた狂気を吹き込まれても、絶対に守り通すとまで誓ってくれたばかりか、本当の名前を授けてくれた。私なら憐れに思いこそすれ、そこまでしないだろう。

 この誠意と優しさは、ますます私の恋を熱くした。

 アマゾネスの地を離れ、彼と彼の配下……アルケイデスから言わせてみると仲間か。アルケイデスの一党と行動を共にする中で、彼の人柄をより深く知ることになった。

 彼は身内に対して兎に角優しく、甘かった。アマゾネスにも引けを取らない女狩人、アタランテと友誼を交わし、彼女と親しくしているとよく解る。アルケイデスはアタランテを歳の離れた妹か、歳の近い娘のように可愛がっているのだ。好物を優先的に回すのは当然で、出自故に浅学な彼女に字の読み書きと礼法、格闘術と武器術を惜しみなく教えている。それとなく甘えるアタランテにも鷹揚に応じ、慈しんでいた。

 今は別れたがテセウスやテラモンにも同様だった。こちらは甘くするのではなく、己より遥かに弱い英雄だというのに、彼はあくまで対等な仲間として付き合い見下すことをしない。隔絶した武を有し、私でも偉大な父の分体たる軍章旗がなければ戦闘を成立させられないだろう。戦いになったとて其の先にあるのはほぼ確実な敗北である。それほどまでに強いのに、他者を遙か高みから見下す真似をしないのは、ひとえの彼独自の価値観故にだろう。

 

 根底にあるのは、言葉にするとしたら「我も人、彼も人、ゆえ対等」といった所だろうか。武人であろうが、英雄だろうが、狩人だろうが……王であっても奴隷であっても……強者でも弱者でも……同じ人であるなら対等であると見做している。

 故に彼は区別はしても差別しない。無論のこと身内とそれ以外に対する扱いの差はあるが、それは人として当然のものだろう。

 

 竜を狩った。王女を救った。冒険をした。旅をした。

 

 その道中で……笑ってしまうが、アルケイデスの酒癖を知った。普段溜め込んでいるものがあるのだろう。一旦吐き出しはじめれば、なかなか止まらなかった。それを思い出す。

 

(遠い異国の英雄達をもてなしたい)

 

 そう言って、アルゴノーツに合流する前に訪れた国の王が宴会の席を催した。

 特に断る理由もなかった一行は、旅の垢を落とす意味もあって厚意に甘えることにしたのだ。王としても旅の英雄達を歓待することには意味がある。招いて酒の席を一つ設けるだけで一種のステータスになるのだから、殊更に遠慮する意味もないのだ。

 そこで勧められたのは、国王秘蔵の神代の酒。オリンポス十二神の一柱、酒造神による神酒である。大枚をはたいて手に入れていたというそれを、王は惜しみなく供してくれた。

 

 アルケイデスも神酒には興味を持ったのか、遠慮なく頂いたものである。神酒はこれまで深酒をしたことのない彼もつい飲みすぎてしまうぐらい美味なもので、イオラオスも見たことがないという酔った姿を見れるかもしれないと、テセウスやテラモンも含め全員が勧めた。

 この時、獣の本能なのか、ケリュネイアだけが静かにその場から離れた意味を、私達は酒の席の熱気に当てられて察することができなかった。

 だがそれで良かったのかもしれない。過ぎた今となってはよき思い出で、普段から溜め過ぎるアルケイデスの毒を吐き出させられたのだから。

 

(■■■■■■■■■―――ッ!!)

(うわぁぁあああ!? 伯父上ご乱心、伯父ご乱心ぅー!?)

(ヘラクレスを止めろ!)

(僕に任せぐあぁぁ!?)

(うぉぉおお! 酔っている今なら勝て――るわけなかったかぁ……)

(アルケイデス! おっぱい揉んで落ち着け!)

 

 我を見失ったアルケイデスは途端に暴れ出した。振り回した腕に直撃し、傍にいたイオラオスが弾き飛ばされ、抑えに掛かったテセウスとテラモンが捻じ伏せられ、アタランテは投げ飛ばされてイオラオスの上に落下した。

 その都市の城壁は半壊し、鎮圧に出た軍隊は逆に制圧され、酔っていても流石の手加減具合で死傷者ゼロに収める災害が発生したのである。暴れるアルケイデスを抑えようとヘーラクレイダイ総出で本気を出し、なんとか捕縛しようにも手に負えない。私など最も血迷っていた。少なからず酒が入っていたし、酔っているならイケると思って抱かれようとしたのだ。……ケリュネイアに蹴られて酔いは醒めたが。

 これ以上は堪らぬと、その国の王が総ての都市の守護神アテナに祈りを捧げ懇願し、アルケイデスを鎮めるために神々が応援に来た。爆笑して騒ぎを見ていた我が父も、自身の属神の一柱である戦いと恐怖を司る女神エニュオを派遣してくれて、強さと力の神格クラトス、勝利の神格ニケ、暴力の神格ビアー、怯える皆を鼓舞する神格ゼーロスが集まった。

 

 武器もなく暴れるアルケイデスを鎮圧するのに、まさか殺しに掛かるわけにはいかない。総ての神々は死闘の末に倒されて、私達も力尽きた。もはやこれまでかと絶望しかけたところで、

 

(――――む。なんだお前達。こんな所で寝ては風邪を引くぞ)

 

 微妙に酔いの醒めたアルケイデスが宣い、その騒ぎは終わったのだった。

 

 始末に負えないことに、酔っていた時の記憶がないらしい。どうやら酔ったら記憶が飛ぶタイプらしかった。

 賠償としてコルキスに運んでいた財宝の半分を支払うことになったが、とうの本人は申し訳なさそうではあったものの、記憶にないことで非を認めることに釈然としないものを感じていそうな顔だったのが可笑しかった。アルケイデスでもそんな顔をするのかと。超然とした英雄、非現実的なまでの誠実さに隠れた、彼らしくも人間らしい不服そうな表情を見られた。それだけで随分と気分が良くなったものである。

 尤もアルケイデスには二度と酒を飲ませないと決まったのだが。それはそれ、これはこれである。私からすると二人きりになれたなら、もう一度酔わせてみたいところではあった。

 

 旅をした。アマゾネスの地から離れ、様々なものを見聞した。

 

 アマゾネスとして生まれ、軍神の子として育ち、女王となった私が本来なら見聞きできないはずだった様々な事柄に触れられて。柵から解き放たれ、その中で過ぎ去る時間を、好いた男と気の合う友人、仲間達と旅をする気楽さと楽しさを得た。

 この楽しさを知らぬまま女王として君臨することの惜しさを知り、素晴らしい仲間達と歩む朗らかな気持ちを体験できなかったこれまでを惜しみ。そして妹のメラニーペとペンテシレイアにも、同じ気持ちを知ってもらいたくなった。

 いつか妹たちとも旅がしたい。私が叶わぬ願いをポツリと溢すと、アルケイデスは微笑して提案してくれた。

 

(では……総てが片付いたら、とは言わん。折を見て誘いに行くか?)

 

 私は嬉しさを覚えたものだが、流石に首を横に振った。本来自分のおこないは無責任である。妹たちにそんな汚名は被せられない、と。

 やるにしても、私が王位に戻り、その間に外の世界を見聞させるのが精々で、ともに旅をするなど夢のまた夢である。私の現在こそ最も罪深いのだから。

 

(……だが、人は夢を見ることをやめられん。夢を見続けろ、ヒッポリュテ。やもするとその夢が叶う時が来るかもしれんぞ)

 

 そうだろうか? ……そうなのだろう。その胸に秘めた何かを、彼は話してくれないが……それも彼の優しさなのだと思う。そしてアルケイデスがそう言うと、ほんとうにいつか夢が叶うかもしれない気がしてきた。

 

 共に食するものは、食べたことがあるものでも味わったことのない美味に感じ、国や土地ごとに夜空の景色の見え方が異なることに感動して。様々な人々とふれあい、異なる考え方に触れ、知見を高める。こんな得難い体験を、愛する妹たちと共にできる日を――夢見ても、いいのだと。彼は赦してくれた。

 

 いつしか私はアルケイデスに露骨な求愛をしなくなっていた。

 恋が冷めたわけではない。むしろもっと心は熱くなり、昇華された。

 

 共にいたい、それだけでいい。愛されたいが、求めない。愛したいから愛する。それでいいのだと思った。アマゾネスの使命だとか、そういうものを度外視した……アマゾネスからすると度し難い想いを懐いた。

 こういうのを、愛、と言うのだろうか。

 不思議な男だ。包み込むような暖かさに触れられることの喜びは、抱かれずとも満たしてくれる。女としては物足りなくても、人間として満たされていく。蒙が啓く、とでも言えば良いのか。狭い世界が開かれていく心地が、堪らなく爽快だった。

 

(ケリュネイア。貴様も……こんな気持ちなのか?)

(………)

 

 私は愛馬の意志ならなんとか感じ取れる。しかし他はだめだ。ケリュネイアと意志の疎通ができるわけではない。

 一方的に突っかかられ、いなしていただけで。一行の中でアルケイデスに次ぐ強さを持つと自負する私は、所詮は獣と見下していたのかもしれない。

 その時、はじめてケリュネイアの言いたいことがわかった。

 

 やっと、()()に至ったのか。

 

 ケリュネイアはそう言っている気がした。そしてこれまでケリュネイアに対して見せていた態度が失礼なものだったと自覚する。

 すまなかった。そう謝った。これからは対等のモノとして相手になってほしいと。

 牝鹿は目を逸らし、もう突っ掛からないと言わんばかりに、寂しげにアルケイデスを見た。しかし同時に誇らしげで、私を激励するように身を寄せてくれる。

 微笑む。そうか、恋では足りなかったのか。真の意味で愛する心を持って、はじめてアルケイデスの傍に立つことを赦してくれるのか。なら――貴様に恥じぬ女と成ろう。友と呼んでもいいか、そう訊ねると調子に乗るなとばかりに角で小突かれた。

 

(アルケイデスっ!)

(なんだ?)

(ふふ)

(………?)

 

 肩を寄せて歩くと、激しい身長差で見上げるカタチになる。

 理知的な赤い瞳と目が合うと、私は私にできる限りの想いを込めて、伝えた。

 

()()()()()()()()()()

(――――)

(だが、お前から愛を請う気はない。応えてくれたら嬉しいが! ……まあ、応えてくれなくても良い。例え報われずとも寄り添って、添い遂げる覚悟はある。なに、私も武には自信がある。女としては見れずとも、戦士としてなら役に立てるはずだ)

 

 まるで、幽霊を見たかのような瞳。呆然とするアルケイデスに気づかぬまま目を離し前を向いた。

 どこまでも続く地平線。果てに太陽が沈んでいく。美しい夕焼けだ。

 願わくばこんな日々が続けばいい。貴い、宝石のように輝くこの日々が――

 

 

 

 ――奇しくも。

 

 

 

 その告白は、彼の妻が末期に遺したそれと同じ言葉で。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()はずのヒッポリュテは、知らない。

 神ならぬ者は、知れない。

 人である彼女は、永遠に――気づけない。

 

 自身に絡みつく抑止の鎖に。アルケイデスに絡みつく修正の鎖に。彼に関わり外れた総ての者たちに絡みつく、人理の重みに。

 

 されど、それを超えてこその英雄なれば。

 易々と踏み越える者もいるだろう。少なくとも――()()()()()()()()()が寄り添っていない場合に限って。

 

 前途は翳り、未来に待ち受ける不可知の暗雲を人の身では察知できず。

 試練の時は、今か今かと、産声を上げる時を待っていた。

 

 

 

 

 

 




絆レベル、4。(最大5)
悲恋とか悲劇とかが好物のひと、おりゅ? 答えは聞いてない。
拙作でそれを取り扱うかは秘密。
ドキドキをみなさんに味わってもらいたい。そのためのスパルタクス――じゃなくてスパイス。


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9.4 英雄、陽を落とす

 

 

 

 

 

 険しい顔を崩さないアルケイデスの心情を、彼と縁の浅い者は真に理解するには至らぬだろう。

 

 ミュケナイの危機である。突然の疫病で喪った国の財産である牛の代わりはいない。しかし他国から買い取れる宛などあるはずもない。

 牛は国力の象徴だ。それを金銭で売り買いする国など、後先の視えぬ愚王の国しかないだろう。金銀財宝を積み上げ誘惑し、愚王から牛を買い取ったとしても、その国に住む賢明な者へ、後々にまで残る怨みの火種を植え付けることになるだけだ。

 そういう意味で他国から略奪するのも論外だ。より直接的な報復の因果を招くだけである。エウリュステウスは賢王とは言えないが、アルケイデスが仕えてより長らくその存在へ不安と脅威を覚えてきた経緯がある。もしアルケイデスに王位を狙われたら、彼が死んでもその子孫に狙われたら……そんなふうに悪い方、悪い方へ考えるネガティブな思考が彼には根付いていた。目先の利益だけを求めて禍を招く振る舞いは彼にとって度し難いものだった。

 

 故に略奪は厳禁。かといって他所から穏便に買い取れるわけもない。なら結局は、略奪するしかなくて。その手段は他国に戦を仕掛けるか……あるいは近隣諸国に戦争を仕掛け、周囲から睨まれるのを避けるために、遠い国から略奪するか。

 前者はその気になれば実行できる。後々に報復として戦が起こる可能性があるから、相手国の王家と家臣は根絶やしにしなければならなくなり、それが失敗すればやはり、待っているのは復讐者を生む未来がある。

 できる限りそのリスクを回避するには、後者の手段が望ましい。すなわちアルケイデスの十個目の試練として、後の禍根に繋がらぬ国から――そう、大洋オケアノスの西の果てに浮かぶ空島エリュテイアの、ゲリュオンが飼うという赤い牛を奪い取るのだ。ゲリュオンはゴルゴンの怪物がペルセウスに殺された時、その血潮から生まれた黄金の剣を持つ者(クリュサオル)の子供だ。

 

 怪物が相手なら人間から怨まれることはない。エウリュステウスは国のため、アルケイデスに命じることにした。それは国王として打てる最善手だったのである。

 

 エウリュステウスの命を受けたアルケイデスは苦悩する、だが受けなければミュケナイは戦争を起こすしかない。略奪を働くのは怪物が相手だと言われ、アルケイデスはもはや願うしか無かった。どうかゲリュオンが邪悪で人々を虐げるような外道であってほしいと。そうであれば良心は痛まないから。

 しかしその願いは、裏を返せば虐げられる人々の存在を願うものでもある。自身の良心のためにその存在を願うのもアルケイデスにとっては苦痛だった。

 

 西の果てを目指して旅をして半月。ずっと重苦しさを消し去れないでいるアルケイデスを見兼ねたのか、アタランテが提案してきた。

 

「走ろう、とうゴホッ――こほん。……ヘラクレス」

 

 悶々としていたアルケイデスは、その提案を受けて真意を訊ねる。すると彼女は何故か頬を赤くしながら言った。

 

「な、悩みが晴れない時は、私は兎に角走った。そして事が起こってから考えるようにしている。ヘラクレスは考え過ぎなんだ、少しは頭を空にしたほうがいい」

「……そうか?」

「そうだ」

 

 有無を言わせぬように強く言うアタランテに、アルケイデスは仄かに苦笑した。

 イオラオス、ヒッポリュテ、ケリュネイアを見渡して誘う。走るか、と。イオラオスが苦い顔で言った。

 

「馬車の荷物はどうすんだよ」

「捨てろ」

「はあ?!」

「各自最低限の保存食と水だけを持って、後は行った先々で手に入れればいい。どのみちアフリカまで往く、馬車の中身だけでは足らなくなるだろう」

「〜〜〜!! あー、もぉ! アタランテ! おまえ余計なこと言うなよ!?」

「わ、私は悪くない! 悪くないからな!」

「悪い! 言い出したら止まらないんだぞ、伯父上は! 唆したおまえが悪い!」

「だってヘラクレスがっ!」

「なんだよ!?」

「……元気づけたかったんだ!」

「もっと色々あるだろ!? 相談に乗るとか、関係ない話題振って気を紛らわせてやるとか!」

「だったら汝がそうすれば良かっただろう!?」

「おれも伯父上の悩みが解るから解決策考えてたんだよ!」

 

 うぅ、と唸りイオラオスと睨み合うアタランテ。その光景に苦笑を深めて眺める。

 ヒッポリュテは肩を竦めた。

 

「酒でも飲むか?」

「うむ。それもいい――」

「駄目だっ!」「絶対にやめろ!」

 

 顔色を変えて制止してくるイオラオス達にアルケイデスは悲しそうに眉を落とした。

 彼らは何故かアルケイデスが酒を飲もうとすると邪魔してくる。酒好きの気があるアルケイデスとしては、それが無性に悲しい。

 頭を振る。そして声を張り上げた。今は忘れよう、と。

 

「走るぞ。なるべく遅れるな」

「それは私の台詞だな。ふふん、この中で一番の脚は私だと汝達に思い知らせ――あいたっ」

 

 アタランテが豪語すると、ケリュネイアが軽く角で小突いて嘶いた。一番の脚はどう考えても自分だろうと。牝鹿の主張に緑髪の乙女は情けなく困り顔になる。

 それに笑って、アルケイデスは鎧姿のまま走り出した。合図もなく走り出したアルケイデスに、皆はあっと声を上げて慌てて走り出す。イオラオスは頭を掻き毟って、馬車から馬を離してやり飛び乗った。ヒッポリュテの愛馬である駿馬と共に後を追う。

 

 先頭はやはりケリュネイアだった。その後にアタランテが続き、更に後ろにアルケイデスである。その少し後ろに騎馬のイオラオスとヒッポリュテだ。

 ケリュネイアは余裕を持って走っているが、それでも圧倒的な速力を見せつける。アタランテはそれを追うも、ふと自身を猛追する背後の気配を感じて顔を引き攣らせた。

 アルケイデスが全速力で追いかけてくるのだ。その凄まじい迫力にヒッと喉が鳴る。悲鳴を上げそうになるのを堪えて叫んだ。

 

「こっ、こわい! ヘラクレス! こわいから追うな!」

「異なことを。走れと言ったのはお前だぞ」

「汝に追われるのがこんなにこわいとは思わなかったっ! 分かった、もう走らなくていい! 追いかけてくるな! ――なんで加速するんだっ!?」

 

 意地悪な気持ちになったからである。もう脇目も振らず全力疾走するアタランテを追うのが楽しくなってきている。涙目になりつつあるアタランテの表情が、後ろからでもよく分かった。

 アタランテとアルケイデスの速力はほぼ同等だった。走法の技巧でややアタランテが長けている故に引き離せているが、体力はアルケイデスの方が上である。持久走である以上はいずれ追いつかれるという事実が、なぜだか無性に恐ろしくなる。しかし必死に走り続けるしか無い。追いつかれたくないからだ。

 だが減速した前方のケリュネイアが、後ろ足で地面を蹴ってアタランテに砂煙を掛けてきた。「わぷっ!?」と顔に直撃を受けたアタランテは混乱する。それでも脚を緩めずに駆けるも、前後をアルケイデスとケリュネイアに挟まれてアタランテは堪りかねてなじった。

 

「なっ、なんだ!? 汝ら私を苛めて楽しいか!?」

「楽しい」

(………!)

「うわぁぁあ!!」

 

 慈悲無き一言を返されて、アタランテは遮二無二に走る。しかしケリュネイアの妨害のせいで遂に追いつかれてしまった。ぐわしと肩を掴まれたアタランテは錯乱気味に抵抗するも、肘を後ろ手に固定されて高々と掲げられてしまった。

 何をされるのかと慄くアタランテは、次の瞬間には空に投げ飛ばされて虚空で回転させられる。訳も解らぬまま悲鳴を上げる彼女は地面に叩きつけられる――ことはなく。トッ、と優しく抱きとめられた。恐る恐る目を開けると、そこには前を向いて怒鳴り声を発するイオラオスが居た。

 

「いっ、いきなり何すんだ!? 酔っ払った時もそうだけどさ、何か言いたいことでもあるのかよ!?」

「別に他意はない。本当だ。英雄たるもの嘘は吐かぬ」

「大嘘を言う(こく)なぁ!」

 

 はっはっは、と笑いながらアルケイデスはケリュネイアに飛び乗った。

 アタランテを抱きながらも器用に手綱を操るイオラオス。その馬上の揺れの中で、アタランテはふとイオラオスの腕と、体の逞しさを感じた。

 うぶな小娘のように固まる乙女に、イオラオスはぶっきらぼうに告げた。

 

「はぁ。……大丈夫かよ?」

「………」

「……? おい、どうしたんだ?」

「……脚を少し捻ったかもしれない」

「はあ? 何やってんだよ伯父上……後で文句言ってやる」

「………」

 

 嘘だ。捻っていない。なのになんで、こんなくだらない嘘を吐いてしまったのだ。

 アタランテは煩悶とする。よもやイオラオスの牡の部分に惹かれている……? いやしかし、純潔の誓いを立てている身で……。

 イオラオスに顔を見られたくなくて胸に顔を押し付ける。「お、おい」と戸惑う声を無視してアタランテはそうしていた。

 頭の中に、いいわよっ、そこよいきなさいっ。わぁ、すごいなぁ、いいんじゃないかなそのままいってしまえ! と囃し立てる二柱の女神の声が聞こえた気がするが、気のせいだ。聞いたこともない月女神と祭祀神の野次なわけがない。

 

「……ったく、お節介め。自分のこと棚上げしてさ」

 

 イオラオスは舌打ちして呟く。

 

(分かってるよ。……ま、純潔の誓いだかを立ててるんだ。どうせ無駄だろうけど、とりあえず当たって砕けるとこまではいくか)

 

 いい加減女を知らないことで、行く先々で出会う男衆にからかわれるのも嫌になっていたところでもある。伯父がこうまで背中を押してくるのなら、男らしく砕け散るまでだ。

 ――そう密かに決意したつもりの甥を、アルケイデスは横目に見て前を向く。人生は短い、いい加減に行動を起こすのを促すのは間違った判断ではないと思っていた。

 

(男を見せろ、イオラオス。……フン。私が言えたことではないか。だがお前にとってそれは大切な想いだ。実を結ぶにしろ、結ばぬにしろ……人は死ぬ。何があるか解らぬ未来に怯えるのは愚かだが、何があっても後悔しないように。……これも私に言えたことではないな)

 

 自覚はある。愛しているとまで言ってくれたヒッポリュテに、己は何も言えなかったのだ。逃げていると取られても否定は出来ない。

 彼女は女として受け入れられずとも、戦士として役に立つと言いさえした。自分に振り向かぬ男に尽くし続ける苦難を強いるのは心苦しい。それを抜きにしてもヒッポリュテのことは憎からず想ってはいた。色々と考え、決めねばならない。甥をけしかけていながら、自分は何もしないというのは面目が立たないだろう。

 真剣に考える時だ。――ヒッポリュテはもしかしたら気づいているかもしれない。ヒッポリュテを永遠に狂気から守ると。だが本当の意味で守るには、()()()から絶った方が確実である。それをするとした場合……アルケイデスの真意を悟る可能性はある。そしてそうなれば、ヒッポリュテはそれを承知の上で付いてくるだろう。

 

 覚悟を決めなければならない。それは分かっている。護ると誓ったのだ。ならば、その責任を果たす。その上でどうしたらいいのか、己は何がしたいのかを考える。

 

(メガラ……)

 

 亡き妻を想う。子供達を想う。今も在りし日々は黄金のように輝いて、アルケイデスの記憶に鮮明な光を持って残っていた。

 

(教えてくれ。私はどうすればいい)

 

 問えば。メガラはきっとこう言う。確信がある。

 旦那様の成したいように、と。わたしを言い訳にするのは情けないですよ、と。

 ――解るから、悩むのだ。

 しかしアタランテは頭を一度空にしろと言った。確かにいつも何かを想っていた。復讐のこと、仲間のこと、未来のこと。一度ぐらい頭を空にして馬鹿になるのも悪くはないのかもしれないと自分に言い聞かせる。

 

 無心になる。そしてケリュネイアに言った。駆けろ。ひたすらに駆けろ。何より速く何者も追い縋れぬように、地の果てまで駆けよ――

 

 意を汲んだケリュネイアは疾走した。久しく出していなかった全力の疾走だ。何もかもを置き去りにして風を感じる。仕方なさそうに見送るヒッポリュテの視線を感じた。呆れたようなイオラオスの溜息を感じた。

 それでも風を切る。ケリュネイアの疾走に身を任せた。この地上で何よりも速い牝鹿の生む風が、アルケイデスの雑念を斬り裂くように体を打つ。

 

 ケリュネイアは久し振りとなる疾走を楽しみ、景色が線となって流れていく。このまま何処までも、何もかもを忘れて走り続けられたらどれだけいいだろう。しかしそれは出来ない。アルケイデスは何からも逃げるつもりはないのだ。

 迫る運命。迫る約束の時。立ち塞がるモノは、有形無形の境なく捩じ伏せるまで。真にこの身が最強ならば……輝かしい栄光を掴み取る。総ては、嘗ての黄金の日々を取り戻すために。

 

 どれほどケリュネイアは走り通したのか。一日二日ではとても足りない。半神であるからか飢えも渇きもそれほど感じていないが、随分遠くまで来てしまっているようだ。背後を振り向くと其処には誰もいない。完全に撒いてしまっている。

 だが心配はしていなかった。イオラオスがいるなら追ってこれると信じられる。

 さてそれまでどうしたものか。そう思案しかけた時、ふとアルケイデスは視線を感じて空を見上げた。

 

 日輪がある。気温の高い土地だ。過酷な日射である。しかしそこに、アルケイデスは神の気配を感じた。

 

「………」

 

 視ている。己を。それは確信である。しかも仄かに剣呑な色がある気がした。

 さてどうしたものか。頭を捻りかけ、監視するような目線を受け続けるのは甚だ不快ではあった。

 

「――私に何か用か? であるならば姿を現すがいい」

 

 天に向け高らかに告げる。しかし反応はない。嘆息して白弓を取り出し大矢を精製した。

 弓につがえ太陽に向ける。そして警告した。

 

「最後だ。姿を晒せ。さもなくば射つ」

 

 反応はない。アルケイデスを侮っているのか? ……ならば、是非もない。

 白弓の金色の弦を引き絞る。背中と両腕の筋肉が膨れ上がるような力を込め、アルケイデスは渾身の矢を放つ。

 

射殺す百頭(ナインライブズ)

 

 瞬間。

 

 遥か彼方まで飛翔した大矢が中天に坐す日輪に直撃し、太陽が堕ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




長いので切り、次回に。


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9.5 密告を受け、威を示す

☆二話目。


 

 

 

 太陽が堕ちる。膨大な熱と光の塊が失墜する。瞬間、世界は落陽に至った。

 地上より光が消え去り、ただアフリカの大地と、傲然と屹立する半神半人の超越者(メガロス)ばかりを照らしている。

 人間など瞬間的に蒸発させる熱量を前に、人の身で命を保てるのは何故か。彼の中に流れる神の血は不滅だが、しかし人としての血と肉はその限りではないはずなのに。

 理不尽である。不条理である。しかしそれが人のカタチとして生命を得たのが、神の敵たりえる巨人を滅ぼす【力】の擬人現象。遍く万物、万象を捩じ伏せる怪力の半神。ただ彼が彼であるというだけで、太陽の輝きを至近で浴びても健在である所以。故に人は彼を畏れ、神は彼の存在を歓迎して()()

 

 丸い神の光の炎が、熱を収めていく。やがてカタチとなったのは、光り輝く太陽を象りし冠を金髪に載せた、太陽の光の神である。――アポロンではない。彼こそは真昼、彼こそは太陽を東から西へ廻す地上の光そのもの。名を太陽神。輝ける光輪。(エオス)(セレネ)の兄。

 ヘリオス。彼の美丈なる者が、弓を下ろしたアルケイデスを見据えていた。

 

『まさか神の玉体に射掛けるとは』

 

 純粋に驚くやら、感心するやら。胸に突き刺さっていた大矢を片手で抜き取り、こともなげに地面に放るのは、彼が不死の神であるが故の剛毅さである。

 自身に痛みを与えていながら、アルケイデスに対し激した様子もない。射掛けた当人は油断無く口を真一文字に引き結び、不穏な動きがあれば一戦を交わす気構えを崩していなかった。

 

 らしくない、とアルケイデスを指して言う者もいるかもしれない。だが違う。いつもと変わらず、彼は彼()()()ままだ。――射掛ける寸前まで感じていた不穏な視線を今も感じている。武人としての彼が警戒を解かせないのだ。

 ヘリオスは金色の瞳でアルケイデスを見詰めている。その眼にあるのは観察の意。アルケイデスは思い出していた。彼の二つ名を。異称を。

 

 ――密告者。

 

 太陽たる彼は、日の昇る時は常に天上から照らしている。故に彼は常に己の照らしているものを視ているのだ。

 愚神を演じていた、まだアレスという名だった戦神と、美の女神の不倫現場をヘパイストスに密告したのは彼である。ハデスが豊穣の女神にして、大女神と称されるデメテルの娘ペルセポネを攫った時、デメテルはハデスがそんなことをするはずがないと疑うと、そこにゼウスが関わっていることをデメテルに密告したのも彼である。

 故に密告者。疑いや罪を白日の下に晒すと、幼子達が罪を犯さぬように窘めるのは、太陽(ヘリオス)が常に視ているぞと戒めてのものなのだ。

 

『ふむ。私に射掛けた豪胆な勇者とも思えない。警戒を解いたらどうだ?』

「……ヘリオス神。()()()()()()()()()()?」

()()()

 

 静かな問い掛けに、ヘリオスはこともなげに肯定を返した。

 微かに眼を剥くアルケイデスに、ヘリオスは肩を竦める。厳格で公正な神なのに、その剽軽な仕草は似合っていた。

 彼は世間話をするように口を開く。

 

『――この地は、かつて我が子が私に戦車を貸してくれと請い、通った地だ』

「……?」

『ナイル川は我が子が私の戦車を御しきれず、暴走した結果に出来た通り道である。神王はそれを止めるために雷霆を投げ、我が子をエリダノス河に落としてしまった。安易に戦車を貸した私は慚愧の念に駆られたものだが、結果としてこの不毛の地に恵みを齎す一助となった。それを誇りに思う。我が子は愚かだったが、その因果が結果として善果となったのだから』

「……何が言いたい?」

 

 反駁に答えず、彼はなおも語る。

 

『私も子供は可愛い。死んでしまったが、アレが遺した軌跡をどうしても眺めたく、いつもこの国、この地には近くに寄りすぎてしまう。そのせいでアフリカは太陽(わたし)の陽射しが強く、大地を渇かし人を苦しめてしまうのだ。……その報いなのかな? 不用意に近づきすぎない他の地ならば、お前に気づかれる愚は犯さなかったものを』

「………」

『さて』

 

 言って、ヘリオスは無造作にアルケイデスへ歩み寄ってきた。

 警戒心を強める彼を気にせず、ヘリオスはその手に豪奢な盃を現した。

 赤々と照る宝物だ。

 

『私を射落として見せた弓の腕と、その剛毅さを嘉し褒美を賜わす。受け取るといい』

「………」

『これは乗り物にもなる。空を飛べる。ああ、お前にはその牝鹿がいるか。だが他の者を連れて飛ぶ時は有用だろう。お前の供と、お前の所有物を載せるのなら……そうさな一つの城、とまではいかんが、その四分の一程度なら運べよう』

「……なんのつもりだ?」

『褒美だと言った。()()()な』

 

 読めない。この神の魂胆が見透かせない。

 押し付けられた手の中の盃をケリュネイアの口に噛ませる。怯えて歯を鳴らしていたケリュネイアは、それを噛んで震えをなんとか抑えた。

 一歩下がりヘリオスから間を外そうとすると、彼はそれを制止して更に近づき、秘密事を囁くように耳元で告げた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「――――」

 

 咄嗟に。

 アルケイデスは、瞬時にとびのいて戦闘態勢を取った。

 殺気が漲る。さながら死の津波。不死の存在とて凍りつくような絶望の波動。

 それに対しヘリオスはあくまで涼し気だった。恐ろしがる理由がないと言わんばかりに。

 

『私はどちらの味方でもない。ではどちらに非があるかと考え、それはゼウスだと断じた。ゆえ、密告した。それだけのことだ』

「……我が子を殺された怨みか?」

『さて。それはどうだろう。神王は大局を見据えた手を打てる、頂点としては申し分のない存在だ。その反面、どうにも小さな所で躓く傾向がある。灸を据えるにはちょうどいいと思っただけかもしれない。尤も……()()()()()かは、全能とは程遠い私には分かりかねるがね? ヘカテーは随分と面白がっていたよ』

 

 爽やかに嗤い、ヘリオスは翔び立つ。天高く浮遊していく。

 彼の人のカタチは失われ、再び太陽そのものとなった。世界に光が戻る。焦げ付かんばかりの熱気が去る。その間際に、アルケイデスは一つの問を投げた。

 

「ヘリオス神!」

『……なんだ?』

「私が今、十番目の勤めの最中なのは知っているはずだ。しかしエウリュステウスは同時に十一番目の勤めも授けてくれた。それは黄昏の娘達(ヘスペリデス)の園にあるという黄金の林檎を手に入れるというものだ。これが何処にあるか、できれば教えてもらえないだろうか」

『おやおや……まあ、いいだろう。今は気分がいい。何せ太陽(わたし)が射ち落とされるという稀な経験をさせてもらったからだ。聞け、ヘラクレス。お前の求める園は世界の西の果てにある。彼女達の父アトラスがその近くで天を支え、黄金の果実は百の頭を持つラードーンが護っている。頑張り給えよ。私はお前の行く末にさして関心はないが、その旅路が幸多からんことを願うぐらいはしておこう』

 

 一瞬、極光が爆ぜる。目が眩み、空の太陽を見上げるも、既に視線は感じなかった。

 

 ――わざと視ていて。わざと近づいた。

 

 公正な天秤の秤を、己の中の蟠りを解消するためだったのか。それは分からない。分かる必要もない。ヘカテーの名が出た所以もどうでもいい。

 ゼウスが、己を見張れと太陽神に命じた。アポロンでは無理だと判断し、ヘリオスという密告者を使って。またぞろ対象が自分に懐く感情を見誤ったようだが、人選はどこまでも正しい。

 問題は、ゼウスがこの身を警戒しだしたということ。

 アレは欠陥こそ多いが、それでも狡知に長けた全知の神でもある。それが警戒心を向け始めてきたということは……。

 

(……気づかれたのか?)

 

 考え、それはないと断じる。アレの性格上、アルケイデスの目的を知れば、アルケイデスに近しい者を人質に取るか、脅すなりしてアルケイデスをギガントマキアに使い、然る後に言いがかりを付けて処分しようとするはずだ。

 であるなら、まだ気づかれていない。警戒の所以は別の所にある。それがなんなのかまでは分からないが……イオラオスかテセウス辺りなら分かるかもしれない。知という分野では、己を凌ぐ二人だ。しかし訊ねることはないだろう。この件に関しては巻き込むわけにはいかないのだから。

 

「………」

 

 ケリュネイアの口から神の盃を抜き取り、鎧の内側に収納する。未だ震えの治まらないケリュネイアの首筋を撫でて宥めた。

 黙り込み、ふと腹が減ったなと思う。喉も乾いた。それに無性に暴れ出したい気分でもある。案外、自分も不安を懐いていたのかもしれない。苦笑してケリュネイアを連れて近くに町がないかを探すことにする。

 恐れがなくならないのか、ぴとりと寄り添ってくるケリュネイアを気遣いながら。

 そうして歩いていると、彼はエジプトに辿り着く。ギリシアとは違う独特な服を着る彼らに物珍しげな眼を向けるも、その国の民達は同じ眼でアルケイデスを視ていた。

 そればかりか、殆どは憐憫の眼差しを向けてくる始末。流石にこの熱帯で鎧兜を装備したままではいられず、防具を外して布に包み、剣に吊るして肩に担いでいたから外見上はただの大男だ。旅の衣装だから憐れまれる理由はないはずだと思うのだが、彼らの憐憫の所以が気がかりだった。

 

 しかしすぐに理由を察する。物々しい気配の兵士達が、盾と槍で武装しアルケイデスとケリュネイアを取り囲んだのだ。

 数は三十。雑魚ばかりかと戦力を見て取る。兵士の一人が槍を突きつけてきて恫喝してきた。

 

「旅の者だな? エジプト王ブーシーリス様が貴様の身柄を所望だ、大人しく付いてこい!」

「ほう? 旅の者に斯様な無体を働くか。目的はなんだ?」

「っ……?」

 

 恫喝されたというのに、まるで恐れた様子のないアルケイデスに兵士達は困惑した。だがすぐに気を取り直し、冷淡に告げる。

 

「貴様が知る必要はない! 黙って付いて来ればいい!」

「……いいだろう。しかし今の私は些か空腹だ。喉も渇いている。一食、馳走に与れたなら大人しくついていこう」

 

 その戯言に、カッと兵士の目に怒りの火花が散った。

 だが、それは瞬間的に鎮火する。アルケイデスが彼にだけ伝わるように、その眼光から一筋の殺気を放射したのだ。それに射抜かれて、兵士は凝固する。

 さながら天の雲を貫く絶壁。絶望的な戦力差。それを兵士は本能で無理矢理理解させられたのだ。

 そんな彼に、静かにアルケイデスは告げた。

 

「今、無性に暴れたい気分だ。王命を果たすためなら、安い出費だと思うがな」

「わ、分かった……」

「隊長!?」

 

 慌てた様子の彼の部下だったが、兵士は無言でアルケイデスを案内した。

 彼の家なのだろうか。妻らしき女がいる。驚いた様子の黒い肌の女は、夫の命を受け食事の準備を始めた。

 それを黙って見ながら。そして用意されて出された食物を喰らいながら考える。

 およそ善からぬ事態だとは察しが付いている。こういう時、どうすればいいかを考えて、悪しき王ならば除くまでと剣呑に結論した。しかしその配下にまで罪はあるだろうか? 彼らにも家庭があり、子がいる。女の後ろには幼い男児が居て、隠れてアルケイデスを視ている。その視線に気づかぬふりをしながら、アルケイデスは一つの小細工を思いついた。

 

 完食し、杯に注がれた水を飲み干す。

 

 そしてやおら、布の包を解いて白剣を取り出した。あっ、と上げられた声よりも速く兵士の首に突きつける。

 

「気が変わった」

「ぁ――」

「私をこの国の王の下に連れていき、何をする気かは知らん。故にそれを吐け。……死にたくはないだろう?」

 

 知らない、となんとか兵士は言った。アルケイデスは欠片も殺気立っていない。それが却って恐ろしい。その返答に、男は残念そうに告げる。

 

「そうか。なら貴様の妻と子に聞こうか?」

「!? そんな、馬鹿な!?」

「無体はしたくないが……仕方ない。仕方ないだろう? 貴様が知らないのなら――」

「知っている! だからやめろ!」

 

 兵士は必死になって吐いた。王の目的を。

 ――以前、エジプトでは作物が実らなくなった。そこでブーシーリス王は予言者を招き、どうすればよいかを訊ねた。その予言者は、異国の人間をゼウスへの生贄に捧げればよいと告げ、ブーシーリス王はその予言者を最初の生贄にした。以後ブーシーリス王は旅の者を捕まえては生贄にしているという。

 アルケイデスは鼻を鳴らした。剣を下ろす。包から金の粒を一つ出し、それを卓の上に置いた。

 

「よく話してくれた。……すまなかった。こんな脅しは本意ではない。これは迷惑料と食事の対価だ」

「は……?」

「ああ――それと。王命に歯向かったという風聞が立てば困るだろう。私はこれより貴様の王を誅する。人を生贄にするなどと、弱者の守護神が命じるはずがない。大方たちの悪い詐欺師に引っ掛かったのだろうが……勘弁ならん。貴様は此処で私に襲われ、気絶させられたということにしておけ」

 

 言って、アルケイデスはその兵士に当身を食らわせ容易く意識を奪った。

 付いてきていた彼の部下達も、一人を残して同様にする。世話になった家の女と子供は怯えていたが、謝ることはしない。そんなものはただの自己満足で、これからおこなうことも自己満足以外の何物でもないのだ。

 

 残した兵士の武装を奪う。そうして衣服を襤褸のそれへと破り、彼を脅した。自分が旅人だと、王の前まで進めと。

 震え上がった男を先に進ませ、自身はその後ろに遠く離れて気配を断ち、隠れながら付いていった。離れていようと自分の視力なら問題ない。そうして事の顛末を見定める。

 ブーシーリス王らしき男が襤褸を着た男を捕らえさせ、生贄の祭壇まで連行して行った。アルケイデスは祭壇を視界に収めると、弓に小ぶりな矢をつがえる。狙撃しブーシーリス王の首から上を爆ぜ飛ばした。

 騒然とする軍集団の頭の上を、ケリュネイアに乗って飛び越えていき、祭壇の上に着地する。襲撃者が誰か分かったのだろう、王の仇を取ろうとする彼らに向けてアルケイデスは吼えた。

 

「貴様らの王は要らぬ犠牲を敷いた愚王だ。故にこの私が成敗した! 貴様らの捕らえている男は、私が脅した貴様らの仲間だぞ。私は去る。追ってくるのなら好きにするがいい。だが――遠い異国の地に追いかけてまで、仇を取りたいと思える王だったのか、ブーシーリスは? その点をよくよく考えて行動せよ。追う者は容赦なく斬る!」

 

 ハァッ! 気合の声を発してケリュネイアの腹を腿で軽く絞め、牝鹿を彼方へ向けて跳躍させる。跳び跳ねた瞬間にアルケイデスは弓に大矢をつがえ、本気で祭壇に向けて矢を放った。

 一撃で粉砕され、瓦礫の山となった華美なる祭壇を、軍集団は呆然と見る。彼らの中に、アルケイデスを追おうとする者はいなかった。

 ゆったりと駆けるケリュネイアに騎乗している英雄はそれを確かめ、そのまま駆け去っていく。

 

 こうしてアルケイデスは容易く悪逆のエジプト王を討ち、他に犠牲を出すこと無く立ち去った。

 この一事は後の勧善懲悪の物語の原典、その一つに数えられる逸話として語り継がれていくこととなるのだが――やはり、アルケイデスにとってはどうでもいいことだった。

 

 

 

 

 

 



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9.6 太陽王、若き日の肖像 (上)

短いです。


 

 

 

 ギリシアという神代(テクスチャ)に於いて、エジプトの神々が動物の姿を模している所以について、斯様に言い伝えられている。

 大地母神でありながら天をも内包する女神、ガイアが産み出した究極の怪物テュポーン。彼の者が母神の命令に応じて地上を暴れ回り、天に突撃して全宇宙を尽く破壊し尽くした時、多くの神々が恐怖に駆られ動物に変身し逃げたのだ。

 その錯乱ぶりは、下半身と上半身が別々の動物に変身したまま逃げる神などがいたほどであり、その不格好な姿で逃れた先がエジプトである。故にエジプトの神々は動物に近い姿なのだという。

 

 しかし同時代、同じ星のエジプトという地域に於いては、そんな間抜けな事実は存在しない。

 ギリシアにて語られるエジプトの事実と、エジプトにおける神話の事実は全く異なるのだ。そも、同時代のギリシアでは未だテュポーンは眠ったままであるのに、エジプトには既に土着の神々が存在している。

 この差異は如何なるものか。真実は単純明快であった。

 

 ()()なのだ。遙か時空の果て、神代の駆逐された未来。人理の命運を賭けた聖杯戦争の更にその後で巻き起こされた、異星の神を巡る星の正史の座を争った()()()の戦いと、大まかなジャンルは同じなのである。

 すなわち、ギリシアというヨーロッパの地域の神話(テクスチャ)と、エジプトというアフリカの地域の神話(テクスチャ)は、同じ地域が語られるにしろその中身とラベルが異なるのだ。どの世界(ジャンル)を生きるかによって、人々には視えてくる世界が異なってしまう。

 

 故に崇める神が、語られる物語が違う。紡がれる歴史が異なる。

 

 ヘラクレス――アルケイデス――がギリシア世界のテクスチャを渡り歩き、エジプトという地を歩んだところで、彼が異なる神話世界に足を踏み入れることはまずないことだと云える。これがなんの力もない極一般的な人間であったなら、折り重なった織物(テクスチャ)を渡り、ギリシア世界からエジプト世界に移り住むこともあるかもしれない。大多数の人間が侵略戦争を起こし、その地を征服したのなら敗れたテクスチャは消え去るか、侵略元と混ざり合わさることもあるだろう。

 しかし『ヘラクレス』という英雄には普通は無理な話だ。何故なら彼はギリシア世界きっての大英雄。ギリシア神話第四代『英雄の時代』の『英雄の種族』なのである。本来ならその性質はギリシア神話というテクスチャの中にしか存在し得ないはずだった。

 

 だが――『ヘラクレス』は。ギリシア神話最大の英雄にして、人類史編纂に於いて欠かすことの出来ない子孫達の祖である男の影響力は、一つのテクスチャに収まりきらぬほどに巨大にして過大に過ぎた。世界各地を旅し、様々な逸話を打ち立てる彼は、どだい一つの神話という枠組みに収めるには大きすぎる英雄だったのだ。

 その証として、インドにおける執金剛神――金剛手、持金剛神とも称される、仏教の護法善神が挙げられる。この金剛杵を執って仏法を守護する執金剛神は『ヘラクレス』であるという。異なるテクスチャにまで、彼の存在は語られてしまっているのだ。つまり彼だけは、地球という惑星に折り重なる多種多様な神代という織物の中で、他の神話に息吹を波及させ得る規格外の英雄である証左であろう。

 

 故に。

 

 彼がインドという世界にその存在を刻んだように、異なる世界線のヘラクレスとは違う行動を取ることで、異なる神話へとその足跡を残すことは充分に有り得ることだという証明となる。

 ヘラクレスという称号をそのままに、アルケイデスという異形の精神を持った人間の英雄が、欲するところを変えたのなら――彼は出会えてしまう。

 異なるテクスチャに生きる英雄たちと。異なる伝承と物語と。史実に記される、偉大な戦士や王たちと。

 

 彼は、邂逅している。輝ける同行者の同伴がない故に、非常に記録は少ないが、確かに彼らは出会っていた。神代の終焉が近づいていた古代ペルシャに於いて、神代最後の王に仕えていた孤高の戦士と。女神アールマティの加護を受けし弓兵、アーラシュ・カマンガーと、ヘラクレス・メガロスは確かに出会っていたのだ。

 東方の弓兵の代名詞がアーラシュならば、西方の弓兵の代名詞とはヘラクレスであると、対等に語り合った彼らを指して称する声は現代(いま)も大きい。何よりヘラクレスと関わりを持ったことで、アーラシュへの後世の関心は高まり、様々な英雄伝説に影響を発することになるのだが――それより以前に。

 自身がエジプト王ブーシーリスを狙撃し、暗殺したことで起こるだろう混乱を予測したヘラクレスが、エジプトの混乱を鎮め、その地を統べる新たな王を探し求めたことで――エジプトの神話(テクスチャ)に踏み込んで出会った、一人の少年が居た。

 

 その少年の名はラー・メス・シス。ラムセス。後に王位に就いた時、ラーの正義・真理(マート)、ラーに選ばれた者という意味の、ウセルマアトラー・セテプエンラーと呼ばれた者。ギリシア語を話すヘラクレスによって訳され、『オジマンディアス』と呼ばれた後の太陽王である。

 

 二十四歳にしてファラオとなる彼の、若かりし頃。御年十七歳、意気軒昂にして気宇壮大、万物万象を手中にありと謳う端睨すべからざる少年である。

 ギリシア世界に決して小さくない影響を及ぼす運命的な邂逅は其処に。輝ける同行者を筆頭とする仲間達とはぐれた、ヘラクレスの空白の半年間はその少年との日々であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 王を探す巡礼である。

 だがしかし、アルケイデスに悲愴な覚悟はない。

 

 あのような愚王の代わりなどすぐに見つかる、なんて楽観視しているのではなく、善き王を見つけ出せば彼の地のことを伝え、統治を頼めばいいと考えていた。

 いや、これは楽観しているのだろう。善き王がいるとは限らない。なんとなれば、奉じる戦神に願い、エジプトの王たれる者を示して頂くしかないかもしれない。

 後悔してはいない。自身を含む旅人を、あの王は生贄にしていたのだ。悪質な詐欺に引っ掛かってのこととはいえ、それは赦せるものではない。またその王を諌めもしない臣下もまた、王の不在の間の苦難は甘んじて受けるべきだとも思っていた。

 その心情を知れば、イオラオスやテセウスなどは『それは強者の傲慢だ』と窘めていたかもしれない。弱者である民草や凡俗の家臣らに、絶対者である王に諫言するのはかなり勇気のいることなのだ。もしもアルケイデスがそう指摘されていたなら反省しただろう。彼はどこまでも強者であるが故に、弱者の視点からの物の見方は少しズレているところがあると自覚はしていたから。

 

 ケリュネイアに乗ってエジプトの地を駆け回る。

 

 ――そんなアルケイデスは、次第に楽観視ができなくなりつつあった。

 

(いない……)

 

 そう、いないのだ。

 

(王たりえる者が、いない)

 

 ブーシーリス程度の、詐欺に簡単に掛かる愚王の代わりなどいる、と思っていた。あるいは彼よりも優れた者など幾らでもいると。

 それがいない。アルケイデスは焦った。下手な者にあの地の後を任せるのは、また同じ事がある可能性がある以上は看過できない。だから王に相応しい人物を探しているというのに。エジプト各地を回り、様々な王と会い、民から話を聞いているのに、目星がまったく立たない。

 

 此処にきて漸くアルケイデスは己の短慮を悔いた。エウリュステウスほどの王、とは言わない。アイエテス、テラモン、テセウス、イアソン。彼らと同等の王を、とも言わない。

 だがせめて、平穏に国を治められる王を探しているだけなのに、それが影も形もないのである。さしものアルケイデスも焦燥に駆られた。

 なんとかしなければ、と責任感の強いアルケイデスは蟻一匹すら見分けるほど真剣に――切実にエジプトを巡って。

 

 彼は、自分が何かの境界線を越えてしまった感覚を覚える。

 

 無論それは言語化できる感覚ではない。未知のものだった。だが何かを踏み違えた感覚だけは確かに理解した。

 酩酊したような、目の眩み。ケリュネイアが苦しげに呻いた。

 そして空気が一変したのに、目を剥いて静かに驚愕する。  

 

 オアシスだった。砂漠の地で人を潤す奇跡の泉があった。一瞬前までなかったはずのそれに、アルケイデスは魔術師や神の仕業かと疑った。

 辺りを咄嗟に見渡し、彼は泉の近くで寛ぐ二人の少年を見つける。

 

 生気の溢れる端麗な顔立ちの、黒髪の少年だ。

 そして彼と和やかに談笑している、柔らかな白髪と色素の薄い肌、意志の強さを宿した眼が印象的な少年。

 

 彼らこそ、オジマンディアスとその兄弟、モーセである。アルケイデスが気づいたのに一瞬遅れ、彼らの眼がアルケイデスに向けられた。

 オジマンディアス――今はまだラムセスと呼ばれる少年と眼が合った時、アルケイデスは自身の体に電流が奔ったかのような錯覚を覚える。そしてラムセスを庇うように、さりげなく立ち上がった少年モーセに、聖者の威風を感じた。

 

 近い将来、確実に大成する。その確信に、アルケイデスは確かに喜んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




またも、はたけやま氏に支援絵をいただきました。
今度はイオラオスくんです。


【挿絵表示】


はい、美少年……。
これは食われる(確信)
作者の印象としましては、まだイオラオスくんがアルケイデスに同行しはじめたばかりの頃だと感じました。

こんな彼が、今や身長も伸び、細マッチョ化し、アタランテとアオハルしてるかと思うと……(血涙
リア充は爆発するべき。だから何があってもそれは私怨ではない!!!

はたけやまさん、この場を借りてもう一度、ありがとうございました!


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9.7 太陽王、若き日の肖像 (下)

オジマンディアスは、二十四歳の頃に即位。その後六十年間の統治を経て、英霊となっている。つまり十七歳の頃の、モーセと兄弟のように親しみ、ネフェルタリと三人揃って親しくしていた少年期は、原作の彼より遥かに丸かったと予測。
ファラオとなってからのモーセとの決別、その数年後のネフェルタリとの結婚、ヒッタイトとの戦争、統治の経験などを経て原作の人物像にいたったのだとすると、やはり丸い。はず。

なのでマイルドで少年らしい感じにしてます。今のところは。




 

 

 

 

 小太陽とでも云うべき煌きを発する、大型の船舶が泉の外れに鎮座していた。

 オアシス以外に河などの水辺も見当たらないのになぜ船があるのだろう。その輝きと莫大な神秘、太陽を想わせる輝きから宝具の類いらしいことは分かるが……。

 空でも翔べるのか? 奇怪な代物だが、自分の持つ盃やケリュネイアの例もある。空を翔ぶという事自体は、さして非現実的なものでもないと推測する。

 視界の隅に掠めた船舶について大雑把な見当をつけて、アルケイデスは突如景色の変わった現象に思惟を働かせる。しかし此の世の真理や魔術の業、地球という惑星に張り巡らされるテクスチャについて、知識もないのに思い至れはしなかった。

 なんとか思いついたのは、自身が全く未知の異界に迷い込んだのではないかという、辛うじて真実に掠める漠然とした推理である。

 重大な問題としてこの異界は脱出できるのか、否か。一瞬悲観的な思考が脳裏を奔るも、頭を振って悪い考えを振り払う。自分に出来ないなら出来る人間を探す。もしくは楽観的に考えればいい。突然異界に来てしまったのだ、なら帰還する時も突然のことになるかもしれないと。

 

 近くには二人の少年がいる。そのいずれかがあの金色の船舶の所有者なのだろう。

 神の乗り物と称しても可笑しくはない偉容を誇るアレが、『闇夜の太陽船(メセケテット)』という銘であることはすぐに知ることとなる。

 

「誰、かな? 僕にはあなたが突然現れたように見えた。魔術師には見えないけど……」

 

 白髪に白い肌の、穏やかそうで平凡そうな顔立ち。朴訥としていながら意志の強さを感じさせる瞳が印象的で、一般庶民的でありながら聖なる風を感じさせる。庶世の聖者……そんな人柄であると感じる。

 しかしそれに反する様に、腰帯のみを身に着け露出した彼の上半身と、膝下から覗くその肉体は鍛え込まれ、手足の鍛え様と立ち姿に見える体軸の安定度、隙のない無形の構えから体術の達人であることが窺えた。

 

「はは! モーセ。我が兄弟。斯様な筋肉達磨を捕まえ『魔術師か』など、愚問! 余を笑い死にさせる気か? よかろう、余の光輝によって煌めく歯を見ることを許す! はは、ははははは!」

「ラーメス、うるさいよ?」

「――ぬっ!? よ、よせ! 余の傍で拳を握るな!」

「………」

 

 モーセと呼ばれた少年は傍らの少年ラーメスを護るために前に出ていたというのに、不躾なからかいを受けて少し苛ついたようだった。

 体を半身にし、ラーメスを横目に拳を握ると、途端に笑いを収めたラーメスは焦って飛び退いてしまう。その仲の良い友人同士の距離感に、アルケイデスはそんな場合でもないのに微笑する。

 しかしモーセ少年は、見た目の印象に反して随分と喧嘩っ早そうだ。快活というより闊達、といったところか。

 

 ――その印象は正しい。後年、モーセは十戒を受け取りにシナイ山の頂上から天界へ至った際に、彼の奉ずる神、聖四文字から連絡を受けていなかった門番の天使に制止されるも、これを躊躇なく殴り倒して押し通っている。

 その他にも自身の子に割礼を施していなかった事に激怒した強大な天使二体に襲撃されるも、相手が二体であるのにも関わらず撃破してのけ。そして晩年、死に瀕していたモーセの魂を、天界へ迎え入れるために降臨した天使に対し「お前では私の魂を運ぶに値しない」と吐き捨て、拳で撲殺している。

 

 大人しそうな見た目に騙されてはならない。この少年、聖人でありながらギリシアの英雄にも劣らぬほど血の気が多く、手が出るのが早いのだ。

 

 ラーメスは気楽に構えている。其れは友を信頼しているのと同じぐらいに己へ絶対の自信を持っているからだった。神であるかのような尊大さが一目で透けて見える。

 しかし不思議なことに、アルケイデスはそれが不快ではなかった。神を想わせる傲慢さは、アルケイデスの神経を逆撫でにするものであるというのに。

 彼から感じる王気とでも云うべき佇まいが、紛れもなくラーメスが王者であることを証明しているからだろうか? 平時のイアソンのそれを遥かに上回る王気。自分が知るどの王よりも偉大な王となる資質を感じた。人物鑑定の眼力にさしたる自信があるわけではないが、歴史に名を残すだろうと確信させられる器がある。

 未だ少年であることに加え、その太陽が如き輝きに好感を持ったから、アルケイデスは不快感を持たなかったのかもしれない。

 

 誰何を受けた。確かに彼らにとっては自分は不審者だ。こちらから名乗るべきだろうと判断する。

 

「私はアルゴスのアルケイデス。……ヘラクレスと名乗った方が通りはいいか?」

 

 ――彼は生涯、自らをヘラクレスと名乗ったことはないとされる。

 しかし此処では例外だった。別の神話(テクスチャ)に迷い込み、その地に名を残すことになる彼は、仕方がないとはいえそう名乗るしかなく。また彼が自ら名乗ったという事実を目撃したのはラーメスとモーセだけだった。

 

 アルケイデスが名乗ると、モーセは首を傾げた。

 

「ヘラクレス? ……ねえ、ラーメス。アルゴスって土地聞いたことある?」

「無いな。その風体、余をして刮目するに値する武威、さぞ名のある戦士かと思ってみれば無名の田舎者であったか。フン、拍子抜けだな」

「………」

 

 世界の中心とも言えるギリシアの、主要な地方の一つであるアルゴスを知らない? それにヘラクレスという皮肉な名も知らないと言われ、アルケイデスは些か新鮮な気分を味わった。

 どこに行っても、誰に会っても、自分の姿と名は伝え聞いているものだとばかり思っていたが。無名の戦士と云われ、少々の可笑しさを覚えて苦笑してしまう。自身の子供ほどに歳の離れた者に侮った言葉を受けても不愉快にはならず、逆に面白さを覚えて肩から力が抜けた。

 思い返せば此処は異界である可能性が高い。であるなら、自分のことを識らないのが自然だと悟っておくべきだったろう。

 

 モーセは名乗り返す。

 

「すみません。名乗られたのに名を返さず無礼な態度を取って」

「いや、構わない。これでも私は遠くまで名を知られていたものでな。却ってお前達のような反応は新鮮だった。此処ではなんのしがらみも無いと知れて良かったと思おう」

「……ありがとうございます。その度量、本当に名のある方のようですね。非礼を詫びます。僕はナルナ人のモーセ、こっちが――」

「待て。余の尊名を識る栄誉を賜わすのだ。余自らが奏でる大いなる名に恐怖させてやろう。知れ、余はラー・メス・シス! 遠くない日、このエジプトにて最大最強のファラオとなる者! 余の威光にひれ伏せ……貴様の見上げる太陽の輝きこそ余である!」

 

 渾身の名乗りなのだろう、得意満面に自尊心を前面に押し出した少年の光輝は確かなものだった。

 しかし、アルケイデスの示した反応に――

 

「ふむ。エジプト……やはりここはそうなのか。しかし、ファラオ? それはなんだ。聞いたことがないな」

「――――」

 

 ――ぴしり、と尊大な表情のまま凍りついた。

 

 一瞬の空白。ラーメスは固まり、モーセは訝しむ。わざとらしく咳払いをしたラーメスは自身に言い聞かせるように言った。

 

「……余は過去現在未来に比類無きファラオとなる。が、今はまだファラオではない! 故に余の名を識らぬ者もいるだろう。よい、特別にその無知を許す!」

「違う、そうじゃないだろう、ラーメス」

 

 モーセは怪訝そうだ。それもそうだろう、ラーメスにとっても、モーセにとっても当たり前の常識に、彼はなんら反応を示さなかったのだ。

 無知では流せない不自然さである。自分を知らない者がいるという事実に、少なくない衝撃を受けていた故にラーメスは気づくのが遅れたが、未来のファラオたる者ではないモーセはすぐにその不自然さに気づいていた。

 

「この人は『ラーの創造した者』という意味のラーメスの名に畏敬を感じてない。それにファラオを識らないって……それはいくらなんでもおかしいんじゃない?」

「――む。それは……ハッ! そんなこと、とうに気づいておったわ。おい貴様、どういうことだ?」

 

 アルケイデスは肩を竦めた。返せる答えは一つしかない。ケリュネイアに触れて告げた。

 

「お前達も見たのだろう。私が突如、此処へ現れたのを」

「うむ」

「私は魔術師ではない。空間転移など不可能だ。そして魔術師や神の御業によって跳ばされたのでもない。思うに、私は異界からの稀人ではないかと思っている」

「――ほう。奇怪なことを云う。本来なら愚劣な世迷言と切って捨てるところだが……」

「うん。分かってるだろうけど、彼はこんなくだらない嘘を吐く人には見えない。信じてもいいと思うよ」

 

 モーセはあっさりとそう言った。簡単に信じ過ぎやしないかと、眉唾な言葉を鵜呑みにする彼を諌めようかと思ったが、やめた。信じてもらえたほうが都合がいい。

 それにラー・メス・シス……言いにくいからラムセスと呼ぶとして……彼の少年はモーセの言を信じたようだ。モーセの人を見る目に関して信頼しているのと同時に、自身もアルケイデスが嘘を吐いていないと感じているらしい。

 お人好しというのとは違う。いや、モーセはお人好しのようではあるが。ラムセスは単純に興味を持ったから、異界の稀人に鷹揚な態度を取っているのだ。

 

「やはりファラオの中のファラオとなる余は、他にはない者と出会う運命にあるようだな。流石は余である。貴様はヘラクレスと言ったな? 余は暇を持て余していたところだ。特別に余の無聊を慰める誉れ高き任を与えよう。余を興じさせてみよ。その儀を以て、余と我が友、そして余の妃の近くに寄った不敬を許す」

「妃? ああ……あの船にいる者の気配はそれか」

「気づいてたんだ」

 

 あくまで居丈高な調子を崩さないラムセスに、もう一人の気配を感じていたアルケイデスは納得する。モーセはやっぱりという顔で呟く。

 武人の好戦的な目で、白髪の少年は大英雄を見詰める。

 

「ラムセス。お前の妃だという者はなぜ船にいる? 体調を崩しているのか?」

「……余の名を赦しなく変形させるとは不快、不敬である。が、その響きやよし。格別の温情を以て流すとしよう。そしてその問いに対する答えは是だ。余の妃……となる予定の、穏やかな陽射しの如く慈愛に溢れた愛らしきネフェルタリは今、気分を悪くしている。と言っても疲れているだけだがな。余の『闇夜の太陽船』で休んではいるが、直に出てくるだろう。感謝せよ! ネフェルタリがこの場にいたならば、貴様如きに余の相手を勤めさせることはなかった! ネフェルタリの慈悲深さに(こうべ)を垂れるがいい!」

「そうか。では後ほど顔を合わせたなら直接礼を言おう」

 

 見当違い極まる物言いだが、アルケイデスは笑って流す。彼の言葉に隠れもしていない、ネフェルタリなる女性への慈しみを感じたからだ。

 ネフェルタリがいたとしても、結局は話し相手になっていた公算は高いと感じてもいる。モーセは苦笑してラムセスを見ていた。

 

 アルケイデスは自身の世界について語る。ギリシアと周辺諸国の気候、歴史、文化。其処に住まう人々と支配する神々。自身の成してきたこと、エジプトという国が自分の世界にもあったこと。

 語り出すと話の中に抜けたものも出てくる。そうした際はラムセスが的確に問い、アルケイデスの語る内容に穴が出ないように詳しく話させた。モーセは聞いたこともない文化や神々の話に、いちいち頷いたりしている。その手の話に関心が深いのだろう。

 

「――ネメアの谷の獅子、獅子の神獣。人理を弾く毛皮か。それを鍛冶の神とやらが鍛え、武具と鎧に仕立てたモノが……」

「これだ」

 

 包を解いてそれを見せる。するとモーセはもとよりラムセスすらも感嘆の吐息を吐いた。

 

「ほぉ……」

「ラーメス。言っておくけど献上しろとか言っちゃ駄目だからね」

「当たり前だ。余の耳にヘラクレスなる名が届いていなかったのは異界の者故なのだろう。これほどのモノ、討ったとなれば勇者であると認めざるをえん。そしてこれほどの獣を討った勇者の存在を余が識らぬとなれば、すなわちそれこそヘラクレスめが異界の者である証なのだろうよ。そしてその勇者から誇りとする武具を取り上げるなど、ファラオとなる余のするおこないではない! ……しかし、なんだ」

 

 一々興味深そうであったり、感心していたふうのラムセスだったが、不意に不快げにその顔を顰めた。

 その表情が表している色は嫌悪と侮蔑である。彼は吐き捨てるように言った。

 

「貴様の云うオリンポスの神、その他の神々だが……大半が神の名を冠するに値せん愚物どもではないかッ! 特にアポロン! 太陽神が二柱在るというだけでも理解し難いというのに、なんたる愚かしさかッ! 異界の神でなければラーの化身たる余が消し炭にしてくれたものを……太陽の煌きを翳らせる不届きモノめ、もう彼奴の話など聞きたくもないわ!」

「まったく同感だ。ヤツが不死であるのが悔やまれる。そうでなければ秘密裏に始末しているものを……」

 

 悪態に深く頷き同意するアルケイデスは、完全に生理的な嫌悪から共感していた。

 アポロンにも良いところはある。あるが、それとこれ(生理的嫌悪感)とは話は別だ。アルケイデスとて人間、完璧な聖人などではないのだから。

 しかし道理を解し、分別もある大人でもあった。同意したのは此処が異界だからで、そうでないなら適当にお茶を濁してはいただろう。

 

「私のことは話した。私の世界についても。今度はそちらの話を聞かせてくれ」

「よかろう。異界の勇者とはいえ、ラーにしてホルスの化身たる余の威光を知らぬは人生の損失、魂に光を持たぬ者に等しい。異界にまで余の輝きを届かせるため、特別に語ろうではないか」

 

 尊大な性格に反して、彼の語り口は微に入り細を穿ち、極めて分かりやすいものだった。自分語りが好きなのか、矢鱈と自身に話を絡めて自画自賛をはじめるが、それらはいずれ現実になるのだろうと感じさせる力がある。

 話が脱線しそうになる度にモーセが軌道修正し、互いを理解し合った親友同士の関係に微笑ましさを覚える。

 

「――そしてファラオとなる余は、あらゆる建造物に関する知識がある。ファラオたる者、建築学は必修項目であるからな」

「ほう、建築学か……」

 

 アルケイデスはその点に強い感心を覚えた。ファラオとは王であり、神であるらしいが、やはり王であることに変わりはない。王への道を志したアルケイデスは、王の必修項目と聞いて目の色を変えた。

 その反応にラムセスは目敏く気づく。そして声を低くして目を眇めた。

 

「興味を示したな? 貴様のような戦士には関わり合いのない分野であろう」

「そうでもない。私もまた、王を志している。であるならお前の云う建築学も修めるべきかと思ったまでだ」

「王になる、だと……? 貴様が……? ふ、くく、ははははは――ッ! 戦場の勇者が至尊の座を? 滑稽である。身の程を知れ! 貴様には無理だ。ヘラクレス、貴様には王たる者の器がない!」

 

 妄言だと思ったのか、ラムセスは呵々大笑する。

 だがアルケイデスの真剣な顔を見て、次第にその笑い声を小さくしていった。

 妄想であれば笑い飛ばす。利己心であったら踏み潰す。ラムセスは己こそ至高の王となると確信しているが――己の欲望のためでない純粋な理想であったなら、笑わない。

 彼は腕を組み、顎でアルケイデスに先を促した。 

 

「……本気のようだな。戯れに吐いた戯言でもないらしい。よいぞ、語ってみせよ。貴様の心胆を。貴様の思い描く王の姿を」

「フン。そう大層なものでもない。お前も言った通り、私に王たる器はないだろう。だがそんなものは不要だ。私は臣や民を治める【器】となる気はない。守護し【道標】となる。如何なる災いからも守り抜く壁となり、護るため、正しく信仰するため、そして万民を善き神の許へ導くために王となるのだ。神の気紛れによって不幸に絶望する者の涙をこの手で拭う――その座に在る者を人が王と呼ぶ故に、王と成ると決めたまで」

「は――それは王ではないッ!」

 

 アルケイデスの語った志を、ラムセスは大喝と共に否定し訂正する。

 その語気は真摯だった。悪ふざけも何もない、真剣な言葉だった。

 

「――父だ。貴様は王ではなく弱き者の父となり、外敵から子を守り、人という種を悪しき親元より発たせようとしている。だが弁えているか? それは一つの奴隷の道だ。民衆とは何処までも救い難い愚か者のこと。守り、育んでくれた者が倒れるまで、その脛を惰性のまま齧り続けるぞ」

「構わない。中には独り立ちする者も出てこよう。私はそれを見守るのみだ」

「甘いな。やはり貴様は王の器ではない。だが――フン。誇りと尊厳に満ちて眼を開き続ける、その勇者の気風に敬意を表そう。喜べ、貴様は確かに王たる者だ。無論、このラー・メス・シスには劣るがな」

 

 ラムセスは、アルケイデスを認めた。勇者であると。そして己には劣るが王となる資格があると。

 モーセは――感じ入るようにアルケイデスを見詰め、体を震えさせた。ナルナ人である彼にとって、アルケイデスの語った王の姿は、まさしく理想のそれだったのだ。

 感激し、感動し、モーセ少年は思わずアルケイデスに駆け寄ると、その手を自身の手で掴み合わせた。

 

「……ああ、不行儀ながら僕もあなたを応援したい。是非……是非とも王となり、人々を救ってあげてほしい。あなたの歩む道は、あなたの世界にいる神に対する宣戦布告の嚆矢となるだろう。けど負けないでほしい。きっと誰もがあなたを希望にする」

「云われるまでもない。この身は最強だ。ならば私は如何なる使命も成し遂げられるだろう」

 

 何も疑うものなどない。そう断ずる英雄は、不意に稚気を滲ませラムセスを見た。彼の提案に、ラムセスは愉快げに相好を崩し。モーセは好機を得たとばかりに希望する。

 年の差はある。世界の垣根がある。しかしそこには仄かに友情が芽生えつつあり――

 

 

 

「最強だと? 余を差し置いて自称するとは笑止千万! 余が最強である! ……ゼロ距離へ我が友に近づかれねばな!」

「ほう、ならば確かめるか? 私が勝てばラムセス、お前には建築学を教えてもらうとしよう」

「よかろう! ならば余が勝てば――」

「――頑張ってね、ラーメス。たぶんそのひと、素手でも僕より強いから」

「それを先に言えモーセぇ! えぇい、余に二言はないッ! 余が勝てば貴様は余の奴隷にしてくれるッ!」

「僕もやる。胸を借りるつもりでやるから……ヤコブ様より受け継ぎし拳、通じるか試させてもらう」

 

 

 

 ――彼らは知っているべきだった。異なるテクスチャの住人同士が、縁を深くするべきではなかったと。

 不用意に親しくなることで、ギリシアとエジプトの神代(テクスチャ)が折り重なることになる危険性を、彼らは知っているべきだったのだ。

 

 覆水盆に還らず。起こってしまったことは、取り返しがつかない。

 

 

 

 

 

 



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9.8 そして神話は史に交わる

 

 

 

 

 

「ミイラ……?」

 

 世界を広く旅した経験を持つアルケイデスだが、そんなものが存在していることを聞かされ文化の違いを痛感させられた。

 木乃伊(ミイラ)とは太陽信仰に基づくものだという。

 人為的加工、もしくは自然条件によって乾燥され、長期間に亘って原型を留めている死体のことをミイラと云うらしい。アルケイデスの識るエジプトにはなかった風習だったが、異界のエジプトでは当たり前に行われているものらしかった。

 

「生命とは終わるもの、然れど巡るもの。太陽の如く昇って生は始まり、日が沈むように命は終わる。その循環は天の理、終わった命もまた始まるものです。ゆえに死したる命が現世に戻る時、魂の入る器がなければ困ってしまう。ゆえのミイラなのです」

 

 褐色の肌をした清楚な少女は、可憐な唇から歌うように信仰を語る。華美な御座に腰掛けるラムセスに酌をして、アルケイデスに向けて一礼した。

 興味深い話ではあった。異文化ゆえの教えだろう。なるほどと思わされる。その死に対する考え方は、アルケイデスの蒙を拓く新鮮な刺激があった。

 小さく頷きながら盃の中の水を呷る。興味本位に彼は訊ねてみた。

 

「王も……いやファラオだったか。それも死後はミイラとされるのか?」

「はい。もちろん。ラーメス様やわたしも、死後はそのようにされるでしょう」

「実物を見たわけではないし、見たいと思ったわけでもないが、王侯貴族の棺や墳墓を築いた上で、やはり財宝も安置されるのだろうな」

「ご賢察です、ヘラクレス様」

 

 肯定を返される。そうだろうなとアルケイデスは思った。王の墓に莫大な財宝が埋められるのは珍しい話ではない。

 あくまで雑談の席、深刻に物事を考えているわけではないが。各地を旅する内に、アルケイデスにはその手の知識があったゆえに言及した。

 

「ネフェルタリ。お前の知見には様々なことを教えられた。ラムセス、もちろんお前もだ。建築学をお前から、帝王学を……些か意外だったがネフェルタリから。感謝の思いしかない」

「フン。無知な勇者など駄馬にも劣ろう。余やモーセを下すほどの者が、武勇一辺倒の愚物であるなど寛大な余であっても看過できぬ。ゆえ、慈悲を賜わしてやったまで。だがしかし……余はともかくネフェルタリの智慧に触れたのだ、篤く感謝するのが筋ではある。礼は当たり前のものとして受け取ってやろう」

 

 尊大にラムセスは言った。上機嫌そうだ。というより、今の所機嫌の悪いラムセスを見たことはなかった。ネフェルタリとモーセが共にいるからというのはあるだろう。

 しかし度々異国の文化や風習について聞き出し、事あるごとに手合わせし、自身の武勇を高めていくにつれてアルケイデスのことも認めるようになったからでもある。

 ラムセスという男は誰にでも平等だが、自身の認めた数少ない者に関しては特に熱を入れる気質なのだ。そうした彼の居丈高な人間性を受け入れ難い者はいるだろう、だがアルケイデスには好ましいものとしか映らない。

 だが()()を言えば機嫌を害するだろうなとは頭の片隅で思った。しかし言わないという選択肢は取らない。多少の不興を買うことになろうと、ためになると判断したなら告げる。人に嫌われる勇気というのも、時には必要なものだ。

 

「王の道を志して以来、私は時折り理想の未来について思いを馳せるようになった」

「む……?」

「人の世が人の手で廻る……人の世界だ。王も民も人であり、あらゆる悲劇も、幸福も……人の営み故に生まれるだろう。善なる者、悪徳に染まる者、どちらにも傾く中庸の者……人の道から外れた外道とて同様だ。神に依存しない人の世であっても人は人ゆえに愛憎を生む。これはもはや摂理と言えよう。この神代を……例えるなら『卒業した』人の世界を理想とするが、そんな世界であっても人の本質は何も変わらない」

「そう……なのかもしれませんね」

 

 ネフェルタリは頷いた。聡明な乙女だ、今の常識の及ばぬ未来についても、有り得ると考えられるのだから。ラムセスとてそうだ。無言で先を促してくる。

 

「いつかは我らも死ぬ。我らのおらぬ世が訪れる。そして記録は永遠だが記憶と感情はその限りではない。私の偉業は残り続けるだろう、ファラオとなったラムセスの事業とて記録として遺る。しかしそこに捧げられた畏敬、崇拝の念は年を経るごとに廃れていく。これは何者にも覆せぬ記憶の風化だ。で、あるなら――不届き者がお前達の墳墓に侵入し、そこにある財宝を狙うだろう。宝とは人の欲望を擽るものだからな。ゆえに下手をしなくとも、お前達のミイラも無事に済む道理はない」

「――ほう。それは、なんの確証があっての言だ? 勇者……いや未来の勇者王。他の者が言えば問答無用で縊り殺す不敬である。言え、なんの根拠がある? ファラオたる余と、ネフェルタリの聖骸が盗掘されるなど……赦されることではないッッッ!!」

 

 今のエジプトでは断じて有り得ぬ、神をも恐れぬ罪悪だ。しかし遠い未来なら有り得なくはない、柔軟な思考を持つラムセスはそうと理解できたからこそ、思わず席を蹴倒す勢いで立ち上がった。

 ファラオとは絶対、神にして王である超越者だ。ラムセスはファラオとなることで完成する少年、ゆえにアルケイデスの言葉は断じて受け入れられぬと激怒して。ネフェルタリはそんな彼の手をそっと抑える。落ち着いてくださいと、小声で囁いて宥めた。ラムセスはアルケイデスを睨む。しかし少ししてふっと息を吐いた。ネフェルタリのお蔭で怒りが鎮まったらしい。

 

 ――アルケイデスの言はただの予想だったが、それは正鵠を射ていた。

 

 ネフェルタリの骸は度重なる盗掘の被害に合い、()()()()()()()()()状態となるのだから。

 遙か未来の聖杯戦争で、ラムセス……オジマンディアスの英霊召喚の条件として、ネフェルタリの遺品でしか太陽王を喚び出せないのは、最愛のネフェルタリの惨状を知ったからである。ネフェルタリの遺品を持つということは、盗掘の片棒を担いだ赦されない大罪人であるからこそ、召喚主を即刻殺すつもりでオジマンディアスは召喚されるのだ。尤も……この世界線では、そんな無残な状態に、ネフェルタリがなることはない。

 何故か。

 それは数多の人々と文化に触れた、異端の思想保有者が此処にいるからである。

 

「根拠か? それは私が各地で見た人々の営みと、人の欲望を知るがゆえだ。古の神々への信仰が廃れ、あるいは神々の侵略により土着の信仰が失われ、神から人に堕ちた者もいる。人の欲望には限りがない、その一事を以て永遠に続く信仰や王朝が存在しない証と断じられる。分かるはずだラムセス。それを防ぐ方法はお前の成すものだけだと」

「……遙か未来にまで誇られるファラオとなれ、と。つまりは激励か。フン、戯けたことを抜かす。余の怒りを買う恐れをそうも平然と犯して檄を送るなど……」

「それともう一つ。一人の女をそこまで想えるラムセスにだから言いたい。……同じ墓に入れ、ラムセス。ネフェルタリと。死後も永遠にいたならば、偉大なファラオであるお前の傍で、最愛の女を護り続けられるだろう」

「へ、ヘラクレス様っ!?」

「同じ、墓に……!? よ、余が……ネフェルタリと……ふ、ふは、フハハハハハハ!! ヘラクレス、貴様……それは良い! 良いぞ! はは、そうしてやろう!!」

 

 アルケイデスの提言の、どこに恥ずかしがるところがあるのか。

 二人の反応はまさしく少年少女のそれで、ああ――どんな傑物でもその人間味にこそ惹かれるものがあるなと、微笑ましくて堪らぬものがあった。

 死後も共にいて、最愛の者を護り続けられる……それはアルケイデスの深層心理にある願望であり、理想であり、夢想であった。それを自分と同じ人の世を超越した器を持つラムセスに重ねていたのである。自分には無理だったことを、成し遂げてもらいたい故の激励。自覚はないが、アルケイデスは彼らに己とメガラを幻視して目を細めた。

 

 そこに、ドタドタと慌ただしい足音が近づいてくる。機嫌を直していたラムセスも、ネフェルタリも眉を顰めた。王子とその親友であるネフェルタリが客人であるアルケイデスのいる場所に、そんな足音を立たせながら駆けてくるなど無礼である。

 首を刎ねるかと怒りを懐くラムセスだが、駆け込んでくるなり叫ばれた報告に、ラムセスは困惑させられることとなる。

 

「報告! 報告でございます!」

「何事だ、騒々しい」

 

 若い神官だった、苛立ちも露わにしているラムセスに、彼は言った。

 

「空気の神シュー様、魔術神ヘカ様より神託です! 世界が……この世が、別の世と交わろうとしていると!」

「な、何……?」

 

 それはあらゆる人々の立脚点となる世界の変質である。

 今、どんな神にも阻めぬ、取り返しのつかない世界の異変が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 急ぎ外に出たラムセス達とアルケイデスを迎えたのは、ナルナ人のモーセだった。

 険しい表情で、高台から辺りを見渡す彼が指し示す。

 

「こっ、これは……!?」

 

 ラムセスすら声を上擦らせ、動揺を隠せない。アルケイデスもまた驚愕に目を剥いていた。

 天上に坐す太陽が()()ある。世界を包む空間が歪み、地面が二重に重なり、剥離と接合を繰り返して波打っている。民達が頭を抱えて蹲り、世界の終わりだと悲嘆に暮れていた。

 此の世を司る理の変容、変質。無理矢理に紋様の異なる織物を繋ぎ合わせるかのような、万物万象の歪みが生む鳴動。地殻変動など問題にもならぬ驚天動地の異常事変。人など立ってもいられぬはずの振動の中、誰もが揺れも感じない異様な空間。

 天地をエジプトの偉大な神々が飛び交い、必死に元の世界の姿に戻そうと抗うも、それですらどうにもならぬ。強大な神々の権能ですら抵抗できない変化の津波は、ラムセスだけでなく総ての者を動転させた。

 

「……何が起こっている!?」

「ら、ラーメス様……」

「ネフェルタリ! 余の傍を離れるな! モーセ、分かっているな!?」

「ああ! ……ヘラクレスさん、いざという時は――」

「任せると良い。お前はラムセスとネフェルタリを近くで護れ。私は外敵が現れたのならそちらに対する。――ケリュネイア!」

 

 アルケイデスの呼び声に、疾風となって金色の牝鹿が駆け寄ってくる。

 即座に鎧兜を身に着け、中庸の剣を装備し、弓をケリュネイアに預けるとその背に跳び乗る。例え何が来ても、世界を終わらせる怪物が現れたとしても、友誼を交わした者達のためにも戦う覚悟があった。

 ――その覚悟を試すように、空間が裂ける。

 そこには暗黒があった。虚数があった。世界の表層の裏にある、虚数空間。そこには大地母神にして天空、混沌の女神であるガイアの怪物が潜んでいた。

 

 ()()()。桁外れに。まず目に入ったものを、ただの壁としか認識できぬほどに。

 

 それは、造形は人間に似ていた。だが余りにもデカすぎる。その巨体は、宇宙の星々と頭の頂点が接するほどで、その腕は伸ばせば世界の東西の涯にも達するほど。

 腿から上は人間と同じだが、その下からは巨大な神毒蛇(ヒュドラ)がとぐろを巻いた形をしている。無尽蔵の力を持つがゆえに疲労を無効とし、肩からは百の蛇の頭が生え、火のように輝く目を持っている。あらゆる種類の声を発することができ、声を発するたびに山々が鳴動する規格外の存在力があった。

 其の名は、ガイアの生んだ史上最大にして最強の怪物神。魔獣神テュポーン。完全武装の最高神をも打倒せしめる、宇宙崩壊の理。

 

 誰もが固まった。ラムセスとモーセ、アルケイデス以外の総ての者が。

 多くの神々すら身動き一つ取れない。一部の神々が、未だ眠っているその魔獣神のいる空間を、権能を使い咄嗟に閉ざして事なきを得る。

 

 あんなものが動き出せば、エジプトの神話世界は脆くも滅び去るだろう。例えエジプトの神々がアレを滅ぼしたとしてもだ。

 

「アレは……なんだ……?」

 

 全身から冷や汗を流しながら、ラムセスが呟く。戦慄を隠せない。ラーやホルスに匹敵するか、それ以上の魔獣神の存在を、一瞬とはいえ未知のモノを視認して正気を保つどころか言葉を発せられる彼は、なるほど人類史に冠たる王に相応しい精神力であると言えた。

 だがアルケイデスは。声を出せなかった。

 恐怖した……というのはある。だがそれ以上に、彼は伝え聞いた覚えがあったのだ。あのテュポーンの姿を、少年時代のペリオン山で……恩師ケイローンから。

 

 なんとか捻り出す。

 

「テュポーン、だと……?」

 

 アルケイデスが固まった理由は、恐れだけではない。この天地を満たす異変の正体がなんとなく分かってしまったのだ。

 異界の存在であるはずのテュポーンを目撃したことで、彼は元の世界とこの世界が、神託の通りに交わろうとしているのだと理解した。自分がこの世界に迷い込んだのは、その前兆だったのかもしれない。

 

「知っているのか?」

 

 ラムセスの鋭い詰問に、うなずく。

 

「あれは私の元いた世界にて、最強とされる魔獣神だ」

「……そういうことか。これは、余の世界と貴様の世界が交わる前兆かッ!」

「私の存在が、凶兆となったか」

「戯け! 仮にも()()()()()()であろうが! 太陽の化身たるファラオの師なのだぞ、凶兆なわけがあるかッ!」

 

 自嘲するアルケイデスを、ラムセスが叱り飛ばす。

 その言葉に大英雄は目を瞬かせた。

 

「むしろ誇れッ! 貴様は余の世界を広げ、余の威光を更に遠くにまで届かせる一助となれたのだとッ!」

「……フン。物は言い様だな」

「――民達よ、恐れるなッ! これは世界の終わりではない! 我らの世界の拡張、すなわちさらなる繁栄への階であるッ! 目を背けるな、もう二度と見ることのない光景であるぞ! 立ち上がり、その目を見開け! そして焼き付けよ! これこそが余の栄光の一欠片であるッ!!」

 

 ラムセスが両手を広げ、よく響く声で朗々と謳った。それこそが真理にして事実であるのだと。

 

 人々は恐れをなんとか抑え、世界の変化をその眼にした。

 空の太陽が一つに重なる。地平線が一つに束ねられる。何もかもが元通りになっていく中で、何人かの人影が大地の上に像を結びはじめているのが見えた。

 何者かと眼を細める。そのシルエットには見覚えがあった。半年ぶりに眼にするそれらは――まさに。

 

「イオラオス!? ……アタランテ、ヒッポリュテか!?」

 

 世界が重なったことで、行方の知れなくなったアルケイデスを探して放浪していた仲間達がそこにいて。

 もう一人、見知らぬ女が、共にいた。

 

 その女こそ女神ヘカテーである。別の神話(テクスチャ)に迷い込んだアルケイデスを探し出すために、神に祈りを捧げたイオラオス達に応えて権能を行使し、同じ世界線ながら異なる位相に存在したアルケイデスを第二魔法の領域にある大魔術で見つけ出し呼び出したのだ。

 それが、異なるテクスチャで深い縁を結んでしまったアルケイデスを、その異なるテクスチャごと釣りだしてしまった。いや、二つのテクスチャがアルケイデスという糸で絡められ、交わってしまった事故である。

 

 こうして、アルケイデスはギリシアとエジプトのテクスチャを重ねてしまったのだ。

 

 

 

 

 




チラ見えしただけで、テュポーンと戦ったりはしません。


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9.9 二重神話隔世

 

 

 

 

 

 人間の神経と感性を極限まで尖鋭化し、研ぎ澄まし、更にその先にある限界を遥かに超越した大魔術が、息をするようにして組み上げられていく。度を越した神秘濃度に、神代の人間であるイオラオスですら怖気に震え吐き気を覚えた。

 芸術的で幾何学的な紋様が、壊れた羅針盤のように高速回転しながら、稠密にして精緻なる魔法陣を象っていく。月と死、魔術の叡智を司る『女神の神核』が、稀代の魔法使いすら赤子に見えるであろう神話回路を全力稼働させ、その神格の担う権能を全動員した大秘法を構築していっているのだ。

 魔道とは神秘学、つまりは学問。そしてギリシア世界とは即ち人類文明・文化の最先端。故に神代にあって最高峰、並び得るはずの他神話群の魔術の神をも置き去りにする魔道の叡智が此処に在る。彼の女神には呪文・魔術回路の接続という工程など無用だ。高速で紡がれる神言を聞き取れる者は絶無。彼女の愛弟子である魔女キルケーやメディアであっても聞き取れまい。

 

 ただ一言で大魔術を起動する女魔術師達よりもなお優越する神言は、しかし十秒もの詠唱時間を要した。

 

 通例に従うならば絶対に有り得ぬ、世界の均衡を崩しかねない大権能。この時代、この世界に於いてのみ、彼の魔術王に叡智を授けた他教の唯一神を凌駕する、智慧の女神ヘカテーによる一世一代、大魔法・死者蘇生に等しい奇跡が起こされようとしている。

 それは後の分類における第二魔法、平行世界の運営に類する領域の神秘。大源(マナ)小源(オド)にある天文学的な魔力を湯水のように燃焼させ、複雑怪奇にして壮麗な魔術式は空間と世界に干渉して閉ざされていた門を抉じ開ける鍵となる。

 探し出すのは人類史上最大の英雄だ。ギリシアの世界(テクスチャ)にとって欠かせぬ決戦力である。ギリシアの神々は彼の存在が突如消えたことに動揺し、それを探し出して連れ戻すためにあらゆる手を打とうとして。それを制し名乗りを上げたのが冠位英霊の魔術師をも上回る魔術神である。神代全盛の、神霊ではなく神そのモノであるが故におこなえる規格外の神秘の強権発動者だ。

 

 時代を下ればその絶対性は失われよう。しかし今この全盛時の魔術神とは、根源接続者の荒唐無稽なまでの万能さにも引けを取らない。事実上不可能はないのだ。それ故に最高神であっても軽んじられるはずがない。死の女王、無敵の女王とあだ名される女神ヘカテーこそは、ゼウスの力にも追随する影の実力者なのだから。

 そんなヘカテーの魔術式は、即座に行方の知れなくなった英雄を見つけ出す。そして無理矢理に元の世界への召喚を試みた。

 

 この時、ヘカテーのみが知覚した。

 

 地球という惑星の上に張り巡らされた多種多様な織物(テクスチャ)の一つに、アルケイデスが迷い込んで、他者との縁という錨を落としていることを。

 そしてそのアルケイデスをギリシア世界に戻すということは、錨という名の『縁』に絡められた他所の織物(テクスチャ)を、ギリシアという織物に習合させるに等しい所業であると。瞬間『過去』や『未来』ではなく『現在』を見通す千里眼の持ち主は、別の織物の住人達を余さず見透して。明晰な頭脳が齎す推測を弾き出してしまった。

 混沌とした物語が紡がれるだろう。少なくとも神々にとっては佳き文様を象るとは思えない。だがそれがどうしたというのだろう、逆にヘカテーは楽しげに嗤う。どのみち『ヘラクレス』が居なくなればこの世界線は剪定される。ギガントマキアを含め、どう足掻いても『ヘラクレス』は必要不可欠なのだ。その剪定事象をもゼウスならば阻み、己の世界の存続を成し遂げるのだろうが……少なくとも人類史は滅ぶ。

 

 神々の都合上、ここで取り止める理由はない。

 人間へのほんの僅かな憐憫から、止める理由が特に無い。

 ――こんな面白そうなことを止めるなんて、とんでもない!

 大義名分は我が手に在り。であれば躊躇う道理なし。ヘカテーは嬉々として二枚の織物を混ぜ合わせる暴挙に出た。

 尤も。例え誰がヘカテーと同じ力を持っていたとしても同じ事をしていただろう。人類史の存続、信仰基盤の喪失を避けるため。その先に待つのが凄絶な信仰の奪い合い、凄惨な侵略戦争の切欠になると知っていても。避ける術などこの時点で有り得ないのだから。ならば己の力で生存を望める神々の戦争に賭けるしかない。

 

 果たして二つの神話群は習合する。その際に生まれた空間の狭間に魔獣神の姿が垣間見えたことなど些細なことだ。

 

 エジプトの地に、ギリシア世界のテクスチャに存在しない、多数の神格の神威を感じたヘカテーは嗤った。歪んだ口元を上品に裾で隠し、穏やかに一礼すらして魅せる余裕を覗かせる。

 

 アルケイデスがいた。未来の聖者と太陽王がいた。この世界の太陽神、空気、魔術の神がいた。

 それとなくザッと視線を左右に走らせてギリシア神として見るに、戦力比は六対四でギリシア有利だ。これは単純に個々の神々には格の近い神はいるが、その数が比較にならないからである。ギリシアはオリンポス十二神を筆頭に、その神格の数は桁外れ。質が近いなら数に上回るギリシアが有利となるのは自明だ。

 しかし不確定要素を計算に入れれば、途端にその有利不利はあやふやになり、簡単に覆り得るものとなるだろう。オリンポスを疎むガイアやギガース、ガイアの子である魔獣神テュポーンなどがそれに当たる。特にテュポーンなどが本格的に暴れ出せば双方の神話に多大な傷跡を残すことになるだろう。

 

 トキの頭を持つ人型の神がこちらを見て何事かを書物に書き記している。書紀の神がヘカテーの容姿を書き写しているのだ。秘匿の魔術を幾重にも重ね掛けし隠蔽している故に、その力の詳細を知ることはできまい。姿を写されるぐらいなら気にせず、女神ヘカテーはアルケイデスを見るなり駆け出そうとしたギリシアの英雄達を制するため、敢えて慇懃かつ大仰に両手を広げた。

 右手にはメディアの錫杖によく似た、満月を象る魔術杖。ヘカテーの分体にして権能を宿した宝具だ。それが自身らの前に掲げられ、イオラオス達は自制する。未知の神々を前に軽はずみには動けない――ヘカテーは背後に庇う形になった、愛弟子の恩人の仲間が踏みとどまったのに薄く笑みを浮かべ、エジプトの神々に向けて語りかけた。

 

『ああ――異なる起源、異なる伝承、異なる摂理を支配せし異郷の神々。死と月を司りし、いと高き()の名は魔道の先駆者ヘカテーである。そなたらの神域、確かに丸ごと召し上げ、我らギリシアの神域と重ね合わせたぞ』

 

 流石はエジプトの偉大なる神々。荒ぶる軍神(セト)が苛立ちを露わにするのを天空(ホルス)が制する。魔道の先駆者と名乗られた幼い子供の姿の魔術神(ヘカ)が不快感を露わにする。

 輝きを強める太陽(ラー)をはじめとする、最高位に近しい神々が威圧感を高めるのにも笑みを消さず、ヘカテーは朗々と続けた。

 

『しかし誤解無き様。()は決してそなたらを害さんとしたのではない。そこにいるヘラクレス……()の属する世の存続に欠かせぬ者を取り戻すため、やむにやまれず力を振るったのだ。その事情は汲んでくれよう? どのみち()が何をせずとも、いずれはこのようなことが起こったのであるからな』

『……異郷の死と月、魔をカタチとする女神よ。此度の仕儀が起こした世界の理と天秤の偏り、総て把握した』

 

 応じたのはエジプトの神々、九柱神(エネアド)筆頭格の神。原初の水ヌンより自ら誕生し、他の神々を産み出した偉大な造物主。天地創造の神ラー・アトゥムである。

 太陽神でもあるラーは険しい声音で問い質した。

 

『貴様は己が何を仕出かしたか、自覚しているのか。貴様も我々も、この星に根差したモノではある。しかし其処に()()()があるのは何故か、解らぬとは言わせん。他の文明、文化、精神、それらの習合・競合を無くす為の境界である。それを、貴様は取り払ったのだ。これより先にあるものが何か、弁えているか? どちらかが滅ぶまで果てぬ絶滅戦争が起こりかねん』

『愚問。我らギリシア、斯様な侵略を幾度繰り返したか。その総てに勝利した故に我らが在る。そして先走ってはくれるな? 我々の戦が真の決着を見るのは神の手には拠らぬものよ。人の手に託されるであろう。共存し名を変えカタチを変え、ギリシアに属する異郷の神は星の数ほど在る。生存を期するならば庇護下の人の後押しをする他ない。今、()に手出しをすれば、それこそ神格を根こそぎ絶やす真の絶滅を懸けた開戦の角笛を吹き鳴らすことになろうよ』

 

 平然と異郷の最高神に嘯く様は、ギリシア世界神格群を秘密裏に掻き回すトリックスターの面目躍如である。血気盛んなエジプトの軍神は露骨に舌打ちし、苛立たしげに腕を組んで手出しを控える。軍神がひとまず矛を収めた以上、この場での開戦はないと見ていい。

 ラー・アトゥムはその金色の視線を異界より迷い込んだ英雄に向けた。アルケイデスはそれを神妙に受け止める。自身が迷い込みさえしなければこのようなことにはならなかったと自省する彼に、慈悲深く公平なラーは暖かく告げた。

 

『悔やむな、異郷の人の子よ。貴様に非はない。咎を負うべきは世の理、神代に終わりを齎さんとする史の働きよ。アラヤめが人の時代を求める余り拙速が過ぎたのだ。要らぬ動乱が起ころうと、人の身が負う責など無い。万物万象我が手中にある故に、あらゆる功罪もまた我がものである。罪に問われるべきは我だ』

「……ご厚情、痛み入る」

『ふむ。ふむふむ。ふぅむ。その度量、爪の垢を煎じて()の奉ずべき主神めに分けてくれぬか? たった今、頭が痛くなった』

『出来ぬ相談だ、ヘカテーとやら』

 

 クッ、と嗤うヘカテーとラーを他所に、アルケイデスは唇を噛んだ。どこか己に落ち度があるという思いが拭えない。

 そんな彼にラムセスは呆れた。

 

「自罰的なのは構わん。だがラーの言葉は余の言葉、余の言葉即ちラーの言葉である。余が赦す! 赦されたのだヘラクレスよ。ならば泰然と構えよ、そうせぬは不敬! 傲慢で在れ勇者であるならば! 貴様に足らぬは厚かましさよッ!」

「僕達の武を高めた師なんですよ、あなたは。そのあなたがそんな様だと、僕まで自責の念に駆られてしまいそうです」

 

 モーセにまで言われ、アルケイデスは頭を振った。なんとか薄い笑みを浮かべ、彼らに応える。

 

「分かった。私に咎はないのだな。ならば自省するだけ損と考えよう」

「フン。最初からそうしておればよいのだ。余は余の民に安寧を齎すファラオとなる者故に、争乱の種となるものは憎む。しかし貴様はそんな者ではないと先刻承知。いざとならば勇者の王よ、エジプトに君臨せし余と貴様が結べばよい。世の理がなんだ? そんなもの知らぬッ! 余が統べるのだ。何者にも成せぬ偉業も、余と貴様が結べば不可能など有り得んッ! 如何なる不条理も余の前に屈服するであろう!」

「そういうことだよ。何も気に病むことはない。ほら……あなたの世界の同胞たちが、あなたを迎えようとしている。さあ、行くと良い。例え万里離れようと、僕達はあなたのことを忘れない。共にいた日々は色褪せない。この別れは永遠じゃないんだ。いつかまた――今度は師弟じゃなく、対等な者として手合わせしてほしい」

「……ああ。モーセ、再会した時は拳を合わせよう。ラムセス、次は王としてまみえよう。その時が新しい伝説となると私は確信した」

「当然だ。行け、我が友にして師よ。……本当の名を余に預けるのは次で良い」

「さらばだ、我が弟子にして友よ」

 

 ケリュネイアに跨ったままだったアルケイデスは、突然訪れた別れを惜しむことなく疾走した。ケリュネイアはネフェルタリに寂しげに嘶いたが、ネフェルタリは爽やかに送り出す。牝鹿はそれで吹っ切ったように駆け、主を一党の元に運ぶべく前を見る。

 アルケイデス! 女王が飛びつくように抱きついた。正面から来たそれを受け止めたアルケイデスは微笑む。仕方のない奴だと。イオラオスは早速というように、苛つきながら紙と筆を取り出した。何があった、吐け! 伯父上! そう息巻く彼の性根にアルケイデスは苦笑いするしか無い。イオラオスの頭を抑え込んで、アタランテは安堵したようにアルケイデスに寄り添った。

 

 半年ぶりだ。一人で動いたばかりに、随分と長い道草を食ったものである。

 

 ――これより先に訪れる激動の時代、その寸前に生きる英雄達の邂逅はこうして終わりを見た。今はただ、再会を喜び合う。そして友として再会を誓い合う。

 太陽神ラー・アトゥムはそれを慈愛を込めて眺め、ヘカテーはそんなラーに曖昧な貌になっていたが。それを語るのは余分というものだろう。

 

 

 

 

 

 

 




あとがき

ギリシアとエジプトのパワーバランス。エジプトは魔術に使う力は人間と同じ、つまり人間でも優れていれば神に並ぶ。エジプトの神話で対等に人間と話す神が多いのは実際対等に近いから…だったはず。
で、そうなると。変にエジプトつえぇ!ってやると、エジプトの人間達は神をも上回る優秀なやつがわりと居て、ギリシア蹂躙されかねないんです。相対的にヘラクレス級でもそんなに珍しくない強さ扱いに……。作者も赤竜の件で反省したんですが、同じ神代(紀元前)で極端に力関係が破綻する扱いはやめました。

実際はこのはずだ! という意見は沢山あると思います。しかしこの拙作の中だとこの通りだということで納得してください。マジレスするとパワーバランス考えすぎてエタりかけ一日休みました。

この話、作者から見ても賛否両論過ぎて俺は疲れたぞジョジョーっ!


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10.1 冬の城で回顧する

何やらハデス様が楽になるみたいな意見がたくさんあります。
しかしそんなはずはないと作者は考えてます。
死者は冥界では国民、国力。もしくはお互いの縄張りです。
普通に仲良くできるはずもなく、ハデス様とエジプトの冥府の神様は、睨み合いながら死者を奪い合うか、互いの国で線引きして干渉し合わないようにするしかない。よって仲良くとか不可能と、拙作では取り扱います。



 

 

 

 

 外界の者を拒む冬の世界。人の痕跡を塗り潰す陸の孤島。自然の秘境に吹雪く白い風が、その地を白く染め上げている。

 その只中に根拠地を置くのは、冬の聖女の末裔、錬金術の大家アインツベルンだ。アインツベルンとは第三魔法を実現した魔法使いの弟子達により、西暦一年に作られた工房の残骸である。

 魔法使いの弟子達は、人類の救済のために第三魔法を再現しようとした。しかし彼ら自身の手ではどうあっても叶わず、やむなく『第三魔法の使い手と同一個体を製造し、その個体に第三魔法を再現させる』という代案を採択した。

 九百年近くの研鑽の末に、彼ら弟子達は師と同等かそれ以上の性能を持つホムンクルス、ユスティーツァを鋳造することに成功している。しかしそれは、彼ら自身の技術や努力とは関係のない完全な偶然から生まれたものであった。それを屈辱とした彼らは、自らの技術体系によってユスティーツァを超えるホムンクルスを作ろうと努力したものの挫折し、総ての弟子達は城を捨て、命を絶ち――アインツベルンにはホムンクルスのみが残された。その創造主に捨てられたホムンクルス達が、創造主の目指した理想と目的のために稼働させ続けている工房こそが『アインツベルン』なのである。

 

 ――彼らはホムンクルスだ。人ではない。己の意志がない。故に彼らがホムンクルスである故の、致命的な失態を演じていた。

 

 その総ての元凶は、アインツベルンの頭首アハト翁にある……訳ではない。

 むしろ堅実で確実な計算を元に、合理的に布石を打つ人形である彼の采配に従っていれば、失敗はあるだろう……しかしいつかは成功という成果を得られていたはずだ。

 それを阻んでいるのは、彼らが秘宝として所有している呪いの宝具だ。人であれば確実に捨て去っている類いの代物である。

 其の宝具の名は『ラインの黄金』という。遠い昔、霧の一族が死の間際に英雄に語り継いだ。『この財宝には呪いが注がれている』と。これを保有する者は、何もかもが悪い方向へと転がるという、誰にも止めることができない因果操作の呪詛があるのだ。

 故に『ラインの黄金』を、創造主の遺産とするアインツベルンのおこないは、何もかもが悪い方に出目が出てしまう。ホムンクルスという被造物故に、それを捨てるという発想がなく、結果何もかもが裏目に出ているのだ。そしてそれに関する自覚まで、ホムンクルス故に出てこない始末である。

 

 聖杯戦争に懸ける彼らの妄執、悲願は叶うことはない。アインツベルンの望みがそれ故に、呪いの黄金は決してそれを叶えさせない。彼らが滅び去っても、アインツベルンの悲願は決して叶わないだろう。

 そして呪いの黄金を所有している事実は、アインツベルンの頭首しか知り得ておらず――傘下の者達は呪いに対する対策も立てられなかった。

 もはや万が一を語るだけ徒労となるが、第四次聖杯戦争の勝者、衛宮切嗣が知っていれば、いの一番に処分していただろう。アハト翁が自立した意志を持っていれば、第三次聖杯戦争以前に処分し『この世全ての悪(アンリ・マユ)』の召喚は為されなかっただろう。

 

 そして。

 

 確実な勝利を期し、第四次聖杯戦争から得た思い込み……狂戦士のサーヴァントこそ最強で、裏切りの心配のない手駒であるなどと考えることもなかったかもしれない。

 

「告げる……」

 

 幼い少女が、まだ第五次聖杯戦争の開催を待たずして、開催地日本を遠く離れたドイツの地で、英霊召喚を試みようとしていた。

 顕現していない聖杯のバックアップのないそれは、幼い少女に大きな負担を強いる。それこそ英霊が召喚されれば、サーヴァントが身動きするだけで大きな苦痛を感じるだろう。負荷の大きさは拷問のそれに等しい。ましてや――召喚の触媒として用いられるのが、彼のギリシア最強、人類史最大の英雄の兜ともなれば、召喚されるのは彼の大英霊しか有り得ない。もはや死ねと言われているのに等しい。

 無論死なせはしない。どんなに苦痛でも死なせない魔術式がアインツベルンにはあるし、英霊を一騎維持するだけならばアインツベルンの最高傑作――イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは見事耐えてのけるだろう。

 

「――告げる」

 

 呪文を唱える少女の声は震えていた。

 彼女は幼い姿だが、それは単に肉体が成長不良に陥っているからで、その実年齢は十代後半である。

 もともと聡明で明晰な頭脳を持つイリヤスフィールは、これから自身を襲う苦痛が如何ほどのものか想像することができた。

 恐怖に身が震える。これは罰なのだ、逆らえない。イリヤスフィールには一寸も責はないが、イリヤスフィールの父・衛宮切嗣がアインツベルンを裏切ったから、その娘のイリヤスフィールに咎があると、幼い頃から洗脳するように何度も言い含められてきた故に彼女はこの理不尽を正当なものと認識している。

 それが故に切嗣への憎しみを募らせるのだ。切嗣が裏切らなければ――自分を捨て、冬木で養子を取って平穏に暮らしていなければ。――迎えに来て、くれていれば。こんな目に遭わなくてもよかったのに、と。

 

「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 

 殺してやる。

 イリヤスフィールは殺意と憎悪を秘めて、これから訪れる苦痛を堪えるための覚悟を固めた。その憎しみがなければ、とても堪えられない。

 

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」

 

 これから召喚する英霊を想う。

 その身は最強。その勲は究極。■■■を成し、人々を統べた金色の獅子の鎧を纏った――勇者の語源となった英雄旅団の頭目。戦神マルスが指して述べるに第一の信徒。

 故に号して戦士王。

 ヘラクレス。全英霊中その膂力に及ぶ者無く。その武勇に並ぶ者など片手の指で数えられる。まず間違いなく一、二を争う戦闘力を誇るだろう。

 

「――されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。

 汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者――」

 

 それを狂化して、ダメ押しとする。

 イリヤスフィールの性能を以てすれば、そのステータスは限りなく大きくなり、更に狂化の恩恵を受ければまさしく暴虐の化身がごとき強さを発揮するだろう。

 第五次聖杯戦争は、アインツベルンの勝利に終わる。そう断言しても良い。それほどの戦力なのだ。

 

 問題は。それを、大聖杯のバックアップが無い状態で、イリヤスフィールが御し切れるかどうかだ。サーヴァントを拘束する術はあるにはある。大聖杯のバックアップが無い、万全ではないマスターによって、ステータスは軒並み低下し宝具も満足に扱えないはずだ。拘束するのは不可能ではない。だが不安は尽きない。

 

(痛いのかな……)

 

 イリヤスフィールは漠然と想う。

 既に体は苦痛を訴えている。召喚の儀式が終わりに向かうほど、じわりと恐怖が忍び寄ってくる。顔を険しくする一方で、その幼い顔にはどうしても怯えが含まれていた。

 

(やだ……痛いのは、いやだ……キリツグ……助けてよ……なんで……)

 

 憎んでいても、殺したいと思っていても。第四次聖杯戦争から現在に至るまで、ずっと続いてきた責め苦を堪え忍んで来られたのは、良くも悪くも切嗣の存在があったからだ。

 父親なのだ。幼い心を育めず、幼い心身のまま時を経た少女は、憎んでいても父親を求めている。切嗣に――助けてもらいたがっている。

 だが切嗣は死んだ。何年も前に、廃棄されたホムンクルスの口からその事実を知らされ、彼が養子を取っていたことを知らされた。その養子への復讐は、イリヤスフィールの生きる目的になるはずだと唆されて。彼女の心の支えは、もはやそれだけになっていた。

 

(殺したい……助けて……殺してやる……助けてよ……殺す……わたしを助けて――おとうさん――)

 

「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ」

 

 

 

 ――ひとつ、誤算がある。

 

 

 

 イリヤスフィールの、ではない。例によってアインツベルンの誤算だ。ラインの黄金に齎された、彼らにとっての不運だ。そしてイリヤスフィールにとっての福音である。

 

 ギリシア神話最大の英雄。人類史上に明確に残された物証により実在を確実視されている、史実の中でも最大最古の大英雄。それがアインツベルンが召喚しようとしているサーヴァントだ。

 彼には二つの名と二つの顔がある。生前ならばそのどちらも完全な同一人物だが、英霊の座に刻まれたことで、二つに別れているのだ。

 名は、ヘラクレスとアルケイデス。神の栄光、マルスの栄光。

 顔は、神話の英雄としてのものと、史実の大王としてのもの。

 アインツベルンは彼を狂化させることで、その適正を持つ神話の大英雄としての『ヘラクレス』を喚び出そうとしていた。

 『ヘラクレス』の冒険はヘラに狂わされることで始まる。愛する妻子をその手で殺害することになった悲劇的な逸話の知名度は非常に高く、高ランクの狂化適正を獲得するには充分であった。こちらを喚び出せば神話の戦士としての彼が招かれ、狂化の檻に閉じ込められるはずなのだ。

 『アルケイデス』として喚び出されれば、彼は狂わない。戦神マルスを信仰し、戦神と縁深い戦女神アテナによって加護を与えられたアルケイデスは、その名をマルスに呼ばれる故に英霊『ヘラクレス』とは区別されている。神話は神話、史実は史実と。二つの名で語られる故に、遙か時の果てだからこそ正確な記録を真実と判断できず、人の信仰によってカタチを変える英霊たる彼の性質も分けて見られている弊害があったのだ。

 

 すなわち狂戦士の彼の英雄は『ヘラクレス』でしか有り得ないのである。

 

 だがそれはあくまで魔術式の効果。召喚に応じるか否かは、英霊側に選択権がある。強制的に召喚することも可能だが、彼ほどの英霊ともなればその強制力も弾けるのだ。

 英霊の座に刻まれた彼の英雄の本体とも言える英霊は、その声を聞いた。その意識の裏にあるものを聞いた。召喚主の求めるものを。

 

 父親を、求めていた。

 

 護ってくれる人を、求めていた。

 

 救いを――欲していた。

 

 ならば。用意された狂戦士の檻など、どうして忌避しよう。幼子が救いを求めているのに、どうして召喚を拒もうか。求められるままに彼は英霊の座から分霊を送る。サーヴァントに身を窶すことを是とした。

 アインツベルンの誤算とはそれだ。

 狂戦士の座を用意した以上、召喚されるのは神話の英雄としての彼だ。しかし召喚主である少女の深層心理の求めに応じたのは、より父性の強い側面――『アルケイデス』だったのだ。

 すなわち、威名高らかなる戦士王。試練に挑む半神半人ではなく、人類の信仰の在り方を次のステージに推し進めた偉大な王者である。

 ヘラクレスでも、アルケイデスでも、その戦闘力に違いはない。スキルは違う、宝具も違う、性格も微妙な差異がある。しかしその本質は変わらない。

 

 ただ、サーヴァント『狂戦士(バーサーカー)』の座にアルケイデスがやって来てしまえば――固有スキル『アテナの御手』により狂化の恩恵こそ得られないが、狂化の檻など全くの無意味となる。理性を失わない。

 そして矛盾が発生するのだ。狂戦士の適性は『アルケイデス』にはない。しかし現実にあるのはその座であり、正式な呪文と儀式によってそれ以外のクラスにはなれないのだ。招かれたのは『ヘラクレス』でも、応えたのが『アルケイデス』で、無理矢理その座に押し入ってしまえば狂戦士の適性を持つ神話の戦士『ヘラクレス』としての側面も併せ持つカタチとなる。

 アインツベルン、痛恨の誤算。それこそが英霊ヘラクレスと英霊アルケイデスが、天文学的な確率の極小の可能性の中で奇跡的に同時召喚されてしまうというものだった。英霊として分けられた『ヘラクレス』と『アルケイデス』が、この時、この局面、イリヤスフィールをマスターとした時に限って。英霊という括りの中では限りなく生前に近い、本来の『戦士王アルケイデス』を召喚することに繋がるのである。

 

「問おう――」

 

 イリヤスフィールは、あれ? と首を傾げた。

 呪文の完成と共に眩い光が発され眼が焼かれるようだったのが。光が収まり、英霊召喚を成功させた手応えがあるのに、体と全身の魔術回路に掛かる負荷が先程と変わらないのだ。サーヴァントが指先一つ動かすだけで激痛が奔るはずなのに。

 痛いのは、痛い。けど泣き叫ぶほどではない。我慢できる範囲である。拍子抜けだった。もしや召喚が失敗したのかと顔を青褪めさせる。そして、次の瞬間に驚愕した。

 

 ()()()のだ。

 

 狂って理性のないはずのサーヴァントが。ひどく温かい声音で。確かな理性を以て。

 そんな、と思う。イリヤスフィールは愕然として現れた偉丈夫を見た。

 

 代名詞とも言える黄金の獅子の鎧を着ていない。剣も弓もない。腰に上質な布を巻き付けた格好である。

 無駄なく鍛え込まれた鋼の如き肉体と、精悍な面構え。背中まで届く癖のある黒髪。慈悲深く慈しみに満ちた眼差しに、イリヤスフィールは呆然とした。だってそれは、狂戦士には有り得ない感情の色そのものだったから。

 そして彼は名乗る。その偉名を。

 

()()()()()()()()()()()()()、真名をアルケイデス。小さき者の求めに応じ参上した。お前が私のマスターか?」

「――え。バーサーカー……?」

 

 ひどく存在感の希薄な英霊だった。そして告げられた真名は、ヘラクレスではなくアルケイデスである。無論イリヤスフィールはアルケイデスが等号でヘラクレスと結び付けられる。しかし極めて不可解だった。

 なぜ狂戦士が話せるのか。明確な理性を残しているのか。意味がわからない。全く以て理解不能。てっきりバーサーカー以外のイレギュラークラスなのかと思いきや、そうでもないらしいことに困惑する、

 イリヤスフィールはこの時はまだ、己の起こした奇跡を知らない。己が聖杯である故に、その魔力が持つ『願いを叶える』という魔術特性が、自身の望みである救い手を招いたのだと知らない。

 

 ――冬の城に吹雪く白き風。召喚の儀式に用いられたその場にて、大きな英雄と、小さな姫が邂逅した。それはまさに、運命(Fate)だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――バーサーカーは、つよいね――

 

 イリヤスフィールは、淡い笑顔を浮かべていた。吹雪の止んだ冬の城、その領域で佇む枯れ木の傍に偉丈夫が座り。その膝の上に乗った小さな姫は、甘えるように背中を預けて偉丈夫の顔を見上げていた。

 周りには、狼の群れの死骸がある。アインツベルンの領域に生息したことで、魔獣の特性を微かに帯びていた狼達は、イリヤスフィールを襲ったもののそれを護る巨雄により容易く屠殺されている。

 

 ――本来召喚される予定だった『ヘラクレス』がバーサーカーだったなら。

 理性がない故に手加減できず、大聖杯の補助無しに彼を維持するためイリヤスフィールはヘラクレスが指先を動かすだけで悲鳴を上げる毎日を送っていただろう。

 そしてイリヤスフィールはそんなヘラクレスを罵倒しかしなかったはずだ。しかし冬の城で孤立しているイリヤスフィールが頼れるのはヘラクレスだけで。苛烈な訓練の末に、人格を失っているはずのヘラクレスと固い絆を結ぶに至っていただろう。

 そうして聖杯戦争が近付きヘラクレスの制御に慣れると、苦痛の仕返しとして彼から理性を奪い、完全に狂戦士として扱っていたはずである。

 

 しかし此処にいるのはアルケイデスだった。指先一つ動かすだけでイリヤスフィールに悲鳴を上げさせるような負担を掛けていない。

 それは限りなく霊体に近づき、存在感を希薄にしているから。不必要な運動を控え、自身の保有する宝具を消している故の……謂わば魔力の節約を自分で心がけているからだ。

 

 何より理性があり、会話ができる。イリヤスフィールにとって、これは大きかった。切嗣や母アイリスフィールと同じ、無条件に自分の味方になってくれる存在は、彼女の心の琴線を擽り。アルケイデスの持つ父性と言えるものに、知らず知らずの内にべったりとなついてしまったのである。サーヴァントの制御に魔力を吸い上げられているため、見た目相応の力しか発揮できないイリヤスフィールを、狼の群れからアルケイデスが護ったのが決定打となったのだ。

 安心材料はそれだけではない。イリヤスフィールはサーヴァントという存在を知り尽くしている。自身に令呪があり手綱を握れる立場と力があることも、イリヤスフィールの精神安定上大きな助けとなっていた。バーサーカーは自分を絶対に裏切らない――その確信は、令呪という打算があるからこそ、何よりも強固なものとなっているのだ。

 

「ふぅん。じゃあ、バーサーカーはきちんと宝具を持ってるのね」

 

 アルケイデスは薄い笑みを浮かべて自分を見上げるお姫様を見る。そして穏やかに応えた。

 

「ああ。セイバーやアーチャー、ランサーなどの三騎士ではなかったことは幸運だったかもしれないな。クラス・スキルというアドバンテージは得られていないが、宝具の数自体はライダーの私に次ぐだろう。マスターの負担にならぬよう、聖杯戦争が始まるまでは出すつもりはない。ケリュネイアがいないのは寂しいがな……」

「神速の牝鹿ね。ね、伝承通りに黄金の角と青銅の蹄を持ってるのって本当なの?」

「そのとおりだ。ついでに言えば毛並みも良い。もふもふだ」

「もふもふ?」

「ああ、もふもふ」

「……んもー! なんで持ってきてないの!? 触りたいー!」

 

 じたばたと手足をばたつかせるイリヤスフィールに、アルケイデスは微笑む。

 子供によく好かれるアルケイデスは、その相手もお手のもので、何が気を引くかも知悉し関心を引く会話ができた。話し方も柔らかで、イリヤスフィールの心を安らがせている。

 今この瞬間も、ある程度の痛みをイリヤスフィールは感じている。しかしもう慣れていた。少し我慢できないぐらい痛かったのは、バーサーカーが狼の群れを屠殺するために多少激しく動いた時だけである。

 

 和やかに話していると、イリヤスフィールの関心は次第にバーサーカーの生前に向いた。

 

「ね、バーサーカー」

「なんだ、マスター」

「あなたと話してると、不思議に思うことがあるの。ほら、十二の試練の十番目のことよ」

「ああ――」

 

 それに触れられ、バーサーカーは遠い目をする。過去を振り返る眼差しに、イリヤスフィールは興味津々に訊ねた。

 

「数千頭の牛をゲリュオンから奪った帰り、ジブラルタル海峡を叩き割って『ヘラクレスの柱』を作ったのって本当?」

「……本当だ」

 

 嫌な思い出なのだろう。どうにも言葉尻を濁してしまう。

 しかしそんな反応をするものだから、無邪気で残酷な一面もあるイリヤスフィールは却って好奇心を刺激された。

 その話題を避けたり止めることはなく、むしろ嬉々として訊ねてしまう。

 

「伝承だと近道をするために山脈を割ったって言われてるけど、実際はどうなの? バーサーカーと話してると、そんなことしそうにないんだけど……」

「……むしゃくしゃしてやった。今は反省している」

「えっ?」

「私は生前、略奪を働いたことはない。ゲリュオンの一件以外はな。そのような真似をするのも御免だったが……ミュケナイのため、そして試練であるため実行せざるをえなかったのだ。だがゲリュオンは怪物だったが悪しき者ではなく……彼の者から牛を略奪し、やむなく射殺することになったのは今でも慚愧の念が絶えん。その帰り、罪の意識に耐えかねて、つい、な……」

「……ぷっ。()()で山脈割っちゃったの? なにそれ! あはははは!」

「笑わないでくれ……私にとっては痛恨事だったのだ」

 

 顔を掌で覆い、バーサーカーは苦悶する。それが面白くてイリヤスフィールは暫くけたけたと笑い転げていた。

 体を奔る痛みのせいか、それを意識して忘れるためにややオーバーなリアクションを取るようになってしまっているのだ。聖杯戦争がはじまれば、それも収まるだろう。

 イリヤスフィールは根掘り葉掘りバーサーカーの生前の思い出を訊ねた。そうすることで相互理解を深め、関係性を強固にしようとしている。イリヤスフィールは、父代わりとも言える彼の全てを知りたがっていた。自分にとって唯一の味方で、唯一の話し相手で、唯一の――『おとうさん』だから。彼のことについてならなんでも知りたがるのは、イリヤスフィールの控え目な甘え方だった。

 要は、構ってほしいのである。色んな顔を見たいのである。困った顔、怒った顔、悲しむ顔、懐かしむ顔、優しい顔、厳しい顔。その全部を。

 だから平然と、彼の逆鱗に触れたヘラについても聞きたがり。若干バーサーカーを辟易させたりした。そんな顔にも無邪気に喜ぶのだから、バーサーカーは苦笑するしか無い。

 

「ね、ね!」

「………」

「二番目の妻って、ヒッポリュテだよね。途中まで突き放してたのに、どうして最後には結婚したの?」

「……本当に、マスター。お前というやつは、少しは遠慮というものをだな……」

「いいでしょう? だってわたしマスターだもん。そしてバーサーカーはわたしのサーヴァント! マスターの言うことは絶対なんだから!」

「とんでもないじゃじゃ馬姫だ……まったく」

 

 そう言いながらも、結局は仕方ないと話してしまう。甘やかしてしまう。

 バーサーカーはイリヤスフィールに関しては、徹底的に甘やかしてくれる相手が必要だと感じていて。だから最終的にはこちらから折れるようにしている。

 恥ずかしくても、この程度は我慢できる。よほどの悪事でもない限り、諌めもせずに言うことを聞ける。全肯定してやれる存在に徹するのだ。

 

「そうだな――結局のところ、私は負けたのだ」

「負けた? どういう意味なの?」

 

 イリヤスフィールはよく分からないらしい。それもそうだ。一言で語り尽くせるものではない。

 遠くを見詰めて、バーサーカーは語る。そう、それは彼が『ヘラクレスの柱』を作ってしまった後のことだ。

 

 

 

『アルケイデス……』

 

 

 

 切なげに呼ぶ声に、深く長い溜め息を吐いた――ケリュネイアなどはうんざりしたように荒い鼻息を吹き出し、やれやれとでも言いたげに首を振ってもいる。

 ヒッポリュテだ。ぴたりと張り付いてくるわけではないが、傍にいて片時も離れようとしないのは歩きづらい事この上ない。

 しかし気持ちを察する事はできなくもなかった。好いた男が一時は半年間も行方知れずだったのだ。相当に気を揉んでいたのだろう。アルケイデスが死ぬはずない、誰かに殺されるはずがない、けど何かがあったのは間違いなくて。気が気でなくて、心配で仕方なかったのだ。アルケイデスなら何があっても大丈夫だと信頼はしていても、脳裏を掠める『もしかして』という思いは拭えなかったはずだ。

 

『………』

 

 その半年間、自分はのんびりと楽しんでいた。

 出来の良すぎる武術の弟子と組手をし、ギリシアでは到底学べなかっただろう建築学と帝王学を、それぞれネフェルタリとラムセスから教示してもらえた。

 自身の格闘術、パンクラチオンを独自に昇華したものを、異郷の格闘術を修めていたモーセから盗み織り交ぜて、更に改良発展させることもでき、更にその練度をモーセと共に高めることもできた。

 充実していたと云える。その間、イオラオスやアタランテ、ヒッポリュテが自分を探し回っているだろうと分かっていたはずなのに、焦りもせず帰還の方法を探していたのだ。

 

 故にヒッポリュテの様子に罪悪感を感じる。こんなにも想われているのに、己は予期せぬ良縁と巡り合い、自身を高められる感動に喜んでばかりいたのだから。

 

 ラムセスには、自身が暗殺したエジプト王の領土について話し、後を託している。後顧の憂いはない。――そんな事情もあって、気にしてしまうのはヒッポリュテのことだけだった。

 

 イオラオスは最初から心配していなかった。またどっかで何かしてるに決まってると決めつけており、再会した時にアルケイデスから事の経緯を聞き出すと息巻いていて。アタランテはそんなイオラオスを見て『汝がこうなんだ、ならば心配するだけ徒労だ』と構えていた。故にヒッポリュテのみを気にするだけでいい。

 くどいようだが、半年だ。これだけ時間が空けば、彼女の熱情も冷めているのではないかと……期待していなかったと言えば嘘になる。

 こんな面倒で、付き合えば大変な目に遭う男を想わずにいてくれれば、容易に彼女は幸せになるだろうと思っていた。――分かっている。それはアルケイデスの自分本位な逃げでしかない。彼女の幸せは彼女が決める、自分が決めるものではない。ヒッポリュテの望みは自分と共にいることだと分かっているのだ。

 それに――不義理で不誠実だとは思うが、アルケイデスは自分以外の男と寝るヒッポリュテを想像すると、腹が立って仕方がなくなる。メガラを盾に逃げる己が、ひどく情けない男だとしか思えなかった。

 

『ヒッポリュテ』

『……なんだ?』

『すまなかった』

 

 何に対して謝られたのか、よく解らなかったらしい。きょとんとしたヒッポリュテだが、可笑しそうに破顔する。凛とした美貌の女戦士長は、華やかな微笑みを湛えた。

 

『許そう。私はお前の総てを許し、肯定する。例え此の世総ての悪を成したとしても、私だけはアルケイデスの味方だ』

『……重いな』

『何を言う。お前にとっては軽いだろう? 此の世の総ての悪なんて、世界の三分の一程度の重さだ。アルケイデスの膂力なら軽い荷物にしかならない』

 

 からかうように肘で脇腹を小突いてくるが、アルケイデスは重苦しく零す。

 重い。此の世の総て、天地万物よりも。少なくともアルケイデスにとってはそうなのだ。人一人の感情の方が、世界なんてものよりもずっと重く感じてしまう。

 

 ヒッポリュテは優しい女だった。ゲリュオンの牡牛を略奪し、持ち主を射殺する羽目になり。ジブラルタル海峡を叩き割ったアルケイデスをずっと心配してくれていた。

 こんなに良い女が、他にいるだろうか? ……いるかもしれない。メガラがそうだ。だが彼女は死んでいる。彼女の存在を盾に、彼女への愛を忘れないがために、今あるものを無視するのは――ひどく、傲慢で愚かなものだ。

 告白すると、アルケイデスもまた、ヒッポリュテの想いに絆されている。

 このままなぁなぁで流す真似は、もうできない。ミュケナイを眼の前にして、アルケイデスは意を決した。ここでもう決着をつけようと。

 

『ヒッポリュテ』

『………ああ』

『お前は私を愛しているのか?』

『愛している。以前も言った。何度でも言おう。私はお前を愛している』

『そうか。ありがとう。……だが、私は亡き妻を今でも愛している』

『知っている』

 

 アルケイデスの言葉に、ヒッポリュテは微笑んだ。メガラへの嫉妬もなく、あくまで自然に。

 その貌が、あまりにも綺麗だった。

 

『……仮にお前と結ばれるようなことがあっても、私はメガラを忘れないだろう。彼女への愛を失わないだろう。そんな私を、お前は……ヒッポリュテは赦せるのか? 私なら耐え難い苦痛だと思う。ヒッポリュテとて、そうではないか?』

『侮るな、アルケイデス』

 

 綺麗で、尊く。美しい。ヒッポリュテは神々しさすら感じられるほど、深い情愛を再び告白する。

 

『私は愛されたい。だがそれ以上に愛したいんだ。間違えるな、私が愛する。アルケイデス、お前を。お前が誰を愛しても、問題にはならない』

『――それは』

『仮に、だったか? ああ、心躍る仮定だな。……仮に私とお前が結ばれて、その後もお前が前妻を愛していたとしても構わないとも。忘れろとも言わない。愛を独占できないのは勿体ないが……私がアルケイデスを愛しているという事実は揺らがないんだ』

『は……なんだ。それは。はは……はははは! 変人といつか私に言ったが、お前の方こそ変人ではないか! ははははは! まったく、お前という奴は……!』

 

 アルケイデスは、負けた。ヒッポリュテの穢れない、まっすぐで純粋な愛に、頑固に意地を張り続けていたものが、折られた。

 大いに笑った。眦に涙が滲むほど笑い転げた。

 やがてそれが収まると、アルケイデスはヒッポリュテを見詰める。そして真摯に、告げた。

 

『結婚しよう』

『――いいの、か? 冗談……だなんて、言わない……?』

『言わない。惚れた。お前に惚れたのだ、ヒッポリュテ。私と一緒になってほしい。私と共に生き、私と共に死んでくれ。お前の全てを私に与えてくれ。代わりに私の全てをお前に与える』

『ふ――ふふ、なんだ。お前も、重いじゃないか』

『お互いにな』

 

 ヒッポリュテは、泣き笑いのような貌で感激し、感極まって涙を流した。

 そんな彼女を抱き寄せて、アルケイデスは口づける。はじめて交わした接吻は、涙の味がした――

 

 

 

「も、もういいからっ! この話はおしまい!」

 

 

 

 ――イリヤスフィールは貌を真っ赤にしてブンブンと両手を振る。

 バーサーカーが微笑む。彼から聞き出したのは自分だろうに、照れて耳まで赤くしている少女の純真さが可愛らしかった。

 そんなバーサーカーの眼差しに、イリヤスフィールは不服そうに赤い頬をふくらませる。サーヴァントのくせにっ! そう毒づくも負け惜しみにしか聞こえない情けなさがあるのに、イリヤスフィール自身が悔しそうだった。

 バーサーカーは誓う。彼女の身上を知った身として。

 イリヤスフィールに、普通の少女としての人生を。聖杯に託す願いはそれだ。必ず勝利して、彼女の寿命の短さを克服させる。例え他者の悲願を潰すことになってでも。彼女のサーヴァントとして、彼女のことだけを優先するのだ。

 

 必勝を誓う。全てはイリヤスフィールの幸せのため。故に――

 

(アインツベルン。貴様らは……()()()

 

 イリヤスフィールを縛り、痛めつけ、寿命を削り、この聖杯戦争で使い潰そうとする人形の巣窟を殲滅する。

 まず手始めに、そこからはじめようと、静かに憤怒する戦士王は算段を立て始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




書き辛いゲリュオンを、未来から話す形で巻くマジック。
なお次からは普通に時系列戻る模様。


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10.2 最後の平穏は賑やかに (上)

またも、はたけやま氏より支援絵をいただきました。
完全武装(剣)のアルケイデスです。
 
【挿絵表示】

まるで……そう、まるでダクソNPCか、もしくはボスかのような迫力。
御美事でございます。はたけやま氏、ありがとう!






 

 

 

 

 心地好い倦怠感に包まれていた。

 日の出と共に眼を覚まし身じろぎすると、張りと弾力のあるものが腕と接触する。

 慈しみ深いものに抱擁されたような安心感があった。重い荷を下ろしたような安堵感もある。いつになく重い瞼を開くとその目に飛び込んできたのは、形容し難い吸い付くような柔らかさと穢れのない純白が象る人肌であった。

 自身の厚い胸板に添えられた華奢な細腕を感じた。こんな……触れれば折れてしまいそうな腕に、信じ難い膂力が秘められているのを知っている。しかし今は白雪のように儚くて、ただただ愛おしい。

 

「ん……」

 

 寝台が僅かに軋む。隣に穏やかな寝息を立てる女の輪郭を認めたアルケイデスは、官能的な呻き声を漏らした女の黒髪を撫でた。

 常は丹念に束ねられている絹のような髪は解かれている。腰元まで届くそれを、白い布の敷かれた寝台の上に広げ、生まれたての赤ん坊のように無防備な姿を晒していた。

 豊潤な大地のように豊かな乳房が、横向きに眠る女の腕で形を歪めているのが情欲を掻き立ててくる。明朝から愛欲の火が灯りかけるのを、辛うじて抑え込んだ。久しかった吐精の体感に、昨夜――いや一昨日……いや待て、一昨々日だったか……?

 何故だが時間の感覚が狂っているが、どういうことだろうか。鼻孔を擽る酒の匂いも気に掛かる。はて、何があったのだろう?

 

 ズキリと頭が痛んだ。頭の芯を微弱な電気で打たれたような痺れである。

 いつ以来だろう、前後不覚に陥っていた。極楽のような快楽に溺れ、ひたすら堕落を貪る行いに進んで耽溺していた覚えがある。

 一匹の獣となり、肉と酒を喰らい、欲望の赴くままに昂ぶりを吐き出した。前妻を抱いた時は常に壊れ物を扱うように加減をしていたが、ヒッポリュテにはその必要もないようで、一切の気遣いなく振る舞ってしまった気がする。

 体が強い。精力が強い。たった一人で、百人の女でも受け止めきれぬ猛りを鎮めてくれた。だが――穏やかだが死んだように眠るヒッポリュテには悪いが、まだ足りないと感じてしまっている。タガが外れて畜生のように性の営みを続けたいと、今も思ってしまっていて。無意識に伸ばしていた手にハッと気付き引っ込めた。

 これ以上はヒッポリュテを殺してしまう気がしてならない。なんとか理性を取り戻せる程度には落ち着いていた。……史上最強の雄が獣になり、襲い掛かってくるのを迎撃したヒッポリュテは、さながら絶望的な戦いを前にしたかのような心境となっていただろう。彼女の献身に仇で返すわけにもいかない。疲労困憊で眠っているヒッポリュテを起こすのは偲びなく、夢の中に意識を揺蕩わせる彼女をそのまま寝かせておくことにした。

 

 外に出る。庭にある井戸から水を汲み、桶に満たされた水を頭から被る。体を清めて精の匂いを落とした。今の己の鼻では嗅ぎ取れないが、きっと臭うだろうと判断できる程度の思考力は残っていた。

 

「む……」

 

 そんなアルケイデスの元に、一羽の鷹が飛び込んできた。腕を差し出すとそこに留まる。鋭利な爪の光る足には紙が括られていて、それを抜き取り中身を確かめた。

 テラモンからの手紙だった。なんでも娘が生まれたらしい。アルゴー号で邂逅した時のアルケイデスとテラモンの遣り取りを聞いていたゼウスが、テラモンが子宝を授かるように手配してくれたらしい。それで男児が生まれるものと思っていたのに、妻としたメディアが細工をして女児が生まれてきたという。やむをえないのでアルケイデスに付けてもらった『アイアス』の名をそのまま与えたという。

 

「……コルキスの王女がなぜ奴の許へ……?」

 

 ゼウスのことより、テラモンが子を授かったことより、そちらの方が驚きだった。

 何があったのだ。メディアは確かにコルキスに送り返したはずである。それで終わりのはずだ。世間知らずで純心に過ぎる乙女は、生まれ故郷のコルキスで幸せに暮らせるはずだろう。

 そう思いながら続きを読むと、アルケイデスは苦笑を漏らした。

 どうやらコルキスの王女は思っていたよりも行動派だったらしい。エロースの矢の一件がなければ、彼女はテラモンに恋に落ちていたというのだ。それをコルキスに帰還した後自覚したメディアは、居ても立ってもいられずテラモンを探し求めて旅に出たらしい。

 紆余曲折を経てメディアはテラモンの元に辿り着いたが、その旅の最中に世間の荒波に揉まれ、過剰な純心さが擦れ、良い塩梅の性格になっていたらしく、彼女からの求愛にテラモンは応じたのだという。いじらしく、また自分のもとに来てくれたメディアの気持ちが嬉しかったのだとか。

 

 そしてアイアスが生まれて。テラモンは思ったらしい。愛娘が健やかに育てるようにアルケイデスが会いに来てくれたら嬉しいと。

 メディアもきっとアルケイデスと久し振りに会いたいだろう、かなり失礼を働いてしまっていたのを気にかけていたから……と書かれていた。

 

「……テラモンの娘、か……」

 

 旅の仲間だった。そんな男の気持ちに応えてやりたい。アルケイデスは一つ頷く。

 ゲリュオンの牛をミュケナイに届け、牛を手に入れる前に太陽神ヘリオスに教えられていた黄金の林檎も奪取していた故に、残す勤めは後一つとなっている。

 最後の勤めを今、エウリュステウスは必死に考えてくれていた。思いつくまでには暫く時が掛かるだろう。空いた時間は山ほどあるのだし、折角だから顔を出しに行くかと思い立った。

 

 テセウスもアテナイ王になっている。テラモンは元々王であり、イアソンもイオルコス王として善政を敷いていると噂が聞こえてきていた。

 

「イオラオス!」

 

 腰に布を巻き付け、ずんずんと歩を進めて館を出る。大声を発してミュケナイの都市を歩き回るも、イオラオスの姿が見えなかった。

 何事かと眉を顰める。すると、イオラオスは酒の満ちた杯を傾け、朝っぱらから飲んだくれて道端で座り込んでいるではないか。呆れて嘆息し、そちらに歩いていくとイオラオスはアルケイデスに気づいた。酒気の回った赤い顔で、にへらとやけくそ気味に笑顔を浮かべてくる。

 

「あぁー……伯父上じゃんか……なに? ヒッポリュテと三日も閉じ籠ってたの……やっと出てきたんだな……」

「………」

 

 呂律が回っていない、目が据わっている、ついでに台詞の文脈が乱れていた。らしくないほどひどい酔い方だった。

 他の者から言わせてみれば、アルケイデスと比べると遥かに大人しい酔い方ではあるらしい。しかし自分の酒癖など自覚のないアルケイデスには、イオラオスのそれは情けないものに見えて仕方ない。

 

「どうした。出掛けるぞ、供をしないのか?」

 

 なんやかんや、旅が始まって以来一番長い付き合いである。イオラオスを伴うのは当たり前になっていて、だからこうして探し回ったわけだ。そのイオラオスは、完全に腑抜けた表情でにへらと笑う。

 

「勝手に行けばいいじゃんかぁ……おれは行か、ない……」

「何があった?」

「なんでもいいだろぉ? 伯父上には関係――」

「――関係が無いとは言わせん。吐け、溜めるな。吐き出せば多少は気が楽になるぞ」

「…………」

 

 片膝を地面について、両手でイオラオスの肩を掴む。

 青年は気まずげに目を逸らしたが、アルケイデスに捕まった以上は観念して、ぼつぽつと溢した。

 

「……アタランテ、おれ、結婚してくれって言った」

「ほう。それで?」

「無理だって。……純潔の誓いがどうとか、じゃ、なくてさ……おれ、男として見れないんだ、と……」

「………?」

「ひっ、く。……げぷ。……勇気出して、言ったのになぁ……逃げやがった……無理とか、そんなの訊いてないよ……嫌だって、断るなら言えよ……」

「ふむ」

 

 アルケイデスは話を聞き出し、細く息を吐いた。

 なるほど、と。イオラオスとアタランテのことをよく知る故に、どういう機微が働いたかがよく分かる。

 イオラオスは不満なのだ。好きだと言い、結婚してくれと告げた。なのにアタランテは無理だと言った。嫌だ、ではなく。男として見れないなんて見え透いた嘘まで吐いてまで。それでイオラオスは……まるで少女のように泣いているのだ。

 可愛いやつ、とは思う。が、下手に時を置けば仲が拗れるだろう。二人を大切に思うからこそ、それは見過ごせない。アルケイデスはイオラオスの腕を掴んで立ち上がり、無理矢理に甥を立たせると、その背中を強く叩いた。

 よろめいて、思いっ切り咳き込み、吐瀉を吐き出したイオラオスが抗議してくる。

 

「ゲッハァ!? ゲッホッ、ゲホッ……ゲェェエエ……! ……なに、すんだよ!?」

「黙れ。今のお前を私の伴にする気はない。さっさとアタランテを探せ。そして押し倒せ」

「はぁ!?」

「私に言えた口ではないがな。お前のために敢えて言おう、恥を忍んで。……いいか、アタランテは踏ん切りがつかないだけだ。柵、過去、誓い……それを踏み越えてくれることを、イオラオスに期待しているに過ぎん。こんな所で管を巻いて……時を置いてみろ。奴は失望し、お前や私の許から去るだろう」

「ぇ……」

「惚れた女の心ぐらい察しろ。分かったら行け! 自分に物を言っているようで屈辱的だ。そんなところまで私を真似るな、戯け!」

 

 喝を入れてイオラオスの襟首を掴み、アルケイデスはアタランテがいるだろう場所にあたりを付けて放り投げた。凄まじい投擲の勢いに、一気に酔いが醒めた青年の悲鳴が聞こえてくる。着地は上手くやるだろう、こんなことで怪我をするようなやわな鍛え方はしていない。

 嘆息する。世話の焼ける甥だ。童貞だからかと肩を竦め、次会う時は一皮剥けた男になっていることを期待したいところだと思った。

 

 ともあれ今回の旅にイオラオスとアタランテは連れていけない。となるとケリュネイアとヒッポリュテとなるだろう。

 

「起こしに行くか……いや、まだ寝かせておいてやろう」

 

 アルケイデスはつぶやき、牝鹿の様子を見に行くことにした。

 

 それが――ギリシア最強の英雄夫婦が、旅の途上にトロイアに寄り道する半月前の光景だった。

 

 

 

 

 

 

 



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10.3 最後の平穏は賑やかに (下)

 

 

 

 困って、弱った。

 

 神獣の牝鹿が主の騎乗を許してくれない。ミュケナイを発って半日、眉をハの字にして、心底困り果てたアルケイデスはヨタヨタと歩くヒッポリュテを見た。

 助け舟を出してほしかったのだが、凛々しき戦御子は歩き辛いのをなんとか堪えて、逞しい愛馬の手綱を引いている。とてもアルケイデスの視線に気づく余裕はない。牝鹿は主人がヒッポリュテを見たのに却って機嫌を悪くしたように嘶いた。

 ケリュネイアの機嫌がなぜ悪いのか、アルケイデスには皆目見当もつかなかった。それはそうだろう、かけがえのない友であると信頼している獣が、よもや自身に種を超えた慕情を懐き、慕ってきているなどと想像すらできない。まさかケリュネイアがアルケイデスとヒッポリュテの初夜からの情事を察していて、そのことに嫉妬しているなどとどうやったら思い至れるというのか。

 遙か未来の極東の島国、日の出る国。その民達の倫理観と価値観に限りなく近い精神性をしていても、彼らの類似例の見られない変態的国民性(テクスチャ)からくる文化と芸術的――という暗喩でオブラートに包んだ――知識に触れたことのないギリシアの英雄には想像すらできない。

 

 よってケリュネイアの機嫌の悪さの原因に思い至れず、なぜ共に来ているのに傍には決して寄って来ず、遠巻きについて来るだけなのか理解できなかった。

 

「………」

(………)

 

 悲しげで、寂しげで、切なげで。ついでに言えば少し怒ってもいて、複雑そうでいながら祝福してもいる――気がする。

 そんな眼差し。

 心を通わせた友の言いたいことが、珍しく把握できないアルケイデスはどうしたものかと頭を悩ませた。機嫌を取りたいがどうすればいいか分からない。イオラオスとアタランテを無理矢理でも連れてくるべきだったと身勝手な後悔を懐いてしまいそうだ。

 

「あ、アルケイデス……少し速い、もうちょっと遅く歩いてくれ……」

「む、すまない」

 

 懇願するような弱り声に、ついいつもの速さで歩いてしまっていたアルケイデスは謝意を告げる。

 女は初体験の時、股が裂けるような痛みがするのだという。その上さらに三日間も、この世界(テクスチャ)の人間の内では随一の精力を持つアルケイデスの相手を務めていたのだ。体の相性が良く、最初の半日は辛そうだったヒッポリュテも気をやるようになってはいたが、その肉体に掛かった負担の大きさは男の身では真の理解には至れない。

 猛きアマゾネスの元女王であり、女戦士長である彼女ですら馬に乗ることはおろか、歩くことすらままならぬほどである。並の女では壊れていただろう。尤も……アルケイデスに遠慮させないために酒を盛ったヒッポリュテの自業自得ではあるのだが。

 

 式を挙げ夫婦となった故か、互いの距離感はグッと近くなっていた。

 自然とヒッポリュテに寄り添い歩行を補助すると、彼女は嬉しそうに頬を緩める。そしてケリュネイアは不満そうに地面を蹴った。

 その足音に視線を向けると、ぷいっと顔を逸らされるのだ。どうしたんだいったい、とアルケイデスはますます当惑してしまう。

 

「ふふ……」

「どうした」

「いや……これは確実に孕んだぞ。間違いない」

 

 ふいに微笑み、幸せそうに自身の下腹部を撫でたヒッポリュテに、アルケイデスは苦笑した。

 

「名前はなんにしようか?」

「そうだな……男児なら私が考えよう。女児ならヒッポリュテが考えてくれ」

「分かった。アマゾネスに相応しい名を考えておく」

「……それはどうなんだ?」

 

 アマゾネスの部族に入る気のないアルケイデスである。思わず反駁するも、どこか楽しげだった。

 牝鹿については放っておこうと決める。たまには虫の居所が悪い時もあるだろうと。ケリュネイアに相応しい伴侶を探すのも手かもしれない。発情期なんて見たことはないが、今がそうなのかもしれないのだ。

 

 ――(……ご主人様。……うん、そうだ。ご主人様の幸せが、わたしの幸せ。やっぱりわたしが、守らなくちゃ。みんなわたしより脚が遅いんだから)

 

 そうして、そっとしておこうと決めたことで、ますますケリュネイアはへそを曲げることになる。種族の違いからくるすれ違いで――それが、ケリュネイアにある悲愴な決意を懐かせることになる。その事実にアルケイデスはついぞ気づいてやれなかった。それは喜劇ではない。掛け値なしの悲劇である。いや、悲劇であると認識する者はどこにもいまい。生けるモノにはつきものの、ありふれた出来事で。温厚なアルケイデスをも心の底から激怒させる、激甚なる惨劇を齎す火種である。

 穏やかに目的の地に進む彼らは、ケリュネイアも含め未来の出来事を予期できない。ある乙女は予言するだろう、だが誰も信じてやれなかった。

 

 その日の夜営、その次の日の旅路、彼らはサラミス島を目指した。

 

「男児ならヒュロスと名付けよう」

 

 それは、アルケイデスとヒッポリュテの第一子。戦御子と大英雄の血を受け継いだ、次代の英雄旅団でアイアスの右腕となる勇者。

 

「女児なら……うん。アレクサンドラ、というのはどうだろう?」

 

 それは、英雄夫婦の第二子。騎士の称号などこの時代には存在しないのに、後の世に世界最古の姫騎士などと揶揄される堅物。知勇と美と礼に長けた傑物だ。

 

 生まれてくる我が子を想い、彼らは優しい表情で旅路についていた。

 人として当然の幸福を享受して。未来に思いを馳せる人としての権利を噛みしめる。この穏やかな日々の尊さを、戦士である故に彼らはよくよく理解していた。

 いつ失われても不思議ではない。理不尽に奪われる可能性だってある。だからこそ“現在”を大切に過ごす。一分一秒の時の欠片すらも、得難い宝なのだから。

 

 そして彼らは、ある噂を耳にする。

 

 ――トロイアを襲う怪物がいる。高潮と共に現れる強大な海の怪物だ。

 波濤を操り、国やその土地に甚大な被害を与える、五十メートルはあろうかという小島の如き巨大な蒼い海獣。その姿は竜のようでもあり、鮫のようでもあるという。

 全身に堅牢な外殻を鎧い、その格は神罰の獣に比するほどのもの。

 その怪物はトロイア王ラーオメドンが、奴隷に扮したポセイドンとアポロンが神造の城壁をトロイアに築いた折に、約束していた報酬を神々に支払わなかったことで罰として遣わされたものだ。謂わば傲慢にして不誠実なトロイア王ラーオメドンの咎である。

 

 本来ならばアルケイデス――『ヘラクレス』ならもっと早くにトロイアに来ていた。だがエジプト神話との習合で半年、ゲリュオンの牛と黄金の林檎の勤めを同時に熟した故の時間差、そして本当なら死んでいるはずのヒッポリュテとの蜜月。それらが折り重なり、トロイアの救い主となるはずだったアルケイデスの到来は大幅に遅れていた。

 故にトロイアの状況は逼迫している。この怪物を鎮めるため、ラーオメドンは己の娘ヘーシオネーを海岸の岩にくくりつけ、生贄として捧げてしまった。だが怪物は鎮まらず、遂にはトロイアの王位継承者はポダルケースという男だけになったという。

 もはやトロイアの命運は風前の灯。神罰の海獣によりその国土は荒廃し、滅びるのを待つのみとなるだろう。

 

「……度し難いな」

 

 その噂を聞いたアルケイデスは吐き捨てた。

 

「約束の報酬を支払わなかった、故に罰を与えるというのは分かる。だがなぜ国民を巻き込む? 誠意の欠片もない愚王を誅するのみに収めればよかろう。なのにそこでなぜ国全体を滅ぼす獣を遣わす? ポセイドンは物の道理も弁えぬ痴愚か。王一人の責で、多くの無辜の民を滅ぼすとは何事だ」

 

 義憤に駆られた彼の意志に、ヒッポリュテは乗った。

 愛する男の怒りは己の怒りである。彼女自身、極端だが己の父以外の神など信仰するに能わぬと思っていた。神々の女王ヘラからの仕打ちや、エジプトの寛容な神々を見たことも手伝い、ギリシアの神々への失望は根深い。

 失望は容易く憤怒に染まる性質がある。ヒッポリュテはアルケイデスと違いトロイアへの同情はなかったが、懐いた海神への怒りは本物だった。

 

 彼らはトロイアに向けて急行する。そこでアルケイデスとヒッポリュテは、ある青年の勇気を知る。感銘を受けたヒッポリュテは、己の愛槍『不毀の大槍』を譲り渡し、彼の青年『兜輝く』ヘクトールの手によって『不毀の極槍』へと転じることになるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――ほんとうに往くのか?

 

 自身を心配して見詰める父に、彼の長子である青年ヘクトールは歯を見せて笑った。

 幼い頃から聡明であり、政治や軍事に対して高い才覚を発揮していた。愚王ラーオメドンの下に在っては才を腐らせるだけだったが、ラーオメドンの死後なし崩しにポダルケースが王位に就くと、彼の正妻の長子ヘクトールはその辣腕を振るった。

 神罰の海獣の脅威に荒れる人心を、国庫を開いて食料を炊き出して慰撫し、自身が怪物を討つと演説をぶち上げて勇気づけ、治安を正常に保つことに始まり。亡国の憂き目に遭いそうである故に四散しかけていた軍を統率して愛国心を呼び覚まし一兵の脱走者も出さず、無責任なトロイアの有力な豪族や商人を論破して黙らせた。

 八面六臂の豪腕を振るった彼を、トロイアの民達は神の如く崇拝する。そうして彼らを心酔させたヘクトールは、少数の精鋭を率いて海獣を討ちに出ようとしていたのだ。

 

 父王ポダルケースは、妻や我が子達を愛していた。ヘクトールは殊更にそうである。

 

 英雄の条件とは強さだけではない。その秀麗な美貌もまた必要条件だ。それを超え、長身を誇り、純粋な人間の身でありながら数多の英雄達に息を呑ませる美貌が彼にはある。まさにトロイアが誇る随一の英雄と言えた。

 そしてポダルケースはヘクトールを誇りとしている。平凡な自分が持つ一番の宝だと愛している。故にポダルケースはヘクトールに逃げてほしかった。何もかもを捨て、こんな滅びる国なんか捨てて。生きていて、欲しかったのだ。

 

 ポダルケースは一度、神罰の海獣を見ている。

 

 あれは人の勝てる存在ではない。幾らその武勇を以てすら鳴らすヘクトールといえども、特別な武具もなしに討伐は叶わない。

 ヘクトールの死は避けられない。それが分かっているからこそポダルケースは懇願して――だからこそヘクトールは猛々しく笑った。

 

 この時のヘクトールはまだ政治家ではない。まだ年若き将軍であり、己の武勇に自信を持つ武人であった。

 故に戦意も露わに獰猛な表情をしている。その身の本気を隠しもしない。

 

「大丈夫だ、父上。俺に任せてくれ。絶対にトロイアは俺が守る。俺達の家を……あんなちんけな畜生如きに滅ぼさせやしねえ」

「……ヘクトール」

「だーから、そんな顔しなさんなって。神の血の流れていない人間でもやれるってことを、オリンポスの神々に知らしめてやるさ」

 

 鋭く細められた眼には不条理への怒りがある。そんな息子を心配する父に、にやりと余裕の見えを浮かべてみせた。

 

 彼が纏うのはトロイアの秘宝である。彼の白金の兜は被った者に未来予知に近い直感を与え、身に纏う白金の鎧は装備した者の身体能力を大幅に向上させる。そして同質の白金の丸盾はヘクトールに強靭な守護の加護を与えるのだ。

 トロイア随一の勇将であるヘクトールがそれらを装備することで、彼は半神にも劣らぬ武力を発揮するだろう。ただ……それらを十全に活かす武器がないのだが。

 自身の指揮する精鋭達を率いヘクトールはじきに死出の旅に出るだろう。ポダルケースにはそれを止める手立てがない。弱い人間故に、もしかしたら、という根拠のない希望を捨てられなかったのだ。

 

 もしかしたら、ヘクトールが本当に怪物を倒してくれるかもしれない。

 

 小さな可能性に賭けたくなってしまう。故に止められない。それは人の性というものだった。だが親としての彼は止めたかった。

 行くな、と言いたい。

 逃げろ、と言いたい。

 だが言えないのだ。希望があるなら、王は諦めてはならない。我が子可愛さで判断を誤るわけにはいかない。

 

 ――だからそれは天啓に等しい福音だった。

 

「ポダルケース王、報告します!」

 

 いざ出陣という段になり、王宮から出てヘクトールを見送ろうとしていたポダルケースの元に一人の兵が駆け込んできた。

 ヘクトールは出鼻をくじかれた気分で兵の興奮を窘める。

 

「落ち着け、何事だ? まさかヤツが攻めて来やがったのか?」

「ヘクトール王子、違います――()()()()()()()! ヘラクレスが……あの獣を討ちにやって来ました!」

 

 信じ難い一報だった。

 彼のギリシア最大の英雄が来援し、トロイアの危機を救うと言ったのだという。

 報酬、見返りは無用。過剰な神の罰の歯止めを掛けに来ただけだと宣い、挨拶だけをして怪物を討ちに出たというのだ。

 

 ヘクトールは驚愕し、次の瞬間思わず走り出していた。ヘラクレスが来た、それは年若い彼の血潮を熱くし、名高き英雄をどうしても一目見たかったという想いがある。

 そして何より、無償で怪物を討つというヘラクレスの真意を見極めなければならないという使命感もあった。

 

 ゼウスがトロイアに贈った神馬に跨り、ヘクトールは父や部下達の制止も振り切って疾走する。

 

 これより後に、古代オリンピック開催の地、ペロポネソス半島西部に位置する古代ギリシアの都市を統べたオリンピア王アルケイデスと――トロイアの王子ヘクトールの邂逅はすぐそこまで迫っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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10.4 トロイアの王子、英雄たるを示す

 

 

「ほう――噂通り、無駄に(デカ)いな」

 

 思えば随分と遠回りの寄り道だ。

 サラミス島を目指していたのに、其処を通り過ぎてかなりの遠方まで出向いたのだ。テラモンは今頃、ミュケナイのアルゴスに手紙が届いていないのかと首を捻っていることだろう。

 

 弓兵として切り立った岸壁に立ち、打ち寄せる波濤の潮騒を聞きながら、細めた紅い双眸はトロイアに迫る蒼い巨体を確実に捉えている。

 中庸の白弓『吠え立てよ金獅子の鋭爪(レベンディス・メラーキ)』の金毛の弦を手慰みに引きながら、敵戦力を鑑定するため獲物の神獣をその眼力で切り刻んだ。

 

 五十メートルを優に超す規格外にして桁外れの巨体だ。戦神マルスの真の姿が光り輝く二百メートル近い神体であるのを考えると子犬のようなものだが、人間にとっては絶望的な体積と質量を誇ると断じられる。その巨体とそこから生まれる膂力だけで、一国程度を滅ぼすのなど容易いだろう。

 蒼い体はまさに大海の化身。蒼い外殻は時化た波濤の如き荒ぶる側面。海と地震を司る、ゼウスに次ぐ圧倒的な力を持つ神ポセイドンの権能の一端を預けられているのか、大海嘯を操る海の神獣は神罰を告げに何度目かの上陸を果たそうとしていた。

 

「狩りの相手とするのに不足なし、といったところだな」

 

 ヒッポリュテが嘯くのに、アルケイデスは呆れながら問い掛ける。

 

「体の調子は良いのか?」

「ああ。あれから何日経ったと思っている。復調しているに決まっているだろう」

「孕んでいるかもしれないと言ったのはお前だ。戦に加わるのは……」

「体はまだ軽い。私とお前の子ならば、一戦を経たとしても堕ちはしない。なんとしても私の胎にしがみつくさ」

「………」

 

 黄昏色の穂先を持つ大槍を旋回させて己が体の具合を確かめるヒッポリュテに、これは何を言っても無駄だなと嘆息する。

 妊婦に激しい運動は禁物だから、なるべく大人しくしておいてもらいたいのだが。

 アルケイデスは意識を切り替える。今はとにかく神罰の海獣を討つ手段を考案しなければならない。まずはこちらに気づいてもらう必要があるだろう。敵意を一身に集め、できるだけ被害が拡大しないようにするために。

 

 魔力から大矢を精製し弦につがえる。狙いは荒くとも良い。外殻の内、最も堅牢であろう頭部を狙って射掛けた。

 轟音一閃――真っ直ぐに飛来する大矢が虚空を斬り裂き、音を置き去りにして、通り抜けた海面上が一瞬遅れて大きく裂ける。衝撃波を発して飛翔した大矢は、間違いなく神罰の海獣の額を直撃した。

 

 遙か三十km先の巨体が揺れる。全力の一射だ。しかし大英雄渾身の矢を以てすら、外殻は些かも損傷していない。

 こちらに気づいたのだろう。ォォォォォ――神獣の遠吠えが海を荒らす。その眼光が明確に殺意を掃射してきていた。

 己に射掛けるは主人ポセイドンに弓を引くに等しい。神罰とは神意である。神意を伏して受けるが上意、これに歯向かうのは誰であっても赦されぬ。不遜な人間の姿を遠くに見た獣は、まず手始めにあの不届き者を誅殺してやろうと決めた。

 

 獣らしく単純な様で実に結構である。あるいは主人に似たのかな? そんな皮肉めいた諧謔が復讐の徒の脳裏を過ぎった。

 

「……()()か」

「ああ。だがそれだけではないようだ」

「?」

 

 ヒッポリュテが目を凝らして言うのに補足する。彼女の視力では細かいところまでは見分けがつかないのだろう。

 矢が直撃する寸前、神獣はそれに気づいていた。瞬間的に矢は対処され、蒼い外殻が()()()()のである。

 

「外殻か、それとも外皮か。ポセイドンの権能だろう。奴の体は地震のそれに等しい震動を任意に操れるらしい」

「……?」

「分からないか? 少なくとも奴はその外殻の震動で私の矢の威力を分散し、己の鎧に傷が残らぬ程度に衝撃を殺せるらしいぞ」

 

 地震を起こせる、海嘯を起こせる。あれは小ポセイドンとでも云うべき存在と見るべきだ。

 その震動を尾なり手足なりに纏い、打撃されたなら大地を震撼される力を身に受けることになる。アルケイデスであっても命を落としかねない。

 が、あの獣がスケールダウンして不死ではなくなったポセイドンだとでも思えば、俄然殺る気も湧いてくるというものだ。萎縮するなど有り得ない。

 

「遠巻きに射掛けて殺すのが最善だったが……地震の力は厄介だな」

 

 やってやれないとは思わない。要は地震を超える腕力で殴り砕き、柔らかな外皮を切り裂けば良いのだ。だがその戦法を採択するということは、海獣の上陸を赦すということである。当初の『被害を抑える』という目標に反するだろう。

 ならばやはり上陸させないまま殺す手段を模索するしかないのだが……弓で射殺すには堅すぎる。防御に転用された地震の力など初見なのだが、あんなにも厄介だとは思わなかった。まさか己の矢を受けて無傷とは……以前に射落とした太陽よりも上等な的である。

 

「被害を抑え神の獣を殺すには……」

「無理だ。被害は抑えられない。迅速に狩るように戦術を変えた方が確実だろう」

「……いや一つ思いついた」

 

 なに、と意外そうにヒッポリュテはアルケイデスに視線を向けた。

 戦術にも明るいアマゾネスの元女王である。その自分に考えつけないのに、この男は閃きを得たというのか。

 だがアルケイデスは苦笑する。そして手を伸ばしてヒッポリュテの髪に触れた。目をぱちくりとさせる女戦士長に、彼は惜しむように囁く。

 

「あれだけの巨体だ。相応に口も大きく、胃袋も大きいだろう。堅牢な体と鎧を持っていようと、肉の体なのだ。体の中はさぞかし柔らかいはずだ。体内に侵入し奴が息絶えるまで暴れてしまえば、被害を最小限に抑えるだけでなく確実に殺せるだろう。しかし……私だけならともかく、お前がいるとなればな……。まさか奴の胃液でその髪を溶かさせるわけにもいくまい」

「……嬉しいことを言ってくれる」

 

 戦士の顔を綻ばせ、凛々しい表情の上に嬉しさを現すも、ヒッポリュテはあくまで戦士として答えた。

 

「女魔術師にとって髪は命とメディアは言っていたが、女であれば誰であっても命に等しいだろう。私にとっても、この髪は母の遺伝だ、大事には違いない。だが気にしなくてもいいぞ? 戦によって失われるのなら耐えられる」

「私が気にする。お前の美しさを損なわせる者は、誰であっても許してはおけない。避けられるなら避けるべきだ」

 

 ガッ、とアルケイデスの鎧が鳴った。ケリュネイアが角で小突いてきたのだ。

 何を惚気けているのかと苛立ち半分、海獣が近づいてきていることへの焦り半分らしい。確かにあの海の獣を前にして交わす会話でもない。

 気を取り直して獲物を見据える。さてどうするかと思案するに、換算するのは己の取り得る戦法と力、ヒッポリュテの戦力である。

 同じように考え込んでいたヒッポリュテが言った。

 

「私の帯を使うか?」

「……それで私の弓の威力を底上げし、『射殺す百頭』を放つか。しかしそれでも一撃では仕留めきれまい」

「『不毀の大槍』は大雑把な代物だからな……一点突破には向かん」

 

 人差し指を立てた女戦士長が整理し、ひとまずの作戦を立案する。アルケイデスも当然思考を放棄せず、随所で意見を出しディスカッションの形を立てた。

 

「――まずアルケイデスが、私の帯を使い神気を纏い、弓の真名開放と弓技を合わせて射掛け、私は我が父の血を覚醒させ大槍の真名開放を用い擲つ。ここまではいいな?」

「物は試しだが、余り数は試せんな。時間が足りん。そしてポルテの案では一手届かんだろう。お前の槍の投術も悪くはないが……アレに通じるほどとは思えん」

「アルケイデス、お前が弓を撃った後すぐに帯を返せ。軍神の血を励起して帯と合わせれば、私でも素手でアレの外殻を叩き割ってやれるかもしれん。もしくは大槍で打ち掛かるのも悪くない。問題はどうやって近づくかだが……」

「ケリュネイア、ポルテを乗せてやってくれないか? お前が空を駆け、奴の頭の上にポルテを落としてくれればいい」

(………)

 

 無駄を省いて自身らの手札を掛け合わせ、意見と意志を合一させるべく議論する。

 水を向けられた牝鹿は不満そうだ。嫌々をするように首を左右に振るも、苛立たしげに蹄で地面を鳴らした。

 そして渋々頷く。ワガママを言っている場合ではないと。しかし気に食わないのには変わらないのか、ヒッポリュテの愛馬を角で何度か小突いていた。お前が不甲斐ないから! とでも言いたげで。駿馬とはいえ神獣のケリュネイアには気後れするらしく、アマゾネスの部族でも随一だった名馬もタジタジだった。

 

 それに二人して苦笑して、意志を統一する。最初は強く当たって後は流れで――それで決まりだ。

 

 と、そこでアルケイデスは自身の五感が、何者かが高速で近づいてくるのを捉える。馬の蹄の音――速い。ヒッポリュテの愛馬以上の脚力があるのを察知した。

 方角はトロイアの神造城、数は一、そこまでを振り向く前に把握したアルケイデスは背後に一瞥を向ける。すると一騎の白金の戦士が神馬に跨り疾走してくるではないか。

 見事な馬術である。長身の戦士は、その兜の下に見える端麗な貌を険しくさせて、敵意はないと伝えるためか手にしている槍の穂先を天に向けている。しかし油断のないその姿勢は、事と次第によってはこちらに槍を向ける覚悟があるのが伝わってきた。

 

 真紅の神性を宿した視線と、純血の人間の視線が絡み合う。

 刹那、奇妙な感覚を受けた。戦を目前にした鉄火場にて、初見であるにも関わらずにおかしな親しみをあの青年に感じたのだ。

 なんだ? と内心首を捻る。同じものを感じたのか青年も馬上で戸惑い、神馬の手綱を緩めると気勢を弱めた。その感覚の正体をはっきりとはさせられないまま、瞬く間に近づいてきた青年に誰何する。

 

「何者だ、と問うだけ不毛か。貴様はトロイアの戦士だな?」

「――ちょっと外れだ。俺はトロイア王ポダルケースの子、ヘクトール。お前がヘラクレスらしいな」

 

 ああ、と頷く。

 

「………」

 

 獅子神王の金色の鎧を眼にし、戦闘に意識を切り替えているアルケイデス本人の武威を肌で感じているのに、その青年は些かも怯んだ様子はない。英雄たる胆力を身に着けているのだろう。

 見事な白馬だ。格は低いが神の獣だと判じられる。ケリュネイアほどではないが相応の力強さを感じられる。そしてヘクトールの纏う白金の防具一式もまた兜一つ篭手一つ……どれを取っても一国の秘宝とするのに不足はない格があった。その宝具と神馬、そして本人の気質からまさしく英雄たる威風を嗅ぎ取れる。

 

 アルケイデスとヘクトールの間に、得体の知れない沈黙が流れた。ヘクトールは兜の齎す直感が警鐘を鳴らしているのに気づいている。遠くにその姿形を見て取れる神罰の海獣の脅威を宝具の加護に訴えられていた。だが眼の前の大英雄から目を逸らせない。

 言い表せない感慨に苛立つも、不快なものではないのに当惑させられた。観察し合うでも、言葉を掛けるでもなし。お互いが当惑しているのを理解し合い、図ったように同時に意識を切り替えた。

 

 とりあえず、今は無駄に時間を掛けてはいられない。最低限の確認をするのが先だ。

 

「ヘラクレス、ひとまずトロイアの危機に駆けつけてくれたこと、王と民達に代わり感謝する」

「……ほう。珍しいな、そのように感謝されるのは」

「あ? それはどういう……」

「これまでの経験上……英雄の気質とでも言おうか。獲物を横取りにされたと怒るか、あれに敵わぬと諦め、挑まんとする私に筋違いな嫉妬と怨みを持つ者が多かったというだけのこと。いの一番に国や王、民に代わり感謝を告げる者はギリシアで見たことがなかったというだけのことだ」

「は……? なんだそりゃ……」

 

 出鼻を挫かれたような心境でヘクトールは呆気に取られた。アルケイデスの言う通りなら、彼からすると他所にはマヌケばかりということになる。

 その真意はともかく、強大な獣を倒してくれるというのなら、獲物を横取りにされたと怒るより先に感謝すべきである。ましてや嫉妬するなど論外だ。とんだエゴイストだろう、それは。

 鼻白みながらもヘクトールは切り替えた。他所の連中への感想を呑気に漏らす気はない。

 

「……馬鹿どもと一緒にされるのは心外だな。俺は示す礼儀を忘れた人面の獣に成り下がる気はない、だから感謝すべき時には頭を下げるさ」

「………」

「俺は王子だ。父王ポダルケースの子だ。俺の振る舞い一つで親父への見方が変わる。俺の態度一つでトロイアの評価が変わる。なら俺は人としての正道を貫くだけだ。トロイアは人の正道に立つ。愚王だった祖父ラーオメドンが、神罰でくたばった後にそう決めた」

「人としての、か……」

 

 淡く微笑む。ヘクトールの至極当然といった物言いに心地良さを感じたのだ。

 彼への初印象は確定した。好感を抱くに値する快男児であると。アルケイデスは相手が礼節を尽くすに不足のない相手と知って居住まいを正す。

 ヘクトールの人柄から、次に出てくる言葉を予想できたためだ。誠心誠意答える用意があるのを姿勢で示す。こんな場所でなければもっとゆっくり話し合いたいと思った。

 

「――で、王子であり将軍でもある俺は、そんな恩人であるあんたに訊かなくちゃならん。悪く思わないでくれ、これは責務だ」

「良いだろう、だが手短に頼む。アレは待ってはくれんからな」

「分かっている。ヘラクレス、名高い大英雄のあんたがトロイアのためにあの獣を殺してくれるっていうのは聞いた。俺個人としては大いに助かる、感謝もしたい。だがな、少しばかり信じ難い思いもあるんだ。――()()()()()()()()()なんて、んな馬鹿げたことがあるか? あんたの狙いはなんだ。トロイアに何か望むものがあるんじゃないのか?」

 

 至極当然の話だった。トロイアに英雄無し、そのような印象を抱いていた故に、例え本当のことを言ってもこのアルケイデスに真意を訊ねに来れる気骨の持ち主はいないと決めつけていたのだ。

 もしもヘクトールのような男がいると分かっていたら、適当に代価を求めていただろう。アルケイデスは苦笑する。無償で人助け……確かにくだらない。アルケイデスもこれが人間同士の戦争なら、知っても介入する気には絶対にならなかったはずである。これが人間同士の戦争だと仮定して、そこにタダでトロイアに味方すると言われたら、自分がヘクトールの立場だったとしても信用できなかったはずだ。

 アルケイデスは無造作にヘクトールに歩み寄る。しかしヘクトールは身構えない。馬上にいて、槍も構えず、ただアルケイデスを見据えた。勘が鋭いのか、敵意がないと見切っているらしい。

 

 アルケイデスは小さな声で告げた。

 

「義を見てせざるは勇なきなり、とでも言えれば格好もつくのだろうがな。私はそこまで高潔ではない。私なりに思うところがあってやって来たまでだ」

「……何?」

「今から言うことは内密にしろ。……どうしてだろうな、誰にも話したことはないというのに……貴様には話してもいいという気がしてならない。この迂闊さが我が身を滅ぼすか……試してみたい」

「………」

 

 アルケイデスの小さな声は、彼の持つ白弓が獣の唸り声で掻き消えていた。口の動きも兜で隠され、辛うじてヘクトールのみに聞こえるだけだ。

 何を言おうとしている? ――成熟したヘクトールなら、聞こうとはしなかっただろう。しかし今の彼は武人として、自分に正直な部分が強かった。故に耳を傾ける。彼の秘めてきたものを聞きたいと好奇心を刺激されたから。

 

()()()()()()()。戦神、鍛冶神、冥府神、戦女神……その他の数少ない神格を除き、人には()()()()()()と確信している」

「――――」

 

 爆弾発言、とはこのことを言うのだろう。ヘクトールは強い衝撃を受ける。この言葉が他に漏れれば、それだけで発言したアルケイデスは破滅するだろう。

 同時に理解した。この発言はすなわち、己の命綱をヘクトールに預けるのと同じ行為である。何かトロイアに不利益を被らせた場合、アルケイデスの言を神に密告すればいいのだ。信頼への担保とするには破格に過ぎ、ヘクトールは呆然としてしまう。

 そんな彼に、アルケイデスはにやりと骨太な笑みを向けた。

 

「海神ポセイドンの権能を一部、再現している神罰の海獣。名は知らんが、小ポセイドンとでも言うべきアレは――いい()()()だとは思わんか? 己の武がどこまで通じるか図るには絶好の獲物だ」

「あ、あんたは……」

「さて――まだ信用ならんと言うなら、誰にでも分かりやすい対価をもらおう」

 

 含み笑いをしながらアルケイデスはヘクトールから離れ、唖然とするヘクトールに対してわざとらしく告げる。それすらも大胆不敵と取れるのだが、今の衝撃が強すぎて、そんなものでいいのかとすら思ってしまった。

 

「あの獣の骸の所有権を頂く。神獣の骸から造る武具を、ちょうどポルテへの贈り物にしたかったところだ。あの槍は、ポルテには似合わんからな」

「言ってくれるな、アルケイデス。その者に何を言ったかは気になるが……いいのか? 確かにこの大槍は私にとって扱いづらいが……」

「良いとも。私から贈ってやれるものなど、こんな武骨なものしかない」

「………」

 

 仲睦まじい夫婦のやり取りに、ヘクトールは我に返る。聞かなければよかったと後悔したが、しかしアルケイデスが信用し信頼できる男なのだと確信してもいた。直感の加護を受けるまでもなく、彼らが夫婦なのだと一目で判断でき、妻を大事にしているらしい夫の姿に共感を覚えたのだ。

 そしてヘクトールの眼がヒッポリュテの大槍に向く。かなりの業物……恐らくは神造兵装だろう。それを要らないと言い切ってしまえる神経を疑うが、ヘクトールはその輝きに目を奪われた。

 黄昏色の穂先、黒塗りの柄。巨大な刃は人の身には扱えないだろうが、どうしても惹かれてしまう。口が震え、ヘクトールは思わず言っていた。

 

「な、なあ……あんたは……」

「ああ、名乗っていなかったな。許せ、トロイアの王子。私はヒッポリュテ、アマゾネスの元女王にして女戦士長。今はアルケイデスの妻で、この者の旅路に同行する栄誉を得た者だ」

「アマゾネス……!? 何があったら元女王が……いや、詮索はしない。それよりアマゾネスの誇り高き戦士、恥を忍んで頼む。その槍が不要だと言うなら、俺に譲ってはくれないか?」

「なんだと……?」

「自慢みたいだが、槍の投術には自信があるッ! トロイアの問題をあんたらだけで解決させる気はない、俺も共に戦うッ! だが……コイツじゃあ……」

 

 ヘクトールは己の槍を見た。名槍だ。だが直にあの海獣を見てはとてもではないが通じるとは思えない。そしてヒッポリュテの大槍を見た後では、子供の玩具に見えて仕方がないのだ。悔しさで歯を噛み締め、馬上から飛び降りると跪き、頭を下げて頼んだ。

 ヒッポリュテは困惑した。これは己の得た戦利品である。無体な申し出に本当なら怒りを見せるべきなのだが、微笑むアルケイデスを見ては怒る気にもならない。アルケイデスが初見で気に入るような人間などそうはいないのだ。悩んだヒッポリュテだが、彼女の性根は戦士である。余り悩むような気質でもなく、即断即決する性格だった。

 

「良いだろう、だが条件がある」

「ッ! なんだ? 俺にできることならなんでも言ってくれ」

「私達と共に戦うと嘯いたな? ならば力を魅せるがいい。貴様のその力を以て、我が槍を与えるに足る戦士であると証明しろ」

 

 ヒッポリュテの言葉に、ヘクトールは立ち上がって深く頷いた。

 神罰の海獣はまだ二十九km先にいる。ヘクトールが到来してから僅かな間に一kmも進んでいたのだ。

 時間がない。故にヘクトールは槍を逆手に持ち替える。あの獣にはまだ届かない。だから辺りを見渡し、何か相応しい物が見つからないかを探した。

 心得たようにアルケイデスが、右手の掌底で大きな岩を掴んだ。半径五メートルはあろうかという岩石に五指を突き立て、そのまま右腕だけで持ち上げる。人間には有り得ない怪力に目を剥くヘクトールだが、アルケイデスの感覚では小石を摘まんだようなものだ。

 

「私がこれを投げる。貴様はその槍を擲ち、岩石を砕け。力の証明はそれで果たしたものとしよう」

「アルケイデス……随分とこの者の肩を持つな」

「なに……単なる気紛れかもしれん」

「……ヘクトール、これは試練だ。私の槍を欲したのだ、もしもアルケイデス……ヘラクレスの投げた岩を砕けなかったなら、その時は私が貴様を殺す。それでもやるか?」

 

 剣呑にヒッポリュテはヘクトールを睨む。脅しでもなんでもなく、本当に殺すつもりでいるのだ。優しさがあるとしたら、やるもやらないもヘクトール次第としたことだ。妻の物言いをアルケイデスは掣肘せず、逆に乗っかる。試すように告げた。

 

「試練と言うのにそれだけでは甘いだろう。しくじれば私達は貴様を殺し、その後はトロイアを救うこと無く立ち去ろう。――それでもやるか?」

 

 本気なのか、冗談なのか、その真意を覆い隠された……ヘクトールを気に入ったらしい英雄は無表情を作る。それにヘクトールは笑った。

 こんな悪質な冗談を口走るとは、随分と酔狂な男だと。ヘクトールにはアルケイデスが嘘を吐いたと見抜いたのだ。例えヘクトールが試練を超えられなかったとしても、トロイアを救うためにあの獣を殺すだろうと。だがそんな挑発を受けて退けるほど、ヘクトールは大人しく臆病な性格ではなかった。

 

「好きにしろ、とは言わん。試練には挑もう、だがしくじっても大人しく殺されてやる気はない。逆にやり返してやる」

「ほう……」

「俺はトロイアを守る力がほしい。それを得るためなら幾らでも足掻く。無様と笑うなら笑え、不誠実だと(なじ)ってもいい。だがな、それも全部無駄なことだ。何故なら俺にとって、そんな()()を砕く程度、難しいことじゃないからだ」

「吼えたな? 吐いた唾は飲めんぞ。構えるといい、貴様の言う小石を投げてやる」

 

 ヘクトールは飛び退いた。そして手にしている槍を構え、全身を投擲のための力を溜める砲身に見立てる。充実する覇気にアルケイデスは笑みを浮かべた。

 そして無造作に岩を投げ放つ。ただし――()()()()()()()()()だ。

 己を押し潰せるだけの質量、そして速度。自身の視界を潰す面積。ヘクトールは己に目掛けて迫る圧殺の未来に獰猛に笑った。

 彼は何処に投げるかは言っていない。それだけで直感していた。アルケイデスが己に向けて岩を投げつけると。

 

 豪速で飛来するそれは、一瞬の後にヘクトールを轢き潰すだろう。故に最小限の動作と最短の武練を以て、ヘクトールは槍を渾身の力で擲った。果たしてその槍は、岩石の中心に見事に的中し粉々に打ち砕いてみせる。

 構えて擲つまでの速さ、ただの槍で巨大な岩石を砕く力と技、常人なら反応すらできない岩石に怯まない胆力と判断の的確さ。それを確かに示したヘクトールに、アルケイデスとヒッポリュテは笑った。

 

 ヒッポリュテはヘクトールに目掛けて下投げで大槍を投げる。それを掴んだヘクトールに向けて、勇者に向ける敬意と賛辞をヒッポリュテは告げる。

 

「見事だ。約束通り私の槍をやろう。共に戦う資格が貴様にはある」

「……お眼鏡に適ったようで何よりだ。にしても、本当に貰えるなんてな……」

「私に二言は無い。力を示したのだ、素直に認めよう。玩具を持つ戦士など、アレと戦うには不足もいいところだからな」

「ハッ……これでもトロイアの名工の鍛えた槍なんだがな……」

 

 岩石を砕いたヘクトールの槍もまた、砕けていた。彗星のごとく飛翔した時点で、ヘクトールの投擲に堪えられずに自壊しかけていたのだから当然の末路ではある。だが少しヒッポリュテの言葉は気に食わない。

 しかし宝具の格を持つ槍を譲り受けたのだ。不満を呑み込む。ヒッポリュテは寛大で当然のことを言っただけなのだとヘクトールは理解していた。

 

 そんな二人を尻目に、アルケイデスは『不毀の大槍』を持つヘクトールを観察していた。

 大槍の形状、大きさ、質量、重心。それらとヘクトールの体格、腕の長さ、膂力、そして槍を投擲した際の武を余さず見ていた彼は、無双の戦士としての観点から看破していたのだ。

 

「……()()()()だと扱い切れんだろうな」

 

 ぽつりと溢す。なるほど、大したものだとヘクトールは称賛に値する戦士だ。こと槍の投擲に関して言えば、己よりも上手(うわて)だろう。

 だが卓越した戦士であればあるほど、己に合う武具を選ぶものだ。そして今の大槍ではヘクトールには合わない。共に戦うと認めた戦士が、斯様な得物を用いるのは呑み込み難いものがあった。

 

 アルケイデスからのヘクトールへの好感度は、異質なまでに高いものがあった。それは奇妙な親しみ、共感と言えるものである。しかし何故自分がそんな感情を抱いたのか理解できないまま、彼は生涯一度だけの()()()()()に踏み切ることになる。

 それがヘクトールとの間に、年の差を超えた友誼の証となるのだが、もちろんアルケイデスには打算はなかった。純粋な気遣いと、単なるお節介である。

 

「――鍛冶の神に奉る。どうか我が願いを聞き給え。この地を守護せし偉大な英雄が担うに足るよう、御身の鍛えたる大槍に加護を与え給え。代価にあの獣の骸を捧げよう」

 

 ヒッポリュテとヘクトールが、その祈りにギョッとする。果たして、アルケイデスの上げた大音声に、暫くの間を空けて天から一柱の神が降臨した。

 醜い小男である。しかし智慧と鍛冶の腕を以て鳴らす、ギリシア随一の名工の神だ。その名をヘパイストスと云い――不毀の大槍を、『不毀の極槍』という武具に鍛え直す神であった。

 

 そうして剣としても、槍としても扱える稀代の名槍がヘクトールの手に渡るのである。

 

 

 

 

 

 

 

 




長いので区切り。

活動報告で宝具案作成中。何か良さげな案がありましたら奮ってご提案ください。間違っても感想欄には書き込まないこと!


次回は幕間の物語、VSマルス


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幕間の物語【されど英雄は神と踊る】

はたけやまさんから3.1のお話の挿絵をいただきました。
そちらのお話でも挿絵として挿入しましたので、是非そちらで拝見してくださると幸いです。が、わざわざ戻って読み返しながら見るのが大儀という方もいらっしゃるかもしれませんので、こちらにも載せておきます。
【挿絵表示】

はい、大迫力。当時のエウリュステウスの膀胱を打撃する仕様ですね。耐えきった彼の膀胱は一つの偉業を成し遂げたと言えましょう。はたけやまさん、ありがとうございました。

そして今回のお話に、匿名希望のお方から、またぞろ素晴らしいイラストをいただきまして。今回のお話は、それを見てどうしても書かねばならないと燃えた……コルキスでのアルケイデスVSマルスの戦いとなります。
挿絵として載せますので、そのクオリティに負けないよう、せめて釣り合えるようにと努力しました。もはや賛美のボキャブラリーが枯渇しております。言葉少なですが、とにかく絵を見たら分かる(確信) 作者はきっとイラストに全部持ってかれるだろうなと悟りを開いてますが、どうぞ!


Ⅰ(未来)
Ⅱ(コルキス時)
Ⅲ(未来)
Ⅳ(コルキス時バトル)



 

 

   Ⅰ

 

 

 

 

『よぉ、アルケイデス』

 

 穏やかさとは程遠い、神代の御世すらも軋む戦気を迸らせながら、戦神は親しい友にするように気安く呼び掛けた。

 玲瓏な声音は粗野なもの。歌うようでありながら怒鳴るようでもあり、快活な青年を彷彿とさせる仕草で自身の白髪を撫でつける。

 嵐の前の静けさだろうか。世界全体に張り巡らされた糸が、ピン、と張り詰めているような気がする。神殿の外、人と神の時代が大きなうねりを伴い動き出そうとしているのが分かるのだ。戦士王などと号され、数多の畏敬を束ねる王は微笑む。

 彼の王の玉座は戦神の神殿に在る。王の座する玉座の許へ、神殿最奥に飾られた軍章旗に降臨した戦神がゆったりと歩み寄ってくる。

 

 王は笑った。仕える神に対し不敬であるが、友のように思っているのは彼も同じだった。戦神の気安さが嬉しくて堪らない。

 ……何十年ぶりだろう。こうして彼の戦神と会うことになるのは。

 これで己の生涯の総決算を目前にしていなければ、王は若かりし頃のように剣を執って歓迎していただろう。

 

『……フン』

 

 戦神はつまらなげに鼻を鳴らす。戦意を放っていたのは、彼なりの遊戯への誘いだったのだが、それに乗ってこなかった王に対して残念さを覚えていた。

 失望したのではない。誘いに乗れるだけの余力がない、王の体を偲んだのだ。

 

『老いたな、戦士王……』

 

 そう、王は老いていた。半神である故に、その寿命もまた並外れて長いものである。だが彼は己の中に流れる神の血を疎んでいた。その力を利用することはあれど、己は神ではないと否定し、あくまで物質としての人であるまま生き、死ぬことを望んでいる。

 故に彼は老いたのだ。平凡な人と同じように時を歩み、齢を重ね、そして無双であった肉体を衰えさせた。

 御年五十五歳。人としても長く生きすぎていると言える。だが無駄に歳を重ねたわけではない。その智慧と武技は加齢と共に狡猾さを加え、磨き抜かれた技量は神域のそれの断崖に至っている。この時の技巧を備えたまま若い肉体を取り戻せば、九つの高速斬撃である剣の奥義が、完全に同時に放たれる魔法の域に達していたかもしれない。

 

『……貴様にとっての最後の戦だ。勝利せねば、貴様がこれまで積み上げてきた総ては灰燼に帰そう。エジプトの諸神と交わした条約も、折衝のために注ぎ込んだ労も無為に堕す。いつか俺に言ったな? 俺に人を導く神になれと……愚か者め。俺だけでは務まらぬわ。何処まで行っても俺は戦の神に過ぎんのだからな』

 

 玉座に腰掛けたままの王の許に寄ると、戦神は穏やかな貌でその肩へ手を置いた。

 労っているのだ。よくぞここまで、と。既にこの時代、この世界の人間の寿命を迎えていながら、魔術神ヘカテーが手に入れたという()()()()の力と、己の強靭に過ぎる精神力でのみ生きている英雄を。

 戦士王は既に崩御している。肉体的には死んでいる。だがその魂は最後の使命を果たすべく、己の骸にしがみつき、死を拒むという彼の王にとっての大罪を犯していた。

 

『後は俺に任せろ―――そう言えたらまだ格好はついたか? ハッ。だが生憎と此度の戦、貴様の力も必要だ。ハデスには貴様の死を待つように言ってある。後は貴様次第だ。俺の臣なら今少し持ち堪えろよ? 総てをご破算にしたくなければな』

 

 全力を出せば重ね掛けされたテクスチャをも打ち抜き、七次元の壁をも貫く、地球という惑星で最強に位置する戦神は――しかしその力を感じさせないままに男らしい太い笑みを浮かべた。

 玉座の肘置きに戦神は腰掛ける。膝を立て、そこに肘を乗せた戦神は玉座に凭れる王を見下ろした。

 ――過去、数度に亘り矛を交え、互いに愉しんだ闘争を思い返す。そして万感の思いを込めて溢すのだ。

 

『嗚呼……愉しかったなぁ』

 

 王は忍び笑う。確かになと、掠れた声で相槌を打った。

 

『だが、最も愉しかったのは……あの時だな。初見での喧嘩だ。嗚呼、俺もあれは忘れられん。……此度は楽しむ余裕はねえ。貴様もたまには過去を懐かしめ。どうせこの戦の後に、貴様の生き残る目は皆無なんだからな』

 

 そうだな。その通りだ――王は言われるがままに、過去を振り返る。

 ……輝かしい日々だった。宝石箱に仕舞われている、大小様々な思い出の欠片たち。良い事ばかりではなかったし、大変で不快で辛い時間の方が多かった。

 だが……そう。十二の試練などと言われる功業を成していたあの時こそ、まさに黄金の時代だったのだ。

 王は目を細める。彼の意識は、次第に過ぎ去った思い出へと馳せていった。

 

 

 

 

   Ⅱ

 

 

 

 

 ――不意に、並外れ、卓越し、理屈や技術を超越した“心”の“眼”が見開かれる。

 先天的に保持していた己の危機に対する超直感。そして半人半馬の師ケイローンの下で開眼し、これまでの冒険と戦によって積み上げた無窮の武練が覚醒させた武人の勘。二種の心眼が己の危機を察知し、そして瞬時に最善の迎撃を繰り出させていた。

 

「――ッ!」

 

 虚空に手を翳し、脊髄反射で白剣を召喚する。鎧の背部にある留め具に固定していたのを、抜き放つ動作を省略して手の中に出現させたのだ。

 アルケイデスはエロースを繋ぐ鎖から手を離して白剣を振るった。満身の脱力からの剛力を発揮し両手で柄を握り、重心を落とし、腰から肩までの捻転の力まで加え、渾身の力で振るったのである。唐突な其れは、紛うことなき全力の迎撃だった。

 

 誰にも反応できなかった。あ、と思う間もなかった。彼方より次元を貫き飛来する神の剣。三原色の燦めきは衛星軌道上に顕現した光の巨剣。【戦闘】の概念の化身たる、真なる軍神の剣で広範囲を殲滅する衛星兵器。

 知られざるその真名は、『紅き星、軍神の剣(マーズ・ウォー・フォトン・レイ)』である。

 個人戦闘能力に於いては全盛期に到達している、神話最強の英雄が担う剣は白き極光を纏い、振るわれたるは誓約されし栄光の剣(マルミアドワーズ・ネメアー)。激突し、鍔迫り合う光の巨剣と白き中道の剣。桁外れの魔力と質量の激突は周囲の者の意識を空白にした。アルケイデスの顔に苦悶と汗が浮き上がる。巨剣を受け止めた白剣より伝わる威力に手が痺れ、踏み締めている大地を削りながら徐々に後退させられていく。

 

「ォッ、」

 

 兜の下で、黒髪がうねる。噛み締めた奥歯が鳴る。力を溜め、口腔を開き、金獅子と一体となって咆哮した。

 

「雄ォオオッ!!」

 

 光の巨剣の芯を逸らし、神業めいた剣捌きで光の巨剣を遥か後方の中天へ受け流す。地平線の彼方まで飛翔して、光の剣は誰の視界からも消え失せた。

 その余波で地面が大幅に抉れ、掠めた山脈に大きな穴が生まれた。現象が思い出したかのように動き出し爆風が起こる。その破壊力は克明に死を彷彿とさせられるもの。呆然とするアルゴノーツの頭上に、快活な笑声が轟いた。

 

『ハッ。ヘラクレス……八割の力とはいえ、俺の剣を受け切りやがったか』

 

 傲然と言い放たれた圧は、全員の肩に絶望的な重さとなって圧し掛かる。

 ぺたん、とその場にメディアが腰砕けになって座り込んだ。気絶すら出来ずに、茫洋とした目で姿を現した奇襲の主、最高位の神格を見上げるしかない。

 そしてそれはメディアだけではなかった。アルゴノーツも、ヒッポリュテら英雄旅団やエロースも例外ではなく。自我を保っているのはアルケイデスだけであった。

 

 手の痺れを握り潰す。アルケイデスは如何なる感情も窺い知れぬ瞳でその神を見上げた。

 

 全てが様変わりしている。狼の毛並みの如き灰白の髪を野放図に伸ばし、青銅の鎧兜は捨てたのか真紅のマントを簡易な黒鎧に備えているのみ。精悍な面構えには英邁な知性と勇気が宿り、紅い双眸はあらゆる戦の闇と父性の光を灯していた。

 白い髪、白い肌、人間を超越した美貌と人界より隔絶した武威。己の中の狂気を完全に制御している軍神――否、真なる戦神の姿が其処にある。

 

 アルケイデスが問い掛けた。それはまだ立ったまま、目を開けたまま、自失しているアルゴノーツの総意とも言える疑問だった。

 

「……軍神よ。なんの真似だ? 私でなければ死んでいたぞ。如何なるつもりで仕掛けてきたかお聞かせ願いたい」

『うるせえ。相変わらず、意味分かんねえぐらい信仰しやがって……』

 

 無表情、平坦な声音。しかし自身に向けられる深く濃い信仰に、戦神はうんざりしたようにぼやいた。

 

『お蔭でご覧の有様だ。力の抑えが利かねえ。どんだけ俺のことが好きなんだ貴様? 本当はかるーく(こいつ)を投げつけてやるぐらいのつもりだったのが、八割もチカラ出しちまったじゃねえか』

 

 両手を広げ、大仰に嘆く戦神だが。どこか愉快げである。

 アルケイデスは眉を顰めた。てっきり自らの子であるエロースへの仕打ちに怒り狂っているのかと思えばそうでもないらしい。そうであるなら全力で謝り倒すつもりだったのだが……。

 ともあれヒッポリュテに視線を向け、アルケイデスは感謝の意を目に込める。ヒッポリュテの呼び掛けがなければ反応が遅れていたかもしれない。無視できない傷を負っていた可能性がある。とうのヒッポリュテにその気はなかったが、アルケイデスはそれには気づいていない。

 

 戦神は嘆息した。

 

『なんの用か、だったか』

「………」

『知れたことよ。貴様らを誅殺しに来たんだ。……可哀想だが俺の娘もな』

「ッ!?」

 

 アルケイデスだけではなかった。戦神の殺気がアルゴノーツらを舐め回す。英雄達は全身から大量の汗を流しながら武器を構えた。

 勝ち目は視えない。殺される。その確信が全員の胸に宿った。しかしただで殺されてやる気はない。抵抗する気で、青白い顔で戦闘態勢を取った。

 それに待ったをかけたのは、ただ一人。アルケイデスである。父に殺すと言われ絶望に染まったヒッポリュテを横目に、彼は重ねて問う。

 

「何故だ。エロースに対する仕打ちへの代償か?」

『いいや? んなこたぁどうでもいい。確かにソイツは俺のガキだ。情もある。だが死んだわけじゃあるまい。それに悪戯遊びを幾つになっても卒業しねえガキの仕置きを俺に代わってやるってんなら是非どうぞと投げてやるよ。だがどうでもいいって言ってんのは――俺がヘラと絶縁したからだ』

「――――絶縁?」

 

 それは、アルケイデスにとって福音だった。

 信仰する神の親を憎んで良いのか、という悩みはあった。悩みがあるまま突き進むつもりだったのが、それが取り払われたのである。

 嬉色が滲むのを、こんな時なのに抑えられなかった。

 

『応ともよ。思い出したくもねえから詳しくは言わん。が、そのヘラの企てに加担したあの馬鹿女と馬鹿息子は、この俺に対し絶縁を申し伝えたに等しい。潜在的には俺の敵だって見方も出来るんだぜ。なんなら……俺が殺ったっていいんだ。それを仕置きで済ませるってんなら、むしろ俺は貴様に感謝してやる。甘い裁定で済ましてくれてどーもありがとうございました、ってな。俺は手前のガキはなるべく殺したくはねえ』

「………」

『ってなワケだ。その馬鹿息子は関係ない。じゃあなんで俺が貴様らを殺すのか? これも簡単だわな。考えてもみろ、此処は……何処だ?』

 

 問いに、智慧の巡る者はハッとした。

 此処は【アレスの野】である。

 

『此処で貴様らは何をしようとしている?』

 

 軍神の持ち物の雄牛に引き具をつけ、【アレスの野】を耕そうとしている。

 

『其処に何を蒔こうとしている?』

 

 竜の歯……アレスが対立している戦女神に、アイエテスが与えられた物。

 

『つまりだ。貴様らは俺の土地で、俺の所有物を勝手に使い、男日照りのアテナの奴を介したモンをばら撒こうってワケだ。……ちょっとばかし気が立ってたところでよ。少しばかり発散しねえと、今の俺だと何を仕出かすか分かったもんじゃねえ。ヘカテーのヤツはなんのつもりかは知らねえが……それもどうでもいい。こんだけ腕利きの英雄が雁首揃えてんだ、抵抗してくれたら少しは梃子摺れる。ストレス発散の運動にはなんだろう? ついでにこの苛つきも収まるってんなら……やらねえって理由はねえよな? なあ……俺の庭に来たんだ。少し遊んでいけ。安心しろ、退屈はさせねえから』

「………」

 

 やるしかないのか。悲愴な覚悟を固めつつあるアルゴノーツに、しかしアレスは悪戯っぽく笑う。

 

『おいおい辛気臭えぞ。ったく、仕方のねぇ奴らだ。気が乗らねえってんならルールを設けてやる』

「ルール?」

『応よ。俺が貴様らを皆殺しにするまでに、アイエテスの小僧が課した試練ってのを果たしてみろ。そうしたら、生き残ってる奴らを殺しはしねえ。……どうだ? 生き残る芽は見えたか? んなら上等ってなもんだが』

 

 その通告に、アルケイデスは頷く。

 光明は見えた。アレスは本当は、殺す気はないのだろう。しかし漲り、溢れる力をどうしてか抑えられなくなっている。それを抑制するために戦闘を求め、数多の英雄が集うアルゴノーツに目をつけたわけだ。

 遣り様はある。アルケイデスはそう確信する。

 凶暴で悪辣な戦の負の神としての顔、それに反する慈父の神の顔。そのバランスを整えてやれば……あるいは片方に傾けてやれば、アレスは勝手に満足する。そう判断していいはずだった。

 

「軍神アレスよ」

『あ? ああ……ヘラクレス。その名で俺を呼ぶな』

「……?」

『ソイツは縁を切ったヘラが付けた名だ。最近面白い竜と会ってな、名乗って死合ってみたら、末期に俺を【マルス】と呼びやがったのよ。呂律が回ってなかったのか、生まれ故郷の言葉で喋ったら訛ったのか……なんでもいいが、その響きを気に入った。俺のことは以後マルスと呼べ。敬意を込めて、な』

「……承知した。では軍神マルス、私もヘラクレスとは呼ばないでもらいたい」

『……ほぉ? ならなんと呼べばいい、不本意ながら我が第一の信徒よ』

「アルケイデスだ」

 

 言いつつ、白剣を構える。

 そしてイアソンらアルゴノーツに背を向けたまま大喝した。

 

「此処は私に任せ、先にいけッ!」

「ヘラクレス……!?」

「私がマルス様をお止めする。その間に、皆で力を合わせ試練を越えよ。私の命をお前たちに託す、故にお前たちの命を私に寄越せ。総て背負い、見事成し遂げよう」

 

 アルゴノーツは一斉にイアソンを見た。英雄旅団はアルケイデスの判断に従った。

 共に戦うと言っても足手まといになる。なら早急にイアソンの試練を片付けたほうがいい。

 イオラオスがイアソンを小突いた。号令しろ、皆が待ってる! あんたの命令を! 伯父上の意志を無駄にする気か!?

 その怒号にイアソンは正念場に立たされた。アルケイデスが死ねば次は自分達――その差し迫った危機に顔色を変え、英雄としての威風を初めて発しながら彼は命じる。

 

「……ッ! アルゴノーツ! オレの親愛なる同胞達! ヘラクレスに此処を任せる、オレ達はすぐに試練を片付けるぞ! ちんたらするな、往くぞぉ――!」

 

 イアソンは素手のまま駆け出した。武器も何もない。必要なのは意志を示すこと、動き出すことだと彼は悟っていた。そのイアソンの行動に、引っ張られてアルゴノーツも死にものぐるいに駆け出している。なるほど、英雄だとマルスは笑った。

 後ろを向いてイアソンがアルケイデスに叫ぶ。

 

「――おい! なんとか早くしてやるから、足止めちゃんとやれよ! オマエが殺られちまったら次はオレ達なんだからな!? 簡単に殺されるのだけは勘弁しろよ!?」

 

 アルケイデスは笑った。マルスに釣られて。そしてイアソンの必死さが嬉しくて。

 彼は今、自分もだろうが、その次ぐらいにアルケイデスを死なせないために叫んだのだ。これが嬉しい。堪らず、強がりを口にする。

 

「ああ。足止めをするのはいい。だが――別に。倒してしまっても構わんのだろう?」

 

 その放言に、マルスは噴き出し。声が聞こえていたアルゴノーツは唖然とし、イアソンは盛大に笑った。

 確かな信頼を感じさせる。ぶっ倒せ、ヘラクレス! 大英雄は不敵に口端を歪め、片腕を掲げて勝利を宣言する。

 

 ぶはっ、とマルスは再び噴き出した。

 

『貴様――は、ははは! 貴様まさか、この俺に勝つ気でいるのか?』

「生憎だ。私はこれまで、武器を取って負ける気で振るったことは一度もない」

『そう言うなよ。わざと敗ける戦も割と面白いもんだ――ぜッ!』

 

 堪らぬ狩りの獲物を目にしたように。その気なら他の面子を狙えるだろうに、アルケイデスにのみ狙いを定めたマルスが、いつの間にやら召喚していた光の剣を握り襲い掛かってくる。

 三原色の神剣は真紅に染まっている。戦神たるマルスの真の権能、三機能権(イデオロギー)――の一つ。『主権』『戦闘』『生産』の二番目、『戦闘』形態の神剣だ。

 やるからには本気で遊んでやるよ――猛りの捌け口を欲する戦神が馳せ、敬意を胸に懐く英雄が迎え撃つ。

 

 

 

 

   Ⅲ

 

 

 

 

『……なあ。おい。一つ聞かせろ』

 

 如何様にも問うと良い。嘘偽り無く答えよう。

 王が鷹揚に応じると、戦神は鼻を鳴らした。バツが悪いらしく、貌を背けている。

 

『アルケイデス。貴様が人としての死を迎えた後の事だ。……神に成る気はねえか?』

 

 即答で無いと断じるも、戦神にとって意外でもなかったようだ。深く長い溜め息を吐き、いつか聞いた台詞を諳んじるように唱えた。

 

『人を神格化するものではない。人は神になるべきではない。また神は人の如くに振る舞うものではない。……だったか。難儀だな。貴様の信仰の在り様は、真実神を無用のものとしながらも尊んでいる。在るがままを受け入れ、柔軟に考え、好きに神に縋り、神を捨てる。そんなクソ無礼な奴が俺の第一の信徒だってんだから笑えるぜ』

 

 神は唯一であってはならない。神を理由に争ってはならない。人は自らの行いに関して責任を負うべきで、責任を問われるべきは神ではなく人である――私はそのようにも語った覚えがある。

 王が嘯くと、露骨な舌打ちが鳴った。んな細けぇことまで一々覚えてられっか、と。

 信仰の自由を認めていながら、その実、神からの自立を促し、自立できない者のために救いの手を差し伸べる異端の信仰。長い時を経て結実した精神性が、まさに聖者のそれを超えたものであると、この総ての偉大な戦士たちの王は自覚していないだろう。

 信仰を基にした高潔さ、精神力。そこから生まれる聖人、聖女。それらとは一線を画する聖者こそがこの王である。異形の精神だなと戦神をして舌を巻いた。

 教えを護り、教えを説き、教えを広めるのではない。信仰の道筋を作り、支え、自身の意志で進む力を育む。人類がまだ赤子と言える幼稚さから脱せないでいるのを、我儘で自己主張の激しい少年期への進歩を促し、やがては青年へ、そして大人へと成長する道への標となる。

 

 聖人など話にもならない。聖者など、とんだ笑い話だ。戦神は己の考えを嗤った。この男はそんな有り難いものなどではなく、ごく普通の人間なのだ。

 単に、その力が強すぎて。単に誰よりも父性が強かった。それだけの人間なのであると、一つの未練を断ち切るために納得した。

 

『……貴様の中の不滅の神を、人としての貴様が死んだ後に召し上げてやる。そう思ってたんだがな』

 

 やめだ、と戦神は晴れ晴れと吐き捨てた。忌々しいようで、誇らしげでもある。

 

『死ねよ、アルケイデス。後腐れなくあの世に逝っちまえ。貴様の志はヒュロスやアレクサンドラ、アイアスに継がれてるさ。だが……まあ、今の人間どもじゃあ、いずれどこかで途切れるだろうがな』

 

 何せ異端なのだ。少数派(マイノリティー)なのである。どうしたって時流には押し負けてしまうものなのだ。

 玉座の肘置きから飛び降りて、戦神は王から離れていく。

 背を向けて去っていく戦神は、ふと立ち止まると振り返らないまま静かに告げた。

 

戦場(いくさば)で待つ。気持ちよく死なせてやっから、精々手強い連中を一人でも多く道連れにしてくれ。その後は……まあ、貴様の血筋、曾孫の代までなら護ってやるよ』

 

 最高の報酬だ。そんな王の嬉しげな声を背中に受けて、戦神は神殿を出る。そして空を見上げた。

 そうだ。コルキスで戦士王と剣を交えたあの時も、こんな雲模様の斑な空だった。すっかり雲一つなくなるまで、盛大に興じたもので。戦神は懐古した。

 

『やっぱ……愉しかったんだよなぁ。あと一回ぐらい、やり合いたかった』

 

 未練だなと、断ち切れない想いを噛み締めて。

 戦神は天に還らず地に佇んだ。

 

 

 

 

   Ⅳ

 

 

 

 

 ――紅が稲妻の如くに奔る。およそ剣とは云えぬ杭のような形状でありながら、鞭の如く撓り、刃の如く触れるもの総てを斬り裂く。

 蹴り抜いた地面が爆ぜ、瞬きの間もなく敵手との間合いを潰した戦神は、右の手に握る神剣を容赦なく袈裟に振り下ろす。初動から最速、荒々しい言動からは想像もつかぬ精緻な太刀筋は、なぞった空間を両断せしめる破界の力を宿していた。

 迎撃するは無繆なる宙を見渡し尚も無双、竜象豪力なる磨穿鉄硯の士。山脈と比してすら遥かに重い、宇宙最大と喩えられる膂力が振るいたる白剣が、紅の焔が形となった神の剣と衝突する。(ソラ)の一角が軋むほどの質量の激突に、起点となった白剣と紅剣の接触面がひずみ虚数の空間が現出する。

 

「ヅッ――」

『ハッハァッ!』

「――ォォッ!」

 

 岩盤より削り出したかのような白き中庸の剣、その柄を両手で握り締める輝く黄色(オウショク)の戦士は苦悶を漏らす。二メートルを超える偉丈夫の戦士、アルケイデスよりも頭二つ分身の丈に優れる戦神が哄笑を発するのに、負けじと雄叫びを上げた。

 両の足が地面に埋まり、蜘蛛の巣が張られたように陥没した地面に亀裂が刻まれる。筋繊維を支える骨格が撓み、躍動する全身の膂力を以て白剣を()る。断じる、鍔競り合うは愚士の所業。白と赤の剣の拮抗は刹那。中庸の剣は、担い手が手首を返しながら手元に引き込むことで、焔のように揺らめく紅の刀身を脇に逸らす。手首の返しから流れるように逆手に持ち替えられた白剣が閃いた。残像をも置き去りに虚空を奔る白き刃は、戦神の脇腹に吸い込まれるように奔る。

 

『おおッ、とぉ!』

「ぬ――ガッ、」

 

 振るわれた刃が魔速であるなら、その超絶の反射速度こそ神速。マルスは左膝と左肘を断頭の鋏の如く閉ざし、白刃を挟み込んで止めたのだ。予想だにしなかった挙動と防御に刹那、アルケイデスは驚嘆する。それは隙とも云えぬ僅かな硬直、されど対するマルスには絶好の好機。右足のみで立っていたマルスは身体を捻転させつつ地面を蹴りアルケイデスの側頭部に蹴撃を見舞う。

 したたかに側頭部を蹴りつけられた戦士はたたらを踏んだ。獅子神王の兜に亀裂が奔るほどの衝撃。人理を弾くだけでなく、ただの打撃にも強靭な耐性を有し、戦士の損傷を阻む鎧兜であっても戦神からの打撃ともなれば痛打となる。兜の下で口の中を切ったアルケイデスは咄嗟に追撃を警戒した。

 

『これで死んでくれるなよ? 雑魚(ほか)とは違うってとこを魅せてみろッ!』

 

 紅蓮が奔る。神気が爆発的に高まり、紅剣の切っ先より螺旋の焔が放たれる。

 神造の城壁を紙のように貫通する破壊の光。それを纏った杭状の剣は槍の如くに伸び鞭のように撓っていた。白い極光が戦士の剣より放たれ様、横薙に薙ぎ払った白剣が紅い破滅の光を掻き消してみせる。白光に打ち消された紅光の残滓が粒子を散らし、その欠片は礫の如くアルケイデスの周囲に着弾して激甚な爆発を起こす。

 その爆風を背に獅子の外套を翻した戦士が馳せた。未だ嘗てない高揚に、戦士は満面に獰猛な笑みを浮かべている。少年のような悦びに震えながら吼えた。

 

「おぉぉぉぉ!!」

 

 渾身の力で唐竹割りに断ち落とす斬撃が、不定形の紅い神気が受け止める。紅蓮の剣は戦神の分身、力の具現。途方もない力の塊にどうしようもなく笑えてくる。

 アルケイデスの膂力の乗った斬撃は桁外れの威力を持つ。戦神ですら正面から競えば力負けするだろう。故に戦闘の概念、その化身たる神は力では競り合わない。自分がされたように白剣を受け流し、着地したアルケイデスの二の太刀を捌く。足を止めての熾烈な剣撃が応酬された。逆巻く風は嵐の如く、飛び交う衝撃波が辺り一面を斬り裂き、怒涛の剣撃は火花と共に大地を砕いた。

 

「邪――!」

『羅ァッ!』

 

 さながら剣の結界。技の限りを尽くすアルケイデスとマルスは、抑えきれぬ獣の笑みを浮かべ凌ぎ合う。鬩ぎ合う。剣と剣がぶつかり合う度に両の手、両の腕に伝わる力の重さが嬉しくて堪らない。虚と実を交えた技量が愛しくて堪らない。秒にして百、分にして千、世界そのものを裂くまで終わらぬと思えた剣撃の宴は唐突に終わりを見た。

 マルスの剣を弾き後方に飛び退いたアルケイデスが、自らの白剣をマルスの顔面目掛けて擲ったのだ。音速を遥かに超える剣弾をマルスは小賢しいとばかりに叩き落とす。しかし次の瞬間に襲い来た光景に歓喜した。剣を擲つと同時に跳躍した戦士が、体を回転させて戦神の側頭部を蹴り抜かんとしていたのだ。

 やられたことをやり返す。その負けん気の強さ、見事にやってのける力量に嘉し、神をも足蹴にする不敬を豪放磊落な戦神は許容する。今度はこちらがたたらを踏みながらも腕を伸ばし、着地する前のアルケイデスの脚を掴み地面に叩きつける。

 戦士を振り回し幾度も地面を砕き、最悪の鈍器として大陸をも破壊せんと振り上げたマルスの顔面に、予想外な白刃が迫った。振り回されながらも白剣を自身の許に召喚したアルケイデスが、地面に叩きつけられながらもマルスを斬らんと刃を振るったのだ。マルスでなければ死んでいる――咄嗟に戦士の脚を離して神剣を盾にするも、白剣の斬撃による衝撃がマルスの貌を襲った。

 

 更に頭を護ったマルスの隙を突き、その胸を破城鎚のような足刀で穿つ。吹き飛んだマルスの正面に、黄金の鎧を土煙に塗れさせた戦士が降り立った。

 アルケイデスが兜のバイザーを上げた。血が垂れて片目を潰している。それを乱暴に拭って、犬歯を剥き出しにし笑う。マルスもまた折れた鼻を摘まんで元に戻し、鼻孔を押さえて息を吐き出し鼻血を残らず排出。血の混じった唾を吐き捨てた。

 

 にたりと暴虐の笑みを浮かべ、マルスは言う。

 

『嬉しいか? アルケイデス。嬉しいよなぁっ! 強すぎて、周りが雑魚ばかりでッ! 一度も本気で戦えたことがないんだよな? ネメアの獅子にすら枷を嵌めて殴り合った馬鹿野郎が! 俺を相手に()()()なんざ舐めた真似してんじゃねえぞォッ! 来いッ! この俺だけは、決して貴様を退屈させんッ!』

 

 両手を広げ、アルケイデスの全力を受け止めてやると告げるマルスに、戦士はわなわなと総身を震えさせる。抑えきれない悦びが胸の内にのたうっているのだ。

 その気持ちは戦神にも痛いほどよく分かる。己もまた強すぎる。こと白兵戦に限ればゼウスをも上回るのだ。主神と総合戦力で互角となるということは、その近接戦闘能力に於いては明確に上回っている証明となるのだ。

 それはつまりアルケイデスと正面から戦い、降し得る最強の神格であるということ。その生涯でただの一度も格上と対峙したことのない戦士は、武人として狂喜してしまいたくなる。

 

 だが、それを鋼すら粘土細工となるほどの精神力で律し、アルケイデスは微笑んだ。訝しむマルスに対し、バイザーを下ろした戦士は厳かに告げる。

 

「戦神マルス。御身の()()()、不敬だがお相手致す。まず手始めに、私から御身へ敗北を贈らせていただこう」

『は……? せ、()()()……だと……?』

 

 ――それは、どこまでも負けず嫌いな、戦士の挑戦状である。

 確かに此の儀は、マルスが御し切れない自身の力を、完璧に御するための試運転のためのもの。

 ゴルゴンの怪物すら鼻歌交じりに屠殺する、最強無比の戦神の神威に手綱をつけるためのもの。それによりさらなる昇華を果たすのだ。

 戦士アルケイデスはそれを揶揄したのである。己の力すら御し切れないなど戦士として二流。なればこそ戦神の調整相手を務め、本当の一流に押し上げてやると……()()()()()()()と宣ったのだ。

 それは、心躍る挑発だった。血湧き肉踊る憤怒であった。マルスはその見え透いた挑発に、敢えて乗ってやる。どこまでも負けず嫌いで、自分が挑むのではなくそちらが挑むのだと嘯く傲慢さを慈しんだ。可愛らしい意地の張り様であると。

 

『……ハ、ハッハハ! コイツはいい……俺に、貴様が……道化のアレスじゃねえこの俺に! テメェが敗北を刻むだと!? いいねぇ……いいぞ。ハハ、面白いジョークだ。……やれるモンなら――やってぇ、みィィイやがれぇッ!!』

 

 額に手を当てて身を反らし、呵々と笑いを爆発させる。憤怒と歓喜を交えた咆哮が、戦神の口腔より迸り、物理的な衝撃波となって辺りの塵を弾き飛ばす。 

 切れた唇を舐め、得物を両手で握り直したアルケイデスの剣に異変が起こった。獅子の唸り声が幻聴のように耳朶を打つ。アルケイデスは笑った。ああ、起きたのか、と。退屈な敵とばかり戦う故に、眠っていた栄光の剣(ネメアー)が目を覚ました。

 

 岩石よりくり抜いたが如き刃から、ボロボロと刃片が毀れ落ちる。

 

 現れたのは、まさに王の偉容を誇る王者の剣。磨き抜いた鏡よりもなお(しろ)く、太陽の燦めきよりもなお(しろ)い、純白にして不浄を祓いたる中庸の刃光。無垢なまでに神々(しろ)い其れは、まさに獅子神王の誇り高き魂の具現。

 赫怒に燃えているようでありながら、体の芯を貫く武者震いに狂喜して戦神が跳ぶ。鞭のようなしなやかさを孕んでいた刃が固まり、一筋の火星の燐光を象る。そして、アルケイデスが中腰に構えた白剣がその真の姿を現した。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「ネメアー……」

 

 言祝ぐように尊名を唱える。担うは無窮の武を誇る人中に於ける極点の一、驍勇極致なる怪力乱神。意味を成さぬ雄叫びと共に疾駆する戦神を真正面から迎え撃つ。

 先刻の鬩ぎ合いが児戯であったとでも云うような、熾烈にして苛烈、広大無辺なる刃の競演が幕開く。

 卓越した武人をして賛美するに、その技を神域の其れと喩えるに能う。アルケイデスはその神域を踏破せし武人である。白打、剣、弓、槍、斧、鎚、あらゆる武具を使い熟す一個の神話――太古の時に在りて最強を冠する神武の士だ。

 だが、戦神マルスこそは戦闘の化身。達人の中の達人の武を題して神域の武と呼び習わすのなら、マルスこそは其の『()()()()()()である。後の時代、世の中心となる大国に篤き信仰を受けし戦神は、既にして其の時に匹敵する神威を手にしている。

 

 この男、アルケイデスこそが第一の信徒であればこそ。マルスはその潜在能力の総てを解放できるのだ。

 

『喰らえ、突き立て――刺し穿ち、突き穿つ――ッ! 温情だ、命は壊さねえでやる。但しその戦意を粉砕して(ツラぶん殴って)やらァアッ! 軍神の剣(フォトンッ・レェエイ)ッ!』

 

 右の豪腕に担う三機能権(イデオロギー)の三形態が一つ『戦闘』の型。真紅の神剣が紅い螺旋の渦を吐き出し、この一撃で雌雄を決するまではいかずとも天秤を傾けるべく疾走する。

 万物を粉微塵に削岩する大陸貫通の一閃。立ち塞がるは純白を担う金色の戦士。この戦争(ケンカ)の趨勢を手繰り寄せんと期しているのは彼も同じだ。地平の彼方まで獅子吼轟きし無白を輝かせ、この一刀に乾坤一擲、渾身一打の斬撃を解き放つ。

 

「朋よ。強がってはみたが流石の私も一人では抗し得ん。手を貸してくれ。なに……戦神は戦バカだ。こちらが()()()()()だとは露ほども思い至らんさ。……私とお前が共に立つ。ならば我らこそ最強也。()くぞ――誓約されし栄光の剣(マルミアドワーズ・ネメアー)……ッ!」

 

 中腰に構えられた純白の中庸剣が、裂帛の気合と共に逆袈裟に振り上げられる。

 

 ――赤と白の激突の瞬間、世界から光が消え、音が死に、虚無に帰す。光と音が戻った刹那、無色の()としか形容できぬ、莫大な衝撃で万象は震撼し、瀑布の如き透明な波動が全世界全神話に波及する。

 

 アジアの弓兵の代名詞がギリシアの方を振り向き戦慄に武者震いし。

 エジプトの未来のファラオと聖者が、先の出会いを予感する。

 

 戦神とその第一の信徒、数少ない私闘とも云える彼らの決闘は――死者ゼロ名、その結末のみが決着を物語った。

 短期間では決着つかず。されど戦神は溌溂として。またいつか、鬱憤が溜まったら相手しろよと、立場の垣根を超えた友情を示すように拳を出し、アルケイデスはそれに己の拳を合わせたのだった。

 

「再戦の時を、またいつか」

『ああ。いつか、な』

 

 満身創痍の戦士と、余力の残る神は笑いあった。

 

 

 

 

 

 




マルス、出力八割。権能封印。但し本気。
アルケイデス、出力十割。但し奥義封印。剣縛り。

お前ら人間じゃねえ!(直喩)


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10.5 不毀、流星九条

お、お久しぶりです(震え声)





 

 

 

 

「鍛造の神に奉る。我が願いを聞き給え。祖国を守護せんと決起せし雄偉の志に嘉し、彼の者を英傑成らしめる物として担うに足るよう、御身の鍛えたる大槍に加護を授け給え。代価に御身の無聊を慰めよう。あれなる獣の骸こそ、鍛冶司る御身が手にされるに相応しい」

 

 ヒッポリュテとヘクトールが、その祈りにギョッとする。果たして、アルケイデスの張り上げた大音声に、暫くの間を空けて天から一柱の神が降臨した。

 ギリシア世界に冠たるオリンポス十二神、長たる神王と女王を除きその席に明確な序列は無い。然し最高位の神格を有する神々に於いて、彼の者を軽んじられるモノなど、それこそ道化を演じていた『アレス』を措いて他に無いだろう。

 鍛冶の業に己が魂魄をも打ち込む下位神格、単眼の巨人(キュクロプス)を眷属とする彼こそが神々の武具を鍛えた神の鍛冶師。名をヘパイストス。名だたる総ての神々の武具は彼とその眷属により産み出されたものだと言えば、無骨な鍛冶師としてのヘパイストスの力量、その片鱗を知れるだろう。

 

 岩壁に打ち寄せる波濤に海獣の遠吠えが混じっている。肌に微弱な痺れを齎す大気の振動が、神罰を運ぶ海嘯の獣の強大さを思い起こさせた。

 

 それを切り裂くように、鍛冶の神の鋼の神性が降り立った。

 醜い隻眼の小男である。脚は不具、纏う具足は無骨なれども至上の鋼。杖をついた神は機嫌悪げにぎょろりとした隻眼で三騎の英傑を睨めつける。

 唐突な呼び掛けと祈りに応じたヘパイストスは律儀と言えよう、元よりその小アジアやレムノス島、シチリア島の民以外からは信仰が薄い故に、インド神話の火の神ヤヴィシュタの同位体である彼は珍事と言える祈りに過剰に反応してしまったのだ。見れば、その眼は眠そうである。床についていたのかもしれない。不興を買ったのかと顔を強張らせるヘクトールと、険しい目つきで警戒するヒッポリュテを尻目に、ヘパイストスはじろりとアルケイデスを見遣った。

 

『……そこもとよ。儂とは久しいというのに、随分と不躾な願いではないか』

 

 ヘパイストスの仏頂面を、笑い飛ばせるのは世界広しと言えどこの男だけだろう。嫌味もなしに笑い、アルケイデスが肩を竦める。

 

「人の身である私にとっては久しくとも、神たる御身にとってはそうでもないはずだろう? 万年を経てなお不滅である貴殿からすれば、数年程度は瞬きもせぬ内に過ぎ去っただろうに」

『……見ない内に威風が増したか。それに減らず口を叩くようにもなった。アレスの戯けに影響でもされたか? フン、気に入らん』

「マルスだ、神ヘパイストス」

『……ん?』

 

 引き篭もっていたのか世情に疎いらしい。いったいここ数年何をしていたのだろう。まさか眠りこけていたわけでもあるまい。

 アルケイデスは苦笑いを浮かべ軍神の改名を伝える。

 

「彼の御方は名をマルスと改めた。アレスなる道化は舞台を降りるとな」

『いみじくも神である奴が、名を改めた、だと?』

 

 訝しげに隻眼を眇め、醜男は顎に手を当て思案する。神の改名――その重大性は神であるからこそ深く認知できる。然しそこではたと思い出したかのように、ヘパイストスはヘクトールの持つ大槍に目を向けた。

 そしてやおら、不快げに吐き捨てる。

 

『……彼奴の槍を鍛造してやる前に拵えた、儂が随分と昔に廃棄したはずの習作ではないか。因果なものだ、トロイアに流れておったか……。それを儂に鍛え直してほしい? 気に入らん、儂がそんなモノに手を加えるなどと……』

「軍神の槍の習作であるからか?」

『左様。何が虚しくて、嘗て廃棄した槍を手掛けてやらねばならん? こともあろうにアレス……今はマルスだったか。彼奴の槍の手習い作を』

「フム。……神ヘパイストス。御身の不満は分かるが、軍神アレスと戦神マルスを同列に扱うものではないと忠告しよう」

『……?』

 

 『軍』も『戦』も、呼び名こそ違えど同一の神格である。

 何故呼び分けるのか把握できず、何を言っているのかと視線で訊ねてくるのに、アルケイデスは若干の稚気を滲ませて答えた。

 

「神マルスは、気宇壮大な真の戦神。その力は主神に伍する」

『は……?』

「またその懐の深さは道化を演じていた頃の比ではない。もしも過去の神アレスが気に食わず、蟠りがあるなら神マルスに直接ぶつけるといい。なんなら一発殴らせろとでも言えば、甘んじて拳を受けてくれるだろう」

『……誰のことを言っておるのだ……?』

 

 信じられないと眼を見開くヘパイストスに、アルケイデスは微笑むだけだった。

 嘘の色は見えない。己が目を掛けた武人である英雄が、神と神の仲違いのためにこんな火種を撒くとも思えなかった。ならば本当に?

 ヘパイストスは黙り込むと暫し思案する。そしてにやりと豊かな髭に覆われた口元を歪め、面白いと呟いた。試してやっても良い、と。どのみち殴りたいと思っていたのは偽らざる本当の気持ちでもある。

 

『……よかろう。もしも彼奴が儂の妻を寝取ったことを侘び、儂の拳をその無駄に整った顔面に受けたのなら、彼奴への蟠りは捨ててやろう』

「そうするといい」

 

 安請け合いするが如く太鼓判を押すアルケイデスに、ヘパイストスは機嫌を直して頷いた。

 ――後に。果たしてヘパイストスは無骨な拳骨を握るとマルスの顔面に渾身の一撃を叩き込み、過去の不義を詫びさせた。そしてマルスが改名した所以を聞き、大いに同情する。この禊を以て戦と鍛冶の神は手を取り合うことになるのだが――こめかみに青筋を浮かべたマルスが、アルケイデスに怒鳴り込んで殴りかかってくることになる。

 それは必然の、戦神の気質を把握しているアルケイデスの仕組んだ計略だった。ヘパイストスを心情的に自陣に引き込む。ついでにマルスを少し怒らせて立ち合う。一石で二鳥を落とす手並みである。

 

 しかしアルケイデスは三つ目の鳥を狙っていた。

 

「それで、我が願いの代価としてあの獣は不足か?」

 

 問われるのに、ヘパイストスは神罰の海獣を一瞥する。そして笑った。一目でポセイドンの権能を預かる神の獣だと判別できたのだ。

 

『……ここのところ、暇をしておってな』

「そうだろう。寝惚け眼で降臨されたのだ。御身が手掛けるに足るモノなどそうはあるまい」

『左様だ。故にちょうど、手慰みに一仕事したかったところでもある。引き受けてやらんでもないが……儂の蔵の肥やしになるだろうな。儂の武具を握るに足りる格の戦士がおらん』

「いるではないか。此処に、二人も」

『む……? ……は、はははは! なるほどそういうことか!? ガッハハハ!』

 

 一瞬ヘパイストスは英雄の言葉の意味を呑み込みかね、そしてその真意を看破する。

 笑った。盛大に笑った。隻眼が濡れるほど笑った。アルケイデスの真意を知ったヘクトールとヒッポリュテも顔を引き攣らせる。

 まさか、そういうことなのか? こともあろうに、神であるヘパイストスを相手に、そんな戯言をほざいたのか!? 赦されない、赦されるはずがない。

 神罰――その二文字が脳裏をよぎる。だがそんな二人の緊張を他所に、ヘパイストスはなんとか噛み殺そうとするも、堪えきれないように笑いながら言った。

 

『儂に捧げた供物で……武具を作らせ! あまつさえ、それを自らに寄越せと!? ガハッ、が、グ……フッ、ハハハハハハ! なんだ? そこもとはいつのまに……そこまで厚かましくなったのだ!?』

「なに。以前、友に言われてな。私には傲慢さが足りぬらしい。ならばそれらしく振る舞ってみようかと思ったのだ」

『よりにもよって儂を相手にか!? 良い面の皮よ! ハハハハハハ!』

「御身の保険にもなるだろう? これなるは私の妻であり、マルス様の御子にして祭事を司るアマゾネスの巫女でもある。そして元女王であり、戦士長だ。彼女に武具を授けたのなら、もしマルス様が御身に殴打された時に怒り狂おうと矛を収めるだろう」

『そこか!? そこなのかヘラクレスよ!? 随分と愉快な男になりおったわ!』

 

 不敬である。不敬極まる。なのになぜヘパイストスはこうも愉快げなのか。理解できないでいる二人を横に、あくまでアルケイデスは飄々としていた。

 そしてあたかも、もう決定されたかのようにヒッポリュテに云うのである。

 

「ポルテ。そういうことだ。お前に贈る槍の素材は、ヘパイストス様の手を介してお前に渡るだろう。変則的だが私がガラクタを渡すよりは余程良いはずだが」

「……いや、私はそれでもいいが……もしかして私のために、鍛冶の神の不興を買うような真似をしたのか……?」

「否。ヘパイストス様は資格ある者に対しこの程度で怒りはしない。そして私にはその資格がある」

『然りだ、軍神の娘よ。案ずることはないぞ、そこもとの男は儂を()()()方法をよく心得ておる。何せこのバカタレは儂の造った武具しか扱わぬなどと誓いを立てておるのだ。並ぶ者のない戦士であるこの男がだぞ? ――これに滾らぬは鍛冶を司る神たれぬわッ! いいぞ。そこもとと、その妻の槍。確かに鍛えてやろう』

 

 ヘパイストスは鍛冶の神である。しかし同時に智慧者であり、優れた戦士でもあるのだ。職人肌である彼は自らの職務と腕前に誇りを持っている。その筋の人間にあるように、一度気に入った者に対しては入れ込む性質があった。そしてその気に入った英雄から自分の鍛えた武具しか振るわないと誓われるのは職人冥利に尽き、遠回しではあるが新しい武具をねだられてしまえば、満更でもない気分にもなる。

 相手は人間なのだ。頻繁にねだられるならまだしも、一度目はこちらから半ば強引に剣と弓、鎧を押し付けた訳もある。今や天界でも地上でも、果ては冥府の死者達の中ですら、口々に噂する大英雄が他ならぬ自分を頼ってきたのだから、ヘパイストスとしても鼻が高くなるというものだ。

 

 それは承認欲求。実の母に捨てられ、我が子と認められず、仲を修復してなお心理的な壁のある母を持ったヘパイストスは、己の醜さを自覚し他者からの視線に敏感でもある。彼には自覚がないが他者から認められたいという欲求が強かった。故にこの上なく自分を認め、頼り。祈るのではなく自分の腕を見込んでねだってきた英雄に機嫌を良くしたのである。

 類稀という形容すら陳腐に落ちる洞察力を持つアルケイデスは、その心理になんとなく気づいていたのかもしれない。ヘパイストスの琴線を的確に擽り、色よい返答を引き出してみせた。

 

「こりゃ()()な……」

 

 そのやり取りに、ヘクトールは気が抜けたように肩から力を抜いた。

 

 厚顔に神へねだり、あまつさえ供物で武具をねだり、そしてそれを赦されてしまう。明晰な頭脳と観察眼を持つヘクトールは理解していた。自分や他の人間が同じことをすれば、たちまち不興を買って傲慢の罪を課せられていたに違いないと。

 まさに規格外。人間の尺度に測れぬ雄大な存在。こともあろうにあの神罰の海獣を、狩りの獲物としか見ておらず、大英雄を知るヘパイストスは何も心配していないのだ。確信する。トロイアは救われていたのだと。あの大英雄ヘラクレスが来援した時点で。

 

 だが違うのだ。

 

 最初から予感はあった。ヘラクレスが来た――その報を耳にした瞬間に、自分が出てくる意味などなかったのだと。だがそれは違う。愛する国を襲った自業自得の災禍、それをたまたま助けに来てくれた英雄に総て片付けてもらうなど、はいそうですかありがとうございますと簡単に流していい事態ではない。

 祖父の愚王ラーオメドンが王座に在った時、ヘクトールにはなんの権限もなかった。祖父は自身の娘を平気で生贄にするような男である。ヘクトールが出しゃばれば、ヘクトールの父にまで累が及んでいたかもしれない。然し今やラーオメドンは消えて、ヘクトールは責任を持って此処に来ている。戦う意志を携えてだ。

 黙って見ていられはしない。ヘパイストスが大槍を引っ手繰り、その場で鍛冶の為の神具を召喚して鍛造をはじめたのを見詰める。火だ。神の火が熾っている。ヘクトールの中にある、熱い血潮がうねり、猛っている。意志を固めた。何もかも英雄ヘラクレスにおんぶに抱っこで、獣が討たれるのを指を咥えて見ているつもりはない。

 

「ヘラクレス。俺は……」

「言わずとも良い。だが今は私に任せよ。貴様の槍が仕上がるまでの時間を稼ぐのは、私一人で事足りる仕事だ」

 

 炯々と強い光を放つヘクトールの眼に、アルケイデスは寛容に笑って白弓を握り直した。

 

 切り立った断崖に立つ雄大な背。はためく獅子の外套。大矢を精製し金毛の弦につがえ、気負う様子もなく海嘯の獣に狙いを定める。

 既に彼我の距離は二十kmにまで近づいていた。その刺々しい蒼い外殻に覆われた巨体が、トロイアの海岸に迫りきている。

 剛弓一閃、弦の撓りが槍の如き大矢の射出を報せる。破滅的な弦の震動がアルケイデスの膂力を物語った。次々と息を吐く間もなく放たれた速射の矢。秒間四十射の大矢は瞬く間に視界を席巻し、大軍が矢を放ったかのような光景が途切れずに進んだ。

 射出の回転速度を重視した神業である。矢を同時に四本放ち、次の瞬間には再び矢が精製され放たれているのだ。弦を引き、離し、引き離し引き離す。ただ一矢を以てすら山岳を穿ち崩す魔弾の雨が、ポセイドンの力を有する海嘯の獣を鏖殺せんと飛翔する。

 

「……まったく。私の分も残してくれるんだろうな?」

 

 苦笑めいて云うヒッポリュテに、アルケイデスは肩を竦めた。そしてすぐに射撃を再開する。矢は効果が薄い、故に足止めが精々だと言いたいのだろう。それに矢はアルケイデスの魔力から造られている。無限に想える矢玉の霰も、その実無限などではない。

 飛来した魔弾の嵐。海嘯の巨獣は煩わしげに吼えた。神殿を倒壊させたかのような、暴圧の潮騒の咆哮(ネイロ)。震動する外殻は地震の権能を纏い夥しい魔箭の霰を受け止める。

 狙いは必中。一矢も仕損じず着弾し、炸裂する魔箭。外殻を削らんと奏でられる直撃の狂騒曲。彩るのは獣の絶叫。痛みに吼えたのではない、脚を止められた故の逆上の叫びだ。神の権なる能を瞬きの間も無く行使させられ、重い矢の衝撃に脚を止められる、これは巨獣の心胆を赫怒に染め上げた。

 体に傷は負わずとも、神罰の運び手を煩わせる罪は重い。もはやトロイアのみに被害を留めてやる温情は尽きたと言わんばかりに巨獣が猛る。

 

 巨大に過ぎるその尾を振るい、海面に叩きつけた。

 

 瞬間、大海がうねり、潮流が唸り、()()()()()。人類の絶望、陸地を呑み込む海の暴威――()()()――津波である。

 トロイアのみならず近隣諸国まで災禍に叩き落とす神の怒り。人間であるならば抗う術のない地上の殲滅。世界の終わりを幻視させる大災害。恐るべき大海嘯の波高は、人の心を圧し折る()()()()()()

 

 だがそれを見たヒッポリュテとヘクトールに悲嘆と絶望の色はない。

 

 一息を吐き、一際(おお)きく頑健な拵えの槍を一本、精製したアルケイデスが矢として白弓につがえていた。

 一瞬、偉丈夫の上腕と背筋が大きく盛り上がる。戦慄を誘う『力』の波動、界面に波紋を刻む膂力のうねり。白弓が淡い白光を纏っていた。

 放たんとするのは、西方弓兵の代名詞たる大英雄渾身の弓技。一射を以て争いに終止符を打った東方弓兵の代名詞とは異なる、窮極の殲滅戦技である。

 

「『吠え立てよ金獅子の鋭爪(レベンディス・メラーキ)』」

 

 真名開帳。ただ一射で山脈に大穴を穿つ対人宝具。なれど、それはあくまで彼の力を彩る付加要素に過ぎない。

 ただの一箭にて太陽を射落とした豪腕である。大英雄たる由縁はこの技にあるのだ。

 

射殺す百頭(ナインライブズ)

 

 穿つは流星。九条の光の矢。遍く幻想を屠る竜頭の砲弾である。足場を陥没させるほどの力の一閃は、ただ一射を以て幻想絶命の九撃を射る。扇状に拡散した竜を模す力の塊は、忌むべき災禍の海の壁を真っ向から霧散せしめた。

 海嘯が打ち消される。驚愕は神の獣のもの。輝く兜のヘクトールはこの時、最強の名の何たるかを目撃した。人の身では至れぬ生命の特異点、その真髄を確かに眼にした。

 爆散した大海嘯。本来の神格のものではないとはいえ、海神の権能を打ち破る冗談のような光景。海嘯の飛沫が遠くアルケイデスらの下まで雨のように降り注いだのが、これが現実の現象であることを知らしめる。

 

 巨獣が啼いた。おのれ、よくも――憤激し、進撃する。

 

 それを阻む矢の壁が再度放たれた。轟音が飽きるほど響き渡る。それは巨獣の歩みを大幅に遅れさせ、見事、英雄は一時間もの間、その場に巨獣を縫い止めてのける。

 

「……こんなものか」

 

 射撃を止めたアルケイデスは、肩で息をしながらも未だ余力を残している。

 ちらりと背後を窺うと、ヘパイストスは笑っていた。それでこそだと。

 

『終わらせたぞ。トロイアの守護者、そこもとの槍だ。受け取れい』

 

 鍛冶の神は、その槍を放って王子に投げ渡す。

 掴み取ったヘクトールは槍を見た。黄昏の穂先。黒塗りの柄。生まれた頃から慣れ親しんだように、手に吸い付くような握り心地。そして削った刃を特製の篭手に仕立て直したものが渡された。

 驚嘆する。これが神の鍛冶師。告げられる極槍の真名も耳障りが良い。

 槍を旋回させる。柄を縮め剣として振るう。突き出しながら槍の長さまで伸ばし刺突の鋭さを増す。完全にヘクトール専用の武具と化した極槍に感嘆の念しか生まれない。

 

「さて、やろうか」

 

 ヒッポリュテは微笑み、戦神の軍帯を外してアルケイデスに渡した。大英雄はそれを腕に巻きつけ、微笑みを浮かべながらヘクトールに云う。

 

「終わりは呆気ないものになる。トドメは貴様だ。確実に当てよ」

「……言われるまでもねえ。ここまでお膳立てされて『外しました』なんて言えるものかよ」

 

 不敵に笑うヘクトールからは、若さ故の血気が抜け落ちていた。

 勝てない。アルケイデスの人間を超越した武技と力を目の当たりにして、純粋な人間であるヘクトールは密かに挫折を感じていた。

 だが、それがなんだというのか。その程度で心は折れない。

 これは禊なのだと理解した。トロイアの人間が、トロイアへの神罰を終わらせるための禊なのである。ならばヘクトールがやらないわけにはいかない。

 アルケイデスには勝てないだろう。もしも戦えば成す術もなく殺されるだろう。なら戦わねばいいのだ。人間らしく、小賢しく、人智を超えた英雄(バケモノ)を翻弄してやればいい。ヘクトールはいっそ清々しい気分だった。

 

 そんな青年に笑みを投げ、アルケイデスはゆったりと弓を構える。休息を挟んだ。

 目標は、既に至近まで接近してきている巨獣。

 

 軍帯に由来する軍神の神気。放たれるは威力の増した射殺す百頭。権能を穿たれ外殻を損傷した巨獣目掛け、天つ聖鹿(ケリュネイア)が虚空を疾走して戦御子を運び、帯を返されたヒッポリュテが猛りと共に軍神招来・狂戦咆哮(アーレウス・アマゾーン)を発動した。

 傷ついたのは、損傷していた胸の外殻を、ヒッポリュテの脚撃によって叩き割られた海嘯の獣である。余りの破壊力に怯み、仰け反った獣。ヒッポリュテを回収して離脱したケリュネイアを視認したアルケイデスが、ヘクトールという英雄の誕生を言祝ぐように優しく言った。

 

「やれ、ヘクトール」

「応――」

 

 不毀の極槍(ドゥリンダナ)

 

 新生し、解放された宝具の一撃が、剥き出しの獣の胸を穿ち抜いた。

 

 

 

 

 

 

 



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11.1 サラミス島の喜劇 (上)

予告しておきます。
生前編が終わるとsn編。
それが終わると完結。fgo編? 知らない子ですね……。
以前の妄想はさておき、気が向けばやらないこともないかもしれない。やるとしたら第三特異点の後から、かな……?
超長編ですが、よろしくです。生前編はもう残り四分の一程度。いよいよ本番が近づいてないこともない。



 

 

 

 白い閃光が奔る。

 彗星の如く瞬き、閃いて消える無繆の白光。

 対峙する幻影の人型、その架空の眉間を貫く軌道は神速の残影である。影を置き去りにする槍筋に揺らぎはなく、槍突を戻す引き手は眼にも留まらない。

 

 半刻に亘り続いた演武は佳境に入る。一瞬のみ膨れ上がる鬼気。仄かに漏れた殺気は担い手の“意”を追い抜いていた。身に積んだ武練が“意”に先んじる神域の武――疾走する槍が穿つは幻影の急所。

 眉間、喉、水月、槍の極みが三連する。一代を以て組み上げられた神武の流れは、しかして初代を以て潰えるだろう。後に継げる者のない人智を凌駕した武芸――三連した槍の軌跡が不意に揺らぎ、一槍を繰る一動作に九連する極みの槍術。

 その神業は回避不能。その豪腕により防御不能。剛と柔が高次元で合一した無双の武術は、単純な研鑽のみで到れるものではない。ただ一人からなる神話、人類の特異点とも言える規格外の器と才幹が必要不可欠だった。そして膨大な経験と技の研磨によって到れる唯一の領域こそが彼の立つ境地。一つも欠けてはならぬものが融合した奇跡の結晶こそが、戦闘の化身マルスをして最強の人類と称する魔槍の担い手である。

 

「……鈍っているな」

 

 そして。事もあろうに神槍の技を披露した超人は、そんな感想を不満げに溢した。

 槍を振るわずにいた歳月は数年。ヘパイストスより剣と弓を授かって以来、錆びつかせていた技である。これを磨き直すために槍を振るったのだが、彼は満足していなかった。

 

 『神域の武』程度ではダメなのだ。アルケイデスの意識は高い。彼が仮想敵とするのは戦神マルスなのだ。故に全く以て不足である。己に求める水準は更にその先、最低限度で神域の極みにある。奥義である『射殺す百頭』を転用し槍術に用いてみたが、そのキレにも満足できない。槍の薙ぎ払いの軌跡、総てが無数に連なる刺突として見舞える技量の位階がアルケイデスの基準値である。

 仕方がない。鍛錬せねばならないだろう。錆びついた槍術を、剣術と弓術と同等まで引き上げる必要がある。そうしてはじめて槍術は求める水準を満たすだろう。武芸百般余さず極めてこその戦士であり、己が体現する英雄像に苦手な武術など有り得てはならないのだから。

 

「それで不満げにする者などお前ぐらいなものだ、アルケイデス」

 

 酒杯を手に苦笑してヒッポリュテが云う。彼女もまたアルケイデスと同じ槍を所有していた。とは言っても、長槍の尺度は担い手の身の丈に合わせて異なるのだが。

 

 ――其れは蒼き海嘯の獣の頭蓋骨から削り出し、鍛冶と火を司る神が鍛造した新たなる得物だ。海神の権能、地震と操水の異能を有する宝具。真名を解放すれば、半権能の域にある力を発揮するだろう。

 げに恐るべきは、巨獣の生命力とヘパイストスの鍛冶の業である。心臓を極槍に貫かれ、手足と尾を切断され、その五体は余さず解体され尽くした。頭蓋を削られ、果ては武具に形を変えられながらも、生命の宝庫と云える海の化身たる獣は()()()()()()()のである。

 生きながらに解体された魔槍の憎悪は筆舌に尽くし難い。骨髄の色彩を持つ白亜の槍は、不気味に脈打っていた。三人の怨敵への憎悪を増幅させられた槍は、擲たれたとしても怨敵の挑発を受ければ担い手を穿たんと飛翔するだろう。即ち投げ放っても白槍は紛失しない。怨敵を殺す本懐を遂げるまで、魔槍が息絶えることは決してない。

 

 アルケイデスの演武がおこなわれたのはトロイアの王城、その宮殿である。

 

 報酬として神の獣の骸を貰い受けたと言って、さっさと退散しようとしたところ、ヘクトールが「返し切れねえ恩義を受けたってのに、これでお別れしちまったらトロイアの評判が地に落ちちまう。せめて少しはお返しさせてくれ」と引き止めてきたものだから困った話だった。

 国を挙げてのパレードにはじまり、飲めや騒げやの宴会を開かれてしまった。本当なら供された酒でも飲みたいところだったが、この後すぐにでも本来の予定地であるサラミス島に向かう気でいたので泣く泣く遠慮したところである。ヒッポリュテは遠慮なく酒を呷っているが……。

 そして折角だからとヘクトールがアルケイデスの演武を所望した。まあいいだろうと軽い気持ちで受け入れ、魅せてやったところ。居並ぶ文武百官とトロイアの王、その妻子と近衛兵は絶句してしまったのだ。そしてヘクトールは曖昧な表情で苦笑している。

 

「さて、槍の極みを見たいと言ったが、これで満足か?」

「……いやぁ、はは……」

 

 ヘクトールは乾いた笑みを溢す。

 

「参考にしたい、って思ってたわけだが……こりゃ無理だ」

「無理ではない。肉体的な問題で再現できぬ、到れぬものはあるだろう。だが技とは己に合うものを選び、合わぬものを削り、自身に最適化していくものだ。貴様は今の己と私を比較しているのだろうが自惚れるものではないぞ。生きた年月、積んだ経験が違うのだ。今の貴様には無理でも、五年後、十年後の貴様ならできることもある。若人よ、己の未来を諦めるな。貴様の才ならば必ずやある種の境地に到れる」

「高く買ってくれて嬉しいね、俺も捨てたもんじゃないってことか」

 

 危うく自身の武才へ見切りをつけるところだったヘクトールだが、言われてみて比較対象のマズさに気づき微苦笑する。

 大英雄ヘラクレス。彼は今三十二歳だという。戦士として最も脂の乗った時期だ。そんな彼よりもヘクトールは十歳近く若い。彼の言う通り十年間みっちりと鍛錬を積めば今の己では想像できない技量を手にしているかもしれなかった。むしろ今は彼の最強にこうまで言わしめる自身の才覚を信じるべきだろう。

 頷いてヘクトールは酒を呷る。そんな彼を横に、自身の隣の上座にアルケイデスの席を設けたトロイア王ポダルケースは不安げに言った。

 

「……しかし、この程度のもてなしだけでよいのか、ヘラクレスよ」

 

 彼は不安だった。英雄という人種を知る王である。

 大した見返りもないまま、帰しても怨まれないか不安で仕方がない。表向き報酬は要らないと言っても、実は期待している部分があり、その期待を裏切ったと怨みを持つ人間がいるのもまた事実。彼は王であり凡人である、故に無償の救済など信じられなかった。

 本当はもっと豪勢にもてなし、金銀財宝を贈り、奴隷を譲らねばならないのではないかとぐるぐると考え込んでいる。それにアルケイデスは笑った。嫌味はなく、莞爾とした会心の笑みである。

 

「案ずるな、トロイア王。私にとって、こうして貴殿やトロイアの王族、重臣らと直接縁を結べたこと自体が報酬に等しい。あらゆる金銀財宝も、この縁を前にすればはした金だ」

「……それはどういうことだろうか?」

「なに。私は近い将来、必ずや王となる。その時に豊かなトロイアと縁故があれば、それは何物にも替えがたい宝となるだろう。国交を結び、交易し、互いの国を富ませ、同盟国として軍事協定を結ぶ――そうであるならここで法外な要求をする行為などは百害あって一利なしだ。そうは思わぬか、トロイア王」

「――おお、なるほど。そういうことだったか」

 

 露骨に安堵したポダルケースは、アルケイデスが本当に王に成るのだと信じて疑うことがなかった。それは他の臣も同様である。

 それは分かりやすい利益の話だったから。今は絵に描いた餅だが、アルケイデスの卓越した強さと、英雄としての名声の高さはよくよく思い知っている。あの恐るべき獣を討つのに主役を張った男だ。やり遂げるのは疑いようがない。

 王となった後のためのコネクションの構築。壮大でありながら現実味があり、ポダルケースの不安は解消された。彼はトロイアの豊かさを知っている、故にアルケイデスがそれを当てにした縁を得られたと喜ぶのは理解できる話だった。

 

 真意を悟っている者など、トロイア側ではヘクトールと――未だ幼いが聡明な彼の妹のカッサンドラだけである。

 

 ヘクトールは単に、アルケイデスの人柄を知った。彼が本当に無欲な人物で、海嘯の獣から得た武具で満足していることを。そしてポダルケースを安心させるための方便として、分かりやすい利を切り出したことを悟っていた。だから笑うしかない、アルケイデスはポダルケースやトロイアに仕える臣を安心させるために方便を言った優しさがあるが、本当に王に成ってしまうのだろうという確信を持っている。その場合、アルケイデスが優しいだけの人物ではないと読み取れて、武力一辺倒の英雄ではないと洞察できるのだ。

 

(食えないオッサンだな……)

 

 後に自分が、最速の英雄に同じことを思われるとは欠片も想像していないヘクトールである。

 

 ――そしてだからこそ、幼い身でヘクトールと同じ結論に至った幼姫カッサンドラの聡明さは群を抜いていた。

 

 齢十にも満たない彼女はアルケイデスと言葉を交わしていない。ここで見聞きしたものが総てである。それだけでカッサンドラはアルケイデスの真意と未来予想図を克明に思い描けた。

 この時のカッサンドラは、まだアポロンより予言能力を与えられていないにも関わらずだ。その人物鑑定眼と知性が飛び抜けているのは疑う余地がないだろう。

 

 派手なもてなしに喜ばない英雄。王の身内だけを集めさせて小ぢんまりとした宴会を開かせた英雄。父王が不安がっていて、それを払拭する利をわかりやすく提示した英雄……そしてそれを眺める敬愛する兄の目の色。

 アルケイデスは本当に報酬を無用と考えていること。兄ヘクトールが、アルケイデスが王になると言った言葉になんの反応も示さなかった故に、本当に王に成るのだろうと考えつけてしまう。少ない材料で論理を構築し、優れた知性が生む直感が確信を懐かせている。紛れもない予言の力の下地が彼女にはあった。アポロンより予言能力を授けられた直後、即座にそれを使い熟せる知能の高さが幼い身に宿っていたのである。

 

 故にのほほんと、赤みを帯びた髪の少女は構えていた。特に関わろうともせず、アルケイデスを興味深げに観察するだけに留めている。

 大人たちは女で、子供である自分が出しゃばればいい顔をしないと知っているから。そんな自分に対して唯一まともに相対してくれる兄ヘクトールを敬愛しているから。彼女は淑やかに沈黙を選ぶ。

 

 アルケイデスと、カッサンドラ。特異な彼らの意志が交錯する時こそが、終わりの始まりを告げるのである。ただ今はまだ、その時ではない。

 

「あー、元はと言えば俺の槍はヒッポリュテ、あんたの物だった。試練を超えたからって貰うばかりってのも後味が悪ぃ。アマゾネスの誇り高き戦士長、あんたに贈り物がしたい」

 

 ヘクトールは笑ってそう言う。それは強かな計算だ。アルケイデスの妻だという女に贈り物をし、より強固な結びつきを得ようという。

 それが分かっているのか、ヒッポリュテは凛々しい表情を澄ませ、わざとらしく驚いてみせた。

 

「貴様は私の試練を超えた。なのに代価を支払うというのか?」

「ああ。ただ槍を貰っただけじゃねえ。鍛冶の神に俺専用にオーダーメイドまでしてもらっちまったんだ。対等じゃねえだろ?」

「ふむ。なら有り難く受け取ろう。王子ヘクトール、いや兜輝くヘクトールか? 気持ちだけでも嬉しいが、くれるというなら貰い受けよう」

「よしてくれ。その二つ名をあんたら夫婦に口にされたらこっ恥ずかしいだけだ」

 

 意味深に言い合い、その実ヘクトールが極めて深く感謝しているのは本当だった。

 ヒッポリュテとアルケイデスは、好感を持つに値する。もしもヘクトールが王子でさえなければ、彼らに付いていきたいと思ってしまうほどに。

 計算はある。しかし彼らとの友誼も結びたい。故に彼は惜しげもなく差し出すのだ。トロイアと、将来の同盟国の結びつきのために。

 

「俺の馬……ゼウスからトロイアに授かった神馬を譲る。聖鹿を持つヘラクレスには無用だろ? そして聖鹿ほどではないにしろ、神馬があれば並んで駆ける脚には困らないと思うぜ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これはいい、いいな! 最高だ!」

 

 ヒッポリュテは自身の愛馬に思い入れはある。しかし戦士でもある彼女は、名馬に対して目がなかった。ヘクトールに譲られた神馬の代わりに愛馬をトロイアに贈った彼女は、神馬――荒野(エレーミア)と名付けた白馬に跨り、ケリュネイアに騎乗して駆けるアルケイデスと並んでいた。

 ケリュネイアに乗ったアルケイデスに追い縋るのはこれまで不可能だった。飛び抜けて脚の速いケリュネイアである。牝鹿ほどとはいかずとも、ある程度は拮抗できる駿馬を手に入れたヒッポリュテはご機嫌だった。

 体に感じる風が心地好い。何より新たに愛槍となった得物と同色の白馬というのが、彼女の琴線を刺激している。敢えて言えば極めて気に入った贈り物だ。

 

 機嫌のいいヒッポリュテの様子にアルケイデスは頬を緩める。そして面白くなさげなケリュネイアに気づいて囁いた。

 

「私は分かっているぞ。お前が一番速いと。だからそう腹を立てるな」

(………)

 

 そういうことじゃないと言いたげに頭を振る牝鹿に微笑する。

 アルケイデスとしても、ある程度ケリュネイアに追随できる騎獣をヒッポリュテが得たのは嬉しい誤算だった。

 何せ移動時間が大幅に短縮できるのだ。時間は有限、時間は資源である。流れた時間は戻らないのだから、貴重なそれを短縮できるのなら喜ばしい限りだろう。

 

 一路、テラモンの待つサラミス島を目指す。

 だいぶ待たせてしまっている自覚はあった。仲間が子供をもうけたという。テラモンとその子に会えるのは喜ばしい慶事である。

 メディアもいるらしいが……流石に数年もすれば自分に対する苦手意識も薄まってくれているはずだろう。

 

 ――同刻、カリュドンの地で、イオラオスとアタランテが、カリュドンの猪狩りに参加していることなど露ほども知らず。

 

 アルケイデスの前途は拓けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 




次回、メディア()は刻の涙を見る。
布石も打ち終わったのでサクサクいくぜぇ。


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11.2 サラミス島の喜劇 (中)

すまない……長いから分割した……すまない……纏めきれない雑魚ですまない……!
放置してたfgo第二部二章をプレイし始めた。遅くなった理由はそれ。じっくり進める……。

あと作者名、戦国マサラは「マサラタウン」と読むのだ……。





 

 

 呪いが解けた時、感じたのは安堵だっただろうか?

 

 恋心と性愛の神エロース。彼に矢を射たれた王女は、イオルコスの理想王イアソンへ恋に落ちた。いや陥らされた、といった方が的確かもしれない。

 それは夢のような瞬間で。

 同時に永遠に拭い去れない心傷の瞬間でもあった。

 今でも夢に見る。静謐でありながらも怒り狂う金獅子の戦士の姿を。ヘラクレスへの恐怖が楔となって、王女は暫く一人で眠れなくなってしまったほどなのだから、我が事ながら箱入り娘だった王女が、よく心臓麻痺で死んでしまわなかったものだと思い出す度にいつも感心してしまう。

 

 ――アルゴー号での冒険。平穏無事に済んだ帰路で過ごしただけだったけど、それでも、コルキスから出たことのない王女には新鮮なものだった。

 

 アタランテとヒッポリュテという友人ができた。イオラオスとテセウスという少年と知り合えた。ヘラクレスが怖いだけのヒトじゃなく、本当はとても優しいヒトなのだと知ることもできた。恐れる王女に遠慮して近くには寄ってこなかったが、偽りの恋心に支配されていた王女をイアソンに近づけさせないようにしてくれて、その時は恨んでなんとか排除しようと魔術を使いまでしたのに咎めもしなかった。

 それでもやっぱり苦手なままだったが、ヘラクレスはそんな王女に険悪にならず、父への約束通りにコルキスまで送り返してくれたのだ。

 

 エロースの矢が抜けた時。感じたのは……安堵だった。

 

 けれど無性に悲しかった。なぜかは解らないのに、大切なものをなくしてしまった喪失感に、心が虚無に支配されたようで。無知で愚かだった何年も前の王女は、ひたすらに悶々と時が流れるのに身を任せ、自身の胸の中でうねる感情の正体を探り続けた。

 コルキスで大切な家族に囲まれて過ごして。日々を送る中、ずっとずっと考えて。そしてやっと気づいた。王女は――恋をしていたのだと。イアソンに、じゃない。あのヒトに。ヘラクレスへの恐怖から失神した王女を、王女の部屋まで送ってくれた優しいヒトに、王女は恋をしてしまっていたのだ。

 

 気づいた時には遅かった。自覚した時には手遅れだった。ヘラクレスの一行は、王女をコルキスに送り届けるとそのまま国に帰ってしまった。もう二度と会うことができないと確信してしまった。

 ――我慢、ならなかった。

 許せない。はじめての素敵な恋がこんな形で破れるのが、どうしても許容できなかったのだ。皮肉なことにその時の王女は怖いもの知らずだった。ヘラクレスより怖いものなどこの世に存在しないと強く確信し、コルキスを飛び出してあの人に会いに行こうと無鉄砲にも思い立ってしまったのだ。

 

 ――ばかね。

 

 きっと今の魔女なら、過去の王女をそう嘲笑うだろう。なんて無知で無法なのかと。そしてその上で暖かく見守っていたに違いない。何故なら過程はともあれ、その想いは間違いなんかじゃないと魔女は知っている。

 問題は、王女が掛け値なしに箱入り娘だったこと。世間知らずで、根っからの悪人なんていないと……いやそうではない。そんな存在がこの世に在ることを知らなかった。

 みんな仲良し。仲良しでいきましょう! 諍いを起こすコルキスの人にそう言うと、みんなは蟠りを解いて、最後には和解の握手をしたものだ。だがそれは彼女が王女で、コルキスの民だから無下にはできなかっただけのことで。コルキスの外の民が、王女の言葉に従うことはないのである。

 

 果たして王女の旅は過酷なものとなった。

 

 『あのヒト』のことは名前以外何も知らなかった。故にその名を告げ、居場所を知ることからはじめるしかない。しかし王女は愚かな選択をした。イオルコスに行き、そこでアルゴノーツの頭目だった王イアソンに訊けば良かったのだ。それだけで格段に、彼女の旅路は短いもので済んだはずなのだから。

 しかし王女はイアソンに会いたくはなかった。偽りの恋心を植え付けられた故の、忌避感から来る苦手意識である。イアソンは悪くない、そんなことは理解しているが、それと感情の話は別である。ここで敢えてイアソンを避けたことが、彼女の行く末を決定づけたと言っても過言ではないだろう。

 

 コルキスを飛び出した王女には旅の心得などなかった。そんな彼女を助けるべく、エロースが神としての立場を横に置き従者として仕えに来たのだが、当然のことながら王女はそんなエロースを蛇蝎の如く嫌悪する。王女にとってエロースはそもそもの元凶、諸悪の根源なのだ。誰がそんな輩に好印象を持つというのか。

 また自分を陥れに来たに違いないと確信して拒絶するも、神に対しては強く出られない。それに今度はエロースに、自分に恋するように矢を射られるかもしれないという恐怖もあった。故に王女はエロースが自分に仕えるのは我慢することになるが、彼の助言の悉くを無視してしまう。

 エロースが王女に仕えようとしたのは、彼女への贖罪のためである。自身の司るものを歪めたことが、彼の矜持に反していたというのもある。それに彼は本能的に悟っていた。様変わりした実の父が、自分を良く思っていないことを。これをマズイと感じられる感性が、感受性豊かな恋心の神にはあった。エロースは父に改心したことをアピールするためにも、人の身に仕えることを是としたのである。そして自身の矜持と父マルスに対する打算はあるものの、王女に対して罪悪感を抱いていたのも真実だった。

 

 だからこそ、王女に対して強く出られないのはエロースも同じだった。彼女が自分の助言を無視しても、どんな危機に陥っても見捨てずに救い続けたのは、エロースなりの誠意であり。やがてそれは王女の信頼を勝ち取ることになる。

 

 然しやはり、最初は欠片も信頼されなかった。むしろ最大限に警戒され、可能な限り遠ざけると共に、王女はエロースの前では決して眠らない上に何も口に入れなかった。

 旅を始めて僅かな時間で、王女は疲労困憊だった。慣れない一人旅、気の休まらない相手との道程、陸路に海路で襲い掛かってくる獣や野盗。得意の魔術で安全圏を確保する結界を築いても、その中にはエロースが必ずいる状況。それは王女の精神的な余力を容赦なく削った。

 行く先々の人々も、決して善意の者ばかりではない。寧ろ悪意ある者が大半だった。何せ王女の容姿は見目麗しい、可憐な少女なのである。他者からの悪意を見抜いた従者エロースが追い払おうにも、エロースが邪悪な存在であると断定していた王女はそれに怒った。ヒトの善性を無条件に信頼していた頃である。恋したヒトの居場所を訊ねると相手はこれ幸いと王女を騙し、眠らせ、惑わせ、迷わせ――手籠めにしようとした。

 

 犯そうとし、捕まえ奴隷として売ろうとし、ヒトの尊厳を奪って飼おうとし。騙され続け、傷つけられ続け。王女は下賤な人間を嫌悪していくようになる。

 魔術があった。直接的な危機を切り抜けられる智慧と力があった。それでもヒトの悪意は王女を上回ったが、致命的なものはエロースが捌いて辛うじて事なきを得る。次第に王女は民という種を侮蔑して、見下す。高貴な者しか信じられないと確信し、今度は行く先々で王宮を訊ね、身分を明かし、テラモンの居場所を訊ねた。

 

 だがここでも王女は裏切られた。

 

 ただでは教えられないとして、一夜限りの肉体関係を求められもした。

 条件として智慧を貸すことを求められ、これに応えるとその叡智を恐れられ暗殺者を差し向けられもした。

 時には妾として囲おうとされ。偽りの情報だけを渡されて道に迷わされ。恐ろしい怪物や賊の退治を命じられもした挙げ句、苦戦の末に成し遂げても魔女に報酬など渡せるものかと約束を反故にされた。

 

 王女が魔女に変貌していく。人間不信に陥っていく。次第に裏切りに対する報復をおこなうようになり、至る所でそれを繰り返したために本格的に魔女の悪名が彼女についてしまった。

 悪いことはしていません! テラモン様の居場所を知りたいだけなんです! そう弁解する彼女を信じる者はどこにもいなかった。各国の追手が魔女を追い詰める。助けを求めた先で拒絶され、逆に悪しき者として英雄が彼女を殺めんとした。

 命からがら逃げ続けられたのは、エロースのお蔭である。彼がいなければどこかで捕まり、その命を落としていたことだろう。

 度重なる裏切りと、冤罪とも言える罪への追及から、魔女は完全にその心を擦り切らせてしまっていた。時には自身の恋心すら捨てようとして、コルキスに帰りたいとも願ったことがある。それを励まし、叱咤して、初恋を捨てさせなかったのもエロースだ。

 彼は説いた。その心を捨てる前に、旅を終わらせよう。そしてテラモンに会い、話して、価値がなかったと思えば捨てればいい、と。それまでは最後まで信じて旅を続けよう、と。魔女はエロースを信頼した。もはや何も信じられなくなっていた魔女は、度重なる危機を助けてくれたエロースだけが味方だと信頼するようになっていたのだ。

 

 やがて数年の旅を経て、少女が女になった頃、漸く魔女はサラミス島に辿り着く。

 

 そこでテラモンと再会した魔女は、しかしもう純粋な乙女ではなくなっていた。

 悪を見た。人間の醜悪な欲望を見た。もう彼女は箱入りの世間知らずな姫ではない。謀略と奸知に長けた、恐るべき魔術の行使者である。

 あれほど恋い焦がれたテラモンにも、魔女は猜疑心を抱いていて。むしろこれでやっと旅を終えて、嘘っぱちでくだらない初恋を終わらせられると安堵していたほどだ。

 サラミス島にも魔女の悪名は届いていたのだろう。王であるテラモンを守ろうと、戦士たちが彼女に刃を向ける。――ああ、やっぱりこうなる。諦観から、魔女の肩から力が抜けた。

 

『やめろ、お前達!』

 

 しかし、テラモンの張り上げた制止の声が、密かに立ち去ろうと考えていた魔女を引き止めた。

 

『コルキスの……王女だろ? わたしの国に何の用だ?』

『! 覚えて……いてくれたのですか?』

『はっは! あれからまだ十年と経ってないぞ。貴殿ほど強烈な個性の持ち主を忘れてしまうほど、わたしはまだ耄碌していないつもりだ』

 

 覚えていた。たった数回、言葉を交わしただけの。イアソンへの偽の恋心に支配されていた故に、ぞんざいで適当な態度しかしていなかったはずなのに。

 テラモンの豪快な笑顔に、魔女の胸に微かな希望が灯る。

 もしかしたら、と。腐るほど見てきた悪意ある目――どんなに隠していても見抜けるようになった魔女の直感が、テラモンには欠片も悪意がないのを察知したのだ。

 

 このヒトはやっぱり他とは違う。そう確信する魔女は、ふいにエロースの姿がないことに気づく。そしてその気遣いに感謝した。

 念願の再会の場を、自分の存在が掻き回さないように隠れてくれたのだ。

 

『? 見たところ……疲れているらしいな。王女らしくもない、薄汚れたローブなどを着て……供はどうした? まさか一人か?』

『……はい。私一人です』

『それはいかん! まずは旅の汚れを落とすといい。……噂は聞いている。積もる話もあるのだろう。だが今は体を休めるといい』

 

 そうテラモンに説かれ、案内されるまま都市に招かれた。

 

 久し振りに体と心の休まる思いだった。念の為に警戒しながら沐浴し、綺麗な衣服に身を包み、毒が盛られていないか確認しながらもまともな食事をして、エロースに密かに見張りを頼んで柔らかい寝台で眠りに就いた。

 だが魔女の警戒は総て無駄だった。テラモンは魔女を歓待し、裏で何かを企むことをせず。後継者をもうけるために嫁を探すことの方に注力するばかり。

 やがて魔女は安心した。テラモンは優しいヒトだと。そして数日がして身も心も回復した魔女はテラモンと語り合う。

 

 いや、魔女が一方的に語った。

 

 これまでの苦難の総てを。ぶつけ、八つ当たりし、喚いた。失望されたかったのだ。迷惑がられたかった。拒絶してもらって、故郷に帰ろうと思っていた。

 しかしテラモンは魔女の癇癪を受け止めた。さぞ辛かっただろうにと、暖かく受け入れてくれた。

 

 魔女は泣いた。裏切りに次ぐ裏切りに擦り切れていた心が忘れていたものだ。

 魔女は再びテラモンに恋をした。そして彼に願う。告白する。自分が旅をした理由、テラモンに対する想いを。

 

『気持ち悪いですよね。分かっています。こんな……私なんかに、こんなことを言われても』

『……まさかだ。わたしは此処まで女性に想われたことはない。却って嬉しさでいっぱいだ』

 

 病的に一途に求められていたと知っても、テラモンは決して魔女を気味悪がったりはしなかった。魔女は自身の行動があまりに突飛で、一般的に見たら気味が悪く気持ちが悪いものだと自覚できるようになっていた。

 故に信じられず、テラモンの言葉が彼の優しさからくる嘘だと決めつけ、叫んだ。それは悲鳴だった。

 

『嘘よ。本当なわけがない』

『本当だ。わたしは貴殿にそうまで想われて嬉しいとも』

『嘘ッ! 嘘、絶対に嘘よ! 嘘じゃないなら証明しなさい! あなたは私を……抱けるかしら? こんな気持ちの悪い魔女を!』

『抱ける。ああ、抱こうとも』

 

 一切の衒いなく、躊躇いもなしに即答され、魔女は息を詰まらせた。

 うそ……そう呟く魔女の手を掴み、サラミス島の王は魔女を抱き寄せた。

 

 交わされた接吻に、魔女は涙し――そして、新たに伝説の王妃が誕生する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――艱難辛苦を乗り越えた先で、魔女は王妃となって人並みの幸福を手に入れた。

 

 愛するヒトに愛され、穏やかで平和な日々を過ごし、少しずつ人間への不信感を拭われて。

 子供が産まれた。

 男が生まれると、ヘラクレスに名前を付けてもらったのだと自慢する夫に王妃は狂乱して魔術を使い、孕んでいた段階で徐々に性転換をおこない。

 男が産まれるはずが、女になった。

 王はこれに嘆き、王妃の仕業と確信してなんてことをしてくれたんだと詰ったが、ヘラクレスに名付けられた男児は筋肉になっちゃうじゃない! という妻の悲鳴に折れざるを得なかった、

 

 しかし折角もらった名前だったので、王妃の考えた名前を総て却下し強引に『アイアス』と名付けられ。王妃だけは往生際悪く自分だけは『アガタ』と呼び続けた。

 

 そして、王妃は知る。王妃が子を宿した時に、王がヘラクレスを招いたのだと。

 

 

 

「やだ! やだやだやだ! ヘラクレスが来るとかやだぁ!」

 

 

 

 身重ゆえの情緒不安定さから、サラミス島の王妃は幼児退行して地団駄を踏んで拒んだが、招待された後ではもはや後の祭り。

 王妃メディアは悲愴に泣き叫び、テラモンを大いに困らせた。

 

 

 

 

 

 

 




メディア「私の可愛い娘が筋肉になっちゃうぅぅうう!(被害妄想)」


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11.3 サラミス島の喜劇 (下)

 

 

 

 

 トロイアからサラミス島への道中、戦御子の胎が見るからに膨らんできていた。

 

 ヒッポリュテは確実にアルケイデスの子を孕んでいる。疑いの余地はない。短い年月だったが、三児の父だったこともある男である。この変化に気づかないような間抜けではなかった。

 

 そうと悟るやあからさまな迄に行軍の脚を緩め、何かにつけて母体に気を遣い、単純な労働すら妻には赦さず獲物を狩り、食を与え、ほんの少し派手に動くだけでキツく叱りつけた。そんなアルケイデスに、さしものヒッポリュテも辟易してしまう。

 自分を想っての事と理解はしている。最愛の夫からの気遣いは素直に嬉しい。最大の名声を持つ大英雄でありながら、身重の妻に対して献身的ですらあるのには彼女の中の古い常識が困惑を訴えるほどだ。だが幾らなんでも束縛が厳しすぎる。とうの昔にサラミス島に辿り着いてもおかしくないのに、未だ到着していないのは、身重のヒッポリュテに万が一がないようにと病的に気遣うアルケイデスの過保護さのせいである。

 

「いい加減にしてくれ。私はそこまで柔じゃない」

 

 森の中。立ち上がってお花を摘みに行こうとするだけで敏感に反応して助け起こし、寄り添って茂みに向かおうとする夫に戦御子はうんざりしながら言った。

 これに反論するのはアルケイデスである。神経質に周囲を警戒している大英雄は、嘗て前妻メガラの苦しみ様を見ている。その際に他の経産婦に体験を聴き、如何に出産というものが過酷なものかを知識として聞かされていた。些細な事でも――例えば歩いている時に転倒しただけでも流産に繋がるケースが珍しくないと教えられていたのだ。

 産みの苦しみに対する実感は無い。無いが、前妻メガラと三人の子を失い、新たに妻を迎えた事による心理的反動だろう。アルケイデスは殊更にヒッポリュテの身を案じ、過保護になるのは当然の成り行きである。

 

「我が子を宿した妻を気遣わぬ夫が在るか? 元々急ぎではないのだ。ならば細心の注意を払うべきだろう。例え何があろうと如何なる獣も、神であろうと今のポルテに近づかせる訳にはいかん。万難を排しポルテの体調を維持し、栄養をつけさせ、お前を害さんとするなら病魔をも殺す。どんな手段を使ってでもだ」

 

 ――出産を司る女神エイレイテュイアが来なければ難産に苦しみ続ける事になるのだがそれについては心配していない。戦神マルスが苦しむ我が子を見過ごすはずがなく、既に確約が齎されていた。曰く『ヘラのババアが邪魔立てしたとしても、エイレイテュイアの首を刎ねて頭だけでも連れて(持って)来てやっから心配すんな』と。

 

 目を据わらせ限りなく本気で言うアルケイデスに対して、嬉しいやら煩わしいやら、ヒッポリュテは深々と鉛色の吐息を吐き出した。

 

「気持ちは嬉しい。けれど私はアマゾネスだ。アマゾネスほどに女の格を上げられたならば、馬上で出産するなど容易い事。中には戦のさなかに出産した猛者もいる。元とはいえ女王であり戦御子であるこの私に、同じ事ができない道理は――」

「戯け、できるできないではない。誰がそんな真似をさせるか」

 

 流石はアマゾネス。蛮族も真っ青な無茶である。戦の中で産み落とされた赤子はほぼ確実に死んだのではないだろうか。

 到底そんな事はさせられないと、アルケイデスは断固としてヒッポリュテの抵抗を抑え込む。ヒッポリュテも流石に無理にでも突っ撥ねる気にはなれず、仕方なさそうに苦笑して大人しく世話を受けた。

 

 お蔭でテラモンの子アイアスの誕生には立ち会えなくなったわけであるが、そこまで深刻に残念がるほどでもない。ヒッポリュテは諦めて、至強の戦士に護られる現状を是として受け入れる。斯くして二人の道程は平穏に時が流れるままゆるやかに進んだ。

 

 

 

 この時間差に、無事テラモンの第一子をもうけたメディアは奮起する。サラミス島へ近づく者を察知するために使い魔をばら撒き、アルケイデスらの接近を阻止せんと目論んだのだ。なんとしても我が子とアルケイデスの接触を阻む覚悟である。

 メディアは確信している。招かれた以上『ヘラクレス』という英雄は絶対にサラミス島に姿を現すと。誰よりも恐れている相手だからこそ、逆に誰よりも信頼してもいたのだ。あの男なら絶対に来る、少なくともあと一ヶ月以内には。

 あらゆる直接的な妨害は無意味だと結論づけている。自分が丹念にサラミス島周辺の海域に罠を仕掛たとしても、確実に乗り越えられるはずだ。小賢しい策略も無駄。敵対的な措置は却って逆効果となるだろう。なら情に訴えるしか無い。王妃メディアはヘラクレスという男を理解していた。恐れるからこそ正確に分析しようとして、話の通じる手合いだと把握するに至っていたのだ。外見はともかく中身は模範的で理想的ですらあると擦れた心のメディアは思っている。ただどうしてもあの筋肉と金ピカがダメなだけで。

 

 自分が直接出向き、言えばいい。第一子を生んだばかり、新婚ほやほやで幸せいっぱい。だからもう少しはテラモンとの蜜月を満喫させてほしい。余人を交えずにいたいのだ、と。それで十中八九『ヘラクレス』は――アルケイデスは引き返してくれるに違いないと。

 それは間違いではない。メディアにテラモンへの言伝を頼み、仲間と王妃の幸せを祝福して去るに違いないのだ。メディアの予想は極めて正確である。海千山千の邪知暴虐の海を超え、元々英邁な頭脳を誇るメディアの叡智は正答を導き出していた。

 

 今、メディアは己のトラウマと向き合い、乗り越えようとしていた。感動的だろう。乙女が女に成り、母に成ったが故の強さが発露したのかもしれない。だが無意味だ。

 

 メディアの運の悪さ、アルケイデスとの間にある間の悪さは神懸かっている。アルケイデスの幸運と、メディアの不運の相乗効果は凄まじいの一言だ。果たしてメディアの目論見は破綻してしまう運命にある。

 使い魔を通してアルケイデスとヒッポリュテを発見したメディアは、早速とばかりに覚悟を固めた。物申す覚悟はひたすらに産まれた愛くるしい娘のため。決して愛する娘を筋肉の権化に感化させるものかと、死地に赴く悲愴な覚悟を持った戦士の如くに魔術で空間転移する。神代の大気に満ちる魔力濃度なら、魔法の域の大魔術もメディアには行使の容易いものに過ぎない。

 果たしてメディアは対面した。嘗てのトラウマに。なんとしても乗り越えてみせると心の中の怯えを拭うべく自身を鼓舞しながら。

 

 だが、

 

退()け……退けェッ!!」

 

 ケリュネイアに跨り、両腕でヒッポリュテを横抱きにして、微塵も揺らさずに疾走する黄金の戦士がメディアに迫っていた。

 

「ひっ」

 

 ――不運である。

 サラミス島に入るや、ヒッポリュテの陣痛が始まっていたのだ。

 間もなく産まれる! その前兆にアルケイデスは頭に血を昇らせ、早急に手厚い看護が必要だと焦っていたのだ。

 その焦り様は驚天動地。王妃がメディアであると気づく事すら儘ならぬ。ヒッポリュテは立ちはだかったのが友人であると気づいたが、凄まじい陣痛に声を上げられず顔を歪めるしかない。

 

 黄金の鎧を纏う戦士はケリュネイアを急かし、ヒッポリュテに負担を与えぬ限界の速度で走る。そしてアルケイデスは横抱きにしたヒッポリュテを、牝鹿の疾走でも揺らさない神業的なバランス感覚を発揮して支えていた。

 鬼気迫るとはまさにそれ。いつぞやのメディアとアルケイデスの初対面時、その怒気を彷彿とさせられる。

 

 乗り越えようとしたトラウマ。普段の穏やかなアルケイデスが来ていたのならそれは果たせた。だが、間が悪かった。致命的に悪かった。

 自身の脇を駆け抜けていった強烈な存在感に、凍りついていたメディアは心が折れて膝から崩れ落ちる。

 

「ぁ……」

 

 股に生暖かい感覚があった。足元に水溜りができている。初対面で耐えられたのが奇跡だったのだ。

 羞恥と恐怖に、人知れずメディアは啼いた。

 この場には自分しかいなかった事が唯一の救いだった。

 

「やっぱり、無理だったんだわ……人間に御せるような筋肉達磨(バケモノ)じゃないのよ……!」

 

 悲嘆に暮れて嘆く。コルキスで出会ったトラウマを乗り越えようとした矢先に遭遇した、鬼神も道を避く凄まじい迫力。

 自身の情けなさに、メディアの心は擂り潰された。野に伏せてメディアは啼く。彼女の尊厳はズタズタだった。

 

「でも……それでも!」

 

 だが彼女は母だった。新米だが、それでも母である。我が子を想えばこそ……自分の拘りではあるが女の子に筋肉はダメだと強く想えばこそ、引くわけにはいかない。

 何度心折れてもメディアは立ち上がるだろう。数年もの旅がメディアに不屈の闘志を与えていた。

 尤もご不浄を致してしまっている姿では、いまいち格好がつかないのだが。

 

 一時己本来の主人、アプロディーテの許に一年に一度の挨拶に出向いているエロースが此処にいれば、声を大にしてメディアを諌めたに違いない。

 諦めろ、試合終了だ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぉ、ぉぉおお……」

 

 雄叫びのような歓声だった。

 駆けつけたアルケイデスをテラモンは歓迎した。やっと来たかと労おうとした。

 だがヒッポリュテの様子を見て。アルケイデスに要請され。すぐさま宮廷医と助産婦を招集し、緊急的に出産の儀が執り行われた。

 戦神マルスが駆けつける。案の定ヘラは属神エイレイテュイアを派遣しようとせず、ヒッポリュテが死ぬまで難産に苦しませようとしていたのだ。そうだろうと思ったよと女神王の許に襲来した戦神は、事前の警告を聞かなかった故に問答無用の一太刀でエイレイテュイアの首を刎ねた。

 神は不死である。不滅である。故に首だけになっても生きている。俺の娘に出産させろと命じられ、恐怖に染まった表情でエイレイテュイアの生首は権能を振るい、ヒッポリュテは無事にアルケイデスとの愛し子を産み落とした。マルスがそれに満足して去っていったのは、娘夫婦の感動に水を差さないようにしたのではなく、エイレイテュイアを返しに行くのと同時に大神ゼウスに事の次第を説明するためだ。

 

 マルスがヘラに憎しみの目で睨まれ、ゼウスの感情の見えない目で見据えられ。ポセイドンをはじめとする他のオリンポス十二神に囲まれている中――アルケイデスは盛大に感動していた。

 

「おおお、ぉおぉおぉ!」

 

 我が子である。待望の、と称すると語弊があるかもしれないが、四人目の。

 地上に存在する実の息子の誕生に、彼は男泣きに泣いていた。英雄は感情の大きさもまた巨大。大英雄の感動の涙は波状となって波及し、周囲の者も涙ぐんで祝福した。

 大粒の涙を流しながら実子ヒュロスを抱き上げて、天に掲げるようにして吠える。言葉にならぬ雄叫びに、疲労困憊のヒッポリュテも微笑んでいるようだった。

 

「私にも……抱かせてくれ……」

「ああ、勿論だッ」

 

 ヒッポリュテも初の実子に感極まっている。腕の中に収まる小さな命に、慈母の微笑みを湛えてヒュロスと名付けられた我が子に頬を当てた。

 元気な泣き声を上げ、疲れて眠ってしまったヒュロス。しわくちゃで、可愛らしさはない。それでも誰もが愛らしい寝顔だと思った。

 アルケイデスは未だに泣いている。こんなにも涙脆い男だと誰が思っただろう。しかし情けないと思う人間は存在しなかった。怒りに支配されていない場合、戦場でもない限りは常に物静かな物腰の男だったが、その内面は非常に涙脆い一面もあったのだ。アルケイデスはどこまでも人間なのである。

 

 ――心に焼き付いた、絶望の原風景。しとしとと降り注ぐ雨粒と空を燃やす朱い炎。慟哭する幼い悲鳴。愛していると笑む、女の()

 

 はじまりの悲劇から漠然と懐いていた、二度と子宝に恵まれない、恵まれてはならないという思いは決壊している。蹲って男泣きするアルケイデスの肩に、テラモンは笑いながら手を置いて慰めた。

 そしてようやく落ち着くと、涙を拭い立ち上がってテラモンと熱い握手を交わす。

 

「――すまない。情けないところを見せた。久し振りだな、テラモン」

「情けないわけがあるか。ヘラクレス、我ら一党の偉大な首領よ。同じ父親となったわたしには、貴殿の気持ちがよく分かる。ははは、わたしもアイアスは、目に入れても痛くないぐらい可愛くて仕方ないんだ」

 

 テラモンは満面の笑みで、愛らしい女児を抱く乳母に手招きし、渡された我が子を腕に抱いた。「抱いてやってくれ、名付け親は貴殿だ」テラモンにそう言われ、無意識に抱こうとしたアルケイデスはハッとした。

 今の自分の手は涙に濡れ、汗に塗れ、大変不衛生で不浄である。産まれてまだ一ヶ月ほどだという女児を抱くに相応しくない。そこでアルケイデスは自身の鎧の外套を外しそれでアイアスを包み込んだ。この外套が含有する神秘濃度ならば、外界の粉塵如きで薄汚れる事もない清潔なものだからだ。その上から抱き上げて、女児の瞳を覗き込む。

 

「ぁぅ、ぁー」

「……可愛いな……」

「だろ? ははは、わたしの子は世界一だ!」

 

 テラモンは上機嫌に笑った。アルケイデスの顔に小さな手を伸ばし、ぺたぺたと触れてくる女児は笑顔である。無色透明、穢れないの無垢な瞳と純粋な花のような笑みに、アルケイデスは声もなく抱き続けるしか術を知らなかった。

 魅入られて動かないアルケイデスにテラモンは苦笑し、寝台で上体を起こしている戦御子ヒッポリュテに歩み寄る。

 

「ヒッポリュテ、貴殿とも久しいな。壮健だったばかりか、本懐を遂げるとはさすがはアマゾネスの戦士長。貴殿の子をわたしにも抱かせてほしい」

「ああ、世話になった、テラモン。貴様も男を上げたらしい。いい面構えだ。我が子を三番目に抱く栄誉を許そう。お前だからだ、特別だぞ」

「はっはっは! これは光栄だ! ……むっ、そうだ。ものは相談なんだが、貴殿らの子とわたしの子は共に男児と女児。しかも産まれた歳が近い。これもなにかの縁だ、ここはこの子達を許嫁同士にしないか?」

「悪くない。私は構わないぞ」

 

 即断即決の女、ヒッポリュテ。斯くしてテラモンの思いつきから、英雄旅団の次代頭目とその右腕は、こうしてその関係を決定された。無論、それに反対する者はいる。

 メディアだ。転移の予兆の魔力が場に満ちて、召し物を替えて帰還したメディアは、ちょうどその話を聞くなり声を大にして言った。

 

「テラモン様!? そんな! 勝手にお決めにならないでください!」

「おお、メディア。どこに行っていたんだ。この子はオマエの友のヒッポリュテの息子だ。オマエも抱いてやるといい」

「え? あ……ヒッポリュテ? え、ええ……」

 

 ヒュロスを押し付けられ、咄嗟に抱きとめたメディアは、その愛らしさについ笑みを溢してしまう。ヒッポリュテが久し振りだと言うと、メディアは困惑しながらも友人との再会を喜んだ。

 が、すぐにハッとする。ヒッポリュテに断りを入れて、直前のやり取りを覚えていたメディアは眦を釣り上げた。ヒュロスを抱いたまま、厳しい表情でテラモンに振り返り詰問――

 

「あなた様! 勝手に私の娘の結婚相手を決めないでください! 確かにアガタはテラモン様のお子です」

「アガタではなく、アイアスだ」

「アガタなんです! 私にとっては! この子は私の子供でもあるんですよっ! いいですか、この子の旦那になるのは優しくて、線の細い、知的で文化的なぁぁああ!?」

 

 ――しようとして。メディアはあられもない悲鳴を上げた。

 気づいてしまったのだ。アルケイデスの存在に。腰が引けて、涙すら浮かべてしまいそうになりながら、メディアは恐怖と共に驚愕の声を上げる。

 

「へっ、へっ――ヘラクレしゅぅうう!! ななな、なななにしてるのよぉ!?」

 

 出産の場で鎧姿でいる戯けではない。甲冑を脱いでいる彼は、微風の薫る草原のように爽やかな表情だった。メディアがやって来たのに、転移してくる前から察知していた彼だったが、コルキスで別れるまで感じていた居た堪れなさはない。むしろ()()()()()()()王女が、立派で無垢なだけではない女性に成長していた事に喜んでいる。

 メディアは動転してアルケイデスに駆け寄った。有り得てはならない事態に、彼女は束の間、心的外傷を忘却していた。

 アルケイデスが最高級の宝具で自分の娘を包み込んでいたのだ。それが意味する所を彼女だけが理解している。してしまっている。我が身の恐怖を満身から放逐したメディアは急ぎ、アルケイデスから我が子を取り戻す偉業を成し遂げる。ヒュロスをアルケイデスに押し付け、自身の娘を己の胸の中に取り戻したのだ。

 

 大英雄は困惑する。鬼気迫る王妃の狂態、その理由が解らぬまま己が子を獅子の外套で包んで抱いた。

 

「ぁ、ぁあ、ああああ!?」

 

 愛娘の体を探知したメディアは、その優れた魔術的眼力で見抜いてしまう。

 獅子の外套に、よりにもよって赤子が、慈愛を以て抱かれていたという状態により、その体質が常人の其れより外れてしまったのだ。

 すなわち、アイアスは。現在アルケイデスの腕の中で、外套に包まれているヒュロスと同様――その柔らかく脆弱な()()()()()()()()()()を得てしまっていたのである。

 人理を弾く特性はない。しかしアルケイデス渾身の一撃に耐え得る頑健さを保有していた金獅子の神獣の体質を、二人の赤子は得てしまったのだ。宝具の担い手アルケイデスの手で、外套で包まれ赤子が抱かれる。それによってのみ発現する特質だ。

 

 柔肌はそのまま。しかし埋め込まれた因子は、メディアを以てしても取り除けない。成長するにつれ――その肉体が完成に近づくにつれ――金獅子という神格保持者ほどの硬度は発揮できないにしろ、全力のアルケイデスと正面から殴り合い、二発、三発は耐えられる強靭な五体を獲得するだろう。

 避けられない、戦士として破格の才能を、後天的に手に入れてしまった。アイアスとヒュロスは、類稀な戦士として勇名を馳せる未来を約束されたのだ。

 メディアは恥も外聞もなく泣き出してしまいたくなった。くしゃくしゃに美貌を歪めて、アイアスという愛娘の未来を偲ぶ。彼女の脳裏に金髪のアルケイデスのような女がマッスルポーズを取って歯を光らせている娘の姿が去来して、一気に気が遠くなった。

 

「!? メディア!」

 

 ふら、と倒れたメディアを、テラモンは咄嗟に抱き留める。アイアスが落ちてしまわないように支えながら。

 アルケイデスは当惑する。ある意味で悪化している、メディアの自身への態度の訳が解らない。腑に落ちなかった。どうしたものかと眉を落とし、ヒッポリュテを見るも、ヒッポリュテも寝台の上で首をひねっている。

 とりあえず解ったのは、これからも変わらず、メディア個人とは距離を置いたほうがいいということ。アルケイデスは嘆息した。ここまで大袈裟に疎まれるのは辛いものがある。自業自得ではあるのだが、培ってきた性格などが崩壊する程に錯乱する王妃を見ては、ある程度疎遠でいる方がいいと判断せざるを得ない。

 

 こうして、『獅子の軀』ヒュロスが産まれた。これから一年後、長女の『獅子の腕』アレクサンドラが産まれる事になる。

 

 アルケイデスとヒッポリュテがサラミス島に滞在した七日間。メディアとヒッポリュテは久闊を叙し。アルケイデスは度重なる憤怒の魔女の襲撃を受け続ける。

 度重なるそれらを片手間で打ち破られ、その度にメディアは痴態を晒してしまい、その一連の流れが喜劇のようで。後々にこの逸話が喜劇として演じられる事になるとは、現在のメディアは夢にも思っていなかった。

 

 ――英雄夫婦は我が子と共に、仲睦まじく連れ添いながらアルゴスのミュケナイに帰還する。十二の試練、その最後の儀が決まったというエウリュステウスの報せがあったのだ。

 帰国した彼らは、しかし首を捻る。

 

 イオラオスとアタランテが、帰ってきていない。

 

 しかし信頼がある。あの二人がそうそう遅れを取るはずがないのだ。何があっても逃げ帰るぐらい容易いだろう。

 噂を聞くところによると、彼らは結ばれているらしい。新婚旅行にでも出たのか。善き事である。祝いに行きたいところだが、勤めから逃れるわけにもいかない。早々に終わらせてしまおうとアルケイデスは思った。

 

 その判断が、アルケイデスの生涯に於ける黄金期、その終焉を齎すと露ほども思い至らず。

 

 

 

 

 

 

 




次回、最後の試練。


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12.1 ミュケナイ王の餞別

なんかアイアスが筋肉マッチョになると想われてるけど、作中で書いたのは全部メディアの被害妄想。
実際は金髪長身美女。スキル天性の肉体持ち。筋肉量はペンテシレイア級ぐらいとしてます。出番はあるにはある。しかし短いでしょうな。

今回短め。


 

 

 

 

 貴様の最後の勤めは冥府に赴き、冥府の番犬ケルベロスを借り受けてくる事だ――そこまで言ってミュケナイ王は玉座の肘置きに凭れ、やっと肩の荷が下りたと嘆息する。

 

 神の課す禊の儀、其れは決して安易なものであってはならない。いずれも神意に沿う……少なくともこれ以上はないと想われる難度でなければならないのだ。

 エウリュステウスは王だ。だが王とはなんなのか、彼はその立場故に熟考し答えを出している。神代最盛の御世、神権授受者こそ王。即ち――王は『神の奴隷』である。

 神は多くの民草、人間を個として認識できない。偶然眼につく者はいたとしても、多くに対して極めて無関心である。然し民草という信仰基盤がある故に存在している事だけは把握し、それでも個別に認識するのは煩わしい故に彼ら雑草の代表として王というモノを設置しているに過ぎない。

 恐らくそうと思い至れる王など地上には少ないだろう。何せエウリュステウスすら、ヘラクレスという究極の個の脅威に晒され、被害妄想的に怯えていなければ、己の固執する王の座の意義について思いを馳せようとはしなかったのだから。

 

 雑草。民草。それらの総意、代表として王はいる。そして神はその王を通して民を見るのだ。王が悪なれば民も悪。王に神への敬意がないのなら民にも無し。故に王の罪は民の罪。神の視点とはそうしたものだ。

 

 故にヘラクレスという、ヘラに睨まれている英雄に課す試練は考え得る限り最大の難度でなければならないのだ。もしも容易な勤めなど課そうものなら、ヘラはエウリュステウスに怒りを覚えるだろう。ひいてはそれは、ミュケナイに災いを齎す。

 ギリシャ世界、地中海の中心であるミュケナイで、そのような災禍が巻き起これば、たちどころに諸国は混沌の坩堝に叩き落とされるだろう。王としてそのような事は決して看過できないものだ。

 

 然し『金獅子(ヘラクレス)』が踏破に難儀する試練など、そう簡単に用意できるものではない。

 

 獅子王、神毒蛇を筆頭に、怪物犇めく魔境であったペロポネソス半島は、至強の豪勇により一掃され。一つの勤めの難度が名高い英雄の生涯を賭すだけのものを既に十一も片付けている。十年と経たずしてだ。にも関わらず其れ以外の偉業を数多く片手間に成し遂げ、比類できる者など世界全体を見渡しても見つからない勇名を轟かせた。

 これより最後の勤めに向かう事となるヘラクレスがこのアルゴスにいる。彼の存在は無視できない抑止力となり、近年稀に見る泰平を近隣諸国に齎している。ヒトはおろか神ですら大人しいものとなっているのだ。

 無論ギリシャ世界が完全な平和など享受できるはずもない。どうしたって彼らは民の一人ひとりに至るまで英雄の種族。血の気は多く、力こそ至上であり、略奪の誘惑に駆られる者は断じて少なくない。ヘラクレスがいると分かっていても、まさか悪事を働いた所に鉢合わせる訳がないと楽観視する者も各地に散見された。中には自分の方がヘラクレスより強いと自惚れる者もいる。

 

 最近の代表例は、リビアを通っていた英雄ヘラクレスに遭遇してしまったアンタイオスという神格である。海神ポセイドンと原始の大地母神ガイアの息子である彼は、大地に触れている間はガイアのバックアップを受ける事ができ、星の触覚と同様の異能を発揮できる異能を保有していた。即ち対峙した者よりも上回る力を発揮できる、無敵の力だ。アンタイオスは通りかかった旅人を次々と襲い、これを屠るとその髑髏を父ポセイドンの神殿に捧げていたのだ。

 彼は驕り高ぶり、相手がヘラクレスであると知っていても挑んだ。果たしてヘラクレスに勝る剛力を発揮し、彼の金獅子をも苦戦させる。武の技量で上回るヘラクレスは、何度もアンタイオスを打ち倒すがその度に死から復活し、倒される度にその力を増大させていった。しかしヘラクレスは僅かな勝機を見極め、アンタイオスの弱点を見抜く。大地に触れていなければ星の触覚が如き力を発揮できぬと看破した彼は、空中に大賊アンタイオスを打ち上げ、そのまま撲殺してのけたのである。

 

 不死であるはずの純血の神格だった彼は、しかしそのままあっさりと死んだ。彼の悪行を知り怒りを見せたヘラクレスが、暴虐な神を嫌っている事もあり躊躇なく残虐に彼を殺したのだ。五体を引き裂き、頭部を柘榴の如く砕き、四肢を微塵に切り分け、四方に封じて肉片を獣の餌としたのだ。

 不死(しなず)のアンタイオスの意識は其処で痛切に祈った。死なせてくれ、と。『痛い』程度で済まぬ絶望に大神ゼウスへ死を希った。そうして彼は死に、ヘラクレスは不死の神をはじめて殺してのけた逸話を打ち立てた。

 そんなヘラクレスを、神々は恐れた。死が救いとなるほどの容赦無き殺害方法を編み出した彼を心底恐れた。以後雑多な神々は誰一人としてヘラクレスの前に姿を現さず、鉢合わせようものなら即座に逃げ出すようになったのである。

 神を殺す『自死』の強制。それを実行し成功させるような者になど関わり合いたくもないというのが神の本音だろう。

 

 ――この例はヘラクレスの常軌を逸した武勇を雄弁に物語っている。にも関わらず、ギリシャ世界の英雄の種族達は、一度己の力を過信し、安易に欲望を遂げられる図抜けた力があれば容易に悪の畜生道に堕ちた。

 

 故に治安が良くなろうとも、完璧ではない、完全な平和など訪れない。ミュケナイとて王のエウリュステウスが、正統な王位継承権を持つヘラクレスを恐れ、嫌っていたならば、近い将来争いが起こっていただろう。他ならぬエウリュステウスとヘラクレスの王位を巡った戦争が。

 無論、今はそんな懸念はない。ヘラクレスが明言したからだ。己は王に成ると。ミュケナイではない別の地で。それに嘘はないと信じられたエウリュステウスには、もはやヘラクレスへの隔意はなかった。むしろさっさと勤めなど終えてどこへなりとも消えてしまえとすら思っている。

 

 英雄とは須らくヘラクレスの如く在るべし。英雄の模範とは彼であり、規範とすべき在り方である――其の様に讃えられる彼の英雄は、エウリュステウスの手に負えるものではないのだ。己は凡人であると否が応にも思い知らせてくる大英雄が煩わしくて堪らない。

 だからこそ、彼はヘラクレスからの相談にも快く乗った。善意ではなく、されど悪意でもなく、とにかく視界から消えてほしい一心で。

 

「最後の勤めに関しては諒解した。だがその前に、エウリュステウスよ」

「なんだ。様をつけろ無礼な野郎め」

「無駄な争いを起こさずに王位に就ける国に心当たりはあるか?」

 

 悪態を吐くもさらりと流され、エウリュステウスは露骨に舌打ちする。

 この質問に答えないエウリュステウスではない。他所の国で王になってくれるなら、彼の懸念事項は解消される。この件に関しては全面的にバックアップしてやるつもりである。

 

「チッ……あー、そうだな。ヘラクレス、オマエが『王冠寄越せコラ』とでも脅せば、気骨のない玉無し野郎ならさっさと王座を明け渡すんじゃないか」

「………」

「睨むな。ただのキングジョークだ」

 

 そう言いはするも、エウリュステウスは本気ではあった。実際ヘラクレスに恫喝されれば、エウリュステウスだって逃げ出している。

 良識的というか、理解不能なまでに相手を慮る男であると、エウリュステウスはヘラクレスに関して理解している。理解できないものとして理解しているのだ。故にこんな冗談も言えてしまう。キングジョーク、などと。

 

「……そうだな。オリンピア辺り、いいんじゃないか」

「何故だ?」

「あそこは継承者のいない老い耄れが王だ。老い先短い老い耄れが、ほそぼそと暮らしてるど田舎だよ。兵隊は少ない。娯楽、産業にも乏しい。オマエが王座を譲ってほしいとでも言えば嫌とは言わないだろ」

「……私は己の名を嵩に着て脅すつもりはない」

「奪っても利益の少ない国で王に成りたいなんて奴なんざいない。オリンピア王も継承者がいないことに焦っている。王に成りたいって立候補したのがヘラクレスなら、喜んで王位を渡して隠棲するだろうよ。慎ましやかな余生が望みなんだとさ」

「……ふむ」

「ついでにアドバイスだが、オマエ個人のツテがあるだろ。イオルコス、コルキス、アテナイ、サラミス、トロイア。こんだけの国と繋がりのある奴なんざオマエぐらいのものだ。建国に際して支援を要請しろ。そしたら速やかに面倒な問題は片付くさ」

「貴様は支援してくれないのか?」

 

 にやりと笑いかけられ、エウリュステウスは失笑した。図太い男だ。計算高い。さらりとミュケナイを省略していた事を見落とさない抜け目のなさまである。

 

「エリュマントスの猪」

「……?」

「クレータの牡牛、ディオメデスの人食い馬、ヘスペリデスの黄金の林檎。……ゲリュオンの牛は無理だが、オマエが試練で手に入れてきた物は、あらかた全部くれてやる。それで充分だろ」

 

 瞠目するヘラクレスに、エウリュステウスは鼻を鳴らした。

 もともとミュケナイにはなかったものだ。手切れ金代わりにするなら丁度いい。それにミュケナイばかり栄えてしまえば、却って動乱の火種になる。近隣諸国からの妬みは買うべきではない。

 

 それに扱いきれるものでもなかった。ヘラクレスに押し付けたなら、あの怪物共も大人しくなるだろう。

 

「ありがたい。この恩は忘れ――」

「忘れろ。恩に着るな。さっさと行け。十二個目の勤め、差し詰め『十二の試練』か? さっさと終わらせてミュケナイから消えろ。オリンピアでもどこでも行って早く王に成れ。それがオマエの俺に対する恩返しだ。それ以外は要らない」

 

 分を弁えない者は早死する。エウリュステウスは分を弁えていた。さっさと枕を高くして眠られる日々に戻りたい。

 軽く会釈をして去っていくヘラクレスの背を、ミュケナイ王は深い溜め息と共に見送る。そろそろお別れだなと、知らず笑顔が浮かんだ。彼は、ヘラクレスが勤めを果たせないなどとは微塵も考えていなかった。

 

 

 

 

 



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12.2 女神の微笑み

二回目だよー。




 

 

 

 

 イオラオス、アタランテは未だ戻らず。幼いヒュロスの世話がある上に第二子を孕んでいると思しきヒッポリュテを連れて行けるはずもない。

 そして万が一に起こるかもしれない不慮の事態に備え、ケリュネイアをヒッポリュテの警護に回していた。故に最後の試練には単身で臨む事となる。

 

 アルケイデスは途方に暮れた。久方ぶりの一人旅である。無論それに耐え難い孤独を感じて呆然としている訳ではない。

 

 自らの最後の試練、大英雄として完成する最後の功業。冥府に赴き番犬ケルベロスを借り受け、ミュケナイに連れ帰る――それはいい。然し大きな問題があった。そもそも大前提として、アルケイデスは冥府への行き方を知らなかったのだ。

 以前……何年か前に、アルケイデスは冥府の神の面前に立った事がある。然しそれは死の神タナトスを尾行し、冥府への道を短縮したに過ぎないのだ。

 生きたまま冥府に行く為の正規の道程など知らない。無論エウリュステウスも知らないだろう。寧ろ知っている生者などいるはずもないのだから、冥府への行き方から調査しなくてはならない。誰も知らない目に見えぬ道を探る……なるほど確かに試練に相応しいと云えよう。然しどうするべきか皆目見当もつかず困ってしまっていたのだ。

 どちらの方角に進むべきか。西か、東か? それとも北? 南? 見当外れの方面に進み時間を食う事ほどの無駄はない。無為に時を浪費し、第二子の誕生に間に合わないなどという屈辱は犯せない。可及的速やかに試練を打破する必要があった。

 

「………」

 

 冥府は、一説に拠ると地底に在るという。ならば地面を殴り砕くべきか? 大地を二つに割れば冥府への道は拓けるだろうか? 握り拳を作ってそれを見詰める。それこそが最短にして最速の手段である気がしてならない。

 余程思い詰めた顔をしていたのだろう。掛けられた声はどことなく苦笑めいていた。

 

『待て、()()()()で星を割る気か? まったく貴様という男は……』

「アテナ神……」

 

 灰色の一羽の梟が羽ばたいて、アルケイデスの面前で滞空する。それが淡い光と共に変生し、一柱の神格を象った。

 枝毛一つ無い豪奢な金糸の艶髪を結い、馬の尾(ポニーテール)のようにして風に靡かせる人智無踏の美貌。青く輝く双眸は深い知性を有し、平素な衣服を纏う美女の白い肩が目に眩しかった。

 

 彼の女神こそがグラウコーピス・アテナ。ボルゲーゼ・アレス……現在のグラディーウィス・マルスの異母姉。予てより道化を演じていたアレスの実力を朧気ながらにでも感じ取り、アルケイデスの存在により捻じ曲がらなかった世界線に於いては、アレスと対峙した際に最強の神盾アイギスを持ち出さねば勝てぬと判断した賢知の女神である。

 戦の智慧、軍勢統率、武勇という戦神としての力はマルスに及ばずとも、それ以外の分野では悉く凌駕する文明の守護神。マルスと対を成す神格は、アルケイデスの短慮に呆れ返っていた。丁寧に迎え跪こうとするアルケイデスをアテナは手を上げて制する。

 

『跪くな。私は以前、貴様の不遜を赦している。心に畏敬の念があるのなら、その在り方総て不敬とは言わない。貴様が前言を翻すような態度を取るなど、どういう風の吹き回しか興味深くはあるがな』

「ヒトは変わるものだ。あの頃の私はまだ若かった、それだけの事だろう。屁理屈を捏ねず、敬うべき神には喜んで跪こう」

『たかが数年でそう簡単に変わるか? 頑固者が何をほざく。私は不遜な姿勢と言葉の総てを赦すと言ったぞ。この言を違えさせるな』

 

 そこまで言われて跪けば、それこそ慇懃無礼な態度である。アルケイデスは諒解した旨を告げ、立ったまま真っ直ぐにアテナの瞳を見据える。

 微かに背筋を震わせ、アテナは陶然と微笑んだ。彼女の琴線に触れるものがあったのだ。

 

『……男前を上げたな。良い眼だ。意志に満ち、迷いを払い、己を疑わず、信念と志を貫き通さんとする英雄(おとこ)の眼だよ。そそるな……』

「……? ……最近はこの言葉を繰り返してばかりだが、敢えて告げさせてもらう。久し振りだな、アテナよ」

『ああ……やはり貴様は不遜が似合う。男らしいよ。クッフフ、そうとも。ギリシャの男はこうでなければ。エジプトの男は温和で従順に過ぎてどうにも物足りない』

「………」

『おっと……そうだ。確かに久しかったな、ヘラクレス。それはそれとして、エジプトとの一件のせいで面倒を負わされてしまった女神が此処にいるぞ? 謝罪を要求する』

「すまん」

『よし、赦そう』

 

 ふふんと鼻を鳴らして胸を聳やかす女神に、アルケイデスは彼女の意図が読めずに困惑した。いったい何をしに来たというのか。

 たった一言の雑な謝罪で、すんなり赦すとは気でも狂ったかと失礼な事を思った。

 エジプトとの折衝……これもまた己が取り掛かるべき事業の一つ。今はまだ善き神々の手を煩わせているが、悪神が不祥事を仕出かす前になるべく早く王に成らねばならない。そう思っていると、アテナはふと些末事を思い出したように軽く言った。

 

『そうだ。忘れるところだった』

「……?」

『エジプトの不敬なる小僧、太陽神の化身へと変じた【ラーに選ばれた者(ウセルマアトラー・セテプエンラー)】とやらから貴様に言付かっている言葉がある』

「ウセルマアトラー・セテプエンラー……? ……言い難い。()()()()()()()()でよかろう。その者が私に何を……いや太陽神の化身? ……ファラオか?」

 

 虚空に白く細い指でギリシャ語の綴りを描く。それを見て眉を顰めたアルケイデスは『オジマンディアス』と訳した。そうしながら思い至りアテナに訊ねた。

 案の定である。女神は首肯した。

 

『ああ、確かにファラオだと言っていたな。差し詰め太陽王といったところか』

「………」

 

 そうか、と口と中で囁くように溢す。ファラオ……すなわちあの褐色の肌と黒髪を持つ、傲岸不遜なる美貌の青年だ。遂に即位したのか。ラムセス……。

 これからはオジマンディアスと呼ぼう。ラムセスは幼名だろうから。自分が武芸を手ずから仕込んだ、王者として格上の弟子である友。彼とモーセと過ごした半年間が脳裏に蘇る。

 己が彼の武の師であるなら、オジマンディアスはアルケイデスの帝王学の指導者だ。弟子であり師である彼との関係性に、知らず苦笑が浮かぶ。彼からの伝言に、それは更に深まった。

 

 ――余はファラオと成った。勇者を束ねし王たるならば、貴様も余に遅れるなよ。曲がりなりにも一分野に於いて余が師と仰いだ男が、いつまでも有象無象に埋もれているなど嗤うに嗤えん。奮起せよ! 同じ地平に立ち、今一度余の面前に馳せ参じる栄誉を与える!

 

『だ、そうだ』

「……そうか。変わらんな、奴も」

 

 激励だった。要は早く王に成れ、そして対等の立場で再会しようと背中を蹴飛ばされているのである。これで些末事に手間取る無様を晒せば、それこそ物笑いの種だ。

 エジプトは今、ヒッタイトという大敵と矛を交わしているらしい。先陣を切って戦場を駆け、得意の弓を引いてオジマンディアスも戦っているのだとか。既に王として先駆けているという現実に滾るものがある。

 

『然し、あのヘラクレスがな』

「……?」

 

 唐突な女神の語り口に内心首を捻る。面白がるようで、楽しげだ。何よりその輝く青瞳が熱を持っている。

 

『まさか王に成る、などと嘯くようになるとは。面白い、面白いよ』

「そうか? ……そうなのだろうな。私にとっても意外だった。だが王位が私には必要だと判断したのだ。故に突飛ではあるが……今の内から予約しておこう。マルス様をはじめとし、アテナ神、ヘパイストス神、ハデス神、デメテル神、ヘスティア神、ヘリオス神の神殿を築こうと考えている。手間を掛けてすまないが、その段になると是非助けてもらいたい」

『よ、予約……? ……クッフフ、クッハハ! ()()だと!? 貴様、神である私に予約をするというのか!?』

 

 アルケイデスの言にアテナは噴き出した。笑いながら肩を叩いてくる。愉快そうだ。

 はて、何か可笑しな事を言っただろうか……? いきなり物を頼むより、予め断りを入れてスケジュールに空きを作ってもらうのは、仕事をする上で当然の措置だと思うのだが……。笑うところではないはず。少なくとも仕事の取引先にアポイントメントも取らずにいるなど論外だ。論外……のはずだ。

 

 何が笑いの琴線に触れたのか理解できない。久し振りに他人との感覚の違いを思い出させられた。

 

『くふ、くっふふ、クハ! クッ、あーはっははは!』

「………」

『い、いや……す、すまない。なんて律儀なと思って……つい、笑ってしまった。許せ、許……クッ、ぅ、うぐぐ……!』

 

 必死に笑いを堪えるアテナに、アルケイデスは微妙な気持ちになる。隙のない完璧な女に見える女神の痴態に釈然としない気分である。

 思わず見惚れてしまう笑顔が弾けるのに、アルケイデスにあるのは不本意な笑いをもらった、納得のいかない心地であった。

 暫くして漸く笑いが鎮まってきたのか、眦に滲んだ雫を指先で拭いながらアテナが謝罪と共に答えを寄越してくる。

 

『……うん。よかろう。ック、貴様の、よ、予約……聞き届けてやる。笑わせてくれた、礼だ』

「………」

『そんな顔をするな。愛でてしまいたくなる。ああ、これは礼ではなく、本来の用向きなのだがな。ヘラクレス、貴様を冥府に案内してやろう』

 

 予期せぬ助けだった。まさに天の助けである。

 が、アルケイデスは微かに眼を見開いた。

 

「いいのか? 私の勤めの手助けをして」

『構わないとも。女神王めには既に睨まれている。然しだ、どのみち生者である貴様が冥府に到ってもよい道理はない。神の導きなく向かうは不敬でもある。贖罪の勤めで不敬を為せとは言えんよ。誰にもな。故に私の助けはいつもの事……気に入った英雄に加護を与える程度、ああまたかと思われるだけだ』

「そうか……感謝する」

『ヘラクレスよ。貴様が王と成った暁には、私の神殿も築くのだろう? その報酬の前払いとでも思っておけ』

 

 いったいアルケイデスのどこをどう気に入ったのか。上機嫌に嘯く女神に戦士は怪訝な表情を隠さない。

 その表情の動き一つを取ってすら、アテナにとっては心地好いものだと気づけはしないだろう。嘗て人間の友を持ち、その友をゼウスに殺されて以来、対等な友を持てた試しのないアテナである。この遣り取りがまるで――気心の知れた友とするようなものであると錯誤できて。アテナは内心、ひとりで愉快さを噛み締めるのだ。

 人間の内に神と対等に話せる者など、アルケイデス以外にはいないのだから。

 

 そうしてアルケイデスは、女神の案内を得て冥府へと向かう。

 其れは死出の旅。

 然し死の国は決して、アルケイデスにとっては不帰(かえらず)の道では有り得なかった。

 

(まあ……いいか)

 

 アテナの機嫌がやたらと良いのは不思議だが、構わない。彼女を自陣営に引き込むのに難儀しないだろうと考えて。

 その思考を、アテナは読んでいた。

 

(これで誘い難くはなくなった。そうだろう? 英雄よ)

 

 

 

 

 



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12.3 捨てる神あらば拾う人あり

 

 

 

 

 アテナの案内を受け、アルケイデスはアトラス山脈跡地に来ていた。

 ゲリュオンの赤い牛、数千頭を略奪せねばならず、慚愧の念に耐えかねて八つ当たり気味に砕き割った地だ。割れた山脈は海峡となり、ジブラルタル海峡と名付けられたそれは『ヘラクレスの柱』と題されている。

 そしてアトラス山脈跡地、その麓には看板が立てられ、『その先には何もない(ネス・プルス・ウルトラ)』と文字の刻まれた看板を見て、アルケイデスは居た堪れない気分になる。アテナが面白がるように揶揄した。

 

『西方の世界の果ては、めでたく貴様の名を冠するようになった。そして地中海、ギリシャは事実として此処を西の最果てとしたのだ』

「……めでたくはないな。私の未熟が永劫に刻まれた証だろう」

『恥じるな。己の名を世界の果てにしたのは、私の知り得る限り貴様しかいない。そしてこの世に最果てという亀裂を刻んだ事によって、最果ての断崖に一つの門が築かれたのだ。誇れ。貴様は自らの手で、冥府への入り口を作ったのだからな』

 

 鼻を鳴らす。こんなものを誇れるものか。やはり現実(テクスチャ)は脆いと思うだけである。ただの八つ当たりで大きな影響を受けるのだから。

 

 着いたぞとアテナは一つの洞窟を指し示す。いや洞窟と形容するのは不適当だろう。山脈の断崖、その亀裂が一部盛り上がり、入り口のようになっているだけなのだから。

 導かれるまま侵入し、下へ下へと進んでいく。

 道は険しく、進むほどに暗くなる。アテナが火の球を精製して光球とし、それを光源に更に奥深くへと進んでいくと、次第に地中はその様相を変えていった。

 光球に照らされても青白い地面と壁。そして天井。不気味な雰囲気を湛える薄暗い視界。その鋭敏な聴覚が水のせせらぎを掴んだ。河か? 眉を顰めて呟く。それが正答であると示すように、アルケイデスとアテナの眼に地下世界を横切る大運河が横たわっているのが見えた。

 

『私は此処までだ。後は貴様だけでいけ』

 

 アテナは足を止める。頷き、アルケイデスは単身河に向かっていく。

 水辺にまで進むと、一人の男がいるのを見つけた。小奇麗でもなく、小汚くもない、極平凡な風体の男だ。

 『ステュクスの河』と記された看板がある。ステュクス……地下に流れる大運河。またはそれを神格化した女神の名だ。この男が河を渡る船の船頭なのだろう。

 

 と、男がアルケイデスに気づく。

 

「ああ……? なんだおめぇ。死者じゃねえな? んなら渡らせられねぇな。こんなとこまでわざわざ来たところ悪ぃが、とっとと引き返――」

 

 ちなみにこのステュクスの河は、例え死者であろうと有料で渡るものである。

 この船頭に金を渡さねばならないのだ。故にギリシャでは死者を弔う際には金を懐に入れておくものである。

 金は持ってきている。後は生者のまま渡るために船頭を説得する必要があり、交渉のためアルケイデスが口を開きかけた時だった。男はアルケイデスの姿を見るなりカチンと固まり、唖然とした。そして震える声で訊ねてくる。

 

「ぁ、ぁあ……おめぇ、いやあなた様は、もしかして……ヘラクレス……様?」

「……? ああ、そうだが……此度は冥府に用向きがあり参上した。船頭だな? 私を向こう岸まで連れて行ってほしい。もちろん金は――」

「ひっ、ヒィィイ!? すすすすみません旦那! もちろんタダで渡させていただきます! だからどうか命だけはぁ!」

「………」

 

 タダ、という部分に敏感に反応するアルケイデスである。この男、その気になれば天文学的な金銭を稼げるというのに、どこか節制を好む性格をしている。謂わばタダという言葉に弱いのである。

 船頭の男が何やら『ヘラクレス』という男に誤解を懐き、恐れ慄いているのには気づいていたが、まあタダで渡らせてくれるなら誤解を解く必要もないなと考える。他者から誤解されるのには慣れていた。

 あたふたとして小舟に乗り、船頭はアルケイデスを乗せて船を出す。

 河の水面には無数の光の塊があった。あれはなんだと男に訊ねると、男は無駄に恐縮して答える。あれは魂でさぁ、と。冥府に収監される事もない、神々への不敬を成した罪人や、英雄に討たれた怪物の魂ですぜ、と。なるほどと頷く。

 何もされず、できず、ただ水面に佇む様は、確かに罰としては相応しいものがあるのかもしれない。ハデスの裁定なら厳しくはあっても理不尽ではあるまいと信じて。

 しかしはたと気づいた。一つの魂を見かけたのだ。

 残り火のような神性と、溢れんばかりの魔性。天女も斯くやという、戦女神に匹敵する美貌。その容貌には溢れんばかりの憂いがあり、自身を責め、また何かを呪っているかのような暗い火が灯っていた。

 

 気に掛かった。目を瞠る美女だからではない。

 紫の髪の女は怪物ではあるのだろう。然し堕ちた神であり、性根まで悪のものであるとは感じられない。

 

「あれは?」

「へ? あ、ああ……ありゃあ、旦那のご先祖、ペルセウスが討った怪物ゴルゴン……その中核となったメドゥーサでさ」

 

 メドゥーサ。支配を司る、大地母神の成れの果て。先祖が討った怪物と聞き、アルケイデスは少し興味を持った。

 本来なら関心を持った程度で、そのまま通り過ぎるだけだったろう。

 然しアルケイデスは『ヘラクレス』ではない。本質から違う人間だ。自分が嘗ての幸福を取り戻した故か、またそれを失う事を無意識に恐れているからか……見るからに幸薄い存在には目を掛けてしまう。

 それも、微かな差異でしかない。然しアルケイデスは知っている。神を無条件に信仰し絶対視する者ではない故に。神の嫉妬を買い滅んだ者を知っていて――メドゥーサの魂が悪のものであると感じられなかったから――彼は船頭に促した。

 

「……メドゥーサの魂に寄ってくれ」

「はあ!? だ、旦那ぁ、悪い冗談ですぜ? あんなバケモン、遠巻きにしておきゃいいんですよ。いずれ擦り切れて魂から滅んじまうですから」

「行け」

「へい」

 

 反駁は赦さぬと語気を強めると、船頭はすんなりと従って小舟をメドゥーサの魂に寄せた。

 虚ろな目を向けてくる。石化の魔眼の持ち主だと聞いているが、生身の体を持たぬ故にかなんの影響も受けない。アルケイデスはメドゥーサに声を掛けた。

 

「メドゥーサ」

『………』

「……私は貴様の首を刎ねた英雄ペルセウスの子孫だ」

『――ペルセウス?』

 

 耳に心地好い美声が鳴る。己を討った者の名は聞き流せなかったらしい。あるいは呼び掛けすら聞こえない自失の中で、ペルセウスの名を耳にして我に返ったのかもしれない。

 ゾッとするほど美しい眼を向けてくる。暫しこちらを見据え、やがて得心がいったように呟いた。独り言でも囁くように。

 

『ああ……貴方が、ヘラクレスですか』

「如何にも。貴様はゴルゴンの怪物の中核、メドゥーサだと聞いた。相違ないな?」

『それが何か。ご自分の先祖の討った怪物が珍しいのですか』

「いや……ゴルゴンほどの怪物にしては、随分としおらしいものだと思ったのだ。戦女神アテナに妬まれ、貶められ、怪物に身を落としたのだろう。恨み骨髄に達し此の世の総てを呪っている、悍ましい魂をしているのが相応のはずだ。だが今の貴様は……」

 

 まるで、私のようだ。

 

 その言葉を呑み込む。メガラと三人の子供達を手に掛けたばかりの己を思い起こされて、とても口には出せない。

 メドゥーサは自嘲するように、呪うように溢した。

 

『ヘラクレス。その名は冥府にまで鳴り響いています。死出の旅に出た最近の者は、貴方の噂ばかりをしている。ええ……ペルセウスなどという弱者とは比較にもならない、本当の大英雄ですね。しかし……私の前で、忌まわしいあの女神の名を口にしないでください。私は……何をするか解らない』

「ひっ」

「凄むな。只人が怯えている。だが静謐の中にある貴様を不快にさせてしまった事は謝ろう。……良ければ話してみてくれないか? どうにも私の中で、メドゥーサという女が怪物とは重ならん」

『怪物ですよ。私は……悍ましい怪物だ』

 

 自身に刃を突き立てるような声音だった。生身があれば涙を流し続けているだろう。そんな悲しげで、切な気な……。

 アルケイデスはその様に胸を打たれる。いよいよ他人とは思えない。黙って待ち続けていると、メドゥーサは嘲笑う。暇な人ですね、と。暇ではないが泣いている女を置き去りにはできないと返すと、メドゥーサは押し黙った。

 静寂が流れる。暗い暗黒の河の中、メドゥーサの魂の光だけが光源だった。

 やがて根負けしたのか、メドゥーサはアルケイデスの問い掛けに答える。ぽつぽつと生前の思い出を語った。

 

 大切な姉たち。ポセイドンに娶られた自分。自分の容貌、髪の美しさを妬んだアテナによる呪い。髪が蛇となったメドゥーサをポセイドンは捨て、辺鄙な小島に追放された事。そしてメドゥーサがバケモノに変じ、姉たちを殺してゴルゴンとなった事。

 死後は魂が分かたれ、姉たちと会えない事。こうして永劫にも想える時間を、罪の意識に耐えながら佇んでいた事。アテナへの憎しみ、姉たちへの褪せぬ愛。

 話し終えると、今度こそメドゥーサは口を閉ざした。目線を下に落とし、もう何を言われても反応すらしない。アルケイデスは何事かを考え込み、舌打ちした。

 

「アテナ……」

 

 悪しき神である、とは思わない。しかし悪しき女である。狭量な女であった。遣る瀬なさに同情する。もしも一つ踏み間違えていれば、己も怪物に堕ちてメドゥーサと同じ様になっていたと思ってしまう。

 船頭を促して先に進む。メドゥーサの哀切を想った。其の生涯の悲劇と、それでもその中にあった小さな幸福を偲んだ。

 

「………」

 

 陸地に上がる。そして奥に進む。冥府の門があり、そこにケルベロスがいるのを見掛けるも、大人しいもので見向きもしてこなかった。

 アルケイデスも気にもせず門を潜る。そしてハデスの許まで向かっていった。

 いた。いつぞやの擬態としての骸骨ではない、白い髭を蓄えた青白い肌の巨漢が。豪奢なローブを纏った冥府神が、玉座に腰掛けてアルケイデスを迎え入れる。傍らにはペルセポネと、どこか見覚えのある女神――ヘカテーがいる。ヘカテーはゆらゆらとこちらに手を振ってきていた。

 

『来たか、ヘラクレスよ』

「……ああ、生者である私が二度までもこうして面前に跪く非礼、お赦しを」

『構わん。此度はお前の意志ではないだろう。此処に来るに至った由縁は把握しているとも。我が番犬を借り受けに参ったのだろう?』

「その通りだ」

『赦す。貸してやろう。ただし武器を使わず素手で大人しくさせられたら――』

「………」

『……どうした?』

 

 ハデスの下で跪くアルケイデス。面を伏せている彼の頭上に玉声を掛けるハデスだったが、アルケイデスの顔色が優れない事に気づいて怪訝そうに訊ねた。

 アルケイデスは暫し迷う。言ってもいいものかと、逡巡している。見兼ねたハデスは気を揉むも、ヘカテーが先んじて口を開いた。

 

『構わぬよ。言いたい事を言うと良い』

『ヘカテー! 勝手を……』

『まあまあ、良いではないか。ハデスよ、私に任せると良い。さすれば此処のところ忙しくて堪らぬエジプトとの問題……解決する手ができるやもしれぬ』

 

 なに!? なら聞こうすぐ聞こうさあ言えすぐ言え早く言えぃ!

 ヘカテーの甘い囁きに、ハデスは玉座の肘置きに拳を叩きつけて立ち上がり、アルケイデスを急かした。

 それに微妙な気分になる。ヘカテーが場を掻き回して愉しんでいるのに気づいたのである。いい性格をしているらしい。

 然し好機だ。意を決して口を開く。

 

「……偉大なる冥府の神よ。死者の魂への裁定に、御身に過ちなど無いと私は確信している」

『無論だ。当たり前だとも。うむ、私がこと死者への裁きで間違いなど犯すものか』

「ああ。然し。……此処に来る途上、一つの魂が気にかかった」

『ふむ……? それは?』

「メドゥーサだ」

 

 ピン、とハデスの纏う空気が張り詰める。真実、死を束ねる支配者の貌が出た。

 ゆったりと玉座に腰を下ろした巨神は、厳かな所作で続きを促す。

 

「……彼の者は悲劇の女だ。不当に貶められ、呪われ、化物として殺された女だ。その身に罪があったとしても、あの者自身の手で最愛の姉妹を手に掛けた事で精算されているはずだろう。あの者がステュクスの河に佇み続けるのは、私には酷く不当な裁きに思えてならない」

『……ふむ。確かにな』

 

 アルケイデスの言に、意外にもハデスは鷹揚に頷いた。まさかの肯定に英雄は跪いたままハデスを見上げる。

 死を統べる大神は冷厳とした眼差しをしていた。

 

『だが一度下った罰は覆らせないものだ。アレが消滅するまでああして佇む事が裁きなのだよ』

「………」

『ヘラクレスよ。不服か?』

「……畏れながら。不服だ」

『ほう?』

 

 恐れず真っ向から意見する人の子に、ハデスは片眉を跳ねる。

 

「あれは、私だ。もしも(IF)の私だ。私にこうして償う機会があったというのに、彼の者にはないというのは不公平だろう」

『いいや、それは――』

『ああ、要は彼女を連れていきたいのか。いいとも、許そう。連れて行くと良い。そして償わせるといいよ』

『ヘカテーッ!!』

 

 ハデスの言を阻み、ヘカテーが口を挟む。

 冥府の神は怒りを滲ませて大喝した。迸る死の神気は、生者であれば即死するほどの圧迫感がある。アルケイデスすら鳥肌が立った。

 だがヘカテーは涼し気にしている。そしてハデスを制した。

 

『これは報酬だよ、ハデス』

『……何?』

『ヘラクレスに命じるのだ。エジプトの死後の世界の神との折衝を。その報酬に、死したる者を一人解放する……ギリシャとエジプトの【縄張り】を決める一大事だ、これを成し遂げたのなら赦される褒美だと思うよ、()は』

『む……』

 

 ハデスはそれに、言葉に詰まる。怒気も鎮まった。

 玉座に腰掛け口元を手で覆い、考え込む。純白の花嫁衣装を常態とするペルセポネが耳元で囁いた。それに尤もらしく頷きながら、冥府神ハデスは決断した。

 

『……良いだろう。ヘラクレス、メドゥーサを連れて行き、現世での罪を償わせよ。貴様と同じ十の禊ぎを、貴様が課すのだ』

「……は。寛大な処置、有り難く」

『ケルベロスは貴様が死ぬまで貸し与えよう。ただし、』

「素手で大人しくさせよと。容易い事だ。では、御免。御身より賜りし恩義、死すとも永劫忘れぬと誓おう」

『だが忘れるな? 早急にエジプトの死の神と会い、ギリシャとエジプトの領分を定めるのだ。貴様にこれも一任する。あくまで対等になるように取り計らえ。断じて風下に立つような決定は赦さぬ。しくじるな、私は寛大だがそれにも限りがある』

「ハッ!」

 

 諒解の返事をし、アルケイデスは立ち上がってハデスの許を辞した。

 我儘を聞いてもらった申し訳なさに頭が上がらない。アルケイデスは冥府の門を潜るなり襲い掛かってきたケルベロスを殴り倒し、鎖を引いて引きずりながら歩いた。

 ハデスへの敬意と申し訳なさに慚愧の念に堪え。見上げるような巨体のケルベロスに乗って河を渡る。その際に、メドゥーサの魂に声を掛けた。

 

「メドゥーサ。私と共に来い」

『………』

「私に仕えろ。罪を清算し、そして英雄として名を成せ。貴様の姉妹は冥府にはいない――ならば居場所はエリュシオンなのだろう。私に仕え、英雄として今一度の死を得れば、貴様の魂はエリュシオンに導かれよう。――私が貴様を、姉たちの許に送ってみせる。ついて来い。ついて……来てくれ」

『――それは』

 

 メドゥーサは、その暗い目に光を灯した。顔を上げ、ケルベロスに乗るアルケイデスを見上げる。

 そこに嘘の色は見えない。差し伸べられた、彼女にとって望外の希望の糸に。

 絶望の海に浸っていた女は、騙されても良いと。堪えられないようにアルケイデスの手を取った。

 

 こうして、冥府より出たアルケイデスはケルベロスを従え、そして名も無き仮面の女を付き従えた。

 今はまだその女に名は無い。然し後に罪を雪ぎ、女英雄として名を馳せる彼女は、後の世の軍隊の佐官……大佐の階級の呼び名、その語源となる。

 即ち彼女こそがスーダグ・マタルヒス。その真名をメドゥーサ。戦士王の右腕として尽力し、マタルヒスと呼び親しまれた彼女は、終生の忠誠を王に捧げる事となる。

 

 神に放逐された女怪は、人に拾われ英雄となるのだ。

 

 

 

 

 

 

 




原典でもここでヘラクレスはメドゥーサの魂を見掛けております。
見掛けただけなんだけどね。

ケルベロスは前座。真の英雄は殴り殺す。


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神権禅譲戦国【■■■■】
序章 そして渇望のままに


二回目の投稿だよ。






 

 

 

 

 英雄は只管に駆けた。天つ聖鹿(ケリュネイア)を高らかに呼び寄せ、神速で馳せ参じた朋の背に跨り何よりも急いて疾走した。

 目指すはサラミス島。其処で彼は、己の知り得る限り最高峰の魔術師であるメディアに会い、彼女が動転するのにも構わずテラモンを介し依頼を出す。即ち堕ちたる女神、女怪の正体を隠す仮面の作製である。詳細に事情を話された彼女はこれに頷いた。己の心傷に惑っている場合ではないと心優しい魔女は心得、己の持ち得る総ての業を用いてメドゥーサを匿い、彼女のための仮面の作製に取り掛かった。

 魔眼殺し、正体隠蔽。メドゥーサの蘇りを神々に知られる訳にはいかない故に、王妃メディアは渾身の魔術礼装を編み上げていく。

 極大の感謝と共に、アルケイデスは来た道を取って返す。そして待たせていたケルベロスをミュケナイ王の許に連れて行き、勤めの終了を認めさせた。

 

 そうして『ヘラクレス』という英雄は完成を見る。

 

 アルケイデスは大至急、この時点で何よりも優先すべき事態に備える。

 遂に始まるのだ。余りにも遠大な、アルケイデスが胸に懐いた本懐を結実させる為の()()が。

 気を張る。意志を固める。脳裏を過ぎるあらゆる思い出が去来し――今はそれらを横に置いた。

 神殿に赴く。大神の神殿だ。ギリシャ世界の中心とも言えるミュケナイには、当然の如く其れは有る。アルケイデスは神殿に参内し、礼の限りを尽くして神殿前に跪く。

 すると、()()(おお)いなる神威が天より降臨してくる。その姿はいつかの夜――全ての始まりの惨劇に見た大神のものではない。

 翁の如き姿だったのが、幾分か若返っている。充謐する威厳、正に至高の其れ。然し己の中に流れる血がこの者こそ太祖ゼウスであるとの確信を持たせた。

 

 言葉はない。然しその意志が直接アルケイデスの脳裏に落とされる。

 

 ――()くぞ試練を超えた。並の英雄ならば一つの勤めも果たせず、なんら功績を残せなかっただろう。褒美をとらせる。お前の身に流れる神の血は不滅だが、人の身はその限りではない。故に乗り越えた試練()の数だけ命を与えよう。

 

 言語にするなら、そのような意志だ。

 大いなる加護である。破格のそれだ。アルケイデスほどの戦士が、十二の命をストックするなど、それこそ何者もその歩みを阻めはしなくなるだろう。

 だが、

 

「身に余るご厚情、深甚なる感謝で胸が詰まる思いだ。――だが、お忘れか大神よ。以前私に約した儀がある事を」

 

 ――無論忘れてはおらん。約定は果たす。お前に狂気を送り込んだのは――

 

「ああ、無用だ。私は下手人の名を望まない。そしてその者への罰を求めもしない」

 

 訝しむような気配が有る。頭を下げたまま、大神を直視せず地面を見たまま、心にもない事を告げる。

 案の定、大神は疑いの目を向けてきているようだった。

 虚言を重ねる。

 

「人の心は移ろう。新たに妻を娶り、子を授かり、私は今、幸福だ。償いも済んだ。いつまでも過去の事に拘るのは英雄らしくはない。ましてや神への罰を望むなど畏れ多い事だ。私は人である故に、一つの命で生きていきたい、だから御身が賜さんとする命の重ね掛けも無用。故に私は、下手人の名も、罰も、過分な命も求めない。――然し一つだけ叶えて貰いたい願いがある。其れを以て褒美として賜りたい」

 

 沈黙が流れる。感心しているのだろうか。殊勝な心掛けであると。頷いている気配があった。

 そして促される。言ってみよ、と。

 此処だ、と思った。此処をしくじる訳には断じていかない。アルケイデスは意を決して告げる。

 

「――万年の懲役を課されし神、プロメテウスの恩赦を願う」

 

 ――……。

 

 大神は無言だ。やり辛さを感じる。だが押し通すように言葉を重ねた。

 

「勤めの最中、私は彼の神が罰として繋がれているのを見掛けた。余りに惨い……私は神への罰は望まない。然し救済を望む。……御身は、私がマルスと名を改めた戦神を信仰している事に不服を感じておられるかもしれん。であればこそ、彼の解放を。私とは縁薄く、中立にして英邁なるプロメテウス神を、我が監視者とされたし」

 

 ――ほう。我が身の監視を望むのか? それが褒美だと。

 

「如何にも。我が赤心に曇りなき事を示す……これ以上の喜びなどないと私は信じる。さりとて愚昧な……失敬、智慧司らぬ神やその遣いを傍に置くのは苦痛だ。共に在る事を苦とするよりは、やはり賢明なるプロメテウス神が適任と愚考する。……最も良き選択肢は大神ゼウス、御身であるのだが……私如き人の身を監視する任を、大神たる御方が務めるなどそれこそ自死すべき案件だろう」

 

 遜りすぎず、かといって傲慢にもなりすぎない、絶妙の線を突いての言葉選び。

 冷や汗が背筋を伝う。アルケイデスは黙った。これ以上は言葉を重ねられない。余りに必死に見られすぎてもならないのだ。

 どうだ、と思う。どうなる、と祈る。神ではない、人でもない、運命ですらない、何かへ祈る。乗るか反るかの博打。ここで決定されるのは今後の道だ。採るべき策だ。

 叶わずば、己の生涯では果たせぬと諦める。叶うのなら――己の手で、成せる。

 ゼウスは果たして、

 

 ――よかろう。それを褒美として欲するのなら、プロメテウスを解放する。お前の功績はそれに足るだろう。そしてお前の言やよし、監視者として遣わす。お前が示す赤心を、プロメテウスの口から聞き届けよう。

 

「――――は。有り難く」

 

 アルケイデスは、伏せたまま、嗤う。

 ()()()。いや、成さしめる道が視えた。

 

 ゼウスと、マルスの関係。マルスへ如何ほど脅威を感じているか。己へ向けた猜疑心の大きさは如何ほどか。残っているアルケイデスへの信頼は、プロメテウスへの信頼は如何ほどで、そしてアルケイデスの言をそのまま受け入れる可能性は如何ほどなのか。ヘラが犯人だと確定させず、また罰を求めない事で得られる心象の好転は如何ほどのものか。

 この瞬間、アルケイデスは会心の笑みを浮かべる。去りゆく神性の気配、それを感じていても暫く動けなかった。歓喜に体が、五体が、暗い心が震える。この手で成せるのだという歓喜に動けない。

 

 馬鹿め、なんて安い嘲笑はしない。己の子には甘いところのあるゼウスの性格を利用したまでの事。見下げ果てたるは己の性根だ。そう思うのに、アルケイデスは狂喜していた。気は狂わない、アテナの加護がある。しかしそれでも狂いかねない感情の津波。留まらぬ狂奔。それを鎮めるのに必死だった。

 ああ、これで。これでやっと、報われる。望みである時代を築くための最後のピースとして求めていた、プロメテウスを傍に置ける。彼の神の()()()()を行使せしめれば、必ずや黄金の時代を築き上げられるのだ。それも己の望みを果たした上で!

 

 気が逸る。気が昂ぶる。アルケイデスは吼えた。歓喜の雄叫びと共に、解放されたプロメテウスが派遣されてきたのを察知してのもの。

 

 本質からして、人の味方である叡智と慈悲の神。その在り方からしてアルケイデスの齎す黄昏に賛同する神。

 プロメテウスの参上。この儀を以て、遂にアルケイデスは行動に移る。

 

 

 

 

 ――故に、号砲は高らかに。

 

 

 

 

「ヘラクレス。我が至上の主君。人としての名の無いこの身を尽くし、御方に仕えさせて頂きます」

「ああ、これで契約は成った。これよりお前はスーダグ・マタルヒスと名乗ると良い。仮面の女よ、私の下で勇名を轟かせ、来たる約束の日に英雄の楽園(エリュシオン)への道を開いてみせろ」

 

 仮面の女が、馳せ参じる。

 

「アルケイデス。遂に、か? 解るさ。私とお前の仲だ。何かを始めようというのだろう?」

「……ああ。苦しい戦いになるだろう。だから聞いてほしい。ポルテ、お前と、腹心となるイオラオス、アタランテ、そしてマタルヒスにだけは……私の始まりの火を伝えたい。聞いてほしい。聞けば退けぬが、それでも」

「構わない。アルケイデス……お前となら、例え地獄に堕ちても恐ろしくはないから」

 

 戦御子が寄り添う。

 

「ヘラクレス。僕はアテナイの王と成った。如何なる支援も惜しまない」

「水臭いじゃないか! このオレ――あ、いや――私と君の仲だろう? アルケイデスが国を造る? いいよ、国交を結ぼう! 私のイオルコスと君のオリンピアが組めばまさに無敵だ!」

「サラミスの国を統べるわたしだが、既に貴殿に従うと誓っている身だ。盟主殿、わたしの力が必要ならなんでも言ってほしい」

「本当にやりやがったのか、ヘラクレス。なら俺たちトロイアも、信義によって盟約を果たそう」

「俺は支援などしないぞ。俺はミュケナイの王だ。どうしてもと言うなら……まあ、仕方ない。貴様の王位が盤石になるまで後見してやらんでもないが」

 

 諸国の朋たちが力を束ね、戦士を王位に押し上げる。

 

「――フン。随分と長く待たせたもんだ。アレクサンドラが産まれたばかりだろうが」

「望みを叶える。我が子を守る。どちらも熟さなくてはならぬのが父の辛いところだ。覚悟は、できている」

 

 戦神と盃を酌み交わす。ただし、戦士王は水で。

 

「……解った。契約しよう。我が権能、我が全能、我が誠心、全ておまえの望むままに振るおう。お前の成す如何なる残虐にも加担する。だから人類に黄金の時代を、我が契約者よ」

「無論だ、共犯者プロメテウス。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。――まずは、()()()()()()()()()()

 

 神の権能、火を人類に齎した神が密約を交わす。

 

「ヘラクレス! 遂に来るぞ、ギガースが! あと二年とせずに決戦の時だ!」

「時到らばすぐに馳せ参じるとゼウス神に伝えてくれ、ヘルメス神」

 

 そして神々の戦争の時が、来る。もう、間もなく。

 時代が加速していく。何もかもを巻き込む黄昏に向けて。

 

 立ち止まれない。此処まで来たのだ、もはや誰にも止める術などない。

 

 だから――アルケイデスは非情な判断を迫られる。

 例え寵愛する者との間に決定的な亀裂が刻まれるのだとしても。もはや彼は王なのだから。

 

 

 

 

 ――開戦の号砲に音はない。然し、その足音は、一人の青年によって齎される。

 

 

 

 

 獅子の鬣を頭髪とし、獅子の耳と、脚を持つ半獣半人となってしまった甥。

 イオラオスが、一年の時を置いて、オリンピアに来訪した。

 

 その手に、男児と女児の双子を抱いて。精悍さの増した容貌に、根深い絶望を抱えた顔で。

 

 その傍らに、アタランテはいなかった。

 

 

 

 

 

 

 



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一幕 王たらんとする者、玉座へ

 

 

 

 

 

 ダ、ダ、と。意味を持たぬ単音を発する小さな命が、女の頭部を覆い尽くす仮面に小さな手で触れていた。

 赤子を腕に抱く事に慣れていないのだろう。経験すらなかったのかもしれない。無邪気に綻んだ蕾の様な笑顔に、どこか優美な印象の白仮面を着装している女は、得体の知れない風体に似合わずオロオロと視線を彷徨わせている。

 その所作が可笑しくて、ヒッポリュテはつい噴き出してしまっていた。救いを求めるように自身を見詰める様が、その素顔を知る戦御子にさらなる笑いを誘う。

 

「……奥方、その……私はどうすれば……」

「好きにさせてやってほしい。アレクサンドラがこうも懐いているんだ。分かっているのだろう……自らに害を為さぬ心根穏やかな者なのだと」

「そんな……」

 

 子供はもう一人、一歳のヒュロスがいる。ヒュロスは淡いブロンドの女に抱かれ、あやされていた。

 引き締まった四肢と柱のような体幹、ピンと伸びた背筋。一廉の武人としても通じるその女は名をイピクレスという。アルケイデスの双子の妹にして異父兄妹である、最近までミュケナイに属していた女英雄だ。

 

 小さな子が二人もいては自分だけで世話をするのは大変なものである。しかしヒッポリュテは乳母や侍女を雇い入れ、息子と娘を任せる気はない。自分が認めた人間以外に可愛い子供達を預ける気など毛筋の先ほどもなかった。

 女衆の中で認められるとしたら、アタランテやメディア、アルケイデスの妹であるイピクレス。そしてつい先日引き合わされたばかりのスーダグ・マタルヒス――メドゥーサだけである。

 

 ――イピクレスはヒッポリュテの義理の妹に当たり、複数人の子供を出産、育てた経験がある。あのイオラオスの母なのだ。養育を任せるのに不安はない。そしてマタルヒスは育児の経験など無いが、アルケイデスが善良だと太鼓判を押し、これから死ぬまで仕えてもらうと決定した故に、互いを知り合うため娘を任せるべきだと判断したのだ。

 相も変わらず夫の人物鑑定眼は傑出している。洞察力も並外れているが、付き合いの浅い者が相手でもその心根の善悪を見抜くのだ。マタルヒスの素性を知らされたヒッポリュテは呆れ返りつつも、夫の鑑定の正しさを改めて認識する。

 

 赤子は無垢だ。そして無力である。だからこそなのか、自身に害を為すか、庇護してくれるかの判断に関しては大人が思うよりも正確だ。生誕間もないとはいえヒッポリュテとアルケイデスの子が、その判断を誤るとも思えない。

 過信が過ぎるだろうか? 自問するも間違いはないと信じたい。アレクサンドラが懐いている事から、マタルヒスは少なくとも邪悪な者ではないと、風評に惑わされず信頼するように意識していた。

 

「然し驚いた」

「何に、でしょうか……?」

 

 ふと漏れた呟きに、たおやかな所作で仮面の女が首を傾げる。のっぺりとして機能性しかない仮面を付けているにも関わらず、滑稽さを感じさせない女の仕草にヒッポリュテは微笑んだ。

 

「アルケイデスがお前ほどの美女を……容貌に於いて私を凌駕する女を連れて来た事に驚いてしまった。アレクサンドラがもう間もなく産まれるという時だ。まさか浮気かと一瞬でも疑ってしまった自分が恥ずかしい」

「ご安心を。それは有り得ませんので」

「ふふ……アルケイデスはお前の趣味ではないからか?」

「はい。あの方は私に希望を与えてくれ……そしてそれを掴み取る機会をくださった、とても返し切れない大恩ある主です。然し……殿方として見るにはちょっと大柄過ぎると言いますか……筋肉質過ぎると言いますか。人としては誰よりも信頼に値するとは思います。決して裏切りはしませんし、命を懸けてお仕えする覚悟ではあります……然し命令でもない限り、抱かれようとは思えませんね」

「ははは。命令されれば抱かれるのも良しか? 安心すると良い、アルケイデスはそんな下衆な命令はしない。断言しても良い。それに何より驚いたのは、マタルヒス……お前の真名だ」

「……やはり、怪物(ゴルゴン)である私は信頼に値しませんか?」

 

 仮面がある故に表情は読み取れない。然し声が若干固くなっているのを聞き間違えはしなかった。戦御子は凛とした爽やかな表情を湛える。負の感情のない爽快な笑みだ。

 

「バカを言うな。一昔前に討たれた怪物であっても、今は人として生き英雄として死ぬと決めているのだろう? それにゴルゴンが如何ほどの怪物であったとしても、ネメアの谷の獅子やヒュドラの神蛇ほどでは無い。――アルケイデスよりも、お前は弱い」

「………」

「恐れる必要が何処にある? 例えお前が再び魔性に堕ちたとしても、その時はアルケイデスが責任を持って討ち果たすだろう。それこそ完膚なきまでにな。だからメドゥーサ、いやマタルヒス。お前が後ろめたく思う必要も、卑下する事もない。そしてアルケイデスの奥であるこの私が――アマゾネスの誇りを待つこの私が、夫の愛を失う事以外を恐れるなど有り得はしない」

「……そう、ですか」

()()()、ではない。()()()、だ。納得しろ。受け入れろ。賽はすでに投げられている。今のお前の本性はどうあれ、エリュシオンを目指す英雄たらんとする者が後ろ向きでどうする」

「……はい。流石はヘラクレスの奥方ですね。貴女は私には少し眩しい……」

 

 マタルヒスは淡く微笑んだようだ。そして腕の中にいるアレクサンドラが、自身の仮面に触れようと手を伸ばしている姿に視線を落とす。

 

 ――マタルヒスは首から上を、白仮面で隙間無く覆い隠している。然しマタルヒスは些かも息苦しさを覚えない。自身の長髪が綺麗に仮面の内に収まっているのに、その質量を感じてもいなかった。

 流石はメディア作の、渾身の魔術礼装である、というべきか。マタルヒスには仮面を付けているという自覚すら薄いのだという。石化の魔眼を封じる出来栄えなのに、自己封印をするまでもなく肉眼で視界に映るものを問題なく視認できているかのようだというのだ。寧ろ髪が傷つく恐れがない故に、かえって動きやすいらしい。

 

 今のマタルヒスは、初対面時に着ていた姉たちとのお揃いだという衣装を身に着けていない。メドゥーサという女怪にひどく同情したメディアは、仮面だけではなく特注の衣装も作製し、万が一にも正体が露見しないようにと細心の注意を払ってくれた。

 全身に貼り付くタイツのようなスーツは黒い。付随する魔術効果は隠蔽。注視すればするほど体の輪郭が朧気になる代物だ。眼力に秀でた者には通じずとも、凡百の輩には姿形を記憶すらできないだろう。

 そしてその上に神鉄を糸状にして編み上げた、薄く、堅い軽鎧を着込んでいる。全身の関節部を除く部位を余さず覆い尽くし、メディアの魔術によって対魔力の向上と、人の意識を吸い寄せる効果が付随されていた。例えマタルヒスの姿形を記憶できず、貌も分からぬままであったとしても、この白銀の軽鎧が他者にマタルヒスだと印象づけるのだ。この軽鎧こそ彼女の英雄としてのシンボルであるとすら言えるかもしれない。

 

 重武装に見える。然し普段着同然の着心地と通気性が成立し、自然浄化による清潔さの保全が為され、動作の阻害もほぼ皆無であるためか、マタルヒスとしてはメディアに頭が上がらなくなっている。

 マタルヒスはアレクサンドラを大事に抱き直した。この愛らしい娘は、自分への信頼の証なのだと理解したのだ。此処にはいないアルケイデスと、此処にいるヒッポリュテが、女怪として討たれた怪物ゴルゴン……メドゥーサを信頼に値すると信じてくれた証であると、マタルヒスは諒解する。

 

 養育を任された訳ではない。然し関われる範囲内で、大事に慈しもうとマタルヒスは決意した。

 

「――話は終わりましたか? まったく母が我が子を前に女怪だのなんだのと。せめて自らの子供の前でぐらい戦士をやめ、母で居続けなさい」

 

 そう言ってきたのは、これまで無言だったイピクレスだった。

 アルケイデスの妹である彼女は、ヒッポリュテにとっては義理の妹に位置する存在である。然し実年齢で一回り上回られ、母親としての経験値の違いからか、どうにも強く出られず、自然と目上の者に対するかのような態度になってしまう。

 うっ、と声を呑んだヒッポリュテは、兄妹揃って父母と同じ黒髪を持つヒュロスを見る。イピクレスに抱かれた男児は、すやすやと安心し切った寝顔で寝息を立てていた。もしかしなくてもヒッポリュテよりイピクレスに懐いている我が子に、ヒッポリュテは情けなく眉を落として項垂れた。

 

 それにマタルヒスは淡く微笑む。女達の賑わいは穏やかで、壊してはならない尊さがあった。それは自身の失われた、遠い昔の記憶を刺激するもので。

 ヒッポリュテは思う。マタルヒスも思う。メディアとも、一緒に語り合いたいと。

 そしてヒッポリュテはもう一人、歳の近しい女狩人を想った。アタランテ、お前にも私の子を抱いて貰いたいものだ、と。

 今何処にいて、何をしているのだろう? 音沙汰がない事には怪訝さも覚えるが、イオラオスがいる。心配はしていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――ヒッポリュテが傍らに立つ。仮面の戦士マタルヒスが脇を固める。王位禅譲の儀は決され、数多の精霊が大空に舞い、神々が祝福と共に謳った。

 

 光の粒がオリンピアの地に降り注ぐ。

 

 都市部の中心に、民草が集結していた。新たな王の登場を眼にしようと。

 ギリシャに知らぬ者のない巍然たる英傑が、老いて隠棲を望む王に代わりこの国を統治するというのだ。吟遊詩人の歌う英雄譚、その実物とは縁遠かった辺鄙な地の民達は純朴に喜んでいる。

 雄偉の王、驍勇の士、無双の名を恣にする至強の雄。その誕生の瞬間に居合わせられる幸運を喜んで――大通りを進む武人を眼にした彼らの熱気は臨界に達していた。

 

 黄金の双角、青銅の蹄、繊細な毛並みを持つ巨躯の牝鹿。鍛え上げられた駿馬を凌駕する神獣に跨り王宮に向かう、金色の鎧と外套を纏う戦士王。兜を外した彼の精悍な素顔と、背にした白亜の中道の剣、発される存在感の巨重さは、他の者など本来なら眼にも映らぬ大きさだ。

 平凡な者でも眼にしただけで確信する至強の雄。その両脇を固めるのは神馬に騎乗し悍ましき魔槍を携えた、颯爽たる威厳溢るる戦御子ヒッポリュテと、噂に伝え聞くディオメデスの人食い馬に騎乗した姿形の識別困難なる仮面の者。名工の鍛え上げた双剣を得物とし、その二つの柄を鎖で繋いだミステリアスな戦士。

 更にその背後には、三つの頭と無数の蛇が象る毛並みと竜の尾を持つ冥府の番犬。小山の様に雄大な体躯を誇るエリュマントスの猪、彼のミノタウロスの父であるクレータの牡牛が従順に王の後に続いていく。すわ怪物を引き連れる魔王の軍勢かと錯誤されかねない陣容であるが、誰もそんな不敬な誤解には至らない。彼ら恐ろしい怪物達が、完全に戦士王の支配下にあるのだと一目で判じられるからだ。

 騒然とするのは、興奮から。民達は口々に新王を讃える。吟遊詩人の歌は真実だったのだと喝采する。だがこれで終わりではない、更に彼らの度肝を抜くものがあった。

 

 王と王妃、その腹心の後を怪物達が行進し、更にその後ろには目を瞠る宝の山が数千台にも及ぶ荷台に載せられ進んできたのだ。

 金銀財宝は言うに及ばず、莫大な石材、木材に始まる多様な物資。各地の名産物、働き手となる千を超える労働者達。彼らは新王即位の慶事として、サラミスをはじめイオルコス、アテナイ、トロイアから贈られた物だった。

 

 精霊達の舞った残滓の光、その粒子が薔薇の花弁の如く閃きながらオリンピアの空に満ちている。神秘的、幻想的、そんな陳腐な感動が人々の心に満ち満ちて。声も枯れよと吠える民の声もあった。

 王が王宮に至る。其処に立っていたのは、満面に笑みを浮かべる枯れ木のような老王だった。よく見れば貌が引き攣り冷や汗を流し、脚が震えている。無理もない、禅譲は彼の意志に拠るもので、脅迫した事実は欠片も存在しないのだが――常人である彼からすると、何より己の背後に佇む神格が恐ろしい。

 

 ――戦神(マルス)戦女神(アテナ)鍛冶神(ヘパイストス)祭祀神(ヘスティア)大女神(デメテル)、冥府神の名代の魔術神(ヘカテー)海神(ポセイドン)月女神(アルテミス)太陽神(アポロン)貞潔神(ヘラ)伝令神(ヘルメス)、そして大神(ゼウス)。オリンポス十二神が揃い踏み、老王の背後から新王誕生の瞬間を見届けようとしているのだ。神々に捧げられる供物も膨大な量となり、老王は心労で倒れそうだ。

 

 そして自身の許に辿り着いた戦士王が聖鹿より降り、上座に立つ老王の傍に寄る。

 老王が彼の頭に月桂冠に代わる新たな王位の証、金で象られ宝石で彩られた華美な王冠を載せた。其れは西暦以降の未来にも遺る戦士王の遺物の一つ。最古の王冠である。

 後の騎士王が受け継いだとされる王冠を戴き、跪いていた戦士王が老王に助け起こされる形で立ち上がる。老王に変わり上座に立つと、万雷の拍手が打ち鳴らされた。光の柱として立つ神々が祝し、神聖にして荘厳、峻厳なる山々が突如屹立したかの如き重量感に満たされる。

 

 王が民衆に振り返る。そして――腕を掲げた。

 

 拍手喝采が鳴り轟く。歴史的瞬間である。此処に人類史に其の名を燦然と輝かせる、神話の巨雄『ヘラクレス』のモデルと目される大英雄、アルケイデスが登場したのだ。

 

 

 

 

 ――アルケイデスが王位に至り、王冠を戴いてより数ヶ月が経った。

 彼はまず、オリンピアの兵を募り、マタルヒスに補佐としてヒッポリュテを付け、練兵を行わせた。マタルヒスに兵を率いる戦いの術を教えるためだ。

 そして自身は精力的に働き出す。文武の官を整理し権限と職掌を定め、その職能を見極めて人事を行い、集まった財宝を惜しみなく解放して産業を整える手配をした。

 次に自らオリンピア周辺を巡視し、匪賊や危険な獣を狩って廻り、最低限の練度を得た兵を創立した警邏隊に配属して国内の治安の安定を図る。信賞必罰を厳として、官の傲慢を赦さず、民の増長を赦さず、されど締め付けすぎず、抜き打ちで家臣らの仕事ぶりを己の目で確かめ不正があれば厳罰を下した。

 

 ある程度の安定を得ると、自身の名声の高さを利用し、番犬ケルベロスなどをオリンピアの城門前に配備し、あるいは見世物として、各地から行商人や旅人の足が向きやすい話題を作る。商売繁盛を推奨して、自身は人足を募って『アルケイデス王』としての生涯の事業に打って出た。

 数多くの神殿、神を象った像の建造である。彼の背後には常に賢知の神プロメテウスが潜み、影に日向にと助言をして彼を助けた。

 

 無論即位間もなくして辣腕を振るい、旧体制を破壊し尽くすが如き施策を不服に思う者は相応数いた。特に官吏にはその割合が高かったと言えよう。

 然し彼らはオリンピアより去る事はなかった。――それは城門前に配備され、国境周辺を彷徨く番犬ケルベロスを恐れての事である。彼らはケルベロスが、来る者は拒まずとも去る者は食い殺すという性質を知っていたのだ。オリンピアを自由に出入りできるのは、公の立場ではない民や旅人、商人ぐらいなもので。彼らに紛れて出国しようにもケルベロスはオリンピアの官吏の臭いを覚えさせられていた。

 隠れても、紛れても、必ず見つかる。そして食われる。アルケイデスは民には非常に寛大で、些細な罪であればささやかな償いで赦しを与えたが、官に属する者には徹底して厳罰主義であった。それは彼の目からすると、官の者は傲慢に過ぎ、また汚職に塗れていたからである。無論の事、厳しさに釣り合う恩恵は与えていた。給金はこれまでの倍となり、老いで官を退いた後は年金と称して一定額の金銭を期間毎に受給させると布告を出したのだ。

 

 だが不満は溜まる。それが爆発しないのは、アルケイデスの恐怖政治ゆえだ。

 

 神々を味方に付けた彼にどうして逆らえるのか。神のことがなくともアルケイデス個人に逆らえる勇気は誰にも持てない。毒物を使おうにも監視者プロメテウスに見抜かれ……暗殺者を使おうにもアルケイデスに気配を悟られぬ者などいなかった。

 不正には厳罰を下す。それ以外は横暴に振る舞いはせず、常に寛大に人々と接するアルケイデスだったが、彼の存在そのものが、後ろ暗い事情を持つ者にとっては恐怖の化身なのだ。官吏に対する恐怖政治とはアルケイデスがトップに立つ事を云うのである。

 そうしてアルケイデスは、政事(まつりごと)に対してすら地上最大と云えるやもしれぬ豪腕を振るった。彼の政治センスは平凡そのものだったが、強すぎる腕力が悪徳や不正への抑止力として機能したのだ。……機能するようにプロメテウスが仕組んだ。

 

 アルケイデスは、只管に働く。

 

 寝る間も惜しんで、馬車馬の如く働いた。時には王妃ヒッポリュテを代理人としてオリンピアを留守にし、エジプトに向かい冥府神との約定を果たし、エジプトとギリシャの死者の領分を取り決め。両神話の神々が引き起こしかねない問題の予防に頭を悩ませ――生じる軋轢、摩擦を最小限に留めるべく西に悪神あればこれを叩き、東に愚神があれば殴り倒し、天に大神があってエジプトの美女美獣美少年に手を出そうとするのを諌めて。アルケイデスは、働いた。

 

 そして人手不足に喘ぐオリンピアは、詩人を使い、遂にギリシャ全土に布告を出す。

 

『アットホームな職場です。給金、勤務時間は応相談。優しい先達が未来ある君たちの参戦を待っている! オリンピアの明日を作るのは君だ!』

 

 ――後の世に曰く、アルケイデス王の治めるオリンピアこそが、人類最古のブラック企業であるという。

 無論風評被害だ。オリンピアより遥かに過酷で苛烈な国は古今東西、どこにでもあるだろう。しかしその印象を決定づけたのが、上記の一文に類する条文が、ギリシャ各地で散見されてしまったからだった。

 

 そして後世の歴史家に曰く。アルケイデス王の死因は過労死ではないか、と囁かれる事となるのだ。

 

 

 

 

 

 



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二幕 我道を征くが王道である

二話目だぞ、読者諸君。



 

 

 

 

 王の朝は早い。寧ろ朝という概念は無い。

 

 一日、二日、三日、四日、五日……半神半人の肉体を酷使し、人類の究極の忍耐と称される精神を振り絞り、七日七晩朝と言わず夜と言わず、奴隷も真っ青になるほど走り回った。

 王は国一番の働き手である。神殿建築のために人間百人が道具を用いて運搬する石材や鉄材を、左右の肩に担いで東奔西走し図面通りに配置する事三日間。領土に出没する匪賊や獣の討伐、取締りのために駆けずり回ること一日。悪神の横暴や怪物の跳梁に苦しむ人々の噂を聞くや『天つ聖鹿』に乗って推参した。

 ケリュネイアは止まらない。王のために全力で疾走した。手が足りぬ時は神馬に乗った王妃が出撃する時もある。ディオメデスの神馬に跨った仮面の戦士が出る時もある。王は止まらない。休まない。無論他者にはそれを強いてはいなかった。なんと優しい事に二日に一度は八時間の休憩時間を設けるほどで、公僕は泣いて喜び休憩時間はずっと寝て休んだ。

 

 ――七日間不眠不休、徹夜など当たり前ではないか?

 

 オリンピアに塗れていた汚職を取り締まった際、己の目指す時代の礎を築くには休む暇など欠片もないと思い知った。号泣して収賄や横領の罪を懺悔する官吏を寛大に赦し公僕として酷使するだけで赦した王はなんと慈悲深いのか。

 奴隷は廃止された。が、それに代わるものは公僕であると陰口が叩かれる。

 もはや刑罰として公僕就任刑が王妃によって作られ、人々は恐れ慄き、オリンピアは驚異の犯罪率一%以下に落ち込んだほどで、新たな人員を募るために他国から罪人を引き取り始める始末である。

 王は慈悲深い。武力を用いた叛乱が起こっても誰一人殺さず、罰さず、これまで通りの仕事を任せて、そんなに元気ならもっと仕事できるよねと責任ある立場に抜擢すらした。涙ながら減罪を訴える罪人らに向け、曰く。本来なら殺して晒す所だ、命があり万民のため働けるのだからこれ以上とない贖罪と栄誉だろう……。

 

 以来、オリンピアに犯罪はない。法を知らぬ故の不可抗力の一%しかない。

 

 王は悩んだ。彼の言葉を聞いた官吏全てが戦慄する一言を漏らす。「――人手が足らぬ」と。まだ足りないのかと反骨の牙を抜かれ忠実な国家奉仕者と化した公僕らは、悟る。新たな犠牲者(なかま)が生まれるのだと。

 そうして王は各国より罪人の身柄を引き取ったのだ。凶悪な罪人は軍隊に廻してイピクレスやマタルヒスに鍛えさせ、死んだように眠るまで責め抜かせた。罪を犯せる元気があるならこれぐらい余裕だよなと王が独断と偏見で課した異様な訓練スケジュールであり、それは西暦以後の世界最強の特殊部隊の訓練内容のモデルにされたものだった。

 軽度の犯罪を犯した者は残らず官吏である。そして彼らのみならず総ての官吏を指揮統率するのは、王に化けた監視者プロメテウスで、プロメテウスは王より政務全般を押し付けられ身を粉にされるほど酷使されていた。

 王の政治など解らぬとの一言がある。机上の戦いはプロメテウスが王に扮して行い、騎乗の戦いは王本人が行う。肉体労働総てを熟す故に、落ち着いて政務を熟せないのだから、苦肉の策と言えた。実際プロメテウスが政務を行った方が、比較にならぬほど効率的で効果的だったのもある。流石は叡智の神。ギリシャに於ける人理の神であろう。奴隷の如く働かされる神など、ギリシャ広しと言えど冥府神ぐらいなものではないか。

 

 ――王が二人いる気がするんだけど? 気のせい?

 

 そんな声も上がるのだが、まあいいかと流してしまうのが最近のオリンピアである。というか偽物だったら本物に殺され――はせず、公僕就任刑に処されるだろうから、それがないなら本物だろうと信頼されていた。

 民は豊かな生活、発展する国の恩恵を受け、我が世の春を謳歌しているのに対し。公僕への締め付けは前代未聞なほどに厳しい。だが鞭ばかりではない。飴もある。給金は他国の倍以上あり、見事一ヶ月耐え抜けば、七日間の休日が与えられる。王には休みなんてないのだからそれと比べるとなんと優しく慈悲深いのだろうか。

 

 次第に古株――と言えるほど月日は経っていないが――の官吏ほど仕事に誇りを持つように成っていった。新参が加わると彼らの世話を見てやらねばならず、できる自分は凄い、凄い自分は凄くない新参を助けてやれるといった意識が芽生えたのだ。いわゆるエリート意識だ。……嫌なエリート意識である。

 王に扮したプロメテウスは確信した。効率的な公僕錬成の儀、ここに一つの完成を見たり。心を獅子(オニ)にして、後の世にここまで過酷な職場が生まれぬように祈りながら、プロメテウスは王にはできない職掌を担う。

 

 ――王はいつ休んでおられるのか?

 

 いつしか環境に慣れ、精神的な余裕が生まれ始めるあたり現代人とは格の違う肉体と精神強度の持ち主、神代の民たちである。誰一人として厳密なスケジュール管理のお蔭で過労死はしなかった。貴重な人的資源である、無駄に使い潰して消費はさせられないという、王ならざる身であった当時からは考えられない冷徹さが現れていた。

 そんな王は常に働いている。片時も休んでいない。王に扮するプロメテウスは不死であり不滅である故に、向こう一年は魂を擦り減らす勢いで働き倒せる。だが本物の王は半神とはいえ生身の肉体を持つ人間だ。休まずにはいられない。

 いつ休んでいるのか。それはオリンピアより離れ、ケリュネイアの背に乗っている時だ。駆けるケリュネイアの移動中のみ、王は眠っていた。牝鹿は主人の死体を運んで走り回っているかのようで悲しげに啼いている。

 

 もはや戦闘、移動の時間は余暇である。王はのびのびと戦い、眠り、そして帰還する段になると能面のような無表情となった。

 

 そんな王は、何度目かの外回りからの帰りで酷く落ち込んでいた。

 実を言うとこの王、エジプトの時の二の舞を演じていたのだ。即ち別の現実(テクスチャ)に迷い込んでいたのである。

 と言っても、ギリシャとエジプトのように習合する前に、迅速に駆けつけた魔術神によって救い出された故に事なきを得たのだが。

 王が落ち込んだのはまたも同じ轍を踏んだから……ではない。そこで出会った一人の弓兵、アーラシュ・カマンガーの勧誘に失敗したからだ。

 

 稀に見る強靭なる五体。これはよき仕事仲間になると見込んで誘ったのだが、仕える王への忠節を理由に、貌を引き攣らせ冷や汗を流しながらアーラシュは断ったのだ。

 弓の腕比べで威力は王に、射程はアーラシュに、連射速度は互角だと認め合ったからこそ惜しむ王。人智を超えた眼力を持つアーラシュは全力で固辞した事を欠片も悔やまなかった。強靭なる五体が擦り切れるまで酷使される未来が視えたのかもしれない。

 落胆して、失意のまま王はオリンピアに帰還する。真っ先に築かれた戦神の神殿に向かい、そこに併せた玉座の間に座る。一瞬の休息――駆け寄ってくる家臣の気配を感じて、王はこっそりと嘆息した。

 

 そんな父を、一歳のヒュロスは見ていて。将来、王になんか成りたくねえ! と全力で反抗期に突入する事になる。

 

 

 

 ――「そうだ、私塾を作ろう」

 

 

 

 それは、悪神、邪神が如き閃きだった。

 人手が足らぬ。悪徳を積む者を各地より引き取ったり、正統な対価を用意して人足を集ったりしている故に労働力はあるのだが、肝心要の執務の処理能力……官吏の不足を実感していた。

 原因は学のある人間の少なさだ。識字率が低すぎ、必然的に活用・抜擢できる人材が枯渇しているのである。学のある者は稀少であり、よその国も簡単に手放せはしない。だからこそ早急に揃える必要がある。他国の奴隷の方がまだ人間らしい生活をしている事と、家臣達の青白い顔が思い出される。それに共犯者となったプロメテウスの過労が気掛かりでならないと、自身が最も過労気味であるのを棚に上げて考えた。

 そこで発想を逆転させたのだ。

 いないなら育てればよいのではないか、と。ちょうどヒッポリュテから戦術を仕込まれ、それをなんとか指揮官として扱えるようになったマタルヒスが、新兵や練度の足らぬ兵の調練を行っているのを見ていて閃いた。

 

「講師は……ケイローンだな」

 

 第一候補として不死である恩師を挙げる弟子の鏡である。容赦なくオリンピアの惨状に巻き込む腹積もりだ。

 何せ武力、知力、人格よし。知識量も古い時代より生きる賢者故に膨大だ。登用を試みない道理はない。子供達に限らず学ぶ意欲のある大人達にも教鞭を取れる。なによりその指導力の高さはよくよく理解していた。

 

 はじめての試み故に、最初は実験的に小規模に行い、成果が出次第に規模を拡張していく方が良い。故に最初はケイローン一人が講師としていればいいと考えた。

 

「第二候補はアキレウスだろう」

 

 すっかりその存在を忘れ去っていたが、ケイローンを思い出すと芋づる式に記憶の中から掘り起こされた。

 彼の少年も、もう青年となっているだろう。武力も知力も、ケイローンなら満遍なく仕込んでいるに違いない。あの頃のままの性格なら、負けたら言うことを聞けと条件を提示し立ち合えるはず。功名心の塊のような少年だったのだ、王と戦えるなら確実に勝負に乗るはずである。

 勝てばそのままアキレウスも引き込もうと考え、王はケリュネイアに乗って即座に行動に移った。

 

「――ヘラクレスではないですか。いったい何事で……ウグッ!?」

「御免」

 

 懐かしのペリオン山に馳せ参じた王は、出会い頭に微笑んだケイローンに奇襲の当身を食らわせ気絶させた。流れるような腹部への華麗なる拳撃である。ケイローンほどの武芸の達人であっても、実戦経験のない達人など王にとっては案山子も同然。正面切っての奇襲は容易く成功した。

 ぐったりとした師を担ぐ王の頭には次の仕事までの予定があった。時間が押している……のんびりとはできない。アキレウスを探すも出てくる様子も気配もなかった。既にケイローンの許から巣立っているらしい。露骨に舌打ちした。

 まあいい。収穫はあった。人さらいの如く王は颯爽とケリュネイアに乗り駆け出してしまう。師への非礼、非道は重々承知だ。本当ならやりたくはない。だが新たなる国造りに際して、最初の数年こそが最も重大なのだ。視えている問題解決のための方策を採択せずしてどうする。私情も人道も捨て置いて、兎にも角にも有能な人物は運用する必要がある。

 

 途中、目を覚ますなり地面に降ろされたケイローンもこれには苦笑いだった。王の横暴、その一つの行動だけで王その人の真意を悟ったのだ。

 が、然し……見抜いたからと了承できるかと言われると、その限りではない。当たり前だ。現在の生活をそれなりに気に入っているケイローンは苦言を呈さずにはいられない。

 

「数年ぶりに再会した師に、出会い頭に当身を食らわせるとは……貴方も世俗の者に染まりましたか?」

「……耳に痛い。ああ、確かに否定はできまいよ。だが私の国に、私の造る時代には師の力が必要だと判断した。事後承諾という形になるが、是非とも力を貸してくれ」

「こんな無体を働かれた私が、素直に協力するとでも?」

「悪いが是が非でも協力してもらう」

「……ふぅ。傲慢、そして横暴。上位者のそれを貴方は嫌っていたはずですが。どういう心境の変化ですか、ヘラクレス」

 

 もう本当の名では呼んでくれないのだな、と。頭の片隅でポツリと溢すも。それも当然かと内心自嘲した。

 今の己の所業は暴君のそれだという自覚はある。自覚があるからと赦される道理がないのも承知だ。だが自身の行いには後悔はない。

 

「昔と変わらん。それらは今以て好かぬ。だが知っているだろうが私は王となった。王たる者、国を最優先に富ませる方策を採らねばならぬものだろう。そして私の望みを果たすための道がこれだ。私が悪名を負う程度で賢者ケイローンの智慧を借りられるならあらゆる手段を断行する」

「ああ……なるほど……遂にそこまで……」

 

 賢者の思考は戦士には読み取れない。何がなるほどで、何が遂に、なのか。

 失望されているだろう。その貌を直視したくはない。だが目を背けるつもりはなかった。ケリュネイアの背から王は降り、師の面前に立つ。

 己は暴君である。だが暗君にはならない。裁量一つで多くの命を失う立場だ。かつて大恩を受けた相手からの失望、軽蔑を受けても止まらない。

 

「答えなさい、ヘラクレス。貴方は己の栄華を欲する愚王であるか否か」

「愚問。否だ。私は私の望みを果たす。あらゆる罪業を背負う。あらゆる悪徳を積む。ああ、この世全ての善、この世全ての悪を成すだろう。然しその代償に――人類に黄金の時代を。成せずともその礎を。この身を以て築き上げよう。遂げてみせよう。私は愚王に非ず、私は私の力を以て障害となる悉くを薙ぎ払う暴王となる」

「………」

「答えは如何に? 尤も、貴様に否と言う権利は与えん」

「……いいでしょう。ではヘラクレス、貴方は私に何を望むのですか?」

 

 問いに、一言。

 

「未来を。一つの国では到底足りぬ。世界を担える能吏の育成を望む」

「賢者を求めますか。――ええ。実を言うとこうなる事は分かっ(視え)ていました。態と現状に堕ちたのです。今の貴方に問いかけるべく」

「ほう……この上私に何を問う、未来を視る瞳を持ちし賢者よ」

「暴王ヘラクレス。今の貴方に私の憤りを受け止める人の情はありますか?」

「―――」

 

 答えを待たず、ケイローンは下半身を馬のそれから人のものへ替える。拳を握り、それを王の面貌に容赦なく全力で叩きつけた。

 だが、たたらを踏みもせず、その場に立ち続ける王は微かに貌を仰け反らせただけである。口の端を切っただけ。垂れた血を拭いもせず、王は無言で賢者を見据えた。

 

「……答えは頂きました。いいでしょう、貴方が死ぬまで、貴方の国で若者達を導く事を是とします。知識を与え、智慧を与え、暴王の望む能吏を育てましょう。ただしそれ以上のことは何もしません。いいですね?」

「ああ、それでいい」

「ヘラクレス」

 

 敢えてこの状況に立ったという賢者ケイローンは、最後に予言を残した。私人としての最後の姿で。以後、ケイローンは二度と王を名では呼ばない。

 陛下、と。そうとしか口にせず。そして師として振る舞わず、あくまで風下に立つだろう。

 最初から急がず礼を尽くせばこうはならなかった、などと甘い希望を持てはしない。王は知っている。世捨て人同然に暮らす賢者を引き込むには、こうして強引に事を運ぶしか手段はなかったと。その人となりを理解しているからこそ、この訣別は当然の帰結として訪れるのだ。

 

「――人としての情を捨てきれない貴方の王道は、どこかで必ず綻ぶでしょう。史に転換を齎す王たらんと欲するなら、今の内に人としての幸福も、人としての情も全て捨ててしまいなさい。私などの拳を甘んじて受ける人らしさなど、王たる者には不要です」

 

 予言に、王は笑う。莞爾とした笑みだ。

 きっとこの答えも賢者は予見しているだろう。

 

「ああ。ならば私にはその予言こそ不要だ。私は人のまま、王として君臨する。何も捨てるものなど有りはしない」

 

 私情によって立った者が、どうしてそれを捨てられる。あくまで人間の王で在り続けると笑う王に、ケイローンは跪く。

 

「陛下。貴方に尽くせる限りの忠節を捧げましょう。貴方のその人道、無道、非道……そして王道。貫き通せるか否か、近くで見届けさせてもらいます」

「私は賢王ではない。力と権威で押し通す暴王だ。故に確約しよう。私は傲慢に、我儘を押し通すとな。もしも私が王に徹するような事があれば――その時は私を殺せ、ケイローン」

 

 

 

 

 

 



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三幕 死と断絶の物語(上)

 

 

 

 新王は即位した直後、神々の祝福を受けた事で得た権威、自身に拠る武威、そして王位という身分を嵩に着て躊躇なく豪腕を振るった。

 悪吏を排し、悪法を廃し、富を配する。これまで()()()()()()()と諦め、受け入れていた悪しき慣習――所謂『袖の下』を用意する必要はなく、雑多なものだった都市内部の街の区画は役割毎に整理され、工業区と商業区、住宅区の区分けにより暮らしやすくなっているのだ。加えて兵士達は無駄に偉ぶらず、乱暴もなくなり。官吏達は不当な税の支払いを求めず。粛々と法を遵守し、させる存在に徹している。

 更に言うならオリンピア周辺は害獣が絶滅しているのだ。賊も居ない。王妃と王の腹心、王妹が兵の訓練と称して狩り廻って殲滅したのである。そして王に屈服した強大な魔獣が外来種の襲来を赦さぬように縄張りを造った。武力による徹底的な平和が築き上げられていた。

 まさに戦士の法。戦士の腕の中にある楽園。高潔な戦士が王となれば、こうなるという夢想を体現した国。それがオリンピアである。

 殊の外、民達が喜んだのは乱暴者ばかりである兵団、戦士団が大人しくなった事だった。気紛れに乱暴され、妻や姉妹に性的暴行を加えられても泣き寝入りするしかなかったのに、それらがピタリと無くなったのだ。社会的弱者であり、力なきが故に虐げられても耐えるしかなかった民草は、気性の荒い荒くれ者達を完璧に律した王を絶賛した。他国より連れてこられる罪人の凶相を見て不安を感じていても、まるで檻に入れられた獣の如くに狼藉を働く余力がなくなるまで調練を課され、軍規を破った者が厳しく罰されるのを知ると安心するようになる。

 

 人は感謝されると弱い。

 

 民達は単純だった。素朴で、純朴だったとも言える。自身に害を為さず、治安維持のための警邏を真面目に行い、他国の脅威から自分達を護るために過酷な訓練に耐えさせられている兵団、戦士団に民達は感謝するようになった。戦士達に虐げられた記憶は簡単には風化せず、被害を直接被った者やその関係者に蟠りはあれど、兵を通して王に感謝している。

 お勤めいつもご苦労さまです――精気が抜け落ちるほど疲労困憊であって元罪人達により構成される警邏隊や、荒くれ者揃いの兵達に、その優しくも温かい感謝の言葉は胸に滲みた。まるで数百年ぶりに慈悲を賜ったかのように感激し、時折り渡される民からの差し入れに滂沱の涙を流して感動してしまった。

 弱っている時に優しくされると平時の数十倍嬉しくなる心理である。人の道を外れて生きてきた者ほど感謝される事とは無縁に過ごしてきた経緯もあった。単純な民たちの素朴な心遣いが、彼ら元罪人達の意識を改革したのだ。彼らは民たちを何を置いても護るべき対象であると認識し、オリンピア兵は精強な兵に生まれ変わっていく。ゆっくりと、しかし確実に。

 

 オリンピアは僅か半年でその基盤を固めつつある。更に二ヶ月で盤石となり、その更に二ヶ月後には揺るぎない支配体制を確立させつつあった。

 

「………」

 

 それを戦神の神殿、王宮でもある其処の屋上から見下ろす。

 王には、この国の在り様を誇れなかった。というより自分の国だという実感が持てずにいた。

 何故なら王のした事と言えば、軍部への完全なる恐怖の刷り込みと、現在も進行している神殿の建築、獣の討伐、他神話との折衝、私塾の設立ぐらいなもので。ほとんど肉体労働しかしていないのだ。極短期間で此処まで持ってこれたのは、ひとえにプロメテウス神が智慧を振り絞り、人間関係を調節する人事を心掛け、効果的な施策を行い、人間心理に基づく西暦の近代都市にも通ずる区画整備を成してくれたお蔭だからだ。

 実質プロメテウスがやってくれたようなもの。王冠を被った王の姿で、である。最早オリンピアはプロメテウスの国と言っても過言ではない。

 

 断言できるが今、プロメテウスがいなくなると、間違いなくオリンピアは瓦解する。それが分かる程度には政治を学んだ王は諦念を懐いていた。とても真似できないと。

 視野が違う。視点が違う。発想が違う。施策を行う者としての位階が余りに違った、

 王は傍らのプロメテウス――自分と同じ容姿に化けた神に向けて言った。神殿の屋上で風に当たりながら。余人を交えず。

 

「全て貴様がやれば良いのでは……?」

「冗談はやめてくれ」

 

 割と本気だったりするのは、やはり王には『王たる者』としての器が足りないからだろう。彼は戦士だ。根っからの武人だ。オジマンディアスの許で学んだ帝王学も、プロメテウスが居れば無用としか思えない。

 役に立つのはエジプト仕込みの建築学のみ。これがオジマンディアスならプロメテウスにも負けない政治手腕を発揮するのだろうが、生憎と究極の個ではあるものの集団の長の立場に慣れていない王は、優秀極まる神の手腕のせいで、圧倒的敗北感に項垂れてしまいたくなっていた。これが戦士として『ヘラクレス』と対峙した者の絶望なのだろうか。だとすれば彼ら敵対者達の気持ちが、今更ながらよく分かる気がしてくる。

 

 プロメテウスは真顔だった。本心から冗談はやめろと言っている。

 

「己を卑下する事は必ずしも美徳とは云えぬ。おまえは王だ。器、格が足りぬと自己評価していようとも、おまえは紛れもなく王者足れる器がある」

「貴様の方がよほど王として優れているだろうに……」

「諫言を聞け。間違えるな戦士王。確かに智慧は当方が優れている。然しそれは所詮、言われた事を果たす官吏の業績に過ぎない。王は絵図を描き、国の進むべき道を示すのが本懐だ。そしてヘラクレス、おまえは王として道を示しただろう。到達するべき標を立てた。当方はそこに到る道程を、現実に則して埋めていく作業に従事しているに過ぎない。王よ、早合点だけはしてくれるな。後五年、十年で当方の力は無用となる。だがおまえの存在は百年、或いは千年、未来永劫に人類史に必要とされ続ける星となる。当方は足場を固め、人が歩き出せる道を舗装するのが精々だ」

「………やはり、貴様の言う事はよく分からん」

 

 雄弁に語るプロメテウスは、真面目にそう信じているらしい。王は理解の及ばない時の果てまで見据えた視点に頭を振って。然し其処に人類の栄華が確かにあると信じる。

 

「だが弁えよう。少し自覚が足りず弱音が漏れてしまった。プロメテウス――」

「――ああ、詫びてはくれるな? おまえほどの男に弱音を聞かされるほど信頼されている……そう受け取って、当方は勝手に満足していよう」

「……まったく、敵わんな」

 

 共謀者の言に王は苦笑するしかない。だが悪い気分ではなかった。

 自分の存在が役に立っている。これまでの仕事は無駄ではない。目の下に色濃い隈を拵えながらも、王は苦笑を微笑に模様替えした。

 ――自分という王の業績として、プロメテウスの功績は加算される。この神には何ら利益が無いのにだ。信仰が高まるでもない、供物が増えるでもない。だのにこうも尽力してくれるのは、本当に夢を追っているからだろう。

 どの神話にも必ず一人はいるという、人理構築の神の一柱。それが彼だ。神の時代を人のものにする、今は脆弱な人理を強固なものとするシステムの成立に全てを懸けている。故に信頼に値した。あらゆる自然、概念が神格を得て顕現している神代……彼は人の想念が神格化した存在故に。

 

 人類愛を持つプロメテウスはどこまでも王のために働くだろう。それが人類のためである限り。戦士王が――人類にとって無用となるまで。

 

「……何か、私もやらねばな」

 

 王は考えた。政治、政略はプロメテウスには敵わない。勝ち負けではなく、下手な案を施行すれば微妙な力学の働いているバランスを崩しかねないのだ。

 かといって肉体労働は今以上に付け足すものもない。農業は国が管轄するも主要な労働力は民であり、兵をそれに宛て農業区を拡大すれば管理に無用な労を要するようになる。発展途上のオリンピアに目をつけ、移民して来る者を受け入れても、拡大は緩やかになるのは必然だ。鉱業もまたそうで、資源は有限である。やたら発掘を進め鉱脈を枯渇させるような真似はすべきではない。いたずらに鉱石を発掘し枯渇させれば、鉱脈のある土地を所有する神の不況を買う恐れもあった。

 では何ができる。ヒッポリュテやマタルヒス、イピクレスの尽力により軍部の制御は十全だ。ケイローンにより後二年で試験的に私塾の卒業生を輩出すると聞かされているが、教育の分野でケイローンに何かを言う事もない。何がある?

 

「祭事でも興すか」

 

 誰にともなく呟くのは、それとなく傍らのプロメテウスの顔色を窺い、良い案か否かの判断をするためだ。らしくない振る舞いだがその手の分野に自信を欠く王にとって、叡智の神の意見を宛てにするのも仕方のない事である。

 プロメテウスは肩を竦める。悪くないと仕草で示され、それが自分の姿だからその剽軽な動作になんとも言えない気分になった。

 

「祭事で何をするか……武闘会、槍投げ、徒競走……オリンピアは海にも面しているな。なら水泳も……後は……戦車、弓術……」

 

 列挙される発想は、やはり戦士のものだ。プロメテウスは苦笑する。然し悪くはないと感じている。

 神が頷くと、ようやく自信が持てたらしい王は表情を綻ばせた。

 

「この国はオリンピアだ。故にその祭事は、差し詰め『オリンピック』とでも言うべきだろうな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ま、ま、と。突如発された声に、ヒッポリュテが目を見開いていた。

 その傍らでアルケイデスもまた瞠目している。

 アルケイデスにとっては随分と久々の休みの夜だ。朝も夜もなく働き詰めて、誰よりも精力的に活動して、およそ十ヶ月ぶりにまともな睡眠を取ろうとしていた。

 寝台に腰掛け、妻のヒッポリュテとヒュロス、アレクサンドラの四人で休もうとしている中、ふと目を覚ましたアレクサンドラがヒッポリュテに言ったのである。ママと。

 生後十ヶ月と少し。にも関わらず、可憐な蕾のような黒髪の天使は、母を呼ぶ言葉を発した。異様とは言わないまでもかなり早い段階で喋れるようになっている。

 まだ言葉の意味は分かっていないだろう。だが呼ばれたヒッポリュテは、蝋燭の火が照らすだけの寝室で大きな声を上げて喜んだ。

 

「そ、そうだ! ママだ。アレクサンドラ……」

「ま、ま」

「うん!」

 

 でれでれと秀麗な美貌を崩し、頬ずりするヒッポリュテをよそに、硬直していたアルケイデスはアレクサンドラに近づいた。

 

「わ、私は……?」

「………?」

 

 震えた父の声に、アレクサンドラは首を捻る事もなく目をぱちくりとさせた。

 呼んでくれる様子はない。アルケイデスが受けた衝撃はまさに軍神の剣。あからさまに落胆する。思えばヒュロスも先に母を呼んでいた。

 あれか、可愛い盛りの子供達に構う時間がなかったから? もしや父親と認識すらしていないのでは? 絶望的な表情で凍りつく。ひし、とヒッポリュテの衣服を掴むアレクサンドラの様子から、なんとなく警戒してるように視えなくもなかった。

 愕然とするアルケイデスが可笑しかったのか、ヒッポリュテは噴き出してアレクサンドラに言い聞かせる。

 

「ほら、パパだ。パパ」

「ぱ、ぱ?」

「そうだ賢いなアレクサンドラ!」

「ッ……! くっ、今、私をパパと……ッ!」

 

 愛娘の頭を撫でて褒めてやるヒッポリュテ。その横でアルケイデスは感激していた。

 つい求めてしまう。ヒッポリュテからアレクサンドラの小さな体を受け取ると、腕に抱いて至近距離から愛娘を見詰める。

 疲れの滲む偉丈夫である。その顔色の悪さとも相俟って、大層恐ろしいだろう。普通は泣く。だがアレクサンドラは普通ではなかった。兄のヒュロスよりも肝が据わっている。そのためか、アルケイデスに抱かれて体を硬直させるも、害意がなく暖かく慈しんでくれるのを本能的に察して、すぐに警戒を解いて笑みを咲かせた。

 

「ぱ、ぱ。ぱ、ぱ」

「!! ああ! ああ! アレクサンドラ! 私の宝! くぅぅうっ、な、なんと可愛い……!」

「………」

 

 ぴちぴちと頬を叩かれるのも嬉しい。アルケイデスは微笑ましげなヒッポリュテにも気づかず、寝台に娘を抱いたまま横たわる。

 あと三ヶ月で二歳になるヒュロスはすっかり眠っているのに、邪魔者の妹が母から離された隙に、無意識に母にしがみついていた。

 歓喜の余り眼が冴えてしまったが、明日も朝から忙しい仕事の日々だ。長く起きているとなんのために夜の休みを取ったのか分からなくなる。名残惜しいもののアルケイデスは言った。

 

「寝よう。ヒュロスとアレクサンドラを真ん中にして」

「そうしようか。ふふ……それにしても可愛いな、アルケイデス」

「そうか? そんな事を言われたのははじめてだな……」

「随分と久々だ。こうして家族揃って眠るのは。本当はもっとお前と話したかったが、それは国が落ち着くまでお預けだな」

 

 家族で眠る。

 蝋燭の火を消して、暗闇に包まれる中、自身の腕を枕にする娘の重さを感じるアルケイデスは至福の中に居た。

 これで明日からも頑張れる。その活力を貰った。

 

 賢者は説いた。王は人ではない、王権は人道の上にはない、と。

 だがそれがどうした、とアルケイデスは思う。人として、人のまま、王で在り続ける。古来、確かに人のまま王であった者は破滅してきたのかもしれない。だがそのいずれもこのアルケイデスではないのだ。

 不可能だろうが可能にする。元より王と成ったのは人としての己の渇望、その私怨によるものが動機の大本だ。それでどうして人としての己を捨てられる。人でなくなってしまえば、それこそ何のために王に成ったのかも分からなくなるではないか。

 

 アルケイデスという男の矛盾がそこにある。私怨で立ち上がり、然し大義を掲げ。大義に沿い、然し私怨を求める。全てに――そう、()()に優先する。長年彼の原動力となった復讐心は、何よりも最優先にされる。愛も、友情も、命も、何を置いても復讐を第一とする。せめて身近な人には幸福をと願いながら、常に報復の時を夢想している。

 きっと、復讐の妨げになるのなら、王位も、部下も、責任も捨て去ってしまう。仲間も……今の家族すらどうするかは解らない。今のアルケイデスの根幹はそれなのだ。

 故に今、アルケイデスには二面性がある。

 

 慈父にして冷徹な統治者、王にして戦士であり、大英雄である一面。

 その裏に潜む、全てを燃やし尽くす劫火の如き怨念が形成する一面。

 

 負の一面こそが本性である。至福を享受する父の顔をしている男からは、例え神でもギリシャ神代に黄昏を齎す灼熱を感じられはしまい。

 アルケイデスとその一家が眠り、静寂が満ちる。今はただ、時代は静謐の世を春として楽しむのだ。

 

 そして、戦士王即位より一年。ようやく政情が安定し、夜も更けた頃には落ち着いて眠れるようになっていた。

 加速していく発展。形と成っていく栄華。国に齎される栄光。

 忙し無さはそのままに、然し戦士王の号を示すように鎧姿を平服とするアルケイデスの許に、一人の警邏隊の兵が駆け込んできた。

 

 戦神の神殿にして王の宮、その玉座の間である。無礼を叱責するべく、王の脇に侍る仮面のマタルヒスが鋭い叱責を浴びせた。ここをどこと心得るのです、居を正しなさいと。

 だが兵のただならぬ様子を見てマタルヒスを制止し、恐縮する兵にアルケイデスは問い掛けた。何事だ、と。兵は言った。

 

「イオラオスと名乗る者がやって参りました! 王に会わせろと――」

 

 アルケイデスはようやく帰ったかと肩を竦め。

 然し兵の様子から、甥に何かをしたのかと怪訝さを覚える。

 帰ってきただけなら、こうも慌てる理由がない。

 

 私の甥がどうかしたのかと問を重ねた。すると兵は言う。

 

「そ、それが……途中までは王宮まで案内していたのですが、道中に建築中の女神キュベレーの神殿を見掛けると……

 

 突然、怒り狂った様で、破壊したのです! 負傷者多数、現在も警邏隊と交戦中! なおも神殿を破壊しようと暴れています!」

 

 ――アルケイデスは、その報告に呆気に取られた。

 

 

 

 

 

 




時系列がやっと序幕に追いついた。


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四幕 死と断絶の物語(中)

二話目です。




 

 

 

 

 獅子の鬣のような頭髪は肩に掛かり、毛先が嘗ての黒髪の名残を微かに残している。

 歳の頃は二十歳前後。獅子の牙、耳、髪、爪を持つ半獣半人の青年は、琥珀色の瞳の中に浮かぶ瞳孔を収縮し、憤怒も露わに短剣を振るった。

 

「がァァアア――ッ!」

 

 盾を構えて固まっていた警邏隊が纏めて三人吹き飛ばされる。純粋な人間には有り得ぬ猛獣の膂力だ。盾は拉げ、衝撃を受けた腕が痺れる。兵は苦悶した。もしかすると、骨に皹が入ったかもしれない。それほどの威力だ。

 総勢二十名の兵が薙ぎ倒される、背後から迫った最後の兵が斬り掛かるのに、青年は振り向きもせず獅子の尾で剣身の腹を叩き軌道を逸らす。唖然として体勢を崩した兵に振り返り様、青年の拳撃がその兵の腹部を貫く。

 吐瀉を撒き散らして蹲り、動けなくなった兵を一瞥すらしなかった。誰一人殺していない。眼中にもない警邏隊を無視し、再び邪魔者を蹴散らした青年は我も忘れて神殿を瓦礫の山とする。「■■■■■■■―――ッッッ!!」赫怒に燃える雄叫びを上げて短剣で石材を砕き、強靭な獅子の膂力で眼につく限りの全てを破壊する。キュベレーの像を見るなり眼から血涙すら散らして渾身の力で粉砕して、その破片を何度も、何度も、何度も踏み躙った。

 

「そこまでだ」

 

 ――声が落ちる。ハッと我に返った半獣半人は飛び退いた。一瞬前まで己の立っていた地点に、青年が砕いた神殿の柱が降ってきたのだ。

 瞬時に身構える青年だったが、声の主が己の伯父であるのを眼にして逆立たせていた金毛を萎びれさせる。

 

「伯父上……母上……」

 

 半獣半人の青年は、イオラオスだった。別れてより約二年、身長も伸び少年だった頃の幼さの抜けきった、精悍な戦士の面構えに成長している。

 金色の甲冑を纏っている王。背後に付き従える仮面の戦士と五十名の兵。傍らには、ヒッポリュテがいた。母のイピクレスもいる。呆然と血涙を流したまま、イオラオスはアルケイデス達を見る。

 

 イピクレスは声を失っていた。自身のただ一人の息子が人間の身を半分……とは言わずとも、獣のそれにしてしまっているのだ。

 獅子の鬣が如き頭髪、頭頂部から生える獅子の耳、瞳、牙、爪、尾……。生身の大部分は人間のままであるが、さながら怪物のような姿をしている。

 

「い、イオラオス……」

「………」

 

 震えながら息子に駆け寄ろうとするイピクレスを、険しい眼差しのアルケイデスが止めた。

 四方に視線を走らせる。そしてアルケイデスは問い掛けた。

 

()()は貴様がやったのか、イオラオス」

 

 周囲の惨状を示す。イオラオスの眼に焔が灯った。

 反吐を吐くようにして頷きが返される。アルケイデスのこめかみに青筋が浮かんだ。

 自分が設計し、建築に携わり、民の血税から得た資材を粉砕され、あまつさえ奉じようとしていた女神の神殿を半壊させられている。

 完成は間近だった。だというのに……配下の者や人足が少なからず労力を傾けた物が破砕された事実がある。それも、己の甥が実行したのだ。下手人は厳罰に処し、機嫌を害しているだろう女神に裁可を求めるべき案件である。

 赤の他人ならそれでいい。だが身内が下手人なのだ。アルケイデスの怒りは他人が蛮行に及んだ時以上のものだった。

 

「に、兄さん……赦してあげてください、きっと何か事情が!」

「黙れイピクレス。私の裁量を超えているのだ。処断は避けられん」

「そんな!?」

「……か」

「……なんだ、何か言いたいことでもあるのか、イオラオス」

「伯父上は……こんなクソアバズレの神殿なんかを建ててやがったのか!?」

「イオラオス?!」

 

 息子に慈悲を求めるイピクレスに冷たく返し、何事かを呟いた青年に訊ねる。するとイオラオスは聞き捨ててならない暴言を吐いた。

 それに、イピクレスは悲鳴を上げた。神への暴言など赦されるものではない。なんの罰もないなら、国ごと神罰が下るだろう。そうでなくても腰の軽い神なら降臨してくるのは疑いの余地はない。

 そして女神キュベレーは活動的な神格だ。やおら神威を感じ取り、アルケイデスは天に向け咆える。

 

「――今は王であるこの私が罪人イオラオスの聴取を行っているッ! 今はまだ御身の出られる幕ではないッ! 今少し……控えて頂こう!」

 

 その大音声は女神の出鼻を挫いた。降臨はない。アルケイデス本気の一喝に気圧されたのである。これが他の人間なら自身が怯んだことを無視し、無礼だと断定してやって来ていたのだろうが、相手はアルケイデスである。

 仕方なく出向くのは控えた女神の神威。薄まるそれに、アルケイデスは視線をイオラオスに戻した。

 

 怒りが鎮火している。アルケイデスとイピクレスは、イオラオスという青年を理解しているのだ。

 冷静沈着、思慮に富み、断じて軽はずみに神を侮辱はしない。そんな彼がここまでの暴言を吐く。何か事情があるのだ。

 いや、そんな事ははじめから分かっている。アルケイデスが怒気を堪えきれなかったのは、イオラオスが神殿を壊したからではない。そこに携わった多くの『人間の』労力を偲び、そして神殿を破壊した事で久方ぶりに会う事になる甥を罰さねばならなくなったからだ。伯父だからこそ怒りを覚えたのである。

 

 アルケイデスはふと、気づく。そして凶悪な面相を晒して自身を睨む甥に訊ねた。

 

「……イオラオス。お前の背に張り付いている()()()()()()()はなんだ?」

「ッ……」

「双子……のようだが」

 

 獣の血の繋がりなど普通は解らない。然しアルケイデスの眼力は超常の域にあった。

 ネメア、ケリュネイアを友とするからだろう。獣の微妙な顔つきから、血の繋がりの判別までつく。そしてその二頭の獅子の仔が、雄と雌で、双子だと察しが付けられた。

 イオラオスは言葉に詰まる。頭に血が昇って、上手く言葉が出ないらしい。

 嫌な予感がした。ひとまず獅子の仔から意識を外し、もう一つ気になった事を訊ねる事にする。

 

「……答えろ。()()()()()()()()()?」

 

 問えば、イオラオスはツッ、と涙を流した。透明なそれは、人のもの。

 その場に蹲り、地に伏せ、さめざめと泣き出した青年にここにいる総ての人間が虚を突かれギョッとする。アルケイデスも例外ではなかった。

 子供のように忍び泣く甥に、アルケイデスは慌てて駆け寄った。イピクレスも続く。そしてその背に手を乗せ、イピクレスが懸命に宥めた。

 

「……マタルヒス」

 

 アルケイデスは辺りを見渡す。連れてきた兵たちの眼が気になった。

 人払いをした方が良い。そう判断する。

 

「はい」

「半数に負傷者を連れて行き手当をさせろ。残りは寄ってくるかもしれん民草を通さぬように歩哨に当たれ。お前はその後に此処に戻れ」

「分かりました」

 

 マタルヒスが兵に指示を出し命令通りに兵を従わせる。迅速に行動する彼らがいなくなるのを待って、アルケイデスはイオラオスの傍に膝をついた。

 未だに泣いている青年の背中に手を触れる。そして静かに訊ねた。

 

「何があった」

「ッ……ッ、ッ」

「落ち着け。深呼吸をしろ。ゆっくり、落ち着いて、一から話せ。できるな?」

 

 不吉な予感がする。背筋に冷たい汗が流れていた。

 努めてそれを無視し、できるだけ穏やかに言い含めると、イオラオスはつっかえながらも語り出した。アルケイデスの予感を裏付けるように、ゆっくりと――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 伯父がサラミス島を目指して発った時。アルケイデスに投げ飛ばされたイオラオスは寸分違わずアタランテの許に落ちた。

 空から降ってきた青年に、アタランテは仰天しながらも咄嗟に受け止め、二人仲良く地面を転がる事になる。土に塗れたアタランテは何をする! と怒ったものだが、イオラオスの「伯父上に投げ飛ばされたんだよ! バカ!」との言に納得して怒りを収めた――が、それはそれとしてバカ呼ばわりにカチンときたアタランテは、腕を組んで青年をからかった。

 

『私が受け止めてやらねば怪我の一つでもしていただろうに、感謝の言葉もないのか。汝はいい神経をしているらしいな。それなりに長い付き合いだがはじめて知ったぞ』

『グッ……!』

『ふぅ……やれやれ。礼も言えないのか? ほら、あ・り・が・と・う・ご・ざ・い・ま・し・た、だ。ほらほら、礼儀知らずではないと言うなら早く言った方がいいぞ。どうした? 言えないのか?』

『ぉ――まえぇ! 獅子(オニ)の首を獲ったみたいにぃ……!』

『ふふんっ』

 

 口も達者なイオラオスに、口喧嘩で勝てた試しのないアタランテは得意絶頂だ。

 然し聡い青年は気づく。アタランテは――乙女は微かに怯えていた。イオラオスに、ではない。この場の雰囲気に。

 まるで、嫌われたはずの相手の顔色を伺うような。腫物に触れるような。そんな、恐る恐る機嫌を伺うような気配。それで思い出す。イオラオスは、アタランテに夫婦になりたいと告白し、そして断られていたことを。途端に気まずくなりかけるが、直前に伯父から発破を掛けられていた事も思い出した。

 イオラオスは伯父を信頼している。出鱈目は言わない。なら――まだ望みがあるかもしれず。決して鈍感ではない青年は、アタランテの様子に勇気を得る。求婚を断られはしたが、案外本心ではなかったのではないか、と。

 

 すると、精神的にスッと楽になった。

 

『……ありがとう』

『っ!?』

『なんだよ? 礼を言えっていったのはお前じゃんか』

『あ、ああ……そうだが……』

 

 肩透かしを受けたように目を瞬かせ、アタランテは気味悪そうに距離を置く。

 やや喧嘩腰になれば、なし崩しに元通りの関係に戻れると期待していたのかもしれない。甘い目論見だ。イオラオスにはもう、元の関係――喧嘩友達のような間柄に戻るつもりはないのだから。

 イオラオスは、アタランテが下がった分距離を詰めた。たじろぐアタランテに、イオラオスは苦い表情を見せる。

 

『……伯父上にケツ、蹴り飛ばされちまった』

『ヘラクレスに……?』

『もう一回、本心を聞けって。男なら怯むなって。明確に拒絶されるまで諦めるな、って。はは……情けないだろ? 未だに伯父上に背中を押されなきゃウジウジしちゃいそうなんだから』

『い、イオラオス……何を……?』

『なあ』

 

 下がるアタランテに、詰めるイオラオス。

 明らかに様子がおかしい青年に、深緑の女狩人は後退して、背中を壁にぶつけてしまう。下がれないアタランテの間近に迫った青年は、アタランテの顔の横に両手を突いて逃げられないようにした。

 貌が朱くなる乙女の目を見詰め、“輝ける同行者”イオラオスは問い掛けようと口を開くのに、その声を掻き消すようにアタランテが喚いた。

 

『ま、待て待て待て!? 何を吹き込まれたのかは知らないが、おかしい、今の汝はおかしい! からかったのは謝る、汝に過失はないのに揶揄した私が悪かった! だから……だから……は、離れて……』

『いやだ』

『イオラオスっ』

『教えてくれ。忘れてないよな、おれがアタランテに何を言ったのか』

『そっ、それはっ……私は、断った! 私は純潔の誓いを立ててるから……』

『別に強制されてるわけでも、破ったからって罰が当たるわけでもないんだろ』

 

 ぶっきらぼうに告げるイオラオスに、アタランテはカッとした。誓いを、延いてはそれを立てた己を軽んじられたと思ったのだ。

 だが、

 

『私の誓いを軽く見るなッ! 強制力はない? 罰は当たらない? だからといって一度自身に立てた誓いを軽々と破れ――』

『やっぱり、おまえバカだろ』

『なっ!?』

『おまえの事はなんでも知ってる。並なんかじゃない覚悟があった、それを生涯守り通すつもりで居た、そんなことは分かってるんだよ』

『なら……』

『だけど、関係ない。そんなの、おれとおまえには関係ないだろ。おれは結婚してくれ――おれと夫婦になってくれって言ったんだ。誤魔化すなよ、逃げるな。おれはおまえの答えが聞きたいんだ。おまえの心が聞きたいんだ! 誓いとか理由とか、そんなのはどうでもいい! アタランテの、気持ちが知りたい!』

 

 イオラオスが鋭く言う。それにアタランテの気は呑まれた。

 思わず口を滑らせる。何かを言い返さないといけない気がして、それが失言だった。そしてイオラオスにとっては奇貨となる。

 

『で、でも……結婚、したら……その、どのみち、()()んだろう……?』

『はあ? なに当たり前のこと言ってるんだ』

『やはりか! なら私は誓いに懸けて――』

『あのな……この際だから言っとく。これだけは教えてくれ。もし嫌なら諦めるよ。アタランテ……おまえさ、おれと一緒になるのと誓いを護るの、どっちが大事なんだ?』

『な、それは……』

 

 青年は畳み掛ける。偽りは言わない。

 総て本音を、掛け値なしの本気をぶつける。

 これでダメなら、すっぱりと諦める。本当に。嘘じゃない。

 覚悟を固めて、イオラオスは断言した。

 

『おれは、仮に伯父上がおまえとの結婚に反対したとしたら、伯父上と別れてアタランテと一緒にどこかに行くよ』

 

 それは、アタランテにとっては考えられない事だった。

 英雄としての名を持つイオラオスは、常にアルケイデスと共に在った。そして彼はアルケイデスの生涯を追うことを自身の使命と定めているのだ。

 その覚悟は、自身の誓いに見劣りするものではない。事実イオラオスはその使命を忘れたら、この先どう生きていくかの指針を見失うだろう。

 だがそれを恐れないという。驚愕するアタランテに、イオラオスはどこまでも本気でしかない。だからこそ顔が熱くなる。使命を捨ててでも自分が欲しいと言ってくれたから。嬉しくて……照れて。言葉が出ない。

 

『アタランテはどうなんだよ?』

『わ、私は……』

『……ああっ、もうまどろっこしい! もういい、もう聞かない。アタランテ! 接吻(キス)するぞ』

『えっ?』

『嫌なら避けろ。殴れ。返事はそれでいいっ!』

『まっ、待ってくれ、待って、い、イぉラぉスぅ……』

 

 顔が近づいてくる。どうしていいか分からないまま、アタランテは本能的に目を閉じてしまった。結んだ両手を胸の前で握り締め、その瞬間を待ってしまった。

 ――つまるところ。それが答えだった。

 重なり合う瞬間は永遠に記憶の中に。真っ赤になった顔を伏せて、何も言えないでいるアタランテを、イオラオスは抱き上げて家に向かった。

 夜になり、朝になる。

 アタランテは内股で、どこか釈然としていなかった。でもその顔は、紛れもなく女のもので。頬に朱い紅葉を咲かせた青年は、どこか男の顔をしていた。

 

 二人は、夫婦に成った。

 

『――なあアタランテ』

『なんだ、すけべ』

『す……って、あのなぁ……いや、いいけどさ。……伯父上たち、暫く帰りそうもないしさ。今更追い掛けてもなんか気まずいし、二人でどっか行こう』

『ん……それは、いいかもしれないな』

 

 にこりと、吹っ切れたように女は微笑む。

 ふたりで遠くに旅に出る。帰らないわけじゃない、なら二人きりで旅をするのも悪い事ではないと思った。

 二人はその日の内に旅立った。軽率かもしれない。然し自分達ならどんな困難も乗り越えられると信じていた。

 

 旅をする。二人で薪を集め、火を熾し、獲物を狩る。

 楽しかった。幸せだった。もし子供が生まれたらどうするなんて他愛もない話題に、アタランテは意気込んで絶対に幸せにすると、答えになっていない答えを返してきて。

 イオラオスはそれに、笑いながらそうだなと言った。

 

 旅をしていると、一つの噂を耳にする。神罰の魔猪が、カリュドンを襲っているというのだ。カリュドンの王子がこれを討伐する為、各地の英雄に呼び掛けているらしく、その面々の多くは元アルゴノーツで。王様のくせしてイアソンまで参加しているらしいという。

 

『……行くか?』

『ん……そうだな。久し振りに大物を狩りたい。なに、私とイオラオスならやれる。主役になってやろう』

『はは、なら行くか!』

 

 二人は軽く決めた。恐れはない。何せ自分達は英雄旅団(ヘーラクレイダイ)なのである。

 そうしてイオラオスとアタランテは、

 

『カリュドンの猪狩り』に参戦したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 




長くなるのでキリ。
また明日!

※ちょめちょ(死語)が原因ではない


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五幕 死と断絶の物語(後)





 

 

 

 

 

 カリュドンでの出来事は、実を言うと克明に覚えているわけではない。

 記憶が曖昧なのだ。魔術か魔法、神秘の手段による撹乱が原因ではなく、直近の出来事のせいでここの辺りから漠然とした記憶になってしまう。

 推測するに、一度心が許容できない激情で壊れたのかもしれない。燃え滾る赫怒が脳を灼いたのかもしれなかった。

 誰に聞いた話だったか……人間は一定以上の感情を持てないという。限度を超えた感情を出力すると、その入力に脳の回路は耐えられないのだ。

 限度を超えた感情という名の狂気を持つと、人は狂う。壊れる。破綻する。

 然しだ、幸か不幸かこの身は平凡な器だった。人類史という連綿と紡がれる文様に巨人のような足跡を残す偉大な伯父に鍛えられ、その体と技、智慧は英雄の領域に届いているが、その精神性はどこまでも平凡なものでしかない。

 だからだろう。狂気に通ずる赫怒に燃え、一度壊れたこの心は自然と修復された。壊れ続けて、狂気に浸り続けられるほど強い心を持っていなかったからだ。赦し難い憤怒を、伯父のように持ち続けられるほど、強くなかったからだ。

 

 欠けたものは戻らない。半身をなくしたかのような喪失感に苛まれながら、その穴をきっと別の何かで埋めてしまうのだろう。

 だが。でも。きっと――人の身が持ち続けられる限りの怒りと哀しみを、死ぬその時まで持ち続けようと思う。辛いだろう、泣きたくもなるだろう、だがそれにジッと堪えるのが男の修行なのだと思う。

 

 ――昔の記憶も、ところどころが虫食い状になったように穴がある。覚えていたはずの事を忘れている。だけれども、それで人格に支障をきたす事はないと断言できた。

 

 問題ない。大まかな時系列の流れは覚えている。カリュドンにはアルゴノーツ……一部ではアルゴナイタイとも呼ばれている、現イオルコス王イアソンが集めた英雄達に匹敵する戦士や狩人が集っていた。

 といっても大半は元アルゴナイタイのメンバーだったりするのだから、匹敵していて当然と言えば当然なのだが。

 

 そこでペーレウスやカストール、その弟ポリュデウケス達と再会した。然し挨拶して握手を交わしたぐらいで別れたはずである。なにせ猪狩りは冒険を一緒に行うのではなく、競争して獲物を奪うもの。仲良しこよしなんてできるはずもない。当然の別れだ。

 もちろんアルゴー号の冒険で苦楽を共にした仲間意識は強く残っている。積極的に妨害し合うような真似はお互いにしない。

 カリュドンで相見えた王子もまた、元アルゴナイタイの一人だ。挨拶をして参戦を表明すると再会を喜んでくれて。なんとこの王子、アタランテに求愛してくれやがった。だが残念、既にアタランテは既婚の身。というかメレアグロス王子も既婚の身ではないか。何してくれてるのだろうか。

 

 アタランテはおれの女だ、と言うと、衝撃を受けたようだったが、王子は大人しく諦めてくれた。既婚の身では不義になると理解しているのもある上に、伯父があの最強の戦士だという事で下手に手出しをしたら恐ろしいというのもあるのだろう。

 それっきり、悲しそうではあったが、王子はアタランテに秋波を送るのをやめてくれた。不穏な気配を送ってきていた彼の親族も、それで大人しくなってくれたので有り難い事である。変に略奪婚などをしてこようものなら……王子を殺してしまっていたかもしれない。もちろんアタランテは黙って大人しく、簡単に奪われるような易い女ではないので、仮にイオラオスを打ち倒せたとしても一筋縄ではいかないのだろうが。

 だがなんというか、元アルゴナイタイではない、カリュドンの猪狩りで初見となる英雄の中には、恐れ知らずというかアタランテを強姦しようとする糞がいた。その者は二人いて、一人はアタランテ自身に射殺されたが、もう一人はこの手で斬り殺した覚えがある。

 

 ――カリュドンの猪狩りは、波乱こそあれど恙無く終了した。

 

 巨大な魔猪へ一番最初に矢を的中させ手傷を与えたのがアタランテ。そしてトドメを刺したのがイオラオスだ。戦利品として大魔獣の毛皮を手に入れたのだが、生憎と使う機会があるとも思えない。然し折角の宝具級の代物、持っていて損はないだろうと思った。……思ってしまった。

 

 ――この時、この毛皮を処分していれば良かったのだ。

 

 狩りの最中、二人のケンタウロスがいた。ヒュライオスとロイコスという。彼らはアタランテを狩りのどさくさに紛れて強姦しようとした者達であり、ヒュライオスをアタランテが射殺し、ロイコスをイオラオスが斬り殺していた。この因縁でケチがついてしまったのだろう。二人はケンタウロス族との間に確執を生んでしまう。

 その因縁を深めたのが、同じ元アルゴナイタイで、更にカリュドンの猪狩りにも参加していたカイネウスであった。

 

 彼は『ヘラクレス』がいないのを見て軽薄な笑みを浮かべていた。

 実力はある。然し傲慢で力をひけらかし、肥大化したプライドは実力に釣り合わぬほど大きくなっていた。そんな、自滅する人間の相が出ている英雄だ。

 カイネウスはイオラオスとアタランテを誘った。以前『ヘラクレス』は彼を指して、人間性で言えば粗野で下品な、およそ『女』が考えるであろう最低な『海の男』を演じ(ロールし)ているかのようだと評した事がある。自身の演技を通してある存在を貶めるように。軽薄で三下めいた言動をするカイネウスだが、そんな彼も友情といったものを感じる心を持っている。仲間意識もあったのか、自分の城に遊びに来ないかと誘ってきたのだ。特に断る理由もなかったイオラオス達はこれに乗った。

 彼はラピテース族の食客となっているらしい。ラピテース族の王となっていた、元アルゴナイタイのペイリトオスと再会し、旅先での縁にイオラオス達は呑気に喜んでいたものである。

 

 然し、カイネウスが戯けた事を仕出かした。根底に男の神への憎悪があるのだろう、態と神を侮辱するために、涜神的行為を行ったのだ。

 

 彼は街の広場に槍を突き立て、この槍を神々に列しろと市民に命じたのだ。

 神とは人間の信仰で成り立つ存在。もしも人が信仰を懐いてしまえば神は生まれる。神々は檄憤し、大神ゼウスは恐れ慄いた。

 もしもこの儀が成れば、神は人に創造されるのだと認識されてしまう。そうなれば、神々の零落は避けられない。人の上位存在でなければならないものが、人の被造物に堕ちてしまうのだ。イオラオスは慌ててやめさせようとしたが間に合わず、カイネウスの涜神的な振る舞いは神々に知れ渡ってしまっている。

 嫌な予感がしたイオラオスは、さっさとこの地から離れようとした。だがペイリトオスがそれを悪意無く引き止める。曰く、自分の結婚式が間近だから、式を挙げていないらしいイオラオスとアタランテも共同でやらないか、と。その誘惑にイオラオスとアタランテは抗えなかった。正式な夫婦になる――その欲につい、ラピテース族の国に長居してしまった。

 

 果たして、カイネウスを殺さねばならぬと大神として当然の措置を取ったゼウスにより、ケンタウロス族が大神にけしかけられて、結婚式の当日に攻め込んできた。

 

 奇襲だった。ケンタウロス族の戦士たちは異様に強く、一人ひとりがロイコスやヒュライオスに匹敵している。ラピテース族は慌てて迎撃したが敵の勢いを止められず、ペイリトオスは花嫁を殺されて怒気を発して戦うも敵わず逃げていった。

 異常事態である。幾らなんでも強すぎるのだ。イオラオスは悟る。彼だけが彼らの力の源を察知する。ケンタウロス族は大神の加護を得ているのだと。カイネウスを殺すために。即ち、不死であるカイネウスをも殺す不死殺しの加護も備えているに違いない。

 即座に見切った。戦況を。イオラオスはアタランテを連れその場から逃走した。神の策略に巻き込まれては堪らない。カイネウスを見捨てるのと同義だが、自業自得の破滅に付き合う義理はない。心苦しいが彼よりも自分達の身の安全の方が重要だった。

 果たしてカイネウスは無残な末路を遂げる。女が男の真似事をしているなど笑止! そう嘲られ、四方を囲まれたカイネウスは棍棒で袋叩きにされ、不死身のはずの体は癒えず、ついには樅の大木の下敷きにされて窒息死してしまう。

 

 ケンタウロス族はそうして勝利した。それで終わり。終わる、はずだった。

 

 然し、一人のケンタウロス族が気づく。逃げていくイオラオスとアタランテを最初は追おうとしていなかったのに、青年の持つ短剣と、女狩人の持つ弓を見て『あれはヒュライオスとロイコスを殺した奴らじゃないか!』と叫んだ。

 仇だ! 殺せ! 戦勝の興奮に血気が逸り、ケンタウロス族達は二人を追撃した。この時にはカイネウスを殺した事で大神の加護を喪っていたが、それでも元々ケンタウロス族は強靭な種族である。アタランテの脚には追いつけずとも、普通の人間であるイオラオスに追いつくのは難しい事ではなかった。

 戦いが続く。彼らは執拗だった。多勢に無勢、逃れながら戦うも、イオラオス達は追い詰められていく。逃亡の日々だった。悪い事は重なり、アタランテがイオラオスとの子供を孕んでいた事に気づいた。

 

 生きるか死ぬかの瀬戸際である。胎児を堕ろすべきだと主張するイオラオスに、アタランテは強硬に反対した。絶対に生むと言って聞かなかったのだ。彼女の信念を知るイオラオスは早々に説得を諦め、なんとかケンタウロス族を撒くべく智慧を絞った。

 だがケンタウロス族はもはや意地である。追撃の中で数多くの同朋が殺され、もはやイオラオス達を血祭りに上げねば収まらなくなっていたのだ。

 必死に逃れた。だがどこまでも追われた。アタランテの腹は膨れ、移動速度は落ち、戦闘不能となる。仕方なくイオラオスは自分一人で戦う事にした。今、ケンタウロス族に見つかれば、逃げる暇もなくアタランテが殺される。それは看過できない。

 

 そこでイオラオスはアタランテを連れて大神の聖地に入った。聖域であるそこは、大神の庇護する大地母神キュベレーの神殿があり、そこにアタランテを隠したのである。

 人が離れ、廃れた神殿である。まさかこんな所にアタランテが隠れているとは思うまい。野蛮なケンタウロス族なら此処をも戦場にしてしまいかねないが、そこはイオラオスがケンタウロス族を誘導し離れていけばいい。遠くで戦えば、少なくともアタランテは安全だ。とうの女狩人は頻りにイオラオスを心配していたが、笑って断言した。『おれは伯父上……ヘラクレスの同行者だ。あんな智慧足らずのバカどもなんかに遅れは取らないよ。安心して待ってろ』と。

 

 イオラオスは敵を侮っていたわけではない。然し絶望的に状況が最悪だっただけだ。

 

 出産を間近に迫らせていた身重のアタランテを連れての逃亡は上手くいっていたが、それでも脚が遅すぎて。近くまで迫られていた事に……その可能性に、アタランテを隠せたばかりの安堵で失念してしまっていた。

 大神の聖域、キュベレーの神殿、それは森の中にある。森を出た直後、イオラオスはケンタウロス族に鉢合わせ、見つかってしまった。

 

 戦闘が始まる。死に物狂いで森から離れようとするも、その必死さが却って疑念を招きかねないと判断せざるをえなかったイオラオスは、やむなく森に引き返した。

 ケンタウロス族は半馬、草木生い茂る森の中では戦い辛いはずでもある。イオラオスは巧みに森林戦を仕掛け、次々とケンタウロス族の戦士たちを倒していった。

 然し三日三晩続いた死闘と、ここに到るまでの逃亡生活で疲弊していたイオラオスは一瞬の隙を突かれ、生き残った僅かなケンタウロス族の戦士に、魔獣の毛皮を奪われてしまう。何が何でもイオラオスを殺す――その覚悟を以て一頭のケンタウロスは毛皮を使用し魔獣化した。

 

 恐るべき怪物が誕生する。カリュドンの魔猪の力と、強靭なケンタウロスが融合したかのような巨大な化物だ。

 

 それが己を殺さんと迫る。絶望的だった。

 だが――何をどうやったか覚えていられないほど遮二無二に戦い、イオラオスは見事に大魔獣を討ち果たした。

 これで追っ手は壊滅。もう大丈夫だ。イオラオスはそのまま意識を失い、死んだように眠る。そして目を覚ました時――イオラオスは、純粋な人間ではなくなっていた。

 

 体の調子に違和感を覚えたイオラオスは、泉を探して水面を覗き込んだ。そして驚愕する。己の手足から伸びる爪の鋭さ、分厚さは獣のそれ。臀部からは尾が生え、牙が肉食獣のように大きく尖り、瞳が変質して耳も獣のものとなり、髪も金毛に変化していたのである。

 

 何が起こったのか、その時は全く解らなかった。――大魔獣の発していた濃密な魔力の力場によって、それと戦っていたイオラオスは、半端に神罰を受けるだけで済んでいた、などと。死闘の最中にいたイオラオスは気づけなかったのだ。

 暫し放心していたイオラオスだったが、我に返ると愛する女を隠していた神殿に向かう。もう大丈夫だ、おれは死んでない、敵はみんな倒したと言って、安心させてやりたかった。そうして神殿に近づくと、赤子の泣き声が聞こえた。

 二人の赤子の泣き声だ。イオラオスは浮足立つ。まず間違いなくアタランテが出産を終えたのだ。愛する人との子供の誕生に間に合わなかった悔しさと、無事に子供が産まれた事への歓喜で、イオラオスは駆け出す。――よくよく聞いていれば、体力が万全で注意深さが残っていれば気づいていただろうに。

 

 その二つの鳴き声が、()()()()であった事に。

 獣の赤子の鳴き声を、違和感なく自分の子供のものだと認識してしまった不具合に。

 

 果たして、()()()は訪れた。

 

 神殿の中に駆け込んだイオラオスは目にしてしまう。二つの小さな影に、一頭の雌獅子が覆い被さっているのを。

 死角で視えなかった。小さな影の輪郭が。

 双子が産まれたのだと理解していたイオラオスは、二つの小さな影が我が子の物で。そして雌獅子がたまたま傍を離れたアタランテの隙を突いて、子供達を食い殺そうとしているように見えた。

 

 叫んだ。やめろ! と。雌獅子はびっくりして振り向いて。

 

 その首に。駆け寄ったイオラオスは。

 

 剣を、突き刺した。

 

 ――信じられないような。純粋に驚いたような。

 納得したような。悲しそうな。

 そんな、雌獅子の目。

 

 イオラオスは雌獅子を退治し、我が子を護った――はずだった。

 然し小さな影は、二頭の獅子の仔の姿をしているではないか。イオラオスは呆気に取られる。

 自分の子供は? アタランテは? どこにいる?

 慌てて探した。然し神殿のどこにもいない。まさか獅子に食われた? そう考えて血の気が引くも、それにしては血痕がない。アタランテが抵抗した痕跡も見つからない。

 どういう事か解らない。

 探した。

 

 どこにも、妻と子供達の姿がない。

 

 半狂乱になって聖域を駆け回る。だが何処にもいない。やがて途方に暮れたイオラオスの前に、廃れていながらも時折り神殿を清めに来るキュベレーの信者達が現れた。

 どうしたのですかと声を掛けられ、呆然としながら事情を説明すると、信徒達は痛ましげに告げる。

 

『神罰がくだったのですね』

『は……? な、なんで……?』

『聖域に魔獣を生み出し、あまつさえ赦しなく聖域を穢れた魔獣の血で汚したのです。貴方のその姿が証拠でしょう。キュベレー神は貴方の罪を罰したのです』

『え……?』

 

 聡明なイオラオスは、それで総てを悟った。

 ――という事は。あの、雌獅子は。あの、二頭の獅子の仔は。

 まさか、と思った。そんなはずはない、と否定した。有り得ない、有り得てはならない。そんな、そんなバカな!

 イオラオスは無意識に走り出していた。そして冷めきった雌獅子の骸をまさぐる。

 すると……見つけてしまった。

 旅の中で、イオラオスがアタランテに贈った……一粒の宝石を。紐で吊るしたそれが雌獅子の首に掛けられているのを。

 

『あ』

 

 びギ、と心が罅割れた。

 

 イオラオスは、狂った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、我に返ると、イオラオスは神殿を完全に破壊し尽くし、キュベレーの信徒達を皆殺しにしていた。

 全身が真っ赤になっている。ケンタウロスとの戦いで受けた傷と、ケンタウロスとキュベレーの信徒達の返り血で濡れていたのだ。

 イオラオスは頭が真っ白になっていて。そして、二頭の獅子の仔を掴み、茫洋とした眼差しで、のろのろと歩き出し。

 

 何も考えられないまま、なけなしの義務感で獅子の双子の世話をしながら、伯父の許に帰ってきたのだ。

 

「――――」

 

 アルケイデスは絶句し。そして、震えながら問う。

 

「その、二頭の仔は……お前の、子、なのか……?」

 

 問われ、半獣の青年は頷いた。

 

 ――甥は、伯父と同じ轍を踏み。

 最愛の人を、その手にかけてしまっていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 




悪神ではない女神。
悪意があったわけではない夫婦。
不可抗力でも、人間の事情なんて斟酌しないのが神。
そして神罰。
何もかも間が悪かった(?)


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六幕 同行者との訣別

感想を見て、幾つか盲点なものがあり、なるほどなぁ。そういう見方もあるよなぁ。ってなりました。
そして、やはりイオラオスも頭ギリシャだったか……となってるのに苦笑い。落ち度はたしかにイオラオスにもあるんだけども。もう少し信じてあげて!()


あっ、ちなみに二話目です。





 

 

 

 

 全てを語り終えたイオラオスを前に、アルケイデスは天を仰いだ。

 憔悴し切って項垂れる甥を見る目は同情と憐憫。然しそれ以上に、仮にも自分の指南を受け、最も長く旅を共にした故に、自分に近い思考形態を持っているはずの甥の迂闊さと軽挙妄動に、忿懣やる方ない気持ちを拭えない。

 アタランテが死んだ。事故死と言えるだろう。胸を締め付けられるような激しい哀しみに声が出せない。細い息を長く吐き出し、なんとか落ち着く。無理矢理にでも現実を受け入れる。だが、アルケイデスはポツリと溢さずにはいられなかった。

 

「……イオラオス。実を言うと、私は……お前と、アタランテを……実の息子、娘のように想っていた」

「……っ」

 

 びくりと反応する甥から視線を切る。イピクレスは悲愴な表情で、覚悟を決めている様で。それは無用だと、優しく声を掛けてやるわけにはいかない。最悪の場合、この手で斬る事も検討し、実行せねばならないだろう。

 イオラオス。聡明で沈着とした青年。彼が暴挙に及んだ理由は心底分かる。だが共感できるのはアルケイデスだけだ。他の……少なくとも大多数からは情状酌量の余地なしと断じるはずである。――カリュドンまでは、何も問題ない。ケンタウロス族の戦士二人を殺したのは正当防衛だ。アルケイデスが同じ立場にいても殺していただろう。愛する者を強姦しようとする下衆だ、斬り殺しても良心は痛まない。だがその後がマズかった。

 

 アルケイデスは自身の価値観と周囲のそれのズレとの付き合い方を学んできた。擦り合わせ、妥協し、落としどころを常に模索して生きてきた。だからだろうか、イオラオスを赦すわけにはいかないのだと、断言できてしまう。

 

「だが……それとこれとは、話は別だ。残念だが……お前は死罪が相応だろう」

「兄さん、ちょっと待って」

「解っている。()()()()()()のだ。母であるお前が気づかぬ道理はあるまい」

「……?」

 

 言うまでもないだろう。真実、甥という人間を理解しているなら、誰であっても不自然さと違和感に呻かざるを得ない。

 

 本当ならイオラオスは、ゼウスの聖域にある女神キュベレーの神殿を破壊し、たまたま居合わせた信徒を皆殺しにした時点で神罰が下り、既に死んでいるか完全に人の姿ではいられなくなっているはず。それがないという事は、その件についてはキュベレーはイオラオスを赦したのだ。間が悪く、運が悪く、自分の下した神罰が原因で、意図せずして最愛の妻を殺させてしまったからだろう。

 多くの神は傲慢だが、然し例外のヘラ以外は自身の司る理と神罰には厳格である。神殿を穢れた魔獣の血で汚した罰として、アタランテとイオラオス、そして二人の子を獅子の姿にしたが、罰は其処で終わりだったのだ。愛する者を喪う悲しさはキュベレーも実感として知っている。息子にして夫である神が死んだ時、嘆き悲しんで復活させているのだから。故に赦した。目を瞑った。何も見ていないと知らないふりをしてくれた。

 イオラオスが生きて、人の姿をなんとか保ちながらも無事にやってこれた時点で、アルケイデスにはキュベレーが悪神とは思えない。キュベレーの視点から見ると、下した罰は正当で、その後は情け深い対応をしている。これで他の神なら無視は難しかったはずだ。

 

 だがオリンピアという、現在神々の注目の集まる国にいる中で、人払いをする前に及んだ狼藉……これは流せない。女神を罵倒し、建築の最中の物とはいえ神殿を破壊したのだ。例え温厚なヘスティア神でも赦せないし、赦さないだろう。

 神には面子というものがある。それで生きていると言っても過言ではない。人々の畏怖と信仰をなくせば、弱体化は避けられまい。そして自然や概念を司る神々の弱体化は現実にも悪影響を及ぼす。例に出したが、ヘスティア神の神格が脆弱化すれば、彼女の司る全てが形骸化し、人々の心に変容を齎して、人々の意識はヘスティア神の司るものを軽んじるようになるだろう。

 故にだ、もはや優しいだの厳しいだのという領分を超え、神であるならイオラオスを罰さねばならない。悪神であっても、善神であっても。戦神マルスなら自分の手で殺すべく直接降臨してくるはずだ。

 

 だが、喩えどんな理由があったとしても、身内を獅子に変えたキュベレーに対するアルケイデスの心象は最悪の一言である。

 だからと言って、イオラオスを赦す理由にはならないのが辛い所。神という超自然的な存在に、軽はずみな対処は自殺行為だ。キュベレーの理屈は頭では理解できる、彼の女神に責任はない。然しそれとこれとは話は別だ。アタランテをイオラオスに殺させる因果の一端を担った……それだけで憎むに足る。異端の精神が叫んでいるのだ、正しい理屈などよりも身内の方が大切だと。

 

 理不尽な私情である。そんなことは指摘されずとも弁えている。だが感じるモノを否定できない。だが――いや、ともあれ今の問題はそこではない。キュベレーへの筋違いな憎しみも横に置く。問題はイオラオスだ。どう罰するか、考えねばならない。

 

 死罪。これが最も適当だ。だが妹の息子を、甥を……共に旅をした者を殺したくはない。王として私情を排し処罰する……? 暴君アルケイデスはクソ喰らえだと内心吐き捨てる。だが実際問題として、イオラオスに何も咎めずにおれば、国体が著しく脆弱化してしまう。神々の権威を利用している段階なのだ、今のオリンピアは。

 故に罰を下すのは必定、避けられない。ではどうするか、だが。

 

 ――そもそもイオラオスの行動は粗が目立つ。

 

 この点にアルケイデスは違和感を覚えていた。彼は甥の能力に全幅の信頼を置いている。武力にか? 否だ。その知性と勇敢さにだ。断じて武力にではない。

 アルケイデスがヒッポリュテと共にサラミス島に向かい、その道中でトロイアの噂を聞いて盛大な遠回りをしていた時、イオラオスとアタランテは二人で旅行に出た。これは分かる。気持ちはよく分かるのだ。アルケイデスも伴侶と結ばれたら、喜んで旅行を企画していただろう。実際にヒッポリュテとサラミス島に向かったのは、そうした側面がある。

 旅の最中、カリュドンの猪狩りに参加した。これも分かる。二人の実力なら、喩えその大魔獣がトロイアに現れた海嘯の獣に匹敵していたとしても、逃げ切る程度はできるだろうし、大物を狩れるなら参加したいと思う気持ちは分かるのだ。特にアタランテなどは狩人である。腕試しがしたくなるのも道理だろう。

 襲い掛かってきたケンタウロスを殺す。これも分かる。寧ろよくやったと褒めてやりたい。横恋慕してきたカリュドンの王子に対して、これを諦めさせたのも良い。文句なしだ。そしてカイネウスが誘ってくるのに乗る……これも、まあ、知己からの誘いなのだ、特に断る理由もなかったのなら乗るのも分かる。此処までは普段のイオラオスだ。

 

 だがそこからのお粗末さはなんだ? 本当にイオラオスがやったのか?

 

 アタランテとまぐわっていたのなら、どれぐらいの周期で身重になるのか、アルケイデスの傍でメガラを見ていたイオラオスが知らないわけがない。失念するはずがない。なのにそれを計算に入れずに、迂闊に旅を続けていたのはなぜだ。カリュドンでの魔獣狩りを終えた頃には危険水域に入っている頃だろう。

 カイネウスがあからさまに戯けた愚行を仕出かした時、マズイと理解していながら、どうして即座に離脱しなかった? 挙式をあげたい誘惑に駆られただと……? ……馬鹿げている。その頃にはカリュドン近くまでオリンピア建国の噂は届いているはずだ。そしてイオラオスは旅の心得として、噂などの伝聞には常に神経を尖らせている。そうしていたからカリュドンでの魔獣狩りの事を知れて、参戦できたのではないか。アタランテと正式に婚姻関係に成りたかったのなら、オリンピアに帰ってくればいいだけの話。そこでなら安全に、アルケイデスが全力で成功させてやれた。イオラオスもアタランテも、アルケイデスが式を取り持つだろうと簡単に予測が付き、喜んでくれるはず。

 なのに何故帰ってこようと考えなかった? 馬鹿なのか? イオラオスらしさが欠片もないではないか。アタランテもそうだ。どことも知れぬ地で、イオラオスと婚姻関係になれると頭がお花畑になる女ではない。むしろ冷静に、冷徹に、身の安全について考えるはずだろう。アタランテは子供が好きだ、自分が愛する男との子供を身籠っている可能性を考えないはずがなく、安全策を確実に執るはずなのだ。

 だのに、ペイリトオスとの共同の結婚式で、ケンタウロスに襲われるまでその地に留まってしまっている。有り得ない失態だ。イオラオスはおろかアタランテも頭に蛆が湧いたのか。

 

 粗と不自然さはここから更に目を覆うものになる。

 

 ケンタウロス族に、カイネウスが殺された――それはどうでもいい。その後、ヒュライオスとロイコスを殺した仇と気づかれた……どうやって? カリュドンでの一件からさほど時が経っていないのに、イオラオスとアタランテの特徴をどこで知った?

 ケンタウロス族が総出で殺しに掛かってきた……? 追撃された……? 追手を延々と出されただと……? ケイローンは例外として、基本的に奴らは野蛮だ。ギリシャの英雄に更に輪をかけて。然し優れた戦士でもある。勝ち目のない戦いはしない。にも関わらず甚大な被害を出しながら執拗にイオラオス達を追った……? 此処でイオラオスはオリンピアの方角に逃げないどころか、各地に散らばっているアルゴナウタイの面々に助けを求めず孤軍奮闘した……?

 愚か極まる。いつからイオラオスは悲劇の英雄譚の主役を気取る阿呆になったのか。それに不自然なのはそこだけではない。確かにイオラオスの武勇は並大抵の英雄に勝るものだが、それでもケンタウロス族の総勢を上回れるほどではない。そんなにまともに戦い続け、疲弊してしまえば討たれてしまうだろう。

 なのに勝っている。アルケイデスの知らないところで成長していたとしても、度が過ぎているのだ。しかも身重のアタランテを護りながら戦えるまでに強くなるなど有り得る話ではない。

 

 大神の聖域に入り、そこにあった女神キュベレーの神殿にアタランテを隠した……これは、まあ、いい。然しなんの断りも入れないとはどういう了見だ? 喩えイオラオスがアルケイデスとの旅の中で、神への敬意や好感が皆無になっていたとしても、神を軽んじる戯けた振る舞いをした事はなかった。脅威だからである。

 なのにアタランテを護る目的があったというのに、その神の領域を無断で扱うなど迂闊を通り越して自殺志願としか思えない。これで罰しない神はまずいないだろう。この時点で神罰を下さなかったキュベレーは、寛大であるとすら言える。

 その後。ケンタウロス族に捕捉されて戦闘に入る……ここまで来れば不可抗力ではある。然しなんだ、なぜ多くを殺されなおもケンタウロス族は逃げなかった? どうしてイオラオスはそこまで戦えた? イオラオスが殺されて終わるはずの戦闘であるのに、なぜ勝てた。なぜ――ケンタウロス族は全滅するまで戦い、最後の一人がイオラオスから魔獣の毛皮を奪えた? 更に魔獣化したケンタウロス族の戦士を、既に死に体であったというイオラオスはなぜ倒せた?

 曰く『覚えていない』らしい。

 

 ……馬鹿げている。その力も、何もかも。

 

 違和感に気づけば不自然さしか無い。その後、イオラオスは誤ってアタランテを殺してしまった。それは分かる。悲しいだろう、辛いだろう、悔しくて遣る瀬なくて死にたくなるだろう。だがその事に気づかせてくれた無関係のキュベレーの信徒達を皆殺しにした……? 神殿を破壊した……? キュベレーはそれを罰しなかった……?

 キュベレーが罰さなかったのは、まあ分かる。イオラオスに同情し、また人目のない領域だから一度だけ見逃してやろうという寛大さを見せたのかもしれない。然しイオラオスの蛮行はなんだ。怒り狂って無関係な人間を殺戮する……? 断言しても良い。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 話を全て統合すると、アルケイデスは込み上げるものを感じた。

 ()()だ。憎しみを交えた赫怒の炎が脳髄を灼き尽くす勢いで燃える。

 

「……プロメテウス」

『なんだろうか、王よ』

 

 囁きに、脳裏へ返る声がある。

 遠く……王宮の方に気配がある。緊急時の連絡手段として、両者はパスを繋いで意思の疎通を行う魔術で接続されていた。

 使い魔契約に似て非なるものだ。どちらが主人というものではなく、またどちらかが使い魔というわけでもない、対等な契約である。

 

「……作為を感じる。イオラオスとアタランテ、そしてケンタウロス族は思考の誘導の魔術を受けたのではないか?」

『例えば誰に』

「……ゼウスだ」

『それは違うと言っておこう。こうなると解っていたかもしれないが、大神はケンタウロスをカイネウスにぶつける以外は何もしていない』

 

 だが、と。ギリシャ世界に於ける人類創造の神は、感情を押し殺した意地の言葉を王に伝えた。偽りを教える事はないという契約故に。意図的に黙っているのは不実であると弁えているから。

 

『一連の流れに神々は手を下しておらず、あらゆる人間、魔術師も関与していないと思われる。ならばこれは、所謂“抑止力”と呼ばれるものの仕業だろう』

「抑止力……?」

『謂わば運命の奴隷だ。定められた運命のレールから外れたモノを、元の運命に押し込むために働く世界の理、それが霊長の抑止力だ。アタランテとやらは、そのような末路を迎える定めで、辻褄合わせのために種々の手段をそれとなく執る。例えば今回のように誰かの意識、思考を誘導したり、敵うはずのない敵を倒すために後押しをしたりもする。おまえの甥とアタランテとやらはその通りの道を踏み、結果としてアタランテは死んだ。イオラオスが生きているのは、本当ならアタランテは死ななかった可能性を示唆し、その補填としてイオラオスの今の姿があるのかもしれない。アタランテが半獣になるのが本当なのだろう』

「………それは、つまり………なんだ? アタランテは………世界に殺されたとでも言う気か? イオラオスの愚行も………世界の意志だと?」

 

 震えを抑え、アルケイデスは呟く。プロメテウスは残酷なまでに誠実で、決して隠し事をせず、彼は素直に推測を伝える。

 そう、あくまで推測だ。然し智慧比べでゼウスに勝った事もある神の推測である。信憑性は限りなく高い。

 

『そうだ。全て……ん、全て……? いや、一部前言を撤回する。何者かは知らないが、一度神が関与したかもしれない部分がある』

「――それはどこだ」

『当方の推理に過ぎないが、イオラオスとやらがキュベレーの信徒を殺戮した時だ。あれは、抑止力が働く所ではない。然しイオラオスが自分の意志と怒りで無闇に剣を振る者ではないとしたら、ここで神か魔術師の業を受けたのだろう。当方に分かるのはそれだけだ』

 

「……………」

 

 アルケイデスは瞑目する。プロメテウスへの信頼が揺らいでいた。抑止力……その話が確かなら、人理の案件……つまりはプロメテウスの管轄ではないか。

 その揺らぎを見抜いているのだろう。プロメテウスは嘘偽り無く告げる。

 

『王よ。当方は確かに人理構築を目指す神格だ。然し一つの世界(テクスチャ)に在る神に過ぎず、例えばエジプトや、インド、極東……それら以外の世界にも同じ様な神格は必ず一柱はいる。そして当方の言う人類とは、あくまでギリシャのそれだ。人類に黄金の時代を――そう望む当方は、あくまでギリシャ世界の人類の味方である。ゆえに確約しよう。抑止力とはおよそ総ての世界を股にかけるもの、当方の預かり知るものではない。その抑止力がギリシャのより善き人理構築を妨げるなら、当方はこれを凌駕するべく活動するだろう』

「……信じよう」

 

 短く返す。そして未だに震えているイオラオスを見下ろした。

 イピクレスが慈悲を願ってこちらを見ている。ヒッポリュテは事の成り行きを見守っている。マタルヒスは無言で佇むのみ。

 双子の獅子が、みゃー、みゃー、と鳴いていた。父を守ろうと、牙の生え揃っていない口を開いて、懸命にアルケイデスを睨んでいた。

 

 再び、瞑目する。

 

 静寂が場を打った。誰も身じろぎ一つしない。

 やがてアルケイデスは目を開く。そして誰にも憚らずに堂々と告げた。

 

「我が監視者、プロメテウス神よ。罪人イオラオスからの聴取を終え考えが纏まった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

『――いいだろう、その要請に従う』

 

 プロメテウスが王宮から大音声を上げて諒解を示した。

 そして天へ還っていく。今しがたプロメテウスが推理したものを、アルケイデスの考えとしてキュベレーに説明しろと言ったのだ。

 キュベレーは、それで納得してくれるはずだ。アルケイデスの中で、見当外れな憎しみが消し去られる。キュベレーに非はないばかりか、寸毫たりとも憎むべきものではないと認識したからである。

 

 自分勝手なものだ。アルケイデスは自嘲する。そして、イオラオスを見た。

 

「裁きを伝える。心して聞け、イオラオスよ」

「……うん」

「如何なる事情があれ、妻を手に掛け、神殿を破壊し、無関係な信徒を殺戮したばかりか、今また女神を罵倒した罪は重い。本来ならこの場で首を刎ねる所だが、私の考えでは貴様の罪は今挙げた内の半数も満たしていない。故に問う罪は神殿の破壊、女神への罵倒である」

「ぇ……?」

 

 困惑する甥に、伯父は冷酷に告げる。甥には罰が必要だと思った。

 罰されたいはずだ。殺されたいはずだ。そうでなければああも恐れもせず女神を罵倒するはずがない。アタランテを殺してしまった己を、アルケイデスに殺して貰いたかったのだろう。

 だがそんな事はしない。アルケイデスは目に意志を籠める。

 

(貴様は大人だ。男だ。いつまでも私に甘えるな)

 

 そして、せめてもの願いを込め、またイオラオスに死んでほしくない故に裁く。

 

「イオラオス。貴様を追放する。二度とオリンピアに近づくな。そして三つの誓約を課そう。生涯これを護り、遵守して生き、償い続けよ。いいな?」

「そ、んな……伯父上、待ってくれよ、おれは、伯父上に――」

「今の貴様に死は慈悲でしか無い。生きろ……それが罰だ。喩え辛くとも。その苦しみを背負って生き続け、己の子らを見守り続けよ。さあ誓約を課すぞ、心して聞け。

 ……一つ、今後新たに妻を迎えるべからず。貴様の妻は貴様が手に掛けたアタランテだけだ。

 一つ、死ぬまで旅を続けよ。一つの街、集落に留まってよいのは一年のみとする。

 一つ、二度と神の所有する聖域へ侵入するな。

 ――いいな、イオラオス。貴様は……お前は生きろ。死にたくても、死ぬな。私よりも長く生き、私がどのように死んだかを知れ。お前の使命はまだ、生きているぞ」

「伯父、上……」

 

 裁定は終わった。キュベレーに問うも、この裁きで納得してくれたらしい。特に何もなかった。

 アルケイデスは甥に背を向ける。再会を果たしたばかりなのに、永遠の別離を決定させられた哀しみに震えそうなのを堪え。ヒッポリュテとマタルヒスを連れ、誰もいない地に呆然と跪くイオラオスを見ようとはせず。

 すれ違いざま、アルケイデスはイピクレスに言った。お前は好きにしろ、と。妹は頷いて「ありがとう、兄さん」と呟いた。

 

 

 

 

 

 以後、イオラオスはイピクレスに連れられてオリンピアを去っていった。

 

 それから先の人生でオリンピアより遠ざかっていく中、イオラオスは彼なりに考え、自分の意志でオリンピアの――ひいてはアルケイデスのために活動していく事になる。

 母と、人間に戻った二人の子供達を連れ。自身は半獣半人の姿から人間に戻るのを拒絶して。課された誓約を死ぬまで護り続けた。

 

 エジプトに向かい、伯父の盟友のために一年間ヒッタイトと闘い。

 各地の生活形態、文化、歴史を記し。

 旅を続け、老いた母を看取り、成人した子供達を独り立ちさせ、一人で旅を続け。

 遠くの地に在りながら、アルケイデスの記録を取り続けて。

 

 そして、アルケイデスが死んだ時、一度は筆を折った。

 

 老いて、死ぬまで、イオラオスは各地を放浪した。

 

 彼の全盛期は“輝ける同行者”である。然し最もよく知られるのは、オリンピアより追放された後の“放浪の賢者”にして“知識の保護者”としてのイオラオスであり。

 陰ながら伯父を支援し続け、ギリシャとエジプトの衝突の危機を幾度も防いだと語り継がれた。

 

 イオラオスは、独りで死んだ。その遺体を発見した者は、ひどく穏やかな死相に、一瞬ただ眠っているだけのように見えたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




賛否両論かもしれませんが、イオラオスくんはこれでフェードアウト。彼の道とアルケイデスの道は、今後一切交わらずに終わります。


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七幕 怒りの日、報復の時(上)

本日三回目だよー。おっかしいな……なんか調子でてきた。なんだこれ?
でも短いです。




 

 

 

 

 親しい者との離別。痛みを伴う訣別を迎えても、王に感傷に浸る時間はない。

 伸ばした指が虚空を掻く空々しさと共に、時間は残酷に流れ去っていく。

 裁定を決し、古い同行者は去った。王としての決定と、人としての情を交えた裁きを与えた王は一瞬、空を見上げる。

 罰を決め、与える側の悲哀を、罰せられた者が想像できるのだろうか。

 こんな痛みに耐え続けるのが王であるというなら、為政者とは鉄の血を流す木偶人形ではないか。

 

 王とは、誰よりも歓喜し、激怒し、ヒトの臨界を極めたるモノ――その在り方を夢想していたものだが、戦士でしかない己には土台不可能な在り方である。

 率いるのではない、率いられるが相応で、性に合っている。ヒトを極めた王はこの世界には無用だ。後に続く者達のため、礎となるモノが必要なのだ。人類の黄金の時代にこそ真の人王は現れるべきで、この時代に現れようものなら傍迷惑な狂人でしかない。

 王として、人として、後の世に繋げる土台を遺す。それが己の仕事なのだと理解できる。

 

 戦士王……思えば寒々しい皮肉な号だ。王と囃し立てられても所詮は戦士だと嘲られているようである。勇士、勇者などと称されたところで、叶うのは敵を殺す事だけだというわけだ。目に見えないもの、触れられないものには無力なのだろう。

 だが、構うものか。それでいいし、それがいい。失う事には慣れている。進むべき道は見えているのだ。何を取り溢したとしても、後は駆け続けるだけでいい。後ろは振り返らない。そうだ、それでいいのだ。王は己にそう言い聞かせる。

 抑止力だと……? それがなんだ。なんだというのだ。そんなものにこの歩みは止められるものか。

 王は悟っていた。抑止力という存在を識ったことで、己の精神性が余りに廻りとズレ過ぎているのはなんらかのイレギュラーで、抑止力にとっては王自身も普通のギリシャ的な価値観を持っていなければならないものなのだと。つまり己も抑止の対象なのだろうと、あたりを付ける事ができた。

 

 抑止力が己の道を阻む……? それがなんだ、それがどうした。構わないとも、総て薙ぎ払って進むまで。

 

 王は粛々と常の仕事に移る。何があっても対応できるように。何があっても小揺るぎもしない国と時代を造るために。

 

 

 

 そうして月日は流れる。――王は侮っていなかった、然し抑止力という『世界』との戦いは彼の認識の外を突いた。『世界』は王よりも遥かに狡猾で、卑怯だったのだ。

 

 

 

 約束の時、来たる。建国より二年、戦神の神殿にて陽が昇る刻限を前に、マタルヒスに鎧の着付けを手伝わせている時だった。

 ふと伝令神の神殿の方に、神威が降臨するのを感じる。

 疾風である。天つ聖鹿よりも速い神速の脚が、自身の許へ駆けつけてくるのを察知したアルケイデスは、次いで戦女神が神殿に降臨するのを感じつつも誰何の声を上げる。

 

「何用だ、ヘルメス神」

 

 年若い青年の姿をした軽装鎧の神、ヘルメス。彼の来訪にアルケイデスは小波一つない平坦な声音で訊ねる。

 すると親しげに歩み寄ってきた彼は、大神の創り上げた最高傑作に向けて言った。

 

『挨拶もなしかい? ヘラクレス』

「フン。常日頃天界よりこちらを眺める視線を感じていれば、挨拶をする必要性も感じないな。常にとは言わんが、頻繁に()()()ているのだ、久しいと感じる心もない」

『あは、気づいてたか。まあいいや、それよりヘラクレス。遂に来たよ。宇宙の果てから、ボク達オリュンポスから世界の支配権を奪うために。ギガースが来た』

 

 その報に、アルケイデスはぴくりともしない。戦慄も高揚もなく、巌のような眼差しをヘルメスに向ける。

 涼し気な表情の裏で、ヘルメスは冷や汗を流していた。

 ――なんだよ、人間なの? この英雄は……。

 重厚な鋼が人の形をしている。大自然が造り上げた果ての断崖を仰ぎ見たような戦慄がヘルメスを襲った。アルケイデスの視線が、信仰により歪む以前の大神が持っていた威厳と被って見える。何人足りとも左右できぬ無比の精神が、雪崩を打って押し寄せるかのような錯覚を伝令神に幻視させた。

 アルケイデスは傍らの仮面の女を一瞥し、短く命じた。留守を任せる、ヒッポリュテと協力し常態を廻せ、と。恭しく拝承した仮面の女から視線を切り、伝令神の興味が仮面の女に向く前にアルケイデスは言った。

 

「大神に伝えるといい、不肖の子が己の役を果たしに参ると」

『あ、ああ……』

「武具の手入れを終えるまでは待ってもらうが。アテナが来る、どうせアテナが私の迎えなのだろう?」

『そう……だとも。うん、分かってくれてるなら良い。ボクは戻るよ。ボクにも戦仕度はあるからね。じゃ、また会おう。なぁに、ギガースなんてただデカイだけの的さ。絶対に勝てる、気を楽にして戦ってくれればいいよ』

「ああ、分かった」

 

 ヘルメスはにこりとしてアルケイデスの肩を叩く。そしてアテナの名が出ると、退室しようとしていた仮面の女がぴくりと反応したのを見咎め、ヘルメスは関心を寄せてそちらに視線を向けた――瞬間。

 アルケイデスの腕がブレた。音もなく、気配もなく。そして相好を崩して微笑んだ。

 

「ヘルメス神、一つ忠告を」

『ん、なん――っ?! それは……』

 

 アルケイデスは笑って手を差し出し、その手にある物を見てヘルメスは呆気に取られる。

 伝令神の羽織る外套の飾りが盗られていたのだ。

 どういうつもりかなと笑顔になるヘルメスの威圧に、大英雄は肩を竦める。

 

「油断は禁物だと伝えたかった。御身はどうやら、()()()()()()()()()()()のように見えたのでな」

『そ、そうかな? ああ、分かった、気をつけるよ。じゃあね、ヘラクレス』

「ああ。戦の時に会おう」

 

 ヘルメスは気勢を削がれ、さっさと退散していった。マタルヒスは庇われたと思ったのか、一礼して退室していく。

 それに苦笑した。確かに庇った。マタルヒスはできる限り神から関心を寄せられない方が良いのだから。だがそれだけではない。

 アルケイデスは懐に呑んでいる『或るモノ』に触れ、嘲笑を浮かべる。

 外套の内に隠し持っていたのは、ヘルメスから()()()モノ。――借り受けて来ていたのだろう、冥府神ハデスの『隠れ兜』があった。

 

「だから言っただろう? 足元がお留守だと――」

 

 手に入れる算段を立てていたわけではない。ましてやヘルメスが隠れ兜を持っていると気づいていたわけでもない。試しに盗ってみたら、これだったのだ。

 これ以外なら、普通に返していた。然し時が来たのだ。これほど便利な道具はない。嗤いを噛み殺すのに失敗し、ヘルメスの迂闊さに失笑する。

 

 だがそんなふうに嘲笑えるのは、地上にアルケイデスただ一人だろう。

 

 ヘルメスは神々の伝令使である。旅人、商人の守護神であり、夢と眠り、境界、体育技能、能弁、発明、策略、死出の旅路の案内者などとも言われる神格である。

 幸運と富を司り、狡知に富み詐術に長けた計略の神でもある。そして、早足で駆ける者、牧畜、盗人、賭博、商人、交易、交通、道路、市場、競技、体育などの神でもあるのだ。

 そんなヘルメスを指して『足元がお留守』などと称し、その懐から至宝を掠め盗れるなど、武人として極限の技能と勘を持ち、些細な隙を見抜く眼力を持ち、触れても触れたと悟られぬ器用さが不可欠だ。そしてヘルメスを上回る超人的な悪意がなければならない。総ての条件を満たしているのは、アルケイデスだけだった。

 

 (フン、芸は身を助ける、か……よもや盗人から学んだ技術が活きるとはな)

 

 嗤う。己の渇望を成すのに足らぬ技術がある可能性を想定し、あらゆる芸を齧ってきたものだが、まさかよりにもよって盗人の業を使う羽目になるとは思いもしなかった。

 この隠れ兜は永遠に紛失した事にしよう。管理責任を問われ、罰を食らうといい。アルケイデスは悪意を滴らせ、白い歯を剥く。ゼウスの腹心であるヘルメスは邪魔者なのだ、失墜しても構わない。()()()()()()()()()だけなのだから。

 

 アテナが来る。

 その気配を察知して、あらゆる感情の波を押し殺し。

 差し出された女神の手を取って、アルケイデスは神々の戦場へと赴く。

 

 ――約束の時が来た。

 

 巨人大戦(ギガントマキア)に、白き中道の剣と弓、白亜の魔槍を携えた戦士王が参戦する。

 暗い火を胸に灯し、アルケイデスはその一歩を踏み出した。

 

 神々に激震の奔る戦へ。

 人々を震撼させる禍へ。

 

 この瞬間、この世界線の未来は決定されるのだ。

 

 

 

 

 

 



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八幕 怒りの日、報復の時(中)

 

 

 

 戦女神の御手に導かれ前古未踏、未曾有の力量神の如き武人は神々の領域へと招かれた。

 

 ギリシャに於ける“天界”とは、読んで字の如く天の世界、即ち雲上のもの。神々の首魁であるオリュンポス十二神は、オリュンポス山を居所とするものだ。

 オリュンポスの山頂にある人界ならざる異空の世は、人の在る次元を隔て神の威光に満ちている。荘厳でありながら華美、綺羅びやかな神の宮に仕える給仕の者達は、誰を見ても絶世の美貌を持つ少年や女ばかりであり、また神造の宮の造りの精緻さは人智を超えている。

 切り目のない白檀の石床は鏡面の如く。豪奢にして豪華なる装飾、工芸品の壺や剣、盾などの配置の巧妙さ。まさに神の居所、人の身ならば感嘆の念に呑まれるだろう。

 

 戦女神の先導を得て歩むアルケイデスは、然し、やはりというべきかなんら感心した様子はない。究極的に無感動ですらある。人の心を感動で塗り潰す神の居所の偉容など心動かすほどのものでもないと言いたげであった。

 そんな英雄の中の英雄、真なる勇者の平常なる様に、背後を窺って気づいたアテナは眼も眩まんばかりの美貌から蠱惑的な微笑みをくすりと溢す。

 かつん、と硬質な床を踏む足音を連ならせ、ふと思い出したようにアルケイデスは問いを投げた。

 

「アテナ、そういえば貴様は我が祖ペルセウスに加護を与えたのだったな」

『なんだ、藪から棒に。……ああ、与えたよ。それがどうかしたのか?』

「いや。伝え聞く伝承の貴様と、私の目の前にいる戦女神アテナがどうにも結びつかなくてな」

『……何が言いたい? 貴様の不躾さ、不遜な物言いには慣れている。いつものように端的に切り込むといい』

 

 あくまで世間話のような会話をアテナは愉しんでいる。

 然しそれを気にも留めず、アルケイデスは平然とアテナの秘める悋気を擽った。

 

「メドゥーサ。ゴルゴン三姉妹。怪物に成り果てた大地母神の末路。女神の零落に密接に関わり、怪物に堕ちるよう謀った女神……それが貴様らしい。然しどうにも私の知るアテナとも思えん。この齟齬が何か、気に掛かったのだ」

『……ほう。この私の前でアレの名を口にする者がいるとはな。貴様でなければ縊り殺してやるところだったぞ、ヘラクレス』

 

 明らかに機嫌を害したらしいアテナの怒気に、アルケイデスは肩を竦めた。

 その仕草に毒気の抜かれたアテナは嘆息し、特別目を掛けている英雄に忠告する。

 

『ヘラクレス、貴様も識っているのだろうが、貴様の不敬が赦されてきたのはこの戦いのためだ。ギガースを滅した後は、貴様の傲慢な振る舞いを許容する神はいまい。今の内に改めておけ』

「忠告痛み入る。だがアテナ、貴様もそうなのか? 利用価値がなくなれば、これまで通りの態度を赦さぬ口だと?」

『バカめ。私の程度を低く見てくれるな。ギガントマキア以後も以前のように振る舞う事を赦す。前言を翻すような無様は晒さないよ、この私に限っては』

「そうか。では遠慮なく問いを穿り返そう。メドゥーサの髪の美しさに嫉妬し、理不尽に呪って辺鄙な島に追い込んだ貴様と、今の女神アテナの差異の原因はなんだ? ペルセウスの代からたかが数世代跨いだ程度だ、信仰の変遷は然程でもあるまい。今の貴様と比べて性質が変わっているとも思えんが」

『……ヘラクレス。忠告の真意を察せられぬ愚鈍ではあるまいに……』

 

 苦々しい表情で顔を背け、正面に視線を戻したアテナは苛立っているようだった。

 背後でアルケイデスが忍び笑う。その気配に怪訝なものを女神が感じると、英雄はなんでもないように言い放った。

 

「貌は見えずとも今、どんな表情をしているか手に取るように分かる。そう、その顔をさせたかったのだ。常に猛々しく凛々しい、端倪すべからざる賢智の女神。その顔色を変える……その偉業を成し遂げたかった」

『……女神であるこの私をからかうとは肝の太い男だ。戦の後、私の怒りを買ったとして呪われたらどうするつもりだ?』

「アテナはそのような底の浅い真似はすまい。ならば何を恐れる必要がある」

 

 平然と宣う武人の放言に、もはやアテナは一周廻って機嫌が良くなってきた。

 普段なら決して口にはすまい。然し戦女神として、戦の前の高揚もあるのだろう。アテナはアルケイデスの問いに答えた。

 格別の厚情である。神の域に在る最強の英雄相手だからこそ――そして最早メドゥーサが過去のモノで、此の世に存在しないと思っているからこそ――アテナは自身の本心を吐露する事を己に赦した。

 

『……メドゥーサ。奴は美しい女神だった。女神の神核を持つ者には珍しい、不死ではない女だった。特に髪が私から見ても素晴らしく美しく……そうだな。私は女として嫉妬し内心快く思っていなかったのさ。だから私は……人づてに聞いた、メドゥーサがこの私と美を競い、自慢しているという戯言を真に受け怒りに呑まれてしまった。……後から思い返せば……アレは自身の美を鼻に掛ける女ではないと思い到れたが。当時の私はありもしなかった不敬を赦せず、あまつさえあの下衆……ポセイドンめと私の神殿でまぐわっていた故に、アレを罰した。私に抗議したアレの姉妹ごとな』

「………」

『怒りはすぐに引いたよ。だが一度口に出し、ペルセウスに討伐を命じた後だった。先程も言ったな? 私は前言を翻さん。そのままアレを破滅させた。私がアレの名を聞くのも嫌がったのは私にとって恥だからだ。自らの犯した軽挙が恥ずかしく、直視するのが耐え難かった。私の神殿でまぐわうという罪は、奴の髪を蛇にし、形のない島に追放しただけで赦せる程度であったのに、恥を隠蔽したくて討ち滅ぼすところまで追い込んだ。……どうだ? そんな私をどう思う。直言を赦す、罵倒を赦す、今だけな』

 

 そうか、とアルケイデスは頷いた。

 自嘲するアテナに、然し彼は手加減せず、手心を加えず、恐れもせずに断じる。

 淡々と、語気を荒げるでもなしに。糾弾するでもなしに。断罪するでもなく。

 ただ事実を突きつける。

 

「安い女だ、貴様は」

『ッ……そう、か。フン、殺してやりたいぐらい憎たらしい答えだ』

「ついでに底が浅い。度量が小さい。見てくれは随一の美を誇ろうと、内面はそこらの女よりも幼い自尊心の塊だ。戦女神としての能と智慧がなければ、貴様の取り柄は容姿だけだろう」

『……!』

 

 夥しい怒気と共に殺気が向けられる。背筋が凍りつき、肝が潰れるような重圧だ。

 だが案の定、アルケイデスに堪えた様子はない。怯えも怒りもなく、透徹とした眼差しは――女神をしてたじろがせる。

 信じがたい光を瞳の奥に視たのだ。まるで――幼子の成長を願う父のような。そんな光を。

 馬鹿なと嗤う。異母姉弟であるアルケイデスから、父を感じるとは血迷ったかとアテナは動揺した。無理矢理に嗤い動揺を隠すも、殺気は霧散する。

 

「……難儀なものだな。ヘスティア神にアルテミス神と共に憧れ、処女で居続ける権利を得たというが……貴様はどうしようもなく強き英雄に惹かれる性質がある」

 

 桁外れの洞察力を持つアルケイデスの見識は、アテナの秘めた……彼女自身が自覚していない本能を見抜いていた。

 その指摘にアテナは身じろぎする。ぴたりと脚を止めた。立ち止まった女神の背に、アルケイデスは言の葉の矢を射掛けるが如く続ける。

 

「処女神は処女でなくなれば、別の神格として独立する。故に例え何者を見初めまぐわう事があろうと、アテナは永遠に処女神のままだろう。清き身を嘲るわけではないが、貴様の持つ女の本能は永遠に満たされまい。満たされぬが故に渇き、些細な嫉妬に理性を狂わせ常の理知を手放してしまう。女の癇癪だ、それも八つ当たりの性質をした」

『………』

「始末に負えない。然し純潔の身を望んだのは貴様自身だろう? 真に女神としての矜持を持つなら、貴様はその女の情念を克服するか、理性の手綱で御せるようにならねばならん。それが貴様自身の望みを叶えた責任というものだ」

『……容赦がない。私が……女として満たされたがっているだと? ……否定はできないのだろうな。だが……ああ、認めよう。貴様の言はどこまでも正しいよ』

 

 女神はいっそ、清々しい舌鋒だと苦笑した。怒る気にもなれないほど事実を叩きつけられ、どこか気を萎えさせてしまう。

 アルケイデスはそんなアテナを笑わず、あくまで真面目腐って言った。

 

「重い荷だと思うなら、投げ出してしまえ」

『な、なに……?』

「権利を持つからこそ縛られるのだろう。ならば権利を返上すればいい。処女神でいるのに疲れたなら――女として満たされたいのなら、要らぬものなど還せばいい。ポセイドン神や大神に襲われようと、貴様ほどの武練の持ち主なら簡単には遅れをとるまい。後は……そうだな。マルス様にでも保護を頼めば、まず意に沿わぬ者から手出しはされまいよ」

『は――』

 

 そう結んだアルケイデスに、アテナは一瞬、硬直する。それはプライド故か。対立はしていないにしろ、嘗ては啀み合った腹違いの弟へ保護を願い出る事への躊躇い故か。

 どちらでもない。アテナは純粋に、アルケイデスの言葉が愉快だったから笑った。

 

『――はははは! なんだ、貴様……要は私を、マルスの側に引き込みたいだけではないか!』

 

 女神の断定にアルケイデスは首を竦める。剽軽な仕草にますます笑いがこみ上げ、アテナは腹を抱えて笑い転げてしまいそうだった。

 なんとかその無様を抑え、必死に笑いを抑えようと、アテナは途切れ途切れに言う。

 マルスとゼウスの間に確執が生まれているのに気づかないとでも思ったか、と。マルスはゼウスを尊敬し、父として敬っているが、とうのゼウスは自身に匹敵する力を隠し持っていたマルスを疎み、危険視しているのだと。それに気づいていたアルケイデスはもしもの時のため、信仰しているマルスの味方を作ろうとしているのだろう、と。

 流石の叡智である。アルケイデスは肯定も否定もしなかった。長々と女神に語った真意は、アテナの言うように収束しているのは事実であるのだから。

 

『まったく、神を謀らんとするとは、とんでもない不敬者だよ。赦せんな。ああ、赦せんよ。故に罰を与える』

「む。前言と異なるぞ。赦すのではなかったか?」

『知らん。神の理不尽を知れ。ヘラクレス――貴様の死後、人の肉体が滅したら、貴様の神の部分を召し上げ私のものにしてやる。光栄に思うのだな』

「丁重にお断り申し上げる。私は神にはならん」

『ふふん。この私に目を付けられたのだ、どこまで足搔けるかな?』

 

 楽しげに微笑んだアテナは、アルケイデスの不満そうな表情を見て笑みを深めた。

 してやった、やり返してやった、そんな稚気が覗いている。英雄は嘆息した。

 人としての己と、神の血を宿す己は、死後は切り離される定めにある。人としてのアルケイデスはエリュシオンに。神としての『ヘラクレス』は天上に。それが定めであるのは解っていた。

 だからどのみちアテナの決定は履行されまい。己はヒトだ、神ではない。ヒトとして駆動する己の魂と自意識から外れた、自分(ヒト)ではない神としての己がどうなろうと知った事ではなかった。

 

『さあ着いたぞ。オリュンポスの十二柱は、貴様の来援を心より歓迎する』

 

 門の前での立ち話だった。アテナは笑って門を開く。

 広間があった。其処に立つアテナを含めた十二柱の神々の許へ、アルケイデスは歩を進めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 居並ぶ神々は二列に並び整列している。その先頭、広間の奥に数段連なっている上座に立っているのは、十二柱の長にして神々の王、大神ゼウスである。

 

 彼は光り輝く鎧を纏っていた。人型の光の姿である。至高の具足『光輝』を防具とする大神の威光は、ヒトが目にすれば魂を灼かれ絶命するほど鮮烈なもの。

 然しアルケイデスは眩しくは感じるも、人の形を持つゼウスを問題なく視認できている。神の血を宿す強大な魂の英雄は、視ただけで絶命するほど儚い命ではない。

 その右手は無形の紫電を発し、腕に纏わりついている。天空を統べる大神は広義の意味合いに於いて太陽も手中に収める。太陽の光を凝縮したような熱を宿すそれは、まず間違いなく『雷霆』だろうと目された。魔法鎌アダマスは手にしていないが、ほぼ完全装備であると言える。

 その偉容、威光、最大の英雄アルケイデスを凌いで余りある。当然と言えば当然だ。至高の武具を携えたゼウスは、武具の性能の差でマルスをも上回るのだから。この姿のゼウスを上回る存在など、それこそ魔獣神テュポーンぐらいなものだろう。

 

 その傍らに立つのはゼウスに次ぐ力を持つ海神ポセイドン。そして正妃である女神王ヘラである。

 ヘラは特に武装を整えてはいない。凄まじい嫉妬と憎悪に濁った目でアルケイデスを睨んでいる。然し柳に風、アルケイデスは意にも介さない。然し無視もしない。恭しく一礼してみせると、鳩が豆鉄砲を食らったような表情になった。

 目を引くのはポセイドンだ。三つ又の槍を持つ、堂々たる巨漢。白い顎髭を豊かに蓄え、太腕は筋肉の網で覆われている。筋骨逞しく、浅黒い肌をした老偉丈夫の姿形をする巨漢の神は、三メートルを優に超える雄大な存在感を放っていた。

 

 大神を上座に。正妃の女神王とゼウスの兄弟である海神をその下座に。残る神格は対等な座に列している。

 戦神マルス。両腕を組んだ戦神は、アルケイデスの視線を受けてニッと好戦的な笑みを投げて寄越し、最早隠す理由はないと言わんばかりに凄まじい神威を迸らせている。その対面に戦女神アテナが立つ。神の盾アイギスと神鉄の兜、神槍を装備し超越的な美貌を上機嫌に綻ぼせて場に満ちた緊張感を愉しんでいた。

 対面の伝令神ヘルメスは焦りに焼かれた表情で。対照的に鍛冶神ヘパイストスは無表情に立っている。

 太陽神アポロンはふてぶてしい面持ちで弓を携え。月女神アルテミスはにこりと微笑み手を振ってきている。然しどこか寒々しい。アルテミスの機嫌は最悪で、その微笑は取り繕ったものであると看破する。あれはアルケイデスに向けたものではない。やり場の無い怒りを持て余しているらしい。

 それは祭祀神ヘスティアも同様だ。常ならのんびりとして、緊張感の欠片もない様を見せるだろうに、どことなく険しさを孕んでいる。ヘスティアの対面に在る大女神デメテルもまた、たおやかな美貌を微笑みの形で固定し不機嫌さを隠していた。

 そして愛の女神アプロディーテ。彼女はヘスティア、デメテル同様、戦に出る気は皆無なのだろう。平服姿で自然体に立っている。アテナに伍する美の女神は、特に着飾るまでもなく、見る者の心を奪う美貌を誇っていた。

 

 アルケイデスは夥しい神気に満ちた場に、圧倒される事なく踏み込む。魔槍と白剣、白弓を携え、堂々と。頷いて迎え入れた大神が鷹揚に告げた。

 

『見よ。無双の勲を築きし人界最大の英雄が――我が大計成就の証である息子が――我らオリュンポスに勝利を齎すべく来援した。喝采せよ、もはや我らは勝利している!』

 

 戦を前にして、早くも勝利を宣言する大神のそれは油断であろうか。浅はかである。だが絶大な力と自信、そして原初の大地母神ガイアとの暗闘を制した大神の豪腕は、断じて空虚な響きを感じさせるものではない。

 勝利したと言うのなら、既に勝利を掴む算段は確立されたという事である。

 当然だと頷く男神たちと、誇らしげにする女神たち。その様を見渡すアルケイデスは、兜を被り冷め切った表情を覆い隠していた。

 

 大神が朗々と謳う。予言の通り、以前は神々だけで初戦を迎えたがギガースは倒せず宇宙の辺境に押し込むのが精々であった。人間の助けがなければ倒せないと確認した。アルケイデスを迎えた今、もはや勝てぬ道理などありはしない。

 ヘスティアの代理にディオニューソスがいる。ヘカテーが広間の隅にいる。冥府より招かれた、ゼウスも畏れる神格である。妖しい光を宿した眼差しが英雄を観察していた。

 

 戦前の宴はない。戦の時が来たのだ。古き神々より支配者の座を奪い取って以来の大戦が起こるのだ。勝って戦を終え、その時こそ改めて祝おうと神は言う。

 太陽神がにやりと嗤いを英雄へ投げる。君の傲慢はもはや赦されないぞと牽制する笑みだ。英雄は一瞥のみを向け、関心なさげに視線を切る。ひくりと喉を引き攣らせる気配があっても、今の英雄『ヘラクレス』にあるのは一事のみ。

 

 戦だ。――いいや。

 ()()()()()()()()()

 

 暗く醜悪な笑みが、アルケイデスの貌を歪ませる。獅子の兜が其れを隠す。

 

 ゼウスが腕を振るうと、世界は一変する。オリュンポス山に在った戦陣が、ゼウスにより転移され、拓けた広大な大地に移っていた。

 星々の一つを取ってすら太陽のように煌めく異界。人界を統べる神の領域。位相を異とする別次元。天空に在る星座を掴むように大神が天を指し示す。

 

『見よ。宇宙の果てより智慧足らぬ蛮勇の輩が襲来する。なんと虚しい。なんと儚い。自ら討たれに来るとは愚劣の極みであると云えよう。宙の果てで息を潜め、ほそぼそと暮らしていたなら滅びずに済むものを!』

 

 遥かなる星海の彼方。数百を数える巨大な山々に匹敵する巨人がやって来る。

 オリュンポスより宇宙と世界の支配権を奪い取るべく。既存の世界の悉くを踏み躙ってでも。

 全身は鬱蒼と生い茂る草木のように生え揃った体毛に覆われ、腰から下が竜の形をした異形の巨人だ。ギガース――ギガンテスとも呼ばれる終末の巨人の軍勢が、今、地球という惑星に襲来する。

 

 開戦を告げるかの如く、ゼウスは右腕を帯電させる。雷霆(ケラウノス)が膨大な光と熱を宿し、大神は先制の一撃を繰り出した。

 

 天地を震撼させる轟音が轟く。人界と位相を隔てた異界に激震が奔る。アルケイデスはその力の強大さに戦慄を覚える。巨人の軍勢を一撃で半壊させる破壊の力は絶大の一言でしか言い表せない。

 だが、巨人はただの一体も死んでいない。神に対し『敗北しない』という加護を持つ巨人は、逆説的に『神には殺せない』存在だった。

 アルケイデスは、魔槍の穂先を上げる。何事も無かったように立ち上がる巨人を、図抜けた視力で視認して。その身の裡に潜む、或る狙いを成就させる瞬間を虎視眈々と狙い。

 

 ゼウスが再び雷霆を撃ち放ち、号令した。

 

『ヘラクレス、征け。オリュンポスの神よ、征け。ああ、我が姉ヘスティア! デメテル! 願うのだ、我らに栄光を! アプロディーテ、声を上げよ! ――マルス、貴様の力、あてにするぞッ!』

『おう、(まぁか)ぁせろォォオオッッッ!』

 

 真っ先に戦神が切り込むべく走り出した。戦える神々は遅れじと己が獲物と見定めた巨人に次々と襲い掛かる。

 アルケイデスは一瞬出遅れ。兜の裏で、目を凝らした。

 

 その瞳は、女神の無防備な背中を捉えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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九幕 怒りの日、報復の時(下)

注意。残酷な描写があります。Fakeのアルケイデス並の悪意があります。どうってことねぇだろと感じる程度の方もいるでしょうが、念の為注意喚起しておきます。






 

 

 

 

 

 地中海(ギリシャ)世界に於ける巨人種は、全宇宙を最初に統べた原初の神々の王ウーラノスと、(ウーラノス)の母にして妻である大地(ガイア)との子に当たる存在だ。

 

 ウーラノスは果てしなく巨大な体躯を誇り、全身に無数の銀河系が鏤められた宇宙を常に纏う、何者にも斃せぬ無敵の存在であり、大いなる王であるウーラノスは男性美の極限でもあった。故に彼の古王は自らの子であるキュクロプスらとヘカトンケイルの醜さを嫌悪し、見るに堪えぬと見捨て幽谷(タルタロス)に幽閉してしまう。

 これに怒りを覚えたガイアは、ウーラノスとの間に産まれたティターン十二神の末子クロノスに命じ、魔法金属アダマスの鎌でウーラノスの寝込みを襲わせその男根を切り落とさせてしまう。

 男神の支配権は男根の有無で定まる。去勢されてしまったウーラノスは力を失い、また男根を斬り落とされた事を恥じて去ってしまった。そうして空位となった最高神の座に、クロノスが巨神(ティターン)を率いて就いた。

 

 ――斯くしてウーラノスの切り落とされた男根から滴り落ちた血が、ガイアに触れて産まれたのがギガース、異称『ギガンテス』である。

 

 原初の大地母神ガイアは、大地のみならず天空に到る『世界』そのものを司る女神であり、謂わば彼女こそがギリシャというテクスチャそのものとすら云える。地球という惑星を指してガイアという名があるのに対して、共通の名を生まれ持った女神ガイアは地球と密接に繋がる神格となり、その加護は極めて巨大なものであった。故にガイアの加護はギガースに対し絶大なアドバンテージを齎したのだ。

 すなわち『神に敗北しない』加護である。

 オリュンポスの神々はティターンをも超える高位神格の集まりであり、特にゼウスを筆頭にその戦闘能力は絶大で、ガイアですら彼らを容易く打ち倒せるモノを産み出せるわけではなかった。故に辛うじて戦闘を成立させ得るギガースが目をつけられたのだ。

 かねてよりオリュンポスの増長は目に余るものがあり、ガイアはこれを罰せる存在を探していたのだ。然しギガースでは十回戦っても完敗するだろう。それほどまでに力の差がある。だがガイアからすると十回戦って負けようと、その次に勝てるのなら問題はない。故にガイアはギガースに加護を与えたのだ。神に敗北しない……広義の意味合いに於いて『神では殺せない』力を。

 

 其の加護を抜きにしてもギガースは脅威だった。燃え盛る樫の木の棍棒や、権能こそないもののオリュンポスの神にも引けを取らない怪力を武器とし、彼らの攻撃は充分に神々を戦闘不能にしてしまえる危険性を持っている。

 ギガースは母の命令に応えてオリュンポスを排さんと息巻いていた。光り輝く鎧を纏うギガースの首魁は奇しくもティターンやオリュンポスと同じ十二体。オリュンポスがティターンに取って代わった様に、自分達が次代の覇権を握るのだと野望を燃やした。

 

 数百体に及ぶ巨人達は海を裂き、山々を蹴散らし、猛然とオリュンポス山に進行していく。其処に立ちはだかる者が現れた。

 

 大神、海神、女神王、戦女神、戦神、鍛冶神、太陽神、月女神、酒醸神、魔術神、運命神の三姉妹。十三柱の神々である。

 そしてその中に一人、人間がいた。だからどうだというのだ、とギガースは嘲笑う。たかが人間、踏み潰して終わりである。然しとうの人間は、ギガースが明らかに地形を変えて進撃してくるのを目にして貌を顰めている。

 

「此処が異界である事は分かる。然し人界になんの影響もないのか……?」

『影響はあるさ。何言ってんだよ』

 

 射手であるからか、距離を自ら詰めに向かわないでいたアポロンがアルケイデスの疑問に返す。露骨に嘲る色合いの返答に、然し無色の視線が向けられた。

 太陽神は肩を竦める。

 

『表と裏、星の上に貼り付く織物(テクスチャ)の多重構造。冥府、楽園、天界、人界。それと同じ区分の、ちょっと邪魔な人間の在れない神の庭なんだよ。もちろん影響が出るまでの時間差はある。だから人界にそれが出る前に、こっちで地形を手直ししてやれば何事もない。人間である君は何も心配しないで、その馬鹿力で暴れるだけでいい』

「そうか。それを聞けて安心した」

 

 人智を超える大破壊が巨人の進撃だけで撒き散らされ、その迫力たるや肝を潰して余りある。山河を砕き、大陸の破片を散らし、山脈を踏み躙って来る様はさながら世界の終わりの日。それを目にして怯む者は神の内には一柱たりとも存在せず、そしてそれはアルケイデスもまた同様だった。己も本気で暴れたらこれ以上の大破壊を刻めるのだと――本能的に理解しているからだ。

 ゼウスの右腕が帯電し、雷霆が撃ち出される。ティタノマキアに於いて揮われた最大出力の雷光ともなれば、宇宙全体を揺るがす衝撃波を発し、瀑布の如き雷火によって敵陣を一網打尽にしてしまうだろう。雷撃は全空間を焼き払い、地平線の果てまでの天地を逆転させ、地球はおろか全宇宙、万象の根源たるカオスをも灼熱の裡に滅する。

 だが人界ではその力を大幅にセーブされるだろう。そして最大出力をなんの遠慮もなく発揮できる異相に在っても、此度の敵はそこまでする必要はない。火力の多寡などでどうこうできる手合いではないのだ。

 果たして眩いその一撃でギガースの軍勢は壊滅した。だが、戦闘不能に陥っただけである。広域を薙ぎ払った雷霆ですら、ギガースは倒れ伏して呻いているだけである。見ればギガースの首魁の十二体は各々が小島を持ち上げて盾としてやり過ごし、倒れたのは名もなき巨人ばかりであった。

 

 その雑兵に等しい巨人ですら、死んでいない――どころか、灼かれた皮膚がたちどころに回復していくではないか。あと一分としない内に立ち上がってくるだろう。

 アルケイデスはおろか不死の神々ですら、受ければ半死半生となるのは免れない出力の雷霆を受けて、だ。

 

「――なるほど、確かに私の力を借りねば打倒は叶わんな」

 

 アルケイデスはゼウスや神々からの、自身への特別扱いに改めて納得する。

 人間の力を借りねば斃せない……然し人間の軍勢を幾ら集めても無意味だろう。そもそも生き物としての規格が違うのだ。人間サイズの槍や剣で幾ら突き刺しても、あれだけの巨体では蚊に刺されたようなものでしかないのだから。

 故に必要なのは群ではく、究極の個。巨人にすら通じる豪力がなければ話にもならない。アルケイデスは白弓を構える。神の戦に加担するのは面白くないが、味方として神の力を測れる場にいる機会をふいにする気もない。

 片膝立ちになって放つは奥義・射殺す百頭。視界全てを射程とする英雄にとっては曲射をするまでもない距離だ。直射し、アルケイデスの矢が大気を引き裂き飛翔する。狙い違わず矢の悉くが倒れていた巨人の眼球を、あるいは頭蓋骨を貫通する。そのまま脳を破壊し次々と即死させていった。その剛弓にギガースが瞠目する。自身らと比べ掌程度の大きさしか無い人間の放った矢で、まさか自身らを殺せるものだとは想像だにできなかったのだ。

 

 ギガースから慢心が消えた。アルケイデスを明確な脅威として認識する。然しその上で恐怖が過ぎる。彼らは智慧の足らぬ野蛮な身であるが、戦の勝算に対しては正確に認識していた。

 ガイアの加護がなければ、自分達はゼウス一柱のみで壊滅させられる危険がある。ゼウス単体ではなく、その武器である雷霆が桁外れに強すぎるのだ。

 故に巨人は戦慄する。神の如何なる攻勢も軽視していたが、これからはそうはいかない。戦闘不能に陥れば、その瞬間にあの矢が飛んでくる。そうなれば死ぬという恐怖が巨人の心身に怯懦を縛り付ける。然しその恐怖を打破せんと或る巨人が馳せた。

 

 ギガースの長、巨人王ポルピュリオーンである。炎のように濃い朱い髪と髭を蓄え、淡い燐光を放つ鎧を着込んだ剛力の巨人。両脚は竜鱗に覆われ、手にした燃え盛る樫の木の棍棒は龍脈の如き偉容を持つ。

 最長老であるアルキュオネウスに並ぶ実力を誇るポルピュリオーンが先頭を駆けると巨人の首魁らは奮起した。どのみち戦わねばならないのだ、ならば厄介なあの人間と、一撃で自分達を戦闘不能に追い込めるゼウスを仕留めねばならない。中でも特に巨人王ポルピュリオーンはアルケイデスの脅威を深刻に捉えていた。自分達ではオリュンポスには勝てぬ、然し殺されもしない。故に何度も挑み神々が疲弊して力を失くすまで戦い続けるつもりで居た。その戦術の前提を覆す人間はなんとしても仕留めねばならない。

 ポルピュリオーンは走り抜け様に小島を片手で担ぎ上げ、アルケイデスに投擲する。唸りを上げて飛来する大質量は、彼ら巨人の手首から先程度の体長しか持たない人間など蟻のように潰してしまうだろう。視界全体を埋め尽くすそれは、さながら天が落ちてきたかの様――然しアルケイデスは嘆息し、弓を背負って拳を鳴らした。

 

「いたずらに大地を擲つとは……」

 

 図体の大きさに見合った脳は持っていないらしいな、と。うっそりと嗤い、両手で小島を受け止めた。

 ポルピュリオーンは瞠目する。投げつけた島がピタリと制止したのだ。まさか人間があの質量を平然と受け止めるとは夢にも思わなかったのである。そして駆け続けるポルピュリオーンの頭の上を、自身が投げつけた小島が飛び越えて、ぴったりそのまま元の位置に投げ戻されるのを、どこか呆気に取られた心境で見上げてしまう。

 アルケイデスは両手を叩いて土砂を払い落とし、その背中から白亜の魔槍を取り出した。巨人の体長と比べると爪楊枝に等しいそれは、夥しい魔力を渦巻かせる。ポルピュリオーンの脳裏に警鐘が鳴り響いた。

 

「“鉦を穿つか、地鳴らしの槍(エノシガイオス・トリアイナ)”」

 

 超振動に槍が啼く。迸る蒼き魔力は渦潮の如く槍に巻き付き、投じられた魔槍が一直線にポルピュリオーンの心臓を穿たんと迫った。

 受ければ薄紙を裂くように貫かれる。その確信を懐いた巨人王は咄嗟に腰に帯びた剣を抜き放った。長大な其れは山脈の如く。逆巻く風を切り裂いて振るわれた鋼が魔槍を迎撃する。然し激突の瞬間、熱したナイフでバターを切るように易々と剣が砕かれた。だが辛うじて軌道が逸れ、魔槍はポルピュリオーンの鎧を削り、肩から鮮血を噴出させて彼方に飛び去る。ポルピュリオーンは唖然としながらも脚を止めなかった。なんとしてもあの人間を殺さねばならぬと。

 

 だが。

 

 させじとでも云うのか。火星の光を帯びた真紅の神性が頭上より飛来する。

 

『“紅き星、軍神の剣(マーズ・ウォー・フォトン・レイ)”』

『ッ!? チィ――ッ!』

 

 叩きつけられる神軍の威を束ねた赤光の柱。紅蓮の棍を振り上げ迎撃する巨人王。激突の瞬間、ポルピュリオーンは両手の骨が砕ける音を聞いた。

 だが、構わず振り抜いて、火星を司る神格が二百メートルに迫る巨人の如き光体で立ち塞がるのを睨みつける。真体を晒した戦神マルスは鬼神の如き形相の巨人王に凄絶に嗤いかけた。

 

『よぉ、()()()()()共ン中じゃあ、貴様が一番噛み応えがありそうだ。少しばかり俺と遊んでけよ――なァッ!』

『ウヌは、アレス――!? 暗愚な軍神如きが小癪な……!』

『ハッハハハ! 何年前の話をしてやがる――!』

 

 大神に伍する力を持つマルスが渾身の力で殴り掛かる。光の剣は捨てた、殺せぬなら意味はないと、ならば愉しむだけだと言わんばかりに。

 巨人王は無手で迫る戦神に紅蓮の棍を振るった。だが不死なのはマルスも同じ。腕の骨に亀裂が奔るのも構わず盾として受け止め、そのまま同等の体躯を誇る巨人王の懐に飛び込むと顔面に拳打を叩き込んだ。

 たたらを踏んで後退し、よろめいたポルピュリオーンが片膝をつく。拳撃の威力に愕然とする。以前戦った軍神アレスとは比較にもならない。ポルピュリオーンは信じられない思いで誰何した。

 

『ギ、貴様……ッ、アレスではないな――!? 何者だ、オリュンポスに貴様のようなモノなど!』

『莫迦が。答えるのもアホらしい。精々抗え、抵抗しろ、無様に踊れや。俺の愛しのサンドバッグちゃんよォ――ッ!』

『待――』

 

 吐き捨ててマルスが疾走する。巨人王が立ち上がるのを待たずに蹴りつけ、その巨体を吹き飛ばす。壮絶な轟音を上げて地面を転がり、地響きと共に追撃を仕掛ける戦神をアルケイデスが諌めた。

 

「マルス様、はしゃぎ過ぎだ……!」

『ハッ――五月蝿ぇよ! 幾ら殴っても斬っても絞めても死なねえ素敵なサンドバッグちゃんがいるんだ、憂さ晴らしさせろよ――オラ、オラ、オラァ! ハハハハハ! どうしたよ抵抗しろよ死なねえなら死ぬまで殴るぞポルピュリオーンッ!』

 

 本来なら神々を大いに苦しめ、ゼウスが奸計を練り嵌め殺す大敵を、マルスは倒れたポルピュリオーンに馬乗りになってその勇壮な顔面に拳を振り下ろし続ける。

 一方的だ。鼻血が吹き出、歯が欠け、面が陥没しては再生していく。返り血を浴びながら凄絶に嗤うマルスはまさに暴虐の戦の化身である。敢えて両腕を自由にされていると悟りながらも、苦し紛れに反撃するポルピュリオーンの拳打を胸に、貌に受けながらもマルスはまるで怯まない。

 その脇を二柱の狩猟神が駆け抜ける。太陽神と月女神だ。隼のように駆け、太陽神アポロンは巨人エピアルテスの足元を駆け回り撹乱し、月女神アルテミスは巨人グラディオンを翻弄する。その様にアルケイデスは嘆息した。

 

 オリュンポスとギガースの力の差は歴然だ。弱って戦闘不能になった巨人にトドメを刺して回る単純な作業になりそうである。

 然し折角の戦場。一体ぐらいは独力で仕留めようかとアルケイデスはすっかり染み付いた仕事人気質を元に行動する。狙うはポルピュリオーンに代わり神々を苦戦させる最長老の巨人アルキュオネウス。複数の不死の神を相手に対等に戦う剛力のギガースである。

 

 魔槍に呼び掛け、担い手を穿たんと飛翔して来るそれを掴み取ると、鎧の背部の留め具に固定して走り出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アルケイデスは神々を別の巨人の元に向かわせ、自身はアルキュオネウスと単独で相対した。見上げるような巨人の全身を、アルケイデスは剣で斬り裂き、矢で射抜き、槍で貫いた。

 それでも死なぬアルキュオネウスに困惑する。試しに空中に叩き上げて斬殺するも、効果がない。ギガースの中に不死の存在がいるなど想定外だったが、梟に変じてアルケイデスの肩に留まったアテナの助言に納得する。なるほど、その手の不死かと。

 生誕の地であるパレネの地に仁王立つアルキュオネウスは、その地に在る限り不死身なのだ。そして神々をも退ける豪腕を振るえる。カラクリさえ判明すればアルケイデスは手古摺らなかった。アルキュオネウスの脚を掴んだアルケイデスは、巨人を引き摺りパレネから引き離す。アルキュオネウスの必死の抵抗も、神々すら凌駕する豪腕を前にすれば儚かった。あえなくパレネから離され、アルケイデスに縊り殺されてしまう。

 

 アテナはそれを見届けて自身の獲物へ襲い掛かった。ポセイドン、ヘカテー、ヘファイストス、運命の三女神モイライ、ゼウス。総てが各々の敵を相手に優勢に戦っている。後はアルケイデスがトドメを刺して回るだけでいい。

 こんなものか、と戦士王は拍子抜けだった。神々の戦、大戦。それがこうも圧勝に終わりそうなのに落胆する。これでは本懐を遂げるには足りない。できるとすれば、精々が一柱を手中の玉にする程度だ。

 

 アルケイデスは周囲を見渡す。そして――総ての神の眼が自身を捉えていないのを確認し、そして意識も向いていないのを感じると。

 密かに担いでいた()()()()()()を取り出した。

 それは被った者の気配、声、あらゆるものを隠し通す“冥府神の隠れ兜”である。被る者の生死は問わない。故にアルケイデスは頭蓋骨にそれを被せ、透明でゼウスすら気づけぬそれを持ち込んでいたのである。

 

 さて、と呟き。アルケイデスは獅子の兜を外して、代わりに隠れ兜を被った。

 

 忽然と戦士王の姿、気配が掻き消える。然し戦の只中ゆえに誰も気づかない。そのまま、アルケイデスは。

 悠々と走る。駆ける。平然と神々の脇を通り抜け、或る女神の元に忍び寄った。

 

 本来戦うはずだったポルピュリオーンは、戦神マルスによって常時半死半生にされている。ポルピュリオーンを相手にしていれば苦戦を強いられ、押し込まれていたのだろうが、今その女神が相手をしている巨人はギガースの首魁ポルピュリオーンほどの力量は持っていない。

 彼の女神は月女神アルテミスを素手で圧倒できる実力がある。事実相手の巨人は辛うじて対抗できているだけで、神に対して敗北しない加護がなければ既に敗北していただろう。

 

 そこに、アルケイデスがやって来る。彼は極めて平静で、自然だった。煮え滾る溶岩のような憎しみなど欠片も感じさせない。

 表に出るものは何もなく。裡に秘めたものは冷淡で。冷め切り、凍り、冷徹な眼差しでその背後から抱き竦める。

 

『なッ――何者っ、妾に触れる不届きも――ゴッ』

「嗚呼……素敵だ。夢にまで見たぞ、この瞬間を……」

 

 アルケイデスの手刀が女神の喉笛を貫き、声帯を抜き取っていた。

 悍ましい所業である。然し清々しい声が女神の耳朶を打つ。巨人は呆気に取られていた。突如として女神が固まり、その喉から鮮血を噴いたのだ。

 声帯を奪われ声を喪った女神は藻掻く。然し両腕を折られ、グシャグシャに骨が握り潰されて。軟体となった腕を背中に回されて、左腕と右腕を綱のようにされて()()()()のだ。脚も同様にされる。そして背中で纏められ、海老反りにされた。悲鳴を上げようにも声が出ない。女神は突然現れた戦士を見て総てを悟った。

 無限の憎悪を秘めた眼光、その意志は翳らぬ。それを見て復讐者は嬉しげだった。

 

「ヘラクレス。ヘラの、栄光。この名を帯びたその時から――ああ、其れ以前から。ずっ……と、こうしてやりたかった……」

 

 恍惚として。絶頂すらしかけて。アルケイデスは、隠れ兜を女神に被せた。

 無残な女神が掻き消える。誰にもその気配を探れない。女神は最後に、信じられない宝具を見て目を見開いていた。

 身動き一つ取れず、声も上げられない女神を担ぐ。

 さて、と彼は呟き、女神が相手取っていた巨人を見た。

 

 凄惨な惨殺の現場を目撃した巨人に、アルケイデスは無限の悪意を滴らせて微笑みかける。

 

「さあ、選手交代だ。この身は『ヘラの栄光(ヘラクレス)』らしいからな、いと尊き女神の栄光を貴様に魅せてやろう」

『へっ、ヘラを殺ったのは貴さ、ギィッ!?』

 

 最後まで言葉を紡げなかった。巨人をアルケイデスは矢で射殺した。抜き手も見せぬ神速の早打ちである。そして巨人を掴むと、そのまま遥か果て――幽谷(タルタロス)へと投げ放つ。

 そして叫んだ。尽きぬ歓喜に震えそうなそれを、必死に悲痛なそれへと塗り替えて。

 

()()()()()()ッ! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ッ!!」

『なんだとッ!?』

 

 その叫びに真っ先に反応したのは大神ゼウスだった。タルタロスに堕ちていく巨大な影を見るや雷霆を振るわんとするも、それでは妃ごと傷つけかねず逡巡する。

 アルケイデスはすかさず矢を射掛け巨人の骸をハリネズミにした。確実に殺したという目に見える形にし。

 

『ヘラぁ!』

 

 愛は、やはりあったのだろう。ゼウスが叫ぶ。

 

 巨人は、幽谷に堕ち。そして、女神は姿を消した。

 後日女神を捜索しに多くの神々が駆り出されるも、ついぞその姿を見つけられる者はいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 




→お持ち帰り。


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十幕 神々は女王を偲ばず

アルケイデスは次回。
今回は幕間的な話。

感想であった『ハデスの隠れ兜って視覚的なものしか誤魔化せないはずじゃ?』とあったんです。
プリヤ見てないからFateで存在してる事を知らず、んで確認してきた。
ランクE……? うそやろ……? しかも兜じゃないし……布やし。帽子になってるし……。

ということでプリヤのはあくまで“原典”であり、ハデスの兜ほどの性能はないとします。雷霆とトライデントと同格の宝具がEランクとか腑に落ちないので。なので前話の能力がハデスの隠れ兜本来の物とします。


 

 

 

 

 ギリシャ最大の英雄の参戦により、巨人大戦(ギガントマキア)はオリュンポスの圧勝に終わった。

 

 だが神々に勝利を祝していられるような雰囲気はない。むしろ沈鬱で、素直に喜べない結果に暗澹たる有様であった。

 伝令神ヘルメスはハデスに侘びるも、然し至宝である『冥府神の隠れ兜』を紛失した事に激怒したハデスが直談判し、大神は苦渋の決断を迫られる。腹心の伝令神を幽谷に堕とし幽閉せざるを得なくなったのだ。

 そうしている間も、他の神々は大神の命令を受け、幽谷に堕ちたと思われる女神王ヘラの捜索に駆り出されていた。

 ヘラが巨人の悪足掻きによって幽谷に消え、探し出すにはヘルメスが適任だった。然し彼は獄中の身。その任を任せるわけにはいかず、一万年の刑期を終えるまで幽谷から出ることは赦されない。

 

 ゼウスは複雑だった。口煩く、罪を犯しても処断に困る大地母神でもあったヘラである。いなくなって気が楽になる反面、なんだかんだで妻として愛してはいたのだろう。ヘラがいない事で淋しさを感じてはいた。

 だがそれは、ヘラという美しい女を喪失した事で、その体を堪能できなくなった事の苛立ちを上回るほどではない。大神ゼウスはヘラと肉体関係を持つために、ヘラの提示した神々の女王の座と、前妻との離婚という条件を呑んだ男神である。自分の女を奪われた事への憤りに比べれば――ゼウスの喪失感など塵のようなものだった。

 然しそれはゼウスが殊更に薄情で、不誠実というわけではない。この時代、この世界に於いては、女というモノの社会的地位や男からの情の置き方は、ゼウスのそれが至ってスタンダードなものなのである。ゼウスが殊更に責められる謂れはないだろう。

 

 故に捜索が成果を上げずにいた時、オリュンポスの神々は炉を前に会議する際に出た話題へ怒りを示さなかった。

 

『ヘラがいねえんなら、空位となった女神王の座に誰かが就くべきと思うんだが、誰が適任かねぇ?』

 

 ヘラの行方が杳として知れなくなっても、微塵も関心を示さなかった戦神がそう言ったのだ。然しゼウスの眉がぴくりと跳ねる。

 

『アレス、貴様……実の母が危機に在るというのに、それを気にも掛けずに女王の空位を議題に上げるとは何事だ?』

 

 大神の剣呑な詰問に、然し戦神は平然としている。

 豪胆な火星の権神は父の圧力にも怯まず冷淡に混ぜっ返した。

 

『あ? 血縁上はそうだがな、俺はアレとは縁を切ってある。身を案じてやるほど情もねえ。んなもんで、どいつもこいつも芋引いて言い出せねえでいる事を俺が言ってやってんだ。それと親父殿よぉ。なんべんも言わせんなや。俺はマルスだ、アレスとかいう縁切った女の付けた名ぁなんざで呼ぶんじゃねえよ』

『――ほう、父に向かってその言い草、生意気な……』

『ゼウス。八つ当たりしたいんなら後にして。今までマルスの物言いを赦してたのに、今になって咎めるのは筋が違う』

 

 苛立ちから玉座を立ち、マルスを懲らしめてやらんとする大神を制止したのは、彼の姉にして頭の上がらない実姉ヘスティアである。

 鶴の一声にゼウスは怒りを呑み込む。ヘスティアの言は無視できない。最高権力者である大神であってもだ。それほどにヘスティアの権威は重く、高い。何より尊い。

 

 ヘラの不在に動揺しているのは、実のところ少数だった。アポロンとアルテミス、そしてヘパイストスぐらいなもの。アテナなどは欠伸を噛み殺し、デメテルは上の空で別の事を考え込んでいる有様だ。

 ヘラの人望の薄さが、不在となって表出している。ゼウスはなんとも形容し難い表情で黙り込んだ。

 

 マルスは肩を竦め、ポセイドンをはじめとする神々を見渡した。

 

『んじゃ、誰も仕切りたがらねえんで俺がやるが。文句ある奴はいるか? ってか、いろ。メンドクセェ……』

『言い出しっぺの貴様がやれ。本性を出しても忍耐強くない貴様の不覚だぞ、マルス』

『うっせぇぞアテナ。テメェが女神王やれや』

『断る。実力で言えば私が女神の中で随一だが、かといって女神王の職責を果たせるかと言われれば疑問を呈さざるを得ん。私は大女神と名高いデメテルを推すが?』

『……? ……あら、わたくし?』

 

 名が挙げられた事で意識が向いたのか、きょとんとして小麦色の髪をした女神が反駁する。苦笑するアテナの視線に、ふわりと微笑んで豊満な肢体を持つ美女デメテルは拒否した。

 

『わたくし、今でさえ多忙なのだけど。この上さらに職責を課されたら地上の豊穣を約束できないわ。もし不作に人の子が喘いで、捧げ物が少なくなり、わたくし達が飢える事になってもいいと言うなら考えるけれど』

『よし、デメテルは無しだ。じゃあアルテミス、アプロディーテ、貴様らは――』

『え、嫌よ』

『同上。何が悲しくて女神王の後釜に据えられなくちゃならないのかしら』

 

 月女神は端的に一刀両断し、元々ヘラと反目していたアプロディーテなど嫌悪も露わに吐き捨てた。

 マルスはニヤリと嗤う。イタズラ小僧のような笑みだ。

 

『デメテルは論外、アテネ、アルテミス、アプロディーテは辞退、と。親父はいつでも口出ししてくれよ? あくまで俺らの会議は参考程度だ』

『ふん……』

『んじゃ、オリュンポスの外から招くか? オリュンポスの座も空席があるんだしよ』

『それならば適当な神格は誰だろうな? 心当たりはあるか、アポロン、それにポセイドン』

『うげっ。こっちに振るなよアテナ……あー、そうだね。ヘカテーとか? あの無駄に偉そうでムカつく女。権勢欲強そうだし女神王の座に飛びつくんじゃないかな』

『戯けた事を抜かすなレートーの倅。アレは権勢欲が強いのではない、場を掻き回して混沌を愉しむ性悪よ。まだヘラの方が可愛げがあるわ。オリュンポスに招いてみろ、マルスめの属神エリスが如く不和を撒き散らして嗤うのが目に見えるわ』

 

 水を向けられ顔を顰めたアポロンの言に、ポセイドンが吐き捨てるように言った。

 意外なほど正確な評価に(おや)とデメテルは眼を見開く。

 ここのところ、ポセイドンは考え方が変わってきているらしく、女性への乱暴をしなくなりつつあるという。むしろ丁寧で、壊れ物を扱うように接しているのを、広い眼を持つデメテルは識っていた。だからといってデメテルはポセイドンへの評価を簡単に変えたりはしないが。

 

『ヘカテーは俺も無しだと思うぜ。ってかアレが近くに居たら親父の神経擦り切れるぞ……断言してもいい』

『………』

 

 マルスはアポロンの言に呆れる。秀麗な太陽神の美貌に苛立ちが過ぎるも挑発には乗らなかった。ゼウスも黙認している。実際ヘカテーが常日頃、女王として近くにいるのは好ましくないのだろう。

 

『ならどうするのよ。他に目ぼしい女神なんて、それこそ私達のお母様しかいないんだけど?』

『レートーか。ありっちゃありだな』

 

 アポロンはマルスを好ましく思っていないが、アルテミスに隔意はない。至って普通に会話はする。関心はないが、嫌ってもいない程度の関係である。父親が同じで、同性なら対抗心も出るのだろうが、異性なら余り気にするほどでもないのかもしれない。

 アルテミスの提案にマルスは考慮の余地はあると考えた。が、これにゼウスが気まずげに言った。

 

『……お前たちが真剣に考えてくれているのは分かる。然し、すまんがレートーは駄目だ』

『なんでよお父様?』

『もしヘラめが復帰した時、レートーが後釜に就いておれば、凄まじい嫉妬を買って身の安全が保証できん……』

『あー……じゃあ、前妻のテミスとの再婚も無しだな』

 

 物凄く納得したアルテミスとアポロンを尻目に、マルスが気まずげに頭を掻く。

 じゃあ、とマルスは笑う。快活な青年のように。嫌な予感がしたのか炉の女神は眉根を寄せた。

 

『ってこった。消去法であんたしか適任はいねぇぞ――ヘスティア』

『……やっぱり? あからさまにわたくしを話題に出さなかったからそんな気はしていたけど……わたくしには荷が重いっていうか……』

『マルス、我が姉は確かに格もある、尊い女神だ。だがな……流石に純潔の誓いと共に処女神である事を赦した者を女王には……』

『いいだろ別に。暫定なんだしよ、あくまで今は。それに、なあ? ヘスティア、あんたしかいねぇんだよ、いやホントに。格も、信仰の厚さも、ぶっちゃけヘラの上位互換だしな』

『えぇー……? うーん、困ったな……確かに女神王の座が空位なのはマズイし……仕事増えても敏腕神格なわたくしにはどうってことないけど……』

『だろ? ヘラが戻って来ちまっても、あんた相手に強く出られるほど度胸はねえよ。な?』

『でもだ、マルス。考えてもみなよ? 女王になるってことは、ゼウスと夫婦扱いになるんじゃない……?』

『なるな。が、問題じゃない。親父でもあんたには手出しできない。いっそ親父に禁欲生活でもしてもらうか?』

『マルス! こっ、この親不孝者めが! よくもそんな――』

『どうどう、そこ怒るポイントじゃないよゼウス。うーん……まあいいか。わたくしが暫定女王になる、それはいいよ。受け入れる。けど条件がある』

 

 ヘスティアはのんびりとしていた。周囲の空気に流されず、マイペースに構えているのはいつだってそうだ。

 天然なのか、計算づくなのか。それは些細な問題で。ヘスティアはゼウスを一瞥して言った。

 

『ゼウスさ、浮気だけど好きにしていいよ』

『!?』

『ただし! きちんと相手は口説くこと、伴侶のいるヒトを対象にするのは無し、騙したり策を練るのも無しだ。脅すのも権能を使うのも駄目。一人の男として口説き落とすんだよ? 振られたからって八つ当たりも理不尽に罰するのも無し! あと上手くいってもヤリ捨てとか赦さないから。産まれてくる子供を父無し子にするとか論外。事情があって離れなくちゃなんなくなってもフォローはきちんとする事! これが約束できるなら好きなだけ浮気していい。わたくしとゼウスはあくまで上辺だけの婚姻関係なんだからね』

『――――流石は、姉上………なんと慈悲深く懐が深い………!』

 

 ヘラとは違う、と溢すゼウスに。幾ら束縛がキツくて他の女に逃げていたとはいっても、夫のお前がそれを口に出すんじゃないとヘスティアは叱責した。

 会議が纏まる。そうして神々の女王の座にヘスティアが就任する事になった。

 あくまで暫定ではある、然しその一番最初の仕事として、ゼウスのだらしのない下半身事情を大幅に改善した事は大きな功績だった。

 

 ぽつりとヘスティアが呟く。

 

『……出来がいいのか悪いのか、判断に困るよ、まったく……』

 

 ――マルスは嘆息した。父からの隔意が年々増してきているのを感じつつ。

 

『あーあー。こりゃ、俺が消されるのも時間の問題かね……』

 

 大人しく消されるべきか、抗うべきか。どちらかにするにせよ、どうにもやる気が湧かず、悶々とする。鬱憤はまたも溜まるのだ。

 俺は楽しく喧嘩できりゃそれでいいんだがね、と。マルスは移ろう時代の流れを感じていた。どうせなら、時代に身を任せるとするかと戦神はぼんやりしながら思う。

 抗うも良し、潔く散るも良し。そうと定めながらも予感している。戦神の直感が、彼に戦の予感を齎していた。それも、途方もなく不吉な……。

 

 敬愛するゼウスとの敵対は避けられないと、明晰な頭脳を持つマルスは漠然と察知していたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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十一幕 人の過ち、英雄の因果、王の責務(上)

今日二回目だよ。

残虐な描写あり。注意。

以後、抑止力が〜、といった表現はありません。
だって多用すると萎えるからね、仕方ない。
実際便利だけど邪魔でもある。何があっても抑止力が! とかでは片付けずにいくので、よろしく。




 

 

 

 

 

 偶然だった。手抜かりだった。不覚であった。

 

 ――ヒトとヒトには相性というものがある。話が合う、趣味が合う……けれども、その上で互いが例えどれほど好意を寄せ合っていても、些細なボタンの掛け違い、間の悪さから決裂する事もある。ささやかな誤解、偶然の産物によって、嫌い合っていた者同士が好感を持つようになる事もある。

 それらを総じて因果律的な相性というのだ。そして、そういう意味で、或る英雄と或る女神の相性は、致命的に最悪のもので。

 間が、悪かった。運が悪かった。有り得ないはずの偶然が生まれた。ひたすらに両名の相性は最悪で、いっそ呪いじみてさえいる。

 

 ()()()()()()ッ! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ッ!!

 

 なんだと、と反応したのはゼウス――だけではなかった。

 例え醜いと謗られ、疎まれ、嫌われていたとしても。母は母であると慕っていた者がいた。

 鍛冶の神ヘパイストスである。

 彼は或る巨人と戦っていた。その名はミマースという。自身の鍛冶場から溶鉱を持ち出し全身に浴びさせ戦闘不能にし、ヴェスヴィオという名の山岳の下敷きにして封印しようとしていた時に、その声が届いた。

 ヴェスヴィオ山を投げつけた瞬間、英雄の呪詛を聞いて、鍛冶の神は居ても立ってもいられず、ミマースが山の下敷きになったのを一瞥だけで確認したヘパイストスは、母の危機を救うために駆けつけようとその場を離れた。――本来ならその後に、軍神アレスがやって来て、ミマースに抵抗する余力がなくなるダメ押しの一撃を与えるのだが、ヘパイストスがその場を離れた事でアレス――マルスはやって来なかった。

 

 果たして、戦が終わった後。全身が焼け爛れ、溶けた金属を肌の表皮に固着させたミマースが、憎悪を滲ませてヴェスヴィオ山から抜け出した。

 彼は復讐を決意する。オリュンポスを根絶やしにしてやると、同朋達の骸を前に壮絶な覚悟を懐いた。彼はギガースであり、智慧は足りない。率直に言って頭が悪い。然し分かる事があった。神々には自分を殺せない、然し多くの同朋を殺めた人間がいるのを知っていた。

 

 その人間を殺さねばならない。探し出さねばならない。あの人間さえいなければ、負けることはなかったのだ。憎きゼウス、ヘパイストスを殺すためにも、まずはあの同朋の仇である人間を殺さねばならぬ。

 ミマースは、人界に襲来する。だがやはり、彼は愚かだった。満身創痍である彼は、あの人間と出逢えば相手にもならず一撃で殺されるだろう。それを考慮していなかった時点で、所詮は智慧無き愚昧な巨人でしかなかった。

 

 だが。

 

 何をしたでもない。然し、相性が悪かった。その女神に関わる事柄で、彼の英雄に幸運が微笑むことはなく。寧ろ――逆風を吹かせるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「困ったな……」

 

 言葉通り、心底から困り果てたように復讐鬼は眉を落としていた。

 彼は武人である。戦士である。王である。英雄である。そして地中海(ギリシャ)の神代最盛期に於いて、異端とまで称せる高潔な聖者でもあった。

 豪傑である。英傑である。その心根頗る善性、その視点極めて中庸、その価値観至って中立。自らの良心に従い、その志は全の善なるを希求し、平和を愛し戦乱を忌避し、人の愛と勇気を尊ぶ。明朗にして明快、悪を憎み罪を糾す。自らの勲を誇りはすれども誇示はせず、友誼を尊び不実と不義を疎む。

 最大の英雄とは彼の事。至強の戦士とは彼の事。武芸百般、悉く神域の頂きに在り、その武を称して武神と形容する声もある。人は噂する、彼はその功績を以て神の席に迎えられるであろうと。半神の身ですら至高の戦神と対等の地平で戦える力があるのだ、純粋な神となった時の力は如何ほどのものになるのか。個としての実力は無比のものとなるのは疑い様はないだろう。

 

「まさか、だ……なぜ? どうしてだ? ああ、全く……クソッ、こんな、こんなものであっていいはずが……!」

 

 ――そんな、ヒトにして戦士、王にして英雄である至誠の偉丈夫は。

 まるで楽しみにしていたご馳走が、想像していたものより粗悪な代物であった事実を識ってしまった子供のように落胆し、何がいけないのかと粗暴な悪態を吐いて考え込んでいた。

 

 らしくない、彼を知る者ならば別人であると疑う悪意の毒が瞳を濁らせている。

 

 場所は、オリンピア……ではない。復讐とは灼熱の憤怒の下、苛烈にして激烈な責め苦を対象に与えねばならぬとか考えていた。

 故に自身の国は拷問場として適当ではない。綺麗な理想を描く国に、このような汚物と薄汚い復讐の跡を残すわけにはいかないのだ。だからこそ英雄は場所を選んだ。太陽神の眼が届かず、大地母神の知覚が届かず、凡そあらゆる精霊、幻想種、神、人の眼に触れる余地のない場所をあらかじめ見つけておいたのだ。

 其れは世界の果て。自身の豪腕によって定義付けられた西方の断崖。その絶壁の中腹に小さな洞窟を造っていたのである。

 

 神の眼の届かない秘境。そこには復讐鬼がいた。そして――焦がれるほど追い求めた者がいる。

 

 美しい女神、()()()モノ。過去形で形容されるそれは、もはや殆どヒトの形を残していなかった。

 まず手始めに全身を炎で焼き、煙に巻き、焼け爛れたミイラのような姿に変貌させ、前妻や我が子らが味わった苦痛を体験させてやった。

 それではまるで足りなかった。満足できなかった男は、次に声無き悲鳴を上げ続ける女神の四肢を爪先から微塵切りにし、馬糞に混ぜて食わせてやり。足りぬと感じ、腹を縦に割いて中に虫を敷き詰め。耳からナメクジを入れてやり。眼球を刳り貫いて左右を入れ替え。総ての歯を素手で一本ずつ抜いてやった。

 その様を磨き抜いた青銅の鏡で見せてやり、怒りと屈辱と苦痛と恥辱を与えながら丹念に心を磨り潰すべく、不死の身が再生するまで待ち、何度か工夫を凝らしながら繰り返した。陵辱を除く総ての拷問を、拷問のための拷問を繰り返した。三日三晩にも及ぶ試行錯誤の末に、女神の眼から憎悪が薄れ、心が弱り、怯えはじめ、ついには心が折れて声もなく赦しを、慈悲を求めるまで休み無く行い続けた。

 

 だが、全く足りない。何故だ。最初の一時間でメガラや子供達の感じた苦痛を上回る灼熱の激痛を与えてやったのに、全く満ち足りないのだ。

 

 剣で斬った。槍で貫き、弓の的にした。殴り殺し、絞め殺し、肉塊に何度も転生させてやった。元の形を取り戻すのを待ち、自負していた美を徹底的に破壊し尽くし。両腕を太腿の付け根に接続し、両脚を肩の断面に接着させ、乳房を切り取り背中につけ、そのまま再生させて奇形にもしてやった。

 兎に角、心を砕いた。女王としての自尊心を粉砕した。もう充分だろうと、理性は何度も言っている。拷問などせず、無駄に時間をかけず、ただプロメテウスの元に向かいヘラの司る悉くを人理に溶かし、人の心へ委ねる自然のものとすればいいのだ。

 

 神を概念に還し、人格を無とする。それこそが不死の神の正式な殺し方。それで終わらせればいいと、頭の片隅で理性が繰り返す。

 だが復讐の炎は極めて強烈に男を突き動かした。復讐を。惨卑を窮めた復讐を。求めるままに何度も打擲した。だが延々と作業に尽くしても、全く足りない。

 故に男は困惑していたのだ。全身を神の血で汚した復讐鬼は、何が駄目なのか全く見当もつかない。いっそ女としての女神を辱めてやろうかとも思ったが、生理的に無理なので手出しができなかった。ましてやコレが何かに犯されている姿を見るのも苦痛でしかない。汚物と汚物がまぐわうのを観察しても、心の穴が埋められるはずもないのだ。

 

「……仕方ない。ああ、情けないな。これ以上時間を掛けても無駄か。そうだろう? このまま永遠に責め抜いても、私はきっと満たされないのだ。ならば貴様如きに時間を掛ける事の方が勿体無い。漸く諦めがついた。……これで終わりにしてやる」

『   』

 

 心が折れ、怯えと痛みで心が死に、伽藍となった虚無の瞳を見て、ヘラという人格が死んでいるのを確かめて。

 やっと、男は妥協した。尽きぬ憤怒と憎悪に折り合いを付けた。憎しみという感情は消耗品であるはずなのに、一向に尽きる気配のない悪心に理解したのだ。もはや、この憎しみは死した後にも消える事はないのだろうと。己の胸の裡に秘め続ける内に、最早この魂の一部と成り果てたのだと。

 それが答えだった。最も憎悪した女神にあらゆる責め苦を応報として与えても、己の復讐は終わらない。神代に終わりを齎し、人間の時代を世界に満たせた時――はじめて復讐は終わるのだ。

 

 男は、白亜の剣を執る。柄頭に秘めておいた毒液を、細心の注意を払って割いた女神の腹の中に滴らせた。

 

『  ッ! ゥゥ ゥヴ  ヴ   ヴ  ッ ッ!?!?  』

 

 女神がカッと眼を見開く。全身を痙攣させた。滴らせたのはこれまでただの一度も使用したことのない神蛇竜ヒュドラの毒である。

 女神の眼に意志の光が戻っていた。なんと、この期に及んでヘラは自我を残していたのだ。痛みは繰り返される度に鈍くなる……そして自尊心と気位の高さだけで、ヘラは拷問に耐えていたのだ。そしてなんの反応も示さないでいられるようになっていた。

 男は驚く。元気じゃないか、と。呆れた精神力……否、神としての誇り高さ。思うところはあるものの、大したものだと感心させられる。まだこの女神は諦めていなかったのだ。なんとか男を出し抜いてやろうと考えていた。

 

 然し、それは無駄だった。

 

 男の施したあらゆる拷問が児戯に等しい圧倒的な炎苦。魂すらも汚染する全宇宙最強の猛毒は、男の拷問に慣れてしまっていた女神王ヘラをして絶叫させた。

 そして加速度的に心が死んでいく。感覚が無になっていく。次第に動かなくなった女神ヘラは――今度こそ、完全にその魂を死なせてしまった。死なせて、死なせて、と。うわ言のように削がれた唇が紡いでいる。

 げに恐ろしきはヒュドラの神毒。使用した男すらこれほどのものとは思わなかった。変に欲張り猛毒を生成するヒュドラの肝を抜き取って、公然と多用していれば、いつかこの毒の脅威を己も味わっていたかもしれない。そんなもしも(IF)を想像して背筋が凍った。

 

 必要最低限の毒しか入手しなくて正解だった。少し多目に垂らしただけでこれなのだから、きっと我が身の破滅を齎したに違いない。

 あと、使用できる回数は、今回複数回分使ってしまったので矢に塗り撃つだけで使用するなら三回。剣の一閃に用いれば矢の回数二回分か。充分だ。むしろまだ多すぎるかと不安になるほどである。

 

 男は動かなくなり、然し時折り思い出したように痙攣する女神の生きた骸に隠れ兜を被せた。そしてそのまま担ぎ、帰還する事にする。

 この隠れ兜、永遠に紛失扱いにするのもいいが、やはりいつかは冥府神に返還するべきかもしれない。流石に彼の神の至宝を一身上の都合で拝借したままなのは気が咎めるのだ。邪魔になるであろうヘルメスはタルタロスに幽閉されるであろうし、いつかヘルメスが出てきてもなんら問題のない局面まで進んだら隠れ兜を見つけたという事にして返還しようと決める。

 

「……いかん、どうも思考が負のものに引き摺られている」

 

 凄惨な復讐に手を染めていた直後だからだろう。自分でハデスから盗んだわけではないにしろ、彼の神の至宝を勝手に借用していながら、自身の都合で還すタイミングを決めるなど言語道断。素直に謝り、罰を受けるべきである。

 然し……それはできないのだ。冥府神の至宝を盗む事など到底赦されない。ましてや己が隠れ兜を使っていたと露見し、女神王への所業が白日の下に晒されるのは確実。

 罪を告白すれば己は死を賜るだろう。無限の責め苦が待っているだろう。それが怖いわけではない。ただ、成さねばならぬものがあるから……せめて礎を築くまでは死ぬわけにはいかない。

 

 屑である。唾棄すべき逃避だ。男は自嘲した。己の人品が最低最悪である事を自覚せざるを得ない。使命や大義を理由に罪を隠蔽するとは、己も堕ちるところまで堕ちたらしい。

 

 ――そう。応報は此処に。

 

 理性に従えばよかったのだ。満たされる事などないと解っていたのだから。

 だがどうしても、女神王の魂や人格をこの手で滅してやりたいという欲望に、渇望に抗えなかった。

 そして場所が悪かった。神ですら気づけない世界の果ての秘境……それはいい、然しそれは、何があっても()()()()()()()――()()()()()という事でもあるのだ。

 間も悪かった。人間とは()()()()()()()()神々は、女神王の暫定的な後釜を決める会議を行っている。その後にはゼウスがかねてより考えていた、或る悍ましくも管理者である大神らしい議題を出し、それについて会議を白熱させていた。

 故にその惨劇に気づいていなかった。無論オリュンポスに注進に走る神は居た。大地母神のキュベレーと、太陽神ヘリオスである。然し彼らがオリュンポスの神々に危急を告げに行くまでに、惨禍は起こる。必然として、局地的に惨劇は巻き起こされる。

 

「な……」

 

 地上に出て、オリンピアへ帰国していく路についた男、アルケイデスは愕然とした。

 地上が……()()()()()。踏み砕かれている。まるで……そう、まるで()()()()()()()()()()かのように。

 

 ――ヴェスヴィオ山とは、アカイアのペロポネソス半島の西に位置するテュッレーニア、すなわちイタリアにある山岳である。火を噴く巨人ミマースはそのヴェスヴィオ山に下敷きにされ、ヴェスヴィオは火山となるのだ。

 その山から抜け、位相を渡り、人界に出現したミマースはオリュンポス山に……東に向けて進行した。只管に、信じて。仇は東にいると。あの人間は東にいると。――アルケイデスはテュッレーニアの更に西にいたというのに。そんな事など知らぬミマースは東に進撃し、海を渡り、大地を踏み躙り、その途上の悉くを破壊した。自身の異能である火炎を到る所に撒き散らし焦土と化さしめた。

 

 そして、辿り着いてしまったのだ。

 

 アカイアのペロポネソス半島に。その最西部に位置する、新興の国、オリンピアに。

 

「――――」

 

 アルケイデスは破壊の痕跡に巨人の幻影を視た瞬間、駆け出していた。全力で疾走した。何日も休まず走り続けた。休み無く女神に拷問を加えた疲れも無視して。

 激しい動悸がする。草木も尽きた大地を駆け抜けた。その惨禍の後が、自国に近づくほどに新しくなっていく光景に目眩がした。

 

 間に合っていたのだ。三日も、不毛な復讐にかまけていなければ。万全の体勢で迎撃が出来ていた。だが――

 

 

 

 戦士王が帰還した時、オリンピアは瓦礫の山となっていた。炎に焦がされた爪痕が残されていた、

 

 

 

 呆然と、立ち尽くす。そんな馬鹿な、と……間抜けなうめき声すら出てこない。

 最大にして至強の英雄たるアルケイデスならば、単独のギガースなど歯牙にも掛けなかっただろう。

 だがその巨体は、普通の人間には正しく災害の極致である。腕の一薙、蹴りの一撃で人間は蹴散らされ、歩くだけで国は滅ぶ。巨人のその質量だけで武器となり、ギガースの膂力は神に匹敵するのだ。どうして人間に抵抗できよう。

 だが、オリンピアとは地上最強の国家である。鍛えられた戦士団は懸命に戦った、抗ってのけた。巨人ミマースを止め、アカイアの蹂躙を瀬戸際で食い止めたのである。

 

 メドゥーサ扮するスーダグ・マタルヒスがいた。

 ティターン神族の半人半馬、賢者ケイローンがいた。

 半神半人の戦御子ヒッポリュテがいた。

 

 彼らの抵抗に遭ったミマースは、人間に対しては不死身ではない。故に予期せぬ障害に本気で戦った。

 だから。それは必然である。

 マタルヒスはメドゥーサである。その兜を外し真の姿で戦い、魔眼を解放すれば巨人ミマースを石化させてしまえただろう。巨人の石像を作れていた。だが彼女の今生での目的は英雄として、人間として生きる事。ゴルゴンとしての力を振るうことは決してない。例え殺されてでもだ。故に彼女は己の膂力と双剣を武器に、貸し与えられた魔獣に騎乗して戦った。

 ケイローンは神である。故に如何なる攻撃も足止めにしかならない。決定打を放てない彼は援護に徹するしか無かった。

 ヒッポリュテは――鈍っていた。子を生み、育児に専念し、兵の調練は熟すものの、自身の力を維持するのが精々で。彼女は先頭に立ち夫の留守を守るべく、獅子奮迅の働きをしたが、相手が悪かった。ミマースの巨体を退けられない。軍神の戦帯を使い、己の神の血を解放し、魔槍を使っても、人間に対し油断の欠片もないミマースを打倒するには至らなかった。

 

 アルケイデスが異常なのである。彼は地上で――これまで()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。マルスと戦った時以外は。

 なぜなら世界は総じて脆弱に過ぎるから。ヒッポリュテは確かに強い、然しアルケイデスの全力には到底及ばない。夫のように簡単に巨人ギガースを打倒できる訳もない。

 それでも。

 オリンピアは死力を尽くした。

 

 ケルベロス、ディオメデスの人食い馬、エリュマントスの魔猪、クレータの牡牛も戦線に動員され、全力で戦った。

 

 そして、勝った。炎の巨人ミマースを討ち果たしたのである。

 だが被害は余りにも大きかった。多かった。

 国は半壊している。これまで築いた総てが台無しになっている。復興するには十年単位の時が掛かるだろう。アルケイデスは、呆然とするしかない。

 己の不明が、私欲にかまけた罪が、纏めて総て返って来てしまったのだ。

 そしてアルケイデスにとって、最も衝撃的だったのは。

 

 最愛の妻ヒッポリュテが、右腕を失くして眠っている姿であり。

 

 疲労困憊でありながら、休むこと無く民や戦士たちの統率を執るマタルヒスであり。

 

 そして。

 

 ――戦の戦火に巻き込まれぬように、アルケイデスの子ヒュロスとアレクサンドラを乗せて走り。然し幼子には負荷が強すぎるため全力で走れず。逃げようとする()()に気づいたミマースが、オリュンポスに気づかれるわけにはいくかと火炎の旋風を吐き出したのに灼かれ。

 

 然し。

 

 主人の子供達を見事、護りきって、

 

 ()()()()、ケリュネイアの牝鹿の遺体だった。

 

 

 

 

 賢者は忠告していた。警告していた。

 

 ――人としての情を捨てきれない貴方の王道は、どこかで必ず綻ぶでしょう。史に転換を齎す王たらんと欲するなら、今の内に人としての幸福も、人としての情も全て捨ててしまいなさい。私などの拳を甘んじて受ける人らしさなど、王たる者には不要です。

 

 私人としての怨恨を捨て切れなかった、王への報いがそれだった。

 

 

 

 そして、私人として動けなくなった王に早馬が報せに来た。

 

 

 ミュケナイにて叛乱が起こった。

 英雄アトレウスとテュエステス、アイギストスが反旗を翻したのだ。

 そしてエウリュステウスはこれらと相討ち、アトレウスの子アガメムノンがミュケナイ王になったという。

 

 アルケイデスには、どうしようもない。国の復興のために、何を捨ててでも働かねばならず。そしてエウリュステウスの仇を討とうにも、間もなく大神より発された号令により、アガメムノンがアカイアの宗主となった故に手出しが叶わなくなってしまった。

 

 アルケイデスは、動けない。以後十年間に亘り、アルケイデスはオリンピアから離れる事はなかった。

 

 

 

 



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十二幕 人の過ち、英雄の因果、王の責務(下)

何を言われたとて作風は変わりません。悪しからず。
痛快で爽快で主人公側が完璧に善で、一切の失敗も報いも無い感じにはならないので、その点には注意。……これあらすじに付け足すべき?

エピローグです。で、次から最終章。



 オリンピアの民や戦士、官吏の一人に到るまで、戦士王の帰還は歓喜を以て歓迎された。

 神々の命令で参戦したヘラクレスが、国の危急の際に不在であったのは仕方がないと思われたのだ。彼に責任は無いと。誰も……そう、誰も彼を責めなかった。

 ケイローンすらも、王を責めなかった。激しい後悔に襲われる王を、哀しげに見るだけで。その理知の瞳は王が惑っているか、暗君に堕ちるか見定めているようで。無言の激励をされている気がしてならなかった。

 プロメテウスすらも、王を責めない。だが戒めた。誰にも事の真相を語る事は赦さないと。それを口にすれば国は滅ばないまでも、掲げた大義と懐いた使命を損ない、決して成し遂げられなくなると。人心が離れるだけで、民達が夢想する理想の王としての姿を無残に打ち砕く結果にしかならない、と。

 悔やむなら独りで悔やめと、プロメテウスは言った。永劫におまえ一人が背負うべき善意の民()であると監視(共犯)者は断罪する。

 

 プロメテウスは監視者としてゼウスに報告していた。

 

 ヘラクレスが国の危機に不在だったのは、単身ヘラを捜索していたからで、国の危機を悟り駆けつけるも間に合わなかったのだ。そしてオリンピア復興のために捜索を打ち切るしかないのだ――と。

 大神はこれを信じた。自ら監視者を付けた我が子を信じた。故になんの追及もない。国の復興を支援すると、豊穣を約束までした。不作に苦しむ事はないように、と。ギガントマキアでの功績に報いる形で。

 

 王は独り、友を葬送していた。

 

 自らの私怨が友を殺したのだ。ケイローンの予言はこれを暗示していた。そして、これからの王の在り方を見極めるつもりなのだ。

 王は独り、啼いた。オリンピア全体を見渡せる高台に、聖鹿を葬った。その遺体から骨や肉、蹄や角を盗掘されないために焼いて、灰にした物を壺に入れて埋め、自分の手で墓を立てた。然し黄金の双角と青銅の蹄だけは燃え尽きなかった故に持ち帰り、青銅の蹄は生涯手放さず、鎧に固定した。将来牝鹿の双角は、一本を槍としてヒュロスに。一本を剣としてアレクサンドラに与えられた。

 王はケリュネイアの死に失意に沈む。誰の励ましも心に届かず、追撃を掛けるようにヒッポリュテが王に暇を告げに来た。

 

「今のお前は、独りになった方がいい。私を見れば心が痛み、その痛みはお前を傷つけるだろう。アルケイデス、早く立ち直れ。私には解っている。お前が国に帰ってくるのに遅れたのは、ヘラを探していたからではないのだろう? ヘラの行方が知れない、それだけで解る。――私はアマゾネスの国に一度帰る。ヒュロスとアレクサンドラを連れてな。いいか、私達が戻ってきた時、立ち直っていなければ私はお前を軽蔑する。励ましはしないぞ。アルケイデスは、自らの脚で立ち上がれると私は信じている。何……私の事は心配するな。国に帰ればメラニーペとペンテシレイアがいる。妹たちを交互に連れ出して、外の世界を見せてやりたいという気持ちもあるんだ」

 

 そう言って、ヘパイストスから贈られた銀の義腕を装着した戦御子はオリンピアから去って行った。王はそれを止めなかった。

 鍛冶神は、自身のせいで王の妻の腕を失わせ、戦士として再起できない状態にしてしまったと悔やみ、彼女のために義手を造ったのである。銀の腕の原典だ。その思い遣りと誠意は――然し、王の心を傷つけた。

 有り難い。感謝すべきだ。だがヘパイストスの失態の責任は自分にあると王は知っている。なのにそれを告白する事は赦されず、厚意を受けるしかないなど、なんと恥知らずなのか。王は妻の言葉と鍛冶神の心遣いに少なくない衝撃を受けた。

 だが時は止まらない。ひたすら流れるのみ。王は、王である。オリンピアに在っては英雄でも戦士でもなく、王なのだ。立ち止まる事は赦されない。人の心など求められない。また私欲で国に災いを齎した自覚があるだけに、王としての責務を求められるのなら応えない訳にはいかなかった。

 

 ――ヒッポリュテは去った。然し数年の後に帰還するだろう。それまでの間、勇猛なアマゾネスらしからぬ、姉妹との団欒の逸話が散見された。

 彼女が今後表舞台に立つ事はないだろう。義手の宝具を身に着け、戦力的には高まった彼女は、然し一度腕を喪失した事で、まるで憑き物が落ちたように気性が穏やかになり、自ら戦場に立つ事がなくなったのである。

 

 友が死に、妻が去り。王は歯を食いしばって働いた。国の復興を何よりも優先しなければならない。王としての責務であると共に、人としての王は人知れず償う事を求めたのだ。故に恩義あるエウリュステウスの仇も取れないまま、アカイアの宗主となったアガメムノンを捨て置き、かねて繋がりのあった国々との交易を続け、国を富ませるために奔走する。時にはアガメムノンに便宜を払ってもらいまでした。私情を殺して。

 そうして手始めに、雑事としてヘラをプロメテウスに預け、その権能と神格を人理に溶かした。それで終わりだった。あれだけ憎んでいた女神の消失を見届けても、何も達成感はないままで。ただ、虚しかった。一つの区切りがついて、やっと次に進めると心構えが変わるだけで。女神王ヘラは最期の最後に至るまで王の何も救わず、変容させる事はなかったのだ。

 

 一年が過ぎ、更に二年、三年と経ち。国に残された爪痕はまだ癒えない。

 

 ギガントマキアから六年。事件が起こった。

 

 オリュンポスから戦神マルスが離反したのだ。

 

 ――大神ゼウスと反目したのである。ギガントマキア後の女神王選定の後、ゼウスが議題として挙げた件を受け入れなかったのが原因である。

 大神はギリシャ世界の管理者として剪定の時が来たのを告げる。曰く、ヒトの数が増えすぎた。自然との調和が取れなくなる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、何より自身の名を傷つけるのは避けたい。()()()()()()()()()()()()()()()退()()()()()()()()()

 神としてどこまでも正しい。文明の発展は神への敬意を薄れさせ、ひいては自然を崩すもの。人間にだけ肩入れせず、世界そのものの秩序のために大神は必要に迫られて、このような結論を下したのだ。ヒトとヒトを争わせ、戦争という形を執るのも合理的であった。神へ怨みを向けさせないという思惑は、やはり神として最良の選択である。

 大神ゼウスの使命、司るものとしてなんらおかしくはない。咎められるべきではないのだ。ゼウスは行き過ぎた文明の発展を防ぎ、自然とヒトのバランスを保とうとしたのだから。

 

 故に愚かなのは戦神である――とも言えない。

 

 彼が司るのは戦の暗黒面である。彼自身の性質が幾ら変わろうとそれは変わらない。そして戦神個人の信念も変わっていなかった。敢えて戦争を起こし戦争の醜さを知らしめる……それは確かに戦神の司るものとして相応しい在り方だっただろう。

 そして戦神マルスは、父神の決定を是とした。だが同時に反感を懐いた。戦争は醜いと知らしめる好機ではある、だが――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、対象となった国のどちらが勝つかを賭け事の対象にするなど見過ごせるものではない。

 彼は神によるマッチポンプを嫌悪した、それだけである。神による作為的な間引きを是としていながら、大神の提案による戦争を唾棄し、大神の命令で自身の属神エリスにより不和を起こして戦争を起こす事など断固として拒絶したのだ。

 

 ゼウスは正しいが、マルスも正しい。ゼウスが大神として決定したのに対し、マルスは戦神として真っ向から拒んだのみなのである。

 

 だがマルスの力を危険視していたゼウスは、マルスの反抗を赦さなかった。彼の神格を取り上げようとして――然し自分がいなくなれば誰もゼウスを止められない故に、マルスはオリュンポスより離反してゼウスの下を去ったのだ。去り際にこう言い残し。

 

『戦争を起こすってんなら“敵”が必要だろ? なら俺がなってやるよ。掛かってこい、俺が敵として親父が味方する国の反対に付く』

 

 それは彼なりの、親に対する孝行でもあった。自分に取れる裁量の中で、なんとか折り合いをつけての苦渋の決断だった。神によるマッチポンプの戦争は認められない、然しゼウスの意向に反してしまうのも避けたい、ならこうするのがいいのだと。

 だがゼウスはそれに激怒した。そんな真似をされれば神が裏にいるのが明らかになってしまう。そしてマルスが離反したためにもはや戦争を起こす不和の種が撒けず、そして神々の王として自身に逆らったマルスを捨て置けなくなったのだ。マルスを罰するためにも戦争を起こさねば面目に関わるようにされてしまったのである。

 ゼウスは確信した。マルスは自分から世界の支配権を簒奪する気なのだと。マルスこそが自分の予言の相手である可能性があると。超えたはずの運命は、然しまだ己の足に手を掛けていると。――ゼウスもまた己の子から王位を奪われると、かつて予言されていて。それを避けるために運命の三女神を支配し、予言の子が生まれるのを避けるためにアテナの母を丸呑みにまでしたというのに、まだ予言の力が残っていると錯誤した。

 

 そう錯覚させてしまうほどに、マルスは強大で脅威なのである。支配者故の思い込みだった。

 

 斯くして戦争が起こされる。ゼウスの命令を受けて、アガメムノンがアカイアの連合軍を結成してトロイアに攻め込んだのだ。

 大義名分など要らない。何故なら神意である。神命である。若く、野心家であるアガメムノンは、ゼウスの命令に喜んで従った。勝てば褒美は思いのままであると言われ、アガメムノンが猛らない道理はない。神意という錦の旗を手に入れたアガメムノンは、アカイアの勇士達を従わせ進軍する。

 そしてアカイアにゼウスが付いた為に、マルスはトロイアに付いた。トロイアの守護神として、襲い掛かる神々を蹴散らし続け、時にはアテナと戦いまでして撃退した。

 

 これにより、ギリシャに未曾有の戦争が勃発する。

 

 オリンピアは、まだ関われる国力を持たない。トロイアの姫カッサンドラは予言した――太陽神から授かった力で。

 

「トロイアは滅びるでしょう。それを避けるために、オリンピアに援軍の要請を! 彼の国の王なら、要請があれば大義を得られ、単身でも駆けつけてくれる」

 

 だが、同時に太陽神の呪いにより、その予言を誰も信じなかった。

 オリンピアはアカイアの国である。ミュケナイのアガメムノンを宗主とする国で、支援も受けていた。

 トロイア攻めに参加しなかった、これがオリンピアに取れる最大の支援である。国の見解はそれで、非の打ち所のない意見である。事実オリンピアに大義はないのだ。トロイアとミュケナイ、双方から支援を受けていた以上、どちらかに肩入れする事はできない。ヘクトールですら、アガメムノンの参戦要請を蹴ったオリンピア王に感謝して、関わって来ない事に安堵しただけなのである。

 

 王として、それが正しい。

 国として、それが正しい。

 

 カッサンドラは、悲愴な決意を固める。こうなれば、予言の力になど頼らず、自身の力でオリンピアに赴き助力を得るしか無いと。

 トロイアの滅亡を避けるため。愛する家族と、民達のためには、オリンピアの王の力が必要不可欠なのだ。

 

 だが所詮は非力な乙女。彼女は王宮から出られない。自身の一存で遣いを出そうにも赦しが出ない。

 彼女の救難信号はオリンピアに届かなかった。

 

 トロイア戦争の幕開けである。

 

 そして――カッサンドラの声は、オリンピア復興が成った五年後。すなわちギガントマキアより十五年の歳月を隔て、届く事になる。

 

 妹の嘆願に、根負けしたパリス。ヘクトールの弟である彼が、アカイアの連合軍の包囲を抜け、オリンピアにやって来たのだ。

 

 

 

 

 

 ――アルケイデス、五十五歳。冬。病床に伏せていた彼は、間もなく息を引き取ろうとしていた故に、援軍としてトロイアに駆けつける事はできない定めにある。

 代わりに自身の息子と娘、腹心のマタルヒスを派遣するのが精々で。彼自身はその年に没するはずだった。

 

 それが正史だ。まだ辛うじて剪定や、人類史に於ける特異点化を避けられる、ギリギリの転換点。カッサンドラの悲嘆は届かないのが運命である。

 

 だが、()()()()が、運命を捻じ曲げる。或る神が王に秘宝を与えた故に、王女の嘆願は戦士王に届いてしまった。

 

 戦士王アルケイデスは、既に死んでいて。然しその遺体を、アルケイデスの魂は駆動させる事ができた。

 

 彼の手には、()()()()が在った。

 

 

 

第■特異点 BC1503 神権禅譲戦国【トロイア】

 

 

 

 ――此処に開幕。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




年代は捏造。正確な年代は不明(作者調べでは)だから。
それと第ほにゃらら特異点の難易度おかしい、第なんとか特異点でいきなり紀元前の神代とかおかしい、という点は仕様ですとしか返せません。
だってこれがやりたいがために書き出した面もあるので、そこを否定されるとこの二次創作は破綻します。

こういう作品なのだとご了承いただけましたら幸いです。


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外伝 神権禅譲戦国【トロイア】
序幕 三千五年後の未来から


カルデアは勝つもよし、負けるもよし。カルデア側が負けたらこの世界線は焼却される。sn編は別の世界線の正史から来た的な感じになるだけなので。二次創作なのだ、特異点側が勝ってもいいじゃない。逆にカルデア勝って王道!ってなってもいいじゃない。

この精神で書いていく所存。

それから。

――いったいいつから、原作通りの陣容だと錯覚していた……?



 AC2015 南極 5/25 06:31 p.m.

 

 

 

 ぴ、ぴ――ピッ、ぴ……。

 

 魔と物理、双方の観点から徹底して不浄を排された無菌病室(クリーンルーム)に木霊する電子音。

 計測されているのは生体の命脈。脳波・心音・血圧にはじまり、魔術回路・レイシフト適性・マスター適性、それらを総括した人間のあらゆる生命属性である。

 隔離された病棟内部は、空調設備により清浄な無菌状態を保持されている。もはや、このカルデアの生命線とも、儚い人理の命綱とも言える白い少女は、医療カプセルの中で静かに眠っている。さながら死んでいる様だと、青年は沈痛な表情で経過を見守っていた。

 

 銃弾程度なら問題なく跳ね返す硝子張りの窓から病室を眺める青年は、名をロマニ・アーキマンといった。彼はここ、人理継続保障機関フィニス・カルデアに於いて、所長代理として指揮を執る最上位意思決定者である。

 

 人類の裏切り者レフ・ライノールによるカルデアの破壊工作により、多くのカルデア職員は殉職した。そしてカルデアの所長オルガマリー・アニムスフィアも死亡したが為に、本来その職掌を担うはずもなかったロマニが所長代理として、適性があるとは言えない指揮官の役を熟す羽目になったのだ。

 人類史焼却の謎。それを解明し、人理を修復する事こそがカルデアの使命。おそらくカルデアの外部が焼却されている今、此処こそが人類最後の砦であり。何を犠牲にしても、人理定礎の復元を絶対に失敗するわけにはいかない戦場に挑まねばならないのだ。

 

 切り札であるA班は壊滅した。

 彼らを除くマスター候補も壊滅した。

 一般公募枠のマスター候補はそもそも見つからなかった。

 

 ――此処に、マスター適性とレイシフト適性を持つ一般人。異なる世界線に於いては人類最後のマスターで、カルデアのデミ・サーヴァントから『先輩』と呼ばれ慕われる少年、或いは少女はいなかった。

 だから、必然。()()()()()()()だけで奇跡なのだ。

 

「ドクター、異常はありませんでしたか?」

 

 検査が終わり、眼を覚ました英霊憑依召喚実験の検体、マシュ・キリエライトが声を掛けてくる。ロマニは努めて柔和で、どこか間が抜けている様な表情を作り応対する。

 

「――ああ。至って健康そのものだ。凄いなマシュは」

「ぁ……」

 

 英霊ギャラハッドのデミ・サーヴァント、マシュはロマニに髪を梳く様に頭を撫でられ、心地良さげに眼を細めた。

 ロマニは人の心の症状に関しては専門外だ。然し仮にも最先端技術の結集するカルデアにて、その医療部門のトップに立つ男である。専門ではないが、ある程度の知識は保有している。そんなロマニの眼から見て、マシュの精神は病んでいた。いや、病むというほど深刻なものではない。まだ辛うじて健常の域に留まっている。

 マシュは、ロマニに依存していた。彼がいなければ、彼女は立ち上がれないほどに、心の拠り所にしていた。

 

 ――あの運命の日。カルデアが爆破された時。マシュは瓦礫の下敷きになり、腰から下が押し潰され死ぬ寸前であったという。

 

 特異点F……冬木。その地に事故でレイシフトさせられたマシュは半死半生……いや、既に死亡するまで間もなかった。だがマシュは自らの死による意識の断絶の間際、ふとロマニの事を思い出したのだという。

 何かと気にかけてくれて。様々な知識を与えてくれて。カルデアの中で遠巻きにされている中、マシュに親身になってくれた数少ない優しい青年。知識の上でしか知らないものだったが、まるで――おとうさん、みたいで。また会いたいと……話がしたいと、思い。聡明な知性を持つマシュは、この後カルデアが壊滅し、人理が滅び去ると理解してしまっていた。

 守りたい。助けて。その二つの思いが純粋なものだったからだろう。彼女の身に宿らされていた英霊は、マシュの求めに応え、彼女はデミ・サーヴァントとして成立した。

 

 マシュは懸命に立ち上がったが、独りでは余りに弱かった。

 

 だって彼女は――普通の、女の子だったから。戦いになんて向いていない心優しく、臆病な少女だったから。

 オルガマリーと合流し、カルデアと通信が繋がった時点で、マシュは心労で顔色を青くしていた。ロマニが通信に出るとマシュは泣き出して。宥めるのに苦労して。

 戦ってもらわねばならなかった。

 歯を食い縛りマシュは戦った。傍に誰もいない孤独な戦いに挑まざるを得なかった。はじめて英霊召喚を、デミ・サーヴァントの身で行い、マスターとして……盾の憑依英霊として戦場に赴いた。

 

 恐らくその初の英霊召喚で彼を――狂戦士の座で招かれた湖の騎士を呼び出せていなければ、マシュは冬木で斃れていただろう。

 

 湖の騎士は単純に強かったのもあるが、何より彼女の中の霊基の繋がりからかマシュを安心させてくれた。心強いという感情が湧いてきて、親身に接する事ができた。

 然し彼と共に戦い、キャスターの座で現界していたアイルランドの光の御子と共に戦うも。冬木の聖杯を確保したマシュはレフの裏切りを知って、オルガマリーの死を目の当たりにしてしまう。

 傷ついただろう。レフはロマニと同じで何かとマシュを気にかけてくれていたから。だから――デミ・サーヴァントではない素のマシュはもう、ロマニに縋らなければ立ち上がれない少女になってしまった。

 

 訓練と、検査、レイシフトしている時以外は、常にロマニが傍にいないと落ち着けない。特異点に挑んでいても、頻繁に通信を行ってロマニと会話しようとしていた。

 傍で誰かが支えてくれない心細さが強いのだろう。湖の騎士が傍にいないと戦場でも怯えてしまう。怯えて逃げてしまいたくなる。マシュは、二人きりになると、ロマニを『ドクター』ではなく……おとうさんと、呼んでもいいでしょうか……? なんて。照れたような、縋るような、怯えたような目で甘えてきた。

 ロマニは受け入れた。彼女には心の支えが必要で、それは自分にしかできなかったから。

 

 そうしてフランスを駆け抜けた。

 ローマで死力を尽くした。

 

 第一特異点のフランスで、彼女の召喚に太陽の騎士が応えて。第二特異点のローマで哀しみの子の名を持つ弓騎士が応えた。

 奇しくも円卓の騎士のサーヴァントが、マシュの元に集い。辛い戦いを乗り越えてこれた。

 

 様々な出会いと、別れがあり。マシュは確かに成長している。然しそれでも、だからこそなのか。尚の事ロマニへの依存は深まり、カルデアにいるマシュと、特異点という戦場に立つマシュは二面化しつつある。

 カルデアのマシュは普通の女の子で、甘えん坊。

 戦場に立つマシュは円卓の騎士を従える、マスターにしてデミ・サーヴァント。

 生身を持ち、カルデアからの魔力供給があるため、マシュには寄りかかれるマスターは不要だった。例えいたとしても、あくまで心の支えでしかなかったかもしれない。

 

「ドクター、お勉強しましょう。私はまだまだですから、もっと知識を蓄えねばなりません」

「そうかい? マシュはすごいな、ボクなんか隙あらばだらけていたいなぁ……」

「ふふ。そんな事を言ってますけど、私知ってるんですよ? ドクターが頑張ってる事ぐらい。皆さんもそうですけど、ドクターは一番忙しなく働き通しじゃないですか」

 

 食堂で夕食を摂る。注文を頼む。

 人目があるからだろう、マシュはロマニを『ドクター』と呼んでいた。甘えん坊な顔が覗くのは、二人きりでいる時の心の聖域がなければならないという想いがマシュにはある。

 微笑ましいが、良くない傾向だ。だがこの緊急事態の中では、それで精神が安定するなら受け入れねばならない。チクリと心が痛むのを堪えた。ロマニは微笑む。極めて自然に。総ては、マシュを安心させてやるためだけに。

 

「所長代理! ドクター・ロマン、大変です!」

「――どうかしたのかい? 落ち着いて」

 

 食事中に部下の職員が駆け寄ってくる。それに、父娘(ふたり)の時間を邪魔されたと思ったのか、マシュは可愛らしくむくれていた。ロマニはそれに苦笑しつつも部下を迎え、慌てている訳を訊ねる。

 心優しい職員である。マシュがいるのに気づくと目を見開き、動揺を呑み込むとごめんねと謝って。マシュがいいですよ、なんてむくれながら溢すのに苦笑しつつ、ロマニに耳打ちする。その時には声と顔は強張っていた。

 

「新たな特異点の座標を特定しました」

「――ついにか。うん、そろそろだとは思っていたよ。けどどうしてそこまで慌ててるんだい? いつかは来ると解ってたはずだよ」

「それが。……落ち着いて聞いてください。――発見した特異点の年代は、紀元前。神代です」

「―――」

「それも反応が強すぎて、後回しにして他の特異点を探ろうにも、観測できない不具合があります。西暦以降の近代に近い特異点の座標の特定は……不可能だと、ダ・ヴィンチちゃんさんが……」

「ッ! ……は、ははは……ダ・ヴィンチ『ちゃん』『さん』? どっちだよそれっ」

 

 ロマニはマシュの手前、情けない悲鳴を上げそうになるのを必死に飲み込み、職員の可笑しな呼称に笑ってみせた。

 何か不穏な気配を感じ不安そうに瞳を揺らしていたマシュはそれで安心した。体が弛緩する。

 

 今は、駄目だ。今のマシュは『女の子のマシュ』だから。彼女の二面性の片割れは、余りにも柔らかく、脆い。『マスター兼デミ・サーヴァントのマシュ』になるまでは。自己暗示で切り替えるまでは、マシュには何も言えない。

 部下は下がらせ、レイシフトの準備をさせる。そしてマシュに一言断った。ごめん、ちょっと手洗いに行ってくるよ、と。マシュは、はい、と大人しく食堂で待った。間もなく注文したご飯が届くから、それまでには戻るよと。

 職員は心得たもので、食堂の外でロマニが出てくるのを待っていた。そしてモニターを見せてくる。これを、と。目をザッと走らせて、ロマニの目元が険しくなった。

 

 ――なんだこれ……。特異点反応が強すぎる。これじゃあ確かに報告通りだ。()()()()()()()()()()。それに……()()()、神代だって? 場所は地中海、年代と地域からギリシャ神話が関わってるのは確実じゃないかっ! 特異点化の原因はなんだ? 人理定礎が崩壊するほどの歴史なんて……オリンピアかな? ……いやトロイア戦争? それともエジプトとヒッタイトの戦争? いやいやあのえげつない神様連中が関わってるのかも……いずれにしろ、()()()に挑んでいい所じゃないっ!

 

 だが、やらねばならないのだ。ロマニは唇を噛む。

 この特異点反応の強さは異常だ。西暦以前の……紀元前へのレイシフトのノウハウなんて無いのに、そこにしか跳べず。そして確実にレイシフトが成功してしまうような、そんな特異極まる時代。それが意味するのは……。

 

 ――急いでいかないといけないほど、人理定礎が崩壊している……? それともこんな反応が出てしまうほど()()()()()が待ち構えてるのか?

 

 今のマシュが挑んで、勝てるのか。乗り越えられるのか。ロマニの胸中は荒れた。

 然し現実は変わらない。此処しか特異点を特定できないなら、ここを超えねば人類史は焼却される。人類は滅びる。いや、既に燃え尽き滅んでいるが、その復元を成す事が叶わなくなる。

 ロマニは肚を据えた。マシュに挑ませるしかない。ロマニが早々に覚悟を決められたのは、自身がマシュの心の拠り所であるという意識があるからで。マシュを安心させられるのが自分しかいないからで。彼女のために、ロマニは心を固めざるを得ない。

 

 食堂に戻り、席を外したことをマシュに謝って、一緒に和やかにご飯を食べて。

 

 そして彼女のマイルームで話をする。ただ一緒にいるだけでいい。その傍らでロマニはそれとなく事前知識をマシュに仕込むことにした。

 元々マシュは豊富な知識を持っている。然し予習復習はしなくていいわけではない。

 

「マシュはギリシャ神話についてどこまで知ってる?」

「ギリシャ神話ですか? えっと、おおよそは。メジャーでポピュラーな神話ですし、()()()()が思ってるほど知識に穴はないはずです」

「そうかな? それは心強い。じゃあ問題だ。こんな諺を知ってるかい?『まるでヒッポリュテを前にしたヘラクレスのようだ』とか』

「はい。どんなに豪胆な英雄でも、恋をした乙女の前では()()()()になってしまう様を表したものですよね」

「うん、そうだね。じゃあ『テセウスとペンテシレイア』っていうのは?」

「む。……えっと、たしか、一つの事柄に於いて、望外の幸運を得たヒトと、割を食ってしまったヒトがいる事……でしたよね」

「そうだぞ。偉いじゃないか。ちゃんと勉強してたんだね」

「もちろんです!」

 

 えへんと胸を張るマシュに微笑んだ。

 敏い子だ。そうして、暫くギリシャ神話について話していると、彼女は徐々に『マスター』としての顔に変わっていく。

 空気が固くなっていくのを感じて。彼女の傍に寄り添っていた小動物、白い毛玉のようなフォウが小さく鳴いた。ふぉぅ、と。マシュは、云う。

 

()()()()。……次のレイシフトが、近いんですね」

「――ああ」

「ギリシャ、ですか……? それとも、この前みたいにローマが関わってくるのでしょうか……?」

「ああ。多分、ローマに密接に関わるから、その縁かもしれないし、そうじゃないかもしれない。ただ今度レイシフトする時代は――神代になる」

 

 ロマニの言葉に、マシュは目を見開く。然し、マスターであるマシュは、決然と頷くのだ。怯えを隠し、()()()()()()、そしてカルデアのため。彼女は戦う。

 青年は思う。そんな事のために戦わなくてもいいんだよ、と。

 自分のため、生きるために戦ってもいいんだ、と。

 だがそんな事は言えない。彼女の寿命は、あと一年も保たないのだ。そんな彼女に生きるために戦ってくれなんて、そんな残酷な事は言えない。せめて自分からそう思えるようになってほしいと、ロマニには祈るしかなくて。そう思えるようになれる事を、なんとか支援するしかない。

 

 マシュが準備のために仕度をするのを見ながら、青年は慚愧の念に胸を締め付けられる。誰か――マシュを救ってやってくれと。自分じゃ無理だと泣き言を溢してしまいたくなりながら。けれど決して投げ出さず、ロマニはあくまでマシュの味方で居続ける。

 人類の味方ではなく、一人の少女の味方。そうしてやるしか、ロマニにはできない。

 戦いの時が来る。恐らくこの人理を巡る旅路の中で、一、二を争う熾烈な戦いが。レイシフトするためにコフィンに入るマシュを見る。戦闘服の礼装を身に着け、彼女のためにオーダーメイドされた防護服と外套を装備させ。ロマニは自分の白衣をマシュに持たせた。

 

 湖の騎士、太陽の騎士、弓の騎士。彼らに頼む。マシュを守ってあげてくれ、と。

 

 円卓の騎士達は、静かに頷いた。体を彼らは守る。そして、心を守るのは貴方だと。我らは戦友だと。

 

 

 

 そうして、レイシフトした先で彼らは出会う。

 

 

 

 このギリシャの特異点で、彼らを導く放浪の賢者と。そして――マシュは、人理のために、()()()()に加担せざるを得ない事を知るのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 




ころやん氏! 以前貴公が感想にくれた故事ネタついに使ったどぉ!
ありがとう。そしてやっと約束を果たした……わ、忘れてなんかなかったんだからね! ほんとなんだからね! この場面で使う気だったんだ。
(テセウスとペンテシレイア)
(まるでヒッポリュテを前にしたヘラクレスのようだ)

それから、カウンター鯖は特異点の黒幕が鯖を呼んでないと出てこないっぽい設定だったはずだけど(うろ覚え)、例外として何騎かカウンターで出てきます。何へのカウンターなのか? ……敵脅威度に応じて黒幕側に鯖いないのに出てきたのさ……(人理の抵抗)


そしてこの世界線のカルデアに、作中にあるように藤丸立香はいない。カルデアに招かれてすらいない。スカッちゃったんだ、スカウトの人。原作とは違う世界線だからね、仕方ない。

マシュがデミ鯖兼マスター。けど専らマスター業に専念してて、現段階では指揮に専念してる。胸にあるのは「先輩」ではなく「ドクター」というお父さんを助けたい、カルデアの皆のために頑張るといった想い。

そんな彼女の鯖は現在三騎。
ガウェインでセイバー枠
ランスロットでバーサーカー枠
トリスタンでアーチャー枠

現地戦力は現在未公開。ただカウンター鯖の数は四が限度かな。七じゃないのは、アルケイデスが鯖召喚するわけないから。彼個人へのカウンターで四騎は来る。絶対に来ないのは、冬木第五次勢。


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第一節 放浪の賢者(前編)

今日二回目。前のも見落とさないでね。




 

 

 

 疑似霊子変換投射(レイシフト)は無事に完了した。

 レイシフト。其れは人間を擬似霊子化し、生命の持つ魂をデータ化させ、異なる時間軸、異なる位相に送り込み、これを証明する空間航法である。

 遥か未来、約三千五百年先から時間を超え渡って来た少女は、まず周囲の光景を確認――しなかった。真っ先にカルデアとの通信を試み、大切な人の顔を見て、声を聞く。

 

「こちらマシュ・キリエライト。ドクター、聞こえますか?」

『――ああ、幸い今の通信状況は良好だよ。そっちの状況はどうだい?』

 

 若干ノイズが掛かっているものの、マシュは確かに映ったロマニの顔を見て。彼の声を聞いて。ホッと胸を撫で下ろした。そしてロマニの質問に慌てて周囲を見渡す。

 実体化した黒騎士がマスターの周囲を警戒している。その左手にはカルデアから支給された短機関銃、右手には鉄剣が握られている。彼は心得たもので、レイシフト直後のマスター・マシュの隙が大きい事を狂化していながら理解し、独断で彼女の身辺を警戒していたのである。それにマシュは眉を落とし謝罪する。

 

「あ……すみません、ランスロット卿。気が抜けてました」

「Ga……lahad……」

「――ランスロット卿、マスターは反省しているらしい。余り責めてはなりませんよ」

 

 ランスロットに続いて実体化したのは円卓随一の弓騎士トリスタンである。

 生前からの彼の友人が窘めるのに、黒騎士は無言で一瞥を返したのみだった。

 トリスタンがその無愛想な様子に嘆くのに、太陽の騎士が実体化しマシュの脇を固めながら苦笑した。

 

「ああ……私は哀しい。ランスロット卿、卿が狂化しているからか、無二の友である私とすら話が通じないとは……」

「嘆くことはありませんよ、トリスタン卿。ランスロット卿は貴公の諫言が云うまでもない事だから無視したのです。ランスロット卿は心配するほど怒ってはいません」

「………」

 

 マシュには黒騎士が何を言っているのか、また何を思っているのかが朧気に理解できるのだが、それは言わずにおいた。隠しておこうと考えたのではなく、特に発言する意味を見いだせなかったのだ。

 ……()()()()()()()()()()()()()。理由は、それだけである。事実狂戦士のサーヴァントと他のサーヴァントが、意思の疎通を万全に行えるとも思えない。ならばマスターである自分との意思疎通が叶っている今、問題視する必要性がないと判断したまで。合理的である。

 

 円卓を代表する三騎士は、自然体のまま既にその心身は戦場の騎士のものへと切り替えられている。例えどれほど油断しているように見えても、彼らには微塵も隙がない。

 彼らは心底から自らのマスター、マシュを守護する使命感に燃えているのだ。か弱い乙女であるのもある、然し何よりも彼女の精神性からその危うさを悟り、身命に替えてでも守り抜くと誓っていた。その為なら騎士の道に背く事になっても構わないとまで。

 黒騎士に到っては、そんな雑念すら無く一切の躊躇なく剣を振るうだろう。例え相手が女子供の姿形をしていたとしてもだ。敵なら殺すのである。狂戦士である彼には容赦がなく、手加減などするはずもない。

 

 裏にある覚悟を露ほども感じさせない、和やかな騎士達の遣り取りにマシュ・キリエライトは微笑む。そしてトリスタンに訊ねた。

 

「トリスタン卿、ご歓談のところ申し訳ありませんが、周囲の索敵をお願いしてもいいでしょうか?」

「構いませんよ、マスター。では……」

 

 トリスタンは柔和に応じる。幸いにもレイシフトした先は拓けた土地である。彼の視力を以てすれば労せず遠くまで見渡せるのだ。

 常は閉じている双眸を開き、彼は辺り一帯を隈なく見渡した。円卓一の美丈夫という謳い文句に偽り無く、その所作全てに華がある。マシュには効果はないが。

 

「終わりました。報告致します。脅威となるエネミーは今のところ見当たりません。前方に海岸、右方に城塞都市、左方に小規模の森林、後方には何もありません」

「海岸? えっと……ドクター?」

『うん、トリスタン卿の言う通りだよ。補足すると年代は紀元前1503年、時間は午後の三時過ぎほどで、君達の向いている方角が西だ。都市があるのが北だよ。それから……現在地は、その時代で言うイオルコスだね』

 

 ロマニの補足にマシュは呟く。イオルコスですか、と。

 それは国名である。彼女の知識の中にもあった。もちろんサーヴァントである円卓の騎士達も生前から識っている。

 

「――というと、()()イアソン王が治める国ですね」

「ええ。彼のオリンピア王ヘラクレスの盟友であり、アルゴナイタイのリーダーです。然し正確な年代は分かりかねますが、もしかすると()()()()()()()と同じ時代なのかもしれないのですね……」

 

 嬉しそうに、滾るものがあるように、太陽の騎士ガウェインが溢す。

 アーサー王伝説にあるように、彼らの時代ですらヘラクレスと云えば稀代の戦士で、比類無き無双の大英雄なのだ。その王道、武勇伝は騎士達には学べる所が多々あり、彼に憧れて剣を執る者もいたほどである。

 在りし日のアーサー王など、中道の剣マルミアドワーズを発掘した時の喜び様は、まるで童心に返ったかのようなはしゃぎぶりであった。その様を思い返し、ガウェインは微笑む。その後に剣に認められず意気消沈し、皆の生暖かい視線に気づくや顔を真っ赤にしながら俯いたアーサー王を見て、人の心がきちんとあったのだとなんとなく親近感を感じた者が多く居た。

 

 もしかすると、生前のヘラクレスと出会えるかもしれない。それは円卓の騎士に限らず、近代の偉人に至る総ての英霊が期待に胸を躍らせるものだった。

 騎士の道を志した時、至強の大英雄に憧れなかった者はいない。あらゆる勇士、勇者の原点にして頂点とまで讃えられる、無双の勲を手にした戦士の中の戦士なのだから。

 

『マシュ、方針を決めよう』

 

 ロマニが作戦を伝える。真面目に少女は頷いた。

 

「はい」

『まずはやっぱり現地の人と接触して情報を集めるべきだね。特異点化の原因を探るんだ。後、マシュ……すまないけど、今後はいつも通信が安定しているわけじゃない。時には音信不通にもなるだろう』

「え?」

『――けど忘れないでくれ。ボクはいつも君を見守っている。カルデアで待っている。だから無事に帰ってきてくれ。約束だ』

「……はい」

『円卓の騎士の皆、どうかマシュを……お願いするよ』

 

 ロマニの言葉に、マシュは露骨に動揺した。

 通信が安定しない、それはつまりロマニと話せないという事。不安そうにする彼女だが、ロマニの励ましを受けてなんとか頷く。騎士達も言われるまでもないと首肯した。

 

 仕方がないのだとマシュは理解している。西暦より過去へのレイシフトは余りにも成功率が低く、管制室のスタッフ全員が一丸になっても、紀元前へのレイシフト証明は膨大な時間がかかるのだ。

 今回なんてなんのノウハウもない。この第三特異点の反応が余りにも強かったから、なんとかノウハウを築きながら存在証明を確立させ、意味消失を防いでいる。カルデアのスタッフも戦っているのだ。そして勝ち続けている。だからここにマシュは存在できている。

 私は、ひとりじゃない。懸命にマシュは自分にそう言い聞かせた。震えそうだった。

 

「然しイオルコスですか。イアソン王の治める」

 

 空気を変えるようにトリスタンが呟く。彼は空気は読めない、然しか弱い少女の不安ぐらいは察せられた。同じく空気の読めないガウェインだが、これの話題に乗った。

 不和によって円卓は崩壊したという。然し彼らは一致団結していた。今の彼らに生前のしがらみはない。マシュを守るという意思の下、一枚岩となっていた。

 

「マスター、私はイオルコスのイアソン王について詳しくありません。どうかご教授いただけませんか?」

「え?」

 

 もちろん嘘だ。ガウェインはイアソンについて生前から識っている。サーヴァントとなってからは知識の穴が埋められているし、何よりマシュの持つ知識を共有しているため知らないはずがないのだ。

 だがマシュの心を励まし、会話をするために嘘を吐いた。優しい嘘だった。マシュはそれには気づかず、彼の言葉を真に受けて、馬鹿にするでも呆れるでもなく淡々と解説する。

 

「えっと、ガウェイン卿はアルゴナイタイの冒険についてはご存知ですか?」

「ええ、それはもちろん。然しそれ以後のイアソン王は特に武名を轟かせたわけでもありませんからね……いやはや自身の無知が情けない。教養についても修めていたのですが、恥ずかしい限りです」

「いえ別に恥じることはないと思います。なぜならイアソン王はアルゴナイタイと旅をして、イオルコスの王になった以降は、カリュドンの猪狩りに参加しただけですから。帰国した彼は宰相のイドモンに『王なのに国を空けてまで英雄ぶりたいとは滑稽だな。おまえはヘラクレスではない、似合わん真似はやめて大人しく国にいろ』と諌められ、以後は統治に専念していたので名を上げる機会はなかったんです」

「ほう……」

「ただその統治は優れたものだったらしいですね。施行された政策は独りよがりで欠陥だらけだと、諸国を旅して廻っていたイオラオスに酷評されてますが、そこをイドモンの補佐で真っ当なものに修正して上手くやっていたみたいです。これもイオラオスの記録ですが『性根の螺子曲がった者同士、上手く噛み合って奇跡的に真っ当な治世を築けている』とあります。そこからの記録はどこにも残されていませんし、神話にも語られていませんが、最後に一回だけイオルコスとイアソンの名前が出てくるところがあるんですよ」

「それはいったい?」

 

 要所要所で相槌を打つガウェインに、マシュは澱みなく話す。話している内に気が紛れてきたのか、顔色は良くなりつつあった。

 ふと、黒騎士が左右を見渡す。それに気づいたのはトリスタンだ。「どうかしたのですかランスロット卿」と声を掛けられるも、彼は怪訝そうにしているだけで、頻りに周囲を気にしている。トリスタンはそれに何を感じたのか、黒騎士に倣ってそれとなく周囲に視線を走らせる。

 

「トロイア戦争です。大神ゼウスの神意を受けたミュケナイ王アガメムノンに圧力が掛けられ、アカイアの連合軍に加わるようにイオルコスは要請されました。然しイアソン王はこれを断ります。復興の最中にある盟友の国の支援に忙しい、と。然しアガメムノンはこれに腹を立て、イオルコスに攻め込んだのです。その動きは電撃的で、イアソン王は嘗ての仲間達に助けを求めるも、応えた英雄達は間に合わずイオルコスは陥落。イアソン王は命からがら逃げ出すのですが、盟友のテラモンの許に落ち延びている最中にアガメムノンの軍に見つかり、討たれてしまいます」

「それは……なんとも。……ん? どうかしましたか、ランスロット卿、トリスタン卿」

 

 解説している内に熱が入ってきたのか、マシュは更に続ける。

 が、その横でガウェインはランスロットらの様子に気がついた。何事かと訊ねるのを尻目に、マシュは気持ちよく説明する。

 別の事に目を向け、意図的に不安を忘れようと彼女なりに必死なのだ。だから騎士達は責めない。迂闊だと指摘しない。

 

「これによってオリンピアの復興は遅れる事になりました。またアガメムノンはヘラクレスを恐れ、同時に自身の招集に応えなかった彼を疎ましく思って、イオルコスに続いてサラミス島にも攻め込みます。テラモンは妻のメディアの知恵と魔術の力を借りて撃退に乗り出すのですが、さしものメディアもアカイア軍の物量には押され、危ない所にまで追い詰められるのですが、この時十代に差し掛かったばかりの幼い王女、後の英雄旅団の二代目頭領となるアイアス――大アイアスが初陣として出陣し、ついにはアカイア軍の上陸部隊を押し返して、メディアの魔術によってアカイア軍はサラミス島への道を閉ざされ諦めました。この時、メディアは深手を負ったらしく、これを恨んだ大アイアスは、成人するとアカイア軍への復讐のためにトロイア戦争に参戦し、トロイア側に味方して活躍する事になります。許嫁のヒュロスとはこの時に夫婦になったそうです。……って、ガウェイン卿? 聞いて――」

 

「――――aaaaaaaaaッッッ!!」

「何者です! 姿を見せなさいッ!」

 

 黒騎士が宝具化した短機関銃を構え、鉄剣を抜き放っている。そして威嚇のためか咆哮した。同時にガウェインは太陽の聖剣を抜き放ち、トリスタンは薄く目を開いてその竪琴の弓に指を添えた。

 目を白黒させるマシュの耳に、ロマニからの警告が届く。

 

『マシュ! 警戒してくれ、君の近くに生体反応があるッ! くそっ、なんで気づかなかった!?』

「えっ? ……っ!」

 

「――何処からともなく聞こえてくる、姿のない声。見たこともないような鎧に身を包む腕利きの戦士が三人。不思議な装いと不可思議な気配の少女。そしてあたかも見てきたように語られる知識か。興味深いな」

 

 そっと、耳元で囁かれた声に、マシュは咄嗟に飛び退いた。マシュの後背に突如現れた風除けの外套とフードを纏う人影に、出し抜かれた形でマスターへの接近を赦してしまったトリスタンとガウェインは驚愕する。そしてその驚愕のために一瞬反応が遅れ。――然し狂戦士である黒騎士に、そんな驚き(余分)など絶無である。即座に飛び退いてきたマシュを背中に庇う形で前に出るや短機関銃を発砲した。

 轟く銃声。吐き出される弾丸。宝具化したそれの破壊力は破滅的である。

 だが、荒い生地のフードを被った人物は、豪奢な短剣を抜き放つや自身に迫る弾丸の悉くを切り払ってみせた。

 

 その技巧に驚嘆する間もない。銃弾を切り払うや、火花を散らしつつ後退した謎の男に向け、ガウェインが聖剣を構える。時刻は午後三時ほど。スキル【聖者の数字】により三倍の力を発揮できる時間帯。最強の騎士と化したガウェインは、マスターに向けて言った。

 

「――マスター! 戦闘許可をッ!」

「は、はいっ! あ、そうじゃなくて……待ってください! きっと現地の人です、対話を試みたいので、皆さん剣を収めてください!」

 

 ここまで気配を感じさせない相手が、自分達の警戒をすり抜けてマシュの背後に立ったという事実に、円卓の騎士達は最大級の警戒を目の前の男に向けていた。

 只者ではない。脅威は制圧せねばならない。戦闘に意識を傾けていた騎士達は、彼と一戦を交えるのも覚悟の上だったが、然しマシュの制止に騎士達はピタリと停止する。その様を面白そうに眺める男に緊張はなかった。

 

 恐る恐る、マシュが男に声を掛ける。

 

「すみません、突然攻撃してしまって」

「ん、謝るのか……? 普通ならここで一戦交えるのがギリシャ流なんだけどな。()()()もエジプト帰りだ、厄介な揉め事を未然に防いで気が立っていたところでもある。故郷の風を感じたいからわざとからかったんだが、あてが外れたよ。……それともわたしの知らない内にギリシャの流儀が変わったか?」

 

 マシュの第一声に、男は怪訝そうに首を傾げた。

 気配を断って近づいたのは確信犯らしい。不思議な人だなとマシュは思った。

 

 世捨て人のようだ。それに荒事を歓迎する、どこかヤケになっているような雰囲気もある。その生き方に慣れ過ぎて、皮肉めいた語調だった。

 

「あ、あの、貴方は……? 私はカルデアのマシュ・キリエライトといいます。お名前を聞かせてもらえませんか?」

「……? 調子が狂うな。覇気の欠片もない女にこれほどの戦士たちが従っている……? ……んー、ああそうだ、自己紹介だったか。まあいい、乗ってあげよう。といっても解っているはずだろう? わたしのこの剣はそれなりに知られたものだからな」

「……?」

「まさか知らないのか? ははは、これは参った。自意識過剰だったらしい」

 

 短剣を翳して見せてくるのに、マシュは首を傾げた。その反応に男は虚を突かれ、照れくさそうに頭を掻いた。

 彼はフードを外す。露わになったのは、精悍な男の顔だった。

 頬に浅い傷跡を残し、短く刈り上げられた金髪はくすんでいる。青い瞳は人生の酸いも甘いも噛み分けた、深い知性と厭世感に染まっていて、長身とも合わさって野生的な男の色気が立ち上っていた。

 

 ()()()()()()()()()()()男は名乗った。

 

「わたしはイオラオス。流石にこの名ぐらいは知っているんじゃないか?」

 

 

 

 

 

 

 



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第二節 放浪の賢者(後編)





 

 

 

 使い込まれた短剣であった。

 

 元は宝剣の類だったのだろう、豪奢な拵えをしているのに、長年の戦塵に塗れた結果手入れの甲斐なく摩耗している。刀身は罅割れ、刃は毀れ、柄の装飾は剥がれていた。

 だがそれは短剣の価値を損なわせはしない。寧ろ力ある戦士が視たなら戦慄するだろう。担い手の経た戦歴を、何より雄弁に物語る損傷だからだ。そして何より、そこまで毀れていながら尚も実戦に耐える頑強さの証でもあるのだ。

 高尚な芸術品を上回る戦士の装飾。宝剣は真の意味で戦士の剣へと昇華されている。正にありとあらゆる武人が憧憬の念を懐く完璧な戦化粧であった。

 

 太く、節くれ立った指が掴む柄。覗き見える獣の爪。短剣を翳して見せてくるのに、マシュは首を傾げた。その横で短剣を検めた騎士達が息を呑む。

 少女の無色な反応に男は虚を突かれ、照れくさそうに頭を掻いた。この剣を見れば己が何者か名乗るまでもないと嘯いたのに、知らないと示されたのである。若干の恥ずかしさを覚えつつも、見たところ少女は戦士でもないのだから、剣を見せられても分かるはずないかと納得した。

 仕方なく、というわけでもないが。男は被っていたフードを外す。顔を見せ、姿()()()()、名乗ったのなら流石に通じるだろうと。

 

 露わになったのは、精悍な男の面構えである。

 

 右の頬に浅い傷跡を残し、左の口元には鋭利な爪で切り裂かれた痕がある。人の頭髪にしては不自然な性質を持つ金の毛はくすみ、短く刈り上げられていた。

 秀でた額と濃い眉。その下にある青い瞳は人生の酸いも甘いも噛み分けた、深い知性と厭世感に染まっていて、長身とも合わさり野生的な男の色気が立ち上っていた。

 獅子の耳を頭頂部に持ち、縦に伸びた瞳孔と強靭な犬歯を覗かせている。その容貌を目にしてマシュはハッとした。半獣半人の男、その存在をマシュは識っていた。少女のその反応に満足しつつ男は名乗る。後世に於いて賢者と讃えられ、知識の保護者として記録され、多岐に渡る分野に才能を示した故に『万能』と呼ばれた英雄の名を。

 

「わたしはイオラオス。……流石にこの名ぐらいは知っているんじゃないか?」

 

 イオラオス。女英雄イピクレスの息子にして、ギリシャ神話最大の英雄ヘラクレスの甥。輝ける同行者の異名を持つ執筆者。

 戦っては英雄を斃し、怪物を殺す。狩りに出ては魔獣を屠る。筆を執れば精緻な絵を描き、多数の文献を書き遺す。そして調停に出向けば神々の諍いすら治めた代理人。誰が呼んだか放浪の賢者……ヘラクレスの偉大さを物語る時、それは同時にイオラオスの功績をも刻み込んだ。

 

『イオラオス! まさか、あの!?』

「あの、というのが()()かは知らないが、確かにわたしはイオラオスだ。それよりその反応、流石にわたしの名ぐらいは知ってるみたいだ。良かったよ、これで知らないなんて言われたら、わたしも立ち直れなかったかもしれない」

 

 ロマニの驚嘆の声に、冗談めかしてイオラオスは肩を竦めた。ガウェインらは剣を下ろす。相手の名を知り、双眸から眼が溢れそうなほど見開いて、今を生きる男が危険な敵ではないと認識したのだ。

 マシュは高揚に頬を染める。彼女は沢山の本を読み、知識を蓄えていた。無趣味に近い少女だが、およそ唯一と言える趣味として読書を嗜み、故にこそイオラオスとの邂逅を無邪気に喜べる。大多数の少年がヘラクレスに憧れ、殆どの女性がヒッポリュテやメディアに夢を見る様に。知識を尊ぶ者はイオラオスに敬意を懐く。

 何を隠そうマシュ・キリエライトは、ギリシャ神話の中で最も好感を持っていた憧れの存在とは、この英雄イオラオスなのだ。それも少年期から大人になるまでの彼ではなく、各地を旅して文化や国の仕組み、信仰の在り方など様々な資料を遺し、孤独な旅を生涯続けた目の前のイオラオスが好きだった。そしてマシュ本人が現在の境遇に身を置く事で、過酷な旅を死ぬまで続けたという彼に無意識な共感を懐いてすらいた。

 

『霊基反応はない、という事はサーヴァントじゃなくて()()()()英雄本人か! いいぞ、幸先がいい! まさか現地で最初に出会ったのがあのイオラオスだなんて! この幸運を逃す手はない、マシュ!』

「はいっ。了解しました、ドクター。マシュ・キリエライト、当たって砕けろの精神で対話交渉を継続します! ――イオラオスさん!」

『砕けちゃ駄目だから落ち着いてっ!?』

 

 唐突に前のめりになり、鼻息荒く意気込むマシュにイオラオスは鼻白んだ。

 困惑しながらも片手を上げて制し、イオラオスは問いを投げる。

 

「ちょっと待ってくれ。下手な好奇心はスフィンクスをも殺すが、性分でね。おまえ達の素性が気になる」

「素性ですか?」

「ああ。見慣れない衣装の少女、後ろの三人の戦士。どこからともなく聞こえてくる声……特に戦士達だ。名のある英雄なら私が知らないのもおかしな話だし、何より装備がおかしい。わたしの知る限り、全身を覆う甲冑なんて物を纏っている英雄は一人しかいない。その上で鎧の()()が似通っている。物真似かとも思ったが……着慣れている。鎧に着られていない。おまえ達は何者なんだ? さっきの話でもまるで()()()()()()()みたいな物言いじゃないか。――イオルコス、サラミス島の戦争、これはいい。だがトロイア戦争、その最中の出来事を詳細に識っているのは解せない。ヒュロスとアイアスが夫婦になる? ()()()()()()()()?」

「あ……」

 

 イオラオスの指摘にマシュは声を上げる。然し気に病む事ではない。どのみち自分達の目的と素性を全て話し、協力を仰ぐつもりだったのだ。

 きゅ、と唇を引き結び、気合を籠める。マシュは頭の中で口にする言葉を組み立て、こう言われたらこう返す、と想定されるパターンをシミュレートした。他者とのコミュニケーションを苦手とするマシュが、フランスとローマの特異点を経て構築した話術である。それは淡々として感情の籠もらない、機械的なものだったが、少なくとも分かり易く事実を羅列して理解を得られるものだった。

 我が強く、癖の強い者相手には『つまらない』と烙印を押されるものでしかない。然し色彩のないマシュにはこれが精一杯で。その気持ちを汲めて、そして柔軟に取り入れる理知的な頭脳がイオラオスにはあった。

 

「私達のこと、お話します。どうか最後まで聞いてください」

 

 強い意思――とは言えない。吹けば飛ぶ弱い意思だ。

 所詮は臆病な女の子。それを無様とも情けないとも笑わずに、放浪の賢者は先を促した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――人理焼却。西暦。紀元前。カルデア。特異点。聖杯か。まあ……眉唾だな」

 

 当然と言えば当然の反応だった。

 “今”を生きる人間からすれば、自分のいる“今”が特異点であり、それを修復すれば、全てが“無かった事になる”と説明されて、はいそーですか大変ですね協力します、等と言えるはずもない。

 だからマシュは重ねて事実を真実として受け入れてもらえるように言葉を重ねる。

 

「納得してもらえませんか?」

「当たり前だろう? 賢者だのなんだのと持て囃されても、わたしは人間だ。魔術師ではないし、ましてや腐れケンタウロスのティターンが持つっていう千里眼も無い。神に与えられた予言の力も当然持ち合わせていない。これでどう信じろって? 狂言を吐く異邦の一党にしか見えない。それに……サーヴァント、英霊か。夢のある話だ」

 

 イオラオスは湖の騎士、太陽の騎士、弓の騎士を見遣る。胡散臭げに探る視線に、騎士達は小揺るぎもせず事態の成り行きを見守っている。

 彼らはイオラオスよりも後の時代を生きた“騎士”とかいう連中らしい、という程度の認識だ。そしてサーヴァントであるという彼らは、イオラオスから見ると()()のである。

 

 宝具の力は認めよう。スキルとやらの恩恵もあるようだ。その身に積んだ技量の高さも、黒騎士の放ってきた銃火器という武器も認めよう。

 だがそれだけだ。圧倒的に彼らには“力”が足りない。技量に見合った力がないのだ。これでは何度戦っても安定して勝てる。負けそうになっても撤退できる。

 力と技量が不釣り合いな彼らがサーヴァントとなって弱体化している、という話は理解する。彼らが高度な術式によって使役される使い魔だというのも解る話だ。マシュの説明を受けて、よくよく観察すると確かに人間ではないと解る。

 だからといって信じられるかと言われれば、簡単には頷けない。海千山千の難物を相手にしてきたイオラオスからすると、どこかに嘘があると思ってしまう。

 

「サーヴァントの話は信じる、けど他は信じないってのは筋が通らないと思うかもしれないが、相手を騙したい時は真実の中に嘘を混ぜるものだ。英霊召喚だったか? それを召喚する術式は、神なら再現できても不思議じゃない。それを使役する力を行使する権能をおまえが借りているという解釈もできる。あまりしたい仮定じゃないが、伯父上のように異邦の世界からやって来て、なんらかの目的のために暗躍しているという仮説も成り立つ。そうだとすれば異邦の神が千里眼か何かでヒュロス達の未来を視た、とも考えられるな。考えたくないが。さあ、わたしのこの考えを否定できるのか?」

「出来ます」

「……なんだって?」

 

 すらすらと信じられない理由を列挙するも、確信のあるマシュの言にイオラオスは反駁する。

 あるというなら聞こう。腕を組んだ半獣半人を前に、ぺろりと唇を嘗めて潤わせると少女は意を決する。そして、言った。

 

「私は……いえ、私達カルデアは、イオラオスさんの疑惑を晴らす術があります」

「……言ってみるといい。納得させられたら、信じよう」

「ありがとうございます。では――イオラオスさんは、神話をご存知ですか?」

 

 この問いにイオラオスは首を左右に振った。当たり前の話だ、自分の世界が神話などと呼称されるなど想像の埒外である。

 まして、神話という単語は西暦以降に生まれるものである。神話の当事者にそのまま言って伝わるものではない。

 

「大雑把に言うと私達の時代には二つの史があります。一つが人類史、つまりは歴史です。そしてもう一つが神話……記録が散逸し詳細に知る事のできない過去の時代、その間隙に想像の余地が生まれ、そこに物語が挿入される形で構成されたものです」

「その口ぶりから察するに、おまえは歴史と神話でわたしを識っているから、それを材料にすると言いたいわけか」

「はい。ですがわたしがお話しするのは、歴史ではなく神話になります。何故ならこの時代の正確な文献は、その多くがイオラオスさんの遺したものになるからです。よく出来ている嘘話、捏造だ……知識に穴があれば誤魔化しだと、そう言われてしまえば反論できません」

「……神話。つまりそれは伝承の類いって事でいいのか?」

「はい」

 

 イオラオスは腕を組んだまま口を閉ざす。何事かを思案しているようだが、然し好奇心があるのだろう。無言で先を促した。

 

「神話には、全て描かれています」

「……全て?」

「はい。歴史や人には語られなかった、神話の登場人物の心境や目的などです」

「………!」

「ご想像の通り、私がお話するのはあなたの伯父……ヘラクレスについてです」

 

 瞠目するイオラオスは、咄嗟に周囲を見渡し、そして即座に外套を脱ぐやマシュに投げ渡した。

 え、と目を丸くしてフード付きの灰色外套を受け取ったマシュに、イオラオスは鋭く命じた。

 

「被れ。それはエジプトの神々に頂いた、隠蔽の魔術式の編まれた外套だ。おまえの語る内容が嘘であれ、本当の事であれ、下手に口にするものじゃない。いいか、神の土地だぞ、ここは。ギリシャの神に聞かれたらどうする」

「あ……す、すみません」

 

 険しい顔で発されたイオラオスの警告に、マシュは謝りながらも驚いていた。

 神の持つ力の強大さは想像よりも上だったのだ。まさかなんの変哲もない会話をするのにも注意を払わねばならないほどだとは理解していなかった。

 マシュは外套を羽織る。そしてフードを被った。気を取り直して語る。

 

「えっと……イオラオスさんは、ヘラクレスが十二の試練に挑む前に懐いた心境をご存知ですか?」

「当たり前だろう」

 

 怒りだ、とは口にはしない。彼の外套は今、マシュの手にある。発言に気をつけているのだ。

 

「彼は怒りを懐きました。そして憎しみを。ヘラクレスは終生に亘りその憎悪を抱え、一つの目的を持つに至ります。……ヘラクレスは戦士王、勇者などとも号され、様々な称号で語られる大英雄ですが、一つ異色の呼び名があるんです。それは()()()()()()()()というもの」

「ッッッ!」

「この呼び名の通り、彼は十二の試練を経ても、片時も復讐心を忘れませんでした。そしてギガントマキアの折、ついに女神ヘラへの復讐を果たし、然し復讐に我を忘れた彼はオリンピアの危機を見過ごしてしまいます。結果としてヘラクレスは自国の復興のために尽力し、様々な要因によってそれは遅れてしまい、オリンピアを復興した時にはトロイア戦争が勃発して十年の時が流れていました。彼はトロイアの王子パリスが救援要請に来た時、病床に伏せていて、援軍には駆けつけられず代わりに子供のヒュロス、アレクサンドラを派遣する事になり、その年にヘラクレスは病死しました」

「――――何?」

「? あの、何か……?」

「……いや、なんでもない。続けてくれ」

「は、はい。……こほん。それで……“人間としての”ヘラクレスは死亡するのですが、女神アテナの導きにより、彼の中の神の部分は神の座に招かれ、ギリシャに唯一の武神が誕生しました。神となったヘラクレスは、人間同士の争いに関わらず、またそこに関わろうとする神を諌めるためにオリュンポスと敵対します。奇しくもトロイアの守護についていた戦神マルスと結託し、オリュンポスから戦女神アテナを引き抜くと、三柱の神はオリュンポスと戦い、これに勝利します。この戦いは北欧神話の原典として、神々の黄昏(ラグナロク)と呼ばれました。

 ――プロメテウスを味方につけていた彼らは、捕らえた神々の権能を自然に還し、自分達は人間界に滅多な事では関わらない『君臨はするものの統治はしない神』として、稀に人の願いを聞き届ける存在になりました。そうしてギリシャ神話は終わるのです。ヘラクレスという大神ゼウスの最高傑作が、神々の時代に終止符を打つ事で。時は移ろいギリシャ神話はローマ神話として姿を変え、偶像としてのゼウスなどを信仰しましたが、実像を持つことは叶わず、神々は生き残っていた僅かな神格のみでした。然しこの事実を人々は知らず、いつしか姿を見せない神々を忘却していく事になり、だからギリシャ神話は『忘れ去られた神話』とも『忘れられた神々』とも称されるのです」

 

「………」

 

 イオラオスは、呆然と立ち尽くした。マシュの話を最後まで清聴しこめかみを揉む。

 嘘の気配は、一応ないように見えてるし、聞こえている。話に粗がないか考え――彼は思う。

 

(伯父上なら、有り得る。いや寧ろ、伯父上なら()()()し、()()。復讐心を持っていた事は身近な人間でも話されない限りは悟れなかったはずだ。わたしでも……俺でも、アタランテの事がなければ悟れなかった。……ヘラの事を聞いても、ああやっぱり伯父上がやったのか、としか思えない。……神と人の分離、これも有り得ない話じゃないし、その後の神としてのヘラクレスなら確かに聞いた通りに動くだろう。神の時代を終わらせる……自分が死んだ後の事も考えて、人としての自分にできる事、神の自分にできる事を切り離して行い、神になったのなら人の世には関与しない……ああ考えれば考えるほど()()()と思ってしまう。という事は、だ。この子達は本当に未来から来たのか? 神話なんてものが存在する時代、世界から? それが人類史から外れ、人理焼却を防ぐために人理定礎を復元しようとしている……? 特異点……本来のそれから外れたものを正す……)

 

 熟慮を終え、顔を上げたイオラオスにマシュは訊ねた。

 

「あの、信じていただけますか? 何か質問があればお聞きしますが」

「いや……」

 

 英雄は、少女に歩み寄ると、外套を剥ぎ取り纏う。

 

「信じよう。質問はない。だが確信とも言えないな。だから確かめに行こう」

「確かめる……?」

「ヘラクレスに――伯父上に会いに行く」

 

 そう言われると、少女は目を白黒させた。まだヘラクレス王はご存命の時代だったんですね、と。

 イオラオスは答えなかった。

 今の話が全て事実だとしたら、きっとこれは無視できない事態だから。

 

 オリンピアを出立した、()()()()()()()()()()()()()()()()()と聞けば、彼女は驚愕するだろう。もしも見当外れだったら笑えばいい、だが今は笑えない。

 人理定礎復元に協力するかはともかく、まずは確認からだ。二度と会えないものと思っていただけに、緊張はあるが。

 

「だがその前に野暮用を済ませる。付き合うか?」

「野暮用?」

 

 イオラオスは苦笑し、懐から壺を取り出す。

 

「イオルコス王イアソンの骨だ。簡単なものだが墓をイオルコスに建ててやって、金をやる。今頃冥府の前の河で立ち往生して困ってるかもしれないからな」

 

 

 

 

 

 

 



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第三節 賢者の見識

今日二話目。


 

 

 

 

 ――嘗て栄えたイオルコスの惨状は酷いものだった。

 

 古代ギリシャの戦争では、基本的に占領という行為が行われない。何故なら都市国家一つ一つが神々の加護を持ち、その王権を認められているからだ。

 神の赦しもなく勝手に国を占領し、統治などすれば不興を買うのは必定。故に国家間の戦争とは“略奪”か、確執のある相手の“殺害”を目的にする場合が多い。

 例えばこの世界線のトロイア戦争は前者に当たる。神意を錦の御旗に掲げてはいるものの、連合軍の総大将アガメムノンの目的は、既婚であり妻を持つ身でありながら、太陽神も見初めたトロイアの王女カッサンドラを奪う事であった。異なる世界線でのアガメムノンは、弟の妻ヘレネをパリスに奪われた事に憤慨し、その報復のためにトロイアに攻め込むのだが、この世界線では違った。

 神意を得たアガメムノンの野心は膨れ上がり、それを抑制する理由がなかった故に自制心が薄くなっているのだ。どうせ戦争をするのは神意で決まっている、ならば多少の旨味を得てもいいだろうと考えているのである。正に略奪こそがアガメムノンにとっての旨味であった。

 

 そして――イオルコスは後者に当たった。

 

 アガメムノンは自尊心の塊のような男である。常日頃の振る舞いは傲慢なもので、その性は冷酷非情であり、所有欲の強い王であった。

 彼は自身より遥かに名高きオリンピア王に嫉妬していたといえ。自身より遥かに強いオリンピア王を妬んでいた。だが神意を得て、アカイアで連合軍を結成する大義を得た事で、彼を従わせて自分を納得させようとした。

 だがオリンピア王は拒んだ。貴様如きの“お遊戯”に付き合う暇はないと。彼の直言を厭わぬ実力に裏付けされた言葉は、しかしアガメムノンを激怒させた。なんとか自制し怒りの矛先を向けなかったのは、アガメムノンにしては我慢強い態度だったと言える。というより、神のお気に入りであるオリンピア王を攻める度胸は流石になかった。

 この時は耐えた。だがオリンピア復興の為の支援を継続するために参戦できないと、連合軍に加盟しなかったイオルコス王にアガメムノンは憎しみに駆られる。またオリンピアか! と。忍耐強くないアガメムノンは、断じて赦しておけないとしてイオルコスに宣戦布告した。

 アガメムノンは別の世界線では「王の中の王」と讃えられる実力者だ。十年もトロイアを落とせず攻め続けたというのに連合軍の士気を保ち、支配力を弱めなかったのである。並大抵の手腕では不可能だろう。彼もまたイアソンと同じ呪いじみたカリスマ性を持っているのだ。

 しかしその力量は到底、名将のものとは言えない。だが綺羅星の如く集った英雄達は強く、特にギリシャ随一の智者オデュッセウスの存在もあり、彼の作戦によってイオルコスは電撃的に陥落した。

 

 後は蹂躙である。コルキスから齎される富や、優れた政策により栄えたイオルコスは崩壊し、富という富が奪われ、王と宰相は討たれた。そしてイオルコス王が頼ったサラミス島にも攻め込み、後一歩の所まで追い詰めたのである。

 彼らがサラミス島から撤退したのは、メディアの魔術の脅威、テラモンの奮戦、アイアスの鮮烈な初陣だけが原因ではない。アカイア連合軍の後背を、アテナイ王テセウスが脅かしたのである。

 

『神意を受けたわけではないから僕は連合軍に加盟しない。神意を妨げたとして神罰を下される事も恐れない。何故なら貴様は神意とは関わり合いのない戦を起こしているからだ。サラミス島をイオルコスのように襲う事は、すなわちこの僕を敵に回す行為だと知れ。今なら僕の友イアソンを殺した罪を赦そう。だが退かないなら僕は全力で連合軍と戦い、お前達の本来の目的を果たせないようにしてやる。僕と戦う覚悟があるか? 仮に僕を下せたとして、その後に神意を全うできるだけの余力が残ると思うか? 思うのなら掛かってくるといい。オデュッセウスの小僧がイオルコス奇襲の策を実行し、その卑劣さの前に屈したが、僕はそうはいかないぞ。嘗てのアルゴナイタイの生き残りの力を結集し、お前の命運を限りなく毟り取ってやる』

 

 アガメムノンは顔を真っ赤にして怒ったが、オデュッセウスの諫言を聞き入れた。万全の体勢のアテナイと戦うべきではないと。テセウスこそはヘラクレスに次ぐ大英雄だという名声が高い。その名に違わぬ実力者である事は周知の事実だ。故にアカイア連合軍はサラミス島から退いたのである。

 

 ――その様な経緯があり、イオルコスはイアソンの子を新たな王に戴き、復興の最中にあった。

 

 遠目に見える忙しない人々の動きに精彩はない。表情は一様に暗く、生きる希望を見失い、先代の王の死を嘆き悲しんでいるのがよく解る。

 マシュは顔色を曇らせた。所はイオルコス全体を見渡せる高台である。そこに大岩を担いでやって来て、それを削り石碑にしたイオラオスはイアソンの名を刻んでいた。彼は数瞬考え込み、文言を削り込む。

 偉大なるイオルコス王イアソン、此処に眠る。エリュシオンにて安らぎあれかし。この墓を暴く者、神々とイオルコスの全ての民、そしてイオラオスの怒りに触れるだろう――と。そう、この墓は未来に到るまで残り、観光名所となる場である。

 

「……イアソン王は、どのような方だったのですか?」

「ん? ああ……」

 

 マシュはイオルコスの惨状から目を背けたいのだろう。辛くて直視できない。だから目を背ける為に、尊敬する偉人であるイオラオスに話し掛けた。

 問い掛けに、放浪の賢者はあっけらかんと返す。

 

「口先の男だったな」

「え? あのイアソン王がですか? アルゴナイタイのリーダーを勤め上げた英雄で、カリュドンの猪狩りにも参加したほどの勇士なのに……?」

「………」

 

 カリュドン。その名を耳にして、一瞬イオラオスの動きが止まる。然しすぐに何事もないように返答する。

 

「ああ。荒事は全部仲間達に押し付けていた。だがその弁舌の才能とカリスマ性は本物だったよ。捻くれた男でね……伯父上の今があるのは、間違いなく彼のお蔭だ。イアソンと出会う前の伯父上は、他人との相互理解を諦めてる所があったからな。多分伯父上にとってはじめての友人だったはずだ。口ばかり達者で臆病で逃げ足は遅いし決断力も悪い、その上で追い詰められない限り本気を出せないヘタレでもあったが、まあ……良い奴、だったよ」

「そう……ですか……でしたら、彼はアガメムノン王を怨んでたりするんですか……?」

「怨んでいるだろう。多分オリンピアの復興を手が離せないぐらい急いでなかったら、伯父上は身の程知らずのアガメムノンを殺していただろうさ」

 

 さらりと殺すという言葉が出た事に、マシュはびくりとした。

 彼女には命の遣り取りが恐ろしいものでしかない。そうと見て取ったイオラオスは苦笑した。女子供には相応しい態度だが、仮にも人類史を背負って戦う者には相応しくないと感じたのである。

 そしてそんな者を戦場に送り出すカルデアに不信感を持つが、逆にマシュのような娘を使わざるを得ない窮状にも思い至る。いつの時代も世知辛いらしいと、イオラオスは胸中に溢しつつ問いを投げる。あくまで世間話のように。

 

「カワイイぐらい臆病だな。未来の人間っていうのは、おまえみたいなのばっかりなのか?」

「いえ……私は参考にならないかと……」

「……? マシュ、おまえがこれまでどんな戦いを経て此処まで来たのかは知らない。詮索もしない。だが一つ忠告しておこうか」

「傾聴します」

「おまえは異邦の民だ。異なる時間を生きる者であるおまえにとって、此処は過去の世界なんだろう? なら一々他人の事情に一喜一憂するものじゃない。関心を持つな、共感するな。まだおまえ達を完全に信じられたわけじゃないが、全て本当の話だと仮定して言わせてもらう。此処に生きる人々を、未来という時間に生きるおまえが憐れむのは侮辱だ。そういうのは、せめて自身の面倒を見られるようになってからしろ。自分の事すらままならない者に哀れまれるほど、わたし達の世界は弱くない」

「っ……」

 

 痛烈な批判だった。衝撃を受けて顔を顰めるのは、マシュが無色の命だからで。誰からでも影響されやすい、不安定な精神だからでもある。

 見兼ねてガウェインが口を挟んだ。

 

「――イオラオス殿、控えて頂きたい。マスターのその心は優しさからくるもの、その美点を貶めるような物言いは看過できかねます」

 

 太陽の騎士はマシュをマスターとしている。然し彼はマシュを王だと、主君だと定めているわけではない。守護すべき存在なのだ。あくまで彼女の盾なのである。

 だがそんな騎士にイオラオスは冷ややかな一瞥を向けた。

 

「馬鹿か、おまえは」

「……なんですって?」

「これは確信だが、おまえは自身の思い込みを押し付けて主を苦しめ、土壇場で私情を抑えきれず破滅させた口だろう」

「ッッッ!!」

「勘と経験でな、解るものがある。英雄っていうのは一部の例外を除いて無念の死を遂げるものだってな。おまえの分かり易い性格上、理想の主君を祀り上げ、主の為に尽力し、その果てになんらかの怨恨で無私の奉公を忘れて破滅する様が()()()()()よ。――で、当たりのようだな。うーん、ますます観察眼に磨きが掛かったらしい。この手のことなら伯父上を超えたか? ははは」

「貴方はッ! 他者の傷を拓き喜悦とするのかッ! 私の事ならいい、だがマスターの心を傷つけるような事は断じて赦せは――」

「だからおまえは馬鹿だって言ったんだ」

 

 激昂してはいない。的確に自身の末路を言い当てられた怒りなど、太陽の騎士が懐くものではない。清廉潔白なガウェインは、自身の非を認め改めている。改めたものを指摘されて怒りを見せるなんて、易い騎士ではないのである。

 故に語気を荒げたのは全てマシュを守るためでしかない。彼女は――危うい。その心の不安定さは、薄氷の上で辛うじて均衡を保てている程度に過ぎないと見ている。だからその均衡を崩しかねないイオラオスの忠告は聞き流せるものではないのだ。

 辛いだろう、哀しいだろう。だがだからといってそこから目を逸らし、見て見ぬふりをしろ、共感するなと云うのは、マシュの幼い心を圧迫する。

 

 そんなガウェインに、徹底してイオラオスは冷厳だった。

 

「自身の精神状態すら満足に保てない女子供に、一丁前に他者の痛みを共感させてどうする。余計に抱え込んで破裂するのが目に見えてるんだよ。まずマシュが身につけるべきなのは“ワガママ”で、分厚い面の皮だ。悪い意味での鈍感さが今のマシュには必要なんじゃないか? それが身に付くまでは自分の事だけに集中させろ――分からないか。その小娘、遠からず死ぬぞ」

「――――」

 

 ひゅ、とか細い息を吐き出したマシュがよろめく。咄嗟に黒騎士がそれを支え、鋭い目を弓騎士が向けてくる。イオラオスは嘆息した。

 出来の悪い教え子に説くように、彼は冷徹に解説する。

 

「死ぬっていうのは勿論精神的なものじゃない。極めて物理的な意味での死、だ。いいか、仮にこの世界が特異点なのだとしたら、確実にトロイア戦争に関わってくる。そうなると斬った張ったは当たり前、殺しに来る者は絶対にいる。そして生前のおまえ達がどれほどの猛者だったかはさておくにしろ、サーヴァントであるおまえ達じゃあ無駄に数ばかりいる英雄共を相手にマシュを護りきれないだろう。そうなるとマシュも戦わないといけない。()()()()()()()()()。そんな時までか弱い女子供らしく傷つけとでも言うのか? 殺す覚悟を持てと言ってるんじゃない、敵を殺してでも生き残りたいという()()()()()って言ってる。究極、世界って奴はワガママな奴が勝つように出来てるんだからな」

「…………」

 

 重みがある。実感が込められている。そして何より真理だった。

 マシュは瞳を揺らす。

 無欲な者は勝ち切れない。強欲な者が最後には勝ち残る。だが其れは――獣の理ではないのか。そう糾そうとするガウェインを制し、イオラオスは言った。

 

「が、簡単に変われるほど人間っていうのは都合のいい生き物じゃない。だからゆっくり心を強くしろ。今を凌ぐ心の鎧の着方を教えてやる」

「心の……鎧?」

「ああ」

 

 イオラオスはイアソンの墓の傍から離れた。手振りで歩くように促し、マシュが従うのにサーヴァント達も続く。彼女の提げているバックパックから、白い毛玉のような小動物が顔を出し鳴いた。ふぉう、と。

 賢者は賢いから賢者なのではない。惑う者を導くから賢者なのだ。半獣の賢者は獣の理も含め、然し人としての理を説く。

 

()()()()を決めろ。おまえの一番大切なものはなんだ?」

「一番大切な……」

「言わなくていい。思い浮かべたのは人か? 使命か? それとも自分か? なんでもいいんだ、その一番を常に念頭に置け。そして苦しい時は問いかけろ、目の前のものと自分の一番、どちらが重いかを。ワガママを覚えるのはその後でいい、覚えたら少しでも優先すべきだと感じたものを、少しずつ欲張って手繰り寄せろ。何もかも順番だ。順序を踏め。己の弱さを自覚しているならいつまでも足踏みしないで、段階的に自分を強くしていけばいい。それで後は……弱くなれる相手に縋るんだ。弱い奴が弱いままで居続ける必要はないんだよ、マシュ。誰だって強くなれる。誰だって英雄になれる。英雄になんかならなくても、ひとは生きていける」

 

 ――まるで、自分に言い聞かせているみたい。

 そう心の何処かで思うのに、マシュは胸に沁みるものを感じた。

 教え、説く姿と言葉にあるのが、初対面ですぐに自分の脆さを察して支えてくれる、優しさだと理解できたから。

 イオラオスが、自分が想像していた通りの人で嬉しかったから。

 だからマシュは無邪気に思う。人生の先達である彼が、本当の意味での“先生”のようだと感じて。

 

(イオラオスさんは、もう失くしてるんですね……)

 

 自分の中の“一番”を。

 知識として識っていたものを、実感として知る。マシュは素直にイオラオスの助言を聞いた。自分にとっての一番――おとうさんみたいな、あのひと。

 そのひとの為に、と口に出すのは恥ずかしいから胸に秘め。

 使命だからとか、自分しかいないからとか、そうした気負いが少しほぐれる。生きるために戦う……()()()()()()()()()()()()()。それができるようになったら、もっとワガママになれる気がして。

 

 マシュは先導して歩く男の背中を見た。

 

 

 

 

 

 

 

「あ、ちなみに特異点化の原因ってのは多分伯父上だ。トロイア戦争の援軍に向かってるって話を聞いた事がある」

 

「えっ?」

 

 直後、無造作に投下された爆弾に、心臓が止まるかもと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 




第三特異点クリア報酬、配布鯖は☆3アサシンのイオラオス。

HP:8593/ATK:8352
カード:Quick三枚、Buster一枚、Arts一枚。
宝具:強靭を示せ、縫い目断ちの短剣(キュプリオト・スパター)
  自身にQuick強化付与(1ターン)
  敵単体に防御力無視の強力な攻撃
  &防御力ダウン付与(3ターン)
  オーバーチャージで効果UP
スキル:賢者の見識(敵スキル封印1ターン)
   情報隠蔽(デバフ無効3ターン)
   獅子の呪い(自身のスター発生率&NP上昇率UP3ターン)
属性:混沌・中庸・地・獣・愛する者


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第四節 英雄旅団(ヘーラクレイダイ)(前編)

 

 

 

 

 

 ――何処にいる?

 

 彼女は探していた。

 

 ――先月までは此処にいたはずなんだ……忙しない奴、今度はどこに流れた。

 

 ただ、探していた。

 

 ――何が敵かなんてどうでもいい。私が()()()のは、あのばかに会ってからでないと駄目なんだ……。

 

 未練があった。望みがあった。それが叶うかもしれない。だから探している。

 根無し草の相手を一人、探し求めて各地を彷徨う。

 彼女の戦いは、まだ始まってもいない。再び戦場に立つまで、今暫くの時を要するだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「へ、ヘラクレス王が特異点化の原因って……どういう事ですか!?」

 

 血相を変えて訊ねるマシュに、イオラオスは飄々とはぐらかす。会えば分かる、と。

 その答えは簡単に納得して流せるものではない。マシュ達カルデアからすると、いきなり敵首魁と目される人物と顔を合わせる事は歓迎できる事態ではないからだ。

 入念な準備が必要だ。オルレアンやローマの例があるように、この特異点にもカウンターのサーヴァントがいるはずで、彼らと合流し万全の陣容を整えたいのである。

 敵があのヘラクレスともなれば、容易ならざる脅威となるのは目に見えている。更に聖杯まで所持しているともなれば、オルレアンの邪竜、ローマの神祖ロムルス、戦闘王アルテラを上回る強大さだろう。会話を聞いていたカルデアの方でも動揺は抑えきれていない。管制室はざわめいていた。

 

 ――だがカルデアは、勘違いをしていた。思い込みをしていた。致命的な認識のズレである。

 

 特異点Fや、フランス、ローマでの経験が仇になっている。()()()()()()()()()()()()などと。サーヴァントであるなどと彼らは誤認していた。まさか()()()()()()()()()()()()()()()()であるとは、カルデアの常識ではまだ想定できていないのだ。

 単純なその戦闘能力は、英霊など比較にもならない。これまでの最強の敵だった魔神柱が、ヘラクレスを前にすれば雑魚であるなどと、どうしたら思い至れるというのか。

 異なる世界線のカルデアが戦い抜いた人理復元の旅路。その後に待ち構えていたクリプターと異聞帯との戦い。その中でも特に強大だった光の御子、授かりの英雄、獅子王と円卓、ゴルゴン、意思持つ宝具、雷帝、北欧の巨人王を単身で撃破できる存在。生身でありながら冠位英霊に匹敵する単独戦力であるなどと――どうしたら思い至れる。

 

 彼らの誤解は、さしものイオラオスとて思い至れない。未来でも伯父上の武勇は知られているんだな、なんて呑気に喜んでいる始末だ。

 

「知られているなんてものじゃありません!」

 

 マシュのそれは悲鳴じみていた。

 

「ギリシャ神話最大の英雄、半神の身で戦神と戦える武力、世界最高クラスの知名度は伊達ではありません! 彼に匹敵するような英霊なんて、片手の指で数える程度なんですよっ!」

「へぇ? 伯父上に匹敵するようなのが片手の指程度にはいるのか……ぶっちぎりじゃないってだけで、世界の広さが知れるというものだな。正直驚いた」

『――って、イオラオスさんは何呑気にしてるのさっ!? ヘラクレスだぞ!? ギリシャ神話内で抵抗できそうなのはアキレウスぐらいなものだ! そのアキレウスだって勝てるかどうか……世界を見渡してもインド神話の施しの英雄、世界最古の英雄王、ええと他には――ともかく! 大変だぞ! な、何か弱点は……!?』

「ドクター、残念ながらヘラクレス王の死因は病です。直接的な武器や魔術は効果は薄いです。英雄にありがちな『死に繋がった要因』はありませんっ!」

 

 ――その通りである。原点にして頂点である、宇宙最悪のヒュドラの神毒が直接的な死因となるはずだった『ヘラクレス』ではないのだ。

 英霊となり見る影もないほど弱体化した『ヘラクレス』は、死因であるというだけでヒュドラ種の毒で致命傷となってしまうのだが、この世界線のヘラクレスにそんな物は通じない。神毒であれば死に至るが、英霊が用いるようなヒュドラの雑種が持つ猛毒程度、多少息苦しくなる程度である。

 ましてやこの特異点のヘラクレスは生きている。死因となった武器や因果が仮にあったとしても、まだ死んで英霊となっていないのだから平然と乗り越えてのけても不思議ではない。

 

「ロマニ・アーキマン、それにマシュ、危惧してしまう気持ちは分かるが、そこまで深刻になる必要はないと思うぞ」

 

 だがイオラオスには悲愴な色はない。ヘラクレスと聞いて顔を険しくさせている円卓の騎士達にも見向きもしなかった。

 誰よりもヘラクレスについて知っているはずの男が平然としている様を見て、マシュは落ち着きを取り戻す。そして平然と構えていられる理由を訊ねた。

 

「どういう事ですか?」

「伯父上はトロイア戦争に参戦する事なく没したというのがおまえ達の言う『本来の歴史』なら、伯父上がその戦争に参戦するべく向かっている事で発生する差異は、確かに今後の歴史を塗り替えるものだろう」

「へ、ヘラクレス王がトロイア戦争に!? そ、それってどうなるんでしょうか……」

「普通にアカイアの連合軍は全滅するだろうな。アガメムノン以下、主だった連中は全員縊り殺される。特にアガメムノンはイアソンを殺した。トロイアの要請で大義を得た伯父上は喜々としてアガメムノンを殺すだろう」

「――あの、それって、かなりマズイ気が……」

「どれぐらいマズイのかはおまえ達の方が詳しいだろ? だが伯父上は敵として見たら絶望的だが、それ以外の立場なら話が分かり過ぎる理性的なヒトだ。おまえ達が誠心誠意、訳を話して引き返すように説得し、聖杯を譲ってくれと頼めば案外戦わずに終われるかもしれない」

 

 イオラオスの言に、マシュは目に見えて顔色を良くした。戦わずに、話し合いで事が終えられるのなら、それに越した事はない。

 実際に話し合いで終えられる可能性は高いとイオラオスは思っている。自分の知っているヘラクレスなら、とは口に出さなかったが。

 然しふと、マシュは思い出したようにイオラオスを見る。おずおずと訊ねてくる様はまるで幼子だ。個性がない、意志が薄い、主張がない。体だけは年相応、知識量だけは学者顔負け。然しその()()()()は頼りなさしか見て取れない。

 

「その……いいんですか?」

「何が?」

「イオラオスさんは、ヘラクレス王に会っても……」

「ああ……そんな事か」

 

 後世にどう伝わっているのかは知らないが、何やら誤解されているようなので苦笑いする。敬愛する伯父とは訣別している、その事を言っているのだろうが――

 

「神話とかいうのと歴史で、どう語られているのかは知らないが、わたしは伯父上に二度と会わないと言われた覚えはない」

「え、そうなんですか?」

「オリンピアを追放され、二度とこの地を踏むなとは言われたし、一箇所に留まらず旅を続けろとも言われた。だがその面を見せるなとは言われていない。伯父上がオリンピアから出さえすれば、わたしはいつでも伯父上に会えたのさ」

 

 ただ。少なくとも十年は、オリンピアからヘラクレスが出てくる事はないと理解していた。だから遠くを旅して来たのだし、オリンピアの復興が終われば国から出る事もあるはずだから、その時に改めて会いたいと想っていた。

 成長を見てほしかった。ガキ臭いが……褒めて、もらいたかった。よくやったと、立派になったなと……言ってほしかったのだ。だからオリンピアから出る事なく、ヘラクレスが病死するのが本来の歴史だと知った時は絶望しかけたものだが。どうやら――イオラオスにとっては運良く、然し世界にとっては運悪く、特異点の原因が『ヘラクレスの生存』にあるらしい。オリンピアから彼の大英雄が出た以上、再び会える機会が出来たのだ。

 

(俺は英雄になれたらしいよ、伯父上。何せこんな()()に巡り会えた)

 

 人理焼却の危機とやらの中、不謹慎ながら久し振りに心が昂ぶる。如何なる死地、無理難題の最中にも感じられなかったものだった。

 トロイアに向けて進撃しているオリンピア軍を追って、カルデアの一行とイオラオスは進んでいく。意外な事にオリンピア軍は強行していないらしく、進軍速度は並の軍勢と同程度のようだ。その事を立ち寄った漁村で知った彼らは、次第に緊張の色を深めていくマシュと共に先を急ぐ。

 

 そして、マシュ達とイオラオスは、オリンピアの軍勢を遠目に見つける。

 

 謁見の時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五節 英雄旅団(ヘーラクレイダイ)(中編)

fgo原作と同じく二十節ぐらいで終わるので、それまで気長に付き合ってね。

今回は長い。一万三千字超え。




 

 

 

 

 十年間、待ち望んでいた。

 

 最初は罰を与えて欲しかった。殺して欲しかったのだ。アタランテを手に掛けた愚かな男を、最も偉大な英雄に糾弾して欲しかったのである。

 彼は無繆の勲を掴んだ栄光の雄。彼に悪として断罪される事は、そのまま己の愚昧さを証明するものとなる。彼に殺される事で、エリュシオンにいるだろうアタランテへの贖罪としたかったのだ。

 

 だがそれは甘えだと糾され、逃げでしかないと叱咤された。償った気になるだけの逃避でしかなく、死が意識の断絶に繋がらない以上は、いつかはその逃避を自覚して後悔する事になる。――その言葉の意味を理解してからは、人生を懸けてオリンピアの為に世界中を旅して廻った。嘗て己の使命であると定めた同行者としての任を果たせなくとも、英雄は自身の事業に関わる事をこの身に赦してくれていたのだ。

 故に迷いは晴れた。オリンピア、すなわち戦士王の意志を最も理解する者として、彼の言葉に秘められた使命を汲み行動した。ギリシャとエジプトの折衝に始まり、国から離れられない王に代わって友好国のコルキス、イオルコス、サラミス、アテナイ、トロイアを巡り必要になるであろう支援の内容を審議した。その他の国にオリンピア復興への支援を取り付けた。

 旅人としての素行はカモフラージュだったのだ。世界各国の文化文明を記録し、時に詩を紡ぎ、息抜きついでにメディアの逸話を広め、人々を撹乱する反英雄や怪物、堕ちた精霊を討ち、荒ぶる神々を宥め神罰を予防した。

 

 一つを除いて、全ては一刻も早く敬愛する英雄の国を復活させるため。

 

 国が完全に立ち直ったなら絶対に王は国を出て、必ず自分に会いに来てくれると信じていた。そう期待していたのだ。夢見ていたのである。今日この時、再会できる時を。

 この世で最も価値のない物、惜しくもない命を使う中、唯一の未練が敬愛した大英雄からの賛辞だった。認められたかったのだ。『お前は私の誇りだ』と。

 

 ――実母イピクレスは幼少の頃から偉大な兄と触れ合ってしまった。だから双子の兄以上の男を見つけられず、男を愛せず。故にただの肉体関係しか男とは持たずにいて、生まれたイオラオスは父親を知らなかった。

 だからだろう。ずっと押し隠してきた。自分にとっての“父”とは、ヘラクレスをおいて他にいないという想いを。

 

 母を看取った時に聞いた、異父兄妹への道ならぬ恋。自らの子を兄の従者として付けさせ、傍にいさせる事で我が子を兄の擬似的な息子とし、内心イオラオスを自分と兄の間に生まれた子供と見做してきたと懺悔された。

 薄汚い代替行為だったと母は悔いた。怒りも失望もなく母を赦したのは、ヘラクレスを父のように想う気持ちが、他ならぬ自分の裡から生じた想いだったからである。寧ろ感謝した。あのヒトを俺の父にしてくれて有り難う、と。母は生涯秘めていた後ろめたさから救われたように安堵して息を引き取った。

 

 ……面と向かってヘラクレスを父と呼ぶ事はない。今までも、そしてこれからもだ。だが認められたいという承認欲求は常にあった。

 

 甥として認められたいのではない。一人の男として、一人の英雄として――この私に次ぐ英雄であると言われたい。世はテセウスこそがヘラクレスに次ぐと評するが、そんな外野の評価などどうでもいい。

 お前こそが、とヘラクレスに指し示される事。アタランテ亡き後、生きる目的はそれしかなかった。イオルコスを訪れる前、自分の息子と娘は独り立ちさせている。もはや一片の憂いもない。後は親としてではなく、自分として動ける。

 果たしてその時は来た。数奇な運命に導かれる様にして。残念な所があるとすれば、王の目的が自分ではなく、トロイア戦争への参戦である事。だが構わない。オリンピアを追放された自分は、その国の地を踏む資格がないのだから、王がオリンピアから出さえしてくれたなら何でも良かったのだ。

 昂揚に歳甲斐もなく貌を上気させ、進路を予測して先回りし、オリンピアの軍勢前に姿を現した。待ち望んだ瞬間を迎える為に。

 

 

 

 そして――イオラオスの貌は凍りつく。

 

 

 

 驚愕。そして、絶望。

 

 培ってきた経験と、磨いてきた眼力。それが視たものは、何か。同行してきたマシュはその些細な変化に気づけない。鍛え抜かれた軍勢を目前に、肌に感じる覇気を感じ圧倒されていた彼女に気づけるわけがなかった。

 そして狂化してそもそも理性がない黒騎士を除き、人の心の機微に疎い、円卓の騎士達に到っては何をか況や。騎士であるが故に、彼らは夢でも視ているように呆然としてしまっている。

 

 英雄がいた。

 人類史に燦然と煌めく伝説がそこにいた。

 

 僅か五人で自分達の進行方向に立ち塞がった者達に気づき、脚を止めた戦士団。その先頭に並び立つ複数人の英傑ら。

 

 十代後半に差し掛かっている、若かりし頃の『獅子の軀』のヒュロスと『獅子の腕』アレクサンドラがいた。戦士としてのヘラクレスの後継とまで謂わしめた、大アイアスが――影に日向に主を補佐した戦士王の右腕、スーダグ・マタルヒスがいる。

 彼らに劣るものの、英雄と冠するに足る勇士も五人いる。ヘラクレスの弓術の弟子、ピロクテーテス。戦神の子にしてヘラクレスの槍術の弟子、アスカラポスとイアルメノスの兄弟。アマゾネスにしてヒッポリュテの妹アンティオペーとメラニーペ。いずれも豪勇で鳴らす勇士である。

 

 そして、ヘラクレス。彼ら十人と、此処にヒッポリュテと死したアタランテ、永遠に空席とされたイオラオスを含め、後世に『英雄旅団』と号された。

 

 生きた伝説であろう。ブリテンの者らが幼少より慣れ親しんだ無双の勇者達である。円卓の騎士達の自失は責められたものではない。人の心を持つ故の失陥だ。

 

 金色の獅子の鎧を纏った王の威光。何も変わっていない。白亜の魔槍を提げ魔獣の駿馬ディオメデスに跨る戦士王の武威は、見る者を圧し潰す迫力を醸し出している。ただ――老いていた。ヘラクレスは老いていたのだ。

 艶を持っていた純黒の髪は白く染まり、肌に刻み込まれた皺は深い。漲っていた生気は限りなく無に近く、充謐していた嘗ての躍動感は失われていた。

 然し、その双眸に込められた深い理知の光と、炯々と光る意志の奔流は些かの衰えもなかった。戦士王の肉体は衰耗してこそいるが、紛れもなくヘラクレス本人であった。

 

 そのずば抜けた視力によって、とうの昔にマシュ達の存在へ気づいていたのだろう。彼に動揺はない。戦士の一人がマシュ達に怒鳴る。邪魔だ、道を開けろ! と。偉大な王と共に心躍る戦場へ赴かんとしているのだ。くだらない道草など食っていられるかと苛立っている。

 ヘラクレスに威圧感はない。ゆったりと嘗て人食い馬と恐れられた駿馬を進めると、彼は片手を上げて戦士らの憤りを制し、軍勢の進軍を止めて兜を外す。

 貌を露わにした老ヘラクレスの瞳が、ゆっくりとマシュ達を見渡し、そしてイオラオスの下で止まった。

 

 イオラオス……。そう呟いたのは、七枚の赤い円環を重ねた大盾を持つ細身の乙女、大アイアスだった。彼女はヘラクレスの世代を除き、唯一イオラオスと面識がある。頻繁に故郷のサラミスに訪ねてきては、土産話をしてくれる親しいヒトだった。

 

「……イオラオス」

「……お久し振りです、伯父上」

 

 万感の想いの籠もった呼び掛けに、イオラオスは堪えるように体を震えさせ、目礼すると共に貌を伏せた。

 

「まさかな……生きている内に再び会えるとは夢にも思っていなかったぞ。大きくなった……体がではない、その在り方がだ。それに、何だ。私にも丁寧に話せるようになったらしいな。こそばゆい反面、寂しくもあるが……これも一つの成長の形か」

「………っ」

「それと……大儀だった。お前を追放した時の言葉をよく覚え、真意を汲み、よくぞオリンピアを助けてくれた。動けぬ私に代わり果たした数々の功業、これに並ぶ者を私は他に知らん」

 

 労いの言葉は、暖かかった。辛そうに眉根を寄せ、歯を食い縛るイオラオスは、否定するように首を左右に振る。

 ゆったりとした語調が耳朶を打つ度に、胸を締め付けられる心地を味わいながらも、イオラオスは貌を上げる。そして土気色の風貌の老ヘラクレスを直視した。

 

「わたしは……当然の償いをしたまで。未だ償いは終わっていません。欲に駆られ、会いに来るのではなかった。そう……後悔しています」

「……? 何故だ、イオラオス。私はお前とまた会えて良かった。久闊を叙すのも悪くないだろう。どうだ、積もる話もある。我が陣に加われ、お前の席は残している。私は最後の戦に出る。その戦での功績次第で、追放を取り消してやれる」

「伯父上。それより、お訊ねしたき儀があります」

 

 老ヘラクレスは喜んでいた。忌むべき追放者との再会を。彼は最後の戦と言い、その場に自身の黄金時代に同行した甥の存在を求めたのである。

 その泣き出したくなる栄誉を、丁重に明言を避けて跪く。それを視たヘラクレスは哀しそうに目を細めた。然し王に対する態度を取られれば、王として接するしか無い。仕方なさそうに嘆息する様は王者らしくはないが、ありのままの姿で君臨する様こそ人のまま王となった老ヘラクレスの完成形である。

 威厳は損なわれない。威圧するのではなく、包み込むのでもなく、ただただ惹きつける。相対しているだけで世界全てが味方になってくれたような安心感がある。それに、イオラオスは目を逸らした。

 

「なんだ。言ってみるといい」

「はい。――ああ、その前に一つ、伝言を預かっています」

「伝言? 誰からだ」

太陽王(ファラオ)オジマンディアスからです」

 

 その名に、老ヘラクレスは目を見開いた。そして懐かしそうに遠くを見る。

 約束を……果たせていないな、と。未練を見つけたように。それを振り払うように頭を振る。共に過ごしたのは僅か半年、然しその期間だけで縁は切れた。

 再会を互いに望んでいて。だがその機会はなかった。それだけの事である。王となり身軽に動けぬようになった老ヘラクレスが、遠い異国の地に出向く事など叶わない。それだけの話で、それで終わりだ。

 

「『オジマンディアスたる余との約定を違えるとは見上げた不遜である。断じて赦してはおけん。星々が巡り太陽が幾度も沈み、昇り、その果てに再び相見える時があれば、その時は余自らの手で死を賜わしてやろう。せめてその余生、心穏やかにあるがいい。叶わぬならば悔いなく逝け』との事。一言一句違える事なく、確かに伝えました」

「……フン。王としてならともかく、個としての私と戦って勝てるつもりでいるのか。相変わらずだな、あの小僧め」

 

 憎たらしげに吐き捨てるが、その目は優しかった。

 

 束の間、静寂が過ぎる。過去の輝かしい思い出に浸っている。老人の感傷だ。

 だが心穏やかで居られない者もいる。生唾を呑み込むマシュと、円卓の騎士だ。彼らの霊基は感じていた。戦士王の秘めた圧を。

 ――次元が違う。生前の己達を相手取っても……否、生前の、全盛期の円卓総出で掛かり勝負が成り立つか否か、といった脅威。これが古今に於いて無双、最強と称される、戦士の格。数多の神話、史実、全てを総括した中で最強は誰かと論議した時、真っ先に挙げられ、議論を盛んにさせる存在。

 カルデアは老ヘラクレスを観測して驚愕していた。サーヴァントを遥かに超え、神の域にある瀑布の如き計測結果。その力の総量、カルデアを以てして計測不能である。ロマニは確信した。戦ってはならない――勝てるわけがない。老いたりとはいえヘラクレスはヘラクレスのままである。

 

 白い獣が、全身の毛を逆立たせ。色彩のない少女の懐に隠れる。

 

「――さて。伝言、確かに聞き届けた。それで……私に訊きたい事とはなんだ?」

 

 この時。ヘラクレスの赤い眼が、マシュを視て、そして円卓の騎士達を見据える。純粋な人間ではないなと、その眼力は見抜いていた。

 イオラオスは伏して言上する。その瞳に渦巻くのは悲哀、そして疑念。懐いた疑惑を晴らす為にか、それとも超常の域にある観察眼を持つ賢者の絶望を覆す為か。

 放浪の果てに望外の幸運を得たはずの男は、つくづく運が悪い、と溢した。

 

()()()()()()()()?」

「――――」

 

 その問いに、息を呑んだのは誰か。

 

「あなたは、ヘラクレスだ。古今無双、老いては賢王、比類無き大英雄。間違いなく、あなたはヘラクレスだ。そんな事は解っています。だが――()()()()()()。わたしの……俺の知っている伯父上なのか?」

「……何を言うかと思えば、愚問だな。私は私だ。それ以外の何者でもない。もしや、私が魔術に操られ、あるいは神に魅入られた愚者にでも視えるとでも?」

「いいや。いいや――()()()()()()()()()()。ヘラクレスをヘラクレスたらしめられるのは、後にも先にもヘラクレスしかいない。だからそんな愚問を口にするのは避けたかった。だが言わずにおれない。だって……」

 

 半獣半人は、少年のように泣きそうだった。

 言葉にすれば現実を確定させてしまうような気がして。

 然し、言わねばならない。糾さねばならない。なぜならこの身は同行者。その使命は果たせなくなっても、誰よりも身近で在り続けた者なのだから。

 イピクレス亡き今、本当の意味でヘラクレスの異端の価値観、思想を理解してあげられる存在なのだ。逃避できない。弾劾せねばならない。

 

 イオラオスは、言った。

 

()()()()()()()()()()()()()()()

「………」

 

 驚愕の声が上げられる。カルデアの面々と、そして英雄旅団から。

 眼を見開き、ヘラクレスはイオラオスを見る。そして……誇らしげに微笑んだ。

 その事実を見抜いた甥が、息子のように想っていた者が、誇らしくて堪らない。そんな微笑。

 

「死体が動いている。そんな理不尽、幾ら伯父上でも起こせない。――聖杯に縋ったのか。だが気づいているはずだ。あなたは、あなただろう。ヘラクレスをヘラクレスたらしめるのは、ヘラクレスしかいない……()()()()()()()()()()()()()()()。カルデアから聖杯とサーヴァントについて聞いた。だから正体を察せてしまった。気のせいだと流せなかった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「………」

 

 告げられた言葉は矢となって大英雄を射抜く。

 

「問いを投げていながら、自ら答えを出す。相変わらずの生意気さだな」

 

 それは肯定だった。否定してほしかったのに。

 

「その通りだ。よくぞ気づいたな」

 

 繰り返し肯定される。偽りを口にする事は簡単なはずなのに。その嘘に騙されたかったのに。彼は誠実だった。残酷なまでに。

 

 戦士王の遺体ともなればそれは超抜級の聖遺物たりえる。聖杯にも引けは取るまい。故に聖杯の奇跡を以てしても、死した直後の英霊の魂を、自身の肉体に戻すのは不可能に近い。万能の願望器でも、それに並ぶ、あるいは凌駕する器に干渉するのは極めて困難だからだ。

 神秘はより古く大きな神秘には抗し得ない。その法則を覆し、死体に憑依し続けられるのは、ひとえに戦士王ヘラクレス――アルケイデスの精神力が桁外れだからである。

 おそらく、自身の肉体とはいえ、死んでいる故に拒絶反応は生半可なものではあるまい。何故なら今の大英雄の器には、英霊アルケイデスと神ヘラクレスの魂が同居しているはずだから。半神半人である彼は今、非常にちぐはぐで、今なお途切れぬ激痛の海に浸っているはずである。だというのにアルケイデスは完全に平常心を保ち、欠片も苦しみを表に出していない。カルデアの計測にも捉えられないほど完璧な隠密だった。イオラオスですら、気づけたのは聖杯などの事前知識があったからに過ぎないのだ。

 

 げに恐ろしきはアルケイデス。全てを欺く心の静謐さもまた超常の域にある。

 

「だが――それの何が問題なのだ?」

「え……?」

 

 イオラオスは、アルケイデスの言に呆気にとられる。イオラオスだからこそ呆然とした。

 

「私が死んでいる……その通りだ。だが潔く死ねぬ理由ができた。私だけなら良い。オリンピアは既に立ち直った。私がおらずとも、何も憂いはない。大人しく世を去るのも吝かではなかった。人としての私は死のうとも、神の部分の私は私のやり残しをきっと片付けるだろう。神の私は、この私ではなく、同じ起源を持つ他人であるが、だからこそ理解している。確実に成すべきものを成すために行動するだろう。だが――聞いてしまったのだ」

「聞いた……? 何を……?」

「パリス」

 

 名を呼ばれ、軍勢の中から一騎の騎兵が進み出てきた。

 見目麗しい、美の男神が如き美貌の青年だった。窶れ、荒み、憔悴している。然し些かもその容貌を翳らせていない。爛々と輝く目の光は、苛立っている。

 何に? 言うまでもない。オリンピア軍とアルケイデスの脚を止めさせている、イオラオスにだ。

 

 “パリスの嘆願”――神話に語られる、トロイアからオリンピアへの援軍要請。トロイアの王子ヘクトールの弟で、そしてカッサンドラの兄だ。

 

 彼を指し示し、アルケイデスは言う。

 

「殺されたという」

「……?」

「奪われたという」

「………」

「罪もない民が。国民達の財産が。不当な虐殺と略奪の憂き目に遭っているという。そしてそれを目にし続け、懸命に抗い、然し敗れるのは時間の問題で……負ければこの者の国の民は悲惨な末路を辿らされるだろう。神意なのだ、それが。ならば――それに抗し得る者に縋りたくなるのは必定だ。王女が請い、妹の嘆きを聞いた兄が遠くオリンピアにまで訪れ、嘆願した。助けてほしいと。――我が不明によって傾けた国を助けてくれた盟友の危機だ。請われまでしたのに助けにいかずしてどうする。義を見た、兄妹の勇を見た。ならば動かずして何が“人間”だ?」

「………」

「私個人の信条など取るに足らぬ。私は人間だ。人としての寿命を迎えたのなら覆せる理なくして動ける道理はない。然し私は聖杯とやらを得て、動けるようになった――死は避けられずとも、死した器に我が魂を固定する事で。故に私は自らに禁を破る赦しを与えたのだ。盟友を助ける、その時まで人としての命を永らえようと」

 

 王は、どこまでも人間だった。人だった。半神としての長寿を拒み人として生き、如何なる苦行、苦悶に呻こうとも、決して人である事を諦めていなかったのである。

 人の情を決して捨てない。だからこその行動であると戦士王は言う。

 それは覚悟ではない。()()だ。例え化け物、大英雄と謗られようと、自らに規定した人の在り方を決して損なわない。

 

 王の声はよく届いた。オリンピアの軍は畏敬の念と共に自然と頭を垂れる。

 パリスもまた感激し、深く感謝の念を胸に貌を伏せた。

 

 ――それは誰にも咎める事のできない、人間の義理人情だった。誰にも否定できない人の優しさ、義憤であった。マシュが貌を曇らせる。ガウェインには眩し過ぎ、温かすぎる王道だった。王は人の心が分からない……そう吐き捨て円卓を去ったトリスタンには、特に迷いを与えるものだった。

 だが彼らは人理の英霊である。カルデアのサーヴァントである。彼の戦士王の行いを是とはできない。それが苦しい、人理復元に立ちはだかるのが、必ずしも邪悪であるばかりではないのが辛い。

 

 マシュは、蒼白だった。言葉を紡げない。押し黙るしか無い。気づいてしまった。特異点化の原因を除くという行為は、すなわち彼らに――トロイアの人々に、死ねと。正しい歴史のために虐げられ、苦界に溺れて死ねと言うに等しいのだと。

 だから誰も否定できない。アルケイデスを止められない。だから。いや、だからこそなのか。

 

 イオラオスだけが、否定できる。

 

「それでも――伯父上は死ぬべきだ」

 

 空気が凍りついた。誰もが目を見開いた。パリスがわなわなと唇を震えさせ、怒りの余りに、激情に口をパクパクと開閉させる。

 アルケイデスは透徹とした眼差しで真意を問う。

 

「何故だと問おう」

「今度はわたしが愚問だと言わせていただく。いや、俺が言う」

 

 王に死ねと告げたイオラオスに、壮絶な殺気が集中する。それを受け流し、彼は大英雄を見据えた。剣を抜きそうな者達を制し、戦士王は甥の言葉を待つ。糾弾を甘んじて受ける。自分と完全に同じとは言わないまでも、自身の倫理観を理解してくれる甥の。自分にとって最大の理解者の弾劾を受け止める。

 

「伯父上の義は正しい。情も否定されるべきじゃない。盟友の危機を助けに行こうとする意志は尊いものだ。だが――()()()()()()()()()()

「………」

「伯父上は復讐しようとしている。憎いんだろう、殺したいんだろう、()()()()()()()。イアソンを殺したアイツを。仇を取りたいと思ってる。違うのかよ?」

「……さて」

「否定できないだろ? 確かにそれだけじゃないのは事実なんだろうさ。だが確実に、復讐したいという想いは一部分を占めている。……違うか、一部分なんて生温さはないな。伯父上は私情を公然と場に出せる口実があれば逃さないもんな。復讐心が八割、義理が二割ってとこか。でもいざとなればその二割を優先する分別もあるから普通は分からない。俺じゃなければ」

「……ふ」

 

 アルケイデスは、笑った。愉快そうに。胸の裡を汲み取られる感覚が嬉しいのだ。

 自分の思考を辿られるのを、彼は喜ぶ。なぜなら真の意味で共感してくれる人間なんて、イオラオス以上の者がいないから。ヒッポリュテですら、アルケイデスの意志を理解はしても、心の底からの共感はできていないのである。

 それにイオラオスは侮辱していない。アルケイデスの感情の巨大さは、二割ですら常人に十倍するうねりを持つ。

 

「分かってるはずだ、伯父上には。死んだ人間は……地上に正と負の、あらゆる痕跡を残してはならないんだって。死んだ人間の無念を継ぎ、後に繋げるのはいつだって生きてる人間なんだから。だから……伯父上は死んでいるべきだ。怨みも、無念も、全て後に続く人間に託すべきなんだよ」

「……イオラオスさん……」

「マシュ、言え」

「え?」

「おまえしか言えないし、言う資格もない事がある。言うんだ。ただし――」

 

 ――カルデアの事、人理焼却については言うな。

 

 マシュは蒼白な貌のまま、固まった。()()と告げられ、我知らず誰かに助けを求めるように視線を彷徨わせる。

 ガウェインはマスターである彼女に任せるしか無い。トリスタンは表情を消して佇むのみ。こればかりは、自分達の出る場ではないのだ。狂化している湖の騎士はそんな事は知らんと言わんばかりにマシュを支える。

 それで、少しだけ意志が形を持った。黒騎士の支えが、心強い。

 

「ヘラクレス王……私は、マシュ・キリエライトと云います」

「………ふむ。聞かない響きの名だな。それにその衣装、ギリシャのものではない。イオラオス、この娘は?」

「察しの通り、異邦の小娘だよ」

「……エジプトのような、か」

「まあ、似たようなものかな」

 

 アルケイデスの眼が険しくなる。その反応一つもイオラオスは判断材料にしていた。

 確信する。伯父は特異点や人理焼却については知らないと。だがそれを知らせるのは下策だ。そんなもので歩みを止める男ではない。何か想像もつかない手段を力尽くで成し遂げてしまいかねないからだ。 

 それに――抑止力。それについて長い旅の中で知ったイオラオスは、その手のものを感じさせるものにアルケイデスが好感を持つわけがないと判断している。

 過去の己の度し難い所業が、それに後押しされてのものだと知ったが。イオラオスは抑止力を怨んでいない。何故ならどんな力学が働いたにしろ、あらゆる咎も責任も、イオラオスのものだからだ。断じて訳の分からない意味不明なものが、愛する者を殺したなどと認められない。殺したのは自分だ、愛したのも自分だ、だからアタランテを手に掛けたあらゆる罪業をイオラオスは己のものであると断定している。

 

 だから怨んでいない。憎んでいない。然し――アルケイデスは違うだろう。

 

 マシュは要求する。縮こまりそうになりながらも。

 

「ヘラクレス王、聖杯を……私達に、譲ってください……!」

「………」

 

 その一言が、どれだけなけなしの勇気を振り絞ったものなのか。イオラオスとアルケイデスは、正確に認識した。

 さながら幼児が国の命運に関わる大事な交渉の場に上げられたが如く。なまじその意味を理解できる知性があるのが残酷だ。声を震えさせ、眼を彷徨わせ、それでも言った彼女の無様を、然しアルケイデスは嗤わなかった。

 

「何故だ?」

 

 端的に問う。拒むでもなく、対話に応じる。マシュは威圧された。気圧された。アルケイデスは別に、語気を荒げたでも、怒気を滲ませたわけでもない。寧ろ優しげでさえある。頑張れと、舞台の上の幼子を応援しているかのようである。

 マシュは何度もつっかえながらも、なんとか言葉を紡いだ。

 

「ぇ、その……聖杯は、世界にあっては、だめ……なんです。理由は……その、ごめんなさい。言えま、せん……」

「……理由も言わずに聖杯を渡せだと? 訳も知らぬまま私に死ねと言うのか」

「っ……」

 

 マシュは押し黙った。俯いて、何も言えない。それにアルケイデスは何を見たのか。フッ、と笑う。嘲笑ではない。純粋に慈しむような笑みだった。

 老いた瞳には孫ほどにも年の差がある少女を慮る光がある。些かの害意もありはしない。怒りも、何も負の想念がない。ただただ暖かく、だからこそマシュは辛かった。

 

「イオラオス」

 

 そして、呼ばれる名。アルケイデスは見抜いていた。その常軌を逸した観察眼は、さながら過去視の異能の如しである。

 

「これだけ心弱く、意志薄き娘を私の前に立たせられたのは、お前の入れ知恵のお蔭だな? 心を守る術を教えていると見える」

「………」

「優先順位を教えたのだろう。譲れない想いがあるのが分かる。吹けば飛ぶ程度だが。異邦の娘だったか……私が聖杯を譲らねば、大変な事になるという事だろうな」

「……それが分かるなら」

「だが甘い」

 

 アルケイデスは、あくまで柔和に告げる。まるでイオラオスを採点するように。

 

「お前は賢い。昔から知という分野に於いては私を超えていた。だが同時に賢すぎ(さか)し過ぎる。お前は賢者を育てられるだろう、だが()鹿()()()()()()()

 

 馬鹿を、育てる……? 意味が解らず、イオラオスは思わず伯父を見詰めた。

 苦笑してアルケイデスがマシュに命じる。

 

「娘。マシュと云ったな?」

「は、はい……」

「叫べ」

「……え?」

「叫べと言った。三度は言わんぞ」

「ぇ、え……? な、なんで……」

 

 反駁は、然し無視される。アルケイデスは唐突に殺気を滲ませはじめた。マシュは命の危機を感じる。

 従わなければ殺される――その危機感が、マシュを叫ばせた。

 

「ゃ、やぁぁあああっ」

「声が小さい。もっと腹から叫べ」

「やぁああああああっっっ」

「死ぬか? 叫べと言ったぞ。手本をみせてやろう。こうやるのだ。

 ――雄ォォオオオオッッッ!!」

 

 天に向け吠え立てるアルケイデスの声量は大地を震撼させた。戦慄するサーヴァント達を横に、腰砕けになりそうになりながら、マシュは必死に叫ぶ。

 

「やぁああああああああッッッ!!」

 

 喉よ裂けろと言わんばかりに叫ぶ。力の限り、全力で、恥も外聞もなく叫んだ。

 必死になり過ぎだのだろう、肩で息をするマシュは、アルケイデスが口を閉じて自分を見ているのに遅れて気づいた。

 どうして叫ばされたのか。マシュは訳がわからない。そんな表情のまま訳を訊いた。

 

「な、なぜ、私は叫ばされたんですか……?」

「なぜ? そんなもの、理由などないに決まっているだろう」

「ないんですか!?」

 

 思わず叫んだマシュに、イオラオスやガウェイン達は眼を剝いた。本人だけが気づいていない。

 老アルケイデスは微笑む。

 

「強いて言えば、それが理由だ」

「それ……?」

「どうだ、震えはなくなっただろう」

「ぁ……」

 

 マシュは声を漏らし、自分を確かめた。

 震えが収まっている。綺麗さっぱり。

 なんで――その呟きに、アルケイデスはイオラオスに笑い掛けながら答えた。

 

「お前は賢しい。だが賢しいだけの者の何が他者の心を動かす? マシュ、お前は考え過ぎだ。抱え込みすぎだ。馬鹿になれ、マシュ」

「ば、馬鹿に……ですか……?」

「譲れぬものがあるのだろう。ならばお前の事情など知るかと笑い飛ばして奪い取れ。勝ち取れ。それほどの傲慢さを持たずしてなんとするか。己の意志があるのならば、何も不安に想う事はない。人の数ほど正義はある……ならば己は己の正義を貫け」

「私の……正義を……」

「そうだ。そして私はこう答える。聖杯を渡せ? ――断るッ!」

「ええ!?」

 

 色彩がない、それは悪い事ばかりではない。早くも大きな声で驚く事を覚えたマシュに、アルケイデスは笑い掛け。

 

「聖杯は譲ろう。ただし私の目的を達してからだ。それまでは譲れんよ。もし今すぐに必要だと言うなら……奪え。私は略奪は好かんが、譲れぬものがあるなら断固として実行するだろう。貴様もそうしろ。人の意志のぶつかり合いとはそういうものだ」

「む、無理です……」

「ん?」

「無理です! だってヘラクレスなんですよ!? どう考えても無理です! だから譲ってください! 今すぐ!」

「は――ハハハハハハ! 無理だと言った。断ると言った! 奪えるものなら奪ってみろ。私はそれを恨まんし、見事と讃えてやる。……我が侭を覚えたな、娘」

「ぇ? ぁ――」

 

 マシュは、驚いた。アルケイデスを見る。もう――恐ろしくはなかった。

 馬鹿になれとは、つまり傲慢になれということ。他人の痛みに共感するのが駄目なのではなく、そういうものは自分に余裕がある時にしろと、そういう事だ。

 何も考えずに駆け抜け、悔やむのも誇るのも、全て終わってから振り返ってもいい。マシュはそう説かれた気がした。

 思い込みかもしれない。もちろん、言われた通りに振る舞えるとも思えない。何度も苦しむだろう。然し――心に芯を持つ術を、確かに教えてもらえた。

 

 王というモノは、英雄というモノは、こんなにも心が強い。マシュの胸に憧憬が宿る。そして、下ではなく、少しだけ前を向ける気がした。

 

 それをよそに、老王は瞠目しているイオラオスに採点結果を告げる。

 

「よく鍛え、知を蓄え、功を成し、勇を持った。だが人を育てる力は未熟だ。こんな幼子も満足に導けぬようでは賢者の名が泣こう。――まだまだ、だ。もっと精進しろ」

「――――」

 

 ――褒めて、もらいたかった。

 なのにまだ未熟だと、精進しろと、まだまだだと言われた。

 悔しいはずだ。なのに、イオラオスは目頭が熱くなる。

 泣きたいぐらい、嬉しかった。また教えてもらえて、嬉しくて堪らなかった。

 戦えば殺される。少なくともカルデアは。だから何も言う事はない。

 そしてイオラオスは、そんな伯父が大好きなのだ。

 

 故にこそ。()()は自分にしかできないと自認する。

 

「伯父上。俺は、例え世界中の全てがあなたを……あんたを肯定しても、俺だけはあんたを否定する」

「……そうか」

 

 嬉しそうに、アルケイデスは微笑む。

 

「だって俺だけなんだ。伯父上を理解してやれるのは。伯父上が懐く信条を、理解して共感できるのは、この地上じゃあもう俺だけなんだよ」

「――イピクレスは、死んだか?」

「ああ。寿命で死んだよ。それなりに苦しんだけど、死に顔は穏やかだった」

「……そう、か。アレは……業の深い女だったが。……あまり構ってやれなかったのは、悔しいな。大事な妹だった」

「分かってるよ。母上も、俺も。だからだ、伯父上を肯定する世界で、俺だけが伯父上の信条の味方ができる。それを曲げた伯父上を糾せる。俺は……あんたとは行けない。悪いけど、マシュの肩を持つよ」

「分かった。――あのイオラオスが、な。あんなにも小さかったイオラオスが……本当に()()()()()()

「っ……」

「お前は私の誇りだ。いつなりとも挑むがいい。私は逃げも隠れもせん。――挑戦を待つ、その時は頂きの高さを教えてやろう」

「油断してくれよ。ついでに手加減もしてくれ。夢は長く見たい」

「さて……それはお前次第だ」

 

 道を開けろ、ここで()りたいか? 楽しげに槍を動かす老王に、然しイオラオスは苦笑いして首を左右に振った。

 こんな所で無策のまま戦って何になる。ここは退かせてもらうさと、マシュ達を見遣りイオラオスは言った。

 ならば行け、急げよ。早くせねば私はアガメムノンを殺し、トロイアを救うぞ。そう嘯くアルケイデスは、此処から逃げる事を彼らに赦した。

 

 だが、

 

「待てッ」

 

 呼び止める声があった。

 

 双眸を剣呑に釣り上げ、肩を怒らせる女戦士である。歳の頃はマシュと同程度、されどその身に宿す気迫はまさに怒髪天。父の会話が終わるまではなんとか待てたが、それが終わればもはや見過ごせんと猛り狂っている。

 艷やかな黒髪と、黒曜石のような瞳。白磁の肌。母の血を色濃く感じさせる秀麗な美貌は怒りで朱に染まっていた。

 その女戦士は、名をアレクサンドラという。

 世界一有名なパパ大好き(ファザコン)娘の逆鱗を、マシュとイオラオスはこれ以上なく踏みつけていたのだ。

 

「パ――お父様の厚意を跳ね除けるばかりか、否定するだと? あまつさえパ――お父様のものを奪うだと!? 赦せん……ド赦せんッ! パパげふんお父様は貴様らを逃がすと言ったが、この私は絶対に逃さん! 八つ裂きにしてくれるッ!」

 

 

 

 

 



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第六節 英雄旅団(ヘーラクレイダイ)(後編)

 

 

 

 

 ――半神と半神の子、ヒュロスとアレクサンドラ。彼らもまたアルケイデス亡き後の時代を代表する著名な英雄だが、彼ら兄妹の有名な逸話の一つにこんなものがある。

 

 シリーズ化したハリウッド映画『オリンピア』第四部初出、第五部の主人公ヒュロスに関しては言うまでもないだろう。幼少期の騒動を題しての『お騒がせ王子』である。

 

 彼とその妹は大神の子、戦神の子をそれぞれ父母に持ったが、ヒュロスは父方の血を色濃く受け継ぎ、膂力に比例する器用さを持っていた。また嫡男である故に次代のオリンピア王となる事が定められており、幼少の頃からケイローンの教えを受けて育つ。

 英才教育を受けたヒュロスは、幼いながらに明晰な頭脳と鋭利な思考、柔剛併せ持つ武勇の持ち主となった。父の鎧の外套に包まれた加護――便宜上『獅子の祝福』とする――を授かり強靭な五体を有し、幼き時分を父の間近で過ごしたという。

 

 そんなヒュロスは王子として、自身の感情を律して感情の起伏を平坦にする術を、幼いながらに身に着けてしまっていた。王たる者は国に尽くさねばならないと、父を見て育った故に思い込んだのだ。

 これを憂いたのは父である。自分の子供は可愛い。目に入れても痛くない。そんな我が子の心が鉄となるのは見過ごせず、そこで彼はヒュロスを市井に放り込んで歳の近い子供達と遊ばせた。そうして――見事に『王になんか俺はならねぇ!』と父に対する反抗期に突入したのである。

 

 子供として普通に、自由に遊べる解放感を知ったヒュロスは、瞬く間に市井に溶け込み順応した。結果、王家の者の執務が窮屈で、堪えられないものだと認識したのだ。

 果たしてヒュロスは父に歯向かい、時に公僕就任刑を受けつつも、父を彷彿とさせる不屈の闘志で忍従の時を三年過ごし、ケイローンの授業により力を付けたヒュロスは、電撃的にオリンピアから脱出してのける。

 戦士団と警邏隊の執拗な追跡と激闘を経て、逃げ切るためにマタルヒスを倒し、ケルベロスの猛追を振り切って、国外逃亡を成し遂げたのである。ヒュロスとアレクサンドラに対して、親戚のお姉さんみたいに接していたマタルヒスは情に絆されたのだとする説もあるが、それはさておくとして。漸く手に入れた自由にヒュロスは歓喜狂乱した。

 

 が、オリンピアを出たら大好きな……いつも自分を守ってくれて、優しく抱きしめてくれた母に会えないと思い至り、脱出したその足でオリンピアに引き返したのだった。

 

 なんのために脱出したのかと周囲を困惑させたヒュロスは、以降隙を見ては王宮を脱走して市井の民と交わり、民からの親しみを得て、駆けつけた父に拳骨を受けて連れ戻される光景が見られるようになったという。

 そんな母さん大好き(マザコン)息子の逸話は、オリンピアの微笑ましい日常の一幕となっていった。

 

 ――そして、アレクサンドラである。

 

 アルケイデスはヒュロスの件で反省していた。息子は可愛い。然し反抗期が続くのは辛い。そこで長女を猫可愛がりして駄々甘に甘やかした。それを見たヒュロスは余計に反抗的になるのだが……とうのアレクサンドラは計画通りに父に懐いた。

 そして夫が甘やかすなら自分が嫌われ役になろうと、ヒッポリュテに厳しく躾けられ母に対する反抗期に突入する。子供は現金なのだ。息子は母に、娘は父に。異性親に懐く傾向があるのはこの時代でも周知の事実である。

 

 アレクサンドラはヒュロスほどには才能がなかったが、兄と同じくケイローンに師事し、何かにつけては父の真似をしたがり、いつも仕事で忙しい父に引っ付いて廻った。そうしてアレクサンドラは不真面目なヒュロスの態度が目につくようになり、兄を蛇蝎の如く嫌悪し反面教師にすると、アレクサンドラは統治者としてはヒュロスを凌駕する才覚を獲得していく事になる。

 進んで勉学に励めば励むほど、大好きな父が褒めてくれる、構ってくれる。楽しくて仕方がなく、食うも寝るも常に行動を共にしたアレクサンドラは、成長するにつれ父の生真面目さ、母の行動力を覚醒させ、積極的に自分を磨くようになる。アルケイデスが何事かを思いつく度に無茶振りされ、十の試練と銘打たれたマタルヒスの功業に付いて廻って諸国漫遊し、親戚のお姉さんの立ち位置にいるマタルヒスから危険な目で見詰められている事にも気づかず、あくせくと修練を積んで力を身に着けた。

 時にはメディアの許を訪れ実戦的な魔術を学び――戦装束を見繕うと称し着せ替え人形扱いされつつ――アイアスと友好を深めて親友の仲になり。オリンピア国外の治安の悪さ、人間達の野蛮さを嫌悪する潔癖さを身に着け――父への尊敬の念を新たにしつつ――帰国してからは兄の自堕落さに激怒して尻を叩き修練に駆り出し。アレクサンドラはオリンピアに名高き戦乙女と称されるに到っていた。

 

 その武勇、母の如し。その知略・厳格さ王の如し。性交渉を申し出てきたゼウスを蹴り出した逸話は余りにも有名であり、そんな彼女は絵に描いたような頑固者――自身の考えを絶対とする自尊心を育んだ。

 女王の気質を母から受け継いでいたのだ。勿論アルケイデスの為す事は全力で肯定するし、父が己よりも正しい唯一の上位者であると規定してはいるのだが。

 そうしてやりたい事をさせ、本当にいけない事だけを叱り、途方もなく甘やかされて育った結果、アルケイデスがある意味で唯一育児に失敗した娘は、どこに出しても恥ずかしい一つの欠点を抱えてしまう。

 

 それは()()()()である。

 

 彼女はその立場と教育係のヒッポリュテのせいで、自身の容貌がどれほどのものかを自覚していなかったのだ。

 神々の中で一、二を争う美貌の戦神を祖父に持ち、稀代の大英雄の精悍さを継ぎ、母の秀麗な美貌を受け継いだ彼女は、正に美の結晶とも云える美々しい容貌を持っていたのである。その内面の気高さはますますアレクサンドラを輝かせ、その美はゼウスをも虜にするほどになった。

 然し平凡な民草は彼女を()()()()()では見てこなかった。当然である、あのアルケイデスの娘であり、人智を超えた美貌故に雲上人のように遠巻きにするのが精々で、手の届かない高嶺の花――眺めて満足する高尚な芸術品のようにしか見なかった。

 また彼女自身、異性に関しては無関心で、オリンピア国外の男はそもそも眼中にないか嫌悪の対象であった。アレクサンドラの要求する男の水準は、偉大な父に目を灼かれている故に非常に高く、それを満たす唯一の男は情けない兄しかいなかった。

 

 故に自身の“女”を欠片ほども隠さず、慎まず、意識せず。無防備極まる振る舞いが目立ち。――オリンピアを眺めた太陽神アポロンの目に、留まってしまって。

 

 そして求愛された。流れるような自然さはもはや様式美である。アレクサンドラは最初、相手が神であるから丁重にお断りしようとするも、求愛されたのがはじめて故に角の立たない断り方を知らず、ゼウスの時のような強引さはないアポロンの口説く姿勢にもどかしさを感じても上手く突き放せなかった。

 アポロンに纏わりつかれ、嫌がるも表には出さずにいた。そしてアポロンは無防備なアレクサンドラの振る舞いを見て、“いける”と判断してしまう。口では嫌がりつつも、内心は満更ではないと。もはや馴れ馴れしく触れるだけには留まらなかった。人目のつかない場にアレクサンドラを誘い込むと、アポロンは彼女を押し倒してしまったのである。そうして遂に、アレクサンドラは我慢の限界を迎えた。父が褒めてくれた自慢の黒髪に触れられてしまい、自制の鎖を引き千切ってしまったのだ。

 

 アレクサンドラは手酷くアポロンを打擲し面罵した。

 

 果たしてアポロンは逆上し、よせばいいのにアレクサンドラを連れ去ろうとしてしまう。頭の片隅に『ヘラクレスの娘』だという意識があったのだろう。変に呪わずにいる程度には理性が残っていたが……結果は変わらない。さしものアレクサンドラも、まだ未熟な戦士であった事もあり、格闘術にも明るいアポロンには敵わず捕まってしまう。

 後がどうなるかは火を見るよりも明らかだった。これがアレクサンドラを語るに際して欠かせぬ逸話である。題するに『囚われの姫君』だ。

 太陽神のしつこい求愛は、慎みを知らぬ娘の振る舞いを正す試金石に相応しいものとして見ていたオリンピア王だったが、アポロンの狼藉を見て激怒し、復興の最中の国で太陽神を相手に決闘を申し込んだ。愛娘を連れ去ろうとする太陽神に瞬く間に追いついたアルケイデスは、アポロンが国外に出る前に挑発して決闘に持ち込むと、情け容赦なしに叩きのめした。

 

 然し腐っても太陽神ボイポス・アポロンである。簡単には負けずに必死に戦い、周囲に甚大な被害を出した。オリンピア復興を二年遅らせた出来事である。

 赫怒の炎に燃えてアポロンを抹殺せんと、伝説の神殺しである残虐殺戮拳を繰り出さんとするアルケイデスに、騒ぎを聞きつけて下界を見たゼウスは驚愕した。

 慌てて雷霆を投じアポロンとアルケイデスの間を裂いたゼウスは、なんとかアポロンを宥め手を引かせた。ゼウスにとっては二人共が自分の子供なのである。悲劇を起こさせたくはなかったのだ。ヘルメスの件もある。アルケイデスをタルタロスに落とすような真似は、できればしたくないのであった。

 ギリシャ世界とは究極的に言えば力こそ全て。すなわち神こそ全てである。然しその神を打ち負かしてしまった人間は、神々の威厳に懸けて罰さねばならない。が、アテナが異議を唱えて“アレスの丘”にて裁判を行い、アテナ・ヘパイストス・ヘスティアの弁護もあり、ゼウスは情状酌量の余地有りとしてアルケイデスを罰さない決定を下した。彼の意志にも反さない裁定である。

 然しアポロンは機嫌を害した。同じ父を持つとはいえ辛酸を嘗めさせられた異母弟に対し、好意的に見られる度量は彼にはない。アポロンはアルケイデスへの反感を溜め込む事となったが、ひとまず事態は落ち着いた。

 

 そのような出来事を経て――アレクサンドラの箍は外れたのだ。

 

 自身の危機を救ってくれた父を、もはや神の如く崇拝し、ただでさえ心酔していたのに父以外目に入らない盲目状態に陥ってしまった。これまで漠然と父に追いつくのに十年あればいいと思っていたのが、アポロン相手に本気を出したアルケイデスを見て、一生掛かっても絶対に敵わないと確信させられたのも大きい。

 平時のアレクサンドラは堅物で融通が利かず、公正で私欲に乏しい孝行娘なのだが、父が絡むと人が変わったかのように激しい感情をうねらせた。アレクサンドラにとって父とは神聖にして不可侵、あらゆる行いも肯定されるべき絶対者なのである。強姦されそうになった恐怖の反動もあり、アレクサンドラのファザーコンプレックスは決して取り除けない本能へと組み込まれたのだった。

 

 故に。

 

 公然と父を否定すると、声高に公言した男を。

 世界で唯一のアルケイデスの理解者であると自称する不届き者を。

 例え血の繋がりのある男であっても、アレクサンドラは断じて赦してはおけない。その生存を許容できない。

 

 殺してやる――そんな易い殺意は無かった。

 然し単純な殺意よりも遥かに危険な、世界に存在してはならない敵を排除せねばならぬという使命感と、純化された憎悪がある。

 ふぉ、きゅぅぅ。マシュの懐の中で白い獣が鳴いた。

 全身の毛を逆立たせ、鳥肌を立てるマシュ。逃してもらえるはずが、突如戦闘が起こりそうになり動揺していた。

 

「………」

 

 アレクサンドラの言を聞いたイオラオスは、思わずアルケイデスを見た。彼は仕方のない娘だと呆れているも、咎める気配がない。――老王が親馬鹿でボケた訳ではない。彼はアレクサンドラが困った性格をしていて、激昂するだろう事は理解していた。その上で、放置したのである。イオラオスらがどのように切り抜けるか、息子同然の甥の成長を見たいがために。

 

「イオラオス。アリューは獰猛だぞ。お前は私の息子同然だ、長男として妹の世話ぐらい見てやれ」

「……ハァ」

「お父様! こんなヤツ私のお、兄などではない! 私の兄はうつけのヒュロスのみ、兄は一人でも多すぎる、今更あんなヤツをおにいさっ、兄に、など……!」

「さらりと嫡男を次男にする親父、さらっと()()()呼ばわりしてくれやがる妹……ハァ、身どもに代わって愚妹の世話ぁ頼みたいね()()()(やつがれ)としては出来た妹を持つと肩身が狭くってさ……」

 

 少女は完全に頭に血が上っている。呂律が廻っていないのはそのせいだと、優しいイオラオスは思う事にした。

 

 ヒュロスの気の抜けた表情と声音は聞かなかった事にする。露骨に嘆息して戯言を聞き流し、イオラオスはマシュを見た。マシュはどうしたらいいのか解らず、視線のパスをガウェインに向け、ガウェインはトリスタンにパスし、トリスタンはランスロットにパスし、ランスロットは――発砲した。

 

 狂化し理性がなく本能で駆動する黒騎士が、先手必勝と言わんばかりに短機関銃の引き金を引いたのだ。

 

 轟く銃声は火花となりて。黒騎士が襲い掛かるはアレクサンドラである。アレクサンドラは銃声に驚いたようだが、音速を超える礫の悉くを視認するや、籠手すら身に着けていない腕を払った。

 宝具化した弾丸の霰が着弾する。然し硬質なモノに跳ね返され、弾丸は地面を転がった。アレクサンドラの装束の袖に弾痕が残っているが、その下にある肌は些か赤くなっている程度。黒髪の乙女は不快そうに天与の美貌を顰めた。

 “獅子の腕”アレクサンドラ。獅子とはネメアーである。その硬度を持つ肉体は、僅かの脅威も受け付けない。特に両の腕は豪腕であり、生半可な宝具では「少し痛い」程度のダメージしか与えられない。

 

「aaaa……aaaaaaaa――!!」

「!? ら、ランスロット卿!?」

 

 赤い血管の如き魔力の這う鉄柱を手に、黒騎士が馳せる。銃器ではどうにもならぬと判断したのだ。それにマシュが驚愕の声を上げる。制止しようとするのを、イオラオスが止めた。

 

「待て。どうせあの(アレクサンドラ)は止まらない。ランスロットとかいうのの判断は正確だ。どうせやるなら先手を取ったほうが良い。やるぞ、伯父上も止める気はない。ひとまず強く当たり、流して退け。どうせ伯父上の事だ、嗾けて来るぞ――」

 

 黒騎士がアレクサンドラに仕掛ける。不気味に脈動する赤い筋の這う鉄柱を槍に見立て、豪快に突き込んだ。純白の戦装束を纏い、関節部のみを鎧で守った軽装の戦姫は短剣を腰帯に差していた鞘から抜き払って迎撃する。

 短剣と槍に比する長大な鉄柱とでは間合いが違う。疑似宝具として振るう理性無き騎士は、然し些かも衰えぬ武技を冴え渡らせた。

 火花が散る。右から左、袈裟、逆袈裟に振り下ろし、振り上げられ、鋭い打突を間断なく見舞ってくる黒騎士を、アレクサンドラは冷えた目で見据えていた。湖の騎士の猛攻を鉄壁の如く受け流し続け、そして眉を顰める。

 

「……巧い。が、それだけだな黒いのッ!」

「gi……!」

 

 遂には短剣で弾き返す事もせず、片腕で鉄柱を受け止めた。ぴたりとランスロットが静止する。極めて高い筋力を誇るランスロットの膂力を、戦姫は片腕で捩じ伏せる。

 槍兵の英霊を上回る速度で、残像すら残さず踏み込んだ純白の姫の鉄拳が黒騎士の甲冑の真ん中を穿った。驚愕する余分なものはなく、事象に即応する本能が咄嗟に飛び退かせていたが、それでもなお派手に黒騎士を吹き飛ばした。

 

「私より技の冴えは数段上、然し力と速さは数段下、ちぐはぐだな貴様は。だが――構うものか。強かろうが弱かろうが、敵は殺す」

 

 ダンプカーに轢かれた藁人形の如く空を舞ったランスロットに、ガウェインとトリスタンが信じられないといったふうに瞠目し――太陽の聖剣と琴弓が構えられる。それを見て鼻を鳴らすアレクサンドラ。

 

 それを見てアルケイデスが口を開いた。彼には、例え後の禍根になると分かっていても、ここでイオラオス達を殺す気はなかった。もとよりイオラオスに関しては後に戦闘になっても生かす気でいる。故に言うのだ。

 

「――余興だ。適当にあしらい、蹴散らせ。進軍の邪魔を除けばそれでいい。パリスめが頭の血管を破裂させ憤死しかねんからな。急げよ。ああ、それとアレクサンドラ」

「はいッ!」

 

 呼び掛けに即座に応じる愛娘に微笑みを投げ、彼は命じた。

 

「お前はヒュロスと協力しイオラオスのみと当たれ」

「……はい。お兄様とですか。いえ、不満はないです。やりますとも」

「はぁぁぁ? 僕? やだよメンドクサイ」

「お兄さッ、兄上ッ! 抗命すれば私刑を加えるぞ、やれと言われたらやるのだッ!」

「やぁだよ」

 

 アレクサンドラは父の命令に、不服なものを感じつつも忠実に従った。だがそんな命令を平然と拒絶するのがヒュロスである。

 王の威厳、父の命令。そんなものなど知った事かと、罰など怖くないとヒュロスが示すのに、然しオリンピア軍は誰も動じない。ああまたか、といった呆れがあるだけで、それもまた負の印象を懐かせるものではなかった。

 いつもの事だ、寧ろヒュロスの態度に文句をつければ逆にアルケイデスから文句が来る。家庭の問題に口を挟むなと。要するに――アルケイデスはヒュロスの反抗も嬉しいものなのだ。それに、操作方法は知っている。

 

「ピロクテーテス。帰ったらヒュロスの態度をポルテに告げ口しろ」

「――さて()るか。アリュー、兄に遅れるな。イオラオスを殺すぞ。僕は至って真面目だ、最初から最後まで。そうだろピロクテーテス。僕の勇姿を母上によくよく説明してやってくれ」

 

 父王がこそりと弓の弟子に囁く素振りを見せるや、ヒュロスは一瞬にして見事な変わり身を演じる。

 全身を油断無く鎧で固めた青年は、若かりし頃の父によく似ていた。然しその風貌に母の美麗さを付け加え、全体的に細身としたものではあるが。パリスほどではないにしろ、一国の王子としてのカリスマ性に富んだ美貌の持ち主である。

 肩口で乱雑に切り揃えた黒髪を掻き上げ、長剣を抜き放ったヒュロスが進み出る。その威、アレクサンドラと比べ些かも見劣りしない。妹が十の努力を重ねたのに対し、兄は一の研鑽しか積まずに同等の位階に立っているのだ。

 

 ヒュロスの念押しにピロクテーテスは苦笑して頷いた。

 

 戦士王の嫡男と長女が歩み寄ってくるのに、イオラオスは嘆息して対峙する。

 

「その三騎の戦士はマタルヒス、貴様だ」

「畏まりました。適度にいなせばよろしいのですね」

「お姉様、瞬殺して加勢してください」

「――ええ、はい。いいですよアリュー、私の可愛いアレクサンドラ」

 

 太陽の聖剣を持つ白騎士、琴弓に指を這わせる赤騎士、圧し折れた鉄柱を捨て魔剣を抜かんとする黒騎士。それらが動き出す寸前、進み出たのは無機質な仮面を被った女戦士である。

 ランスロットの鎧と同質の隠蔽効果があるのか、その姿の輪郭は掴めない。アレクサンドラの、イオラオスを確実に仕留めるための呼び掛けに、実はアルケイデスより遥かに無責任にアレクサンドラを溺愛するマタルヒスは掌を返した。それに老王は苦笑してしまう。戯けばかりか、と。

 

 全身を覆う、機能的な仮面と一体化したスーツじみた鎧。羽織る外套は紫紺のもの。腰の両端に提げた黒い刃の魔剣を二振り抜き払った女戦士に、トリスタンは喉を鳴らし呻くように呟いた。

 

「――あのスーダグ・マタルヒスが私達の相手ですか」

「タフな仕事になりそうです。トリスタン卿、分かっていますね?」

「勿論……問題はランスロット卿ですが……」

「問題有りません。狂っているとて彼は円卓最優とまで称された騎士。気にするまでもない」

 

 マスター、心配ご無用。単なる戯れですよ。ガウェインは柔らかくマシュに語りかけて。

 

 そのマシュに対し、立ちはだかる者が居た。

 

「マシュ・キリエライトでしたか。偉大なるヘラクレス王の勅命です。少し()()()()()()()()()と。まあ――そんな訳で、弱い者虐めみたいで気は引けますが、少々付き合ってもらいます。戦場で相見えるに相応しいか、ここで見定めておきましょう」

 

 ――七枚張りの紅色の円環を持つ、どこかローマの皇帝、ブリテンの王を彷彿とさせる顔立ちの乙女である。

 細い腕、細身の軀、豊かな双丘、小さな貌。然し内包するのは獅子の豪力。次代最強の盾戦士と名高き、彼の大英雄“大”アイアス。彼女の眼差しに、マシュはたじろいだ。

 高潔な精神を宿した瞳は碧く。風にそよぐ金砂の御髪を撫でつけ。生真面目に述べた大アイアスの相手をデミ・サーヴァント単騎でさせられる。

 

 ふとマシュは思い出した。

 

 スパルタ教育の語源となったスパルタ国。それは後世、ヘラクレスの末裔が築き上げたものだ。つまりスパルタ人は総じてヘラクレスの血統に組み込まれているのである。

 そんなスパルタ人の太祖の教育が――スパルタではない訳がない。

 

 マシュはデミ・サーヴァントの形態となり、遠い目をした。束の間、少女は心の澱みを忘れられたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ローマは、ローマだ」

「はいはい。僕にも分かるように話してくれよ、()()()()

 

 真紅の神祖。現世の者ではないという彼に、アテナイ王テセウスは邂逅していた。

 後のローマ帝国の神祖の威光も、カリスマ性も。テセウスには心地よいものである。対等の友人として語らい、彼とロムルスはある契約を交わしていた。

 

「さあ、どうなるか。僕の読みが当たるか、それとも――」

「ローマの思惟が現実のものとなるか。いずれにせよ、ローマには確たるものがある。故にローマなのだ。か弱き乙女よ……ローマに包まれよ。さすればローマへの道は開けるだろう」

「神祖ロムルス、心配する必要はないと余は思うっ! マシュは強い娘……とは言えないが……まあなるようになるであろう!」

 

 男装の皇帝は、そう言って莞爾とした笑みを満面に浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 




うわー、さいごのふたりはいったいだれなんだー。


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第七節 星を探せ(前編)

 

 

 

 

 命からがらの遁走、否、敗走か。

 

 もはや語るまでもなくカルデアは敗北し、森の中に逃げ込んでいた。

 

『――というか、今更思ったんだけども。英霊本体の分霊(サーヴァント)じゃない、“生前の英雄”が腐るほどいる古代ギリシャの脅威ってかなり理不尽だと思うんだ』

 

 ロマニの本当に今更な発言に、マシュは力のない声音で絞り出す様に相槌を打った。本当にそうですね、と実感を込めて。

 人理継続保障機関フィニス・カルデアが誇る発明の一つ、英霊召喚システム“フェイト”は、そのモデルとなった冬木の大聖杯によって喚び出されるサーヴァントよりも、召喚される英霊の霊基強度は脆い。その理由についてはさておくにしろ、それを補うための霊基再臨であり、本来のものよりも強制力は低いものの、一日一画補充される最大三画の令呪によるバックアップ機能である。

 

 戦士王の面前での腕試しは、カルデアの惨敗に終わるところだった。本気の戦闘に突入しかねない危険から宝具の使用は禁止し、純粋な身体能力と技量のみを駆使してサーヴァント陣は戦闘に突入。結果ランスロット、ガウェイン、トリスタンの三騎はスーダグ・マタルヒス一人に斬り伏せられ、あわや一時戦闘不能に陥る所だったのである。

 致命傷を避けられていたのは、マタルヒスに殺害の意図が無かったから。ガウェインやランスロット、トリスタンの技量はマタルヒスを上回っていたが、人間の英雄を遥かに超える膂力に捻じ伏せられる結果となった。

 

 マシュの勝敗は言うに及ばず。相手を務めた大アイアスは戦ったつもりすら無いだろう。冬木で相見えた騎士王を、どこか彷彿とさせる顔立ちと声のせいでやり辛さを感じてはいたが言い訳にはならない。大盾の使い方を指南され、盾だけでなく蹴り、砂を蹴り上げての目潰し、零距離に詰めてからの拳打の撃ち方などをその身に叩き込まれた。

 後にダメージを残さない、痛いだけの打撃。盾を扱う戦士としての格の違いをまざまざと見せつけられただけで……マシュは却って勉強になっただけである。

 

 唯一、勝ち星を上げたのがイオラオスだ。ヒュロスとアレクサンドラという後の英雄を相手に翻弄し、肩で息をしていたとはいえ傷一つ負わずにやり過ごしていた。本気を出さずに戦闘を長引かせるようにしていたのだ。

 然しイオラオスが敗れるのは時間の問題だったろう。アイアスはマシュの指南に熱が入り、マシュはどうにもならず。マタルヒスが三騎の騎士を下し援護に加わろうとしていたのだ。

 

 だがそこで時間切れだった。イオラオスの見立て通りに。

 

 遂に業を煮やしたトロイアの王子パリスが激昂し、戦士王に直談判したのだ。

 

 ――こんな茶番をいつまで続ける気なんだオリンピア王! どうせ倒す気がないんならさっさと逃してトロイアに急いでくれ! こうしてる間にもアカイアが攻め込んできてたらどうするんだ……!? 頼むよ、お願いだ! トロイアは……カッサンドラはオリンピア王を待ってるんだ!

 

 戦士王はそれに頷き、アレクサンドラ達を退かせた。不服そうな娘にも有無を言わさぬままである。ここで足を止めた分だけ急ぐ事を約束し、前座は終わりだとその場での戦闘を打ち切ったのだ。

 そうしてカルデアは、なんとか事なきを得たのである。

 

『でもどうしたらいいんだ……? あんなの勝てっこないぞ。カウンターのサーヴァントと合流したって焼け石に水だ、七騎英霊を集めたって、戦力比がまるで釣り合ってないっ』

 

 ロマニが苦しそうに呻く。戦力差は歴然だ。サーヴァントとはいえ円卓の騎士、その中でも特に優れた三騎が、たった一人の英雄を下すどころか、手加減されて敗北したのである。マシュに関しては相手にもなっていなかった。切り札である宝具の温存はしたが、それとてどれほど有効か判断は厳しい。

 敵となる相手の戦力は、アレクサンドラ、ヒュロス、アイアス、マタルヒスの他にも綺羅星の如く英雄が控えている。そしてトロイアにはあのヘクトール……そして全てを下せたとしても、全員を併せたよりも強いであろうヘラクレスがいる。勝機がまるで見えない。

 

 ロマニの悲観は分かる。そんな彼に、マシュは考え込むように顎に手をやり言った。

 

「ドクター……多分ですが、相手が一人という条件であれば、勝ちの目はあると思います」

『――本当かい? 確かに宝具は温存してたけど……』

「いえ、宝具を込みにして考えて……()()()()()()()()()()()()()()()

 

 マシュ・キリエライトは、その()()はともかく、デザインベビー故かレイシフト適性とマスター適性は極めて高い。それこそ魔術協会から派遣されてきた多くの魔術師達や、もしボタンを掛け違えなければ居たであろう、一般公募枠のマスター候補の彼ないし彼女よりも適性値と能力だけを見れば遥かに上なのである。

 そう、マシュは()()()()()()()なのだ。人類の切り札のマスター達に名を連ねられるだけの、最低限度の力はある。意志の薄さと、他のA班マスターよりは下になるが優秀な能力は特筆すべきものだ。デミ・サーヴァントとしての盾、召喚サークルとしての運用、()()が主な役目ではあるが、マシュは相応の訓練さえ積めればA班のマスターに出来る事は大抵が実現可能だった。

 もちろん他のA班のマスターよりも習熟に時間は掛かるだろうが、それでもその能力は嘘は吐かない。

 

 ロマニは、はたと気づく。

 

『まさか……()()()()()()のか……?』

「はい。この特異点に臨む前に試みた訓練の結果、令呪により一時的にサーヴァントの方々の()()()()()()()()()()()()()()()

 

 硬い貌で肯定するマシュにロマニは息を呑み。そしてマシュの努力に喝采を上げた。『凄いぞ、希望が見えてきた! 霊基再臨に宝具の解放を同時に行えば、初見相手なら実力を発揮する前に倒せるかもしれない!』――そう手放しに称賛されるも、マシュの表情は硬いままだ。

 そのまま、告げる。右手にある令呪をカルデアのモニターに見せて。

 

「先の戦闘で令呪を一画使用し、サー・ガウェインの『()()()()()』を()()していました。これでガウェイン卿の真の力は隠蔽できたと思います」

『す、凄い機転じゃないか! でかした! 道理でガウェイン卿がすんなりやられたわけだ……でもお蔭で情報戦は上回ったぞ! こっちは一応全力だったんだ、見破り様がない!』

「………」

 

 マシュは無言で空を見る。正体不明な、空にある光の帯。円を描くそれを見詰め、深刻に押し黙っている。

 様子のおかしさには気づいていた。だから殊更大袈裟にリアクションを取っていたロマニである。然し流石に見て見ぬふりはできそうもない。マシュを徒に不安がらせたくないが故の気遣いだったが、とうのマシュが何かに気づいて不安を抱えているのなら話を聞く必要がある。

 

『マシュ、どうかした?』

「……いえ、イオラオスさんは、どうして戦士王のご嫡男とご息女を同時に相手取り、優勢を保てたのかと思って……」

『……? 経験の差、じゃないかな。逸話的には英雄イオラオスよりも武力に秀でた二人だけど、まだ二十歳未満の少年少女だ。個人戦闘力では全盛期の従兄にはまだ及ばなかっただけなんじゃ……』

 

「んなわけあるか。ロマニ・アーキマンは戦闘に関しては素人以下なんだな」

 

 イオラオスは霊体化し傷が癒えるのを待つサーヴァントを見遣りながら、視線も寄越さずに否定する。

 

『え? えっと……ボクは確かに荒事の素人だけど、その素人目にもイオラオスさんの方が優勢に見えたんだけど……?』

「確かに経験値は雲泥の差で、()()()こと自体はそんなに難しくなかったさ。だがこちとら普通の人間様だぞ。ああいや、半分獣になっちまってるから普通の人間とは言えないかもしれないが、それでも相手の方が化け物だ。アレクサンドラを見たろ? 完璧に猪武者を()()()()()。だが騙されるな。あの小娘、割と策士だぞ」

『え、演じ切った……?』

「……ドクター、お忘れですか? 英雄アレクサンドラは獅子の腕(ネメアー・ブラッソ)の異名を持つ勇者です。彼女はトロイア戦争に於いて彼のディオメーデースと幾度となく矛を交え、その度に敗走するのですが、全て偽りの劣勢であり退却でした。トロイアの総大将ヘクトールと結託し、最後の逆撃によって、アレクサンドラを格下と侮り油断していたディオメーデースを撃退。この時にディオメーデースはアレクサンドラの剣を受け重傷を負い、以後は傷を癒やすために後方に下がってトロイア戦争に出てくる事はなかったと云います。後年ディオメーデースは、戦争とは無関係にアレクサンドラに挑み、この時ばかりは全力で応じたアレクサンドラと互角に戦い友誼を結びました。つまり……」

「未来であの小娘が何をするかなんてどうでもいいが、直情的に見えたんならその印象は変えといた方がいい。小娘も本気じゃなかった。口にした言葉は全て本音で、こっちを殺す気なのは本当だろうが、別にそれは()()じゃなくてもいいと思っていただろう。何せアレは、どう転んでも決着がつく前に伯父上が止める事が分かっていた。今回で終わらせられないのが分かっていたから、敢えて劣勢になって実力を隠すぐらいの演技は熟すだろ。今回のを本気だと思って掛かったら、すんなり返り討ちに遭う。それにヒュロスの奴も全力じゃなかった。妹が本気じゃないんで、何かあると思って力をセーブしてたんだろう」

 

 ロマニが呻く。そうだった、と。

 

『アレクサンドラはともかく、ヒュロスが本気じゃないっていうのは明らかじゃないか……獅子の軀(ネメアー・クェルポ)のヒュロスは全力で戦う時、ネメアの谷の獅子みたく()()()()()()()()()()。本気になったヒュロスに傷をつけられた人間は、アキレウス以外いないじゃないか……』

「それで? マシュ、おまえは何に()()()()がしてる?」

 

 イオラオスは見抜いていた。マシュがアレクサンドラとヒュロスを気にかけていただけではないと。もう一つ、()()()()を覚えているのを彼は察している。

 どういう事? と、素で返すロマニは鈍い人間なのだろう。貌も見たことはないが、話してみる感じ知性は高い。教養もある。特別に凡人であるとも思わない。ひどい違和感だが、まるで人生経験が薄いかのように、ロマニに関して感じていた。

 

 マシュは指摘を受け、難しい貌をする。

 

「その、アイアスさんは強かったです。でも稽古を付けてくれてる感じで、私は必死に戦っていた訳じゃなくて……でも彼女の技術を真剣に学んではいたのですが……戦闘ではなかったから周囲に気を配れたんですけど……それで……その、なんというか、ヘラクレス王が、ジッと私達の事を見てたような気がするんです」

 

 不気味だったのだ。自分の愛する息子たちと信頼する部下、そして自分を慕う戦士としての後継者である盾戦士を見守っていて。悪意なく事の成り行きを傍観していた、あの戦士王が。

 マシュのその着眼点に、イオラオスは仄かに貌を綻ばせる。

 

「よく見てる。視野が広いな」

「いえ、そんな……」

「謙遜する事はないぞ。その()()()は大事だ、よく気づいた」

『えっと……ヘラクレス王がこっちを見てるのは当たり前のことなんじゃ……?』

「意味合いが違う。眺めてるんじゃなく、()()たんだよ伯父上は。私情優先の王にあるまじき暴君だが、伯父上は戦士の王だ。こと戦いというジャンルだとシビアな目を持ってる。互いに全力で戦えないあの場で、伯父上は敢えて力の加減をする面子を俺……わたし達にぶつけてきた。それで見極めようとしたんだろう。異邦の人間と、現状のわたしの力を」

『……なるほど。つまりイオラオスさんが終始、手出ししなかったのは実力を隠すためだったんだ』

「まあな。見るからにパリスが我慢の限界だったんで、時間切れは見えていた。昔から使っていた技と体捌きしか見せなかったし……でもまあそれを使い回せる立ち回りは見取られただろう。ついでにわたしはともかく、伯父上は()()()()()()()()事にも()()()()

「っ……」

『それの何が問題なんだい?』

「ギリギリまで追い詰めはした、だが隠したものがある、って事に気づかれてるんだ。ならそれはいざって時に出す切り札があると伯父上に見切られたって事だろ。札は伏せたままだが全力で戦ったのには違いないんだろ? なら技と身体能力、連携力は把握され、ついでに切り札があるのに気づかれた。そして……()()()()()()と知られた時点で、真の英雄なら油断しない限りぶっつけで対処してしまえる。断言するが、ロマニ・アーキマンの言う『初見で切り札二枚を同時に切る』戦法を使っても、伯父上の虚は衝けないだろう」

 

 さ、休憩は終わりだ。そう言って立ち上がり砂埃を叩く落とすイオラオスに、気負った様子は見られない。マシュはイオラオスを見上げる。片手で引き上げられ、無理矢理立たされた少女は困惑し。白い獣がイオラオスの腕に跳び、そのまま肩の上に立つのに男は微笑する。

 なんだこの白いの、人懐っこいじゃないか、だなんて。神代高位の魔術師が見れば目を剥く獣だが、賢者ではあるが魔術師ではないイオラオスには小動物にしか見えていなかった。顎の下を指先で掻かれ、ふぉ〜、と心地良さげに鳴く獣をよそに、マシュはイオラオスに訊ねる。

 

「どこに行くんですか?」

「戦力差は歴然、戦況は絶望的だ。が、何もしないで指を咥えてたんじゃあなんにも変わらない。ならできる事からはじめて、打てる布石は全部打つ。質問だマシュ、わたし達とあちら、比べてみて違うところはなんだ?」

「え? ……っと……数、ですか?」

「そう。伯父上達は軍勢で、こっちは少数だ。足の速さならこっちが上なんだよ。つまり先回りが出来る」

『先回りって言ったって、どうするんだい? 正直言って、アカイアの連合軍にはなるべく近づいてほしくないんだけど……四の五の言ってる場合じゃないのは分かるけど』

「だろうな。マシュが行けば食いもんにされて終いだろうし……」

「……?」

 

 分かっていなさそうなマシュに、イオラオスは肩を竦める。分からないならそれでもいいさ、と。

 マシュの無垢は無知からくる。無知とは、知識の有無ではない。保有する知識と結びつく経験、想像力がないのだ。然しマシュの知性は極めて高い、それこそイオラオスに匹敵するか、上回るだろう。遥か未来まで連綿と受け継がれ、積み上げられた膨大な知識を持ち、それによって育まれた教養が知能を磨くのだ。

 人間の知とは、歴史の蓄積により位階が上がるもの。古代の賢者など、未来の水準で見れば平均的なものでしかないかもしれない。少なくともイオラオスが遥か未来の人間なら、今のイオラオスより桁外れに知略の冴えが違う。

 

 古代中国の三国時代、随一の知恵者、諸葛孔明の計略を。未来では優れてはいるが随一とは言えない知恵者に十全に使い熟せる点で見ても、歴史の蓄積による知性の研磨がどれほどのものかを知れるというもの。個人の知は、集合知には到底及ばず。その集合知を学べる環境にいたマシュの知力は、紛れもなく優秀なのである。

 

 そのマシュが無知でいられ、無垢でいられるのはある種の強みではある。純粋でいる事は、純粋でいられなくなってからは身につかないものだ。

 だから薄汚い欲望の対象に、自分がなるのだという事に気づかないならそのままでもいい。その無知による無防備さを守るのも大人の務めだろう。いずれ、純粋ではいられなくなるのだから。せめて今少しは無垢なままでいてもいい。

 戦場と、生と死が隣り合う世界で生きているイオラオスからすると、マシュの魂は眩しいほど尊い。無垢な命に感動すら覚えるほどだ。

 

 だから首をひねるマシュに、ロマニとの共通認識を告げはしない。そうしたことを教え、あるいは導くのは親……この場合はロマニの仕事であるのだから。

 

 イオラオスは気を取り直して言う。今後の趨勢を少しでも自分に傾けるために。

 

「アテナイに行く。伯父上の要請がいけば、テセウスまでトロイアに着いてしまうからな。そうなったら確実に一矢も報いられなくなる」

 

 

 

 

 



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第八節 星を探せ(後編)

 

 

 

 はじまりは、愛ではない。自らの神格が、原始の猿でしかなかった者共よりも、遥か上位であるが故の憐憫であった。

 寒さに震える犬猫に、餌をやるようなもの。捨てられていた愛玩動物を、拾って世話してやる程度のもの。愛はなく『可哀相だから救ってやろう』という偽善である。

 

 火で焼いた肉を、一人の人間に与えた。仕留めた獣の肉を生で喰らい、貪るだけ。食の楽しみを知らず、飢えを凌ぐだけの家畜に上等な食事を施した。

 人は、とても喜んだ。こんなに美味しいものを食べたのははじめてだと。感謝され、そして問われた。この赤く温かい、けれど触れたら焦がれる熱いものはなんだと。当方は答えた。これは火である。太陽の輝きの欠片である、と。

 火とはなぜ物を焼くのか。――その素朴な疑問に、当方は答えに詰まった。神々の内に在りて、叡智を以て知られる神格が、火がなぜ物を焼くのか答えられなかったのだ。火は、ただ炎だから焼くのだ。触れたものを焦がすのだ。そう答えるしかない。炎の在り方など、ただそのままであり。そこに意味や理論を求めても意味がない。

 当方は然し、そのようには返さなかった。知恵者の名に懸けて、底の浅い答えを述べる事など矜持が赦さなかったのだ。故に答える。火とは、扱う者によっては豊穣を、あるいは破滅を齎すものである、と。すると人は素朴に笑った。ああ、あなたは神かと。そんな自明な事すら気づいていなかった猿に、苛立ちを覚えたものだが。然しその者の答えに、なぜか胸を衝かれた。

 

 ――火は触れてはならない。遠巻きにすれば今のように暖かく、触れようと手を伸ばせば焼かれてしまう。まるで火とは神のようではないか。

 

 そんな事、考えたこともなかった。そうか、と思った。その通りだと納得した。そしてふと、哀しみに包まれた。

 

 ――焼いた肉は美味しかった。すると(かみ)焼かれる(支配される)我々は、それはもう神にとって美味なのだろう。であるのに、何故(なにゆえ)(かみ)である貴方が、焼かれる肉(にんげん)である私に食事を施すのか。

 

 ――火を扱う術を持たぬ我々に、どうして食事(こんなもの)を施した。こんな美味なものを食べてしまえば、もう元の肉を喰らうのが苦痛でしかない。貴方は私に一時の美食を与え、代償に永遠に癒やされない食の苦痛を与えたのだ。なんと残酷で配慮に欠ける(かみ)なのだろう、この火は触れねば温かいだけなのに、神である貴方から近づいてきたのでは避けようがない。

 

 

 

 衝撃、だった。

 

 

 

 ほんの軽い慈悲、憐憫であった施しが。当方の考えなしな浅慮を浮き彫りにした。

 不敬であると断罪するのは簡単だった。然し人はそれを望んでいる。もう何も口にできぬと嘆く故に、死んだ方がマシだと考えている。

 それはつまり、彼に施しを与えた故に、彼を当方が殺したという事になる。当方は、なんと無慈悲で残酷なのか。彼の言い分は何も間違っていない。

 当方はそのまま、彼を罰さずに天界に戻った。まさか自死を選ぶ事はないだろうと。居た堪れなくなり、彼の前からいなくなりたかったのだ。そう、逃げたのである。神であるこの身が、脆弱な人間などから。

 

 天界から下界を見る。彼は生きていた。やはり生命の本能が忌避し自死を選ばなかったのだと当方は安堵し、次いで傲慢な神らしく怒りを懐いた。折角の施しを無下にされた怒りである。

 然しそれはすぐに霧散した。人は、泣いていた。泣きながら狩りをして、不味い、不味いと嗚咽を溢して糧を喰らっていたのだ。腹は満たされても心が渇いている。当方が彼の人生から彩りを奪ってしまったのだ。

 無視すればよかった、いや実際に無視しようとした。だが何かにつけては、ふと気づくとあの人間を視ていた。そして、遂に罪悪感から居ても立っても居られなくなってしまった。

 

 冬の寒さに凍え、寒い、寒い、と縮こまる彼を視た。冷たい肉を喰い、冷たい水を飲み、冷たい大地に触れ、冷たい風に吹かれる。獣のように分厚い体毛があるでもなく、故にこそ寒さは人間にとっては辛いものだった。

 

 当方は、彼に火を与えたいと思ってしまった。赦されないことだ。大神ゼウスを謀り原初の火を盗み出すと、当方は彼に――否、彼だけにではなく、全人類に火を扱う権限を……権能を与えた。それは神の権力を削ぐ冒涜的な大罪である。大神は断じた。

 貴様の仕出かした行いにより、人間は争うようになり、多くの命が散るだろう! 過酷な自然の中で折り合いをつけ、自然の一部として生きてきた人間を、火で炙り出し、人間を自然から弾き出したのだ! 貴様の罪は重い。厳粛に受け止め罰に服せ!

 そうして、当方は万年の罰を受ける事となった。

 だが構わない。当方が見届けたのは、火を支配する術を得て当方に感謝し、喜ぶ人間の姿。彩りを失くした人間の彼が、再び生きる喜びを取り戻して涙する姿。それで満足であった。それだけで良かった。だが当方の憐憫は、人間に予期せぬ変化を齎した。

 

 山の山頂で鎖に繋がれ、内臓を神鳥に啄まれる日々の中、遠くを見透す眼で視たもの――それは発展だった。当方の与えた火を元に築き上げられていく豊かな文明だった。それを視ているのが、鎖に繋がれている当方にとって、唯一の楽しみだったといえる。

 だが破壊もあった。争いもあった。火が自然の破壊にも用いられ、人と人の争いを激化させている。大神の言う通りだった。だが当方には……それすら美しく見えている。あれは争いを通して競争し、文明の発展を……先鋭化を齎すものだったのだ。

 戦争もまた文明である。そう、人間は文明を発明した。神の手ではなく、人の手で。そしてそれを助けたのが当方なのだ。……誇らしく、喜ばしい。歓喜と言えた。内臓を啄まれる痛みなど気にもならない。もう人の世の営みを視ているだけで満たされた。ああ、愛おしい。人よ、もっと築け。天の玉座に届くまで。(ソラ)の果てに至るまで。その叡智は神すら超えるのだと謳え!

 

 憐憫は愛となった。()()()だ。

 

 だが当方は獣にはならぬ。憐憫の座は既に埋まっている。故に試練とはなれぬ。そも何故に神如きが試練と化すのか。人は人によって試練を齎されるだろう。それを超えられると信じる。森羅万象を支配するに至る試練こそが人類そのものの歩み。当方はそれを視たい。見届けたい。人間賛歌の詩を謳わせてくれ、声が枯れ喉が引き裂かれるほどに!

 そのためには――()()()()()。当方は人理を築く。総ての神々を神霊へと貶め、自然を、星を、人間の手に委ね開拓させる。星の開拓者とは人類そのもの。それを邪魔立てする事は断じて赦さん。

 ああ、そうとも。故に歓喜と戦慄に震えるのだ。人間の忍耐の究極よ、人類の集合的無意識の総括、総体にも勝る空前絶後の意志の巨雄よ。お前こそ神を駆逐する人の尖兵である。はじめて出会った時に感じた慄きを覚えている。そして探り当方は知ったぞ、復讐の女神を捕らえ、彼の復讐心を聞き出し、復讐の女神――止まらない者(アレークト)殺戮の復讐者(ティーシポネー)嫉妬する者(メガイラ)の三女神を人理に還して! おまえの暴走を何処までも後押ししよう。その轍こそ標である。その憤怒こそ人の証である! 人理のために、往くのだ我が英雄! 人理最頂の精神よ!

 

 ああ――然し、その、なんだ。

 

 恥ずかしながら、当方の愛は有限である。というより、この身がギリシャの世界に根ざす神格故か、どうにもよそのテクスチャの人類は愛せない。

 どうでもいいのだ。当方はギリシャの人類のみを愛している。獣に化身せしめぬのは我が身の狭量な愛ゆえなのだろう。つまるところ――ギリシャの人類、人理さえ無事であるのなら……()()()()()()()()()()()()

 いと尊き志によって立ちし魔術王よ。貴様の発生した時代より古の代に、迂闊に聖杯などを送り込んだのは失敗だった。

 この世界(テクスチャ)は貰い受ける。光帯に熱量など与えるものか。この特異点は独立する。彼の英雄王の乖離剣を上回る、全盛期にある大神の権能さえ奪えたなら実現は叶うだろう。一つの世界として人類史から切り離し剪定から逃れ、新たな世界線の源流とならん。そうとも――神格排除の暁には、この特異点は異聞帯(ロストベルト)とでも言うべき独立神話と化すのだ。総てはギリシャの人類のために!

 

 もう遅いぞ魔術王。光帯回収の為に魔神柱を送り込んで来ようと――そぉら、我が英雄が薙ぎ倒してしまった。伐採してしまった。彼は既に死人だが、その身に宿りし英霊ヘラクレスは、生身を持つ故に()()()()()()()()()()()()()()()()()。お前と同格の武威を持つのだ、お前自身が全身全霊を賭して討ちに来ねば話にもならない。

 だがそんなリスクなど冒せまい? だから指を咥えて視ているといい。当方と、我が英雄、そして我が愛しの人類が築く未来を! この星を! 白紙化した惑星に在りながら、紡がれる人間賛歌の詩を網膜に焼き付けるがいい!

 

 さて……そのために、カルデアは邪魔だ。エジプトと同じ、異邦の民如きが踏み入っていい世界ではない。今はまだ特異点なのだ、剪定事象の魔の手から脱するため、人理定礎を完全に破壊せねばならんのだ。異聞の帯として世界を括り、固定するために。よその人理まで修復せんとする存在など不要。

 然しそう目くじらを立てる事もない。何故ならどう足掻いた所で、カルデアではオリンピアの英雄達には勝ち目がない。よしんばマタルヒスを、ヒュロスを、アレクサンドラを、大アイアスを打ち破ったとして……トロイアのヘクトールを、カッサンドラを捕殺せしめたとして。総ての特異点の原因を排除したとして。そんな奇跡を連発したとしても――それらを一つに纏めたよりも強き英雄、至強の戦士には絶対に届かない。

 彼さえ無事ならそれでいいのだ。それで終わるのだ。目標は達成される……ギリシャ以外の人理を踏み台に、ギリシャはさらなる発展を遂げるだろう。

 

 当方の最善手は、何もしない事だ。黙って視ていよう。余分な情報が戦士王の耳に入らぬように手は打ってある。放浪の賢者、半馬の賢者は気づいているだろうが、いまさら動けまい。賢しい者ほど戦士王に余計な事など言えないのだから。

 警戒すべきは思慮の足らぬ()鹿()のみ、愚か者のみ。それにしたとてそも愚か者が事実に至れる道理はない。そう……だから見ているだけでいい。最後まで傍観者で居続けよう。共犯者よ、願わくば最後まで何も知らぬまま駆け抜けるがいい。それが、我らの約束の時。人類に黄金の時代を齎すのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『メドゥーサ。私と共に来い』

 

 ――その出会いを、覚えている。

 無味乾燥とした絶望の海に浸る、この罪深い魂に差し伸べられた、大きな手を。例え死して別人に生まれ変わったとしても、その恩義を決して忘れる事はない。

 スーダグ・マタルヒスという英雄の仮面を被り、人として生きて、英雄として死ぬ。その機会をくれた彼には感謝の念しかない。

 エリュシオンへ逝く。それが私の目的。二人の姉がいるだろう、英雄の楽園。女神である姉たちが、そんな所にいるはずがないとは想う。然しいるとしたらそこしかないのだ。英雄の楽園エリュシオンにだからこそ、完成された偶像としての女神は不可欠なのだから。

 だから、私は英雄に成らねばならず。救いの手を差し伸べてくれた彼は、私を英雄にしてくれた。

 

 オリンピアを襲ったギガースの残党との戦いに始まり、数多くの無理難題を押し付けられた。最たるものはエジプトから流れてきた神獣スフィンクスの討滅だったか。

 英雄としての逸話を積み上げ、功績を重ね、勲を得て。それだけでよかった。言われた事を熟すだけでよかった。酷使され、そのまま死なせてもらえればそれでよかった。

 だが彼は、そうはせず、私に自分の子供の世話役までさせて。人と触れ合う喜びを、教えられてしまった。

 

 ひどい人だ。未練ができた。簡単には死ねない理由ができた。

 

 ヒュロスはカワイイ。彼には反抗的だが、私やヒッポリュテにはひどく甘えん坊で。ついつい甘やかしてしまう。その道程を見届けたいと思ってしまった、

 アレクサンドラもカワイイ。根っから真面目で、凛として、毅然として、誇り高いのにふとした拍子に甘えてくる。苦渋を舐める事を苦とせず糧にする精神もある。何よりカワイイ。

 友人ができた。ヒッポリュテと、メディア。彼女達の行く末が幸福なものであるようにと祈ってしまった。願ってしまった。それほどに、親しくなってしまった。

 

 恩義がある。ただ利用させてもらうだけだったはずの大英雄に、忠誠心を懐いてしまっていた。

 

 ――死するその時まで、彼のために戦う。それでこそ、エリュシオンに至る英雄というものでしょう。

 

 私は自分にそう言い聞かせてみて。ふと姉たちが笑っている気がした。

 悪くない。怪物として討たれたはずの私が、英雄として死ぬなんて、あの忌々しい女神に対する皮肉としても上等だろう。

 マタルヒス。この偽りと共に死ぬ。オリンピアの総ての人々に幸あれという願いを抱いて。

 

 だから。

 

 

 

 ――不愉快ですね。()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 私は。

 ()()()()()()

 殊更に()()()()()()()()()()()()()()()()は、あの時の戦女神を思い出させて。

 殺意すら覚える。

 

 故に私は、数少ない彼の神が戦士王の影である事を知る者の中で、ただ一人あの神を信じていない。

 

 何か企んでいるのだろう。それはいい。いいが……。

 

 

 

 ――あの方の影になるにも、相応の()というものが必要です。傍観者を気取る者などに、私の王の影でいる資格はない。

 

 

 

 故に、だ。

 私はアレを表舞台に引き摺り出したい。

 傍観者を気取るなど赦せるものではないのだ。

 関わるのなら、表に立て。裏に潜むなど、戦士王と同じ道を歩む者のするべき行いではないのだから。

 

 だから――

 

 

 

 ()()()()()()には気をつけなさい。カルデア。

 

 

 

 斬り伏せる瞬間、白い鎧の戦士にそう囁いた。

 眼を見開く彼には見向きもしない。これは嫌がらせだ。私の仕える王、その道に立ち塞がる者には、王の豪腕が振るわれる。

 こんなもの、王の道の妨げになりはしない。利敵行為などではない。何故なら――忘れているのかは知らないが、堕ちたるとはいえ私も()()()だ。怪物とはいえ、微かな神性を残している。蘇った地母神の成れの果てとして、断言できる。

 

 あの神は、確実に、私の王の意志にそぐわない企てを立てている。

 

 ならそれを潰し、王に勝利と栄光を。カルデアとやらとイオラオスの会話は迂闊だった。些か私に近い所で交わされた会話は、こちらには筒抜けになるのだ。

 カルデアをプロメテウスにぶつけ、彼の神の企てを明るみにする。その上であの神が王の意志に反する事をしていたのなら、カルデアと潰し合わせ、弱らせ、そしてこの私が()()()()

 

 真に王の共犯者だと言うのなら、堂々と並び立てばいい。横に立てないというなら、プロメテウスは敵だ。敵は排除する。よくよく弁えなさい、プロメテウス。これは踏み絵なのだと。カルデアがどう動くにしろ、私が生きている内は好きにはさせない。

 

 王の眼の行き届かない部分を視るのが、私の役目だ。

 

 だからカルデア。

 

 (秘密)を探しなさい。

 

 プロメテウスの失墜は、ともすると()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 



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第九節 嗚呼、ローマの華よ

 

 

 

 

 

『イオラオスの持つ外套の魔術式の解析、コピー完了。劣化版だけど、そのデータをマシュの礼装に転送したよ。ふぁぁ……はふ。疲れたぁ……! 天才の私でも疲れはするんだ、ちょっと休ませてね』

「ありがとうございます、ダ・ヴィンチさん」

『ダ・ヴィンチ「ちゃん」ね、まったくもう、本当にマシュは硬いんだから……』

 

 すみません、とモニター越しに見える絶世の美貌の持ち主に苦笑と共に謝罪する。

 レオナルド・ダ・ヴィンチ。万能の天才。ノウハウのない状況でのレイシフトを実行し続けるために、彼……ないし彼女は休み時間なしのフル稼働に徹していた。

 その片手間にとても助かる支援をしてくれるのだから、本当に頭が上がらない。もしダ・ヴィンチがいなければ、神代最盛期のギリシャで迂闊に会話すら出来なかっただろう。密告者の異名を持つ太陽神ヘリオスにいつ視られ、聞かれているか博打をしながら過ごさねばならなかっただろう。イオラオスが外套の術式の解析を許可してくれたお蔭であり、ダ・ヴィンチの万能っぷりに大いに助けられた形だ。

 

 

 

 

「それにしても――『プロメテウスに気をつけろ』ですか……」

 

 アテナイへと向かう道中、ガウェインから上げられた報告にマシュは眉を顰めた。

 互いに全力を出したものではないとはいえ、仮にも戦闘中に告げられた言葉をどのように処理したものかと数瞬迷う。

 これで額面通りに受け取り、じゃあ気をつけないといけませんね! などと考えるほどマシュも能天気ではない。無闇に他人を疑うような少女ではないが、それにしたってあからさまに不審な点があれば猜疑心を持ちもする。曲がりなりにも敵対した人物からの警告ともなれば、マシュが警戒の念を懐くのもさもありなんというべきだ。

 そしてマシュは自身で判断がつかない場合、上位の立場の者やサーヴァントなどに、意見を求める事を厭う性格でもない。故に彼女は自身の最も信頼する青年へ真っ先に相談を持ちかけた。

 

 マシュから話を聞いたロマニもまた首を捻る。

 

『なんだってそんな事を言ったんだ……? 大佐殿は』

「……大佐、ですか?」

『ん……ああ、スーダグ・マタルヒスって英雄はね、近代国家の軍隊の階級、“大佐”の語源でもあるんだ。昔の欧米では将官に相当する階級が存在しなくてね、佐官の最上位、つまり大佐が軍のトップだった時代があった。だから『大佐』っていうのは、集団の大黒柱って意味合いを持ってる。この階級の呼び名に英雄スーダグ・マタルヒスの名前を付けたのが佐官最上位、大佐の階級の由来だよ。何せヘラクレス王亡き後のオリンピアの舵取りをして、ヘラクレスの次の王ヒュロスの子供達を各地に送り出し、オリンピアの影響力を強めると共に各地を征服した手腕は目を瞠るものがある。彼女の行いが、あのローマ建国の礎になってるんだ。ヘラクレス亡き後の功績の方が、王が健在だった頃より大きく有名なのは、専ら王の補佐に当たっていたからで……つまり補“佐”する者として優秀で、忠誠心に篤く、ヘラクレス王亡き後の混乱を鎮めた手腕からも高度な政治的視点も持っていた事で知られているよ。マタルヒスじゃなくてアレクサンドラ、またはヒュロス自身の政略、もしくは三人で知恵を出し合ってのものとも考えられてる』

 

 真相は、夫の後を追うように病に倒れたヒッポリュテが、末期の頼みと称して半神半馬の賢者を脅しつけ、知恵を出させたのだが。実行の采配を振るったマタルヒスの功績に数えられている。

 武勇に長けた勇者達は戦場では無敵でも、歴史や国を左右する能力は足りていなかったのである。ケイローンは()()()()()として剪定から逃れる策を打ったのだ。その結果が後のローマ帝国の誕生に繋がっている。

 

「なるほど、そうなんですか……勉強不足でした。神話の方はきちんと押さえていたつもりなんですけど……私もまだまだです。ダメダメです。もっとしっかりしないと……」

『マシュは忙しかったんだから、知識に穴があっても仕方ないって』

 

 落ち込むマシュに苦笑して慰め、ロマニは再び思案する。

 

『でもほんと分からないな。なんであのマタルヒスがガウェイン卿にそんな事を? 彼女がボクらの事を知ってるみたいにも聞こえる台詞だ』

 

 プロメテウスに気をつけろ。この一言だけで見えてくるものはある。

 まずマタルヒス自身には、カルデアを早急に始末する気はないであろう事。始末する相手に余計な忠告などする意味がない。

 また気をつけろと言う時点で、こちらが気をつけねばならない事について知っている事になる。現在を生きる人物であるなら、カルデアに対して友好的になるとも思えないというのがロマニの考えだ。無論イオラオスのような例外もあるが。

 

『仮になんらかの方法でカルデアについて知り得ていたにしろ、プロメテウス神といえばヘラクレス王の助言者だ。謂わば王と宰相、もしくは影武者……それを排斥するような動きを見せるなんて普通じゃ考えられないぞ……?』

「ロマニ殿、スーダグ・マタルヒスに関して詳しいようですが、彼女がそもそも何者なのか見当は付かないのですか?」

『そこはガウェイン卿の知識と大差ないと思うよ』

 

 ガウェインの質問にロマニは曖昧に返す。

 何事かを誤魔化そうとしているのではなく、なんと言ったものかと悩んでいるのだ。

 

『ブリテンでも彼女の名は知られていたはずだ。勿論現代にも広く知られてる。でも、彼女の正体に関してはどの資料にも記載されてないんだ。ヘラクレス王が十二の功業を終えてオリンピアを建国した時には既に居たらしいんだけど、彼女がどこから来て、どうしてヘラクレス王に忠誠を尽くしていたのかは不明だ。忽然と姿を現し、ヒュロスとアレクサンドラが没したのを見届け、自分の家に火を放ち自害したって神話で語られてるけど、誰も彼女の素顔を見た事がない。一説ではコスプレしたメディアだったんじゃないかとか、実は生きていたアタランテか、アマゾネスの女王ペンテシレイアかもしれないなんて異説もある。一番ありえないのがヘラクレス王の隠し子で、それを妻のヒッポリュテに隠すために正体を隠したっていうのだ。確定情報は女だったという事だけ。とにかく正体不明なんだよ』

「我々の時代でも彼の仮面の女戦士の正体は誰も知らないとされていました。高度な隠蔽魔術の施された仮面、全身を隙間無く覆っていながら体の動作を阻害しない鎧、紫紺の外套……そして二振りの魔剣『混沌と法の天秤(ストームブリンガー)』と『秩序と法の弾劾(モーンブレイド)』を操る事しか……」

「ストームブリンガー……ですか……」

 

 ガウェインの言葉に、マシュはポツリと溢す。

 共に著名な魔剣である。それはマタルヒスが何処からか手に入れてきた、神霊に堕ち悪しき精霊となった者の()()()()()()()()もの、そして嘗てオリンピアを襲った巨人の脊髄を削り出し、鍛冶の神の眷属の巨人が鍛えたとされる黒剣だ。

 仮面の英雄が所持していた魔剣の知名度が跳ね上がったのは、マイケル・ムアコックのファンタジー小説『エルリック・サーガ』に、この二振りの魔剣をモデルとした剣が登場したからである。最早現代にあって、星の聖剣エクスカリバーに比肩する知名度を有している。

 マタルヒスの魔剣は、架空小説のものとは違い、自我などは持たない。然し魂をも切り裂き、其れを喰らう悍ましい力を有している。凄まじい切れ味は、生半可な武器や盾ごと切り裂かれてしまうほどであるという。彼女の魔剣が死後、どうなったのかを知る者はいない。

 

 死後エリュシオンに導かれた彼女――メドゥーサの魂が、自身がマタルヒスであった事を忘れぬように、魔剣を持ち去ったのだ。後世の英雄の手にこの魔剣が渡らなかったのはそのような理由がある。

 

「イオラオス殿は、何か知らないのですか? 彼女の言葉をどう受け取ったものか、マスターは判断に困っているらしいので、賢者殿に何か助言でも頂ければ有り難いのですが」

「ん? ああ……」

 

 それまで黙っていたトリスタンに水を向けられ、イオラオスは足元を見下ろしながら歩いていた為か鈍い反応を返す。

 考え事をしていたらしいが、話自体は聞いていたらしい。思案しながら応じた。

 

「賢者殿って云うのはやめろ。そんな大層なもんじゃない」

「そう言われるのでしたら控えましょう」

「そうしてくれ。……それからわたしもヤツについては余り知らない。何せわたしが居ない間に伯父上の手下になっていたからな。ただ……不可解ではある。お前達も気づいてはいるんだろうが」

「……マタルヒスさんが、私達の事情を知っている上で警告してきたらしい、って事ですか?」

「そうだ。誰それに気をつけろだなんて、相手の目的や事情を知って、互いの関係性を理解していないと出てこない言葉だ。おまえ達の事情なんて、普通はおまえ達から聞かないと知り様がない。知っても普通は信じない。荒唐無稽な与太話と流されるのがオチだ。それにわたし以外には話していないんだろ?」 

「はい。というより、レイシフトした直後にイオラオスさんと遭遇したので、他の誰かと接触する時間もありませんでした」

「運が良いんだな、おまえ。いや悪いからこうしてるのか?」

 

 マシュの答えの何がツボだったのか、イオラオスは可笑しそうにクツクツと笑った。

 

「その場に居合わせずに知り得る事ができるとしたら大地母神、下級の地母神、後は太陽神ぐらいなものだが、それだってわたしの隠蔽術式の編まれた外套を使って会話の内容を隠した。此処から逆算するに、わたしの外套に編まれた魔術……メディアのそれに精通して感知し易くなっている事、かつ女であるという点から大地母神に通じる血、もしくは権能を借りてる巫女って事になるが……伯父上が自分の子供の世話役にまでするほど信頼を寄せるってなると、わたしからするとヤツの存在は意味不明だよ」

「そうですか……」

「分かる事は、おまえ達の口ぶりからしてヤツは伯父上を裏切らなかった、って事。大地母神に連なる系譜、おそらくは半神か何かでもう半分も人間じゃない事。わたしの隠蔽術式を編んだメディアの魔術を貫通して知覚できる……つまりヘカテー神の魔術の系譜に通じてる事ぐらいか。ついでに言えば短い付き合いだけで伯父上が全幅の信頼を寄せるに足る実力、そして人柄を持ち……多分だが神という存在を好ましく思っていない事か。それなら伯父上にも共感し易いしな。んで、伯父上に信頼される、未来で語られてるらしい評価、功績、ついでにさっき挙げた不審な点を総合して、やっぱり意味不明なヤツって結論に落ち着くんだ」

「………」

「プロメテウスに気をつけろ、だったか? あの神についても面識はないが、どういう神格なのかは知ってる。監視者だなんて銘打たれてるが、どうせオリンピアを実質的に統治して施政を取り扱ってたのは専らプロメテウス神だろ。もしかすると伯父上に賛同する協力者なのかもしれないって思っていた。案の定、おまえ達の話だとその通りらしい。そしてその話も、当然わたし達の話をマタルヒスが聞いてたんなら知ってるはず。なのに気をつけろ? わざわざ身内の大事な知恵袋に危険を及ぼす理由はなんだ? わたし達とプロメテウス神をぶつけてなんの得がある? プロメテウス神は確かに神だが戦闘能力は低い。脅威的な神炎を扱うだろうが戦闘は得手ではないはずだ。万が一わたし達がプロメテウス神を害せたとしたら困るのは伯父上だろ。忠誠心に篤い忠実な下僕(しもべ)のやる事じゃない。なら――マタルヒスは神が嫌いだから最初から排除したいと思っていたのか、伯父上って光に目を灼かれて盲目になっているのか……或いはプロメテウス神が伯父上に対して取り返しのつかない害を与えると見ている、もしくは()()()()()()()()()()()()()()って事になるか。そこまでとなるともしかすれば()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()か。……でも“今”を生きてるわたし達からすると、特異点は悪い状況じゃない。人理焼却から逃れる手さえあるなら。とすると……特異点の先にあるのが、伯父上の許容できない事態に繋がるのか……?」

「………」

『………』

「……どうした?」

 

 長考しながらブツブツと考えを纏めていると、ポカンとした表情で自身を見詰める少女と、モニターに表示されている青年の顔に気づいた。

 茫洋としている湖の騎士はさておくとして、太陽の騎士と琴弓の騎士にも感心した眼を向けられている。それに困惑しつつ訊ねると、マシュが目をきらきらと光らせて言った。

 

「す、凄いです……そこまで分析できるものなんですね……」

「はあ? いや……論理を詰めて考えたら自明だろこんなの。それに全部大ハズレって可能性の方が高い。あくまで信憑性に欠ける推測だ、こんなのは」

「それでもです! どうしたらそこまで分析できるものなんですか!?」

「……言ったろ、逆算だ逆算。材料は足りないにしろ出ている結果がある。ならそこに符合する仮定を片っ端から当て嵌めて、それっぽい筋が通るのを探しただけだ」

「なるほど、パズルのピースを型に嵌めていく要領ですか!」

「パズル……?」

 

 イオラオスにはパズルというものが何かは分からないが、理解できたんならそれでいいかと納得しておく。

 この少女の知能は高く、膨大な知識量に磨かれた知性がある。後は想像力さえつけばこんなもの、簡単に導き出せる回答であるはずなのだが。

 円卓の騎士とやらは考えるのが苦手な面々らしいので、知略に関しては微塵も期待できないと見切っている。なので最初からこの手の話に乗ってくるとは考えていない。適材適所、荒事だけやって、後は大人しくしてくれていたら良いとイオラオスは思っていた。そういう意味で、狂化しているらしい黒騎士が一番理想的だ。

 余計な話に惑わされず、本能で戦うだけ。狂っているにしてはマシュの守護に必死な点は気になるが、この黒騎士こそが最も信用できる戦力だとイオラオスは思っている。

 

 純戦士。ランスロットへの評価はそれで、イオラオスは彼を高く評価していた。サーヴァントではない生前の湖の騎士なら、恐らく危なげなく自分を倒せるかもしれない、と。

 

「ふむ。さながらイオラオス殿は我らの軍師ですね」

 

 ガウェインがしたり顔で頷く。それに訝しげな目をイオラオスは向けた。

 

「マスターも歩き疲れたでしょう。ここは一つ、小休憩でも取るべきかと」

「……太陽野郎がこんな事言ってるが、疲れてるのかマシュ」

「え? ……はい、実は少しだけ……」

 

 かれこれ半日以上歩き通している。肉体的な疲労とは無縁なサーヴァントと、旅慣れているイオラオスにとってはどうということはないが、デミ・サーヴァントになるまでインドア派だった少女には辛いものがあった。

 控えめに疲れを告白する少女に嘆息する。おまえより年下の、俺のガキ連中の方がタフだなと呆れつつ。疲れてるんなら早めに言えと軽く叱責した。しゅんとするマシュを放っておいて、イオラオスは太陽の騎士ガウェインに目を向ける。

 

「で、休むのは良いが、何かしたい事でもあるのか?」

「分かりますか」

「分かる……っていうか、あからさまだおまえ。腕試しでもしたいのか?」

「はい。イオラオス殿を相手に本気の、全力の模擬戦を申し込みたい。貴殿ほどの英雄に、サーヴァントでしかない今の私がどれほど戦えるのか、言葉は悪いですが今後の物差しにしたいのです。それが分かれば私のマスターも、戦術を練り易くなるはず」

 

 ガウェインの言は聞くべき所があった。

 確かにその通りだ。イオラオスも彼らの全力を知っていれば、どれぐらい出来るかと推測が立て易くなる。それにイオラオスは、伯父を除けばトップクラスに近い武力を持つという自負もあった。

 イオラオスを物差しにするのは、彼らとしても悪くない……寧ろ最善手の体験であると言えるだろう。イオラオスを倒せれば、即ち一対一なら彼らにも戦い様が出てくるという事になる。

 

 その時、ぴくりとイオラオスの獅子耳が動いた。視線が横に走り、整備されていない荒い山道の脇、物陰に照準される。

 

「……なあ、カルデアの。何か周りにないか?」

『え? いや……特に反応はないけど……どうかしたのかい?』

 

 観測できていないか。ついでに誰も気付いていない。勘違いか? そう首を捻るも、やはり()()()()

 気配はない。イオラオスも何も感じない。だが鋭敏な聴覚が、()()()()はずの地点から音を感知したのだ。

 

「……ふぅ」

 

 溜め息を吐くように、細い息を吐き出す。そして鞘に収まっている短剣の柄に手を掛けた。

 瞬間、ピンと緩んでいた糸を張ったような緊張感がマシュ達に走る。

 イオラオスは音の聞こえた方に声を掛けた。

 

「誰だ。気配の遮断、まずは見事と言っておくが、肝心の隠密行動はお粗末だな。木の枝を踏んだぞ、おまえ」

「……!」

「出てこい。さもなければ敵と見做し、殺す」

 

 放浪の賢者――小ヘラクレスとまで言われた男の凄絶な殺気が向けられる。物理的な壁が圧し潰しに迫るかのような圧力に、殺気を向けられた訳でもないマシュに冷や汗を掻かせた。

 これで何もなかったらとんだ間抜けだなとイオラオスは思っていたが、ややあって物陰から一人の仮面の女が姿を現した。

 

「あ、貴女はっ!?」

 

 マシュが驚愕して声を上げる。

 

 ――赤いドレス、頭部を覆う華美な装飾の仮面と、そこから覗く金の髪。独特な形状の赤い大剣を右手に、そして左手には赤の剣と同様の形をしている白い大剣が握られていた。

 

「ふっふっふ……」

 

 仮面の女は隠密を見破られたというのに、不敵な声で笑う。快活に。

 

「あれは誰だ?」

 

 そして両手の大剣を地に突き立てると腕を組み、小柄な体躯には不釣り合いな豊満な胸を張り、歌うように唱えた。

 

「美女だ? ローマだ?」

 

 あたかも舞台の上にある俳優のごとく。憚ることなく彼女は仮面の上からでも分かるほどはっきりと笑った。

 

「もちろん――」

「ネロさんっ!」

「!?」

 

 いざ名乗ろうと。余だよ、と告げようとした瞬間、信じられないものを見たと言わんばかりに上げられたマシュの叫びに掻き消され、仮面の女……然し隠し様のない特徴的なアホ毛と存在感を持つ女は驚愕して固まった。

 そしてふるふると震え出す。イオラオスは呆れて殺気を霧散させていた。そして微妙に空気を読まなかったマシュに嘆息する。

 恐らくマタルヒスの仮面を模したのであろう、然しオリジナルより華美にされている仮面を被った女――感じからしてサーヴァント――は、勢いよく仮面を外すと涙目で吠えた。

 

「うぅぅうう! 余、余の……余の初登場がぁ! 彼のイオラオスに見せつける圧巻の名乗りが! 三日間考えに考えた余の、出ていくタイミングを見失って実は見つけられたのが嬉しかったりする余の、余の第一印象がぁぁぁ……」

 

 ――そう、彼女こそローマ皇帝ネロ・クラウディウス。暴君と謗られし君主。マタルヒスとヒッポリュテ、そして何よりヘラクレスをリスペクトした皇帝。メディアの劇を自ら演じ、幼少期からイオラオスの手記を読み込んで育った我が侭ちゃん。

 

 第二特異点でマシュ達と共闘した、愛すべきローマの華である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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Fate/staynight
一夜 小さき者、(おお)いなる者


えー、まことに勝手ながら、書きたいものを見失いつつありモチベ低下につきまして、本命の方に舵取りし直すことにしたと(事後)報告いたす。
どういうことかと云うと、正史バージョンからのsn編だ(半ギレ)
こっちを先にやる。なぜならfgo方面を先に進むとモチベ的にエタると確信したからである。読者諸兄におかれましては、ぶつ切り感にもやっとするかもしれないが、それでも作者としてはやりたいことをやらせてもらいたい。

そんなわけでsn編に突入……の、前置きをば。外伝fgoで正史の流れは把握されていると思われるので触れない。
稚拙な筆力の作者を憎め……! でも勘弁して……! エタるよりはいい、はずだから……!

それと挿絵、表紙を匿名希望様より頂きまして候。その偉容、まさに王の化身。一見の価値あり、作者はスマホの壁紙にしました。


あ、snもオリジナル展開目立つから気をつけて()






 

 

 雪解けにはまだ遠い。

 悠遠なる歴史(とき)を経た、常冬の帳に支配された秘境の城は、その支配者が機能を停止する(妄執を果たす)その時まで、雪解けを受け入れる事は無いだろう。

 だが自滅の結末に疾走する支配者に付き合う義理などない。その歴史は支配者の意向に沿う事なく終止符が打たれようとしている。満願成就の時を迎える、その目前にまで駒を進めていながら、盤面そのものを破壊されたのだ。

 遠く極東の地にて大聖杯が起動した。それにより自身の番人を維持する労力から解放された小聖杯が、狂戦士(バーサーカー)(クラス)にて招かれた英霊に唆され叛逆したのである。

 

「――あは」

 

 暗い笑み。然し無垢な微笑み。愛憎入り混じったのなら無垢ではいられないが、愛がなく憎しみのみに純化していたのなら、それは純粋であり無垢である。

 底なしの暗黒。沸騰した混沌。解放の禊を終えた歓喜。なされた仕打ちを思い返せばこそ、解放のカタルシスが入力された表情は無限の喜びに満ち満ちていた。

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは、可憐な唇を歪ませて、嗤う。

 

「あはは。脆ーい。こんなのが……こんなのが、わたしの……」

 

 その後に続く言葉はイリヤスフィールにしか聞こえない微かな囁き。

 アインツベルンの城は恐怖の権化だった。逆らえない支配者だった。精神的にも、肉体的にも打ちのめされ、欠片も裏切りの発想も浮かばない存在だった。

 だがバーサーカーという、聖杯戦争史上最強のサーヴァントを従えている今、彼女を恐怖で縛る事など出来るはずもなかったのだ。

 彼女に叛逆を促したサーヴァントは、たった一度囁いただけ。「アインツベルンの悲願とやらは、マスターさえいれば叶うものなのだろう。ならば最早不要ではないか。永年の研鑽、その総決算をまずは自身で味わうも一興というもの。ただ一言、滅ぼせと命じられたのなら、私はマスターの敵を悉く滅ぼそう。なに――マスターがこれまでされてきた仕打ちの、ほんの僅かな苦痛を返すだけの事だろう」と。

 それはイリヤスフィールに電撃の如き衝撃を齎した。人体の七割を占める魔術回路、長くは生きられないと告げられた設計思想、単一の目的のみを課せられた絶望。それらが脳裏を駆け巡り、然し心的外傷に比するほど刻み込まれたアインツベルンの頭首アハト翁への恐怖が抑制して――だが、傍らのサーヴァントが齎す無限の安心感があらゆる恐怖の鎖を打ち砕いた。

 

 そうなれば、もはやイリヤスフィールを縛るものなどない。恐怖の楔を引き抜かれた少女は、ポツリと命じた。「……やっちゃえ、バーサーカー」と。

 

 その命令が、アインツベルンの滅亡を決定した。

 アインツベルンを滅ぼすべく、天災が如き暴力を振るった狂戦士を止められるモノはいなかった。戦闘型ホムンクルスの部隊も、魔術を振るうホムンクルスも、総てが消された。残されたのは、イリヤスフィールの礼装『天のドレス』であるリーゼリットと、イリヤスフィールの世話役のセラというホムンクルスのみ。

 彼女の背後に控え、アインツベルンの家門が滅び去る様を見届けるセラの目は無感動なものだった。自然に属する人造生命体、人の及ばない魔術回路の持ち主に、主であるイリヤスフィールは気まぐれめいて問いかけた。

 

「ね、セラ」

「はい」

「こんな事しちゃう悪い子のわたしに、セラは付き従ってもいいの?」

 

 純粋な疑問だった。分かりきった答えしかないのを知っていても、問わずにはいられない。セラは答える。

 

「アインツベルンの悲願は、第三魔法の再現。お嬢様がおられる以上、それが果たされるのは疑いありません。悲願が叶うならアインツベルンのお家の存亡は些末な事です」

「ふーん。つまらない答えね」

 

 歯向かったのなら破壊(殺害)されてしまうだろう。然しセラにそのような考えは毛頭ない。思う所はあるものの、イリヤスフィールさえいれば、アインツベルンの勝利は確実だと考えているからだ。

 

 バーサーカー。現界せしは英霊ヘラクレスではなく、事実の古代王アルケイデスでもなく、生前の超人『戦士王アルケイデス』その人に限りなく近しい性質を持つサーヴァントであった。マスターはアインツベルンの小さき姫。第五次聖杯戦争にてその役目を終える、錬金術の大家が誇る最高傑作の人造生命体(ホムンクルス)。その特別製の令呪は様々な機能を有し、全英霊屈指の大英霊をも律する鎖となるだろう。

 この組み合わせが成った以上、アインツベルンに憂いはない。あらゆる障害も、敵に成り得ぬ。まさに圧倒的なまでに最強なのだ。セラはただ、イリヤスフィールに仕えるだけだ。

 

「――終わったぞ、マスター」

 

 バーサーカーが帰還する。黄金の甲冑を纏い、白亜の魔槍を携え。比肩する者のない偉丈夫が戻るのに、セラは僅かに身じろぎする。戦慄か、恐怖か、はたまた主を唆した者への隔意か。

 金色の獅子王が戻るのに、イリヤスフィールはパッと顔を明るくする。そして残酷に問うのだ。天真爛漫に。

 

「お疲れ様。殺戮は楽しかった?」

「不憫な人形を廃棄して回るのに喜悦など感じん」

「むぅ……じゃあ、お爺様は?」

「抵抗する素振りもなく、一つ遺言を遺した。第三魔法『天の杯(ヘブンズ・フィール)』を成就せよ、とな」

「……ほんとう、つまんないの。セラも、バーサーカーも、お爺様も。何よそんな当たり前の事しか言えないの? わたしとバーサーカーがいるんだからできるに決まってるじゃない。他に何かあれば……」

 

 こんな事、しなかったのに。

 

 イリヤスフィールの呟きに、バーサーカーは目を細める。彼女に肉親を殺める命令を出させた罪悪感は皆無だ。マスターにとっての肉親とは、母のホムンクルスと、名前を伝え聞く衛宮切嗣のみ。アインツベルンはただの檻であると理解している。

 故に反応したのは、イリヤスフィールの独白に、無意味に駆動し続けるだけのアインツベルンを滅した事に微かな慚愧を懐く優しさへの嬉しさ。そしてバーサーカーが楽しまないのを当たり前と言った事へ自分を理解されている喜び。この二つだけだ。

 

 バーサーカーは見抜いていた。アインツベルンには、人間がいない事を。

 

 種族的な意味ではない。自立した思考を持ち、独立した精神を持ち、自身の裡から湧いた欲望を持つモノなら、彼は人間でなくとも人間として扱う。相手が人間であるなら滅ぼすべきだとバーサーカーは考えなかっただろう。いや――マスターへの仕打ちを考えれば、やはり刃を取ったかもしれない。不義不忠、マスターの一族殺しの汚名を受ける覚悟を持って、独断で動いていたかもしれない。

 ともあれ終わった事だ。今更何を言ったところで意味などない。バーサーカーはちらりとセラとリーゼリットを一瞥する。

 

「……さて。立つ鳥跡を濁さずと、日本とやらの諺にある。早速日本に向かうか?」

「そうね。それより、聖杯ってそんな知識までサーヴァントに与えるの……? なんか変な感じ……」

 

 バーサーカーは、マスターを至上とする。総てはマスターに優先されるのだ。そこに王としての思想が介在する余地はない。

 戦士として仕え、そして父を求められたが故に守護する。召喚に応じたのはひとえにイリヤスフィールのためであり、それ以外は余分だと切り捨てていた。

 

 第五次聖杯戦争最強の陣営が、日本へと発つ。

 

 白い少女に仕える戦士は、心躍る戦いなど望まない。一個の戦士として殺せと言われたものを殺し、主君の御為だけに尽くし、そして彼女に人としての人生を献上する。

 普通の、などと間抜けな願いはない。然し一人の人間として生きられる命を少女に与えるのが、サーヴァントとしての己の使命であると彼は定めていた。

 

「でもバーサーカーって不便よね」

「何がだ?」

「武装したら一発で真名バレちゃうし、かといって武装解除して素顔を晒してもバレちゃうじゃない。イオラオスだっけ? バーサーカーの甥のせいで肖像画まで残ってるじゃない」

「フン、真名が露見したからと、なんの不都合がある。我ら以外の陣営が手を合わせたとて、一網打尽に薙ぎ倒すまでの事だ」

 

 霊体化してマスターの傍に侍る。日本の空港に到着してから溢れたマスターの素朴な感想に、バーサーカーは不敵に大言した。

 イリヤスフィールはそんな彼に、頼もしげな目を向けて。

 

「言ってみただけよ。でもわたしの事、守ってくれなきゃダメなんだから」

「案ずるな。此度の聖杯戦争で、マスターが傷を負う事など万が一にも有り得ん事だ」

 

 その返答に、尽きぬ信頼から天使の笑顔を綻ばせた。

 

 

 

 一組の陣営が、冬木に入る。その瞬間、現界している総てのサーヴァントが感じた。

 強さの位階が一つ、下がったのを。

 

 青い槍兵は獰猛に笑う。舞台に登るだけで感じられる圧倒的な武威と霊格に。死力を尽くした戦いに没頭できるという予感に。

 

 反英霊、いずれ怪物へと堕ちる定めを負った騎兵は顔を上げる。懐かしい者の濃密な気配が、冬木へと入ったのを感じて。

 

 魔女は震える。悍ましい予感に鳥肌を立たせ。

 

 そして――

 

「ほう……この我に、()()を感じさせるか……」

 

 ――受肉している八騎目の英霊(イレギュラー)が、全霊を賭すに足る強敵の接近を歓迎した。

 

 運命の夜を迎えるまで、あと少し。至強の戦士、総ての勇士の代表者が入場しただけで生じる揺らぎは、蝶の羽ばたきなど比較にもならない変化を齎すだろう。

 

 第五次聖杯戦争。冬木に於ける最後の戦争が、ゆっくりと幕を上げ始めていた。

 

 

 

 

 



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二夜 擦れ違う運命

本日二回目。
若干荒い出来。



 

 

 

 聖杯戦争。

 万物の願いを叶えるとされる万能の願望器“聖杯”の奪い合い。数十年に一度、冬木市を舞台に行われる。聖杯を求める七人のマスターと、彼らと契約した七騎のサーヴァントがその覇権を競うのだ。

 他の六組が排除された結果、最後に残った一組にのみ、聖杯を手にし、願いを叶える権利が与えられる。故に聖杯を求める者、汝、己が最強を証明せよ。

 

 ――というのが表向きの謳い文句である。

 

 バーサーカーはその内実をマスターの少女から聞かされては居ない。必要がないと思われている。悪意があって隠したのではないにしろ、それはある意味で信頼を裏切る行為であるのかもしれない。

 だが常識を弁えるマスターであればこそ、とてもではないがサーヴァントに聖杯戦争の真の目的を告げられるはずもない。イリヤスフィールは怖かったのだ。バーサーカーに聖杯戦争の真の目的を知られた結果、自身にどんな目を向けるか判断できなくて。

 感情は、例え総てを知ってもバーサーカーなら味方で居てくれると信じている。然し魔術師の一族としての知性が、無駄なリスクを冒す必要はない、知らないなら知らないままでいてもらった方が良いと冷徹に告げている。その鬩ぎ合いが、結果としてイリヤスフィールの口を閉ざしているのである。

 

 ――冬木の聖杯戦争のシステムを作り上げた御三家本来の目的は、時間軸の外にいる純粋な『魂』であり、この世の道理から外れながら尚、この世に干渉できる外界の力の塊である『英霊』をサーヴァントとして召喚し、英霊の魂が座に戻る際に生じる孔を固定して、そこから世界の外へ出て『根源』へと至る事である。そしてイリヤスフィール――『小聖杯』は溜め込んだ七騎分のエネルギーを以て根源に通じる大穴を空ける為に在るのだ。

 聖杯戦争の過程でどんな願いでも叶えられる魔力が溜まるが、それは二次的なものであり、外来の無知なマスターを呼び寄せる為の宣伝でしかない。マスターはサーヴァントを呼び出す受容体(レセプター)であり、召喚さえしてくれればいつ死んでも構わないのだ。つまり……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。本来の目的を隠した上で、外来のマスターを呼び寄せる為に表向きの"戦争"があるのだから。

 

 ――こんな事、言える訳がない。お前は所詮、御三家の魔術師が求めた生贄に過ぎないなどと、言える筈がない。それでもバーサーカーなら……笑って許してくれると信じたがっている。否、既に心は信じている。理性がそれに歯止めを掛けているのだ。

 もどかしい。後ろめたい。家に縛られず、ただ一つの目的を達する為だけの戦争に専念すればいいのだと分かっていても。堪らないほどもどかしい。

 今も……冬木の街を並んで歩くバーサーカーに、イリヤスフィールはぎこちない顔を向けるのだ。

 

「このたい焼きとやらは……随分と甘ったるいな。正直に言って私は好かん」

「そう? わたしは好きだなー。なんていうの? 俗っぽいって言うんだっけ。無駄に多い甘味料とかー、ネチャってしてる皮とか! 家じゃまず食べられない出来(クオリティ)だけど、だからこそ珍しくて美味しく感じちゃう。昔キリツグが言ってたジャンクフードっていうのは、こんな感じなのかな?」

「恐らく違うと思うぞ。喰らった事がない故はっきりと断言は出来んが……」

 

 『ヘラクレス』が理性のない狂戦士のサーヴァントであったなら、魔力消費の加減が利かずにイリヤスフィールをも苦しめただろう。戦士王ほどの霊格の持ち主を、狂化スキルによりさらにステータスを押し上げているためだ。他のサーヴァントなら燃費最悪の狂戦士であっても、破格の魔力タンクとしての能力を持つイリヤスフィールには負荷は掛からないが、戦士王が狂戦士であれば話は別なのである。

 本来の狂戦士ではない、イレギュラーな形の戦士王だからこそ実体化していてもさしたる負担はない。もしそうでなければ狂化を解除し、なおかつ常に霊体化させていたに違いないのだ。

 

 戦士王は狂化を解除されている――されておらずとも理性に曇りはないが――のもあるが、あらゆる武装を消し、あまつさえ自前の魔力を削り節約しながら実体化しているため、イリヤスフィールに殆ど負担を掛けないという離れ業を実現している。自前の魔力の消耗は、イリヤスフィールが気が向いた時に供給するだけで満たされるのだから、実質なんのペナルティもない状態だった。

 

 今のバーサーカーはイリヤスフィールが見立てた現代風の衣装を纏っている。二メートルを超す筋骨逞しき偉丈夫が、黒服のスーツと無骨なサングラスを掛け、オールバックに撫でつけた黒髪に厳つい相貌を晒しているのだ。銀細工のネックレスや腕時計とも相俟って完全にその筋の大物にしか見えない。自然、冬木の人だかりは彼らを避けていた。が、少し目端の利く者は、バーサーカーの佇まいに危険なものは感じず、却って安心感を見いだせる。巨漢と小さな妖精が如き少女という組み合わせもあり物珍しげな視線を浴びせていた。

 

「然し……感慨深いものだ」

 

 はむ、とたい焼きを頬張るイリヤスフィールに柔らかな微笑みを向けながらバーサーカーが述懐する。む? と行儀悪く真意を問うてくるマスターに、軽く拳を落とした。

 

「こら。口に物を入れたまま喋ろうとするものじゃない」

「むぐ……む、む……マスターに手を上げるなんて……お仕置きが必要あいたっ」

 

 抗弁して強気に構えようとする少女の頭に、今度は微かに強く拳骨を落として、バーサーカーは嘆息した。

 

「戯け。主従であろうと、いやだからこそか。従者の諫言にも耳を傾けずになんとするか。非があるのなら素直に認めよ。ないと思うのなら言うがいい」

「むー……分かったわよ。確かに淑女らしくなかったわ。わたしが悪かったですー。これでいい?」

「うむ」

 

 叱られたのに、イリヤスフィールはどこか嬉しそうだった。こんな細やかな遣り取りが楽しくて堪らないのである。だらりと下ろされたバーサーカーの手を掴み、自分の手よりずっと大きなものと繋がっているのに意味もなく笑顔を咲かせる。

 バーサーカーは自身がイリヤスフィールに、最初の妻のメガラとの間に生まれた娘を重ねて見ている部分は確かにある。然しイリヤスフィールとは完全に別人だ。自身の見方が何よりも非礼であると弁え、彼はマスターを尊重するために意識して生前を忘れるようにしていた。英霊として召喚に応えたからには、何よりもイリヤスフィールを優先し、何もかもを捨て置いてでも彼女に尽くす。その覚悟を懐かせるほど、()()()()()()()()に励んでいるつもりの少女は儚かった。

 その超越的な洞察力は、イリヤスフィールがバーサーカーに後ろめたさを覚えているのを見抜いている。だが何も問わない。どんなカラクリがあっても、自分だけはイリヤスフィールの味方なのだから。無条件に彼女だけの守護者として在る事を、この第二の生で決めているのである。

 

「ねえ、さっきのことだけど、何が感慨深いの?」

「ん? ……ああ、そうだな」

 

 手を繋いで歩いていると、傍から見ると父娘のようである。そう見える事にイリヤスフィールだけが気づいておらず、そう在りたいと願っていた。

 それには気づいていないふりをしてやりつつ、バーサーカーはマスターの問いに答えるべく辺りの町並みに視線をやった。

 

「見るがいい。どれも私の生きた時代には有り得なかったものだ。科学文明だったか? 神秘を淘汰し、物理法則で世界を規定し、繁栄と発展を遂げている。私は間違ってなどいなかった――やはり人類に神は不要だった。信仰する先として、偶像としての神が在るだけで人には充分なのだと……この街を見ただけで確信できる。私にはそれが嬉しいのだ。人理構築の一助に成れたと、今になって実感できている故に」

「ふーん……」

 

 重い、途方もなく重い独白だった。

 一つの神話に終止符を打った英雄の、万感の想いが籠もった言葉には、安易な言葉を返せない星の重みが宿っていた。

 イリヤスフィールは混ぜっ返すような事は言わず、素朴な感想を溢す。

 

「バーサーカーって人と神の間を裂くんじゃなくて、人と神の関係を刷新して、信仰の在り方に変革を齎したんだよね」

「そうだな。そうなればいいと願い、ひた走った」

「でもバーサーカーは神様になって事を成したんじゃない。とっくの昔にこうなるって識っていたんじゃないの?」

「それは勘違いだな、マスター」

 

 バーサーカーは苦笑して少女の勘違いを正す。

 確かにバーサーカーは神話に語られるように、死後に武神としての霊格を得た直後、戦神と結託し、戦女神を引き抜き、ギリシャの神々と敵対して大半を討ち滅ぼした。

 後の世の在り方を確かに変えたのだ。だが――

 

「私は英霊だ。神霊ではない」

「……人としてのヘラクレスが貴方で、神霊ヘラクレスとは別人って事? でも、バーサーカーのスキルに『神性』があるじゃない。人としてのバーサーカーと神としてのヘラクレスが混在してるから神性があるんじゃないの?」

「違うな。人としての私には、常に神の血が流れていた。半神である私が人なのだ。故に死後、純粋な神となった私が成した事など、人としての私にはただの記録に過ぎん。今ここにいる私は、志半ばで斃れ、無責任にも神の私に総ての“遣り残し”を託した男に過ぎん。私が神性を持っている事と、神霊ヘラクレスとの間に関わりはないのだ」

「そういうものなのね。でも、変なの。自分が死んだ後にまで自分が残るだなんて、まるで残留思念……あべこべだけどドッペルゲンガーみたい」

「こうも考えられる。人は死しても、後に遺せる意志があると。神の私など知った事ではないが、それでも人として生きた私の人生の蓄積が、神霊ヘラクレスの在り方を決定づけたのだとしたら――ああ。やはり遺せたものはある。私は何も無駄になどしなかった。そう信じられる」

「……未練とか、ないの?」

「あるに決まっているだろう」

 

 恐る恐る、探るような問いを、バーサーカーは豪快に笑い飛ばした。

 何も不安に思うことはないと、冗談めいた本音を溢す。

 

「妻子が死んだのなら新しい妻を迎え、子をもうければよい……そんな戯言を吐いた糞のような大神を、一度だけでもこの手で殴りたかった……未練といえば、それぐらいだな」

「なにそれ」

 

 ぷっ、とイリヤスフィールは噴き出した。だって本気で悔しそうなのだ。可笑しくて笑ってしまう。

 

「じゃあさ、なんでわたしの召喚に応えてくれたの? サーヴァントって未練があって叶えたい願いがあるから現界するんだよね? バーサーカーの願いは何? なんでも言っていいよ。この小聖杯(わたし)が聞いてあげるわ」

「そうか? なら――救われぬ子に救済を……とでも言っておこうか」

「何それ? 変なことばっかり言って煙に巻くんだから……」

 

 訳が分からないと首を捻るイリヤスフィールに、バーサーカーは微笑む。お前のことだ、マスター。そう言ってやるにはまだ早い。最後まで勝ち抜き、サプライズとして願えば、さぞかし驚くことだろうと思うに留める。

 バーサーカーはイリヤスフィールを抱え、肩車した。突然視界が高まり、足が宙に浮いたのに驚いて「きゃっ」と声を漏らしたイリヤスフィールだったが、すぐに感嘆したように顔を輝かせた。

 

「わぁ……」

「どうだ。高さが違うだけで、見え方は違うものだろう」

「うん……ね、バーサーカー。もっと歩いて。もっと色んなところに行って。わたし、もっと色んなものが見たいの」

「任せよ。こう見えて、私は散策の達人だ」

「あはは! なにそれ、そんな達人があるわけないじゃない!」

 

 あるのだ。王を探してエジプトのテクスチャを釣り上げたほどの達人なのである。

 

 きゃっきゃと喜ぶマスターを肩車したまま、バーサーカーは冬木の街を練り歩く。

 たい焼きに始まり、アイスクリーム、さつまいも、揚げ鶏などを買い食いし。何かを見つける度に脚をジタバタさせて「あっち行ってあっちー!」と指差す少女に従う。

 イリヤスフィールの身の丈ほどもあるテディベアのぬいぐるみを意味もなく買って、それをイリヤスフィールに背負わせ。近代機器を金銭に物を言わせて片っ端から買い占め。手に持てる分だけ袋に詰めて両手に持ったり。お揃いのマフラーを買って自身に巻き、バーサーカーの首にも巻いてやって手綱のように振り回したり。好き放題に暴れる少女の為されるまま、バーサーカーは終始笑みを絶やす事はなかった。

 

「むっ。――ぐ、ぐ……ぐふっ――はっ、はぁっはははは!?」

「え!? な、なになに!? どうしたのバーサーカー!?」

「はっ、はは、ハハハハハハ!? な、なんっ、なんだ、それは……!? ハハハハハハハハ!!」

 

 ふと何かを見つけ、口を噛み、然し堪え切れずに突如呵々大笑しはじめたバーサーカーに、イリヤスフィールはギョッとして問い掛けた。

 その場に膝をつき、腹を押さえて蹲るや、必死に笑いを収めようとするバーサーカーの豹変が天変地異の前触れに見えてイリヤスフィールは慌てる。

 然しイリヤスフィールは、バーサーカーが震える手で指さしたものを見て呆れてしまった。

 

 節くれ立ったバーサーカーの指が示したのは、一つのテレビ。それはテレビゲームとやらや、TVアニメなどの予告が流されるもので、グッズなどが店頭に並べられていたりした。

 そう、ゲーム屋さんである。そして丁度、イリヤスフィールの目に映ったのは――

 

 

 

『きゅるるん☆ 魔法少女マジカル☆メディア、ここに参上! 月に代わってぇ〜、みんなブッ血KILL! 明日朝七時から第二期放送開始☆ みんな見てくれないとぉ、あたしの拳が唸って光ってひどいんだからね☆』

 

 

 

「………ナニコレ」

「クッ、クク、クハッ、ハハハ……! いや、なんだ、ああ……その。なんでもない。見なかったことにしよう。それが人の情というものだ。イオラオスめ……やりおる。いや後世の研鑽の結実かこれは。なんでもいいが……うむ、愉快だな」

 

 ふりふりしたドレスを着て。謎のくるくる回転と派手なエフェクトと共にステッキを振り回し、決めポーズを取る幼気な少女キャラクターから目を逸らすバーサーカー。

 メディアというのが、バーサーカーの時代を生きたあのメディアだと理解して、イリヤスフィールの目が点になる。こんなのが俗世では流行りなのかと。

 そそくさと立ち去ろうとするバーサーカーの手綱(マフラー)を握り、急制動を掛けてイリヤスフィールは言った。すこぶる興味を惹かれたのである。

 

「ね、中に入ってみようよ」

「ん? 構わないが……興味があるのか?」

「うん。もしかしたらバーサーカーに関連してるのもあるかもしれないじゃない?」

「私が関われば、さぞかし武骨で雄壮なものとなろう。マスターにはつまらんと思うが……」

 

 そう言ってその店の門を潜って暫く。

 弾けるようなイリヤスフィールの笑い声が響いた。

 

 

 

「あっはははは! な、なにこれぇ! バーサーカーが女の子になってるぅ!」

「――――何が起こったのだ、私の伝承に何が………!?」

「タイムスリップした主人公が、女の子ばっかりのギリシャ神話を駆け抜ける……!? あーるじゅうはちのぎゃるげー……? なにこれなにこれすっごくやりたい! 買って帰ろうよ!」

「だめだ、絶対に駄目だ。断固拒否する。どうしてもと言うなら令呪を使え」

「えー!? そこまで嫌なの!? ――って、こっちのバーサーカー、いろんな女の子に手を出す鬼畜王だって!」

「ほう……どこの会社だ? 物理的に滅ぼしてくれよう」

「面白そうだからいいじゃない。えーと、意外とあるものね。『ブラック企業オリンピアを破壊せよ!』……? ふーん、ゴッド・オブ・ウォーとかあるわね。ヘラクレスを操作して、ギリシャの神々をぶっ飛ばせ! とか」

「買いだ」

「あー! ずるいずるいずるいぃ! わたしもほしいのあるの!」

「魔法少女リリカルな○は×魔法少女マジカル☆メディア、大乱闘編で我慢しろ」

「作為的なものを感じるわ。でもそれで我慢してあげる。今は」

「マスターが出歩く時は常に私がいるぞ」

「ちぇー……」

 

 

 

 その店を出る頃には、イリヤスフィールはすっかり騒ぎ疲れて瞼が重くなってきたらしかった。

 一日の半分を寝て過ごさねばならない身である。随分とはしゃいでいたものだから、自分の限界を見誤って、バーサーカーの肩の上で寝息を立て始めていた。

 

 揺らさないようにそっと歩く。そんなバーサーカーを見て、擦れ違う人々は微笑ましげだ。バーサーカーの強面も、優しい父性に溢れた微笑みに迫力はなくなり。天使の寝顔をみせる小柄な少女を見ては、穏やかに見守れる。

 安心しきって。信頼しきっている。イリヤスフィールは眠りながらもバーサーカーの首に巻かれたマフラーを強く握っていた。

 

 城に帰ろう。バーサーカーは特に気を遣い慎重に歩く。

 

 ――その横を、一人の男が通り過ぎた。

 

「ギリシャ最大の英雄ヘラクレスが子守とはな。随分と余裕そうではないか」

()()()()なのではない。余裕なのだ。名も知らぬ英霊よ」

 

 ライダースーツを纏う金髪赤眼の美男。隔絶した美貌の男の揶揄に、能面のような無表情でバーサーカーは応じた。騒ぎを起こすつもりなら殺すとその瞳が宣告している。

 愉快げに男は大英霊と擦れ違い、戯れに告げる。

 

「はしゃぐのは良いがな。余り無防備が過ぎると要らん虫が騒ごう。いたずらにクラスと、真名を晒すような真似をして、我と相見えるまでに消えてくれるなよ? 久方ぶりに興じられそうだと期待してやっているのだからな」

()()()()()()()()()()()()()()()()が、この私と勝利を競うか? 面白い冗談だ。せめてその余分、削ぎ落として来い。今の貴様は視るに堪えん」

「ほざいたなヘラクレス。だがよい、一度だけその放言、聞き流してやる。感謝しろ、今の我は機嫌が良い――」

 

 そのまま、両雄は離れていく。次に会う時は、戦場であると理解して。

 今のはささやかな挨拶である。宣戦布告である。「貴様はこの我が、手ずから殺してやる」という、血腥い決定なのだ。

 然しアインツベルンの城に帰還しながら、確かに油断が過ぎるかと内省し掛け。そんな事はなかったと否定する。誰がいつ仕掛けてこようと構わない。即座に反応し対応できる自負がある。バーサーカーはマスターの望むまま、どこであろうと出向くだろう。そして敵を殺すのだ。

 

 それだけである。

 

 あの金色の英霊――受肉していると思しきサーヴァントも、同じ。敵として立ちはだかるのなら、粉砕するだけだ。

 

 冬木の夜が、流れていく。

 

 

 

 

 

 

 



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三夜 奇跡の王妃の苦難

三回目の投稿。なんかすらすら書けたので(笑)
ギャグ回。




 

 

 

『きゅるるん☆ 魔法少女マジカル☆メディア、ここに参上! 月に代わってぇ〜、みんなブッ血KILL! 明日朝七時から第二期放送開始☆ みんな見てくれないとぉ、あたしの拳が唸って光ってひどいんだからね☆』

 

 

 

 

 

 

 

 

 悔いのない、良い人生だった。死した後に振り返った生涯の足跡を顧み、自身の裡に些かの曇りがない事実を噛み締めて。稀代の魔術師にしてサラミスの奇跡の王妃であるメディアはその人生を終えた。

 強いて言えば長女のアイアスが、自身の許を巣立ちギリシャ産筋肉勢の英雄も真っ青な大英雄になってしまった事が悔やまれるが、二女、長男は無事に愛する夫と共にサラミスで過ごせた為、アイアスが満足しているならいいと思い切れる。彼女も愛する娘である事に違いはないのだから。

 奇跡の王妃という呼び名には、照れ臭いながらも誇りを持っていた。それは自分の苦難の末のもので、夫であるテラモンに善く尽くし、善き家庭を築き、共に試練を乗り越えた証であるから。――魔女という呼び名は呪わしいほど嫌悪していた。金色の筋肉の甥が広めてくれやがり、あまつさえそれを拾って歌劇などを始めてくれやがった、犬の糞尿にも劣る吟遊詩人の所業だから。

 あ、割と未練はあるわね。メディアはそう思う。放浪していたイオラオスの死に際に立ち会えなかったのが悔やまれる。山ほど文句を言ってやりたかった。歌劇を始めた吟遊詩人をこの手で呪ってやりたかった。だが……いいか、と穏やかな気分だった。自分はここで終わる、ならどうせすぐに廃れるだろう歌劇など捨て置いても良い。そう思い大人しく世を去ろう。そう考えて、メディアは英霊となったのだ。

 

 甘かった。

 

 歌劇は廃れなかった。寧ろ伝統的な、最も著名な演目の一つとして、遥か未来にまで受け継がれるとはメディアをして不測の事態だったと言える。

 あまつさえ面白可笑しくイジられ、次第に奇跡の王妃の呼び名が忘れ去られ、遂には英霊の座にあるメディアの在り方まで変容させていく人類に絶望した。

 みんな滅びろ。メディアは切実に願った。せめて、せめて魔女の汚名と、歌劇から自身の演目が未来永劫消滅する事を切に願った。

 

 故にメディアは聖杯の招きに応じたのだ。万能の願望器を使い、自身の汚名と歌劇の演目の抹消を果たすため。忘れられた誇りある呼び名を取り戻すため。

 それだけだった。それだけが願いだった。だが、聖杯はメディアを愚弄した。

 その宝具、スキル、姿に至るまで変質させる()()()()()。メディアは鋼の精神で魔法なんたらチックな姿を幻術で隠し、本来の紫のローブを纏った姿に偽装して。性格の違う英霊メディアの霊基を、炎のような渇望で生前のそれに塗り替えてのけた。

 自身の霊基を弄る……無辜の怪物に堕ちた全英霊にとってまさに偉業である。神代の女魔術師の面目躍如と言えるだろう。だが……その呪いの如き伝承型宝具だけは、如何ともし難かった。 

 

「は? 竜を行使する宝具はない?『心傷結界・空想綴る魔女歌劇(メディア・オブ・オリジンオペラ)』とかいう固有結界が宝具……? は、ははは! こいつは傑作だ! 神代の魔女が現代の俗な代物に汚染されているとは――!」

 

 メディアを召喚したマスター、アトラム・ガリアスタの嘲笑が総てを物語っている。

 そう、メディアの宝具とは固有結界。そこだけを切り抜いて見れば、魔術奥義を切り札の宝具とするのは強力だと言えるだろう。

 そして実際に強力なのだ。逸話を元にした伝承型の宝具。別名、魔女の歌劇。効果は自身を題材にした多種多様な歌劇を再現し、敵対象を無理矢理に歌劇の中の敵役に据える。それにより相手の宝具発動を妨害でき、かつ抵抗を弱め、ほぼ一方的に攻撃可能。弱点は相手の対魔力がAランク以上だと効果が薄いこと、防御型の常時発動型宝具を装備している相手に効きづらいこと、メディア本人が精神的致命傷を負うこと、これを使えば魔力の大半が失われ戦闘の続行が困難になること。

 本人に狂おしい恥辱を齎す事を除いて、極めて強力なランクA+の宝具だ。それを口にするメディアの羞恥と屈辱は如何ほどのものか、想像に難くないだろう。

 

 だがアトラムはそれを嘲笑った。そしてそれはメディアの逆鱗である。

 

 一瞬にしてメディアはアトラムを精神支配し、その総てを己の意志の下に置いた。英霊として、サーヴァントとして恥ずべき所業だがメディアに悔いはない。寧ろ無駄な犠牲を生むばかりのアトラムの研究を消し去り、無駄に令呪で縛られる前に行動した己の判断を自画自賛したほどだ。一切の後悔はなかった。

 英断だった。メディアは即座に聖杯戦争に勝利するための布石を打ち始める。最弱などと揶揄される魔術師のサーヴァントだが、その忌まわしい偏見はこれまでの魔術師のサーヴァントが自分ではなかったからであると確信している。

 

 自分に掛かれば聖杯戦争など簡単に勝てる。寧ろ勝つ必要すら無い。この時はまだ、そう思っていた。

 

 メディアはまず、拠点とするに相応しい霊地を探した。アトラムの工房など三流魔術師の幼稚園程度でしかなく、彼女から見ればどんな弱小の英霊でも突破できる紙細工の如き防備しかない。自分が陣地作成し神殿化しても、一級のサーヴァントを相手取れるほどではないと確信していた。故にメディアは支配下に置いたアトラムを冷凍保存し、自身への魔力供給、現世へ留まる楔として更地にしたアトラムの工房の地下へ厳重に隠蔽した。

 アトラムの令呪にも干渉し、自身の遠隔操作でアトラムの令呪を自分に掛ける事で、擬似的に自分専用の令呪まで用意した。人を人として扱わぬ非人道的な行いだが、自分の逆鱗を踏み――あまつさえ何の罪もない子供を生贄に使うような外道には相応の末路であると、同情する事も良心を痛める事もなかった。

 

 目をつけたのは、冬木でも一等の霊地、柳洞寺である。

 

 メディアは変装し偽名を名乗り、またそこにいる人間達の認識を弄って潜り込んだ。些細な認識阻害である。佐々木某などと、日本人名を使い、昔から住んでいるとした。また自身の存在を他者に漏らさないようにも。

 卑劣で人を人とも思わぬ所業であると思われるかもしれない。然しメディアにも最低限の分別はあった。無関係の人々からは一切の魔力を奪わず、単に自分という異物が人知れず紛れ込んでいるのみで、寧ろ冬木の人々が聖杯戦争に巻き込まれないように手を打つ事も考えていた。一つの悪行の代償に、百の善行で報いる。冷徹な魔術師だが、根底には優しい王妃の思い遣りがそこにはあった。

 ではキャスターのサーヴァントに不可欠な魔力の供給源をどこから得るのか。メディアは周到だった。人としての情を重んじると同時に、冷酷な魔術師として、マスターが死ぬ寸前まで魔力を搾り取り続け、柳洞寺の霊地、霊脈から直接魔力を吸い上げたのである。そうする事で柳洞寺の神殿化は人知れず進み、サーヴァントにすら効果がある天然の要害である柳洞寺の防備を固めていった。

 

 そんな時だ。

 

 メディアは冬木全土に使い魔を飛ばしていたが故に、アニメ(それ)を見てしまって。

 

 気絶していた。

 

「………はっ!?」

 

 悪い夢を見たようね……。頭を振り、忘却する。意識が飛んでいたのは単に疲れていただけなのだと自身に言い聞かせて。

 然し現実逃避はできなかった。使い魔を通して見てしまったのだ。

 白い少女と冬木の街を散策する、悍ましい何かを。

 

「………はっ!?」

 

 気絶していた。

 

 悪い夢を見たようね……。頭を振り、忘却する。意識が飛んでいたのは単に疲れていただけなのだと自身に言い聞かせて。

 だが――再び使い魔を通してそれを見た。黒服と黒ネクタイ、黒いサングラス、艷やかな長髪をオールバックに撫でつけ、銀細工のネックレスを首に巻き、腕時計を巻いた男を。

 

 勝利への布石を打ち続けていた。寧ろ勝たないまま、小聖杯さえ奪えば戦わずして聖杯を手に入れられる算段も立てられていた。引き籠るだけの簡単なお仕事です、よそのサーヴァントが撒き散らすかもしれない被害を出来る限り抑えるバイトもします、程度の気持ちだったのに。

 あの男が居た。

 ついでに破格の魔術回路持ちの、魔力タンクとして極めて優れ過ぎる少女を連れて。

 

「………」

 

 ああ、夢なんだわ。これは悪い夢なんだわ。

 壊れた使い魔(燕)は殺処分。別の使い魔(雀)を飛ばして再確認。

 

 そしてメディアは吠えた。

 

「……なんでよぉぉおおお!!」

 

 なんでヘラクレスがいるの!? なんで?! どうして!? 私の人生になんでそこまで関わってくるの!? 貴方はそんなにも、そんなにも私をおちょくりたいの!? そうまでして聖杯が欲しいの!? この私が……たったひとつ懐いた祈りさえ、踏みにじって……貴方はッ、何一つ恥じることもないの!? 赦さない……断じて貴方を赦さないッ! 名利に憑かれ、王妃の誇りを貶めた筋肉共……その夢を我が呪で穢すがいい! 聖杯に呪いあれ! その願いに災いあれ! いつか地獄の釜に落ちながらこのメディアの怒りを思い出せ!

 

 ――メディアの中で試合終了のホイッスルが鳴り響いていた。

 

 あー……何もかも無駄に終わったわ。全部の仕掛けが薙ぎ倒される未来しか視えない。未来視なんかなくったって分かりきった結末よ。

 でも……いいの? こんな所で、何もしないまま、成せないまま終わっても……。

 それは――改竄した霊基の残り粕。その残滓。それが訴えていた。()()()()()()()としてのメディアの霊基、無辜の怪物が叫んでいた。

 負けたくない、と。諦めたくない、と。本来のメディアなら投了していた聖杯戦争、それにまだ挑む気概が湧いてきた。メディアはその違和感に、全てを投げ出してしまいそうだったから気づかない。

 

 ――そうよ。まだ戦ってない……まだ、まだ! 例え生前では勝ち目なんて無量大数の先の単位まで探しても一つもないけど! 同じサーヴァントに堕ちた身なら、万が一が狙えるはず! 諦めないでメディア! 生前果たせなかったにっくきあん畜生のイオラオスの伯父! 挑まずして何が誇り高き王妃なの!? まだ私のライフは残ってる、マスター狙いに絞ればきっと勝てるんだから!

 

 メディアは奮起した。必ずや彼の邪知暴虐の王を除かねばならぬと決意した。

 生半可な策では踏み潰される。ならばもう表向きのルールとかどうでもいい。そう、ルールブレイカーの時間だ。

 

 メディアは柳洞寺の山門を触媒に、サーヴァントを召喚する。

 

 サーヴァントがサーヴァントを喚び出すのだ。門番として使い、柳洞寺の防備と合わせれば、なんとか撃退まではできなくもないのではないかと一縷の希望に託してみる。

 イオラオス来いイオラオス来いイオラオス来いイオラオス来い――その一念、鬼神に通ずる。イレギュラーな召喚故に、仮にアサシンが出てきても、冬木の聖杯戦争で固定されている山の翁が来るとは限らない。ならばアサシン適性もあるであろうイオラオスが来る可能性もある。

 もし来たらマスターの立場を笠に着て、それはもう自身の憂さ晴らしのサンドバッグにしてやると決意していた。

 

 だが、メディアは運命に負けた。

 

 自分が偽名で“佐々木”などと名乗っていたツケなのだろうか。召喚して出てきたのは剣豪“佐々木小次郎”のガワを着た、名もなき亡霊だったのである。

 

「アサシンのサーヴァント。召喚に応じ参上した。ふむ……お前が私のマスターらしいが……まあいい。よろしく頼むぞ、魔女殿?」

 

 メディアは激怒した。気に入る気に入らないではなく、第一声に魔女とかいう悍ましい呼び名が入っていたからである。

 

「――どうして私に関わる全部が()()なのよぉ!」

 

 メディア、魂の叫びであった。

 

 

 

 

 

 




なお、色んな制約を自分から負っていながら、原作以上にデタラメ仕出かしてるメディア氏。まだ余力もある模様。
やったねメディアちゃん! パワーアップしてるよ!(精神的にも)


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四夜 群像の夜

本日4度目……!


 

 

 

 ひどく、懐かしい神性を感じた。

 

 堕ちた神霊、怪物へ変生したが故の過敏な嗅覚が拾った感覚だろうか。

 気のせいかもしれない。いや、きっと気のせいだ。錯覚だ。そうであってほしいと、切に願う。

 これは聖杯戦争。儀式としての性質上、敵対は絶対に避けられなくて。この身に護りたいものがある以上、想像し得る限り最強にして最悪の“敵”の存在は容認できない。己が“一度目の生”で辿った人生と同じ、いずれ怪物へ堕ちる運命を負った真のマスター、間桐桜を救うために、あらゆる敵を討ち果たさねばならない。

 サーヴァント・メドゥーサの霊基には刻まれておらずとも、生前に積み上げたスーダグ・マタルヒスとしての経験は活きていた。故に自身がメドゥーサとして召喚された所以を、縁を理解できる。因果は定かならずとも、間桐桜は怪物になるのだろうと。

 “二度目の生”で得た力と宝具があれば、今よりもずっと楽な状況だったかもしれないが、ないもの強請りはできなかった。反英霊の騎兵メドゥーサは、今ある力を尽くしてマスターを救うと誓っている。

 

 だが、ほんとうにままならない。

 

「ひ、ひひひ……! 僕は、魔術師なんだ……特別な、他の奴らとは違う人間なんだ!」

「………」

 

 偽臣の書。聖杯戦争を放棄した間桐桜の令呪で作られた、仮染の令呪の代用品。それを手に、この身のマスターを気取り、魔術師を気取る凡夫を冷めた目で見詰め。彼の無能を補う為に、無関係な人間の血を吸い、魂を吸い、魔力を得る。

 あまつさえ現代の学び舎、桜の母校を忌まわしい宝具“他者封印・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)”の対象としている。仮とはいえマスターの命令だと流せるものではない、ないが……この小者はメドゥーサの反抗を受け入れられず、八つ当たりとして桜に暴行を振るうだろう。それは駄目だ。

 もし桜が許すのならこの小者を即刻縊り殺すのだが、過去の小者はそれなりに良い兄だったらしく、その思い出がある故に一度だけ進言した兄殺しを拒絶された。メドゥーサとしては最悪独断で間桐慎二を殺し、返す刀で間桐臓硯も殺してしまうべきだと虎視眈々と機会を狙ってはいるが……慎二はともかく臓硯に隙がない。徹底してメドゥーサの前に姿を現さないのだ。

 理解しているのだろう。人間の器を持たない蟲翁は、魂を吸うメドゥーサが己を殺せる数少ない天敵なのだと。だからこその用心であり、自らの陣営のサーヴァントであるメドゥーサが、慎二に使い潰されかねない現状を黙認する要因である。

 

「ほら、何してんのさライダー! さっさと済ませちゃってよ! ったく、愚図が。まあ桜の召喚したサーヴァント如きじゃあチンタラすんのも無理ないんだろうけどさ、付き合うこっちの身にもなってほしいもんだよ」

「………」

 

 事の元凶、当事者でありながらのこの他人事な物言い。癪に触る。

 

 薄汚い路地裏に追い込んだ少女――無闇矢鱈に興奮している慎二が言うには『美綴』というらしい――を優しく横たわらせ、可能な限り後を引かない程度に押さえた吸魂を終える。ぐったりと意識がないまま倒れる少女に、痛ましい気分になりながら、不愉快な雑言を完全に聞き流した。

 まともに相手をしていては、無意識にその首を圧し折っているかもしれない。自覚している内は手を出さないが、自身の無意識で殺してしまわないように注意しておくのがメドゥーサにとっての難事だった。

 

「なあ知ってるかライダー」

「……?」

「この僕をマスターにしていながら、その程度の能力しか無いオマエみたいな奴って、世間じゃあウドの大木って言うんだぜ? ははは、一つ賢くなったな」

「………」

 

 ほんとうに。

 

 人を苛つかせる天才だ、この男は。ペルセウス以上だと認めてあげるしかない。ともするとアテナ以上でもある。

 メドゥーサはこっそりと嘆息する。貴方がマスターならどんな英霊でも雑魚になるだろう。あのヘラクレスですら……いや、そもそもヘラクレスをサーヴァントにしたら、一瞬で命を枯渇させ死んでしまうか。

 桜さえマスターで居てくれたら、メドゥーサも一級のサーヴァントと互角に戦える自信がある。宝具の使い方を誤らなければ勝利も望めるだろう。ひとえに貴方の無能が私を低位のサーヴァントの如き様に零落させているのだ。――そう言ってやりたい。

 今は、まだ良い。いや良くはないが、それでも桜が心の均衡を保てている内は我慢しよう。あるいは好機が転がり込んでくるその時まで耐え忍ぼう。

 なに……堪えるのには慣れている。待つのにも慣れている。構う事はない。慎二の罪が桜の罪だと言うなら、その罪をこの身が引き受けて消え去るだけのこと故に。

 

 今は、ただただ、堪える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンには、或る目的があった。

 

 衛宮切嗣。己の実の父への復讐である。その為に、日本に来たと言っても過言ではない。

 ドイツの秘境、アインツベルンの本拠地にいた頃に、切嗣の死は聞かされていたが、イリヤスフィールはそれを信じていなかった。いや、信じたくはなかったのだ。

 どんな形であれ、また会いたいと願っていたから。だからこそ代替行為だと分かっていても、唯一残された血の繋がらない家族――衛宮士郎に執着している。切嗣の死を、もしかしたら本当かもしれないと怯えていたから。

 

 復讐。

 

 その行為への理解は、世界最古にして最大の知名度を持つ復讐者でもあるバーサーカーは深い。復讐は肯定されるべきものだと彼は認識している。復讐への応報への理解も、また。

 唯一の家族。現世の繋がり。復讐するという事は、それを自らの手で葬り去る事になると、まだ幼い内面しか持たないイリヤスフィールは気づいていないだろう。

 然しバーサーカーはそれを指摘しない。他者の復讐には口出ししない。自分にはその資格がなく、また仮にあったとしても復讐をやめろだなんて軽い言葉を吐く気にもなれなかった。

 

 後悔するかもしれない。だがその後悔もまた、人生の味だ。

 

 バーサーカーはイリヤスフィールに普通の人間としての寿命と器を献上するだろう。その人並みの寿命の中で、自身の仕出かした事を悔やむ事もあるかもしれない。

 それを込みにして、人生だ。人生は甘いものばかりではない。辛いものもある。罪の意識、後悔、怒り、悲しみ。それら負の感情も内包する。それがイリヤスフィールの心を傷つけ、然し育てるのだ。

 復讐を成す刃となれと命じられれば、喜んで殺そう。バーサーカーは真実、己の一個の人格と矜持を殺していた。自身に許す自我は、徹底してマスターの為になる事、マスターの望みに沿う事のみ。冷徹な殺戮者にだって堕ちる覚悟がある。己の武名を穢す意志がある。父を求める小さき者の為に。

 

「あっ、いた!」

 

 夜。アインツベルンの本拠地で過ごした雪景色に比べれば、遥かに温かい冬木の冬。人気のなくなった道を歩いてくる赤毛の少年を見つけて、イリヤスフィールは嬉しそうに笑みを咲かせた。

 なんて声をかけようか、わくわくとしている。その様に微笑んで、無言でマスターの背後に付き従う。

 やがて間近にまで迫る。イリヤスフィールに気づいた少年が、不思議そうな顔になり……そしてその背後に付き従うバーサーカーに気づき顔を引き攣らせた。

 

「早く喚び出さないと死んじゃうよ、お兄ちゃん」

「――――」

 

 少年との擦れ違い様、イリヤスフィールは歌うように囁く。

 彼に令呪の兆しを見つけて、心底嬉しくて堪らないと。

 

 サーヴァントなんて喚ばなくても、イリヤスフィールは少年を惨殺するつもりでいるから、余計な忠告であると言える。

 だがその余計な行為もまた、是だ。復讐に矛盾した行為が介在するのもおかしな話ではない。特に愛憎入り混じればこそ、矛盾するのだ。

 

 少年が振り返ってくる。然し彼の目には、イリヤスフィールとバーサーカーは見えなくなっているだろう。イリヤスフィールが魔術を使い、かくれんぼのように姿を消したのだ。認識できなくなっているはずである。

 

「マスター。いつ仕掛ける気だ?」

「んー? そうね……三日かな。それ以内にシロウがサーヴァントを喚び出してなかったら、殺すわ。手伝ってくれる?」

「無論だ」

 

 よかった、とイリヤスフィールは笑った。

 

 城に帰る。今日の散歩も終わりだ。

 それでいい。今日はいい夜だ。月がよく見える。

 だから――そう、来客があるだろう。

 

 城に帰ったイリヤスフィールとバーサーカーの許に、来訪する者がいる。

 

 ――よぉ、いい夜だ。あんたもそう思うだろう?

 

 蒼い槍兵が、獰猛に嗤い、城門の上に立ち一組の主従を出迎えた。

 

 

 

 

 

 

 




※ガチめな兄貴。ギャグで死んだりしない、ドジ踏まない、不幸に死なない、極めてマジな槍兄貴である。


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五夜 明日を語れば鬼が笑う

 

 

 

 婀娜として満ちた月光を背に、城塔に立つのは獣のしなやかさを持つ槍兵であった。

 己の根城に帰還した主従を出迎えた彼は、真紅の魔槍を肩に担ぎ、爛々と輝く赤い双眸で小さなマスターに従う大英霊を見据えている。

 イリヤスフィールが、自身の城に侵入していたサーヴァントに一瞬、目を眇めた。このアインツベルンの森には探知の結界に始まり、多様な魔術の罠が仕掛けられている。結界多重層、猟犬代わりの悪霊、魍魎数十体、無数のトラップ、森の一角には異界化させている空間もあった。

 

 それらに一切引っ掛からず、あまつさえ城の内部にいるであろうリーゼリット、セラにも気づかれた様子もなかった。それだけで彼が、神代の魔術師に匹敵する魔術の業を持つ証明となり、そして暗殺者の英霊にも伍する隠密術の持ち主である証となる。

 刺し貫くような、物理的な圧力すら感じさせるバーサーカーの殺気を受けて尚、涼やかな笑みを湛えていられる胆力。戦慄せず、冷や汗一つ掻いていない。槍兵は余裕を持ち、軽やかに声を掛けてきた。

 

「――よぉ、いい夜だ。アンタもそう思うだろう?」

 

 答えずにバーサーカーは肩を竦める。現代風の衣装を身に纏ったまま。その洒脱な所作が、どうしてか精悍な彼にはよく似合っていて、思わず槍兵も口笛を吹く。

 自身の頭越しに従者へ声を掛けた槍兵に、イリヤスフィールは不快げに眉を顰める。

 

「月の風雅を解するのね、ランサー。けれど品性はそこまででもなさそう。人の家に勝手に上がり込んでおいて、その家の主人を無視するだなんて……躾がなってないんじゃないかしら」

「ほう……? 小せぇ(なり)して気の強ぇお嬢ちゃんじゃねぇか。いいねぇ、オレとしても嫌いじゃないぜ、そういうの。お嬢ちゃん、名は? 覚えておいてやる」

 

 端正な風貌に楽しげな色を乗せ、問い掛ける槍兵にイリヤスフィールはあくまで傲岸な構えを解かなかった。

 怯えはない。最強の従者を従える自負が小さな女主人に無慈悲な威厳を与えている。最強のサーヴァントに相応しい、最高の主人が己だと確信しているのだ。

 

「名を訊ねるなら貴方から名乗りなさい。城の主に先に名乗らないなんて、英霊として恥ずべき非礼だわ」

「ハ、違いない。こいつは一本取られたか。あーあ、嫌な仕事だな。これからアンタらを殺さなくちゃならねぇとは。……サーヴァントとしての縛りでよ、無粋だが名は名乗れねえ。ご賢察の通り、ランサーのサーヴァントだとでも名乗っておく」

「真名を名乗れとは言わないわ、ランサー。その名で充分よ。だって貴方……ここで死んじゃうんだから。わたしはイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。脱落する者の多少の無礼ぐらい、軽く流せる度量はあるつもりよ、わたし」

「――そいつは剛毅な答えだ。気に入った。よぉオッサン、此処で会ったのも何かの縁……って言うには無理のある必然だが、一手オレと遊んでいけよ。アンタが冬木に来て以来、肌がピリピリして堪らねぇんだ。お嬢ちゃんの赦しは出たぜ? オレもアンタも、戦場で四の五のと口舌を交わすタマじゃあるまい」

 

 にやりと骨太の笑みを浮かべるサーヴァントに、バーサーカーもまた微かに笑みを返した。

 

 サングラスを外し、真紅の双眸でランサーを見上げる。その所作一つに匂い立つ武の気配。犬歯を剥き出しにする槍兵は、尋常な勝負を望んでいるのか仕掛けてこない。

 ちらりとバーサーカーはマスターを見る。少女は自信に満ちた表情で、頷いた。

 それが合図だった。ゆったりと戦士が進み出る。戦闘の赦しが出た以上、不可知の鎖で自らを律する道理はないのだ。おもむろに口を開いたバーサーカーが、ランサーを揶揄する。

 

「口舌の徒ではないと囀る身でよく喋る。ああ、()()()()()()()()()()()()()ようだが、せめて悔いは残すな。戦士との立ち合い、無為に穢すものでもあるまい」

「――視ただけで判るもんなのか? 嫌なところに気づいてくれやがる。だが、嘗めるなよ? 万全でなけりゃ戦えねえなんざ、三下の言い訳に過ぎねえ。出せる力で結果を残す、それが一流ってもんだ」

「その通りだ。望み通り、まずは貴様から先に逝け」

 

 バーサーカーが虚空に腕を翳す。その手に、白亜の魔槍が握られた。そして全身に、月光を弾く金色の鎧が纏われていく。

 遠吠えが聞こえた。幻の咆哮。獅子の顕現。金色の鬣を夜風に靡かせ、外套を翻す至強の戦士。その鎧と、魔槍を視認したランサーの眼が見開かれる。

 

「おいおい……マジか。金獅子の全身甲冑……白亜の魔槍。……ハッ――堪らねえなあ! オッサン、アンタまさか、()()ヘラクレスか――!」

 

 其れは、興奮だった。昂揚だった。感動だった。

 古代、戦士を志した多くの者が目指した一つの極致。遠く異邦の地、エリンにまでその名を轟かせ、神殺しの魔女スカサハをして対決を夢想させた至強の半神。

 総ての勇士の代表者にして勇者の語源、まず間違いなく全英霊の中でも最強の座を競う――戦士であるなら誰もが一度は相対するのを夢見る黄金の武威。

 

 嘗て、エリンのヘラクレスとまで讃えられた無双の戦士がいた。

 

 なぜこのオレを他でもないオレとして讃えない。その賛辞を聞く度に腹を立てた。そしていつしか師と同じ様に夢想した。伝説の勇士、ヘラクレスと戦い雌雄を決する瞬間を。後世に於いてケルトのヘラクレスと揶揄される武勇が、真実ヘラクレスを超えるものだと証明したかった。

 

 眼を限界まで見開き、わなわなと体を震えさせる。武者震いだった。予想だにしていなかった……否、本能的にもしかしてと予感させていた戦士の勘が正しいと証明された歓喜がある。

 そう、歓喜だった。

 戦士王を目前に戦慄に震えるのではなく、戦士として相見えられた僥倖に歓喜している。生前では名を成して以来、化け物のように恐れられるばかりだったバーサーカーに対して、戦える喜びに打ち震える猛者。自然、バーサーカーにも笑みが浮かんだ。ヘラクレスが相手なら負けても仕方ない――そんな負け犬の発想を持たない初見の相手。それも時代の異なる稀代の戦士。なるほどこれが聖杯戦争の妙か、と不覚にも心躍るのを自覚させられる。

 

「――だが、解せねえな」

「何がだ、ランサー」

「おう、それよ。槍兵(ランサー)はこのオレだ、だってのに何故テメェが槍を持っていやがる? クラスはなんだ?」

「簡単な話よ、ランサー」

 

 イリヤスフィールが自慢げに微笑んだ。事実、自慢したくて堪らないのだろう。ランサーの眼が自分に向くのに、雪の妖精のような少女は歌うように唱えた。

 

「剣は持ってないから剣士じゃない。弓もないから弓兵でもない。槍は持ってるけど、槍兵は貴方。じゃあ騎兵? それとも魔術師? いいえ、暗殺者かしら」

「……なんの冗談だ?」

「うふふ、気づいたわね。騎兵だと云うなら、騎乗するモノを喚び出してるはずよね。だってヘラクレスは戦士を相手に手は抜かないもの。ライダーじゃない……ならキャスター? でも残念ながらキャスターの適性はないのよ。暗殺者はやれなくもないけど、生憎と山の翁なんて兼任した逸話はない……なら答えは一つよね?」

「おいおい……オレの目はイカれてんのか? どう見たって、そのオッサン狂気の欠片もねぇぞ……!」

「――お喋りはおしまい。じゃあ、殺すね。やっちゃえ、()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ッ――ぜぇぇえりゃァア――ッ!」

 

 突き刺す殺気に始動の気配を視るや、獣の如き敏捷性で槍兵が跳ねた。足場にしていた城塔を蹴り崩し、虚空に身を踊らせた蒼い影が満月を翳らせる。

 落下の勢い、旋回させた槍の遠心力、そして自身の膂力。それらを乗せた裂帛の気合が一閃され、頭上より叩きつけられる魔槍を白亜の槍が受け止める。

 バーサーカーの両足が地面に陥没する。刹那、拮抗した槍と槍。交わされる真紅の視線。ランサーの背筋に痺れが奔る。この私を相手に、力で挑むか? そう嗤われたのを確信した。

 その膂力、使い魔(サーヴァント)に堕ちたりとはいえ、反英霊をも含めた全英霊の中でも最大無比。単純な力比べで勝るモノは絶無。無造作に払われる白槍、逆らわずに赤槍を基点に跳ぶ槍兵。生前はオレも怪力で鳴らした口なんだがな――己の見る影もない膂力を自嘲しながら、ランサー……アイルランドの光の御子は魔人の挙動で身軽さを魅せる。

 

 競り合う槍と槍を基点に跳ぶなど生半可な体幹、感覚、柔軟さと力の成せるものではない。アインツベルンの城の壁に脚で着地し、それを足場に更に跳ぶ。鮭跳びの秘術、師に教えられるまでもなく身に着け、師の指南により更に磨き抜かれた歩法の極致。狂戦士の英霊の槍が届かぬ間合いに跳び、地面を蹴り神速で背後に回り込むと赤槍を突き出す。

 

 上体を倒し背後からの刺突を躱すや、バーサーカーはこともなげに赤槍を掴んだ。自身の刺突を見切る眼力に驚嘆するも、難なく得物を掴まれる恥辱はない。()()()()()()()のだ。バーサーカーは白槍を手放している。赤槍を引き、ランサーを引き寄せ、その巌の如き拳を握り締めていた。

 死の塊。振り抜かれたならランサーを即死させかねない拳砲。然しランサーは笑う、呪いの朱槍を掴む手を狙っている。魔槍の“呪”が炸裂した。接触している掌を穿たんと槍から棘が飛び出した。

 

「む――」

 

 掌は、鎧に包まれていない。突き立つ呪棘の牙。不意の痛み――されど構わず。魔槍を掴んだまま、バーサーカーは拳撃を放つ。

 ランサーの顔面を粉砕せんと唸る一撃に、堪らずランサーは木っ端のように吹き飛んだ。だが手応えは浅い。身軽である、あのタイミング、あの姿勢から、見事に衝撃を逃してのけたのだ。槍だけでなく体術もまた神域のものでなければそうはいかないところだ。

 

 呪槍がさらなる棘を出す前に手を離す。圧し折らんと白槍を振るうも、幾何学的な軌道を描いた魔槍は白槍の閃光を躱し主人の許に帰還していく。

 手から滴る血を、傷ごと握り潰す。久しい……いや、はじめてかもしれない。僅かな間で手傷を負ったのは。知らずニヤリと笑みを浮かべていた。ふつふつと闘志が湧き出てくる。サーヴァントに堕ちた第二の生で、予期せぬ好敵手との邂逅に歓喜が弾けそうだった。

 

「冗、談……!」

 

 そして、歓喜はランサーにも通じた。

 樹木を何本も圧し折りながら吹き飛んでいた槍兵は、飛来する魔槍を掴み取り、よろめきながら立ち上がっていた。

 完璧にいなした。完璧に避けた。そのはずが、脚に来る衝撃がある。あの拳をまともに受けていれば頭が柘榴の如く弾けていたという確信にゾッとして――狂気に通ずる狂喜に悶える。

 ああ、クラスの縛りがもどかしい。生前なら闘争の齎す狂熱に、英雄光を光らせ闘争形態に移行できたものを。今はただ、失われた狂熱が嘆かわしいまでに恋しい。

 だが理性によってのみ戦うのも是だ。今この瞬間を愉しむ――真実、ヘラクレスが最強の名に恥じぬ力量の持ち主だと実感として理解できた。

 

 そして、残念ながら、無粋な令呪に縛られ、二流のマスターの走狗となっている今の己では、余程の奇跡を起こさない限り凌駕するのが難しいとも。

 せめて二度目。初見を終えた後でなら、劣化に劣化を重ねた霊基ではあるものの本気が出せる。

 

 左掌から血を滴らせ、バーサーカーは白槍を掴んだ。喚ばれ、担い手を殺さんと迫った魔槍を受け止めたのだ。

 白槍を構える。言葉は不要か――震える脚を殴りつけ、赤槍を手に槍兵が馳せる。

 残像を残す魔速の踏み込み。自らの敏捷性を活かした一撃離脱戦法。繰り出される四方八方からの穿孔を、バーサーカーは足を止めて迎撃する――ような王者の余裕を見せなかった。

 

 自らもまた獣の疾走に追随する。光の御子の眼に驚愕が弾けた。己に比肩する同格の疾さ――速度ではない、巧みな追い込み猟。仕掛けられる度に間合いを削られる。白槍が己の軌道を制限する。速射砲の如き刺突の乱舞が交わされ、その都度に身を走らせる余地を狭められ、アインツベルンの城の壁に追い立てられていく。

 

「ヅッゥ――!」

 

 このままいけば狩られる、その予感に従い光の御子は戦士王の白槍を上から押さえつけるように逸らし、そしてその勢いに利して魔槍を地面に叩きつけ跳躍。鮮やかにバーサーカーの領域から離脱した。

 不利な戦況から脱出する仕切り直し。芸術のような戦線離脱。だが些か強引に過ぎた故か手が痺れ、汗を滲ませランサーは呻いた。時間にして五分、常人の眼には追えぬ高速の機動戦に敗れた。それは屈辱である。然し全力ならと負け惜しみを懐きかけ、それを捨てた。代わりに素直に賛辞する。それすら負け惜しみに聞こえる無様を自覚して。

 

「ハッ……やるねえ。まさか()()()()()()()()狂戦士に遅れを取るとはな」

「お互い様だろう。決着を望まぬ偵察兵のような立ち回りでもしやとは思っていた。だが槍を交わし改めて確信したぞ。マスターに恵まれなかったな、槍兵」

「チッ。自慢ぶりやがって。ああそうだよ、白状する。オレには()()()()()()()()()()()()()、なんて馬鹿げたマスターの令呪が働いてやがってな。全力で獲りに行けねえのさ」

 

「――あら。嘗められたものね」

 

 手傷を負わされたサーヴァントを心配する素振りもなく、悠然と戦闘を見守っていたアインツベルンの最高傑作が優雅に言った。

 彼女にとって戦いはバーサーカーが勝って当然。故に拘るのは結果ではなく過程だ。完全無欠の勝利を当たり前のように求めている。それを傲慢と言えない実力が、彼女とそのサーヴァントにはあった。

 

「ねえ、貴方の望みは何? ランサー」

「あ? んな事聞いてどうする」

「アインツベルンとして聞いているのよ、()()()()()()()。聖杯を預かる身として、聞いてあげているの」

「――テメェ、オレの真名を」

「サーヴァントの事で、わたしに分からない事はないわ。答えなさい、その答え如何では見逃してあげる」

 

 獣の如き敏捷性を持つ槍使い。イリヤスフィールが治癒の魔術を送っても癒えぬバーサーカーの左手、呪いの朱槍、独特な戦装束、そして瞳を見れば解る神性。これだけ揃えば、目敏い者なら蒼い槍兵の真名は瞭然である。

 その真名を聞いたバーサーカーにも驚きはない。彼にも見当はついていた。槍兵は舌打ちする。有名すぎるのも考えものだな、と。戦士王は若干の共感を懐く。確かにな、と。クー・フーリンは苦笑して嘯いた。隠すほどのものでもないと。

 

「オレの願い、ねえ……まあいい、教えてやるよ」

「なに? 第二の生を得て現代を謳歌したいのかしら」

「間抜け。英霊なんてのはな、第二の生なんざ欲しがらねえよ。余程の業突く張りでもなけりゃあな。オレはこの聖杯戦争で死力を尽くした殺し合いがしたい。それだけだ」

「ふぅん? なら、いいわ。逃げる事を赦してあげる」

 

 あっさりと、イリヤスフィールは言った。ランサーは探るように視線を向ける。

 バーサーカーと、そのマスターに。その真意は何かと。

 

「死力を尽くしたいんでしょう? なら初見は、貴方には無理な話ね。だからまた挑みに来なさい。その時こそちゃんと殺してあげるから。わたしを間抜けと罵った口汚さの代償も、その時に支払ってもらうわ」

「おい、いいのかよ? みすみすお嬢ちゃんのサーヴァントの真名、オレに知られたまま見逃して。そこのオッサンなら、全力で掛かれば今のオレ程度さして苦戦もすまい。――此処でオレを脱落させなかった事、後悔するぜ。必ずな」

「させてみせなさい。わたしのバーサーカーの真名を知った程度で勝てると思うなら、そんな無能生かしてあげる気にもならないわ」

「へぇ、気を吹くじゃねえか! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と来たか! いいねぇ、ますますやり甲斐がある! バーサーカー……それからアインツベルンの小娘。決着は次に預ける、その心臓、オレ以外に獲られんじゃねえぞ!」

 

 愉快げに嗤い、ランサーは身を翻した。逃走する槍兵を追わず、バーサーカーは眼を細める。イリヤスフィールが嗤っていた。

 

「心臓、ね。わたし相手に、その冗談は笑えないわ。やっぱり殺しちゃえばよかったかな?」

「なら追うか、マスター。今からでも遅くはないぞ」

「――いいわ。追わなくても。一度見逃すって言ったんだもの。けど、次は殺してね」

「承知した。だが酔狂が過ぎる、倒せる敵は倒してしまえばいいものを……」

 

 バーサーカーの苦言に、イリヤスフィールは嘯いた。

 冗談のようではある。然し、掛け値なしに本音でもある信条を。

 

「わたしは聖杯だもの。ささやかなお願いぐらい、聞いてあげなくちゃ。それに、バーサーカーも本気じゃなかったじゃない」

「手並みを拝見していただけだ。様子見と言い換えても良い。私にも通じるやもしれぬ隠し玉を警戒する、サーヴァントとして当然の心構えだろう」

「あはは、じゃあ、次はそれも無し。最初から狂化して、全力で殺して」

 

 本気で言っているとバーサーカーは感じて、娘の我が侭を聞くように頷いた。

 仕方がないな、と。どのみちサーヴァントの身だ、マスターに逆らう真似はしない。個人的な誓いもある。ならばどう言い繕ったところで、イリヤスフィールを翻意させるのは不可能だろう。

 然し――久々に心が踊る戦士だった。次は全力で来るだろう。ならば、その全力がどれほどか楽しみでもある。戦士の性だった。

 

 イリヤスフィールは微笑する。そして呟いた。

 

「ランサーの驚く顔が目に浮かぶわ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()バーサーカーと戦う羽目になるなんて」

 

 くすくす、と。

 ころころと笑う。

 

 天使の無邪気な微笑みは、残酷な子供のそれ。虫の手足を削ぎ落とし楽しむ、残虐性の発露である

 

「ここで戦っておけばよかったと、後悔しないことね」

 

 見上げた満月は、ゾッとするほど綺麗だった。

 

 

 

 

 



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六夜 動き出す歯車

二回目。
およそ質問の類いは受け付けかねるので注意。他感想への言及も避けるように。感想じゃないものを書かれても、その、困る。




 

 

 

 

「それじゃあ、留守番お願いね。リズ、セラ」

 

 行ってらっしゃーい。ひらひらと手を振る侍女姿のリズの態度をセラは射殺さんばかりに睨みつけ、楚々とした所作で頭を下げる。行ってらっしゃいませお嬢様、と。こうやるのだとお手本を示すように。

 全く見ていないリーゼリットに、セラはこめかみをひくつかせ。そんな彼女達を背に今日も今日とて少女は往く。

 

 最近のイリヤスフィールは、バーサーカーに肩車をされるのがお好みだ。然しそれは余り淑女らしくないと、広い肩にちょこんと乗る。十歳前後と言っても通じる小柄な体躯故か、大柄なバーサーカーの肩にすぽんと収まるのである。

 古代の戦士は現代風の衣装で、主君に伴われて夕暮れの街を練り歩く。

 イリヤスフィールは朝の景色を好む、昼の忙しなさを好む、夕方の侘びしさを好む、夜の静けさを好む。そこに雪が降っていれば尚の事、機嫌を良くした。バーサーカーに乗るのも好きだが、同じぐらい自分の足で歩き回るのも気に入っていた。

 流石に何日も練り歩くと、目に映る全てが物珍しいとは言えなくなる。それでも、イリヤスフィールは新都を散策する。何が楽しいのか、ビルの屋上まで行って高い景色を望む事もあれば、なんの変哲もない公園でブランコに乗ってみたりもした。面白いけどバーサーカーの方が乗り心地はいいわ、なんて。バーサーカーとしてもコメントに困る感想を言われた事もある。

 

 そんな――冬木の地を知悉していくイリヤスフィールだが、一度しか近寄っていない場所があった。

 

 衛宮切嗣の館。いや、武家屋敷、というのだったか。旅館のようでもある。衛宮士郎という、実父の養子を見に行った際に一度だけ近くに寄ったが、それ以来彼女は衛宮邸を避けるようにしていた。

 実の父が死んでいる。復讐の相手が死んでいる。情報としては知っていても、そこに行って現実のものにしたくない。切嗣の死を実感したくない。その逃避が、少女の足を遠ざけているのだ。そしてだからこそ、衛宮士郎という義弟に執着する。

 イリヤスフィールは遠くを覗くように、遠視の魔術を使い衛宮士郎が通うという学園を視ていた。放課後という奴なのだろう。下校していく少年少女達が帰宅したり、寄り道の相談などをしている。最近、在校生が事件性のある事態に巻き込まれた故に、部活動は休止されているらしく、部活というものを覗けなかったイリヤスフィールは立腹していた。

 

 ブカツの邪魔をするだなんて、許せない。元凶を見つけたら潰しちゃうんだから。

 

 そんな義憤なのか、私怨なのか、言葉の上ではよく分からない台詞が、十割私怨である事をバーサーカーは理解している。彼女もやはり、こうした生活に憧れがあるものなのだろうかと、その胸中を想像してみた。

 そして、バーサーカーは気づく。恐らくイリヤスフィールは気づいていないだろう。散漫な意識で、赤いコートを着た女子生徒が帰宅していくのを眼で追っていたから。その反対側の帰路に着いている少年と少女を見落としている。

 赤毛の少年と、やや幸薄そうな少女だ。

 

「………?」

 

 先日は、あの少年に対し偏見を持っていた。前回の聖杯戦争で勝利したにも関わらずアインツベルンを裏切った衛宮切嗣、その養子。であれば相応の訓練を積んだ、俗世にそぐわぬ異端の身の上であろうと。端的に言って、魔術師であると思っていた。令呪の兆しがあったのも、その偏見を助長させていたと言える。

 然しどうだ。傍らの少女……何やら善からぬ性質の少女と連れ立って歩む少年は、極普通の少年のように視えた。

 鍛えてはいる……だが推測できる運動能力は戦士というほどではない。専門の訓練を積んでいない体だ。歩き方、視線の運び、その身に励起する脆弱な魔術回路……注意深く観察していると、彼は……周囲を見下すでもない、真摯な姿勢の持ち主であると。外道を歩む魔術師ではなく、陽だまりに生きる凡夫であるという感想しか湧かない。

 バーサーカーは困惑した。冷酷で冷徹な魔術師であると思っていたのだ。聖杯戦争に参加するような手合い……特に令呪を宿すような人間が、尋常の理に生きる者であるはずがないと無意識に考えていた。もしや誤りなのか? 疑問が生じる。もしも衛宮士郎が魔術師の血腥い世界に生きていないなら、無慈悲な復讐の対象とするのは不憫だ。イリヤスフィールの復讐を否定する気はない。その資格がない。だが……穏当な結末に軟着陸するように取り計らう程度はしてもいいのではないか。

 

 いや、或いはこの身をも欺く擬態であるのやも知れぬ。バーサーカーは、見るだけでは解らぬものを確かめる事にした。

 

「マスター」

「なぁに?」

 

 声を掛けると、イリヤスフィールはバーサーカーに顔を向けた。絶大な信頼の滲む、純朴な瞳である。

 バーサーカーは、衛宮士郎を見掛けたことを報告しなかった。今は彼の存在に触れるべきではない。デリケートな問題だからだ。

 

「気になるものを見つけた。暫し離れるが、何かあれば呼ぶといい」

「……何を見つけたの?」

「今後の動静に関わる儀だ。マスターにとって、善きものとなるか、そうとならぬか、見極めに向かう」

「またそんな言い草……いいわよ別に。たまには独り歩きもしてみたいしね。けど、いい加減誤魔化すような物言いは禁止! 次からは許さないんだから」

 

 リンにちょっかい掛けに行こーっと。鼻歌などを歌いながら、イリヤスフィールが歩いていく。その様に苦笑を漏らした。令呪の繋がりで互いの危機は知れるが、守るべき者から離れるなど愚の骨頂である。なるべく急いで戻ろうと決めて、早速行動に移る。

 イリヤスフィールに見られては()()。悟られるのも駄目だ。仮にも王たる者が召使いや下僕のように振る舞うのは気が引けるが、生憎と王の称号に拘りがあるでもない。王の名よりも、その名とこの身に付き従った者の方が遥かに価値がある。

 バーサーカーは少年と少女に先回りした。その眼前に立ちはだかる。

 厳つい風貌、精悍な面構え。鋭い眼光――並ならぬ黒服の偉丈夫が、サングラス越しに自身らを見据える様に、無形の威圧感を感じて二人はたじろいだ。特に少女の怯え方が酷い。露骨に震えて、少年の袖を掴む。

 衛宮士郎はバーサーカーに圧倒されながらも、会釈をして通り過ぎようとする。然しその前に腕を伸ばして通さなかった。

 

 足が止まる。衛宮士郎は顔を青ざめさせる少女を庇いながら胡乱な目を向けてきた。そして先日、一度だけ会った事があるのを思い出したらしい。暗い夜道での邂逅だった故に気づくのが遅れたようだ。生唾を呑み込んでいる。

 

「……あの、何か?」

「エミヤシロウ」

 

 名を口にされ、衛宮士郎はギョッとした。まさか名前を知られているとは思いもしなかったらしい。――少女は、青い顔から更に血の気をなくし、白くさえなりつつある。

 その怯え様は尋常ではない。ないが、今は彼女に一瞥だけ向け衛宮士郎に注視する。

 

「お、俺の名前を……」

「知っている。そして、不躾で悪いが一つ質問をする。心して答えよ」

「……答えなかったら。いや、答えられなかったらどうする……んですか……」

 

 丁寧語に切り替えたのは、見るからに目上の人間に見えているからだろう。対等な物言いをしない分別がある。

 衛宮士郎は、目の前の偉丈夫を警戒しているようではなかった。単に傍らの少女の様子がおかしいことに気づき、心配しているだけである。それをつぶさに見て取りながら問いを投げる。

 

「名乗らぬ非礼は許せ。質問に答えずともよい。ただ聞けばいい」

「……?」

 

「聖杯。この言葉に聞き覚えはあるか?」

 

「ッ……」

「は……?」

 

 衛宮士郎は呆気に取られた。意味がわからないという表情。然しそれよりも、少女の過敏な反応にこそバーサーカーは目が行った。関係者かと流石に気づく。であれば、この者が話に聞いた間桐桜なのだろう。

 

「聖杯……? ……って、あの、キリスト教の?」

「……知らぬならいい」

「え? いや、質問って今の……?」

 

 困惑する少年の反応に、バーサーカーは確信する。

 魔術師ではない。魔術は使えるかもしれないが、その心根は外道のそれではなく、ましてや聖杯戦争についても知らない、完全な部外者だ。

 無辜の民ではないか。偏見に目を曇らせていた自身を恥じる。だがどんな少年なのかその人間性を視る気になった。反応次第で、これから己がどうするかを決めよう。

 

「エミヤシロウ、気を強く持て」

「――な、なんなんだよ、あんた。何もかも急過ぎる。少しは解るように言ってくれ」

「気を張れと言った。死ぬぞ」

「ッ……!?」

 

 忠告に、衛宮士郎は息を呑む。やおら立ち昇ったバーサーカーの殺気が陽炎の如く空間を歪曲させていた。徐々に強まる弱火が、万物を焼き焦がす灼熱の大火へと変ずるような、鬼気。それを受けて本能的に身構えた衛宮士郎に、バーサーカーは最大限の加減を加え、殺気を凝縮し視線に乗せる。

 サングラスをズラし、上目遣いに少年の目を射竦めた。

 一般人でも耐えられる、ギリギリのライン。本気であれば精神死を免れないそれを、少年に浴びせる。その余波で少女の腰が砕けた。その場に座り込み、呆然とする少女には目をやらず、衛宮士郎の本質を覗き込む。

 

「ッ……!」

 

 少年は、立っていた。怯えはある、然しこれは……極大の恐怖の中でも硬直しない、どこか壊れた精神性の――戦士の資質を持つ貌が視えた。

 殺気を霧散させる。いや、殺す気はないのだから、ただの威圧だ。己を脅威と見て、身構える衛宮士郎から一歩離れた。

 

 そして、頭を深く下げる。

 

「え……」

「すまなかった。試すような真似をした事、謝罪する。今後は関わらんとは言わんが、その代わりに忠告しよう。――早くサーヴァントを喚べ。情けない話だが、貴様は無関係ではいられない。詳しく知りたくばその少女……マトウサクラに聞くといい」

「――ぁ」

 

 頭を上げ、背中を向ける。現実感の欠如したような表情で自分を見る少年の視線と、少女の絶望した色を感じながらも、淡々と忠告を重ねた。

 

「我がマスターと共に、また会うことになる。その時は、貴様にサーヴァントがいようと、いまいと、結果は変わらん。私は貴様を殺す事になるだろう」

「殺――!?」

「己が死を避けたくば、サーヴァントを喚べ。そうでなければ、私としても如何ともし難い。助命は叶わん」

 

 それから、と。バーサーカーは首を巡らし、横目に少女を見た。びくりと大きく跳ねた間桐桜を、衛宮士郎は背中に庇う。

 完全な善意だ。バーサーカーは善意で忠告する。無知な者に何を言っても無駄と知りながらも。

 

「それから、最後に一つ。――その娘とは早急に縁を切れ。善からぬモノに変じる予兆があるぞ」

「――うるさい。いきなり出てきて、訳の分からない事ばかり言いやがって。桜と縁を切るだなんて馬鹿な事、誰がするか」

「そうか。ならば大切にしろ。堕ちるか、堕ちぬかは貴様次第だ」

 

 完全に敵を見る目を向けられているのは分かってはいる。痛痒はない。生まれたての猫が、分厚い獅子の鬣に噛み付いた所で何も感じないのと同じである。

 然し無辜の民からそんな目を向けられると、若干居心地が悪くはあった。

 その場を後にする。あの少年ができるだけ強く、忠実なサーヴァントを喚べる事を戦神に願う。簡単に踏み潰せてしまうような雑魚だったら、今のままだと諸共に殺してしまわねばならないだろう。

 

 イリヤスフィールは夜にしか聖杯戦争をしない。なら朝と昼に、あの少年と出会うように図り、多少関係の変化を促すべきかもしれなかった。

 

 ――自身が衛宮士郎と間桐桜、その日常を破壊した自覚はある。だが必要だった。こうしなれけば、無辜の民を殺す事になる。

 己の信条は捨て、マスターの為だけに尽くすと決めているが……。

 

『早く喚び出さないと死んじゃうよ、お兄ちゃん』

 

 イリヤスフィールも、衛宮士郎が完全に無関係な一般人とは思っていない。あの時の言葉でその認識を悟っていた。

 だからこれは、マスターのため。白い少女の心の安寧のため。復讐の相手が、何も知らない存在のままでは良心が痛むだろうと……まさに傲慢な暴君らしい考えだった。

 誤魔化しだ、これも。捨て切れない倫理があったのだろう。だから余計な事をした。無辜の民を殺す罪悪を犯す判断に迷ってしまい、助け舟を出したのだ。

 

 気掛かりなのは、あの少女。必要な事だったとはいえ、心の均衡が不安定そうで。己がそれにトドメを刺したのだとしたら、善からぬモノになり害を振りまく存在に堕ちた時、処理するのはこの身の責任となるのだろう。

 

「その時は――いや、今はまだ詮無き事か」

 

 倫理と目的と甘い夢想。ひたすらに守護する者の幸福のため、力を尽くすだけのことだ。

 

 

 

 

 



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七夜 退屈な器、退屈な男

 

 

 

「そういえばランサーって、結局わたし達の偵察に来たのよね」

 

 不意に思い出したと言わんばかりの疑問に、バーサーカーは今更だなと内心呆れていたが、それを表には出さずに頷いてみる。間違っていないからだ。

 冬木大橋とやらの歩道を歩いていると、未遠川の全貌を遠望できる。夕陽が地平線の果てに消えていく光景は、古代とはまた異なる趣きがあるように視えた。

 

「そうだ。でなければ、奴に掛けられた令呪の意図が読めなくなる」

 

 無言は無視とも取れる。明らかに返答を期待されている故に肯定した。夕暮れ時は、日本では逢魔が時と云うらしい。だからだろうか、陽のある時の無邪気な少女が、徐々に夜の冷酷な妖精へと移り変わりつつある。

 バーサーカーの返しに、イリヤスフィールは小首を傾げた。不審な点があるらしい。バーサーカーとしても、些か腑に落ちない点である。

 

「でもランサーって、バーサーカーを除けば独りで他のサーヴァント全部殺せちゃうでしょ? 魔槍ゲイ・ボルク、その能力は見てないけど、それだけの力が本来あるように視えたわ。なのにどうして令呪まで使って、わざわざランサーほどの英霊を威力偵察に使っていたのかしら。慎重なのはいいけど、ランサーほどの格のサーヴァントにやらせたとなると、マスターはとんでもない無能って事になるわ」

「私もそれは考えていた。伝承では詳細は知れないだろうが、英霊の座に招かれた者ならば、『原因の魔槍』の真髄は知っているはず。即ち因果逆転……当たらぬはずの槍を心臓に直撃させる、半権能とでも云うべき絶技だ。誇張抜きで、奴ならば余程の相手でもない限り不覚は取るまい」

 

 ランサー、真名をクー・フーリン。アイルランドの光の神の子。つまるところ、太陽神の子だ。

 太陽神と云えば密告者であったり、軽薄な好色漢といったイメージがバーサーカーには先走るものだが、よその神話ではそうした側面がピックアップされる事は少ない。

 クー・フーリンの父、破邪の太陽神ルーもギリシャのそれとは比較にならぬ善神であり、子煩悩だ。ヒンドゥー教の太陽神スーリヤ、エジプトのラー、メキシコのケツァルコアトル、メソポタミアのシャマシュなども良い例だ。

 

 またクー・フーリンの父は万能であり、クー・フーリン自身も父の器用さを受け継ぎ多くの芸を持つ。豊富な引き出しと確かな実戦経験、恐るべき戦闘術、宝具と身体能力を有し、その実力は槍兵の英霊の中でも間違いなくトップクラスである。

 知名度補正の関係上、現在の日本では霊基の劣化が著しいようだが、それでも都市部で行われる聖杯戦争の性質に則した規模に纏まっているとも取れる。対人戦に限定し、対軍以上の攻撃規模を制限される中で言えば、逆に理想的なサーヴァントになったとも解釈できるのだ。アインツベルンの城へいとも容易く潜入した腕前から見ても、王としてのバーサーカーなら彼を暗殺者の如く立ち回らせ、魔槍での一撃離脱を命じ敵対陣営を駆逐していたはずである。そしてそれを実現し、確実な勝利をマスターに捧げる事がクー・フーリンになら出来るのだ。

 それをしないマスター。余程の無能か、あるいは別の目的があると見るべきであり、敵の無能を期待するよりは何かの狙いがあると考えた方が建設的である。バーサーカーはそう捉えているが、イリヤスフィールの見方はそんな戦略的なものでもないようだ。

 

「あの男の調子だと、他の陣営にもちょっかいを掛けそうね」

「ああ。私とだけ交戦するようでは、初見の相手は倒さずに生還しろなどという令呪は不要だ。その命令からして全陣営のサーヴァントと交戦するのだろう。だが奴の性格を考えれば、簡単に倒せてしまう相手なら初見であっても屠るだろうな」

「……ムカつくわ」

「ん?」

「じゃあ、わたしもする」

「………?」

「全部のマスター、サーヴァントと会うわ。殺すかどうかはその時に決めるけど、聖杯であるわたしには聖杯戦争の参加者の願いを聞く義務があるの。叶えるかは別として、だけど」

 

 またぞろ奇妙な事を言い出したものだ。冬の聖女の末裔、自然の嬰児であるホムンクルスの最高峰、イリヤスフィールが軽い調子で続ける。子供の駄々のようであり、然し聖杯である自身に誇りを持っているからこそとも取れる。

 嘆息した。

 

「ではマスター、ランサーの時のように倒せる所まで追い詰めたとしても、場合によっては逃がすという事か?」

 

 戦略性を鑑みるに愚の骨頂ここに極まれり、という奴だ。

 

「そうよ。分かってるじゃない」

「無駄だとは思うが、忠告しよう。……やめておけ。私は何が相手であっても必ず勝とう、だが無用なリスクは犯すべきではない。逃した相手が徒党を組み、私を倒すための陣営として複数のサーヴァントが仕掛けてきたらどうする? それでも私は敵を倒すだろうが、流石にマスターを護り切れるとは断言できかねるぞ」

「守りなさい。でないと許さないわ」

「……無茶を言う」

「バーサーカーは最強なんだもん。なら少しぐらいワガママ言ってもいいじゃない」

 

 さも当然のように言われる。バーサーカーは最強なのだと。

 その通りだと肯定するしかなかった。自身にも駆け抜けた歴史がある。最強の座を護り続けた自負がある。この身に勝る英霊などいないと、身に纏う金獅子の矜持に掛けて断言しよう。

 だが、と反駁するのは容易い。然し試すように言われては、六騎のサーヴァントが同時に仕掛けて来ようと撃破してのけると言うしかない。その程度の試練、とうの昔に潜り抜けているのだ。

 バーサーカーは冷静に自身の戦力を思い返した。金獅子の甲冑、海嘯の魔槍、そして伝承型宝具という切り札。サーヴァントとして再現できる限りのステータス、スキル。統括して運用する己自身の経験と技量――総合して客観視するに、我こそが最強であると自認する。そうでなければならない。小さき者が信じるのなら、なおさらに己が立つ頂きの高さこそを至高とせねばならないのだ。

 

 故に肯定する。受け入れる。イリヤスフィールの不合理を聞く存在としてではなく、至強の戦士である己として。英霊としての自分が持つ歴史に懸けて、最強であると証明する。

 

「よかろう。マスターは思うがまま振る舞い、幾らでも私に試練を寄越すがいい。お前ならエウリュステウスの如く善き方に事を運ぶだろう」

「……え?」

 

 バーサーカーの宣言に、イリヤスフィールは一瞬の間を空けて困惑した声を漏らす。

 

「どうかしたか?」

「な……なんでもないわ」

 

 ならいい。バーサーカーが頷くのに、少女は微妙な顔をした。

 

 エウリュステウス。ヘラクレスが生前に成した十二の功業を課した暴君である。彼は最終的にヘラクレスと和解したが、嫌がらせとも言える試練を幾度も大英雄に課した。

 実際は、どうやら好意的にヘラクレスに思われているらしいが、流石に神話に語られるエウリュステウスと同列に扱われるのには口籠(もにょ)ってしまう。

 否定的な事を言えばバーサーカーの機嫌が悪くなると察して、咄嗟に誤魔化したイリヤスフィールの判断は英断であった。流石の小さな暴君もこの時は空気を読んだ。

 

「……早速行くわよ」

「何処へだ?」

「喚び出されていないサーヴァントは、あと二騎だけ。ランサーの他にあと三騎がもう冬木にいる。けど他のサーヴァントがどこにいるかだけは分からないから、監督役のいる教会に顔を見せに行くの。要は単なる義理立てね」

「了解した」

 

 面倒だけど、とイリヤスフィールは結ぶ。確かに面倒だが筋は通すべきだ。例え他の陣営が挨拶一つしなかったとしても、それは自分もそうしなくてもいいという免罪符にならないのだから。

 

 

 

 

 

 

「アインツベルンの例年通りの参戦、確かに承った。此度こそ貴君の一族の悲願が叶う事を、私は心より祈ろう」

 

 荘厳な教会だった。

 だが、どこか寒々しい空気がある。

 

 日本人離れした長身の神父は、口元にこびりついた笑みを湛え、本音としてイリヤスフィールの――アインツベルンの悲願が成就する事を祈っていた。

 冬の聖女の末裔は、す、と目を細める。狸ね、と。自然の嬰児の本能的な慧眼が、その男、言峰綺礼の妖しさを見抜いたのだろう。

 

 人間が人間の本質を見抜くのは、初見ではほぼ不可能と言える。それこそ超常的な神秘の時代を生きたか、異能に近しい眼力を持たない限り。

 だがイリヤスフィールは純粋な人間ではない。聖杯なのだ。視る者の本質を汲み取る能力が本質的に優れている。そのイリヤスフィールの眼が断じるのだ。精霊に近い存在が、言峰綺礼は誰よりも神父らしからず、それでいて誰よりも神父らしい男なのだと。矛盾を孕む社会不適合者、されど人間社会に順応し潜む破綻者。

 心より祈られても、それを好意的に受け取らない。受け取るのは危険だと、イリヤスフィールは感じていて。そして本来教会の敷地に立ち入るのは禁じられているサーヴァントである者も、同様に断じていた。

 

 然し、バーサーカーは言峰綺礼に幾分か好意的である。イリヤスフィールに比べればという話で、誤差の範囲内ではあるが。

 

 その身に積んだ過酷な修練の痕跡が見て取れたからである。既に錆びついて、残骸程度と言えるのだろうが、それでもその男の過去にある探求は嘘を吐かない。戦士であると言える。内面は度外視するとして、バーサーカーはその修練の痕跡にこそ、最低限の敬意を払うに値するとして評価している。

 

「中立の監督役が、特定の陣営の勝利を祈っても良いのかしら?」

「無論、特別扱いではない。私は誰の勝利をも祈り、同時に道半ばに破れた悲嘆を汲もう。アインツベルンの悲願成就は、我々教会としても成してもらいたいものなのだ」

「……本心?」

「本心だ。誓って嘘偽りではない。そも、主に仕える者が虚偽を働く道理はないのだから。それに……誰に渡るとも知れぬ超抜級の魔力炉心など、どこの馬の骨とも知れぬ者に渡る事は教会は看過できない。扱いの用途が決まっている御三家ならば、その手の心配も不要だろう」

 

 イリヤスフィールの鋭い眼を受けても、言峰綺礼は小揺るぎもせず徹底して事実、真実のみを口にした。

 本心である。本音である。本当である。その目はバーサーカーに向いた。

 

「――そして由緒あるアインツベルンだからこそ、サーヴァントの立ち入らぬ中立地にサーヴァントを連れた事も咎めまい。特別扱いと言えばこれになるのではないか?」

「よく言うわ。聖堂教会の元代行者、そんな男のいる所に、護身の武器も携えずに踏み込む訳がないじゃない。ともすると貴方がわたしの脅威になる可能性があるんだから」

「ふむ。物事に絶対はない故に、その警戒は正しい。例えばそのサーヴァントに襲われそうになれば、私としても自衛のためその身を狙うだろう。サーヴァントを屠るには、マスターを狙うのが定石であり、脆弱な人の身では活路が他にないのだから。万が一もないと知りながら、私は火に誘われる蛾のように飛び込むだろう」

「………」

「そしてその危険がない今は、少なくとも私がイリヤスフィール・フォン・アインツベルンの身を狙う理由がない。故に無用な警戒だと私見を伝える」

「……いいわ。今はその言葉を鵜呑みにしてあげる。精々中立を崩さない事ね、出しゃばってるのを見掛けたら殺すわ」

「肝に銘じよう」

 

 言峰綺礼は動じない。舌打ちしそうになるイリヤスフィールでは、この神父の相手をするには経験が足りないらしい。

 リンの言った通りね、食えない奴。胸中にそう溢してバーサーカーに告げる。帰るわ、と。その脳裏に、パスを通じてバーサーカーの助言が届く。目をぱちくりさせ、そして微かに微笑む。試してみるわ――。

 

「見送りは必要かね?」

 

 神父の言葉に、背を向けた少女は振り向きもしない。

 

「いらない。なんでかしらね、貴方を見てると無性に殺したくなるもの。ついて来たら貴方に何をするか、わたしでも分からないわ」

「それは残念だ。――ああ、最後に一つ」

「なに?」

 

 出入り口の門に向けて歩いていたイリヤスフィールは、立ち止まる。やはり振り向かない。その小さな背中に、神父は質問の体で訊ねてきた。

 

「アインツベルンの本家が、潰えているという。原因が何か知――」

「――あ、それ? アインツベルンを潰したのはわたしよ。だってわたしがいるんだもの、わたしより“上”が有り得ない以上は、存続する価値なんてない。だから研鑽の歴史に、このわたしが終止符を打ってあげたのよ」

 

 神父は、一瞬の間を空けて、問いを投げた。その立場には無関係であるはずなのに。

 

「……ふむ。ああ、知っているのだろうが、私は前回の聖杯戦争で序盤に脱落したマスターだった。その時に君の母君を見掛ける機会があったのだが……イリヤスフィール・フォン・アインツベルン、君は母と自身の生まれた家を滅ぼした事に、何か思うことはなかったのかね? 罪の意識があるなら、告解を行う用意があるが」

「――何を言うかと思えば、つまらない男ね」

 

 イリヤスフィールは、視線だけ背後に向けて、神父を嘲笑った。

 なんてつまらないのかと。なんて退屈な男なのかと。それに男は表情を動かさない。いや、固まらせたのだ。内面の感情を抑えるために。

 

「答える義理はないわ。それにわたしに罪の意識はないもの。あそこはわたしの家だけど、わたしの家族は一人もいなかったから。人形ばかりの玩具の館を仕舞っただけで、どうして罪の意識があると思ったの? キレイ、貴方……()()()()()()()()()()()()()?」

「――――」

 

 それっきり、イリヤスフィールは振り返らずに教会を後にする。サーヴァントとの念話ではしゃいでいるのを隠して。

 バーサーカーはなんで何か聞かれるってわかったの? 本音で答えればきっと面白い顔が見れるって。ま、確かにあの鉄面皮が固まるのを見れてよかったけど。――そんな遣り取りがあるのを知らず。

 

 言峰綺礼は、人知れず吐き捨てた。ありったけの失望を込めて。

 

「ああ――奇遇だな。私も同じ感想だよアインツベルン。()()()()()()()()

 

 お前の母を殺したのは自分だと言えば、あの澄まし顔も崩れるだろうか。

 衛宮切嗣と最後に戦ったのは自分だと言えば、多少は見れた顔になるだろうか。

 

 破綻した邪なる聖者は、それでイリヤスフィールへの関心を完全に失くした。

 

 

 

 

 



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八夜 急転する歯車

二回目だったかな、たしか
もうこの拙作でギャグは二度とやらん。やったせいでモチベが死んできてる。圧倒的後悔。やるんじゃなかった魔法少女ネタ。
もはや黒歴史なんで、触れないでくれると精神的に助かる。お願いだよ触れないでね。恥ずかしくて死んじゃう

豆知識
ゲイ・ボルクのゲイとは「槍」を意味し、ボルクとは昔は「製作者の名前」とされてたけど今は「袋」とされる。
槍の袋、というのが意訳になる。これを解釈すると、え、なにこれコワ……となる。





 

 

 

 極上の御馳走に、豚が()り出した糞を塗りたくられた気分だった。

 

 知名度補正などという、自らに起因しない因果に足を引っ張られた事へ文句はない。己の属する国、神話、伝承では書物に詩を遺すのは禁忌であるとする森の賢者の掟があった。

 故に当時は思い至らずとも、英霊となりサーヴァントとなった以上は悟っている。口伝のみに頼った体系は、いずれ散逸するのが定めであり、必然的に後世に語り継がれるべき伝説や栄光の全貌が薄れ、人々に忘れ去られても無理はないのだ。

 自身はその点、多くの同胞達に比べると幸運なのだろう。いや、自らの勲を思えば、当然ではある。ローマのカエサルによりエリンの口伝が纏められ、書物とされたため最低限度の伝説は後世に残り、祖国があった地では約二千年先の現代でも国のシンボル的な英雄として語り継がれている。アイルランド最高の英雄として知られているのだ。

 故に遠い異国の地で自身の認知度が低くとも不満はない。この冬木で開催された聖杯戦争にて、己の名を知らない異国で槍を振るう事に不足はなかった。他ならぬ己に誇れる歴史は、例え何者にも忘れ去られていても――知られずにいたとしても確かにこの胸に宿っているのだから。

 赤枝の末裔に召喚され、マスターに恵まれたのだと喜んだ。これなら召喚に応じた甲斐があると。バゼット・フラガ・マクレミッツ――父の剣を受け継ぐ一族の女が、無垢な憧れと共にこの身と肩を並べて戦いたいと求めてくれたのだ。ならば自分が喚び出したサーヴァントが最強であると証明してやろうと奮起したものである。

 

 ――その女が、聖杯戦争の監督役であるはずの男に騙し討たれ、奪われた令呪でマスターの鞍替えに賛同するように強制された時。

 

 槍兵は本来のマスターを殺めた男、言峰綺礼を殺すと決めたのだ。

 

 鞍替えを強制されたとはいえ、マスターであると認めさせられている。故に主殺しを企図するのは、英霊として恥ずべきではあった。

 だが何事にも例外はある。

 言峰綺礼は赤枝を舐め腐り、侮った。その誇りを傷つけた。信頼と友情を裏切った。赤枝は名誉を傷つける者には、例え相手が主であっても容赦はしない。ましてや裏切られたのが自らの真のマスターであり、それを殺した不倶戴天の輩が主に成り代わったのであれば、叛逆は赤枝にとって忌むべきものではなくなるのである。

 

 然し今は“機”ではない。そして不本意ながらも主とした男だ、一つの命令も達成せずに裏切ったのでは赤枝の沽券に関わる。故に、最初で最後だ。このふざけた令呪の指令を果たすまでは大人しくしている。

 そしてしかるべき筋を通した後に、猛犬を飼い馴らせると驕った男の心臓を貰い受ける。これは互いが生きている限り不滅の誓いだ。血の誓約である。

 だが、

 

(気に入らねえ……)

 

 気に入らないものは、気に入らない。人の目に留まらぬ高速で夜の新都を駆け抜けながら、ぶ、と唾を吐く。聖杯戦争に勝つ気がない采配に、令呪で従わされる現状が、従うと決めていても堪らなく不愉快で仕方ないのだ。

 

(初見の相手は倒さずに生還しろだと?)

 

 サーヴァントを縛るのに、そんな拘束時間が長い命令がまともな効力を発揮するものか。だが腐っても令呪、歯向かおうとするとステータスが軒並み落ちる。ましてや令呪の縛りの条件に該当する“初見”の相手には、その弱体化は著しいものになるのだ。

 相手が余程の小者で無い限り、同格かそれ以上の相手には敗北は必至となるだろう。事実――

 

(糞ったれが。折角ご馳走(きょうてき)にありつけるとこだったってぇのに、みすみす()退()()()()()()()()()()()じゃねえか……!)

 

 狂戦士の座に据えられたとは思えない、理性の極致とも言える一つの神話の頂点。他神話の文化圏にまで多大な影響を与えた、多くの英雄豪傑すら最強と讃える漢。

 その戦士と槍を交えられたのは誉れだ。そしてそれを打倒するために全霊を傾け、血を燃やし、煮え滾る戦闘本能の欲するままに戦いたかった。果てに敗れる事になろうとも、究極的にはどうでもいい。死力を尽くして戦いたい――戦うのなら負ける事もあるだろう。勝つに越した事はないし、勝つためなら命を捨てるのも惜しくはない。

 

 だがくだらない令呪の縛りのせいで全力を出せず、相手もその気にさせられず、あまつさえ逃げる事を許すとまで言われてしまった。

 

 屈辱、である。戦士として恥辱に震えそうだ。次だ、次は逃げない。さっさとこんなくだらない仕事を終わらせ、再戦を挑み雪辱を果たすのだ。

 こちらが死ぬか、相手が死ぬか、どちらが上でどちらが下か、優劣を決するまで決して退かない。

 

 そのために、今はとにかく無心になる。総ての陣営と戦うために。そして今の己にすら殺せる手合いは、早々に退場してもらうつもりだった。初見の敵は殺すなと言われている、ならば令呪に逆らい殺してしまえば、少しは仇敵の鼻を明かしてやれるだろう。

 そうして、ランサーのサーヴァントは敵を探し求める。魔力や霊格の高いモノを探知するルーン石をばら撒き、自身はルーン魔術で気配を断って、姿を消す。鬱憤を晴らす為だけに冬木を走り回った。虱潰しに。

 

 ――だから、見つかってしまった。血に飢えた猛犬に、間の悪い少女達が。

 

 冬木の聖杯戦争の御三家、アインツベルン、遠坂、そして間桐。探すならここだと判断して、巡回ルートにしていた其処へと彼らは現れたのだ。

 猛犬は、それとなく人払いの結界を周囲に張る。仕事に移る前の、ささやかな儀礼であった。

 

 

 

 ――バーサーカーのサーヴァントによって、自身の正体を匂わされ。そして自身の想い人を、サーヴァントがいなければ殺すと宣告され。必要に迫られた少女、間桐桜は、泣き出したくなる絶望と共に、衛宮士郎へ自分の正体を告げた。

 

『桜が、魔術師だったのか……!?』

 

 当然驚く士郎だったが、然し恐れる桜に不思議がる。

 

『でも桜は桜だろ? 俺だって魔術師だし、別に気にする事じゃないだろ。魔術は隠すものだもんな』

 

 絶望が晴れるほど嬉しくて――そんな士郎を死なせないために、桜は彼のサーヴァントの召喚を手伝う事にした。この苦難を共に乗り越える、その一体感に昂揚すらしようとしていた。

 だが、だからこそなのか。桜はもう、兄にサーヴァントを貸し出す理由を喪失して。慎二からサーヴァントを取り戻す決断を下した。

 桜が聖杯戦争に関わりたくなかったのは、戦うのが怖いからで、然し士郎を守るためにサーヴァントが必要となれば話は変わってしまう。あの恐ろしい偉丈夫から自分と士郎を守るには、士郎のサーヴァントだけでは不安が残る。それに召喚されるサーヴァントが協力的な者とも言い切れない。そこでまずは士郎のサーヴァントを喚び出す前に、信頼できるライダーを自身の許に戻そうと考えた。

 自然な思考だった。当たり前で、常識的ですらある発想だった。故に桜は兄を呼び出し決然と勧告したのだ。兄さん、ライダーを返してもらいます、と。

 慎二は当然反発したが、聞く耳は持たれず。彼の手にある令呪の代用品、偽臣の書は燃え去ろうとしていて――慎二が逆上し、桜に殴りかかろうとしたのを士郎が割って入り、掴み合った。

 

 場所が、悪かった。

 

 間が悪かった。

 

 桜は慎二を呼び出したが、慎二は鼻で笑い、間桐邸(ウチ)の前で待っていてやるからそっちから来いよと命じ。できるだけ穏便に済ませたがってしまったから、桜は呼び出した側なのに間桐邸の前まで士郎と連れ立ち向かってしまっていた。

 場所が悪い。そこはランサーにマークされている。家柄故にサーヴァントが高確率で現れるだろうと目されていた。だから――

 

 

 

「あー……お取り込み中のとこ割り込んで悪いんだが、ちょっとばかし邪魔させてもらうぜ」

 

 

 

「っ……!?」

「サクラ、下がってください!」

 

 漸く桜の下に戻れると、気を緩めていたライダーのサーヴァントは、突如として辺りに響いた槍兵の声に驚愕した。

 間桐邸の門前、士郎と桜、そして慎二。彼らを見下ろす形で、明かりの灯った街灯の上に着地した槍兵が気まずそうに声を掛ける。電撃的に反応するライダー、メドゥーサは信じられない思いでランサーを見上げた。魔槍で肩を叩く美丈夫の接近に、人間規格の英霊を超える知覚能力を有する自分がまるで気づかなかったのだ。

 高度な魔術を使う魔術師か、それとも暗殺者のサーヴァントか。その警戒は、彼の姿を見て悲観に染まる。

 

 どう見ても、魔術師ではない。ましてや山の翁でもない。

 

 にも関わらず自分に毛筋の先ほども気配を悟らせない隠密。恐らくは魔術によるものだと、スーダグ・マタルヒスとしての経験を記録として持つ霊基が――経験がメドゥーサに教えている。だが今の自分は戦士ではない、その記録を持っていても活かせない。

 マズイ。格上のサーヴァントだ。得物から判断するに、ランサー。槍兵が魔術師の英霊に匹敵する魔術を使う――すなわち高位の霊格の持ち主なのだろう。

 

 そして、この時は知り得ない事だが。両者の相性は、絶望的に最悪である。

 

 怪物に近しい性質を持つメドゥーサと、怪物殺しの達人であるクー・フーリン。まともに戦えば、メドゥーサに勝機は殆ど無い。例え桜がマスターに戻ろうとも。――まだ偽臣の書が燃え尽きていない故に、慎二をマスターとするメドゥーサはこの瞬間、槍兵には雑兵に視えている。その存在の希薄さを見抜かれている。

 いや、サーヴァントであれば、誰であってもメドゥーサの弱体化は明らかなのだ。野生的な勘で、戦士の眼力もあり、クー・フーリンがそれを見落とすなど有り得ない。

 

 「んじゃまあ、取り敢えずの挨拶代わりだ」と呟いて。

 

 クー・フーリンが、消えた。桜や慎二は元より、最も優れた動体視力を持つ士郎の目にも、それを遥かに超越するメドゥーサの感覚すらも置き去りに、ランサーが迫る。

 街灯を揺らしもせず跳んだ槍兵が、メドゥーサの間合いに踏み込んでいた。まるでその動きに反応できずとも、咄嗟に腕を立て防禦する。然し、それごと蹴り飛ばされる。鞠の如く吹き飛ばされて、地面を滑り、間桐邸の門に激突した。その手応えと無様さに拍子抜けしたのか、ランサーは露骨に嘆息する。

 

「なんだよ、とんだ雑魚じゃねえか」

「ら、ライダー!?」「ひっ、ひぃ!?」

「なっ、なんだ……まさか、コイツがサーヴァントって奴か!?」

 

 三人の少年少女達の錯乱に近い動揺を、ランサーは一瞥する。揃いも揃って素人揃いじゃねえかと失望を隠せない。

 

「この程度の不意打ち(あいさつ)も躱せねえ、間近に敵がいるってのに反応が遅え、敵と認識しても攻撃しても来ねえとはな。……チッ、遊ぶ気にもならねえ」

 

 やれやれ、気は進まねえが仕事だ。抵抗はすんなよ、綺麗に死にてえだろう? 槍兵の無慈悲な宣告に、慎二が喚こうとして。この瞬間、漸く偽臣の書が燃え尽きる。

 それで慎二の心はあっさりと折れた。脇目も振らずに脱兎の如く逃げ出す。それに軽蔑の眼をランサーは向け――桜は、自身との繋がりがライダーにあるのを感じて叫び声を上げた。悲鳴だった。

 

「た、助けて、ライダぁぁああっ」

「ん? ――ああ、そういう事か。道理で弱いはずだぜ、っとぉ!」

 

 鉄門が拉げ、砂塵が舞っていた。それを突き破り飛来したのは鎖付きの杭。仕返しとばかりに不意を打つ一撃は、だがランサーには全く通じなかった。容易く魔槍で弾き返され、巻き付こうとする鎖を逆に槍の穂先に絡め取ると、魚を釣るようにしてライダーを引き込んだ。

 寧ろ自分から飛び込んだのはライダーである。強烈な蹴撃を槍兵に叩き込む。その身体能力と内包する魔力は、膨大な魔力を持つ桜をマスターに戻したことで、別人のように跳ね上がっている。腕を上げて蹴りを受け止めた槍兵は、その威力に目を見開いた。膂力で負けている――逆らわずに自ら後方に跳び、軽やかに着地して獰猛に笑った。

 

「悪い、雑魚と言ったのは取り消す。まさか仮の主に引き摺られて弱体化しているとは思わなくてよ」

「構いませんよ。私としましても、あんなモノをマスターとしていたのは不服でしたから。先程までの私を罵る事は、そのままシンジを嘲るようなもの。好きなだけ侮辱しなさい。ただし、」

「今の自分は違うってか? いいね、血の気の多い奴は嫌いじゃない。じゃあ改めて、やるとするか。――ああ、本当にすまねえが、ちんたらとやり合う気はない。なんせ、こちとら()()が入ってるんでね」

 

 腰を落とし、魔槍を構える槍兵に、メドゥーサの頬へ冷や汗が流れる。やはり、マタルヒスとしての経験が教えてくれていた。

 怪力スキルを持つ自身の、渾身の蹴撃の威力をあっさりと逃がす技術、軽妙な体捌きに敏捷性、推測される最大速度――それは戦士(マタルヒス)のものよりも上である。

 

 戦慄を押し隠し、ライダーは背後に庇った二人に意識を向けた。そのまま、時間を稼ぐように口を開く。

 

「随分と身勝手ですね。場も弁えずに仕掛けておきながら、先約があるとは」

「すまん。こればっかしはオレの落ち度だな。だが――弁えてるだろう? 聖杯戦争は始まっている。よーいどんで始まるお行儀の良いもんじゃねえんだ、サーヴァントが無防備な所を見つけたら、ちょっかいの一つも掛けたくなるってものさね」

「………」

 

 その通りだった。寝込みを襲われたとしても文句は言えない、それが戦いである。

 奇襲、不意打ちが汚いなどと喚くのは敗者の論理。ライダーはランサーと完全に同意見だった。

 

「おまけに仕事でな。そそらねえ相手でも、味見しなくちゃならん。不味くても美味くても返品して帰ってこいとまで言われてるが――生憎オレは行儀が良い。例え不味くともお残しはしない主義だ。そして個人的な事情で悪いんだが、気に入らねえマスターの鼻を明かしてやりたいと思っていたところでな。初見相手は殺すなと言われてるんだが……テメェは此処で逝け。殺せる敵は、手早く殺すに限る」

「っ……」

「なに、四六時中見張られているわけでもない。流石に宝具を使えば気づかれちまうがテメェには躱せねえよ。撃っちまえば終わりだ。そら――後ろのお嬢ちゃんと坊主、逃さなくても良いのかい?」

 

 随分気にしてるじゃねえか、と。嗤われ、ライダーは鋭く言った。

 

「サクラ、逃げてください!」

「そんな――ライダーを置いて行くなんて、わたしには――」

「お願いです。私がランサーを止めている間に! ……シロウ、でしたか。サクラを頼みます。そして早くサーヴァントを召喚して、戻ってきてください。それが貴方達にできる最大の援護です!」

「っ……! 分かった、すぐ戻る! 行くぞ桜!」

「先輩!?」

 

 少女の手を引いて、少年が駆け去っていく。士郎には何がなんだか未だによく分かっていない、だが猶予のない危機的状況だとは理解していた。

 故に桜を連れて逃げる。ライダーの言った通り、味方が増えるだけで違うはずだと判断できるから。桜も手を引かれて走り出す事で、却って踏ん切りが付いたのだろう。急いで間桐邸は避けて、ランサーとライダーからは視えない地点につくと、即座に跪いて桜は簡素な魔法陣を己の血で描いていく。

 幼少期から虐待を受けてきた。魔術などろくに教わってもいない。然し、ライダーを喚び出した時の陣の形状は記憶していた。覚えていた。忘れられるはずがない、だってそこから現れたメドゥーサに――自分自身を幻視してしまっていたのだから。

 

 指先を噛み切って、血を流しながら魔術の陣を描く桜の鬼気迫る様子に、士郎は呑まれていた。そんな桜の顔など見たことがない。同時にやっと実感する。桜が魔術師なのだと。そして――ライダーを助けようとする意志の強さを。ライダーを助けることが、巡り巡って士郎を助ける事に繋がるからこそ、桜は必死なのだった。

 陣を描き終わると、桜は士郎に早口に言った。これからわたしが唱える呪文をなぞってください、と。多くの血を意図的に流したせいで、そして大量の魔力がライダーに吸われているせいで青い顔をしながら桜はそう言ったのだ。士郎は頷く。

 

「告げる――」

 

 

 

 ――その景気の良い逃げっぷりに、ランサーは口笛を吹いた。割り切ったら早いタマだったか、と。

 

 そしてランサーに向け、決死のライダーが仕掛ける。この時点で言えば、初見であるライダーを相手にランサーは全力が出せない。身体能力ではライダーに分があった。

 それを感じている。数値の上では己の優勢を確信できる。だが彼女は識っていた。それこそ赤子と巨人種の戦士ほどの差でもない限り、身体能力の差で勝っていても覆してのけるが英雄であると。事実両者の差は、絶対的なものではない。技量もなく鎖杭を振り回すライダーの攻勢を、ランサーは容易く対処して捌いている。

 ライダーは感じていた。槍兵は冷静に自分の疾さを追い、観察し、仕留める一撃を繰り出すタイミングを見計らっているのを。魔槍に魔力が徐々に充填されていくのを。

 本能が訴える。警鐘を鳴らす。アレが放たれれば終わりだ。させてはならない、耐えなくてはならない。一級の英霊にも通じる出鱈目な機動を行いランサーの周囲を跳ね回り、的を絞らせず杭の投擲を繰り返した。鎖で行動範囲を狭めた。

 

 魔槍が旋回され、薙ぎ払われる。尋常の騎士が相手なら、あるいは神代以降の戦士なら、ライダーの全力の機動に対処できず手を焼いただろう。然しランサー、アイルランドの光の御子は怪物狩りの名手だった。人の理の通じない身体能力任せの猛攻を完璧に防ぎ、狩りに移行している。ライダーが怪物の因子を持つのだと悟られているのだ。

 

石化の魔眼(キュベレイ)――!」

「グッ……! コイツは……石化の魔眼か!」

 

 なりふり構わず自己封印・暗黒神殿を解除し魔眼を解放した。封じていたのは魔眼のみならず、自身の魔性である。怪力を全開にし、魔眼で()()()ながら一気にケリを付けに掛かるも、三騎士のクラス別スキルである対魔力で束の間、ランサーは一瞬にして石化して敗北する結末を回避し対処した。

 ルーン魔術。ルーン文字の組み合わせにより千変万化する効果が、魔物狩りの英雄に適切な守護を与えた。魔眼対策の魔術がランサーを保護する。重圧を微かに感じる程度に軽減されたキュベレイにメドゥーサは舌打ちした。とことん相性が悪い。ランサー以外ならどうとでも料理してしまえるものを――!

 

 焦りがある。徐々に、徐々に追い詰められていく実感。ランサーにだけではない。自己封印・暗黒神殿を解放して、魔眼や怪力を使えば使うほど魔性に傾き、霊基がゴルゴンに変じていくのを感じる故の焦りがあった。

 桜はまだなのか、救援はまだなのか。息が上がる。全力の機動戦にどこまでも槍兵が追随し神経を削ってくる。油断すれば一刺しだ。今の槍兵よりは速力で勝っているはずなのに、全く振り切れない巧みな跳躍術が厄介に過ぎた。

 

 ライダーは、ふとランサーに隙を見つける。キュベレイの負荷を10分以上受け続けたせいか、ランサーの足が微かに石化し動きが鈍ったのだ。本能的に食らいつき、肉体を酷使して蹴撃を叩き込み――しまった、と、己の不覚を直感する。

 魔眼対策のルーンが解れたのは、右足の爪先だけ。他はまだ万全だった。そんな不自然な崩れ方など有り得ない。誘われたのだ、大振りの一撃を。間合いを空けに来る攻撃を。魔槍が脈動している。マズイ、マズイマズイマズイ――!

 ランサーは自ら跳んでライダーの脚撃の威力を殺し、再び超足で踏み込んでくる。近寄らせてはならないという悲鳴を怪物の本能が上げていた。もう止められない、対軍規模の宝具でランサーを倒すために隙を突いて吹き飛ばしたのだ。もうやれる事は、自身の首に杭を突き刺し、己の血で天馬を召喚する事だけ――だが――間に合わな――

 

「その心臓、貰い受けるッ!」

 

 光の御子が、閃光のように馳せる。そして真紅の槍、その力を解き放った。

 

 

 

刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)――!」

 

 

 

 躱したはずの槍が、逆転した因果を辿り飛来する。

 着弾の瞬間、水風船が破裂したような音を、怪物に成り果てる運命の騎兵は聞いた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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九夜 剣の陣、聖杯の器(上)

 

 

 衛宮士郎にとって、最近は訳の分からない事の連続だった。

 

 事態の急変、日常の崩壊を告げる先触れが何であったか。事の起こりとして思い当たるのは、当時は不気味に感じながらも白昼夢に近い夢幻と思い込んでいたものだ。

 夜道を照らす頼りない街灯の明かりを頼りに、バイトを終えて間もなく自宅に着こうかという時の事である。白い妖精のような少女と、威圧感のある巨漢と擦れ違った際、士郎は囁かれたのである。

 『早く喚び出さないと死んじゃうよ、お兄ちゃん』

 見るからに外国人の幼い少女。その保護者らしい巨漢。なんとなく関わり合いになってはならないと思い、目を合わせる事なく通り過ぎようとした。その時に囁かれて、士郎は思わず振り返って――そこには誰もいなかった。

 何を喚び出さなければ死ぬのか、なぜ死ぬのか、謎めいた予言、予告とも取れる言葉の意味を考えるよりも先に、先立ったのは不気味さと現実感の欠如である。疲れているのだろう、幻聴が聞こえたに違いないと思い込み、以降はその邂逅を意図的に忘れた。

 

 そしてそれから数日と置いて、あの夜に遭遇した黒服の偉丈夫に、桜と下校している最中に出会った。

 

 聖杯に関する意図の解らない質問の後、唐突に告げられた殺害予告。なのにこちらを思い遣る忠告。そして、桜が事情を知っているという断定。

 桜は、怯えていた。恐怖していた。それはあの死の具現化とも言える巌のような男の指摘が正しいと証明している。その日はずっと震え、慄く桜が落ち着くまで宥め――翌日、意を決した桜に全てを明かされた。

 聖杯戦争。七人の魔術師と七騎のサーヴァントによる聖杯の奪い合い。殺し合い。今回が五回目で、前回は十年前に行われたという。間桐家は聖杯戦争の黒幕とも言えるアインツベルン、遠坂と連なり御三家と呼ばれている事、自身も魔術師としての技能を、最低限度は備えている事。士郎は遠坂の家名が出た事に何より驚いたものだが、それより先に気に掛かるものがあった。

 

 ――十年前。

 

 あの冬木の大火災が起こった年と符合する。背筋が凍り、ソラに空いた黒い太陽のような孔を幻視した。立ちくらみを起こしながらも、桜は洗いざらい告げる。

 前回の聖杯戦争の勝者は、衛宮切嗣。士郎の養父である。これだけでも天地がひっくり返ったような衝撃に襲われたが、そこで話は終わらなかった。桜が士郎と関わる事を許され、衛宮邸に通う事を許されていたのは、間桐家の当主が衛宮切嗣を警戒し、次の聖杯戦争までにどんな後継者を残しているかを見定める為だったのだという。

 罪を告白するような桜の様子に、士郎は首を傾げた。確かにその事情には驚いたが、それだけでしかない。士郎は桜の事を良く知っている。日常の象徴のような存在だ。そんな彼女が自分よりも魔術師としての世界を識っている事は驚くに値するが、それでも桜に裏切られたとは感じない。寧ろ幾らでも誤魔化せるのに自分から切り出した事に、誠意と謝意を感じて信じられると改めて確信できた。

 その日は血の繋がらない姉のような人、藤村大河に言って学校は休んでいた。桜から申し出て、その深刻な表情に大河は事情を訊いてきたが、何も言わず暗い顔をする桜に、大河からは今日だけは見逃してあげるけど、明日からはきちんとしなさいと教師然として言われた。桜は大河がいなくなるのを見計らい、事情を説明してくれたのだ。話に聞く冷酷な魔術師なら、そんな真似はしないだろう。そもそも士郎に説明しようとすらしないはずだ。

 

 故に桜は自分の味方なのだと理解している。そしてそんな桜が怯えているのだ、先輩として彼女を守ってやらなくてはならないと、この時士郎は身の程知らずにも思っていた。

 

 桜は、サーヴァントとマスターに関して、そして聖杯戦争のルールについて話した。士郎の手を取り、火傷でもしたのだと思っていた士郎の痣を指して、これは令呪の兆しであると説く。

 サーヴァントの召喚権。英霊に対し三回だけどんな命令にでも従わせる絶対命令権。マスターの命綱。昨日、士郎と桜の前に現れたあの男はサーヴァント――過去の英雄であり。多分ですけど、と自信なさげに桜が告げた真名は、士郎でも識っている規格外の大英雄のものだった。

 

 ヘラクレス。あるいは、アルケイデス。

 

 言われて思い出した。歴史の教科書に、イオラオスの遺した肖像画の写し、その掲載写真があったのだ。それとあの男は余りによく似ていた。

 文明圏の義務教育過程を経た人間の内、見た事がないという輩は余程不真面目な学生のみだろう。古代ギリシャのオリンピック創始者、多くの神殿を建築し多大な影響を後世に遺した英雄の祖。史実の英霊としてならアルケイデスが、神話の英霊としてならヘラクレスとして現界するという彼は、そのどちらであっても『戦士王』と号される武勇を誇り、全英霊中最高峰の知名度を持っている。

 士郎はふと、彼を題材にするか、あるいはその名に言及されたサブカルチャーの多さを思い出す。クラスメイトの後藤が言っていたのを、同じく友人の柳洞一成と聞いた覚えがある。原点にして頂点の勇者である、と。創作物の設定としてだけでなく、事実として神話や歴史でも同様に讃えられているのだ。

 サーヴァントの力が知名度に左右されるというなら、ヘラクレスほど脅威的な者など片手で数えられる程度しかいないに違いない。

 

 それが、己を殺しに来る。

 

 実物を見た後だからか、殊更に克明な戦慄と恐怖に襲われた。

 桜はまず間違いなく彼が今回の聖杯戦争で最強のサーヴァントだと断言した。多少、聖杯戦争について知っていれば、誰もが同じ事を言うだろう。

 そして彼に命を狙われるという事は、士郎の生存は絶望的である。その危機を脱する為には、士郎と桜は協力して当たらねばならない。桜は自身もまたマスターであり、士郎にサーヴァントを召喚してもらえば、二騎のサーヴァントで彼に対処できるかもしれないと言った。――桜は士郎の性格を知っている故にこの時は言わなかったが、一騎でヘラクレスの足止めを行い、もう一騎でマスターを狙わないと勝てないかもしれない、と胸中に溢している。マスターとしての透視能力が、ヘラクレスの保持するパラメータを明らかにしていたからだ。

 

 Bランクの幸運を除き、全てがAランク。筋力に至ってはその倍だ。A+の筋力なんて、想像を絶する。具体的な想像なんてつくはずがない。

 

 士郎はもぐり、素人未満の魔術使いに過ぎないが、事の重大さは理解できた。故に桜の言う通り、新たに召喚するサーヴァントが信頼できるか分からない以上、まずは桜のサーヴァントを兄・慎二から取り戻す事から始め――そこを、槍兵のサーヴァントに襲われてしまう。

 どこかで士郎は甘く見ていたのだろう。英霊と言っても使い魔である。ヘラクレスを見たが、実際に戦闘の現場を目撃したわけではない。故に自分ではとても勝てないまでも、人間の理解の範疇にある戦力なのだろうと思っていた。

 甘かった。槍兵の動きが、まるで視えず。もし本気で殺しに掛かられれば、一瞬で屠られる様がありありと想像できてしまった。もしライダーがその身を挺して足止めを引き受け、逃してくれなければ、その場の戦闘に巻き込まれ死んでいただろう。いや、ライダーの足手まといになり、却って邪魔にしかならなかったに違いない。士郎は自身の見立ての甘さを痛感しながらも、彼女の求めるままサーヴァントの召喚を決行した。

 

「汝、三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ――天秤の守り手よ――」

 

 ――そうして、現れたのは剣の英霊だった。

 

 小柄な体躯。白銀の鎧。青いバトル・ドレス。不可視の剣を携えた、金の髪を纏めた白皙の美貌の少女騎士。彼女との間に繋がりがあるのを感じ、手の甲が焼き付くような痛みと共に光って令呪が発現した。

 その、荘厳な絵画を切り取ったような光景が、目に焼き付く。そんな場合ではないのに、士郎は彼女に目を奪われた。

 

「――サーヴァント、セイバー。召喚に応じ参上した」

 

 彼女は桜を一瞥し、然しすぐに士郎に目をやって、真っ直ぐに告げる。

 例え地獄に堕ちたとしても、この一瞬の光景は忘れないだろう――そう心のどこかで思うのに、自身のサーヴァントが少女の姿であった為か士郎は反応する事ができなかった。

 こんな女の子がサーヴァントなのか、と。侮ったのではなく、単純に驚き、女の子に戦わせないといけない事へ後ろめたさを覚えたのだ。

 

 そんな士郎の心境を察する事はなく、セイバーは淡々と続ける。

 

「問おう、貴方が私のマスターか」

 

 正規の契約が交わされている為、彼女――セイバーにも誰がマスターかは一目瞭然である。故に問うまでもないが、儀礼として問うたのだ。

 士郎は呆気にとられながらも肯定しようとして、桜がその場で蹲り片手を胸に掻き抱いたのに気づき、答える事がないまま慌てて後輩の少女を助け起こした。

 

「さ、桜っ? どうかしたのか!?」

「せん……ぱい……ら、ライダーが……! ライダーが、倒されちゃいました……!」

 

 そんな、と士郎は喘ぐように呻く。桜の令呪が消えていた。それはつまり、彼女の守護者が消滅した事の証である。

 セイバーはぴくりと形の良い眉を動かした。状況が読めないながらも、切迫した事態なのを把握したのだろう。自らのマスターに令呪があるのを見て取ると、質問に答えられなかった事に気を悪くするでもなく、冷静に状況把握のための問いを投げる。

 

「マスター、彼女はライダーのマスターなのですね? そして貴方の同盟者であると」

「あ……そ、そうだ。無視する形になって悪かった。俺は衛宮士郎。桜は何も知らない俺に聖杯戦争について教えてくれて、身を守る為にお前の、いや、セイバーだったか? その召喚に協力してくれたんだ」

「エミヤ……?」

「……?」

「……いえ、なんでもありません。彼女との関係は理解しました。確認します、現在彼女のサーヴァントと敵サーヴァントが交戦しており、結果ライダーが脱落したわけですね? マスター、敵は何処に――」

 

 言い切る前に。

 ざ、と砂利を鳴らして歩み寄って来た足音に、セイバーは素早く反応して背後へ士郎と桜を庇う。

 

「――おっと、探す必要はないぜ。こっちから来てやったんだからな」

 

 その彼女へ気さくに声を掛けたのは、青い戦装束の槍兵である。

 口調は軽く。されどその相貌に油断や慢心は欠片も見て取れない。彼の姿を見て桜の顔が強張った。ライダーの……自分が戦いを放棄したせいで、慎二に従わされ、苦々しい思いを強いてしまったのに、桜の都合で元のマスターの許に戻されることになっても嫌な顔一つせず、寧ろ貴女を護るためならどんな事でもすると言ってくれた……ライダーの仇。その顔を見る桜の目に、敵愾心が宿っていた。

 弱々しい女子供の敵意である。ランサーを警戒させるほどではない。士郎もまた、自分達のために戦ってくれたライダーを殺したらしい男へ、強い憤りを覚えていた。

 

 セイバーが警戒も露わに呟く。

 

「ランサーの、サーヴァント……」

「如何にも。そういうテメェは……得物が見えねえな。チッ、戦士が自らの武器を隠すとは何事だ? その風体、アーチャーって感じじゃあないが……真っ当な一騎打ちをするタイプか。

 少なくとも暗殺者の線はない。魔術師はあの女狐で、騎兵はさっきの女。ならテメェはセイバーか。この土壇場で、白兵を得手にする剣士のサーヴァントを引いたのかよ……面白れぇ」

 

 士郎の悪運に対し獰猛に笑いながらも、ランサーはセイバーが臨戦態勢に移るのに合わせて身構え――然し魔槍を構えはしなかった。

 それは、楽しみを得たような顔だった。

 

「なあセイバー。お互い初見だしよ、ここは手を引かねえか?」

 

 見るからに好戦的な槍兵からの提案が、よほど慮外のものだったのだろう。セイバーは薄く目を瞠る。

 

「……何? サーヴァントがこうして対峙したというのに、一合も刃を交えずして引けというのか」

「応よ。なんせこちとら連戦……消耗は少ねえし、やり合うってんなら文句もねえが、出来るなら掛け値なしの全力で殺り合いたい。オレも鬼じゃないんでね、召喚直後で互いを良く知らないままの主従を別れさせるのも偲びない。お前さんもマスターと充分な信頼関係を作ってから当たった方が万全だろ?」

「……一理はある。然し僅かとはいえ消耗している貴方を、むざむざ見逃したのでは騎士の名折れだ。ランサー、貴方が私の一太刀を浴びて生き延びていたのなら退くことを認めよう」

「――ほう? 大きく出たな……上から目線とは侮られたもんだぜ。あーあ、せっかく楽しめそうな奴だってのに……此処で殺しちまわなきゃならねえとはな」

 

 ランサーとしても、言ってみただけなのだろう。令呪の縛り故に、初見の上物相手には欲を出してしまうのが彼だ。尤も本気ではない。ちょっとした味見程度はするのも悪くないと思っている。そこに挑発を受けてはその気にならざるを得なかった。

 世知辛いなと嗤うランサー。彼は魔槍を構える。四肢に漲る豹の如き柔靭な力感に、セイバーは相手が決して侮れない敵だと直感した。

 

 だが負けるとは思っていない。自身のマスターからの魔力供給は乏しいが、皆無ではないのだ。召喚直後である故に自身の魔力も万全。後々に消耗した状態でランサーと当たらねばならぬ事態が出てくる可能性を考えると、手強い相手であるからこそここで倒してしまうか、手傷を与えておきたいという魂胆を懐くのは自然だった。

 ましてや強敵らしいランサーは連戦で、僅かであっても消耗はしている。セイバーからすると好条件が揃っているのだ。わざわざ見逃す道理はないのである。

 

 だから、戦わんとするのは間違いではない。ランサーも百戦錬磨の戦上手である。彼女の思考を読み切った上で挑発に乗ってやる事にした。

 

 ――だが、だからこそである。

 

 好戦的であるランサーが互いに退く事を提案した意味を、もっと深く考えるべきだったのだ。無論現界した直後のセイバーにそれを求めるのは酷である故に、マスターである士郎と桜が気づくべきだったのである。

 戦略的に俯瞰して考えれば、()()()()()は充分に考えつけるもので。戦略眼をどちらかが持っていれば――あるいは桜の実姉、遠坂凛であれば気づいたであろう、事態の危うさを。

 

 

 

「――あら、楽しそうじゃない。わたしも交ぜてもらおうかしら」

 

 

 

 ランサーとライダーが戦闘を行い、ランサーは宝具を使った。その魔力の波動は隠せるものではない。

 士郎が土壇場で、桜の補助があったとはいえサーヴァントを召喚した。その魔力反応は宝具の発動に引けを取らない。

 槍兵が撒いた人払いの魔術、槍兵と騎兵の戦闘の騒音、宝具の発動、そして英霊召喚――これだけ揃って、その気配に気づかない()()ではない。

 

 突如掛けられた声に、ランサーはニヤリと笑い。士郎と桜は顔を青褪めさせた。

 混迷する戦況。セイバーは舌打ちして、向かって9時の方角に目を向ける。そして、二つの意味で驚愕した。

 

 一つに、見覚えのある少女。

 二つに、一人の剣士として憧れた偉大な戦士。

 

 冬木を散策していた、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンが、バーサーカーのサーヴァントを従えそこに立っていた。

 

 

 

 

 




ランサーVSライダー

ランサーVSセイバーVSバーサーカー、ふぁいっ!


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十夜 剣の陣、聖杯の器(中)

注意。ここのsnセイバーは、ZEROセイバーではない。そのためメンタルが豆腐ではない。騎士道に拘泥せず、勝つためなら悩みはしても普通にマスター狙いもやる。snであったように、このセイバーはZERO仕様ではないため切嗣と阿吽の呼吸で戦える冷徹さがある。
よってZEROセイバーより数段上の危険性があると考えております。理性ありのヘラクレス相手にそんなことできるわけないだろ! と思われるかもしれないが、作者は冷静に考えて実現は困難でも『可能』と判断します。




 

 

「――あら、楽しそうじゃない。わたしも交ぜてもらおうかしら」

 

 地べたを這いずる翅無き蟲を嬲る、残酷な愉悦に耽溺しているかの様な嗜虐の声音。

 アイルランドを席巻した光の御子たる槍兵、ブリテン救済が為に立った騎士王たる剣士。共にトップサーヴァントに名を連ねるに値する強者。一触即発、風雲急を告げる最速と最優の二騎の対峙を、狩られるだけの獲物の番付けとして無為とするのが最強。

 其は超重の威風。超越の偉容。月光を浴び夜闇に光の飛沫を散らすが如き金色の甲冑を纏い、たなびく外套、兜に揺らめく鬣に荘厳な獅子の生命のうねりを宿している。

 携えしは海嘯の魔槍。白亜の槍。冬の妖精のような少女の傍に控え、純戦士として佇む静謐な刃。

 

 イリヤスフィールの、介入を告げる台詞に。とうに彼女達の接近へ勘付いていた槍兵は嗤い、剣の陣営は顔を強張らせた。

 

「あな、たは……まさか、ヘラクレス……?」

 

 少女騎士の愕然とした問いは、ほぼ自分自身に向けられた自問に近かった。それほど信じ難い思いだったのだろう。

 召喚直後にランサーと戦闘に移るものと思っていれば、やって来たのは高名さや武勇に於いて自身よりも数段上の英霊である。この事態の急転ぶりは未だ嘗て経験がない。混乱しそうになるのを堪え、しかしセイバーは確信せざるを得なかった。此度の聖杯戦争は、前回のものよりも熾烈に鎬を削る事になるだろうと。

 いや、あるいはその決着の場に、自身が居合わせられないとすら覚悟を決めるべきかもしれない。鋭敏な勘が警鐘を鳴らしている。脳裏に赤いランプが灯っている。自身の脱落も有り得る厳しい戦いになる――

 

「………」

 

 バーサーカーは一目で真名を知られた事に、肩を竦めるしかない。彼らしくない諦めの入った仕草だったが、余程自尊心の強いサーヴァントでもない限り容易く真名を知られる事態は歓迎すべきではないのである。

 神代の英雄で、明確に姿形を後世に伝えられている者など彼しかいないのだ。であれば彼としても諦めはつく。寧ろ誇るべきかと思いかけ、それほど功名心があるでもないバーサーカーは単に嘆息する事しか出来ないのであった。

 

 だがイリヤスフィールはそうではないのだろう。バーサーカーが誇らない分、余程に誇らしくかんばせを澄ませて上機嫌に鼻を鳴らす。そうしながらランサーとセイバー、そして士郎と桜を睥睨した。

 何が可笑しいのか、嘲弄を滲ませる。セイバーを見て、彼女が士郎のサーヴァントであると認識したからだ。

 

「あは。シロウ、よりにもよって()()()を喚び出したんだ」

「っ……」

「運が良いのか悪いのか……バーサーカーに言わせてみれば悪運に長けてるんだろうけど、面白いわね。……あ、自己紹介がまだだったわ。わたしはイリヤ、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。短い付き合いになるだろうけど……お兄ちゃんにはイリヤって呼ばせてあげる。特別なんだからね」

 

 紅い、ルビーのような瞳に射竦められ、傍にいる護るべき存在を見止めた士郎は、腹を据え警戒心を強めながらも口火を切った。

 

「……じゃあ遠慮なく、イリヤって呼ばせてもらう」

 

 士郎は良くも悪くも平凡な常識を知っている。故に普段の彼なら馴れ馴れしく初対面の女の子の愛称なんて、許されたとしても軽々しく呼ぼうとはしなかっただろう。

 だが今、イリヤスフィールの機嫌を害するのは危険だ。その判断が、喉をカラカラに枯らしながら口を開いた士郎に、よく知りもしない相手の愛称を口にさせた。

 

「なあ。イリヤはなんで、俺の事を知ってるんだ? なんで俺を殺そうとする?」

「―――? え、なに? 惚けてるの?」

「ボケちゃいない。本当に分からないんだ!」

 

 士郎が幾ら善人で、自身の命を勘定に入れない壊人であったとしても、訳も分からないまま命を狙われる理不尽には憤りを感じもする。士郎はイリヤスフィールの幼い風貌を見て、なんとか話し合いで事態を終わらせられないかと試みた。話せば分かってくれるはずだと信じて。

 彼女のサーヴァントはわざわざ自分に忠告までしてくれた。イリヤスフィール本人もそうだ。なら話し合えばなんとかなるという淡い希望を持つのも許されるべきだろう。

 ランサーは眉を顰める。彼は仕事となれば女子供も殺す冷徹な側面も持つが、それ以外であれば気さくで面倒見の良い兄貴肌の好漢である。その遣り取りだけで何やら因縁めいたものがあるのを見て取ると、話が終わるまでは静観する気になっていた。何より自身がその手の因縁で死んだ身であるのだ、清算できるのならわざと邪魔してやる気はない。ないが、彼の関心はもとよりイリヤスフィールにはない。あるのはひたすらに目の前の強敵、バーサーカーと、セイバーだ。さぁてどうするかと内心舌なめずりする。

 セイバーはともかくバーサーカーは既に令呪の対象外……全力を出せる。しかしセイバーには令呪の縛りが働くだろう。となれば……想定外が出る公算の高い戦闘時に、剣士と狂戦士を相手に肉体の出力がバラける瞬間を晒すのは極めて危険である。

 例えばセイバーに向いている時は、令呪の縛りでパラメータが低下しているのに、そこをバーサーカーに横殴りにされてはたまったものではない。その逆も然りだ。三つ巴となれば、バーサーカーの相手に専念しても、横合いからセイバーに斬り掛かられ、対処しようとした瞬間にパラメータが下がれば、バーサーカーへ致命的な隙を晒す事になる。白兵戦に長けたサーヴァントを相手に、その隙は殺してくださいと言っているようなものなのだ。安易に戦闘に移るのは危うい。そう判断できるだけに、なかなかにもどかしい状況であると言えた。

 

 セイバー、アルトリア・ペンドラゴンは静かに呼気を整えた。

 

 知らず息が乱れていた故である。気圧されたのではない。押し殺して久しかった人の心が、一人の騎士として憧れた伝説の勇者を目前にし、興奮を押さえきれなくなってしまったのだ。しかし彼女とてブリテンを救うために十年以上もの間戦い抜いた、常勝の王である。未熟な一面が噴出しかけるのを一瞬で封じ、冷静さを取り戻す。

 ランサーを見る。マスターと、その同盟者を見る。――イリヤスフィールを見る。

 ちり、と胸がざわつくのを堪え、微かに悼ましさを感じる雪の少女に目を眇めて、意識的に別格の存在感を持つ巨雄に視線を向ける。

 

 セイバーは自分、ランサーは目の前の男。ライダーは脱落している。

 

 彼女はヘラクレスらしきサーヴァントのクラスを知らない。アーチャーか、と判断していた。何せその佇まいには明確な理性がある。狂戦士であるなどという発想は微塵も浮かばない。ましてや魔術師、暗殺者である訳がない。なら消去法的にアーチャーであると判断するのが正しい思考だ。

 だがアーチャーであるにしても、なぜ槍を持っているのか。あれは『鉦を穿つか、地鳴らしの槍(エノシガイオス・トリアイナ)』だろう。槍兵でなければ槍を持つのはおかしい。

 しかし弓兵だから弓しか使わないとは限らない。戦場に立つ者にとっては自明ではある。ヘラクレスほど高名な英霊なら宝具が一つとは限らないのだ。仮に弓兵ではなかったにしても、白兵戦に長けたエクストラクラスのサーヴァントである可能性も視野に入れる。

 

 しかし、だ。イリヤスフィールは除外するとして、この場の誰よりもヘラクレスに対して識っているアルトリアは、伝承の一節を思い出していた。

 

 ――英雄ヘラクレスは戦女神アテナに乞い、狂気を祓う加護を得た。

 

 つまり。理性がある彼が、実は狂戦士の座に在るサーヴァントである可能性がある。彼ほどのサーヴァントを維持するのはどんなマスターにも苦痛だろう。それを魔力の燃費が最悪のバーサーカーに据えるなど、とてもではないが正気ではない。故にセイバーはその可能性を排除していた。いや、したがっていた。

 仮にバーサーカーであったとして。仮に、まだ狂化してなかったとしたら。まだ剣を交えたわけではないにしろ、明らかに戦士として格上であると直感できてしまう彼に、まだ上があるという事になってしまう。そうなれば――マスター殺しを成さねば、とても対抗できるとは思えない。イリヤスフィールを狙うのは、アルトリアとしては避けたいが。勝つためとなれば手段は選べない――

 

 騎士道には反する。しかし祖国救済のため、アルトリアは自身の誇りなど溝に捨てる覚悟があった。勝利し聖杯を手にする事は、あらゆる全てに優先されると定めている。

 問題は、みすみす自身の弱点・急所(ウィークポイント)であるマスター狙いを、ヘラクレスが許すかどうかだ。ちらりとランサーを見る。好戦的な彼を利用して立ち回れば、ヘラクレスにランサーを押し付けられ、その間にイリヤスフィールを斬り伏せられるかもしれない。

 

 一瞬だ。アルトリアには遠距離攻撃の手札がある。それを使えばイリヤスフィールを瞬きの間もなく倒せる。幸いにも彼女の注意は完全に士郎に向いていた。

 エミヤ――前回の聖杯戦争のマスターと同じ姓。アインツベルンのイリヤスフィールとも合わさり、因縁めいた物を感じるが、エミヤであれば自分の戦略にも理解が得られるはずだと判断した。聖杯戦争について何も知らされずにいたにしても、薫陶ぐらいは得ているのが当然であり、あの切嗣の息子であるかもしれないなら当然、魔術師としては半人前でも冷徹な戦闘論理を受け入れるはず。第四次聖杯戦争で並み居るサーヴァント、マスターを共に撃破して来たあの男の息子なら……。

 

 ――皮肉にも、ランサーの提案通りとなっている。この場は退き、自身のマスターとの相互理解に励めばよかったのだ。士郎がマスター殺しをよしとしない性格で、敵サーヴァントだけを倒せばいいと考えているようなお人好しだと分かれば、アルトリアも積極的にマスターを狙おうとはしなかっただろう。彼女としても現世の人間を好きこのんで殺したくはないからである。

 

 仕掛けるなら、開戦していない今。奇襲の一手としてマスターを狙う。それは卑劣だが、卑怯ではない。戦場の騎士として当たり前の戦術だ。事実、生前の経験の中でも、円卓の騎士や自身も奇襲戦術は何度か使っているのだから。

 密かに聖剣へ魔力を充填する。風の鞘『風王結界』を撃ち出す準備だ。狙いはイリヤスフィール。倒せないかもしれない格上のサーヴァントと、まともに戦おうとするなど愚の骨頂。故にアルトリアは迅速に動き出そうとして――

 

 

 

「鎮まれ。我がマスターとその姉弟(きょうだい)の交わりを邪魔立てする者は、戦士王の名の下に斬り捨てる。

 ――貴様に言っているのだ、()()()()

 

 

 

 ヘラクレスが白亜の魔槍の石突で地面を叩き砕いた。蜘蛛の巣状に亀裂の刻まれたアスファルトの地面。その衝撃と爆音にアルトリアはぎくりとして。指摘された槍兵が、悪戯の見つかった意地悪な男のように、ニッ、と笑った。

 自分の狙いが露見した訳ではない。ランサーもまた、イリヤスフィールになんらかの手を仕掛けようとしたのだ。ただし、アルトリアと違って本気ではない。

 

「いや何……あんまりにも無防備だったもんでよ、つい魔が差しちまった。悪ぃ悪ぃ」

「次はないぞ。私としても、マスターの命なくして刃を振るう気はないのだ。貴様が此処で斃れたいというのなら相手をしてやってもいいがな」

「ハッ。死ぬのはテメェだ、とでも言っておこうかね? 簡単に獲れるほどオレは易かねえぞ」

 

 殺気をぶつけ合う両者は初見ではないらしい。気のせいかランサーの存在の格とでも言うべきものが、自分に対していた時より数段跳ね上がっている。――ランサーに自分は侮られていたのか? とアルトリアは苛立ちを覚えるも、機先を制される形になったせいで出鼻を挫かれた気分だった。

 無言で状況を把握する。具体的には分からないが、この場に限っての理解に努める。

 ヘラクレスはランサーに意識を傾けているが、自分にも当然警戒心を向けている。マスター狙いを何より警戒しているのが分かった。当たり前である。セイバーとしての自分も、マスターがこの死地にいる状況は面白くない。巻き込んでしまえば斃れるのは自分も同じなのだ。

 

「………」

 

 アルトリアは沈着とした眼差しで、冷徹に戦況の推移を分析して戦略を構築する。その能力は、戦士王よりも、光の御子よりも上。個としては劣っていても、王としての戦術、戦略構築の手腕と才覚、経験値はこの場で誰よりも高かった。

 警戒すべきは、ランサーとヘラクレスの実力を正確に把握できていない事。急いては事を仕損じるのは、いつの時代、どこの戦場でも同じ。アルトリアは気づかれないように息を吐き出し、そして方針を固めた。

 

 この場は生き残る事に何より注力し、ランサーとヘラクレスの戦力を分析する材料を得て生還する。次の戦いでの戦略を練るためだ。確実性を求めるべきである。まだ博打を打つには早い。サーヴァント同士の戦いに徹し、自分が正道の一騎打ちをする者と誤認させる。次か、はたまたその次か。その時の戦いでの奇襲性を高めるのだ。

 セイバーのサーヴァントは、そうして臨戦態勢は崩す事なくイリヤスフィールから狙いを外した。相手がヘラクレスであると気づいた瞬間から気が逸っていたのを自覚し、自身を戒める。意識の七割をヘラクレスに、三割をランサーへ向けた。ランサーは槍を下ろす。無論臨戦態勢のまま。ヘラクレスは宣告通り、イリヤスフィールと士郎の遣り取りを邪魔しなければ仕掛けない腹積もりらしい。

 

 桜と士郎がヘラクレスの鳴らした轟音に反応して冷や汗を掻くのに、イリヤスフィールは毛筋の先ほども反応せずに戸惑いを呑み込む。

 

 士郎が何も知らないと言った。その真偽を疑うも、自らのサーヴァントから折角気遣われたのだ。無下にはせずに言葉を紡ぐ。

 

「……お父様は、何か言ってなかったの?」

「……? 待ってくれ。そこの……えっと、ヘラクレスでいいのか?」

「そうよ。バーサーカーはギリシャ神話最大の英雄、ヘラクレスっていうの。識ってるでしょ」

「……!」

 

 セイバーが反応する。バーサーカー、ですって? と。信じられない思いで不可視の剣を握り締める。だがそれには構う余裕はなく、士郎は生唾を呑み込んで返答する。ヘラクレス――バーサーカーはイリヤスフィールの心情を慮り、顔色を険しくした。

 イリヤスフィールは父の事をキリツグと呼び捨てにしている。呼び方からの関係性を隠そうとする物言いは、イリヤスフィールが少なからず動揺しているのを示していた。

 

「そのヘラクレスが、俺とイリヤを兄妹(きょうだい)って言ったよな。……イリヤの言うお父様って、もしかしなくても爺さん……切嗣の事なのか?」

「……ええ。元々お父様は、わたし達アインツベルンの雇った聖杯戦争に勝つための傭兵だったの。お母様と結婚して、わたしが生まれた。お父様は聖杯戦争に戦いに行って――二度と帰ってこなかった。わたしを捨てたの。だから……だから殺すわ。復讐するのよ。そう、そうよ……殺さなくちゃ。わたしを、裏切ったんだもの!」

 

 士郎に事情を伝えるために言っている内に、その身に秘めた激情が噴出した。殺気を撒き散らす幼い容貌の少女に、士郎は信じられないと目を見開く。

 

「切嗣がイリヤを捨てた? ……嘘だろ?」

「本当よ! だって……帰ってくるって。絶対迎えに来るって言ってたのに! キリツグはわたしを捨てて、アインツベルンを裏切って! 聖杯を破壊したッ! なのに養子なんか取って、悠々自適に暮らしていただなんて……許せない。許せるわけない。だからシロウを殺すの。キリツグも殺す! ぜったいぜったい許さないんだから!」

「待ってくれ! 俺は信じない、切嗣は自分の子供を捨てるような奴じゃない!」

「でも捨てたのよ! キリツグはどこ!? 死んだなんて言って隠したって無駄なんだから! どこに隠れても見つけ出して殺してやるわ!」

 

 子供の、癇癪だった。それに士郎は必死に考える。どうやったらイリヤスフィールに信じてもらえるか。

 そして――思い出す。そうだ、

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」

「―――え?」

 

 ぴた、と。イリヤスフィールの動きが止まった。

 士郎は渇いた唇を嘗める。そして、思い出しながら言葉を重ねる。

 

「切嗣は時々、俺にも行き先を言わないで、どこかに行っていた。何度もだ。世界中を冒険してるんだ、なんてふざけて言ってたけど、多分あれは……イリヤを迎えに行っていたんだと思う」

「――――うそ」

「ああ、俺も本当の事は分からない。でも切嗣なら絶対にイリヤを捨てたりなんかしないはずだ。イリヤの知ってる切嗣は、自分を捨てるような奴だったのか?」

「…………」

 

 イリヤスフィールの脳裏に、幼い頃の思い出が去来する。

 ずきり、と胸が痛んだ。傷口から血が噴くように。

 

 自分に対して、とにかく甘くて。そのくせ意地悪で、負けず嫌いで。雪の降り積もった森で胡桃の芽を探す競争で、ズルして自分を怒らせて。ごめんごめん、なんて謝っていた。

 切嗣の仕草。言葉。思い出……。次々と湧いて出る、切嗣との記憶。雪みたいに綺麗だと言ってくれた髪は、今でも密かに自慢に思っている事に気づいた。

 わなわなと唇が震える。肩が震える。もう少しでイリヤスフィールを説得できると、士郎は急く。

 

「俺はそう思わない。だって切嗣は、意地が悪い奴だったけど、わざと人を傷つけるような事だけはしなかっただろ? だから――」

「―――さい」

「い、イリヤ?」

「――煩いッ! もう何も聞きたくないッ! バーサーカー! 殺して! みんな、みんな! 殺してぇっ!」

 

 心の許容範囲を超え、イリヤスフィールは錯乱したように叫んだ。

 髪を振り乱して泣き叫ぶイリヤスフィールに反応して、

 

 静かに、狂戦士は白槍を動かした。

 

 セイバーが弾けるようにその場から飛び出そうとするのに「待ってくれ!」と士郎が必死に制止した。戦いたくないのではなく、イリヤスフィールが心配で頼み込んだ。バーサーカーのサーヴァントにも待ってくれと。だがそれには耳を貸さず、バーサーカーはマスターに確認する。

 

「いいのか? 此処で殺せば、お前は永遠に取り返しがつかなくなる。それでも殺せというのなら、私はお前の心を護るために一度だけ抗命しよう。――令呪を使え。さもなくば、この場で私が戦いを選ぶ事はない」

「ッ――!」

 

 イリヤスフィールは頭を抱えた。充血した目でバーサーカーを睨む。彼の反抗が、彼の立場に許された最大限の諫言であると理解して。

 それでも荒れ狂う感情の奔流に、心も幼い少女は抗えなかった。故に、冬の聖女の末裔は、その身の桁外れの魔術回路を起動し、紅い令呪を光らせた。

 

「いいわ――使ってあげるわよ! ()()()()()()()っ!

 殺しなさい、あいつらみんな、潰しちゃえ――!!」

 

 イリヤッ! 士郎の叫び。桜の怯え。セイバーの計算。ランサーの歓喜。

 それらを置き去りに、バーサーカーは令呪に抗わず従った。

 

「――了解した。では、鏖殺だ」

 

 

 

 

 

 

 



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十一夜 剣の陣、聖杯の器(下)

二回目。





 

 

 

 顔色を豹変させ、桜が体を掻き抱いて蹲っている。

 

 了解した。では、鏖殺だ――告げられた刹那、もはや戦闘は避けられないと断定しセイバーが鋭く呼気を吐く。

 

「マスター、下がって!」

 

 士郎は凍りついていた。天が堕ちて来たが如き、大瀑布の様な戦意に当てられ身動き一つ出来ない。事態の急変について行けていないのか、イリヤスフィールを凝視したまま、なんとか言葉を紡ごうとしている。

 セイバーはそれを責めない。初の実戦なのだろう。どうしたら良いか分かっていたとしても、直前まで上手く行きそうだった話し合いが決裂してしまったため咄嗟に行動出来ず、結果として迅速な始動を行えなくなるのは新兵であれば仕方ない事だ。

 イリヤスフィールに対する真摯でひたむきな説得は、彼の善性を感じさせた。此度のマスターは優しいのだろう。衛宮の姓で誤解していたが、切嗣とは違うとそれだけで理解できる。それは美徳だ、だがいざ戦いとなると迷いになる。今必要なのは果断さだ。鉄の意志で行動を起こせる火急の事態に対する資質である。

 衛宮切嗣は好ましい男ではなかったが、戦闘のバディとしてなら最高だった。確実な戦略、冷酷な戦術、鉄の心で非道をも行うのだ。例えマスターの人間性が好ましいものでも、実戦の場では切嗣のような非情さが不可欠である故に、無意識に彼女が()()()()()()共に戦っていた切嗣の水準を求めてしまうのも無理のない話だった。

 

 セイバーの時間感覚では、十年前の第四次聖杯戦争から一時間と経っていない。同じ『衛宮』が二人目のマスターともなれば、切嗣の果断さを求めてしまうものなのだ。殊に、相互理解の時間がないまま現在の状況に立たされている。同じ状況に切嗣が立たされていたのなら、セイバーに言われるまでもなく撤退に移っていただろう。

 何せ、この場にマスターがいるのは下策である。マスターが此処にいないランサーは好き放題に暴れ回る事が可能であり、バーサーカーに到っては令呪の後押しを受けてその力を解放するであろうから、莫大な暴力が撒き散らされ、人間など一瞬で挽肉にされるのが目に見えている。

 切嗣なら即座に撤退し、体勢を立て直すとバーサーカーのマスターを排除すべく行動しているだろう。セイバーは切嗣の戦闘論理を熟知している故に遅延戦術に切り替え、防禦と回避に専念し敵サーヴァントの足止めに徹していた。

 

 だが今のマスターは()()()()の切嗣ではない。士郎は三流の戦闘者だった。いや、素人そのものである。故に動けないでいる自らのマスターに、セイバーは咄嗟の判断を求められた。

 セイバーと士郎の今の距離はマズイ。戦闘に巻き込んでしまう。ならどうするか。

 

「クッ――!」

 

 彼女はまだ、聖杯を破壊させられた第四次聖杯戦争から意識を完全に切り替えられていた訳ではない。故に士郎の鈍さに足を引かれ、そして熾烈な前回の戦いから認識が変わっていない故に致命的な判断の遅さは巻き返せた。

 セイバーは即断する。即決する。常勝の王である彼女の眼力は、その直感とも合わさり慧眼であると讃えられるべきだった。――バーサーカーの狙い。それは明白だ。セイバーが彼の立場なら間違いなく、自分と同じ急所(マスター)があるサーヴァントを狙う。即ち、このアルトリア・ペンドラゴンだ。

 

 状況は三つ巴。戦況から割り出せるバーサーカーの目的とするものは牽制だ。此処にはランサーもいる。まずは三つ巴の一角を()()()事を狙うのがバーサーカーにとっての最善。直感を裏付ける膨大な戦闘経験値を総動員し最善の行動に移る。

 セイバーは士郎の前に飛び出した。そして士郎に迫っていたバーサーカーが槍を薙ぎ払うのを受け止め――瞬時に手首を返して払いから剣の巻き上げに転じた槍を躱した。この時点でセイバーの腕は痺れていた。対処できたのは此処までだった。此処まで、だったのである。

 騎士王としての戦術眼で狙いを読み、先回りしようとしてなお、そこまで。バーサーカーの踏み込みはセイバーですら肉眼で辛うじて捉えられる程度であり、その豪腕より繰り出された槍は、魔力放出を全開にして振るった剣ごとセイバーの腕を硬直させた。もはや見えていても体が動かない。豪快にして精密な武技が鋭牙となって突き刺さる。

 

「ガッ、」

 

 戦士は手に持つ武具のみで戦うに非ず。バーサーカーは槍術に体技を交え、セイバーの動きを静止せしめるや、その脇腹へ鋭角に足刀を叩き込んだのだ。

 竜の因子を埋め込まれて誕生し、生きているだけで莫大な魔力を精製できるセイバーが、その全魔力の大部分を防禦力に回し甲冑を形成していたからこそ堪えられた。桁外れの膂力が完璧な技量に制御され、指向性を持って鋭角に叩き込まれる――その破壊力は推して知るべし。宝具による打撃にも耐える鎧は粉々に砕け散り、塵芥のように吹き飛んだセイバーは地面を何度もバウンドして間桐邸に突っ込んだ。

 

「……な、」

 

 士郎は反応すらできない。見えてすらいない。呆然とセイバーが視界から消えた事に立ち尽くす。

 轟音の鳴った方角に振り返ると間桐邸の一角が倒壊し、砂塵が巻き上がっていた。瓦礫の山に埋もれたセイバーは出てこない。彼女は背中からぶつかり、吐血していた。防御力の高いアルトリア・ペンドラゴンでなければ即死している。

 五体全てが凶器なのか――その化け物が自分の目の前にいる事を思い出した士郎は慄然と振り返って……そのバーサーカーが白槍を自身に突き込もうとしているのを見て、死を予感した。

 

 だがそこへランサーが仕掛けた。士郎を助ける為ではない。敵を殺そうとする瞬間こそ隙である。徹頭徹尾バーサーカーへの攻撃のためにランサーは突撃したのだ。

 

「――オレを忘れちゃいねえよな? そぉらコイツはオレの奢りだぁッ!」

 

 威勢よく繰り出されるは因果逆転の朱槍。真名解放はされていない。そんな暇と余裕はない。以前バーサーカーが見た速度とは雲泥の差、全開のランサーの突進はバーサーカーの目測をも微かに狂わせた。

 バーサーカーの反応は一瞬の間を千に切り刻んだ先の一。先天的に宿す心眼、後天的な鍛錬で宿した心眼が致命の瞬間を覆す。ランサーの槍は振り向き様に身を躱しつつ、白槍を振るったバーサーカーの甲冑に擦過せしめたのだ。

 傷は無い。だがランサーは穂先にルーンを載せていた。発動するのはアンザス、火のルーン。金色の甲冑“朋友よ、我が身に纏え(クリスィーズ・ネメアー)”の上から戦士王の全身を火焔が呑み込む。灼かれるのにも構わずに振るわれた白槍を、ランサーは大袈裟に躱し槍の余波による衝撃をも回避して飛び退く。

 

 甲冑に傷は無い。――ランサーの槍ではバーサーカーの防具を突破できない。その事実を確かめつつ、ルーンが有効かを確認したのだ。

 

「――なるほどな」

 

 槍兵は獰猛に笑った。豪快に白槍を振り回し、風圧だけで小規模な竜巻すら起こしたバーサーカーはルーンを掻き消していた。そして――甲冑の下に覗く素肌は、火傷している。

 小さな火傷だ。魔術師の英霊としても現界できるランサーの原初のルーンの魔術を受けて、傷がそれだけ。対魔力ではない、単純に化け物じみた耐久力の成せる現象だ。

 だが効果があった。甲冑にも隙間はあった。なら……遣り様はある。ランサーは自身に向けて進撃してくるバーサーカーを正面から迎撃した。

 

「私と槍の技を競うか、ランサー」

「狂戦士風情が、槍兵の真似事でオレの上を行けるかァ!」

 

 ランサーが足を止め、バーサーカーの槍と競う。どちらが上か、どちらが下か――! 応酬されるは神速の穿孔。尾を引く超速の槍の残像は二、三、四と際限なく増え続けて加速していく。ハッ、ハッ、ハッ――! 狗のように喘ぐ呼吸は魔獣のそれ。速く、疾く、もっと速く! 限界に向けて疾走し敵手を上回り続けろ! 速度でだけは誰にも負けない。疾さにだけ特化させた槍術で先には行かせない――ランサーの矜持を懸けた神域の槍術が唸る。眉間、心臓、水月……穿つは三連、全弾急所。悉くを弾き返し、叩き落とし、バーサーカーを驚嘆させた。威力を捨てた光の御子の槍は、確かにこの身を凌駕していると認めたのだ。

 だがそれがどうしたという。速度の一点で上回られたところで屈するほど戦士の頂きに立つ王者は弱くない。()()()()速さで上回られるからこそ巧さで補う。力で押し込む。交錯する単騎からなる幾千の槍衾の交換は、徐々に白槍を逸らし、躱し、いなすランサーの腕に痺れを蓄積させていく。盛大な舌打ち一つ――クー・フーリンは認めた。()()()()槍技の巧みさで上を行かれ、膂力に於いては遥かに上を行かれている事を。

 

 周囲一帯の砂利を根こそぎ吹き飛ばす嵐。ランサーの槍の全ては威力より速度を重視し、全てに魔術属性が込められている。

 突き出されてくる白槍の側面に朱槍を掠めさせて軌道を逸らし、その瞬間ランサーは完全に腕が痺れる前に地面を蹴った。何度見ても阻害の難しい仕切り直しの緊急離脱、生存に特化した本人の技量は、まんまとバーサーカーの間合いから離脱を成功させ。しかし、

 

「それは二度目だ」

 

 一度見た離脱の業。鮭跳びの秘術。ランサーが跳躍した瞬間に、バーサーカーは海嘯の槍を投じていた。()()()()()()、バーサーカーにとってはそれで十全な応手が打てる。

 だがその鮮やかな追撃など予測済み。ランサーの多芸はバーサーカーにも比肩する。彼の師は言った。戦士としてよりも術師としての才覚の方が上である――その言の正しさを証明するが如く、離脱しながらランサーは自らの魔槍へルーンを刻んでいた。

 魔力の充填率、十割。それは魔力石。ルーンに封じていた魔力をそのまま魔槍へ転写し、間髪上げずにその真名を解放した。

 

「見え透いてんだよ――“突き穿つ死翔の槍(ゲイ・ボルク)”ッ!」

「ヌ――」

 

 白槍は投げ放たれた呪いの槍に敗れ去り、弾き飛ばされ虚空を舞う。槍の投擲術ではオレが上だと言わんばかりの全力投擲は、迎撃のために防禦体勢を取ったバーサーカーの甲冑に激突した。

 両腕を交差させ、槍の穂先を受け止める。その呪が心臓を穿たんと突き進むのに、僅かに後退させられながらもバーサーカーは耐え切った。地面を踏み抜き、魔槍の突破力を完全に殺す。魔槍は心臓を穿てず、秘めた魔力を爆散させ周囲を吹き飛ばした。敗北した魔槍は虚空に舞い――

 

「来い!」

 

 両雄が同時に命じ、それぞれの魔槍が担い手の手に収まる。着地したランサーの顔に屈辱はない。防がれると分かっていた。狙ったのは追撃断ちと、一つのルーンによる撹乱。バーサーカーは舌打ちした。甲冑には傷一つ無い、だがその関節部が微かに劣化していた。

 人理に属する武具には無敵でも、魔術に対してはそうではない。甲冑の硬度が下げられた――この時、バーサーカーの顔に過ったのは、憤怒に塗れた称賛。

 

「賛辞を受け取れ。よもやこの私と凌ぎ合い、我が勲へ害を成すとは」

「ハッ……よく言うぜ。こちとら腕がビリビリしてやがるってのに涼しい顔しやがってよ。――だがその賛辞は受け取ろう。オレにとっては誉れだ」

 

 戦士と戦士は、互いを称え合う。そして、だからこそ殺す。戦士の賛辞とはそのまま殺意に繋がるのだ。両雄は刹那の膠着の間を崩し、再度激突した。

 今度は互いに足を止めての凌ぎ合いではない。ランサーが走る。駆ける。疾走する。縦横無尽に馳せるランサーは攻撃的に防禦に回った。痺れた腕が回復するまで凌ぎ切れなければ敗れるのは己だと確信している故に。そしてそうと知るからこそバーサーカーにはもはや遠慮はない。

 厄介な属性魔術のルーンのみを回避し、槍で撃ち落とし、他の全ては防ぎもしない。甲冑に突き当たるのに任せ、己は只管に猛攻に出る。

 

 こうなると追い詰められるのはランサーだ。先刻のそれは、戦士としての腕試し。ランサーの土俵でバーサーカーが付き合った――謂わば胸を貸していたのだ。

 殺りに行くバーサーカーは武人としての防禦を捨てる。何故なら己の甲冑が全てを弾くからだ。攻勢に専心する巨雄にランサーは押される。脚を止めた瞬間に死ぬ。それが解る。腕の痺れが後僅かで回復するところまで逃れても、さらなる豪撃を()()()()()神域の頂にある術がランサーの快癒を許さない。

 次第にランサーは追い詰められた。逃れる軌道を制限するバーサーカーの武芸に、ランサーは息苦しさに吼えた。だが遂に捉えられ、ランサーはバーサーカーの体当たり(チャージ)に弾かれ転倒する。瞬時に跳ね起きるランサーの胴の真ん中へ白き魔槍が突き放たれ――その身を穿つ瞬間、今の今まで回復に努めていたセイバーが介入する。

 

「ハァァッ――!」

「――ッ!」

 

 ちり、とうなじの産毛が逆立つ感覚に、ランサーへのトドメを中断したバーサーカーが槍を真上に跳ね上げる。膂力に物を言わせた強引な軌道修正により、頭上より振り下ろされた剣撃を阻む。

 着地したセイバーが裂帛の気合と共に風王結界を放つ。一瞬顕わになる黄金の聖剣。セイバー自身の桁外れの魔力放出と合わさり、その一撃はバーサーカーをも吹き飛ばした。

 

 たたらを踏んで体勢を立て直すバーサーカーに、ランサーとセイバーが同時に掛かる――が、結託したわけではない。ランサーはこめかみに青筋を浮き上がらせ激怒しバーサーカーへ駆けつつ朱槍を見舞う。

 

「邪魔すんじゃねぇ……!」

「ほざくな、槍兵ッ!」

 

 自身に振るわれた槍をセイバーは見もせず、勘に任せ薙いだ不可視の剣で払い、火花に横顔を照らされながらそのままバーサーカーへ斬り掛かる。

 槍兵もまた忌々しい想いを抱えたまま、セイバー諸共にバーサーカーを火のルーンで焼き払う。だが、セイバーの対魔力を貫くには至らない。バーサーカーは多少の火傷など歯牙にもかけない。三騎は互いの隙を喰らい合い、バーサーカーとの決着に執着するランサーの胸をセイバーの剣が浅く裂き、セイバーを邪魔者と見做すランサーの槍がその秀麗な美貌に擦過傷を与え――返す刀で自身に振るわれたセイバーの剣と、甲冑の隙間を狙って突かれた槍を、バーサーカーは白槍を捨て空となった両手で掴んだ。

 

「ッッッ!?」

「チィ……!」

 

「――視えぬ剣、確かに刃渡りを見て取った。そして足を止めたな、ランサー」

 

 バーサーカーはその掌に裂傷が刻まれるのにも構わず、セイバーの聖剣を払うように手を滑らせ刃渡りを掌握。同時に槍を掴まれ足を止めたランサーに前足刀を見舞い水月を穿った。ランサーは吐瀉を撒き散らし、肋骨が砕ける音を聞きながら礫のように弾け跳ぶ。

 

「返すぞ」

 

 そこへランサーの魔槍を腕の振りだけで擲ち、

 

「ああ。見事な闘志だった」

 

 もはや風王結界で聖剣を隠す意義を失くしたセイバーが風王鉄槌(ストライク・エア)を撃ち出すのを、半身になって躱し様に魔法のように自らの手へ白槍を掴んでいたバーサーカーは得物を薙ぎ、その柄で胴を打ち据えられたセイバーが苦悶する。さらに追撃に蹴撃を放ったバーサーカーの一撃に、セイバーの華奢な体躯が宙に舞った。

 「ぐ、」明滅するセイバーの意識。今度こそ仕留めんと魔槍を扱く戦士の王、本能的に虚空で身を捻ったセイバーの左肩を、白槍の穂先が貫き串刺す。槍を振るいセイバーが地面に叩きつけられ、身動きの取れない騎士王を魔槍が貫かんと馳せた――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――自身を灼く火のルーンを掻き消さんと魔槍を旋回させた時、士郎はその風圧で吹き飛ばされていた。その直前、士郎は傍らの桜を抱き締め、咄嗟に庇っていた。

 そのせいだろう。十メートル以上飛び、受け身も取れずに地面に叩きつけられた士郎は、頭から流血して意識を混濁とさせていた。

 

「っ……。先、輩……? ぁ……ぁあ、あああ」

 

 自身に縋りつき、絶望して嗚咽を漏らす桜には、士郎が死んだように見えて。

 絶望する。絶望する。絶望する。

 暗い影が、蠢いた。()()()()()()()()()()()()()()を知覚する。置換する。

 ()()()()()()

 

 泣くな、桜……俺は、大丈夫――

 

 そう、声を掛けようとした士郎の脳裏に。聞こえるはずのない声が響いた。

 

 

 

「―――我が骨子は捻じれ狂う(Iamtheboneofmysword.)

 

 

 

 其れは、遥か彼方に陣取る弓兵の呪文。なぜ聞こえたのか――それが破滅的な破壊を齎すと直感し。無意識に、士郎は令呪を切る。逃げろ、セイバー ――

 

「―――“偽・螺旋剣(カラドボルク)”」

 

 飛来するは螺旋の矢。投影されし虹霓。空間ごと捩じ切る超遠距離射撃。

 巧みにバーサーカーとランサー、セイバーを巻き込む一網打尽の刃。

 

 だが弁えよ、漁夫の利を狙う不届き者。利を攫う一手は通じない。

 バーサーカーが感知する。第六感が察知する。振り向き様に、超絶の視力が己を見据えたのを知った弓兵は、何を思ったか。白槍が、返礼とばかりに投じられた。

 

「“鉦を穿つか、地鳴らしの槍(エノシガイオス・トリアイナ)”――!」

 

 そして、一瞬の遅れが自身をも灼く脅威の破壊を事前に摘み取る。

 

「見事な奇襲だ。だが、効かん。――射殺す百頭(ナイン・ライブズ)

 

 投影宝具による「壊れた幻想」は、バーサーカーの甲冑の護りを突破し得る。それと識っていた訳ではない。だが先天性の心眼はその危険を察知していた。

 故に放たれる徒手空拳の技巧型宝具。予備動作なく繰り出されたそれは、自身に螺旋の剣矢が着弾する前に、空間轢殺の力ごと粉砕した。

 

 弓兵は、遥か彼方にいるはずの自分へ投じられた魔槍の真名解放を防ぎ切れたのか、否か。

 

 だが、知る必要はない。

 

 

 

 ――アイルランドの光の御子は、片膝をついて血反吐を吐き。

 

 ブリテンの騎士王は、令呪で転移させられ士郎の傍で落ちそうな意識を懸命に繋ぎ止めている。

 

 

 

「――あは。やっぱり、バーサーカーが一番強いわ!」

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()小聖杯の少女が、勝利を確信した。

 

「いいわよ。そのまま殺しちゃいなさい!」

 

 そして、黒い影が、夜の闇の中に蠢動し。()()()()()

 更地となった間桐邸を眺め、嗤う傲岸不遜なる原初の王が来る。

 

 戦争は終わっていない。

 

 “聖杯”戦争が、始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 



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十二夜 嵐を告げる

 

 

 

 

 

「いいわよ。そのまま殺しちゃいなさい!」

 

 哄笑は慟哭にも聞こえ、うねりの凪がぬ激情が殺害命令をくだした時――徒手空拳となった狂戦士は、自らの投じた海嘯の魔槍が狙撃手を捉えたのを目視していた。

 その際、七枚の円環が具現化したのに目を細める。

 アイアスの盾だと、と。呻く様に呟いた。紅い外套の弓兵、いつか見た紅いコートの少女。遠くのビルの屋上に立っていた主従を睨む。

 盟友の娘にして己の亡き後にオリンピアの盾となった、誇り高き戦士の長。その宝具は王妃メディアの魔術が施された大盾と、アイアス自身の血を以て成る花弁の守護だ。自身の魔槍を防いでのけたアレは、オリジナルとは形状からして異なる。まるで自身に合わせて改造したような印象を受け、事実その通りなのだろう。

 甚だ不愉快である。アイアスの盾が後世に引き継がれたという伝承はどこにも存在しない。にも関わらずそれを所持し、あまつさえ原型を留めない改造を施したあの弓兵は何者なのか。――いや先程の剣の弾丸。宝具を矢にし、使い捨てた? ……そして盾をどこから持ち出したのか。何処にも持っていなかったはず。であればあれは、あの弓兵が作り上げた幻想か? 異能……魔術による複製品、劣悪な贋作である。

 

 あの男は贋作者か。

 

 英霊の誇りである宝具を使い捨てる在り様……憤怒が沸き立つ。己が槍兵の座に在ったならあんな紛い物など弓兵ごと砕いてやれたものを……。飛翔して戻る白亜の魔槍を掴み取り、バーサーカーはかぶりを振った。今はただマスターの令呪(オーダー)に従わねばならない。

 

 内臓は破損し、打撃の威力で脚は鈍った。だが戦闘の続行は可能だと槍兵は立ち上がる。だが手傷を負い機動力を損なわせた槍兵に何が出来る。

 ふらつきながら立ち上がった剣士が頭を振って意識を明瞭にし、気絶した士郎を抱き嗚咽する桜を叱咤する。マスターを連れて逃げてください、と。賢明だ……だが、悲しいほど無意味だ。

 

「サクラでしたか。マスターはまだ、生きています。サーヴァントとしての繋がりがある私には分かる。私のマスターを連れて逃げてください」

「え……? 先輩、生きて……?」

「早くッ! 私がまだ戦える内に!」

「は、はいッ!」

 

 絶望に暮れていた桜はセイバーの叱声に肩を跳ね、慕っている少年の命が失われていない事に安堵しながら、少年の腕を肩に回して抱き起こすと、士郎の足を引き摺る形で懸命に逃げ出した。

 だが遅い。人並みの域を出ない体力の少女では、自身よりも体重があり意識のない少年を連れて逃げるのには手間が掛かりすぎる。十メートルと行かない内に汗を滲ませる桜の逃げ足の遅さに、セイバーは苛立ちを抑えねばならなかった。

 彼らが逃げ延びるまでの時を、自分は稼げるだろうか。絶体絶命の危機をマスターの令呪に救われはしたが、現状は最悪としか言えない。自分は此処で斃れるだろう。

 せめて、マスターだけは生き残らせる。それが召喚されていながら彼らの危機を払えなかった自分の役目だ。セイバーはそう覚悟を決める。聖剣を使えば、まだ勝機はあるはずだとも自身に言い聞かせ。

 

「……ふぅん。逃げるんだ? 可愛いわね。逃げられるとでも思ってるのかしら?」

 

 嘲笑だ。健気にもサーヴァントの務めを果たそうとする騎士王に、イリヤスフィールは出来る訳がないと――逃がす訳がないと嘲り笑う。

 第四次聖杯戦争の折、守り切る事が出来なかったアインツベルンの姫アイリスフィールの娘に肯定を返すのは躊躇われるが、それでもセイバーは毅然と応じた。

 

「無論、我が全霊に懸けて逃してみせよう。私のマスターは元より、サクラもまた自身のサーヴァントを失ってまでマスターを救った。ならば私には彼女を救うべき恩義がある。悪いが……我がマスターとその同盟者が撤退するまで、私に付き合ってもらうぞ」

「―――え?」

 

 その言葉はセイバーの意図せぬ形で、イリヤスフィールに冷や水を浴びせた。

 瞬間的に激情の熾り火が鎮火される。少女は呆然と、セイバーを見る。その表情に、セイバーは怪訝なものを感じた。

 この場での覇者である彼女が、どうしてそうも困惑したのか、まるで理解できなかったのだ。自分の言葉には何もおかしな所はない。何処に反応した?

 

「あの子の……間桐のサーヴァントが、脱落してるの?」

「……? バーサーカーのマスター、貴女は知らないのか? ライダーはランサーに斃されたと聞く。そうだな、ランサー」

「斃した敵の話を蒸し返すのは嫌味臭くて好きじゃねえんだがな。何せどう言い繕った所で『誰それを打ち倒した自分は強いんです』ってな具合の自慢にしかならねえ」

 

 よっぽどの大物を仕留めたんでもない限りは自分からは言わねえよ。そういうのは詩人共の仕事だ。――そう返すランサーは、さり気なく自身への応急処置を施している。会話にかこつけて時間を稼ぐ傍らだ。抜け目のない事である。それにバーサーカーは手を出さない。イリヤスフィールの――マスターの邪魔はしない。

 

「――――」

 

 暗に。しかし分かり易く肯定の意志を示したランサーに嘘の気配はない。そしてイリヤスフィールは、単純明快に見えるランサーの性格上、見栄を張り虚偽の戦績を口にする事はないと感じていた。

 故にイリヤスフィールは自身の裡に意識を向ける。そして()()()()()()()()()()()()()空の器を認識して、失望も露わにランサーを()めつけた。

 

「――うそ。小聖杯(わたし)の中に、ライダーがいないわ。……このわたしにくだらない嘘を吐くなんて……ライダーどころかサーヴァントの一騎も倒してないじゃない。見下げ果てたわ、ランサー。貴方、とんだ詐欺師ね」

「あ?」

 

 嘲り嗤われながら弾劾されて、ランサーは殺気立つ。当然だ、誇り高い戦士であるランサーは、自身の斃した敵を偽らない。敵を屠った事を誇りこそすれ、どうしてそれを偽ろうか。そんな恥知らずな真似などするはずもない。

 セイバーはアインツベルンを知る。彼女の役割を知る。故にイリヤスフィールの断定に、セイバーは理解できる余地があった。そしてランサーは魔槍の真名を解放しているのを見た。魔槍ゲイ・ボルク……因果逆転の槍。それを担う彼こそはクー・フーリン、アイルランドの光の御子だ。その彼が嘘を吐くわけがないとも信じられる。だからこそ――セイバーは、嫌な予感に体が震えそうになった。

 

 言語化の難しい、筆舌に尽くし難い悪寒を裏付けるように、バーサーカーが言う。

 

「マスターが失礼した。許せ、ランサー。私は貴様の勲を信じよう」

「チッ……」

「……バーサーカー?」

「アレは戦士だ、マスター。誇り高き彼の戦士が、自らの勲に謙虚さを示す事はあれ、偽るなど有り得ん。であれば事実として、ランサーはライダーを屠ったのだろう。そうでないなら、斃したと誤認させられ欺かれたのではないか?」

「それは無い。ライダーの奴の心臓を、オレはこの槍に懸けて貫いた」

「魔槍ゲイ・ボルクに貫かれたのなら、なるほど確かに死は避けられまい。だが死した後に蘇る類の宝具を持っていたとすればどうだ。クラス・ライダーのサーヴァントは、多彩かつ強力な宝具を持つ事で知られるという。貴様はそれでもライダーを仕留めたと確言できるのか?」

「出来る。ライダーは石化の魔眼を使って来やがった。女で、騎兵の座に据えられる奴ともなれば、その真名は女怪メドゥーサだろうよ。あの女怪に死んだ後に復活する宝具があるなんざ、英霊どもの座に在る誰も聞いた事がねえはずだ」

「……メドゥーサ?」

 

 告げられた真名に、バーサーカーは瞠目する。そして暫しの沈思の後、呻くように呟いた。誰にも聞こえない、囁くような嘆きを溢す。

 (お前も喚ばれていたのか。よもやこの私との対峙を待たずして去るとは……いや、マタルヒスでないなら、ランサーを相手によく戦ったと讃えるべきだな)

 メドゥーサとクー・フーリンの相性の悪さは絶望的だ。故にかぶりを振り、邂逅の叶わなかった腹心、その前身とも言える女の敗北を惜しむ。しかしそれでランサーへの怒りを覚える事はない。仇とも思わない。

 英霊は、死者だ。生前で別れは済ませている。ならば何を悔やもうか。自身の主を逃がすために戦い、果てたのならその勲を讃えよう。相手がランサーであれば、卑劣な騙し討ちなどはなかったに違いないのだから。

 

「解せんな。我がマスターは聖杯を預かるアインツベルンの姫。故にこそ貴様を疑ったのだ、ランサー。マスターはサーヴァントの脱落の有無を知る術がある。にも関わらずライダーは脱落していないと感じているのだ。そうだな、マスター?」

「……ええ、そうよ。バーサーカーの言う通り。ほんとうにライダーを斃したのね、ランサー」

「言ったろ。この槍に懸けて確かに奴の心臓を貰い受けた。ああ――新たに禁戒(ゲッシュ)でも立てて誓っても良い」

「あの英霊クー・フーリンが、ゲッシュを持ち出してまで言うなら信じるしかないわ。じゃあ、なんで……」

 

 異常事態である。この瞬間、イリヤスフィールは冷静になった。冷静になれたのは、士郎が視界から見えなくなったからでもあるだろう。

 彼女の使命である脱落したサーヴァントの魂、その回収が成せていないのだ。そんな中で敵サーヴァントを殺す事は下策である。なんでと考え込む声に、

 

 答える声が、あった。

 

 

 

「――何を惑う、人形。貴様の裡にサーヴァントが無いのであれば、答えは一つしかあるまい。溢れた水を汲む器に(みず)が流れぬのであれば、すなわち()()()()()()()のであろうよ」

 

 

 

「ッ――! 誰!?」

 

 瓦礫の山となり、更地と化した間桐邸。それを踏み躙るかの如く、嘯く声が玲瓏なる調を響かせる。

 第三者の闖入に、ランサーとセイバーは同時に背後を振り返った。そしてセイバーの眼が驚愕に見開かれる。それは、その男を知るが故。そして彼女が知り得る限り最も危険な金色の男が、無造作に逃げたはずの桜と士郎を地面に放り投げた為である。

 地面に倒れる二人に意識はない。喜悦に滲む美貌の半神は、凄絶な視線を狂戦士に向けた。セイバーに目もくれず、ランサーの剣呑な目を意に介さない。

 

 肉体の黄金比は完全。超越者の威風を呼吸する。黄金の鎧を纏い、()()()()狂戦士のみを視界に収めていた。

 バーサーカーは軽く顎を引く。

 

「貴様か」

「ああ、(オレ)だ」

「なんのつもりで顔を出したのかは知らん。問う気もない。だが弁えていなかったらしいな。――私は次に(まみ)えた時、貴様を殺すつもりでいた。そしてそれは貴様も同様のはず。であれば此処で決戦とする気でいるのか?」

「ハ。面白くもない冗談だ、ヘラクレス。貴様とこの我の戦いは、余人の介在する余地のない至高の戦となろう。有象無象の雑種共を間引かぬ内に、なぜそうも死に急ぐ?」

 

 両雄の遣り取りは、不倶戴天の宿敵を見る激しくも静かな殺意が交わされる。瞳を揺らして、イリヤスフィールが問いを投げた。問わずにはいられなかった。

 

「ば、バーサーカー……アイツ、何? わたしはあんな奴知らない! アイツはいったいなんなの!?」

「さてな。前回か、それとも前々回か。いずれにしろ聖杯によってであろうが、受肉したサーヴァントだろう。奴は私と同じ半神半人、それも王たる者なのであろう」

 

 流石に真名は分からない。だが期せずして一時の休戦が成っている今、セイバーは士郎と桜の身を案じつつも下手に動けなかった。あの黄金の王が士郎らの間近にいるためである。故に、バーサーカーの言に愕然とした。

 第四次聖杯戦争に於いて弓兵の座に据えられていたサーヴァントが――遂にセイバーが倒せなかった……いや、有り体に言って敗北させられようとしていた強敵が、受肉して現在まで現世に留まっていたとは。黄金のアーチャーは否定しない、クツクツと機嫌よく嗤う。

 

「流石の慧眼、とでも言ってやろう。しかしこの我の面貌は見知らぬらしい。そのような蒙昧、本来生かしておく価値すら無いが……よい。どのみち早いか遅いかだ。この場では目溢ししてやるぞ、戦士王」

「好きに囀るがいい。――それで? 貴様はなんのつもりで顔を見せた。まさか戯れのつもりではあるまいが、そうであるなら望み通り戯れてやろう」

()くな――そう言ったはず。余りくどいようであれば我の慈悲も底を突くぞ? よもや子守をしながら我と矛を交えるつもりか?」

「―――」

 

 バーサーカーは背後に庇ったマスターを一瞥する。邪魔だとも、荷物だとも感じはしない。

 自身の管轄下にないサーヴァントに怯えているイリヤスフィールの揺れる瞳に、バーサーカーは兜の下で微笑みかけた。それは、彼を信頼する少女に無限の安堵を与える。

 落ち着いて、深呼吸する。もはやこの場に於いて、士郎に対する殺意も癇癪に等しい激情も無い。完全に常の余裕を取り戻した。

 

「マスターが望むのなら、私は奴を排除しよう。どうする?」

「――令呪は取り消すわ。今はそれどころじゃないもの。あのサーヴァントには、聞かなくちゃならない事があるから」

「了解した。迎撃の必要がない限り、命令無く動く事はない。望むままに振る舞うと良い、私はマスターを何に替えてでも守り抜こう」

「……ありがとう」

 

 イリヤスフィールはポツリと溢す。そして黄金のサーヴァントに問い掛けた。

 

「貴方は、何? ……いいえ、違うわ。そんな事はどうでもいい。()()()()()()()()? ライダーの魂が何処に行ったのか、知っているのよね。アインツベルンの聖杯の役目を奪う奴は誰?」

「知ってどうする? 娘」

「殺すわ」

 

 鷹揚に構える黄金の英霊は、答えなど分かっているであろうに反駁し、そしてイリヤスフィールは端的に告げた。

 すると裂けるように黄金の王は嗤った。その言葉が聞きたかったとでも言うように。睨みつけてくる少女にはもう何も答えない。ただただ不吉に嗤うのみ。

 しびれを切らし、セイバーが進み出た。

 

「アーチャー。私のマスターと、サクラを返してもらおう」

「セイバーか。この場でなければ再会を祝すつもりだったが……まあよかろう。雑種の血を我との婚儀に手向けるのもいいが、それは無粋だ。今は要らん、何時の世も催す祭事に華は不可欠、貴様にはこの我の主催する祭りに舞う華となってもらわねばならん」

「何を……言っている……?」

「解らずともよい。そら、返すぞ。受け取れ」

 

 第四次聖杯戦争のアーチャーは、意味深に嘯く。背筋が凍る思いでそれを聞く騎士王の反問にも答えずに、王は衛宮士郎の腕を掴むと無造作に投げ放った。

 それは士郎の腕を脱臼させる威力である。痛みに呻き、目を覚ました士郎を抱き留めたセイバーは、マスターの無事を案じながらも黄金の王を睨んだ。無体な扱いに殺気を放つも、彼はどこ吹く風である。

 

「痛ゥ……!」

「マスター!」

 

 士郎は目を開き、自身を支えるセイバーに気づくと、慌てて周囲を見渡した。

 そして何よりも先に、黄金のサーヴァントに抱かれている少女を見咎めて叫んだ。

 

「桜! ……テメェ! 桜を離しやがれ!」

 

 黄金の王は魔天の太陽の如く禍々しく嗤った。嗤った。嘲りと共に。

 

「雑種風情が、誰の赦しを得て我を見ている? ああ、この娘は返さん。我の物だ」

「なんだと……!?」

「――そう、そういう事」

 

 激怒する士郎よりも、なお底冷えする殺意が、イリヤスフィールから放たれる。

 それは明確な殺意。彼女は理解したのだ。

 不届き者が、何者かを。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()のね」

「フ。理解が遅い。が、正解だ。我はこの娘を回収しに来たのみよ。まあ、もののついでだがな。そして……これから面白くなる」

 

 白い少女は、真っ直ぐに黄金のアーチャーを睨んだ。それを流し、彼はバーサーカーに念を押す。

 彼にとって警戒に値するのは彼の大英雄のみ。ヘラクレスにのみ、王――ギルガメッシュは欠片ほどの慢心も、油断もしない。理性がないならその限りでもなかったのだろうが、彼には理性があるのだ。

 

「我を追うな。下手に手出ししようものなら――我は貴様のマスターごと、この場を灰燼に帰すだろう」

「―――」

「ハッタリと思うなら好きにせよ。だが我は本気だ。――その小娘を護り切れるか? ギリシャの頂点よ。それから……小僧」

 

 王の牽制は、バーサーカーの足を止めさせた。予感がある。あの男は本気だと。そして守り切れると断言するには、真名の分からない半神相手には危険な驕りとなる。無論我が身に替えてでも守り抜く覚悟はあるし自信もあるが、マスターの命令無くリスクを冒せはしない。

 真紅の視線を向けられ、士郎は唇を噛む。深い怒りが彼を奮起させていた。

 

「この娘を取り返したくば、死に物狂いとなるといい。何もかもを燃やし尽くす覚悟もなく、我の手から下賜する物など何もない。資格を示せよ、さすれば褒美の一つでも弾むやもしれんぞ?」

「うるさい……! テメェ、桜に手を出したらただじゃおかないからなッ!」

「そうだ、そうやって気を吐け。道化は必要故な? ――は、ははは、ハァ――ハッハハハ!」

 

 哄笑と共に王が背を向ける。仕掛けるか、とバーサーカーは思案するも、その前に、彼は不意に思い出したように言った。

 

「ああ――そういえば、ランサー」

「……あん?」

()()()()()()()()()()()()。我を守り、帰還せよとな」

「なんだと?」

 

 予想だにしてなかったのだろう。静観を決め込んでいたランサーは、彼の言葉に目を剝いた。

 そしてそれは彼だけではない。イリヤスフィールも、セイバーも、そして士郎もまた驚愕し、バーサーカーにすらその表情に漣を立てていた。

 マスターに確認を取ったのだろう。露骨に舌打ちしたランサーが跳躍し、黄金のアーチャーの背後につく。

 

 ――これで、隙を突いての攻撃は叶わなくなった訳だ。

 

 バーサーカーは自身の独断で、あの男を此処で殺さねばならないという予感に駆られた。さもなくば、あの少女、桜ひとりのために無辜の民が大勢死ぬという確信がある。

 しかしイリヤスフィールは手を出すのを迷っている。何が躊躇わせるのか――やはり自分の知らないサーヴァントに対する警戒心だろう。わからないものは、恐ろしい。人の根源的なものなのだ、それは。

 だが士郎がいる。桜ごと始末せんと襲い掛かれば、セイバーが敵に回るだろう。あの黄金のアーチャーを加えた三騎を同時に相手取る危険は、やはり犯せなかった。

 

 最後に、アーチャーは特大の爆弾を落とす。それは誰しもに嵐を確信させる、桁外れの災害の予告であった。

 

 

 

「――嵐を呼ぶ。束の間の安息を最後の晩餐とせよ。大聖杯とやらが、此度の乱を見過ごしはせんだろうからな」

 

 

 

 その予言の意味を真に理解したのは、イリヤスフィールだけだった。顔から血の気を引かせ――彼女が何かを言う前に、彼は高笑いと共に去っていった。

 

 聖杯戦争の元凶達が彼の王の下に集うだろう。そして――正常に聖杯戦争が行われなくなった時。

 

 新たにサーヴァントが現界する。聖杯戦争を進行させるため、裁定者のサーヴァントをも、大聖杯は招くのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ZEROでケイネスが序盤、令呪でランサーに命じた「バーサーカーと共闘しセイバーを倒せ」は、イスカンダルに脅されて取り消したようにマスターの意志次第で取り消せるものと解釈してるのでイリヤスフィールも同じにしてる。なので『鏖殺オーダー』は無くなった。

【速報】冬木オワタ式聖杯戦争開始【悲報】


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十三夜 手を取る姉弟、白の陣営となる

「吹かずとも消えゆく弱々しい残り火(モチベーション)役目を全う(完結)するまで絶えぬよう、必死で抗っているのか……醜い!」

※展開予想はやめて。やめて。モチベで書くタイプの作者的に、予想を書かれるとつらたん。

※エミヤの投影に関しては感想欄で言及しなくてええんやで。というかしないでね。あくまであれは拙作“アルケイデス”の感じ方というだけ。




 

 

 

「桜! クソッ、待ちやがれテメェ――!」

 

 意識がなく、ぐったりとしている間桐桜を肩に担ぎ、連れ去っていく黄金の王。無論座して見送れるほど、衛宮士郎という少年は物分りが良くなく、また諦めが悪かった。ましてや自分のために命まで懸けた大切な後輩の少女を見捨てるなど有り得ない。

 駆け出そうとする少年は無策だ。なんの考えもなく無鉄砲に、敵対する英霊を追おうと云うのである。そんなもの、殺してくださいと言っているようなものだ。セイバーは咄嗟に手を伸ばし、自らのマスターの腕を掴む。

 

「待ってください、マスター。深追いは危険です」

「ッ……! 離せ! ――いや、セイバーも桜を取り戻すのに力を貸し、」

「落ち着いてください。サクラが彼らの手中にある今、下手に追えばサクラが無事に済む保障はありません。追えば戦闘になります。ランサーのマスターと結託しているらしいあの男を相手にして、サクラを巻き込まないで勝利するのは不可能でしょう」

 

 ――ランサーだけでも強敵であるというのに、あの黄金のアーチャーは自身を上回る英霊である。一騎討ちに持ち込んでも確実に勝てるとは言えない。

 

 それに、とセイバーが一瞥したのはイリヤスフィールと、バーサーカーだ。奇しくも休戦状態となっているが、彼らがどう出るか全く想像できない。

 もしもまた戦うとなれば、どのみちセイバーはバーサーカーに敗れ去る。こんな住宅街で聖剣など解放すれば被害は甚大だろう。上手くバーサーカーを空中に押しやり、真上に放つ形で聖剣の真名解放を直撃させられれば勝機はあるが、その状況に運べる自信はなかった。戦力の定かでない、狙撃してきた弓兵がもしもまだ無事で、こちらに加勢してくれればまだ分からないが――希望的観測は控えるべきだ。

 そして、士郎にあれほど殺意を向けたイリヤスフィールが、セイバーの守護を失くした士郎を無事に帰すとも思えない。自分は良いのだ、サーヴァントである自分は脱落しても良い。聖杯は惜しいが、それを手に入れられる望みが薄い以上、それに拘泥してマスターを死なせるわけにはいかない。

 険しい表情のセイバーの視線の向き先に士郎は気づき、自らの召喚したサーヴァントの懸念を察してグッ、と言葉に詰まる。忌々しい思いから、桜が連れ去られた方角を強く睨みつける。己の弱さが不甲斐なかった。悔しかった。何も出来ずに守られて、挙げ句の果てには桜を守ってやることすらできない。あの黄金の英霊と自分自身へ、士郎は強い憤りを覚えて体を震えさせた。

 

 遣る瀬なさに支配されながら、士郎は青い顔で何事かを考え込むイリヤスフィールを見た。

 

 彼女に対して思う事がないと言えば嘘になるだろう。殺されかかったのだ。それに元はと言えば、彼らに殺害予告をされたせいで今の状況がある。もしもイリヤスフィールが居なければ桜は……いや、と士郎はかぶりを振る。

 切嗣の実子らしく、衛宮士郎の義妹に当たるらしい少女。先程の慟哭を聞いてしまえば、責める気になれない。

 

 ――通常の感性の人間なら、例え如何なる事情があっても自分の命を狙い、あまつさえ大事な後輩を攫われる原因となったのなら同情もできないだろう。だが衛宮士郎という少年は、自身の命に価値を見出さない破綻者である。

 

 まだ()()()()()()じゃないか、と改めて思う。こんな子を責める事は、士郎にはとてもじゃないが出来ない。

 愚かしいまでにお人好しなのは分かってはいるが、そもそもイリヤスフィールの因縁は切嗣の……ひいては彼に引き取られた士郎の問題でもある。きっと……責任を取るべき切嗣がいない以上は、自分がなんとかしてやらないといけないだろう。

 

「……なあ、イリヤ」

 

 強く握り締めていた拳を解き、士郎は深く深呼吸して自分を落ち着ける。桜は絶対に取り戻す。その決意を秘め、今は目先の問題を片付けるべきだと自らに言い聞かせた。

 そうして意を決し、セイバーが油断無く剣を構えるのを横目に声を掛ける。すると、イリヤスフィールはぴくりと肩を跳ねさせた。

 

 ・もうやめよう。よく分からないけど戦ってる場合じゃないんだろ?

 ・もう帰ってくれ。俺は戦いたくない。切嗣も俺達が戦う事を望まないと思う。

 

 ――どう言葉を継ぐべきか、考える。しかしどうしたらいいのか分からず瞳を揺らすイリヤスフィールを見ると、小難しい事を考えるのはナンセンスだと思った。

 

「もうやめよう。俺なんかじゃ具体的な事は分からないけどさ、戦ってる場合じゃないんだろ?」

 

 士郎の言葉は、イリヤスフィールの様子を見て、なんとなくそう思っただけの物だ。

 自分の事情的にも戦いは避けたいのだが、イリヤスフィールはもう士郎をどうこうしているだけの余裕がないのではないか。士郎を殺す気でいるのなら、難しい顔をして、深刻な問題に直面したかのような表情をすることもない。

 なぜならバーサーカーは最強である。きっと勝ち残るだろう。なら小難しい事なんてないのだ。敵対者を全員葬り去ればいいだけなのだから。故に敵対している士郎が此処にいる以上、何も考えず斃してしまえばいい。それをしてこないなら、まだ話し合う余地はある。士郎はイリヤスフィールと和解したかったのだ。当初からのスタンスに、士郎は頑迷に拘る。拘らねばならないと思った。

 

 イリヤスフィールは目を見開いた。

 

「……そうだけど、いいの?」

「何がだ?」

「サクラ……だっけ。あの娘が連れて行かれたのって客観的に見てわたしの責任よね? 普通わたしに怒るところなんじゃないの? どうしてくれるんだ、許さない! ってなるんだと思ってたのに……」

 

 あたかも叱られるのを待つ子供のように怯えるイリヤスフィールは、先刻の無慈悲な殺戮を命じた少女とは乖離して視えた。

 いやこの怖がりな一面も、イリヤスフィールの本質なのだろう。普通の女の子のように、叱られるのが怖い……普通の……。

 士郎は、ふっ、と肩から力を抜いて、安心させてやろうとなんとか笑みを浮かべた。といっても、その顔は強張っていて無理をしているのが明白なのだが。

 

「確かにそうかもしれない。けどイリヤがやったわけじゃないだろ。()()()のした事をイリヤのせいにして逃げるのは簡単だ。でもそうじゃない、俺達の()()()()に割って入りやがったアイツが全面的に悪いんだ」

「……え? 聖杯戦争が……兄妹喧嘩……?」

「違うのか? イリヤは俺が気に食わないからやったんだろ。なら、これは喧嘩だ」

 

 無理のある事を言い張ると、イリヤスフィールだけじゃなくセイバーまで驚愕して目を見開いた。バーサーカーだけが、面白いものを見るように目を細めている。

 殺し合いを――士郎はあくまで自衛のつもりだったのだとしても。聖杯戦争の存在を知って、止めなければならないのだと使命感に駆られただけなのだとしても――少なくともイリヤスフィールは、本気で殺そうとしたというのに。士郎はそれを、その殺意を、あくまで怒りを発端にした喧嘩だと称したのだ。バーサーカーがまじまじと士郎の面貌を見詰める。そして不意に、堪えられぬとばかりに大口を開けて呵々と大笑した。

 

「ハ――ハハハッ! お前の負けだ、マスター! 実力はともかく、器量ではその小僧の方が上らしい。ここで要らぬ癇癪を起こそうものなら、それこそ度量を示した小僧に――いや、エミヤシロウに敗北を宣言してしまうようなものだぞ」

「う、うるさい! 何よ……なんでわたしがいつの間にか負けてる事になってるの? わたしがシロウなんかに負けるはずないじゃない!」

「であればどうする?」

「……別にどうもしないわ。だってセイバーを殺しても、また妙な事になったら意味がないし。……だから殺さない。原因が明らかになるまで、シロウは生かしておいてあげる」

 

 顔を真っ赤にしてイリヤスフィールは自身のサーヴァントに怒鳴り返した。いたいけな、普通の少女に戻った……いや、()()()ように。

 故にこそ、その言葉に嘘はないのだろう。バーサーカーが武装を解除する。しかし彼なら素手でもセイバーを叩きのめしてしまえる力がある。油断できないと警戒を解かないセイバーを、士郎は肩に手を置いて窘めるように首を左右に振った。

 

「マスター……」

「いい。イリヤは俺を殺さないって言ってくれたんだ。なら戦う必要なんかないだろ。それと……なんか“マスター”ってのは背中がムズムズするから名前で呼んでくれよ。俺、衛宮士郎って名前があるんだぞ」

「……マスター。いえ、ではシロウと。ええ、この響きの方が私には好ましい。しかしシロウ、どうするつもりですか? イリヤスフィールとバーサーカーと戦わない、それは構いません。しかしいずれは決着をつけねばならない……それが聖杯戦争というものです。変に情を移すような真似をすれば後で辛くなるだけですよ」

 

 セイバーの忠告に、士郎は難しい顔をする。全く知識がないわけではないのだ。桜に教えてもらった。だから彼女の言っている事は分かる。

 だが士郎は、セイバーにも出来れば戦ってほしくはなかった。もちろんそんなことは無理だと頭では理解している。セイバーには今後も世話になるのだろう。何せセイバーの方が士郎よりも数十倍、数百倍は強いのだから。

 だから――士郎は考えるのを一旦やめる。頭の出来はそこまででもない。悪くはないが、彼の日常から逸脱した事態の連続で処理限界を迎えたのだ。だから士郎は、明確な事だけを頭の中に置く。

 

「……分かってる。けどその前に、やる事がある。――桜を取り戻す。後のことは、後に考えるさ」

「………」

 

 セイバーは呆れた。だが、思考を停止して何もかもを投げ出すよりはずっといい。ひとつ頷くと、セイバーは言いそびれていた事を伝える。

 召喚の儀礼として告げるべきもの。されど、少しこの少年の性質を知って、本心から託せる気がしたのだ。その直感を、セイバーは信じた。ランサーの襲撃で言い遅れていたことを、胸に手を当てて厳かに告げる。

 

「――貴方という人は、善性の方のようです。私としてもそのようなマスターを頂けた幸運に感謝したい。シロウ、改めて誓いましょう。我が命運、我が剣を貴方にお預けする。如何様にもお命じください、貴方に降り掛かる如何なる困難も、我が剣に懸けて切り開いてご覧に入れましょう」

「っ? ……は、はは……な、なんか照れるな、それ……」

 

 セイバーの誓いに、士郎は年相応の少年らしく赤面した。しかし、すぐにそんな場合ではないと思考を切り替える。

 士郎は三流以下の魔術使いだ。そんな自分が――サーヴァント同士の戦闘を目にしたからこそ、自分には右も左もわからないのだと自覚する。こんな有様で、どうやったら桜を取り戻せるのか皆目見当もつかない。

 敵の居場所から探す必要があるのだろうが、見つけた後はどうする? 幾らセイバーが強くても、相手にはランサーまで付いている。二対一は厳しいだろう。数の差はそのまま絶望的な戦力差となるのだから。

 

 士郎はイリヤスフィールを見る。イリヤスフィールも、士郎を視ていた。

 

「……なあ、イリヤ」

「いいわよ」

「俺と手を――えっ?」

「シロウと同盟してあげる」

 

 切り出す前に、イリヤスフィールはまさに士郎の言おうとした事を先回りして言う。

 呆気にとられる士郎に代わり、セイバーが訊ねた。

 

「私としては願ったりですが、いいのですかイリヤスフィール」

 

 セイバーはバーサーカーを見た。誰がなんと言おうと、文句なしに“最強”の名を冠するに相応しいサーヴァントを。

 彼が同盟相手となれば、これほど心強いものはない。その強さは文字通り痛いほど感じられた。王として、騎士として歓迎できる。最終的には雌雄を決さねばならないにしても、あのランサーと黄金のアーチャー……特に後者の脅威は、バーサーカーに匹敵していると感じていた。

 故に騎士王として、同盟には賛成である。そして――まだアルトリア・ペンドラゴンが未熟だった頃。剣使いとして純粋無垢に憧れた戦士の王と肩を並べられるかもしれないという状況は、まさしく心が踊るような喜びを彼女に懐かせる。

 

 イリヤスフィールは遊びのない、冷徹な表情で頷く。

 

 士郎への情で絆されたわけではない。いつかは殺してやるという殺意は依然としてあるのだ。だがイリヤスフィールには、母も成した使命を成すという目的がある。

 故に私情よりもそちらを優先するだけだと自分に言い聞かせるのだ。

 

「ええ。ランサーだけなら……ううん、この第五次聖杯戦争に集ったサーヴァント全部が寄って集っても、バーサーカーの敵じゃないわ。でも……アイツ。あの金ぴかだけは分からない。()()()を考えちゃうの。だからアイツを……前回の亡霊を排除するまでは、シロウと同盟するのは悪い策じゃないの。……マキリも見過ごせないしね」

 

 最後はポツリと溢す。士郎は桜を助け出すつもりのようだが、イリヤスフィールは違う。聖杯は自分の役目だ。それを横から掠め取るような真似をしたマキリを、アインツベルンは粛清せねばならない。

 故に殺す。順番が変わっただけで、結果は変わらないのだとイリヤスフィールは思った。その様をバーサーカーは後ろに控えたまま見守る。そして胸中に苦笑と共に溢すのだ。

 

 ――それは下策だ。殺したいなら、何を置いてでも殺すべきだろう。それを選択しなかった時点で……マスター、お前の復讐は終わる。

 

 自身が躊躇いなく成した凄惨な復讐。それを思い返し、バーサーカーは血塗れた道から外れつつあるイリヤスフィールを祝福した。

 無論、自身の成した復讐に、一欠片たりとも後悔はない。だがイリヤスフィールの復讐は、あくまで身内同士の情の縺れから始まっている。その縺れを正せるなら、やめてもいいと思っていた。

 

 故に。

 

 ――私が去った後の事は……エミヤシロウ、貴様に託そう。マスターと共に在れるのは“家族”だけなのだから。

 

「………」

 

 温かな父性に溢れた眼差しに、イリヤスフィールは気づかない。そしてそんな彼を、セイバーはぼんやりとした目で見詰めてしまった。

 頭を振る。イリヤスフィールが不意に冷徹な表情を崩し、挑発的に士郎へ笑い掛けたのだ。

 

「シロウ。わたしを家に案内して」

「……え? イリヤ、俺の家に来るのか?」

「ええ。だってお爺様が言っていたわ。日本人は親しい相手をオモテナシするものなんでしょ? ならエスコートしてもらおうと思って。駄目?」

「駄目じゃないさ」

 

 目をぱちくりとさせ、しかし士郎は微笑んだ。イリヤスフィールが味方になってくれる、これほど心強いものはない。それに()()として、面倒を見てやりたいという思いもあった。

 士郎はイリヤスフィールを自宅に案内する。こうして――冬木最後の聖杯戦争、その核となる“白”の陣営が成立するのだ。

 

 相反する“黒”の敵と再び相まみえ、決着をつけるまで少年と少女、剣士と狂戦士は共闘する。

 

 ――冬木の街を灰燼と帰さしめるか、あるいは被害を最小に留めて終わらせられるかは、全て正義の味方を志す一人の少年に懸かっていた。

 

 そして戦いの果てに、衛宮士郎は理想の前に現実を知るだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 




 ・もうやめよう。よく分からないけど戦ってる場合じゃないんだろ?←拙作選択肢
 ・もう帰ってくれ。俺は戦いたくない。切嗣もこんなこと望まないと思う。←イリヤ、帰る。家に帰り眠っている(セイバー別室)所に何者かの襲撃。死亡。ここまでで三回目のタイガー道場へ。イリヤスフィールがいたら防げる事態だと弟子一号が教えてくれる模様。


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十四夜 正義の対義、黒染めの花(上)

上・中・下の三部。





 

 

 

 

 

 衛宮邸に招かれると、イリヤスフィールは目を輝かせた。

 

「すっごーい! 広ーい! ……わたしの城ほどじゃないけど」

「暮らすには良いが、防衛には向かんな」

「魔術師の工房にも向かないわね。だってこんな構造だと魔力を閉じ込めるなんて無理だもん。外に流れちゃうからあくまで別荘ってところかしら」

 

 夜である故か、灯りがなく肌寒い武家屋敷は侘しい雰囲気を持っている。

 日本独特の建築物であるため物珍しそうに外観を眺め、はしゃぎつつもさらりと自分の拠点ほどではないと評価するイリヤスフィール。

 そして戦士と魔術師としての目線でバーサーカーとイリヤスフィールが酷評し、家主の士郎を微妙な気持ちにさせた。

 防衛には不向きという論に、セイバーまでも否定しない面持ちなのに対し士郎は閉口する。この気持ちをなんと言い表してよいものか今一判然としない。まるで喉へ魚の小骨が刺さっているかのような気分だ。苦し紛れに「そもそも戦いの拠点として想定されてないんだよ」と呟くも、誰も聞いていないらしい。肩を落とす。

 

「……イリヤ、上がる時は靴を脱いでくれ。土足厳禁なんだ」

「そうなの?」

 

 玄関に入ると編み上げのブーツを履いたまま上がろうとするのを制止する。

 するとイリヤスフィールは小首を傾げ、立ったままブーツを脱ごうとしてよろめくのをバーサーカーに支えられた。

 何が気を急かしているのか、イリヤスフィールは淑女らしい振る舞いも忘れて、そのままバーサーカーへ礼も言わずに屋敷の中に駆け込んでいった。

 

「あ、おいイリヤ! 何処に行くんだ?」

「ちょっと探検してくるー!」

「おーい……」

 

 話したいことが山ほどある士郎は呆れながらも、()()()()()()らしいなと思い微苦笑する。

 仕方なさそうに彼女を追おうとする士郎へ、バーサーカーが声を掛けた。

 

「エミヤシロウ」

「……? なんだよ……えっと、バーサーカー? で、いいんだよな……?」

 

 敬語ではないあたり、士郎としてもバーサーカーに隔意がない訳ではない。というより普通に怖い。殴られれば一撃で死ねる。一度彼の脅威を肌で感じた故か本能的な恐怖が士郎を身構えさせ、士郎に目上の存在への態度を忘れさせていた。

 しかし言葉遣い程度で気を悪くするバーサーカーではない。応じて振り向く士郎へ、彼は訝しげに訊ねた。

 

「ああ。家主は貴様なのだろう。住人は貴様だけなのか?」

「……ぁ」

「一人で暮らすには些か広すぎる気がしてな。同居人がいるなら挨拶の一つでもするべきだろう」

 

 言われ、士郎は思い出した。

 藤姉と呼び慕う、冬木の虎である。明日の明朝には必ず顔を出すであろう彼女に、どう彼らの存在を説明したものかと顔を引き攣らせる。

 意外なほど常識的な事を言うバーサーカーに驚く事もできないまま深刻な表情になってしまった。まさか藤姉……藤村大河に聖杯戦争の事を説明できる訳もないのだ。

 絶対に巻き込みたくない。大河は士郎にとって、桜と同じ日常の象徴なのだ。どうするべきか頭を悩ませる士郎へ、バーサーカーは言う。

 

「まさか一人暮らしなのか?」

「あ、いや……夜は一人だけど明日の朝……ほぼ毎日顔を出してくれる人がいる。けど、藤姉は……その人は魔術の事も、聖杯戦争の事も知らないんだ」

「ふむ。……巻き込む意志はないのだな?」

「当たり前だ。ああ、くそっ、なんで忘れてたんだ……」

 

 悪態を吐く士郎へ、バーサーカーは思案するように腕を組む。

 黒服に、オールバックにした髪型と厳つい顔立ち。それらが体格とも合わさって凄まじい威圧感だ。内面から滲む力の塊が、なおのことそれを助長している。 

 バーサーカーはサーヴァントだ。聖杯戦争について、そしてそのマナーとも言うべきルール、暗黙の了解についても護るつもりではある。一般人を巻き込むのは彼としても本意ではない。故に彼はセイバーを一瞥した後に提案した。

 

「ではその件は私に任せるがいい。その者は保護者か?」

「あ、ああ……そのようなもの、だと思う」

 

 保護者? むしろ俺が保護してる気が……と一瞬思うもそれを呑み込む。

 というより、任せろとはどういうつもりなのか。彼の人となりは、それなりに解っているつもりではある。バーサーカーは完全にイリヤスフィールを第一の優先対象とし、彼女の意向と身の安全を何よりも優先するだろう。

 だから悪い企みをするわけではない、とは思う。しかしいまいち信用しきれないのは士郎がサーヴァントに関して多少は理解しているからだ。現代の一般人と対峙して大丈夫だろうかと心配になるのである。主に大河が。

 

「要は聖杯戦争の期間中、その者をこの屋敷に近づけねばよいのだろう。なに、私はこれでも一国を統べた王だ。弁舌にも多少覚えはある。穏便に事を済ませてみせよう」

「なら……頼んでもいいか?」

「任せろと言った。二言はない。ただし、貴様も口裏は合わせよ。私の言を肯定するだけでいい」

「……た、頼む……?」

 

 言い澱んだのはやはり不安だからである。士郎は曖昧に頷きながら踵を返し、今度こそイリヤスフィールを追っていった。そこに居間があるから寛いでてくれと言い残し。

 セイバーは無言で会釈し士郎を追おうとするのだが、それはバーサーカーが止めた。彼としては士郎とイリヤスフィールを二人きりにしたかったのだ。積もる話もあるだろうと察している。例え話がなかったとしても、暫くは水入らずな時間をもうけてやりたかった。幸いにも呼び止める口実はある。たった今、出来た。

 

「待てセイバー。貴様に話がある」

「私に、ですか……? しかし私はシロウに付いていなければ……」

「マスターはマスター同士、サーヴァントはサーヴァント同士だ。話というのは、エミヤシロウの縁者を遠ざける為に口裏を合わせるもの。貴様も無関係ではあるまい」

「……そういう事でしたら、確かに無関係とは言えませんね。シロウの心の安寧も、できる限り護りたい」

 

 セイバーはバーサーカーの誘いに乗る。彼女も良識的なサーヴァントだ。無辜の民を聖杯戦争に巻き込むつもりはない。故に自らのマスターの関係者を巻き込まないためと言われれば否とは言えなかった。

 まさか同盟を組んだばかりの相手を害しはしないだろうと判断する。それでも不安なのだが、イリヤスフィールが士郎を殺すつもりならわざわざ一対一にならずともいい。バーサーカーにセイバー諸共に殺せと命じればそれで済む話だからである。彼我の戦力差について冷静に受け止める度量はセイバーにもあった。

 

 バーサーカー。真名をヘラクレス。改めて彼の面貌を見て、嘗て見たイオラオスの手記の写本にあった肖像画と瓜二つであると再認する。彼の甥が万能の名に恥じぬ才覚の持ち主だったのが窺い知れた。

 剣使いとしての憧れが蘇り、浮足立ちそうな俗な感情をなんとか抑えつつ、セイバーはバーサーカーとの密談を行い、そうして自分達の“設定”を組んでいく。そうしてある程度の話が固まると、セイバーは密かに望んでいた事を最強の戦士に告げた。

 

「あの……バーサーカー。不躾で申し訳ありません。一つお願いがあるのですが、構いませんか?」

「構わんが、何を謙る? 私も貴様もサーヴァントである以上は対等だろう。頼みがあるというなら聞くとも。そして私に出来る事なら叶えよう」

「ありがとうございます。それでは……遍く戦士が憧れ、数多の騎士が憧憬を抱いた偉大な戦士王ヘラクレス。貴方に剣の手ほどきをお願いさせてください」

 

 幼い頃の夢が叶うかもしれないと思い頼み込むと、バーサーカーは一瞬、虚を突かれたように目を見開く。そして何を思い出したのか、懐かしそうに目を細めた。

 頭を下げる騎士王が――どこか未熟だったアイアスを思い出させたのだ。

 偶然だろうが顔立ちも似ている。扱う武器の違いや才能の毛色が違うが、彼女の申し出は在りし日の軌跡を思い起こさせた。だからつい、嬉しくなってしまったのだろう。顔が綻ぶ。

 

「英霊とは不変の存在だ。人々の信仰の形が変わらぬ限りな。故に成長はせんし、進歩もしない。サーヴァントとして現界したとしても、座に戻れば此度の事は全て“記録”にしかならんのだ。それでもやりたいと言うなら付き合おう」

「本当ですかっ! ……あ、いえ、すいません。気が昂ぶってしまい……それから、例え私の剣が限界を迎えていたとしても。技量が上がらないのだとしても。私にとっては、貴方に指南を受けるというのは得難い体験です。ですのでどうか、お気遣いなく」

 

 ――セイバー自身は純粋なサーヴァントではない。特殊な背景故に彼女はある種の“生き霊”として聖杯戦争に招かれている。

 故にセイバーだけは、他の英霊と違い()()()()()のだ。経験が無駄にはならない。単純な思い出作りにはならない。

 もしかすると……戦士としても多くの英雄を育てたヘラクレスの教えを受けられたなら、自分もさらなる高みに至れるかもしれない。その予感がセイバーを奮い立たせた。

 

 月下剣戟。

 

 屋敷の庭に出た二騎のサーヴァントは、剣を持たぬ空手にて空想の鋼を打ち鳴らす。

 憧れた戦士に指南を受けられる、降って湧いた望外の幸運にセイバーは頬を上気させていた。

 彼女をよく知る花の魔術師が視たなら。その様はまるで、剣の道を修め始めた頃の、少女のようですらあると微笑むのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 イリヤスフィールは想像よりずっと健脚だった。中々追いつけず、彼女の足音を追うのに難儀させられたのには驚かされてしまった。

 だがここは衛宮士郎のホームグラウンド。地の利はこちらにあり。イリヤスフィールはなぜか、その走る足を次第に緩めていっているのもあって、士郎は少女に追いつくことに成功した。

 

「ったく、どこまで行く気――」

 

 ようやくイリヤスフィールの背中を視界に捉え、士郎は声を掛けようとして――不意に口を噤んでしまう。

 追いついた小さな背中が、途方に暮れたように佇んでいたから……咄嗟に掛ける言葉を見失ったのだ。

 

 親とはぐれて迷子になったかのような、幼い子供のように立ち尽くす後ろ姿。白い少女が、手に触れると儚く溶けて消えていく雪のように視えた。

 イリヤスフィールは士郎に気づいてはいたのだろう、ゆっくりと振り返る。

 その目から、透明な雫を溢している少女に、士郎はギョッとした。

 なぜ泣いているのか。慌てて駆け寄ると、イリヤスフィールは淡く微笑む。まるで、自分よりも年上の少女のように見えて……一瞬、士郎はその微笑みに魅せられる。

 

「わたし、フクシュウに来たのに。その相手がもういないのって、悲しいね」

「――――」

 

 そして呟かれた言葉は、士郎の耳朶に濃く残された。

 探検と称して嬉々としながら衛宮邸を駆け回ったのは、実は切嗣を探してのものだったのだろう。

 そしてアインツベルンで聞かされていた、切嗣の死を事実であると受け入れてしまった。心の何処かで切嗣が生きていると信じたがっていたからこそ、少女は途方に暮れている。

 

 もう殺す事も――抱き締めてもらう事もできない。掛ける言葉が士郎には見つからなかった。射竦められたように立ち尽くしてしまう士郎を見て、寂しげにイリヤスフィールは冗談を口にした。

 

「わたしの家族、いなくなっちゃった」

「――俺がいるだろ」

 

 咄嗟に返した士郎に冗談の色はない。そしてイリヤスフィールも冗談めいているが、本音なのだろうと感じていた。

 目をぱちくりと瞬かせ、少女はふっくらとした雪のように微笑む。

 

「優しいんだ、シロウは」

「俺は()()なんだ。兄貴は――妹を護るものなんだよ。だから……家族がいなくなったとか言うな。俺はイリヤの前からいなくなったりしない」

「―――そう」

 

 言っている最中に恥ずかしくなったのか、ぶっきらぼうに言う士郎にイリヤスフィールは笑みを深める。

 嬉しいのだろう。切嗣が作った家族――忘れ形見。見失いかけていた大切な何かを、イリヤスフィールは透明な眼差しで見詰め。無色の瞳に、微かな暖かさを灯した。

 士郎の手を取り、令呪を撫でる。そうしながら祈るように自身の両手を士郎の令呪に重ね、蚊の鳴く声で誰にでもなしに囁きかける。

 

()()()()()、死なないでね」

「ああ」

「だって、わたしが殺すんだから。わたし以外に殺されるなんて許さないわ」

「――なんでさ」

 

 そんな冗談笑えないぞと軽く睨む士郎に、イリヤスフィールはころころと笑う。まるで天使のような可憐な笑みに、小悪魔めいたものを感じつつも士郎は見惚れた。

 知り合ってまだ間もないのに。殺そうとしてきた相手を、なんでもないように受け入れられる。その衛宮士郎の歪みは、今のところ二人の関係に良い方へ作用していた。イリヤスフィールは士郎のおかしさに気づけない。対人関係の構築の初心者だから。純粋に、士郎が優しいのだと誤認する。

 ほんとうにお兄ちゃんみたい、とイリヤスフィールは思った。すると、ふと溢してしまう。叶うはずもない夢想を。願いを叶える聖杯の少女ですら、叶える手段のない幻のような光景を――目を細めて、士郎を通して虚空に見る。

 

「キリツグもお母様も、もういないけど――シロウと、バーサーカー。皆ずっと一緒にいられたらいいのにね」

「――――」

「ね、シロウ。わたし、お兄ちゃんのこと好きになっちゃうかもしれないわ」

「……俺は、そういうのはまだ分からない。けど、イリヤを好きになる努力はする」

「正直ね。ま、それもそっか。昨日今日会ったばっかりだし、わたしはシロウを殺そうとしたんだもん。いきなり好きになってもらえる訳ない。……お兄ちゃん、いつか本当のカタチで、わたしの家族になってくれる?」

「ああ。イリヤの事を俺は知らなかったけど、爺さんの子供なら俺の妹だ。なら兄貴として、きちんとイリヤと向き合うよ。イリヤから逃げない。それでいいだろ?」

「うん」

 

 イリヤスフィールは安心したのだろう。ふらりとよろめく。

 一日の内半分は睡眠に当てなくてはならないほど、彼女の体力は少ない。それは彼女自身がそのように設計されて生まれた器だからだ。

 少女の華奢な体を咄嗟に受け止める。具合でも悪いのかと心配する士郎に、イリヤスフィールは言った。

 

「……シロウはわたしに話したい事とか、たくさんあるんだろうけど。ごめん、ちょっと疲れちゃった」

「寝るのか?」

「うん。だから、また明日。朝、一番に……わたしに、()()()()って言ってくれる……?」

「ああ」

「……うん。嬉しいな……とっても……シロウの話は、明日、聞いてあげるから……もう、おやすみなさい……」

「……おやすみ、イリヤ」

「………」

 

 士郎の声に、イリヤスフィールは薄く口元に笑みを刷き、そのまま意識を深く落としていく。最後に何か、イリヤスフィールの魔力が士郎に流れ込んだような気がした。

 なんなのだろう? よく分からないまま首を捻り、未知の感覚に包まれる。

 ――それは、イリヤスフィールの加護。

 聖杯の少女はこの聖杯戦争で士郎が最後まで生き抜く事を願った。ほとんど無いに等しい対魔力しか持ち得ない士郎は、イリヤスフィールの()()()()()()性質の魔力に抗えるはずもなく、あっさりと士郎を護る魔術が全身に浸透したのである。

 

 その日、士郎はぐっすりと眠れた。肉体的なもの、精神的なものも、綺麗に疲労が溶けている。

 

 寝込みを何かが触れてきた気がしたが、翌朝目を覚ました士郎は何も覚えていなかった。

 

 

 ヂ、ヂ、ヂ――と。翅の擦れる音が、苛立たしげに鳴っていた。

 

 

 

 

 



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十五夜 正義の対義、黒染めの花(中)

はたけやま氏より挿絵をいただきました。

【挿絵表示】

これです。漏らす(確信)
はたけやまさん、ありがとうございました!





 

 

 

 ぽと、と。藤村大河は、手に持っていた教材入りの手提げカバンを落とした。

 慣れ親しんだ衛宮邸。もう一つの我が家とも言える場所に顔を出した大河は、まるで自分を待ち構えていたかのように――いや実際に待っていたのだろう男を目にするや、思わず目を見開いて呆然とした。

 二メートルを優に超える体格に、機能性と瞬発力、持久力を兼ね備えた完璧な筋肉を限界まで搭載した偉丈夫。完璧に黒服を着熟し、着苦しさを感じさせない佇まいで黒のネクタイを締めている。嫌味にならない程度にシルバーアクセサリーで手首と首元を飾り、背中まで届く癖のある黒髪を纏めて後ろに撫でつけオールバックにした、武張っていながら理知に富んだ顔立ちと眼差しの巨漢。

 武道に精通した人間なら、その姿を目にした瞬間に本能の核の部分で悟るだろう。勝てないと。今すぐ逃げるべきだと。対峙する事を避け、何を置いても逃げ出すべきだ、と。遍く武道家の目指す精神と力の極致、総ての武術家が理想とするべき武神の領域。其処に到達した人智無踏の武の怪物、武という概念の化身――

 

 大河はしかし、我に返った。

 

 もしもこの男が殺気立ち威圧してきたなら腰砕けになり、身動き一つ取れなくなるところだっただろう。剣道五段、まさに達人とも言うべき腕前の大河をしてである。

 だが男は大河を威圧していない。むしろ理性と精神の巨大さを滲ませた、静謐とした眼差しで大河を見据えていた。彼が軽く会釈をした事で、衛宮邸の玄関を開いたまま固まっていた大河の意識は再起動する。

 

「あ、あの、どちら様でしょうか……?」

 

 彼の存在感が大きすぎる余り、傍らにいる小さな白い少女と、金髪碧眼の少女。そして弟のような間柄である少年を見落としていた。思わず丁寧に訊ねる大河だが、決して下手に出ている訳ではない。社会人である大河は、その気になれば誰にでも態度を改められる。

 ましてや客人は、三人ともが異国の人である。黒髪赤眼の偉丈夫と並べるとちぐはぐな印象を拭えないが、彼ら三人が衛宮邸をどういう縁か訪ねて来たのだろう。無体な事はされていないのは、険しい表情で黙りこくる士郎を見れば解る。彼らをお客様として相対する上で、礼を失した態度を取らない分別は当たり前のように備えていた。

 

「朝早くより失礼する。まず我が主人を紹介しよう。こちらが――」

「イリヤスフィールよ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。タイガ、貴女のことはシロウから聞いてるわ。よろしくね」

「は、はあ……よろしく?」

 

 スカートの裾を掴み、ちょこんと頭を下げるイリヤスフィールの淑女然とした振る舞いと、その名前に大河は目をぱちくりとさせる。

 見るからに良家のお嬢様である。フォン、という名前からそれなりに知識を持つ大河はイリヤスフィールが貴族らしい事を察した。

 

 大河の呆気に取られた表情に、士郎は気まずさを覚える。姉同然の人をこれから騙そうというのだ。危険な戦いに巻き込まないためとはいえ、後ろめたさに気が咎めてしまうのは否めない。

 だが必要なのだ。大河は何も知らない一般人……剣道の腕前がどれほど立っていても魔術やサーヴァントには抵抗できない。割り切るしかないと、改めて気を張る。

 

「彼女はセイバー。……アルトリア・セイバーリンク。アインツベルン家に雇われた近接保護官(クロース・プロテクション・オフィサー)だ」

「お初にお目にかかる。ご紹介に与ったアルトリア・セイバーリンクです。私の事はセイバーとお呼びください」

 

 さらりと真名を変形させたものを告げるセイバーの表情は鉄の硬さだ。本心では不服だが、バーサーカーのサーヴァントであるヘラクレスに、以前の戦闘で聖剣を視られている。風王結界を打ち放った瞬間をだ。

 ランサーは見落としたようだが、もはや超絶の異能が如き眼力と動体視力を持つバーサーカーは見咎めていた。英霊の座に招かれた者なら、その聖剣の輝きを見誤ることはない。故に真名が割れているのだと昨夜に指摘され、セイバーは目眩がする思いに駆られたのは言うまでもないだろう。同盟を組んでいたとしても、できれば手の内は隠しておきたかったのだから。殊更に聖剣エクスカリバーは秘匿しておきたかったのだ。

 

 が、露見しているのなら是非もない。やや苦しい偽名も受け入れた。

 アルトリア・セイバーリンク、そう名乗った彼女は現在、アインツベルンの城から取り寄せられた侍女の白い服を纏っていた。セイバーに与えられた設定は、バーサーカーの告げた通りにアインツベルン家、イリヤスフィールの護衛というもの。

 そして、

 

「私はアルカイオス・ヘラクレイトス。イリヤスフィールお嬢様専属のボディガード、及び世話役だ。セイバーの直接の上役でもある。此度は彼、エミヤシロウに赦しを得てこの屋敷へ滞在している」

 

 アルカイオスとは、人間としての祖父の名だ。アルケイデスが本名だが、彼はアルカイオスとも呼ばれていた事もある。そしてヘラクレイトスという姓、これは冬木をイリヤスフィールと散策した折に目にしたゲーム店、そこで目にしたゲームの主人公の名をもじってつけたものだ。

 この世の何よりも憎悪するヘラの名に、神々を虐殺したクレイトスの名をくっつけただけである。しかしヘラクレイトスという名は実際に存在し、過去に哲学者として名を成している事を彼は知らない。

 

 何やら物々しい名乗りである。大河は紡ぐべき言葉を見つけられず、口をぱくぱくとさせた。だがなんとかして絞り出す。嫌な予感がしたのだ。

 良家のお嬢様に、見るからに腕の立つ近接保護官が二人も付いている。容姿からして外国の人という外見は、日本人的な偏見を彼女に懐かせるには充分なものだった。

 

「……貴方達は、いったい士郎になんの用があるんですか……?」

 

 声が震えず、腹と目に力を込めて問い掛ける大河に、バーサーカーは間を外すように言った。

 

「玄関先で立ち話というのも何だ。奥の方で話したいが、どうだろう」

「いえ、ここで結構です。私は士郎の保護者として早く聞かないといけません」

 

 むくむくと警戒心が沸き起こっているのだろう。何かあれば即座に踵を返し、警察を呼ぶ構えだ。状況の判断が正しい。そして人格者だ。バーサーカーは目を細める。好ましい女性だ、と。士郎は滅多にお目にかかれない極めて真面目な大河の様子に驚くしかないが、これが大人というものかと感心させられる。

 大河の普段の姿を見ていると忘れがちだが、彼女も立派な社会人で――姉貴分の大切な人なのだ。そう再認識するからこそ、騙しきらなくてはならないのである。

 

「そうか。であればこちらとしても話が早い。フジムラタイガ、申し訳ないが貴女には当分の間、この屋敷に近づかないでもらいたい」

「……訳を、聞かせてください。そのまま言われてはいそうですかなんて言えません。ウチの士郎に何か、あったんですか?」

「彼は間接的な立場から、直接的な問題の当事者となった複雑な身の上なのだが……まずは分かり易く説明しよう。こちらのお嬢様、イリヤスフィール嬢はエミヤシロウの養父、エミヤキリツグ氏の実子に当たる」

「――え? 切嗣さんの……お子さん!? この娘がですか!?」

「ええ、そうよタイガ」

 

 青天の霹靂だったのだろう。驚愕してイリヤスフィールを見る大河に、少女は平然と視線を受け止める。

 信じられないと瞠目する大河だが、その事実を呑み込む前にバーサーカーは続けた。

 

「アインツベルン家は現在、本家の方で厄介なお家騒動が起きている。その関係でお嬢様は家を離れキリツグ氏の縁故を頼り来日した」

「どういう事ですか?」

「それは言えない。部外者には口外してはならない事だ」

「私は部外者ではありません。士郎の保護者として知る権利と必要があるはずです」

「無い。キリツグ氏当人とその養子であるエミヤシロウ、ひいてはアインツベルン家の問題だ。保護者ではあってもエミヤ、アインツベルン両家とは縁故の関係ではない貴女が割って入っていいものではないからだ」

 

 にべもなく、有無を言わせぬ威圧感と共に跳ね除けられ、大河はグッと押し黙らされる。論理的に反論できなかったのではない、バーサーカーの威圧に恐怖して舌の根が凍りついてしまったのだ。

 それを見て畳み掛けるようにバーサーカーは言う。

 

「だが何も知らぬままでは収まりがつくまい。故に触りの部分だけは事情をお話ししよう。問題はキリツグ氏の生前の因縁だ」

「き、切嗣さんの、ですか……?」

「そうだ。彼はアインツベルン家に雇われた傭兵だった。その関係で彼は多方面から恨みを買っていてな、現在エミヤシロウはキリツグ氏を恨む人間から付け狙われている」

「え……?」

「命を狙われているのだ。その脅威から護るための我々だとも言える」

「ま、待ってください……! 命を狙われている!? 士郎がですか!? それに切嗣さんはそんなっ、そんな危険な事をするような人じゃ……!」

「彼の半生を、貴女は総て知っているのか?」

「っ……!?」

 

 知らない。知っている訳がない。バーサーカーも知らないが、これは完全にでっちあげたもの。後日、監督役の教会には公的機関への誤魔化し含め、手を回すようにイリヤスフィールの方から話を通す事になるが――切嗣がどんな人間だったかは、故人ゆえに好きにバックストーリーを練って押し付けさせてもらった。

 切嗣個人が実際に恐れられ、恨まれていた凄腕のテロリストだった事など些細な事である。

 大河は愕然とした。話された“一部”の事情に、顔面蒼白になる。バーサーカーの台詞は真に迫っており、説得力を感じさせられたのだ。大河が士郎を見ると、彼は重々しくうなずいて、口惜しげに大河に報告する。

 

「ほんとうだ、藤姉。……俺のせいで、桜が攫われてる」

「さ、桜ちゃんが!? どういう事なの!?」

「既にエミヤシロウは一度、襲われているという事だ。たまたま彼と共に居たマトウサクラは、エミヤシロウの眼前で攫われてしまっている。彼女の救出のために警察も動いている故、通報は無用だ」

「――――」

 

 ふら、と大河は立ちくらみを起こしてよろめいた。壁に手をついて、大河はバーサーカーを見る。次いでセイバーを、イリヤスフィールを見た。そして士郎に心配そうな顔をする。

 

「警察と我々は協力して事に当たっている。最大限エミヤシロウを護る努力はしているが、必要以上に警護の対象を増やす訳にはいかない。有り体に言おう、貴女がこの屋敷に近づけばそれだけ貴女に危険が迫る事になる。そうなればエミヤシロウの心の均衡が崩れ、心労が懸念されるだろう。ただでさえ精神的な負担の大きい事態の渦中にいるのだ、彼のためにも暫く離れていてもらいたいという要求も理解できるはずだ」

「………」

「申し訳ないが譲歩は出来ない。そして貴女の要求も何も聞けない。最悪、私の独断で貴女を無理にでも遠ざける事になる。できれば乱暴な真似はさせないでほしい」

「………」

 

 呆然と、タイガはバーサーカーを見る。

 見るからに堅気ではない男の口にしたお家騒動、そして士郎を襲った問題。それらから、彼女は不穏な想像を掻き立てられている。

 士郎は唇を噛んだ。口を開いてしまえば、何を言ってしまうか分からない。こんな嘘を吐き通す真似は、したくないのだから。

 

 大河はやがて、話の内容を咀嚼したのだろう。事実だと認識し、固い顔で頭を下げるしかないと思い、深々と頭を下げた。

 

「――士郎を、よろしくお願いします」

「ああ」

「桜ちゃんはどうなるんですか?」

「警察機関も密かに身柄の確保、保護を最優先で動いてはいるが、最悪彼女を人質にエミヤシロウの身柄を要求してくる場合も考えられる。無事を保証しても今は空手形になるだろう」

「そんなっ……」

「マトウサクラの救出にも可能な限り全力を尽くす。約束しよう。さあお引き取りを」

「……約束してください。士郎を護ると、桜ちゃんを助けると、でないと帰れません! だって、そんな……二人はまだ子供なんですよ!?」

「解っている。それで気が済むなら……エミヤシロウとマトウサクラを、元の日常に返す事を約束しよう」

「信じます。信じますから、どうか……お願いしますっ」

「っ……」

 

 頭を下げ、必死に頼む大河に、士郎は体を震えさせた。耐えられないと、踵を返してその場から遠ざかった。姉に等しい女性にあんな事をさせるのが耐え難いのだ。

 バーサーカーは大河から目を逸らさない。イリヤスフィールは、何かを想って目を閉じた。良い人ね、と。士郎が人に恵まれている事を理解して――昨夜の出来事を想起する。

 

 何度も頭を下げて、大河は衛宮邸から去っていった。後ろ髪を引かれるように何度も振り返りながら。

 

 それを見送って、セイバーが重々しく口を開く。

 

「――私は命に代えてでも、シロウを守らねばなりませんね」

「……聖杯に代えてでもか?」

「無論。私は聖杯がほしい。しかし、私の願いのためにシロウのご家族を悲しませる訳にはいかない。聖杯かシロウか、そのどちらかを選ばねばならなくなれば、私は迷いなくシロウを取りましょう。聖杯は……また、次の機会を待ちます。それがこの冬木の聖杯でなくても構わない。いずれ必ず手に入れる、私の契約は……聖杯を手に入れるまで続くのですから」

 

 思わず溢したセイバーの因果は、世界との契約だ。バーサーカーはそこから全てを察する事は出来ない。しかし彼女の誓いは尊ぶべきだ。

 士郎とイリヤスフィールの関係を確固なものとすれば、バーサーカーも士郎を手に掛ける必要はないと見ている。故にバーサーカーも、大河が去っていった方を見遣り、ポツリと巌のように固い誓いを口にする。

 

「私もマスターを守ろう。そしてマスターが守りたいものをも護る。――どうやら我々は、真の意味で同志となれそうだ」

「……はい」

 

 セイバーが頷くのに、イリヤスフィールは何も言わなかった。

 復讐、するつもりだったのに。彼女にはもう、そんな気がなくなってしまった。

 

 藤村大河という、士郎を大切に思う人がいる。その事実が、少女の心に小さな波紋を生んでいた。

 

 

 

 

 

 

 士郎は、思う。

 

 自分を孫のようにかわいがってくれる、藤村組の雷画。彼には、せめて自分から話しておこう。――切嗣から続く過去の因縁を、清算すると。

 それは自分にしか出来ない、というわけではないかもしれない。然しそれが彼らを巻き込まない唯一の方法である。

 

 

 



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十六夜 正義の対義、黒染めの花(下)

累計見た今二十二位だったやったー! 感想を書いてくださったみなさん、高評価くださったみなさん、誤字修正で何度もお手間を掛けさせてしまったみなさん、ありがとうございます。作者は嬉しい……もう、ゴールしてもいいよね……? だめ? そんなー。

作者のプロット通りなら、今月末か12月の頭ぐらいにsn完結予定。
続くかは未定。






 

 

 

 当たり前の日常。そこには士郎がいて、大河がいて、桜がいた。

 朝の喧騒、何気ない遣り取り。切嗣から受け継いだ理想を胸に、何をすれば“正義の味方”になれるのか判然としない日々に悶々としながらも、はっきり断言できる確かな幸福がそこにはあったように思う。

 自分が人並みの幸せを甘受している事に、無意識の内に後ろめたさを覚えていても。それだけは、確かだったのだ。

 

 ――桜が攫われた。大河は遠ざけられた。必然として、衛宮士郎の日常は崩壊した。

 

 聖杯戦争。彼女達を欠いた非日常が始まっている。その象徴として、バーサーカーとセイバー、そしてイリヤスフィールが衛宮邸の居間にいた。

 士郎は半ば無意識に複数人分の朝餉の支度をして、物悲しい気分に陥っていた。桜と自分、そして大河の分を作ってしまっていた事で、一時的なものとはいえ彼女らとの離別を強く自覚し暗くなってしまったのだ。

 しかし作ってしまったものは仕方がない。どのみちイリヤスフィールは食事が必須であるし、残すのも勿体無いのでセイバー達サーヴァントにも朝食を供する運びとなるのは自然だった。大河は食い意地を張っているので、三人分のものとしては多目に作っている。衛宮邸の住人が四人になったが不足はないはずだ。

 

「……ほう」

「………」

「へぇ……意外と美味しいわ。まだまだ荒削りだけど、長じたらわたし付きのコックになれるかもね、お兄ちゃん」

 

 白米にワカメと豆腐の味噌汁、だし巻き卵、鮭のみりん漬け、小松菜の煮浸し、蓮根のきんぴら。朝から手の込んだものだが、必然として学校を休む事になった士郎は手間だとは思っていなかった。

 いちいち頷きながら小まめに箸を動かし、出された物を残らず咀嚼していくセイバーと、批評が育ちの良さを感じさせるイリヤスフィール。バーサーカーは最初に呻いたきり、体格的には全く足りないはずなのに満足したように箸を置いていた。口の大きさもこの場では随一である、食事の早さもまたそれに比例したのだろう。早食いなのにそれを感じさせないあたり、戦士であっても王でもある証なのかもしれない。とは言っても士郎に古代ギリシャにおける作法の知識なんてないから、現代の感覚から見て汚い食べ方に感じないだけだったが。

 

「手厳しいなイリヤは。けど今回は有り合わせで作ったからな。採点は夕食まで待ってくれ。今度はイリヤも唸らせてやる」

「錬金術の大家、アインツベルンに向けて強気じゃない。そうまで言うなら楽しみにしておこうかしら」

「? ……なんで錬金術が出てくるんだ?」

「料理も錬金術の一部みたいなものだからよ。魔術世界に於いてアインツベルンに追随する錬金術を修めた家系なんて、ユグドミレニアぐらいのものだし、それだってわたしからすると児戯に等しいわ。そんなわたしをお兄ちゃんみたいなへっぽこ魔術師が満足させられるのかしらね?」

 

 台所で手を洗い、手拭いで水気を取りながら居間に戻る。和食は得意分野だ、一般家庭の範疇なら早々誰かに遅れを取りはしない自信がある。

 へえ、錬金術って料理も含めるのかと思いつつ。挑発的に笑う様子を見て、絶対イリヤは料理なんかしたこと無いなと確信する士郎であった。フィクションのお嬢様キャラクターにありがちな、料理をしようとすると鍋を爆発させたりするようなベタな真似はしないだろうが。

 

「バーサーカーはそれで足りるのか?」

 

 空いていたのでセイバーの横に座る。お行儀よく、品よく咀嚼し、綺麗に食べてくれる健啖家らしいセイバーを横目に、見ていて気持ちよくなる食べっぷりだと満足しつつ――神殿の柱の如き重厚な存在感の巨漢に訊ねる。

 箸を置いてイリヤスフィールやセイバーの食事の光景を眺めていた狂戦士のサーヴァントは、士郎に巌のような視線を向けて重々しく頷く。バーサーカーと比べると、士郎も普通の人間に過ぎない範囲の存在だからか、彼の所作のいちいちに威圧感を感じてしまう。しかし脅威を感じはしても竦みはしない程度には、バーサーカーの存在に慣れる事ができていた。

 

「喰えない事はないが、サーヴァントに食事は不要な物。マスターより供給される魔力だけで現界に差し支えはない。しかし供された物を訳もなく突き返すのも無礼だろう。故に栄養は不要だが、その味を楽しみはする。その点で言えば、私は満足した。称賛を受け取れエミヤシロウ。貴様の腕は、既に私の国に居たあらゆる者を凌駕している」

「そ、そっか……」

 

 手放しに褒め称えられ、悪い気はしない。しかし彼の時代に現代基準での料理と言えるものがあるのか怪しいため、なんとも素直には喜べない気もする。つくづく相手取るのが難しい男だ。

 ちらりとセイバーを見ると、丁度完食したみたいで、箸がお椀の底をカツンと突いていた。ぁ、と物悲しげな声で呟くところを見るに、食べきっていた自覚がなかったのだろう。目に見えて残念そうにするセイバーに、士郎はなんだか微笑ましくなった。訊かなくても分かる、彼女は士郎の料理を堪能してくれたのだ。

 ささやかな喜びを抱くのは、人が喜んでくれたから。献身的な性質の喜びを感じている彼に、不思議なものを見る眼をしていたイリヤスフィールだったが、ふと思い出したように言った。

 

「あ、そうだお兄ちゃん。わたし、此処を拠点にするつもりなんだけど、その代わりに滞在費と食費は払っておくね」

「ん? そんなの要らないぞ。気を遣わなくていい」

「いーの。だってわたしがお金なんか持ってても仕方ないし……バーサーカーがわたしの家を消し飛ばしちゃったから、ほんとうに要らないのよ。アインツベルンの者はもうわたしだけなんだから、財産の所有権はわたしにしかない。だからお兄ちゃんに全部上げる。財産の共有とでも思っておいて」

「は? バーサーカーが家を消した……?」

「マスター、その言には誤りがある。セラとリーゼリットもいるだろう」

「ああ……そういえばいたわね、セラとリズ。放っておくのも可哀想だし、あの子達も呼ぼうかしら?」

 

 訂正するのはそこなのか? 何やら物騒な遣り取りな気がしたが、特に言いたいわけでもないらしく士郎の視線は無視される。突っ込んで聞くのはやめておこうと士郎は自重した。何やら血生臭く陰惨な気配を感じたのだ。

 

 ――イリヤスフィールは、聖杯戦争が終わればどのみち長くは生きられない。だから財源が失われたとはいえ莫大に残っている財産を惜しむ事はない。

 バーサーカーがアインツベルン家の『ラインの黄金』は処分してしまったから、どうあろうとアインツベルンの財産は目減りする一方でもある。故に士郎に全てを上げたいとイリヤスフィールは思ったのだ。

 後日何気なく通帳を開いて、士郎は桁が跳ね上がった貯金残高に目玉が飛び出しそうになるのだが、それはまた別の話である。

 

「それにしても意外だったわ。セイバーって食い意地張っているのね。はしたないわ」

「っ! 心外だ、イリヤスフィール。私はあくまでシロウの出してくれたものを粗末にしないために――」

「あはは嘘くさーい。なにー? そんなに美味しかった? 涎出てるじゃない」

「!?」

「うっそー。騙されてるー!」

「……イリヤスフィール!」

「きゃー! こわーい、助けてバーサーカー!」

 

 キツく声を荒げるセイバーの剣幕に、イリヤスフィールはきゃっきゃと笑って自身のサーヴァントの影に隠れた。バーサーカーは嘆息して窘める。食事のさなかにおいそれと騒ぐものではない、と。

 常識的だ、と士郎は驚いた。そういえば、何かと彼は秩序立った規律を重んじている気がする。見掛けと能力で誤解していたのかもしれない。なんでもかんでも腕力に物を言わせるような荒くれ者が、一国の王として史書にその名を燦然と輝かせるはずもないのに。――実際はその通りな一面もあるが、知らぬが仏とはこの事である。

 そうして食事を終えると、空の食器を持って台所に行く。士郎が洗い物を終え、元の位置に腰を下ろすと時計を見た。……平日である。本来なら着替えて登校していなければならない時間帯だが、士郎はサボる事にしていた。桜が攫われているというのに、呑気に学生として過ごしていられない。元の日常を取り戻すためにも今は、

 

「――皆、俺は桜を助けたい。協力してくれ」

 

 間桐桜を取り戻す。彼女の居ない日常なんて、考えられない。

 

 セイバーとイリヤスフィール、そしてバーサーカーの顔を見渡して、士郎は切り出した。そこに先程までの和気藹々とした雰囲気はない。

 悪ふざけしていたイリヤスフィールも幼気な佇まいを掻き消し、氷のように冷たく冴えた表情で士郎を見返した。バーサーカーとセイバーは口を噤む。サーヴァントとしてマスターの意向を優先する構えだ。セイバーは無条件に協力してくれるだろうから、頼むべきはイリヤスフィールである。

 

「いいんじゃない? シロウが助けたいんなら、そうしたらいいわ」

「手を貸してくれるのか?」

「手を貸す貸さないは別として、どのみちサクラはあの金ぴかの手の内よ。ならわたしとバーサーカーは金ぴかをどのみち殺すんだし、必然的にサクラを助けようとするシロウの手助けをする事になる。だからシロウは協力を要請するんじゃなくて、金ぴかとサクラ、ついでにランサーがどこにいるか一緒に探してくれって頼めばいいの。戦うのは同じなんだから」

「……そうだな。そもそもどこにいるかも分からないんじゃあ手の打ちようがない」

「だから、まずはランサーのマスターを探す所から始めるべきね。――後、マキリも捕まえなくちゃ」

「マキリ?」

「マトウの事よ。あそこの家が御三家の一角なのは知ってるわよね? 初代はマキリって名前で、日本に来て間桐って名前に変えたのよ。聖杯の役目を掠め取った奴なんてソイツしか考えられないし……金ぴかとランサーのマスターが結託してて、金ぴかがサクラを連れ去ったんならマキリが裏にいてもおかしくない。だからマキリも探さないといけないわ。……でもマキリの家、今はもう更地になっちゃったから……」

「御三家……あ、じゃあ遠坂も、もしかして聖杯戦争に関わってるのか……?」

 

 今更のように思い出した士郎に、イリヤスフィールは呆れた風に首を左右に振った。

 

「リンはほっといてもいいわよ。話してみた感じだけど、こんな回りくどい事に関わりそうには見えなかったもの」

「遠坂と知り合いなのか、イリヤは」

「ええ。最近ちょっと話しただけなんだけど。リンはその時まだサーヴァントを喚んでなかったみたい。流石にもう喚び出してるだろうし、異変に気づいたら向こうから来るんじゃないかしら。だからリンは放っておいて、好きに動き回らせればいいわ。厄介事に首を突っ込んだらその騒ぎに介入できるでしょうしね」

 

 イリヤスフィールは顎に手を当て、考えを纏めながら話している。すると不意に眉を動かしてバーサーカーを一瞥した。

 サーヴァントとマスターに繋がるパスを通じて何かを話しているのだろうか。気になり目を向けると、イリヤスフィールが小声で士郎とセイバーに言った。

 

「……シロウ、口を隠して」

「え?」

「いいから。手で覆いなさい」

 

 有無を言わさない語調に驚きながらも、イリヤスフィールが自分の口を手で覆ったのを見て真似をする。

 どういう事なんだと視線で問うと、声をくぐもらせてイリヤスフィールが言った。

 

「バーサーカーが教えてくれたわ。()()()()()()()()()

「ッ……!?」

「霊視……それから遠視ね。キャスターかしら? なんにしても、口の動きで話の内容を知られるのは面白くないわ。だからこのまま話すわよ。分かった?」

「……ああ。バーサーカーはなんで気づいたんだ? 俺には全く分からないぞ」

「バーサーカーは視線とか、生き物の意志とかに敏感らしいわ。多分セイバーも気づいてたんじゃないかしら。さっきからシロウに物言いたげだもの。パスを通じての思念をキャッチできてないのね、シロウ。……鈍すぎない?」

「え?」

 

 慌ててセイバーを見ると、気まずげな表情をされて士郎まで気まずくなる。

 自身の魔術師としての腕が、そうとうにレベルが低い証拠のようで、とても居た堪れない。セイバーが強く言ってこなかったのは、バーサーカーがイリヤスフィールを通じて教えるだろうと察していたからだろう。

 

「――っ。シロウ、今バーサーカーが教えてくれたけど、昨日の夜に蟲が忍び込んできてたみたい。バーサーカーは態と気づいてないフリをして見過ごしたらしいわ」

「……蟲? ……あっ! マキリか!? 確か間桐の魔術がそれだって桜が――」

「ええ。シロウがわたしに護られてるのを察知してたから大丈夫だって判断したんだって。それで、マキリはまだ気づかれてないと思って、また何度か忍び込んでくるかもしれないわ。それを繰り返せば尻尾を掴めるかもしれないって。……バーサーカー、そういうのはもっと早く教えなさいよ」

 

 恨めしげなイリヤスフィールの視線に、バーサーカーは肩を竦めた。

 士郎としては自分の家にそう何度も侵入を赦したくないのだが……それで桜の行方を知れるなら我慢するしかない。

 

「で、これからどうするの?」

「え?」

「サクラを探すんでしょ。わたしとしてはバラバラに探し回るより、固まって動いた方がいいと思うわ。だって別行動してる時に金ぴかとランサーが同時に襲い掛かってきたらセイバーも困るわよね?」

「………」

「……そうだな。じゃあ四人で纏まって動こう。何処から探そうか……」

 

 セイバーが小さく頷くのを見て士郎が考え込むのを尻目に、イリヤスフィールは冷徹な表情で眼を細める。

 桜を探す。実に結構だ。別に構わない。だが、イリヤスフィールには彼らを見つけられるとは思えなかった。

 マキリは狡猾だ。向こうから下手を打たない限り見つけられるとは思えない。あの、前回から残っているらしい金色のアーチャーもそうだ。そして此処までずっと穴熊を決め込んでいるランサーのマスターも、迂闊に見つかる手合いとも思えない。

 探すだけ手間になるだけだ。今は時期を見るべきで、士郎があんまりにもお粗末な魔術師らしいからそれを補う時間に宛てるべきである。そして向こうが動き出したところを迅速に叩くのが手堅い。その場合、相手の土俵に乗ることになるのだろうが、こちらには最強のバーサーカーと最優のセイバーがいる。狂化していないとはいえ、バーサーカーの一撃をまともに受けていながら、短時間で回復してくる防御力は特筆すべきものである。正面から敵を食い破れるとイリヤスフィールは確信していた。

 

 だからイリヤスフィールはにこりと微笑む。彼女の考えでは桜は既に()()()なのだ。気にする事はない。イリヤスフィールは、愚かなまでに楽観的な()を誘う。

 

「テキトーに街を歩こうよ。どうせ宛なんかないんだし、暇も同時に潰しながら探した方が建設的だと思うわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――哀れだな、小娘。雑種共は貴様を見捨てたぞ。

 

「うそ、です」

 

 自身の裡より溢れそうな、()()()()()を懸命に抑え込みながら。少女は鼓膜に焼き付くような魔性の声を拒んだ。

 暗がりの中、金色の王は眼を細める。喜悦に歪んだ口を耳元に寄せ、囁いた。

 

「ああ、確かに貴様の慕う小僧は見捨てんだろう」

「………先輩」

「だが奴も所詮は雑種。隠れ潜む者を探し出す術はない。見つけ出せるとすれば、アインツベルンとやらの小娘だろうが……アレに貴様や我を探す気はあるまい」

「………」

 

 囁く。

 

「奴らは血縁関係らしい。小僧は兄妹の情ゆえかあの小娘を許し、あまつさえ小僧の屋敷に上がり込んでいる。とんだ厚顔さよな? そしてアレは貴様の裡にあるモノ故に、断固として貴様を殺そうとするだろう。小僧がなんと言おうと、な」

「………」

「気づいておるのだろう? もはや貴様は()()を留める事はできん。既に励起し起動を待つのみ。そして既にサーヴァントを一騎、器に焚べている。手遅れなのさ、貴様は」

「………ギルガメッシュさんは、私をどうするつもりなんですか」

「知れたこと。貴様を利用してやっているだけだ。だがまあ、結果として貴様は我の手により、その身に潜むものより解放されるだろうがな」

「………私を、助けてくれるんですか?」

「助けるつもりはない。全ては利用した結果、そうなる可能性もあるというだけだ。だが――何度も言うようだが、アレは貴様を殺す。魔術師とはそういうものだ。貴様にも理解できるだろう?」

「………」

「面白いものを見せてやる」

 

 黄金の王は、手元に金色の波紋を生み出す。そこより開かれた門が、彼の手に一つの水晶が顕した。

 それを少女の前に差し出す。

 映し出されたのは、少女もよく知る屋敷だった。慕っている少年もいる。先輩、と呟いたのを尻目に、王は楽しげに嗤った。

 

「ほう、流石はヘラクレス……セイバーは元より鋭さは変わらんらしい」

 

 気づかれた事に、王は気づく。しかしそれでも構わないのだ。その光景の中で、彼らは――少女が恐れ、忌み嫌うバーサーカーとそのマスターが、少女の領域を憩いの場としているのが問題なのだ。

 少女の貌に、嫌悪が過る。なんで、と不穏な響きを持って呟かれた。なんであの娘が先輩の隣に……。

 

 やがて動きがある。外出するらしい。

 

 少年と少女が並んで歩く。周囲を固めて、セイバーとバーサーカーが警護している。

 街に出て、散策していた。少女は気紛れに少年を振り回し、笑顔を見せていて――それを、食い入るように見る貌が――

 

「ッ………」

「貴様も女だ。分かるであろう? アレは貴様のいない場に居座り、成り代わろうとしている。貴様がアレの手により死んだ後も、何食わぬ顔で小僧の隣に居座るのだろう」

「そん、な……事……」

「貴様は、我の言った通り手遅れだ。それこそ我が貴様を拐かすまでもなくな。故に、今は小僧の元には帰れまい。反転した貴様は確実に小僧を害すからだ。言ってみれば、その業より解き放てるのはこの我のみ。アレは貴様を殺すことしか考えてはいまいよ。愚図れば愚図るだけ、アレは小僧の心中に食い込み、やがては貴様に取って代わるだろうさ」

「――――」

「小娘――いや、サクラ。この我が名を呼んでやる。サクラ……貴様はどうしたい? 貴様の裡のものより切り離せるのは我のみだ。貴様を救えるのも我だけだ。さあどうするサクラ。我を利用し、あの小僧の許へ帰るか? 我を利用し、あの小娘を殺すか? ああ――選択肢は無いな。そうせねば、()()()()()()()()

「私と……ギルガメッシュさんは、対等って事ですか……?」

「ふむ」

 

 少女の問いに、王は一瞬の間を空けた。

 

「対等ではない。我は貴様の生殺与奪権を握っているのだ。そしてあの小僧を生かすも殺すも我次第なのだからな」

「……先輩に、手を出さないでっ」

「もう一度言おう。貴様次第だ。サクラ、我を利用しろ。出し抜いてみせよ。我と貴様は対等ではない……だが貴様がその関係より脱さんと足掻くのは自由だ。さあどうするサクラ? 我を利用しその裡のものを切り離し、帰還するか。そしてアレを排除するのか――選ぶのは貴様だ。今、選べ。我の慈悲は有限だ。何も選ばぬ者には何もくれてやるものなどない」

「――……わた、し……は……」

 

 王が手を差し伸べる。

 

 少女は――その手を取った。

 

 

 

 蠢く何かを、少女は受け入れる。仮の宿として差し出す。自由と、自分と、自分の居場所を護るために。

 

 

 

「祭典の時は間もなく満ちる。ヘラクレス、そしてセイバーよ。――さあこの時代の行く末を占うぞ。聖杯戦争を始めようではないか――」

 

 

 

 王が、裁定を下す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




※ルールブレイカーはこの世界線に存在しない模様。メディアもエミヤも持っていない。よってどうにかできるとしたらギルだけというのもあながち嘘とも言い切れない。ギルの万能っぷりは異常だってはっきりわかんだね。


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幕間 抑止の環より来たりしモノ

大河を巻き込まないために言葉でやった時、「暗示使え、それが最適解だ」と思われた人もいるかもしれない。しかしそれは最悪手。アルケイデスの人生的にどう考えても最悪の中の最悪だ。暗示使った方がいいと思う方はアルケイデスの生前思い出してね!

今日はこれだけ……次の更新までちょっと間が空くかも。
やっとこさsn編の前置きが終わったんで、今回は予告編にしてみた。

本編じゃなく、予告編だよ!(ここ重要







 

 

 

 

『世界の行く末を懸けた戦い……これを決戦という』 『次の策だ。油断はせんぞ?』 『手は休めぬッ!』 『そこか――斬り落とすッ!』 『隙を見せたな? 抉り落とすわッ!』

 

『貴様には“地の理”では生温い……滅びの刻だ、足掻くがよい。“天の理”を魅せてやる。さあ――この一撃を以て決別の儀としよう』

 

『原初を語る。天地は別れ、無は開闢を言祝ぐ。世界を裂くは我が乖離剣―――星々を廻す渦、天上の地獄とは創世前夜の終着よ。

 死を以て刻むが良い――“ 天地乖離す開闢の星 (エヌマ・エリシュ)”をッ!!』

 

 

『英雄王、貴様には黄昏がお似合いだ』 『我が闘争に策など無用。頂きの高さを知るがいい』 『止まるか? ならば死ね』 『温いな』 『では我慢比べだ。我が腕をやろう、代わりに首を寄越せッ!』

 

『天と地の理――そんなもの、とうの昔に乗り越えている。試練を寄越せ、極上の地獄をその身に刻もう』

 

『――覇者の王冠は(これ)に。太古の秩序が暴虐ならば、その圧制を私は認めず是正しよう。神の傲慢、人の依存、告別を齎す刻が来た。我が栄光は勝利の上に。戒めの聖戦、その角笛を吹き鳴らそう!

 人よ我が後に続け。“我が前には道はない、我が後に道がある(ノン・プルス・ヒュペル)”――我が強靭の五体、今再び現世に蘇らん』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 斯くして舞台は整った。

 

 “全知なるや全能の星(シャ・ナクパ・イルム)”――英雄王ギルガメッシュの精神性が宝具に昇華した瞳。星々の燦きの如く、地上の隅々へと行き渡り、万象悉くを見透す千里眼。その()を持つ英雄王は対峙した英霊の真名や宝具はおろか、幾重にも秘匿された真実を一瞥のみで看破する。

 意図して権能に近しいその力を制限していたのが、慢心に塗れていた原初の王をして脅威と断ぜられる者を知覚した瞬間――気が緩み、ほんの一瞬だけ、その封が解れてしまった。

 そうして“視て”しまった英雄王ギルガメッシュによる第五次聖杯戦争の裁定は、その星の下に決定されたのだ。結末は変わらない。如何なる道筋を辿ろうとも世界に破滅的な傷跡を刻むだろう。

 肉体と技量に於いて最強を誇る英霊アルケイデス、財力と卓越した知能に於いて最強を誇る英霊ギルガメッシュ。二つの“星”の頂上決戦は、例え被害を最小に留めようと、冬木の地に住む全ての者を死滅させる事態へ発展する事がこの瞬間に確定された。

 

 ――追い詰められたギルガメッシュが、抑止力による現界抹消に晒されながらも乖離剣による真名解放“天の理”を断行し。それに対したアルケイデスは、霊基崩壊も厭わず秘めたる最強宝具の開帳を成し。顕現した聖杯と死闘の余波にて世界に全なる悪の呪いが撒かれ、実にその八割が壊滅……()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 例え被害を最小限に留めようにも、何があろうと日の本は海の底。神秘衰退の西暦の時代でありながら、聖杯と英霊による一国の破滅は人理の崩壊と特異点化の結末を齎すに相違ない。

 

 故に、アラヤの抑止力は大聖杯の要請を受けて介入を決定した。

 

 冬木の大聖杯には、秘められた機能が存在する。それは――七騎のサーヴァントが、一つの勢力に統一されてしまった場合を想定し、七騎のサーヴァントに対抗するために追加で七騎のサーヴァントを召喚する予備システムである。

 だがこのシステムはあくまで緊急の措置であり、冬木で発動した場合は霊脈そのものが枯渇する可能性もある故に、如何なるサーヴァント・マスターにも機能が露見しないよう、大聖杯にて厳重にこの情報は秘匿されていた。

 

 ――そう、故に(これ)は“祭り”なのだ。英雄王はそのイレギュラーを是認する。

 

 千里を見透す星の担い手である英雄王には、その秘匿は意義を成さず。“視て”しまった結末は()()()()故に、“視て”いなかった道を希求した。

 大聖杯の予備システムを、そのためにギルガメッシュは利用したのだ。

 直接大聖杯に繋がれた黒の聖杯を拐かし、白の聖杯との敵対を煽り。そして聖杯戦争が正常に行われぬよう、意図して膠着状態を作り出した。槍兵はマスターの命により待機させられ。魔術師の英霊は暗殺者を喚び出し、静観の構えを崩さない。弓兵は狂戦士に与えられた傷を癒やすために動けず、狂戦士と剣士は結託した。騎兵は落ち――ここに聖杯戦争は停滞したのだ。

 そしてギルガメッシュの企図する人類の間引き――その破滅的な目的を持つ自らが、この世全ての悪などと銘打たれた呪詛を孕む聖杯の近くに陣取っていれば。必然抑止力が動き、大聖杯は()()()()()()()()()()()()()()()()()だろう。

 

 果たして聖杯自身に召喚され、聖杯戦争という概念そのものを守るために動く、絶対的な管理者となるべきサーヴァントが現界する。

 

 携えたクラスは裁定者(ルーラー)

 

 開催されている聖杯戦争が非常に特殊な形式であり、結果が未知数なものとなる為、人の手の及ぼぬ裁定者が聖杯に必要とされた場合。そして聖杯戦争によって、世界に歪みが出る場合にのみ、ルーラーのサーヴァントは現界する。

 ルーラーは聖杯戦争の勝者が我欲によって願いを叶えようとも干渉はしない。だが、世界の崩壊を招く破滅的な願望は許容せず、聖杯戦争が原因で世界の崩壊が理論的に成立すると見做された時点でルーラーは召喚されるのだ。

 

 ルーラーのサーヴァントは、部外者を巻き込むなど規約に反する者に注意を促し、場合によってはペナルティを与え、聖杯戦争そのものが成立しなくなる事態を防ぐためのサーヴァントである。そのため現界するのにマスターを必要とせず、完全に中立の審判として基本的にどの陣営にも組する事はない。

 全サーヴァントに有効となる令呪を持つという、絶大な権限を持つルーラーのクラスの選定条件は多数存在し、現世に何の望みもない事、特定の勢力に加担しない事などが挙げられる。この条件故に、ルーラーのクラスで召喚されるのは聖人認定された英雄に限られるのだ。

 

 だが――冬木の大聖杯は、『この世全ての悪』に汚染されている。

 

 聖杯の機能として予備システムが起動しようとも、自身の生誕の妨げとなる事態を看過する事など『この世全ての悪』には有り得ない。

 故にそれは()()だった。起動した大聖杯の予備システムは、大聖杯その物を汚染する呪詛によって歪を齎す。追加召喚された新たな七騎の内三騎は()()()()()()()()()()()()()()()()()に現界させられ、戦いを待たずしてライダー・バーサーカー・キャスターの三騎が脱落。その三騎ともが、黒聖杯に焚べられたのだ。

 

 そして。

 

 四人の新たなマスターに、令呪が宿る。

 

 

 

「ク――クカカッ! そうか……そうか! 聖杯は儂を選んだかッ! 桜めが機能しおったのは誤算じゃったが……あるいは今回こそが儂の動く時なのかもしれんな。ならばよかろう……()()()()よ、儂も動くぞ」

「御意。魔術師殿……ヒトデナシになったモノ同士、共に永遠を目指すとしよう」

 

 不老不死を欲する、朽ち果てたマキリの残骸。そして、山の翁襲名の折に、個人としての全てを抹消された暗殺者。

 

 

 

「――え? なんで……私に、令呪が……? ……違う。これは……そう、ギルガメッシュさんに頼ってばかりじゃ駄目……私は、ギルガメッシュさんと対等になるっ。利用されるだけで終わったりなんかしない!」

「サーヴァント、ランサー。真名は()()()。よろしく頼む」

 

 黒き聖杯に堕ちた少女に、再び令呪が与えられる。喚び出されたのは、ヘラクレスとギルガメッシュへの抑止となる事を期された、太陽神スーリヤの子。

 

 

 

「ひっ、ひひひ! そ、そうだ、そうだよ! 僕は選ばれた存在なんだっ! 衛宮でも桜でもない、この僕こそが――誰よりも特別なんだッ! だって見ろよ……僕のサーヴァントは、他の連中のもんなんかより遥かに()()()じゃないかっ!」

「――死ね」

 

 落伍者は、猛る()()として現界したアマゾネスの逆鱗を踏み締め、死んだ。

 

 

 

「………」

「セイバーのサーヴァント、召喚に応じ――って、なんだこりゃ……オレを喚び出したマスター、いきなり死んで……いや、生きてはいやがるのか? それに……()()()()モンに憑かれてやがる。それでほとんど死んでいながらしぶとく生きてやがんだな……チッ、メンドクセェ事になりそうだ」

 

 騙し討たれた魔術協会の封印指定執行者に、“黒のランサー”と同じく抑止の存在として召喚された“黒のセイバー”、叛逆の騎士は幸先の悪さに嘆息する。

 

 

 

 ――そう、舞台は整った。整ってしまった。

 

 冬木を舞台に――()()()()()()()()()、最後の聖杯戦争が始まるのだ。

 

 

 

 

 

 




ペンテシレイアはアーチャー適性があるらしい


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十七夜 影

 

 

 

 緊迫の刻、打ち出されるは白き球。

 迎え撃つは常勝の王。円卓を束ねし聖剣の騎士。

 切って落とすと唸りを上げる白球に、赤き竜の化身は敗けるものかと気炎を吐いて、聖剣に代わりその手に担う金属バットを一閃する。

 

 ――果たして、蒼き閃光が閃いた。

 交錯した白球は引き分けを謳うように騎士の背後へと飛翔し、騎士のバットは敗北を認め虚空を馳せる――

 

 バットを振る威力たるや凄まじく、くるくるとセイバーの頭の上で青いヘルメットが一回転した。

 横薙に切り払う様に振るわれたバットを構えたまま、無言でセイバーは立ち尽くす。

 完璧に捉えた。人間だったら首を刎ねていた。その確信がある。手応え、角度、タイミング、全て完全だった。だが――己は敗れた。

 球が、前に飛ばなかった。その現実への理解が追いつくや、セイバーはがっくしと膝をつき、敗北への絶望に顔を暗くする。そこへ――

 

「今のはファールチップだから落ち込むことはないぞ。それよりまた次が来る、構えるんだセイバー!」

「え? イッキュウニュウコン、今ので終わりでは――」

 

 士郎の声に振り返った瞬間、ストライクゾーンど真ん中を白球が通り過ぎる。

 

「………」

「………」

「………おのれ、騎士の立ち合いで騙し討ちとは卑劣な! キリツグにも劣る卑怯な振る舞い、騎士として耐え難い侮辱だ!」

「………」

 

 許しておけんと剣の騎士は憤慨し、バットを手に再起する。

 

 いつまでもアインツベルンの侍女の服を着ているのは気が引けるという事で、前回の聖杯戦争時に着ていたという男性用のダークスーツを買い求めて着込んだセイバーである。バーサーカーとのペアルックだなと指摘したら、私が最初なんです! と気恥ずかしげに主張していたのが記憶に新しい。

 

 自らのサーヴァントが、思いの外バッティングセンターでのフリーバッティングを楽しんでいる様を生暖かい目で見詰め、士郎はその隣で黙々とバットを片手で振る巨漢を一瞥する。

 打ち損じたのは最初の一球。うっかり金属バットを一振りで粉々にし、中てた球を消し飛ばしてしまった時だけだ。後は淡々と場外級の当たりを量産している。単純な流れ作業は好むところだと告げた様は作業に従事する会社員のようであり、傍から見ていると微塵も楽しそうには見えなかったが――しかし本人的には充分楽しんでいるらしいので何も言わずにおく。

 

「えいっ! とぉぅっ! やぁっ!」

 

 そのまた隣で、イリヤスフィールがバットを振り回していた。

 バットの重さに振り回され、体をふらつかせて空振りを連続する小さな少女。顔を赤くし汗を流して懸命に白球を追う様は一心に微笑ましい。頑張れと応援したくなる。

 最後の一球で、やっとバットに球を掠らせたイリヤスフィールが、ぱぁっと顔を輝かせる。バットを放り投げて士郎に駆け寄ってくるや、興奮気味に両手を振って戦果を報告してきて士郎は思わず頭を撫でてしまっていた。

 

「シロウっ、わたしやったよ! 当てれた!」

「そうか、スゴイなイリヤは。……いや本当にスゴイぞ。百三十キロの速球に当てるとか、イリヤは運動神経もいいんだな」

「えっへへー。わたしに不可能はないっ。もっと褒めてもいいわよ?」

 

 頭を撫でられると擽ったそうにはにかみ、自慢げに胸を張った。ぱこすかとホームランを量産する自らのサーヴァントは見ないことにしているらしい。

 バーサーカーはまともに球を打ち返せるようになったセイバーの打球に、自身の打球を当てるという超人技を披露して楽しみだし、セイバーが躍起になって強い打球を放ちはじめている。

 周囲のどよめきなど歯牙にもかけず、まるで親戚の子供をからかうようにして遊んでいるバーサーカーに、セイバーは顔を真っ赤にしてムキになっていた。

 

 幾ら運動神経がよくとも、それを支える体力は見た目よりも少ない。イリヤスフィールは火照った体をもどかしそうにしながら、上質なコートを脱いで士郎に渡してくる。

 

「わたしはもういいかな。お兄ちゃんはやらないの?」

「ん、ああ……」

 

 ――言い澱んだのは、こんなふうに遊んでいて良いのかという、ある種の後ろめたさと焦りがあるから。

 桜が攫われている。良からぬことに巻き込まれている。なのに彼女の捜索の最中に、こんなことをしていては申し訳ない。桜を助け出せなかったら、士郎は一生後悔する。その想いが、どこか苛立ちを抑えた気持ちにさせるのだ。

 何やら人の心の機微を察するのが苦手らしいセイバーは気づいていないが、イリヤはそれを見透かしている。透明な悪意を滲ませる事もなく、冷徹な眼差しで天真爛漫に微笑んだ。

 

「サクラが気になるのね」

「………」

「大丈夫よ。少なくとも殺されはしないから」

「………なんで言い切れるんだ?」

 

 確信を持って言うのに怪訝なものを感じ、士郎は我知らず目つきがきつくなる。

 イリヤスフィールは微笑を深めた。

 

「お兄ちゃんには教えてあげよっかな。多分……ううん、ほぼ確実にマキリはサクラに聖杯の欠片を埋め込んでる。金ぴかはどうやってかそれを知った。だからサクラを攫った。ならサクラが何をされるかなんて簡単に分かるわよ」

「………何をされるんだ?」

 

 聖杯戦争の概要は知っていても、システム自体に詳しいわけではない士郎では察しがつかないらしい。イリヤスフィールは一瞬隠して誤魔化そうかとも思ったが、アインツベルンを滅ぼした以上は特に隠す気にもなれない。

 少女にとってこの聖杯戦争が終われば、それで人間としては“終わる”のだ。如何なるしがらみも、何も、意味がない。なら隠さずに、士郎のために話しておくのもいいかもしれないと思い直した。

 

「――あのね、お兄ちゃんには特別に教えてあげるけど、もともと冬木の聖杯は二つあるの。一つが大聖杯、冬木の土地を聖杯降霊に適した霊地に整えていく機能を持つ、超抜級の魔術炉心よ。これがサーヴァントを召喚するのに必要な魔力を、霊脈を枯らさないように六十年懸けて吸い上げ蓄えてるの。マスターを選び、令呪を配布するのがこの大聖杯ね。

 そしてわたしが小聖杯――脱落した英霊の魂を回収して、大聖杯を動かす為の炉心。小聖杯だけで万能の願望器として機能させることができるけど、大聖杯の本当の目的は――って、ここはお兄ちゃんにはどうでもいいかな。要するに、サクラはわたしの役目である小聖杯になってる。だから少なくとも聖杯戦争が終わるまで殺されはしないわ」

 

 わたしに会うまでは、とは伝えない。桜は殺すのだ。イリヤスフィールの存在意義を奪うモノと成り果てた故に。

 士郎は、イリヤスフィールが桜を殺すつもりでいる事など欠片も想像がつかず、素直に理解が追いついていない事を告白した。そのついでに疑問を発する。

 

「……よく分からない。けどアイツが桜を聖杯戦争が終わるまで何処かに監禁して、俺達に出くわさないようにさせたらどうするんだ?」

「それはないんじゃないかしら。だって考えてみて? ……これはサーヴァントには隠さなきゃいけないことだから秘密にしてほしいんだけど、小聖杯は脱落したサーヴァントの魂を燃料として蓄えるの。なら金ぴかが何を狙ってるにしても、小聖杯を完成させなきゃいけない。そのためには過半数のサーヴァントを脱落させて、サクラに回収させようとするはず。わたし達が先に他のサーヴァントを倒して、その魂を回収したらサクラは完成しないわ。そうなったら金ぴかはサクラを連れて先に他のサーヴァントを倒して回るか、わたしが回収した魂を手に入れるためにわたしを殺しに来る。――ほら、何もこっちからアイツらを探さなきゃなんないわけじゃないって分かるでしょ?」

「……俺達が先に他のサーヴァントを倒して回れば、アイツは絶対に俺達を殺しに来る……ってことか」

 

 そしてイリヤスフィールを殺す。士郎はそれを捨て置けない。例えイリヤスフィールでなくとも許せないと思うのだろうが、この少女と触れ合い無邪気に慕ってくれる、切嗣の忘れ形見を殺させる事など見過ごす事などできるはずもない。

 

「そ。だから無理して探し回る必要はないのよ。わたし達がするべきなのは、金ぴかを探し出すんじゃなくて、他のサーヴァントを見つけて倒すことよ。なら話は簡単よね? 聖杯戦争は夜にするものなんだから、まともなマスターとサーヴァントは徘徊する。それを見つけて倒せばいい。日のある内は好きに過ごしていいの。苛ついててもしょうがないから、お兄ちゃんも気を抜いてた方がいいんじゃない? 今からその調子だと、気疲れして何かポカしちゃうかもよ」

「………そう、だな。ああ、その通りかもしれない」

 

 それでも腹に据えかねるものがあるのか、士郎の歯切れは悪かった。イリヤスフィールは苦笑して腰に手を当て、士郎が納得しやすい提案をする事にする。

 元々必要だと思っていた事へ、話を運べると見たのだ。

 

「――じゃあこうしよっか、お兄ちゃん」

「……?」

「昼間はお兄ちゃんを鍛える。夜は聖杯戦争をする。お兄ちゃんは魔術師としてもへっぽこだし、セイバーの支援ができるように――とまでは言わないけど、最低限自衛ができるようにはした方がいいわ。そうしたらいざという時に助かるかもしれないし」

「……いいのか? でもイリヤが俺に魔術を教えてくれるにしても……」

「あ! わたしの事バカにしてるでしょ!? 確かに純正の魔術師みたいに理論だって指導はできないけど、少なくともお兄ちゃんよりはずっっっと知識もあるんだからね! そ・れ・に! 鍛えてもへっぽこはへっぽこだろうから、バーサーカーとセイバーに鍛えてもらうこと!」

「いぃ!?」

 

 イリヤスフィールの宣告に士郎は声が裏返るほど驚いた。

 咄嗟にバーサーカーを見る。あの大英雄に鍛えられる? ……死ぬ未来しか見えないのは何故だ。セイバーはなんだかんだ安心感があるが、強すぎる威圧感を持つバーサーカーに鍛えられるとなれば死んでしまいそうな気がしてならない。

 そんな義兄(おとうと)の反応に、イリヤスフィールは溜飲を下ろしたらしい。にこにこと笑みを浮かべて士郎の腕を取った。

 

「じゃ、今から帰ろ。帰ったらすぐセイバー達に鍛えてもらってね。夜はわたしの時間なんだから!」

「……死なないよな、俺」

「だいじょーぶ。それに期待してもいいのよ? だって――ヘラクレスに鍛えられて、()()()()()()()()()()()()()()()()()()んだから」

 

 なんでもない、自身のサーヴァントの自慢なのだろう。

 しかしどうしてかその言葉は士郎の耳にこびりつき。微かな期待が、確かに宿った。

 

 

 

 

 

 

「――――え?」

 

 

 

 

 

 

 夕暮れ。白い聖杯を戴く一行は帰路についていた。

 朱色に染まる世界。衛宮邸への道は人気が少ない故に、四人で並んで歩んでも不自由はない。そんな時だ――不意に、イリヤスフィールが足を止める。

 唐突に立ち止まったイリヤスフィールに士郎が振り向くと、セイバーとバーサーカーまで立ち止まっている。

 どうかしたのか。そう訊ねると、イリヤスフィールは無言で立ち尽くすばかりで返答がない。代わりというわけではないのだろうが、セイバーが険しい表情で美貌を固め、自らのマスターへ答える。

 

「シロウ。どうやら今回の聖杯戦争……一筋縄ではいかないようです」

「それってどういう……」

「――下がれ。エミヤシロウ、マスター」

 

 ずい、とバーサーカーに肩を掴まれ、後ろに追いやられる。踏ん張ろうにもまともに抵抗すら出来ない膂力に、士郎は圧倒されながらも文句を言おうとした。

 だが言えなかった。前に出たバーサーカーはイリヤスフィール――と、ついでに士郎を護る形で立ち塞がる。彼の(おお)き過ぎる背中に隠れてよく見えなかったが、確かに視えた。目の前に――ひとつの、影のようなモノが現れたのを。

 

「セイバー。取り決め通りだ。私が敵を討つ。貴様がマスター達を護れ」

「はい。ですが危ないと判断すれば助太刀しましょう」

「何が――」

 

 二人の遣り取りに、士郎は状況の把握に努めようとした。突然の緊迫感に、もしかしてと悟る。

 

 イリヤスフィールが顔を強張らせ、呆然と呟いた。

 

「そんな――サーヴァントが、七騎追加された……?」

「……な、なんだって……?」

「話は後にしろ。()()()()()()()()()()()()を始末する」

 

 士郎までも呆気に取られるのを窘め、バーサーカーは皮肉げに嗤って吐き捨てた。

 彼の眼前に立つ……否、自然発生した亡霊の如く()()()()()()のサーヴァントに、バーサーカーは失笑を禁じ得なかったのだ。

 

 それは、バーサーカーだった。いや――より正確に言うならば、墨汁で塗り潰されたように黒い()()()()()だったのだ。

 己に酷似した影法師。ただし鎧や武具はない。そして明らかに()()()()()、完全な狂戦士である。あまつさえマスターがいないのだろう。現界したはいいが、ものの数分とせず消滅するのは免れない存在の希薄さがあった。

 だがその数分で充分である。運悪く出くわしてしまったイリヤスフィールや士郎を、容易く殺してのける災害だ。黒いバーサーカーが声無き声で咆哮するのに――バーサーカーは武装すらせずに嘆息した。

 

「まるで噂に聞く、酔った後の私のようだ。なるほど、これならばポルテがからかって来たのにも頷ける。――見苦しい。疾く失せろ。昏々と屍を晒せ」

 

 サーヴァントである以上、同じ聖杯戦争に自身と同じ真名を持つサーヴァントと遭遇する可能性も零ではない。

 狂気に呑まれた己という存在、それは女神ヘラに次ぐ憎悪の対象。この手で殺せる機会が得られたならば是非もなかった。

 狂化しているという事は、保有するスキルすらろくに機能していない証拠である。恐れる必要は微塵もない。故に果断にバーサーカーが馳せた。

 即応して影法師が迎撃せんと身構え――しかしいとも容易くバーサーカーの拳撃がその顔面に突き刺さる。防禦の為に掲げられた腕をすり抜けるような穿孔、着弾の瞬間に暴風が吹き荒び士郎達の髪を靡かせた。

 たたらを踏んだ影法師は成す術がない。マスター不在によるパラメータの低下、理性なきが故の技量の喪失。力と技で遥かに勝る同一人物に敵う道理はない。

 

 空中に蹴り上げられた影法師が、追撃のために跳躍したバーサーカーの足刀を首の付け根に受け、藁の如く吹き飛んでいく。

 

「――――?」

 

 仕留めんと、着地した刹那に地面を蹴ろうとしたバーサーカーだったが、彼は不意に急制動を掛けて立ち止まった。

 

「――――」

 

 もはや、見守るイリヤスフィールには声もない。

 呆然と()()を見る。

 

 衛宮邸のすぐ外に。まるで、何気なく立ち寄ったかのように佇む黒い影。

 サーヴァント、ではない。深海に揺蕩う暗黒の陽炎――それが、吹き飛んで消滅した影法師を呑み込んだ。

 とぽん、と。水面に石を擲ったような音と共に、影法師が更に深い影に喰われる。

 

 瞬時にセイバーとバーサーカーが武装した。本能的に悟ったのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と。

 触れた瞬間に逃れる術なく()()される。例え戦士王、騎士王、英雄王であろうとも。

 

 しかし、その深海の影の如きモノは……バーサーカーを見た瞬間、恐れをなしたように消え去った。

 

 まるで夢幻のように。何一つ痕跡のないまま。

 なんだったんだ、今の……そう呟く士郎をよそに、イリヤスフィールは呆然と囁く。

 成り損ないとはいえ、まがりなりにもサーヴァントが死んだというのに、その魂が彼女の中に入らなかった。それはつまり、アレは――

 

「……サクラ?」

 

 この時、白き聖杯の少女は、大聖杯が異常をきたしているのを悟った。

 

 桜を通して、何か善くないモノが胎動している――

 

 

 

 

 

 

 

 




【作者からのお願い】展開予想を書き込むのはほんとやめてね。モチベに関わるからね! 作者との約束だ!!


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十八夜 収斂こそ理想の証

 

 

 

 イリヤスフィールは眠りに就いた。依然、活動限界時間に変動はない。夜になったら起こしてねと告げて、今はセイバーを傍に置き就寝している。

 思い詰めた表情だった。何か悩むものがあるのは明白だったが、イリヤスフィールは誰にも相談していない。眠かったのもあるだろう、起きた後に話を聞くべきかもしれなかった。

 

「グッ……!」

 

 今、衛宮士郎は衛宮邸にある道場で木刀を手に、思うままバーサーカーに打ち掛かっていた。指示された通り全力で、無手のバーサーカーを相手にである。

 相手に武器がないからと、遠慮してしまうほど士郎は愚鈍ではなかった。相手は人類史上最強の武人の名を冠するに値する大英雄である。その身を以て力の差は理解していた。故に、自分などが凶器を手に殴りかかっても、傷一つ負わせられないと確信している。例えば彼は英霊であるため睡眠は不要だが、罷り間違って眠りに就いていたとして――それこそその寝込みを襲ったとしても返り討ちだろう。むしろ寝起きに手加減ができるか確証はないため、意識がない所を狙う方が危険ですらある。

 

 唐竹割に振り下ろされた木刀を目で追って、バーサーカーはその分厚い掌で木刀の側面に触れソッと脇に逸らす。木刀を振るった力ごと流され、体勢の崩れた士郎の首に、これで五回目になる手刀が軽く接触した。

 手加減に手加減を重ねたそれは、しかしほんの少しの痛みを士郎に与える。堪らず身を引いて、再度打ち掛かろうとした士郎にバーサーカーは無造作に告げた。

 

「もういい。全て解った」

「ハッ、は……は……」

 

 乱れた息をなんとか整えながら汗を拭い、構えを解く。するとバーサーカーは、衛宮士郎へ端的に評価を下した。

 

「エミヤシロウ。貴様には――剣の才能は無いな」

「っ……そんなに、酷かったのか?」

 

 相手が悪かったから無様に見えるが、自分ではそう言われるほど酷いとは思っていない。いや、特別な才能があると自惚れているわけではないが、そうもはっきり断じられるほど見込みがないとは思わなかった。

 平均より上の運動神経と体力はある、つもりだ。バーサーカーからするとどんぐりの背比べなのかもしれないが……。士郎の反駁にバーサーカーは首を左右に振る。

 

「勘違いはするな。私が見ていたのは体格と力の使い方、視線と足の運び、動作に連動する全身の動きと動体視力、反射神経、そして太刀筋を含む剣の扱い方だ。背丈と反射神経以外は鍛錬次第で補える。故にその点で才能がないと言ったのではない」

 

 バーサーカーの物言いは、どちらかと言うと理屈臭い。見掛けで誤解され易いが、彼はフィジカルで圧倒するよりも、技量を競う立合いを好む武人然とした性質を持つ。自身に迫る危険を察知する、先天的な本能としての心眼もあるが、後天的な武芸の極致である心眼を備える故に、前者で感覚派の天才肌の指導、後者で理論派の天才・凡才の指導も得手としていた。

 彼は衛宮士郎が感覚派の凡才であると判断したのだが、かといって理論をおろそかにできるほど感覚が優れているわけでもないと見た。感覚寄りの理論が合う、と人間離れした眼力が見抜いている。

 

「……? じゃあ、バーサーカーの言う才能って何なんだ? センスとか?」

「そうだ。神代ならばともかく、現世の人間は物理法則に縛られる故に、体格から来る身体能力の差は“誤差”でしかない」

「ご、誤差……」

「ああ。私の尺度で言っているのではない、現行の人類は身体能力を技量の一点で覆せる程度の脆弱さしかないと言っている。神代ならば身体能力に絶望的な開きがあれば、例え技量で遥かに上回っていても勝ち目がない場合が多いのだ。この場で私の言う才能とは、現世ではセンスしか有り得ない。それのみで、女子供であっても屈強な兵を打ち倒し得る。無論武器の類は必要になるだろうがな」

「………」

 

 確かに神話の通りなら、近代の剣の達人が神話の半神半人に挑んでも、出鱈目な身体能力でのゴリ押しで瞬殺されるだろう、と士郎は思う。

 何せ生きている世界(ジャンル)が違うのだ。神話の超人の動きには、如何な達人でも反応すら出来ないはずだ。仮に直感か何かで反応できたとしても、その圧倒的な腕力で武器ごと捻じ伏せられてお終いである。あらゆる神業を披露しても素の動体視力と反射神経の暴力で屈服させられるはずだ。現代の人間に分かり易く例えるなら、時代劇の剣の達人が、アメコミのスーパーヒーローに勝てるのか、といったところである。

 

 士郎は納得したような、してないような、曖昧な表情でバーサーカーの言葉に耳を傾ける。彼が士郎に才能がないとだけ通告するつもりではないと察したからだ。

 

「人間とは肉の器を持つ実体存在だ。故にあらゆる才覚は肉体へ密接に関わりがある。現世で言う神経伝達とやらの速度、思考の形、骨格や筋肉の付き方などで個体ごとに異なる性質を纏めてセンスと言うのだ。脳の力、差し詰め脳力とでも言うべきものも重要だな」

「……俺の性質に剣が合わないのか?」

「その通り。貴様の性質は、剣を振るうのに最適なものではない。剣士を志すのなら根本的な肉体改造が必須となるだろう。エミヤシロウ、今の貴様の体が備える性質は、持久力、そして弓を最適なものとしている。長期戦にこそ適性があると言えよう」

「弓……」

 

 以前、自身が弓道をしていたのを思い出す。それはもう、随分と昔の事のように感じられて――士郎は頭を振った。今は過去を懐かしんでいる場合ではない。

 バーサーカーは続けて言った。

 

「だが悲観する事はない。あくまで弓に最も優れた性質があるというだけの事だ。これは現世の人間全てに言えるが――剣も槍も、徒手の格闘術も修練を重ねれば一流の域には届き得る。その先には真に才能を持ち、尋常の理から逸脱した精神がなければ到れんだろうが、貴様の半端な才にしては上々であると言えるだろう。だが――」

「……?」

「――エミヤシロウの真髄は、其処には無い。剣と弓の才幹も、ある一点を見れば全て一枚格が落ちる。喜ぶといい、貴様には()()()()()があるぞ」

 

 予想だにしていなかった言葉だった。一瞬、理解が追いつかず目を瞬く。

 そんな少年に、至強の戦士は言祝ぐように微笑んでいた。

 

「貴様は()()()()()()()()()()()。生物としての本能が(イカ)れているのだろうな。普通の人間ならば、何度も人体の急所を“攻撃”されれば怯むというのに、貴様にはまるでその素振りがない。そして何より、貴様は自身の持ち得る能力を最大限発揮できている。未熟極まる現在は取るに足りんが、相応の鍛錬を積み一流の技を身に着ければ、自身の手札を効果的に運用し格上の戦士をも打倒し得るようになるやもしれん」

「あー……俺は今、褒められてる、って事でいいのか……?」

「無論だ。死を()()()気質を備えるのは戦士の基本。()()()のは問題だが、まあそこは死なねばいいだけの事だろう。そして戦士として立ち回る術を磨き、基礎となる力を磨けば――私が断じてやろう。保証してやろう。エミヤシロウ、貴様は英雄の領域に手が届く」

「―――」

 

 なんと返せばいいのか、咄嗟に思いつけずに士郎は口籠った。

 しかし、素直に嬉しい。ヘラクレスに認められた――男としてこれほど誇らしいものは早々ない。若干赤面して照れる少年に、バーサーカーは微笑を深めて窘める。

 

「だがそれは未来の話だ。今の貴様は雑兵でしかない。履き違えてはならんぞ。勇敢と無謀は違う。冷静に己に出来る事を見極めよ」

「……分かった」

 

 分かってる、と返そうとした。しかし意図せず素直に了解した旨を告げている。そんな自分に驚きつつも、士郎はバーサーカーの指導を胸に刻んだ。

 

「さて。小休憩は終わりだ。これより貴様に合った戦闘術、及び基礎となる戦闘論理の構築に移る。短い期間となるだろうが、私が貴様に叩き込んだものを基礎とし、以後は自ら模索し独自に発展させていけ。何事にも体は資本だ、今後を考えると活動に支障が出ては敵わん。故に厳しくはやらんがその分真剣に臨め」

「――ああ。勿論だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「む、()()()()()……」

 

 面白くなさそうに、イリヤスフィールが呟いた。衛宮邸に張られている結界に手を加えたからだろう、この前はセイバーやバーサーカーしか知覚できていなかった、遠視と霊視による()()()を察知して、白き聖杯の少女は不快そうに唇を尖らせる。

 バーサーカーの意外と理論立った指導を受けた後、夕餉の支度が済みイリヤスフィールを起こすと、眠そうにしながらも少女は士郎に言ったのだ。晩御飯の前に魔術の鍛錬を視てあげる、と。

 

 今まで自分の城も同然だった土蔵に、誰かを招く事がなかったため新鮮な気持ちになりながらも、士郎は早速地べたに座り込んで魔術の鍛錬を始めようとしていた。

 イリヤスフィールは物珍しそうに土蔵の中を見渡していたのだが、先日もあった覗き見に流石に機嫌を害したらしい。わたしの城なら簡単には視れないのにと不満を溢す。士郎も誰かに視られていると思うと、どうにも腹の据わりが悪く気に入らなかった。

 

「しょうがないから、結界を張るね。魔術の鍛錬を他人に視られるとか、魔術師にとって死活問題なんだから」

「結界を張るって……今からか? 割と、っていうか、かなり大変だと思うんだが」

「そうでもないわよ? だってわたし、()()()()()()()()()って思えば、簡単に望み通りの魔術が使えちゃうもの。見てて……」

 

 Barriere――唱えたのはドイツ語だろうか。女魔術師にとって命とも言える髪の毛を二本抜き、虚空に手放された銀糸のように綺麗な髪が空間に溶けて消えていく。

 不可視の何かが士郎とイリヤスフィールのいる土蔵を包み込んだのを感知する。“世界”の異常に敏感な士郎には、結界が張られたのだと感覚で理解できた。

 

 視線がなくなったのを察知したのだろう。満足げなイリヤスフィールに、士郎は呻くように褒める事しかできない。

 

「こんな簡単に結界が張れるなんて、凄いな……」

「ふふん。純正の魔術師ならもっと手間取るものだけど、わたしは特別だから」

「どう特別なんだ?」

「わたしの起源は“聖杯”でね、理論とかすっ飛ばして望む成果を再現できるの。だからわたしと他の魔術師を一緒にしたらだめなんだからね? わたしと比較される方が可哀相になっちゃうわ」

「へぇ……ところでイリヤ、起源ってなんだ?」

 

 え? と。まるで高校生に足し算のやり方を訊ねられた小学生みたいに、馬鹿を見る目になるイリヤスフィールである。その目に士郎は悟った。あ、基礎的なものだったのか、と。

 イリヤスフィールは無言で士郎を見詰める。少年はその眼差しに晒され、居た堪れない気持ちでいっぱいだった。ふぅと露骨に溜め息を吐かれ、居た堪れなさが倍増する。

 

「……ねえ、シロウはキリツグに何を教えられてたの? てんでお話になりそうにないんだけど」

「い、一応……魔術の使い方と、鍛錬の仕方とか……魔術は秘匿するものだ、とか……そういうのは知ってるぞ……」

「………」

 

 再度、イリヤスフィールは嘆息した。なるほど、無知なのねと。イリヤスフィールを年下の少女と思い込んでいる士郎には、なかなか心にくる呆れた目だった。

 

「……座学、今度時間できたらそこから教えてあげなくちゃだめね。……ううん、やっぱりセラでも呼んでみっちりやらなくちゃ。いい、シロウ。魔術の世界で無知は罪よ。何も知りませんでした、なんて言い訳は通じないわ。知識に貪欲じゃない魔術師とかはっきり言って三流よ。シロウ、勉強しなさい」

「……はい」

 

 なんだかイリヤスフィールが姉のように感じてしまう。肩身が狭い気分だが、しっかり者の姉みたいに感じたからか、士郎はイリヤスフィールとの距離が縮んだ気がした。

 イリヤスフィールは気を取り直して、まるで駄目な弟の士郎が右も左も分からないのだと理解し、零から見てあげなくてはならないと腹を括る。

 

「……うん、まずシロウの起源から調べてみるわ。わたしの場合、(さわ)るだけでいいからすぐ終わるんだけど。わたしが先生で良かったわね」

「はい」

「あは、従順でカワイイじゃない。うんうん、そういうとこポイント高いかも」

 

 シロウをペットにするのもありね、なんてコワイ事を口走るイリヤスフィールであるが、流石に冗談だろうと士郎は思った。限りなく本気に近い呟きだとは知る由もない。

 イリヤスフィールは地べたに座り込んでいる士郎の頭に手を置いた。そして、目を瞑る。普通の魔術師なら起源の鑑定のためにそれなりの準備をするのだが、彼女にそれは必要ない。士郎はまだ知らずにいる、自然の嬰児である“聖杯”の寵愛を受けられた自分が、どれほど恵まれているのかを。

 彼女の加護を受ける事で、魔力総量が底上げされ、まだ開かれてもいなかったはずの魔術回路が励起し、その上で体調にまったく変化がないという異常も、士郎は気づいていなかった。

 

「――珍しいわね。シロウの起源は“剣”よ。……それに、何かシロウの中に埋め込まれて……これ、宝具? 現存する宝具なんて……」

「………?」

「………起源が宝具の影響で変質したのかな? ……キリツグ、なんてことしてるの……計算外だったりする? ……あ、もしかして……」

 

 士郎の頭に触れる、ひんやりとした小さな手。怪訝そうに呟くイリヤスフィールに、士郎は内心首をひねりながらも大人しくしていた。

 自分の中をまさぐられている気がするが、不快ではない。むしろ心地よく、暖かく感じてしまっていた。それは、聖杯の加護なのか――剣が鞘に収められたような安心感がある。

 

 やがてイリヤスフィールは士郎から手を離さないまま、難しい表情で言った。

 

「……ね、ちょっとシロウの中に何かあるから、取り出してみていい?」

「え? 俺の中に何かあるのか……? ……なんか怖いな。出せるならやってくれ」

 

 極普通に答えると、イリヤスフィールは頷く。すると、士郎の中から淡い金色の光が溢れた。

 それは、紺碧の縁を持つ、黄金の鞘だった。その眩さにイリヤスフィールは瞠目し、士郎もまた目を奪われる。

 

「――やっぱり、宝具。こんなの、キリツグはどこで……あ、そういうこと……これ、セイバーとの縁なのね」

「セイバーとの? これは……何なんだ?」

「……聖剣の鞘よ」

「え?」

「……ううん、なんでもない。多分シロウにはまだ必要だから持っていた方がいいわ。シロウがセイバーに必要だと判断したら、返してあげて」

「え、いや……これセイバーの物なのか? なら返した方が……」

「今はシロウが持ってなさい。絶対に、シロウが生き残る助けになるから。これがある限りシロウは簡単には死なないはずよ。あと、セイバーは常に傍に置いとく事。いいわね」

 

 有無を言わさぬように強く言われ、士郎は渋々頷く。イリヤスフィールの眼が、極めて真剣なものだったから逆らえなかったのだ。

 イリヤスフィールが士郎から離れる。そして場の空気を変えるように脳天気に微笑んで、少女は努めて明るく言った。

 

「それじゃあ、シロウの魔術の腕を見てあげる。普段通りに魔術使ってみて」

「あ、ああ、解った。なんか恥ずかしいな……」

 

 ――そうして、士郎はイリヤスフィールに散々に罵倒され心配され命じられる羽目になる。

 

 

 

 なんでいちいち零から魔術回路作ったりしてるの馬鹿なの!? こんなのをほぼ毎日やってたとか自殺志願じゃない! キリツグはほんと何教えてるのよ!? ほら魔術回路を使いなさい、やり方は教えてあげるから。っていうかなんで強化とか解析みたいなニッチな魔術しか……え、投影魔術? なにそれさらにマイナー、な……!?

 ……ねえ、その手にあるのって今、投影したの?

 ……シロウ。悪いこと言わないから、それ絶対に他の魔術師に見せちゃ駄目だからね。見られたら殺しなさい。ううん、寧ろわたしが殺すわ。こんなの封印指定直行コースじゃない……あ、だからキリツグは……。

 なんでもないわ。それより起源が“剣”って事は、シロウの投影は剣に特化してるのかな? ごめんシロウ、もう一回(さわ)るけど逆らわないでね――――って! よく視たらこれ、世界卵? ……固有結界じゃない!? シロウの魔術回路、固有結界にだけ特化してる――!?

 

 

 

 ――衛宮士郎は、本当に運が良かった。

 

 イリヤスフィールとだけ同盟している彼は、イリヤスフィールから加護を与えられ。彼女のサーヴァントに戦闘術を仕込まれて。イリヤスフィールと親密になった故に、長い年月を掛けて気づき、研ぎ澄ませていく事になるはずの異能に気づかせてもらえたのだ。

 聖杯であるイリヤスフィールの、異質で特殊な魔術特性によって解析されなければ、こうも簡単に気付ける道理はなかった。純粋な魔術師ではないイリヤスフィールだから見抜けて、気づけて、指摘して――そして鍛えられるのだ。

 

 剣の鍛ち手は、白い妖精のような少女。

 

 異能の剣が、この時から打たれ始めたのである。

 

 ――収斂こそ理想の証。剣を鍛えるように、己を燃やすように、鉄を打ち続ける道を衛宮士郎は歩み始めた。

 

 

 

 

 

 

 



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十九夜 激動、始動の夜

 

 

 

 遠坂凛の聖杯戦争、その初戦はとてもではないが“優雅”とは言えないものだった。

 

 サーヴァントを召喚したものの、召喚事故を“うっかり”起こしてしまった為サーヴァントが記憶に混乱が見られるなどと言い、真名が分からないまま街に出た。

 召喚したのは赤い外套の弓兵だ。気障で皮肉屋で凛を割と苛つかせたりするが、人の好さが滲み出るサーヴァントだった。そんな彼と凛は新都、冬木を回り、敵マスターとサーヴァントを探していたのだが――よりにもよって、彼女達が最初に見かけたのが、三つの陣営による三つ巴の戦闘だった。

 

 青い戦装束の槍兵、小柄な少女騎士、そして……黄金の狂戦士。

 

 遠目に見ただけで、凛は本能的に悟った。あれは化物だと。まさかクラスがバーサーカーとはこの時は思いもしていなかったが、マスターとしての透視能力で見たパラメーターが桁外れに高い。

 筋力がA+で、敏捷と耐久、魔力がAランク。そして幸運の値までBランクと、極めて強力なサーヴァント。ランサーと、恐らくはセイバーと思しきサーヴァントとの三つ巴なのだろうが、二騎が同時に狙っているため実質二対一でありながらなお圧倒している。

 被っているその兜で、凛には彼の真名が解った。世界中の文明圏で教科書に載っているのだ。“アルケイデス王の兜”として。神話の英霊としてか史実の英霊としてかによって真名は変わるだろうが、あの黄金のサーヴァントは間違いなく、

 

「―――へ、ヘラクレス……!? 都市部の聖杯戦争でなんてバケモノ喚び出してんのよ……!? あんな奴の宝具なんかぶっ放したら地図から冬木が消えるじゃないっ!」

 

 悲鳴じみた凛の弱音は、冬木を管理するセカンド・オーナーとしての立場と、一人の冬木市民であるが故のものだ。

 ヘラクレスの武勇を示す逸話の一つに、ヘーラクレースの柱がある。ジブラルタル海峡だ。もしもその逸話を宝具に昇華した形の代物があれば、間違いなく日本列島が真っ二つに割れるほどの威力を発揮するだろう。断じて文明圏で暴れさせてもいいサーヴァントではない。

 

 斃さねばならない。

 

 それはマスター以前に、セカンド・オーナーとして、冬木市民として危機を未然に排除する責務である。故に凛は決断したのだ。今にも敗れ去りそうなランサーとセイバーを支援する形で、なんとしてもヘラクレスを斃す。アーチャー単騎では勝ち目が見えないからでもあり、それが万全の策だ。

 

「アーチャー、やれるわね? あの二人を援護して! ……アーチャー?」

「――――」

「アーチャー!」

「――ああ、了解した」

 

 赤い外套の弓兵はヘラクレスと少女騎士を目にするや、呆然としていた。遠目に視認して――混乱していた記憶が()()()のだ。

 例え地獄に落ちようとも、忘れる事のなかった騎士王との邂逅。そして、()()()()()()()()()()。たった一つ抱いた誇り、それは名高き騎士王と最強の戦士に師事したという事。誰かに公言した事はない、自分の中だけで抱いていた自慢……。

 アーチャー、真名をエミヤ。彼はマスターの指示を聞き、戦慄と共に体が震えるのが分かった。それは恐怖か、はたまた歓喜か。判然としない感情を押し殺し、アーチャーは戦闘屋として意識を切り替える。

 マスターである凛の命令が来たのだ。ならばサーヴァントとして応えねばなるまい。生半可な攻撃では全く意味がないだろう。なら全力でやる。例えなんと思われたとしても、卑怯卑劣と詰られても構うものか。

 

 今、エミヤはサーヴァントに徹していた。凛の危惧も分かるからだ。だが――

 

(バカな。私は……オレは、バーサーカーに()()()()と思っているのか……?)

 

 完成した自身が、あの最強の戦士を相手にどこまでやれるのか、知りたくて堪らないでいる。そんな未熟者のような高揚を恥じるが、悪くない気分でもあった。

 アーチャーは凛を抱き上げると一気に跳躍しその場から離れていく。「ちょ、ちょっとアーチャー!? 逃げる気!?」と凛が喚くのに苦笑した。

 

「凛、勘違いするな。私は逃げている訳じゃない。あの距離からでは却ってこちらが捕捉される。まだ離れねば、()()の一撃で逆にこちらが死にかねんのだ。故に充分に離れ、弓の距離で狙撃しなければならない」

「え……? うそ、結構――っていうかもう滅茶苦茶離れてる気がするんだけど……?」

「不足だ。大英雄ヘラクレスは弓兵としての適性も高い。彼のアーラシュ・カマンガーほどの射程はないにしろ、その弓の威力は私など遠く及ばないだろう。最低限、反撃が来ても死にはしない程度の距離から狙撃せねば話にならん」

「弓持ってないでしょ、アレ。槍はなんでか持ってるけど……」

「ならば槍を投げてくるのだろうな。何をされても驚くには値せん。そういう相手だ」

 

 そう言って、エミヤは凛を抱えて新都のビルに降り立った。三騎のサーヴァントが戦闘を繰り広げる戦場、そこから実に二キロメートルは離れた地点である。

 

「下がっていろ、凛」

「! ……ええ、分かったわ。アーチャー、貴方の力、ここで見せて!」

「フ――――I am the bone of my sword. (体は剣で出来ている)」

 

 エミヤは自身唯一の固有武装である洋弓を顕し、投影した偽・螺旋剣を弓につがえ、魔力を充填していく。

 その魔力の奔流に凛は息を呑んだ。人間には及びもつかない高密度、高濃度の魔力。自然災害を彷彿とさせられる。狙いを定め、エミヤは酷薄に目を細めた。

 オーダーは、援護。しかしそれは不可能だ。周りの連中に()()した攻撃などで仕留められるはずもない。否、有効打を狙えもしないだろう。やるからには全力で、迷わず、果断に攻めるべし。痛手を被るかもしれない、などと奥手な考えではろくな戦果を得られない――自身の戦闘論理の根幹にある教えを思い出し、エミヤは口元を緩め――そして撃つ。真名解放、投影宝具、射出。空間ごと捩じ切る一射は螺旋の波動と共に飛来した。

 

 中る、その確信。凛にはもう目視できる距離ではないが、アーチャーの射が余りにも綺麗だったから――目を奪われると共に確信できた。中った、と。

 

 だが“鷹の目”を持つエミヤは見た。偽・螺旋剣を撃ち放った瞬間、ヘラクレスの眼が間違いなくこちらを捉えたのを。

 

「―――投影、開始(トレース・オン)

 

 咄嗟だった。反射だった。()()だった。見られたなら、気づかれたなら、疑いの余地無く反撃が来る。現に体勢を変え、魔槍を擲つ予備動作が見て取れた。故にエミヤは最善にして最大の防御兵装を選択し、自身の裡から最速で汲み上げたのだ。

 

「“熾天覆う(ロー)――七つの円環(アイアス)”……!」

 

 しかし、その兵装の選択を誤った。否、エミヤは間違いなく正しい選択をしている。この大英雄の盾以外でヘラクレスの魔槍を凌げる道理はない。

 展開した瞬間、流星の如く飛来した白亜の魔槍が激突する。紅色の花弁が瞬時に四枚も砕け散り、エミヤは瞠目して歯を食い縛る。この魔槍に追尾機能はない、盾を破棄し回避を取るしかない。だが――今、エミヤの後ろには凛がいた。

 回避は成らず、故に防ぎ切る他にない。エミヤは吼えた。ヘラクレスがランサーであれば贋作の盾など粉砕されていただろう、しかし彼はバーサーカーである。魔槍の真価を発揮できず、エミヤはアイアスの盾を最後の一枚まで消費して、なんとか防ぎ切る事に成功した。

 

 瞬間。

 

 エミヤに突き刺さる、ヘラクレスの憤怒に染まった殺気。魔槍が担い手の許に帰還するのを尻目にぎくりと体が強張りかけるも、エミヤはこの場に残るマズさに舌打ちし凛に言った。

 

「――撤退する。狙撃地点の割れた狙撃手など脅威足りえん。態勢を立て直すぞ」

「あ、アーチャー……貴方、その手……っ!」

 

 しかし凛は眼を見開いて、エミヤの右腕を凝視する。

 全魔力をアイアスの盾に注ぎ込んだ故だろう。魔槍の威力が伝播して砕けたのだ。

 血が滴り、骨折しているエミヤは負傷している。聡い凛は気づいていた、アーチャーだけなら躱せたのに、自分が居たから正面から受けて立つしかなかったのだと。

 マスターである自分がサーヴァントの足を引っ張った、そしてその結果として、アーチャーが負傷した。その事にショックを受けている凛を、エミヤは叱咤する。

 

「凛ッ、この程度は時間を置けば回復できる、今は退く他にない! 二度目も防げると思うな、アレはヘラクレスだぞ――!」

「……! ごめんなさい、撤退するわ!」

 

 凛はアーチャーの檄に我に返り、悔しげに唇を噛みながら身を翻した。

 

 冬木のセカンド・オーナー、遠坂凛。その初陣は彼女の才覚からすると信じられないほど苦々しく、そして屈辱的な結末を迎えたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 凛は反省していた。

 

 アーチャーが負傷したのは自分の責任である。自身のサーヴァントの特性も理解せずに同行し、あまつさえ足手まといになってしまったのだ。

 マスターとしての責務、義務として戦場に立つのが遠坂の流儀。少なくとも凛はそう信じていたが、それに拘泥する余り出しゃばり、またしてもアーチャーの足を引く可能性がある。

 ならば大至急対応しなければならない。アーチャーのクラス別スキルに“単独行動”があるのだから、アーチャーには独立して動く許可を与えるべきだろう。

 だがそれではいざという時、アーチャーを令呪で支援できない。どうするべきかを、アーチャーが遠坂の館で傷を癒やしている間ずっと考えていた。

 

 妙案は浮かばない。自分達が手を拱いている間、戦況が動くのは確実だろう。時間を置けば置くほど、ヘラクレスを擁するアインツベルンが有利になっていくのは自明。迅速に動くべきだが……。

 

(桜……衛宮くん……)

 

 あの場には、予想外な事に()妹と知っている少年が居た。

 まさかあの二人が聖杯戦争に参加――あるいは巻き込まれているとは思いもしなかった。

 手をきつく握り締める。こうして行動できない今、座している間にあの二人が死んでしまったら……凛は歯痒い思いで知恵を振り絞る。今後、どう動くべきか策を練らねばならない。

 

 そんな時だ、霊体化し傷を癒やすのに専念していたアーチャーが、凛に緊迫した様子で声を掛けてきた。

 

(凛、報告がある)

「……何?」

(心して聞け。此度の聖杯戦争、どうやら通常通りとはいかないらしい。――たった今“聖杯”から通達があった)

「………?」

 

 訝しげに耳を傾ける凛に、アーチャーは恐るべき事態を告げ――

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……え? ……ちょっ!? ちょっと何よそれぇ!?」

 

 遠坂凛は、はしたなくも叫ばずにはいられなかった。

 もはや座していられる時は過ぎ、凛は動き出さねばならなくなった。

 アーチャーの傷が癒えるのを待っている余裕はない。今動かねば、総ての状況から置いて行かれる気がしてならず。

 

 凛は、自身の後見人にして聖杯戦争の監督役、言峰綺礼に事情を詳しく聞きに行くべきだと判断した。

 

 ――その矢先だった。

 

「ッ! 下がれ、凛! サーヴァントだッ!」

「――――」

 

 彼女は、マスターを失い彷徨っていた、美の化身も斯くやといった美貌の弓兵と遭遇する。

 実体化し双剣を投影して構える赤い弓兵に、麗しき弓兵は露骨に舌打ちした――

 

 

 

 

 

 



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二十夜 咆哮は無く、戦意は蛇に委ねられる

 

 

 

 

 発作的に召喚主を殺した所で、アマゾネスの女王ペンテシレイア――“アーチャー”の座にて現界したサーヴァントは我に返り後悔していた。

 

 マスター殺しを働いた事を、ではない。忌々しくも己を“美しい”などと口走った下郎を殺めた事は、欠片たりともペンテシレイアに後悔を懐かせなかった。

 あの手の俗物は自身の正しさを信じて疑わず、それを否定する者を全力で排除しようとする。そして一旦“自分のもの”と認識したモノは、玩具のように扱う下衆である。

 例え元が善良な人間であったとしても、その性根が歪んでいるのだから一度壊れたら元通りになるのは難しい。徹底的に挫折しない限りは迷走するだろう。見るからに精神的に追い詰められ、限界を迎えていたらしいアレは、ストレスの捌け口として自身より弱い者を求めるのだ。そしてその矛先はまず間違いなくサーヴァントである自分になるだろう。

 小者ゆえに至極分かりやすい。令呪を持つ故に自分の方が立場が上だ、などと自惚れるのが目に見えている。そうなればこの身に触れる資格のない雑魚の分際で、女王である自分に手を出すのだ。度々“美しい”などと言いながら。立場を嵩に着た優越感を滲ませて。

 

 神代に勇猛な女王として君臨した経験が、対峙した者の人間性を把握せしめる眼力を宿らせている。故にマスターを殺した事に慚愧の念などなかった。

 

 悔やんでいるのは、殺すまでに少しの猶予を設ければよかった、という利己的な物。自尊心の強いペンテシレイアは、どうせ殺すなら利用して殺せば良かったと悔やんでいたのだ。

 今回の聖杯戦争は、多くの英霊が集う異例のもの。それこそ名だたる英雄豪傑が集うだろう。その勇者らを制覇し、打ち倒し、アマゾネスの勇猛さを示したかった。

 元マスターを利用して新たなマスターを探し、新たなマスターを見つけた後に処分すれば良かったのだ。令呪を使えないようにその手足をもぎ取って。

 

 後悔先に立たず。ペンテシレイアは霊体化して魔力を節約しながら彷徨っていたが、自分の眼に適う者など早々見つかるはずもない。妥協して下郎や雑魚をマスターに仰ぐ気にもなれなかった。故にペンテシレイアは自嘲して嗤ったものである。

 何も成せず、誰かと戦う事すらなく、自分は消滅するのかと。アマゾネスの女王たる者がなんたる無様さなのか。

 しかしよくよく考えてみれば、これでよかったのかもしれない。ペンテシレイアは己の美しさを自覚し、忌々しい人類最速を嘯く英雄に言われるまでは誇っていた美貌を持つ故に解っていた。例え女子供でも、自身を美しいと口にせずにはいられないと。男であれば何をかいわんや、というものだ。

 

 ペンテシレイアは、自身の最盛期の姿で現界している。

 

 狂戦士であったなら少女の姿だったろう。“美しい”と称された屈辱の元凶とも言える姿を全盛期とは認めないと、少女の姿が自らの全盛期であるのだと言い張ったはずだ。

 しかしペンテシレイアは弓兵の座に在る。理性があるのだ。無論バーサーカーの己のように沸々と煮え滾る憎悪はあるが、何もかもが見えなくなるほどの狂気ではない。

 女戦士の女王として冷静に考え、子供の姿より大人の物の方が強いに決まっている。身長の高さと手足の長さは戦士として不可欠な要素だからだ。理性があるクラスなのに何が悲しくて自分から弱体化せねばならない。自身の容貌を疎む気持ちはあれ、戦士としての己を誇るからこそ大人の姿で現界したのだ。

 増長しているように聞こえるかもしれない。だが己は美の化身も斯くやといった美貌を誇る。神々の中でも一、二を争う美貌の父を持ったのだ。父の血を誇ればこそ、この美を否定はすまい。だが戦士として在る己の力ではなく、美を見る事は許容しない。

 ペンテシレイアの父、軍神マルスを見るが良い。その美は誰しもに知られ、認められているというのに、誰もその美しさではなく恐ろしさや強さ、偉大さや悍ましさを讃えるではないか。美しいとは誰も言わない。つまり極まった力さえあれば、美ではなく、力だけを讃えるはずなのだ。そこに男と女の性差などないはずである。

 

 ペンテシレイアはアーチャーだ。単独行動のクラス別スキルがある故に、数日間マスターがおらずとも生き残れる。現界を保てる。だからその気になればもっと足掻けるだろう。マスターのいないまま敵サーヴァントを探し、戦う事もできるかもしれない。

 だが“戦える”だけだ。勝利は難しい。サーヴァント故にマスターが不在の今、自らの力を十全に扱えはしない。パラメーターは軒並み低下し、強敵との戦いになれば宝具を使うしかない。そうなれば魔力は尽き、戦闘中に消滅する無様を晒してしまう。それは耐え難い屈辱だ。勝ちも負けもせず消え去るなど戦士の矜持が赦さない。だからといって、宝具を使うまでもない雑魚を見繕って潰すなど――そんな浅ましい獣の如き振る舞いもまた論外である。

 

 強敵を欲する。しかし、マスターがおらねば満足に戦えもしない。ならばマスターを探そうにも、現代の人間に“神性の美”を前に自失しない人間がいるとも思えなかった。

 

「……ハッ」

 

 嗤い、弱ってきた体をどことも知れぬ林の中に倒す。木を背にして、女王は天を仰いだ。――ここは己の生きた時代よりも遠い未来。尊敬する偉大な父と、強者であると認める父の第一の信徒が、共に目指した現在の御世。

 心残りがあるとすれば、聖杯に与えられた知識として識るのではなく、この眼で見て回りたかった――かもしれない。生前、姉のヒッポリュテが里帰りして来た際、打ち倒されてアマゾネスの国から連れ出され、共に旅をした事を思い出して。時の果てを旅するのも悪くはないなどと思う己が可笑しくて笑ってしまう。

 

「ハハ――」

 

 声を殺して、笑う。愛する姉は、己が女王となった後も、己より強かった。外を旅して愛する者と共に戦ったからだ、と姉は言った。

 一度だけ、義兄である最強の男と会った。ペンテシレイアが認める最強の女を妻にした、女を見る眼が確かなあの男と。――そうその時に男は言った。『■しく成ったなペンテシレイア。流石は、ポルテの妹。……昔のようにお兄様と呼んではくれんのか?』

 断っておくが、一度としてあの男をお兄様などと呼んだことはない。なのにふざけて言ったあの男に怒り心頭に発して挑んで、姉が自分より数倍強いと称した男に敗れた。それからも様々な国を旅し。ああ――やはり悪くなかったと、生前を振り返る。

 

 クツクツと笑う。自身の未練を嗤う。

 

 ――その声を聞きつけたのか。人の、気配がした。

 

「………」

 

 近い。このペンテシレイアともあろうものが、こうまで近くに接近されるまで気づけないとは不覚だった。

 微かな殺気を滲ませ誰何の代わりとする。サーヴァントの気配ではない、人間のものだ。

 その人間は姿を見せる。足捌きと姿勢から見れる体軸に、雑魚ではなく暗殺者の手合いだと見抜いた。

 

 男だった。長身痩躯の、枯れた男だ。ペンテシレイアは顔を顰める。また、言われると。あの言葉を。憎悪と殺気が先んじて滲むのに、男は色のない眼差しで座り込むペンテシレイアを見下ろした。

 

「そんな所で何をしている?」

 

 平静そのものの声だ。己の美貌を眼にし、殺気を向けられてなお無感動な瞳である。

 ペンテシレイアは驚いた。こんな眼を向けられた事がない。少し――興味が湧いた。未知なるものは、好むところである。

 ペンテシレイアは斜に構えて笑ってみせる。

 

「……さてな。貴様の方こそ、何をしている。私の姿が見えないのか? 血に塗れたこの私を見て、何も感じないとでも嘯くのか?」

 

 木に背中を預けたまま、両手を広げて嘲笑する。彼女は血に塗れていた。それは、彼女の召喚主のものである。そしてそんな凄惨な姿と素振りを見せても、ペンテシレイアの匂い立つ美しさは欠片も損なわれていない。むしろより一層、彼女を美しく彩る化粧のようですらある。

 目を奪われ、呪わしいあの台詞を吐き出したとしても無理はない。だがその血と、何もかもを見て、男は眉一つ動かす事はなかった。そして、言う。見惚れるでもなしに、淡々と。

 

「何か感じるものがないのか、か。――特に何も。強いて言えば、()()()()()と感じる程度だ」

「――――」

「それに……お前がどのような人間なのかは、話してみるまでは分からない」

 

 そんな……当たり前の事を。怪異そのものと遭遇してなおも()()()()語る男に、ペンテシレイアは唖然とする。

 血塗れで、憔悴している女に殺気を向けられ。そんな事をのたまう男の神経が分からない。芯から枯れ果てているような男の眼差しに、アーチャーのサーヴァントは笑う事もないまま表情を消して男を見据える。

 

「……おかしな男だ」

「おかしさで言えば、お前には敗ける」

「ハ――なるほど、では言い換えよう。貴様は面白い。見たところ何も知らぬ一般人とやらなのだろうが……人の道を踏み外し欠落したモノか? この際だ、貴様を試してやる。時間はそれほど取らん、少し話を聞いていけ」

「……いいだろう。急ぎの用もない」

 

 そうして、ペンテシレイアは戯れに話し出した。

 嬉しかった……というのとは違う。単純に興味を惹かれたのだ。己を見て美しさに見惚れるでもなく、このペンテシレイアを『一個の人間』としか見做していない様に。

 話してどうする、とは思う。無駄なことをと。信じはすまい、聖杯戦争のこと、魔術やマスター、サーヴァントのことなど。

 

 話し終えて、ペンテシレイアは訊ねた。信じるか、人間、と。

 

 信じないと言えばそれまで。殺しはしない。そのまま帰す。久方ぶりに新鮮な気持ちになれたのだ、消滅するまでの単なる戯れだ。

 だが男は頷いた。冗談の色など微塵も覗かせずに。

 

「信じよう」

「………何? こんな話を、信じるだと?」

 

 話しておいてなんだが、ペンテシレイアは心の底から驚いた。なぜ信じる、と。

 

「お前が嘘を言う理由はないだろう。それとも、私を謀る理由があるのか?」

「……貴様こそ、血に濡れた者の相手をまともにする理由があるまい」

「言っただろう、お前がどのような人間なのかは、話してみるまでは分からないと。つまるところ、お前の言葉を信じる理由はないが、嘘だと断じる理由もない。ならば私は一先ず信じ、然る後にお前という人間を知っていこう」

「――――」

「では、事を済ますがいい」

「な、なに……? それはつまり、なんだ。まさかとは思うが……」

「サーヴァントには、依代とやらが必要なのだろう。私がマスターになるより他に、手がないと思ったのだが……違うのか?」

 

 今度こそ、ペンテシレイアは絶句した。

 未だ嘗て見たことのない人間である。こんな人間が有り得るのか、疑って。

 しかしその男の眼に、毛筋の先ほども冗談や嘘の気配はないように見えて。思わず、女は男の手を取っていた。

 

 マスターとサーヴァントの契約が此処に成る。そして己の手に触れてなおも、漣一つ立てない男の眼を見て。サーヴァントは、体の奥底が、一際強く鳴る感覚に戸惑った。

 

 それが男――枯れ果てた殺人鬼、葛木宗一郎とペンテシレイアの出会いであり。女王のマスターとなった男と、サーヴァントとして聖杯戦争に参じた女王の運命の瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ッ! 下がれ、凛! サーヴァントだッ!」

「――――」

 

 サーヴァントの追加召喚。その原因を知る為に、状況を把握しているかもしれない聖杯戦争の監督役、言峰綺礼の許を訪ねようとしていた矢先だった。

 凛は冬木大橋の歩道橋に歩を進める前に、敵サーヴァントと思しき女と鉢合わせる形で遭遇してしまい――そして、予想外な男の姿を眼にして目を見開いてしまった。

 

 女、ペンテシレイアは露骨に舌打ちする。サーヴァントと遭遇した間の悪さに苛立っているのだ。()()()の為に拠点を飛び出して来たというのに、戦闘をこなさねばならなくなったのだから苛立ちもする。

 鎖を繋いだ鉄球を顕し、ペンテシレイアは黒白の双剣を手に立ちはだかった男を睨みつけ、殺気も露わに吐き捨てた。

 

「フン、運の悪い……ああ、私の事ではない。貴様らの運の悪さを詰っているのだ。よもやこのような所でこの私と出くわすとはな」

 

 白皙の美貌に切れ長の双眸、人体の黄金率を完璧に形にした肢体と目鼻立ち。銀のように輝いてすら見える白い髪を結い上げた、人智を超えた美の権化。

 アーチャーのサーヴァント、ペンテシレイアは赤い外套のサーヴァントに呵責無き殺気を浴びせる。

 

 しかし凛は彼女の美しさよりも、その背後に佇む男にこそ驚愕していた。

 

「そんな――葛木先生!? まさか先生がマスターだなんて……!」

 

 そう、男は凛の知る学園の教諭である。無感動に凪いだ瞳で凛を見据え、葛木宗一郎は意外そうにするでもなく淡々と応じた。

 

「遠坂か。お前もマスターとは、世間というものは存外狭いらしい」

「教え子かソウイチロウ。だが私には関係ない。まさか殺すな、などと眠たい事を言いはすまいな?」

 

 ぎらりとした眼を向けられ、肝の小さな人間であれば竦み上がるところを、葛木は臆するでもなく返答する。

 

「私は聖杯戦争というものに関わるつもりはない。私は魔術師ではないのだ、魔力とやらをお前にやれる訳でもなく、あくまで依代としてのマスターになっただけの事。アーチャー、戦うというなら好きにするといい。私は手出しはしない」

「よかろう。弁えているではないか。ああそうだ、私は私の意志で戦う。命じられたからなどと、受動的な姿勢など持たん。会敵必殺――出くわしたからには死んでもらう」

 

 ペンテシレイアはそうして、少女とそのサーヴァントに殺気を向ける。

 あたかも巨大な獣に睨みつけられたように怯む凛。だが、腹に力を入れて堪え、気丈に睨み返す。そして赤い外套の弓兵に戦闘を命じ――る、前に。

 ペンテシレイアは葛木を一瞥するや、おもむろに殺気を霧散させ舌打ちした。まるで――そう、まるで葛木の顔色を伺うような。

 無意識なのだろう。自覚がないのだろう。なんとなく気まずい表情を不機嫌なものとして吐き捨てる。

 

「……やめだ。興が乗らん」

「………?」

「見逃してやる。小娘、私と相見えていながら命ながらえる幸運に感謝しろ。さっさと行くがいい、貴様らなどに用は無い」

 

 アーチャー・エミヤは凛に視線を向ける。しかし凛も困惑していた。戦闘に移るのを覚悟していたところである。現に女のサーヴァントは殺気を向けてきていた。

 にも関わらず、見逃すという。エミヤは万全ではない故に望むところではあるが、些か腑に落ちないというのが正直なところだ。

 凛は意を決して葛木に問い掛ける。

 

「……葛木先生。貴方は魔術師なんですか?」

「いいや。私は魔術師などではない」

「なら、どうして聖杯戦争に参加なんか……巻き込まれているんですか?」

「それにも否と返そう。私は私の意志で、アーチャーを救った。それだけの事で、それだけでいい。お前は私と戦うというのか、遠坂」

「……いいえ。今は退かせてもらいます」

 

 会釈もせず身を翻し、凛はエミヤを伴い去っていく。葛木が女をアーチャーと呼んだ事に動揺していたのを隠し。今は戦闘を避けるべきだと。

 その背に一瞥も向けず、ペンテシレイアは葛木の腕を軽く小突いた。葛木がちらりと視線を向ける。

 

「なんだ」

「フン……つまらんぞ。ソウイチロウ、私は木偶を連れて回る趣味はない。やむを得なかったとはいえ、私は自ら貴様のサーヴァントとなったのだ。ならば最低限の筋は通さねば我が名が廃る。初戦はせめて、ソウイチロウの命によって始める気でいたのだ。それを貴様は……いやいい。何はともあれ、私の聖杯戦争を始めるのは貴様の号令によってだ。それまでは自衛に徹するぞ」

「……? ……そうか。ならば次は、私が命じよう。敵を殺せ、と。それでいいのか?」

「ああ。そうこなくてはな――」

 

 女王は葛木を伴い、凛とは反対の道を行く。葛木の言葉にペンテシレイアは機嫌を直して笑った。彼女にとっては信じられないほど波の大きい感情のうねりがある。昂ぶっているらしい。そうと気づいたペンテシレイアは困惑し……眉を顰める。

 なんだ、と胸を抑えた。だが今一瞭然としないものは不快ではなく、ペンテシレイアはかぶりを振る。意図して無視し、今は目的の者に会いに行こう。

 

 柳洞寺にいた奇跡の王妃。その者から聞かされた、ある男の所在。何か王妃は言っていた気がするが総て聞き流し、ペンテシレイアはマスターを連れて飛び出してきたのである。

 

 そこに強者がいる。ならば、挑まぬ理由などない。ペンテシレイアはただただ、己の愛する姉が認めた強者に、再び挑むつもりでいたのだ。

 葛木は嘆息するでもなく、霊体化して進む女を追った。彼自身も彼女を救った本当の理由を自覚できずにいる。胸の裡に燻る、自身の心の揺らぎを見極めるために、女戦士に付き合うのも悪くないと思っていた。

 

 そうして“黒”に割り振られるはずだったサーヴァントは、“白”の聖杯が滞在する屋敷へと襲来するのだ。

 

 

 

 

 




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二十一夜 白の陣、邂逅の夜(上)

タグ再編しました。




 

 

 

 

 原始の世。今まさに文明を築いていかんとする古代。後の世界の中心国家となるローマ帝国の礎となる故に、その地に築かれた数多の伝説は、古代文明の最たる物の一つに数えられる。

 どこまでも広がる草原。果てなく広がる蒼穹。荒れ狂い、然れど凪ぎし大海原。悪心を招く神秘濃度は物理法則の無き故に、そこかしこを舞う精霊や神の遣いの雑多さよ。

 ポツンと虚空に漂う意識の中、ぼんやりとその世界を視る。

 狂った者がいた。雨雲の迫る天に不吉の予兆を視る。燃え盛る炎の中に、狂った男が妻子を投げ込んでいる。必死に止めようとする幼い男児と女を振り払い、そして――雨が降った。

 

 正気に戻った男の慟哭が天地を揺らがす。自決せんとする男を止めたのは、彼の父であり大神。

 

 男は報復を誓った。復讐を成さずに死ぬものかと魂に刻んだ。己を狂わし最愛の者たちを殺させた悪神を断じて赦さぬと、その心中に常に燃え盛る燎原の火を焚き続ける。

 灼熱のような生き様だった。男はやがて様々な出会いを経て、神と人の関係を刷新する道を志す。如何に困難な偉業であろうと決して折れない。戴く神に忠誠を、憎む神に恩讐を、愛す人に幸福を――そして、人が抗えぬ神に告別を成さんと進んでいく。

 友を作った。妻子を得た。国を築いた。原初の火を人類に齎した神を共犯者とし、二人三脚で進んでいった。復讐を成し――しかし、その代償に国を半壊させ。遂には人の身では志を遂げるには時が足りぬと悟り、男は己の神たる魂に刻印する。

 

 そうして彼は死に、神となった男は勝利と共に神として人に別れを告げた。それは分かたれた人としての己との訣別でもあった。

 

 人間の男が振り返る。今際の際、臨終する寸前――その目が、ふと自分を捉えた気がする。

 

『――この世全ての悪を敷いても、善を成しても良い。悔やみ、逃げても良いのだ。生きて、生きて、生き抜いて。そして願わくば、愛する者に尽くす人生を生きてほしい。

 人間は憎しみと嫉妬に狂い、いたずらに争う醜い獣だが。同時に何よりも度し難く、尊い……美しい生き物なのだと信じて……人生の旅を終えよ。振り返り、悔いはあっても未練はないと……笑って死ねるように』

 

 男はトロイアへの救援に出した自身の子供達に伝わるように、腹心に遺言を託して事切れた。

 それが――どうしてだろう。少女は自分に言われた気がしてひどく胸がざわめいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 握り締めた木刀、その構成材質を読み取り微細に把握し、脳裏に広げられた設計図に沿って魔力を通していく。

 すると――キン、と。鉄と鉄が打ち鳴らされたような幻聴と共に、強化の魔術が成功した。

 

「あれ……?」自分でも驚くほどすんなり成功し、士郎は呆気に取られた。これまで失敗だらけだった魔術行使がなんでこんなに簡単に成功したのか。

 考えられる要因は、昨夜イリヤスフィールに魔術の指導を受けた事のみ。

 魔術回路を開いただけでこうも変わると、今までの苦労が徒労であったのだと感じて士郎はドッと力が抜ける思いだった。

 

「……じゃ、次は投影ね」

 

 イリヤスフィールが寝惚け眼で言う。切嗣にそれを誰にも見せるなと厳命されていたが、まあイリヤ達にならいいかと軽い気持ちで投影魔術を行使する。

 強化の魔術よりも、士郎的には簡単な、息抜きに近い魔術である。台所で握り慣れた包丁を投影し、それをなんとなく掲げて検分する。そうするまでもなく細部に到るまで完璧に把握できているため、全く意味のない行動だったが。

 

「昨日も見せてもらったけど……やっぱり出鱈目ね。魔術っていうより異能の類いじゃない。ねえシロウ、一応訊いておくけど自分が何をしたか分かってるのかしら」

 

 道場である。冷たい空気に身震いするような夜、イリヤスフィールに促されてやって来たセイバーとバーサーカーは目を見開いていた。

 セイバーは純粋な驚き故に。しかし、バーサーカーは驚愕した直後に思案するような表情になっている。士郎は首を傾げた。彼はそこまで特別な事をした自覚がない。故に気負うでもなくさらりと返した。

 

「何をって、普通に投影しただけだぞ。まあ包丁とかは簡単な割に危ないからな、投影した後はすぐ消す事にしてるから安心してくれ」

 

 そういう事じゃない。イリヤスフィールの目はそう言っている。

 露骨に嘆息して、彼女は改めて士郎に説明する事にした。

 

「シロウのそれ、厳密には“投影魔術(グラデーション・エア)”じゃなくて、多分だけど“固有結界(リアリティ・マーブル)”の副産物よ」

「は? 固有結界……って、なんだ?」

「……シロウ、それは魔術師ではない私も知っています。あくまで知識でしか知りませんが……私の師であるマーリンが、それは魔術の最奥なのだと言っていました」

 

 最奥? セイバーの口から飛び出したビッグネームにも反応せず、士郎はあくまで無知を曝け出すように反駁し、腕を組んだ。いまいちピンと来ないのだ。

 そんな義兄(おとうと)にイリヤスフィールは頭痛を堪えるような表情になる。

 くどくどと解説するのは単純に面倒臭い。しかしこの場で講釈できるのが自分しかいないのだ。仕方なくイリヤスフィールは無知な士郎に教授する。教師役なんて柄じゃないのにと内心愚痴を溢しつつ。

 

「固有結界っていうのはね、個と世界、空想と現実、内と外を入れ替え現実世界を心の在り方で塗り潰す魔術の到達点の一つよ。魔法に最も近い魔術って言われてて、魔術協会では禁呪のカテゴリーに入れられてるわ」

「へえ……」

「へえ、ってシロウ……貴方のそれの事を言ってるんだけど……まあいいわ。ともかく、シロウの魔術回路はそれにだけ特化した異形のものなの。……異形とかわたしに言えた口じゃないけど。いい? 固有結界っていうのは、魔術理論"世界卵"を使い、殻という体の内外の境界線はそのままに、現実と心象風景を入れ替えるの。どれぐらい出鱈目なのか一口で言うと……普通の魔術師がシロウの魔術のカラクリに気づいたら、シロウをホルマリン漬けにして研究資料にしようとするぐらい出鱈目なのよ。分かる?」

「ホルマリン漬けは御免だな……」

 

 わざわざ説明したのに、どこかピントのズレた感想を溢す士郎にイリヤスフィールは嘆息した。苛つかないのは、馬鹿みたいな事を言っていながら士郎なりに危険度を理解したと察したからだ。

 しかし危機意識が薄い。理由があれば隠しもせず、使うのを躊躇しないだろう。そう確信させる危うさが士郎にはあった。自分に降り掛かる危険には無頓着な士郎の悪いところだ。

 

 と、不意にバーサーカーが問い掛ける。

 

「マスター。エミヤシロウの魔術……能力の限界点はどこにある? 例えば宝具の投影も可能なのか?」

「え? んー……多分できるんじゃないかしら。流石にAランク以上の宝具とか、神造兵装は無理だと思う。シロウの起源が“剣”だから、無理なく投影できるとしたら主に剣にカテゴライズされるものばかりだろうけど……それがどうしたの?」

 

 バーサーカーはマスターからの反問に、難しい顔で思案したまま答えず、さらに質問を重ねる。

 

「……いや。例えばの話だが、固有結界とやらは他者に引き継がせる事が出来るものなのか?」

「ええ。継承は可能よ」

 

 ただし、その場合は固有結界を展開する能力を魔術刻印として受け継ぐだけで、心象世界は全く別になり、能力そのものも異なるものになるが。

 しかし言葉が足りない。イリヤスフィールの答えにバーサーカーは納得してしまい、そして士郎の容姿を足元から頭頂部に到るまで見渡して鼻で笑う。

 ムッとする士郎である。コンプレックスに近い身長の低さを笑われた気がしたのだ。

 

「なんだよ」

「いや馬鹿にする意図はない。私の思い違いを笑っただけだ。先日セイバーとランサーと交戦していた際に狙撃してきたアーチャーがいたが、アレは恐らく貴様の祖先なのだろう」

「は? 俺の祖先……?」

 

 何せ能力が全く同じもののように見えたのだが、身長から体格がまさに大人と子供の差である。士郎の年齢的に、あそこまで劇的に背丈が伸びる事は考え辛い。

 ……実際は、士郎の中にある聖剣の鞘によって成長が遅れているだけで、最終的にはあの弓兵と同じ容姿になるのだが、聖剣の鞘の存在をまだバーサーカーは知らない故にそうした結論を出したのだ。

 

 きょとんとしたのはイリヤスフィールだ。数瞬呆気にとられ、考え込み、そして愕然とする。バーサーカーの勘違いはともかく、聡明な少女は彼の言葉の意味を悟った。

 そんなイリヤスフィールの驚愕を横に、バーサーカーはある一つの決意を懐く。

 

「貴様にはあのような戦法は取らせられん。私が貴様を正統派の剣士にしてやろう」

「……え?」

「武器は扱う者次第で善にも悪にもなる道具に過ぎんが、そこに込められる信念や誇りを蔑ろにする戦術は例え幾ら有効であっても許容できん。如何に道具に過ぎん代物でも宝具は別だからだ。例えばセイバー、貴様は自身の武器をエミヤシロウが投影できたとして、それを使い捨ての弾丸として放たれればどう思う?」

「私の剣をですか? ……それは、やはり面白くありませんね。私の今の剣なら所詮は一時の幻想と捨て置けるでしょうが……思い入れのある選定の剣を投影され、使い捨てにされれば不愉快かもしれません」

 

 セイバーの持つ約束された勝利の剣(エクスカリバー)は、星が鍛えた神造兵装である。如何に異能の能力でも完全な模倣は不可能だ。

 だがこれはあくまで仮定の話、セイバーはその前提に則って答える。

 バーサーカーも頷いた。そして士郎に言う。

 

「エミヤシロウ、貴様は剣に分類されるなら、宝具すらも投影できるかもしれん。だが忘れるな、宝具というのは英霊の象徴、無闇に贋作を作り出し使い捨てていいものではない。何故なら宝具とは英霊が強い愛着や誇りを持つものが多いからだ。“出来る”からと粗製乱造し、打ち捨てるように消費する様は元となった英霊の誇りを蔑ろにする所業となる。その事を覚えておけ。この時代の人間である貴様には、道具は道具でしかないではないかと共感し辛いかもしれんがな」

「……理解は出来るぞ。付喪神とは違うにしても、物を大事にするって考えは分かる」

「ならそれでいい。投影するなとは言わん、だが扱い方には気をつけよ。それと、こうするなと戒めるだけでは片手落ちだからな。私から貴様に、その能力の活かし方のアイデアを一つ、出しておこう。――その前にマスター、一つ訊くが固有結界とやらは現実世界に展開する形でしか使用できないのか?」

「え? うーん……そんな事はない、と思うわ。だって固有結界ってある種の異世界だもの。現実世界とは法則が違う。だから結界として使用したら世界からの抑止が掛かって長時間の展開は無理になるわ。魔術師ならそのリスクを無視する為に、例えば結界の展開を体の内側にだけ限定して燃費を良くするって方法も取ると思う。それが一番、概念的にも無理がないもの」

「この男の起源は剣、だったな。そして投影魔術は固有結界の副産物に過ぎないと。ならば――こんな真似は出来るか? 例えばエミヤシロウの固有結界を、一振りの剣としてカタチにするといった事は」

「――――」

 

 バーサーカーの発想は、収斂である。武人らしい思考だった。

 無限を以て唯一とする。その発想にイリヤスフィールは息を呑み、セイバーは戦慄する。それはつまり、

 

「……数多の剣を内包した、一振り。宝具すら内包した剣であれば、それは剣に於ける究極の一にも成りえますね」

 

 セイバーがそう溢し、己のマスターの秘めた可能性に驚嘆の目を向ける。士郎は全く理解が及ばず、セイバーの目に居た堪れない気分になった。そんなに凄いものなのか? と。そんな士郎を横に、イリヤスフィールは深く考える。知識を総動員して理論に無理がないか思考し。そして理論ではなく答えから入れる特性を持つイリヤスフィールは直感した。不可能ではない。謂わば固有結界の亜種だ。

 固有結界を攻撃的に解釈した概念結晶武装。自身の心象風景を剣として結晶化したものであれば、それは世界からの抑止の対象とはならない武器である。むしろ固有結界をそのまま展開するより余程無理がないとすら言えた。無論の事、それを成すには固有結界への深い理解が不可欠で、修練を必要とするだろうが。

 

「……セラを呼ぶわ。シロウにはうんと勉強してもらって、そこを到達点として目標にすれば、多分できる」

 

 ――そうして士郎にとっての天敵となる鬼教師が衛宮邸に赴任する事になったのだ。

 

 イリヤスフィールの返答に、バーサーカーは頷いた。

 

「ならばその剣を使い熟す技量は不可欠であろうさ。喜べエミヤシロウ。貴様を一端の剣の英雄に仕上げてみせよう。そのためには扱う武具から選定しなくてはならんな。エミヤシロウ、早速だが一つこれだと思うものを投影してみせよ」

「は? え? ……なんでさ」

「いいからやれ」

 

 命じられ、士郎は今まで見た事のある剣の中で、それらしいものを想像する。

 と言っても士郎が見た事のある剣など、夢の中で見たセイバーの剣か、気絶する寸前に垣間見えたアーチャーが狙撃してきた剣の矢の残骸……後は、藤村組で見せてもらった事のある日本刀ぐらいである。

 今の士郎には、宝具である剣の投影は気軽にはできないし、セイバーの剣は技量的にも許容値的にも不可。となれば、投影する剣は“刀”しかなかった。

 

 渋々刀を投影した士郎に、イリヤスフィールはパッと顔を明るくする。

 

「あっ! カタナ! それ知ってるわ! お爺様が言ってたもの。カタナはニホンジンの魂で、セップクとかカイシャクにも使われるのよね! ね、ね、やってみて! ニホンジンはシロウしかいないんだからシロウしかできないもの!」

「やったら俺が死ぬんですが。……なんかイリヤの日本観は間違ってる気がするぞ。刀に関しては間違っちゃいないかもしれないけどさ」

 

 気軽に切腹とかするものではない。今度そこのところじっくり話し合うべきかもしれないと士郎は思った。そんな彼から刀を受け取り、バーサーカーは日本刀を視る。

 偉丈夫である彼が刀を持つと、サイズが脇差のようにしか見えない。バーサーカーは刀の出来に感嘆した。

 

「……まるで工芸品だな。美しい剣だ。とても贋作とは思えん。……しかし切れ味はよさそうだが、脆い造りだ。これは叩き切るものではないな?」

「ああ。西洋の剣と日本の刀は違うからな。確か……引いて斬るものだったと思う」

「引いて斬る? ……こんな感じか」

 

 言いつつ、バーサーカーが刀を振るう。ビュッ、ビュッ、と風を斬る所作は精錬されていて、一流の刀使いのようだ。

 流石は無双の大英雄とでも言うべきだろう。はじめて手に取った武器を簡単に使い熟して見せる。しかも三回振った後は、その風切り音は風と風の隙間を通り抜けるような風切り音を残すのみとなる。そしておもむろに構えたかと思うと、超神速の九連撃が虚空に放たれた。

 

 如何なる剣豪をも両断せしめるのではないか。そう思わせる威力の剣技に道場が揺れる。うわっ! と士郎の口から悲鳴のようなものが溢れ、バーサーカーは慨嘆した。

 

「……未熟」

 

 恥じるように呟いたバーサーカーの手から、砕け散った刀が消滅していく。セイバーは微妙な表情で相槌を打つしかなかった。

 

「……今のは、私も回避できず斬られていたと思うのですが……」

「武技を振るい武具を壊すなど未熟者以外の何者でもあるまい。こんな様で指導はできん。エミヤシロウ、貴様に剣の技を教えるのは後日に回そう。体作りから入るぞ。そうだな……明日だ。明日には貴様にカタナの扱い方を教えられるように私自身を仕上げてみせる。それまで待て」

「一日でいいんですか……」

 

 思わず士郎は敬語で呟くしかない。達人は得物を選ばないと言うが、はじめて握った武器の慣熟を一日で済ませるつもりのバーサーカーに苦笑いもできない。

 武芸百般に精通する無双の豪傑がヘラクレス――アルケイデスである。彼に掛かれば英霊の域にある刀使いには及ばずとも、並の刀術の達人など相手にもなるまい。

 そうしてバーサーカーは失った刀の感触を反芻するように腕を振るいながら、暫し鍛錬に没頭すると言い残して道場から去って――行こうとした時だった。

 さあ私が相手です、とセイバーが士郎の鍛錬に付き合おうと息巻いた直後、イリヤスフィールがハッとして視線を転じた。

 

「――何か来る。結界を越えたわ。これは……サーヴァントと、人間?」

 

 屋敷に探知の結界が張られている故に、士郎も遅れて気がついた。侵入者だ。

 そう感知した瞬間――衛宮邸の周囲を囲う壁を粉砕する轟音が轟き、大音声が鳴り響く。

 

 

 

「――ヘラクレスッ! いるのは分かっているぞ! さあ今すぐにこの私と闘えッ!」

 

 

 

 

 

 



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二十二夜 白の陣、邂逅の夜(下)

注)エミヤの時はサーヴァント追加召喚、ギルVSアルケイデスはなく、弓兵はエミヤではない。其れ以外には言えない、言ったらネタバレになる危険があったりなかったりする。




 

 

 

 

 轟音と共に襲来したのは、体の急所のみを護る鉄鎧を纏い、純白の外套を羽織った白銀の髪の女神である。

 否、女神ではない。しかし父である軍神の美貌を、他の誰よりも色濃く受け継いだのは確かである。故にその美が人語を絶するものとなるのは必然だった。

 棘のついた鉄球に繋いだ鎖を手に、堂々と敵陣に突撃した麗しき女戦士は謳うように告げた。ヘラクレス、出てきてこの私と闘えと。果たして騒音を撒き散らし登場した女王の声は、その類稀な声量もあって衛宮邸の隅々にまで鳴り響いた。

 

「騒々しいな。余程に礼儀を知らぬ狂犬かと思い出向いてみれば、いたのが我が義妹であったとは――ふん、遠い時の果てにまで構ってもらいに来たのか、ペンテシレイア。存外可愛いところもあったものだ」

 

 鎧は出さず、海嘯の魔槍のみを提げて出たのはバーサーカーである。続いて飛び出してきた士郎が、自身の家を囲う外壁が打ち崩されているのを目撃し目を見開く。

 長年住み慣れた我が家が破壊された。この事実は士郎に大きな衝撃を与える。そして美の化身ペンテシレイアを睨みつけ、しかしすぐに呆けたように人の領域にはないその美しさに目を奪われた。

 

「ハッ――戯言をよくもほざいた。相も変わらず大上段に構えた男だな。腹立たしいがなるほど、確かに懐かしくはある。…この手で縊り殺してやる日を、昔から夢想していたものだが……ああ、悪くない気分だ。貴様と戦えるなら現界した甲斐もあった」

 

 ペンテシレイアは一瞬、バーサーカーを目視し目を細めた。そこには郷愁にも似た、ある種の温かい光があって。しかしその光はすぐさま滾るような戦意に押し隠される。

 

 瓦礫を蹴散らし、悠々と衛宮邸の敷地に侵入したペンテシレイアは、鉄球を放り捨て腰の剣を抜く。ヘラクレスと戦うのに鉄球など荷物にしかならないと判断してのもの。つまり彼女は本気でヘラクレスと――バーサーカーと戦うつもりなのだ。

 だが解せない。彼女とバーサーカーはこの聖杯戦争では初見同士だ。どこでバーサーカーの存在を知り、その所在を知ったというのだろう。探りを入れるべきかとも思ったが、戦争では情報は命である。指揮官としても優秀なペンテシレイアが情報の出処を漏らすとは思えない。故にバーサーカーは無駄な探り合いはやめる事にした。ただただ、旧知の仲の英霊の貌に懐かしさに浸った。ライダー・メドゥーサがいたのに会う事なく脱落した事を知る故に、その感慨も一入だった。

 

「敬愛する姉を取られまいと、噛み付いてきたあのペンテシレイアがな……随分と大きく出るようになったものだ。微笑ましくて頬が緩む」

「……バカめ。いったい何時の話をしている? 女王たる私は寛大だが、()れるのは好みではない。聖杯に招かれた戦士と戦士が相見えたのだ。ならば戦士としても、サーヴァントとしてもやる事は一つだろう」

 

 道理ではある。総ての戦士達の王とまで謂わしめた王者として、その言には受けて立つ他になかった。

 殺す他にないか――自身の感情の全てを無視し、戦士である以上は戦いは避けられない。そうなれば殺すしかないのだ。ペンテシレイアは女王であると同時に戦士であるとはバーサーカーも認めるところ、故に戦士として挑みに来たなら戦士として迎え撃ち、打ち倒すしか道は有り得なかった。

 だからバーサーカーは、せめて最後に彼女との会話を楽しむ。殺気を潜ませながらも和やかに対話する、その生と死を内包した対峙こそが敵対する戦士達に赦された唯一の交わりなのだから。

 

「貴様の言う通りだ。生前はついぞ、本気で立ち会った事はないが……貴様に私が斃せるのか? その身の父たる軍神が、最強の人間であると指し示したこの私を」

「ヘラクレス。貴様が最強だからこそ挑むのだ。我が血、我が魂を誇ればこそ、最たる者である貴様を糧として我が強さの位階を上げる。英霊は不変の存在――だからなんだという。そんなものでこの血の滾りを抑えられるものか。私は強くなる、私自身の手によって。そして示すのだ、いと高き父マルスに。貴方の娘こそが最強なのだと――貴方の定めた最強者を凌ぐのだと!」

「そうか……時が経つのは早いものだ。骨の髄まで戦士、だからこそのアマゾネス。ああ、認めよう。アマゾネスとしての純度は紛れもなく貴様が最高だ。……しかしだな、その思い立てば魔猪の如くに突撃する癖は治らんのか? 私としては戦闘の最中に巻き込んでしまったのなら仕方ないと思うが、そうでもないのに他所様の家を壊してしまうのはいただけん。いいかペンテシレイア、我々サーヴァントは所詮、稀人なのだ。戦闘の結果でもないのに迷惑を掛けるのは不届きだぞ」

「……その妙な貧乏性も変わらんのか、ヘラクレス……他ならいざ知らず、敵マスターの陣地ともなれば破壊に躊躇いを持つわけがないだろう……」

 

 微かな笑みと苦笑が交わされる。殺気を滲ませながらも、互いに呆れ合い軽口を叩く様は、これから殺し合おうという殺伐とした雰囲気は感じられない。

 士郎はそれに戸惑う。殺し合いは忌避すべきもので、恐ろしいものであるはずだ。だのに、この二人にはそれがない。まるで近しい者との語らいの如く、平素の在り方のまま……さながら“戦い”こそが唯一の付き合い方のような、ある種の清々しさがあった。

 イリヤスフィールとセイバーが、いつの間にか士郎の傍に居た。油断無く辺りに視線を配り新手の存在を警戒しつつ、セイバーが加勢する素振りも見せずにいる。イリヤスフィールは打ち壊された外壁を見て、これは修復できないわね、と投げやりに言った。

 緊張感はない。バーサーカーが勝つと誰もが確信していた。バーサーカー自身も、そしてあるいは……ペンテシレイアですらも。

 

 しかし、衛宮邸の外壁部を一瞥してバーサーカーがある言葉を口走った瞬間、そんな空気は刹那の瞬間に淘汰される。駆け抜けた戦慄に、イリヤスフィールの貌から余裕が消え、緊張感が生まれた。

 

「“城壁の破壊者”か。そんな所まで父を真似ずともいいだろうに。美しさも含めて私の記憶のままだな」

「――美しい、だと」

 

 ピシリ、とペンテシレイアの眉間に亀裂が走ったような険が広がる。凄まじい憎悪と憤怒に彩られた貌に、一瞬にしてバーサーカーは思い至る。

 

 ――ペンテシレイアは、アマゾネスの女王である。人類を間引かんとする大神は、大義名分や口実がなかった故に、自ら勅令を発しアカイアにトロイアへ攻め込ませた。その際に公に神意が晒された故にもはや隠し立てする必要もなく、神々は憚りなくアカイアの軍勢に加護を与えたのだ。

 対し、トロイアに味方した神は戦神マルスのみ。マルスの尽力、ヘクトールの奮迅もあって十年間戦い抜けたが、業を煮やした大神の発令により神や精霊までも戦争に直接参加しトロイアを苦しめた。ヘクトールはもはや長くは防げないと悟り、アマゾネスに救援を要請し――来援したのがペンテシレイアである。

 ヘクトールとペンテシレイアは協力してアカイアの軍勢と戦い、ペンテシレイアは特に畏敬の念を懐き信仰する父の下、奮起して戦っていたのだが。その活躍があまりにも目立ち、目を瞠るものだった故に、アテナとオデュッセウスの策によってヘクトールとマルスから分断されてしまい、最速の英雄アキレウスと一騎討ちに及ぶ事になった。

 そうしてペンテシレイアはアキレウスに敗れ、彼は自身が打ち倒した女王の兜を剥いで素顔を見て思わず溢したという。『美しい』と。

 

 その最期を逸話として知る、ペンテシレイアの人柄を知る。故に美しいという言葉に憤怒を示す表情でバーサーカーは悟った。禁句だったか、と。

 だが撤回する気はない。美しいと感じたのだ、それを否定する事はできない。だが、

 

「美しいと、そう言ったのか、ヘラクレス――」

「ああ、言ったとも」

「ッッッ!!」

「だが、まあ……ポルテには劣るがな」

「――――姉上に?」

 

 赫怒の炎を燃やさんと、今に爆発するところだった怒りが霧散する。

 ポルテ――其れはヒッポリュテの愛称である。困惑する様には、しかし若干の喜色があった。

 煽てでも誤魔化しでもなく、確信を持ってなんでもないように言う。

 

「アレは気高く、誇り高く、そして強かった。その心までも。メガラを忘れた事はないが、私はポルテを妻に迎えられた事を誇りに思っている。――ポルテはただただ、その姿から魂に到るまで全てが美しかった……貴様よりもな、ペンテシレイア」

「……そうだろう。姉上は、強かった。そして私と同等に美しかった。フン、分かっているではないか」

「戯け。何が“同等”だ。ポルテが上だと言ったぞ」

「………」

 

 機嫌を直したペンテシレイアが、うんうんと頷く。それにバーサーカーは呆れながら訂正するも、ペンテシレイアは聞こえないふりをした。

 美しいと言われれば怒り狂うくせして、自身の美しさを欠片も疑っていない様に、面倒な奴とバーサーカーは呆れてしまう。しかし思い返せば面倒ではない手合いの方が珍しかったのを思い出し、これも愛嬌かと思い苦笑した。……その愛嬌が致死性であるのは笑い事ではないのだが。

 

「――なんだ。敵を前にしているというのに、まだ戦ってはいないらしいな」

 

 と、ペンテシレイアの背後から、彼女を追うようにして一人の男が現れた。

 士郎が満面に驚愕を浮かべる。それに興味を向けもせず――どころか、最初から眼中にないペンテシレイアは、少しの微笑みと共に背後を一瞥した。

 隔絶した美貌が象る微笑みは、万人の心を魅了する呪いのようなもの。しかしそれに全く反応した素振りのない男に、ペンテシレイアは一層笑みを深めるのだ。

 

「やっと来たか、ソウイチロウ。遅いぞ」

「お前が速いだけだろう。それよりどうした、アーチャー。お前は戦いが望みなのではなかったのか?」

「その通り。だが先刻の我が言葉を忘れてはいまい。私は初戦を貴様の号令で飾ってやると決めている。さあ命令を寄越せ、ソウイチロウ。我がマスター。――恐らく、全力で戦える唯一の機会だ。頼むぞ」

「ああ、それがお前の望みだというのなら、そうしよう」

 

 ペンテシレイアが獰猛に犬歯を剥きながらも言うと、男は淡々と頷いた。

 全力で戦える唯一の機会……それは、比喩ではない。ペンテシレイアは現世への依代は得たが、マスターからの魔力供給は受けられていなかった。

 なぜなら彼には魔力がない。故にペンテシレイアは現界してから一度も戦わず、活動しているだけで貯蔵魔力を目減りさせていっている。全力戦闘は今のマスターであれば一度が限度であると見切っていた。だからこそ戦うのはこの聖杯戦争で最強の相手でなければならず、それこそがヘラクレスなのである。

 

「葛木先生!? なんであんたが……!?」

 

 愕然とした士郎の声に、男――葛木宗一郎は凪いだ眼差しを向ける。ペンテシレイアなど「また教え子か」と呆れ気味だ。

 

「衛宮か。まさか遠坂だけでなく、お前までも聖杯戦争に加わっているとはな。世間というものは存外狭いらしい。学校を休んだのはこれが原因か。ならば同様に欠席しているらしい間桐とその妹も聖杯戦争に関わっているのかもしれんが……災難だったな」

「葛木先生……いや、葛木。あんた、魔術師だったのか」

 

 敢えて呼び捨てたのは、士郎なりに彼を敵と認識するための自己暗示だった。

 敵対するのに敬称を付けると、士郎はやり辛くて仕方ない。割り切れなくなる。無論殺すところまでいきたくはないが、相手もそうしてくれるとは限らないのだから。

 士郎の詰問に、葛木は否定する。あくまで平静そのものの姿は、士郎が普段から知っている教壇に立つものと同一で、その揺らがぬ有様にこそ違和感を感じずにはいられない。

 

「私は魔術師ではない。そして純正のマスターでもない。マスターを失い、消えようとしていたアーチャーに請われ、依代になっただけの事。――しかしこれは、私が始めた事だ。傍観者を気取るつもりもない。戦うというのなら、降り掛かる火の粉を払う程度はしよう」

「ッ……」

「衛宮。私はアーチャーの邪魔をする気はない。お前が戦わないと言うなら、私はここに立っているだけだ」

「フン。貴様も律儀な男だな、マスター。この期に及んで教師らしく諭すとは。だが、私は手は抜かん。殺せる所にいれば殺すぞ。構わないな、ソウイチロウ」

「好きにしろ。ああ、命令を出せばいいのだったか。ならば――やれ、アーチャー。敵を殺せ」

 

 葛木が気負いなく、枯れた声音で告げる。ニッ、と会心の笑みを浮かべ、ペンテシレイアが抜き身の剣を構えるや、バーサーカーも応じて魔槍を構えた。

 妖しく、酷薄に笑みを浮かべたのはイリヤスフィールである。刻限は夜、すなわち聖杯戦争の時間。甘えん坊で、ワガママで、天真爛漫な少女ではなく、冷徹なマスターの貌になる。

 

「――あら。まるでわたしが手折られるだけの華に見られるだなんて心外ね。バーサーカーがソイツを抑えてる間に、わたしが貴方を殺しちゃえばお終いじゃない」

「イリヤ!? 葛木を、殺すのか……!?」

「当然よ。相手は殺す気で来てる。それもわたし達にサーヴァントを嗾けた。なのに自分は知らないから勝手に戦えだなんて……そんな言い逃れを許すほど、わたしは甘くないわ」

 

 ――生きている人間を殺すだなんて、士郎には受け入れられない。

 だが短い付き合いでも士郎には分かる。イリヤスフィールは、殺すと言えば本当に殺す少女だ。そして同時に、あっさりと前言を翻す気紛れさもある。

 説得すれば思い留まってくれる、そう信じてイリヤスフィールを説き伏せようと士郎が口を開いた瞬間――ペンテシレイアが()()()

 

「ァァアアアアアア―――ッッッ! さあッ! 戦いの時だ! 私と貴様、生きて終えた者こそが真の強者! 殺し合おう、我ら戦士の業は血を見る事こそ悦びだッ!」

 

 軍神咆哮。アマゾネスの女王が持つ固有のスキル。それは聞く者が味方ならば勇猛を与え、敵ならば心肝を凍えさせる獰猛なそれ。

 バーサーカーは懐かしげに遠くを見て。イリヤスフィールや士郎は顔を強張らせた。そして、セイバーは二人のマスターを護るように前に出る。

 

 葛木は、戸惑っていた。困惑した目で、ペンテシレイアを見る。

 

 ()()()()()がペンテシレイアの咆哮によって揺り動かされたのだ。これまで感じたことのない感覚――()()()()()()、戦闘に際してのベストコンディションに変貌する。

「ッ――」堪えるように葛木は拳を握る。()()()()()()()宿()()。ペンテシレイアと契約で繋がるが故に、その精神の同調が葛木へ戦いの加護を齎したのだ。

 すなわち、()()()()()()()()()()()()()()()()()ということ。堪え切れずに葛木の口が歪んだ。()()だった。

 

「ぐ……はは……なんだ、なんだこれは? 私は……私が、昂ぶっている? アーチャーめ……この情動、なんとした事か……ッ!」

「戦え、戦えソウイチロウッ! 貴様には私と肩を並べる資格があるッ! 闇夜に潜むべき暗殺者であろうと、この私と並び立てば一廉の戦士として遇するに値するッ! さあ、敵を殺すぞッ!」

「……良いだろう。悪くない、ああ、悪くないぞ。この私が……枯れた殺人鬼に過ぎん私が、その気にさせられてしまってはな……!」

 

 言いつつ、葛木は嗤った。その殺意に漲る男の姿に、士郎は生唾を呑み込んで刀を投影した。

 らしくない、らしくないのに――あの葛木には、まるで()()()()()()()()

 士郎達の前に出ているセイバーの顔色が変わった。葛木が油断ならぬ敵であると直感したのだ。

 

 戦いが始まる。この場の誰かが確実に死ぬ、死闘が。

 

 セイバーがいる、バーサーカーがいる、如何にペンテシレイアでもこれを覆せる力はない。まずペンテシレイアが敗れ、葛木はセイバーに斬られて死ぬだろう。

 だが()()()を予感させる何かがあった。バーサーカーが鎧を纏う。魔槍を構え、イリヤスフィールに言った。それは――微塵も油断なきが故の、確殺の要請。

 

「マスター。私に()()を。全力で仕留め、()()()の芽も潰さねばならん」

「……そうね。なんか、嫌な感じがするもの。全力でやっていいわ。バーサーカー……」

 

 狂いなさい。その一言で、バーサーカーのサーヴァントはしかし、狂わずに本領を発揮するだろう。

 

 その直前、ペンテシレイアが跳ぶ。弾けたように襲いかかるのはバーサーカー。戦いの嗅覚が、させじと機先を制する為に仕掛けさせたのだ。

 応じてバーサーカーが槍を振るわんとする。

 

 その時だった。不意にペンテシレイアの剣と、バーサーカーの魔槍の切っ先が鈍る。気配を感じたのだ。

 

 

 

「――やめなさいっ! この場は私が預かるわ!」

 

 

 

 ()()()来たのだろう。その()()は水晶を二人の間に投げ、仲裁を鋭く宣言する。

 その水晶の中に、()()が閉じ込められている事を一瞬で気づいたのはペンテシレイアとバーサーカーの双方である。

 令呪による空間転移で出現した、()()()()が物干し竿を手に、バーサーカーの魔槍を受け流し。ペンテシレイアの剣を握る手を片手で受け止め、威力を絶妙に散らしている。

 

 玲瓏な風貌の侍は、フッと耽美な笑みを浮かべてペンテシレイアとバーサーカーを見遣り。バーサーカーは彼の得物を見て興味を惹かれ、魔女の声を聞いたが故に槍を引いた。

 なおも邪魔者を押しのけ戦わんとする女王に、魔女は焦りと苛立ちからペンテシレイアに向けて叫んだ。

 

「アーチャー、人の話は最後まで聞きなさい……! ヘラクレスと戦わせるために居場所を教えたわけじゃないわよ!」

 

 そう。葛木宗一郎は元々、柳洞寺に住む。そしてそこに潜んでいた魔女は彼を庇護下に置いていて。そんな彼をマスターにしたペンテシレイアの存在を知らぬはずがなかった。

 魔女はペンテシレイアを間に置き、ヘラクレスの陣営と接触しようと目論んでいたのだ。全てはこの変質した聖杯戦争に対処するために――世界で一番恐ろしくとも、世界で一番信頼でき、一番強いと確信する大英雄を味方にしたかったから。

 だから居場所を聞き出すなり飛び出したペンテシレイアを止めるために、名もなき亡霊の依代である山門を水晶に閉じ込め、元々山門のあった場に幻術を掛け門が消えた事を隠蔽し、準備に準備を重ねて大慌てで追ってきたのである。

 

 ――此処に、“白”の陣営が結集する事となった。

 

 セイバー、バーサーカー、アーチャー、キャスター、アサシン。

 衛宮士郎、イリヤスフィール、葛木宗一郎。

 

 彼らが“白”である。

 

 

 

 

 

 



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二十三夜 蠢く影は、黒

 

 

 

 

 くぅくぅ、くぅくぅ、お腹が鳴りました。

 ……お腹が空いたな。ここ数日間、ずっと絶え間なく襲い来る飢餓感に、心を擦り減らす思いで堪えてるけど。

 とっても――くぅ――とっても――くぅ、くぅ――お腹が減ったなぁ。

 先輩の作ったご飯が食べたいな――邪魔なあの娘を食べたいな――セイバーさんは大丈夫――あの怖いヒトを食べ(殺し)たいな――姉さんはどうしてるんだろう――兄さんはどうしたんだろう――私はまだ堪えられるかな――なんで堪えてるんだろう?

 

 ペリ。

 

 指から爪が剥がれる。生々しい音と共に、間桐桜は自身が噛んでいた親指の爪が割れていたのに気づいた。

 痛みはそれほどない。血も、出ていない。割れて剥がれた爪が、すぐに治癒していく様を見て、桜はぼんやりと自らの手を見詰めた。

 

「何をしている」

 

 静かに。胸の奥に突き立つような声がして。

 白く染まった髪を揺らし、桜はギクリと肩を動かした。

 

「自らを傷つけ生を実感しようと試みても、そこに忌避を感じなければ人の道に立ち返る事はできない。マスター、お前は既に破綻している。ヒトである事を忘れたくないのであれば、無為に自らを傷つける行いは避けるべきだ」

「っ……カルナさん……」

 

 何気ない所作。何気ない視線。それだけで桜が痛みにヒトの心を感じようとしていた事実を言い当てられ。そしてその行為の無意味さを諌められる。

 痛みを感じようと即座に治癒してしまう膨大な魔力。汚染された大聖杯に接続された桜の肉体は、もはやヒトのそれから乖離しつつある。その様を見る度に心が軋むのに、直言を厭わぬ諫言は耳に痛かった。

 疎ましい。しかし、遠ざけるわけにはいかない。桜は自身が召喚した二人目の英霊、太陽神スーリヤの子カルナの声に顔を上げる。

 

 円蔵山の内部にある大空洞、龍洞に敷設された大聖杯の前。そこにある闇を払うように佇む太陽の化身が如き大英霊。少女の眼前には、人型の太陽が如き青年が居た。

 その肌は病的なまでに白く、その体躯は枯れ木のように痩せたもの。しかしカルナの膂力は怪力と称しても誤りとはならない。彼の洞察力は人の域にはなく、桜が隠そうと藻掻いている事実を刳り抜く。

 まるで、酷薄な太陽。全てを白日の下に晒されてしまう恐怖がある。

 故に桜はこのサーヴァントが苦手だった。恐ろしくて堪らない。なのにこうして傍に置くのは、彼の強力さをマスターとして知るが故だった。そう、あの英雄王ギルガメッシュをして『ほう? 陰の月が日輪を従えるか。面白い――』とまで謂わしめたのだ。桜はあの傲岸不遜を絵に描いたような王が、認めるような物言いをしたという一点のみでカルナを評価した。

 

 だが、苦手だった。その眼差しが、その物言いが。彼が善性の存在であるのは解る、解るが――どうしてこう、心に刺さる事ばかりを言うのだろう。その真意が桜には分からない。もっと優しくしてほしいのに……。

 しかし知る者が見れば、カルナの雄弁さ、多弁ぶりには驚嘆するだろう。カルナという男は言葉数が少ないというのに、桜に対してだけは幾度も声を掛けるのだから。だが――

 

「お前の忍耐はもうすぐ底を突くだろう。そうなればこの地に大いなる災禍を齎すに違いない。ならば堪えるのではなく、何かで紛らわせるべきだ。少なくともこのような場に隠れ潜むのではなく、心を支えられる者の近くに身を置いた方がいい」

 

 ――彼の真意は、決して桜に伝わらない。

 

「お前が感じるものはなんだ。独りで堪える孤独か、理不尽に対する怒りか。いずれにしろ、それらよりも“餓え”が上回る時が来る。マスター、お前は恐れているな? 自らが傷つくのを厭い、ただ蹲り堪えているだけでしかない。勇気を絞れ、行動しろ。そうすればお前は傷つくだろう。だが最悪の事態だけは――」

「……うるさい。……黙って、ください」

「………」

 

 助けてという声に応え、現界した太陽神の子の言葉は、陰に沈む少女を掬い上げられない。

 カルナは小揺るぎもしない表情のまま、命令に従い口を閉じた。自らの無力を嘆くように握られた拳に――何もかもに、桜は気づかない。

 だって桜はカルナが嫌いだ。本音を言えば視界に入れたくもない。

 苛立ちから感情が荒ぶり、普段の桜には考えられない悪意に塗れた声で吐き捨てた。

 

「私の事なんか、何も知らないくせに。知ったかぶりで、私を語らないで――!」

「………」

「カルナさんは、私のサーヴァントなんだから……ただ私の命令を聞いて、私の事を護ればいいんです。なのに……なんでずっと私を詰る(語る)んですか? そんなに、そんなに私を虐めたいんですか。そんな事……私は求めてなんかいません。これ以上私を抉ら(責め)ないで!」

 

 無言で佇むカルナから、桜は目を背けた。いや、最初から見てすらいない。

 眩しいのだ。陰に潜み蠢くモノにとって、カルナという大英霊は眩しすぎる。直視してしまえば、何もかもを灼かれてしまいそうな気がして……桜は日輪と対峙できない。

 

「……了解した。マスター、お前が望むのならオレは黙ろう」

「………」

 

 カルナは言葉を探すも、掛けるべき物を見つけられずに命令に従った。彼は悟っている。今は自分が何を言っても意固地にさせるだけで、その心に悪影響しか与えられないと。

 それを離れて見ていた男、黄金の甲冑を纏った英雄王が、腕を組んだままクツクツと嘲笑う。カルナは英雄王を一瞥した。英雄王も、その視線を平然と受け止める。

 

「莫迦め。貴様とアレは水と油よ。何をしても反発するしかない。むざむざ追い詰めるとは、とんだ忠犬もあったものよな」

「――英雄王。オレはお前がマスターに近づく事を赦しはしない。どのような甘言でマスターを誑かしたのかは知らないが、我がマスターを利用せんとするあらゆる行為は、オレに対する挑戦と判断し戦う事になるだろう。それを知っておくといい」

「ハ――その結果に招く不信を厭わぬのか? サクラは我を恐れている。だが同時に他の何者よりも我に縋り、心の均衡を保つ柱としているのだ。我を除けば、待っているのは貴様の危惧する未来のみ。求められたモノを施す高潔なる聖者よ、貴様がアレに施せるものなど何一つ無い。貴様の方こそ知れ、もはや破滅は避けられんとな」

「それでも。オレはマスターの命に殉じよう」

 

 カルナは実体化を解かないまま、永劫に続くかのような飢餓に堪えるマスターの傍に侍る。悪しきモノを近づけぬようにと。

 ギルガメッシュは肩を竦めた。彼はカルナを恐れてはいない、しかし一目は置いている。ヘラクレスや自分に匹敵する実力者であると。

 

 だがそれがなんだ? 桜の抱えるモノは、実力だけでどうこうできる範囲外にある。カルナの性質は、決して桜を救えない。英雄王はそう断じて、確信していた。

 英雄王がカルナに譲るようにして桜と距離を置いているのは、カルナを恐れているのではなく、あの二人を絡めればそれだけで桜の精神が傾くと見ていたからでしかない。

 

 それに、日輪では照らせぬものもある。――否、太陽をこそ疎むモノ達が、桜の抱えるモノに惹かれ集まっている。

 

「――おや。何かあったのかね? 普段に増して物々しいようだが」

 

 その声が、龍洞に鳴り響く。桜がパッと顔を上げた。

 

「神父さんっ」

 

 やって来たのは、黒い法衣を纏う言峰綺礼である。首に提げた十字架に目がいく、筋骨隆々とした長身の男は、悠然とした足取りで当たり前のように桜の許へ歩み寄る。

 カルナは制止しようと手に持つ封じられた大槍を動かした。だが言峰は怖じない。彼に自分を止める手立てはないと確信している。何故なら、桜が此処で最も信頼しているのは、ギルガメッシュに次いでこの男なのだから。そんな彼に無体な態度を取れば、ますます桜はカルナを疎むだろう。

 疎まれるのを恐れはしない。だが悪しき道に導く者しかいない場で、自分までいなくなればそれこそ桜は破滅への道をひた駆ける事になる。忸怩たる思いで、動かしかけた槍を彼は止めた。

 

 言峰はそれを嗤わない。寧ろ敬意を払って会釈し、その横を通り抜ける。だがギルガメッシュは嗤った。――無力だな、施しの英霊。崩れ落ちる華を支えるには、貴様の手は余りにモノを灼き過ぎる――

 

「どうして戻ってくるのが遅かったんですか?」

「何。此度の聖杯戦争は特例のものになるだろう。無関係の人間を巻き込む事は聖杯戦争の監督役として見過ごす訳にもいかない。アインツベルンからの要請があったのだ、警察機関への働きかけや、魔術協会と聖堂教会の対処を要すると」

「――あの娘の」

「ああ」

 

 話題に出た瞬間、桜の眼に根深い憎悪が過る。言峰はそれに、口元に貼り付いた笑みを微かに深めた。

 

「それに伴い、冬木の一部区画を閉鎖させ、近隣住民に暗示を掛け海外へ旅行に出てもらった。物的損害は避けられないが、せめて人的なそれは抑えられるだろう」

 

 言峰は懐から地図を取り出すと、それを桜に手渡した。

 冬木の地図の数カ所に大きな丸が付けられている。そこでなら、聖杯戦争に人を巻き込まないで戦闘が行えるという事だ。

 まだ争いを厭う優しい少女の心が、その事に安堵の念を抱かせる。それが、アインツベルンの姫に対する隔意を微かに和らげた。冬木の街を、自分達の街の人を気遣ってくれたと、そう感じたから。しかし――

 

「それともう一つ。これはあくまで一個人としての憂いなのだがね」

 

 ――悪意を増幅させる言の葉が、桜の中にある憎悪、嫉妬を助長するように、囁くように男は毒を塗りたくる。

 

「――最近、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「…………? …………え」

 

 カルナが動く。彼は看破した。故に止めんと動き、言峰綺礼の企ての一部を突き崩す――しかし、無駄だった。心の動きを巡る、武ではどうにもならない戦いでは、カルナは言峰綺礼に及ばない。

 

「学び舎に通わず仲睦まじく新都を巡り、傍目には逢引きに現を抜かしているように見える。セイバーとバーサーカーの陣営は密接な関係にあるが――私としては、間桐桜を探し求めているようには、とてもではないが見做すことが出来ない」

「戯言を。お前の言は破綻している。彼らはお前達の狙いを読み、仕掛ける他にない時が来るのを待っているだけの事だ」

「…………」

 

 カルナは、自身の言葉がこれほど空虚に響くのを聞いた事がなかった。桜はカルナの指摘を全く聞いていない、言峰の言葉にのみ反応し、凍りついている。

 実力で排除できない讒言者。これほどに厄介な男に信を置くマスター。こういう時、どうすればいいのかをカルナは判断できなかった。故に、我ながら見苦しいと思いながらもカルナは断じる。

 

「言峰綺礼。聖杯戦争の監督役を任じられたお前は、誰に対するにも不誠実な企みを抱えている。その証をお前は右の腕に持っているのだろう」

「……ほう? なぜそう思う、施しの英雄」

「ランサーの鬼気迫る眼を見れば解る。お前はランサーと対した際、常に右腕を意識していた。――あるのだろう、そこにランサーの令呪が。お前はマスターでありながら、監督役を嘯いている。その不義を抱えたまま、我がマスターに讒言を弄するのを見過ごせはしない」

 

 カルナの眼差しは一切の虚偽を赦さない。不正を認めない。彼は、足掻いていた。孤立無援の地で、ただひたすらに自らのマスターを救おうと。

 だがカルナの指摘に、邪なる聖者は微塵も動じなかった。流石にカルナの言葉に注意を引かれた桜の前に、言峰は裾を手繰り上げて右腕を晒す。

 

 そこには、確かにあった。――膨大な数の令呪が。

 

 これまでの聖杯戦争で、令呪を使い切ること無く脱落したマスターから集めた予備令呪。さしものカルナも眼を見開いた。桜は動揺し、しかし言峰は言う。

 

「確かに私はランサーのマスターだとも。だが主に誓って、私は聖杯を私事のために掴まんとしていたのではない。聖杯を掴むべき者を見定める為に、ランサーにサーヴァントとマスターの情報を集めさせていたのだ。その証拠に私はランサーに令呪で命じている。“総ての敵と戦え、ただし斃さずに生還しろ”と。そしてもはや私にランサーは必要がない。間桐桜、君の魔力容量ならば総てのサーヴァントの戦闘を賄っても余裕があるはずだ。ランサーのマスター権を君に譲渡したいと思うのだが、どうだね?」

「え……? いいん、ですか……?」

「無論だ。私の使命は終わった……いや、私の目的は既に君と共にある。懸念があるのだろう? それを私が取り払おう。君の祖父、間桐臓硯の動向を見張る事に専念する。それで私への疑念は晴れるはずだ」

 

 桜は、恥じるように俯いた。アサシンを従える間桐蔵硯、彼は桜にとって逆らえない恐怖の象徴。そんな怪物を抑えてくれるという言峰を、彼女が信じない道理はない。

 そうして言峰は嗤い、愉悦と共に令呪を切る。

 ――令呪を以て命じる。ランサー、主人の鞍替えに賛同せよ。これからは貴様のマスターは間桐桜だ。

 それは、クランの猛犬の誇りを何処までも踏み躙るものだった。一度ならず二度までも、主人を替えさせる屈辱の令呪だった。歪んだ喜悦に、言峰は嗤う。

 令呪が、桜へ移植された。これで六画の令呪が桜にある事になる。カルナという大英雄と契約していてなお、更にクランの猛犬を加えても負担を感じない桁外れの魔力供給は、彼の知名度の薄さから劣化していた霊基を大いに補った。

 

 凄まじい勢いで、駆け付けてくる。憤怒に塗れ、屈辱に青筋を浮かべた――それは、蒼い槍兵である。彼は一人の女を担いで駆け付けた。

 

「――言峰ェッ! テメェ、ふざけた真似をしてくれるじゃねえかッ!」

 

 スーツを纏い、片腕を喪失した女を担いでいたランサー、クー・フーリンは女を下ろすや魔槍を顕し、空間が歪むほどの殺気と共に言峰に詰め寄っていく。

 

「ほう、存外近くにいたらしい。それに、ソレはバゼットではないか。まだ生きていたとは意外だな」

 

 平然と言峰は笑う。ランサーが今まさに自分を殺そうとしているのに、その余裕は全く揺らがない。ランサーは桜を見る事すら無く、主人を二度も替えさせた男を殺す為に魔槍を握り締めていた。

 極大の赫怒と共に、光の御子が語気を震えさせる。怒りの余り気が狂いそうで、実際にランサーの霊基でさえなければ彼は怒り狂っていただろう。

 だが、魔槍が言峰を貫かんとした瞬間。

 

()()()! ()()()()()()()()()()()!」

「ッ――!? グッ……!」

 

 桜の叫びが、ランサーを縛った。

 

 令呪だった。言峰のそれとは比較にもならない拘束力である。苦み走った顔で、ランサーは桜を憎たらしげに睨んだ。

 またしても。またしても令呪。いい加減、うんざりさせられる。言峰の心臓に魔槍が突き刺さろうとしたその瞬間、薄い笑みを湛える言峰の胸の前で槍の穂先が止まっていた。

 桜はランサーの形相に怯えた。彼女の影が蠢き、護るように起き上がる。

 それにランサーは露骨に舌打ちする。言峰を殺せない――その屈辱を、堪えるように唇を噛む。そこへ新たな声が呆れたふうに闖入した。

 

「おいおい……円卓(クソ)どもも真っ青な空気じゃねえか……なあおい、ランサー。テメェ、何がバゼットを救う手立てがあるだ? オレのマスターを預けてやったってぇのに、元凶がいやがるじゃねえか」

 

 全身甲冑のサーヴァントである。嫌な予感はずっとしてたんだが、と溢す兜の騎士はかぶりを振る。

 聖杯からの通達で、彼らが味方の陣営だと知ってはいたが、いざ実物を目にすると呆れてものも言えない。単独で行動しようにも生死の境を彷徨ったままのマスターではそうもいかず、ランサーと遭遇した兜の騎士は彼らと合流するしかなかったのだ。

 今回はとことん運が無ぇな。騎士は呟き、まあいいかと気楽に構える。どうせ何をしたとて最後に残るのは一騎のみ。そしてそれは自分だと自負する故に、誰が味方になっても構わないのだ。マスターさえ死ななければそれでいい。

 

 兜の騎士を興味深げに言峰は見る。彼の興味は既にランサーから外れていた。そんな言峰を意図して視界から外し、ランサーが複雑そうに頭を掻いて応じる。

 

「……返す言葉もねえ」

「オレには関係ない。で、バゼットを救えるのか? まだ一度も戦ってもいねえのに脱落するとか、洒落にならねえからきっちりしてもらいたいんだが。ほら、仮にもお仲間なんだろ? ならちゃっちゃと済ませてくれ」

「いいだろう。私なら彼女の一命を救える」

 

 言峰が申し出るのに、まだバゼットを騙し討った下手人を知らない兜の騎士は「応、任せる」とすんなり乗って。クー・フーリンは物理的な圧力すら感じられる眼で睨むしかない。

 兜の騎士はバゼットさえ治ったなら離反する気満々なのだが、意識のないバゼットを抱き上げた言峰はそれを見透かしたようにして意味深に嗤って。彼女を桜の許まで連れて行くと、そのまま治癒の施術を始めた。ランサーと兜の騎士はそれから眼を離さないでいる。ランサーは元より、兜の騎士は欠片も言峰を信用していない。おかしな真似をした瞬間に殺す気でいた。

 

 そんな彼らを見渡し、ギルガメッシュは嘯く。

 

「――さて。役者は揃ったわけだが……貴様はどうだ? 戦士王。間もなく幕が上がる。精々我を興じさせよ。施しの聖者は戦うだけの強者(つわもの)だが、貴様までもそうであったなら興醒めも甚だしいのでな。我の期待だけは裏切ってほしくないものだ」

 

 祭りがはじまろうとしている。この世界を、この時代の結末を占う大戦が。

 

 そして、それを真に始めるには――

 

「我はまだ貴様らには仕掛けん。やるべき事がある。

 この我を差し置いて()()()を名乗る不遜な輩を、縊り殺してやるまではな」

 

 ――ギルガメッシュは、裁定者の権限と令呪が、自身に及ばぬ事を知る。故にこそ、彼は聖杯の招いた聖者を殺すだろう。

 

 

 

 

 

 

 




カルナのステータス
筋力・A 耐久・A 敏捷・A 魔力・A++ 幸運・E 宝具・EX

全力戦闘を常に行える万全の状態。宝具連発余裕。召喚主を救うことを誓っているものの、言葉足らずで直言が過ぎるのに真実を的確に突くため疎まれている模様。そして燦然と輝く幸運Eである。槍兵だからね、仕方ないね。

あと大聖杯が汚染されていたら聖者やルーラーは喚べないというのは、デマだと判断して進めていきます。調べても公式にはなく(調べ方が甘いのかもしれないけど)、活動報告で教えを請うた結果の判断です。
ですので以後、デマでなく本当だと判明しても、独自設定ということで押し通させていただきますのでご容赦を。


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二十四夜 裁定者に下されるモノ(上)

 

 

 

 

 

 崇高にして聖なる乙女は、冬木の街並みを高き(ビル)より見渡した。

 

 陽が沈もうとしている時分。街は帰宅の途上にあるらしい人々でごった返している。

 誰かに怯えるでもなし。貧困に喘ぐでもなし。当たり前の日常を、当たり前のように享受する人々。彼らにも抱えるものはあるはずだが、少なくとも昔の時代に比べると遥かに生きやすい時代になっているのは疑いようがない。

 文明とは人の血と知の集積。より善き明日のために積み上げた研鑽の成果。血と鉄に彩られた惨禍の世を超えて、例え束の間のものに過ぎないのだとしても確かな平和を築いている。もしも自分が駆け抜けたあの日々が、この時代の一端にでも繋がっているのだとすれば、それはひどく誇らしい事だと思った。

 

 学がない身だからだろうか? 現代という未来を見るこの感動を、上手く言葉にする事が出来ない。なので敢えて一言で纏めると、良い時代――そんな陳腐な感想になる。

 過去の影に過ぎない英霊にとって、この景色は宝だ。人々は宝だ。聖杯戦争なんていうものに巻き込んで良いものではない。

 

「――――」

 

 裁定者(ルーラー)の座を以て現界した聖人、ジャンヌ・ダルクは冷静に……しかし憂いを帯びて呟いた。こんな都市部で聖杯戦争をするだなんて、と。その呟きは風に巻かれて消える。

 高位のサーヴァント一騎だけで一つの都市を灰燼に帰さしめるのは容易い事だ。それが十四騎もいて、殺し合う。それは想像を絶する被害を撒き散らすだろう。

 それを諌め、律するのが自身の役目だ。しかし総じて英霊というものは強烈な自我の持ち主ばかり。それを上手く律する事が出来るのか、今から頭が痛くなる思いだ。

 

「――――?」

 

 冬木の全土を、とはいかないが、しかしルーラーとしての感知能力でおよそ全騎の存在を把握できている。その位置に到るまで。

 例外はアサシンである。気配遮断を可能とするサーヴァントは、“いる”のが分かっても何処にいるかまでは分からない。だがルーラーはこの時、近くにアサシンが潜んでいるのを察知した。スキル“啓示”によるものだ。

 それとなく周囲を窺うも、全く気配を読めない。ルーラーは聖人であり、絶対的な特権を有するサーヴァントだが、その機能が通用しない存在に対しては弱かった。

 元が主の声を聞いただけの民草である。武術の修練はそれなりに積んだが、師が特筆して優れていたわけでも、ジャンヌ自身が武人として優れた資質を持っていたわけでもない故に、彼女自身の単独戦力は平凡な域にしかない。その技量はサーヴァントとしての能力とスキルがなければ、現代の剣術家と互角がいいところだろう。

 超人的な武芸者であっても隠れ潜んだ暗殺者の英霊を見つけ出すのは至難だ。そんな暗殺者を、ルーラーとして見つけられない時点で彼女には打つ手がない。だが構わない――ルーラーという存在を警戒するのはサーヴァントであれば当然の心理であり、暗殺者に襲われても撃退出来る自信はある。流石に名のある戦士の英霊相手は、宝具を抜きにすれば不可能だが。

 

 ルーラーは確信していた。近くにアサシンがいる、と。それだけ分かれば充分で、好きなだけ覗き見ればいいと思った。疚しいことなど何もない、ルーラーとしての役割を果たすだけだ。

 

 彼女はまず、どんな英霊が現界しているかを確かめる事にした。そして厳重に忠告をする。無関係な人間を巻き込まないように、と。これを破れば罰則を下さざるを得ないのだ。叶うなら高潔なサーヴァントである事を願う。弱者を食い物にするような手合いであれば、強硬な態度を取らねばならないだろう。場合によっては与えられた令呪で縛り付け、律する必要がある。正常に聖杯戦争を終えさせるために。

 だからルーラーは近くにいるサーヴァントの陣営に、接見を申し出る事にした。幸い距離は近いが、集まっているサーヴァントは五騎もいる。油断は出来ない。

 しかし――ルーラーを除いて十四騎の英霊がいるはずが、ジャンヌが現界するまでに十騎まで減っているのは想定外だ。余程に血気盛んであるにしろ、見た所街に目立った被害がないのは喜ばしい事かもしれない。だが考えようによってはルーラーを脅威と見做し攻撃してくる積極性がある可能性も含むため、安易に気を抜く事はなく奇襲を警戒するのを忘れてはならないだろう。

 

 ルーラーは霊体化し、五騎のサーヴァントが固まっている拠点に向かった。

 

 そこは武家屋敷である。彼女にとっての異国の趣は風情があり、また防戦に向いていない造りに意外な気持ちになるも、実体化して門前に立つ。人払いの魔術でも張られているのか、周囲に人気は少しもなかった。

 いんたーほん、というのを押すべきだろうかと一瞬悩む。すると、一騎のサーヴァントが声を掛けてくる。いるのには気づいていたが、気配を悟れずにやや驚かされた。

 

「おや――風に誘われたか。それとも闇夜の先触れか? ふらりと舞い落ちる花弁の如くに可憐でありながら、月のように静かな輝きと共に乙女が参るとは」

「――貴方は。……失礼、私はルーラー。聖杯戦争の進行を監督するサーヴァントです。この屋敷、ひいては貴方がたの主人に接見を望みます。お取次を願います、()()()()()()()()()()()()()()()()()

「ほう……これはしたり。名乗る前に名を知られるとは面妖な。暫し待たれよ、貴殿の来訪は既にこちらの知るところ。然程に待たせる事はなかろうよ」

 

 玲瓏な美貌の青年は、自身の風流な物言いが聞き流されたのにも気を悪くせず、しかし自身の真名とクラスを一目で看破された事に面白そうな表情になった。

 あらかじめマスターにでも言い含められていたのだろう。滞りなく返事が返されて、ルーラーは暫しその場に待たされる事になる。

 

 ――彼は、正規のサーヴァントではありませんね……。

 

 この冬木の聖杯戦争には、アサシンは山の翁しか現れないはず。にも関わらず彼は山の翁ではないのにアサシンだった。真名看破というクラス別スキルによってその事実を知り、ルーラーは表情を微かに曇らせた。

 この陣営の何者かがルール違反をしている。これは明確に罰則を与えねばならない案件だ。出来れば穏便に済ませたいが、そういうわけにもいかない。気を強く持って毅然と糺さねばならないだろう。

 

 そうして顔を険しくさせるルーラーを、“白”のアサシンは楽しげな表情で見据えていた。その切り刻むような眼差しに、ルーラーは視線を強く返す。

 何か動きがあれば斬れと言われているのだろう。サムライ……というものらしい格好をしている青年を、ルーラーは油断無く見詰める。

 やがて門がひとりでに開いた。入れ、という事だろう。ルーラーがアサシンに目で問うと、彼は何も言わずに屋敷の中に入っていく。先導して案内してくれるのだろうか。意を決して彼の後について行くと、ルーラーは屋敷の庭に通された。

 

 そこには四騎のサーヴァントがいた。錚々たる顔触れに、ルーラーは内心ギョッとした。

 

 バーサーカー、ギリシャ神話最大にして最強の大英雄、戦士王アルケイデス。

 セイバー、アーサー王伝説のブリテンの赤き竜、騎士王アルトリア・ペンドラゴン。

 アーチャー、ギリシャ神話にて勇猛で鳴らしたアマゾネスの女王ペンテシレイア。

 キャスター、同じくギリシャ神話にて“奇跡の王妃”と讃えられた王妃メディア。

 

 ――相手陣営が哀れになる戦力じゃないですか……。

 

 全騎が武装していた。黒服を纏い、白亜の魔槍を提げ、バーサーカーはこちらを一瞥すらしない。白髪の美の女神が如き女アーチャーと、蒼いバトルドレスの上に白銀の甲冑を纏ったセイバー、そしてアーチャーをさりげなく間に挟んだキャスターがルーラーそっちのけで議論を交わしていた。

 

 

 

 

 

「――我らの内、誰が盟主となるかいい加減はっきりさせるべきだ。無論盟主にはこの私がなる。異論はあるか?」

 

「あるに決まっている。私はアマゾネスの女王だぞ、何者の風下にも立つ気はない。全て私に采配を任せよ。何、この私が率いたなら必ずや勝利するであろうよ」

 

「戯けた事を。貴公は元は“黒”のアーチャーだ。バーサーカーならばいざ知らず、貴公だけは認められない。騎士王であり“白”のセイバーである私の方が資格がある。そしてこれが聖杯“戦争”である以上、盟主は“王としての”戦歴が最も長く実績のある私が相応しいとは思わないか」

 

「あら? 今更“黒”とか“白”とか気にするのかしら。そんな区分、なんの役にも立たないというのに。ましてやマスターを無視して盟主を決めようとするバーサーカーに迎合する気?」

 

「抜かせキャスター。マスター達は興味がないと既に断っている。自身の娘と私の区別もつかなかった節穴が差し出がましいぞ」

 

「うふふ、それは確かに失態だったわね。まさかこんなにも()()()娘と間違えちゃうだなんて、一生の不覚だわ。似てるのは顔だけ……弁解させてもらえるなら、間違えたというのは正確じゃないわよ。“こんなにも娘に似てる子と対面できて感激”しただけで、着せ替えして遊びたいって思ったのを口走っただけなんだから」

 

「………貴様。どこが小さいと?」

 

「言わなくてはだめ? これでも乙女には気を遣う方なのだけど……」

 

「――そこまでにしておけ。キャスター、私の眼を見れもしないのなら……というより、その()()()姿()を解いて我らと相対する気概もないのであれば茶々を入れるな」

容姿(これ)の事は言わないでっ! これでも貴方の近くにいるのに、結構勇気振り絞ってるんだから!」

 

「そ、そうか……。……アーチャー、お前もだ。より強い者が盟主に相応しいとは思わないか? お前よりも私の方が強い。認められんと言うなら後で立ち合ってもいいが、負けたのなら素直に私を盟主と認めよ」

 

「面白い。いいだろう、吐いた唾を飲むなよヘラクレス。私は負けん、貴様を地に這わせて従えてやろう」

 

「セイバー。戦略眼や戦歴からして、確かにお前こそが盟主に相応しいやもしれん。しかし今のお前は騎士としてエミヤシロウに仕えているのだろう。“仕える者”が陣営に君臨するのはどうかと思うが?」

 

「それは貴方にも言える事のはず。バーサーカー、貴方は何よりイリヤスフィールを優先するのでしょう。そんな貴方が盟主となると、我々を良いように使い回す事が懸念される。公正に見て私が盟主になるべきだと判断しますが」

 

「いいや。我がマスターは聖杯を預かるアインツベルンの姫だ。マスターを優先する事は即ち陣営の勝利に繋がるものと言っていい。立場とマスターを鑑みれば、私が盟主となるべきだ。戦略を練る際にはマスターらにも合わせ、セイバーの見識と経験、戦術をあてにさせてもらう。アーチャーは私が納得させよう、キャスターは……まああれだ。そしてセイバー、お前が私に任せたのなら穏便に、そしてお前自身の立ち回りにもなんら足枷となるものがなくなる。盟主の座は私に任せてもらえないか?」

 

「……確かに私はシロウを生きて返す義務があります。ならば聖杯を預かるアインツベルンをマスターとする貴方の方が適任ではありますね……いいでしょう、私は貴方を推そう。しかし意見を出すのを控える気はありません。そして王として風下に立つ気もない。構いませんね?」

 

「ああ、元より王としての格はお前が上だ。大いに頼らせてもらおう」

 

「わ、私が戦士王より上? そ、そんな事は……」

 

「あら可愛い。照れてる顔、いいわよセイバー」

 

「――黙れキャスター」

 

「フン、図に乗るなよ。王としての格? そんなもの、斬り従えてしまえばいいだけの事。格が上だの下だのと、くだらんな」

 

「……ふ、蛮族らしい考えだ。ピクト人の先祖とはアマゾネスの事らしい。貴公と刃を交わす時はひと摘みの慈悲も無用と心得よう」

 

「蛮族だと? 小綺麗にしているだけで文明人ぶるとは滑稽だな。騎士道やらで華美に着飾ったところで、やっている事は同じではないか。戦に身を汚したモノは例外なく醜いのだと弁えよ。それとも何か? 貴様は正義や悪で命の価値が変わるとほざく口なのか? ならば貴様の方がよほど蛮族に相応しいだろう」

 

「……貴様。言うに事欠いて――」

 

「――やめろ。お前たちが諍いを起こしたとて私が微笑ましく感じるだけだ。二人共、私の腕の中で愛でてほしいのか?」

 

「貴方の腕の中で愛でられると全てが拉げるわよ……」

 

 

 

 

 

 喧々諤々、騒々しい有り様にルーラーは呆気に取られた。

 

 延々と話し合っていたのだろう。やっと終わった、とでも言うようにバーサーカーが嘆息した。キャスターは不満げ……というよりはバーサーカーの近くにいるのが嫌だと感じてはいるらしいが、バーサーカーが盟主となるのに異議はないようである。

 クラスが視ただけで解るだけに、ルーラーは(狂戦士が盟主……?)と驚愕させられる。こんな場面に出くわしたのもそうだが、剣士と弓兵はともかく関係が良好そうな雰囲気に驚きが隠せない。

 例え一時は味方であっても、本質的には聖杯を巡る敵同士であるはずなのに。彼らは全くそれらしいものを感じさせない団結力がある。ルーラーにはそれが意外で、“白”の陣営から聖杯への野望を感じられずに彼らのやり取りを最後まで黙って見てしまった。

 アサシンが肩を竦めている。その仕草も眼に入らず、ルーラーは感じる。盟主など決めずとも、既に彼らの中心にはバーサーカーがいるのが見て取れたのだ。

 

 ――あれが、戦士王……ですか。

 

 ギリシャ神話唯一にして、最強の武神へと祀り上げられた大英雄。“味方として存在している”だけで圧倒的な安心感を与える、カリスマとは違う存在感。それが比類ない理性の力で制御されているが故の戦略兵器。

 騎士王の聖剣もそうだが、恐らく彼は単身で――武器など使わずともこの冬木を更地にしてしまえる力がある。警戒せねばならない、そう思うのに彼なら大丈夫だと感じさせる何かがあった。

 

 アーチャーが好戦的に気を荒ぶらせているが、そんな彼女とキャスターへ早速とばかりにバーサーカーが提案する。

 

「さて、色々と遠回りをしたが、目下最大の問題を片付けよう。アーチャー・ペンテシレイアの魔力不足の解消についてだ」

「む……」

「ペンテシレイア、お前は今のマスターをそのままに、我がマスターから魔力の供給を受けてほしい。“黒”との決着がつくまではな。この件については既にマスターへは了解を取り付けてある。キャスターがいれば契約と魔力供給のパスを別に分け、繋げるのは容易かろう」

「……待ってちょうだい。バーサーカー、まさかあの子、貴方に魔力を供給していて、なお余裕があるというの?」

 

 腕を組んで思案するアーチャーを尻目に、信じ難いというようにキャスターが反駁する。それにバーサーカーは肩を竦めた。

 

「いいや、余裕はない。私が全力戦闘を避け、活動は魔力の節約を心掛けているからこそ、平時は保っているに過ぎん。故にアーチャーへの魔力供給は、私が戦闘を行なっていない時に限定する。何、弓兵のクラス別スキルでマスターが不在でも一度や二度の戦闘は熟せるのだろう? 問題はあるまい」

「……アーチャー、貴女は何かないの?」

「生命線を将来的な敵に託すなど論外だ。施しは受けん――と言いたいところだがな。これほどの戦を前に、参戦も叶わぬまま消えるなどそちらこそ受け入れられん。いいだろう、甘んじて施しを受ける。返礼など期待はするな、私は“黒”を消した後は真っ先にヘラクレス……貴様を殺しに掛かるぞ」

「構わん、何時なりとも挑むがいい。私は逃げも隠れもしない。――この話は終わりにしよう。客人を待たせている」

 

 にこりともせず、バーサーカーの眼がルーラーを捉える。一斉に向けられたサーヴァント達の眼に、しかしルーラーは怯まず口を真一文字に引き締めた。

 全員がルーラーが来ているのには気づいていた。気づいた上で無視し、自分達の話を優先していたのである。悪意を持ってそうしたのではなく、単に誰が盟主として応じるか話し合っていたに過ぎない。

 

 ルーラーは目礼する。頭は下げない。媚びず、厳粛な監督役として彼らに告げた。

 

「お初にお目にかかります。私はルーラーのサーヴァント、まずはこうして迎え入れてくれたことに感謝を」

「ああ、そのような前置きは要らん。貴様がどのような立ち位置を持つ存在かは理解している。中立の傍観者に徹する貴様に対して、僅かながらにも時をかけるのは億劫だ。速やかに要件を済まし立ち去るがいい。ルーラーよ、貴様には一寸の価値もないのだ」

 

 嘲るでもなく、端的にバーサーカーは言う。言葉通り、彼の眼には微塵も興味や関心の色はなかった。

 ルーラーの持つ特権を意識し、味方に引き入れ利用しようという安い魂胆など皆無。そんなバーサーカーの言葉に異論を差し挟む者もまた居なかった。

 

 頷く。ルーラーとて諂う気も阿る気もない。変に親密な関係になる必要はないのだ。冷め切った認識こそ不可欠であり、バーサーカーの態度は監督役のルーラーの望むところだった。

 

()()()()()()()()()()()()()

 

 だからルーラーはそう言った。バーサーカーの理性ある言葉の裏にある、ルーラーの職務への気遣いを汲んだからこその礼だった。

 王の厳つい目元が緩む。まるで小さな女の子の聡明さを褒めるような父性の光に、微かな擽ったさを感じるも、ルーラーは毅然と通達する。あくまでこの素晴らしい時代に生きる人々に、累が及ばないように使命を果たすべく。

 

「では率直に。偉大な戦士の王である貴方や、他の高名な英霊の方々には無用の忠告とは思いますが――聖杯戦争のルール、これを厳守してください。逸脱するような行為が確認され次第、私は裁定者として戒めねばならなくなります。よろしいですか?」

「いいとは言わん。当事者ではない者の言には耳を傾ける価値はない。故に私はこう言おう。――言われるまでもない。必要に迫られぬ限りルールを破る真似はせん」

「必要があれば無辜の人々に危害を加えると?」

「不可抗力というものもある。確約はできんということだ。そして我が陣営の内に、貴様の令呪を恐れる者はいない。よいか、我らを律し得るモノなど、それこそ各々の信念とマスター以外には有り得ないのだ。ルーラーなど抑止力たり得ぬと知れ」

「………」

「さりとて貴様自身を蔑ろにするつもりもない。ルーラーの座に据えられた貴様の精神性と、無辜の民草を思いやる心には一定の敬意を払いはしよう。話はそれだけか? ならば早々に立ち去るといい。どこまでいっても部外者でしかない者を、我々の陣幕に置き続けるのは煩わしい」

 

 表面上はどう言い繕っても冷たいものだ。しかし彼は彼の立場から出せる温情を態度にしている。

 ルーラーは理解していた。王である彼にとって、不確定な動向で在り続けるだろう裁定者のサーヴァントなど、それこそ目障りなものでしかない。故に彼らにとっての最善とは、ルーラーを排除することなのだ。最高ランクの対魔力を持つセイバー・アルトリアが此処にいる、令呪にすら対抗策を用意し得るキャスター・メディアもいる。彼らが襲い掛かってくれば、ルーラーはほとんど成す術なく斃されてしまうだろう。

 それをせず、立ち去れとバーサーカーは言った。これは最大限の譲歩であり温情だ。表面上の取り付く島もない言動に騙され、怒りを露わにするようではこちらの沽券にも関わる。ルーラーは素直に頭を下げ――しかし。

 

「いいえ。話は終わりではありません」

 

 そう言って、彼女はアサシンを見る。

 

「彼は正規のアサシンではありませんね? この冬木の聖杯戦争でアサシンのサーヴァントとして招かれるのは山の翁のみ。にも関わらず彼は違う。この陣営の何者かが重大なルール違反者であるのは明白。私はこの不正を暴き、罰則を与えねばなりません。彼のマスターは誰ですか?」

 

 風雅な侍が肩を竦める。そんな彼を一瞥し、バーサーカーは嘆息した。

 

「アサシン。貴様、山育ちか?」

「――ふむ? 問いの意味は解せんが、その通りだ」

「享年は何歳になる?」

「さてなぁ……はっきりとは覚えておらぬよ。何せ土と語らい、無聊を慰めるために刀を振るっていたに過ぎぬ人生だ。無銘のまま没した身の上ゆえに、正確な齢など私にも分かりかねる。ただまあ……そうさな。この腕が枯れ木のように細くなり、肌が皺に覆われる程度には生きたとも」

「では老年期に到るまでは生きたということだな。それならいい。――ルーラーよ。この者は山で生き、そして老いて死んだ。広義の意味合いにおける『山の』『翁』と言えるのではないか? 何も問題はあるまい」

「………本気で言ってます? それ」

「本気だが」

 

 面白くもない冗談に、ルーラーは拍子抜けしたように毒気を抜かれた。

 山の翁とは、そんな意味合いの英霊などでは断じてない。暗殺教団の歴代当主のことだ。眉根を寄せてなんとか険しい顔を崩さなかった。

 そんな戯言で誤魔化されはしない。重ねて問い糾そうとすると、バーサーカーは掌を向けて制止してきた。

 

「まあ待て、早まるな。貴様は何か思い違いをしているぞ」

「思い違い……?」

「そうだ。我が陣営にいる総ての()()の中に、聖杯の定めた理を捻じ曲げ英霊を召喚した者などいない。この私が英霊としての誇りと戦士王の名に誓おう。それにイレギュラーの一つや二つ、此度の聖杯戦争にはあってもおかしくはあるまい。ルーラーなどという最上のイレギュラーが発生しているのだ、なんらかの手違いで山の翁が喚び出されず、この者が喚び出されたのではないか?」

「それは………」

 

 彼の戦士王が誇りと名に於いて誓ってきたのなら、確かにそこには嘘偽りはないだろう。ルーラーは微かに言い澱む。その間に彼は更に言った。

 

「聖杯に異常がある事を我らは把握している。問題があるとすれば、原因はそちらにあるのではないか? 確証もなしに罰則を強いるのは傲慢と怠慢が過ぎるぞ、裁定者」

「………」

 

 何か、煙に巻かれている気がしていまいち釈然としない。しかし言い返すことができなかった。こういう時にジルがいてくれたらと漠然と思うも、ルーラーは諦めて頷くしかなかった。実力行使が出来る相手ではない。確たる論拠を掴むまで糾弾はできないだろう。

 武力に長けた神話最強の英雄。死後はギリシャ神話唯一にして最強の武神へ祀り上げられた戦士。しかし武辺者ではあっても、王は王だった。その弁舌に太刀打ちできる気がしない。ルーラーはひとまず引き下がることにした。

 

「……分かりました。では私は大聖杯に関して調査して、それから事の真偽を確かめ裁定を下すことにします。分かっているとは思いますが、その時は……」

「ああ、その時は言い逃れはせん。――()()()が来たならな」

「………?」

 

 ――ルーラーはその場を辞した。『白の陣営』の拠点から離れていく彼女の耳に、戦士王の残した言葉がこびりついている。

 『貴様には死相が視える。再び相見えることはあるまいよ』

 その言葉が正しいかもしれないと、ルーラーは無意識の内に感じ取っていた。スキル『啓示』によるものではない、曖昧模糊とした本能的な直感で。

 

「意外と狸なのね、ヘラクレス」

 

 ルーラーが立ち去ったのを見届けたキャスターが、呆れたように大英雄を揶揄した。

 

 

 

 

 

 

 

 




なろうの方の箸休め的な執筆。また暫く空きます。


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二十五夜 裁定者に下されるモノ(中)

筆休めに一話ゲリラ投稿。
オリジナル作品の方にうつつを抜かしておりました。

本作はチマチマ書いて行きます。





 

 

 

「――やめなさいっ! この場は私が預かるわ!」

 

 ()()()来たのだろう。その()()は水晶を一触即発である二騎のサーヴァントの間に擲ち、仲裁を鋭く宣言する。

 その水晶の中には()()が閉じ込められていた。それにペンテシレイアとバーサーカーの双方が一瞬で気づく。だが激突の瞬間である、如何に卓越した戦士である両者でも、既に止まれないところまで刃を走らせていた。そして一度でも干戈を交えたのなら、バーサーカーはともかくペンテシレイアは止まれなくなるだろう。理性があろうと狂戦士に等しいアマゾネスの女王とはそういうものだ。

 だがしかし、水晶の中から空間転移の如く出現した()()()()――彼が物干し竿を手にバーサーカーの魔槍を受け流して、ペンテシレイアの剣を握る手を片手で受け止めるや、伝わってくる威力を絶妙に散らしてのける。

 刹那の間に成された偉業だ。いくら魔女の制止の声により、寸前でほとんど威力が落ちていたとはいえ、ペンテシレイアとバーサーカーを止めるのは至難の業。神業めいた技量なくして成し得る事ではない。

 デモンストレーションとしては充分。玲瓏な風貌の侍は、フッと耽美な笑みを浮かべてペンテシレイアとバーサーカーを見遣る。バーサーカーは彼の得物を見て興味を惹かれ、聞き知った魔女の声を認知したが故に槍を引いた。だがそんな事など関係ないとばかりに、なおも邪魔者を押しのけ戦わんとする女王へ、魔女は焦りと苛立ちから叫ぶ。

 

「アーチャー、人の話は最後まで聞きなさい! ヘラクレスと戦わせるために居場所を教えたわけじゃないわよ……!」

 

 そう。葛木宗一郎は元々、柳洞寺に住む。そしてそこに潜んでいた魔女は彼を庇護下に置いていた。そんな彼をマスターにしたペンテシレイアの存在を、魔術師の英霊であるメディアが把握できていない筈がなかった。

 魔女はペンテシレイアを間に置き、ヘラクレスの陣営と接触しようと目論んでいたのだ。全てはこの変質した聖杯戦争に対処するために――世界で一番恐ろしくとも、世界で一番信頼でき、文句なしに一番強いと確信する大英雄を味方にしたかったから。

 だから居場所を聞き出すなり飛び出したペンテシレイアを止めるために、名もなき亡霊の依代である山門を水晶に閉じ込め、元々山門のあった場に幻術を掛けて門が消えた事を隠蔽し、準備に準備を重ねて大慌てで追ってきたのである。

 

 ――此処に、“白”の陣営が結集する事となった。

 

 セイバー、バーサーカー、アーチャー、キャスター、アサシン。

 衛宮士郎、イリヤスフィール、葛木宗一郎。

 

 彼らが“白”である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 で? と疑問を発したのは、アーチャーのサーヴァントであるペンテシレイアだ。彼女は猛々しきアマゾネスの女王にして、人の身でありながら美の女神に匹敵する美貌を有する、肉体と精神の両面に於いて全盛期の武人である。

 女王であり武人。将軍であり戦士。戦神の血を引く彼女は、盟主となった狂戦士のサーヴァントを横目に見据えた。

 

「貴様はルーラーに死相が見えると言ったな。なんの根拠があってそのような事を宣う」

 

 聖杯戦争を監督するサーヴァント、ルーラー。衛宮邸に訪れた彼女が立ち去るや、本来“黒”の陣営に属しているべき英霊ペンテシレイアは“白”の盟主である戦士王に訊ねた。己の義妹に当たる美女の問いに、バーサーカーのサーヴァントであるヘラクレスは無表情に応じる。

 

「此度の聖杯戦争では、“白”や“黒”にも属さぬサーヴァントがいる」

「――あの黄金のアーチャーですね」

 

 確信を持って断定するのはセイバー、アルトリア・ペンドラゴンだ。第四次聖杯戦争でも相まみえた、第四次における最強の敵。結局最後の最後まで真名を見抜けなかった正体不明の王。それがあの黄金の英霊である。

 士郎は唇を強く噛む。あの英霊は、桜を連れ去った張本人。絶対に赦せない――温厚で正義心の強すぎるきらいのある衛宮士郎が、例外的に強い敵愾心を抱くに至った敵である。イリヤスフィールもまた、自身が知らないサーヴァントであるあの王の存在を思い浮かべ、不快そうに眉根を寄せた。

 

「アレは己こそを至高と断ずる暴君であり、己の裁定を絶対とする支配者だ。如何に聖杯戦争の定めとはいえ、他者の裁定など決して受け入れる王ではあるまいよ。ましてや自ら以外に裁定を下す英霊など、存在からして目障りと感じるに違いない。あの男は真っ先にルーラーを排除しようと動くだろう」

 

 戦士たちの王は断じる。たった二度の邂逅、しかしそれだけで充分にその心肝を感じ取れていた。

 

「なら……こちらでルーラーを保護したら良かったんじゃないかしら?」

 

 我関せずと言った風情で、訝しげなアルトリアを愛でるアサシン・佐々木小次郎。自身の走狗を一瞥しながらメディアは言う。

 敵陣営のサーヴァントの狙いを挫くのは、戦略的観点から見ても誤りではない。しかもルーラーは私心で動く者には見えなかった。ルーラーを守り、恩を感じてもらえれば御の字である。それにあの娘、可愛いかったし……と、こちらは私心丸出しでメディアは呟く。

 白い目を向けるのは、いかがわしい視線を度々投げかけられるアルトリアであった。彼女はメディアに理を以って反論する。

 

「愚策だ、キャスター。我らにはルーラーを保護するメリットがないだろう。あの裁定者のサーヴァントは、こちらが恩を売っても自らの役割を歪める気質には見えない。それにそもそも貴様を除き、我らの内でいたずらに現世へ災厄を撒き散らす愚者はいまい。ルーラーの存在は我らに害こそ成しても、利を齎すことはないだろう」

「あら、心外ねセイバー。私だって無関係の人間を害したりはしないわよ?」

「どうだかな。昔からお前はリアリストの気があった。目的のためなら何をも犠牲にするのではないか? 私もセイバーに同意する。懸念があるとすれば、相手方に現世の秩序を乱す意図があった場合だが……そうなる前に片を付ければいいだけのことだろう」

「ふん……」

 

 ヘラクレスはアルトリアの言葉に頷いた。鼻を鳴らしたペンテシレイアもまた、口にこそしないが異論はないらしい。

 イレギュラーが起こり戦局を読み難くされるぐらいなら、消えてもらった方がいい――戦乱の世を駆け抜けた三人の王は、完全に意見を合一させている。

 だがそれは冷徹な戦略眼を持つ王たちだからだ。関心がない葛木や冷酷な判断も下せるイリヤスフィールはともかく、平和な世で生まれ育ったが故のお人好しで――同時に壊れた正義を抱く衛宮士郎は簡単には頷けなかった。

 彼は先程までいたルーラーの後ろ姿を思い浮かべ、苦言を呈する。

 

「……助けられるなら、助けた方が良いんじゃないか?」

 

 言うや否や一斉に士郎へ視線が殺到する。思わず仰け反ってしまった士郎を情けないとは言えまい。目を向けてきたのは伝説の王たちや王妃なのだから。

 アルトリアはバツが悪そうに。ペンテシレイアは露骨に失笑する。メディアにいたっては微笑ましいことを聞いたと言わんばかりの表情だ。まともに返してくれたのはヘラクレスのみである。

 

「エミヤシロウ。お前の言は善良で、平時ならば傾聴に値する。だが時と場合によることを弁えるがいい。お前のそれは、今となっては聞く耳を持つだけ無駄なものだ」

「な、なんでだよ」

「相手方の陣容が不明瞭の中、いたずらに労を割くのが下策なのは言うまでもない。勝利を遂げるためならばいざ知らず、『助けたいから助ける』では筋が通らん。『助けた方が勝利に近づく』か、あるいは『助ければ周囲への被害が減る』という理由があれば積極的に動くべきだろう。だがルーラーの存在は火種にこそなれ、戦局を左右する駒には成りえんのさ」

「俺は難しいことは分からない。けど、それでも見捨てるだなんて……」

「ふぅ……。何を勘違いしているのかは知らんが……エミヤシロウ、我らサーヴァントは所詮稀人なのだ。聖杯戦争が終われば、本来現世から退去すべき影でしかない。助けたとしても、結局は消え去る運命にある。そんな輩に気を割くな。お前にはお前の、成すべきことがあるのだろう」

「………!」

 

 士郎は顔を強張らせる。ヘラクレスは言っているのだ、士郎がまず助け出すべき存在は間桐桜だろう、と。

 己の二枚舌にヘラクレスは内心嗤う。自身が今生において絶対とするイリヤスフィールは、間桐桜を殺すつもりでいるのだ。だというのに、士郎に間桐桜を救うことを強く意識させるなど……矛盾も良いところである。何せヘラクレスは、イリヤスフィールの意志の下、桜を殺すのになんの躊躇いも持たないだろうから。

 だがそれでいい。士郎が道を決めて、進んだ先にこそ答えがある。イリヤスフィールの殺意を曲げられるか否かは、全て士郎に掛かっていると言えよう。

 

「私は優先順位を違えるなと言っている。だが――お前は何も間違っていないのも確かだ。理由がなくとも助けたいと思う気持ちは責められるべきものではない。だからな、エミヤシロウ。救い出したいと願うのなら、理屈を抜きに全てを救えるだけのの力を付けろ。強くなれ――この世は極論、力こそ全てだ」

「脳筋は話が長いわね。けど坊や……ヘラクレスの言うことは概ね正しいわ。今の貴方には力が足りない。今回に限って私達に任せてくれないかしら」

 

 さらりとヘラクレスを揶揄しながらも、メディアもまた優しげに諭す。青い性根、未熟な理想を懐く士郎は肯んじ難いものを感じながらも、自らの未熟を認めるしかなかった。

 ヘラクレス――アルケイデスはじろりと三白眼でメディアを一瞥した。

 

「ほう……嬉しいな、メディア。漸く私への苦手意識がなくなったか」

「こっちを見ないで。貴方とイオラオスだけは絶対赦してはおけないだけよ。ほらアサシン! 私の盾の分際で何をボーッしてるの!? ヘラクレスとの間に立ちなさい!」

「やれやれ……すまぬな、バーサーカー。軽口を叩いたはいいものの、注意を引いてシモが緩くなってしまったらしい。主人の非礼を詫びよう」

「ア・サ・シ・ンゥゥゥ!」

 

 侍の青年が仕方なさそうに首を振りながら言うと、顔を真っ赤にしてメディアががなり立てる。アルケイデスは珍しく眉を落とした。

 メディアがアルケイデスを苦手としているのは生前から変わらないが、アルケイデスとしてはメディアは庇護下に置いたこともあるか弱い乙女だ。こうも嫌われるに至った切欠は覚えているが、かと言って距離を置かれると悲しくもなる。

 どうやらメディアが軽口を叩けたのは、歌劇が広まってしまっている事からくる積年の怨みにより、一時的に精神(いかり)肉体(トラウマ)を凌駕していたからに過ぎないようだ。

 

 ――空気が弛緩している。

 

 アルケイデスは気を取り直して、眼前の小次郎へ言った。

 

「アサシン。お前をカタナの達人と見込んで頼みがある」

「ほぉ……貴殿のような豪の者が、棒振りしか取り柄のない私に頼みとな?」

「謙遜するな。お前の言うその棒振りは、私とペンテシレイアを見事に止めてみせたのだぞ。そこな小僧に一端の剣術を仕込むためにも、是非一度尋常に立ち合ってみたい。いや――飾らずに言おう。一手指南を頼む、とな」

「!!」

 

 戦士王の予想だにしない申し出に、最古の魔法少女――もとい奇跡の王妃メディアは飛び上がらんばかりに驚いた。

 そこそこ腕は立つと思っていただけのアサシンに、最強という言葉が擬人化した存在と確信する『ヘラクレス』が指南を頼むというのである。メディアは思わず、アサシンの横顔をまじまじと見つめてしまう。

 持ち上げられて悪い気はしなかったのか、それとも手合わせという部分にのみ惹かれたのかは定かでないにしろ、アサシンは快諾する。

 

「――獅子の如き()()()()に請われるとは、存外私も捨てたものではないらしい。それが分かっただけ重畳というもの……いいだろう、魔女殿の手前、盟主殿の頼みを無下にもできまい。それに私も、貴殿とは是非鍔迫り合ってみたかったのだ。無為に積み上げてきたこの身の研鑽が、果たしてどこまで届いているのか……測る物差しとして貴殿以上は望めまい」

 

 大言壮語である。戦士王を捕まえて、自身の技量がどこまで通じるのかを測る物差しにするとは、佐々木小次郎という男は大した傾奇者であった。

 愉快になってアルケイデスも破顔する。この手の戦士は、力さえ伴うならアルケイデスも好む類い。純一戦士として興が乗ってくるのを自覚せざるを得ない。

 だがそこへ、大袈裟な咳払いが差し挟まれた。見るとイリヤスフィールが、お付きのホムンクルスのメイド共々あからさまに呆れているではないか。

 

「ちょっと。どんどん話が脱線してるんだけど、結局のところどうするつもりなの?」

「――珍しく察しが悪いな、マスター」

 

 アルケイデスは苦笑しながら言う。その笑みに()()ときたのは、やはりというべきだろう……義妹であるペンテシレイアに次いでメディアが察して、その次にアルトリアがまさかと緊張を露わにする。

 神代の女魔術師メディアが高速神言を唱え、ペンテシレイアやアルトリア、アルケイデス、小次郎を強化する。アルトリアが劇的なステータスの向上に目を瞠り、いつもなら防御に偏重している魔力の分配を聖剣に傾けた。ペンテシレイアは長剣を抜き放ち、戦士王は白亜の魔槍のみを具現化させる。

 

 紛うことなき戦闘態勢。マスター達はギョッとしたが、葛木だけは微かに眉を動かしただけだった。

 

「金色のアーチャーはルーラーを始末しに動く。それは間違いない。であれば――万が一にも邪魔立てする者が現れぬように、我らに仕掛けてくるであろうさ」

「……ホントに?」

「ああ。余程に愚鈍でなければ、すぐにでも此処へ乗り込んで来よう」

 

 半信半疑な雪の妖精に、半人半神の大英雄は断言する。そして、彼の予測が正しい事を証明するかのように、衛宮邸へ黒い影が伸びてきて――いつの間にかメディアによって張られていた結界に阻まれ、黒い汚泥がドーム状に広がっていく。

 これは――!? 驚愕する人間たち。動揺はないにしろ、サーヴァントという存在にとっての天敵とも言える『泥』が衛宮邸を覆い尽くす光景に、英霊たちは敵軍の襲来を感知した。

 『泥』が覆っていない一部の穴から、メディアの結界を破って侵入してくる者たちがいたのだ。

 

「……よぉ」

 

 常の快活さが鳴りを潜め、言葉短く淡々とした様子の槍兵――クー・フーリンである。そして全身を甲冑で覆い、兜で素顔を隠した騎士もいる。

 騎士と同じく素顔を仮面で隠した女戦士は、『泥』によって汚染され尽くした姿であり、黒化とでも呼ぶべき出で立ちだった。

 侵入してきたのは、三騎のサーヴァント。三騎目のサーヴァントに、メディアは瞠目してアルケイデスはピクリと眉を動かす。だがそれよりなおも異様なのは兜の騎士である。騎士はアルトリアを目視するなり石のように固まって、他は何も見えていないように凝視している。

 

「いきなりで悪ぃが、邪魔するぜ。マスターの命令だ、一時の間テメェらを足止めしとけってよ」

 

 クー・フーリンは心底気乗りのしない様子で言う。何やら難儀な事情がありそうだが、構う義理はない。アルケイデスは酷薄に、簡潔に応じた。

 

「そうか、では歓迎しよう。全員ここで死んで逝け」

 

 

 

 

 

 

 

 



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二十六夜 裁定者に下されるモノ(下)

書き方忘れたでござるの巻……!
シリアス欠乏症につき本作に手を出したでござる。


 

 生前に受けた啓示と、サーヴァントとして備わったスキル『啓示』は異なるものだ。

 

 前者が紛れもない『主』の声を、本能を超えた先にある本質へ届けてくるものだとしたら。後者は形のない感覚がダイレクトに叩きつけられるもの。

 

 後者のものは主の声ではなく、あくまで伝承を基にした力でしかない。故に裁定者のサーヴァント『ジャンヌ・ダルク』は英霊としての自分に宿るスキルについて、特別な思い入れを感じてなどいなかった。生前と死後の啓示は根本的に別物なのである。英霊ジャンヌ・ダルクにとって啓示とは、もはや道具、力の類いでしかなくなっていた。

 

 とはいえ利便性で言えば後者が勝る。何せ主の意志が関わらない『道具』だから、発生頻度が生前に比べて桁外れに多いのだ。

 

 不敬な物言いになるが、滅多に語り掛けてくれない天上の御言葉よりも、便利さを問うならばやはり、安定しているスキルの方が有り難い。

 スキル・啓示の精度は高い。いや、高いなんてものではない、的中率はほぼ100%と言えた。故に敬意こそ懐いてなくとも信頼はしていた。この力が報せてくれたものは、きっと間違いのないものなのだ、と。

 

 ――故に、齎された啓示にルーラーは凝固する。

 

「ほう? 我の姿を見るまでもなく、我の王気を感じ自らの末路を悟ったか」

 

 ほんの一瞬、体が固まった。目の前に現れた金色の英霊を認識する前に。

 さきほど謁見した戦士王とは全く異なる黄金だ。太陽のように眩く酷薄な熱射を放っている。

 それは英霊であり、故にジャンヌ・ダルクは裁定者の特権であるスキルでその真名を看破できた。

 

「英雄王、ギルガメッシュ……」

 

 ――死。

 

 死。

 

 死。

 

 啓示は、確定された結末をルーラーに報せていた。叩きつけていた。

 余りに明確で、冷酷な事実。心が折れても仕方のない、絶望的な未来告示。だがルーラーは、絶望の正体を目の前にしても怯まなかった。

 毅然と睨み据え、殺気を漲らせる王に向け口を開き――それを、制される。

 

「誰の赦しを得て口を開こうとする? 雑種、貴様と無駄な問答をするつもりはない。この我を差し置き『裁定者』などと嘯く不敬は万死に値するのでな、貴様に下す裁定はただ一つのみ――死ね。自害せよとは言わん、我が手ずから死をくれてやる。疾く消え失せよ、我の描く絵図に貴様は要らん」

「――な、」

 

 問答無用とばかりに、黄金の王は背後の空間へ金色の波紋を展開する。

 その数は――百は下らない。だがその数よりも、ルーラーが驚愕したのは位置だ。

 ルーラーは今、言峰教会へ向かっていたところで。ルーラーの背後には人々の暮らす住宅街があった。こんな所で宝具を使う英雄王の意図を、ルーラーは見抜いたのだ。即ち――躱すのはいいが、躱せば無辜の民草に犠牲が出るであろうな――そんな冷徹な戦術だった。

 聖人なら絶対に躱せない位置に、英雄王がいる。英霊ジャンヌ・ダルクは自分を聖人、聖女であるなどと思ったことはないが、それでも避けられない。避けて良いはずがない。サーヴァントとは所詮過去の影法師、今を生きる現世の人々を害する真似は言語道断であるのだから。

 

「あ、貴方は――貴方には、英霊としての誇りが――!!」

「喚くな、雑種。英霊としての矜持とやら――貴様自身が魅せるがいい。もし我を興じさせたなら、褒美を賜わす事を考えてやってもいいぞ?」

 

 ニヤリと嗤い、英雄王はルーラーの批難を聞き流して。そして百を超える魔弾が、断続的に放たれた。放たれ続けた。

 果たして宝具を解放する間も与えられず、ルーラーがどれほど持ち堪えられたのか。それを知る英雄王は詰まらなげに鼻を鳴らし、誅した雑種の事など記憶の彼方へ追いやっていた。

 

「――これで目障りな雑種は排した。次に我が動く時が決戦の時だが……雑種を間引くのは庭師の仕事、それを我にさせたのだ。我の想定を超えて興じさせねば……無事で済むとは思わぬ事だな、サクラ」

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 サーヴァント・バーサーカー、真名をヘラクレス(アルケイデス)

 一つの神話に於いて最大無比の大英雄として語られ、三千と余年の時を経てなお知れ渡る超級の雄。史実に残された大王アルケイデスと、神話の英雄として記されたヘラクレス双方の霊基を有する特記存在こそが彼である。

 マスター・イリヤスフィールだからこそ、サーヴァントという枠組みの中で可能な限り生前に近い状態で召喚できた。イリヤスフィールが喚ばなければ、史実と神話の特性を有した戦士王は現界しなかっただろう。したとしても魔力供給など叶わず一瞬で命が枯れていたはずだ。

 最高のマスターとして設計されたイリヤスフィールにしか使役できない最強の大英雄。それが戦士王だ。彼と単騎で戦い勝利を掴める者など、古今を見渡したとて五人もいるかどうか怪しいだろう。

 

 紛れもなく全英霊中最強候補の一角である彼は、しかし強者の傲慢さこそあるものの、油断や慢心とは縁遠い戦士であった。

 

 故にヘラクレスは驕らずに敵を見渡す。超抜級の呪いを内包した泥に周囲を囲まれていた。ルーラーを始末するのを邪魔されないように牽制目的で、三騎の敵サーヴァントが襲来している。内訳は『黒』の陣営の槍兵と兜の騎士、そして黒化英霊――ヘラクレスは微かに目を細め、その有様を悼んだ。

 

「スーダグ・マタルヒス……いや、その姿からしてメドゥーサとして喚ばれたのか。既に斃されていたとはな……」

 

 ライダー・メドゥーサの末路にヘラクレスは一握りの嘆きを零した。

 黒化しているとはいえ、理性と知性は残っているのだろう。彼女は自身が()()()()()で仕えた恩人にして主君、ヘラクレスと敵対している事に気まずさを覚えたようで、居た堪れなさそうに身じろぎした。

 だがライダーは黙して語らない。

 自らのマスターである間桐桜のためを思うなら、自身が成すべき事は一つだけだ。それを成すまで迷うわけにはいかず、ただただ木偶に徹して戦うのみ。それに既に敗死した身で何を語れようか。相手が嘗ての主君であろうとも、矛を交えるのに躊躇いを覚える資格はなく――ライダーの様子に、ヘラクレスは彼女の覚悟を感じる。

 ならば交わす言葉は無い。元より今生は仮そめのもの、生前からの知己や臣下に情けをかけるよりも、マスターの身の安全を確保する方が優先される。敵として立ち塞がるなら、例え誰であっても討ち取るまでだ。

 

「――貴方、は……」

「……? シロウ、下がって」

 

 そして、対面する兜の騎士と騎士王。

 高潔なる伝説の騎士王を目にした兜の騎士は、予期せぬ邂逅に驚愕し――そして澱み、歪んだ歓喜に総身を震えさせる。その様子にアルトリアは眉をひそめた。兜の騎士の纏う甲冑は宝具であり、正体を隠蔽する力がある。アルトリアからすると、敵が何故か自分に注目しているのに警戒心を懐きこそすれ、そこになんらかの特別な感情を想起される事はない。

 アルトリアは自身のマスターを下がらせ、ちらりとヘラクレスを見遣る。彼はセイバーの視線に応えて一歩前に進み出るや、背に自らの陣営を従えて指令を発した。それは各々の適性と能力に則った手堅い判断である。

 

「アーチャー、キャスター、セイバーはマスターを守れ。アサシンは好きにするがいい。――ランサーとメドゥーサは私が殺る」

「へッ……」

 

 殺気の籠もった視線を受け、ランサーのサーヴァント、クー・フーリンは嬉しげに笑った。

 呵責なき殺意。闘争の誘い。それは鬱屈とさせられていたランサーにとっては福音だった。気に食わないマスター、気に食わない令呪、気に食わない味方との戦列。何もかもに牙を剥け、心臓を穿ち抜いてやりたい怒気に燻っていたランサーは、思わずヘラクレスへと語りかけてしまっていた。

 

「いいねぇ……この聖杯戦争はクソッタレばっかだが、テメェと殺り合えるってだけで一時は忘れてやれる。だがな……オレをコイツと纏めて殺るだと? ナメられたもんだ……ああ、面白えじゃねぇか……!」

「………」

 

 メドゥーサは内心、自分を仕留めた槍兵と肩を並べるのに思う所はある。それに同じ少女をマスターにしているとはいえ、ランサーの方は桜を毛嫌いしている節があった。マスターの鞍替えを強制されている以上、仕方がないのだろうが……やはり完全な信頼は出来かねる。本音を言えば後ろから刺してしまいたい。が、それをするには敵対陣営もまた強すぎた。

 ランサーを失えば、均衡が崩れてしまう。不利になってしまう。それは避けたい、故に殺さない。『黒』の陣営に相互の信頼関係は皆無だった。

 光の御子の好戦的な物言いに、しかし戦士王は冷静に返す。

 

「誤解をするな、舐めてはいない。単なる計算の話だ」

「計算だと?」

「辺りを囲うこの黒泥は取るに足りん――等と、生前はともかくサーヴァントの身では言えん。故に魔術に長けた者、後方からの支援を行える者、サーヴァントの命綱であるマスターを直接守れる者を配置したのだ。するとどうだ? 後は私しか、貴様らを制圧できる者がいない。簡単な話だろう」

「ハ、そこの……アサシンだったか。ソイツは計算にも入れねえ雑兵かよ?」

「さてな。私は貴様を知る、貴様の槍をアレは躱せん。対峙を避けさせ、横合いから殴りつけさせるのが上策だろう」

「そうかよ……なら、そろそろおっ始めるとしますかねぇ……!」

 

 真紅の魔槍を扱き、強靭な四肢に力を漲らせる槍兵に、ヘラクレスもまた自然体のまま戦闘態勢へ移行する。

 いざ、小競り合いを。

 誰もが小規模の戦闘に帰結すると、薄々悟ってはいたが。しかしヘラクレスは内心独りごちた。

 

(私を前に、私を見もせんとはな。生前の因縁でもあるのかもしれんが……それは油断とも言えない()だぞ)

 

 視野の隅に収まる、輪郭定かならぬ全身甲冑のサーヴァント。まるで騎士王しか見えていないかのような様子に、戦士王は声なき声でマスターに念を送って裁可を仰いだ。

 

(隙だらけのアレを殺る。一瞬、一撃で終わらせるぞ。マスター、宝具の使用許可を)

 

 『白』の陣営の要、冬の少女は薄く嗤った。

 無垢な雪の花弁が如き微笑みが答えである。

 

(いいわね、面白そうだし――やっちゃえ、バーサーカー)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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