好きな子と混合ダブルス組むために全国トップを要求された (小賢しいバドミントン)
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バドミントン用語

バドミントン用語集です。なるべくルビを振ったり初めて書くショットには説明をつけたりもしていますが、話数も伸びてきたので、この作品でよく使う用語を書きます。
自分の解釈もあるのでもし間違ってたりしたらお手数ですが感想にお願いします。

また、自分も用語を本格的に統一化してきたのが23話の麗暁戦以降となるので、それまでの用語と相違があるかもしれません。そこは申し訳ないです。

はねバドの原作・アニメのコートを見ながら見ていただけると少しは分かりやすいかなと思います。


なるべく今後もルビを振ったり説明したりするので、これを覚えて欲しいと言うわけでは全くありません。
本編中にこれなんだっけ?って時に、もしよろしければこちらを使って頂けたらと。


バドミントン用語

 

コート

 

右or左サービスコート→コートを縦に二つに別けた時の左右どちらか

(正確にはサーブを入れる範囲の事ですが、この作品では立ち位置を説明する際にラリーの最中にも使用します)

 

センターライン→サービスコートを別ける真ん中の線

 

ショートサービスライン→一番手前の線(これより手前にサーブを打つとアウトになる)

 

バックバウンダリーライン→一番後ろの線

 

ダブルスロングサービスライン→後ろから二番目の線。(ダブルスでこれを越えてサーブを打った場合、バックバウンダリーライン手前に落ちてもアウト)

 

フォアコート→コートを縦に三分割した場合の一番ネット側

 

ミドルコート→三分割した場合の真ん中

 

リアコート→三分割した場合の一番後ろ

 

 

打ち方

 

フォアハンド→利き手側で打つショット。威力が出やすく基本的に打てるショットの幅が多い(例外あり)

 

バックハンド→利き手とは反対側に来たのを裏面で打つショット。威力が出にくく、攻撃側はこちらを狙うのがセオリー(例外多数あり)

 

オーバーヘッド→肩より上の球に対して上で振る打ち方。

 

サイドアーム→胴体と同じ高さの球を横で振る打ち方。

 

アンダーアーム→ネット前に落ちてくる球を下から掬うようにして振る打ち方

(この打ち方は基本フォアコート限定。ミッドコートとリアコートではほとんどサイドアームかオーバーヘッドで打つ)

 

ラウンド→バックハンド側に上がって来たシャトルに対して、落下地点に体を潜り込ませるようにしながらフォアハンドで打つショット。フォアハンドで打つことによって強いショットが打てたり、相手にコースを読ませなくする。反面体力の消耗が激しく、次の動きに入るのにややオーバーな動きを要する。

原作九巻で綾乃と薫子の試合、“私は薫子ちゃんの手に~~”のコマのような動きが実際に必要になる。因みにそのコマの綾乃の体勢は打った直後で足を踏み出す状況。

 

ハイバック→バックハンド側に上がって来たシャトルに対して、相手に背中を向けるようにしてバックハンドで打つショット。ラウンドに対して疲労が少なく、また潜り込む必要が無い分、ラウンドでは追いつけないギリギリのシャトルに対しても打てるようになる。反面バックハンド、それも肩より上で打つことから非常に飛びにくく、また背中を向いたり慣れない振り方をするため精度の高いショットを打つのが非常に厳しい。

ラウンドはある程度の経験者ならできるような打ち方だが、ハイバックは上級者でも苦手なのは珍しくない。

 

カット→打つ瞬間に手首を内側に捻る事で、面で打つのとは異なる回転をシャトルに掛ける。それにより失速の激しいショットに成りやすい。ただ当然普通に面で当てるよりも初速は遅い。カットドロップ、カットスマッシュがあるが、奥に追い込むクリアーに失速の激しいカットを混ぜても意味が無い。

 

リバースカット→ラウンドで打つ時、打つ瞬間に手首を外側に捻るショット。手首の捻りにくさから、こちらのショットの難易度はカットに対して遥かに高い。また、手首の捻れる限界などからも通常のカットに比べるとショットの精度は低くなりがち。

原作六巻で薫子ちゃんがクロスファイアの説明する時、“より強い回転を~~”はこれが理由。

 

 

ショット

 

ヘアピン→ネット前からネット前に落とす技。女性の髪留めのヘアピンと同じ軌道をするからと言われている

 

プッシュ→ネット前でラケットを押し出すようなショット。実際の試合では軌道はドライブになりやすく、軽く押し出す程度では一打で決まりにくいが、ダブルスでもっとも加点となりやすいショット。

この作品では浮いた球を地面に叩きつける、取るのが絶対に不可能なショットは“キルショット”として使用しています。

 

ドライブ→ネットを越える瞬間に地面と平行するようなショット

 

クリアー→奥へと飛ばすショット。ネット前から奥へと飛ばすのはロブ

 

ドリブンクリアー→攻撃的な速い低めのクリアー

 

リターン→主にスマッシュやプッシュなどの攻撃的なショットに対する返球。

 

リターンロブ→高いリターン

 

ローリターン→ネット前に落とすリターン

 

ドライブリターン(カウンタードライブ)→低く速いショットで返すリターン

 

ドロップ→ネット前に落とすショット

 

 

 

その他

 

トップアンドバック→ダブルスの陣形。前後に並ぶ攻撃の陣形

 

サイドバイサイド→ダブルスの陣形。左右に並ぶ守りの陣形

 

手打ち→重心の乗っていないショット。手を目いっぱい伸ばしながら打ったり、フォームが歪だったりするとこうなる。

 

ストローク→ラケットを振る動作。ダブルスの前衛となると返球も早いので、ストロークに入れず“面で当てるだけ”という状況もある

 

リアクションステップ→相手が打つ瞬間に膝を軽く曲げて溜を作り、相手のショットに備えるもの。リスクが少なくもっとも王道な間の取り方

 

片足リアクションステップ→相手が打つ瞬間に軽くジャンプして、片足で地面を蹴る事により出の一歩分を早く動けるステップ。出は速いが、相手の打った直後に着地をしなければいけないことや、歩数の調整が“本来”できないことなどから万能ではない。

原作四巻 綾乃 対 麗暁戦で“ネット前に落とす”の直後のコマ割りがこれ。

 

 

羽咲綾乃→可愛い

 

 




上記に載せたのは全部ではありませんが、基本的なのは書いております。

ラウンドとハイバックの違いについては結構重要ので、分かるとイメージが掴みやすいと思います。


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ミックスで全国一位、目指そうぜ

はねバドで一番可愛いのは羽咲さんなんだよなぁ


それは彼がまだ黒いランドセルを背負っていた頃。全国高等学校バドミントン選手大会、通称インターハイに混合ダブルスの枠が新たに追加された。

混合ダブルスとはその名の通り、男女がペアになって行う混合ダブルス。人口が増えつつもまだメジャーとは言えないバドミントンの中でも一際マイナーなルールであったが、近年日本のバドミントンのレベルは年々上がってきており、加えて日本人の混合ダブルスが世界のトップランカーとして活躍しているのがきっかけだと言われている。

 

 

 

「ねえ、話ってなーに?」

 

卒業式だというのに、これといった緊張を感じさせない呑気な声。大人びた女性用のスーツを着る彼女は、その能天気な顔と雰囲気のせいで、お世辞にも似合っているとは言えない。

 

体育倉庫前というベタな場所に少女を呼び寄せた彼は、わざとらしく軽い咳払いをして彼女に振り向いた。まだ第二次成長期に入っていない若々しい肌の頬はほんのりと朱に染まっているが、その事に少女は気づくそぶりも見せない。

 

遠目から黄色い声を上げてこちらを見ている同級生と目の前の少女が違うことは、当に少年も知っている。

 

「あ、あのな羽咲!俺、卒業したら宮城の中学に行く」

 

「知ってる」

 

「それでその、も、もし俺が中学で全国一位になれたら、俺と……」

 

「俺と?」

 

「高校で、ミ、ミックス組んでくれ!」

 

「ん、いいよ」

 

それは少年が望んでいた了承の言葉。声が裏返るほど緊張していた少年の心情とは裏腹に、淡泊な返事に、少年は喜ぶより先にポケットから一枚の紙を取り出した。

 

少年少女、共に勉強が苦手だったが、その紙に書かれたのはドラマでもよくある契約書の文字で、少女も知識としては持っていた。要するに約束を守る為のものだと。

 

「なにこれ?」

 

「どうせお前の事だから三日後には忘れるだろ。だからけーやくしょだ」

 

「なぁ!わ、忘れないもん!」

 

「三日に一回は忘れ物届けてもらってる癖に!」

 

「そんなに多くない!」

 

「とにかく書け!」

 

最初の初々しい空気は無くなり、ギャーギャーと口喧嘩をするクラスメイトにとってはよく見る光景に戻る。

少女、羽咲綾乃は唇を尖らせながら渋々と渡されたボールペンを手に取り、倉庫の扉に紙を当てて、汚い字面の契約書の内容を深く見ずに自分の名前を書いた。

 

私は忘れんぼじゃないから、こんな紙なんて必要ないもん。

そう言いたげな様子だが、しかし書かなければ今度はボイスレコーダーを持って録音を要求してきそうな、そんな並々ならぬ気迫を少年から感じた。

 

正直少女、羽咲綾乃にとってこの契約書は紙切れ同然だった。何しろ前提条件である全国一位は、自分でさえ届かなかった領域。それを男子でありながら自分より弱いこの少年が手に入れるなど、あるはずがないとそう確信してのサインだった。

 

少年は書き終えた契約書ををひったくるように取ると、ニヤリとあくどい笑みを浮かべる。

 

「じゃあ約束だからな。ミックスで全国一位、目指そうぜ」

 

これまで何百回と負けても立ち向かい、前へと進み続ける少年。

綾乃にはその時の少年の笑顔が、自分には眩しすぎる事に薄らと無意識の内に嫉妬していた。

 

 

 

 

 

秦野弦羽早(はたのつばさ)は幼少期、自分は天才、とまではいかなくとも優秀だと思っていた。足は速かったし、大抵のスポーツは初めてやった時から平均以上はできた。子供の遊び道具であるホッピングや竹馬などもすぐにコツを掴んだし、自転車もすぐに補助輪は無くなった。

 

今では消し去りたい過去になっているが、当時の弦羽早はその程度の事で天狗になっていた。

 

そんな彼の世界を知らない男児らしい慢心が打ち壊されたのは、小学校一年のありふれた平日の夕方。

遊びに行っていた友人の家から帰る中、タコの滑り台がある公園で、一人の少女を見つけた事が、彼の人生の大きな分岐点となった。

肩甲骨辺りまで伸ばした後ろ髪をリボンで結んでいるのが特徴で、しかしそれ以外にはこれといった印象のない少女。

クラスメイトの羽咲、下の名前はその頃は知らなかった。当時の彼にとっての羽崎綾乃は馬鹿っぽくてとろい奴といった印象だった。一の段の足し算引き算すら間違え、何もせずにボーと突っ立っている姿もしばしば見かける。

 

 

その頃の彼なら興味のないクラスメイトが放課後何しようが興味はなかっただろうが、学校の外で見るクラスメイトが新鮮だったからか、あるいは子供特有の未知への興味が働いたのかもしれない。彼女が何をしているのかと立ち止まって観察する。

 

少女は暇そうにシャトルをトントンと小さく上にあげていた。彼女が運動している事に意外だったが、少年にとっては彼女が使っている球、つまるとこシャトルが白い事に興味があった。

彼もバドミントンはやったことあったが、それはおもちゃの、ゴム製のシャトルで軽く打ち合った程度。本物のシャトルを見るのはそれが初めてだった。

 

「羽咲、バトミントンやってるの?」

 

突然話しかけられた綾乃はビクッと肩を震わせ、続いていたシャトル遊びがそこで途切れる。突然男子、それもクラスの中心にいる騒がしい奴に話しかけられて、肩を縮めながらも。

 

「バトミントンじゃなくて、バドミントン」

 

練習の邪魔された事か、あるいは弦羽早の事が苦手からか。不機嫌な声は、学校での彼女とは印象の違うもので、弦羽早は意外そうに少しだけ目を開いた。

 

「どっちでもいいじゃん」

 

「良くない」

 

いやな奴に話しかけられたと、綾乃のテンションはそれまで以上に下がっていたが、当時の弦羽早はそこに気付く程大人でもなく、深くも捉えない。

 

「それで羽咲はバドミントンをやってたのか。一人で?」

 

「さっきまでお母さんと一緒にやってたけど、失敗しちゃったから今日はもうできないの」

 

失敗したからできない?と頭の中で復唱し、どういう事だと考えるが、当時の弦羽早は大きな失敗をして怒られた、程度に捕らえるしかできなかった。実際綾乃の言葉だけ聞いたら、大人でもそう捉えるのは自然だろう。

つまり怒られて落ち込んで、一人寂しくやっていたのだと、弦羽早は解釈する。

 

「じゃあ俺が相手になってやるよ」

 

綾乃の寂しさを埋めたい、など大層なことは考えから出た言葉ではなく、綾乃が持っている白いシャトルを打ってみたかった打算的なものであった。

 

「え?いいよ、相手にならないし」

 

そして綾乃にとってはそれは大きなお世話だった。

別に自分は落ち込んでいる訳でも無く、ただ外で時間を潰しているだけ。それをクラスの中でも騒がしいメンバーの中心にいる、苦手な男子である弦羽早に邪魔して欲しくなかった。しかし関わって欲しくないから出た『相手にならない』は、当時天狗になっている弦羽早には挑発にしか聞こえないだろう。

 

「なんでそんなことが分かるんだよ!」

 

「だって初心者でしょ。名前間違えてたし」

 

「何回かやったことある。丁度ラケット二本あるからいいだろ。とにかく貸せ!」

 

結果は明らかだった。しばらく後になって知った事だが、綾乃は物心ついた頃には既にバドミントンをやっていたらしい。それが少し運動神経がいい程度の少年が、おもちゃのラケットで数回遊んだ事ある程度で勝てるわけがなかった。

だがかつての、初めて本物のラケットを握り、シャトルを打った当時の弦羽早には素直に負けを認められるほど大人でもなく、様々な面で無知であった。

 

「も、もう一回だ!」

 

結局日が暮れるまで打ち合っていた二人は、綾乃の母親が心配して迎えに来るまで続いていた。

 

 

 

それからすぐに弦羽早はバドミントンクラブに入った。綾乃は経験者だから負けたと言うのは簡単だったが、クラスの女子、それも馬鹿っぽくてトロそうなあの羽咲綾乃に負けたと言うのは、当時クラスの中心だった彼のプライドが許さなかった。

 

クラブでの練習、それ以外の日には綾乃と打ち合い、あるいは家で練習。元々運動神経が良く、何よりも若さが弦羽早の腕を上達させたが、しかし綾乃に勝つことは一回もできず、それどころかストレート負けなんてことも珍しくなかった。

 

だから彼はそれまで以上に練習した。練習し、練習し、そして綾乃を観察して弱点を探そうとし、時には彼女の技を吸収し。違うバドミントンクラブに入っていたが、試合数は同クラブの子よりも圧倒的に多いくらいには、彼の生活に羽咲綾乃は当たり前の存在となっており、子供にとって長い数年という期間は、倒すべき相手から気になる女の子へと変えるには十分な時間だった。

 

そして弦羽早が綾乃への好意に自覚した頃に、インターハイに混合ダブルスが新たな種目として追加されるのが決まる。

当時の彼としては漠然と、いつか高校生になったら綾乃と組んで戦ってみたいというものだった。それはプライベートの気持ちも当然あったが、綾乃の実力を知るからこそ、組んでみたいと言う選手としての思いでもあった。

 

 

しかし弦羽早も、その思いを叶えるための条件がここまで厳しいとは思わなかっただろう。

 

 

「綾乃とミックスが組みたい?う~ん、それならせめて全国トップに通用するぐらい強くないと、親としてもコーチとしても認めてあげられないかな~」

 

綾乃の母親、有千夏がやっているバドミントンスクール(このスクールに参加しなかったのは、基本幼児向けの入門クラスだったから)に遊びに来ていた弦羽早は、多少気恥ずかしさを堪えながら、母親でありコーチである有千夏へ告げた時の返答がこれだった。

 

有千夏としては、弦羽早の好意は知っていたので、可愛い一人娘を生半可な男に渡す訳にはいかないと、ちょっとした冗談交じりのものであった。しかしバドミントン女子シングルス十連覇という正真正銘の化け物が言うにはそれは冗談には聞こえない。

 

かくして弦羽早は綾乃とダブルスを組むために、全国を目指すようになる。

 

 



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私、バドミントンしたくない

原作前の話とかないです。
書けないです


中学生で早くも実家を離れ寮暮らしを始め、ひたすらバドミントンに打ち込み、そして引退してからは受験に打ち込み、ずっと待ちわびていた好きな女の子との再会。

この三年間の努力の源ともなっていたものは、無情にもあっさりと打ち壊された。

 

「やだ、私、バドミントンしたくない」

 

「…え?」

 

 

 

北小町高校。弦羽早の地元にあるごくごく普通の公立高校。時折有名な選手を輩出してはいるが、強豪校と呼ぶ程ではなく、バドミントンの推薦も取っていなかったので、慌てて受験勉強をすることとなった。

弦羽早が他の推薦を蹴ってまでこの学校に来たのは、他でもない羽崎綾乃がこの学校に来るのを、彼女の親友である藤沢エレナとの電話で知ったのだ。

綾乃とはあれから会えていない。弦羽早(つばさ)は中学二年と三年で全国に出ており、トーナメント表に記された綾乃の名前を一度見かけたが、タイムスケジュールの違いやそもそも男女ということで種目が違う事もある。

 

だが今日ようやく再会できる。高鳴る心臓、思わず上がってしまう口元を意識して抑え込むと、弦羽早は教室の扉を開き、室内を見渡した。こっちを向いた男子クラスメイトと「よろしく」と男子らしく雑な挨拶を交わす。

その一方、弦羽早の入室に、机にだらしなく腰かけていた女子は慌てて背筋を伸ばすよう立ち上がると、前髪を整えて、化粧したての笑顔で彼に少し甘い声であいさつする。

 

弦羽早はそれにも男子同様に作り毛のないナチュラルな態度で返しながら、窓際の席で肘を立ててうたたねしている綾乃の姿を見つけた。

 

三年ぶりの再会だがあまり顔立ちは変わっていなかったのですぐに分かった。小学校の時よりも髪は少し短くなっただろうか、肩甲骨辺りまで伸びていた髪は肩辺りまでになっており、ひょっとしたら一度髪を切ったのかもしれない。だが後ろ髪をゴムで結ぶスタイルは変わらないままだ。

 

小学校の時もコートの外ではほほんとした雰囲気を出していたが、三年の歳月はその雰囲気は減るどころか増しており、家の中でのんびりと日向ぼっこをするぐーたらな猫のようにも見える。

入ってきた好青年が弦羽早だと気付いたエレナはひらひらと手を振ると、すやすやと寝息を立てている綾乃の背中をつついて起こす。

 

んあ?と華も無く綾乃が起きる。

 

「入学初日から寝るなんて相変わらずだね、羽咲」

 

綾乃にとっては聞きなれない低い声に、ごしごしと目をこすりながら見上げると、爽やかな好青年が笑みを浮かべて立っていた。

 

「…だ、誰?」

 

インターホンに映る知らない大人を警戒するかのような視線と声に、弦羽早は苦笑し、その様子を綾乃の背中から見ているエレナは声に出さないように笑う。

 

「俺だよ、秦野。秦野弦羽早」

 

「秦野って、あの?」

 

「うん、その秦野で間違いない」

 

「わー、久しぶりだ」

 

「そうだね。ほんと、久しぶりだ」

 

綾乃の記憶にある秦野弦羽早は教室でぎゃーぎゃー騒いでおり、よく男子の中心にいた悪ガキという言葉が似合う風貌の少年だった。確かに一緒にバドミントンをやるようになってからは落ち着いたかもしれないが、少なくとも爽やかさの欠片もなく、目の前の男子の雰囲気とは似ても似つかない。

 

「その羽咲、覚えているかい?卒業式に言ったこと」

 

「ん?」

 

「あはは、やっぱり…」

 

覚悟していたとはいえ、純粋無垢な笑みで、なんだそれ?と首をかしげる姿に、傷つかない男はいないだろう。

しかし同時に弦羽早は、三年前の自分のファインプレーに心の内でガッツポーズをしながら、カバンから取り出した紙を綾乃の机に置いた。

紙は折り目も皺もあり、ついでに書かれた字も汚い杜撰なものだったが、それでも綾乃の能天気な記憶を呼び覚ますには確かな効果があった。

 

サーと綾乃の表情が目に見えるくらいに青くなる。

おそるおそる弦羽早を見上げると、エレナに貸してもらった少女漫画に出てくる先輩キャラのような、キラキラとした笑顔を浮かべていた。

 

「え、えっと…」

 

「ん~、なになに。秦野弦羽早が全国で一位になったら高校でミックスダブルスを組むのを誓います。羽咲綾乃」

 

後ろの席のエレナが身をより出して契約書の内容を音読する。

なるほど、卒業式の日に二人で話し合って何か書いていたのはこれだったのかと、三年越しの謎が解明し一人勝手に納得する。

 

「え?てことは全国一位なったの?」

 

「うん、といっても個人じゃなくて団体なんだけど、ちゃんとスタメンだよ。はい、これが賞状」

 

弦羽早が次に取り出したのはチームとは別の個々に渡される賞状。そこには確かに男子ダブルス団体戦の全国優勝の賞状で、弦羽早の名前が刻まれていた。

 

「そういうことだから……だから羽咲!俺とミックス出て、一緒に優勝しよう!」

 

『おおー!』

 

『きゃー!』

 

入学初日からの熱い告白(のようなもの)に教室から男子からは関心の声が、女子からは黄色い声が上がる。その中には同じく小学校からの同級生の三浦のり子の姿もあった。

 

弦羽早には自信があった。それは契約書があるからという合理的な自信ではなく、この三年間で努力によって磨き上げて来た自信。小学校の時よりも多くの負けを経験し、同時に沢山の相手と戦い、そして全国大会の決勝で団体戦のダブルスのスタメンとして、強敵を相手に勝ち続け、勝利に貢献した。

多くの相手と出会って、内面的にも少しは成長できたと自負している。

その努力の証こそがこの賞状であり、今なら綾乃のパートナーとして恥ずかしくない強さを持っているという自信。

 

「…やだ」

 

だからこそ、駄々こねる子供のような口調の返事に耳を疑った。

 

「え?」

 

「私、バドミントンしたくない」

 

「……えええっ!?」

 

 

 

 

めでたくフラれたことになっている弦羽早は、入学式を終え自由時間に入った頃にはクラスメイトの男子たちから優しく歓迎されていた。入室時に女子の注目を浴びていた爽やかイケメンということもあり、弦羽早の肩を叩く男子生徒たちは嬉しそうだ。

 

「元気出せって秦野。まだ高校始まったばかりだぜ」

 

「入学式前に振られるとは北小町史上、最短記録だな」

 

「失恋じゃないって!そもそも告白とかじゃないから!それにしたって羽咲、バドミントンしたくないなんて、なんで…」

 

チラリと綾乃の方へと向けると丁度視線が合い、彼女は慌ててそっぽを向いて音の鳴らない口笛を始める。あそこまでベタなのも清々しく、弦羽早を含め周囲の男子達も白い眼を向ける。

 

しかし、と弦羽早は机を腰かけにして顎に手を当てる。

 

「(あの羽咲がバドミントンしたくないってどういう事だろう?あれだけバドミントン一筋だったのに。そもそもこの北小町だって、特別バドミントンに力を入れているわけじゃ…)」

 

いや、そもそも今の綾乃にはどこか違和感があった。中学生という多感な年頃を越えたのだから小学校の頃と全く変わっていないと、そんな乙女チックな事は微塵も考えていない。自分だって随分と変わった自覚はある。

だからこそ変わったというよりも、抱くのは違和感。

 

事情を聴くならやはりエレナか。綾乃の進学理由は間違いなく彼女がこの学校を選んだからだろうし、小学校の時から綾乃はよくエレナと一緒にいた。今もエレナの机に綾乃とのり子の三人で話している。

 

弦羽早は勇猛果敢にもガールズトークを繰り広げる女子の中へと歩み寄り、まず初めに綾乃と視線を交えたあと小さく笑い、エレナの名前を呼んだ。

 

「藤沢、ちょっと話いい?」

 

「な~に、綾乃にフラれたから私にしようってわけ?」

 

「これでも自分では一途な方だと思っているよ。聞きたいことがあってね」

 

「エレナが行くなら私も―――」

 

さも当然のように続こうとする綾乃に、エレナは小さくため息を吐いた後、彼女の額にデコピンを打つ。ボンと鈍い音を奏でる一撃は、綾乃の反応を見ても本気で痛い時に出る音だと判断できる。

 

「ッ――!?」

 

「少しは空気読みなさい」

 

額を抑え涙目になりうずくまる綾乃を横目に、エレナは長い髪を靡かせて廊下へと向かう。

 

先程の綾乃への一件が無ければ、弦羽早が男子達の嫉妬の目を集める程に、エレナは昔よりもずっと美人になっていた。

ただ今弦羽早の元へ注がれる男子の視線は嫉妬は込められておらず、生暖かい優しい眼差し。

フラれてなお、何とか綾乃に近づこうとする一途な男の子に見られているのだろう。実際その通りなので失笑するしかないのが惚れた弱みか。

 

エレナの長い髪に続く様に廊下に出ると、彼女は壁に背を預けた。

 

「話、綾乃のことでしょ?」

 

「うん、どうしてバドミントンがやりたくないって」

 

「私じゃなくて本人に聞けば」

 

「羽咲は…ちょっと癖があるっていうか、個性的って言うか――」

 

「変わってる」

 

弦羽早がどうオブラートに包もうかと言い淀んでいる中、もっとも彼女に合った容赦のない一言が挟まれる。

意中の相手が変わっているのには重々承知しており、少年はうんと苦笑しながら頷く。

 

「性格面でもバドミントンの実力的にも、ね。だからまず藤沢に聞きたくて」

 

「ん~」

 

窓から吹き込む風に靡く長い髪を弄りながら、エレナは考えるように小さく喉を鳴らす。

 

「よく分かんないんだよね。私も部活あったしさ、あの子は学校じゃなくて別のところでやってたし」

 

「ほんとに何も?」

 

「うん」

 

エレナが綾乃の事を大事に思っていると言うのは重々理解している。だからこそ綾乃がエレナに懐いていることも。

だが久しぶりに再会した弦羽早から見れば、エレナの綾乃に対する興味はどこか冷めている様にも見えた。

 

 

 

放課後。綾乃を呼び出して話をしようとしたが、その前に窓から木を伝って逃げられた為、問い詰めるのは明日にしようと素直に諦めた。あの猿のような動きは衰えるどころか、この三年でパワーアップしていたらしい。

因みに彼女の人間離れした身体能力に、クラスメイトは口を開いており、これで小学校の時のように、第一印象から綾乃が運動できないという思われることは無くなっただろう。

 

弦羽早は別館の体育館へと向かっていた。

 

北小町高校バドミントン部。

バドミントン進学校ではないが、数年に一回、時々大きな結果を残し、近年ではトップランカーである赤羽選手を輩出したことから、全く力を入れていない訳ではない。体育館の使用頻度は他の室内スポーツに比べると多く、どちらかと言えば優遇されている方ではあった。

 

その為他の部活の平均よりは賑わっているというのが弦羽早の予想だったが、体育館の扉を開くとそこは活気とは程遠い静けさで、ごく普通の体育館なのに殺風景にすら見えた。

 

体育館の中にいたのは僅か七人。その内一人は髪を金色に染めている事からコーチであるのは見て取れる。つまり生徒は六人、男子に至っては二人しかいなかった。

 

「…あの、入部希望なんですが」

 

「おおおお!新入生か!」

 

金髪のコーチらしき人物が土煙を上げるかの如き勢いで弦羽早の元へとやってくると、手を引いて体育館の中央へと引っ張る。

 

「いやー、よかったよかった!ただでさえ少ないのに新入部員も来なかったらどうしようかと思ったんだ。見たところ経験者のようだし」

 

金髪の男性は弦羽早が抱えているバドミントンバッグをチラリと横目で見ながら、それはもう満面の笑みを浮かべていた。

あれこれ質問する間もなく、集合している六人の部活性の前に立たされた弦羽早は、新手の新人苛めかと内心苦笑しつつ、六人をそれぞれ見つめて特徴を掴む。

女子は四人で、胸の大きい背の高い短髪、明るく元気そうな前髪を上げてまとめた子、物静かそうな糸目、眼鏡を掛けたロングヘアー。男子は二人で、物静かな糸目と天然パーマの活発そうな男子。

中々個性的で、特徴だけならすぐにつかめそうだ。

 

「俺はコーチの立花健太郎。男子は伊勢原、葉山。女子は荒垣、海老名、伊勢原、泉だ」

 

「…これで、全員ですか?」

 

「え~と…」

 

しみもどる健太郎をよそに、部員全員がコクンと一斉に頷いた。

部活の人数=強さとは言わないが、しかし練習相手は多い方が良く、パターンにも幅が出る。しかしこれは、練習パターンはおろか、団体戦にすら出られないレベルだ。

僅か数年でここまで廃れるものなのか。変な汗を流しながらも爽やかな笑みを壊さない。

 

「秦野弦羽早です。小学校一年からやってて、中学は宮城の日城(にちしろ)です」

 

「日城?日城って、あの日城か!?」

 

「コーチ、知ってるんですか?」

 

声を荒げる健太郎に、その日城だと小さく頷いて肯定する。綾乃と会った時も似たようなやりとりをしたなと思いながらも、母校を知る者がいて少し誇らしげになる。

 

「去年の全中団体で優勝だ。ダブルスも二位だった筈。待てよ秦野、秦野…二刀流の?」

 

「はい」

 

弦羽早は中学時代に何度かバドミントン雑誌やテレビなどの取材も受けた経験がある。無論中学時代からも、彼より強い選手はたくさんいるが、その特殊なプレイスタイルは良くも悪くも話題になりやすい。

 

「これは凄い新人が来てくれたぞ!練習の幅も広がりそうだ」

 

「伊勢原、まさかの男子バドミントン部に期待の新人だぞ!」

 

「…ダブルス、俺達のどちらか落ちるな」

 

「はっ!?」

 

二人しかいない肩身の狭い男子バドミントン部は新入部員に喜ぶのも束の間、伊勢原兄のボソリと呪詛のように淡泊な言葉に、葉山の天然パーマが大きく揺れる。

 

「いえ、自分は男ダブで出る気なくて」

 

「ん?秦野はダブルスメインだよな。高校からシングルに力を入れるってことか?」

 

「いえ、勿論出るつもりではありますが、シングルスはどうも。高校はミックスで優勝するって決めてるんです」

 

一瞬なるほどと頷きかけた健太郎だが、それより先に疑問が浮かぶ。確かにシングルスではなくミックスに力を入れるというのは分かる。だがそれなら、北小町(ここ)よりももっと強豪校に行くべきだ。それこそ中学と同じ宮城に拠点を置いていれば、あそこにはフレゼリシア女子短大付属高校がある。あそこの生徒と組めば、まさに鬼に金棒だろう。こんな男子部員はおろか、女子部員さえ四人しかいない高校に入る道理はどこにもない。

 

「ミックスか。確かに前からやってる葉山と伊勢原には組んで出て欲しいからそれは助かるが、なら他にパートナーにあてでもあるのか?」

 

男子校、女子校とあるなかでミックスは少々特殊であり、同じ県内の生徒であればペアを組んで公式戦に出るのが許可されている。その分、出場枠も限られており、どの県も優勝者しか全国に上がれない。

 

見たところうちの生徒達に知り合いはいないようなので、県内に伝手がいるものと健太郎は踏む。

 

「それがここの生徒なんですが…。そうだコーチ、今女子部員も少ないですよね?」

 

「ああ…。ついこないだ…八人…辞めちまってな…」

 

あからさまに声と肩が沈み、ついでに顔色も悪くなる健太郎に、眼鏡を掛けたロングヘアーの少女、泉理子が背中をさする。

 

「一人、すっごい才能持っている子を知ってるので、一緒に勧誘しません?」

 



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こういう時、大人の男は無力だ

はねバドSS増えろ~




翌日の放課後。

部活の勧誘が本格化する中、バドミントン部も朝早くからビラを配っていたが、つい数日前に一気に八人も一気に辞めた噂が広がっており、入部希望者は弦羽早(つばさ)以外には一人もいなかった。

 

各部活が勧誘に力を入れる中、一際賑やかな集団、というより騒ぎを巻き散らしていた二人がいた。

 

「待って羽咲!いい加減話くらい聞かせて!」

 

「ッ、ヤダ!言いたくない!」

 

「声小さくてなに言ってるか聞こえないよ!」

 

叫んでいるのに声が小さいという器用な怒鳴り方をする綾乃の声は、勧誘する先輩たちの掛け声と、二人に驚いて上がる小さな悲鳴によってかき消された。この二人、放課後のチャイムがなってから早々に鬼ごっこを始め、廊下を駆け、階段を飛び降り、人混みをまるでアメフトの選手の如く避けて学校中を走り回っていた。

本来なら体格や体力的に弦羽早が綾乃を捕まえるのにそう時間はかからないだろうが、相手次第ではシングルスを汗一つかかずに勝つのが綾乃だ。加えて教室のベランダから木に飛び移る身体能力と瞬発力の高さも持っている。そこに食らいついているだけで弦羽早もかなり早く、身体能力の高さが伺える。

 

再び階段を飛び降りて曲がった先には人混みが溢れていた。綾乃も弦羽早も知らないが、この学校で有名な美少女が所属する演劇部があり、一目見ようと新入生たちが集まっていたのだ。

 

「うぐっ…」

 

「ハァ、ハァ…。さあ、観念するんだ羽咲。また一緒にバドミントンしよう」

 

「ヤダって言ってるでしょ!」

 

「だからどうして!あんなにバドミントン好きだったのに」

 

「嫌いになったの!」

 

「ならその理由くらい!」

 

「うぅぅ~、ヤダ!」

 

ジリジリと歩み寄る弦羽早から背を向け、綾乃は人だかりへと走っていき、弦羽早もそれに続く。

いくら綾乃でもほとんど隙間の無いあの中を超えるのは不可能だろう。そんな弦羽早の予想を綾乃の身体能力は裏切った。彼女は勢いよく飛び上がり生徒達の頭上を越えつつ、空中で廊下の壁を二回ほど走ったのちに強く蹴り、その勢いで生徒の川を飛び越えた。教室の中に夢中になっている生徒たちはそれに気づかなかったが、ネットにアップしたらかなりの再生数が稼げそうな神業が行われていた。

 

「いや、流石にあり得ないでしょ…」

 

もはや関心を通り越して呆然とする弦羽早は、綾乃を部活に惹きこむのが想像以上に大変な事にようやく気付いた。

 

 

 

 

「てっ…天才だ!」

 

その日の夕方、綾乃に再び受難が訪れた。のり子のハンカチが三階から高い木の天辺へと引っ掛かり、それを綾乃が登って取って来た矢先の事だった。

180㎝超えの引き締まった体格で髪を金に染めた男が、突如そう叫びながら自分の手をギュッと握り、そしてさすさすと手を動かす。

 

ゾゾゾと背筋が凍ったのと直後に、不審者の後頭部にエレナの鞄がクリーンヒットした。

 

「あー!いやらしい!なに今の手付き!」

 

綾乃と不審者の間に割り込むように、エレナは(彼女にとっては)いたいけな少女をギュッと抱きしめる。

 

「ち、違う!誤解だ!」

 

想像以上だ。

羽咲綾乃、彼女の事は昨日既に弦羽早から聞いていた。彼がミックスダブルスを誘おうとしている相手。彼曰く、選球眼、反射神経、反応速度、技術、その全ては自分より高く、加えて左利きらしい。そんなバグみたいな女生徒がいるのかと半信半疑になっていた矢先、出会ったのが彼女。起きているか眠っているかも分からない、平和ボケという言葉がこの県内で一番似合っているような、羽咲綾乃という同姓同名の少女だった。

彼女を見た時、いよいよ弦羽早の冗談だったのだろうと思った矢先に、三階校舎とほぼ同じ背丈の木の天辺に、体一つで登るという神業を目の当たりにした。

 

「羽咲、君、バドミントン部に入らないか!?」

 

「ッ…どうして」

 

「あ~、秦野の奴か」

 

「ああ、彼から聞いた。君の凄さを。正直半信半疑だったが、嘘じゃないと確信した!君は間違いなく天才だ!君なら――」

 

乱れる吐息に荒げる声、一瞬も逸らさない真剣な瞳。それは時と場合によっては熱い青春のワンページとなるのだろう。だが先程の通り、健太郎は180㎝超えて体格もよく、髪を金髪に染めた世間一般から見れば、ちょっと危ない人に見えなくもないだろう。そんな彼が迫る相手が、身長150㎝少しの、外敵のいない室内で育てられた小動物のようなオーラを放つ少女となれば尚更だ。

 

「きみ、うちの生徒さんに何してるのかね?」

 

「…え?」

 

トンと置かれた手に健太郎は冷や汗を流しながら振り返ると、警備員のおじさんが明らかに不審者を見る目でこちらを睨んでいた。

 

「い、いえ、俺は怪しいものではなく」

 

「この人!いきなりこの子の手を掴んでサスサスした挙句、まるで告白するかのように迫って来たんです!」

 

こういう時容赦がないのがエレナという少女だった。そしてエレナの言葉は、言い方に悪意はあるが、確かに事実。

 

「いや、ちがっ!?」

 

「少し事務室で話聞かせてもらうよ」

 

「はい…」

 

「(すまん秦野。こういう時、大人の男は無力だ…)」

 

 

 

 

その翌日、羽咲の事は任せろとコーチこと健太郎からメッセージが届いたので、ここ二日でガツガツと押していた弦羽早は今日一日だけはと素直に引き下がり、授業が終わると同時に体育館へとやって来た。

昨日の時点で練習含め軽い試合も行ったが、この北小町の実力はやはりそこまで高くはない。唯一、突出して上手いのが短髪巨乳が特徴の、荒垣なぎさだが、表情に余裕がないのと、どこか動きが硬いのがいささか気にはなっていた。

今年はまだなぎさがいるのでよいが、引退後は別のチームで練習するのを早くも視野に入れながら、アップのドライブを伊勢原兄こと、学と打ち合っている。

 

学のプレイは安定しておりこういった基礎練習は続くが、しかし刺激はさしてない。ドライブなら本当にドライブ、クリアーならクリアーをする。どこか一手絡めようと言うものが感じられない。

 

「(いや、そうやって決めつけるのはいけない。相手になってくれている伊勢原先輩に失礼だ)」

 

そういう時は自分から進めていくべきだと、ドライブを打つ直前に重心を前に出し、シャトルに重さを乗せる。シャトルの速さと音は同じ、しかし明らかにそれまでより重くなったショットに、学の返しのドライブは弱くなる。それを数回繰り返し、押し負けると判断して力を込めて打ち返した球は、ネットに引っ掛かった。

 

「…上手いな」

 

「ありがとうございます」

 

「…もう少し、ドライブいいか?」

 

「はい、こちらこそお願いします」

 

この部のよいところは、上下関係にうるさくないところ、これに限る。自分より上手い後輩の入部に良く思わない者も世の中には大勢いるが、内心どうかは分からないが、少なくともこの部にはそういった空気を表だって出す人はいないので、練習に入りやすい。

 

それからドライブ、ドロップ、クリアーと基礎打ちをやっていると、困惑した顔の健太郎に、イライラした様子のなぎさ、能天気に髪を弄るエレナに、涙目の綾乃が一斉に入って来た。

 

「何事…?」

 

 

 

事の内容はこうだ。

綾乃を勧誘する際に健太郎が「この部活のエースになることができる」と言い、それを偶然通りかかったなぎさが聞いて、健太郎に反発。元々健太郎が気に入らなかったなぎさはこれを機にと、綾乃と試合をし、その勝敗で部活の入部か引退を賭けることとなった。しかし流石にそれでは重すぎだと、綾乃のHELPコールによって駆け付けたエレナが、『綾乃が勝負に勝てば健太郎は、二度と綾乃を勧誘する事ができない』という条件に変更する事にした。

 

綾乃を甘やかしてばかりのエレナにしては、随分アクティビティな内容に弦羽早は一瞬耳を疑ったが、そう言えばこの間バスケ漫画の話題でのり子と盛り上がっていた気がする。つまりはそういうことなのだろう。

 

しかしこれは弦羽早にとってまたとないチャンス。なぎさとの溝が深くなったことにため息を吐く健太郎が落ち込んでいる事に気付かず、グッと親指を立てる。

が、同時になぎさがあの綾乃に勝つにはハッキリ言ってかなりのハンデが必要だろう。

 

「秦野。俺はまだ羽咲の実力を知らないが、どうなると思う?」

 

「…俺も羽咲とは三年間会ってないので分かりませんが、ただ仮に、技術面で成長いっさいしていなくても、十分に強いですよ」

 

「そこまでか…。荒垣は勝てそうか?」

 

この話題の主役二人から少し離れて、まるで陰口を言い合う近所のおばちゃんのようにひそひそと話し合う。

 

「何とも言えませんが、ただやる気はないから、かなりハンディ背負ってますね。上履きでやる気みたいですし、右手持ち、スパッツすら履いてない」

 

「お、おい右手持ちって。羽咲ってまさかお前と同じ――」

 

「俺が羽咲に憧れて真似たんです。元々左利きだったんですが、彼女が左なので右も使えるようにと」

 

二人が話している間に試合は始まった。綾乃のサービス、ロングサーブは天井スレスレ、更にエンドラインギリギリに落ち、判断に迷ったなぎさの甘い球を、綾乃が叩く感じでゲームはスタートした。

 

「わー!綾乃ナイスー!ねえ今の何点?」

 

「バドミントンは一点ずつ入るんだ、そして21点先取」

 

やる気無さげにラケットを構える綾乃は、再びエンドラインギリギリのサーブを繰り出す。一度ギリギリに入ったサーブを見送るのはかなりの慣れと選球眼が必要だ。疑わしきは罰せよ、そのスタンスでスマッシュを打つなぎさの判断は正しかった。

 

「…それと、荒垣先輩にもしアドバイスするなら」

 

右手にラケットを持つ綾乃に対して、ストレートのスマッシュ。女子にしてはかなり速いスマッシュだが、しかし綾乃を追い込むにはコース、角度、スピード、重さ、全て甘い。

 

「羽咲に生半可な強打は通じないことでしょうか」

 

なぎさのスマッシュはあっさりとストレートのネット前に落とされる。バドミントンは攻撃は勿論だが、それ以上に防御の面に置いて実力差が出てくる。まず今のなぎさのスマッシュに全く手も出ないのは初心者、続けて中級者も仮に返せたとしても、威力を殺せずにサービスライン、あるいはつい手癖で大きく返してしまうか。少なくともバックに来た決め球を、威力を殺し、ネット前スレスレに落とすのは、少し齧った程度では不可能だ。

だがなぎさも体勢は崩れながらも前で拾いネット前に落とす。しかし微かに浮いた球を綾乃は飛びつく様に前に出て、押し出すような軽いプッシュでまた一点を決めた。

 

「また一点!ナイス綾乃!」

 

「な、なにもんだあいつは…?」

 

「天才、ですね」

 

その後すぐにバドミントン部全員が集まり、二人の試合を見て、そして綾乃の異常性に気付いた。点差は13対11でなぎさがリードしている。それだけなら流石主将と部員たちも誇らしいだろうが、相手は制服に上履き。

バドミントンは基本利き足を最初に1・2・3のステップで取るが、この三歩目のステップを大きく踏み込み、体重の乗せる為そこで負荷が掛かりやすい。その踏み込みを無しにしても、狭いように見えてこの広いコートに来る球を一人で取るバドミントンには、しっかりと滑り止めのある靴は必須。

服にしても、弦羽早にはスカートがどういった感覚かは分からないが、腕を振るうにあたって制服の生地は邪魔にしかならないだろう。

これに加えて本来のプレイする腕とは逆の右手、更に綾乃の額には汗一つなかった。

 

流石に男子全国で戦ってきた弦羽早には、本調子でないなぎさとハンディを抱えた綾乃のこの試合は、激しいものではなかったが、しかし三年ぶりの羽咲綾乃のバドミントンを見るには、ある種絶好のものだった。

 

 

 

「21-18 マッチワンバイなぎさ!」

 

「よしッ!」

 

最後の一点が決まり、なぎさが汗だくの拳をギュッと握る。もはやその表情は、相手が制服だとか上履きだとか、そういったハンデを抱えている事を一切忘れている、純粋な勝利への喜びだった。

一方完全になぎさを舐めていた綾乃はボケーとしており、自分が負けた事に気付いていないようだ。

 

「ま、負けた…?」

 

「うん、なに信じられないみたいな顔してんの?負ける時は負けるでしょ。それにあんた、ラケット使う時は左利きみたいじゃない?そういうのは相手にも失礼でしょ」

 

「…ハッ!?」

 

「まさか気づかずに右でやってたの?」

 

てっきり余裕こいての右手か、あるいはここ三年で右利きに変えたかのどちらかと思ったが、ただ単にどうやらグリップの巻きが右利き用で、それに気付かずにやっていたらしい。

 

エレナに泣きつく綾乃の元にやってきた弦羽早は、嬉しい半分呆れ半分といった微妙な心境で、爽やかな笑顔を浮かべていた。

 

「…秦野、なんで言ってくれなかった…?」

 

「いや、まさかラケットの利き手に気付いてないとは思わなくて…。でも安心した!羽咲が昔とおんなじ強いままで!だから羽咲、改めて一緒にダブルスしようよ!」

 

「そうだぞ羽咲!金メダルを取れる!お前は天才だ!異常なほどの!」

 

金メダルに執着する男と、混合ダブルスを執着する二人の男に言い寄られながらも、空気に流されて頷くような軟な性格を綾乃は持ち合わせていなかった。

 

「ぅぅぅ…。わ、私絶対バドミントンやりません!誰がなんと言おうとも、バドミントンなんて好きじゃないからやらないの!」

 

「金メダル、取れるんだぞ!?」

 

「いらない!」

 

「…羽咲」

 

迫る健太郎に小さい声で怒鳴り返す綾乃の姿に、弦羽早は焦燥感を抱きながら、その日はそれ以上何も言えなかった。

 

 



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どうかな~、試してみる?

羽咲さんよりヒロイン力高い志波姫ちゃんってキャラがいるってマジ?





羽咲綾乃。

弦羽早(つばさ)にとって憧れであり目標で、願わくば小学校の間に一度は倒しておきたかった相手。

流石に高校生にともなれば男女の違いからもうフェアな勝負を行えないので、そういう点では別の中学に行ったのは勿体なかったと少しの後悔はあるか。

 

再開した今も弦羽早の気持ちは三年前から全く変わっていない。

むしろ会えない三年間、思い出の綾乃を目標にして努力していた事から彼女への様々な思いはより強くなっていた。

 

だからこそ拳を握らずにはいられない。

 

二列目の席では弦羽早と同じようになぎさも拳を握っている。二人とも拳を握る原因は同じ、羽咲綾乃。

 

弦羽早は知らないが、なぎさは去年の全日本ジュニアで綾乃にスコンクで負けており、それが原因でスランプとなって調子を出せずにいる。その原因である少女(と思われる)が自分に何の反応もせずに、能天気に後列で眠っていたら鬱憤も溜まるだろう。

 

弦羽早もまた、綾乃とミックスを組むために全国一位の団体メンバーになるまで努力した結果、バドミントンをやりたくないとまで言われ何も感じない訳が無かった。

この三年の努力の全てが綾乃の為とは微塵も思ってはいないし、それを彼女に押し付けるつもりもないが、彼女の存在が支えとなっていたのも確かで、やはり何か一言欲しかったのが人間というものだ。

 

チラリと窓の外に映る海を眺める。

 

ただこの三年で綾乃に大きな分岐点があったことは察している。それがどれほどの事かは分からないが、それまでバドミントンと切っても切れない生活を送っていた彼女が止めるほどのもの。

 

何より今の彼女は、どこか”羽咲綾乃”らしさがなかった。

 

昔の彼女も確かに私生活ではおっとりしていたし、同年代の少女と比べて変なところもあった。でもここまで純心だっただろうか。恥ずかしがり屋であったが声もここまで小声だった記憶もない。

特に先日なぎさとバドミントンしている時の綾乃は、違和感だらけだった。右手だとか上履きだからなどプレイ内容ではなく、試合への意識が昔に比べて優しすぎた。

弦羽早が憧れた綾乃はもっと底の見えない不気味さを持つが、その欠片も感じなかった。

 

「(羽咲がバドミントンやりたくない理由ってなんだろう? 三年の全中で名前見なかったしスランプ?でもこの間あれだけ動いてたし怪我した様子もない。虐めは…藤沢がいるし、まさか好きな肉まん屋が潰れたとかじゃないよね?)」

 

やはりこの合宿中に何とかして話を聞くしか道は無さそうだ。

 

ハァと車内に弦羽早となぎさ二つのため息が重なる。

 

健太郎の運転する横で弦羽早はカーナビの画面をタッチして目的地までの道のりを確認する。

 

「目的地までどれくらいだ?」

 

「あと八キロって書いてありますけど…」

 

「この渋滞だと結構掛かりそうだな」

 

四月の上旬。バドミントン部はインターハイ予選に向けての合宿を行おうとしていた。

目的地は神奈川体育大学。健太郎の同窓が通っており、その伝手で大学生との合同練習を行う事となった。

参加者は部員七人に加え、コーチの健太郎と顧問の太郎丸美也子。それにエレナ、のり子、そして綾乃。

綾乃に関しては合宿であることを伝えずに、旅行だとエレナとのり子が嘘をついて連れて来く形となる。

現在この車にいない上記のメンバーは、後方の美也子の運転する車に乗ってる。

 

「羽咲は大丈夫か?目的地知った途端に車から飛び降りたり」

 

「流石にそこまでは…。ないよね藤沢?」

 

「どうかな~、試してみる?」

 

バッグミラー越しに映るエレナのあくどい笑みに男二人は勘弁してくれと頬を引き攣らせる。

 

 

 

 

 

「私、帰る!」

 

目を覚ました綾乃が、北小町の体育館の何倍も広く立派な体育館を見た第一声がそれだった。

踵を返そうとする綾乃の手を掴むエレナを、なぎさが訝し気な視線を送る。

 

「気になりますか?羽咲のこと?」

 

「別に」

 

入部してから何度か練習を交わしたが、弦羽早となぎさの関係はあまりよいものでも無かった。弦羽早から話しかけるものも会話になる回数は有事の時程度。

弦羽早はそういう人なのかとそれ以上告げないが、実際のところなぎさはコミュニケーションは得意な方ではないが、別段不愛想なタイプではなく、また不調のモヤモヤを弦羽早にぶつけている訳では無い。

 

なぎさは弦羽早が嫌い、とまではいかないが、そこまでよい印象を抱いていなかった。

バドミントンの腕は確かであり練習にもなっているが、自分の所属する北小町バドミントン部を下に見ている様に思えた。

 

実際それは正しかった。弦羽早も出来る限りそういった態度はださないようにしているが、そういった気持ちはある。事実、彼は一年前までは強豪の日城で日夜練習しており、その練習内容はハイレベルなものも多く、また部内ランキングなどもあった為、仲間たちと助け合いながらも競い合う関係だった。そこから部員六人の部へ移ったのなら、見下すとまでいかなくとも、物足りなさを感じているのは確かだ。

 

 

それから健太郎の同窓が中へと案内するが、今回の合宿に急遽もう一つ別の高校が参加したらしい。

 

フレゼリシア女子短期大学附属高校。

 

通称フレ女と呼ばれる高校は、去年の女子IH団体戦準優勝で、バドミントン女子の名門と言われる強豪校だ。去年からさかのぼっても、シングル・ダブルス・団体戦のどれかにはフレ女の名前が必ずと言ってよいほど記されている。

その部員数はコートが八面あっても足りず、厳しい部内ランキングで決められた上位者が優先して練習を行っており、それ以外は球拾いや掛け声が仕事となっている。

 

部員数でも活気でも圧倒的な差で、北小町部員、特になぎさを除く女子三人は早くも気合負けしている。

その強豪校との合同合宿に反対に燃えているのはなぎさと健太郎の二人。綾乃は自分には関係ない事だと興味無さげで、学と行輝の男子二人はフレ女が来ようと練習相手には変更はない。そして弦羽早は少し顔を青くして、冷や汗を流していた。

 

「どーも、北小町バドミントン部ですよね?」

 

落ち着いた声色に皆がそちらを振り向き、唯一の例外で弦羽早がさっと一番背の高い健太郎の背中に隠れる。

 

「始めましてフレゼリシア女子バドミントン部主将、志波姫唯華(しわひめゆいか)です。今回はどうしてもウチのが北小町とやりたいって聞かないもんで」

 

色っぽく髪を耳に掛けながら握手を求める姿は、この部員全てを束ねる確かな貫禄があった。彼女は健太郎と握手をするさ中、その背中に隠れた姿にニヤリと口元を上げる。

 

「おや?そこにいるのはもしかして秦野かい?」

 

「おっ、押忍!」

 

弦羽早のキャラらしからぬ返事に北小町の面々は目を開く中、唯香はチラリと綾乃の方へ視線を向ける。

 

「そんな他人行儀でどうした?君と私の仲じゃないか」

 

少し前かがみになりながら唯香がスッと一歩近づくと、弦羽早の足が一歩下がる。一歩前に出るとまた一歩下がる。それを何度か繰り返した後、弦羽早は全速力で大学生男子のいる集団へと逃げるように駆けていき、唯香もそれを追う。

 

「秦野の知り合いか?」

 

「同じ宮城のトッププレイヤーだからな。接点があったんだろう」

 

「ねえねえいいの綾乃?あの美人と秦野、随分仲良さそうだったよ?」

 

「ん?それより帰りたいよエレナ~」

 

小学校の頃から変わらずアタックしていたのにも関わらず、綾乃は追いかけっこする二人を見向きもしなかった。

流石にここまでくると他人事だろうと笑えず、弦羽早の幼馴染でもあるエレナとのり子は同情の眼差しを送った。

 

 

 

それから体育館を二周ほどして唯香から逃げ切った(主将としての責務があったので渋々諦めた)弦羽早が再度合流すると、涙目の綾乃に健太郎が迫っている場面だった。パッと見犯罪臭しかしないが、その光景も早くも見慣れたもので、状況はすぐに把握した。

 

弦羽早は二人の間に入り込むと、小声で叫ぶという器用な事をする綾乃の手を掴んだ。

 

「羽咲」

 

「嫌なものは嫌なの!」

 

「あの、さ。まだ、俺の試合見てもらってないよね?」

 

「…いい、興味ないもん」

 

「羽咲にとってはそうでも、俺は見て欲しい。俺の三年間を、他でもない羽咲に」

 

記憶にある声より低くなった大人の男の声に、綾乃はようやく弦羽早と顔を合わせた。真っすぐにこちらを見つめる真剣な瞳。それはかつてネット越しに自分に挑みに来た、かつての彼と同じものだった。

 

ゾワリと綾乃の胸の内が揺らぐ。

 

あの頃は、負けを深く知らなかった当時は感じなかったが、今の綾乃にはその瞳は古傷をえぐるような強さがあった。

 

「…私よりずっと負けてる癖に…」

 

無意識のうちに口からポロリと出た本心は、館内の活気によって周りの耳に届く前にかき消された。

 

「羽咲?」

 

「…分かった。見る。でも、私はやらないから」

 

 

 

 

弦羽早たっての要望で、まず最初に弦羽早のシングルスを行うこととなった。なぎさは興味が無い訳ではないが、自分も早くやりたかったようで、早々にフレ女のシングルスプレイヤーを唯香に取り繕ってもらい、試合を始めていた。

しかしその他のメンバーは準備運動も兼ねて弦羽早の試合を見ている。いつもはなぎさの試合に集中する理子も、部内以外で初めての弦羽早の試合を優先していた。

 

体育すわりの綾乃がぶっきら棒な顔つきで睨む先には、黒のウェアに着替えた爽やかに頬を崩す弦羽早の姿。

 

「秦野君だよね。今回の試合で、あれ、見せてくれる?」

 

「あはは、あまり期待はしないで下さい。ダブルスでさえ芸扱いですから」

 

「違いない」

 

弦羽早のネット越しに立つのは、神奈川体育大学の生徒。成長期を完全に越しているだけあり、顔立ちは勿論体つきは弦羽早よりずっとしっかりしている。

肩慣らしのクリアーを交えた後、弦羽早はサービスラインに立ち、シャトルを構える。

 

『オンマイライト、秦野、オンマイレフト大磯、ラブオルプレイ』

 

「「お願いします」」

 

弦羽早と大磯、二人はふぅと一呼吸入れると同時に、先程まで軽く打ち合っていた雰囲気が一転し、コート内の空気が重くなる。弦羽早の試合が完全初見となるエレナとのり子は普段見る彼との違いに思わず唾を呑み込む。

 

ラケットを腰の高さまで上げ、トンと押し出す。ネットの白帯がシャトルの軌道の最高点となる、理想的なサーブだ。

レシーブもまたストレートの低めのロブと意外性はないが、外れの無い王道のコース。だがこのロブから一気に試合が動く。

 

「(まずは様子見)」

 

弦羽早はコート左奥へと飛んできたシャトルを”フォアハンド”で外側のストレートへ打つ。バドミントンの華であるジャンピングではない、地面に足をつけた構えのスマッシュ。その速さは平均よりも遅く、中級者でも取れる速さだったが、その分コースはサイドラインギリギリの理想的なものだった。

 

「ッ」

 

素早く右足を出してシャトルにタッチするが、想像より手前で落ちるそれに僅かにバランスが崩れ、結果ネット前へと返ったシャトルは僅かに浮く。それでも白帯から数センチ程のものだが、バドミントンではそれが命取りとなる。素早く前に出た押し込むようなプッシュが大磯のコート奥へと刺さり、一点となる。

 

「なんか意外。そんな速いスマッシュじゃないのに…」

 

あっさりとした流れの一点にエレナはポツリと呟く。

 

「単純に大磯のアップが終わってないのもあったが、予想より球が遅くてズレたんだろう」

 

「速い球の方が撃ちにくくありません?」

 

「基本的にその認識で間違いない。だが大磯は秦野のレベルを知っている。その初撃をあれだけしっかりとしたフォームで構えられたら、いやでも速い球を警戒する」

 

「……ようするに、騙したって事ですか?」

 

「…まあそんなもんだ」

 

「安心してエレナちゃん。私も分かってないから!」

 

お前は理解しろよと、海老名に内心ツッコミを入れながら、健太郎の視線はコートに戻る。

 

既に次のラリーは始まっており、弦羽早が上げたロブに、大磯が地面から飛び上がり、一気にスマッシュを叩きこんだ。バドミントンの華型、ジャンピングスマッシュ。その速さは先程の弦羽早のスマッシュよりずっと速く、コートに響き渡る。

 

中央やや左よりに飛んできたそれを、弦羽早は左足を胴体の後ろにやりながら、バックハンドで再びストレートに返す。

続けてやって来たチャンスボールに、再びジャンピングスマッシュを撃ち込む。

 

バシンと再び来るストレートのスマッシュは速さは先程とさほど変わらないが、しかし音は重たく、実際にレシーブする弦羽早の負担は先程よりも大きい。だからと言って返せない訳ではなく、むしろ弦羽早は表情を崩さずに、今度はそれをクロス、つまり現在コート右にいる大磯とは反対の、コート左へと弾き飛ばす。

 

渾身の一撃をここまであっさりと返されるとは考えておらず、急いでシャトルに飛びつく大磯は大きくロブを上げた。咄嗟に背面(ラウンド)で打ったクリアーは理想的な放物線を描かず、頂点がネット付近となってしまう。そういった球は相手コート奥まで飛ぶことは無く、文字通りチャンスボールとなる。

 

バシュン!

 

弦羽早のスマッシュがコート中央に突き刺さり、連続得点となる。

 

「すげぇ…シングルスが苦手って言っててこれかよ…」

 

「うん…。あんなに速いスマッシュをあっさり」

 

早くも試合の流れを作っている後輩の姿に、行輝と泉が息を呑む。

 

「……」

 

その隣で綾乃はつまらなさそうに、しかし一瞬たりとも目を離さずにその光景を見守っていた。

 

思い出す。休みの日やクラブの無い日は、敷地内にあるワンコートで夜遅くまで打ち合っていたことを。母親との一日一回のラリーに比べるとお粗末でミスが多くて、手ごたえがなくて、しかし何回でも何十回でも相手をしていたことを。

あまりに夢中になり過ぎて、翌日一緒に宿題をやり忘れて怒られてからかわれて。でも担任の先生が怒るのに疲れて、呆れて小言ですませるようになるまで、夢中になっていた。

 

あの頃とフォームは変わっていない。全日本選手が身近にいるだけあり、逐一フォームの指導を受けていたおかげで彼のフォームは今も昔も綺麗なものだった。

だがそれでも癖は残っており、それを久しぶりに見るとピクリと手が震えた。

 

それから試合は更に進む。弦羽早は飛びながら打つことはあれど、決め球としてジャンピングスマッシュは行わず、一方大磯は上がった球は積極的に打っていた。

 

ただ力任せのスマッシュは通用しないと判断した大磯は、そこにドロップとクロスを交えバリエーションを増やしていた結果、最初のインターバルは11‐10で大磯が取った。

 

その点だけ見れば流れに乗っている大磯に分があるように見えるが、しかし汗を垂らし膝を支えに立つ大磯に対し、弦羽早は軽く肩で息をする程度だった。

 

 

その光景に健太郎は先日の綾乃となぎさの試合を合わせた。

大磯も体育大学の男子、この程度でへばる訳はなく、また弦羽早もタオルで拭く程度には汗を流しているので、あの時ほど極端ではないにしろシチュエーションは似ていた。強打を得意とするなぎさと大磯、エースショットはないが確実に点を取る弦羽早と綾乃。

 

弦羽早と綾乃のプレイスタイルは似ているようで、また長所と短所は共に違うのだが、ちゃんとした綾乃のプレイを見た事のない健太郎には比べようがなかった。

 

 

インターバルが終了し、大磯のサーブから始まる。弦羽早は変わらず、相手にしてやりにくい左手でラケットを構えている。

 

「(ここまで秦野君には強打はない。なら)」

 

ショートサーブの体制から手首のスナップを利かせ、ロングサーブへと切り替える。

これまで二人のサーブはショートのみで、この一打が最初のロングサーブとなった。

 

「ねえねえ、ずっと気になってたけど、バドミントンのサーブってこう下から打つものじゃないの?」

 

先日の綾乃を真似るように、エレナは下からすくうようにラケットを振る。

 

それまでエレナの質問に答えていた健太郎は試合に没頭し耳に入っておらず、代わりにと理子がエレナの隣へ座る。

 

「バドミントンのサーブは主に二種類、今弦羽早君たちがやっている、ショートサーブと、この間綾乃ちゃんがやっていたロングサーブだね」

 

「ショートサーブにロングサーブ…。でも今、秦野の対戦相手、ショートサーブなのに飛ばしてなかった?」、

 

「どちらも構えに関して細かいルールはあるけれど、撃ったあとどこに飛ばすかは決まっていない。だからショートサーブのフォームでロングサーブを打つこともあれば、ロングサーブのフォームでショートサーブを打ったりも可能だよ」

 

「サーブの時から騙し合いなんだね…」

 

「のり子なら、どっちくるか考えて、気づけばシャトルが飛んできたことに気付かなそう」

 

「え~」

 

「お前ら静かにしろ。藤沢もルールを聞くのは構わないが、選手たちの邪魔にならない程度でな」

 

それまで引率のお兄さんだった健太郎もまた、この試合を見て気持ちがコーチに切り替わっており、いつもの軽口はなかった。

 

イレブン(11) ‐ トゥエルブ(12)

 

サーブの話題で盛り上がっていた間に、今度は弦羽早に連続得点が加算されており、フレ女の黄色い歓声が響く。

 

試合内容をジッと見つめていた綾乃は、それまでとスタイルを変えた弦羽早の攻撃を思い返す。

 

まず11-10の大磯のロングサーブに対し、弦羽早は相手のラウンド奥、大磯から見て左後ろへとクリアーを返す。

どれだけうまくとも、それこそプロレベルでさえ、ラウンドに差し込まれる球をチャンスボールとは言わない。

もっとも打ちにくい左後ろ、通称ハイバックへの球をいかに返せるかが上級者と中級者の分かれ目とも言える。

 

大磯はラウンドへ来た球を、様子見も兼ねてストレートに返し、弦羽早のラウンド側へと送る。

 

「(次は何が来る…。ラウンドから撃てるショットは限られる。去年全中トップの一人だとしても球にバリエーションは――)」

 

大磯の読み通り、弦羽早はラウンドからの返しは攻めのパターンはあまり持っていない。勿論全国トップの実力を持つ彼ならラウンドでスマッシュを打つことも容易にできるが、しかし決め球とは言えない。

 

だがそれはラウンド、背面ではの話だ。ラウンドではなく、フォアハンドで打てるのならそれは一気に絶交球に変わる。

弦羽早はステップの順序を変え、同時に左手に持ったラケットを右手に持ち替える。そして三歩目と同時に飛び上がると、大磯のクリアーをジャンピングスマッシュで撃ち落として返した。

 

大磯にとってはリードを取って精神にゆとりができた中での、ラケットの持ち替えによる一点。それは周囲のコートでプレイしていた選手たちの目を引き、フレ女の一部からは黄色い歓声が上がっていた。

 

 

続く一点は弦羽早の、それも右手のロングサーブから始まった。ラケットを下から上に救うようにしてあげるロングサーブ。小学時代ではそれが主流だったが、体格と力が上がると同時に、シングルスにおいてはロングサーブではなくショートサーブが主流となる。女子シングルスではロングも少数だがいる。

何故ショートサーブが主流になったか。答えは簡単、サーブが絶好のチャンスボールになるから。

飛んできた球は餌、そしてラケットが口だと言わんばかりに嬉々とした笑みを浮かべ、大磯はジャンプと同時に低めのクリア、アタッククリアを放つ。

 

バシンとスマッシュに近い音を立てて飛ぶシャトル。その軌道は普通のクリアよりも更に低く、長身の選手が前衛にいれば届くことも十分にありえるもの。しかしシングルスにおいてアタッククリアの邪魔をする相手は一人しかいない。

 

スマッシュを覚悟していた弦羽早はワンテンポ遅れるが、すぐに地面を蹴ってリアコートまで飛び、落ちかかっているシャトルを大磯がいないクロスへのドライブを返す。

ネットスレスレのドライブは弾速はないが、攻めに転じるにはやりにくい球だ。一先ず前へ落とす様に返すと、食らいついた弦羽早がリアコートへロブを上げた。

 

ロングサーブに続く絶交球。まず弦羽早を見るが、既にポジションに戻ろうとしている。崩すには組み立てが足りない。

 

「(ならここはもう一度!)」

 

プレイヤーには癖がある。それはフォームや打ち方もだが、配球にも必ずその選手の癖がある。

大磯の場合は上手く崩せると判断した球を、連続で使う傾向がある。それは悪手ではない。短い期間に連続して行うことで、相手は嫌でもその球を警戒せざる負えなくなる。

 

ただアタッククリアにも弱点がある。それはアウトになりやすいことと、打点が低いから身長を持つ選手が相手ではリアコートに入る前で叩き落とされるということ。もっとも叩き落とされるのは、ラケットがフォアでなければまず当たらない。仮にアタッククリアに対してバックハンドで触れたとしても、バックからショットを打つのは不可能ではないが、神業に近い。

 

だから大磯は弦羽早の”バック側”へとアタッククリアを放つ。その瞬間、弦羽早は口元を上げるのと同時に、左足から踏み出し、1・2のステップの最中にまたラケットを持ち替え、そして3のステップの瞬間には完全に左打ちの重心となった体を捻り、アタッククリアをジャンピングスマッシュで打ち返した。

 

 

このたった二回のラリーで、すっかり周囲のコートの練習は中断し、ゾロゾロと観戦者が増える。気づけば線審が二人、点審一人がついており、正式な試合のオーラになっていた。

 

「大磯さん。どうします?」

 

主語を聞かなくても伝わる。

 

「二セット先取で行くぞ!」

 

大磯はいかつい顔に純粋な子供のような笑みを浮かべる。弦羽早もまた、教室で見る以上に楽し気な爽やかな笑みで返した。

 

 

 

 

 

 

 

 



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が、外国人だー!?

四巻辺りどうやって主人公絡めたらいいか分からん。シングルスパートは…難しいねんなって

県大会までは頑張りたいのう



ポーン、ポーンという軽い音が狭い室内に響く。狭いと言ってもコート一つと機材の置き場の他に、ラケットを振り回せるスペースはある。ただ体育館と比較すると狭く天井も低いが、当時の二人には天井の低さ以外は不満の無い大きさだった。

 

それは二人が出会ってから三年の月日が流れ、弦羽早も県内の同級生には名前が知られるほどには大会で結果を残す様になっていた。

 

天井に当たらないように肩慣らしのクリアーを交わしながら弦羽早は口を開く。

 

「今日の宿題ってなんだっけ?」

 

「それ、今私が聞こうと思ってた」

 

「羽咲に聞いた俺が馬鹿だったな」

 

「ムッ、こないだのテスト、40点だった癖に!」

 

飛んできたクリアーをスマッシュで返す。

突然のスマッシュに反応できなかった弦羽早はブンと大振りになって空振りし、バランスを崩して膝をついた。

 

「なっ!てめぇ!」

 

「ふふん。ねー、全然スマッシュがくるって分からなかった?」

 

クリアーと全く同じフォームから繰り出されたスマッシュ。唯一の違いは腕へのインパクトと打点のみで、見極めが不可能な綺麗なフォームだった。

腰に手を当てて見下してくる綾乃に、弦羽早もまたニヤリと笑みを浮かべて頷くと、ロングサーブの構えを取る。

 

「ああ、分からなかった――よッ!」

 

クリアーの再開をすると思ってコート奥に待機していた綾乃だが、弦羽早のサーブは短く、慌ててネット前に詰めて取ろうとしたが、それより早くコルクが床に着いた。

 

「あああ!」

 

「どうだ、ショートサーブって気づかなかったか?」

 

「ズルしたー!」

 

「お前が先だもんねー!」

 

ぐぬぬと歯ぎしりをする綾乃だが、突然やれやれといったようにため息を吐いてシャトルをすくう。

 

「ズルくらい許してあげないとだね。それくらいしか秦野、私から取れないんだもん」

 

「ハァ!?この間――」

 

5点は取っただろう、と言おうとしたが咄嗟に呑み込む。21点での5点はまったく威張れる点数ではなかったし、その相手が好きな女の子というのなら尚更惨めな言い訳だった。

 

弦羽早の心情に気付いた綾乃はニマリと笑みを浮かべ、少年の頬が悔しさからカーと赤くなる。

 

「今日こそは10点取ってやる」

 

「ふふん。じゃ行くよ~、ラブオルプレイ」

 

 

 

 

 

 

 

『ゲーム!マッチワンバイ秦野!21(トゥエンティワン)17(セブンティーン)! 21(トゥエンティワン)19(ナインティーン)!』

 

左手のカットドロップによりシャトルが地面に付き、合宿の初試合に勝利を飾った弦羽早(つばさ)。いつしか見学に集まった多くの生徒達の拍手が、プレイヤーの二人の試合を祝福した。

 

「凄いじゃん秦野の奴。大学生に勝ったよ」

 

「……」

 

対戦相手の大磯とネットの上で握手をする弦羽早に、皆拍手を送り、一部の女子生徒は黄色い声を上げていた。

 

 

気に入らない

 

 

綾乃は自らの内を決して理解しようとせず、ジッと弦羽早を睨む。

今すぐに叫んで吐き出したい胸のモヤモヤと、床を殴りつけたくなるどうしようもない苛立ち、そして何かを求めるような武者震い。

それらを全てに気付けずに。ただそれ以上弦羽早を見るのが嫌だった。

 

チームメイトからの称賛を浴びて、フレ女の一年生らしき少女から握手を求められ。たかが練習試合の一つで、相手は大学生と言えども良くて県レベルの無名。それがまるでスターのようではないか。

 

弦羽早がこちらに歩いてくると、綾乃は拳をギュッと握りながら立ち上がり、彼を振るえる指で刺す。

 

「じょ、上手になってるッ!」

 

何だその声に仕草は。

嘲笑する隠れた自分に一切気付かずに、綾乃は今の羽崎綾乃の本能のままに弦羽早と向き合う。

 

「うん、頑張って練習したから。それで、どうかな羽咲?」

 

「? どうって?」

 

「俺のプレイで、少しでも羽咲が昔の、あのコートでのこと思い出せたらと思ったんだけど」

 

照れ臭そうに頬を掻く彼に、綾乃はまた無意識の内に、痕が出来るほど強く拳を握りしめる。

 

彼を見て思い出した。

小学校の、母である有千夏が近所の子供達へ開いていたバドミントンスクールの体育館。有千夏の海外遠征が多くなったことで、綾乃が小学校三年になった頃には使用者は弦羽早と自分の二人だけで、母が日本にいた時は日課のラリーを毎日やった後に、ああやって試合をしていた。

キュッと鳴る床の音も、シャトルの響く音も、室内の匂いも温度も、当時のヤンチャだった彼の姿も声も、バドミントンも覚えている。

 

だからなんだと言うのだ。

 

思い出した、だからバドミントンを再開して欲しい? 一緒にミックスに出て欲しい?

 

綾乃には弦羽早の意図がまるで分からなかった。

 

急に気分が悪くなる。この体育館の熱さも、人が集まって籠った空気が嫌になり、床を蹴る音と高いラケットの弦の音が耳障りになり、何より目の前の弦羽早が目障りだった。

 

だが綾乃はそういった感情は生まれても、理解ができていなかった。

それらの感情は、この場から離れたいという気持ちへ変わる。

 

唾を呑み込んだ刹那、綾乃は体育館の外へと駆けだした。

 

「羽咲!?」

 

「綾乃!?」

 

「綾乃ちゃん!」

 

背中から自分を呼ぶ声が聞こえたが、ただがむしゃらに逃げるように走り続けた。

 

 

 

 

 

「ハァ…ハァ…」

 

追いかけて来た弦羽早と健太郎を撒き、それでも体力の続く限り走り続けていた綾乃は、川辺の草むらに倒れ込むようにして横になった。

 

「…どうして、あんなに――」

 

「(楽しそうにバドミントンをするの?)」

 

それまで思考を放棄していた、あるいは押し込めていた綾乃の、初めての自覚だった。

 

「(だってバトミントンは、辛くて苦しくて、勝っても何も――)」

 

綾乃の脳裏に二年前の出来事がフラッシュバックし、フルフルと頭を大きく振った。

 

考えるのはやめよう。

 

それは良くも悪くも今の綾乃を形成した思考だった。嫌な事もいい事も深く考えずに、友人であるエレナとのり子の二人に付いて行くこと。

 

いつもの自分に戻ろうと綾乃はポケットから携帯電話を取り出してエレナに掛けようと思ったが、その指がピタリと止まる。そもそもこの合宿場に来る羽目に張ったのは、他でもないエレナとのり子が自分を騙したからだった。

なぎさとの試合以降、エレナもどこか綾乃をバドミントンに復帰させたい節が見られる。

 

そうなると今はエレナとのり子は敵。

 

ではどうしようか。う~んと腕を組みながら悩んでいて、ふとあることに気付いた。

 

「ここ…どこ?」

 

同じ神奈川県だが高速を使って車で来るような場所。もしかしたら過去にバドミントンの大会等で来たことがあるかもしれないが、基本忘れっぽい綾乃が体育館から遠く離れたこの住宅地の光景を覚えている訳がなかった。

スマホに詳しくない綾乃はGPS等は使えず、それ以前に機種にそのような機能がついていることすら綾乃は知りもしなかった。

 

「迷子?」

 

早くもエレナに電話する以外の選択肢が閉ざされた(気になっている)綾乃へ、アルトの愛らしいボイスが届いた。

 

まず一番に目に入ったのは腰まで伸びる長い金色の髪。続いて青い瞳にカジュアルなキャップだろうか。自他共に容姿にあまり興味のない綾乃でさえ見惚れるほどに、彼女の容姿は整っていた。

彼女と目があった一瞬で、体中を廻っていたイライラやモヤモヤがスッと彼女の美貌に掻き消された事に、気づく余裕もなかった。

 

青い瞳に白い肌、長い金色の髪。

流暢な日本語と彼女の美しさに圧倒されて気付かなかったが。

 

「(が、外国人だー!?)」

 

 

 

見知らぬ外国人の超絶美少女はどうやら自分と同じで迷子らしく、一緒に交番を探す事となった。元々人見知りの激しい綾乃はほとんど口を開かずに、道中彼女が一方的に話すこととなった。

 

日本の道はごちゃごちゃしてややこしいとか、日本語は小さい頃ママに習っていたとか。

 

いつもの綾乃なら彼女の言葉を能天気に聞き流していただろうが、彼女のオーラにあてられてか、返事はせずともしっかり聞いていた。

 

「ねぇ、何でそんなに浮かない顔をしてるの?」

 

ふと見つけた花屋に立ち寄った美少女に続き、ぼんやりと小鉢に植えられた花を眺めていた綾乃に、彼女は問うてきた。

 

この場にエレナやのり子がいたら、流石外国人はコミュニケーション能力が高いと感心していただろう。

 

「迷子になった原因と、あなたの今の顔、関係ある?」

 

不思議な少女だった。

いつもなら無言で首を横に振って答えようとはしない綾乃だが、彼女の言葉はすんなりと耳に入って、どう返そう?と思考を放棄しない。

 

「自分でもよく分からない。ただ、ある人のことがずっと頭から離れなくて、モヤモヤして、ズキズキして、気持ち悪い」

 

「相手って、もしかして男の子?」

 

「うん」

 

彼女なら自分の気持ちを理解してくれると、期待はしない。自分でさえ分からない感情を、初対面の彼女が分かる訳ないのは分かっている。ただ目の前の少女なら、何か手がかりをくれるかもしれないと、どこか期待して呟いたが、彼女の表情は一気に崩れてニマリと笑みを浮かべる。

 

「それはね、恋よ恋!な~んだ、恋煩いだったのね。いい事じゃない」

 

「コイ?」

 

綾乃は口をパクパクと鳴らしながら首を傾げる。

 

「魚の鯉じゃなくて恋!恋愛、ラブ!」

 

何故外国人の自分が日本語のベタな感違いにツッコミを入れなきゃいけないのか。少女漫画を貸してくれた寮の友人に感謝しながら、綾乃の反応を伺う。

 

「――恋!?」

 

ようやく理解した綾乃の動きは素早く、全力で首と手を振ってこれでもかというほどに否定した。ここまで否定される男子に彼女は同情しながらも。

 

「でもモヤモヤしてズキズキするんでしょ?」

 

「うん」

 

「ほら。例えばね、その男の子が他の女の子と仲良くしてたら嫌だななんて思う?」

 

う~んと顎に手を当てて、そう言えばと、先程試合が終わった後にフレ女の生徒に握手を求められていた一件を思い出す。

嫌かと言われると確かに嫌だった。ただそれは女の子と握手するからというより、歓声を浴びる弦羽早にモヤモヤを感じた。

 

「……う~~~ん??」

 

「あっ…。その、分かったわ。そこまで考えて何も思わないのなら、ほんとに違うのね」

 

甘酸っぱい恋バナを期待していたが、綾乃の表情で確信した。本当にその男の子への恋愛感情はこれっぽっちもないのだと。もし仮にその男の子が彼女に好意を抱いていたらと思うと、啓礼の一つでも捧げたくなるほどに。

 

「じゃあその男の子の嫌いなの?」

 

嫌い?

再び綾乃は腕を組んで自分に問いかける。弦羽早の事が嫌いか?

確かに彼を見ていると胸が痛み、モヤモヤしてイライラして、時折試合のさ中見せる笑顔が目障りだとすら感じる。

だが日常的に話しかけられて面倒だとか、視線が合って逸らしたくなるとかはない。入学から数日はバドミントンの勧誘が多いのは面倒だったが。

 

弦羽早と一緒に(勿論エレナとのり子がいる)給食を食べたりしたり、バドミントンに関わらない小学校の思い出話をするのは楽しかった。

 

「嫌いじゃない」

 

「じゃあやっぱり好きなんじゃない」

 

「ええ゛…」

 

「別にラブじゃないわ。友情のライクでも、あるいは兄弟みたいなライクでも好きにも色々あるわ」

 

まるで好きか嫌いかの二択しかないような言いぶり、綾乃はいまいち納得できない様子ながらも、面倒なので一先ず頷きだけしておく。

 

「でも好きか嫌いかの自覚も無かった相手とあなたの浮かない顔、どう関係あるの?」

 

聞かせて欲しいな? 飾りの小さな熊の人形を両手でピョコピョコと動かしながら、女の子は首を傾げる。その仕草は男なら容易に恋に落ちるほどの可愛らしさを籠めていたが、綾乃が彼女の美しさに呑まれたのは最初だけだった。

 

「…ほっといて欲しいのに、全然ほっといてくれない。秦野だけじゃない、他のみんなも。みんなを見てると嫌なことを思い出す。だから自分から逃げて来たの」

 

「ん~、そっか」

 

最初はただの恋煩いをする年頃の少女かと思ったが、何か深い悩みを抱えている事に気付くことができ、それが少女には嬉しかった。

だってそれもまた、少女にとっては一つの繋がりだから。

 

「でもそれ、勿体ないよ?」

 

「?」

 

「せっかく繋がり合えるチャンスなのに」

 

綾乃の境遇や環境、人間関係は分からない。ただ接してくれるその男の子や周りのみんなから逃げて来た事に、少女は日本にやって来た頃の過去の自分を重ね合わせた。

大人だと、自分は特別だから一人でも大丈夫だと思っていた彼女は、日本に来た当初は、接してくれた人たちを突っぱねていた。だがそんな自分に対しても彼女達は仲良くしてくれ、嫌な顔せずに話しかけてくれ、次第に少女は彼女達との確かな繋がりを感じた。

それは目に見えるものではないが、だがある時、ふとした日常の隅々にその繋がりが行動となって現れる。

母国でスターとして称えられている少女には、日本に来るまで得られなかったものだ。

 

「繋、がり?」

 

「うん。店員さん、これ一つちょうだい!」

 

少女は先程まで綾乃がジッと見つめていた小鉢を手に取ると、彼女に手渡すのではなく頭に置いた。

止めろと言いたげに唇を少し噛みながら、綾乃は頭の小鉢を両手に持つ。

 

「あなたとの繋がりを記念に、プレゼントしてあげる」

 

小鉢に植えられたのは小さな花がいくつも集まっており、決して派手ではないが不思議と綾乃を惹き付ける。

 

「その花、いくつもの花が集まっているから綺麗に見えるでしょ? これはね、皆が集まる事で綺麗に見えるってパワーを発揮してるの」

 

「…皆…で?」

 

「そう、一輪だけじゃ決して出せない力。ほら」

 

少女は店員の許可をもらって小さな花を二本貰うと、水色の花を一つ綾乃の髪に飾った。

 

「あなたという小さい花(はな)を、この子が集まって綺麗にしてくれる。そして」

 

今度は白の花を水色の花の隣にまた飾る。

 

「こうするとあなたはもっと綺麗になる。どう?これが繋がるって事だと、私は思うわ。まあ、だからって頭中花だらけだと不気味だけどね」

 

せっかく心にストンと落ちる良い話だったのに、身もふたもない発言で台無しだ。ガクッと項垂れる綾乃にクスクスと少女は笑みを浮かべて。

 

「これからは人との繋がり、もっと大切にしてみたら? だって…、小さい花は集まってる姿を見て、はじめて綺麗って思えるもん」

 

 

 

 

 

その後エレナから電話が来て、綾乃の場所を突き止めると、その近くに走り回っていた健太郎が迎えに行き、同じく綾乃を探して駆け回っていた弦羽早とは体育館で合流した。

帰って来た綾乃は物静かになっており、その様子に弦羽早もエレナも驚きつつ、健太郎に原因を聞こうにも彼も知らないらしい。ただ花屋で買ったのか、小鉢と髪に花飾りをつけていた。

 

羽咲、と弦羽早は話しかけられない。

 

彼女がどういった感情を抱いていたかは分からないが、自分の言葉がきっかけで逃げ出したのは変わりない。そんな彼女の背中を見た後でどう話しかければよいのか。

 

弦羽早、綾乃の間の気まずい空気が伝染し、エレナ含む四人は無言で体育館へと向かう途中、体育館から理子を先頭に悠と空が飛び出し、その後ろからなぎさが歩いて続く。

 

慌てる三人に説明を聞くと、どうやら顧問の美也子が勝手に、フレ女との団体戦形式の模擬試合を申し受けたらしい。

しかし団体戦は最低五人は必要なので人数が一人足りない。そこで今回だけ助っ人として綾乃が出てくれないかと、理子が頭を下げる。

 

「…団体戦って、女子ダブルスですか?」

 

「う、うん」

 

なぎさと理子がダブルスとシングルスにそれぞれ出ることで、綾乃が出てくれれば何とか人数が足りる。

 

綾乃はチラリと弦羽早の方を見たあと。

 

「ごめんなさい、ダブルスは……秦野とやりたい」

 

「え!?」

 

「はい?」

 

「は、羽咲?」

 

「ど、どうした綾乃!?」

 

この場の全員、強いていうならなぎさがさしてリアクションを取らなかっただけで、皆綾乃の返答に反応を示した。あれだけ拒絶していたのに健太郎とエレナは本当に良いのかと心配し、理子は困惑、弦羽早は何度も瞬きして口をポカンと開いている。

 

「秦野は約束通り、したから、だから…やるなら秦野とやらないと……多分、失礼だよね?」

 

「……え?俺?」

 

まさかの綾乃からのパスに一気に周りの視線が集まる。

彼女の心境の変化は分からないが、ただバドミントン部としても、綾乃にとっても弦羽早にとっても良い方向に向かっている、そう捉えるのが自然だった。

ならばそれを邪魔するのは野暮なものだと、弦羽早は笑みを浮かべる。

 

「大丈夫だよ。俺の事は気にしないで、参加して」

 

「秦野…。じゃあ――」

 

了承しようとしたその時、まるで狙ったかのタイミングで綾乃の言葉が遮られる。

 

「別に構わないよ、ミックスでも」

 

「志波姫さん!?」

 

理子に続いて体育館からやってきた彼女は、風に靡く髪を耳に掛けながら、魅惑的な笑みで理子を見つめる。

 

「気にはなっていたんです、今の北小町に団体戦ができるのか。勿論五人でやるのも構いませんが、どうせ練習試合だ。それに、そこの秦野は中学の後輩でして興味があるんですよ」

 

物静かな大和撫子という言葉の似合う微笑を浮かべる志波姫と目が合い、弦羽早は数歩後ろへ後退する。

 

「こちらとしては構わないが…、泉はいいのか?」

 

「はい。正直フレ女の選手にシングルスとダブルス二戦連続は。ただ、そちらの男子は?」

 

「ここの大学生の方を誘わせてもらいます。それくらい構いませんよね?」

 

「ああ」

 

「では交渉成立ですね。うちもミックスは前々から視野に入れていたので期待しています。では秦野君、君の大好きな羽咲ちゃんの実力、見せて貰うよ」

 

何食わぬ顔で爆弾を投げて去って行った志波姫に、弦羽早の口から悲鳴のような叫びが出る。

小学校時代から知っていたエレナは面白がる程度だが、薄々気づいていた他の女子メンバーは、やっぱりと嬉しそうに黄色い声を上げる。なぎさは恋愛話に弱いのか顔を赤くしており、健太郎は青春だと生暖かい視線を弦羽早に送る。

 

大したリアクションが無いのは綾乃本人だけ。

 

「大好き?」

 

「あ、あれはほら、俺、羽咲を目標に両利きなったでしょ!?だからそういう意味で!」

 

「ふーん、そっか」

 

「…ヘタレ」

 

綾乃の親友からの一言は容赦無く弦羽早の胸に突き刺さった。

 

 

 

 

 




なんて自然な流れでのミックスなんだ(脳死)


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ママに認めてもらうにはまだまだね

まずは感想、お気に入り登録、評価、誤字報告等ありがとうございます。凄くモチベーションに繋がります~。

今回から本格的?にミントンやるのですが、試合描写等で、ここ分かりにくい、これどういうこと?とか、この用語違うよ、などがあれば感想に頂けるとありがたいです。

日常等の描写を改善するには代筆以外に手はないですが、試合の描写が分かりにくければ、もう少し何とかなるんじゃないかなぁ(投げやり)

なお試合の臨場感等は素の描写力の勝負になるのでそっちも改善できません。




男女混合ダブルス。男女が組むと言うだけで通常のダブルスと大差がないように思われるが、実際の動きは大きく異なる。男女という性別的な身体能力の違いは大きい。筋力や体重、背丈に手足の長さ。ホルモンバランスにより反射神経も男性有利には変わりなく、それらはバドミントンにおいて大きなハンディとなる。

その為男子は女子を狙ってスマッシュを打つのが決め手の一つとなり、また強打があることから、前衛は女子、後衛は男子となり、男子の守備範囲は通常のダブルスより増えるのが一般的なものだ。

 

その為攻めのトップアンドバック、守りのサイドバイサイドへのローテーションにも一癖が出てくる。

 

思わぬ形で綾乃とのミックスダブルスを行うことになった弦羽早(つばさ)だが、嬉しい気持ちは勿論溢れ出てくるが、正直なところ心配な面の方が強い。

理子の変えのユニフォームをダボダボに着る綾乃と目が合う。彼女のユニフォーム姿を見るのも三年ぶりだと思うと、より新鮮に見える。

 

「おい秦野、羽咲に見惚れてる場合じゃないぞ」

 

「え!?別に見惚れてたとかじゃ――」

 

「似合って、ない?」

 

「…凄く可愛いと思います」

 

色恋に関心が薄い綾乃だが可愛いと言われて悪い気はせずに、ニヘラと柔らかく表情を崩す。その笑顔に顔を真っ赤にして目を覆う弦羽早に、何をやっているんだと健太郎は再度呆れたように息を漏らす。

 

「秦野は問題ないだろうが、羽咲はダブルス、それもミックスの経験はあるのか?」

 

「ミックスはないけど、大丈夫」

 

やっぱりと、弦羽早と健太郎の不安は的中した。

 

「とりあえず、羽咲が前で。もし羽咲が後ろになった時は、俺は中央寄りにいるから」

 

「え~…別にそんなことしなくていいよぉ。返って邪魔だし」

 

「う~ん…」

 

これから本格的にダブルスを組むなら、今後の方針とスタイルを考えていかなければならない。インターハイ予選まではもうそんなに遠くない。色々切り替えて模索するよりも、ある程度決めていた方がいいかもしれない。

 

確かに前々から弦羽早は、守備範囲については考えていた。綾乃のスタイルはラリーを継続させる守りを主とし、選球眼は勿論反射神経も男子に引けを取らない。というより、男子よりも良い。ミックスは割合的に男子の守備範囲が広くなる分、いわゆる譲り合いが起こりやすい。男子としては”近くだし拾ってくれる”だろうと、女子は”男子の邪魔をしてはいけない”という状況が、プロのペアでも起こる事はざらだ。

なら守備に関しては男子ダブルスと同様、とまではいかなくとも、かなりの部分も任せた方が綾乃にとっても動きやすいかもしれない。

 

「分かった。なら一先ずは通常のダブルスと同じように動こう」

 

「おいおい、大丈夫か?」

 

「まあ練習試合ですし。ただ攻めの基本パターンは俺が後ろで羽咲が前。これは譲れないから」

 

「うん。私も前の方が好きだし」

 

だろうな、と綾乃のラケット捌きを知る弦羽早は頷いて返す。

 

「しかし…」

 

弦羽早はチラリと体育館の隅へと視線を向ける。

金色の長い髪、シミ一つない白い素肌、青い瞳、そして恐ろしい程に整った顔。入場と同時に室内の男性陣の視線を集めた美貌の持ち主が、そこでアップをしながらペアを組む大磯と話し合っていた。

 

コニー・クリステンセン

 

デンマークのユース代表。高校生にして数々のタイトルを総なめにした、正真正銘の天才。

そんな彼女が日本、それもフレ女に居て、更にはダブルスで試合をすることになるとは思わなかった。

 

彼女の試合を見た事は無いが、高い身長と長い手足と引き締まった体から、下手な男子よりも速いスマッシュを打つ姿は容易に想像できる。

彼女が前衛にいるだけで、綾乃へ掛かるプレッシャーは大きいだろう。それに加えて。

 

「それと羽咲、多分大磯さん――クリステンセンのパートナーの人は、ダブルス、それも後衛が本職だと思う」

 

「シングルスであんな隙の大きいジャンピングスマッシュは使わないもんね~」

 

先程の大磯との試合、弦羽早が勝てた理由の一つがダブルスの癖が抜けていないのがあった。他にも相性や単純な実力差などもあるが、今度のダブルス、それも後衛が多くなるミックスともなると彼の本領とも言える。

 

「初めての試合にしては強すぎるけど、楽しくやろう」

 

「…うん」

 

 

 

 

綾乃の正式な初試合、ダブルスプレイヤーの弦羽早と大磯、そして何よりコニーの存在により、嫌でもそのコートは目立っていた。

四人は挨拶の握手を交わす中、綾乃はネット越しのコニーを見上げて。

 

「あのっ、お花ありがとう。それで私…」

 

「いいのよ、あんなの。そんな事より私はあなたに会えて嬉しい」

 

「え?」

 

「だって、あなたに会う為に日本まで来たんだもん。お姉ちゃん」

 

「……え?」

 

コニーの言葉と、先ほどとは打って変わって冷たい態度に困惑する綾乃を尻目に、コニーはチラリと弦羽早の方へとみる。

 

「(ツバサ。そう言えば前にママが言ってたっけ。アヤノの事が好きなバドミントンが上手な男の子がいるって。その頃は趣味として”上手”程度だったみたいだけど、三年で成長するものね。それにしても…)」

 

先程から時折観察していたが、どうやら弦羽早は可哀そうにも綾乃に好意を抱いているらしい。傍目で見ても分かるくらいに、綾乃に対する態度が他の女子とは違う。

しかし肝心の相手は恋愛に興味のない朴念仁。先程の花屋でのやり取りを思い出したコニーは哀しい瞳を向けて、敬礼を送った。

 

「ん?何か――って、何で急に敬礼!?」

 

「可哀想だからせめてもの応援?」

 

「そこまで下に見られてる!?」

 

「そっちじゃないけど、ま、それでいいわ。せいぜい頑張りなさい、この試合も、それ以外もね」

 

「…秦野、あの子のこと、知ってるの?」

 

「雑誌やテレビで見た事はあるけど、会うのは初めてだよ。羽咲こそさっき話してたけど、知り合い?」

 

「うん、さっき道に迷った時に」

 

ということは、綾乃も今日初めて会ったのだろうが、コニーは前々から綾乃の事を知っている口ぶりだった。人間関係が読めずに戸惑うが、試合に入る為に気持ちを切り替えると、審判から貰ったシャトルを綾乃に手渡す。

 

『オンマイライト、羽咲・秦野、サーバー羽咲。オンマイレフト、クリステンセン・大磯、レシーバークリステンセン。ラブオルプレイ!』

 

こうして弦羽早と綾乃の初めてのミックスダブルスが始まった。

 

 

 

トン

 

綾乃のショートサーブから始まったラリーは、序盤から高度なヘアピンの応酬となった。

コニーはサーブに対してネット前に落とし、それをすぐさま足を踏み出してストレートのヘアピンで返す綾乃。

コニーは更にコート際へと送り、綾乃は自分の前に立つコニーから逃げるように、右側へとクロスのヘアピンを送る。

しかし素直にストレートのヘアピンが来るとは端から考えていなかったコニーは、綾乃のヘアピンと同時に地面を蹴って、綾乃から見て右へと飛ぶ。

 

クロスのヘアピン、又の名をワイパーショットは、奇襲性は高いものの飛距離が伸びる分、当然シャトルが地面につく時間も伸びる。俊敏なフットワークと高い反射神経、そして長い手足を持つコニーはそれを楽々と、シャトルがコートの中央に差し掛かった頃には取り、仕返しだと言わんばかりに、今度は綾乃がいる逆サイドへとヘアピンを送る。

 

不味い。

 

いくら素早いフットワークを持つ綾乃でも、シングルスならともかく、ダブルスのサイドラインギリギリにいる状態で、反対のサイドラインに送られた球までは追いつかない。

 

しかしダンと地面を踏む音と共に、後ろから伸びて来たラケットがそのシャトルを打ち返す。

 

「秦野ッ」

 

「あ~、ごめん、角度つかなかった」

 

サイドラインギリギリでも高い技術力が要求されるヘアピンだが、更にネット際ということもあり、ロブは高く上がるがコートの中央までしか飛ばない、チャンスボールとなってしまった。

ネット際のシャトルを奥に飛ばそうとすれば、ラケットの面は斜めを向くため、ネットに掛かってしまうのだ。

先程の球の最適解は再びクロスに打って時間を稼ぐのが正解だったか。

 

弦羽早と綾乃は急いで左右に並ぶ防御の陣形、サイドバイサイドへと移るが、その丁度ど真ん中に後ろに下がったコニーのジャンピングスマッシュが突き刺さった。

 

『1‐0』

 

「ごめん羽咲。フォロー甘かった」

 

「私も、素直に上げなかったから」

 

「ううん。上げないのはダブルスにおいては大事だから。でも、あの技術にスマッシュ。まさにプロレベル、反則級だ」

 

シャトルという軽い球を使うバドミントンは、非常に繊細な技術を要求されるが、そのもっともたるものがやはりヘアピンだろう。このヘアピンはただ打つというだけでは初心者でも簡単にできるが、極めるとなると並みの練習量ではものにできない。

実戦でその成果を発揮するのなら尚更だ。

 

「…羽咲、次前に出たら、見計らって軽いハーフ球を打ってくれ。大磯さんに打たれてもいいから、クリステンセンが前衛にいたら、ギリギリ届かない高さで」

 

「うん…」

 

話し合いを終えた二人が構えると、既にコニーと大磯のペアは準備万端だった。

 

ミックスでは従来のダブルスとは違い、男子がサーバーの時は、サーブラインギリギリからは打たずに、その1・2歩下がったところに立ち、サーブラインに女子が構える形となる。そうすることでローテーションの手間を省き、女子が前、男子が後ろというミックスの理想のポジションを維持するためだ。

 

そしてコニーと大磯のペアもそのセオリー通りのフォーメーションだった。

 

一方弦羽早がサーブレシーブとなる状況では、二人のフォーメーションは従来と同じ。レシーバーの弦羽早が前で、綾乃は後ろで構えている。

 

大磯からのサーブ。サーブラインから少し離れた場所からのサーブは少しドライブ気味になり、故に慣れていないと浮きやすい。

 

「あっ!」

 

「馬鹿!」

 

絶交球とまでいかなくとも、しかしネット前のショートサーブではその僅かな浮きが致命的となる。ダブルスが本職である弦羽早相手なら尚更だ。

シャトルがネットを越えた直後に叩き落とし、コートの左側、大磯とコニーの中間地点へと決める。

 

『サービスオーバー。1オール』

 

「ナイッショ」

 

「ラッキーだった。羽咲、さっきの二人の構えがミックスの王道だけどどうする?」

 

「いい。ダブルスも、そんな経験ないし」

 

「了解」

 

コニーにがみがみと説教を受ける大磯は、新人サラリーマンのようにヘコヘコ頭を下げながら弦羽早にシャトルを渡す。いくら相手が年下でも、モデル並みの美少女、しかもデンマークの代表ともなると頭が上がらないだろう。

 

弦羽早はラケットを構えながら、レシーバーの大磯とコニーの位置関係を確認する。

ミックスで男子がレシーバーになる時は、男子は通常と同じくサーブラインギリギリに立ち、女子は中央寄りに構えるのが基本的なパターン。とにかく女子を前に出すのを徹底している。

二人も同様で、レシーバーの大磯よりもコニーの圧が伝わってくる。

 

ふぅと弦羽早は息を吐くと、右手で持ったラケットからショートサーブを繰り出す。

 

大磯の取った行動は奥へのロブ。後衛が綾乃であるため、よい一手だった。綾乃は女子の中でも身長が低く、細身である為実際強打はない。

 

ダブルスに慣れていない綾乃は、一先ずラウンド側へ来た球をセオリー通り中央前へドロップを落とすが、コニーに軽々拾われ、今度は反対の後ろへと走らされる。とはいえシングルスプレイヤーだった綾乃にとってその程度の距離は走るの内に入らず、フォアハンドへの絶交球に、クロスのカットドロップを送る。

このカットこそが左利きの最大の利点とも言え、左利きプレイヤーの大きな武器だった。

 

シャトルの巻き方によって左利きのプレイヤーの球は抵抗を受けにくく球のノビがよくなるが、フォアハンドでのカットは回転が逆、つまりリバース回転を行うことで、従来より速さが落ちる分、変わった軌道をする。そして前に落とすカットの場合は、左利きプレイヤーの球はネットを越えた辺りで急激に失速する。

 

「ッ!」

 

「私が取る」

 

一歩出遅れた大磯だったが、それは結果的に正解だった。綾乃の直線状、つまりシャトルとは遠い地点にいるコニーがその球をハーフに打って返したのだ。

これでコニーが前衛、大磯が後衛の状態に変わる。

 

だが前衛にいた弦羽早もそのハーフ球を見逃さず、後ろに飛びながらドライブ気味に放つ。が、前衛にいるコニーは、それもまた同じくドライブでストレートにいる弦羽早に打ち返す。

 

タン! タン! タン!

 

前衛にいるコニーと、やや真ん中よりにいる弦羽早のドライブによるラリーが続く。二人の距離が狭い分、ドライブの感覚は短く、綾乃も下手にフォローに入れない。

従来なら有利状況な、男子の弦羽早と女子のコニーのドライブ合戦だが、有利な前衛であることと高い技術力から、弦羽早を押していた。

 

「どんだけ、だよ!」

 

このままでは厳しいと判断し、体の正面へ差し込まれた球を、体を右に逸らしながらバックハンドでクロスに打ち返す。一見簡単そうに打ち返した弦羽早だが、体の正面というコースと速さを持つドライブをクロスに打ち返すのは容易な技ではない。

 

「やるね。でも!」

 

意地でも通さないと、コニーは横へ飛びながらネット前で、ドライブという攻めの球を叩き返す。それまで以上のスピードカウンターに二人は反応できず、シャトルが床につく。

 

『サービスオーバー、2‐1』

 

「ママに認めてもらうにはまだまだね」

 

ふふんとラケットを肩に置いてしたり顔になるコニー。その後ろでは肩の狭い思いをしている大磯の哀愁漂う顔があった。

 

「ド、ドライブで女子に負けた…」

 

「? 昔ずっと私に負けてた」

 

「あの頃より性別の差が大きいから。というか、ナチュラルにパートナー傷つけるのはやめて欲しいな」

 

ダブルスがメインだった弦羽早にとって、ドライブ合戦は得意なラリーだったが、流石デンマークの天才と相手を褒めるべきか、自分がまだ甘いと喝を入れるべきか。

 

次はコニーのサーブとなり、レシーバーは綾乃となる。

 

コニーのショートサーブを、綾乃はセオリー通り、コニーの正面へのヘアピンで返す。身長の高い選手は手足が長い分、正面の球を苦手とするプレイヤーが多い。また、高身長のプレイヤーでなくとも、真正面のヘアピンというのは意外と取りにくく、ダブルスではショートサーブのレシーブの王道のパターンの一つとして正面へのヘアピンがある。

 

だが当然、たった一打で決まるほどコニーは脆くなく、ニヤリと笑みを浮かべて再びヘアピンで返す。

 

最初のラリー同様、コニーは一切上げて逃げる気のない、強気のネット前でのヘアピン勝負が始まる。

 

一回、二回、三回。四打目のコニーのヘアピンのコルクがネットの白苔に引っ掛かり、転がるように綾乃の手前に落ちてくるが、手首の力だけで打つことによって、なんとか粘り、綾乃もまたネット前から逃げない。

ストレート、クロス、回転の掛けたヘアピン。高度なヘアピン勝負は中々決まらず、二人は何度もコートを端から端へと移動する。

 

「(ここかな?)」

 

コニーはどうは知らないが、少なくとも綾乃はムキになってヘアピンをしていた訳ではない。コニーの隙を探すために粘っていた。そしてようやくコニーを抜けそうな一打にたどり着くと、左奥へとハーフ球を打つ。

 

「高さも十分ある!これなら絶対に――!」

 

観戦していた健太郎は思わず声を上げるが、しかし彼の言葉はコニーのプレイによってかき消された。

コニーは流石にネット前スレスレでは届かないと判断したのか、少し後ろに下がるようにして飛び上がった。まるで背中に羽が生えているように高いジャンプと手の長さがシャトルを捕らえ、それを綾乃達のコートへと叩き落とした。

 

『ポイント、3-1』

 

「高い!しかもラウンドの空中で叩きやがったッ」

 

「何甘い球出してるの綾乃」

 

「ッ…」

 

「とっとと本気出して。でないとすぐに終わっちゃうよ」

 

「ほん、き…」

 

”今の”自分は本気だ。手は抜いていない。先程の配球も、普通ならチャンスボールにはならない理想的なハーフ球だった。

 

でもコニーは不満そうな口調で、花屋であった優しい彼女はどこにいったのだろうと立ち尽くす綾乃へ、ニッコリと笑みを向けた。

 

「言ったでしょ。小さい花は集まってないと綺麗になれないって。でなきゃ、ただの雑草なんだから」

 

 

 




アジア大会女子団体優勝おめでとうございます(遅いし見てない)


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一人で決めようとするな

綾乃ちゃんモードの心境書くの難しい…。


『ポイント。11(イレブン)5(ファイブ)!インターバル!』

 

パシュンとコニーのスマッシュが決まり、6点の差をつけた状態でインターバルに入った。

今このゲームを支配しているのは前衛に立ち続けるコニーだった。生半可なロブは男子顔負けのジャンプ力で叩き落とし、ネット前のラケットワークも完璧。更にドライブで抜こうにもタッチも早い。

 

シングルスを主体にするプレイヤーでありながらのその活躍に、コニーが点を入れるごとに歓声が起こる。

 

「羽咲、大丈夫……じゃなさそうだね」

 

もはや一対二に近い状況でここまで一方的にやられるとは夢にも思っていなかったのか、まるで魂が抜けたかのように口を開いている。

弦羽早(つばさ)はタオルで汗を軽く拭きながら、チラリとコニーの方を見やる。

スポーツ飲料をゴクゴクと飲む彼女はまるでCMのワンシーンのように様になっており、実際にテレビで流したらさぞいい宣伝効果を発揮するだろう。

 

「強い…」

 

「ああ、あそこまで堅い前衛は男子でもそういない。すまん秦野、俺はミックスに詳しくない。考えるからもう少し待ってくれ」

 

健太郎の座っていた椅子にはこれまでのプレーの結果をメモしたノートが開いた状態であった。

 

「コーチ、それ見せてもらいますね」

 

「ああ、だがもう時間は無いぞ。羽咲、お前も水分補給しておけ」

 

呆然としている綾乃に冷えたスポーツ飲料の入ったペットボトルを押し付ける。ようやく我に返った綾乃だが、数口飲むのみであとはコニーの方をジッと見つめていた。

 

一方弦羽早はノートに記されたメモを見ながら、この11点失点のパターンを思い出す。決め球を打ったのはほとんどコニーで、あとは綾乃のミスが目立つ。だが今は綾乃のミスショットは除外視して、失点した時の自分たちのフォーメーションを思い出すと、ほとんどトップアンドバックであった事を思い出す。

 

『コートに入って下さい』

 

審判からの催促が入り、四人はラケットを手に持って先程と逆側のコートへと入る。

 

「羽咲。このゲームは捨ててもいいから、いくつかパターンを変えて流れを掴みやすいパターンを探そう」

 

「パターン?あの子の、弱点とか探さなくていいの?」

 

「彼女は少なくとも俺が一試合で見破れる選手じゃない。羽咲もまだ動きが硬い」

 

「…そんなこと言ったって、しばらくやってなかったし…」

 

「ああ、責めてるんじゃないんだ。ラケットワークは間違いなく俺なんかより上手い。ただ、ダブルスの動きとしては無駄が多いって言うか」

 

「…無駄?」

 

「うん、全部自分で拾おうとしないで、ちょっとでもいいから俺の事も頼ってよ。パートナーなんだから」

 

審判から早く試合を再開しろという視線を受け、弦羽早は審判とコニーと大磯に謝りながらラケットを構える。

 

綾乃は中腰になり、肘を腰の高さにしてラケットを立てて構えながらレシーバーである弦羽早の背中をジッと見る。

 

「(頼る? 私が、秦野を?)」

 

確かに守備範囲の広い綾乃は言われた通り後ろの球は弦羽早に任せているが、それ以外の前と左右の球の多くは取っていた。本来なら男子の運動量が増えるはずのミックスダブルスは、奇妙なことにお互い女子の方が動いている状態となっている。

 

コニーと大磯のペアは、少なくともこのゲームはほとんどの球をコニーが取ると、そういう取り決めをしていたのだろう。実際これまでの試合、多少無茶な体勢からでもコニーは後ろに任せようとはせずに打っている。

 

では綾乃と弦羽早のペアはどうなっているかと言うと、綾乃は気づいていないが、接触事故が起こらないように弦羽早はかなりパートナーの綾乃の立ち位置に気を使っている。その為咄嗟のワンテンポが遅れている状況になりがちだった。

 

ふと綾乃は思い出す。試合開始直後のラリーを。

 

 

綾乃が考えている間に、左サービスコートからのコニーからのサーブによってラリーが始まる。

レシーバーの弦羽早は右のサービスコートへプッシュを飛ばす。いくらコニーでもサーブした直後に逆のサービスコートへのプッシュは範囲外だ。彼女はトッププレイヤーではあるが化け物ではない。

 

大磯のクロスドロップに弦羽早はコニーから逃げるようにロブを上げる。

 

「(そういえば、最初のラリーで私のフォローに入ってくれたっけ)」

 

大磯のストレートのジャンピングスマッシュを、弦羽早は表情を崩さずにストレートのロブで返す。

二度、三度、ストレートと言えどフォア寄り、正面、バック寄りとあり大磯は使い分けているが、弦羽早はブレずにジッとストレートに返している。

 

「(なにやってるの?それくらい安定してるなら、クロスに返せる筈なのに…)」

 

やはり弦羽早相手にスマッシュだけで潰すのは厳しいかと四打目はドロップで前に落とすが、それもまたロブで返す。再びスマッシュ、クリアー、ドロップ、スマッシュ。

 

その全てを弦羽早はストレートのロブで返す。

 

「(あっ…違う、できないんじゃなくてやらないんだ。クロスに打っちゃうと、今度は私がレシーブに回るから)」

 

ダブルスに置いて後衛が打つスマッシュは、基本ストレートが一番安定していると言われている。理由は単純で、クロスに打つよりもストレートの方が距離が短いから。ミックスに置いては女子のいるクロスに打つこともあるが、それでも失速するという点でセオリーはストレート。

今の大磯は少しムキになって弦羽早を狙っているところもあるが、並みの選手ならここまでの連続攻撃で崩れるので、試合を放棄しての行動では無かった。

 

つまり弦羽早はクロスに返せる余裕がありながらも、あえてずっとストレートに返し続けているのだ。

 

「なにそれ」

 

「羽咲?」

 

「貰ったあッ!」

 

弦羽早が綾乃の声に気を取られて視線がブレたのを大磯は見逃さない。一際高く跳ねたジャンピングスマッシュは、バシュンと音を立てて弦羽早の手前に落ち、その威力は床を数回バウンドして弦羽早の股下を通り越すほどだった。

 

『ポイント、12‐5』

 

「よっしゃぁっ!」

 

コニーの力を借りず自ら得意とする強打で一点を取った大磯はガッツポーズを取るが、コニーから「うるさい」と吐き捨てるように言われ、露骨にラケットがしょんぼりと下がった。

 

一方反対のコート。

 

「羽咲、どうかした?」

 

「クロスにレシーブしなかったのって、私を守る為?」

 

「えっと…」

 

言い淀む弦羽早の姿に綾乃は自分の予想が正しい事に確信した。

 

「そういうの、私、好きじゃない」

 

「そ、そうだよね。ごめん、出すぎた事した」

 

弦羽早としてはコニーに触れさせないように徹底したロブを維持したかったのでなるべく自分に来るようにとストレートに返していたが、それは確かにどこか綾乃を守ろうとか、そんな下心はあったかもしれない。

勿論ミックスでは男子がなるべく自分にシャトルが来るようにするのは至極当然な戦術ではあるが、インターバルで”俺の事も頼ってよ”と言った直後にやるべきプレイではなかった。

 

どうして綾乃の事になるとこう上手くいかないのかと内心ため息を吐きながら、しかしと先ほどのラリーを見るに、やはりコニーは出来る限り自分一人でプレイしたがっている様に見えた。

 

ジッと前衛で弦羽早を睨むコニーは、もし弦羽早がクロスのロブを上げたらすぐに自分が下がって打ち込む準備をしていた。

 

「(この試合、や、やりにくい…)」

 

唯でさえミックスと通常のダブルスではセオリーは違うのに、相手は女子がワンマンゲームで、味方も怒っているのか落ち込んでいるのか見当もつかない。特に好意を寄せる相手ともなると、どうしても彼女の心境が気になってしまう。

 

 

21(トゥエンティワン)8(エイト)!マッチワンバイ、クリステンセン・大磯ペア!』

 

 

結局一ゲーム目は色々なパターンを試すどころか、インターバル直後の一件が原因でローテーションは堅くなるばかりだった。

1ゲーム目が終わった事でコートチェンジとなり、互いのプレイヤーに再び僅かなインターバルが渡される。

一番エネルギーを消費していたのはジャンピングスマッシュを連発している大磯で、次いで前衛を維持し続けているコニー。守りに入ってもラリーの続かない弦羽早と綾乃は、さして疲れた様子もなく、綾乃にいたっては汗一つかいていない。

もっともシングルスと違いコートを走り回る訳ではないので、大磯もコニーも軽く肩で息をする程度で、インターバルを挟めばそれも収まるだろう。

 

綾乃はギュッとグリップを握りしめながら、遅い足取りでコートの上から離れる。

 

「(分からない…)」

 

何が?

ダブルスのローテーション?

ミックスのセオリー?

前衛のコニーをどうやって突破したらいいか?

 

いや、違う。そんなものじゃない。

だってこのミックスダブルスはただの人数合わせと、約束を忘れていたからせめて一回くらい、弦羽早への――

 

「はぁ…なんだ、こんなもんか」

 

「え?」

 

もう一つ、一番大きな原因があった。

抑揚のないアルトの声に振り向くと、自分を道端の雑草のように見下ろすコニーの冷たい青い瞳と目が合う。

 

「やっぱりアンタなんか…ママの娘じゃない」

 

チリッと脳内にフラッシュバックする。

長い黒髪を白いリボンで結んだあの大好きだった背中が、高熱でベッドから起き上がれない自分を置いて去っていった光景が。

 

「マ、ママって、私のお母さん、を…知ってるの?」

 

「綾乃!今インターバルでしょ!」

 

ハッとエレナの声で我に返ると、綾乃はズキズキと痛む頭を押さえながら健太郎の元へとゆっくりと歩み寄る。

 

「どうしたの羽咲、具合でも悪い?」

 

「…大丈夫」

 

弦羽早から渡されたスポーツドリンクに「ありがと…」と小さな声で呟きながらゴクゴクと入れていく。

バドミントンは元々かなり頭を使うスポーツだ。一回一回のラリーは他のスポーツより短い分、そのゲームスピードは速い。シャトルを見るのは大前提として、相手の動き、利き手、ラケットの向き、得意なショット。他にも沢山あるが、ダブルスはそれに加えて味方の位置も把握しないといけない。

 

「(やっぱり、ダブルスって苦手)」

 

ふとそう思った時、またコニーの言葉を思い出す。

小さい花は集まる事によって綺麗になるパワーを発揮すると。彼女は優しい顔でそう言ってくれた。

 

綾乃はチラリと弦羽早を横目で見上げる。全国一の団体チームの、ダブルスのレギュラーメンバー。そんな彼が、いくらデンマークの代表と大学生相手とは言えここまでボロ負けする訳がない。

 

つまりそれは、自分が上手くやれていないという証明にもなる。

 

「……」

 

「羽咲、秦野。聞け」

 

試合、弦羽早、コニー、そしてお母さん。

今綾乃の抱える悩みは多すぎて、それを頭の中でも心の中でも上手く整理できずに、頭痛の原因となっていた。

ただバドミントン選手としての本能か、幸いにも意図せずとも健太郎の話は綾乃の耳に入ってくる。

 

「まずこのワンセット見て思ったのは、お前達二人の守備範囲は広すぎる。お前達は人一倍レシーブが上手くフェイントに対しても取れてしまうから、自分で守ろうとしている。それに加え、完全にコニーのプレイに呑まれて前衛にハーフ球やドライブを躊躇している。だからな、ちょっとこれをよーく見て見ろ」

 

健太郎は二人の前に握った拳を差し出す。何か手の平の中に持っているのかと、二人が顔を近づけてた瞬間、パンと二人の目の前で勢いよく手を合わせた。所謂猫騙しという奴だった。

 

「うわっ!?」

 

「ゃい!?」

 

バクバクと激しく鼓動する心臓は間違いなく運動によるものが原因ではなかった。二人の反応に、健太郎は悪戯が成功した子供のように口元を上げる。

 

「どうだ?今ので少しは悩みも飛んだか?」

 

「え…?」

 

「二人とも色々と考えすぎだ。まったく試合に入り込めてない。バドミントンにおいて色々考えるのはいい事だが、今のお前達に言えるのは深く考えるな!」

 

「……って、まさか精神論だけですか!?」

 

「馬鹿言え、俺はやる気だーとか気持ちがーとか言うのは、お前達が全てを出し切った最後にしか言わねぇよ。ほれ」

 

健太郎はエレナから渡されたホワイトボードを二人に見せる。それぞれの名前の頭文字が書かれたマグネットと、コートが描かれている。

 

「お前達の勝ち筋としてはやはり羽咲が前、秦野が後ろ。ミックスだとか関係なく、二人のストロングポイントを的にもこれが理想だ。そしてそれは相手に置いても同じだ。コニーの前衛としての実力は嫌な程分かっただろう」

 

「はい。だから俺達も最初はトップアンドバックを維持してましたが、クリステンセンが抜けずに――」

 

「それがお前達が上手く言っていない原因その2だ。コニーのプレッシャーが強すぎてコニーを抜いて、大磯に決め球を打とうとしているが、そんなことしなくていい。相手がトップアンドバックを維持するのなら、前衛のコニーを集中して狙え。当然狙いは高身長のプレイヤーが苦手とする胴体だ。そして大事なのが、”一人で決めようとするな”」

 

トーンの下がった健太郎の言葉に、二人ともどこか心当たりがあったのか唇が動く。

 

「「ッ…」」

 

「秦野、お前はダブルスプレイヤーだから知っている筈だが、ダブルスってのは一人の決め球でそうポンポン決まるものじゃない。前衛と後衛の攻めの連携が重要になっている。だが今のお前達は自分が決めることにばかり意識してる。そうなる理由は……知らないが、自分が決めようって意識を無くせ」

 

少なくとも弦羽早の心境に心当たりはあったが、今は野暮だろうと誤魔化す。

相手がただのバドミントン仲間の異性ならともかく、それがわざわざ左利きの彼女と組むために右手に持ち替えるほどの憧れであり、好きな相手ともなれば、男としての欲が出てしまうのは同じ男として健太郎も分からなくはない。

もっとも弦羽早を正当化するつもりも健太郎にはない。

 

「俺が言えるのはこれくらいだ。細かい調整はやりながら行え」

 

「はい」

 

「うん…」

 

二人は使っていたタオルとドリンクを、それぞれエレナとのり子に手渡す。

 

「綾乃、あんた大丈夫?コーチの話聞く前は顔が青白かったし、いつもと様子が変だし…」

 

「色んなことが分かんないの…」

 

人との繋がりを大切にしろと言いながらも、自分が中心となるワンマンゲームをするコニー。花をくれた時の優しい彼女との豹変ぶりにも、彼女の強さにも、そしてママの娘じゃないという言葉にも惑わされる。

それだけでも今の綾乃にはいっぱいいっぱいなのに、初めてのミックスダブルスにパートナーは幼馴染の弦羽早。

普段の彼を見てもなんとも思わないが、バドミントンをしている弦羽早を見ると心が落ち着かない。

 

「(考えるのが辛い……もう試合とかいいから逃げたい。でも、あの子はお母さんのことを知っているみたいで。負けても教えてくれる? ううん、多分、ない。なら勝たなきゃ。勝つには秦野との協力が必要で、なんか…それが嫌で…)」

 

嫌?なんで嫌なのか。

駄目だ。健太郎の猫騙しの効果でせっかく抜け出していた思考の渦に、また入り込んでしまう。

 

「羽咲」

 

「…秦野?」

 

ハッと我に返ると、目の前に悩みの原因の一つである弦羽早が立っていた。その頬は少し赤くなっており、妙に落ち着かない様子でそわそわしている。

 

「なに?」

 

弦羽早はン゛ン゛と咳払いすると、すぅ~と息を呑む。

まさかこの場で告白するのではと、弦羽早の好意に気付いている面々は興味深そうに前のめりになる。先程まで綾乃に冷たく当たっていたコニーも、耳をピクピクと動かし横目でジーと二人を見ている。

 

だが弦羽早の取った行動は彼女らの予想とは違った。

弦羽早は突然綾乃の頬を引っ張りながら、ニヤリと口元を上げる。

 

「い、いふぁい、いふぁいよ秦野」

 

「さっきから何考えてやがる。ただでさえ少ない脳みそを無駄に使ってんじゃねぇよ」

 

「は、秦野?」

 

突然口調と雰囲気がガラリと変わった弦羽早に綾乃は困惑しながらも、不思議と懐かしさを感じた。

その口調は高校で再開する前の彼そのまま。喧嘩腰で悪ガキっぽくて可愛げが無くて、でもそんな彼が隣にいるのが気が付けば綾乃にとって普通の生活となっていた。

 

「お前はバドミントンと肉まんのこと考えるくらいが丁度いいんだよ。それ以外は脳のキャパオーバーだ」

 

「なっ!そんなことない!北小町だって勉強して入ったもん!」

 

「どうだか。藤沢の答案でも盗みみたんじゃないのかぁ?」

 

「秦野だって馬鹿だったじゃん!」

 

「これでも自己採点で全科目60点はあったぞ」

 

「な、なんですとッ?」

 

微妙過ぎる点数自慢に周りの視線がすっかり白くなる中、弦羽早はククッと喉を鳴らす様に笑って。

 

「おばさんの同門ペアとして、デンマークの代表とやらをいっちょ揉んでやろうぜ」

 

差し出されたあの時よりずっと大きくたくましくなった手の平に、綾乃の中に一瞬戸惑いが生まれる。

 

あの頃より男らしくなった顔立ち、低くなった声、性格は丸くなって口調も穏やかになって、そして何よりバドミントンが見違えるほどに上手くなった。

余りにも変わり過ぎた弦羽早を、綾乃はどこか苦手意識を持っていたのかもしれない。弦羽早が別の自分を作っているようで、それが綾乃にとってはどこか鏡を見ているようで。

 

でも違った。

 

弦羽早は確かに小学校の時と比べて、色んな事が変わったが、本質は全く変わらないあの頃のまま。

どんなに強い相手だろうと、楽しそうにしてバドミントンをする。

綾乃に限らず、男女、大人子供構わず強い相手に挑んで、負けたら悔しそうにしながらも、相手にアドバイスを貰って、また何度も挑んで。

 

彼の前向きな姿を見て、綾乃は時折自覚のない苛立ちを覚えていた。

 

その苛立ちがまた、無意識の内に蘇ってくる。でも不思議と頭の痛くなったりモヤモヤと内に抱えるような息苦しさは今は無くて。

だからそのイライラをぶつけるように、綾乃は笑顔で、差し出された手を叩く様にハイタッチした。

 

 

 




バドミントンほとんどしてないやん。

高校入試の配点とか覚えてない


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私が、押し負けてる?

思ったより短かった。
もう1ラリーくらい書けばよかったと思いつつも、書き溜め優先しちゃうのぉ





スポーツ全般に言えることだが、メンタルは時に試合の勝敗をわける程に重要なポイントだ。単純に一打一打に対する自信にもつながるが、何よりどんな緊張状態でも試合に集中できるか否かは、本来の実力を発揮できるかの有無に変わる。

 

だが、かといってここまで変わるものなのか。

 

『ポ、ポイント――15(フィフティーン)6(シックス)

 

既に他の北小町メンバーやフレ女のレギュラーメンバーは試合を終えており、最後の試合となる弦羽早(つばさ)と綾乃の試合を見に来たが、その光景に息を呑んだ。

彼女達だけでなく、大学生メンバー、監督、コーチ。この体育館で行われている試合はこの一試合のみで、皆のアンビリーバブルな視線を集めていた。

 

15-6というスコアは弦羽早と綾乃が何とか食らいついているのではなく、その逆。

第一セットではボロ負けだった弦羽早と綾乃のペアが、このゲームでは圧倒的な差をつけてリードしていた。

 

そしてそのポイントゲッターの多くはまるで別人のように物静かな顔立ちで試合に集中している綾乃だった。

 

「(あり得ないわ。私が、押し負けてる?)」

 

ハァ、ハァと肩で息をするコニーは、ネットの奥にいる何食わぬ顔でジッとこちらを見ている綾乃を睨みつける。

チラリとパートナーである大磯を見るが、彼もかなり体力メンタル共に消耗している。あれだけ攻撃に転じながら、このゲームでのこちらのポイントはたったの6点。守備が上手い、というレベルの点差ではない。

 

「うっし、ナイスコー、羽咲」

 

「うん!」

 

点が入るごとに二人は軽いハイタッチを交わしながら、話し合い、細かい修正を加えていく。その結果、隙を探すどころか連携の質がラリー毎に上がってきている。

第二ゲーム開始前に弦羽早の雰囲気と口調が一転したが、たったそれだけの事でここまで連携が取れプレイの質が良くなるなど冗談ではないと、コニーは口の中をキュッと噛む。

 

だが現に、結果がスコアとなって表れている。

 

「ッ…」

 

コニーはこれまでのラリーを思い返す。

 

ここまでの失点がパートナーである大磯が原因だったらコニーの苛立ちも少しは紛れていただろうが、弦羽早と綾乃の二人は大磯を狙うのではなく、コニーを中心に狙っていた。その結果、失点、あるいは失点につながる甘い球を出した多くがコニーと言うのを彼女は自覚していた。

 

コニーもシングルスプレイヤーである為ダブルスの経験は本職に比べると多い方ではなかったが、だが断言できる。今の綾乃程気味の悪い前衛はこれまでに一度も当たった事が無い。

 

 

彼女は速すぎるのだ。

 

 

フットワークのスピードやシャトルそのもの速度ではない。

ラケットのタッチと反射速度が、イカれているとしか思えない程に速かった。

 

従来前衛というのは球を多く拾うポジションではない。守る側としてはネット前に近い前衛よりも、ネットから遠い後衛の方が、スマッシュを打たれたところで距離がある分レシーブがしやすい。だからダブルスでは前衛を抜く様に素早い球で返し、守備から攻撃に切り替えるのが強烈なカウンターとなる。

しかし今の綾乃はどんなに速いドライブを打っても、前衛に居る状態で返してくるのだ。

 

前衛は敵との距離が近い分、どうしても速い球に反応できない状態がある。スマッシュなどを返す前衛などまず居らず、そういった攻めの球は基本後衛に任せざるを得ない。

 

だが綾乃はそこに当てはまらなかった。前衛に居る状態からまるで予期していたかのように、シャトルを打ち返してくる。

 

当然コニーは、第一ラウンドで優勢だったネット前のヘアピン勝負に持ちかけようとするが、綾乃はそれを挑まずにすぐにロブを上げて逃げる。ただしそこから守りのサイドバイサイドになることなく、大磯の強打を前で拾っている。

 

だが勿論全ての強打を拾っている訳ではない。いくら化け物じみた反応速度でもやはり限界はある。しかしそういった球は今度は、後衛の弦羽早がことごとく拾っている。

彼もまた、綾乃の神がかったプレイで霞んでいるが、その守備の高さは既に高校全国レベルのものだ。

 

「…オオイソ、切り替える。こっちも守りで行くわ」

 

「あ、ああ」

 

これまでムキになって前衛で綾乃と勝負し続けたコニーだったが、ついに試合を優先して勝負を降りた。

綾乃と弦羽早の守備能力は確かに鉄壁ともいえるものだったが、反面攻撃力の高さは無い。

 

 

ポン

 

 

綾乃からのショートサーブをコニーはロブで上げると、素早くサイドバイサイドの態勢に移る。

 

ロブの上がって来た弦羽早はチラリと相手コートを確認する。現在コニーが右、大磯が左の状態で、弦羽早のストレートに大磯がいる状態だ。

 

タンと、やる気のないスマッシュがストレートに飛ぶ。小学生でも打ち返せる軽いスマッシュだ。だがコースは的確で、体の重心であるヘソから右寄りのところ。正面は打ち返しにくいポイントだが、しかし速さが無さすぎてこれくらいは余裕で打ち返せる。

大磯は一先ずセンター寄りにロブを打ち返す。

 

続けて二打。今度もまたジッと地面に足を付けた状態で、コニーと大磯は腰を落とす。

 

「(ツバサは特別スマッシュが速くないのを自覚してるから、球の緩急と種類で組み立てている。慌てずに打ってからでも十分に間に合う)」

 

バシュン!

続いての配球は二人の真ん中、やや大磯寄りのアタッククリアだった。勢いが強くアウトかと一瞬脳裏に過るが、ラインギリギリの線もある怪しいものだ。

 

「イン!上げて!」

 

「はい!」

 

大磯はラウンドの球を今度は自分の正面、弦羽早にとってはラウンド側へと上げる。

 

やはり必殺技と言えるような強烈な一打は無い。一球一球、集中すれば十分に取れる範囲だ。

 

「(まずは一点。流れを――)」

 

その刹那、コニーは目を疑った。ラウンドに上げたはずの球を何故か弦羽早はフォアハンドで、飛び上がって打ち出したのだ。

コニーは弦羽早の名前は知っていたが、それは有千夏から綾乃の幼馴染として聞いた程度で、そのプレイスタイルなどは性別の違いもあって興味がなかった。

 

一方シングルスで痛い程味わっていた大磯も、これまで一貫して弦羽早は右利きだったのでそこまで頭が回らなかったのかもしれない。

左手からの全力のジャンピングスマッシュはフォアの時よりもノビが良く、大磯のフォアハンド側へと飛び掛かる。

 

遅いスマッシュから、クリアー、そして全力の左手からのスマッシュ。その緩急に大磯のレシーブが一手遅れるが、しかしフォアハンド側に飛んできたのが幸いしなんとかドライブ気味に打ち返すことができた。

 

そう、低い球を打ってしまったのだ。

 

ゾワリと二人は背筋が凍るのが分かる。まるでその球を待っていたと言わんばかりに、既に綾乃はラケットを振りかぶっていた。

 

スマッシュに対するカウンタードライブを、綾乃はネット前でプッシュで返す。

 

振り終えたばかりの大磯の構えはお粗末なもので、ラケットに当てる事すらできずに、決して速くない一打が決まる。

 

16(シックスティーン) ‐ 6(シックス)

 

「…隙が、ない」

 

立ち尽くす様に大磯が呆然と呟いた。

 

「(いや、そんな事ない。カウンターが強すぎるだけで、攻めが強い訳じゃない。ただ隙がないように見えるのは――)」

 

やりにくいのだ。

 

元々ダブルスにおいて理想的なペアは、右利きと左利きだ。それぞれ別の利き腕がいることによって攻撃にバリエーションが生まれ、またコート左を狙う=バックハンドを攻める、という状況にならない。それに加え一人は曲芸師みたいな実戦レベルの両利き。

 

また、攻撃力が無いが弦羽早と綾乃のそれぞれのスピードの差がこのセットから噛み合っている。

異常なまでに打ち合いとタッチが速く、打てばすぐに返ってくる綾乃に対し、弦羽早はあえて遅い球を混ぜてここぞと言う時に、先ほどのような男子選手の平均的な速さのスマッシュを撃ち込んでくる。いくら強打が無いと言っても、それはあくまで全国レベルで見た場合。

仮にも全国一位を取った彼の本気のスマッシュが普通の男子より遅い訳がなかった。

 

「ナイッショ」

 

「打ちやすかった」

 

「…切り替えるわよ。相手がトップアンドバックを崩さないのなら、セオリー通り二人の間のサイドを狙う」

 

「でも、あの羽咲って子が」

 

「分かってる。だから根気よく粘る。そして綾乃を抜いた瞬間に私が前に出て、綾乃にフォローが入らないように集中して弦羽早を押し切る。このゲームの事は忘れて、ワンゲーム目の得点パターンを意識して」

 

膝に手をついて全身から吹き出る汗が床に落ちながらも、決して闘志を失わないコニーの姿は綾乃に呑まれていた大磯にとってはこれ以上ない程に心強い味方だった。

 

 

 

綾乃からのショートサーブを大磯が受ける形で始まる。ミスの一つでもしてくれたら精神的に楽になるが、綾乃のサーブミスは一度もない。おまけに理想的な高さと、サーブラインギリギリに落ちる弱さはプッシュを打つには厳しく、ネット越しのニコニコと笑う綾乃と目が合った大磯は、彼女から逃げるようにロブを上げるしかなかった。彼の選択肢からは既に綾乃とのネット前勝負は完全に消えていた。

 

一打目、ジャンピングではないが強烈なスマッシュがコニーを襲う。

 

「(コレじゃない)」

 

重心の乗った重い球に少し仰け反りながらも、しっかりとリアコートまでロブを返す。続いてラウンド側へとアタッククリアだが、アウトを警戒してか飛距離は無い。

 

「(コレ!)」

 

待っていたと言わんばかりにコニーは飛び上がると、その跳躍力とリーチの長さ、そして背面の柔らかさを使い、アタッククリアをドライブ気味のスマッシュで撃ち込んだ。

 

普通なら前衛を抜け、後衛の体制を大きく崩すには十分な角度とスピードのあるそれだが、彼女には常識は通用しない。だが流石の彼女も振って返すには近すぎたのか、スマッシュはトンと、綾乃のラケットによって前にネット前に返される。

 

隙の大きいジャンピングスマッシュからのネット前への返球。しかしこの程度で綾乃は抜けないと覚悟していたコニーは、着地と同時に地面を蹴って床上数センチのシャトルをクロスに打ってネット前に打ち返す。

 

「(またヘアピン勝負? いや、あの子の体勢は崩れてるし、逃げる必要はないか)」

 

クロスに来た球に対し、素直にストレートのヘアピンで勝負する。が、そこでフォローに入った大磯が前に出て、ロブを上げて時間を稼ぐ。

 

「(粘ってなんとか、綾乃を抜ける攻め球をッ)」

 

「(緩急をつけ過ぎて警戒されてる。なら)」

 

上がって来たロブに対し、弦羽早は一撃目から全力のスマッシュを打ち込む。大磯は綾乃に返せない以上、それをロブで応戦する。そして二回、三回、上がって来たロブを全てフルパワーのスマッシュを打ち込む。

一定以上のダブルスの実力があるプレイヤーのレシーブの能力は高い傾向にあるが、しかし自分に集中するスマッシュを安定して返し続けるには、もう一つか二つの上のレベルになる。大抵の場合は、スマッシュの重さに押され徐々にロブの距離が落ちる。それは大磯にも当てはまった。

 

「前に落としなさい!」

 

「ッ!」

 

四打目のスマッシュを、大磯はロブではなく、ストレートに返す。綾乃に球を送る事にゾワリと背筋が凍ったが、幸いにも大磯のレシーブはかなり綺麗な軌道でネットを越した。綾乃もネットよりも下にある球を打ち落とすなんてことはできない。

 

一先ず定石通り、四回のスマッシュを打たれ集中が削れている大磯の前にヘアピンを落とすが、今度はそれをコニーがサポートに入り、ヘアピンで返す。

 

元々ダブルスはラリーが長くなりやすいが、ここまで伸びるラリーは観客としても魅入るものがあり、皆息を呑む。

 

「……」

 

あくまでヘアピン勝負で負ける気のないコニーのプレイに、綾乃は一瞬苛立ちを覚えるが、優勢の今わざわざ相手の土俵に立つ必要はなく、素直にロブを上げて、”前で待機する”。

 

「(サイド寄りのスマッシュ!)」

 

上がって来たチャンスボールに今度は大磯が打ち込む。可能な限り綾乃に触れさせないようにと、セオリー通りのストレートではなく、クロスに打ち込んだ。

しかしそのスマッシュもまた、まるで予期していたと言わんばかりに、むしろクロスに打ったことで距離が出来て、それに感謝するような笑みを浮かべて綾乃が軽めのドライブでリターンする。

 

綾乃のタッチは異質なほどの速さだが、その見た目通りパワーはない。男子スマッシュへのカウンタードライブは、同じく前衛にいるコニーにも十分に対応できるほどの速さだ。

そもそもこのゲームからの綾乃が異常なだけで、コニーの前衛としての強さは第一ゲームで証明されている。

 

再び前衛同士のドライブが始まる。本来なら数回のラリーで優劣が出る筈だが、コニーの態勢は崩れず、また綾乃のタッチの速さは衰えない。

 

高身長プレイヤーが苦手とするボディへの集中攻撃にもコニーは返すが、しかし綾乃が更にネットに詰めてきたことで間隔がより短くなる。

 

「(グッ!でも詰め過ぎたわね!ここで!)」

 

ボディ、それも右肩周りというもっとも打ちにくい場所へ来たドライブを、コニーは地面に足をつけながら上半身を右後ろにそらしつつ、顔前に持ってきた面で打ち返した。それもクロスに。

身体能力、選球眼、体の柔らかさ、体幹のよさ、リストの強さ、そして技術がなければできないその一打は、世界でも歓声を浴びる程のファインプレイだった。

 

「なっ!?」

 

「マジか!?」

 

想像すらしていなかったクロスのドライブは綾乃を抜け、咄嗟に弦羽早がフォローに入るが、ドライブはサイドラインギリギリのコースでもあり、これまで崩れなかった弦羽早が初めて態勢を崩し、左手を床につけながらロブを上げた。

 

流石の綾乃もこれは不味いと判断し、急いでサイドバイサイドの陣形へ移行する。

 

長いラリーの末、始めて見えた決定的なチャンスボール。弦羽早の態勢は崩れ、更に右利きの弦羽早が右、左利きの綾乃が左と、中央が共にバックハンドとなる位置だった。

 

「(この一撃は絶対に決める!)」

 

狙いは正面にいる弦羽早のバックハンド寄り。まるで最後の一点を確信したかのように、大磯は口元を上げる。

狙いは決まった。あとはシャトルに集中する。

 

だがこの時、大磯は気づかなかった。それは彼が不注意だからではなく、打つ瞬間はシャトルに視線が集中し、また対角線上にいる綾乃の手元の動きなど見えなくて当然なのだ。

しかし言い訳をしたところで、事実は変わらない。

 

ゾクリとその光景を見たコニーは目を疑った。まさかと急いで大磯に声を掛けようとしたが既に遅く、鎮まり返っている体育館に、バシュンとスマッシュを打つ激しい弦の音が響いた。

 

「秦野、伏せて」

 

誰もが、弦羽早でさえ完全に決まると思っていた一撃。その時ポツリと耳に届いてきたパートナーの声に、弦羽早は意図が理解できないながらも指示通りに頭を下げる。

直後、弦羽早の耳元でビュンとラケットが横切る音と、パシンというシャトルの音が重なった。

 

弦羽早の左の床に付くはずだったシャトルは、コニーの横を一瞬で通り抜け、大磯とは反対のリアコートに突き刺さる。大磯のスマッシュの勢いが残っていたシャトルは線審の女の子の足元まで滑り、コロコロとコルクを重心にその場で回る。

 

一瞬何が起こったのか、誰もが分からなかった。

 

綾乃がフォローに入ってスマッシュを返したのならまだ理解できる。大磯の狙ったコースは確実で間違えでなく、だからこそ読みやすくはあった。しかし本来ならまず間違いなく決まるコースであり、仮に綾乃がフォローに入れたとしても、バックハンドであるが故に精々ネット前に返ってくる程度のはずだ。

 

故にあのようなカウンターが来る筈が無い。”フォアハンド”で打ち返さない限り。

 

誰もがその光景に目を疑った。そんな馬鹿げた芸当をするのは世界広しと言えど、彼だけかと思っていたが、彼ですらただのコピーでしかなかった。

 

弦羽早が両利きとなる切っ掛け、目標としたプレイヤー、そして今パートナーを組んでいる彼女こそがオリジナルの両利きだった。

 

「化け物…」

 

体育館にいる誰かがそうポツリと呟いた。

 

左右の手を使い分けるという点で、中学時代から弦羽早は有名だった。しかし彼は上がったロブに対して、つまり滞空時間の長い時に左右を持ち替えて打つ。それすら神業と曲芸の間の、常識はずれのものであり、一年や二年で真似できるものではない。だから彼よりも強いプレイヤーが同年代に他にいながらも、弦羽早の方が知名度は高めだ。最も天才ではなく、珍獣扱いであるが。

 

しかし先程の綾乃は”スマッシュ”、それも消耗していたとはいえ男子の強打を、持ち替え、カウンターで返したのだ。

もはや最初から分かっていたとしか思えない、予知能力の如き反射速度。

 

「今の、入った?」

 

綾乃は呆然とする線審に首を傾げながら問いかける。ハッと我に返った少女は、慌ててインの表示を取り、審判も声を震わせながらもカウントを取る。

 

17(セ、セブンティーン) ‐ 6(シックス)

 

そこからはもはや、大磯が完全に弱気になったことで打開の一手を見つけられず、続くゲームも21‐2という大量の差をつけて、弦羽早と綾乃の二人は初めての勝利を飾った。

 

 

 

 




この子いつも人の心折ってるな
今週も綾乃ちゃんも羽咲さんも可愛かった()

書きながら綾乃ちゃんマンセーし過ぎじゃないかと思って細かく読み直しましたが、この子前衛のスマッシュ前衛で返してました。しかも団体優勝のフレ女のレギュラー相手に。
うせやろ




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一緒にやろう、楽しいバドミントン

誤字報告ありがとうございます。
酷い誤字でも……気づかないもんやなって……

それと書き溜めと見直しするので次の更新は6・7話くらい溜めてからになります。
一応今三話ストックあるんで、そんな遅れんやろ(旗)

更新しない間にサブタイトルが味気ないので変えていこうかな~と



「嘘、でしょ」

 

「勝ちやがった、デンマークの代表と、大学生に」

 

「す、凄い!凄いよあやのん!バッサー!」

 

「あやのん?」

 

「バッサーって、俺ですか?」

 

コートから出た刹那、なぎさを除く北小町の面々が二人を祝福した。

元々弦羽早(つばさ)の実力は知っていたが、本職のダブルスはシングルスとは別格であり、未知数だった綾乃の実力も発揮され、試合をしていた二人以上に皆興奮していた。

しかも対戦相手の一人はあのコニーというのが拍車をかけていた。

 

周りからの向けられる笑顔と称賛に、綾乃はパァァと黄色い一輪の花のような明るい笑顔を浮かべ、嬉しそうにほんのりと赤く染まった頬を緩める。

 

弦羽早もまた嬉しそうに笑顔で返しつつも、チラリと対戦相手のコートを眺める。

反対のコートはこちらとは真逆でどんよりと湿った空気が流れており、大磯がコニーに謝っていた。

 

「ごめん、俺のせいで…」

 

「…嘘でもそんな事言わないで。負けたのは私達よ」

 

ダブルス、それも初めて会うパートナーだとか、ミックスダブルスだからとか、このスコアはそんな言い訳が通じる結果ではなかったし、コニー自身自分のプレイが完璧であるものとは到底思えなかった。まったく越えることができない綾乃の前衛と、崩すことができない弦羽早の後衛。

その二人にコニーはチームとしても、個人としても完膚なきまでに負けたのだ。

 

「…最後まで付き合ってくれてありがと」

 

綾乃に怯え、惨めなスコアになりながらも最後まで試合を続けてくれた大磯に礼を告げると、コニーは自分のバッグを持って体育館を去った。

 

「ずいぶん私の後輩を苛めてくれたようだな?」

 

「し、志波姫先輩…」

 

相変わらず綺麗なようなあくどい様な、弦羽早の苦手な笑みを浮かべながら、部員達に囲まれる綾乃を見守っていた弦羽早の隣へ中学時代のかつての先輩が寄る。

 

「また強くなったわね。もうシングルでは勝つのは厳しそうだ」

 

「できれば一生やりたくないですね」

 

中学一年の時に何度も味わった屈辱――というより楽しくない試合が脳裏をよぎる。

この志波姫は人の嫌がらせをすることに関しては、弦羽早は誰よりも天才的だと評価している。相手の得意なことは徹底的にさせず、じわじわと微弱な毒が巡るように弱らせていくのが彼女のプレイスタイルだ。

 

あの時の弦羽早は貪欲で、女バドの選手からも技術を盗もうと、志波姫にアドバイスに行ったのが全ての間違いだった。そこから面白そうな子だと目を付けられ、スマホの中の綾乃の大量の写真を見られたことからこの上下関係が続いている。

 

弦羽早の嫌味に対し、志波姫はまたもニヤリと笑みを浮かべる。

 

「あれ、どうした?さっきまでの口調とは随分違うんじゃない? デンマークの代表とやらをいっちょ揉んでやろうぜ? だっけ。と~ってもカッコよかったよ」

 

「ぬあああ!止めて下さい!」

 

勝つきっかけになったとはいえ、小学校時代の自分の口調を、中学生特有の病気からようやく脱出できた今になって再現するのは、中々恥を忍んでの行動だった。

膝を抱えるようにしゃがみ込む弦羽早の頭を愉快そうに笑いながら、ポンポンと慰めるように彼の頭に手を置く。

 

「だからあなたのいる前でああいう事やりたくなかったんですよ!」

 

「いや~、懐かしいな。入学した時もまだあんな感じだったねぇ」

 

「……北小町に来て良かった」

 

宮城に在中していたら合同練習も兼ねて今以上に彼女と顔を合わせていただろう。

弦羽早にとってはまさに悪夢であった。

 

 

 

 

それから日が落ちるまでの間、合同練習は続いた。

大学生メンバーは各々自宅に帰り、合宿メンバーは近くの旅館に泊まる事となっている。

 

皆思いは一緒で、まず何よりも汗を流すことを優先して温泉に入ったあと、フレ女のメンバーも交えて宴会場で夕食を過ごす。

大学生がいなくなったことで圧倒的な男女差となり、男子三人は端っこで仲良く今日の合宿について語り合っていた。もっとも学は頷くか首を振るかで、ほとんど弦羽早と行輝が話していたが。

 

「そこで決まったと思ったんだけど――」

 

「弦羽早」

 

男子三人は女子より先に早々に食べ終え、お茶を啜りながら行輝の試合の反省会をやっているところへ、一人の少女が割って入る。

 

「クリステンセン?」

 

美人は何を着ても似合うというのは本当らしい。学校指定の体操服という味気ない格好のはずだが、彼女が着ると他の生徒とは別の服に見える。学校のパンフレットにでも乗せたら今以上にフレ女への入学希望者が増えるに違いない。志波姫を始め他の生徒達も整った顔立ちが多いが、彼女はその中でも群を抜いて綺麗過ぎるのだ。

 

間近で見るコニーに行輝は顔を赤らめ、弦羽早も彼女の美貌に感心するように息を吐く。唯一無反応なのはやはり学だった。

 

「コニーでいい」

 

「うん、じゃあコニー、どうしたんだい?一緒に混合ダブルスの反省会でもする?」

 

「や、優しい口調の癖にいい性格してるじゃない」

 

頬をピクピクと動かし、露骨に声のトーンが上がる彼女に思わず吹き出してしまう。見た目は大人びている彼女だが、性格は綾乃と違った意味で幼い。

 

弦羽早もプレイを通して、そういう人一倍負けず嫌いなところを理解したからこそのちょっとした冗談だった。口が裂けても本気で落ち込んでいた大磯の前では言わない。コニーが落ち込んでいないと思ってはいないが、彼女は既に立ち直っているのは見て取れた。

 

「…弦羽早は、ミックスで出るのよね?」

 

「うん、羽咲さえその気なら」

 

真っすぐと自分を見つめるコニーの真剣な表情に、弦羽早も体の正面を机からコニーへと向ける。

 

「なら、私も出るわ。他校の子と組んで、インターハイで弦羽早と綾乃に勝つ。勿論、シングルスでも綾乃に勝つ。勝ち逃げなんて、絶対許さないから」

 

「ああ、楽しみにしてる」

 

デンマーク代表にしてフレ女のエース。女子でありながらミックスの試合をメイキング出来る程の実力を持つ彼女が、本気でミックスダブルスを組んで自分と戦ってくれると言うのなら、バドミントン選手としてこれ程嬉しいライバルはいない。

 

弦羽早はふと、ある案が浮かぶ。

 

「コニー、そのパートナーだけど、心当たりはあるかい?」

 

「え? そんなの無いけど、私ならパートナーの十や二十、見つかるに決まってるでしょ?」

 

ファサッと金色の髪をサラリと靡かせながら笑みを浮かべるコニー。そのシャンプーの匂いが男子達の鼻腔をくすぐり、根っからの綾乃一筋である弦羽早でさえ思わず頬の筋力が抜けてしまい、行輝に至っては誰が見ても分かるくらいにデレデレと目元まで下がっている。

もし仮にコニーが初心者であったとしても、この美しさがある限り希望者は後を絶たないだろう。それがデンマーク代表ともなればパートナーは選び放題だろうと、三人とも頷く。

 

「なら一人知り合いがいるけどどうかな? あそこは確かフレ女ともそう遠くないし、実力は折り紙付きだよ」

 

「ふ~ん、弦羽早が言うならそうなんでしょうけど、誰?」

 

「中学時代のパートナー。ちょっと待ってて」

 

ポケットからスマートホンを取り出すと、早速電話帳に登録された”金城(かんなり)陸空(りく)”に電話をかける。神奈川に戻ってからはドタバタしていたので、軽い連絡は取り合っていたが、こうして電話をするのは久しぶりだった。

 

『もしもし、弦羽早君?』

 

「うん、久しぶり。今ちょっといい?」

 

物柔らかな口調に男にしては少し高めの声。本人はそれを気にしているようだが、未だ声は低くなっていないらしい。そのやり取りを思い出して弦羽早は口元を上げる。

 

『大丈夫だよ。どうしたの、急に電話で』

 

弦羽早は立ち上がると、コニーを手招きして廊下へと誘う。ここは電話をするにはいささか五月蠅すぎた。

 

「今日ある学校と合同合宿があってね。そこでミックスのペアを探してる女の子がいたから、どうかなと思って」

 

『え~、ミックスかぁ。あんまり興味ないなぁ…。あ~、でも弦羽早君とやるなら一番確実だよね』

 

「今年はちゃんとシングルスも練習してるって。その子隣にいるから今スピーカーにするね」

 

雑なパス回しにコニーも電話越しの陸空も声を上げるが、弦羽早はそれを無視してスピーカーボタンを押す。二人は戸惑うものの、基本的に人見知りをしないコニーがすぐに切り出した。

 

「始めまして、コニー・クリステンセンよ」

 

『どうもご丁寧に。金成陸空で―――ごめん弦羽早君、これってドッキリ?』

 

「嬉しい事に俺の隣にいる子はモデル顔負けの金髪美少女だよ」

 

「綾乃に言いつけるわよ?」

 

「可愛い女の子を褒めるのは男の義務だから」

 

綾乃に対してもそれだけ浮いたセリフが言えたら少しは恋愛に興味を持ちそうだがと、花屋での出来事を思い出す。だがその直後、「そもそも、言ったところで何とも思われないし……」と哀愁漂わせながら呟く彼に、コニーの視線は本日何度目かの同情へと変わる。

 

そして返事のない弦羽早のスマートホンを、爪で数回コンコンとノックした。

 

「もしもし、聞いて――」

 

『――組みます!組みます!僕で良ければ!いえ、こちらからお願いします!』

 

「え、え~と?」

 

電話越しからの絶叫に近い声にコニーは冷や汗を流しながら、弦羽早に助けを求めた。

 

弦羽早のパートナーだった陸空は、ガタイはしっかりしているが優しいというより気弱そうな顔立ちをしており、その柔らかい口調と他人に流されやすい性格故に真面目だと思われがちだったが、かなりのミーハーだった。別段不良という訳ではないが、パートナー時代からコロコロ気になる意中の相手は変わっており、最初は部活の女子何人かと付き合っていたが、その不誠実さが広まってモテなくなった。

その頃はまだヤンチャだった弦羽早とは、口調も恋愛の価値観も真逆だったが、奇妙にも噛み合っていた。

 

とりあえず彼の恋愛での話は隠して、ミーハーであることだけ伝える。

 

「実力不足だとか、合わないと感じたら断るけど、それでもいい?」

 

『勿論です!誠心誠意、コニーさんに合わせます!』

 

そうじゃないんだけどなぁと、全く遠慮のない陸空に弦羽早は苦笑いを浮かべる。

 

「じゃあえっと……また今度弦羽早を通して連絡するから。じゃあね」

 

『えっ?せっかくですので直に連絡――』

 

ツーツーとスマホの機械音が、宴会場の騒ぎをバックに無機質に鳴る。色々言いたげなコニーの顔に弦羽早はゴメンゴメンと謝りながらも。

 

「大丈夫、さっきも言ったけど実力は保証する。ペアの時は陸空が後衛だったからコニーと相性がいいし、試合中の性格面でも、良くも悪くも流されやすいタイプだから、メンタルの強いコニーといいと思う」

 

「日常的に合うか甚だ疑問なんだけど?」

 

「そこは適当にあしらっといて」

 

「…弦羽早って、綾乃のこと以外結構雑ね」

 

「あ~…そうかも。自覚しておくよ」

 

先程電話をした軽薄な男とは打って変わって、一途とも重いとも言える恋愛観を持つ弦羽早。

そんな彼にしてやられたと太ももをトントンと指で叩くコニーだったが、後日陸空との個人練習で、まさかあそこまで”バドミントンの”息の合う相手だとは想像しなかった。

 

 

 

 

食事も終わり、明日に備えて各々部屋に戻るようにと引率の先生やコーチたちが告げる。

せっかくお互い仲良くなれたのにと、女子達から不満げな声が上がるが、合宿先の引率の先生には勝てない。特に名門のスポーツ校である以上、年功序列の意識は他校より高い。

 

皆ゾロゾロと帰る中、弦羽早も学と行輝と一緒に部屋に戻ろうとするが、宴会場を出たところで綾乃に呼び止められた。

 

「秦野」

 

「ん、羽咲? どうかしたの?」

 

「ちょっと話がしたくて」

 

弦羽早の心臓を一瞬ドキリと大きく鼓動し、いかがわしい妄想が脳内を過るが、すぐにあり得ないなと、邪な自分を嘲笑する。

 

「じゃあ外の庭にでも行こうか」

 

「うん」

 

田舎という土地の有り余った場所に建てられた旅館の庭ということもあり、その広さはグルリと一周回れば、それだけで老人には適度な運動になるくらいの広さはあった。しかしその分手入れは行き届いてなさそうだったので、二人は旅館付近の見栄えがいいところをぶらぶらと歩いていた。

 

「(はぁ~、やっぱ羽咲めちゃくちゃ可愛い…。コニーも美人だけどそうじゃないくて。とにかく可愛いんだよなぁ)」

 

綾乃は可愛い顔立ちをしている方だが、仮にも母国では国民的スターとも言えるコニーを比較する辺り、フィルターが何重にも重なっているらしい。

 

「それで、話って何かな?」

 

夜の中庭、男女が二人っきり、周囲には虫の鳴き声などはあれど人の気配はない。告白するにはこれ以上ないシチュエーションだったが、そんなものされるとは欠片程しか期待しておらず、また結果は見えていたのでする気もなかった。

話の内容はある程度は予想できた。まさかここまで来て、近くのコンビニまで肉まん買いに行くのを付き合って欲しいとかではないだろう。

 

「今日の、試合のこと。秦野に伝えようと思って」

 

「そっか。どうだった?」

 

「楽しかった」

 

小さい声だったが少しトーンが上がっているのが分かり、それに釣られて弦羽早も頬を柔らかく崩した。

 

「俺も、凄く楽しかった」

 

静かな自然に合った穏やかなトーンで弦羽早は返事をする。二人は道なりに歩いていると、左手に大きな池が見え、それまで木に隠れていた月が、空と水面に二つ映っていた。

風景画に興味のない弦羽早だったが、その光景に小さく声を漏らして足を止めた。隣では綾乃もまた、目をキラキラさせて同じ光景を見ていた。

 

おそらくこの景色は、世界の美しい景色などに任命された絶景ポイント等に比べると、足元にも及ばないちんけな景色なのだろう。旅館の従業員も、夜のこの池がお奨めだとは一言も話していなかった。

でもそのちんけな光景に一瞬でも心を奪われたのは、一々心の中で再確認せずとも分かっていた。ただ彼女が隣にいてくれるというそれだけで、こんなにも見るものが違っているのだと、自分の気持ちの強さを再確認する。

 

「えっと、まずはそのこと伝えたかった。誘ってくれたの、秦野だから」

 

「いいって。どの道俺がいなくても、女ダブで参加してたんだ」

 

「誘ってくれたのもだけど、試合でちょっと昔の秦野に戻ったの。あれも。あのちっちゃい体育館での、楽しかったこと、思い出せた」

 

「あ~~……うん。できれば二度と、特に志波姫先輩の前では死んでもやりたくないけどね」

 

「私、あの秦野、好きだよ?」

 

ぴょこりと後ろ髪を跳ねながら、綾乃は見上げるように首をちょこんと傾けた。

 

「ぅっ…」

 

綾乃の言葉が、弦羽早の望む意味での好きではないことは弦羽早自身が一番理解していたが、意味は違えど言葉は同じ。彼女の声で紡がれたその言葉に弦羽早の頬は、熱を帯びているかのように真っ赤になる。

 

今なら行けるのでは?

 

そう確信する自分が心のどこかでいた。

小学校からずっと想い、中学時代別々でもその想いはブレず、同じ高校に入学する為に他の強豪校の推薦を蹴って、そこまでされて嫌な女の子はいないだろう。

自分の中で自分の価値を無理やり上げようとして、この想いが成就するだろうと妥協を望む。

 

「秦野?」

 

「いや~、勘弁してほしいな。ほら、今の方が爽やかでいいでしょ?」

 

「え~、自分で言うの?」

 

弦羽早はそれを押し殺す。

 

まだ今はそうじゃないと。

 

告白が成功するとかしないとか、自分の事ばかり考えていたがそうじゃない。

昼頃、自分の試合を見た後の綾乃の辛そうな顔、ミックスダブルスで第一ゲームが終わった後の青ざめた表情。今は笑顔を浮かべてくれているが、綾乃は色々なものを抱えている。

それを一つずつ一緒に解決したい思いがある反面、綾乃の悩みの一つに自分が関わっている事にも薄々気づいていた。

 

だから今弦羽早ができるのは、なるべくいつも通りの、綾乃に憧れて一緒にミックスで優勝を目指したいと願っている秦野弦羽早でいることだった。

 

「口調に関してはこれが今の俺だから、すぐになれるよ。うん」

 

「んー、分かった。で、何の話だっけ?」

 

「今日の試合のこと?」

 

「そうだった。でね、コニーちゃんがね、インターハイに来てって。来たら、お母さんの事話してくれるって」

 

「…やっぱり、おばさんと何かあったんだね」

 

「…お爺ちゃん達から聞いた?」

 

ボケているようで、代々続く老舗和菓子屋の店主だけあってちゃっかりしている祖父と祖母の笑顔が頭に浮かぶ。

 

「いや、帰ってからはまだご挨拶してないよ。ただ、羽咲にとっておばさんは、大きな人だったから」

 

綾乃がバドミントンを避ける程に大きな出来事が確かに起こった。

学校の友人関係、部活、クラブチームでのいざこざ。そして家族関係。綾乃の母、有千夏と何かあったことは、あるいは有千夏の身に何かあったことは、確信があった訳ではないが可能性の一つとして候補には上がっていた。

 

「…話した方がいい?」

 

「そうだね、いつかは聞きたいかな。でも、今は無理しなくていいよ」

 

「……ありがと。まだ色々分かんないことだらけだから、助かるなぁ…」

 

池の傍の石垣に腰かけて、ジッと湖に映る月を見つめる綾乃の横顔は、ずっと太陽の日差しを浴びていない弱った花のようだった。

 

能天気なほわほわとした綾乃、小学校の時と少し雰囲気が似ている今の綾乃、コニーとの試合で見せた背筋が凍るような冷たさを持つ綾乃。

久々に再会した彼女は、それぞれ持つ一面が極端すぎた。人は誰しも時と場合によって、あるいは相手によって違った仮面を被るものだが、綾乃はその仮面が一際強い。

 

「…私、インターハイに出る。コニーちゃんとそこで会って、お母さんの事を聞きたい」

 

「…そっか。俺も、協力するよ。日城でコーチや先輩にしごかれたから。ノックとか試合とか、手伝えると思う」

 

インターハイに出てシングルスでコニーと当たる。場合によっては一回戦で当たるかもいしれないが、トーナメント次第では数多の強敵たちを倒した末に、決勝で当たる可能性もある。

綾乃は確かに他者を寄せ付けぬ、王道とは離れた特殊な才能を持っているが、しばらくのブランクもある。北小町の部員数的にも、団体戦にダブルスとシングルス両方で出るのは避けられない。

加えてこの短い間でミックスダブルスを加えるというのは、精神的にも体力的にも無理がある。

 

故に弦羽早は、少し遠回しにだが協力すると告げた。ハッキリと自分の口から、自分の事は気にするなと言えないのは、受け入れたくない現れだったのだろう。

 

「…だけどね、それとは別に、秦野とダブルス、やってみたい」

 

一瞬、想像していなかった綾乃の言葉に思考が止まり、反応が遅れた。

 

「…いいの?練習量、かなりキツイと思うよ?」

 

「? だって、インターハイって夏でしょ?」

 

まさかの能天気な回答に弦羽早は今一度耳を疑った。人一倍頑張るからとか、そういった答えをちょっぴり期待していた弦羽早だったが、見事に打ち砕かれる。

単にこの少女はインターハイ出場と、そこで勝ち抜くと言う意味を理解していなかったらしい。

 

「…その前に県予選があるでしょ。団体戦は離れているからいいとしても、シングルスとミックスは一ヵ月切ってるよ」

 

「…え?」

 

「付け加えると神奈川って、人口多いから当然強い人も多いし、ミックスと言っても最近は力を入れている学校やペアも増えてる」

 

特に男子は守備範囲がシングルスとそこまで変わらないという点から、シングルスの上位プレイヤーが仲の良い女子を誘って参加、というパターンもこの年頃だと多い。そういったペアも存外強くて気が抜けない。

勿論今日の二ゲーム目以降の流れをつかめたら、練習せずとも多少の相手には負ける気は弦羽早も無かったが、一ゲーム目のグダグダした感じが抜けないのなら、そういった即興ペアに負ける可能性も充分にある。

 

「…夏から本気出すのじゃ遅いの?」

 

「遅いね…。正直、明後日からでも遅いよ」

 

「……」

 

「その、やべぇめんどくさい事言ってしまったって顔、やめてくれない?」

 

「な、なんでッ?」

 

「分かりやす過ぎるの」

 

やっぱり極端だな~と、綾乃の持つ多面性に笑いながら、綾乃の隣の石垣に弦羽早も腰を掛けた。綾乃は気づきもしないだろうが、まだ肌寒く感じる夜風を遮るように。

綾乃もまた、おかしそうに笑う弦羽早に頬を膨らませながらも、吊られるように口元を上げた。

 

「それでも、楽しかった。秦野とのミックス。ダブルスはパートナーに気を使うから苦手だったけど、今日は違った。嫌だったり面倒だったり、思ったけど、それ以上に…秦野と繋がってる感じがした」

 

「ダブルス選手冥利に尽きるよ」

 

「だからね、私、秦野と楽しいバドミントンがやりたい。今も、頭の中ゴチャゴチャしてて、正直よく分からない。でも、繋がり合えるダブルスで――」

 

――私も人の事を思いやれるんだって

 

綾乃の中にある別の仮面が、そう強く願う。でもそれは、試合の時に感じた弦羽早に対する苛立ちと同様に、今の綾乃には自覚する事のできないモヤモヤとした感情へと変わる。

 

突然言葉が続かなくなった綾乃はギュッと胸元のシャツを握りしめる。

ゴチャゴチャして、イライラして、弦羽早と再開してからはその原因が次から次へと降り注いで。

でも本当に嫌だったのは、自分の感情を理解できずに逃げ出そうとする自分自身である事を、コニーの言葉、弦羽早とのダブルス、そして今この時間を得て、初めて綾乃は自覚することができた。

 

でもそれに気付いたところで、今度は周りへの苛立ちから自己嫌悪へ移り変わるだけだった。

 

「(ッ…駄目だ、考えるのが…辛い…)」

 

シャツを握る手とは反対の手で、ズキリと痛む頭を押さえる。

 

その時、ポンと頭に優しく弦羽早の手が置かれた。

 

「秦、野…?」

 

「焦らなくていいよ。羽咲のその悩みは、多分バドミントンをやり続けて、より色んな人と繋がっていけば、きっと解決する」

 

「…どうして?」

 

「羽咲以上にバドミントンと繋がった人生を送ってる人は他にいないから。だから羽咲の今の悩みはバドミントンに関係することなんだと思う。それは、コートの外で悩んでも、今バドミントンから離れている羽咲にはきっと解決できない」

 

弦羽早が初めて綾乃と会った時、彼女は既に経験者だった。聞けば彼女は物心ついた時から既にバドミントンを始めていて、世間のプレイヤーにとっては”努力”と呼ばれる行為は、彼女にとっては母親との楽しい遊びであり、ごく平凡な日常の一部で。

彼女に追いつく為、弦羽早もまたこの八年近くをバドミントンにつぎ込んでいたからこそ、彼女の悩みが異質で、会話の一つや二つで解決できないことは分かっていた。

 

「だからさ、一先ず深く考えないで一緒にやろう、楽しいバドミントン」

 

「……うん! よろしくね、秦野!」

 

「こちらこそよろしく、羽咲」

 

 

 

 
































あんまりオリキャラってゾロゾロ出したくないんですけど、流石にコニーのパートナーがぽっと出なのはどうかということで軽く出してます。

メインがミックスである以上どうしてもこうなってしまいますが、男キャラは出ますね。

目標としては主人公以外はなるべく程よい程度の出番で、かつ試合で強キャラオーラだしたい。ただそれが出来たら苦労しないんだよぉ!


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スマホが無いのは致命的だね


ども。とりあえず大会開始までの目途が立ったので更新します。


ただ今回羽休めというか、為にならないバドミントンの会話がほとんどでして、ぶっちゃけ雑です。明日から本気出します


てかはねバドとバキのコラボってなんだよ…(困惑)



合宿を終えた翌日。授業終了のチャイムと共に綾乃は席を立つ。入学すぐのこの頃は、席順はあいうえお順で、綾乃のすぐ前の席には弦羽早(つばさ)がいる。

席替えが決まった日には彼はお通夜のように沈むか、あるいは駄々っ子のようにごねるか、早くもクラスメイトの間で心底実にならない賭けをしていた。

クルリと振り向いた弦羽早はリュックを持って。

 

「よし、じゃあ部活行こうか」

 

「え?今日はもう帰るよ」

 

「…え?れ、練習は!?」

 

「スマホ、壊れちゃったから買い替えないと…」

 

「……ああ。確かに、スマホが無いのは致命的だね」

 

「でしょ?」

 

このご時世、スマホ中毒という言葉がある程にスマートフォンの重要性は高い。これまでバドミントンに時間をつぎ込んできた二人であっても、その認識は世間大多数となんら変わらなかった。

 

 

 

 

「どうして秦野もついてくるの?」

 

「どの道羽咲とは放課後潰して一度話したかったから」

 

信号が青になり、カッコーと鳥の鳴き声が響く横断歩道を二人は並んで歩く。傍から見ればお互い容姿の整った仲睦まじいカップルだが、かれこれ七年近く片思い状態から進展していない。

 

「何を?」

 

「ダブルスの取り決めやセオリー」

 

これから新しいスマホを買いに行くというのに、色気のない話で、綾乃は面倒くさそうに顔を顰める。もっとも彼女にとっての色気のある話とは、美味しい肉まんか、良くて可愛い服が少し入るぐらいのものだが。

 

一昨日の夜のいい雰囲気はどこにいったのだろうと、女子にあるまじき顔をする綾乃の頭にポンと手を置く。進展があると言えば、少しだけスキンシップが取りやすくなったことだろうか。綾乃も頭に手を置かれて、嫌そうな顔はしない。

 

「フッ。秦野、覚えてないの?この間の試合」

 

「羽咲こそ、第一ゲームのスコア覚えてないの?」

 

「うっ…」

 

21‐8だったか。あそこまで屈辱的なスコアを味わった事のない綾乃にとっては、普段忘れっぽい彼女もその数字は覚えていた。

 

「ハッキリ言って第二ゲーム以降の噛み合ったのは偶然。あとコニーと大磯さんのペアが攻撃的で相性が良かったのもある」

 

「でも前衛が私で後衛が秦野でいいんでしょ?」

 

「基本はね。でもそれだけで通用するほどダブルスは甘くないよ」

 

車道寄りを歩く弦羽早は、目的地の駅前の携帯ショップの支店を見つけ、あれかと指を指す。綾乃は頷きながら、むぅと唇を甘噛みする。

 

「その話、時間かかる?」

 

「お題だけで言うと、まずローテーション、サービス周りの立ち位置、攻撃の配球パターン、守備の返球パターン、守備のフォロー、中間に来た場合の取り決め、ドライブ勝負に入った時の動き、左右のラケットの使い分け、掛け声。細かく別けるともっとあるけど、今から聞く?」

 

「…スマホ、買ってからで」

 

「了解」

 

大量の課題を言い渡された大学生のように心底嫌そうな顔をしながら、綾乃は携帯ショップ店の自動ドアを潜った。

 

 

 

 

 

 

「だったら連絡の一つぐらいしてくれ」

 

「す、すいません。つい…」

 

「羽咲とのデートが嬉しくってか?」

 

「あははは…」

 

スマホを買い終えると、ダブルスについての取り決めなどは綾乃の家でやることとなった。弦羽早も綾乃の祖父祖母に挨拶したかったのもあってお邪魔したが、それから間もなくエレナが健太郎となぎさを連れて、家にやってきた。

そして初日から部活に来ない綾乃を心配し、家までやってきた健太郎となぎさに睨まれているのが、弦羽早の現状だった。

 

「なんつーか、秦野はあれだな」

 

「綾乃の事以外だと、雑よね。色々と」

 

「ノーコメントで」

 

連絡一本かエレナに一言告げておけばよかったものの、それを怠る辺りに弦羽早の本質が伺える。

エレナはチラリと机の上に広げられたノートを眺める。今日の午前中にノートが汚いと現国の先生に怒られたのと同一人物とは思えない、バドミントンの用語が並んだ綺麗なノートだった。

 

それから健太郎が有千夏の取ったトロフィーを発見し、綾乃の母親が神藤有千夏であることを知ったり。また有千夏と会った事の無いエレナと、去年の全日本ジュニアで戦った相手が綾乃本人であると確信したなぎさが、アルバムを隠し見ようとして一悶着あったりなどしたが、「明日からちゃんと来いよ」と告げて、健太郎達は帰って行った。

 

そして綾乃の部屋にて座布団を敷物に話し合いを再起しようとするが、綾乃はスマートフォンを手放そうとはしなかった。

 

「ねえ、この設定の仕方分かる?」

 

「俺よりお爺ちゃんに聞いた方がいいんじゃない? というか、夕方になってるんだからいい加減始めるよ」

 

「え~」

 

「今から初めても遅いくらいなんだから」

 

「ん~、じゃあ泊まっていけばいいじゃん」

 

「……明日藤沢に殺されそうだから止めておくよ」

 

いくら祖父祖母や住み込みの従業員がいるとはいえ、警戒心の欠片も無い綾乃の言葉に一瞬心惹かれたが、バレたらエレナだけでなく有千夏にも殺されそうだったので止めておく。

有千夏のスマッシュならブラジルからでも自分の頭目掛けて飛んできそうだと、背筋を震わせる。

 

「まずは俺達のスタイルと勝ちパターンから。俺達の基本的なプレイスタイルは守りだ。守備からのカウンターを軸として、それを起点に相手を崩していく。ただダブルスはシングルスと違って、カウンターが上手く決まっても、フォローし合えるから決定的な一打とはなりにくい。ただそこで流れを変えられるのは確かだ」

 

「知ってるてば…」

 

「いいから。自分たちの強みを再確認するのは大事だ。特にラリーが続く最中は最低限の掛け声しか時間がないんだから。それに俺は羽咲みたいに前衛にいながらカウンターなんてことは早々できない。カウンター一つに対してもスタイルが違う」

 

「秦野は崩しから入ってる」

 

「そうだね。俺は速い球は素直にロブで打ち返して相手のスタミナを削って、相手の重心が崩れたタイミングでカウンターに入る」

 

バドミントンの花形であるスマッシュだが、よく筋力が全てだと思われがちだがそんなことは無い。勿論最終的にいきつくのはやはり筋力による有無だが、力を籠めずともある一定レベルの速いスマッシュは打てる。むしろただ力任せに打つスマッシュはむしろ遅くなる。

 

よくスマッシュの最初の練習として初心者が行うのが、コート後ろからネットを越えるようにシャトルを投げるものだ。

その理由として、野球のピッチャーのピッチングとスマッシュは使う体の動きが似ている。

まずピッチャーは手を後ろに持って、利き手の鎖骨辺りを前に出しながら、その勢いでそのまま体を前に出し、続いて肘を、そして最後に全身の溜めた力を肘から先を鞭のようにしならせて、ボールを投げる。

 

そしてその際に利き手側の足を軽く曲げることで、下半身の力と体重を込めている。ピッチャーが投げた後に足も一緒に出るのは、それだけのエネルギーを一点に集中し、他の部分の力を抜いているからだ。

流石にバドミントンではあそこまで一球に全力を籠めたら次の球が取れないが、大部分の流れは似ている。

 

話が長くなったが、つまるとこ重心の安定していないスマッシュというのはそこまで怖くなく、逆に安定しているフォームから繰り出される球は警戒せざる得ない。

ブレのないフォームから放たれるスマッシュを前衛で狙ってカウンターするなど、通常あってはならない。だからこそこの間戦った大磯は、綾乃の異常性に怯えていたのだ。

 

「ただ俺のロブは基本はセオリー通りのクロスが多い、つまりサイドバイサイドの状態で俺がクロスに上げた場合は、次はほぼ100%羽咲にスマッシュが来る。女子でかつストレートなんて狙わない理由がないからね」

 

「…私が返せないって?」

 

「まさか。でも返球は俺とはまた違ってくる。どれだけタッチが出来ても、力の差がある以上、打たれ続けたら押されるのは事実だ」

 

「じゃあセオリー通りクロスのドライブで返せばいいじゃん」

 

「いや、こっちがサイドバイサイドって事は、相手はトップアンドバック。つまりクロスに打てば前衛が間違いなく狙っている。余程強い球でカウンターできない限りね。だから羽咲はストレートで前に落としてくれ。そしてそれと同時にすぐ前に出て、俺が後ろに下がる。これでサイドバイサイドになっても、すぐにトップアンドバックに切り替える」

 

「スマッシュを打ち返すの好きなんだけどなぁ」

 

「勿論それができるのなら理想だけれど、ミックスは女子が前っていうパターンが王道中の王道だから、前衛が得意な女子が多い。生半可なドライブだと狙われやすい。あとは単純に男子のジャンピングスマッシュは角度も深い。サイドバイサイドの状態での羽咲は、いかに連続して打たれないかが鍵になる」

 

「…秦野は大丈夫って言うの?」

 

「これでもダブルスも二位だよ?スマッシュ狙われない程度には警戒されてたよ」

 

「初耳」

 

「そうだっけ」

 

弦羽早はノートにボールペンで書いたコートに、消せるようにとシャーペンで話の流れに合わせて矢印を書き足していく。

 

「逆にトップアンドバックになった時、この時はどんどん取ってくれて構わない。トップアンドバックではこちらは打たれないって事が理想だけど、羽咲が前衛にいる時はその常識が覆る。球の重さや速さによっては軽いレシーブになるかもしれないけど、速球を前衛がタッチしてくるだけで相手としては凄くやりずらいはずだ。自然と上がりやすくなる」

 

「ならずっと維持でいいよぉ」

 

「そうもいかない。羽咲の身長的にハーフ球に対しては無力だ。羽咲を警戒した場合の相手の戦略として必ず羽咲を越えるハーフが来る。それを続けられた場合、相手が守備が上手ければ今度は俺のスタミナが先に切れる可能性もある。まあ生半可な守備なら無理やり突破するけど、出来る限り攻撃のバリエーションは持っておきたい。そこで」

 

弦羽早は一度ノート上に書かれたごちゃごちゃした線の群れを消すと、真っ白になったコートの上に再度書き足していく。

 

「羽咲のブロックを越えてかつ、スマッシュが打てない微妙なハーフ球に対して、俺の取れる選択肢は落とす、飛ばす、そしてドライブで攻める。攻めを継続するならドライブが理想的だけど、ドライブの弱点は、球速が速い分カウンターも強烈になる。で、もし相手がレシーブが上手ければ、ドライブのカウンターとしてクロスのリアコートに返してくる。そうなったとき羽咲がフォローに回って、予めシャトルの射線上に位置取ってドライブを打ち取ってくれ」

 

「うん、まあ、ダブルスのセオリーだよね?」

 

「だね。でも女子が後衛に下がる事が少ないミックスに置いて、もしその球がリアコートまで飛ぶものだったら、女子は男子に任せるパターンが多い」

 

「じゃあそれも拾えばいいんだ」

 

「いや、基本は取らなくていいよ」

 

「え~?じゃあどうするの?」

 

「俺がきつそうだったらカバーに入って」

 

「…それ、どうやって判断するの?」

 

「そこは選球眼いいから分かるんじゃない? 相手のハーフ球の角度と着地点、そこから俺の打った球の速さと角度で俺の位置と態勢を把握して、レシーブが来た時に判断してくれればいい」

 

「そこまで…考えるの?」

 

「勿論。これが出来る前衛とできない前衛では圧が更に変わってくる。これを一回でも決めたら、いよいよ相手はハーフ球のレシーブも選択肢から消えて、大きなロブになる。そこからは完全に俺の仕事だから」

 

シングルスはシングルスで配球、攻撃パターン、コース、フェイントなども考えるが、ダブルスはやはりシングルスとは勝手が大きく違う。シングルスでは負けた相手にも、ダブルスなら勝てるという話は全く珍しいものではなかった。

確かにダブルスのいろはを知らなければ、相手によっては一対二の方がやりやすいと感じそうだと、綾乃は頭を抱えて机に項垂れる。

 

「ふぅ…」

 

「何終わったみたいな顔してるの。次、サービス周りの立ち位置決めるよ」

 

「えっ!?」

 

「他にも、真ん中の打球に対して今のままじゃ衝突するでしょ。ある程度目安は決めておかないと」

 

「そ、そういうの、掛け声でいいんじゃ…」

 

「羽咲の声小さいから、実際の会場だと聞こえない。だから言ったでしょ?放課後潰して話し合いたいって。ちゃんと頭に叩き込んでもらうから」

 

 

 

結局夕食は羽咲家でご馳走になり、食後もすぐに再開してようやく九時頃に弦羽早は家を去った。

久しぶりにここまで勉強したと、受験一ヵ月前の自分を思い出した。

 

最低限の礼儀として弦羽早を玄関先で見送った綾乃は、ヨロヨロと自分の部屋まで戻ると、ベッドに倒れ込んだ。チラリと机を見ると、先程まで開かれていたノートが閉じてある。

明日の授業に提出物が無いのが幸いだったと、綾乃は一息吐いた後、ノートを手に取った。

 

ベッドに横になりながらノートを開く。

綺麗な字だ。そう言えば右手も使えるようになったから、文字が滲まないようにと右手で書く様になったんだったか。

 

確か弦羽早が両利きを目指す様になったのは小学校四年生の頃だった。三年では別々のクラスだったが、それ以外は一緒のクラスで、お互いクラブが無い時はよく一緒に帰ってあの体育館で練習していた。

あの頃の弦羽早の奇行は今でも覚えている。突然右手で鉛筆を持ち、箸を持って、登下校中も右手をクイクイ動かしていたり、あるいは右足も慣れるために昼休みはリフティングをしていたり。おかげでその当時は下手なサッカー少年よりリフティングが上手かった気がする。

 

右利きの選手が左手でプレイできるようになるのは決して珍しい話ではないが、その逆は早々聞かない。しかもシングルスでは元々の利き腕である左手でやるのだから尚更おかしいものだ。

 

「(それでも右利きを目指したのって、私の為――そんな訳ないか)」

 

弦羽早は確かに、自分に憧れて両利きになったとは言っていたが、自分と合わせる為にとは綾乃に対しては話していない。

 

「細かいなぁもう」

 

ズラリと書き並んだ文字にチカリと眩暈がするが、番号が割り振られていたのが幸いして、受験合格を機にすっかり勉強嫌いに戻った綾乃にも何とか読むことができた。

 

書かれていたのは弦羽早が後衛にいる場合での配給。王道のパターンとしてはスマッシュ(七割)、スマッシュ(四割)、ドロップ、スマッシュ(全力)だとは書いているが、説明する際、このメモはあんまり参考にするなと言っていた。なら何故書いたとツッコミを入れるには、その時の綾乃には気力が無かった。

ただ重要なポイントとして、あえて相手がカウンターしやすいコースに打ってカウンターを誘発し、それを綾乃に叩いてもらうというのが理想的な流れだと三回くらい聞いた。

 

次以降コニーと戦うなら、ネット前のヘアピン勝負を挑む場合は100%とは言わずとも、6割以上は勝ってくれないと困るとも二回くらい言っていたか。

 

綾乃はノートをパラパラとめくりながら、小さく息を吐くと、パタンと閉じる。

 

「…秦野の癖に」

 

天井に向かってポツリと呟く綾乃の口は無意識にそう動いた。

 

 

 





私の地の文…薄すぎ?



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断言できる。絶対話を聞いて貰えない

書き溜め大好き人間なので、また数日空きます。というか、一話書くごとに一話投稿のスタンスだと90割モチベーション維持できなくて疾走付与されます。

投稿意欲と執筆意欲があるなら執筆を優先したい。
あと県大予選終了までは頑張りたい





インターハイ予選まで残り二週間と少しまで差し掛かり、綾乃も三日坊主を脱却し、部活生としての第一歩を踏み出していた。この季節はまだ湿度も気温も高くなく、締め切った体育館の中で行うバドミントンも比較的快適な方だ。

もっともその練習内容は、選手以上に気合に満ちた健太郎によって過酷なものとなっていた。

彼が入ってから八人もの生徒が辞めた練習は中々ハードだが、質の高い練習であり、入部すぐは練習内容に期待できないと読んでいた弦羽早(つばさ)にとっては嬉しい誤算だった。

 

先程団体戦に向けたミーティングを終えたバドミントン部一同はウェアに着替え終えると、ストレッチと準備運動を終えて、二人一組の半コートを使用した軽いアップに入る。

 

バドミントンでの練習内容や順番はその高校やチームそれぞれ異なるが、この北小町では、健太郎が一人、ないし二人相手にノックをしている間に、他のメンバーがフットワーク、個人練習、試合練習のどれかをするのが基本パターンで、今はその準備段階。

まだ体力に余裕のある彼・彼女らの表情にはゆとりがあるが、いつもこの三十分後には息を乱している。

 

その中で1コート丸々利用して練習しているのが、新入部員である弦羽早と綾乃のペアだった。勿論先輩たちの許可は貰っている。

因みに練習のペアは女子はなぎさと理子、悠と空。男子は学と行輝が、それまで通りにペアを組んでいる。

 

二人の練習しているのは、地面と平行するように打つ速い球、通称ドライブの練習だが、弦羽早が力の強いドライブを打ち続け、それに対して綾乃が慣れるのが練習の目的だった。

 

トントントントン

 

タッチの速い綾乃が行うことによってシャトルの鳴る感覚も他のコートよりもワンテンポ以上も速いもので、弦羽早としてもこの返球スピードを重いドライブで打ち続けるのはかなり練習になっている。

 

バック、バック、その後にもっとも苦手とする人が多いフォア寄りの正面。しかしそれも面を立てることですぐに対応し、返球速度が変わる事はない。

勿論弦羽早も、この程度の配球とコースで綾乃の練習になるとは微塵も思っていない。コート中央やや手前にいた弦羽早は、そこから少しでも甘いドライブがあれば前に詰めていく。

 

二人の距離が縮まったことにより、更にシャトル音の感覚が狭まる。

綾乃のドライブに付き合っている弦羽早だが、男子という点でリストが強いからこそ何とかドライブで返せているが、もしそのハンディが無ければタッチするだけで精いっぱいだ。

 

一歩ずつ狭まり、押し返す力に限界がある綾乃のドライブも徐々に弱まっていく。そしてゆったりとしたレシーブが弦羽早の元へと行ってしまい、ネット前まで詰めていた彼はそれをボディへとプッシュする。

 

が、ここまでがこの練習の前座だった。綾乃は足を付けながらも腰を引く様にして体の前に無理やり空間をつくると、体へと押し寄せてくるシャトルとの間にラケットを割り込ませ、クロスへとドライブを返した。

 

あそこまで追い込まれて置きながらのクロスのドライブはかなりの技術を要するものでコースは完ぺきだったが、やや威力に難ありだった。ドライブというには弱いそれは、ネット前にいた弦羽早が横に飛んでも充分に届くもので、再度プッシュを打たれて綾乃のコートへと落ちた。

 

「重いよぉ。あそこまえ詰められたら前でいっか」

 

「だね。俺が詰め出したらいつでもクロスに打っていいから」

 

「ん~…」

 

「なんでちょっと不機嫌そうなの?」

 

「別に…、もう一回」

 

綾乃とこうやって練習するのは三年ぶりになるが、時々弦羽早の言葉に綾乃は妙に不機嫌そうに返す。弦羽早もいろんな相手と練習してきたので、そういった反応がこれまで全くなかった訳ではないが、基本その手の輩は練習に不真面目なパターンがほとんどで、弦羽早も余り相手にはしていない。

しかしその相手が綾乃となると色々考えては見るものの、正直心当たりはないし、すぐに口元を上げてシャトルを打ち始めるので益々分からない。

 

今二人がやっている練習は、綾乃が男子のドライブに慣れるというもの。パワーの無い綾乃は、一定以上のレベルの男子相手とドライブ勝負になった時、間違いなく押されてネット前に詰められる。

試合の緊張状態の中で、綾乃の返球スピードに対してドライブで打ち続けるのは並みではないが、上に行けば行くほどその状況は起こりやすくなる。

 

特にミックスはインターハイへの出場枠が優勝の一枠しかないことから、少しでも男女のゲームスピードの違いを綾乃に覚えさせておきたかった。

 

勿論弦羽早としても、ここまで打ち込んでも崩せない練習相手などそういない。まるで壁打ちをしているかのように、綾乃は返してくる。この間コニーとのドライブ合戦に負けた弦羽早としても、綾乃という練習相手は、バドミントンの選手として理想であった。

 

弦羽早が一歩詰めたのを合図に、クロスへのドライブや前へのドロップを打ち分ける。元々クロスへ打てるようになるまでに練習を要するが、その段階を軽くクリアしている綾乃としては、あとはシャトルの重さとタイミング、返球時の力加減を覚えればいいだけであり、その練習成果はここ数日で既に如実に出ている。

 

パシンとラケットの中央、スイートスポットに当てた綾乃のレシーブは、鋭い軌道で弦羽早の横を通り過ぎ、反対のサイドコートへと落ちた。

 

「……」

 

「今のどう?」

 

「流石、完璧だった。引きつけもよかったから全然分からなかったよ」

 

ふふんと綾乃が腰に手を当て、そんな彼女に乗せて置くかと弦羽早が拍手を送ったところで、健太郎の掛け声が体育館内に響き、本格的な練習へと移る。

 

「今日の練習はさっきのミーティングで決めたダブルスに向けてのノックをやる。羽咲、荒垣ペア。海老名、伊勢原妹ペア。伊勢原兄、葉山ペア。羽咲、秦野ペアのローテーションでやる。泉には特別にシングルスのノックだ」

 

「あ、ありがとうございます」

 

ダブルスのノック練習でさえキツイというのに、特別メニューの追加に理子の頬がピクピクと引き攣る。

 

「しかも今日からマネージャーが二人も入ってくれた。球拾いもやってくれるみたいだ。次の休憩まで休みはないからな」

 

はい!と元気よく返事をする弦羽早と理子に、変わらず返事をしないなぎさと無表情の学。その他のメンバーはうへぇと猫背になっている。

 

新しく入ってくれたマネージャーというのは、、エレナとのり子だった。綾乃の保護者としてという名目で、ただやはりこれまで見た事の無かった綾乃の一面に惹かれたのだろうと健太郎は思っている。これまで見守っていた友達にあれ程異質な才能を見て、それでも興味を持たないのなら、それはもはや表面上での友達に過ぎない。もっとも、マネージャーまでやってくれるというのは心強い限りだ。

 

最初のノックメンバー以外の練習はフットワーク。もっともきつく、かつ地味なものだが、体力と素早さを付けるという点では一番メジャーなものだ。

バドミントンは他の競技に比べるとそのコートは狭く、しかしその中を駆けまわるという点で、体力の使い方が他のスポーツとは少し違う。決して、どちらがきついと論争する訳ではないが、仮にそれまでサッカーをやっていた人がある時バドミントンをすれば、最初はサッカーの試合以上に疲れるだろう。その逆も然りだ。

 

ランダムにフットワークを指示する機械もあるが、そんな機材がある訳も無いので、予め決めたルートを回り全員が終えたら次のフットワークに進む。その為早く終わらせた方が、少しでも休憩できるというシビアなルールだった。

 

その中でもやはり早いのは弦羽早。ついで学だった。やはり体格という点で、どうしても悠が最後になりがちだったが、彼女は次のフットワークにも全力で取り組む。彼女も十二分にやる気に満ちていた。

 

次のフットワークで一度休憩に入るまで進んだ頃。ガチャンと、バドミントンプレイヤーにとっては聞きたくない、ラケット同士がぶつかった音が体育館に響き、皆のフットワークが止まる。

どうしたのかとノックチームのコートを見てみると、ノックの練習をしている綾乃となぎさがぶつかって、絶賛言い合いをしていた。そのコートの傍では、のり子が点数を捲っている。

数字は33となっておりバドミントンにおいてはまず見る事の無い数字で、綾乃となぎさの光景を苦笑しながらのり子はまた一枚めくった。

 

まさかと思ったのは弦羽早だけでなく、フットワークメンバー全員信じられないような目で二人を見やる。

 

「た…ただのノック練習なのに…」

 

「いやいや…34回もぶつかってんのは異常じゃない…?」

 

困惑する健太郎に対し、球拾いをしていたエレナがツッコミを入れる。

 

「な、何でただ声を掛けて引くと言うだけの連携が取れないんだ…」

 

人によって性格がプレイに出るのは当たり前だが、ここまでぶつかるダブルスプレイヤー達は、初心者を入れても見た事が無い。しかも片や昨年のインターハイ出場、片やダブルスでコニーを破った、バドミントン歴の長い上級プレイヤーだ。

 

動揺が隠せないながらも、角度のある球を打つために台の上に乗った健太郎は、ノックを再開する。

 

各々に対して打つ球には何の問題もない。綾乃は勿論だが、なぎさもどんな球でも全力で取りに行くスタイルで、持久戦に持ち込むのが得意なスタイル。正面の球は苦手なものの、シングルスの半コートであるダブルスのノックは、男子の平均身長以上の高さを持つ彼女にとって難しいものではない。

 

しかしと、健太郎は最後の一球を中央寄りに打つ。すると二人はまるでお約束のように一緒に手を伸ばし、仲良くぶつかり合った。

 

「…次、海老名と伊勢原妹ペア」

 

あまりの酷さに健太郎は頭を抱えながらも次の二人へと移す。本来ならなぎさと綾乃はフットワークの練習に入るが、健太郎に見ている様にと言われてコートの横へと待機する。

 

二人のノック練習は、勿論健太郎がレベルに合わせて綾乃となぎさよりは弱めの球を打っているとはいえ、当然一度の接触もなく楽々クリアした。

 

その光景を見ながらも、なぎさは綾乃を軽く睨みつける。

 

「…あたしに責任があるとは思えないんだけど…」

 

確かになぎさは中央の球を打つ時に、掛け声は出している。綾乃も出していたが、声が小さすぎて聞こえていない。またなぎさも、綾乃寄りの球も打とうとしていたので、やはりどちらが悪いとも言えない。

 

しかし綾乃、なぎさがペアで組む場合として、やはり守備に分があるのは綾乃であり、そこが強みでもあることはこの間のミックスダブルスで健太郎は把握している。そして綾乃の弱点は強打が無いことであるが、なぎさならそれを補えることも。

前衛の綾乃、後衛のなぎさという組み合わせは、もし仮に四週間後のダブルスに出た場合でも十分に通用する可能性を秘めている。

だからこそ、なぎさに譲って貰いたいという意識が健太郎にあった。

 

「(羽咲と秦野のノックを見せるか…? いや、あいつらはしっかり役割決めているし、秦野はパートナーの位置取りをよく見ている。正直参考にするには慣れ過ぎているな。なら…)」

 

「泉、ちょっと羽咲と組んでみろ。荒垣、泉とやるところ見とけ」

 

「理子ちゃん!」

 

そのお姉さんオーラからか、合宿を得てからすっかり綾乃は理子に懐いており、綾乃は嬉しそうに声を上げる。

自分とは全く違う態度の綾乃にムスッとしながらも、なぎさは頷く。

 

二人のノックは完璧だった。初めて組む即興のペアとは思えない程に安定していた。この間のミックスの試合で綾乃の守備範囲を理解していた理子は、厳しい球や判断に困る球は素直に綾乃に任せ、自分の仕事に専念する。

結果二人は接触する事も、お見合い状態になることもなく、ノック練習を終える。

 

しかしその結果をなぎさが面白く思う訳がなかった。

 

元々健太郎に対しては、綾乃が入部するきっかけとなった”お前なら金メダルを取れる”という発言、自分には一度も言った事の無いその言葉に、なぎさは未だに少なからずわだかまりを抱いていた。

 

そして今の理子のような事を、なぎさがやるべきだという健太郎の発言を機に、元々溜まっていた不満が爆発した。

 

「つまりアンタのお気に入りの引き立て役になれってことか? 立花さん」

 

「何言ってるんだ、荒垣?」

 

「金メダルを取りたいアンタはそのちびっ子を使って夢をかなえたいって訳だ。だったら私はこんなの――」

 

降りるとは、言えなかった。自分を見つめる中学校からの仲間である理子の不安げな眼差しに、ヒートアップしていた頭が一瞬だけ冷えて、何とか押とどまった。

 

しかしなぎさのむしゃくしゃは収まらず、体育館を去っていく。理子がその背中を追いかけようとするが、健太郎に止められる。

 

健太郎の求めている意図が分かっている弦羽早もまた、なぎさを諭そうかと思ったが。

 

「ゴチャゴチャ言ってるがつまりお前も羽咲贔屓って訳だ」

 

この一言で片づけられる予感しかしない。ギロリとその勝気な瞳で睨まれるのが容易に想像できた。

実際守備に関しては、弦羽早はプライベートの感情抜きで綾乃を尊敬している。そもそも弦羽早が攻めより守りを主軸に戦うきっかけになったのも、綾乃との練習故だ。

 

だがどれだけ取り繕っても、この間綾乃がスマホを買い変えた一件から弦羽早は、綾乃最優先、という前科持ちだ。

 

「(断言できる。絶対話を聞いて貰えない)」

 

自業自得とはいえ自分の人望の無さに心の中でため息を吐きながら、弦羽早はまた練習を再開した。

 

 

 

 

それから一度綾乃が少しの間、いなくなったりもしてたが(こっそりなぎさに謝りに行っていた)、以降はトラブルは無く、次に綾乃と弦羽早のノックの順番となった。

 

フットワークメンバーも休憩に入っていないが足を止め、見学する事に健太郎も口出ししなかった。球出しであるエレナの手元には、それまで数ダース程度だったシャトルが、篭一つ丸々置かれている。

そしてエレナに対してすぐに出す様にと二回ほど繰り返してしつこく注意をする辺り、やはり気の入れ方が違う。

他の部員に対して手を抜いていた訳ではないが、取れない球のノックをしたところで練習にならない。ギリギリ取れる球を出し、その範囲を徐々に広げていくと言うのが理想のノック練習である。

そしてこの綾乃と弦羽早のペアには、おそらく取れない球というのが、それこそ台から叩き落とす様にして床に叩きつけない限り、存在しない。

 

「いいか。シャトルを打つ時、定期的に”上げろ”か”攻めろ”と俺が言うから、それに合わせてロブかシャトルを落として、フォーメーションを変えろ。何も言わない時はそのフォーメーションを持続する球を打て。攻めの時に甘い球があったり、アウトかネットがあったら、その分体育館半周だ。いいか?」

 

「はい!」

 

「えぇ…さっきと違い過ぎるよぉ」

 

「それくらい緊張感を持てって事だ。もう三週間近くしかない上に、ミックスで二位は許されないからな。行くぞ!”攻めろ”!」

 

いきなり中央からのドライブ球に対して、更にフォーメーションのチェンジの要求。厳しすぎる初球に部員達から悲鳴が起こるが、すぐさま綾乃がバックハンドで右のサービスコートのサイド寄りにドライブを放ちながら、前に出る。

 

「(今のを秦野ではなく羽咲が取るか。中央で互いにバックハンドなら、男が取るのが普通だが)」

 

トップアンドバックになった二人に対し、次はコート右奥にドライブ。健太郎が上げろと言っていないので、上げることは許されないが、弦羽早は特に困った顔をせずに、フォアハンドのストレートで打ち返す。サイドラインギリギリとは言えないが、その角度はネットギリギリ。

 

ならばと反対の左奥へと緩やかなハーフ球を送る。先程のなぎさや理子とやっていた綾乃なら手を出す球だったが、それを見送り、弦羽早が左へ飛びながらラウンドでスマッシュを放つ。

その直後に着地間近の弦羽早のボディへとドライブ球。それは前衛の綾乃がカバーに入り、ヘアピンで前に落とす。

 

が、これで二人は片方のサービスラインに集まる形となり、反対が開く。そこを見計らってサイドラインの中間へと、”上げろ”と告げながら少し弱めのドライブを放つ。

それを後衛の弦羽早が上げて素早くサイドバイサイドに戻る。

 

綾乃へのドライブ、ネット前、そしてロブからの”攻めろ”。綾乃のスマッシュは角度こそないものの、シングルスのサイドラインのライン上へと決まる。

 

綾乃へいる場所へと数回繰り返してロブを上げる。それを綾乃はそれぞれ中央へのドロップ、クロスへのドロップ、そして中央のアタッククリアへと別ける。最後のアタッククリアは体育館半周かと思ったが、後ろのラインギリギリでかつほぼ中央のライン。これで半周に追加したら、お前がやって見ろと言われる。

 

そして弦羽早のいる前に二回ほど程送り、綾乃へのドライブを放つ。それを綾乃がストレートのドライブで打ち返すと直後に、綾乃の反対側のリアコートへとカウンター球を想定した速い球を送る。

 

「なっ!?」

 

いくらなんでも物理的に無理な配球に皆声を上げるが、しかしそのシャトルはリアコートへ行く前に、下がりながらスマッシュを打った弦羽早によって返された。更にそれに合わせ、素早く綾乃が前、弦羽早が後ろへとローテーションが切り替わった。

 

「ありがと」

 

「さっきのカバーのお礼ってことで」

 

「(凄いな、会話する余裕すらあるのか。もう少しバリエーションを増やしても問題なさそうだ)」

 

「”上げろ”そこから横維持でドライブ!相手は二人とも右利きだと思え!」

 

健太郎はそこからドライブやスマッシュを想定した激しい角度の球を打ち続けるが、二人は決してそれぞれのサービスコートの右側には打たなかった。

二人とも右利きと思えというのはつまること、フォアハンドに少しでも甘い球を打てば、それをカウントするという意味であり、二人はその意図をすぐに読み取った。

 

それから篭の中のシャトルが空になるまでの間、アウトやネットミス、あとはローテーションした直後の甘いミスなどやはりいくつかあったが、それでもノックを終えた二人が走ったのはせいぜい三週程度だった。

 

 

 

走り終えた二人は、綾乃は地面に倒れ込んで、弦羽早も床に座るようにして息を整えていた。

 

「ハァ…ハァ…き、きつい…」

 

「こ、ここまでのノックは、ひ、久しぶりです…」

 

一瞬、流石八人を辞めさせた鬼コーチだと冗談交じりの嫌味が出そうになるがそれを呑み込む。それが健太郎にとって冗談でないことは、この間の合宿の食事の際の彼を見れば子供でも分かる。

 

「驚いたぞ。合宿の際のコンビネーションは正直マグレかと思っていたが、既にあれ以上だ。スムーズだし中央の球に対する迷いもない。何か決めてるのか?」

 

「基本的に強い球、ロブは俺が取って、カウンターできそうな弱い球、前の球は羽咲に任せています。俺達は下手にバック側だからとか意識しない方が、相手への奇襲にもなりやすいので」

 

そう、この二人の守備範囲の広さの理由の一つが、やはり二人とも両利きという異質な組み合わせであること。右利き左利きである以上、お互い中央がバックハンドになるという状況が生まれるが、この二人に置いてはその常識が通用しない。ネット前にいる綾乃に対し、バックハンドにずっと配球を送っていれば、持ち替えてフォアでプッシュを打ち、弦羽早もラウンドに追い込んだと思ったら持ち替えてフォアハンドで打ち込んでくる。

遊びレベルなら”真面目にやれ”と健太郎も怒るが、この二人はどういう訳か実戦レベルでそれが使える。

 

「(この二人を越えるミックスペアが県内にいるとは思えないが、もしいるとしたら対策の必要がある。松川さんに聞いてみるか)」

 

この間の合宿の際にメモを貰ったバドミントン記者の女性を思い出しながら、健太郎は一先ず二人に休憩するようにと告げ、次は理子のシングルスノックへと移った。

 

 

 

 

練習は日が落ちるまで続き、その頃には皆の疲れもピークに達していて片づけを終えるとそうそうに切り上げていく。一番早かったのは綾乃で、エレナを引っ張るようにして帰って行った。のり子は夕方時に用事があるので先に帰っている。

そして着替えの早い男子二人が上がり、そんな彼らに続く様に悠と空。そして最後に理子が更衣室の鍵を閉めてお開きというのがいつもの流れだったが、健太郎は少し残るとの事だったので弦羽早はそれをいいことに、マンツーマンでの練習を行っていた。

 

ビシュンと空を切る音と共に放たれたのは、健太郎のジャンピングスマッシュ。速さ、角度、コース、ノビ、全てが一級のそのスマッシュは弦羽早の立つサイドコートへと突き刺さる。

膝を怪我した事で選手生命を絶たれた彼だが、日常生活には差し支えなく、膝も一回や二回跳ねただけで痛いほど悪い訳ではない。ただ、選手としてバドミントンをするには致命的な怪我であった。

 

「凄い。怪我をしていてこのスマッシュ…」

 

ラケットを伸ばした時には既に横を通り過ぎていたシャトルに、弦羽早は感嘆の声を上げる。ここまでの質の高いスマッシュを見たのは久しぶりだった。

 

「秦野、あんまり練習し過ぎてバテても知らないぞ」

 

「日城バドミントン部卒業生舐めないで下さい」

 

「ったく、練習熱心過ぎる生徒がいるのも困りものだな」

 

健太郎は嬉しそうに口元を上げると、健太郎は右サービスコートから斜め前に立つ弦羽早へショートサーブを繰り出す。

それを少し甘めの中央へのドライブを放ち、素早くコート中央に戻るが、その直後に左サイドへの激しいドライブ。ネットを越える瞬間まで地面と平行だったその球へ、弦羽早は大きく一歩左足を踏み出して、”フォアハンド”で再びコート中央へと返球。

 

健太郎がロブを上げると中央へのスマッシュを放ち、ヘアピンで落としてきた球を、再び甘いハーフ球で返す。

この練習は健太郎と実際にラリーをする形式だったが、健太郎のいる中央へ返すというのが目標だった。使用するコートは内側線、つまりシングルスである為、中央に返す練習というのはそこまでタメにならないように思われるかもしれないが、どんな球でも中央に返すというのはコントロールが必要となり、何よりフットワークの練習としてはここまでいいものはない。

健太郎に負担が少ない分、弦羽早が粘るまでは練習は続くのだ。

 

上がって来たシャトルに対し、健太郎は強打と見せかけて前へとドロップ球を落とす。

 

「ぐっ…」

 

慌てて前に飛び出した弦羽早だが、シャトルはラケットに触れてヘアピンで返せたものの、真ん中に返すという練習はそこで終わりとなった。ラリーの回数は47回。弦羽早はコート隅から隅までは走らされながらも24回返球を続けた。もし本物ラリーであったら観客が沸き上がる程の熱いラリーだ。

 

「ハァ…ハァ…」

 

「なるほどな。お前がシングルスが苦手な理由が少し分かった。フットワークは綺麗なものだし、安定感に関してはズバ抜けている。教科書に乗せたいくらいにブレない。だがフットワークの出そのものがそこまで速くない」

 

「い、今の一回で、そ、そこまで分かりますか」

 

膝に手を置いて息を整えながら、首を上げて健太郎を見上げる。

 

「と言っても並みの選手よりかは速い。だが全国のシングルでとなると、上に上がる程通用しなくなるだろうな。あとはあれだ、少し素直過ぎる。ラケットの面にしても、コースにしても。決める事よりもラリーを続けることに意識している分、面がブレやすくなるフェイントを嫌っている。あと配球にはかなり気を使ってるみたいだが、それもその場で組み立てるより、予め決めているだろ?」

 

「コーチはエスパーですか」

 

「大人舐めんな…ってのは冗談だ。指導する立場となると、また他人のプレイが違って見えるんだよ。それに合宿の際から気にはなっていた」

 

弦羽早が入部してすぐに彼の中学校での戦績を見たが、シングルスは日城の身内争いに敗れたのか全国に出場すらしておらず、その反面個人ダブルスは二位。決勝戦で当たった相手とは団体戦時にも当たっており、そこでは勝っている。

 

「なるほどな。確かにダブルスは出の速さよりも安定感、フェイントもシングルスに比べると重要度は低い」

 

例えばシングルスでの王道のフェイントだが、ネット前に落ちて来た球を、ヘアピンで返すと見せかけて奥へとロブを行うフェイントがある。コート全てを一人で拾うシングルスにおいて、そのフェイントに引っ掛かったら致命的だ。しかしダブルスで同じフェイントを使用したところで、後ろにはもう一人相手がいるのだから、引っ掛かったところで即失点につながることは無い。

 

勿論ダブルスにおいても様々な有効なフェイントや騙しなどはあるが、その辺りを弦羽早はほとんど使用しない。

 

「どんな強打にも撃ち負けないレシーブ力、ミスをせずに継続できる安定性、ネット際を狙いながらも引っ掛からないドライブ、そして両利き。正真正銘ダブルス特化って訳だ」

 

「中学校の監督にも言われました。俺はダブルスをとことん極めた方がいいって。実際俺もダブルスの方が好きですし、やってて楽しいのは断然こっちです。でも――」

 

少し言葉に行き詰った弦羽早は少し照れくさそうに頬を掻く。

エレナやのり子が弦羽早は分かりやすいと言っていたが、確かにこれは恋愛に疎い輩でもすぐに分かりそうだ。その相手が恋愛に疎いを通り越している朴念仁であるのは、この二人にとって吉と出ているのか凶と出ているのか。

 

「…また羽咲か?」

 

「あはは…やっぱり分かっちゃいますか。そうですね、はい。ただ、それはその、男としてどうこうって訳じゃなくて、ずっと見て来たのはシングルスで戦う彼女なので。だからやっぱり、目指したくなるんですよね」

 

でも、と弦羽早は続ける。

 

「監督はやっぱり俺をダブルスの選手として育て上げたかったみたいで、中学ではほとんどダブルスの練習がメインでした。実際それに不満は無くて、むしろ毎日成長を実感できるみたいで楽しかったんですが、久しぶりに羽咲と再開すると、こう沸き立つんですよね。彼女と一緒のバドミントンを見たいって」

 

「ああ、なるほどな…」

 

健太郎はフッと笑みを浮かべるが、その内心は爽やかな笑顔とは正反対だった。

 

「(こいつ重ぇぇえ。羽咲羽咲って、こいつの原動力ほぼ全部羽咲じゃねぇか。両利きになったのも羽咲とペア組むだけにやってるし。もしこれでバドミントン始めたきっかけと日城に入ったきっかけまで羽咲だったらいよいよヤバいぞ。フラれた暁にはストーカーか自殺かひきこもるか、どの道ろくなことにならなそうだ。

まあ、幸い羽咲を好きになる奴はかなりの”物好き”だからな。ライバルは少なそうか)」

 

心の中であることをいいことに教え子二人に毒を吐く健太郎。弦羽早は性格、外見、スペック共にどれも同じ男としても打ちどころがないが、想いが一途であまりにも重すぎる。

その好意を向けられている綾乃は、外見は背が低く細身で、顔つきも女の子らしくて男受けしそうだが、中身はまあ色々と変わっている。ついでに一部の身体能力も人間のリミッターの一つくらい外れている程度にぶっ飛んでいる。

 

健太郎の結論としては、こいつらの恋愛に関わりたくないな~という、至極引き気味な答えであった。進展するなら高校卒業後、せめて高3のインターハイが終わるまで待って欲しい。

もっとも、このレベルの二人がそこまで長い期間、このバドミントン部で練習するとも考えにくいが。

 

二人が笑みを浮かべ合って(一人は作り笑い)語り合っていると、ガラリと体育館の扉が開いた。そこに立っていたのは、練習中に出て行ったなぎさであった。

 

綾乃をライバル視しているなぎさと、綾乃が好きなことがバレバレな弦羽早。

自分が彼女と相性が悪いことは知っていたので、弦羽早は空気を読んで練習を切り上げた。

 

「あっ、荒垣先輩お疲れ様です。じゃあ俺、これで失礼するんで」

 

「えっ?あ、ああ。お疲れ」

 

挙動不審な弦羽早に首を傾げつつも、すぐに健太郎の真剣な声と表情で我に返ったなぎさ。

 

彼女はこれから健太郎とのシングルスの中で、抱えていたコンプレックスを解消し、部員の皆に謝りに行くのだが、新入生の二人はその現場に居合わせてはいなかった。

 

 




試合の日程とかは開催時に描写で書きます。まあ原作と基本一緒です。
アニメしか見てない人は…買おう!


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負けた相手だって

大会の去り際いくさまで書き終わったので投稿。

溜める理由は色々あってモチベ維持とか見直し面倒とかもありますが、綾乃ちゃんの心境がコロコロ変わるからね、その中で自分の書きたい綾乃ちゃんの整合性が難しいねんなって

急にギスギス






「勝って終わりじゃないんだよ…。負けた相手だって努力して、強くなるんだよ?」

 

一早く体育館を去った放課後。部活で消費したカロリーを補う為に、のほほんとした表情で肉まんを頬張る綾乃に対しエレナは告げる。

 

大会が残り二週間間近に迫り、エレナとのり子はマネージャーとなった。シングルスだけでなく弦羽早(つばさ)とミックスで出場することとなり、それでも緊張感もなく、あちこちのコンビニに寄り道をする綾乃へ、エレナはこう語った。

 

緊張感を持ったら?

 

コニーは綾乃に勝つために今凄く頑張っているかもよ

 

コニーに限らず、綾乃が倒してきた相手だって一度は勝ったかもしれないけど、いつか、追い抜かれるかもしれないよ。

 

 

そして、冒頭の台詞へと戻る。

 

エレナの言葉は、今の”羽咲綾乃”にはもっとも耳に痛い台詞であった。

高校入試の進路相談で、担任の”今のままでは厳しい”という言葉や、これまでバドミントンを教わっていた先生やコーチ達からの”何やっているんだ”と叱咤より、ずっと心が重くなり呼吸が苦しくなる。

 

綾乃はギュッと手に持った肉まんを握り絞め、具がポトリと地面に落ちる。

 

「…あ、綾乃?」

 

エレナにとってもまた、彼女の反応は想定外だった。てっきり、自分の言葉を青天の霹靂だったと、口を開く綾乃の姿をどこか想像していた。

だが彼女は顔を俯かせるだけでジッと動かないまま。ただ綾乃の取り囲む空気が、呼吸をする毎に下がっていくような不気味さを感じてしまった。

 

友人に猜疑心を抱いたことにエレナは一瞬自己嫌悪に陥るが、彼女の抱いた感情は間違えでは無かった。

 

もし友人で無ければ、エレナはおそらく逃げ出していた。コンビニの明かりが周囲を照らしてくれたのが幸いで、もし電灯の明かりしかない暗闇であれば本当に逃げていたかもしれない。

 

それくらい、綾乃の口から紡がれた声は”怖かった”。

物理的な音ではなく、籠っている感情が。いつもの彼女と同じ声だと言うのに、トーンが少し下がっただけでここまで変わるものかと狼狽する。

 

「…知ってるよ、それくらい。負けた相手が”成長してくる”ことは、誰よりも知ってる。でもね、エレナは知らないんだぁ」

 

「な、なにを?」

 

「そんなことができる人間はね、ほんの一握りなの。ほーんのちょっとだけ」

 

 

チリチリと綾乃の脳内に、かつての出来事が思い浮かぶ。

 

 

中学校に上がり、それまで各々がクラブチームでスポーツをやって来たが、大多数の者は部活へ移転する。バドミントンに限った話でなく、他のスポーツも、芸術系も、趣味等も、対応する部活があれば皆そうなる。

 

綾乃もまたその大多数の一人だった。学校の友達と、先輩たちと、一番の長い練習相手であった弦羽早はいなくなったが、彼・彼女らとバドミントンができると心から思っていた。

 

だが結果は酷い有様だった。

入部すぐ、経験者と言うことで中三の男子の主将とシングルスで戦ったが、2ゲーム合わせて2点も取られる事なく綾乃は勝った。あまりにも一方的な試合だった。

 

その試合に、綾乃を凄いと褒める人は一人もいなかった。それまで仲の良かった小学校からの友達も、”酷い””可哀そうだ”と綾乃を責めた。

 

何故? 自分はルール違反は勿論、煽ったりとマナー違反もしていない。正々堂々戦った結果がスコアに現れた、それだけだ。

 

何よりも、綾乃にとって負けた相手が努力する事は当たり前の事、いわば義務とすら思っていた。

勝てないのは努力が足りないから、バドミントンにつぎ込んできた、時間が、気合が、熱意が、想いが、そして才能が足りないからだと。もし悔しいと欠片でも思うのなら努力すべきだと。

 

”だって秦野がそうだったもん”

 

どんなに一方的に負けても、それこそ一点も取れずスコンクで負けたって、彼は悔しそうにしながらも、時には泣きながらだって、綾乃にアドバイスをもらって何度も全力で立ち向かってきてくれた。

 

狭いながらも質の高すぎる世界でバドミントンをやってきた綾乃にとって、勝った自分にアドバイスも貰わず、ただ責めるだけの彼女らの言葉は理解できなかった。

 

でも綾乃は自分は優しい少女だと思っていた。周りの反応が理解できないながらも、励ましの言葉を対戦相手の先輩に送った。

 

「先輩ももっと努力すれば、その内私にも勝てますよ」

 

私に勝てると、お世辞にも言ってあげたのだ。

 

だと言うのに、彼はギロリとこちらを睨みつけた直後にラケットを地面に叩きつけると、折り曲がったラケットを投げ捨てて体育館を去って行った。そんな選手としてあるまじき行為をしたのにも関わらず、女子も男子もひそひそと白い目で自分を見つめる。主将を悪く言う人は一人もいない。

 

未だに綾乃は理解できなかった。ただ、その部活の甘ったるいお遊戯の”バトミントン”をやる気はさらさらなかった。

 

結局すぐに部活を辞めた綾乃は別のクラブチームに入って大会に出場する事となるが、当然同じ中学校のバドミントン部も出場していた。実際に女子の一番上手い三年生とも対戦したし、その倒した中三の男子主将の試合も見たが、思わず笑いそうになるくらいに酷く、同時に理解した。

 

「(ああ…。負けても努力できるのって、ほんとに一握りなんだ)」

 

あの頃より全く上手くなっていない男子主将に、負けてすぐは泣き出す癖に、30分後にはお菓子を食べて友達と好きな男子について語り合う女子。

 

その時、綾乃は心底格下の相手に失望した。

 

彼女がそれまで、どんなに一方的に勝っても楽しいと思えたのは彼がいてくれたから――そう思える程に綾乃は優しくなく、ただただ失望するだけ。

 

綾乃が三年生になってもそれは変わらない。母校のバドミントン部は、誰一人としてメダルはおろか賞状すら貰っていなかった。

 

 

 

 

「だからさぁエレナァ。大丈夫だって。だってあの時の合宿、見てたよね?最後のゲーム、二点だよ、たったの二点!しかもたまたまライン上に乗ったマグレ球! ほんとはさぁ、あれもアウトだと思うんだよね。でもさ、判官贔屓っていうんだっけ?どうせあの線審達も、試合に影響ないからって可愛そうだから点数入れてあげたんだよ」

 

「あッ、綾乃ッ! アンタ自分が何言って!」

 

「分かってないのはエレナだよぉ。負けて努力の出来る人間なんてほんの一握りだけ。大多数の人間なんてね、この蟻みたいに群れるしかできないんだよ」

 

自分が零した肉まんの具に群がる足元の蟻を踏みつぶしながら、綾乃はにっこりと微笑んだ。

 

「ッ!」

 

エレナの脳裏にシュッと横切ったのは、コニーのパートナーだった大磯という大学生。試合直後の彼は悔しいというよりも、酷く怯えるように挙動不審だった。弦羽早とシングルスの試合で負けた時は悔しそうにしながらも笑っていた彼が、ミックスで負けた時はまるで死刑宣告を言い渡された死刑囚のようで。

その姿に違和感を覚えていたので今もその光景をよく覚えているが、その理由が嫌な程に分かった。

 

ガクガクと足が震え、今にも逃げ出したかった。

 

誰だ? 目の前にいる少女は本当に親友の羽咲綾乃なのか?

いつもは蟻の列をぽわ~とした表情で眺めてそうな彼女が、今は笑顔で足元の蟻を踏みつぶしている。

 

分からない、怖い、逃げたい。でも――と、エレナはキュッと拳を握った。

 

「あ、綾乃が目指しているのは、そういう”諦めない人たち”が集う場所でしょ!」

 

その瞬間、にこやかだった綾乃の表情が曇る。

 

「……」

 

「負けて負けて、そこから努力して!わ、私は偉そうな事は言えない!バスケ部だったけど、全然いいところ行けなかった!でも勝ち上がる人たちが、最初っから強かったなんて、一度も思った事ない!」

 

エレナは思考を放棄するのを止めない。頭は上手く回らないが、それでも今この綾乃の言葉に頷いて、この話を流す訳にはいかないと必死に口を動かす。

 

ギリッと綾乃は唇を噛み締めたあと、イライラしたように前髪を乱雑に掻き上げる。

 

エレナの言葉は言い返す余地のない正論中の正論。その事を知っているのは他ならぬ自分自身であるのに、他人に言われるとどうしてここまで心がざわつき、イライラするのだろう。

 

「ッ!あぁ~、だからさぁ~、それも分かってるって言ったじゃん…。だからさっきまで練習してた。みんなと一緒に始めて、みんなと同じ時間に帰った。それで緊張感を持て? だったらみんなにも同じこと言ってあげて。二回戦突破も厳しそうですから緊張感持ってくださいって」

 

「なっ、あ、綾乃!いくら私でも本気で怒るよ!」

 

「…怒れば? 負けた癖に努力したことのないエレナに言われたって何も思わない。じゃあ、帰るから」

 

ガンと通りがかったゴミ箱を蹴とばして、ゴミ箱の側面に肉まんを捨てると、綾乃は一度も止まる事なく夜の闇に消えていった。

 

残されたエレナは呆然としながらも、ただやけくそになって感情に身を任せはしなかった。

何故綾乃が急にあんなに豹変してしまったのか。少なくとも自分の一言が爆発のきっかけとなったが、あの口ぶりは元々溜まっていた想いのようだった。

 

バドミントンを再開してからの綾乃は酷く不安定だ。楽しそうだったり、キラキラと目を輝かせたりとするが、同時に顔色が悪くなったり、痛むのか頭を抑えたりとする。

 

チラリとコンビニを見ると、店員の男性が綾乃を追いかけようとしており、慌ててエレナが呼び止める。

 

「ごめんなさい!彼女、喧嘩して凄くイライラしているんです。普段とってもいい子で、優しくて!私が片づけますから、許してやってください!」

 

「……次やったら、学校に連絡しますからね」

 

「はい…。ほんとに、すいません」

 

 

 

 

「…イライラするよぉ」

 

口調やトーンは普段の綾乃に戻っていたが、纏う空気は依然冷たいままで、時折横切る者は大の男であろうと綾乃に道を譲る程に不気味だった。

 

ここまでイライラするのは合宿で弦羽早のシングルスを見て以来だろうか。しかしあの時はまだ保っていたので、多分今の方が機嫌が悪いのだろうと、普段の綾乃らしからぬ自己分析する。

 

何となく今家に帰りたくなかった。あのほわほわとした過剰なまでの自分に甘い空間は、おそらく自分がこんな状況で帰って来ても何も言わずに優しくしてくれるだろう。以前までの綾乃ならそれを望んでいたが、エレナの正論性は綾乃も理解しており、ここで家に帰ることは即ち逃げであると冷静な自分がそう評価している。

 

だが正論だと分かっていても、それを他者に言われると、無性に苛立ちが止まらない。

 

家に帰りたくない時、一番頼りだったのはエレナだった。でも彼女とは今喧嘩したばかりで、のり子もまた用事があって帰宅する際はドタバタと慌ただしそうにしていた。

 

公園でぶっ倒れるくらいまで素振りでもして、何も考えられなくなるまで追い込むのも面白いかもしれない。

ニヤリと口元を上げた綾乃は、家の近くのタコの滑り台がある公園にやってくると、ただひたすら、無我夢中に素振りとフットワークを始める。

 

「(負けた相手が強くなる?そんなの分かってる。でもそれができない奴だって大勢いる。私はそんな奴等じゃないのに、負けて努力したのに何も手に入らなかった。毎日吐くぐらい努力して、私は勝ち続けたのに何も得られない。たった一回しか負けてないのに!)」

 

走る。走る。我武者羅に終わりの無いフットワークを延々と続ける。前後のフットワークを100回ほど繰り返してもまだ思考力の衰えず、コートを想定して一周するようにフットワークの順番を変える。振って振って、ひたすら走り続け、時に飛び跳ねて無理やり体力を消費する。

 

「ハァ…ハァ……。ッ…」

 

素振りを始めてからどれだけ経っただろうか。部活では涼しい顔でフットワークをこなす綾乃が、吐き気を覚え、視界が回転するまでぶっ続けで走り続けた頃。

 

「羽咲!?」

 

ああ、別のストレスの原因が来たと、綾乃はやつれた顔を彼へと向けた。

秦野弦羽早。幼馴染で、ミックスのパートナーで、バドミントン仲間で、時々意味も無くイライラする相手。

 

「何やってる!? 一人で遅い時間に、それに汗も尋常じゃない。どれだけやってたんだ!?」

 

「…口調、戻ってる?」

 

「当たり前だ!そんなになってるお前を見て怒らない訳ないだろ!」

 

「やっぱり、そっちの方が好きだなぁ…。昔、みたいで」

 

綾乃はフラフラとした足取りと手で、なお素振りをしようとラケットを動かすが、強い力で左手が抑えられた。

 

「…どうした?」

 

怒鳴った声は一転して、今度は心配するような子供をあやすような優し気な声で自分を見つめて来た。

そう言えばと、綾乃はもう一つ弦羽早と自分との関係性を思い出した。

 

彼は”妙に”自分に甘いところがある気がする。

 

「…今日、帰りたくない。秦野の家に泊めて」

 

「…………え」

 

 

 

 




主人公がいるおかげで羽咲さんの性格が良くなるって?
んなわきゃねーだろーい!


明日も投稿しまふ


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仲直りしよう

はねバドss増えてるのいいゾ~




メンタル。それは時として試合の勝敗をわけるほどに重要な力。

いつもと違う体育館。異なる相手。雑誌に載るような強敵。いつもは各々で行う審判も線審も居て、一枚でもシャトルの羽が折れたら新しいのに変える。相手のファインプレイに対してもめげず、自信のないショットも時には信じて一か八かで打たなければならない。

 

それは慣れはあれど、練習だけでは鍛えることのできないもの。人によっては三桁近くの場数を踏んでようやく慣れる者もいれば、たった数回目での試合でも緊張しない人もいる。まさに生まれ持っての性格。

 

秦野弦羽早はというとメンタルは強い方だった。伊達に小学校の頃、どれだけ努力しても綾乃との試合でスコンクで負けて、それでもめげなかっただけはあり強い方だ。

大舞台でも常に力み過ぎない、適度な緊張感で臨むことができている。大舞台へ挑むスポーツプレイヤーとしてはよい才能である。

 

 

だがしかし、そのメンタルも今は崩壊寸前だった。

 

家族のいないシーンとした家に鳴るのは微かなシャワー音。これまで意識すらせず、精々聞こえた時に誰か使っているのかと思う程度の日常のありふれたシャワー音が、現在弦羽早の精神をゴリゴリと削り取っている。

 

羽咲綾乃。

彼が好意を抱く、二癖はある少女だ。

 

健太郎との練習を終え、少し小腹が空いたので回り道をしてコロッケを片手に帰るさ中、ビュンとタコの滑り台がある公園から聞きなれたラケットの空を切る音がしたので少し顔を出してみたら、フラフラの足取りで今にも気絶しそうなくらいに青ざめていた彼女がそこにいた。

 

「…今日、帰りたくない。秦野の家に泊めて」

 

あまり綾乃に対して深く追求しない弦羽早も流石に理由を聞いた。そしたら彼女は”泊めてくれたら教える”と言ったので、家に連絡する事を条件に一先ず家に連れて来た。勿論正直に異性の家に泊まりに行くとは言えないので、のり子の家に泊まりに行っている事にしている。

その時の弦羽早には下心はこれっぽっちも無く、綾乃の状態を回復させたい一心で彼女を家までおぶって、まずはスポーツ飲料を飲ませ水分と塩分を取らせて横にさせた。

 

そこまではジェントルメンの秦野弦羽早であったが、汗が気持ち悪いと彼女はシャワーを欲し、そこから今に至る。

 

「(落ち着け落ち着け落ち着け。たかがクラスの女子が家でシャワーを浴びているだけ。別に藤沢や三浦が家でシャワー使っててもなんとも思わない………多分、うん。

……いや!無理だろ!羽咲だぞ羽咲!無理無理無理!こちとらもうすぐ片思い歴七年だぞ!)」

 

ゴンと勢いよく額を机にぶつけるものの、思考は一向に爽やかな秦野弦羽早にはならずに、男としての願望がメラメラと燃えてくる。

家族のいない家、男女が二人っきり、彼女はシャワーを浴びていてそれはつまり裸であって。

 

一瞬頭の中でシャワーを浴びる裸身の綾乃を想像し、ガゴンと先程以上に額を強くぶつけた。

 

「ヤバい、ホントにヤバい…。だけど…だけど…」

 

彼女をどうこうするつもりはない。いや、願望としてはあるが、それは絶対にやってはいけないと強固な理性が何重にも押さえつけていた。

だがその隙間から溢れ出てくるように年頃の男子の欲望というのは出てくるもので、押さえつけるのが辛いと素直に綾乃の実家に真相を伝えようかと思う反面、こんなに美味しい状況を手放したくないと思う自分も当然いた。

 

「とりあえずあれだ。何でもいい、家事をしよう。いや待て、コニーに電話して相談でも……いやぁ、あれで結構子供(ウブ)そうだったし、陸空(りく)は全く参考にならない。ならコーチは……羽咲が速攻で回収されるだろうな」

 

それはそれで腹が立つ。もし女性のコーチであれば弦羽早も素直に相談しただろうが、男、それも成人とはいえまだ大学生の健太郎に、仮にその気が一ミリたりともなくとも、今の綾乃を預けられる程に弦羽早は冷静ではなかった。

因みに顧問である美也子はほとんど顔を見せないので完全に頭から抜けている。

 

こんな時に一番頼りになるのがエレナだが、かなりの地雷臭がする。というのも、綾乃はエレナと一緒に帰っていた筈だ。それが夜の公園で一人で無理やり何かに取り付かれたように素振りをしていたので、現時点ではもっとも原因の可能性が高い相手だ。

 

「……う、動こう。よく考えたら、出てきたら風呂上がりって訳で…。なるべく、匂いの強い料理を作るか」

 

 

 

そんな弦羽早の苦労は露知らず、綾乃はごく普通の一般家庭の湯舟に体を浸からせてだらんと表情を崩していた。部活と過剰なフットワークで疲れ、更には汗で冷えた体にお風呂というのは至高そのものだった。おまけに入浴剤も使ってよいとのことで、遠慮なく使わせてもらっている。

 

「秦野、すっかり優しくなったな~」

 

小学校の悪ガキで、ちょっとしたことで自分に意地悪しようとしていた彼はどこに行ったのやらと、ぼけーと浴室の天井を見上げる。

 

弦羽早は好きな子を苛めたくなる小学生男子特有の症状から、更に中学生特有の病気を乗り越え、ようやく今の彼になったのだが、独特な人生を歩んでいる綾乃には、弦羽早の変化のきっかけはある種普通過ぎて想像のしようがなかった。

勿論、年功序列が強い強豪の中学校で三年間揉まれたのも変化のきっかけだろうが、一番はやはり単なる年齢的なもの。

 

もし綾乃が弦羽早が変わった理由を聞けば、普通過ぎて腹を抱え涙を流して笑うだろう。

 

「それに強くなった…。負けて強くなる、ほんの一握りの存在…」

 

放課後のエレナとの一件が思い浮かぶ。湯船で疲れが取れたせいか、考える余裕が出てしまったようだ。

 

「あぁ…イライラする…」

 

ようやく”今の状態で”少しずつ前に進むことが出来ていたのに、エレナの一言で全てぶち壊しだ。

 

バドミントン部のみんなと少しずつ打ち解け、なぎさとは部活で一悶着合ったけどちゃんと謝りに行った。後ろから一声かけるだけだったが、気付いているはずだ。

練習も楽しくなってきていた。健太郎の練習は厳しいが、しかし吐いたり、血が出たり、気絶したりしない。

何より弦羽早と一緒にやるノック練習が一番楽しい。通用する練習相手がいないので試合はあんまりしないが、健太郎がコート中に鋭く放ってくる球を二人でカバーし合いながら返すのは、どこか母親とやっていたラリーゲームを思い出す。

エレナものり子もマネージャーになってくれて、あとは時折感じる弦羽早への苛立ちと、なぎさと仲良くなるだけだと思っていたのに。

 

「エレナも。私の練習見といて緊張感がないって、あんまりだよ…」

 

今にも泣きそうな声で綾乃はポツリとそう呟き、お湯をすくって顔を洗う。今顔を濡らす水が全てお湯だと言える自信が綾乃にはなかった。

 

綾乃の言い分は決して歪んだものではなかった。確かにインターハイを目指すと言うには、北小町の雰囲気は決して重苦しいものではないが、運動量は並みの部活よりかははるかに動いている。特に綾乃は個人シングルス、弦羽早とのミックス、団体戦でシングル、ダブルスと、個人ダブルスを除く全てに出場する為、練習の負担も明らかに人一倍大きい。

そんな自分を、大事な親友であるエレナにだけは褒めてもらうことはあれど、あんな風に言って欲しくなかった。

 

だが綾乃もハッキリそう告げればよかったが、エレナを大切に思っていた反面、彼女からの一言は重すぎたせいで、頭に血が上って完全に我を忘れていた。

 

「(イヤだ、誰にも会いたくない…)」

 

今の綾乃は人の声を聞くだけでもかなりきつかった。何があったと説明するのも嫌だし、もし自分の怒りを否定されたらと思うと心が重い。かといって、エレナの言葉が正論と分かっている分、自分以外がエレナを否定するのもまた嫌だった。つまるとこ、綾乃の感情は矛盾だらけの我が儘で身勝手なものとなっていた。

 

でもここは自分の家ではなく、弦羽早の家。祖父祖母や店の人に会うよりかは遥かにマシだが、弦羽早にも、弦羽早の家族にも会うと想像するだけでも気力を使う。

 

そんな時、コンコンと洗面所からノックがされる。チラリと給湯機についている電子時計を確認すると、既に入ってから四十分近く経っている事に気付いた。そういえば指先もふやけてきている。

おそらく心配してくれたのだろうと、重たい唇を開いて大丈夫であると告げようとする前に、先に弦羽早が話しかけて来た。

 

「は、羽咲。遅いけど大丈夫? ご飯だけど、カレー作ったからちゃんと食べてね。えっと、今、一人になりたいと思うからさ、俺はもう部屋にいるから。家族も帰ってこない。リビングの隣の部屋に布団敷いてあって、テレビとか冷蔵庫のものとか、全部好きに使っていいから。もし何かあったら階段上がってすぐ正面が俺の部屋だからいつでも呼んで。トイレの場所も昔と変わってないから。それじゃ」

 

「ッ……」

 

ズキリと痛む胸に綾乃は手を当てる。

何で彼はこんなにも優しくて、今の自分がもっとも望んでいるものをこんなにも当たり前のように施してくれるのだろう。

自分が同じ立場でそんなことができるだろうか。いくら幼馴染とはいえ突然異性を家に泊めて、訳を聞かずに優しくし、家を自由に使ってよいと言ってくれて。

 

無理だ。家に家族がいるとかそんな物理的な理由ではなく、綾乃はそう思う。

 

自分だったら理由を聞くだろう、原因を聞くだろう。興味深々という顔で根掘り葉掘り聞いて、それで納得出来たら家に泊めてあげるかもしれない。こんなにも無償で、何も聞かずに優しくなんてできない。

 

「ズルい…。秦野は、私が持ってないものをまだ持ってるの…」

 

それまで堪えていた感情が爆発し、綾乃はそれまで溜め込んでいた悲しみを吐き出すように静かに泣いた。

 

 

 

 

すすり泣く綾乃の声が浴室から聞こえ、弦羽早は軽い自己嫌悪に陥っていた。

あんな状態になるまで追い詰められていた彼女に対して、少しでもやましい気持ちを抱いたのが彼の罪悪感を突き刺していた。

せめて綾乃には落ち着ける場所を提供しようと、リビングを見渡す。

着替えは渡したし、バスタオルもある。料理は作って、歯ブラシも新しいのをリビングの机の目立つところに用意した。テレビとエアコンのリモコンも分かりやすいところにある。

 

今すぐホテルマンにもなれそうな手際の良さだったが、彼がここまでやる気になる客は一人しかいないというのが最大の欠点だろう。

 

よし、と万全の状態なのを確認し終えると、二階の自室へと戻る。

普段はトレーニングなどをしているが、今日は物音を立てないようにいつもは授業開始直前に行うレポートを済ませる。

 

レポートを始めて一時間近く、何度目かの集中力の切れた弦羽早はカチカチとシャープペンシルを押しながら、机に肘をつけてやる気のない様子でぼんやりと将来について考えていた。

 

進路はまだ決まっていないが、一番の目標は選手として食べていける程のプレイヤーになること。

だがそこまで稼げる日本の選手はほんの一握りで、その中の更にメダリストがようやく努力に見合った収入を得られる。バドミントンの強い中国でのトッププレイヤーの収入はかなりのものらしいが、競争率はより激しい。

 

現実は分かっているものの、だがやはり弦羽早にとって生活そのものと言えるバドミントンで稼げるというのはまさに天職。プレイヤーに限らずとも指導者としての道もあるだろうが、指導者の立場で稼ぐのも狭き門には変わりない。

健太郎レベルのコーチですら、ボランティアなのだから。

 

あまりお金の話に繋げるのはよくないと思いつつも、勉強をしていると嫌でもそう考える。この時間をバドミントンの練習に注ぎ込みたい。

 

またカチカチとシャーペンの芯を長く出して、すぐに引っ込める。そんな無駄な事をやりながらも、持ち前の集中力で何とか全教科の提出分を一気に終わらせた。これで一週間以上は持つだろうと一息つくと、机の上のパソコンを起動してイヤホンをセットする。

 

 

待ちに待った時間だ。

 

夜遅くに男子がパソコンの前でやることと言えば―――――バドミントンの試合を見る事だった。

 

毎月様々な国で行われるプロの試合をいつでも見られるように、公式配信のチャンネル会員になっている。ノートを開いてシャーペンを片手に持つ弦羽早は、先ほどのダラダラと勉強する少年とはまるで別人で、一つのラリー毎に気になるプレイや面白い配球があれば、逐一メモしていく。

 

最初は向上心から行っていた事だが、今ではすっかり趣味の一つとなっている。中学校時代は基本的に男子ダブルスの試合を中心に見ていたが、最近は男子シングル、女子シングル、ダブル、そしてミックスと可能な限り見るようにしている。おかげで時間がいくらあっても足りない。

 

その中でも最近面白いと思えるペアは、中国の王麗暁(ワン・リーシャオ)朱紅運(シュウ・コウウン)の世界ランク一位のミックスダブルス。王麗暁は女子シングルスランキング一位、紅運はダブルスランキング二位。その二人のミックスダブルスは圧倒的で、一ゲームも落とさずにストレートで勝つなんてことはざらで、攻撃においても防御においてもこの二人を上を行くペアは存在しない。

 

二人の試合はお気に入りだが、上手すぎて参考になる範囲がかなり限定的だ。これでも一部は参考にできるようになった辺り、自分自身の成長は感じられるが。

 

「うおっ!今のをクロスに打つか。てっきり間に打つかと」

 

ネット前の攻撃で麗暁が相手を崩し、後衛である紅運が強打で決める。圧倒的攻撃力を前に、トップアンドバックになった彼らを止められる者はいない。

 

時に一時停止や巻き戻しをしたりしながら試合に魅入っていると、コンコンと扉がノックされる。

 

その音に嫌でも弦羽早の心臓は高鳴ってバドミントンへの集中力が一気に切れる。チラリとパソコンに記された時間を確認すると、既に11時。二階に上がってから二時間以上経っていた。

弦羽早はガタリと忙しなく立ち上がると、見られて困るようなものはないと部屋を見渡し、自分の中でOKサインを出して扉を開く。

 

扉の前には母親のパジャマを着て髪を解かせた綾乃が立っており、覚悟していたがいつもと違う服装と髪型は弦羽早の男心をくすぐった。これで母親のパジャマで無ければ完璧だが、理性と戦っている弦羽早にとっては今はそちらの方がよかった。

 

「どうかした?」

 

「…声が聞こえたから、何してるのかなって」

 

「え? あっ、ごめん。静かにしてるつもりだったけど」

 

フルフルと綾乃は首を横に振る。

 

「ありがと、しばらく一人でいたらだいぶ落ち着いた。ご飯も美味しかった」

 

「ん、なら良かった」

 

綾乃から香るほのかなシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐる。ほどけかかっていた緊張の糸を再び結び直し、年頃の青少年にとっては健全ともいえる欲望を何重にも縛り上げたのち、金庫の中に押し込めるが如く鋼のメンタルを心掛ける。

 

「…秦野が夢中になるってことは、バドミントン関係?」

 

「だね。ちょっとトップランカー達の試合見てたんだ。……廊下で話すのもなんだし、入る?」

 

ここで部屋に案内しないのは不自然よりも失礼が勝る。

しかし案内しながらだが、できることなら綾乃には断って欲しかった。弦羽早に下心があるのではと予期して、身の危険を感じてやんわりと断ってくれた方が、女の子として安心できる。

しかし朴念仁の綾乃がそのような危機感を覚える訳もなく、あっさりと中に入ってくる。

 

「うん、お邪魔します。久しぶりだな、秦野の部屋」

 

小学校の時に何回かだけ来たことがあるが、基本は有千夏がいたこともあって弦羽早が綾乃の家にお邪魔するパターンが多かった。それでも大抵はあの小さな体育館で練習してそのまま解散だったので、互いの家に遊びに行くことは稀だった。

 

綾乃は懐かしそうに部屋を見渡す。ポスターなどはほとんどなく、壁に掛けられているものは最低限のもので、物の多くは机を含めて部屋の隅っこに集中している。代わりにできた部屋のスペースで、素振りをしたり壁打ちやトレーニングなどをしているのだろうと、散らばった機材や束ねられたシャトルで見て取れる。

 

トレーニング機材を除いてあの頃と違うのは、充電器に突き刺したスマートフォンと机の上のパソコンくらいだろうか。

 

「まだやってたんだ。参考になる試合のメモ取るの」

 

「今じゃすっかり趣味だよ。まあ人様に見せないから汚いけどね。おかげで大分ノートも増えたよ」

 

弦羽早が指した本棚は、昔は漫画本も混ざっていたが、今はそのほとんどがノートやバドミントン関係の本で埋め尽くされている。どれだけ好きなんだと、綾乃ですら呆れるほどの熱意である。

 

「ちょっと見てもいい?」

 

「え? まあ、面白い物じゃないけど」

 

ニ十冊以上は並んでいるノートの中から、綾乃は適当に右から二番目のノートに手を伸ばす。ノートには題名が書いてあり、中三・全国大会とあった。

パラパラとめくっていく。毎回試合ごとの対戦相手、スコア、配点が出だしにあり、そこから試合内容について細かく書かれている。

 

そして一際分厚いページを要していたのが、個人ダブルスの決勝。

対戦相手は埼玉県の光彩中高学校の”花立(はなだて)伊月(いつき)”と”朝霞(あさか)夕霧(ゆうぎり)”。バドミントン界では花朝月夕と言われているこのペアは、実力だけでなくその名前に似合った華やか容姿から、バドミントン女子の間ではかなり人気なのだが、その手の興味が薄い綾乃は聞いたことすらない。

 

この二人がどれだけ強かったかは、びっしりと並んだ反省点を見れば聞かずとも分かった。ただスコアは21‐19、18‐21、24-22とかなりの接戦だったようで、だからこそ悔しかったのだろう。ところどころ、濡れて乾いたあとがノートにはあった。

 

「…この試合の録画ってある?」

 

「あるけど、まさか見るの?」

 

「駄目なの?」

 

「駄目じゃないけど…男ダブだし、こっちの王麗暁と朱紅運の試合の方が――」

 

「これが見たいの…」

 

全国で勝ち続けた末に、最後に負けた弦羽早の試合を綾乃は見てみたかった。

昔の彼でなく、今の彼が負ける姿を。そしてその試合の末に彼がどんな様子だったかを。

 

自分が負けた試合からか、あるいは先程まで世界トップの試合で盛り上がっていたからか。内心あまり綾乃に見せたくない弦羽早だったが、それは顔に出さずにパソコンを操作する。

 

「(この試合を見るのも久しぶりだな)」

 

カチリと左クリックを押すと録画が再生される。綾乃を椅子に座るように促すと、彼はその後ろからジッとパソコンの画面を見つめる。

こうやって自分の試合、特に負け試合を見るのは多くの事を学ばせてくれる。だがやはり、過去の自分と言えど自分が負けている姿を見るのはメンタリティが必要だ。弦羽早も試合に負けた瞬間に泣くことは決してなかったが、何度も自分の至らないミスや甘い動きを見る度に悔しさが込み上げ、それが今綾乃が手に持っているノートのシミに繋がった。

 

綾乃は一言も口を開かなかったので、弦羽早もまた静かに画面をジッと見つめる。

 

女子よりも大きな体格、早いフットワーク、高い身体能力。それらは試合のゲームスピードに直結し、やはり男女の違いを痛感せずにはいられない越えられない差がそこにあった。

 

響き渡るシャトルの音も、高く飛び上がるジャンピングスマッシュも、一歩の歩幅や手の長さも違う。だが一番は純粋な技術だった。

ようやくダブルスを齧り始めたからこそ分かる。画面に映る四人のコンビネーションの高さを。フォーメーションに無駄は無く、的確にカバーに入り、攻守入り乱れる激しいラリーが当たり前のように何回も続く。

中学生同士とは思えないミスの少ないラリーは、毎度観客が盛り上がる。そんな中でも綾乃はやはり、弦羽早の背中に目が行く。

どんなスマッシュに対してもブレずにレシーブするその姿は同じコートに立つ彼そのままで、スマッシュを連打しても崩れない弦羽早から逃げるようにクロススマッシュが放たれる。

 

”これでもスマッシュを打たれない程度には警戒されてたよ”

 

以前弦羽早とダブルスの取り決めをした時の彼の言葉を思い出す。

確かに決勝戦でも相手のスマッシュをここまで悠々と返していたら、相手としたら打ちたくなくなる。

 

激しいラリー。一点毎に変わるサービスは、一向に点差が開かない五分五分の試合。

一ゲーム目は相手が勝ち、二ゲーム目は弦羽早達が勝ち、そして三ゲーム目。デュースにまで伸びた最後のラリーで、夕霧のスマッシュをカウンタードライブで打ち返そうとした弦羽早のシャトルがネットに引っ掛かり、勝敗が決した。

 

「ッ…」

 

後ろに立つ弦羽早が、ギュッと拳を握りしめているのが気配で分かった。

 

ドッと歓声が沸き上がり、伊月に抱き着く夕霧と、倒れ込むように膝をつく弦羽早にパートナーの陸空が優しく肩を叩いたところで映像は終わった。

 

「(あれが強くなった秦野が負けた姿。再会してから全然負けてなかったけど、やっぱり今でも悔しいんだ)」

 

昔の自分に負ける弦羽早と映像の弦羽早が重なり、綾乃は小さく唇を噛んだ。

 

「…秦野はどう思う?」

 

「え?」

 

「負けて悔しくて、今以上に努力しようって思える人って、どれくらいいると思う?」

 

「ん? う~ん…中々難しい質問だね」

 

てっきり試合内容について何か聞かれるかと思ったが、綾乃の第一声は少し抽象的な質問だった。ただその質問に自分なりの答えを出すのが、綾乃にとって良いか悪いかは分からないが、小さな影響を与えられるのではと腕を組む。

 

バドミントンに限定したとしても、負けて悔しくなく、全く何もしない人間の方が少ないだろう。皆誰しも試合という舞台に立つ以上は努力はしている。だがその瞬間は悔しさを噛み締めたとしても、それを原動力に何か月も努力を続けられる人間となると途端に数は激減する。誰しもどこかでかつての悔しさよりも、今を優先してしまう。

負けを糧に、今まで以上の努力を続けられる人間は限られている。

 

「かなり少ないとは思うな。俺の周りは上手い人が集まっていたから割合的には多かったけど、そんな中でもやっぱりレギュラーメンバーは自主練は多かったし」

 

「……」

 

「でもそういう少数の人達が勝ち上れると思っている。俺も、そっちだって胸を張って言いたいからさ」

 

「秦野も、エレナと同じこと言うんだ…」

 

いや、分かってると綾乃は自問自答する。だってそれが正しいのだから。

でも弦羽早なら、自分が想像していなかった視点から目から鱗が落ちるのような何かを言ってくれるのではと、どこか期待していたところも少しあった。

 

「…藤沢と何かあったんだね」

 

コクンと頷いた綾乃は、椅子の上でうずくまるように膝を抱える。

 

「私だって分かってる…。負けて強くなった人を知ってるから。それが正しいって分かってる。私だって、思ったことある。でも、でも……私だって頑張ってたのに……。せっかく、楽しいバドミントンできてたのに……」

 

きっかけはエレナの一言が原因だったかもしれない。だけどここまでイライラしてしまうのは、自分のせいだとも理解していた。

 

バスケで賞を取った事もない、強豪校でもなく、三年生では実力よりも学年を優先してレギュラーメンバーになった、綾乃にとっては負けた癖に努力しない大多数に含まれるエレナに言われて、頭に血が上って反感した。

でもエレナの口から出る言葉は正論だらけで、反論しようにもこれっぽっちの隙も無くて、途端に自分が惨めに思えて逃げ出した。

 

「藤沢に、なんか言われたの?」

 

「……緊張感持てって……」

 

「う~ん、それはまた…」

 

未だ二人がどういった口論をしたかは分からないが、どちらの心境も何となくだが分かる気がする。

 

エレナにとっては心配なのだろう。いつもと変わらない綾乃の雰囲気に。

皆試合が近づけばピリピリと張り詰め、試合に対する下準備のような独特な空気を出す。それが全く変わらずほわほわとした空気のままだったので、本当に分かっているのかと確認したくなる気持ちは分からないでもない。例えば受験一週間前にヘラヘラと笑っている子供を見た両親も、似たような事を言うだろう。

それに綾乃は並みの選手より体力があるので、汗を掻きにくく、練習も涼しい顔でこなしている。選手としてはそれが相手へのプレッシャーになるが、練習中もそれだと手を抜いているように見られなくもない。

 

だが綾乃はブランクを取り戻す為に、部活での練習量も内容の密度も誰よりも高く、きつくない訳が無かった。その一日の疲れを癒すのがエレナといるひと時で、そんな彼女から緊張感を持てと言われたら、傷つくなという方が酷だ。

先程話したヘラヘラしていた受験生の子供も、受験勉強の合間の僅かなひと時だったのかもしれない。そこで両親から緊張感を持てと言われ、分かったと素直に頷ける出来た人間はまずいないだろう。

 

「確かに藤沢の気持ちはちょっと分かるな」

 

「なんで?」

 

拗ねた子供のように膝を抱えたまま唇を尖らせる綾乃の頭を、できるだけ刺激しないようにポンポンと優しく撫でる。

 

「そりゃあ、コニーとインターハイで会うって約束して、夏まで余裕あるって思う人は世間一般では能天気って言われるし」

 

「うっ…。で、でも、あんなに練習してたのに」

 

「藤沢もバドミントンのこと詳しくないし、ずっと同じ体育館にいる訳じゃない。今日だって洗い物してくれたり、買い出し行ってくれてたでしょ。

それに、俺は悪いとは言ってないよ。羽咲のそういうところは選手としても優れている。緊張せずにリラックスできるのは本番で実力を発揮するには必要な力だ。でも周りにはそう思われやすくなるっていうのも、確かじゃないかな?」

 

「……秦野は、私とエレナ、どっちの味方なの…?」

 

「そりゃ、言っちゃ悪いかもだけど、羽咲だよ」

 

「え~嘘だぁ…」

 

先程までエレナの肩を持っていたのにと、綾乃は訝し気な瞳で椅子の横に突っ立っている弦羽早を横目で見上げる。

綾乃の子供っぽい仕草に、弦羽早はますますエレナに共感する。今の綾乃は中学生という多感な時期をすっ飛ばして、そのまま高校生になったような精神的幼さがあり、そんな彼女を傍で見ている側としてはどうしてもちゃんと考えているのかと危惧したくもなる。

実際つい最近まで綾乃は思考するのを拒んでいたのも、エレナの一言に繋がったのだろう。

 

「その、自分で言うのも変な話だけど、かなり羽咲贔屓してるよ?」

 

「…ん~、そうかなぁ…」

 

まさか好意どころか贔屓している事すら気付いていないのかと、流石の弦羽早も少し心が折れそうだった。

 

「まあ、今回の一件はきっかけこそ藤沢だったかもしれないけど、悪意があったとか無神経だったとか、そういう話じゃないと思うんだ。羽咲のいいところと、藤沢の優しさがちょっとだけ噛み合わなかったんだ」

 

「…でも、悪いのはエレナだもん…」

 

「ほんとにそう思うなら、そこまで落ち込まないんじゃない?」

 

本当に100%エレナにしか非がなければ、綾乃は素直に家に帰って祖父と祖母に愚痴りそうだ。あとはのり子に電話したり、最近なら理子のところに行って泣きつくパターンも想像できる。でも一人で倒れそうになるまで素振りして頭を空っぽにしたくなるほどに、綾乃は思い詰めていた。

 

「ッ……やっぱり、秦野は全然私贔屓してない…」

 

顔を隠す様にして一層椅子の上で丸くなる綾乃。ここまでくるとアルマジロみたいだなと、少し不謹慎な事を思いつつ、その背中を優しく擦った。

 

「羽咲からすればそうかもしれないね。なんたってパートナーなんだから、甘やかすだけじゃ駄目でしょ?」

 

「…正論ばっかり」

 

「今回の一件に関しては第三者だから。それに、本当に羽咲が心の底から藤沢が許せないってだったら俺ももっと関与するけど、そうじゃないよね?」

 

綾乃の返事には数秒程の間があった。

 

「…私、エレナに酷いこと言っちゃった…」

 

やっぱりか、と心の中で納得しながら、綾乃の背中をさすりながら優しく相槌を打つ。

 

「あんな事、全然思ってなかったのに。エレナに嫌われちゃったら…どうしよぉ…」

 

グスリと鼻を啜りながら震える声で溜めていた思いを吐き出す彼女を、弦羽早は何度も優しく宥めた。後半は言葉になっていなかったが、何度も頷いて返し、泣き喚く彼女の頭を撫でて、そっと囁いた。

 

「明日、仲直りしよう」

 

 

 

 

 




前回の羽咲さんは魔王化というより、激おこでやっちゃった感じです。
ということでそこまでギスギスもなく、ラブコメの波動も弱く、お泊まりイベント終わり。


まあバドミントンメインやから…(震え声)


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これが…女子力ッ!

基本的に話の前後関係がそこまでない時に投稿開けて、いかにも続くって感じなら連日投稿みたいな感じで行きたい(できるとは言ってない)
次回は五巻開始辺りまで書き終わるまであきます。

前回を見るとやっぱみんなラブコメ(?)好きなんすねぇ!
大会始まっても合間に可能なら頑張るゾイ



「(安心する…。なんだろうこの匂い…)」

 

ぼんやりと覚醒する意識が包み込むような優しい匂いを認知する。瞼が重くて体が気だるいが、その正体が知りたくて徐々に意識を覚醒させて、瞼をゆっくりと開く。

物の少ない殺風景な部屋。白いコンクリートの壁には綾乃の身長より少し高いくらいの位置に、不自然にスッと線が引いてあり、ここが誰の部屋ということよりも、それがネットの高さを意識した線だというのを先に理解した。

 

「…秦野の部屋?」

 

目を擦りながら上半身を起こし、キョロキョロと辺りを見渡すが彼の姿は見当たらない。

どうして自分が弦羽早(つばさ)の部屋、それもベッドで快眠していたのだろうと記憶を遡ると、昨日エレナと喧嘩してからの事を思い出した。昨日散々泣いたおかげかもうエレナに対する苛立ちは無く、同時に泣き疲れて眠ってしまった自分を弦羽早がベッドに運んでくれた事にも気づいた。

 

「ほんと、優しいな秦野は」

 

頬をやんわりと崩しながら、綾乃は起き上がってリビングへと降りる。

リビング隣に敷いてあった布団はもう片付いており、おそらく自分の代わりにそこで寝たのだろう。

 

机にはメモ書きが畳んだ綾乃の制服の横に置いてあった。

 

『朝練してきます。制服は洗って乾かしておきました。デリカシーがないけど下着も洗ってます。カウンターの上にご飯があるから食べてね』

 

フカフカの制服とカウンターの上のおにぎりとおかずが目に入り、思わず綾乃はおお、と感嘆の声を上げた。

 

「これが…女子力ッ!」

 

下着を洗って貰った事にもさして反応せず、更にここまでやって未だに少しもときめかない辺り、弦羽早の思いはまだまだ成就しそうになかった。

 

 

 

 

 

「それでね、そこのホエホエ饅がとっても美味しいの」

 

「へ~、ちょっと興味あるな」

 

「でしょ?今度一緒に食べに行こうよ」

 

「シングルスが終わってからね」

 

「え~。決勝挟んだら一ヵ月近く後じゃん…」

 

内心綾乃とのデートの口実が出来てガッツポーズを決める弦羽早だったが、今の優先度はデートよりも試合だ。ミックスで優勝を目指すのは勿論、今年はシングルスで最低でも準優勝を目指し、高校の全国レベルというものを全国大会という場で味わいたかった。

 

色気のあるようで無いそんな会話をしながらクラスへと入ると、仲良く一緒に登校する二人に、クラスメイト達の意外そうな視線が向けられる。既に綾乃の朴念仁さはクラスメイト全員に伝わっている為、茶化さずに優しく見守ろうと言うのがクラス中の総意であった。

 

綾乃が弦羽早の好意に気付かない内に彼を横取りしようと考える女子も初めはいたが、一週間も二人のやり取りを見ていたらその気も失せるくらいに、傍から見ればどこから見てもカップルである程に仲が良かった。

 

弦羽早を一目見た他クラスの女子に相談されたりもしたクラスメイトの女子達も「秦野君は100%無理だから止めといた方がいいよ」と遠い目をしながら軽くあしらっていた。

 

「…エレナ、まだ来てないんだ」

 

自分のすぐ後ろの席のエレナの机が空席である事に、綾乃はホッとしたような残念そうな声で呟いた。

 

結局エレナは一向に現れず、ホームルームで担任がエレナが今日休みである事を告げて出席を取り始めた。

 

 

二時限目が終わり軽い十五分程度の休憩で弦羽早は廊下に出てスマホを取り出すと、エレナに連絡を取った。担任は風邪だと言っていたが昨日の今日で風邪はタイミングが良いし、もし本当に風邪なら(異性であるので)見舞いとまでいかずとも、差し入れの一つくらいは持って行くべきかとの連絡だった。

 

数回のコールの後、電話がつながる。

 

「もしもし、藤沢?」

 

『…秦野、どうしたの?』

 

いつもよりトーンの低い声は、落ち込んでいるのか風邪なのか判断しにくい。

 

「風邪って聞いたけど大丈夫?」

 

『大した事ないから…』

 

「…そっか。そのさ、昨日の事、羽咲から聞いたんだ」

 

『あっ…そ、そっか…。綾乃は――』

 

「藤沢に謝りたいって。酷いこと言っちゃったって、泣いてた」

 

その言葉に、考え込んでいるのか返事に間があった。

 

『…ごめん、ちょっと時間ちょうだい。今は…綾乃と会うのが怖いの…』

 

「怖い、か…」

 

もし綾乃が聞けば、下手な言葉よりもずっと、それこそ昨日の言葉以上に深く傷つくだろう言葉だ。仮に言葉に出さずとも、エレナがそう思っている事を綾乃が察せば同じことである。

そういう点では、確かに今日休んでくれたのは綾乃寄りである弦羽早としてはありがたかった。

 

「分かった。ただ、泣き疲れて寝ちゃうくらいに落ち込んでたから、なるべく早く会ってあげて」

 

『…うん。……ってちょっと待ちなさい。アンタ、どうして泣き疲れて寝たって知ってんの?』

 

トーンが急激に一転し、問い詰めるように、強気のいつもの彼女の口調に戻る。

やっぱり少なくとも風邪ではないらしいと、弦羽早はホッと肩を降ろしながらも、ニンマリと口元を上げて。

 

「おっと、口が滑ってしまったな~。でもエレナママ来ないみたいだし別に怖くないけど~」

 

『誰がママだ!……ぐぅ。綾乃に、手ぇ出してないでしょうね?』

 

綾乃が怖いと言ったときは重症かと思ったが、それだけ心配できるのなら大丈夫そうだ。

 

「…ん、バドミントンの神様に誓って」

 

『…まあ考えてみたらアンタ、ヘタレだもんね』

 

「昨日の俺ほど紳士な男はいないよ」

 

ヘタレとは失礼な、と弦羽早は砕けたトーンで付け加える。

 

『よく言うわ。……連絡してくれてありがと。私も、ちゃんと綾乃に謝るから。だから、少し時間をちょうだい』

 

「ああ。それじゃ、そろそろ授業だから切るね。それと、次の英語当てられるみたいだから予習をお勧めするよ」

 

『マジか。レベル上げ作業も飽きたしそうする。サンキューね』

 

後ろから時折聞こえるファンファーレはゲームの音だったのかと苦笑しながら、中々よい御身分の病人との通話を切る。

 

教室に戻ろうかと方向転換すると、すぐ目の前に綾乃の姿があり、軽く驚きながらも微笑みを浮かべる。

 

「エレナ、大丈夫?」

 

「うん。軽い風邪だって。親もいるみたいだから、気にしないでってさ」

 

「そっか…。そうだ秦野、数学の先生がプリント運ぶの手伝えって」

 

「え~なんで俺が…」

 

「この間の提出物友達に見せてもらったのがバレたみたい」

 

「ぐっ…今度から一定の間隔で間違えとくか。ありがとね羽咲、じゃ、お先に」

 

バドミントンに関してはあれだけ真面目なのに、その他の事となると途端に適当になるのも昔と変わらない。テストを一夜漬けするスタンスはどうやら高校でも同じのようだ。

早足で廊下を去る彼の背中を見つめながら、今度の中間では一緒に一夜漬けするのも楽しそうだと、小さく口元を上げた。

 

 

 

 

順調に弦羽早の不真面目さが各科目の先生に伝わりだしたが、そんな事はお構いなしに、彼は綾乃と一緒に軽い足取りで体育館へと向かう。

まだ誰も来ていないようでコートも張っておらず、二人は手早くウェアに着替えるとポールを運んでネットを掛けていく。八人だけの部活なので三コートだけで良いのはちょっとした利点か。

三つ目のネットを掛けていると、ガチャリと体育館の金属製の重い扉が開かれ、なぎさがやって来た。

 

「あっ…」

 

昨日の事を思い出してか、なぎさは気まずそうに左ひじを右手で掴んだ。一方二人は、放課後の出来事が強すぎたせいで、なぎさのその仕草を見るまで昨日のいざこざを完全に忘れていた。

なぎさは一瞬更衣室への最短ルートを向かおうとしたが、二人のいるコートまで歩み寄ってくる。

 

「羽咲…昨日は悪かった。それまでも、むしゃくしゃしてて勝手に当たってた。秦野もいつも態度悪くてごめん。私は主将なのに、部の空気を悪くしてた…」

 

どうやら昨日は自分達だけでなく、なぎさにとっても何か大きな出来事があったのだろうと二人は一瞬だけ顔を見合わせる。

仲の良いやり取りになぎさは小さくクスッと笑みを浮かべると、釣られるように綾乃がパァッと顔を輝かせた。

 

「なぎさちゃんの笑った顔、初めて見た!」

 

「えっ!?わ、私そこまで不愛想だった?」

 

「いつも闘志メラメラでしたからね」

 

「あちゃぁ…。ほんと悪かったよ」

 

二人が入部する直前に仲間が八人もやめてしまったが、それは決して健太郎一人が原因では無さそうだとなぎさは額に手を当てる。そして同時に、こんな自分が主将でいながらも入部してくれた二人が、途端に頼もしくも見えて来た。

 

現金だな奴だと手の平返しのような態度に自虐しながらも、なぎさはニッと二人に笑いかけて、更衣室へと向かった。

 

「今のなぎさちゃんとなら仲良くなれそう!」

 

「ん、そだね。ダブルスのコンビネーションもよくなると思うよ」

 

余談だがこの日のノックで綾乃となぎさは10回ほど衝突した。これでも成長したとはいえ、依然噛み合わないようである。

 

 

 

 

健太郎含むバドミントン部全員集合すると、早速練習が始まる。

エレナが欠席である事を伝えると皆心配した表情を浮かべるが、そこまで酷くないと弦羽早が伝えると安心したように息を吐いた。まだマネージャー歴一日だが、合宿で一緒だったのもあり、特に女子とは仲が深まっていたようだ。

 

この日の練習で一番目立っていたのはなぎさだった。それまでどこか苦しそうな打ち方が無くなり、伸び伸びと打つジャンピングスマッシュは男子顔負けの速さと角度を誇っていた。あれを女子の、それもシングルスで打てるのならとんでもない武器になるだろう。守備の堅い男子ダブルス相手でさえ通用しそうだ。

 

「すごーい!なぎさちゃんカッコいい~!」

 

「え?そ、そうか?」

 

これまで理子に懐いていたものの、自分には一度もキラキラした瞳を見せた事の無かった綾乃に、なぎさは照れ臭そうに頬を掻きながらもまんざらではない様子だ。

 

「……」

 

「うおっ!?急にスマッシュの威力上げるの止めろ!」

 

バシュン!となぎさに競い合うような激しいシャトルの音が体育館に響き、行輝の声も合わさって皆の視線が集まる中、彼が一番見て欲しかった綾乃は未だになぎさから目を離さなかった。

不憫としか言えない全国のトッププレイヤーの姿は、自分達より強い筈なのに、どうしても親に捨てられた小鹿のように弱々しく見えてしまう。

 

「ねえねえ、私もなぎさちゃんみたいにジャンピングスマッシュ打ちたい!」

 

「え? いや、それは…」

 

この間綾乃の家に行った時に、神藤有千夏の取った数々のトロフィーを見てなぎさは確信していた。去年の全日本ジュニアで自分を打ち破った神藤綾乃が、羽咲綾乃と同一人物であることに。

目の前の少女こそが自分のスランプの原因であり、リベンジすべき相手であり、そして次の試合、勝ち上がれば必ず戦うことになる相手であると。

そんな相手に、自分の必殺技であるジャンピングスマッシュを教えるというのは、手の内を晒しながら、塩を送るようなもので、出来る事なら教えたくないのが本音だ。

 

しかしチラリとなぎさは理子の方を見ると、彼女は何度も頷いていた。

せっかく部の雰囲気が良くなった中、一番の変わり種である綾乃は未だ、女バドのメンバーに完全に馴染めているとは言い辛かった。

 

ここで仲良くなって団体戦でのチームワークを強化しろと、理子の気迫の籠った視線が訴えかけてくる。

 

「わ、分かった。ただ私も教えるのは得意じゃないからコツだけ教えるな。理子、ちょっと打ってくれ」

 

「はーい」

 

ポーンと理子がリアコートへとロブを放つ。

 

「まずグッと溜めながらそのままシャトルの落下地点まで行って!」

 

シャトルの落下地点へ着くと、なぎさは地面を蹴って空へと飛びあがり、シャトルを打ち落とす様にラケットを振った。バシュンと激しい音が鳴り響き、ストレートの中央手前にシャトルが落下する。

 

「こうビュッと飛んでそのあとガーって振り下ろす。どうだ?」

 

「…………秦野~」

 

数秒間二人の視線が交うが、綾乃はスッと方向転換して別のコートでスマッシュの練習をしている弦羽早の元へと行こうとする。いくら相手が全国トッププレイヤーと言えど、ジャンピングスマッシュに関してはなぎさの何よりの十八番だ。待て待てと、綾乃の肩を掴む。

 

「何で秦野のところに行くんだよ」

 

「だって…全然わかんないもん」

 

「ッ…お前――」

 

「な~ぎ~さ~?」

 

ついカッとなりそうだったところで、反対のコートからニコニコと自分の名前を呼ぶ理子の姿に、なぎさは小さく肩を震わせて頷いて答える。

そして少しばかりイラついているのか頬の引き攣った笑顔を浮かべて。

 

「も、もう一回ちゃ~んと説明するな」

 

「うん!」

 

「まずはグッと構える。これ大事」

 

「…うん」

 

「そして素早く落下地点に向かって、サッと飛ぶ」

 

「…ん~」

 

「で、シャトルが来たらドガッと振り下ろす。どうだ!」

 

「……秦野~」

 

「うぉい!?」

 

ちゃんと逐一フォームを止めながら教えてやったのにと不満そうになぎさはブツブツと呟くが、流石にこのやり取りは綾乃の方に軍配が上がった。あの教え方で指導者が務まれば、皆苦労しないだろう。

 

不満げななぎさとは打って変わり、綾乃にバドミントン関係で頼られるのが嬉しいのか、弦羽早はいつも以上に気持ち悪いぐらいに爽やかな笑みを浮かべている。

 

「秦野~、ジャンピングスマッシュ教えて」

 

バドミントン関係で初めて綾乃に技術を教えると言う状況に、弦羽早は言い様の無い達成感を覚えながらも、それを態度にあらわさないように力強く頷く。

ダブルスのいろはなどは教えていたが、弦羽早にとってはそれとこれとは別のようだ。

 

「オッケー。ただ教えるのはいいんだけど、無駄に使わないのが条件。これが守れないのなら、羽咲のお願いでも駄目かな」

 

「なんで?」

 

「筋力をかなり使うからしんどい。羽咲の体格でそんなにポンポン打つものでもないし」

 

また地味に面倒な条件をと内心悪態をつきながら、とりあえず頷いておくかと素直に頷いておく。

 

「多分羽咲が出会って来たこれまでの指導者の人達も、羽咲にとってはデメリットの方が大きいから教えてなかったんだと思う。だからダブルスは勿論、シングルスにおいてもここぞと言う時にとっておいた方がいい」

 

「分かったから~早く早く」

 

「ほんとに分かってるんだか…」

 

おもちゃを強請る子供のように地団駄を踏む綾乃に、弦羽早の昨晩のエレナへの同情がより強まる。

 

弦羽早はフォームを構えて実際に実践する前に、まずはと口頭に付ける。

 

「知っていると思うけど一応ジャンピングスマッシュについておさらい。

よくジャンピングスマッシュ=速いって思われがちだけど、実際速いスマッシュを打つならジャンプしない方が強い。加えて角度はつくけど、体幹が無ければ面がブレて浮きやすいし、おまけに筋力は使うし、より早くシャトルの落下地点に到達していないといけない。それでも飛ぶ利点としてはタッチが速くなる、これだね。すいません、二球上げて下さーい」

 

「おう」

 

行輝にロブを貰った弦羽早は、一打目は足をつけた状態で全身の力を一点に集中させるようにしてスマッシュを打ち抜く。威力に特化したシャトルは良いコースとは言えなかったが、かなりの音と速さを誇っていた。

 

続いて二球目のロブを、素早くシャトルの落下点まで足を進め空へと飛びあがる。空中にいる弦羽早にブレはなく、シャトルに対して半身になりながら空中で全身を捻るようにラケットを振り、なぎさと同様に叩きつけるようなスマッシュがコートに突き刺さる。

 

「相変わらず綺麗なフォームだな~」

 

「どもです。俺も完璧じゃないけど、コツを一つずつ説明するね」

 

「押~忍!」

 

「まずは打つまでの時間に余裕を持たせるために、シャトルの落下地点に素早く入ること。ジャンプしたのに打点が低いなんて、いよいよジャンプする意味なくなるからね。そしてシャトルの落下地点よりラケット一本分近く後ろに下がること。あとは、羽咲は問題ないと思うけど、タイミング。ジャンプする分タイミングがズレるから、これを意識する。この三つが大前提かな」

 

弦羽早は繰り返し何度かジャンピングスマッシュの素振りをしながら、イメージを綾乃へ植え付ける。

 

「次に飛ぶ際について。まず飛び上がる時に、前に飛んでラケットを顔の前で打つこと。ジャンピングスマッシュの利点の角度をつけるには結局は高い位置で打つことだけど、ただ高い打点で打ってもラケットが顔より前に出てないと角度なんてつかないからね。前に飛びながら打つことで、顔の前でシャトルを打つ。

そして足は、両足を使って膝をバネに高く飛ぶ。そうすることで地面を蹴った際の勢いを籠める。この蹴るっていうのが難しいしエネルギー使うから、基本足つけるのがいいんだよね。体重も込めやすいから」

 

「なぎさより圧倒的に具体的で理にかなってる説明だね」

 

「うっせぇ。グダグダ説明し過ぎだろ」

 

ノック練習をしながらも弦羽早の説明に耳を傾けるなぎさと理子。悠と空は自分は無関係だと打ち合いをしている一方、学と行輝は興味津々といった様子でその説明を聞いていた。健太郎も何か違った事を言っていたら修正しようと思っていたが、弦羽早の説明に問題はないようだ。

 

「そして飛び上がってから、ここからが更に滅茶苦茶大変。まず腕の動きは通常のスマッシュと変わらない。肩っていうか鎖骨から前に出す様にして、同時に左手が右手の対角線上になるようにして体を捻る。ただ地面に足をついて無い分、この動きに凄くエネルギーを使う。お腹の下あたりが重心になるように、飛ぶ瞬間は半身だった体が、打った瞬間には正面を向いているように。最後に前へと飛ぶ勢いを殺さずに、その勢いのまま前に出る。打った後前に出ることで、相手への返球にも対応できるようにもなる。

だいたいこんな感じだけど、分かった?」

 

「うん!さっそくやりたい!」

 

「やっぱりなぎさのより分かりやすいみたい」

 

「…悪かったな、下手な説明で」

 

まず何度か綾乃の素振りをさせて感覚を掴ませる。ジャンピングスマッシュの最も難しいのは飛んでから打つまでの瞬間。ここで上手く体を使えなければ、飛ぶ意味は限りなく無くなる。ジャンプする事でプレッシャーを与えることもできるが、それも良くて精々中級者クラスまでしか通用しないだろう。

 

流石の綾乃も飛ぶまでは良いが、空中でのスマッシュには少しばかりてこずっている。飛びながら打つという行為自体は綾乃もこれまで星の数ほど行ってきたが、決め球としてのジャンピングスマッシュとは違う。支えの無い空中で体全体を使いながらラケットを振る行為は、想像よりもはるかに高い技術と筋力、そして練習によって始めて形となる。

 

綾乃の素振りを逐一修正しながら、ある程度形になってきたところでOKのサインを出す。てこずっていると言ってもそれは綾乃基準であって、一回の説明と数十回の素振りで十分様になっているのは世間では天才という。もっとも綾乃にはそれだけの土台があったので、あとはコツさえ分かれば技術的にはそう特別な技でもなかった。

 

ポーンと行輝からのロブが送られてくる。素振りの段階で少し息が上がりながらも、綾乃は落下地点を見極めながら、言われた通りそのラケット一本分辺りに下がる。

 

「(飛ぶタイミングとラケットの位置、そこを意識)」

 

身長や筋肉といった点では綾乃は他のプレイヤーに劣るが、反射神経を始めとした、動体視力や体のバネ、柔軟性、体幹などはむしろ優れている。そして日常に当たり前に存在するバドミントンという存在は、空振りという言葉とは疾うに縁を切っている。

 

両ひざをバネに軽く前へと飛びながらラケットがブレないように、腕を動かすのではなく体を捻り、そこに腕がついてくるイメージでラケットを素早く振るう。バシュンと重たい音はガットの中央、スイートスポットに当たった証拠だ。

体幹も安定しており着地後もよろけずに前に出た綾乃は、ネットに引っ掛かったシャトルを見てショックを受けたように口を開く。

 

「ひ、引っ掛かったぁ…」

 

「…羽咲がすげぇってことは十分知ってたけど、やっぱ見せつけられるな…」

 

「たったあれだけのことで…」

 

ロブを上げていた行輝に、横目で時折確認していたなぎさは各々ポツリと呟く。理子もまた、ノック一本目で想像以上に形になっていた綾乃のジャンピングスマッシュに目を丸くしていた。

ネットにこそ引っ掛かれど、そのフォームは綺麗なものだった。音や速さ的にも、面がブレることなく、全身のエネルギーもしっかり込められていた。

 

「もうほとんど形になってるよ。あとは打つ瞬間のラケットの角度だね」

 

「ん、もうちょっと飛ぶ位置も調整する」

 

それから十五回ほどジャンピングスマッシュを打った頃には安定してネットを越えるようになっていたが、体力と集中力的に限界が見えて来たのか、どこかしらに穴はあった。素振りもあったとはいえ、ニ十本弱のノックで綾乃は膝に手を当てて息を整えていた。

 

「ハァ…ハァ…ッ…。な、なぎさちゃんはあんなにいっぱい打ってるのに…」

 

「慣れもあるけど素の筋力が違うんだよ。どうしても羽咲は余分にエネルギーを使わないと形にならないけど、荒垣先輩はパワーがある分、羽咲より少ない浪費でジャンピングスマッシュが打てるんだ」

 

「ぅぅ…」

 

「だからさっきも言ったけど、ここぞと言う時に留めておくこと」

 

「は~い…」

 

そんな二人をノックの休憩時間にジッと見つめていたなぎさは、綾乃から弦羽早へ、そして健太郎へと視線を移す。

昨日の今日で都合が良すぎるかと一瞬戸惑ったが、健太郎がそんな心の狭い人物でないのは、この部の中でなぎさが一番身を持って知っている。

少し練習を抜けると理子に告げると、なぎさは悠と空のノック練習をしている健太郎の元へと歩み寄る。

 

「あの、コーチ…」

 

「ん? どうした荒垣」

 

コーチと呼ぶのにすら少し恥ずかしがっているなぎさだったが、そこに茶々を入れることなく健太郎はシャトルを打ちだしながら答える。

 

「ちょっと話、いいか?相談があるんだけど…」

 

「…分かった。海老名、伊勢原妹、残り十球だ!」

 

「「はい!」」

 

ノックが終わり、悠と空が仲良くコート内で倒れ込む。そのいつもの光景に特に気にした様子もなく、「水分補給しとけよ」と軽く声だけ掛けてなぎさへと振り向く。

 

「相談ってのはここじゃしにくいことか?」

 

「あ、ああ…。外でいいか?」

 

「構わねぇよ」

 

外へと出ると春風が二人の体を撫でるように通り抜けている。無風の状態で練習を行うバドミントンは、当然体育館は締め切って行う。その為、今の季節はまだ楽な方だとはいえ、梅雨や真夏のバドミントンは室内競技の中でもかなりハードな部類である。逆に突き指などがまず無い分、冬はバレーやバスケなどの球技に比べるとやりやすいか。

 

熱の籠った体を冷ましてくれるほど良い風に、無意識の内に安心したかのように軽く息を漏らす。

 

「…さっきは周りに人がいたから俺からは言わなかったが、悩みってのは羽咲と…あと秦野もちょっと関係あることだろ?」

 

「気付いてたのか?」

 

「そりゃ以前から闘志メラメラだったからな」

 

「秦野にも言われたよ、それ」

 

情けないなと申し訳なさそうに頬を染める。なぎさが綾乃に対して、仲間としてよりもライバルとして見ているのは誰の目から見ても明らかだったので、健太郎は「みんなそんなもんさ」と、余り引きずらないようにと声を掛ける。

 

「…私は、次のインターハイ予選で優勝したい。…いや、優勝以上に、羽咲に勝ちたいんだ…」

 

「そこまで羽咲に拘る理由は、俺が原因……じゃないよな?」

 

綾乃を部に勧誘する時の”金メダル”発言をまさか未だに引きずっているのではないかと、少し構えるように健太郎は問う。そんな彼の仕草に小さく笑って。

 

「もしそうだって言ったら?」

 

「指導者としてまだまだだと反省するさ」

 

「安心しろ。アンタが原因じゃない。羽咲は…去年の全日本ジュニアで私が負けた相手なんだ」

 

「なっ!?…なるほど、まさかそんな身近にいたとはな」

 

なぎさが全日本ジュニアで完封されたのは知っていたが、相手までは聞いておらず、まさか同じ県どころか同じ部活にいるとは思いもよらなかった。それに綾乃の異質なまでの才能は健太郎も重々理解しているつもりだったが、スランプ前のなぎさを完封で倒せるほどまでの実力者だとは今の綾乃を見る限り思えない。

 

「…私もあれから練習してきたし、その、アンタのおかげで色々と吹っ切ることもできたから、今日は凄い調子がいい。でも、羽咲に勝てるって言われたら、厳しいと思うんだ。特にあいつは最近、速い球とずっと打ち合ってる」

 

「秦野だな」

 

綾乃は現在シングルスの練習に一番時間をかけているが、ノック前の軽い打ち合いでは弦羽早とダブルスのラリーを想定した練習を行っている。特に女子がミックスに出るに当たって大事な能力、レシーブとドライブを重点的に。

 

筋力は勿論、ホルモンバランスの関係から反射神経なども男性有利なミックスダブルスにおいて、男子が女子にスマッシュを打ち込んだり、ドライブ勝負で力技で押してくるのは王道のセオリーである。

そんなセオリー通りの攻撃に対して何もできないでは話にならず、女子も男子のスマッシュやドライブを返していかなければならない。特に綾乃と弦羽早のペアは防御が主軸となっている分、そこに力を入れている。

元々男子を越える動体視力を持っている綾乃のレシーブ力は、日に日に上達していっている。毎日毎日、質のよいスマッシュを打ってくれる相手がいるのだから、綾乃でなくても慣れていくのは自然だった。

 

「私のスマッシュは、秦野にだって負けない自信はある。シングルスとダブルスじゃ、レシーブも全然違うことも分かってる。でも、目が慣れてないのと慣れてるのじゃ、試合の組み立て方が全く変わってくる。それにジャンピングスマッシュだって、あいつなら次の予選までには武器にしてる…」

 

「そこに関してはそんなにしょい込むな。確かにさっきの練習見てたら質の高いのを打てるようになってるかもしれないが、羽咲の体格じゃ連発できないって秦野の意見は確かだ。俺もわざわざ羽咲に教えようとは思わないからな」

 

自分のエースショットと呼べる球をああも簡単にものにされて悔しいのだろう。

実際健太郎の目からすれば、なぎさの倍以上の体力を消耗する綾乃のジャンピングスマッシュは欠陥品にしか見えないが、そんな損得勘定での理屈ではないだろう。

それに欠陥品と称したが、例えばあと一点で勝負が決まるという状況で、それまで一切使わなかったジャンピングスマッシュを打ってきたら、相手をする側からしたらかなりのプレッシャーだ。

健太郎は少し考え込むように顎に手を当てながら、チラリとなぎさの方を見やる。昨日の一件ですっかり丸くなったのか、モジモジと不安そうな瞳で健太郎を見つめていた。

 

その可愛さにやられて――などと不純な動機ではないが、教え子から相談された以上、それに応えるのが指導者の義務だ。幸いと言うべきか、倒すべき相手である綾乃は健太郎に質問に来るようなタイプでもないので、なぎさと綾乃の板挟みになることはないだろう。

 

「北小町のコーチである以上、俺は公平にやらなきゃいけない」

 

「…そっか」

 

「でもな。”羽咲にも通用するレベルのスマッシュと組み立て方を教える”。これなら不公平じゃないだろ?」

 

健太郎の言葉になぎさの顔がパァァと明るくなる。まるでずっと飼い主が帰ってくるのを待っていた子犬のようで、なぎさもすぐに自覚したのか、慌てて顔をいつものしかめっ面に戻してそっぽを向く。

 

やはり選手が一人で悩むのにも限界がある。しかしこの悩みを打ち明けられる程バドミントンに精通している知り合いがいないなぎさにとって、健太郎は最初にして最後の綱であった。

 

「(羽咲には秦野がいるからって思ったが、あいつも羽咲も、まだまだ伸ばすべき部分は多い。ただプレイスタイルの違いから、俺が二人に教えられることはそんなにもない。荒垣にはああ言ったが、羽咲からするとやっぱり贔屓に見えるか? ただあいつ俺に質問来ないからなぁ…。別に練習内容を変えるとか、意図して教えないとかじゃないし、大丈夫……だよな?)」

 

”一部の生徒ばかり見て他の生徒と向き合わなくなるようなことはしちゃ駄目よ”

 

合宿場でバドミントン雑誌のライターをやっている松川明美に言われた言葉が未だに引っ掛かっている健太郎にとって、今この状況は胸を張って明美に報告できるかというと、正直微妙である。

ただ目の前のなぎさを蔑ろにする選択肢は絶対にないので、これで大丈夫だろうと健太郎は胸を張る。

 

翌日綾乃と弦羽早に、神奈川のミックスダブルスの高順位成績者のまとめを渡したのも、決して負い目があるからではない。

 

 

 




綾乃「クジラだけどー、ふっかふかー!」←これ可愛すぎる

羽咲さんの攻略難易度高すぎないかと常々思います。まあいきなり魔王倒してもゲームにならんやろ(DQ6談)


主人公の容姿って大層なイケメンって訳ではないですが、爽やかオーラがあってちょっと人気な感じ。
基本的にコニー以外は誰もが見惚れるほどの美形って感じでは書いてないです。



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去り際香る子


時折攻撃的なクリアをアタッククリアと書いてましたが正しくはドリブンクリアでした。すみません。
アタックの方が分かりやすい……分かりやすくない?


ミントンのさして為にならない話でまーた半分くらい文字数使ってます。



目指せ優勝、打倒綾乃に向けて気合マックスのなぎさだったが、その翌日の土曜日に風邪をひいてしまい出鼻をくじかれる形となった。見舞いには綾乃とのり子と理子が向かい、昨日相談されたばかりの健太郎はおかしそうに呆れながら「いい機会だから何も考えずにゆっくりしとけ」とメッセージを送っておいた。

もう休日練習も限られ、部員達の緊張感も高まってきており、健太郎は体育館裏で行輝に相談を受けていた。

 

「どうしたらミスが減らせるかか…。ほぅ、すぐには難しい問題だな」

 

「はっ、はい…。俺、去年の試合で終盤のミスが重なって、自滅した形になったんです。今年こそはって思ったけれど、中々直らなくて。正直、そんなものかって妥協っていうか、諦めてた自分がいたんですけど、秦野や羽咲を見てると、もっと減らせるんじゃないかって」

 

「なるほど…」

 

やはり実力のある新入生が二人も入って来てくれたのは、上級生である彼等にとっても良い影響を与えている。

健太郎は真面目な表情で腕を組みながらも、内では弦羽早(つばさ)と綾乃の影響に口元を上げていた。

 

「それに…せめてシングルスだけは、秦野に先輩として1ゲームは取りたいって気持ちもあって…。勿論、実力差は分かっています」

 

「…いや、誰かに負けたくないって気持ちはとても大事だ。恥じることは無い」

 

ただ、と健太郎は心の中で付け加える。

 

「(秦野はステップの遅さはあるものの、あの守備の安定感はシングルスでも上位だ。スタミナやメンタルに難があるわけでもない。最近は羽咲との練習でスマッシュの安定感も上がっているし、贔屓目なしでも強豪相手に通用する)」

 

この間弦羽早が残ってマンツーマンの居残り練習をしている時に、休日どれくらいの練習をしているのかを聞いたが、ほとんど一日の日程と同じだった。

 

まず起きてから早朝のランニングと軽いフットワークとストレッチ。それから提出物などを手早く済ませつつ、部屋でひたすら壁打ちやサーブ練習。昼食後、今度は筋トレと素振りを行い、その辺りで疲れが溜まって来るので、パソコンで試合を見て研究しノートに書きこむ。夕方から夜は市のクラブチームに顔を出し、それが終わった後にまたストレッチをして寝るらしい。

 

友達と遊びに行ったりすることもあるらしいが、部活の無い日、彼は基本そうして休日を過ごしているらしい。

 

彼にとって一日を練習に注ぎ込むのは誰かに勝ちたいとかそういった競争心があるのではなく、本当に平凡な日常としての一部のようだった。

 

「ただ実力差を分かっているのなら、予め作戦を立てていた方がいい。一打一打丁寧に決めずとも、予め心構えをしておくんだ。相談に来るならアドバイスには答える。勿論、秦野から相談があれば当然そっちにも乗るが」

 

「あ、ありがとうございます!」

 

「それと本題のミスを減らす方法だが、具体的に説明する」

 

ちょいちょいと指で手招きしながら体育館の扉を開き、壁角に置いていたラケットを手に取って体育館の隅で壁打ちしている弦羽早に声を掛ける。

 

「おーい、秦野ちょっと来てくれ」

 

「はーい!」

 

跳ね返って来たシャトルを空中ですくうと、何か用かと言った顔で健太郎の元へと駆ける。

 

「なんでしょう?」

 

「葉山がミスを減らしたいって言ってな。体幹に関しては間違いなくお前を見せるのがベストだと思ったんだ」

 

健太郎の後ろにいるもじゃもじゃ頭の先輩に視線を向けると、おいっすといつもと変わらない無邪気な笑顔を浮かべ、弦羽早もそれに返す。

 

「まずミスショットが起こりやすい原因だが、中級者以降となるとある程度限られる。メンタル的なものやラケットワークはこの際置いておくとして、それ以外では大きく別けると、ラケットを振るタイミング。シャトルの中にしっかり入り込めていない。打つ際に体がブレて、釣られてラケットもブレている。

まあミスショットなんてプロでも珍しくない。状況に寄りけりだが、とりあえずこの三つが少しでも良くなれば改善されるはずだ」

 

健太郎はコート内に散らばったシャトルを一つすくって上へと上げると、それを軽いスマッシュで反対のコートへと飛ばす。

シャトルの音はパシュンと少し高い。

 

「今のがシャトルを打つのが速すぎて、ラケットの上部分に当たった時の音。そして」

 

もう一回同じようにすくってあげたシャトルをスマッシュで打ち込む。今度はボシュッと鈍い音。

 

「これが遅すぎてラケットの下部分にあたっている音。真ん中のスイートスポットに当たる音は」

 

最後に一回もう一度同じ要領でスマッシュを打つ。別段力を込めていないスマッシュだったが、それまでの音とは全く違い、体育館に響くような乾いた音が鳴る。

 

「これだ。まず自分の打ったシャトルの音を逐一理解するのが大事だ」

 

行輝とてバドミントン歴は結構長い。当たり前の知識ではあるが、こういった事の再確認の必要だということで、健太郎は実際に見せる形でまず最初のラケットの振るタイミングの違いを教えた。

 

「次にシャトルの中に入り込む。これは羽咲のミスの少なさを支えている大きな要因だ。ちょっと秦野、何球か前にくれ」

 

「了解です」

 

弦羽早はコートに散らばったシャトルを何球か拾うと、反対のコートへ走って健太郎の合図に合わせて投げる。最初の一球目、健太郎の動きはかなり遅く、ネット前に落ちるシャトルを手を目いっぱい伸ばしてギリギリで打つ。

 

「極端だがフットワークが遅いとこうなる。初心者にはよくありがちな奴だな。こうなるとさっきも言ったラケットの面の中央で打てなくなるし、上体を下げてしまうから打つ瞬間の視界がブレる。ここまで極端でなくとも、シャトルに近づく速さはミスショットに影響する」

 

再度弦羽早から送られて来たシャトルを今度は素早いフォームで前に飛び出し、ゆとりを持ってヘアピンで前に落とした。

 

「逆に速いと体を安定させて、シャトルをしっかり見ながら打てるようになる。これは前の球に限った話じゃなくて、横の球も、当然後ろの球もシャトルの落下地点に入り込むスピードが速いほど、ゆとりが生まれてミスショットが減る」

 

「なるほど…」

 

言われて見ればと、綾乃は確かにシャトルに振り回されるようにコート中を駆け回っているイメージは無い。コート中をくまなく動いている点はその通りだが、振り回されているのではなく、ちゃんとシャトルを追い掛けている。

 

「そして体幹。これが秦野の強みでミスショットの少なさに繋がっている。要はブレがないんだ。秦野、右足を大きく一歩前に出してみてくれ」

 

「はい」

 

ラケットを右手に持ち替えた弦羽早は、ネットに向かって右足を大きく前に出す。利き腕と利き足を前に出すのはバドミントンの基本的なフォームだが、今の弦羽早は足を可能な限り目いっぱい前に出している。通常の試合ではここまで足を広げることはないが、実例という点ではよい参考になるだろう。

 

「バドミントンは後ろの球以外は最後の一歩を大きく前に出すのが基本のフォームだが、その最後の踏ん張りの安定性って話だな。秦野、そのままで軽くロブ上げてくれ」

 

今の弦羽早の体勢は、腰の高さがそれこそ膝程度の高さになるまで、目いっぱい足を出している状態だ。その状態を維持するだけでもキツイはずだが、弦羽早は特に顔を顰めることなく、健太郎が投げたシャトルをその体制のままロブで返す。ラケットを振る際も上半身がブレることはなく、音もコースも安定していた。

 

「サンキューな秦野、もういいぞ」

 

「よっ、ととっ!」

 

「ここまでの事は出来なくてもいいし、出来る必要もないが、最後の一歩を出す際にブレないというのは面の安定性に直結する。どれだけ綺麗なフットワークでも、最後の一歩を踏ん張れなければ意味はないからな」

 

「ありがとうございます!なんか、もっと色々意識すれば良くなりそうです!秦野もサンキュー」

 

「いえ、バランスに関しては任せて下さいよ」

 

弦羽早が体幹が良く、かつ重心移動が得意なのは彼の両手利きというプレイスタイルで既に証明されている。

 

ラケットを単純に振ってシャトルに当てるだけなら、ある程度練習すれば遊びの範囲内であればできるようになる。だがバドミントンは利き腕が変わってくると、当然フットワークの順序も変わってくる。

利き腕が右だとすると、足の運びは右→左→右となるが、左利きの場合はその逆。腰の捻り方や重心の動かし方も逆になる。それをラリーのさ中に瞬時に入れ替えるのは、余程の慣れと重心移動と体幹の良さが無ければ形にはならない。

しかも弦羽早はどちらの腕でもジャンピングスマッシュを行える。バドミントンの体幹が要求される最もたる打ち方を両方の腕でだ。

 

「(この強みは当然秦野だけでなく羽咲にも言える。ったく、こいつらがウチで助かったよ。他校にいると思うとゾっとする)」

 

健太郎などの教える側の人間からしたら、ミスの少なく守りを強みとする選手に勝つための案を考えるのはかなり難しい。攻めが強い選手には上げないように意識させ、強打があるがコントロールの無い選手にはミスを誘うようにパターンを組ませ、スタミナが無い選手には疲れさせたらよいが、守りの堅い選手を突破するには、やはり最終的にはそこを崩す為の力と技術が必要になる。

 

それは試合中のアドバイス一つで会得できるものではないので、だから選手としてどちらが上だと言うのではないが、指導者としてはやりにくいのは守りの選手だ。

 

 

気合の入った行輝を重点してノック練習をやっていると、なぎさの見舞いに行っていた綾乃と理子、のり子が帰って来た。

 

 

 

 

翌日の日曜日、まだエレナは部活には来ない。とは言え休日を挟んでいたのは幸いで、これが平日であれば綾乃の心配も今以上だっただろう。なぎさも今日までは休んでおくそうだ。

 

それに、決してエレナを蔑ろにしている訳ではないが、今の綾乃にはまた更に悩みの種が一つ増えていた。

 

昨日なぎさのところへの見舞いの帰りに会った一人の少女。

長いツインテールに大きなリボン、派手な顔立ち、そして何よりも目立つピンク色の髪の少女、芹ヶ谷薫子。

 

彼女と会ってすっかり意気消沈している綾乃は、ブルブルと体を震わせながら罪を告白する罪人のように呟く。

 

曰く中学校時代の大会の時、風邪をひいた薫子は公平を期すためにと綾乃を呼び出して監禁し、間近で咳をしたりすることで無理やり綾乃にも風邪を引かせてきたらしい。

 

うわぁ…と、話を聞いていた全員が綾乃へと同情の眼差しを送る。それは人見知りの綾乃でなくとも、十分にトラウマになるレベルの出来事だ。

病人の咳を好んで間近で受けようとする人間はただの変態か、風邪でもひいて学校や仕事を休みたい者ぐらいだろう。

 

 

そんな綾乃にすら思い込みが激しいと言われる件の少女は、北小町バドミントン部がアップのランニングを始めた頃に突然訪れた。

 

「随分カビ臭い体育館ですわね。練習機材も少ないし、とても環境がいいとは言えませんわ」

 

漫画であればバン!と背中に文字が浮かぶような、腰に手を当てる堂々とした構えでその少女は体育館入口に立っていた。

長いボリュームのツインテール。大きな黒いリボン。背丈は決して高くないが女性らしい体つきと、大人びた強気の顔立ちの美人。だが何よりも目立つのはやはりピンク色の髪。

 

「な、何しに来たの、去り際香る子…」

 

「芹ヶ谷薫子ですわ!」

 

弦羽早の背中に隠れるように潜り込む綾乃に対し、彼女は甲高い声で叫び返す。

 

そして弦羽早の顔を見るとギョッとしたように目を見開き。

 

「な、何故珍獣の秦野弦羽早がここにいるんですの?」

 

「誰が珍獣ですか。せめて二刀流って言ってくれ」

 

「あんなアホらしいバドミントン珍獣で十分ですわ」

 

アホらしい、というのは当然両手を使い分けるプレイの事だ。弦羽早はフォームの綺麗さや安定性はかなり高い評価を受けているが、その曲芸師のようなプレイスタイルの所為か、真に基礎を重んじるプレイヤー等からは、呆れと嘲笑を籠めて珍獣呼びする者もいる。

 

「それで、どうしてあなた程の実力者がこんな高校へ?」

 

「羽咲とミックス組むため」

 

「なるほど、そういう――ええっと、わたくしの聞き間違えかしら。今、羽咲さんとミックスを組むと?」

 

「…そだよ。秦野は私のペア」

 

ひょこっと弦羽早の背中に隠れていた綾乃が顔を出す。

 

色々と理解できないと薫子は立ち尽くす。

まずそもそも綾乃がダブルスを組むと言う点で色々とおかしい。あの他人を見下すことに関しては天才的で、協調性もリスペクトの欠片も無いあの羽咲綾乃が、ダブルスを?

しかも弦羽早はこの高校に来た理由として綾乃とペアを組むためと言った。つまり彼はわざわざ宮城の中学からこちらまで来たことになる。

そこまでするということは弦羽早は綾乃に対して、人としてかバドミントンプレイヤーとしてかは分からないが、好意を持っている事となる。

”あの羽咲綾乃に”

 

「ア、アハハハハ!そっ、それは滑稽ですわ!まさかあなたがダブルスを、それもミックスなんて」

 

薫子は見下すような口調のまま、腹を抱えながらあまりのおかしさに涙を流す。

 

「ッ…笑わ…ないでよ…」

 

「え?なんですって?」

 

背中に隠れる綾乃がギュッと、訴えかけるようにウェアを握りしめるのを感じる。二人の因縁がどれ程のものかは弦羽早は知らないが、しかしそれだけで動くには十分だった。

ポンと綾乃の頭を優しく撫でると、弦羽早は薫子の元へ歩み寄ると、その腕を強く掴んで引っ張り、ジッとその顔を睨みつける。

 

「痛ッ!ちょっとあなた、レディに対して――」

 

「あんまり俺のパートナーを馬鹿にしないでくれる?邪魔するなら帰って」

 

これまで聞いたことない様な冷たいトーンに、綾乃を除く部員達は皆ぞわっと背筋を震わせた。先程の爽やかだった雰囲気は一転し、攻撃的な目つきの弦羽早はギィッと薫子の腕を握る力を強める。

 

「ッ!」

 

「やめろ秦野!」

 

そこに割って入ったのが健太郎だった。薫子を掴む腕を、健太郎が更に掴む形で止めさせる。

弦羽早もそれで少し冷静になったのか、スッと静かに離れるが、ただ薫子に対して謝罪も何も言わなかった。

 

健太郎は薫子の腕を確認する。

軽く赤くはなっているが腫れてるまでは無く、ほんの数分置けばすぐに赤みの引く程度のものだった。一応その辺りは気を付けてはくれていたようだ。暴力沙汰で出場停止など笑い話にもならない。

 

「悪かったな、うちの生徒が。あとでちゃんと言っておく。ただ君も、人が気にしているところをああやって笑うもんじゃない。パッと見腫れてないが大丈夫か?」

 

自分の腕を優しく手に取る健太郎の姿は、薫子にとってはまさに白馬の王子様のようにキラキラと輝いて見えたようだ。

大人びているようで少女趣味の毛がある薫子の脳内に、花畑の中、白いタキシードを着た健太郎にお姫様抱っこされるドレス姿の自分が瞬時に浮かぶ。その背景に、檻に入れられる獣のコスプレをした弦羽早と、ボロ布を着たみすぼらしい格好の綾乃が入っている辺り、彼女の性格の悪さが伺える。

 

「(こ、こんな優しくてクールな殿方がいらっしゃるなんて……)」

 

カァァと誰が見ても分かりやすくなるほどに顔を真っ赤にさせる薫子に、恋愛に疎い綾乃以外は困惑したように口を開く。

理子がボソリと「女の子版弦羽早君だね」と先程の暗い空気を壊す為に冗談交じりに言うと、弦羽早の黒い笑みが彼女へと振り向かれた。

 

「え、ええっ!だだだ、大丈夫ですわぁッ! ……って、ち、違いましてよ!」

 

健太郎の手を振りほどく薫子は、ビシッと健太郎含む全員へと指を指す。

 

「不合格ですわ、北小町高校!こんな仲良しクラブの雰囲気にしつけのなってない獣一匹では、予選を勝ち上がるなんて不可能でしてよ!」

 

「秦野、珍獣から普通の獣に降格されたぞ」

 

「ほっといて下さい」

 

「わたくし達興南高校とは――コーチを除く他全てが比べ物になりませんわ!」

 

流石にオーホッホとまで典型的な笑い声では無かったが、しかしシンデレラの意地悪なお姉さん役がさぞ似合いそうな笑い方をする薫子は、健太郎が「見学するか?」と声を掛けるまで笑い続けた。

嫌な性格、というよりも面倒な奴だというのが北小町バドミントン部の総意であった。

 




自分のことちゃんと性格悪いって自覚してる薫子ちゃん好き。

原作でダブルス戦も見たかった。ミキちゃんあの雰囲気で全国レベルなの凄い。


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本心

なるべく誤字修正以外で書き直ししたくないけれどこの回は色々と不安。


まるで監査に入られたみたいだ。健太郎を含むこの場全員社会経験がないので本物の監査を知らないが、この鋭い視線を前に悠々と練習できるメンバーは学だけであった。

弦羽早は薫子の圧に押されてというより、綾乃が心配で集中できていない。そわそわと彼女を気にするその姿は想い人というよりも、初めてのお使いに娘を送る父親のようだ。

 

パイプ椅子にジッと座る芹ヶ谷薫子の視線に、皆すっかり肩を縮こまっており、唯一熱い視線を向けられている健太郎は別の意味でやりにくそうだ。

 

その中でも一番、明らかに動きがおかしいのは綾乃だった。常に薫子の視線を気にしているのはおろか、時々顔を青くしたり頭を抑えたりしている。

 

当然、その様子を見ていた薫子はピクリと目元を動かす。

 

「(ま~たいっちょ前に下らない事を考えていますわね、あれは)」

 

薫子にとって綾乃は始めて出来た同い年のライバルであった。いや、始めて会った時はライバルというにはおこがましい程に実力差があった。

 

綾乃は圧倒的だった。

 

それまで同級生に負けることのなかった薫子は、ほぼラブゲームに近い点数で大敗した。

だがそんな薫子に対し、綾乃は「薫子ちゃん、強いね」と笑顔で言ってきたのだ。

あれ程屈辱的な敗北は後にも先にも、バドミントン以外を含めても始めてだった。

 

そんな彼女が今はあのざまだ。

 

「羽咲、大丈夫?」

 

「ん…平気。練習、しなきゃ…」

 

「少し休んだ方がいいよ。体調管理も――」

 

「エレナに、胸張って頑張ってるって、言いたいの」

 

「(あの珍獣、ずいぶん羽咲さんを気にしてるようですわね。パートナーですから当然でしょうが、あの羽咲さんに男性がねぇ…)」

 

薫子は羽咲綾乃という少女を人間としてはどこまでも歪だと見ている。自己の中で矛盾を持ち、他人を振り回す身勝手さ、リスペクト精神を持たない少女。

その評価は自分で自分の首を絞めているのだと言われた場合、薫子は「その通りですわ」と肯定するだろう。彼女は自分の事を理解し、知ろうとしている。

 

そんな綾乃の本性を見抜いている薫子からすれば、今の猫を被っている綾乃は実に不愉快だ。

いや、あの落差は外面如菩薩内面如夜叉の方が合っているか。そもそも綾乃の自身が猫を被っていることに自覚があるのか分からないのが、また綾乃がどこか普通ではない事を証明していた。

 

「コーチ、次私のノックお願いします…」

 

「ほんとに大丈夫か羽咲?」

 

「へーきです…」

 

「(…ショート、ラウンド奥、クロスのヘアピン、ドロップ、フォア奥で決まりかしら)」

 

ニヤリとあくどい笑みを浮かべた薫子は、愛しい健太郎の背中へと声を飛ばす。

 

「その方のノックは私がいたしますわ」

 

バドミントンバッグからラケットを取り出すと、優雅にピンク色の髪をかきあげながらコートへと歩み寄る。

いつもの健太郎なら相手の手の内を読むために許可しただろうが、今の綾乃に対していつもの激しいノックはできない。

 

「断る。今の羽咲を――」

 

「いいよ。やろうよ薫子ちゃん」

 

「あら?あなたにしては随分前向きな発言ですわね」

 

了承の言葉は健太郎だけでなく、彼女をよく知る薫子も意外そうに眼を丸くする。

 

さて、どういった心境の変化なのかとジッと観察するが、顔色の悪い以外は”弱い羽咲綾乃”であることに変わりなかった。

そわそわと綾乃を心配する弦羽早を押し退けるように薫子はコートに入る。既に綾乃は反対のコートにジッと立っており、シャトルを構えた薫子へ呟きかけた。

 

「薫子ちゃん。覚えてるよね、中学二年の時の試合」

 

「ええ、勿論ですわ。あなたがわたくしに負けた試合」

 

「ッ!ほっ、本当に、あんな勝ち方で満足してるの?」

 

ピリッと一瞬綾乃を取り巻く空気が変わり、女バド勢は静かに息を呑む。

 

「(羽咲さんなりの挑発のつもり?声は上がってるし手も震えている。随分可愛い挑発ですが乗ってあげますか)」

 

「あら?何か言いたいのかしら?」

 

「ねえ、あのゲームの続き、今やろうよ。私が四点連続で取ったら私の勝ち、薫子ちゃんが一点でも取れば薫子ちゃんの勝ち」

 

4点というのは件の試合が21ー19で終わらず、22点先取と仮定して、デュースを含めた数字なのだろう。

何を言うかと思えばと、鈍感な綾乃にも分かるようにと深く深く息を吐いて、見下すような嘲笑を浮かべながら唇を動かす。

 

「結果は変わりませんので構いませんわ。それと、別にハンデを頂かなくて結構。あなたが一点でも私から打ち取れれば、あなたの勝ちにして差し上げますわ」

 

「…そういう態度、ほんとイライラするなぁ…」

 

ボソリと呟いた綾乃の言葉は、シーンと静まり返る体育館の中でさえ誰の耳にも聞こえなかった。それまでほわほわとした綾乃の雰囲気は、まるで何かに追われているような切羽詰まった余裕のないものへと変わる。

 

「はねさ……」

 

落ち着くようにとアドバイスを送ろうとした弦羽早だったが、それを遮るように薫子はラケットを構えた。

たかがノック練習、アドバイスを送るなどルール違反もあったものではないが、二人を取り纏う空気は試合のそれそのままで、その瞬間弦羽早は部外者としてコートからはじき出された。

 

「(上手い。この空気を利用している。技術面は分からないが、心理戦は相当できる…)」

 

静かにバックハンドでのサーブ体勢を取る薫子を観察する。

薫子は構えたままピクリとも動かずにサーブをしない。中々来ないシャトルに綾乃が苛立ちを覚えギュッとラケットを強く握った瞬間、ポンとショートサーブが放たれる。

 

「ッ!」

 

綾乃は足を前に出しながら、薫子の動きを見る。利き足である右足を蹴って、後ろに飛ぼうとしている。上半身も少し反っている。

 

「(ここは前に打って上げさせる)」

 

トンと右サイドへとヘアピンを送る綾乃だったが、その直後、薫子は既にネット前でヘアピンを取る体勢を取っていた。

 

「速い!」

 

「いや、重心を後ろにやってわざと前に誘導したんだ」

 

「お望み通り、上げて差し上げますわ」

 

ニヤリとネット越しの薫子の口元が上がるのと同時に、綾乃の身長では飛んだって届かない低めのロブ球がコート奥(リア―コート)へと、それもラウンド側へと伸びる。いくら綾乃でもネット前にいる状況から、コート奥へと飛ばされる球を背面打ちは厳しい。綾乃は薫子に背中を向けるようにして後ろへと下がり、背中を見せながら上の球をバックハンドで打つ技、ハイバックでクロスのドロップを落とす。

 

だがその球も薫子は読んでいた。既に前に構えていた薫子は、余裕の笑みで自陣に飛んでくるシャトルに対し、ラケットを置いておく。

だが綾乃もまた、薫子が自分の配球を読んで前で張っているのは気づいており、地面を蹴るように飛んで前へと詰める。

 

しかし綾乃が二歩目を踏んだ直後、薫子のラケットが横へと振られる。通称ワイパーショットと呼ばれる、車のワイパーのように動くそのラケットにより、シャトルは綾乃が向かう薫子の前とは反対側のネット前へと飛ぶ。

 

「ぐっ!」

 

綾乃はすぐさま重心を右に傾けながら、着地と同時に左足を蹴って右へと飛び、なんとかシャトルが地面につく前にロブを上げるが、手を限界まで伸ばし頭も下がった状態で打つそれはよいコースとは言えない。

甘いロブに対し既に薫子は強打を打つ構えを取っている。

 

「(大丈夫、いくらミドルコートでもスマッシュは取れる)」

 

全力で後ろに戻りながらレシーブの体勢を取る綾乃の耳に届いたのはスマッシュの激しい音でなく、トンとガットが軽く震える小さな音だった。

 

「ここでドロップショット!?」

 

完全に後ろ寄りになっていた体勢がガラリと崩れてしまい、綾乃は急いで飛び込むようにして落ちてくるシャトルを拾う。ガチャンと綾乃の持つラケットが地面に衝突する。

 

「これで終わりですわ」

 

そのシャトルはまたもやポーンと気の抜けた音を鳴らして、弧を描く様に綾乃のコート奥へとコトリと落ちた。

 

「ほんとに無様ですわね。あなた、弱すぎですわ」

 

その言葉にコートの横にいる弦羽早が割り込もうとするが、学と行輝によって押さえつけられている。

薫子の言葉はスポーツマンにあるまじきものではあったが、しかし弦羽早の先程の対応もまた同じであり、そうなれば力の強い男子が女子に対して力を振るう方が悪になる。

 

そして何より、薫子はその言葉を言うに足りる実力をたった今証明して見せた。

 

「ラケットを強く握った瞬間でのショートサーブ。あれでラケットワークにゆとりが無くなり、更に後ろに行くと見せかけることで、羽咲のレシーブをストレートのヘアピンに限定。そこで流れをつかみ、ハイバックへの低めのロブ。そして羽咲のハイバックの体制からロブに来ないと再び前に張り、前に詰めて来たところを、足を蹴った瞬間でのクロス。極めつけは絶好のチャンス球に対して強打ではなくドロップ…」

 

言うだけなら簡単かもしれない。あるいは予想したり、考えるのもまた簡単である。しかし自分の配球や読みをそのまま実行に移す為の精神力を持つ人間はいない。

どうしても自分の配球や相手の読みに対し”本当に合っているのか”と不安になる自分がいる。だが今の薫子のプレイでは、それは感じられない。

だからこそ、薫子は常に綾乃の打った先に待ち構えるようにいたのだ。

 

「かつてのライバルを視察に来たつもりでしたけどガッカリですわ。羽咲さん、あなたはわたくしにこれで二回負けた。それも言い訳のしようも無い、完膚なきまでに」

 

「ぅ……」

 

コートの上で横たわる綾乃を見下し、愉快そうに口元を上げる薫子の姿に、弦羽早はギリッと唇を噛んで学と行輝の腕を振り解く。

 

「離せ!」

 

「おい秦野!」

 

薫子の元へ歩み寄り、弦羽早は鋭い目つきで彼女を見下ろす。

 

「あら、また暴力ですの?雑誌では爽やかだの書かれてましたが、随分と脚色されているそうですわね」

 

その言葉にギュッと両こぶしを握り締める。

そうだ、自分は確かに綾乃の事をずっと大切に思っているが、同時にスポーツマンでもある。いくら相手の言葉に棘があろうとも、コートの中で手を出しては決していけない。だが試合を申し込むにも性別が違い、フェアな勝負などできない。シングルスで彼女に勝ったところで誰も得しないし、彼女もまた本気を出さずに適当に負けるのは目に見えている。

 

「羽咲は…羽咲綾乃は俺にとっての憧れだ…」

 

「へぇ…それで?」

 

「彼女を…これ以上悪く言うな…」

 

「ん?……あ~」

 

薫子は納得した。久しぶりに会った綾乃のどこか気の抜けた、甘いだけでなく、何か背もたれに寄りかかるような腑抜けた空気。

その正体がこの男だと。

 

「(なるほど。良い子ちゃんの羽咲さんは高校では随分と甘やかされてるみたいですわね。さて…、これ以上煽ってみる? いいえ、これ以上は学校に通知が行くかもしれない。ただこんな腑抜けた羽咲さんに勝ってもなんの面白みもない。もう少し確実にこの人が本気になれる要因を作っておきたかったけれど限界でしょうか。あとはこの仲良しクラブに任せるとしますか)」

 

立ち直れなければその程度のプレイヤーだったという事だ。

 

石のように冷たい表情は綾乃に打ち勝って満足したようには到底思えず、心底期待外れだったと言葉にせずとも語っていた。

 

「では失礼しますわ。ご、ごきげんよう」

 

部員達には吐き捨てるように、しかし健太郎に対してだけ丁寧にもの柔らかい表情で告げた薫子は、ラケットをバドミントンバッグに仕舞い、早々と去って行った。

 

体育館は嵐が去ったかのように突然と静まり返る。

薫子の言動、薫子に対する自分の行為に弦羽早はギュッと拳を握りながら、ネットの下を潜って綾乃の元へと歩み寄ろうとするが、そんな弦羽早から逃げるように綾乃は立ち上がると、ほんの一瞬だけ皆の顔を見た後、全速力で体育館を去って行った。

 

「羽咲!?」

 

慌ててその背中を追いかけようとするが、腕を掴まれる。

 

「離して下さいコーチ!」

 

「いいから落ち着け。お前は羽咲を甘やかしすぎだ」

 

それはバドミントンプレイヤーではなく人として、弦羽早は綾乃に対して甘い。

優しくして好感度を稼ごうなど、そういった打算的な優しさではなく、心から彼女を大切にしている気持ちは健太郎にも伝わっている。だからこそ、時折弦羽早の感情に健太郎は不安を覚える。

 

「それに今の羽咲はパートナーであるお前とは特に顔を合わせづらいだろう。ここは俺が追い掛ける」

 

基本的に弦羽早は先ほどのような状況にでも起こらない限り、温厚で理性的な人間だ。だからこそ健太郎は素直に引いてくれると予期していたが、それは健太郎に向けられる鋭い視線によって裏切られる。

 

「…確かに、甘やかしている自覚はあります。ここで羽咲を追いかけるべきなのがコーチなのも。でもさ、もうそんな理屈は通らないんですよ。あいつ…羽咲に関しては」

 

「秦野…」

 

「羽咲の抱えている悩みは決して、人一倍辛いって訳じゃないのかもしれない。人によっては悩みにすらならないのかもしれない。でも、普通とは異なる特殊な悩みなのは確かです。俺はそれを同じコートに立って少しでも支えてあげたい。例えコーチであろうと、その役目を渡す気はありません」

 

弦羽早の想いを聞き終えた頃には、健太郎は腕を掴んでいる手を解いていた。

それは同性であることや健太郎も経験した事のある恋心に同情したからではなく、綾乃の存在が弦羽早のバドミントンの芯になっているものだと今の言葉で確信したから。

 

弦羽早は軽くだけ頭を下げると、走り去った綾乃の後を追うように体育館を飛び出した。

 

「だ、大丈夫ですかね、綾乃ちゃんと弦羽早君」

 

「…一度羽咲の家に行く。みんなは自主練しておいてくれ」

 

「わ、私達も行きます!あやのんをほっとけないです!」

 

健太郎は少し悩むように間を取る。もう個人戦の大会も近い。悠と空はダブルスのみで出る為、試合が行われるのはまだ一ヵ月近く先になるが、それでも十分に最後の追い込みに入る期間だ。

しかしただ厳しいだけでは指導者は務まらないと言うのは、八人も退部した事で健太郎自身痛いほど理解させられた。

 

「……分かった。ただ男子二人は団体はないんだ。お前達は残って練習しててくれ」

 

「…うっす」

 

「了解っす」

 

「(ハァ…。羽咲が個性的なのは重々理解していたが、秦野も想像以上に癖が強いな。そこに自覚がある分、尚更強く言いにくい。ただ基本それはいい方向に進んでいる。芹ヶ谷の一件はたまたま悪い方向に出ただけだと捉えよう)」

 

弦羽早がどこまで綾乃に対して深く入り込め、どこまで綾乃が受け入れることができるか。幼馴染でありパートナーである二人の距離感は、再会してまだ一月も経っていないが決して遠くはない。

 

健太郎は重い足取りで下履きに履き替えると、以前行った綾乃の家へと足を進めた。

 

 

 

 

 

健太郎に止められ出遅れた事で完全に綾乃を見失っていた弦羽早は、思い当たる場所へと二つほど当たった。最初は近くのコンビニで、次は小さい個人営業の肉まん屋。ただこの二つに関しては弦羽早も期待してはおらず、目的地までに可能性を潰す為の少しの遠回り程度だった。

かつて綾乃と出会ったタコの公園を横切り、急斜の険しい長い坂を上り、何度か道を曲がった先にその小さな体育館はあった。

 

小学校の頃に通っていたクラブチームよりも、ここでの練習時間の方がずっと長かった。彼女にとってのバドミントンの原点となり、弦羽早のバドミントンの基礎になった場所。

 

かつて綺麗に整理されていた敷地内には、今は木材などが乱雑に置かれており、誰かが勝手に物置にしているのか、あるいはここの所有権は有千夏のものではなくなったのか。

いずれにせよ、昔は親しみのある建物だったそこは、たった三年で廃れた物寂しい建物へと変わっていた。

 

その扉の前にジッと立ち尽くしている少女へと、弦羽早は乱れた息を整えながら歩み寄る。

 

「…羽咲」

 

「秦野…幻滅した? それとも、スッキリした? 私が同い年の女の子に無様に負けて…」

 

「……とっても悔しかったさ」

 

「…ほんとに、秦野は優しいね」

 

他人の心に疎い綾乃でも、わざわざ聞かずとも弦羽早の気持ちには分かっている。再会して以来、あれだけ怒りを露わにした弦羽早を見るのは初めてだった。薫子に珍獣と言われても冗談交じりに返していた弦羽早が、綾乃の事になると、本人以上に怒りを露わにした。

切羽詰まったような余裕のない表情で、薫子に歯向かってくれた。

 

それが綾乃にとってはどうしようもなく”嫌”だった。

何故庇うのか。何故こうして追っかけてくるのか。そうすると余計に自分が惨めに見えて仕方がなく、何より彼に同情を寄せられるのが不愉快だ。

 

 

綾乃はたられば、の想像をする。

 

もしこうして追い掛けて来てくれたのが仲直りしたエレナだったら。おそらく彼女に抱き着いて甘えていた筈だ。

 

あるいは健太郎だったら。年も離れて立場も性別も違う。確かにコーチと教え子という関係性で、入部する前は彼の事が苦手だったが、今では自分に楽な距離感で接している。彼がここに来たなら、この辛さを素直に吐き出していたかもしれない。

 

でも弦羽早は?

おそらく母親を除けば一番バドミントンを通して接した相手であり、幼馴染で、今はパートナー。そして団体戦では全国一位を、個人ダブルスでも二位を取る程に成長した彼を、もはやただの部活仲間の一人だとは意識できなかった。

 

ただ友人として近いのではなく、選手としても彼と自分は似ている。プレイスタイルや両利きであることは勿論、バドミントンという競技に注ぎ込んできた時間と、努力を努力であると”思わなかった自分”と”思っていない弦羽早”。

 

この間、泊めてくれた時には抱かなかった弦羽早に対するモヤモヤが、また綾乃の胸の中で渦巻く。

 

「でもさ、本当は思ったでしょ? 私が、ずっと秦野に勝ってきた私は、中学校で薫子ちゃんに負けてからお母さんを失った…。でも、秦野は中学でパートナーを見つけて、団体戦で一緒に戦った仲間を見つけて、そして全国のトッププレイヤーになって。気持ちいいって、優越感、感じなかった?」

 

「お母さんを失ったって…?」

 

いや、それも当然聞き捨てならないが、今の弦羽早にはその後の言葉の方に意識が向いていた。

 

優越感を抱いていた? 誰が、誰に?

 

「まさか、俺がそんな風に思ってるって、考えてたのか?」

 

「…だって、それが普通でしょ?」

 

綾乃は振り向きながら、泣きそうな顔でそう返してきた。

 

なんだそれは…と、弦羽早は僅かな眩暈を覚え、視界がグラリと揺らいだ。

綾乃が何を言っているのか、何を持っての”普通”としているのか。綾乃に負けじとバドミントンを始めてから、学校による拘束時間を除くほぼ全てをバドミントンに注ぎ込んでもなお、弦羽早には綾乃の言葉は理解できなかった。

 

 

だが綾乃の今の感情に気付けないのは、弦羽早もまた人とは違う形でバドミントンをしているからであった。

 

 

人は誰しも自分より劣っている者に対して、多少なりとも優越感を抱いて生きている。体格、身長、ルックス、収入、恋人、そして強さ。その優越感を抱く何かに、時間と努力を注ぎ込む程その優越感は強くなっていく。練習を重ねれば重ねる程に、自分より強い相手には嫉妬し、だがそれまで強かった相手を追い越した瞬間に、格下であると判断する。

優越感の強弱は本当に人それぞれだ。

 

それを持っていない人間などどこにもいない。弦羽早自身も、そういった感情は持ち合わせている。中学で団体のレギュラー争いの際も、レギュラーに選ばれて優越感を覚える事はあった。ずっと負けていた相手に勝った時の達成感は今でも強く残っている。

 

だが羽咲綾乃に対してだけは、秦野弦羽早はそのような感情を抱いたことはない。

 

変人。能天気。頭は良くない。何考えてるのか分からない。気分屋で自己中。優しいように見えて、気が利かない。

 

彼女の欠点や不満点などは弦羽早だって幾度も無く感じるが、しかし見下したこと、それも”バドミントン”においてそれを感じるなど絶対に無かった。

 

「…なんだよそれ」

 

「え?ちょ…ッ!?」

 

突然ドスの利いた声と共に迫りくる弦羽早に、綾乃は思わず後退し、背中が体育館の開かずの扉とぶつかる。綾乃にギリギリまで近づいた弦羽早はドアに手を当てて体の差さえとし、綾乃と目線を合わせる。

 

「優越感だと!?そんなもの、あるに決まってるだろうが!」

 

「や、やっぱりッ!秦野も、私のこと見下してたんだ!」

 

「そうじゃない!」

 

ドンと弦羽早がドアを強く叩き、その振動が背中から全体へと伝わる。先程の薫子に対して、いや、それ以上に感情を剥き出しにしている弦羽早に、ビクリと怯えるように綾乃は肩を震わせた。

 

「俺は、羽咲とずっとダブルスを組みたかった。俺にバドミントンの楽しさと達成感と、喜びを教えてくれたお前と!そんなお前と組めるようになって、何も感じないわけない!」

 

「そ、そんなに組みたいなら小学の時すれば良かったじゃん!毎日一緒にいたのに!」

 

「言える訳ないだろ! あの時の羽咲と俺じゃあレベルが違い過ぎた。まさかミックスペアで、女子にキャリーして貰えって言うのか」

 

「でも実際、あの時私の方がずっとずっと強かった!」

 

「だから強くなったんだろ!」

 

ドンと苛立ちをぶつけるように再びドアが叩かれる。先程と同じ目つきに口調、でもその内に籠められている感情が少しだけ、ただ漠然と悪い感情ではないという事だけ、綾乃は感じる(つながる)事ができた。

 

だからか、先ほど見た事の無い剣幕の弦羽早に肩が震えたが、同じ怒鳴り声でも今は全然怖くない。

 

「お前のパートナーだって胸を張って言えるくらいに!頼ってもらえるようになって、インターハイに出て、そして…」

 

「…そして?」

 

――この気持ちを受け取って貰えるように

 

「…その時になったら、言う」

 

ゆっくりと離れていく弦羽早の顔に、綾乃は目と口を丸くしたあとにギュッと両腕を握る。

 

「な、なんで全部教えてくれないの! やっと私、ちょっとだけ秦野の本心が分かったと思ったのに!」

 

合宿の夜に、綾乃の別の仮面はこう願った。ダブルスを組んで少しでも色んな人と繋がり合いたい。繋がって、他人を思いやれるようになりたいと。

その仮面に今少しだけヒビが入ったような気がした。もし弦羽早の言葉を聞けたら、その仮面を一つ壊せるかもしれない。そんな予感が綾乃の中にあった。

 

「本心なら変わらない。羽咲とペアを組んで、優勝して金メダルを取る」

 

頬を僅かに赤く染めながらそっぽを向く弦羽早の言動に、綾乃はこれっぽっちもその感情に気付くことなく、背もたれにしているドアをガンと叩く。

 

「だからその理由を知りたいの!どうして秦野は私を無性にイライラさせるの!」

 

ドアを殴った手とは反対で頭を抑え込む綾乃の姿に、いつもは心配する弦羽早も流石に沸点を越えたのか再び怒鳴り声を上げる。

 

「はぁっ!?さっきから言わせておけば、お前だってコロコロコロコロ態度が変わって訳わかんないんだよ!その頭抱えるのもやめろ!ハッキリ言って一々気を使うのがめんどくさい!」

 

「なぁっ!? いッ、いいよね!あんだけ負けてた癖に全く失うもののない空っぽの秦野は!悩みなんて無さそうで楽しそうな人生だよ!」

 

「そう思えるなんて随分幸せな頭してるな!インター出場を舐めてるだけはある!やっぱり頭の中に脳味噌じゃなく具でも入ってんのか?」

 

「あ~も~ッ!ほんとうるさい!いっつもエレナにデレデレしてる癖に!」

 

「はぁ!?どこに目ん玉付けたらそう見えるんだ!?」

 

「小学校の時もエレナを呼び出して二人っきりで話してたじゃん!入学初日もエレナを廊下に呼び出してたし!」

 

「あれはッ……」

 

綾乃へのプレゼントの相談や、好きな食べ物を聞いていただけとは流石にこの流れで言えなかった。

弦羽早は苛立ちをぶつけるかのように頭をガシガシと掻くと、ハァと深くため息をつき、いわゆるヤンキー座りのポーズで体を落とす。

 

「ほんと…やっぱり羽咲は変わらないな」

 

「何が?」

 

唇を尖らせてブスっと不機嫌な声の彼女に、弦羽早はクスクスと笑みを浮かべる。

 

「色々と」

 

その笑顔といつもの物柔らかいトーンに、綾乃もまた釣られて毒気が抜けたように、ドアを背もたれにしてスルスルと座り込んだ。

怒鳴りに怒鳴り合った二人の肩は上下しており、下手な試合では肩で息をしない二人にとって、その状況はお互い愉快なものに映って見えた。

 

「「ふっ」」

 

綾乃の口から出た内に秘められていた本音は、弦羽早の心を揺さぶるには大きなものだった。

綾乃に見下すような人間だと思われていた事へのショックや、気付かぬうちにイライラさせてしまっていたこと、何故かエレナに好意を寄せている様に思われていたこと。

でも、どれだけ言われても、やはり気持ちは一寸もブレなかった。無茶苦茶で鈍感すぎるほどに他人の感情に疎い彼女を心の底から好きになったのだ。

 

弦羽早は綾乃の元まで歩み寄ると、ドアに寄りかかる彼女の頭をポンポンと優しく叩いて、その隣に座り込む。

 

「ねぇ秦野、さっきのって本音?」

 

「…心当たりが多すぎて分からないけど、どれ?」

 

もしかして気持ちに気付かれたかと、額から汗が静かに流れる。

 

「わ、私の頭が脳味噌じゃなくて具が詰まってるって言う…」

 

「クッ…フフッ!」

 

あんだけ散々綾乃に対する気持ちの強さを吐き出したというのによりによってそこかと、弦羽早は吹き出す様にして笑い出した。

加えて膨れ顔で怒る綾乃の頬が思わず肉まんの膨らみと重なってしまい、弦羽早は遂に腹を抱えて声を上げるようにゲラゲラと笑い出した。完全にツボに入ったようである。

 

「あー!やっぱりそうなんだ!」

 

「い、いやいや、そんな事思ってないって。ちょっとした冗だ――フフッ!」

 

「ぅぅぅ!秦野の癖に!」

 

「はいはい」

 

それからひとしきり笑い終えた後、弦羽早はすっかりいつもの彼の雰囲気と口調に戻っており、未だモヤモヤが続いている綾乃にはそれが悔しかった。

でも苛立ちなく、色々抱えていた悩みが何となく馬鹿馬鹿しく感じてくるように他の事がどうでもよくなってきた。

鍵の掛かったかつて練習場だった体育館の扉で、こうやって弦羽早と一緒に座っていると心が落ち着く。

 

「(確かに私、いっつもコロコロ変わってる。秦野にイライラしたり、嫉妬したりしてた。でもさっきまで喧嘩してたのに今は安心する。あれだけ言い合いしてたのに、言った事にも言われた事が心につっかえない。

ほんと…自分が分からない)」

 

「…ねえ秦野」

 

「なに?」

 

「私が勝ちたいって思うのはバドミントンをする上で悪いことなのかな?」

 

綾乃はそう呟いてポケットの中から折り畳まれた紙を取り出した。それは去年行われた全日本ジュニアのトーナメント表だった。

去年のジュニアでは弦羽早は本格的に勉強が危なかったので、進路が決まってないのならやれと顧問の監督に言われて渋々辞退していたが、綾乃は出場していたようだ。

 

一通りの名前を探すが綾乃の名前は見つからず、少し戸惑うにか細い指を指す。

神藤綾乃。

神藤、言われて思い出したが有千夏の旧名だったか。いくら彼女にお世話になったとはいえ、友人の母親の旧姓を小学生の弦羽早が深く覚えてなくとも無理はない。

 

彼女のトーナメント表を見て目を引いたのは、準決勝での辞退という文字と二回戦のスコア。

その対戦相手は荒垣なぎさで、同姓同名の別人ではなく間違いなく北小町のなぎさ本人。

彼女との試合のスコアは21ー0、21ー0で綾乃の勝利。ハイレベルな大会のなかで決勝のスコア以上にそれは目立っていた。

 

「こ、れって…」

 

普通ではなかった。日本のトップジュニアが集うこの大会においてスコンクが起こるなど。なぎさの一回戦の成績を見る限り彼女は決して不調ではなさそうだ。

それに当時の綾乃は中学三年生。成長期も収まり年齢による差も縮まる頃。だが大会で成績を残すのはやはり高校三年生の割合が高いくらいには、成長を続ける中での学生間の年齢差はあなどれない。

 

「私、この試合のことほとんど覚えてないの。勝ちたいって思って試合してなくて、ただ返ってきた珠を返しただけ。高校でなぎさちゃんの顔見た時だって分からなかった…」

 

昨日薫子ちゃんと会ってから、薫子との試合(あの時)の試合を思い出してた時に出てきたの。

綾乃はポツリとそう付け加えた。

 

「羽咲…」

 

薫子は強い。去年より更に、より強くなっていた。半年以上のブランクのある”今の自分”では勝てない事は先程のノック練習で思い知らされた。二週間の追い込みだけでは絶対に覆らない差。

 

この時の自分に戻れたら、完全とまで言わずとも近づくことができたら薫子に負ける事はあり得ない(・・・・・)

 

だが綾乃の人生においてもっともこの時期が辛かった。どれだけ勝利を得ても満たされず、試合の内容も対戦相手もまともに覚えていない、ただシャトルを拾い、本能的に相手が嫌がるとこに打ち続けただけ。

 

「…俺はこの時の羽咲を知らない。だけど羽咲がほとんど覚えていないってことは楽しくなかったんだよ。充実感も達成感もなかったんじゃない?」

 

「…多分そうだったと思う」

 

「なら勝ちたいって思うべきだ。強いとか弱いとかじゃなくて、どんな結果になっても羽咲が楽しむのが一番だ」

 

「…どんな結果でもじゃ駄目。負けたくないの」

 

「フフッ、ならもう答えは出てるじゃん。負けたくない、勝ちたい。素直にそう思うのなら、今の羽咲の全力をぶつけたらいい」

 

その言葉に綾乃はハッとしたように隣に座る彼を振り向くと、優しい眼差しと目が合って、クスリと一緒に笑みを浮かべた。

 

ーーそっか、"素直に"バドミントンやっていいんだ

 

全日本の時の自分に戻ってしまいそうだと、綾乃の中に小骨ようにひっかかっていた不安は、弦羽早の言葉でゆっくりと氷解を始めた。

 

「(ちゃんと話そう。お母さんのこと、秦野に)」

 

合宿の時弦羽早はいつか話して欲しいと言っていた。

その瞬間が、こうして背中に母と弦羽早と一緒にやっていた体育館がある今なのだろうと、直感的に思う。

 

「…ねえ、お母さんの話、してもいいかな?」

 

「ああ、聞かせて欲しい」

 

 

 




薫子ちゃんも綾乃の全部を理解してるとは思ってません。ただその一部は誰よりも知っているとは自負してる感じで自分は書きもうした。

原作で綾乃がなぎさと戦ったことを思えているシーンがなく、また誰と戦ったかも覚えていないという台詞もあったのでトーナメント表を見せる形で入れてみました。


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悔しいって思ったから

すいません今ゴタゴタして、暫く感想の返信控えます。誤字修正の反映も遅れると思います

とりあえず時折可能な範囲で書き溜め消費していきますが見直しとかもあるのでペース落ちます。


綾乃から語られた過去は中学校に入ってからすぐのバドミントン部での事と、中学二年生のインターハイ予選での出来事。

 

と言っても部活の話は簡潔なもので、レベルが低すぎて馴染めなかったということだけ。そのあと綾乃は社会人とも合同のクラブチームに参加し、そこで薫子と会う。

それからずっと薫子に勝ち続けて来た綾乃だが、予選で風邪を引いた薫子は対等な条件で行うと無理やり綾乃に風邪を移し、その状態で二人は試合を行う。しかし風邪の引きかけと治りかけというのもあり、綾乃の動きの方がはるかに悪くなっており、結果薫子に敗北。

 

その夜、綾乃が看病する母親に「負けてない」と言った翌日に有千夏は家を出て行った。それから未だに一度も有千夏からの連絡もなく、会えていない。

 

綾乃は有千夏に会う為に、取りつかれたようにそれまで以上にバドミントンに打ち込むようになり、母親の旧姓を名乗って大会に出る。

 

勝って勝って、勝ち続けて、勝てば母親が帰ってきてくれると信じて。

 

戦った相手の顔なんて覚えていない。どんな試合をやったかも覚えていない程にただバドミントンを続けた。

 

だがそれでも、有千夏は帰って来なかった。

 

「…お母さんが居なくなったのは、私が…負けたからなの」

 

「…そんな事が…」

 

これは事の全てではない。綾乃のが知っているのはあくまでも綾乃が経験した事だけであり、実際有千夏はただ綾乃が負けたからと、誰にも何も言わずに家を出て行ったのではない。

 

有千夏は祖父と祖母の前に土下座し、綾乃をバドミントンの選手として育て上げる為にと経緯を説明した後に、家を出て行った。

 

だが綾乃が知らない事を弦羽早が知る訳もなく、ただ漠然と有千夏の気が狂ったのではないかと疑った。

 

たった一度の敗北で母親を失ってしまった綾乃。それはまだ幼い少女にとってトラウマを植え付けるには十分過ぎる程に大きな出来事だった。それまで母親をバドミントンの選手としてもリスペクトしていた綾乃には尚更である。

 

弦羽早の本心からの感情としては、有千夏に対する怒りと困惑であった。

何故一言声を掛けなかったのか。

言い訳をする綾乃がいけないと思ったのなら何故そう指導しなかったのか。

 

「…ッ」

 

ギュッと拳を強く握るが、有千夏への罵倒は喉が無意識の内に押さえつけて出てこなかった。

 

それは普通の親子としての正論を綾乃は求めていないのだろうと直感があったから。

 

綾乃の声はずっと震えており、時に泣き出しそうに擦れながらも、ただ有千夏を恨んでいるような重苦しい口調ではなかった。

 

そして弦羽早もまた、有千夏を知っていた。

 

彼女に指導を受けたのも一回や二回などではなく、彼女とラリーゲームをしてもらった事もある。自主練習のプランもわざわざ自分一人の為に作ってくれ、練習の後によく手作りのお菓子を体育館に持ってきてくれた。

 

彼女は決して悪い人間ではなく、むしろ優しくてバドミントンが滅茶苦茶上手い”羽咲のおばちゃん”で、綾乃と一緒の試合を行くときなどは車に乗せて連れてってもらったりもしていた。

 

有千夏との思い出を浮かばせながら、考えた末浮かび上がった持論を語る。

 

「…おばさんは、多分負けたからとかじゃないと思う」

 

「…どうして?」

 

「それまで、おばさんが一回も負けた事なくて日本のトップに立ったのなら、原因は羽咲の敗北かもしれない。でもおばさんだってたくさん負けてきたはず。そうじゃなきゃ十連覇以上しているし、オリンピックで金メダルだって取ってる。負けない選手なんてこの世にはいない。だから負けた事を理由に、羽咲みたいないい子を捨てる人じゃないと、俺は信じたいな」

 

「…でも、じゃあッ!…どうして?」

 

隣に座る弦羽早へと振り向く綾乃だが、彼は目を合わせてくれない。ただジッと、沈んでいく夕日を眺めながら申し訳なさそうに。

 

「今の話だけじゃ、俺にも分からない…」

 

「…そう、だよね…」

 

「でもさ、おばさんは羽咲の事大切に思ってるよ。というかあれは親馬鹿って言うのかな?」

 

「なんで秦野にそんなのが分かるの…」

 

しんみりとした、そよ風のように弱々しい声で綾乃は暗い顔を俯かせる。だが弦羽早の顔は対照的に呆れたような明るい笑みを浮かべており、朗々とした声で返した。

 

「俺がなんで小学校の卒業式の日に、全国一位になったらペア組んでくれって言ったと思う?」

 

「え…? な、なんとなく約束の拘束力強そうだから?」

 

ブッブーとなるべく明るい空気にしようとしてかあるいは素か、弦羽早は腕でバツ印を作って呆れる口調で答えを教えた。

 

「そこまで賢く無かったよ。答えはおばさんに言われたから。羽咲とミックスが組みたいなら、せめて全国トップに通用するぐらい強くないと、親としてもコーチとしても認めてあげられないって。ほんと、いくら親馬鹿だからって過保護でしょ」

 

それを小学校三年生の少年、それも綾乃へ好意を抱いている少年に告げるのだから本当に容赦がない。

つまるとこ、全国トップレベルの男子でないと綾乃のパートナーは務まらず、更に恋愛面でもそこまで上り詰める男じゃないと自分は認めないと、そう遠回しにだが言ったのだ。

 

「そんな事お母さんが? …え?じゃあ秦野ってその約束守るために?」

 

「うん。俺はそこまでおばさんの下で練習できた訳じゃなかったし、本気で目指す為にも強い部のところに行った。日城を選んだのは近くに親戚がいたからだけど、あの中学で良かったと思ってる」

 

「ッ…なんで、私とペア組むためだけにそんなにできるの?」

 

その答えは驚くほどに単純で、言うだけならたった一言で済む簡単な言葉であるが、時に大きな原動力となる感情。

 

ただ今の綾乃は告白を求めているのではない。純粋に、何故自分をそこまで評価してくれるのか、その言葉を求めているのだ。

だから弦羽早は綾乃に恋する前に抱いた、今の自分を形成するもう1つのきっかけについて話した。

 

「…心の底から悔しいって思ったから」

 

「え?」

 

「始めて羽咲とバドミントンした時、ほんとに遊びのバドミントンでもあれで当時の俺にとっては悔しかったんだ。羽咲ってクラスではおっとりしてたからさ。

でも一番悔しかったのはバドミントン始めてから一年目、自分では滅茶苦茶上手くなったと思って羽咲に挑んでボロ負けした時」

 

「ちょっと、覚えてるかも。確か、泣いてたよね?」

 

「それは当時の俺基準ではかなり努力したからね。でも全然だった。なんで羽咲がそんなに強いんだろうって放課後あとを付けて、それでこの場所にやって来た。おばさんと楽しそうに、当たり前のように高度なラリーを続ける羽咲を見て思ったんだ。ああ、俺の努力って少しも頑張ってなかったんだなーって」

 

そう言えばと、綾乃の脳裏にかつてのこの場所での出来事がリフレインする。

 

それは春先のごく普通の平日。有千夏が家にいるのでその日は真っ先に帰って、何よりも楽しい有千夏との遊びをしていると、突然有千夏が窓の外に視線を固定させてシャトルを落っことした。

それに文句を言った記憶が少し残っている。

 

有千夏の視線の先、窓の外にはジッとこちらを見ている少年時代の弦羽早の顔があり、そんな少年を有千夏は迎え入れて一緒に練習をするようになった。招き入れた本人もそれが小学校六年生まで続くとは思いもよらなかっただろう。

 

「だから俺にとって、どんな選手よりも純粋に努力ができる羽咲とパートナーになれるっていうのは、ここまでやれたんだぞって、自分自身への証明って言うのかな。って、ゴメンね、羽咲にはプレッシャーかもしれない」

 

「う、ううん。私、そんな風に言ってくれる人いなかったから…嬉しい…」

 

天才と褒めてくれる指導者。ライバルだと言い放つ薫子。中学校の部活での白い目線。怯える対戦相手の顔。笑顔でラリーゲームをしてくれた有千夏。

綾乃にとってバドミントンを通して自分に向けられる感情というのは、これまで膨大な時間をつぎ込んできたにも関わらず多いと言えるものでは全くなかった。

いや、実際はもっと沢山の感情を向けられていたに違いないが、他者を理解する事に疎い綾乃が気づいたのはそれくらいである。

 

少なくとも、自分に憧れて全国一位を取ってくれる人なんて彼以外にいない。

 

「ん、そう言ってくれるならよかった。さて、ちょっと話脱線しちゃったけどおばさんの事はきっと大丈夫だよ」

 

両手でパンと膝を叩いて立ち上がりながら、自信げに弦羽早は告げた。彼からスッと差し出された手を取って、綾乃もまた立ち上がる。

 

「…うん。ホントの事は分からないけど、今はそう思うことにする。ありがとね、秦野。また、秦野に慰めてもらったね」

 

「パートナーとして当然のことさ」

 

「…私は何か、秦野の役に立ててる?」

 

弦羽早は自分に憧れていると言ってくれた。努力する自分を見て、パートナーになりたいって言ってくれた。

そんな彼には既に何回も助けて貰っている。合宿でのこと、エレナとの喧嘩のこと、今回のこと。どれも一人きりじゃ解決できなかった綾乃の芯まで根の張った大きな悩みだった。

勿論、そのどれもが未だ解決はしていないが、弦羽早がいてくれるおかげで綾乃は思考を放棄し、逃げることが減っていった。

 

でも果たして再会してからの今の自分はパートナーの弦羽早に対して何かできているのだろうかと、不安が心の奥底からポツポツと、白紙に滲む絵の具のようにじんわりと広がる。

 

「ん~、羽咲からすれば信じられないかもしれないだろうけど、とっても」

 

「え?」

 

その返事は悩んだ末に何とか声にした苦し紛れの励ましではなく、ほんとに胸の奥からそのままストンと言葉にして出て来たくらいに自然で。

あまりのあっさりした態度に、綾乃も思わず拍子抜けする。

 

「私、何か秦野にした?」

 

「うん。毎日、こうして会ってるだけで」

 

「え?え?」

 

益々分からないと綾乃は首を傾げ、これまでの自分の言動を思い返してみるが、弦羽早を励ましたり元気づけたりとした記憶はほとんどない。

腕を組んで想像力を働かせようとする綾乃の姿がえらく滑稽に見えたのか、弦羽早はからかうように軽く笑って。

 

「まあまあ、深く考えなくていいから。どうせ頭の半分は肉まんなんだし」

 

「ああ!やっぱり思ってたんだ!」

 

 

 

 

家に帰って来た綾乃と弦羽早を待っていたのは女子バドミントン部のみんなだった。理子、悠、空の三人は勿論、風邪がまだ完治していないなぎさも、マネージャーののり子も、そしてエレナの姿もあった。

 

状況が掴めずに固まる綾乃へとエレナは我先にと駆け寄り、自分より十センチ以上も小さく細い体をギュッと抱きしめた。

 

「エ、エレナ!?」

 

「綾乃、ごめんね!今まで、本当にごめん!」

 

どういった経緯でこうなっているのが理解できない綾乃だったが、ポツポツとエレナの涙が頬に当たり、今この時なのだろうとギュッとエレナにハグで返す。

 

「私もゴメンね。エレナに酷いこと言っちゃった。あんなこと、ホントに思ってなかった。ただ…ただエレナには頑張ってるって言って貰いたかったの…」

 

「うん、うん…。ゴメンね。綾乃っていっつも起きてるか寝てるかも分からないし、頭の上に蝶々が飛んでるみたいにほわほわしてるし、肉まんばっかり食べてて考えている事の半分はその事だと思ってたからつい」

 

「…うん?」

 

ひょっとして貶されているかと綾乃は一瞬ハグを解こうとしたが、エレナは泣いたままで乱れた吐息が耳元に当たり、きっと気のせいだろうと再びギュッと抱きしめる。

二人の姿を皆微笑ましそうに眺めている中、理子がピョコンと長いポニーテールを揺らしながら。

 

「良かったね、エレナちゃん、綾乃ちゃん」

 

「…そう言えば、どうしてエレナがここに?みんなも」

 

「アンタが負けて体育館から逃げ出したって連絡をのり子から貰ったの。なぎさ先輩も同じ。私もなぎさ先輩も、勿論他のみなさんもコーチも、綾乃が心配で来たの」

 

弦羽早だけでない。みんな、自分を心配して来てくれた。

それはこれまで弦羽早以外の同学年のバドミントン選手と馴染めなかった綾乃にとっては、嬉しさと同時に困惑を覚えさせる出来事であった。

 

「ど、どうして…? 私、まだみんなとそんなに練習してないし、ま、負けたのに…」

 

「なに言ってんの綾乃ん! こういうのは時間じゃないんだよ!」

 

「綾乃ちゃんには色々と技を見せて勉強させてもらってる」

 

「私なんか、もう何回負けたかも分からないくらい負けてるよ。でもそれでいいんだよ。負けたって、なにも恥ずかしい事じゃないから」

 

悠、空、理子の言葉に綾乃の頬がほんのりと赤くなり、目元には微かに涙が浮かび上がる。

ゴホゴホとマスクで咳を遮りながら歩いてきたなぎさは、綾乃の頭にポンポンと優しく手を置いた。懐かしさを感じるその仕草は、最近時折弦羽早がやってくれるものだ。

 

「お前はもう北小町(うち)のメンバーなんだ。勝ち負けとか時間とか、そういうものじゃない。自信もって北小町部員って胸張れ」

 

「…なぎさちゃん」

 

あれだけピリピリしていたのに突然の変化になぎさ自身恥ずかしいのか、少し照れたようにそっぽを向きながらそう告げる。そしてキラキラとした瞳で見上げる綾乃と視線が合うと、照れ隠しをするように目いっぱい綾乃の頭をグシャグシャと乱雑に撫でた。

 

その様子を安心したように見守る男が二人。弦羽早と健太郎は邪魔をしないように少し離れたところに立っていた。

 

「何があったんですか?」

 

「羽咲の過去をお爺さんとお婆さんに聞いたんだ。羽咲が一番つらい時何も知らなかったことと、この間何かあったんだろ?それをかなり気に病んでいた」

 

「ああ…なるほど」

 

大事な友達がもっとも苦しんでいる時に何も気づいて上げられなかったのなら、それはエレナにとっては深く重たく、そして自分が情けないと悔しかっただろう。

 

しかしニコニコと微笑み合う綾乃とエレナを見ていると、もう仲直りの心配をする必要は無さそうだ。

 

改めて健太郎は安心したようにホッと肩を撫でおろすと、家の奥から綾乃の祖父祖母、マシャシィとチヨーが箱を持ってやって来た。

 

「揃いますたかな? 綾乃に、渡しゅようにとことじゅかっておったのじゃ。有千夏しゃんから」

 

「お母さんから…?」

 

この二年間一度もなかった有千夏との繋がり。あまりにも突然な母親からのプレゼントは、綾乃の瞳をより一層煌めかせるには十分だった。

 

箱を開けるとそこにあったのはたくさんのリストバンド。可愛らしい色違いのそれは、綾乃を意識したシャトルの形をしたAのイニシャルから手作りであると分かる。

 

「いつか綾乃に、一緒にバドミントンをしゅりゅ友達が再びできたら…と」

 

マシャシィと一瞬視線が合った弦羽早は、ペコリと軽く頭を下げる。

 

やはり有千夏は綾乃が負けたからとか、嫌いになったからとかそういう理由で家を出て行ったのではない。

自分が綾乃の元から離れる事で試練を与えたのだろうか? 

そうぼんやりと、あの長いポニーテールと白いリボンが印象的な、優しかった有千夏の姿を思い浮かべる。

 

「(おばさんの意図が分からないのは俺がバドミントンに入り込めていないのか、それともおばさんの考え方が常識外れなのか、あるいは羽咲が普通と違うからか……)」

 

こと綾乃の事となると熟考する癖のある弦羽早は、とてとてと自分の元に歩み寄ってくる原因の少女に気付くのが一瞬遅れた。

 

「秦野?」

 

「ん?あっ、どうしたの羽咲?」

 

「これ、秦野のだから」

 

彼女が差し出した手の平にあったのは、早速彼女の左腕につけられているものと色違いの、空色のリストバンドだった。確かに空色は自分の名前と親近感が沸くので好きな色だが、それだけで自分のものとは断定できない。でもTのイニシャルと、Tの両端から生えた鳥の翼に、なるほどと小さく笑みを浮かべる。

 

「ありがとう」

 

それは綾乃に対してのものでもあったが、同時にこの場にいない有千夏に対してのものでもあった。

 

「それとこれ」

 

綾乃はさっぱりとした表情で一枚の小さなメモ用紙を見せてくる。

そこに書かれていたのは二年間綾乃がずっと求めていた母親との繋がり。

 

≪綾乃 世界で待ってる 会いにおいで。

アナタの素敵なお母さんより≫

 

「秦野が言ってくれた通り。お母さんは私の事、大切に思ってくれてた」

 

「うん、案外近くから見守ってくれてるかもしれないね。しかし世界かぁ。これは本格的に練習に取り組まないと」

 

「頑張る!」

 

両手でギュッと拳を握って口元を上げる綾乃の姿に、自然と弦羽早にも喜びとやる気が胸の内から溢れてくる。

 

正直有千夏へは一言どころか、二言もハッキリと言葉が浮かんでこないが、何か言ってやりたい気持ちはあった。少なからずの怒りを覚えているし、立派な母親の行動とは天地がひっくり返っても思えない。

でも悪意あっての行動ではなく綾乃の事を思っての行動であるのは、この手作りのリストバンドからも伝わってくる。でなければ、宮城から帰って来るかも分からない娘の友人の為に、こんな手の込んだリストバンドは作れない。

 

皆各々好きな色のリストバンドを腕に付けると、テンションの上がった悠が円陣を組もうと提案。なぎさと健太郎の二人は羞恥心から乗る気ではなかったが、理子や綾乃は乗る気満々で嫌とは言える空気ではなかった。

これでも風邪の身なんだと少しは労わって欲しかったなぎさだが、主将である以上円陣の掛け声は免れない。

 

背の順的に健太郎の両隣になぎさと弦羽早が入り、あとは好きなように入りながら、全員で円を描く。

 

「行くぞ! 北小町ーー!」

 

『おお~~~~ッ!』

 

 

 

 

そして僅かな四月は瞬く間に流れ過ぎて行き――個人シングルスの予選がこれから始まる。

 

 

 




綾乃→赤
弦羽早→空色
理子→ピンク
悠→緑
空→青色
なぎさ→オレンジ
エレナ→紫
のり子→黄色
学→黒
行輝→黄緑
健太郎→余った茶色


ちょっと後半あっさりと言うか駆け足な感じでした


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好きになりました!

今回番外編。弦羽早の中学パートナーとコニーの顔合わせ回です。




時は少し遡り、フレゼリシア女子短期大学付属高校と北小町高校との合宿が行われた五日後の金曜日。

打倒綾乃&弦羽早(つばさ)ペアに向けて気の引き締まっていたコニーだが、今日の彼女は曖昧な顔つきでストレッチを行っていた。

 

あれからコニーはメンタル、気の持ち方を変えた。

これまで自分を大きな栄える華だと思っていた事を改めた。まだ自分には超えるべき頂がある。全てを出し切ってやっと手にした勝利というのを知らない。

たった二点しか取れなかったという、才能を開花してからのコニーが味わった事の無い初めての屈辱は、彼女のどこか冷めていた闘志を山火事の如く燃え広がらせていた。

と言ってもどこかの誰かのように、ある日突然豹変したりはしない。大人びているようで実は子供で、メンタルは弱くはないが腑抜けており、自己中でマザコンのコニーの芯はこれっぽっちも変わってはいない。

 

しかし芯は変わっていなくとも、いくつかの成長はあった。まず部活メンバーと仲良くなれた。

元々部長の唯香のおかげもあって、コニーはその高慢な性格でも比較的上手くやっていたが、彼女の方から他のメンバーにアプローチをすることが多くなり、前に比べて接しやすい空気を自ら出す様になっていた。

 

次にダブルスについて、特にミックスダブルスについての勉強を始めた。

通常のダブルスについてはこのフレゼリシア女子、全国レベルのプレイヤーが多くいるこの部において、参考にする相手は困らない。しかしこの部の最大の欠点は女子しかいないことで、ミックスダブルスでインターハイを目指すコニーにとっては学ぶべき相手はネットか本かに限られていたが。

 

他にもナルシストだったのが多少落ち付いたり、夜真面目にランニングをしたりとの成長もあった彼女だが、今はかなり曖昧な顔をしている。

 

その理由がこれからこの体育館にやってくる、弦羽早の中学校時代のパートナー、金成陸空(かんなりりく)

連絡先を教えることに抵抗のあったコニーは、弦羽早を仲介として陸空と連絡を取り、今日彼がこっちに来て軽く練習をすることになっている。

 

弦羽早曰くミーハー或いは惚れっぽいらしい陸空を、コニーは今のところ良い印象を抱いていなかった。

コロコロ意中の相手が変わりやすい男と聞いたら、男であろうと女であろうと、プラスイメージを抱く人間の方が少数だ。

 

しかし弦羽早と一緒に全国二位、団体では一位になった彼が、合う合わないはあっても実力不足であることはまず無いだろう。

 

さて、どんな人物がやってくるのかとコニーはチラチラと体育館の玄関を気にしていると、鉄の扉がガラリと開いた。

 

「こんにちはー!」

 

男にしては少し高いが女声ではない、少々独特な声が体育館に響き渡り、コニーだけでなく全員の視線がそちらへと向かう。

そこに立っていたのは物腰の弱そうな少年。美形というよりは優しそうというのが第一印象で、しっかりとした体つきをしているが、運動選手にしては細身なのはバドミントンプレイヤーの傾向か。

 

一言でいうならば、アンバランスなのが特徴だろうか。

身長もコニーより高そうな事から、男子の中でも長身の部類に入る。体格は良い。でも声は高くて顔だけ見ると弱そうだ。

もし弦羽早と陸空のペアを何も知らずに相手をするなら、誰もが陸空を狙おうとするだろう。

 

「白川高校の金成陸空です!今日はよろしくお願いします!」

 

『よろしくお願いします!』

 

彼の挨拶に体育館の女子部員達が返事をする。なんとも非日常な光景だった。

彼はペコリと一礼をすると、体育館の隅へとバドミントンバッグを置く。

 

てっきりもっとデレデレすると予想していたフレ女の部員達は、意外な反応にヒソヒソと囁き合う。既に彼の人柄は主に唯華が原因で広まっている。

もっとも唯華は人の弱みは握っても、嘘を吐いての悪口は言わない。彼女の口から出たのは誠であると、すぐに証明されることになる。

 

「コニーさん!」

 

シューズを履きラケットを手にした彼は、床に座って準備運動をしているコニーの元へとやってきた。

コニーはスッと立ち上がり背筋を伸ばすが、彼の目線は自分のより高い。やはり177くらいはありそうだ。自分より低い身長の男子も珍しくなく、特にこのフレ女で生活していたらまず経験の無い視線の位置に少し新鮮味を抱きながらも、不敵な笑みを浮かべる。

 

「アンタが陸空ね。今日は私に相応しいかテストしてあげるからその気で――」

 

「好きになりました!付き合ってください!」

 

突如頭を下げられ、体育館中に響き渡る声でそう告げられた。

他校の男子からの告白に黄色い声で盛り上がる女子生徒は一人もおらず、コニーも心臓が高鳴る感覚を一ミリも味わない。むしろスーと頭の中が急激に冷めていく。

 

「……その気でいてちょうだい」

 

「まさかのスルーですか!? お、おかしいなぁ…。出会い一発目の告白はインパクトがあって成功率が上がるってネットにあったのに」

 

コニーも絶世の美少女。その自負はあり、謙遜もしない。だからデンマークでも告白されるのは珍しい事でもなんともなかった。だが名乗った二言目に告白してくる男は初めてだ。

彼女は心底悪い意味で驚いていたが、気持ちを切り替える。

今コニーにとって大事なのは何よりもバドミントンで、ミックスダブルスを組むにはパートナーが必要だ。

パートナーの十人や二十人簡単に見つかると言ったは良いものの、有象無象ならともかく、インターハイで通用するレベルの、学校の近い男子というのはかなり限られる。

 

「(性格で判断するのは駄目ね。綾乃、唯華、ママ。性格悪いのに強いプレイヤーはいくらだっている)」

 

自分の事を棚に上げて置きながら、一先ず陸空の実力を見る為に軽い基礎練へと入った。

 

 

 

 

バシュン!と無数のシャトルの音が鳴る中、一際大きく乾いた、通る音が体育館に響いた。

 

「ッ!」

 

コニーはすぐさま手を伸ばしてクロスへと飛んできたスマッシュへとシャトルをタッチさせるが、速すぎて正確に面に当てることができずにネットへと引っ掛かる。

 

「(これが陸空のスマッシュ。まだ高校一年生なのになんて速さ…。いや、速さもだけど重い)」

 

バドミントンのシャトルは、必ずしも速さ=重さとは限らない。同じような速度でも体重を乗せて打つか、ただ手の力だけで打つかでレシーバーの負担は大きく異なる。手の力だけで打つ、いわゆる手打ちのスマッシュは、速くてもラケットが押し返されるような重さがないのでレシーバーからするとコントロールがしやすい。

しかし重いスマッシュはガットとシャトルが触れた瞬間に、重さからブレやすくなり、細かいコントロールの修正が途端に困難になる。

 

「もう一回やるわよ」

 

「はいッ」

 

コニーと陸空はワンコート使ってのラリー形式の練習を行っている。つまり点数の無い試合と様式は変わらない。

コニーから渡されたシャトルをすくって左手に持つと、ネット越しの相手が構えたのを境にショートサーブを繰り出す。

 

「(さっきのスマッシュはマグレじゃない。ならネット前の実力を見せて貰うわ)」

 

トンとショートサーブに対してヘアピンでストレートの前に落とす。ロブにも対応できるように中央に戻る準備をしながら、相手の出方を伺う。

陸空は上げないようにと再びヘアピンをそのままストレートに返す。やはり手足が長い分、そのフォームには余裕がある。

 

「……」

 

もう一度様子見をするか。今度はよりサイド寄りへとヘアピンを送り、相手の出方をジッと見つめる。

ヘアピンは絶妙な力加減が必要になる。強すぎれば浮かび、かといって弱すぎてはネットを越えない。特に強い球に対して前に落とすのであれば、飛んできたシャトルの勢いを利用すればいいのでほとんど力は必要ないが、威力がほぼ無いヘアピンはただ当てるだけではネットを上手く超えてはくれない。だからこそヘアピンの上手さは上級者の中でも格を別ける。

 

「ッ!」

 

流石に技術面ではまだまだのようだ。ここは逃げようという陸空の意志が放たれたロブからは見られる。

ラウンド側へと飛ぶロブ球を追いかけながら、チラリと相手コートを確認する。

やはりコニー以上の手足の長さを持つ彼は、もう中央付近にまで戻っている。

 

「(今度は守備のテスト!)」

 

バシュンと並みの男子にも後れを取らないストレートのスマッシュがコニーから放たれる。だがその凄さは速さや角度ではなく、正確なコース。サイドラインがシャトルに合わせて収縮するかと思える程際どい。

 

だがやはりダブルスプレイヤーだけあって、また守備向きの弦羽早のパートナーが務まるだけあって一打程度では崩れない。その球を拾ってクロスへと落とす。

しかしコントロールまで完璧ではないようで、クロスへと打つつもりだっただろう球は中央までしか飛んでいない。

 

「(それでもプッシュは無理(たたけない)か)」

 

まあ合格点だろうと口元を上げながらラウンドへのアタックロブを放つ。通常のロブとは違い高く弧を描くようなものではない、シングルスにおいては効果的な攻撃的なロブだ。

 

陸空はその球を背中を向けながら追いかける。

 

「(ハイバックか。そうなるとストレートのロブとクロス前が高い。私相手にネット前はやりたくないはず)」

 

コニーの読みは当たっていた。だがその速さまでは予想していなかった。大き目でリアコートまでは届かないロブが来ると予期していたが、威力のあるドリブンクリアがハイバックから放たれた。

 

元々ハイバックとは打ち方の都合上威力が付きにくく、またコントロールの難易度も高い。バドミントン歴が長くとも、苦手なプレイヤーは少なくない。

 

「(あれだけのスマッシュが打てるんだから、ハイバックでも十分奥まで伸びるのも当然か)」

 

少しは驚いたがプロの世界では高い威力のハイバックは珍しくもない。とはいえ、女子はやはり力の関係上、フォームの甘いハイバックは絶好球になりやすい。

多少強引にでもハイバックから奥へと持って行けるのは男子の特権だ。

 

コニーは上がって来た球を再びスマッシュを繰り出す。今度はサイドではなく陸空のボディ。

それをコニーとは反対側のサービスコートへとクロスのドライブで返す。

 

「チッ…」

 

手足が長い分やってきたシャトルに対して速くレシーブができる。リーチの長いプレイヤーはボディが弱いと言うが、それは鋭い球を差し込まれた場合である。

 

地面まで距離を詰めるドライブ球へと追いつくと、それまでスマッシュを警戒して封印していたロブを解禁する。

しっかりとコート奥まで飛んだがチャンスボールには変わりない。

陸空は素早く後ろまで下がると、前へと飛びながらジャンピングスマッシュを打ち放つ。

 

バシュン!と再び乾いた激しい音が体育館に響く。シャトルはお返しと言わんばかりにコニーのボディへと飛ぶ。

 

「ぐっ…!」

 

今度の球は角度は特別ないが伸びが良い。故にシャトルは押し込むようにとコニーへと詰めてくる。

 

「(まずっ、これは想像以上ッ)」

 

咄嗟に体を逸らす様にしてバックハンドで受けるが、先程とは異なる軌道なのもあり、面で当てるので精いっぱいだった。そんな球はろくにコースも調整されず、すぐさま前へと詰めた陸空によって叩かれた。

 

ドンと陸空の踏み込む足音と共にシャトルはコニーの顔の横をすさまじい勢いで横切った。

そう、174㎝近くあるコニーの顔と同じ高さでシャトルが飛んで行ったのだ。

 

結果は見ずとも分かるが、一応線審をしてくれていた子へと視線を向ける。案の定アウトのポーズと取っており、シャトルは一番後ろの線、バックパウンダリーラインからラケット一本半近く後ろに飛んでいる。

 

「ああ!?またやってしまったぁ!」

 

「(…弦羽早が前衛担当だったのがちょっと分かるかも)」

 

ノビ、角度、重さ、速さ。それらを使い分けできるスマッシュのクオリティに比べ、ハイバックを除けばそのレベルは全国一位というにはまだ甘さがある。ただ前述の通り、スマッシュのクオリティは桁違いだ。

 

弦羽早のレシーブ力もあのスマッシュを受けていたらと思うと納得がつく。もっともそれだけで無い事は当然コニーも理解しているが。

 

「(弦羽早も特別前衛向けじゃなかった。それでも前なのはこいつがいたからね)」

 

弦羽早は全国トップレベルで見れば、そもそもトップアンドバック自体があまり向いていない。彼の得意なのはサイドバイサイドからの徹底的な守備で、カウンターから崩してじっくり攻めていくこと。

 

「(…なるほど、確かに私とは相性がいい。このスマッシュに対して並みの選手はロブは勿論ドライブだってできない。大抵は当てて前に落とすだけ。私は前でプレッシャーをかけて、甘い球を誘い出しコイツが打つ。その逆だってできる。だけど少々ピーキーなプレイヤーね)」

 

この何回かのラリーを通して分かったのが、彼は特別大きな弱点がある訳ではないが、平均的な性能で言うなら弦羽早より低い。だがことスマッシュに関しては全中一位を言えるほどの質を持っている。

 

最強の矛と最強の盾。これだけ言うと強そうに聞こえるが、トップアンドバックの時は弦羽早の強みは活かせず、サイドバイサイドの時は陸空の強みが活かせないちぐはぐなコンビだ。

弦羽早が神奈川に帰ると言った時、さしてコンビ解消を残念がっていない二人の姿は想像しやすい。お互いパートナーとしてやるよりも、相手として戦う方が合いそうだ。

 

コニーには特質すべきプレイスタイルというのは存在しない。どれにおいても一級の質を持つオールラウンダー。

だが性格上、彼女は守りよりも攻めるのが好きだ。

勿論大好きなママである有千夏に守りを中心に戦えと言われたらそれができるのがコニーだ。

 

「とりあえずアンタの実力は分かったわ。申し分ない。実際にペアを組んで、問題なければ明日にでもエントリーできるくらいに」

 

「ほ、ほんとうですか?良かったぁ。コニーさんの評価基準は厳しいから覚悟しておけって弦羽早君に言われてて、冷や冷やしてましたぁ」

 

「…アンタって見た目だけじゃなくて口調もやわっちぃのね」

 

「コニーさんがお好きであれば今すぐワイルドな口調にもなれますよ!」

 

面倒な話の種を撒いてしまったなと、にじり寄ってくるアンバランスな男にコニーは一歩後ろへ下がる。

 

「…え、遠慮しとくわ」

 

「ではどんな口調がお好みで? 俺様タイプでしょうか、はたまた王子様系か、もしかして年下系とか――」

 

そのどれもがお前に似合わないだろうというツッコミをフレ女メンバーが入れる前に、"彼女"によってその軽口は閉ざされた。

 

「おやおや、金城。コート内でウチの子をナンパするとは随分偉くなったみたいね。お姉さん感心感心」

 

刹那、ビクンと陸空の肩が大きく震えると共に、地面に触れたラケットが振動し、カタカタカタと規則的な音を鳴らす。

ギギギと何年も油を付けていない錆びたブリキ人形を連想させるほどに不自然な挙動で、陸空はゆっくりと振り向いた。

 

肩に毛先が軽く掛かる長さの黒髪。細身の体。瞳の大きさ、眉の長さ、口や鼻の形状は整っており、コニーは別格としても、間違いなくこの部の中でもトップクラスの美人に入る美形。

髪を耳に掛ける仕草は彼女の癖なのかあるいは余裕の現れなのか、中学校時代となんら変わりない。

 

その美しさはバドミントン部男子の半分近くが、彼女からのバレンタインの10円チョコのお返しに、中学生にとっては重い1000円近くの出費をも厭わない。

 

あの一途な弦羽早でさえ、彼女には誕生日もクリスマスプレゼントもホワイトデーも欠かさずに送り、彼女が卒業する日には、卒業生含め部員たちが十人十色の思いで泣き出すほどに彼女は慕われていた。

 

「こ、こここんにちは、志波姫先輩。きょ、今日もとてもお美しいですね」

 

「ふふっ、お世辞でも嬉しいよ」

 

「お、お世辞なんてとんでもないです!」

 

彼女が一歩詰めるごとに一歩後退する陸空の姿は、この間の弦羽早を連想させる。

 

「改めて言うよ、金城。君は、いつから、このフレゼリシアのコート内で、ウチの子を口説けるほど偉くなったんだい?」

 

「ひぃっ!? お、お願いですコニーさん!も、もうあんなことは言いません!真面目にバドミントンだけします!だから助けて下さい!」

 

「え、え~…」

 

涙を流しながらコニーの生足にしがみついてくる陸空の姿は、いっさいの下心なく心の底から救いを求めていた。食べ物を求める乞食や、飼い主を求める捨て犬のように。

コニーも唯華に握られた弱みは一つや二つではないが、これは弦羽早以上の反応だ。

確かに中学生男子というのは何かと黒歴史を持つものだが、いったいどれほどの弱みを握られているのか。

 

コニーは改めて言わずとも性格は良くない。有千夏の娘だけあって、方向性は違うがその辺りも受け継いでいる。

だからぶっちゃけ面白いというのが偽りなき本音だが、こと同じく唯華に弱みを握られている者としては少し同情する。

 

「(ここで助けずに一からペア探すのも面倒だし)」

 

「唯華、さっきのはちょっとしたジョークよ。そういった感情はコート内に持ち込んでないわ」

 

「…ふむ。コニーがそう言うのなら今回はそういうことにしてあげる。でももし、ちょっとでもウチの子達に変な目を使ったら――分かってるよね?」

 

「は、はぃぃ!」

 

ニッコリと笑みを浮かべる唯華に対して、陸空はコクコクと何度も頷き続ける。

唯華は他のコートの様子を見てくると二人の元を去ると、陸空はヘナヘナと崩れ落ちるようにして地面に倒れ込む。

いったい何をやったんだと訝し気な瞳で唯華の背中を見つめていると、一瞬彼女は振り向いてウィンクをした。

 

「(…これは借りにしないわよ。…ていうか)」

 

「あんた、なんで唯華がフレ女にいるって知らないのよ? 有名でしょ」

 

「ぼ、僕も聞いたんですよちゃんと!で、でも弦羽早君が、今志波姫先輩は海外に行ってるって……まさか!?」

 

「あ~、弦羽早も弱み握られてたみたいだった」

 




やっぱりコニー書くと前半のイメージになります。
中盤以降は有千夏と再会したのもあってか幼くなってて、なぎさ戦とか羽咲さん以上に書きにくすぎる。
あの子怖いわぁ。


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ワックワクが止まらないよぉ

今さらですが桃田選手世界ランク一位おめでとうございます。

それと今回からコーチ席という単語を使いますが、コートの横にある四つか五つくらい並んだパイプ椅子の事言ってます。
公式のルールでは基本監督やマネージャー以外は禁止みたいですが、原作でも普通に座っていたので特にその辺り意識してないです。


沢山の誤字報告ありがとうございます。中々減らず申し訳ないです。




インターハイ出場者を決める神奈川県インターハイ予選。その日程はかなりシビアなもので、以下の通りとなる。

一週目土曜 女子シングル ベスト8

日曜 男子シングル ベスト8

 

二週目土曜 混合ダブルス&シングル予備 ベスト8

日曜 男女共にシングルス決勝(県大会)

三週目週 女子ダブルス ベスト8

    男子ダブルス ベスト8

四週目 土曜 男女ダブルス決勝(県大会)

日曜 ミックスダブルス決勝(県大会)

五週目 団体戦開始

 

一週目のベスト8を決めるのは所謂地区大会。そこで8つのブロック別けをしてその8名が県大会という形で翌週の決勝を賭けた舞台へと上がれる。ダブルス、ミックスも同様だ。

 

このように毎週必ず試合が行われる形式となる。

混合ダブルスと同日のシングルスの予備日だが、男女が別日に行う為、余程の事がない限り基本混合ダブルスだけが行われる。

 

ただ一つの試合に掛かる時間はインターバルを含めて30分前後は掛かる。選手は勿論、監督や運営が一丸となって素早く回していかない限り、大会が夕方まで続くなんてことになり兼ねない。

 

開会式の言葉で神奈川県バドミントン委員会の会長の挨拶で、その種が説明される。

日本の中でも人口の多い神奈川県での試合数は他県に比べても多い方だ。

コートは全部で10コート存在するが、空いているコートが無いように、かつ負けたプレイヤーは線審の為にすぐに運営本部に来るようにと選手一同念を押される。

 

手短な開会式が終わると共に、女子シングルスに参加する綾乃、なぎさ、理子の三人は顧問の美也子に手渡されたユニフォームに着替える為に更衣室へと移動していた。今日は女子シングルスというのもあり、男子更衣室も女子専用となっており、男にとっては非常に肩身の狭い体育館となっている。

もっとも着替える必要もないので、弦羽早は私用のバドミントンウェアで着ていた。制服でもよいかと考えたが、ただでさえ密閉する体育館に、選手、見学、応援、監督勢や運営委員を含めると集まる人数は百人なんてものじゃない。

特に応援席は熱気が上がってくるのと人口密度が高いのもあり、その熱の籠り方はサウナかと思えるほどになる。

 

それに選手には試合前に軽い打ち合いの時間が設けられる。綾乃のアップに付き合う予定だったので熱さ対策も兼ねてウェアは丁度良かった。

 

「ほんとにこんな試合数消化しきれるの?」

 

「男女が別日に別れて10コートノンストップで回せば余裕だよ」

 

ぎっしり詰まったトーナメント表を目を細めて睨みつけるエレナは、長い1ヶ月になりそうだとふぅと息を吐いた。

 

「あ~、なんか私の方が緊張してきちゃった」

 

「羽咲ならラストまでは楽勝だよ。ただその最後が」

 

「あのピンク髪の人だっけ。あの子、中学の神奈川県で優勝なんでしょ。こないだ綾乃も負けたみたいだし」

 

「負けたと言っても一点のラリーだけだし、それに羽咲も強くなってる。大丈夫さ」

 

正確には強くなっているよりも、戻ってきているが正しいのだが、中学校での綾乃のバドミントンを知らない弦羽早からしたらそう見えている。

女子更衣室の近くで壁を背もたれに話し合っていると、更衣室から出て来た女子達が弦羽早の元へとやってきて、握手などを求めて来た。これで三回目だろうか。

弦羽早はいつも通りの爽やかな笑顔を浮かべてそれに応えると、少女達から黄色い声が上げた。

 

「人気ね~あんた」

 

手を振りながら去っていく少女達に弦羽早も応えながら、ふぅと作り笑いを辞める。

 

「言っちゃ悪いけどこのレベル帯だとミーハーな子が多いから。それに花朝月夕の二人に比べたら、芹ヶ谷じゃないけどピエロ扱いって感じだよ」

 

「なにそれ?バンド?」

 

「ダブルスコンビ。この人達」

 

弦羽早はスマートフォンを取り出すと、四人の男子が集まっている写真を見せる。中学生時代の弦羽早と陸空、そして長い髪を後ろで束ねた色白の美少年と、吊り目が特徴的なツンツンヘアーのイケメンが映っている。

 

「うわっ、確かにこれはイケメンだわ…。普通に街にいたら視線向きそう」

 

「でしょ?おかげで同校以外の女子の歓声は基本あっち。北小町(うち)の誰かがインターハイ出場したら会えると思うよ」

 

「は~、やっぱ中にはいるもんなのね。容姿もスポーツも出来るって」

 

「それはほら、羽咲がそうじゃん」

 

「あ~はいはい」

 

こいつはどこまで綾乃馬鹿なのだと適当に流す。

友達のエレナからしても綾乃は可愛いが、ここまで堂々と言われると聞いてるこっちがむずがゆい。

そんなどうでもよい会話をしていると、更衣室から新ユニフォームに着替えた三人が出てくる。

 

新しいユニフォームは美也子が選んだもので、普通のバドミントンウェアとは違う、身体のラインが浮き出るピッタリとしたシャツとスパッツという、露出度はないが少々過激とも言えなくもない。特に胸の大きいなぎさはそのボディラインがかなり目立っており、恥ずかしそうに頬を赤らめている。

一方新鮮なスタイルのウェアに理子は素直に可愛いと喜んでおり、綾乃はその二人の後ろでジーと立っていた。

 

「いいじゃないですか、可愛いですよ」

 

「そ、そうか…?これ、恥ずかしいんだけど…」

 

「似合ってますって。ね、秦野?」

 

機動性も高く、不健全ではないちゃんとしたウェア。でも他とは違う個性がある。服に命を掛ける美也子が選んだだけあってエレナの評価もかなり高かった。

彼女はクルリと振り向いて弦羽早にも同意を求めようとするが、一点だけをジッと見つめるその姿に話を振る相手を間違えたと肩を降ろす。

案の定と言うべきか、弦羽早はなぎさや理子のボディラインを一切無視して綾乃をジッと見つめていた。

 

「なに、秦野?ひょっとしてイマイチ?」

 

「い、いや。とっても可愛いよ。凄くよく似合ってる」

 

「ん~、そっか。ありがと」

 

「こんな時にまでデレデレしてんじゃねぇよ。ほら、行くぞ」

 

バシンと弦羽早の背中を叩くと、なぎさは先頭に立って試合会場へと向かった。

 

 

 

 

 

全十コートでついに第一試合が始まった。

どういった組み合わせであろうと、一回負けたらそれで終わりとなるトーナメントにおいて、この第一戦でどこまでその日のコンディションを上げられるかが重要となる。

 

「なぎさせんぱーい!」

 

「理子ちゃん先輩ファイトー!」

 

「キャー!荒垣さーん!」

 

『カ・オ・ル・子!カ・オ・ル・子!』

 

この神奈川でも有名プレイヤーであるなぎさと薫子に向けられる声援は大きく、なぎさは他校の女子生徒からも応援され、薫子は親衛隊らしき男子達の野太い掛け声が向けられる。

大会の至る所からシャトルの音と歓声、声援が飛び交っており、本当に試合が始まったのだとプレッシャーに弱いプレイヤーは既に呑まれているだろう。

 

一方、コーチ席で一つの試合を静かに見守っていた弦羽早はピクリと眉を動かす。

ファーストゲームは18‐21で綾乃が取られた。相手がそれほど強い相手かと言われると、本気の綾乃なら5点も取られる事なく倒せる相手だ。

 

「(手を抜いてる…それもあるが、少しでもラリーを続けて集中してるのか)」

 

格下相手とはいえ試合すらアップに使うというのは、対戦相手の少女からすれば屈辱的だろう。

綾乃は小学校時代から、少なからずそういうところがあった。

 

「(とはいえ露骨過ぎないかな…。昔の羽咲でもここまで極端じゃなかった気がする)」

 

第一ゲームを取られ、続く第二ゲームは21‐16と5点差で勝利。そして第三ゲームの現在、綾乃が18点に対し、相手は僅か4点だった。

加えて対戦相手は汗をダラダラと流して肩で大きく息をしているのに対し、綾乃はまるで軽いノックをしている如く飄然としている。

 

格下相手に手を抜いてアップをするというのは、実力差が生まれやすい第一試合では珍しくない状況だが、1ゲーム取らせるとなると正直良いやり方とは言えない。

案の定、手を抜かれている事に気付いたのか、対戦相手の少女の目は微かに潤んでいる。

 

『ゲーム! マッチワンバイ羽咲!

18(エイティーン)21(トゥエンティワン)! 

21(トゥエンティワン)16(シックスティーン)! 

21(トゥエンティワン)6(シックス)!』

 

試合を終えた綾乃は、う~んと、さも勝ったことが当たり前の様子で背伸びをしながら弦羽早の元まで歩いてくる。

 

「ちゃんと挨拶した?」

 

「え?あ~、そうだったね。ありがとーございましたー」

 

身体の正面を弦羽早に向けたまま、顔だけ対戦相手へ向け、頭も下げずに気だるそうに告げる。

綾乃の態度にそれまで我慢していた少女は遂に瞳からポロポロと涙をこぼし、両手で顔を覆う。彼女のコーチ席にいた同校の少女達の鋭い視線が綾乃に向けられるが、彼女は気づきすらしていない。

 

「…それじゃあ行こうか」

 

「うん。なぎさちゃんと理子ちゃんの試合は?」

 

「荒垣先輩は終わって泉先輩はまだやってるみたい。見ていく?」

 

「いいや。それよりここの売店に肉まんがあったの。それ食べる」

 

「俺、軽い弁当なら作って来たけどどうする?」

 

「肉まんがいい」

 

「え~…」

 

やはり羽咲綾乃の本質はそう変わるものではない。

この子は中々気遣いができる少女では無かった。

 

 

 

 

綾乃が売店で肉まんを買っている間に弦羽早は理子の試合を見学しながら、作って来た弁当を消化していた。

いくら弦羽早が綾乃に好意を抱いているとはいえ、一日中一緒にいる訳ではない。部活仲間の試合が行われているのなら、そちらの応援を優先するのは彼の中では当然だった。

それに正直綾乃が食べてくれるとはさして期待もなかったので、自分の好きな品物を入れてきたが正解だった。因みに弁当といっても結構な品物は冷凍食品と料理男子と言える内容ではない無骨なもので、ひょっとしたら綾乃もそこまでのクオリティではないと読んでいたのかもしれない。

 

理子は無事、相手がバックハンドが苦手であることを気づき、そこを上手く組み立てながら勝利。

遠目で薫子の試合もみていたが、彼女も危なげなく圧勝している。

 

続く二回戦、三回では綾乃もアップが終わったのか、失点は5点と4点と圧勝。他のメンバーも順調に勝ち、時間も昼を過ぎた頃、綾乃には今日最後の試合となる四回戦、薫子との試合がいよいよ始まる。

 

念入りのストレッチを終えると、綾乃はバドミントンバッグを肩に立ち上がる。

 

「綾乃ン頑張って!」

 

「ラジャー」

 

「綾乃ちゃん全然緊張してないね~」

 

「それが羽咲の強みですから」

 

プレッシャーに弱い理子としては羨ましいのだろう。感心したように綾乃に声を掛ける。

 

その一方なぎさは第一ゲームのスコアを見て、綾乃の本質を少しだけ理解しかけていた。

 

「羽咲、油断するなよ…。次の相手は芹ヶ谷なんだ」

 

「大丈夫だって。もう秦野にも散々言われた」

 

「…ならいいんだが」

 

秦野。その名前になぎさは目を少しばかり細めて、小柄の少女をジッと見下ろす。

今の彼女にとって彼はどれくらいの存在であるのか、未だ誰にも理解できない。コーチの健太郎は勿論、恋愛に興味深々の悠も、友人のエレナものり子も、綾乃が弦羽早をどういう風に見ているのか理解できない。

 

そしてその弦羽早もまた、今日はそこまで綾乃に対して多くは語っていない。

 

シングルス、それも女子シングルスであるのも大きいだろうが、戦略等は基本何も言わずにアップとストレッチを手伝い、気の持ちようについて軽く話すだけだった。

 

「(ホント読めねぇな、コイツは)」

 

なぎさも去年の全日本ジュニアでの戦いから最近まで彼女の存在が軽いトラウマとなっていたからこそ分かるが、試合中の綾乃を不気味だと思う要因は読めないのだ。

何を打っても返ってくるシャトルに、全く疲労を見せない表情。そして自分(対戦相手)を見ていながら、そこに何の興味も持っていないことを物語る、光の籠らない瞳。

他にも綾乃が対戦相手を精神的に苦しめる要因はあるが、現時点でなぎさが気づけたのはその三つ。

 

「(多分秦野も様子見って感じか。調子が悪いならともかく、今は無理して揺さぶる事を言うべきじゃないのは理に適ってる)」

 

チラリと弦羽早の方を向くと、彼は少し困ったように肩を上げながら苦笑を浮かべた。

 

「あら?そこにいるのは羽咲さんでして?」

 

ざわめきの中でもよく通るお嬢様口調は、世界広しと言えども彼女ぐらいしか思い浮かばない。

声へと振り向く綾乃の顔に、ふぁさりと布切れが投げられる。

次の対戦相手、芹ヶ谷薫子は一瞬弦羽早の方を向いてニヤリと口元を上げる。

 

「…ハンカチ?」

 

「ええ。負けた後、涙をふくのに必要でしょう? それとも、拭くのは鼻水だったかしら?」

 

ここまで強気な挑発になぎさを除く女子バドミントン部勢が小さな悲鳴を上げる。

並みのプレイヤーならただの嫌な奴で終わるが、薫子の実力は彼女らも重々理解している。先程の二回・三回戦での薫子の失点は、8点7点と圧勝しており、一年生でありながら優勝候補の一角。

 

だが綾乃は挑発に苛立ちを覚える素振りはなく、それどころかにこぉと慈悲深い和らげな笑みを浮かべて。

 

「大丈夫。薫子ちゃんをボッコボコにするために練習してきたから、ワックワクが止まらないよぉ」

 

「へぇ、言うようになったじゃない」

 

二人の間に漂う闘志、いや、闘志なんて綺麗なものじゃない、もっと薄汚れた勝利への渇望に理子、悠、空の三人は互いに抱き合って悲鳴を上げて、弦羽早となぎさは試合前から何をやっているんだと軽く呆れていた。

 

 

 

 

試合前、半コートでクリアーを交わしながら弦羽早は綾乃の観察をする。

 

「(羽咲の調子はいい。多分、練習中の彼女とは比べ物にならないくらいに集中している。素直にやっていいとは言ったけれども…)」

 

あの頃の綾乃も本人らしさがあったが、決して今の彼女も無理して作っている感じはない。

 

「(ほんと、複雑な子だよ!)」

 

ちょいちょいと手招きして前で構える綾乃のサインを合図に、弦羽早はジャンピングスマッシュを打ち込む。少なからず名前を知られている弦羽早が女子のアップ練習で、ジャンピングスマッシュを打ち込んだ事に観客席から困惑の声が上がる。綾乃がスマッシュを打つのならアップとして理解できるが、弦羽早が打ち込んだところでレベルが違い過ぎて練習にならないだろうと。

 

しかし綾乃はその球を難なくドライブで返す。弦羽早は数歩足を前に出しながらドライブで返し、綾乃が上げたロブ球を再びスマッシュを打ち込む。

それを何度か繰り返したところで審判から試合を始めるようにと声が掛けられた。

 

練習用のシャトルを綾乃から預かりコーチ席へと出ようとするとき、すれ違った薫子が声を掛ける。

 

「随分面白い演出ですわね。珍獣のあなたにはピッタリ」

 

「あ~、この間の事は謝るよ。そのお詫びに一つ」

 

「一応受け取っておきましょう」

 

「死ぬ気でやらないと、今の羽咲には勝てないよ」

 

「…ご忠告感謝しますわ」

 

パイプ椅子へと腰を掛けた弦羽早は、静かに綾乃へと視線を向ける。

誰の目から見ても明らかなくらい、今の綾乃の雰囲気はいつもと違う。いつもののんびりとした雰囲気は欠片も無く、冷たくて静かに、ジッと薫子を見つめている。

 

「今日は遊びじゃないから、気を付けて薫子ちゃん」

 

「…その嘗めきった態度、久しぶりですわね」

 

『オンマイライト!芹ヶ谷薫子、港南高校! オンマイレフト!羽崎綾乃、北小町高校!ラブオルプレイ!』

 

審判の掛け声と共に、綾乃にとっての本当の初戦が始まった。

 

 

 




どっかで大会原作沿いって書きましたが、やっぱり違和感あったのでリアルと原作の混合してます。
薫子戦があった日がベスト8まで決めると書いてあり、続く試合ではもう準決勝でした。また試合数も県の割に少ない。
一周目と二週目の間で既にトーナメントが決まっていた状況なので予備日で消化したのとも違うな~と自分は捉えたので、ならもう混ぜてやろうと。

因みに現実は地区大会男女纏めてシングルスを1日目で、ダブルスを男女纏めて二日目にやってその1ヶ月近く後に県大会が行われる感じみたいです。
勿論混合ダブルスとかないです。


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失っただけじゃない

10月に入ってやっと落ち着きました。
遅くなりましたが感想に返信させて頂きました。いつもありがとうございます。とても励みになってます。


今さらですが試合中のコートの前後は主に縦に三つに割って

ネット前(フォアコート)→サービスライン辺りまで
ミドルコート→コートの中央付近
リアコート→コート奥側

あとそれとは別に
ホームポジション→コート全体の中央(シングルスの基本の立ち位置)

って感じですね。シングルスとなると途端前後の動きが激しくなるのでこの辺りの単語が乱発します。



勝ちたいという願望を持った綾乃の強さは圧倒的だった。小学校の時ずっと打ち合い、今はパートナーとして組んでいる弦羽早でさえ目を見開く程に。

 

第一ゲームは綾乃の圧勝。

 

第二ゲームも中盤に入っているが、既に疲労がピークまで達している薫子に対し綾乃は額から一滴だけ汗を垂らす。

ここまで薫子が一方的に疲れているのは、綾乃が与えるプレッシャーにあった。

 

綾乃のタッチの速さは常識を超えている。それは読みと反射神経、選球眼の良さから現れているのは薫子も理解していたが、今は以前にも増して重心の移動が速い。それらが彼女の作り出すゲームスピードの速さを作っており、薫子の思考力を奪おうとしている。

 

しかし薫子にとって思考力はバドミントンの最もたる基盤。綾乃のゲームスピードについて行くために脳をフル回転させ続けた結果、疲労の差がこれほど出ている。

 

「(…羽咲さんが疲れていない訳がない。ただ表に出さないだけ…)」

 

綾乃は体格から見て分かる通りフィジカル面で秀でているプレイヤーではない。

それは理解している。分かってはいるが、一向に上下しない肩に薫子へと掛かるプレッシャーは重くなる。

 

サーバーである綾乃はロングサーブを放つ。これまで二度程アウトかと思って見逃したが、そのどちらも入っていた。おそらくこの球も入っているだろうと、そう思い込むのもまた綾乃のペースに呑まれている証拠。

 

「(まずはラリーを続けることに集中。羽咲さんの得意な組み立てはカウンター。そこに付き合う必要はない)」

 

一先ずクリアーを上げて様子見をするが、この試合を見ている上級者たちはそれを悪手だと呟く。普段の薫子も今のプレイを見ていたら何をやっているんだと吐き捨てる程の。

 

クリアー自体は何の悪い球ではない。様子見、時間稼ぎ、後ろへ追い込むと、同じ種類の球にも複数の意図が存在する。

 

しかしこのクリアーは、本人からすれば様子見だったのかもしれないが、傍から見ればそれはどこから見ても”逃げ”だった。

 

このクリアー1打で綾乃は確信する。今の薫子は彼女のメンタリティ以上のプレッシャーを抱えていると。

 

ニヤリと歯を見せるように口を開いた綾乃は落下地点へと素早く入り込むと、高く前方へと飛んだ。

 

「(ジャンピングスマッシュ!? 不味いッ!)」

 

綾乃に強打がないと言っても、一切決め球にならないひょろっちい球なんて訳はない。筋力が無い分劣るというだけで、スマッシュは筋力が全てではなく、身体全身を使えば誰でも一定以上のレベルのスマッシュを打つことができる。

 

だから警戒する薫子の心境は当然と言えた。

咄嗟にホームポジション付近やや後ろに構え腰を落としてスマッシュに備える。

そして綾乃のラケットがシャトルに触れると共にグッとワンクッション置くが、ネット前へと静かに落ちていくそれに反応が遅れた。

 

「なっ!」

 

咄嗟に足を前に出して飛びつくが、シャトルはガットの先端部分に当たるだけでネットを越える所かろくに浮かびもしない。

 

11(イレブン)2(ツー)。インターバル!』

 

「ハァッ……ハァッ……」

 

疲労のあまりすぐには立ち上がる事のできない薫子だったが、既に弦羽早から渡されたスポーツドリンクを飲み始める綾乃を見て、これ以上スタミナに差を付けられてはいけないとフラフラとした足取りでなんとかコーチ席まで戻る。

 

「芹ヶ谷。徐々にお前らしさが無くなっている。一打一打に意図が見えない」

 

監督から渡されたスポーツドリンクをひったくるように取ると、まるで砂漠の中で見つけたオアシスの水を飲むが如くゴクゴクと喉に流し込んでいく。

 

「芹ヶ谷。上げるなとは言わんが、逃げるな。確かに以前お前から聞いていた通り、羽咲には突出すべきエースショットは無い。だががむしゃらに守り続けて勝てる守備をお前はもっていないし、その程度で勝てる相手じゃない。ラリーの最中にスピードを変えていくんだ。そして得意のフェイントで前に落として上手く流れを掴め。お前だったら一から順に組み立ての説明をしなくともできるはずだ」

 

「はい」

 

水分補給と監督のアドバイスで薫子に冷静さが戻ってきた。

 

点差は9つ開いた状態で中盤に入ったが、インターバル直前の一手でジャンプのフェイントを使ってくれたのは不幸中の幸いだった。もはや冷静さを失っていたあの状況ではどの道点は取られていただろうから、相手の手札を一枚見れたと前向きに考える。

 

一方弦羽早はただ静かに水分補給をする綾乃の姿を見守っていた。

 

「…一応考えはあるけど聞く?」

 

「…うん…」

 

その肯定は意外だった。必要ないと言われると見込んでいた弦羽早は、いささか目を丸くしつつも、綾乃の集中を切らさない静かなトーンで。

 

「芹ヶ谷は頭の回る選手だ。おそらくこのインターバルで切り替えて、再びペースを掴もうとする。羽咲に対する向こうのエースショットはフェイント。それも強打に見せたドロップ。だから羽咲の思ったタイミングでネット前に詰めるんだ。

おそらく羽咲のドロップから入って、ネット前で崩してロブを誘い、そこからフェイントのドロップで来る。ゲームエンドまでの一回、どこかでこのパターンを仕掛けてくる」

 

綾乃は小さくコクンと頷くと、その振動で弱っていたヘアゴムがプチンと切れた。

試合をアリーナ入口から見守っていた理子がやってきて自分のゴムを貸そうとするが、綾乃は「これでいい」と、薫子に渡されたハンカチで髪を結ぶ。

 

「薫子ちゃんがいなければ、こんなに負けたくないって思える私には、なれなかったから…」

 

綾乃はそれから弦羽早の前へと歩み寄り、彼をジッと見上げる。その楽しさも疲れも見せない暗い顔色に弦羽早はゴクリと唾を呑み込んだ。

 

「秦野、見ててね…」

 

「え?」

 

「負けた私は、確かに強くなったってこと…。失っただけじゃないって」

 

「…ああ!」

 

綾乃にとってこの一戦はこれまでとは訳が違うのだろう。それは相手が強いからではなく、かつて自分が負けた相手であり、それが原因で大きく人生が狂ってしまったからこそ超えるべき壁だから。

 

弦羽早がリストバンドを付けた腕を前に突き出すと、綾乃はいつもの明るい笑みを浮かべて、リストバンドを合わせるように腕を交える。

 

「行ってらっしゃい」

 

「ん。頑張ってくる」

 

少しメンタルにブレを与えてしまったかと思ったが、コートの緑線を越えた瞬間に綾乃の雰囲気はまた静かで氷のように冷たい雰囲気へと戻る。

 

薫子も彼女に対して下手な言葉は交わさない。もはや声を出す体力すらも惜しい程に薫子もまたゲームに集中していた。

 

 

集中する二人の耳に審判のインターバル終了の合図は聞こえていなかった。

 

綾乃のロングサーブから再びゲームは再開される。

 

バドミントンはサーバーの点数が偶数であれば右、奇数であれば左から対角のサービスコートへとサーブを送る。

 

11点の現在、薫子のストレートは左利きの綾乃にとってバックハンドとなる。この一球で決まるとは微塵も思っていないが、少しでも圧を掛けるべくストレートにスマッシュを打ち込む。

 

綾乃はその球を自分の胴体より腕が前になるような位置で受け止めると、手首をクイッと捻ってクロスのネット前へとレシーブを落とす。

バックハンドでクロスを打つのは技術を要するのだが、このレベル帯となるとその一打で一々驚いていてはキリがない。

それにバックハンドでのクロスは、どうしても手首の曲がり方に限界があるので、シャトルの角度にもまた限りがある。

 

薫子の立つコート奥側(リアコート)とは対角線上のネット前に落ちるものの、サイドラインギリギリではないので十分に届く。

 

「(ここで上げて逃げるのは駄目。クロスヘアピンからのクリア)」

 

薫子は綾乃のリアコートをジッと見つめながら、ヘアピンの構えでシャトルを取る。

 

「(フェイント?)」

 

薫子の視線に気付いた綾乃はすぐさま前には出ずにジッと腰を下ろして構えた。バドミントンの上級者となると相手の視線を見てコースを予測したり、あるいはそれをさらに逆手にとって視線を使ったフェイントすら存在する。

 

今薫子が仕掛けているのはヘアピンと見せながらも、ネット前に焦点を当てずにリアコートを見る。そして綾乃の重心が後ろに行ったところでクロスのヘアピンで体勢を大きく崩すもの。

しかし綾乃の選択肢はフェイントを警戒してその場で待機だった。

 

「(流石。なら)」

 

動かないのならと、薫子は素直にストレートのヘアピンにプランを切り替える。

 

「(考え過ぎたか?)」

 

多少前にプレッシャーを与えてロブを誘導させた方が良かったかもしれないと少し後悔しながら、綾乃は素早く前に出てロブを上げる。

 

「(さっきのフェイントで少しテンポがズレた。ここで緩くせずにまたペース上げる!)」

 

薫子の配球は低めの攻撃的なクリア。

これで綾乃の体勢を多くズラすプランだったが、それは叶わなかった。

綾乃はミドルコート付近で飛び上がり、ラケットを目いっぱい伸ばしながらラケットに当てる。そして当たる瞬間に手首を大きく下に曲げて無理やり角度のあるドロップを行う。

 

本来ドロップの打つ位置というのは顔の少し前、つまりスマッシュと同じ位置で行うが、今綾乃は手が伸びる最大地点、耳の真横で手を伸ばして打っていた。

何故今の綾乃の打ち方が主流じゃないかと言うと、そんなフォームで打ったところでほぼドロップの一択になるので相手としては怖くないのと、単純に手首だけでコースを決めることとなるので、威力は弱くコースと角度も甘くなりやすい。

 

数少ない利点としては意外性のあるタッチの早さ。薫子としては本来リアコートまで綾乃を押し込むつもりだったが、ミドルコートで無理やり捉えることで、二つほどのテンポアップを薫子に要求させる。

 

しかもデメリットである緩くなりやすい角度が嘘のように、ネットスレスレでサービスライン前(フォアコート)に落ちる軌道で進んでいる。

 

「(速いドリブンクリアにつくづく常識外れな!こっちは学芸大会ではなくバドミントンをやっているのよ!)」

 

ここでヘアピンで返すのは流石に前に貼られているリスクが高すぎるので、素直に上げて状況をリセットさせる。逃げるなと言われたが、無謀と勇気を履き違えるほど、ことバドミントンに置いては薫子は愚かではない。

 

上げたロブに対する綾乃の球は正面へのスマッシュ。速さ、角度、コースどれもさして強くはないそれは、攻めてみせろとの綾乃の挑発。

 

ならば乗ってやろう……とはいかないのが薫子だ。

常に相手の嫌いな場所へと送る、考えるバドミントンが薫子のモットー。

飛んできたシャトルをギリギリまで引き付けて、同時に綾乃も前に引き付けると、パンと反対のリアコートへとレシーブを放つ。

 

「(ここで誘う)」

 

綾乃は一瞬だけコーチ席の弦羽早の方へ視線を向けると、ロブ球に対して面を切るようにして放つカットドロップを行う。

左利きのカットはリバース回転が掛かる事により特殊な軌道となり、ネットを越えた瞬間に急激に速度が落ち、ネットスレスレで落下。

 

「(来た!)」

 

ここまでのラリー。ついに流れを変える一手がやって来た。

綾乃の際どいカットドロップにも何とか足を踏み出してヘアピンで返し、前に誘導する為にすぐに中央に戻る素振りをする。

インターバル一回目のラリーで既に息が上がってきた薫子だったが、このコート中央(ホームポジション)に戻るという行為をサボれば負けに直結する。

 

綾乃もまたヘアピンで返してすぐにホームポジションに戻ろうとするが、読んでいた薫子はすぐに前に出た。あくまで体は後ろに下がっていたが、すぐに詰めれるように心がけていたのだ。

速いタッチのヘアピンは、薫子のコートに入ってすぐにストレートに返球される。

 

薫子の出の速さに遅れた綾乃は手足を目いっぱい伸ばしロブを上げるが、頭が下がっており体勢を整えるのに時間と労力を要す。

 

「ッ!」

 

背中を少しだけ逸らしその体重移動を利用して素早く戻ろうと綾乃だが、中央に戻るよりもジャンプして跳び上がった薫子のタッチの方が速い。

 

「(ストレートのスマッシュ…。いや…)」

 

薫子の視線、体の向き、面の角度からひだり側(フォアハンド側)へのストレートのスマッシュだと読んで、ショットと共に左へ跳ぶために右足にグッと力を籠める。

 

その僅かな変化を薫子は逃さない。相手の思考を読むという点や、組み立てるバドミントンをするという点では彼女よりも優れた選手は全国にはまだ多くいるが、観察眼に置いては薫子は一際秀でている。

 

薫子の打ち放ったショットは先程綾乃がヘアピンを返した場所へのカットドロップ。

 

ガラガラのサイドコート、三回連続の同じ場所への攻撃。ストレートに見える体勢と視線から、最後の瞬間にラケットの面を逸らすことによる、スマッシュと予備動作の差がない完璧なフェイント。

 

加えて現在綾乃の重心は後ろ寄り、踏み込んだ足は右。いくら化け物じみた反射神経と瞬発力を持ったとしても、人間の動き的に取ることが不可能である完璧なタイミングと配球。

 

だが次の瞬間、まだ着地していない薫子は目を疑った。

 

綾乃は踏み込んだ右足で、シャトルが来た方角とは違う左へとほんの少しだけ跳んだ。これにより踏み込んだ右足の力をリセットさせる。

そして左足で着地すると共にその足で地面を蹴って、右前のシャトルの元まで跳び込んできた。

 

その動きに一切の無駄は無く、薫子が着地をして急いで前に出ようとした時には既に綾乃のラケットはシャトルを捕らえており、コートに入って来たドロップを叩くようにしてコート奥へと突き刺した。

 

『ポイント! 12(トゥエルブ)2(ツー)

 

ここまで粘りに粘ったラリーで得たものは無く、むしろカットドロップを見せてしまったことで薫子の手札が一枚減り、更に最後の綾乃の動きにラケットを持つ手が震える。

 

だが先程のインターバルで一度冷静になれたおかげで、動揺はすれど思考力は衰えなかった。

 

「(あ、あり得ない。並みの瞬発力と重心移動、思考の速さを持ってもあんな動きは不可能。考えられるとしたら読まれてた? でもわたくしのフォームは完璧。あれは予備動作で判断できるものではない。ならそこまでのパターンを読まれていた可能性がありますが、羽咲さんは読みの鋭さはあれど、そこまで長期的な組み立てた読みはできない。あるとすればドロップを誘ったか、あるいは…)」

 

チラリと綾乃のコーチ席に座っている弦羽早を睨みつける。

 

「(あいつの可能性か…。あれから彼の試合は少し見たけれど、そこまで試合中の組み立てが得意な感じではなかった。それでも要因を羽咲さんと考えるより、秦野弦羽早はコート外では組み立てが出来ると考えた方が自然。

…であれば、インターバルでの時間から考えて、もうアドバイスは無いはず。さっきの一点は素直に諦めましょう)」

 

大丈夫だ、まだ勝ち筋は残っている。静かにシャトルを構える綾乃へと、準備はできていると薫子もラケットを立てる。

 

再びのロングサーブが上げられる。

 

「(もう手の内は見せてしまったのだから、隠す必要はありませんわ!)」

 

薫子は攻撃的な顔つきから一転、行ったのは強打ではなく先程と全く同じクロスへのカットドロップ。

 

「ッ!?」

 

普通ならエースショットが失敗すればすぐには使わず、いくつかの球を交えて再びここぞと言う時に打ちそうだが、薫子は自分のエースショットをもうそこまで過信していない。

使える手はなんだって使う。

 

流石の綾乃も一歩出遅れ、シャトルは既に手を伸ばせばなんとか届くギリギリの状況まである。

だがそこで素直に返すほど綾乃は真っすぐではなく、地面にラケットを這わせるようにして行うクロスのヘアピンで返す。

従来のネットの高さで行うクロスのヘアピンに比べると浮き易いこの打ち方だが奇襲性は高い。

 

だが薫子もまた、綾乃をもう過小評価していない。

パシンとクロスを読んでいた薫子の一打が決まる。

 

『オーバー!3(スリー)12(トゥエルブ)

 

「薫子ちゃんナイスー!」

 

『カ・オ・ル・コ! カ・オ・ル・コ!』

 

ダブルスパートナーであるミキと親衛隊の声援が耳に届く。

ようやく手に入れた三点目。点差は丁度四倍で、その疲労具合でも薫子の圧倒的不利。だが薫子は勝利までのパターンを考えるのを止めない。

 

「(ショート?いや、サービスを取った。ここは少しでも走らせる)」

 

ここは素直に打たせる為に一番後ろの線(バックバウンダリーライン)までのロングサーブを放つ。それに対して綾乃の選んだ一打は、再びブレの無いフォームからのジャンプ。

控えるように言ったのにと、コーチ席では弦羽早が、コートから少し離れた場所では健太郎が呆れたように額に手を当てるが綾乃は気づかない。

 

バシュン!とスイートスポットから放たれたクロスのスマッシュ。従来の綾乃のスマッシュよりも角度のついたそれは、薫子のバックハンド側へと進む。

素早く右足を出して取ろうとする薫子だが、現在の自分の位置とシャトルの角度と軌道、そして慣れないジャンピングスマッシュであることを考慮に入れた上で見逃した。

 

「ッ!?」

 

『えっと?』

 

コロコロと転がるシャトルに審判は困惑した眼差しで、線審をしている選手二人とは別のクラブチームの少女へと視線を向ける。しかし彼女もまた際どすぎるその一打に困惑しており、首を傾げながらも両手で目を隠した。

 

こちらでは判断できない、という合図である。こういった時最終的な判断は審判に下されるが、座審も薫子のラケットが陰になっていたのもあってハッキリとは見えない。

 

「ラッキーラッキー!」

 

「ナイッセー!薫子ちゃん!」

 

こういう時観客の何気ない一言が審判の判断を煽ったりする。審判もまた人間。世界大会ならともかく、地区大会の審判はただのボランティアでプロではない。

点差もあるし薫子に点をつけようかと審判が口を開こうとした時、薫子はシャトルを拾って綾乃へと渡した。

 

「…入ってましたわ」

 

「……そう」

 

『オーバー 13(サーティーン)3(スリー)

 

チャレンジシステムのないこの会場においてはこういった線審でも判断できなかった球に対しては、いかに自然を装うかで一点が変わったりする。

だがこの目でライン上にコルクの下半分だけが掠めたのを見た以上、プライドの高い薫子はこのショットを自分の点数にするなど死んでもお断りであった。

 

もしかすれば別の誰かが相手であれば、薫子も素直に貰っていたかもしれないが、相手はずっとライバル視してきた綾乃。

 

「(あと少し、もうほんの少しで掴める。羽咲さんが身に付けてしまった勝ちたいと思う心(欠陥)を。そこをッ!)」

 

しかし彼女がそこを捉えたのは余りにも遅すぎた。

 

それから流れを大きく変えられることはできず、21‐4という圧倒的な点差で薫子は敗れた。

 

 

 




ダブルスとはいえ全国で準々決勝まで上った薫子ちゃんとミキを一桁台で倒せる綾乃ちゃんってやっぱヤバい。
あとこれまでのスコアは原作とそこまで大きな変化はないです。
まあバグ扱いされてるし。


はねバドアニメついに終わってしまいましたね。
原作とは違う展開が多かったりキャラの改編などはありましたが、別のはねバドとして楽しく見られました。
作画は滅茶苦茶良かったですし、リアル寄りのバドミントンをやってて、音や体育館の暗さなどがまたいい雰囲気でした。
あと綾乃ちゃんがとことん性格悪くて凄く可愛かった。ひねくれ方が可愛かった。天使か。

アニメの企画が決まった時がまだ5~6巻と、作画が大きく変わって綾乃の心境が掘り下げられ始めた段階だったので、雰囲気を5巻辺りに寄せて改変を行ったみたいですね。1クールで収める点としても良かったと思います。

ただ唯一納得できないのが、理子vs望戦のバックハンドが苦手な設定を望につけたのが本当に納得できないですね。
インターハイに出場するバスケが利き腕でしかドリブルできないみたいな。その実力帯でハイバックはともかくバックハンド苦手はないだろと。倉石も修正させるだろうと。
これが大人の都合か…。

望本人は作画も声も可愛いかったですし、なぎさ戦も良かったです。

アニメが無ければこの作品書き始めてないくらい、原作は勿論ですがアニメもそれくらい楽しんで見てました。ただバックハンド苦手(略






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再会

今回あたりから原作未読の方にとっては馴染みのない展開になると思います。

え!? 
しっかりバドミントンしているスポ魂もので、キャラクターがみんな個性的で魅力的で、何より主人公が可愛い何度も読み返しちゃうはねバドって漫画があるんだって!?

買うしかないな


真面目な話一気に全巻買わずとも
1~4巻
5~7巻
8~9巻
10~13巻
って感じだと区切りとしても比較的よく、分割して買いやすいかと思います。



薫子に勝利した綾乃は勝利者サインだけ書くと、因縁の相手であった彼女には何も言わずに静かにコートを去った。

弦羽早が強豪校逗子のエース、石澤望の試合を見ていくかと聞いたが、彼女は首を横に振ってアリーナを去って行った。

 

その背中をジッと悲哀の瞳で見つめる少年の肩がポンと叩かれる。

 

「羽咲を追わなくていいのか? 支えたいんだろ?」

 

ニヤリと笑う健太郎の表情はからかいも入っていたが、年頃の少年を気に掛ける大人のゆとりのようなものが感じられた。

 

「あはは…。二週間前のこと根に持ってます?」

 

「いや。ただお前の反応が少し意外でな。もっと気に掛けるかと思っていた。少なくとも、荒垣の方が今羽咲に接している」

 

心配してかは分からないが、綾乃の変化に一番接しようとしているのは弦羽早ではなくなぎさであった。

冷たい綾乃の一面を北小町で唯一知っていたのもあるだろうが、それでも弦羽早の反応には健太郎も少し疑問を抱いていた。

 

「単純に集中を邪魔したくないのもあります。特にシングルスに置いては、フィジカル面以外では羽咲が上。俺がアドバイスできる範囲は限られています」

 

「その気持ちは分かる。俺もそんなところだ」

 

「あとは、そうですね…。やっぱり混乱している部分も正直あります。今彼女にどう接したらよいのかが分かりません。なるべくいつも通りの自分でいようと思っていますが、試合という中で下手にメンタルを揺さぶるようなことは言いたくない。試合に関するアドバイスもしにくい。その結果が今の俺ですかね」

 

萎縮したかのように暗い声は、情けないと自己嫌悪が籠められていた。

健太郎も今の弦羽早の悩みを理解しているが、自分の言葉一つでブレるような気持ちではないと薫子の一件で理解していたのであえて追求する。

 

「…理屈じゃないんじゃなかったのか?」

 

「ええ、理屈で動いているのならもっと羽咲に寄り添ってますよ」

 

――少しでも一緒にいる為に。

声となって語られはしなかったが、そう読み取れる間があった。

 

「なるほどな…。じゃあ秦野が行かないのなら俺が羽咲のところへ行ってくるか」

 

「荒垣先輩の試合もうそろそろみたいですから、帰ってくるように伝えて下さい」

 

「おう」

 

健太郎もまたアリーナを去って行き、弦羽早は石澤望のラリーを数回だけ見て同じくアリーナを去る。

 

弦羽早はボーと考え事をしながらすれ違う人混みを避けていく。

今綾乃が何を望んでいるか、どう接して欲しいのか、それが再び分からずに今様子見の状態になっている。それが綾乃にとって決して良くない事は薄々気づいてはいた。集中しているからこそ、周囲いつも通りの接し方がベストなのだ。

 

だが弦羽早の心には、周りと同じでは嫌だという欲があった。

 

異性として、ダブルスのパートナーとして、女子バドミントン部のみんなやなぎさ、コーチとは違った形であの状態の綾乃と上手く接したい。

でもそれが綾乃の集中力を欠けることになるかと思うと、一歩が踏み出しにくい。

文はやりたし書く手は持たぬ。手紙を書く訳ではないがただ心境としては少し似ており、どこかもどかしさがある。

 

「久しぶりだね。悩める少年」

 

「……え?」

 

これから試合を行う人。試合が終わって笑みを浮かべる人。涙を浮かべる人。

アリーナの出入り口は数多の感情で渦巻きざわめきが収まる事がないが、雑音の中でその声は弦羽早の耳に綺麗な程に届いてきた。

声の主は女性にしては長身であった。男子の平均身長そのままの弦羽早より少しだけ低いくらいで、顔を隠す様に被ったキャップからは長いポニーテールが飛び出ている。そのスタイルは昔と変わらず、肌も三年の歳月を感じさせない妙齢の女性。

 

「ッ、おばさん…」

 

「お、おばッ? つ、弦羽早君。もうやんちゃな子供じゃないんだし、有千夏さんって呼んでもいいのよ?」

 

ガックシとバランスを崩してキャップの隙間からのぞき込む顔は、おばさんという言葉は似合わない若さを持っている。バドミントンは無酸素運動であるので、長距離ランナーなどに比べると実際の年齢より若く見える人が多いが、彼女の美貌は生まれながらの恩恵もあるだろう。

 

「…なんでここにいるんですか。”おばさん”」

 

弦羽早としても悪意でそう言っているのではなく、単純に逆の立場を想像する。もし綾乃が、綾乃でなくとも同級生が自分の母親を名前呼びするのは違和感しかない。おばさんという言い方は二十代後半から時間が止まっているような彼女には似合わないかもしれないが、適切な呼び方である。

有千夏も自分の年齢は理解しているので、諦めたようにクスクスと笑う。

 

「あはは、昔と変わらず妙なところは頑固だね。…話があるの、付いてきてくれる?」

 

「…えっと、はい」

 

有千夏を追って向かった先は体育館の駐車場に停められた、ごく平凡な車の中だった。

道中荷物を持って来いと言われたので、バドミントンバッグを持って来た弦羽早は、それを二列目へと置いて助手席に乗る。彼女はエンジンを付けるとエアコンの風力を最大にして、ふぅ~と息を吐いた。

隠れて綾乃の試合を見に来た彼女は締め切った体育館には似つかわしくない厚手の恰好をしていたので、その冷風を満足げに浴びる。

 

「まずはほんとに久しぶりだね。コニーから弦羽早君のこと聞いて驚いたよ。まさか本当に全国一位を取って綾乃とダブルス組むなんて思わなかった」

 

「団体戦で、でしたけど」

 

「十分だよ。そこまでしてあの子と組みたいって言ってくれる人はいないと思うから」

 

サイドブレーキを外してドライブへとギアを変更させると、有千夏の足がアクセルを踏む。ゆっくりと進み始める車に弦羽早はギョッと目を開く。てっきり外では話しにくい内容なので車内を密談の場にするのだろうと思っていたが、違うようだ。

 

「ちょっ!どこに行くんですか!?」

 

「綾乃のところ」

 

「え?だって羽咲は会場にッ」

 

「ま~だ綾乃のこと苗字で呼んでるの? そんなんじゃいつまで経っても綾乃と進展しないよ」

 

「そんな機会は……じゃなくて、真面目に答えて下さい! それに出て行ったんじゃなかったんですか!」

 

最後に会った時から変わらない明るさに、この二週間でガツンと言ってやろうと考えていたことが全部頭からすっぽ抜けてしまった。

 

弦羽早にとって、有千夏は友達のお母さんでありながらも、見た目の若さとフレンドリーな性格が相まって”バドミントンの強いお姉さん”の感覚も無意識の内にだがあった。だからか、その感覚の違いと綾乃への気持ちから振り回されるパターンが多い。

 

「分かった分かった。弦羽早君はどこまで聞いた、私と綾乃のこと?」

 

「中二の時に芹ヶ谷に負けて、それを羽咲が負けてないって言って、出て行ったくらいです」

 

――お義父さんとお義母さんに伝えた事は聞いてないのか。

 

弦羽早が持っている情報の少なさから、綾乃本人から聞いたのだろうと有千夏は口元を上げた。少し心配な面もあったが上手く接しているようで、やはり弦羽早を誘って正解だった。

 

「そうだね。私が出て行ったのはあの子がバドミントンの選手として強くなる上で、私が近くにいることが妨げになると思ったから」

 

「ッ!だからって……いえ、どういうことか、聞いてもいいですか?」

 

それが親としてやるべき行動なのかと吐き出しそうになったが、有千夏に貰ったリストバンドが視界に入り、喉まで出かかっていた言葉をグッと呑み込む。

この母と娘はごく普通の親子としての関係も持ちながらも、それより更に深い繋がりがあることを、二週間前の綾乃の言葉を通して理解した。

だからこの場で一方的な正論を言ったところで、何かが変わる訳がない。ただの自己満足であると分かっていた。

 

「弦羽早君も気づいてると思う。綾乃にとって何が足りないか、何が必要なのか。中学での部活のこと知らなくても、今日の試合でそれは読み取れたはず」

 

「部活のレベルが合わなかったとだけ聞きましたけど、やっぱり他にも何かあったんですね…」

 

「まあ、色々とね…。難しい時期だから」

 

弦羽早はチラリと有千夏の横顔を見つめる。髪の長さや凛とした目つきは違うが、誰が見ても親子に、あるいは姉妹に見える程によく似ている。

その表情はやはり綾乃が嫌いになったからと出て行ったわけではなかった。

 

有千夏の質問への答えはすぐに浮かび上がって来た。

今日の第一回戦。格下相手にアップをするためにとわざわざ1ゲーム与えた上で、最後のゲームではようやく真面目に戦い、圧倒的な点差をつけた試合。その後の対戦相手へのやる気のない雑な挨拶。

 

「一言で言うなら、マナーですか?」

 

「そうだね、それもある。その辺りの事は教えたつもり。私が出て行く前はちゃんとしてたんだけど」

 

「…それっておばさんが原因じゃないですか」

 

「ん~…面目ないなぁ」

 

娘の同級生から冷めた視線を向けられ言い訳もできないと苦笑する有千夏だったが、彼女の口ぶりからそれは正解ではないようだ。

確かにと第一試合の綾乃の態度が強すぎたが、昔の小学校時代の彼女はあんな風ではなかったのを今一度思い出す。

となるとマナーとは少し違う路線で言葉を探してみる。綾乃の態度を鮮明に思い出してみるとすぐに見つかった。

 

「相手を、舐めてる?」

 

「うん、正解。正確にはね、あの子は多分、自分が認めるほんの一部の以外の選手は、全員少なからず見下してる」

 

その言葉はとても親からのものとは思えず、弦羽早は目を大きく見開いて抗弁する。

 

「なっ!? 確かにあの試合はそう捉えられても仕方ないですけど、でもそれ以降の羽咲はそこまでッ……!」

 

圧倒的点差で勝った第二・第三試合、そして薫子戦。そのどれも、試合後の綾乃の表情は冷たいままだった。それは、期待外れだったと言っている様に見えなくもない。

有千夏の言葉に全てを否定できずに弦羽早は言い淀む。そしてそんな彼に有千夏は追い打ちを掛けた。

 

「…今だからこそ言うけどね、弦羽早君。綾乃がもっとも見下してたのは君なの」

 

「…は?」

 

丁度赤信号に引っ掛かり、車はゆっくりと速度を落としてピタリと止まる。

その動きに連動するように、弦羽早の思考も一瞬止まってしまった。有千夏の言葉が理解できず一瞬手元を見て、それからまた有千夏に視線を向けるが、彼女の横顔は変わらず真剣なものだった。

 

「(羽咲が俺を一番見下してた…? そんなわけ…だってあんなに毎日一緒に楽しく練習してた。時々だけどお互いの家に遊びに行って、一緒に宿題やらずに怒られたりもした。あんなの見下してる人間と一緒にやるわけがない)」

 

「な…にかの勘違い…でしょう。だって、羽咲を捨てたおばさんが――」

 

"捨てた"という棘のある言い方は弦羽早なりの反抗心から出た言葉だったが、悲哀の色が強く込められた有千夏の瞳に言葉が詰まる。

 

「…捨ててないよ。誰が見てもそう見えるのは分かってる。母親として間違ってるってことも、私が異常だってことも。でもね、私は綾乃のこと捨てたなんて思ってない。そして、バドミントンに関する綾乃の気持ちは分かってた(・・・・・)つもり」

 

「いや、でも…」と弦羽早は言いよどむ。

そんな筈は無いと、記憶に新しい再開してからの綾乃とのやり取りを思い出す。

彼女は笑ってくれた、ありがとうと沢山言って、自分の前で涙を見せてくれた。何より楽しいバドミントンをしたいと言ってくれたではないか。

 

だが同時に。

 

『秦野…幻滅した? それとも、スッキリした? 私が同い年の女の子に無様に負けて…』

 

『ぅぅぅ!秦野の癖に!』

 

二週間前。薫子に負けて逃げ出した綾乃との会話。前者は喧嘩前のピリピリした時で、後者は喧嘩してお互いもう吹っ切れた時の言葉。

 

あの時は弦羽早も思考も感情もごちゃごちゃしていたので気にもしなかったが、その二つの言葉は有千夏の言葉と合致する。

特に前者は弦羽早を見下しているという負い目のようなものが無ければ、普通”自分が負けてスッキリした”などと思わない。

有千夏の発言を全て鵜呑みに下訳ではないが、ただ心当たりが出てきてしまった以上、弦羽早は擦れるような声で聞いた。

 

「…いつから、そう思ってたんですか?」

 

「確信したのはもう弦羽早君が宮城に行ってから。でも前々からふと気になる時はあったけど、二人とも楽しそうにしてたからまさかって。

弦羽早君と卒業式に契約書を書いたことを話してくれてね、”弦羽早君が全国取ったら綾乃もフォローしてもらえるね”って言ったら、”秦野だよ。そんなのあり得ない”って」

 

「ッ…」

 

そのすぐ後に、冗談でもそんな事を言ったら駄目だと叱咤したが、綾乃はどこか不満げに渋々と頷いた事を有千夏は思い出す。

 

「…ゴメンね。私がもっと早く気づいてあげたら良かった。あの子にとって一番負けた相手が私で、一番勝った相手が弦羽早君なの。でも弦羽早君は努力して、とっても頑張ってくれた。そこを綾乃がリスペクトしてくれたら良かったけれど、あの子の中では、それだけ頑張っても自分には勝てないって。決して本心じゃないの、それは分かって欲しい。でも、心のどこかでそう思うところもあったんだと思う」

 

「…そう、ですか…」

 

有千夏があと一言でも励ましの言葉を送れば涙腺が崩壊する程にショックを受けていた。

今の自分の基盤となった綾乃との出会い。彼女からバドミントンを通して学んだ沢山の事。本当の努力とはどういった事か、その先に何があるのか。

憧れだった彼女に見下されていたことは、まるで彼女自身からこれまでの自分を否定されたようで。

 

「…中学での部活でその意識が強くなってしまった。綾乃の中学(あそこ)、全然強豪校でもないでしょ? ちょっと気にしてたけど綾乃は大丈夫って言うからあの子に任せてたんだけど、あとで親御さんと顧問の先生から聞いた話だと、三年生の主将の男の子をほぼスコンクで倒したらしくて」

 

「…羽咲らしいですね…」

 

嬉々として試合に挑んだ結果、相手をボコボコにする綾乃の姿が目に浮かぶ。

 

「うん。私も選手として戦ってきたから、スコンクなんて余程の実力差がないとできない。それはやられる方の努力不足だって思うところはあった。私も小さいときはやられた経験はあるからね。弦羽早君もそれは辛い程知ってる」

 

「…はい、それはもう」

 

どれだけ努力を重ねて強くなり、成績を残せるようになっても彼女の成長速度はその上を行っていた。シャトルの威力に差が出なくなっても彼女には技術力があり、レシーブがあり、素早い動きと選球眼。他にも数多のものを当時から持っていた彼女に勝つ術などあの頃の弦羽早にはなかった。

 

「でも本気でやるスポーツと友達付き合いの延長でやる部活のスポーツは違う。後者が悪いなんて思ってないけれど、お互い噛み合わない部分はある。そしてあの子の周りにはスポーツとして戦うプレイヤーと、負けてもずっと挑んでくれる君が居た。物心つく前からずっとバドミントンしているからこそ、それが当たり前だったの。スポーツのバドミントンが遊びになるくらい」

 

長かった赤信号が再び青に変わり、車は前に進む。

 

「その時綾乃は”努力しても強くなれない選手”の他に”努力できない人”を見つけたの。あとは君も知っての通りだと思う」

 

「…それだけじゃないです。羽咲は俺が負けても何も失ってないって言ってました…。でも、自分は一回の負けで失ったとも」

 

「そっか…そうだろうね」

 

「ッ、それが分かっていてなんで!」

 

「あの子が本気でバドミントンを目指すのなら、甘えられる母親はいらない。どんな結果でも負けたのなら受け入れて、それを共に分かち合える、見下すことのない本当の仲間やライバルが必要だと思ったの」

 

未だにショックが抜けないながらも弦羽早は何とか状況整理をすることができた。

有千夏の行為は未だ納得はできないが、動機に関しては弦羽早も選手として理解できる部分はある。

有千夏が普通の母親であれば綾乃の傍にいられただろうが、彼女は母親であり、コーチであり、元日本トップの選手。

そんな彼女が負けた綾乃に「大丈夫だよ」と母親として言っても、綾乃は母親としてだけでなく、コーチとしても元トップ選手の言葉としても捉えてしまう。

 

「でも…勝ち上がった時に会ってあげれば…」

 

「仲間もいなかった綾乃に? 駄目、また私に甘えるだけ。それだと出て行った意味は無いし、むしろ勝てば手に入るんだと思い込んでしまう。私はね、綾乃に勝って手に入れるんじゃなくて、負けて手に入れて欲しかったの。弦羽早君みたいに」

 

「俺、ですか?」

 

「うん。どれだけ負けても諦めずに努力し続ける心と、バドミントンに対する真っ直ぐな想い。その先で得た優勝。君は私が綾乃に望んでいたものを取ってくれた」

 

自分のそれまでの頑張りを褒めてくれる有千夏の言葉は嬉しかったが、しかし弦羽早が抱いた感情は否定だった。

それまで心の中に微かにあった違和感という名のパズルが今明確に形を持ち、同時にピースがピタリと重なる。

 

だが有千夏の言葉を一通り聞きたかったので、話を折らずに聞き側に回る。

 

「弦羽早君が中二の時には全国出て、中三で一位になったのはコニーから聞く前から知ってた。実はその試合も会場で見てたりして」

 

「えっ!?そんなに近くにいたんですか?」

 

「基本海外だったけどシーズンに合わせてね」

 

先程の静かなトーンとは一転して悪戯が成功した子供のようなうきうきとしたトーンで有千夏は語る。おそらく弦羽早に気を使ってそういう空気を出してくれているのだろう。そちらの方が弦羽早としても気が楽であった。

 

「綾乃の状況も理解してた。あの子がバドミントンを辞めるのなら、それでいいと思う部分もあったの。あの子にとってバドミントンが人生そのものだったから、そこを離れて普通の社会を勉強する事も母親としてはありだったから…。でももし綾乃を変えてくれるなら、弦羽早君じゃないかなって」

 

「えっと、そこで何で俺が?」

 

「綾乃がずっと見下して、勝ち続けた相手だから。それが全国一位になって綾乃の元に来たら、綾乃の中で沢山の変化が生まれる筈。でも、弦羽早君には弦羽早君の人生がある。君の元までいって、綾乃の為に強豪校でもない北小町に来てとは言えなかった」

 

「でも俺は現に北小町に来ましたよ?」

 

首を傾げる弦羽早を横目で見ていた有千夏は、突然ケラケラと笑い出しし両手で持っていたハンドルが左右に震える。同時に車体が左右に揺れて真剣な顔に戻ってハンドルを固定させるが、その肩は依然震えている。

 

「ふっ、アハハ。あのね弦羽早君、中学生という多感な三年間を経て全国のトッププレイヤーにもなって、それで強豪校を蹴って小学校の時の約束を守ろうとする子は極々限られてるよ。自分の娘の為にそこまでしてくれると思える程、私も親ばかじゃなかったし」

 

「嘘でしょう。未だにあの時のショックは覚えてますからね。羽咲とミックスペア組む条件」

 

「あの頃は二人がそこまでバドミントンに入り込むとは思っても無かったからついね。普通、本気で叶えるとは思わないでしょ」

 

「…全日本十連覇がいいます?」

 

「ちょ~と大人げなかったかな?」

 

まさか当の本人がここまで軽いノリだったとは夢にも思わなかった。今日弦羽早の元へと入った情報量は受験日前日のラストスパート時よりも多いかもしれない。

 

両利きになり、学校以外のほぼすべての時間をバドミントンに注ぎ込み、わざわざ地元から離れてまで得た称号は冗談から生まれたものらしい。

 

なんだそれはと、自分が道化に見えて弦羽早もまたケラケラと笑う。

 

「やっぱり親子ですね。ここまで他人に振り回されるのは今のところ羽咲とおばさんだけです」

 

「でもいい経験になったでしょ?」

 

「それは勿論。……あの、おばさん」

 

「ん~、なあに?」

 

ここまで有千夏の話を聞いて弦羽早の中には少なからず納得できる部分はあった。バドミントンと深く関わり合ってきた特殊な価値観を持つ綾乃に対して、親とコーチの両方の立場を持つ有千夏が生半可な事を言っても根本から解決しない事も。

 

有千夏から高く評価されたこともまた嬉しかった。綾乃とまでは行かずとも、有千夏の存在もまた自分にとっての憧れである。

そんな彼女から、綾乃を変えられるのは自分だと言われて何も思わない訳はなかった。だが、だからこそ気づくことができた。

 

「おばさんは俺の事評価してくれてます。羽咲も優しいって、助けてもらってるって言ってくれた。でも俺はそんな出来た人間じゃありません。全国まで頑張ったのだって不純な動機ですし、誰に対しても優しい訳じゃない。それに、ショックを受けた癖に俺自身、他人を無意識の内に見下していた」

 

「弦羽早君が?」

 

「入学した時は同じくらいの実力だった同級生に対して、レギュラーメンバーになった瞬間、俺はその子を格下に見ていた。一度試合に勝った相手には負けないだろうと、気を抜いて試合に入る時もありました」

 

「それは普通のことでしょう。努力して得た実力なんだから」

 

「だから羽咲も一緒です。彼女は俺以上に”当たり前に努力”して才能があった。それに及ばなかったのなら、羽咲が俺を下に見ていたのは当然だと思います…」

 

「でも綾乃と弦羽早君とは違う。あの子にとってバドミントンの価値観は人生の価値観と変わらないの。だからーー」

 

「変わりませんよ。俺も仲間をどこか下に見ていた。今の北小町のメンバーも少なからずそう見ているかもしれません。もし試合で当たったと想像しても、全力で試合に入る自分が浮かばない。それはどんなに取り繕っても下に見ているというのには変わらない」

 

「……すっかり大人になったね」

 

有千夏は穏やかな声で微笑みながらそう呟いた。

弦羽早は見下していると言ったが有千夏はそうは思わない、綾乃と弦羽早が一緒だとも。

どれだけ取り繕ってもバドミントンとは引き分けの無い必ず勝ち負けが決まる勝負であり、また個人競技であることから求められるのはチームワークではなく各々の実力だ。だから必ず実力差というのが生まれ、強弱という上下関係が生まれる。

 

問題はそこからどう他人と接するか。

 

どんな相手にも全力で戦えとは言う訳ではない。

でも弱い相手だってスコア以外(コートの外)では自分より優れた部分が必ず存在する。初見の相手からそこまで見抜けとは言わないが、かつてあれだけ一緒にいた弦羽早から彼の良い点の一つでもリスペクトして欲しかったという思いは変わらない。

 

「そんなこと、ないです。結局俺は羽咲の肩を持ちたいだけです」

 

「あんまり自分を卑下しないで。弦羽早君がそんなんじゃ、私はもう表に顔を出せないよ。…ありがとね、綾乃のことを悪く言わないでくれて」

 

――本当は母親である自分が何よりも綾乃を受け入れなければならないのに。

 

そう愚痴るように呟くには弦羽早はあまりに若かった。だと言うのに、彼の方が綾乃と向き合っているような気がしてならず、いたたまれない。

でもそれは当然の報いだと受け入れるしかなかった。

 

有千夏は小さく悲しみの込められた息を吐くと、潜り抜けた青い標識を見てハッと我に返る。

 

「おっと、そろそろどこに向かってるのか言わないと不味いわね」

 

物静かな空気から一転して忙しない口調になる。

 

「はあ」

 

ここに来るまで見えていた看板から東京方面に向かっていることは分かっていたが、細かい位置に心当たりはない。綾乃のいる場所と言っていたが、その事についてもまだ聞いていなかった。

 

「今向かっているのはヴィゴ・キアケゴー・スポーツアリーナ。簡単にいうと日本のトップ選手の育成を中心とした、世界バドミントン連盟(BWF)の施設。そのオーナーのヴィゴ・スピリッツは多分弦羽早君も知っているだろうから細かい事は省くけど、若い才能がとにかく好きなの。その眼鏡に綾乃がかかった訳」

 

ヴィゴ・スピリッツ・キアケゴー。全英オープン四連覇で、ヨーロッパ勢の最初の金メダリスト。もう還暦を越えた老人だ。

彼が現役だった頃の試合はかなり古い映像となるので弦羽早も見た事はないが、名前だけなら知っている。

そこまでの大物が出てくるのかと弦羽早は小さく頭を抱える反面、流石綾乃だと感嘆の息を吐く。

 

「そのアリーナのデモンストレーションの試合にヴィゴは綾乃を指定してきた。綾乃を自分の元に惹きこむための餌を用意してね」

 

「餌? もしかして…」

 

「そう、私。ヴィゴの目的と私の目的は微妙に違うけれど、綾乃に次のステップに上がって来て欲しいから、私もその話に乗ってとびっきりの選手を二人用意した」

 

「二人?」

 

「うん。弦羽早君にはそこで綾乃とペアを組んでその二人と戦って貰う」

 

「…はい?えっと…いや、試合を行うのは構いませんが、ヴィゴは羽咲を指名したんですよね?」

 

であればわざわざ自分が関与してダブルスを行う必要性は無い。

 

第一、有千夏が用意したとびっきりの選手とはどこの化け物だ。彼女のことだ、ネット越しに二匹の鬼が立っていてもあり得ない話ではないので笑えない。

 

「ダブルスは私が無理やり指名させたの。綾乃にステージを上がるのとは別に、もう一つあるものを見つけて欲しかったから」

 

「あるものって?」

 

「それは弦羽早君にも教えられないかな。でもこの試合を通せば見つけられる可能性はあると私は思ってる」

 

教えられない。ならば自分で答えを見つけてやろうと思うのが人の性だが、弦羽早はすぐに諦める。ある部分では娘以上にぶっ飛んでいるこの母親の思考は、弦羽早に読み取れるものでもない。

 

「それくらい私が選んだ二人は強い。今の綾乃と弦羽早君じゃ絶対に勝てない」

 

「…それは、シングルスで羽咲が戦っても?」

 

「ええ。手も足も出ずに負けるでしょうね」

 

あの綾乃が手も足も出ずに負けると聞き、いよいよコートの中に立つ鬼の姿が鮮明に浮かび上がる。

 

「…俺がやってる競技ってバドミントンであって、鬼退治じゃないんですが」

 

「茶化さないの。でもね、もう一つ上のステージに、個人としてペアとして上がったら可能性はゼロじゃなくなる。そしたら弦羽早君にも大きなものになると思う。だから頑張って。さ、着いたわよ」

 

有千夏はモデルのようなスラッとした長い足に履いた、色気の無い微かに汚れたスニーカーでブレーキを踏む。

 

試合の話題にはまだ納得できない部分もあったが、ただ綾乃にとっても自分にとっても大きな試合となれば無下にはできない。

選手にとって自分を変えられる大きな試合とは望んでも手に入るものではない。それを用意してくれたのなら乗るべきだ。

また或いは有千夏の話に考える余裕が無くなり、半ば思考停止状態での選択なのかもしれない。

 

二列目のバッグを肩にかけると、数秒だけ建物を観察する。

元々は普通の体育館だったのか特別際立った形状ではないが、壁の塗装にシャトルやラケットがあることからバドミントンの専門的な場所であるのは初見の弦羽早でも分かる。

 

「もう綾乃は来てるはずよ」

 

運転席に乗ったまま、開けたミラー越しに弦羽早へと告げる。

 

「弦羽早君、綾乃が無自覚とは言えあなたを酷く傷つけた事は分かってる。私のお願いを聞き受ける義務も無い。でも、それでもあなたが綾乃と組んでくれるって思ってくれるなら、お願い、綾乃のパートナーとして支えてあげて」

 

「おばさんから見て、俺はもう羽咲のパートナーになれてますか?」

 

「ええ。でももっといいパートナーになれるはずよ。あなた達にはその素質がある」

 

「…分かりました。なら、そうなる為にもちょっと頑張ってきますよ」

 

 

 





この話十回以上手直ししてるんですけど、綾乃ちゃんを悪者にして主人公マンセーに見えてしまう…。自分の書きたい悪可愛い羽咲さんと違うって言いますか、これでも試行錯誤はしたんですが。

ヒロイン力を溜めてる段階なんですよきっと多分おそらく。


今回の有千夏の心境としても特別原作と変えたつもりはなくて、手紙の内容からもこんな風にも思ってたんじゃないかなと。当然独自解釈ですが。

ただインターハイ編の有千夏さんも性格暗くなり過ぎてよく分からん。
多分綾乃ちゃんとの電話か体のどっちかが原因かと思うんですけど、有千夏さんのイメージって基本明るいんですよね。

もうちょっと娘二人を見習って安定したメンタル持って欲しい。


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お母さんに会える

お伝えすべきことが一つ。
今回から試合が始まりますが一人勝手に盛り上がって六話ほどあります。おまけに一打一打細かく書きすぎて冷静に見返すと分かりにくかったり、心境コロコロ変わったり。

ただ盛り上がるポイントだと思っているので(頑張って書いたし)削りたくもない。それでもダラダラ見せてもどうかと思うので試合終了+1話毎日投稿しまふ。





時は少しさかのぼり、長身の穏やかそうな外国人の老人ヴィゴに連れられて、綾乃は高級車の後列にちんまりと肩を狭めて座っていた。

 

有千夏に会わせてくれると聞いてついてきたのはいいものの、この老人の胡散臭さは他人に対しての私見がズレている綾乃でさえ感じていた。

基本的に一人で勝手にぺちゃくちゃ喋っていたかつてのレジェンドプレイヤーは、定期的に綾乃に話しを振ってくる。

 

「ところで綾乃チャンに質問デス。アナタハ何故バドミントンをシテイルノデスカ?」

 

どこかわざとらしさのある片言の日本語で、ヴィゴは笑顔でそう聞いてきた。

 

「何を…って? む、難しいです…」

 

「駄目デス。答エナサイ」

 

四十センチ近く離れた長身の圧に押されてか、綾乃はますます体を縮こませながら考える。

まず真っ先に思いついたのは有千夏だった。今から半年前、バドミントンを辞めた時は掴めなかった母親の情報をコニーが教えてくれると言い、この老人は有千夏が待っていると言った。

 

――お母さんに会いたい。

 

ではそれ以外に何もないかと言われると、綾乃は心の中で首を振った。

 

久しぶりにやるバドミントンは素直に楽しいと感じられた。それまで嫌なことが重なっていたが、特に弦羽早と一緒にやるバドミントンは”綾乃の中では”純粋に楽しんでいたあの頃を思い出す。

 

それ以外にも自分を仲間だと言って、心配して駆けつけてくれたみんなと一緒に団体戦でインターハイに出場したい気持ちもあった。

 

ただそれは言葉にしようとすると途端に漠然となり、上手く言い表せない。いや、声にするだけなら簡単なのかもしれないが、自分の中にある違和感に喉が引っ掛かる。

 

「お母さんに会って、バドミントンで繋がれたみんなと…勝ちたい…?」

 

「ふむ、漠然として、矛盾シテイマスネ」

 

綾乃の母親、有千夏は世界で待っている。

でも今の北小町にいては練習内容が限られ、世界は目指せない。

 

「あと…秦野と…楽しいバドミントンしたいのも…ある」

 

綾乃の口から出た名前にヴィゴはピクリと眉を動かした後、年齢を経ても衰えない覇気の籠った目を細める。

 

「綾乃チャンは何故ミックスをスルノデス?」

 

「え?」

 

「アナタの才能が開花スルノは個を貫けるシングルスデス。あなたもダブルスは苦手ナ筈。何ヨリ、彼ハ綾乃チャンガ組ム程ノ才能を持ッテイナイ」

 

ヴィゴも弦羽早の成績や二刀流と呼ばれている奇怪なスタイルであることは知っており、中学時代の彼の試合もビデオでだが見たことはあるが、そこに興味は惹かれなかった。

毎年数人いる程度の努力の出来る凡夫。それがヴィゴの評価。

両利きなら既に綾乃がいるし、何よりそんなふざけたサーカスを主軸にする戦い方など好みではなかった。両利きというのは意外性があるのが強いのであって、端から武器として使うものではない。

 

弦羽早を見下すヴィゴの姿勢を直感的に感じ取ったのか、綾乃はギロリと暗い瞳で睨みつける。それまでオドオドとしていた少女の姿はそこになかった。

 

「…秦野のこと悪く言うのは止めて。それ、凄くイライラする」

 

「オオウ。ソレハ失礼シマシタ」

 

ふむ、とヴィゴは窓越しに映るスカイツリーを見上げる。

 

本来は綾乃と有千夏が見つけて来た少女のシングルスを見たかったヴィゴだが、有千夏たっての希望でミックスダブルスを行うことになった。しかも綾乃のペアは努力ができるだけの凡夫。

そんなのお断りだと当然拒否したが、有千夏は自分が綾乃を釣る餌なのをいいことにマウントを取って来たので今回は渋々乗ることとした。

 

「(綾乃チャンの評価ヲ下ゲル事ダケは止メテ欲シイデスネェ)」

 

至極興味の無さそうな顔を浮かべながら、顔も覚えていない弦羽早へと語り掛ける。

そんな態度も相まって一部からロリコン扱いされているのだが、当の本人には自覚がなかった。

 

 

 

 

目的地に到着するとすぐに、ヴィゴが日本のバドミントンの知名度を上げるために新たな事業を始める事を、無数のカメラの前で大々的にスピーチをする。

 

スル(・・)スポーツから、観る(・・)スポーツに!』

 

これが未だ国内で評価の低いバドミントンに、不満を持つヴィゴの新たな事業のコンセプトだった。

 

ヴィゴと彼を撮るカメラマン達を興味無さげに横目で見ていた綾乃は、アリーナ入口の近くにいる二人のバドミントンウェアを着た男女を見つけた。

 

一人は身長が綾乃と同じぐらいの背丈の低い少女。シュッと細身のある整った顔立ちと短い髪は、女子のウェアを着ていなければ美少年にも見える中性的な顔立ち。

 

男子の背丈もそこまで高くない。日本男子の平均より数センチ大きい程度か。西洋人なのか髪の色は金色で、肌の色は少し白め。ただ顔つきはアジア寄りで、健太郎以上に金髪が似合っていないというのが印象的のちぐはぐな男。

 

二人は綾乃の視線に気づいたのか少女は無表情に、少年か青年か、成長の早い西洋人なので見分けのつきにくい男子は眉を少し上げる。

 

【子供…】

 

【君がそれを言うか】

 

言語は中国語だろうか。

当然綾乃には何を言ってるか分からずに首を傾げていると、入り口の方からバッグを背負った見慣れた姿が現れた。

 

「あれ、秦野? なんでここに?」

 

綾乃の顔を見ると彼は一瞬顔をこわばらせる。先程の車内での出来事の直後、普段通りに装えるほど器用な性格でもない。

しかし彼はすぐに優しい笑みを浮かべると、綾乃の頭を乱雑に撫でた。

 

「えっ? えっ?」

 

彼は時折頭を優しく撫でてくれるが、こんな風に髪型が乱れるような撫で方は初めてだった。

嫌な感じはしなかったので綾乃は受け入れるが、ただ困惑しているのかポカンと小さく口を開けている。

 

綾乃の髪がぼさぼさになったところで満足したのか、弦羽早はククッと喉を鳴らす様に小さく笑う。

 

「匿名希望の方に羽咲と一緒に試合するようにって言われてね」

 

「試合? わ、私が…?」

 

「聞いてないの?」

 

まあすぐに分かると思うよと、弦羽早はラケットバックを置いてシューズを履くや、一人勝手にストレッチを始めた。

 

いつもならもっと自分に声を掛けて来たり、あるいは心配してくれそうな彼だが、少し様子が変な気がする。

ただ綾乃が感じたのは漠然とした違和感だったし、何より今から試合を行うということが気になって追及はしない。

 

『それではこれより、このアリーナのコンセプトでもある、次世代の若き才能同士による練習試合を始めます! 試合形式はまだマイナーながらも、○○年からインターハイに導入された混合ダブルス。その特殊な動きとコンビネーションが要求される競技の奥深さを彼・彼女等が見せてくれます!

オンマイライト中国出身、15歳、羅小麗(ルオシャオリー)! イングランド出身、15歳、レーン・オーゼフ!

オンマイレフト、神奈川県立北小町高校一年、羽咲綾乃!同じく秦野弦羽早!』

 

「え゛っ?」

 

ヴィゴの元に集まっていた記者たちの視線が一転して四人の元へと集まり、ざわざわと記者達のどよめきが走る。

記者たちの中で唯一名前を知っているのは弦羽早だけで、あとは無名の選手のみ。

 

バドミントン雑誌バドラッシュの明美と男性記者二名だけが綾乃の事を知っていたが、向こうの選手の名前はリアルタイムで調べても出てこないのか困惑の声を上げていた。

 

一方別の意味で困惑している綾乃は、驚いた様子無くアップを続けている弦羽早に声を掛ける。

 

「秦野、ど、どういうこと?」

 

「俺も詳しい経緯は分からないけど、羽咲がこの試合に挑むのなら、全力で一緒に戦うよ」

 

「わっ、私は嫌だよ…」

 

何も聞かされていないこの状況で、聞いたことも無い相手と記者の目の前で試合を行うなんて誰でも嫌だろう。

弦羽早もある程度の相手を覚悟していたが、無名の選手というのが返って不気味だった。

 

「(あの二人どっかで見た事ある気がするけど…)」

 

ただならぬオーラを纏う少女と少年を弦羽早はジッと見つめる。レーンは少年と呼ぶにはいささか老けている気がするが、西洋人ならそんなものだろうと納得した。

 

戸惑う綾乃の耳元で、協会の人間が何やら耳打ちをする。おそらく有千夏に関する話を持ち出しているのだろうと、そのやり口に弦羽早は口ひもを再びギュッと強く結ぶ。

 

主催者であるヴィゴは勿論だが、それに乗る有千夏に対する怒りも少なからずある。

先程まで有千夏と共にいたから感覚が麻痺していたが、綾乃はずっと有千夏との繋がりを持てずにいて、ついこの間ようやくリストバンドを手に入れたばかりだ。

そんな母の背中を追い続ける少女の良心を利用するのは気にいらない。

 

「(ただ俺も羽咲に黙っているから同罪だ。誰も責められない。それに、多分そこを気にしてる余裕もない…)」

 

対戦相手の二人と視線が合い、小麗は変わらず無表情のままだったが、レーンが小さく口元を上げる。たったそれだけなのにゾワリと背筋が震えるのを感じた。

 

「秦野! こっ、この試合に勝てば、お母さんに会えるって!」

 

ヴィゴの言っていたことは本当だったと、綾乃は身を乗り出す様に弦羽早に顔を近づけてキラキラと光る笑みを浮かべた。

 

車の中で有千夏から聞かされた話は今も弦羽早の中にわだかまりとなって残っていたが、そんな煌めいた笑顔を見せられたら、自分の抱いていた悩みなどそこらの石ころ並みにどうでもよくなってくる。

 

「ん、俺もその辺りの事は聞いてる。全力で頑張ろう」

 

どこまでも単純な自分の思考回路と感情に呆れながらも、弦羽早は笑顔で右手に付け替えたリストバンドを前に出すと、綾乃もまたニッと強気な笑みを浮かべて左腕のリストバンドを交わした。

 

 

 

 

綾乃との試合前練習以外では今日シャトルを打っていない弦羽早は、一本練習を要求してレーンとクリアーを交わす。

綾乃と小麗はいらないとばかりにラケットを降ろしてジッとその様子を見ていた。

 

クリアーだけでは強さを測れないが、ただ全てがスイートスポットに当たって聞いていて気持ちよい音を鳴らしている。

 

「(それくらい当然か。おばさんが選んだって言ってたし)」

 

肩慣らしを終えた弦羽早は、サーバーである小麗の前にドロップを送って練習終了の合図を送る。彼女はそのショットを空中ですくうと右手に持った。

 

「(相手は男子が右に女子が左、こっちと同じか…)」

 

『サーバー小麗! ラブオルプレイ!』

 

審判の声と共に四名がラケットを構えて試合に入り込む。その瞬間綾乃の視界に見覚えのある長い髪が舞った。

 

「ッ! おかあさ――」

 

「羽咲!」

 

レシーバーの綾乃の視線の先には、特等席にジッと立つ有千夏のものと思われる人影があった。

 

自分には黙っていてくれと言っていた癖に随分ずさんな隠れ方だと悪態をつきながら、集中が切れた瞬間に放たれたサーブに、怒鳴るように綾乃の名前を呼んだ。

 

「ッ!」

 

綾乃は既に腰より下へと落ちかかっていたサーブをすくうようにして、なるべく上げないようにと軽いドライブを放つ。

 

【遅い…】

 

だがそれは前衛に構えていた小麗にとっては絶好の球。小さな体からは想像できない重たい音と共にドライブを繰り出す。

綾乃も甘い球を打ったとは自覚があったので、心構えはできていた。持ち前の反射神経で正面に来た球を打ち返すが、小麗はすぐに綾乃のフォア側へと落ちる角度のあるショットを繰り出す。

 

「(ネット前の速い展開で羽咲が押されてる!?)」

 

「ぐっ…!上げるね!」

 

出だしが小麗に有利だったとはいえ、速い展開から逃げるようにロブを上げる綾乃の背中に弦羽早も目を見開く。

敵はどれほどの実力者なのだと困惑しながら、防御の陣形サイドバイサイドへとなり、正面に上げられたシャトルをジッと見つめる。

 

後衛のレーンは既にシャトルの落下地点に待機しており、両足をバネに飛び出していた。

 

ーー来る!

 

弦羽早は中腰になって上半身をやや前に、自分の体前方に大きなボールを両手で抱えるようなイメージでラケットを構える。身体の目の前に空間をつくる事で、差し込まれてもある程度素早い球にも対応できるようになる、弦羽早にとっては一番馴染みのあるフォームかもしれない。

 

そして弦羽早の横をシャトルが既に通り過ぎていた(・・・・・・・・)

 

「「…え?」」

 

それは弦羽早の声だけではなかった。綾乃の声も記者たちの声も、小麗とレーンの正体を知らないヴィゴも目を見開いていた。

 

唯一笑みを浮かべるのはこの会場にたった三人。小麗、レーン、そして有千夏。

 

『ポイント 1(ワン) ‐ 0(ラブ)

 

淡々とポイントを告げる審判も、もしかしたらレーンの実力を知っていたのかもしれない。

 

スマッシュを受けた弦羽早は勿論、綾乃もまた呆然と自分のコートに転がったシャトルを見つめていた。弦羽早を越える動体視力を持っている綾乃でさえ、完全に捉え切れたとは言えなかった。レーンが放ったシャトルはそれこそ一瞬で弦羽早の横を通り過ぎていた。

 

バドミントンのシャトルは初速と終速でかなり速さが変わるが、ギネスに乗っている初速は493キロ。初速だけなら新幹線よりも遥かに速く、最速のスポーツとしてギネス登録もされている。

そしておそらく今のスマッシュは、そこまではいかずとも初速は400は超えている。

 

試合が始まってまだ一度もシャトルを打っていない弦羽早の額から、タラリと汗が流れる。

 

「は、秦野…」

 

「…ごめん、取れなかった」

 

ふぅと一度息を吐いた後、弦羽早は笑みを浮かべてシャトルを小麗へと渡したあと、動揺の残る綾乃の頭をポンと叩いた。

 

「羽咲、切り替えるよ。相手はとびっきりの格上だ。本気でいかないと、一点も取れない」

 

「…うん、そうみたい」

 

頷いた綾乃の瞳は瞼一回だけで暗くなり、弦羽早でさえ息を呑むほどに纏う空気が下がる。

かつては全日本トップの有千夏の下で指導を受けた二人は、相手が格上だからとそう簡単に折れない。

 

常に立ち向かう弦羽早と、一瞬で試合に入り込む綾乃。タイプは違えど選手としてすぐれたメンタリティであるのは変わりない。

 

あのスマッシュを見て動揺はすれど闘志を燃え滾らせる二人に小麗は一瞬口元を上げると、再び無表情な顔で弦羽早へとショートサーブを放った。

 

 

 




一応説明すると【】は中国語です。

一度400キロのスマッシュとか生で見てみたいです。
493キロとか想像もできない。駅で新幹線が横切るより速いんですよね…。う~む…。



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冗談だろ

今更ですが原作再構築というタグがあるのを見つけて、よくよく考えたらこの作品は原作沿いというよりも再構築に近いのではと。
違いはよく分かりませんが。




『ポイント!4(フォー) ‐ 0(ラブ)!』

 

「なんでかな…? アンタが綾乃に手を出す理由が分からない。アンタにとって綾乃の才能は好みじゃないだろう?」

 

繰り広げられる試合をジッと見下ろしながら、有千夏は特等席に座るヴィゴへ問うた。老人は優しそうに、だが胡散臭い笑みを浮かべながら頷く。

 

「ハイ、残念ナガラ。デモ、間違いなく育チマス。私コソ聞キタイデス。あの少年、何故アナタガ彼二拘るかが分カリマセン」

 

ヴィゴは不快げに弦羽早を見下ろしながら今度は有千夏に質問を返した。

 

有千夏は幼少期の綾乃と仲良くしてくれたからか、弦羽早を少し過大評価している事は自覚していた。

だがその評価は綾乃の母親としてであって、選手として見るならばまた評価は変わってくる。もっとも、それはヴィゴへの同意では決してなかった。

 

「確かに弦羽早君にはコニーのような完璧で華やかな才能も、綾乃みたいなセンスや読みもない。でもね、彼も見方によっては間違いなく天才よ。あのコートにいる誰よりも秀でたものを持っている」

 

「マサカ、努力出来ルトカ、両利きダカラトカ言イマセンヨネ」

 

ヴィゴからすれば努力するのはトッププレイヤーを目指すものなら当たり前、それが大前提とした上で彼は才能を評価する。だから彼にとって努力できる才能など無いに等しい。

そしてあらゆるスポーツの中で最もスピードの速いバドミントンにおいて、両利きであるメリットは少ない。

 

「勿論。両利きはむしろ彼の才能を培う踏み台と言っていい。あの子の強みはそこじゃない」

 

元々有千夏が指導する上でその毛はあった。だが両利きを目指しだした頃から確かなセンスを有千夏は読み取り、その強みを伸ばすべき自主練習のプランを考えたのも、彼女にとっては最近に思える。

 

「(ごめんね綾乃。私がもっとまともな母親だったら、あなたの弦羽早君に対する歪な見方も叱ってあげられた。それじゃ駄目だって。

でもあなたが選手として、人として壁にぶつかった時、それを母親として叱っても駄目なの。あなたがバドミントンを通じてそれに気づかなくちゃいけない。お願いね弦羽早君。この試合は綾乃にとっても君にとっても乗り越えるべき大きな試合なの)」

 

―――だから、二人とも早く次のステージに上がっておいで。

 

そう口元を上げる有千夏の頬はほんのりと染まっており、まるで死んだ恋人の幻影を見つめるイカれた女のように気味が悪いものであった。

 

 

 

 

『ポイント!5(ファイブ) ‐ 0(ラブ)!』

 

「ッ!」

 

小麗のヘアピンはまるで芸術作品のようにコルク部分がネットの白帯に引っ掛かり、ネットの際に逸りながらコートに落下する。

それを拾えなかった綾乃はギュッと拳を握りながら、弦羽早にはひと声も掛けずにポジションにつく。

 

弦羽早もまた、あまりの実力差に綾乃への励ましをする余裕もない程に切羽詰まっていた。

 

「(この二人強すぎる…。それにこの強さと動き、やっぱりどっかで見た事ある…)」

 

いや、今は考えるのは止めよう。そう思うのは集中できてないからだと、サーバーの小麗に待つように上げていた左手を降ろす。

 

トンと繰り出されるのはショートサーブ。まるで機械が打っているかと思うほどに正確で、叩く余地のない程にギリギリのクオリティ。

弦羽早と綾乃が中々きっかけを切り出せないのも、このサーブが原因であった。絶妙な遅さのシャトルはネットを越えた瞬間を最高点とし、その高さはネットスレスレ。

サーブを打った瞬間に速攻で前に詰めてプッシュをしようとしても、ラケットがネットに当たる(タッチ・ザネット)か、ラケットがネットを越える(オーバーザネット)か、あるいはシャトルが引っ掛かるか。

 

ショートサーブに対し、左利きの小麗のバックハンド側へとヘアピンを送って素早く後ろに下がり、前衛を綾乃に任せる。

 

小麗はストレートのヘアピンで返す。彼女もまたネット前で逃げる気はなく、これまでほとんどロブを上げていない。

そのヘアピンを綾乃はクロスのネット前に返す。

だが小麗とは違い、綾乃は上げないのではなく、上げられないのだ。レーンに高いロブを上げられない今、前衛同士の精神的余裕の差は大きい。

 

だから綾乃は上げさせるようにと打った後、サービスライン前までネットに寄ってプレッシャーを与える。

 

【(この娘の目、怖い…。本気の有千夏そっくりじゃん)】

 

ネット越しにジッとこちらを見つめる綾乃の瞳に、小麗は表情を崩さぬように心の中で苦笑する。

 

余り一方的なのも大人げないと、小麗は素直にロブを打ってサイドバイサイドへと移る。もっとも綾乃がプレッシャーをかけていた今、この状況では正しい判断で、わざと手を抜いて甘い球を送ったのではない。

 

上がったロブに対して弦羽早は互いにバックハンドになっている中央へとスマッシュを打ち込む。だがアッサリとレーンによってクロスのロブで返される。

 

弦羽早もこの一打で決まるとは考えてもおらず、このロブで小麗のストレートに立つのが目的だった。今度は連打する覚悟で、硬直の大きい地に足をつけてフルパワーでスマッシュを放つ。

ドライブでカウンターをされたら間違いなく後に続かないフルスマッシュ。

それは通常悪手であるが、前衛に綾乃がいることで可能となる。

 

二回、三回と集中して小麗へとスマッシュが続く。

 

【(安定感と重さがある。これは返しにくい…)】

 

とはいえ、返しにくいだけで返せない訳ではない。傍から見れば小麗は顔色一つ変えずに淡々とロブを返し続けており、四回目でラウンド側へクロスのロブを放つ。

 

このロブに対しても綾乃はまだフォローに入らない。

しかし全力のフォームで打ち続けた弦羽早には少々際どい球となる。

 

普通ならば。

 

【なっ!?】

 

【わおっ!】

 

この試合で始めて小麗の表情に変化があった。

弦羽早はラケットを左手に切り替えた状態で、完全に重心を左利きのそれにして小麗に対して更にスマッシュを打ち込む。徹底した女子狙いだが、それを卑怯というものは一人としていない。

 

打つ腕が変わった事で先程までとはノビが変わり、小麗のロブがついに甘くなって弱いドライブ気味となる。

それを見逃す前衛はこのコートにはいない。

 

小麗が返した瞬間に横へ飛び上がりラケットを振りかぶっていた綾乃は、ネットを越えた瞬間にスマッシュで打ち落とす。

 

『オーバー! 1(ワン) ‐ 5(ファイブ)!』

 

これまで一方的だった試合の流れが少し変わり、試合を食いつく様に見ていた記者たちの中から歓声が沸き上がる。特に弦羽早を知る記者からすれば、今のプレイこそ彼が有名たる所以であった。

 

【なんだいあれ?雑技団でも目指してるのか?】

 

【そんな愉快なものでもない。想像以上に厄介】

 

ロブに関しては小麗は本気だった。それが分かっていたからこそレーンは愉快そうに笑う。彼からしても、パートナーの小麗の表情が崩れるのは見ていて爽快だ。

 

「…ナイッショ」

 

「おう」

 

冷たい瞳の少女と、いつもより鋭い目つきの少年が軽くハイタッチを交わす。

パートナー同士の信頼を深める為、ラリーが終わるごとに軽いタッチを交わすのは学生プレイヤーが特に好むやり取りだが、今の二人のタッチには軽さが無い。

互いに集中力を深めるため、お互いのコンディションを確認するような、どこか事務的で、だが勝利の為の儀式に見えた。

 

弦羽早のサーブとなるが、弦羽早はサービスラインギリギリに立ち、綾乃は中央少し後ろと通常のダブルスのポジションで構える。

 

これもただ闇雲にこうしている訳ではなく、綾乃が前、弦羽早が後ろの陣形に意識を捕らわれず、ロブを上げずに攻め続けることを意識してのものだった。

 

――トン

 

弦羽早のショートサーブに対し小麗は地面を蹴って一気に詰める。しかし中学ではほぼダブルスに練習をつぎ込んできた彼のショートサーブもまた一級品だった。特にショートサーブの練習は家でもできる。何万回と繰り返したそれは、この緊張状態でも失われない。

 

だが小麗もまた、叩けないからと言って身体が詰まる事はない。叩けないのならとすぐにシフトチェンジして、弦羽早の真正面にヘアピンを送る。それは再びコルクがネットの白帯に引っ掛かり、回転するように弦羽早の手前に落ちる。

 

「ぐっ…」

 

なんだこのふざけた精度のヘアピンはと、顔を顰めながら素直にロブを上げる。

幸い小麗が前に詰めてくれたおかげで、その時の運動エネルギーがヘアピンに乗っており、ヘアピンは転がるもののネットスレスレという訳ではなく、ロブをしっかりコート奥(リアコート)目いっぱいまで飛ばせた。

 

【なるほど】

 

サイドバイサイドになった二人は、通常のラインよりも更に一歩後ろで防御の構えを作っていた。ドロップショットなどの対応が厳しくなるが、スマッシュ一つ取れないのでは元も子もない。インターバルを挟んでいない変化としては十分すぎる対応力だ。

 

綾乃の正面に立つレーンは今一度飛び上がると、その前身のバネ、筋力、体重を乗せたトップクラスの初速を誇るスマッシュを綾乃へと叩きこんだ。

まるで会場に花火が上がったかのような爆音が鳴るやすぐに、カン!とカーボン製のフレームにコルクが当たる音が続く。

 

速すぎるスマッシュは綾乃ですらガットにすら当てることができず、フレームに当たったシャトルは綾乃の右後ろまで跳ぶ。

 

『オーバー! 6(シックス) ‐ 1(ワン)!』

 

「ッ…」

 

弦羽早の腕の入れ替えによるスマッシュも観客に対する掴みは良いかもしれないが、レーンのスマッシュに比べるとまさに曲芸。

その速さを突き詰めたスマッシュはもはやこのゲームのバランスを崩壊させており、本来ラリーが続くはずのダブルスは彼にロブが上がった瞬間に終わる。

 

「…羽咲、取れそう?」

 

「あともう少し。そっちもなるべく目を慣らして」

 

「ああ、分かってる」

 

ダブルスは一回も上げずに勝てる程甘くはない。前衛の小麗がポンコツであればそれも可能だが、彼女もまたネット前が得意な綾乃以上に強い。

だからこそあのスマッシュを取れるようになるのは大前提だった。それもインターバル前に取れるようにならなければ、相手は流れを掴んで一気に十点近く連続で取れる相手ではない。

 

「大丈夫…。あれを取れたらお母さんに会える…」

 

綾乃の独り言を弦羽早は聞き逃さなかった。

彼女の今の心理は日常的に見れば危ういものかもしれないが、状況にもよるが、勝負ごとに置いてはこと悪いものでもない。

綾乃が攻め急いでいるのなら弦羽早も諭すかもしれないが、集中している以上日常的な正論を挟む気はさらさらなかった。

 

有千夏の行動に納得はできずとも動機を理解できる時点で、弦羽早もまた根っからのバドミントンプレイヤーだった。

 

「ふぅ…」

 

構え、そして観察する。

相手の突破法を、いかにしてあのスマッシュに触れるかを。

 

鎮まり返るコートの中、サービスラインに立つ小麗の少し後ろから、サーバーであるレーンがショートサーブを放った。

彼のサーブもまた隙が一切ない。だがどうしてもサービスラインギリギリから打たないサーブは威力がついてしまうので、シャトルの軌道がネットを越えた時を最高点としたとしてもプッシュのしやすい球となる。

 

ネットを越えた瞬間に押し返されたプッシュ。それは小麗の顔の横を一瞬で通り過ぎ、すぐにレーンがサポートに入るがまだサーブ後の構えから完全に抜け出せておらず、手を伸ばしながらの苦し紛れのレシーブとなる。

その緩やかな球を再度ラケットの面を押し出す様にして綾乃のプッシュがレーンの右肩へと突き刺す。

 

【うおっ!】

 

レーンの慌てた声で素早いラケットワークでそれも面で当てて返すが、それは初心者から見ても絶好球のネット前での甘いロブ球。飛び上がった綾乃がラケットを振り下ろし、サイドバイサイドで構える二人の中央手前に撃ち落とされる。

 

「オーバー! 2(ツー) ‐ 6(シックス)!」

 

僅かでも叩ける球なら、瞬時にそれを実行できる読みとタッチの速さが綾乃の強みだ。更にラケットワークとネットの感覚が文字通り血肉となっている彼女にとって、突っ込み過ぎてネットに当たってしまうなども滅多に起きる事では無い。

 

サーバーからすればこれ程タッチの速いレシーバーへのショートサーブは避けたくなり、ロングサーブが極端に増えるか、あるいはギリギリを狙い過ぎてミスが多発するようになる。

 

「(羽咲の速さはこの二人にも十分通じている。…今このコートで取り残されているのは俺だ)」

 

一点目は左手に持ち替える奇襲性の高いプレイで何とか捥ぎ取ったが、あれが何度も通用する相手ではないのは既に確信している。そして自分の一番の強みであるスマッシュレシーブはレーンのスマッシュに対しては当てる事すらできない。

 

「(だがロブを恐れたらそれこそ負ける。あのスマッシュに何とか目とタイミングを慣らさなきゃいけない。大丈夫だ。プロの試合でも速すぎて手足も出ないなんてショットは早々ない。どれだけ速い人が打っても人間の反射速度で対応できる範囲。あの朱紅運(シュウコウウン)のスマッシュですら――)」

 

自分のモチベーションを上げるために弦羽早は同じ人間であるプロの試合を思い浮かべ、自らの意識を高める。どれだけ相手が速くともプロにも限界がある、プロでもミスをする。彼等だって人間だから当然だと言い聞かせていた。

 

思考の切り替えというのは決して悪い事ではない。緊張やナイーブになった思考を切り替え、再度集中するきっかけになる。

 

だが今回に関しては別だった。

 

トンと綾乃のショートサーブが繰り出される。ロングサーブも警戒していた小麗は先程のようには詰めずに、落ち着いたフォームでヘアピンで落とそうとするが、その時後衛の弦羽早と視線が合う。

 

【彼、集中してない? 相棒(アイツ)をジッと見てる…。…なるほど、有千夏が彼なら気づくかもって言ってたけど、この会場で一番に気付くか】

 

これが本気の試合であれば小麗はすぐさま弦羽早を狙おうとしただろうが、自分たちの正体に気付いたのならそれはそれで面白いと、あえて綾乃にシャトルを送りネット前を維持して攻めていく。

 

それは決して弦羽早に対して優しくしているのではなく、むしろその逆。パートナーのスマッシュを三度受けたら嫌でも疑問は確信に変わるだろうとの意図があった。

 

そして確信した彼がどういう反応をするのかが楽しみで仕方がない。

 

僅かに浮いた――いや、浮いたと言うには低すぎるが、しかし洗礼された技術なら可能な高さまで上がって来た球を綾乃がはたく。

ドライブ気味に後衛のレーンへと伸びてくるシャトルを、彼は綾乃がいるネット前とは反対の半コート側へと落とす。

 

「(…この人達、全然ブレないし一打一打のショットが上手い)」

 

小麗のヘアピンやドライブにしてもそうだが、レーンのこのクロスのドロップもサイドラインギリギリまで伸びており、ネットの白線に触れそうなくらいに際どい。

 

「(ここはヘアピンで――ッ!)」

 

極力ロブを避けたい綾乃は腕を伸ばして前に落とそうとするが、小麗が腰を下ろしてそのヘアピンを狩ろうとしていることに気付き、咄嗟に自分のストレートにロブを上げる。

 

「(来い…来い…返してやる。そのスマッシュ、私が返してやる…)」

 

【彼に打って】

 

【あいよ】

 

だが瞳に全神経を集中させる綾乃を嘲笑うかのように、小麗の指示とスマッシュを構えるレーンの了承の合図が交わされる。いくら小麗と言えど綾乃が今瞳に神経を集中させているなど、そこまで分かる程観察眼はすぐれていないし、超能力など持ち合わせていない。

今回はたまたまパートナーのスマッシュを弦羽早に打ち込ませる予定だった。

 

弦羽早は冷や汗を流しながらそのフォームを再度確認する。

右利き、自分より少し高い身長、東洋系の顔立ち。そのジャンピングスマッシュは打つ直前に右腕と左腕が対角線上になってゼロポジションとなり、無駄なエネルギーを他に浪費せず、身体のあらゆる力をシャトルに籠めることができる人外的な身体能力。鍛え上げられた腕、鞭のようにしなる肘、強力なリストがそのスマッシュを更に加速させる。

 

パァァン!

 

弦羽早はラケットすら振る事ができなかった。速過ぎたのではなく、当てようとすらしなかった。

 

まだ激しく動いてすらいないのに呼吸が乱れ、ラケットをピクリとすら動かさない弦羽早に綾乃の苛立った声がするが耳に上手く入ってこない。

 

「秦野!何してるの!?」

 

「じょ、冗談だろ……」

 

弦羽早は震えるラケットを握る右手を無理やり押さえつけながら、おそるおそるとヴィゴとその隣にいるであろう、有千夏らしき人影の方をジッと見つめる。

 

何がとびっきりの選手だ。

何が綾乃を支えてやって欲しいだ。

 

この二人を相手に次のステージに上がれと言うのか。

 

確信した。

やっぱり彼女はイカれてる。

頭のネジがぶっ飛んでもなければ、娘を負けられない戦いに惹きこんでおきながら、これ程の相手を用意しようとは思えない。

 

ラケットワーク、選球眼、フットワークの速さ。意図して白帯に当てられるヘアピンの精度に、小さな体から想像もつかない強打。

綾乃と同じ150㎝強と小柄でありながら、女子シングルスの世界ランク一位、王麗暁(ワンリーシャオ)

 

きめ細かなコントロール、直感的に相手の嫌うコースを見抜くセンス、柔軟性と重すぎない理想的な筋肉。そして彼がスマッシュを打つと、会場の誰もが測定器の数字を確認するほどに速すぎるスマッシュを持つ、男子ダブルス世界ランキング二位の一人、朱紅運(シュウコウウン)

 

いや、今月の試合で彼のペアは一位になったかと弦羽早は思い出す。

 

バドミントン大国の中国最強の男女二人が組めば、世界の頂に立つのは必然。

それを証明する世界ランク一位の混合ペアが、ネット越しから弦羽早へと笑みを浮かべていた。

 

 




常識人の麗暁がバドミントンに憑りつかれた母親と、肉まんを貪り尽くす魔王(妹)と地獄を見たいとか言い出す変態(金髪妹)と同居する短編見たい。

こう書くと有千夏さんが二番目に常識人に見えるな。


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重心と体幹

ギスバド



弦羽早は選手として優れたメンタルを持っている。

どんな強い相手にも立ち向かえる勇気と、負けてそれを糧にする向上心。自分自身を可能な限り理解しているので、試合中の気持ちの切り替えなども出来る方だ。

 

中学のダブルスではパートナーの陸空(りく)のメンタルがブレやすいのもあったが、弦羽早が的確なタイミングで会話を交えたり励ましたりすることで、彼の強みを上手く引き出したりとパートナーへの気遣いもできる。

 

『ポイント! 10(テン) ‐ 3(スリー)

 

「ッ!いい加減にして!」

 

ネットの引っ掛かったシャトルを見た刹那、綾乃はラケットをブンと振りながら後衛の弦羽早へと振り向いた。その顔は冷たく暗いものではなく、二週間前に喧嘩した時の思い詰めた様なものであった。

 

弦羽早がレーンのスマッシュに一切ラケットを動かさずに見逃してから三回。その失点全ては弦羽早のミスだった。

綾乃も思考的に追い詰められているとはいえ、ただのミスではここまで怒らないが、そのミスがあまりに下らない簡単なミスばかりであった。

 

サーブレシーブに対してプッシュを打とうとしてネットに掛け、前衛の麗暁(リーシャオ)を抜こうとしたドライブは大きく横に逸れてアウトになり、そして綾乃が粘りに粘ってようやく麗暁に上げさせた絶好の球をこうしてネットに引っ掛けた。

 

「ご、ごめん…」

 

「ッ!…だからダブルスって嫌い。これ以上、足引っ張らないで…」

 

吐き捨てるように告げる綾乃に対し、弦羽早はギリッと唇を噛み締めた。

 

「…誰のために付き合ってやってんだよ…」

 

「…私は頼んでないから。シングルなら絶対に勝てる」

 

「随分な自信だな…」

 

――世界ランキング一位を相手に。

 

そう出かかった言葉を弦羽早は強く呑み込んだ。

 

いくら彼のメンタルが強い方だと言っても、それは平均から見てであって限界というものが当然ある。

大切なパートナーである綾乃が絶対に勝ちたいという試合。それは弦羽早にとっても負けられない試合である。だから彼は必死に体も頭もフル回転させてここまでプレイしてきた。

 

だが相手が世界ランク一位と確信した瞬間、彼の抱いた恐怖は尋常では無かった。

 

プロや日本のトッププレイヤー、並みの世界ランカーですらない。この地球上の全バドミントンプレイヤーの中の頂点に立つ二人なのだ。

 

好きな女の子のためにその二人に勝て? どんな単純な思考回路をすれば、そこまで前向きな考えができるのだろうか。

二人の数多の試合を見て参考にし、その強さをビデオ越しながらも深く知っている弦羽早にはそこまでの都合よく頭も気持ちも切り替えられなかった。

 

『二人とも、早く構えて下さい!』

 

【あ~らら、完全に喧嘩しちゃってるよ】

 

【期待外れ】

 

紅運(コウウン)と麗暁の言葉は弦羽早と綾乃には伝わらない。ただ余裕の笑みを浮かべている紅運には綾乃は苛立ちを覚え、自分を冷めた瞳で見つめる麗暁に弦羽早は怒りを覚えた。

 

「(まさか自分達に勝てとでも言うつもりかよ。あんたら、いくら何でも過大評価し過ぎだろ)」

 

綾乃は強く、弦羽早もまた強い。だがそれは国内の、それも中高生を入れた中での話だ。

 

トンと麗暁のショートサーブが繰り出される。

それは軌道こそ綺麗なものの、それまでのショートサーブに比べると弱々しく伸びが悪い。

 

「羽咲、アウト!」

 

「……」

 

弦羽早の声が聞こえていた筈だが、綾乃はそれを無視し自分の選球眼を信じてヘアピンを送る。小さく舌打ちをした弦羽早だが、ラケットの構えは決して解かない。

 

もはや自分一人でゲームメイクをすることにした綾乃は、絶対にロブを上げなかった。どれだけ麗暁のプレッシャーが強かろうとも決して引かずに、あえて麗暁がタッチできるハーフ球を囮として出し、そこに飛びついてきた麗暁のドライブに対して同じくドライブで返す。

 

互いに左右へと激しいショットを打ち分ける前衛同士のドライブ勝負は、数十秒も続いて尚互いにロブを上げて逃げることはなかった。

 

【(流石有千夏の娘、ホントに上手いよ。でもね、馬鹿正直に付き合ってあげるのもこれまでだ)】

 

小麗はラケットを振る直前にピタリと腕を止め、速い展開を一瞬で遅くする。打つ瞬間までそれまでのドライブ時と変化のないフェイントに綾乃は目を見開きながらも、滑り込むようにしてなんとかシャトルを拾う。

 

ガチャンとラケットが地面に転がる音と、綾乃の倒れ込む音がコート内に鳴る。

 

綾乃の取ったシャトルはなんとか弧を描いてネットを越えるが、既に麗暁が棒立ちで立っており、そのシャトルをトンと軽く叩いた。

 

【(これを諦めるなら有千夏も君を見限るよ)】

 

シャトルは横たわる綾乃の頭上を通り越し、彼女のラケット二本分後ろのところへと落下しようとする。

倒れながらも綾乃はラケットを伸ばしてそれを拾おうとするが届かない。

 

余りの実力差に綾乃は絶望する。

自分の得意なポジションで、得意な展開に持って行きながらも相手は一切ブレない。それどころかプッシュを棒立ちで打てる程に余裕を見せている。

 

このシャトルを取ったところで次に繋がらないのでスコアは変わらない。でも綾乃は諦めたくなかった。

 

二年間の時を経てようやく巡り合えた最初のチャンス。それをたったの一秒でも絶対に諦めずに、自分の持てる全部を出し切って出し切って出し切って、この試合を見てくれている有千夏に会いたかった。

 

だがどれだけ想いが強くとも、彼女と自分の間には実力差という深い溝があって、それを埋める術を綾乃は知らない。

 

「(お願い!拾って!)」

 

今の綾乃に恥はなかった。

このシャトルを自分が拾えないのなら、拾ってくれるのは先程喧嘩口調で重い空気になっていた彼しかいない。

 

 

 

綾乃の願いを聞き届けるように、シャトルは大きく打ち上げられた。

 

「はた、の…」

 

「………」

 

上がったロブに対して彼はシングルスの要領で中央に立ってジッと構える。綾乃はハッとして慌てて起き上がろうとするが、動き出すのが遅すぎた。いや、仮にすぐに立ち上がったとしても彼のスマッシュを防げなかっただろう。

紅運はダブルスのサイドラインギリギリいっぱいに一際高いジャンプから強烈な一撃を打ち放った。

 

弦羽早の正面に打つなど甘い事を彼はしない。これだけ膨大のコートがありながらボディに狙うなどそれこそ彼に対して失礼だと、紅運のスポーツマンシップに乗っ取った誠実な一打であった。

 

紅運のスマッシュの音と共に、誰もがコルクが床につく音を想像した。

 

しかしコートから鳴った音はトンと弦の揺れる静かなものだった。

 

【へぇ】

 

紅運は小さく笑みを浮かべながら、右足と右手を目いっぱい横に伸ばしながらも頭を下げず、一切ブレる事ない体でスマッシュを打ち返した弦羽早の姿を愉快気に見つめる。

だが返ったシャトルはフェイントもなにもない、ただ面を当てただけのもので、シャトルはストレートへとゆるやかに飛んでいく。スマッシュの威力を吸収し跳ね返ったシャトルはネットを確かに超えたが、その目の前で構える麗暁が、足を伸ばす弦羽早とは反対側のサイドにプッシュを打ち込む。

 

「は、秦野!」

 

「前にいろ!」

 

まだ足を目いっぱい伸ばした状態から元に戻っていない弦羽早の言葉は自分で返すと言うものだった。

 

不可能だ。会場の誰もがそう思う中、有千夏だけは一人嬉しそうに笑みを浮かべた。

 

弦羽早は出した右足を戻しながらも重心を右に大きく倒す。結果弦羽早を支える足が左足だけとなり、体が右に倒れ込むような体勢になったが、その倒れる勢いに乗って左足を強く蹴った。

 

【なっ!】

 

弦羽早は空中で身体がほぼ真横に近い状態になりながら半身を捻って、空いている紅運のフォア側へとクロスのドライブを打ち込む。

 

【(君はサーカスでも食べていけそうだよ。でも狙いがちょっと甘い!)】

 

紅運のフォアサイドは確かに空いていたし、弦羽早の動きに驚いて出が遅れたのも事実だ。だがドライブで返すのは厳しいものの、床から二十㎝辺りで取れるコースである。しかも前衛にいる綾乃が立ち上がったばかりで、クロスにいる弦羽早が跳んだ今、彼のストレートはがら空きだ。

 

紅運はシングルスでは常套手段のアタックロブ、低めの角度のあるロブを打ちはなった。アタックロブの軌道はスマッシュの逆再生と行ってもよい。地面スレスレに打ったシャトルはネット数センチ上を越え、軌道の最大点に到着したところで急激に失速する。

 

だがその落下地点で、既に弦羽早はラケットを構えていた。再び左手で。

 

【ッ!?】

 

この日初めて心の底から驚いた紅運は慌ててラケットを構えるが、その右のサイドライン目いっぱいのコースに鋭いスマッシュが放たれる。完全にゲームテンポが異質なこのラリーに彼も状況が読み取れなかったが、それでもドライブで打ち返せるのが世界トップたる所以だ。

 

そう、ドライブ、つまりネットを僅かに超える球を打った。

 

紅運の世界トップの速さを誇るスマッシュに加え、重さの乗った麗暁のドライブで彼女の本領が発揮されていなかったが、男子の鋭いドライブでも前衛で受け止められるのが彼女の強みだ。

 

紅運が打ったシャトルがネットを越えたのは0.6秒もあるかどうか。それほどの速さだったが、張っていた彼女はそのドライブを叩き落とした。

 

『……オ、オーバー 4(フォー) ‐ 10(テン)!』

 

『うおおおおお!』

 

「なんだあの動き!どうなってるんだ!」

 

「羽咲って子の反射速度も普通じゃないぞ!あのドライブを叩きやがった!」

 

「どうやってあのスマッシュ取ったんだ!」

 

そのラリーはこれまで静かに観戦していた記者は勿論、このアリーナの登録選手である日本のトッププレイヤー達も声を上げる程に普通では無かった。

ヴィゴもまた、彼が求める”するスポーツ”ではなく、”観るスポーツ”を見せてくれた弦羽早の評価を改めざる得なかった。

 

「…なるほど。彼ハ確かに才能ヲ持っているヨウデスネ」

 

「ええ。弦羽早君はね、重心の使い方と体幹の良さ、この二つに関しては既に世界でも通用する」

 

有千夏は弦羽早に指導を始めた頃、彼が小学校二年生の時の出来事を思い出す。

バドミントンを始めて一年が経った頃の彼は、元々運動神経が良かったのか”二年生にしては”上手い方だった。ただ綾乃と比べると月とスッポンで、ようやく遊戯のバドミントンからスポーツのバドミントンに切り替わっていたくらいだろうか。

ただ彼のフォームはその頃から見ていて気持ちよかった。基礎よりも派手さを求める小学生だけあって無駄な動きはあったが、ただブレがこれまで見て来た子よりも少ない。

 

有千夏は綾乃に勝つためだと上手いこと弦羽早を乗せて、彼のフォームを逐一矯正していった。子供というのは吸収が凄まじいもので、また有千夏の指導のうまさも合わさり数ヶ月後には誰が見ても綺麗なブレのないフォームになっていた。

おそらくフットワークの安定感だけならば既に綾乃を越えていた。

 

「弦羽早君も、あくまで人より体幹がいい程度なのよ元は」

 

「ホウ…」

 

「でも彼は、アンタが当たり前だと思っている努力する才能を持っていた。だから私はそれが彼のバドミントンの基盤になると思ってある枷を彼に掛けたの」

 

「枷デスカ?」

 

「彼の踏み出し、ちょっと遅いでしょ。あれは私がそういう風にするよう教えたからなの」

 

「ウム…そこは気ニナッテいましたが、有千夏の話の意図が読メマセンネ。遅くする意味ナドナイデショウ」

 

「あまりに基本過ぎてアンタにも分かんないか。私は彼にね、徹底して重心移動を覚えさせるために、足を動かす前にまず重心を動かしてからステップを始めるよう教えたんだ」

 

「……ハ? アナタは馬鹿デスカ? いえ、馬鹿でデスネ」

 

例えば中央に立っているとして右前へのフットワークを行うとする。そうなると地面を蹴って右足を踏み出しながら、右前に重心を移動させて加速させ、そして最後の一歩を踏ん張ってラケットを振る、中級者以降はこれが基本だ。

つまり地面を蹴ってから重心を動かし始める。

 

大して弦羽早はまずその場で待機しながら重心を動かし、体重移動に釣られるように足を動かし始める。結果地面を蹴るタイミングが重心移動を挟む分遅れ、特にシングルスでの彼のフットワークの遅さの原因となる。

素人からすればこれっぽっちも変化がないように見えるこの両者だが、コートの中でのその違いは大きい。

 

「その通りさ。でもね、その枷が弦羽早君を強くしてくれると思っていたから。ただ、全国狙うまでとは思わなかったけど」

 

うちの娘も愛されてるな~と、コート内で話し合っている二人をチラリと見下ろす。

 

「弦羽早君が両利きを目指すって言ったとき、ほんとなら指導者して反対すべきだったけど、彼が人一倍努力できるのは知ってたからあえてOKした。ただし、左右のフットワーク毎にラケットとステップを入れ替えるのを条件に」

 

「左右の異なる重心移動を完璧ニサセル為デスカ」

 

「ええ」

 

先程も話した通り弦羽早のステップの出だしは重心移動から始まるが、同じ方向に進むにしても左右異なるラケットを持つ場合微妙に相違が生まれる。

例えばラケットを右手に持っている状態で左前に行く場合、最終的にラケットを持つ右腕が自分の体よりネットに近くなるように、上半身を少し捻らなければならない。そうなった時の重心の移動は、進行方向の左前に倒しながらも、右手と右足を支える為にやや右寄りになる。一方左手で左前のフットワークをする場合は体を捻らずにそのまま足を出せばいいのでもっと単純なものとなる。

 

その僅かな重心移動の相違を、有千夏はまだ小学校四年生の弦羽早にできるだけ丁寧に教え、更に彼が通っているクラブチームの監督に電話をして、そういった指導をしていることを伝えた。

あの神藤有千夏直々の指導となれば、忠実とは言えないが頭ごなしに否定もできない。

 

有千夏もたった一人の教え子に普通そこまで肩入れしない。だが大切な娘の綾乃の友達であり、一番の練習相手なら話は別だ。弦羽早を育てることは綾乃を育てる事にも繋がっているとも考えていた。

 

ただ有千夏も選手としても母親としても多忙な身だったので、指導ができるのは週に一回あるかないか。シーズンの時は日本にいないのもざらではなかった。

そこだけが不安だったが、弦羽早は有千夏の練習プランを毎日欠かさずやるどころか、その回数を増やしてずっと行っていた。

 

「弦羽早君は決して動体視力が特別高くないのに、あそこまでスマッシュレシーブが上手いのもそれらが支えている」

 

鋭いスマッシュを打ち返すのに対して、ラケットを振って返すと言うのは基本NGである。理由としてはラケットを大振りしてしまうと、ラケットとシャトルの交わう瞬間は本当に一瞬になる。その一瞬を捉えられるのが綾乃なのだが、弦羽早を含めた大多数の選手には無理では無いが空振りも増える。

ではどうやってレシーブをするかというと、押し出すのだ。スマッシュの軌道に合わせて、その軌道上に面を押し出す様にして跳ね返す。ただこの押し出すという行為は当然、振って打つよりも威力が無くなる。

それを勢いのある球や奥まで返すのに必要になるのが、手首の強さと体幹である。

 

手首の強さは言わずもがな必要だが、レシーブは両足を地面につけてその反発力をラケットに籠めて放つ。そして上級者はシャトルを返す瞬間に、お腹の下部分、正確には体の重心部分である丹田(たんでん)を一瞬だけ前に突き出すことで、身体の重みをシャトルに乗せて打ち返す。

その動きを人一倍効率よく行えるので弦羽早は胴体周りのレシーブを得意とする。

 

「ナルホド、私の負けです。彼の才能は素直に認メマショウ。見た目も含め好ミデハアリマセンガ」

 

「…ロリコン」

 

「ナンデスト!?」

 

 

 

 

シャトルを相手コートに叩きつけた綾乃は、驚愕と喜びの混ざった顔をしている麗暁と紅運を無視してパートナーの元へと駆け寄る。

 

「は、秦野!」

 

駆け寄ったはいいが、綾乃はすぐに声が詰まった。

 

このラリーが始まる前はあれだけのことを言っておきながら、たった一つのプレイでここまで態度を変えようとする自分が打算的で情けなかった。でも今のラリーに対して自分のプライドを優先して何も話しかけない程、綾乃の神経は図太くもない。

 

弦羽早も彼女が気まずい思いをしているのは分かっている。

ただここで対戦相手の正体を明かすのはリスクが重すぎる。かと言って、このままこのプレッシャーを一人で耐えながら乗り切る事はできなかった。

 

綾乃も相手が格上である事には気づいているが、どれだけのレベルかを知って、自分の重みを少しでも分かって欲しかった。

 

「…インターバルに入ったら話す。だからまず今は集中しよう」

 

「…うん」

 

結果から言うと、それから僅かに流れを掴んだ綾乃と弦羽早は、麗暁と紅運を相手に二回連続の得点を収めた。

 

まず一点目のラリー。

レシーバー麗暁に対して綾乃はロングサーブを放つ。シングルスとは違い、ダブルスのサービスラインは一番後ろの線より一本前までがサービスゾーンとなる。

その為高く上げると言うより奥に追い込むサーブが普通となる。サーブは小麗の小さい体の頭上を過ぎて、ラウンド寄りへと跳ぶ。

 

体勢を崩したと綾乃の心に僅かな油断が生まれた矢先、麗暁は後方へと跳びながら、その小さい身体からは想像できない重く速い強打で綾乃へと打ち返した。

 

「(なっ!強打もある!?)」

 

予期していなかった攻撃に綾乃の出が遅れる。

しかし彼女の事を知っていた弦羽早が前に出てフォローに入り、スマッシュが綾乃の元へ向かう前に手を伸ばしてタッチして返す。

 

【(む?出が速い? いや、読んでいたか)】

 

予想していなかったサポートに麗暁は感心しながらも、自分の隣を横切る相方の背中をチラリと確認する。

前に落とされた球は素早く紅運がサポートに入り、時間を稼ぐために綾乃のバックハンド側へとハーフ球を送った。

 

綾乃の立ち位置やバックハンドであることから、大したドライブは来ないとトップアンドバックを維持した紅運だったが、彼の予想に反してそれは素早いドライブによって返された。

 

「右手持ち!?」

 

観客の誰かが、ラケットを握る綾乃の手が入れ替わっていることに驚愕する。

 

右手に持ち替えた綾乃は激しいドライブをネット前にいる紅運の顔面へと放ち、またもや想像していた返球よりワンテンポズレたシャトルにすぐさま対応できなかった。その甘く返えったヘアピンを待っていたと、弦羽早が叩く。

 

『ポ、ポイント。6(シックス)  ‐  10(テン)

 

【ねえ、両利きのダブルスペアって何かの冗談?】

 

【全くだ。流石有千夏の娘、悪い意味でぶっ飛んでる】

 

ケラケラと愉快そうに笑う紅運と、ポーカーフェイスが崩れそうになる麗暁。ここに観客がいなければ流石の彼女も頬を引き攣らせていただろう。

 

【僕のバドミントンの常識壊れていくよ】

 

【でも楽しそうだな?】

 

【それは君もだろ?】

 

フッと軽く口元を上げる二人は、反対のコートでジッと深呼吸して集中している弦羽早と目元を一瞬だけ抑える綾乃を見つめる。

 

「(不味いな、羽咲は今日で五試合目。移動もヴィゴと一緒じゃ落ち着かなかっただろうし、疲れが出てきている)」

 

ダブルスの前衛は本来シングルス程は動かないので疲れにくい方ではあるかもしれないが、綾乃は前衛でもラリーが続く分、シングルスとまではいかないが疲労の溜まりは通常よりも速い。

綾乃もその自覚があるのかサーブ前に深く息を吐く。

 

続く紅運へは当然ショートサーブを繰り出す。

紅運もヘアピン勝負をしようとしたが数回のやり取りのあと、綾乃のプレッシャーに押されロブを上げた。

 

【(さっきみたいな怖い顔じゃないけど、このタッチの速さは僕でも逃げたくなるよ)】

 

上がって来た球に対し、弦羽早はまずスマッシュを二回どちらも中央に打ち放つ。麗暁と紅運のペアはセオリー通り中央の球は男子が取るようにしているらしく、二回とも紅運がロブを上げて返す。

続く三回目は見合いを誘う為にまた中央へドロップを繰り出すが、今度は前が得意な麗暁が出る。

 

【(ヘアピン…をするにはちょっと威力が強いか)】

 

速いドロップ、通称ファストドロップの利点というのが速く前に落ちる球であること。デメリットとして失速しにくい分、ネット前に落ちることはまずあり得ない。

速いドロップでありながらネット前に落ちるのが左利きのカットドロップと、右利きのリバースカットだがそれとは違う。

 

スマッシュとドロップの中間の性質を持つファストドロップは、レシーバーからすれば通常のドロップに比べて少々シャトルコントロールが難しくなる。

勿論それができない麗暁ではないが、相手の前衛はちょっとでも浮いたら容赦なく叩いてくる。

 

だがタダで返す気もないので右のサービスコートにいた麗暁は、中央に詰めて体の向きとラケットの面を左向きにしながら近寄ると、打つ直前に手首のスナップを利かせて右側へとハーフ球を繰り出した。

 

「(ボディフェイント!? 全然意識もしてなかった)」

 

前に落とすかあるいはバックへのハーフ球を読んでいた綾乃はそのシャトルを取るのを諦め、素直に後衛の弦羽早に任せる。

 

弦羽早はストレートへとドライブを飛ばし繋げ球とする。麗暁も前衛を維持したいので無理して下がってそれを拾おうとはせず、カバーに入った紅運がクロスのドライブで打ち返す。

彼の一打もまた、直前までストレートのフォームでありながら、打つ瞬間に手首を軽く捻るフェイントが絡められており、またもや綾乃の前衛を抜いて弦羽早の元へと跳ぶ。

 

ここでドライブで攻めてもよいが、今度は麗暁に張られている可能性が高いので一度弱めのドロップを入れて状況を切り替える。

 

前にいる麗暁がラケットを伸ばすが、打つ直前に一度ラケットを下に引いて、綾乃の踏み込みのテンポを一回ずらしたあとにヘアピンを送る。

 

「(また!)」

 

フェイントを警戒して出が遅くなった綾乃は、麗暁の重心が前に寄ったのを見逃さなかった。

 

ラケットがシャトルに触れる時には既にネットの半分近くまで落ちており、更に前には麗暁が張っている。

下手なヘアピンは狩られるが、ロブをすれば紅運のスマッシュが来る状況まで追い込まれていた。

 

「(本気の試合で使いたくないけど!)」

 

綾乃はペーンと気の抜けた音と共にネット前にふわりとシャトルを上げた。まるでプッシュのノック練習かと思うほどに甘い球に記者勢からどよめきが起こるが、麗暁は一瞬だけ顔を顰め、上からたたき落とそうとはせずにシャトルの落下地点にラケットを置いた。

 

予想通り、上がったシャトルは綾乃達のコートを頂点として落下を始め、麗暁側のネット前ギリギリへと落ちていこうとする。

 

ここで更に綾乃本人も予期していなかった奇跡が起こった。シャトルのコルクがネットの白帯の上に落ち、ゆらゆらと数回左右に揺れた後、ポトリと麗暁の手前に落ちた。

もはやネットにこすれながら落ちるそのシャトルには流石の彼女も手が出せず、一応返そうとヘアピンをするが案の定ラケットがネットに触れてしまい、タッチ・ザ・ネットとなる。

 

『ポイント! 7(セブン)  ‐  10(テン)!』

 

【やられた…】

 

【流石にマグレでしょ。気にしない気にしない】

 

【いや、ネットに乗ったのはマグレだけど、叩けない球だったのは意図してやったのだろう】

 

【え~、そんな事君でもできないんじゃない?】

 

【馬鹿言え、私だってできる。本番でやろうとは思わないだけだ】

 

負けず嫌いの相方におかしそうに紅運は肩を数回揺らす。

 

 

だが流れはここで途切れる。続く麗暁のレシーブで強烈なプッシュが決まり、遂にインターバルを迎えた。

 

 

 




フットワーク云々の話ですけど深くは考えないで下さい。半分フィクションとデタラメ入ってます。

実際のバドミントンの基礎的なステップの多くは重心移動から始まるのはありますが、後々に本編でも話しますが一定以上慣れ始めるとリアクションステップというものに変わります。
テニプリ知っている人なら聞いたことあると思いますが、スプリットステップの別称ですね。プロの試合を見てると相手が打つ瞬間に膝を曲げる奴です。

で、リアクションステップになると重心移動よりも先に地面を蹴って足を動かし始める。弦羽早は実力者でありながら、リアクションステップを使わず未だどのシャトルに対しても重心移動からスタートしていた。

という感じです。そういう風にしました。
分かりにくくてすいません。


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この試合、勝とう

すいませーん、見直ししてる者ですけど、ま~だ話数掛かりそうですかねぇ

この回入れてあと3話とかアホかよ。



これまでも結構描写する機会ありましたが、前回ハッキリと主人公の強みを書きました。
まず大前提として両利きのダブルスペアって面白そうやなって言うのがあって両利きは確定したんですが、ただでさえ綾乃の強みが前衛向けなので、それで強打ポンポン打てると味気ないな~ってことで強打は並みに。
そして反射神経を良くしても綾乃と被ってこれまた面白くないので、もし両利きだったらどういうメリットあるんだろうと考えて体幹と重心移動にしました。

地味やな~



「羽咲、アウト!」

 

そう叫ぶが彼女は耳を傾けてはくれなかった。無意識の内に舌打ちをしながら、その背中をジッと見つめる。

 

完全にパートナーとして信用されていないのだろう。

 

綾乃は全て自分で取るようにネット前で麗暁に勝負を挑んでいる。紅運がサポートに入れないように事細かくコースを別けながら、僅かでも甘い球が来れば麗暁のボディを目掛けて放つ。

 

だが世界ランク一位の彼女がその程度で怯むわけがない。特に低身長の少ないメリットであるボディ回りのラケットワークは世界レベルまさにそのもの。

だが綾乃はひたすら食らいついた。持ち前の読みと動体視力、タッチの速さをフルに活かして上げることなく攻めを続けていく。

 

そんな彼女の背中を弦羽早はただジッと見つめていた。

 

『だからダブルスって嫌い。これ以上、足を引っ張らないで』

 

『それでも、楽しかった。秦野とのミックス』

 

『秦野…幻滅した? それとも、スッキリした? 私が同い年の女の子に無様に負けて…』

 

『私は何か、秦野の役に立ててる?』

 

『秦野だよ、そんなのあり得ない』

 

『よろしくね、秦野!』

 

再開してからの綾乃に関わる出来事が走馬灯のように過る。

 

ダブルスが楽しいと言いながら嫌いと言って、自分を見下しておきながら役に立ててると聞いてきて、馬鹿にしながらも頼ってくれて。

彼女は本当に不安定だ。言動も思考も矛盾してばかりだ。

 

いつもいつも周りを振り回して自己中で、そのくせちっとも気遣いができない。

ここまで動揺している自分に対して声の一つも掛けられないのかと、ハッキリ言って苛立ちを覚える。

 

だが、彼女は変わっていない。

 

がむしゃらにシャトルを打ち返し続けるその背中は、かつて有千夏と本気で打ち合っていた綾乃の背中を思い出させた。

 

”ラリーゲーム”。綾乃と有千夏が行っていた遊びだが、綾乃が成長すると共にその質は上がっていった。単純に回数を競うだけならそれこそお遊戯のバ()ミントンだが、綾乃が遊んでいるのはバ()ミントンだ。相手を振り回し、相手の裏をかき、いかにしてシャトルを落とさせ相手のミスを誘うか、狡賢い者が勝つスポーツ。

 

だから綾乃は全力で有千夏とラリーゲームをした。スマッシュ、プッシュ、フェイント、ドライブ。決め球と言えるショットをどれだけ打っても有千夏はシャトルを落とさない。それらはむしろ強力なカウンターとなって綾乃へと襲い掛かる。

年月と共に趣旨も少しずつ変わって来たラリーゲームは、一点限りの試合と言える程毎度白熱しており、いつもは涼しい顔をして自分と試合をする綾乃が、その瞬間だけは全身汗まみれになりながらも笑顔でシャトルを拾っていた。

 

「(でも、俺にどうしろって言うんだ…)」

 

確かに自分は中学バドミントンにおいてもっとも名誉ある称号を手にすることができた。しかし相手は規模が、スケールが、格が違い過ぎる。

相手のプレッシャーを自分一人で抱えながら戦うなど弦羽早には不可能だった。この試合が負けてもいい試合であれば彼だって素直に楽しめる。世界ランク一位と戦えるなんて光栄だと、ノリノリでプレイするだろう。

 

『ちょっとでもいいから俺の事も頼ってよ。パートナーなんだから』

 

ふと、合宿で初めて綾乃と組んだ時の自分の言葉を思い出した。

そして同時に既視感を覚える。あの頃の自分と、今の自分は少しばかり似ていた。

 

綾乃に頼ってもらう事ばかり考えて、自分は綾乃を頼ろうとはしなかった。その理由は自分でも分かる、綾乃にはカッコいいところを見せたいという下らない男の欲だ。

だがもう一つあった。綾乃が無自覚に弦羽早を見下していたのに対し、弦羽早もまた無自覚にそう思っていたのかもしれない。

 

「(ああ…、羽咲に選手として認めてもらいたかったんだ)」

 

綾乃は異性として好きだ、ずっと彼女に恋している。でもそれとは別に、バドミントンをする彼女の隣にただ立つだけでなく、彼女に認めてもらいたかったのだ。自分の努力を。

努力してできない人間じゃなくて、努力して強くなれる人間というのを、優勝の称号に関係なく綾乃に心の底から認めさせたかった。

 

ガチャン!と綾乃は落下するシャトルに飛び込みながら返す。

そんな彼女の行動を嘲笑うかの如く、棒立ちの麗暁(リーシャオ)はポンと軽いプッシュを放った。シャトルを返そうとすべくラケットを伸ばす彼女の顔を、このラリーで初めて見ることができた。

 

圧倒的な相手を前に絶望して、取れないシャトルに悲しみと自分自身への怒りを抱き、それでも諦めたくないと切に願っていた。

エレナと喧嘩した時や、薫子に負けた時とはまた違う。今の綾乃はただひたすらに、大好きな母親を求める普通の少女だった。

 

「(…羽咲にカッコいいところ見せる…? 冗談だろ? パートナーがこんなになって何もできないプレイヤーが偉そうな事考えてんじゃねぇよ)」

 

ギュッとラケットを強く握ると、重心移動よりも先(・・・・・・・・)に地面を蹴って、そのシャトルを無理やり奥へと飛ばした。

 

「はた、の…」

 

「………」

 

集中しろ。

今は綾乃に気を使う余裕はコンマ一秒たりとも存在せず、この広いコートを全て守るべく全神経に集中させる。体周りに来た時すらかすりもしないスマッシュをどうやって返すのか。

決まったなと皆がラリーの終わりを予期する状況で、弦羽早は紅運(コウウン)の動きをジッと見つめる。

 

弦羽早には先輩の志波姫のようなバドミントンIQは無く、綾乃のような動体視力も持っていない。だが決して観察眼が悪い訳ではない。

 

弦羽早から見て右奥で飛び上がる紅運。彼の腕の動きはこの際どうでもよい。ラケットの面を注意したところで速すぎて見えないのだから。

だが胴体となれば話は別だ。

 

「(どっちだ…どっちだ…どっちに重心を乗せている(・・・・・・・・)!)」

 

身体の向き、腰の捻り具合、付け根から膝の位置。観察する、観察する。

まるで世界がスローモーションのように見える程に弦羽早は一点に集中する。見るのはシャトルではなく、紅運の重心。仮にシャトルが見えたところで、このダブルスコート全てを一人で守るのは不可能だ。

だから読まなくてはならない。綾乃のようなセンスからの読みではなく、重心という弦羽早の中で理に適ったやり方で。

 

そして見えた。

 

紅運の重心は中央にはなく、やや右寄りにあった。何故それが分かったか、それはおそらくずっとその存在を意識し続けてバドミントンを続けて来た弦羽早だからこそ見える何かがあった。

 

弦羽早は紅運が打つ直前に右足を大きく左側へと伸ばしながら、シャトルを見つめる。

 

「(大丈夫、一瞬だけなら捉えられる。間に合う!)」

 

弦羽早の右腕に重い振動が伝わって来た。

ガットに跳ね返されれたシャトルはネットを越えるが、しかしすぐ麗暁によって弦羽早が手足を伸ばすのとは反対の右側へと打たれる。

 

「は、秦野!」

 

「前にいろ!」

 

「(これも行ける!)」

 

弦羽早は麗暁のショットと同時に、踏ん張っていた右足を戻しながら重心を右へと倒す。グラリと弦羽早の視界と身体が大きく右へと傾いた。

だがこれだけではシャトルには届かないと、唯一地面と接触している左足を蹴りだす。その瞬間、弦羽早の体はほぼ真横へと飛び上がった状態となり、彼は胸から上部分だけを起き上がらせて麗暁のプッシュを空中で打ち返しえした。

 

この勢いのまま飛んだら間違いなく着地は失敗する。誰もがそう思う中、無慈悲な紅運のアタックロブががら空きのラウンドへと伸びる。

 

しかし弦羽早は倒れなかった。右足一つで地面に着地し、本来なら慣性で倒れるはずの体を有千夏曰く世界に通用する体幹を用いて安定させ、まだ左足が地面に着く前にラケットを持ち替えながら再度地面を蹴る。

 

一瞬の間に行われたその動きはまるでCGを使ったかのようにアンリアリティで、ただ彼が打ち放ったスマッシュがそれを現実のものだと認識させた。

 

 

 

 

「ハァ…ハァ…ハァ…」

 

息切れする綾乃の肩を支えるようにして、彼女をパイプ椅子に座らせる。

 

するといつの間にか来ていた健太郎が慌てたようにスポーツ飲料を二人に手渡した。

二人とも何故ここにいるのか、そんな質問をする時間も余裕もなかったのでそれを口につける。

 

「羽咲…まずは色々ごめん。相手が誰だか分かって、俺、諦めてた」

 

ゴクンとスポーツ飲料を呑み込むと、パイプ椅子に座る綾乃に目線を合わせるように中腰になって彼女に謝った。

 

「私も、お母さんに会えないって思ったら…、ごめん」

 

「ううん。羽咲の気持ちの強さは分かっていたつもりだった。その上で支えようとしていた俺がおごっていたんだ。偉そうな事言ってたのに相手を知ったらあのざまだ…」

 

「あの二人を…知ってるの?」

 

「……ゴメン。本当はプレッシャーになるだろうから言わない方がいいのかもしれないけど、俺だけじゃ無理だった。何とか持ち返したけど……最後まで持ちそうにないから言うね。あの二人は混合ダブルス世界ランク一位の王麗暁(ワンリーシャオ)朱紅運(シュウコウウン)だ」

 

「え…?」

 

「…嘘だろ?」

 

世界ランク一位。何かの間違いではないかと綾乃は引き攣った笑みを浮かべて弦羽早の瞳をジッと見つめるが、彼の瞳は依然ブレない。恐る恐る健太郎を見上げると、彼は二人を観察していており、少しして二人の変装に気付いたのか顔色が悪くなる。

 

「羽咲、あの二人を倒しておばさんに会うには、俺達が同じ目的を目指さなければならないと思う」

 

言い訳に聞こえるかな? そう弦羽早が苦笑すると、綾乃はフルフルと髪を揺らしながら答えてくれた。

 

「あ、あのね秦野。ダブルス嫌いって言ったの、あれ、嘘だから…」

 

「うん。俺も、羽咲ならシングルで絶対勝てるって言葉を信じてる。でもだからこそ、俺がいたから負けたなんて事にしたくない」

 

ずっと謝りたかったのか手をモジモジと動かす綾乃の頭を優しく撫でながら、弦羽早は右手のリストバンドを見せる。

 

「…羽咲。お前はもうこれで五試合目だ。もし危険だと判断したら、無理やりにでも止めさせる」

 

「コーチ……ありがとう。でも私…私達は大丈夫だから」

 

その大丈夫には、”絶対に手を出さないでくれ”という意思が込められていた。静かなトーンだったが、震える事のないその強い口調が綾乃の意志の強さを物語っていた。

 

『コートに戻って下さい!』

 

審判が両チームに語り掛けると、各々タオルや水筒を置いて再びラケットを手に取りコートの中へと戻る。

改めて見る対戦相手の二人は、その正体を知った途端に視線が合うだけで震えそうだった。

 

「(秦野は二人が世界ランク一位って知った後でもあんなに戦えてた。相手は私一人が頑張ったって絶対に勝てない。完璧なコンビネーションで動いて、あのスマッシュを取って、攻め続けたらきっといける。だから秦野を信じなきゃ)」

 

レシーブの構えを取る彼を見つめながら、綾乃は自分に言い聞かせるようにギュッと左腕のリストバンドを握り絞めた。

 

 

 

 

 

綾乃と弦羽早のパターンはコニー戦と同様徹底したトップアンドバックの維持だった。弦羽早のレシーブの強みを活かせる守りは、紅運のスマッシュによって無意味なものとされている。彼が存在するだけで綾乃と弦羽早はロブという大きな一手を失っていた。

将棋に例えるならプロ棋士相手に金銀落ちで戦っているようなもの。だが綾乃という飛車と角を兼ね備えるクイーンの存在で、その戦略はギリギリ形にはなっていた。

 

しかし世界トップ相手がそう簡単に綾乃にシャトルを取らせてくれるわけもなく、鋭いドライブかロブ、あるいは綾乃の身長を越えるハーフ球を使用して後衛の弦羽早へと圧を掛ける。

 

「ッ!」

 

背中から弦羽早の息の乱れが聞こえる。インターバルに入ってから明らかに相手の動きが守りに変わった事で、弦羽早が振り回される状態が続いていた。

左手に持ち返る事で発生するノビの違いも通じなくなり、元々学生レベルの弦羽早のスマッシュが、完全に守りに入った世界トップに通じる訳がなかった。

 

「(落ち着け、秦野なら大丈夫、信じなきゃ。相手は私を警戒して守りに入ってくれているのなら、カウンタードライブを狩る!)」

 

弦羽早はひたすらに攻め続ける。クリアーを除いた自分の持ち球を打ち続けた。

フルスマッシュ、チェックスマッシュ、カットスマッシュ、ハーフスマッシュ。ドロップもカットドロップもドライブも使う。だが崩れない。崩せるエースショットを弦羽早は持ち合わせていない。

こういった守備を崩せない場合は一度上げて逃げ、守りに入ってカウンターを狙うのがセオリーとなるが、上げたらチェックメイトだ。

 

「(麗暁にドリブンクリアなら…いや、それも兼ねて後ろ寄りにいるはずだ。ハイクリアを麗暁側に打っても間違いなく紅運が入って打とうとする)」

 

パートナーの細い背中とぴょこりと動く後ろ髪が視界に入る。彼女は自分を信じてタイミングを見計らってくれている。弦羽早も中学時代は前衛を担当していたのでそれは分かる。

 

「(上等だ!なら走らされてやる!)」

 

弦羽早はなおも打ち続けた。ドロップを止め、全力でスマッシュをサイドライン側やボディへと打ち込む。

既にニ十回近くのスマッシュをレシーブし続けただろうか。それでもなお崩れない二人だったが、その間へドライブのような地面に平行のスマッシュが繰り出された。

 

現在中央が互いにフォアの状態。そういった状況ではこの二人の場合、男子である紅運が取る事にしているが、弦羽早のスマッシュはやや麗暁より。そして声を出してどちらが打つか確認作業を行えるほど弦羽早のスマッシュも遅くない。

 

カシャンと二人のラケットが接触する。流石プロと言うべきかそうなっても一方の面がシャトルに当たり返せるのだが、しかしネット前に上がる。

 

このシャトルは絶対逃さないと、綾乃は飛びつく様に横へ跳躍すると、ストレートにいる紅運のボディへと強烈なプッシュを打ち込む。返せないと判断したのか彼は上半身を逸らしてシャトルを避けるが、シャトルは一番後ろの線(バックバウンダリーライン)の上に乗るように着地した。

 

『オーバー! 8(エイト)  ‐  13(サーティーン)!』

 

「秦野、大丈夫?」

 

左右に走らされながら数十回以上にわたる攻撃を続けて行っていた弦羽早の体力はこのラリーで一気に持って行かれた。攻めのショットを一度もネットに掛けず打ち続けたとなると、その運動量はかなりのものだ。

 

汗をポタポタと地面に落とす弦羽早はリストバンドで額の汗をぬぐいながら、心配するように顔を覗き込む綾乃に笑みを浮かべて。

 

「頑張ってって言ってくれる?」

 

「え?が、頑張って…?」

 

これにいったい何の意味があるのかと首を傾げながら復唱すると、彼はスッと突然背筋を伸ばした。

 

「よし頑張る」

 

「えっと、うん」

 

奇妙なやり取りに綾乃は一瞬表情を和らげながらも、点数ボードを見てキュッと唇を噛んだ。

点数は確かに取れている。だがその差を縮めることがあまりにも困難だった。こちらがようやく一点を手に入れたとしても、相手はアッサリと一点を取り返すことができる。

 

「(このままじゃ勝てない…。でも…なんとかしないと…)」

 

綾乃は集中しているつもりだったが、だが完全に入り込めていなかった。

圧倒的な格上二人に対し、こちらはどちらも格下。そこを補うには互いの動きを噛み合わせなければならない。

だが今のような弦羽早が十回もニ十回も一度も上げることなく攻め続けるプレイは、間違いなく持たない。もしここから13点連続で取れるなら持つかもしれないが、そんなものは宝くじの一等が当たるよりも低い。

 

どれだけ流れを掴めたとしても、実力のあるプレイヤー相手に連続得点は早々続かない。

様々なパターンや状況を考える綾乃だったが、彼女の強みはそこではない。むしろその思考の迷宮は綾乃を弱めていた。

 

 

 

続くラリーも麗暁と紅運のスタイルは変わらない。まるでサイドバイサイドの時の自分達を見ているようだと弦羽早は気持ちは半ばやけくそになりながらも、正確なスマッシュを打ち続ける。

そしてドロップ、ドロップ、更に続けてドロップと、後ろ寄りにいる麗暁へと送って彼女を前後に動かす。勿論そんなことで彼女の体力を削げるとは思っていないが、そのポジションが前寄りになる。

世界一位の女子を相手にそう何度も自分のスマッシュで崩せるとは思わないが、少しでも可能性を上げる。

 

そう思わせるのが弦羽早の狙いだった。続く麗暁がストレートに来たロブに対して、弦羽早は初撃でクロスに打ち、紅運側のサイドへとジャンピングスマッシュを打ち込む。

 

【(おっと、こっちか!)】

 

可能なら麗暁のフォローに回ろうかと考えていた紅運の裏を確かにつけた。

だがそれが決まる程世界は甘くなく、一度前衛の綾乃を見て口元を上げた後、綾乃の正面目掛けてドライブで打ち返した。

 

「なっ!」

 

それは自分を徹底して避けていたと思っていた綾乃には奇襲であった。

サイド寄りのドライブを張っていたが正面の球に咄嗟に対応できず、慌ててラケットを前に出して返すものの、ふぁさりとネットに引っ掛かる。

 

『オーバー! 14(フォーティーン)  ‐  8(エイト)!』

 

「ッ!」

 

「ナイスタッチ羽咲。気にしないで」

 

弦羽早の励ましの声が背中から聞こえてくるが、今の綾乃には気休めにもならなかった。ようやく自分に繋がって来たシャトルを見逃した事が、綾乃により深い混乱を招いていた。

 

「(駄目だ。あと七点しかない…。勝たないと、勝たないとまたお母さんに――)」

 

ずっとずっと母親を求めて勝ち続けて来た。

どんな相手にだって圧倒的差をつけて勝ってきたのに彼女は戻って来てくれなかった。

 

そんな中、弦羽早と再開して、健太郎にスカウトされて、なぎさとの勝負に負けて渋々始める事になったバドミントン。

沢山嫌なことがあって、喧嘩して、酷い事を言って一人で勝手に傷ついて。

でもきつくてもみんなとやるバドミントンは確かな繋がりを感じられて、弦羽早とのダブルスはあんなにも楽しかった。

 

ようやく巡り合えたチャンスを阻む相手は、世界ランク一位のペア。

 

 

麗暁のサーブに綾乃はヘアピンで応える。彼女達の守りに入る戦略も終わったのか、麗暁はロブを上げずにヘアピンを打つが、その瞬間に面を切ってシャトルを回転させる。

回転したシャトルのコルクは再びネットの白帯に引っ掛かり、綾乃はネット際に落ちる前に素早くロブを上げて下がろうとするが。

 

バシュン!

 

彼女の足元にまるで突き刺さるような勢いで紅運のスマッシュが放たれた。

 

『ポイント! 15(フィフティーン)  ‐  8(エイト)!』

 

――駄目だ。

 

綾乃はおそらく生まれて初めて、本気で勝てないとそう心から感じた。

 

有千夏には本気で勝ちたいと思ったことは無い。彼女は目標であり優しい母親で、倒すべき壁とは思った事はなかったからだろう。

 

だが今目の前にいる二人はまさに壁だ。世界という頂の頂点に経つ二人が、頂の麓にポツンと立っている自分を進ませてくれない。

頂の向こうにいる母親に会う為には回り道は無く、この天辺を上って越えなければならない。たった今、この一ゲームの間でそうならなきゃいけない。

 

「(嫌だ、この二人に勝たなきゃ…。お母さんに、会えない…会えない!)」

 

絶対にこの試合は諦めたくないという母親への強い思いと、圧倒的な実力差を見せつけて立ちはだかる世界トップの二人に弱気になる心。

 

勝ちたい

 

勝てない

 

また綾乃の中で矛盾が生まれてしまった。

刹那、ゴチャゴチャとしていた感情が爆発し、綾乃の瞳から大きな涙がポロポロと零れだす。

 

「いやだぁ…。おかぁさん…」

 

【…ッ】

 

悲しみに溢れた喉を振り絞るような弱々しい声に、麗暁は眉をピクリと動かして特等席の隣でジッと立っている有千夏を見上げるが、彼女は小さく首を横に振った。

事情を知る紅運もまた、それまで不敵な笑みを浮かべていたが同情するような穏やかな笑みを弦羽早に送って。

 

【床が濡れたから拭いてくれる?】

 

弦羽早には彼の言葉が理解できなかったが、ただモップを持った係員がコート内にやって来たことから気を使ってくれた事は分かった。

弦羽早は綾乃の手をそっと引いて、一度コートの外に出る。

 

「うっぐ…はたのぉ…」

 

「ッ…はねさ――」

 

必死にリストバンドで涙を拭うが、溢れ出る涙は止まらずに白い頬をつたう。

そんな彼女を前に”大丈夫”なんて言えるはずが無かった。綾乃が求めているのは勝利の先に待ってくれている母親で、ただそこにたどり着くには世界最強のプレイヤーが二人立ちはだかっている。

自分がもっと強ければ、なんて思う事すらもおこがましい程に彼女達は強かった。でも勝たなければいけない。

だが弦羽早の頭にプランや作戦など一つも無かった。未だにあのスマッシュを見切れてもいない。ずっと探しているが弱点もない。フォーメーションに無駄もない。

 

「(でも、それでも勝ちたい。勝って、羽咲に喜んで、認めて貰いたい)」

 

「……綾乃(・・)

 

自分の名前を呼ぶ優しい声と、心地よい温もりが綾乃の心と体を両方包み込だ。

少しゴツゴツしてて、ちょっと汗臭くて、汗で濡れたウェアは冷えていて。ただその匂いやウェアの冷たさは彼の頑張りの証のようで不思議と心地よい。

 

「この試合、勝とう」

 

「……むりだよぉ。だって、だってぇ…」

 

「ッ、ゴメンね。やっぱり黙っておくべきだった。ほんと俺、綾乃の事になるといっつも空回りになる。綾乃のこと支えてあげたいのに」

 

フルフルと弦羽早の腕の中にいる綾乃は首を小さく振ると、ギュッと目の前の黒のユニフォームに顔を当てる。

ツンと痛む喉に精一杯力を入れて出て来たのは、かき消えそうな弱々しい声。

 

「…そんなことない…。はたの、優しくて、再会してから、いっつも、支えてもらってる。今も、強い相手に、いっぱい戦ってくれてる…」

 

「…じゃあ、もっと支えたい。もっと一緒に戦いたい。俺が憧れた綾乃はこんなに強いんだぞって、日本だけじゃなくて、世界中に自慢してやりたい」

 

弦羽早は胸元にある綾乃の頭をそっと撫でながらゆっくりと離れる。嗚咽を込み上げる彼女は未だ涙のダムの崩壊を抑えることができずに、涙がポロポロと床に零れ落ちる。

それをそっと指で拭いながら、優しくも芯の通った低い声で告げる。

 

「だから、綾乃にも自慢して欲しい。俺ってパートナーがいて、そんな俺をいつも支えて、綾乃の存在が俺を強くしてくれるんだって」

 

「…ほんとに?」

 

「ああ。他の誰でもない、綾乃が俺を強くしてくれたんだ」

 

綾乃の瞳がまた一瞬潤う。それが悲しみから出た涙でないことは誰の目から見ても明らかだった。綾乃の泣き顔に変化があった訳では無い。でも彼女の身に纏う雰囲気が温かみを帯び、震えていた肩や嗚咽がゆっくりと収まっていく。

 

「私達……勝てるかなぁ…?」

 

「うん。だってまだ俺達このゲームで繋がり合えてないから。試合始まってすぐの俺はどこかちょっと羽咲の勝ちたいって気持ちを軽視してて、そこから相手の事を知って怯えた。そして俺よりずっとプレッシャーを抱えている羽咲にその怖さを押し付けて。って、全部俺が原因だね」

 

「ううん。…私も当たったり酷いこと言ったからお相子…」

 

「…ありがとね、綾乃。よし!」

 

パンと気持ちを切り替えるべく手を鳴らした。

 

周囲を見てみると会場全員が自分達を見つめており、弦羽早は途端に顔全体が熱くなるのを実感した。しかも無数の記者がいることも頭から抜けており、時折小さなシャッター音が弦羽早の耳に届く。

穴があったら今すぐ入りたい程の羞恥心だったが、しかし隣で恥ずかしがる様子もなくラケットを手に取る綾乃の姿を見て、そのらしさが弦羽早の精神を落ち着かせた。

 

「はた―――弦羽早(・・・)

 

ラケットを拾う弦羽早の眼前にAのイニシャルが刻まれたリストバンドが突き出される。先程まで泣きじゃくっていた彼女の表情は硬く、同時に弱々しい。でもプルプルと震えるその腕と、彼女の力強い眼差しは”勝ちたい”と強く訴えかけていた。

 

「行こう、綾乃」

 

トンとTのイニシャルの入った色違いのリストバンドを合わせると、二人はコートへと歩みだした。

 

 




このやたらと長く書いたのもここまでの溜めというのも多分ありけり。
試合内容ほぼカットして突然この流れになっても違和感あると思うの(必死)



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ゾーン


一万文字以上全部試合。

長過ぎ。




15 - 8

 

終盤に差し掛かった今、その二倍近い点差を返せる試合は限られる。しかも未だ紅運のスマッシュを一度しか返せていないこの状況に置いては絶望的な点差だった。

 

だがこの試合を見ている誰もがこのままで終わると目を逸らしたりはしなかった。対戦している麗暁(リーシャオ)紅運(コウウン)もまた、目つきの変わった二人に今日何度目かの喜びを味わっている。

世界のトップに立つ二人がバドミントンを愛していない訳がなかった。このたった1ゲームの短い試合で、綾乃と弦羽早は目に見える程に成長し続けている。メンタル的にも、技術的にも。

それが嬉しくてたまらない。自分達を越える逸材を見つけるのがこんなにも楽しいものなのかと気持ちの高鳴りが抑えきれずにいた。

 

レシーバーは弦羽早。

ネット越しの彼と視線が合った麗暁は、心の中で非礼を詫びる。

 

【(一瞬でも君を期待外れと思ったこと、謝罪するよ)】

 

トンとラケットを前に押し出す。

再びショートサーブから始まる。ここまで頑なにロブを恐れていた弦羽早が、ヘアピン勝負もせずにいきなり高いロブを上げた。

 

【へぇ】

 

この試合、紅運のスマッシュを返せるようにならなければ負ける。ならばもう、あと五点以内に見切るしかないというのが二人の出した決断。

グッと腰を下ろして二人は呼吸を一瞬止め、その一瞬に全神経を集中させた。

 

 

集中一つでも人間の能力は変わる。

交通事故にあう、あるいは怪我をすると確信した直前、人は一瞬周りの景色がスローモーションに見える。

同じ本を読んだ人間でも、適当に文字を流しながら読むのと集中しながら読むのとでは理解が大きく違う。

 

人間はその時の脳の働きによって、絶好調にも絶不調にもなれる。

 

そして一流アスリートの中でも一際スター性を持つ選手は、その絶好調時の瞬間を意図して入る事ができる。

 

それがゾーン。

 

科学的に証明されたものではないが、大スターのプロアスリートの一部がこの状態に入ることができる。

ピッチャーの球がスローモーションに見えた。

フェンシングの剣の先まで鮮明に見えた。

身体と心が完全に一体化して自然に体が動いているようだった。

コートを上から見ているような感覚。

 

それは決して一般人に起こりえない現象で、ただ極限に集中しているだけでは駄目だ。

ゾーン状態になると所謂無意識の処理が行われる。例えば本に集中してたら周りの雑音が聞こえないなど、それが無意識の処理だ。

その状況をスポーツで活かす場合、無意識の内に体やラケットが動かせる程の膨大な時間を掛けた練習量が必要になる。だから並みの選手ですらゾーンに入ることはできない。

 

その領域に二人はたった今同時に入った(・・・)

 

紅運の打ち出したシャトルは軽いドライブでも打っているのかと思えるほどに緩やかで、弦羽早は自分の元へと伸びて来たシャトルの軌道上に面を置く。

刹那、スローモーションは解除され弾丸の如きスマッシュが飛んでくるが、弦羽早は当たる瞬間に丹田を少しだけ前に出して勢いよく打ち返した。

 

「返した!?」

 

それまで僅か一回しか当てることのできなかったスマッシュは、激しいクロスのドライブとなって打ち返される。

麗暁も驚いたものの、こちらへ飛んできたカウンタードライブを見逃そうとはしない。両足をギュッと踏み込むと、紅運と弦羽早の二人の威力が乗ったシャトルを力を入れず面で押す。そうすると激しい重さを持っていたシャトルは一気にエネルギーを無くし、ネットを越えてゆっくりとサービスライン辺りまで進んでいく。

そこを見逃す綾乃ではない。彼女は体を屈めることで、ネットと同じ高さのシャトルを上から叩く。

 

【上げるね!】

 

紅運はコートの角へと伸びるプッシュをバックハンドで無理やり奥へと飛ばし、サイドバイサイドの陣形へ移る。

 

そのロブを担当する弦羽早の瞳には、シャトルの落下地点がまるでマーキングされている様に見えた。ここで打てば確実だとまるでゲームのように。

 

弦羽早はマーキングされている場所から両足をバネに高く飛び上がった。

 

「(紅運(アンタ)と俺は体格も筋力も肘の柔らかさも違う。でも、今の俺ならアンタのスマッシュに一歩近付ける!)」

 

完璧な重心に完璧な体幹。高く飛び過ぎたのかいつも以上に相手のコートが良く見える。

シャトルを打つのは頭で意識せずとも体が勝手に動いてくれるので、そちらには思考を回さずにゼロポジションを探す。

 

ゼロポジションとは肩回りの筋肉が最も緊張の少なくなる状態。ゼロポジションがどこにあるかは人によりけりだと言うが、弦羽早は直感的に肩の軽さを感じ、そこを中心にラケットを振った。

身体を回転させるとか、重心を乗せるとか、そういったものは体が勝手にやってくれる。

 

【なっ!】

 

それはこれまでの弦羽早のスマッシュより一つ上のレベルの速いスマッシュだった。それまで学生レベルだったスマッシュは、ゼロポジションを最大限に利用した今、一段階上のレベルに進化している。

コルクに衝突して紅運のラケットフレームがカンと音を鳴らし、シャトルは線審のところまで飛んで行った。

 

『オーバー! 9(ナイン) ‐ 15(フィフティーン)

 

審判の声がほとんど聞こえない。まるで自分と審判の間に見えない壁があるようだった。

綾乃も弦羽早も一言も交わさなかった。ただラリーが終えると手を合わせる。

 

まるで自分の心が体をリアルタイムで操作しているような感覚に弦羽早は言い様の無い心地良さを味わっていた。

 

緊張感も一切ない。コートの隅々までが広々と見え、でもコートを囲う線審や審判、点数ボードなどがほとんど焦点に会ってこない。

 

サーバーは綾乃。徐々に黒くなる彼女の瞳に麗暁は武者震いをする。先程泣いていた少女の面影はどこにもない。ただこの試合に少しずつ入っていく。

 

【(驚いたな…。少年の方が深いがこの子は入り続けている…)】

 

じっくりと腰の前にラケットを構えた綾乃は、麗暁の胸が三回沈んだタイミングでロングサーブを繰り出した。

呼吸を吐いたタイミングでの後ろへと追い込むロング。その軌道は決して高くなく、多少よろけはするが、麗暁は後ろへと跳びながらジャンピングスマッシュを綾乃へと放つ。

 

綾乃はそのシャトルを”避けた”。足音と気配から自分のすぐ後ろに弦羽早が居てくれると判断し、その球を弦羽早に任せる。

そして後ろにいた弦羽早はドライブで打ち返そうとした瞬間に、ピタリと面を止めてドロップショットを送る。

 

【私が出る】

 

フォローに入ろうとしている紅運を止め、麗暁は着地と同時に足を勢いよく蹴って、右側へと落ちて来たドロップに対してヘアピンを送る。流石に余裕がなかったので白帯に転がすことはできなかったが、質は高い。

だが打った直後に既に目の前にいた綾乃は、それをがら空きとなったクロスのネット前に送る。

 

もっともこれだけではまだ決まらない。世界トップの麗暁のステップの本領発揮はここからだ。

綾乃がクロスへと打つと、再度跳ぶように地面を蹴ってシャトルと並走するように走り、僅かに浮き上がったシャトルをフォルトにならないように横にはたいた。

 

「上げる!」

 

シャトルはカバーに入った弦羽早によって中央地点で上げられた。

 

再び二人はサイドバイサイドの状態へ変わる。現在紅運の正面にいるのは弦羽早だが、綾乃もまた視界に映る情報を最優先に処理する。

 

【(面白い、面白いよ!)】

 

紅運は抑えきれない喜びを表情にあらわしながら両足で飛び上がり、再び弦羽早にストレートのジャンピングスマッシュを打ち込む。その速度は一切衰えない、初速400を超える世界トップのショット。

 

ゾーンは消えていない。しかし紅運の打ったショットは先程より極端に遅くは見えない。

弦羽早はシャトルが当たる直前に手首を捻って牡丹を通して球に重さを乗せる。

 

バシン!

 

レシーブとは思えない激しい音が館内に響く。

その激しい音にアウトかと判断しかけるが、レシーブは高めであり、頂点に達した時点で急速に失速する。

紅運は素早いフットワークでその落下地点へと構えるが、流石にフルスマッシュを打てる体勢まで持って行けなかった。

それでも彼が放つスマッシュはゼロポジションを最大活用した弦羽早のスマッシュより速い。

 

「(速い、でもッ)」

 

――視える

それだけで良い。現在体が半ば無意識下で動いている綾乃は何の違和感もなく肘を上げ、胴体へとえぐり込むようなスマッシュを裏面で弾き返す。今度はロブではなくカウンタードライブ。

 

筋力の影響や弦羽早ほどの体幹を持ち合わせておらず、そのドライブは鋭いが速いとは言えない。そして差し込まれたスマッシュに対し綾乃がクロスへ返せる可能性を低いと読んだ麗暁が張っていた。

 

腰を下ろして背を低くした麗暁はそのドライブを綾乃へと打ち込む。

 

速すぎる麗暁のシャトルタッチは、本来綾乃ですらラケットを振った硬直によって反応できないはずだがこの時だけは違った。

現在綾乃は正面のシャトルをバックハンドで打つために、左肘を上げている状態となる。であれば、辛い部分はフォアハンド(左側)と左肩周り。

流石の麗暁も速いドライブに肩回りを的確に狙うことは困難だったので、サイドライン寄りのフォアハンドを狙う。

 

「(これも返せる)」

 

シャトルの軌道が見えれば後は体が勝手に動いてくれた。

綾乃は足を開いて無理やり上半身を僅かに左に寄せると、フォアハンドに構え直すのではなく、そのまま腕を捻って、フォアハンドの球をバックハンドで打ち返す。

 

更に麗暁のプッシュに重みが少ないのをいいことに、打つ瞬間に手首のスナップを利かせて無理やりクロスへと落とす。

 

完全に決め球だと確信しネットに詰め過ぎた麗暁はその返球に対応できず、コトンとシャトルが床についた。

 

『ポイント! 10(テン) ‐ 15(フィフティーン)

 

再び会場全体に歓声が巻き起こる。

後半戦に入って遂に紅運のスマッシュをレシーブできるようになった。

 

スマッシュをレシーブするというのは、本来ダブルスであれば大前提だが、彼の規格外のスマッシュはその前提をずっとぶち壊していた。それがようやく、綾乃と弦羽早は彼等と同じ土俵に立つことができた。

 

【僕のスマッシュ返しちゃったよ】

 

【凄まじい集中力だな。少年も一度簡易的なゾーンに入っていたが、今回は深さが違う】

 

【だね。それにしても、綾乃ちゃんが集中すると怖くなるのって有千夏のDNAか何か?】

 

【まあ、良く似ているな…】

 

静かにシャトルを構えて麗暁と紅運を待っている綾乃と視線が合い、紅運は小さく肩を震わせる。

彼も麗暁ほどではないが有千夏にはお世話になっており、そのお気楽な性格故に時折彼女には怒られていた。その記憶が蘇ったのだろう。

 

続くラリー。紅運の本領、ジャンピングスマッシュの連打が二人の防御を貫く。

 

16(シックスティーン) ‐ 10(テン)!』

 

ハーフ球を読んだ綾乃のジャンピングスマッシュ。弦羽早のリバースカットのフェイントが刺さり二点連続取得。

 

12(トゥエンティー)  ‐  16(シックスティーン)!』

 

前衛同士の激しいドライブ合戦。タッチが速すぎるそれはまともにコースを選んでいる余裕もなく、ついにフレームに当たった綾乃の球を麗暁が叩き一点。

 

お返しと言わんばかりに綾乃が速攻。更に弦羽早もコート中央まで前線を上げ、綾乃が作り出した甘いロブ球を打ち落としてサーブ権を取り戻す。

 

世界ランク一位を相手に二人は無我の境地で食らいつく。だがどれだけゾーンを維持しようとも絶対王者の二人は点差を詰めさせてはくれない。

それに加え、ゾーンの極限の集中状態が二人の脳を激しく消耗させ、二人とも一ラリー毎に膝に手を当てて呼吸を整えている。

 

そして遂に弦羽早の球を読んだ麗暁のスマッシュが決まり、点数は20‐15となる。

 

 

 

もはやコートの中に言葉はなかった。弦羽早も綾乃も「上げる」とも言わなくなり、何も言わずともローテーションの切り替えを行っている。

麗暁もまたゾーンには入っていないが集中しており、紅運も下手な軽口は言わなくなった。

 

マッチポイント。

点差は五点。

 

綾乃は屈伸をして体を伸ばし呼吸を整えると、右手を後ろに差し出す。その手がパンと叩かれたのを合図にラケットを構えた。

 

「……」

 

タン!

 

麗暁のサーブは綾乃を奥へと追い込むロングサーブ。これまでタッチの速い綾乃がレシーバーでも一度も打たなかったロングを、マッチポイントで解禁してきた。

 

重心は前だったが即座に足を一歩後ろに下げ、同時に地面を蹴って後ろに飛ぶ。ダブルスのロングサーブはシングルスと違い、相手をコート一番奥の線(バックバウンダリーライン)まで追い込めないので、自然低く鋭いロングサーブが基本となる。それは引っ掛かれば致命傷になるのと同時に、綾乃のように低身長のプレイヤーでも飛べば十分に届く。

 

バシュン!と後ろに飛びながらとは思えないエネルギーの込められたスマッシュが、サーバーである麗暁へと返球される。

上げると予想していた麗暁は少し驚きながらも、冷静にラケットを構えってシャトルを捕らえようとするが、そのシャトルはぐにゃりと大きく左に曲がり、結果ラケットフレームにカンと弾かれる。

 

『オーバー! 16(シックスティーン) ‐ 20(トゥエルブ)!』

 

【…クロスファイアか】

 

クロスファイア。左利きの選手がカットスマッシュを打つと、シャトルの巻き方によりシャトルがプレイヤーから逃げるような軌道で曲がる。左利きの麗暁も当然それを武器として持っているが、咄嗟に後ろに飛びながら、ストレートより速度の落ちるクロスファイアを前衛の自分に突き刺してくるとは。

 

上手い駆け引きだ。麗暁はこの試合何度目かの喜びの感情を抱くと、次のサーバーである弦羽早へとシャトルを渡す。

 

 

この一点も失えない状況で弦羽早がサーブという状況は決して良いとは言えない。彼のサーブが悪いからではなく、二人は従来のダブルスのポジション通り、サーバーが前、パートナーが後ろで構えるからだ。

 

何故ここに来て尚ミックスの王道のポジションをしないかというと、答えは綾乃が嫌っていたので、これまでその立ち位置の練習をしていなかった。それだけだ。

無意識の内に弦羽早を見下していた綾乃は男女の違いを理解していたが、女子であることを理由に必要以上のフォローを貰うのを嫌ってい()

 

弦羽早のサーブを麗暁がロブを上げる形でラリーが始まる。

その球を打つのは当然、強打を持たない綾乃だ。自分のスマッシュでは決まらない事を綾乃は誰よりも理解している。だから少しでも激しいカウンターを食らわないようにジャンプして打つことで、無理やり角度をつける。

 

『ここぞと言う時に留めておくこと』

 

弦羽早からジャンピングスマッシュを教えてもらった時の決め事だ。

 

「(確かに一回一回がキツイ…。限界を感じる。でも!)」

 

そのここぞと言う時は今だ。

どの道ここで一点でも失えば負ける。ならもう後先考える必要はない。正面にいる麗暁へと打ちまくる。

そして五打目。飛び上がる綾乃が繰り出した球は、サイドラインギリギリに落ちる緩やかなドロップ。おまけにネット際に落ちるそのショットはまさにドロップの理想形で、流石の麗暁もスマッシュを警戒していたのもあり、グラリと少し身体を揺らしながらヘアピンで返すが、足を踏み出す弦羽早のプレッシャーに押されネットスレスレを狙ったのが仇となりネットに引っ掛かる。

 

そうした綾乃が後衛で攻める展開が更に二回続き、遂に残り一点差となる。

 

19(ナインティーン) ‐ 20(トゥエルブ)!』

 

「ハァ…ハァッ…ハァ…」

 

この終盤でジャンピングスマッシュを連打し続けた綾乃の体力はもう欠片程しか残っていなかった。頭はフラフラと揺れ、膝がガクガクと笑い始めている。もはやリストバンドもウェアも汗を帯びすぎて汗を吸ってくれない。

だが弦羽早はその頭をポンポンと撫でるだけで、次のサービスもラインギリギリに構える。

 

その背中に綾乃は喜びを覚えた。

 

――後ろは任せた

 

彼はこう言ってくれているのだ。

 

ならばそれに応えるしかない。綾乃は中央コート線をまたぐ位置に腰を下ろして構える。

 

紅運へのサーブ。ブレの無い放たれたショートサーブに紅運がハーフ球を送る。

このたった一打にも互いの技術の高さが籠められており、ラケットの面を見て打ち落とそうとしていた弦羽早と、それを察して直前に面の角度を切り替えることで上手くいなす紅運。

 

「(ハーフ球。カウンターは弦羽早が張ってくれている。なら強引に!)」

 

綾乃は左へのハーフ球を紅運のフォアハンド側へとドライブを送る。

 

【(甘い。誘い球か)】

 

クロスへカウンターで返そうとするが、その直線状でラケットを構える弦羽早の姿に、紅運はすぐにプランを変更して前へと落とす。同時に麗暁がすぐに前へと出て、紅運が後ろのトップアンドバックにフォーメーションする。

 

「(麗暁相手にヘアピン勝負は出来ない。だがッ…)」

 

紅運のスマッシュを100%取れる保証はない一方、ネット前の勝負で麗暁を出し抜ける可能性もまた低い。

 

「(不味い。私の配球が甘かったッ)」

 

「上げて!」

 

誘いを読まれた結果弦羽早が配球に迷っているのを察する。それはほんの数秒にも満たない僅かな時間であったが、綾乃は瞬時に指示を出した。

その声が届いた弦羽早は迷いを捨ててクロス、つまり綾乃の正面側へとロブを上げる。

 

「(ありがとう弦羽早)」

 

本来なら可能な限り自分にスマッシュを誘う為、男子は自分のストレート側へとロブを上げる。だが弦羽早は自分よりも綾乃を信じてクロスへと上げた。

 

シャトルが最高地点に達した時には、既に紅運は跳ぶ準備に入っていた。

 

「「(来るッ!)」」

 

二人の心がシンクロすると共に、アリーナ中に響き渡る巨大なスマッシュ音が鳴った。コースは綾乃のボディではなく、二人の丁度ど真ん中。

 

真ん中へシャトルが来た時の取り決めは、強い球、ロブが弦羽早。カウンター可能な球、ネット前の球を綾乃が担当するようにしている。

 

だが二人の思考に迷いはない。コートの中央に落下するように進むシャトルを、綾乃が(・・・)地面スレスレの位置で返す。トンという緩やかにガットが揺れる音と共に、シャトルは浮かび上がる。

すぐさま軌道を読んでネット前に詰める麗暁だったが、叩くことは叶わなかった。ネットの白帯にコルクを擦らせたシャトルはコロコロと転がるように麗暁の手前へと落ちた。

 

『ポイント! 20(トゥエンティー) ‐ 20(オール)!』

 

「お、追いついた…」

 

記者の一人がそうポツリと呟く。一回のミスで勝敗が決するマッチポイントという極限の緊張状態にも関わらず、切れる事の無い集中力。むしろ綾乃は深く、より深く集中を高めている。今のレシーブも、偶然ではあるが奇跡ではない。

 

もうゲームは最終版。怒涛の追い上げをする二人だったが、ここに来て遂に弦羽早の集中力がぷつんと、電源を消されたテレビ画面のように切れてしまった。

 

「しまっ…」

 

ポンと打ち出したショートサーブは浮いた。それはネット上十センチ弱。出の遅い選手が相手なら打たれる高さでは無いが、世界トップの彼女が見逃さない訳が無い。パンと叩くプッシュは弦羽早の隣を抜け、コートの角を突き刺す様に伸びる。

 

だがそのシャトルは床に落ちることなく、弧を描く様に奥へと飛んだ。綾乃の瞬発力はプッシュに対しても驚異的な守備力を誇っている。

 

ふぅー!と勢いよく息を吐いて、シャトルが上がっている間に呼吸を吐いて集中力を取り戻す。紅運の正面には女子の綾乃。この状態でクロスにいる弦羽早へと打つのはまずあり得ないが――。

 

乾いた音と共に放たれた弾丸の如きシャトルは弦羽早へと飛んできた。

だが弦羽早も、集中力が切れた事に紅運が気づくだろうと予測しており、自分の元に来るだろうと構えていた。

 

これまで何度も取りこぼしてきたスマッシュだが、その速さにも目が慣れて来ている。集中力が落ちて激しいリターンはできないが、当てる事なら可能だ。

 

前の麗暁が落とし、なるべく綾乃の体力を温存すべく弦羽早が前に出て再度ロブを上げる。

 

紅運から放たれるのは全てスマッシュだった。

ダブルスのスマッシュは速いだけでは早々決まらない。そう言われるが、彼のスマッシュにその常識は当てはまらない。二回目のスマッシュもなんとかタッチする。だが三回目のスマッシュは弦羽早の正面に突き刺さり、シャトルはそのまま股を潜る。

 

『オーバー! 21(トゥエンティワン)  ‐  20(トゥエンティ)!』

 

「(不味い。このタイミングで切れた…)」

 

最初こそ綾乃のゾーンよりも深く潜っていた弦羽早だったが、彼が有千夏に認められた才能は重心と体幹であって集中力ではない。綾乃のように終盤のプレッシャーが極限状態になる中で、潜り続けられるプレイヤーは希有な存在だ。

 

「(不味い。並みの選手相手ならいい。だが二人はもう俺の集中が切れてるのに気付いてる…)」

 

極端に自分を狙う三連続スマッシュはそれ以外に説明がつかない。直感的に相手の嫌がる場所へスマッシュを打ち込めるのも彼が主砲たる所以だ。

 

ゾーンがアスリートの中でも一部の者にしか使えない所以は、まず頭で考えすぎると入れなくなることだ。故に頭をフル回転させる薫子や志波姫といったプレイヤーは、上級者であってもまずゾーンに入れる事はない。

また緊張感も妨げとなり、一度感じた疲労やプレッシャーもまた集中の邪魔をする。

 

入った瞬間は焦点に当たらなかった点数ボードや線審の顔がくっきりと見える。アリーナの鎮まり返った空間が落ち着かない。

 

『早く構えて下さい』

 

「……」

 

無意味だと分かっていたが、なるべく集中している風を装うために弦羽早は無言で後衛のポジションへとつきラケットを構えるが、今度は綾乃が持ち場を離れた事でサーブが放たれることはなかった。

審判は注意しようと声を掛けるが、紅運が笑顔で首を横に振ってそれを抑制する。

 

「弦羽早、勝つよ」

 

「…おう」

 

弦羽早の返事は一見落ち着いているようなトーンであったが、実際焦りを帯びていた。普段中々気遣いのできない綾乃だったが、深く入り続けているからか、あるいは弦羽早への信頼が生まれたからか、彼の焦りに気付いていた。

 

「勝って。私をお母さんに会わせて」

 

そう呟いてスッと手の平を差し出した。ピクリとも動かない頬に、雨夜(あまよ)のように暗い瞳。肉まんを食べる時は瞳を輝かせる彼女と本当に同一人物なのか疑う程に今の彼女は冷たい。

かつて綾乃に憧れた弦羽早少年が、ごく稀に彼女に感じた事のある底の見えない不気味さ。

もし自分の命が掛かっていようとブレる事なき集中力を身に纏う彼女に、弦羽早はゾゾッと背筋を震わせながら微笑んだ。

 

「任せろ」

 

これが自分が憧れた羽咲綾乃の強さだ。

ラケットワーク、選球眼、読み、フットワークの速さ、両利き。彼女を支える強さは無数に存在するが、時にはメンタルすらも驚異的なものへ変わる。

 

今の彼女のコンディションは疲労を除けば完璧だ。

 

その彼女と共に戦って彼女が望む勝利を得る。これが弦羽早が何よりも求めていたバドミントンだ。

パシンと差し出された手を叩くのを合図に、再び弦羽早の焦点がコート内に限定された。

 

【(有千夏の言う通り単純な男だ…)】

 

好意を抱く少女とタッチを交わすだけでゾーンに入れるなど、そんな馬鹿みたいな話があってたまるか。

バドミントンだけでなくあらゆるスポーツ選手が望む集中の極地は、無数のメンタルコントロールや願掛け、食事や呼吸をもって初めて意図して得ることができる。

麗暁本人を含める数多のトッププレイヤーが苦労の末足を踏み入れた境地に、彼は綾乃の言動一つであっさりと転がり込む。

 

馬鹿げた話だが現にその瞬間を見てしまった以上、麗暁は呆れよりも笑いをこらえるのに必死だった。普段から表情があまり動かない方で無ければ間違いなく腹を抱えて笑っている。丁度サーバーの紅運のように。

麗暁は真面目にやれとラケットで彼の頭を軽く小突き、再度ラケットを構え直す。

 

それまで賑やかだったコート内が鎮まり返り、四者の呼吸が重なり合った刹那。

 

パン!

 

またロングサーブが放たれる。

それは弦羽早のラウンド側。距離よりも角度優先の追い詰める速い一打。

アウトかと一瞬脳裏を過ったが綾乃の声が無い事からインと判断。持ち替えてフォアで打つのも物理的に不可能な為、弦羽早は後方へ飛び上がると、空中で背中を逸らせるようにして前衛に身構える麗暁の正面へと叩き込む。

 

それを捉えるのを不可能と判断し、麗暁はすぐにシャトルから避けその先にいる紅運へと託す。

 

角度の浅いスマッシュを紅運は着地したばかりの弦羽早へと返す。

綾乃は瞬時にそのドライブに食らいつこうとするが、麗暁の視線が自分の足元を一瞬観察したことに気付いて蹴るのをやめた。

 

その選択は正解だった。

 

並みの選手なら着地直後のボディへのドライブ返しには体勢を崩すが、弦羽早の体幹がその程度で緩むことはない。着地してすぐ、まるで地面に根っこが生えているような安定感で飛んできたドライブを目いっぱいの力と重心を籠めて打ち返す。

 

それまで女子二人のドライブ合戦は行われていたが、男子の打ち合いはこの最終局面においてほぼ初めてだと言ってもよい。コート中央(ミドルコート)からドライブを打ち合う二人の前にはそれぞれトップレベルの前衛二人が構えている。

だが彼女達は手を出さない、手が出せないのであった。

 

彼女達の選球眼ならドライブをタッチするのは容易い。しかしこのドライブは常に彼らの重さが込められている。重いシャトルは強い反発力を持つため、並のタッチではまず間違いなく浮く。そうなれば必ず相手の前衛に狩られるため、手を出せずにいた。

 

同時に男子二人もまた、一番威力のあるストレート以外の選択肢を封じられている。サイドに狙う為にコースを狙った瞬間、僅かに軽くなった球を前衛が叩くからだ。綾乃の直感、麗暁の分析力はその域に達している。

 

先に音を上げたのはやはり弦羽早だった。有千夏曰くこのコート内でもっともすぐれた重心と体幹を持つ彼だが、筋力やリストの強さは紅運に劣る。また、トッププレイヤーの彼が重心の扱いを知らない訳がなく、そうなるとやはり最後は力が物を言った。

 

上がったロブ球。待ってましたと言わんばかりに意気揚々と紅運はスマッシュを打ち込む。

最高速のスマッシュに対して弦羽早はストレートにロブを上げ返す。その体はよろめかない。

 

【(面白いね。ノック練習なら勝負してみたいけど!)】

 

紅運の次のスマッシュは手を伸ばすだけでは届かない、シングルスとダブルスの二本のサイドラインの中央へ迫る。加えて弦羽早のバックハンド側。

あくまでシャトルが地面に落ちるコースへと彼はシャトルを打つ。

 

しかしパァン!とまたもやシャトルの音がアリーナに響いた。バドミントンに精通している者が集まるこのアリーナでも、そのレシーブが並ではないと気づく者は一部だった。

 

【(本物だなこの少年。今のスマッシュをロブで返せるか…)】

 

返ってこないと慢心していた訳では無いが、しかし間違いなくショートレシーブだろうと構えていた麗暁は目を見開く。

理由は二つ。手を伸ばしながらバックハンドで打つ場合、フォアハンドのように腕を開いて打てない分、どうしても威力が落ちる。

そして一歩で届くバックハンド側の球を打つ場合、利き足でない足を出して打ち込むため、どうしても踏ん張りが弱くなり威力が減衰する。

 

だが今弦羽早は左足を一歩出し、そこを体の軸とした状態で右手で打った。あまりに自然とやるものでそれが普通に見えてしまうが、麗暁でさえ驚きを隠せないプレイだ。

 

続く三打目。流石にロブで守りに徹するのは限界だと判断し、弦羽早はクロス気味にドライブを打って逃げる。すかさずタッチして前に落とす麗暁だが、今度は綾乃が取る。

 

ラリーは終わらない。

 

ヘアピンを交わす前衛、上がるロブ。打ち続けるスマッシュにカウンター。互いのローテーションがグルグルと目まぐるしく回る。一打打つ毎にポジションが変わるのも当たり前なぐらい状況が一転する。

 

80回、時間で言うと二分近い長いラリーが続く。

麗暁のカットドロップに対し、綾乃は冷静に再度ロブを上げて攻撃に転ずるタイミングを待つ。

その綾乃の視界に、ひらりと一枚のシャトルの羽が舞った。

刹那、ひらめいた綾乃は自分が打った回転するシャトルを睨む。

激しいドライブ合戦、紅運のスマッシュ、長いラリーを続けたシャトルはサーブ前は綺麗だったのが嘘のように傷ついていた。

 

「(狩れる!)」

 

スマッシュのフォームを取る麗暁に向けて綾乃はニヤリと口元を歪ませる。そして彼女の強打と共に、綾乃は態勢を低くして前に出た。

 

「なっ!?」

 

おそらくそれは、コートを含めアリーナ全員が驚愕に包まれたプレイングだった。あの有千夏でさえ目を一瞬開く。

そして打った瞬間に麗暁は自分の打ったシャトルの音が籠っていた事に気付く。

完璧なフォーム、位置、運動エネルギーで打った筈の自分のスマッシュは、元来より明らかに遅かった。

 

バシン!

 

スマッシュが文字通り、サービスラインを越える前に叩かれた。

 

『オ、オーバー! 21(トゥエンティワン)  ―  21(オール)!』

 

呆然とする麗暁と紅運、いや、パートナーである弦羽早もコートに落ちたシャトルを見つめる。

ラリーを始める前は傷一つなかったそれはあちこち傷んでおり、一枚だけ羽が落ちていた。シャトルは当然傷がつく程に飛びにくくなり、威力も弱まる。それを瞬時に把握してのスマッシュに対して前に詰めるプレイだった。

 

【…シャトルが傷んでいるのに気づいて前に出た? 悪い夢でも見ているようだよ】

 

愉快気な紅運だったが決して余裕からのものではないことは、彼の正体を知らない者からしても明らかだった。その眉はピクピクと痙攣している。

 

「…弦羽早、この二本で、決めるよ」

 

「…ああ」

 

コンと拳を交わし合って二人はポジションへ着く。

綾乃は審判から渡された新しいシャトルを持つと、乱れる息と揺れる肩を一呼吸おいて落ち着かせる。

 

綾乃の体力、弦羽早の集中力どちらも限界が近づいている。残り二本、ここで決めなければ未だ体力・集中力共に余裕のある麗暁と紅運を倒すことが不可能となる。

 

一点も落とすことができない、最終版のラリーが始まった。

 

 

 




今回ゾーンに入りました。攻撃力4000をリリースなしで通常召喚してきたりしそう。

あとゼロポジションは漫画でも出た単語ですが、実際は重心がゼロの状態って訳ではなく、概要は今回上げたので基本間違いではないと思います。
なんでわざわざリアル路線にするのと言われるとちょっと後に繋がるので。

綾乃のゾーンが早すぎかなと思ったりもしましたが、麗暁戦・なぎさ戦ラスト・益子さん戦では少なからず入ってたんじゃないかなと。



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決めろ

これでやっと麗暁&紅運戦ラストです。

…やっとか。


サーバーは綾乃、レシーバーは紅運。悪くない組み合わせだ。

麗暁(リーシャオ)紅運(コウウン)のペアは従来のミックスダブルス同様、男子がレシーバーの時でも女子が前に構えている。故に多少浮いた球を打っても激しいプッシュが来ることはない。

 

もっとも、今の綾乃にとってサーブミスなどは縁もゆかりもない。

 

ショートサーブ、上げられるロブ、それを弦羽早が打つ瞬間に試合が大きく動き始める。

 

もはや弦羽早の集中力、綾乃の体力は風前の灯と化している。こういった状態では無我夢中に力の限り打ってネットに引っ掛けるか、あるいは楽なドロップショットやクリアーを打ちたくなるのが人情。

だが逃げない。弦羽早はその存在を意識する事のできたゼロポジションをこれでもかと利用して、スマッシュを麗暁のバックハンドへと叩き込む。

 

それを前に押し出す様にしてストレートのドライブで返すと、予想通り綾乃が詰めてくる。

 

綾乃は二回ほどコントロールの難しいバックへと鋭いプッシュを打ち込むと、三回目に返って来たシャトルをトンとネット前に落とす。いくら麗暁とはいえ、ミドルコートでラケットを振った直後に届く距離ではない。

だが綾乃の行動を読んでいた紅運が麗暁の前に入り込み、二階で試合を見下ろしているヴィゴと有千夏も顔を上げる程の高いロブを上げ時間を稼ぐ。

 

ここまで高いロブだと落下速度が速くなるのでタイミングを合わせにくい。ジャンプは危険だと、足を付けた状態で目いっぱい体重を籠めた弦羽早は、トンとドロップショットを繰り出す。

 

完全に重心を固定していた二人はガクッと体がブレるが、出の速い麗暁がすぐに拾いに行く。

再び上がるロブに、弦羽早はスマッシュを打ち込む。

 

バシュン!

 

一段階速度の上がった弦羽早のスマッシュだが、その速度に麗暁も慣れて来たのかレシーブに余裕が生まれる。元々混合ダブルスの一位でもある彼女は速いスマッシュにも慣れているのは当然だが、ここに来て変化量の激しいスマッシュに対しても安定して返すのは流石の修正力だ。

 

「(ならこれは!)」

 

三回目のロブに対し、弦羽早はラケットを持ち替えて左手でスマッシュを二人の間へと打ち込む。打つ手が左手になったことでノビが良くなったスマッシュに麗暁はワンテンポ遅れるが、元々中央の球はパートナーに任せるつもりだったので関係ない。

紅運が前衛の綾乃から離れた右サイドへと球を落とす。

 

「(ここで落としても麗暁が前に出てくる)」

 

ならばと綾乃は紅運のラウンド側にハーフ球を送って一旦下がる。打ちにくいラウンドのハーフ球を攻めたのなら前でもよい気がすると、記者の誰かがポツリと呟いたが、綾乃の判断は正しかった。紅運は空中で背面を逸らしながらハーフ球の最高点でシャトルを叩く。

 

「(分かってたけど…)」

 

「(ここに来てこの二人…)」

 

「「(堅い!)」」

 

正面に差し込んできた球に対し綾乃はクロスの前へと落とす。かなり際どいサイドラインよりの球だったがそれも難なく麗暁が取り、綾乃も前で粘ったもののヘアピン勝負に勝てずにクロスのロブを上げて逃げる。

 

紅運のスマッシュを拾ってくれると弦羽早が綾乃を信じたように、今度は綾乃が弦羽早を信じてのクロスのロブだった。

紅運はこのゲーム何十本目かのスマッシュを打ち込む。流石の彼も疲れが見えて来たのか肩で息をしているが、スマッシュの質が落ちることは無い。

 

左手に持ち替えたままの弦羽早は右のサービスコートに立っており、そのサイドライン、つまりバックハンド側へとスマッシュが打ち込まれる。

だが持ち前の右足を突き出して左手で打つという神業でストレートのロブを上げそれを耐え、続く右脇腹へのパワーの乗ったスマッシュも持ち前の体幹でブレぬままロブを上げる。

 

そして三打目。

 

前衛の麗暁は手元でラケットを持ち替える綾乃の姿に気付き、すぐに声を掛けようとするが遅い。

三打目はもっともレシーブが難しい弦羽早のラケットを持つ左肩。右、右脇腹とラケットが下がっている弦羽早に対しては致命的な一撃。これが速さや重さだけではない、組み立てるスマッシュ。

だが――

 

「避けて!」

 

主語を言う暇がないのか彼女の声は切羽詰まっていた。しかしその声にデジャブを感じた弦羽早は素早く体を右に反らして、彼女のラケットを邪魔せぬよう避ける。

 

麗暁の短い髪がふわりと舞う。僅かに羽の掠ったチッという音が耳に深く残っている。

ゆっくりと振り向くと、何が起こったのか理解していないのか困惑した紅運の顔があった。おそらく鏡があれば自分もそんな顔をしているのだろうと麗暁は思う。

 

『ポ、ポイント! 22(トゥエンティトゥ)  ―  21(トゥエンティワン)

 

「…あのスマッシュを打ち返しマスか」

 

「読んでた、が正解でしょうね。紅運の組み立ては本来なら完璧だった。ラケットを右に誘い、続けて下におろす、そこから肩口に攻められたらあの速度のスマッシュは私でも返せない」

 

その組み立ては完璧だった、故に読める。そこまではまだ分かる。

だがパートナーのボディへ飛んできた球を打ち返そうとする馬鹿は普通存在しない。そんな事をすればシャトルに当たる前にパートナーの体を打つことになり、下手すればコンビ解消の事件に発展する。

 

いや、よしんば仮に当たらなかったとしても、パートナーの元へと飛ぶあのスマッシュを打ち返す為にパートナーの元へ行く瞬発力、あの速度のスマッシュを振って打ち返す動体視力はセンスの一言で済ませるにはあまりにも異質だ。

 

「(綾乃は強打に慣れてるけれど、あそこまでのスマッシュは私も打てない。おそらくあの子は視て打ったんじゃなくてコンマ単位の秒数で測って振った。ま、スマッシュ縛りしてたらそうなるか…)」

 

娘の成長にクスリと笑みを浮かべながら、有千夏は最後のラリーが始まるコートをジッと見つめる。

おそらくここで綾乃と弦羽早が取れなければ、限界に達し負ける。

 

 

 

 

最後のラリー前、綾乃と弦羽早は半ば無意識の内にタッチを交わす。

 

「(これが最後…。ここが、ホントに限界…)」

 

疲労からカタカタと震えるラケットを腕に力を入れて無理やり抑えながら、綾乃はジッとレシーバーである麗暁を見つめる。彼女は視線だけで射殺せるかというほどの覇気を籠めてサービスラインギリギリいっぱいまで立つ。

 

ネット越しから詰められるプレッシャー、グッと前に寄る重心、マッチポイント。

これは麗暁の掛ける脅しだった。この状況でなおショートサーブをしてくるのなら来い。ただし”私はロングを待っている”と彼女の圧はそう語っている。

 

スポーツにおいて重要な精神。そこへのプレッシャーを与えるのは何もプレイ中の動きだけではない。こういった、構えや点数、空気感を利用してプレッシャーを与えることもできる。

 

だが綾乃の瞳はブレない。依然暗い瞳のまま、睨みつける麗暁を無表情のまま見つめ返す。

 

【……】

 

綾乃はニヤリと、口が裂けたと思う程気味の悪い笑顔を浮かべる。それにピクリと麗暁のラケットが揺れた瞬間に綾乃はショートサービスを放つ。

 

【(この土壇場で私にプレッシャーを与えるか)】

 

有千夏の娘だからこそできる技だと、ナチュラルに義理の母親を貶しながら麗暁はヘアピンにスピンをかける。

回転の掛かったヘアピンにヘアピンを返すのは部が悪いと、ロブを上げて防御の体制へと移る。

 

【(あ~、そろそろスマッシュ以外打ちたいんだけど。まあクリアーくらいいっか)】

 

上がって来たロブ球にこれまで我慢していた紅運に限界が来ていた。

 

有千夏から言い渡された条件二つ。

一つはガットの張りの強さ(テンション)を低めのラケットを使うこと。もう一つはロブ球に対してスマッシュ以外打たないこと。

 

これが守れたらそこそこ真面目に戦ってよいと言われたのでそれまで言うことを聞いてきたが、例え勝つのが目的ではないとしても負けるのは嫌だ。

とはいえドロップを交えて打ちだしたら間違いなく有千夏に怒られるので、クリアーなら許してもらえるだろうと言う甘い気持ちで放つ。

 

クリアーを想定していなかった弦羽早は完全に出遅れるが、崩れることは無くクリアーに対して同じくクリアーで返す。

 

【(…クリアー打っちゃったしドロップもいいよね?)】

 

投げやりな思考とは裏腹の覇気のある紅運のジャンプ。それに身を構える二人の前に、今度はドロップがポンと落とされる。

 

「ぐっ!」

 

弦羽早が完全に出遅れてしまったので、今度は綾乃がフォローに入って弦羽早の前のシャトルをもう一度ロブで逃げる。

二人も紅運が球種を交えて来ないのは感づいていたが、この最終局面で使ってくるぐらいなら最初から使ってきて欲しかったのが本音だ。完全に調子に乗った紅運の三打目は急いでホームポジションに戻ろうとする綾乃目掛けてのスマッシュ。

 

「ッ!」

 

綾乃はとっさに後ろに倒れながら、正面に伸びてくるスマッシュを無理やり跳ね返す。ドスンと尻もちをつく綾乃の前へ麗暁が無慈悲にもヘアピンを落とすが、弦羽早がフォローに入り更にストレートのヘアピンを送る。

 

【(綾乃が倒れてる状態で前…? 私に上げさせたいのか)】

 

ならばお望み通り奥まで走ってもらおうと、麗暁はクロスの奥へと低めのロブを打つ。

弦羽早は後ろへ走らされながらも綾乃が起き上がったのを確認すると、後方へ跳びながら無理やりドライブ気味に強い球を放つ。

 

「ここでドライブは悪手だろ!」

 

記者の一人が思わずそう声を上げた。

現在綾乃は左サービスコートのネット前でようやく起き上がったばかりで、弦羽早が反対の右奥に追い込まれた状態でのドライブ。つまり右前から左後ろにかけたラインががら空きとなっている。

そして速いショットを打つということは、当然返球も速くなってくる。これでは二人は態勢を立て直す暇もなくなる。

 

案の定、ドライブを拾う紅運は右前へとシャトルを落とす。

 

「任せろ!」

 

急いでフォローに入ろうとした綾乃の耳にパートナーの声が響いた。

後ろに飛びながらドライブを打った弦羽早だが、着地と同時に地面を蹴って重心を前に出し、全力で前に詰めていた。その無駄のない動きは、最初からそこへの球を誘っていたのだろう。

 

イノシシの如くコートの奥から突っ込む弦羽早に麗暁は慌てて後方へと引こうとするが、防御の体勢を取る前にそのボディへとプッシュを打ち込む。

 

【ッ!】

 

だが自分が狙われていると分かっていた麗暁もまたボディへのショットを後ろへ移動しながら返球する。コントロールをつける暇もなく放ったシャトルはゆるやかに弦羽早の頭上を越えた。

間違いなく絶好球だが、全速力でネット前に突っ込んできた弦羽早は体がネットに触れないよう足を踏ん張っており、流石彼も硬直状態となっていた。

 

だが彼は一人で戦っているのではない。

 

「決めろ!綾乃!」

 

彼の背中からスッと一人の少女が現れる。空中でラケットを構える冷たい瞳の少女は、世界ランキング一位を見下すようにそのラケットを振り下ろした。

 

コン…コン…

 

地面に叩きつけられたシャトルは一度だけバウンドし、コルク音が小さく二回鳴った。

 

『ゲーム!マッチワンバイ!羽咲綾乃、秦野弦羽早! 

23(トゥエンティスリー)  ‐  21(トゥエンティワン)!』

 

「嘘だろ…世界ランク一位に、勝ちやがった…」

 

まるで夢で見ているのかと呆然と呟く健太郎の声をかき消すように、記者たちと登録選手達から大歓声が沸き起こった。

弦羽早はネット前に息を乱しながら立ったまま、目を白黒させて呆然たる顔をしている対戦相手二人をジッと見つめていたが。

 

「あぅ…」

 

背中から可愛らしい声がして慌てて振り返ると綾乃が倒れ掛かって来た。

 

「おっと」

 

ゾーンに二度も入る程に集中していた弦羽早だったが、疲労から倒れ込む程ではなかった。無論今から試合をしたら小学生に負ける自信があるくらいにはもう体中の筋肉が悲鳴を上げていたが、ただ、大切なパートナーを受け止める体力だけは残っている。

 

抱き留めた彼女の顔は、緊張の糸が切れたのと共にふにゃふにゃと崩れている。そんな彼女の頭を優しく撫でる弦羽早だが、体幹の良さをいいことにかなり無茶苦茶な動きをしたツケが溜まってかバタンと後ろに倒れ込む。

どうやら受け止めらえる体力は残っていると言うのは嘘だったようだ。

 

「あたた…。ごめん、大丈夫?」

 

「大丈夫じゃない。疲れたよぉ…」

 

「そりゃそうか」

 

今日五試合目の彼女に”俺もだよ”とは言えなかった。ただよく頑張ったと彼女の頬を優しく撫でる。

 

ここに来る前に有千夏と話をしていたのが遠い昔のようだ。綾乃が自分を見下していたとか、綾乃に認められたい一心でプレイしていたことが、何もかもどうでもいい。

ただ目の前の少女が自分のペアでいてくれることが誇らしかった。

 

「イヤ~大変素晴らしい試合デシタ!」

 

パチパチと拍手に釣られて皆が顔を上げると、ヴィゴがニコニコと胡散臭げな笑みを浮かべて立っていた。

 

「改めてご紹介しマス。羽咲綾乃チャンです。彼女には是非私が主催する育成制度に入ってモライ、世界を目指してモライマス。勿論、秦野弦羽早クン。君も大歓迎デスヨ」

 

「私は…」

 

チラリと自分を抱き締めてくれる弦羽早を見上げる。

 

「(弦羽早と一緒ならいい、のかな…? でも…)」

 

自分をバドミントン部に誘ってくれた健太郎、最初はギスギスしてたがジャンピングスマッシュを一応教えようとしてくれたなぎさ。薫子から負けた時に心配して来てくれた理子、悠、空。ダブルスの練習に付き合ってくれた行輝と学。

それは決して傍から見れば強い繋がりとは言えないかもしれないが、綾乃にとっては弦羽早以降の始めてバドミントンを通じて出来た仲間だった。

 

今彼女達を見捨てて、団体戦に出ずに個人シングルと混合ダブルスだけ出て、その両方で優勝できたとしても自分の心は満たされないだろうと直感が告げた。

自分がバドミントンを通して欲しいものは、いなくなった有千夏だけではないと。

 

「綾乃。俺は綾乃に付いて行くよ、どっちに決めたっていい。ただ、自分がやりたいことに素直になればいいんだ」

 

「…私は」

 

綾乃は再度自分を取り囲む皆を見る。見知らぬ顔が沢山あったが、その中にはスポーツドリンクを両手に持って心配そうにこちらを見つめている健太郎と、少し困惑した瞳でギュッと肘を掴むなぎさ。

二人の持つリストバンドを見つめていると、トントンと弦羽早の手が肩を叩いた。

 

弦羽早はある一点を指さしており、そちらを向くと綾乃の瞳が明るく輝いた。

ずっと会いたかった長い黒髪と白いリボン、そして優しい表情で自分を見つめてくれている有千夏の姿がそこにあった。

 

「皆と…やっとバドミントンを通じて出来た友達と、一緒に全国に行きたい…。その後、弦羽早と一緒にメダルを取ってお母さんの待ってる世界に行く…。お母さんは待ってるって、約束してくれたから…」

 

綾乃はキュッと左手のリストバンドを握った。リストバンドの中にあった有千夏からの『世界で待ってる。ファイト!』と書かれたメッセージカード。

そして心の底からコートの半分を預けられるパートナーと共に、シングルスもダブルスも、彼と一緒に世界を目指したい。

 

そう答える綾乃へ、有千夏は微かに瞳を潤わせながら微笑んだ。

 

 

 

 

 

【まさか負けちゃうなんてね~】

 

【これでお前の似合わない金髪と肌ともおさらばだな】

 

【君は学生用のウェアが良く似合ってるよ。なんなら園児服も着れそうだ】

 

笑い合う二人の間には穏やかな空気などはなく、一触即発の空気が流れている。

 

【スマッシュ打たれ過ぎじゃない?】

 

【お前も、綾乃に翻弄され過ぎだ】

 

ダブルスパートナーの関係と言うのは人それぞれで、お互い励まし合うのが基本なのかもしれないが、この二人は容赦なく互いの反省点を指摘し合う。

世界ランク一位と言えど負けなしの訳ではなく、負けた試合の後は毎回こうして気まずい空気が流れている。

もっとも信頼故の行動であるが、毎回周囲の関係者を冷や冷やさせている。

 

紅運は濡れたタオルで肌を拭くと、そこには東洋人の黄色い肌が露わになり、強く止めていた金髪のカツラを取って短い黒い地毛へと戻る。

麗暁はピンを外すとたくし上げていた前髪が解放され、中性的な見た目は年相応の女性らしい雰囲気へとなる。

 

【二人ともわざわざありがとね。結構大変だったでしょ】

 

変装を解いた二人に少し不慣れな中国語が話しかけられた。二人の前に現れたのは彼女達のかつてのコーチである有千夏。

 

【ほんとだよ。汗はかいてはいけない、カツラは動きにくい。おまけにスマッシュしか打ったら駄目って】

 

【最後のラリー約束破っただろ】

 

【あはは、いいよいいよ。綾乃も弦羽早君も想像以上だったからさ。皆まで聞く必要はないと思うけど、あの子達どうだった?】

 

【まだまだ動きは甘いし改善点は多いけど…】

 

【ああ、次で会うのは世界でかな】

 

教え子二人の評価に満足げに口元を上げると、有千夏は二人と共にヴィゴアリーナを去って行った。

 

 

 




ぬわーん疲れたなぁもーん!
最後のラリーがアッサリでしたけど、これ以上書けませんわぁ。

今後もはねバドらしくバドミントンを中心に書いていきますが、一試合にこんだけ話数かけるのは多分これで最初で最後です。
この二人のペアが格上と戦う機会が少なくて、格上相手にこの二人がどうやって戦うかを考えていたら乗っていました。

麗暁のバックグラウンドがほとんど無いので紅運との関係はハッキリと決めていませんが、お調子者と静かなタイプに別けてみました。



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支えたい

今回短いです

流石にこれからも毎日投稿とかできないです。カキカキしつつ気分で貯めてるの消化していきます。



目覚めは良いとは言えなかった。

変な時間に長時間寝てしまったせいか少し頭は痛く、体の内側に鉛を埋め込まれたかのような重さがあった。

瞼を開いても窓の隙間から覗き込む太陽の日差しはなく、電化製品の小さいランプだけが部屋を照らす光源となっている。

 

ゴソゴソと枕元を漁ると買って間もないスマホを発見した。電源を入れると画面には23:30と刻まれており、これでもかと睡眠を取ったばかりの綾乃に今日の終わりを無慈悲に伝える。

 

「寝すぎた…」

 

悩み毎ではなく不規則な睡眠から来る弱い頭痛に頭を押さえながら綾乃は小さくため息を吐く。

 

ただ意気消沈していた彼女の表情はものの十数秒もすれば、その口角が自然と上がっていた。

 

眠りから覚醒し出した綾乃は今日あった出来事を思い返す。朝の開会式の挨拶がまるで遠い昔のようで、薫子との試合から一日も過ぎていないなど考えられない。

そのくらい、眠りにつく直前の出来事は綾乃にとって大きかった。

 

「…シャワー」

 

ゆっくりと思い返せば、帰ってすぐ着替えるだけ着替えた記憶はあり、汗まみれの格好で眠り風邪を引く事態は免れたようだが全身のベタベタは取れてない。

良く親友のエレナには女子力がないと茶化される綾乃だが、化粧っけや色恋と洋服への興味が薄いだけで、立派な女の子だ。

 

既に寝静まった一階へと降りてシャワーを浴びる。

 

体のベタつきが流れていくのを直感できるこの瞬間はやはり至高である。汗をかく楽しみの一つと言っても大言壮語ではない。

 

頭の先から爪先へと流れ落ちる温水。それをじっと見つめながら綾乃はポツリと呟いた。

 

「弦羽早…」

 

ほぼ無意識の内に出たその名前に綾乃は閉じていた唇を僅かに動かした。

 

ずっと会いたくて会いたくて、そして遂に会うことができた大好きな母、有千夏。彼女の笑顔を二年ぶりに見て、てっきり自分の中は有千夏との思い出で溢れると思っていたが、それよりも思い出すのは共に戦った弦羽早とのやり取り。

その事に不思議と思うものの違和感はなかった。

 

 

――アリーナで会ったときちょっと様子が変だったかも。

 

――最初紅運のスマッシュを見た時、動揺する私の為に冷静になってくれたんだな。

 

――弦羽早が二人の正体に気づいたとき、様子が変なのは分かってた。それなのに自分のことでいっぱいいっぱいで当たっちゃったな。

 

「明日、改めて謝った方がいいのかな?」

 

自分が全部悪いとは思っていない。ただ一言何か優しく語るだけでも良かったのに、よりによって。

 

「ダブルス嫌いはないよ私ぃ…」

 

有千夏に会うためにと集中して、格上の相手であると分かり切羽詰まって、麗暁(リーシャオ)との激しいラリーの末にやっと上げさせたチャンスボールをネットに引っ掛けられた。

確かに怒るには十分な条件が備わっているが、バドミントンに限らずペア競技でパートナーのミスに怒るのは、それこそ失点ほぼ全てでもない限りNGだ。しかもただ怒るのではなく、ダブルス、つまりはパートナーを否定する発言。

完全にやってしまったと青息吐息の状態のまま、シャワーを止めて、沸かしてあった湯船へと浸かる。

 

「しかもあのサーブ、改めて思い返すとアウトだったかも…。うーんでもなぁ…」

 

ピリピリした空気の直後の、弦羽早のアウト発言。

あれも思い返せば少し冷静さを失って選球眼が濁っていたかもしれない。しかし、それこそライン上にコルク半分だけ掠めるくらいでなければ直感的にインとアウトか分かる自信もあるので肯定もできない。

 

ただこの場合インかアウトかはどうでもよく、あのまま無視してワンマンプレイをしてしまって、結局弦羽早に助けてもらったこと。

 

「あれもカッコ悪かったな。うん」

 

自虐気味に笑う綾乃だが、ダブルスでワンマンプレイをやろうと思ってやれるのがそもそもとんでもない事で、加えて弦羽早のフォローも遅い方だったのだが、今の彼女に客観的意見を与えてくれる人物はいない。

 

「(でも…)」

 

弦羽早なら良いと言ってくれるだろう。いや、それどころか謝ってくれた。

 

それを優しいと同時に凄いと思えた。たった1ゲームという体感時間では長くとも実際は短い時間の間で、目まぐるしく動いた自分の感情を彼は自己分析していた。

それは綾乃が無自覚の内に求めているもの。

 

ただそれを弦羽早が持っている事に対して、綾乃の胸の内がざわめきを帯びることはなかった。

 

だからだろうか。弦羽早の事を考えてもイライラしない。むしろ楽しかった。

 

彼と繋ぎあった激しいラリー。そこから得た1つ1つの得点が誇らしく、自分のミスで失った1点が歯がゆい。

文字通り持てる全てを出しきった試合は、打ってない球種を探す方が難しく、右手も左手も、フェイントも強打も、運も実力も全部使いきった。

 

だがそれでも追い付けない相手だった。世界ランク一位というのは手を抜いてなお、世界の頂点たるに相応しい強さを持っている。

それ程までに大きな差を綾乃は生まれて初めて味わった。ネット越しに佇む絶対王者二人の正体を知り、まるでネットの向こう側が巨大な壁に見えた。

 

心が折れ掛かってゴチャゴチャになっていた自分を支えてくれたのは、自分の名前を紡いでくれた優しい声に、ちょっと汗臭い匂いと硬い身体だった。

 

『…じゃあ、もっと支えたい。もっと一緒に戦いたい。俺が憧れた綾乃はこんなに強いんだぞって、日本だけじゃなくて、世界中に自慢してやりたい』

 

『だから、綾乃にも自慢して欲しい。俺ってパートナーがいて、そんな俺をいつも支えて、綾乃の存在が俺を強くしてくれるんだって』

 

脳内にリフレインする弦羽早の言葉と温もりに、頬の筋肉が緩むのが分かる。頬をムニムニと何度も揉んでみるがそれは変わらない。

 

弦羽早は以前にも憧れてると言ってくれた。その言葉を疑っていた等では断じてないが、彼は負けられない試合という中で世界の頂点を相手に意思の強さを証明してくれたのだ。

 

それは自分という存在が秦野弦羽早の支えになれたと自負するには十分で、これまでのバドミントンと強く繋がりあった人生を肯定されたかのようで、体の内全てが達成感と幸福感で満たされる。

 

これまで同学年から向けられてきた敵意や嫉妬とは明確に違う感情は、綾乃に確かな喜びを与えてくれた。

 

「えへへ…」

 

やっぱり明日謝るのは辞めよう。確かに気まずくなった瞬間はあったけれど、そこを乗り越えて大きな壁を乗り越えたのだ。感謝こそすれど謝るのは弦羽早に対しても、過去の頑張った自分に対しても失礼な気がした。

 

それに弦羽早に対して気を使いたくなかった。めんどくさいとか不純な理由ではなく、もっと気を許せる関係になりたい。

エレナやのり子のような友達、北小町バドミントン部のような仲間とも違う、パートナーとして。

 

「…弦羽早は私が支えになってくれてるって言ってくれた。私も弦羽早も支えてもらってる」

 

羽咲家の大きな和風の浴場に自分の声がこだまする。

 

ただ同じ”支える”という言葉を使ったが、自分と弦羽早では僅かにその内容に相違がある気がした。

 

「(私は弦羽早に支えてもらった。合宿、エレナとの喧嘩、薫子ちゃんに負けた時に今日の試合でも。でも弦羽早の支えになってる私はそういうのじゃないと思う)」

 

弦羽早は支えになっていると言ってくれたが、やはり再会してから自分が何かしてあげた記憶はない。

でももう疑わない。絶対に弦羽早の支えになれているんだと、自分を卑下するのは辞める。

きっと支えになっている形が違うのだ。それがまだ分からないだけ。

 

「(私はもっと弦羽早の日常を支えたい。だから私も弦羽早と同じように、弦羽早を支えにできたらいいなぁ)」

 

たった1ゲームという短い時間の中でも、それがコートの中だと綾乃の心を動かすには十分な時間だった。

 

有千夏に会う為に無我夢中だった試合の最中は辛かった。足はガクガクと震えていたし視界はフラついて、心臓がバクバクと破裂しそうで、その中で集中を深め続ける気力は一晩寝るくらいでは戻らない。

 

でも言葉を交わさずとも変化できるローテーション、ラリーを終える毎に重ねた手のひら、互いにフォローに入り、強みを活かす為の配球。

 

ダブルス経験の浅い綾乃でも、あの時の弦羽早とは繋がり会えたと胸を張って言える。

またあんな風に弦羽早とダブルスがしたい。

 

「明日の試合、応援にいかないと」

 

湯船のお湯をすくって顔を洗い、明日のパートナーの戦う姿を想像しながら笑みを浮かべた。

 




やっと、やっとデレ咲さんになってくれました。あんなに試合書いたのも、ここまでやったのなら少なくとも自分の中ではデレ始めることに違和感ないかなと。

自分の書きたかったデレ咲さんが、有千夏のいなくなった穴を埋めるというよりも、原作開始時からの羽咲さんをデレさせたかったのでここまで伸びました。

しかしここまで28話。序盤短い回もあったとはいえテンポが悪い。
でもようやく大きな一歩を成し遂げたぜ。


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リアクションステップ

デレ咲さんになっても相変わらずミントンやってます。

デート回なんぞ知らん


あとデンマークオープン始まりましたが、まだ試合も結果も見てないのでどうなってるかは知りません。

実際コニーの世界ランクってどれくらいなんでしょう。




「怠い…」

 

麗暁(リーシャオ)紅運(コウウン)との死闘の翌日。弦羽早は疲れの取れない体で、男子シングルスの地区予選会場に足を運んでいた。

たかだが21点の1ゲーム。小学校二年、綾乃に憧れてバドミントンを始めてからほぼ毎日動かし続けていた体はその程度で悲鳴を上げるはずがないが、何事にも例外がある。

 

絶対に負けられない試合の相手が世界最強の二人。

 

体全身働かせ、脳をフルスロットル、全神経を集中させ、最後には感情を爆発させてようやく勝ち取る事ができた試合。あれ程の疲労感を覚えた試合は中三の決勝を含めても初めてかもしれない。

 

おかげで手足に上手く力が入らず、疲れているのか口は甘いものを欲し、頭がボーとしてやる気が出ない。

これでも昨日寝る前までは有千夏と再会した事、世界ランク一位に勝った事、そして何より綾乃を自然と名前呼びできるようになってハグもしたことでテンションが上がって勢いに乗っていた。

上がり過ぎて寝れなかったのが間違いなく不調の一番の原因だろう。

 

「おい秦野大丈夫か~?」

 

「…体調、悪そうだな…?」

 

試合を共にする行輝と学がラケットバッグを猫背で背負う弦羽早へ語り掛けるが、覇気のない返事が返ってくる。これが別の高校の選手であればライバルが減った事に喜ぶべきだろうが、北小町期待の新人が一回戦負けとなれば笑い話にもなりはしない。

おかげでその一歩後ろでそのやり取りを見ていた健太郎は朝早くから頭を抱えていた。

 

「(おいおい!なんで昨日世界ランク一位に勝ったのにそんなにテンション低いんだよ!羽咲ともいい雰囲気になって至れり尽くせりじゃねーか! 不味い。完全に予想外だぞ…。確かに昨日の試合は限界以上の力を出し切ってたが…)」

 

何でこうもうちの新人二人は強い癖に変な傾向があるのかと内心絶叫しながらも、半分は冷静な自分を保って何とか弦羽早のモチベーションを上げる方法を考えようとしたが、徒労に終わった。

 

「弦羽早!」

 

男子三人と健太郎の背中から少女の声が聞こえる。聞き覚えのあるがその明るいトーンに、行輝は違和感からギョッと目を見開く。学もまた口を数ミリ開いた為一応驚いているのだろう。

 

弦羽早の名前を呼び止めたのは、制服姿の綾乃だった。半袖のシャツから露出した腕や太ももに湿布が貼られていることから昨日の疲れが残っているのが分かるが、その表情は明るかった。

 

「羽咲!?」

 

昨日アリーナを出たあと、気絶するように眠ったため今日は家にいるものとばかり想像していた彼女の姿に、弦羽早は思わず癖で苗字が出る。

呼び方に不満があったのか、彼女は眉を寄せて目を細べながら。

 

「ちゃんと名前で呼んで」

 

「え? あ、綾乃…。その、大丈夫なの? 家で休んでた方がいいんじゃ…」

 

筋肉痛になっているのか綾乃の歩き方は少し不自然で歩幅も狭い。とにかく綾乃の事となると挙動不審になる弦羽早はオロオロと彼女を心配するように歩み寄る。

 

因みにここまでは店の従業員が送迎してくれたのか、見覚えのある車種が校門の前を横切ったがそれに気づく者はいなかった。

 

病気の子供を心配する親のような弦羽早に、綾乃は目をパチクリさせたあと、小さくクスリと笑みを浮かべた。どこかゆとりのあるその仕草と雰囲気に、ついには学も瞬きを繰り返す程で、行輝に至っては空いた口が塞がらない。

 

「確かにちょっと辛いけど大切なパートナーの試合なんだよ? 応援するに決まってるよ」

 

「え…? もしかして、応援に来てくれたの?」

 

「うん!頑張ってね!弦羽早なら絶対、シングルスでもインターハイ行けるよ!」

 

 

 

 

アリーナ中で行われる10の試合は体育館中に音を響かせるには十分な音源であった。シャトルの音、フロアを蹴るシューズの音、審判のジャッジに声援。

 

二の句が続かないとはまさにこの事だと健太郎は呆然とそのコートを見下ろしながら思う。今朝弦羽早を心配した彼ほどではないが、なぎさを含む女バドメンバー全員も彼と似たような心境だろう。

 

「シャアッ!」

 

他の試合の音を掻き消さんとばかりの激しいスマッシュが対戦相手のコートを突きし、グッと拳を握って掛け声を上げる弦羽早を見れば、普段の彼を知る人物が口を開くのは当然だった。

 

弦羽早はまさにノリに乗っていた。初戦から三年生が相手だったがそんなものはお構いなしと2ゲームストレート勝ち。続く二回戦も同じく1ゲーム落とさずの快勝。

 

「ほんとどうしたのバッサー…。いや、それを言うならあやのんもだけど…」

 

「ナイッショー弦羽早ー」

 

さしてやる気の感じられない声援を送る隣席の綾乃を横目でチラリと見る。

悠だけでなく、昨日の試合を見ていない健太郎となぎさを除く面々は疑問ばかりが浮かぶ状況だ。

 

「…綾乃がなんで秦野を名前呼びかは知らないけど、あいつの絶好調の理由はまあ」

 

全員の視線がコートで行われてる試合を集中して見ている綾乃へと集まる。

素人目から見ても絶好調の弦羽早だが、余りにも単純過ぎるだろうと、勝っているのにも関わらず冷めた視線を同校メンバーから浴びていた。

 

 

 

それから短針が1時を周り、激しい点数差がつく試合も減ってきた頃、弦羽早とまで好調とは行かずとも学も行輝も順調に勝ち進んでいた。

三人しかいない北小町男子バド部全員が残っているというのもあり、少なからず他校の注目を浴びていた。

彼等の他の注目選手は、やはり女子同様、港南高校と逗子高校のメンバーが頭角を表している。

 

次の行輝の相手はその二つとは別の高校ではあるが、去年高校一年でベスト4入りの実力者というのもあり緊張していた。

弦羽早の対戦相手は港南の二年、学は逗子の三年と当たることとなっているが、どちらも団体戦レギュラーメンバーであるがエースではない。

 

「次の試合作戦あるの?」

 

「今日調子がいいからそんなには。でも遅い展開が好きみたいだから、序盤低めでいくつもり」

 

もう間もなく今日最後の試合ということで、綾乃に背中を押してもらい足を伸ばす。

寝不足気味の弦羽早だったが、今日はほとんどの時間綾乃が隣に居てくれ応援してくれるおかげで、エンジンは衰えることなく稼働し続けている。ただ自分でも一時的なものであると自覚はあったので、待ち時間中も意識して休息は取っていたりと自己管理は忘れていない。

 

「綾乃はどう思う? シングルの公式試合って久しぶりだから先輩として」

 

「私は…動かした方がいいと思うな。今日は弦羽早動きも速いし、無理して決めにいかなくていいんじゃない?」

 

バドミントンには試合のラリーの速さというのが当然存在する。シングルもダブルスもミックスでもそれは例外ではないが、基本的にシングルの方がラリーの緩急が激しい。というのも、ダブルスはコートに二人いるため甘い球は叩かれやすくなり、自然ネット寄りの配球が増えてくる。一方シングルは多少角度が甘くとも相手のいないコースを狙えば叩かれる可能性は少ないので、プレイヤー同士の駆け引きによって速くなったり遅くなったりと変化が大きい。

 

「そっか。確かに調子的にそっちの方がいいかも」

 

「でも弦羽早は緩急の付け方が得意だから、ラリー毎に上手く相手が嫌なペースに持っていくのが一番だよ」

 

「そのペースを見抜くのが難しいんだよね」

 

その辺りの読みが出来るのは志波姫や薫子といった頭脳派と、綾乃やコニーのような直感派であるが、弦羽早はプレイヤーとしてコートに立つとそこまで頭が回らず、かといって直感でラリーのテンポを変えられるセンスもない。

中学時代ほとんどダブルスオンリーであったのも原因の一つだろう。

 

まだまだ改善すべき課題は多くあると、前屈のストレッチをしながら苦笑する弦羽早の耳元に背中を押してくれている綾乃の吐息が掛かる。

 

「じゃあ私でいいなら今度教えよっか? 感覚頼りだからそんなに為にならないと思うけど」

 

「う、うん…。す…凄い助かります…」

 

「な、何で敬語?」

 

男同士でアップをする彼女のいない面々から嫉妬の眼差しを向けられながら、それに気付かぬ弦羽早は思う。

 

「(俺、明日死ぬんじゃないかな)」

 

 

 

 

『ポイント!12 - 7』

 

先にインターバルを取り、続くポイントも獲得。序盤こそラリー毎にサービスが変わる展開だったが、これで4点連続ポイントとなる。

 

「やっぱり調子いいね、弦羽早君」

 

「ああ、しかもスマッシュが明らかに速くなってる」

 

理子の呟きになぎさも視線をコートから逸らさないまま小さく頷く。

なぎさが昨日の二人の試合を見出したのはインターバル前からだが、ある瞬間を境に弦羽早のスマッシュが一段階上のものになったことになぎさはすぐに気づいていた。

一瞬で身体に変化が起こり得る訳がないので、何かコツを掴んだのは間違いないが、そのコツが見抜けない。

 

ただ周りより集中して弦羽早を観察している分、彼のプレイの変化には気づいていた。

 

「それに秦野はただ調子がいいだけじゃない。あいつ、ステップが変わってる」

 

「えっ?そうなの?」

 

そう言われて理子はシャトルよりも弦羽早の足元に視線を集中させるが、動きが速くなっているのはなんとなく分かるが、足の動きの違いまでは分からない。

 

「ああ、そもそもあいつの出はちょっと違和感あったからな。いや、変じゃないんだけど上級者らしくはなかった」

 

「ごめんなぎさ、私にも分かるように教えて」

 

「あいつ、リアクションステップじゃなかったんだよ」

 

リアクションステップ。スプリットステップとも言われる技術だが、内容はそこまで大げさなものではなく、相手が打つ瞬間に膝を一瞬下ろす、あるいは軽くジャンプをすることで次の球に備える動作だ。

 

最速の競技のバドミントンにおいて出の遅さはそれだけでハンディになるが、しかし予想とは意図せぬコースに飛んで来る事など日常茶飯事。

その為棒立ちで立っておくのではなく、相手が打つ瞬間に跳んで、地面を蹴る力を利用してスタートダッシュを速くする。これは中級者以降になれば相手が打つ度に無意識に行っている。

 

弦羽早はこれまで有千夏に言われどんな球でも重心の移動から始めており、それが出の遅さに繋がっていたが、綾乃とのダブルスで意図せずリアクションステップを使う機会が複数回あり、その時の感覚で今も動けているのだろう。

 

理子も中学校からバドミントンをやっているのでリアクションステップの大まかな概要は知っているし実際に行っているが、改めて弦羽早の足元を見ると自分のそれとは僅かに違うように見えた

 

「でも普通とちょっと違う気が…」

 

「あ~、私も詳しくないけどリアクションステップにもいくつかあるらしくて…」

 

バドミントンの勉強が嫌いではないが、しかし習うより慣れろを素で行くなぎさは基本忘れっぽい。それは綾乃にジャンピングスマッシュを教えるときの説明を見れば、火を見るより明らかだ。

 

今聞くより後で健太郎にでも聞けばよいかと、頭をかくなぎさからの説明は期待できないと判断した理子だが、後ろから特徴的な口調のアニメ声がその疑問に答えてくれた。

 

「片足リアクションステップですわ」

 

「芹ヶ谷!?」

 

「芹ヶ谷さん!?」

 

「げっ…薫子ちゃん…」

 

それまで試合をジッと見ていた綾乃も、先輩二人の声に振り向くや、そこにいる派手な顔立ちの少女に眉をピクリと動かした。

 

「…あなたたち、昨日あれから何があったんですの?

今朝から時折見かけましたがイチャイチャイチャイチャ、悪い夢でも見ているようでした」

 

私服のスカートを揺らしながら綾乃の後ろの席に腰を下ろす。彼女の脳裏には、今朝から見かける度に一緒にいる弦羽早と綾乃の姿が浮かび上がる。

 

薫子はあれから綾乃が怪しい老人ことヴィゴに連れていかれた事は知っているがそれだけで、だからこそ綾乃の変化には度肝を抜かれていた。

 

「…そんなのじゃない。ただ、弦羽早は私を大切なパートナーだって言ってくれて、私もそう思えるようになったの」

 

「…まあ、いいですわ」

 

昨日のダブルスの話をしてないため答えになっていなかったが、綾乃が皆まで言う性格でないのは理解している。

綾乃もまた薫子に対して、自分の変化を伝える義理もないので、まるで彼女がいないかのようにまた弦羽早への応援に戻った。

ただその空気は明らかに先程よりかは冷たい。

 

「…そ、それでも芹ヶ谷さん! 片足リアクションステップって?」

 

二歳年下の二人の重い空気に耐えきれず、理子が話題を切り出す。

 

「あぁ、説明するなら特別大したものではありません。そのまま、両足ではなく片足で着地するリアクションステップです。ご覧なさい、珍じーー秦野弦羽早は着地する瞬間に、蹴るのとは反対の足を僅かに上げてあえて片足で着地しているでしょう?」

 

珍獣と言おうとした瞬間に綾乃の黒い横目がこちらを向き、薫子は一度こほんと咳払いをして言い直す。

 

「…こ、細かすぎて分からないけど言われてみればそんな気が…」

 

跳ぶと言ってもほんの微量の跳躍なので、上から見下ろす形となる応援席からでは見えにくい。理子は眼鏡越しに映る弦羽早をよく観察するが、確信が持てるほどではない。

 

「片足で着地する利点は一歩目を省略できる分、両足で着地する時よりも出が速くなる。デメリットは向かう方向とは反対の足で蹴らないといけない為、踏む足を間違えると大きなロスになる」

 

「両足はグッタタンって感じで、片足はタタンって感じだよな」

 

「…荒垣さんは何を言ってますの?」

 

「気にしないで。いつもの事なの」

 

まるで幼稚園児を見るような生暖かい瞳に、なぎさはカッと顔を赤くしてすぐに項垂れる。

 

よい選手がよい指導者になるとは限らないの同様、教え方が上手いからと選手として強いわけではない。

そう自分に言い聞かせるようにぶつぶつ呟くなぎさを無視して薫子は話を続ける。

 

「ほとんどの人が両足なのは単純にリスクが低いから。泉さんは利き脚も右だと思いますが、フォアに来たからと咄嗟に左足で蹴ってそのままブレずに踏み込めますか?」

 

「ノックなら行けると思うけど試合中には難しいかも……そっか!」

 

「片足リアクションステップはあの奇妙な両利きとマッチしている。勿論片足リアクションステップを使えるプレイヤーは普通にいますが、基本両足との使い分け。あんな風に毎回片足とはそうできません」

 

「す、凄いね…」

 

実行している弦羽早は当然だが、それを読み取れる薫子の観察眼に対しての称賛でもあった。

なぎさも見るだけならできていたのだが、それを説明するとなると薫子に軍配が上がる。

 

「あれ? ていうことは弦羽早君ができるってことはもしかして?」

 

「…ええ、羽咲さんも当然そうですわ。どちらかというと使い分けタイプですが、片足をメインに使っています」

 

薫子はじっと、目の前の綾乃の後頭部を見つめる。

 

理子には説明する気はないが、綾乃がいることによるゲームテンポの速さは単に片足リアクションステップが原因ではない。

確かに片足リアクションステップは両足より難しくはあるが、理子がノック練習ならできそうと言ったのは自意識過剰ではなく、慣れれば誰でも習得できる。

だが先程も言った左右の足の使い分けを間違えると大きなロスになるため、両足の着地の方がリスクが少ないのでそちらが主流なのだ。

 

綾乃のタッチの速さは、打つ前に片足リアクションステップを行える読みの鋭さ。

本来なら相手のシャトルの軌道を見てから着地して地面を蹴るが、綾乃はその読みで打つ瞬間とほぼ同時に蹴り始める。それで的外れの方へ跳ぶのなら笑い話だが、彼女のここ一番という時の鋭い読みは外れない。

故に、まるで予期していたかのように打った場所に彼女はいる。

 

「(ほんと、嫌になるくらいの天才ですよあなたは)」

 

「ナイスコ~」

 

他人の試合を応援する綾乃という、薫子にとっては奇妙な光景が視界に映る。

チラリと点数ボードを確認すると試合は20-13で弦羽早が勝っており、加えて相手のミスが目立ち始めた。まだ1ゲーム目だがもう勝敗は決まったようなものである。

 

相手のレシーブミスで弦羽早が1ゲームを取ると、薫子は席を立ち上がりなぎさと理子に一礼するとその場を去った。

チラリと後ろを振り返るが綾乃の頭はピクリとも動かない。やはり態度が柔らかくなったのは弦羽早に対してだけのようである。

 

「(秦野弦羽早があなたにどのような影響を与えるかは分かりませんが、それでより強くなるのなら上手くいくことを願っていますわ。ただ…絶対にあなたより先にわたくしが素敵な殿方をゲットしてよ!)」

 

ファンクラブまでいるこの自分が、あの綾乃に恋愛方面でも遅れを取るわけには断じていかない。

薫子は本来の目的である健太郎を探すため、応援席を周り始めた。

 

 




解説子ちゃんが頭角を現してきたな。この子便利。

ところで健太郎に惚れた設定いる?


それと綾乃の片足リアクションステップは原作でも時折そのシーンありますね。麗暁戦となぎさ戦でそのコマがあったと思います。


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話してごらん?

前回弦羽早と綾乃のやり取りに、試合の展開を低めで行くという台詞にご質問がありました。
その返信の改変ですが説明を。

低めというのは地面との距離、つまり高さの事を指してます。前後関係的な意味でネットに近い場合はネット寄りと称しています。(サービスライン寄りとも書いたりします)

低い球が中心となるとシャトルと地面の距離が短くなるので自然と速く動く必要がでて、結果ゲームスピードも速くなるといった感じです。

ただその分、配球のパターンが少なくなるので、綾乃はゲームスピードを無理してあげるくらいなら配球を意識して相手を前後に動かして、相手の好きな速さに付き合えばいいんじゃない?ってことでした。

説明不足で申し訳ないです。お言葉に甘えて本文ではなくこちらで補足させて頂きました。



「(今日の試合楽しみだったのに…。つまんない…)」

 

ギュッとラケットを握る左手の力を強め、ネット越しに立つ息を乱す男女二人に眉をひそめる。自分と彼等は本当に同じスポーツをしているのかと、全く乱れる気配のない己の呼吸に意識を向けるが、意図して呼吸を抑えようとしてはいなかった。

今の自分は自然体でありながら、息切れとは縁のゆかりもない状態だった。

 

綾乃は斜め後ろに立てかけたスコアを確認する。

 

18‐0

 

ゲーム開始から一度もサーバーは移る事なく綾乃が打ち続けている。まともなラリーというのも精々五回がいいところで、あとは相手が勝手に自滅したり少し前に落とすだけで点が取れてしまい、ローテーションも綾乃が後ろに下がる展開は一度しか起こっていない。

それくらいラリーが続かずに一方的になり、しかしどういう訳か相手は息を乱している。

 

「頑張れー!」

 

「1点だけでも取ろう!」

 

「1点…?」

 

対戦相手のコーチ席に座る同校の応援に、自然と頬が引き攣るのを感じた。

 

「(1点でいいってよりにも応援が言うの?)」

 

その感覚が綾乃には理解できなかった。

自分達と彼等との間に明確な差が開いている事は、アップ練習の段階で綾乃も理解していた。だから手に汗握るような激しいラリーを望むほど期待はしていない。

それでも実力差があろうとも、弦羽早と組む以上試合には集中して入り込みたかった。

 

だが相手の二人はほんの一ミリたりとも勝とうという気を感じられなかった。ミスをすれば反省する素振りもなくヘラヘラしており、息は切れているが目の前の球を全力で取ろうと言う気迫が無くラリーを続ける事自体を諦めており、自分達の弱点を探そうと模索もしない。

応援するメンバーもまた一点で良いと最低の妥協案しか提示しない。

 

その癖ラリーが終わる毎に一々向き合ってタッチを交わすのが、尚の事綾乃を苦虫を嚙み潰したような顔にする。

 

ショートサーブ。上がったロブを弦羽早がスマッシュを打てば一点。

ショートサーブ。浮いた球をプッシュすれば一点。

ショートサーブ。相手がアウトに打って一点。

 

「…なにこれ」

 

インターバルに入った直後、綾乃はそうポツリと呟いた。

喉は乾いていない。なんなら授業間の休憩時間のおしゃべりの方が喉が渇くくらいだ。拭く汗は一滴も出ていないし、当然パイプ椅子に座るほど疲労もしていない。

だが何よりも、次のゲームをどうやろうという考えが一切出てこなかった。

 

ーー期待外れだった

ーーアップはこれまでにして少し本気を出そう

ーー練習中の球試してみよう

 

格下相手でもインターバルに入れば、いくつか思うところはこれまでにもあったが、今は何も思うことができない。

 

「……」

 

「なんか感じ悪いよね」

 

「え?」

 

そう言ったのはスポーツドリンクを手渡してくれたエレナだった。

 

「あんた達二人に勝てないって思うのは普通だと思う。だって世界ランク一位倒しちゃったんだし、私から見てもあの二人ってそんなに上手そうじゃない。でも真面目に試合をするって誠意くらい見せるものじゃないの?」

 

対戦相手の方をチラリと睨みつけるような視線を向けながら、少し小さめのエレナの言葉は、綾乃の心中の霧を薄くしてくれた。

 

「…エレナでもそんなこと思うんだ」

 

「喧嘩売ってんの?」

 

トーンが沈んだエレナの声に綾乃は慌てて両手を振る。

 

「そうじゃないの。私も同じこと思って、だから…」

 

「二人ともそんなに気にしなくていいよ。地区大会の第一試合はもっとも実力差が出やすい。それにミックスって仲のいいアピールで出るカップルもいるみたいだし」

 

「弦羽早」

 

ポンポンと撫でられる頭に首を上にあげてみると、彼の表情もまた笑顔とは言えないものではあったが、その纏う空気にはゆとりを感じられた。

 

「綾乃はちょっと試合に入り込み過ぎ。この試合はアップ感覚でいいんだから」

 

「で、でも…弦羽早とのダブルスすっごく楽しみにしてたのに、なんか…軽くやるのが嫌って言うか」

 

少しばかりトーンの低い綾乃の声は不機嫌というより、まるで期待外れのクリスマスプレゼントをもらった子供のように拗ねているように見られた。

 

何しろ綾乃が最後に戦った相手は、部活仲間の練習試合を除くと世界ランク一位のペア。弦羽早は翌日シングルスがあったため対戦相手の落差に思うところはなかったが、綾乃にとっては弦羽早を大切なパートナーだと思えるようになったきっかけというのもあり、まだあの時の余韻が残っていた。

その感覚を意識的に維持したまま一週間を過ごした末の初戦がこれだ。

 

綾乃は弦羽早に同意を求めていた。

軽い気持ちでやりたくない。同じ気持ちだよと。

 

でも返って来たのはフフッと余裕のある笑い声だった。

 

「な、なんで笑うの!?」

 

「い、いやゴメン。でもさ、俺達これから全国一位目指してたくさん試合するんだよ? 八月のインターハイは勿論、全日本ジュニアも出たい。おばさんが待ってる世界も決して夢物語じゃない。それなのに毎回そんなに気を張ってたら疲れるでしょ?」

 

「あっ…」

 

パートナーの言葉をきっかけに、綾乃はこの一週間の自分と周りの変化を思い返す。

 

あの試合をきっかけに、彼を支えたいと弦羽早と一緒にいる時間が増えた。互いの得意分野を教え合って、教室の中でもバドミントンの話で盛り上がった。そうすることでよりダブルスの質をより高め、今日の試合に臨むために。

 

同時に試合を境に明確に変わったのはなぎさだった。

かつて自分に負けたなぎさは今度は勝つためにと、特にこの一週間の彼女のやる気は強かった。

今日も練習を優先して応援には来ていない。

 

「(弦羽早を支えたいって思いと、なぎさちゃんと戦いたいって気持ちを、私はこの試合にごちゃ混ぜに持ってきてたんだ)」

 

そう気付くと自然と肩の力が抜けて、対戦相手へ抱いていた苛立ちが少し弱まった。

 

「確かに、気が張ってたのかも。エレナも怒ってくれてありがと」

 

「え? 別に私は思った事言っただけだし…」

 

思いの外アッサリとした綾乃の反応にエレナは少し困惑しながらも、悪い事ではなさそうなので頷いた。

 

「(自分の事を分かるってほんとに難しい…。それにやっぱり相手の態度は気に入らない、正直ウザい。くたばれ。でも弦羽早がいなかったら自覚できないままそう思ってたかも)」

 

自分の気持ちを自分で理解できるかできないか。その違いは大きい。

現にインターバル前は次のゲームどうしようかと何も考える気も起きなかったが今は違う。

相手にやる気がないのなら、一点たりとも渡す気はない。もし本気で一点でも自分達から欲しいものなら本気で向かってこいと、綾乃は妥協する事を辞めた。

 

だが綾乃の思いは空振りに終わり、相手はヒートアップする事なく、それどころかギアを上げた綾乃にげんなりするような視線を向けたまま、続くゲームも21‐0で終わった。

 

 

 

 

神童×奇才 最強の混合ペア現れる

 

綾乃と弦羽早の写真と共に大々的にそう載せたのは、バドミントン雑誌バドラッシュ。

バドミントン界隈ではそれなりに有名な雑誌で、その与えた影響力は大きかった。バドラッシュの記者はどうやら麗暁(リーシャオ)紅運(コウウン)の変装を見破ったらしく、変装前と変装後の二人の写真と共にその試合結果を公表した。

非公式戦ながら世界ランク一位の混合ダブルスペアに学生、それも高校一年生の二人が勝利した。

 

それが話題にならない訳がなく、特に二人がいる神奈川県の高校バドミントン界隈を震わせるには十分だった。

 

最初はガセネタかと笑うものもいたが、始めに変装を見破ったバドラッシュに続く様に次々と他の出版社も同じ試合の写真を載せた為それも真実味を帯び、世界ランク8位の赤羽玲二を始めとするトッププレイヤー達も見ていた事から、ガセネタの可能性はあっさりと潰された。

 

因みに二人がハグしている写真や弦羽早が綾乃を抱きかかえている写真も載せてあり、クラスメイトやコニーを筆頭に宮城メンバーが盛り上がっていたが、当の綾乃がその辺りに関しては全くの無反応だったので鎮火も早かった。

 

そんな二人が会場に来たらどうなるか、そしてもし対戦相手となればどうするか。

 

答えは明白である。会場を二人で歩いているだけで目立ち、人混みに歩けば蜘蛛の子を散らす様に去り、握手を交わす対戦相手の顔は端から勝つ気が無い。

 

――最初から消化試合感覚でやられるのってあんまりいい気持ではないね

 

弦羽早がそう言ったのは一試合目が終わった後の事だった。

人の良い弦羽早が自分と同じ思いを持っている事に綾乃は内心ホッとしたが、ただ彼に対してもどこか自分と感覚が違うことに気付いた。

 

麗暁と紅運との試合を得て、綾乃にとってダブルスとは繋がりを感じられる競技となっていた。

それまでバドミントンで他人と繋がるなど考えた事もなかった綾乃が、コニーの言葉を通して出来た新しい目標。その目標に綾乃はあまりにも短い時間でたどり着いてしまった。

 

どんなに強い相手でもパートナーと息を合わせ信頼し合うことで勝つことができる、シングルスには無い支えが存在する。

 

その考え自体は少々大げさなかもしれないが悪いものではない。ただ綾乃にとってバドミントンの価値観とは即ち人生の価値観に直結するものであり、だからこそバドミントンで得られた新しい価値観と異なる行為をコート内でやられると虫唾が走る。

 

「ゴメンね!足引っ張っちゃって」

 

「気にしないで。一本頑張ろう」

 

作ったような甘ったるい女の声と意図して低くしている不自然な男の声に、綾乃は手に持ったシャトルを潰すのをグッと堪える。

三回戦目。今回は一戦目と二戦目のように端からラリーをする気がない無気力試合とは違ったが、綾乃のこめかみを引き攣らせるには十分な相手だった。

 

三回戦目の相手は端的に言うならバカップル。恋愛に疎い綾乃でさえ分かるくらいにアピールがクドい。

毎回ラリー毎の手を合わせる行為は当たり前で、こちらが失点した時には女子の方は飛び上がりながら両手でタッチをしたくらいだ。

マナー違反であると審判に警告を受けたが、綾乃の苛立ちが収まる訳ではない。

 

綾乃も多少のバカップルくらいにここまで苛立ちは覚えないだろうが、対戦相手の二人もまた勝ちたいという意欲を感じられないのが助長させていた。

まるでこの混合ダブルスという種目そのものを、カップルである事のアピールの場か何かと見ている。一点一点を取る気は合っても、試合に勝つ気がない二人を見ているとそう思えてならない。

 

また短いラリーが終わり相手のコートにシャトルが落ちると、女子は自分の足元のシャトルを拾わずにわざわざ男子の方まで寄って手を合わせたあとに、またシャトルの元まで戻って綾乃へ送る。

 

「…ねぇ、一々タッチするの辞めてくれない? 試合のテンポ遅れてるんだけど」

 

試合のテンポは口実だった。

本当の理由は軽々しくその行為をして欲しくなかった。綾乃にとってその行為は、試合の合間という限られた時間の中でコミュニケーションを取り合いコンビネーションを高めるもので、神聖と言うには大げさだが、仲良しアピールを目的として軽々しくして良いものではなかった。

 

「え~、でもみんなやってるし。それに試合中にハグしてた人に言われたくないなぁ」

 

「ッ!あれはッ!」

 

よりによって自分に手も足も出ず勝つ気の無い人間にあの時の抱擁を馬鹿にされ、綾乃はギリッと歯を強く噛む。

対戦相手の少女は元々そういった行動に現すスキンシップが好きなタイプなのだろう。仮にも世界ランク一位を倒した、今この会場で最も注目を浴びている綾乃から注意を受け、少なからず控えめになった少年に対しても、むしろ嫌がらせのようにタッチを求めていた。

 

「綾乃」

 

「…なに?」

 

機嫌を損ねた綾乃の瞳とトーンの暗さは、パートナーである弦羽早の額からも冷や汗が流れる。

 

「今日の朝ご飯なんだった?」

 

「は? ふざけてるの?」

 

「いいからいいから」

 

屈託のない弦羽早の笑顔に押され、いつもより早起きしてくれたチヨーが作ってくれた朝食を思い出す。

 

「…カツとサラダと、ご飯にお味噌汁」

 

「おっ、カツ、いい願掛けだね。じゃ、続きも頑張ろう」

 

「……うん」

 

また気を使ってくれたのだろう。

確かに頭の中の思考を切り替えたおかげか、胸の内の苛立ちが少し冷めていた。

こういったパートナーに対する気遣いの上手さも弦羽早がダブルス向きな要素ではあるが、今回に関しては相手に対する苛立ちは減っても、今度は弦羽早に対して疑念が生まれた。

 

だが多少メンタルがブレたところで二人の強さが変わらない。ミスが増え失点があったものの、それでも2ゲーム合わせて10点も取られる事なく二人は勝利した。

 

何事も無く終わるのを望んでいた弦羽早だったが、最後コートを離れる際に対戦相手の少女がわざとらしく少し大きめの声で。

 

「いいよね~、天才って。試合中ハグしても注意されるどころかもてはやされるんだもん」

 

「お、おい!」

 

二人の試合をコーチ席で見守っていたエレナが勢いよく立ち上がり言い返そうとしたが、少女は言うだけ言って逃げるような早足でアリーナを去って行った。パートナーの少年と視線が合い彼は頭を下げていたが、本気で謝る気があるのなら直接目の前で謝るべきだろうと、エレナの怒りが収まる事はない。

 

「なにアレ!信じられない!」

 

「個人競技だしああいう人もいるさ。勝ったのはこっちなんだ、言わせておけばいいよ」

 

バドミントンはダブルスというルールはあれど、サッカーやバスケ程強固なチームワークがなくとも形になる。つまり個が強くとも競技として成立する以上、元々自我の強い人間はチームを気にする必要がないので素が出やすい。

勿論厳しい高校やフレ女のような強豪校になれば、そう言った面も徹底的に矯正されるが、彼女のいる高校では厳しい指導のないゆるい部活なのだろう。

 

「秦野、あんた悔しくないわけ!?」

 

「それはいい気分じゃないけど、一々そんな事でコンディションは崩せない」

 

「…私はムカつくよ」

 

ポツリと吐き捨てるように呟いた少女の名を、弦羽早とエレナの声が重なって呼ぶ。

 

「私にとってあのダブルスは大切な時間だった。抱き締めてくれた弦羽早の言葉と感触、今でも覚えてる。ほんとに…嬉しかった。それをあんな雑魚に馬鹿にされてそれよりもコンディションが大事? よくそんな簡単に割り切れるね」

 

綾乃は弦羽早に対する確かな好意を表すのと裏腹に、彼に対する怒りが込められていた。その言葉の重みと冷たい声が、針の雨のように弦羽早の胸を突き刺す。

これまで何とか不安定だった綾乃のコンディションを整えようと、多少無理してゆとりのある雰囲気を出していたが、作り笑いを止める。

 

「…その、ゴメン。でもさ、明日はシングルスの本選なんだ。順調に勝ち進めば荒垣先輩と当たる事になる。だから綾乃には――」

 

「…今、理屈の通った話は聞きたくない。ゴメン、次の試合までには戻しとくから、それまで一人にさせて…」

 

彼が全てを言い終える前に遮ると、綾乃はバッグを抱えてアリーナを去った。

その背中を追うのを拒絶された弦羽早は青菜に塩でガックシと肩を落とす。

 

「…どうして綾乃の事になると上手くいかないんだろ…」

 

「今回はあんたも悪い。まっ、あんたには借りがあるし、私が話聞いて来るよ」

 

「…ありがと」

 

 

 

 

 

人気の少ない体育館裏の細道。日陰と日向の境目が目の前にある通りで、太陽の熱を帯びていない影の中でうずくまるように綾乃は座っていた。

 

今回の一件で弦羽早が悪くないのは分かっていた。悪いのは自分の心の狭さと、お遊びのバドミントンと同レベルの有象無象達。

 

「(多分弦羽早はこうなることを気にしてたのかも)」

 

ここ一週間弦羽早は余り自分からミックスダブルスの練習をしようとはせずに、シングルスの練習に力を入れていた。綾乃に対しても、対戦表を見る限り今日はそこまで気合を入れる必要はないと何度か言ってくれた。

 

でも弦羽早と楽しい試合をしたいと忠告を無視し、ここ一週間のモチベーションの焦点を明日のシングルスではなく今日に当ててしまったのが今回のモヤモヤのきっかけだった。

 

今日のハードルを上げてしまった結果、用意されたハードルは低いどころか、世界ランク一位を倒したという称号の所為でハードルが地面ギリギリまで自ら下がっていく。

 

「…ああいうお遊戯でやってる連中は、コートに入ってきて欲しくないんだけどなぁ」

 

「あんまりそういう事は声に出して言うもんじゃないよ」

 

誰が聞いているか分からないでしょ? 

そう付け加えてひょこっと角っこから現れたのは親友のエレナ。

 

どうしてここが分かったと質問する前に、そう言えば以前エレナから、綾乃は日陰と日向の境目が好きだと言われた事を思い出した。無意識の内に選んだ場所だったが、確かにここも境目のすぐ目の前だ。

 

彼女は綾乃のすぐ隣に同じような姿勢で座り込む。その際よいしょと言うのが年寄り臭いが、妙に合っているのは彼女に年不相応の母性があるからか。

 

「だってホントのことでしょ。一回負けたら終わるトーナメント戦であんなにヘラヘラしたり、一点でいいとか考えられる神経が理解できない。その癖どいつもこいつもいっちょ前にタッチしてさ」

 

「確かに三戦ともやる気のある相手とは言えなかった。三戦目の相手は特に酷かったと思う。でもね、その人たちを庇う訳じゃないけど、やっぱりアンタ達はそれに相応しいくらいの事をやってみせたんだよ。何が何でも絶対に勝つって全力で挑んでくれる人は早々いない」

 

「…私、理屈の通った話は聞きたくないって、言わなかった?」

 

「じゃあアンタと一緒に他の選手貶せばいいってわけ? ラケット振った事もない私にはお門違いよ」

 

「…そうじゃないけど」

 

やっぱりエレナも説教に来たんだと、ブツブツと唇を尖らせる綾乃に、内心エレナはホッと息を吐いていた。もし喧嘩した時と同じ状態の綾乃になれば、励ますどころかこちらの心が折れかねない。

口調に毒があるながらも、目に光がある状態なら交渉可能だ。

 

「私はね~、今回の事は秦野にも問題はあると思ってる。勿論一番悪いのは対戦相手のあの女だけど」

 

「そんな事ない!弦羽早は悪くない…」

 

この話題で初めて声を荒げたのが弦羽早に対する非難の抗弁である辺り、本当に極端だと思いつつも、それだけ綾乃の中で件の試合が大きかったのが伺える。

 

「あんたさ、秦野のこと聖人君子か何かと思ってない? あいつああ見えて適当なところあるし、意外とドライだからね」

 

「そんな事ない。丁寧で気配りができて、優しいもん…」

 

「そりゃあ綾乃に対してはね。あいつ綾乃には甘いから。で、別にそこはいいの。ただ秦野だって普通の人間なんだから、常に正しい事言ってるとは限らないって伝えたいわけ。

今回の一件も秦野の言っていることは理屈では正しいかもしれない。でも理屈通りに動かないのが人間でしょ? 綾乃が大事にしてる試合をあんな風に馬鹿にされて怒らないのはちょっと理屈通りに考えすぎだと私は思ったわけさ」

 

「…うん、あそこは怒って欲しかった。薫子ちゃんに怒った時も――」

 

あの時自分のこと以上に怒ってくれて嬉しかった。

そう言いそうになったが、あの時の自分はどういう訳か弦羽早にフォローされるのを極端に嫌っていた。自分が惨めに見えるから止めて欲しいと、彼に明確な苛立ちを覚える程に。

 

「(ひょっとして私、かなり我が儘なこと言った?)」

 

自覚が生まれた綾乃はタラリと冷や汗を流すが、幸いにもエレナとは反対側の頬を伝ったおかげでバレてはいない。

 

「つ、弦羽早はもういいの。元々弦羽早に怒ってた訳じゃないし」

 

墓穴を掘りそうだったので多少強引だったが話題を切り替える。それに弦羽早に対して多少腹を立てていたものの、苛立ちの切っ掛けではないのは本当だ。

 

「ん~、じゃあさ、話してごらん? 私は未経験者だし、何かに無我夢中になって取り組んだことないから聞かなきゃ分かんないや」

 

「えっと…」

 

このモヤモヤを誰かにぶつけたいのは確かだった。だがいざ言葉にしてみろと言われると、途端喉の奥につっかえて上手く説明できない。

 

かつてバドミントンをしたくないと言っていた綾乃であれば、この時点で逃げ出していただろうが、改めて自己分析をする。

 

一試合目、二試合目、三試合目。各々試合中に抱いた苛立ちと不満を思い出していき、一分近くの時間を要して初めて口を動かし始めた。

 

「まず初めから勝つ気がないのなら、それってもうバドミントンやる意味ないよね? 100均のラケットとシャトルで外で打ち合ってればいいじゃんって思った」

 

「う、うん…。それは対戦相手の人には言わないようにね」

 

「で、仮にも一丁前に高いシューズとラケット持って試合にエントリーしてるのに、よくあんなヘラヘラしたり一点取れたら十分なんて考えができるなって。私なら恥ずかしくてコートの中に立てない」

 

「あ、綾乃。もうちょと声のボリューム下げようか。ほら、昔みたいに」

 

「しかもニ回戦と三回戦の相手三年生だって。高校から始めたにしてもあれは弱すぎでしょ。なんかさ~、雑魚の癖にミックスを軽く見てるんだよね~。一応知識があるのかサービスの立ち位置変えてるのが尚の事滑稽。仲良しごっこ大会がしたいなら運動場空いてるしそこでやるべきだよ。

何より毎回タッチし合うのが目障りで不愉快、虫唾が走る。そんなのに労力使うのなら少しでも脳味噌働かせるべき」

 

「ちょっと黙ろうか綾乃!」

 

弦羽早とのダブルスを得て丸くなったと思ったがとんでもない。むしろ確実に口の悪さと態度のでかさは悪化している。

しかも意図して悪口を出そうとしておらず、素直に口から出た言葉なのが尚の事恐ろしい。

エレナは災いの元である健康的な唇を挟むと、辺りをキョロキョロ見渡して誰も聞いていないかを確認し、ホッと胸を撫でおろす。

もしこの事をこれまでの対戦相手に聞かれでもしたら、乱闘に発展しかねない。今の綾乃なら男数人で来られてもコートの内外問わずに返り討ちにしそうだが。

 

「あんたね、いくら私しかいないからって言い方には限度があるでしょ?」

 

「話してって言ったのはエレナじゃん…」

 

「とにかく、私以外にそんなこと言っちゃ駄目だから」

 

「は~、めんどくさいなぁ~」

 

壁に背中を預けて足を組むでかい態度の綾乃に、エレナは入学当初の思い出す。

彼女が一番つらかった中学時代に気づいてあげられなかった自分が偉そうな事は言えないが、にしても短期間で変わり過ぎではないか。ただそれまでの綾乃が素ではなく、今が素に近づいていると思うとやはり強く言えない自分がいる。

 

それに綾乃の気持ちは聞いたが、彼女がどういった線引きをしているかが分からない。

 

「綾乃は自分より下手な人全員にそんな風に思ってるの?」

 

「そんな訳ないじゃん…。私は別に弱いから文句があるんじゃない。試合っていう戦う場に来て端から諦めてるのは勿論、抗う気力も無い、ラリーを続ける根気も無い、考える努力もしない。その癖形だけのコミュニケーションは取ってダブルスやってる気になってる連中が気に入らない。加えてマイナーなルールだからってミックスを浮いた気持ちでコートに入って軽く見てるのが尚のことウザい」

 

「じゃあ、コート内に恋愛を持ち込むなってこと?」

 

「…ちょっと違う。恋人同士で出るのはいいんだと思う。でもミックスって種目を勘違いして欲しくない。コートの中は仲のいいアピールをする場所じゃなくて、他の種目と一緒でちゃんと勝負事の場所として見て欲しい。シングルの時ここまでイライラしなかったのは、そういう奴が多いから」

 

ほぉとエレナは感嘆の息を吐いた。罵倒という罵倒を繰り出した後なので意外だったが、綾乃の根底にある思いはスポーツマンとして至極真っ当な考え方だった。

確かに素人であるエレナにも今日の会場の空気は正直緊張感が薄く、浮かれた顔が多かった印象だ。勿論全部が全部そういう訳では無いが、カップルを抜きにしても想像より多いエントリー数に比べて勝敗を重んじてない空気があった。

 

そのエレナの感覚は間違っておらず、実力者の女子が男子のスピードに馴れる為や、あるいは女子は前衛、男子は後衛の練習としてエントリーする者もいる。つまり一枠しかないミックスは本命ではなく、それ以外の部門の為の練習の場という訳だ。

 

「今の話を秦野にしてやりな。そしたら今の二人ならすぐに仲直りできるよ。いい、くれぐれも一番最後の話だけするんだからね?」

 

「え~…。そもそも弦羽早と喧嘩した訳じゃないし、それに私の苛立ち収まってもないし」

 

「…ホントめんどくさいわねあんた。じゃあどうしたいの?」

 

「根気も実力も無い雑魚カップルに明確な差を見せつけたい」

 

「言い方…。ていうか、差なんて付けまくってんじゃん。あれだけボロ勝ちの試合そんなにないから」

 

この子はどうしてオブラートに包むことができないのかと肩をすぼめながらも、二人のこれまで試合のスコアを思い返す。第三試合でも合計失点が十点以下と、注目に恥じない結果を残している。

 

「それ以外にもあると思うんだよね。私と弦羽早の方がパートナーとして支えあえてるって張りぼてペアにマウント取る方法」

 

「…だから言い方。てか罵詈雑言浴びせた割にしょーもない悩みね」

 

「しょっ!? エ、エレナ、喧嘩なら買うよ」

 

「だってそれってアンタ自身仲の良さをアピールしたいって事じゃないの?」

 

エレナの言葉に綾乃は一瞬ピタリと動きを止める。

確かに実力以外で短時間で信頼関係を表現する方法と言えば、スキンシップかあるいはおそろいのユニフォームなどを着るくらいしか思い浮かばない。

 

「…あ~? どうだろ? 別に目的はそうじゃないけど、手段としてはそうなるか」

 

ふむ、と綾乃は想像する。弦羽早と交わすスキンシップと言えば、タッチ、リストバンドを交わす、拳を当て合う、あとは彼が時折頭を撫でてくれるくらいか。

 

「インパクト薄いなぁ」

 

「アンタの感覚ズレすぎて分かんないけど、もうインターバルにハグでもすればいいんじゃないの。流石のバカップルでも試合中そこまでしないだろうし」

 

「だから弦羽早とはそんなんじゃないって…。でもハグか、それもありかも」

 

「は?」

 

羞恥心の欠片も込められていない淡々とした口ぶりに、驚きと呆れで目を白黒させる。

 

「いや待ちなさい綾乃。冗談だから本気にしないで」

 

「え~、でも信頼してるって表現としてはもっとも分かりやすいよね」

 

「それ以上にバカップル全開だから。アンタ達唯でさえ名前呼びになって仲良くなってるのに、そんなことしたらいよいよ付き合ってるって思われるわよ。あんたここ一週間その事で面倒そうにしてたじゃん」

 

どこからか情報を仕入れたのかバドラッシュの発売翌日にはクラスメイトからは勿論、バド部、顧問の美也子、店の従業員、帰って来た父親、更にコニーから電話まで掛かって来て至極うっとおしかったのを思い出す。

 

「あ~、それも面倒。別に私も弦羽早もそういう感情持ってないのに、どうしてこ~そんな関係にしたがるんだろ」

 

「(そりゃ片方は恋愛感情を糧に優勝したからな。にしても、本当に異性として意識してないし気づいてもないのか…流石に鈍感過ぎでしょ。あれだけ周りから言われたらいくら綾乃でももっと意識しそうなものなんだけど)」

 

綾乃とは幼稚園から幼馴染の関係が続いているが、何度か恋愛経験をした事のあるエレナに対して綾乃の浮いた話は聞いたこともないし、彼女からその手の相談を受けた事もない。

何かにつけて恋愛に話しをこじつけたくなる小学生女児でさえも、綾乃の意中の相手と言うのは未知数だった。

 

「…綾乃って昔から好きな子とかいなかったっけ?」

 

「いないね」

 

「じゃあ好みのタイプとか無いの?」

 

「興味ない。嫌いなタイプならいるけど。…試合の日にこういう話題、私嫌いなんだけど」

 

かつて自分に抱き着いてきていた甘えん坊の少女はいずこへ行ったのか、反抗期の娘に困惑する親の気持ちが今なら分かる。今度の母の日には中学に上がってから渡さなかったプレゼントを送ろうと頭の片隅で思いながら、エレナは合点がいったのか内心に浮かぶ空想の自分がポンと手を合わせる。

 

それは今日に限った話ではないのだが、試合の合間、会場のエントランスで大声で恋バナをする緩い空気の他校の生徒に対して冷めた目線を送っていた。

あれは単に声が五月蠅いからでなく、試合に対する覚悟の薄さに、菽麦(しゅくばく)を弁ずることもできないと軽蔑していたのだ。

 

「だったらハグは諦めなさい。綾乃の本心がどうであれ、そう捉えられるのは避けられないんだから。それでもいいのなら好きにハグしてマウント取ればいいでしょ」

 

「うわ~、投げやり」

 

「あんたがめんどくさいのよ」

 

カラッとした言い方と、数週間前に喧嘩をしていたおかげか、綾乃はブツブツ文句は言うものの空気が冷たくなる気配はなかった。

 

エレナにとってかつての綾乃と今の綾乃。どちらが良いかと言われると正直前者に天秤は傾くが、ただこうやって多少毒のある言葉を言い合える関係と言うのも悪くない。今まではエレナがからかい半分で綾乃をおちょくるのがほとんどだったので、綾乃からガツガツ言われるのは対等な友達らしい。

ただそれにしても口が悪すぎるが。

 

「(この子が秦野のこと好きなのは間違いない。ハグなんてスキンシップ私にもそんなにしないし、それが男子となるとよっぽど信頼してる。でもそこに恋愛感情があるかが分からないのよね。普通の子なら100%恋愛感情だけど、この子普通じゃないもんなぁ)」

 

大変失礼だが、綾乃は可愛いのは間違いないが、その癖の強さから好意を寄せてくれる男は少ない。所謂変人に分類されるから犬が西向きゃ尾は東だ。

そんな彼女にこれでもかと好意を寄せてくれる男子がいて綾乃も信頼しているのなら、友人としては進展して欲しいが、そうコロリと綾乃が落ちるなら苦労はしない。

 

結局のところ綾乃にもっとも大きな心境の変化を与えるのはバドミントンの他にない。それもエレナが少し齧った程度では踏み入る事はできない高い領域。

 

「(ま、フォローはしといたから頑張んなさい)」

 

心配してそわそわと落ち着かない様子の弦羽早の姿を思い浮かべながら、エレナは小さくため息を吐いた。

 




☆羽咲さんからの大切なお知らせ☆


羽咲さん「半端な気持ちで入ってこないでよ、バドの世界によぉ!

あなた達がやってるお遊戯とは違うんだよねぇ!」

アニメ版なら割と言ってくれそう。


高校ミックスが実装されたらめっちゃ文句言われそうな内容でした。
でもほんとに試合よりもタッチするのが優先みたいなペアはいますねぇ。
触れるくらいの軽いのは様になるんですけど、何事も度合いだと思います。


次回から個人シングルスに入りますが、前回のダブルスとまでは無理ですが連続投稿するつもりなのでまた開きます。


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ロジカル

お待たせしました。今回からシングルス編となり、シングルス終了まで毎日投稿します。できたらいいな。



その早朝はひんやりとした爽やかな空気を帯びており、空に浮かぶ雲は少なく健康的な青空が姿を現していた。

目覚ましが鳴る前に目を覚ましたなぎさは、一人部屋にしてはかなり広い10畳強はある部屋の壁に掛けられたカレンダーを確認する。5月の△日、日曜日。大きく赤ペンで丸が付けられているこの日は、神奈川県の各地方で行われた地区大会のブロックを勝ち抜いた者達が集う、県大会が行われる。

試合数は決勝全て入れて最大五試合。なぎさはシード権を得ている為四試合と一戦パスできる。当然トーナメント形式のため一度でも負けたらその時点で終了となる。

 

ふぅと一息入れた後に軽くストレッチをして体の調子を確認する。

 

――大丈夫、緊張せずに自然体で入れている。

 

身体の方は問題ないと、次は机の上に開かれたノートをパラパラとめくる。その内容は当然バドミントンに関係するもので、特にスマッシュのコースとその前後のパターンに関係するものが多い。なぎさは決して考えるバドミントンを得意とする訳では無いが、だからと言ってその場その場の直感で試合をコントロールできるセンスは持っていない。と言うより、上級者同士の戦いで直感で勝つことができる選手が所謂センス持っていると呼ばれる面々で、バドミントンは頭を使うスポーツだ。

 

決勝までも逗子高校の石澤望を始めとする強敵が立ちはだかって来るが、一番の壁は決勝で当たるであろう綾乃。

 

彼女ももう既に起きているだろうか。ここ一週間の綾乃を見ていたら既に起きていそうだが、しかしそれ以前の彼女を思い返すと試合開始ギリギリまで寝ている姿も想像できる。つまるところ日常面でも彼女を捉えることは難しい。

 

それに対して同じく今日のシングルス県大会に出場を決めた弦羽早と学は既に起きている姿が想像できる。二人もまたなぎさ同様、ここ一週間のコンディションの焦点をこちらに当てて来た。

 

昨日の混合ダブルスで綾乃の調子がどう左右されるかはなぎさの知るところでは無いが、ただ危なげなく県大会進出を決めたという連絡はもらったので不調ということはないだろう。

 

「よし!」

 

パシンと両頬を軽く叩いて気合を入れると、試合への最終準備に取り掛かった。

 

 

 

 

 

県大会の会場は喜ばしい事に地区大会と同じ会場で、これは移動に使用する時間が減り体力を温存できるだけでなく、体育館内の奥行や天井の高さ、ライトの位置なども馴染みがあるので北小町メンバーのいる地区の面々は有利と言えた。同じバドミントンという競技でも、周囲の景色が違うだけで感覚が僅かにブレる。その僅かな差でアウトになったり、あるいはスイートスポットに微弱なズレが生じたりするので決して侮れない。

因みにプロレベルの大会となるとクーラーが付いた会場で行われる為、空調の影響で風上が生じたりするが、高校の大会ではクーラーの無い体育館で行われる為会場ごとに空調の変化などは起こりえない。その分スタミナの消耗が激しくなるので、選手としてどちらが良いかと言われるとやはり後者か。

 

メンバーは全員現地集合だったので会場入り口で円陣などは取らない。そもそもこの会場で一番のライバル同士が円陣を組むなど滑稽だ。

ただ相変わらず会場に来た時は既に綾乃と弦羽早は一緒になってストレッチをしており、深まった仲の良さが伺える。もっとも緊張しているのか弦羽早の表情は少し硬い。集中して冷たい瞳をしている綾乃にジッと見つめられているのは決して関係ないだろう。

 

県大会ともなるとやはり空気の重さが地区大会とは比べものにならない。他校の美形を探すような出場選手は激減し、弦羽早が他校の生徒から握手を求められることもない。

皆勝つためにこの会場に来ていた。

 

ただその緊迫した空気の中でも北小町のメンバーは注目を集めている。

去年の県大会優勝者の第一シードのなぎさは勿論、世界ランク一位を破った綾乃と弦羽早。学も前者の三人と比べると注目度は落ちるが、去年も好成績を残している。

部活の規模で言うと最小ながら個々の実力は神奈川トップクラス。

 

そしてその実力は第一回戦から発揮された。

 

シードのなぎさを除く三人は共に一ゲームも落とさずに快勝。

特に綾乃は体力を温存するためにと速攻で決め、失点は両ゲーム共に五点未満と対戦相手のメンタルを完膚なきまでに折っていた。

 

これは後の健太郎の評価だが、綾乃は格下相手には本来の実力差以上の差をつけることができる。それは彼女が相手に与えるプレッシャー故に起こりえるものだ。

 

県大会二回戦目。ここまでは地区大会からトーナメントの運次第ではある程度の実力者でも到達できるギリギリのラインだが、三回戦目となると確かな実力を持たなくては来ることができない。

この辺りから一定レベル以上の選手同士の戦いとなり、インターハイ出場を目標に戦う選手が集う為その闘志も強い。

 

『ゲーム! マッチワンバイ羽咲! 21(トゥエンティワン)  ‐  6(シックス)

 21(トゥエンティワン)  ‐  4(フォー)!』

 

だがその闘志があろうとも圧倒するのが綾乃だった。肩で息をするどころか汗すらかかず、床に膝を付けて泣き出す対戦相手をチラリとだけ見下ろすと、勝利者サインを書いて体を冷やさないようにと上着を羽織る。

 

「弦羽早も…大丈夫そうだね」

 

一番端のコートで同じく第三試合を行っている弦羽早の姿を確認する。相手は地区大会で行輝を破った、去年一年生ながらベスト4に進出した選手だ。そのスコアは17‐10と弦羽早が大きくリードを付けている。

 

このまま観客席に戻っても問題はなさそうだ。

そもそも応援が選手に影響を与えるなど思って無い綾乃は、本来は他人の応援をするようなタイプではないし、貰ってもモチベーションが上がる訳ではない。面倒と感じるのではなくドライなのだ。

ただ大事なパートナーの応援をするというのは、それが自己満足であろうともペアらしくて好き、というのが今の綾乃の考え方だ。本人は自己満足と思っているその応援の有無が、弦羽早の勝敗を別ける程の影響力を持っている事は気づいていない。

 

綾乃はバドミントンバッグを置くと、コーチ席に座っている健太郎の隣に腰を掛ける。

 

「羽咲、お前もう終わったのか?」

 

「ん、楽勝だった」

 

確かに皆まで聞かずとも乱れていない息と流れていない汗を見れば結果は明白だった。

しかし綾乃は県レベルで見ればスタミナが高い方だが、全国レベルで見るとむしろ低い方に分類される。その体には確かに疲労が蓄積されているので、確実に決勝まで行く以上クールダウンをして欲しいのが、これまで一度も応援をしなかった綾乃がこうして自分から応援をするようになったのもまた、喜ばしいことでもあった。

 

「そうか…。秦野は順調だ。特にこの一週間で緩急のつけかたが嫌らしくなったな。相手にすると鬱陶しいぞ。あれ、お前の受け売りなんだろ?」

 

「感覚的なものだったから正直役に立たないって考えてたけど、弦羽早って意外と才能あるんですか?」

 

「意外とってお前…」

 

天才とまで言わないにしても、才能の無い男が全国優勝できる訳ないだろうとツッコミを入れたくなるが、今の綾乃に余り才能関係の話題を出したくなかったのでそれを堪える。

 

「才能関係なしに秦野には莫大な練習時間って大きな土台があって意欲もある。リアクションステップにしても速くなったスマッシュにしてもコツを一つ掴めばものにしやすい。若いってのも吸収力の早さに繋がるな」

 

運動感覚の知覚(カイネスティック・アウェアネス)という言葉があり、身体の運動や空間的な位置を筋肉が知覚している事を言う。件のダブルス戦で得た瞬間的な成長を、弦羽早は忘れぬまま自分のものにしている。

 

「そっか」

 

健太郎の耳に届いた少女の声は軽やかで、それまで感情を欠いた抑揚の無い声がまるで鼻歌でも歌っているかのように明るかった。

 

「なんか嬉しそうだな?」

 

「だってパートナーが褒められたんだから嬉しいのは当然でしょ?」

 

「ん、それもそうだな」

 

自分を見上げてくる笑みを浮かべる少女、その暗い瞳に一度唾を呑み込みながら健太郎は作り笑いを浮かべて肯定した。

 

昨日の混合ダブルスでは健太郎も会場にいたが、想像以上にエントリーが多く運営の手伝いに回っていたので二人のコーチングはできなかった。ただ運営本部から時折見る限りでも二人のレベルは群を抜いており心配はないと高をくくっていたが、大会を終えた後エレナから軽くトラブルがあったことは聞いた。

綾乃がやる気のない対戦相手と、軽い気持ちで大会にエントリーする仲のよい男女に対して思うところがあるらしく、三戦目の相手の遅延行為一歩手前のタッチ行為に対して注意を促したところ、試合終了時に明らかな悪口を言われたと。

 

当然綾乃の毒舌については話していないので健太郎はそこまで知らないが、ただ綾乃の考え自体は理解できた。健太郎自身彼が高校時代の時に混合ダブルスにエントリーして実際出場した経験があるが、確かに他の種目に比べると浮かれた空気が強い。当時の健太郎自身、パートナーの少女に対して一切何も思うところが無いと言われると嘘になる。

行動範囲が増えることで恋愛に関しては中学校以上に活発になる高校において、誰でも出場ができる地区大会のミックスというのは優勝を狙う者よりも、出場そのものに意味を見出す者の割合が多い。

それが綾乃にとっては我慢ならないのだろう。

 

勿論綾乃の考え方自体は悪いものではない。

ただ価値観は人それぞれだ。特にバドミントンは選手生命が長く、シニアの部まであるくらいだ。また一コートとラケットとシャトルさえあれば誰でもできることから球技の中では手軽なスポーツでもある。

昨日弦羽早も言っていたが、個人競技でもあるので色々な考え方の人がいる。おそらく綾乃にはその線引きが難しいのだろう。

 

「(あのダブルスは羽咲にとって良い変化を与えている。ただその後の試合がミックスの地区大会というのが落差があったか。同ブロックに強い相手がいなかったのも普段は喜ぶべきことだが間が悪い。それにこの冷たい雰囲気は素ってことでいいのか…?)」

 

指導する立場の健太郎にとって綾乃は普段は手間のかからない部員だ。

何しろ技術面では下手をすれば自分より上手い。いや、実際ネット周りのラケットワークに関してはとっくに自分のレベルを超えているだろう。そして身体的な面や利き腕が違う事から、健太郎が得意としていた強打周りに関しても教えることが少ない。となれば技術面で教えられるものは限られており、精々細かい指摘をする程度に留まる。

また練習態度も真面目であることから、その辺りの指導をする事もない。

 

だが癖の強さで言うのなら北小町では勿論、健太郎が現役時代に共に練習してきた選手を含めても一番強い。

故に切り出しにくい。

 

「(今日の試合がどこまで羽咲の中で大きなものになるか…。羽咲だけじゃない、荒垣、秦野、伊勢原。三年の荒垣と伊勢原は勿論、中学時代はシングルで一度も全国に出ていない秦野にとってもインターハイ出場はシングルスに対する更なる自信と成長に繋がる。指導者の立場としてやれるだけのことをやらないとな)」

 

目の前で繰り広げられるラリーをジッと見つめながら、健太郎は次のインターバルでのアドバイス内容を頭の中で纏め始めた。

 

 

 

 

『ゲーム! ファーストゲームワンバイ秦野! 21(トゥエンティワン)  ‐  13(サーティーン)!』

 

「クソッ!」

 

大差をつけられた状況でワンゲームを取られ、苛立ちからラケットを振るう対戦相手。それを横目で確認しつつ、内心ガッツポーズを浮かべながらコーチ席に戻る。

既に綾乃が試合を終え応援に来てくれたことは分かっていたので、彼女から渡されたスポーツドリンクを笑顔で受け取った。

 

「良い調子だ。上手くメンタルに揺さぶりを掛けられている。だが一回インターバルに入った事で、相手も一度気持ちをリセットしてくる。強打では向こうに分があるから、序盤は無理して失点を抑えようとしなくていい。ワンゲーム目同様相手の弱点のメンタルを上手く揺さぶれ。相手のエースショットを返し続けていたら中盤以降必ず崩れてくる」

 

「はい」

 

「まだちょっとしか見てないけど、相手、柔軟性がそこまで高くない。ラウンドからのクロスは少ないと思う」

 

「それは朗報だ。ありがとね」

 

ググっと背筋を伸ばして少し張っていた背中を伸ばすと、ドリンクと一緒に渡されたタオルに額に流れる汗を吸い込ませる。

 

この試合を勝てば県ベスト4の称号を得られ、その次でインターハイの出場が確定する。

 

正直入学すぐは、シングルスは適当とまでいかなくても、可能な範囲内で行けるところまで行くぐらいの感覚だったが、憧れの少女と再会してそんな甘えた考えは無くなった。ダブルスでは見ることのできない個々で戦うシングルスの広いコートを、自分ももっと深くまで見てみたい。もし今後ダブルスで負けた時も、自分が綾乃の足を引っ張ったから負けたと自己嫌悪できなくなる程に個としての己を高めたい。

 

――やっぱり単純だな

 

どこまで行っても根底にあるのは綾乃であることに変わりない。余りにワンパターンな自分に時折呆れもするが、ただそれが名誉・達成感・楽しさをも遥かに凌駕する原動力となって心身共に動かしてくれるのだから幸せ者だと前向きに捉える。

そうさせる程の強さと才能を目の前にいる小柄の少女は持っているのだ。

 

「よし、行ってきます」

 

差し出された綾乃の左腕に、同じ左腕につけたリストバンドを重ね再びコートに入る。

 

 

健太郎の言う通り気持ちを切り替えたのか、角刈りの対戦相手の男子の表情はワンゲーム後半に比べると落ち着いている。ここを再びどう崩すのかが勝利への鍵となる。

審判のコールと共にサーバーである弦羽早はラケットを上げた。構えは主流のバックハンドで、放った球もショートと王道。

 

相手はそれをネット前に落とし、弦羽早がラウンド側へと比較的低めのロブで返し、広い展開に持って行く。

 

相手は両足で後ろに飛びながら、身体を捻る事なく上半身の一部の力だけでスマッシュで打つ。

男子シングルスではよくある打ち方で、最速のフルスマッシュは打てないが、後ろに飛びながら打つことで落下するのを待つことなくシャトルに触れられる為、ゲームスピードを上げることができる。

イメージとしてはジャンピングスマッシュは半面で入り、打つ瞬間に体を捻らせ最終的なフォームは相手を真正面で見る一方、このサイドオンジャンピングスマッシュという名の打ち方は、入りから終わりまで相手に半面を見せた状態のままで打つ。

またトップレベルとなるとその体制のまま手首と肘の柔らかさを利用してクロスに鋭いスマッシュを打ち込んだりもする。

 

だが相手はトップ選手ではない。ストレートか良くて正面と予期できるスマッシュはそこまで脅威ではない。

冷静に相手がいるのとは反対のリアコートへとロブを送る。

 

シングルスのスマッシュレシーブのセオリーとしては前に落とすヘアピン、あるいは鋭いドライブで返し相手を走らせるのが王道だが、弦羽早は相手を必要以上に走らせる気は無かった。それよりも重要なのはゲームスピードを遅くすること。

攻め球の応酬、所謂速い展開を好む選手にとって、緩やかな展開に持って来られるのはそれだけでやりにくい。当然遅い展開にする以上相手の攻め球を凌ぐ守備力が必要となるが、片足リアクションステップに切り替えてから元々守備が得意だった弦羽早のディフェンスはより強固なものとなった。

 

様子見のクリアーを打たれたらクリアーで返し、ドロップをされたらやはりロブで返す。しかし相手のここぞというスマッシュに対しては前に落として走らせる。

無論それだけでは決まらず、相手はロブを上げて状況を整える。かなり高めのロブで落下地点に構えジャンピングスマッシュも充分に可能だが、あえてラウンド側へクリアーを送って相手を揺さぶる。

 

 

弦羽早はここ一週間で綾乃に教えてもらった緩急の付け方を思い返す。

 

彼女はあまり説明が上手いとは言えず、加えて本当に感覚的なもので彼女はプレイしていた。綾乃の中では綾乃なりのロジックが形成されているのは分かったが、それを言葉にして教えるには指導者としての才能は無く、また弦羽早もフィーリングで分かる程の理解力はなかった。

そこで案を出したのが理子だった。録画していた綾乃の試合を見返して、本人の解説付きで説明するのはどうかと。

結果綾乃のロジカルとは異なるものの、弦羽早も少しだけ自分の中でまだ靄が掛かっているものの、緩急の付け方にロジカルを立てることができた。

健太郎の言う通り元々強固な土台があった分、張りぼての建物でも存外形になるものだ。

 

ラケットの持ち替えという曲芸レベルの尖った特技は持っているが、休む暇のないシングルスで基本ラリーの最中にそれは使わない。故に弦羽早のプレイは華が無く、ハッキリ言って地味なものだ。

だが堅実で、確実に追いつめ相手のミスを誘う。

 

バドミントンにおいて、世界レベルでもない限り失点の多くはミスだ。

弦羽早はミスというものが同年代の中でもかなり少ない。代償としてギリギリを狙わないゆえの攻撃力の弱さとフェイントの引き出しの少なさが上げられるが、今回の相手に対して攻撃力は必要なかった。

 

粘り、確実にラリーを続けて、決めたくて決めたくてうずうずしている相手のミスを誘う。

 

『ポイント、 8(エイト)  ‐  5(ファイブ)

 

「う~し一本!」

 

独特な掛け声を上げる相手にも弦羽早はブレることは無い。

序盤はどうしても遅い展開にしていく分、相手の激しい攻撃のラッシュにリードをされるのは何も不思議な事ではない。健太郎のアドバイス通り、この辺りの失点を弦羽早もさして気にしていない。

 

だがそろそろ揺さぶりを始める頃だ。

 

相手のショートサーブに対してヘアピンで前に落とす。そしてホームポジションに戻らず前で待機。こうすることで相手にプレッシャーを与えロブを誘発させる。相手が打つ瞬間に僅かに跳んだ弦羽早は、相手のロブに合わせて片足リアクションステップで後ろに蹴る。

 

後ろから二番目の線(ダブルスロングサービスライン)まで上がったロブの落下地点に素早く入り込んだ弦羽早は、その更にラケット一本分後ろに下がり、前へと飛び上がる。

これまでの弦羽早の配球は攻撃的ではなかったが、全力のジャンプに対してスマッシュを警戒しない者はいない。ただそれまでコート奥を中心に前後左右に揺さぶられていた相手にとって、一ヵ所だけ警戒するポイントが頭から抜ける。

 

乾いた激しい音と共に放たれたのはスマッシュ。そのコースは左右どちらでもなく、相手の正面目掛けて飛んでくる。

 

「ぐっ!」

 

そう、必ず走らされると予想していた相手にとって正面は不意打ちに等しかった。

咄嗟にラケットの面で当てようとするが、フレームがカンと音を立てた。当然弦羽早のコートまで返らない。

 

これまで三十回近くを越えるラリーが続いた中、僅か三球目にしてポイントが増える。

 

これが弦羽早の建てた張りぼてのロジカルだった。

 

綾乃の説明を聞いて思ったのが、ラリー中に感覚を頼りに意図して緩急をつけるのは自分には不可能だということ。それこそ麗暁(リーシャオ)紅運(コウウン)戦で入れたゾーン状態なら可能かもしれないが、残念なことにあれ以降ゾーンに入れた試しがない。

なら無理してラリー中に変える必要はなく、ラリーの前に心の中で一言自分に言い聞かせることで切り替える。これだけでも形にはなった。ラリー前に決めておくことで、ラリーの最中に無理して考える必要が無くなったのも利点である。

それこそ唯華や薫子のように試合中も脳をフル回転させられるのならともかく、バドミントン歴が長い弦羽早でもそこまで頭を回らせることはできない。単純な得意不得意もあるが、それだけバドミントンの一つ一つのラリーのゲームスピードは速い。

 

続く弦羽早のサービス。

 

このセカンドゲームのサーブは全てショートだったが、今度は低めの速いサーブ、ドライブサーブで相手の意表をつく。このドライブサーブの利点は速さと意外性、デメリットは読まれてリターンのスマッシュを打たれた場合それがエースショットになり得ること。

だが今回は利点である意表をつけ、相手はくるしい姿勢で無理やりスマッシュを打つが、速いドライブカウンターで更に一点を取る。

 

『ポイント! 7(セブン)  ‐  8(エイト)!』

 

それまで長かったラリーが嘘のように、僅か数回のラリーだけで点数が決まっていく。

 

チッと苛立ちから出た相手の舌打ちが聞こえる。ここで相手の剣幕に押されたり、あるいは態度が悪いと腹を立てる者はバドミントンに向いていない。

相手が苛立っているのを嬉々として喜べる者こそバドミントンプレイヤーとして素質がある。

バドミントンにおいて正々堂々という言葉は似合わない。勿論マナーは存在するが、いかに相手を追い詰め、嫌いなコースに打ち、相手のメンタルを揺さぶるのがこのスポーツの駆け引きである。

 

「ナイッサ~」

 

どこかやる気の感じられない、本人は自己満足だと思っている綾乃の応援に、弦羽早はラケットを持っていない右手をヒラヒラ振って返す。

傍から見ればカップルのいちゃつきに見えるそのやり取りは相手のメンタルをより揺さぶる。当然弦羽早もそれが分かって意図して行っていた。

 

「(ま、あんたの掛け声もうるさいからお相子って事で)」

 

ドライブサーブを警戒して少し後ろに構える相手に弦羽早は小さく口元を上げる。一度メンタルで優位に立てた事で、それまで狭く感じた相手のコートが一気に広く感じられた。

 

お望み通りと空いている前へショートサービスを繰り出す。前に詰めていないのでサーブを叩かれる心配はなく、ホームポジションよりやや手前で構える。

 

トンと繰り出されたヘアピン。

直後ダンと地面を蹴るリアクションステップと共に前へと飛ぶ。やや手前に構えていたおかげで、地面を蹴る一歩と手を大きく伸ばすことでシャトルに触れることが可能となった。白帯を越えた直後のシャトルをタッチ・ザ・ネットにならぬように軽くはたく。

 

『ポイント!8(エイト)  ‐  8(オール)!』

 

今の一点も相手が焦りを見せた事によるミスがあった。まず第一にドライブサーブを警戒してレシーブの初期位置がやや後ろであった。続くレシーブも出が遅れていたのにも関わらず、無理して攻めようとした結果、弦羽早の位置がやや手前にいたのに気付かずにヘアピンを送った。

加えて高校に入ってから弦羽早の一番の練習相手はネット周りの勝負を得意とする綾乃。もっと言うのなら麗暁のヘアピンの洗礼を受けたのも拍車をかけている。

このヘアピンが叩かれる要因としては十分だった。

 

因みに今のような流れを作るのを得意とするのが観察眼の優れた薫子で、弦羽早は意図してこの展開を掴むことはできない。だがラリー毎に緩急をつけることによって、結果同様の事ができているのでそこに大きな優劣はない。

 

三点連続失点全て弦羽早の三打目で決められている。これは元々弱点であった相手のメンタルを揺さぶるには十分で、あとは粘れば勝手に自滅してくれる。

 

再びラリーの速度を変えてテンポを緩やかにした弦羽早は、去年のベスト4相手に21‐14と差をつけてストレートで勝利した。

 

 

 




インターハイ開始時点、原作10巻開始までは書き終えました。ただその辺りまでの投稿はまだ先になると思います。
あとちょっと困っておりまして、まあそれが例によってあの人です。はい、有千夏さんですね。
この作品書き始めた時点では13巻はまだ読んでなかったんですよね。そして自分は投稿と執筆時とではかなり差が開いており、前書きとかで13巻の話してた回を書いてる時点ではまだ読んでなかったり。
まあ何が言いたいかって13巻のラストですね。あえて皆まで言いませんが。

そこをどう取り入れるかが正直今後の展開を読むまで待つか、あるいは独自解釈をするか。まあ後者になると思いますが、何にしてもまさか私まで有千夏さんに振り回されるとは。

あとインターハイ編は綾乃のシングルスは基本書かない予定です。とっても面白いですし何より益子さんが出るので原作読もう(n回目のダイマ)


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マッサージしてあげる

やっとデンマークとフランスオープン見終わりました。試合をある程度絞っても時間かかる…。
デンマークは全ての種目を世界ランク一位が独占するという大会で、やっぱり世界一位は母国以外の試合でも勝てるから世界一位なんだなって思いました。



「ありがとうざいっしたぁっ!」

 

「はい。ありがとうございました」

 

ネットの下で交わされる握手に綾乃は一瞬目を丸くする。試合中ミスショットが連発する程に苛立っていた相手がちゃんと挨拶をして頭を下げるのは、足元から鳥が立つ状況だった。

 

これまでの自分の試合を振り返る。その誰もが悔しそうに唇を噛み締めたり、涙を流すか、怯えた視線を向けてくるかだけで、あんな風に握手を交わした事など一度も無かった。

 

「(…違う、私が悪いんじゃない。だってあいつら弱くてすぐ泣きだすから。それに男子と女子は違う)」

 

そう自分に言い聞かせるようにこれまで戦ってきた相手を下に見て、綾乃は首を横に振った。

そして勝利者サインを書いて戻って来た弦羽早に手を差し出し、ハイタッチを交わす。

 

大丈夫、ちゃんと自分は弦羽早と共に勝ち続けている。

 

試合後の相手がどうなろうとも勝ったことに変わりはないのだ。

 

「おめでと、弦羽早!」

 

「ありがと。綾乃も流石」

 

「んじゃ次伊勢原の試合があるから行ってくる。次一時間以上空くからちゃんとクールダウンしとけよ」

 

「「はーい」」

 

「…ほんと仲良いなお前等」

 

綾乃と弦羽早、二人の背中を軽く叩くと健太郎は学の試合が行われるコートへと足を運んだ。

 

綾乃はチラリと弦羽早の横顔を見上げる。自分と違い彼は他の部活仲間の試合も応援している。ならこのままアリーナを出ずに学の試合を見に行くのだろうか。

 

それはハッキリ言って面倒だった。

パートナーである弦羽早の試合だからこそ綾乃は応援に来たのであって、学を応援する事に綾乃の中で価値を見出すことができない。無論彼から直に応援してくれと頼まれたら素直に応援に参加するが、当然そんなことを言うタイプでもない。

 

「綾乃、ちょっと休憩室に寄らない?」

 

休憩室。確か安いソファーやマットが並べられ、その隅っこに自動販売機があったのを思い出す。この会場で数少ないクーラーが効いていることから、選手は勿論熱さにやられた観客も集まる場所だ。

人が多い場所なのであまり行きたい場所ではない。

 

「ジュースでも買うの?」

 

「いや、ちょっとそこでマッサージしてあげる」

 

「…は?」

 

 

 

 

 

「あ~…そこ効くぅ~」

 

「や~っぱり張ってる。結構スマッシュ打ったでしょ」

 

この大会でもっとも注目を浴びている二人。その二人が決して広くない休憩室に入るだけでも室内にいる者の視線を集めたが、突然綾乃がマットに横になって、そんな彼女に弦羽早がマッサージを始めたら色々と囁かれるのは必然だった。

もっともそんなに広くない休憩室、中で囁く肝っ玉の据わった者はおらず、綾乃の”邪魔だ”という冷たい瞳に睨まれてそそくさ出て行った後で口を動かし出す。

 

弦羽早も綾乃の体に触りたいなど、そんな邪な気持ちは欠片も抱いていなかったのでどういった目で見られても気にはしなかった。周りよりも綾乃を優先する思考回路の為、周囲の目が気にならないと言うのは二人とも共通していた。

 

「だってさっさと終わらせたかったんだもん。あ~…」

 

背中に掛かる指圧に綾乃の口からだらしない声が漏れる。

いくら綾乃が一方的に勝ち続けていると言っても、これまで既に三試合、つまり6ゲームを行っている。決勝まで最短ゲーム数で勝ち続けたとしても、8ゲームを行わなければならない。

 

そして綾乃は連戦向けの選手では無い。プロの大会のように一日一試合であればともかく、連戦形式の高校試合においては必ず綾乃の弱さが足を引っ張ってくる。

 

「ほら、力抜いてリラックスして」

 

「ふぁ~い…」

 

「寝ちゃ駄目だからね?」

 

「…お~とも…」

 

バドミントンにおいて怪我をしやすいのは肩、背中、腰、膝、ふくらはぎと足首、そしてアキレス腱。

特にスマッシュは、バック後ろ(ラウンド)に来た球をスマッシュで打つ時背中を逸らせ、また打つ時も腰を捻る為上半身に来やすい。

 

弦羽早は体重を指に乗せながら、細い綾乃の背中を押していく。

 

「(あと二戦か…。荒垣先輩も絶好調だ。次に当たる石澤望にも多分今の先輩なら勝てる。荒垣先輩と戦うまでにどれだけ綾乃の疲労を抑えられるか)」

 

弦羽早はバドミントンバックから取り出し、現在広げている本に視線を見やる。それはスポーツ選手対応のマッサージ本で、それなりに使い古されていた。

 

「弦羽早、上手いね~。これ食べていけるよ~」

 

そこは選手として食べていけると言って欲しいが、せっかくの褒め言葉なので素直に受け取っておく。

 

「サンキュー。中学も陸空(りく)にしてやってたんだ。あいつはとにかくスマッシュ打ちまくるからよく張っちゃうんだよね」

 

「…中学のパートナーだっけ?」

 

「そうそう。そう言えばこないだコニーと陸空の二人からメールが来たよ。地区予選余裕の突破だってさ」

 

「陸空君は知らないけど、コニーちゃんが地区予選落ちとか考えられないからね」

 

弦羽早も頷いて相槌を打つ。

あるとしたら大会運営がミスをして唯華とコニーが地区予選一回戦で当たるくらいだろうか。もっとも同校、それも好成績保持者が同じブロックに入る事はあり得ないが。

 

「ねえ、コニーちゃんで思い出したけど、弦羽早って志波姫って人苦手なの? 何か弱み握られてるとか…」

 

あなたの写真が多く入ったフォルダを見られました、とは口が裂けても言えない。スマホを買って貰ったばかりでロックをしなかったのが全ての原因だった。あれ以降ちゃんとロックを掛けるようにしている。

 

弦羽早は苦笑しながらもマッサージを続ける。

 

「あの人はねぇ、優しくて厳しくて、頼りがいがあってドSなんだよ」

 

「…矛盾してない?」

 

「でもそれが不思議と自然なんだよね。二つ離れているから一年しか一緒にいなかったけど、女子は勿論男子にも慕われてたよ。まあ同じく男子には恐れられてもいたかな。でも中学から男女で別々の練習するようになって、そこでぶつかり合う事が時々あったけど、志波姫先輩がいる時は上手く纏まってた。決して女子優遇って訳じゃなかったから、あの人の意見は気持ちいいくらいにすんなり通ってた」

 

「…じゃあ弦羽早はあの人の事好きなの?」

 

「え? う~ん…リスペクトはしてるけど、お察しの通り俺も弱み握られてるからね。部活中の先輩は厳しくて好きだけど普段は苦手が勝るかな」

 

リスペクト。好きだけど苦手。

 

憧れている。支えになっている。

 

これまでの言葉から自分の方が弦羽早にとって大きな存在であると確信した綾乃は、うつ伏せのまま小さく口元を上げた。

 

「ただあのバドミントンIQの高さは凄いよ。一打一打全て考えて打っている誇張なしの正真正銘の天才。流石三強って言われてるよ」

 

前言撤回。綾乃の口元がすぐに下がる。

 

「…私とどっちが凄い?」

 

「綾乃って言いたいけど、綾乃と先輩の才能は両極だからね。俺じゃ優劣は付けられないかな」

 

ここはお世辞でも綾乃と言うべきか当然弦羽早も考えはしたが、バドミントンにおいて嘘は吐けない。物心つく前から培われた読みを持つ綾乃と、バドミントンのゲームスピードの中で一打のうちに無数の思考を張り巡らせられる唯華。

考えるバドミントンと感じるバドミントンの両極に存在する両者に優劣を付けられないのは、弦羽早は勿論、数多のバドミントン選手を見てきたヴィゴでさえも同じである。

 

だがそんな弦羽早の中のバドミントンに対する価値観は今はどうでも良かった。自分の名前が呼ばれなかったことに少しばかり腹を立てながら、ならばと綾乃は分かり切った質問を繰り出す。

 

「…じゃあ、私とその人が戦ったらどっちが勝つと思う?」

 

「勿論、大事なパートナーだって信じてるよ」

 

「ん、ならいいや」

 

弦羽早がそう言ってくれるのは分かっていた。でも言葉にしてハッキリと、取り繕った様子もない自然な口調で言われると心の持ちようが違う。

 

背中と腰を押していた弦羽早の指が離れると、押してもらった辺りが軽くなったのを確かに感じられた。

 

「(極楽…。これ普段もやってもらおうか――)」

 

頬が蕩けそうになって口から涎が出そうなのを堪えていた刹那、突然ふくらはぎに激痛が走り綾乃は大きく身体を逸らした。

 

「痛ッ!?」

 

「あ~! スマッシュに加えて必要以上に走ったな。ほら、ジッとして!」

 

「ちょっ!も、もうちょっと優しイダダダダ!?」

 

休憩室で繰り広げられるやり取りに利用客の、特に恋人のいない学生からの鋭い視線が突き刺さるが、相方の疲労を取るために集中していた弦羽早も、痛みに堪える綾乃も気付くことは無かった。

 

 

 

 

弦羽早のマッサージが終わった後、綾乃はハッキリと自覚できるほどに体の疲れが取れていた。特に重点的にしてもらった背中とふくらはぎはマッサージの前後で感じる重さが明らかに違う。

綾乃もお返しにマッサージをしてあげると提案したが、知識がないのと素の体力が違うからということでやんわり断られた。

それが少しもどかしく感じられたが、素直に男女の差ということで一先ずは納得する事にした。

 

その代わりと弦羽早は決勝で当たる可能性がある二人を見て欲しいと提案してきた。

現在丁度学を含めたベスト4を掛けた残りの試合が行われている。

 

健太郎から教えてもらった事前情報によると、今回決勝に上がってくる可能性がある他校の生徒は二人。

 

逗子総合の相模原涼(さがみはらりょう)と横浜翔栄の大井康太(おおいこうた)の二名。

この二人は混合ダブルスにもエントリーしており、ここまで勝ち上がる実力を持っているだけあり混合ダブルスも県大会出場が決まっている。

 

逗子総合の相模原は右利きの三年生。身長は180㎝を優に越えるかなりの高身長で、去年の男子シングル、混合ダブルス共に一位でインターハイ出場を決めている第一シードの優勝候補の一角。因みにダブルスのパートナーは女子シングルのエース、石澤望だ。

 

一方横浜翔栄の大井も右利きの二年生。去年はシングルスではベスト4だが、男子ダブルスで準優勝でインターハイに出場した同じく優勝候補。

 

このまま順当に行けば弦羽早と準決勝で当たるのは大井で、決勝は相模原か学となる。

 

綾乃は集中しているのか二つの試合を交互に観察する中、時折独り言を呟く以外は何もしゃべらなかった。

 

そして予想通りやはり相模原と大井がストレート勝ちで準決勝にコマを進める。その頃には学の試合も終わっており、準決勝で相模原と戦う事が決まった。

 

「…横浜翔栄の人は動きがかなり速くて粘りがある。フェイントは上より横か下が得意…なのかな? 見た感じスピードアタッカーだけど、シャトルが安定してる。さっきの試合みたいにただ緩急をつけてミスを誘うのは難しい。

背の高い人はやっぱり角度があるね。スマッシュも普通より手前に落ちるから取り辛いと思う。力もあるみたいでパワーのあるドライブが来るから、速い展開に対しても強く出れる。当然一歩が大きいからフットワークに余裕もある。

ゴメン、強みなら分かるけど弱点となると実際に戦わないと読めないかも」

 

「ううん。今の話だけでかなりの収穫だ」

 

綾乃はこれまで他人の試合を見なかったので観察眼が無いと思われがちだが、綾乃の相手が嫌がるところを狙う直感も観察から来ている。

どれだけ勘が優れておろうとも、目を合わせた瞬間に相手の弱点が読み取れるのではない。しっかりラリーを通して綾乃の中で彼女なりの理屈を元に弱点を探している。

 

「覚悟はしていたけどやっぱり強敵だなぁ」

 

「大丈夫。弦羽早は再会した時よりもずっと強くなってる。パートナーの私が保証する。だから絶対優勝できるよ」

 

「ありがと。綾乃の言葉が何より自信に繋がるよ。じゃあ二人でシングルも混合も優勝だね」

 

「うん!」

 

 

 

 

午後一時が過ぎる頃には男女含めてベスト4が全員決定した。

計八人は各々最終アップを終えてコートへと向かう。準決勝までは各試合同時進行で行われている為、出場者が四人もいる健太郎はどこに付くべきか、他校の顧問からしたら拳を握りたくなる贅沢な悩みを抱えていた。

真っ先に必要ないと言い出したのは綾乃で、自分が速攻で終わらせて弦羽早の元に行くから弦羽早の元にも来ないでいいと付け加える。

 

彼女の案に少し戸惑ったものの、なぎさの膝が心配であったのと学の対戦相手が去年の優勝者であることからなるべくそちらに付きたかったので素直に甘えることにした。

何より自分の十の声より綾乃の一声の方が弦羽早の原動力になるのは地区大会で呆れるほど思い知らされた。

 

そういうメンタルコントロールが容易もとい単純な点で、弦羽早はある種優れている。綾乃と喧嘩した暁には小学生相手にも負けそうなのが恐ろしいが、傍から見ればバカップルになりつつある二人にその心配は今のところないだろう。

 

「羽咲、決勝で待ってろ」

 

「…まあ、楽しみにしてる」

 

「秦野、頑張れよ」

 

「伊勢原先輩も、決勝で戦いましょう」

 

四人の腕には有千夏の手作りのリストバンドがはめられており、その姿を遠目から見ていた理子もまた、自分がつけているリストバンドをキュッと握って笑みを浮かべる。

県大会のベスト4の半分が北小町のメンバーだなんて、一か月前は夢にも思っていなかった光景が今広がっている。

 

シングルスこそ成績を残せなかったが、団体でのインターハイ出場も本当に叶えられるかもしれない。

 

この光景を見てそう思わずにはいられない。

 

「みんな!ファイト!」

 

なぎさ、弦羽早、学は仲間からの激励にリストバンドを掲げて答える。唯一綾乃だけが端から聞こえなかったかのように弦羽早と拳を合わせると、こちらに見向きもせずにコートへと歩み始める。

だがそれに苛立ちは感じない。あれもまた彼女なりの集中の仕方だと理子は考えていたので、その小さな背中に笑みを浮かべる。

 

四つのコートで試合前のアップ練習が行われ、シャトルの軽い音がアリーナに鳴り始める。

 

この一戦でインターハイに出場できるか否かが決まり、そこに重点を置く者としては決勝以上に重要な試合となる。この試合に全てを出し切って勝てるのなら、決勝は辞退してもいい。そう考える者も中にはいる。

 

綾乃の対戦相手である橋詰英美(はしづめえみ)はその最もであった。

ダブルスとはいえ世界ランク一位の二人を破った神童。その異質な強さはこれまでもコートの外から観察していたが、あれに勝てるビジョンが一切頭に浮かばない。

だがもし勝てるのなら自分の体力全てを差し出してもよい。決勝は辞退してもよい。

 

――だから勝たせて。

 

だが願うだけで実行できないのなら、それはもう綾乃にとっては格下。

 

結果は皆まで言う事も無く、同時開始された準決勝の中で最速でその試合は終わった。

 

 

 




インターハイ開始前まで書き終えたから言えますが、英美は今後も台詞がほとんどなくて地の文で流されちゃうパターン。

この辺りの綾乃の口調や弦羽早に対する態度はほんと難しい反面楽しい


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ゲームスピード

オリキャラ同士のバドミントンらぁー。
男子の既存キャラとか他校にいないからこうなることは分かっていたが。




大井康太は自分より少し背の高い、一つ下の対戦相手をネット越しに軽く睨む。

世界ランク一位のペアを破った二刀流、秦野弦羽早。元々弦羽早の名前は一部の界隈では有名だったので、地区大会に出場した段階で既に彼の存在は知っていた。

 

始めて彼の顔を見たのはバドラッシュの写真でだったが、実際に見ると思ったよりも普通だったのが印象だった。それは貶しているのではなく、彼の隣によくいる綾乃が写真以上に冷たく近寄りがたいオーラを放っていたからだ。

 

ただ普通というのはプレイ面にも言えることだった。二刀流と聞いててっきりもっとラケットの持ち替えを多用するものかと思っていたが、少なくとも自分が見ていた限りではラケットはずっと左手のまま。

また攻撃力はそこまで無い。スマッシュは速いものの角度やコースはえぐるようなものでもなく、フェイントも多くないし、筋力も人一倍ある訳でないのでドライブショットも目立った強さは見られない。

そんな彼がここまであっさりと勝ち続けて来れたのは圧倒的な守備力とミスの少なさ。またその強さを活かす為のスタミナも、まだ成長期の途中ながら十分持っている。

 

特に守備に関する上手さは、大井自身、ダブルスプレイヤーの朱紅運(シュウコウウン)をよく知っていたので並みの攻撃では崩せないだろう。

 

『オンマイライト! 大井康太。横浜翔栄高校二年! オンマイレフト! 秦野弦羽早。北小町高校一年。サーバー、大井康太。ラブオルプレイ!』

 

だがあらゆるシャトルを取れる選手なんていない。一打で崩せないのなら、丁寧に組み立てていき崩せばよい。

 

最初のラリーはやはり予想通り遅い展開で来た。そこに大井は無理やりペースを上げようとはせずに、遅い展開に付き合いクリアにはクリアをして様子見をする。同じストレートにクリアーが八回と、その場面だけ見るとただのクリアーの練習に見える。

 

先に動いたのは弦羽早でカットドロップで前へと落とす。左利きのカットドロップはそれだけでエースショットになり得る時もあるが、ステップに自信を持つ大井は余裕を持ってシャトルの元まで足を運ばせ、ヘアピンを打ちたいのを堪えて、また同じ場所にロブを上げる。

 

だが弦羽早も無理に動かない。またクリアーで後ろへと追い込む。

またもクリアーを数回交えた後、再び弦羽早がドロップショットを繰り出す。流石に前に落とさないとこちらばかり動かされているのでヘアピン。

弦羽早がロブに上げてまだラリーが続く。

 

「(コイツ、全然速さを変えない)」

 

こちらもあえて速い展開ではなく遅い展開に入る事で弦羽早にとってやりにくい状況を作り出したかったが、弦羽早は一向にペースアップの気配を見せない。しかもその表情にはゆとりすら感じられる。

 

元々ラリーを続けるのを得意とする弦羽早にとって、相手がわざわざ遅めで来てくれるのならそれを嫌に想う必要はない。相手がそれこそトップレベルであれば焦りを感じるだろうが、まだ僅かな揺さぶりでミスが生じるレベル帯だ。

 

弦羽早が一向にペースアップをしない事を察した大井は、ならばとドロップを送る。

 

片足リアクションステップの出の速さを利用し、飛んできたシャトルにワンテンポ溜めを入れてクロスのヘアピンを送る。このクロス事態に大きな意味は無いが、溜めとクロスといくつかの変化を入れることで、相手に警戒する球種を増やさせるのが目的だ。

 

ならばと大井も同様にクロスのヘアピンで弦羽早を揺さぶる。ストレートと読んでいたので少しばかり驚いたが、元々片足リアクションステップは相手が打った後に地面を蹴り始めるので、今みたいに遅い展開であればフェイントにも崩れにくい。

 

低めのアタックロブが大井のフォアハンド奥へと飛ぶ。

 

まだ弦羽早は攻める気が無い。走るなら付き合ってやると第一ラリーから終盤まで走り続けるのを前提に動いている。

 

「(ここまで続いたラリーだ。この一点を取れたら秦野のメンタルを揺さぶれる)」

 

長いラリーの末に相手にポイントを取られた選手を襲うのは虚無感。一方ポイントを得た選手が得られるのは達成感。サーブミスと同じ一点でも、メンタルに与える影響力には違いがある。

だからこそこの最初の長期ラリーを失う訳にはいかない。

 

大井のクリアー、弦羽早のドロップ、ロブ、ドロップ、ヘアピン、ロブ。

 

上がって来たロブに対して大井に迷いが生じる。既に50回以上続くこのラリーは一体いつになったら終わるのか。この長期ラリーを毎回していたら間違いなく試合終了まで持たない。

ここでスマッシュを打てばラリーを終えることができるかもしれない。

 

ラリーを速く終わらせたい。でも終わらせるためにはよりコートギリギリいっぱいの球を打たなければならない。そうやって角度を付けようとしたり、ラインギリギリを狙う相手の球のミスは増えていく。

 

守備の強さを武器とするプレイヤーが与える独特の精神的プレッシャー。

 

「(いや、一度気持ちを切り替える)」

 

スマッシュを打ちたくなったのを堪え、自分の動揺を自己分析して少し落ち着く時間を稼ぐために高い弧を描くハイクリアをラウンド側へ放つ。

 

弦羽早はこの妙なタイミングでのハイクリアに違和感を覚えた。弦羽早が打った球はそこまで大井を追い詰めるような球ではなかったので、クリアを打つのは良いとしてもハイクリアにしてまで大きく上げる必要性はない。

 

 

どのスポーツに置いてもそうだろうが、バドミントンの組み立て方にもいくつかに別けられるが、大きく別けると三つ。

 

思考型・観察型・直感型

 

どの選手もこの三つは必ず持ち合わせているが、その選手の強みとしてこの三つを無理やり当てはめる場合、初心者から中級者は基本直感型に入る。理由はバドミントンの速いゲームスピードの中で相手を観察したり、思考を張り巡らせること事態が難しいから。特に動きに慣れが出てくる中級者は、どうしてもその場その場の雰囲気で打つ者が多い。

 

では上級者レベルになると多いのはどれかとなると、一気に思考型と観察型になり、直感型は激減する。

 

その中でも秀でて観察眼に長けているのが薫子で、思考型に特化したのが唯華、直感に特化したのが綾乃だ。勿論綾乃が全く何も考えずに動いている訳ではないが、綾乃を思考型に当てはめてしまっては直感型という枠に意味が無くなる。

 

閑話休題

 

弦羽早は三つの枠に無理やり入れるとすれば、意外にも綾乃と同じ直感型だ。ただ前述の通り特化した綾乃と唯華が例外であって、基本どの選手もこの三つを必ず持ち合わせている。

 

弦羽早が直感型に当たる理由として、幼少期から綾乃と速いラリーを続けていた影響で、考える暇が無かったのが大きい。彼女と毎日数時間も練習していれば、脳が考えるのを諦め感覚で動き出すのは特別変な話でもない。またラケットを持つ手を切り替えるという行為も、頭で考えてからでは遅いので自然直感となる。

ただ直感型と胸を張って言うにはそこまでのセンスはなく、むしろ読みに関しては弱い方だ。結果コート外では日頃の勉強のおかげで組み立てができるが、コート内ではそこまで長期的な組み立てができない微妙な立ち位置となっている。

ただ悪いばかりではなく、直感型の選手は極めたらゾーンに入れる可能性が高い。

 

 

 

さて、そんな弦羽早の直感では、このハイクリアの意図を読み取れないというのが答えだった。

ただ観察面と思考面では別だ。

 

「(楽したい、あるいは打つ瞬間に迷いがあった?)」

 

弦羽早の考えは合っていたが、確信が持てない辺りやはり中途半端である。でもそう言った違和感を覚えることそのものが、プレーの流れを変える一打になる。

弦羽早はラウンド側に上がって来たシャトルを、そのまま背面打ちでも良かったがあえてテンポを変えるために右手に持ち替えつつ、そのままカットドロップを繰り出す。

 

右利きのカットドロップは左とは違い、ノビの良い速いドロップとなる。エースショットに成りえるのは左利きの方かもしれないが、右手のカットは奇襲性が高い。

手首の可変区域の関係で限界のあるリバースカットを無理やり使わずとも、両方の強みを活かせるのが両利きの強みだろう。そこに行きつくまでの努力に見合った成果があるとはとても思えないが。

 

突然相手の利き腕が変わり、バックハンドや移動方法が左右反転する。これは相手からすると突然対戦相手がラリー中に入れ替わるようなやりにくさを感じる。

 

「ぐっ…」

 

予想外の速さのカットドロップと利き腕の変化に、ここでヘアピンで勝負しようと思える者は少ない。一先ずもう一度ラウンド側に上げて構え直そう。

こうやって相手の思考を困惑させられるのが、フットワークも完全に反転させられる弦羽早の大きな強みである。

ラウンドに来たロブ球。ならやるべきことは決まっている。再び左手に持ち替えた弦羽早はシャトルの落下地点に素早く入り込むと、高く飛び上がり、そのシャトルをクロスに打ち込んだ。

 

奇襲に次ぐ奇襲。それはただのクロスのスマッシュかもしれないが、出をコンマ数秒遅らせるには非現実的な光景であった。咄嗟にラケットを伸ばすがその横をシャトルが通り過ぎる。

 

線審の男子へと視線を向けるが、彼は無慈悲に手を前に伸ばしてインの表示をしている。

 

『オーバー! 1(ワン)  ‐  0(ラブ)!』

 

実に60回を超えるラリーを制したのは弦羽早だった。この最初の一点はスコア以上に大きい。

クッと小さく唇を噛み締める大井は、シャトルの交換を要求する弦羽早の方を観察する。やはりスタミナに自信があるだけあり、一回のラリー程度ではその肩は上下しない。

 

「ドンマイドンマイ!」

 

「次一本!」

 

そんな時聞きなれた仲間たちの声援に大井は観客席を見上げる。強豪校だけあって横浜翔栄の部員数は多く、自分を応援してくれる声援の大きさは逗子高校よりも大きい。

対する弦羽早の声援は一つも無かった。元々少ない部員の内半分が出場選手として出ており、加えてなぎさと格上相手と戦う学の元へ集まっている。

 

この差は決して侮れない。ホームグラウンドかアウェーかで選手のモチベーションは異なってくる。

 

「(秦野に遅い展開を仕掛けても無意味か。カウンターが得意だろうが関係ない。俺らしくスピードを上げる)」

 

新品のシャトルを右手に、ラケットを左手に持った摩訶不思議なプレイスタイルの相手に小さく頷いてラケットを構える。

 

トン

 

ショートサーブ。それが分かった瞬間に地面を蹴って前へと跳ぶ。サーブはプッシュのできない綺麗なものだが、ハーフ球は十分可能だ。

 

因みにハーフ球というのは基本ダブルスで使われる球で、ネット前に来たシャトルをトップアンドバックの相手の中間地点にドライブよりやや緩い軌道で送るものだが、これはシングルスでも使用される。もっともシングルスで中間地点に送っても効果は薄いので、コート奥に送る球となる。それがハーフ球かといわれると微妙だが、しかしアタックロブともプッシュとも微妙に相違があるのでここではハーフと記す。

 

低く特別速さのないハーフ球は横に飛びながら打てば十分間に合い、それを低めのロブで返す。

 

無理やりシャトルに入り込んでスマッシュを打つのも大井には可能だったが、まだ最序盤。身体への負担を避けるためにドロップショットで様子見。前に落とされるが大井は持ち前の素早さを利用してヘアピン勝負を挑む。

 

「(綾乃が言ってたこの人の強みは速さだ。ネット前じゃない)」

 

綾乃のネット前練習に付き合っていたおかげで自然と上達したヘアピンから弦羽早は逃げない。ここでネット周りでプレッシャーを与えるようになれば相手は息苦しさを覚えるはずだ。

クロスに逃げたりもせず、更に真正面にヘアピンを送り打つ瞬間にラケットの面を切ることでシャトルに回転を掛ける。

だが大井もまたネット周りには自信があった。というのもインターハイに出場した際の男子ダブルスでの彼の得意ポジションは前衛。持ち前の速さを利用してプレッシャーを与えると言う点では綾乃と一緒だ。

 

大井も逃げずにヘアピンで返す。その際シャトルが回転していたのは分かっていたので面を切る事はせず、冷静に白帯ギリギリを狙う。が、やはりそうそう狙って白帯に掛けることはできない。しかしネットスレスレに返す事はできた。

 

「(マズッ!)」

 

シャトルがネットに沿うように落ちる状況でロブを上げても良くてミドルコートまでしか飛ばない。それが分かっていたので弦羽早は無理やりヘアピンで更に返そうとしたが、ネットを越える前に白帯に憚れた。

 

『オーバー! (ワン)  ‐  1(オール)

 

「ナイスヘアピン!」

 

「もう一本行こう!」

 

応援を送ってくれる仲間たちと視線を交えながら、大井は拳をギュッと握る。最初の長期ラリーから流れを掴まれなかったことで気がかなり軽くなった。

 

「あっちゃぁ、綾乃に見られたら怒られるな…」

 

そんな独り言が聞こえそちらを見ると、彼は失点をさして気にした様子もなく斜め横で繰り広げられている綾乃と、大井の先輩である橋詰恵美の試合をチラリと見ていた。そのスコアは既に7‐0。

神奈川随一の強豪校、その女子エースの彼女がボロ負けしている。

 

「…お前のパートナー、あれ人間か?」

 

「失礼な。可愛い女の子ですよ」

 

普通じゃないですけど、と付け加えられた言葉を大井は聞き逃さなかった。

とんでもない一年生が二人も来たものだと大井は呆れながらも、ラケットを構えるのと同時に気持ちを切り替える。

 

「(どの道俺のスマッシュじゃ守備は突破できない。ならできる限り消耗の少ないハーフスマッシュとドライブを中心に速度を上げていく)」

 

ショートサービスに対して弦羽早のレシーブはヘアピン。てっきりロブが来ると構えていたので少しばかり出が遅れる。

 

「(こいつ意外と負けず嫌いか?)」

 

先程負けたヘアピンでいきなり来たことでそう捉えたが、相手がヘアピン勝負を挑んでくるのなら、それに乗らないのがバドミントンだ。素直にリアコートまでロブを上げて守備に備える。

 

上がったシャトルは激しい音と共に勢いよく大井のコートへと鋭い軌道で飛んできた。

ロブかドロップ、あるいは軽めのスマッシュ(ハーフスマッシュ)だと無意識の内に全力のスマッシュ(フルスマッシュ)が頭から抜けていた。だが速度を重視してかサイドラインギリギリではなかったので、足を一歩踏み出してドライブでカウンターし得意な速い展開に持っていく。

そのドライブに対し、弦羽早は更にドライブで返してきた。

 

「(ゲームスピードを上げて来た? いや、それならこっちが有利だ。必ずどこかで緩やかにしてくる)」

 

再びドライブ。それを前に返され、大井もヘアピンで攻めを継続。だが弦羽早も更に引かずにヘアピンで攻める。

今度のヘアピンは弦羽早に分があり、大磯が一旦ロブで逃げる。それをまた弦羽早はスマッシュ。だが今度はフルスマッシュではなく、そこまで速さのないスマッシュ。

 

「(こいつ、今度は攻め続ける気か。だがそうなれば俺の――)」

 

足を踏み出してシャトルを前に返そうとした大井だったが、シャトルは彼のラケットから逃げるように横に僅かに曲がった。それにより面の当てる位置がブレ甘い返球となってしまい、即座に前に詰めて来た弦羽早に叩かれる。

 

『オーバー! 2(ツー)  ‐  1(ワン)!』

 

「(やっぱり左利きの自分より強い先輩がいるってのはありがたいな)」

 

ガットが緩んでいないかを確認しつつ弦羽早は、もう一度綾乃の方を見やる。あのダブルス以降心を開いてくれたのか、この一週間彼女に教えてもらったのは緩急の付け方だけではなく、クロスファイアのコツについても教えてもらった。弦羽早も左利きのプレイヤーとしてこれまでも打ってはいたが、綾乃のように激しい変化にはならなかったので使用頻度はかなり低かった。

まだアウトやネットを意識して綾乃ほど大きな変化は加えられないが、相手のブレを誘うにはこれくらいでも効果はある。

 

「(さて、得意な速い展開に付いて行って、左右の切り替えとクロスファイアも見せた。手札は少なくなったけど相手の警戒する球種も増えた。あとはどこかのタイミングで二回続けてネット前を崩したい)」

 

しかし速い展開に付いて行ったとは言え、本来のプレイスタイルと異なるものを続けるのは普段よりも身体は勿論、脳への負担も大きい。警戒させるだけさせて、基本のプレイスタイルを貫く。それが今の弦羽早の戦い方だ。

 

それから試合は進み1ゲーム終盤。

 

『ポイント! 17(セブンティーン)  ‐  16(シックスティーン)!』

 

二人の点差は中々離れなかった。やはり速い展開では大井に分があり、大井の得点する場合は基本速攻。一方弦羽早の得点は粘ってからの大井のミスか、あるいは左右を使い分けることの球種の引き出しの多さから来ている。

 

「(やっぱりミスが少ない選手はやりにくいな)」

 

持てる手札を一枚一枚切って、かつ緩急をつけることで攻撃力の無さをカバーさせ、相手のミスを誘い出すのが弦羽早の強み。だが加点の要となる相手のミスショットが少なければ自然と点数が伸び悩む。

それでも今のところリードできているのは、やはり全中一位の強さとそこからの成長を見せている。

 

だがまたすぐに大井のプッシュが決まりサービスが移る。

 

『オーバー! 17(セブンティーン)  ‐  17(オール)!』

 

今のラリーも得意とする速攻の展開。弦羽早のショートサーブにヘアピン、ヘアピン、ロブで弦羽早を後ろに追い込み返って来たクリアを、ドリブンクリアで態勢を崩す。そこでもう一度返って来たクリアにクロスのスマッシュ、甘いレシーブを叩いて一点。

 

弦羽早もここまでの展開で気づいていたが、大井はフットワークと反射神経の速さは勿論だが、相手を崩す配球を得意としている。一打一打に激しさは無いが、前後左右上手くラケットを揺さぶって最後の一打に繋げている。

 

そして彼の速さは流れを生みやすい。

 

1ゲームを絶対に取ると強い意志を持ち、大井はドライブサーブを繰り出す。それを無理やり打ってエースショットにしようとしたのが失敗だった。後ろに飛びながら放った弦羽早のスマッシュはネットに引っ掛かり、連続失点となる。

 

「ラッキーラッキー!」

 

「ナイッサー!」

 

そして彼の流れを掴みやすい能力と熱気の籠った声援も少なからず弦羽早にプレッシャーを与えている。インターハイ出場が掛かった大舞台。傍からすれば緊張していないように見えるが、シングルスという自分一人だけで戦うこの舞台で、彼がこの試合で抱いているプレッシャーは大きい。

 

既に第二セット中盤を迎える綾乃に対して、パートナーの自分がここで負けたら周りからどういわれるか、皆まで想像しなくとも分かる。綾乃を信用していない訳では無いが、彼女に失望されたくないと小さな怯えが存在するのも確かだ。

 

これまでリードを維持していたおかげで保っていたメンタルが徐々にブレ始める。

 

「(不味いな、呑まれ始めてる。相手の応援人数いるからうっさいし。集中はしてるけどゾーンに入れる気配全くない)」

 

まず自分のメンタルの変化を冷静に自己分析して、自覚する。この有無だけでも分かるのとそうでないのでは気の持ち方が違う。

 

「(…待てよ? 今綾乃の点数は12。2ゲーム目のインターバルも終わってる。このペースで行くと…。よし。俺の単純さに掛けるか)」

 

ニッと笑みを浮かべる弦羽早に大井は警戒しながらも速攻を仕掛けようとする。しかしその球はロブによって優しく返される。スマッシュ、ドライブは例外なくロブ。ドロップやカットスマッシュに対しては前に落とすこともあるが、こちらがヘアピンをすればすぐにまたリアコートまで上げられる。

 

「(なんだこいつ。急に配球に点を取る意志が見えなくなったぞ)」

 

だが試合を諦めている訳ではない。むしろ攻めに転じ経ない分、返す動作に無駄が無くなっている。チャンス球は無数に来る。ストレート、クロス、フェイント、ドリブンクリアー。あらゆる球種を試すが、崩れずにアウトにもならない。しかも攻め毛はないと言ってもしっかり動かしてくるのが厄介で、ドロップやハーフスマッシュを混ぜて来るので、後ろに待機という訳にもいかない。

 

そうしている間にゲームスピードは緩やかになり弦羽早のペースとなってしまう。

 

第1ゲーム終盤であえて意図的に長いラリーを行う。これはゲーム最序盤で行うのとは訳が違う。まだファーストゲームとはいえ、長期的なラリーが多くまた点数も接していることから大井に掛かる負担は大きい。無論走っている弦羽早の疲労も蓄積されているが、攻める為に強打を打っている大井の消費の方が速い。

息が苦しい。一秒でも休みたい。汗を拭きたい。速く点を決めたい。

 

疲労から来るプレッシャーはあらゆる選手が同等に抱えるもの。だがその上で尚続けられるか否かは、そのプレイヤーのスタミナと精神力次第だ。そして弦羽早はスタミナに関しては多い部類に入る。それは毎日欠かさずフットワーク練習とランニングをして培われた努力による賜物。

特にバドミントンの細かく動くフットワークを、弦羽早は左右の切り替えを試合中に切り替える事ができる。それはすなわち、フットワークが血肉となる程に繰り返し行っていた証拠だ。

故に他のスポーツならもっと早くバテるかもしれないが、バドミントンに置いては彼は効率的なスタミナ消費で動くことができる。

 

だが努力したのは大井とて同じ。努力なしにここまで来れる程スポーツは甘くない。

 

だから組み立てる。クロスのドロップ、ラウンドへのクリアー、スマッシュ、ヘアピンと攻めを継続させ、そして遂にサイドラインギリギリのストレートのスマッシュに弦羽早はラケットを当てられずに一点が大井に入る。

 

「ナイッショ!」

 

「良いコース!流れに乗れてる!」

 

大井は腰に手を当てながら息を整える。再び長いラリーの末に傷ついたシャトルを交換する弦羽早の顔は、三点連続失点をしているのにも関わらず余裕があった。

決して手を抜いている訳でも無い。疲れていない訳が無い。何か秘策があるとしても、残り一点でマッチポイントとなるこの状況まで温存するだろうか。

 

次のラリーもやはり弦羽早は攻めない。だからと言ってこちらが少しでも楽しようとすると、前に揺さぶってくるので気が抜けない。当然大井も前後左右に振っているが、弦羽早は多くのシャトルを上げる為、ワンテンポ息を吐けることができる。一方大井は打つまでの間に弦羽早の立ち位置を確認し、どの配球で崩すべきか考えなければならない。この僅かな差でも蓄積していけばスタミナに明確な差が生まれる。

 

「(残り二点!デュースまでは持ち込まない!)」

 

休みを欲する体に負けてしまった。

焦りから放たれたスマッシュはそれまで避けていた弦羽早のボディ周り。ダブルスのサイドバイサイドを強みとする弦羽早にとって、正面に来たスマッシュを返すのはシャトル掬いの如く容易だ。

バシンとレシーブとは思えない激しい音が鳴る。重心を籠められたカウンタードライブは大井とは反対のリアコートへと鋭く突き進む。

 

「(アウトだ!アウト!)」

 

判別に自信がないシャトルをアウトだと思い見逃してしまうのもまた疲労から来るもの。突き刺さったシャトルはギリギリだったが線審は確かに見ていた。シャトルのコルクがライン上に乗っており、インの表示を行う。

大井は思わず線審の男子を睨みつけるが、彼は気まずそうに視線を逸らしながらも表示は変えない。

 

「(ラッキー。ついダブルス感覚で打ちそうになったけど、直前の軌道修正でも何とかなるもんだ)」

 

癖でダブルスサイドライン側を狙おうとしていた弦羽早だが、直前に気付き今回の神掛かったギリギリのショットに繋がった。

 

「(出来ればこのゲームを取って少しでも楽したいけれど、そんな簡単に倒せる相手でもない。まっ、このゲームはスタミナを削るだけ削って気楽にやりますか)」

 

大井が感じた配球に点を取る意志が無いと言うのは間違いでなく、弦羽早はもうこのゲームは最悪取られても良いと考えていた。18‐19と十分に挽回が可能なラインだったが、その終盤特有のプレッシャーを感じていると自覚があったので、あえて強く勝負に出るのを止めた。

目標はただ一つ、時間稼ぎ。

 

チラリと斜め前の綾乃が立つコートのスコアを確認する。16‐6。デュースまで持ち込めば間に合いそうだ。

 

「(ここまでアホな戦略建てるプレイヤーは俺が初めてだろうなぁ…)」

 

 

 




思考・観察・直感ですが当然オリジナルでリアリティーはないです。ただ案外よい分類分けできたんじゃないかなーと。
そこまで掘り下げるような話でもないですが。


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スタミナ

今日で連続投稿四日目ですが、まだ半分もいってないです。

自動で投稿してくれるのを良いことに結構放置していたりするので、感想が遅れることもあります。


「…ねぇ、1ゲーム取られてるじゃん」

 

「攻撃が激しいんだよね」

 

「その割には余裕そうなのは策でもあるわけ?」

 

バドミントンバッグを持って応援に駆け付けた綾乃は、”偶然”インターバルに入ったパイプ椅子に座る弦羽早を冷たい眼差しで見下ろす。

スポーツドリンクをゆっくりと飲むその姿は、少なくとも息を乱しながら忙しなくドリンクを飲む対戦相手に比べると優雅なものだ。とても1ゲーム取られているとは思えない。

 

「これというのは無いね。強いていうならスタミナを削るだけ削った事かな?」

 

「弦羽早ってそこまでスタミナあったっけ? あの試合、1ゲームでボロボロだったじゃん…」

 

あの試合と言うのは麗暁(リーシャオ)紅運(コウウン)との試合だ。

 

「あれは疲れるに決まってるでしょ。あんなに集中したの初めてだし」

 

「全国の決勝よりも?」

 

「うん。まあ、あれから常々思うのが1ゲームで良かったよね。セットだったらと思うとゾっとするよ」

 

肯定の後の弦羽早の言葉は上手く耳に入らなかった。

全国大会の大一番よりもあの時の試合の方が集中して入ってくれた。その事実が綾乃の頬の筋肉を緩ませ、瞳に光を宿らせる。

 

綾乃の心境の変化に弦羽早が気付けないのは、綾乃を朴念仁だと見ているからか、あるいは彼にとっては当たり前の事であるが故に気恥ずかしい台詞を言ってると自覚が無いのか。

 

『残り一分です!』

 

「…雑談ばっかりしてたけど大丈夫?」

 

「どうだろ。やっぱり準決勝だけあってかなり強いよ。特に配球の組み立て方は学ばせて貰ってる」

 

笑みを浮かべる弦羽早に綾乃は一瞬苛立ちを覚えた。それは以前までの理由の分からない苛立ちではない。

本来インターバルで選手のメンタルに揺さぶりをかけることはNGだが、綾乃にそこまでの気遣いは出来なかった。

 

「一緒に優勝するって言ったのに、負けてるのにどうしてそんなヘラヘラしてるの? もっと緊張感持ったら?」

 

「…クッ…フフッ!」

 

「なに笑ってんの…」

 

「い、いや、だって藤沢に言われて喧嘩したこと綾乃が言うから」

 

あ~?と綾乃はガラの悪い声を上げながら思ったままに出た言葉を思い返す。確かに緊張感を持てと、言われた事を今度は自分が口にしている。

妙な気恥ずかしさを感じて、綾乃の頬が羞恥から僅かに赤く染まる。

 

「…別に今はエレナのことはいいでしょ。それよりちゃんと汗拭く」

 

スポーツタオルを弦羽早の顔に投げつけて綾乃は小さく息を吐く。

綾乃はシングルスに関して弦羽早より先輩であるので分かるが、彼は自分以上に攻めの手が弱い。手数が多いがこれというエースショットが存在せず、また安定性を重視していることからギリギリを狙う癖も無い。その為彼のシャトルコントロールの高さならもっと狙える角度も彼は好んで打たない。

とにかく安定志向というのがシングルスでの弦羽早のプレイスタイルなのだ。

 

「大丈夫、俺は必ず勝つよ。勝って綾乃と一緒にシングルスとダブルス、どっちもインターハイに行く」

 

「…だからその自信はどっから来るの」

 

「応援団が駆け付けてくれたからね」

 

北小町(ウチ)のチア部でもやって来たのかと内心首を傾げ、キョロキョロと辺りを見渡すが会場に変化はなく、このコート周辺に置いても自分が来る前とは何も変わっていない。

綾乃は変化の無い会場を見渡してから数秒の間を置いたのち、自分を指さした。

 

「もしかして私?」

 

「100人の応援団より綾乃のやる気のない応援の方が気合入るよ」

 

「いや、やる気が無い訳じゃ…」

 

咄嗟に否定したが、図星だったので曖昧な返事となった。

 

「ごめんごめん、冗談。またいつもの応援頼むね」

 

ポンポンと綾乃の頭に置いた手を優しく上下させ、弦羽早は勢いよく立ち上がると背筋を伸ばしながらコートへと足を運ばせた。

 

その逞しい背中を見つめながら綾乃は思う。

自己満足だと思っていた応援が役に立っていたのならそれは素直に嬉しかった。自分一人の応援で気の持ちようが変わるのなら喜んでやろう。

ただ100人の応援団より気合が入るとは少々大げさな気がした。それも満足感が無いと言えば嘘になるが。

 

「(…弦羽早ってちょっと変わってるよね)」

 

弦羽早も彼女にだけは言われたくないだろうが、しかし綾乃が絡むと単純になり色々残念になるのはまごう事なき事実であるので、その考えは正しかった。

 

 

 

 

綾乃のさしてやる気のない声援の有無は大きかった。横浜翔栄の大きな声援の中、コーチ席から届いてくる静かな声援は少なくとも弦羽早の中にあったアウェー感を完全に消し去ってくれた。

流石に地区大会程爆発的な変化は見せないが、その僅かな違いでもラリーが終わる毎に余裕ができたのは気の持ちようが変わる。

何より綾乃がインターハイに勝ち上がった事で、負けられない意志がより強固なものとなった。

 

だが意志が強くなろうともプレイスタイルに大きな変化はない。やはり基本のスタイルは守って相手のスタミナを奪いつつ、クロスファイアやドロップ、カウンタードライブを交えて警戒する球種を増やさせる。そして時折一気にラリーの速度を意図的に急上昇させ、相手のペースを乱し、相手をじわじわと確実に追い詰めていく。

 

『アウト! ポイント、9(ナイン)  ‐  5(ファイブ)!』

 

息を乱す大井は数回の瞬きをした後に目を擦る。

先程まで弦羽早の立つコートには自分がおり広さは変わらない筈なのに、弦羽早が立つコートは狭く感じてしまう。ギリギリを打とうとしてもミスを恐れて自然と角度が付きにくくなり、ならより奥へと狙おうとするとアウトになってしまう。

 

弦羽早は決して強くない。優勝候補の相模原のような高身長もパワーも角度も無い。フェイントだってほとんどしないからコースも読みやすい。

 

勝てる相手のはずだ。その筈なのにじわじわと点差が広がっていく。

 

 

 

最初の11点のインターバルも弦羽早が取った。

監督の木叢(こむら)のアドバイスが上手く耳に入らず、チラリと反対のコートを見てみると、パートナーの少女とイチャイチャしている――ように見えた。

 

因みに本人たちは至極真面目に試合内容について語り合っており、そうして見えるのはメンタル的に余裕がないのと、実際リストバンドを合わせたりハイタッチしたりとスキンシップを取っているのの半々だろう。

 

そして弦羽早がリードを続けて18‐12でようやく大井は気づくことができた。

 

弦羽早はとにかくやりにくいのだ。

 

まず大前提に守備の高さがその根底にある。どれだけ打っても返ってくるシャトルに対してこちらが取る方法としては、より鋭い球を打つ、スタミナ温存の為に緩い攻め球に切り替える、こちらも上げて緩い展開に持って行く。

だが鋭い球を打てばその分スタミナの消耗が激しくなり、温存の為に緩やかな球を打てばカウンターが起こりやすく、緩い球を打っても弦羽早の方から無理やり攻めては来ない。

そしてこれといって苦手なコースが無い。バックもフォアーも正面も前後左右どれをとっても綺麗なフォームで安定感がある。

何より準決勝に来て解禁された二刀流。バックハンド側に緩いロブ球を上げると突然持ち手を変え、そこにゲームスピードの緩急を合わせるともはや別の選手と戦っている様にしか思えない。

 

大井は膝に手を当てて呼吸を整えながら弦羽早の肩を確認する。その肩は未だ上下に揺れていない。

 

疲れていない訳が無い。彼はまだ15と成長期の真っただ中で、完全に仕上がった体ではない。学年が一つ上という差は時間というアドバンテージが存在し得る。

だが疲労を体の中に押し留め、肩を揺らさず顔を顰めたりしない。

 

「(速攻だ。1ゲーム目同様速攻で点を重ねる)」

 

攻めの姿勢を崩さない為のスマッシュ。だが疲れが見えてドライブ気味になってしまった浮いたスマッシュは速いカウンターで返される。足を大きく踏み出してそのカウンターも何とか拾うが、ミドルコートまでしか飛ばず、ジャンピングスマッシュを打ち込まれた。

 

 

 

『ゲーム!セカンドゲームワンバイ秦野! 21(トゥエンティワン)  ‐  15(フィフティーン)!』

 

コートの外へと出ると、荷物を持って互いのコートを入れ替える。選手二人はパイプ椅子に座って少しでも体力を整えながら、コーチングしてくれる各々の話を聞く。

 

「相手の守備は絶対じゃない。きちんと組み立てをすれば必ず点は取れる。それは出来ているのだから、あとは一回一回の配球を集中するんだ。最短で決めるのではなく、長引いても確実に決める一打に繋げ」

 

「うっす」

 

そうだ。実際守備を突破して点は確実に取れている。だが流れを掴むのが得意な筈が、連続してその展開に持って行くのが難しい。

スポーツドリンクを流し込んで熱を帯びた体を冷やしながら、体力回復に専念する。

 

「…ちょっと崩され方がワンパターンになってる。ラリー毎の極端な緩急の付け方に相手も慣れてきてるから、ラリーの最中に意識して変えていくべき。そして相手はネット前の勝負を逃げないから、どこかで読んで叩く」

 

「オッケー。ならネット前はなるべく序盤で仕掛けるよ。プレッシャーは速い内に与えておきたい」

 

「…序盤に点差を開けたら後は自滅してくれる。最初が重要だから。さっさと勝ってきて」

 

「はいはい、仰せのままに」

 

もう少し柔らかい物言いでも良さそうだがと弦羽早は苦笑しながらも綾乃の頭をまた優しく撫でる。冷たい空気は変わらないままだが、嫌そうにせず素直に受け入れるのは、仏頂面のぬいぐるみを撫でているようでちょっと面白い。

ただあまりやり過ぎるとビンタの一つくらい飛んできてもおかしく無さそうなので数回に抑えて置く。

 

 

 

『ファイナルゲーム! ラブオルプレイ!』

 

「(さて、綾乃は序盤に差をつけるべきって言ってた。ラリーの最中に緩急をつけろとも)」

 

とは言え弦羽早には、咄嗟に相手が嫌がるタイミングで緩急を付けられる直感は持ち合わせていない。無論適当なタイミングで緩急を切り分けることぐらいは容易にできるが、せっかく新しく手に入れた武器だ、もっと上手く使いたい。

 

「(なら)」

 

弦羽早はシャトルを構えると共に、ラケットを下に構える。それまでのバックハンドサーブとは違い、女子に主流のフォアハンドサーブの構えだった。

突然のサーブの構えの切り替えに大井は少しばかり動揺を覚えながらも、ただの揺さぶりだと深く考えないようにする。そして放たれたのはショートではなく、高いロングサーブ。

 

「(素直にロング!? 本格的に守りに入ってスタミナを削るつもりか?)」

 

弦羽早の意図は読めないもののわざわざチャンス球をくれたのだから、それに乗らない手はない。だがスマッシュは当然警戒されているので、ここはスマッシュの体勢からカットドロップを繰り出す。

返って来たヘアピンに対し大井も逃げずにヘアピンを送るが、その直後目の前に飛び出してきた弦羽早のラケットにはたかれる。

 

パシンと音を鳴らしたシャトルは大井の顔の隣を素通りし、コート内に落ちる。

 

「(ッ、読まれてたか…)」

 

どうせロブが来るだろうと深く弦羽早の挙動を確認しなかったのも失点の原因だったが、既に疲労が溜まっている頭ではそこまで思考が回らなかった。

 

続く弦羽早のサーブに大井は目を見開き、動揺から微かにラケットが震える。今度もまたフォアハンドのロングサーブだが、弦羽早のラケットを持つ手は右に切り替わっている。

 

サーブと利き腕の変化に大井だけでなく、この試合を見ている観客からもざわめきが起こる。

 

「(なるほど…。常に大井のストレートをフォアハンドにすることで、ストレートに圧を掛ける。互いに手の内を見せて来た中、最終局面でなおスタイルを切り替えて混乱を誘うか)」

 

コーチ席に大きな腰を下ろす横浜翔栄の監督、木叢はその余りに常識外れなプレイスタイルを冷静に分析する。

弦羽早のラケットのグリップは見る限り左巻きと右手では持ちにくいはずだが、あそこまでコロコロ切り替えるのだから逆巻きのグリップでも打ち慣れている筈だ。

 

「(大井は決してメンタルが弱い選手ではない。むしろ冷静な方だ。それでも走り続け、追いつかれた状況でこの変化は気味が悪いだろう。だが持ち手が変わったところでそこまで悩む必要はない。ラケットを二本持ってる訳ではないのだから、右利きの選手を相手にしていると頭を切り替えていけばいい。そこに大井自身がいち早く気付けるか)」

 

弦羽早が放ったサーブは今度はショート。それが男子シングルスにおいてセオリーながらも、直前のロングサーブが頭に離れなかった大井は出が遅れてしまう。そして警戒するのはやはり、現在フォアハンド側となっているストレートのロブ。しかしラウンドに送っても左手に持ち替えられる可能性がある。

 

――ならここは!

 

選んだ球種はストレートのヘアピン。だがそれは”綾乃”に読まれている。

勢いよく蹴りだした左足、この一打で決めると大きく跳んだ弦羽早の一歩は大きく、緩い軌道のシャトルは白帯を越えた後直後に叩かれる。

 

「(…これで前に送りにくくなった。でもクリアーで長いラリーをするのは避けたい。そうなると自然増えるのはスマッシュ。あとは弦羽早の得意なカウンターを数回決めれば完全に崩れる)」

 

綾乃の読み通り、再び左手に持ち替えた弦羽早の初手はロングサーブ。そこから放たれたのはスマッシュだがコースが甘く、カウンターレシーブを許してしまい一点が加わる。

そのパターンが数回続くと弦羽早はまたゲームの展開を少し緩やかなものにしてミスを数回誘い、またテンポアップを繰り返して連続得点。この辺りでまた左手オンリーにしてクロスファイアを主軸に点数を取得。

 

それまでの拮抗したスコアが嘘のように21‐7と大きく差をつけて弦羽早のインターハイ出場が決まった。

 

 

 

「…ありがとうございました。完敗だ」

 

「いえ、もう一回戦うとなれば結果は違うと思います。特にあそこまで崩してくる配球は勉強になりました」

 

握手を交わす二人を見てまたも綾乃は微かなモヤモヤを抱く。つい先程の準決勝、名前も覚えていない相手は試合が終わるとすぐに、逃げるようにコートを去った。当然握手など交わしていない。

 

だが次の弦羽早の言葉でその靄が消えるのは、綾乃にとって良いか悪いか。

 

「ありがとね。綾乃の応援とアドバイスのおかげで上手く崩せたよ」

 

「…ん、なら良かった」

 

1ゲーム目を捨てて綾乃が応援に来てくれるまで時間稼ぎをするというふざけた戦略は、思いの他合理的であった。というのも綾乃には指導者としての才能はないが、しかし相手を崩すことに長けている故コーチングの才は多少なりとも持っていた。

単純なメンタルを抜きにしても、綾乃のコーチングは相手を揺さぶりたい弦羽早のプレイスタイルとマッチしていた。

 

丁度同じタイミングで第三ゲームまで続いていたなぎさの試合も終わったようだ。既に学の試合も終わっており、やはり相模原が去年優勝者としての実力を見せつける結果となった。

学本人以上に悔しがっているのは行輝と妹の空で、涙を流す二人を学が励ます光景が遠目から見られた。

 

『男子シングルス決勝戦は20分後の二時から行います。繰り返します、男子決勝戦は20分後の二時から行います』

 

「20分…弦羽早、大丈夫?」

 

3ゲームを終えたばかりの選手の休憩時間としてはそれはあまりに短いものだ。

 

「…ゆっくり休んでおくよ」

 

アリーナにいる選手もほとんどいないので、アリーナの角に座って体を休める。

スタミナに自信があると言っても、今日は既に四戦目でゲーム数は9。確実に疲労は弦羽早の中に溜まっている。その一方対戦相手の相模原は第一シードであることから一戦少なく、試合も弦羽早より早く終えた事からその分休憩時間も長い。

 

そう考えると気弱なため息が出てしまう。これまでの対戦相手とは違い、相手は明確な格上となる。またシングルスでインターハイ出場経験がある事から、当然弦羽早に似た守備重視のプレイヤーとの対戦経験もあるだろう。

インターハイ出場を決めたのは素直に嬉しかった。それを目標に入学してそれまで苦手だったシングルスの練習に励んできたのだ。ここで喜ばないというのは、ここを目指して負けたプレイヤー達に失礼だ。

 

だが綾乃と約束した同時優勝となるとやはり少し気が重い。綾乃を抜きにしてもメンタル面では優れた方ではあるが、蓄積された疲労が精神に与える影響は大きかった。

 

「…弦羽早、肩使っていいよ」

 

「ありがと…助かる…」

 

そこに気恥ずかしさや喜びは無かった。無慈悲に時間の流れを刻み続ける大きな秒針に気が滅入っていた弦羽早は、瞼をそっと閉じると隣に座っている綾乃の肩に頭を預けた。

小さい肩は頭を乗せるにはいささか面積が少ないか。ただ冷たい空気とは異なる、綾乃の確かな温かみを感じられざわついた心が落ち着く。

 

「弦羽早なら勝てるから、自信持って」

 

「…うん」

 

「もう十分強いシングルスプレイヤーだから」

 

「…ありがと。やっぱり、綾乃の言葉が一番嬉しいな…」

 

少し甘えるような柔らかい口調に綾乃は数回目をぱちくりさせた後、フッと軽く笑って肩に乗せられた頭を空いている手でポンポンと軽く撫でてやる。

 

チラリと時計を確認しようとすると、こちらをジッと見つめているお団子ヘアに大きな簪を挿した少女と目が合う。なぎさと準決勝を戦っていた相手で、綾乃はその名前を憶えていない。

 

彼女は頬を真っ赤にしてこちらを挙動不審な様子で見ており、綾乃は鬱陶しいと睨みつける。途端彼女は面白いくらいにビクッと肩を震わせると、そそくさとなぎさの元へと逃げていった。

 

「(あの人も負けたのになぎさちゃんと普通に接してる…。別に負けた相手がどうなろうと知った事じゃないけど、なんでこう違うんだろ…)」

 

地区大会から県大会決勝まで10回程試合を行ってきたが、その中で負けた相手が話しかけてきたのは薫子ぐらいで、後はコートの外でも自分を見るやお化けでも見るかのように露骨に逃げ出す。

 

「(弦羽早とダブルスを組めば分かるかもって思ったけどやっぱり分からない。残す試合はあと一戦だけか…)」

 

これまでの混合ダブルスを含めた10数戦、心が高ぶる試合は一つたりともなかった。手を抜いた試合を除けば、これまでの試合綾乃の1ゲームの失点は10点いかない。

 

綾乃は決勝で当たる同じアリーナにいるなぎさへと視線を向ける。丁度クールダウンしている彼女と目が合い、不敵な笑みを向けられたので睨み返しておく。

 

「(なぎさちゃんも強くなったみたいだけどねぇ…)」

 

彼女の得意技であるジャンピングスマッシュも今の綾乃はさして脅威だと思っていない。何しろ男子世界トップのスマッシュを味わった今、男子選手並みのスマッシュを打たれたところで怖くは無い。

だからこの一週間、弦羽早がなぎさのスマッシュの練習を手伝うのにも何も思わなかった。

 

「(…まあ弦羽早と一緒に優勝すれば少しは達成感も得られるか)」

 

肩に乗せられた頭をチラリと横目で見る。

一週間前のダブルスを境に綾乃の中での彼の存在は大事なものとなった。

こうやって彼の支えになれることに喜びを感じられる。自分の存在が他人の役に立てているのだと充実感と達成感を抱ける。

 

でも他人は他人だ。弦羽早が何を考え、周囲をどう見ているのか綾乃には分からない。

 

 




1日5セットとか嫌がらせですかね?
綾乃がトーナメント向きじゃないって言われてますし書きましたが、一般人から見たらそもそもそんだけ体力ある方がおかしいですわ。

プロでも翌日に響くレベルじゃないかなと。
勿論プロは実力差が学生よりも少ないですし一試合毎の激しさが違うので、負担も桁違いでしょうが。

まあ素人目線なのでよー分かりません(適当)


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エースショット

一括予約投稿すると前書き書くことないよね。


相模原涼(さがみはらりょう)。強豪校逗子総合の男子バドミントン部の主将にしてエース。

身長は185㎝で手足は長く、その強さはこれまでの試合全て1ゲームも落とさずに勝利を収めていることが如実に物語っている。

去年の二年生でありながら男子シングル、混合ダブルス共に一位でインターハイ出場を決めている文句なしの優勝候補。

 

その性格は硬派の一言に尽き、顔つきもゴツく短髪の似合う男らしさを持つ。部員からも上辺だけでなく心の底から慕われているのは、逗子総合バドミントン部男女一同が応援の為に集まっていることからも伺える。

彼は強豪校の主将だけあり厳しさを持つが、必ず他者にやれと言った以上の練習を常に行ってきた。素振りを100回と言えば彼は150回行い、校庭20週と言えば25週走る。部員達が軽いトラブルを起こし掃除の雑用を命じられた時は、部員達全員の前で叱りながらも掃除の手伝いを率先して行った。

また、スタミナの無い部員には無理をせぬよう声を掛け、体の堅い部員にはストレッチを念入りにするようにと促したりと気配りができる。

おまけに実家がその顔に似合わず洋菓子店であることから、時折手作りの洋菓子を作っては部員達に配っている。特に頭にモテないがつく男子部員にとっては、クリスマスやホワイトデーに配られる彼のお菓子は心の支えであった。

 

まさに男が惚れる男。

 

その言動や体格、顔つきから初見でバドミントン部だと見破られたことはほとんど無い彼は、最終アップの為に念入りなストレッチをしていた。

 

「あいつらまたベタベタしてるよ。さっきも休憩室でくっついてたぜ」

 

「いくら強いからって露骨だよな~」

 

自分を慕ってくれている後輩達の視線の先を見ると、決勝で戦う秦野弦羽早が、パートナーである少女羽咲綾乃の肩に頭を乗せて目を瞑っていた。

相模原は深く吐いていた息を整えると、その熊の唸り声のような低い声を鳴らした。

 

「お前達、陰口を言うのはよせ。逗子のバドミントン部の部員であることを忘れるな」

 

「す、すいません…」

 

「彼等は一年生でありながら偉業を成し遂げたのだ。強い絆で結ばれているのは至極当然。羽咲綾乃が整った容姿をしているのは分かるが僻むのはみっとも無いぞ」

 

「いや、あれと付き合うのは羨ましいとは思わないッス」

 

「あの目は何人か殺ってますよ」

 

口を慎むよう促そうとした相模原だったが、偶然彼女と目が合いその暗い瞳と視線を交わす。途端彼女は眉に皺を寄せ、何見てんだと言わんばかりに口を軽く開けて睨みつけて来た。

普段コンビニの前で屯する大学生に、デカブツと茶々を入れられようと睨み返して黙らせる彼も、蛇に睨まれた蛙の如く慌ててサッと視線を逸らす。

 

「…まあ、好みは人それぞれだ」

 

存外彼の周囲も決勝前らしからぬ緊張感の薄い空気だった。

 

 

 

 

「今度はリベンジさせて貰いますよ」

 

「こちらもチャレンジャーとして挑ませて貰います」

 

先程なぎさと望の試合を境に親睦が生まれた健太郎と逗子総合の監督、倉石が握手を交わす。彼は地区大会から監督陣の中でも一番目立っており、その理由は試合中も生徒達に大声で指示を送っていたから。もっともその大声もなぎさ戦の途中で止み、アリーナは静かになっていた。

 

「あの」

 

健太郎は話を切り出そうとすると、倉石はそのたらこ唇を軽く上げた。

 

「試合中にアドバイスは送りませんよ。元々、相模原は去年から言うこと聞かなくてね。もっともインターバルになると誰よりも真面目に話を聞いてくれますが」

 

「ウチの秦野も真面目ですよ。真面目で強く、そして面白いくらいに単純だ」

 

倉石の握手に籠める力が一度だけ強くなり、健太郎も不敵な笑みを浮かべてそれに応える。

監督勢のやり取りの隣では、弦羽早は綾乃からはアドバイスを、なぎさから背中をバンと叩かれ激励を貰い、応援席にいる北小町メンバーに手を振る。

 

一方相模原はアリーナにいる望と試合の戦略について話していた。

 

予備のシャトルを持った審判が大会本部から審判席へと座ると、選手を除く関係者はコートを出てコーチ席へと移動する。

 

弦羽早は首を僅かに上げながらネットの上に手を上げて、その大きくゴツゴツした無骨な手と握手を交わす。

 

「あの雑誌で君を見て以来、戦うのを楽しみにしていた」

 

「神奈川男子ナンバーワンプレイヤーにそう言って頂けて光栄です。全力で挑ませてもらいます」

 

じゃんけんの結果、サーバーは弦羽早となった。審判から渡されたシャトルを右手で受け取ると、ふぅと一息ついて右サービスコートに立つ。

 

『オンマイライト! 逗子総合高校、相模原涼! オンマイレフト! 北小町高校、秦野弦羽早! ラブオルプレイ!』

 

弦羽早はラケットを構える前に相模原の立ち位置を確認する。それは元来の立ち位置よりやや後ろ寄りであったが、手足の長さから前へのプレッシャーが無くなった訳ではない。

日本人で180を超えるバドミントンプレイヤーは少ないので、ここまで背の高い選手と戦う経験はあまりない。それこそ膝の調子がよい健太郎と11点のハーフゲームをやっていなければ呑まれていたかもしれない。

 

弦羽早は目を閉じて、意識を集中させる。

 

これまで戦った相手は言うなれば格下。準決勝で戦った大井はシングルスにおいては同格であったが、ダブルスとなると弦羽早はパートナーが一定以上の選手であれば試合前から勝つ自信があった。

だが目の前の選手はこの人口の多い神奈川県高校男子の頂点。

 

『俺と伊勢原先輩の分まで頑張ってくれ!』

 

『…相模原は強いがお前なら行ける…』

 

少ない男子バド部の先輩達からの言葉。

 

『バッサー滅茶苦茶調子いいし行けるよ!』

 

『精一杯応援するからね』

 

『無理はしないでね。綾乃ちゃんとのダブルスもあるんだから』

 

元気に拳を握る悠。兄が負けて悔し涙を流したばかりの空。心配性の理子。

 

『お前のディフェンスならあいつの攻撃も凌げる。どんなに凄い強打が来ても絶対諦めんな』

 

『ここまでよくやったな。正直な話、入ってすぐのお前を見た時はここまで来れるかは半々だと思っていた。だがお前は自分自身の力でここまでやって来た。それは紛れもないお前が培った努力の賜物だ、誇りに持って胸張れ。そして全力でぶつかってこい』

 

バシッと背中を叩きながら歯を見せてニッと笑うなぎさと、普段の練習時の厳しさとは正反対の、優しい大人の笑みを浮かべて激励を送ってくれた健太郎。

 

『…試合前にあれこれ言うの苦手だけど…勝って。県の優勝トロフィー、三つ揃えよう』

 

集中力を高めているのか静かなトーンの綾乃。

 

直前のやり取りが刹那の間に思い返される。

 

弦羽早は目を開くと、シャトルとラケットをゆっくり構えた。

 

「……」

 

トン。

ショートサーブの静かなシャトルの音と共に決勝戦が始まった。

 

フォアハンド側、ストレートへの低めのロブが弦羽早のコートに返って来た。相模原の立ち位置はホームポジションよりやや手前。生半可なドロップを打てば即座に叩けるように構えている。

 

弦羽早はシャトルに対して横向きになりながら、後方へとジャンプし、その体勢のままストレートにスマッシュを打ち込むサイド・オン・ジャンプスマッシュを仕掛ける。

 

「(む?速い展開か、あるいは俺に上げたくないか)」

 

互いに1ゲームの序盤は様子見から始まる。お互いに相手の試合を見てその強みは把握しているので、どこで自分の強みを活かし、相手の弱みを引き出すかが重要となる。

 

大きい手足を利用し、ミドルコートやや奥へと落ちるスマッシュを一歩でタッチし前に落とす。

 

ジャンプした弦羽早も持ち前の体幹の良さを利用し、ブレることなく着地と同時に地面を蹴って前へと瞬時に詰める。

その素早い動きは自分のコートに来るシャトルに対して、ラケットを高い位置で迎い入れる。ラケットを高い位置で構えることで打てる球種を増やし、相手を崩しやすくなる。

 

ラケットの面の位置と視線からストレートと呼んだ相模原は重心をやや右寄りにするが、打つ寸での瞬間に弦羽早の手首がクイッと内側に曲がった。

 

「(フェイント、クロスで来たか! だがこの軌道は)」

 

少し力み過ぎたのかあるいはスナップが速過ぎたか。威力が強すぎたクロスへのヘアピンはシングルスのサイドラインを越え、ダブルスのサイドラインやや手前に落ちた。

 

『アウト! オーバー! 1(ワン)  ‐  0(ラブ)!』

 

沸き上がる逗子総合の部員達の拍手と声援。それに負けじと北小町の面々も声を上げるが、やはり人数差にほとんどかき消される。しかし一番大事な弦羽早の耳にはちゃんと入っていた。

 

「(初動であえてフェイントで来たか。だが今のアウトは両者には大きい。これまで多種多様な配球に反比例して使用頻度が極端に少なかったフェイント。それが苦手と明言したようなものだ)」

 

倉石はインターバルに向けて手早く白紙のノートに書き込みを始める。彼の隣の椅子に座る望も声援を送るが、選手並みに集中する倉石の耳には遠くの声に聞こえる。

倉石が自分が分かるようにスピード重視で乱雑にノートに書き終えると同時に、相模原のロングサーブでラリーが始まる。

リスクの高いドライブサーブでなく弧を描くロングサーブ。それは相手を崩すよりも出方を伺っている。

 

「(警戒させる球種を増やしたいけど構えてる。こっちも相手のスマッシュには序盤で慣れておきたい)」

 

相模原の頭上を越えるように、だが高すぎてチャンスボールにならぬようにスタンダードクリアをクロスに打ち、ラウンドの技術を分析しようとする。

だが弦羽早の考えは甘かった。コーチ席に座る綾乃から「…馬鹿」と冷たい罵声が耳に届くが、それを気にするほど頭に余裕はない

 

相模原は飛んできたシャトルに対し、後ろに下がるのではなくグッと膝を曲げて大きく飛び上がった。

 

「なっ!?」

 

それは弦羽早だけでなく、彼のプレイを見流れていない逗子総合勢を除く観客全員の驚愕の表情が重なる。それはさながらバスケ選手のダンクシュートを見ているかのような高さ。地面とつま先の距離は80㎝近く離れており、更に長い手、そして規定に違反しない680mmギリギリいっぱいの長さのラケットが手から伸びる。

 

「ッ!」

 

弦羽早は驚きつつも冷静に前へと出る。全身を使った垂直飛びは高さこそ脅威だが、腕のストロークに入っていない。故に強打は不可能で、面で当てるだけとなる。ならば真っ先に警戒すべきはドロップであり、強打は度外視してよい。

弦羽早の読みは正しかった。彼から放たれたシャトルは強打とは言えない。しかしその軌道はドロップでもクリアーでもない、角度の付いたスマッシュだった。

腕をまっすぐ伸ばした状態で、彼は当たる瞬間に手首スナップの力だけでシャトルを叩き落とす。元来、手打ちと呼ばれる軽い球は弦羽早には通用しない。しかし高い打点から繰り出し、かつ高い視点で見ている相模原には弦羽早のコートの空きがくっきりと見える。

 

相模原のスマッシュはコート手前側(フォアコート)へと直角に近い角度で落ちていく。

 

だが決勝。それも世界ランク一位を破った強者。

彼は落ちる直前に地面からラケットを滑らせるように潜り込ませると、その横へ運動エネルギーを乗せたまま、クロスへのヘアピンを再度行う。

これは無理してクロスを狙ったのではなく、地面ギリギリのシャトルを打つ場合はストレートで打ったとしてもネットを越えない可能性が高い。

 

だがそれも、普段体制の崩れることがまずない弦羽早にとっては打ち慣れないショット。ネットをなんとか超えるものの、やはりダブルスのラインに寄せる形でのアウトとなる。

 

『ポイント! 2(ツー)  ‐  0(ラブ)!』

 

「(二回連続アウト…。でも角度は問題ない、あとはスナップの力加減か。ここに来てシングルスの不慣れがでるのは練習不足だな)」

 

ガットがズレていないかを確認しつつ、自分の立ち位置とシャトルの落下地点から数回ほどクロスのヘアピンの素振りを行う。

失敗したあとに素振りをするのは何もおかしくない行動だが、ただあのジャンプを見た後にするには少し眉を動かす者もいる。

 

「秦野の奴、あのジャンプを見ても冷静だな。クロスのクリアーが封じられたってのに」

 

「…別にクロスが駄目なんじゃない。多分弦羽早はもう一回クロスのドリブンで行く…」

 

「ドリブンクリアで?」

 

スタンダードクリアでさえ届くのに、より低いドリブンクリアを狙うとはどういう訳か。

四つ並んだパイプ椅子で、自分とは一つ席を空けて一番端にいる綾乃に問いかけようと思ったが、その前にラリーが始まったので口を閉じた。

 

弦羽早がヘアピンで前に落とし、相模原がロブに上げて駆け引きが始まった。

 

安定を重視して七割ほどの力でバックハンドへとスマッシュ。それを前にレシーブし、今度は弦羽早が低めのロブでラウンド側のリアコートへと押し込む。

バドミントンにおいて身長はかなりの状況において有利に働くが、絶対ではない。150㎝ほどしかない麗暁(リーシャオ)が世界トップに立っている事がそれを証明している。

身長が高い故のデメリットとしては、自分の身長よりやや高い程度の中途半端な高さの配球に対して、身体を潜り込ませて打つことが厳しくなる。

 

その為相模原は、バックハンド側に来たシャトルをフォアで打つ、ラウンド・ザ・ヘッドストロークではなく、背中を相手に見せるハイバックで、空いているクロスにドライブを返す。

再度ヘアピンで相模原を走らせるが、一歩の歩幅が違う分悠々と届く。

 

「(相模原さんは強いしフィジカル面での才能は恵まれている。でも!)」

 

上がって来たロブに対し、弦羽早はクロスへと強烈なドリブンクリアを放つ。それは当然相模原の頭上を越えるルートとなり、低い軌道のドリブンクリアは少し跳ぶだけで叩き落とせる。

しかし先程クリアーを打ち落とした直後、それより低いドリブンが来るのは予想外のこと。加えて勢いのあるドリブンクリアは一度タイミングがズレるとジャンプに合わせて叩き落とすのが難しく、意図せぬコースと彼の体の重さが足を引っ張る。

 

「ぐっ…」

 

咄嗟に軽く飛びながら頭上を越えようとするクリアを手首のスナップだけで角度のあるドロップで返そうとするが、やはりブレた体勢で手打ちで返すのは並みの技術ではない。

シャトルはファサリとネットに引っ掛かる。

 

『オーバー! 1(ワン)  ‐  2(ツー)!』

 

「(やっぱり。それだけ大きくて体格も良ければ、小回りも利きにくいだろうよ)」

 

微かに口元を上げながら弦羽早は渡されたシャトルをキャッチする。

とは言え、今のは相手がドリブンクリアを警戒してなかったからできた奇襲だ。これ以降何度も同じ手が通用する相手ではない。だが試合が終わるまでのもう一回、相手の警戒が薄れた状況で同じパターンを組み込めば相手は嫌でも警戒せざる得なくなる。

 

「ほんとにドリブンで行った。しかも決め球になってる。おい、羽咲どういう」

 

「うっさい」

 

自分から話題を振っておきながら綾乃の返事は黙れ。それも年上、部活の先輩に対して言うのだから中々の暴君である。

 

「へいへい」

 

もっともなぎさももうこの程度では何も動じない。綾乃が駄目ならと健太郎の方へと向く。彼女の視線に気づいたのか、健太郎は真面目な顔つきで、選手達の集中を削がぬよう小声で話す。

 

「…高身長選手の弱点である体重の重さを利用したんだ。前のラリーでクリアーにタッチした時、彼は大きく跳ぶためにワンクッション置いていた。そのワンテンポを置かせない為の攻撃的なクリア。

そして彼みたいな高身長のプレイヤーに対してクロスのドリブンクリアは元々セオリーとは言い難い。さらに一手前の高めのクリアーを取られたのなら尚のこと彼は来るとも思わなかっただろう」

 

「失点の直後だからこそ決まった一手って訳か…。でもあのドリブン、ちょっと怪しかったような…」

 

「ああ、ギリギリライン上ってところか。だが仮にアウトだったとしても、クロスへのドリブンは予想外だ。警戒すれば僅かに出が遅れる。とにかく秦野は警戒させる球を一つずつ増やしていく気だ」

 

彼にはなぎさのようなエースショットは無い。だからこそ試合前から一定の球種を警戒させることはできない。故に一つ一つのラリーを粘りに粘って、試合全体をゆっくりと組み立てていく必要がある。

相手にシャトルを拾わせないバドミントンをするなぎさにとっては気が遠くなる話だ。

 

「(…元々のスタミナ量と今日の試合数から、できればストレートで勝ちたい。ならそろそろスマッシュを見ておきたいけど)」

 

だがスマッシュを誘う為に下手なロブ球を上げ続けて、それでスマッシュを温存された末に失点する展開は避けたい。

やはりここは低めの展開にしつつも、無理してテンポアップをしない絶妙なバランスで戦うのが吉か。

 

弦羽早が放ったショートサーブはやはりダブルス慣れしてるだけあり、そのクオリティは高い。少しでも浮けば長い手足を利用して叩く気持ちでいるが、彼のサーブは浮かない。

仕方ないと高めのロブを上げて出方を伺う。

 

弦羽早も無理して攻める気は無かったので様子見のスマッシュ。それがロブで返って来たので今度はやや強めに高身長プレイヤーの多くが苦手とする正面にスマッシュ。

無論神奈川トップの彼が正面のスマッシュに対する練習をしていない訳が無く、ローリターンで防ぐ。もっとも、やはり正面が苦手なのは変わりないようで、微かに後ろに仰け反りながらのレシーブとなる。

 

弦羽早はヘアピンの姿勢のまま入ると、またも打つ瞬間に手首を捻ってクロスに送る。

 

クロスのヘアピンは奇襲性が強いものの、その分飛距離が出る為シャトルが落下するまでの時間が長くなる。警戒している相手には通用せず、相模原のネット前への返球を高いロブで逃げる形となる。

 

「(ここでスマッシュを打つか否か)」

 

相模原はロブが落ちるまでの僅かな時間で考える。

彼は自分のスマッシュが弦羽早に対して通用する自負があった。故にこの球を打ち込めば一点が手に入る。

しかしこれまでの三回のラリー、弦羽早は得意とする遅い展開ではなく比較的速めの展開できている。それは即ち自分のフルスマッシュを警戒している証拠。

 

「(…いや、やはり温存は無いな)」

 

ここまでのラリー、多く点を取っているのは自分だが、仕掛けて来た数で言えば弦羽早の方が多い。特につい先程のクロスのヘアピンはしっかりインの軌道であり、修正を加えている。

このまま相手の動きに一つ一つ警戒するよりも、自分本来の攻めのバドミントンを貫き点差を広げていくべきだ。

 

相模原は膝のバネと地面を蹴る脚力から高く跳びあがる。

 

「高ッ!?」

 

観客席の節々から驚愕の声が上がる。先程もその跳躍力を見せたが、やはりジャンピングスマッシュとなるとその迫力はただ垂直に跳ぶのとは段違いだ。

 

弦羽早は腰を下ろし瞳に神経を集中させる。

 

まだ。まだ。まだ。

 

力を入れすぎて出が遅れないよう自然体でジッと堪え、ストロークの開始と直後にその場で軽く跳ぶ。

 

バシュン!と激しい音と共にシャトルが打ち込まれた――否、打ち落とされた。

高い跳躍、長い手足と最長のラケットを限界まで利用したスマッシュは、リアコート辺りから打ち込んだにも関わらず、ミドルコートに立つ弦羽早よりも前で地面と接触した。その隣には伸ばされた弦羽早のラケットがあるが、フレームにすら当たっていない。

 

『オーバー! 3(スリー)  ‐  1(ワン)!』

 

逗子総合から上がるのはまるで勝利の如き大歓声。それに釣られるように周囲の観客達もすさまじい角度のスマッシュに拍手を送る。

この一打にはコート内は無論、会場を呑み込む程の雄々しさと強さがあった。

 

「なんだよあれ、ほぼファストドロップの軌道じゃねぇか」

 

「ああ。何度か映像で見た事はあったが、実際に見ると厄介なんてものじゃない。手前に落ちるだけならまだ対処は可能だが、あそこまで角度をつけれるのなら当然リアコートまでも鋭いスマッシュを飛ばせる。一人でダブルスコート全部守れと押し付けられたようなものだ」

 

現役時代の健太郎でも速さであれば勝つ自信があるが、あそこまでの角度を付けたスマッシュは打てない。

ゾーン状態とは言え世界トップのスマッシュを返した彼なら、ただ速いスマッシュであれば初見では無理でも数回もすれば返せるが、この角度に果たして対応できるようになるのか。

 

綾乃は静かに観戦していた。

あのスマッシュは自分でも初見で取るのは不可能だ。何度か見た後でも読みが外れたら取れない。

対策としては打たせないが一番手っ取り早いだろうが、それ即ち弦羽早の元来のスタイルから逸れる。相手が格下であればそれでも通用するが、格上相手に本来とは違うスタイルを貫いたとして果たして勝てるものか。

同年代で格上相手と戦った事の無い綾乃にとって、ジャイアントキリングは専門外の領域だった。

 

腕と足を組み、かなりガラの悪い姿勢で弦羽早を見つめていると、チラリと彼がこちらを向いてくる。

そう言えば応援を忘れていたと手を振ってやると、軽く微笑んで手を振り返してきた。それを見て近所の柴犬を連想したが、流石の綾乃も失礼だと思ったのか胸の内に留めて置いた。

 

 

 

『ポイント! 8(エイト)  ‐  3(スリー)

 

バシン!と激しい音を鳴らし発射されたジャンピングスマッシュが弦羽早のリアコートギリギリまで伸びて床と接触する。

 

前を警戒すれば後ろ、後ろを警戒すれば前へと放たれる。当然左右もくまなく打ってくるそれに弦羽早は翻弄されていた。

 

「(駄目だ。一番厳しいのはやっぱりミドルコート前に来るスマッシュ。でも前で構えれば今度は奥に打ってくる。緩急をつけようにもこのままじゃ遅い展開まで持って行けない)」

 

あのスマッシュに対する雑な案としては、慣れる、打たせない、疲れさせるの三つ。このうちもっとも近道かつ難易度が高いのが慣れる。逆に現時点では疲れさせるは厳しい。

このまま行けばストレート勝ちするどころか、ストレート負けに流れが傾いており、既に片足を突っ込んでいる状況だ。

 

「(打たせない。それがセオリーなのは分かってるがッ!)」

 

弦羽早は上げさせたロブ球に対して彼の正面へスマッシュを打ち込む。それに相模原はやや長い腕がつっかえるものの、ローリターンで返され決め球にならない。そしてそのリターンに軽いハーフ球を打ち、低めの展開に持って行くと、長い手から半ば強引なドライブが来る。

 

本来そう言った無理やり打つ、手打ちのショットは重心が乗ってなく軽いもので弦羽早にとっては鴨が葱を背負って来るようなものだが、しかし彼のリストの強さがそれを許さなかった。手打ちでありながらその見た目通り、強烈なドライブとなる。

 

無論その一打事態は厄介であれどエースショットにはならない。だがそれを少しでも甘いコースに返すと、今度は体重を乗せた彼の本気のドライブが飛んでくる。

 

弦羽早はグッと地面を踏ん張り地面を蹴る反発力を利用して、重いドライブを重いドライブで返す。

だが有千夏が天才だと褒めるその技術も、優れた筋力とリストの強さに無理やりねじ伏せられる。相模原のドライブが弦羽早の左脇腹のウェアを霞め、コート外へと伸びる。

アウトだが、プレイヤーの一部であるウェアに触れた事でタッチしたことになり、相模原のポイントとなる。

 

『ポイント! 9(ナイン)  ‐  3(スリー)!』

 

「あぁ゛!?今のアウトでしょ!」

 

ドスを利かせた声と共に勢いよく立ち上がった綾乃が抗議する。

 

『アウトでしたがウェアにかすめました。それと、コーチ席のプレイヤーはインターバル以外で口を挟まないように』

 

「スマッシュの風で揺れただけかも」

 

『シャトルが掠った音がしました』

 

チッと舌打ちをする少女の顔は、唯でさえ普段より暗いというのに苛立ちがそこに交ざる。

普段の綾乃との落差の違いに弦羽早は苦笑しながらも、感謝の意を込めて空いている手を上げた。

 

「羽咲、落ち着け。まだ1ゲームの中盤に入ったばかりだ」

 

「ッ…ダブルスなら助けてあげられるのに…」

 

低い呪詛のような呟きは、おそらく無意識の内に出たものだろう。声のトーンは人気のない夜に聞こえたら、全力でその場から逃げ出すくらい気味が悪かったが、その内容に健太郎となぎさは一瞬だけ視線を合わせて軽く口元を上げる。

 

入学してすぐは、なぎさと何十回もぶつかる程ダブルスが苦手だった少女とは思えない発言だ。

 

「ねぇ、コーチ。インターバル何話すか決まってるの…?」

 

「ああ。秦野は打ち分けを重視して、正面への配球がそこまで多くない。正面も返されているがカウンタードライブは一度も来ていないからそこを起点に詰めていくべきだが、どうだ?」

 

「…いいと思う…けど、ドライブの上手さが気になる…。手打ちであれだけ速い球が打てるなら、多少無理やりな体制でもカウンタードライブできそう…かなって…。あんまり、男子の試合分からないけど…」

 

元々他者の試合を見る機会が極端に少なかった綾乃にとって、男子の試合などほとんど見た事がない。

それこそ小学校時代、弦羽早と同じ試合に出場する機会もあったが、その時彼の試合が行われている最中も素振りや壁打ちをしたりして暇を潰すのが羽咲綾乃という少女だった。

弦羽早を応援したのはそれこそ有千夏に引っ張られて半ば無理やりで、自分から他人の応援をするのは一週間前が初めてだ。

 

だから綾乃にとっても男女の違いからなるセオリーの違いは分からない。ただ幼少期から磨かれた感性は的を得ていた。

 

「…確かに、言われてみればそうか…」

 

「それに逗子総合のあの監督が切り札の弱点をそこまで分かりやすくするとも思えないな」

 

綾乃の意見になぎさも乗っかる。それは根拠としては薄いが、戦略を企てるのが得意な倉石の事だ。あえて序盤正面が苦手なフリをして、中盤以降にそれを利用する作戦も考えられる。

手足の長いプレイヤーが正面が苦手というのはそこに例外は無い。どんな選手も手が長ければ、正面に差し込まれたシャトルに対して肘を大きく曲げて打つ必要が出てくる。それは普遍的な事実。

 

問題はその差し込まれた状態でどこまでの反応とレシーブができるか。現在差し込まれたスマッシュに対して相模原の返球パターンはローリターンのみ。

だが県のトッププレイヤーが正面のスマッシュをローリターンしかできないだろうか。答えは考えずとも明白で、否である。

 

「助かった羽咲。そこも念頭に入れる形でアドバイスを送る。あとはお前からも一言いってやれ。それが秦野にとって一番の起爆剤だ」

 

「…分かった」

 

弦羽早も上手く低めの展開に持っていき点を稼ごうとするが、相模原が前大会王者の力を見せつける。

 

1ゲームは11‐5で相模原がリードしてインターバルに入る展開となった。

 

 

 

 

 




何度か見直しして修正しましたが、地の文が読みにくかったかもしれません。


身長によるメリットデメリットは自分の私見が多いですが、高いとやっぱりリーチや角度、今回のような中途半端なショットを打ち落とせる。
デメリットとしてはシャトルに入り込みにくいのと、手が長いため、身長が低い人よりもボディ周りに差し込まれる位置が早いことでしょうか。
速いラリーが多いダブルスでは身長はどちらでも利点はあるんじゃないかなーと。

ただシングルスでも、綾乃のイメージの元である山口茜さんが高い身長でないながらもトップランカーとして活躍していたりと、やはり絶対ではないと。
とはいえシングルスは高身長がかなり有利とは思います。
絶対ではないというのがむずかしいですな。


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相模原涼

誤字報告いつもありがとうございます。とても丁寧な修正で助っており、勉強にもさせて頂いてます。




11点を迎えた場合のインターバルの時間は僅か一分しかない。健太郎は忙しない動作で立ち上がると、まず最初に本題から入る。

 

「スコアは負けているが決して悪いゲームではない。落ち着け。お前なら必ずあのスマッシュを安定して返せる」

 

綾乃から渡されたスポーツドリンクを流し込みながら弦羽早は頷く。

 

「ここまでの試合、相手は正面のスマッシュに対してのレシーブは必ずネット前だ。苦手なのは間違いない。そこを起点にして打ち込むのが理想の攻めパターンだ。ただ同時にそれが誘いの可能性がある。羽咲が気づいたことだが、あのリストの強さなら多少差し込まれても無理やりスナップの力だけである程度まで飛ばせるかもしれない。念頭に入れておけ」

 

「はい」

 

「さっきは返せると言ったが、やはりあのスマッシュが脅威だ。ロブを上げるにしても、出来る限りジャンピングスマッシュができない高さの方がいい。ただお前の強みはエースショットを殺すことで発揮する。その辺りは試合中に調整しろ」

 

額から流れ落ちる汗を拭きながら、タオルで隠れた顔が上下に動く。

まずここまでのラリーで分析した中、健太郎がアドバイスできる部分は言い終えた。本来他の部活メンバーに対しては加えてメンタル的な部分もフォローしたりするが、それは彼女に任せた方がよいだろうと綾乃に軽く頷く。

 

「疲れは大丈夫?」

 

「今のところは。でも出来ることならストレートで勝ちたい。いや…それは無謀かな?」

 

世界ランク一位を倒したとはいえ、流石にそれは夜郎自大だと、気恥ずかしそうに頬を掻く。

その瞳には明らかな疲労の蓄積が見られた。綾乃と弦羽早では試合数自体は同じだが、これまで全ての試合10点以下で勝ってきた綾乃と、一つ一つのラリーが長くなりやすい弦羽早とでは動いてきた量は違うし、3ゲーム戦ってから僅か20分しか休憩時間が無かったのが響いている。

 

「弦羽早なら出来る。もしファイナルまで持ち込んだとしても勝てるから」

 

「…うん。ごめん、もう一回肩借りていい?」

 

「ん、いいよ」

 

弦羽早は気弱な笑顔を浮かべた後、正面に立つ綾乃の肩に額を落とした。ちょっと汗臭い綾乃の匂いが鼻腔をくすぐる。女の子にそんな事を言えばデリカシーが無いと拳の一つでも飛んできそうだが、弦羽早はこの匂いは好きだった。特に大好きな女の子が頑張った証だと思うと尚更。

 

弦羽早は勝ちたいという信念はブレていなかった。負けていても冷静に立ち回って試合に取り組めている。

だがシングルス慣れした格上。体格も恵まれてスタミナも自分よりあり、これまでの試合で蓄積された疲労の差は火を見るよりも明らか。

 

対して自分のスタイルは長期的なラリーを組み立てる為、1ゲームに消費するスタミナの消費は互いに激しくなるのは間違いないが、しかし3ゲーム目のラストまで持つビジョンが見えない。その上6点差で迎えたインターバルは、やはり弱音の一つでも吐きたくなった。

 

「(私はずっとシングルスだったから一人で戦うのになれているけど、中学に上がってから色んな強敵と戦ってきた弦羽早には必ず陸空君がいた。一人で自分より強い人に挑むのって不安になるよね)」

 

綾乃は先程の休憩時間同様、肩に置かれた頭を優しく撫でる。少しごわついた堅い髪質は自分のとは違う手触りだ。

 

ネットの先に聳え立つ巨大な壁、麗暁(リーシャオ)紅運(コウウン)を前に、涙腺が崩壊して泣き出した過去の自分を思い出す。

あの時は自分一人では駄目だった。弦羽早もまた一人では抱えきれなかった。だから二人で共有した、支え合って乗り越えた。

 

「(このインターバルが終わったらこのゲームが終わるまで何も言えない。何か一つ、言っておかないと)」

 

だが言うべきことはインターバル前に考えて置いたが、試合に関する事は健太郎が言ってくれたし、人を励ますのが苦手な故に上手い言葉が見つからなかった。

それにもう残り時間も短く、そろそろコートに入って欲しいと言う審判の視線と目が合ったので、1秒でも黙らせるためにガンを飛ばしておくが、仮にも県大会の決勝を任された審判だ。小娘の一睨みで規定を崩す人間ではないことぐらい、プレイヤーである綾乃も分かる。

 

――駄目だ。何も思い浮かばない。

 

綾乃は自分の肩に額を付ける少年の姿をジッと見つめると同時に、今まで味わった事の無い無力感を抱いていた。

これまで弦羽早がどれだけ追い込まれても、コートには自分もいた。また、シングルス戦でも培ってきた観察眼で相手の弱点を見極めてアドバイスを送って来た。

 

でも今、スマッシュを起点に追い詰められている弦羽早に、自分の直感を伝授する事はできず、スマッシュの癖が見抜けた訳でもないので助言もできない。

 

すぐ目の前にあるコートは、勝敗が決するまで選手以外に入ってはいけない空間になってしまう。その中で僅かな間許された自分が入り込める時間は、もうあと十秒しか残っていない。

 

時間が無いと切羽詰まった綾乃の脳裏にあの時の感触がフラッシュバックし、何も考えずに弦羽早をギュッと抱きしめた。コートの外から黄色い声が上がった気がするが、綾乃の耳には届かない。

汗で冷えたウェアも気にもせず、引き締まったゴツゴツとした体を包み込む。

 

「弦羽早、自分に自信を持って。ダブルスじゃないとか、私がいないとか考えなくていい。でもそれでも勝てないって思ったなら、弦羽早を強くした私を信じて欲しいな…」

 

”綾乃の存在が俺を強くしてくれる”

それはまだたった一週間前しか経っていないあのダブルスで弦羽早が言ってくれた言葉だ。その言葉が建前でないことは綾乃が誰よりも知っている。

 

「綾乃…。なんでかな、綾乃に励ましてもらうと、さっきまで弱気になってたのが馬鹿馬鹿しく感じる」

 

『インターバル終了です!』

 

流石決勝を務める審判だと、空気を読めと思うのと同時に、公平なその声に関心を覚える。顔を上げた弦羽早も同じことを思ったのか、互いの苦笑する顔が合わさる。

 

「よし、行ってくる」

 

「行ってらっしゃい」

 

相模原と審判、そして観客に謝罪を籠めて頭を何度か下げる弦羽早の背中を眺め、綾乃はホッと一息を吐いた。

 

「ビックリした。あんなに弱気になってたなんて」

 

「ビックリしたのはこっちだよ。いきなり抱き着くか普通?」

 

「あ゛~?別にいいでしょ…」

 

「…お前、流石に露骨過ぎないか?」

 

先程まで優しい表情を浮かべて来た綾乃は、なぎさの一声でそれまでの表情に切り替わる。

これは話しかけたのがなぎさだったのが原因だった。

次に決勝で当たるなぎさに対して強く当たるのは、綾乃の中での戦闘体制の表れである。もしあの状態の綾乃に話しかけたのが健太郎だったら、彼女はその優しい表情のまま口を開いただろう。

 

「短期間での連続試合、それまでの疲労、県のトッププレイヤー、まだ不慣れなシングルス。インターハイ出場が決まって安堵した矢先に一気に重なったのが原因だろうな。でもよくやったぞ羽咲。あれは相当スイッチ入ったはずだ」

 

「だといいんだけど…」

 

 

ーーーー

 

 

弦羽早はふぅと息を吐いてラケットを構える。

あれだけ好意を抱いている綾乃に抱き着かれたと言うのに、不思議と心は落ち着いていた。それまで頭の中で考えていたプランやロジカルがバラバラと崩壊していくが、それが脳から体全中に巡っていくような感覚を覚える。

試合の再開を告げる審判の声も少し遠い。

 

ゾーンとは違うなと、少し鈍くなった自己分析力で自分の状態を見直す。極限の集中状態で入ったゾーンはもっと異空間にいるような、あるいは自分の体をもう一人の自分が後ろから見ているような感覚だった。

そこまで入り籠めてはいない。でも無駄な雑念が頭から抜け落ちたのは間違いなかった。

 

トンと放たれたショートサーブに対して、弦羽早は全力で前へと足を踏み出し、彼のボディへとプッシュを仕掛ける。弦羽早が打つのとほぼ同時に踏み込まれた足が、ダン!と静まった体育館中を鳴らす。

 

これまでのサーブレシーブとはテンポが異なる激しい詰めに、相模原は咄嗟に”癖で”ボディへ来るシャトルを手首のスナップをフルに使いドライブで返す。

 

健太郎は二つの意味で驚愕しながらも、その試合から目を逸らさずに考え込む。

 

「(あれだけ差し込まれたプッシュをリストの力だけで無理やり持って行けるか。これは相当厄介だぞ。あの状態であそこまでのドライブは現役の俺でも無理だ。彼は素の力が違う。男子選手の中でも類を見ない恵まれた体格だ。

そしてそれを直感で読み取った羽咲も驚きだ。他者の試合に興味を持たなかった羽咲が本気でコーチングするとここまで読めるのか)」

 

健太郎が考え込む間も、弦羽早が返って来たドライブに跳び付き、空に浮いた状態で再度ボディへのドライブを打ち込む。そのコースは先程よりも更に返球が困難な肩口。

健太郎が驚愕するのと同様、倉石もまた対戦相手の生徒に驚きと関心を抱く。

 

「(普通の選手はプッシュの時あそこまで勢いよく踏み込んだら次の足が出ない。重心が前のめりになり過ぎてバランスを整えるのにタイムロスが生じる。それを一切感じさせないどころか、踏み込んだ足を蹴って跳ぶとまで来てる。あれ程優れた体幹と重心移動を持つ選手はプロでもごく僅かだ)」

 

弦羽早の集中力は一気に高まった。シャトルを打つ一回一回、頭で全てを考えずに感覚に身を委ねる。

それでも、あるいはそれ故か、相模原のコートにシャトルが落ちることは無い。

それどころか弦羽早の肩口へと強烈なドライブが、前に詰める相模原と一緒に迫りくる。

 

肩口へと来る球に対しロブで返せないと読んでの行動。

しかしと綾乃はコート外で口元を上げる。

 

「(ボディ周りは弦羽早のテリトリー)」

 

弦羽早もまた詰めて来た相模原に自然と口元を上げていた。

彼は足を地面につけたまま、上半身だけを後ろにギリギリいっぱいまで反らし、空いた僅かな空間にラケットを滑り込まる。その本来なら不安定な状態で、丹田を軸に地面を蹴り体を反らす事によって生まれた反発力で、僅かなストロークでありながら勢いのあるロブを上げる。

 

≪なっ!?≫

 

驚愕の声が会場中から上がったそれは、まるで蜂の巣をつついたようだ。

球種自体はなんら特別でないただのロブ。だがあのコースと速度に来たシャトルをロブでリターンできる人間がこの会場に果たしているのか。そこまでの異質なショットが僅か一秒弱の間で繰り広げられた。

 

だが、その異質さはさらに続いた。

 

相模原は半ば無意識の内に跳びあがった。

言うなれば感が働いた。シャトルを無我夢中で追いかけるバドミントン選手の感と言うべきか。

 

 

 

彼は元々インターハイに出場できる選手では無かった。それどころか県大会にすら出場できる選手では無かった。

そもそも彼がバドミントンを始めたのは中学生に入った頃とかなり遅い。元々体格の良かった彼は当時は、その体格を活かせるとある部活に入部していたが、入部して一か月も経つと、先輩が後輩を練習と称して苛めるのが当たり前の光景となっていた。当然そんな邪な部活が長続きする訳もなく、その苛めでの事故で相模原の同級生が大怪我し、問題が露呈してあっさりと廃部となった。真面目に練習する上級生も居らず、そこに異を唱える生徒は少なくとも相模原の記憶には無い。

 

そんな部活を失った相模原をバドミントン部に誘ったのが、二つ上の男子の先輩だった。彼は強かった。小学校から全国大会に出たプレイヤーで、中学でも好成績を残していた。ここの学校は特別バドミントンが強い訳ではなかったが、彼はそこに不満はなかったらしい。ただ彼の一個下、二年生の男子の新入部員がその年偶然にも一人もいなかった。

その為今年こそはと部活に入っていない一年生に一人一人勧誘しており、入学間近に廃部となった部員である相模原に白羽の矢が立ったのだ。

 

それまで対戦相手と接触するスポーツをいくつかやっていた彼には、最初バドミントンというのは軟弱なスポーツに思えてならなかった。

しかし本物のバドミントンを生で見て、自分の中でのバドミントンのイメージ象はガラスのように粉々に砕け散った。

 

最速のスポーツバドミントン。その魅力に彼はすぐに取り付かれた。

 

そして誘ってくれた先輩を始めとする、二つ上の先輩たちは数こそ少ないものの優しかった。三年生の倍以上の新入部員達全員が皆彼等を尊敬していたと、相模原は胸を張って言える。

彼等は自分達の練習時間を削ってまで、初心者も経験者に隔たりなく教えてくれた。そのおかげで一年の間に凄まじい成長を遂げたが、しかしそれも僅か一年だけ。二年生で最上級生となった彼等に指導者がいなくなってしまった。顧問の先生も人格者であったが、素人で指導者としては向いていない。

 

そんな彼らの目標は三年生の時に県大会出場で、県のレベルの高さを味わって彼等は引退した。

 

それでもまだバドミントンを続けたい。もっと上手くなりたい。そう願った相模原は強豪校の逗子総合に推薦ではなく受験して入学。

そしてバドミントン部に入って倉石と出会う。

 

「お前、相模原だったか。その場で腕を伸ばしながら目いっぱいジャンプしてみろ」

 

推薦入学ではない無名の選手。フォームも汚く、シャトルに重心を籠っていない手打ちと、基礎を重んじる倉石には見るに堪えない新入生だったが、その中の光るものを彼は見つけたのだろう。

相模原は困惑しつつも、言われた通りに素直に垂直にジャンプした。

その頃からだろうか、倉石が相模原と同級生の女子、石澤望に対して特に厳しく丁寧に指導を始めたのは。

 

 

 

弦羽早の顔に突如巨大な影が差し掛かり、その直後、彼の足元にシャトルが叩き落とされる。

 

相模原の上に伸ばされたラケットが、大きく弧を描くはずだったシャトルをネット前で捉えたのだ。

 

異質なロブに次ぐ異質な高さからのキルショット。それは歓声を通り越して、広い体育館に数秒の静寂と大歓声を巻き起こした。

 

「嘘でしょ…」

 

流石の綾乃も動揺を隠せなかった。あれほど神懸ったリターンロブが叩き落とされたのだ。健太郎もメモの為に持ったボールペンを震わせている。

北小町メンバーからの励ましの声援も出ない。逗子総合を始めとする会場全体の歓声に呑まれていた。

 

周囲にまでそれ程の影響を与える一打に、打ち込まれた本人が何も抱かない訳が無い。

インターバルの綾乃の励ましを境に冷静になった頭に、まるで間欠泉の如く動揺が一気に溢れ出る。

自信のある勝利を確信したショットほど、それを返された場合の動揺は激しい。ラケットを持つ震える左手を右手で押さえつけ、冷静になるようにと一呼吸置くがそれまで落ち着いていた心臓の鼓動は激しいままだ。

 

「ドンマイドンマイ!気にすんなって! ナイスレシーブだったぞ!」

 

そんな弦羽早の耳に届いたのは、明るいトーンのなぎさの声だった。

思わず勢いよくそちらも見ると、まるで先ほどのラリーが何事も無かったかのように声援を送る主将。彼女は弦羽早と目が合うと、隣に座る綾乃の頬をぐにゃぐにゃと引っ張って遊び始める。呆然としていた綾乃も我に返ったのか、なぎさの太ももを抓って返していた。

 

仲の良い光景に弦羽早はクッと軽く吹きだすと、コートに落ちたシャトルを相模原に渡す。

 

「(ありがとうございます、荒垣先輩)」

 

この状況下でも自分を貫き通して応援してくれたなぎさに感謝しながら、再びふぅと息を大きく吐いた。すると先程は効果の無かった深呼吸が嘘のように、再び集中状態に入れた。

 

「いい仲間たちだな」

 

「はい。あなたも、あれだけの人達に慕われてる。一人のことで一杯な俺にはできない」

 

「俺からすればその一人と心を通わせているお前の方が羨ましい」

 

「え?」

 

「気にするな。何でもないさ」

 

不敵な笑みを浮かべてラケットを構える相模原に釣られ、弦羽早もニッと笑ってラケットを構える。

 

彼等の動作に合わせて、それまで上がっていた歓声が静かになる。テニスのようにラリー中は必ず静かにしていないというルールは無いが、しかし基本ラリーの最中は静かにするのがマナーだ。

 

先程の前への詰めを警戒してか、ロングサーブから始まる。相模原はサーブの精度はそこまで高く無いがバックハンドでのサーブでありながら、リストの強さでバックパウンダリーラインまで軽く飛ばせるのが強みである。

弦羽早はワンテンポ出が遅れてしまい、少し仰け反った体勢でクリアーで状況を整える。

 

そのクリアーはジャンピングスマッシュを打ち込むには十分な高さとなってしまう。弦羽早はフッと息を吐きながらホームポジションに足を運ばせつつ、あのスマッシュをどう対処するかを考える。

 

『それでも勝てないって思ったなら、弦羽早を強くした私を信じて欲しいな…』

 

つい1分前の出来事が、まるで数十分も前のように感じられる。

 

「(俺を強くしてくれた綾乃を信じる。俺を強く…俺の強み――)」

 

何かをひらめいたのか、弦羽早は一瞬目を大きく開いて相模原を観察する。確信はないが、このままあのエースショットを野放しにしてはどの道勝ち筋を見いだせない。

 

ならば試してみるしかないと弦羽早は直感のままに、相模原がスマッシュの為に跳びあがった直後、”自分もその場で大きく跳びあがった”。

 

今日何度目かの動揺が会場から上がり、試合を観察するピンク色の髪の少女がボソリと”珍獣…”と一人呟く。

 

「(何をするかは分からんが、この角度なら!)」

 

おそらく地面から四メートル近くは離れた地点から放たれる強打。その安定感は倉石が徹底して教え込んだもので、毎日怒鳴り続けていた甲斐があってかそのフォームにブレは無い。

僅か5gしかないシャトルはまるで垂直に落ちるかの如く、弦羽早のミドルコート手前へ、更にサイドライン寄りに落ちていく。

 

だが相模原のスマッシュの激しい音と共に、ダン!と不可解な床を踏む音がアリーナに響く。その直後、まるで豹のように低い姿勢と速さでシャトルの下にラケットを滑り込ませる弦羽早の姿があった。

 

トン…

 

その気迫からは似つかない静かな音が鳴り、シャトルはネットを頂点とする綺麗な弧を描いてコトンと音を鳴らした。

 

『オ、オーバー! 6(シックス)  ‐  12(トゥエルブ)!』

 

この試合で早くもどれだけの歓声と声援がなっただろうか。

ただその声援を受ける少年は、集中したままジッとホームポジションと現在の自分の立ち位置を確認していた。

 

「か、監督!今の何ですか!?」

 

これまで声援に専念していた望が思わず声を上げた。

倉石もそれまで見た事の無いプレイに動揺し、額から汗を流しながらもポツポツと呟く。

 

「リアクションステップが速く動ける原理として、作用・反作用の法則がある。着地すると同時に地面に体重以上の力を加えるようになり、その力で初速を速めるんだ…。秦野は初速を上げるために従来のリアクションステップとは比べ物にならないくらい、目に見える高さで跳び、反発力を上げたんだろう…」

 

「で、でもそんなことしたら」

 

「…ああ。普通は”ブレる”か”踏み込めない”。だが秦野は手足共に両利きで、何より重心移動に優れている。右足で強く蹴って、左足で踏ん張って、更にラケットを振るうなんて常人では不可能な芸当もあいつには可能なんだろう」

 

「そんな滅茶苦茶な…」

 

「(重心移動と体幹の良さ、それは両利きを補っているのではなく、両利きすらただの踏み台。もし秦野のスタイルを意図して育てた人物がいるのなら、そいつは間違いなくイカれているぞ…)」

 

イクチッと、熱気の籠った体育館で不自然に帽子とロングコートを着た妙齢の女性が、可愛らしいくしゃみを上げた。

 

 




中学から初めて全国区レベルとか化け物かな?
ただここまで行かずとも、この年齢の成長速度はほんとに凄いですよね。とはいえ成長速度が現実離れ過ぎんよぉ。

最後の変なリアクションステップも当然フィクションです。物理的にそうなるか、私にも分からん。




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直感

ひたすらミントン


『ポイント、12(トゥエルブ)  ‐  15(フィフティーン)!』

 

流れが変わった。

 

大会関係者席に腰かけて、10コートある大きなアリーナの中で行われる唯一の試合に目を奪われる。

右手に持った仕事道具のペンはほとんど動いていない。この大会運営の協力者であるバドラッシュ、その記者松川明美は、インターハイの後半戦と言われても違和感のない程のレベルの高い試合に息を呑んでいた。

 

相模原涼(さがみはらりょう)。彼は明美の本拠地出る神奈川で頭角を現した選手なので何度か取材したこともあり、彼の試合内容はこの目で何度も見てきている。その渋い顔つきとは裏腹の派手なプレイスタイルは、見るものを夢中にさせる。強いリストを有効活用したフェイントや、追い込まれた状態からの速球はラリーに意外性を持たせ、何より膝の優れたバネと高い身長と長い手足から繰り出される超高打点からスマッシュは、対戦相手の拾う意欲を奪う。

 

明美は一年前の試合を思い出す。彼が去年のインターハイで負けた時も、やはりジャンピングスマッシュを徹底的に打てない低い展開で追い詰められたのが敗因だった。それは即ち、インターハイの選手ですら当時二年生だった彼のジャンピングスマッシュを警戒していたのだ。

 

そんな彼のジャンピングスマッシュが今、エースショットとならずに返球されている。

 

相模原の弱みは、優れた指導者の下での練習期間が他の高校のトッププレイヤー選手に比べて少ないことだった。にも拘らず、去年既に神奈川県のトップとしてインターハイに出場できたのは、同年代で並ぶ者は少ない恵まれた身体に加え、才能と努力と、噛み合った指導者と出会えたからだろう。

そして去年から更に一年の時を得て、もうかつての面影が無い程に技術面でも上達してきた。

 

明美は思う。もし仮に高校三年生の弦羽早と相模原が戦えば、まず間違いなく弦羽早が勝つだろう。15歳にして決勝に――いや、世界ランク一位に勝った身体能力と技術力はどれ程の練習を積み重ねて来たのか、かつて選手だった明美にも想像できない。

だが現実の弦羽早は高校一年生。それも二か月前まではまだ中学生だ。

 

あらゆる者が抗うことのできない時間の差は大きい。特に第二次成長期のさ中の中学生から高校生の伸びしろは、大人の緩やかなものとは比べ物にならない。

 

「弦羽早君…まさか彼がここまで強くなるなんて…」

 

弦羽早が頭角を現したのは中学校二年で全国大会に出場してから。結果こそベスト8止まりであったが、両利きという奇抜なスタイルは注目を浴びた。

だが明美はそれ以前、もっと言うなら小学校高学年時は県でそこそこ名の売れる前から弦羽早の事を知っていた。

 

その情報元はかつてのチームの仲間である有千夏。

 

『最近娘にさ、バドミントン仲間ができたんだ。あの子同級生の子と滅多に練習しないから心配だったけどホッとしたよ。そうそう、その子、男の子でツバサ君って言うんだけど、漢字が弦に羽に早って書くんだ』

 

『あはは。それはもうバドミントンする星の元に産まれたとしか思えないね』

 

ガットの弦、シャトルの羽、そして最速の競技バドミントンらしい早。

いったいどこのバドミントン夫婦がつけたのかと有千夏に返すと、実際は両親と祖父母達が初孫の名前を付ける際に各々付けたい名前を引かず、こうなったらと、ツバサという名前は両親が、残りの漢字は両者の祖父母が考えた名前から当てたらしい。

 

何気ない日常の一欠けらで行われた会話だが、名前のインパクトからか未だにそのやり取りを覚えている。

 

「隣、空いてマスカ?」

 

「ミスターヴィゴ? どうして…?」

 

一週間前に半ば無理やり綾乃を試合に惹きこんだ張本人、ヴィゴ=スピリッツがニコリと穏やかな笑みを浮かべていた。あの試合の結果綾乃にフラれた彼は、綾乃の全国大会優勝を条件に、これ以上勧誘はしないと手を引いたはずだ。

明美とも仕事上の関係を持っていたヴィゴは彼女の訝し気な視線に気づき、”お忍びデスヨ。会ワナイト約束シマシタカラ”と笑った。

 

「彼、見違エマシタよ。私が見た中学ノ試合の時より遥かに成長してマス。最も、あのダブルスの時ホド深い集中ではナイヨウデスガ」

 

「あれは…驚きました。集中の深さだけなら綾乃ちゃん以上に入り込んでいるように見えました。今の弦羽早君を見て、まだ好みでないと言いますか?」

 

ヴィゴが見た中学時代の弦羽早の試合は、明美が頼まれて渡したもので、弦羽早の事を凡才や好みでないと言いたい放題だった。

 

「…私が彼が好みでナイノハ両利きというフザケタスタイルもありますが、その中途半端さです。考える、分析する、直感。どれが最適トハ言いませんが、彼ハ考えるにしても直感に頼るニシテモ中途半端で行動基準が変わりやすい」

 

ヴィゴは各々が持つ自分のバドミントンを重視している。勝ちたいと思った綾乃に、そんな感情は必要ないと言ったように、自分のバドミントンがあっちらこっちらと動く弦羽早は好みでは無かった。

 

「多分それは、劣等感からだと思います。小学校一年生からバドミントンをやってる彼のセンスが培われない訳が無い。でも近くに並外れたセンスを持つ綾乃ちゃんが居た。なんとか彼女に勝つために頭を働かせようとするのは悪い事ではないでしょう」

 

「動機ナド私には関係ありまセン。ソレにこんな試合を見せられて、尚凡才だとは思いませんヨ。もっとも、才能で言うなれば間違いなく相手の子の方が優レテイマスガ」

 

激しいドライブを打ち込み弦羽早の体勢を無理やり崩し、ネット前に落としてサービスを取り返す相模原に視線を向ける。

 

「彼ハ良いですね。あれ程の身体はスポーツ全体から見ても恵まれてイマス。まだ節々に技術力の低さが見エマスが、高校生なら十分デショウ」

 

「ですね。彼も自分の強みと弱みを理解して、最大限強みを活かそうとしている。…ミスターヴィゴ、あなたはこの試合をどう見ますか?」

 

未だに彼に続く者がいないレジェンドプレイヤーに意見を聞く。彼も予知能力者でないのでコートの中の事全てを読み取れる訳では無いが、目の前の試合に惹きこまれている明美には聞かずにはいられない。

 

「これまでの弦羽早クンでアレバ間違いなく1ゲームも取れずに負けてイタデショウ。綾乃チャンより遅い、拾うだけのバドミントンで勝てる程シングルスは甘くアリマセン。でも彼はシングルスにおける自分のバドミントンを見つけた。おそらく綾乃チャンを通して」

 

「自分のバドミントン…?」

 

「”考えさせるバドミントン”デスヨ」

 

 

 

 

弦羽早の放ったシャトルが相模原のラケットから逃げるようにフォアハンド側にガット一面分大きく逸れる。1ゲームの終盤、17‐14と相模原がリードする状態で解禁されたのは変化の激しいクロスファイアだった。ここまでの変化量の大きいクロスファイアはこれまで練習でも成功率の低い技であったが、この土壇場で成功したのは火事場の馬鹿力か、あるいは流れを掴んでいるからか。

 

残り二点差まで詰めよった弦羽早は、乱れる呼吸を整えながらサーブを構える。

 

相手のエースショットを殺してからの弦羽早は確実に流れを掴んでいた。ただ同時に大きく跳びあがるスプリットステップは当然その分体力を多く消耗させ、足への負担も大きい。故に相手のジャンピングスマッシュに対する解答を手に入れても、全部のスマッシュを取り切れる訳じゃない。

 

乱れる呼吸を整えて放ったショートサーブ。だが肩が揺れた影響で僅かにブレてしまったのか、トンとネットの白帯に憚れてしまう。相模原の巨体からなるプレッシャーもあるかもしれない。

 

「ラッキー!」

 

「ナイスプレッシャー!」

 

「ドンマイ!」

 

「落ち着いて!まだ追いつけるよ!」

 

会場に響き渡る程の声援を送る逗子総合に負けじと、北小町の面々も声援を送る。

ゲーム終盤の焦りを覚えながらも、コーチ席に座る綾乃と視線を合わせて気持ちを切り替え、右のサービスコートでシャトルを待つ。

もはや弦羽早が疲れているのは誰の目から見ても明らかで、それを隠す余裕も無い。ならばサーブは相手を走らせるロングサーブが増えるのは必然であった。

 

「(ッ、舐めんな!)」

 

このゲームを取れば二分のインターバルを貰える。そこで無理やり休憩して体力を回復させると、半ば非現実的なプランに思考を切り替えた弦羽早は、そのロングサーブに対して再びクロスファイアを打ち込む。手足の長い選手はリーチはあるものの、手元で突然軌道が切り替わるクロスファイアに対して小回りは効きにくい。しかも左利きの選手は右利きに比べると圧倒的に少なく、尚且つ変化の激しいクロスファイアなどそう生で見られるものではない。

 

先程の一打は偶然の産物。このクロスファイアはそこまで大きな変化は起こらなかったが、しかしそれが尚の事相模原の面をズラす。クロスファイアは必ずしもその一打で決まるようなショットでなくてよい。相手の面をズラし、甘いレシーブを打たせるだけでも点に繋がる。

 

カンとガットに当てる筈だったシャトルがフレームに当たり、それが大きく弧を描いてネット前へと跳ぶ。腰を大きく落として構える相模原だったが、この一打を見逃すレベル帯ではない。弦羽早のキルショットが地面に叩き落とされまた二点差に縮める。

 

ハァ…ハァ…ハァ…

 

最短であと五点。だが実際問題、五点連続でポイントを取れるほど大きな流れは掴んでおらず、またそれを許す相手でもない。デュースに持ち込まれる前に片を付けたい。つまり許される失点は残り一点。

 

「(弦羽早、ここでロングに打つのは駄目…。さっきのサーブミスは忘れて冷静にショートで初めて)」

 

綾乃が祈るようにそう心の中で弦羽早に思いを届けるが、その思い虚しくサーブミスを警戒してロングサーブから試合を始めてしまう。それも相模原のリーチを警戒してかかなり大きく弧を描く形となってしまい、一番後ろの線(バックパウンダリーライン)まで伸びていない。

 

その球に対して相模原はここぞとばかりに跳びあがる。弦羽早も瞬時に大きく跳びあがり守りの体勢に入ったが、焦りが生まれたせいでジャンプのタイミングがショットの瞬間とズレてしまい、着地のタイミングの方が僅かに速くなってしまう。結果、ただその場で跳ねるだけのステップとなってしまうどころか、着地の反発力が逆に足を止めてしまい、相模原のサイドへのスマッシュが決まってしまう。

 

『オーバー! 19(ナインティーン)  ‐  16(シックスティーン)!』

 

「ハァ…ハァ…クソッ…」

 

「落ち着いて弦羽早!」

 

「スコアは気にすんな!自分のプレイをあと五回続ける事を考えろ!」

 

今度はコーチ席の綾乃となぎさからの声援が送られた。

 

「(落ち着く…スコアを気にしない…は難しいけど、でも自分のプレイを五回続けるか。よし、切り替えろ)」

 

ここに来て綾乃の声援は何よりの原動力だが、なぎさの言葉が気持ちのリセットに何度も手を貸してくれていた。

 

弦羽早はサーブレシーブに入る前に次のラリーの緩急について考えておく。この二回の点数はクロスファイアによる速攻。当然相手もそれを最大限に警戒してくるだろうから、一度速い展開と見せかけて遅い展開に持って行く。

方針を決めると、弦羽早は出来る限りラリー中は考えないようにとまた頭を切り替えていく。

 

放たれたのはやはりロングサーブ。それも先ほどの弦羽早の甘いサーブとは違い、リストの強さを活かしたバックハンドのロングサーブは奥ギリギリいっぱいまで伸びる。

 

弦羽早が選択したショットは、ファストドロップと呼ばれる速いドロップショット。従来のドロップに比べるとサービスライン手前にはまず落ちないが、その分落下するまでの時間が速いので奇襲性は高い。

やはりクロスファイアを警戒しているのかワンテンポ出が遅れており、今のショットが効果的だった事を読む。

 

「(クロスファイアと対照的なショットで倒す!)」

 

遅い展開と決めていたが即座にプランを変更し、上がって来たロブに対して最序盤に行った、セオリーとは言い難いクロスへのドリブンクリアを放つ。一歩間違えば甘い球となってしまうそれは、失点の重みの薄い序盤ならともかく、ゲーム終盤に取るべき冒険ではない。

でも弦羽早の直感がそうすべきだと訴えており、リスクを考える余裕を疲労に呑まれている脳は持ち合わせていなかった。

 

クロスファイアを始めとして低めの球を警戒する相模原には、自分に対してまず飛んでくるはずの無い頭上を越えるドリブンクリアに体を詰まらせる。密度の濃い試合になれば自然と序盤は警戒していた球も頭から抜ける。

 

咄嗟に軽く跳びあがって手打ちのスマッシュを打ち込むが、その落下地点に入り込んでいた弦羽早がそれを叩く。

 

『オーバー! 17(セブンティーン)  ‐  19(ナインティーン)!』

 

「(あと四回だ。集中しろ…次の緩急は――もう考えるのもキツイ。その場のノリで決めるか)」

 

それは頭を使うバドミントンプレイヤーにあるまじき行為であり、多くの指導者が弦羽早の今の心境を知れば激怒するだろう。しかしこの会場にいる、トップ選手を育てて来たヴィゴと有千夏はそれが正解だと肯定する。

 

確かに彼には綾乃のような優れた直感は無く、読みに関しては並みだ。だが極限の集中状態の末に入り込めるゾーンに入れる素質があることからも、弦羽早の最終的なスタイルは直感だ。そして相手の球を読む能力は無いが、相手を崩す球を選ぶ直感が徐々に開花し始める。

 

「(いいね。強くなってからずっとダブルスばかりやって開花されなかった君の力が、どんどん出てきている)」

 

周囲の視線が試合に釘付けになっていることをいいことに、パタパタと被っていた帽子で外気に晒した顔を仰ぐ有千夏。

ダブルスにはダブルスの特徴があるように、シングルスにもまたシングルスならではの特徴が存在する。

一人でコートに立ち、コートに返って来たシャトルを全て自分一人で取るシングルスの運動量はダブルスよりも大きい。またパートナーがいないことから、インターバルを除く時間は全て自分一人でプレイの軌道修正をしなければならない。

そうなると自然と自分のプレイスタイルや得意分野、弱点などをラリーの合間合間に見直していかなければ上にはあがれない。

 

そしてこれまで努力により培ってきたスタミナによってゆとりを持って頭で考えていた弦羽早が、疲労に追い込まれた末に頭を回転させるのを辞めた。

これも初めて深いゾーンに入ったからこそ踏み出せた選択。

有千夏が言っていた、綾乃だけでなく弦羽早の為になるというのはダブルスに限った話ではなく、むしろその真価はシングルス。

 

「(今の君の成長速度はこの会場で一番だよ。あとは彼を下して、無意識の内に抱いているシングルスに対する苦手意識を完全に消し去る事ができれば、インターハイでも結果を残せる。頑張りなさい)」

 

再序盤でミスを連発したクロスのヘアピンを使い点を取ったかつての教え子の姿を見守りながら、有千夏は嬉しそうに小さく口元を上げる。

そしてすぐ後、コーチ席の綾乃とその隣にいるなぎさに目が止まる。

 

「(おっと、もう一人弦羽早君と同じくらいの成長が期待できる子がいるんだった。…綾乃、あなたも二人みたいに、成長できる選手に戻れるよう応援してるよ)」

 

 

 

 

「ッシャア!」

 

上がって来た絶好球に対し、弦羽早は打った瞬間に勝利を確信した声を上げる。その掛け声は見掛け倒しにならず、相模原のコートに突き刺さり、1ゲームは21‐19と逆転の末弦羽早が気合で捥ぎ取った。

点差が開いた中盤からは考えられない大番狂わせに、逗子総合を除く会場からは拍手が起こり、それを浴びながら弦羽早はコートの外へと出ると、コートチェンジと共にすぐさま椅子に腰かけ、一秒でも長く休息を取り始める。

 

「ハァ…ハァ…ッ…」

 

『ファーストゲーム!マッチワンバイ秦野! 21(トゥエンティワン)  ‐  19(ナインティーン)!』

 

首元に当てられたひんやりとした感触に一瞬だけ乱れる呼吸が止まる。わざわざ見ずとも、なぎさが冷えたタオルを首元に当ててくれていると知っている。ただ謝礼を言うのも今は惜しかったので、軽く頭だけ下げておく。

 

「流れを掴んでいる、いい調子だ。ただ相模原は勿論、逗子の監督の修正力は高いからこのまま行けると甘く見るな。それとスタミナ的にもあまり緩い展開は厳しい。あのリアクションステップのタッチの速さは驚異的だが、その分お前に掛かる負荷も大きくなるから多用はするな」

 

先程のインターバル同様、ドリンクを飲みながら健太郎の言葉に頷く。

 

「向こうとしては間違いなくスタミナの消耗を狙ってくる。それを崩すか付き合うかは任せるが、ただ付き合うならファイナルゲームまで持たないだろうから次のゲームは絶対に落とせない。あるいはセカンドゲームを落として体力を温存するのもありだ」

 

「…次で決めます。さっきの流れの感覚を掴んだまま入りたい」

 

「分かった。今のお前は掴んでいるようだ。あまりプレイ面には口出ししないがそれでいいか?」

 

「はい。今は…あれこれ考えない方がいいみたいです」

 

僅かな間コーチングが許されるインターバルにおいても、各々指導者と選手によって密度が変わってくる。例えば管理を徹底していた倉石はインターバルではこれでもかという程戦略について語る。一方健太郎は選手本来の力が発揮できるように、あるいはインターバルを境に動揺しないようにとメンタルを中心に、戦略面は一つ、多くて二つに絞ってコーチングする。

 

「あと1ゲーム勝てば弦羽早が県で一番強いって事が証明される。だから頑張って」

 

「うん」

 

端的な返事に綾乃は他に何か無いかと僅かに視線を泳がせる。インターバルだからと言って無理して選手と接触しないといけない訳では無いが、他人の試合を見ることに関しては初心者である綾乃には、インターバルが自分がプレイする時よりも貴重に感じられる。

 

「えっと、また肩貸そうか?」

 

「凄く魅力的な提案だけど遠慮しておくよ。心地よ過ぎて、あんまりやると試合すらどうでもよくなっちゃいそうだ」

 

ありがとね、と綾乃の頭を優しく撫でて出来る限り普段通りの笑みを作る。

 

それから数十秒後には審判からコートに入るようにと催促が入る。たかが二分、されど休憩できる大きな二分だ。可能な限り休息に集中した弦羽早は、落ち着いた呼吸を整えてコートへと入った。

 

 

 

弦羽早は流れを掴んだままの状態で入る事が出来た。

ロブに対してはクロスファイア、前のシャトルはクロスのヘアピンを主力として組み立て、ドライブの応酬となった時は崩される前にロブで避ける。そして何より相手のエースショット、ジャンピングスマッシュに対しては常識はずれなリアクションステップで対処。

優勝候補の相模原がじわじわと、だが確実に追い詰められるそれは、観客に世界ランク一位を倒した片割れとしての確かな実力を見せつけていた。

 

だが相模原がこの流れに身を委ねて諦める事など無く、その流れに逆らうどころか逆流させる一手へと動いた。

 

8‐3。

両者がバックハンドになる形で、同じハーフコートにいる状態。相模原がネット前へと落とし、前へと詰めてくる。

 

「(クロスに打つか…? いや、シャトルがネットに近過ぎる。そこまで角度が付かない)」

 

ならば選択肢は限られ、その内の一つ、ストレートへのロブを上げる。前へと詰めた直後のロブは堪えるだろうと、可能な限り相模原のスタミナを削っておくことも忘れない。

だが次の瞬間、前へと詰めていた相模原はすぐさま地面を蹴って後退。膝のバネを利用し後方へ跳びながら、上がって来たロブをクロスへと角度を付けて打ち放った。

 

「なっ!?」

 

素早い展開に弦羽早も通常のリアクションステップすら行う余裕も無く、スマッシュがコートに突き刺さる。

 

『オーバー! 4(フォー)  ‐  8(エイト)!』

 

屈伸をして体の張りを調整する相模原を軽く睨みながら、弦羽早はスマッシュの一手前のロブ周りの動きを思い出す。

 

「(前に詰めていたのに、俺がロブを上げた直後瞬時に後ろに蹴りだした。誘われた? ここまでのプレイ、そんなことは……いや、あんまり考えるのは辞めだ)」

 

これまでとはプレイスタイルの異なる、相手の球を誘い出す行動に違和感を覚えながらも、今の自分には思考は最低限で良いとプラプラと手足を振って考えないように動く。

 

「…コーチ、今の展開、見た事あるのは気のせいじゃないよな?」

 

「ああ。さっきの石澤戦でも似たような状況があった。倉石監督が組み立てたパターンの一つだろうな」

 

次のラリー。十回ほどラリーが続いた状態で最初に仕掛けたのは弦羽早。ラウンド側に来たハーフ球に対し、リバースカットを使用して前へと落とす。ラウンド側に来たシャトルに対しラケットを持ち替え強引にフォアハンドで打つことが可能だが、ラウンドが苦手な訳ではない。

だが自然と持ち替えによる奇襲のインパクトが強いため、リバースカットの警戒が薄まる。

 

相模原は大きく体勢を崩しながらも何とかネット前へと落として、弦羽早がシャトルに触れる前に立ち上がり、ホームポジションに戻らずそのままネット前を維持。

 

「(さっきと同じで後ろに誘っている)」

 

誘われている以上むやみにロブを上げられないとヘアピンで様子見。しかしその直後、パシンと言う音と共に相模原が更に一歩前に詰めて、弦羽早の顔の横をシャトルが通り過ぎる。

 

『ポイント! 5(ファイブ)  ‐  8(エイト)!』

 

「(読まれた? いや、これも誘われたか。…いや、俺のヘアピンが甘かったのにも原因がある。少し浮きすぎたか)」

 

出来るだけ試合の組み立て方に頭を回すよりも、ショットの精度へ意識を持って行く。ファーストゲームラストの感覚のまま行けば持って行ける。

 

だが結果から言うとそれは判断ミスだった。

 

弦羽早を思考・観察・直感に別けるとしたら直感に位置するが、しかし直感だけを頼りに格上と戦えるプレイヤーではない。特に今の弦羽早は直感に頼るのを意識し過ぎて、相手を観察することが疎かになっている。

相手を観察することはあらゆる型においても大前提でありながら、それが徐々にできなくなっている。そして倉石の建てたプランと言うのは、そういった平均レベルの直感に頼る選手には特に刺さりやすい。

 

加えてここに来て相模原のプレイスタイルが激しくローテーションしていき、弦羽早は思うような球種を打てないでいた。

 

徹底的に後ろに追い込まれた状態で、咄嗟のハイバックを読まれて一点。

 

ネット周りを中心に立ち回り、最後はヘアピンだと読んだが、ハーフ球を打たれてしまい一点。

 

クロスががら空きの状態ドライブ。これは決まるだろうとクロスへとカウンタードライブを仕掛けるが、長い手足で大きく横へ踏み込んだ相模原は、再度リストの力を頼りにドライブを打ち返して一点。

 

これら全ては倉石が相模原に徹底的に叩き込んだパターンであった。

 

 

倉石は健太郎に対して、”相模原は言う事を聞かない”と言っていたが、それは試合中に倉石からのマナー違反スレスレの…いや、インターハイでは間違いなくペナルティになる助言に対して聞かなくなっただけであり、むしろ相模原は倉石を尊敬していた。

徹底的な管理型であった彼は選手によって好き嫌いが激しく別れる監督だろうが、その指導者としての技量は間違いなく高校の顧問の中では上位に入り、特に知識に関しては一流とも言える。

 

それは素質があるものの基礎がおろそかになっていた相模原を選手として急成長させるには、まさに理想の監督であった。特に中学生から始めた相模原にとって組み立てのパターンというものは、自分で考えるよりも観察眼と知識に長けた倉石の戦略に頼る方が成績を残せた。

 

では何故彼が倉石の言う事を聞かなくなったのか。それは実際、去年彼が県大会で優勝した時、決勝で戦った三年生相手に”ズルして勝って嬉しいのかよ”と握手を拒否されながら言われたのがきっかけだった。

 

そう、監督が試合中に一定以上の助言をするのは禁止されている。そうでなければインターバルという存在が無意味になるから。

倉石はそれを知った上で、声援を混ぜたC1~C6と言った、ローマ字と数字による具体的ではないアドバイスを送る、かなり際どいギリギリのラインにいた。

それは当然ズルだと思う者も少なくはない。

 

もっとも、まず予めそのパターンを頭に入れて置き、倉石の言葉をスイッチに瞬時に戦略やコースを切り替えられるのは並みの反復練習と技術が無ければできない。だからその難しさを知る者からすれば、倉石を五月蠅いと思えど頭ごなしにズルだと非難はしにくい。

 

ただ倉石を肯定する話を出したが、彼の助言はやはり規則が厳しくなるインターハイではペナルティもので、その時を境に相模原は倉石のラリー中のアドバイスは聞かなくなり、倉石も渋々と引き下がった。

 

閑話休題。

 

倉石は先程のインターバルで相模原にこうアドバイスを送った。

 

「警戒すべき球種が増えて動きが硬い。スタミナ面でお前の方が有利な筈なのに、集中力も流れも向こうに傾いている。

…去年のインターハイ以来、お前は自分で考えて動く様になってきた。その力だけで今ここまで来ている、お前の成長速度はこれまで教えて来た生徒の中でもお前はトップクラスだ。だがキャリアではお前の方が下だ。それはお前が秦野より年上である利点を持つ同様、抗えないもの。

勝ちたいのならC1とディフェンス()の1~6、スマッシュ()を中心に組み立てろ。お前が頭で考えながら勝てる敵ではない。相手を下に見るな、上だと思え」

 

これが急激に相模原のプレイスタイルに変化が出たきっかけだった。

元々倉石を尊敬していた相模原にとって、彼が考えたプランのノートというのは、日常で使い道のない数学の教科書よりもずっと読み込んでいた。その為久しぶりに指示されたそのアルファベットと数字のパターンはすぐに思い浮かぶ。

 

ボディ周りにあえて返しやすいドライブを打ってドライブを誘う。続けてドライブに見せかけて前に落とし、少し前に詰めてロブを上げさせ、エースショットのジャンピングスマッシュで決める。

これがS2。

 

フォアハンド側へのロブ。続けてフォアハンド側に落とし、あえて半コートの前後に相手を寄せていく。そして少し甘めの球が来た時一瞬視線を空いたクロスに向けながら、またフォアハンド側へとドライブを送る。

これが守備を中心としながら相手を走らせ、最後は確実に決めるD3。

 

相模原も消耗の激しいジャンピングスマッシュを中心に組み立てる事から、スタミナの消耗が激しい。それを補う為の体力を持ってなお、息が乱れ汗が滝のように流れる程にバドミントンは激しく動く。

 

相模原が取ったインターバルを空けてもパターンを中心とした戦略は変わらない。

 

倉石が立てた配球を信じ、その分余裕ができた思考力を弦羽早の球種に対応する事に集中させる。

 

「(D4の三打目はクロスへのロブ)」

 

あえて僅かに左に寄る事で相手のスマッシュをフォアへと誘うD4。その通り弦羽早のストレートのスマッシュがフォア側へと伸び、それを今度はラウンド側へと飛ばす。

D4の次のパターンは、カウンターロブで体勢が崩れた相手が取れる球種は限られる。ハイバックの場合はストレートを警戒、無理やりラウンドで打って来た場合には正面に構え、クロスのスマッシュを警戒。

 

だが倉石のノートには”ラケットを持ち替えてフォアハンド”で打ってくるなど、そんな非現実的なパターンは用意されていない。

 

放たれたのは相模原が苦手とする正面、それも肩口への激しいフルスマッシュ。バシュンと音を立てて繰り出されたそれに咄嗟に肘を曲げて面に当てようとするが、間に合わずに空振りとなる。

 

『オーバー! 11(イレブン)  ‐  14(フォーティーン)!』

 

「ここで二刀流の本領を発揮してくるか…」

 

乱れる息のままボソリと呟く。

インターバルを空けてから中々思うように掴めなかったが、ロブを中心にするパターンで来てくれたので助かったと弦羽早は口元を上げる。

 

「相手は予め決められた無数のパターンを切り替えながら戦ってきている。初見ではそのパターンを一つ一つ分析する時間は無い。だがお前なら”想定していないあり得ないパターン”を作り出せることができる。そいつをお見舞いしてやれ」

 

インターバルでの健太郎のアドバイスを思い出しながら、弦羽早は右手に持ったラケットを構える。

 

相手がエースショットを打ってきたのならそれを返し、相手が無数のパターンで来るのならそれを崩す。

いかに相手の強みを殺し、自分の強みを押し付けられるか。

 

自分の残りのスタミナは量は多くない。まだ1ゲームあるという甘えを捨て、弦羽早はフォアハンドの構えからロングサーブを放った。

 

 

 




試合を書くにあたって大事なのは最後の一点よりもそこまでの過程な気がする。突然20対20から始まるよりも、そこにどう行きついたか、途中のラリーでどういった駆け引きがあったか。逆に最後の一点に必ずしもドラマを作る必要はないのかもしれない。

何が言いたいかと言うと、ゲームを取る最後のラリーで毎回盛り上がりを書くのは自分では難しいということを言い訳したかった。



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強み

一話に用語集をアップしました

シングルは球種が豊富な分展開を書きやすいですが、試合中一人というのが状況によっては書きにくかったり




相模原にとって、尊敬する監督倉石と、倉石が苦手なパートナーの望というのは、部活でかなり近い関係ながらも板挟みの状況でもあった。

自分を強くしてくれた倉石を非難する事はできないが、しかし普段は大人しい部類に入る望にとって彼の大声はプレッシャーになる気持ちは分かる。

実際男子の中にも彼を苦手とする生徒はいる。

 

だから混合ダブルスの練習の合間に彼女が倉石に対して”五月蠅い”という呟きに、よく聞こえないフリをしていた。

 

だが先程のなぎさとの準決勝を得て二人は変わった。それまで自分の気持ちを押し殺してきた望は、なぎさの真っ直ぐなプレイに感化されてハッキリと”自分のバドミントンを見つけてくる”と告げ、三年という決して短くない時間を共にした生徒の成長に、倉石も思うところがあったのか、そのインターバルを境に口出しをしなくなった。

 

それは普段口数が多くない相模原が密かに抱いていた理想の関係。そんな彼と彼女に対して、口下手な相模原が送れるものは少ない。

だからこそまだ下手だった自分と混合ダブルスを組んでくれた望と、ここまで自分を育ててくれた倉石に感謝の意を込めて二連続優勝の成果を送りたい。

 

上がって来たロングサーブに対してジャンピングスマッシュを放つ。地面から四メートルは超える地点から放たれる角度の激しいスマッシュは、奇妙なリアクションステップを行う弦羽早によって拾われる。

 

だがもはや一打で決まるとは思っておらず、すぐに前に出てシャトルを拾う。

 

相模原は息が上がっているもののまだスタミナに余裕がある一方、1ゲームを取られ、かつ弦羽早がこのゲームで決着をつけにきてることは分かっていたので精神面で余裕はない。

1ゲームも19までリードした状態で逆転されたことから、早くこのゲームを取りたいと気持ちはあった。

 

だが焦らない。

 

相手を走らせるディフェンス()を中心に組み立てにローテーションを組み、状況に切り替えてスマッシュ()で攻撃に転じて点数を稼ごうとする。

 

その粘りに押されてしまい、これまでミスがほとんど無かった弦羽早のスマッシュがネットに引っ掛かる。ミスが少ないと言っても、どんな選手でもミスが全くない訳ではない。特に疲労が溜まった状態でミスが増えるのは必然である。

 

「ハァ…ハァ…ッ…フゥゥ…」

 

 

ーーーー

 

 

「秦野君、すごく疲れてるみたい」

 

私服姿のミキが手すりを越えて上半身を前に出しながら、必死に息を整えようとする弦羽早にそう呟く。

隣の席に腕を組みながら堂々と座る薫子は独り言のように返した。

 

「連戦を抜きにしても、この試合は秦野弦羽早の本来の戦い方とは違う低めの展開が圧倒的に多く、ジャンピングスマッシュに対応できるようになったとはいえ、あのリアクションステップはレシーブ側の負担も大きいでしょう。あれはファイナルゲームのラストまで持ちませんわ」

 

「じゃあやっぱり相模原さんが勝つと思う?」

 

「…どうでしょう。この試合、互いの強みを殺し合っている。秦野弦羽早の本来のスタイルをさせないジャンピングスマッシュ。それを返すリアクションステップ。リーチの長さを突破する無数の球種に、次々に変わるパターン。そのパターンを崩すラケットの持ち替えに、余裕のあるスタミナを利用したマウント。彼等が持つ自分の武器をどのタイミングで繰り出していくか」

 

「す、凄すぎてよく分かんないのは女子だからかな?」

 

「…いえ、この試合は県レベルの試合ではありませんわ。天才と奇才のぶつかり合い。コーチングのレベルも高く、インターバルを境に流れの変化も激しい。ミキ、あなたもミックスに出るのなら、今のうちに二人の弱点を探すのをお勧めしますわ。もっとも、どちらのパートナーも片や主将、片や化け物ですけれど」

 

「か、勘弁してよ…」

 

今戦っている二人でさえ手が付けられないというのに、そこに加えて強豪逗子の女子主将は無論、世界ランク一位を倒したペアを相手に勝てるビジョンが浮かばない。

女ダブのパートナーである彼女をからかいつつ、薫子は真剣な眼差しで会場を見下ろす。

 

「(ここまで互いの強みを殺し合う術を持っているのなら、あとは自力と精神力で決まる。技術と速さでは秦野弦羽早、力とスタミナでは相模原。一点の重みがプレイに現れるこの終盤、どちらが己がバドミントンを貫けるか)」

 

 

 

「らぁっ!」

 

激しい掛け声と共に負けじと膝のバネをフルに使用した全力のジャンプ。そこから放たれたのはトンと優しい音で、相模原はその巨体を一歩前に踏み出そうとするが、完全に逆を付かれてその一歩が瞬時に出ない。

 

『オーバー! 16(シックスティーン)  ‐  18(エイティーン)!』

 

ラリーを続けたくない一心から出た一か八かのジャンピングスマッシュと誰もが思う状態で、スタミナの消耗が激しいジャンプフェイントを選択したのは弦羽早の直感。

ここに来て声まで利用したフェイントは相模原の思考回路を鈍らせる。

 

「(ここに来てフェイントのドロップ。フォアハンドの体制からはクロスファイアとリバースカット、いや、あと中央のドリブンクリアも警戒しておかなくては抜かれてしまう。フォア奥は厳しい。だがラウンドに持って行けば持ち替えられる。ミドルコートから手前の展開に持って行くべきか。となればD3で――ッ)」

 

サービスを構える弦羽早のフォームはフォアハンド。それは頭をグルグルと回していた相模原に更なる追い打ちをかける。

ショートかロングサーブか。そんな当たり前の事でさえ深読みをしてしまう。

 

「(いかん落ち着け…。倉石監督が言っていた通り、下手に考え――)」

 

頭を冷やす前にパンと勢いよく放たれたのは低い勢いのあるドライブサーブ。元来ならそれは背の高い相模原なら叩き落とせる球種であるが、ラケットの出が一瞬遅れてしまい、咄嗟にミドルコート、それも中央への大きいロブを上げる形となってしまう。

 

シャトルの落下速度に合わせて跳びあがる弦羽早、膝を落としてレシーブの体勢を取る相模原。

 

奥か左右か、あるいは正面か。

 

弦羽早が打つ瞬間に、相模原もまた膝をグッと曲げて防御に備え、瞳と足に神経を集中させる。

 

ビュンとラケットが空気を切る音、シャトルの激しい音、ガットが微かに擦れたような音。それらが同時に鳴ると、シャトルが激しい角度で相模原のバックハンド側奥へと伸びる。

集中と感が働いたのか相模原は瞬時にラケットを左へと伸ばそうとするが、それは”明らかに届いていなかった”。高身長であり、長い手足とラケットを持つホームポジションにいる相模原が、物理的距離故に届かないのだ。

 

「アウト」

 

思わず誰かが声を上げてしまうが、幸いコートの中までは通らなかった。

だが聞こえようと聞こえまいと、相模原の選択肢は見送るに変わらない。

しかし相模原は気づけていなかった。弦羽早の体の正面が元々不自然に相模原から見て左に微かに逸れており、ガットが微かに擦れる音を鳴らしたのを。それがクロスファイアの前兆であることを。

クロスファイアは万能なショットではなく、シュート回転を大きく駆けるにはストレートに打たなくてはならない。だから弦羽早は体の正面を変えて、ストレートに打ったのだ。

 

シャトルはダブルスのサイドラインに落ちる直前、歪なシュート回転によって無理やり左に逸れる。そしてその直後、シングルスのラインに乗る様に落ちた。

それはまるでシャトルが動いたのではなく、ラインがシャトルに合わせて動いたかと思える程に絶妙なショット。

 

「(あれ程のチャンスボールをギリギリに狙うメリットなんて微塵もない。クロスファイアを使用してアウトをインにするなどリスクが高すぎる…。だがもし意味があるとするなら…)」

 

倉石は冷や汗を流しながら自分が育てたエースの横顔を見つめる。その瞳は大きくブレており、唇は小さく震えている。

 

「(プレッシャー? いいや、それは副産物だ。あいつはここに来て更に警戒させるコースを無理やり増やした。あんなのはマグレ、スマッシュが白帯に当たって入るくらいの奇跡的なショット。だがそれを絶好球に対して打ってくれば、あたかも当然狙ってきたかのように見える)」

 

『ポ、ポイント! 17(セブンティーン)  ‐  18(エイティーン)!』

 

「(冷静になれ相模原。パターンを組み込んだお前の戦い方は今の秦野に対して間違いなく有効だ。それはスコアが証明している。リードを許してもいいんだ。まずは二点を取ってデュースまで引き込め。デュースまで持ち込めば既に限界が近い秦野なら嫌でもプレッシャーになる)」

 

「ドンマイ!落ち着いて、ラリーに持ち込んで!」

 

これまでほとんど大声を上げなかった望の大声が、動揺を隠しきれない相模原の耳に届く。その一声でハッと我に返ったのか、相模原は自分の大きな両手で頬をバチンと勢いよく叩き――

 

「シャアアッ!」

 

熊の如き低い声で、獅子のような雄叫びを上げた。

 

瞬時にメンタルをリセットさせる精神力に、弦羽早はそれに軽く舌打ちをしながらも、ラケットを右手に持ち替えて再びフォアハンドサーブで左サービスコートに立つ。

 

準決勝でも見せた、ストレートに対して常にフォアハンド状態でいることで圧を掛ける作戦だろう。

 

――だが油断を誘ってショートかもしれない。

 

相模原は冷静になってはいたが、しかし否が応でも考えさせられることには変わりない。メンタルと頭は深い繋がりがあるが別物である。

 

パン!と放たれたのはロングサーブ。ショートサーブを警戒してやや前寄りではあったが、高い弧を描くロングサーブならば十分にゆとりを持って下がる時間がある。弦羽早を観察しながら後ろに下がっていると、サーブを放った直後に左手にラケットを持ち替える姿がそこにあった。

 

「(この期に及んで!)」

 

右で始めると思いつつ、ロングサーブの滞空時間を良い事にラケットを持ち替えて動揺を誘う。まさに小細工と呼べる手口に驚きながらも、しかし瞬時に頭の中のコースを左右反転させてそれに対応する。

 

「(ならばこちらも面白いものを見せてやろう)」

 

相模原は疲労が溜まって来た両膝をバネに地面を蹴って、既にこの試合で何十回も打ったジャンピングスマッシュの体勢に移る。同時に大きくその場で飛び上がる相手を確認すると、相模原は空中でラケットを振らなかった。

 

「なっ!?」

 

ドンと対戦し合う二人が同時に着地するという奇妙な状態が起こった直後、相模原は自分の腰辺りまで落ちているシャトルを下ですくう様にドロップショットを打つ。

いくら重心移動に優れた弦羽早でも、これ程馬鹿げたフェイントには反応しきれず体は硬直し、慌てて前に出るがその前にラケットが地面に落ちた。

 

『オーバー! 19(ナインティーン)  ‐  17(セブンティーン)!』

 

「相模原の奴。あんなふざけたショットを…」

 

「でも一点は一点ですよ」

 

基礎を重んじる倉石の褒めるべきか怒るべきか複雑な声色に対して、望は高めのトーンで喜びながら拍手を送る。

 

――後二点。あと二点取れば。

 

逗子総合の誰もが主将の勝利を願うが、しかし集中力を高める弦羽早は、その疲れから崩れたしかめっ面からは想像のできないプレイを見せる。

 

ドロップとヘアピンを中心に弦羽早にロブを上げさせ、そこから再びエースショットのジャンピングを打ち込む。そのコースは手前ではなく、高く跳びあがった弦羽早の正面に目掛けたショット。

弦羽早のリアクションステップは着地の反発力を利用して爆発的な一歩を踏み出すが、両足で着地すれば、反発力を活かすどころか硬直状態となる。その硬直状態でボディに打ち込まれたら、普通であればラケットを振る余裕すらない。

だがボディ周りへのスマッシュは元来の彼のもっとも得意とする分野。バシンと激しい音が鳴ると、着地してすぐの相模原のコートにカウンタードライブが刺さる。

 

18-19

 

ショートサーブからのヘアピン合戦。そこから互いに前後に動きながら相模原はパターンの始動点を探し、弦羽早はこれまで打った球種の中から警戒されているもの、されていないものを探し出し、それを利用できる一手に繋げる。

勝ち筋を見つけ出したのは弦羽早が先だった。ラリーの途中で右手に持ち替えると、そのままスマッシュを打つ振りをしてカットドロップを放つ。それを前に落とす相模原に対しすぐに詰め寄り、序盤から多用していたクロスのヘアピンではなくあえて相模原に近いストレートに落として一点。

 

これで同点となり、続くラリーは30回を超える長期的なラリーとなる。それは相模原が意図して行ったのもあるが、そこに弦羽早はあえて乗っていく。決して自分から攻めず、息ができない状況でも逃げない。

 

逃げたいと、楽になりたいと思う気持ちはある。

しかし、このゲームを落とせば勝てない。

 

「(あれだけ綾乃に応援されておいて負けるなんて、ここまで強くなった意味ねぇだろうが!)」

 

精神力を糧に無理やり放ったクロスへのスマッシュは強烈な角度を生み出し、相模原のラケットの下へと潜る。

 

『ポイント! 20(トゥエンティマッチ) -  19(ナインティーン)!』

 

「よしッ!あと一点だ!気張っていけ!」

 

「弦羽早、頑張れ!」

 

体を振り向かせる余裕も無いのか、正面を向いたまま、弦羽早はグッと親指を立てた右手を綾乃となぎさに向ける。

膝に両手を当てて体全身が揺れており、その足は震えている。点が入った僅かな時間の間に動くその姿は既にふらついている。

 

「(もはや立っているのも辛い筈だ。それでもお前が走り続けられるのは支えがあるからか…)」

 

相模原もまた乱れる呼吸を整えながら、ジャンピングスマッシュの影響で負担が大きい膝を解すため、張った太ももの前後を軽く叩く。

 

そしてチラリとコーチ席にいる綾乃へと視線を向けた。試合前に後輩が言っていた”何人か殺ってそうな瞳”はどこに行ったのか、そこにはパートナーの勝利を願う健気な少女の姿があった。

ただ綾乃だけではない。なぎさもまた、まだ二カ月弱しか時間を共にしていない彼に対して、バドミントン部の主将として、先輩として、絶妙な立ち位置で弦羽早を支えている。

当然逗子総合と比べると遥かに少ない北小町のメンバー達の声援も彼にはしっかり届いている。

 

「(だがな、俺とて逗子総合の主将として負けるわけにはいかん!)」

 

相模原は一度ハーフ球を弦羽早のラウンドへと送る。低めのプッシュに近いそれに、弦羽早は咄嗟にハイバックで返し、体を一回転させるようにして正面に向き直るが、腕の振りが弱まっておりミドルコートまでしか伸びず、その甘い球ががら空きのサイドコートに突き刺さる。

攻撃的な展開のアタック(A5)。パターンが多すぎると返って混乱を誘う為、倉石はDとSを中心に組み立てていくようにさせたが、ここに来てなお集中力の深まる相模原は半ば無意識の内に瞬間的にパターンを選択していた。

 

『オーバー! 20(トゥエンティ)  ‐  20(オール)!』

 

「(倉石監督、石澤だけでない。共に競い合ってきた同級生、そして今後の逗子を担う俺達三年に付いてきてくれた二年と一年達へ、俺は二年連続優勝を届け彼等の向上心の糧となる!)」

 

ここに来て鬼神の如き闘志を身に纏う相模原に、弦羽早は呼吸を整えるのも忘れてゴクリと唾を飲む。

新たに加えられたパターン、デュースに持ち込まれた事で伸びる試合、そして相模原の気迫に押されてしまい、続くショートサーブ直後のヘアピンにミスが生まれてしまう。

 

『ポイント! 21(トゥエンティワン)  ‐  20(トゥエンティ)!』

 

逆転に次ぐ逆転に逗子総合からこれでもかという程の歓声が巻き起こる。

今のヘアピンも単にメンタル面だけでなく足の出が遅く、ラケットがいつもより下にあったのが原因の、疲労の限界から生まれたミスショット。

どれだけ勝ちたいという思いがあろうとも、この一点を諦めれば二分間のインターバルに入り休憩できる。そう目先の楽を考えてしまう程に追い詰められている状態だ。

 

疲労の限界に達した選手にとっては、コートにただ立っているだけでも体力も精神力も消耗してしまう。それは数年前までは現役選手であった健太郎も何度も味わった事のある経験だ。

健太郎は追い詰められ、僅かに負けようかと精神が傾いている弦羽早の表情を見逃さなかった。それは健太郎自身も現役時代、自分の試合を見直して、最後疲労を理由に諦めかけた時の自分の顔にそっくりだったからこそ読めた。

 

「不味い!おい羽咲、―――って大声で言ってやれ」

 

「え?でもそんな事で?」

 

「いいから!」

 

突然切羽詰まった様子で健太郎に言われ困惑する綾乃だったが、時間が無いのは確かだ。綾乃はスゥッと息を吸うと、自分が今出せる可能な限りの大声で。

 

「弦羽早ァ!私にカッコいいところ見せてー!」

 

コートに立つ弦羽早に向かってそう放った。

当然その声はコートの中だけでなく、観客席にも届いており、ズルりと椅子から滑り落ちる薫子が頭を打っていた。その頭を押さえるのは痛みからか困惑からか。

 

「…これでいいの?」

 

特に恥ずかしい発言をしたと思っていないのか、綾乃の表情には羞恥心は無く、むしろ健太郎を疑うような不安げなものだった。両者の間に座るなぎさは、自分には絶対に出来ないと苦笑しながらも、果たしてこの声援がどこまで影響を与えるのかとジッとコートを見つめる。

 

相模原のショートサーブから始まったラリーは速い展開だった。ネットに引っ掛からないように軽めのドライブ。そこに相模原もドライブ合戦は自分に有利だとドライブで返し、同時に倉石が立てた無数のパターンから今の展開で使えるものを模索する。

 

「(逃げない、ここは粘れッ)」

 

だが模索する暇を与えないドライブを弦羽早は連打する。

苦手な正面に向けて尚パワーショット。続いて威力が出にくいバック側へ飛ばす。それは相模原の体制を崩すが、崩れながらもバックハンドで後ろまで飛ばせる筋力を彼は持っていた。

 

弦羽早は素早く後ろへと下がる。棒のように重くこわった足に感情が指令を送り無理やり動かさせ、岩石のように固くなった膝をバネに使い跳びあがり、そして何も考えずに持ち替えた右手でストレートへとジャンピングスマッシュを打ち込んだ。

 

体勢が崩れた選手に対して強打を打つ場合、やはり狙うべきは空いた半コート側。しかしその逆を付き、あえて選手側に打つこともある。これらは駆け引きであり、どちらが正しいとは限らない。

しかし今回に関しては弦羽早が勝った。それまでクロスのヘアピンとカットドロップを始めとする、クロスが多かった相模原の頭には、やはり空いたクロススマッシュをどうしても警戒してしまう。

 

空いたコートへと駆け出す相模原の重心の逆をついた。

 

「ハァ…ハァ…シャアッ!」

 

「なんか、やる気でてるっぽい?」

 

「よし!いいぞ、次は――」

 

「うん。カッコいいよー弦羽早!」

 

「…アホがいる」

 

綾乃と健太郎の中央にいるなぎさは、両側の会話とそれでコンディションを無理やり上げる弦羽早にポツリと呟く。

 

続く弦羽早のサービス。ロングサーブはやはり悪手であるとショートサーブから始め、相模原がラウンドへハーフ球を送る。先程絶好球を送ってしまったハイバックだが、今度はクロスへの鋭いドライブを打って相手の不意を付く。

 

「(ハイバックでこの角度。やはり技術面が高いッ)」

 

予想外の攻撃に相模原は少し出が遅れながらも、冷静にストレートの前に落とす。弦羽早も無理やり足を動かして駆け寄り、それをストレートに再び返す。

その一打に相模原はまた出が遅れた。というのも、これまでのラリー、弦羽早はクロスのヘアピンを多用しており、加えて一瞬だけクロスサイドを確認するように視線を動かした。ただのストレートを打つだけでも、この一動作を加えることでフェイントとなる。もっとも相手がこちらの視線に気づく程の上級者でなければ意味はないが、彼は気づいてくれる。

 

出遅れたヘアピン。弦羽早はロブだと読んで僅かに後ろに下がろうとするが、相模原はそれを読んで咄嗟にクロスのヘアピンに切り替える。それはこの試合、度々苦しめられた意趣返し。

 

しかし今の弦羽早は半ばやけくそに、綾乃の声援だけで動いている状態だ。健太郎からの言われた事をそのまま伝えられているとも知らずに。

 

弦羽早は得意な重心移動をフルに利用して、即座に前へと詰め出す。だがそれでもまだ届かない。ならばと地面を大きく蹴って前へと跳び、空中でシャトルを横に叩きつけた。

そして空中で体を捻らせて、左腕で無理やり受け身を取る。

 

鈍い音と共にガチャンとラケットが地面に叩きつけられる。左腕に痛みが走るが、脳が麻痺しているのかそれもすぐに収まる。シャトルの行く末を確認すると相模原のコートに落ちていた。ギリギリのショットだったのか、線審がインの表示をしている。

 

『ポイント! 22(トェンティツー)  ‐  21(トゥエンティワン)!』

 

「ラァッ!」

 

ポイントを取得して無意識の内に握った左拳を上げようとした瞬間、その腕に痛みが走る。加えて一度横になってしまうと、一秒でも休んだ体が起き上がろうとしない。

酸素が足りていない頭では起き上がることは無論、靴紐を直すために屈むだけでも立ち眩みが激しくなる。

 

左腕を抑えながら横たわる弦羽早に、健太郎は一瞬怪我した直後の自分と彼が重なった。

 

「ッ!審判、怪我したみたいだ! 治療させてくれ!」

 

「ただの休憩目的だ!そのまま続行させろ!」

 

両者陣営の監督二人が真逆の意見を審判に要求する。その二人に挟まれながらも、どんな状況でも冷静なジャッジを下していた審判は静かに弦羽早を見下ろす。

 

『袖を捲ってもらえますか?』

 

ここで横になり続けていたら倉石の意見が通ってしまうかもしれない。弦羽早はふら付く足とグルグル回る視界の中体を起こし、ゆっくりと左袖を捲る。体に掛かる衝撃のほとんどを受けた左の二の腕周りが青紫色に変色しており、加えてラケットのフレームはねじ曲がって壊れていた。一瞬の出来事だったのでハッキリと見えなかったが、おそらく腕の落下地点にラケットが入り込んでしまい、辺りどころが悪かったのが原因のようだ。

 

『三分ほどの治療を許可します。その間にラケットも交換してください』

 

健太郎の感謝の言葉と倉石の舌打ちが重なる。

倉石も外道ではない、だがこの治療には間違いなく限界だった弦羽早へ休息となるのは確かだ。普通の相手なら倉石もここまで言わない。何しろ利き腕を大きく痛めれば、それはもうリタイアと同義になる。

だが彼が例外であることは審判も知っている。故の反論であったが、審判からしてもプレイヤーが両利きだからと治療させない訳にはいかない。

 

弦羽早はふらついた足取りでコーチ席に寄ると、背もたれに体の全てを委ねるように座り込む。

 

「ハァ…ハァ…」

 

「痛みはどれくらいだ!? 骨に異常はないか!?」

 

怪我に対して何より恐れを抱いている健太郎が真っ先に声を掛ける。

部員達も顧問の美也子から健太郎の膝の事は聞いていたので、彼の剣幕に驚きはなかった。

 

「…だ、大丈夫。一応動かせるのでただの打撲です。右でやりますけど一応テーピングをお願いします」

 

「分かった。荒垣、ちょっと手伝ってくれ」

 

「ああ」

 

スプレーから吐き出される冷気とスーする感覚に弦羽早の表情に少しばかり余裕が生まれる。その様子に安堵しながら綾乃は話しかけた。

 

「ラケット、五本くらいあったけどどれ使うの?」

 

「…ナノで、ガットの黄色い奴…」

 

分かった。

そう軽く笑みを浮かべて綾乃は弦羽早のバッグから一本のラケットを取り出す。右で使う為にグリップの巻きが右になっている。

 

「これ、トップライトだけどいいの? シングルスはイーブンじゃなかった?」

 

「左手動かせないから、軽い奴がいいかなって」

 

バドミントンのラケットは無数の種類があり、当然どれも同じわけではない。

今綾乃の口から出たトップライトとイーブン。これに加えてトップヘビーを合わせた三つは、ラケットの重さのバランスを意味する。

トップヘビーは名前の通り面の頭の部分(ヘッド部分)が重くなっており、ガット側に重みを持たせることで重い球が打ちやすくなる攻撃が得意なプレイヤー向け。混合ダブルスでは後衛に努めスマッシュを多く打つため、基本トップヘビーを使う。

 

イーブンは重さのバランスが均等で安定している分コントロールがしやすい。アウトを減らし相手を動かすシングルスにおいては、弦羽早は基本これを使う。

 

トップライトはグリップ部分よりヘッド部分が軽くなり、スイングがしやすくラケットの振りがスムーズになるのが特徴。

 

「…よく見たら壊れたのも合わせて合計七本くらいあるね」

 

「左右のイーブン、ヘビーが一本ずつとライトが一本、ダブルスとシングルでよく使う予備が更に一本ずつ」

 

「買ってもらったの?」

 

「半分以上は自腹だよ。そんなに必要ないでしょって」

 

「それはおばさんが正しいと思う」

 

こんなにあっても使う機会がないし、グリップもガットも使わなくても時間と共に質は落ちる。維持費も合わせると高校生が持つべき本数ではない。というより、プロでも別種のラケットをここまで詰め込まないだろう。

バイトなどする暇もない弦羽早が自腹ということは、すなわち小遣いから二万円以上するラケットをこれだけの数買っているのだろう。ガットやグリップの変えを考えるとその出費だけでも相当なものだ。

 

「弦羽早はバドミントン馬鹿だね」

 

「綾乃にだけは言われたくないかな」

 

クスクスと笑い合う二人の隣で、居辛そうな健太郎となぎさが微妙な顔をしながらもテーピングを続けていた。

 

もっとも健太郎はリアリストで、スランプ中はともかくなぎさも基本そちら寄りだ。選手である弦羽早のコンディションは綾乃に任せておいた方がよい。

 

「あと一点だよ。勝ってね」

 

「ああ」

 

『もうそろそろ三分経ちます。続行可能であればコートに戻って下さい』

 

あっという間の三分だが、インターバルよりも長いこの三分はかなり大きい。三分間座っているだけでも呼吸はかなり整えられた。綾乃から渡されたラケットを右手に持ち、健太郎となぎさに頭を下げて礼を言うと、弦羽早はコートへと戻る。

微かに肩は上下しているものの表情に微かな余裕が現れた姿に、倉石は軽く舌打ちをする。

 

当然のように弦羽早は怪我した左手ではなく、右手で試合を始めるつもりだ。

弦羽早の怪我を軽んじる訳では無いが、しかしあの状況においては本来の目的である治療よりも休憩の意味合いが強かったのだ。それに苛立たずにして何に怒るべきか。

しかしならぬ堪忍するが堪忍。それを相模原の前では出さず、相手を奥へと追い込むようにと冷静な声色でコーチングした。

 

バドミントンではラケットと持つ反対の手は使わないと思われがちだが、実際はかなりの場面で使用している。特に後ろから打つ球に関しては、左手で照準を合わせながら、左手の振る勢いも利用してシャトルに威力を乗せる。その為左手がだらんと垂れたままの選手なんていない。

故に少しでも振りを早くする為、弦羽早はトップライトのラケットをチョイスした。

 

「フッ、つくづく器用だなお前は」

 

「曲芸もたまには役に立ちますよ」

 

ズキリと痛む左手でシャトルを持ちながら、怪我してもなお試合が続けられることに喜びを覚える相模原は口元を上げる。

彼の寛大な心に尊敬しながらも、弦羽早は不敵な笑みを浮かべる。

 

休憩しコンディションが整えられた弦羽早だが、やはり左手を動かせないのは決して安い代償ではなかった。相模原は倉石のアドバイス通り、左手を使う必要のないネット前では勝負をせず、極力左手の影響が大きいコート奥へと上げる。

左手をプランと垂らしたまま放たれるそれは、迫力は無く速さも重さも落ちる。それに照準を合わせられないのもまたやりにくさの一因であった。

 

それでも後ろに追い込んでくるのは分かっていたからこそ、軽いラケットを選択したのだ。相手が弱みに付け込んでくるのなら、こちらもまた回復したスタミナを利用して長いラリーに持って行く。上がって来たロブに弦羽早もクリアーを送って相手を後ろに追い込む。当然後ろに追い込みたい相模原もまたクリアーで返す。

 

クリアーが十回以上続く状態となる。ここでどちらかが力加減を間違えてアウトになれば試合の結果が大きく左右するだろうが、互いに冷静な状態でそのようなミスは無い。

 

最初に動いたのは相模原だった。というよりも、弦羽早から一切仕掛ける気が無いのを読み取り、動かざる得なかった。

 

まずは軽いハーフスマッシュで様子見をしつつ、ネット前で勝負をしたいであろう弦羽早の心境を読んで前に意識を向ける。しかし弦羽早はまたもロブを上げ続ける。

 

「(残り一点で勝てる状況で俺のスマッシュを恐れずに上げ続けるか。ならば!)」

 

軽く目尻を上げて相模原は大きく上へと跳ぶ。直後またタイミングを合わせて弦羽早もその場で跳んだ。

相模原が大きく跳びあがって放ったショットは、その雄々しさとは真逆の緩やかなドロップであった。

だが着地のタイミングはズレておらず、凄まじい初速と共に弦羽早は前に出てそれをヘアピンで落とす。

それを奥へ追い込むためロブを上げると、また攻める気のない弦羽早がクリアーで返す。

 

再び両者が跳ぶ。今度はフェイントのジャンピングクリアー。クリアーを打つだけならジャンプの必要はないが、フェイントとしては効果はある。しかしこれも冷静に反応。またもやクリアーが相模原の元に返ってくる。

 

これまで相模原はジャンプと共に無数のコースと球種を打って来た。ミドルコート手前に落ちるジャンピングスマッシュを切り札とし、左右奥のスマッシュ、ドロップ、カット、クリアー。そしてあえて空中で打たず、地面に着地してから打つフェイント。

どれもエースショットに成りえるショットで、何点も取って来たショットだが、手札を切り尽くした今は並みのショットでは弦羽早のコートに落ちることはない。

 

「(やはり俺が打つべきショットはこれだ。これを起点にS4で行く!)」

 

アリーナ中に響き渡る乾いたシャトルの音。その力強い音は思わず観客の唾を呑み込ませる。

相模原はストレート、弦羽早のバックハンド側へと打ち込むと即座に前に出た。

 

S4は相手のバックハンド側へと角度のある強打を打ち込み、前に返って来たレシーブを叩くもの。それだけならわざわざ名称を付ける意味もなさそうだが、いくつかの分岐点に別れることからパターン化されている。まず並みの選手なら仮に返せたとしてもストレートの前に返すのが精いっぱいだが、それを越える選手となると、クロスのネット前やクロスのドライブで返してくる選手がいる。

当然弦羽早は後者が可能な実力者だ。であればその場合のパターンは、ストレートに詰めると見せかけ、クロスの球を誘い出してそれを狩る。

 

弦羽早はダンと右足で大きく地面を蹴り、その初速を利用して素早く左へと駆ける。バランスを取るのに重要な片腕を下げながらでも、踏み込んだ左足がブレることはなく、まるで足裏から根っこが地面に生えているかのように安定している。

その安定感は、これまで戦ってきたあらゆる選手よりも高い。

 

そしてビュンと素早く振られた弦羽早のラケットは大きく角度がついており、クロス、つまり弦羽早から見て右側へと飛び出した。

 

「(やはりクロ――)」

 

相模原の読み、あるいは倉石のプランと言うべきか。それは合っていた。確かにシャトルはクロスへと飛んでいく。

しかしバシン!とレシーブ、それもバックハンドから放たれたとは思えない音を鳴らしたそれは、前へと詰める相模原の頭上を高く越えていた。

 

「カウンター…ロブだと…?」

 

倉石の手からボールペンがポトリと落ちる。

 

シングルス、ストレートの激しい角度のあるスマッシュ、サイドライン寄りのバックハンド側。これらの条件が噛み合った場合、レシーブのコースは限られる。ボディ周りであれば速いスマッシュに対しても大きくロブで返すことは可能だ。それでも簡単な技術では決してないが。

その理由としては正面への球は上体を起こして打てるため、腕の可変角度にゆとりが持てる。しかしサイド側の低いシャトルと言うのには、当然ある程度手を伸ばしながら打つ必要がある。腕が伸びるということはそれだけ肘にゆとりが無くなり、腕の可変角度が狭くなる。

 

故にスマッシュと同時に前に詰め、限定された相手の球を決めるのがセオリー。

 

だが彼の場合にはそれが通用しない。麗暁(リーシャオ)紅運(コウウン)とのミックスダブルスで、紅運が放ったサイド寄りのスマッシュをクロスのロブで返した事に麗暁は感心を抱いていた。世界ランク一位の彼女が感心する程に、並ではない一打だったのだ。

 

踏ん張ることすら難しい初速”だけ”はある跳びあがるリアクションステップ。それに耐え、腰を捻り、右打ちであるのにも関わらず左側に重心を乗せ、捻った腰を回しながらインパクトの瞬間に手首も捻る。

 

そのたったカウンターロブの一打にそこまでの技術が込められていた。

 

前と横に意識していた相模原は、もはや後ろに足を一歩出すこともできなかった。

 

コトンとシャトルが静かにコートへと落ちる。

 

『ゲーム! マッチワンバイ秦野、北小町高校!

21(トゥエンティワン)  ‐  19(ナインティーン)

23(トゥエンティスリー)  ‐  21(トゥエンティワン)!』

 

 

 




はい。ファイナルまで書いてもよかったのですが私のスタミナが無くなりました。まあ格上相手でもストレートは起こり得ることなのでーーと言い訳させてください。

いやほんとに三ゲーム書くのは重いっす。


さて、今回の試合では弦羽早のスタイルや強みや弱みを中心に、メンタル的な不安なども書いていきました。バドミントンのきつさや、綾乃が支えるという事を明確に書きたかったのもあります。
ただバドミントンに限らず、一日で終わらせる大会ってどのスポーツにおいても決勝までいくと負担はかなり大きいと思います。

相性や相手によって戦略を変えるなども書けたのかなぁ…。


この作品におけるバドミントンのリアリティーはなるべくはねバドを越えないレベルを意識しています。
はねバドもクロスファイアを始め、志波姫さんの思考速度やなぎさのスマッシュの演出など迫力重視なのがあり、やっぱり完全に現実寄りにするよりかはこっちの方が書きやすいんですよね。
どうしても完全リアルにすると特にダブルスは文字では限界がある。

何が言いたいかと言うとバドミヌトヌまでは行きません。ちょっと今回入りかけてたけど。


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綾乃の期待

綾乃vsなぎさ戦もカットはしません。
でも大前提として原作のラリーがあるのでいつも通り原作読んでとダイマします。





試合を終えてからの事を弦羽早はあまり覚えていなかった。意識が朦朧としていたのもあったが、何よりも実感が無かったのだろう。言うなれば鮮明でリアルな夢を見ても、一時間後にはほとんど覚えていないのと同じような感覚。

漠然と覚えているのは、ラケットを握る手は強いながらも満足げな表情の相模原。握手を交わす監督陣と、バシンとなぎさに叩かれた背中。そしてギュッと抱き着いてきた細い柔らかな体。

 

弦羽早は現在簡易的な医務室の、これまた簡易的な持ち運びの可能なベッドに横になっていた。

 

「だから綾乃の試合を見に――」

 

「どうどう。心太郎さんがちゃんと録画してくれてるから」

 

「だから!綾乃がやってくれたみたいに俺もコートの隣で居てやりたいんですって!」

 

ベッドの上でギャーギャーと叫ぶ弦羽早にやれやれとため息を吐きながら、有千夏はチョンと弦羽早の太ももを突く。途端に痺れが走ったのか、少年の叫び声が狭い室内から消えた。

 

健太郎に運ばれてやってきた医務室にはボランティアの年配医師がおり、弦羽早の状態を見ると一週間は安静にしているようにと強く告げた。

そして簡易的な処置を施すや否や、”面白い試合をありがとう”の一言と決勝が見たいからと、さっさと出て行った。どうやら昔はバドミントンプレイヤーだったらしく、ボランティアと観客の間らしい。

別段自分の症状が特別酷いとも思っていた無かったし、綾乃の試合を見たいのは同意見だ。部屋を後にする老医師を呼び止めたりはしなかったが、健太郎も当然彼女達の決勝の為に退室し、一人きりとなった。

 

それを良い事にやってきたのが彼女、相も変わらず色気のあるプロポーションと老いない美貌を持つ有千夏だった。

 

因みに心太郎とは彼女の夫、つまり綾乃の父だ。有千夏よりも背の小さく年相応に老けた、見た目はごく普通の男性である。

 

「リアクションステップはあえて概要しか教えなかったけれど、あの大きく跳ぶステップは君への負担が大きすぎるから今後は控えなさい。せっかく怪我の少ない柔軟性持ってるのに、それじゃ選手生命縮めるだけよ?」

 

上半身を起こす弦羽早のベッドに腰をかけながら、有千夏は彼の両足の張りを確認する。

 

有千夏の下で練習するようになってから、怪我防止の為に綾乃と一緒に徹底させたストレッチ。それを毎日欠かさず行い、普段は柔らかい筈の足は、中に沢山の石ころを詰め込まれたかのように硬い。

 

「…やっぱり危ないですか?」

 

「多少なら大丈夫よ。でもあの動きは連発するには膝と足首の負担が大きすぎる。君の得意な、相手を考えさせる技の一つに留めて置きなさい」

 

その場で跳んで地面を蹴るだけなら有千夏もそこまで強くは言わない。しかしあの速度を一切ブレずに踏ん張るとなると、途端に足への負荷が跳ねあがる。

 

「分かりました。あの、全部とは言いません。でもセカンドゲームぐらいからならいいですよね?」

 

「…まあいいでしょう。その代わり、お医者さんが言った通り安静にしておくこと。明日の登下校はお家の人――は忙しかったか。ならお店の人に送ってもらうよう心太郎さんに頼んでみるわ。壁打ちも駄目だからね」

 

最近は連絡を取り合っていないが、中一まではメル友だった弦羽早の母親の事を思い出す。前々から父親は忙しく全国あちこちを移動しており、母親も元は父の仕事仲間で、弦羽早が宮城に行ってからは同じく父親と共に仕事をしているようだった。

 

家を勝手に飛び出してきた自分がお願いできる立場ではないだろうが、しかし将来有望なバドミントン選手の為だと恥を忍ぶ。

 

「そ、そこまでですか…?」

 

動揺する弦羽早はチラリと、有千夏にそこまで言わせる自分の足へと視線を落とす。

 

「そこまでじゃないわ。でもここで徹底的に休ませるか軽く見るかで変わってくる。練習を再開しても軽い練習に留めておきなさい。試合後はまた数日休息を取ること」

 

「分かり、ました…」

 

これまで滅多な事でもない限り毎日欠かさず練習を続けて来た弦羽早にとって、一週間以上の休暇は簡単に受け入れられるものではなかった。有千夏も弦羽早の上達具合から、どれ程の練習を重ねて来たかは分かっていたので、彼の背中をポンポンと叩く。

 

「君なら世界に立つことだって夢じゃない。そう思える程に強くなってきている。だからこそ、身体は大切にしなさい。プロになると一年の三分の二は海外なんてこともあるんだから、休む術も今のうちに覚えておくこと。今日にしたってそう。綾乃にマッサージするのはいいけれど、自分の疲労を甘く見た結果がストレート勝ちしか道筋が無くなった原因」

 

それは国際試合の為に海外に度々行っていた有千夏だからこその助言。彼女の重みのある言葉に弦羽早は軽く頷くが。

 

「…って、どうしてそのこと知ってるんですか」

 

「暑くて休憩室入ろうと思ったらなんか二人がくっついてるんだもん。というか、すっかり綾乃と仲良くなったみたいじゃない。試合中にハグなんてしちゃってこのこの!」

 

有千夏の軽い肘当てが腹筋に当たると痛みが走り、慌てて彼女もその手を止める。

 

「綾乃とは、そうですね、本当にあのダブルスを境に関係が深くなれました。ただ…そこにその、恋愛的な感情があるかと言われると」

 

照れ臭そうにしながらも少し困ったような悩める少年に、有千夏もあ~と小さく頷く。

 

「そこに関しては親の私でも分からないところがあるからね。昔っから恋愛ドラマとか興味持たなかったし、少女漫画よりも少年漫画派だったもんな」

 

そもそも漫画も余り読まず、家ではぬいぐるみを抱き締めてゴロゴロする姿が多い、バドミントンを除けば途端無趣味となる子だった。

当然バレンタインのチョコを一緒に作った事もないし、〇〇君が好きって相談を受けた事も無いし、クラスの恋愛話も聞いたことも無い。

 

「さて。もうそろそろ始まるから行くね。ファーストゲームが終わったら迎えに来るからそれまでジッとしておきなさい」

 

「…あの、まだ綾乃には会わないんですか?」

 

「…駄目。弦羽早くんの応援してる時は一生懸命だったけれど、それまでの試合の綾乃を見てたらやっぱりまだまだあの子は学ぶべきことが多い。昨日のミックスもイライラしていたでしょ?」

 

「見てくれていたんですね」

 

「娘と教え子の初の公式試合だからね。…人付き合いが苦手な綾乃に、信頼できる、互いに助け合いたいって思える人に弦羽早君はなってくれた。あんなに仲良くしてるんだもん。もうこれっぽっちも弦羽早君を見下してないのは親じゃなくても分かる。でもね、弦羽早君がどんなに頑張っても一人には限界がある。私と同じように」

 

有千夏はそこで一呼吸おいてチラリと窓の外に並ぶ沢山の車を見つめる。弦羽早もその事には気づいていたので小さく頷いた。

 

「互いに高め合えるライバル。弱音を言える親友。喧嘩しても最後には笑い合える悪友。尊敬できる先輩。一緒に勝利を喜び合える仲間。全部とは言わないけれど、少しずつ増やしていって欲しいの」

 

綾乃の世界は狭すぎる。それは元々の性格に加えて、物心ついた時から個人競技のバドミントンをやりだし、もっとも強い練習相手が身近にいたのが原因だ。

だからこそ有千夏は綾乃の元から去った。

 

「それじゃあまた後で」

 

 

ーーーー

 

 

アリーナの入り口前に静かに立つ綾乃の脳裏には、先程の弦羽早の試合が鮮明に残っていた。

様々な球種、レシーブ、激しいドライブにフェイント。健太郎の言葉を復唱する形となったが、あの時の弦羽早は今思えば素直にカッコよかったと思える。

彼が自分のパートナーだと思うと誇らしい。だからこそ、シングルと混合ダブルス全部を合わせ、三つのトロフィーを並べて達成感を得たい。

 

それはこれまでの全ての試合、勝った喜びを感じられなかった綾乃の数少ない目標。

 

「よう。さっきぶりだな」

 

「……」

 

途端穏やかだった表情が一変し、瞳は冷たい悪魔的にも見える暗いものとなる。

この豹変ぶりにも慣れた一方、しかしその目には未だ慣れないのは、語りかけて来たなぎさ。

 

「…さっきの試合、礼は言わないから。…なぎさちゃんが居なくても、弦羽早は勝ってた」

 

「そうかい? 存外嫌な主将の一声って効くもんだと思うがな」

 

綾乃はチラリとなぎさの足元に視線を落とす。その右ひざにはそれまでにはなかったサポーターが付けられている。

 

綾乃はそれ以上口を開かなかった。綾乃はむらっけのある選手だと評価されるが、この瞬時に集中力を切り替えられる状態はまさに彼女が好調であると言える。

アナウンスと共に、先に呼ばれた綾乃がアリーナへと足を進めようとするが、なぎさの一声で一度止まる。

 

「羽咲、退屈なんかさせないから。楽しませてやる」

 

溢れんばかりの闘志のこちらを見つめる、かつてスコンクで自分に負けたなぎさ。そんな彼女の姿に綾乃はこの一週間での彼女を思い出す。

 

登校した時には既に彼女は体育館で朝練をしており、昼休みふと見かけた時は筋トレをして、部活では主将である彼女がわざわざ年下の弦羽早にアドバイスを貰いに行き、日が完全に沈んでも最後まで練習を続けていた。

 

たった一週間で爆発的に強くなれる訳が無い。そう思っていた綾乃だが、先程の弦羽早の試合を思い返す。

 

もしあれ程の試合が出来たらどれだけ楽しいだろうと口元が不気味に上がる。それが自分に勝つために照準をこの日に合わせて来た相手なら尚更だ。

 

「…そう思うようなことがあれば、きっとそうなると思うよ」

 

二人の入場と共に、良い試合を見せて欲しいと期待を籠められた拍手が彼女達を出迎える。

綾乃の細い背中に続く形で歩くなぎさは、先週の月曜日の早朝の出来事を思い出した。

 

 

ーーーー

 

 

「「あっ…」」

 

朝焼けが滲むように東の空に広がり始めた時間帯、同じ目的で外出していた二人は偶然出会った。

秦野弦羽早と荒垣なぎさ。同じバドミントン部に所属し実力も近いながらも、二人の間には個人的な関わりが薄い。共通する点と言えば、二人とも綾乃に対して内容は違えど強い思いを抱いているということか。

 

まだ朝の風が冷たい為二人とも薄い長袖を来て、ランニング用のシューズを履いていた。

偶然橋の上でバッタリ会った二人の間に数秒の沈黙が訪れる。

 

「あー、一緒走る?」

 

「お供します」

 

それからいつものコースを走りながら、静かに後ろに付いてくる弦羽早をチラリと横目で確認する。

 

あのダブルスを見て以来、なぎさは弦羽早の事が気になっていた。そこだけクラスメイトに言えばやっとなぎさにも春が来たかと喜ぶだろうが、当然男女の色恋などではなく、一段階上がった彼のスマッシュについて。

 

「(聞きたい。すっげー聞きたい)」

 

なぎさも毎日筋トレ、ストレッチ、素振りなどスマッシュの速度に繋がるトレーニングは欠かさず行っているが、あの突然の速さの上昇は技術的なものだ。

スマッシュが切り札であるなぎさには是が非でも会得したいものである。

 

しかし相手は綾乃の声援ひとつで地区大会ベスト8を快勝したまでの根っからの綾乃馬鹿。

そしてなぎさがスマッシュの威力を上げたいのはその綾乃を倒すため。

 

後ろに続く彼と綾乃のダブルスをこの目で見て以来、なぎさの中には再び綾乃への恐怖が溢れだしていた。かつてスコンクで負けたトラウマが、来週の試合で再現されてしまうのではないか。

マッチポイントまで追い詰められてからの集中を深め続ける綾乃。あの暗い瞳の彼女に再びネット越しに睨まれ、自分は冷静さを保てるのだろうか。

 

立ち直ったなぎさの心にヒビを入れる程に、あの試合のレベルの高さは異質だった。

 

ダブルス、それもミックスだからセオリーが違うなどと、楽観的に考えられるものではなかった。それになぎさや以前の綾乃が極端なだけで、シングルが強いプレイヤーは当然ダブルスも強い。その逆も然り。

現にダブルスプレイヤーだった弦羽早もシングルで好成績を残している。

 

「…うーむ」

 

「どうかしました?」

 

「えっ? あっ、いや、理子ン家がこの近くだなーって」

 

適当に浮かんだ言い訳を咄嗟に使う。

 

「…綾乃の事ですか?」

 

図星をつかれ、進めていた足がゆっくりと減速し、振り返ると既に立ち止まっている弦羽早のまっすぐな眼差しと視線が交差した。胸の内に感じた一瞬の冷たさは、朝の肌寒い空気だけが原因ではない。

どう返すべきかなぎさは数秒の時間を要した。そして言葉を見つけるより先に、自分達の間を流れる静寂の時間が既に答えを教えてしまっていることに気付く。

 

「私って、そんなに分かりやすいか?」

 

「どう…でしょう? ただ、綾乃の事をよく見ているので」

 

「確かに。いくら私が馬鹿でもお前ほど分かりやすくはないか」

 

「あはは…。まあ我ながらこの間の試合は露骨でしたね」

 

苦笑する後輩に釣られて、なぎさもフッと笑みを浮かべる。

 

綾乃に対しては勿論弦羽早にも、自分よりも優れた実力者であるという事もあって色々思うところはあったが、結局のところ彼も他の部活仲間と違いはない。

 

「ちょっと相談に乗ってくれるか? その、羽咲戦を想定しての話でもあるんだけど…」

 

弦羽早もあのダブルス戦での当事者であり、同時に綾乃の強さを知っているからこそ、もうとっくに自分の心境は悟られているだろうとなぎさは素直に明かす。

弦羽早は一瞬目をパチクリさせたあと、破顔一笑、勿論と肯定した。

 

 

ベンチで座る弦羽早へと二本のペットボトルを差し出す。遠慮気味に断る弦羽早だったが、相談料だと無理やり押し付けた。彼が選んだのはスポーツ飲料で、余った炭酸飲料のキャップを空ける。

炭酸のシュワシュワを口の中で一度味わってからなぎさは話した。

 

かつて綾乃に一点も取れずに負けたこと。その時の綾乃とダブルスの時の綾乃が重なったこと。再びコート上で対面した時、綾乃に勝てるかと不安があること。そして弦羽早の一段階上がったスマッシュの技術を教えて欲しいこと。

 

スマッシュのコツだけでなく、自分の心の弱さを吐き出したのは、おそらくここが学校ではないからだろう。普段顔を合わせる空間とは違う状況で、制服を着ていない彼は落ち着いた雰囲気を纏っていた。

だが一番の要因は、弦羽早もまた綾乃の事で悩んでいるふちがあったから。それは恋愛関係ではなく、土曜日のシングルス四戦。特に薫子戦を終えた直後の綾乃に対して、弦羽早は自分から寄らなかった。

 

「(そういや結局なんで秦野も試合してたんだ?)」

 

綾乃が試合をすると言うのはヴィゴが関係しているのは知っていたので予想もつくが、そこに有千夏本人が関わっているのを知らない為ダブルスになった経緯を予想できない。

 

今は関係ないし重要な話ではないだろうと、浮かんできた疑問に蓋をしまう。

 

「とまあそんなところだ」

 

「えっと、荒垣先輩。まずはありがとうございます」

 

「は!?」

 

何故ここで謝礼が来るのかと、思わずキャップを締めていない炭酸飲料水の持った腕ごと体を捻らせる。案の定中身が僅かに零れてしまい、弦羽早が渡してくれたハンカチで拭く羽目になった。

 

「だって綾乃を倒したい荒垣先輩からすれば、普通俺には相談しようと思わない。弱点を晒すようなことですから」

 

「それは、コートの中でのお前を知っているからな」

 

「だったら尚の事嬉しいです」

 

小さく笑みを浮かべてスポーツ飲料をクイッと飲む横顔に、なぎさはほぉと小さく息を吐く。

 

「(こりゃ普通ならモテるだろうなぁ)」

 

彼の普通でないところを既に呆れるほど見ているので少しもときめかないが。

 

「まず本題のスマッシュのコツですけど、俺が速くなったきっかけはゼロポジションがハッキリと実感できて、それをより上手く利用できるようになったからですかね」

 

「ゼロポジション…。肩の筋肉がもっとも楽になる体勢だっけ」

 

「はい。ゼロポジションを使うこと自体はそこまで難しくないですし、荒垣先輩は勿論他の選手もスマッシュで普通に使ってると思います。ただそこに意識を集中させていると、本当にその名前の通りに肩に無駄な力が入らなくなるんです。その時間帯を伸ばす…というんですかね。すいません。あの時の感覚で打っている部分が多いので全部を説明できないです」

 

「いや、十分参考になったよ。早速今日の練習にでも意識してみる」

 

そもそも打つ瞬間に、一々ゼロポジションになっているのか否か意識した事すらなかったので十分な成果だ。

 

「俺でよければ手伝いますよ」

 

「いや、お前も来週試合があるんだから自分の練習に集中しな。そもそも私の手伝いしたら羽咲に怒られるんじゃないか?」

 

「男としてはそれは嬉しいんですけどね。ただ綾乃のパートナーの立場としては、むしろ荒垣先輩に協力すべきだと思ってます。多分綾乃もそっちの方が嬉しいんじゃないかな」

 

「え?」

 

どういう事だと疑問を浮かべるなぎさに、弦羽早は今度は自分の胸の内を語った。

 

「…綾乃は芹ヶ谷に勝ちたいとそれまで以上に練習し、試合にも最初から集中して入った。そして綾乃は勝った、あまりにあっさりと。芹ヶ谷にキツイ言い方をするなら拍子抜けだったと、俺は思ってます」

 

薫子に対しては勿論、綾乃に対しても随分刺のある発言だ。

しかしなぎさがそう横槍を入れる前に弦羽早は続ける。

 

「技術的に芹ヶ谷が弱くて綾乃が強すぎたというのではなく、気持ちの問題だったと思うんです。拍子抜けっていうのは、スコアの結果よりも芹ヶ谷の闘志と言うべきでしょうか。

綾乃にとって芹ヶ谷は因縁のある相手で、紆余曲折あったとはいえ、その発端は二年以上前。芹ヶ谷がウチに来た一件も合わせると、綾乃の勝ちたいって願望は相当強かったと思います。一方芹ヶ谷は、多分心のどこかで綾乃を舐めてた。舐めてるまで行かなくても、綾乃へ勝ちたいという願望はかつての彼女よりかは少なかった」

 

「まあ、なんたって監禁して風邪を移したくらいだからな」

 

なぎさは出来る限り暗い雰囲気にならぬよう、他人事のように軽いトーンで話す。それに釣られてか弦羽早も少し口元を上げて。

 

「もし同じことやろうものなら今度こそ本当にブン殴りますよ。でも、それくらいの熱意がかつての芹ヶ谷には確かにあったんです。だから綾乃もそれに備えていた」

 

「なるほど、だから拍子抜けか…」

 

確かに構えて構えて、そこに照準を合わせた結果、ストレート勝ち。それも合計失点が10点未満ともなれば、そう思うのも頷ける。

もっともなぎさを始めとする普通の選手であれば、それだけ自分が強くなった、あるいは調子が良かったと素直に喜ぶだろうが、彼女は普通には当てはまらない。

 

「そして…今の荒垣先輩は、綾乃の状況に少し似ている気がするんです」

 

「私が羽咲と? 勘弁してくれ」

 

「…綾乃を悪鬼羅刹かにでも見てませんか? あのですね、綾乃は不安定なところはあって価値観が普通とは異なってますけれど、抱えている悩みは多いんです」

 

「あ~、分かった分かった。話を折って悪かったよ」

 

まるで鬼と同義と言われたかのような反応に弦羽早が少し早口になる。思わず本音を言ってしまったなぎさだったが、言う相手を間違えたと無理やり話の軌道修正を試みる。

 

「…つまり、綾乃はかつて負けた芹ヶ谷に勝つ為に高めていた。荒垣先輩も、綾乃に勝つために色々考えている。一度負けた相手に挑むという点で一緒なんですよ」

 

「まあそりゃそうだけど、それって珍しいものじゃないだろ」

 

大会に出場する以上、同校の部活仲間が他校の同じ相手に負けるなんてことは珍しくもなんともない。どれだけ強い選手が集まろうとも、最終的な勝者はただ一人しかいないのだから。

 

「綾乃に限ってはそうでもないと思います。同年代相手に負けてこなかった綾乃が、心から勝ちたいと思ったのが芹ヶ谷が初めてなら、今の荒垣先輩を自分と重ねても不思議じゃありません。だからこそ綾乃は荒垣先輩に期待しているんだと思います」

 

「羽咲が…期待?」

 

「全身全霊で自分に挑んできてくれる相手。同性(対等な条件)でライバルと言える存在を。そんな相手と戦えるのなら、俺が荒垣先輩の手助けをすることにむしろ喜ぶと思います…。多分…」

 

ここまで堂々と話しておきながら、最後は不安げに閉める弦羽早に軽く肩を落とす。

 

「…お前って羽咲のこととなるとほんと優柔不断になるよな」

 

「仕方ないじゃないですか。三年離れてたとはいえ、幼馴染の俺でも分からないところが多いんですから。でも、今回の俺の考えは全部が当たりではなくても、間違ってはいない。

綾乃は荒垣先輩が全力で立ち向かってきてくれるのを望んでいる」

 

「…ならその要望に応えるために羽咲の弱点も教えてくれ」

 

「生憎、俺は綾乃のパートナーですから。助言はすれど、勝って欲しいのは綾乃に代わりませんよ」

 

冗談交じりのなぎさの発言に、少年は川風で靡く前髪を鬱陶しそうに上げながら、優しい爽やかな笑みを浮かべて返してきた。

 

 

ーーーー

 

 

『オンマイライト!荒垣なぎさ、北小町高校! オンマイレフト!羽咲綾乃、北小町高校! 羽咲トゥサーブ! ラブオルプレイ!』

 

なぎさは思う。この会場に自分が勝つと思っている人間はいない。そして誰よりもそう思っているのが対戦相手の少女と言うことに。

綾乃と再開してからの約二カ月。元々全日本ジュニアで彼女が持つ一面を見ていたなぎさには、部活メンバーの誰よりも一足早く彼女の本質に気付いていた。

 

綾乃は性格が悪い。

誰かに嫌がらせしたいーーというような反社会的な悪さではない。価値観が良く言えば個性的、悪く言えば歪。それを性格の良し悪しに分別すれば悪いに傾く。

 

綾乃の構えはフォアハンドのサーブだった。その構えにコーチ席に座る北小町女バドの面々は小さく口を開く。

フォアハンドサーブのメリットは奥までロングサーブを飛ばしやすい。つまり高いサーブを打つ可能性が高い。

 

「(こんにゃろ)」

 

最初のサーブから綾乃がなぎさを舐めているのが読み取れる。

しかしそうなる気持ちもなぎさには分かっている。元々ディフェンス型の綾乃は、弦羽早とミックスダブルスを組んだことで男子選手の速いスマッシュを受ける機会が多くなり、加えて世界トップの最速のスマッシュすらも彼女はレシーブしていた。

今更なぎさのスマッシュに怯えるようなプレイヤーではない。

 

パン!と大きな音を立てて放たれた凄まじく高いロングサーブ。流石にこのアリーナの会場天井スレスレとはいかないが、二階の観客席も首を上げる程には上がっている。

ここまで高く上げること事態は決して難しくない。しかし高く上げるシャトルをバックパウンダリーラインギリギリまで飛ばすとなると、途端に難易度が跳ねあがる。

 

「(そう言えば入部を掛けて戦った時から、お前はとんでもない奴だったよ。でもなッ)」

 

素早く後ろに下がりチラリと足元を見てインかアウトかを確認するが、当然のようにバックパウンダリーラインギリギリを落下地点としている。それを確認すると、なぎさは両膝をバネにグッと跳びあがった。

 

「(お前が世界最速のスマッシュを受けたのはいつだ? お前が今日打たれたスマッシュはどれくらいの速さだった? お前が予想している私のスマッシュはッ――)」

 

バシュン!と突然花火でも破裂したかのような激しい音が鳴る。腰を下げて構えていた綾乃だが、どこかあとコンマ数秒は余裕はあるだろうと高をくくっており、僅かに出だしが遅れる。すぐに地面を蹴って足とラケットを出すが、その横を弾丸の如きシャトルが突き刺さった。

 

「(これぐらい速かったか?)」

 

地面に着地したなぎさは、ラケットを伸ばしたままの綾乃の姿にしてやったと口元を上げた。

 

アリーナ全体もまた、今の綾乃と同じような呆然とした顔をしており、唯一なぎさ同様に頬を緩めているのは健太郎だった。

 

「(…なぎさちゃん。いや、弦羽早もコーチも、やってくれるね…)」

 

ノビ、角度、コース、そして速さ。それら全てが一週間前とは桁違いだ。コースと角度やノビは前々から健太郎とマンツーマンで練習する様子が見られたので自分のリサーチ不足だろうが、速さに関しては間違いなく弦羽早が一枚噛んでいる。

 

――面白いじゃん

 

綾乃もまた小さく口元を上げる。ただそれはなぎさのようにしてやったりとか、あるいは教え子を見守る健太郎のように優しいものではなく、面白いおもちゃを見つけたと歪な上がり方だった。

 

 

 




有千夏さんのリアクションステップ周りの指導は、こういった動きが基本だけど、弦羽早は基本的に重心移動から始めなさい。それでいつか無意識の内にコツを掴めるようになったら変えなさい。的な。
一応概要は教えてたけど、強みを伸ばすためにと伝えてはいた感じです。

枷をつけるだけつけといて放置…とかでは無いです。



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なぎさのスマッシュ

原作にある試合を書くのって短めの薫子戦を除けばこれが初めてで、コニー戦も麗暁戦もデュエリストに負けないくらい完璧な流れで混合ダブルスになっていました。

それの何が難しいってやっぱり原作と反れすぎた試合内容となってもおかしいんですよね。例えば綾乃のクロスファイアが既にインターハイ編レベルだったり、なぎさの選球瞳がやたらとよかったり。
でも寄せすぎると私が消えちゃうのでなるべく原作を意識せずに書く場面もあったりと。

綾乃の微妙な心境やプレイの変化を書くのがどうしても色々な意味で難しいです。



なぎさのスマッシュはよく男子選手並みと評価されるが、より正確に言うなら、上位の男子選手並みのスマッシュを持っていた。少なくとも県大会のこの会場において、彼女より速いスマッシュを打てる男子の方が数が少ない。それは元々持っていた筋肉もあるが、彼女がバドミントンを始めてからずっとエースショットであったスマッシュ、その速さを上げるために行ってきた腕の柔軟性のストレッチが活きている。

 

最終的なスマッシュの速さを競えば、やはりどれだけ努力しても男性を追い越すことができないが、しかし並みの努力をした男子と並外れた努力を重ねた女子なら後者でも勝てる。もっとも、それには生まれ持った素質が必要なので、やはり性別の差は大きい。

 

しかしなぎさは努力と素質、そのどちらも持ち合わせている。

故に彼女のスマッシュは女子では当然、男子を合わせてもその速さに追いつけるのはごく一部だ。

 

『ポイント! 3(スリー)  ‐  0(ラブ)!』

 

この展開を会場の誰が予想しただろうか。最初のスマッシュの一打から、連続してなぎさが得点を重ねる形となった。

しかしそこに行きつくまでの球種に、スマッシュは一本たりとも無かった。

 

なぎさのスマッシュに一切危機感を抱いていなかった綾乃の心境は一転し、警戒せざる得なくなった。そこを利用し、なぎさの本来のプレイとは異なるフェイントや、スマッシュを警戒して上げられない状況に綾乃を追い込み点数を稼いでいた。

 

これまで同様速攻で終わるだろうと、己が勝つことになんら疑問を抱かなかった綾乃にとって序盤の三点連続失点、特に二点・三点目の面白くない展開は苛立ちを抑えられないでいた。

 

「…案外小賢しいバドミントンをしてくるんだね、なぎさちゃん」

 

どんな精神構造をしていれば可愛らしい声で、ここまで背筋の凍るような気味の悪い恐怖を与えられるのだろう。

綾乃の声は熱の籠った体育館にいるはずなのに、なぎさの体感温度を下げる。

 

「(無視しとこう)」

 

しかし冷静な状態で試合に入り、更に三点連続得点をしたことでメンタルにも余裕があり、何よりこの状態の綾乃を知っていた事がなぎさを落ち着かせる。

全く反応の無いなぎさに、他校の生徒から髪をリボンで結んだヤバい奴とまで言われる少女はカチンと来るが、だがすぐに何かに気付いたように眉を上げて。

 

「スマッシュ…余り打ちたくないのかな…?」

 

図星を付かれた事で思わずなぎさの肩が僅かに揺れるが、これが綾乃のハッタリだとすぐさま気持ちを切り替える。

綾乃はラリー中の読みはあれど、長期的な組み立てができる選手でないことは、なぎさ自身がそうなので良く知っている。

 

だがそれと彼女の纏う空気が怖くないかは別物だ。

 

「(こ、怖ぇ…。これまでコイツと戦って来た子達、みんなこれに呑まれて来たんだろうな。過去の私も含めて)」

 

夜叉のように非情な眼差しと、ネット越しに立っていると言うのにまるで北国の風でも含んだかのような冷たい声は、打倒綾乃の為、一ヵ月近くの時間の焦点の全てをこの日に当てて来たなぎさでも気を抜けば飲まれそうになる。

 

だがなぎさは他の対戦相手の少女達よりもずっと綾乃と近い位置にいた。それは普段からの豹変ぶりを不気味だと思いつつも、しかし彼女の中に存在する優しさと言うのも確かに知っていた。

 

まだなぎさがスランプを抜け出せず、苛立って自分より強い新入生である綾乃と弦羽早に当たりが強かった頃、コーチに反発して練習を抜け出した時、彼女は”ごめんね”と声だけだが謝ってくれた。

自分のジャンピングスマッシュをキラキラした瞳で見つめて、教えて欲しいと言ってきた。

 

繰り返すが綾乃は性格は悪い。でも優しさが無い訳ではない。そうでなければ、あれ程健気にパートナーを応援しないだろう。

試合の観戦に集中すればするほど目つきが悪くなるのはどうかと思うが。

 

そろそろ審判からラリーを始めろと声が掛かりそうだったので、ロングサーブから試合を再開する。

 

ロングサーブが落ちるまでの僅かな間に綾乃は考える。なぎさは極力スマッシュを打たずに試合を組み立てようとしている。しかしあのスマッシュを警戒しないと言うのは無理な話だ。

 

「(私でもあのリアクションステップはできない。あれは弦羽早だからできるもの)」

 

綾乃も体幹は良く、手と同様左右どちらも効き足として使えるので跳ぶまではできるが、踏ん張って打つとなるとバランスを崩しかねない。

だからと言って試合の流れを変える術を思いつかない訳ではない。綾乃もまた両足をバネに跳びあがると、空中で体全身を利用して強打を打ち込んだ。

 

フォアハンド側へと伸びる強打は、いくら細い体格から放たれたものだといってもやはり侮れない。なぎさは長い足を踏み出して面に当てて返そうとするが、直後そのシャトルは大きく左に逸れた。

 

「(なっ、これはッ!?)」

 

先程の試合でも何度か見かけた特殊なシャトルの軌道。しかしそのキレと安定感は付け焼刃のものではなく、正真正銘のエースショット。

 

「弦羽早にクロスファイア教えたのが誰か、知らない訳ないよね…?」

 

「…本家のご登場って訳か。…いいのか? 秦野にジャンピングスマッシュ、控えるように言われてなかったか?」

 

それはなぎさにとって諸刃の剣とも言える挑発。普通の相手であれば、今のなぎさの発言で彼女の戦略を読み取り、以降ジャンピングスマッシュを控えるようになるだろう。

だが彼女は普通とは違う。

ガラの悪い目つきで、トントンとラケットを肩に当てながら口元を上げて。

 

「まさか、ファイナルゲームまで持ち込めると思ってる?」

 

「はは、そりゃ失敬」

 

挑発成功。そう内心でほくそ笑みながら、それ以上ボロが出ないようにサーブレシーブコートへと移動する。

 

続くラリー。前へと落ちたシャトルになぎさは一瞬だけだが戸惑いが生まれる。ネット前は綾乃の領域、しかし上げたらクロスファイアが飛んでくる。その板挟みとなったのはほんの一瞬であったが、その一瞬を許す綾乃ではない。再び変化の激しいクロスファイアが放たれ、呆気なく一点差に追いつく。

 

そしてロングサーブから始まった短いラリーで、またも綾乃が会場を騒然とさせた。

 

「(クロスファイアに気を取られていたら完全に後手に回る。フルスマッシュは打たない、低い展開に無理やり持って行く必要もない。だが、攻めの姿勢は忘れない!)」

 

そう打ち放ったのは地面と平行(ドライブ)気味の六割ほどのパワーで放った正面へのスマッシュ。

速さは無い。ならばカウンタードライブで叩いてやろうと構えたが、そのシャトルのノビが予想以上にあり失速が少ない。

読みが外れたと思いつつもプランを切り替えて、すぐに後ろに軽く跳びながら、空中で激しいスイングを行う。

 

バシン!と弦が振動すると、シャトルは鋭い軌道で白帯を越え、なぎさがいる逆サイドのミドルコートへと突き刺さった。

呆然とするのは自分のコートへと落ちたシャトルを見下ろすなぎさだけでは無い。一定以上の知識を持つ者にとってそれは異常だった。

 

 

「ハ、ハハッ…パートナーも合わせてつくづく化け物ですわね…」

 

度肝を抜かれるとはまさにこの事だろうと、本命の試合を見下ろす薫子は冷や汗を流す。震える彼女にミキは困惑したように首を傾げる。

 

「…レシーブは本来、地面に足をつけてその反発力を利用して大きく返す。その最もたるがトップクラスの体幹を持つ秦野弦羽早です。彼のレシーブの威力の高さはそこにある…。でも今、羽咲さんは空中で打ち返した…」

 

「ど、どうしてそんなことを?」

 

「…まず威力のあるショットに対してスイングで返す場合、どうしてもシャトルの反発力も合わさってノビが大きくなってしまう。そこで地面の反発力をあえて無くすことでわざと威力を落とした。これで本来ならリアコートまで伸びるショットをミドルコートにスイングして返せるようにする。更にボディへとノビて来たシャトルに対して後ろに跳ぶことで、詰まらずにラケットを振るスペースを確保した」

 

薫子は優れていると自負している観察眼と頭の良さでそう分析したが、実際はそれであっているかは分からない。なにしろそんな打ち方は見た事も聞いたことも無い。

速いシャトルに対して後ろに跳ぶ判断速度。後ろに軽く跳ぶというバドミントンで行わない動作をしながら、安定しない空中でシャトルをスイートスポットに当てる精度。そしてネットに引っ掛けずにスイングする技術力。

自分がライバルだと敵視していた少女はこれ程なのかと、薫子の体は恐怖かあるいか武者震いか、微かに震えていた。

 

 

「あ~…、ホントは全国のミックスで見せる技だったんだけど」

 

なぎさの方には見向きもせず、ガットを弄りながら綾乃がポツリと呟く。

 

「…どの道ミックスは一枠さ。ここで全力を出してもライバルには見られないだろうよ」

 

「……? なぎさちゃんって説明下手だよね」

 

「ほっとけ」

 

なぎさの言葉を翻訳すると、ミックスダブルスは県で一枠しかない。だからミックスダブルス用の技をインターハイまで温存しておこうと県大会で使おうと、大差が無いと言いたかったようだ。

 

 

綾乃の強さはやはり頭一つか二つ抜けていた。

それも当然だ。神奈川県でトッププレイヤーである筈の薫子や、橋詰英美が1ゲームの間に10点も取れない相手だ。なぎさも彼女達を相手にそこまで点差を離して勝つどころか、場合によっては負ける可能性すら大いにある。

 

なぎさの一番の武器であるパワーショット。フルスマッシュをあえて温存している今、それを活かせるのはドライブ。そこを中心に組み立てていくが、ここに来てもダブルスの練習の成果が綾乃を支えていた。

低い展開が続くダブルス、特に混合ダブルスは両者が攻撃の陣形であるトップアンドバックになって打ち合うことも珍しくは無いので、そのドライブの応酬が激しい。

ボディ周りへのドライブはまさに100%と言ってよい程に決まらない。ボディへと打てば凄まじい返球速度で返され、続けて打っても返球速度は衰えず、不利だと判断すればすぐに前へと落とされる。

ならば左右に振ればよいかとも思われるが、速いドライブの最中に空いているコースを狙ってドライブで返すのは難しくネットに引っかけやすい。

 

加えて後ろへの球はクロスファイアを主軸とする、なぎさがどれだけ練習しても中々会得できなかった差し込むようなコースへのスマッシュと、ドロップ、カット、加えて難易度が高いリバースカットも彼女は難なくプレイする。

当然ネット前に関しては彼女の右に出るものは神奈川に存在しない。

 

 

だがなぎさもまた、地味だが堅実なプレイで点数を緩やかに稼いでいく。綾乃のクロスファイアを恐れずにリアコートへと押し込み、クロスファイアの前兆である微かにガットが擦れる様な音に目だけでなく耳も集中させて聞く。もっとも聞こえたところですぐに打ち返せるわけでは無いが、確実に慣れて後々に繋げる準備をしておく。

そして女子の中で高身長であるのをフルに活かし、できるだけゆとりのあるステップでラリーを続けミスをしない。ゆっくりとコート中に振って綾乃のミスを待つ。

 

インターバルは11‐6で綾乃が取得。4回連続得点と流れを掴んでいる綾乃だが、その表情には苛立ちが見え、対するなぎさはそこまで追い詰められた素振を見せていない。

軽い水分補給と自分サイドのサポーターとなってくれている悠と空が話しかけて来たので、集中状態を解いて返事をしている間に一分のインターバルはあっという間に終わる。

どこか物足りないインターバルにコートに戻る最中コーチ席を振り返って気付く。

 

「(あ~…これまでずっとインターバルになると弦羽早がコーチングしてくれてたけど、案外無いとやりにくいな…)」

 

なぎさが守りの展開に入り、攻めを誘っているのには当に気付いている。

綾乃がそれに乗る理由はなぎさを徹底的に追い詰め、あの初撃に見せてくれたスマッシュをもう一度引き出す為。

相手の球を返すのが何よりも楽しい綾乃にとって、女子という枠を、少なくとも県レベルで越えているなぎさのスマッシュを返すと言うのは想像しただけでワクワクする。

それはこれまでの試合に抱かなかったプラスの感情。だと言うのになぎさはそれを出し渋っている。

 

『だからさっきも言ったけど、ここぞという時に留めておくこと』

 

『や~っぱり張ってる。結構スマッシュ打ったでしょ』

 

自分が余り何度もフルスマッシュを連打すべき選手ではないと、弦羽早に言われた事を思い出す。

綾乃もそのことは素直に認めているが、しかし彼女にはなぎさへの期待と慢心と、そして微かな焦りがあった。

 

「(分かってる。だからスマッシュを引き出して、返して、それでストレートで終わらせる。弦羽早がそうしたんだ。パートナーの私だって出来るに決まってる)」

 

 

ーーーー

 

 

綾乃の点を取る方法は球種の豊富さと精度、タッチの速さや何よりキルショットとなるクロスファイアととにかく豊富だ。にも拘らず、ラケットワークの精度の高さからミスが少なく選球眼もあり、ラリーを続けてくるタイプなのだからいかに彼女が強いかが伺える。

 

だがそれも完璧ではない。どんな選手であってもミスはするし、時には判断を誤ることもタッチが僅かに遅れたり、スイートスポットから僅かに外れることもある。ただ強いプレイヤーはそれらを可能な限り減らし、調整する事ができるから強いのだ。

 

綾乃もそれが出来る。だからこそなぎさはラリーを続けた。

綾乃のクロスファイアを決して恐れずにクリアーやロブを上げる。それでもなるべくクロスファイアを打たれないように、低めのアタックロブを心掛ける。上がって来たショットに対してはドリブンクリアで綾乃の動きを大きくさせ、冷静に前後に振っていく。

女子はどうしても脚力が男子より劣る分、クリアーが攻撃として働きやすくなる。特に綾乃の身長であれば際どいドリブンクリアはそう何度も受けたいものではない。

 

ラリーを粘り強く続けることで一呼吸できる時間を減らし、綾乃に調整する時間を与えない。

勿論ラケットワークの精度ではなぎさの方が下の為なぎさのミスも生まれるが、ミスの多さで言えば綾乃が僅かにだが上回っていた。

 

それは互いの一点の価値観がいつもと反転しているのが関係していた。

いかに点を取られないバドミントンをする綾乃と、いかに点を取るバドミントンをするなぎさ。その両者のスタイルが今は入れ替わっており、なぎさはミスをしないようにと上手くメンタルを切り替えていた。

一方綾乃は僅かな焦りとメンタルコントロールの苦手さが合わさり、自分のプレイスタイルの変化を客観的に完全には把握しきれていなかった。

 

故になぎさの点は緩やかだが増える。

 

勿論なぎさの点が緩やかに増えるのなら、綾乃の点はもっと増えていく。ドリブンクリアを狙ってくるのならミッドコートに構えて飛び上がり、小さい背丈を最大限に伸ばして面に当てる。返球を速くすることでワンテンポ速い展開をなぎさに押し付ける、薫子戦でも行ったプレイだ。

スマッシュを打たないなぎさの唯一のパワーショットであるドライブ戦もやはり彼女にはそう簡単に通用せずに、挑んだなぎさが負ける展開も見られる。

 

そして彼女の最強のキルショット、クロスファイアが再びマッチポイントで放たれ、シャトルがなぎさのラケットを横切った。

 

21(トゥエンティワン)  ‐  14(フォーティーン)! ファーストゲームマッチワンバイ羽咲!』

 

「…ちょっと走らされたか」

 

1ゲーム取ったと言うのに不満げに呟きながら綾乃はパイプ椅子に腰を掛ける。グリップにゴムの柔らかさが減って使いにくくなっていたので、グリップを剥がして同色の新品のそれを撒き始める。

 

綾乃はチラリと0‐0に戻ったスコアボードへと視線を向ける。ファーストゲーム、思ったほど圧勝できないのはなぎさの粘りとあった。

なぎさは攻撃的なプレイヤーであるが、173㎝と高校生男子の平均身長よりも高い身長と長い手足は、女子シングルスにおいてはかなりのアドバンテージとなる。加えてずっと走り続けて来たことで蓄えられたスタミナにより、どんな球を打っても粘り強く追いかけてくる。

 

綾乃は先程の弦羽早の試合を思い返す。元来スタミナに自信のある彼が、ストレートで勝たなければ持たない程にセカンドゲームで追い込まれていた。

もっともそれはおかしな話ではなく、スタミナというものは消費するのは容易だが温存して動くとなると途端難しい。

 

「(…背中も腰も張ってないし腕も大丈夫。でも…)」

 

筋肉的な疲労はマッサージの効果が出ているのかそこまで強張ってはいない。しかし綾乃にとってこれは今日五試合目。従来より身体・精神共に疲労の溜まりは早い。

 

なぎさのスマッシュを打たず綾乃のメンタルを揺さぶる戦略は、意図せずとも今の綾乃のコンディションに微弱であるがヒビを入れるのに噛み合っていた。

 

「綾乃、ファーストゲーム取ったんだね。おめでとう」

 

光の無い鈍い瞳で淡々と続けていたグリップ撒きの作業を終えた彼女の背中に、柔らかいトーンで語り掛ける少年が一人。

 

「弦羽早!」

 

パァァと会心の笑顔を浮かべる綾乃に、未だおどおどしていた空と悠は”おお”と感嘆の声を上げたが、身体のあちらこちらに湿布やテーピングをしている弦羽早にギョッと目を開く。

 

「ああ、大丈夫ですよ。単なる疲労の溜まり過ぎです。一週間は安静にするように言われたくらいです」

 

「ホント? 無理してない?」

 

「うん。打撲もそれくらいすれば治るだろうって」

 

まるで発条仕掛けの人形のようにぎこちない動きで椅子に座った弦羽早は、反対のコーチ席に座るなぎさと一瞬目が合い、試合中の応援の礼を籠めて頭を下げた。

 

それからすぐに綾乃へと視線を戻して。

 

「どういう状況?」

 

「なぎさちゃんがらしくないバドミントンしてくる。全然攻めてこない」

 

「身内ならではの戦い方か…」

 

弦羽早は顎に手を当てて考える込むジェスチャーをする。

薫子戦では的確なアドバイスを送り、何だかんだインターバルではこれまでも軽くコーチングをしてきたが、やはり綾乃に具体的なアドバイスを送るとなると話せる内容は限られる。

もっともまだ1ラリーも見ていない弦羽早がコーチング出来るのもおかしな話だが。

 

「次のインターバルまでは何もアドバイスはできないけど、ただ…優勝トロフィー並べるって話、俺は叶えたから。だから頑張って」

 

「うん!」

 

差し出された拳にコツンと自分のそれを合わせると、審判がインターバルの終了を告げた。

 

 

 




因みに自分が見た女子選手の最高速は世界ランク一位のフクヒロペアの廣田彩花さん。9月辺りのオープンで見間違いでなければ初速350弱くらい出してました。
えぇ…(困惑)


あと綾乃が後ろに飛んで返球する原作でもアニメでもあった打ち方ですが、それを挟んだ試合展開はアニメの方が好きですね。理由としては原作はロブで返していたのですが、そんな打ち方をしてロブで返すメリットがないからですね。勿論だからこそ、原作ではなぎさがポイントを取っているのですが。

アニメは確かネット前に落として綾乃がポイントを取る展開だったと思います。

今回はダブルスを始めたと言うこともあり、ドライブにする展開にしました。それが一番リアリティーないですけどね!


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トリックショット

結構用語が連発するので一応

バックパウンダリーライン→一番後ろの線
ミドルコート→コートを前後に三分割した場合の真ん中
リアコート→三分割した場合の後ろ。

一応その話の一回目にルビを振ったりしていますが、見落としたりサボってたりしています。




『打ちなよ。なぎさちゃんのスマッシュと私のレシーブ、どっちが上かちゃんと勝負しようよ』

 

序盤からも翻弄する綾乃は冷たい視線を向けてそう告げた。ファーストゲームを取った直後の連続得点。

これ以上出し渋って点差を開かれたら、例えどれだけフルスマッシュを連打しても追いつけなくなる。

 

故になぎさのフルスマッシュを解禁した。それはこれまでのゲームの流れを大きく変える、なぎさの最強の一手。

 

得意な筈のボディ周りへの強打にも、綾乃のラケットはカンと音を立てるだけでガットで面を捉えることはできない。これはなぎさのフルスマッシュが速いのは勿論だが、あえて綾乃がミドルコート辺りまでしかロブを飛ばさず、スマッシュを誘っているのも取れない原因の一つであった。

 

サイドラインギリギリまで伸びるコース、ミドルコート付近で落ちる角度、並みの技術ではコントロールできない重さに、綾乃ですら一瞬シャトルを見失う程の速さ。

 

ぞわぞわと綾乃の背筋が震える。

 

「楽しい」

 

自然とそう声が漏れた。試合中、武者震い故に口元が上がったのはいつ以来だろう。

コートの隣にいるどんなスマッシュでも拾ってくれるパートナーがいる安心感とは違う、全身からアドレナリンが溢れ、体内を流れるバドミントンプレイヤーとしての血が、紅蓮の炎となって燃え上がる。

 

「(認めるよなぎさちゃん。そのスマッシュ、一人っきりの私じゃそう簡単に取れない)」

 

シングルスのスマッシュにおいて大事なのは速さだけでなく、コースと角度、そして相手の逆を付く駆け引き。

速さはさることながら、難易度の高いサイドラインギリギリのコースと抉り込む様な角度は、綾乃と同様むらが激しいと言われるなぎさが今絶好調であるのを証明していた。

 

「(まずは目を慣らせること。いや、既に(・・)見えてる。あとはどのタイミングで打ってくるか…)」

 

「(羽咲の目ならこのたった数回で既に捉えている筈。だから攻めを継続しながらもキルショット(必殺技)としてだけ使う)」

 

 

可能な限り綾乃に強打を打たせたいなぎさはロングサーブ。この数回、あえてミドルコートに絶好球を送って来た綾乃だが遊び(・・)は終わりだ。

ストレートのドリブンクリアを放ちなぎさをフォア奥へと無理やり追い込むが、彼女の横向きのジャンプスマッシュ(サイド・オン・ジャンプスマッシュ)で逆にクロスへとカウンターを受ける。

 

男子選手と差異の無い速いプレイだが、綾乃が速いゲームスピードに追い付けない訳が無い。なぎさが打つ直後に地面を蹴ってシャトルにタッチして前に落とす。

そこからなぎさとシャトルの距離を確認し、ロブを打つ余裕が無いと前に待機。

読み通りギリギリいっぱいまで腕とラケットを伸ばして返したなぎさにはロブを打つスペースすらなく、何とか白帯は超えるものの呆気なく綾乃に叩かれる。

 

「(やっぱり速ぇ…。低めの展開自体は決して不利じゃないが、ちょっとでもホームポジションを離れたらすぐに逆サイドを狙ってくる。攻略法としてはやはり重めの球で羽咲のコントロールを奪うべきだが…)」

 

しかし重い球を打つと言うのは筋力の有無ではなく、技術とゆとりのあるフォームで打たなくてはならない。

しかし綾乃の速いラリーペースについて行きながら、重い球を連打する技術をなぎさは持っていない。

 

「(起点となる遅い球を誘い出す!)」

 

これ以上遊ぶつもりはなくなった綾乃はショートサーブが一気に増えた。元々ネット前に自信がある綾乃にとっては、なぎさ相手にロングサーブはそこまでのメリットは無い。

 

ストレートへのハーフ球で始動するが、速い展開を好む綾乃にドライブと低いショットで詰められ、クロスファイアを警戒しラウンド側へのロブで再び様子見をすると、クリアーで奥に追い込まれる。

 

ここからドライブ気味のショットを打ってもさっきと同じく速いレシーブで返されるだけだ。

 

「(やっぱり綾乃は一打一打の配球が上手い。全体的な通しとしては綾乃戦(ここ)に焦点を当てて来た荒垣先輩の方が上だけど、綾乃のショットは攻めの起点となるのを阻止している)」

 

弦羽早が分析する間にもラリーはあっという間に10回、20回と続いており、綾乃は上がった絶好球に対して高身長のプレイヤーが苦手とするボディへと打ち込む。

 

しかしなぎさもコントロールのある綾乃に対し、ボディを苦手としたままで挑めない。ここ三週間ほど前からかなり至近距離での壁打ちの感覚を活かし、身体を右に逸らしながらバックハンド(裏面)で返す。

三週間と聞けば短いように聞こえるが、自主練で毎日一時間近く壁打ちとなると決して侮れない。

 

更に詰める綾乃だがラケットを斜めにする余裕が無く、再びストレートにいるなぎさへとプッシュ。

綾乃のラケットから放たれたシャトルが、なぎさのラケットに届くまでの時間は一秒も無い。綾乃のプッシュが特別速い訳ではなく、バドミントンという競技で速い展開とはまさに一秒未満の間で打ち合わなくてはならない。

 

なぎさは素早く面を立て、これ以上追い込まれないようにリストの力を利用して無理やりドライブレシーブ。だがそれが何だと言わんばかりのタッチの速さで更にバックハンド側へ押し込まれる。

瞬きひとつする間にシャトルが互いの間を行き来するような速度。だが好調のなぎさのレシーブはキルショットになるまでは浮かず、レシーブを繰り返す。

 

「くどい…」

 

バックとボディを中心にプッシュを続けた綾乃はコースを僅かに修正し、なぎさの右わき腹を狙う。

それは本来なら決め球に成りえるコースであったが、集中力を切らさなかったなぎさは瞬時に左に体を逸らし、無理やり右にスペースを作ると、フォアハンド(表面)で当てる瞬間に手首を捻って強引に空いているクロスに返す。

 

「上手い!」

 

「…いや、まだ甘い」

 

思わず声を上げる理子に対し、弦羽早が淡々とした口調でポツリと呟く。

確かに長期的なラリーの中で見せたなぎさのレシーブの対応力とコースは、会場を沸かせるに価する見事なものであったが、彼女は前衛のスペシャリストだ。それはヘアピンやプッシュの技術力もあるが、何よりもタッチの速さ。

 

まるで残像が見えたかのような速さで瞬時にクロスの球へと対応し、空いた半コートへとシャトルを軽く叩く。

 

『ポイント! 5(ファイブ)  ‐  6(シックス)!』

 

「(…すげぇな。あれだけネットに詰めた状態でクロスにも対応できるのか。おまけに起点のドライブも中々打たせてくれない)」

 

今はまだリードしているが、これらの点数はおこぼれで貰ったようなものだ。綾乃の遊びが終わった今、これからは正真正銘なぎさが自らの手で点数を捥ぎ取って行かなければならない。

 

今の綾乃を崩す。その姿を想像しただけでみぞおち辺りに熱い魂が込みあがってくる。

 

ワクワクを抑えても抑えても微笑が込み上げるなぎさは、白帯の先に映る綾乃と目を合わせた。彼女もまた、それまでの威圧的な空気は無くなり、嬉しそうに顔をほころばせていた。

 

「(相手が全力を出して笑ってくれるバドミントンって、こんなに楽しいんだ)」

 

これまでの地区および県大会全てにおいて相手は全力で自分に挑んできてくれなかった。自分をライバル視する薫子でさえ、彼女の覚悟は弱いと綾乃は本能的に理解していた。

それが決勝という最終局面。かつて自分にスコンクで負けた筈のなぎさが女子の枠を超える力を手に入れ、笑顔で戦ってくれる。

綾乃はシャトルを持った右手を軽く胸に当てながら、なぎさに向かって優しく微笑む。

 

「(でもね、なぎさちゃん…。優勝するのは私だから…)」

 

その落ち着いた雰囲気に思わずなぎさが肩を撫でおろしそうになった直後、パチリと瞬きをした瞬間、目つきだけで人を殺しそうな程に暗いものへと変わる。

 

「(あぶねぇ、一瞬でもホッとした私が馬鹿だった。どんな状態でも、試合が終わるまで緊張の糸を解いちゃいけない)」

 

なぎさもすぐに糸を結び直すと、放たれたショートサーブへ、ヘアピンで試合を組み立て始めた。

当然得意なネット周りの勝負をわざわざ捨てる訳なく、綾乃は素早く前に詰めてヘアピンで応戦する。

 

「羽咲さんに対してこれまで避けていたヘアピン勝負?」

 

組んでいた足を逆足に変えながら、薫子はポツリと独り言のように呟く。これまでなぎさは徹底して綾乃を後ろへと追い込み強打を打たせ、逆に自分は強打を打たずに綾乃の警戒を誘って試合を丁寧に組み立てていた。

すぐに逃げるかと思いきや、中々なぎさも引かずにロブを上げない。

 

「(…いえ、なるほど。起点となる球を打たせてもらえない以上、前で圧を掛けつつハーフ球を誘い、無理やりそこを起点にしようと言う訳ですか。しかし――)」

 

それには綾乃がヘアピン勝負を諦める精度のヘアピンを打たなくてはならない。

 

薫子の読み通り、やはり最初に根を上げたのはなぎさで、大きくロブを上げて広い展開へと持って行く。

 

なぎさが重い球を起点に攻めたい一方、勝ちに拘りだした綾乃としてはミドルコートでのラリーは極力避け、可能な限りネット前かリアコートに押し込んでおきたかった。

故のスタンダードクリアー。

 

「(ある程度点数を削るのを覚悟でフルスマッシュの警戒を薄めたか。確かに、出し渋ってる余裕はないのかもしれない…)」

 

ここでもまた駆け引きが生まれる。1ゲ―ムを取られた事で余裕がないなぎさとしては、このゲームを絶対に落とせない。しかしフルスマッシュを完全にレシーブできるまでに慣れてしまえば、暗闇の中ポツンと佇む一本の溶けかけの蝋燭の如く弱い道勝ち筋が完全に消えてしまう。

 

「(落ち着け。これまでコーチに教えてもらったのは何もコースと角度だけじゃない。スマッシュを主軸とした組み立ても学んだ)」

 

白帯の向こうに立つ少女に――かつての自分自身に勝つ為に、なぎさは自分が出来得る可能な限りのことをやってきた。

その成果を今発揮する。

 

なぎさがまず起点とする一手はストレートやや高め、後ろから二番目(ダブルスロングサービスライン)まで伸びる七割程度の威力のスマッシュ。七割と言いうのは絶妙な力加減で、コースと角度、タイミングによっては十分にエースショットに成りえるが、仮に拾われたとしてもフルスマッシュ程硬直が無いので次の一手に繋ぎやすい。シングルスではもっとも安定した力加減だ。

 

目では十分捉え切れるがカウンターを狙うには少し距離が遠い。タッチして前に落とす綾乃。

それをクロスのヘアピンで逆サイドへ走らせ、かつ前に圧を掛けることでハーフ球、あるいはロブを誘う。

戦略通り綾乃はロブを上げてホームポジションへと戻った。

 

ロブの落下地点はミドルコートとは言えないが、しかしダブルスロングサービスラインよりも手前。なぎさであれば十分キルショットに成りえる距離。

 

「(確実に、一点を!)」

 

高いジャンプと共に放たれた爆音。なぎさのフルスマッシュは目で捉えられるが、サイドラインに沿うような速さに綾乃のラケットが届かない。

 

『オーバー! 7(セブン)  ‐  5(ファイブ)!』

 

「(今の流れは上手い…。まず綾乃のフォア側へサイド奥へスマッシュ。ストレートに返って来たのをクロスに打ち、更に前に圧を掛けてヘアピンを抑制。リアコートに上げて時間を稼ぎたい綾乃にとってクロスへのロブは奥に伸びにくい分、自然とストレートへロブを打ちたくなる。そうなることで荒垣先輩は最短距離(ストレート)で綾乃のバックハンドに打てるようにした。あれ…荒垣先輩ってそこまで試合中の組み立上手かったのか…)」

 

てっきりなぎさは自分と似て試合中の組み立てはそこまで得意ではないと思っていたので軽くショックである。それは抜かされたというよりも、仲間がいなくなったような疎外感。

そして正しくは”上手かった”のではなく”上手くなっている”のだ。弦羽早が相模原の試合で感覚が研ぎ澄まされたのと同様、なぎさはこの試合で頭の回転速度が上がってきている。

 

それから更に、なぎさがスマッシュを起点とした細かい立ち回りで二点連続して取得した。

一点目もまず綾乃にロブを上げさせる段階から始まる。ミドルコート付近での展開を避けたい綾乃が一番勝負に出たいのはネット周りだが、その意図はなぎさにも読み取れるので、ホームポジションより前に張ってネット前に圧を掛ける。

これによりロブに誘導させる。その分スマッシュを打ち込むためには多く移動する必要があるが、それを厭わない。

一撃目はスマッシュでは無くラウンドに押し込むクリアー。

 

直前のラリーがスマッシュを起点として得点を得た事からコンマ単位だが出が遅れつつ、僅かに体が仰け反った状態となり立て直すためのクリアーで打ち返す。冷静に綾乃の体勢を見極めていたなぎさは、ここでバックハンド側に差し込む様な角度のスマッシュを打ち込む。これも七割程度の角度とコースを重視したスマッシュで、綾乃は上体を下げながらも、自分の体より前の位置で当てることにより、クロス気味にレシーブ。

前に詰めたなぎさのヘアピンショットが白帯に引っ掛かるネットインとなり、詰め寄って返そうとするもののネットに遮られる。

 

続くショットも綾乃がアウトと判断して見送ったショットを線審がインの表示を取り、なぎさのポイントに一点が加算される。

綾乃はギロリと線審を睨みつけるが、余り喧嘩腰だとペナルティを受ける可能性もあるので一瞬に留めて置く。

 

これでスコアは9‐5となった。

 

ネットインからオンラインの鋭いショットと流れが来ているものの、だが技術という面で、なぎさの引き出しは決して多くは無い。そして一度開けた引き出しがそう安々と何回も通用する相手でもなかった。

 

「(やっぱスマッシュだけじゃ駄目だ。ドライブの起点も作らないと)」

 

まずなぎさは綾乃をリアコートに押し込む形でクリアーを誘う。そこからあえて取りやすいように、サイドラインギリギリではなく、やや中央寄りにスマッシュを打ち込んだ。

それは傍から見ればアウトを恐れたショットに見えるだろうが、実際は意図して行っている。

 

「(やっぱ思った方向にシャトルが飛んでくれるのはありがたい!)」

 

この決め球とも誘い球とも取れない絶妙なショットは、コートに立つ綾乃も隣で見ている弦羽早も、観客席から見下ろしている薫子でさえ誘い球とは分からない。

その組み立て方を教えた健太郎と、トップ選手の指導を行っている有千夏とヴィゴだけがなぎさの意図に気付いていた。

 

バシン!と綾乃の振ったラケットが激しい音を立てる。

 

「(予想通りカウンタードライブ!)」

 

並みの相手なら決め球になり、それなりに上手いプレイヤーでも良くて当てるだけが精いっぱい。そんなスマッシュを彼女が容易にスイングしてカウンターをしてくるのをなぎさは読んでいた。

自分が立つ反対のサイドコートへと飛ぶドライブ球に対し、コースを読んでいたなぎさはその進行方向に既に身構えており、体重を乗せたドライブを空いたバックハンド側へと打ち込んだ。

 

「(読まれてたッ?)」

 

打った後、コート中央(ホームポジション)に戻らずにドライブの軌道先へ走ったなぎさのステップに軽い歯ぎしりをしながら、綾乃はラケットを右に伸ばして面に当てるが、重みの込められたシャトルは思うようなコースに飛んでくれない。大きくという程では無いが、しかしプッシュを打つには十分な高さとなってネット前に浮いた。

 

「らあッ!」

 

バシン!と叩かれたシャトルは、慌てて構え直したフォア寄りではなく、その反対のバックハンド側へと放たれる。綾乃の一挙一動をしっかり見ているからこそ選んだコースだ。

 

「(決まった!)」

 

これは間違いなく決まる。ネット前で打つプッシュと言うのは、どうしても打ったプレイヤーに慢心を生み出してしまう。実際なぎさの慢心は決して油断から来たものではなかった。組み立て方は完璧で、読みもその通りにいき、加えて綾乃が構えるラケットの位置の逆を付いていた。まさに理想的な攻撃。

しかし相手はあの羽咲綾乃(・・・・)だ。

 

彼女はプッシュの軌道に気付いた直後、すぐさま後ろに軽く跳んだ。

 

ファーストゲームで見せた打ち方に一瞬驚くなぎさだったが、仮に後方に跳んでスペースを生んだところで、シャトルの速さとフォア側に構えられたラケットの位置から物理的に面に当てれる距離ではない。

 

そんな事は綾乃も分かっている。

だからラケットを持った左手を体の前に通すのではなく、背中に回すと”右側(バックハンド)へと飛んできたシャトルを、フォアハンド(・・・・・・)で返した”。

 

ゆっくりと白帯を越えて落ちてくるシャトルに対しなぎさは反応できなかった。

硬直と慢心と、そして動揺が足を動かさなかった。

 

『オーバー…。6(シ、シックス)  ‐  9(ナイン)

 

これまで数多くの試合を見て公平なジャッジを下してきたベテランの審判も、動揺が隠せないでいた。それ程のトリック――いや、ミラクルショットに会場には歓声と動揺の真っ二つに別れていた。

歓声を上げる者はもはや決勝という舞台が自分とは別世界だと見ている者達とコートに立ったことのない素人の観客達。

 

動揺が走ったのは、やはりその異質さを理解できる者だった。その中にはヴィゴは無論、有千夏ですら目を見開いて呆然と口を開いている。

 

「バ、バッサー。何今の打ち方…?」

 

「背面打ち、ですね…。割と、男子の方が好む基本的には遊びの打ち方、ですが…」

 

トリックショットという分類の為正式な名称は無いが、一応背面打ちと言われている。球の軽いバドミントンと卓球等では、トリックショットの中では比較的メジャーな打ち方である。

 

やり方は左右どちらの手であろうと関係ない。余はその利き手と反対側、つまりバックハンドへと飛んできた球を、ラケットを背中に回して打つものだ。

当然滅多なことで使い道のないそれは、部活の練習内容に組み込まれるようなものではなく、普段は遊びで打つような魅せるショット。

 

しかしごく稀に、その打ち方を習得しているか否かで一点が変わる状況がある。

まさに今の綾乃のように。

 

もっとも、ただのトリックショット一つでは会場が盛り上がり一点が入る程度だ。ここまでの動揺は走らない。

 

「(まず大前提としてあの差し込まれたプッシュに対してトリックショットで当てること自体がスーパープレイ、神業だ。でもそのショットを後ろに跳びながら、空中で、そしてクロスにネットを越えて打つなんて、もう技術や努力、才能云々の話じゃない。物心つく前からコートの中にいる綾乃でなければできない)」

 

綾乃も今のプレイをもう一回やれと言われても、次に成功するのは十回後かニ十回後かあるいは百回後か。普通の打ち方では100%返すことができなかったので、諦めるならと試しに打ったショットだ。しかし勝敗が掛かった試合の中で成功した事実は変わりようがない。

 

神懸ったショットを打った少女は別段変わった様子もなく、暗い瞳と空気を纏ったままなぎさを見つめていた。

 

「…まさか、今ので諦めたりとかしないよね?」

 

「ああ、当然だろ。今更お前がどんなプレイをしようと気持ちは変わらないよ」

 

この一点に対してなぎさは驚きはしたものの、しかしラケットが震えるような恐怖に呑まれることは無かった。

羽咲綾乃と対峙する以上、コートの中で何が起きようとも自分を貫き通す覚悟がなぎさにはあった。どんなプレイをされようとも、なぎさの闘志が決して折れる事は無い。

 

なぎさの返答に綾乃はパァァッと満面の笑みを浮かべると、今にも鼻歌でも歌いそうな明るい表情のままサーブを放った。

 

 




解説役四天王
とりあえずこの人が驚けば凄い事が伝わる有千夏
選手の内面的な部分をコート外から読んでもあまり違和感のないヴィゴ
基礎やパターンを重んる事から客観的に説明しやすい倉石
そしてそれらを全て備える解説子ちゃん

おまけに解説子ちゃんは口調が特徴的なのとミキがいるのが尚の事頭一つ抜けてる。


因みに女子では基本トリックショットはみませんね。多分男子はシャトルのスピードが速すぎて、本文の綾乃のように背面打ちでなければ返せない状況も珍しくないからだと思います。女子はそういった状況が少ないから使う選手も少ないのだと。




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応援

やっぱり綾乃が試合すると書く側としては楽しいなって。
この子基本技術面では何でもありだし。

逆に志波姫さんの試合はあんまり書きたくない。自分より頭のいいキャラって書くの難しいです。
TRPGとかやってると必ずRPするキャラは自分と同じIQになります。つまり馬鹿になります。




『ポイント! 11(イレブン)  ‐  6(シックス)! インターバル!』

 

丁寧な組み立てた末に放たれた必殺技、フルスマッシュが綾乃のコートに突き刺さり、五点と決して小さくない差を付けた状態でなぎさがインターバルを取った。

 

「凄い…。あんなショットを見た後なのになぎさちゃんの勢いが衰えない…」

 

「彼女のメンタルはもうコートの中デ折レル事は無い。その領域に達してイマスネ」

 

あのメンタルがコニーにあればとヴィゴは無い物ねだりをしながらも、コートの中で行われる激しい試合に目を奪われていた。

先程の男子シングルスも彼の枯れた心を潤すに価するものであったが、元々綾乃となぎさ、どちらも彼の眼鏡に掛かっていた事もあり、10歳ほど若返ったかと思える程に顔は喜の感情が張り付けられていた。

故にロリコンと四方八方から言われる羽目になる。

 

「ファーストゲームからスマッシュを打ち続ケタのに加え、今のなぎさチャンにハ綾乃チャンが与えるプレッシャーが効かナイ。これまで戦ってきた多くの相手がプレッシャーに呑まれていた綾乃チャンにとって、そういった面デモやりにくいでしょう」

 

「しかし健太郎君が中立を保っている今、インターバルにおける情報量は弦羽早君がいる綾乃ちゃんが有利ですからね。この二ゲーム目の後半戦が大き分岐点になります」

 

「…アナタは弦羽早クンを買っていますネ」

 

「あなたがやたらと彼を過小評価しているんですよ。孫を取られた祖父じゃないんですから」

 

「ウ~ン、そういう訳ではないんですガ…」

 

胡散臭い笑みを浮かべるヴィゴは、ジッとコーチ席で綾乃に話しかける弦羽早の背中を見やる。

ヴィゴが弦羽早をあまり良く思わない理由はそうではない。当然男子だからとか、セオリー通りとは言えない変わったプレイをするからでもなかった。

 

 

ーーーー

 

 

体を上手く動かせない弦羽早はパイプ椅子に座ったまま、隣の席に座った綾乃の首元に冷たいタオルを当てながら話しかける。

 

「ここに来て荒垣先輩の攻撃パターンが多彩化してきている。その起点はスマッシュとドライブがメイン、それまでの球は基本繋ぎ球と思って良い。大雑把になるけど対抗策として思いついたのは二つ。

荒垣先輩が欲しているドライブをあえて誘ってボディ周りでのドライブ勝負に持ち込む。それとスマッシュレシーブをワンテンポずらして(引っ張って)フェイントにかける」

 

水分補給としてこれ以上ない程に優秀なスポーツドリンクを流し込みながら綾乃はコクンと頷く。

 

「分かった。両方ともどこかで仕掛けてみる。それと気になってたけど、なぎさちゃんの打った決め球のスマッシュのコースって分かる?」

 

「あっ、ゴメン。ノート手にないからメモしてない」

 

慌ててコートを睨むようにして目を細める弦羽早に綾乃は首を横に振った。

 

「ううん、いいの。じゃあクロスに何回打ったか分かる? 10点目を取ったショットがクロスなのは覚えてるけど」

 

「…ああ、それ以外は決め球はストレートだったと思う。でもだからってストレートに限定するのは甘すぎるんじゃ」

 

「大丈夫、そういう訳じゃないから。まあ見ててよ」

 

体中から溢れ出る汗をタオルに吸わせながら、綾乃は何か思いついたのかニヤリと笑みを浮かべる。またよからぬことを思いついたと悠と空がビクッと肩を震わせる一方、弦羽早も二人と似た心境を抱きつつも、その秘策を楽しみに待ってると口にする。

直感に特化した綾乃の戦略は意外性が高いのが多く、見ている側としてはとても見応えがあり、同時に味方だと彼女ほどに心強い選手はいない。

 

それは同時に、相手にするならこれ以上ないくらいに厄介な相手だということだ。

 

 

『アウト! オーバー! 18(エイティーン)  ‐  18(オール)!』

 

綾乃の思いついた戦略は、あえてギリギリアウトになる際どい球を打ち、その体勢で無理やりスマッシュを打たせるというもの。アウトに打つとは本来なら褒められたプレイではないが、選球眼が悪いなぎさはそういった軽いアウトの球でもつい取ってしまう。

強引な体制から打つスマッシュは僅かに軌道が逸れてしまい、それまでサイドラインギリギリに打っていたのが仇となり、アウトを連発してしまう。

 

当然なぎさも綾乃の大きな一打やサイドライン寄りのショットには警戒を強める。どれだけラリーを続けた後に捥ぎ取った一点もアウトでの一点もスコア上では同じだ。綾乃がアウトに打っていると言うのならそれを利用しない手は無い。

綾乃の戦略を読んだなぎさはそれを逆手にポイントを二点ほど稼ぐことに成功し、あとはひらすらに根気。

ファーストゲームで温存していた体力と戦略を使い、フルスマッシュをキルショットにして点数を稼いでいく。コートの外から見るとなぎさが力、綾乃が戦略に見えるかもしれないが、実際なぎさの方が遥かに頭を回転させている。

 

だが二回なぎさがアウトを見送った次のラリー。

 

「(スマッシュ! だがこれは間違いなくアウ――)」

 

綾乃のストレートのスマッシュはなぎさのバックハンド側のサイドラインを逸れ、ダブルスのサイドラインまで大きくズレている。いくらなぎさの選球眼が悪いと言ってもシングルスとダブルスのラインの差は大きい。

当然見逃そうとラケットを退くが、その直後シャトルにシュート回転が掛かり内側の内線へと入り込んだ。

 

≪おおッ!≫

 

「なっ!?」

 

観客から感嘆のざわめきと、なぎさの驚愕の声が重なる。

 

「弦羽早も面白い事考えるよね。クロスファイアでアウトをインにするなんてさ」

 

――ちょっとリスクが高すぎるけどね…

 

クロスファイアは左に曲がり、そしてストレートに打たなくてはならない。つまりアウトをインにする場合、綾乃から見て右側のロブ球から打つ必要がある。そうなると左利きの綾乃はラウンドで打つことになり、その状態で難易度の高いカットスマッシュを打てば大きくアウトに逸れる可能性があり、そもそもラウンドでカットスマッシュはかなり打ちにくい。

 

「(私もちょっと疲れて来たからさ、そろそろ諦めなよ、なぎさちゃん)」

 

乱れる息を整え、上下する肩を抑えながら綾乃は冷徹な瞳を彼女に向けるが、彼女は両手を太ももに当ててほんの数秒の休息を取りながらも、顔を上げて依然と笑みを浮かべていた。

 

「さあ来い、羽咲!」

 

「ッ!優勝するのは私だから!」

 

その声は先ほどの挑発的な口調とは一転し、余裕のない切羽詰まった焦りが込められていた。

 

なぎさとの試合は楽しい。

それは綾乃の中でも揺るぎない事実だった。自分が返せないショットを打ち、どれだけ厳しい配球も拾い、プレッシャーに呑まれる事なく喰らいついてくれる相手ができたことへの喜び。

 

だが楽しいと負けたくないは別物であった。

 

こんなにも楽しい試合を決勝戦という大舞台でできたのだ。ならばこのまま清々しい気持ちで勝ち、そして県大会の小さな優勝トロフィーとメダルを貰い、シングルス・ミックスの三つでそれらを並べる。

そしてその一歩を弦羽早は踏み出してくれた。ならそれに続くのがパートナーとしてやるべきこと。

 

そんなアスリートとしても人としても、健全的な前向きな思いとは裏腹に焦りもあった。

 

まず一番の原因はスタミナ不足。今はまだギリギリ何とか持ちこたえているが、先ほどのクロスファイアもかなり無理して打った一撃だ。そうしなければラリーが長引き息が続かない状態になるまで、綾乃の体には既に疲労が溜まっている。

それはなぎさも同じはず。だと言うのに彼女の動きには衰えが無く、スタミナの消費が激しいジャンピングスマッシュもフルスマッシュも速度が衰えない。

 

これまで綾乃が戦ってきた相手は、セカンドゲームにも入れば汗を全身から垂れる程に流しており、もう限界だと顔を顰めている時に、揺さぶりをかける一点を取れば後は勝手に自滅してくれた。

先程のアウトをインにしたクロスファイアは、それを狙いなぎさを精神的に追い込むための捨て身の一手。

 

だが――

 

「らぁっ!」

 

強烈なスマッシュに重い足を踏み出すのが一手遅れてしまい、甘いロブ球となってネットを越えてしまう。それを一秒たりともペースを緩めないなぎさが前へと詰め、キルショットとして地面に叩きつける。

 

『オーバー! 19(ナインティーン)  ‐  18(エイティーン)!』

 

「は、ははっ。しぶといじゃん…」

 

おかしい。

動揺を隠せない綾乃は自分のコートに落ちたシャトルをすぐに拾おうとしなかった。できなかった。

 

綾乃の中には健全で前向きな思いがありながらも、未だ心の根底には、有千夏が出て行くきっかけとなったある感情があった。

 

――半年前の全日本ジュニアではスコンクで負けたなぎさが。

 

――入部を掛けた試合では制服と上履きで、右手の自分に辛勝した程度のなぎさが。

 

――弦羽早が優勝できたのだからパートナーの自分もできるに決まっている。

 

そう思うに足りる実力を綾乃は持っている。

健太郎の事前の評価としては、この神奈川女子シングルにおけるトップ3はなぎさ・逗子総合の望・横浜翔栄の英美。ここに相性次第では薫子が下剋上できる可能性が十二分にあると予想。

そしてむらっけの激しい綾乃は測定不能ということでパスしていたが、決勝になった今だからこそ言えるが綾乃はその神奈川トップの三人+一人よりも頭一つ上のところにいる。

 

だから綾乃のそう思う感情は決して他人から外道と批判されるものでは無い。

 

しかし自覚がまだできていない。

自覚が無ければ気持ちを切り替えることも、自分の根底にあるなぎさの評価を変える事ができない。

 

それは弦羽早に関しても同じこと。綾乃は弦羽早を信じている、支えたいと思っているし、自分の同等のパートナーだと認めている。だがその同等というのがまた難しい。

バドミントンは個人競技である以上、個々のコンディションによっては下剋上も充分に起こりえる競技だ。そんな競技で同等の弦羽早が優勝できたのだから、自分もできると確信するのは認識が甘いとしか言えない。

 

だからこそ綾乃には徐々に焦りが生まれる。

 

「ドンマイ綾乃!一本集中!」

 

「弦羽早…」

 

パートナーの応援はあまり綾乃の心には響かなかった。彼が応援してくれることは嬉しい、彼のコーチングには従って点を稼ぐことができた。

でも綾乃は未だ応援の有無による違いというものが、自分にはよく理解できなかった。

 

応援するのは楽しいが、応援されてもコンディションが上がらない。

そんな奇妙な価値観が綾乃の中にあった。

 

『早くシャトルを渡して下さい』

 

ポツンとその場に立つ綾乃へ審判が催促し、綾乃は苛立ちの眼差しを審判に向けつつシャトルをなぎさへと渡す。

 

ここに来て綾乃のむらっけが出てしまった。

ゲーム終盤、スタミナ、なぎさの気迫、自分でも気づけない心の内。それらが重なった状態でゲームの流れを変えられるほど、もう今のなぎさは弱くない。

 

強打から始動。カウンターに対して更に激しいドライブで応戦し、慌てる綾乃が上げたロブ球をスマッシュで撃ち落とす。

 

『ポイント! 20(トゥエンティ)  ‐  18(エイティーン)!』

 

≪あと一点…≫

 

観客席から呟くような声がいくつか重なった。

なぎさが負けると思っていた試合。これまで1ゲームのうちに10も取られる事のなかったダークホースが、ここに来て初めてマッチポイントまで追い詰められた。

 

判官贔屓。

下剋上。

 

それらを好む日本人の観衆は自然となぎさへの応援が一気に集まった。

また純粋に、ラリーの合間の僅かな時間で体を休めるなぎさが、ラリーが始まると共に疲労を一切感じさせない気迫あるプレイをするのが観衆を引き寄せるのだろう。

 

≪あと一点! あと一点!≫

 

会場中からワァッと沸き上がるそのコールに綾乃の眉がピクリと動くと、集中しきっていないのにも関わらずその瞳がスゥゥと、遠く離れた光源が消えたかのように暗くなっていく。

 

ここまでのアウェーを受けた事の無い少女にとって、その歓声は心に重く圧し掛かってくる。

 

そしてふと準決勝での弦羽早の言葉を思い出した。

 

『100人の応援団より綾乃のやる気のない声援の方が気合入るよ』

 

やる気が無いとは失敬なとは思()なかった。それまで応援によるコンディションの変化なんて考えた事もなかったから、言葉で応援してもそこに強い感情を籠めてなかったのかもしれない。

 

アウェーの空間からそれを自覚させられた綾乃は、ギュッとグリップを強く握る。

 

「綾乃!優勝トロフィー並べるんだろ!」

 

「ッ…」

 

その声にハッと我に返った綾乃は、彼の方に視線を向けた。

両手をギュッと握りしめ、コートの中を必死な眼差しで見つめるその姿は、誰かの面影と重なった。

 

「(あっ…今の弦羽早、さっきの私と同じ仕草してる)」

 

そわそわと落ち着かず、コートの中に入ってパートナーを支えられないもどかしい感情。ただ拳を握り、声を届け、インターバルを待つしかないその姿は、弦羽早の決勝の時の自分とうり二つだ。

 

『弦羽早、自分に自信を持って。ダブルスじゃないとか、私がいないとか考えなくていい。でもそれでも勝てないって思ったなら、弦羽早を強くした私を信じて欲しいな…』

 

「(あの言葉は、私の本心。誰がなんて言ったって、あの時の私は弦羽早を心から応援してた)」

 

自分もちゃんと、心の底から他人を応援できていたんだ。

そう思うと綾乃の中にあった応援の有無という価値観がゆっくりと変わっていく。

 

「(…周りがなぎさちゃんを応援したって私には関係ない。私には、弦羽早が応援してくれる)」

 

観察眼の鋭いヴィゴや薫子。母親の有千夏。パートナーである弦羽早。

そして戦っているなぎさ。

彼・彼女らは、途切れていた綾乃の集中力が深まった事に瞬時に気付く。

 

慎重になったなぎさのショートサーブ。それに瞬時に詰め寄った綾乃は、ラケットを斜めのまま動かさず、前へと進む体のエネルギーだけを利用してシャトルのコルクを面で切った。

その特殊な打ち方はカットドロップと原理は一緒で、シャトルは浮かないながらもヘアピンの緩やさとは正反対の速い速度でネット前スレスレへと落ちる。

 

出だしの速さとサイドライン沿いに落ちるシャトルに足の長いなぎさの一歩をしても届かず、コトンと床に落ちる。

 

『オーバー! 19(ナインティーン)  ‐  20(トゥエンティー)!』

 

「ここに来て難易度の高い特殊なヘアピン…。やっぱりマッチポイントまで追い込まれてからの綾乃ちゃんは強い…」

 

試合から目が離せない明美は既にメモ用のペンを机の上に置いて、瞬きをすることなくコートを見つめていた。

 

「上手いデスね。あの打ち方は一度警戒されると決まりませんが、ここぞという一点を得るには効果的ダ」

 

「入れば…ですけどね。ラケットを動かさずに前に出る体の力だけで面を切るなんて、安定させる方が難しいのに」

 

ここに来てなお見せる新しい技術と、難易度の高い技を選ぶ精神力。

そして速い展開に持って行きたい綾乃はサーブを構えると間髪容れずにショートサーブを放ちラリーを始める。急ぐなぎさはそれをハーフ球に打ってデュースに持ち込まれる前に決めようとしたが、その僅かな焦りが失点につながる。

綾乃は体の正面はなぎさに向いたまま、向かってくるシャトルに対してラケットの面だけを逸らしてクロスへと打ち込んだ。

 

ボディフェイント。

一点でも失えばゲームを取られるこの状況下で、二回続けてミスが多くなってしまう技の選択。

 

それはあとたった一点でゲームを取る事が出来たなぎさにはプレッシャーとなる。

 

「(落ち着け、焦るな。集中し続けろ!)」

 

なぎさはウェアの袖で顔の汗をぬぐいながらラケットを構える。

もはや汗を全て拭うなんて事は無駄に等しかった。ポタポタと床に落ちる汗の粒に二人は拭いてくれと審判に頼むことすらしない。

そんな僅かな時間を与えてしまえば相手に休息を与えてしまう。二人の思考は同じだった。

 

このゲームで何が何でも決める綾乃は全ての力を出し切って、動きを衰えさせない。キルショットとなっていたフルスマッシュも完全にタイミングを掴み、遂に綾乃には通用しなくなる。

そして無数の引き出しから放たれる技はシャトルをなぎさのコートへと落とす。

 

同時にこのゲームは絶対に落とせないなぎさもまた足を動かすのを辞めない。綾乃の得意とする展開に付き合いながらも、上手くロブを上げて時間を稼いでいく。

そして綾乃のエースショットであったクロスファイア。その前兆である擦れる音を完全に捉え、曲がるクロスファイアの先に面を置いておき、逆にカウンターを打ち込み、綾乃のコートにシャトルを突き刺す。

 

『オーバー! 24(トゥエンティフォー)  ‐  24(オール)!』

 

これまでシーソーゲームだったデュースでの攻防。

しかし遂に差が生まれてしまった。それは産まれながらの体格、温存しておいたスタミナによる差、予め決めていた戦略などが生み出したものであるが、一番はそれらを支える精神力。

 

なぎさのスマッシュが綾乃のコートを突き刺し、ファイナルゲームに持ち込む展開となった。

 

 

 




綾乃の焦りとなぎさの高揚が伝わればな~と



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大きな支え

この投稿ラッシュを始めたのが二週間弱前くらいで、ようやくインターハイ編を書き始めましたが、読み返せば読み返すほど益子さんが泪ちゃんになっていく。可愛い。




「綾乃、大丈夫!? とにかくすぐに水分取って」

 

自分の怪我も忘れ慌ただしい様子で椅子を立った弦羽早は、すぐに綾乃を座らせて彼女の首元に冷却のタオルを当ると、予備の綺麗なスポーツタオルで汗を拭いていく。

弦羽早はチラリとなぎさの方へと見やると、健太郎が膝の状態の確認をしていたが、その表情は崩れるどころか口元が上がっている。

あれだけのプレイをしておきながらなお笑えるのは、もうスタミナ云々では無く精神力によるもの。

 

24点まで粘りに粘った末にゲームを失い、更に追いつかれた綾乃に掛かる負担は尋常ではない。弦羽早もあの状態で、もしストレートで勝てなかったと思うと絶望しか浮かばず、コートに立てと言われて立つ自信があると強く頷けない。それくらいにシングルスによる消耗は激しく、とある解説者はサッカーをフルで走り続けるのと同じくらいの運動エネルギーを要するとも言っているくらいだ。

 

「(インターハイは決まってる。無理するなって言ってやりたい、今回は荒垣先輩のコンディションが良すぎたんだって。でも今の綾乃にそれを言っちゃ駄目だ…)」

 

必死に疲労と戦っている綾乃に対してその言葉は余りにも魅惑的である事は、数十分前に同じ辛さを味わっていた弦羽早も分かっている。

だからこそ選手に対してそんな甘い言葉を言ってはいけない。

 

だがここまで体力を削り合って来ると、組み立てや相手の裏をつくのではなく、根気と精神力の勝負となってくる。

 

元々なぎさの方がスタミナがあり、またシード権を持っている事から一試合少なかったのもあるが、そんな彼女でさえ足が震える程に激しい1ゲームだった。

 

当然だ。ハイレベルな二人が何十分も休みなしに26‐24で終えた。つまり激しい高度なラリーをセカンドゲームだけでも50回近くも繰り返したのだ。

まだ15歳の少女が動くべき運動量ではない。

 

「…弦羽早、ありがと、応援してくれて…」

 

「え? うん。それは当然」

 

彼にとって応援をするのは当たり前の事だが、そのことで綾乃に感謝されるのは意外であった。

 

「…汗拭くの、大丈夫だから、隣に座って肩貸してくれる?」

 

「ん、分かった」

 

弦羽早の右肩に乗せられた頭は乱れた呼吸と共に上下して落ち着かない。

 

「(また何か、コートの中でしか感じられない変化があったんだな…)」

 

そこに自分が居られないのはやはりちょっと寂しいと思いつつも、異性である自分には絶対に干渉できない部分であるのは分かっていた。

きっと自分が思っているよりもずっと複雑に渦巻いている綾乃の心境を読み取って、そこから言葉を選ぶのは土台無理な話であった。

だからせめて自分の思いを伝えようと、弦羽早は優しい声で語る。

 

「俺こそ本当にありがとう。綾乃の応援が無かったら絶対に負けてた。あの試合さ、やっぱり緊張してたのか自信がなくて。でも試合前から掛け続けてくれた綾乃の言葉で、不格好ながらも勝つことができた」

 

「ん…私ね、正直応援ってよく分からなかったんだ。あっても無くてもいいって言うか、弦羽早の応援も準決勝までは自己満足って感じだった。でも、さっき気付けた。大事な人からの応援ってとっても力が湧いてくるんだね」

 

「うん、それはもう。でもね、綾乃。俺もほんとにさっき気付いたばっかりで偉そうな事言えないけど、どれだけ大きな支えにも限界ってあると思うんだ。特に、試合中の一番疲れてる時は」

 

それは自分についての話だった。あれだけ綾乃の声援を糧にコンディションを高め続けて来た弦羽早も、時には綾乃の声よりもなぎさの声援がスイッチとなって切り替わった場面があった。なぎさだけでなく、健太郎や北小町の仲間たちの声も活力や起点となった。

 

「…ちょっと分かるな」

 

綾乃にとってこれまでバドミントンの支えになってきたのは有千夏の存在が大きい。特に麗暁と戦った時の綾乃の心の支えは有千夏に会う事だった。だが大きかった有千夏に会いたいという支えだけでは、綾乃は心を保てなかった。

 

「…お母さんと、弦羽早だけじゃまだ駄目なのかな?」

 

その言葉に少し照れくさそうに弦羽早はそっぽを向きながら少し上がったトーンで返す。

 

「凄く嬉しい言葉だけど、でも綾乃を応援してくれる人はもっとたくさんいるよ。それこそ名前も知らない観客席の人だって、プレイ一つで味方にできるくらいの凄さを綾乃は持っている」

 

「…知らない人の応援で、元気になるのが想像できない」

 

「一人くらいならそうかも。でも、疲れて頭が回らない中、会場中の歓声を浴びるのって結構アドレナリンが出るよ」

 

「弦羽早はそういう経験あるの?」

 

「うん。だってついさっき、100人以上の応援団が俺を応援してくれたからね」

 

「なにそれ」

 

言ってる事と矛盾してるよとクスリと笑いながら、綾乃は最後の1ゲームに向けて水分補給を行う。

頭を撫でてくれるパートナーの優しい手の平に少し目を細めながら、インターバルが開けるのと同時に最後の集中状態に入った。

 

「(立ってるだけでもキツイ…。なぎさちゃんもそれは同じはず…。でも、それでもなぎさちゃんは楽しんでる。勝ちたいって、私以上に強く思ってる)」

 

これまで無表情、あるいは威圧的な瞳で相手にプレッシャーを与えて来た綾乃が、今はなぎさの不敵な笑みに重圧を感じている。

 

もはや今のなぎさの状態は、ある種の異常なまでの興奮状態だった。疲れる身体とは別に、自分を客観的に見る脳が冷静に体に指示を送っている。ゾーンとは違うが、これもまた一種の極限状態にあるのは変わりない。

 

だがインターバルを空けて冷静になった綾乃は、落ち着いた状態で試合に入る事ができた。

 

「(勝ち筋は一つ、速攻!)」

 

なぎさのショートサーブに対して素早く前に詰めようと足を蹴った。

だが蹴ろうとした筈の足は前に出ず、よろよろとゆっくりとしか動かなかった。

 

今まで沢山の試合をしてきたが、風邪を除けばここまで体が思うように動かないのは初めてだった。無理やり手を伸ばしてロブを上げるが、ミドルコートまでしか飛ばず、ジャンピングスマッシュを打ち込まれ逆に速攻を決められる。

 

『ポイント! 1(ワン)  ‐  0(ラブ)!』

 

「ここに来てまだジャンピングスマッシュが打てるのか…」

 

誰のものかも分からない声が大歓声の中ポツリと呟く。

 

綾乃はゲームスピードを上げるために足を動かそうとする。しかし動かない。リアクションステップを取る余裕も無く、最初の一歩が重く一呼吸遅れ、シャトルを打つたびに上体が下がり、甘く緩い球が増える。

そしてそれらが全てなぎさの強打によって打ち込まれる。

 

7‐0

 

ファイナルゲームになってこれまでのゲームで一番大きい点差となった。

 

「シャアッ!」

 

なぎさの勢いは留まるどころかなお上がってきている。

気力と精神だけで体を動かしているなぎさはとっくに限界を超えている。当然その表情は険しいもので、呼吸もヒューと漏れるような危険なものになっていた。

しかし白帯の向こうのなぎさは目が合った瞬間に、ニヤリと口元を上げる。

 

「(まだ、まだ駄目なの…? お母さんと、弦羽早を支えにして戦うだけじゃ駄目なの?)」

 

貪欲に勝利を求めるなぎさの気迫は一点を得る毎に増していく。

綾乃の頭は冷静だった。冷静故に今のなぎさの異常性と、既に限界を超えている自分の体に気付いていた。

 

”どんな大きな支えにも限界ってあると思うんだ”

 

さっきのインターバルで弦羽早の言葉を思い出し、綾乃は周囲を見渡す。

自分のコート側にいる弦羽早、悠、空。なぎさのコート側の健太郎と理子。そう言えば主審や線審の顔も見ていなかったと、彼等の顔もよく見る。普通だけど、でも公平にジャッジをしてくれる試合を任せられる顔だ。

主催関係者席には合宿の時に見掛けた明美や、その隣にはヴィゴがいて。二階の観客席の最前列にいるピンク色の髪の少女と目が合い、更にあちらこちらを見ると見覚えのある顔がいくつかあった。会場で通り過ぎた選手もいれば、これまで戦った対戦相手もいた。

 

「…でも」

 

やはり体が思うように動かない。

頭と体を切り離す大きな思いと言うものをそこからは感じられない。

そんな彼女の耳に二人の声援が届いた。

 

「綾乃ちゃーん!頑張れー!」

 

「負けるなー!綾乃ー!」

 

「のり子ちゃん、エレナ…? どうして…?」

 

二人は偶然各々の家の用事が重なってしまい、今日は来れないと予め言っていた。毎週毎に必ず試合が行われる状況で、マネージャーだからとその全てに出ろとは誰も言えない。県大会という舞台ではあったが休養も兼ねて健太郎がそちらを優先させたはずだ。

だが今その理由を考える余裕は無く、エレナと瞳があった瞬間にあの時の事を思い出す。

 

”負けた相手だって、努力して強くなるんだよ?”

 

「(…そうだった。ありがとね、エレナ。私は、見つけたかったんだ。負けた先で得られるものを)」

 

なぎさ、そして弦羽早へと視線を向ける。

二人はかつて自分に負けた。なぎさは全日本ジュニアでスコンクで、弦羽早は小学校の時だが彼に一度たりとも負けたことはない。四年間一緒にいて全ての試合に勝っていた。

だが弦羽早は中学校で全国を取り、この大会では優勝。そしてなぎさは今全身全霊を掛けて自分を倒そうと極限状態まで己を追い込める領域まで達している。

 

――二人みたいに、私も手に入れたい

 

そしてその為にこの試合に持てる全てを出し切る。

 

 

次のラリーから綾乃のゲームスピードが格段に上がった。正確には動く範囲をある程度限定してその中で瞬時に動く様に心掛ける。片足リアクションステップを使いその踏み出しの一歩の範囲内で速さを維持し、その範囲を超えたらシャトルに入り込むのを諦め手打ちで打つ。

 

でもそれで良い。綾乃が限界に達しているの同様、なぎさも精神面だけではカバーしきれない技術面でのキレがなくなっており、サイドラインギリギリのスマッシュなどはマグレでもない限りもう飛んでこない。

 

「(一応、参考にしてみるよ弦羽早)」

 

ラリー中に綾乃は軽く笑みを浮かべながら、速い展開の最中にも関わらず瞬時に右手に持ち替えることで、バックハンドに来た球をフォアハンドにして鋭い球を打つ。

 

非常識なプレイだが、部活内に両利きが二人もいる状況で、なぎさもテンポはズレども驚きはしない。ロブを上げさせるためにあえて綾乃が得意とする正面へとドライブを送ると、やはり綾乃は少しでもなぎさを動かす為にロブを送って来た。

 

―-重心の逆を付く

 

そうなぎさはシャトルに視点を集中させる直前に綾乃を見ると、彼女は両手でラケットを持って構えていた。

 

「(なっ!?)」

 

その歪な構えに目を見開きながらも、ここでミスをしてはいけないと王道であるストレートにスマッシュを打ち込んだ。瞬間、綾乃は右手でラケットを持ち、放たれた右側へのスマッシュをトンと前に落とした。

 

≪うおおおおッ!≫

 

ここに来て二人目の両利き。その登場にまたかと思う者は一人もいない。

弦羽早のようにラリー中にステップを切り替えることはできないが、しかし速いラリーの最中に持ち変える事ができるのが綾乃の両利き。

弦羽早とは異なる強みを持つ綾乃の両利きもまた、会場を味方につけるには十分な効果を持っていた。

しかし。

 

「綾乃!ナイスタッチ!」

 

「(やっぱり弦羽早の応援の方がやる気出るかな。まあ悪い気はしないけどね)」

 

 

ーーーー

 

 

最終局面にして攻略されたなぎさのスマッシュは試合の流れを大きく変えた。なぎさも点数を稼ぐが綾乃の連続得点が目立ち始める。

しかし感情によるドーピングも限度があり、足が出ない状況があり追い越すとまではいかない。

一方なぎさもどんなシャトルでも走って取り続けるが、ネットやアウトになるパターンが一気に増えた。

決勝戦というにはあまりに泥臭い試合内容だったが、そのコートから目を離す者は一人としていない。

 

なぎさの精度の落ちた甘いヘアピンを、前へと跳びながら綾乃が叩く。しかしシャトルが地面に着地した直後、足に踏ん張りが効かずにバランスを崩して前から倒れた。

 

『オーバー! 16(シックスティーン)  ‐  15(オール)!』

 

こんな時でも冷静なコールに、綾乃はなぎさの方を見ながら口元を上げる。

 

――追い越したよ

 

そうしたり顔になる綾乃に対してなぎさの取った行動は、やはり笑顔だった。

なぎさはこのラリーの前に言った。

 

『この白帯の向こうに見える相手の姿って、自分の心なんだよ』

 

彼女はファイナルゲームに入ってからも強がりで笑っていたのではなく、心の底から笑っている事にその言葉を境に気付けた。

これまでも同じスポーツをやっていた筈なのに、なぎさとの試合は次から次へと自分に新しいことを教えてくれる。バドミントンの可能性を見せてくれる。

それが分かると綾乃もまた、心臓が破裂しそうで、酸欠で吐き出しそうなくらい気持ち悪かったが、自然と笑みが浮かぶ。

 

「あ、あれ…?」

 

綾乃は両手に力を入れて立ち上がろうとするが、手が鉄の塊ののように重たく、疲労のあまり三半規管がおかしくなっているのか視界が目まぐるしく回る。

 

「綾乃!あと五点だ!ファイト!」

 

「(五点、五点かぁ…。もう、立つのもしんどいのに…)」

 

バドミントンの疲労というのはじわじわ蓄積されていくと言うよりも、ある長期的な激しいラリーを境にぶわっと疲労が溢れ出してくる。それは他の競技より圧倒的に狭いながらも最速のスポーツだけあり、その中を走り回るからこその変わった疲労の出かた。

その疲労が現れるトリガーとなる激しいラリーを、毎回のように二人は繰り返し行っていた。

 

「(でも、勝つんだ。勝って、弦羽早となぎさちゃんのように私も今の自分を超える。越えて、優勝して、お母さんが待ってる世界に行く…)」

 

プルプルと生まれたての小鹿のように足を痙攣させながら、綾乃は渡されたシャトルを持って構える。

 

そこを境に綾乃の記憶は薄れていった。

 

サーブを打つ瞬間、なぎさの返球、自分の配球。

休みと酸素を欲する頭は思考を拒否し、それら全てを感覚だけで判断する。それは”勝ちたい”という意思はあれど、ヴィゴが求めていた綾乃の完成系に近い状態であった。

 

遂に綾乃もこの最終局面で、疲労が蓄積された体と脳を切り離す極限状態に入り込んだ。

 

『ポイント! 17(セブンティーン)  ‐  15(フィフティーン)!』

 

その一点を取ったのを境になぎさの動きを見なくなった。あらゆるプレイヤーが必要とする観察の判断基準すらも綾乃の中から消えていった。

 

『ポイント! 18(エイティーン)  ‐  15(フィフティーン)!』

 

アリーナには大歓声が包まれ、仲間たちの声援が届いている筈なのに届かなくなった。これだけ汗を流しているのにも関わらず、喉が全く渇きを覚えない。

 

『ポイント! 19(ナインティーン)  ‐  15(フィフティーン)!』

 

綾乃は無意識の内にラケットを持つ手を右手に持ち替える。シャトルを持つ左手は痙攣しており、僅か五グラムのシャトルを持つことすら安定していない。

 

『ポイント! 20(トゥエンティー)  ― 15(フィフティーン)!』

 

綾乃のフォームはもはや歪だった。打つ瞬間に足を踏ん張る事すらできず、まるでフォームを知らない初心者のようにひたすらと走り回っていた。

だが綾乃のグルグルと反時計回りに回転する視界には、どこでラケットを振るい、どこに打てばよいか黒い点となって教えてくれていた。

 

コートの外では健太郎が辞めさせるように声を荒げているが、それを弦羽早が続けさせるように怒鳴り返している。

二人だけではない。理子、悠、空、行輝に学。エレナものり子も、完全におかしくなっている綾乃を止めさせるべきか続けさせるべきか二律背反の感情を纏っていた。

 

そんな中、なぎさだけは冷たいとも暗いとも、無表情とも違う、死人のような表情をしている綾乃が、心の奥底では笑っているように見えた。

だからなぎさも当に空になっている体力を、無理やり気力と精神力で補充してラケットを振るう。

 

もはや綾乃には打たせない。そう言わんとばかりに抉り込む様なコート端ギリギリのスマッシュが炸裂する。

 

『オーバー! 16(シックスティーン)  ―  20(トゥエンティー)!』

 

疲労の余り真っ二つに切れそうな右腕に力を込めて綾乃のバックハンドにドライブを放つ。綾乃はそれを無意識の内に返そうとするが、力の入らないラケットではネットを越えることはできない。

 

『ポイント! 17(セブンティーン)  ‐  20(トゥエンティー)!』

 

図田袋のように重く、セメントが流し込まれたかのように固まっている膝に体重を籠めて、そこをバネに跳びあがる。コートの端へと打とうとしたジャンピングスマッシュは綾乃の正面へと飛んで行くが、振り絞ったその一撃の速さは尚失速しない。

 

――これ、ダブルスで良く来る奴だ…

 

パシンと弱々しい、スイートスポットから外れた少し高めの弦の音が鳴る。

 

カウンターを打たれた。

霞む視界の中でそれを理解したなぎさは雄叫びと共に地面を蹴って、カウンタードライブに対して跳び込み空中で返球する。

 

ネット前へと大きく弧を描く絶好球。初心者でも地面に叩き落とせるような一球がマッチポイントのこの状況で送られた。

 

「いけ、綾乃!」

 

コートの隣で弦羽早が声を荒げた。この一打、ここさえ決めたら試合は終わる。

 

しかし、そのシャトルの落下地点に綾乃はいなかった。

 

ホームポジションでジッと立ったまま、綾乃はラケットだけを伸ばしてネット前に落ちるシャトルをジッと見つめる。

 

『…ポイント。 18(エイティーン)  ‐  20(トゥエンティ)!』

 

それまで覇気の籠っていた審判の声も、綾乃の状態には気が気では無く、力強さが無くなっていた。

それでも綾乃はフラフラとした足取りで、ネット前に落ちたシャトルをすくおうとする。本来なら目を瞑ってでもできるシャトルすくいすら今の綾乃にはまともにできずにシャトルはラケットに乗らない。やがて手で拾ってそれをネットの下を通してなぎさに手渡した。

 

そして無言でサービスコートに戻る。

 

「…ありがとな羽咲、最後までやってくれて」

 

綾乃はそれからただの一度もサーブすら取れなかった。それでも必ず、自分のコートに落ちたシャトルをなぎさに渡し、サービスコートに移ってラケットを構える。

飛んできたサーブに何とかラケットを振ろうとし、近づこうともした。しかし足は動かずガシャンとラケットと共に倒れ込む。

だがスコアボードを見てまだ試合が終わっていないのを頭では無く直感で理解すると、数十秒の時間を要しながらも立ち上がり、最後の一点まで続けた。

 

それが綾乃なりのなぎさに対するリスペクトなのかもしれない。

 

『ゲーム! ゲームマッチワンバイ荒垣! 

14(フォーティーン)!  ‐  21(トゥエンティワン)

26(トゥエンティシックス)!  ‐  24(トゥエンティフォー)

22(トゥエンティツー)!  ‐  20(トゥエンティー)!』

 

 

 




え~、まず謝罪を。
実はですね、完全にエレナとのり子の存在をこの回を書くまで忘れていました。本文の理由が雑だと感じた方はまさにその通りで、完全に後付けです。
と言うのも原作では準決勝と決勝だけの大会でしたので遅刻という状況は起こりえるのですが、この作品では丸々一日掛かった大会ですので遅刻なんてことはまあ無いですよね。
実際もし毎週試合とかだったら流石に選手でも無ければ外せない用事の一つでもある…ってことにしといてくだふぁい(涙)


気を取り直して綾乃となぎさの試合ですが、やっぱりこの結末にしました。
勿論綾乃が勝つ展開も考えたりしましたが、あんなに良い原作を壊すと思うと書く気力も起きませんでした。一応プロットは軽く書いたんですがモチベが凄まじく落ちて、あっ、これ間違いなく失踪ルートだわと察しました。オリ主の二次創作書いて何を今更と思いますが、自分にも線引きがあったり。
なぎさ戦はその試合だけでなく後の展開も凄く好きです。


ただなぎさが勝つ結果だとしても、本文にも書いた通り混合ダブルスで男子のスマッシュを返せる綾乃が原作通りに負けました、と結果だけ書くのではやっぱり整合性がないので実際そこまでに行きつく試合展開も原作の展開も交えて書いた感じです。
勿論弱ってるデレ咲さんや、その他の綾乃の心境を書きたかったのもあります。
ダブルスのスマッシュとシングルスのスマッシュはセオリーがかなり違うのですが、少なくとも”視える”という点で綾乃は原作より早くできないとおかしいので、なぎさが点を取る手段として”組み立てる”を意識しました。

とは言え今回は弦羽早対相模原戦に比べるとラリー描写は薄かったと思います。そこは試合展開もですが綾乃の焦りと変化を書きたかったからですね。特に綾乃は原作で他人の試合を見ておらず、応援する描写も無かったのでここに入れたかった。

この作品において綾乃確かに原作よりかは強いとは思います。ですが元々滅茶苦茶強いので、弦羽早が居る事により原作より強くなった点というのは限られており、ダブルスで多用するドライブや胴体周りのレシーブに限定しています。トリックショットとかは弦羽早関係なく素でできるからあの子。
健太郎が綾乃に技術面で教えることが少ないのと同様、弦羽早がいても綾乃が技術面で成長できる部分と言うのはやはり限られています。

一方なぎさは弦羽早の存在がスマッシュの速度だけでなく、その前からこのままではまずいと危機感を覚え、健太郎とマンツーマンで練習するようになったりとパワーバランスを保ちました。その辺りは15話にちょっと入れてたり。


そしてここまで弦羽早、綾乃の長い試合を見て下さりありがとうございます。ほんとにバドミントンに次ぐバドミントンだったので、人によってはつまらない展開が多かったかもしれません。

とりあえずシングルスはこれで終わり、次の話を入れて投稿ラッシュは終わります。




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約束

沢山の方に見ていただき、そして感想もいただいており凄く励みとさせて頂いているのですが、”原作を買った””読み直した”と言ってくださるのは本当に嬉しいですね。

原作を一つの大きな完成された建物だとすると、二次創作ってその建物の塗装を変えたり新しい部屋を作ったり、あるいは建物は壊して土台となる設定だけを使ったりと色々ありますが、この作品はそこまで大きな変化はない方だと思います。

話の流れや展開、キャラの設定など既に用意されているものを使用している。そこで掘り下げるのはバドミントンと、綾乃と主人公の関係と限定的です。

それで話として成立しているのはほんとに面白い原作あってこそなので、アニメだけでなく原作のはねバドが好きな仲間が増えるというのはとっても嬉しいねんなって。




「(柔らかいけどちょっと堅くて、あったかい…。もしかして、膝、なのかな?)」

 

ずっと休みを欲していた脳がようやくひと時の休息を得て、綾乃の意識を覚醒させた。

誰の膝なのか、それは目を開けず匂いをかがなくても分かった。この暖かいぬくもりは彼の――

 

「つば――お父さんか…」

 

瞼を開いた先にある明るい世界にはパートナーの姿は無く、無精ひげを生やした穏やかな顔つきの父親がいた。

露骨に落胆する娘に父親は寂しさを抱きつつも、その根っからの心の広さは変わらない。

ニッコリと昔から好きだった笑みを浮かべて綾乃の頭を優しく撫でる。

 

「私…えっと…」

 

ファイナルゲームのラスト以降の記憶が無かった綾乃は困惑した眼差しを浮かべた。バドミントンに関しては素人の心太郎だが、彼でも綾乃の状態が普通ではない事は気づいていたので、覚えてないのか、なんて無意味な問いかけたはしない。

 

「よく頑張ったね」

 

その言葉で、休まった綾乃の脳裏に極限状態に入ってからの試合内容が思い浮かぶ。最後の最後はただ試合を続ける、その意志だけで動いていたことも。

 

――負けた

 

実感した瞬間、瞳からポロポロと涙が溢れてくる。

それは理屈や目標を達成できなかったといったものではなく、ただひたすらに純粋な悔しいという感情だけがそうさせていた。

 

「良いライバルが出来たね、綾乃」

 

「…ライバル?」

 

当然その言葉の意味は知っていた。

でもそれまで意識した事は無かったその単語は、綾乃の胸にストンと落ちた。

 

この一週間、いや、それまでもなぎさは綾乃を目標にして練習を続けて来た。入部すぐの鋭い視線も、ある時を境に優しさと警戒が入った態度も、この一週間での落ち着いた雰囲気も、全ては今日の一戦の為に蓄えて来たもの。

そんなどこまでも真っ直ぐななぎさを、綾乃は実力・精神共にライバルになって欲しいと願っており、そして彼女は全身全霊を掛けて自分を下した。

 

零れていた涙がゆっくりと止まり、表情が明るくなる。

 

横になっている手足を動かしてみる。節々に筋肉痛が走るが、動けない程ではない。

 

「ありがとう、お父さん!」

 

その笑みは母親に似ていながらも、込められた優しさは父親譲りだと、親子揃って知る者が見ればそう言うだろう

 

綾乃は走り出した。心の底から純粋にそう想えたライバルの元へ。

 

 

ーーーー

 

 

波乱万丈の県大会は終わった。弦羽早となぎさは小さい優勝トロフィーとメダルを、綾乃と相模原を始めとする準優勝及び三位の選手には賞状が渡され、個人シングルスは四名のインターハイ出場者を決め閉幕となった。

 

「弦羽早君、今日は泊まっていきなさい」

 

心太郎の運転する車に乗って帰る途中、二列目に座る弦羽早へそう告げた。

年頃の娘を持っていたらお決まりの"娘はやらんぞ”と言いそうなところだが、まさかのお泊りOK発言に弦羽早は驚愕の声と共に大きく口を開いた。

だがその娘も警戒心が無いのか、”いいじゃん”と父親の案に賛同する。

 

とは言えこれは心太郎の案では無く、有千夏から今日は泊まらせて欲しいと頼まれたのだ。それは綾乃が関係しているのではなく、今日も弦羽早の家には両親は帰ってこない。しかし今の弦羽早が一人栄養のある料理を作れると言われたら答えは否で、であれば栄養と休息も兼ねてと、どこまでもバドミントンが優先された末の案であった。

しかし妻の発言に心太郎も悩む素振りも無く頷いたので、彼も少し世間とは感覚がズレているのかもしれない。

 

翌日は学校なので一度家に送ってもらい手短に準備を済ませる。その際手に持ったトロフィーをリビングの棚に置いた。大きなタイトルこそまだまだ少ないものの、小・中学と掛けてゆっくりとだが手に入るようになったトロフィーやメダルが並んでいる。

 

一緒に家までやってきた綾乃が小さく笑った。

 

「これ地区大会のじゃん。なんで全国優勝のよりメインに飾ってあるの?」

 

棚の中央に置かれた安物の小さい優勝メダルを不思議そうに首を傾げると、弦羽早もまた困ったように苦笑して。

 

「初めて優勝した時のだったからね。母さんがこのメダルは絶対にここって」

 

「あの時はおばさんも試合を見に来てたもんね」

 

弦羽早の母親はキャリアウーマンだがそれはまあ気の強い人で、決勝戦での応援の騒がしさたるや綾乃も薄っすらとだが覚えている。

 

新しく飾られたトロフィーを綾乃はそっと撫でた。

 

「…ゴメンね。約束、守れなかった…。私から言ったのに、破っちゃった…」

 

「綾乃…」

 

ギュッと瞼を強く閉じるその仕草は、必死に涙を堪えて居る幼い少女のように弱々しく、同時に負けず嫌いな一面を見せていた。

 

弦羽早は小さく吐息を吐きながら、休憩所での有千夏との会話を思い出す。

 

弦羽早としては、綾乃は決して優勝しなくてもよいと考えていた。それだけなら語弊があるが、余は優勝よりも大事な、ライバルを始めとするコートの中で得られる多くのものを綾乃には手に入れて欲しかったのだ。

勿論、それ等を得られたのなら負けていいなど考えてはおらず、綾乃には勝って欲しかったという思いはあった。

 

優勝トロフィーを三つ揃えるだけでなく、綾乃の勝利を祝ってあげたかった。再会してからの練習の成果が出せたねと一緒に笑い合って、あれだけキツイ状態でよく最後まで頑張って勝ったねと褒めたかった。

 

綾乃も似たような心境であった。間違いなく今出せる全ての力を使い切ってなぎさに負けた。

それは清々しい気持ちもある一方、やはり言い様の無い悔しさがあった。

 

負けて良かったと思える気持ちと、勝ちたかったという気持ち。それは歪な矛盾などではなく、全てを出し切ったからこそ得られる感情。

 

「まだチャンスが無くなった訳じゃないよ」

 

「…え?」

 

「…インターハイ、そこで、三冠目指すってのはどう?」

 

声のボリュームは小さく途切れ途切れであるのは、正直なところ厳しいと感じていたから。

ミックスでは優勝トロフィーを得る自信があった。ただシングルスとなると綾乃は少しばかり尖り過ぎている気がし、自分は攻撃力が低くスタミナ配分やセオリーなどを始めとするシングス慣れが出来ておらず、その他も色々な面において未熟な点があることを自覚していた。

 

その不安を綾乃は自然と感じ取る事ができた。

 

「(自分から言い出して優勝までした癖に、全然自信無さげじゃん)」

 

故に綾乃は笑顔を浮かべて肯定した。

 

「それいいかも。じゃあ、もっかい約束しようよ。インターハイで優勝を三つ。今度はちゃんと守るから、だから弦羽早も守ってね?」

 

もっと自分の凄さを分かって、自信を持って欲しい。そう願いを籠めての笑顔と約束だった。

 

「お、おう。分かった、頑張るよ」

 

まさか綾乃が意気揚々と乗ってくれるとは思わず、言い出しっぺであるのにも関わらず弦羽早の方が動揺を示す。

目先のことだけ考えて励ますのはよそうと、弦羽早は少し引き攣った笑みを浮かべながら、差し出された綾乃の拳と自分の手を合わせた。

 

 

ーーーー

 

 

「もっとお食べなしゃい」

 

「あ、ども。じゃあ遠慮なく」

 

住宅地の中に広々と建てられた羽咲家は何度も来たことがあるものの、やはりこの広さには未だ慣れない。しかし案外一部屋一部屋は広くは無く、10畳~15畳程の部屋があちらこちらにあるイメージで、弦羽早はその一室で机を囲って羽咲家の面々と食事を取っていた。

年頃の男の子に沢山食べさせたいチヨーがまた台所から新しい品物を持って来たので、若干お腹がいっぱいの弦羽早だったが箸をつける。

 

「(…娘と孫娘の同級生の男が泊まりに来てるっていうのに、寛大というか穏やかというか…)」

 

綾乃の危機感の薄さは、このほのぼのとした空気に感染してかもしれない。

信頼されているのは嬉しいが、やはり心配せずには居られない。

 

チヨーの手作りである煮物を口に含む。味はしっかりとついているが濃すぎず、食べやすい。

 

「美味しいです。帰って来てからほとんど自分一人で食べてたので、つい栄養が偏っちゃって」

 

宮城にいる時はお世話になっていた親戚の叔母がそれはもうガツガツと食べさせてくれた。その分休日は肉体労働をさせられることが多かったが、トレーニングも兼ねてと思うと楽しかったので、やはり叔母を始めとするあの家族には感謝している。

もし叔母が自分の冷凍食品まみれの食生活を知ったら宮城から飛んできそうだ。

 

「凄いなぁ。あっ、そういえばこの間も、料理作ってくれたよね」

 

「「この間?」」

 

マシャシィと心太郎の重なる復唱にビクッと肩を震わせ、弦羽早は鋭い視線で綾乃を睨むが自分が何を言ったのかも気付いていない。

 

「あ、ああ。この間たまたま家の近くに通った時にお腹が空いたって言ったんで、作り置きのカレーを。あれ、美味しかった綾乃?」

 

「えっと、う、うん。美味しかったなー」

 

弦羽早の実話と嘘の混ざった発言にようやく気付いたのか、綾乃も冷や汗を流しながら少し露骨に頷く。

有千夏がこの場にいれば間違いなくバレるだろうが、この三人は人を疑うことが苦手なのか、あるいは見逃してくれたのか”そうかい”と笑みを浮かべて頷いた。

 

それからマシャシィに弦羽早が将棋に誘われボロ負けした末に綾乃にケラケラと笑われたり、クイズ番組の基礎問題の雰囲気を綾乃が”ふいんき!”と堂々と答えて逆に弦羽早が笑ったり。

 

存外普通に羽咲家に馴染んでいた弦羽早だったが、それも綾乃が入浴を終えて湯上りの姿になると可能な限り装っていた冷静さが損なわれた。

 

しかも就寝の早いマシャシィとチヨーはもう寝室に入っており、心太郎も自室に戻り、自然と自室に戻る綾乃に誘われ、弦羽早は彼女の部屋にいた。

 

普段は結んでいる後ろ髪は解かれ、微かにまだ濡れているのかライトによって微かに煌めく。寝巻の為当然軽装をしており、半ズボンから出ている華奢な太ももや白い滑らかな襟首は、男の邪な感情を掻き立てるには十分な妖艶さを持っている。

 

「(ヤバい、ヤバいヤバい。落ち着けぇ…)」

 

これまでの綾乃とのスキンシップはパートナーとしてのものだった。彼女に好意を抱いておきながらそれらのスキンシップに浮かれなかったのは、生粋の選手である為その線引きが上手くできていたおかげだが、こうなると話は別だ。

 

「どうしたの弦羽早?」

 

「あ、いや。綾乃の雰囲気がちょっと違うな~って」

 

「…ごめん、色々考えるとどうしても余裕無くなっちゃって」

 

綾乃の返答に疑問を抱き、すぐに互いの主語に若干のずれが生じている事に気付く。

どうやら綾乃は試合中の、包み隠さず言うならばガラの悪い自分の事を言っているらしい。浮ついた心を持つ自分へ、申し訳なさげに作り笑いを浮かべる綾乃に罪悪感を抱きながらも、しかしクラスメイトの恋愛面での話をチラホラと利く限り、やはりこの年頃、そう思ってしまうのは仕方ないと開き直る。

それでも完全には開き直れないのは真面目な性格か、恋愛に対しては小心故か。

 

「んっと、そんなに気にしなくていいと思うよ。本心が聞けている気がして、最近の綾乃もその、好きだし…」

 

「ん、ありがと」

 

「…あ~うん。まあ若いんだから悩め悩め」

 

「同い年じゃん…」

 

勇気を振り絞って吐き出した言葉をあっさりと流され、若干やけくそ気味になる恋する少年に、鈍感な少女は目を細めてジッと見つめる。

それから少し二人の間に無言の時間が生まれ、互いにジッと見つめ合う。負けたのは皆まで言わずとも弦羽早で、気恥ずかし気に目線を逸らす。

 

「弦羽早も、コートの中と今、ちょっと雰囲気違うよね?」

 

「そ、そう?」

 

「うん。なんか、軽い感じがする」

 

浮ついているのは事実なので軽いと言えば軽いのかもしれないが、何とも言えない評価に苦笑いを抑えられなかった。

 

「あ~、駄目かな?」

 

「いいと思うよ。リラックスするのも大事だし」

 

「(…やっぱズレてんなぁ~)」

 

額に手を当てて深いため息を吐くのを、なんとか心の中に留めて、表面上は”そりゃどうも”とだけ答えておく。風呂上がりの好意を抱く少女と二人っきりの部屋にいて、リラックスしている筈がないのに彼女は相も変わらず気付かない。気付かれて警戒されても困るのでそれで良いのだが、やはり価値観がズレていると実感する。

 

それから彼女はまた少しの間口を閉ざした。

弦羽早もまたどの話題を切り出すべきか時間を要したため、またも微かな静寂が流れる。

こういう時、例えばテレビ番組や芸能人などもっと日常的な話題を切り出せたらよいのだが、互いにバドミントンを除けばほぼ無趣味になるため共通の話題などは無い。

 

やはり今聞いておきたいなと、弦羽早から先に口を開く。

 

「ねえ綾乃。今、おばさんのことと、荒垣先輩のこと、どう思ってる?」

 

ヴィゴアリーナで有千夏と再開してから一週間、あえてこれまで聞かなかったのは綾乃の集中力を下手に削ぎたくなかった為。しかし今日の試合を終えた今、そこを気にする必要は無くなった。

 

ただ目を合わせただけの綾乃とは違い、自分は有千夏と会話をして明確に接している。それは弦羽早本人に原因がある訳では無いが、やはり少なからず負い目はあった。

 

「…お母さんの事はよく分からない。恨んでないし、会いたいと…思う」

 

「思う?」

 

それは有千夏に会いたいと泣いていた少女が言うには違和感を覚える、曖昧な言い回しだった。

 

「だから、よく分からないの。なぎさちゃんの試合の時は、お母さんに会うために、弦羽早との約束を守るためにって、それを支えにして戦った。でも、お母さんからの手紙を見てから…上手く言えないけど、お母さんが出て行った理由が少し分かった気がして、それで…」

 

心太郎から伝って、綾乃の元に有千夏から手紙が届いていたことは知っていた。それをあえて県大会が終わるまで見ていなかったことも。

 

「手紙になんて書いてあったか、聞いてもいいかな?」

 

「私に必要なのは、お母さんのリストバンドを別け合えられる仲間と、支え合えるパートナーで、私が誰かの為に頑張れることを信じてるって。多分、私は今どっちも持ってるって、信じたい…」

 

「うん、大丈夫。綾乃はその全部をちゃんと持ってる」

 

「…結局、お母さんは世界に来て欲しかったの? それとも仲間やパートナーを作って欲しかったの? 世界に来て欲しかったなら半年前(勝った時)、会いに来て欲しかった(・・・・・)。仲間が出来て欲しかったなら、今会いに来てもいいんじゃない(・・・・・・・)

 

確かにその二つは有千夏の中では繋がりがあるのだろうが、綾乃の中には明確な繋がりは無かった。

だからこそ生まれる混乱だろう。

弦羽早もまた、有千夏と実際に会って話しておらず、たった二枚のメッセージだけでは綾乃と同じ状態だっただろう。

 

「多分おばさんは、どっちも得て欲しかったんだよ。仲間やライバルを見つけた末に、そこから強くなって来て欲しかった。どっちかだけじゃ駄目だったんだ」

 

おそらくと弦羽早は頭に付けながら有千夏の心境を考える。

世界で待っているというのはコーチとしての立場の有千夏の言葉であり、仲間やパートナーを見つけて欲しいというのは母親として望んだものなのだろう。

そして後者はその末に仲間やパートナーを通して、様々な事を学んで欲しいと言う願いが籠められている事も本人の口から聞いている。

 

「…そっか。ちょっとすっきりしたかも。ありがと」

 

「どういたしまして。なら荒垣先輩は?」

 

これ以上有千夏については難しく考えさせるのもプレッシャーだと思い、話題をなぎさに切り替える。

 

「嬉しかった。初めてライバルだって思える相手。でも、次に戦う時は絶対に負けない」

 

とんだ負けず嫌いだと笑いつつも、その表情がいくらか穏やかになっていたので軽く胸を撫でおろす。

 

弦羽早は少し腰を上げて彼女の隣まで移動すると、まだ少し湿気が残っているサラサラの髪を優しく撫でる。彼女の甘いシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐり、正直余裕はなかったが、ただそれを押さえつける強固な精神力があった。

 

「(やっぱり、まだ綾乃には告白できないな。ようやく自分の抱える悩みが明確化してきているのに、悩み事を増やすことはできない。それに多分、ちょっとは支えることはできても、俺だけの力じゃ解決してあげられない)」

 

「弦羽早?どうかしたの?」

 

突然寄り添って来るや、いつものように頭を撫でる彼を見上げる。何となくだが、彼がこうして突然頭を撫でてくるときは自分のことを何か考えている時だと綾乃は推理していた。

だが返って来た答えは自分に関係するものではなく。

 

「ん~。明日の小テスト大丈夫かな~って」

 

それは聞きたくもない学校の悪しき風習であった。

思えば金曜日にどれかの教科の教師が複数人、小テストを行うと言っていた気がする。

 

「…明日、学校休む?」

 

今なら全身筋肉痛と眩暈と疲労を理由に休める気がする。弦羽早も一週間は部活を控えるように医者に言われたらしいので丁度いい。

 

「俺、唯でさえ提出物適当で厳しいから、授業態度だけは真面目にやらないといけないんだよね」

 

「授業態度? …よく寝てる癖に」

 

「それはお互い様」

 

顔を見合わせてフッと笑い合った二人は、それからも教科書を開かずに話し合った。

鬼神の如きなぎさが怖かったことや、表彰式後に相模原から実家の割引券を貰ったことを話せば、あの顔で洋菓子店かと綾乃が爆笑し、それに釣られて弦羽早も笑う。

 

楽しい二人きりの時間はあっという間に深夜になっており、気付けば二人ともベッドを背もたれに寄り添い合うように眠っていた。

 

 

 

 

 




ぬわーん疲れたなぁーんもーん!

改めてこれで県のシングルス戦終わりです。
今回で投稿ラッシュが終わります。次に投稿するのはインターハイ戦の書き溜めがある程度の区切りがついてからになると思います。
とは言え今後の展開は今回のシングルス編のように繋がったものが少ないので、気まぐれに投稿したりするかもしれません。

それとインターハイ戦ですが、この予約投稿時ではまだ14巻が発売されておらず当然内容も今後の展開も分かりません。
ですので今ある巻の中で組み立てていこうと思っています。また綾乃戦は一切とは言いませんが、おそらくほとんど書かないと思います。


今回のシングルスでは綾乃の変化、弦羽早のシングルスの戦い方、二人の深まった関係性をメインに書いてきました。また、これまで弦羽早が綾乃を助ける展開が多かったので、その逆も書いたりと。

そしてこれまでも何度か書いてましたが、この大会でシングルスをガッツリ書きましたが、シングルスの方が書きやすいですね。と言うのもダブルスは速い球の応酬なので球種が制限される一方、シングルスはパターン化しにくいので割と好き勝手書けます。
どうしてもダブルスはドライブ戦やヘアピン、スマッシュなどの低い球が中心になりやすいので。

一先ずインターハイ開始までは既に書けているのでとりあえず当初の目標は達成しました。
インターハイ編をどこまで書けるか正直未知数ですが、ここまで書いたので頑張って完結を目指したいです。



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ダブルスについて教えて欲しいの

お久しぶりです。えたってた訳ではないですよん。
一応前回の投稿から10話近くはカキカキできてるんですけど、それまでの執筆速度と比べたら落ちていてですね。
一応週一話くらいは書けてるんで決して遅くはない……多分。

まあただモチベが落ちてるのは確かですね~。色々と書くのが難しい。あと年末年始のあれこれだったり、手に入れたゲームやったりと。

ただ次巻で早ければコニーと路の試合も終わるかもしれないので、綾乃とコニー戦が始まる前に終わらせておきたい。正確には有千夏さんが動きだす前にこの作品を終わらせておきたい。





なぎさが団体戦を離脱する事となった。

膝蓋腱炎。膝の使い過ぎにより炎症を起こすもの。ごくわずかな断裂の為今すぐに影響がある訳では無いが休養が必要となった。

普段からジャンピングスマッシュを多用し地区予選から激しい試合を繰り返してくれば、やはりどれだけ気を使っていても限界があった。

 

なぎさが離脱。それだけでも北小町の女子団体戦には大きな打撃だが、それでは済まない。団体戦の規定ギリギリの五人しかいない中での一人離脱は、それが誰であろうと致命的であった。

 

経験者を探すなぎさと理子だったが、今のこの次期、それも試合に出てくれとなると頷いてくれる者はいない。そんな中で試合に出ると言ってくれたのがエレナだった。

 

綾乃となぎさ、弦羽早の三人が決勝に進出した。そう連絡を貰うと、何とか用事を終わらせて綾乃となぎさの試合を観戦することができた。

そこで持てる体力と精神力、それまでの努力を全て使い切って戦う二人の姿に影響を受けたようだ。

 

エレナはすぐに健太郎の指導の下練習を始めた。そんな彼女の姿に本格的に綾乃を除く他メンバーに緊張が走る。

 

それはそうだ。

 

元々(ダブルス)1で神奈川県最強の二人のペアで一勝、続くD2で落としても、(シングルス)2とS3では神奈川最強の二人がシングルス(本職)で戦う。二敗する可能性はあれど三勝できるだけの強さがなぎさの離脱と共に一気に崩壊した。

 

その切羽詰まった北小町女子三人をチラリと横目で眺める弦羽早は、すぐにエレナの方へと視線を向けて、打撲をしていない右手で顔を仰ぐ。そのどこか他人事のような態度が、”ドライなところ”なのだろう。

勿論何も感じない冷血漢ではないが、弦羽早にとって大事なのは女子の団体戦よりも、エレナがバドミントンを楽しめるかの有無であった。

 

個人競技、それもシングルスに出るとなると当然その実力差は明白となる。もし仮に綾乃が関わる二勝+一勝を続けて決勝まで上がるとして、果たしてその中でエレナが楽しいと思える試合はどれくらいあるだろうか。

おそらく良くて最初の一戦か二戦。悪ければ一戦も無い。

せっかくできた新しいバドミントン仲間。そんな彼女には短時間で強くなってもらうよりも、純粋に楽しんでもらいたい気持ちの方が強い。言うなれば、なぎさが入れない以上団体戦の結果は二の次だった。

 

「あの、弦羽早君!」

 

「はいー?」

 

どこか気の抜けた返事の後輩に理子を含めた、悠と空の三人は少し意外そうに目を開く。昨日の男子シングルスで優勝した少年は、見学中というのもあってか完全に体育館の隅でリラックスしていた。

有千夏に言われた療養中を守っている弦羽早だったが、その症状は有千夏の言った通り本当に大したことはなかった。正直今から試合をしろと言われたら右手でできるし、そうでなくてもノックの練習の手伝いくらいはできる。足だって普通に歩ける。

 

しかしこれまでバドミントンの指導において、王道とは違ったものでも彼女の指導が自分の強さの基盤になっていることは弦羽早も気づいている。そんな彼女から療養と、休むことを学べと言われたらそれに従うのが最終的な近道であると分かっていた。

 

「私達にダブルスについて教えて欲しいの」

 

「これまで、あんまりバッサーとあやのんの邪魔しちゃ駄目って思って聞けなかったけど…」

 

「私も、綾乃ちゃんと組む以上二人のセオリーとかを」

 

空、悠、理子の順に話しかけられ、おおうと思わずたじろぐ弦羽早。両手に花等と浮かれる感情は彼の中には存在せず、少しばかり考える素振りを浮かべる。

 

「…教えるのは構いませんが、俺はことダブルスにおいてはハッキリ言いますよ? 特に泉先輩は、綾乃と組むとなるとより言うかもしれません」

 

優勝して尚完全にシングルスに自信を持てない弦羽早だが(流石に苦手意識は無くなった)、ダブルスにおいてのその口調は自信に満ち溢れていた。

三人ともコクンと頷いくと、弦羽早は軽く笑うとゆっくりと立ち上がり背伸びをする。

 

「それじゃあ改めて実力、見させてもらいます」

 

 

 

クールダウンの時間を除き、改めて三人のプレイをマジマジと見ることはほとんどなかった。理子に関してはシングルスに出ていたのでそこでの動きは知っていたが、ダブルスになると精々最初の綾乃とのノック練習を見たくらいか。

 

結果から言うとなると良くて県レベル。それも県のベスト8はかなり厳しいくらいか。そもそも年々増えつつあるバドミントン人口で、県のベスト8自体かなりハイレベルな部類になる。何しろ彼等も地区大会では優勝候補なのだ。

地区の優勝候補が県では一回戦で負け、県の優勝者も全国では一回戦で負ける。上の大会に上がる毎にまさに基準の格が変わる。

 

「まず見た感じ、伊勢原先輩はストレートのレシーブが多すぎる。海老名先輩はシンプルにネットミスが多い。泉先輩は極端にハイバックの下手さが目立ちますね。あとロブがミドルコートまでしか飛んでないことが多い。ただそれ以外のミスは少ないと思います」

 

「(あれ、弦羽早君ってこんなに淡々としてたっけ?)」

 

「(綾乃んいない時のバッサーって容赦ないなぁ…)」

 

露骨な態度の変化という訳でもないし、本職のダブルスの指導というのが関係あるだろうが、普段とは異なる淡々とした態度に微かに口が開く三人。

 

「まず伊勢原先輩のクロスのレシーブの少なさですけど、そもそも意識すればできます?」

 

「えっと、フォアならなんとか」

 

「じゃあバックハンドか。丁度泉先輩のハイバックとも話が被るんでちょっとラケット貸して下さい」

 

理子から渡された予備のラケットを癖で怪我をした左に持つ弦羽早だが、三人のラケットを持つ手をチラッと見た後、無言で右手に持ち替える。どちらの手の選手に対してもセオリー通り教えることができる点では存外両利きというのは馬鹿にできないのかもしれない。

 

「クロスに打つ手っ取り早い方法は、変に手首をスナップさせなくていいんです。むしろ逆で、手首を立てたまま固定してください」

 

「えっと、こう?」

 

各々弦羽早の手を参考に手首を手前側に立てる。手首が左右に動かず窮屈な感じに三人とも違和感を覚える。

 

「そのまま自分の体の前でラケットを振れば」

 

自分の手前に投げたシャトルを右手を軽く振って当てる。するとシャトルは適当に打った為ネットは越えないものの、確かにクロスへと飛んで行った。

 

「え!?そんな簡単にクロスに打てるの!?」

 

「難しい事は考えなくていいんです。打つ瞬間にラケットの面がクロスを向いていれば、当然そっちに飛んでいく。問題は普通通り手首を立てずに打つと、バックハンドの球を打つ時ラケットは自然と横に向きますよね?」

 

その言葉に三人は何回かいつも通りの構えでラケットを振る。確かに意識していないとラケットは横を向いている。

 

「で、手首を固定するとラケットが斜めの状態でシャトルを迎え入れる。この状態で自分の体の手前でスイングすると、打つ瞬間にラケットの面が斜めに向きやすいんです」

 

「へー!じゃあバッサーもクロスを狙ってる時はこう持ってるんだ?」

 

「いえ? 俺はリストとスイングでクロスに持って行けるんで」

 

「そ、そっか!」

 

仮にも全中優勝者にする質問ではなかったなと悠は苦笑しながらも、一先ずこの場は自分が悪い事にしておく。

口調は丁寧、纏う雰囲気も穏やかで優しい、表情も豊かだ。しかし何か明確に綾乃に対する態度とは恋心を抜きにしても違う。

 

「それで泉先輩のハイバックについてなんですけど、まずダブルスで戦う以上は無理して飛ばそうとしなくていいです。そもそもダブルスで戦う以上、そこまでハイバックで上げる展開がありませんから」

 

ダブルスとは極端に言えばコートを二人で分割して守ることとなる。その為右ネット前から左後ろに打たれ、ギリギリハイバックで打つと言う状況はまず起こりえない。故にハイバックより体力を消耗するものの、威力が出やすいラウンドで打つのが基本だ。

それでもハイバックで打つ状況は、ラウンドを打つには低く、かと言ってドライブを打つにも高い微妙なハーフ球。

 

「そしてハイバックが難しい理由に打つ瞬間と足の踏ん張りが同時でないと力が籠められないって言うのがあって、泉先輩もそれが上手くできてないから飛んでない感じです。でもドロップの場合は足のタイミングはそこまで重要でもないし、予め手首を立てて腕を振った場合、スナップのブレがなくなるんである程度打つ場所の感覚を掴んでおけば、それなりに良い角度で入ってくれます」

 

また適当に上げた球を手首を固定した状態でハイバックで打つ。そのシャトルの軌道は白帯の上数センチを通り、シングルスのサイドラインより僅かに外側に落ちる。

 

「…これまで綾乃ちゃんのインパクトが強かったけど…」

 

「弦羽早君って、ほんとダブルス上手なんだね」

 

「ダブルスはコーチより教え方上手いかも」

 

ひそひそと小声で話し合う三人の後ろへ大きな影が現れ、一番最後に呟いた悠の頭を大きな手の平ががっつりと掴む。

 

「誰が誰より上手だって?」

 

「コ、コーチ!? い、いやいや、なんでもないですよ!」

 

”ちょっと様子を見に来たら”と健太郎は軽く息を吐きながら掴んでいた悠の頭を解放する。力を込めてヘッドロックをしていた訳でもないので笑い話で済んだが、もしあの巨大な手が本気で自分の小さな頭を掴んでいたらと思うと、悠の背筋がゾッとする。

 

「弦羽早~さっきから何やってるの?」

 

その健太郎の背中に隠れていた綾乃がひょこっと顔を出す。

昨日の綾乃の部屋での出来事を思い出して僅かに顔を赤らめながらも、見学とはいえ部活の最中だと顔つきは変わらなかった。

 

「ダブルスについて教えてって言われてね。今は手首を立ててクロスに打つって話」

 

「ふ~ん…? それってわざわざ教えるようなことなの?」

 

辛辣な綾乃の一言は先輩達に苦笑いを浮かべさせるには十分なものであったが、北小町のメンバーの心は広い。

 

「教えるようなことです。綾乃が来たなら丁度いいや、ちょっと泉先輩と一緒にコートに入ってくれる? 泉先輩もお願いします」

 

「了解」

 

「おっけ~」

 

「ポジショニングに関してですけど、コーチも確認してもらっていいですか?」

 

健太郎はエレナの方をチラリと見ると、ちゃんとなぎさが付いて丁寧に教えてくれていた。説明下手ななぎさだが、ちゃんと指導できているようでエレナも困惑した様子も無く素直に頷いていた。

 

「おう」

 

「まず前提としてトップアンドバックでの理想の状態は、やっぱり綾乃が前衛になります。逆に綾乃が後衛、泉先輩が前衛の場合は、ストレート勝ちできるセカンドゲームでもない限り弱い。綾乃にはクロスファイアがあるけれど、当然サイドバイサイドの相手にはシングルス程のエースショットはなりにくい。それでも綾乃なら配球で点は取れるけど、S2とディフェンスの労力を考えると控えた方がいいかな。

それに泉先輩も相手の苦手な配球が得意。となるとわざわざ綾乃が後ろに出るメリットが少ない」

 

ここまでの話、健太郎も特に首を横に振るポイントは無かった。超前衛向きの綾乃がダブルスに入るとすればそこに当てるのは当然と言える。また理子の配球の上手さもよく知っている。

 

「で、このトップアンドバックの状態で一番警戒すべきが泉先輩へのバックのハーフ球。まず綾乃には相手が露骨に泉先輩のバックを狙って来たらハーフ球を狩るように」

 

「はいは~い」

 

「ロブに関してはラウンドである程度打てるとして、ただ綾乃がサーバーの時のレシーブでバックに来た場合、流石の綾乃も距離的に届かないだろうから、その時さっき教えてクロスのドロップを打って下さい。で、よほど浮いてキルショットにならなければ後は泉先輩はこことここだけ守ってれば大丈夫です」

 

理子がハイバックを打ったと仮定してコートの左後ろにいる弦羽早は、その目の前の左のコート中央(ミドルコート)、中央のコート奥(リアコート)にラケットを向ける。

 

「え、そこだけでいいの?」

 

本来この状況になると、相手の前衛とこちらの前衛の位置によりけりだが、場合によっては反対のリアコートか、直線のネット前を担当しなければならない。この”状況によって”というのがダブルスの面白さであり、難しいところだ。

 

「はい。あとは全部綾乃がなんとかします」

 

「え~、投げやり…。まあできるけど」

 

「できるんだ…」

 

驚きから悠が呟く。

 

「そしてもしミドルコート付近の微妙な球を上げてしまった時、この時はもう無理してサイドバイサイドにならなくていいです。間違いなく泉先輩が狙われますので。

案としてはトップアンドバックの状態を維持し、綾乃がコート中央に立って、泉先輩が相手のストレート寄りのリアコートに。これで後ろのクリア系や奥へと伸びるスマッシュは泉先輩が、それ以外の普通のスマッシュ含めた球は綾乃が担当で」

 

「…私に厳しくない? まあできるけど」

 

「やっぱりできるんだ…」

 

またも悠がポツリと呟く。

 

「なるほど。ダイアゴナル・ディフェンスか。確かに甘いロブを上げた場合は下手なサイドバイサイドより奇襲性も高いか」

 

ダイアゴナル・ディフェンス。ディフェンダーの一人がミドルコート、もう一人がリアコートに構えるトップアンドバックを維持した防御の態勢だ。

そして弦羽早が、相手のストレート寄りに理子がいるようにと言ったのは、その状況で守備の要となる綾乃にとって一番嫌なのが、奥へと伸びるストレートのスマッシュだからだ。特にダブルスのサイドラインギリギリとなると流石の綾乃でも取れない。

またクリア全てを綾乃がパスできるため、低い球に集中しやすい点もメリットとしてあげられる。当然綾乃という倉石にバグ扱いさえる選手がいて成り立つ戦略であるが。

 

「そしてこの状況でドライブ戦となった場合、基本綾乃のタッチの速さなら相手の返球をある程度ストレートに限定できます。ただ当然強い相手となるとそうもいかないので、そこは綾乃の立ち位置によって合わせてみてください。泉先輩はその辺り間違いなく得意だと思うので、そこの動きは自信持って下さい」

 

「私もいい加減弦羽早にシングルスに自信持って欲しいなぁ」

 

「あ~、流石に苦手とはもう言わないよ。自信もついたからあんまり掘り起こさないでくれる? 結構恥ずかしいんだけど」

 

「え~? どうしよっかな~?」

 

僅か数秒で蚊帳の外に放り出された三人だが、すぐさま入り込める頼りになる大人が一人。

 

「お前ら、仲がいいのは構わんが後にしておけ。で、他に特殊な動きやフォーメーションの案はあるか?」

 

「あとはサイドバイサイドの状態で泉先輩が集中的に狙われた場合ですけど、そこに関してはまだ何とも。レシーブの練習に徹底するか、あるいはまた特殊な動きにするかですね。ただ泉先輩にはS3があるので、下手にダブルスレシーブの癖がつくと今度シングルスのスマッシュで足が出にくくなりますから…」

 

ダブルスのスマッシュレシーブは基本構えた状態から足を動かすことは少なく、あっても横に一歩動くくらいだ。対してシングルスのスマッシュレシーブは時に跳び付く状況があるくらいだ。

サイドラインが広くなろうとも、一人か二人かの違いはそれだけ大きく違う。

 

「流石、経験者が言うと重みが違うな」

 

「コーチまでからかわないで下さい…。まあ一先ず俺が今考えてる二人の動きはこんな感じです」

 

「ああ、了解した。秦野がダブルスの動きに関与してくれるのなら、報告してくれるのなら基本一任する。ただ泉の練習はシングルス中心で行こうと思っている。そこは考えておいてくれ」

 

「分かりました」

 

 

ーーーー

 

 

休養中でもバド部に顔を出すことが決まった弦羽早だが、元より一週間後には男女各々のダブルス、二週間後には混合ダブルスが控えていた為、綾乃とどこかに遊びにいくのは勿論、クラスの友人たちと遊ぶ気もなかったのでむしろ丁度いい機会だと改めてダブルスの知識を見直す。

なぎさは膝の影響がない範囲でエレナにマンツーマンの指導を行い、健太郎はノック練習をしつつも他校のこれまでの成績を洗いつつ団体戦メンバーの情報収集。当然一週間後のダブルスのことも忘れておらず、団体戦で戦う可能性がある選手たちをマーキングしておく。

 

それからはコーチが二人に増えたようだと、悠と空は悲鳴を上げていた。弦羽早はノックも控えていたので妹に頼まれ学がノックを繰り出し、そこに弦羽早が逐一口を出すのがこの一週間での主な部活内容となっていた。

 

一方綾乃はシングルスを中心に理子と一緒に練習することが多くなり、コミュニケーションを深めるために時折一緒に登下校したりと会う時間を増やしていた。

 

そしてあっという間に時間は流れ女子ダブルスと男子ダブルスが行われる休日が終わった。

 

結果から言うと運が悪かった。

薫子とミキの組と同じブロックになっており、想像より遥かに強かったそのペアに悠と空は地区決勝で惨敗した。薫子はシングルスプレイヤーかとも思っていたが、その頭の回転の速さから後衛からの組み立てが上手く、後衛の薫子が崩し前衛のミキが決めると言う見ていて見ていて気持ちの良い組み立て方をしていた。

 

学と行輝のペアも、行輝が徹底して狙われる展開が多く、そこを突かれてやはり地区大会止まりとなってしまった。

元々学も行輝もダブルスには力を入れていなかった為ある種当然の結果と言えるが、これで学は引退となった。

 

とはいえまだ彼女達の練習は終わらない。個人ダブルスが駄目だったのならせめて団体戦ではと気合を入れ直す。

 

そして弦羽早も休養期間を無事終え、打撲も完治したのでラケットを持ってコートの中に立つようになった。

 

「ねえ二人とも。明日ミックスの県大会なのに、一緒に練習しなくて大丈夫なわけ?」

 

軽いクールダウンの間、仲良く隣同士で水分補給をする二人へとエレナは話しかけた。

ラケットを持つ姿も初めてラケットを持った二週間前に比べるとだいぶ様になるようになってきている。

 

この二週間、正確には弦羽早が練習に復帰してから一週間だが、二人はそれまで程ミックスの練習を中心にしていなかった。弦羽早は悠と空の練習に付き合い、綾乃も理子との練習時間はほとんど変わらない。

団体戦も遠くないとはいえ、試合前日にもなって同じコートに立たないのは初心者のエレナでも良くない事は分かる。

 

「へーき。軽いノックはしてるし、ね?」

 

「うん。一週間も休んだおかげでコンディションも整ってるし」

 

「いくら世界ランク一位倒したからって調子に乗ってると痛い目見るかもよ?」

 

「痛い目、ねぇ…。まあそうなる試合ができるのならむしろ楽しみかな」

 

フッと嘲笑うように目から口へかけて不貞腐れた笑みを浮かべる綾乃に、眉間にピキッと青筋を立てるエレナ。

最近の綾乃は暗く冷たい目はせず、落ち着いた雰囲気を纏うようになった。口の悪さは依然変わってはいないが、前よりも人間関係に対して前向きになったようにエレナは感じ取っていた。

 

「(明日の試合でまた綾乃の性根が変わる試合があるといいんだけど――)」

 

 

翌日

 

 

『ゲーム!マッチワンバイ羽咲・秦野! 21(トゥエンティワン)  ‐  2(ツー)

21(トゥエンティワン)  ‐  1(ワン)!』

 

「な、なんかあの二人前よりも強くなってない?」

 

「レベルが違い過ぎてよく分からないです…」

 

 

 

 




スポーツもの見てると感覚狂いますけど県8位って滅茶苦茶上手いですね。
ほんとに日本のバドミントンのレベルは高いと思いまする。

クロスについての小話は果たして私の文章力で伝えきれたのかが疑問です。プロの試合では簡単そうにクロスに打ってますけれど、実際は上級のテクニックですし、クロスにもメリットデメリットがあったり。まあその辺りの話語りだすと長いので。
ただパターンはあれど絶対が無いって言うのがスポーツの面白いところですね。まあミントン以外のスポーツは全く知りませんが。

ただクロスに打つにしても打ち方って色々あるので間違ってはないですけれど、違う打ち方の人も全然います。


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昨日はよく頑張ったね

今回は短いです。時系列的には前回と前々回の間で、綾乃の家にお泊りしたところ。SSって言うんでしょうか。

ぶっちゃけ蛇足とも言えますけどせっかく書いたので投稿するぞい。






カーテンの隙間から漏れる白壁をオレンジ色に染める朝の日差し。その光が半分ほど届いていない壁の時計は短針が6を向いており、これが彼のいつもの起床時間である。

しかし昨日はシングルス県大会と激しい試合を行い、その後0時を回ってからも起きていた弦羽早が目を覚ますには、習慣とはいえいささか早い時間帯だった。

 

右半身から伝わる温もりに確認すると、スヤスヤと心地よさそうに寝息を立てている愛らしい少女の姿があった。

疲れと不規則な体勢で寝たせいで寝起きの頭と同じくらい体が重く感じられたが、彼女の姿を見ただけでまるで背中に羽が生えたかのように軽くなり、心臓が大きく鼓動する。

 

「改めて見てると、ほんと美少女だなぁ…」

 

前髪は顔を左に倒している為、普段は耳前で伸びている前髪が鼻に当たっている。

閉じられた瞼から柔らかい細い影のような睫毛、唇は暖かい桃の皮のようで、運動して循環もよいからか肌も白くなめらかだ。この綺麗な白い肌が焼けなくて済むのは室内スポーツの特権かもしれない。

 

コニーを連想させる華やかと言うには派手さは無く、エレナを連想させる綺麗には落ち着きが足りない。

10人が10人とも振り返る美少女とは弦羽早でも言えなかった。

 

「可愛い」

 

美人や綺麗よりも、その言葉が素直に当てはまる顔立ち。

綾乃の頬にそっと手を伸ばそうとすると、変な体勢で寝続けた所為で関節が鳴り、メルヘンな世界に行きかけていた少年の精神が現実世界に戻る。

左肩に乗せられた綾乃の頭を動かさないように、空いた左腕を回して頬に触れる。打撲のせいで少しズンと痛みが走るがそこまでの痛みでもない。

 

頬は柔らかくて滑らかで、それで少し冷えていた。

 

弦羽早はここで布団も掛けず、互いに気絶するように眠っていた事を思い出すと同時に、自分たちの上に一枚の布団が乗せられていることに言い様の無い恥ずかしさと嬉しさを抱いた。

 

「(おじいちゃんかおばあちゃんか、まさかおじさんじゃないよね…。でもありそうだなぁ…)」

 

まるで綾乃との関係を身内に認めてもらっているようで自然と笑みが浮かぶ。

 

子犬のような庇護欲を掻き立てられる少女も、一日前には他校の生徒から“ヤバイ奴”や“あれは殺ってる”と言われるほどに冷たい瞳ができるのだから人は見かけによらないものだ。因みに弦羽早本人はその辺りの噂は耳に届いていないが、ただ周りの空気から怖がられていることは察しがついていた。

 

「…昨日はよく頑張ったね」

 

綾乃の部屋にいて、そこで寄り添い合って眠って、こうやって彼女の頬を撫でる。

 

彼女と再会して僅か二カ月近くで、いや、時間の長短に関わず、ここまで距離を近づけるとは未だに実感が沸かない。

綾乃を倒したいという思いから、感心・憧れになって、そして恋心へと移って行った。

綾乃には元々友達が少なく、その一方交友関係が広い弦羽早が関わる事を狙ってかほとんど同じクラスで、特に綾乃への好意に明確に気づいてからは毎日教室に向かうのが楽しかったのは、今も昔も変わらない。

 

その一方、中学に上がる時、クラスの友達は勿論だが彼女と離れる寂しさを乗り越えるのに何よりの時間を要したが、それも強くなる一心で踏ん切りがついた。

中学校の間も会えない綾乃を想い、目標にして努力を続けていた。

修学旅行の浮かれた空気に流されて、恋バナをした同室のクラスメイト達に引かれたのは今でも軽いトラウマである。

 

それ程まで想い続けていた綾乃が今隣に、無防備な姿で眠っている。

 

――今ならキスもできる。はだけたパジャマの隙間から柔肌を覗くのも多分できる。

 

「お疲れ様」

 

弦羽早は眠っている彼女に微笑むと、肩まで掛かるように布団を被せた。

 

やはりどれだけ取り繕っても健全な青少年、例え綾乃にその気が欠片でも無く、また恋愛に無頓着であっても、そう見てしまう心はどうしても存在する。ただその邪な自分と素直に向き合いながらも押し殺し、またバドミントンに関わる時は割り切るように立ち回っている。

そうした所為で綾乃とのスキンシップが増えてからも、周りから見れば冷静そうに見えているが、内心はかなりいっぱいいっぱいだった。

 

「んっ…んぅ…つば、さ…?」

 

漏れる吐息に合わせるように少女の瞼がほんの数ミリほど開く。

別に大したことのない、寝起きのうめき声とも取れる吐息であるのに、妙に色っぽく聞こえるのは恋心故か、あるいは少女から大人に変わる年頃の見えざる力でもあるのか。

 

「ごめん、起こしちゃった?」

 

「…ん~、へーき」

 

綾乃も同様、歪な体勢で眠ってしまったことで体が凝っているのか、覇気のない動作で体をゆらゆらと揺らす。

そして数回ほど左右に揺れた後、またトンと弦羽早の肩に頭を置いて。

 

「えへへ、いい匂いするって思ったら、弦羽早だったんだね」

 

そうはにかむ彼女はコートの威圧的な雰囲気とは正反対の年相応の穏やかな少女で、必死に理性の隙間に流し込んで固めたセメントの壁に巨大なヒビを入れる可愛さだった。

 

「(…こんな可愛い子に手を出したらいけないってとんだ試練だよ…。そんなギャップ俺の前で出されたらほんとに襲うぞ)」

 

「その、えっと…、おはよ、綾乃」

 

今が夜だったらと思うと自分を押さえつける自信が無くなる彼女の言動に半ばキレ気味になりながらも、何とか舌を回して定番の挨拶をしておく。綾乃の発言に返す余裕などない。

 

「うん、おはよう」

 

 

 




これくらいの短い話ってこれ以上文字数伸ばせないので、前書きかあと書きに載せるのも考えてたんですけど、それはそれで面倒なので本編にして投稿しました。

今回の話は、あれだけ綾乃を好き好き言っていた弦羽早の反応が県大会時には割かし冷静だったのですが、別に耐性ができたとかそういうのじゃないってことを主に伝えたかった記憶があります。
何しろ書いたの10月頃やで。





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悩みごと

流石に前回の話では短いので連続投稿になるぞい。また毎日投稿するとかじゃないから悪しからず。

とりあえず今書いているインターハイの長い試合の一つが終えたら次回投稿します。



改めて通常のダブルスと混合ダブルスの違いについて説明する。

男女がペアで戦う混合ダブルス、ミックスとも呼ぶが、その一番の違いはやはり男女の性別による力の差だろう。他にも身長を始めとした男女の違いはあるが、なぎさやコニーのような男子並みの身長を持つ女子もいるので、やはり一番の違いと言ったら力となる。

 

力の有無はやはり大きい。それは単純に速い球を打てないというのもあるが、重い球を返しづらいというのがダブルスにおいては大きなハンディである。元来なら同性(女性)のスマッシュしか相手にするはずの無い彼女達にとっては、男子選手(彼等)のスマッシュの重みは桁違いだろう。特にダブルスの後衛のスマッシュともなれば打つことに専念しやすい分、全力のスマッシュが飛んできやすい。

つまりもし男女でシングルスを行った場合は、女子からすればスマッシュの速さよりも体格差から生まれる一つ一つの動きの速さが差を感じるだろう。ここでいう体格差は身長だけでなく、地面を蹴る強さや膝などの全身的な違いを意味する。

一方ダブルスの場合は前述の通り、多くの女子は力に差を感じるはずだ。

 

そしてこれらの身体的な差から生まれる戦術として最も王道なのが、女子が前、男子が後ろのパターンである。

更に通常のダブルス(元来)なら低めのロブに対してもサイドバイサイドとなって防御の陣形にローテーションすることがあるが、ミックスにおいてはあえてトップアンドバックを維持したままのこともある。

勿論サイドバイサイドを全くしない訳ではない。しかしトップアンドバックを維持した方が強い状況もある。その状況によって守るか攻めるかを瞬時に判断するのがまずミックスの面白さの一つだろう。

 

こうして前衛と後衛に明確に役割が別れる場合、各々に求められてくるものは通常のダブルスよりも尖ったものとなる。

 

まず後衛の男子はゲームをコントロールする能力と、カバーをどれだけできるか。攻めの状態が継続している場合、もっともチャンスボールが集まってくるのは後衛の男子となる。そうなった場合、いかにして攻めを継続させつつ相手のコートの穴を作っていくかが重要となる。当然その穴を作る為にはスマッシュの速さも重要だ。

そして女子が前衛に専念している以上、コート中央(ミドルコート)から後ろの球は基本男子の守備範囲となる。少し極端だが、コートを前後に三分割した場合、三分の二は男子ということだ。

しかもダブルスはサイドラインがシングルスよりも一本広がる為、時にはシングルス以上に走らされる可能性もある。

 

続いて前衛の女子が求められる能力は前に出る速さとレシーブ力。前に出る速さというのは単純に足の速さではなく、後衛の打ったスマッシュを低めの球でレシーブされた時、それを返せる速さの事を言う。

実例で考えたら分かるが、味方の男子がスマッシュを打った時、それをミドルコート手前、つまり男女の守備範囲の境目に返された球を誰が取るか。

当然女子が取るに越した事が無いが、そもそも男子の速さに慣れていない女子にとっては、味方の男子のスマッシュも決して万能な武器ではない。スマッシュの速度が速いと言うことは当然レシーブまでの時間も短く、少しでも気を緩めていればあっという間に自分の横をシャトルが通り過ぎている。そこに反応できるか否かで男子の負担が大きく変わる。

 

次にレシーブ力だが、これは簡単な話で男子のスマッシュ一発で決まってしまえば話にならない。ラリーを続けるためも男子のスマッシュに対応していかなければならない。

 

勿論他にも通常のダブルス同様の能力や、種目問わず選手として要求されるものは当然あるが、一際要求される能力としてはこのようなところだ。

 

 

そしてここまでの話で分かるだろうが、弦羽早と綾乃の二人はこの能力を武器として持っている。

まず綾乃は言わずもがな、反射神経と培われた感性からなる圧倒的なタッチの速さは、前衛の男子選手すらも目じゃない。そしてラケットワークの高さと選球眼によるスマッシュレシーブは、的確に前衛の横を抜けるカウンターを打てる。

 

弦羽早のゲームのコントロールをする能力と言われるとピンと来ないかもしれないが、つまるところ多数の球種だ。後衛が打つ球は大きく別けるとスマッシュ、ドロップ、クリアーの三種類だけだが、細かく別けるともっと多くの球種が存在し、更にクロスを入れるとさらに攻めの幅は広がる。加えて弦羽早はダブルスの時は基本右で持つラケットを左に持ち替えることで、また球種に変化を加えることができる。

守備力もまた申し分なく、綺麗なフットワークと体幹、リアクションステップからなる守備範囲は、左右に振るだけで崩れるような選手ではない。

 

当然二人の強みはこれだけではない。

 

 

バシン!

15‐4でようやく掴んだ攻撃のチャンス。

逗子総合のユニフォームを着る男子生徒が強烈なジャンピングスマッシュを綾乃に打ち込むが、彼女はそれを悠々とクロスへと低めのロブで返す。

元来のダブルスであればここで前衛が後衛のサポートに入るのが鉄則だが、ミックスは状況によって左右される。その“違い”が前衛の女子選手の思考を一瞬躊躇させてしまい、シャトルは既に彼女の頭上を越えている。

 

際どいコースへのカウンターレシーブに後衛の男子はラケットを上で打つのはおろか、地面スレスレの位置で打つ形となる。加えて追いつくので精いっぱいで打つ瞬間に足を踏み込めていないその打ち方は、予め打つ場所を宣言しているようなものだ。

ストレートに返って来た甘いドロップショットを弦羽早が前に詰めて叩き落とす。

 

『ポイント! 16(シックスティーン)  ‐  4(フォー)!』

 

コントロールの良い綾乃にとってコートをフルに使用できるダブルスというのは、より伸び伸びと際どいコースに打つことができる。特にサイドバイサイドの状況が少ないミックスダブルスにおいては、並みペアが相手だと彼女の目にはコートが穴だらけに見えて仕方ない。

 

そしてダブルス慣れしている弦羽早にとって、綾乃の速い動きに合わせるのは難しい事ではない。例えば今のカウンターレシーブを打った後、もし綾乃が瞬時にネット前に詰めるようであれば、弦羽早はすぐさま後ろに下がっていたが、綾乃は相手のクロスのドロップを抑制する為にあえてサイドバイサイドを維持した。であればストレートのネット前に来た球は綾乃に任せるのではなく自分が打つ。

 

ごく当たり前のように思うかもしれないが、ダブルスで要求される状況によって変化する担当する守備範囲。それをパートナーの意図を読み取って瞬時に判断できるのはかなりのダブルス慣れと、パートナーのプレイスタイルへの理解力が必要となる。

 

「強すぎるだろ…」

 

「ミス以外であの二人から点取れるの?」

 

地区大会では対戦相手に恵まれなかったことから練習のようにすら見えていたが、県大会ともなると対戦相手の試合への真剣さも変わり、ちゃんとした試合にはなっていた。

ただ、だからこそ二人の強さが一際目立っていた。

 

二人も強いが最強ではない。故にしっかりと組み立てていけばしっかりと点を取れる。

 

例えば今のラリーも、そもそも男子が綾乃のフォアハンド側にスマッシュを打った事で、目いっぱい反対まで引っ張られたのが駄目だった。

まず綾乃のバックハンド側へのスマッシュ。そのカウンターレシーブを前衛の女子がタッチして前に落とし、それを前に詰めた綾乃のヘアピンに、クロスのヘアピンで綾乃を動かす。そして誘い出したロブからまたラリーを組み立てる。

ただここで闇雲に綾乃にスマッシュを打っても決め球にはならない。なので彼女を前後に動かす為に、彼女の方へとクリアーを打てば、弦羽早がフォローに入ってドライブ気味のスマッシュで来るだろう。

 

それを男子がドライブで綾乃を抜き、弦羽早を動かしてラケットの位置を低くして甘い球を誘い出せば、女子が決めて一点となる。

 

もっとも“前衛の綾乃を抜く”“弦羽早のラケットの位置を下げる”。この二つを両立できるショットを打てるほどの力と技を持つ男子がこの会場に果たしているのかどうか。

 

少なくともこのようなラリーを行うのが前提でなければまず点は取れず、スマッシュ一発目のコースから甘く、また女子も男子のフォローに回れないのでは話にならない。

 

前衛の綾乃にシャトルを送りたくない。しかし後衛の弦羽早は何を打ってくるか分からない。

サイドバイサイドの弦羽早の守りを貫けない、綾乃のカウンターが怖くてスマッシュを打てない。

こう考えだせばもうこの時点で終わりだ。

 

一発や二発で決めるのではなく、ラリーを続けて組み立てていく。かつて健太郎が二人に言った“一人で決めようとするな”。ダブルスの前提であるこれをどれだけ意識してローテーションをしていけるかにより、初めて二人から一点を取る事が出来る。

 

21‐5

21‐7

 

第二ゲームで港南高校の監督のアドバイスにより序盤上手い流れを数回作れていたが、すぐに二人に修正を入れられそれ以上点が大きく伸びることは無かった。

審判のゲーム終了のコールに四人はネットへと歩み寄る。一回戦目では弦羽早に連れられる形となっていた綾乃だったが、流石に三戦目ともなると自分から足を運び、ネットの上に手を上げて握手を交わす。

 

満足げな表情の健太郎がいるコーチ席に戻り汗を拭きながら、綾乃はチラリと横目で対戦相手の二人のやり取りを見つめる。

 

「マジで強いなあ。もう少し行けると思ったんだけど」

 

「ゴメンね、フォロー入れなくてほとんどシャトルに触れなかった」

 

「こっちこそドライブが浮いてばっかで羽咲に取られてたから。あ~、悔しいわ」

 

「来年までにもう少し点取れるようにならないとね」

 

彼等のやり取りに、汗を拭く綾乃の手が緩徐なものになる。

県大会に上がってからは少なくとも地区大会のような対戦相手に対する苛立ちというものは感じられなくなった。個人シングルスでのなぎさのように全てを賭して挑んでくる選手はいないものの、彼等には自分の全力を出そうと言う意思があった。

 

「(…勝つ気は無い、でも全力で戦ってくれた…のかな?)」

 

スコアボード上の記録では地区大会とさほど変わらない。でも自分の体を流れる汗やウェアの内側から籠る熱、乾いた喉は間違いなく試合をやった証であり、何より素直に楽しいと思えた。

そして一番の違いは対戦相手の雰囲気。個人シングルスで自分が下した選手は皆、泣くか怯えるか、あるいは逃げるかで、握手すら一度も交わしていない。

唯一の例外が薫子であったが、彼女は癖が強すぎるので綾乃の中でも当然“普通”にカテゴリされていない。

 

「(…弦羽早がよくて、私が駄目ってこと…?)」

 

そう思うと途端にある感情が浮かび上がってくる。

嫉妬でも苛立ちでもなく、寂しさ。夜明け前の窓の外に映る誰もいない薄暗い世界を見た時のような。

 

「綾乃、どうかした?」

 

その声はカラッとした言い方ではなく、体温で温まった冬の羽毛布団のように優しいもので、綾乃は半ば無意識の内に彼の胸板へとトンと少し腰を曲げて額を当てた。

まだ全力を出していない彼はあまり多くの汗を掻いておらず、日常から香る彼の匂いそのままで。

 

「…なんでもない。優勝しようね」

 

「ああ、もちろん」

 

ーーーー

 

 

時をさかのぼる事、数日前。何気ない平日の昼の授業。

 

「――であるからして」

 

古文という日常生活にも就職にも活かしようのない科目を担当する教師の声は、耳に入るものの脳に届く前に反対の耳から出て行く。その状態は綾乃だけではないようで、舟をこいでいるクラスメイト達の姿が目立っており、果たして来年還暦を迎える老教師はそのことに気付いているのか。

肘をついている綾乃は、空いている手でクルクルとペンを回す。数回ほど回したところで失敗し、ペンが机の上に落ちてそれでもう辞め、代わりに隣の席にいる弦羽早へとチラリと視線を向ける。

 

彼は熱心にノートと睨めっこしており、握ったシャープペンシルも動き続けていた。

まるで勉強熱心な少年に見えるだろうが、実際彼のシャープペンシルが書く文字には古文では使わないカタカナばかりで、加えてローマ字に絵まである。お察しの通り古文の勉強など一切しておらず、綾乃と理子、悠と空のペアについて色々考えていた。

 

「(ほんと、真面目なんだか不真面目なんだか)」

 

もっとも題名以外ほとんど白紙のノートを開いている綾乃も人の事を言えた義理ではない。こういう時、真面目な友人が同じクラスにいてくれるのはありがたいもので、よくエレナかのり子のノートを写させてもらっている。

弦羽早に関しては、日に日に彼がノートを写させてもらう相手が増えており、彼の交友関係の広さが伺える。綾乃は知らないが、クジによる席替えの時、綾乃の隣を取った男子と交渉して席を交換していた。因みにその交渉相手は現在教室の一番後ろの窓際という理想的なポジションでうつ伏せになって寝ている。

ここまで睡眠率の高い授業は、授業内容が教科書を読むだけのこの老教師が筆頭だろう。

 

「(…ミックスの県大会ももうすぐか)」

 

有千夏から命じられた弦羽早の一週間の休養期間も終わり、今日の放課後から練習に参加するらしい。

弦羽早と一緒に練習できるのは嬉しいが、正直なところなぎさが参加できなくなった以上は今の北小町で、自分と弦羽早がペアを組んでコートに立って練習したとしても、あまり成長は期待できない気がした。

成長ではなく、現状維持のための練習になってしまうのだ。試合は当然相手がおらず、各々の技を磨くのなら一緒のコートに立つ必要はない。当然、コンビネーションに関しての決め事や練習も必要なくなった。

 

それもまたもやもやする。

 

最近の綾乃はどこかこう、傍から見た雰囲気は落ち着いたものの、心の中はずっとざわついていた。少なくとも気持ちの良いもやもやではない。

 

綾乃の悩み――と言うよりも抱いている感情は、一言で表すのなら悔しさだった。

 

なぎさに負けたこと。その悔しさは日に日に薄れていくどころか、むしろ増して行っている。

 

もし攻め急がなければ。

もっとフィジカルトレーニングをしてブランクを取り戻していたら。

もし最後まで意識が持っていたら――

 

その自ら潰した起こりえた可能性を否が応でも考えてしまう。

もし仮に時間を巻き戻して試合をやり直せるなら、中学二年の薫子との試合よりも一週間前のなぎさの試合をやり直したいと思う程に。

 

元々綾乃は同年代に負けるのが極端に少ない選手で、最後に負けたのが件の薫子との試合で、それまで無敗を貫いていた。

そして前回の負けとは違い、今回の敗因の全てが自分の力不足であることを綾乃は認めていた。

なぎさが絶好調だったとか、前日のミックスに焦点を当てた綾乃と違い、なぎさは綾乃との決勝を焦点に当てていたことなど、考えようとすれば一応言い訳も思いつくが、そこも含めての実力だと受け入れていた。

 

だからこそもどかしい。

 

何も言い訳にできない、自分の実力不足故の敗北。

 

選手なら、いや、選手でなくとも人であれば誰もが必ず抱くであろう悩み。

勿論綾乃も特殊な価値観を持っているとはいえ、そういった悩みを抱えた事はある。例えば勉強だったり身の回りのことをもっと頑張っていたらと。

しかし彼女の人生の根幹ともいえるバドミントンに関しては話が別だった。前述の勉強などは彼女にとっては義務だからやっているだけであって、好き勝手に生活してよいのであれば人生の片隅にでも放り投げているだろう。

でもバドミントンとなるとそうはいかない。

 

「(なぎさちゃんは私に負けてから強くなった。弦羽早も、あんなに私に負けて、中学でも沢山負けた筈なのに、ほんとに強くなった。でも、薫子ちゃんに負けた私は強くなったの…?)」

 

――“負けた相手だって強くなる”。エレナと喧嘩した時のきっかけとなった言葉。

 

――優勝した弦羽早となぎさ。優勝できなかった自分。

 

――自分も見下していた中学校での部活(彼女ら)のように努力が足りなかったのだろうか。

 

これらの考えがふとした拍子に綾乃の頭に浮かびあがり、毎度精神をかき乱してくる。

 

もし今の綾乃の悩みを有千夏が知れば、“成長したね”と笑みを浮かべるだろう。

この悩みは特殊な価値観を持つ綾乃だからこそ解決策が見つかりにくいのであって、内容自体は多少口が悪いものの、決して歪でも変わっているものでもなかった。

 

この悩みはまだ誰にも、勿論弦羽早にも話していない。自分と他者との違いが、無意識の内に相談する事をブレーキをかけていた。

他者と自分との違い、その最もたるが試合後の対戦相手の態度や握手の有無など。

 

「(…でも、そういえば頭痛くなることなくなったかも。確か…弦羽早と喧嘩してから…かな?)」

 

消えない悩みと無意識の内に自分を押さえつけていた結果、己を苦しめていた頭痛。それがある種を境に無くなった事、そのきっかけをくれたのがパートナーの少年であることに気付く。

 

「(…ありがと、弦羽早)」

 

 

ーーーー

 

 

甘えるように、あるいは寂しさを紛らわせるように自分の胸に寄りかかって来た少女に、弦羽早は心の中でふぅと小さく息を吐いた。

弦羽早もまた、ここ最近綾乃の悩みがまた別のものに変わってきている事には気づいていた。その内容は分からなかったが、ただなぎさとの試合がきっかけになっている事には流石に読み取れていた。

 

当然相談に乗るよと、何度も言おうとはした。

 

ただ仮に綾乃が話してくれたとして、その悩みを自分なりの答えで返したとしてそれが綾乃の為になるかどうか、これが分からなかった。

 

“弦羽早君がどんなに頑張っても一人には限界がある。私と同じように”

 

今なら有千夏が綾乃の元に離れた心境が少しだけ分かる気がした。勿論本当に彼女の元から離れようとは微塵も思わないが、ただ狭い世界を持つ綾乃にとって、その中にいる自分一人の言葉が本当の意味で彼女の為になるのかと、懸命に悩み続ける綾乃を見ているとそう感じるようになった。

 

必死に一人で自分と向き合い続けようとしている彼女に、パートナーであることをいいことに甘い言葉をかけて綾乃の信頼をより得られたとしても、真の意味で彼女に良い変化を与えられているのか。

 

おそらく入学してすぐの弦羽早であれば、彼女の悩みを何とか自分が解決しようと奮闘していただろう。しかし今自分の存在が、好意の分類は定かでは無いが、綾乃にとって大きなものになってきているとは自負している。

影響力があるからこそ踏み出しにくい一歩。

ただこのまま悩み続ける彼女を横目に、流れに身を任せ続ける気も無い。

 

だから少しでも早く彼女の悩みが解決するよう祈り、少女の頭を優しく撫でた。

 

 

 

 

 




今回色々ミックスについて説明しましたが、まあこれもお約束の、絶対ではないですしこれだけってわけでもないです。
女性もゲームメイクをするに越したことはないので、やっぱり両方できるっていうのが一番良いですね。

いつも通りの諸説ありますってやつです。


綾乃の心境はやっぱり難しいですね。特に9巻以前は綾乃の悩みって文字で描写されているのが意外と、表情や行動で描写されてたりしますから。


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良いところって

ちょっと執筆が止まってるのでこうなったら週一投稿を意識しようかなと。
ただ最近忙しいというか、日常的ではなくて。



格上を相手にして戦う場合、その全てにおいて越えようとしてはならない。いかにして自分の強みを出して押し付けて、相手の強みを少しでも弱めるのが鍵となる。綾乃と弦羽早が世界ランク一位のペアに戦った時も、二人は自分達の強みを最大限に活かして戦った。

そしてそれを高校生の内にできる選手は少数であるが、しかし一定数の割合でいることは確かだ。

 

おそらくこれまで戦ったダブルスで、もっともそれを味わった試合が横浜翔栄の重盛瑞貴と大井康太のペアであろう。瑞貴は団体戦のレギュラーメンバーで、エース橋詰英美のダブルスパートナー。大井は弦羽早と準決勝で戦った男子で、こちらも男子ダブルスでインターハイ出場を決めている。

弦羽早と大井はミックスダブルスにおいても決勝を賭けて準決勝で戦う形となっていた。

 

二人は綾乃と弦羽早のペアに対し、チャレンジャーとして最初から試合に入っていた。そこに年齢による優劣などは存在しない。

 

動きの速い大井に対して、瑞貴は決して尖った能力を持った選手ではない。技術・体力において彼女より優れた選手はこの会場にも確かにいる。少なくとも単純な技術や体力だけを図った場合、ここまで残った人数以上には。

 

「前に詰めて!」

 

「了解ッス!」

 

後衛でスマッシュを打つ大井に対して瑞貴はそう叫んだ。元来のダブルスであれば、スマッシュを打つ後衛がその勢いのまま前に詰めて前衛と入れ替わる動きは珍しいものでは無いが、ミックスダブルスにおいてはあまり見ない動きだ。

綾乃のカウンタードライブに対し、大井はそのままネット前に詰めながらドライブで返す。

 

「前出る!」

 

「分かった」

 

しかし男子とのドライブ相手に引くどころか綾乃は詰めて応戦する。もっとも応戦と言ってもドライブで戦うのではなく、ネット前に落として一度シャトルの速度を遅くして時間にゆとりを生ませる。

大井は正面に来たネット前の球をバックハンドではたくようにしてプッシュを打ち込む。バックハンドでプッシュを打つ場合、どうしても鎖骨の作り状クロスに打つ場合には威力が減衰する。これはプッシュ問わずバックハンドに全般に言えることで、故にストレートを読んでいた弦羽早だったが、その読みに反してクロスへと飛んできた。

 

一瞬構えていた重心がグラリと揺れるが、すぐに持ち直してバックハンドへ飛んできたシャトルへとラケットを伸ばす。ただそのステップはリアクションステップでは無く、それまで癖となっていた足の運び方で、何とかシャトルに当てる形となる。

 

ストレートのネット前、つまり大井がいるポジションとは反対側へと送る。

 

そのシャトルに対して前に出たのが一度ローテーションの為に後ろに下がった瑞貴だった。その動きに無駄は無く、大井も瞬時にまたその球を瑞貴に任せて後ろへと動く。

 

パシンと再びネット前でダブルスの決め球でもあるプッシュを打ち込むが、しかし叩き落とすほどの甘い球ではなく、やはり“プッシュ”の名の通りの押し込む球となる。

それをがら空きのコート奥へと打ち込んだはずだが、瞬時に後ろに下がっていた綾乃によって再びネット前に返された。

 

それでも追い詰めているのはこちらだと二度、三度とプッシュを綾乃へと打ち込むが彼女は崩れるどころか、レシーブをした直後の1秒程度の僅かな時間で体勢を整えており、一撃目よりもレシーブの質が上がってきている。

ならばとあえてクロスにいる弦羽早のバックハンドへと打って意表を突こうとするが、背中を逸らせながらも安定したフォームから、バシンと後ろまでリターンされる。

 

「(やっぱりウチのプッシュじゃ決め球にはなりにくい。でも攻めは継続できている)」

 

大井の配球は一球目をストレートにいる弦羽早へのドロップ、そして二球目をやや綾乃寄りへとドリブンクリアを打つ。フォローに入ろうとした綾乃だったが、弦羽早の地面を蹴る音を察してその球を弦羽早に任せ、シングルスで言う中央(ホームポジション)に移動する。

 

「(ローテーションに迷いがない、互いにフォローし合っている。中央のお見合いを狙うのも楽じゃないか。でも中央の配球自体は悪くない)」

 

綾乃のシングルスにおいての強みである守り。それは混合ダブルスであるからと失われるものではない。守りというのは単純なスマッシュレシーブの話ではなく、今のこの状況がまさにそうだ。

今の弦羽早はネット前に来た球からすぐに後ろへと下がり、後ろへと飛びながら攻め球を打とうとしている。そうなった場合激しいカウンターが来れば、まず弦羽早は取る事ができない。

それを防ぐために綾乃は中央に構えており、弦羽早付近に返って来た球を除く全てを一時的に引き受ける態勢にしていた。

 

弦羽早は一先ず速いドロップ、ファストドロップをストレートに送ってネットに引っ掛けないように確実な一手を取る。今後ろに跳びながらスマッシュを打ち込むのはネットの危険性が高い。

 

「(羽咲は…まだコート中央! やっぱりこの二人も完璧じゃない)」

 

瑞貴はがら空きになっているネット前へとヘアピンを送って再びトップアンドバックの状態を作る。綾乃相手にネット前の勝負は避けたいところだったが、二歩前に出るだけでネット前にたどり着く自分と、大きく三歩を前に出して踏み込まないといけない綾乃とではそもそも立っている土台が違う。

 

その瑞貴の予想通り、綾乃のヘアピンを打つ体制はやや苦しく明確に浮いた。それをがら空きのコートへと打ち込むが、ダン!と大きな着地音と共に早いドライブが瑞貴の横を通り過ぎる。

大きく跳ぶことにより初速だけ爆発的に上げる弦羽早ならではのリアクションステップ。その技は何もシングルスに限定した話ではない。

ここまで来て尚帰ってくるシャトルに驚きはしつつも、彼女もパートナーである後輩も気は抜いていない。

 

「でも!」

 

「ラァッ!」

 

そのドライブを大井が再び空いているサイドコートへとドライブを打ち込んだ。踏み込んだ直後の弦羽早もネット前にいる綾乃もそれには追い付けず、コルクがコートの中へと落ちた。

 

『オーバー! 6(シックス)  ‐  8(エイト)!』

 

最後の一撃を決めた大井がガッツポーズを取り、瑞貴も彼に手を差し出して軽くハイタッチを交わす。観客席からは横浜翔栄だけでなく、他校の生徒からも歓声が上がった。未だ1ゲームでの失点が10点もいかない優勝候補のペアが初めて接戦を繰り広げており、他校の生徒も注目するのは自然であった。

 

「ごめん、素直に上げればよかった」

 

「いや、その前のドロップがまず駄目だった。フォローに入ってくれた綾乃に負担かけてたし、俺がまず上げるべきだった」

 

瑞貴が一点を得るのを確信したのは弦羽早のドロップだった。彼の言った通り綾乃がコート全てを担当している状況での速いドロップショットは、決め球になる可能性よりもカウンターを決められやすい。もしその時の弦羽早が万全の体勢からフォームに入っていればファストドロップも強力な一手になるが、やや後ろに追い込まれた状況からのドロップは読みやすい。それも速いドロップを打った分、相手以上に綾乃にテンポアップを要求する一打となってしまった。

 

「でも…」

 

「じゃあお相子って事で」

 

トンと綾乃の額にリストバンドを軽く当てて笑みを浮かべると、綾乃も少しだけ口元を上げて小さく頷いた。

 

「あ~…少なくとも、仲違いさせてコンビネーションを崩すのは無理そうだ」

 

「そっすねー」

 

軽く息を乱すパートナーの少年にチラリと振り向く。

ここまでの展開、確かにスコア上では競っているのは間違いなかったが、大井に掛かる負担がこれまでの試合とは比べ物にならなくなっている。

 

瑞貴が考えるこの試合の勝ち筋はやはり、いかにして大井の速さを活かして瑞貴が相手を翻弄しシャトルを上げさせ、攻めを継続するかに掛かっている。攻めると言っても生半可な一打では決まらないので、低い球を中心に組み立てていくしかない。

そうなるとラリーは長引き、更に相手の動きを翻弄する為に瑞貴はセオリーとは違う動きを行う為、その動きに大井が逐一合わせなければいけなかった。

 

話がラリー前にさかのぼるが、これが瑞貴の強み。視野が広く、試合の流れを見極めることに長けており、またできる事とできない事をハッキリと分別して試合を組み立てることができる。

これは堅実な配球を行える大井のプレイスタイルとマッチしており、この二人の組み合わせは監督である木叢が組み合わせたものだ。

 

目に見える形での強みは少ないが、しかし確実に勝ち上がれるペア。それは弦羽早や綾乃が目指すバドミントン(世界)では通用しないかもしれないが、しかし部活としてのバドミントン(今この場)では理想的なものなのかもしれない。

 

強者であるが故の声援と、強者故のアウェー。

どちらを応援したくなるかは人それぞれかもしれないが、これまで圧勝に次ぐ圧勝を重ねて来た二人に対しては、やはり横浜翔栄の二人を応援する声が多かった。また、声まで上げずとも内心で二人を応援する者もいる。

 

「これはひょっとしたら、ひょっとするかもだね!」

 

少し嬉しそうに声を上げるミキもまた、その中の一部かもしれない。彼女は二回戦目で件の二人にボロ負けしたので、横浜翔栄側を応援するのは不思議な事でもないが。

この子はどうして技術は高いのにも関わらず、その辺りの見極めが甘いのかと薫子は小さくため息を吐く。

 

「そんな訳ないでしょう。接戦も精々インターバルまで」

 

「え~?薫子ちゃんは羽咲さん達を応援してるの?」

 

「贔屓目などしておりません。単純に能力差があり過ぎる。あれだけの長いラリーが繰り返されて、かつ守りの状況が多くても、羽咲さんと秦野弦羽早はそこまで動いていない。その理由くらい分かるでしょう?」

 

「……分かんない!」

 

恥ずかしげも無く堂々と胸を張る、身体的にも精神的にも、ついでに学力的にも同学年とは思えない幼い彼女に薫子のため息が繰り返される。

 

「あなた、仮にもわたくしと共に優勝したんですからそれくらい分かりなさい。つまり横浜翔栄は僅か六点目で息切れする状況になるまで動いて初めて一点が取れるのに対して、リードしている羽咲さん達はそこまで動かなくても一点が容易に取れる。一点への重みが違い過ぎるのよ。横浜翔栄の二人が1ゲームを取るには、倍近くの点数を取るぐらいの労力がいるわ」

 

「た、確かに、あの二人から一点を取るだけでもしんどかったかも…」

 

つい数時間前に行われた二回戦目のことを思い出すと、ミキの肩が一瞬だけ揺れる。熱気の籠った体育館の中で振るえた肩は、当然肌寒さからくるものではなかった。

 

「結局のところ二人の強みはやはりミスの少なさと守備の固さ。それは各々シングルスで持つ強みでもあるのである種当然と言えば当然ですが、加えて互いのフォローにも迷いがない。あれだとコートの穴を見つけるのも一苦労でしょう。バカップルさをプレイにまで反映するなんて、ほんと、わたくしの中での羽咲さんのイメージが色々と…ハァ…」

 

「だ、大丈夫薫子ちゃん?」

 

 

 

『サービスオーバー! 9-9!』

 

遂に横浜翔栄が追い付いた形となった。

サーバーは瑞貴。レシーバーは出の速い綾乃。更にロングサーブに対しての戸惑いは無いのか、サービスラインギリギリに立って更に重心を前に出している。たったこれだけの事でもサーバーからすればかなりのプレッシャーとなり、サーブミスが増えやすい。

 

しかし瑞貴は臆さずにショートサーブから始める。まだ第一ゲームの中盤。ここで綾乃のプレッシャーに慣れておかなければ、ゲーム終盤の点数のプレッシャーが掛かって来た状況に耐え切れなくなる。

このラリーだけでなく、先を見通したショートサーブはネットを越えた直後に綾乃に叩かれる。とは言え浮いた訳でも無いので地面に叩き落とされるようなことはなく、大井のバックハンド側のサイドラインへと伸びる。

 

大井はクロスのネット前に打って一度逃げようとするが、しかし綾乃の出の速さについていけず一呼吸遅れてしまい、クロスと言うには角度が付かずに中央寄りとなる。

そして右利きの大井のクロスとなればそれは左利きの綾乃にとってはフォアハンドとなり、二撃目のプッシュはより勢いのあるものとなり、あっさりと大井のボディへと直撃した。

 

『オーバー! 10(テン)  ‐  9(ナイン)!』

 

これが薫子の言っていた一点の重みの違いだ。瑞貴と大井のペアが数十回に続くラリーの末手に入れることができる一点に対し、二人、特に綾乃のサーブレシーブは僅か数回のラリーであっさりと手に入れてしまう。

それは無数に存在する強みの一つ、右利きと左利きのペア。例えば今の状況、大井としては無理やりドロップを打たずにストレートにロブを上げることも可能だったが、そうなると右持ちの弦羽早にとってはフォアハンドとなる。そして素早い綾乃のプッシュに足を伸ばしながら、バックハンドでコート奥まで飛ばすのは際どく、どこに打つにしてもリスクが高かった。

解決策としてはそもそも綾乃のプッシュに一呼吸遅れた時点で不利な状況となっているので、そこに追いつくしかない。

 

それでも瑞貴は大井の強みを活かして、そして大井は瑞貴の動きを中心にして流れを切り替える。

特に瑞貴は大井の負担を減らす為によりペースを上げた。可能な限りプッシュを無理にでも打ち込み、プッシュの癖があるように植え付けて置く。そしてここぞと言うチャンスボールをあえてネット前に落とすことで二人の意表を突く。

また、大井が攻撃する時に彼の前に立ってサイドコートを開けておく。当然パートナーのスマッシュに対し、弦羽早がクロスに返せないなど思っていない。しかし開けて置いたコートへのリターンを誘導し、そこに瑞貴が下がりながら対応。そこから綾乃へスマッシュを打ち込み、彼女のカウンタードライブを男ダブで前衛を担当している大井に狩ってもらう。

 

11‐10

 

遂にリードを許す形で、横浜翔栄の二人が先にインターバルを取った。

 

「凄いなぁ」

 

「え?」

 

リードされているのにも関わらず上がっていた弦羽早の声に、強く握っていた水筒が滑りそうになった。喉奥に入り込んできたドリンクに咽てしまい、ケホッと数回咳が出る。

驚いた様子で自分の背中をさするパートナーに、綾乃は睨むとまではいかないが、しかし鋭い視線を向けた。

 

「凄いって、まさか相手のこと?」

 

「うん。大井さんはシングルスの時から配球が上手いとは思ってたけど、あの重盛って人にも色々教えられる」

 

「は…?」

 

大井に関してはまだ分からないでもない。大井は県大会で唯一弦羽早から1ゲームを取った選手でもあり、彼の配球が上手い事は弦羽早も言っていた。

しかし重盛瑞貴。彼女はハッキリ言って特別上手くない。ラケットワークが良いわけでもなく、動きが俊敏なわけでも体力があるのでもない。インターバルを取られたのは何かの間違いかと思いたくなるように、彼女には武器になるものも盾となるものも存在しない。

 

「弦羽早はさ、その…、シングルスでもあの人との試合、負けてた時も少し楽しそうだったよね…? それは、どうして?」

 

ギュッと右肘を握って細々としたトーンで問いかける彼女に、また弦羽早は一瞬だけ間を作らざるを得なかった。また一つ綾乃の中での変化の兆しが見えてきている。

追い詰められたような、あるいは切なげにも見える彼女の張った顔は、彼女の心の余裕の無さをそのまま表れしてくれている。

不謹慎かもしれないが、その分かりやすさは弦羽早にとっては助かった。

 

「どうして…か。それは俺が努力して手に入れられる物を持っているからかな」

 

「努力して、手に入れられる物…?」

 

「うん。例えば体格とか体質とか、そういうのはどうしようもない事だけど、大井さんの相手を崩す配球とかはもっと努力すれば手に入れる。あと、重盛さんは…」

 

ここで弦羽早は少しばかり言いよどんだ。

瑞貴の美点はメンタル的な部分に集中していた。

本気で自分達に勝つ為に戦う前向きな性格や、諦めない心だけでなく、こちらの強みをきちんと理解してくれている。つまり自分達をリスペクトして、その上で戦ってくれている。

彼女の一打一打の丁寧さと、点を欲する誠実さがそう表しているように弦羽早には見えた。

それは選手としてもあるが、人として尊敬できるような人物。

 

綾乃(あの子)は学ぶべきことが多い”

 

「…彼女も…うん、努力とは少し違うかもしれないけれど、でも、常日頃から意識すれば多分、あんな風に上手く戦えるようになれる気がするな」

 

一週間前の有千夏との会話を思い出し、弦羽早はあえて全てを語らずにそう返した。あたかも自分もよく分からないかのように。

勿論、弦羽早も瑞貴とはこの試合が初対面で、彼女とはコートの外では話した事すらないので彼女の本質なんて分からない。ただ悪い人間で無い事は自信を持って言えるくらいには、弦羽早もまた人生でコートの中にいる時間は長い。

 

「…そう、なんだ…」

 

また綾乃の中に現れる寂しさ。

弦羽早の言っている意味を頭で理解できても、感情で読み取れないのはやはり自分が間違っているからか。

 

人間とは必ず自分が中心に存在する為、自分が普通だと思って生きている。客観的に世間の平均から見て自分を評価できる人は多くは無い。

だが自分と弦羽早の差を見ていると、間違っているのは自分だと思うに値する出来事や結果が多く存在した。

 

「ねえ綾乃、覚えてる? 合宿の時、綾乃の悩みはバドミントンの中で解決していく筈って言った事」

 

「あっ、うん」

 

勿論その言葉は覚えていた。ただ常日頃から頭の中にあったかと言われるとそうでもなく、少しだけ頷くのがよそよそしかった。

 

「だから大丈夫。せっかくこんなに楽しいバドミントン(試合)ができるんだから、目いっぱい楽しもう」

 

そう優しい笑みを浮かべる彼はとても同い年に思えないくらいに落ち着いて、包容力があって。

かつて苛立ちを覚える程に優しい彼の存在は、まるで深々と根を張る大木のように背中を預けたくなる。

 

「ん、分かった」

 

弦羽早の拳と合わせ、スポーツドリンクを再度一口飲むと、再びラケットを持ってコートへと戻った。

 

 

 

サーバーは瑞貴でレシーバーが綾乃と先程もあった状況。

綾乃はジッと汗の拭かれた瑞貴の顔をネット越しに見つめる。そばかすが印象的な普通の少女だ。強気な吊り目をしているがそれでも素朴といったイメージが浮かぶ。

弦羽早が学ぶべきことを持っている相手。

それを探そうとジッとより深く見つめ続けていると、瑞貴の肩が小さくビクッと震え、その反動で無意識の内にサーブを打ってしまう。精神状態の乱れた中でのショートサーブが良いもののはずはなく、ネットに引っ掛かりせっかくのリードをドブに捨ててしまう形となった。

 

「(…ほんとにこの人が何かを持ってるの?)」

 

ラケットを降ろして一呼吸入れた弦羽早に振り向き、訝し気な視線を向けると彼は軽く苦笑した。

集中してその瞳が暗くなっている事におそらく綾乃は気づいていないのだろう。ただでさえプレイ内容だけでも彼女にサーブを打つ時のプレッシャーは大きいが、加えて夜の路地裏のように暗い瞳を向けられたら手もブレるだろう。

 

瑞貴からパスされたシャトルを受け取ると、サーバーの綾乃が打つのを合図にまたラリーが始まる。

レシーバーの瑞貴は綾乃を抜く為に、彼女のバック側へとハーフ球を打つが、綾乃のバックハンド側と言うことはつまり弦羽早にとってはフォアハンドとなる。バシンと激しいドライブが正面の瑞貴へと伸びるが、構えていた彼女はすぐにラケットを立てる。

しかし重心の乗ったドライブは彼女の想像以上の反発力を生んでしまい浮かび上がり、ネットの白帯を越えた直後に綾乃のラケットによって叩き落とされた。

 

『ポイント! 12(トゥエルブ)  ‐  11(イレブン)!』

 

そこからは薫子の予想通りの展開となっていた。

まず序盤に動きすぎた大井がペースダウンし始め、同時に瑞貴の集中力も切れかかった。瑞貴は最終局面まで見通してはいたが、しかし一点を取る度に多くの集中力を労し、やはり技術の差を埋めることができなくなっていた。

 

それでも彼女達は最後まで諦めなかった。自分が出来る限りの事を行い戦い続けた。

 

『ゲーム! マッチワンバイ羽咲、秦野!

21(トゥエンティワン)  ‐  13(サーティーン)

21(トゥエンティワン)  -  7(セブン)!』

 

大きく肩を揺らして顔を始め体の節々から汗を垂らす瑞貴と大井に対し、微かに呼吸が荒いだけの二人はネットの上で握手を交わした。

結局綾乃には、弦羽早を引き付けた瑞貴の良さというものが分からなかった。強いていうなら諦めずに戦うところだろうが、それ以上に技術と体力が追い付いていない印象だった。

 

「ありがとね。本当の混合ダブルスっていうのを見せて貰った。アンタ達と戦えたことは、きっと数年後にはバドやってない人にも自慢できることになると思う」

 

ギュッと自分の手を強く握り絞めるバドミントン選手にしては少し日焼けした肌に視線を向ける。微かに震えるその腕に、綾乃は再度瑞貴の顔を見つめると、少しだけ目が潤んでいるように見えた。ただその泣き顔は怯えるようなものではなくて、自然な形で口元が少しだけ上がっていた。

 

「えっと、どういたしまして…?」

 

期待、されているのだろうか?

プラスの感情が籠められた彼女の言葉に、慣れていない綾乃の返事は少し棒読みになっていた。

それを少しだけおかしそうに瑞貴は笑いながら、強く握り絞めた手を緩めて。

 

「でも団体戦じゃ絶対に負けないから覚悟しといてね」

 

「あ、うん。楽しみに…してるよ?」

 

勝利者サインを二人分纏めて書き終えた弦羽早に、綾乃は小さな声で話しかけた。

 

「ねえ、あの…瑞貴ちゃんの良いところって、さっきみたいなところ?」

 

チラリとスコアシートに書かれている瑞貴の名前を確認する。彼女にとって年上を下の名前でちゃん付けで呼ぶことはなんら違和感のあるものではないらしい。

弦羽早はスコアシートとボールペンを審判の男性に返しながら、監督の優しい笑顔に迎えられていた瑞貴と大井を横目で見つめる。

自分よりも強い相手にも全力で立ち向かえる意欲、そこに行きつくまで諦めずに考え続けるメンタリティと、負けても相手を褒めることができる人格。

弦羽早が第一ゲームのインターバル前に感じていた事は間違っていなかったらしい。

 

「多分、そうだと思う。いい人だったね」

 

「そだね。優しい人だった」

 

ぴょこぴょこと揺れる瑞貴の短いツインテールを見つめながら、少しだけ弦羽早の言った意味を心で感じられた気がした。

 

 

 




瑞貴ちゃんって(はねバドには珍しく)ほんといい子だよね。



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県大会決勝

普通に1日勘違いしてました。てっきり前回土曜日投稿したと思ってた。
非力な私を許してくれ。




混合ダブルスの決勝戦はやはり予定調和というべきか、綾乃と弦羽早ペア、望と相模原ペアが上がって来た。

綾乃と弦羽早以上のダークホースが現れることはなく、運営側もこの決勝を見越してのトーナメント配置なのかもしれない。

 

打倒北小町に燃える逗子総合の監督倉石は、今日の試合内容を記録したノートを穴が開く程に鋭く睨みつけていた。

書いてあるのは自分のところのペアと、予想通り上がって来た綾乃と弦羽早ペアの試合内容。加えて録画までしているのだから本気度が伺える。

 

ただダブルスの厄介なところが、シングルス程にダブルスには駆け引きというのが存在しない。勿論全く無い訳では断じて無い。ただダブルスではある程度低い球が基本となる以上打つ球も限定的になる。少なくとも攻めている状態で、動かす為にとわざわざ高い球(ロブ)を打つような状況は早々起こりえない。

故になぎさが綾乃戦でやったような、スマッシュを温存して戦うと言った駆け引きなどは通用しない。

 

倉石はアップに入っている望と相模原に視線を向ける。二人とも今日の調子は悪くない、むしろ良い方だった。

対して決勝の相手である綾乃はメンタル面にややブレが見られた。ただそのメンタルのブレがプレイに影響を及ぼしていないのが厄介であるが、しかし本来以上の実力を発揮できる状態だとはまず言えないだろう。そこは細やかな朗報ではあった。

 

これまでの二人の試合に対して倉石はあまり指示を出さなかった。基本的に二人に任せた状態で試合に入らせ、状況によってアドバイスを送る。それは二人のコンディションを確認する為と、個人シングルスが終わってからここ二週間での練習内容を発揮できているかの確認。

だが決勝となるとそうも言っていられない。

 

「(正直まだ羽咲秦野ペアを少し甘く見ていたな。ダブルス本職の秦野がシングルスより能力が劣る訳がない。そこに羽咲の尖った動きが噛み合っている)」

 

ダブルスにおいてスマッシュが速い相手とレシーブが上手い相手。どちらが相手にして嫌かと言うと、後者であった。理由はいくつかあるが、もっとも単純な理由が疲れるから。一打で崩せない以上何度も攻撃を繰り返さなければならず、加えて点を取るために時に全力のスマッシュを連打しなくてはいけなくなる。

 

そしてこれまでの試合展開ではほとんど相模原のエースショットであるジャンピングスマッシュが男女問わずに一撃で決まっていたが、今回はそうもいかない。

 

「石澤、相模原、今から戦略を伝える」

 

「「はいッ」」

 

混合ダブルスのインターハイの枠はたったの一つ。その一つを狙う二人の返事には覇気が籠っていた。

少なくとも欠片も弱気になっていないことに倉石はたらこ唇を小さく上げながら、得点を取るパターンとしていくつかの考えた内容を伝え始めた。

 

 

 

一方綾乃と弦羽早も、健太郎からコーチングを受けていた。もっともそれは具体的な指示と言うよりも、メンタルケアに近い雑談とも言えた。出来る限り緊張状態を解す様に、特に綾乃に関しては個人シングルスで優勝できなかったことから、力み過ぎて試合に入ってしまう可能性があったので、綾乃には多く話しかけていた。

 

二人はあまり細かいパターンと言うものは決めていない。それは対戦相手を舐めているからではなく、そのプレイスタイルと合わないから。意外性が強みである綾乃に事前のパターン攻撃などは毒にしかならず、また弦羽早もシングルスを通して少しずつ綾乃寄りになってきている。

 

今日は北小町の面々も全員揃っていたが、やはりエールを送る事はできても二人にはアドバイスなどは出来ない。

故に二人は“待つ”と言うより“潰す”ように時間を過ごした。

 

弦羽早は主に理子と、今日のダブルスを話題に次の団体戦のダブルスの動きについて話しており、綾乃は基本ジッと静かにしており、話しかけて来たエレナとのり子に相槌を打つように適当に会話に混ざっていた。

 

そして決勝開始のアナウンスがアリーナに鳴ると、各々ラケットを手にコートへと足を踏みいれた。

 

「よろしく頼む」

 

「はい」

 

コートの中での口数は少なく、相模原と弦羽早の最低限の挨拶だけが交わされ、女子二人は口を開かずに、望は腕を伸ばすストレッチをして、綾乃はその場でピョンピョン数回跳ねて体を動かすだけ。

それだけお互いにこの試合に掛ける集中力の高さが伺える。

 

相模原としてもシングルスで弦羽早に負けた雪辱を晴らし、望とのダブルスを終わらせないためにも。

望に関してはこの中で唯一個人シングルスにおいて、去年に続きインターハイ出場を果たせなかったので、何としても混合ダブルスこそはと、一番静かに振舞っておきながらも勝利への渇望は大きかった。

 

綾乃と弦羽早も当然、目標である全国一位の為には一敗も許されない。リストバンドを重ね合い、最後の一戦に集中して入り込む。

シングルスとは違い最初から疲労が溜まっている状態でもない。各々の身体的コンディションには問題は無い。

 

『オンマイライト。北小町高校、羽咲・秦野。オンマイレフト、逗子総合高校、石澤・相模原。サーバー羽咲。ラブオルプレイ!』

 

マイナーな種目の混合ダブルスだが、観戦する者達の数はこれまでの試合とほとんど変わらない。そもそも混合ダブルス事態に出場していない者も、この試合を見る為にと足を運んでいたりもする。

去年の県大会優勝にしてインターハイ出場者と、今年の優勝候補の一年ペアの決勝戦は、それだけ事前から注目を浴びていた。

 

トンと綾乃の緩やかなショートサーブからゲームが始まった。

キュッと望のシューズが床を蹴る音が鳴ると、彼女はシャトルに潜り込むように体勢を低くしながら頭の高さに持って来たラケットで微かにコルクを擦らせるようにヘアピンショットを正面に送る。

 

「(いいヘアピン)」

 

少しでも浮かせない為にあえて体を潜り込ませて、際どいショットを打ったのだろう。確かに、このヘアピンをプッシュする事は不可能で、また綾乃でも白帯スレスレかつ、ネット付近に落ちるこのヘアピンに対してロブ以外の選択は取りたくない。

 

一度クロス、つまりストレートが弦羽早になるようにロブを打って様子見をする。

 

相模原のスマッシュは弦羽早の決勝戦で何度も間近で見ていたが、やはりダブルスとなると一段と速いスマッシュが来る可能性がある。となれば、数回は既に彼のスマッシュを受けている弦羽早の正面へとシャトルを送って様子見をしたかった。

 

180㎝を越える長身、長い手足と恵まれた体格。バドミントン選手にしては重量のある体を支える膝のバネは柔らかく、大きく跳びあがる彼の姿はバスケのダンクシュートをするかのように地面と足の距離が離れている。

空中でコンマ数秒ほどの刹那の溜めを作った後、バシン!とまるでシャトルが爆発したかのような激しい音がアリーナに鳴り響く。刹那、弾丸の如きスマッシュがストレートにいる弦羽早へと飛ぶ。

 

ここまでの試合、ほぼ全てキルショットとなったエースショット。しかしそのシャトルはパン!と同じく少し高い大きな音と共にストレートのロブで返された。

相模原と望に負けた選手たちの多くが、そのレシーブに感嘆の声を上げる。

綾乃と弦羽早がこれまでの試合1ゲームも落とさずに圧勝してきたのに対して、望と相模原のペアもまた1ゲームも落とさずに圧勝している。二年生の時点で優勝し、インターハイに出場していると言うことは、それだけの実力とコンビネーションを持っているのだ。

 

二撃目のジャンピングスマッシュは、互いにフォアハンドの状態となっている中央。ただそれも弦羽早が対応して、クロスへと低めのリターンロブで返す。

このクロスへのロブも、一件先程のロブとそこまで変わらないように見えるが、実際はかなりの技術を要した一打であった。

左サービスコートに立つ弦羽早は、今のレシーブを右手のフォアハンド側でクロスへと返した。フォアハンドでラケットを振った場合、当然ラケットは右から左へと振る形となるので、ラケットの面は正面、あるいは左へと向きやすい。ここから右側へと返すには面を右側へと向ける必要があり、その為に弦羽早は手首を僅かに手前に捻って角度を無理やり作り、クロスへと送り込んでいる。

 

しかし何事にも限界はあり、流石にその打ち方で大きく弧を描くロブは打てない。故に前衛の望が、シャトルの軌道線上にしっかりバックハンドの状態で迎い入れており、シャトルが当たる直前に手首を鋭く捻って、落ちるような角度のあるプッシュを綾乃の手前へと打ち込む。

 

綾乃はシャトルと地面の間にラケットを滑り込ませるようにしてドライブで打ち返すが、やや浮き気味になってしまい、飛び掛かった望のラケットが振り下ろされた。

 

『オーバー! 1(ワン)  ‐  0(ラブ)

 

「いいショットだ石澤」

 

「ありがと。スマッシュいいコースだった」

 

軽く触れあう二人の手は、まさに本物のダブルスをやっており様になっていた。綾乃も地区大会の時のように苛立ちを覚えたりは微塵もしない。

パートナーが相手にシャトルを渡し終えると、互いのポジションにつく僅かな時間にこちらも手を合わせてコミュニケーションを取っておく。

 

「楽しいよ、弦羽早」

 

「うん、俺も」

 

綾乃の中には未だごちゃごちゃとした感情で溢れている。悩みの数だけで言えば、バドミントンを再開してすぐの時よりもむしろ今の方が増えているかもしれない。

それでもこうして弦羽早とダブルスをするのは楽しく、同時に最近は安心感を覚えていた。彼が同じコートに立っていてくれる限り、自分と言う存在が肯定されているのだと。

だからこそ、悩みを忘れるまで純粋に試合に入り込める。

 

サーバー、レシーバー共に男子となり、女子は互いにサービスラインギリギリに立っていた。

 

綾乃もまた、混合ダブルスでのサービス周りの立ち位置をセオリー通りに変えていた。かつて弦羽早を見下していた綾乃は存在しないことを、バドミントンのプレイが証明していた。

 

相模原のショートサーブに弦羽早のヘアピン。元来のダブルスであれば、サーブとレシーバーが共に前に出るところだが、男子二人はすぐに後ろに下がり、女子二人が前に出てネット前でヘアピンを交わす。

綾乃のサイドラインギリギリに落ちるヘアピンに対して、望は上体を僅かに崩しながらも打つ直前に手首を捻った。

 

「(クロスッ!)」

 

反対側のネット前へと伸びるシャトルは綾乃にとって意表を突かれる形となったが、すぐに左足で地面を蹴って右へと跳び付く。しかし望のクロスのヘアピンは中々ネットを越えずに思うように叩けず、ようやくネットを越えた頃にはダブルスのサイドライン数センチ内かつネット寄りと、プロも顔負けの芸術的なヘアピンで、流石の綾乃もプッシュはおろかヘアピンも厳しく低めのロブで自分の体勢を整える。

 

相模原は自分の左頭上側へと伸びて来たシャトルを綾乃がいない反対側へドロップショット。

 

「取るよ」

 

パートナーのその声に綾乃はシャトルを追いかけようと足を踏み込むのを辞め、数歩後退して守備の状態へと移っておく。

フォローに入ってくれた弦羽早は相模原を左右に動かす様なストレートへのロブ。それは相模原にとってフォアハンド側のチャンスボールとなるが、スマッシュを警戒する戸惑いなどは微塵も感じられない。

こうなったら相模原もわざわざフルスマッシュを打つ必要はなく、つなぎの球として七割程度の力でのスマッシュを一発目に打つ。

当然のように返って来た二打目をバックハンド側へ全力のフルスマッシュを打ち込む。その緩急に僅かに体を逸らしながらもシャトルを押し出す様に再びストレートに返す。

 

「(決まらないな…なら!)」

 

三打目のジャンピングスマッシュはクロスにいる綾乃のサイドライン側、つまりバックハンド側だ。クロスに打つことはそれだけ距離が生まれ、シャトルが減速する為に決め球にはなりにくいが、しかし意表をつけば存外あっさりと一点を取れる可能性がある。

 

とはいえやはり集中した彼女相手に隙などそう突けない。飛んできたシャトルに対して激しいドライブカウンターでストレートへと弾き返す。すぐさま望がフォローに入ってネット前でタッチするが、カウンターと同時に足を前に出していた綾乃がそれをクロスのミドルコートへと軽いプッシュではたく。

それは望のカバーに入ろうと、足を進めていた相模原の反対を突く形となり、一点となる。

 

『オーバー! 1(ワン)  ‐  1(オール)!』

 

「(なんて出の速さ…)」

 

これまでも綾乃の試合はコートの外からだが見ていたので理解しているつもりだったが、いざ相手にするとなるとこの速さが生み出すプレッシャーは重い。

相模原のクロスのスマッシュからの今の一連の流れも、時間にすると三秒もないかの速い展開。また、今の望のタッチも決して大きく浮いたわけではなく、綾乃の出が一呼吸でも遅れていたらプッシュが無理な高さまで落ちていた。

 

“羽咲のプレッシャーはまず考えるな。あいつを意識し過ぎるとその時点で向こうのペースだ”

 

倉石のアドバイスの一つだ。確かに彼女の速さに付いて行こうと考えれば考える程に、頭の中が混雑して渋滞していく。

望は一先ず今の失点については忘れることとした。確かに失点の直接的なショットを打ったのは望本人であったが、今の綾乃のカウンタードライブを通してしまうと後衛の相模原の負担が大きくなってしまう。パートナーのスタミナを守った失点だと切り替える。

 

続く二点は弦羽早のショットを中心に綾乃が決める、理想的なパターンでの連続得点となった。弦羽早のスマッシュは相模原のように速くはないので取れない訳では無いが、ただ重くレシーブが浮き易い。そして浮かぶレシーブを二回続けて綾乃にパスしてしまったのは、相模原であった。

 

「すまん、また浮いてしまった」

 

「羽咲のこと意識し過ぎてない? 無理してロブ打たなくても、ドライブ使っていいから」

 

「うむ、切り替える」

 

パンと岩のようにゴツイ顔を叩いて気持ちを切り替えるパートナーに、両親がはまっている時代劇の田舎の武士を連想してしまう。彼ほど実力がありながらも、バドミントンの軽いラケットが似合わない選手もそういないだろう。

くそ真面目という言葉が似合う彼の言動に望はフッと笑いながら、ラケットを構える。

 

続くラリーも綾乃がハーフ球でロブ球を誘い、弦羽早が打つ形が作られる。

最初の低めのロブに対して、弦羽早は横に跳びながら二人の間に落ちるようにドロップショットを打ってより高めのロブを誘うと、望が弦羽早を動かす為に自分のストレート方向へと上げた。

 

「(多分石澤さんには重い球は通じにくいか)」

 

背中を逸らせて打つラウンド側と言うのもあり、弦羽早はスマッシュを避けて、一旦望にクリアーを打って一度様子見をする。

 

「(ぐっ…)」

 

弦羽早としては特に攻撃の目的でのクリアーでは無かったが、基本前を担当する望にとってわざわざフォアハンド側に打ってまでクリアーで返してくるのはいささか予想外だった。

綾乃の立ち位置を確認すると、綾乃の反対側へとクロスのカットドロップで同じく様子見。

 

ここで上げてくれると助かるのだが、綾乃がそんな優しい球を送ってくれる訳もなく、速めのカットドロップに対しても得意のラケットワークを活かして、その勢いを上手く殺してネット前に落とす。

 

フォローに入ってくれた相模原がロブを上げて、またこちらは守りの陣形となっている。

 

中々トップアンドバックにすることを許してくれないのもまた、彼らがこれまで戦ってきたペアとは訳が違うことを意味している。

大抵の選手であれば、どうしても目先の時間を得る為のロブが多く、また失点が続くと、実力差が出る速い展開を嫌って上げ癖が現れる選手は珍しくない。

 

弦羽早のドロップとスマッシュを混ぜた攻撃を数回耐え切ると、相模原が強気に出た。

 

バックハンドへと伸びて来たスマッシュに対して持ち前の筋力とリストの力を利用した荒業で、強烈なドライブで弾き返す。コースを狙う程余裕のあるレシーブではなかったが、予想外の速度に綾乃のラケットタッチがガットではなくフレームに当たる形となり、カンと音を立てて綾乃の足元にポトリと落ちた。

 

『オーバー! 2(ツー)  ‐  3(スリー)!』

 

「いいぞ相模原!そのカウンターだ!」

 

パンパン!と良く響く拍手と声援はコーチ席に座る倉石のもので、今日はずっと静かだった彼も遂に我慢の限界に達したことが伺える。

あれ程嫌だった彼の大声も今では頼もしい声援の一つになっているので、人間何があるか分からない。

 

望はチラリと観客席を見上げる。自分と一緒に戦ってくれる逗子総合のメンバーに軽く手を振った後、そこから少し離れた最前列に座る、短髪の少女と目が合う。

 

「(待ってて荒垣。この二人に勝って、絶対アンタに追いついてやる)」

 

シャトルの羽を摘まむ左手にギュッと力を籠めて、二週間前の試合を思い返す。個人シングルスの準決勝において、望はなぎさに1ゲームを取り、どちらが勝ってもおかしくない際どい試合を行った。

だがもし仮に自分が決勝に上がったとして、それで綾乃と戦って勝てたかと言われると、おそらく横浜翔栄の橋詰英美と似たような結果になっていただろう。

神奈川の三強の一人をあっさりと下せるけた外れの実力を綾乃は持っている。しかしなぎさはその壁を乗り越えて勝利を得た。

 

おそらく今の自分がなぎさと戦えば、何回挑んでも結果は同じであろうと望は考えていた。

 

「(世界ランク一位を倒したペア。壁として、こんなにいい相手はいない!)」

 

 

 

 




雑談なんですが、ゼノブレイド2というゲームに出てくるニアってキャラがプレイ時のお気に入りだったんですが、声優さんが綾乃ちゃんと同じ方だと知ったとき嬉しくなりましたね。

にゃにゃにゃにゃにゃー!って叫ぶのすこ。


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どんな強い相手だって

試合のハードル上がっているようなので、今回の話投稿するのちょっと心苦しい。


一点の重みが違うと、準決勝を見ていた薫子は言った。

バドミントンにおいて失点の多くはミスで、床に落下しての一点というのは印象的なので多いように見えるが、割合的にみるとそこまで無い。

ミスによる失点とはアウトやネット。ただそのミスは当然レベルが上がる程に減っていき、自然長いラリーが続く。

 

綾乃と弦羽早のペアのミス率の低さは会場一だろう。綾乃のミスの少なさは全国的に見ても三本の指に入る程のシャトルコントロールなのに対し、弦羽早のミスの少なさは無理して際どい球を打たない安定志向のプレイやコースが多い事から。当然相手からすれば綾乃の際どい一打が厄介なのだが、それもただ厄介なのではない。

弦羽早が安定してコートに入れて来るので彼の球はインだと判断できる。と言うより、判別する必要性が無い。

対して綾乃の球は判別が際どくアウトの可能性が脳裏を過り、僅かに打つのが遅れる。

ただ常にコートの中に入れてくる弦羽早がいるせいで、ギリギリ入っていると思い込んでつい打ってしまう。実際アウトの球を何本か打つ状況があった。

 

そしてミスが少なく加えてレシーブも強いペアを相手にする場合、ミスをせずに攻めを継続していかなくてはならない。

 

「アウト!」

 

シャトルに跳び付こうと膝をバネにジャンプする弦羽早だったが、綾乃の声に瞬時に反応し空中で体を逸らしてシャトルを避ける。シャトルの軌道を見届けながら着地した弦羽早は、自分の足とほぼ同時に後ろのバックバウンダリーラインからコルク一個分外に落ちたシャトルを見届ける。

線審もちゃんと見てくれており、迷いなくアウトのサインを取った。

 

望と相模原のペアは確かに点を取れてはいた。しかしその反面、失点も多かった。

今のようなアウト。ネットに引っ掛かる、サーブミスなど。

それらは二人の技術不足ではなく、そうさせられていた。

 

「いいコースだった!修正する必要はない!」

 

ガットを確認してどこでシャトルを打ったか位置を確認する望だったが、倉石の声にハッと我に返ると、すぐさまガットから視線を逸らした。

 

守りが強いペアに対して攻撃する側としては、どんなショットを打っても返されてしまうので、決める為により際どい球を打たざるを得なくなる。そしてここで決めようと思った瞬間にネットに引っ掛かけたり、あるいは力を籠めすぎてアウトになってしまう。

そのことを予め倉石から聞いていたので、望はすぐに反省する気持ちを切り替える。

 

「ナイッセ」

 

「何枚だった?」

 

「一枚、かなり際どかった」

 

「ん、おっけ」

 

“枚”というのはラインからコルク何個分離れているかという数え方。

自分が思っていた以上にギリギリだったショットに綾乃は少しだけ眉を動かすと、渡されたシャトルを持ってサービスラインに構える。

 

ここまで綾乃と弦羽早のペアの強みばかり言ってきたが、では相模原と望のペアに強みが無いかと言われると全くそんな事はない。

 

まず相模原の強みはシングルスと同様に強いリストを利用した、際どい体勢からの鋭いドライブ。ドライブが多用されるダブルスにおいて彼のその強みは損なわれない。そして彼のジャンピングスマッシュは、ただ当てずっぽうに打てば返されるが、しっかりと緩急とコースもふんだんに使えばやはり十二分な主砲となる。

また彼の背丈の高さと長い手足によるカバー範囲は尋常ではない。

 

綾乃は自分の元へと上げられたクリアーに対して、再度望にクリアーを送って相手の出方を伺う。

彼女がシャトルを打つ瞬間に、小さく跳んであらゆる球種に備えつつ、前に落ちて来たドロップショットにすぐさ詰め寄ると、空いている反対側の右奥のリアコートへとロブを送って望のラウンドを狙った。

しかし綾乃の顔を覆うように突然影が差し込むと、綾乃を見下ろす様に高く跳びあがる相模原がラケットを頭の上で構えていた。

 

「なっ…?」

 

巨人の如き高く跳ぶ彼の形相は、まるでこちらを不倶戴天の敵とでも見ているかのように険しく、振り下ろされた彼のラケットに綾乃は思わず身を守るようにしゃがんでギュッと目を瞑る。

綾乃の選択は間違っては居らず、先程まで綾乃の顔があった場所の付近にシャトルが叩き落とされた。当たっても野球のデッドボールほど痛くはないだろうが、初速数百キロのシャトルが顔面に飛んでくるのは怖いものは怖い。

一応弦羽早が返そうと手を伸ばしているが、理想的なカウンターキルショットだった。

 

「…あれ届いちゃうのズルでしょ」

 

「読まれてたみたいだね」

 

「…届くって分かってたらあのコースに打たなかったし…」

 

フィジカル面において恵まれていないことを自負している綾乃にとって、今のフィジカルの強みを押し付けられた失点はやや不満足のようで、少しばかり不貞腐れたように目を細めていた。

その不機嫌さは高校で再会して間もない頃の綾乃を見ているようで、不謹慎ながらも可愛いという感想が浮かぶ。

 

ムスッとした表情のまま弦羽早と手を軽く合わせると、綾乃はチラリとスコアボードに視線を向ける。

 

15‐12

 

こちらがリードしているとはいえ点差は小さい。もっと余裕を持って勝てると思っていたが、三点差など気を抜けばあっという間に抜かされる差だ。

 

次のラリーでは望の強みが出た。

綾乃のドライブショットから速い展開が続き、ボディ周りへと押し込んでくるショットに相模原は体を僅かに逸らしながらも対応。そして綾乃のバックハンド側のサービスコートへドライブで返す。

一度跳び付こうとした綾乃だったが、無理やりフォアハンド(ラウンド)で打ち込むのは厳しいと判断して見送ると、すぐ後ろまで詰めていた弦羽早のドライブがストレートにいる望のバック側へと打ち込まれる。

 

基本的にバックハンドにドライブやスマッシュを狙う理由としては、それが決め球になるというよりも、レシーブのコースが限定されやすく前衛が読みやすくなるため。特に自分の体より前でシャトルを返せなかった場合、レシーブはまずストレートに限定される。

だがそれも絶対ではない。

 

速い展開からのドライブショットに望はラケットを運ぶ腕がワンテンポ遅れ、身体の隣でシャトルを打ち返す形となる。そこを見ている綾乃の重心が望のストレート側に傾くが、その読みは外れた。

望は打つ直前に手首を大きく捻ると、無理やりラケットの面を斜めにしてクロスへと返球した。シャトルの軌道は白帯の上数十センチを超える、お世辞にも完璧なレシーブとは言えなかったが、そこは完全な穴となっており、多少浮いたところで問題もなかった。

 

『ポイント! 13(サーティーン)  ‐  15(フィフティーン)!』

 

望の強みは肘と手首の柔らかさと、安定してガットの中心のスイートスポットに当てられる精度の高さ。

重みのある球に対してもラケットを柔らかく持って迎えることで、シャトルの重みに対して押される事なく上手く返球できる。

また、手首の柔らかさは今みたいな差し込まれた状況でもクロスに打って相手の意表を突くことを可能にしていた。

力加減にまだ甘さがあるので綾乃程のコントロールは持っていないが、逗子総合のエースだけあり素質は十分に持っている選手だ。

 

「流石のレシーブだ。そのまま羽咲の逆をついてくれ。そうしたらあの速さも少しは落ちてくれる」

 

「ええ。相模原も隙を見て起点を作って。そこを叩いてみせる」

 

互いの強みが活きた二連続得点で流れに乗った逗子総合ペアは更に二点の連続得点を得て、同点まで追い上げて来た。

 

それまで他者を寄せ付けなかった強者によるペア同士の試合は会場を大いに沸き立たせるには十分な試合展開であった。

 

世界ランク一位を倒したペアが一方的に勝つと思っていた者からすれば目から鱗だろうが、しかし個人競技とはそんなものだ。その日その日の調子や集中力、試合展開や流れ、相手との相性によってジャイアントキリングなどは十分に起こりえる。また、第一ゲームでは大接戦を迎えていた試合も、第二ゲームでは十点以上差を開いて勝敗を決すること珍しいものでもない。

 

 

 

綾乃は自分の胸にそっと手を当てた。

ドクンドクンと心臓の鼓動が手に伝わり、疲労だけでなく、感情の高ぶりから来ているものだと分かっていた。

 

「(楽しい)」

 

それはなぎさと戦った時とは毛色の違うもの。

なぎさとの戦いは、それまでの綾乃が密かに抱いていた孤独を埋めてくれた。

 

でもこのダブルスで感じられる楽しさは、二人で戦うからこそ得られるもの。

互いの強みを活かし理解することで、互いの動きが噛み合っていく。自分一人では取れない球もパートナーが返してくれ、パートナーが辛いときは自分がコートの全てを引き受ける。

二人で守り、二人で攻める。

ずっと一人で戦っていた綾乃にとって心の底からコートの半分を信頼できる存在がダブルスというのは、ほんとに楽しかった。

 

「弦羽早、一本取るよ!」

 

「ああ!」

 

差し出した手の平に、それまで敵地に足を踏み入れたかのように真剣な顔をしていた弦羽早は優しい笑みを浮かべてパシンと手を合わせてくれた。

 

「(こんなに楽しい弦羽早とのダブルス、絶対全国でもやるんだ)」

 

相模原のスマッシュ、弦羽早のレシーブ、望のドライブ。コートの中の状況は目まぐるしく変化していくが、スコアが増える毎に綾乃の動きが良くなっている。

 

弦羽早が打った繋ぎ球のドロップショットに巨体とリーチを活かし前に詰める相模原は、ここを起点にしようと空いているコートへハーフ球を打ち込む。しかしビュンとまるで風を切るかのような速さで彼の前に少女が現れると、ミドルコートに飛ぶ前にスマッシュで打ち返される。カバーに入った望がそれを綾乃がいる逆サイド手前へと何とか返すが、前に出た弦羽早がそれと叩き落とす。

 

「(たかが県大会のトロフィーなのに、今はこんなにも欲しい!)」

 

綾乃を奥へと追いやる展開に持って来たので、それに素直に応じて後ろで打つ。一発目は繋ぎのドロップでもう一度ロブを誘発し、二撃目で本命のエースショットを右のサービスラインにいる望に打ち込む。

チリッと微かに擦れる様な音が鳴るが、そこにまで意識を集中させていなかった両者がそれに気づくことはできない。望の胴体辺りに伸びたシャトルはまるで風に吹かれたかの如く、左に曲がって二人の中央へと進む。

咄嗟にカバーに入った相模原が押し返すが僅かに甘くなり、横へと飛びながらラケットを振る弦羽早に打ち込まれる。

 

「(どんな強い相手にだって勝てる。私と弦羽早なら!)」

 

 

 

―――バシンと雑音の中でも良く通る心地よい乾いた音が鳴る。シャトルの衝撃がラケットを通じて、負担の大きい二の腕に伝わってくる。

張っている筋肉が疲労を訴えかけており、休みを欲していた。

 

ハァ…ハァ…

ゼェ…ゼェ…

 

ネットの向こうに立っている望と相模原は身体の全身から汗を流しており、顔と手足の先からポタポタと地面に落下する。

 

「(汗、拭かないと滑るな…)」

 

濡れた床を拭いてもらうよう審判に催告しようとしたが、胸の奥がつっかえて言葉が出なかった。代わりに口から出るのは激しく乱れた熱の籠った自分の吐息。

肺の奥がまるで悪魔の腕に握り絞められているかのように苦しく、身体の内側に沸騰した釜があるかのように熱い。

 

キュッとシューズの音を鳴らしながら足を一歩前に出すと、シューズは錨でもつけているのか重石のようだ。

 

「(なにが、どうなって…?)」

 

パチパチと拍手のようなものが遠くに聞こえる。それはアリーナの外で何かの様式をやっているのかと錯覚するくらいには、綾乃の耳には遠く聞こえた。

ぼやけた視界の中で鮮明に見えるのはコートの中の光景だけ。

 

ネットの向こうにいる二人は弱々しくラケットを下すと、望は目を覆うように手を当てて、そんな彼女の肩をパートナーの大男が優しく叩く。

 

「…弦羽早」

 

状況を理解できない綾乃は同じコートに立っているパートナーの名前を呟いて、預けていた背中側に立つ彼へと振り返ると、彼もまた膝に手をついて全身から汗を流していた。大雨の中傘も差さずに長時間いたかのように全身が濡れている。

 

彼の澄んだ瞳と視線が合うと、昔の彼からは想像できない穏やかな笑みを浮かべて。

 

「やったね、綾乃」

 

「…え?」

 

その言葉を境に綾乃の視界が一気に広がり、遠くに聞こえていた音源が途端近づいてきた。それはコートの中を閉じ込めるように蓋をしていた箱が開けられたかのような感覚。

 

遠くに聞こえていた拍手はアリーナ全体から鳴っており、拍手に交じって聞きなれた声が聞こえる。

 

「やったね綾乃ー!」

 

「おめでとう綾乃ちゃん!」

 

エレナにのり子、他にも北小町のメンバーからの声援が送られる。チラリとコートの横へと視線を向けると、ホッとした様子の健太郎が同じように拍手を送ってくれていた。彼が座っていた椅子に置かれたホワイトボードにはコートの図面が描かれており、その内容は覚えているが彼と話した実感がない。

 

まるでタイムスリップした人間がその時代の年月を確認するかの如く、綾乃はスコアボードに視線を向けた。

 

『ゲーム!マッチワンバイ羽咲、秦野。北小町高校!

22(トゥエンティトゥ)  ‐  20(トゥエルブ)

16(シックスティーン)  ‐  21(トゥエンティワン)

21(トゥエンティワン)  ‐  13(サーティーン)!』

 

勝った。

 

そう理解するのに幾秒かの時間を要したが、強張っていた頬もすぐにやんわりと緩まった。

 

 

 

 

――――――

 

 

 

ドアを潜った瞬間、自分だけの空間が広がり無意識の内にふぅ…と息が漏れた。

自宅に戻って来たバドミントンジャーナリストの明美は、手に持った鞄をリビングのソファの上に置くと、まずは帰宅後の恒例行事を行う。コーヒーメーカーにお気に入りの豆を入れて、煮ている間に汗を帯びた服を脱いで手早くシャワーを浴びる。

動いていない明美でさえ汗だくになるほどにバドミントンの試合会場は熱気を籠る。

 

部屋着に着替え終えてマグカップに六個ほど氷を入れると、ポットに落ちたホットコーヒーを注ぐ。パキパキと氷が割れる音の直後の一口目は、中途半端に熱さが残っており美味しいとは言えなかった。

 

コーヒーが完全に冷えるのを待つまでに、コーヒーのお供であるものを用意する。ソファーに置いたバックから取り出したビデオカメラを取り出すと、それをテレビに繋げてセッティングを行う。そうこうしている間にコーヒーはちゃんと冷たいアイスコーヒーになっており、一口含むのを合図に再生ボタンを押し込む。

 

再生時間は一時間超え。

 

「ミスの多い高校生でこの長さは流石ね」

 

この目で試合を見ていた時は夢中になって時間感覚が狂っていたが、こうして時間にして現すととんでもない長期的な試合だったことが伺える。

だいたいバドミントンの平均試合はインターバルなどもろもろを含めて四十分くらいだろうか。三十分だと短く、一時間を越えたら長い。

 

「取って!」

 

「うむッ!」

 

前後に並ぶ二人の間に落ちる微妙な球に対し、手を伸ばしてシャトルを拾う相模原。

 

「カバー!」

 

「おっけ」

 

弦羽早の打ったスマッシュがリターンロブされサイドに振られるが、代わりに後ろに出て攻めを継続させる綾乃。

テレビの中からは絶え間なくキュッとフロアを蹴るシューズの音が鳴り続けている。

 

「この試合、勝ったのはあの二人なのにちょっと意外な気もするのはなんでかしら」

 

いくら去年インターハイに出場したペアとはいえ、世界ランク一位を倒したペアとどちらが凄いかと言われると当然後者になる。例え手を抜かれていたとしてもだ。

 

明美は第一ゲームが終わるまで早送りで飛ばす。第一ゲームの内容はそこまで目立ったものはなく、スコアは拮抗しているものの全体的に綾乃と弦羽早の強みが活きたゲーム展開と言えた。

 

相模原と望が巻き返したのは第二ゲームのインターバルの終了からだった。目つきが変わった逗子の二人を見ると、倉石が上手くメンタルケアをできたのだろうと想像できる。

 

逗子ペアの戦略は通常通りのローテーションと言うべきか。ミックスダブルスは多少強引にでも女子が前、男子が後ろの状況を作ろうとするがそれを行わなくなった。それにより何が起こるかと言うと、巨体の相模原が前衛で圧を掛ける。

ただそれも常に相模原が前衛にいるのではなく、低めのロブ、つまりハーフ球を狩る為に的確に前に出てくる。

相模原が後ろで集中するのではなく、多少後ろを望に任せても前に出始めた事は(欠落。「北小町の」「相手の」?)二人のペースを乱した。

 

そしてこの相模原に続く様に望の手首の回転を利かせるカットショットの調子が良くなった。第一ゲームではネットに引っ掛かる事が数回見られたが、相模原のプレッシャーから後ろ寄りになっている二人に対して大きなエースショットとなった。

 

そのまま修正を加えようとするものの、勢いに呑まれて今度は北小町二人のミスショットが目立つ状況となる。またこの辺りから選手達の疲労がプレイに出始めた。

 

ミスショットの少なさが強みの弦羽早もアウトが増え、綾乃がネットに引っ掛ける。同様に相模原のスマッシュに勢いが減り、望のクロスにもキレが無くなってきている。

 

しかし踏ん張ったのは後がない逗子ペアで、望が左右に振り回して体勢を崩して相模原がエースショットで決める展開で第二ゲームが終わった。

 

「ここからね。綾乃ちゃんと弦羽早君の動きが良くなったのは」

 

アイスコーヒーのお代わりを注ぐために冷蔵庫から氷をマグカップに入れてくると、止まっている画面を再生させる。

 

ファイナルゲームに入ってからの綾乃と弦羽早は、細かいローテーションを取り入れだした逗子ペアに対して、ローテーションをほとんど行わなくなった。例え高いロブを上げても常に綾乃が前にいる状態を維持し、少しでも打てる球を綾乃が前で徹底的にブロックした。

綾乃のディフェンス能力は相模原のジャンピングスマッシュを除く、ほぼ全ての低い球に対応していた。当然望が得意のクロスで綾乃の逆サイドを狙う展開が見られたが、そこは弦羽早がすぐに詰めてネット前で彼が打つパターンが何度も見られた。

もしその球が決まらなかったらコートの後ろ全てが空いている状態となるのだが、弦羽早の詰めに迷いはない。その辺りはダブルス慣れが見られる。

 

そして相模原のジャンピングスマッシュに対しては、弦羽早がシングルスで見せた大きく跳びあがる片足リアクションステップで返球。有千夏に言われた為連発はしていなかったが、そもそもジャンピングスマッシュが打てるほどの配球を二人は避けていたので、その奇怪なリアクションステップも数えるほどしか使用されていなかったが。

 

綾乃の集中力はファイナルゲームの中盤に入った辺りからピークに達していた。綾乃を抜けようとやや高めの球を打つが、しかし後衛の弦羽早のショットを警戒する望のショットは中途半端となり、それをネット前で横に跳びながら叩き落とす。

相模原のドライブショットに対して綾乃はラケットを振りかぶるが、直前でラケットの振る力を抑えネット前。

サーブレシーブのタッチの速さには、綾乃がレシーバーの時はラリーは数回で終わる時もあり、ならばとロングサーブを狙うとクロスファイアで押し込まれる。

 

とにかく綾乃が注目される試合展開が続くが、ここまで前衛で好き勝手にできるのは後ろのコート半分以上をもう一人が担当しているから。綾乃が張っているのとは逆のサイドも含めると、コートのほとんどを担当していると言ってもよい。

 

「ここまで実戦レベルで大きく変化するペアも珍しい。それもここまで徹底したダイアゴナル・ディフェンスなんて」

 

前後にいながら守り続ける攻性防御はミックスでも珍しい。特にここまで常時維持しているとなると尚更。

 

例えば相手が左のサービスコートから低いショットを打つ状態で、綾乃がもっとも警戒すべきはストレート。一方弦羽早は綾乃が取り逃す可能性の高いクロス方面の低めの球。そう意識していた場合、もし綾乃がストレートの速球を取りそびれたら、そのシャトルはコートの中に面白いくらいにあっさりと落ちるだろう。

 

つまり弦羽早は相手と綾乃の立ち位置を考え、コースを限定してディフェンスに専念している。それは互いに拾ってくれると信頼し合えなければできない諸刃の戦術だ。

 

そしてインターバルを挟んで尚仕掛ける。弦羽早が左利き用のラケットに持ち替えて、互いに左の状況で最終局面に入った。今度はダイアゴナル・ディフェンスでは無かったが、代わりに弦羽早のクロスファイアが武器となって逗子ペアを翻弄する。

ここで一気に十点の差が開いたが、最後の最後で活路を切り開いたのは喝を入れた相模原だった。疲労で上手く曲がらない筈の膝を無理やり使い、ゲーム序盤をも超える高さからジャンピングスマッシュを打ち込む。落下地点がミドルコート手前と強烈な角度のスマッシュは何度も決まるが、それ以上の割合で返球される。

 

最後にはコート中を守っていた男子二人が完全に限界を迎えた状態となり、そうなるとカバー能力の高い綾乃がシャトルを打ち返す壁となり、最後には相手のクリアーがバックバウンダリーラインを越えてゲームは終わった。

 

ピッとビデオカメラの停止ボタンを押すと、丁度綾乃が弦羽早に抱き着いているシーンで止まっていた。

 

「孫の顔見るのも早いかもね、有千夏」

 

マグカップに残ったコーヒーを飲み干しながら、どこにいるのかも分からないかつての友人の名をポツリと呟いた。

 

 

 

 

 




さて、まずは試合があっさりと思った方、中々毒されましたね――という言い訳は置いておき、理由をば。

主な理由はダブルスの試合展開の限度です。
以前話しましたが、ダブルスって点を取る展開がある程度限られています。勿論ダブルスにも当然駆け引きもありますしフェイント、作戦などもあります。
ただ球種に関してはシングルス程豊富ではなく、基本的に低めの球が多くなります。クリアーやロブも重要な要素ですが、シングルス程そこに戦略性は少ない。

そして私はインターハイ編でダブルスで三つ大きな試合を書きたいと思っています。
余は引き出しが無くなっちゃうんですよ(まあそもそもそんなにないんですが)

それでも全部カットは嫌ですし、逗子総合側の掘り下げが一切ないのも嫌だったのでこういう形で書きましたー。






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綾乃のファン

短め


農林水産省及び光ファイバー自由研究トレーニングセンター前。正式名称で呼ばれる事がまず無い、ごくありふれた市民体育館。

平日の夕方と利用客が少ない時間帯だったが、その日は先客のバスケットと卓球により、アリーナ内の四分の三は既に占拠されていた。

 

「ごめんね、バドミントンコートも既に先客が居て。でも一人だったから一緒にしたらどうだい? お嬢ちゃん美人だから、相手の男の子も喜ぶだろうよ」

 

事務員のおじさんのお世辞に適当に会釈すると、一人でバドミントンコートを取ろうとする自分と同じ奇怪な思考の持ち主の顔を確認しに行く。

アリーナに足を踏み入れると、バスケットボールが床にバウンドする音と卓球ボールの軽い音の中で、バドミントンコートの中には黙々とフットワークの練習をしている一人の少年。

 

彼と少女は目が合うと、互いに動きが数秒程止まった。

 

 

 

 

「いやー、助かったよ。練習相手がいなくて困っててさ」

 

「なんであなたがここにいるんですの?」

 

コートを取っていた先客、弦羽早と軽いクリアーを交わしながら体を温める薫子。

 

「体育祭が近いから競技の練習とかで体育館が使えなくてさ。部活の面々は休養だったり、用事入れてたり。芹ヶ谷こそ部活は?」

 

基本運動場を使用して行われる体育祭の練習だが、毎度運動場を使うとサッカー部などの運動場を使う部が体育祭終了までほとんど活動できなくなるので、時には体育館を使ったりもする。

これでもバドミントン部に期待していた校長の計らいにより、本命の混合ダブルスが終わるまでは体育館をバド部に優先して使わせていてくれたのだが、当の弦羽早と綾乃は知りえないことだった。

 

「こっちも似たようなものですわ」

 

薫子は数歩後ろに下がりながら、飛んできたシャトルを打たずに見送る。シャトルはバックバウンダリーラインから十センチ後ろの位置で落下した。

 

「三枚。仮にも二つの種目で優勝したのですから、もっとマシなミスになさい」

 

薫子の綺麗な弧を描くロングサーブに、弦羽早はやや苦笑しながらハイクリアーを打つ。今度は確実に入っているが、後ろから二番目の線(ダブルスロングサービスライン)より前と今度は少し甘すぎる。

 

「より上を目指すのでしたら、そのギリギリを狙わない癖も治すべきではなくて?」

 

「あ~、流石だね。やっぱり分かる?」

 

「あれだけ露骨ではわたくしで無くとも気付きますわ」

 

弦羽早のミスの少なさと言うのは強さと弱さが混合している。アウトが少なくラリーが続くと言うのは大きな利点であるが、コートのギリギリまで走らせないというのはデメリットだ。

確かにコートの外から見ればバックバウンダリーラインとダブルスロングサービスラインの差は720mmと歩幅一歩程度にも見えるが、実際この中で動くにあたってその差は大きい。バドミントンのフットワークはホームポジションから三歩で取るのが基本であるので、コートの端ギリギリとなると最後の一歩を大きく踏み出して、その状態でラケットを振らないといけなくなる。

 

「なるべく反復練習はしてるんだけどね。やっぱり機材とか人数とかの関係で」

 

「ノックマシンすらありませんものね。そんな高校が全ての種目を独占するなんて…ふざけていますわ」

 

「女ダブは芹ヶ谷が優勝したでしょ」

 

「中々ユニークな嫌味ですわね」

 

綾乃となぎさが参加していない女子ダブルスにおいて、薫子にとっては強敵と言える相手はほとんどいないに等しかった。勿論苦戦した試合はいくつかあったが、綾乃のような差を見せつけられる相手はいなかった。もっとも、あんなのが何人も居たらたまったものではないが。

 

クリアーにも飽きて来たので薫子が何の前兆も無くファストドロップを送ると、弦羽早は体を崩すこともなくすぐに前に出てハーフ球を繰り出し、そこから返って来た低めの球に対してプッシュで練習を続ける。

 

「今からインターハイに向けてどう練習するつもりですの? シングルスもミックスも、相手すらいないでしょう」

 

北小町のメンバーの実力は薫子もある程度は知っている。皆弱い選手ではないが、しかし全国レベルの選手でもない。

 

「…ん~、ここだけの話をしていい?」

 

「面白い内容であれば大声で言いふらしますわ」

 

「なら大丈夫かな」

 

えらく余裕のある様子でそう返してきた弦羽早に、薫子はピクリと眉を動かす。

彼と最後に話したのは地区大会での綾乃との試合の時で、その時に比べると随分と余裕があるように見える。

 

「(いや、元々普段の秦野弦羽早はこういう人なのでしょう)」

 

何しろ弦羽早とのファーストコンタクトは薫子が北小町に乗り込んできた時。あの時散々綾乃に対して言ったのだから彼が良い印象を抱く訳がない。

三回目の接触でここまで友好的に接してくれるのは、彼の人柄だろう。

 

「実は麗暁(リーシャオ)達と戦った時、ヴィゴに自分の下でバドしないかって誘われたんだよね。あの時は何より綾乃の考えを優先したかったし、今もその気持ちは変わんないけど、最近勿体なかったなって」

 

まあ綾乃のオマケみたいな扱いだったけど。そう最後に付け加えると、弦羽早はプッシュをやめてヘアピンで前に落としながら後ろに下がる。同時に薫子が前に出てそれを拾うと、今度はプッシュとレシーブが入れ替わった。

 

「確かに上を目指すものとしてそれは大馬鹿ね」

 

ヴィゴの下でバドミントンができるということは、それはただ彼から直々に指導を受けられるだけではない。それだけでも選手として大きな成長を遂げるに値するものだが、最新機材の使用や、スポーツ医学等の科学的トレーニングやケア、そして登録選手との合同練習。

 

もし仮に自分が誘われたら、一秒と悩まずに母校を捨ててそちらに乗り換えるだろうと、情の薄い自分の姿を薫子は想像する。

 

「確かにあなたと羽咲さんのペアは強い。でも、今のまま優勝となるとその考えは甘くってよ。まあ、わたくしが偉そうな事言えるレベルではありませんが」

 

「いや、実際そうだ。芹ヶ谷みたいにハッキリ言ってくれる人が周りにいないかったけど、やっぱり見える人にはそう見えるんだね」

 

自分達は現に県大会優勝を成し遂げる程の実力を持っており、世界ランク一位を倒したというのは伊達じゃないと周りから見られている。

しかしそれが時折不安に感じることがあったので、薫子の言葉は優しく聞こえた。

 

「二人が爆発的な集中力を発揮できるのなら、“決勝に上がるような相手”にも勝てるでしょうね。実際その場を見ていませんが、麗暁と紅運と戦った時もその状態だったのでは?」

 

「流石綾乃のファン。その通り」

 

「誰が!」

 

「おっと」

 

弦羽早のユーモアにこめかみ部分が一瞬痙攣し、目いっぱい力を込めてラケットを振る。

少々体勢が崩れながらも弦羽早の元へ飛んだシャトルはしっかりネットを越えて自分の元へと返って来た。

 

「あの時は1ゲームで限界だったし、そもそも俺はあれ以降一度もあの感覚に入れていない。綾乃は既に二回は入ってるのに」

 

プッシュレシーブをしているので肩を下す余裕は無いが、声のトーンはまさに青息吐息といった張りの無いものだった。

 

「荒垣さんとこの間の決勝の後半、ですね…。なるほど」

 

確かにあの状態の綾乃であれば、手を抜かれていたとはいえ世界ランク一位を倒したのだと納得できる。

 

「まあ、今後どうするかは綾乃次第かな」

 

「それは羽咲さんに選択を押し付けているのではなくて?」

 

薫子の声は毒のある鋭いものではなかった。何も飾らない平常なトーンでの一言。

籠められた意味と声のトーンのギャップからは、付き合いが短いながらも薫子らしさが感じられた。

 

「容赦ないなぁ、芹ヶ谷は」

 

プッシュよりも鋭い言葉に弦羽早は返すことができず、シャトルが彼の足元にコトンと落ちる。腰を曲げてラケットでシャトルをすくいながら、弦の上の羽をジッと見つめる。

 

「やっぱりまだあるんだと思う。綾乃に嫌われたくない、これ以上悩みを増やしたくないって」

 

「…あの方はまだ悩んでいますの?」

 

綾乃が自己分析能力の低さと周囲の環境から必要以上に深く悩む性格であるのは知っていたが、なぎさとの決勝戦で見せた爽やかな笑顔と、混合ダブルスの決勝で見せた無垢な笑顔を見てまだ悩んでいるとは流石に読めない。

 

「少しずつ解決には近づいてるけど、大きなものがつっかえてる。きっとそんな感じだと思う」

 

「つっかえてる…」

 

まさかと薫子は少し視線を上げて綾乃の悩みを想像してみる。彼女の本質に関して薫子は、弦羽早以上に理解していると自負しており、具体的な悩みまでは見当つかないが方向性に関しては多少の予想は出来た。

 

「…もう少し待ってみるよ、団体戦が終わるまで」

 

「まあ、あなたは好きにしたらよくて?」

 

綾乃に対しては歪な形で親近感を抱いているが、弦羽早に対しては異性と言うのもありそう言った感情は無い。バドミントンプレイヤーとして尊敬する点や、綾乃を強くする起爆剤として期待していた面もあったが、それを除けば個人的な関係は二人の間には少ない。それこそファーストコンタクトの時点で険悪で、今はそれを互いに引きずっておらず、練習相手として見ているくらいか。

 

「ん、そうするよ。ありがと、芹ヶ谷は話しやすいね」

 

「本気で言っているのなら、あなたの目、相当濁ってますわよ」

 

 

 




カオルコチャン…


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ホエホエ饅

今週色々ありすぎたので来週お休みすると思います。


「ねえ綾乃、今日の放課後空いてる?」

 

今日の授業も残り一つ。放課後の自由時間が近づき、最後の山場だとクラスの空気も自然と引き締まる。

毎日の恒例行事とも言える空気の変化の中、左隣の席に座る弦羽早が、仏頂面の少女に話し掛けてきた。入学初日のほわほわした少女はどこにいったのか、ここ最近のピリピリとしていかつい表情が多くなった彼女にクラスメイトも困惑している。

 

しかしそんな少女も、彼と話す時は表情が幾分か優しくなる。

 

「えっと…確か今日まで体育館使えなかったよね。やるならフィジカルトレーニングくらいだけど、どうして?」

 

「前に言ってたホエホエ饅、食べに行かない?」

 

 

 

 

団体戦までもう一週間を切っている状況でこんなことをしてよいのだろうか。

そんな事を考え余り気乗りしないながらも、健太郎やダブルスパートナーの理子から“たまには休んだ方がよい”と言われて素直に遊ぶことにした。

 

ホエホエ饅が売ってあるのは全国チェーンのレジャー施設。複合エンターテイメント空間を売りにしており、ゲームセンターからカラオケ、ボーリング等の施設が一つのビルに纏めて存在する、お金と時間があればいくらでもいられる場所だ。

 

「この間ガット張り替えてたけどお金あるの? シャトルも買ってたし」

 

ガットの張替えや自主練習用のシャトルなど消耗品でありながら、どれも高校生にしては決して安い値段ではない。

 

「臨時収入があったから」

 

「ふ~ん?」

 

臨時収入と言う名のお小遣いだが、久しぶりに家に帰って来た両親が新しいトロフィーと賞状に喜び、お小遣いをくれた。もっとも壊れたラケットの補充でほとんど吹き飛んだが、それでも多少綾乃に奢るくらいには潤っている。

 

軽く質問が来るかと思ったが、綾乃は特に追求せずにそのまま口を閉ざした。無理に話題を作ろうとしないのが彼女らしい。

 

「まあ気晴らしくらいにはなるかな~」

 

 

 

それから数十分後。

入店してからはまだ十分も経過していない頃。

 

「ねえねえ弦羽早!見てこれ、ホエホエのキーホルダーだよ!」

 

遊園地に来た幼い子供と変わるところのない無邪気な瞳で、綾乃はケースの中に大量に敷き詰められたキーホルダーを見つめていた。

ホエホエと言うのはクジラをモチーフとした、ややキモ可愛いさの入った不思議なキャラクターで、正直その感性は弦羽早にはよく分からない。ただ登校中の小学生女児のランドセルにそのキーホルダーを見た事があり、そこそこ売れっ子のようだ。

 

弦羽早は財布から取り出した硬貨を入れると、レバー付近に表示された残り回数を示した数字に内心ホッと胸を撫でおろす。これで一回一枚だったら流石に諦めてくれと言う所だった。

 

「(でもこれ四回でグリップ買えるな…いやいや、今その換算は止めよう)」

 

別に懐が広いところをアピールしたい訳でも無いが、それを口にするのは流石にけち臭い。

 

「ちょうど偶数回できるし、交互にやろっか」

 

「うん!」

 

キーホルダーも多少回数を重ねれば素人でも取れるようになっており、二枚目の硬貨を入れた時に互いに一つずつ取れることができた。

丁度弦羽早が取ったのが赤色の帽子で、綾乃のが空色の帽子だったので交換することとなった。もっともホエホエの良さが分からない弦羽早はやや微妙そうな顔をしていたが、綾乃がそれに気づくことも無い。

 

その次はレースゲーム。

常にアクセル全開でスピードを上げて衝突を繰り返す綾乃に対し、慎重すぎるぐらいに速度を落として衝突を避ける弦羽早と、まるでバドミントンのスタイルがそのまま表に出た様な内容で、互いの画面を見て小さく笑い合う。

 

他にも互いに知っている曲が少ない音ゲームやシューティングゲームなど、財布に無理のない範囲でやりつつも、一番盛り上がったのはエアホッケーだった。

 

「これ負けた方がジュース奢るっていうのはどう?」

 

「悪くない、乗った」

 

綾乃の提案に不敵な笑みを浮かべながら、弦羽早は腰を低く落としてパックを打つ器具(マレット)を握ると、パックをやや強めに打つ。

綾乃は得意な速い展開を維持して常に攻撃の姿勢を取るが、まるでレシーブするかの如くパックの軌道線上にマレットを置いてその勢いを殺して守る。

カンカンと絶え間なくなり続けるパックの音が気になったのか周囲の客の視線が台に集まり、終わった頃には観戦していた何人かが拍手を送ってくれた。

 

結果は綾乃が負けで、主に弦羽早のショットよりも跳ね返った自分のショットでの失点がほとんどだった。

 

「う~、悔しい~」

 

「オレンジよろしく」

 

「は~い。ついでにホエホエ饅も買ってくる」

 

負けたのが納得できないのか渋々と言った様子でフードコート内に並んだ店に足を運ぶ。

その背中に、本当に負けず嫌いだと微笑が口角に浮かぶ。

 

「(少しはリラックスできたらいいんだけど)」

 

一週目の地区大会予選から麗暁戦、二週目の混合ダブルス予選とシングルス決勝、四週目の混合ダブルス決勝から、五週目の団体戦開始。

ここ一ヵ月気の抜く時間などほとんどないこの状況で悩みまで抱えるとなると、綾乃でなくともパンクしてしまう。前々から一度ガス抜きをした方がよいと思っていたので混合ダブルスを終えたこのタイミングを選んだが、断られなくてホッとしている。

 

数分後、お盆の上にジュースと怪しげな色の食べ物を二つずつ載せて戻って来た。

 

「…これが、ホエホエ饅?」

 

「うん、美味しいんだよ~」

 

形は歪では無くちゃんとホエホエの形と顔をした所謂キャラ饅という奴だが、ホエホエを再現していると言うことは当然青色。青色が食欲を削ぐ色であるのは有名だ。ダイエットでは、食べる前に青色の物を見て食欲軽減を図ったりもする。

 

「いただきます」

 

「い、いただきます」

 

毒見という訳では無いが綾乃がパクリと一口目を齧ったのを見てから、それに続いて弦羽早も青色の肉まんを口に含む。青色からは連想できない熱々の生地はふっくらとしており柔らかく、中身に入った具も香ばしく食べ応えがある。

絶品とまで行かないが、コンビニの高クオリティの肉まんに引けを取らない十分な美味しさだ。

 

「美味しい」

 

「でしょ? 可愛くてボリュームあって美味しいなんてもう最高だよ~」

 

ホエホエと肉まん、どちらも好きな綾乃にとってこれほど良いコラボもないだろう。まさに綾乃の為にあるような商品だ。

 

目的のホエホエ饅を食べ終えたがまだ解散する時間帯でも無かったので、いくつかのスポーツ施設が集まった階層へと移動する。カラオケは互いにそこまで好きじゃないので話題にも上がらず、ボーリングも指への負担が大きいので避けておく。となると残ったスポーツ施設で二人が一緒に楽しめるものとなると限られており。

 

「…別にここに来てまでバドしなくてもいいんじゃ?」

 

「まあまあ。たまにはこうして遊びでやるのもいいでしょ」

 

高いラケットを持っているのに、わざわざ安物のラケットを借りるのにレンタル料を払う意味が分からない。

初心者用のラケットに緩んだガット、ゴム製のシャトルで打ち合うこれのどこが楽しいのか。おまけに天井も低くまともにクリアーも打てない。

 

県大会優勝者の二人が回数を競う遊びのバドミントンをやれば、当然ミスなどなく永遠と続き終わりが見えない。

数分もすればすぐに飽きて来たと、少し強めのドライブを打ち出すとそのショットに籠められた意図に気付いて弦羽早もそれに応える。するとあっという間に遊びは終わり、速いペースでのドライブの打ち合いとなる。

 

「ほんとだ、すげぇ上手い」

 

「でしょ~かっこいい~」

 

元気の籠った声変わり前の少年の声が網で仕切られたコートの外から聞こえる。

チラリと視線を横に移すと、小学校半ば程の男子と、その妹であろう彼より幼い少女の二人がこちらを見ていた。その二人の手にはレンタル用のラケットがある。

 

「(うわっ…めんどくさいなぁ…)」

 

少し眉を下げて、彼等の声が聞こえなかったかのようにラケットを振り続けた綾乃に対し、弦羽早はそのシャトルを空中ですくうと空いた手でキャッチする。

 

「(まさか…)」

 

嫌な予感は的中し、弦羽早は網の前までやってくると、足を曲げて彼等に目線を合わせると優しく話しかけた。

 

「君達もバドミントンやるの?」

 

「うん!学校でも休みによくやるんだ」

 

「ここにも時々ママに連れてきてもらうの!」

 

弦羽早は妹の少女が指さす方に視線を向けると、穏やかそうな少し小太りの女性と目が合う。母親は少し申し訳なさそうにペコリと頭を下げた。

 

問題のない事をひらひらと手を振って応えると、入り口を開いて二人を手招きする。

 

「せっかくなら一緒にやろっか」

 

「いいの!」

 

「うん」

 

今にも両手を上げて跳びあがりそうな歓声を上げると、二人はまるで競う合うかのように走ってコートに入る。

 

「(…勘弁してよ)」

 

子供の介入に乗る気ではない綾乃は、ラケットを杖にして体の重心をそちらに預ける。流石に瞳を暗くして威圧するようなことはしないが、露骨に嫌そうな空気は出していた。

もっともそれは付き合いのある弦羽早から見てであり、可愛らしい顔立ちと小柄で細身の体格から基本子供に怖がられる事は少なく、妹は同性である綾乃の方へと駆け寄ってきた。

 

「よろしくおねがいします」

 

まだ少しだけたどたどしさが残っている話し方に、綾乃は小さく眉をピクリと動かしてなるべく自然な作り笑いを浮かべる。

嘘の自分を演じるのに慣れていたのがこの場面で役に立ったようで、少女もおびえた様子も無い。

 

「よろしくね。え、え~と、あなたのお名前は?」

 

(ゆう)!」

 

どうやら一個上の先輩と同じ名前らしい。確かに珍しい名前でもないので特別意外性もない。

子供と接する事が上手い人ならここで“いい名前だね”と言うのだろうが、そんな気の利いた一言は出ない。

 

因みに普段の綾乃は子供が苦手というわけではないが好きでもないといった感じだ。ただ今色々悩んでいる時期にせっかく二人っきりで弦羽早と楽しんでいたのを邪魔されるのが嫌だった。

特に小学生というのは初対面の相手に対しても、一歩分でも仲良くなれば躊躇なく質問してくる割合が多い。

 

「ねえねえ、お姉ちゃんとお兄ちゃんって付き合ってるの?」

 

「(ほら来た…)」

 

質問の第一声がバドミントン関係でなく恋愛絡みのことで、綾乃は深いため息を吐くのを何とか心の中に留めておいた。

ただあからさまに笑顔が無くなる。

 

「…ひょっとしてお姉ちゃんの片思いなの…?」

 

反対のコートに立つ男子二人に聞こえないように口元を手で覆って小声で少女は呟いた。

ピキリとこめかみが痙攣し、左手に持つラケットグリップが微かに音を鳴らす。

 

「あのね、私と弦羽早はそういうのじゃないの。ともだ――あ~…パートナーって言えば分かる?」

 

いまさら友達という間柄でも無いのでここは適当に誤魔化さずに素直に応えておく。

 

「うん。でもパートナーを好きでも、全然変じゃないよ」

 

「(マセガキ…)」

 

この手の話題は大概クラスでも言われた。特にバドラッシュで例の写真が公表されてからはクラスメイトだけでなく、至る所からその手の話題を振られていた。

その時は軽く眉を顰め、機嫌の悪い声で“違う”と否定すればそれで終わりだったが、流石の綾乃も小学生低学年の少女相手にそれはできない。おまけに近くに親もいるので泣けば面倒だ。

 

「あのさ、侑ちゃんは何でそう思ったの? 男女でバドミントンするなんて全然珍しいことじゃないからね」

 

小学生女子というのは何かにつけて恋愛話にこじ付けたがる傾向にあるのは、一応綾乃も実体験として知っている。勿論自分がではなく、周りがそうだったからであるが。

 

「ちょっと前からお姉ちゃんとお兄ちゃん見たの。一緒にゲームしてたりご飯食べるお姉ちゃん、とっても楽しそうだったもん」

 

「…まあ、弦羽早といると楽しいのはそうだね」

 

ダブルスも彼と組む時とそうでない時では試合中に感じる高揚感がまるで違う。今度の団体戦で組む理子には少し申し訳ないとも思うが、事実なのだから仕方ない。

 

「でもね、それと恋愛のあれこれとは別なの。これ以上質問続けるなら教えないからね」

 

「えー!やだー!」

 

「だったら終わり」

 

「…は~い」

 

子供の相手をするのはどうしてこうも気力を使うのだろうと、綾乃は小さく肩で息をしながら話題に上がっていた弦羽早の方を見る。彼は既にシャトルの打つ位置によって振りを変えるアームについて教えている。確かに遊びのバドミントンについて教えるのなら、ステップよりも打ち方を教えるだけで十分だろう。

話の進みやすい男子はこういう時羨ましい。

 

「(まあカッコいいとは思うけどさ)」

 

顔は割と、というより結構整っている方だろう。クラスの女子も何人かそんな話をしていたし、それが耳に入らずとも評価は変わらないだろう。

 

「お姉ちゃんお兄ちゃんのことジーと見てる~」

 

「あ゛?――んん゛! さっきのお姉ちゃんとの約束ちゃんと守ろうね」

 

「は、は~い」

 

一瞬だけ綾乃の本性の片鱗を垣間見、少女も本能的に不味いと感じたのかコクコクと数回ほど強く頷いた。

 

それからは少女からそう言った話題を振られる事も無く、バドミントンに集中していた。もっとも綾乃からしたらこんなものはバ()ミントンだが、今更放り投げるのも後味が悪いので、できるだけ丁寧に好意的に接しながら教えていく。自分が三歳の頃は自然とできていたことを教えるのは難しかったが、有千夏の開いていた教室の記憶と目の前の弦羽早の指導を参考にする。

 

ある程度教えたところで実際に打ち合わせて、変なところに飛んだ球を二人が取る形でラリーを続けていく。

目標の回数は33回。その微妙な数字は、どうやらそれ以上続いたことがないらしいかららしい。

 

「(回数か…懐かしいな)」

 

いかに相手に拾わせないようにするバドミントンにおいて、回数を競い合う意味など無に等しい。それこそドロップショットを繰り返し、何回ミスせずに打てるか等の練習はあるが、ラリーの回数を数えるなどいつ以来だろうか。

思い返してみるが自分自身の記憶にはほとんど無く、ビデオテープに映った自分と有千夏の姿を見た記憶の方がずっと強い。つまりそれくらいの時には既に綾乃と有千夏の“ラリーゲーム”は始まっていたのだ。

 

「じゃあやるぞ!」

 

サービスラインに思いっきり足を踏みながら放たれた、ミドルコートへとゆるく上がるサーブ。兄からのシャトルを侑は頭上でラケットを振るオーバーアームで打つ。

 

「い~ち、に~、さ~ん」

 

「(数えるのも私達がやるの…)」

 

行き来するシャトルに首を動かしながら数を数える弦羽早に、普段よりやや低めのトーンで合わせる。

ラリーは例えコートを大きく逸れてアウトになろうとも二人が拾うのでラリーは続くが、しかし空振りやネットとなるとそれはどうしようもない。そしてその割合が多いのはやはり、最年少の侑だった。

 

「またかよ侑。もうお前止めてその姉ちゃんに任せろよ」

 

「私もやるもん!」

 

兄の言葉に少女に微かに涙目になりながら綾乃を見上げてくる。

 

「(私にどうしろっての…?)」

 

確かに侑のミスはこれで六回目。綾乃としてもそろそろ終わらせたいので兄の意見には賛成したい気持ちもあったが、同時にこのまま自分が打ってしまえば、今日自分達と出会った記憶が少女にとって一気に嫌なものに変わってしまうだろう。かれこれ30分近くは一緒のコートにいるのだから、それで別れるのは後味が悪い。

 

しかしどう言えば良いのかと少し黙り込んでいると、綾乃が答えを出す前に弦羽早が口を開いた。

 

「コラ。相手に対してそういうことを言っちゃ駄目だ」

 

「えー!でも!」

 

「でもじゃない。スポーツは相手を思いやってやるものだ。バドミントンだけじゃない。サッカーも野球もドッチボールも、勝ち負けじゃなくてみんなで楽しむのが大事なんだ。君も失敗した時やめろって言われたら傷つくでしょ?」

 

弦羽早の優しいながらも真剣さの混ざったトーンは、まさに子供を叱る年長者らしかった。

それは少年に向けられたものだが、自分にもズンと重く圧し掛かって来たことを綾乃は実感していた。

勿論弦羽早が少年に向けた“スポーツ”と自分達が行っている“スポーツ”が違うことは分かる。

サッカーは相手にいかに球を触らせず、野球も相手が打てないところに球を投げて、ドッチボールは相手が取れない部位にボールを投げる。

 

でもそこに思いやりと、みんなで楽しむという要素が無いかと言われると、多分(・・)違うのだろうと最近の試合を通して綾乃は思う。

 

「(自分だけじゃなくて、相手も楽しむ…。なぎさちゃんは、楽しいって言ってくれた。県大会(このあいだ)のミックスも、悔し泣きする子もいたけど、ちょっと笑ってくれた気がする。瑞貴ちゃんもそうだった)」

 

大丈夫。ちゃんとできていると自分にそう言い聞かせていると、少年が少し渋々といった様子で侑に謝って仲直りとなり、再びラリーを始めることとなった。

それから何回かお互いにミスがあったが、子供というのは教えなくても勝手に覚えるもので、四回目のラリーでついに33回を越えて40、更に50を越えて54と大きく記録を伸ばして終了となった。

 

既に遊び始めて結構な時間が経っており、室内なので分からないが外は夕日に包まれている時間帯となっていた。

レンタル時間もそろそろ終了なのでお開きにしようかと、交じり合った弦羽早の目がそう言っていたので綾乃も頷く頃。

少しふくよかな体型の母親が仕切りの網の前にやってきた。

 

「あ、お母さん!凄いんだよ俺達!」

 

「さっき54回も続いたの!この間まで32回だったのに!」

 

「まあそれは凄いわね。お兄ちゃんとお姉ちゃんにちゃんとお礼した?」

 

母親の元まで駆け寄った二人は体を反転させ綾乃達の方へと向くと、元気の籠った感謝の言葉と共にペコリと頭を下げた。

 

「いえ、こちらこそ。バド好きな子と一緒にできて楽しかったよ」

 

「ほんとにありがとうございます。お邪魔だったでしょうに」

 

「あ~、その…私達元々部活の休みでここに来てるんで、気にしなくていい、です」

 

もっと弦羽早みたいに詰まらずに話せればよいのだが、どうも最近はこういう社交的な会話が昔以上に苦手だ。

 

母親は綾乃の返答に小さく笑みを浮かべて。

 

「それもあるけど、せっかくのデートのお邪魔だったでしょう。お二人とも綺麗な顔立ちで絵になるわ」

 

「(あんたもか…)」

 

蛙の子は蛙と言うべきか、あるいは世間一般から見てレジャー施設に男女が来ると自然そう見られてしまうのか。綾乃が下唇を少し噛んで懸命に苦笑を堪えていると、隣の弦羽早が愉快そうに笑う。

 

「ありがとうございます。でもカップルじゃなくてパートナーですよ。これでもこの間の日曜の試合で優勝した結構強いペアでして」

 

「あら。上手だとは思っていたけど、そんなに凄い人達とは」

 

それから母親と弦羽早が軽い雑談を交えること数十秒。母親もそろそろ時間だと適当なところで世間話を終わらせてくれた。

 

「じゃあねー!ありがとー!」

 

「バイバーイ! お姉ちゃん頑張ってねー!」

 

母親と一緒に施設を出る兄妹に手を振り、その姿が完全に見えなくなった途端。

 

「ハァァァ……」

 

作り笑いと伸ばした背筋を曲げて深いため息を吐いた。

その様子を苦笑しながら彼女の丸まった背中をポンポンと軽く撫でる。

 

「お疲れ。ごめん、まさかそこまで子供が苦手とは思わなかった」

 

「あ゛~…まあいいよ。どうせここで二人で打ち合っても暇だし。最後はそれなりに楽しかったから。あと、子供は苦手じゃない…と思う」

 

「あの子と話してる時の綾乃、かなり顔引き攣ってたけど?」

 

「それは…」

 

お前と恋人だとか片思いだとか、小学生女児に根も葉もないことを言われたから――とは返さなかった。

 

「まあ色々とね…。ただちょっと、クラスの女子と馴染めなかったのを思い出したかな」

 

クラス全体とは違う女子だけの特殊な空気。男子の消しゴムを拾っただけで好きだの何だの言われるあの空気を少し思い出した。

それは小学校に限った話ではないのかもしれないが、中学に入ってからは本格的に友好関係を絞っていた綾乃には、小学校の女子の空気が一番苦手だったかもしれない。

 

「藤沢と三浦がいなかったら一人だったからね」

 

「うん。まあその時はよく弦羽早が話してきてくれたよね。鬱陶しかったけど」

 

“羽咲!お前またボッチなのかよ。今からドッジやるから一緒にやろうぜ”

多少脚色もあるがこんな感じで、ボーとしているところに毎回馬鹿にするように話しかけてきていた。返答は半々で、無視してボーとし続けるか、イラついて弦羽早を圧倒的差で負かすか。

おかげで運動神経が悪い大人しい子とは見られなくなり、馬鹿にされることが激減していたのは割と最近になって気付いたことだ。

 

「辛辣だなぁ。あの時の口調、好きだって言ってくれた癖に」

 

「ん~、最近はやっぱり今のがいい。安心して落ち着く。弦羽早の今の声、好き」

 

「えっと…ありがとうございます…」

 

「前もあったけど、なんで敬語?」

 

隣を歩くパートナーの頬が赤くなっている事に気付かず、ラケットを返したスタッフのお姉さんにやけに微笑ましそうに見つめられながら、綾乃は再会してから初めての弦羽早と遊んだことに小さく口元を緩ませた。

 

 




へぇ~、デートかよ。

アニメだと外でコニーとバドしてたけど外にはないと思う。
ああいうところはバスケかテニスのイメージ。


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団体戦

お久しぶりです。完全にエタッており、正直モチベーションも上がっておりませんが、無駄に書き貯めはあるのでとりあえず生存報告も兼ねて投稿します。

というのも今日ははねバドの最終回なので。
世界戦もやるのかなとも思ってましたが、いいタイミングだとも思います。
ただ想像以上にコニー戦が終わるのが早かった…。

あとやっぱり三強と綾乃+なぎさの団体戦とかもあったら楽しそうだったな~。

因みにまだ最終話読んでないです。田舎には当日届かない。


今回の話は団体戦開始からです。


なぎさが団体戦を離脱する事となり、一気に理子への体力・精神面での負担が増えることとなった。元々プレッシャーに弱く、更に弟と妹の世話もあり練習時間が人より取れない理子は、一度綾乃の家に訪れて話した。

自分が不安を抱えていることを。練習したいという意欲はあるが、これ以上時間は増やせないと。

 

二つ年上というのを忘れる程弱っている理子に綾乃はこういった。

 

“コートでの事は私に任せておいて”

 

そして団体戦当日。

 

『ゲーム! マッチワンバイ羽咲・泉!

21(トゥエンティワン)  ‐  9(ナイン)

21(トゥエンティワン)  ‐  7(セブン)!』

 

個人シングルス準優勝、混合ダブルス優勝に恥じぬ圧倒的な差を見せつけて初戦の勝利を飾った。

 

 

 

ダブルスにおいてあからさまに実力差のある者同士がペアを組む場合、当然弱い方を狙うのがセオリーである。綾乃と理子の場合は理子が確実に狙われる。

だがその状況が望ましく無いかと言われると、意外とそうでもない。と言うのも、綾乃が前衛で理子が後衛のトップアンドバックの状態の場合で、後衛の理子に球が集まるということは、すなわち相手はロブに球が限られてしまう。勿論決め球を打てずに左右に振られ続けた場合苦しいのは理子になるが、理子は逃げたい時にクリアーを打っても問題なかった。仮にクリアーに対しスマッシュを打たれても綾乃が拾ってくれるので、結局相手の球の多くがクリアーとなる。

サイドバイサイドの状態のまま勝てるペアなど、レシーブの上手さと精神面での粘り強さ、選球眼などが必要となり、少なくともこのレベル帯に存在しない。

 

ただサイドバイサイドの状態で理子が一方的に狙われた場合、こうなると綾乃もフォローが困難になるので望ましい展開とはいえない。

その為可能な限り、綾乃が後衛になろうともフォローのしやすいトップアンドバックを維持した方がこの二人の場合は強い。

 

北小町女子の団体戦初戦は無事、D1・D2・S1でストレート勝ちを飾った。

 

「おめでとう藤沢」

 

「いい試合だったよ」

 

動きやすい私服で来ている弦羽早と、ジャージ姿のなぎさの二人が勝利を飾ったエレナと軽くハイタッチを交わす。特になぎさはエレナにマンツーマンで教えていたので、彼女の勝利には人一倍喜んでいた。

個人シングルス優勝の二人とハイタッチを交わす初心者の姿は、どれ程の人脈の持ち主なのかと他校の生徒から奇異な目で見られていた。

 

「弦羽早、私と理子ちゃんの試合どうだった?」

 

「良かったよ。綾乃のフォローのタイミングも良かったし、泉先輩も無理せず攻め急がなくて、落ち着いていました。体力的にも問題なさそうですか?」

 

「うん。やっぱりクリアー打って逃げられるのは大きいな」

 

後衛の方が体力の消費の激しいオーバーアームでのショット打つ為疲れやすいが、理子の言う通り無理して低く打つのを維持しなくて良いのは体力の温存に繋がる。滞空時間が長い球が打てると単純にその間だけ呼吸を置けるので、ハイペースになりにくい。

 

「あとは綾乃の正面(ボディ)を気にせずに、もっと中央にクリアーを打っても大丈夫です。それも返せるんで」

 

「任せてよ」

 

「ほ、ほんとに頼りになるなぁ~」

 

これまでも中学や、部員が減る前の北小町でもダブルスをやっていた理子だが、未だかつてここまで戦いやすいダブルスペアというのはいなかった。

パートナーが自分より遥かに強いのだから当然なのかもしれないが、それでも彼女に勝ったなぎさと組んでいた時もここまで試合が楽に感じたことがない。

前衛の圧が違うと後衛にとって何がやりやすいかというと、のびのびと自分の好きな球を打てるようになる。

もし前衛が低い球を通してしまうような選手だった場合、後衛としてはまずカウンターが飛んでくる可能性のあるコースに打ちにくい。だから多少無理な体勢からでも相手の逆を狙い、それが結果ネットや浮き易くなったりしたりとミスショットに繋がってしまう。

 

「(この二人が強い理由が改めて分かったかも)」

 

とにかく綾乃を警戒してロブを上げ続ける先程の対戦相手を思い出して、やや苦笑気味に理子は頬を緩めた。

しかも綾乃がミドルコート付近まで下がってくれたおかげで、バック側へのハーフ球もほとんど来ずに、上がってくる球を好きなところに打つノック練習のような試合内容だった。

 

 

 

団体戦というものは個人戦とは大きく異なり、出場チームは高校の数より多いことはないので試合数が少なく、そして休憩時間がかなり長い。元々バドミントンは一つの試合に短くてニ十分弱、長くて一時間は掛かる(高校では一時間越えはほとんどないが)。そして団体戦は先に三勝した方が勝ちなので、最大五試合行われる。その為拮抗した試合が全試合で行われたら、五時間近く掛かる可能性もゼロではない。もっとも限りなくゼロに近いが。

 

そして一試合が長く試合数も少ないので個人戦のような大規模な会場を使う必要もなく、試合は県内のとある普通の高校で行われている。当然普通高校の体育館に、神奈川県の男女合わせたバドミントン部員が入るスペースがある訳が無く、体育館の外でレジャーシートを敷いて各々時間を潰している。

 

「あっ、羽咲と秦野だ」

 

「マジだ。普通に外なんだな」

 

特別室でも用意されているのかと考えていたのか、通りかかった他校の生徒が意外そうに語尾を僅かに上げる。

こういった反応はもう珍しいものでもなく、二人ともチラリとそちらを振り向くものの特別会釈もしない。最初弦羽早は軽く会釈をしていたが、あまりに多かったので面倒になってそれも辞めた。

ルックス的にも目立たない方ではないので、顔も覚えられやすく、またバドラッシュの影響もあってか注目度は高い。綾乃も個人シングル優勝のなぎさ以上に今は目立っている。

 

「綾乃ちゃんと弦羽早君もすっかり有名人だね」

 

「でも前みたいに握手はなくなったんじゃない?」

 

エレナは、地区大会で他校の女子何人かから握手を求められていた光景を思い出す。

 

「まあね。悪い気はしないけど、やっぱり落ち着ける方がいいや」

 

「…握手って?」

 

少しだけ声の低くなった綾乃の問いかけにエレナは一瞬口元を上がらせて。

 

「他校の可愛い女の子に握手してって頼まれたんだよね~秦野?」

 

「可愛いを強調するの止めてくれない? 下心あるみたいじゃん」

 

これが綾乃への揺さぶりと気づいていない弦羽早は自分が責められているようで、やや不満げに唇を尖らせて抗弁した。

しかし彼の発言をさほど気にせずに、目的である綾乃の顔の動きをジッと観察する。

その表情に大きな変化はなく、数回ほど瞬きをした後。

 

「ふ~ん? まあ弦羽早、カッコいいからね」

 

ケロリとした様子から普段の彼女らしからぬ発言に周囲が一瞬目をぱちくりさせた。そして本人は特に気にした様子も無く淡々としている。

弦羽早は照れくさそうに頬を掻くと、周りの生暖かい目線に耐え切れなくなって適当な言い訳をして一度離脱し、そんな背中を綾乃がひらひらと気怠そうに手を振って見送る。

 

「(…やっぱ綾乃って変わってる)」

 

綾乃が男子をカッコいいと評すること自体がおそらくエレナ自身初めて耳にした。少なくとも今期のドラマに出る芸能人の誰々がカッコいいなど話さず、イケメンの写真を見せても“そうかもね”ぐらいで終わる。

しかしそのカッコいい男子を前にするには、今の綾乃の態度はあまりにも大きすぎる。

両手はジャージのポケットの中、背凭れに寄りかかり肩甲骨から上だけ体を起こしており、寝そべった足は組んで手も使わずにエネルギーゼリーを吸う。

 

カッコいい男子を前にした場合身だしなみや挙動に気を付けるようなものだが、そんな気配は一ミリも感じられなかった。

 

 

 

 

「(最近の綾乃にはふとした瞬間にドキドキさせられるな)」

 

安心する、好きな声、カッコいい。他にもいい匂いと言って貰ったこともあったか。あの時はシチュエーションも相まってかなり危なかったのは記憶に新しい。

冷たい水道水で顔を洗い熱を冷ますと、ハンカチで顔を拭いてふぅと一息つく。

 

「(普通の子なら、とっくに告白してるんだけどな)」

 

ここまで仲良くなって尚周りから、“早く告白しろよ”と言われないのが羽咲綾乃だ。もっともそう言われたところで、今は告白する気も無い。

 

「む、そこにいるのは秦野か?」

 

「その声は…やっぱり相模原さん」

 

彼の低い熊の唸り声のような声は特徴的だ。彼の周りには数人の男子生徒がおり、彼らが逗子総合でのレギュラーメンバーである事は、先ほど体育館にいた時に見かけたので知っていた。まるで学校に入って来た犬猫でも見るような視線に弦羽早が小さく笑うと、相模原が部員達を先に帰るようにとそれとなく促した。

 

「…なんだか久しぶりな気がするな」

 

「いや、まだ一週間ぶりですよ」

 

「そうか。いや、そうだな…」

 

何か話題を切り出そうとしているのは分かるが、にしても口下手な父親かと言いたくなるほどに話題作りが下手くそだ。ただ彼としても弦羽早にはシングルス、混合ダブルス共に決勝で負けているので必ずしも善意だけで接する事が出来る相手ではないのは確かだ。

弦羽早から見ても少しばかり気まずい空気を感じない事もない。

 

「…そうだ。家からの手土産があるが、食うか?」

 

「はぁ、ではいただきます」

 

男二人が並んで洋菓子を食う。なんだこの光景はと思いながらも、口に含んだシュークリームの甘さに張っていた頬も自然と緩む。

相模原が持って来たクーラーボックスをチラリとみると、洋菓子店のロゴが張ってあり、店用であるのが伺える。

 

「こないだお店に行きましたよ。その時はケーキを買いましたがとても美味しかったです。帰ってくる度に母がまた買って来いとうるさくて」

 

「ああ、両親から聞いた。母君は普段家には居られないのか?」

 

母君。本格的にこの人は戦国時代からタイムスリップしてきたのではないかと弦羽早は思えてくる。

 

「ええ、父共々多忙な人で」

 

「そうか。大変だな」

 

「いえ、案外気楽ですよ。うるさい人なんで」

 

そこで話が途切れ、また二人の間に逃げ場のない咳払いの一つでもしたくなるかのような静けさが流れる。

適当な話題でも出そうかと思ったが、相模原が触れたいことの内容は分かり切っていたので、多少勇気は必要だったが素直にそちらに持って行く。

 

「今年インターハイに出る選手で、注目している人はいますか?」

 

「ああ、インターハイか。うむ、そうだな」

 

やはりバドミントンの話題をしたかったのか、弦羽早が話題を振ると露骨に声のトーンが上がって口が速くなった。

 

 

 

 

 

 






因みに現在の執筆段階ですが、インターハイ編の綾乃対唯華戦が終わり、弦羽早のシングルの終盤書いている途中なのですが、終盤でモチベが鎮火してしまいました…。
削る話とかもありますが、90話弱だったかな?
いやほんとあともうちょいなんですが、やっぱり創作ってエネルギー使うって改めて実感しました。



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複雑化


久しぶりのなので複数投稿


北小町の団体戦は順調だった。続く二回戦目もエレナは負けてしまったものの、綾乃が圧勝しそこでゲームエンドとなった。

ここまでは前日の健太郎の予想通りで、そこまで強敵ではなかった。しかし三回戦目以降ともなれば必ず強豪校と当たる事となり、その相手は前年の団体戦優勝者である横浜翔栄。

 

これまでの個人戦で横浜翔栄のレギュラー勢と戦った事があるのは綾乃一人だけで、彼女の試合内容を他のメンバーが参考に出来ないのは皆まで言う必要もない。

綾乃以外の面々の緊張感が一気に高まった。しかしそれは相手も同じ。

 

団体戦ではまず各々の試合の前に、チーム全員が並んで握手をし合う。その際に綾乃はそばかすのある見知った顔と目が合い、彼女が不敵な笑みを浮かべて来たので、できる限り口元を上げた。もっとも精一杯作ろうとした笑みは引き攣っており、笑い合った瑞貴を含む横浜翔栄の全員が軽く肩を震わせていた。特に主将の橋詰英美は個人シングルスの準決勝でボロ負けしたこともあり、肩だけでなく足も震えている。

 

「…瑞貴ちゃん、私の顔そんなに変?」

 

「相方に向けるのに比べるとね」

 

“瑞貴ちゃん”という呼び方も首を傾げる内容であったが追求はしない。

何しろ瑞貴にとっては元々パートナーの英美も読めないところがある。プレイ内容や精神面では無く、その日その日で変わる調子。彼女はとにかくプレッシャーに弱く、本番で力を発揮できないタイプだ。

その為試合は毎度彼女の調子に合わせて立ち回らないといけないところがあり、そこにプレイ面、精神面、調子全てにおいて読めない綾乃が加わってしまえば流石にパンクしてしまう。綾乃を読む部分はプレイ面に絞らなければならない。

 

挨拶が終わればすぐに試合が始まり、パートナーの英美の背中を見つめながら瑞貴は軽くその場で小さく跳ぶ。

 

『オンマイライト。横浜翔栄高校、橋詰・重盛。オンマイレフト。北小町高校、羽咲・泉。橋詰トゥサーブ。ラブオルプレイ!』

 

「(これまでの試合、ほとんど羽咲と泉ちゃんはトップアンドバックで戦ってる。それも得意な陣形は決まってる)」

 

いかに自分達の強い陣形に持ってくるか、そして相手にそうさせないように立ち回るかはダブルスをより奥深いものにする内容である。

混合ダブルスではパートナーが弦羽早であった為、序盤以降は手も足も出ない状況だったが、最強の状態での綾乃と戦っているからこそ今の綾乃であれば勝つ自信は瑞貴にはあった。

 

まずはサービス周り。これは悪手になりやすいが、しかしこれは予め決めており、綾乃に対して徹底的にロングサーブを打つというもの。とにかく綾乃の出の速さは僅かにでも浮けば叩かれ、浮かなくてもラケットワークの上手さからサイドラインギリギリに落ちる球を、サーブ直後のサーバーに強要する。

 

パン。

 

サーバーである英美は約束通りロングサーブで始動。ただロングサーブもそれを隠すのが下手な人がやればフェイントにはなりにくく、綾乃もそれを読んで直後に後ろに飛びながら空中でスマッシュの体勢を取る。

当然こちらもすぐにサイドバイサイドの陣形となりスマッシュに備えるが、綾乃のラケットは頭上でピタリと止まり、シャトルは英美側のネット際へと落ちていく。

速いラケットワークから直前でラケットを止めるチェックスマッシュと言われるものだ。スマッシュの名がついているがネット前で落とすと言うところから分かる通り見た目はドロップ。

 

この打ち方の難しい点は打点とその直前のフォーム。

まずラケットをピタリと止めるということは打つ瞬間にはスイングを行わない。当然威力が激減するためラケットの面の角度や、ラケットの到達点を見誤るとネットに引っ掛かりやすい。

そしてこのショットはスマッシュと同じフォームで打たなければその脅威は無いに等しい。予め強打を打つつもりもない棒立ちの状態でチェックスマッシュを打ったところで怖くはなく、また露骨に力を籠めすぎてもバレやすい。ドロップを打つがスマッシュと同じフォームと言うのは案外難しく、ドロップもスマッシュも、チェックスマッシュも選手の癖にもよるが打つ打点が微妙に異なる。その微弱な差を感じさせないフォームを作ると言うのは存外難しい。

 

「英美!」

 

フェイントから発生する硬直によって一歩が出ないパートナーの名前を呼ぶと、彼女はハッと目を開いて足を前に出す。そこから何とか体重移動を利用し、頭を下げながらもストレートのネット前に返す。

それを打ってきたのは先程後ろでチェックスマッシュを打った綾乃だった。

 

「なっ!?」

 

まずそもそもロングサーブを打たれた場合、後ろにいたパートナーは前に詰めて前衛に切り替わる。そうしなければお互いに後衛という状況が起こりえるからだ。

綾乃がロングサーブを打たれやすい性質上、パートナーがその動きを知らない訳では無いが、あえて綾乃に任せておく。

 

「(そこまで徹底するかッ)」

 

弦羽早と組んでいた時でさえここまで無理して前に詰めようとはしていなかったが考えが甘かった。彼女は詰めようと思えば無理にでも詰められるのだ。

 

そして更に瑞貴にとって予想外の展開が続く。すぐに点を取ってくるかと思った綾乃だが、あえて得意のラケットワークで瑞貴を翻弄し、前衛どうして低いラリーを続け始めた。当然彼女と打ちあいたくない英美は逃げようとロブを上げようとするが、差し込まれた状態、つまりラケットと胴体が近い状態でハイロブを上げる事ができず、速い球で抜こうにも彼女がタッチして前に落としてくる。

 

「(不味い!)」

 

まだ一回目のラリーでこれ以上続けるのは後に続かないと判断し、瑞貴は強引に英美にぶつかって無理やりラリーを終了させた。

 

「何するのよ!」

 

内弁慶のパートナーからの怒鳴り声が聞こえるが、それを適当に聞き流しながら綾乃と視線を交わす。

 

「「((なるほどね))」」

 

綾乃はただ勝つだけでは飽き足らず、この試合で英美の体力を削いでS3の理子の負担を減らすつもりだ。そしてそれに気づいた瑞貴が一点を与えてまでそれを阻止した。

互いの戦略を読み取り合い、二人は小さく眉を寄せる。

 

「(元より羽咲がいる状態で失点無しなんて理想的な勝ち方なんて考えてない)」

 

英美が考えている失点してもよい状況というのは、綾乃がレシーバーである時。それはかなりの割合で起こりえる状況なのだが、こればっかりは仕方がない。ロングサーブで徹底したとしても、ダブルスのロングサービスラインがシングルスより狭い事や、角度やコースを狙っていればアウトにもなりやすいこと、綾乃の球種を考えた場合そこで無理して点を取るよりもある程度捨てた方が良い。

 

逆に言えば綾乃がレシーバー以外の状況で点を取ればいいのだ。まさに今のサーバーが理子、レシーバーが自分である時のように。

 

理子のショートサーブをヘアピンでバックハンド側へと寄せ、あえてセンターラインの上から動かずに彼女に圧を掛けない。勿論最低限ヘアピンを抑制する為にすぐに飛べるようにしておく。

すると理子から見た場合、この球はわざわざ高いロブを上げずとも、前衛に狩られる心配が無いのでハーフ球で切り崩せる可能性があるように見えてしまう。

 

だがそれは誘われた球で、ハーフ球の最高点に達した瞬間をすぐに足を踏み出していた英美のラケットが捉え、彼女のドライブショットが理子のボディへと襲う。それをなんとかラケットに触れる形でなんとか返すが僅かに甘くなってしまう。

 

「(叩ける角度だけど、散々煮え湯を飲まされたからね)」

 

前衛の英美はラケットの面を理子に向けていたが、打つ直前にそれを綾乃の方へ傾ける。理子のフォローに入ろうとしていた綾乃にとってそのショットは完全に予想外で、綾乃が担当する側のネット前にシャトルが落ちた。

 

「ああ!?」

 

「ハァ…。綾乃の悪いところが出たな…」

 

試合を上から眺めていた弦羽早が小さくため息を吐く。今の場面、そもそも普通フォローに入ったりはしない。サイドバイサイドの状況でパートナー側に来た速球を返すなどは、パートナーにラケットが当たる事もあるので、本来ならあり得ない。

だからサイドバイサイドの状態でパートナーが集中して攻められている時にできることは、自分側(クロス)に来た球を取るのは絶対として、パートナー側のネット前やロブに対してフォローに入ること。

でも綾乃はこれまで弦羽早とのダブルスで、本来あり得ないフォローが上手くいってしまっているので、今回も入ろうとしていた。

 

「しかしダブルスをここまでかき回しますかね、普通?」

 

「お~、芹ヶ谷。お疲れ」

 

「…この間ので随分フランクになりましたね、あなた」

 

つい先ほど試合を終えた彼女は体を冷やさないように薄い長袖を羽織っている。この暑い体育館でも汗をそのままにしておけば冷えるので、コーチングの行き届いた強豪校では時に嫌でも強要されたりもする。

 

あの練習の後に弦羽早から連絡先を交換しようと言われてから、時折連絡を取り合っている。もっともその内容は主にミキとのダブルスについてで、話題を振っているのは薫子の方だったが。

普通の男子相手なら薫子はお断りするだろうが、弦羽早の一途さは知っており、案の定デートのお誘いなどは一度も届いていない。因みに薫子の連絡先が興南高校に広がれば、まるで迷惑メールの如く誘いが来るくらいには彼女も人気だ。

 

「そもそも橋詰さんを狙おうなんてふざけたこと考えるのは羽咲さんくらいですわよ。あの方、練習試合では他県のトップにも勝っているというのに」

 

「その話綾乃にしたら、橋詰さんとの試合内容ほとんど覚えてないって」

 

「その割には余裕のない点差になってますわね」

 

現在の得点は5‐2。綾乃のレシーバーの時にまた点を得られたが、このダブルスにおいては綾乃がサーバーである時はさほど脅威ではない。

そして4‐2の綾乃の二回目のレシーバーの時、ロングサーブをアウトだと理子の言葉を信じて見送ったが僅かに入っており、5‐2となる。

 

「ごめんね綾乃ちゃん!」

 

「大丈夫。私も言われてアウトだと思ったし」

 

その様子を指して。

 

「あれ、俺がやったらもっと嫌そうな顔する」

 

「それは実際あなたが悪いから当然ですわ」

 

仮にも中学では全国トップ、高校でも既に神奈川バドミントン界から注目を浴びているダブルスプレイヤーが、ロングサーブの入っているかの有無など重要な事を間違えるべきではない。特にロングサーブを打たれたレシーバーからすれば、パートナーの言葉の信憑性は大事なのだから。

 

「え~…」

 

同意を求めていた弦羽早は思わず形で説教をくらい、小さく肩をすぼめた。

 

6‐13とかなり点差が開いた状況まで追い込まれたが、ここに来て更に徹底した動きが二人に見られた。理子が一度コートから出るという異常な状況を作り上げて一点を取得。そこから流れに乗った綾乃の連続ポイントは、見ている者達の歓声を通り越して、力量差に困惑するほどだった。

 

サーバーは理子で、そこから事前に綾乃に言われた通りのロングサーブを英美に対して打つ。メンタル面では弱い彼女だがロングサーブに対しての返球などはやはり県トップを思わせるもので、素早く後退しながらサイドバイサイドへと移る途中の理子のボディへと狙う。

 

だがそれは鋭いカウンターとなって英美の足元に返された。理子の元に打った筈の球を何故か綾乃が打ち返していた。それもフォアハンドになるように右手で。

 

「…化け物」

 

「俺の前であんまりそういうこと言わないでくれる?」

 

「馬鹿ですかあなたは。今のプレイでそう思わない方がおかしいでしょう」

 

今のはプレイもシャトルを追いかけ英美に視線が集まっていたので気付かない者もいたが、綾乃の動きを追いかけるとこうなる。

まずロングサーブと共にセンターラインを添うように前に出て、中央で一度両手持ちになりながらその場で軽く跳んで片足リアクションステップの準備をする。これにより左右どちらに打たれても対応できるようにする。そして英美のショットの軌道を読んだ直後にフォア側になるように右に持ち替えながら左足で地面を蹴り、右足で踏ん張りながら腰を回す様にして激しいカウンターを打ち放つ。

 

「羽咲さんには元々常識が通用しませんでしたし、あなたとのダブルスでもそれは同じでした。でもこのダブルスをここまで複雑化しているのは、羽咲さんの実力が飛びぬけてしまっている」

 

英美は勿論ながら、混合ダブルスで準決勝にまで行った瑞貴も、成績は残せないながらも望を相手にデュース間近まで迫る理子。この三人の実力は平均ラインを越えている。そんな彼女達の中で更に飛びぬけているからこそ、より複雑になっている。

もし仮に初心者三人+綾乃とかであればここまで複雑にはならないし、仮に綾乃ではなくなぎさが入っていた場合でもこうはならない。

 

 

綾乃の連続ポイントは更に続く。理子が前で粘りを見せて瑞貴にロブを上げさせると、綾乃は体重を籠めたフルスマッシュをストレートにいる瑞貴の首元へと狙う。容赦のないコースだが、胴体周りでも肩口近くは特に取りにくく、首はその中でも中央に位置する為、状況によっては肩口によっても取り辛い。

 

瑞貴のレシーブはフレームショットとなってしまいアウト。

 

今度は理子のショートサーブが明確に浮き、これは決まると、綾乃のバックハンド側の角へと鋭い伸びのあるプッシュ。コース自体はプロでも通用するレベルのショットだが、僅かに半歩足が下がって重心が完全に乗り切っていないことに、本人は気づいていなかった。

理子の球が浮いた瞬間にすぐリアクションステップの前準備をしていた綾乃は、視線とラケットの面、立ち位置などから英美が打つのがバックハンド側と読み、打つのとほぼ同時に地面を蹴って何とか間に合う形となる。ただコートの角かつ、地面とシャトルの位置が数十センチの状態では、ロブを打つにもドライブを打つにも弱くなってしまう。かといってストレートのドロップも100%英美に狩られる。

 

「(どの道失うくらいなら!)」

 

「理子ちゃん頭下げて!」

 

綾乃は半ば賭けに出るような心境で手首を立てながら弾く様にして打った。弾くように打つというのは、本来ならスイングして振り切るところを、打った瞬間にラケットを戻すような変わった挙動によるもの。これによりラケットを引っ張らずに打つ為、打った瞬間のラケットの面にシャトルが飛びやすい。とは言え、スイートスポットに当たらなくてはまともに飛ばず、そのスイートスポットにも当たりにくくなるので難易度は高い。

 

弾かれたシャトルは英美が張っていたストレートとは完全に逆のクロスへと飛び、理子の頭上と白帯を通るようにしてがら空きのコートへと落ちた。英美も瑞貴もそちらのコースは完全に読んでおらず、足は一歩目すらでていない。

 

「…秦野弦羽早、今のは?」

 

「時々遊びでやってたトリックショット的な? ダブルスなら使えるかもって」

 

 

「…羽咲さんが本格的にダブルスやるのはわたくしの精神衛生上よろしくないように思えてきましたわ」

 

まず英美のショットは重心が乗っておらずコントロールしやすかったものの、コースと速さと角度は完璧だった。全国でもエースショットとして通用してもおかしくない一打。それがあのざまだ。

 

綾乃の手足の長さで角に落ちる速球を拾う出の速さと読みの精度から、クロスに打とうと考えるふざけた発想と、それを理想的な角度で打ってしまう技術力。

 

「バドが遊びだった綾乃だからこそ成功した技だ。最近の試合で似たようなショットを紅運がしてたけど」

 

「…世界トップを引き合いに…ああ、あなた達知り合いでしたわね」

 

基礎やセオリーを重んじる薫子にとってこの試合は見ていてあまりに頭が痛くなる。おそらく自分と同系列のバドミントンをする瑞貴も似たような顔をしており、同情の視線を彼女に送った。

 

「(強い…)」

 

綾乃のショット一つ一つに翻弄され、彼女がシャトルに触る毎にまるで精神がゴリゴリと音を立てて削れていくみたいだ。今はまだリードをしているので大丈夫だが、いつパートナーの英美のメンタルが崩れ出すかが分からない。

 

「(今の羽咲は本気だ。少なくともミックスの時やこのゲーム序盤とは比べ物にならない…)」

 

ミックスの時でさえ速さと守備の固さから翻弄されていたというのに、あれでさえ力を隠していたと思うとゾッとしない。

 

「(けど絶対でも完璧でもない。上手く突破口を見つけないと)」

 

しかしラリーを重ねるごとに綾乃の勢いは衰えるどころか増して行き、ほとんど一対二の状態であるのにも関わらず点差が縮んでいく。英美が理子へと球を集中させようとしても、突然理子の前に現れてそれを打ち、ならばと理子とは逆のサイドに振ってもバランスを崩す事無く取ってくる。

当然遅い展開で仕掛けようともした。しかしそうすると今度はタッチの速さでは無くラケットワークの上手さが活き、打つ直前に面の向きを変えたり、あえてワンテンポ遅らせて打つことでこちらを徹底的に崩していく。

 

当然彼女もミスはするし、こちらも押し込めているラリーもある。だがその数があまりにも少なく、また連続ポイントを許してくれない。

 

結局リードしていた点差はあっという間に逆転され、21‐16で第一ゲームを取られた。

 

 

 

 

 

 






やっぱ綾乃ってバグってますね。

あともう一話投稿します


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リスペクト


はねバドに限らず最近好きな作品が立て続けに終わって寂しい。


話は全く変わりますが、桃田選手この間の大会で20連勝だったかな? 二大会連続優勝と王者として君臨し続けております。世界ランク1位を一年近く維持しているそうです。
強さは勿論安定感もあるので、ほんとに来年のオリンピックが楽しみです。

女子も山口選手がランク一位に戻ったみたいです。女ダブは日本が強くて層が厚く、男子ダブルスも4・5位。ミックスの渡辺東野ペアが3位と期待〇です。

ただ男子ダブルスはインドネシア、ミックスは中国が圧倒的に強い。


不安だと理子は言っていた。だからコートの中で彼女の事を守って安心させてあげようと思っていた。

その為に理子への元へ飛んできた球も自分が取った。コートのほとんどを自分が担当し、ごく限られた球だけを理子に任せた。それはダブルスとして正しいことではないのは分かっていたが、守るとは即ちそういう事だと思っていた。

理子は弦羽早のように強くない。技術、フィジカル、メンタル全てにおいて弦羽早とは違うのだから、ミックスで優勝した自分が沢山フォローに入らないといけない。弦羽早と組む時のような支え合い、繋がり合うダブルスとは違うのだ。

 

しかしもう大丈夫だよと、第二ゲームに入ってから理子は成長していった。前半の消耗の激しかったラリーが嘘のように、理子が入ってくれてからは試合がスムーズに進んだ。

 

「(分かってる…。この形が普通なんだって、私と理子ちゃんが組む時の理想の状態なんだって)」

 

前衛の綾乃と後衛の理子。これは以前練習の時に弦羽早が言っていたことだ。一試合目、二試合目共にこの流れで勝ってきているのだ。

でも三試合目ではプレッシャーからか理子の動きも悪くなり、また相手もこれまで以上に徹底的に理子を狙ってきたのでそうも言ってられなかった。だからコートの外に追い出すなんて無茶な動きを要求した。

 

「(…また私のやったこと、考えてたことは間違ってたの?)」

 

ラリー毎に動きが良くなり、元々素質のあった観察眼で相手を分析し、成長を続ける理子の背中を見ていると、これまでの自分のプレイは理子の邪魔をしていたようにしか思えなかった。

またある面では、端から理子にそういった成長を期待していなかった部分もあるのかもしれない。理子の調子が悪いのにそれをケアしようとせず、自分がゲームメイクする事で無理やりゲームを優勢に進める事が、酷く身勝手に見えてくる。

 

 

そしてインターバルに入った時、綾乃は遂にその胸の内を健太郎へと吐き出した。この悩み事は周りから見たら変わっていて、誰にも理解されないかもしれない。受け入れてくれると信じてはいるが、それでもパートナーの弦羽早には伝えたくなかった。この悩みは自分本来の悩みであるのと同時に、弦羽早やなぎさに対する嫉妬であることは理解していた。

 

「…コーチ。私は…驕ってるんですか?」

 

「…どうしてそう思う?」

 

綾乃は罪を告白するかのように、なぎさとの個人戦の後から、いや、それ以前からも抱いていた事も含めて語り始める。

 

「理子ちゃんを守らなきゃって練習と違う自分勝手なプレイをして、理子ちゃんのこと何も考えてなかった。ダブルスは、こんなものじゃないって知ってるのに…」

 

「ううん、そんな事ないよ綾乃ちゃん。綾乃ちゃんは私のために――」

 

「…違うの。理子ちゃんが成長して、優位に立っても素直に喜べない。理子ちゃんも、なぎさちゃんも、弦羽早も、みんな成長してる。みんな誰かに負けて、それでも強くなってる。それなのに私は…強くなれない…。あの試合も、未だに自分の負けを…。

…だから、みんなと同じになりたかった。なぎさちゃんや弦羽早みたいに、対戦相手の子と試合が終わった後も普通に接したいのに、でも私一人じゃ何も変わらなくて。相手のことをリスペクトしようと思っても…それがどうしても、上手くできない…」

 

泣き叫ぶかの如くギュッと左手のリストバンドを強く握り絞めたまま、地面から視線を逸らそうとはしなかった。

綾乃から吐き出された特異な悩みは、健太郎の返答に時間を掛けさせるには十分な内容であった。

これまで健太郎は異性であると言う点からも綾乃の悩みを上手く読み取れず、またバドミントンにおける技術の高さからどうしても接する事が少なくなっていた。

 

「(この悩みを俺にしてくれたのは、きっと秦野には言いたくないんだろうな…)」

 

チラリと二階の細い体育館の廊下からこちらを見降ろしている弦羽早と目が合う。弦羽早は少し戸惑うように数回瞬きをした後、ぎこちなく笑みを浮かべると軽く頭を下げて、一階から自分の姿が見えないように下がった。

 

「(相変わらず羽咲が最優先か。でも、それだけ信頼してくれてるって思うべきだ)」

 

健太郎はなるべくこれまでの綾乃の試合内容を思い出しながら、冷静に言葉を選ぶ。

まず理屈で説明することは存外簡単だった。成長する他人への嫉妬心は誰もが持つもので、綾乃は確実に入部すぐよりも技術面でも上手くなってきている。負けを素直に納得できないというのはそれだけ自分の中で反省点が浮かんでいると言う事なので後々のバネになる。対戦相手への思いも、パートナーに対してあれだけ信頼関係を築けているのなら、時間が経てば自然とできるようになるから焦るなと、その悩みを一時的に放り投げるように促すのも可能だ。

 

しかし今の綾乃は、既にそこまで考えた末に悩みを抱え続けているだろうと、健太郎は見ている。あれだけ自分のことを話すのが苦手だった綾乃が自分の心の内を詰まらずに話せた事が、ただ闇雲に悩み毎を言って、解決策を求めているのではないことを証明していた。

 

ただ、理屈で解決しないとなると、やはり他人が取れる解決策というのはきっかけを作ることであって、最終的な解決はやはり綾乃自身がしなければならないことだ。そのきっかけを作れる一言は、健太郎の口から自然に出て来た。

 

「競技へのリスペクトを持て」

 

いくつかの言葉を並べながら、健太郎は穏やかな笑みを浮かべてそう言った。

 

 

 

 

それからインターバルを開けて綾乃と理子は無事にストレート勝ちを収め、そこから最後のS3まで試合は伸びたが、無事北小町が勝利を収めた。

二連続の優勝を目指していた横浜翔栄のメンバーは皆、瞳から涙を流しており、それを懸命に堪えながら北小町の五人と握手を交わす。特に三年生は皆個人戦でもインターハイの出場を果たせなかったので、これで本当に最後の試合となってしまった。

ミックスの時は涙を堪えていた瑞貴も、今回ばかりは手の甲で涙を拭うのを繰り返していた。

 

「…瑞貴ちゃん、ありがとう」

 

「え?」

 

これまで勝者として敗者に対して冷たい瞳を向けていた綾乃が、勝った事に酷く申し訳なさそうに視線が僅かに下がっていた。

 

「…上手く、言えないけど、ミックスの時も今も…瑞貴ちゃんの言葉、嬉しかった。私も、相手に同じように言えるように…なりたいって思えた。だから、ありがとう…」

 

「…アンタの悩みはよくわかんないけど、勝ったんだからもっとシャキッとする!」

 

「へ? う、うん」

 

パシンと軽く握られた手を叩かれ、思わず猫背になっていた背筋がピンと伸びる。

 

「…多分、アンタくらい上手くたって…ううん、上手いからこその悩みってあるんだろうね。それはウチには分からないし、ウチみたいな連中の悩みをアンタが分かるのは難しいと思うけどさ、でも、アンタはほんとに上手だから。そこは、自信持ってよ…」

 

“でないと、ウチ等は泣くことすら許されないじゃん…”

他人の感情を読むのが苦手な綾乃でも、擦れた瑞貴の声に続く、胸の内に留められた言葉に気付くことができた。それは右手に出来た堅いマメ、足首の割に太いふくらはぎや、左よりずっと逞しい利き腕の二の腕などからどれだけ努力をして、そして瑞貴の手から伝わる震えがどれだけ悔しいかを教えてくれた。

 

「…うん」

 

 

 

横浜翔栄との試合が終わった頃には既に夕方近くになっており、北小町の休憩スペースに戻ると一足先に体育館から戻っていた弦羽早がブルーシートを片付けている最中だった。

お疲れ様。そう言おうとした弦羽早だったが、それよりも先に黒いセミロングの髪が視界にふわりと舞うと共に、胸元に小柄な少女が飛び込んできた。

 

「「おおー…」」

 

綾乃の大胆な行動に悠と空が感嘆の声を上げるが、インターバルでの話を聞いていた理子となぎさが静かにするようにジェスチャーで促した。少なくとも今の綾乃は雰囲気の割に、あまり落ち着いた精神状態でないのは分かっていた。

 

抱き着いてきた綾乃の背中を両手でポンポンと叩く。

 

「お疲れ、コーチに何か教えてもらった?」

 

「…うん。それと瑞貴ちゃんにも」

 

「そっか。今日の試合、綾乃にとっていいものだった?」

 

「そうって、言えるように…なる」

 

これまでよりもずっと前向きな言葉に弦羽早は嬉しそうに口元を緩めると、まるで子供をあやすかのようにそれらか何回か落ち着かせるように綾乃の背中を優しく叩いた。

 

それからは現地開散となった。

電車の揺れの中、スカートのポケットに入れたスマホがメールが届いた事を振動で知らせる。頭を置かせてもらっていた弦羽早の肩から体を起こして上体を真っ直ぐにすると、その差出人と内容を確認した。

隣にいる弦羽早は、画面を覗き込む様な性格でも無いので変に隠したりはしない。ただ、その中身が少なからず弦羽早にも関係のある事だったが、それを伝えようとはせずにそのままポケットに終い込んだ。

 

そのすぐ直後にもう一度ブーンと振動音が鳴り、今度は弦羽早がポケットからスマホを取り出す。その差出人に僅かに頬を強張らせ、そのすぐ後にハァとため息を吐いた。

 

「誰?」

 

「母さん。今日帰ってくるから相模原さんのところのケーキ買って来いって。そういう訳だから次の駅で降りるよ」

 

「なに? 秦野ってマザコンなの?」

 

「マザコンと言うより、元気なお母さんだもんね。私も何度かしか会った事ないけど全然記憶が薄れないし」

 

有千夏のように見た目が異様に若いという訳では無いが、普段のやり取りなどは親子というよりも姉弟に近いのかもしれない。フランクな印象の弦羽早の母親はインパクトのある人だった。

 

「まあ今日も仕事だったし、軽い親孝行ってことで。じゃ、お疲れ様。今日はゆっくりね」

 

減速した電車がピタリと止まると、同級生三人に軽く手を振って電車を降りる。

店の場所は知っているが、以前は自宅から自転車で来ていたのでこの駅からの位置関係はあまり頭に入っていない。そもそもこの辺りは普段来る地区でも無いので土地感も薄く、スマホで位置を確認しながら店へと足を進める。見覚えのある場所まで来るのに十分近くの時間を要し、店に入ってごく普通の見た目の優しそうな相模原の両親と軽く会話をしながら、少しだけ割引をしてもらったケーキの箱を持つ。

相模原はまだ今日の反省会で家には戻ってきていないらしい。

 

「強豪校の主将も大変だな」

 

元々主将というのは部員全体を引っ張る立場で皆の模範となるべき役職であり、加えて他校との練習試合の時などの挨拶は勿論、その他の練習以外の仕事も少なくは無いだろう。

当然部員数が多ければ多い程、気を使うべき相手が増えるので負担も多くなる。

 

「(二年後の俺と綾乃はまだ北小町にいるのかな?)」

 

なぎさが怪我をしてしまい通常の練習が厳しくなった以上、もう今の北小町に練習相手と呼べる相手はいない。それこそ互いに打ち合うくらいしか拮抗した試合にはならないし、それも同性でない事から理想的な練習試合とも言えない。

今の環境があと二年続いたとして本当に全国を、世界を目指せるのだろうか。そもそもバドミントン部は果たして継続できる程の部員が集まるのだろうか。

 

「(芹ヶ谷にハッキリ言って貰ったのはほんとに良かった)」

 

自分がどうしても綾乃を優先してしまい、それが決して良くない事であるのは自覚している。それでも北小町にいたい、みんなと全国を目指したいと言った綾乃の意志を尊重したいと思っており、また健太郎が居てくれることからノック練習などの質は高い方だ。

何より綾乃と一緒に練習をすることはそれだけで自分にとって大きな成長を促してくれる。今の自分が、入学してすぐの自分よりも遥かに強くなったことの自覚はある。

 

「(県では確かに通用した。でも全国の上位、世界を目指すにはまだ極めないといけない部分が多すぎる)」

 

相手のレシーブを貫けるようなスマッシュや、体勢を崩すドロップショット。サービス周りやドライブの精度、コートを隅から隅まで使うコースの精度にフェイントを取り組む。他にもヘアピンや意図してゾーンに入れるようになる、綾乃のような精度のカウンタードライブ、クロスファイアなど言い出したらキリがない。

 

綾乃と組む混合ダブルスにおいては、弦羽早には世界を目指せるほどの素質があると自負していた。それはやはり、手を抜かれていたとはいえ世界ランク一位から1ゲーム取れたという大きな実績を成し遂げたからこそのものだった。だからこそ、今この時間を無駄にはしたくない。

 

どうしたものかと暗い夜道の中小さくため息を吐くと、ブーンとポケットのスマホがまたバイブレーションを起こす。母親から早く帰ってこいとの催促かと思ったが、画面に表記された名前は母親では無く、コニーからだった。

 

「もしもし。どうかした?」

 

『こうして電話するのは久しぶりね、ミックスも優勝したんでしょ。おめでとう』

 

「そっちも、流石だね」

 

コニーもまた弦羽早と同じく、シングルとミックスにおいて優勝を果たしており、その結果は以前にメールで聞いていた。

 

『えっとね、今日は弦羽早と話したい人がいて電話をしたの』

 

「ん? 誰?」

 

向こうにいる知り合いと言えば中学時代の同じ部活仲間か、あとはフレ女の一部のメンバーだけ。前者に関しては基本メアドの交換はしているし、後者も交友関係のある志波姫とは互いの連絡先は知っている。

答えを言う前にコニーは“変わるね”と電話から離れた物音が聞こえ、弦羽早は進めていた足を止めて軽く身構える。

 

『やっほ、こないだぶりだね』

 

「その声…もしかして、おばさん?」

 

『フハッ! ママ、弦羽早におばさんって言われてるの!?』

 

直後電話越しから鈍い音と、痛みを押し殺す少女のうめき声が聞こえた。現場を見ずとも繰り広げられたやり取りが脳裏に浮かび、苦笑しながら止めた足を再び動かし始める。

 

『まずはミックス優勝おめでとう。見てたけど、いい試合だったよ』

 

「ありがとうございます。でも…あの試合に関してはおばさんの本音が聞きたいです。綾乃の母親としてでなく、指導者としての」

 

混合ダブルスの決勝。あの試合も、最近このまま北小町にいてよいのか考え出したきっかけの一つだ。

相手の二人を決して侮っていた訳ではない。何しろ相手は去年の優勝者で、強豪の逗子の男女のエース二人だ。そんな二人を相手に圧勝できるなんて傲慢は無かった。

でも心のどこかで相模原には個人シングルスで勝ったので、自分の本職であるダブルスでもストレートで勝てると、あそこまでギリギリの結果にはならないだろうと考えていたのもまた事実だった。

 

『…そうだね。あの試合に関しては、一番弦羽早君が入り込めてなかったように見えた。相手の二人は自分の全てを出し切って勝つって意志を感じられたし、綾乃も同じだった。勿論、弦羽早君からもそれは感じられたけど、でも、三人程じゃなかった。違う?』

 

「…はい、間違ってないです。相手を侮っていたか、あるいは自分を過大評価かは分かりません。それに綾乃のように、麗暁戦(あの時)みたいに集中しきれないんです」

 

『うん、素直でよろしい。私は弦羽早君じゃないから入り込めなかった理由をハッキリとは分からないけれど、キミはちょっと謙虚なところがあったし、偶には自分を過大評価するのもいいことかもよ。勿論、それで終わっちゃ駄目だけど』

 

やはり有千夏の言葉の重みは違う。それは電話越しの何気ない励ましなのかもしれないが、全日本十連覇を成し遂げ、世界ランク一位の麗暁(リーシャオ)を育て上げた彼女の指導者としての言葉は、重石が取れたかのように心が軽くなる。

 

『あと極限の集中状態っていうのはそう起こりえるものじゃないからね。私は麗暁に瞑想と呼吸法、あとはイメージトレーニングを毎日やらせてたから、弦羽早君もやってみるといいよ。瞑想とイメージトレーニングは別物だから別けてやるように』

 

「はい、早速今日から。あっ、こっちの話ばかりになってしまったけど、俺に何かお話が?」

 

伸び悩んでいる中で世界を股に掛ける指導者との連絡を取り合え、つい自分の話を優先してしまったが、元は彼女から用があって電話してきたのだった。

いや、そもそも何故有千夏がコニーの元、つまりフレゼリシアにいるのかも突っ込むべきポイントではなかろうかと今になって気付く。

 

『実はさっき綾乃にも連絡を入れて、それで…ね。綾乃は今、ほんとに大丈夫なのかなって』

 

本題を話す有千夏の声は、それまでよりも明らかにトーンが落ちており、それは落ち込んでいると言うよりも、寂しげなように感じられた。

 

右手に持つスマホを必要以上にギュッと強く握りながら、空に浮かぶ星の見えない曇り空を見上げ、今日を含めたここ最近の綾乃の事を思い返す。今の彼女はとても元気と言える状態ではなかったが、しかし悩みながらもいい方向に進もうと努力しているのは伝わってくる。

 

「大丈夫ですよ。綾乃はほんとにいい子です。真面目に、逃げずに周りと向き合おうとしています」

 

だから嘘を吐かずに、有千夏を心配させないような言葉を選んだ。先程の電話で有千夏と綾乃がどういったやり取りをしたかは分からないが、有千夏の望みを聞いた者として、望んでいた方向に綾乃が進んでいるのを伝えるのは一種の義務だとも思っていた。

 

『そっか…。それを聞いて安心したよ。これからも綾乃のことお願いね』

 

目を伏せて微かに笑みを浮かべている穏やかな姿が想像できる、かつて自分が小学生だった時の彼女を思い出すそんな優しい声色。

 

『もし伸び悩むことがあったら一度こっちにおいで。きっかけぐらいなら作ってあげられるかもしれない』

 

「はい、ありがとうございます」

 

“じゃあ、そろそろ切るね”。最後の軽い挨拶と共にあっさりと電話を切った淡々としたやり取りは、やはり綾乃の母親だなと思える。ツーツーと電話が切れた事を伝える機械音を消し終えると、もう周囲は見慣れた住宅地が広がっていた。

 

 

 

 





次回の投稿はまだ未定ですが、とりあえずインターハイ開始前まではなるべく早く(当社比)投稿出来たらいいな




あんまりこういうこと言わないタイプですが、感想とか高評価とかくれると嬉しいです。




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私らしく

はねバド最終回読みましたー。よかったー。

その後の話が見れて面白かったです。
ただなぎさが一瞬志波姫さんに見えてちょっと困惑した。

そして路ちゃんはーーもう戻れないっぽいですねあれは。



北小町は準決勝で敗退した。

分かり切っていた結果なのかもしれないが、やはりなぎさが離脱した今の北小町に優勝するまでの力は無かった。

理子と学はこれで引退となり、なぎさも普段通りの練習が行えなくなることから三年生は練習から離れることとなった。もっともインターハイが終わるまではマネージャーとして練習に参加してくれるようなので、今すぐに寂しくなることはないだろう。

 

「(終わっちゃったな…)」

 

この一ヵ月試合に次ぐ試合だったので、今週の休日の練習は休みになっている。突然休日を渡されてもどうしてよいのか分からず、また試合が終わってしまい無気力状態となり、綾乃はぼんやりと手入れの行き届いた庭を見つめていた。

 

「(弦羽早に会いたい…。でも、もう気を使って欲しくない…)」

 

自分が今悩んでいて、それを意図して聞かずにいてくれることは、安堵できる一方負い目も感じていた。

これまで懸命に逃げずに向き合おうとしてきた綾乃だが、試合が終わった事による燃え尽き症候群も相まってか、今は考えるのが酷く面倒で疲れる。

インターハイに出場が決まった事が面倒に思えてしまい、身体も気怠く何もやる気が起きない。ただ一つ、弦羽早の肩に頭を置いて、彼のぬくもりを感じながら目を閉じたい。

 

「お嬢。お友達がお見えで」

 

一瞬彼がやって来たのかと思ったが、弦羽早の事をお友達とは言わないのですぐに違うと、安堵かあるいかため息の混ざった吐息が出る。

では誰か。北小町のメンバーかあるいはエレナかのり子か。

少ない交友関係の中で友達と言える人物は限られていたが、やって来たのはその誰でもないピンクの髪がこれでもかと印象的な少女だった。その背中に隠れるように自分と同じくらいの背丈のミキの姿もいる。混合ダブルスと団体戦の準決勝で当たった為、彼女の事も知ってはいる。

 

「…薫子ちゃん?」

 

「少し付き合って下さいますか?」

 

 

 

 

薫子に付いて行くのは面倒なので拒否したいと脳は判断を下そうとしたが、心と体は自然と彼女の言葉に従っていた。どんな相手でどういった関係性であれど、人と接する事が自分にとって良い事なのだと、無意識の内に己の成長を期待していたのかもしれない。

薫子が向かった先は港南高校の体育館。流石に市民体育館に比べると広さは劣るかもしれないが、少なくとも北小町等のごく普通の高校に比べると天井は高く、敷地は広い。

 

「…私の家、良く知ってたね」

 

「ある方に聞きましたから」

 

「…そっか」

 

やはり綾乃が相手ではこういった雑談は話が続かない。続けようとする意志が彼女には無い。

薫子も癖が強く、周囲と上手く馴染める方ではないが、自覚がない分綾乃はそれ以上に大変だろうと、こういった態度を見ていると思う。

 

もっとも薫子としてはそういった、良く言えばクールで悪く言えば冷めた部分は嫌いではない。

ミキから借りたユニフォームを綾乃へと手渡すと、彼女は少し動きが固まりつつも、ただ何をしにここまで案内されたのかは分かっていたようで文句は言わなかった。

 

「…スカート」

 

「ご、ごめんね!私、基本的にスカートタイプで」

 

「いや、大丈夫」

 

スカートと言っても当然中に短パンのようなものがあるが、あまり履きなれたものでもない。もっともこれといって抵抗がある訳では無かったので、おどついているミキに軽く首を振った。

着替えのためひんやりとした体育館倉庫で着替えながら、綾乃はぼんやりとかつての、中学二年生の時の薫子との試合を思い返す。

 

かつては薫子の風邪を無理やり移す、汚いやり方に怒りと苛立ちを覚えたものだ。あれを機に明確に薫子が苦手になったのもまた事実。

ただ地区大会で薫子との試合を終え、そしてなぎさと戦った今、あの時の事を思い出して感じるものは苛立ちなどでは無く悔しさ。

 

「(いいよ、また圧勝してあげる)」

 

 

 

しかし綾乃の思いとは裏腹に、始まった薫子との試合はイーブンどころか劣勢となっていた。いつもの綾乃であれば、疲労は感じていても顔に出さずにいられる運動量であるのにも関わらず、身体は重く内側が燃えるように熱い。

 

そして繰り返されるラウンド側への配球。楽をしてハイバックで繋げてもよいが、ラリーを続けることもまた辛い状況であり、無理やり回り込んで打ち抜く展開が多く見られた。

何とか薫子を動かす為に前後に振るが、彼女はまるで綾乃の配球を読んでいるかの如く自分が打つ時よりも一呼吸早くシャトルの落下地点で構えており、本来なら得意な筈の速いゲームスピードを彼女が引き起こし、こちらが後手に回っている。

 

「ハァ…ハァ…ッ…」

 

「あなた…」

 

膝に手を当てて必死に呼吸を整えようとする綾乃の姿に、薫子は左手で構えていたシャトルを降ろす。

薫子も当然、地区大会での綾乃の惨敗を糧に、それまで以上に努力に励んできたが、綾乃との力量差を埋められる程の成長は遂げていないと自己分析はできている。

綾乃との試合を前に何の下準備も無かったわけでは無いが、ここまで作戦通りに試合を運べる相手でないことは誰よりも知っているつもりだ。

 

「は、ははっ…。最近さ、ごちゃごちゃして、分からない事ばっかだけど、これだけは思うよ。あの時、薫子ちゃんに負けてなければ私はもっと、私らしく生きられてたんじゃないかって」

 

ラケットを杖代わりにしながらフラフラと立ち上がる綾乃の姿と、彼女の声に籠められた切実な意志の重さに、審判をしていたミキの肩がゾワリと震える。その弱々しい姿は似ても似つかないが、しかし彼女の纏う空気は団体戦の試合の時に自分を圧倒した彼女の姿と瓜二つであった。

 

「あなたらしく生きる…?」

 

残された僅かな体力を必死に振り絞ってようやく言葉になったかのような、そんな声に薫子は一瞬だけ頭が真っ白になった。

それはかつての自分のしでかした事が、そこまで綾乃に大きな重石となってしまったという罪悪感――などではなく、思わず腹の内から空気が吹き出して来るほどの、綾乃の滑稽な思考に。

 

「クッ…フフッ…。あなたが今、どんな都合のいい想像をしたかは分かりませんが、今のあなた程、“私らしく”が似合わない人間なんていませんわよ」

 

「なっ? じ、自分のやった事を、たっ、棚に上げるの?」

 

その言葉は綾乃がずっと心の内に抱えていたものだ。それまで決して口にしようとはしなかったが、全てのきっかけとなってしまった薫子との試合。そのきっかけを作った薫子に、謝罪されることはあっても嘲笑を向けられるなんてことは一欠けらの想像すらしていなかった。

 

「クフッ…。では想像してごらんなさい。仮にあの事が無かったとします。それが難しいのなら今この場でわたくしがあなたに土下座して謝罪したとします。それであなたはどうなりますの? “私らしい”羽咲さんにはなれるのですか?」

 

「ッ…そんなのッ!」

 

薫子が言われたシチュエーションを想像してみる。

同じような想像は当然したことがあった。ただ一人で考える時は、“薫子に負けなければ”=“私らしく生きられる”という最低限の式しか浮かばず、その式の具体的な内容や、“私らしい”という答えがどういったものかまで考える余裕は無かった。

 

切羽詰まるように考え出す綾乃だったが、どちらもその後の世界が想像できない。

仮に中学二年のあの試合が無かったとして、そこから先自分がどういった生活をしているのか。あるいは今この場で薫子が謝罪をした後の自分が、薫子だけでなく周囲とどう接していくのか。

 

「…ぅ」

 

「その羽咲さんはどんな顔をして、どんな相手とどのような会話をするのかしら? 相手の顔は浮かび上がりますか? いえ、今のあなたでしたら自分の顔すらまともに想像できないのではなくて?」

 

必死に笑いをこらえるようにお腹を押さえる薫子の姿に、爪が肉に食い込む程に拳を強く握る。それは薫子への、怒りを通り越した殺意にも似たどす黒い感情でありながら、何か一つ、嘘でも言い返せない自分への怒りでもあった。

 

「(私、が…。私は…)」

 

考える、考えてみる。

あの出来事が無かったら、自分はどうしていたのかを必死に。薫子に言い返すだけの紙芝居では無く、自分の心から想像するたらればの世界を。

 

「…弦羽早がいてくれる」

 

「…は?」

 

思わぬ返答に、いや、そもそも返答すら来ないと思っていた薫子の笑いがピタリと止まる。

 

「弦羽早は、憧れてるって言ってくれた。私とパートナーを組むために…全国で優勝してくれた。薫子ちゃんがいなかったら…私はもっと、弦羽早と――」

 

どうなっていたか。そこまでは言葉が浮かばなかった。無我夢中で胸の内をそのまま吐き出して口を動かす綾乃にとって、自分の言葉を完結させるなどがそもそも困難であった。

しかし綾乃の言葉が途切れそうになるその直前で、まるでバトンを受け取るかのようなタイミングで薫子が割って入った。

 

「なるほど。ではそのもしもの羽咲さんは、秦野弦羽早を“一切見下していなかった”と?」

 

「……は?」

 

薫子が一体何を言っているのか一瞬理解できなかった。主語を間違えているのではないかとも思ったくらいだ。

優勝した弦羽早が優勝できなかった綾乃を見下しているであれば、まだ話として成立はする。勿論そんな事は一切ないと綾乃は胸を張って言えるが、優勝できなかったことの劣等感からそんな被害妄想をしたことはあった。

その被害妄想が弦羽早に対して失礼だと思いつつも、ネガティブになった思考というのはどうしても負の方向性に進んでしまう。

 

「う、嘘を吐いてまでこれ以上私を怒らせるのはやめてよ。なんで、そういう話になるの…?」

 

「どうしても気になって、知り合いの記者の方にあの試合――世界ランク一位と戦った試合を見せてもらいました。あなたも彼も天才だと思う一方、少し気になった事がありまして。あなた…何故あの時はサービス周りをミックスの正攻法にしていなかったんですの?」

 

「…えっ?」

 

その瞬間まるで体の全身の血がピタリと止まるかのような不快感と寒気が綾乃を襲った。カタカタと震えるラケットは怒りから来ていないことは、綾乃と付き合いがほとんどないミキから見ても明らかな程に動揺を隠せないでいた。

その変化に薫子はラケットグリップを一瞬強く握りながらも、内心ホッと息を吐く半面、呆れもあった。

 

「(ほとんど釜かけでしたが、まさか感じていた違和感が本当だったとは…。そこまで歪な己の“そんな部分”を未だ気付けていないのなら、ここまで追い込まれるのも当然でしょうか)」

 

ふぅと一呼吸整えると、できる限りそれまでと同じ嘲笑の籠ったトーンと表情で話を続ける。

 

「あそこまで格上を相手にしてあなたが後ろにいるメリットなんて無い。自分達の強みをいかにして押し貫くかが格上を倒す鍵であることを、あなたならご存知では無くて? ですから改めて聞きますわ。何故あなたはサービス周りで、通常のダブルス通りの立ち位置だったのですか?」

 

「…そ、れはッ…。だ、だって、紅運にスマッシュを打たれないように低い展開に、しないといけないから。も、もし弦羽早がサーバーの時にプッシュを打たれたら、あ、上げざるを得ないでしょ…?」

 

混合ダブルスの男子がサーバーである時は、ミドルコートよりやや後ろ目でサーブを行い、その斜め前に女子がいる形がセオリーとなる。もしその状態で弦羽早がいる反対側へ出の速い麗暁(リーシャオ)のプッシュを打たれた場合、その球をドライブで返せる選手は世界で見てもその数は少ないだろう。

だから従来のダブルスの立ち位置をすることによって、少しでも麗暁のプッシュにドライブで対応できるようにしていた。

 

なるほど、確かに思ったよりも合理的な答えが返って来たと薫子は一応納得した。もっとも、その全てが真実でないことは動揺する綾乃の声が教えてくれていた。

 

「…確かに中盤以降の相手を知った展開であればそれは理に適っていますわ。ですがあなた達はゲーム開始から一律して立ち位置は従来のまま。序盤くらい、立ち位置を変えてもよかったのではなくて?」

 

「ぅ…ぁっ…」

 

必死になって綾乃は考える。先程のたらればの世界を想像するよりもずっと頭を動かし続けた。

しかし思い出す内容はあの時の試合よりも、それまでの自分は必要以上に弦羽早にフォローに入ってもらうのを酷く嫌っており、サービス周りもまるで自分が下に見られているようで苛立ちを覚え、通常のダブルス通りとする取り決めをした会話もまだ記憶に新しい。

 

それだけじゃない。

 

合宿でコニーとミックスで戦った時、自分に球が来ないようにとストレートにロブを上げ続ける弦羽早に自分は感謝するどころか、嫌いとまで言った。

 

薫子に負け、弦羽早と喧嘩した時の自分の言葉。“幻滅した? それともスッキリした?”。それはいったい自分のどういった感情から出た言葉なのか、想像するだけで世界が反転するように気持ち悪い。

 

件のダブルスで、麗暁と紅運の正体を知った弦羽早がミスを連発する最中に、自分は彼に何と言ったか。いくつか酷い事を言ってしまったが、今の綾乃の脳にリフレインするのは、“これ以上足を引っ張らないで”と冷たく告げたこと。

 

「ち、違う…。わ、私は、弦羽早の事、見下してなんて…」

 

「いったい今のあなたがどれ程彼を信頼してるかは知りませんが、ただ無償で他人を信頼できる優しくておっとりしたあなたなんて端からどこにもいませんでしたよ。いたのは自分が優位に立っている事に満足している部活(大衆)と合わなかった女の子」

 

“薫子ちゃん、強いね”

薫子と出会ってすぐ、ほぼラブゲームに近いスコアで勝った綾乃は彼女にそういった。

“大多数の人間なんてね、この蟻みたいに群がるしかできないんだよ”

エレナに正論を言われ、それで逆上してしまった自分が何も考えずに吐き出した言葉。

 

「ち、ちがっ――」

 

上に立ちたい(その)癖、対等な人間を求める闘争心の塊で、負けず嫌いでねちっこい。狡賢く計算高く、友達ごっこが大の嫌いで気も利けない。他人の美点に嫉妬してばかり」

 

楽しかったと思う反面、どうしても負けを受け入れられないなぎさとの試合。

自分が一人で戦う時、相手は泣いたり怯えたりと、笑顔を浮かべてくれない。

相手を、競技そのものをリスペクトしようとしても、どうしても上手くできない。

 

「ちが、ぅ…」

 

擦れるような綾乃の声に、ミキは薫子を止めようとするが彼女に睨まれ、声を出す事すら許されなかった。

薫子はスゥと自分の心の中で大きな深呼吸をし、自らのメンタルを整える。この最後の一言は、いくらライバルであったとしても、他人に与えるにはあまりに大きな影響を及ぼす言葉だ。

それもやさしい言葉ではない、明確な悪口で、薫子であっても吐き出すには覚悟は必要だった。

 

「そしていつも他人を見下してる。そんなあなたがわたくしが居なかったからと、仲良く秦野弦羽早とペアを組んでいるのでしょうか?」

 

言った。おそらくこれまでずっと綾乃に言いたかった、彼女の性格について全て出し切っただろう。

普段の綾乃の身の回りのことなど知らないが、ただ出会ってから未だに本質の変わらない彼女を見ている限り、綾乃には自分のような容赦なく悪口を言ってくるような相手はいないのだろう。

 

だからこそ今の自分の言葉は、綾乃にとって人生で初めての経験のはずだ。そんな彼女がどういった反応を示すかは薫子にも分からない。

ただ綾乃は地面を向いたままじっとその場で立ち尽くし、身体を震わせている。

 

そして体育館が静まり返って十秒ほどだろうか。その静寂が破られた。

 

「ぅ…ぅぅ…ぅぇぇ…」

 

「…へ?」

 

「ぅぇぇっ…ふぇっ…ぁぅっ…」

 

怒鳴ってくるは当然覚悟していた。聞こえなかったと何も言わずに立ち去る事も可能性の一つとして考慮していた。

ただその場でへたり込んで泣き出すなどは流石に予想できなかった。

 

それまで中立を貫いていたミキの視線が一転し、非難するかのように自分を睨みつけてくる。普段の薫子であればそんな視線を向けられようとも、我が物顔で己の信念を貫くだろうが、流石の彼女もこの反応には動揺を隠せない。

しかも本気で泣いており、嗚咽などが生々しい。

 

「わだじ…ずっどがんがえてて、みんだど同じおうに゛なりだくて、ぞれが全然できだぐで。じっ、自分がわるぐないっでおもっでだ。づよいわだしが正しいんだって。でぼ、さいぎんそう、じゃない、がもっで、怖かった。それでもづばさは一緒に、いて、くれるって、おぼっでたのに、私が、づばさを、そっ、んな風に、みでだなんて」

 

「あの、羽咲さん? さっきのは何もあなたに向けた言葉ではなく…」

 

一先ずラケットを置いて彼女の元まで歩み寄ると、ほとんど聞き取れない日本語を治すためにも彼女の背中をぎこちない動作で撫でる。

因みに今の綾乃の言葉は

『私ずっと考えてて、皆と同じようになりたくて、それが全然できなくて。自分が悪くないって思ってた。強い私が正しいんだって。でも、最近そうじゃないのかもって怖かった。それでも弦羽早は一緒にいてくれるって思ってたのに、私が弦羽早をそんな風に見てたなんて』

と、何とか変換することができた自称ライバル兼悪友。

 

「いいの゛…。ぜんぶ…あっでる…」

 

思いの外素直に、いや、素直というにはかなりの言葉を掛けたが、それでももっと否定を続けるかとも思っていた。

人間誰しも、自分が思っている自分とは異なる人物像を他人から言われたら困惑するものだ。自分とはどんなに切り離そうとしてもそこが世界の中心であり基準であるのだから。

 

おそらくだが、綾乃は考えている内に自分のそういった面に既に気付いていたのかもしれない。それを無意識の内に終い込んでいたのかどうかは定かでは無いが。

 

「薫子ぢゃん…私は…」

 

「…あなたの人生(世界)全てを知っている訳ではありませんが、あまり人間を美化しすぎない事ね。性格のいい人間なんて一人もいないわ」

 

「いる゛…づばざがそうだもん…」

 

「…あなたに対してはそうでしょうね」

 

ここに来て尚あの男の名前を出すかと、薫子はこれまで内面に抑えていたため息を遂に解禁し深く吐いた。

 

「とにかく、あなたはもう機械だった頃のような(かつてのあなた)とは違う。強くなるために自分と向き合う必要がでた。だから、悩むだけ悩んで、強くなりなさい。そして、わたくしのライバルは日本一だと全国で証明しなさい」

 

 

 

 

 



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まだ気づきませんの


またせたな!


お母さんと繋がるだけで良かったバドミントンが、いつからだろう、こんなにも楽しく感じられたのは。

こんなにも変わりたいと、周りと――彼と同じようになりたいって思えたのはいつからだろう。

 

夢に旅立っていた意識が現実に戻ると共に、瞳は面白いくらいにすぐにパッチリと開いた。まだ寝足りないと瞼が閉じることはない。ただ寝る直前の記憶が無い為、硬いフローリングの床と、掛けられたタオルケットに覚醒した頭が僅かに混乱する。

 

「それだけ豪快に眠れるのなら、風邪は大丈夫そうですわね」

 

「薫子ちゃん?」

 

薫子、風邪、自分の着ているユニフォームや近くにおかれたラケット。そこまで視線が動けば眠る前の記憶も戻り、少しの気恥ずかしさと同時に清々しさがあった。

 

ずっと抱いていた悩みが解決しないのは、自分を捉えられてなかったからここまで続いていたのだと。

 

今なら分かる。何故弦羽早やなぎさのようになれなかったのか。何故対戦相手の少女達が怯えていたのか。どうしてあんなに苛立っていて、周りに不安定な態度を取って、一時期は頭痛までしていたのかも。

全部自分が分かっていなかったから。

 

それは決してすぐに受け止めきれる内容では無かった。自分の性格が悪く、これまでの行いが間違っていたと受け止めきれるほど綾乃は大人では無かった。それでも理解できているのとできないのでは大きく違う。これも弦羽早がバドミントンを通して教えてくれたことだ。

心の奥深くまで根付いていた太く何重にも枝分かれした悩みと言う根っこが、細い根の一本も残さず取れたように今は清々しい。

 

だからこそ綾乃は薫子に言った。これまで自分でも気づけず、他人も全てを分かってくれず、ずっとずっと悩んでいたこと。それを悪役になってまで解決まで導いてくれた彼女に、穏やかな口調で。

 

「ありがとう、薫子ちゃん」

 

人はきっかけ一つで変われると聞いたことがあるが、まさかここまで変わるとは。正直薫子としては綾乃が強くなってくれるのなら、どう転ぼうと後は野となれ山となれであったので、ここまで感謝の籠った言葉を向けられるとむずがゆい。

ただ終わり良ければ総て良しという言葉もあり、それに従って薫子も不敵な笑みを浮かべる。

 

「どうやら吹っ切れたようで。なら良かったですわ。その様子なら秦野弦羽早に対する気持ちにも気づいたのでしょう?」

 

「え?」

 

「は?」

 

数秒、二人の間に沈黙が流れる。

 

「あっ、弦羽早に謝らないとね」

 

なるほど、と薫子は理解した。まだ自分は綾乃の事を理解しきれていなかったと反省する。

これまでの彼女は心の余裕が無く、言うなれば水が満タンまで溜まったバケツだった。だから安心や支えを求めることはあっても、恋をする余裕が水滴一粒入る容量も無かったのだろうと。

おそらくそれも間違ってはいない。だがそこに大きな要因が加わっていた。

 

羽咲綾乃は生まれ持っての根っからの鈍感であると。

 

「…あなた、まだ気づきませんの?」

 

「え?な、なに?まだ私気付けてないところあるの!?」

 

この際だから悪口でもいいから全部言って欲しいと、動揺した瞳が訴えかけてくる。

何故自分がここまでお膳立てしてやらないといけないのかと頭を押さえながらも、ここまで乗りかかった舟だと最後まで付き合う事にした。

 

「…あなた、秦野弦羽早のことが好きでしょう?」

 

「うん、そうだけど…それが?」

 

淡々とした返答にガクッと頭が下がってしまう。二人から少し離れた場所でも、ミキがバランスを崩してゴンと壁に頭をぶつけていた。

年頃の少女がどうしてここまでこの手の話が分からないのかと、薫子は鬼の形相を浮かべて綾乃の両肩をグッと掴む。

 

「違いますわ!だから、異性として、恋愛対象として、秦野弦羽早が好きなのでしょうと言っているのです!」

 

何故自分が愛の告白をするかのような恥ずかしい思いをしなければならないのかと、怒りと羞恥心から薫子の頬が僅かに赤く染まり、軽い息切れと共に肩が上下する。

薫子の必死な形相と眼差しに呑まれて数秒間動けなかった綾乃だが、ハッと我に返ったかのように。

 

「え!? ち、違うよ! 私と弦羽早はそんなんじゃなくて、パートナーだって」

 

「…あのですね、確かにパートナーとは基本仲が良いでしょう。信頼し合っているものかもしれません。ですが、試合中に抱き合ったり、あれ程フォローが的確で、ゼロに近いくらいお見合いが無かったりするのは、それはもうただのパートナーではありませんわ」

 

「いや、だって、ハグとかは外国とかじゃする…みたいだし、お見合いが無いのはある程度取り決めしてるし、フォローも互いの守備範囲を理解してるからで…」

 

バドミントン関係では納得しないかと、別の証拠を取り出して攻めることを切り替える。まるで検察官だと遠くから二人を見守っているミキは他人事のように思う。

 

「これまであなたの試合を見ていましたが、あなたが純粋な笑顔を浮かべた時なんて、それこそ荒垣さんとの試合を除けば全部彼といる時だけ。試合であろうとなかろうと、彼と一緒にいるあなたは見てるこっちが恥ずかしいくらいにはいい笑顔を浮かべている。それについさっきも、あなたが怒らずに泣き出したのは、秦野弦羽早を大事に思っているからこそ、彼に対する想いから涙が出たのではなくて?」

 

薫子の言葉が実体化して自分の胸を下からつき上げるような感覚だった。手の先がブルブルと震え、カチカチと歯が重なる音が口から耳へと体内を通して伝わる。

これまでも同じような話はされた。弦羽早の事が恋愛対象として好きじゃないのか、まだ付き合っていないのかと。

薫子の言葉もこれまでと同じようにあしらえばよい筈だが、上手くそれが出来ない。

 

「えっと…ちがっ…つ、弦羽早は…大事な…パートナーでッ…」

 

ドクンドクンと心臓が大きく鼓動し、胸が締め付けられる。まるで前後から壁の間に挟まれているかのように息ができない。

何故ここまで自分でも否定をしたがるのかと、必死になってこれまでの彼とのやり取りを思い返す。自分たちは決してそういう関係じゃなく、互いにコートを委ね合うパートナーだと言う証を求めるように。

 

“一緒にやろう、楽しいバドミントン”

 

“だから強くなったんだろ!お前のパートナーだって胸を張って言えるくらいに”

 

“やっぱり、綾乃の言葉が一番嬉しいな”

 

“じゃあ、もっと支えたい。もっと一緒に戦いたい。俺が憧れた綾乃はこんなに強いんだぞって、日本だけじゃなくて世界中に自慢してやりたい”

 

「あっ…うっ…」

 

しかしこれまでの彼との出来事を思い返すほどに、心臓は落ち着くどころか弾けそうなくらいに激しく鼓動する。まるで呼吸の仕方も忘れたかのように上手く空気を肺に入れることができず、突然羽が生えたかのように地面を踏んでいる筈の足が浮いているようだった。

 

「ちがっ…だって、でも、その、私、そんなの興味っ…」

 

薫子の幼子を見るような温かい目線に耐え切れず、思わず手の平で顔を覆うと、顔の表面は自分でも分かるくらいに熱を帯びて火照っていた。口の筋肉は緩んでおり、震える手で唇の端を触れると口角が上に上がっている。

必死に平常心を保とうと一度頭の中から弦羽早を追い出そうとする。しかしどれだけ意識しても彼が頭から出るどころか、彼が抱き締めてくれた部位や、撫でてくれた頭が彼の感触を思い出し、すると全身が水を得た魚のように喜びを覚える。

彼の事を忘れようと思うどころか、今彼がどこで何をしていて、いつ会えるのか考えるだけで気が気じゃない。

 

「ぁっ…えっ…わ、私って…。つ、弦羽早のこと…す、…好き…なの…?」

 

「ええ。好きも、好き、ベタ惚れですわね」

 

「~~ッ!?」

 

文字通り声にもならない悲鳴を上げて綾乃はその場で縮こまった。

 

 

 

これまでの人生、他人を好きになったことは、いくら性格が悪くともあった。でもそれは家族か友達、店の従業員など極々限られた分類であって、それこそパートナーとして心の底から弦羽早を好きになれたことは、これまでの人生において大きな変化だった。

だからそれで良かった。彼と一緒に全国、世界を目指して互いを高め、支え合い、誰に対しても理想のパートナーだって胸を張って言える関係で、それ以上の変化は必要ないと思っていた。

 

「ぅぅぅっ…」

 

「なんでそんな苦しそうな声上げてるんですの。もっと素直に喜びなさいな」

 

「だ、だってぇ…」

 

綾乃がまともに動き始めるのにそれこそ十分近くの時間を要した。それまでずっと外界から引き籠るように顔を覆って縮こまっていたのだから、本当に混乱しているのが伺える。

今もまだミキが彼女の背中を優しく撫でており、時折優しい言葉を投げかけていた。

 

「もう、ほんとに…分かんないよ…。こんなの、初めてで…その、弦羽早のことが頭から離れなくて…。とっても嬉しくて、しんどい…」

 

「恋ってそんなものだよ。辛くて何にも手がつかなくて、でも世界がキラキラして見えて毎日心が体に活力をくれるの」

 

「っ…なんか、やだ…。もう、辛い…」

 

綾乃も人の子であるので、当然恋愛というものがどういったものかは聞いたことはあった。

曰くドキドキしたり、頭がその人の事でいっぱいになったり、ミキの言った通りに世界が違うように見えたりと。

 

全部今の自分に当てはまっていた。激しく高鳴る心臓は意識を向けなくとも鼓動を感じられ、視界は霧が晴れたかのように眩く感じられ、何より頭のなかが彼で埋め尽くされている。

だからもう否定する余地すらなく、そんな気力も無かった。

 

何故ここまで疲れているのか自分でも分からない。ただ今の綾乃は、これまでのあらゆる状況よりも、ある意味で切羽詰まっていた。それこそ先程薫子に言われた悪口の数々よりも余裕が無く、意識して呼吸をしないと息が止まってしまう。

落ち着こうと何度も自分に言い聞かせても、これまでの弦羽早のやりとりや、今彼が何をしているのかが気になって仕方がない。

 

ただ大きな呼吸を繰り返す綾乃の姿に女子二人は同情をしない。それが悪い事でないのは確かなのだから。

 

「でも、疲れるくらい好きになれるって凄い事だよ」

 

「そう…なの?」

 

「相当好きじゃないとそこまでいかないもん」

 

「ぅぁぅ……」

 

恥ずかしさのあまり死んでしまいそうだ。そうでなくとも今すぐにでも頭をぶつけて気絶して、一度感情をリセットしたい。

呼吸を忘れる程何かに支配されるというのがこんなにも辛い事であるとは想像すらしなかった。

 

「それで、どうするのですか? 明日にでも告白しては?」

 

「こ、こくはっ!?む、無理!ぜ、絶対無理!だ、第一、私なんかが告白しても…ダメ、だし…」

 

「「は?」」

 

こいつは一体何を言っているのかと二人の乾いた声と、信じられないものを見つめる瞳が綾乃に向けられる。しかしそんな露骨な彼女達の心境を観察する余裕も、今の綾乃には無かった。

 

「だって、あんなにカッコよくて、優しくて温かくて、紳士的で、とっても素敵な男の子が…私みたいな、性格悪い奴と釣り合う訳ないよ…」

 

どうやら綾乃の鈍感さは自分にだけ留まる訳ではない事を、この時点でミキも理解した。二人とほとんど接点のないミキでさえも、試合の間の二人を見ているだけでも弦羽早の好意には気づく。と言うより、もはや神奈川バド部周知のカップルになっており、実は付き合っていない事を知っている割合の方が少ないだろう。少なくとも港南高校では付き合っていることになっているくらいにはイチャイチャしている。

 

「あんなにイチャコラしておいて何を今更」

 

「ッ~~!? た、しかに…あんなの…今思うと…恥ずかしくて、できない…」

 

無自覚と言うのはおそろしいもので、今の自分ではハグはおろか手を合わせるだけでも心臓が爆発しそうだ。そもそも今この状態で弦羽早と合ったらどうなるか想像もしたくない。

いや、ハグもかなり危なかったがそれ以上に。

 

「一緒に寝るとか…私馬鹿なのぉ…」

 

「ブフッ!?」

 

「か、かなりの爆弾発言だね?」

 

しかも起きた時の彼に対する自分の行いは、思い返すだけで顔から火が出そうだ。

それ以外にもコートの内外問わず彼とは抱き合ったり、彼の肩に頭を乗せたり、この一ヵ月近くの出来事を思い返す毎に記憶を抹消したくなる。

 

今後どうすればよいのか皆目見当もつかない。明日のことは勿論、五分後の自分が何をどうすればよいのかも想像できないくらいで、おそらく今の綾乃であれば初めてラケットを持った初心者でもいい勝負が出来そうだ。

 

それからしばらく混乱する綾乃に付き合っていた二人だったが、流石に外も暗くなってきたのでそろそろお開きとしようと解散する空気を流すが。

 

「待って!その、つ…弦羽早に、大事な話があるの」

 

「告白ならお好きにどうぞ」

 

「ち、違うってば!私はもっと強くなりたいから、その我が儘に付き合って欲しくて…。や、やっぱり身勝手かな!?」

 

「…主語がなくて皆まで分かりませんが、その心配は必要ないのでなくて? 彼も最近伸び悩んでいることを話してましたし」

 

一週間近く前の正式名称を覚えていない、通称農トレでの彼との会話を思い出しながら、さっさと済ませて欲しいと投げやりな口調で綾乃の後押しをする。

 

もっともそれは彼女にとっては初耳だったらしく、まるで出来の悪い人形のように不自然な勢いで方向転換すると共に、スゥッと光の消えた闇夜の如き瞳が眼前に広がった。

 

「…どうして薫子ちゃんが私の知らない事を知ってるのかな?」

 

明らかに正気ではない精神の壊れかかった声は、怖すぎて放送禁止になるようなホラー映画にも後れを取らない気味の悪さだった。

これまで綾乃と距離を縮めていたミキも顔を青くして数歩後ろに下がるくらいには怖く、おそらくノーメイクでもホラー映画の主演が張れるだろうと薫子は感心する。勿論主演とは怨霊側だ。

 

鬱陶しいと綾乃の顔面を正面からもろに掴んで突き放す。

 

「一度打ち合った時に軽く話しただけですわ。そもそも、彼にあなた以上に親しい女性はいないのですから、みっともない嫉妬は止めなさい」

 

「ぅぅっ…」

 

「話が進みませんわね。それで、あなたは何をしたいのですの?」

 

「…い、今から弦羽早に電話してここに呼ぶから、そ、それまで一緒にいて!」

 

それから綾乃がスマホの弦羽早の連絡先が映った画面まで移行するのに更に一分近くの時間を要した。勿論スマホの操作に慣れていないからではなく、まるで中身が入れ替わったかのように女々しくなっている彼女には電話するだけでも勇気がいる行為だった。

 

秦野弦羽早と書かれたシャトルのアイコン画面をじっと見つめる遅咲きの少女を、少しの間隣で見守っていた薫子だったが、一向に動かないのでそれも面倒になりコールボタンを押す。

 

「なっ!?」

 

「いい加減腹くくりなさい」

 

「ッ、…で、でも…」

 

「どの道明日学校で会うのですから遅いか速いかでしょう」

 

今の綾乃には、感謝の念もあってか薫子に対して自我を無理矢理と押すほどの気力はなく、彼女の言葉に弱々しく頷くと、震える手で持ったスマホを耳元に当てる。

 

『もしもし?』

 

まるで彼の声を中心に、爽やかな草原が辺り一帯に広がるような感覚だった。

恋というのはここまで人の心を大きく動かしてくれるのだろうか。先程まで嫌だとすら感じていた圧迫感から解放され、心に羽が生えたようだ。

 

「あっ、あの!つばしゃ!」

 

噛んだ。

今すぐ電話を切って気絶したい衝動を堪えて、手汗で滑り落ちそうなスマホを強く握る

 

『フフッ、どうした、綾乃?』

 

「あのね!」

 

『うん』

 

「あ、あの!その!」

 

今の優先事項が彼の声を聞く事になってしまい、次の言葉が全然でない。

 

『えっと、とりあえず落ち着いて? ちゃんと聞くから、ゆっくりでも大丈夫』

 

「う、うん…。えっとね、大事な話があって、つ、弦羽早と直接、話したくて。も、勿論忙しいなら今度でいいんだけど!」

 

誰もが日常的に使う、"忙しいのであれば後日でもよい"という社交辞令。しかしそれを綾乃が使うのがいかに珍しいかは、よく連絡を取り合っている電話越しの弦羽早が目を丸くしていたことが証明していた。

 

『いいよ。どこに行けばいい?』

 

「え? いい、の?」

 

『綾乃の大事な話なんでしょ? だったらどんな用事より優先する』

 

ああ、と無意識の内に張っていた肩の力が和らぐ。

 

「(好きって、気づけて良かったかも…)」

 

多分弦羽早はこれまでも同じような言葉を語ってくれたのだと思う。自分を、羽咲綾乃を大切にしてくている事を、彼はきっと普段の言動から示してくれていたのだ。

 

彼を好きになって、その言動一つ一つが気になってドキドキして、きっと自分はここまで極端な状況にでもならなければ彼の真心に気づけなかっただろう。

 

「あぅぅ…」

 

ただ恋心を受け入れられた心とは裏腹に、口から出る声はなんとも情けなかった。

 

 

 

 

 




ほんとここまでお待たせしました。


ということでこのタイミングで綾乃が恋愛感情を抱くことになります。
どのタイミングで自覚するかは悩んだのですが、やはりこのタイミングで、かつ薫子ちゃんにやってもらうのがいいかなと。

何でもかんでも主人公がやるよりも、やっぱり他のキャラにも活躍して欲しいですし。
特に原作でも綾乃の転機となるこのシーンは、極端な話弦羽早がやることだってできますし、健太郎の台詞を弦羽早に代弁させることもまあ二次創作なんでできます。
でも弦羽早って転生でもしてるわけでもなく、バドミントン除けば普通の少年なので、一人で綾乃の悩みを解決はできないだろうという考えもあったり。



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