俺もTSさせてくれ! (かりほのいおり)
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一週間彼女
1話 俺もTSさせてくれ!


 いつの頃からか定かではないが、男性が女性に変わるという噂が流れ始めた。

 荒唐無稽な話だ、そうなった人を誰も見たことはなかったのだ。それでもひっそりと確実に噂は伝播していき、都市伝説となった。

 

 そういう病気があるらしいと、それにかかったら国に施設に送られると。

 変わった体で今までと同じような生活が送れるだろうか、答えは否だろう。だから施設で暮らすことになる。

 だからだれも性別を変わった人を見たことないし、確認する方法はないから……と。

 

 友達の友達の弟がそれになったらしい。

 本当か?

 わからない、でも連絡がつかなくなったのは確かだ。

 

 そんな話が流れる中、ネットの掲示板でも女になったというスレが建てられるようになった。

 どうせ釣りだろうという言葉に、証明するために女の体の写真が載せられる。

 真偽はともかく、その写真を拾いにくるため人は集まった。

 大抵は途中で主がいなくなり、やっぱり釣りかと言われる始末であった。

 

 

 国に回収されてるのでは?という言葉は怖くて誰も言えなかった。

 

 

 

 そんな中、ある一つの転機が訪れる。

 アメリカ大統領と北の王子様との直接談話。

 ある平和の節目となるかもしれないその日に、それは起きた。

 

 両者が友好をアピールする、手を繋いだまさにその時。

 突如として王子様から煙が湧き始めたのだ。

 すわ、自棄になって自爆テロをやるつもりか、警備は何をやっていた。

 そう思いが交錯する中、アメリカ大統領は驚きながらも無傷であった。

 

 しばらくして煙は掻き消えた。

 そこには王子様の姿はなかった、いるのは一人の美少女だけ。

 王子はどこに行ったと必死に探すものと、この少女を取り押さえて尋問するべきだという二つの動きができた。

 

 大統領のSPに組み伏せられ、その少女は慌てて口を開いた。

「わ、わたしが王子であるぞ!」

 ……と。

 

 

 それがTS病が世間一般に知れ渡られる一歩であった。

 日本が必死に隠していたTS病。

 感染経路など一切不明の奇病が、世界に知られる一歩。

 

 果たしてどうして北の王子様がそれに罹ってしまったのか、友好を妨害したい他国が何かしたのか、それとも宇宙人の仕業か、はたまた神の気まぐれか。

 

 結果だけが残る。

 北のお姫様となった彼女は、自分が王子様であると証明するために自分しか知り得ない情報を、大統領にペラペラと喋ってしまった。

 それを使い、北の独裁国家は解体された。

 

 ここで話は終われば万々歳だった、そうは問屋がおろさないが。

 

 

 

 世界は人がTSしうるという認識を得てしまったのだ。

 

 世界は変わる、世界各地に性別が変わったという報告が一気に噴出し始めた。

 

 次第に増えていく女性、解析が全く進まない病気。

 このまま女性が増えて行ったらどうなるか。

 男性がいなくなったらどうなるか。

 あれ、世界滅ぶんじゃね?とみんなが思った。

 

 混迷を極めていく中、男性専用車両ができ、性別が変わったものを新人類と呼ぶ宗教ができたり、反対に元々の女性が優れていると言う過激派団体ができたり、少ない男を守る団体ができたりした。

 

 

 ●

 

 

 そして一年が経ち、男性の数が半分になった。

 それでもまだ田中修也()は男のままだった。

 

「女の子になって女の子同士でいちゃいちゃしてー」

 

 どうすればTS出来るだろうか。神様に願い続けても、未だにTSすることはなかった。

 

「女の子になりたい、俺はどうすればいいんですか」

「またその話か、君は」

 

 対面で俺の親友である和泉 陽(いずみ ひなた)は苦笑していた。

 時刻は昼。高校生である俺たちは、机を挟んで昼食を取っていた。

 

「なりたいと思ってなれるものでもないだろうに」

「それはそうだけど、思うだけならタダだし、それに神様が叶えてくれるかもしれないだろ」

「どうだか……神様がいて願いを叶えてくれるのなら、とっくに君は女になってるだろ」

「違いないね、まったく」

 

 ほんとうどうにもならない世の中だと溜息をつく。

 TS、つまりtranssexualの略。

 それが爆発的に広まり始めたのは去年のことだった。テレビでいきなり女性になる北の王子様が放送され、世界に衝撃が走った。

 

 勝手に性転換しうると言う事実、一番影響を受けたのはスポーツ界だろう。

 女性に変わりたくないという思いは、TS病と名付けられたそれには無意味だった。

 スポーツをしてる最中にTSすることはなかったが、睡眠中にTSしてしまうという例が続出した。

 女性の身体に変わる、つまり男性の体を捨てるということだ。当然身体能力も落ちるし、新しい身体に慣れるのにも時間がかかる。

 手の長さ、足の長さ、体の大きさがすべて変わるのだ、それは当然のことだろう。

 その原因不明の病気に流行を見るや否や、リーグシステムを取るスポーツは殆ど休止した。

 いつか収束するだろうと、その期待はあっさりと裏切られたが。

 

 TS病、それを病気と呼ぶのが正しいのかは知らないが、未だに患者は増え続けている。

 結局、サッカー野球バスケなどは男女混合で再開することとなった。

 

 TSしたくないという気持ちから胡散臭い宗教に金を入れるも、結局なり裁判沙汰になるという事件もあった。本当にめちゃくちゃなニュースばかりが流れていた。

 

「和泉は性転換したくないのか?」

「うーん、どうなんだろよくわかんないな」

「わかんないってなんだよ、俺はめちゃくちゃしたいぞ」

「……一応理由を聞いてあげようか」

「まず女の子はなんか甘い匂いがするだろ、男臭さとは正反対だ。そして何より体が柔らかい、男のガチガチの筋肉とは無縁だ。あと自分で胸揉みたい、セルフサービス出来るようにだろ」

 

 俺の言葉を聞いて、彼は苦笑しながら言った。

 

「相変わらずだね、委員長に胸揉ませてと頼めば揉ませてくれるんじゃないかな?」

「おいやめろ馬鹿」

 

 慌てて周りを見渡すが、幸いにして委員長は居なかった。

 聞かれてたら鉄拳制裁確実だろう、それは勘弁していただきたい。

 

「あいつ冗談通じないから勘弁してくれよ、まったく」

「ごめんごめんって、ほら君の好物の唐揚げあげるから勘弁してくれよ」

 

 あーんと目の前にぶら下げられた唐揚げに食らいつく。

 一瞬で食べられた箸先を見て、あいつはニヤリと笑った。

 

「美味い、いつもサンキューな」

「だろう?今日はうまくできたと思ったんだよ」

 

 和泉は料理が得意である、弁当も自分で作って来られるぐらいには。それは自分にはない才能であったし、それを知って以来、一品何かをもらう毎日が続いて居た。

 

「卒業したら料理屋開けるんじゃないか?」

「そんな、僕はまだまだだよ。いつも毒味してくれる君には感謝してるよ」

 

 大袈裟に首を振る彼を見て、もっと自信を持てばいいのにと俺は思った。

 

「毒味ってなぁ、一応味見とかしてるんだろ?」

「まあね、それでも他人の平等な目が必要だから……うん美味しい」

 

 そう言って和泉はニッコリと笑った。

 

 

 ● ● ●

 

 

 その日の帰り道のこと。

 

「あいつもTSしちゃったなぁ……」

「珍しく休みだったからもしかしてと思ってたけどね」

 

 

 

 

 昼休みを終えて5時間目が始まってすぐのことだった。

 担任教師に連れられて、金髪ツインテールの美少女が連れられてきたのは。

 自分たちがきているような学生服ではなく、緑色のジャージ姿だった。

 女子ようなものが間に合わなかったのだろう、そのジャージが俺には見覚えがあった。

 

「陸上部のジャージってこのクラスは」

「あぁ、鈴木しかいないだろうね」

 後ろからの和泉のささやきに小声で返す。

 果たして担任が言った言葉は、鈴木くんがTSしてしまったとのことだった。

 

「……よろしくお願いします」

 

 みんなの前に立たされた彼女の姿は、ひどく小さくみえた。

 

 

 

「陸上やめるのかねぇ」

「さあ……走るのが好きって言ってたし、続けるんじゃないかな」

 

 確かあいつはもともといい成績を叩いていたはずだ。それでも、その努力はTSが奪い取ってしまった。

 辛いだろう、苦しいだろう、ただそれは自分にはよくわからない感情であった。

 

「俺も金髪ツインテールになりてえなぁ……」

「彼、じゃないか、彼女の心配はしないのかい?」

「してるさ、俺が代わってやりたいって思ってる」

「それ彼女の前で言わないほうがいいよ」

 

 彼女と一緒に帰る提案しなくてよかったと溜息をついてるのを、俺はぼーっと眺めていた。

 彼、いや彼女が元いた友達グループがいるから誘わなくても別にいいかと俺は思っていた。

 

「彼女、元の友達たちと仲良くやっていけると思う?」

「わからん、一日様子みてそれ次第じゃないか」

「僕は一目見て難しいと思ったけどね」

「お前がそういうならそうなんだろうな、でもやって見なきゃわからないだろう?」

 

 ゆっくりと歩みを進める。家は隣同士、幼馴染の彼だから、この暗い話を続けなければならないのだろうと、憂鬱な気持ちになる。

 

「異性との友情は難しい……ね」

「以前の彼と今の彼は同じなのにね」

 

 そういう論争も繰り広げられていた。元の彼とTSした彼は別人か否か、たしか離婚をめぐる裁判で出た話だった気がする。

 和泉が立ち止まっていることに気づいて、俺も足を止める。

 

「君は僕が性転換してしまったら縁を切るかい?」

「まさか、そんなことするはずないだろ」

「約束だよ?」

 

 夕陽の逆光で顔は見えなかったが、ひどく怯えているようだった。フンと鼻息をならして言った。

 

「本当にそうなったならば、結婚して欲しいぐらいだ」

「え?」

「料理が上手くて、気遣いができて、頭がいい、俺よりなんでもできる優良物件じゃないか」

 

 動きが固まった彼を見て、俺がこっぱずかしいことを言ってることに気づいた。

 

「あーいや、ホモじゃないんだ安心してくれ、お前をいきなり襲ったりはしないからな」

「……ふふっ」

「おい笑うなよ、あーはずかしくなってきた」

 

 パタパタと手で顔を仰ぐ、鏡を見なくても顔が赤くなってるのがわかった。

 

「君の熱いプロポーズは心の中にしまってあげるよ」

「しまわなくていいから、忘れてくれ、あー恥ずかしい」

 

 ちょうど途中に合った自動販売機を見つけて、コインを入れる。缶コーヒーのボタンを押して、出てきたそれを首筋に当てる。

 すっかり緩く、ただ甘ったるいだけだった。

 

 

 ● ● ●

 

 

 TS、本人の意思に限らず勝手に性転換する病。

 神様のいたずらか、宇宙人の仕業か、某国の生物兵器の仕業か。

 原因はわからないけど、それは確かに存在した。

 

 精子バンクにあらかじめ己の精子をためて置き、性転換した後自分の卵子と結びつかせるとどうなるか。そんな実験もあった。

 結果は失敗、なぜか受精することはなかった。

 かと言って、子供を作れないわけではなかった。

 しかし着実に男性の数は減っている。

 世界は昔より平和になりつつあった。それが繁栄に繋がるかは別の話だ。

 

 これはゆっくりと死に向かっているかもしれない世界の話。

 

 

 果たして性転換するのは男だけなのか?

 女から男になることはあり得ないのか?

 

 報告例は未だにあがっていない。

 このままでは全員が女性になることは確実だった。

 

 TSしたいと願い続ける俺を無視して、みんながTSしていく。

 これはそんなお話だ。

 



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2話 神様それは人違いです

 朝起きてまず初めにすることは、胸があるかどうかの確認だ。

 目覚ましを叩いて、うーんと一発伸びをして、すぐに胸に手を当てる。ない、極めて平坦な胸。もしかしたら恐ろしく貧乳なのかもしれないが、この時点で期待の半分は削がれている。

 しかし、だがしかし、まだそうと決まったわけではない。念のためそーっとパンツの中にある愚息の確認をするも、ちゃんとあるべき場所に収まっていた。

 

 もう何度かわからないほど、TSに失敗したありふれた朝のことだった。

 

「理不尽だ……」

「お兄ちゃん何泣いてんの、気持ち悪い」

 

 声の方を向くと、妹が怪訝な目でこちらを見ていた。

 正真正銘元から女である妹、今年中学三年生である。

 

「朝ごはんできてるから、ママが早く降りてきて食べなさいだって」

「わかったすぐいく」

「あ、あとお昼の弁当作る時間はなかったから途中で適当に買ってってだってさ」

「了解、着替えるから扉閉めといてくれ」

 

 返事はなく、扉がバタンと強く閉められる音だけが響いた。手早く制服に着替える、未だに自分の学校は学ラン指定だった。ちょうど夏服に切り替わる境目、一番めんどくさい時期にさしかかっていた。

 昨日の鈴木も、だからこそジャージで来ていたのだろう。

 

 そんなことを考えながら、一階にある食卓に向かう。既に母さんは仕事に出ているようで、一人妹が食パンにかぶりついていた。

 

 父さんは、いない。物心ついた時にはすでに亡くなっていた。生前の写真を見たことがあるが、それを見てもなんとも思わなかった、それぐらいに記憶が残っていない。

 母さん、俺、妹。その三人で父さんが残していった家に暮らしている。

 

「ハムエッグとサラダとトーストね……妹よサラダをもっとお食べ、胸が大きくなるぞ」

「いらないし、大きくならないし、私に押し付けないで自分で食べてよね」

 

 チッ、と舌打ちして席に着く。

 

「いただきます、ピーナッツバターは?」

「ない、私が使った分で丁度切れちゃった」

「ぐぬぬ……」

 

 俺が睨みつけるも、妹はどこ吹く風だった。まあ仕方ないだろう、俺が早く起きてくればよかっただけだし。

 脳内のメモ帳にピーナッツバターの補充と書き出しながら、そのままトーストにかぶりつく。

 それをすでに朝食を食べ終わった妹がじっと見ていた。

 

「お兄ちゃん、まだTSしないのね」

「まるでTSして当然みたいに言うな」

「クラスでTSしてないの何人いるの?」

「12……いや11だな、昨日一人またTSしてた」

 

 クラスは全員で40名、男20名、女20人。昨日の鈴木を入れてTSしたのは9人に登る。

 それが世間一般的に見て、多いのか少ないのかは微妙なところだ。最近男性の半分がTSしたというニュースが流れていたから、少ない方なのかもしれない。

 

 ちなみに担任の教師は男だが、未だにむさ苦しい男のままだ。早く変わってくれ。

 

「私のクラス、あと男5人しか残ってないよ」

「5人!?ハーレムじゃないか!!」

「レズカップルが増えただけで、ハーレムにはならなかったけど」

「デスヨネー」

 

 一夫多妻を認めた方がいいのではないかという世論に反し、ハーレムというものは全く増えなかった。

 得てして女性は独占欲が強かったからか?そうかもしれない、しかし一番の問題は、TSした元男が男とくっつかないからではないかと言われている。

 そりゃそうだと俺は思った。体が変わったところで価値観が変わるか。答えは変わらなかった、これが正解である。恋愛対象は女性のままで、しかもTSすると大体が美少女になると来てる。

 

 そりゃレズ祭りになるだろう、俺だってそうする。

 そうして同性愛はありふれたものになった、男性向けのアダルトコンテンツは次第に衰退し、女性を狙ったものが増えているのが現実だった。

 

「あーあ、私も優しい美人なお姉ちゃん欲しかったなー」

「俺も可愛いお姉ちゃんになりたーい」

「え、きも」

「うるさいぞ」

 

 きつい言葉に反し、妹は笑顔だった。

 

「まーお兄ちゃんは今となってはレアだし」

「レジェンドレアぐらい貴重?」

「アンコモンぐらいかなー」

「せめてレアぐらいは欲しかったな」

「いつまでお兄ちゃんであるかわからないけど、出来ればそのままでいてほしいなって」

 

 俺の言葉を無視して言われたそれは、なんとなく励まそうとしてるのがわかった。その理由はよくわからなかったけど、多分心配してくれてるのだろう。

 

 

「……もしかして股間確認するの見てた?」

「毎朝ルーティンにしてるのを知ってるぐらいには見てたね」

 

 今度から寝る前に部屋に鍵をかけよう、そう誓った。

 

 

 ● ● ●

 

 

 家の前で和泉を待つ、待ち合わせて向かうのが昔からの常だった。

 それは小学校、中学校から続いて高校まで続いてること。いつもならばあいつが先に来ているのだが、今日は違うようだ。

 スマホの時計を確認する、7時50分。もう出なければいよいよやばいという時間。

 妹はとっくに自転車に乗って中学校に向かっていた。

 

 通話アプリでメッセージを送るも、既読はつかない。なら電話をかけても無意味だろう。

 もしかしたら何か用事があって、先に学校に向かったのかもしれない。そんなこと今まであっただろうか?パッと振り返るも記憶にはなかった。

 まあそんな日もあるだろうな、あいつも完璧超人であるわけでもないし。

 仕方ない、一度インターホンを押して出なかったら俺もすぐに行こう。

 

 ポチッとボタンを押す。和泉の家からピンポーンと音が響いて来たが、反応はない。

 あいつの両親は仕事で家を空けてることが多いから、誰も出ないことは当然ありうる。

 

 仕方がない、とりあえず学校にいくか。

 テクテクと学校に向かい始める、意識はすっかり学校に向いていた。

 だから後ろで玄関が開く音に気づかなかったのも、こちらに向かって走ってくる音に気づかなかったのも、無理はないだろう。

 

 トントンと肩を叩かれ、何事かと後ろを振り返る。

 細く、冷たい人差し指がほっぺに突き刺さった。よくある児戯、それは和泉が好んでいたイタズラだった。

 

「おい和泉、置いてかれたかと思ったぞ、いたずらもいい加減にし……」

 

 そこまで行って絶句する。

 振り返ったところに、俺が知っている和泉はそこにはいなかった。

 学ランを着ている、ショートカットである、いつも女に見間違えられるような中性的な顔をしている。

 いや実際今の彼、いや彼女は女なのだろう。

 

 決定的な相違点が一つ、和泉の胸に2つ双丘が出来ていた。

 

「いや君には本当にすまないのだが、僕の方が先にTSしてしまったようだ」

 

 いつもより高い声、それを聞いて俺は完全に冷静さを失っていた。

 

「おい君、顔色が悪いぞ大丈夫か?」

「い、和泉さんですよね?」

「おいおい、さん付けはやめろよ気持ち悪い」

「……本当にあの和泉 陽さんですよね?」

「正真正銘君の隣に住んでいる和泉さんだとも」

 

 そこまできいて、俺はゆっくりと深呼吸をした。

 冷静になれ、俺。でも深呼吸の仕方がよくわからないぞ。

 

「おい和泉、深呼吸の仕方ってヒッヒッフーだっけ?」

「それはラマーズ法だよ、TSもしてないのに出産とは気が早すぎないか?」

 

 ようやく落ち着いてきて、状況を飲み込み始めた。

 TSをした、俺より先に、和泉が。

 オーケーオーケー、状況はよく飲み込めた。

 

「本当に大丈夫かい?」

「よしっ!」

「いやなにもよくないぞ、落ち着きたまえ」

 

 心配そうに俺の顔を彼女が覗き込んでいた。

 冷静にならなければならない、この状況でするべきことはなんだ。

 学校にいくことか、いや違う。

 

「和泉先生、お願いがあるんですけど」

「いきなり改まってどうしたんだい?」

「キス、してくれませんか?」

「」

「いや不純な理由じゃないんです、美少女にキスされたいとかそういう訳ではなく、もしかしたらTSが粘膜感染するかもしれないという話を昔目にして、それを試したい所存なのです」

「」

「……ダメでしょうか?」

 

 俺の言葉を聞いて、和泉は頭を痛そうに抑えていたが、すぐにこちらの両肩を抑えて言った。

 

「しょうがない、またとない君のお願いを聞いてあげないこともない」

「本当ですか!!!!」

「約束が1つある、目を閉じてあげないこと、いいね?」

「はい!!!!」

 

 すぐさま言葉に従い、ぎゅっと目を閉じる。

 そして口が接触、つまりキスするのを待っていた。

 

 しかしなんの感触も来ない、どうしたのだろうとほんの少し薄目を開ける。

 

 

 

 彼女の右手が猛スピードで近づいてくるのが、ほんの一瞬見えて。

 

 

 

 

 スパァーンと左頬が張り飛ばされ、星が飛ぶ。

 混乱する思考の中、思いっきりビンタされたという結果だけがわかった。

 

 

 

 

 惚けて立ち止まっていたが、先をいく和泉を慌てて追う。

 

「……まったく心配して損した」

 

 何か言ったようだが、耳がキーンとして上手く聞き取れなかった。



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3話 彼女はなかなか人気者

 教室に着き、後ろの扉から中を覗くと朝のHRの最中だった。

 和泉とのやりとりで無駄に時間を食ったせいだ。そう後ろの彼女を睨みつけるも、なんのことだかさっぱりだという顔をしていた。

 とりあえず扉を静かに開け、そっと忍び込もうとする。

 バレないでくれと俺の願いに対し、ガララッと予想以上に音が立ち、一瞬で教室中の視線がこちらに集中した。

 

 遅刻した不届きものは誰かという視線は、こちらを見てすぐに後ろの和泉の存在と、その異常に気づいたのだろう。瞬時に部屋に騒めきが広がる、とうとうあいつまでTSしてしまったのか。

 すぐさま担任の前野が手を叩き、静かにするように促した。

 

「和泉、お前はとりあえず席についていい、田中はなんで遅刻したんだ」

「……なんで俺だけ残されるかわかりませんが、変態と間違われて通学路で時間を食ってしまいました」

 

 腫れた左頬を指差しながらそういうと、担任は大きくため息をついた。

 

「……誰にやられた?」

「和泉さんです」

「大方自業自得だろうに……まあいい和泉は遅刻なし、お前は遅刻1だ」

「ちょっと待ってくださいよ!」

「またない、どうせキスしてくれとか言ったんだろ?」

 

 図星であった。言葉に詰まっていると全員から生暖かい目を送られていた。変態、レズ拗らせ野郎、精神的ホモなどの暴言が微かに聞こえてくる。

 それは別にどうでもいいのだけれども、あいつだけ許されて俺だけ許されないのは釈然としない。

 和泉に助けを求めて目でSOSのサインを送るも、ごめん無理と、ぱちーんとウィンクを飛ばされた。

 あいつ、後で覚えておけよ。

 

 後ろに立たされたままHRは進められていく。

 俺はというと、後ろから教室の男の数を数えて時間をつぶしていた。一人休みに俺を抜いて全員で18人、そのうち10人がTS済み、恐ろしく男の密度が低い部屋になってしまったなと誰に聞かせるわけでもなく、ひとりごちる。

 

 何と無く見渡していて気になったのは教室内の活気の無さだ。

 ここまでHRが静かに終わることがあっただろうか?いつもなら騒がしく、後ろから入ってきた奴も咎められなかったのに。

 理由はなんだろうかと考えて、パッと目に付いたのは昨日TSした鈴木だった。

 いつもなら仲の良いグループでどんちゃん騒いでいたのに、今あいつは机に伏せたまんまだった。

 寝ているのだろうか、珍しい。

 その思いは緑色のジャージに金髪ツインテールは合わないなと、取り留めもないことに移っていった。

 そんな思考は担任の言葉で遮られた。

 

「和泉、とりあえず前で挨拶を」

「はい」

 

 物怖じせず、堂々と前へ向かう。

 昨日の鈴木と比べるとはるかに明るく、強く見えた。

 

「和泉です、TSしてしまいましたが、前と変わりなく接してくれるとありがたいです」

 

 よろしくーとはにかみながら、周りに小さく手を振っていた。

 かわいいーと周りから黄色い悲鳴が飛ぶ、率直に言ってあざとすぎる。まあ元は男だったし、どういう風にすれば可愛く見えるかは、お茶の子さいさいなのだろう。

 ほどほどにしとけよと苦笑しつつも、こちらも教室の後ろから大きく手を振った。

 

 丁度そこでチャイムがなり、HRが終わった。

 一気に教室の喧騒が戻ってくる、俺も席について授業の準備をしないと。

 ふと前を見るとまだ残っていた担任と目があった。こちらをじっと見ていたのか、こちらが気づいたのを見ると、すぐにちょいちょいとこっちに来るよう手招きをした。

 

 またなんか怒られるのか。既にいやになりつつも机に鞄を置き、先生の後を追って廊下に向かう。

 ふぁいとーと小声で励まされた気がした、振り返ることはなくひらひらと手を振る。

 

 

 教室を出るとすぐ目の前で先生がじっと待ち構えていた。自分が出て来るのを見ると頷き、すぐに歩き出す。

 教室の前で話しにくいことなのだろうな、つまりそれは和泉のことか。そう当たりをつけつつ後を追う。

 

 一階にある職員室へと向かう階段で立ち止まり、ゆっくりと話し始めたものはまさにドンピシャだった。

 

「前野先生、それでなんの話でしょうか」

「あれだ和泉のことだ、あいつとこれからも仲良くやっていけそうか?」

「当たり前です、自分を差別する人間のように見えますか?」

「まあ見えないけどな……ビンタされたんだろそれ、お前がどう内心で思ってようと、あいつに嫌われたらどうしようもないだろ」

「あれは不幸な事故だったんですよ、冷静さを欠いていた、ただそれだけなんです」

 

 今は違う、その言葉を前野先生は穏やかに笑いながら聞いていた。

 

「まあそう心配するのも朝のことがあってだな、お前は遅刻してきたから見てないかもしれないけど」

「鈴木ですか?」

 

 適当に当たりをつける、昨日和泉が予想していたこともあって自信はあった。その予想を聞いて頷いた。

 

「そうだ、俺が教室に着いた時のことだ、あいつがいつも仲良くやっていた3人組があるだろ」

「ええ」

「手は出すような乱闘ではなかったが、あの3人が口喧嘩になってたのを見た、まあ俺が近づくとすぐにやめたが、あとはあの通りだ」

 

 そうか、やっぱりあいつの昨日の予想は当たったか、少し暗い気持ちになる。まあ一歩間違えれば、俺も和泉とああいう風になっていたのかもしれない、そしてこれからも綱渡りの関係が続くのだろう。

 異性との友情は難しい、やっぱりその事実は変わらないみたいだった。

 

「鈴木とも多少仲がよかったよな?少し目を掛けてやってくれないか」

「言われなくてもそうしますよ、自分より適任者がいると思いますけど」

「和泉か……あいつはあまりに正しすぎる」

 

 なんとも言い得て妙な言葉だった。少し笑いつつも、一時間目の授業の事を思い出して慌てて時間を確認する。

 まだ間に合う時間だった。けれども、そろそろ教室に引き返さなければ1時間目も遅刻してしまうか。

 少し安堵して、ふと疑問に思ったことを前野先生に問いかけた。

 

「どうして男みんな一斉にTSできなかったんですかね、そうすればいろいろ丸く収まったのに」

「さあな……神様がくださった、大してありがたくもない試練なのかもしれんな」

「そのダジャレはつまらないですし、神様がいるなら真っ先に自分の願いを叶えてくれてるとおもいますよ」

 

 和泉からの受け売りだったが、前野先生は大きく笑って、咳き込みながらも言った。

 

「……まったくその通りだな」

 

 そのネタの面白さに免じて遅刻は消しといてやると言われ、心の中で和泉様様だなと感謝した。

 

 

 ● ● ●

 

 

「被告人 田中 修也を磔刑に処す、異議は?」

「「「無し!無し!無し!」」」

 

 その斉唱に掻き消されないように、大声を張り上げる。

 

「大有りじゃあ!!」

「では速やかに磔刑を……柱がないわね、そのまま椅子に縛り付けておきましょう」

「俺の異議を聞け!!」

 

 離せと椅子をガタガタ許すも、なかなか固く結ばれていた。

 教室に帰ってきた俺を襲って来たのは、委員長とクラスの何人かだった。

 あれよあれよのうちにガムテープで縛られ、椅子に据え付けられ、今に至る。

 

「っていうか次の数学の教師はどこに行ったんだよ!」

「TS休暇らしいわ、今日は空きコマになるらしいって朝のHRでいってたじゃない、まあ遅刻してたから知らなかったのかもね」

「どんどんみんなTSしていくのな……」

 

 溜息をついていると、目の前の机にドンと拳が振り下ろされた。

 

「で、したの?」

「何をだかさっぱりわからんが?」

「キスにきまってるじゃない」

「和泉に聞けばわかるだろ?してないに決まってる」

 

 その言葉に和泉は遠くから苦笑いを浮かべていた。

 説得は無駄だよ、そんな顔だった。おいおい諦めないでくれよ、お前が諦めたら俺はどうなるんだよ。

 

「もしかしたら脅されてるかもしれない、言ったらあんなことやそんなことするぞってね」

「絶対そんなことないぞ、脅されるとしたら力関係的に逆だろ」

 

 呆れたように委員長ははぁと溜息をついた。

 

「TSして力関係が変わるのは王道中の王道よ、そんな常識も知らないの田中くんは」

「なんの王道だよ、いや言わなくていいわ!そんな常識あってたまるかよ!」

「ともかく和泉ちゃんを傷つけるようなことをしたことには変わりはないから」

「「「我ら和泉ファンクラブ!!」」」

「和泉様を傷付けるものを許しておくべきか!?」

「「「否!否!否!」」」

 

 そんなファンクラブ初めて聞いたぞ。しかし、素晴らしく統制が取れてるグループだった。

 俺が被害を食らってなければ、素直に感嘆するぐらいには。

 そこでようやっと和泉から助け舟が来た。

 

「まあまあそこまでにしときなよ、君たち」

「でも罰をまだ与えてませんが」

「僕がビンタした分で十分だと思うけど、ほらまだ腫れてるだろう?」

「……まあ、しょうがないですね」

 

 和泉の言葉に従って、速やかに拘束は解かれた。

 ファンクラブの面々がめっちゃ舌打ちしてるのが、少し怖い。次は殺すと、委員長の口がパクパクしていた。

 おおこわいこわい。

 その後ろで、俺の席の斜め前の席の鈴木が、ゆらりと立ち上がるのが見えた。

 

「でも次同じことをしたら許さないからね」

 

 その言葉を最後に、委員長達は速やかに席へと戻って行った。

 

 

 彼女が離れるなり、和泉が近づいてきた。裏切り者めと視線を送るも、素知らぬ顔をしていた。

 

「災難だったね、君」

「いやまったく……お前ファンクラブあるの知ってたか?」

「噂には聞いてたけど、委員長がそれだとは知らなかったな」

 

 

 どれだけ人気があったんだよと笑う。

 TSした、それでもファンクラブは引き継がれるのかとか、それをさも当然に受け止めている和泉とか、少し面白かった。

 

「ん、鈴木くんどうしたんだい?」

「え?」

 

 視線を追った先は、俺のすぐ後ろ。

 そこにはTSした鈴木がいた。

 さっき教室から出て行ったかと思ったけど、すぐに戻って来たらしい。手に持ってるのは缶コーヒーだった、自動販売機まで行ってたのだろうか?

 つっとその缶コーヒーを差し出された。

 

「……ん」

「お、くれるのかサンキュー」

 

 頬っぺたを指差す、缶コーヒーで頰を冷やすと良いということだろうか。その仕草に従ってハンカチに包んでから缶をヒリヒリとする場所に当てると、満足そうに自分の机に戻って行き、また腕を枕にして寝始めた。

 

 喋れないのだろうか?しかし口喧嘩と言っていたし、そんなことはないだろう。昨日も自己紹介をしていたわけだし。

 なぜか不満そうに鼻を鳴らし、和泉も俺の後ろの席へと戻っていった。



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4話 何も変わらない物はない

 時刻は四時間目を終えたばかり。熱心に先生に質問をしにいく生徒にお腹が減ったと食堂に向かう生徒、クラスメイトに話しかける生徒、それぞれが自由に動き出して、クラスに騒めきが一気に戻ってくる。

 

 そんな中、俺はいつものように昼ご飯を食べようとガサゴソと鞄を漁っていた。けれども弁当箱は見つからない。

 なんでだろうと考えると、すぐさま答えに思い至った。そういえば今日は弁当の準備ができてないと妹が言っていた気がする。

 

 チッと舌打ちをする、完全に失念していた。話を聞いたときは途中でコンビニでも寄って、適当に菓子パンを買い込み、いつものように弁当を少し拝借すればいいかと思っていた。そんなことはTS騒動で、すっかり頭から飛んでしまった。

 

 

「どうかしたのかい?」

 

 前の席の住人の不在につけ込んで前の席に座りつつ、和泉が問いかけてきた。

 可愛い。こてんと首を傾げて、目にかかる髪を片手で搔き上げる。ただそれだけのことなのに、こいつにかかればそんな単純な仕草ですら絵になる、本当にずるいじゃないか。

 

 俺には可愛いとしか言えないが、そこまで語彙力がおちるのも無理はないはずだ。街中で10人に問えば、間違いなく10人が美少女と答えるだろう。

 

 だが何故だろうか? TSしたにもかかわらず、俺には胸と声、さらに少し背が縮んだ以外、前となにも変わっていないように見えていた。

 

 女の子と間違えられることもあったほど、それこそファンクラブが作られるほどに可愛かったせいだろうか。

 金髪ツインテールに激変した鈴木と比べると、それこそ雲泥の差だった。

 鈴木と和泉、なにが違うというのだろう。素材が良ければ調節する必要もないということか?

 まったく、違和感なく接せれるのはありがたいことだけれども、こんな時ですら生まれ持った顔面偏差値の差を思い知らされるとは、夢にも思わなかった。

 

 そんなことを考えながら、俺はまじまじとあいつの顔を見つめていた。

 当然視線は真っ向からぶつかるわけで、気恥ずかしさに負けたのか、和泉はさっと視線を逸らした。

 こちらから見えるのは横顔だけだが、少し頰と耳が赤らんで見える。そしてぼそりと呟いた。

 

「そんなにじっと見つめられると、僕も恥ずかしいのだけれども」

「あーいやすまん、悪気はなかった」

「なんか気になることが?」

「逆だ、全く何も見つからないんだよ、それ何か変わったのか?」

 

 顔の質問である。和泉自身の顔を指差すのをみて、うんうんと俺は頷いた。それを確認して気を取り直したのだろうか。ごほんと咳き込んでから、あいつはニヤリと笑った。

 

「僕自身1つだけ気づいたことがある」

「何だ?」

「少しは予想してみたまえよ」

「そう言われてもわからないもわからない、さっさと教えてくれ」

「まったく……聞いて驚くなよ? 一重が二重になっていた、どうだい凄いだろう?」

「そんなのわかるわけないだろ!」

 

 満面の笑みで威張ってくる割には、本当にどうでもいいことのように思えた。

 それこそ本人しかわからないことだろうに。それでも和泉にとっては素晴らしいことのようで、笑顔が崩れることはない。さらに鞄を指差して言った。

 

「まあ冗談はそこまでにして、鞄をひとしきり漁っていたところを見るに、弁当を持ってくるのを忘れたものと予想するけど」

「正解、まあ弁当を忘れたわけじゃなくて、コンビニで買っていく予定を忘れたんだけどな」

「どっちも同じことだよ……今日は僕も弁当を作る時間がなくてね、ならば学食でも行こうじゃないか」

「そうするか」

 

 よっこらせと立ち上がりながら、ふと思いつく。鈴木も誘って見るか。あいつもだいたい学食だった気がするし。

 キョロキョロと辺りを見渡すがなかなか見つからない、もう先に行ってしまったのだろうか。

 

「なあ、もう一人誘っていいか?」

「ん、委員長と言うわけでもないし、鈴木くんの方か」

「あんなやばいやつを誘うわけがないだろ……あいつも学食だったし、丁度いいと思って」

「彼ならとっくに向かってたよ? 授業終わってすぐに」

 

 なら仕方ない、まあもし運良く近くの席が空いていたのならば、ご相席させてもらうことにしよう。そう思いながら二人揃って食堂に向かって歩き始めた。

 

 歩き始めて、すぐにあいつは口を開いた。

 

「おい、君」

「どうした?」

「もうちょっとゆっくり歩いてくれないか?」

 

 慌てて立ち止まる。俺の背中をポンと叩いて、その隣を通り過ぎ、前へと進んで行った。そうか歩幅も変わったということか。いままでは合わせることをしなくとも、そこまで気になることはなかった。今日の通学の途中も駆け足だから気づかなかった。

 しかし、その時から俺にとっては何気無くとも、和泉にとっては割と負担になっていたのかもしれない。

 

 170センチと169センチ、今はどのぐらいの差になったのだろうか?

 足元を見やれば、ズボンを踏まないように裾をクルクルと巻いていた。腕を見やればうまく着こなしてはいるが、萌え袖になっていた。

 改めて確認すればボロはいくらでも出てくる。なのになぜそれに今まで気づかなかったのか。

 胸に気を取られていたからか? いや俺はそんなおっぱい星人ではない。

 認めたくなかったのかもしれない、あいつがTSしたという事実を。

 

 立ち止まったままの俺を、前を行く和泉がくるりと振り返って怪訝な目で見つめていた。

 

「ん、どうかしたのか?」

「あぁ……いや何でもない」

「ならぼーっとするな、昼飯食べる時間も限られてるんだ、早く行こうぜ」

「すまん、すぐ行く」

 

 慌てて後を追う。やはり俺は普段どおりなどとは程遠く、冷静さを著しく欠いているようだった。

 

 

 ● ● ●

 

 

 高校の学食のラーメンというものは、えてして美味しくないものだ。我が校も同じように美味しいとは言えないものだったが、その代わりに量で補っている。そこまで味に頓着してなかった俺は、量という視点だけでそれを選んだ。

 和泉は無難にきつねうどんに、それだけで足りると思わなかったのかシャケおにぎりも選んでいた。

 

 食堂は特に混雑しているというわけではなかった、ただ鈴木との相席はできそうになかった。どこにも姿が見当たらなかったのだ。もしかしたら食堂以外の所へと向かったのかもしれない。

 

「もう聞いたかい? いつになるかは知らないけど、学食で新メニューを考えるって話」

「聞いた、男が大幅に減ってニーズが変わったからってな」

「まあ今まさにそのラーメンを頼んでるの、君ぐらいだしね」

 

 その言葉に苦笑する。

「TSして胃袋も小さくね……それ食べきれそうか?」

「うどんだけでお腹いっぱいになりそうだよ、おにぎりもらってくれないか」

「ほいさ」

 

 新メニューはどうなるのだろうか。噂ではヘルシー路線にいくとか、ご飯抜きのヤサイマシマシメニューだとか、欲望に張り切ってデザートに力を入れると言われていた。

 ラーメンはそれらにとって変わり、メニューから消えるのかもしれない、ふとそう思った。

 特に思い入れはなかったけれど、そうなるとこのラーメンを食べる最後の機会になるのだろうか?

 

「まあ美味しくないし消えてよし」

「胡椒いる?」

「お、サンキュー」

 

 こういう時の長い付き合いはありがたい。一言から求めてる事を一瞬で読み取り、それに適した行動をできる。

 胡椒を受け取り、味を変化させようとラーメンに振りかけてかき混ぜた。

 

「ティッシュ」

「おう」

 

 何も言わずとも読み取られる。胡椒が鼻を刺激していた、はっきり言ってかけすぎだ。その代償に比べて、ラーメンの味はちっとも美味しくなっていなかった。

 

「ちゃんと食べ切りなよ」

「当然」

 

 あとは黙々と食べ進むだけ。音を立てずに器用にうどんを食べるものだな、様子を見ながらそう思った。それに気づいたのか突然立ち上がり、びくっとする。

 

「ちょっとトイレに行ってくる」

「お、おう」

「TS用のトイレは学食になかった気がするし、遠くに行くからちょっと遅くなるかもしれない」

 

 お、うんこか? とは流石に冗談でも言えなかった。周りからセクハラ野郎とみられる事は必至だ、もう手遅れかもしれないが。

 

 

 TS用のトイレ、男子トイレを性転換したものが使うのは少し厳しい。元男といっても完全に性別が変わっている。つまり、小さい方の用をたすものは使えないという事だ。当然限られた大便器はすぐに埋まり、混雑を引き起こす。

 さらにはTSした者を狙い撃ちにする犯罪者が出たことが、世間的に使用禁止になる後押しになった。

 

 さて、それでは女子トイレの方を使えばいいじゃないか、そういう話になる。しかしそうは問屋がおろさない、今度は女性優遇団体が声をあげた。元男が使うのは精神的に気持ちが悪いと。無論それが女性の意見の大部分というわけではない、むしろごく少数派だった。

 それでもその意見が通る、通ってしまったのである。結果として、女子トイレの一部をTS用に分けたのが今の流れだ。

 

 ただTSであることを隠して、女子トイレを使うものも当然いた。ちゃんと意見にしたがうのもアホくさいという訳で、そうだと疑われてもT()S()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 それでも和泉は律儀にそのルールに従うことにしたらしい。遅くなるようならメッセージを送るといって、去っていた。

 

 そうして無駄に量の多いラーメンとおにぎりと俺だけが残された。なんでこれにしちゃったんだろうと後悔しながら箸を進める、胡椒味しかしないのがまたきつい。

 もう二度と食べることはないだろう、ひいひい言いながらも、それを完食して誓った。

 

 あとはおにぎりだけだった。どうするか、今すぐ食べるべきか。美味しく食べれる自信はなかった。あいつが帰ってくるまで少し置いとくことにしよう。

 

 そう考えていると、何やら騒いでいる声が耳に入ってきた。

 そちらに視線を送ると鈴木と他の二人が、つまりいつもの仲良し3人組が、食堂の入り口で何やら言い争っているのが見えた。

 



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5話 飛んで火に入る夏の虫

(おーおー、ようやってんなぁ)

 

 おにぎりの包装を弄びながら、そちらに視線を送る。

 食堂の出入りの阻害をしつつ、その三人組は今なお激しく口論繰り広げていた。

 食堂にくるには明らかに遅すぎる時間だった、もしかしたら他の場所でも同じようなことをしていたのかもしれない。

 ぱっと見るに鈴木と内藤……だったか、その二人が何やら揉めているらしく、その周りを笠井という生徒が止めようとしているように見える。

 喧嘩の原因は何だったのだろうか? ここからは少し距離が遠すぎて、上手く聞き取れそうにない。

 

 それから目をそらして、知らんぷりするのが一番利口だったのかもしれない。けれども気にかけてくれと先生に言われたこともあって、俺は一瞬どう動くかをためらった。

 仲裁するにしてもその騒動の理由が何なのかわからなかったし、それがわからないまま自分がそこに割り込んだのならば、無駄な軋轢をうむかもしれない。

 自分が動かなくても、その3人で話し合うことで解決する問題なのかもしれない。もしそうならば俺が無駄に動く必要はないだろう。

 

 動かない理由はいくらでも思いついたけれども、俺はその騒ぎから目を逸らせなかった。傍観するにしても動くにしても中途半端だった、和泉がここにいたのならば速攻で割り込んだだろうに。

 

 そうこう考えているうちに埒があかないと見たのか。鈴木は話を切り上げて、食券機の方へと向かう様子を見せた。

 それに逆上したのは内藤だった。すぐさまその背中を追いかけて、背中をドンと押した。

 

 不意を突かれて背中を押されたならば、当然よろける。

 転ばせる気なんてなかったのかもしれないが、TSして女の子になった後だ。体格差もあり結果として鈴木はこけた。

 ただ顔から落ちるほど運動神経が悪いわけでもなく、器用に半回転して尻餅をついた。

 

 

(流石にそれはまずいだろ)

 

 それを見て踏ん切りがついた、おにぎりを片手に立ち上がる。もうどうしようもなく拗れてしまったんだろう、もう3人だけで解決できるとも楽観はできなかった。

 

 ただそれ以上手を出すこともなく、内藤はぼーっと突っ立っていた。まさか転ぶとは思っていなかったのかもしれない。食堂に騒めきが広がってはいたが、それ以上ヒートアップすることもなかった。

 

 

「何も手を出すことはないだろ!」

「……ちょっと驚かせる気で、まさか転ぶとは思ってなかったんだ」

 

 そんな声が入り込んできて、その考えを裏打ちしてくれた。ただそちらに近づくより、いまだにへたり込んだまんまの鈴木へと話しかける。

 

「おい大丈夫か?」

「あぁ……田中か、食堂にいるのは珍しいな」

「まあ色々事情があって」

 

 立ち上がりやすいように手を差しのべると、それを掴んでひょいとすぐさま立ち上がる。昨日一言だけ喋っているのを見たが、やっぱりその声はTS前の鈴木のイメージとは違って、少し笑いそうになる。

 けれども笑った時点で話がさらにややこしくなるのはとっくにわかっていて、俺はそれを必死に堪えた。

 

 丁度位置関係的には鈴木、俺、二人組の並び。硬直した二人に対して問いかける。

 

「突然押し倒すなんてやりすぎじゃないのか、どうしてそんなことをした?」

「それは……」

「……」

 

 口籠る二人、内藤はともかく笠井の方まで言えないとは思っていなかった。必然的に説明できるのは一人だけということになる。振り返って彼女の様子を伺う。

 鈴木は俺の学ランを掴んで、ガッチリと俺を防壁としていた。

 

「なあ鈴木……ん」

 

 途中で遮られて、自分だけ聞こえるように囁かれた。

 

(とりあえずこの場から逃げるために協力してくれ、保健室まで連れて行くと行けば流石についてこないだろ)

 

 ブンブンと縦に頷く、話す途中で口封じをされた。

 ただ人差し指で口を塞ぐとかいう甘い方法ではなく、がっちりと頰を鷲掴みするという方法であったが。

 そういうところで外見は金髪ツインテ美少女であろうとも、性根は男であり、あの鈴木であるということが思い知った。

 

(そうか、いけ)

「ひょうかいしまひた」

 

 パッと手を離されて、二人の方へと向き直る。

 

「ちょっと足を挫いたそうだから俺が保健室まで連れて行く、それでいいか?」

「でも!」

「今食堂まで来たってことは、まだ昼食べてないんだろ? 腹が減ったまま冷静に話し合えるとは思わないけど」

 

 仕切り直しの提案、予想に反してその意見に賛成したのは内藤だった。

 

「……わかった」

「……」

 

 あいつのその言葉を皮切りに、渋々と笠井も俺の隣を通り過ぎて、食券機の方へと向かっていく。

 

 通り過ぎる時にこちらをじっと睨まれた。おいおい、俺は悪いことをしてないだろ? むしろそっちじゃないかと笑いそうになるも我慢した。美徳である。

 二人がいったのを確認して、その移動に合わせて俺を壁にしていた鈴木へと振り返る。

 

「じゃあ保健室行くか」

「……おんぶしてくれないか?」

「……は?」

「本当に足を捻った、上履きのサイズあってないんだからしょうがないだろ」

 

 はぁと溜息をつきつつ、おにぎりをそいつへと渡す。

 

「ん、くれるのか?」

「いや別にあげてもいいけど、それもってたらおんぶできないだろ? ほら、のれよ」

「本当にしてくれるのか……よっと」

 

 しゃがみこんだ背中に負担がのしかかった。予想よりはるかに軽くて、何か期待外れだった。何を期待してたのかは思い出せなかった、なんだったのだろうか?

 

 

 

 食堂と保健室はどちらとも一階だからそこまで遠くはない。ただ昼休みだからか人は多く、それなりに好奇の目に晒される。

 

「これ、めちゃくちゃ恥ずかしいな……」

「お前がやれっていったんだろうが……」

 

 すぐ首の横から気恥ずかしそうな声が囁かれる。俺が首を下げて下を見てる分、余計に目立つのだろう。下にいる普通の男と、おんぶされていてなかなかに見栄えのする女の子。どちらを見るかと言われたら当然上に決まっている。

 モジモジしていたかと思えば、突然ジタバタと暴れ始めた。

 

「もう下ろせ!」

「足ひねったんだろ!じっとしてろ!」

「もうすぐ近くだから歩いていけるだろ!」

「もう少しぐらい我慢しろ!!」

 

 

 

 そうこう騒いでいるうちに保健室にたどり着いた。

 扉を片手で開け、中に入り込む。担当医の姿は見えない、昼飯を取りにでもいってるのだろう。

 

 とりあえず適当なイスの近くで鈴木を下ろす。どっと疲れがでた、もっとおとなしく運ばれてくれれば楽だったのに。

 

「そういえばなんで食堂にいたんだ? 昼はいつも和泉と弁当だったきがしたけど」

「色々あって両方とも弁当を忘れたからな、あいつもTSしてな」

 

 ふーんとそれにはどこか興味なさげだった。

 

「ということは和泉も食堂にいたのか、あいつはどこにいった?」

「丁度トイレに行ってて、俺がラーメン食べてるだけだったよ」

 

 あぁ、ラーメンの皿片付けるのを忘れていた。心の中で食堂のおばちゃんにごめんなさいと謝った。和泉にもメッセージを飛ばさなきゃいけないだろう。

 

「このおにぎりもらっていいか?」

「自分はお腹いっぱいだからいいよ、保健室って物食べていいんだっけか?」

 

 ぐるりと辺りを見渡せば、すぐに飲食禁止のポスターが見つかった。それを見て彼女はチッと舌打ちをした。

 

 そんな鈴木の様子をぼーっと眺めていた。どこから話をつけるべきだろうかとか、なかなか思考がまとまらない。

 

 

 ゆえに思考は超躍する、突拍子もなく先ほどの期待はずれの意味を閃いたのだ。

 

 胸がないのだ、まさに絶壁。彼女はこちらが悲しくなるほどまな板だった。

 

「悲しいなぁ……」

「なにみてんだよ」

「いえなんでもございません」

 

 殺気を感じさせるほど冷たい目で睨まれていた、慌てて目をそらす。

 いけないいけない。露骨な視線はよくバレると女の子の視点から見て気付くようになったと、TSした男の子インタビューにも書いてあった気がする。和泉にも嫌われたくなければ気をつけなければならない。

 今は和泉の方は関係ないだろうと首を振る。どうして喧嘩になったのかということだ。

 

「どうして内藤と言い争ってたんだ?」

「内藤ってだれだ?」

「いや、お前を押し倒したやつのことだよ」

 

 少し考え込んで、すぐに鈴木は破顔した。

 

「ハハッ……内藤、内藤かフハッ」

「何がおかしいんだよ」

「あいつの名前は内田だよ、内っていう漢字以外全然違うだろフフッ」

「うろ覚えだったからしょうがないだろ……笑いすぎるなよ」

「もう一人の方の名前は覚えてんのか?」

「笠井だろ」

「なんで内田だけ内藤なんだよ」

 

 しばらく笑った後、涙を拭って彼女はいった。

 

「理由、理由か……それはいえないな、申し訳ないけど」

「それで解決できるのか、お前達だけで?」

「お前がいたところで解決できるとも限らないだろ? お前は和泉じゃないんだし」

 

 詭弁だな思った、ただ言いたくないだけなのだろう。だから俺じゃなくて和泉がここにいたとしても、多分いう気はないのだ。

 

「まあいい、なんか手助けできることがあったらなんでもいってくれ」

「……なんでも? 今なんでもっていったな?」

 

 和泉を比較にだされて、俺は少し動揺してたのだろう。

 だから思わずそんな事を口にしてしまったのだ。すぐさまその言葉を取り消そうとしたけれど、それを許さない雰囲気が鈴木にはあった。

 

「なに、そんなに難しい事じゃないんだ」

「……話を聞くだけのことはしてやる」

 

 用心深いなと、また笑い声をあげた。

 

「簡単さ、とっても簡単なことだ、お前今彼女いないよな?」

「いるわけないだろ」

 

 生まれてこのかた、彼女が出来たことはない。

 特にイケメンでもなく、いたって普通の顔。隣に和泉がいれば、そちらに惹かれてくのは当然の流れだ。

 TSが広がり、女性が増えようとも、俺に回ってくるパイができることもなかった。

 

 その質問で嫌な予感は増してきていた。特大の爆弾が落とされる、そんな予感。今すぐ保健室から逃げ出すべきなのだろう。でもこんな日常を変える機会を逃すべきだろうかと、心の中で囁く声が聞こえた。

 ゆえに俺は動けなかった、いや動かなかった。

 

 

 

「ちょっと俺と付き合ってくれないか?」

 

 かくして爆弾は落とされた。

 

 



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6話 サイコロを振るのは誰?






「その付き合うってのはつまり、男女のあれそれってことだよな?」

「そ」

 

 それを聞いてごくりと唾を飲み込む。

 どうしたって俺は男ということに変わりはなかった。こんな美少女に付き合ってと言われれば、多少なりとも興奮はする。例えそれが元男だとしても、だ。

 ただ、どうしてその選択肢として俺なのかが分からなかった。偶々なのか、それとも俺でなきゃいけない理由があるのだろうか。

 そしてなんで付き合う必要があるのか、そもそも男と付き合うことに対して元男として抵抗感はないのか。

 そんなことを聞こうとした、したつもりだった。

 しかし俺の意識とは違い、勝手に口は動いていた。

 

「(おおよそ異性に言うべきではないと思われる言葉)」

「うわ、きも」

 

 俺が何を言ったのか、一瞬自分自身ですらよく分からなかった。鈴木が心底気持ち悪そうに腕をさすってるのを見て我に帰り、慌てて何を言ったのか思い出そうとしたが、やっぱりよく分からない。

 

 多分和泉と同じようにキスしてくれませんか? とか聞いたに違いなかった。それは不味いだろう、すぐさまぎこちない笑顔で取り繕う。

 

「ちょっとした冗談だ」

「すごい冷や汗ダラダラだぞ、お前……」

「……」

 

 逆鱗に触れた訳ではなかったらしい。

 雰囲気が悪くなりかけるも、先に話を進めるべきだと見たのか、鈴木はまた話し始めた。

 

「乗る、乗らない、どっちだ?」

「それって男と付き合うと見られて、お前は変な目で見られたりしないのか?」

「別にそれは問題ない、というか見かけ上の付き合いってことで、キスとかの本当の関係は無しだ」

 

 それを先に言えと心の中で叫んだ。偽装カップルね、なるほど、そんなうまい話そこらへんにあるはずがない。

 

「それって俺にメリットなくないか?」

「でもデメリットもない、だろ?」

「ちょっと考えさせろ」

 

 鈍く痛み始めた頭を揉みながら考え込む。

 その話はあの2人と直接繋がる話なのだろうか? 対象を男ととるならば2人とも候補になりうる。だが話を振る相手は俺だった、つまり2人じゃダメな理由があるはずだ。

 

 例えば2人から告白されたとかどうだろう。

 2つ選択肢がある、両方とも断るか、どちらかを選ぶか。片方を選んだ時点でそのグループがぶっ壊れることは必至だ。

 2人とも断ったらどうなるか? わからない、うまくいくかもしれないし、結局ギスギスするかもしれない。必要なのは恨まれ役なのだ、結局誰かがそれを引き受けるしかない。

 ならば第三者たる俺を選んでみるとどうなるか、2人を等分に傷付けながらも、3人仲良くやっていける可能性はある。あいつが悪い、あいつさえいなければというよくわからない連帯感によって。

 それが一番うまくいくのかもしれない、俺が2人から恨まれることを除けばだが。

 

 そこまで考えて考えを止める。本当にそうだろうか、 証拠はあるのか?

 情報が足りなすぎる、決定付ける証拠は見当たらないのが現実だった。自分が一番可能性が高いと思えるこれでさえ、確実ではない。

 

 結局何があって、そのお願いにつながったのはわからない。

 

 

「もう1つ条件がある。俺がもう良いというまで、もしくはお前がTSするまではそれを続けてほしい」

「それはまた……今すぐ決めなきゃいけないのか? 考えを保留することは?」

「無理だ、今決めろ」

 

 出来ればあいつに相談したかったがしょうがない、俺は深くため息をついた。

 

「……だめか?」

 

「出来れば断りたかったが」

 

 

 多分、面倒ごとになりそうだという予感がした。それでもなんとなく放って置けなかった、相手が美少女だというのも悪いのだろう。

 

 それとも、俺は日常がこれを機に変わってくれることを、心の底で願っていたのかもしれない。

 

「朝の缶コーヒーのお礼もある、あんまり了解したくなかったが……これからよろしく」

 

 俺が目の前に差し出した手を惚けて見つめていたが、慌てて手を掴んで笑顔を咲かせた。

 

「サンキューな!」

 

 

 すこしぐらりときた。

 落ち着け、こいつは元男だぞ。

 

 ブーッブーッとポケットにいれたスマホが振動するのに合わせて飛び上がる。そうだ、和泉に連絡するのを忘れていた。

 慌てて未だに握りっぱなしだった手を離す。

 

「すまん、和泉待たせっぱなしだったから戻るわ、ゆっくりここで保健医をまってろ」

「時間取らせてすまんかった、じゃああとはよろしく」

 

 その言葉に返事をすることなく、慌てて保健室から飛び出した。

 

 

 

 飛び出して直ぐに、俺は立ち止まることになった。自分を待っているだろう人が、直ぐそこにいたから。

 何故か食堂ではなく、保健室の前であいつは待ち構えていた。

 

「それじゃあいこうか?」

「……いや、なんでここにいるんだよ」

 

 その言葉に、なにを当たり前のことを言ってるんだいと和泉は首を傾げた。

 

「そりゃあ君、女の子をおんぶしながらいちゃいちゃしてたら、当然悪目立ちもするだろうさ」

「あれを見られたか……」

「だから直ぐ後を追って保健室まで来たというわけさ」

 

 確かに目立っている自覚はあったが、いちゃいちゃしていたとみられるのは少し心外であった。

 

「すこし事情があってやむをえず、な」

「そう、そこなんだよ」

 

 ぴっと指をさし、真面目な顔をして和泉は言った。

 

「つまるところ、僕がいない間になにがあったのかを全て聞きたいんだ」

「またそれか」

「そりゃ気になるに決まってるさ、あれは過程がぶっ飛びすぎだろう」

 

 情報中毒者め、そう呟く。

 それが完璧に見えるこいつの数少ない欠点だった、無闇矢鱈に知りたがるのだ。いつまでたっても好奇心は尽きず、その度に振り回されて来た。

 

「少し長くなるから後にしないか?」

「でも僕に相談したいことがある、それはあってるだろう?」

「まあな」

「なら早く喋った方がいいんじゃないか?」

 

 だって時は金なりだから、そう言ってあいつは笑った。

 こうして和泉に教室に帰るまでの道すがら、一通りあったことを話したのだった。

 食堂での3人の喧嘩、保健室でのお願い、それを了承したこと。

 

 

 それを全て聞き終えて、開口一番にこういった。

 

「やっぱり君は底抜けに馬鹿なんじゃないかな?」

「なんでだよ」

「偽装カップルのことは秘密にするべきなんじゃないのかな?」

「あ」

 

 俺の反応を見て、あいつはふふっと笑った。

 

「まあいい、僕を信頼してる証と捉えようじゃないか、それは秘密にしといてあげよう」

「悪い、そうしてくれると助かる」

「だけどもう1つある。食堂での3人に割り込んだまではいい、僕も最善に近い行動だと思う。ただ保健室のそれは頂けないな」

 

 そう言って指を1つ立てた。

 

「決めるのが早すぎるし、相談するなら僕に電話を掛けるなら出来ただろうに」

「たしかに、それはそうだ」

「そして一番のネックはその別れる条件というやつさ」

 

 とんとんとん、と一段飛ばしで階段を駆け上がる。ズボンだからパンツが見えることもない、今は女物では無く男物をつけてるかもしれないが。

 そう考えるとブラジャーとかどうしているのだろうか?

 そんなことを考えてる俺を、あいつは見下ろしながら言った。

 

「鈴木くんはいつまでそれを続けるのか明言しなかったね」

「あぁ、でもまあそんな長くならないだろ?」

 

 偽装の付き合いは抱えている問題ごとに関係してるのだろう。それがいつ解決するかはわからないが、多分そんなに長くならないはずだ。

 

「それ、いつ別れることになると思う?」

「え? そりゃあ問題が解決するまでじゃないのか?」

「鈴木くんはそう言ったかい? もういいと言うまでとしかいってないだろ?」

 

 その言葉が胸にすとんと落ちる、確かに問題が解決するまでとは言ってなかった。

 

「いや、でもまさかそんな」

「さらに言えば君がTSするまでと決めてるから、それがその裏付けになるね

 彼、いや彼女か、鈴木くんはね。

 その問題が解決することは難しいと見てるんだよ。もしかしたらサラサラ解決する気はないとかもしれない。

 とりあえずの時間稼ぎができればいいやぐらいでね

 だからこのままだと君は別れることはできないし、他の彼女を作りたかったら、早くTSする事を祈るしかできないんだ」

「……は?」

 

 本当にありがたくない宣告だった。

 したいしたいと言い続けて今まで出来ていなかったのだ、俺はいつTSするのかは全く予想が付かない。

 

「でも彼女が出来ないぐらいなら別に」

「その間カップルの振りを続けることはさぞ大変だろうね、ボロが出たらどうなることやら」

 

 どうやら良からぬことが起きると見てるらしい。次第に喉が乾き始めていた。

 

「今すぐ別れると言いにいったらどうなる?」

「うまくいかないと思うよ? 素直にうなづくとは思えないな、今すぐ決めろなんて言うぐらいなんだから、それぐらい事を急いでたのかもしれない」

 

 第一案却下。遠回しに付き合ってることを有名無実するのはどうか。

 

「クラスで本当は付き合ってないって広めたらどうなる?」

「人の心を弄んだのかって、みんなからハブられそうだね」

「でもそれを持ちかけたのはあいつだぜ?」

「君と鈴木くん、どっちの言葉の方が信憑性あると思う? 」

 

 第二案却下。

 別れるのは無理、なら俺はどうすればいいのか?

 明日明後日にTSする事を祈るのは現実的ではない、では物事の根本を解決するしかない。

 

「つまりその問題ごとを解決すればいいってことか」

「大正解さ」

 

 問題ごと、それも単純に解決しないと予想されてることだ。自分1人じゃ簡単に解決できないだろう。

 ちらりと和泉の顔を伺えば、あいつは俺の顔を見ながら悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

 俺がしなきゃいけないことがわかっていて、それを選択すると予想もついてるのだろう。

 だから素直に和泉に頭を下げた。多分1人じゃ解決できない話だ、自分の力を過信するほど自惚れてない。

 

「すいません、ちょっと手伝ってくれませんか?」

「でも問題ごとがなんなのかわかってないし、どれぐらい手間がかかるかわからないから遠慮したいな」

「そこをなんとかお願いします、和泉様」

 

 どうしようっかなーとおれの暗い気持ちと対照的に、なぜか嬉しそうな様子だった。

 

「うん、それが解決したら一つお願い事を聞いてもらおうかな」

「簡単な事ですよね? 付き合うとかハードな内容ではないですよね?」

 

 同じ轍を踏む訳には行かなかった、さっきの経験が痛すぎたから。しかしその言葉を聞いて、ピシリとあいつの動きが止まった。

 

「……」

「和泉さん、まさかなんかひどいこと考えてたりしませんよね?」

「ま、まさかそんなことあるはずないだろ、君」

 

 目を合わせようとすると、露骨に目を逸らされる。なんかろくでもないこと考えてたな、こいつ。

 

「まあ程よいお願いは僕が後で考えとくよ、ハハハ……」

「本当にお願いしますよ」

「善処するさ」

 

 多分一番楽で丸く収まる解決策は今すぐTSすることなんだろう。

 どこにいるかもわからない神様に、俺もTSさせてくれと心の底から祈った。



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7話 心の中に巣食う女の子

 山月記。

 中島敦の作品で、虎になってしまった李徴が、自分がどうしてそうなったかを旧友の袁傪に語る悲しい話だ。

 現代文の教科書で幾度となく取り上げられる話らしく、自分もその例に漏れず、長々と教師が語っているのを黙って聞いていた。

 他の生徒が指されて読み上げさせる中、とくにやることもなくぼーっと斜め前の空白の席を眺める。

 鈴木はまだ保健室から帰ってきていなかった。

 多分さぼりなのだろう、全く羨ましいことで。

 

「その次から田中、お前が読め」

 

 ビクッとする、このクラスに田中は俺1人しかいない。つまり俺が指されたということだ。しかし何処まで読んだのか全く聞いていない。

 仕方なく隣の人に聞こうとすると、後ろからボソッと俺だけが聞こえる声で囁かれた。

 

(127ページの4行目から)

 

 その声に従いゆっくりと読み上げる、それを教師は満足げに頷きながら聞いていた。

 

「それじゃあつぎは――」

(悪い、助かったわ)

 

 そう呟きちらっと後ろを見れば、あいつは小さくピースをしていた。

 

 

 

「で、さっきの授業から着想を得たんだが」

「もうそれが山月記って時点で、少し話の方向の予想がつくけどね……」

 

 午後の最後の授業を終え、すぐに話しかける。

 教科書を机の中にぽいぽいとしまいながら、あいつは苦笑した。

 

「李徴は自分の心の中にいた猛獣に人の心を押しつぶされて虎になったわけだろ?」

「うん」

「つまり俺も女の子の気持ちになりきればTSできるんじゃないか」

「?????」

 

 なかなかいい案だと思ったのだが、和泉の頭にクエスチョンマークがいくつも浮かんでいるように見えた。

 

「えっと、つまり君はどうする気なんだい?」

「どうすれば女の子の気持ちになれるか考えて欲しい」

「全く意味がわからない」

 

 それは女の子の気持ちがわからないという意味か、それとも理論の意味がわからないということなのだろうか?

 

「もしかしてTSしたのに女の子の気持ちがわからないんですか?」

「まだ1日も経ってないよ」

「一応俺よりは女の子歴が長いからさ」

「1日の相手に聞く方がどうかしてるよ、それこそ元から女の子の、たとえばそう……委員長とかに聞いた方が早いんじゃないかな?」

 

 その言葉を聞き取ったのは丁度近くにいた委員長だった。別に反応して欲しくはなかったものの、その思いに反してこちらにちかづいてきた。

 

「ん、和泉くん私になんかよう?」

「ほらいいところに委員長じゃないか、早く聞きたまえよ」

 

 用があるのが和泉じゃなくて俺だと分かった瞬間、委員長は露骨に嫌な顔を浮かべた。

 すぐさまその場を離れたかっただろうが、ファンクラブであるあいつの手前、そんな人としてアレな行動をするわけにはいかなかったのだろう。

 精一杯の抗議のつもりか、まるで道端に転がったクソを見るような目つきで俺のことを見ていた。俺はクソじゃないぞ。

 

「……何?」

「なんでそんなに俺のことを警戒する?」

「ろくなことを喋らないって分かってるから」

「今回は違う、大真面目な話だ」

 

 ろくな人物扱いされてなかったからか、少し腹が立った。ならばこちらにも考えがある。少しだけ悪戯心が湧いたのだ、たとえばちょっとだけ大げさに言うぐらいは許されるだろう。

 すーっと深呼吸して、できる限りの爽やかな笑みを浮かべて言った。

 

「君が知ってる俺の知らない気持ち、俺に全部教えてくれないか」

 

 数秒間ぼーっとしたかと思うと、ボンッと一瞬で委員長の顔が赤く染まった。なかなか珍しい状況だなと思ったが、それをちゃんと咀嚼する時間はなかった。

 

 あっという間もなく、俺の無防備なあごに綺麗な左ストレートが突き刺さる。

 足がふらつき、そのままどさっと俺は崩れ落ちた。

 

「じゃあね和泉くん」

「あぁ……また明日」

 

 頭上で声が通り過ぎるも俺を心配する様子はなく、そのまま通り過ぎていく足音だけが聞こえてくる。

 俺の頭の上を通り過ぎてくれれば、パンツの色とか見れたりしたのかもしれないが。

 俺の視界にひょっこりと入ってきたのは、心底呆れたと言う風に俺のことを見下ろす和泉の顔だけだった。

 

「なかなかにアレなセリフだったね、まるで告白みたいだ」

「いってぇ……」

 

 机を掴み立ち上がろうとすると、ポケットからスマートフォンがこぼれ落ちる。

 幸いにして画面が割れる音が響くとかそんなことはなかった。落ちた衝撃に反応したのか画面が明るくなり、またすぐに暗くなる。一瞬見えた壁紙にちらりと和泉からのメッセージの通知がみえた。

 あぁ、保健室の時のか。そう思いながら再びポケットにしまい込む。

 

 そもそも自分はこれを使う機会があまりなく、触ったのも今日が初めてぐらいだろうか?

 一応持ってはいるものの、使う機会はと言われれば家族との連絡ぐらいか、あとは和泉とメッセージのやり取りぐらいだった。

 

 もしかしたら俺の友達が少なすぎるのかもしれないが、その考えをすぐに頭から外した。

 

「ほかの変身系でなんか探して見るか山月記以外でなんか変身する話ってあったっけ?」

「仮面ライ●ー」

「人体改造はちょっと遠慮したいな」

「贅沢だと思うんだが、そうだね……たとえばフランツ・カフカの『変身』とか」

 

 名前は聞いたことあるが、話の内容は知らない。ふと顔を上げると仲良し3人組のうちの笠井がこちらを見ているのが見えた。手をふると直ぐに顔を逸らした。

 

「それの変身した理由は?」

「なんもないさ、とくに何をしたわけでもなく主人公は毒虫になったらしい」

「理不尽だな」

 

 でも現実にそう言うことが起きはじめてるのだから、全く絵空事だと笑えない話なんだろう。まあ毒虫なんてよくわからない虫より、美少女なのはまだマシと言えるけれども。

 なんとなく虫嫌いな妹を思う。あいつなら俺が虫に変身したら、速攻で殺しにかかるに違いない。殺虫剤を等身大に成長した虫である俺にかける姿が容易に想像できた。

 

「まあそう言う話だと思うしかないよ、他に探すと神話ならリュカオンも人から変身させられたね」

「それにはちゃんとした理由があるのか?」

「神様からの罰だってさ」

「じゃあこれも人類への罰ってことだな」

 

 驕る人類への罰、なかなかに遠回りすぎる罰に思えたがそう言う考えもあるのかもしれない。

 それを聞いて何が面白いのか和泉は笑った。

 

「僕にとっては罰になってないな、個人的には楽しいし、嬉しいからね」

 

 それは少し予想外だった。

 俺はTSしたいといつも言ってたけど、和泉はその質問をぶつけられるたびにいつもはぐらかしていた。

 意見の相違を生まないためにそう言ってるのかと思ったけれど、別にそう言うわけではなかったらしい。

 

 それについて聞こうとすると、担任が入ってきて号令をかける声が聞こえた。帰りのHRが始まる。

 諦めて前を向く、やはりまだ鈴木は帰ってきていない。

 

 

 ● ● ●

 

 

「元は今日のうちに鈴木君に話を聞く予定だったんだけど」

 

 結局帰りのHRの時間中、鈴木は帰ってこなかった。

 今はゆっくりと階段を降りてる途中。2人揃って帰宅部だから、特に学校に残る用事もなかった。

 自分は特に得意なものもないし、何か趣味を作ろうとも思ってなかったから入ってなかったけど、和泉がなぜ部活に入らないのかは俺もしらない。何をやっても成功しそうだとは思ったけれど、そんなことないよと笑って譲らないのだ。

 

 

「鈴木の連絡先知ってたっけ?」

「いや僕は知らないな、君は?」

「知らない」

 

 偽装とはいえ付き合うことになったのに、余りに薄い繋がりだった。もともと授業の時とか話はするものの、その他の時は大体各々違うグループにいた。担任がいう接点というのも、ほんの少しのものになる。

 

「まあ厄介ごとは明日に回して、今日はすこし」

「ん?」

「お」

 

 噂をすれば影がさす、その鈴木がばったりと階段の踊り場でエンカウントした。そのまま通り過ぎればよかったのだけども、両者ともに足を止めてしまった。

 

 これまでの話を聞いて、何か言うかと思ったのに和泉は口を開かなかった。

 ただ単にじっと笑顔で鈴木のことを見つめていた。

 よく見ると笑顔というのは違かった。笑っているように確かに見えたが、目は全然笑っていない。

 それに鈴木も気づいたらしい、なぜ睨まれてるのか彼女にもわからなかったらしく、こっちに助けを求める視線を送っていた。はぁとため息をついて、しょうがなく俺はスマホを取り出した。

 

「帰りのHRは終わったぞ、あとまだ連絡先交換してなかったししとこうぜ」

「お、おう」

 

 これ幸いとそそくさとスマホを取り出した。和泉からなぜかさらに視線が強く、俺に対しても送られるようになったが俺は無視をする。QRコードを読み取り、すぐに交換は終わった。

 

「僕とも交換しよっか、鈴木君」

「別にいいけど……」

 

 嫌そうだったが、断る理由も見つからないのだろう。先ほどよりおっかなびっくり、スマホをQRコードにかざしていた。

 絵面としてはウブな可愛い2人がぎこちなく連絡先を交換する、最近ありがちな百合恋愛ストーリーの出だしのように見えるのに、そこを覆う空気は何故か殺伐としていた。

 その空気がきつかったのか連絡先を交換すると、用は済んだとばかりにすぐさま彼女は逃げ出した。

 慌ててその背中に向かって声をかける。

 

「鈴木も一緒に帰るかー?」

「……いやべつにいい!部活の方に顔を出す!」

 

 その言葉を最後に振り返ることもなく、そのまま逃げていった。

 できれば帰りの道で話をしたかったが、それならしょうがないと和泉の方を向き直る。

 やっぱりすこしむくれているように見える。なんか機嫌を悪くしたらしかったが、やはり理由はわからない。

 

「なんか怒ってる?」

「……いや別に」

 

 絶対なんか怒ってると思ったが、それを口に出すことはない。それが人生をうまくやっていくコツだから。

 多分何か言う途中で遮られたのが悪かったのだろう。なんて言おうとしてたんだったか。

 

「ならいいけど、今日はすこしの後なんて言おうとしてたんだ?」

「ああ、そうだその話だったね」

 

 すこし気を取り直して和泉は言った。

 

「今日家帰った後、少し買い物に付き合ってくれないか?」



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7.5話 ちぐはぐパッチワーク

 僕は少し不機嫌だった。

 

 ただその不機嫌の理由は今日TSした事にはあんまり関係なかった、いや関係あるかと言われれば少しはあるかも知れないけれど大元の理由ではない。

 

 元々TSすることに拒否感はなかった。

 それは僕が特に異性に恋い焦がれているわけでもないし、部活とか趣味とか特に打ち込んでるものがなかったからだろう。いずれは僕もTSするのだろうな、それがいつかはしらないけれどとぼんやり考えていた。

 TSしたくないと主張してた人も薄々気づいてたはずだ。みんな遅かれ早かれTSする、そう言われてたし、現実そうなりつつあるのだから。嫌々言いながらもみんな心の奥底では諦めていたのかも知れない。

 

 TSに拒否感はないけれど、ただそれを彼、つまりは田中 修也のように常日頃からTSしたいと言い続けるほどTSに憧れ、女の子になりたいというわけでもなかった。

 つまり積極的に、すぐにでもTSしたかったの?と言われればその答えはNOになる。

 

 僕としては彼との繋がりを優先したいわけで、安全だという保証がなければしたくないという気持ちだった。一応約束はしたものの、人は変わるものだからね。

 2人とも同時にTSするのが一番都合がいいと思っていた。

 

 異性との友情は難しい、TSが一般化した世界でもその考えは変わらない。むしろ第三勢力として余計ややこしくなって更に拗れていく。

 

 

 異性との問題ごとといえばやはり小学校の時の出来事を思い出す。

 その出来事が彼との出会いだった。

 

 

 ● ● ●

 

 

 僕は自分で言うのもなんなのだけれど、かなり可愛い顔をしている。

 子供の頃からお人形さんみたいだと近所の人たちによく言われて続けて、親戚のところに行ったりしたのならば年上の従姉妹から着せ替え人形のようによく女装させられていた。

 今にしてみればよくグレなかったものだと思う、ただそのころの僕はそんなに可愛いのかなぁと不思議に思っているだけだった。

 

 ただ可愛いだけでモテるかと聞かれれば、小学校の価値観は違うものだ。もてるのは運動神経がいい奴、つまり短距離とかリレーとかで活躍できる男の子が世の常だ。

 多分それが一番他人と比較しやすく、活躍したという結果が見えやすいからなのだろう。

 

 たとえば運動会のリレーのアンカーとかそれが一番わかりやすい、そして小学校三年生の時にそれに選ばれたのは僕だった。

 

 僕は運動神経も良かった、ただクラスで一番というほどでもない。しかしアンカーに一番足の速いものを置くというセオリーに反して僕が選ばれた。

 何故か彼にやって欲しいという声が上がって、僕にお鉢が回ってきたのだ。特に断る理由もなく僕はそれを了承した。

 リレーに出ることは決まっていた、クラスの足の速い男子6人を上から選んでそこに入ってしまってのだからしょうがない。どこで走るのも同じだろうと思っていた。

 

 結果からいえば学年でやったリレーは圧勝した。既に僕にバトンが渡った時には大差がついていて、その差を簡単に守り切って終わりだった。

 

 さてこのリレーで印象に残るのは道中で大幅にリードを稼いだみんなではなく、大差でゴールした僕だった。

 道中で激しいトップ争いがあった訳でもなければ、誰かがこけてそのハンデを誰々くんが補ったとか別にそんなことはなく、必然的にそうなった。

 みんなの活躍を蔑ろにするのは不服だったが、特にそれを認めてもらういい考えも思いつかない。

 心の中で申し訳ないなと思いつつ、特に何もすることはなかった。

 

 さて話が変わるけれども、その運動会が終わるまでなぜか僕は告白されることは一度もなかった。

 可愛い可愛い言われながらも、男の子として見られてないのかもしれないと僕は思っていたのだが、現実は違かった。

 運動会が終わって数日たったある朝のこと。いつも通りに上履きに履き替えようとすると、自分の下駄箱の中に白い封筒が見えた。

 

『放課後、体育館裏で待ってます』

 

 特に封をされてないそれを開ければ、水色な便箋にそう可愛らしい女の子の文字でそう書いてある。便箋の裏も表も、封筒を確認しても、どこにも名前は書いていなかった。それが僕が初めて異性から貰った手紙になる。

 僕も告白されるぐらい人気が出たのだなぁ。

 少々驚きつつも期待に胸を躍らせつつ、僕は放課後に体育館裏へ向かった。

 

 そこには僕が知らない女の子がいた。同じクラスの女の子は全員覚えていたので、多分他のクラスの女の子だとすぐに察しがついた。

 

『リレーであなたのかっこいい姿をみて、あなたのことを好きになりました、私と付き合ってくれませんか?』

 

 確かそんな感じのセリフだったと思う。あまり正確には覚えてないけど、あまり外れてもいないはずだ。

 ただ僕は見知らぬ人と付き合うというのには抵抗があったから当然断った。

 

 僕はあなたのことをしりません。だから付き合うことはできませんが、友達になりませんか?

 

 そんな感じに。

 

 それで話が終わるなら、ある少年時代の綺麗な一幕として終わるのかもしれないけど、そうは問屋が卸さない。

 

 だれも僕に告白しないのは理由があったという訳さ。

 僕の知らないとこでみんなが平和に過ごすための不可侵条約が結ばれていたんだ、女の子達の中で。

 だれも抜け駆けもしないように、1人で和泉くんを独占しないようにって。

 

 小学三年生の考えることとは思えないよ全く、それを不幸にも僕と彼女は知らなかった。

 そしてその告白の場面が見られてることも気付かなかった。

 

 もしかしたら僕がOKをしたら彼女の勝ち逃げとして話が終わったのかもしれないが、そうはならなかった。

 つまり彼女へのいじめが始まるというわけさ。

 

 

 ● ● ●

 

 

 さて僕がそのいじめについて知ったのは、もうその話が解決しただいぶ後のことだった。

 そのいじめは1週間も立たず終わり、今度は逆に彼女が可哀想と言われることが起こったんだよ。

 僕はたまたまその話が解決するところだけをみて、そのいじめについては彼から後々聞いた。

 

 だれが解決したかといえば、ここで田中君が出てくる。

 田中君は彼女と同じクラスだった。

 そして彼はそのいじめられることになった彼女のことを、元々好きだったらしい。

 ゆえに彼女のことをよく見ていて、彼女が隠れていじめられているのにもすぐ気づいた。

 

 気付くなり、すぐさま彼はその解決について速やかに動き出した、ただその解決方法は賢いと言えるものではなかったけど、後で聞いた時本当に冴えないやり方だと溜息が出るぐらいには。

 いじめの原因をクラスの女子に聞いた彼は、だれと話すわけでもなくひとりポツンと席に着く彼女に近づくなり、こういった。

 

『お前和泉に振られたんだってな、あいつみたいないけすかない野郎の代わりに、俺とかどう?』

 

 もちろん彼女は怒った。衝動的に彼のことを一度殴り、そのままわんわん泣き始めた。

 

 僕がたまたま教室を移動する際にみたのは、頰が腫れた彼が1人ぶっ倒れているのと、その隣で彼女が周りの女子に慰められている様子だった。

 何かあったのかと思いつつ、泣いている女の子が僕に告白した子だと気付かず、僕はその場を通り過ぎた。

 

 つまり彼は憎まれ役を買って出たというわけさ。

 彼の考えはまんまとハマり、彼女は可哀想な子扱いにされ、いじめはなくなった。代わりに彼が女の子たちから蛇蝎の如く嫌われるようになったが。

 さらに言えば助けられた彼女も彼に近づこうとせず、あえなく彼は失恋することとなった。

 

 

 ● ● ●

 

 

 時間は経ち、四年生になった。

 一度告白されたことを皮切りに、続々と僕にラブレターが届き、告白されることも何度もあった。

 今思うとあれを機に不可侵条約は破棄されたのだろう、ならばいじめなんてしなければよかったのに。そうすれば彼も悲しい失恋をしなくて済んだのに。

 今の僕はそう思うが、まだその時の僕はしらなかった。

 

 しかし知る時間はとうとうやってきた。

 初めて田中君と同じクラスになったのだ。

 話してみれば僕の隣の家だという。両親がどちらとも忙しいこともあって家族同士の交流はなかったから、僕は初めて気づいた。

 話が弾み、特に何事もなく彼は僕の友達になった。

 別に普通にしていれば特に悪いこともしない男の子だった、特に友達になりたくない理由もない。友達になるのもしごく当然の流れだった。

 そんないたって普通に見える彼なのに、何故か女子から嫌われてるのを見て僕は疑問に思い、何故かと尋ねた。

 

 そこでようやくそのいじめについて知って、僕は慌てて田中君に謝った。申し訳ない、僕のせいで君が被害を食らうことになったと。

 その謝罪を聞いてすぐに彼は言った。

 

『別にお前が謝ることないじゃん、虐めたのは他人だし、和泉がいじめろって指図したわけでもないし』

 

 むしろ逆にいけすかないやつとか言ってすまないと笑いながら謝られた。言わなければわからなかったのにと笑う、それでも彼は僕を恨むわけでもなく、本当にそう思っているようだった。

 好きだった彼女が別の人に告白して、それが原因でいじめられて、それを助けたのに感謝もされないことに、彼はそういうものだと淡々と受け止めて居た。

 

 

 ● ● ●

 

 

 ゆえに僕は、彼の事を何者にも変えがたい友になると思ったのだ。それは中学校に上がっても、高校に上がっても変わらない。

 TS病について聞いても、彼との繋がりを保てればいいと思っただけ。

 

 だから僕は彼が鈴木君から付き合ってくれと言われたのを()()()()、浅ましくどうか断ってくれと願って居た。

 もしかしたら僕の立ち位置がとられるんじゃないかと思って居た。

 

 彼が了承するのを聞いて、一瞬でも早く保健室から出てきてほしかった。僕は速やかに彼にメッセージを送り、その思惑通り彼は飛び出してきた。

 本当に醜く、反吐がでる。僕自身そう思った。

 

 もしかしたらTSしたことにより、より嫉妬深くなっているのかもしれない。体と心がチグハグな動きをしていた。

 

 お願い事もそうだ。別に付き合うことは考えてなかったのに、そう言われて否定しきれなかった。

 

 田中君と鈴木君が連絡先を交換しようとするのを見て、やめろと叫びそうになるのを必死に堪えていた。

 

 買い物に付き合うのを断られ、目の前が一瞬真っ暗になった。すぐに顔色悪いけど大丈夫か?と顔を覗き込まれハッとしたが。

 

 冷静に考えればTSしたから女物の買い物をするのだと、彼でも気付いたのだろう。TSした後も同じように接するという約束があった、だから意識しないように断ったと僕は推測した。

 

 

 ならばしょうがないだろう、僕はひとり買い物に赴く。

 

 僕ができる唯一のことは一番の脅威である鈴木君の排除、つまりは彼女の問題ごとの解決だ。

 最速、最善に、彼に取り付く間も無く解決する。

 

 やるべき道筋はもう見えていた。



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8話 遭遇×逃走×遭遇×見送り

 家に帰り夕方、何かをしようと思うがその何かが思いつかない。

 何となくどっと疲れた1日だった。和泉のTSから始まり、鈴木からは付き合ってくれと言われ、そしてあいつに買い物に付き合ってくれと言われる。

 

 問題は山積みだったが、思考は全然進まない。

 特に何をするでもなくぼーっとベットに寝そべっていると、何やらドタドタとこちらに近づいてくる足音が聞こえた。

 

「和泉兄ちゃんがTSしたって本当!?」

「ノックしてからドアを開けてくれ」

 

 俺の言葉を無視してつかつかとこちらに歩き寄り、我が妹は流れるように俺からマウントポジションを取った。

 我に返って振り落とそうとするも、既にガッチリ固められ後の祭り。ポカポカと威力のない打撃を胸に打ち下ろしてくる、痛くはないのだが少し煩わしい。

 

「何でそれを一番早く私に教えてくれないの!」

「別にそんな約束してなかっただろ!」

 

 というか何で妹がそれを知っているのかがわからなかった。疑問に思う視線に気づいたのか、奴は言った。

 

「今、和泉兄ちゃんから電話あって女の子が必要な物って何かって聞かれたの」

「なるほど、とりあえず俺の上から退いてもらおうか」

 

 俺の言葉を無視して妹は言葉を続けた。

 

「なんか声は甲高いし、聞くことは女の子の必要なものだし、和泉兄ちゃんにそんなお兄ちゃんみたいな趣味はないでしょ?」

「流れるように俺のことを罵倒するのやめない?」

「でも実際そうでしょ」

「ぐうの音も出ません」

「だからTSしたのって聞いたらビンゴだったって訳、そういうのは男の子は知らないでしょ? だから私に言ってくれればって言ってるの、っと」

 

 俺の腹の上からひょいと飛び降りた。

 なるほど、言われてみれば確かにそうだった、あいつは相談する相手が少なそうだし、こっちが気を回してやるべきだったか。

 

「そんな訳で私、和泉兄ちゃん改め和泉姉ちゃんのお助けに参ります! 電話越しに教えてくれればいいって言ってたけど行ったほうがいいよね!?」

「わかったよ、俺じゃできない事だし俺からも頼むわ」

 

 言質を得たりと妹はニヤリと笑った。

 

「それじゃあお兄ちゃん、晩御飯は一人でどうにかしてね、私は和泉姉ちゃんと一緒に食べてくるから」

「は?」

「アデュー!」

 

 言いたいことだけ言って扉がバタンと締まり、すぐにまた開いた。なぜか哀れむような顔をしている、俺は何もそんなことをしていないのに。

 

「お兄ちゃん、TS出来なくても泣かないでね?」

「うるせえ!」

 

 妹の顔面に向かって投げた枕は再び閉じた扉に当たり、そのまま下に落ちた。言いたいことだけ全部言いやがって、地べたに落ちた枕をひょいと拾い上げる。

 

 つまり母さんの帰りも遅くなるってことだろう、適当になんか買いに行くべきか。

 

「あ、ピーナッツバター」

 

 朝買いに行こうと考えてたものを不意に思い出した。

 

 

 ● ● ●

 

 

 何かを買いに行く、そう考えた時に一番の選択肢は家から10分ぐらい離れたところにあるスーパーだ。

 コンビニもあるのだが、そこはもう少し遠くにある。営業時間外ならそこまで行かなきゃいけないが、今はそんな心配はないのでスーパーに俺は向かった。

 

 仕事帰りの人たちで少し混んでいたが、特に買うものがなくなるとかはないはずだ。ただこの時間だと半額の弁当を買うのは無理だろう、それはもうちょっと後の時間になる。

 

 自分が料理が上手いとは言えないというのはとっくに分かっていた。出来たとしても麻婆豆腐の素を買って作るぐらい、だからまず惣菜コーナーに向かった。

 

「うわぁ……」

 

 そこで見たのは人の群れだった。

 どうやら今日は何か特売品でもやっていたらしい、自分にはそこに突っ込む勇気はなかった。戦略的撤退だ、そう決めて後ずさりする。

 もう少し時間をおけば、その目当ての品もなくなり探しやすくなるだろう。

 そう決めて、後ろを振り返り――おもむろに体当たりされた。

 

 俺は特に悪くないと言えるだろう。自分は道の端にいたし、ちゃんと前を向いていれば自分が立ち止まってることに気づいたはずだ。

 不幸にしてその体当たりした本人は、サラダコーナーに気を取られていたのだと思う。振り返る時にちらりと右側を向いているのが見えた。

 

 激突、しかし俺はよろけることなく、そのぶつかった彼女だけが尻餅をつく事になった。

 

「いったぁ……」

「すいません、大丈夫ですか?」

 

 そう手を差し伸べながら言う。特に壊れるものは持ってなかったし、別に事を大きくする必要は無いだろう。俺が悪く無いと思ってたとしても、そうしとけば丸く収まるなら自分はそうする。

 

 ぶつかってきた彼女はジャージ姿だった。まるで寝間着のまま外に出てきました、そんな感じに。鈴木といいジャージが流行ってるのだろうか?

 多分着るものに頓着しないタチなのだろう。長い髪、眼鏡を付けてる事からもそう伺えた。もしかしたらTSした元男、なのかもしれない。コンタクトとかにすればそれ相応の美人になるように見えた。

 

「すいません、前を見てなくて……」

 

 手を掴んで立ち上がり、そのまま彼女は硬直した。まるで俺の顔になんかがついてるかのように。

 

「どうかしました?」

「た」

「た?」

 

 自分の名前は田中だけども、そこまで言うわけでもなく、一文字だけ言ってフリーズする。初対面の相手の名前がわかるはずもないし、言いたかったことはそれじゃないんだろう。

 

「す いません、私はこれで」

 

 真っ青な顔でそういうと、惚ける俺をおいてすぐさまぎこちない足取りで去っていった。

 

「……なんだったんだあの人」

 

 まるであっちゃいけない人、気持ち悪いおばけにでもあったかのような扱いをされて少し傷ついた。

 手が湿っていたかと拭いてみるが、特にそんなこともない。

 

 ふと彼女が尻餅をついたあたりに何か物が落ちている事に気づく。

 

「キーホルダー……か」

 

 最近人気のカエルのマスコットが描かれたキーホルダーだった。彼女の落し物だろうか?

 それを店に届けると決め、惣菜コーナーに向かう。

 

 もう人混みは解消されていた。

 

 

 ● ● ●

 

 

 ピーナッツバターと適当に弁当を買い、家に帰る。

 運良く、半額とまではいかないけれど、3割引の物を買えたのはラッキーだったと思う。浮いたお金でプリンも買い込み、少し上機嫌だった。

 

 ブーッとスマホが振動する。確認すれば妹からのメッセージだった。

 

『和泉姉ちゃんと晩御飯食べてまーす』

 

 ハンバーグを食べる和泉の画像が添付されていた。多分バレないように撮ったのだろう、カメラを一切意識してない一枚だった。

 機械的にその画像を保存し、妹に返信する。

 

『いい仕事だ』

 

 それを送り、スマホをポケットにしまいこむ。

 すぐにまたスマホが振動した、また妹かと確認すると今度は和泉からのメッセージだった。

 

『妹ちゃんお借りしてます』

 

 カメラを意識してピースしてる妹がそこにいた。迷いながらも機械的に保存し、返信する。

 

『いい仕事だ』

 

 妹と俺の食費の差については考えない事にした。その事と三連プリンを独り占めしてやろうとか考えたことは、なんの関係もない。

 

 そんな俺の隣の車道を車が通り過ぎて行く。市役所の車だ。取り付けられた拡声器から防犯に気をつけましょうと、お馴染みの声が聞こえた。

 別に最近この近くで事件があったとか聞いたこともないので、多分警察の防犯期間に入ったのだろう。特に何もないが何も起こらないのが取り柄の街だった。TSするという世界規模の異変は起きてるのだけども。

 TSに気をつけようという警報でも慣らした方がいいのではないだろうか?

 どう気をつけるんだ、という話になりそうだけど。

 

 そんなことを考えながらを見送った反対車線に、見覚えのある金髪が見えた。多分鈴木だ、声をかけようか数瞬悩み、声をかけない事にする。

 どこに向かうのか、何をするのかは予想がつく。

 多分この先にある公園に走りにいくのだろう。走る場所としてこの近くで考えられるのなら、河川敷かそこの公園ぐらいだ。

 

 アスファルトやコンクリートと走る事用に整備したタータン、実はどちらで走っても怪我のリスクは変わらないらしい。

 

 昔そんなうんちくを鈴木自身から自慢げに聞いた。

 でもそれでも、自分は何となく後者の方で走る。

 なんでか分かるか? そう聞かれた記憶がある。

 

 なんて自分が答えたのか、その答えが何なのか、今はもうはっきりと覚えていない。

 

 足を捻ったのに大丈夫なのだろうか?

 やっぱり陸上部を続けるのだろうか?

 

 その質問をぶつけるには、いささかあいつの様子が暗すぎたし、今から反対車線に行こうにも少し遠すぎたので諦めた。

 明日、嫌が応にも話す機会はできる、そんな気がする。何しろ仮にも偽装でも付き合う事になったのだし、それの関連で色々引っ張り出されるのだろうと予想はついたから。

 

 何となく再びスマホを取り出し、天気予報のアプリを開く。晴れればいいな、そんな思いとは裏腹に雨の予報だった。



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8.5話 同類類友ショッピング

 今から行くから待ってて、待ち合わせ場所も聞かずに電話を切られて30分後ぐらいのこと。

 重ねて遠慮の言葉を送ったとしても、多分黙殺されるんだろう。僕はそう思ったからショッピングモールにある喫茶店で待ってるとメッセージを送り、本を読みながらおとなしく待っていた。

 

「うわぁ……全然変わってない、元々の顔が良すぎたってことなの?」

 

 TSしたにもかかわらず、誰が僕かとか迷うことなく、一直線にこちらに向かって開口一番のセリフがそれだった。とりあえず読んでいた本にしおりを挟み、鞄にしまう。

 

「そんな変わってないかな?」

「うん、胸が大きくなって声は確かに変わってるけど、あ 和泉お兄ちゃんだって思うぐらいには……もしかして今までも女の子で男装してたとか言わないよね?」

「そんなわけないじゃないか、胸はともかく声はどうしようもないさ」

「だよね……あー羨ましい、男の時も女の時もめちゃくちゃ可愛いって前世の時にどれだけ徳を積めばいいんですかー」

 

 そうはいうけれど彼女だって世間からすれば、普通に可愛いともてはやされる部類だと僕は思う。TSした人が増え、可愛い女の子が増えたという理由があるにしても、この兄妹は自己評価がお互いに低すぎる、そんな気がする。

 

 

「それが良いことか悪いかとかはわからないけどね」

「多分いいことだと思う、元々の顔が女の子の中でも美少女だって格付けされてたってことでしょ」

「男としてそれはどうなんだろうと思うよ」

「ハハ……ま、まぁうちのお兄ちゃんはTSしたら原形なくなっちゃいそうだし、そうなると少し悲しいじゃん?」

 

 何となくその気持ちはわかる気がした。前の姿は新しい姿に印象を上書きされて、あっという間に消えて行く。老化とかではなく一瞬にしてだ、過程を無視した変化は記憶を吹き飛ばす。

 

 周りからすればたまったものじゃないだろう。記憶に残る彼はもうおらず、残ったのは同じ名前と記憶を持った他人に見えるのだから。

 

 すぐさま新しい彼女に印象を上書きされていき、元の彼の記憶はどこへ行くのか。それを忘れることはある種の死なのかもしれない。

 

 僕のようにTSした後の体に元の面影が見えるのはかなりの幸運なのだろう、何となくいるかもわからない神様に感謝した。特に新しく関係をやり直したい訳でもないのだから、元の繋がりを保てればいいのだから。

 

「和泉お姉ちゃんに合う服……スカート……ううん、悩むなぁ」

 

 そう言ってるうちに何処からかグゥとお腹が鳴る音が聞こえた。顔を赤らめる彼女を無視して口を開いた。

 

「とりあえずここから出ようか、ご飯を食べるなら別のとこがいい」

「賛成賛成!」

 

 もしかしたら死ぬ気で来るのを断った方が良かったのではと思いながら。

 

 

 ● ● ●

 

 

「お兄ちゃんに彼女ができたぁ?」

 

 齧りかけのにんじんのグラッセを彼女はポロリと落とした。多分言ってないんだろうなと思いつつ、この話題に触れなければいけないと思っていた。

 

「嘘ですよね、和泉さん?」

「残念ながら本当だよ、紛れも無い事実さ」

 

 その言葉を聞くや否や、スマホを取り出して猛スピードで何かを入力し始めた。

 

「何してるんだい……」

「いや、お兄ちゃん電話だと9割ぐらいの確率で出ないからとりあえず確認のメッセージを」

 

 そう言ってこちらを向き直った妹さんの目に光がない。これは失敗だったかもしれない、背中に冷や汗がたらりと流れるのを感じた。

 

「そんな長文で送る必要あるかい?」

「長い文の方が圧力を伝えられるんですよ」

「ハハ……そっかぁ」

 

 思わず頰が引きつるがそれに気づく様子はなかった。なぜ圧力を加えるかを聞く勇気はない、その間にもすごい勢いで文字が入力されていた。

 とりあえず逆鱗に触れた分、最低限の対応はこちらでしておくべきだろう。

 

「そういうのは彼が立て直す隙を与えるだけだから、別のことにした方がいい」

「む、何かいい案があるんですか?」

「例えば朝に突然家族会議を開くとか、」

「それいいですね、採用します!」

「え、ちょ」

 

 まさかそれを採用するとは思わなかったが、彼女はムフーと満足げに笑顔を浮かべていた。

 拒否することは悪手である。そのことがわかってるからこそ絶対採用されないであろう案を出して、その次に程度を落とした本案をぶつけるつもりだったのだが。

 どうやら彼女を見誤っていたらしい、期せずして彼を死地へと送る結果になってしまった。

 

「ま、いいか」

 

 ポツリと呟き、ハンバーグをまた一口食べる。程よいお灸になることを祈ろう、ガソリンかぶって火をつけるようなものではという考えをすぐさま打ち消した。

 そんなことを考えているとパシャリとスマホのカメラの音がした。

 

「無防備な和泉さんの写真ゲットー!」

「まあいいけどさ、悪用しないでね」

「ちょっとお兄ちゃんに送るだけだからヘーキヘーキ」

 

 無言でこちらもカメラを向けると、嫌がることなくピースした。

 

「その写真あとで私にも送っといてー」

「ほいほい」

 

 とりあえずその画像を兄妹二人に送る。ついでにだいぶ前に鈴木くんに送ったメッセージを確認するが、返信はおろか既読も付いていなかった。

 ハンバーグに手をつけるのをやめ、ぼんやりとそのことを考えていると彼女の声が差し込んできた。

 

「和泉お姉ちゃんはさ、お兄ちゃんに彼女ができてもなんともおもわないの?」

「別になんとも思わないさ、僕としてはどうしてその考えに至ったのかが気になるけど」

「あれーおかしいなぁ」

 

 多分いつも通りに返せたと思う。先ほどの取り乱し具合は嘘のように、妹さんは落ち着きを取り戻していた。うーんと首を傾げてポツリといった。

 

「一言で言うならば女の勘?」

「出たな万能武器」

「いやー勝手な考えで悪いんだけど、もしTSしたら絶対お兄ちゃんとくっつくと思ってたからさ」

「なんで?」

「女の勘」

「それが全く当てにならないことが証明されて良かったじゃないか」

 

 あくまで勘ですから、そう言って彼女はニヒヒと笑った。

 

 

 ● ● ●

 

 

「和泉お姉ちゃんは髪伸ばすの?」

「煩わしくなるようならこのままにしときたいかな」

 

 店から出て、とりあえず行く先もなくふらりふらりと歩いていた。

 

「ちなみにお兄ちゃんはポニーテールが好きです」

「また唐突な……」

「と言うわけでシュシュ買いに行きましょうよ!伸ばすとしたらご飯作る時に後ろにまとめるのに便利だし、ファッションにも使えるから買っておいてそんはないですよ!」

 

 その言葉に従って、彼女の後を追う。可愛い物を売っているところにアテがある、そういう情報なら彼女の方が詳しいのは確かだった。

 

 ショッピングモールの一角にその店はあった。ものすごいピンク色の店、TSする前なら絶対に近づかないだろうなぁと言う店だった。中を伺えば何人かお客はいた、大体が学生服を着ている、多分そういう客層に人気がある店なんだろう。

 

 店の前で立ちすくむ僕の背中をポンと押しこみ、妹さんは言った。

 

「は・や・く・は・い・れ」

「……ここ以外の店はないのかい?」

「ないです、ここが一番可愛いんです」

「あ、たっちゃん」

 

 そんな風に入り口で押し問答を繰り広げていると他から声をかけられた。たっちゃん、つまり田中からとったあだ名なのだろう。そちらを見るとツインテールの女の子がいた。

 

「あ、ズッキーどうしたの?」

「ちょっと欲しいものがあって来たんだけど、その人たっちゃんがいつも言ってるお兄ちゃん? たっちゃんのお兄ちゃんもTSしたんだね」

「いや和泉お姉ちゃんは私のお兄ちゃんでは無いよ」

「ほえ!?」

 

 慌てふためく彼女を見て、僕は何処か既視感を感じていた。最近同じ様子を何処かで見たような、そんな感じ。

 

「ねえ、ズッキーってもしかして鈴木って名前から取ってるのかい?」

「うん、そうだけどどうかしたの?」

「さらに尋ねるならば、彼女にTSしたお兄ちゃんとかいたりしない? 陸上部の」

「説明してないのによくわかったね」

 

 彼女が驚きで目を丸くする一方で、僕はああそうかと一人納得していた。彼女はあの鈴木くんの妹なのだ、既視感があったのはツインテールと彼女の面影が彼にもあったからだろう。

 

「あの、お兄ちゃん知ってるんですか?」

「あぁ同じクラスメイトだからね」

「いつも兄がお世話になっています……」

 

 礼儀正しくお辞儀する、あの兄からこの妹が来るとは驚きだった。

 

「お兄ちゃんにシュシュをプレゼントしてあげようと思って来たんです、今はツインテールですけどそれがいつも私がやりやすいからでして」

「走るならポニーテールとかの方がやりやすいから?」

「そうなんです、私が気が利かないせいで」

 

 それでツインテールだったのかと頷いた。走るのなら他に適した髪型があるだろうにと思っていたけど、他の家族がやったのなら辻褄があう。

 

「いや、プレゼントしてあげようと思う時点でだいぶ優しいと僕は思うよ」

 

 そうだそうだと僕の隣で妹がウンウンと首を振っていた。

 

 

 ● ● ●

 

 

「シュシュの色、何色がいい?」

「黒かな」

「却下」

 

 あの後、鈴木くんの妹はハワワと言いながら店に突っ込んで速攻で買ってそのまま帰っていった。多分買う色とか見当はついていたんだろう。

 

「黒じゃダメな理由は?」

「おしゃれじゃ無い」

 

 基準がわからない、正直たくさん種類はあるけれどどれも一緒に見えた。元から女の子にはこれはあり、なしとか即座に判断がつくのかも知れないけれど僕にはつかない。

 

「おすすめは?」

「ピンク色の」

「却下」

 

 話は平行線をたどっていた。シンプルでいい僕と、是が非でも女の子らしい色をつけさせたい彼女。黒とピンク、イエローが堂々巡りをしている。

 

「話が終わらないので間を取ろう」

「間ってどこさ」

「あんまり蛍光色は嫌みたいなので青色のシュシュは如何でしょうか」

 

 つっと差し出しシュシュはピンクとかイエローとかよりはだいぶマシに見えた。特に深く考えず返事をする。

 

「良いと思うよ」

「ここから私の主義の方に落とし込んで水色のシュシュにする」

「それはおかしくない?」

「淡い色の方が可愛いんですよ!!」

 

 つっと差し出されたシュシュは青よりは僕の趣味から外れていたけれど、それでもピンクとかよりはだいぶマシに見えた。

 だからこの延々と続くように見えた話が苦痛だった僕は特に深く考えず、これで良いよと言ってしまったのだ。

 

「じゃあこれ会計して来るんで、和泉お姉ちゃんは外で待っててください」

「いや、僕がお金出すよ」

「これは私から貴方へのプレゼントなので、なら良いでしょう?」

 

 そう言われると僕は断る言葉を持っていなかった。

 

「ありがとう」

「どういたしまして」

 

 

 その感謝の気持ちもこの後シュシュの水色を妥協したことで、水色の下着を猛プッシュされることで薄れることを僕はまだ知らない。



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9話 ありふれた1日の朝

『天秤座の君へ今日のワンポイントアドバイス

 学生服を着て朝ごはんを食べよう、鞄は玄関に

 PS 今日は先に学校に行く、幸運を祈る』

 

 朝起きてTSしてないことに落胆しつつスマホを確認してみれば、よくわからないメッセージが和泉から届いていた。

 なんだろうこれは、寝起きで回らない頭で少し考え込むも、なぜこんなアドバイスが必要なのかよくわからない。

 逃げる準備だろうか? でもそんなやましいことをした記憶はない。

 しかしそのアドバイスを無視する理由もなく、思考をやめてもそもそと制服に着替え始める。

 制服のズボンに履き替えているとドアノブがガチャガチャと動いた。

 

「お兄ちゃんおきてこの扉を開けてー!」

「起きてるよ! すぐ行くから下で待ってろ!」

「早くしてね、時間足りないから!」

 

 自分の声に反応してピタリとドアノブは止まった、扉に鍵をかけることを覚えた俺は無敵だった。というより妹はノックしなきゃいけないという常識をどこにやってしまったのだろうか。

 ため息をつきながら目覚まし時計を見る、時間はまだまだあるように見えた。

 

 

 

 階段を降りて食卓に向かえば妹と母さんが先に朝ごはんを食べていた。1日ぶりに姿を見たが仕事が切羽詰まっているのかひどく疲れている様子だ。何をしているのかは俺ははっきりとは知らない。研究職だと思うと妹は予測していたけど本当のことを訪ねる機会もなかったし、別にそれでいいとも思っていた。

 

「おはよう」

「おはよう、すごい隈ができてるけど大丈夫?」

「まあショックな出来事があってな」

「さいですか」

 

 その出来事については触れず、自分がいつも座る席に着く。2人が食べているところを見るに今日も食パンだった。朝はパンか米かは決まっていない、弁当を作るならばご飯を炊くし、今日も弁当なしということだろう。

 

「お兄ちゃん何か言うべきことがあると思わない?」

「……? いや別に何もないけど」

「……そうですか」

 

 何か言いたそうにしてる妹を無視して食パンをトースターに放り込む。2分30秒にセット、手持ち無沙汰になり周りを見渡せば、保温中になってる炊飯器が見えた。

 

「母さん今日弁当ある?」

「あぁ、一応作ってるよ」

「食パン食べてるからご飯炊いてないと思ったんだけど」

「それ中に入ってるの白米じゃないからな」

 

 ふーんと炊飯器を眺める。炊き込みご飯かなんかだろうか? パエリアとかという変わり種の線もあるかも知れない。ぱかっと蓋を開けてみればどちらも答えから外れていた。遅れて母さんから声が届く。

 

「中身は赤飯だよ」

「え? なんか祝い事あったっけ?」

 

 その質問に返答はなく、チーンとトースターが終わりを告げる音を立てた。皿にパンを移し席に戻ると、妹が自慢げに弁当を突き出しながら言った。

 

「今日の赤飯は私が炊いたよ、水加減も完璧なはず! 妹の愛情がこもった赤飯味わってね!」

「そうかそれは良かった、ありがとう」

 

 ふーんと仰け反る妹の満面の笑みを眺めながら、俺としては赤飯の水加減を間違えていないか、それだけが不安だった。たしか多めにするんだったか……? 自分の記憶も朧げで定かではない。

 

 受け取った弁当をカバンにしまい込み、さて朝ごはんを食べようとしてピーナッツバターを探せば妹の目の前にあった。

 

「ちょっとピーナッツバター取ってくれ」

「はいはーい」

 

 差し出されたピーナッツバターを受け取ろうとして、空を切る。届く寸前にすっと手を引かれていた。無言で抗議の視線を送るも素知らぬ顔で無視されたので、また取ろうとする。案の定また間合いをずらされた。

 

「……渡して欲しいんだけど」

「その前に1つだけ質問があるんだけど、正直に答えたら返してあげるから答えてよ」

 

 なんで俺が買ってきたものに渡す条件をつけられなきゃいけないんだと思ったが、それを口にすることはない。こういう理不尽さを飲み込むのも兄の務めなのかもしれない。

 いやそれは違うだろうと、即座に心の中で否定したが。

 

「お兄ちゃんに彼女ができたって聞いたんだけど」

 

 その言葉を聞くや否や、俺は脱兎のごとく逃げ出していた。冗談ではない、俺はこんなところで死んでられないのだ。まさか逃げるとは思ってなかったのか、ぽかんと惚ける妹を尻目にギリギリで鞄をひっつかむことに成功し、そのまま玄関にたどり着く。

 

 別に彼女ができたことは問題はないのだが、その相手を説明するのは難しい、ましてや本当に好きで付き合い始めたわけでもない。

 相手は先日TSしたばっかの男です、言えるだろうか? いや厳しいだろう。え、お兄ちゃんホモなのとドン引きされたら少し死にたくなる。外見が美少女なら誰でもいいのかとか、それとも元々その子のことが好きだったのか根掘り葉掘り聞かれるのは目に見えていた。

 うまく嘘で繕えればいいのだけれども、自分はそんな器用ではないと自覚していた。すぐに見抜かれる、だからこその逃走だった。

 せめて母さんがいないところでお願いしたいと切に思う。

 慌てたせいでローファーを履くのに手間取っていると、後ろからドタドタと追いかけてくる音が聞こえてきた。

 

「説明義務を果たしてお兄ちゃん!」

「そんな義務はないんだよ!」

 

 なんとか靴を履きドアを開ける。逃げ切れる、そう思った背中に再び声が飛んできた。

 

「逃げるってことは彼女ができたことの肯定になるんだよ!?」

「彼女ができたのは事実だよ!」

 

 閉じ行く玄関を振り返れば、呆然と俺のことを見送る妹が見えた。やったか……? 大きくお腹がぐーっと鳴った。

 

 朝ご飯を食べ損ねたのは痛いけれど、最悪の事態はさけられた。気を取り直して学校に向かい歩き出す。最悪朝ご飯は途中でコンビニでもよればいいこと、和泉様様だな。

 

 ふと考える、なんで妹は俺に彼女ができたことを知っていたのだろうか?

 誰かに教えてもらったのだろうか、例えばそう、和泉なんかに。そう考えるならあいつが謎のアドバイスを送れた理由も納得できた。

 妹から届いたメッセージを無視して、念のため和泉にメッセージを送る。

 

『もしかして妹に彼女の話バラした?』

 

 返信はすぐさま来た。

 

『僕にはなんのことだかさっぱりだよ』

『絶許』

 

 そう送ってスマホの通知を無視して、ポケットにしまい込んだ。やる事もなくなんとなく空を見上げて思わず呻く。

 傘を忘れた、昨日天気予報を見ていたはずなのに。

 

 

 ● ● ●

 

 

 当然のことだけど妹は俺が通ってる高校も知ってるわけで、その逆もまた然り。当然通る道も大体は予測がつく、というか途中まで道は同じだ、中学校の方が遠くにあるから一緒に行くということはないけれど。

 

 だから妹が自転車で後から追っかけてくるのを考えて、いつもと違う横道に入り、遠回りな道を選ぶことにした。幸い朝ご飯を食べてないから時間には余裕がある。

 

 いつもの違う道を行けば、新しい出会いがある。たとえばこの前を歩いている不審者みたいなものとか。

 

 ジャージ姿で何かを探しているのか、足元ばかりを見ている。そのせいで通行人に当たりそうになっては、ペコペコと頭を下げてその繰り返し。

 

 最初は無視して追い抜こうかと思ったけれど、その姿に既視感を感じて考え始めて数分。ぱっと閃いた、昨日スーパーで体当たりをしてきたあの彼女か。

 彼女だとすれば何を探してるのかはすぐに思いついた、あのカエルのキーホルダー。

 

「あの」

「ひゅっ!?」

 

 唐突に話しかけられてビビったのか、わっとっとと前に転びかける。大丈夫なのだろうかこの人は。

 

「な、なんでしょう?」

 

 そう言いながらもこちらの顔を決して見ようとしない、まあ伝えることだけ伝えてさっさと学校に向かうとしよう。

 

「もしかしてカエルのキーホルダー探してるんですか?」

「そうですそうです! カエルのキーホルダー、を」

 

 そう言ってガバッと顔を上げると、また昨日みたいに動きが止まってしまった。

 

「そう、昨日ぶつかった俺ですよ」

「ご、ごめんなさい」

「まあその事は別にいいんですけど、そのカエル昨日スーパーの落し物に届けといたんで、そこにあると思いますよ」

 

 その言葉を聞くとぱっと顔を明るくさせて、俺の手を掴むなりブンブンと振りはじめた。

 

「ありがとうございます! ありがとうございます田中さ、あ」

「え?」

「で、ではこれにて失礼します、ありがとうございました」

 

 突如名前を言い当てられて戸惑う俺を他所に彼女は逃走し、五歩と進まない内に転けて、すぐさま立ち上がり曲がり角で姿を消した。

 

 ぼーっと立ち尽くしていたものの、我に帰りすぐに歩き始める。考えることは先ほどの彼女のこと、男性恐怖症かと思ったけれど、別に手を握ってきたしそんな事はなかったなと思う。

 

「知り合いだったか……?」

 

 俺の名前を言い当てて来たからほぼ確実だろう、でもやっぱり記憶にあんな人物はいない。

 よくわからない人、結局そうとしか言いようがなかった。

 

「お兄ちゃん、もしかして彼女がそうなの……?」

 

 

 突然後ろから声をかけられて、振り返ることなく俺は逃走を始めた。

 

 多分それは幻聴だったのだろう、だって変えた道を妹がわかるはずがないのだから。そのあと学校に着くまで二度と聞こえることはなかった。



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10話 燃やすなら盛大に華々しく

「おはよう委員長」

「おはよう、今日は和泉君と一緒じゃないのね」

「まあそういう時もある、なんか用事があるんだってさ」

「そう」

 

 朝の下駄箱前でのこと。必然クラスメイトと会いやすい場所であり、今日はたまたま委員長にエンカウントした。

 クラスメイトに会えば当然挨拶をする、例えそれが和泉のことを好きすぎる危うい人物だったとしても。和泉が居ないならば、こちらに対して興味がなさそうだったとしてもだ。案の定こちらのことなどどうでもいいみたいで、そっけなく返事を返されたわけだ。

 だけど予想外だったのは、委員長がそのまま話を続けようとしたことだ。

 

「そろそろ田中くんも彼女とかできないの?」

「うるせーよ、俺だって作ろうと思えばいくらでも作れるわ」

「でも今まで彼女がいたことないじゃない」

「本気を出すのにチャージ時間が掛かるから仕方ないんだよ、もう少し時間が欲しい」

「いつまで溜めてるのよ、早くしないとTSするか寿命が来ちゃうわよ」

「TSさえ無ければ時間は十分あったっていうのに……生まれた時代が悪過ぎたってことか」

「パイは増えてるのにね」

 

 うまく言い返せずに口ごもっていると、うまくやり込めてやったと委員長はクスリと笑った。

 その笑顔を見て俺は少しカチンときた。特大の地雷であるとわかってるにもかかわらず、思わず禁句をいってしまうぐらいには。

 

「委員長も彼氏が出来る可能性減ってきてるけどね、男もうすぐ絶滅しちゃうよ?」

 

 瞬間、女子高生が発すると思えない気が彼女を中心に発せられた。やられる、そんな予感が脳裏に瞬いた。防御は間に合わないと判断して思わず目を閉じる。けれども予想していた衝撃はいつまでたっても訪れない。

 恐る恐る目を開けると、委員長は何かを考え込んでいる様子だった。

 

「ん、なに怯えてんの?」

「いや委員長にぶん殴られるかと思って」

「……?」

 

 こちらがなんでそう思っているのか、よくわからないようだった。

 

「それより私が和泉くんのこと好きだって分かってるんじゃないの? 彼はTSしちゃったわけだけど」

「あーそういえばそうだったか、完全に忘れてた」

 

 ファンクラブに入ってるぐらいだし、それに――そこまで考えて思考を打ち切った。それは特に思い出す必要のないことだ。

 

 和泉のことを好きであいつが女の子になろうとも好きであるならば、和泉以上に好きになる相手が見つかるか、その恋を諦めるまで、委員長に男の恋人ができるはずもないのだから。

 さっきの言葉は効果がない、そういうことか。

 

 忘れてたというこちらの言葉を信用してないのか、こちらの顔をじっと見つめるも、本当に本当なのだからどうしようもない。数秒の視線の交錯の後、事実だと信じたのかすっと視線を逸らした。

 

「そう、ならいいけど」

「なにがいいのか俺にはさっぱりわからないよ委員長」

 

 俺の問いかけを無視して、勝手に満足してそのまま教室に向かい歩き出し、何かを思い出したかのように唐突に立ち止まった。

 

「ねえ田中くん」

「なんだ?」

「委員長委員長って私のこと言うけれど、委員長って呼ぶのこれから禁止ね。私にも名前があるんだから」

 

 それだけ言うとそのまま去っていた。名前、名前ね。彼女にとって委員長と言う役職で呼ばれるのは不服なのだろう。ならば呼び方を改めねばなるまい。

 そうなると1つ問題が浮上する。

 

 委員長の正しい名前はなんだっけ?

 

 

 ● ● ●

 

 

 教室の扉を開けるとそこは雪国だったなんてことは起きるはずもなく。特に何も考えず俺は教室の扉を開けた。

 和泉に妹の件で小言を言おうと思ったのに、教室にはまだ来てないらしい。

 席から目をそらすと、ツインテールの彼女と視線がかち合った。

 

 挨拶がわりに軽く手を挙げると、申し訳なさそうな目を逸らす。代わりに鈴木と話してたであろう内田が立ち上がり、こちらに向かってやってきた。

 

 Q.彼の目的は? A.恐らく自分

 

 ろくなことが起きる気がしなかった。目がなんか危ういし、何かに怒っているように見える。その理由が俺だと断定出来る証拠はない。けれども朝の星座占いは確認してないが、朝の出来事からして多分順位は最下位で運勢も最悪だろうから、理屈を吹っ飛ばしてそう判断した。

 

 なにはともあれ、一先ず俺は逃げることにした。

 

 アディオスアミーゴ、別に友達になったつもりもないけれど。そうと決めたならくるっと振り向き――すぐさまたたらを踏むことになった。丁度委員長が教室に入ってこようとして入り口が塞がれていた。先に教室に向かっていたはずなのに、なんで後から来ているのかさっぱりわからない。入り口を数秒塞ぐだけで飽き足らず、俺の教室に入りすぐ出てくるという奇行に対して彼女は訝しげに言った。

 

「どこへいこうとしてるの?」

「ちょっとトイレに行こうかなって、道を開けてほしいんだけど」

「待てや田中」

 

 その足止めされた数秒は、内田が追いついてくるのに十分な時間だった。声をかけられて無視する訳にもいかずしょうがなく口を開いた。

 

「おはよう内藤、話があるようだけど今はお腹痛いからトイレ行かせてほしいんだ」

「内田だよ俺は……すぐ終わる話だから行こうとするな待て、はいかいいえでこたえるだけでいい」

「NO」

 

 俺の拒否を無視して、一呼吸を置いて本題に切り出した。

 

「鈴木と付き合うことになったって聞いたけど本当か?」

 

 気がつけばクラスは静まり返っていた。この空気で答えるのは恥ずかしすぎるだろう、これじゃあただの晒し者だ。それでも内田が俺を見逃す気配は全くない。

 

 yesと素直に肯定するでもなくnoと拒否するでもなく、『はいいえ』と冗談で曖昧に濁したかったが、この状況はそれを許してくれそうには無い。

 クラスの出入り口での出来事にもかかわらず、クラスメイトたちの注目はここに集められていた。頼りになる幼馴染の姿はここになく、思わずため息をついた。

 

 いっそのこと、嘘だよと言ってみるか?

 全てをほっぽり出して、人間の屑だと罵られようともそれが一番楽な答えなのかもしれない。嫌わられることには嫌だが、不幸にしてか幸いにしてかはわからないけれどそんなこと慣れているはずだった。

 

 もしかしたら付き合うということ自体、三人組で仕掛けたたちの悪い悪戯だったのかもしれない、肯定したのならばもしかして本気にしちゃったのバーカと、そんな風に茶化す感じに。でもそれはそう思いたいだけの妄想だと分かっていた、俺がNOというための理由づけだと。

 

 そんな考えが脳裏に浮かんだ瞬間、鈴木の顔がチラリと見えた。見捨てられるんじゃないかと怯えているようだった。そんな顔をするんじゃない、もっとお前は強いだろうに。そう思いながらも俺の答えは決まっていた。

 

 長い時間考え込んだ気もするけれど、多分10秒もたってないのだろう。1つ深呼吸して俺は言った。

 

「本当だよ、これで話は終わりだな?」

「……ッ」

 

 何かやってしまった、失敗したという内田の表情を見て俺はどう言えばよかったのだろうか。特に模範解答が転がってくるはずもなく、何も言わずに俺は前言通りにトイレに向かうことにした。

 

「委員長、道を開けてくれ」

「……はい」

 

 どこかぼんやりした様子だが素直に道は開けてくれた。教室に入るには入れず溜まった数人の中に和泉の姿が見えたが、話しかけることなく通り過ぎる。君は本当に不器用だなあ、そう視線が語っている気がした。

 うるさいよ、俺だってそんなことわかってるんだ。

 

 トイレに向かってトボトボと歩いていると、後ろから駆け寄ってくる足音が聞こえた。もしかして内田だろうか?

 いちゃもんをつけに追ってきたかと身構えていると、来た人は予想と違かった。

 

「わりーわりー助かったぜ」

「鈴木か、TS用のトイレは逆の方向だぞ」

「話に来ただけだからいいんだよ、そもそもお前もトイレは言い訳に過ぎないだろ?」

 

 ほっと肩をなでおろしつつ、歩くスピードを落として歩調を合わせる。特に話すこともなく一緒に歩くだけ、それに焦れたのか口火を切ったのは鈴木だった。

 

「約束放棄して裏切るかと一瞬思ったけど、どうして頷いたんだ?」

 

 そこまで信用ないんですかと茶化そうかと思ったのに、割と真剣に聞いている様子だった。それでも俺は真面目に答える気は無い、真面目に答えるには少し気恥ずかし過ぎた。

 

「可愛い女の子とあんまり縁のない男なら誰でも女の子の味方するよ」

「うわぁ……」

「半分冗談だ」

「どこからどこまでが冗談なんだよ」

 

 当然可愛い女の子までが本当な訳だけど、それを説明するはずもない。可愛いと言った瞬間すすっと間合いをとられたから、それを言ったら更にドン引きされだけだろう。

 

「まあ逆に付き合ったという事実を広められたから、その分手間は省けたのはラッキーだった」

「それが目的だったのか?」

「いや偶然」

 

 淀みなく答えたことから、多分本当なのだろう。

 

「この付き合いの意味をそろそろ教えて欲しいんだけど」

「……まだ言えない」

 

 ならば何故此方に関しては口を濁すのだろうか。俺の信用がたりないのか、はたまたそれを言ったら解消されると思っているのだろうか。それを窺い知ることはできなかった。

 再び沈黙、それに耐えきれなかったのかやっぱり鈴木が躊躇いがちに口を開いた。

 

「付き合う、付き合うね……呼び方を変えてみるか」

「絶対ロクでもないことになると思うわ、下の名前で呼ぶのか?」

「いや例えばダーリンとか、これは冗談だからな」

 

 自分が言ったことなのにそれを恥ずかしいと思ったのか、顔を赤らめてワタワタと慌て始めていた。それを見て俺に天啓が訪れたのだ。こんな美少女にダーリン呼ばれるなんて、一生に一度あるかないかのチャンスなのではないか?

 中身は男だとしても多分一生の思い出になるに違いない。和泉なら土下座すればやってくれそうな気がするけども、代償が怖かった。けれども鈴木ならばそれを頼むだけの交渉材料がある。

 

「すまん、俺の事を一度だけダーリンと呼んでくれ」

 

 その時の鈴木の顔を俺は一生忘れることはないだろう、道端に落ちている犬の糞を見るかのような目! 多分言いたくはないのだろうけど、それを断るにしても俺に対して借りがある。

 葛藤の果てに恥ずかしそうに顔を赤らめ、こちらから目を逸らしながら彼女は言った。

 

「だ、ダーリン……?」

 

 パシャリとその姿をスマホで撮影し、俺は凍りついた鈴木を無視して無言で歩き始めた。ふと思い出し、写真を撮られた姿のままフリーズしている鈴木に問い掛けた。

 

「ところで委員長の名前ってなんだっけ?」

「……委員長は委員長だろ」

 

 どうやら俺も鈴木も似た者同士らしい。

 その考えは再起動した鈴木に思い切りビンタされた時に吹き飛んだけれども、その時は確かにそう思った。



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11話 三回見たら死ぬ唐揚げ

「〜♪」

 

 数学の教師は相変わらず休んでるらしく、補習として数枚プリントが配られただけ。それに甘えて教室が騒がしくなる中、俺は鼻歌交じりに配られたプリントの裏に線を走らせていく。想像するのはなんとやら、初めの描き出しこそ苦労したものの、今ではスラスラとペンが勝手に動いていた。

 

「君は何を書いてるんだい?」

「TSしたらこうなりたいっていう理想の自分……見るか?」

「いや本当にやめてくれ、これは冗談じゃない、本当に食事前には君の絵をご遠慮願いたいんだ」

 

 自分が絵を描いてると気づいた瞬間、和泉は興味を失ったようだった。割と自信はあったので見ることを拒否されて少し凹みながらも、声を掛けられて止めた腕を再び動かし始めた。

 プリントを解き終え暇だったのか、和泉はまた言葉を紡いだ。それを聞きながらやっぱり早いなと思う、こいつにとってはこの程度造作もないことなんだろう。

 

「朝は大変だったね、鈴木君にビンタされて帰ってくるとは思わなかったよ」

「まさか2日連続でビンタされるとは俺も思わなかったさ」

「それはそれ、これはこれ」

「まあどっちも俺の自業自得だったから仕方ないか」

 

 その言葉に興味を持ったのか。ズルズルと何か引きずる音がすると思い振り返って見れば、自分の椅子を運んでいる和泉が居た。そのまま俺の席の隣に椅子を置き、そこに陣取った。

 

「今回は何をやったんだい?」

「写真を撮った、それだけ」

「あぁ……勝手に写真撮るのはマナー違反だからやめときなよ」

「付き合うことになったからいいかなって立場的から見て思ったんだけど」

「この悪魔め」

 

 確かにこれはど畜生の思考なのかもしれない、偽の付き合いを笠に着ることはできる限りやめよう。ジトーッとした目線をいまだに送ってる和泉を見てそう思った。

 写真、そこからふと昨日の和泉の写真を思い出す。いまはスマホの画像フォルダに保存されているけれど、割と和泉の写真はあった気がする、妹の写真も割とあるけれど。そんなに写真を撮られることを嫌がらないし、何故かカメラを向ければ自然にポーズも決める。何より適当な風景でも泉を入れとけばなんでも絵になったから入れるようになった。

 

「そういえば和泉って写真撮られるの好きだよな」

「……いや君が何を言っているのかさっぱりわからないな、そもそも――」

 

 聞いてもないのに延々と否定の言葉をつなげる和泉を無視して、スマホを向けるとやっぱり素直にピースした。

 スマホは構えただけなので当然シャッター音などするはずもなく、それでもスマホを向けてる間、和泉はポーズを決め続けていた。そろそろやめようかなと思う頃には次第に顔は赤く、プルプルと震え始めていたけれど。

 

「ほら」

「ま、まあ一回までなら事故だから」

「そうか」

「ちゃんと真面目に話を聞いてくれ! 写真を撮られるのは君の妹の方が好きだから!」

「今は妹の話をしてないし、俺は絵を描くのに忙しいんだよ! 俺の絵がそんなに見たいのか!?」

「……いやそれは無理」

 

 その脅しが効いたのか、スゴスゴと和泉は椅子を引きずり自分の机へと戻っていった。そんなに俺の絵が見たくないのかと、さらに凹む。

 

「ところで君の理想のTSした姿ってポニーテールだったりするのかい?」

「よくわかったな、エスパーかお前は」

 

 話の終わりに投げかけてきた唐突な質問。

 誰にも話したことのない性癖を何故知ってるのか、俺は怖くて聞けなかった。

 

 

 ● ● ●

 

 

 授業の終わりの鐘が鳴る。それに合わせて絵を完成させてうんとひと伸び、背中からパキパキと心地いい音が聞こえて来た。とりあえず誰かに見せようと思うものの、和泉は拒否されたからなかなか目ぼしい人物がいない。

 少し考え込み委員長はどうだろうかと考えたところで、不意に声を掛けられた。

 

「おい田中、昼飯一緒に食べようぜ」

「あー鈴木か、学食だったよな? 弁当持ってきてるんだが、隣で食べてて構わないか?」

「別にそれで全然構わないが、なんだそのそれは」

 

 指が指し示す方向を見れば、俺が先ほど完成させたばかりの絵があった。

 

「利き手と逆で描いたのか? 絵を覚えたてのチンパンジーが適当に殴り書きしてみましたみたいになってるが」

「失敬な、絵が描ける象ぐらいは上手いだろ」

「百歩譲ってそうだとしても目指す位置が低すぎるだろ、でそれは結局なんなんだよ」

「もしTSしたらこんな感じになってくれればいいなって奴」

 

 その言葉に鈴木はポカンと口を開けて、絵を見つめたまま静止した。

 

「人、これが? いや確かにそう言われれば目とかあるな……うわ人だと思うと一気に気持ち悪くなってきた」

 

 そういうと心底気持ち悪そうに腕をさすり始めた。後ろの和泉にも見せようとするが、危険を察知したのか既にいない。

 

「もっとちゃんとよく見てくれ、褒めるところがあるはずだろ」

「やめろ! その絵を俺に近づけるなよ、三回見たら死にそうじゃねえか」

 

 俺はその言葉を聞いてひどく傷ついた。なかなか自信作だったが、可愛いを目指してたのに180度違う方向に進んだ絵、どうやら俺に絵の才能は無いらしい。

 

「この絵いる?」

「絶対いらん、それより早く食堂行こうぜ」

「いいけど、笠井とか内田とかはいいのか?」

「とりあえず一言二人だけで食べるとは言っとく」

 

 あっ、そう言う人払いの仕方があるのかと一人納得した。拒絶、されど理由のあり理不尽でもなく。

 ふと思いつき、持て余していたプリントを絵が描いた裏面が内側になるよう丁寧に折りたたみ鈴木に渡す。

 

「内田か笠井にプレゼントしてあげてくれ」

「ほんとお前ろくなこと思いつかないな」

 

 そう言いながらもノリノリで内田にその絵を渡していたのを、俺は生暖かい目で見ていた。

 

 

 ● ● ●

 

 

 赤飯ということで弁当袋の中にはごま塩が付いていた。それを適当に赤飯に振りかける。なんか赤飯が柔いように見えるけど、多分気のせいだろうと思うことにした。

 

「なんでなんでもない日に赤飯なんだよ」

「なんでもない日が一番素晴らしいんだよ」

 

 そんな冗談も鈴木は気に入らなかったらしい、少し睨まれてしょうがなく再び口を開いた。

 

「元はと言えばお前のせいだよ」

「俺?」

「そうお前」

 

 妹、和泉、鈴木が原因だろう、和泉は問い詰めたところをのらりくらりと逃げられたけれど。

 何かが変わりそうな予感はしたのに、今の所いい方向に転んだことは1つもなかった。妹はなんか怖いし、ビンタされるし、クラスの噂の人物になるし。

 プリントに落書きしてる最中、少しではあるけれど自分のことが話されてるのは聞こえていた。

 もとから鈴木君のこと好きだったのか、それとも外見が可愛ければ中身が男でもいいのかとか。結局その会話は決まりに厳しい委員長に止められてたけど、クラスメイトの大体の見方はそんなものらしい。

 できれば付き合っていると確定させたくなく、もしかしたら付き合ってるのでは程度に濁したかったが、それを朝の出来事が許してくれなかった。

 

 まあなんとかなるさ、そう思うことにした。幸い和泉も協力してくれるみたいだし。

 

 自分がいろいろ考えている間、鈴木もなんで赤飯なのか考えこみ、ようやく答えにたどり着いたようだった。

 

「お前に彼女ができたからか?」

「正解」

「そうするとお前もしかして……今まで彼女ができたことなかったのか?」

「うるせえよ、うるせえうるせえ、うるせえよ」

 

 彼女がいなかったことがそんなに面白かったのか、鈴木は腹を抱えて爆笑した。

 

「そんな笑ってるけどお前は彼女いたことあったのかよ」

「当然あるに決まってるだろ、まあ今はいないけどーー彼氏はいるけどな」

 

 完全にやり込められ俺はまた無言になり、それを見てさらに鈴木は爆笑する。どうしたって俺に勝ち目はなさそうだった。

 

「そんな笑ってないで早く食べようぜ、その唐揚げ定食も冷めるぞ」

「ひっひっ、こんな爆笑したの久しぶりだわーお礼に唐揚げをあげよう」

「……ありがとう」

 

 流れで唐揚げを鈴木からあーんされる。和泉とのやり取りで既に慣れきってる流れで特に恥じらいもあるはずもなく。普通に食べ終えて自然と一昨日食べた和泉の唐揚げと比較している自分がいた。

 うん、和泉の方がうまく出来てたな。そう結論づけてお礼にささみフライをあーんしようとすると、鈴木は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

 

「早く口開けろよ、あーんだぞほらあーん」

「い、いや皿に置いてくれ」

「なんで? さっき俺に対してやったばっかりじゃん」

「ぐっぐぬぬ……」

 

 それでも歯を食いしばり、意地でも口を開けようとしないのを見て、俺はしょうがなくフライを弁当箱に戻した。諦めたわけではなく挑発するために。押してダメなら押し続けるのではなく、引くのが吉と昔の人も言っている。北風と太陽作戦だ。

 

「恋人がいたのにあーんすら出来ないとか、彼女いた意味ないじゃないですか」

「……やってやろうじゃないか」

 

 北風と太陽作戦、PART1で終了。挑発一発で吊られるのはちょろすぎではなかろうか?

 心底嫌そうながらも鈴木は渋々口を開いた。腹芸とか苦手そうだなぁ、こいつと思いながら口にささみフライを入れ、箸を引き抜こうとしてーー思い切り噛み付かれた。

 

「落ち着け! 早く離せ、箸をまだ引き抜いていないぞ!」

「ムー!!」

 

 しかしながら彼女は混乱してるらしく、なかなか箸を離そうとしない。引き抜けたのも10秒ぐらいしてからだった。

 鈴木にはもう2度とあーんをしない、そう心に決めた。

 

 呆然としてる鈴木を無視して赤飯を食べる、やっぱり水の分量を間違えていて柔らかった。

 



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12話 雨はまだ止まないらしい

 差し当たっての問題は傘がないということだった。

 1人空を見上げてため息をつく、雨はまだまだ止まないらしい。時刻は下校時間、部活のない俺は帰るに帰れず下駄箱でぼんやりと立ち尽くしていた。

 

 雨がすぐ止むというなら、図書館で和泉を待ちつつ適当な本でも読もうかと思ったけど、そんな考えとは裏腹にバケツをひっくり返したような雨がバシャバシャと降り続いていた。

 

 そう、今は自分1人しかいなかった。いつもの相方である和泉はやっぱりやる事があるらしく、先に帰ってくれと頼まれた。その用事とやらが俺の問題解決のためなら俺がいた方がいいのではと思ったが、和泉曰く

 

『確かにそうだけど、この話は僕一人で動いた方がやりやすい』

 

『何故って? そりゃあ君は鈴木くんの味方だと思われてるからね、その点僕なら君との繋がりはあるけど第三者の視点として説き伏せる事ができる』

 

『そう、君の予想通りこれは鈴木君と内田君、笠井君の問題だったんだよ、恐らくは』

 

『確定はしてないんだけどね。どうやら僕は鈴木君から逃げられてるらしく、彼と全く話す機会が作れてない……それこそ君の方が彼に近いし、直接聞けば答えてくれるんじゃないかい?』

 

『……そう、やっぱり君にも教えてくれないか』

 

『うん、確かに予想通りだった、僕の考えた通りの話ならば鈴木君の性格からして彼が君に語るとは思えないからね』

 

『それでもやっぱり僕は君に教えない、鈴木君が話さないという選択をしたのなら僕もその選択に従うさ』

 

『だから君は帰るべきだ、無駄に話を広げないようにね』

 

 とのことだった。

 和泉の動きの早さに感心されつつ、なんとなく俺だけ蚊帳の外に置かれてる感じがした。実際そうなのだろうけど。

 思うに俺ではなく和泉に問題の解決をお願いしたならば、もっと速やかに話は終息してたのだろう。

 もしかしたら鈴木は俺を通すことで婉曲的に問題の解決を図ったのかもしれない。俺が動くなら和泉も動く、そんな感じに。

 

「あれ、お前傘忘れたのか?」

 

 噂をすれば影、振り向けば鈴木がいた。返事をする事なくまじまじと顔を見つめてると、顔を袖で拭い始めた。

 

「なに、なんだ? 俺の顔にゴミでもついてるのか?」

「いや別についてないけど」

「なんなんだよお前は、紛らわしいことするなよ」

 

 多分そんな和泉が動くとかは期待してなかったのだろう、そう結論づけた。たまたま俺がいて、たまたま俺が首を縦に振ったから、俺になっただけで。

 

「あー、なんだ傘忘れたならこっち入っていくか?」

 

 そう言って待っている傘を指差した彼女は無防備にすぎる、そう思った。

 

 

 ● ● ●

 

 

 一も二もなくその申し出に乗り帰り道。傘の持ち主は自分ではなかったけれど、身長の関係から自分が掲げていた。

 話すことも思いつかず、無言で歩調を合わせ続ける。喋ることは思いつかないのに、相合い傘ということで精神力はフルに使っていた。なるべく元の持ち主である彼女が濡れないように傘を傾けたり、水溜りを避けたり。

 不運の中にも付きはあったのか。先ほどの雨より多少落ち着いてる分、右肩が多少濡れるけど、この程度なら我慢できる。

 

「これ俺がお前をおんぶして、お前が傘持ってもらうのが一番楽じゃないか?」

「鞄どうすんだよ」

 

 確かにそうだと思う。鞄2つプラス鈴木の体重分、冷静に考えれば長い時間その重量を抱えることはできないだろう。鈴木の体重は知らないけれど。

 

「なんか失礼なこと考えてないか?」

「いや全然」

 

 そんな俺の隣を車が通り過ぎて行き、跳ね飛ばされた水がズボンと靴を濡らす。思わず舌打ちをするが鈴木はそれに気づかなかったみたいだった、多分そこまで飛ばなかったのだろう。ついてない、心の底からそう思う。

 我慢できずに口を開く、喋っていればこの濡れたズボンの不快感も薄れるかもしれない。

 

「鈴木ってさ、和泉のこと苦手か?」

「……なんでそう思った?」

「昨日とかすぐに逃げ出しただろ? 冷静に考えてみたら二人で話してるところを見たことない気がして」

「昨日のアレはなんか怒ってるように見えたから早く切り上げたかっただけだよ」

 

 綺麗な紫陽花の花が咲いていた。それを横目に通り過ぎていく、カエルの鳴き声が1つ聞こえた気がしたけれど振り返ることにない。隣には鈴木がいるし傘は一本しかない、たかがカエルだ、そのまま歩き続ける。

 再び鈴木が話し始めてるのを聞いて、すぐさま意識を戻した。

 

「っていうかお前がおかしいんだよ」

「なにが?」

「あいつと頻繁に話してることだよ、あいつが人嫌いなのか知らないけど事務的なこと以外で他に話してるのは委員長とかぐらいだろ?」

 

 そうだろうか? いわれてみればそうかもしれない。差し掛かった信号が赤になり立ち止まる。鈴木の方をちらりとみたが、彼女はじっと前を見据えたまんまだった。

 

「そういえばだいぶ今更になるけど、鈴木は家どっち側にあんだっけ?」

「ん……それは別に気にしなくていい、お前ん家まで行って帰るよ、今日は遠回りしても別に時間は大丈夫だから」

 

 喉元まで出かかった言葉を飲み込み、口を閉ざす。

 そこに確かに拒絶する意思を感じたから、踏み込むべきではないと判断した。もしかしたら数年前の自分ならここで踏み込んだのかもしれないけど、それをしなかったのは自分が学習したからか、それとも恐れからか。

 気まずい沈黙、和泉の話に線を戻す。

 

「話してみればいい奴だよ、何か困ったことがあれば助けてくれるし」

「そうかもしれないけどさ……なんというかこう、掴み所がないんだよ」

「ふむ」

 

 掴み所、ね。俺とあいつをつなぐ共通点から少し考えてみる。例えばそう、趣味だったり。

 信号が青になり、渡り始める。周りをぐるりと見渡すも、他に相合い傘をしてるような人は見当たらなかった。

 

「オセロとか得意だったりするか?」

「いや、全然」

「俺と和泉の付き合いは小学校の頃からなんだけどな」

 

 ゆっくりと思い出す、こういう雨の日は印象に残りやすい。だからその情景を思い出すのにそれほど時間はかからず、脳裏に鮮やかに蘇ってきた。

 

「あいつは運動神経もいいけど、どちらかといえば室内で本を読んでる方が好きだったんだ」

 

 だけども子供というのは勝ち負け、白黒つけたがるものだから。得てして二人揃った俺たちもその例から逃れることはなかった。

 

「手っ取り早い勝負のつけ方としてオセロを提案した、ルールは簡単だし、それほど長い時間勝負にかかることもない」

 

 なにしろ俺もオセロでなら勝てると思っていたから、そう心の中でひとりごちた。俺からしてみればなんでも出来る和泉に何としても勝ちたかった。

 マグネットのちゃちな盤だったけど、母さんからみっちりと鍛えられていた。

 大体忙しそうにしていたけれど、休みである土日だけはちゃんと俺たちと遊んでいた。それでも休日ぐらいは休ませてあげたかったから、自然とオセロで遊ぶようになっていた。

 母さんは初めこそ手を抜いていたものの、負けるとすぐムキになって大人気なく力の差を見せつけてきた。

 負けた自分は妹をオセロでボコボコにし、泣き始めた妹を母さんが慰めるのがいつもの流れだった。

 

「オセロを初めてた頃は俺が勝っていた、和泉は初心者だったしそりゃあ俺に勝てるはずもない。だけどもあいつは負けず嫌いだったんだ」

 

 そこまで喋り、ふと気づく。鈴木が完全に無言になっている。恐る恐る隣を見ると、鈴木は青汁を一気飲みしてみたかのような苦々しい顔でこちらを見ていた。

 

「もしかしてこの話つまらなかった?」

「いやつまらなくはないんだが、その惚気話いつまで続くんだ?」

「惚気話?」

 

 自分としてはそのつもりはなかったが、聞き返したらさらに機嫌が悪そうになったので即座に話を終わらせる。

 

「あっはい、すぐに終わらせます。和泉はオセロがめちゃくちゃ強くて、今ではもうほとんど勝てないです」

「そうか、よろしい」

 

 イエスサーと言ったところ、軽く頭を叩かれる。傘を持ってるからこちらから防御することもできず、鈴木がでかいため息をつくのをただ見つめるだけだった。

 

「もし俺の他に彼女が出来たら、お前和泉の話しないほうがいいぞ」

「なんで?」

「なんでって顔が……」

 

 その先の言葉は口籠もり、よく聞き取れなかったけれど、その言葉はしっかり覚えておくことにした。

 

「ところでお前の行く方向に俺は付いてってるだけなんだけど、あとどのぐらいでお前の家に着くんだ?」

「あと五分もしないうちには、家上がってくか?」

「いやそれはいいわ、時間は十分稼げたし傘返してもらってそのまま帰る」

 

 その言葉に一人安堵する。家で妹と遭遇した場合、何かがヤバい気がした。

 

 ほんの一瞬の気の緩みがあった。家が近づいたこと、修羅場を回避したこと、相合い傘に慣れ始めていたこと、後ろをゆっくりと自転車が走ってる事に気付かなかったこと。それと少しの間の悪さ、要するに不運だった。

 

 だからこその失敗だった、中身は男だろうと、今は鈴木の身体が女の子になってるのだからそれを忘れるべきではなかった。

 相合い傘というのは傘の範囲に入ろうとする分、必然距離が近くなる。鈴木は水溜りを避けようと右は少し進路を変え、俺は後ろからくる自転車にようやく気づき、左に寄ろうとした。

 

 必然2人は衝突するわけで、体格差から鈴木がよろけた。これはまずい、とっさの判断でコケそうになった鈴木を右手でぐいと引っ張った。

 さて引っ張られた鈴木はこけることを回避したものの、引っ張られた方向に従い俺の胸にすっぽり抱き締められた。

 

 その瞬間、俺の思考が加速した。女の子特有のいい香り、体の柔らかさ、小さいけれど確かにあった胸。

 

「わ っりい田中、もう大丈夫だ離してくれ」

「……」

「おーい、田中?」

 

 心臓が早鐘のように打っていたが、それを鈴木に伝わらなかったのは幸運か。自分の激情を必死で抑え、右手を放す。

 

「……危なかった、俺の理性が」

「大丈夫か、お前? どこか打ったんじゃないか?」

「大丈夫だよ、万事オーライさ」

「ならいいけど」

 

 心配そうに俺の顔を伺う鈴木はやっぱり無防備すぎた。だから気軽にそれに続く言葉が言えたのだろう。

 

「そういえばさ、今度の――」

 

 その言葉を聞いて俺は笑うことしかできなかったし、それでも結局頷いたのは、どうしようもなく俺がダメ人間だったせいだろう。



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12.5話 しろくろコントラスト

 カエルは基本的にオスしか鳴かないといわれている。というのもその鳴き声を大きく共鳴させる器官――つまるところ鳴嚢という器官がオスしかないからで、この増幅する器官がないとその鳴き声は半径数メートルまでしか届かない。

 肺に溜め込んだ空気が喉頭を通り、鳴嚢に流れ込む。その時に喉頭が振動する事で鳴き声が出る。それが終われば、今度は逆に鳴嚢から肺へと空気が押し戻され、その繰り返しだ。その間、鼻と口は閉ざされて鳴き止むまで開くことはない。

 かえりみちに今日も今日とてカエルが鳴く、TSが広がりと男が少なくなろうともそれに変わりはなく。紫陽花が一人綺麗に咲き誇っていた。

 

 今日は一人で行く帰り道、呟く声は誰にも聞かれず。問題の解決の目処はついた――その声は雨音に掻き消されていった。

 その解決法が誰にとっての最善ではないかもしれないけど、確かに僕の価値観にとっては最善の方法で手っ取り早くすむ方法だと思えた。

 要するに切り捨てるという事なのだ。優先順位をつける事、僕にとって優先するべきことは彼であり、鈴木君がそこに割り込むことはない。それに内田君、笠井君をプラスして三人か一人かを選べかといわれてもやっぱり僕は彼を選ぶ。

 

 彼ならば遠回りだとしても、それが実現するかわからなかろうとも、別の解決方法を考えたのかもしれない。

 けれどもそれは彼の価値観だ、彼は自分を天秤に載せるかもしれないけれど、僕が彼をベットすることはないだろう。

 

 ゆえに納得させた。卑怯だと思う、最善ではないだろう。それでも現実を突きつければ笠井君の方はあっさりと諦めた。だってどうしようもないじゃないか、()()()()()()()()()()()。押し付けなのは分かっていたからこそ、彼は素直に諦めた。

 逆に内田君は諦めないだろう。押し付けだと分かっていたとしても、それを押し通すだけの心の強さがあった。もう少し手間がかかる。あと半分、もう半分というべきか。

 

 雨がしとしとと、この町にも降り頻る。聞こえてくるのは雨の音と足音と僕が息を吸い込む音、それに遠くに微かに聞こえるサイレンの音。

 こういう静けさが僕はあまり好きではなかった。自動販売機が機械音声を読み上げたけれど、僕はそれに構わず歩いていく。

 今日は喉は乾いていない、強いて言うなら僕は彼との会話を求めていた。

 

 ああ、今日はあんまり話す機会がなかったなぁ。このいざこざが終わり、鈴木君が彼から離れれば前のように話せるだろうか? いや会話するのだ、前よりももっと話そう、話すことならばいくらでもあるのだから。

 見たい映画の話、将来の話、僕が読んだ本の話に、オセロの話。話す種ならいくらでも考えることができる、けれども話す時間だけが足りなかった。

 

 そんなことを考え込んでると、あっという間に家に着いた。憂鬱、ため息を一つつく。おそらく、いやきっと父さんも母さんもまだ帰っていないのだろう。

 けれども自分の予想とは違い、玄関の前には人影が見えた。

 

 その人が誰かはすぐにわかった。いつも後ろから見てるから、それはもう飽きるほど、けれども決して飽きることもなく。

 

 なんでまたと思う、ぱっと思い浮かぶ予想だとあの妹から問い詰められて逃げ出したのかもしれない。

 けれどもそんな理由なんてどうでもよく、そこにいるという事実だけで少し心が温かくなった。

 弾む心を包み隠し――けれども浮かぶ笑顔はどうしようもなく。軽く咳き込みをし、こちらに気づいた彼に僕は軽く声を掛けるのだ。

 

「君の家は隣だろう?」

 

 と。

 

 

 ● ● ●

 

 麦茶の入った容器とグラスを二つもって自分の部屋に帰って来ると、彼はじっと卓袱台に置かれたオセロの盤を眺めていた。

 

 盤には前の盤面が終局の時のまま残っている。ぱっと見ほぼ同じ数、けれども黒の二石勝ち。

 卓袱台の上には常にこの盤が乗せられていた。僕が負けた時は次にまたやる時まで、その盤面を残しとくのが常だから。勝ち逃げは許さないぞ、そう言う意味合いも込めて。

 

 僕が勝った時は石を片付けてしまうから、それが彼の負けず嫌いを刺激するというのもわかっていて、ワザとそうしていた。その工夫あってか、それともなくても続いたのかはわからないけれども、今までこの勝負が続いていた。

 彼は認めないけど、僕と同じぐらい負けず嫌いだと思っている。

 

 前の盤面が残っているということ、つまり前回の勝負は僕の負けだった。TSする前の話だ、そしてこれからTSしてから初めて勝負をする。

 僕の心配は杞憂に終わり、TSしても僕らの関係性は変わらなそうだった。

 

「はい麦茶」

「ん、サンキュー」

 

 グラスに麦茶を注いで渡すと、ようやく盤から意識を外してこちらと視線が交錯した。すぐに視線を逸らして一気に麦茶を口に流し込む。再びつっと差し出されたグラスに麦茶を注ぐ、今度は一気飲みせず一口含んだだけ、そしてようやく彼は言った。

 

「じゃあ、やるか――先手後手どっちがいい?」

「どっちでもいいよ、どうせ交代して二回戦やるんだし」

「じゃあじゃんけんで」

 

 さいしょはぐー、じゃんけんぽん。

 案の定、彼はチョキをだしてこちらが最初に先手を選択した。

 

 盤からお互いに30個づつ石を回収して、僕は無造作に一つ石を置いた。パタリと一つ白が反転する。それを見てすぐに彼の右手が動いた。その彼に向かって僕は声を投げかける。

 

「それでなんで君は僕の家の玄関の前で立ってたんだい?」

「妹にちょっと彼女のことで追及されてな……」

 

 序盤は通い慣れた道、あまり考えることもなくパタパタと手が進んでいく。自分だけが知ってる定石に誘導することもなく、感覚的にただただ進んでいく。

 それは彼ぐらいならそんなことしなくても倒せるという慢心ではなく。同じ盤面を見て頭をフル回転させて同じ事を、体験を共有したいということだった。

 考えが少しでも足りなければ負ける、読み抜けがあればスルスルとそこを抜かれるのはとっくにわかっていた。その形が前回の盤面だった。

 次第に手の進みは遅くなっていく、待ち時間は決めてないから思う存分に考えを振り絞ることができる。その間にたわいも無い会話が飛び交う。

 

「まあ妹さんにうっかり口を漏らしてしまったのは僕のせいだったんだけどね、申し訳ない」

「ごん、おまえだったのか」

「僕は狐じゃないよ」

「そうだよな、どちらかといえば犬っぽいもんな」

「そうそう」

 

 彼の忠犬であり、番犬でもある。犬耳をつけた僕の姿が脳裏に浮かび、すぐにかき消した。僕からしてみれば少しきつい絵面だった、ただそれだけ。

 

「明日学校いたら休みだね」

「やっと今週も終わりか、長かった」

 

 そう石を置きながら振り返る姿はどこか哀愁が漂っていた。ノータイムで僕も黒を置き白石をひっくり返していく、ちょうど彼ならここに置くだろうという僕の読み筋と彼の指し手がぴったりと噛み合ったからこそ。

 

「休みになったらなにをしようか、君は何か用事があるのかい?」

「……」

 

 ひゅっと息を吸い込む音がした。けれども続く言葉はなく、僕はさっと彼の顔を見やる。

 何かを隠してる顔、言うべきか言わざるべきか悩んでる顔。読み取ることは容易かった、彼は隠すことが昔から下手だからこそ。

 

「何か隠したい用事があるんだね」

「いや、あの、その……隠そうと思ったわけじゃないんだが」

 

 軽くカマをかければすぐにタジタジになる。本当にどうしようもなく、彼は隠し事が下手だった。じっと顔を見つめていると観念したのか、一つため息をついてぽつりぽつりと語り始めた。

 

「映画を観に行くんだ」

「へえ、それは良かったね、なんの映画を観に行くんだい?」

「まだ決まってない、これから相談して決めるから」

 

 相談して決めるからとの一言を聞いて、さっと一瞬で思考は巡る。映画を観に行く、それも一人ではなく僕じゃない相手と。彼の妹とではないだろう、逃げ出してるし昨日会った限りそんなことを約束してる様子もなかったから。彼女はブラコンだから、そんなこと約束したならば会った時に自慢すると決まっていた。

 ならば誰か、もう必然的に相手は決まっている。ポロリと手から落とした石を拾い上げて僕は言った。

 

「無駄に話を広げないでくれって言わなかったっけ?」

「……ごめんなさい」

「謝ったってもう遅い、でも顔を上げていいよ」

 

 謝罪と共に速やかな土下座、それを止めながらも僕は思考を必死に巡らせる。どうしてこうなってしまったのか、何からいえばいいのかよくわからなかった。

 

「鈴木君のこと好きになったのかい?」

「いえ、それは違うんです」

 

 挙げ句の果てに出てきたのは僕ですらあきれた問いかけ、それを真面目くさって答える彼を見て、僕は少し笑う。

 問題解決はもう目の前に見えてるのに、彼から近づいては本末転倒ではないか。それを実際に言うことはなく、僕からはただ一言だけ。

 

「鈴木君にあまり深入りしちゃだめだよ、君」

 

 その言葉があまりに薄っぺらく、自分本位であることは分かっていた。彼を独占したいからこそ、けれどももしかしたら手遅れなのかもしれない。彼は僕のものではないのだから。

 何か縛るための鎖が欲しいのは、やっぱり僕が間違っているのだろうか。うん、間違っているのだろう。そうだとしても僕は――。

 

 何か言いたそうな彼を無視して、音高らかに石を盤に打ち付ける。とりあえず彼のことはオセロでボコボコにする、話はそれからだ。



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13話 映画センスは全くない①

 金曜日が過ぎるのはあっという間だった。

 それは俺が早く土曜日になってほしいと思っていたのか、それとも来てほしくないと思っていたのか、自分でもよくわからなかった。

 

 多分半々ぐらいだったのだろう。

 遠足の前日で期待に目を輝かせる子供のように、さりとて天気予報を見ると雨マークが付いてることを知ったような、そんな感じ。

 

 けれども約束した土曜日は来る。集中力がないと担任から叱られようとも、和泉からやけに冷たくあしらわれようとも――これが多分最後のデートになるだろうとわかっていたとしても。

 それは至極当然の摂理だった、時間は止まることなどあり得ないのだから。

 

『鈴木君は君の事が本当に好きなわけではない、それを忘れてはいけないよ』

 

 和泉の言葉が蘇る。

 始まりがあれば、終わりは必ず来る。問題の解決が関係の終わりならそれは当然訪れるものだ。俺は鈴木の問題をまだ詳しくは知らなかったけど、あいつがもう少しで解決するといったらそうなのだろう。嘘だけはつかないあいつだから。

 

 だから俺は映画を観に行かないかという彼女――いや彼の言葉に頷いたのだ。偽装とはいえ付き合ったからとか、お願いは断れないとか綺麗な御託ではなく、自分にも少し思い出が欲しいという欲があった。それを否定することだけはできない、だって人間だもの。

 

 問題が解決しなくても、このままダラダラと付き合う関係も良かったのかもしれない。

 けれどもここに立ち止まるという選択肢だけは既になかった、それだけは確かに言えるのだ。後になりそれでもいいんじゃないかと思ったとしても、俺に相談した時点で、そして俺が和泉に協力を願った時点でもう、スイッチは押されていた。

 

 これが最後の羽休め場所だったのだろう。渡り鳥が無事に避暑地へ辿り着けるのか、それはまだ誰にもわからない。目の前に暗雲が立ち込めようとも、もう飛ぶしか道はないから。

 

 ――それは付き合い初めて二日後、問題解決四日前の事だった。

 

 

 ● ● ●

 

 

 待つ、ゆっくりと。

 町に一つあるショッピングモールの最寄駅、そこを出たところにあるベンチに俺は一人で座っていた。

 ちらりと腕時計に目を落とす、時刻は9時40分。約束が10時のことを考えれば十分余裕があった。

 

 映画を観にいくのは特に珍しいことではなく、思い立ったが即行動といく機会はあったけど、それは和泉とか妹とかとであり、こういう待ち合わせをして行くことはほとんど記憶にないことであった。

 

 そういう訳で自分には待ち合わせの勝手がわからない。和泉ならば隣の家だし、遅ければ家に乗り込んでくる。妹は言わずもがな、同じ家。恨むべきは自分のあまりにも狭過ぎる交友関係だった。

 帰宅部であるからそれは仕方のないことかも知れない、他のクラスにいく活力はない、幼馴染である和泉が同じクラスにいるなら尚更のこと他にいく必要もなかった。

 

 ふと思う、もし和泉が居なかったらどうなるのだろうか、どうなっていたのだろうか。和泉は何も変わらなく他人とやっていけるかもしれないけど、自分はどうだろう。

 

 どうなるのかという想像すらぼやけてよく見えない、これは少し不味いのかもしれない。交友関係を広げなければいけない、それも早急に。

 

 上を見上げて考える。空は曇天、けれども昨日一昨日とは違い今日は雨が降っていない。

 お陰でベンチに座ることができた。微かにひんやりとした冷気が下から伝わってくる。

 

 交友関係を広げると決意したけれど、なかなか目ぼしい相手が見つからない。既に新しい面々との顔合わせも済んでグループが固まり始めて来る頃、そうなるとなかなか難しい。

 

「お、早いな 何見上げてんだ?」

 

 ぼんやり考えていると声を掛けられた。

 待ち人来たる。こんな今の俺に声をかけるなんて、考えるまでもなく一人しかいない。

 

 視線を下ろせば空を見上げている鈴木が居た。一目見て女物の服を用意するまでもなく、TS前の服を使い回してきたんだろうとわかった。いつもと変わらぬツインテールに笑みを浮かべる猫のイラストが描かれたTシャツに藍色のジップパーカー、それに長ズボン。

 女の子らしい服装とはいえないだろう、それでも俺にはそれがよく似合っているように見えた。

 

「いや今来たばっかりだ」

「今来たばっかにしてはジーパンのケツ慣れてるけどな」

 

 テンプレ通りの返し。それにたち上がった自分の尻を指さされ、見破ったりと何処か自慢げに返された。

 思わず笑みを零す。何となくいい一日になる気がする、そんな気がした。

 

 

 ● ● ●

 

 

 待ち合わせが終わり、少し歩けばショッピングモールの映画館に着いた。

 

「さて、何を見るか」

「なんでもいいぜ、面白ければ」

「それが一番難しいんだよ……」

 

 そう、何の映画を見るかまだ決まってなかった。てっきり映画を見ようというのだから何か見たいものでもあるのかと思ったけれど、そんなことはないらしい。

 まるで何かから逃避する為に映画を観るかのように。

 

 見たい映画がないと聞いてとりあえず俺は金曜日のうちに、今やってる映画からいくつかの候補を選んでおいた。

 その候補を興味なさげに立ち尽くす鈴木に説明する。

 

「候補は三つある、一つはアクション映画、二つ目はサスペンス、三つ目はホラー」

「ホラーは却下だ」

「なんでだよ、一番の候補だったんだけど」

 

 一番俺が見たかった物は一瞬で却下された。

 あぁ、俺が見たかったTSホラーよ。簡単にあらすじを説明するとおじさん幽霊がTSして、可愛い女の子の幽霊となったことで人を呪う力が増大したという話らしい。

 

 TSモノの映画は増えた。初めはポツリポツリと、それでも次第に数を増やしていった。それがタイムリーであり経験者がかなりの数がいるからだろう。身近な話題だからこそ。ゆえに売れる、当然のことだった。

 

 抗議のために良さを伝えるために言葉を続けようとして、鈴木の目から強い拒否の念を感じて素直に引き下がる。それでも悔し紛れに一言だけ俺は言いたかった。

 

「……怖い話、もしかして苦手なんですか?」

「!!」

 

 瞬間、目の前に星が散った。

 殴られた、それもグーで。思わず俺は膝をつき、揺れる視界の中に鈴木の声が聞こえた。

 

「俺は別にホラーが苦手なわけじゃない、いいな?」

「は、はい」

 

 何も殴らなくてもいいじゃないかと思いつつ、上気した顔を見てそれを言うのを諦めた。多分ホラー系のやつ本当に苦手なんだろうな、そう心の中にメモした。

 

「残る二つどっちがいい?」

「田中はどっちの方が見たいんだ?」

「んー、俺としてはアクション映画の方が面白そうだった」

 

 それを聞いて少し考え込んで少しの間の後、人差し指をピンと立てて彼女は言った。

 

「よし、じゃあサスペンス映画にするか」

「ちょっと、もしかして俺の意見と逆張りしてないですか?」

「お前の趣味と俺の映画の趣味、噛み合わない気がするからな。ついでに母さんからホラー映画を観ようとする奴は信用するなと言われてる」

「そんな今思いついたような言い訳しないであらすじ聞いて判断してくださいよ!」

「でもサメが出るならアクション映画でいいぜ」

「出るわけないだろ!」

 

  なおもサスペンスの方を選ぼうとする鈴木にアクション映画の方の良さを必死に説く。どちらの題材もアメリカと北の王子様のあれそれを描いた話だった、主役を大統領に置くか、工作員に置くかの違い。大統領が大暴れすると聞いて、自分としては二番目に観たい映画だった。

 

 結局、説得に応じてアクション映画を見ることになった。一番の後押しはその主演男優が最後に男を演じた作品になったと言うことだった。

 その選択に後悔することを俺たちはまだ知らない。

 

 

 ● ● ●

 

 

 映画の券を買ったはいいけれど、開演まで少し時間が空いてしまった。ならばと特に目的もなくぶらりぶらりと2人でショッピングモールを散策する。

 本屋を通り過ぎ、女の子用の小物を取り扱う店を通り過ぎ、たどり着いたのはゲームの販売店だった。

 

『あなたも配信者になって見ませんか?』

 そんなキャッチコピーが素足が眩しい現実の配信者の裏で踊っていた。たしか元祖TS配信者だった気がする。

 ゲーム屋にはよくあるポスター、多分TSした人を狙い撃ちしたものだろう。

 俺が配信したところで需要があるとは思えなかった、悲しいことに俺はイケメンではないから。ポスターをぼーっと眺めていると鈴木の声が聞こえた。

 

「田中はこう言うゲームやんのか?」

 

 そう言って指差しているのはシリーズ累計10本以上出ている有名国産RPGだった。名前は知っている、けれども首を横に振る。

 

「いや、全然やらん」

「そうか」

 

 そう言うと興味なさそうにパッケージをその棚に戻して、他の棚に目を移した。

 

「俺も昔はやったんだけどなぁ、しばらくやる時間がなくてそれからそのまま。まあやる時間は出来そうだけどもう最近のゲームについてけなさそうだ」

「へぇ、どういうゲームが好きなんだ?」

「RPG、コツコツとやった分だけちゃんとメリットが返ってくる」

 

 才能など必要なく、時間さえかければ誰だってクリアできる。だから好きだと彼女は言った。

 

「苦労には対価があるべきだ、わかるだろう?」

「わからなくもない」

 

 叶うかもしれないものに労力は掛けたくない、誰だって当然のことだろう。

 その言葉をきいて一つ頷き、どんどん彼女は先に進んでいった。ゲーム屋に来たのにゲームを確認することなくただ真っ直ぐに進んでいく。慌てて俺もその後を追っていった。

 RPG、RPGね。そう考えてそのいいところを1つ思いついた。

 

「セーブしとけば間違えても鍛え直してやり直せるしな」

「ハッ違いないね、まったく現実にもつけて欲しいよセーブ&ロードを」

 

 立ち止まった先はゲーム屋の一番奥、そこで道は終わり袋小路だった。そこにあるゲームを確認することなく振り返り、彼女は言った。

 

「そろそろ時間じゃないか?」

「……今から戻ったらちょうどいいぐらいだな」

「じゃあいくか」

 

 足並みはやっぱり揃わない、わざと合わないようにしてるのか俺には分からなかった。



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14話 映画センスはないらしい②

 銀幕の向こう側では空飛ぶサメと大統領が一進一退の攻防を繰り広げていた。

 説明もなく理由はわからないけれども、サメが空を飛んでいるのは紛れもなく事実。足に食らいつこうとするサメの鼻っ面を蹴り上げ、開いた口に大統領が手榴弾を投げ入れた。

 

(なんだろうこれ)

 

 爆発四散するサメを見ながら思う。もともと少なかった観客がまた一人、席を立ち前を横切っていった。

 

 初めは良かったのだ。大統領としてではなく一人の父親として家族団らんし、一点仕事となればバッサリと私情を捨て国のトップとして振る舞う姿は、その真偽がわからない自分からしてもリアリティがあった。

 

 でもそこから先の展開は全然ダメだった。大統領の暗殺を狙って爆弾が記者会見室に仕掛けられ、それをどうやって回避するんだろうと思っているとそのまま爆弾は爆発した。

 

 ええっと自分が驚いたのもほんの一瞬だけ。

 妻からプレゼントされた懐中時計が身を守ってくれたと、額から流血しながらも大統領は立ち上がる。

 おお、さすが大統領褒めそやすマスコミ。いや流石にそれは無理だろうというこちらの内心の突っ込みをよそに、暗殺を成し遂げようとするどこかの国の工作員をバッサバッサと薙ぎ倒していく。

 

『私は大統領だからな!』

 

 なぜお前はそこまで強いんだという問いにそう返しながら、次々と襲いかかる敵を倒す爽快感は確かにあった。でも暗殺されるようになる理由がいつまで立っても明かされないのだ。流れるように戦闘ヘリを撃ち落とし、戦車を破壊しようとも、その場面場面に全く繋がりがない。

 敵を倒すと場面が暗転して切り替わり、また新しい敵が出てくるという法則だけは理解できた。それがどういう意味なのかはさっぱりわからないけれども。

 

 ゆえに大統領に共感できないし、納得できない。

 俺は戦闘ヘリ、戦車の後にサメが出てきたということはそれらよりサメの方が強いという扱いなのかと考えていた。

 

 というか空飛ぶサメってなんなのだろうか、生物兵器かなんかなのだろうか。

 サメを飛ばす必要性は全く思いつかなかった、それこそサメの頭の数を増やすぐらいには思いつかなかった。

 

 さてお次はなんだろう、場面が暗転するのを見て思う。どんどん強くなるという方式ならば次は戦艦だろうか。流石に戦艦は無理だろう、そう思う俺の予想は良くも悪くも裏切られる。

 画面の向こうではUFOがゆっくりと地上へと降りてきていた。

 

 興味なさげにズルズルと飲み物を吸う音が隣から聞こえてくる。多分、これはクソ映画と呼ばれる類のものなのだろう、三幕構成ぐらいちゃんとしてほしい。

 

 スクリーンから目を離し、隣の席を見やる。

 寝てはいない、けれどもひどくつまらなそうに鈴木は目を細めていた。

 どうやらつまらないと思っているのは鈴木も同じらしい、もう一つの映画にすれば良かったな。後悔先に立たず、猫の瞳をなんとなく見つめていると、それが横に動いた気がした。

 

 ?

 

 目線を上にずらすと、彼女もこちらを見ていた。

 視線を戻したのはどちらが先か、よく覚えていない。ということは多分自分の方が先に前を向いたんだろうけど、やっぱり記憶がないからはっきりと頷くことはできないのだ。

 けれども視線を戻した先で大統領が宇宙人を殴り倒したところだけは、今でもはっきりと覚えている。

 

 

 

 問題は俺は映画の情報を調べてきたのに、今のところその情報が全く生かされてないということだ。

 TSを扱った作品だというのに北の王子様の姿は一切見えず、TSのTの字すら見えない。

 これではただ大統領の無双する話であり、どうやってそれに絡めていくのか全くわからなかった。もしやさっぱり描かれないのではないか。そんな思いを置いといて、画面が暗転する。

 

 俺は勝手に思い込んでただけなのだ、物事の解決方法が倒すだけだと。でもそれまでのやり方を見ればそうだと勘違いしても仕方ないだろう。

 

 さて最後に出てきたのはTS済みの北のあのひとだった。ただし現実の彼女とは似ても似つかない西洋系の顔立ちをした人だった。それこそ後ろにあの国旗がなく、字幕で紹介がなければ勘違いするところだった。

 

 さきほどの宇宙人より絶対弱いだろうに、まさか彼女にも拳を振るうのだろうか。

 そんな心配を他所に必死に逃げる北のお姫様を追いかける大統領。

 完全に主人公と思えない風格であり、善悪反転してるようにしか見えない。ドアをぶち破り、邪魔をしてくる護衛を千切っては投げ千切ってはなげ、次第に距離を詰めていった。

 

 がんばれ! がんばって!

 そんな声援虚しく男女の体力差、それに大統領の機転により、結局彼女は捕まってしまった。

 迎えを待つ大統領と手錠を掛けられ地面にへたり込む北のお姫様。夕焼けの向こうからヘリが飛んでくるのを見て彼女は言った。

 

『……殺すの? 私も』

『いやお前は殺さない、殺すわけないだろう』

『なんで? あなたをあんなに殺そうとしたのに!』

 

 掛けられた手錠を外そうともがくも、女の力では外せるわけがない。それを見て大統領は笑った。

 

『惚れたからだ』

『何?』

『俺が、お前に惚れたから。だから殺さない、簡単だろう?』

 

 それを聞いて惚ける彼女に近づき――おもむろにキスをした。

 

『全部終わったら結婚しよう』

 

 ――こうした世界は平和になった。

 fin

 

 

 ● ● ●

 

 

「なるはずがないだろうが!!」

 

 ドンと叩かれた机が振動し、揺れるドリンクの波紋をぼんやりと見つめながら俺はポツリと呟いた。

 

「すごい、映画だったな……」

「何がすごいんだよ、あんなクソ映画! そもそもあいつ元々妻居たじゃねえか! なんで自然と一夫多妻にしようとしてんだよ、しかも元々敵国のトップと!!」

 

 そういえば始めらへんに家族団らんシーンがあった気がする。それもはるか遠くの時のように思える。

 今いるのはショッピングモールの一角にある喫茶店。映画を観た後に暴れようとする鈴木を必死に宥めながら、とりあえずここまで連れてきた。

 時間もちょうどいいところだった。そこで適当に昼飯を食べて腹を膨らませて満足したのか、今度は先ほどの映画に対する不満が膨らみ始めたようだった。

 

「しかも最後無理矢理キ、キスを……」

「なに?」

「や、なんでもない……」

 

 いきなり先ほどまでの怒気は何処へやら、顔を赤らめて声も尻すぼみになってしまった。

 一通り語り熱くなったのか、クリームソーダのアイスとソーダの境界面をストローで吸い上げようとしてるのをぼんやり観ながら、自分も先ほどの映画を真面目に考えていた。

 悪い夢、そうまるで悪い夢のような映画だった。

 

「家族団らんのシーンはあったけど妻は出ていなかったな」

「ってことは妻がもう死んでるってことか?」

「わからん、偶々写してなかっただけかもしれないし、そうやってみるといきなり北のお姫様と結婚した理由もわかる」

 

 クリームソーダを飲むのをやめ真面目に聞こうとする鈴木に、自分のがばがばな推論をぶちまけた。

 

「TSした後の姿が亡き妻に似ていたから」

「……いやそれは流石にぶっ飛びすぎだろう」

「でもそうでもなきゃ西洋人にする必要なかったと思うんだ」

「ないよ、ナイナイ。そこまで考えてるはずないって」

 

 割と自信あったんだがなぁ、そう思いながら一人でカップル専用ドリンクを吸う。

 そうカップル専用ドリンク。今まで彼女がいなかったので頼む機会があるはずもなく、これ幸いと頼んでみたのだ。

 

 せっかく飲む機会ができたので一度は飲んでみたかったのに、一緒に飲むことだけは全力でNOと拒否された。

 ゆえに一人で飲む。二つのストローで一度に二倍の量の飲み込めるそれは甘酸っぱく、なぜか少ししょっぱい味な気がした。

 

「美味しいよ、ちょっと飲むか?」

「飲まんよ、どっちのストローも使ってるじゃねえか……」

 

 鈴木がクリームソーダをぐるぐるとかき混ぜるのをじっと見つめている。

 自分としてはなるべく早く上に乗ったアイスクリームを全部溶かして、均一化したクリームソーダだった物を飲みたい派だった。それじゃあクリームソーダが台無しだよと言われた記憶が微かにある。

 

「一つ思いついたぞ、さっきのお前みたいな突飛な発想だけど」

「聞いてみようじゃないか」

 

 ポツリと一言、彼女が呟いた。

 それに返す自分の言葉がなんとなく和泉っぽい口調、そう思った。

 

「大統領はあの記者会見の時に瀕死、もしくは死んだんだよ。つまりあの先は全部走馬灯か、死にかけの時に見る夢だったって訳だ」

 

 流石にこれはないか、たははと笑ってるのをみながら、その考えを手繰っていく。

 

「あり得るんじゃないか?」

「え? ないない、流石にないだろう」

「いやお前が初めに言ったんだろうに……夢だから、そう理由つければ全部に理由が付いてくだろ? 初めのリアリティは確かにあった、けれども後半サメが飛んでたりしたろ?」

 

 そういえばサメが出てたかこの映画も好きになったかという問いは、サメが弱すぎる、サメの登場時間が少なすぎるから無しと否定された。

 

「監督のTSに対するある種の答えなんだろうな、これは夢であるって、夢だからサメは空を飛ぶし、夢だから性別が変わりうる事もある」

「夢だったらどれだけよかったか、それともこれは覚めない悪夢なのかね」

 

 どうしたって現実にTSは起きてるし、それが夢でないことは事実だった。カランとグラスに入った氷が音を立てた。

 

「もしかしたら初めはTS要素入れる気なんてなくてさ、あの最後の追跡劇のとこに別のシーンを入れて全部の伏線を回収するかだったのかもな」

「かもしれない、けれどもあれだけじゃただのクソ映画だよ」

 

 その言葉を聞いて笑う。真偽は確かじゃないけれど、もしそうだとしたらそれが男として最後の主演を演じた彼の気持ちはどうなのだろうか。

 別に初めからこのプロットで進んでいたかもしれない。そうだとしたら妄想でしかないけれど、彼もTSでとてつもない被害を受けた一人なのかもしれない。

 自分に願うことはこの映画が初めからクソ映画であったと願うことだけだった。

 

 

 

「本当にいいのか?」

「いいんだよ、人の好意はおとなしく受け取っておくものだよ」

 

 サンキューと言いながら先に外へ出る彼女に背を向け、店員さんの方へ向き直る。店員さんが少し笑っているのが気になった。

 映画が思ったよりひどかった内容だったからという理由でこちらが無理に奢ると言ったのだ。

 

「またせてすいません」

「いえいえ、そんな。カップルさんですか?」

 

 初対面の相手に事情を説明するはずもなく、伝票にはカップル専用ドリンクとはっきり書かれてるから言い逃れすることもできない。

 素直に首を縦に振った。

 

「それはいいですね、うふふ……」

「はぁ」

 

 なんとなく苦手な相手、そんな気がした。

 会計を済ませて直ぐに店から出ようとすると、背中に声が飛んできた。

 

「今日マジックショーやってるんですよ、もうすぐ始まるんで行ってみたらどうですか?」

「……参考にさせていただきます」

 

 感謝しようと後ろを振り向くと、もう他の仕事に行ったのかそこには誰もいなかった。



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15話 デートの終わり、そして始まるモノ

「なあ」

「ん?」

「俺も素手で大根を桂剥きできるようになれるかな」

「無理だと思うよ、俺は」

 

 どこかぼーっとした様子の鈴木を見て、また似合うようなヘアピンを見繕っていく。

 

 

 

 天才高校生マジシャンと銘打たれたポスターはあったけれども自分の知らない人であり、鈴木に聞いてみても、知らないと首を振った。

 ふーんと相槌を打ちながらそのポスターを見て思ったことは、さっきの店員さんと顔が少し似ているようにみえる――それぐらいだった。

 

 だから大して期待するわけでもなく、それはぞろぞろとステージの前に集まってきた人たちも同じだったのだろう。

 席はギリギリ全部埋まった程度で立ち見も無く。手品に期待してるのか、はしゃぐ子供の声が少し大きく聞こえた。

 

 それをマジシャンと呼ぶにはやってることが少々奇抜すぎた。

 それは俺がマジシャンを手品師という捉え方をしているからで、奇術師と見たならばまさに正鵠を射抜いた言葉なのだろう。

 

 やったことは至極簡単、大根を素手でバラバラに分解してくことだった。その奇術のクオリティの高さに舌を巻きつつ、素直に拍手を送った。

 見る限り観客からの評判はかなり良いもののようで、子供達がおもしろかった! と素直に自分の気持ちを表してるのを見ながら俺たちはステージを後にした。

 

「あれが同じ高校生とは思えないよ俺は」

「別にあいつと比べても仕方がないと思うけどな」

 

 映画前よりは歩調が合っていたけれども、それでも自分はなぜか前より距離感を感じている。

 彼女はこちらを向きながら歩いている、それに少しの違和感を感じてふと気づいたのだ。

 彼女はこちらを見ているのに、こちらを見ていない。

 矛盾してるようでも胸中に浮かんだその言葉が一番的を得ているように自分には思えた。多分、何か他に考え事をしているのだろう、けれどもそれが何かとこちらがうかがい知れる術はない。

 だから俺は前を向いて歩いていた、そのなんとも苦い現実から目を逸らして歩いていた。多分それは和泉がいった俺にいうべきでないと判断した問題についてなのだろう。

 

 

 

『前髪を止めるようなヘアピンが欲しいな』

 

 どうしようもない無力感の中、今はマジックショーを終えたふらふらと彷徨っている途中にふと漏らした言葉に従いこの店に来たのだ。

 何度か来たことのあるピンク色が目に優しくない店、妹に嫌々引っ張られながら来た経験がここに生きるとは思わなかった。

 

「あれほんとに大根だったのかなぁ」

「前に呼び出された時少し齧ったんだろ? 大根の味はしたか?」

「……めっちゃ辛かった」

「そりゃそうだろうな、なら大根だったってことだよ」

 

 俺のその答えを聞いて何が面白いのか、彼女はふふっと笑った。

 

「何か面白いことでも?」

「いや別に、うん。なんでもないんだ」

「変なの」

 

 映画の話をして、手品の話をして、悲しいことに自分の話の種は尽きかけで。無言で良さそうなものを見繕っていく。肝心の鈴木はというとこういう店に来たことがないのか、興味深そうに周りをキョロキョロとしていた。

 

「よくこういう店に入ろうと思ったな、元から知ってたのか?」

「妹と来たことがあったからな……こういうカエルをあしらったものはどうだ?」

「リアルすぎて気持ち悪いわ、せめてもっとデフォルメしたやつにしてくれ」

 

 間髪入れずに第二候補のリアル路線から離れたものを差し出すと彼女はうっと呻いた。

 

「なんでそんなカエルばっか出してくるんだよ、好きなのかカエル?」

「いや別にそんなことないけど」

 

 そう言って首を傾げる、俺はなんでこんなにカエルを推してるのだろうか?

 

「強いて言うなら、季節感的に?」

「なんでだよ、女子っていうのは季節ごとにヘアピンを変える趣味でもあんのかよ」

「ハッ、カエルを変えるってな」

 

 糞つまらないギャグに対して放たれたツッコミをすっと一足引くことで回避する。

 

「うーんなかなか難しいな、なんかこれが良いとかないの?」

「俺はシンプルな黒い奴でいいと思うけど」

「そんなことをするなんてもったいない! 素材が良いんだからそれを活かさなきゃ」

 

 素っ気なくふんと鼻を鳴らして、彼女もようやく俺が見ている棚に向き直った。TSしたら世の中全員が全員自分の容姿に気を使うと思ったのに、彼女はそんなことないらしい。

 

「とりあえず3つぐらい買ってそれを使う回す感じでいいだろ」

「1つでよくないか?」

「無くすだろ、絶対。本当は7セット買って曜日ごとに使いまわすのがオススメなんだが……」

「うわ、面倒くさ」

 

 慣れる慣れるといいながら、適当に見繕っていく。結局第二候補としてあげたカエルのものと、シンプルな赤いものと青いものを選んだことをここに記しておく。

 

 

 ● ● ●

 

 

 駅のホームに電車が滑り込んでくる。

 ヘアピンを買ったところで俺たちの目標は消失して、帰るかという提案に断る理由もなく、駅のホームへとやってきた。

 

 来た電車は俺たちが行きたい方向と逆方向に向かう物で、駅名を告げる音をなんともなしに聞き流していた。話すことがないなと思いつつ、電光掲示板を確認する。何度見ても五分後、それを確認して鈴木の方をみやる。

 彼女はぼんやりと買ったヘアピンを眺めていた。

 

「田中は将来の夢なんかあるか?」

 

 唐突な質問が飛び出した。その質問に驚いたわけではないけれど、特に夢というものもなかったので言葉に詰まる。

 

「うん、まあなんだろうなぁ」

「無いのか?」

 

 無い、というのはなんとなく悔しかった。

 

「正しい意味で彼女を作ること」

「それは夢じゃなくて目標だろ?」

「違うのか?」

「違うだろ、んーなんていうか目標っていうのは夢を叶えるために必要な過程みたいなもんだ。それをいくつも積み重ねて実現するかもわからない夢を目指してくんだよ」

 

 それともお前は彼女ができっこない絵空事だと思ってるのか、そう聞かれて俺は首を横に振った。

 

「ならそれは夢じゃないんだよ、目標さ」

「と言われてもなあ」

 

 そう言われると俺は返す言葉もなかった。

 夢、夢ってなんだろうか。TSしたいというのは受動的に叶えられる夢だから真っ先に消していた。そうするとなかなか見つからない、ぼんやりと見下ろす線路は砂利ばかりだった。

 

「そこら辺に夢が転がってないかな」

「転がってるはずないだろ」

「じゃあお前はなんか夢があるのか?」

 

 沈黙、答えは帰ってこない。

 聞いといて自分も夢がないじゃないか、そう言おうとして口を噤んだ。

 

「無い」

 

 そう言ってホームの最前列で待っていたというのに、ゆらゆらと前へ進んで黄色い線を踏み越えた。

 

「おい」

()()()()()()()()()()()

 

 黄色い線の外を歩かないように、そう放送が流れているのが耳に入ってきて、警笛を鳴らしながら電車が近づいてくる。それが彼女の耳に入らないのか、さらにギリギリへと進んで行く。

 

「だからここが」

 

 それからそれから――暗転(●●●)

 

 

 

 

 警笛が鳴っている。

 

「おい、大丈夫か?」

 

 目の前に鈴木が居た。

 心配そうに顔を覗き込まれている。周りを見渡すと場所に変わりはなく駅のホーム。少し震える手で額の汗を拭う、来たはずの電車はまだやって来ていない。

 白昼夢だったのだろうか? 電光掲示板を見上げると次の電車は五分後で、後ろを振り返れば丁度電車が発車するところだった。

 

「本当に顔色悪いけどどうしたんだ?」

「めっちゃ可愛いなと思って顔に見惚れてた」

 

 呆れたようにため息を吐かれても、それですら少し安心だった。気まずい沈黙、一先ず俺はこのホームの淵から少しでも離れたかった。

 

「ちょっと気分が悪いからベンチの方行かないか?」

「やっぱり調子が悪いんじゃねえか」

 

 そう言いながらも俺の背中をさすりながらついてくるのは、彼女なりの優しさなのだろう。

 

「さっきなんの話をしてたっけ?」

「なんだったか。なんも話してなかったと思うぞ、急に顔を青ざめて立ち止まったところで記憶が吹っ飛んでるからよくわからん

 あー飲み物な、コーヒーでいいか?」

「それでいい、ありがとう」

 

 コーヒーと引き換えにその金額分渡そうとすると、彼女はいらないと首を振った。その言葉に甘えて震える手でプルタブを開けた。

 一気に胃に流し込んで行く、ブラックコーヒーの苦さが今はありがたかった。今はとにかく冷静にならなければならない。

 

 白昼夢というものには絶対に理由がある。白昼夢は妄想の塊である、俺は妄想の中に一瞬溺れた。

 自分が組み立てた情報の中で見るからこそ、途中までの出来事が絶対に起こり得ないとは俺には言えなかった。

 俺が警笛を起点にそういう妄想をした、つまりそう思えるだけの仮定を既に組み立てている。

 

 TSした事により鈴木は陸上を諦めた。

 白昼夢という情報の集積の結論から読み取れた事は詰まる所これだ。それに気づいたのは多分あの映画のおかげだろう。

 TSする前に最後の主演となった彼、あれはTSして夢を挫折するということをはっきりと気付かされた。

 まさか本当に死ぬとは思えない、これは妄想の飛躍だろう。悪い夢は悪い方向に進んで行く、より悲観的に絶望的に。

 

 ここまで考えて気づいた。

 これは鈴木が抱える問題ではない、結末の話だ。

 

 付き合ってくれというのはその陸上を諦めるという話に直接関わってくる話ではない。全く別方向に向いたベクトルの話だ、つまり――。

 

 警笛が鳴らしながらホームに電車が滑り込んでくるも、今度はホームの淵に鈴木は居ない。彼女は未だに無言で背中をさすってくれている。

 

「いけるか?」

「さっきよりは全然マシだ」

 

 そう言いながら思考を打ち切った。いずれにせよ和泉の協力もあってその問題が解決に向かってるのだから、深く考える必要はないだろう。

 

 だから俺は話の矛盾点に気づかなかった、気づいた時には遅すぎた。



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16話 ラブレターの栄養価は高い(改)

大幅な改稿


 前の日に比べれば特に何事もない日曜日を終えて、やってきた月曜日の朝のこと。

 和泉には先に学校に行くと断りの連絡を入れて、俺は一足先に学校に向かっていた。

 

 日頃の登校時間に比べれば格段に早い時間、だから無理に付き合わせるのは悪いと思った。

 なぜ早い時間にしなきゃいけなかったのかと言えば、理由は妹にあった。

 簡単に言えば自分が妹の追求から逃げ続けているからで、朝の食卓が非常に居た堪れない空気になってしまうからだ。

 そうなるのが嫌で俺はそそくさと逃げ出したのだ。

 まあ一番手っ取り早いのは説明する事なのだろうけど、そうしたらしたでどんどん説明は増えていくのは見えていた。

 故に逃げる。

 

 朝靄たちこめる登校路。学校に近づくにつれて朝練に取り組む運動部の声が大きくなってくる。

 憂鬱な月曜日が始まると分かっていたとしても、俺にはそれをただ受け入れることしかできない。

 

 なんとなくそんな悲壮な決意を固めつつ、昇降口へ向かう。まだ人影は殆ど見えなかった。

 流石に少し早すぎただろうかと思いながら下駄箱を開けてみると、真っ白いものが目に飛び込んできた。思わずほぅと息を吐く。

 それは小さく折りたたまれたルーズリーフだった、金曜日の帰るときにそんなものが入っていた記憶はない。

 下駄箱に手紙とシチュエーションと来たら、もうそれはラブレターに違いない。安易な決めつけであるけれども、俺にはとりあえずそうと考えた。

 

 ラブレターは感情を押し付けるものである、というのは和泉の持論であり、ラブレターと言うものを貰ったことない自分からしてみればよくわからないけれども、まああいつみたいに大量に貰っていれば、そう思うのも無理はないだろうと俺は思っていた。

 

 そんな俺にもとうとうラブレターが届いたのだ。

 遅すぎる、既に偽りとはいえ鈴木という彼女が出た後にとは。

 もう少し早ければなと思いつつ、とりあえずその裏表を見て名前がない事を確認した後。俺は手でそのルーズリーフ弄びながら、どうするか悩んでいた。

 

 二つ、理由がある。第一に中身を確認したくないという個人的な感情、それはさておき二つ目の理由である。

 ラブレターとはルーズリーフで済ませる様なものなのか? そういう疑念である。

 あまりにも雑すぎる、こういうものは便箋を封筒に入れて送り出すものでないのだろうか?

 

 何はともあれ開けずには始まらない。

 えいやっと広げて、目を細めながら中身を確認する。

 

『放課後、体育館裏に来い』

 

 そう可愛らしい字で書いてあった。

 来い、となぜ命令形なのだろうか? 少し考えるも答えは見つからない。

 

「何突っ立ってんのよ」

「ん、おはよう」

 

 振り返るまでもなく、委員長だと分かる声。

 いつか遭遇した時よりもっと早い時間。何か用事があったのか、それとも前が少し遅い時間だったのかわからないけれども、今日はこの時間に来たらしかった。

 

「随分早いんだな、いつもこれぐらいに来てるのか?」

「いつもは前の木曜日と同じぐらいの時間よ、それよりあんたが早く来てる方が珍しいじゃない」

「考え事があってね」

「奇遇ね、私もよ」

 

 そうかと適当に返しながら、すっと見えない位置にその手紙を隠す。

 

「……今何か隠さなかった?」

「……いや何も、気のせいじゃないか?」

「ならいいけど」

 

 幸いにしてその行動には気づかなかったらしい、一人ほっとため息をつく。最近の委員長の傾向からして、見つかると無駄にせっつかれる気がした。

 

 ふと気づく、何で俺はここで立ち尽くしているのだろう。手紙のことを考えてたとしても、ここでぼーっと立っていたら誰に見られるか定かではない。

 

 特に待つ人もいないし、委員長に対して特に話すことも見つからないので、自分は大人しく教室に向かうことにした。

 

「じゃあまた後で、委員長」

 

 そう一声かけて、先に行くことにした。

 人影はなく、廊下に一つだけ自分の足音が響いている。偶にならばこういうのも新鮮でいいかもしれない。

 

 そんなことを考えながら歩いていると、途中で他の慌ただしい音が混ざってきた。

 後ろを振り返れば委員長が駆足で追いかけてくるのが見える。

 

「なんか急いでるのか委員長?」

「委員長って呼ぶのやめなさいって言ったじゃない。あんたに用があるのよ」

「俺? 自分は特に用はないんだが」

「あんたになくても私は用があるの」

 

 特に振り切る必要もなく教室に向かって一緒に歩いていく。用があると言ったのに、委員長は口を開かない。

 こう言う細かい間合いの取り合いが自分は好きでは無い。しょうがないと思いながら、俺は言った。

 

「で、俺に用って何のこと?」

「……うん、よし」

 

 何がよしなのかわからないけれども、一度深呼吸をしてようやく話を切り出した。

 

「じゃあズバッと聞くけど鈴木君と付き合ってるって本当?」

 

 なるほど、そう心の中で呟く。

 

「何でそう思った?」

「内田君に鈴木君と付き合ったって言った時、その直前に彼女ができたことないって私に言ったわね?」

「言ったな」

「じゃあ何で内田君と私と言ってることに差があるわけ?」

 

 当然の疑問だなと思った。だが、それに対する答えはもう準備してある。

 

「そりゃバレてないのなら無駄に言う必要もなかったからな、誰とも付き合ってないと周りに思われてなくても、付き合ってることに変わりはない」

「なるほどね、じゃあ何で鈴木君と付き合うことになったの? どっちから告白したの? どこが好きなの?」

 

 流石にそこまで細かくは詰める時間もなかったのだから、俺が言葉に詰まったとしても仕方のないことだろう。

 それを見ながら委員長は言い放った。

 

「今回も嘘をついたのね」

「え?」

「はぁ、もういいわ。多分いい方向に向かうようにしてるんでしょうし、わたしはもう口を挟まない」

 

 それじゃといって委員長は先に走って行った。自分たちの教室を通り過ぎてその先へ。

 多分、彼女も部活で何かやってるのかもしれない。俺は苗字も委員長が入ってる部活も知らないけれど。

 

 言いたいことだけ言っていったなぁと思いながら、俺は教室に入った。とりあえず考えたいことは下駄箱に入っていた手紙の対処だった。

 

 名前が書いてない以上、行くか行かないかの判断しかできない。筆跡鑑定をする技術も時間もないのだから。

 鞄を自分の机に放りなげて、一人っきりの教室でやることもなく校庭を眺める。

 朝練をする運動部の姿は見えたけど、その中に鈴木の姿は無かった。

 

 

「置いていくなんてひどいじゃないか……」

 

 俺が教室に入ってから数分後、何を急いでいたのか、息急き切って和泉が教室に飛び込んできた。

 

 

 

 ● ● ●

 

 

「最近、君は二股してると疑惑を建てられてるらしいね」

「なんでだよ、鈴木は確定としてもう一人は誰なんだよ」

「もう一人は僕だとさ」

 

 そう呟いてふふっと和泉は笑い声を上げた。何故か少し嬉しそうで、けれども何が嬉しいのか俺にはさっぱりわからなかった。

 結局二人とも普段より早く来るという結果になってしまっていた。

 別に迷惑ではないのだから、そんな思い遣りはいらないとぴしゃりと言われた後。特にやることもなく前後の席で向き合って、最近の出来事について話していた。

 

「そう見えるもんかなあ」

「周りの目線と自分の目線が同じとは思わないということは大切だよ、特に君は」

「それ俺がおかしいって言ってるみたいじゃないか?」

「その自覚はなかったのかい?」

 

 ないに決まってるじゃないか。しかしまさか和泉からおかしいとは言われるとは思っていなかったから、思わず言葉止める。

 ごく一般的な高校生である、そう自覚してるし成績も普通だ。どちらかといえば和泉の方が普通の枠から外れてるのは誰から見ても明らかだろう。

 

「まあ君がそれを自覚することは一切ないだろうけどね」

「そりゃ普通だからな。普通のやつが異常に気がつくはずがない、だって普通だから、異常がないから」

「自分の行動をちゃんと振り返ってそう言えるかい?」

「言えるよ、胸を張ってね」

 

 何かを考えているのか、和泉は目を細めながら上体をゆらゆらと揺らしていた。

 

「……まあいいか、それで土曜日はどうだった?」

「映画見て、ご飯食べて、マジックショー見て、鈴木のヘアピンを買った」

「……」

 

 無言。先程の機嫌はどこへやら、一気に不機嫌ムードに突入したことを察知した。どこで地雷を踏んだのだろうか、マジシャンに何か恨みでもあったのだろうか?

 確かに大根を取り出した時に大根役者じゃないですよーと言ったのには俺も殺意が湧いたけれど、和泉はそのことを知らない筈だろう。

 

「あー和泉さんや、1時間目の授業はなんだったけ?」

「……現代文」

「サンキュー」

 

 一時的撤退。理由がわからない以上、下手に藪を突くのは危険である。無駄に時間をかけて机の上に教科書を並べて時計を見る。

 やはりまだまだ時間がある。まだ周りにはちらほらとしか人が居ない、こういうところで朝早起きしたつけが回ってくると思っていなかった。

 諦めて和泉の方を向き直ると、つーんとそっぽを向いていた。

 

「映画で思い出したんだけど、映画で面白そうなの見つけたから今度見に行かないか?」

「……そういうところだよ」

「え?」

「こう話してるとことか、そういう提案するから二股って勘違いされるんだよ」

 

 そうは言ってもTSする前からこういう付き合いだったし、それでそう思われたのならもうどうしようもないじゃないか、そう思った。

 何よりちゃんと約束を自分は覚えていた。

 

「でもまあ、約束してただろ? TSしても縁は切らないって」

「律儀だねえ」

「当然」

 

 二股と蔑まれても仕方ないだろう、けれどもそれを辞める訳には行かないのだ。約束、そういう大義名分がある。

 その行動を取ったって迷惑を被るのは自分だけだから、ならもう心配する必要はないのだ。

 縁を切らないという事は、()()()()()()()()()()()()()とを俺は捉えたのだから。

 

「映画を見に行くことは別にいいよ、週末の予定は確認しておく。そういえばどんな映画なんだい?」

「TSホラー映画」

「行くって言わなければ良かったよ」

 

 そう言いながらも、その言葉が喜色に染まっているように見えたのは俺の気のせいだろうか?

 



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17話 誰がために①

お詫び
書き溜めできませんでした、いろいろあったので許して
二日に一回投稿に戻ります
閑話も一旦取り下げ


 数学の教師がTS明けにようやく学校に戻って来て、俺が落書きしていたプリントが提出するものだと衝撃の事実を明かした午前も通り過ぎ、やっとのことで放課後である。

 当然ながらプリントは見つからず、きっちりと叱られ別のプリントを渡された――まあ問題もまともに解いてなかったけれども。

 

「鬼が出るか蛇が出るか」

 

 何はともあれ、行動しないと何もしないと始まらない。

 いや行動しなくても物事は進むのだろうけど、それは悪い方向にだろう。

 土日を除けば久しぶりの曇り空である。晴れてはないけれどもこれ幸いと、しばらく使えなかったグラウンドを運動部が伸び伸びと使っていた。

 

 それを横目に一人、俺はグラウンド脇から体育館裏へとぼとぼと向かっていた。

 一応の彼女である鈴木はもちろん、いくら仲良くたって和泉を連れて行けるはずもない。そこら辺のデリカシーは俺でもちゃんと持っている。

 

 まあ和泉が告白される時、大概自分もいる気がするけど。

 あれは何なのだろうか? 俺は和泉の付属品と見られてるのか、それともそこら辺の石ころと見られているのか。

 別に誰それが和泉に告白したとか周りにおおっぴらにいう気はないけれども、俺にバレてもいいという彼女たちの気持ちはわからない。

 

 まあ、和泉のことを好きになる気持ちもわかる。俺が女の子だったら多分イチコロだろう。

 俺は男だけど。

 

 何か引っかかるものを感じて足を止めると、丁度足元にサッカーボールがコロコロと転がってきた。

 すいません、と遠くから呼びかける女の子に対してそれを蹴り返す。

 

「ありがとー!」

 

 そう言いながらぶんぶんと手を振る彼女に向かって手を振り返しながら、俺は先を目指す。

 何を考えていたんだったか、そう和泉の話だ。

 

 朝。一時的に持ち直したかと思えた和泉の機嫌は、昼を越えると再び急降下した。

 クラスのみんなにアンケートを取れば、いつもニコニコとほんわか優しい系に見えると誰もが答えるだろう。

 

 けれども長い付き合いからの自分が考えるに、ニコニコと笑顔を浮かべてるときは笑顔の仮面をつけてる時だ。

 要するに違う感情を隠したい時だということ。

 

 鈴木と昼飯を食べるようになってから委員長と食べているようだけども、何かあったのだろうか? 委員長ならそうヘマはしないと思うけど、まあ完璧な人はいないのだから。

 

 それとなく探りを入れても『何もなかった』という。

 何もなかったというのならば、何もなかったのだ。

 不承不承納得しながら後ろから発せられる僕、不機嫌ですオーラを受け流しながら迎えた放課後であった。

 

 まあ、そういう日もあるだろう。

 不機嫌な理由を尋ね、何もないといったものを深堀するのは不毛だと自分はちゃんと理解していた。

 むしろ何もないといってくれるのは慈悲である。

 

 なぜか今頃部活の勧誘をしてるのを横目に通り過ぎていく。二年生のこの時期になって部活に入る気はさらさらなかった。

 和泉は最近になってから部活について調べてるようだけど、何を考えているのかさっぱりわからない。

 

 体育館の入り口から気合の入った声が聞こえている。

 今日のところはそこに用はないので通り過ぎ、体育館の裏に入ろうとして俺は立ち止まった。

 体育館の壁から響く声に紛れて分かりづらいけども、何やら話して込んでいる声があることに気づいたから。

 

 バレないようにそっと覗き込む。

 自分が覗き込んでいる角から遠くないところで、一瞬だけ女子生徒が他の女子生徒に告白してるのが見えた。

 すぐに顔を引っ込めて、来た道をくるりと引き返す。

 行くことを諦めたわけではなく、一時的な回避である。流石にあの場にすいませんお邪魔しますと、横切っていくほど厚顔無恥では無かった。

 

 体育館の裏は確かに人が来ることはほとんど少ないけれども、逆に考えれば誰かを呼び出して一対一で話すならここほど適した場所はない。なんというべきか、例えるなら植木鉢の下に集まる虫的な。

 流石に喩えとして下手すぎるだろと首を振る。

 まあ人がいない場所、見つからない場所というのは、それはそれで需要があるということだ。そう考えると話をつけた保健室は人が居ない所なのだけども、使う為の条件が多すぎる。

 

 俺が告白するとしたらどうするんだろうか。手紙を書く、メッセージを送る、呼び出して告白をする、直接告白しに行く。何はともあれ、告白する相手を想定しないと創造もなかなか捻らない。

 取り敢えず鈴木を当てはめてみても、どのバリエーションでも最終的にパンチされる予想がついた。あれは多分告白するシチュエーションとか、好感度とかに関係なくパンチしてくるたちだ。

 全く参考にならない。まあしばらく告白する機会はないだろう。

 

 そろそろ終わっただろうと道を引き返すと、丁度先ほど見えた女子生徒達が仲良く手を繋いで出てくる所だった。

 初々しく二人とも顔を赤らめて、全く羨ましいことで。思わずひとつため息をついた。

 

 何はともあれ、場所は空いたのだ。

 周りを見渡し他に人が居ないことを確認し入っていった。

 人は他にいない、一度一番奥まで行っても居なかった。

 まだ来てないと判断し、真ん中ほどに引き返して扉に背を付けて座り込む。

 眠気覚ましに飴玉でも欲しいところだったが、あいにく持ち合わせていない、さっき引き返したところで缶コーヒーでも買うべきだったか。

 まあすぐに来るだろうと一つでかい欠伸をする。ただの悪戯だったら、その時はその時だ。

 

 校舎側から来るのなら俺が入ってきた方から、グラウンドの方からわざわざ遠回りして来たならば奥から来る。まあ普通に考えれば校舎側から来るだろう。

 名称不明の誰かを待ちながら、こんな無駄なことを考えていなければ思考がこぼれ落ちそうだった。

 

 果たしてだれが来るのだろうか、俺の知っている誰かだろうか? 誰だろうと付き合ってくださいという話なら、自分はNOとしか言えないのだけれども。

 

 ゴドーを待ちながら。

 どう話が転がっていくのかは神のみぞ知る。

 

 

 ● ● ●

 

 

 足音が聞こえた気がした。

 気のせいかと思いきや、こつんと石を蹴飛ばす音がした。

 退屈で眠りかけていたところだったと思う、危ないところで意識を引き戻せた。

 慌ててぶんぶんと頭を振り、誰が来たかを確認する。

 同じクラスメイト、というか相手は女子ではなく男だった。こんなとこで遭遇したのが気まずいのか、彼は何も言わずにただ佇んでいる。

 

 たぶん彼もラブレターをもらって来たのだろうと当たりをつける。結構長い時間待った気がするが俺の待ち人もこないし、場所を譲りここは一旦引き下がろう。

 回らない頭でそう判断し、彼の隣を通り過ぎる。

 

「待て」

「俺になんか用でも?」

「まさにお前に用があるんだが」

「俺に用があるなら先約を付けてくれないか」

 

 すでに一旦引き返すのをやめて、向かい合って話し合う体制になっていた。多分、もう引き返す必要もないから。

 

「予約ならしてあるだろ?」

「この手紙のことか? もしかしてこの可愛い字、お前が書いたのか?」

 

 顔を赤らめて頷かれても、俺としてはなんも嬉しくないし、なんで顔を赤くしたのかさっぱりわからなかった。

 沈黙、両者の間をヒューと風が通りすぎていった。

 あまりにも気まずいし、長く会話をしたくなかったのでこちらから話を切り出した。

 

「そう、じゃあ内藤くんは俺に告白しに来たっていうことですか? ですよね?」

「人の名前を間違えるな! 俺は内田だ! そして別にお前に告白するわけでもない!」

「ならこういう手紙を出して幼気な男子高校生の心を弄ぶのは良くないって俺は思うな」

「勝手に勘違いしたのはお前だろうが!!」

 

 そう息を荒げる内田を見て、からかいやすい相手だなと俺は心の中で評していた。単純というか、なんというか。ノリがいい。

 

「まあ内田が鈴木のこと好きなのは知ってるけど」

「な、なんで知ってる……?」

 

 その返答に驚かされたのはこちらだった、そんな答えは期待していない。適当に矢を射ったら雉を射抜いた感じである。ぽかんと口を開けていると自分から情報を勝手にバラしすぎたことに気づいたのか、彼は慌てて口を開いた。

 

「冗談だ、冗談」

「なーんだ冗談か」

 

 HAHAHAと仲良く肩を叩き合う。なーんだ冗談か、驚かせやがって。肩を叩き合うのもそこそこに、俺は速やかにスマホを取り出した。

 

「すいません鈴木さんですか?」

「わーっ! 待て待て待て!!」

 

 

 

「さて茶番はさておき、本題に入ろうか」

「俺のカミングアウトを茶番扱いか……」

 

 スマホを取り上げようと必死になる内田をいなす事数分、本題に入ることにした。

 ジト目で睨まれようとも、こちらとしては男から睨まれたところでなんとも思わない。

 

「別にお前が男を好きだろうと俺としては関係ないからな、別に俺が好きなわけじゃないんだろ?」

「お前は全然好きじゃないし、俺が男好きって前提で話を進めるな」

 

 TSした後とする前、どっちが好きか聞こうとして辞めた。別にどっちでもいい、どっちだろうと何も変わらない。

 

「ささ、早く話終わらせてさっさと帰ろうぜ」

 

 何はともあれ話してくれなければ始まらない。

 告白でもなければ、なんの話か。恐らく鈴木関連の話だろうとは予想がつく。一番簡単に思いつくのは別れてくれという話、これは突っぱねて終わる話。

 もう一つは――。

 

「鈴木が陸上部をやめるって話は知ってるか?」

 

 そう言って、彼は一人語り始めた。



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18話 誰がために②

すごい字面、アイツがtsして一週間経つって



「鈴木が陸上部をやめるかもって話は知ってるか?」

 

 放課後の体育館裏、小さく搔き消えそうでも確かにその声は耳朶を打つ。体育館から声はもう聞こえない。

 俺の返事を待たずに彼は言葉を続けた。

 

「アイツがTSして明日で一週間経つ、その間ずっと陸上部に顔を出してないんだ」

「食堂で揉めてた時もその部活を辞めるって話だったのか?」

「そうだ、説明もなくただ淡々と辞めるとだけ伝えられた。それで何でだと聞いたらお前には関係ないだろって言われて」

「だから背中を押したと」

 

 首肯。それからは気持ち悪い絵を貰ったぐらいで、朝以外ほとんど避けられて、俺と付き合う事になったのも寝耳に水の出来事だったらしい。

 陸上部を辞めるのだろうと言う予想は既に有ったので、それらの言葉は答え合わせにすぎなかった。

 普通に考えれば、俺が鈴木と一緒に帰るという状況がおかしい。雨の日だろうと陸上部に練習はある、帰宅部とは根本的に生活サイクルが合わないのが運動部だ。

 俺と和泉が階段で遭遇した時も、部活に行くと言っていた場面を振り返る。

 あの後も行っていなかったのだろう。

 

「このままじゃまずい。遅かれ早かれあいつもクビになる、だからその前に何とかしなきゃいけない」

「お前の話だと鈴木は陸上部を辞めるつもりなんだろ? だから行ってない、なら別に構わないんじゃないか」

 

 あくまで否定的に返す、その言葉に内田はかぶりを振った。

 

「辞めるなら、辞めると直接言いにいくだろう? でもまだ言いにいってないことを俺は知っている。鈴木はまだ辞めるかどうか迷ってる筈だ」

 

 内田の行動は余計なお世話かも知れない。

 けれども辞めるか続けるか、まだ続ける目があると思ってるからこそ内田は行動してるのだろう。

 

「誰情報で?」

「そりゃお前と違って運動部に知り合い多いからな」

「鈴木大好き過ぎか、お前は」

 

 そう冗談を飛ばしてもクスリとも笑わないのを見ながら、こちらも必死に思考を積み立てていく。

 ここまで材料を渡してくれれば内田の頼みごとも、反対に鈴木の頼みごとの意味も分かる。

 

「ようするに鈴木を陸上部に復帰させるために、俺に手伝ってくれということか?」

「そうだ」

 

 その答えは鈴木が容易に陸上部に戻る気がないという裏打ちであり、頭上のどうしようもない曇り空のように俺の心を暗くさせるだけだった。

 つまるところ鈴木は内田の動きを遠回しに止めようとしていたのだから。問題を積極的に解決するためならば、付き合ってくれなどというまどろっこしい頼みごとにはならない。けれども、そうでもしなきゃ諦めてくれないという判断からで。

 今のところ内田は俺と鈴木が本当に付き合っていると思ってるのだろう。

 故にどうして付き合う事になったのかまでの理由には至っていないのだ。それを考えてないだけか、考えていようとしないかは分からないけれども。

 

「そもそも鈴木が陸上部を辞めようとした理由は分かってるのか?」

「大元の理由はTSなのはわかる、だけどそれ以上はわからない。だからお前に頼んでるんだ、付き合ってるお前なら教えてくれるかもしれない」

 

 理屈はわかる。しかしその理由が何とか出来るものではなかったら、内田はどうする気なのだろうか。

 

「もし俺たちにとって変えようがないなら、お前はどうするんだ?」

「即座に辞めるという決断をしてないなら、未練がある。ならばまだ何とかなるはずだ」

「でもその理由が辞めると直接言いにいってないだけというのは理由として細すぎるだろ」

「俺は、ハルがどれだけ走ることが好きか知ってるから」

「春?」

 

 その疑問に訝しげな目を向けられて、自分が失言した事にすぐに気付いた。嘘を取り繕うにももう遅く、目を逸らさずにただじっと平静を装う。

 

「……あぁ、鈴木の下の名前だよ。鈴木 春、知らなかったのか?」

「いや、知ってたけど唐突に言われると違和感がある。俺も殆ど下の名前を呼ばれないだろ?」

「……そうか、まあ付き合ってる奴の名前を知らない奴は居ないもんな」

「ちなみにお前の下の名前は本当に知らない」

「そうか、俺もお前の下の名前を知らないからあいこだな」

 

 ふっと目線を逸らされて、ホッとため息をつく。

 まあ上の名前も覚えてなかったのだけど、それを今言う必要はないだろう。

 視線を下にずらすとちょうど足元に石ころがみえた。どうしようもなく全力で蹴っ飛ばしたくなるのを必死に抑える。

 

「俺からしてみればハルは陸上バカだった。いつも走ることばかり考えていて、それに全力で取り組んでいた。だから俺はアイツのことが好きだし、憧れている」

 

 自然にこっぱずかしいことを言っていても、茶化す気分にはなれなかった。

 

「ハルの主柱は陸上にあると俺は思ってる。もしその柱がなくなったとしたらどうなる? ああ、俺は不安なのかもしれない、代わりとなる物を見つけられなかったらアイツがどこかへいってしまう気がして」

 

 はたと何かに気づいたようにこちらを指差して言った。

 

「もしかしたら代わりはお前なのかもしれないな、そうだとしたら少しだけハルと付き合う事になっただけのお前が羨ましいよ」

「そんな深い事鈴木は考えてないと思うけど、俺がそこまで頼れる奴に見えるか?」

 

 寂しげに笑う内田にそう返すと、さらに笑みを深くした。鈴木が陸上バカなら内田は友情バカなのだろう。

 彼は仮定だらけのガバガバな推察に、自分の理想像を押し付けてるだけなのかも知れない。

 けれども俺には内田の行動を、それはお前のエゴだと言えなかった。

 もし和泉がTSしたことで何か諦めることがあったのならば、俺も出来ることがあるならば何でもやっただろうと思えたから。

 

「ならやっぱり陸上部に戻す必要があると思うんだ。俺だけじゃハルを陸上部に戻すことは出来なかった、笠井もはじめは乗る気だったのに今は本人の意思を尊重するって引き下がった」

 

 もう八方塞がりなんだよ、内田は弱々しく呟いた。

 それでも諦めることは出来ず、だから俺を突破口にしようとした、そういう訳か。

 まったく皮肉な話。鈴木が盾としようとしたものさえ足掛かりにしようとしてるとは。

 

「陸上部が陸上競技場を使って練習するのが木曜、日曜だ。部活に復帰するなら次の木曜までに戻らせなきゃ」

「首になると?」

「かもしれない、というか無断で休んでる時点でいつ首が飛んでもおかしくないからな。勝手にTSして一週間まで準備期間で休んでいいとか、競技場練習を3回サボったらクビになるとか陸上部のやつから聞いてるけど、そんなの顧問のさじ加減だ。TSしたことを理由にしたとしても、いつまで持つかはわからん」

 

 だから頼む、力を貸してくれ。そう言って内田は深々と頭を下げた。

 

 彼の選択はここまで正しかった、それが上手くいくかは別として。

 何事もなければ俺は素直に頷いて、不器用なりに協力しながら鈴木に過剰なお節介を焼くこともあったかもしれない。

 

 YES or NO

 後は俺の答え次第のはずなのに、俺の答えが言われることは無かった。

 何故か?

 

 そもそもなんで話す場所をここにする理由があったのかと言う話だ。

 単刀直入に言えばこの話を聞かれてはまずい相手がいたから、故に内田は体育館裏を話す場所として選んだ。

 そして思惑通り心配は取り除かれていたはずだった。

 

 体育館裏、ここに用がある相手はほとんど居ない。

 先ほど告白場所として使われてるのを見たけれども、それもいつものことでは無いだろうし、心配の相手が来る確率はほぼ0に近かったはずだ。

 彼の考え通りここまで人が来ることはなく、この話の最終局面まで誰も来ることはなかったのに。

 

 けれども来てしまったのだ。

 内田の背後からその聞かれてはいけない人物がこの場にゆっくりと、次第に足早に近づいてくるのが俺には見えていた。

 

 今日俺と話すことを知ってきたとしか思えなかった。たまたまやってくるなんて偶然はあり得ない。しかしそれを内田が誰かに漏らすはずもなく、頭の中にぐるぐると疑問が渦巻いていた。

 

 彼女がいつ頃から話を聞いてたのかは分からない、話がひと段落したと見て来たのかもしれない。

 そもそも少し離れたあの場所からは聞こえていなかったのかも知れないし、たまたま体育館裏に通りかかっただけかも知れない。

 けれどもこちらに近づいてくる彼女に迷いはなく、表情に怒りが見えた。

 

 これはもう駄目だと諦観を抱きながら、その接近を内田に伝えることなく、ただ俺は彼女を漫然と見ていた。

 一瞬目があった気がするけど、多分それは気のせいだったのだろう。

 

 頭を下げ続けている内田、無言の俺、もうかなり近づいている彼女。

 内田も何か異変に気づいたのか、ようやく顔を上げた。

 

「……何を見てるんだ?」

 

 無言で内田の背後を指差す。それに従って後ろを振り返り――その顔に鈴木のビンタが炸裂する。

 

 カエルが踏み潰されたような声と痛烈なビンタの音が体育館裏に響き、すぐに掻き消えた。

 不意打ちプラス助走による威力の増加。

 先週和泉から食らったものを思い出し、思わず自分のほおを抑える。

 

「俺抜きで何の話をしてるんだ?」

 

 震える声の端に怒気が見え隠れしていた。

 あまりの強烈なビンタにフラつきながらも、倒れることは許されない。

 鈴木はビンタから流れるように、自分より背が高い内田の胸倉を掴んでいた。

 ふらつく足元を支えるためではなく、ただ話を確認するためだけだろう。

 それを止めることは出来なかった。邪魔をするんじゃないと鈴木が一瞥しただけで、俺の動きを止められていた。

 

「言えないのか? 何で俺に言えない話を隠れてしてるんだ?」

「……言えるさ、ハルの陸上部の話をしてた」

「陸上部を辞めるってことか?」

「あぁ、陸上部に戻る手伝いをしてくれって」

 

 今はこちらから鈴木の姿は見えない、内田の背中に隠れてその声しか届かない。けれども、確かに歯をぎりりと食いしばる音が聞こえた気がした。

 

「何でその話に田中を巻き込む必要があるんだよ!」

 

 ただ一つ、深く楔が打ち込まれる。

 ポツリポツリと草葉を打つ雨の音が聞こえ始めていた。

 




気づいたら5万UA行ってました
ありがとうございます


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18.5話 誰が為に③

遅くなってすいません
今年中に纏めたい、後8話ぐらい?


 ここは体育館裏、さっきまで話してた彼女はもう居ない。

 やる事もなくぼんやりと手鏡を覗き込む。

 ここにあちらの声はほとんど届かない。それでも雨音と、風に紛れて微かに聞こえてくる怒声が、僕の目標は殆ど達成したことを伝えてくれた。

 鏡の向こうの僕に向かって微笑みかけると、同じ笑みを返してくる。いつもと変わらない笑みがそこにはあった。

 

「これで元通り」

 

 その声を聞くものは誰も居ない。

 

 ● ● ●

 

 

「それじゃあ和泉、また明日」

「また明日」

 

 ひらひらと手を振り返す。

 部活に向かう者や家に帰る者、それぞれが待ち侘びた放課後がやってきた。

 それは僕にとっても同じこと。この話の着地を決める時がやっと来たのだ。

 彼の後ろ姿から視線を切り目的の人物、緑のジャージを着た彼女に声をかける。

 

「ねえ、鈴木君」

「……なんだよ」

 

 帰る準備を中断して露骨に嫌そうな顔を向けてきた。何故だか知らないけども僕のことを快く思ってないらしい。

 まあ僕としては彼女に嫌われようと痛くも痒くも無いのだけれども。

 

「放課後、暇だろう? ちょっと用事に付き合ってくれないか?」

「暇だけど、俺はいいや」

「なんでだい?」

「くだらなそうだし、お前は何か怪しい」

 

 酷い言い様、けれども冗談ではなくいたって真面目にそう思っているようだった。

 ただここで「はいそうですか」とすごすごと引き下がるわけにはいかない、この詰めを誤ったら一転こちらが窮地に立たされることになる。

 

 けれどもここで失敗するヘマをする程、僕は馬鹿ではなかった。

 元から出す予定だった一手がある、これに絶対の理由があるからこその計画だった。

 彼に一歩詰め寄り、耳元でそっと囁く。

 

「実は彼、今日告白されるらしいんだ」

「……彼って誰だよ」

 

 とんと軽く体を押され距離を離される。興味なさそうな口調、けれども手応えはあった。

 勿体ぶりながらもう一押し。

 

「彼って言ったら、もう田中君しかいないだろう?」

 

 だから彼がそれにどう答えるのか、見にいこうじゃないか。

 その呼び掛けに対する答えは聞かれずともわかっていた。

 

 

 ● ● ●

 

 

「っていうかなんでお前、田中が告白されること知ってんだよ」

 

 彼の後を追って二人仲良く体育館裏へ向かう途中のこと。二人で行動してはいるものの、対して仲良くもないので会話もなく、それに耐えかねたのかそんなことを尋ねてきた。

 

「それはともかく君が僕のことをお前って呼ぶのやめてほしいんだけどね」

「そうか、なら下の名前で呼ぼうか。たしか……」

「和泉君って呼んでくれるかな?」

 

 一言、しっかりと釘を刺す。

 その言葉に僕の拒絶する意思を感じたのか、彼女は黙り込んだ。

 

「……話が逸れてた、なんで和泉はあいつが告白されること知ってるんだ? あいつ自分でそんなことペラペラというようなやつじゃないだろ?」

「よくわかってるじゃないか、彼のこと」

 

 まあ君との付き合いが嘘だってことは速攻でバレてしまったのだけれども、そう心の中で舌を出す。

 それは僕と彼との関係性だからこそだろう、何があったのか尋ねれば嘘をつくことは殆どない。

 ただ今回の話は別に彼に聞くまでもなく僕も知っていた、そうなることを予期していた。

 

「情報源は秘密、女の子は誰しも秘密の一つや二つ抱えてるものだよ」

「お前ももともと男だろうに……」

「まあね、でも君にも人には言えない秘密の一つや二つあるだろう?」

「……あるわけないだろ」

 

 真っ赤な嘘じゃないかと肩をすくめる。

 体育館裏に入るために校舎側ではなく、わざわざ遠回りをしてグラウンド側から回りこむのが今になってめんどくさくなりつつあった。

 そうしなければ彼と鉢合わせする可能性があるからとはいえ、めんどくさいものはめんどくさい。

 それは多分、もう一人連れ添ってる相手が鈴木君だからこそだろう。話す話題も無く、彼に対する好感度も殆ど無に等しいというのに、この無駄な時間はひどく苦痛だった。

 これが彼ならと夢想するも、それもまた無駄であった。

 

 僕の不機嫌さが伝わったのか、それとも話す話題が尽きてしまったのか、互いに無言のままようやく体育館に辿り着いた。

 こっそりと体育館の脇へと入り込む、当然のことながら人影はない。

 

「それでどうするんだ? 俺たちが堂々と告白するところを眺めるわけにはいかないだろ?」

「こういう時のために手鏡があるんだよ」

 

 えっ、と声を漏らす鈴木君をさて置き、ポケットの中から手鏡を取り出す。痴漢の盗撮道具として時たま人間の屑に使われるもの、まあ僕はそんなことには使わず、簡単に身だしなみを整えるために使ってるのだけれども。

 僕としてもこんな風に隠れて監視に使うのは初めてのことだった。

 

「鈴木君は手鏡持ってないのかい?」

「いや持ってて当然みたいに言うなよ……」

「持つべきだよ、僕は男の時から持ってたよ?」

「確認するならトイレ行けばいいだろうが」

 

 多分それが世間一般的な男の考えなのかもしれない、彼も確かおんなじことを言ってた気がする。

 おかしいのは僕なのだろうか? そんな考えを頭の片隅に追いやりつつ、手鏡で体育館裏を映し出した。

 

「……あいつ、いないじゃないか」

 

 鏡に映し出されたのは知らない女子二人だった。

 どうやら先客がいたらしい、食い入るように覗き込む彼女を無視して一旦鏡をしまい込む。

 

「もう少し時間がかかりそうだね」

「それ本当なのかよ……実はガセだったりするんじゃないのか?」

「それはない」

「実はお前、俺に告白するため二人っきりになれるここに連れ込んだとか?」

「あるわけないね」

 

 僕の鈴木君に対する好感度がマイナスに突入しかけていた。それもまあ致し方ないことだろう。

 

「でもまあ時間が空いたし、少し話をしようか」

 

 彼では無く、他の女子が場所を取っていたのは予想外の事態だった。だけどもただじゃ転ばない、彼の登場が少し遅れそうなのを逆に活かす。

 彼と鈴木君が付き合ってから、僕との会話は極力避けていたし、避けられている気配があった。いつまでたっても既読のつかないメッセージからもそれは分かっていた。

 だけどもいまならば彼自身で言った通り、期せず二人っきりなることができたのだから。

 

「まず鈴木君、彼と付き合ってると言うのは嘘だろう?」

 

 躊躇いなく、僕は一直線に切り込んだ。

 

 

 ● ● ●

 

 

 少しの硬直、彼女は大げさにため息をついてみせた。

 

「何を言うかと思えば、付き合ってるのは本当だ」

 

 そう言いながら額のヘアピンを指差した。

 

「土曜日に田中と映画見に行った、その後にこれをあいつに選んでもらって買ったんだ。それでも嘘だと言うのか?」

「ああ、とびっきりの彼を縛る最低な嘘だね。映画に行ったのは本当だろうさ」

「偽装カップルだって言いたいのか?」

 

 首肯、苦笑いする彼女に僕は問いを積み重ねていく。

 

「そもそもどちらが先に告白したんだい?」

「……俺があいつに告白した」

「TSしてすぐに? 拒否感はなかったの? そもそも彼のことが好きだったのか? 彼のどこが好きなんだい?」

「それに俺が答える義務はないね」

 

 ああ無いだろう、けれどもここで一つネタバラシを彼にしてあげるとしよう。

 

「実はね保健室での君と彼との会話、僕も外から聞いてたんだ」

 

 バツの悪そうな顔を浮かべ、彼女はぽつりと呟いた。

 

「……あれが聞かれてたか」

「君が彼に背負われて保健室に運ばれてるのを見たからね、たまたま聞くことができた」

「なるほど、じゃあなんで俺に聞く必要がある? もう答えを知ってるじゃないか、それをなんで俺に聞いた?」

 

 彼の顔に浮かぶ感情は困惑一色だった、分かってることを何故聞くのか、全くわからない様子で。

 僕としてはまさに否定することを期待していた、その否定を僕が聞いた事実で叩き潰すことで足がかりが出来る。

 

「僕は許せないんだよ、君のことが」

「何が許せないんだよ、田中と付き合ったことか? まさか和泉も田中と付き合いたかったのか?」

 

 冗談まじりの彼女のその言葉に、ゆっくりとかぶりを振る。

 

「僕が許せないのはね、彼と付き合ったと嘘をついたことではなくて、彼を使ったことが許せないんだ」

「使う? 何に?」

「彼を陸上部を辞める理由として使うことさ」

 

 今度こそ彼女は口を噤んだ。

 それは彼女が彼に言わなかったことであり、一番の弱みであると分かってるからこそ。

 

「自分は女子として満足して生活してます、陸上部に悔いなどありません、それを示す為に彼と付き合う事にした」

 

 けれども未練があるのはバレバレで、そのせいで内田君は必死に足掻いてるのだけれども。

 

「君は多分、まだ彼に偽装カップルの理由を言ってないだろう?」

「……」

「それにはちゃんと理由がある。彼がそれを聞いてお節介を焼こうとも、介入しようとしても辞める気持ちに揺らぎはない。けれども、もし陸上部をやめる為という理由を知ったらどうなるか」

「……」

「彼はその一端を自分も担いだと知って自分を責めるだろうね、どうして気づかなかったんだ……ってね」

 

 けれども最初から最後まで自分が明かすことなければ、それを彼が知るすべはない、そういう訳。

 ならば初めからそれに彼を巻き込むべきではなかったのだ。すっぱりと辞めると顧問に伝え、友達思いのお節介な二人とも話し合いで決着をつけるべきだった。

 それができなかったのはTSした後、平静さを失った故にだろうか、無理だと諦めたところに周りからせっつかれて爆発してしまったのかもしれない、それで極めて婉曲的な方法をとる事になった。

 まあ僕にはもう関係ない話なのだけれども。

 

 ついでに言えば彼に偽装カップルの理由を言わなかったのは何故か、もう一つ意味があると僕は見ていた。

 彼だけでも自分の気持ちも知らずにズカズカと踏み込んで欲しくなかったのだろう。

 ごく普通の会話をして、ごく普通の関わり方をしてくれる彼を、彼女は失いたくなかったのかもしれない。

 

 

 もしそんな彼を内田君が藁を掴むように、頼ることがあったのならば、その場面を鈴木君が見てしまったのならば。

 それは最善とはいえない解決の仕方かもしれない、けれども一つの決着であるのは確かだった。

 

「そういえば前、君の妹がシュシュを買ってるの見たけれどそれは着けないのかい?」

 

 返事は、ない。



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19話 誰がために④


そんなこんなで気づいたら12月も半分になってました、なんで?



「何でその話に田中を巻き込む必要があるんだよ!」

 

 俺は傍観していた、傍観するしか出来なかった。

 自分の意思ではなく他人の思い通りに動く物でしかなかったから。

 内田は胸倉を掴まれたまま、ただ静かに呟いた。

 

「……俺にはこれしか方法がなかったから」

「だから、だからってお前は! それがどういう意味がわかってるんだろ!」

「当然分かってる、だからここで話してたんだよ」

 

 言い訳もせず、淡々と諦め混じりの言葉を吐く。

 それを聞いて鈴木は手を離した。

 決して怒りが解けた訳ではなく、瞳には未だに激情の炎が宿っている。

 

「……分かっていて、それでもか」

「ああ、それでもだ」

「分かってないよお前は……勝手だ、自分勝手すぎる。お前に俺の何がわかるっていうんだ、TSしてないお前が俺の何を分かるっていうんだよ」

「それでも俺は知ってるから、いつもそばで見てたから」

 

 内田の隣を通り越して、鈴木は俺の隣に立っていた。

 近い距離、けれども俺がいうべき言葉も見つからず、ひどく遠い場所のように感じる。

 

『TSしてない』という鈴木の言葉は、俺にも突き刺さっていた。

 この五日間、知る機会はいくらでもあったのに、それを活かすこともなく、ただまんじりとしていた結果がこれだ。この様だ。

 

「そうだな、俺が悪かった」

 

 非を認める言葉、けれどもそれを聞いて内田はしまったという顔をした。

 

「全部俺が悪かった、中途半端なのがダメなんだ、はじめからはっきりさせとくべきだった」

「ダメだ、それ以上言うんじゃない」

 

 内田の悲痛な声とは対照的に、感情が限界点を超えたのか、ただ平坦な声で宣告する。

 ブレーキはもうとっくに壊れていた。

 

「やめろ、言わないでくれ。俺が悪かったから」

 

 今更何をと彼女は笑みを浮かべた。

 とても綺麗だ――俺は場違いながらもそう思ってしまった。

 

「何を言ってるんだ、結論が欲しかったんだろ? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 ● ● ●

 

 

 酷い話だ、酷い悪夢であると信じたいぐらいに。けれどもこれが現実なのだ、どうしようもなく。

 俺が話に関わることもなく、勝手に解決する話。これでいいのだろうか、いや良いはずがないに決まってる。

 

 けれども俺はどうすればよかったのだろうか?

 答えを教えてくれるものは誰もおらず、静かに雨は降りしきる。

 

 

 

 鈴木が言い放った後、場はひっそりと沈黙に包まれていた。ただ内田は口をパクパクさせるだけで、俺はと言えばアホみたいにそれを鑑賞していた。

 

「それじゃあ、この話はこれで終わりだな。俺はもう帰る」

 

 当然、鈴木にとってこの場所はもう用のない場所に成り果てた訳でスタスタと歩き始めた。

 

「……あ」

「ちょっと待て!」

 

 俺の声にならない口から漏れた音と内田の声が重なって、鈴木は立ち止まった。

 

「……なんだよ、俺はもう話すことはないんだけど」

「一つだけ最後に聞きたいことがある」

 

 起死回生の一手を、彼はまだ諦めていないのだ。

 ほぼ終わった話なのにもかかわらず。

 

「手短に、さっさと伝えてくれ」

「ああ、すぐに終わる質問だ」

 

 緊張からか、唇を一度舐めて彼は言った。

 

「本当にハルと田中は付き合ってるのか?」

 

 どうして彼がその問いに至ったのか。

 どうして最後に選んだ質問がこれなのか。

 それに答えたところで何がどう変わると言うのか、どちらにせよ言った言葉は変わらない。

 

「当然だろ」

「お前には聞いてない、俺はハルに聞いているんだ」

 

 鈴木がこの場に現れてから俺が初めて言った言葉は、すぐに遮られた。逃がさない、そんな強い意志が目に現れている。

 

「それを聞いた所でお前はどうするんだ」

 

 やる気のないセリフ。

 それは質問に対する答えではなく、俺と同じ疑問を鈴木も抱いたことを表していて、場の空気がほんの少しだけ変わった様な気がした。

 

「ハルが来る前、田中と話しててふと思ったんだよ。もしかしたら本当は付き合ってないんじゃないかって」

 

 失敗した、と舌打ちをする。

 大元の原因は多分俺だろう。あの時鈴木の下の名前に引っかかったこと、あの時やはり引っかかるものがあったのだろう。

 

「もし付き合ってないのならば、どうして偽装することになったのか」

 

 鈴木はそれを興味なさげに黙って聞いていた。

 

「TSした現状に満足していると暗に伝える為だと俺は予想した、そうすることで陸上部に戻らなくても大丈夫だと示すために」

 

 不器用だと俺は思った。凄まじく不器用、それでも俺は推測が正しい気がしていた。

 自分を偽って、他者が満足出来る理由を作った。それでも彼は動いたのだけれども。

 たしかに彼女が言った通り、中途半端だったのだろう。鈴木にはまだ未練があると見られる土壌があった。

 けれどもそれは鈴木が悪い訳ではなく、内田がそこで止まる事を拒否したゆえにだろう。

 

「考えれば考えるほどそうなのではと思い始めて、今ではどう言われようとも答えは自分の中で固まるぐらいになった。それでも、それでも問いに対するお前の答えをくれ」

 

 内田はまだ、折れていない。

 彼に対してなんと答えるのだろうか、そう思って彼女の方を見ると視線がぶつかった。

 フッと笑みを返して、彼女は口を開いた。

 

「まぁ言葉じゃ薄っぺらいもんな」

 

 何か悪いことを考えている、本能がすぐにここから立ち去るべきだと警鐘を鳴らしていた。

 それでも俺は動かない、最後までこれを見届けなければならない。

 

「ほんのちょっとだけ屈め、そんぐらい、それで目を閉じろ」

 

 言われた通りに素直に行動する。

 いつも通りの何気ない調子で、そのせいで特に抵抗感もなく。

 

「じゃあ一回だけだからな」

 

 閉じた視界の中で、少し大きく鈴木の声が響いた。

 そして柔らかく、温かいものが唇に触れた気がした。

 目を開ければ頰を赤く染めた彼女が眼前にいた。

 

(もう一人への意趣返しも……な)

 

 内田に聞こえないぐらいボソボソと呟いたその言葉の意味を、俺は理解できなかった。

 頭の中にはキスされたという事実に埋め尽くされていたから無理もないだろう。

 

「内田は満足したか? 俺と田中は付き合ってる」

 

 まあお前がどう思おうが事実は変わらないんだが、そう言って今度こそ鈴木は立ち去った。

 その後ろ姿を見送り、内田をもう一度見やる。

 

「……」

「……」

 

 何も言わずにこちらを見ていた。

 返す言葉もなく、俺も黙って見返す。視線をそらしたら負ける、そんな気がした。

 男二人、体育館裏でにらめっこ。言葉にすれば面白いのに空気は最悪だった。

 

「……帰るわ」

「……ああ、また明日」

 

 無言のやりとりを繰り返すことしばし、彼はそう言って足早に去って行った。

 ほっと息を吐く。視線そらしたら方が負けなのならば、俺が勝者なのだろう。

 けれども勝者の特典もなく、それに相応しいことをした訳でもない。

 

 

 ● ● ●

 

 

 俺は徹頭徹尾、傍観者であった。

 それは揺るがすことのない事実。

 

 

 

 とりあえず俺は最後に一つ、確認をする為に歩き出して、そして鈴木がやってきた曲がり角の一歩手前で立ち止まった。

 俺とは違い、話を動かし続けてた張本人であろう人。

 一つ息を吸い込み声を掛ける。

 

「和泉、そこにいるんだろう?」

「…………やっぱり君にはお見通しか」

 

 声を出して数秒、うんともすんとも返す言葉は無く。

 足を返そうとしたところで、そんな言葉とともに和泉が現れた。

 

 やっぱり、それを見て腑に落ちた。

 そうでもなければ鈴木がこの場に現れるはずが無い。

 

「とりあえず君、ハンカチ」

「……え? なんでハンカチ?」

「……?」

 

 両者かみ合わず、首を傾げる。

 

「口を拭うよう、かな?」

「え? なんで?」

 

 勘違いしてたことを理解したのか、首を傾げながらも和泉はハンカチをしまった。

 

「まあ、それはともかく帰ろうか。雨が降り始めてるけど君、傘は持ってきてるのかい?」

「……持ってないな」

「しょうがないなぁ」

 

 経験が生きてないというかもしれないけれども、天気予報は曇りの予定だったのだ。誰にいう訳でもなくそう言い訳をする。

 そう言って鞄から折り畳み傘を取り出して、ついと俺に差し出した。

 

「一個しか持ってきてないから相合い傘だ、忘れたのは君なんだから我慢してくれよ」

「わかってるよ、ありがとうな」

 

 そう言いながら二人並んで歩いていく。

 体育館に沿って歩いているうちはまだ傘をさす必要はない。先ほどまでのことを口に出さずに、俺は折り畳み傘を眺めながら現実逃避をしていた。

 

「これいつも和泉が使ってる傘と違うな」

「前のは壊れちゃったから、新しくそれを買い直したんだ」

 

 二つ持ってたのかと思いきや、そんなことはないらしい。

 淀みなくスラスラと答えるのを聞きながら、ようやく俺はどこから話を始めようか考えを巡らせる。

 どうしてこうなったのか、和泉は何をしたのか、聞くことはいくらでもあるのだから。

 

 グレーの折り畳み傘がパッと開いた。




まだまだ終わらないよ


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20話 善意で舗装された道

あと10日でひとまとめですか!?
できらぁ!




 車道を走る車が水溜りを勢いよく突き抜けていく。

 運が良かったと後ろからそれを眺めながら、俺は和泉との会話を続けていた。

 

「いつ気がついたんだ?」

「ん、何に?」

「俺が手紙をもらって内田に呼び出されたことだよ」

 

 どこからどこまでが和泉の術中なのか検討もつかなかった。

 手紙を出したことを知っていたのか、それとも俺を呼び出すだろうと予測していたのか、または――内田をけしかけたのは和泉ならば。

 和泉がそういう風に動けることを俺は知っている、そして合理性ゆえにそういう手段を取りうるだろうということもまた。

 

「君のことだから内田くんをけしかけたのは僕だと思ってるだろう?」

「まあ、な」

「残念ながらそうじゃないんだ、いや一端には関与してるけどね」

 

 折り畳み傘の外へ手を伸ばして、雨止んじゃったかと彼女は呟いた。

 ほんの少し残念そうな顔、俺は黙って傘を折り畳む。言葉通り確かに雨は止んでいた。

 

「君が知らないところで僕はあの二人と話してたんだ、笠井くんと内田くんとね……それで笠井くんの方は説き伏せたんだけど」

「内田は諦めなかったと」

「そう、まさか諦めないとは思わなかったけどね。そうして意図せずして君の方に向かったって訳さ、まあそれは予測していたからカウンターをぶつけることが出来た」

 

 あれは最善の形じゃない、と和泉は言った。

 出来れば君にも鈴木くんにも関与させずに終わる予定だった。

 

 それを俺は黙って聞いていた。言いたいことはあるはずなのに、それは形になる前に霧散していく。

 それらを何とか纏めようと俺は口を開いた。

 

「和泉はどうして鈴木が俺に頼んだんだと捉えてたんだ?」

「……」

 

 考えを纏めようとしてるのか、顎に手を当てたまま和泉は黙り込んだ。

 俺はどうしてそんな問いを出したのだろうか?

 もしかして和泉が何か思い違いをしてるんじゃないかと思ってるのだろうか?

 

「……二つ、有るんだけどね」

「教えてくれ」

「多分これは君が思ってるほうだけど。鈴木君自身、自分がTSしても何ら変わりのないと周りに喧伝する為に」

 

 ピシッと立った人差し指に視線を吸い寄せられながら、先ほどの会話を思い返す。

 内田があの場で至った答えがそれで、俺もそうだと思っていた。自分は現状に満足してるから陸上部を辞めることに何の問題はない。

 わかりやすい理由を作ってあげた、その理由が俺だった。

 

 もう一つ何かあったのか。彼女のVサインを見ても俺は何も閃かない。

 

「もう一つはごく普通の会話をして、ごく普通の関わり方をしてくれる相手が欲しかった。そういう点で見れば君はあまり彼に深い関わりもなく、陸上部にも関わりがないうってつけの人材だった訳さ」

「そうなのか?」

「そうだよ。実際君は十分に役目を果たせたんだ、そして結果としてキスされたんだろう?」

 

 忘れかけていた記憶が蘇って顔が熱くなる、けれどもすぐに俺の体からさっと血の気が引いた。

 あれを、見られていたのか。

 そーっと和泉の方を見やると、恐ろしく冷たい視線が俺に突き刺さった。

 

「ほら、役得役得と喜ぶと良いさ」

「すいませんでした……」

 

 ぺこりと頭を下げるも無視され、慌てて走って追いかける。そもそも俺は謝る必要があったのだろうか?

 

「はぁ……それで聞きたいことは他にあるのかい?」

「じゃああの場面をどうやって確認したんだ?」

「ちょっと時間かかり過ぎだと思ってね、手鏡で覗き込んだら丁度盛ってた最中とはたまげたよ」

 

 そう言って手鏡を取り出して、またしまい直した。

 そういえば前に手鏡を持ち歩くか否かとかいう話をした気がする。

 

「それでこれで解決か?」

「そうだけど何か不満かい?」

 

 不満、確かにこの結末に俺は満足していないのだろう。

 もっと良い進み方が有った筈だと思っているのだ、けれども自分の中にその理想的な解決方法などないのだけれども。

 

「……わからない」

「履き違えちゃいけないのはね、鈴木君の根底にあるものさ。陸上部をやめて欲しくないってのは他の内田君、笠井君の願いだけでしかないんだ、鈴木君は陸上部を辞めようと思っている、これは揺るぎようのない事実だよ」

 

 こんな話、世の中幾らでもあると和泉は言った。

 別に鈴木君が特別可哀想なわけじゃない、ただ世界がそうなってしまったから仕方がないのだ。

 

「仕方がない、か」

「だから君も気に病む必要はないよ」

「俺が?」

「そう、君なら自分が上手く行動できていれば、もっと上手く解決できたのにと思いそうだからね」

 

 思わず苦笑する。やはり和泉は俺のことをよく分かっている、それは付き合いの長さゆえだろう。

 

「そういえば偽装じゃないってキスして証明したけど、これで本当に解決するのか?」

「なし崩し的に自然消滅することになると思うよ? もともと婉曲的に伝えるためだったのに直接辞めると宣言したんだろう?」

「そうか……」

「明日は久しぶりに一緒に昼ご飯を食べようか」

 

 にこやかな笑みを浮かべながら嬉しそうにそう言った。

 頼まれたのが先週の水曜日、今日が月曜日だから冷静に考えれば一週間にも満たない間だった。

 

「さてもう家に着くけど、今日はオセロやるかい?」

「いや、しばらくオセロはいいかな」

 

 先週ボコボコにされたことを俺はまだ忘れていなかった。

 多分負ける、すでにそう思っている。そんな状態で戦ったら負けるのは確実だった。

 負けず嫌いだからこそ負ける勝負はやりたくない。

 オセロをやりたくない理由にほんの少しだけ違う感情がある気がしたけれど、それから目を逸らした。

 

 

 ● ● ●

 

 

「ただいまー」

 

 鬱屈とした気分を吹き飛ばそうと声を出す。

 いつもより遅い帰宅、多分妹はとっくに帰っているだろう。

 視線を下ろした先にはその考えを裏付けるかのように妹の靴があり、それと並んで見慣れない靴が置いてあった。

 小さい靴。多分妹の同級生のものだろうか?

 

(誰か友達でも呼んだのだろうか、珍しいな)

 

 妹は俺より社交性があって友達も多いものの、家に呼ぶことはほとんど無かった。特に家に呼べない理由があるかと言われれば、特になにもないのだけれども。

 妹に何か思うところがあるのかもしれないが、それを俺が聞いたことはない。

 

 その妹が誰かを呼んだ。

 まあそれならそれで俺は部屋に籠もればいいだけのこと、妹が友達と仲良くするのを騒がしいとか思うほど器が小さいわけでもない。むしろ何かずれ始めてる気がする妹の相手を代わってくれて感謝したいぐらいだ。

 

 それでも別にその友達とやらに直接あって感謝したいわけでもなく、むしろ会わないに越したことはないので足早に階段を登る。

 運がいいのか誰ともエンカウントすることもなく部屋にたどり着いた。

 

 ちらりと妹の部屋の方を見やる、多分そちらにいるのだろうけれども、こちらに話し声は聞こえてこない。

 何をしてるのだろうと思いつつ、扉を開けて――それが閉まることはなかった。

 何かに突っかかったのか、扉はピクリとも動かないのだ。

 扉に視線を送るとドアノブを掴む俺の手があり、それ以外にもう一本白く綺麗な手が扉を閉まることを押し止めていた。

 

「……おかえりなさい、お兄ちゃん」

「……ただいま」

 

 その声が耳に滑り込み、胸が早鐘を打つ。

 数秒の硬直はしたものの、ちゃんと挨拶を返せたことを褒めて欲しいぐらいだ。

 下手なホラーより怖いのは勘弁して欲しいと思いつつ、後ろに向き直る。

 

「今日はいつもより帰りが遅かったんだね」

「まあ用事があったんだよ」

 

 首を傾げながら佇む妹にそう返す。

 納得したのかしてないのか、ふーんと呟いた妹に問いかけた。

 

「いつの間に後ろに回り込んだんだ?」

「トイレから出ると丁度お兄ちゃんの声が聞こえたから、バレないように後ろを追いかけただけだよ」

 

 にしても気配の消し方が素晴らしかったと俺は思う、妹は暗殺者でも目指しているのだろうか?

 

「そうか、とりあえず友達を待たせてるなら早く部屋に戻ったほうがいいんじゃないか?」

「確かに待たせてるけど友達が来ていることをなんで知ってるの?」

「下に知らない靴が有ったからな」

「いいねお兄ちゃん、探偵になれると思うよ」

 

 どうだかと一笑に付す。

 俺は機転が悪すぎる、どちらかといえば和泉の方が適役だろう。

 

「まあ待ってたのはお兄ちゃんだったんだけどね、いつも通りに帰ってくると思ったのに遅いから困ってた」

「俺? なんでさ」

「まーまー、話聞けば分かるって」

 

 そういいながら俺の背中をぐいぐいと押してくる。

 止むを得ず鞄を部屋に置き、妹の誘導に流されるまま進んでいく。

 隣の部屋なので、たどり着くのは一瞬だった。

 

「って、俺も部屋入っていいのか?」

「今日だけは特別だよ、合わせたい子がそこで待ってるんだから仕方ないじゃん」

 

 妹の部屋はいつもなら立ち入り禁止の筈だった。

 妹は普通に俺の部屋を出入りしてるのだけれども、まあそれは男女差というものだろう。

 特に異議もなく淡々と受け入れていた。

 

「さあさあお待たせしまし……あ?」

 

 扉を開け放ってそんなことを宣ったかと思えば、女の子らしからぬ不穏な言葉を残して真っ先に突っ込んでいった。

 何事かと部屋を覗き込むと、丁度妹がツインテールの女の子から写真立てを奪い取った所だった。

 

 久しぶりに見た妹の部屋は、俺に似て必要最低限のものしかない殺風景で、それでいてピンク主体の女の子らしい部屋で。

 写真立てを回収し勝手に漁らないように怒るのを見ながら、俺はどこかで見た既視感を探っていた。

 見覚えのある髪型、彼女が俺に用があるという人物なのだろうか?

 

 その彼女はこちらに必死に助けを求める視線を送っていた。



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21話 女二人男一人部屋は一つ

あと5から8話ぐらい



 妹はベッドに腰掛け妹の友達は座布団に座ってる中、俺は特に何も用意されずに仕方なく胡座を組んでいた。

 何か無いのという視線を無視して、俺を見下ろしながら妹は口を開いた。

 

「それじゃ、とりあえず自己紹介から始めましょうか」

「じ、自己紹介ですか?」

「そっ、初対面の相手でしょ? 時間も押してるんだしパパッとやっちゃいなさいよ」

「でもやっぱりちょっと……」

 

 そう言ってこちらに視線をチラチラと飛ばしたかと思えば、顔を赤らめてしゅんと小さくなった。

 あー、お兄ちゃんが虐めたという声を聞き流しながら、そんなに気難しそうに見えるような顔をしているのかと思う。

 

「あー修也だ、田中 修也。いつも妹がお世話になってます」

「頭を下げないでくださいよ、いつも私が助けてもらってばかりなんですから! こちらこそお世話になっておりまふ」

 

 そう慌てて噛みながらもそう言って、彼女も頭をぺこりと下げる。自分でも噛んだことに気づいてるのだろう、先程からずっと顔が赤いままだった。

 

「私の名前は鈴木 秋穂、友達からは大体ズッキーって呼ばれています」

 

 その名前を聞いて、予想が真実味を帯びてくる。それを裏付けるように追撃の言葉が降って来る。

 

「会うことは初めてだと思うんですけど、たまにお兄ちゃんから田中さんのお兄さんの話を聞いたことがあります」

 

 あいつから妹がいると直接聞いたことは無かったはずで、ならば別の鈴木かもしれない。そう思いながらも、そんなはずが無いことをちゃんと理解していた。

 性格は全然違えど、確かにツインテール以外も似ていると思える箇所は幾らでもあった。

 

「田中さんだなんて畏まらなくていいのに、お兄ちゃんにズッキーのこと話したことあったけ? 多分無いよね?」

「無いと思う、だけど誰の妹かは予想がついた」

 

 確認の言葉、できれば否定して欲しいと思いながら俺は言った。

 

「君の兄の名前は鈴木 春、陸上部に入ってるあの鈴木だろう?」

 

 彼女はその言葉を聞いて、コクリと一回頷いた。

 

 

 ● ● ●

 

 

 それからすぐ後、ひと段落ついたと思ったのか、妹はまたトイレへ行くと部屋を離れていた。

 多分意図的な行動だろう。トイレへ行くわけでもなく、二人っきりにして話をさせて緊張を解させようと。

 それが良かったのか、彼女も先程より落ち着いた様子だった。

 彼女だけでなく俺にとっても都合が良い、彼女がどこまで知ってここに来てるのか確認する時間が取れた。

 勝手に自爆したらまったく目も当てられない。

 

「君もお兄さん、お姉さん? どっちで呼んだらいいかわからないけど、あいつから俺についてどういう風に聞いてたりするの?」

「お兄さんで良いと思います、TSしても変わりなく私の誇れるお兄ちゃんだと思ってるので。その何というか……」

 

 そこまで堂々と言って、突然ごにょごにょと口籠った。

 ちらりちらりとこちらを伺いながら何か言うのを躊躇っている様子。もしかしてあいつ、俺が付き合ってる相手だと言ってるのか?

 もしそうならば至急この場から脱出しなければならない事になる。鬼役は当然妹だ、今回ばかりは逃げきれる気はしないがやるしか無い。

 

「怒らないから言っていいよ」

「でも……」

「ほらこんな優しい笑顔してるでしょ?」

「めちゃくちゃ引きつってるんですけど……」

 

 慌てて頰を揉みほぐす。それを見てぷっと彼女は吹き出した。

 

「ふふふ、やっぱりお兄さんは面白いですね」

「そうか?」

「ええ、お兄ちゃんから聞いたクラスに変わったやつがいるっていうのは正しいみたいです」

 

 拍子抜けの言葉だった。

 俺としてはいつもいたって真面目なのだけれども、鈴木から見れば変わってるように思われていたらしい。

 

「それだけ?」

「ええ、それぐらいですよ。たっちゃんから聞くお兄さんの話もありましたけど、お兄ちゃんから聞いた話はそんな面白い奴がいるってぐらいです」

 

 鈴木が言った俺の話がどんな内容だったのか気になるが、そこを追求することなく一息つく。

 流石にあいつも家族に彼氏ができたと言う気は無かったらしい。いずれ解消される縁だし、言ってなくてもおかしくないのは確かだ。

 一人俺が慌てすぎただけだろうか、そう思いつつ新しい話題を探す。目に入ってきたのは彼女のツインテール、兄とお揃いのものだった。

 そういえばあれは誰が結んでいるのだろうか?

 自分で結んだにしては綺麗すぎて、毎日同じ形に整っているように思えた。

 

「そういえばあのツインテールって君が結んであげてるの?」

「いえ、あれはお母さんがやってあげてるんです。私は自分で結べるんですけど、お兄ちゃんは自分でまだ上手く結べないんで」

 

 彼女の言葉は最後に近づくにつれ、次第に小さくなっていた。地雷、俺が話題を選ぶの間違ったのを悟り、慌てて他の話題を探す。

 鈴木妹以外で話題になりそうなもの。部屋をぐるりと見渡すと真っ先に、勉強机にパタリと倒されている写真立てが目に入ってきた、これならば大丈夫だろう。

 

「そういえば部屋に入ってきた時、君が見てたあの写真立て、なにが映ってたんだ?」

「えっ、えーっと……あっ、そう! 家族の写真です!」

「へぇ、家族写真か」

「多分なんか思い違いをしてると思うんですけど……」

 

 つい先ほど見たばかりなのに何を見たのか忘れていたのだろうか、少し悩んで彼女はそう言った。家族写真、多分家族三人で行った遊園地で撮った一枚だろうか?

 思い返すと俺が中学校、妹が小学校ぐらいの時ぐらいまで遡る気がする。そんな前のを大事に残していたのか。

 

 それを見られたぐらいであんなに怒るのだろうか? それも如何にも見ろと言わんばかりに勉強机に無造作に置かれている物を。

 そう思いながらも俺は勉強机に近づく。久しぶりに懐かしい写真を見たい気分になっていた。

 

「えっ? お兄さん、まさかそれを見ようとしてます?」

「ああ、久しぶりに見ようかなと」

「い、いやーやめたほうがいいですよ。こっちに座って待ちましょうよ」

「大丈夫だって」

 

 なぜそんな必死に止めようとしてるのか不思議に思う。もしかして俺が思うような写真ではないのだろうか?

 机に近づいて首を傾げる。

 家族写真ならば横向きに撮ったはずなのに、写真立ては縦向きに伏せられている。取り返して再び置いた時に置く向きを間違えたのか、けれどもそんなことをするような性格では無いことを、この部屋が悠然と物語っていた。

 本の向きは正しく整然と並べられ、不要なものは机の上に広げられてもいない。よく部屋の主人の性格が現れている部屋だ。

 まあ、そんなことはいいだろう。いよいよ写真立てに手を掛けたことに気づいたのか、後ろから息を呑む音が聞こえてきた。

 

 

 

 

「ねえお兄ちゃん、乙女の秘密を覗こうとする奴は最低だと思いませんか?」

 

 けれどもやっぱり写真を見ることは叶わず、慌てて後ろを振り返れば、眼前に迫ってくるのは手加減抜きの鉄拳だった。

 

 

 ● ● ●

 

 

「謝罪、ほら謝罪しなさいよ」

「勝手に乙女の秘密を覗こうとして、誠に申し訳ございませんでした」

 

 床に頭をこすりつけている最中であった。

 そんなに謝ることだろうかと思いつつ、謝罪の要求に屈する様。

 よろしいと言われ顔を上げると、鈴木妹は笑いをこらえているのかプルプルと震えていた。それを目敏く見つけたのか、妹の矛先がそちらに飛ぶ。

 

「どうしてお兄ちゃんが写真を見ようとしたのか気になるんだけど、もしかして何を見たのか言った?」

 

 さーっと顔が青くなるを見て、慌てて助け船をだす。

 

「いや止めるのを無視して俺が見ようとしただけだ、悪いことはしてないよ」

「何を見たのか、聞いた?」

「家族写真だろ? 中学校の頃遊園地に行った時の」

「は?」

 

 訝しげな顔を一瞬浮かぶもすぐに消える。妹が視線を戻すと、鈴木妹は凄い勢いで首をこくこくと振った。

 

「家族の写真としか言ってないです、神に誓って!」

「……嘘は言ってない、か。ならいいわ」

 

 そういうと先程の雰囲気とはがらっと変わり、グラスを並べて飲み物を注ぎ始めた。

 

「まあさきほどより打ち解けて何より、それじゃ本題に入ろっか」

「俺の目がおかしくなってないのであれば、俺のコップにだけ飲み物が入ってないように見えるんだけど?」

 

 一つだけ俺の前に出されたグラスだけ透明なまま。視線をこちらに寄こさずに飲み物を注ぎ終えて、自分の分のグラスを手にとってベッドへ戻っていった。

 

「馬鹿には見えないオレンジジュースだよ、お兄ちゃん」

「さいですか……」

「あ、あのお兄さん、私の分飲みますか?」

 

 そのありがたい申し出に被りを振る。自分より年下の子を差し置いて飲めるはずもない。

 飲み物のボトルはちゃんと妹が確保していた。

 空のグラスはやっぱり空のままで、口をつけても何の味もしない。

 それを横目に妹は喉を潤わせてから、火蓋を切った。

 

「でね、お兄ちゃん、そろそろ話に入ろうか」

「いつでもどうぞ」

「お兄ちゃんを待っていたのは、私よりお兄ちゃんの方が近いからなんだ、ズッキーの兄とね」

 

 近い、確かに近い。妹は知らないのだ、俺があいつの偽装恋人になっていることを。まだクラスメイトだと思ってるぐらいだろう、そうだとしても日頃接してる俺の方が近いということは確実だ。

 

「一応聞いとくけどどのぐらい仲が良い?」

 

 どこまで言うか。付き合ってることは論外として、距離が近づいたのは一週間前からだ。

 

「たまにご飯を一緒に食べるぐらいだ」

「よかった、完全に無縁だったら話が終わるところだったよ」

 

 多分それぐらいはあいつも妹にも言ってるかもしれない話だろう。一部の本当、ここでカマをかける必要はないだろうし、俺が嘘を言う必要もない。

 いまだどこに話が転がっていくのか、分からない。俺は黙って次の話を待っていた。

 

「じゃあ次の質問を、お兄ちゃんは鈴木兄の現状をどれぐらい知っている?」

「どう言う意味だ?」

 

 こちらを探るような目を真っ向から見返す。

 今日一度聞いたようなセリフ、それを別の人物がもう一度。

 

「お兄ちゃんは、鈴木兄が陸上部をやめようとしてる話は知ってた?」

 

 



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22話 資格無し、されど救いは

あと5から8話ぐらい
クリスマスプレゼントです(暗い)


 知っているに決まっている、俺が知らないはずがない。

 

「知ってるさ」

「じゃ、説明する必要はもうないね! そこでお兄ちゃんに頼みがあるんだけど」

「……俺はもう動かないよ」

「なんとかそれを止めようと、今なんて言った?」

 

 妹は何があったのか知らないのだ。

 その前に同じような俺への頼みがあった事を、それをあいつ自身がバッサリと切り捨てたことも。

 話の途中で遮られ、面食らった顔をした彼女にもう一度告げる。

 

「鈴木の陸上部の問題に関して、俺は口を出すことはできない」

 

 鈴木妹にここまで足を運んでもらって悪いけれども。その彼女はといえば雲行きがあやしいことに気付いたのか、グラスを手に抱えたまま、ピタリと動きを止めていた。

 妹に視線を戻せば、驚き、そして少しの怒りの感情がぐるりと巡って最後に残ったのは疑問だったらしい。妹は困惑しつつもそれを口に出した。

 

「どうして諦め、いやこれは違うな……なんでお兄ちゃんはそう結論付けたの?」

 

 もう動かないと決めていたのだ、俺にはこの状況を好転させる可能性があるとは思えない。

 

「ただあいつの出した答えがこれだったから、俺はそれを尊重するだけだ」

「……らしくない、それはらしくないよ。お兄ちゃん」

 

 そんな呟きに答えを返すことなく、ただ次の言葉を待っていた。けれども妹は目まぐるしく頭を回転させているのか無言のままで、カチカチと時計が進む音だけが響く部屋で沈黙を破ったのは妹でもなく、俺でもなかった。

 

「あのー、たっちゃんは少し勘違いしてると思うんですけど」

「あれ? 私なんか間違ったけ?」

「はい……私達の兄妹の話で私が頼むんだから、私が話さなきゃ。だからちょっとだけ待っててください」

 

 そう妹にはっきり言って、こちらへ振り返る。

 

「どこから話しましょうか、最終的なお願いだけをいうなら一瞬ですけど」

 

 ちょっと拙い話になるかもしれないが聴いてください、そう前置きしてすうっと一息吸い込んだ。

 

「鈴木 春は私の憧れであり、理想のお兄ちゃんなんです。たっちゃんにとってのお兄さんと同じように」

「ちょっといきなり何言ってるの!?」

「え? でも結構自慢してるじゃないですか」

 

 俺のどこを自慢すると言うのだろうか?

 それでもその言葉は正しいのか。何気ない台詞は妹の琴線に触れたらしく、ぷくーっと頬を膨らませて妹は彼女へ襲いかかった。

 妹が鈴木妹をくすぐり倒すのを眺めながら、いつも学校ではこんな感じなんだろうかと、中学校での妹の姿を幻視する、あまり大差がないのは良いのか悪いのか。

 一通り懲らしめて満足したのか、心なしか先程より頰をツヤツヤになりつつ、妹は犠牲者を放置してベッドに潜り込んだ。

 

「ひ、酷い目にあいました……どこまで話しましたっけ」

「自慢の兄だとしか聞いてないけど」

「そうです、自慢の兄なんです!」

 

 くすぐり攻撃で息も絶え絶えに机に伏せていても、その言葉にはしっかり食いついた。

 

「いつも明るくて、速くて。子供の頃、私はずっとお兄ちゃんといました。小学校ぐらいの頃まではだいたい外で遊ぶのを好むじゃないですか。私が運動神経が悪くて足が遅かったとしても、必ず合わせてくれるんです。自分はずっと早く走れれるのに、ずっと先に行けるのに」

 

 懐かしい記憶、しかし幾度となく思い返した記憶なのだろう。先ほどとは打って変わって吃ることもなく、俺は聞き惚れていた。

 

「今でもあの懐かしい鬼ごっこをたまに思い出すんです。兄の後を追いかけて仲間に入って、案の定年の差もあり、足の遅さもあり、私が鬼になるのは決まったことでした」

 

「そうしたら鬼の私にお兄ちゃんが近づいてきて言ったんです『俺が鬼を代わってやる』って」

 

 周りから見れば理不尽の極みだと思いますけど、そう言ってくすりと笑った。

 

「そして鬼を代わったお兄ちゃんがあっという間に捕まえて、そしてまた私が鬼に代わって、それを兄に代わって、また捕まえる。そんなことがあってからしまいには私を狙ってはいけないと言うふうになって、あの頃お兄ちゃんから逃げ切れるような子はいませんでしたから」

 

「そうなれば私も察するんです、私の居場所はここじゃないんだって。私がいてもいなくても変わりはないんじゃないか? いても他人に縛りを付けるだけじゃないかって。あるときから一転して室内で遊ぶようになったんです」

 

「すぐにお兄ちゃんに聞かれました、『なんで外にこないんだ』って。私がいくとみんなが、そしてお兄ちゃんが楽しめないから。そんなことをいうとふーんと言ってすぐに引き下がりました。

 これで一安心だと思いました。私がお兄ちゃんと遊べないことはほんのちょっぴり寂しいけど、それでもその分みんなが楽しめると」

 

 一気に話して疲れたのか飲み物を飲もうとするも、グラスはすでにからだった。彼女は後ろを振り返り、ベッドをポンポンと叩けばのそのそと妹が這い出てきて、オレンジジュースを注いでまた戻っていった。

 やはり俺のグラスに注がれる気配は全く無い。

 暗い話だと思う、けれどもその言葉の内容に反して悲嘆の色は一切なく、その理由はすぐに明かされた。

 

「それでもお兄ちゃんはよく遊んでくれました、外ではなく、屋内でです。雨だからとかそんな理由ではなく、ただ私と遊ぶだけに、わざわざ遊ぶ誘いに断ってまで、自分も外で遊びたいだろうに」

 

「だから私はお兄ちゃんに甘えてしまった、そして私の分まで背負わせてしまったんです。私がいくら鈍臭くとも私の分までずっとずっと速く、速く。お兄ちゃんならどこまでも行けると信じてたんです」

 

「だけども私の思いをお兄ちゃんがどういうふうに背負ってるか知りもせず、気付こうともしなかった。それが私の罪なのです」

 

 罪と言い切った彼女の瞳は暗く、一片たりともそれを疑うことなく私が悪いのだと決めつけているように俺には思えた。

 

 

 ● ● ●

 

 

「世の中TSの話題一色になろうとも、私はそれをなんとも思っていませんでした。私自身がTSするわけでは無いですし、世の中の女の子だいたいみんなそうだと思います」

 

「だから何も変わらないと信じていたんです、いやそう信じたかったのかもしれません。お兄ちゃんがTSしようと、変わりなくこんな日常が続いていくと信じたかった」

 

 そこまで言って口を止めた。重苦しい空気、すぐにでも窓を開けてこの空気を吹き飛ばしたかった。

 

「……先週の火曜日のことです、私が朝ご飯を食べようと下に降りていくと、食卓の上にはまだ兄の分のも残っていました。変だなとその時私は思いました、いつもならば陸上部の朝練があるから食べ終わってるのが常でしたから」

 

「私が降りてきたのを見たママはすぐにお兄ちゃんを起こしに行きました。私はといえば寝起きで回らない頭で、そんなこともあるんだなと呑気にもしゃもしゃと食パンを食べていました」

 

 結局、朝ごはんを食べ終わるまでママもお兄ちゃんも戻って来ずに私は学校に行きました、そう彼女は言った。記憶を思い返せば確かにあの日、鈴木は遅れてやってきた。

 

「お兄ちゃんがTSしたのを私が知ったのは家に帰ってきてからでした、家に金髪の知らないお姉さんがいると驚いて、けれどもそのツインテールは見覚えがあるものだったから」

 

 私はお兄ちゃん? そう彼女に呼びかけたんです。

 ぎこちない笑みで私にそうだ、そう返したのを見て私は言った、言ってしまった。

『綺麗な金髪ね、お兄ちゃん。それに私とお揃いのツインテール、嬉しいなぁ』って

 

「私の言葉に引きつった笑みを浮かべたのを見ながらも、わたしはそれについて深く考えなかった。どうしようもなく私はバカだったんです、お兄ちゃんの気持ちをちゃんと考えるべきだった。それを気づくチャンスはいくらでもあったのに、それを全部パァにしたのは私だった」

 

 どうしようもなく間抜け、そう自嘲的に彼女は笑った。

 かける言葉はどうやっても見つからない、そもそもそんなものがあるかさえわからない。

 

「次の日学校が終わって私はショッピングモールに向かいました。兄へのプレゼントを買いに行くためです。1日なにが一番プレゼントに適してるのか考えて、私の出した結論は髪を纏めるシュシュを買おうということでした。我ながらいいアイデアだと思いました。私のお小遣いでも買えるぐらい、それでいて絶対に必要になるだろうというもの」

 

 いいアイデアだと思ったんです、もう一度ぽつりと呟いた。

 

「お揃いのツインテールは嬉しいことですけど、けれどもその髪型はあまり走ることに向いてない。そう考えると必然的に髪型も買えると予想してひとまとめの髪型、多分ポニーテールにするというあたりまでつけていました。そこでお兄ちゃんに似合うようなものを選べればと」

 

「買いに行ったところで偶然お兄ちゃんのクラスメイトとたっちゃんにあったのは想定外でしたが、目的のシュシュはすぐに見つかりました。黄緑色の、芝生をイメージした色のもの、それを買ってすぐに帰りました。早くお兄ちゃんに渡そうと思って」

 

 その言葉を聞いて振り返るも黄緑色のシュシュをつけていた記憶もなく、あいつがツインテールから髪型が変わった記憶もない、つまり。

 おぼろげに見えてきた答えを口に出す。

 

「まだそのシュシュを渡すことができてない?」

「ええ、そうです。私はそのプレゼントを渡すことができなかった、今もまだ」

 

 私が悪いと彼女は繰り返し言った。

 

「私が勝手に踏み込み過ぎたんです。

 家に帰るとお兄ちゃんはどこかへ出かけていました。しばらく待っていると玄関が開く音がして駆けつければ、その待ちに待ったお兄ちゃんでした。

 けれどもいつもの明るさはなく、それを取り戻そうと私は積極的に話しかけたんです。どうして落ち込んでるのかさえ考えようとせず。今思うに、私はそのプレゼントを買えたことで高揚してたんだと思います、だからお兄ちゃんの葛藤も知らず無遠慮に言ってしまった」

 

「いつもならポンポンと話も弾む筈でした、吃ることが多い私でもそれに合わせてくれたんです。けれどもその時は何か他のことを考えていたのか、途切れ途切れの会話でした。そこで一旦引き下がるべきだった、けれども私はプレゼントを早く渡したかった」

 

「そして言ってしまったんです、後ろ手にシュシュの包み紙を隠しながら『陸上部で走るときに』と言ったんです。その言葉の先は言うことができませんでした、お兄ちゃんにとってはその言葉だけで十分だったから。それを聞いて、無表情に、シンプルに『陸上部をやめる』とだけ。それだけ言って私を置いて部屋に戻ってしまった。それを追いかけることなんて私にはできなかった」

 

 そこに至ってようやく私のアホさに気づいたんですと彼女は言った。

 

「私はお兄ちゃんならばTSしても何も変わりがないと勝手に思ってたんです。私のお兄ちゃんは無敵だって、そんなわけ無いのに。お兄ちゃんだって私と同じような人間なのに」

「もう、そこまででいい」

 

 静止するのが遅すぎる、それでも止めずにはいられなかった。けれども彼女は止まらない、大きく被りを振って話し続けた。

 

「その弱さに気づくべきだったんです、けれども気づかなかったのは私が盲目だった、それから目を逸らし続けた大馬鹿だった。お兄ちゃんを理想のお兄ちゃんに縛り付けていたから」

 

 私の頼みはお兄さんには私とお兄ちゃんの仲直りの手伝いをしてほしいんです。

 彼女は痛々しい笑みを浮かべながら、そう言った。

 他人の手を借りなきゃ、そんなことも出来ない卑怯者を助けてくれませんかと。

 

 俺の答えは、言うまでもなかった。



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23話 貴方らしさを捨てないで①

書いててふと気づいたんですけど、今年あと一週間で終わるんですね

5から8


 彼女にとって兄が陸上部をやめようとも、それを彼自身の選択として尊重すると決めたようだった。

 同じ情報を得たのに内田と鈴木妹の出した頼みは真逆の向きを向いている。

 

 拒否、そして受容。

 そんな二人と比べて俺はただ立場を明確にせずにタイムアップを待っていただけ。和泉に問題の解決を頼み、ただ漫然と過ごしていただけだった。

 彼女は自分が悪いと言ったけれども、それはいささか自罰すぎるように思えて俺はそんな彼女を責められない。

 彼女は悪くない、ならば俺はどうなのだろうか?

 俺はどこまでいっても普通だ、問題の解決ならば和泉の方がずっとスマートに片付くだろう。

 だから頼むのがあいつに頼むのが最適解だと思った。

 

 それでも彼女の頼みを横流しせずに承諾したのはそんな俺でも何かできるんじゃないかと思ったからか、それを認めたくなかったからか、それとも。

 ともかく、ぱあっと明るくなった彼女の顔を見て、いまさら『やっぱり無理です、すいません』とは言えないことは確かだった。

 この程度のことで失敗できないと、じくじくと胃が痛み始める。

 できる筈だ、そう自分を奮い立たせた。

 

 そんな俺をじっと見つめる視線がベッドの上に一対あったことに俺は気づかない。

 

 

 ● ● ●

 

 

「さてズッキー、そろそろ時間まずいんじゃない?」

「はわっ!」

 

 話が済んだと見たのか布団からのそのそと這い出てきて、鈴木妹にピタリと張り付いた。先ほどのくすぐりの恐怖を覚えていたのか、慌てふためき引き剥がそうとするもがっしりと腕が固定されて動かない。

 

「だから時間だって、スマホで確認してみなよ」

 

 確認するなりスーッと顔を青ざめる、門限が厳しいのだろうか。

 今にもぶっ倒れそうな顔をしながらもこちらにスマホを突き出した。

 

「あ、あのっ連絡先を交換して欲しいんですけど!」

 

 断る理由もなく、差し出されたQRコードを読み取った。

 表示されたアイコンは彼女とTSする前の兄の画像、俺の妹がよくわからないマスコットをしてるのと比べれば喧嘩する前の仲の良さがわかる。

 それがすでに過去となろうとも。

 

「それじゃお兄さん、今日はありがとうございました」

「いやまだ俺は何もできてないから、今日は帰るの遅くなってすまん」

「いいんですよ、前触れもなくきた私が悪いんですし」

 

 まあ彼女は俺の連絡先も知らなかっただろうしと妹に視線を移すと、合わせないように露骨に視線を逸らされた。

 

「先にお兄ちゃんに知らせようかと思ったけどお兄ちゃん全然既読つけないし、いつもなら帰り遅くないからいいかなーって」

「……粗忽者」

「なにおう!」

 

 ぽかぽかと殴りかかってくるのを片手で制する。

 それを見て微笑ましく思ったのか、彼女は言った。

 

「仲いいじゃないですか」

「「いや全然」」

「ふふっ、仲良きことは美しきかなですよ」

 

 そう言って立ち上がり、思い出したかのように再び俺を振り返った。

 

「とりあえず今日は時間がないから帰りますけど、私のメッセージは無視しないでくださいね?」

「ああ、善処する」

「ではこの辺で」

 

 それだけ言って彼女は部屋を出た。

 最低限の礼儀だろうと見送ろうとして、肩にポンと手を置かれた。

 

「お兄ちゃんはこの部屋で待ってて」

「でも」

「いいから、これから話すこともあるし」

 

 絶対に逃がさないという意思が目に現れていた。

 仕方なくまた座り込んだ俺の前にジュースが入ったグラスを置いて、妹は後を追いかけていった。

 飲んでいいよということだろうか? その言葉に甘えてそれまでの渇きを癒そうとゆっくりと口に流し込んでいく。やけに喉が渇いていた。帰ってから何も飲んでなかったいたのもあるし、さっきまで緊張していたのもあるだろう。

 それを飲み干して空いたグラスを机に戻すと扉が開く音がした。

 

「あれ、私のオレンジジュースは?」

 

 後ろ手に扉を閉めながらキョロキョロと周りを見渡すのを見て、俺は自分の失敗を悟った。

 冷静に考えれば妹はグラスを三つしか持ってこなかったし、元から俺のグラスはからのままで新しく注がれることもないのだから、俺の妹の分だって事は分かっていた。

 けれども俺の前に置かれたから飲んでいいものと勘違いしたのだ。

 冷静であれば飲まなかったろうものの、俺は平常とは程遠かった。

 黙ってようと俺の前の机のあるグラス三つを見ればすぐにバレるだろう、むしろまだばれてない方がおかしい。

 言わずに黙ってひどい目に会うより、すぐさま俺は自己申告することにした。

 

「すまん、飲んでいいかと思って勝手に飲んだ」

「……へぇ、ふーんそうなんだ」

「……?」

 

 肩透かし、ぶつくさ文句を言われるかと思ったもののそう呟くだけだった。

 並べられた三つのグラスを眺めていたかと思えば、つい先ほど俺が飲み干したグラスをとっておもむろに注ぎ始めた。

 

「それ、俺が使っちゃったやつだけど」

「別に大丈夫」

 

 それだけ言ってぐいっと一気に飲み干す。

 なんとなく、それは俺がしたことを気にしてないよといってるかのように思えた。

 はぁと俺は言葉を漏らす、まだ話は続くのだろうとおもいながら。

 

 

 ● ● ●

 

 

「それでさ、お兄ちゃんは失敗したの?」

 

 そんな曖昧で漠然と、不明瞭な質問。

 抽象的な問いかけだろうとすぐに意味はわかった。

 俺は失敗したのだろうか自問する。おれは何かをできたのだろうか?

 

「いや、俺は何もしなかった」

「ふーんそうなんだ」

 

 それを聞いただけであらましをだいたい理解したのか、うんうんと首を縦に振った。

 

「『俺はなにもしなかった』、確かにそうかもしれないね。けれども他の誰かが何もしなかったとは言ってないよね、お兄ちゃん」

「それは穿ちすぎじゃないか?」

「お兄ちゃんだからこそだよ。物事をほっておけない性格なのは私が知ってる、だからこそTSしたことで陸上部をやめると知ったのならば黙って見てたはずがない」

 

 良くも悪くもお節介なのだから。

 俺はそんなにたいそれたやつじゃないのに、妹は自信満々に言い切った。

 沈黙を肯定の捉えたのか、朗々と言葉をつなげていく。

 

「誰か他に動いた人、そしてお兄ちゃんが任せそうな人。お兄ちゃんのクラスメイトはズッキーのお兄さんと和泉お姉ちゃんぐらいしか私は知らないけれども、和泉お姉ちゃんが動いた」

「ああ」

「認めたね、お兄ちゃん。失敗したと言わなかったことから和泉先輩とお兄ちゃんにとって一応の成功を収めたんじゃないかと推察、もし頼んで失敗したのならお兄ちゃんなら他人任せにせず自分が失敗したと認めるでしょ」

 

 まるで簡単なパズルだと言わんばかりに少ない情報からピースを次々とはめていく、けれどもそこでピタリと止まって眉をひそめた。

 

「でもそう考えると不思議なんだよね。それだとまるで和泉先輩も鈴木先輩が陸上部をやめることを着地点として動いたように見える、なんでだろうね?」

「何もおかしくないだろ?」

「……そこがお兄ちゃんらしくないんだよ」

 

 そう妹は不満そうに呟いた。私情を排するために和泉のことすら他人のように先輩と呼び変わっていても、俺の呼び方が変わってないことに気づいてないのだろうか?

 

「鈴木先輩が陸上部を止めようとして、それを和泉先輩が手伝った。ただやめるだけなら和泉先輩なんて要らない、まるで他に誰かお節介がいたか、多分居たんでしょう?」

「ああ、陸上部をやめるべきじゃないって思う鈴木の友達がいたから」

「じゃあ何でお兄ちゃんはそっち側に立たなかったの?」

 

 じくりと頭が疼く。

 まるでそうするのが当たり前だと言わんばかりの台詞。

 なんで俺はそうしなかった? このまま陸上部を辞めてもいいんじゃないかと思ったからか?

 ならばこの胸にあるざらつきは一体なんだというのだろうか。それこそ俺が認めてないという証拠ではないか。

 ならばなぜ俺は動かなかったのか?

 途中で鈴木が来たからか、いやそれは俺の言い訳に過ぎないだろう。

 

「重症だね、お兄ちゃん」

「……おれはなんともないけど」

 

 答えが見つからず、延々と問いを繰り返す俺に呆れたような言葉をぶつける。

 ほんの少しの頭痛はあれど、いたって健康。なのに何故妹は俺を哀れむような視線で見ているのだろうか?

 

「自分の行動を見返して分からないの? 私はわかるのに」

「……俺が何か間違ってるのか?」

「いや、間違ってはないんだけど」

「勿体つけてないで教えてくれよ」

「じゃあ言うけどさ、正しいことが絶対に良いこととは限らないじゃん」

 

 ベッドがギシリと軋む音がした。

 正しいこと、その言葉が頭に染み込む。頭痛が酷くなりつつあった。

 

「今回お兄ちゃんは他人に頼んであとは傍観していた、そんなこと昔なら絶対なかったのに」

「俺は不器用だから」

 

 だから和泉に頼んだ、それが一番いいことだと思って。

 そこまで考えて先ほどの妹の言葉の意味がようやく悟る。

 

「つまり、和泉に頼んだことが失敗だと?」

「失敗までとはいわないけどさ。なんでお兄ちゃんが動かないの、不器用だから?」

「そうだ、和泉に頼めば安心だと思った。だから」

「それはダメだよ、お兄ちゃん」

 

 本当に腑抜けたね、心の底から悲しそうにそう言った。

 

「諦めて、甘えて、逃げて、この様。でもこんなことになるまで放置したのも私も私か」

「……俺に何を重ねてるんだよ」

 

 不器用で、傷つくのを恐れてるばかりの俺に何を求めるんだ。そう無性に叫びたかった。けれども絞り出したのはそんな言葉で。

 

「そうだね、私もお兄ちゃんに夢を見てたのかもしれないね、ごめん。だからもういいや」

 

 話は終わりと言わんばかりに、その言葉だけを置いて妹は机に向かった。

 ほんの少しの怒り、けれども何故という疑問の方が大きかった。

 勝手に失望されて、突き放されて、けれども部屋を出ていかない俺を、何やってるんだとばかりに顔だけこちらに向けた。

 

「……まだ居るのお兄ちゃん」

「ここで引き下がったら兄失格な気がしたから」

「まだ失格じゃないと?」

「失格の理由がわからないと、どうすれば合格できるかもわからないだろ?」

「まだ終わってないと思ってるの?」

「当然」

「……馬鹿みたい」

 

 そう言いながらも椅子をくるりと回転させ体ごと振り返る。

 

「お兄ちゃんはそもそも、なんで自分に自信が無いか分かってる?」

 



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24話 貴方らしさを失わないで②

 悪い夢を見ている。

 いつもの登校路を俺は必死に駆け抜けていた。

 俺の背後から迫ってくる空中に浮かぶ手が、これは現実ではないと声高に主張している。

 まだ後ろにいるぞと俺に知らせんとばかりにどんどんどんと後ろから地面を揺らす音が響く。拳を振り上げただ振り下ろすだけの仕草だ。それが巨大でなければ対して危険ではないのに。

 

 嗚呼、悪い夢だ。

 それを自覚しようとも夢が覚めることはなく、できることといえばがむしゃらに前へ前へと足を進ませることだけだった。

 身体は重くいつものように動かせられない。

 ただ後ろの手も俺と同じように動きに制限がかけられているようだった。俺に追いつくことができないかわりに、ぴったりと後ろから離れない。

 

 このまま走り続ければ逃げ切れるのではないか、そんな淡い期待を抱いた。

 本当にそうだろうか? 後ろの奴はいつでも追いつけるんじゃないか。

 ならばなぜ追いつこうとしない、獲物を痛ぶり弄ぶため?

 はたまた――この先に誘導しようとしているとか。

 

 夢は悪い方へ悪い方へ進んでいく。

 俺を追いかけている手は片手だけだ、もう片方の手はどこへ?

 その考えが思い浮かんだ瞬間右側から猛スピードで片手がカッ飛んできた。

 躱せないことはすぐに悟った、点の打撃ではなく面を制圧する薙ぎ払い。

 唐突な無理ゲーだ。

 夢の中で死んだら現実でも死ぬのだろうか。そんな考えがよぎり、すぐに衝撃がそれを含めて、全てを吹き飛ばした。

 

 

 

 誰かが泣いている、それを慰める声も聞こえる。

 気がつけば俺は地にふせて、ただ天井を見上げていた。

 懐かしい天井だ、ただ見覚えはあるのにそれがどこの天井か思い出せない。

 ゆっくりと身体を起こす、周りを見渡せばどんな状況かすぐにわかった。

 懐かしき小学校時代、あの教室、あの時、あの場面。

 後先考えずに行動できた時の俺の記憶だ。

 

 周りから俺の言葉を非難する言葉が聞こえていた。

 それを無視して俺はあの席に着く。

 物事を解決する時、痛みを覚悟しなければならない。

 ちゃんとそれを理解していた、だからそれを黙って受け入れることができた。

 不器用ゆえに、それ以外の解決方法がわからないゆえに。

 多分俺が最も俺らしくあった時の記憶。

 それを誇らしいと思うこともなく、哀れに思うこともなく、俺はただただ羨ましかった。

 知らないことがいいこともある、そして俺は知ってしまった。出会ってしまった。

 ここがスタート地点だったのだろう。

 出会いは必然か、偶然か。

 もし出会わなかったら俺はどういう道を歩んでいたのだろうか。

 もう全部終わった話なのに、どうしようもなく、そんなことを思わざるを得ない。

 

 口の中に遅れて血の味がジワリと広がっていく。

 それだけがただただ不快だった。

 

 

 

 場面が暗転し、切り替わる。

 どうせこの場面が来たということは次の場面はとっくに予想できていた。

 目を逸らしたくてもそれが叶うこと能わず、次の記憶が投影されていく。

 

 

「はじめまして、になるのかな」

「多分そうだな、まあこれからよろしく」

 

 時が経って同じクラスになったあの春。

 この時が初対面だった、ただ彼の人気については知っていた。

 去年の一件が彼の人気に原因して起こったことも。

 和泉のことを一度もいけすかない奴だと思ったことがないのは確か、けれどもどうしてそこまでモテるのかわからなかった。

 もし彼女が傷つく価値もないような人間だったならば。

 そう自分勝手に夢想し、結局それが果たされることなかった。

 

 どうしようもなくあいつは強かった。

 俺が和泉に勝てる部分がどれぐらいあったと言えるのか。

 勉強勝てない、運動勝てない、人望勝てない。パラパラと負けたという事実だけを突きつけられる。

 いくら努力しようとも絶対に追いつけない壁があることを気づいてしまった。

 唯一勝てるのは元々得意だったオセロだけ。勝てるものもあっただろうと言わんばかりに、負けて悔しそうな和泉の顔が映った。

 だがそれも少しの間だけだった。乾いたスポンジのようにあっという間に知識を吸収し、追いつかれて五分五分、いやほんの少し負け越してるかもしれないぐらい。彼がいともたやすくやってのけることは、俺にとって決して容易いことではないというのに。成功するかもさだかではないのに。

 

 

 そして何より致命的な差だったのは、彼は傷つかなかない。

 払うべきものだと思っていた代償を無しに、そんなもの踏み倒して当然とばかりにポンポンと話を解決してくのを見て俺は、俺は。

 なぜ俺だったのだろう、あいつと関わりを持つのにふさわしい人間だと胸を張って言えるのか?

 

 そんなに辛いならば和泉から離れればいいだけというかも知れない。

 離れて前のように傷つくことを顧みず愚直にすすめばいいのに。

 知ってしまったから、それがあまりにも不器用で情けないことだと。

 だからどうしようもなく俺はあいつから離れることができない。

 俺が何もせずとも和泉が解決してくれる。

 適材適所じゃないか、全ての記憶が終わったのか一寸先も見えない暗闇の中で俺は呟いた。

 

 イカロスは太陽に近づきすぎて墜落した。

 何者にもなれるとの傲慢さが彼を殺したのだ。

 俺は和泉みたいに成れるなんてビタイチたりとも思わない。

 その傲慢さが己を殺すと、もう身を以て知っていた。

 けれども諦めたところで俺が近づこうとしなくとも、俺はあいつの眩しさを近くで見続けることは、果たして俺を殺すことに他ならないのではないか?

 ジリジリと翼の蝋は溶け落ち、そして俺はボロボロの翼で必死に足掻く。

 もうとっくに墜落してるのかもしれない、そんな言葉から俺は目を逸らした。

 

 

 

 誰しも痛みを嫌うに決まってる。

 それを嬉々として受け入れるならば気が狂っている。

 そして俺は狂えなかった、狂えないゆえに口を閉ざす。

 傍には和泉がいた、何事もそつなくこなすあいつがいた。

 あいつに任せれば、大丈夫だ。

 

 和泉を見て心の奥底で失敗しろと醜く囁く声が聞こえる。

 痛みを知れ、そんな願いは叶うことがなく。

 おれはいつものように和泉の自慢げな笑みを見て、褒める言葉を返す。

 

 そんな自分のことを俺は誰よりも、誰よりも大っ嫌いで、どうしようもなくTSしたかった。

 生まれ変わるきっかけが欲しかった。

 自分を変えようとする努力をすることもなく、そんな神様の気まぐれに祈ることが間違っていると気づいたとしても、俺はTSしたかった。

 そうすれば何かが変わるんじゃないかと信じていた。

 

 

 

 ● ● ●

 

 

 

 目覚まし時計を消した後も、俺はベッドの上からピクリとも動かなかった。

 未だ学ランのまま、そのままベッドに倒れ込みそれから記憶がない。

 晩飯食べたっけ? 食べてないか。

 空腹がその証拠だった、けれども体を動かす気力がないのだ。

 

 そういえばいつもなら起こしにくる妹が今日は来ない。

 ふと手がちくりと痛んだ、目の前に手を持って来れば血が滲んでる。

 手当もされていない。少し考えればどこでこの傷を負ったんだろうという疑問と、妹が来ない理由はすぐにわかった。

 

 俺がみっともない心の中を露わにしてしまったから、妹から失望されたのだ。

 手の傷は妹が放った写真立てだ。もういらないからと投げられたそれを俺は掴み損ねて、地面に強かに落ちた。

 結果写真立ては割れて、無造作にそれを拾い上げようとした俺の手は、必然傷ついた。

 その写真立ては今俺の部屋にはない。やってしまったという表情をしながらも、この片付けは私がするからと妹に追い出されたから。

 中に飾られた写真は妹と俺のツーショットだった。

 

 

「入るぞー」

 

 そんな気楽な声と共に、ノックの必要は無いとドアが開いた。視線を向ければ母さんだった。

 

「おーおー、ひどい顔してる」

「……母さんこそ鏡を見なよ、クマがひどい」

「まあそれだけ言い返せるんなら何より」

 

 ようやっと身を起こす、それだけにエネルギーを大量に消費する感じがした。

 

「何があったか教えてくれるか? 昨日の晩御飯の時は来なかったし、お前の妹はオロオロと落ち着かないし」

「晩御飯の時はちょっと疲れて寝てた、理由は――」

 

 なんと答えればいいか思案する。

 その隙に母さんは目ざとく手の傷を見つけ、目がキュッと細まった。

 

「……その手、どうした?」

「割れたガラスを素手で触ろうとした」

「バッカじゃないの? で、何が壊れた?」

「妹が持ってる写真立て」

 

 唇をひと舐めして俺は口を開いた。

 

「妹と喧嘩したんだ、それで」

「それだけじゃないんだろ?」

 

 隠すなという視線が俺を貫いていた、今度こそ俺は口を噤む。けれどもそんな視線が続いたのも一瞬で、ふっとため息をついて視線を切った。

 

「まあ、別にいい辛いこともあるだろうからいいけどさ。喋れるようになったら私にも言ってくれ」

 

 私は一応お前の母親なのだから、その自分の言葉にふっと笑って母さんは部屋を出ようとした。

 けれどもなにか思い出したかのように立ち止まり、振り返った。

 

「もし学校を休みたくなったら休めばいいさ。ただし! サボるとしても一日のみだけどな!」

 

 そうピッと指を俺につけたのを最後に、今度こそ部屋の扉が閉まる。

 




場所に困ったので閑話は加筆して最終話の後に載せます
今度こそ今年最後の投稿でしょう、もしかしたらあと1話載せるかも知れないですけど

あと5から6話ですね
感想、お気に入り、評価ありがとうございます。
いつも励みになってるのは確かです。
では良いお年を。


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25話 それでも僕は

あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いします

閑話一旦取り下げたんで、この前に24話が入ってます


 やることもなく、ベッドで寝そべっていた。

 結局言葉に甘えて学校をサボっているのは弱さか。

 それでも今の状態ではふとした拍子に、何かやらかしてしまう、そんな予感がした。

 それでもその時間を無駄にせずに頭を回す。

 

 俺が今やれることは何だろうか?

 鈴木妹に頼まれたのは兄との仲直り、俺はどうすればいい?

 使えるものは何かあるか、話を細かく整理していく。

 元々渡す予定だったプレゼントがあったはずだ、それをうまく話に組み込めれば。

 

「とりあえずそれを渡すきっかけを作ること、か」

 

 渡して、それからどうする。

 そもそも仲直りしたいという原因、そして仲直りができない原因はなんだったか?

 事の発端は鈴木兄の拒絶から、でもそれを招いたのは鈴木妹で。

 

 そうなると、この話で悪いのは誰だ。

 鈴木妹はどこまでも自分が悪いと思ってる、なら鈴木兄はどう思ってる?

 自分がやったことが正しいと思ってる、だから歩み寄ろうとしないのか。

 それとも――自分が悪いと気づいてるからこそ動けないのか。

 

「やっぱり俺らしくないよな」

 

 妹が言う自分らしさが俺にはやっぱりわからない。

 こんなの和泉にかかれば――そこまで考えて首を振る。

 無意識にあいつと比べる癖は、どうやっても離れてくれなそうだった。

 所詮俺が考えたところで机上の空論なのだ、動いてみなければわからない。

 そして多分今回も下手を打つ、そんな気がした。

 

 なんともなしにスマホを取り出せば妹と和泉からメッセージが届いていた。妹からは謝罪、和泉からは心配の言葉。それを見て俺は何の返事もすることなく、画面を閉じる。

 

「きっとすべてうまくいくさ」

 

 俺が言った言葉なのにひどく薄っぺらい言葉だとおもったのは、多分自分自身それを信じていなかったからだろう。

 ベッドに体を投げ出して次第に意識が遠くなるのに身を任せ、やがて視界が黒く染まった。

 

 

 ● ● ●

 

 

 俺の頭をゆっくりと撫でる感覚に、意識を揺り起こされる。もう少し寝させてくれと、俺はまだ目を開けることはない。

 

「ねぼすけさんだな、全く君は」

 

 そんな微睡みの中、呆れた声が頭上から降って来た。

 

「……和泉か」

「ご名答、ほら早く目を開けなよ」

「疲れてるんだ、もうちょっとだけ寝させてくれ」

「しょうがないな」

 

 言葉は途切れても頭が撫でられる感覚だけは途絶えなかった。起きるまで、延々と続くのだろうか?

 しょうがなく目を開けると俺の顔を覗き込む和泉の顔が見えた。

 

「やっと起きた、おはよう」

「……おはよう」

 

 冷静に状況を把握する。

 ここは俺の部屋だ、そして和泉が俺の頭を撫でている。

 俺の頭を膝に乗せながら。

 

「もしかして、これもまた夢か?」

「もしかしたらそうかもね」

「……なんで膝枕してんの」

「何というか、して欲しそうな顔をしてたから?」

 

 深く息を吸い込もうとして、すぐに止める。

 甘い、良い香りがする。それを吸い込むことが悪いことような気がした。

 それでも呼吸を止めることはできず、出来るだけ浅い呼吸を心掛ける。

 頭を撫でる手は止まることを知らない、このまま続けば髪がなくなりそうだった。

 

「今日は久しぶりに晴れたよ、夕焼けが映えそうな天気だ」

「俺が休んだ時に限って晴れるんだな」

「それで、どうして今日は休んだのか聞いてもいいかい?」

 

 そういう細かいところはよく気がきく。あくまで遠回しに、答えなくてもいいからと。

 

「息抜きに、1日だけサボった」

「それはそれは、悪いやつだね君は」

 

 言葉にはそれを咎める意思は見えず、何が面白いのかクスクスと笑うだけだった。

 

「あのさ、お前は自分が女の体になってるってちゃんと理解してるのか?」

「おや、僕のことを襲いたくなったのかい?」

「……いやそんなことはない」

「そこはちゃんと即答しなよ」

 

 鈴を転がすような声でコロコロと笑うのを、未だ膝枕されながらぼんやり眺めていた。

 

「取り敢えず男の部屋に一人で入り込むなよ」

「もしかしたらケダモノになってしまうから?」

「俺は別にならないさ」

「じゃあ別に入っても良いだろう? 大体君も先週、僕の家に上がり込んだじゃないか」

 

 そういえばそうだった。信頼関係がある、ね。

 俺のことを信頼してるから一人っきりの家に俺を入れた。

 

「君じゃなかったら家に入れてないさ、君なら大丈夫だと思ってるから。実際大丈夫だった訳だしね、だから僕も今ここにいる」

 

 その言葉を聞いて俺は黙って目を閉じる。

 タイミングが悪かった、昨日の今日でだからこそ休んでいたのに。和泉にとっては何気無い言葉でも、今の俺にとってはひどく胸に刺さる言葉だった。

 

「……何で、俺なんだ」

「それはどういう意味だい?」

 

 ピタリと和泉の手が止まる。

 それまで自分の黒い気持ちを抑え込んでいた蓋が開いてしまった。

 

「言葉通りだ、何で俺なんだよ。どうしてお前は俺から離れないんだ」

 

 嫌われても良いと思った、むしろ嫌われなければならない。俺は和泉に隣に居るのに相応しくないから。だから、ここで関係をリセットしなければならない。

 もしかして夢かもしれない、願わくばこれが夢であってくれと思う。夢であろうと現実であろうと、言わなければ前に進めない気がした。

 やけっぱちな行動なのに、そうする事が正しいと思っていた。

 

 ゆっくりと悪意を詰めた言葉、それを今にも言おうとしてるのに和泉はただただ次の言葉を待っていた。

 俺は黙って目を閉じた。和泉がどういう反応をするのか見たくなかった。きっと軽蔑される、それでも。

 

「俺はどこまで行っても不器用で多分、それはもう変わらない、そういう性だって自分でもわかってる。でも和泉、お前は俺とはちがうだろ。俺が何回やって成功するかもわからないことをお前は片手間でできる」

「……」

「お前は凄い、凄いよ。でもそれをなんで俺の前でやるんだよ。それをなんで自慢げに、誇らしげに俺に見せつけるんだ、俺じゃない相手はいくらでもいたはずなのに、なんで俺に」

 

 和泉は何も言わずに俺の言葉を黙って受け止めていた。それをいいことに俺は言葉を吐き出し続ける。

 もしかしたら俺は徹底的に反論されたいのだろうか、そんな考えが浮かんで、すぐに消えた。

 

「妹に言われたよ。だんだんお兄ちゃんはらしくなくなっていったって、前はもっとがむしゃらだったって。そりゃがむしゃらに頑張るさ、そうでもしなければ何も勝てないから、でもやっぱり勝てなくて。褒められるのはお前ばかりだった、比較対象にはいつも隣にいた俺が置かれて、そんなどうしようもない俺は、俺のことが一番嫌いだった」

 

 和泉は何も悪くないんだってのはとっくにわかってる。ただ俺が足りないだけだ。

 

「結局、今回の話でようやく自覚したよ、俺は嫉妬しながらも甘えていたんだって。何かあれば和泉に任せれば大丈夫だって、そして今回も動かなかった。だから最後に聞かせてくれ、どうして俺だったのか」

 

 そこまで言ってようやく目を開き、和泉の顔を仰ぎ見る。

 怒りでも、失望でも、笑い飛ばしでもしてくれと、そう思ってたのに。

 

 

 それらを全部裏切って、あいては今にも泣きそうな表情を浮かべていた。それはお前らしくないじゃないか、いつものように世迷い事と笑いながしてくれ。そう言おうにも口からは声にならない呻きが漏れるばかりで、ただ俺が取り換えのつかないことをした、それだけは分かった。

 初めからわかってたことだろう、その覚悟があって言ったんじゃないのか?

 

「なんで君がひどい顔してるんだい」

「……そっちこそ、そんなキャラじゃないだろ。なんで泣きそうな顔してるんだよ」

 

 その言葉を吐いて、でも和泉ならと思ってたことをようやく自覚した。

 そっと顔に手を被せられ視界を遮られる。

 なのに和泉の顔が脳裏から離れない。

 

「ちょっとだけほんのちょっとだけ悲しかった、かな」

「……ごめん」

「謝っても遅いよ、まったく」

 

 ズキリと酷く胸が痛む、どうしてこうなってしまったのだろう。ただ俺が悪いことだけはわかっていた。

 

「僕もさ、君がどう思ってるかなんて気づかなかったんだ、気づこうともしなかった」

 

 最近どこかで聞いたような言葉。

 

「君が僕を完璧だと思うようにさ、僕も君ならと思ってた。君が不器用だなんて知ってた、それでも自己を押し通せる強さがあると信じてた」

「じゃあ戯言を聞いて俺に失望したか?」

 

 いいや、そんなことはないさ。完璧な人間なんていないなんてわかってるから、僕も完璧じゃないって気づいたろ?

 そう和泉は笑いながら言った。

 

「君は勘違いしてるかもしれないけど僕だって、聖人じゃないから友達は選ぶさ。ただそれは学力でも、運動神経でもなく、顔でもなく、ましてや家が隣だからでもない」

「……じゃあなんだっていうんだよ」

「君には僕のことが必要だと思ったんだ。君の不器用さを僕が補ってあげる、それは僕さえいれば補える欠点だから、そのために僕がいるんだと思ってた」

 

 ようやく目を隠す手が退けられた。先程の表情はどこかへと消え、笑みを浮かべていた。それでも触れば崩れてしまいそうなほど儚く見える。

 すぐにまた目を覆われる、何かを思いついたのか明るく弾む声で彼女は言った。

 

「問題解決のお願い、僕は決まったよ」

「実現不可能じゃないやつにしてくれよ」

「うん、そんなことわかってるさ」

 

 覆われた視界の中でただ和泉の声だけが響いていた。

 

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 絶句、それはとても簡単なことだ。

 

「簡単だろう? 今日会ったことを誰にも話さず、お互いの記憶の奥底に封印するだけさ。夢の出来事だと思ってくれればいい」

「……でも、それはお前になんの得もないだろ」

「得はあるよ、君は誰に当てられたか知らないけれど、ちょっと自罰すぎるように僕からは見える、それも含めて今日の話は無しにしよう」

 

 昨日合ったことを一度も言ってないのによく見えている。思わずため息をついた。

 

「君が言った言葉を聞いて、それでも僕は君の傍に居たいんだ。これが僕のワガママだっていうのはわかってる。どれだけ君を傷つけてきたのを知ってしまったとしても」

 

 そろそろ帰る、そう言って和泉はベットから立ち上がった。膝枕のしすぎのせいか一、二度屈伸して振り返る。

 

「でも僕にはそのお願いも強要できないんだ。どうしても僕のことを許せなかったら否って言ってもらってもかまわない、君には当然その権利がある」

 

 まあでもそれがダメなら別のお願い事にするよと彼女は言った。

 

「返事は明日聞かせてもらうよ、それじゃあまた」

 

 扉に手をかけた和泉に、ふと思い浮かんだ質問を一つだけ投げかける。

 

「最後に一つだけ聞かせてくれ」

「……なんだい?」

「俺のこと嫌いか?」

 

 嫌いなわけないじゃないか、そんな言葉を残して和泉は部屋から出て行った。




息抜きにオカルトものを書いてました、よろしればそちらもどうぞ


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26話 今度は目を逸らさずに

 今の俺に何ができる?

 一人ぼんやりと天井を眺める、その問いはくっきりと鮮明に残っていた。今すぐ何かをやらなければいけないという使命感。

 寝ていても何も始まらないのは確かで、俺はゆっくりと体を起こした。

 

 一人周りを見渡して酷くつまらない部屋だと思った。いつも過ごしている部屋なのに、今はそう強く印象付けられる。学ランから普段着に着替え部屋を出る。目指すべき目的地はすぐ近く、隣の部屋。つまるところ妹の部屋だった。

 

 閉ざされたドアの前で立ち止まり、数瞬の逡巡。向き合う覚悟はあるか、そんな馬鹿馬鹿しい問いが浮かび、すぐさま蹴飛ばした。

 

 ゆっくりと優しく、それでも確実に伝わるように、扉をノックする。ほんの少しの待機。

 けれども返事はなく、一人寂しくため息をついた。

 

「まだ帰ってない、か」

 

 いつもならば帰ってきてもおかしくない時間だけれども、まあ俺みたいに何か急に予定が差し込まれることもあるだろう。

 最後にもう一回扉を叩くも、やっぱり返事はない。

 なら帰ってくるまで待つしかない、自分の部屋に帰ろうとしてふと気づく。

 

 廊下の向こうからチラチラこちらを伺う人影があることに。ひとつ冷静に深呼吸し、問いかける。

 

「……そこで何してんの」

 

 それを聞いた誰かさんはドタドタと足音を残して逃げていった。部屋に戻ることをやめ、すぐさま後を追う。

 逃げようにも響く足音が、彼女の行く先をちゃんと教えてくれていた。

 

 足音に導かれてたどり着いた先は明かりの消えたリビングで、足音はここでプツリと途切れていた。けれども妹の姿はどこにも見えない。

 

 隠れんぼ、ね。

 天啓に近い閃きがあった。それに従っておもむろにいつも食事をとってる机の下を覗き込む。

 

「ほら、みーつけた」

「……む」

 

 膨れっ面しつつも差し出した手を引っ張り、妹を机の下から引きずり出す。

 

「……なんですぐばれたの」

「リビングで隠れる場所っていったら、ここぐらいしかないだろうよ」

「理由はわかるけど、本当はそうじゃないでしょ?」

「まあ、ね」

 

 妹は時々机の下に籠る癖があったことを、俺はちゃんと覚えていた。オセロに負けて不機嫌な時に、悲しいことがあった時に、母さんに叱られた時に、なにやら考え方にふける時に。少なくとも俺にはそんな癖はないから、妹にとって一番落ち着ける場所がそこだということなのだろう。

 俺の返事を聞いて満足そうに頷き、それでも何故か妹は手を離さない。

 

「もしかしてさ、和泉お姉ちゃんと喧嘩した?」

「……和泉が家に入れたのってそういうことか」

「うん、休んだこと心配して、どうしても合わせて欲しいって言うから渋々」

 

 心配そうにこちらの顔を伺っているのを見ながら、俺は何を言うか迷っていた。正しく起きたことを伝えようと言葉を振り絞る。嘘はダメだ、俺がやったことから目をそらしちゃいけない。

 

「喧嘩では、ないな。ただ俺が和泉に対して酷いことしただけだ」

「……ごめんなさい、お兄ちゃん。私のすること裏目裏目ばっかりで」

 

 妹の視線の先には俺の右手があった。

 

「それ、手当てとか何もされてないよね」

「別にしなくてもそのうち治るって」

「ダメだよお兄ちゃん、道具とってくるから席に座ってて」

 

 妹に促されるままにいつもの席に座らされる。大した怪我じゃないのに、それでも見下ろした指先には血が滲んでいた。昨日の怪我なのにまだ塞がってないのは、多分無意識に引っ掻いたりしてしまったからだろう。

 そうこう考えているうちに妹が救急箱を抱えて戻ってきた。

 

「お待たせお兄ちゃん、それじゃちょっと手出して」

「頼むから冷静にやってくれよ」

「わかってるわかってるって、昔も同じようなことたくさんしたでしょ」

 

 不安を他所にテキパキと処置をするのを、俺はただ無言で眺める。何か懐かしい記憶が心を掠めていった気がした。

 

「壊れた写真立て、まだ新しく買い直してないよな?」

「……うん、まだ買いに行く時間作れてないし」

「それなら俺が新しいの買いに行ってくるからさ、買わないで待っててくれないか?」

 

 妹の手の動きが止まる。返事もまた、帰ってこない。

 こちらの様子を恐る恐る伺いながら、妹は口を開いた。

 

「……いいの?」

「まあ、俺にはこういうことぐらいしか出来ないからさ」

「ならできるだけ、うんと可愛いのが良いな」

「写真立てなんてシンプルなものが一番良いと思うんだが、あくまで写真が主役だろ? 主役より目立ってどうするんだよ」

 

 俺がそう持論を語る間に手当てが終わり、妹はすっかり聞き入る態勢に入っていた。

 

「もーお兄ちゃんは分かってないなぁ、全然分かってないよ。例えばね、写真の威力が100だとしてさ」

「写真に威力とかあるのか?」

「そこはなんとなくで流してよ。それでさ、写真立てもありきたりなものなら1だとするじゃん? そうすると100×1の威力しか出ないわけ、でも可愛い写真立てなら50なの、100×50で5000。写真と写真立ての相乗効果で素晴らしさが50倍になったってことだよお兄ちゃん、これで分かってくれた?」

「……わからん」

 

 なんとなくカレーにハンバーグとエビフライをぶち込む、好きなものに好きなものを重ねたら最強理論を思い出していた。

 この理論には穴があり、互いの欠点に考慮してないと言う問題があると常々思っていた。

 ついでに言えば美味しく食べれる量には限界があるということも。

 

 俺の返事を聞いて、妹はやれやれと首を振った。

 

「お兄ちゃんはダメダメだね、それ買いに行く時は私も連れてってよ。多分いつものショッピングモールでしょ?」

「ああ、別に良いよ」

 

 その返事を聞いて妹がパッと笑顔を咲かせていた。

 大体そこに行けばなんでも揃うし、映画も観れる便利な場所。和泉が先週必要なものを買いに行ったのもそこだったはずだし、俺が鈴木と映画を観に行ったのもここだった。

 

 そう思う中、何か一つ大きな違和感があった。何か大事なことから目を逸らした感じがした。

 

「じゃあさ、じゃあさ! もう今日行っちゃおうよ、映画も観てさ!」

「……うん」

 

 気の抜けた返事、頭の中では重大な見落としを探すことに全力を注いでいた。天啓は降りてこない。だからただひたすらに、愚直に、聞いた言葉を、見た景色を振り返る。

 

「今から準備してくるから、ここで待っててね」

「……いや、ちょっと待て」

 

 時間を確認する、まだ日が落ちてない時間。

 合ってるかは行けばすぐにわかる。

 別に今日確かめる必要はないじゃないかという声と、今日行くべきだという声があった。迷ったら行動しろ、もしかして昨日までならば違う答えを出したかもしれないけど、今日出した答えは確かにそれだった。

 

「ごめん、今日は無理だ。ちょっと用事があることを思い出した」

「……そう」

 

 答えに辿り着く為の一つの鍵をようやく手に入れた。いや、そもそもとっくに俺が持っていたはずなのに、使わなかっただけだった。それから目を逸らして知らないふりをしていた。

 そしてこの役に適任なのは和泉ではなく、俺だという確信があった。だから俺が動くしかない、鍵の持ち主は他の誰でもなく俺なのだから。

 

 俺に着地することが出来るだろうか?

 

 そんな思考から現実に目を向けると、妹が露骨に凹んでいた。いじいじ机に指で何やら文字を書いてるが、それが何なのか俺にはわからない。

 

「ごめん、別に嫌なわけじゃないんだ。代わりに週末は開けとくからそうしてくれるか?」

「……約束だよ?」

「ああ、約束する」

 

 出された小指に俺の小指を引っ掛ける。指切りげんまん嘘ついたら針千本と軽く揺さぶって、すぐに切れた。

 

「これからちょっと出かけてくる、晩御飯までには帰るから」

「ちゃんと帰ってきてよね、お兄ちゃん」

「分かってるよ」

 

 その言葉を最後にリビングから出て行く。

 一つ確認の連絡を入れようとして、辞めた。

 その質問にはいと言われるの、いいえと言われるのも、どっちも怖かったから。

 どうにでもなれ、そういう気分だった。

 

 靴をつっかけ、玄関の扉を開ける。

 和泉の言葉通り久しぶりに晴れた空、綺麗な茜色に染まっていた。何となく前途を占ってくれている、そんな気がした。

 

 歩みは次第に早くなり、気づけば走っていた。

 未だ残る迷いを振り切れるように、全力で。

 

 ●

 

 そうしてたどり着いた先で、俺に対して他人のように素っ気なく挨拶をする彼女があった。

 思わず笑う、それは気まずさか、それともまたそれ以外の何かか。

 

 人は弱い、どうしようもなく。だからもしかしたら、どうしようもない間違いをしたのかもしれないけれど、カチンコはもう鳴らされている、止める事は俺には出来ない。

 

「よう、鈴木。元気そうだな」

 

 多分二人ともひどい顔をしてるのだろう、それでもそれを無視して俺は缶コーヒーを差し出した。

 前に差し出されたものとまるっきり同じ物を。

 

「あったのも何だし、ちょっと話をしないか」

 

 少なくとも女の子に頼まれたことを果たせなければ、男じゃないだろう。そんな意地だけが俺をこの場に残していた。

 




週末に予定、ありましたよね

あと4から5話、ちょっとまがあくかもしれないです


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27話 シーン71

少し時間を戻して別視点


 それは昔、子供の頃に通い慣れた道だった。影法師を追いかけて、前へ前へとゆっくり歩いていく。

 けれども決してそれを追い越すことはできなくて、それでも俺は歩くことをやめられない。

 

 ほんの一瞬だけ、影が以前のように男の姿に見えたけど、それは多分目の錯覚だったのだろう。

 もう戻ることはない、ただ変わったという現実だけを突きつけてくる。

 

 歩く歩く、終わりのない道を一人行く。

 喫煙者がタバコを手放さないように、酒好きがなかなか禁酒できないように、自分もまたこの習慣を変えることができない。

 そして変わった日常と余った時間を費やすために、それを自ら変えようとすることもない。

 

 スタート地点はここだった、ただがむしゃらに走っていたこの場所がそうだった。

 自らの傷を抉ることになろうとも、ここに来れば何か変わる気がした。自分の有り様を思い出させてくれる気がした。

 でもそんなことはやっぱり気のせいで、ただ無為に歩き続けるだけで、そんな自分をどんどん後ろから来る人が追い抜かしていく。

 

 それを追いかけようとすることはない、何くそと思うこともない。全力で走ろうとしても、見たくない現実が足を竦ませるから、だからただ歩くだけ。

 

 自分に何が残ってるというのか、誇れるものなんてもう何もない。ただ外見だけが綺麗ながらんどうの入れ物だけしか残っていなかった。

 

 気分を変えるためにコースを離れる。

 公園を中心に、それをぐるりと取り囲むように走るレーンが設置されている。向かう先はその中心、適当に遊具の近くに設置されたベンチを見つけ、腰掛けた。

 

 手すりに何か、ちょこちょこと小さく動くものが居た。

 背中に赤い二つの星が有るてんとう虫、なんとなくそれを右手に誘導する。

 うまく手の背に乗った星は人差し指を辿って行き、すぐに飛び立つ。それが目で追えなくなっても、じっと飛んで行ったであろう方向を見ていた。

 

 見上げた先は酷く綺麗な赤い空、久しぶりに晴れたいい天気。

 最近の曇天続きで溜まった鬱憤を晴らすかのように、子供は元気にはしゃぎまわる声がする、それを保護者がなだめようと必死になる声も聞こえていた。

 

「お姉ちゃん、遊ばないの?」

 

 ふと幼い声が耳に入ってきた。多分俺に向けた言葉、視線を下ろせば見覚えのない子供がボールを持って目の前に佇んでいた。

 ほんの少しの既視感は多分、お姉ちゃんと呼ばれたことと子供が女の子だったからだろう。

 お兄ちゃん、お兄ちゃんと後ろから必死についてくる声があったことを忘れることはない。

 遊んでいる子供を見れば女の子の方が多く、別に仲間はずれにされることもないのだろう。別に彼女が一人寂しいから俺を誘ったわけではなく、心配してるからこそ声をかけた。それを証明するかのようにハラハラと女の子を見つめる視線がいくつもあった。

 

「いや、俺のことは心配しなくていいよ」

「でもお姉ちゃん、なにか元気無さそう」

「それでもだよ。子供はな、大人の心配をする必要はないんだぞ」

 

 そう言いながら笑顔で子供の頭を撫でてあげる。

 男の頃なら事案確定だっただろうけども、今ならば許されるだろう。そして女の子も笑顔でその手を受け入れてくれていた。

 

「ほら、お前も友達と遊んでこい」

「わかった! お姉ちゃんも元気でね!」

 

 心配そうにこちらを見守る子供達へ女の子を戻し、また思考の海へ一人溺れる。

 もう笑みを取り繕う必要もない、それはただ酷く自分を疲弊させるだけだから。

 自分を偽ることの苦痛さはこの一週間で酷く思い知らされていた。

 

 そういう意味ではあいつといる時間だけは楽だったのは確かで、そして今日休みだったのがほんの少しだけ寂しく思えた。

 

 自分が触れて欲しくないことには触れようとせず、それにわざとらしさも感じさせることはなく。それが自然体なのか、意図してのものなのかわからない。

 一線を踏み越えてこない相手が欲しかった、そういう意味ではあいつは望まれた仕事をきっちりこなしていた。

 

 でもほんの少しだけ、ほんのちょっぴり。

 何かをあいつに期待していた気がしていた。

 

 それが何か探ろうとしたところで夕焼けチャイムが鳴った。まだ空は明るくとも、子供たちは慌てて帰り始めていた。それに合わせてベンチから立ち上がる。別に家に帰るわけではなく、また習慣に戻ろうしてるだけだ。

 

 影法師はすっかり木陰に隠れていた。ゆっくりゆっくり進んでいく俺の隣を、子供が駆け抜けていく。

 歩みは進めど、考え事は進まない。

 同じコースをぐるぐると回るように、俺の思考も同じところを行ったり来たりしてるだけで、ちっとも先へ進まない。

 

 これから俺はどうすればいいのだろうか?

 そんな簡単な質問の単純な答えが、どうしても見つからない。体が女になったからといっても、それでやれることは別に増えてはいないのだから。

 

 そして一周の区切り、0と地面に描かれたところに差し掛かり、足を止めた。

 コースから少し離れた所に自動販売機が有った。

 その目の前でポツンと立っている男が一人、多分買うものを選んでいるのだろう。

 後ろ姿だけなのに、一目であいつだとわかってしまった。

 

 何故ここにお前がいるのか、そしてなぜ家で休んでいないのか、そんな疑問が浮かぶ。

 

 あいつはまだ、こちらに気づいていない。このまま先に進めば多分今日、会うこともないだろう。

 なのに呆然と立ち止まっていたのは、あいつの目的が俺ではないと思いたかったからだろうか?

 それとも逆にわざわざ俺に会いに来たんだと思いたかったからだろうか?

 話しかけて確認すればすぐにわかることだ、それでも俺は確かめようとしなかった。

 

 そうこうしてるうちにそいつはボタンを押し、落ちてきた缶を手にとって自動販売機に背を向けた。

 

 そして視線が交錯する。ピタリと互いに動きが止まったあいつがどう動くのか、それだけを注視していた。

 一日ぶりに見た顔は何故か酷く疲れているように見える。

 一度酷く打ちのめされて、それでも無理やり痛む体を動かしているような、そんな感じ。

 

 ほんと少しためらいが見える足取りは、すぐにしっかりと堂々としたものに変わり、そして俺の前まで来て立ち止まった。

 

「……どーも」

 

 自分がやったものながら、酷く他人行儀の挨拶だと思った。それをあいつは軽く笑い飛ばした。

 

「よう、鈴木。元気そうだな」

 

 そういうお前は酷く弱って見えるけどな、そう思っても口は動かなかった。酷く喉が乾いていく感じだけが残る。

 それを知ったか知らずか、自分のために買ったであろう缶コーヒーをこちらに差し出してきた。

 

「あったのも何だし、ちょっと話をしないか」

 

 自分の好みのコーヒー、それを何故こいつが知ってるのかは分からない。それを聞こうとして口を開けば、出たのは違う言葉。

 

「和泉のまねごとでもしてんのか?」

 

 苦しそうで、痛そうな、そんな複雑な表情。

 それでも缶コーヒーを引っ込めることなく、まだ受け取るのを待っていた。

 

「……俺には和泉のように振る舞うのは無理だ」

 

 その言葉を聞いて、無言で缶を受け取る。

 それを返事と受け取ったのか、スタスタと近くにあるベンチへ向けて歩き出した。話をする代金が120円、高いのか低いのか、それは全くわからない。

 

 ただ俺が今やるべきことは、背中を追いかけるだけだということはちゃんと分かっていた。

 

 三人がけのベンチ、その一番端に座るのをみて、もう片方の端へと腰掛けた。何か言いたげに一つ空いた空間を見やるけどそれを無視してプルタブを引く。

 

「……で今日学校休んだんじゃないのかよ」

「まあ、何というか、本当は調子悪くないんだ」

 

 一息半分ほど飲み干して、投げかけた質問。

 少しだけ考える様子を見せるも、嘘をつくのはやめたようだった。

 ふーんと思いながら、もう一口飲む。

 

「ああ、席あけてるの風邪とか疑ってたのか」

「いや別にそれは関係ないんだが」

「……そうですか」

「お前がサボりねえ、珍しい。まあ本当に調子が悪そうに見えたけど」

「それは鈴木もだろ?」

 

 思わず口が歪む。

 お前からもそう見えるのか、子供に心配されたことと繋げれば、どうやら相当にひどい顔をしてるということだろう。皮肉げに笑う自分から目をそらすのを見て、俺も視線を前に移した。

 

「でさ、お前はなんでここにきた?」

「偶然だよ、本当に偶然さ」

「そんな訳あるかよ、俺が信用すると思ってるのか?」

 

 偶然であるはずがない。

 わざわざベンチまで誘導する時点で、何か目的のある長話をしようとしてるのは見えていた。

 缶の表面に付いた水滴が、地面に落ちていく。

 ジワリと地面に滲む黒い点を足で踏みにじった。

 

「本当に全部偶然だった、俺が先週ここに向かうお前の姿を見たのも、そしてそれを繰り返していることを知ったのも」

「……で俺に会いに来たと」

「そういうことだ」

 

 最後に一気に飲み干し缶をゴミ箱に向かってふわりと投げた。綺麗な放物線を描いて、缶は吸い込まれて行き。

 カランと綺麗な音が響いた。

 

「逆に聞いていいか?」

「答える答えないかはおれが決めるけどな」

「なんで鈴木がここにいる?」

 

 なんで俺はここにいるのだろう。

 酷く単純な質問、それぐらいの質問なら簡単に答えられるだろう。

 

「……暇潰しだよ」

「そっか」

 

 なのにそれを答えるまでに酷く時間がかかって、そんな答えに納得する訳ないと思っていたのに、それでもその言葉を静かに受け入れていた。

 それを見て自分勝手な苛立ちだけが積もる。

 俺の何を分かってるつもりだというのか。

 

「話したいことは色々あるんだ、頼み事とかもあるしな」

「頼み事? まさか内田のこととかじゃないだろうな」

「……違う」

 

 肩透かしの返事、嘘をついてるか見破ろうと顔を見ても全く動じない。

 

「鈴木はさ、俺になんか頼みたいこととかあるか?」

「べつに、お前に頼むなら自分で解決できるだろ」

「まあそうなるよな、俺にものを頼むなんて畑違いだろうさ。それでも頼まれたからにはしょうがないんだよ。そしてお前は俺に付き合ってくれといったから、俺は今ここにいる」

 

 そういうなり立ち上がり、前へ数歩進んだ。

 顔を見ようにも逆光でよく見えず、顔を下に向ける。

 

「そして、これからの話をしよう」

 

 明るいそんな声がした。

 



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