ようこそ事なかれ主義者の教室へ (Sakiru)
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第一章 ─実力至上主義の教室─
分岐点 Ⅰ


 

 突然だが、今からオレが出す問いについて真剣に考えてみて欲しい。

 

 問い・人間は平等であるか否か。

 

 現在、日本は──いいや、世界は。

 人間は平等であると(うた)ってやまない。平等であると訴えてやまない。

 男女の差をなくすべきだと大衆(たいしゅう)は強く叫び、それに応えようとする社会。

 その例として挙げるのなら、『男女雇用機会均等法』や、『女性優先車両』といったものだろうか。しかしそれは仮初のものでしかない。時には、名簿の順番にすらケチをつける現実がある。

『障害者』だと表現するのは差別の具現化であるとして『障がい者』に訂正したところで意味はなく、その()()が何かしらの障害を患っていることは残酷なまでに事実だ。

『障がい者』は『障碍者』であるとどんなに綺麗な字面を(つづ)ったところで社会は深層意識で認識していて、新聞やニュースでは『障害者』だと報道する。

 パートやアルバイトといった非正規雇用社員たちはどんなに仕事を頑張っても正社員に渡される給料には遠く及ばない。彼らはいつ首を切られるか分からない毎日をびくびくと怯えながら送っている。

 そんな嘘偽りだらけの欺瞞(ぎまん)の世の中で、オレは思う。

 

 ──この世界は、平等ではない。

 

 以前、国語辞典で『平等』の意味を調べてみたのだが、そこには『差別や偏りなくみな一様に等しいこと』と書かれていた。

 しかしオレは腑に落ちなかった。次の疑問が湧いたからだ。

 

 ──そもそもの話、どこでひとは『平等』であると判断するのだろう。

 

 大学進学したら平等であるのか。

 異性と結婚し、子どもを産み、最期の瞬間は大勢の人たちが見守る中で逝くのが平等であるのか。

 あるいは、この世に生を授かるだけで平等であるのか。

 

 あるいは、あるいは、()()()()────。

 

 いや、違うかもしれない。

『平等』なんて言葉がある時点で、ひとは決して『平等』ではないのだ。

 嘗ての偉人は『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』という立派な言葉を混沌(こんとん)とした世の中に生み出した。だがなにも、その偉人は皆が平等であると明記したわけではない。

 有名すぎるこの言葉の次にはまだ、まるで自らの論説を裏切るかのようなフレーズが記されているのだから。

 その続きは訳すとこうだ。

 産まれた時は皆平等だけれど、将来、仕事や身分で違いが出てくるのはどうしてかと訴えている。

 さらには、こうも続けている。

 差が生まれるのは学問に励んだのか励まなかったか否か。それで生まれると。

 それが、有名すぎる『学問のすゝめ』の著者、福沢諭吉(ふくざわゆきち)が語った言葉だ。

 つまり彼は、スタートラインはあくまでも同じであり、様々な可能性をその手で摑めるか否かは自分の手に掛かっており、他人や環境には左右されないと言ったのだ。

 その例として学問を挙げたにすぎない。

 また彼の他にも、似たような言葉を放っている偉人がいる。

 そのひとはこう言った。

 人間の運命は人間の手中にある、と。フランスの哲学者サルトルは奇しくも福沢諭吉とほぼ同じように考えたのだ。

 兎にも角にも、人間はこの地球上、唯一の意思ある生物だ。

 考えることが出来る人間は必ず気付く。

 

 ──嗚呼、人は決して平等ではない。

 

 だからこそひとはその現実を受け入れるわけにはいかず、様々な問題を自分で生み出していくのだ。

 環境問題しかり、戦争しかり。

 醜い欲望は際限なく湧き続け、やがてじわじわと世界に浸透していく。けれど不思議なことに、その欲望が同時に世界を前へ前へと進めていくのだから皮肉なものだ。

『平等』ではないからと、人は過ちを繰り返す。

 

 ただ──『平等』を目指すために。

 

 

 

§

 

 

 

 四月。入学式。

 この時期は世間一般では、『出会いと別れの季節』という共通認識として認知されているだろう。

 出会いとは、新しく出会う人を意味する。

 別れとは、その逆……別れる人を意味するそうだ。

 これまでの人生、そのような言葉とは無縁な道を歩いてきたオレは、期待に胸を膨らませていた。

 先の読めない学校生活に一抹の不安と、けれど沢山の希望を夢見ていたオレは昨夜なかなか寝付けず、予定より二本程早くのバスに乗ることに。厳密に言うと始発だ。

 まだ出発時間には程遠いのか、乗客はオレ以外見当たらず独り悲しい時間を過ごしていた。

 ……凄く居心地が悪い。

 視線を感じて前を見ると、運転席で飲料水を(あお)っていたバス運転手と目が合った。

 

「お客様、当バスの出発時間まで三十分はあります。それをご了承下さい」

 

「……大丈夫です。もともと、早く乗っているオレが悪いので」

 

「今日から高校生ですか?」

 

「ええ、はい……」

 

 男性バス運転手の気遣いがかなり痛い。

 オレが乗車したのがおよそ五分前だから、合計三十五分はこの場に居なくてはならないのか……。

 普通の人だったら退屈すぎて暇になるだろうが、オレにとっては見えるもの全てが新鮮だ。

 天気は雲一つない快晴。『碧空』と呼ぶのだろう。

 今日はオレの門出(かどで)に相応しい日と言えるだろう。新たな一歩目が無事に踏み出せそうで本当に良かった。

 落ちていく桜の花びらを一枚二枚と数えていると、徐々に人が乗り込んでくる。

 スーツ姿の社会人は言うまでもないが、車内は制服に身を包んだ高校生ですぐに一杯になった。

 皆、オレと同じ制服であり──つまりは、オレと同じ高校に通い始める新入生であることが窺える。

 そわそわとした落ち着きなさと真新しい服から一目瞭然で、勝手に親近感を抱いてしまう。

 前や後ろの席に乗客が思い思いに座っていく中、何故かオレの隣の席は埋まらない。

 なにも、我が物顔で唯一の荷物であるスクールバッグを隣のスペースに置いているわけではない。まして、ひと二人分のスペースを占領しているわけでもない。

 流石にそんな非常識な行動をオレはしないし──そんな度胸がないだけだが──、身体も精一杯窓際に寄せている。

 そしてとうとう、中には狭い幅の廊下に立つ人もぼちぼちと出始めた。

 空いているぞ! と念を込めて彼らに視線を向けるのだが……どうしてか怯えるように、あるいは気まずげに目を逸らされてしまう。

 これはもしかして、彼らの目にはオレが不良だと映っているのだろうか。

 だとしたら風評被害に甚だしく腹も立ってくるが、同時に悲しくなってくる。

 オレ自身、自分のことは活発そうな雰囲気を出しているとは到底言えないが、そんなになのか。

 ……仕方がない。ここは諦めるとして──

 

 

 

「ごめんなさい、お隣よろしいでしょうか?」

 

 

 

 ──女性特有の高いソプラノの声が、バス内に響いた。

 虚ろになっていた目を正常に戻してから声主に首を向けると、オレは思わず目を見開かせてしまう。

 彼女の特徴をあげるとするならば、まずはその髪色だろう。見る人の目を引き付けて止まない美しい銀色。

 その証拠に、ほとんどの乗客が彼女に魅入られていた。

 着ているのはオレと同じ制服。

 つまりは彼女も俺と同じ学校の生徒なのだ。

 

「駄目、でしょうか?」

 

「……いや、構わない。むしろ助かる」

 

 助かる云々のところで女性は不思議そうに首を傾けたが、オレの返答に一言礼を告げてから隣に座った。

 ふわりと女性特有の甘い香りが鼻腔(びこう)をくすぐって、内心ドキマギしてしまう。

 何せ、至近距離で異性と座ったことなど一度もないのだ。そうでなくとも、この状況は緊張するのが()()()()()()()()()()と言えるだろう。

 だが彼女はそうではないのか、膝に載せたスクールバッグのチャックを開き一冊の文庫本を取り出す。

 

「『ABC殺人事件』か……」

 

 思わず呟いてしまった。

 オレの漏らした独り言に少女は肩を少し上下してから、こちらに訝しげな視線を送ってくる。

 ──……もしかして違ったか? 

 いやでも、あの表紙は間違いなくアガサ・クリスティ著の『ABC殺人事件』で間違いない。

 数日前に同じ本を読んだばかりだから自信がある。

 そうなると考えられるのは、オレのことを気味悪く思っている線にしか考えられない。

 出会って数秒の赤の他人に、自分が読もうとしていた本の題名を口に出されたのだ。変質者だと思われても仕方がないかもしれない。

 訂正。オレの高校生活はどうやら前途多難になりそうだ。

 彼女と目が合う。

 次の瞬間には放たれる罵倒を予想し、思わず目を瞑ると。

 

「『ABC殺人事件』を知っているんですかっ?」

 

 放たれたのは、やや興奮気味な質問。思いもしない言葉、そして展開に面食らってしまった。

 呆気に取られながらオレは答える。

 

「……そうだが」

 

「面白いですよね、『ABC殺人事件』。アガサ・クリスティが十八作目に著した長編推理小説。キャラクター、ストーリー性など全てが良いです。正しく、文学史の名作中の名作と言えるでしょう」

 

「……そうだな。アガサ・クリスティが執筆した小説はどれもとても面白いと思う」

 

 オレの肯定に少女は目を輝かせた。

 彼女は空いていたスペースを詰めてオレに体を近付けてくる。

 どうやら余程本が好きなようだ。

 しかしこの距離は困る。

 彼女の整った顔が超至近距離にあって、大袈裟(おおげさ)な表現を使えば唇と唇とが触れ合いそうな、そんな距離だ。

 綺麗だな。

 そんな風にどきどきしていると、降り注ぐ矢の数々に身の危険を感じた。

 恐る恐る発信者の方に顔を向けると、そこからは奇異と、そして嫉妬の目が……。

 奇異の正体は社会人と女子高生から。嫉妬の正体は男子高生からだ。

 

「あー、悪い、その……」

 

「……ごめんなさい。興奮してしまいました」

 

 幸いにもオレの意図を汲み取ってくれた少女は申し訳なさそうに両目を伏せながら離れていく。

 それと同時に、放たれていた槍が止んだ。た、助かった……。

 ほっと安堵の息を吐いてから逃げるように外の景色を眺めると、先程まであった桜の木が消えていることに気付く。

 目まぐるしく変わっていく景色。

 どうやら知らぬ間にバスは出発していたようだ。

 

「改めてごめんなさい。その、本が好きな方は近年減少している傾向が私たちの年代では顕著に見られているので、つい……」

 

 隣で控えめな声で謝罪が出された。

 だが一言言わせて貰えば、オレは熱く語っている彼女のように、特別本が好きではない。

 

「オレはそんな、読書は趣味じゃないぞ。本はたまに読むくらいだからな。それにアガサ・クリスティは別段、マイナーな小説家じゃないだろ?」

 

「……そうでしょうか? 確かにアガサ・クリスティの本は世界的にも有名ですが、それでも読もうと思える高校生がどれだけ居るでしょう」

 

「かなり多いと思うが。実際、有名な本は映画化されているのが多い。本を最初にではなく、映画を最初にして、そこから本を読むパターンは多いんじゃないのか?」

 

「あなたの言う通りですが、そうでも無いんですよ。アガサ・クリスティは外国の人です。つまりは外国の本です」

 

 女性はそう言葉を締めくくった。

 ……これ以上の説明は不要とばかりに自信満々に。

 

「悪い、もうちょっと詳しく頼めるか?」

 

「ごめんなさい、それだけで分かると思ったのですが……」

 

 皮肉なのか、それとも天然なのか……。多分後者であろうと推測する。

 推理小説を読んでいる影響のせいなのか、脳内で物事を自己完結させてしまう癖があるようだ。

 

「話を戻しますね。先程も言いましたが、アガサ・クリスティは外国……イギリスで産まれました。そして当然、彼女が使う言語は外国語です。厳密には英語ですね。当然、日本で出版する場合、大半は日本語訳されてしまいます」

 

 ここまで聞けば流石に言いたいことが分かった。

 

「……なるほどな。翻訳するにあたって、原本を尊重するのは義務と言っても良い。原本から乖離しない程度に表現するのに苦労するんだろうな」

 

 それにしても、そこまで考えるとは。

 好きなことだからこそ、ここまで熱意を傾けられるのだろうか。だとしたらとても羨ましい。

 何も無いオレからしたら羨望の対象だな。

 

「話が脱線してしまいましたね。結局のところ私が言いたいのは、あなたはやっぱり本が好きだと思うんです。趣味かどうかはこの際置いといて、少なくとも興味は引かれるのでしょう?」

 

「……それは否定しないが」

 

「なら、どちらかというと好きなのではないでしょうか?」

 

「……」

 

「好きでもないことを、やらないと思いますしね」

 

 少女の真摯な瞳をオレは直視した。

 そして数秒熟考する。

 彼女の言葉を受け止め噛み砕く。

 

「……そうだな。どうやらオレは、読書が好きなようだ。それに趣味でもあるらしい。思い返してみれば、心動かされるのがこれくらいしか思い浮かばないしな」

 

「はいっ」

 

 女性は自分の事のように嬉しそうに、そして優しく微笑んだ。

 綺麗だなと、またも思ってしまう。

 無趣味でつまらない人間だと自分では思っていたのだが、存外、そうでもないようだ。

 いやまあ、たかが趣味が一つ出来ただけで大袈裟だとは思うが……。

 その後は周りに迷惑が掛からないように配慮しつつも、オレたちは互いの好きな本について語り合った。

 偶然にもオレと彼女の好きなものは似通っていて、話に花を咲かせることが出来たのは素直に嬉しかった。

 それから程なくしてバスは目的地に着き停車する。彼女と一緒にバスを降りると、そこには天然石を連結加工した門がオレたちを待ち構えていた。

 かなり立派なものだ。

 バスから降りた少年少女たちはぞろぞろと門の下を潜っていく。

 足運びは安定しておらず彼らの不安が窺える。

 無理もない。今日からここに通い始めるとはいえ、目の前に広がる景色は未知だ。

 

 東京都高度育成高等学校。

 

 日本政府が作り上げた、これから先の未来を支えていくであろう若者たちを育成する学校だ。

 ここに今日から通うのだ、オレは。

 

「何かのご縁ですし、途中まで一緒に行きませんか?」

 

 希望に通じるゲートを感慨深けに眺めているオレに、少女が誘ってきてくれた。

 

「寧ろオレも頼みたい。この学校の内部がどうなっているか分かっていないから、迷子の危険性も充分にあるからな」

 

「迷子、ですか? それは考えていませんでした」

 

「……迷子は冗談だ。新入生が迷わないように地図が配置されているなり、職員が居るだろうしな」

 

「ああ、確かにそうですね。それでは、行きましょうか」

 

 少女はそう言って先に歩き出す。

 ……なんと言うか、独特な雰囲気の持ち主だな。

 今どきの女子高校生はこういった人が多いのだろうか。

 そうだとしたら頭を抱えてしまうが……そうでないことを切に願おう。

 オレが小さくため息を零したタイミングで、数歩先の彼女が振り返る。

 も、もしかして聞かれたか……? 

 しかしオレの懸念は的外れだったらしい。

 

「そういえば、お互いに自己紹介をしていませんでしたね。私は椎名(しいな)ひよりと申します」

 

 言われてみれば確かにそうだった。

 椎名ひより、か。

 人の顔と名前を(おぼ)えるのはそこまで得意な方ではないが、彼女のことはまず間違いなく憶えるだろう。そんな確信があった。

 

「オレは綾小路清隆(あやのこうじきよたか)だ。あー、これからよろしく頼む」

 

 あまりにも単調な自己紹介をしながら、オレはそんな予兆を感じた。

 



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個性的なクラスメイトたち

 

 入学式が好きな新入生はかなり(まれ)だろう。

 その殆どは校長先生や在校生である先輩方のありがたい話を煩わらしく思ったり、式中の立ちっぱなしに不快感を覚えたりするはずだ。

 しかし誰しもが、心の中では面倒臭さを感じつつも表面上では真剣な表情で顔を塗り固め、誠実さを少しでもアピールする。

 何故か。

 答えは簡単で、入学式とはオレたちにとっては最初の試練なのだ。

 式の開始に遅れるようなものなら同級生からは侮辱され、偉大な人生の先達からは調子に乗っているのかとマークされてしまう。

 そうなってしまえば、これから先の学校生活に支障を(きた)すことは誰の目にも明白で……それ故に式はあくまでも厳粛(げんしゅく)に催されるわけだ。

 しかしながら入学式が終わっても、まだ地獄は続く。

 というのも今からおよそ一週間弱で今後の学校生活が変わってくるのだ。

 突然だが、今からオレが出す問いについて真剣に考えてみて欲しい。

 

 問い・学校生活において必要不可欠なものは? 

 

 答えは簡単、友達だ。

 もちろん中にはそんな存在は必要ないと(のたま)うひとも居るだろう。だが、オレはそうは考えない。

 例えば友達を一人も作らず学校生活を送るとしよう。

 一番困るのは風邪や頭痛といった要因で学校を欠席する場合だ。友達が居なければどこまで授業が進んだのかが分からないし、さらに言えば何か重要な連絡事項があったかもしれない。

 あるいは体育の授業でグループを作る時。よくあるのが、『好きな奴とペアを組め』だ。当然なのだが、好き(この)んで嫌いな奴とは積極的に組もうとは思わないだろう。残った者同士で組める可能性ももちろんあるが、その場合、気まずくなるのは必至だ。

 つまり何が言いたいのかというと、最初のスタートの出来によってこれから先の未来が左右されてしまうのだ。

 そしてオレのモットーは事なかれ主義。

 平穏なスクールライフをエンジョイ出来ればそれで良い。友達はもちろん欲しいが、多くは必要ないだろう。

 幸か不幸か、学校生活が本格的に始まる前にオレは、友達が一人出来ている。

 その名前は椎名(しいな)ひより。

 ただバスの中で偶然居合わせたオレたちだが、自惚れで無ければ嫌われてはいない……はずだ。

 理想を述べると同じクラスが良かったのだが、世の中そんな上手くいくはずもなく。

 オレが一年Dクラスなのに対して、彼女は一年Cクラスという現実があるのだが……。

 他クラスに友人が出来たのは朗報だが、やはり所属するクラスでもある程度の人間関係は築きたいものだ。

 一応前日……というか昨夜は脳内で様々な状況をシミュレーションしている。

 

 ──明るく元気に教室に飛び込もうかな? とか。

 ──手当り次第に声を掛けてみようかな? とか。

 

 特にオレの場合、今までの生活とは大きく環境が違う完全なアウェー状態。

 人はこれを、孤立無援と言う。

 ……いや、ここはあえてプラスに考えよう。

 インターネットで調べて知ったのだが、世の中には『イメチェン』と呼ばれる言葉があるらしい。ボッチだった奴がリア充になる……なれる可能性も捨て切れない。この世界は可能性に満ち溢れているのだ。

 つまり結局はオレの努力しだい。

 オレは勝つ! 食うか食われるかの弱肉強食の世界に踏み出したオレは、ホワイトボードに貼られている座席表に目を通してから相棒に向かった。

 割り当てられた座席は窓際の一番後ろ。

 なんてことだ……これでは困る。欲を言うと真ん中あたりが良かったのだが……。

 それに普通、最初の座席は『あいうえお順』では?

 オレの名前は『綾小路(あやのこうじ)清隆(きよたか)』だから『あ』だ。つまりは一番前に近いのが通例の筈……。

 いや待て早まるな。

 そういった先入観は捨てた方が賢明かもしれない。そうに決まっている……! 

 嘆息してから教室内をぐるりと見回すと、生徒が全然居ないことに気付く。というか誰も居ない。

 始発バスに乗った弊害だな……。

 仕方がない。ここは寝ることにしよう。昨夜は興奮のあまり寝付けなかったし、高校生活一日目から居眠りするのは避けたいところだ。

 

 ──数分後。オレは目覚めた。

 

 ふわぁ……と欠伸(あくび)をしながら室内を確認すると、机の半数程が生徒によって埋まっている。

 大半の生徒は学校の資料を読んだり、あるいはオレのように仮眠を取ったりと一人の時間を過ごしているようだった。

 だが例外はあるようで、前からの知り合いなのか……それともたった数分で仲良くなったのかは知らないが、一部では世間話に興じている姿が見受けられる。

 さて、どうしたものか。この貴重な時間を活かすべく、誰かに話し掛けてみるか? 

 ちょうど前の方のやや小ぶりの少年は独り悲しい時間を(勝手な想像)過ごしているように見受けられる。

 誰か僕と友達になってよ! というオーラがビンビンに感じ取れる(勝手な想像)。

 ここはクラスメイトとして応えるべきところか? 

 いやでも……急に話し掛けたら迷惑かもしれないな。

 彼は実は孤高のソロプレイヤーで、俺は独りが好きなんだ! とか言われるかも……。そうなったら泣きそうだ。

 いやでもでも、それはオレの勝手な妄想で……──。

 だ、駄目だ、考えれば考える程に負の連鎖が続いていく。

 しまいには、あの子独りだねクスクス、みたいな幻聴まで聞こえてくる。

 オレの高校生活はもう幕引きするかもしれない。

 死んだ魚の目で虚空を見つめながら、オレはふと思った。

 

 友達ってなんだろうな、と。

 

 そもそも友達の定義ってなんだろう? 一緒に遊べば友達なのか? 夕焼けをバックに喧嘩でもしたら友達なのか? 定期テストで一緒に赤点を取れば友達なのか? 

 そんな深い謎に頭を悩ませてから、オレはとうとうある結論に達した。

 ────友達って作るの面倒臭いな。そもそもの話、狙って作るようなものでもない気がする。椎名の時みたいに、友達って自然な流れで構築されていくんじゃないのか? 

 そして気付けば、クラスは大勢の生徒で密集されていた。

 オレが気に掛けていた少年も、他の生徒に声を掛けられている。そして初々しくも浮かべる勝利の笑み。

 ……なるほど。どうやら彼は友達作りに成功したようだ──。

 

「羨ましい……!」

 

 激しく猛省。やっぱり世の中は弱肉強食なのだ。

 弱い者は淘汰(とうた)され、強い者だけが勝ち上がる。

 だがオレはまだ諦めない……! 諦めてたまるか! 

 決意する。今日は絶対に友達を作ろう。

 そしてオレの横では丁度隣人が登校してきたらしく、机の上にスクールバッグを置く音が。

 隣人は少女だった。椎名に勝るとも劣らない美少女といっても過言ではあるまい。

 

「はじめまして。オレの名前は綾小路清隆。これからよろしく頼む」

 

 おお……! 中々に良い自己紹介じゃないか? 

 そんな風に自画自賛するが……。

 

「……」

 

 ……返答は無言だった。

 聞こえなかったのかなと思い立ち、もう一度口を開ける。

 

「オレの名前は綾小路──」

 

「聞こえているわ」

 

「……なら、名前を聞かせてくれると助かる」

 

「拒否しても構わないかしら」

 

 少女はこちらに目を向けるなくそう答えた。

 まさかの返答に瞠目(どうもく)してしまう。

 オレ自身、自分のことはコミュニケーション能力は低い方だと思っているが……彼女はそれ以上なのではなかろうか。

 しかしこれでは非常に困る。

 席替えがあるかどうかは皆目分からないが、それでも数週間は彼女が隣なのだ。

 たとえ生意気だと内心思っても、せめて隣人の名前くらいは知っておきたい。

 ここはもう一度チャレンジしよう。

 

「オレの名前は綾小路清隆。これからよろしく頼む」

 

「……しつこいわね。私に答える気がないのは一目瞭然でしょう。そんなに自己紹介したいのなら他の人とやればいいじゃない」

 

「そうは言ってもな。隣人の名前を知らないのは学校生活に支障を来すと思うんだが」

 

「私はそうは思わないわ」

 

 冷たい一言をオレに()びせ、少女は椅子を引いてから静かに腰掛ける。その姿勢は教科書の見本以上のもので、育ちが良いのが窺えた。

 しかし困った。

 これ以上彼女と会話をしようと意気込むのはオレの勝手だが、彼女を怒らせてしまう可能性がとても高くなってしまう。

 機を熟すのを待つべきか? 

 でもそれだと、さっきの二の舞になってしまう……。

 ちらちらと横目で様子を窺いながら思案していると、彼女は重いため息を吐いた後。

 

堀北(ほりきた)鈴音(すずね)

 

「……えっ?」

 

「名前よ。そんなことも分からないのかしら」

 

 侮蔑混じりの言葉に少しだけ苛立つが、少女……堀北は生来こういった性格なのだろう。

 良くも悪くも素直。

 この流れに身を任せ、オレはさらなる自己紹介をする。

 

「一応オレがどんな人間かというと、趣味は特にない……いや悪い、訂正だ。趣味は読書だな。あとそうだな、興味はなんにでもあって、友達は程々出来れば良いと考えている。まぁつまり……事なかれ主義だな」

 

「そう。私が好きになれない主義ね」

 

「会って早々人の主義を非難するか」

 

「私は裏表ない性格だから。嫌だと思ったら嫌だと言うのよ」

 

 ──……そうですか。

 反応に困っていると、堀北は気になることでもあるのか教室の扉付近に目を向ける。

 オレも彼女の視線を追って見てみると、そこには一人の少年が立っていた。

 彼と会ったら絶対に忘れることはないだろう。それだけの存在感を彼は放っている。

 

「なかなか設備の整った教室じゃないか。噂に違わぬ作りになっているようだねえ」

 

 少年は尊大(そんだい)にそう言いながら、自分の座席へと足を向ける。ネームプレートには高円寺(こうえんじ)と書かれていた。

 大勢の生徒の若干引いた視線に気付いていないのか、彼は機嫌が良いのか笑みを浮かべながら自分の席に腰掛けた。

 ああいったひとでも交友関係は広くしたいのかなと気になり、少しだけ観察する。

 すると彼は両足を机の上に乗せ、スクールバッグから爪とぎを取り出して鼻歌を歌いながら気ままに爪の手入れを始めた。

 周囲の視線や喧騒など意識外へと追いやっているのだろう。

 殆どの生徒が高円寺から興味をなくす中、堀北だけは彼のことがまだ気になっているのか顔を向けていた。

 

「知り合いか?」

 

「誰が」

 

「お前と高円寺がだが」

 

「違うわ。初対面よ。学校行きのバスでちょっとしたハプニングが起こって、彼が渦中の人物だっただけ」

 

「そのハプニングについて詳しく教えてくれると──」

 

「お断りするわ」

 

 話を掘り下げようとしたオレの試みは呆気なく失敗し、堀北は今度こそ話を会話を中断させてスクールバッグから一冊の本を取り出し黙読し始めた。

 少し屈みこみ、本の題名を盗み見る。

『罪と罰』。ロシアの文豪、フョードル・ドストエフスキーが世に生み出した長編小説だ。

 あれ面白いんだよな。バス内で椎名が読もうとしていたアガサ・クリスティ著の『ABC殺人事件』もとても面白いが、個人的にはこっちの方が面白い。

 正義のためなら人を殺す権利があるか否か、それを問いている。

 そうだ、椎名の時と同じようにお互いに好きなことで親密度を上げてみるとしよう。

 

「なあ──」

 

 口を開き掛けたその時だった。

 始業のチャイムが教室内に響き、それとほぼ同時に一人のスーツ姿の女性が現れる。

 彼女は正しく社会人といった具合にきっちりスーツを身に纏っていた。ただ、胸の大きさは隠すことが出来ておらず白い肌が露出している。

 外見だけで判断するなら、堀北と同じような性格だろうか。つまり優等生。歳は三十に届いているかいないか。やや長い黒髪を後ろに束ね、ポニーテール調といった具合にしている。

 この学校の関係者であることは間違いない。

 予想するに、彼女が担任だろう。

 彼女が教卓に向かう数秒の間に、席から立っていた生徒たちは慌てて自分の席に戻った。

 

「新入生諸君。私はこのDクラスを受け持つことになった茶柱(ちゃばしら)佐枝(さえ)だ。担当科目は日本史だ。当校では卒業までの三年間クラス替えはしない。よって、私たちは三年間共に過ごすことになる。よろしく。今からおよそ一時間後に入学式が行われるが、その前に当校の特殊なルールについて説明をしたいと思う。まずはこの資料を配布したいので、前の生徒は後ろの生徒に回してくれ」

 

 そう言いながら茶柱先生は一番前の席の生徒たちに見覚えのある資料を渡し、そう指示してきた。

 確かあれは、入学決定後……合格通知と共に送られてきたものだ。

 この高等学校は、全国各地にある高等学校とは異なったルールが敷かれている。大前提として、生徒は在学中、学校が用意した寮で寝泊まりしなくてはならない。ここまでは寮がある学校とさした変わりは無いと思うが、違いはここからだ。

 生徒は在学中、特例を除き外部との接触を禁じられている。

 つまり家族との連絡は不可能。

 さらには、学校の敷地内からの外出も禁じられている。

 しかしその反面、政府主導で建立させただけはあるのか、生徒に不満を覚えさせないように手配されているのも事実だ。具体的にはカラオケやシアタールーム、カフェにブティックといった娯楽施設や、コンビニエンスストアにスーパーといった施設も存在するらしい。

 そして最も異質なものがある。Sシステムの導入だ。

 

「今から配る学生証カード。このカードにはポイントが振り分けられており、ポイントを消費することによって敷地内にある施設の利用や売られている商品の購入が可能だ。まあ、クレジットカードだと思えばいい。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 学生証に振り込まれているポイントは1ポイント=1円の計算になっている。

 理由は分からない。

 紙幣(しへい)を持たせないことで金銭に関するトラブルを未然に防ぐつもりなのか……あるいは、それとは別の目的があるのか。

 ()にも(かく)にも、ポイントは学校側から無償で提供される。

 

「ポイントの使い方は簡単だから迷うことはないだろう。もし困ったらその場にいる職員に尋ねるように。それからポイントは毎月一日(ついたち)に振り込まれる。今現在、新入生のお前たちには10万ポイントが振り込まれているはずだ。無いとは思うが、もし足りなかった場合は申し出るように」

 

 茶柱先生の言葉に、オレたち生徒はざわついた。

 彼女の言う通りなら、オレたちは現時点で、10万ポイント──つまり、十万円という大金を得ているのだ。

 学生のオレたちにとってその金額は凄まじい効果を生み出す。

 思い思いに周りの生徒と共に言葉を交わす生徒を、茶柱先生はおかしそうに笑った。

 

「意外か? 最初に言っておくが、()()()()()()()()()()()()()()()。倍率が高い高校入試をクリアしてみせたお前たちにはそれだけの価値があるということだ。若者には無限の可能性がある、その評価のようなものだと思えばいい。ただし、卒業後はどれだけポイントが残っていても現金化は出来ないので注意しろ。仮に100万ポイント……百万円貯めていたとしても意味は一切ない。ポイントをどう使おうがそれは自由だ。男子だったら最新鋭のゲーム機が売られているぞ? 女子だったら様々な服屋があるぞ? 自分が使いたいように使え。逆に使わないのも手だな。もしいらないのならば友人に譲る方法もある。……ああ、苛めはやめろよ? 学校は苛めに敏感だから、もし発覚したらそいつは問答無用で退学処分となるからな。では、良い学生ライフを過ごしてくれ」

 

 茶柱先生はそう締め括って、やることはやったとばかりに喧騒に包まれる教室から立ち去った。

 どうやら彼女は、生徒にそこまで興味が無いのかもしれない。いや、それはオレの考えすぎかもしれないが。

 だがいずれにしても……。

 

「思ったよりも堅苦しい学校ではないみたいね」

 

 一瞬オレに声を掛けてくれたのかと期待したのだが、顔をこちらに向けているわけではないので違うと判断した。

 確かに堀北の言う通りだ。

 オレ個人の意見を述べさせて貰うとするならもの凄く緩い。

 もちろん制限はある。三年間の寮生活に、家族との隔離。

 けれどそれを帳消しにする学校のシステム。周辺施設に不備はないだろうし、何より毎月十万円の大金が無償で贈られるのだ。

 そして東京都高度育成高等学校の最大の魅力は、就職率、進学率共にほぼ百パーセントのところ。

 国主導で作られたこの高校は、生徒が望む道に応えるのだとか。

 事実、学校側はそれを大体的に告知しているし、卒業生の中には世の中を賑やかせている有名人もいる。そして有名人の分野は幅がとても広い。

 普通の高校だったら必然と一つの分野に絞られるのだろうが、この高校にはそれは当てはまらないのだろう。それだけの力があるのだ。

 在学中は夢のような日々を毎日送れる。

 卒業後は安泰の人生を歩める。

 生徒にとって、この学校は楽園だ。

 

 

 

 ──だが、本当にそうだろうか? 

 

 

 

 茶柱先生が言った言葉に嘘偽りは無いだろう。仮にも彼女は教育者であるのだから。

 それに、他のクラスと説明が違うようならすぐに看破されてしまうだろうし……。

 駄目だな。

 公開されている情報が少なすぎる。

 

「ねぇねぇ、後で一緒に買い物行かない? 持ってこれた私物はかなり少ないし、服でも見に行こうよ!」

 

「うん! 今だったら何でも買えるしね。……私、この学校に入学出来て良かったな〜。絶対に落ちたと思ってたもん」

 

「私も私も〜」

 

「なぁ、さっきの先生の言葉が本当ならさ。最新鋭のゲーム機が売られてるんだろ? ちょっと見に行こうぜ」

 

「もちろんだ。あのVR搭載ゲーム、売っていると良いなあ……。すぐに完売になったからな、買えなくて悔しい思いをしてたんだ」

 

「お前もか? ならさ、一緒に買って一緒にプレイしようぜ!」

 

 十万円という大金を得た喜びに浸り、浮き足立つ沢山の生徒。

 しまった、完全に出遅れた。

 見れば、既にグループが確立されつつある。

 隣の堀北は孤高を貫くようだがオレは違う。

 けどどうすれば……。

 

「皆、ちょっと良いかな?」

 

 オレが逡巡している中、やや大きめな声が出された。

 誰だと生徒たちが声主に視線を向ける中、そこには数多の視線を身に浴びながらも堂々とした態度を崩さない一人の男子生徒が居た。

 彼は如何にもな好青年で、髪も染めていないようだし、それに立ち姿も綺麗だと思う。

 

「僕らは今日から三年間共に過ごすことになる。だから自発的に自己紹介を行って、一日も早く友達になれたらと思うんだ。茶柱先生の言葉を信じるなら、入学式までに一時間はある。どうかな?」

 

 おぉ……! 凄いことを言ってのけたな。

 大半の生徒が思っていても口に出せなかったことを、あの少年は口に出してみせた。

 集団に訴えるのにはかなり勇気がいることなのに、彼は凄いな。

 

「賛成ー! 私たち、まだお互いの名前すら知らないしね」

 

 一人の少女が賛同したことによって、流れは前に前にと進む。

 最初に自己紹介をしたのは、やはりというか発案者の少年だった。

 

「僕の名前は平田(ひらた)洋介(ようすけ)。中学の時は皆から洋介って言われていたから、気軽に『洋介』って呼んでくれると嬉しいかな。趣味はスポーツ全般だけど、その中でもサッカーが好きで、サッカー部に入部する予定だよ。よろしく」

 

 拍手喝采。

 イケメンにサッカーは最強のコラボだ。好感度が一気に二倍……いや、四倍にアップする。それだけの力が爽やかフェイスとサッカーにはある。

 事実拍手自体は皆送っているが、女子生徒の拍手の度合いが凄まじい。今のたった数秒の自己紹介で、何人の女子生徒が彼に惚れたのか、想像すら難しいだろうな。

 

「もし良ければ、端の方から自己紹介をお願い出来るかな? えっと、そこのきみ。頼めるかい?」

 

「わ、私……?」

 

「うん」

 

 一連の流れに淀みが一切ない。

 多分平田は中学時代もクラスのリーダー的立ち位置だったのだろう。さらに口調や物腰に高慢さが微塵も見られないから、きっと男女問わずのヒーローだったに違いない。

 平田に指名された女子生徒は最初、緊張のあまり上手く喋れなかったが、近くにいた別の女子生徒の手助けによって何とか事なきを得た。

 ちなみに、自己紹介をした彼女の名前は()(がしら)(こころ)と言うのだとか。趣味は裁縫らしく、編み物が得意だそう。

 その後も自己紹介は続く。

 次に立ち上がったのは、一人の男子生徒だった。

 

「俺の名前は山内(やまうち)春樹(はるき)。小学生の時は卓球で全国に、中学時代は野球部でエースで背番号は四番だった。けどインターハイで怪我をして今はリハビリ中だ。よろしくう」

 

 色々と突っ込みどころがあるが、まあ本人がそう言うのならそういうことにしておこう。

 この時、会ったばかりの生徒たちが団結した瞬間だった。

 ……まぁ実際はウケ狙いのジョークだと思うが。クラスのお調子者として板に着きそうだ。

 

「じゃあ次は私だねっ」

 

 勢い良く立ち上がったのは、井の頭を助けた少女だった。

 彼女を見て確信する。

 あれは絶対に、平田同様に男女共に人気者になるだろう。

 

「私は櫛田(くしだ)桔梗(ききょう)と言います。中学からの友達は一人もこの学校に進学していないので一人ぼっちです。だから早く皆さんの顔と名前を憶えて友達になりたいと思っています」

 

 櫛田と名乗った少女はさらに続けた。

 

「私の最初の目的として、ここにいる皆さんと仲良くなりたいです。是非、皆さんの連絡先を教えて下さいねっ」

 

 拍手喝采。

 平田の時とは逆に、今度は男子生徒の拍手の度合いの音が大きい。もちろん女子もだが。

 櫛田のようなタイプが少しだけ羨ましい。きっと中学の時は学園のアイドル的存在だったんだろうな。

 そのコミュニケーション能力を少しでもオレに分けてくれないだろうか。無理か。

 そこまで考え、オレは状況が切迫していることに遅まきながら気付く。

 他人の自己紹介を悠長に聞いている場合じゃない。

 ど、どうしよう……。

 椎名や堀北の時のような自己紹介をするか? 

 でも可もなく不可もなくの自己紹介だと存在感が消える気が……いやでも、それもありのような気がしなくもないような……。

 山内のようにウケを狙いに行くか? 無理だ、先を許してしまったオレに、彼以上のジョークは飛ばせない。

 オレが悩んでいる間にも、非情にも自己紹介は続いていく。

 

「それじゃあ次の人──」

 

 司会役としてすっかり定着した平田は次の生徒に促すが、その生徒は真正面から睨み付けることで対抗した。

 髪の毛を真っ赤に染め上げた、如何にもな不良少年。

 

「俺らはガキかよ。自己紹介なんて、やりたい奴だけやればいい」

 

 おぉ……! 不良少年は真っ向から平田に挑むようだ。

 これには流石の平田も気分を害する……そう、思ったのだが、彼はむしろ申し訳なさそうに。

 

「僕に強制させることは出来ない。不愉快にさせたら謝りたい」

 

 そう言って頭を深く下げた。

 

「なによ、自己紹介くらい良いじゃない!」

 

「そうよそうよ!」

 

「ガキって言うけど、アンタの方がガキじゃない!」

 

 平田の謝罪と同時に彼を擁護する声が不良少年を追い込む。どうやら本当に、平田はこの短い時間で一定以上の人望を得たようだ。

 これからの学生生活を考えるのなら、不良少年もまた平田に謝罪して誠意を見せるべき場面だ。最悪、クラスの生徒全員が彼のことを疎むかもしれない。

 しかし不良少年はますますいきり立ち。

 

「うっせぇ。俺は別に、仲良しこよしするためにここに入ったわけじゃねえよ」

 

 不良少年は席を経ち教室を出ていった。それに追随するようにして数名の生徒も立ち上がる。

 彼らもまた、自己紹介は必要ないと判断した生徒たちだ。

 そして隣人の堀北もそのように判断したようだ。

 一瞬だけこちらに目を向けるが、オレが立ち上がらないことを察知したら何も言わずに歩き出す。

 悪いな堀北。

 平穏無事な生活を送るためには、この行事は欠かせない。

 その後も着実に自己紹介は続いていく。

 彼女募集中の(いけ)寛治(かんじ)に、クラスから早々に変人扱いを受けた高円寺(こうえんじ)六助(ろくすけ)

 自己紹介とは面白いなとオレは思う。

 たった数秒の時間で、その人の人となりが朧気ながら垣間見得るのだから。

 だが──オレには何も無い。

 椎名のおかげで読書が趣味だと気付けたが、他には本当に何も無い。

 ただオレは──自由な鳥になりたくて。

 この広大な世界で思う存分に羽ばたきたくてここにやって来た。

 

「じゃあ最後に、そこの君。お願い出来るかな?」

 

「……えっ? オレか?」

 

「うんそうだよ」

 

 しまった、時間を無駄に浪費してしまった。

 何十人分もの視線がオレの体を容赦なく穿ち、気分が悪くなりそうだ。

 彼らは一様に期待の目を向けてきた(思い込み)。

 そうだ、落ち着くんだ。

 椎名や堀北の時は、一応は上手く出来たじゃないか。

 個性なんて一つもないが……それでもマシなものにはなるだろう。

 ガタッ! と勢い良く立ち上がる。

 一人一人、これから三年間共に過ごすクラスメイトの顔を眺めながらオレは、重たい口を開いた。

 

「えー……えっと、綾小路清隆です。趣味は読書ですが……えー、得意なことは特にありません。えー、皆と仲良くなれるように頑張りたいです」

 

 そそくさと椅子に座る。

 

「よろしくね綾小路くん。一緒に仲良くなっていこう」

 

 向けられる同情の眼差し。

 確信する。オレは多分、良くてコミュ障、悪くて根暗そうな奴だと認識されたに違いない。

 ──練習は本番のように。本番は練習のように。

 そんな言葉が世の中にはあるけれど、なるほど、その難しさを身にしみて実感した。



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文学少女との放課後

 

 個人が失意に呑まれていたとしても集団はそんなこと関係なしに行動する。それが社会ってものだ。

 全国各地に散在(さんざい)している学校と同じように、高度育成高等学校の入学式も無事につつがなく終えた。

 高校生活最初の日は授業は無いのか、茶柱(ちゃばしら)先生はSHRを早々に切り上げ解散を命じた。

 ちなみに、SHRでは敷地内の簡単な説明と、明日からの日程についての確認だけだった。たった半日程で学校は完了したのだ。

 七、八割方の生徒は一種の流れのように学校側が用意した寮へと向かう。自分がこれから三年間過ごすことになる部屋を確認したいという意味合いも当然あるだろうが、それ以前に他にやりたいことが見つからないのだろう。

 娯楽施設がそこら中にあるとはいえ、貰った十万ポイントを消費するのに抵抗を少し感じているようだ。

 だが少数派……一、二割方の生徒は仲良くなった友人とショッピングに勤しむのか、賑やかに笑いながらあれこれと雑談を交わしながらショッピングモールに向かうようだ。会話を盗み聞きすると、中には男女でカラオケに行く猛者(もさ)も……。

 さて、これからどうしたものか。

 気付けば教室内に残っているのはオレだけになっていて、とても虚しい。

 隣人の堀北(ほりきた)や、クラスの人気者となった平田(ひらた)櫛田(くしだ)も姿を消している。

 願わくばお誘いの言葉が来るかもしれないと期待していたのだが、やはりというか、あの最悪の自己紹介のおかげで根暗い奴だと判断されてしまったらしい。

 以前から興味があったコンビニ……コンビニエンスストアにでも行ってみようか。

 でもなあ……。そんな風に悩んでいた時だった。

 

綾小路(あやのこうじ)くん」

 

 廊下から控え目な声がオレの耳に届いた。

 その正体はバスで偶然知り合った椎名(しいな)ひより。

 最初は教室の敷居(しきい)を跨ごうとはしなかったが、オレ以外生徒が見当たらないのを視認したのだろう、律儀に「失礼します」と告げてから彼女はオレの元に歩み寄ってくる。

 

「……椎名か」

 

「はい、椎名です。朝以来ですね、こんにちは綾小路くん。突然で申し訳ないですが、一緒に図書館に行きませんか?」

 

 椎名の誘いの言葉にニヤついてしまうのを懸命に堪えながら、茶柱先生から受けた説明を思い出す。

 ここ、高度育成高等学校は何度も述べるが国主導で作られた高校だ。

 国の威信を見せるべく、あらゆる施設は最高峰(さいこうほう)のものだとか。

 当然それは敷地内にある図書館も同様らしく、何十万冊もの蔵書が保管されているらしい。中には世界で一冊しか存在しない幻の本があるとか無いとか。

 

「分かった。一緒に行こう」

 

「はいっ」

 

 オレの頷きに、椎名は嬉しそうに少しだけ顔を綻ばせた。

 スクールバッグを肩に担ぎ、オレたちは学校が誇る図書館へと移動を開始する。

 

「ところで椎名」

 

「何でしょうか? おすすめの本を紹介して欲しいですか?」

 

「いや、それは興味あるがまた今度にしてくれ。なあ、一つ質問して良いか?」

 

「はい、どうぞ」

 

「何でオレを誘ってくれたんだ? クラスメイトは誘わなかったのか?」

 

 オレがそう尋ねると、椎名は困ったように微笑(ほほえ)む。

 

「その……Cクラスはちょっと、私には合わないクラスだと思いまして」

 

 それ以上語る気は無いのか、椎名は口を閉ざした。

 彼女の言葉を分析してみよう。そうは言っても、得ている情報は限りなく少ないが。

 この半日で──一緒に過ごした時間はもっと少ないが──彼女の性格はある程度は察しはついている。

 オレと同じく、彼女は争いを好まないはずだ。それは纏っている雰囲気や言動から分かる。

 本に関してだけは例外だが、彼女は大人しめの性格のはず。

 それらを考慮するに……。

 

「Cクラスは不良の集まりだったのか?」

 

「……そのような解釈で問題ありません。Dクラスでは、自己紹介は行われましたか?」

 

「ああ、まあな」

 

「私のクラスでも開かれたんですけど……その、個性的な生徒がとても多くて。趣味が合いそうな人もいませんでした」

 

「だからオレのクラスに来たのか」

 

「はい。正直、綾小路くんが教室に残っているとは思っていませんでしたが……」

 

 分の悪い賭けだと思いながらも、こうして足を運んできた。それだけCクラスは彼女にとって居心地の悪い環境なのだろう。入学初日で早計だと思わなくもないが……。

 

「迷惑、でしたか……?」

 

「いや全然。むしろ本当に助かる。自己紹介でちょっと……いやかなり失敗しちゃってな。早速ぼっちになりそうなんだ」

 

 椎名とは末永く付き合いが出来そうだ。同じぼっち街道を歩く同士であるが故に。

 

「それじゃあ、行こうか」

 

「はいっ」

 

 教室を出たオレたちは、携帯端末にプリインストールされているマップアプリを開く。この携帯は生徒に無償で配布されており、インターネットにも繋がっているが、この学校の制限として外部との連絡は如何なる手段によってかは知らないが不可能。

 連絡を取り合えるのは生徒間だけであり、予め電話番号を登録する必要がある。

 

「こっちだな」

 

 初めて使う機械に悪戦苦闘しつつ、オレたちは目的地へ足を向けた。

 それにしても、新入生が入学したその日に図書館を訪ねるなんて、かなり珍しいことだと思う。

 隣を歩く彼女とあるミステリー小説についての見解を話し合いながら移動する。数分後、オレたちはようやく図書館の出入口前に到着した。しかし、オレたちは館内に入れずにいた。

 

「……休館、ですか」

 

 まさかの休館だった。

 近くに立てられている掲示板を見ると、そこには一枚の紙が貼られており、今日は休館扱いの主旨(しゅし)が書かれていた。

 

「……本当に残念です」

 

 無念そうに顔を暗く彩らせる椎名。何とかしたいとは思うが、学校運営なのだから流石に無理だ。

 

「どうする?」

 

「……寮に帰ります。綾小路くんはどうしますか?」

 

 このどうする? は、オレも一緒に寮に帰るかの『どうする』だろう。

 特にやりたいことも思い浮かばないし、椎名に付いていくのが無難──そこまでオレは、当初、何について迷っていたのかを思い出した。

 

「悪い。ちょっとコンビニに行ってみたい」

 

「コンビニ、ですか?」

 

「どんな商品が売られているのか気になってな」

 

 椎名は最初こそ訝しげな顔だったが、オレの返答に納得したのか小さく首を縦に振る。

 

「私も同行しても良いですか? 思えば、寮に日用品がどれだけ備わっているのか知りませんし、もう一度外出するのは控えたいです」

 

「もちろん。それじゃあ行こう」

 

 学校から配布された携帯端末をブレザーから取り出し、近くのコンビニを検索。

 

「あっ、そうだ。綾小路くん……もしよければ連絡先を交換しませんか?」

 

「それは構わないが……良いのか?」

 

「はいっ。綾小路くんとは仲良く出来そうですから」

 

 それは同感だ。

 椎名ひよりの名前が電話帳に載せられ、オレは内心ガッツポーズを取る。これで三年間、空白の電話帳を所持するという最悪の展開は防げた。

 数分後、オレたちは目的地のコンビニに辿り着く。

 

「何すんだ、この野郎!?」

 

 何やら騒動が起こっているようで、怒鳴り声が響いていた。

 カップラーメンの麺と汁が散乱してしまっている。あれは後片付けが大変そうだな。

 三人の男子生徒が一人の男子生徒に絡んでいるようだ。

 というか、その一人の男子生徒はクラスのヒーロー、平田に対峙した不良少年だった。

 

「二年の俺たちに随分な口の利きようだなぁオイ。今年は生意気な一年が入ったもんだぜ」

 

「あ? いい度胸じゃねえか!」

 

 どうやら二年生が一年生を煽っている、という構図のようだ。さて、困ったな。

 オレとしては無視でも構わないのだが──というか、スルーしたい──、流石に不良少年が可哀想だと思わなくもない。

 それに彼はクラスメイトだ。助けて然るべき場面なのか……?

 

「おー怖い怖い。お前クラスはなんだ? あー悪い。……当ててやるよ──Dクラスだよな?」

 

「だったら何だよ、クソが!」

 

「聞いたかお前ら? Dクラスだってよ!」

 

 ゲラゲラと哄笑(こうしょう)する二年生。

 店員や他の利用客は困ったような表情を浮かべているが特に何もしない。

 流石に暴力沙汰になれば店員も対応せざるを得ないだろうが、今のところは無視を決め込むようだ。

 

「あの絡まれている赤髪さんは綾小路くんの知り合いですか?」

 

「まあ、そうだな。知り合いというか、一応、クラスメイトだ」

 

「助けに行かないんですか?」

 

「行かないな。オレが行ったところで助けにはならないだろうし、それに二年生も、ここで殴ったりはしないだろう」

 

「そうですね」

 

「ガッカリしたか?」

 

 しかし、椎名は「いえ」と首を小さく横に振った。

 

「私が綾小路くんだとしても助けには行かないでしょう。あの上級生の方たちも悪いですが、あの赤髪さんも些か態度が悪いですから。それよりも気になるところが……」

 

 椎名はそう言いながら、遠慮がちにオレを見つめる。正確には、()()()()()()()を見つめている。

 ああいった絡みが行われることはオレも入学前に想像していた。もしそうなったら嫌だな、という意味で。

 しかしあの二年生たちは獲物を限定して狙っているように窺える。不良少年がDクラスだと分かった瞬間浮かんだ蔑みの笑みが何よりの証拠だ。

 

「可哀想な『不良品』のお前らには、特別に今日はここを譲ってやるよ。感謝するんだな」

 

「逃げんのか、オラ!」

 

「弱い犬程よく吠える。せいぜい最初で最後の楽をするがいいさ。地獄を見るのはお前らだからな!」

 

 そう言うと、二年生たちは嗤いながらコンビニを出て行った。

 

「ちっ、クソがよ! 入学早々何だってんだよ!」

 

 不良少年も毒づくと、コンビニを出て行った。これで残ったのは散乱しているカップラーメンの麺と汁のみだ。

 それよりも気になる事があった。『不良品』? 地獄を見る? 何とも奇妙な言い回しだ。

 それは椎名も同じようで首を傾げているが、やがて嘆息してから。

 

「それでは買い物をしましょう」

 

「先に物色しててくれ。オレはあれを片付けるから。……すみません、雑巾ってありますか?」

 

 店員から雑巾を借りたオレは床にしゃがみ込んで掃除を開始した。

 カップラーメン特有の濃い匂いが鼻を刺激する。幸い雑巾は布がかなり厚いから液体でびしょびしょになることは無かったが、それでも布越しに感じる不快感があった。

 重たいため息を吐きながら床を拭いていると、隣で人の気配が。

 

「私も手伝いますよ」

 

「……良いのか?」

 

「はい」

 

 短いやり取りを交わす。

 他クラスの椎名に尻拭いをさせてしまうとはなんとも情けない話だ。

 店員に雑巾を返してから、ようやくオレたちはショッピングを開始した。

 俗世間から離れていたオレからすれば、視界に映るもの全てがとても珍しい。顔を近付けて商品を一つ一つ吟味していると、椎名が声を掛けてきた。

 

「さっきはどうしてあのようなことを?」

 

「この店には監視カメラが二個ある。後で問題になったら色々と困るだろうからな」

 

 カップ焼きそばの観察に意識を割きながら、オレは言葉少な目に答える。

 

「良く分かりました。監視カメラには私たちの姿も映っているでしょうし、どうして何もしなかったのかと後日聞かれたら困りますもんね」

 

「特にオレの場合は一応クラスメイトだからな。面倒事にはなるべく巻き込まれたくない」

 

「同感です」

 

 会話が途絶える。

 まぁここからは各々の自由行動で構わないだろう。

 それにしても……凄い種類の量があるんだな、インスタント食品は。店内の一角を堂々と占領するその様はとても圧がある。まるで王様のよう……。

 カップラーメンか、カップ焼きそばか。あるいはカップそばか……。

 まずは王道のカップラーメンが無難か? むむむ……これが究極の選択ってヤツか。違うな。

 

「決まりましたか?」

 

「もうちょっと待ってくれると助かる。……なあ、女の子にこんなことを聞くのはどうだと自分でも思うんだが」

 

「何でしょうか?」

 

「どのインスタント食品が良いと思う?」

 

 オレの質問に、女の子は無表情な表情のままだ。どうにも椎名は感情をあまり表さない。そんなことを言ったら、オレだってそうなのだが。

 ()にも(かく)にも、彼女の内心がさっぱり分からない。

 女の子に何でそんな質問をするの! といった具合に怒っているのか、あるいは呆れ返っているのか。

 ビクビクと怯えているオレを他所に、彼女は棚から一つの商品を取り出し見せてくる。

 

「これはどうでしょうか? 私も時々ですが食べていますから、ある程度の味は保証しますよ」

 

 おぉ……! どうやら真剣に考えてくれていたようだ。

 椎名の器の大きさに感動しつつ、例のブツを受け取る。これで買う物は決まったが、まだようやく一個目だ。

 彼女が持っているカゴの中を確認すると、シャンプーや洗顔料、櫛や手鏡といった物で一杯だった。やっぱり女の子だから身嗜みは整えたいのだろう。

 それにしても困る。

 オレ独自の調べの結果では、女性は買い物の時間が長いと出ていたんだが。

 しかしこれではとてもみっともない。

 男の俺が女を待たせるなど、世間一般では笑われる対象では……? 

 

「先に外で待っていますね」

 

「…………悪いな」

 

「いえいえ。綾小路くんはどうやらコンビニに慣れていないようですし。それでは」

 

 コンビニに慣れていない事実を馬鹿にしている、というわけではなく、椎名は思ったことをそのまま口に出したようだった。

 オレが言うのもなんだがかなり変わっているな。

 彼女の言葉に甘えることにして、数分後、ようやく買う物を選んだオレはレジに並んだ。

 てっきり店員からが話し掛けてきて、短い数秒の間に世間話でもするのだと思い身構(みがま)えていたのだが、そうでもなかった。

 というのも金の支払いは機械に学生証カードを翳すだけで良かったからだ。1ポイント=1円の価値を持つポイント制のおかげで、お釣りが出ることも無く円滑に支払いは終了した。

 ちょっと期待していただけに残念だ……。

 店外では待ち人がオレを辛抱強く待ってくれていた。

 

「遅れて悪い」

 

「大丈夫ですよ。それじゃあ帰りましょうか」

 

 帰途につく中、オレは貰ったレシートを何となく眺める。レシートには各商品の値段(ポイント)と、残高ポイントが記されていた。

 

「椎名」「綾小路くん」

 

 声が被る。

 世の中にはレディーファーストという言葉があるらしいので、オレはそれに倣うことにした。

 それに多分、話題は同じだろう。

 椎名は一言謝罪してから口を開く。

 

「無料商品があることに気付きましたか?」

 

「ああ。日用商品限定だったが、『一ヶ月につき三個まで』といった商品がいくつかあったな」

 

「そうです。……おかしいと思いませんか? どうしてそのような物が売られているのか」

 

「普通に考えるのなら、ポイントを全て消費した無計画な生徒の救済措置なんだろうが……」

 

 それにしてもおかしい点が多々ある。

 まず、一年生は一クラス四十人。そして四クラスあるため百六十人。二年生三年生も同じはずだ。

 つまり高度育成高等学校の全校生徒は、単純に考えるのならば、四百八十人。

 仮に毎月一日に十万円が振り込まれるのだとしたら、月4800万円。年間5億6000万円。

 そんな大金を、国が運営しているとはいえ払ってくれるのか? 

 茶柱先生は毎月一日に振り込まれるとは言っていたが、条件らしい条件は特に言っていなかった。これは間違いない。そして他クラスでも同様のはずだ。

 

「……節約した方がいいかもしれないな」

 

「そうですね。万が一のことがいつ起こるか分かりませんから。でも残念です、本を沢山購入する予定だったのですが……」

 

「数冊だったら問題ないんじゃないか? そうだな……半分残せばまず大丈夫だと思う」

 

 少なくとも最初の一ヶ月は様子見が無難なところか。

 

 

 

§

 

 

 

 午後の二時を少しばかり過ぎた頃、オレと椎名は寮へと到着した。

 一階フロントで管理人から寮に関するマニュアルとルームキーを貰い受け、エレベーターに乗り込む。

 

「……男女共用なんですね」

 

 狭い室内故に、オレは椎名が漏らした呟き声を拾うことが出来た。

 管理人曰くこの学校の寮は男女共用に作られているとのこと。現代社会ではかなり異質なのではなかろうか? 

 オレと椎名が並び立っているのを管理人は勘違いしたのか、高校生らしく節度を保つようとに言ってきたが、そんなことを言うのなら男女別に分けるべきだと思う。

 いやそれ以前に、オレと彼女はそのような浮ついた関係では無いのだが。

 男子が下層なのに対して、女子は上層に部屋が設けられているらしい。セキュリティの面を考えれば妥当か。

 オレが割り当てられた部屋は401。つまり四階だ。

 ピポン! エレベーターが軽快な音を立てて止まる。

 

「それじゃあオレはここで」

 

「はい。また今度、一緒に図書館に行きましょう。それではごきげんよう」

 

 小さく手を振る椎名に軽く手を挙げて、オレは自分の部屋へ入った。

 まずは渡されたマニュアルを確認。

 てっきり電気代やガス代は所持ポイントから差し引きされるのだと勘繰(かんぐ)っていたのだが、それは違うようで完全無料ー-つまり国が代払いしてくれるとのこと。難しいルールもなく、比較的常識的なものが多い。

 部屋は僅か八畳だが、別段買いたいものも特には思い浮かばない為、部屋の狭さで困ることは恐らくないだろう。

 ベッドの上に寝転がり、窓から覗き見える青空に目を向ける。

 今日からこの寮で暮らし、楽しい高校生活を送れる。

 外部との接触は禁じられているが、そんなものに興味は無い。むしろ好都合……というか、そのためにオレはこの高校を受験したのだ。

 初日のクラス内での自己紹介は失敗してしまったが、それは後からでも挽回(ばんかい)出来るはずだ。

 

 嗚呼──自由は素晴らしい。

 

 もう誰の目も、誰の言葉もオレには届かない。

 やり直せる……いや、ようやく始まるのだ──人生が。

 茶柱先生の言葉を借りるわけでは無いが、良い学生ライフを過ごしたいものだ。

 当面の目標は、クラス内で友達を作ることだな。隣人の堀北とはある程度の関係を築きたい。

 明日からの生活が楽しみで、オレは珍しく心の底から笑みを浮かべていた。

 



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部活動説明会

 

 学校生活二日目。授業初日であるからか大半の授業は勉強方針等の説明……オリエンテーションで終わった。

 先生たちの多くがかなりフレンドリーで親しみやすかったことには、多くの生徒が拍子抜けしただろう。国が主導している、という観点から見ればこの学校はお堅いところだと判断されるのだろうが……それを帳消(ちょうけ)しにする程の威力があった。

 居眠りや遅刻する生徒は流石に居ないだろうとオレは想像していたのだが……呆気なくそれは裏切られることになった。例の不良少年……須藤(すどう)(けん)が一時限目の授業から眠りこけていたからだ。

 ここで気になるのが、教師陣は誰一人として不真面目な人間を摘発(てきはつ)しなかったこと。

 高等学校に進学するのはあくまでも生徒個人の意思であり、これまで敷かれていた義務教育からは脱している。個人の判断に任せていると言われればそれまでなのだがーーどうにも()に落ちない。

 そんな教師陣の反応を見て、Dクラスの生徒たちは二時眼目、三時限目と時間が加速するにつれて須藤と同じような態度を取り始めた。

 そしてあっという間にクラスの半分程が思い思いに授業を受ける現実が広がった。

 真面目に受けていたのは平田(ひらた)櫛田(くしだ)といったクラスの中心人物に、堀北(ほりきた)といった少数生徒。

 オレはというと……どっちとも取れない微妙な立ち位置に居る。教科書やノートは机の上に開いて、シャープペンシルも右手に持っているが、手を動かすのはホワイトボードに書かれたことだけを模写(もしゃ)するのにとどめていた。

 

「やっとお昼休みだー」

 

 弛緩(しかん)した空気のまま昼休みに入る。生徒たちは大きく伸びをしながら立ち上がり、顔見知りになりつつあるクラスメイトを誘い食事に出掛けた。この学校には食堂があるらしいので、早速使ってみる算段なのだろう。

 さて困った。

 昨日の放課後のように誰か誘いに来てくれるのを期待していたのだが……なるほど。どうやらオレは完全に出遅れてしまったようだ。昨日は挽回(ばんかい)出来ると高を括っていたが、そうも言ってられない状況にまで切迫している。

 いや待て、それはまだ早計じゃないか。

 この教室に残っているぼっち仲間(思い込み)を誘えば良いんじゃないか?

 オレはさり気なく隣人に視線を向けた。

 

「なあ堀北。一緒に飯でも──」

 

「お断りするわ」

 

「……即答か……」

 

「ええ。誰かと一緒に食事をする必要性を感じないもの」

 

 悲しきかな、オレの努力は容赦なく一刀両断されてしまう。そんなオレに堀北は冷たい視線を向けた。

 

「哀れね」

 

「……何が哀れなんだ?」

 

「自覚がないの? 誰かと食事を共にしたい。誘って欲しい。そんな淡い希望を持っているくせに自分からは決して行動しない。これで哀れじゃなかったら何かと逆に聞きたいわ」

 

「うぐっ。……でもお前も独りだろ。お前は三年間ぼっちを貫き通すつもりか?」

 

「そうよ。私は独りの方が好きだもの。誰かと居るとその人に合わせなくてはならない。そんな余裕、私には無いもの。それよりも昨日知り合ったばかりの隣人を心配するくらいなら、自分の心配をしたらどうかしら?」

 

 スラスラと迷うことなく出される言葉の羅列(られつ)に嘘は感じられず、堀北は本心でそう思っているのだろう。

 そう言われてしまったらオレとしては「まあ、な……」と言葉を濁すしか(すべ)がない。それに彼女の言うことも一理ある。確かに誰かと時間を共有すれば自分の貴重な時間が浪費されてしまうリスクがある。

 けどなあ……。

 まあ、彼女の心配は本人が言うように後にして、今は自分の心配をしよう。

 このまま仮に友達が作れなかったら最悪、苛めにまで発展するかもしれない。

 高校生にもなってそんな悪虐非道(あくぎゃくひどう)な行いをするとは思えないが……それでも絶対ではないだろう。

 授業終了から僅か五分で生徒の数は激減していた。どうしたらいいのかとオレが頭を抱えていた……そんな時だった。

 

「えーっと、今から食堂に行こうと思うんだ。誰か僕と一緒に行かない?」

 

 クラスのヒーローである平田は椅子から立ち上がると、そんな矢を教室に放った。

 そして、飛ばされた矢はオレに直撃した。まったく、これだからリア充には感服する。昨日の自己紹介の提案といい今回といい……オレには彼が神にしか見れない。

 そして、迷える子羊たるオレは、神の御言葉を待っていたのかもしれないな。

 平田よ、今手を挙げるからな。そう思い、片手を恐る恐る挙げようとして──。

 

「私行く〜」「私も私もー!」「平田くん、あたしも良いかな?」

 

 中途半端に動作を止めてしまう。

 まず真っ先に食い付いたのはぼっちでは無く、平田の言葉を待ち侘びていたであろう女子生徒の群れ。

 平田の優しさを考えろよ! お願いだから!

 

「ごめんなさい綾小路くん。ここまで来ると一周まわって同情するわ」

 

「やめろ。勝手に同情するんじゃないっ」

 

「他には居ないかな?」

 

 どうやら平田はハーレム状態をあまり好まない、正に善良の塊であるようだ。

 まあ……よく知らない異性に囲まれて食事をするなんて、そんなの嫌に決まっているか。

 オレは彼に強烈な視線を集中させて助けを求める。

 自分から手を挙げてアピールするのはNGだ。もしそうしようものなら女子からの『こっちに来るんじゃねえ』という拒絶の視線が体を穿(うが)つこと間違いない。

 だが、主催者側である彼からオレを誘ってくれればどうだろう。そうすれば、表向きは歓迎してくれるはず……。

 そんなオレの強い想いが通じたのか、平田はオレの視線に気が付いた。

 

「綾小……──」

 

 オレの名前が完全に呼ばれるまで、残り一秒。

 

「行こ行こっ、平田くん」

 

 だが突如として現れた見た目がギャルっぽい女子生徒が平田の手を引っ張り廊下に引き摺ってしまう。

 名前は確か……軽井沢(かるいざわ)(けい)だったか。人の名前と顔を覚えるのが苦手なオレだが、彼女の名前は忘れないようにしよう。

 

「それじゃ、独りで有意義な時間を過ごすと良いわ」

 

 落ち込むオレを皮肉り、堀北は鼻で笑いながら教室をあとにした。

 悔しい……悔しいが、事実だから何も言い返せなかった。

 食堂に行く気は失せていた。個人的には覗いてみたいが、ぼっちが行ったら──あの子一人なのかな、クスクスみたいな幻聴が……。

 ──コンビニにでも行くか……。

 

「……綾小路(あやのこうじ)くん、だよね……?」

 

 逃げるように教室から立ち去ろうとするオレを妨害したのは……友達作り頑張ります発言を自己紹介の際に告白した櫛田だった。

 椎名(しいな)や堀北と同等以上の美少女だ。彼女たちと対話をしていなかったら今以上のドキドキに襲われていただろう。

 だから余裕を持って彼女を観察出来た。

 肩口まで少し短いところまで伸ばされた茶髪のショートヘアでストレート。校則ギリギリを狙っているスカート丈。

 こう言ってはなんだが、今どきの女子高生を体現しているな……。椎名や堀北はそこら辺普通だからなあ……。

 オレが口を閉ざしていることに慌てたのか、彼女から話を切り出してくれた。

 

「同じクラスの櫛田桔梗(ききょう)です。覚えていてくれてるかな?」

 

 また嫌な質問を。覚えていない、なんて答えたらあとが怖い。主にオレのクラスでの立ち位置がな……。

 

「何となく、としか言いようがないな」

 

「そっか。うん、そうだよね。なら、『何となく』をこれから形にしていくね!」

 

「ああ、オレも善処する。……それで、オレに何か用か?」

 

「実は……綾小路くんに聞きたいことがあって。綾小路くんって、堀北さんと仲が良いの?」

 

 なるほど、話の魂胆(こんたん)は見えた。

 どうやら櫛田の用件はオレにでは無く、堀北にあるようだ。だが当の彼女は現在居ないため隣人のオレに声を掛けた……そんなところか。

 

「仲が良いかと聞かれたら……ノーだ。ただ、嫌われてはいないと思う」

 

 堀北の性格を考えるに、嫌いな奴とはあのような会話とは思えない会話でもしないだろうし。

 

「あいつがどうかしたのか?」

 

「あ、うん……。私の自己紹介を聞いていてくれていたら知っていると思うんだけど……私、このクラスの皆と仲良くなりたいんだ。まずはそのために一人一人の連絡先を聞いているんだけど……断られちゃって」

 

「話は何となく分かった。だが櫛田、残念なことにオレはこのクラスの電話番号は誰も知らないから、頼りにはならないと思うぞ」

 

「そ、そうなんだ……」

 

 困ったように微笑む櫛田の顔が直視出来ない。

 しまった、引かれてしまったか。

 彼女は気まずい雰囲気を変えるように咳払いを一つして。

 

「堀北さんって、どういう人なのかな?」

 

「さあ? ただ、人付き合いに難がある奴だとは思う」

 

「やっぱりそうなのかな……。昨日の自己紹介の時も、彼女、教室を出て行ったじゃない? だから心配で」

 

「なるほどな。ただ悪いな、さっきも言ったけど助けにはなれなさそうだ」

 

「……そっか、うん、分かったよ。ごめんね? 堀北さんの隣の席の綾小路くんだったら仲良くなっていると思っちゃった」

 

「いや、いいさ。ところで、どうしてオレの名前を?」

 

「……? どうしてって、綾小路くん……綾小路清隆(きよたか)くんは昨日自己紹介してたでしょう?」

 

 おぉ……! あんな自己紹介とも言えない自己紹介を覚えていてくれてたなんて……!

 感動のあまり涙が出てきそうだ。

 

「改めて、櫛田桔梗です。これから三年間よろしくお願いします」

 

 櫛田はそう言いながら満面の笑みで手を差し出してくれた。ちょっと戸惑う。すると彼女は焦れたのかもう一度同じ動作を……。

 オレは制服のズボンで軽く汚れを落としてから。

 

「綾小路清隆だ。これからよろしく」

 

 櫛田の手を摑むのだった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 食堂に行く勇気が湧かなかったオレは近くのコンビニへ向かうことにした。

 高度育成高等学校の生徒は例外なく寮住まいのために、昼飯はコンビニ弁当か食堂での食事になるパターンが多いらしい。中には自前で弁当を用意する生徒も居るようだが、現代社会でそのような家事スキルを持っているのはかなり少数だろう。

 

「おや、綾小路くん。奇遇ですね」

 

 寄ったコンビニでは椎名が先客として昼飯のパンを選んでいた。

 軽く手を挙げて挨拶する。

 

「一人か?」

 

「はい。綾小路くんは……私と同じようですね」

 

「……否定はしない。中々上手くいかないな、友達作りは」

 

「そんなに無理して作るものでもありませんよ?」

 

「肝に銘じておく」

 

 やっぱり椎名とは気が合うな。いや、ぼっち仲間として共感出来るだけかもしれないが。

 おにぎりを三個と無料飲料水をレジで支払う。

 てっきり教室に戻ったと思っていたのだが、彼女はオレを待ってくれていた。

 

「せっかくですし、一緒にお昼どうですか? 今から教室に戻って視線を集めるのは避けたいところです」

 

「助かる。教室内では既にぼっちグループが作られているだろうしな。そんな所に自発的には戻りたくない」

 

「それでは行きましょう」

 

「場所はどうする?」

 

 オレの当然の質問に椎名は逡巡する様子を見せる。

 男と女が外で二人で食事を共にしているなんてバレたら変な噂が立つかもしれないから、それを危惧しているのだろう……──という予想は呆気なく打ち破られた。

 

「綾小路くんさえ良ければ、すぐそこのベンチはどうでしょう?」

 

「それは大丈夫だが……良いのか?」

 

「はい」

 

 椎名は短く首肯すると、迷うことなくゴール地点に辿り着き……ゆっくりとベンチに腰掛けた。

 どうにも彼女には、そういった常識が欠如しているのかもしれない。

 判断を任せたのはオレだ。ここは彼女の指示に従うとしよう。

「失礼します」と一応告げてからひと一人分のスペースを取って彼女の隣に座った。

 オレたちは一言も言葉を放つことなく食事に没頭した。

 傍からだったら気まずそうに見られるだろうが……意外にもそうでも無い。なんていうか……落ち着くな。

 飲料水を飲んで一息ついたところで、彼女がおもむろに口を開く。

 

「今日の授業はどうでした? 私のクラスではオリエンテーションで終わりましたが……」

 

「オレのクラスでも同じだ。学校側からしたら当然の措置なんだろうな。ただ、気になることがある」

 

「気になること、ですか?」

 

 訝しげな視線を送ってくる椎名。

 オレは授業に感じた違和感を彼女に伝える。授業に無駄話をしていても、あるいは居眠りしていても先生は注意しなかったことを。

 

「……言われてみたら綾小路くんの言う通りかもしれません。私のクラスでも殆ど……いえ、何人かの生徒が騒いでいたのですが先生は誰も叱りませんでした」

 

「Cクラスでもそうだったのか。となると、AやBでも同じだと考えるべきなのか?」

 

「なんとも言えませんね。高校は義務教育じゃないと言われればそこまでですが……」

 

 揃って首を傾げる。

 これ以上は知恵を絞っても無駄だと判断し、椎名と共に学校に戻った。

 建物内に入ったところで、廊下や教室に設置されているスピーカーから音楽が流れてきた。

 

『本日午後五時より第一体育館にて、部活動の説明会を致します。部活動に興味のある生徒は十分前には第一体育館に集合して下さい。繰り返します。本日──』

 

 女性の声だろうか。かなり可愛(かわい)らしい声だ。

 部活動か。今思い返せば……オレは部活を経験したことはなかったな。

 これを機にやってみるのもありかもしれないが……。

 

「椎名は部活やるのか?」

 

「分かりません。綾小路くんはどうですか?」

 

「同じく分からないな。──そうだ。説明会、一緒に行かないか?」

 

 断っておくが、下心(したごころ)は無い。

 ただ、一人で行ったら浮くだろうからな……。変に悪目立ちはしたくない。それは椎名も同じようで。

 

「是非同行させて下さい」

 

 第一体育館近くにある昇降口での待ち合わせを約束し、椎名と別れる。

 教室に戻ると生徒たちが部活について意見を交わしあっていた。

 やっはり皆、興味があるんだな。

 オレと椎名が外で昼飯を食べていた間に堀北は既に戻っていたのか、机にはサンドイッチの袋が転がっていた。

 

「驚いたわ。あなた、一人で食堂に行ったの?」

 

「そんな度胸がオレにあると思うか?」

 

「いいえ。だからこそ驚いているのだけれど」

 

 堀北の純粋な驚愕がとても痛い。

 オレは自分の席に座って、彼女の顔を見ながら。

 

「友達と食べていたんだ」

 

 ドヤ顔で勝ち誇りそう言ってやる。

 どうだ堀北。確かにオレはクラスでは友達は未だに居ないが、他クラスには居るんだぞ!

 同じぼっちでもオレの方がワンランク上だな!

 

「友達……? 綾小路くん、見え透いた嘘を吐くのは止めた方が良いわよ? 最初は偽りの喜びに浸れるでしょうけれど、やがて全身に毒は広がるわ」

 

「嘘だと決め付けるな! まあ、信じる信じないかはお前の自由だけどな。──それより堀北、櫛田に連絡先教えなかったんだってな」

 

「それが何。悪いかしら」

 

 これは、攻略するのに櫛田は苦労しそうだ……。

 堀北に友達が出来るのはいつなんだろう。

 第三者のオレが必要以上口出ししてもなあ……。

 脳内で嘆息(たんそく)してから、せっかくなので先程の放送について話題を振る。

 

「堀北は中学時代、部活をやっていたのか?」

 

「いいえ未経験よ。綾小路くんは……ごめんなさい。聞くまでもなかったわね」

 

 色々と指摘したいところはあるが、それを我慢して続ける。

 

「じゃあ高校からは部活をやるのか?」

 

「いいえ。興味がないから。そういうあなたは入部するの?」

 

「説明会にはいくつもりだ」

 

「入る気はないと自分から口に出しているようなものじゃない。それにしても──変わってるわね」

 

 変わってる?

 怪訝な表情を浮かべるオレを、堀北は一瞥してから。

 

「だってそうじゃない。入部する気はさらさらないのに説明会には行くなんて。私からすれば時間の浪費でしかないわ」

 

 流れるように出された正論にオレは口を(つぐ)んでしまった。

 部活について話をすることによって堀北との距離を縮めようとしたのだが……中々難しいものだ。

 そして隣人はこれ以上会話を続ける気はないようで、読書を開始した。

 窓から覗き見える青空はいつものように変わりなく。それは現状をそのまま示唆しているように思えて仕方がなかった。

 

 

 

 

§

 

 

 

「ごめんなさい。HRが長引いてしまいました」

 

「それなら気にするな。悪いがちょっと急ぐぞ。時間が押しているから」

 

 放課後。学校の昇降口で合流を果たしたオレと椎名は早歩きで第一体育館に向かう。

 幸い集合場所から目的地までは近いから、説明会が開始される午後五時十分前には到着することが出来た。

 

「遅いぞ一年。これを持っていけ」

 

 上級生からのありがたい言葉を頂戴する。彼が渡してきたのは一冊の冊子だった。

 移動しながら軽く目を通すと、この学校に存在する部活動の詳細なパンフレットだった。

 当然というか、体育館には既に大勢の生徒で──一年生で間違いないだろう──埋め尽くされている。

 

「百人は居そうですね」

 

「そうなると、学年の半分ちょっとが集まってる計算になるな。……この学校って部活動は盛んなのか?」

 

「どの部活も高い水準のようですね。施設も同様のようです。やっぱり国が運営している、というのがあるんでしょう。ただそれでも、何かしらの名門校には遅れをとるようですね」

 

 オレのふと湧いた質問に、椎名がパンフレットを見ながら教えてくれた。彼女の言う通り、全校大会に進出している部活はあまり見られない。

 そうなると、この学校の部活は趣味的な色合いが多分に含まれているのだろう。

 

「やってみたい部活はありそうか?」

 

「そうですね……個人的には茶道に興味があります」

 

「茶道部か……」

 

「似合わないでしょうか?」

 

「いや、むしろその逆だな。(さま)になると思う」

 

 嘘偽り無く本心を告げる。

 落ち着いた雰囲気のある椎名だったら、美味しいお茶を煎じてくれそうだ。

 

「ふふ、ありがとうございます。もし私が茶道部に入部して立派なお茶を淹れられるようになったら、綾小路くんのために淹れさせて貰っても良いですか?」

 

「もちろんだ。その時を楽しみにしている」

 

「はいっー-綾小路くんはどうですか? 気になる部活はありそうですか?」

 

 改めてパンフレットを確認する。

 部活を経験したことが無いオレからすれば、どの部活もあんまりピンと来ないというのが正直な感想だ。

 

「何とも言えないな。まずは説明会を聞いてから判断しようと思う」

 

「それが一番ですね。私も先輩方のお話をきちんと聞いてから決めたいと思います」

 

「新入生の皆さんお待たせしました。これより部活代表者による入部説明会を始めます。私はこの会の司会を務めます、三年の(たちばな)と申します。よろしくお願いします」

 

 ステージに立ったのはやや小柄な体格の女子生徒だった。昼休み中にスピーカーから流れた声と同じだから、多分同一人物のはずだ。

 橘が舞台裏に合図を送ると、運動部文化部の各代表者が登壇し横一列に並ぶ。

 屈強な体躯の男子生徒も居れば着物を綺麗に着飾った女子生徒が居たりとしている。それぞれの部活の特色が出ていて面白いな。

 

「体育系は圧が凄いな……。初心者お断りの雰囲気をビンビン感じる」

 

「そうでもないと思いますよ」

 

「そうなのか? ……もうちょっと詳しい説明を頼む」

 

「初心者というのはあくまでも肩書きです。もちろん、レギュラーに至るまでには多大な努力が必要でしょう。けれど部には在籍していますから、本人のやる気関係なしに部費は増えます」

 

「な、なるほど……。募集側からしたら、一人でも多くの部員が欲しいのか」

 

「これはどの学校でも同じだと思いますが……基本的に部活の部費は最低限が予め決められています。例えば千円としましょう。この千円を上乗せする最初の手段が部員ですね」

 

「今話したことと同じだよな?」

 

「はい。人が増えれば増えるほどにお金は掛かりますから。次に大会やコンクールなどの実績でしょうか。今挙げた二つによって、部費は増え続けていきます」

 

 よく分かった。

 つまりオレたち新入生は金が宿る木なのだ。

 恐ろしい。壇上でスピーチをしている先輩方はそんなことを内心思っているのか(偏見)。

 さり気なく他の生徒の様子を窺う。サッカー部に所属する意志を表明していた平田に……、裁縫(さいほう)が得意だと言っていた()(がしら)は家庭部目当てだろうか。

 意外なのは不良少年である須藤が居るところか。どうやら何かしらの部活に入部するようだ。バスケットボール部の説明の際に真剣に聞く姿勢を見せていたから、それが目当てなのだろう。

 そして彼の横では(いけ)山内(やまうち)の姿も見える。彼らも部活に興味があるのか?

 そしてオレは、今日一番の驚愕(きょうがく)に襲われた。集団から少し離れた所に生徒が一人立っている。

 

「……堀北……」

 

「クラスメイトの方ですか?」

 

「隣人だ。昼休み説明会の話をした時は興味が無いとか言っていたんだが……気が向いたのかもしれないな」

 

 その後も説明会は進んでいく。

 椎名が気になっていた茶道部の説明も終わり、彼女は結局、入部することを決意したようだ。

 一つの部活が終わりを迎える度に、新入生は友達と相談し合う。

 気付けば体育館内はそこそこの喧騒(けんそう)に包まれていたが、監督役の教師や司会役の橘も注意することはない。登壇している先輩もそうだ。

 説明を終えた先輩たちは順番に舞台を降りて、組まれている簡易テーブルに向かう。恐らくあそこで入部申請を受け付けているのだろう。

 そして最後の一人になる。その生徒は男性だった。

 身長は……百七十センチメートルはあるだろうか。細身の体にサラリとした黒髪。シャープな眼鏡からは知的さを感じさせ……如何にもな優等生。

 

「生徒会長さんですね」

 

 隣で椎名が呟く。確かに彼女の言う通り、昨日行われた入学式で新入生を迎え入れた、全校生徒の代表である生徒会長だと思われた。

 だが彼が生徒会長であることに、この場に居る生徒の何人が気付いているのだろう。大半の生徒は式中、胸踊る高校生活に思いを馳せていたので彼の言葉を真面目に聞いていたのはかなり少ないはずだ。

 オレもその例に漏れていなかったから、椎名の言葉がなかったら気付けなかったに違いない。

 彼はいつまで経っても口を開くことは無かった。もしかして緊張しているのか?

 

「がんばってくださーい」

 

「カンペ、持ってないんですか〜?」

 

「あはは! あははははっ!」

 

 一年生の野次(やじ)が飛ぶ。普通の人間なら激昂(げっこう)するだろうが、生徒会長は一言も言葉を発しない。

 最初は笑っていた一年生も、やがてふと我に返ったのだろう。あるいは、反応が何もない上級生に対して違和感を覚えたのか。

 喧騒はやがて静寂に包まれる。

 それと同時に彼から放たれる不気味な圧。咎められたわけではない。ただオレたちは直感する。この一帯を支配しているのは彼であると。

 

「私は生徒会長を務めている、堀北(まなぶ)と申します」

 

 堀北? 疑問に思って該当する生徒に視線を向けると、彼女は一心に生徒会長を見つめていた。

 確信する。彼は堀北の家族だ。

 

「生徒会もまた上級生の卒業に伴い、一年生から生徒会役員の立候補を募集しています。資格は特別必要ありませんが、注意点として、部活動を行う生徒の立候補は原則として受け付けておりません。これは当校の校則であるのでそれを理解して頂きたい」

 

 凄い、というのが率直な感想だ。

 百人を超える生徒を従えさせるその力は、堀北学個人としての力なのだろう。

 現に、簡易テーブルにいる先輩たちも同様なのか、中には尊敬の眼差しを向けている人も。

 

「それから──私たち生徒会は、甘い考えによる立候補は微塵も望まない。何故だと思うだろう。それは簡単なことだ。当校の生徒会には学校の規律を変える権利と使命がある。学校側から期待されている。故に、そのことを理解出来る者のみ歓迎しよう」

 

 生徒会長は堂々と淀みなく演説した後、真っ先に体育館から出て行った。まるで、今の一年生には期待をしていない、そんな風にオレには取れた。

 緊迫とした雰囲気が場に流れる中、司会役の橘が説明会の終了を告げる。のんびりとした口調のおかげで弛緩した空気が流れるが……多分そのように打ち合わせをしていたのだろう。

 

「凄い方でしたね……」

 

「そうだな。全てが生徒会長の計画だったんだろう。最初黙っていたのはこの学校の長としての『格』を見せ付けるためだと思えば納得がいく」

 

「只今より入部の受付を開始します。部活に入部したい生徒は受付を済ませて下さい。この場で決められない生徒は、四月中でしたら申請を受け付けていますので安心して下さい。今日はありがとうございました」

 

「あっ、ごめんなさい。茶道部の受付に行ってきますね。私のことは待たなくても大丈夫ですから」

 

「分かった。それじゃあ椎名、また今度会おう」

 

「はい。さようなら」

 

 椎名と別れ、オレは体育館をあとにした。

 さて、今からどうしようか。図書館にでも行くか? だが現在は午後の六時になりそうな微妙な時間帯だ。

 思案していると、後ろから声を掛けられる。

 

「あー、確か綾小路だったか?」

 

 池だった。須藤や山内も居る。どうやら彼らは行動を共にしていたようだ。

 

「そうだ。池に須藤、山内だよな?」

 

「それで合ってるぜ。綾小路も部活に入るのか?」

 

「まだ様子見だな。でも『も』ってことは須藤は入るのか?」

 

「ああ。俺は小学生ン時からバスケ一筋でな。本命ってヤツだ」

 

 なるほどと一人納得する。

 授業初日から居眠りを披露する須藤がどうしてあんなにも真剣に話を聞いていたのか気になっていたが、彼はバスケに全てを懸けているのだろう。

 羨ましい。──オレにはそんなものないから。

 

「池と山内はどうなんだ?」

 

「俺ら? いやいや、ただの暇つぶし。あとはまあ……運命的な出会いを求めているのさ」

 

「運命的な出会い?」

 

「よくあるだろ? 何気ない日常の中で可愛い女の子と出会うっていうのはさ」

 

 よく理解した。思い返してみれば、昨日の自己紹介の時にも彼女募集中とか言っていた気がする。

 

「そうだ綾小路。昨日早速、男子のグループチャットを作ったんだよ。一緒にやらないか?」

 

 池はそう言いながら携帯端末を取り出しオレに見せてくる。

 彼の言う通りだった。『一年D組─男子』の名前でグループが作られている。

 意外な展開に動揺していると、山内がオレの肩に腕を回しながら。

 

「良いだろ? 同じDクラスの仲間なんだからさ!」

 

「そうだぜ綾小路」

 

「なら……頼めるか?」

 

「もちろんだぜー」

 

 制服のブレザーから携帯を取り出し、グループチャットに参加する。

 それと同時に三人とも連絡先を交換する。

 これは……友達が出来たと解釈して良いのか? いや、そうに違いない。

 この瞬間のために、オレは今日説明会を見学したのだろう。

 放課後は池たちと過ごし、少しは仲良くなれた気がした。



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日常になりつつある非日常

 

「おはよう山内(やまうち)!」

 

「おはよう(いけ)!」

 

 いつもと同じ時間に登校すると、池と山内がそれはもう見事な笑顔で挨拶を交わしていた。

 慌てて時計を確認する。オレの時間感覚は正常だと安堵したところで、オレは珍しいこともあるものだと感じていた。

 彼らは学校が始まって一週間遅刻こそしていなかったが、それでもギリギリの時間に毎日来ていた。ちょっと不気味でもある。

 

「いやあー、授業が楽しみすぎて目が()えちゃってさー。眠れなかったんだよな」

 

「なはは、分かるぜ。何せ俺もだからな。この学校は最高だぜ、四月から水泳の授業が行われるんだから!」

 

 なるほど、とオレは腑に落ちた。

 池や山内の言う通り、体育では今日から水泳の授業が開始される。オレの聞き違いでなければ授業は男女共同。

 つまりは、男子生徒は合法的に女子生徒の水着姿を目に収めることが出来るという訳だ。

 でもな、そういった発言はそんな大声で言わない方が良いと思うぞ。現に、クラスの大半の女子が冷めた目でケダモノを見ているから。

 

「あの二人の所に行かないの?」

 

「……堀北(ほりきた)よ、それは本気で言っているのか? 流石にクラスの女子生徒全員を敵に回したくはないぞ」

 

「友達との友情よりも自身の保身に走るのね」

 

 物は言いよう、とは正にこのことだろう。

 

「じゃあ逆に聞くが、お前は率先して今のあいつらに合流したいと思えるのか?」

 

「まさか」

 

 スクールバッグを机の()()に掛け、オレは席に着く。この一週間の努力のおかげで、堀北とは彼女が気が向いたら話す間柄になっていた。

 これは進展していると思って良いだろう。

 鞄から一冊の本を取り出し朝の自由時間を読書に費やす。それは隣の住人も同様。

 しかしオレの安息の時間は数分後に打ち破られることになった。

 

綾小路(あやのこうじ)ー」

 

 池がオレの名前を呼んで手招きしてくる。文字の羅列から意識を少しだけ逸らして見てみれば、須藤(すどう)外村(そとむら)もその場に加わっていた。

 ちなみに外村とは入学初日にオレが声を掛けようかどうか迷っていた男子生徒である。クラスの男子からは親しみを込めて『博士』と呼ばれている。

 正直良い所まで読んでいただけに席から離れたくはなかったが、仕方なく重い腰を上げることにした。

 

「……どうかしたのか?」

 

「実は今俺たち、クラスの女子の胸の大きさを賭けようってことになってるんだけどさ」

 

「オッズ表もあるんやで──」

 

「悪いな、辞退させて貰う」

 

「まあまあ、そう言うなよ! お前も気になるだろ?」

 

 (きびす)を返そうとすると、山内が真顔で言いながら引き止めてきた。勝手に決め付けないで欲しい。

 オレが辟易していると、須藤と目が合った。どうやら彼もオレと同じくこの所行に嫌悪感(けんおかん)を抱いているのか、渋々付き合っている風に見える。

 嘆息してからタブレットを貸して貰うと、画面にはクラス全員の女子生徒の名前が載っていた。

 しかもオッズ付きというかなりガチなヤツだ。

 賭け事には全然これっぽっちも興味が湧かないが……無理に退席したら今後の付き合いに(ひび)が走るかもしれない。

 

「……ちなみに、誰が有力候補なんだ?」

 

「よくぞ聞いてくれた! 現在頭角を表しているのは長谷部(はせべ)だ。オッズは1.8倍。次は佐倉(さくら)かな」

 

「実は俺、佐倉に告白されたんだ。けどま、ブスだから断ったんだけどな!」

 

「嘘吐くなよ」

 

「う、嘘じゃねえよ!」

 

 一陣の視線が届けられた気がした。

 恐る恐るそちらを見てみれば、そこには長谷部と思われる女子生徒がこちらを睨んでいた。

 いいや、違う。今じゃ冷たい視線は殺意に変わっていた。最も死線を浴びせられているのは山内だ。当人が居ないのを良いことに話題に挙げたのだから、それは当然かもしれない。

 身の危険を感じたオレは適当な上位生徒に賭け、戦線から離脱する。その時、仲間の須藤を引っ張ることは忘れない。

 

「サンキューな、綾小路。流石にアレはやり過ぎだと思ってたんだ」

 

「それが正常だと思うぞ」

 

 素行が悪い須藤と言えど、そういったことには忌避感があるようで、親密度が上がった気がした。

 

 

 

§

 

 

 

「うひょー! 待ちに待った授業が開始されるぜ!」

 

 昼休みが終わると同時に池が叫ぶ。

 己の欲望を隠そうとしないその心意気(こころいき)は買いたいところだが、素直すぎるといつか後悔するぞ。

 殆どの生徒が大なり小なりグループとして行動する中、オレは最後尾でこそこそと付いていくことに決めた。そんなオレに、一人の生徒が近付いてくる。

 

「一緒に行こうぜ、綾小路」

 

「ああ、分かった」

 

 須藤が声を掛けてくれた。どうやら朝の一件でシンパシーを感じたのはオレだけじゃなかったようだ。

 更衣室で着替える。同性といえど周りの視線がある中、なかなか、誰も着替えようとしない。しかし、それを打ち破る者が現れた。須藤だ。

 

「堂々と着替えるんだな」

 

 そこに羞恥心はないようだった。そして事実、須藤はこう言った。

 

「体育系がそんなことでいちいち慌てるかよ。逆にビクビクしている方が悪目立ちするぜ?」

 

「そうなのか……。それにしても、凄い身体だな」

 

「これくらい普通だ、普通」

 

 思わず称賛の眼差しを須藤に向ける。

 入部説明会の際、彼はバスケットボールが本命だと言っていたがその言葉に頷けるほどのしっかりとした体付きだ。無駄な筋肉が一切ないその体格は、男だったら一度は憧れるだろう。

 事実、クラスの殆どの男子がざわついている。

 

「さき行ってるぞ」

 

 助言に従い、オレもすぐに部屋をあとにした。池と山内がオレのあとに続く。

 

「うひゃあ! やっぱりこの学校はすげぇなぁ! 街の施設より凄いんじゃね!?」

 

 池が感嘆の声を上げる。同感だった。屋内プールが目の前に広がっていて、ちょっとだけワクワクする。

 水が綺麗(きれい)なのは言わずもがな。流石は国が運営しているだけはあるか。

 

「女子は? 女子はまだなのかっ?」

 

「着替えに時間が掛かるだろうからまだだろうな」

 

 オレの冷静な分析に、池はガックリと肩を落とす。

 

「なぁ綾小路。もし俺が血迷って女子更衣室に飛び込んだらどうなると思う?」

 

「……聞きたいか?」

 

「い、いややっぱりやめておく。だからその真顔をやめてくれ。めっちゃ怖いから!」

 

「これは個人的な意見なんだけどな。露骨すぎると女子に嫌われるぞ?」

 

「うぐっ……反省するよ……」

 

 第三者の言葉に池はブルブルと身体を震わせた。

 これで彼が女子に袋叩(ふくろたた)きされた上に退学させられ、さらに書類送検される未来は潰えた。めでたしめでたしだ。

 そのことにホッと安堵の息を吐きつつも、男子は教師と女子を待ち侘びる。

 

「来たぞ……!」

 

 誰かが小さく声を上げた。

 その時、一年D組男子一同は心を通わせてさり気なく身構える。

 オレもその一人だ。巨乳筆頭の長谷部や佐倉には興味がある。あとは一応堀北も。

 ところがオレたちの願いが叶えられることはなかった。

 

「長谷部が居ないぞ!? 佐倉もだ! 博士、これは一体どういうことだ!? 神はオレたちを手放したのか!?」

 

「ンゴゴゴゴ!?」

 

「に、二階だ! 皆、二階を見るんだ!」

 

 池の言葉に、反射的に顔を上げる男子一同。

 見学用スペースでは数名の女子生徒が居り──なんと、その中には長谷部や佐倉の姿があった。

 なるほど、女子も馬鹿じゃない。体調不良を教師に予め訴えることで未然に防いでみせたのだ。

 山内が頭を抱えて蹲る。池は先程の言葉があるおかげで大袈裟な動作こそしていなかったが、それでも絶望で顔を彩らせていた。

 

「どうしたの皆? 元気ないけど……」

 

 しかし──天使が舞い降りる。クラスで男女問わずの人気者、櫛田の降臨だ。

 学校指定のスクール水着を着た櫛田は、思春期男子にとっては毒そのものだった。

 胸はDかEか。詳しくは分からないが、少なくとも常人を遥かに超える物を持つ逸材の持ち主だ。程よくついた太股や臀部はスクール水着に張り付いていて生々しく、人間を軽く超越していた。

 男子一同はひたすらに心を無にする。そして、神に感謝した。嗚呼……世界は今日も平和だ……。

 

「何を黄昏(たそがれ)ているのかしら」

 

 堀北が心底不思議そうに声を掛けてくる。オレは和やかな心で答えた。

 

「己との戦いに没頭しているんだ」

 

 水着姿の堀北。圧倒的に櫛田の勝ちだった。何がとは言わないが。健康的で良いとは思うけど……。

 だが凝視していたらまた、己との戦いに臨むことになりそうだったので、ひたすらに心を落ち着かせることに専念する。

 

「綾小路くん」

 

「何だ? 悪いが話は後にして──」

 

「あなた、何か運動してた?」

 

 オレの言葉を遮って、堀北は訝しげな目でそう聞いてきた。

 

「いや、何も。自慢じゃないが、体育以外、運動はしたことないな」

 

「それにしては前腕の発達とか、背中の筋肉とか普通じゃないと思うけれど……」

 

「それなら、両親から恵まれた身体を貰っただけだ。それ以上でもそれ以下でもない」

 

「でもそうにはとても──」

 

「堀北さーん!」

 

 今度は堀北の言葉が遮られる形になり、櫛田が会話に加わった。

 彼女は櫛田の乱入に眉を寄せて不機嫌そうな顔になった。ここまでが彼女たちの一連の動作であり、もはやこれはコミュニケーションになっているのではないかとさえ思えてくる。

 そんな彼女が見ていて面白くて少しだけ笑っていると、無言で手刀が腹に打ち込まれた。痛い。

 

「堀北さん、泳ぎは得意なの?」

 

「得意でも不得意でもないわ」

 

「私は中学の時水泳が苦手だったんだ。でも一生懸命練習して泳げるようになったの」

 

「……そう。それは良かったわね」

 

「よーしお前ら、集合しろー」

 

 話を広げようと試みる櫛田の頑張りは、中々()になろうとしない。堀北は興味なさげに答えてから、担当教師の元に歩いていった。

 

「たはは……上手くいかないね」

 

「頑張れとしか言い(よう)がないな。オレたちも合流しよう。怒られたくないしな」

 

「うんっ」

 

 オレと櫛田はやや小走りで先生の元に集まる。如何にもな体育会系の男性で、マッチョ体型がとても似合っている。男子からも女子からも一歩距離を取られそうだ。

 

「見学者は……十六人か。随分と多いようだが、まあ良いだろう。ただし、次回からは正当な理由なしでは見学は認めないからな」

 

 おっさん先生の言葉に、何人かの生徒が反応した。初回は参加するが次回からはサボろうと画策していたに違いない。

 

「早速だが、どれだけ泳げるか見てみたい。個々で準備運動をするように」

 

「すみません、先生。俺あんまり泳げないんですけど……」

 

「そうか。泳ぎに自信がない者は正直に手を挙げろ」

 

 一人の男子生徒を皮切りに、数名が恐る恐る手を挙げた。無理して怪我や事故を起こした時咎められることを忌避したのだろう。

 

「なるほど、よく分かった。だが安心しろ、夏までに俺がお前たちを泳げるように指導してやるな」

 

「えぇー。別に大丈夫ですよ。海に行きませんから」

 

「まぁそう言うな。泳げる奴はモテるぞ? それに泳げるようになれば必ず後で役に立つからな」

 

 必ず役に立つ? 前者のモテる発言は()(かく)として、ちょっと大袈裟(おおげさ)じゃないか? そりゃ、泳げるに越したことはないだろうけど……。

 教師としては一人でもカナヅチを克服させたいという思いがあるのかもしれないな。となると、彼はかなり良い先生なのかもしれない。

 先生の言う通り、個々で準備運動をする。教師がいる手前、皆真面目に取り組んでいた。そして、五十メートルを軽く泳ぐように指示が出される。

 オレは去年の夏以来、つまり一年振りにプールの水に浸かった。熱過ぎず、冷た過ぎず。適温で保たれているのだろう。室内プールの利点の一つだな。

 全員が五十メートルを泳ぎ終わると、先生はプールサイドに上がるよう指示を出した。泳ぎに自信がないとはいえ、まったく泳げない生徒は一人もいなかった。

 そのことに先生は満足げに頷くと、

 

「よし。それでは今から男女別に五十メートルの競泳を行う。種目は自由型だ」

 

 そう宣言した。

 授業初日に競泳をやるなんて……かなり急だな。そうせざるを得ない理由があるのだろうか。

 ざわつく生徒に先生はニンマリと笑い。

 

「お前らにやる気が起こるように配慮してある。一位を取得した生徒には俺から特別報酬として五千ポイントを進呈しよう。一年生のお前らの中には、早速ポイントを浪費して残りが少ない者も居るはずだ。どうだ? やる気が出るだろう」

 

 泳ぎに自信がある生徒からは歓声が、自信がない生徒からは悲鳴が上がる。

 でもそれだとかなり不公平な気がするな。全員が全員、やる気を起こすとは到底思えない。

 

「逆に、ワースト一位になった生徒には放課後を使い補習を受けさせるからそのつもりで」

 

 さらなる悲鳴が響いた。

 生徒にとって放課後とは大変貴重な時間だ。それを補習になんて使いたくない。

 

「今日参加している女子は十人と少ないから、五人を二組に分けてタイムが一番速い生徒にポイントを進呈しよう。男子は上位五人に絞ってから決勝だ」

 

 おっさん先生はそう言い放ち、準備をするように促した。最初は女子から行うそうで、男子と見学者は散らばる。

 女子が泳ぐ姿を間近で見たい男子たちは皆一様に興奮したように鼻息が荒くなり、テンションを上げていく。

 このクラスには美人が多いから、それだけ期待してしまうというものだ。

 結果は、水泳部の小野寺(おのでら)が完勝。オレの知人を挙げるとすると、堀北は総合二位、櫛田は四位という結果だった。

 男子の結果は意外や意外、既に自由人の名を欲しいままにしている高円寺(こうえんじ)が総合一位を取ってみせた。その次に須藤、平田(ひらた)と続いていく。

 ちなみにオレは十位だった。三十六秒少し。全国の平均男性より少し早いか遅いくらいのタイムだ。

 事なかれ主義のオレからしたら目立たなければそれで良い。だからこの結果に満足出来た。

 

 

 

§

 

 

 

 あれだけ期待していたスクールライフというものも、日々を跨ぐ度に慣れていく。

 最初はぎこちなさが蔓延(まんえん)していた空気も今じゃなりを潜め、一年Dクラスは和気藹々とした雰囲気が自然と流れている。多分、他のクラスも似たようなものじゃないだろうか。

 

桔梗(ききょう)ちゃん、今から一緒にカフェ行かない?」

 

「うん、行く行く! あっ、でもちょっと待って。もう一人誘ってみるね」

 

 櫛田は友達の女子に一言そう告げてから、オレ──ではなく堀北の席に近付いた。

 そして横から放たれる不機嫌オーラ。どうにも堀北は櫛田のことが嫌いなようだ。いや、今更かもしれないが。

 

「堀北さん。私今からカフェに行くんだけど一緒にどうかな?」

 

「お断りするわ」

 

 容赦なく一刀両断する堀北に、櫛田は不快感を表さずにニコニコとした笑みを決して崩さない。

 それにしても凄いな。何が凄いって、挫けることなく誘い続ける櫛田もそうだが、それを断り続ける堀北の胆力だ。

 普通なら一回くらいは心が折れるものだが……。ちょっとだけその心の強さには感心する。

 だが堀北、もう少し柔らかくは言えないのか。例えば用事があるとか言えば良いだろう。彼女の裏表ない性格が今回は裏目に出てしまっているな。

 

「そっか。なら堀北さん、また今度誘うね」

 

「待って、櫛田さん」

 

 おっと。珍しく……というかオレが知る限り初めて堀北が櫛田を呼び留めた。これはもしかしたら折れたり──。

 

「これ以上誘わないでくれるかしら。迷惑なの」

 

 第三者のオレでも竦み上がるほどの冷たい声。

 それを真っ向から受けている櫛田は──それでもなお、笑顔を絶やさない。

 

「また誘うねっ」

 

 そう言って櫛田は満面の笑みで堀北に宣戦布告し、グループに合流して教室から出ていく。

 

「桔梗ちゃん。もう堀北さんを誘うのはやめない? 私あの子のこと──」

 

 ドアが閉められる間際、そんな悪口が耳に届く。

 彼女が言おうとしたことは、どんなに察しが悪い人間でも分かるだろう。

 頭の良い堀北のことだ、それは理解しているはずだ。だが彼女からは動揺した気配が微塵も感じられない。

 ……さて、オレもそろそろ出るか。放課後は既に予定で埋まっている。

 

「待って」

 

「どうした堀北」

 

「確認だけど、あなたまで余計なことは言わないわよね?」

 

「質問を質問で返すようで悪いが、そう見えるか?」

 

「……いいえ。お互い、この数週間である程度の性格は分かってる。──ごめんなさい、時間を取らせたわね。もう行って良いわよ」

 

「ああ。じゃあまた明日」

 

 堀北に別れを告げてから、オレは席を立つ。

 

「綾小路くん。少し良いかな」

 

 教室から出る寸前、クラスのヒーローである平田に声を掛けられた。彼の周りには必ずといっていいほど女子生徒が居るものだが、今日は珍しく誰も居ない。

 それはつまり、内密の話だということだ。

 そしてそれは的中する。

 

「堀北さんのことなんだけど、どうにかならないかな」

 

「どうにか、とは?」

 

 オレが聞き返すと、平田はバツの悪そうに「あー」と答えた。

 

「……クラスの女の子たちからも意見が出ていてね。ほら、彼女はいつも一人だから……」

 

 一人が駄目なのか、そう言うとしてオレはやめた。ここでオレと平田が言い争っても意味はない。

 

「櫛田がやっても大した進歩は見られない。悪いが、オレには無理だな」

 

「そうなんだけどね。でも僕は、櫛田さんじゃなくて綾小路くんの力が必要だと思っているんだ。彼女が会話を交わしているのは綾小路くんだけだからね」

 

 この前の櫛田と同じような内容を口にする平田。

 そんなにもオレと堀北は仲良さげに映るのだろうか。それならオレは敢えて、今度はクラスメイトとしてではなく隣人として彼女を庇おう。

 

「確かに堀北の対人能力には問題があると思う。だが、それは個人の自由じゃないか? 実際、彼女が何かしらの問題を生み出しているわけじゃない」

 

「もちろん分かってるよ。誰が誰と付き合おうと、それはきみの言う通り自由だ。だけどこのまま悪化すれば苛めにまで発展するかもしれない」

 

「苛め?」

 

「うん。僕は絶対に、クラスで苛めなんて起こさせたくないんだ」

 

 平田はそう言い、誠実な目でオレを見つめる。

 苛めか……話がいきなり飛躍すぎだとは思うが、万が一もあるかもしれないのは否定しきれないだろう。

 

「それなら余計に、その言葉はオレじゃなくて堀北に言ってくれ」

 

「……そうだね。ごめん、変なこと言っちゃったね」

 

「いや、いいんだ。平田のクラスメイトを想うその気持ちは本物だと思うしな。──それじゃあ、オレは帰っていいか?」

 

「あっ、うん。また明日、綾小路くん。もし良かったら今度、一緒に遊ぼう」

 

「ああ」

 

 平田と遊ぶ約束を交わす。教室から廊下に出たオレは携帯端末を取り出して、今から会う相手にメッセージを送る。

 すぐに既読はついたが返信はない。了解したのだと勝手に解釈し、オレは足の回転率を上げた。

 目的場所である図書館に辿り着いたオレは、馴染みの顔になりつつある図書課の先生に軽く会釈をする。

 

「今日も来たんですね」

 

「ええ、はい。彼女がどこに居るか分かりますか?」

 

「いつもの場所で待っていると思いますよ」

 

「ありがとうございます」

 

 高度育成高等学校の図書館はかなり大きい。以前も触れたが、何十万冊という書物が保管されているから……というのももちろんあるが、生徒の勉強スペースとして活用されるのを考慮しているからだ。

 現に館内には数名の生徒が机の上で教科書やノートを開いている。

 図書館の先生が言ったいつもの場所とは、窓際の四隅の方にあり、花壇が見渡される所だ。最初訪れた時からここを使わせて貰っている。

 館内を歩くこと数分、オレは目的に到着した。そして、彼女は静かに本を読んでいた。話し掛けるのが躊躇(ためら)われるが、意を決して彼女の名前を呼ぶ。

 

椎名(しいな)

 

「……」

 

「椎名」

 

「……? …………ごめんなさい綾小路くん。気付くのが遅くなってしまいました」

 

「謝るのはオレの方だ。悪いな、クラスメイトとちょっと話をしていた」

 

 そう言いながらオレは、椎名の右横の席に腰掛ける。

 彼女は読んでいた頁に紙の(しおり)を挟んでから本を閉じて、会話をする姿勢を取る。

 

「綾小路くんにお友達が出来て良かったです」

 

「友達、なのかは分からないが話す人は出来たな。今日は部活、休みなんだよな?」

 

「はい。私が所属している茶道部は一週間に一回活動をしていますから。基本フリーです」

 

「それなら良かった。──椎名の方はどうだ? クラスで友達は出来たか?」

 

 オレの質問に、椎名は困ったように薄く微笑んだ。

 しまった、地雷を踏んでしまったか。

 

「駄目ですね。中々難しいものです。クラスでもグループは出来上がってしまいましたから、今から私が乱入して和を乱すのは……。それに──いえ、なんでもありません」

 

「……悪い。配慮が足りてなかった」

 

「いえいえ。むしろ、心配してくれてありがとうございます。あっ、でも部活の方では何人かの人と仲良くなれましたよ」

 

 オレと椎名はほぼ毎日、こうして図書館で時間を共有していた。

 互いの趣味である読書をして一言も会話をしない日もあるし、互いの近況報告をする日もあったりと……思い思いに過ごしている。

 普通の図書館なら雑談をするなどご法度だが、幸いこの図書館はその例から逸脱している。常識の範囲内なら多少音を立てても怒られはしない。

 堀北や池、須藤などと過ごす学校生活も悪くはないが、正直なところ彼女との時間を過ごす方が個人的には楽しい。

 それは多分、お互いがお互いの行動を出来る限り尊重し合っているからだろう。そういう意味では堀北もそのカテゴリーに入りそうだが、無関心の意味合いが多分に含まれているからな。

 この日は閉館まで図書館で過ごし、オレたちは築きつつある日常を有意義に過ごした。

 



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刹那的な学校生活

 

 一年生が高度育成高等学校に入学してから、もう少しで二週間が経とうとしていた。そしてたったそれだけの数日でクラス内でのグループも完璧に構築されてゆき、必然的にクラス内での『身分』も決まってくる。

 

 一年Dクラスも独自のカースト制度が既に作られていた。

 

 男子の頂点はやはりというか、平田(ひらた)洋介(ようすけ)が堂々の一位に君臨(くんりん)している。しかし彼はそういった『身分』は嫌いなようで、男子にカースト制度はないようなものだ。事実、彼はクラスメイトを『平等』に扱っている。

 その反対に女子は入学当初からグループ作りに躍起(やっき)になっていた。これはどの集団でも同じことだと思うが、男性より女性の方が縄張り意識が強い。

 その理由は、女性には圧倒的に『力』がないからだろう。自分を守る手段が男性よりもかなり限られている。故に、女性は群れる。自分の身をより安全なものにするために。

 一年クラスの女子生徒はおよそ二十人だが、その中でも四つの勢力に分けられている。もちろん、勢力同士の付き合いはある。あるが──互いに牽制(けんせい)し合っているな、というのが正直な感想だ。特に平田の奪い合いが凄い。オレの見立てでは、最も強大な勢力は──軽井沢(かるいざわ)(けい)が率いているところか。

 しかしそんな群れることに拘っている女子にも例外はもちろん存在しており、独りで居ることを好む生徒も居る。例を挙げるのなら、堀北(ほりきた)鈴音(すずね)長谷部(はせべ)波瑠加(はるか)佐倉(さくら)愛里(あいり)といった生徒か。最も顕著(けんちょ)なのは堀北だが。

 逆に全勢力に発言力をもつ生徒も居る。櫛田(くしだ)桔梗(ききょう)。彼女は自己紹介で宣言したことを有言実行するべく、積極的に行動していた。この前の堀北の誘いからそれは一目瞭然(いちもくりょうぜん)だ。そのルックスから、男子からの人気も非常に高い。

 ここで面白いのが、櫛田という人間は男女問わずに人気なところか。異性に人気が出たら反比例のように同性からは妬まれ不人気になるというのがオレの見解なのだが、彼女はそうなっていない。平田でさえ男子の一部分からは嫌われている──特に池や山内から──というのに……コミュニケーション能力の具現化だな。

 さてオレはいうと、なんとも微妙な立ち位置に足を乗せていた。堀北のようなぼっちではないのだが……。

 友達も一応は出来た。須藤(すどう)(けん)(いけ)寛治(かんじ)山内(やまうち)春樹(はるき)といった連中とは特にクラス内では接点があり、ここ最近は昼休みに飯を食べる頻度も高くなっている。

 しかし深い付き合いではない。もちろん他の生徒よりは深いだろうが、放課後に遊ぶわけでもない。須藤は部活で多忙の毎日だし、池や山内は、他の男子生徒と遊べなかった時にオレを誘うといったような感じだ。ただここで言いたいのは、オレは別段、それに怒りを抱いていない、ということだ。

 ある程度の付き合いが出来ればオレとしてはそれで構わず、入学初日にオレ自身が堀北に言った言葉がそのまま反映されている証でもあるだろう。

 ……とまあ、クラス内では影が薄い男子生徒Aになりつつあるオレだが、放課後になるとそれは少々変わってくる。

 この学校で最も長く、そして深い間柄になりつつある椎名(しいな)ひよりの存在だ。放課後彼女が所属している部活の活動がない日はほぼ毎日図書館で時間を共有している。

 

 ──そしてオレは、この放課後を気に入っていた。

 

 

 

§

 

 

 

 ある日の夜。寮の自分の部屋でベッドの上に寝転がりながら読書に没頭していたオレは、各部屋に設けられている電話の電子音によって動作を中断せざるを得なかった。

 携帯端末が学校側から支給されているオレたちにとって、この電話を使う必要性は皆無に等しい。しかしそれは生徒にとってであり、学校側……特に寮の管理人にとっては違うだろう。例えば、夜中に大音量で音楽を聴くようなものなら隣室生徒からの苦情がフロントに届き……最終的に管理人がそれを伝えてくる。

 受話器を取ると、案の定管理人の声が漏れてきた。

 

「こんばんは。夜分(やぶん)遅くに申し訳ございません」

 

「いえ、それは大丈夫ですが……。用件は何でしょうか?」

 

「クラスメイトの櫛田さんが綾小路(あやのこうじ)さんにお話があるようでして……。なんでも、今日学校から出された課題についてお話をしたいとのことなのですが……」

 

 思いもしなかった名前の登場に、オレは眉間に皺を寄せてしまった。

 彼女の用件は、今日学校から出された課題についての話し合い。しかし今日、オレの思い違いでなければそのような課題は出されていない。

 となると、管理人が言ったことは彼女が嘘を吐いたもの──『表の理由』だと考えられる。

 逡巡(しゅんじゅん)してから、オレは口を開いた。

 

「分かりました。彼女に繋いで貰って良いですか?」

 

「少々時間が掛かりますのでお待ち下さい」

 

 待つこと数秒。

 プツン! 回線が変わったのがその音から伝わった。

 

「もしもし、こんばんは。私、櫛田桔梗です」

 

「……綾小路だ。どうかしたか?」

 

「夜遅くに本当にごめんね? 綾小路くんとどうしても相談したいことがあって……」

 

「相談?」

 

「簡潔に言うね。──私、堀北さんと友達になりたいんだっ」

 

 友達、か。

 対面しているわけでは無いので確証は持てない。だが受話器越しに聞こえてくる櫛田の声は切実で、本当にそう思っているのが窺えた。

 

「お前の気持ちは分かる。実際、今なお堀北に声を掛けているのはこの二週間でお前だけだからな。まぁ最近は、あいつから敵対表明されたから様子見をしているみたいだけど」

 

「うん、そうなんだ。……でね、やっぱりどうしても彼女と友達になりたくて」

 

「……どうしてだ? これは隣人からの意見だが、あいつは独りを好むタイプなんだと思う。つまり、あいつは独りでもこの先生きていける。どうしてそこまで必死に──」

 

「笑っているところ、見たことある?」

 

 オレの言葉を遮って、櫛田は強い口調でそう聞いてきた。

 どうやらこの質問はかなり真面目なものらしい。

 この二週間を振り返る。

 

「いや。見たことないな」

 

「でしょう? その、友達が居ないとやっぱり楽しくないと思うんだ」

 

「確かにそれは一理ある。だがさっきも言ったけど、堀北自身はそれを望んでいない。櫛田、それは優しさじゃなくてただの傲慢(ごうまん)じゃないか?」

 

「……」

 

 櫛田の努力はオレだって知っているし、認めたいとも思う。だが──行き過ぎた好意はやがて相手を傷付ける。

 そして堀北はこの前、彼女に対してハッキリと拒絶した。拒絶されたから、彼女はここ数日行動に移せなかった。

 

「次、何されるか分からないぞ。あいつの性格上、正面から罵倒(ばとう)するだろう。櫛田。お前にその覚悟はある──」

 

「覚悟ならあるよ」

 

 まさかの即答に、オレは面食らってしまう。

 正直オレは、かなりキツいことを言った覚えがある。そして普通ならどのような返答をするにせよ迷うものだ。

 だが、櫛田はオレの想像を軽々と打ち破った。

 

「綾小路くん。どうすれば良いかな? ううん、回りくどいことはやめるね。──協力、してくれるかな?」

 

 櫛田は余程勇気を出しているのだろう。声は震えているし、緊張さが伝わってきた。

 同時に彼女は期待しているようだ。オレが協力してくれたらあるいは──そう考えているのだろう。

 オレは目を伏せて黙考した。(まぶた)の裏に浮かぶのは、この二週間の出来事。

 歩み寄ろうとする櫛田と、それを拒絶する堀北。

 オレは「櫛田」と彼女の名前を呼んでから、自身が出した答えを口にした。

 

 

 

「それは無理だ」

 

 

 

 一瞬の静寂。

 

「……どうしてなのか、理由を聞いても良い?」

 

「先に言わせて貰うと、櫛田の頑張りは凄いと思うし、応援もしたい。ただ……悪いな。事なかれ主義のオレからしたら動きたくはないんだ」

 

 巻き込まれたくないのだと暗に伝える。そしてそんなオレの意思を、櫛田は感じ取る。

 

「そっか……うん。分かったよ……。──あっ、もうこんな時間。電話切るね?」

 

「ああ。助けになれなくて悪いな」

 

「ううん。むしろ謝るのは私の方だよ。ごめんね、急にこんな話しちゃって」

 

「いいや、それは大丈夫だ。……断っておいてなんだが、機会がもしあれば報告する」

 

「ううん、それだけでも助かるよ。じゃあ綾小路くん、また明日」

 

「また明日」

 

 ブツン! 回線が途絶える音が鼓膜に反響した。

 受話器を定位置に戻し、オレはベッドの上に寝転がる。

 我ながら最低だ。だが、後悔はない。

 オレが櫛田の要請を断ったのは、事なかれ主義なんてふざけたもの以外にも当然ある。

 まず一つ目として、彼女の行動に違和感を覚えたからだ。堀北と友達になりたい、その想いが強いのは彼女の行動力から理解出来る。

 しかしここで疑問が生まれるのだ。

 

 櫛田桔梗はどうしてそんなにも必死なのか、という疑問だ。

 

 本当に友達になりたいのなら、もっと手はあるはずだ。そもそもたった二週間で距離を一気に縮めるなんて無理にも程がある。普通ならここは、多くの時間を共有することで少しずつ互いのことを知っていくのが定石だろう。友達が少ないオレでも分かるのだ、それは彼女も分かっているはずだ。

 事実、一年Dクラスには佐倉愛里というコミュニケーションに些か問題がある生徒が居るのだが、彼女は堀北みたいな強行策で佐倉に近付いていない。

 二つ目だが、これは堀北との約束だから。他人が他人の交友関係に首を突っ込むなど、礼儀知らずにも程があるだろう。

 まあ、結局は、全てが事なかれ主義として直結するのだが。

 

 

 

§

 

 

 

「ぎゃははははははは! ばっかお前、それ面白すぎだって!」

 

 翌日。二時限目の数学の授業。

 今日も池の笑い声が教室に大きく響いていた。話し相手は山内で、彼もまた池に勝るとも劣らない笑い声を上げている。入学してから早速、池、山内、そして須藤を加えて一つの渾名(あだな)が付けられていた。『三バカトリオ』なんて不名誉な渾名だが。ちなみに、この事を彼らは知らない。もし須藤がこの事を知ったら、最初に渾名を考えた人間を探し当てて暴力沙汰を起こすだろう。

 

「ねえねえ、今日カラオケ行かない? 昨日知ったんだけど、最新曲が入ったんだって!」「それマジ? 行く行く〜!」

 

 とはいえ、騒いでいるのは何も池たちだけでは無い。彼らの近くでは女子のあるグループが放課後の予定を話し合っている。揃いも揃って授業に必要な道具すら出していない。

 

「あなたは程々真面目に受けているのね。事なかれ主義のあなたらしいわ」

 

 板書に書かれた図柄をノートに写していると、隣の住人から声をかけられた。堀北だ。珍しい事もあるものだと思いつつ、小声で答える。

 

「……まあ、流石にな。テストで赤点取りたくない」

 

 赤点取った時の罰則が何かはまだ言われていないが、自分から面倒事に突っ込むのはあまりにも愚行だ。

 そんなオレに、堀北は呆れたようにため息を吐く。

 

「もっと向上心とかないのかしら? 例えば学年で一位を取ってみせるとか……」

 

「ないな。そもそも、大半の高校生はそうじゃないか?」

 

「……否定しきれないのが憎たらしいわね」

 

 これ以上の無駄話は授業に支障を来すと判断して、お互いシャープペンシルを握る。

 ふわあ……それにしても退屈だ。一回くらいは居眠りしても良いんじゃないだろうか?

 

「うーっす」

 

 授業の後半に差し掛かったところで、三バカトリオ最後の一員である須藤が登場する。(うるさ)く扉を開け、これまた煩く扉を閉めた。『うーっす』が彼にとっては謝罪の言葉なのか、それ以上は何も言わず席に着いた。

 彼の斜め右前の席の佐倉がビクン! と肩を震わせる。気性が大人しい彼女からしたら最も敬遠する人種だろうから当たり前の反応か。

 

「おせーよ、須藤。昼飯、一緒に食いに行くだろ?」

 

 池が山内との会話を一時中断して、須藤に声を掛けた。池と須藤の席の距離はかなり離れている。完全に授業妨害だ。

 だが、数学教師は注意をすることはない。それどころか目もくれない。他の教師もまったく同じで、生徒の暴挙を黙認し、授業を続ける。

 こんな日々が、授業初日からDクラスでは続いていた。

 私語も、居眠りも、遅刻ですらも──そのすべてが黙認されている。

 

「……不気味だな……」

 

「何か言ったかしら?」

 

「いいや、なんでもない」

 

「そう」

 

 オレの呟き声に堀北は反応するが、すぐに授業へと意識を戻した。

 制服のポケットに入っている携帯端末が軽く振動した。男子の一部で作ったグループチャットから連絡が届いている。送り主は池だった。どうやら、昼飯にオレも呼ばれたらしい。

 主催者を遠目に見て、了解の旨を告げるため軽く頷く。だが彼は首を横に振った。ある方角を指し示し……そこには須藤の姿がある。

 どうやら、オレを誘ってくれた本当の友人は須藤のようだった。

 須藤は授業への態度こそ悪いが、バスケットボールに対する想いは本物だ。一度誘われ、部活見学をしたからそれは間違いなかった。

 ──このクラスで一番仲が良いのは須藤なのかもしれないな。

 個別チャットで彼に礼を告げてから、端末をポケットに入れる……前に、また軽く振動した。

 

「あなたの友達はどれだけ暇なのかしら」

 

「さぁな」

 

 堀北からの皮肉を受け流し、再びアプリを起動。

 

「マジか……もう彼女出来たのか。流石はリア充だな」

 

 池の提示した情報によると、何でも、平田と軽井沢が付き合っているらしい。

 これで女子のカースト順位の争奪戦も終わるだろうな。平田と付き合う軽井沢が晴れて女王として君臨するわけだ。

 でも意外だな。平田はクラスメイトを『平等』に扱っている。そんな彼が誰かと付き合い始めるなんて、正直なところ予想出来なかった。

 クイーン軽井沢の印象を語ると、櫛田が今どきの女子高生なのに対して、彼女は今どきのギャルと言ったところか。オレみたいな恋愛ビギナーからは敬遠(けいえん)される対象だ。

 きっと中学時代も平田のようなイケメンを沢山食ってきたんだろうな。それでやることやったらポロッと捨てていそうだ。いや、それは流石に名誉毀損(めいよきそん)で訴えられてしまうな。

 だがな、軽井沢。オレはまだ覚えているからな。平田とのファーストコンタクトを邪魔したことを。

 

「その顔、止めたら? 見るに()えないわよ」

 

「そんなにか?」

 

「ええ。鏡で見る?」

 

「遠慮しておきます……」

 

 堀北からの厚意を断わり、オレは軽井沢に視線を向ける。彼女は彼氏にそれはもうラブラブな視線を向けていた。

 どうやったら入学してから一ヶ月も経たないうちに彼氏彼女の関係になるのか、そのテクニックを是非とも教えて貰いたいものだ。

 二時限目の終了を告げるチャイムが鳴り、数学教師はそそくさと教室から立ち去る。

 生徒たちは「ようやく終わったー」と伸びをしているが、それはおかしい。その資格はないだろう。スクールバッグから朝自販機で買った無料飲料水を取り出し、呷る。

 

「あなた、本当に変わってるわね」

 

「変わってるって、何が」

 

「それ、無料のミネラルウォーターでしょう? もしかしてポイントを全て消費したのかしら」

 

「そんなわけないだろ。節約だ、節約。それにポイントは八割は残ってるから安心しろ。そういうお前こそ、オレと同じ物じゃないか」

 

「ジュースにポイントを使いたくないのよ」

 

「もしかしてポイントを全部使った──」

 

「あなたと同じくらいは残しているわ」

 

「そうですか……」

 

 オレの些細な反撃は失敗した。

 それにしても奇妙なものだ。休み時間や気が向いた時にはこうして、堀北と一応は会話をしているのだから。まぁ内枠の殆どは彼女の嘲笑なのだが。

 三時限目のチャイムが鳴った。授業は日本史。オレたちDクラスの担任、茶柱(ちゃばしら)佐枝(さえ)先生が授業担当となっている。

 普通なら担任の先生の前では猫の皮を被ろうとするものだが、このクラスではそれも当てはまらないのか、生徒たちの高いテンションは止まらない。

 先生はそんな惨状(さんじょう)に何も言わず、無表情を貫いていた。

 

「静かにしろー。今日はちょっとだけ真面目に授業を受けて貰うぞ」

 

「どういう意味っすか、佐枝ちゃんセンセー」

 

 しまいには、そんな舐めているとしか思えない渾名で呼ばれ始めている。

 

「月末に近いからな、今から小テストを行う。後ろに配ってくれ」

 

 あくまでも事務的に、茶柱先生は一番前の生徒たちにプリントを配っていく。前の生徒から受け取り確認すると、主要五科目の問題が載った、如何にもな小テストだった。

 

「えぇ〜聞いてないよ〜。ずる〜い!」

 

「今回の小テストはあくまでも今後の参考用だ。成績表には一切反映されることがない。だから安心して取り組め。ああ……カンニングだけはするなよ? その場合は問答無用で退学処分とするからな。まあ、そんなバカな行為をする生徒が居るとは思ってないが」

 

 ……妙に含みのある言葉だな。特に気になるのは、成績には一切反映されるところは無いの『成績には』の部分だ。オレの思い違いでなければ、小テストの成績は成績表に反映されるのが道理のはず。

 ただ、今回の小テストは今後の参考用とも茶柱先生は言っていたから、気にすることでもないのか? 

 いきなりの小テストに生徒たちはブーイングしていたが、流石に真面目に取り組むことを決意し、やがて喧騒(けんそう)は静寂へと収まっていった。

 そのことに内心安堵しながら、オレも問題に目を通す。一科目四問、全二十問、一問あたり五点配当の合計百点満点。

 小テストと聞いて身構えていたのだが……思わず脱力する程に簡単だった。受験の時よりも明らかにランクが落ちている。

 しかしそんな思い込みは、最後の問題を目にした途端にガラリと変わった。ラストの三問は桁違いの難易度だったのだ。特に数学の問題は、複雑な式を何個も組まないと解けそうにない。

 

「……ッ」

 

 危うく独り言を漏らしそうになって、慌てて口を手で抑える。カンニングだと思われて退学処分されてしまったら目も当てられない。

 軽く深呼吸。シャープペンシルを握り直す。

 ま、受験の時と同様に取り組めば問題はないだろう。

 茶柱先生は一応のカンニング防止対策なのか、教室内を巡回して見張っていた。当然、オレの横も通る。

 

「……」

 

 その時、茶柱先生は立ち止まった。鋭い、見定めるような視線を感じる。顔を上げては駄目だと思い、問題に悪戦苦闘しているようにひと芝居打つ。

 二、三秒ほど経っただろうか。彼女は巡回を再開させた。気の所為、だろうか? 

 終業のチャイムが鳴るまで、オレはテストの問題文と睨めっこしていた。

 

 

 

§

 

 

 

「お前さ、正直に言えば許してやるぞ」

 

「な、なんだよ。正直にって」

 

 食堂で須藤や池、山内たちと昼食を食べた後、オレたちは自販機傍の廊下で座り込み雑談をしていた。

 そんな最中、池がジリジリと距離を詰めてきたのだ。なんとなく嫌な予感がして撤退(てったい)しようとするが、その先にある自販機とぶつかってしまう。

 

「俺たちは三年間、苦楽を共にする仲間だよな? 共に喜び、共に悲しむ。心の友だよな?」

 

 いや、まだ一ヶ月も経ってないのにそんな仲になっているとは思えないのだが。だが池の剣幕(けんまく)が凄くて、オレは思わず。

 

「あ、ああ……。そうだな」

 

「当然、彼女が出来たら報告するよな?」

 

「は? 彼女?」

 

「そうだよ!」

 

 オレの呆けた声に、池と山内はもう一歩距離を詰めてくる。須藤はどうでも良いのか眠そうに欠伸を漏らすだけで、傍観の姿勢を取る算段のようだ。

 

「まあ、もし出来たらだけどな……」

 

 池は訝しげな目でこちらを見ながら。

 

「綾小路。俺は知ってるぞ、お前が放課後、図書館で美少女と逢引(あいびき)してることをな!」

 

「本当かよ池!」

 

 真っ先に食い付く山内。

 池は山内を一瞥してから、オレに再び視線を送る。

 

「ああ本当だ。事実、数名の生徒が目撃しているらしい。嘘は吐くなよ! お前は今、十字架に架けられているんだからな!」

 

「マジかよ! おい、なんとか言えよ綾小路!」

 

 ここぞとばかりに結託する池と山内。傍観していた須藤も興味が引かれたのか顔を向けてくる。

 困ったな。彼らが話題に出しているのは十中八九──というより間違いなく椎名のことだろう。

 他所のクラスの彼女と放課後過ごしているのは異常と言えば確かに異常だし、そのような感想を抱かれても仕方がない……のか? 

 だがどちらにせよ、オレの返答は決まっている。

 

「違う。オレと彼女はそんな関係じゃない」

 

「はぁ? だったらなんだよ?」

 

「読書友達だ」

 

「そうだとしても美少女と過ごすとか! ああああああああ! 裏山! 死刑!」

 

「というか、俺は正直堀北とばかり思ってたぜ」

 

「それな」

 

 山内が神妙そうに呟いた。それに反応する池。今度は椎名から堀北に話題転換されるのか。

 

「バカ、付き合ってないって。本当、マジで」

 

「だってお前ら凄く仲良いじゃん。休み時間や授業中だって結構話しているし。ハッ……! もしかしてお前……!?」

 

「な、なんだよ……」

 

「ハーレムを狙っているのか!?」

 

「違うぞ池。これはハーレムじゃない、二股だ!」

 

「そうか、そうだよな……!」

 

「頼むから人の話を聞いてくれ」

 

 げんなりする。憂鬱(ゆううつ)だ。

 オレの表情を読み取ったのかは知らないが、須藤がコーヒーを飲みながら。

 

「けどま、その図書館の女子は知らないが、堀北は無理だな。性格がキツそうだし、俺はああいったタイプは苦手だな」

 

「あー、それは分かるかも。なんていうかさ、トゲトゲしいよな。こう、上手く言えないけどさ、自分以外敵! って感じがするんだよ。それに付き合うならもっと優しくて明るい……櫛田ちゃんが良いな! 可愛いし。可愛いし!」

 

 大事なことなのか二回言いました的にドヤ顔で言う池に、オレは呆れて何も言えなかった。須藤も同様だ。

 前々から思っていたが、池は櫛田のことが好きなようだ。いやこの場合は、お気に入りと表現するべきか? 

 

「櫛田ちゃんと付き合いてー! つか、エッチしてー!」

 

 山内が叫ぶ。

 それに反応するのは池。

 

「ばっか! お前みたいな嘘吐き野郎が櫛田ちゃんと付き合えるか! 想像するのも禁止な!」

 

「そういう池は自分が付き合えると思ってるのかよ。あと俺は嘘吐きじゃないから!」

 

「「なんだと!」」

 

 仲が良いのか悪いのか、非常に反応に困る。

 しまいには櫛田を妄想して奪い合うという……物凄く低レベルな戦いを始めた。本人がこの場に居たら絶交されても文句は言えないだろうな。

 

「俺は時々、こいつらとダチで良いのかと思う時がある」

 

「同感だな」

 

 須藤とため息を吐く。

 オレたちの会話をしっかり聞いていた池と山内は今度は須藤に対する尋問を開始した。

 

「須藤はどうなんだよ? バスケ部には可愛いマネージャーが沢山居るって(もっぱ)らの噂だぜ?」

 

「あ? 俺は別に。そもそも、一年の俺が恋愛なんかに時間を使えるかよ。こちとら、日々の練習にしがみつくのが精一杯なんだよ」

 

「お前も変わってんな。そんな、スポーツなんかにガチになるなんて」

 

「あ?」

 

 須藤の(すご)みが山内を襲う。流石にその言葉は本気で取り組んでいる人に対して失礼だ。

 

「ま、まあ! 兎に角お前ら、彼女出来たら包み隠さず報告な!」

 

 池が慌ててそう締め括った。

 露骨な舌打ちをする須藤に、山内はただただ怯えるばかりだ。無理も無い。オレもかなり怖かったからな。

 それにしても……池のコミュニケーション能力の高さには驚嘆する。かなり危ない言動をしているが、本当に危険な橋は渡らない察知能力と言うべきものが彼にはあるのだろう。

 気まずい雰囲気を打破するべく、オレも協力することにした。

 

「話はちょっと変わるんだが、平田に彼女が出来たんだってな。相手は軽井沢か」

 

「あーそうなんだよ。この前、二人が手を繋いでいるところを本堂が見たんだってよ」

 

「ありゃ間違いなく出来てるな。他にも、肩寄せあって歩いてたらしいし」

 

「やっぱアレかな? エッチしたんかな?」

 

「どうかなー? でもしたんじゃないか? ……っていうか、してなかったら驚きものだろ」

 

「それもそうだな」

 

 高校生一年生で大人の階段を上るとか、オレには想像すら難しい。

 

「エッチ経験者の話が聞きてぇ……」

 

 山内が廊下に寝転がり本能に従ってそんなことを口に出した。池も同じように「そうだな!」と激しく同意。

 この前も思ったが、自分に素直すぎると将来痛い目を見るぞ。

 まあ、思っても口には出さないが。

 無料飲料水が飽きたので、炭酸飲料水でも飲もうかと自販機に向かう。すると山内が廊下に寝転がりながら。

 

「俺ココアー」

 

「お前な……。飲み物くらい自分で買ってくれ、頼むから」

 

「いやそれがさ。俺あと、残り二千ちょっとしかないんだよ」

 

「……九万ポイントも使ったのか?」

 

「欲しい物買って、気付いたらこのポイントになってた。見ろよこれ、すげえだろ」

 

 そう言って山内が取り出したのは……ゲーム機、だろうか? 

 そういった分野から疎いオレにはイマイチ分からない。オレの反応を見て、彼は有り得ないものを見る目でオレを見てきた。

 

「綾小路。これは何だ?」

 

「ゲーム機、だよな?」

 

「そうだけど。名前は?」

 

「知らないけど……」

 

「PSVIVAだよ、PSVIVA! 前から思ってたけど、お前、無趣味にも程があるだろ」

 

「そんなことはない。オレにだって趣味の一つくらいはあるぞ」

 

「何だよそれは」

 

「それは俺も気になるな。教えてくれよ」

 

 池と須藤が会話に加わり、好奇心で顔を彩らせた。

 オレは自信を持って、椎名が気付かせてくれた趣味を口にする。

 

「読書だな」

 

「「「……」」」

 

 沈黙がとても苦しい。

 オレは咳払いをわざとらしくしてから、そのPSVIVAとやらについて掘り下げることに。

 

「それで、その機械は幾らしたんだ?」

 

「二万ちょい。ああ、オプションとか追加したら二万五千は超えたかな。池と買ったんだ」

 

「それ、本当か?」

 

「「本当本当」」

 

 そりゃあ、ポイントもすぐに消えるな。

 五分の一を一気に使うなんて、称賛すべきなのかそれとも呆れ返るべきなのか……。

 

「普段はゲーム、あんまりやらないんだけどな。寮生活だから同士が集まるんだよ。ほら、クラスに宮本って奴が居るだろ? あいつがゲーム上手くてな」

 

 宮本といえば、クラスでも体格がふっくらとした男子生徒だ。思い返すと、確かに、いつも彼は誰かとゲームの話をしている印象があるな。直接会話をしたことはないが……。

 

「池も山内と同じくらいのポイント残量なのか?」

 

「ああ、まあなー。遊んでたら使っちゃった」

 

「須藤は?」

 

「俺もギリギリ一万あるかどうかだな。ただ一応言うが、俺はこいつらのように浪費したわけじゃねえぞ。バスケに必要だったんだ」

 

 そうか、部活に必要な道具は個人が出費するのか。バスケの場合は……ユニフォームや練習着、バッシュとかか? 

 

「それより綾小路、ココア頼む。ゲーム買ったら素材集めに付き合ってやるからさ。はちみつ集めるのも結構大変なんだぞ?」

 

 そのゲームを買うつもりは全然無いが、これ以上放置していたら面倒臭いことになりそうだな。

 仕方なく買ってやる。オレは……ミネラルウォーターで我慢するか。山内の分で使っちゃったからな。

 ココアを購入し、彼の腹目がけて投げる。

 

「さんきゅーな、持つべきは友人だぜ」

 

 こんなことでそんな言葉は聞きたくなかった。

 池も飲み物が欲しくなったのか自販機に向かい……迷った末、オレと同じ物を購入した。

 

「我慢するんだな」

 

「ん? ああ、これのこと? 今更だけどちょっと危機感が湧いてきちゃってさ」

 

「結構あるよな、無料商品」

 

「そう言えば、食堂には山菜定食なんて物が売ってたよな、無料で」

 

 早くもココアを飲み終えた山内が、思い出したように口にした。確かに彼の言う通り、何人かの生徒が山菜定食を食べていた気がするな。

 

「ま、あと少しの辛抱さ。来月になったらまた、夢の生活を送れるんだ! 山菜定食もきっと、使い過ぎた生徒に対する救済処置だ! 来月も沢山遊んでやるぜ!」

 

 夢の生活、か。

 オレは池の魂からの叫びを耳に収めながら、入学初日、コンビニ内で上級生が須藤に言っていたことを思い出していた。

 結局、『最初で最後の楽』とは一体、どんな意味があるのだろう。

 

 

 

§

 

 

 

 放課後。図書館。いつもの席。

 オレは椎名と合流し、読書に集中していた。お互いに無言で、目の前に広がっている本の世界へと意識が誘われている。

 携帯端末が軽く振動した。隣の彼女が横目で確認してきたので「悪い」と告げてから電源を付ける。

 例の男子のグループチャットで、池と山内が競い合うようにして写真を投稿していた。櫛田の写真がとても多いことに軽く引いてしまう。

 実は午後の授業中、オレは池から珍しく遊びに誘われていたのだが……オレはその話を断っている。

 何故なら、遊ぶ相手に櫛田の名前が上がったからだ。ついこの前、オレは彼女の要請を断っている。流石に今、彼女と図々しくも遊ぶ勇気はない。

 それに──。

 閉館時間まで残り続けたオレたちは、図書課の先生に挨拶をしてから図書館をあとにした。

 帰路(きろ)に就く中、並行して歩く彼女が短く。

 

「綾小路くん」

 

 オレの名前を呼んだ。

 

「どうかしたか?」

 

「質問をしても宜しいでしょうか?」

 

「答えられるかは分からないが、それでも良いのなら」

 

「……以前から気になっていたのですが、放課後、私と過ごして良いのですか? 綾小路くんは私とは違いお友達も出来ていますし、その方たちと遊ばなくても……」

 

 椎名は消えそうな細い声で、オレの顔を恐る恐るといった具合で見つめてきた。

 いつもは無表情の割合が多く彼女の内面を推察することは困難なのだが……この時ばかりはそれが出来た。

 オレへの純粋な心配が八割、恐怖が二割と言ったところか。心配はオレの交友関係を気遣ってくれているのだろう。そして恐怖は──自惚(うぬぼ)れで無ければオレとの接点がなくなることか。

 オレと彼女が最初に接点を持ったのは学校に向かうバスの中だった。あの偶然がなければオレたちが出会うことは遅くなっていただろう。いや、下手したらそんな機会はなかったかもしれない。もともと別々のクラスなのだ、その可能性は極めて高いと言えるだろう。

 だがオレたちはこうして出会っているのだから、人生とは面白いものだ。

 

 ──そして椎名ひよりという少女の存在は、既にオレの日常の中に刻み込まれている。

 

「椎名」

 

「……はい……」

 

「オレにとっては、だけどな。クラスメイトたちと一緒に過ごす放課後よりも、椎名と一緒に過ごす放課後の方が大切だ。だからこれからも時間が合えば一緒に時間を共有したいんだが……駄目か?」

 

「……! いえ、そんなことはありません。これからもよろしくお願いします」

 

 椎名はそう言って、初めて満面の笑みを見せてくれた。

 改めて彼女の美貌に魅入らされ、オレは照れ臭さを隠すようにして先に歩き始める。

 様々な初体験を得た四月。桜の花はとうの昔に散ってしまい、春も終わりを迎えようとしていた。

 生徒の多くが学校生活を満喫する日々。

 

 そんなオレたちが築き上げた日常は、あっさりと崩壊することになる。

 

 

 

§

 

 

 

 五月一日。朝のSHRの時間。

 一年Ⅾクラスの教室は、異様な静寂に包まれていた。

 司会役を担当する茶柱先生の冷たい蔑みの声が、無音の教室に反響する。

 

 

 

「──お前らは本当に愚かだな」

 

 

 



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第二章 ─最初の試練─
天国からの地獄


 

 五月最初の授業開始を告げるチャイムが学校中に鳴り響く。それと同時に一年Ⅾクラス担任の茶柱(ちゃばしら)先生が室内に入ってきた。手にはポスターの筒を持っていて、彼女の表情はいつもと同じく──いや、いつも以上に険しい。

 それはDクラスの生徒もそうだ。厳しさと──不安に包まれている。

 異様な静寂が場を支配していて、少しの物音も赦されない。そんな張り詰めた空気。

 

佐枝(さえ)ちゃんセンセー! 生理でも止まったんですか?」

 

 そんな空気を断ち切るためか、(いけ)が自分の席でおちょくるように問い掛けた。

 彼自身の武器であるコミュニケーション能力を活かそうとしたのだろうが……残念なことに笑い一つすら湧かない。

 

「これより朝のSHRを始める。が、その前に何か聞きたいことがあるはずだ。始める前に受け付けよう。質問がある生徒は挙手するように」

 

 茶柱先生は池のセクハラ発言を大人の余裕で無視し、そんなことを言った。まるで、質問があるのを確信している素振りだ。

 実際、半数以上の生徒がおずおずと手を挙げた。

 

「あの、今朝確認したらポイントが振り込まれてなかったんですけど。毎月一日に支給されるんじゃないんですか? 焦りましたよ、ジュース買えなかったんで……」

 

「ほう。ポイントが振り込まれていなかったのか。それは大問題だ。本堂(ほんどう)以外に振り込まれていない生徒はどれだけ居る?」

 

 面白そうに口を歪ませて(わら)う茶柱先生に、この場に居る大勢の人間が恐怖を覚えただろう。事実、彼女が現在覗かせている顔は、昨日までのそれとは明らかに逸脱していた。

 ()にも(かく)にも、質問されたら答えなくてはならない。先程は半数の人間が手を挙げたが、今度は生徒四十人……いや、高円寺(こうえんじ)を除く三十九人が手を挙げた。

 まさか彼だけ支給されている、なんてことはまずないだろう。高円寺という人間は『自由人』としてクラスに定着している。つまり気分の問題だろう。

 

「そうか、これだけの生徒がポイントを支給されていないのか。──だが安心しろ、ポイントは毎月一日に振り込まれている。学校側で念のため確認しているが、こちらの不備は一切ない。本堂。席に座れ」

 

「えっ? で、でも振り込まれてないし……」

 

 気が動転している本堂は、茶柱先生の命令を無視した立ったままの姿勢で山内(やまうち)と顔を見合わせる。

 ただそれは、彼らだけじゃない。殆どの生徒が近くの友人と首を傾げていた。

 先生の言葉を信じるなら、ポイントは振り込まれていることになる。ただ──学生証カードのポイントは昨日から増加されていないのも事実。

 てっきりオレは朝のSHRの時間帯で一斉に振り込まれるものとばかりに思っていたのだが……それはどうやら違うようだ。

 

 

 

「──お前らは本当に愚かだな」

 

 

 

 唐突に、茶柱先生は教師として失格の罵声をオレたちに浴びせた。けれど誰もそれを指摘できない。

 怒り? あるいは悦び? 不気味な気配を携えた彼女にオレたちはただただ口を半開きにするしかない。

 

「座れ、本堂。仏の顔は三度までだが、私の顔は二度までだ」

 

「さ、佐枝ちゃん先生……?」

 

 今まで聞いたことがない厳しい口調に呑まれた本堂はしばらく呆然としていたが、本能が未来を予測したのか、数秒後にはズルッと席に不時着陸する。

 

「もう一度だけ言おう。ポイントは確実に振り込まれた。それは間違いない。このクラスだけ忘れられた、などという幻想や可能性も皆無だ。分かったか?」

 

「わ、分かったかって言われましても……。な、なぁ?」

 

 本堂は不満げな様子を見せ、クラスメイトに同意を求める。

 オレは一旦冷静になろうと思い、一度、肺に詰まった空気を吐き出した。

 あそこまで強調されたということは、茶柱先生の言葉に嘘偽りはないと考えて良いだろう。彼女の言葉を脳内で反芻する。

 ポイントは確実に振り込まれた。

 ポイントは確実に振り込まれた……? 

 矛盾をなくすためには──たった一つだけある。

 

 この一年Dクラスに振り込まれたポイントが──ゼロポイントだとしたら? 

 

 小さな疑惑は、時間が経つにつれ肥大化する。

 オレが脳内で再検証している、そんな時だった。

 

「ははは、なるほどねティーチャー。私は理解出来たよ、この謎解きがね」

 

 高円寺が声高(こわだか)に笑う。彼は授業だけは静かに受けている印象があったのだが……今は授業ではないと認識したらしく、入学初日のように両足を机の上に乗せた。

 そして親切心なのか、本堂を指さして言った。

 

「簡単なことだよ本堂ボーイ」

 

「はあ? っていうか、その『本堂ボーイ』はやめろよ」

 

 本堂の訴えに『自由人』は耳を貸さずに続ける。

 

「つまりだ、私たちDクラスは1ポイントも支給されていないのさ」

 

「おいおい、それはないだろ。だって毎月一日に十万ポイント振り込まれるって……」

 

「そんな言葉を私は一度も耳にしたことは無いね。そうだろう?」

 

 高円寺の言葉は止まらない。教卓で静観の構えを取っていた茶柱先生をも、彼は巻き込んだ。

 

「態度に問題がありすぎるが──高円寺の言う通りだ。まったく、これだけヒントを与えた状態で他者に教えられて気付くとは、嘆かわしいものだ。私の見立てでは、自分で気付いたのは……たった数名か」

 

 そして茶柱先生の暴言も止まらない。高円寺の態度に問題があると彼女は言ったが、オレから言わせてみれば彼女も十分に問題があるように見える。

 彼女が侮辱した大勢の生徒は突然の出来事に脳の処理が追い付かず、呆然としていた。

 落ち着きを保っているのは平田(ひらた)に、高円寺……あとは隣人の堀北(ほりきた)くらいか。

 

「……先生、質問良いでしょうか? ()に落ちないことが多々あります」

 

「平田か。自分のポイントを守るため……そういうわけではなさそうだな。あくまでもクラスメイトのために……と。良いだろう、質問を許可する」

 

「ありがとうございます。……何故ポイントが振り込まれなかったんでしょうか? その情報が開示されなければ、僕たちは誰一人として納得できません」

 

「平田。(さと)いお前ならある程度は予想がついているはずだ。違うか?」

 

「……良いから教えてください。先生、これは僕たち生徒の権利じゃないでしょうか?」

 

 珍しく平田が熱くなっているな。

 生徒の問い詰めに教師は嫌な顔せず、ますます唇を三日月型に歪ませる。

 そして「ククッ」と一度嗤ってから。

 

「権利か。お前の言う通りだな、それでは答えよう。──九十八回。そして、三百九十一回。この回数がお前たちに分かるか?」

 

「な、なんだよ……」「そんなの聞き覚え無いぜ」「私も」「理解不能だわー」

 

 クラスメイトたちの言う通りだ。

 何かの暗号か? 

 

「ふむ、まあ流石に分からないか。なにせ、本人たちに自覚が無いのだから当たり前と言われればそれまでだが。──遅刻欠席、九十八回。私語や携帯を触った回数三百九十一回。ひと月。たったひと月だぞ? 随分と好き勝手にやらかしたもんだな。この学校では、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それだけのことだ。──入学式の日、私はお前たちに言ったはずだぞ──この学校は、実力で生徒を測るとな。そしてお前たちは先月、評価ゼロという評価を受けた」

 

 壊れた機械のような、感情の起伏が見えない淡々とした説明だった。

 この学校に入学してから一ヶ月間。誰もが内心は疑問に思っていたはずだ。そしてその答えが今、紐解かれていく。最悪な形、ではあるが。

 十万ポイント。つまり十万円。その巨額をオレたち一年Dクラスは見事にドブに捨てたのだ。

 遅かれ早かれ、独自のペースで状況の深刻さを理解していく生徒たち。その中で唯一、行動に移す生徒が居た。

 堀北だ。机の上にノートを開き、開示された情報を書き込んでいく。動揺は見られない。

 

「茶柱先生。僕たちはそんな説明をされた覚えはありません……」

 

「ほう。確かにお前の言う通り、私はそんな説明は一切していない。だが聞くが、お前たちは説明されなければ理解出来ないのか?」

 

「当たり前です。予め説明さえされていれば遅刻や私語は行わず、ポイントは減点されませんでした」

 

「それはおかしな話だな。例えばこれが理不尽なものだったらお前のその主張も通るだろう。だがもう一度聞こう。お前ら高校生は、小、中学校で遅刻はするな、私語はするなと言われなかったのか?」

 

「そ、それは……」

 

 言葉を詰まらせる平田に、茶柱先生はさらに追い打ちを掛ける。

 

「身に覚えがあるだろう。義務教育の九年間……いや、幼稚園の頃からお前らは嫌になるほど言われていたはずだ。高校からは義務教育じゃない、お前たちは自分の意思で当校を志望し、そして合格した。そのことについては素直に称賛しよう。事実当校の倍率はとても高く、狭き門だった。その門を見事に潜り抜けたお前たちは、そんなことすらも分からないのか? 自己責任だ、甘んじて受け入れろ」

 

「……」

 

 正論だ。茶柱先生の言葉は全て正しい。

 

「さらに私はお前たちに聞きたい。お前たちはおよそ一ヶ月前、十万円支給されたことに対して驚いていたな? ()()()()()。そして私は、あの巨額はお前たちに対する褒美だと答えたな。そしたらお前たちは勝手に来月からも十万円貰えると錯覚した。愚かにも程がある。どうして高校一年生になったばかりの若者に、なんの制約もなしにそんな大金が与えられると思った? この学校、高度育成高等学校は、知っての通り国主導で作られた。その理念は、次世代に活躍する若者を支援するためだ。──常識で考えろ。何故疑問を疑問のまま放置する?」

 

「ではせめて、ポイントの増減についての詳細を教えて下さい。今後の参考にします」

 

「それは出来ない相談だな。人事考課、つまり詳細な査定内容は教えられないことになっている。社会も同様だ。例えばお前たちがこの学校を卒業して、どこかの会社に入社するとしよう。その時に詳しい査定結果を告げるか否かは、その会社が決めることだ。──しかし、そうだな。ここまで悲惨だとあまりにも憐れだ。私もお前たちが憎くて冷たく対応しているわけじゃない。一つアドバイスをしてやろう」

 

 オレの個人的な見解を述べるのならば、そんな様子は見られないのだが。

 しかし平田は違うようだ。彼は多分、本当の善人なのだろう。茶柱先生のアドバイスとやらに希望を見出すべく、聞く姿勢を取る。

 

「お前たちが改心して、遅刻や私語を無くし、マイナスポイントをゼロに抑えたとしても、減ることはあっても増えることは無い。つまり来月振り込まれるポイントもゼロだ。だが裏を返せば、どれだけ遅刻や私語をしたとしても関係ない。どうだ? 覚えておいて損はないぞ?」

 

「先生、それは……ッ」

 

 希望から絶望。それを自分の身体で体験している彼の心境は、一体どのようなものなのか。

 一部の生徒が戸惑いの声を上げる。彼らは分かっていない。茶柱先生のありがたいアドバイスのその真意が。

 彼女は……いや、学校側は恐らくここで試しているのだ。この先、オレたちがどのような選択をするか。だからこそ敢えて逆効果の説明をし、生徒のやる気を出来るだけ削いでいる。

 とても効果的なやり方だ。

 人間は実態が不明瞭な希望よりも、目に見える絶望に恐怖し、心折れる。

 そしてその絶望はもう、すぐそこまで広がっていた。

 SHRの終わりを告げるチャイムが鳴るが、茶柱先生は話を終わらせない。いや、終わらせられない。

 何故なら──まだ本題に入っていないからだろう。

 

「時間を取りすぎてしまったな。これで学校のシステムは理解出来たはずだ。──これを見ろ」

 

 手にしていた筒から厚手の紙を取り出し、ホワイトボードに磁石で貼り付ける。

 生徒たちは茫然自失(ぼうぜんじしつ)といった様子でその紙を見ていた。

 ここで今日初めて、隣の堀北が懐疑的な声を出す。

 

「……これは、クラスの成績……?」

 

 堀北の解釈は合っているだろう。

 そこにはAクラスからDクラスの名前と、現在所有しているであろうポイントが表示されていた。

 オレたちDクラスはもちろんゼロ。椎名が所属するCクラスは490。Bクラスが650。そしてAクラスが──なんと驚くことに940。1000ポイントが十万円相当に値する、そんなところか。

 全てのクラスが軒並みポイントを減らしているが……おかしいな。

 

「綾小路くん。おかしいと思わない?」

 

「同意だな。綺麗(きれい)にも程がある」

 

 オレと堀北は、ある奇妙なことに気付いた。

 

「学校側はお前たちの行動に一切文句は言わない。事実、ポイントの使用方法について制限は掛けなかったし、自由に使えとも言っただろう」

 

「こんなのってあんまりっすよ! これじゃ生活出来ませんって!」

 

 池がクラスの意見を纏めてそう叫んだ。

 ポイントを全て消費した生徒に至っては、阿鼻叫喚と化していた。

 

「良く見ろバカ共。それはお前たちだけだ。現に、他のクラスは問題なくポイントが残っているだろう。Dクラスの次に下なのはCクラスだが、それでも一ヶ月過ごすには十分すぎる大金だ」

 

「先生、ちょっとおかしいですよ! なんでオレらだけ……」

 

「だから自業自得だと言っている……と言いたいところだが、中々の着眼点だな池。そう、お前の言う通り……Dクラスだけが何故かゼロポイントだ」

 

「どうして僕たちだけ、こんなにも歴然とした差になっているんですか?」

 

 平田の問いかけに、茶柱先生は満足そうに一度首肯する。

 トップのAクラスとの差は940ポイント。あまりにもおかしい。

 

須藤(すどう)。お前は入学初日、上級生に絡まれたな?」

 

「あ? 何でンなことを知ってんだよ」

 

「良いから答えろ」

 

「……確かにムカつく奴らに絡まれたけどよ……」

 

 茶柱先生がそのことを知っているのは、やはりコンビニの監視カメラから送られてきた映像によってだろう。あるいは、あの時何もしなかった店員が学校側に直接報告したかのどちらかだ。

 

「良かったな須藤。あの時綾小路(あやのこうじ)と、彼と一緒に居た女子生徒が後片付けをしなかったら反省文だったぞ」

 

「……綾小路が……?」

 

「ああ、そうだ。綾小路たちはお前が散らかしたカップラーメンを処理した。後で礼を言うんだな」

 

「……それは後で言われなくてもするがよ。その話がどう繋がんだよ」

 

 確かに須藤の言う通りだ。あの一件と今回の話に、どう関係が……いや、まさか。

 

「上級生に言われなかったか? 『不良品』だとな」

 

「あァ? それが何だよ!」

 

 須藤の苛立ちを無視して、茶柱先生は話の対象を彼からオレたちDクラス全体に向けた。

 

「そう、須藤は『不良品』だと言われた。ただここで注釈するが、『不良品』はお前たち全員だ。──ここまで言えば、分かるだろう? お前たちがどうしてDクラスに配属されたのかがな」

 

「俺たちが『不良品』? Dクラスに選ばれた理由? 知らねぇよ、適当じゃねえの?」「普通クラス分けってそうだよね?」

 

 ああなるほど。よく理解した。

 どうしてDクラスが『不良品』と呼ばれているか。

 そして──オレがこのクラスに居る理由が。

 

「当校では優秀な生徒から順にAクラスに配属している。逆に不出来な生徒はDクラスだ。まあ、この制度は近年各高校でも内密ながら実施されている所もあるし、大手塾でもそうだろう。つまりこのクラスは、最悪の『不良品』が集まる最後の砦というわけだ。そしてお前たちは──この一ヶ月でそれを証明してみせた。おめでとう、よくやった」

 

「……ッ」

 

 隣の席で堀北が大きく顔を強張(こわば)らせた。彼女が自分のことを優秀だと自負しているのはこの一ヶ月でオレは察している。

 だが、その矜恃(きょうじ)はあっさりと打ち砕かれた。

 ただ……学校側のこの政策も理解出来る。

 かのギリシアの哲学者、アリストテレスは『人間は社会的動物である』と述べた。

 これは、人間という生物は他者との接触がなければ生きていけないことを意味している。

 優秀な人間と、そうではない人間が同じ空間に居たら──良くも悪くも影響される可能性は高い。そして不出来な人間とは、少しのことでは変わらない。

 

 何故ならそれこそが──不出来な理由なのだから。

 

 しかし逆に優秀な人間は対応できるからこそ自分を高める。そして彼らが混じりあった時、優秀な人間はあっさりと堕ちてしまう。

 

「しかし同時に感心もした。当校が創立されてから、たったの一ヶ月で十万ポイントを根こそぎなくしたのはお前たちが初めてだからな。お前たちは図らずも偉業を達成したわけだ」

 

 わざとらしく手を叩く茶柱先生。

 それを見た堀北が、それはもう恐ろしい形相で先生を睨む。とても怖い。

 

「安心しろ。流石に生徒を死なせるわけにもいかないからな。寮はタダで使えるし、コンビニや自販機、食堂には無料商品がある。それを使えば良い。それかもしくは、ポイントを他の生徒から貰う方法もあるぞ?」

 

 慰めにもならないな。

 確かに人としての生活は出来るだろうが……今どきの高校生がそんな節操な暮らしに満足出来るはずがない。

 それにポイントを貰えば良いと簡単に言うが、この状況で誰が讓渡(じょうと)してくれるというのか。

 

「……良く理解したぜ。これから俺たちは、他のクラスの奴らからバカにされるってことか」

 

 ガンッ! 机を足で蹴ったのは須藤だった。彼の左隣の佐倉(さくら)が怯えてしまうから、どうにか抑えて欲しい。

 だが彼の気持ちも分からなくはない。不名誉な偉業を達成したオレたちDクラスが他クラスから馬鹿にされるのは必然だろう。

 

「なんだ須藤。お前も体裁は気にするんだな。だったら上のクラスに昇進出来るよう頑張ってくれ」

 

「あ?」

 

「クラスのポイントはそのままクラスのランクに反映される、というわけだ。例えばお前たちDクラスが500ポイント以上残していたらCクラスに。有り得ないとは思うが、仮に950ポイント以上残していたら一気にAクラスだ。どうだ、やる気が出るだろう」

 

 そうは言うが、言ってる張本人がやる気を起こさせない声で言っているのだが。

 

「次に残念な知らせがある。──これを見ろ」

 

 茶柱先生はそう言いながら、新たな紙をホワイトボードに貼り付けた。クラス全員の名前と、その横には数字が表示されていた。

 

「これは以前行われた小テストの結果だ。見ろ、この惨憺(さんたん)たる結果を。お前たち、中学時代は何をしていた? いやはや、本当、一周まわって笑いが込み上げてくる」

 

 嗤われても文句が言えない数字の羅列。

 一部の上位を除き、大半の生徒は六十点前後の点数しか取れていない。

 一番最下層に位置するのは、須藤の十四点。正直オレも、彼のことはバカだと思っていたがここまでだとは思っていなかった。次点で池の二十四点。平均点は……六十五点前後といったところか。

 

「良かったな。これが成績には反映されない小テストで。もし本番だったら七人はこのクラスから永遠退場だったぞ」

 

「ちょっ、待って下さい! え、永遠退場って……退学ってことですか!?」

 

「その解釈で間違いない。──ああ、そう言えば言ってなかったか。これから定期テストで一科目でも赤点を取ったら退学して貰うことになる」

 

「「「はああああああああ──!?」」」

 

 七人の赤点候補の生徒が驚愕の悲鳴を上げた。

 三十一点の菊池(きくち)という生徒の上で、茶柱先生はわざとらしく赤線を引く。つまり彼以下の七人は退学になっていたのか。

 そうなると、今回の平均点は六十二点か。

 

「ふっざけんなよ佐枝ちゃんセンセー! 退学なんて冗談じゃ……!」

 

「私に言われても困る。それに安心しろ池。今回はその通達も込めて成績には反映されてないだろ。ここから勉強すれば良いだけのことだ」

 

「んな……!?」

 

「ティーチャーの言う通り、このクラスには愚か者が多いようだねえ」

 

 口をパクパクとする池に、高円寺が尊大にもそう煽った。姿勢は変わらず、足を机に乗せたままだ。

 

「なんだと高円寺! お前だってどうせ赤点組だろが!」

 

「フッ。君の目は節穴かな池ボーイ。よく見たまえ。ああ、無駄な労力を減らすため、上から見るが良い」

 

「はあ? ……えっ、マジかよ!」

 

 高円寺六助の名前は、堂々の同率首位に名を載せていた。「バカキャラだと思っていたのに……!」と悔しがる池たち七人だが、そうでもない。

 彼は授業だけは真面目に受けていた。多分、そういった線引きを自分でしているのだろう。

 高円寺はにっこりと微笑む。まるで自分の力を誇示(こじ)するかのように。

 

「それからもう一つ付け加えよう。お前たちがこの学校を志望したのは、高い進学率、就職率を誇る噂を聞いたからだろう。事実、その噂は間違っていない。そして当校は、生徒が望む未来を叶えると、そう謳っている。だが……世の中そんなに上手くいくはずがない。──Aクラスだけが、その恩恵を得られる。それ以外の生徒の将来は確約出来ないとだけ、言っておこう。もちろん、必要最低限のことはする。ただ、それだけだ。あとは自分でやってくれ」

 

「先生! そんな話は聞いていません!」

 

 幸村(ゆきむら)が茶柱先生に苦情を訴える。彼は高円寺と同じ点数の同率首位だ。

 

「みっともないねぇ。幸村ボーイ、これは私のありがたいアドバイスだが、男が慌てふためくモノほど惨めなものは無い」

 

「……!? お前はDクラスに割り当てられて悔しくないのかよ!」

 

「何を悔しがる必要があるんだい? 私は私のことを最も理解している。学校側が私のポテンシャルを測れなかった、それだけのこと。仮に学校側が私に退学しろと言うのなら、私は喜んで退学しよう。その後泣きついてくるのは百パーセント学校側だからね」

 

 唯我独尊ここに極まれり、だな。

 幸村は高円寺の言葉に食い下がるが、『自由人』の前では為す術もなかった。

 ただ一つだけ分かったことがある。

 

 このDクラスは──学力だけで生徒は配属されていない。

 

 例えば幸村。彼の頭の良さは今回の小テストで充分に分かった。何故なら彼の得点は九十点。

 テストの最後の三問は、普通の高校一年生では解けない難問だった。一問各五点配当だったあのテストで九十点だということは、一問は解いてみせたことになる。

 例えば高円寺。彼の学力、運動能力の高さは今回の小テストと前回行われた水泳の競泳で露呈した。

 例えば須藤。確かに彼は学力の面では『バカ』の蔑称が付けられるだろう。だが、こと運動能力においては高円寺と対抗出来る程だ。特にバスケットボールに関しては才能があり、ここ最近は一軍に混じって練習もしているらしい。入学してたった一ヶ月でこれは凄まじいことだ。

 最後に堀北。才色兼備の女性であることは間違いない。

 それらを考慮するに、恐らくDクラスの生徒は何かしらの欠陥を持っているのだ。だからこその『不良品』。『優良品』に一歩遅れを取ってしまう。

 

「浮かれた気分は払拭されたようでなによりだ。それだけでこの茶番劇にも意味はあったのだろうな。中間テストまで残り三週間。勉強するもしないも自由だ。たださっきも言ったが、赤点を取ったら問答無用で退学処分なのでそのつもりでいろ。赤点を回避したければ、必死に勉強するんだな。安心しろ。お前たち全員が赤点を回避する方法はあると、私は確信している。それではSHRは終わりだ。あとは好きに過ごすが良い」

 

 茶柱先生はそう言って、教室を出て行った。扉の閉会音が虚しく反響し、誰も言葉を発せない。

 全員が全員、この過酷すぎる状況と向かい合わなくてはならなかった。

 取り敢えず一時限目の用意をしようと思い立ったところで、制服のポケット内に入れてある携帯端末が振動した。

 

『放課後図書館で会えますか?』

 

 無駄な文を取り除いた簡素な文。送り主は確認するまでもない。椎名(しいな)だ。

 もちろんオレとしては彼女と会うのは吝かではないが……流石にこの状況で会うのはリスクが伴うな。

 現に図書館での逢引(池の言葉を引用すると)は他の生徒にバレているようだし、誰が聞いているか分からない場所でそれは避けたい。

 

『他の場所だったら構わない』

 

『私の部屋はどうでしょう?』

 

 硬直してしまう。

 女性がそんな簡単に異性を自分の部屋で招いて良いのだろうか?

 いや、常識的に考えて駄目だな。

 だが人の目が着かない場所は限られている──ああ、そっか。他にもあるじゃないか。

 

『……オレの部屋で良いか?』

 

『分かりました。それでは後程』

 

 通信が途絶えた。軽くため息を一つ。

 急に届いた怒声に目を向ければ、そこでは幸村と平田が言い争いをしていた。いや、幸村が一方的に平田に突っかかっているだけか。

 他の生徒も同様。見れば、須藤ですらも俯いている。

 オレはそんな彼らを見ながら、今後の方針を定めていた。

 



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椎名ひよりの分岐点 Ⅰ

 

「ポイントが入らないって、これからどうすんだよ!」

 

「私昨日、残りのポイント全部使っちゃった……」

 

 放課後に椎名(しいな)と会うことを約束し、携帯端末から目を離す。その先では、Dクラスの生徒が絶望に染まった表情で悲嘆(ひたん)に暮れていた。

 酷い荒れようだと思うと同時にゾッとする。オレの残りのポイントは八万と少し。

 節約していなければオレも彼らの仲間入りを果たしていたかもしれない。

 ポイントに余裕がありそうな生徒は……堀北(ほりきた)平田(ひらた)櫛田(くしだ)といった人種か。

 

「ポイントよりもクラスの方が問題だ……! どうして俺がこのクラスに……!」

 

 幸村(ゆきむら)が憤怒の色に顔を染めて憤る。彼は眼鏡を掛けているだが、レンズ越しに窺える目はいつも以上に細められていた。残存ポイントには余裕がありそうだが、精神的にはなさそうだ。

 

「って言うか、Aクラスじゃないと望む所に行けないってマジ? そんなの聞いてないよ!」

 

「そうだよな! それに佐枝(さえ)ちゃんセンセーのあの変わり様……俺たちのこと、実は嫌いなんじゃ……」

 

 他の生徒たちも一様に混乱を隠せない。

 他のクラスだったらどのような景色が広がっているのだろうか。阿鼻叫喚(あびきょうかん)と化している教室内をぼんやりと眺めながら、そんなことを考える。

 とはいえ、絶対に起こる事は決まっている。

 それは集団である限り必ず起こる現象。

 即ち──先導者の登場だ。

 そしてことDクラスでは、その役割を果たせるのは一人しか居ない。

 

「皆、まずはいったん落ち着こう。いつまでも混乱してちゃダメだ」

 

 平田洋介(ようすけ)。現段階でクラスの纏め役を担えるのは彼だけだ。

 席から立ち上がり場の混乱を収めようとする先導者に、皆、期待の眼差しを向ける──()()()()()

 

「落ち着くってなんだよ。俺たちは茶柱(ちゃばしら)先生から『不良品』って真正面から言われたんだぞ! 悔しくないのかよ!?」

 

「もちろん悔しいさ。だけど今はそう言われても、クラス一丸となって上のクラスに上がれば、そんな誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)は消えると思う。先生もそう言っていただろう?」

 

 茶柱先生の言葉を信じるのなら、この学校は実力至上主義を掲げているそうだ。そして、クラスの順位が上のクラスほど高く評価される事になる。それは幸村も分かっている。

 

「はぁ? 平田、お前本気で言ってるのか? 先生が言ってただろ、優秀な生徒程Aクラスに配属されるって! その逆のDクラスがどう頑張っても、そんなの無理に決まってるだろ! そもそもの話、俺はこのクラス分けに納得していないんだ」

 

「気持ちは分かる。けど僕には、このクラスの生徒がそんな落ちこぼれだなんて……まして、『不良品』だとは到底思えないんだ。それに幸村くん。愚痴を吐いていたって仕方がないだろう?」

 

「なんだと!」

 

 駄目だな、あれは。

 幸村は平田の言葉に耳を貸さず、一方的に突っかかる。

 きっと彼も、頭の中では理解しているはずだ。これから学校で起こる闘争に、何が必要なのかが。

 だがオレたちはまだ高校一年生。たった十五年弱生きてきた人間が、そんな簡単に非常時に対応出来るわけがない、か……。

 ここまでは正に予定調和と言える展開だ。

 先導者が生まれた次の瞬間には、叛逆者(はんぎゃくしゃ)が生まれる。

 表では平田に従うだろうが、裏では彼のことを好まない人間もいるはずだ。幸村が顕著に表れているだけで、このクラスの一人か二人、あるいはそれ以上の人間が『気に食わない』と思っているだろう。

 先導者、叛逆者。そして次、舞台に上がるのは──

 

「落ち着いてよ。ね? 幸村くん、平田くんを庇うわけじゃないんだけど、今は争っている場合じゃないと思うな」

 

 次に舞台に上がるのは、調停者だ。場を制する発言力を持つ者。あるいは、諍いを事前に食い止めることが出来る者。

 そしてその役割は、櫛田が必然的に担うことになる。彼女はコミュニケーション能力がとても高く、男女共に信頼されているためだ。

 怒りのボルテージのあまり、平田の胸倉を摑みそうになっていた幸村だったが、流石に櫛田がとめれば手を収めざるを得ない。

 

「上手いな……」

 

「そうね。私は彼女のことは好きではないけれど、あの能力は素直に称賛出来る」

 

 オレの独り言を堀北が拾い、そんなことを口に出した。

 前で繰り広げられている騒動から一瞬目を離し、横で座っている彼女を一瞥する。

 

「お前も人を褒める事があるんだな」

 

「私だって凄いと思ったら素直にそう言うわよ。その機会は少ないけれど」

 

「ちなみに堀北は、櫛田のどこが凄いと思う?」

 

「……それ、答える必要があるとは思えないけれど」

 

「そう言うな。単純な好奇心だ」

 

 堀北は珍しく逡巡(しゅんじゅん)する素振りを見せてから、軽く嘆息(たんそく)する。彼女は視線を櫛田に送りながら、淡々と口を動かした。

 

「まずだけれど……平田くんと幸村くんの間に入っている、これだけでも大したものだわ。あくまでも中立の姿勢を取っている、そのことを伝えているのよ。そしてさり気なく幸村くんの手に自分の手を添えている。こうすれば彼が引き下がると、彼女には分かっているのね」

 

「……随分と櫛田のことを持ち上げるんだな。答えてくれたこともそうだが、そこまで詳細に教えてくれるとは正直思っていなかった」

 

「あなたが聞いてきたんじゃない」

 

「だとしても、だ。堀北お前、実は櫛田のことが好き──」

 

「そんなわけないでしょう。そもそもの話──いいえ、なんでもないわ」

 

 櫛田、お前の歩む道は前途多難(ぜんとたなん)だぞ。

 オレと堀北が今しがたの出来事を呑気に批評している間に、櫛田は争いを見事に収めてみせた。

 彼女の功績によって叛逆者の謀叛(むほん)は終わり、幸村は平田に謝罪し、先導者は何も罰することはせず受け入れる。

 オレは再び携帯端末に意識を戻し、カメラモードを起動させた。ホワイトボードに貼られている全クラスの残存ポイント、及び小テストの結果を記録として残す。

 

「何をしているの?」

 

「どうにかポイントの詳細が分からないかと思ってな。お前だってさっき、茶柱先生が話している間メモってただろ」

 

 せめて遅刻何ポイント、雑談何ポイントかが分かれば対策のしようがあるんだが。

 

「あの紙だけじゃそれは無理じゃないかしら? それにそんなことしなくても結果は見えている。このクラスは遅刻と雑談をしすぎたのよ」

 

「あとは小テストの結果だな」

 

「そうね。けれど綾小路(あやのこうじ)くん、その点に関してだけはあなたもある程度の責任はある。なによ、五十点って。あんな簡単なテストで……」

 

「そこまで言わなくても良いだろ。別に、赤点の点数じゃないんだから」

 

「だとしても問題よ。特に、赤点者七人は論外ね。どうしてこの学校に入学出来たのかしら」

 

「さあな」

 

「先生たちも私たちDクラスにはほとほと呆れているでしょうね」

 

 堀北の言う通りだと、オレも思う。

 生徒のオレですら、この一ヶ月間クラスメイトの悪行(あくぎょう)にはある意味感心させられていたのだ、教師はそれ以上だっただろう。

 教育者に対する冒涜。

 所持金の散財。

 そして怠惰。

 学校側の言葉を借りるのなら、オレたちDクラスは『不良品』。そして不良品は英語で“Defective Product”。奇しくも──“D”から始まる言葉だ。

 それにしても、今日の堀北は随分と饒舌(じょうぜつ)だな。いつもならとっくに話は打ち切られているのだが……彼女も焦りを感じているのだろうか。

 

「なあ、堀北。これはさっきも言ったが、単純な好奇心なんだが」

 

「なに? あなた、今日は随分と饒舌ね」

 

 それはオレの台詞だ、という言葉を呑み込む。

 

「お前、進学組か?」

 

「……どうしてそんなことを」

 

「いや、気分を害すなら答えなくて良いんだけどな。茶柱先生がAクラスとDクラスの差を言った時、随分と先生を睨んでいただろう」

 

「……大なり小なり、殆どの生徒がそうでしょう。入学前に説明があったなら兎も角ね。それに──現代日本で高卒で就職なんて、無謀にも程がある。この学校だったらそれは話が違うでしょうけれど、それでも高校卒業者と大学卒業者に賃金や身分に差があるのは事実だわ。それなら、進学したいと普通の人なら思うのではなくて?」

 

 ご高説ご尤も。

 堀北の主張を汲むわけではないが、この状況にどれだけの生徒が不平不満を訴えているのだろう。

 唯一違うとすればトップのAクラス。

 B、C、DクラスはAクラスに花を持たせる踏み台、そんなところだろうか。

 ただ非常にイヤらしいのが、一応の救済措置……いや、()()()()とでも言えるものがある所か。だがセカンドのBクラスですら、ファーストのAクラスには290ポイント以上の差がある。

 そして茶柱先生の言葉を信じるのならば、日常生活の態度を改心したところで、意味はあまりない。それは当たり前の事であり、マイナスにはなってもプラスにはなりえないだろうからだ。

 それ故に、平田に皮肉(ひにく)なアドバイスを施した。

 

「オレとしてはまず、ポイントの確保に努めたいところだな」

 

「あなた、ポイントには余裕があるじゃない。そんな急ぐことでもないと思うけれど」

 

「無いよりはあった方が良いだろう」

 

「それはそうだけれど。けど、ポイントなんて所詮副産物でしかないわ。現に、この学校にはあらゆる無料施設がある。無料商品もね」

 

「堀北……それはお前が異常なだけだ。普通の高校生が、貧しく暮らせと言われて『はいそうですか』と頷けるわけがないだろ」

 

 学校側は生きていくための必要最低限のものしか、無料施設、もしくは無料商品を用意していないはずだ。

 例えば、娯楽。一度甘い(みつ)を吸ってしまったら、人間は歯止(はど)めが効かなくなる。

 

「……そうかしら?」

 

「そうだ。まあ、たったひと月で十万円を使い切ったことを考えれば自業自得だと思わなくもないが……」

 

「あなた、かなり厳しいことを言うのね」

 

「そうか? オレから言わせれば、堀北の方が──」

 

「皆、聞いて欲しい。特に須藤(すどう)くん」

 

 慌てて口を閉ざす。

 前方を見ると、教壇に平田が立って皆の注目を集めているようだった。

 名指しで呼ばれた須藤は不機嫌そうに鼻を鳴らす。

 

「チッ。なんだよ」

 

 相変わらず度胸があるな。

 先程は幸村のことを叛逆者と表したが、本当の叛逆者は彼だろう。とはいえ、流石の須藤も平田の言葉を全く聞かないという訳ではないようだった。

 平田はその事に安堵すると、おもむろに話し始める。

 

「今月、僕たちはゼロポイントだった。これは非常に大きな問題だと僕は思う。卒業までゼロポイントのままだなんて……皆も嫌だろう?」

 

「そんなの絶対嫌!」「私も! 女の子は大変なんだから……!」「俺もだぜ!」

 

 クラスメイトの同調の声に、平田は優しく頷き返す。

 

「だからこそ、来月からはポイントを得よう。そのためにはクラス皆で団結する必要がある。授業中の私語や遅刻、携帯の使用禁止。まずはこれを徹底して──」

 

「は? 何でお前に指示されなきゃならないんだよ! それにだ、ポイントが増えるなら兎も角、変わりはしないんだろ。なら、意味は無いじゃねぇか」

 

「でも、マイナス要素であることに変わりはない。そうだろう?」

 

 しかし、須藤は首を縦に振らなかった。

 

()()()()、平田。俺から言わせれば、真面目に授業受けてもポイントが増えないことに納得いかねーんだよ」

 

「茶柱先生が言っていたじゃないか。それは当たり前のことだと。これは僕の想像だけど、学校側からしたら当然のことなんだと思う」

 

「私も平田くんに賛成かな」

 

 櫛田の援護。だがそれでもなお、須藤の不満はとまらない。そして爆発する。

 

「それはお前らの勝手な解釈だろうが。仮にお前らの言う通りだとして、どうすればポイントが増えるんだよ? それが分からない限り、協力する気にはなれないぜ」

 

 須藤の言うことは一理ある。

 明確な手段が分かってない現状の中、確かにそれは無駄……とまでは言わないが、意味はあまり無いだろう。

 

「でも須藤くん。きみの……いや、皆の協力がないとポイントは取得出来ないんだ。それもれっきとした事実だよ」

 

「……勝手にしろ。けど俺を巻き込むな。じゃあな」

 

 平田の真摯(しんし)な言葉は須藤に響かなかった。別れの挨拶を一方的にして、教室から姿を消す。今日はこのまま全ての授業をサボる気なのだろう。そして予想は的中し、オレの携帯端末でバックれる旨のメールが送られてきた。

 適当に返しておく。

 

「須藤くんってほんとに空気読めないよね。あ〜ぁ、最悪。須藤くんがこのクラスに居なかったら、少しくらいはポイント残ってたんじゃない?」

 

「あれでバスケのプロを目指してんでしょ? なれるわけないのにね」

 

「何であんな奴と同じクラスに……」

 

 ──言いたい放題にも程があるなー。

 皆さっきのSHRまで、各々自由にスクールライフをエンジョイしていたと思うんだが……。

 クラス中のヘイトが須藤に集まりつつある。最悪、苛めにまで発展するかもな……。まあ、屈服するとは到底思えないが。

 

「綾小路くん。堀北さん。ちょっと良いかな」

 

 教壇から降りた平田が、オレと堀北の席の前にやってきた。珍しいことがあるものだと内心訝しんでいると、それは的中する。

 

「放課後、ポイントをどのように増やしていけば良いのか考える会議を開きたいと考えているんだ。二人には参加して貰いたい。どうかな?」

 

「質問良いか?」

 

「もちろんだよ」

 

「どうしてオレたちなんだ?」

 

「皆に声を掛けるつもりだよ。でも、ああいった場で皆に呼び掛けても意味は無いからね」

 

 だから個別で頼んでいるのか。

 オレ個人としては正直出たくない。オレが出たところで良案が思い浮かぶとは思えないし、なにより……。

 

「悪いな」「ごめんなさい」

 

 オレと堀北の声が被る。

 揃って出された拒否に、平田は呆然とせざるを得なかった。断られるとは思っていなかったのだろう。

 

「えっと、理由を聞いても良いかな?」

 

 堀北が先に答える。

 

「平田くん。薄々気付いているだろうけれど、私は話し合いは得意じゃないの。他を当たって貰える?」

 

「無理に発言しなくて良いんだ。ただその場で居るだけでも十分だから」

 

「申し訳ないけれど、意味が無いことに付き合う理由がないわ」

 

「で、でも、これは僕たちDクラスにとって最初の試練だと思う。だから──」

 

「言ったはずよ、私は参加しない」

 

 ぴしゃりと言い放つ。取り付く島もないな。

 平田が哀れで仕方がない。

 それでもめげずに彼は堀北に気が変わったら参加してくれて構わない旨を告げた後、今度はオレに顔を向けた。

 

「あー、悪いな。今日の放課後は先約があるんだ。流石にそれを破るのは……」

 

「……そっか。ごめんね二人とも。綾小路くん、堀北さん。次は参加してくれると嬉しいよ」

 

 オレと堀北から距離を取った平田は、次の生徒に会議の参加を促していく。

 

「……平田は偉いな……」

 

「そうでもないわよ。確かに彼の行動力の高さには私も称賛したいと思う。けれど、だからといってそれが正しいとも限らない」

 

「会議が上手くいくか分からないと言いたいのか?」

 

「……ええ。現状を完全に理解している生徒が話し合うのなら話は別だけれど、このクラスの生徒の何人が出来ていると思う? 泥沼にハマって、余計に混乱するだけよ。──それより綾小路くん」

 

「うん? どうかしたか」

 

「あなた、見え透いた嘘を吐くのね。放課後予定があるだなんて、誰にも分かる嘘よ」

 

 これは堀北なりのアドバイスなんだろうか? 

 ただ、オレの放課後が埋まっているのは本当のこと。

 それを伝えて彼女の反応を見たい、そんな欲求に駆られなくもなかったが、オレはやがて短く。

 

「そうだな」

 

 そう答えた。

 

 

 

§

 

 

 

 放課後直前のSHR。

 チャイムが鳴ると同時、茶柱先生が教室へやって来て登壇した。

 今朝の一件で、殆どの生徒が彼女に対して苦手意識を持ったことだろう。

 

「それではSHRを始める、と言いたいところだが。どうしたお前たち、やけに元気がないな?」

 

 それを本気で言っているのなら性格が悪すぎる。茶柱先生は嘆息すると、SHRを始めた。

 

「さて、この一日でお前たちは自分の無能さを痛感したことだろう。平田、違うか?」

 

「……もちろんです。まずは放課後、対策会議を開きます」

 

「ほう。その対策会議で何か希望の光を見付けられることを、私も陰ながら祈ろうじゃないか」

 

「佐枝ちゃん先生! 祈ってくれるだけなんですか!? なんかこう、救いの手とか出してくれたり……!」

 

 (いけ)が縋り付いた。

 茶柱先生はしばらく黙考していたが、やがておもむろに口を開けた。

 

「……それでは私からヒントを与えよう。私は小テストの際、こう言ったはずだ。『成績には一切反映されない』と。この言葉を噛み砕けば、自ずと答えは出る。──さて、連絡事項は特にない。明日も元気に登校するように。解散」

 

 茶柱先生は真意の摑めない微笑みを一度浮かべると、教室をあとにした。

 すると平田がすぐに登壇し、クラスメイトに呼び掛けた。

 彼の判断は正しい。SHRが終わってすぐのこの状況なら、全員が耳を傾けることになる。

 

「皆、聞いて欲しい。さっきの茶柱先生のヒントについてだ」

 

「あれって、どういう意味なのかな?」「訳わかんねーよ」「あれってヒントなのか?」

 

 自分が感じたこと、あるいは思ったことをそれぞれ言い合うDクラスの生徒たち。

 だが中には退席する者も当然居る。高円寺(こうえんじ)は鼻歌を歌いながら、長谷部(はせべ)や幸村、佐倉(さくら)といった群れることを拒む生徒は教室から立ち去っていった。

 オレも帰り支度を急ぐ。

 

「これは僕の意見だ。違うかもしれない。その上で言わせて欲しい──」

 

 オレはスクールバッグを肩に担いだところで、堀北がまだ残っていることに遅まきながら気付いた。

 教科書やノートを鞄にしまう様子も見られない。

 

「残るんだな。意味が無いんじゃなかったのか?」

 

「ええ。……けれど、こうなったら話は別よ。どうせすぐに帰るでしょうけれど、参加する意義が多少は生まれたわ。ヒントの答え合わせだけはしておきたいもの。あなたは帰るのね」

 

「ああ。予定があるからな」

 

「……そう。それじゃあ、また明日」

 

「じゃあな」

 

 別れの挨拶を済ませ、オレは目立たぬよう足早に移動する。幸い、殆どの生徒は平田の演説に意識が寄せられていたため、オレの消失に気付いた生徒は少なさそうだった。

 昇降口に着くと、そこでは椎名が既に居た。読書中だ。オレの気配に気付き、文字の羅列から目を上げる。

 

「こんにちは、綾小路くん。朝はごめんなさい、急な連絡をしてしまって……」

 

「気にしなくても良いぞ。早速だけど、寮に行こう──」

 

『一年D組綾小路くん。担任の茶柱先生がお呼びです。職員室に来て下さい』

 

 穏やかな効果音の後、無機質の声がオレを(いざな)った。

 

「先生からの呼び出しのようですね」

 

「ちょっと行ってくる。……悪いがここで待っていてくれないか? それとも話はまた今度にするか?」

 

「ここで待っています」

 

「分かった。出来るだけすぐに終わらせる」

 

 椎名に申し訳なさを感じながら、職員室に向かう。

 放課後教師が生徒を呼び出す。真っ先に思い浮かぶのが、先生からのありがたいお叱りだろうか。

 いやでも、入学以来、怒られるような事は一切していないはずだ。

 

「ここか……」

 

 職員室前の扉に辿り着いたオレは、なけなしの勇気を振り絞ってそっと扉を開け放つ。

 気の所為か、やけに視線を多く感じるな。

 これはあれか。もしかしてあいつ、何か悪さしたんじゃ……? とか思われているんだろうか。

 そうでは無いことを切に願いつつ茶柱先生の姿を捜すが……呼び出した張本人は居なさそうだ。

 仕方がないので、鏡の前で自分の顔をチェックしている女教師に声を掛ける。

 

「あの、すみません。茶柱先生に呼ばれてきたんですが……どこにいらっしゃるか分かりますか?」

 

「え? サエちゃん? んー、さっきまでは居たんだけど……」

 

 振り返った先生は、セミロングで軽くウェーブの掛かった大人の女性だった。

 ちなみにどうでも良いが、現代日本では、ここ最近こういった女性が人気なのだとか。

 親しそうに茶柱先生の名前を言っているから、友人なのかもしれない。茶柱先生も彼女のことを親しげに呼ぶ……いや、呼ばないな。全然想像出来ない。

 

「ちょっと席を外してるみたい。応接間で待ってる? お茶くらいは出すわよ?」

 

「いえ。廊下で待っています」

 

 さり気なくお茶を出すと言えるあたり、コミュニケーション能力の高さを感じる。

 櫛田とどっちが上だろうかと廊下に出て暇潰しをしていると、さっきの先生がひょっこりと廊下に出てきた。

 

「私は一年Bクラスの担任、星乃宮(ほしのみや)知恵(ちえ)っていうの。佐枝とは高校からの親友でね。『サエちゃん』、『チエちゃん』って呼び合う仲なんだ〜。凄いでしょ〜」

 

 聞いてもいないのに、至極どうでも良いことを教えてくれた。

 でもそうか、あの堅物そうな茶柱先生が星乃宮先生を『チエちゃん』って呼ぶのか。

 全然想像出来ない。

 このネタを使って、今度……いや、この後会ったらサエちゃんと呼んでみる手も……ないな。オレも命は惜しいし、やめておこう。

 

「ねぇねぇ、どうしてサエちゃんに呼ばれたの? 彼女、面倒事はかなり嫌いだから、生徒を職員室に呼ぶなんて珍しいんだ〜。ねぇねぇ、どうして?」

 

「いえ、オレも詳しくは知らないんです。それと星乃宮先生、ちょっと近いです」

 

「私のことは『チエちゃん』で良いわよ〜? Bクラスの子はみんなそう呼ぶし~」

 

「星乃宮先生、やめてください」

 

 非常に対応に困る。この学校に入学してから初めて、人と話すことに対して疲れを感じているかもしれない。

 

「ふーん。あっ、そうだ。君の名前は?」

 

「……綾小路、ですけど」

 

「うーん、下の名前も教えてくれないかな〜?」

 

清隆(きよたか)、ですけど」

 

「うんうん、教えてくれてありがとう。綾小路くん、かぁ〜。何て言うかぁ〜、かなり格好良いじゃない〜。モテるでしょ〜」

 

 軽いノリにも程がある。

 高校時代は男子から人気がとても高かっただろうな。反対に女子からは不人気だっただろうが。

 

「綾小路くん。大事な話があるの」

 

 それまでのふわふわな空気を消して、星乃宮先生は真剣な顔付きでそう切り出した。

 突然の変化にオレは戸惑いつつも話を聞く姿勢を取る。

 

「……大事な話ですか?」

 

「うん。──彼女はもう出来た〜?」

 

「…………」

 

「あれ、その反応はもしかして居ないの? でも意外かな〜、私が学生だったら綾小路くんは放っておかないのに〜」

 

 げんなりする。

 しまいには人差し指で「つんつんっ」とオレの頬を突くしまつだ。これで星乃宮先生の指を(くわ)えてみればこの絡みも終わるだろうが、職員会議でオレの名前が挙がり退学処分されてしまう可能性が高いか……。

 

「何やってるんだ、星乃宮」

 

 茶柱先生が突然現れ、クリップボードの角で星乃宮先生の頭をしばいた。小気味の良い音が鳴り、ちょっとだけ担任に感謝する。

 それにしても、お互いに下の名前で気安く呼んでいる親友なのではなかったのか。

 

「いったぁ! 何するのサエちゃん!?」

 

「お前がうちの生徒に絡んでいるからだろ。悪いな綾小路、こいつはこういう奴なんだ、諦めてくれ」

 

「なによ。サエちゃんが不在の間、応対していただけじゃない」

 

「放っておけば良いだろ。もう高校生だ、独りが寂しい年頃でもないだろうに」

 

「それには同意ですね。ところで茶柱先生、用件は何でしょうか?」

 

「ああ、悪いな。ここではなんだから、生徒指導室にまで来て貰おうか」

 

「何なに〜? もしかして綾小路くん、問題行動起こしたり〜?」

 

「はあ……付いてこい」

 

 茶柱先生も苦労しているんだな……。初めて彼女の人間らしいところを見た気がする。

 哀愁(あいしゅう)漂う背中を追い掛けていくと、笑顔の星乃宮先生が横に並んできた。茶柱先生は当然すぐそれに気付き、女性がしてはいけない表情で振り返る。

 

「お前は付いてくるな」

 

「冷たいこと言わないでよ〜。昔からの付き合いじゃない〜」

 

「それなら星乃宮。親しき中にも礼儀ありという言葉を知っているだろう。帰れ」

 

「ケチ〜。さっき綾小路くんにも言ったんだけど〜、サエちゃんって個別指導とか絶対しないタイプじゃない〜? 特に自分からはね〜。何か企んでいるのかなぁって〜。それに〜、保険担当として生徒の悩みに応じるのは当然じゃない? あとはね〜、綾小路くんを守るためかな〜」

 

「お前は私が綾小路に暴力を振るうと思っているのか」

 

「まさか〜」

 

 中々に踏み込むな。

 星乃宮先生はオレの背後に回って両肩に手を置いているために表情は窺えないが、茶柱先生の冷たい顔からある程度は察しが付く。

 

「もしかしてサエちゃん、()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「バカ言うな。そんな無謀なことを、私がすると思うか?」

 

「ううん、全然〜。だってサエちゃんには無理だもんね〜」

 

 ……帰りたい。切実に帰りたい。

 それにしても……下克上?

 いやその前に、()()()()()()()()()? 親友に対して、随分とキッパリ否定するな。

 

「……いつまで付いてくるつもりだ」

 

「え? 一緒に生徒指導室までだけど? 真面目な話をするとね、サエちゃんにそういった悩み相談は無理だと思うんだ〜」

 

「おい。お前はさっきから私に喧嘩を売っているのか」

 

「まさか〜。でもそうじゃない?」

 

「……」

 

 黙り込む茶柱先生。そこは否定して欲しかった。

 活路を見出した星乃宮先生がなおも付いてこようとしたその時、一人の生徒が立ちはだかった。

 見たことのない、薄ピンク色の美人だ。

 

「星乃宮先生。少しお時間宜しいでしょうか? 生徒会についてお話があります」

 

 一瞬目が合う。が、すぐに逸らされた。まあ、初対面だし、互いに興味はないから当然か。そのまま星乃宮先生に向き直る。

 茶柱先生がこれ幸いと言わんばかりに星之宮先生に言った。

 

「ほら、客だぞ? 保険担当として、生徒の悩みに応えるんだろう? 良かったな、その能力を思う存分に発揮出来るぞ」

 

「ちぇっ。でもま、これ以上からかうとあとが怖いから……まぁいっか。それじゃあね綾小路くんっ。──お待たせ、一之瀬(いちのせ)さん。職員室にでも行きましょうか」

 

 星乃宮先生は一之瀬と呼ばれた美人と連れ立って、職員室へと戻って行った。

 オレと茶柱先生は彼女たちを見送った後、ちょうど近くにあった生徒指導室に入る。

 

「それで結局、用件は何ですか? この後オレ、用事があるんで早く済ませたいんですが」

 

「そうなのか。それは悪いことをした……と言いたいところだが、ちょっとこっちに来てくれ」

 

 茶柱先生はちらちらと壁に掛けられている丸時計を確認しながら、オレを給湯室(きゅうとうしつ)に通した。コンロの上にはヤカンが置かれている。

 指導室の中に給湯室があるなんて、ちょっと驚きものだ。

 

「ほうじ茶で良いんですか?」

 

「いや違う。黙ってここに入っているんだ。物音一つ立てず、私が良いと言うまで静かにしてろ。もし破ったら……」

 

「破ったら?」

 

「お前を退学にする」

 

 そんな行為が認められるとは到底思えないが。

 一方的にそう言われ、満足な説明すら受けさせて貰えず、給湯室の扉は閉められた。

 これは意外に長くなりそうだ。

 携帯端末を制服のポケットから取り出し、椎名にメールで謝罪文を送信。同時に、先に帰ってくれて構わない旨を伝える。

 返事はすぐに帰ってきた。

 どうやら彼女は、オレを待ち続けてくれるらしい。余程大事な話なのか……。まあ、内容はある程度予想出来る。

 仕方がないので手頃の椅子に腰掛け、オレはぼんやりと虚空を眺めた。

 数分後。指導室の扉の開閉音が響いた。

 

「入ってくれと言いたいが……少し遅刻だぞ堀北。社会ではこうもいかないから、注意するように」

 

 入ってきたのは堀北のようだ。でもどうして彼女がここに? 

 

「すみません。対策会議に出席していました」

 

「……ほう。お前がか? 正直に言うと意外だな」

 

「出席と言っても、ただの確認です」

 

「確認、か。では時間が押しているからな、率直に要件を聞こう」

 

「何故私がDクラスに配属されたのでしょうか?」

 

「私から言っておいてなんだが、本当に率直だな」

 

「先生は本日、優秀な生徒はAクラスに、不出来な生徒……『不良品』はDクラスに配属されると仰いました」

 

「何だ、不服か? お前は自分のことが優秀であると思っているんだな」

 

「当然です」

 

 迷いのない即答だった。

 高円寺に勝るとも劣らない自己顕示欲。これで池や山内(やまうち)、須藤がやろうものなら失笑ものだが、堀北のそれは決して自意識過剰ではないだろう。

 

「実際、入試テストの際も殆どの問題を解けたと自負しています」

 

「殆どの問題を解けた、か。本来なら入試結果など個人には見せないが、お前には特別に見せてやろう。ありがたく思え、私が直々に用意しておいた。こうなることは予想出来たからな」

 

「……遅れたことについては重ね重ね非礼を申し上げます」

 

「責めてるわけではない。さて、それでは照会の時間だ。──堀北鈴音。お前は入試結果……ペーパーテストでは同率三位の成績を収めている。一位、二位も僅差の点数。十分に優秀だ」

 

「……では、面接が悪かったのだと?」

 

「いいや? 面接でも特別問題視されてはいない。むしろ今どきの若者にしては将来設計図を描いていて、かなりの高評価だったと担当面接官から話は聞いている」

 

「ありがとうございます。では──何故?」

 

「何故、か。お前はこと学力においてはやっぱり優秀だな。今朝私が言った、『何故疑問を疑問で残しておく?』……それがお前には当てはまらないようで嬉しいぞ」

 

「良いから答えて下さい」

 

「そう急かすな。時に堀北。質問を質問で返すよう悪いが、どうしてお前はDクラスであることに不服(ふふく)なんだ?」

 

「正当に評価されていないことに喜ぶ人が居ると思いますか?」

 

「はははっ。──お前は随分と、自己評価が高いようだな」

 

 それは今朝聞いた嗤い声。

 星乃宮先生の指摘が早くも的中したな。

 

「正当に評価されていない、か。では聞くが堀北。その正当な評価とやらの基準は何だ?」

 

「そ、それは……」

 

「分かったようだな。そう、私は……いや、学校側はその基準値については一言も明言すらしていない。お前は学力で測っていると推測したようだがな」

 

「……しかし茶柱先生。普通ならそれが常識なのでは?」

 

「それを本気で言っているのなら浅はかにも程があるぞ。主観的な『常識』を、他者に押し付けるな。そもそもおかしな話だとは思わないか? 勉強が出来る=偉い。その方程式がいつの間にか現代日本では成り立っている。はははっ──バカバカしい。堀北。お前の学力が高く、またそれがステータスになるのも認めよう。が、よく考えろ。仮にお前の言う通り学力だけでこの学校に入学できるのなら、須藤や池たちが何故当校に入学している?」

 

 今朝考えたことはやはり間違いでは無かった。

 この学校は日本屈指の進学校であることを謳いながら、あらゆる観点──実力で生徒を測っている。

 

「それに、だ。正当に評価を受けていない。だから喜ぶ者はいない。そう決め付けるのも早計だな。この世には様々な人種が居る。殆どの人間がお前の考えに賛同するだろう。だが中には、その反対を望む者もいる、そういうことだ」

 

 息を呑む。

 それはまるで、オレに語り掛けているようだった。

 

「冗談はやめてください。そんな人間、居るはずが……」

 

「高円寺六助(ろくすけ)を思い出してみろ。あいつは将来が確約されている、だからDクラスであろうと特別問題視していなかった。違うか?」

 

「……質問の答えになっていません。私が聞きたいのは、私がDクラスに配属されたのかが事実だろうか、学校側の判断に間違いはなかったのか。それだけです」

 

「ふむ。確かに少々無駄話がすぎたな。それでは質問に答えよう。──こちらに不手際は一切ない。お前はDクラスになるべくしてなった」

 

「…………そうですか。なら改めて、学校側に聞いてみます」

 

 諦めたわけではないだろう。

 堀北のことだ、茶柱先生では相手にならないと判断したに違いない。

 

「上に何度掛け合っても答えは同じだぞ。無駄なことはしない方が懸命だ。それに……そう悲観するな。確かに今はDクラスだが、卒業する時はAクラスに(のぼ)っているかもしれんぞ?」

 

「それこそ冗談言わないで下さい。散々Dクラスのことを『不良品』だと言った先生がそう仰ると不快になります」

 

「そうか。それは悪いことをした」

 

 心が込もっていない謝罪。

 堀北が茶柱先生を強く睨んでいるのが容易に想像出来る。

 

「それにAクラスとの差は歴然です。940ポイント。差がありすぎます」

 

「私に言われても困る。ポイントがゼロになったのはお前たちの自己責任だ。まあ、私も無理強いはしない。茨の道を歩き出すか否か、それは個人の自由だ。そうだ、私からも一つ質問をしよう。お前はやたら自分がAクラスであることに拘りをみせているが、何か理由でもあるのか?」

 

「……先生には関係のない話です。兎も角、私が納得していないのは覚えておいて下さい」

 

「分かった。覚えておこう。帰りは気を付けろよ。ここ最近は物騒だからな」

 

「はい。──失礼します」

 

 どうやら話は終わったらしい。

 ドアの開閉音が給湯室にまで届き、オレは思わず脱力する。

 

「綾小路。来い」

 

 短い命令。ここは意趣返しに無視を決め込むのも一興か──。

 

「声は聞こえているはずだ。すぐに来なければお前を退学とする」

 

 教師がそんな簡単に退学を口にして良いのだろうか。

 ……仕方がないか。

 給湯室から出ると、茶柱先生が椅子に腰掛けオレを待っていた。

 

「それで、今の話をオレに聞かせたのに理由はあるんですか?」

 

「いいや? ただ、堀北との個人的な話し合いにお前が居たら悪いだろう? 結果として偶然、お前は聞いただけにすぎない。あぁわかっているとは思うが、今の話は他言無用だからな。もし漏らしたら──」

 

「退学は嫌なんで、誰にも言いませんよ。……偶然なのは理解しました。それで先生、結局のところオレに対する用件は何ですか?」

 

「まぁ座れ。立ったままだと疲れてしまうからな」

 

 茶柱先生の親切な促しに応じ、オレは先生と対面するようにして椅子に座った。椅子はあたたかい。堀北の残滓だろうか。

 

「お前を呼んだ理由だが……まぁ簡単に言うと二者面談のようなものだ。お前の(せい)は綾小路。『あ』から始まるからな、当然早めになる」

 

「だとしたら先生。どうしてクラスの席位置がああなっているんですか?」

 

「ランダムだ。出席番号順だとお前たち生徒はうるさいだろう? でも良かったじゃないか、お前の席は窓際の一番後ろ。誰もが羨む場所だ」

 

「そうですね」

 

「では二者面談を始めるとしよう」

 

 そう言いながら茶柱先生はクリップボードに留めていたと思われる資料を用意する。

 二者面談、か。

 

 こんな単純な嘘に引っ掛かる生徒がどこに居る?

 

 前もって生徒に、これこれこういった日に二者面談をするから、予定を空けておけと言うのが普通のはずだ。

 

「学生生活はどうだ? ()()()()()()()、新しいことだらけで苦労しているだろうことは想像に難くないが」

 

 この学校は普通じゃない。そしてそれは教師も同様のようだ。

 目の前で愉快そうに笑っている先生は、もしかしたら受け持っている生徒全員の『秘密』を握っているのかもしれない。

 動揺を見せてはならない。カマをかけられている可能性が捨てきれないからだ。両肩を軽く上下させてから、オレは答える。

 

「どうだ? と言われましても。そうですね……まあ、ボチボチと楽しんでいますよ」

 

「そうか。それはなによりだ。しかし正直意外だぞ? ──お前に友達がいるとはな」

 

「先生。それは流石に失礼ですよ。オレにだって友達の一人や二人はいます。須藤とか、池とか」

 

「堀北は違うのか?」

 

「どうでしょうね。ただの隣人じゃないですか? でもこれで、オレが孤独体質なぼっちじゃないことは分かったでしょう」

 

「はははははっ、綾小路。お前も冗談を言うんだな」

 

 何が面白いのか、純粋に笑う茶柱先生。

 オレから言わせて貰えば、その台詞はオレも言いたい。

 数秒後、一転して真顔になった先生は淡々と口を動かした。

 

「少なくともDクラスに、お前が気を許している生徒は一人もいない。違うか?」

 

「断言しますね」

 

「これでも教師だ。生徒の性格はある程度は理解していると自負している。そうだな……これは私の見立てだが、同性で一番仲が良いのは須藤といったところか。異性では堀北だが……まあ、お前に女子と接点があるのはあいつと櫛田だけだろうから、こちらに関して絞り込むのは容易だな」

 

「否定はしませんよ。肯定もしませんが」

 

「自分が所属しているDクラスですら、お前は常に一歩距離を取っている。とはいえ、これは普通のことだ。お前たちが入学してからまだ一ヶ月しか経っていないからな。それに表の付き合いも社会では必要だからな」

 

「さらりと社会の闇を言わないで下さいよ」

 

 オレの苦言を無視して、茶柱先生はここでますます笑みを深めた。

 

「が……他所のクラスでは対応が随分と違うようだな。なに、隠す必要はないぞ。──椎名ひより。Cクラスの生徒だな」

 

「先生も彼女のことをご存知で?」

 

「私はCクラスの日本史も受け持っているからな」

 

「そうなんですか、それは初耳ですね。確かにオレは彼女と過ごす時間が多いですが、何か問題でもありますか? 別におかしな話ではないでしょう」

 

「お前の言う通り、何も問題は無い。ただ少し気になっただけだ。もし良かったら、どうしてか教えて貰えるか?」

 

「彼女とは趣味嗜好が合うだけです。だから必然的に、共有する時間も増える。そうですね……先生の望む解答になるかは分かりませんが、彼女と居ると楽なんですよ」

 

「楽、か……。なるほどなるほど、よく理解した。先生はお前に、ある程度気が許せる友人が出来て嬉しいぞ」

 

 やけにオレの交友関係に口出しするな。

 茶柱先生は何度か意味深に頷いてから、話題を変える。

 

「さて、時間もあまりない。お前もこの後は予定があるようだし、次で最後にしよう。学業はどうだ。何か悩みはないか?」

 

「ありませんね。先生方の説明は丁寧でとても分かりやすいですし」

 

「そうか。中間テストが近いが、その様子なら赤点は取りそうにないな」

 

「ええ。──これで終わりですか?」

 

「ああ、ご苦労だった。私はまだここに残るから、もう帰ってくれて良いぞ」

 

「はい。それじゃあ先生、また明日」

 

「また明日。堀北にも言ったが、帰りは気を付けるように」

 

 オレは、軽く会釈してから生徒指導室から退出した。

 携帯端末で現在時刻を確認すると、椎名と別れてから三十分が経過していた。

 メールで今終わったことを送信したいが……そんな時間はなさそうだな。

 注意されない程度の速度で廊下を渡り、昇降口まで戻る。

 椎名は相も変わらず読書に勤しんでいて、少し躊躇ったが声を掛けた。

 

「今終わった。本当に悪いな、暇だったろ」

 

「いえいえ。ちょうどキリが良い所まで読めましたから。それとお疲れ様です。それでは行きましょう」

 

 

 

§

 

 

 

 突然だが、今からオレが出す問いについて真剣に考えてみて欲しい。

 

 問い・学生が寮生活で望むことは何か。

 

 最も挙げられるのは自由時間だろう。家に居たら家族の目があり、思春期に佳境が入っているオレたち子どもからしたら、好きに時間を使いたいと思うのは当然のことだ。

 一日中ダラダラしたり、一日中ゲームをしたり。あるいは、友達と買い物に行くことも良いだろう。

 そして次に挙げられるのが、友達の部屋に遊びに行くこと、ではないだろうか。

 同じスペースの部屋を、友達はどのように使っているのか気になる人は多いと思う。

 壁にはアイドルのポスターが貼っているのかな? とか。

 冷蔵庫の中身はどうなっているのかな? とか。

 

「まあ、入ってくれ」

 

「お邪魔しますね」

 

 入学してからひと月が経った今日、オレは初めて友達を家に招いていた。しかも異性だ。

 異性を呼べたことに喜べば良いのか、それとも同性の友達が少ないことに悲しめば良いのか……。

 

「……何もありませんね……」

 

 椎名が寂しそうに呟いた。

 とはいえ、無理も無いだろう。

 オレの部屋には最初から備え付けられていた物以外、特にこれといったものが置かれていないからだ。

 

「取り敢えず座ってくれ」

 

 物置棚から座布団を一枚取り出し、椎名に座るよう促す。彼女は「失礼します」と律儀に言ってから、座り心地があまりよろしく無い布の上に着陸した。

 それを見届けたオレは、彼女に罪悪感を感じつつも、制服のブレザーを脱いでハンガーに掛けた。そしてあぐらをかいて彼女と向き合う。

 

「先程も言いましたが……ごめんなさい」

 

「気にするな。それで、話ってなんだ?」

 

 無駄話は必要ない。仮にするとしても、それは後でいくらでも出来る。

 それは椎名も分かっていて、短く首肯した後に。

 

「綾小路くんは、これからどうしますか?」

 

 そう、切り出してきた。

 

「……それは、個人的な行動ってことか?」

 

「そうです。今日私たち一年生は、担任の先生からこの学校のシステムについて教えられました。これは私の予想ですが、今月から卒業まで、私たちはクラスとして競い合うと思います」

 

「そうだろうな。AからDまで、オレたちは学校からの恩恵を得るために互いに蹴落とし合うだろう。そして早速、手を打っている生徒もいるだろう」

 

「はい。実際今日、私のクラスでもリーダーに名乗り出た生徒が居ました。何人かの生徒は反抗していましたが……」

 

 やっぱりか。

 Dクラスなら平田洋介。

 だが、C、B、Aの先導者がどんな人か、そしてどれだけ頭が回るのか、まだ判明していない。

 

「私としては、不毛な争いはしたくありません。もちろん、時には闘争も必要だとは思いますけど……」

 

「……つまり椎名は、積極的に動くつもりはないと?」

 

 肯定の頷き。

 

「私と綾小路くんは違うクラスの人間です。先月までなら兎も角、私たちが時間を共有すると疑われてしまう可能性が高いでしょう」

 

「……スパイか」

 

 椎名の懸念に間違いは無い。

 その上で、オレと彼女は今後どういった付き合いをするべきなのか。それを考えるべきだと、椎名は言っている。

 

「綾小路くんが上のクラスを目指すのなら、今後、会うのは止めるべきです。違う、でしょうか……?」

 

 茶柱先生が椎名との付き合いに首を突っ込んだ理由が、ようやく理解出来た。

 いや、本当は気付いていた。今朝彼女がこの学校の理念を説明したその時に。

 椎名の言う通りだ。オレがDクラスから脱却したいと思うのなら、彼女との縁は断ち切る……とまでは流石にいかないが、それでもある程度は距離を取るべきだろう。

 

 

 

 しかしオレは、上のクラスを目指すことに興味が微塵もない。

 

 

 

「オレも椎名と同じ……とまではいかないが、Aクラスに特別な拘りはない。積極的に行動をしようとも思わない。クラス間の競争には必要最低限だけ参加するつもりだ」

 

「それって……」

 

「ああ、お前の想像通りだ。オレとしては、これからも付き合いは変わりなく続けたいと思っている。どうだろう?」

 

「はいっ、喜んでっ」

 

 少し前も似たようなやり取りを交わした気がするが、あの時と今では状況が違いすぎる。

 椎名に語ったことは全て本心。

 事なかれ主義のオレからしたら、厄介事には直面したくないものだ。

 それに──そうでなくてはならない。そのためにオレはこの学校に入学したのだから。

 ただそうは言っても、オレと椎名の間にある程度のルールは作った方が良いだろう。

 話し合いの結果、以下のようになった。

 

 ・互いのクラスの動向については話題にしない。

 ・互いのクラスリーダーに予め事情を説明する。

 

 Aクラスを目指すか否か、それを決めるのはあくまでも個人の自由だ。

 堀北はAクラスであることに執着しているみたいだから、多分、何かしらの行動を起こすだろう。

 平田、櫛田もAクラスを目指すだろうな。

 波乱の幕開けを感じる。

 そしてこれから先の未来は、何が起こるか不透明だ。

 

 だが、そんなものオレにとってはいつもの事に過ぎない。

 

 



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テスト準備 Ⅰ

 

 五月に突入してから、早くも一週間が経とうとしていた。

 (いけ)山内(やまうち)は黙って授業を受けている。須藤(すどう)は学校には来ているものの居眠りを続行──するかと思いきや、一応は同じ姿勢を取っていた。

 というのも、平田(ひらた)は先日の茶柱(ちゃばしら)先生のヒントから、ある答えを出したからだ。

 

 ──中間テストの結果しだいで、ポイントが振り込まれる可能性が高い。

 

 それが五月一日、クラスの過半数以上の生徒が参加した対策会議で出された結論。

 

『成績には一切反映されない』

 

 あの茶柱先生の言葉にはやはり意味があった、と平田たちは解釈したらしい。

 あの時オレたち一年生が小テストに取り組んだ理由は、今後の参考用だと先生から伝えられている。もちろんその意味はあるだろうが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、裏の理由では、小テストの結果によって、ポイントが上下したのではないか。

 そのように考えたようだ。

 それ故にDクラスの三バカトリオは一応、やる気を見せている。とはいえ、元々の学力が低い三人が今更真面目に授業を受けたところで内容は頭にこれっぽっちも入っておらず、とても退屈そうだ。

 だが実を言うと、オレも少し眠い。昨日は夜遅くまで動画を観ていたから睡眠不足なのだ。

 幸いこれを乗り越えれば昼休みに入る。そうなれば昼休みを仮眠に割り当てることも可能だが……ふわぁ、今寝たら気持ち良いんだろうなぁ……。

 

「──起きなさい」

 

「たうわっ!?」

 

 首をうつらうつらと前後させていると、溝に突如、強烈な痛みが襲い掛かった。

 

「どうした綾小路(あやのこうじ)。体調でも悪いのか? それとも遅めの思春期にでも入ったか?」

 

「い、いえすみません。目にゴミが入りまして……」

 

「そうか、それは災難だったな。……あぁ安心しろお前たち。流石に今ので減点はしない。だからそう、綾小路を責めてやるな」

 

 茶柱先生は面白おかしくひと笑いした後、痛い視線を飛ばしてくる生徒たちからそうフォローをしてくれた。

 彼女の言葉にクラスメイトたちはほっと安堵の息を吐き、ホワイトボードに目を戻した。

 断続的な鈍い痛みに耐えながら主犯を睨み付けるが、彼女はすました顔で無視した。

 恐ろしい女だ。なんの躊躇(ためら)いもなく制裁を加えるとは。

 授業終了のチャイムが鳴り、いつもと同じように茶柱先生は教室をあとにする……と思いきや。

 

「朝のSHRでプリントを配ったが、今日からテスト週間となる。範囲は朝配った通りだ。各々(おのおの)しっかりと、試験勉強をするように」

 

「何でそれを今言うんですか?」

 

「良い質問だ。今日の放課後のSHR、私は私用で居ないからな、お前たちに会うのはこの時間で最後なんだ」

 

 これは茶柱先生なりの激励なのだろうか。だとしたらとても不器用だと思うと同時に、彼女の人間味に少しだけ好感が持てる。

 先生は言うだけ言って、今度こそ教室をあとにした。

 オレはすぐさま隣の忌まわしき住人に詰め寄る。

 

「もうちょっと反応を待ってくれても良かったじゃないか!」

 

「珍しいわね、あなたがそこまで感情を表すなんて。そんなに痛かったのかしら?」

 

「お前な、溝だぞ、溝! そりゃ痛いに決まってるだろ!」

 

「そう……。でも綾小路くん、諸悪の原因はあなたなのよ? 池くんや山内くん、須藤くんでさえ起きているのに、居眠りしようと思えるだなんて……ある意味感心するわ」

 

「うぐっ……分かった。オレが悪かった。けどお前が居眠りしたら報復するからな」

 

「あら怖い。でも安心して、私は寝ないから」

 

 堀北(ほりきた)の余裕そうな態度は崩れない。悔しいが彼女の言葉に嘘偽りはないのだろう。体調管理を怠るとは到底思えないし、鋼の精神で居眠りなんて怠惰はやらないだろうな。

 この一週間で彼女はDクラスであることを受け入れて──はいないだろうが、それでも訴えを取り下げたようだ。

 茶柱先生が以前告げた通り、直談判は意味をなさないと判断したらしい。

 各々が昼食のために席を立とうとしたその時だ。登壇した平田がクラス全体を見渡しながら口を開いた。

 

「皆、茶柱先生の言葉を覚えているよね。今日からテスト週間に入る。この中間テストでポイントが振り込まれる可能性が高いことは、皆納得してくれていると思う。けどその前に、まずは赤点を出さないことが先決だ。赤点者は即退学、そんなことは許してはならないと思う」

 

 先導者が早速動いた。

 彼の目標はあくまでも、退学者を出さないことのようだ。ポイントはあくまでも副産物、以前の堀北が口にしていたことと同じ。

 そして彼の判断は何一つ間違っていない。

 

「この前の小テストの点数が高かった上位数人で、勉強会を開くことにしたんだ。もちろん、強制はしない。けれど不安のある人は是非参加して欲しい」

 

 平田はそこで、優しげな瞳を須藤に向ける。なるほど、今の台詞は彼に向けたのか。

 彼の狙いは主に三つ。

 一つ目は赤点者を出さないこと。

 二つ目は一方的にとはいえ対立している生徒……特に須藤との仲を深めること。

 三つ目はクラス全体として勉強会を開くことで、纏まりが皆無のDクラスの団結力を上げること。とはいえこれは多分、平田はそこまで期待していない。

 平田と須藤の視線が交錯する。

 

「……チッ」

 

 が、すぐに須藤が逸らした。

 彼とこのクラスで最も深い付き合いをしているだろうオレが断言するが、彼はプライドが非常に高い。

 今更平田と手を取り合うことを、彼は嫌がるだろう。

 

「今日の五時から二時間、テスト当日まで毎日開く予定だ。途中参加も大歓迎だよ。逆に大丈夫だと判断したら抜けても構わない。僕からは以上だ。ごめんね、昼休みの時間を削っちゃって」

 

 本当に大したものだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。しかし何故平田がDクラス配属であるのかはいくら考えても答えは出そうになかった。

 先導者の演説が終わるや否や、赤点候補組の生徒は真っ先に飛び付く。他の生徒もぞろぞろと集まりつつあった。

 だが、三バカトリオ。池、山内、そして須藤の三人は参加しないようだ。須藤以外の二人は少し迷っているみたいだったが……須藤程とはいえ、彼らも平田とは距離があるからな。

 だから縋り付けないのだろう。無駄なプライドだと個人的には思うが、まあ、他人の行動に他人が口出しするのはご法度だ。

 兎にも角にも、Dクラスは最初の試練を一応は臨むことになりそうだ。

 

 

 

 

§

 

 

 

 さて、昼食はどこで済ませようか。食堂に行くのがベストなんだが……独りで行くのはなあ……。

 

「お昼、暇? 良かったら一緒に食べない?」

 

 堀北が自分から声をかけてきた。

 そしてなんと、ランチのお誘いだ。思わず彼女を二度見したオレは悪くないだろう。

 

「堀北。お前、熱でもあるのか? 保健室に行くことをおすすめするぞ。率直に言うが、とても怖いな」

 

「別に怖くはないわよ。あぁそうだ、山菜定食を奢ってあげるわ」

 

「無料定食を奢られても嬉しくないんだが」

 

「冗談よ。好きなものを頼むと良いわ」

 

 そうか、それは助かる……と言い掛けたところで慌てて口を閉ざす。

 この一ヶ月弱、オレから誘っても、あるいは櫛田(くしだ)が誘ってもこの女は一度たりとて首を縦に振らなかった。

 そんな奴が今更、昼飯を一緒に食べようと提案してきている。はっきり言って怪しいにも程があるな。

 

「何が狙いだ?」

 

「失礼ね。人の厚意を無下にするのは人として終わりよ」

 

「その言葉、そっくりそのまま返すぞ。だったら櫛田とも食べたらどうだ」

 

「お断りよ。それで、どうするの?」

 

「話の内容しだいだな」

 

「そう……分かったわ。中間テストについての話し合いをしたい、と言えば了承してくれる?」

 

 そういうことなら、聞くだけ聞いてみるか。それに、せっかくの隣人の付き合いの機会を無駄にするのも勿体ない。

 堀北と共に食堂に向かう。実はオレは、この施設をまだ数回しか使っていない。

 だから当然、まだ食べてない定食も沢山ある。

 ポイントの上限は設けないとのことなので、オレは人の厚意に甘えてスペシャル定食を頼んだ。

 ちなみにこの定食、スペシャルと銘打っているだけはあり、食堂の中で最も価格が高い。同伴者は一瞬眉を顰めたが、自分で言った言葉を今更撤回しなかった。先程の逆襲を済ませられたのでこれだけで満足だ。

 

「頂きます」

 

 奢ってくれた堀北に感謝しながら、まずはコロッケを箸で摑み口に運ぶ。

 おぉ……! 流石はスペシャル定食。他の料理とは一線を駕す味だ。

 

「早速だけど話を聞いて貰えるかしら」

 

「ちょっと待ってくれ。まずはこの食事を済ませてからだ。なんて言ったってスペシャルだからな」

 

「そ、そう……。それ、そんなに美味しいの?」

 

「一度食べた山菜定食の三倍は美味い」

 

 オレの真面目な解答に堀北は若干引いた様子を見せた。

 美味しそうに食べるオレを見て、彼女も腹を空かせたのだろう、無言で自分が頼んだ料理を口にする。

 食べ終わったトレーを食堂のおばちゃんに渡し、改めて向き合う。

 

「茶柱先生の忠告、そして先日開かれた対策会議によって、クラスの遅刻、及び私語も激減した。須藤くんですらも学校には登校して、一応は真面目に授業を受けている」

 

「あれを真面目と判断して良いかは分からないけどな」

 

「……次に私たちがすべきことは何だと思う?」

 

「中間テスト対策だな。平田の言う通り」

 

 オレの返答に堀北は満足そうに頷く。

 

「次の中間テスト、私たちはポイントを得なくてはならない。そうじゃなくても赤点者を出してはならない。違う?」

 

「そうだな。ただ──」

 

「ただ? なに、含みのある台詞ね。問題でもあるかしら」

 

「いや、ないな。……ああ、そっか。話が見えてきたぞ。お前、もしかして……」

 

「ええ。あなたの推測通り。私は平田くんとは別に、勉強会を開こうと思うの。さっき彼が参加者を募集した時、須藤くん、池くん、山内くんは意思表明をしなかった」

 

「あいつらはなぁ……平田と疎遠だからな」

 

「あなたがそれを言う?」

 

「そうでもないぞ。昨日平田とは遊んだばかりだ」

 

 ちょっとドヤ顔で答える。実は椎名(しいな)が一週間に一度の部活動に励んでいた昨日、オレは平田と遊んでいたのだ。

 まぁ遊んだと言っても、その場には取り巻きの女子が多かったが。男子はオレと彼の二人だけだった。

 クラスメイトとの──特にオレとの仲を深めるためだと本人は言っていたが、本心では男手が欲しかったのだろう。

 

「兎も角、彼らはこのままだと赤点まっしぐらでしょうね。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。これは大前提よ」

 

 オレたちDクラスの現在のポイントはゼロ。ただし、これは見かけ上の話だ。もしかしたらマイナスにまで行っている、その可能性も捨てきれない。

 

「今回の中間テストで頑張ればポイントが取得出来るのはほぼ確実。だから勉強会を開くのか」

 

「そうよ。意外と、思うでしょうけれど」

 

 そうでもない。

 堀北からしたら多分、自分のために──ひいてはAクラスに昇りつめるために勉強会を開く。それだけにすぎないのだろう。

 だがオレの個人的な意見を述べるのなら……堀北鈴音(すずね)という人間は、少なくともみすみすクラスメイトを見捨てるような残忍な人間ではない。ただし──。

 

「だけどな堀北。こう言っちゃ悪いが、お前が勉強会を開いたところで、須藤たちは来ないんじゃないか?」

 

「……否定しないわ」

 

「そんな状況でどうやって──」

 

「相談はここからよ。綾小路くん。あなたには須藤くんたちを呼び集めて欲しいの」

 

 良く理解した。そして堀北の魂胆も。

 この学校の一つの弊害として、オレたち生徒は外部との連絡は出来ず、また敷地内からの脱出も叶わない。

 この施設に居る大人は殆どが政府に関わりがある……もしくは、それを承諾している人たちだ。

 当然、塾や家庭教師は存在しない。

 となると、勉強は基本的に自分の手でやるしかない。もしくは、友人や先生の力を借りるしかない。

 堀北がやろうとしているのは、生徒が運営する個別塾。

 とはいえ口で言うのは簡単だが、実行するのはかなり難しい。

 必要なのは主に二つ。

 まず一つ目として、先生役は好成績を残している──つまり、学力が高い生徒に限る。教える側だからこれは当然で、これは多分、勉強に限らずあらゆることに当てはまるだろう。

 そして二つ目に必要なのはカリスマというべきか──『この人なら大丈夫』という信頼関係だ。

 堀北は一つ目は満たしているが、二つ目は満たしていない。

 信頼とは信用の積み重ねだ。無条件で得られるもの、それが信頼であり──今の彼女にはそれが決定的に欠如している。

 だからこそオレを頼らざるを得なかった。

 自惚(うぬぼ)れでなければ、彼女と最も接点があるのはオレだから。また、須藤たちと一定以上の仲になっているオレなら話だけは聞いてくれるだろう。

 

「どうかしら?」

 

「自分で言うのもなんだが、無理、無茶、無謀だな」

 

「望み薄なのは分かっているわ。無理強いもしない。けれどその場合……せっかく出来た友達はこの学校から永遠退場ね」

 

 確かに須藤たちが退学するのは些か寂しい。

 

「分かった。だがさっきも言ったが、集められる保証はないからな。それだけは了承してくれ」

 

「その点に関しては綾小路くんを信じているわ。これ、私の携帯番号とアドレス。何かあったら連絡して頂戴。あぁそうだ、勉強会自体は早いうちから始めたいから、そうね……出来れば今日中に返事をお願い」

 

 話を(一方的に)終わらせた堀北は一度両手を合わせてから立ち上がり、食堂をあとにした。

 オレの手にはメモの切れ端が握られている。彼女が半ば強制的に渡してきたものだ。

 高校生活が一ヶ月と少し経った今。図らずも異性の連絡先を入手した。

 これで彼女が一番目だったら感動で震えただろうが……残念なことに椎名で感動は味わっている。

 だからオレが思うことはただ一つ。

 

 ──早速面倒事に巻き込まれてしまった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 放課後。堀北は既に姿をなくしていた。恐らく、勉強会に向けてテスト範囲の絞り込みでもしているのだろう。

 オレはぐるりと教室内を見渡した。

 平田や成績上位者数名はすぐに動き、勉強会の準備をしている。どうやら教室を使うらしい。

 面倒だとは思うが、約束は約束だ。反故(ほご)には出来るだけしたくないし、数少ない男友達を助けるためなら多少の雑事はやるしかない。割り切るしかないだろう。

 よし、何事にも挑戦だ!

 そう思い立ち三バカトリオに声を掛けたのだが──。

 

 

 

「無理」

 

 

 

「やだ」

 

 

 

「悪いな、綾小路。バスケで忙しいんだ」

 

 

 

 呆気なく失敗した。須藤は兎も角──部活だから半分は仕方がない──池と山内はにべもない即答だった。

 そもそも勉強とは無縁の生活を送っていたであろう彼らが(偏見)、勉強します! なんて言うわけがないか。

 そもそもの話、退学に対する危機感がないんだよなあ……。

 それに、堀北が勉強会を開くことに対して猜疑心(さいぎしん)も生まれてしまっている。

 無償の善意を信じられる程、人間は他者を信じられないという事だろう。

 特にそれが顕著(けんちょ)なのは須藤だ。どうやらオレの知らないところで何か確執があったらしい。思えば彼は、堀北を気に入らないとか言っていた気がするしな。

 ……愚痴を零しても仕方ないか。

 一旦冷静になる。

 人間は些細な出来事で変わる生き物だ。

 例えばある少年Aがテレビ越しでサッカーの試合を観たとする。映像の中ではある選手がハットトリックを決め、チームを勝利に導いた。

 するとどうだろう。少年Aは将来の夢がサッカー選手になったのだ。

 こんな話は日常茶判事なことだろう。

 つまり、何か切っ掛けがあれば……。

 何でも良い。

 上手く魚……いや、人を釣る方法。釣り人の腕か? この場合釣り人はオレになるが……多分これ以上ステータスは上がらない。

 となると……良いエサを使うしかない。

 三バカトリオを釣れる方法。エサは美味く、そして効果的なものが望ましい。

 

 ────閃いた!

 

 すぐさまエサに目を向ける。良かった、まだ帰っていない。だが帰り支度を進めているのも事実。

 今更図々しいにも程があるが……ここは期待するしかあるまい。

 オレはすぐさま移動して声を掛けた。

 

「櫛田」

 

「……? 綾小路くん?」

 

 良かった、開始早々逃げられることはなさそうだ。

 ──櫛田桔梗(ききょう)だったら、エサに成りうる。

 男女問わずの人気者で、そのルックス。彼女のコミュニケーション能力はずば抜けているからな。そして(くだん)の小テストで、彼女は成績上位者に名を連ねていた。

 まず、池と山内は確実に釣れるだろう。かなり本気で好いているようだし。

 そして須藤だが……多分、来てくれるだろう。彼だって男だ、可愛い女の子からの誘いは断らないはず。それでも無理だったら、他の手を使うまでだ。幸い、手はまだ一つだけ残っている。

 

「綾小路くんが私に声を掛けてくれるなんて初めてだよね。何か用かな?」

 

「ああ。ちょっと教室の外で話がしたい」

 

「うーん、この後友達とカフェに行くんだけど……大事な話なんだよね?」

 

「とても大切な話だ。()()()()()()()()()()()()

 

 ぱちくりと、櫛田は瞬きした。

 

「綾小路くん、人を煽てるの上手だねっ。良いよっ」

 

 可愛い女の子から褒められて、悪い気はしない。

 照れ臭さを感じつつ、オレは廊下の隅へ櫛田を誘う。一応、周囲に人が居ないかを確認するのを忘れない。

 

「話の前に聞きたいことがある。堀北とはここ最近どうだ?」

 

「うーん、さり気なく声を掛けたりしているんだけど……中々上手くいってないかな。でもどうして堀北さんが?」

 

 かくかくしかじか、オレは全て詳細に語った。

 孤独のぼっちであった堀北がクラスのため──本当は自分のためだろうが──奮起したこと。しかし彼女の性格が災いして、須藤たちが集まらないこと。

 

「図々しいことは百も承知だ。この前、櫛田の協力をオレは断っているからな」

 

「ううん、そんなことないよ。むしろ謝るのは私の方だよ、綾小路くんを勝手に巻き込もうと画策していたんだから。──でも、嬉しいな」

 

「……えっ……?」

 

「こうして私を頼ってくれたってことは、綾小路くんは、私と堀北さんが友達になれる機会を作ってくれたってことでしょ?」

 

 あっさりと意図がバレていた。

 オレの沈黙を肯定と受け取った櫛田は、それはもう見惚れるような笑顔を浮かべて。

 

「けどね綾小路くん、堀北さん絡みがなくても、私はその依頼を受けるよ? だって、困ってる友達が居たら助けるのは当然のことじゃない。だから手伝うよっ」

 

 天使が現界する。心做しか後光も見える気がした。

 でも良かった。須藤や池たちの退学を気に掛けている、これだけで十分すぎる。

 

「それじゃあ頼めるか」

 

「うんっ、もちろんだよっ!」

 

 心が浄化されていくようだ。

 と、櫛田は廊下の床を軽く蹴って、先程の笑顔とは一転、やや暗い表情を浮かべた。

 

「でも酷いよね、赤点を取ったら直ぐに退学だなんて」

 

「同感だ。仮に赤点を取っても、追試験でカバー出来るのが普通だと思うんだが……この学校だと当てはまらないんだろうな」

 

「……それを言われちゃうとそうかもね。でもそれでも、悲しいことに変わりはないよ。──平田くんや堀北さんが勉強会を開くって聞いた時、とても感心したんだ。私は自分のことばかり考えていたから……本当に、凄いよねっ」

 

 現代日本、さらに今時の女子高生でこんなにも良い奴が居るだなんて……。もしかしたら彼女は、全国各地に散在している女子高生たちの善意から()っているのかもしれない。そのうち櫛田教が生まれそうだな。

 池、山内。オレはお前たちのことを誤解していた。これは確かに惚れてしまうな。

 

「それでね、綾小路くん。一つだけ頼みがあるんだ」

 

「櫛田も勉強会に参加する、その許可が欲しいんだろ?」

 

「何で分かったの?」

 

「ちょっと考えればオレでも分かるさ」

 

 櫛田にこの依頼を持ち掛けたら、彼女がそう言うことは分かっていた。

 問題は彼女のことを毛嫌いしている堀北が認めるかどうか……。

 オレが堀北に要求されたのは、須藤、池、山内の三バカトリオを勉強会に参加させること。その条件に、他者の力を借りてはならないとは含まれていない。

 これでもし彼女が櫛田の参加を拒否するのなら、オレは条件を満たしていることを示せば良い。合理的な彼女のことだ、内心は兎も角、きっと渋々ながらも認めるはずだ。

 

「それで勉強会はいつからなの?」

 

 当然の疑問。

 

「明日かららしいぞ」

 

 櫛田はオレの言葉に違和感を覚えたのか、小さく小首を傾げた。可愛い。……この短い間でどれだけ可愛いって思ったんだろう。

 

「うん? その言い方だと綾小路くんは参加しないの?」

 

「赤点は取りそうにないしな」

 

「でも万が一ってこともあるんじゃないかな?」

 

「もし行き詰まったら平田主催の方に参加するよ。堀北が開く理由は赤点者をなくすためだからな、オレが参加する必要はない。ただ一回目は心配だから参加するつもりだ」

 

「……そっか、そうだよね。そうなると私も、参加しない方が良いのかな? 堀北さんの邪魔をしたり……」

 

「いや、大丈夫だ。堀北も一人で三人を教えるのには苦労するだろうし、彼女を支えてやってくれ」

 

「うんっ! 後で連絡しとくね」

 

 櫛田は力強く頷き小さくガッツポーズを作った。

 なんだろう……普通の女子がこれをやろうものならあざといの一言で済まされそうだが、彼女がやると全然そう感じられないから不思議だ。

 いや、ちょっと待て。後で連絡……?

 

「三人の連絡先持っているのか?」

 

「大丈夫だよ〜。私が携帯登録していないのは──」

 

 不自然に台詞を切った。

 そして、申し訳なさそうにオレの顔をチラチラと伺って来る。無言の時間が一分弱流れた。

 

「……綾小路くんと、堀北さんだけなんだ……」

 

 堀北が携帯登録されていないのは分かる。この前聞いたから。

 でもオレは声すら掛けられていない。久し振りに孤独感を覚えた。嗚呼……虚しい。

 

「……ごめんね……」

 

「…………気にするな…………」

 

「で、でも言い訳をさせて。綾小路くんに声を掛けようとしても殆どが読書中だったり池くんたちと談笑していたりで、それに放課後はすぐに帰っちゃうし……」

 

 全部オレの所為だった。

 と、ここでオレはまた気付いてはいけないことに気付いた。気付いてしまった。

 

「高円寺の連絡先も知っているんだよな……?」

 

「う、うん」

 

 ちょっとショック。

 さぞかしオレはいま、哀愁さが全身から漂っているだろう。その証拠に、櫛田の顔が若干引き攣っているし。

 

「こ、こほん。私と連絡先交換して下さい」

 

「お願いします」

 

 これで三人目の異性の連絡先を入手出来た。しかし悲しきかな、そのうち二件は……いや、これ以上は止めておこう。

 

「ありがとうっ。ところで綾小路くん、放課後はCクラスの椎名さんと図書館でよく会っているんだよね?」

 

「……櫛田も知っているんだな」

 

「結構噂になっているんだよ? あの二人は付き合っているんじゃないかー! って。率直に聞くけどどうなの?」

 

「付き合ってない。椎名とはただの読書友達だ」

 

「意外……でもないかな。綾小路くんが教室で本を読んでいるのはよく見掛けるしね」

 

 櫛田の視野の広さには恐れ入る。

 

「椎名と面識があるのか?」

 

「私? ううん、直接喋ったことはまだないよ。A、Bクラスの人たちとは少なくない人と友だちになれたんだけど……Cクラスは中々難しくてね」

 

 コミュニケーション能力の塊である櫛田が苦戦しているのか。椎名が以前言っていた、個性的な生徒が多いというのは間違いではないらしい。

 それでも他所のクラスの名前と容姿を一致させているあたり、流石は櫛田と言ったところか。

 

「でも綾小路くん。お節介かもしれないけど、これから先どうするの?」

 

「どうもこうもしない。今まで通り過ごすつもりだ」

 

「なら気を付けてね。今Cクラスはリーダー決めで荒れているらしいから。巻き込まれちゃうかもしれないし」

 

「分かった、教えてくれてありがとう」

 

「どういたしまして。あっ、もうこんな時間。ごめん綾小路くん、私、もう行かないと」

 

「時間取りすぎちゃったか。それじゃあ櫛田、進展があったら連絡してくれると助かる」

 

「うん! バイバイっ」

 

 にこやかに手を振る櫛田と別れ、オレも帰路に着くことにした。図書館に向かわないのは、今日からテスト週間に入るので、椎名とは会わないように決めているからだ。

 コンビニに寄り、インスタント食品を数個買ってから寮に向かう。

 

「……中間テスト、か……」

 

 早速平田と堀北が動いた。他のクラスも同様だろう。オレたちと同じ結論を出し、最初の試練──中間テストに備え始めているはずだ。

 尤も、志から既に差がある。

 他のクラスがさらなるポイント獲得に向けて行動する中、オレたちの目標はあくまでも赤点者を出さないこと。

 堀北は言った。Aクラスを目指すのだと。

 この一週間、オレなりに考えてみた。Aクラスに上がれるか否か。()()()()()()()()()()()()()

 オレが出した結論は──『絶望』だ。

 三年間どんなに足掻いたところで、今のDクラスではCクラスにすらなれないだろう。

 

 何が足りないのか──それは全てだ。

 



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テスト準備 Ⅱ

 

 ベッドの上で寝転がりながらとある長編推理小説を読み、犯人が誰かを予想していると、机の上に放置していた携帯端末がブブッと小刻みに振動した。

 オレが現在所持している友達の登録数はとても少なく、それに比例するかのようにメールが届くことも少ない。一番仲が良いと思う椎名(しいな)ですらも、彼女の性格が起因してあまり話さないのが実情だ。

 ……改めて思うけど、オレって友達少ないな……。

 さて、今は夜の九時半。こんな時間に誰が……。いやでも、普通の高校生ならこの時間帯で連絡を取り合うのは当たり前のことなのか……? 世間の常識に疎いオレは、これくらいの事でも頭を悩ませてしまう。

 取り敢えず、携帯端末を手に取り電源を起動させる。

 

『夜遅くにごめんね。(いけ)くん、山内(やまうち)くんからはオッケーでたよー』

 

「おぉ……流石は櫛田(くしだ)だな」

 

 些かショックでもあるが。

 オレが誘った時は即答で拒否したクセに、変わり身がとても早い。まあ、男に誘われるよりかは可愛い女の子に誘われる方が良いに決まっているか。

 

須藤(すどう)くんはまだ迷ってるみたい。バスケ部はテスト週間でも部活やっているそうなんだけど……練習を休んで体が鈍ることを嫌がってるみたいなの』

 

 さらにもう一通のメールが届いた。

 そうなのか、テスト週間に入っても活動がある部活動があるんだな。オレの勝手なイメージを述べるなら、全部活動停止だと思っていた。

 この前部活説明会の際に貰ったパンフレットを確認すると、どうやら、その部活の方針と個人の自由だそうだ。

 須藤の懸念は分かる。一日休むだけで、人は三日程前の状態にポテンシャルが戻ると言われているしな。

 だが、困った。

 脱落候補筆頭の彼には是非とも参加して貰いたい。仕方がない。ここはオレがもう一度声を掛けるとしよう。

 慣れない動作で数字を押し、コール。このドキドキはきっと、いつまで経っても続くんだろうなあ……。

 

「うーす。どうした綾小路(あやのこうじ)、お前が電話掛けてくるなんて初めてだろ」

 

 思い返してみればそうかもしれない。

 

「単刀直入に聞くけど。勉強会参加しないのか?」

 

「櫛田からメール来たのはやっぱりお前の差し金かよ」

 

「まあな。それで、どうするんだ?」

 

「……正直迷ってる。赤点は取りたくないけどよ、けど練習を休んで動かないのは……」

 

 口調から相当な葛藤を感じるな。オレと櫛田の説得で、退学に対して真剣に考えてくれるようになったようだ。

 あと一撃が入れば折れるか?

 

「須藤の心配も納得だ。だったら朝に運動をすれば良い。知ってるか? 朝のジョギングは体に良いらしいぞ」

 

 そんなことをネットの記事で閲覧した気がする。

 

「けどよ……その分、睡眠時間が削れるじゃねぇか」

 

「そこは諦めてくれ。今まで散々居眠りしてきたんだ、そのツケが回ってきたと思えば良い」

 

「けどよ……」

 

「なんだったら、オレもその朝のトレーニングに付き合うぞ。一人よりも二人だ。一緒に頑張ろう」

 

 出来るだけ感情を込めて、オレは須藤に語りかけた。

 端末のスピーカーからは彼の声は聞こえなくなり、その代わり、浅い息遣いが伝わってきた。これで駄目なら仕方がない、奥の手を使うしかないな。

 どれだけ流れただろうか。

 

「お前にここまで言われたんだ──分かった。参加するぜ」

 

「分かった。堀北(ほりきた)に伝えておく。朝トレはいつから始める? オレは明日からでも構わないが……」

 

「それで頼む。朝の五時半に寮のエントランスに集合、それで良いか?」

 

「ああ、了解だ。じゃあ、また明日」

 

「おう!」

 

 回線を切り、オレは勝利の余韻にしばらく浸った。これでオレのミッションはコンプリートだ。

 櫛田に須藤の件はオレが片付けたこと、池と山内を上手く釣ってくれたことに関するお礼のメールを送信。

 

『凄いね、綾小路くん! 須藤くんを参加させるだなんて……いったい何をやったの?』

 

『青春を作ろうと言ったら賛同してくれたんだ』

 

『青春?』

 

 嘘ではない。早朝の涼しい時間に友人と仲良く体を動かす。うん、青春だな。

 櫛田とのやり取りを終わらせ、今度は堀北宛てに文字を打ち、メールを送信する。

 

「良し、明日に備えてジャージの準備でもするか」

 

 この一ヶ月、体育の授業は全て水泳に割り当てられていた。おっさん先生の体を張った指導のおかげで、Dクラスの生徒全員が五十メートル泳げるようになり、また現在は二十分間泳の時間になっている。

 そのため、入学前に購入したジャージに袖を通す機会にはまだ遭遇していない。ちなみに高度育成高等学校の制服は赤色が主になっており、また、ジャージも赤と白の二色によって構成されている。

 箪笥を開けようと動こうとしたその時、堀北からメール……ではなく、電話が掛かってきた。

 おめでとう堀北。お前は栄誉を得たぞ。オレが初めて異性と電話した相手という栄誉だ。

 

「もしもし、どうした──」

 

「嫌よ」

 

 ブツンッ! 一方的に切られてしまった。……さてどうしたもんか。堀北が何を嫌がっているか、それが分からないわけでは決してない。だがな……。

 嘆息してからリコール。回線は一コール、二コール、三コール……十コール目でようやく繋がった。

 

「……」

 

「堀北?」

 

「…………」

 

 まさかの返答なし。画面を確認するが、電話はまだ続いていることを示唆していた。

 話を聞く姿勢はまだある判断する。

 

「言いたいことは分かるつもりだ。お前が嫌いな櫛田の参加についてのことだろうが、確かに主催者のお前に聞かなかったのはオレの落ち度だ。それは認める。悪かった」

 

 数秒の沈黙。

 

「…………理由を聞いても良いかしら?」

 

「オレが誘うよりも櫛田が誘った方が効果があると思ったからだ。実際、池と山内は彼女が誘ったから取り敢えずは来てくれるようになった」

 

「それは……そうかもしれないけれど……綾小路くん、私はそんなこと許可していないわ」

 

「確かに許可は受けてない。だがな堀北、お前はオレに頼む時、手段を限定しなかった。違うか?」

 

「……」

 

「何度も言うが、お前の気持ちは分かっているつもりだ」

 

「だったらどうして──」

 

 勝手な行動をしたのか、そのような言葉が出されるその前に、オレは強引に口を挟む。

 

「Aクラスに上がるためには、赤点者を出してはならない。堀北。これはオレの意見だ、全てを受け入れろとは言わない。だが、もしお前が本当に行きたいのなら──一旦私情は捨てろ。じゃないと何も出来ない」

 

「…………分かったわよ。櫛田さんには今度お礼を言うわ。けれど、彼女が勉強会そのものに参加することを、私は認めない」

 

「いや、だから。オレの話を聞いていたか? それが櫛田が出した条件なんだよ」

 

「それはあなたが勝手に約束したことよ。私が守る義理はない。それに、彼女は前回の小テストで高得点を取っていた。私が勉強会を開く理由は、赤点候補者を救済するためよ。彼女は当てはまらない」

 

 一応筋は通っている。しかしながらオレは、堀北が全てをさらけ出しているとはどうしても考えられなかった。

 彼女が櫛田のことが嫌いなのは何度も言うが分かっている。人の交友関係に兎や角口を挟む程、オレは愚かでは無い。

 だがオレは彼女が拒絶している女性と約束を交わしている。そして、オレの優先順位は既にこれが上回っている。

 それならまずは、約束を果たすことを先決にしなくてはならない。

 

「なら堀北、一回だ。一回だけ、勉強会に櫛田を参加させてやってくれ。彼女は多分、お前に力を貸してくれるはずだ。一人で三人を見るのは効率が悪いだろう?」

 

「やけに彼女の力になろうとするのね」

 

 そう思われても仕方がないのかもしれない。

 

「どう思おうが勝手だが、兎に角頼む。その一回でどうしても無理だと判断したら、櫛田も今回のこの一件に、これ以上は首を挟まないはずだ」

 

「首を挟む余地を与えたのはあなたの失策だけれど……分かったわ。今回だけは妥協してあげる。けれど、彼女は不要だと判断したその時は容赦なく切り捨てるから」

 

「ああ、それで問題ない。じゃあまた明日な」

 

「ええ」

 

 通話を切る。堀北はなまじ頭が良いから、丸め込むのにとても苦労するな……。

 櫛田に再度メール送信。堀北が参加を不承不承ながらも認めたこと、次回以降も参加するつもりなら最初の一回で自分の存在価値を知らしめることが必要になること。

 先程とは違い、既読はすぐに付かなかった。女の子は忙しいのだろう。

 気付けば時計の針は十の数字を刺そうとしていた。

 目覚まし時計のアラームを早朝の五時に設定し、携帯端末も充電器に挿す。ジャージ、そしてインナーとして体操服を机の上に置いたオレは、明日からの新しい行事に備え、眠ることにした。

 

 

 

§

 

 

 

 翌日の早朝。五時二十五分、寮のエントランス。

 設けられているソファーでボーっとしていると、エレベーターが一階に降りてきた証として、黄色いランプが点滅した。

 中からジャージ姿の須藤が現れ、「よう」と軽く声を掛けてくる。オレも軽く手を挙げることでそれに応えた。

 

「正直意外だぞ。てっきり遅刻するもんだと思っていたからな」

 

「おいおい、俺だってやっていいことと悪いことの分別はついているぜ。それに体を動かすことは好きだからな」

 

 好きだからこそ、須藤はどこまでも真摯にバスケットに向き合えるのだろう。

 羨ましい、と思う。

 ──オレもいつか、そうなれるのだろうか。何かに心の底から向き合えるだろうか。

 雑談しながら寮から出ると、ひんやりとした冷気が襲いかかってきた。

 無理もない、太陽が辛うじて東の空に見える時間帯だからな。

 

「今日はどれくらい走るつもりだ?」

 

 試しに聞いてみると、須藤は少し迷いながら。

 

「そうだな……今日は最初だから、一時間くらいにしようぜ。いけそうか?」

 

「多分、な」

 

「おいおい……」

 

 俺の返事に頼りなさを感じたのか、須藤は苦笑いを浮かべる。これで勉強が人並に出来たら平田(ひらた)みたいにモテるだろうに……勿体ない。

 準備運動をしっかりとして、筋肉を(ほぐ)した後、オレたちは走り始めた。

 思えば、走るという動作をするのは随分と久し振りな気がする。

 呼吸を小刻みにやりながら、両手両足を動かす。あくまでもジョギングだから息を荒らげることはない。

 並走している須藤は流石と言うべきか、フォームがしっかりとした形になっていて驚きものだ。

 一ヶ月前に行われた水泳の授業での競泳で、彼は二位の成績を収めている。一位の高円寺(こうえんじ)とは確かな差があったが、このまま自分を磨き続ければその差をなくす事も可能かもしれない。

 一歩足を動かす度に感じる、コンクリートの固い感触。足音が反響し、とても心地よい。

 目まぐるしい変わる景色に、ゆっくりと……けれど着実に昇っていく太陽。

 一時間達成まで、残り十分。

 

「走るぜ」

 

「分かった」

 

 ジョギングからランニングに切り替えた須藤が加速する。そしてすぐにトップスピードになり、彼の背中がどんどんと遠のいていく。

 オレもまた彼を追うべく足の回転率を上げ、両手を大きく振った。

 風を感じる、陽の光を背中に浴びる。

 オレが思い描いていた学校生活。それを今、オレは体感しているのかもしれない。

 

 

 

 寮の前では須藤がオレのことを待ってくれていた。

 お互いに汗を大量にかいているが、とても清々しい思いで一杯だったから、気にもしなかった。

 自動販売機で無料のミネラルウォーターを二人分買い、彼に放り投げる。

 

「ありがとよ」

 

「無料だけどな。それにしても……凄いな、須藤は。疲れているようには全然見えないぞ。オレは立っているのがやっとなのに」

 

 素直に褒めると、須藤は照れ臭そうに頭をガリガリと掻いた後、少しばかり呆れた様子になる。

 

「当たり前だ。バスケは常に走るスポーツだからな、足を止めるなんて言語道断だ」

 

「部活は楽しいか?」

 

「おうっ。三年の先輩が俺を気に掛けてくれていてな、いつも面倒を見てもらってんだ」

 

 期待の新人ってところか。それも当たり前かもしれないな。なにせ、たった一ヶ月弱で彼は一年生ながら一軍の練習を受けているのだから。

 同級生は内心嫉妬で荒れているだろうが、実力至上主義のこの学校ではそれも意味をなさないだろう。いやそれ以前に、体育会系の世界だったらそれが当たり前かもしれない。

 

「レギュラー入りも近いんじゃないか?」

 

「どうだろうな。まっ、そうかもしんねぇな」

 

 誇りもせず、事実をありのままに伝えて須藤。そんな彼にオレは、好感を覚える。本当にバスケットになると、彼の印象は随分と変わってくるものだ。

 Dクラスの生徒の殆どは、彼のことを馬鹿だと思っている。実際オレも、彼のことをそのように思うことは多々あった。

 だが彼のこの努力を知ったら、少しはその評価も変わるかもしれない。

 

 

 

 

§

 

 

 

 堀北は終始無言だった。

 朝の挨拶をしても無言。休み時間に声を掛けても無言。昼飯を一緒に食べようと声を掛けた時は流石にお断りの返事を頂いたが、それでも「嫌」という最早文すら成り立っていない単語だけだった。

 これで頬を膨らませたり、あるいはいっそのこと暴力でも振るわれたら対処のしようがあったのだが……。

 トラウマになりそうだなと他人事のように考えながら、長い長い一日を終え、ようやく放課後に入った。

 

「あなたは参加するのかしら?」

 

「ああ、今日だけだけどな。お前もその方が良いだろ」

 

「そうね。私が先に図書館に行って席を取っておくから、あなたは赤点組と一緒に来なさい」

 

「おいおい、櫛田を忘れるなよ」

 

 堀北はオレの言葉に耳を傾けることなく、それはもうそそくさと立ち去っていく。一つだけため息を零してしまったオレは悪くないだろう。

 友達と何やら談笑している櫛田にアイコンタクトを取ると、可愛いウインクで「分かっているよ」と返された。池や山内が直視したら感激のあまり天に召されそうな、そんな破壊力があった。

 

「池くん、山内くん、須藤くん! 昨日メールで送ったけど、勉強会やるから図書館に一緒に行こう?」

 

「「もちろんだぜ」」 「ああ」

 

 頷く三バカトリオ。

 オレも彼らと合流して、図書館に向かうことにした。

 

「俺さ、図書館に行くの初めてなんだよな」

 

「俺も。須藤は?」

 

「俺もだな。つうか、娯楽施設も行ったことあんまねぇ」

 

「須藤〜! 高校生活の九割をお前は失ってるぞ!」

 

 そこまで言うか。

 だが、言われてみればそうかもしれない。少なくとも一般的な学生だったら友達と買い物に行ったり、ゲームセンターで交友を深めているのだろう。

 

「綾小路くんはどうなの? 私、放課後や休日に綾小路くんを外で見たことがなかったから気になって」

 

 黙って後ろを付いているオレを心配してか、櫛田がさり気なくを装ってそう聞いてきた。

 この辺りが彼女が人気な理由の一つなのだろう。本質がぼっちの人間にも気付き、独りの状況をなるべく作らせない手腕は、見事と言うしかない。

 そして何よりも、彼女はぼっちの性質を良く理解している。だからこそいつも会話に入れようとはしないで、本当に必要な時だけ声を掛けてくれるのだ。

 

「大体は図書館か寮で過ごしているな」

 

「そんでお前は美少女と逢引(あいびき)してんだろ?」

 

 池が心底羨ましそうにそう言ってくる。肘で頬をグリグリしてきて、それだけを見ていれば男のじゃれあいですむが、目がかなりガチだ。

 これでオレが椎名ではなく、彼の想い人と逢引していたら、冗談抜きで殺されていたかもしれない。

 

「ま、待って……!」

 

 図書館への長い道のりを旅人と共に歩いていると、背後から控えめな声が飛ばされた。

 誰だと思い振り返ると、そこには一人の男子生徒が立っていた。沖谷(おきたに)という、Dクラスの生徒だ。

 彼はオレたちを走って追いかけてきたのか、息が乱れていた。

 

「沖谷くん、私たちに何か用かな?」

 

 沖谷が落ち着くのを見計らい、櫛田が代表して優しく尋ねる。

 

「その、堀北さんが勉強会を開くって聞いて……。参加したいなって思って……」

 

「赤点取ってたっけか?」

 

「あっ、う、うんそうなんだけど……。その、テストなんだけど……かなり危なかったから……駄目、だったかな? 平田(ひらた)くんの所は入りにくくて……」

 

 可愛く頬を染めて、沖谷はオレたちの顔色を窺ってくる。櫛田とは一味違う可愛らしさだ。だが残念なことに男だ。

 華奢(きゃしゃ)な体付きに、青髪のショートボブ。女子免疫のない男子だったら、彼を彼女と勘違いしてコロッと堕ちているかもしれない。男だったらオレも危なかった。

 

「うぅーん、私が開くわけじゃないから断定は出来ないけど……」

 

 櫛田はちらりとオレに視線を寄越してくる。今度はオレが口を開いた。

 

「多分大丈夫だと思うぞ。なんだったら、オレが堀北に掛け合うから」

 

「うんっ。ありがとう、綾小路くんっ」

 

 沖谷が男で本当に良かった。きっと彼はこの先、Dクラスのペット枠として収まるだろう。本人の意思は関係なく。

 図書館に入ると、館内は喧騒さに包まれていた。とはいえ、バカ笑いしているわけではない。訪問者たちは皆、勉強会を開いているのだ。

 堀北は長机の一角を場所取りしてくれていた。

 読んでいた参考者から目を上げた彼女は、一人来訪者が増えていることに目敏く気付く。

 

「沖谷が参加しても大丈夫か?」

 

 オレが堀北にそう聞くと、彼女はオレの背中に隠れている沖谷を一瞥(いちべつ)する。彼が上げた小さな悲鳴を、オレだけが聞くことが出来た。

 

「沖谷くん。この前の小テスト、何点だったか教えて貰っても構わないかしら」

 

 流石の堀北も沖谷だけは例外なのか。いつもとはちょっとだけ口調を柔らかくする。

 

「さ、三十九点です……」

 

「備えあれば(うれ)いなし、勉強しすぎて困ることはない。良いわ、参加を認めましょう。ただし、やるからには真面目にやって貰うわ」

 

「も、もちろんだよっ」

 

 沖谷はぎこちなくはにかみ、椅子を引いて腰掛ける。そしてスクールバッグから勉強道具を取り出し、意欲があることを示した。

 須藤や池、山内、オレもそれぞれ自分が気に入った所に腰掛ける。堀北の目の前には座ったのは須藤だった。

 どうやら、一応はやる気があるらしい。勉強がこの中で一番嫌いな彼がどうして心変わりしたのか、その理由は分からない。けれど良いことだ。

 人間とは周りに流される生き物だ。池や山内も教科書とノートを取り出し、早速睨み合いを開始する。

 ──何とかなりそうだな。

 しかしオレは忘れていた。まだ問題が残っていることを。

 櫛田だ。昨日の電話では堀北は不承不承ながらも、彼女の参加を認めた。

 だがそれは櫛田がその場に居なかった、という意味合いも大きい。理性では分かっていても、本能に従ってしまうことも十二分に有り得る。

 

「あなたも座ったら」

 

「その……ごめんね、堀北さん。無理を言って……」

 

「私はあなたの参加を認めた。けれどこの最初だけよ。あなたがこの勉強会で役に立たないと私が判断したら、次回からは来ないで頂戴」

 

「はあ!? 何だよそれ、そんなの聞いてないぜ! どういうことだよ堀北!」

 

 池が握っていたシャープペンシルを放り投げて、堀北に詰問する。山内も同様だ。彼らがこの勉強会に参加している最大の理由は、大好きな櫛田の存在がとても大きい。当然、次回から彼女が参加しない、なんてことになったらやる気が削られてしまうだろう。

 須藤と沖谷は教科書にこそ目を通しているが、明らかに集中出来ていない。無理もないか。

 

「池くん。これは私と櫛田さんの約束なの」

 

そうよね? 堀北は櫛田に確認を取る。頷く櫛田。

 

「うん、堀北さんの言う通りだよ。だから池くん、落ち着いて。それに私──次回からも参加したいから、この時間で存在意義を証明するよ」

 

「く、櫛田ちゃん……!」

 

 さめざめと感動の涙を流す池。見れば、山内もそうだ。相変わらず仲が良いな。

 

「櫛田さん、あなたは池くんと山内の面倒を見て頂戴。その方が効率が良い。私は沖谷くんと須藤くんを見るから」

 

 うーわ、堀北の奴、ここぞとばかりに櫛田をこき使う気満々だな。

 散々あなたは必要ないと口に出していたのにも拘らず、この仕打ちだ。性格が悪いこと悪いこと。

 

「うん、任せてっ」

 

 けれど櫛田は嫌な顔せず笑顔で頷いた。可愛い。

 兎にも角にも、勉強会スタートだ。この場に居る全員が、赤点を防ぐために決意した。

 

「三十二点未満は赤点って言ってたよな。未満ってことはよ、三十二は含むのか?」

 

「須藤。俺が言えることじゃないけどさ……お前、よくこの学校に受かったな」

 

 小テストでワースト二位の点数を取った池にまで心配されるとは、中々ないことだ。

 でも実際彼の指摘は正しい。せめて未満や以下、以上といった最低限のことは知ってて貰いたい。

 

「どちらでも関係ないわ。最初に言っておくわね。この場に居る生徒全員には、全教科五十点を目指して貰うつもりだから」

 

 全教科五十点。

 口で言うのは簡単だが、果たして取れるかどうか……。皆、一様に暗い表情を浮かべる。

 

「ご、五十点……。うぅ……取れるかな?」

 

「取れるかな、じゃないの沖谷くん。ちゃんと理由もある。まずだけど、赤点ラインをギリギリで狙うのはとてもリスクが伴って危険よ。そうね……四十五点。四十五点取れば、赤点扱いにはならないはず」

 

 ハードルが下がったことに、今度は顔を輝かせた。

 堀北も上手い。敢えてハードルを下げてみせることで、生徒たちのやる気を引き出すことに成功した。

 たった五点の落差。されど五教科で考えるとトータル二十五点だ。これはとても大きい。

 

「テスト範囲の絞り込みをしたわ。今からプリントを配布するから、まずはこれをやってみて。暗記科目の社会は分からなくなったら自分で教科書を引きなさい。自分で調べることによって、確実に情報が上書きされていくから。反対に、数学、英語、理科はすぐに私か櫛田さんに聞いて。ああそれと、見栄(みえ)を張る必要はないから」

 

 ──最後の一言が無かったら文句なしだったんだけどなあ……。

 

「国語はどうすんだ?」

 

「国語は取り敢えず何か書きなさい。特に、文章問題は必ずよ。国語は部分点がとても多く、さらに答え方によっては得点が貰えるチャンスが多い。だから反復練習よ」

 

 各々、配られたプリントと向き合う。内容は基礎が分かれば簡単に解ける問題が比較的割合を占めていたが、須藤たちにとってはその基礎が出来ていないから充分に強敵だろう。

 

「分かんね……」

 

 須藤が呻く。覗いてみれば、第一問目で躓いているようだった。

 最初の教科は数学。オレも目を通してみる。

 

『以下の問いに答えよ。

 A、B、Cの三人のお金の合計は2150円で、AはBよりも120円多く持っています。また、Cが持っているお金を五分の二をBに渡すと、BはAよりも220円多くお金を持つことになります。Aははじめ、幾ら持っていましたか?』

 

 それは連立方程式の問題だった。連立方程式自体は中学時代に基礎は習っているが、実践するのは高校一年生からだ。

 堀北は良いチョイスをしたと言える。

 

「須藤くん。数学の問題を解く時に必要なのは何だと思う?」

 

「……応用力じゃねぇか?」

 

 それは決して、間違いではないだろう。確かに応用力……こと数学に於いて、柔軟な発想力はある程度必要になる。

 だが堀北は首を横に振ってから。

 

「いいえ違うわ。改めて聞くけれど、何だと思う?」

 

「…………公式、だったか? それを覚えることか?」

 

 惜しいな。確かにそれも必要だ。公式を覚えることによって──ただ覚えるだけでなく、その公式が成り立つ意味を理解することが最も望ましいが──ようやくスタートラインに立てるのも事実だ。

 けれど堀北は再度首を横に振る。

 

「いいえ、それも違う。答えは──文章を噛み砕く冷静さよ。まぁこれは、どの教科にも当てはまるわね」

 

「堀北。もうちょっと分かりやすく頼む。須藤の頭はもうパンク寸前だ」

 

「ンなことねぇよ」

 

 須藤が小突(こづ)いてきた。それを軽くいなしつつ、堀北にアイコンタクトを送り、授業を再開させる。

 

「文章が多いと、文字を読むことに長けていない人間は流し読み……もっと悪いと読もうとすらしない。けれど良くよく読んでみて。まずは必要ない情報を削りなさい」

 

「このA、B、Cって数字がいらないのか?」

 

「いいえ違う。聞かれていることは、『Aの最初の金額』。よってこれは必要よ」

 

「そもそも何でアルファベットなんだよ……」

 

「その方が分かりやすいからよ。このアルファベットで、対象を簡略化している。例えば、『堀北鈴音が──』なんていちいち書いていたら面倒でしょう?」

 

「おぉ……! 確かにそうだな」

 

「堀北さん、これで合ってるかな……?」

 

 堀北が須藤に説明している間に、沖谷が問題を解いたようだ。彼女は一旦須藤から目を離し、別の生徒から答案を受け取る。

 

「惜しいわね。途中式は全て合っているけれど、答えだけが違う。沖谷くん。問題を解いた後は確認しなさい。それだけでケアレスミスが大幅に減るわ」

 

「は、はい……!」

 

 堀北グループは意外なことにとても順調だ。

 てっきりオレは、須藤が開始早々シャープペンシルを放棄するとばかりに考えていたのだが、一緒に頑張る沖谷の存在、そして堀北自身が出来るだけ分かりやすく教えているためなんとか食らいつこうとしている。度々先生から出される罵倒にも、須藤は苛立った様子を一瞬見せるこそすれ、けれど暴れるようなことはしなかった。

 ただ一言言わせて欲しい。連立方程式くらいは知っておいた方が良いぞ。

 堀北グループから目を離し、次は櫛田グループに視線を送る。

 

「うん、それで合ってるよ池くん。山内くん、その問題はね……」

 

「なるほどな……。流石櫛田ちゃんだぜ!」

 

 良い意味で櫛田は期待を裏切らないな。池と山内は櫛田に褒めてもらうために、それはもう必死になって教科書と睨み合いをしていた。

 やっぱり、男が動くその最大の理由はいつだって女の子なんだな。

 あちらも問題はなさそうだと判断して、オレもまたテスト勉強をするのだった。

 

 

 

 

§

 

 

 

「「「「ありがとうございましたっ」」」」

 

 須藤、池、山内、沖谷の声が重なり、そんな言葉が出された。

 時刻は午後六時四十五分。図書館の閉館時間まで残り十五分。オレたちは施設外に居た。

 堀北主導の元で行われた勉強会は、はじめのスタートこそままならなかったが、それでも上手く機能したと充分に言えるだろう。

 途中集中力が途切れる場面もあったが、そこは小休憩を取ることで堀北は対応した。案外、教師に向いているのかもしれない。

 

「まずはご苦労さまと言っておくわ。けれど、正直あなたたちの学力は低い。はっきり言うと、小学生の学力ね」

 

「「「「うぐっ」」」」

 

「だからこそ、復習をしっかりとすること。寮に帰ったら今日やった内容の復習を、学校の授業は、私が渡したプリントで予習をしなさい」

 

「一日中勉強漬けかよ……」

 

 池が絶望に表情を彩らせてそう呟く。他の生徒も同様で、今日からテストが明けるまで日々を想像しているに違いない。

 

「で、でも堀北さん。授業の時間で予習をやって良いの? ポイントが……」

 

 恐る恐る尋ねる沖谷に、堀北は問題ないとばかりに。

 

「大丈夫よ。確かにポイントは入らないかもしれない。けれど、赤点を防ぐ、そのための行動が今は何よりも大切。平田くんだってそう言うと思う」

 

「うん!」

 

「そんじゃあ帰るか」

 

 勉強から開放された山内がそれはもう嬉しそうに誘う。

 須藤、池、そして沖谷がおずおずとついて行き……彼らはオレと堀北、櫛田が動かないことに困惑した。

 

「どうしたんだよ。早く行こうぜ」

 

 さてどうしたものか。

 オレたち三人が学友たちと一緒に歩かないのには、もちろんわけがある。というのも、櫛田が今後参加するか否か、資格を得たか否かの判決が言い渡されるのだ。

 

「ごめんね皆。私たちこの後、夕ご飯を食べる約束をしているんだ。ほら、今後の方針とか話し合わないといけないしね。だから今日は一緒に帰れないの」

 

 即興の嘘にしてはかなり上出来だな。

 

「えー! マジかよー」

 

 池は不満そうに唇を尖らせたが、勉強会のことを言われたら引き下がるを得なかった。

「また明日なー」と別れの挨拶を交わし、彼は持ち前のコミュニケーション能力を如何なく発揮し、須藤や山内、沖谷を引き連れて寮にへと向かっていった。

 直前まであった和気藹々(わきあいあい)とした賑やかさは消え失せ、無音の時間が数刻残されたオレたち三人に流れる。

 

「櫛田さん」

 

 そんな中話を切り出したのは堀北だった。

 櫛田はいつも浮かべている笑顔で、彼女と対面する。

 

 この時オレは初めて、櫛田桔梗という人間に対して『違和感』を覚えた。

 

 どのように表現したら良いのだろう。

 仕草、息遣い、そして表情。全てが素晴らしい。

 だが──その全てが()()()()()

 

「何かな?」

 

 可愛らしい声だ。つくづくそう思う。

 そう思う一方で、違和感は疑念へと膨張していくのをオレは感じた。

 

「勉強を始める前に、私は言ったわよね。あなたの存在価値を示せなければ、次回以降の勉強会の参加を認めないと」

 

「うんそうだね。……どうだったかな?」

 

 口ではそう言いながらも、自分が認められることを確信している様子が窺えた。

 そしてそれは自惚れでは断じてなく、的中する。

 

「──認めましょう。次回からも参加してくれて構わないわ」

 

「ありがとう! でも堀北さん、正直に言うと意外だったかな。てっきり駄目だと思ってたから。嫌われていると思っていたから……」

 

「なら聞くけれど、あなたは自分のことが嫌いと察した相手を好きでいられるかしら?」

 

 一瞬思考が止まった。

 堀北が言ったことにはそれだけの威力があったから。

 櫛田が堀北を嫌っている。その逆である、堀北が櫛田を嫌っているなら、まだ話は分かる。

 堀北の考えすぎじゃないか、あるいは妄想なのではないか、そのように考えたオレを裁くことは誰も出来ないだろう。

 

「……? 私は堀北さんのこと好きだよ?」

 

 櫛田は心底分からないとばかりに困惑の表情を浮かべた。

 二人の視線が交錯し──最初に逸らしたのは堀北の方だった。

 

「……そう、まぁ良いわ。あなたのことに時間を割く余裕は無いのだし、邪魔しないのならそれで良しとする。今は、ね」

 

「堀北さんが何を言っているのか私は分からないけど、その考えには賛同するかな。まだ日にちはあるけど、少しでも勉強した方が良いと思うよ」

 

「ええ」

 

「じゃあ私、先に帰るね。ちょっと寄る所があるんだ。ばいばいっ」

 

 櫛田は結局終始笑顔でそしてそのまま立ち去る。オレと堀北はそんな彼女の背中を見届けた。

 オレも帰るとするか。

 これでミッションはコンプリート。須藤や池たちの面倒は、彼女たちに任せるとしよう。

 堀北と一緒に寮に向かうことを一瞬考えたが、すぐに打ち消す。もし知り合いにでも見つかったら、あらぬ誤解を与えてしまうだろうし、彼女はそれを嫌うだろう。

 

「じゃあ、オレも帰るから」

 

 無言で離れるのは流石にどうかと思うので、一応声を掛ける。堀北はどうやら考え事をしているみたいで、返答はなかったが、まあ、良いか。

 スクールバッグを肩に担ぎながら我が家への道を踏みしめていく。

 明日の朝も須藤とのジョギングがある。いつまで続くかは分からないが、少しでも早く寝ておこう。

 今日の夕ご飯について思案していると、二人の男女生徒がオレの行く末を塞いだ。

 女子生徒は椎名だった。オレが視認したように、彼女も視認したのだろう。軽く会釈してきた。オレも軽く手を挙げて応える。

 問題は男子生徒の方だった。身長はオレと同じくらいだろうか。黒髪だがやや癖がある長めのヘアースタイル。

 そして何よりも──獰猛(どうもう)な目。自分に余程自信がなければ、このような好戦的な目付きには至れないだろう。

 

「お前がひよりの逢引相手、綾小路か。随分と覇気がない男だ。流石、根暗そうランキング上位者は違うな」

 

 何だその、初めて聞くランキングは。

 

「初対面で人の悪口を言うのはどうかと思うぞ」

 

「悪口? 俺はただ、事実を事実で言っただけだぜ。まあ、そんなことはどうでも良い」

 

 男子生徒は本当にそう思っているのか、至極平坦な声でそう言った。

 

「同感だな。手短に要件を言って貰えると助かる」

 

「ほう。先に聞くことがそれか。俺が誰だが気にならないのか?」

 

「気になるか気にならないかと聞かれたら──興味ないな。けど、それはお前もだろ」

 

「ククッ、違いない。いいぜ、第一試験合格だ。綾小路。ちょっとツラ貸せ」

 

 男子生徒は一方的にそう言い放った後、オレと椎名から離れていく。歩みに迷いがない。オレが付いてくると彼は確信しているのだ。

 

「ごめんなさい、綾小路くん。連絡しようとは思ったのですが……彼が駄目だと言いまして……」

 

 その理由は見当がつく。退路を断つためだろう。

 つまり彼らは、放課後が開始してから今まで、ずっとこの場所に居たことになる。

 

「分かった。付いていく」

 

「本当にごめんなさい」

 

「いや、椎名が悪いわけじゃないから安心しろ。それで、オレをどこに連れて何をするつもりだ?」

 

 当然の疑問。

 数歩先で歩く彼が顔だけ振り向かせてから言う。

 

「俺が答えよう。行く場所はケヤキモール。何をするか──飯を食うのさ」

 

 ケヤキモールとは学校から徒歩数分の距離にある大型ショッピングモールのことだ。カラオケやブティック、本屋など、生徒が欲しい娯楽施設があり、飲食店も充実している。

 放課後暇な生徒が訪れることがとても多い。とはいえ、オレは二、三回程しかまだ行っていないが。

 

「そうか。ちなみに奢りか?」

 

「ハハハッ。おいおい綾小路、初対面の人間に良くもまぁそんなことを言えるな」

 

「お前には負けるけどな」

 

「違いねえ」

 

「名前は?」

 

「あ? 興味がなかったんじゃなかったのか」

 

「今湧いた。わざわざ数時間に渡ってオレを待ってくれたんだ、覚えようと思った」

 

 そう告げると、男子生徒は音を立てて豪快に笑う。愉快そうで何よりだ。

 彼は数秒後、笑いから一転、捕食者の笑みで答える。

 

「──龍園(りゅうえん)(かける)。Cクラスの『王』だ」

 

 

 

 



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椎名ひよりの分岐点 Ⅱ

 

 龍園(りゅうえん)(かける)がオレと椎名(しいな)を案内したのは、ケヤキモールの中にある、完全個室を売りにしている和食店だった。

 どうやらこの店は予約制であるようで、店員が来店した客を流れるようにして予め割り当てられた部屋にと案内した。和食店である拘りからか内装は和室だ。

 隙間なく整えられた(たたみ)に、細かい刺繍(ししゅう)が施された座布団(ざぶとん)、さらには年季が入っているとひと目でわかる長テーブル。

 こういった店に来るのは初めてだからちょっとドキドキする。

 オレが感動している間に、龍園と椎名は何も言うことなく座布団の上に腰を下ろした。

 何て言うか、ただ座っているだけなのにとても絵になっている。龍園は胡座(あぐら)をかき、椎名は正座だ。

 さて困った。というのも、彼らはそれぞれが向き合うようにして長テーブルを挟んで座っている、ということはつまり、オレはどちらかの隣を選ばなくてはならない。

 いったいどちらの隣に座れば……。

 

綾小路(あやのこうじ)くん」

 

 オレが迷っているのを感じ取ってくれた椎名が、幸いにも助けてくれた。

 何て気が利くんだろう。堀北(ほりきた)にも見習わせたいものだな。

 彼女に礼を言ってから隣に座る。寮にある座布団とは比べる余地もない程の座り心地(ごこち)に、思わず感嘆の声を出してしまった。

 

「好きなものを食え、俺の奢りだ」

 

「……驚いたな。まさか本当に奢ってくれるとは思ってなかったぞ」

 

「クク、この店は設備は十分だが……その分高い。Dクラスのお前じゃ払えないと思った俺のせめてもの慈悲だ。有難く受け取るんだな」

 

「そうか、それはどうもありがとう」

 

 実際のところは、俺の所得ポイントはおよそ七万五千以上あるのだが……指摘したら龍園の慈悲をなくしかねない。

 せっかくだ、ここは甘えさせて貰おう。思えば、誰かに奢って貰うのは初めてだな。いや違った。この前堀北に奢られたばかりだ。

 

「ひよりも気にする必要はないぞ。俺が払ってやる」

 

「ありがとうございます。しかし意外ですね。てっきり綾小路くんは例外として、私の分は自分で払えと言われると最悪覚悟していたのですが」

 

「おいおい、女のお前に払わせるだなんてするわけがないだろう。まっ、そういう事だ。遠慮なく食いたいものを頼め」

 

 言質(げんち)を取ったオレと椎名は、各々好きな料理を選ぶ。龍園も同様で、一番値段が高い料理を選んだ。Cクラスが五月に振り込まれたポイントは490ポイント。つまりおよそ五万円。それ故に出来る芸当か……。

 普通の飲食店なら店員を直接呼びに行ったり、あるいはボタンを押して合図を送る必要があるのだろうが、この店は従来(じゅうらい)のそれとは異なっているようで、和室に場違いにも置かれていたタブレットで注文することが出来るらしい。

 迷うことなく液晶画面をタップする龍園を見て、オレは時代の流れを感じた。これがジェネレーションギャップってヤツか……。

 

「それで、用件は結局なんだ?」

 

「用件だと? 飯を食うって俺は言ったはずだが?」

 

 何食わぬ顔で龍園はそう(うそぶ)く。

 オレは堪らずに、呆れを通り越して笑いが込み上げてくるのを感じた。

 

「他所のクラスのオレを数時間にも渡ってあの場所で待っていたにも拘らず、用件が夕食を共にするだけだなんて、本当に信じると思うのか? どんなに鈍い人間でも感じることだぞ」

 

「違いない。まぁでも、待て。確かに俺はお前らに用があるが、まずは飯を食ってからだ」

 

 そう言われてしまえば引き下がらざるを得ないか。オレは龍園から意識を外して、何となく椎名を横目で盗み見た。

 彼女は読書をしていた。

 オレと龍園の会話中、きっと彼女はいつものように自分が大好きな本の世界に旅立っていたのだろう。

 背筋をぴんと伸ばし、黙々と文字の羅列を読んでいくその姿勢はとても綺麗なもので、オレは素直に感心した。何度見ても美しい。

 初対面の人間と充分なコミュニケーションが取れるとは到底思えないので、オレも彼女と同じようにスクールバッグから一冊の文庫本を取り出す。

 

「お前らは本当に読書しか眼中にないんだな」

 

 (さげす)み、ではないだろう。単純に疑問に思ったのか、龍園はさも不思議そうにそう言ってきた。

 オレは何も答えず無言の肯定をする。ただ一言言わせて貰えば、正確には読書しかやることがないのだから仕方がない。

 数分後。従業員が頼んだ料理を運んできた。

 

「「いただきます」」

 

 読んでいた本の(ページ)(しおり)を挟んだオレと椎名は、太っ腹の龍園に改めて礼を告げる。彼は特別何か言うことはなかったが、さも面白そうに笑いながらそれに応えた。

 上質な木材で作られているとひと目で分かる箸を摑み、ゆっくりと食材を口に運ぶ。刹那、口の中一杯に美味しさが詰まった爆弾が爆発した。

 絶え間ない美味に、オレは思わず顔を綻ばせてしまう。

 

「美味いな……!」

 

「ええ、とても。コンビニとは大違いですね」

 

 椎名が感極まったように、ちょっとズレた感想を口に述べた。

 オレと龍園は思わず見つめ合ってから、天然少女を一瞥(いちべつ)し、再度見つめ合う。お互い、ちょっと反応に困っている顔になっているんだろうな……。

 

「それにしても、良くこの店を知っていたな」

 

「ククッ、当然だ。この店は良い。出される飯は美味いし……何よりも、周りの目がないからな」

 

 なるほど、確かに龍園の言う通りだ。これだけ好条件の店は、なかなか、見付からないだろう。

 料理を食べ終えたオレたちは、しばらくの間無言の時を過ごした。先程までの賑やかさは消え失せ、冷たく、ひんやりとした緊迫感が場を支配する。

 最初に切り出したのは椎名だった。

 

「龍園くん。そろそろ教えて貰えないでしょうか。どうして私と綾小路くんをこの店に案内したのか、その理由を教えて下さい」

 

「椎名は知らなかったんだな」

 

「はい。放課後になるや否や彼に連れ出されましたから」

 

 やや不満そうに椎名は龍園に視線を送る。

 しかしそれは連れ出した彼も同様なのか、呆れを含んだ顔になって、苦言を(てい)した。

 

「お前はすぐに寮に帰るだろうが」

 

「今の図書館はいつも以上の喧騒(けんそう)さに包まれていますからね。それに綾小路くんも居ませんから、そんな状態の中率先して行こうとは思えません」

 

「だそうだが、良かったな綾小路」

 

 何が良かったのか全然分からない。

 現状を客観視する。龍園は同じクラスの椎名にすら目的を言わず、寮の帰り道でオレを放課後の時間を使って待っていた。

 彼が何を企んでいるのかは分からないが、『そうせざるを得ない理由』があったのだと想像が付く。

 

「──お前の知っての通り、この学校は実力至上主義の学校だったってわけだ。Aクラスにのみ特権を得られる、嫌だとは思わないか?」

 

「否定はしない」

 

「俺はすぐに『王』になるための行動を起こした。この学校は最高だ、何せ実力さえ示せばそれで良い。俺は邪魔な奴らを潰し、晴れて『王』へと即位した」

 

 即位、か。どうやらこの龍園翔という男は、他者を自分の支配下に置きたい人間のようだ。

 いや、それは多かれ少なかれ人間誰しも思っていることか。

 ただ気になることがある。

 櫛田(くしだ)が教えてくれた情報によると、Cクラスは今内紛状態ではなかったのか。誰が指導者に──『王』になるか。その戦いの最中ではなかったのか? 

 

「Cクラスの入学からの様子を説明しますね。入学当初、私たちのクラスは個が集まっただけの集団でした。そうですね……個性的な人が多かったんです」

 

「ククッ。ひより、お前がそれを言うか」

 

 椎名は一瞬首を傾げたが、すぐに言葉を続ける。

 

「綾小路くんが所属するDクラスと違うところは、それでも一応、クラスとして機能していたところでしょうか。一人一人の我が強いCクラスでしたが、奇妙なことに授業は必要最低限受けていました。……いえ、我が強いからこそ、それは必然だったのでしょうね。弱肉強食の教室内で、些細の弱みすら見せてはならない。そういった息苦しい空気が流れていたんです」

 

 良く理解した。

 確かにDクラスとは根本的に違う。集団でいながら、集団ではない。

 その矛盾が何の因果(いんが)か成り立っていた、それがCクラスの内情だったのか。

 

「五月になり、坂上(さかがみ)先生──Cクラスの担任の先生です──からこの学校の理念を説明されました。当然、生徒の過半数以上は不平不満を言い、すぐにAクラスを目指すことになりました。ここまではどのクラスも同じだったでしょうが、一つだけ違うとすればそれは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 思わず絶句した。

 自分こそが先導者として相応しい、そう信じて止まない人間が沢山居たその事実が何よりも恐ろしい。

 

「こうして、私たちCクラスは荒れました。私は参加しなかったので詳しくは知りませんが、あらゆる手段が使われたことは容易に想像出来ます。──違いますか?」

 

「クククッ、正解だ。ひよりの言う通り、俺たちは相手を潰すために画策(かくさく)し……躊躇いなく実行した。表で戦うのは論外、裏で俺たちは争った。信じられるのは自分だけ、他者を信じてはならない。それが鉄則(てっそく)だったのさ」

 

「そしてつい先日、『王』が決まりました。それが彼──龍園翔くんです」

 

 如何(いか)なる手段を以て『王』になったのか、そんなことは至極どうでもいいことだ。

 Cクラスを統べる『王』であること、それが分かればそれで良い。

 

「俺は即位した時、クラスの連中に宣言した。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()とな」

 

 龍園翔という人間がそれだけの偉業を達成出来る(うつわ)か否か、それは現段階では推し量れない。

 ただ言えることは──彼が『強敵』であること。

 高度育成高等学校は入学が決定した生徒を振り分ける際、優秀な人間程Aクラスよりに配属したと、茶柱(ちゃばしら)先生は言っていた。

 だからこそオレが所属するDクラスは、学校側の言葉を借りるのなら『不良品』としての烙印(らくいん)を押されている。

 彼や椎名はCクラス。字面だけで考えるならば、そんなに優秀ではないと考えるのが道理だろう。

 だが、目の前で不敵に笑っている男から、そんな気配は微塵も感じられない。

 油断出来ない相手だと、素直にそう思う。

 Dクラスで、彼とまともに戦えるのはごく少数と言ったところか。BやAクラスは彼以上の者が待ち構えているのだとしたら、戦いは厳しくなるだろうな。そんなことを他人事のように考える。

 

「俺は──俺の邪魔をする奴は全て潰す。たとえそれが同じクラスの人間であろうとな」

 

「お節介かもしれないが、そんなんじゃ上手く統治出来ないぞ」

 

()()? ククッ、お前は何も分かってねえ……。そんなことをやる必要はない。最初は俺に反対する奴も居るだろうがな、時間の問題だ。最終的には必ず俺にこうべを垂れるのさ」

 

 そう語るということは余程の自信があるのだろう。言葉に迷いが一切ない。この手のタイプは非常に厄介だ。

 

「ひよりから話は聞いた。なんでもお前らは、クラス闘争に興味がないらしいな」

 

「はい。特に魅力も感じませんから。それに、争いは好きではありません」

 

「それだけだったら俺は何も言わない。俺の邪魔さえしなければそれで良いからな。だが、他所のクラスとの交流は認められない」

 

「私が綾小路くんに情報を提供するとでも?」

 

「そうだ」

 

「私と彼の付き合いを認めないと、龍園くんは言いたいのでしょうか?」

 

「その解釈で合っているぜ」

 

 龍園が首肯した次の瞬間、途轍(とてつ)もない殺気が室内に充満した。龍園ではない。

 発生源は──椎名だった。

 いつもの無表情さはさらに度合いを増し、見る人を恐怖で凍らせる程の殺意に呑まれている。

 彼女が怒っているところを、オレは初めて見ているのだ。

 身の危険を現在進行形で浴びているだろう龍園は、けれど愉快そうに唇を三日月型に歪ませる。

 

「まぁ待て、俺が今から出す条件を達成したらお前たちの付き合いを認めてやっても良い。受ける受けないは自由──」

 

「受けます」

 

「即答か。愛されているなあ、綾小路?」

 

 揶揄(やゆ)してくる龍園が鬱陶(うっとう)しい。

 オレは脳内でため息を吐いてから、隣の少女を盗み見る。興奮しているのか、心做しか姿勢が前に倒れているように窺えた。

 いつもの冷静沈着さはそこにはなく、衝動で動いているのは誰の目にも明らかだ。心配してしまう。

 だが同時にオレは嬉しくもあった。彼女がオレのことを大切に想ってくれていることの(あかし)でもあるのだから。

 

「俺が提示する条件は一つだ。ひより、お前が有能であることを俺に証明しろ。一学期中に、お前が価値ある人間だと判断したそのあかつきには、綾小路との付き合いを認めてやる」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 口で言うのは簡単だが、これはそんな生易しいものでは断じてない。

 

「質問をさせて頂きますが、その採点基準は何ですか?」

 

「良い着眼点だ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そう、何でもだ。もう一つ加えよう。お前が協力を頼めるのはそこの逢引(あいびき)相手だけだ。とはいえ、綾小路が頼りになるとは到底思えないが」

 

 悪魔の取引。そんな言葉が脳裏に浮かび上がった。

 龍園は恐らく、独自の方法でオレのことを調べあげたのだろう。しかもこの短期間でだ。

 だからこそ、オレが平凡以下の人間だと分かっている上で、椎名の行動可能範囲をさらに縮めた。

 取引とは同格の相手で初めて成り立つものだ。

 それを熟慮するのなら、これは取引ではなく、脅迫であることは一目瞭然。

 イヤらしいのが、こちらにもメリットがあること。いや、メリット以上のものだ。何せ彼が提示した通りにすれば、オレたちの望みは叶うのだから。

 

「ひより、俺はお前のことを買っているんだぜ? 馬鹿が多いCクラスで、お前の高い頭脳は必要だ。この前の小テスト、金田と同じくクラス首位だったからな。金田(かねだ)は俺の軍門に下ったが、それでも軍師が一人じゃあ万が一がある。もう一人欲しいところだ。が、お前は争いに興味がないときた。困ったもんだぜ」

 

 椎名の頭の良さは薄々感じていたが、まさかそこまでなのか。

 これで椎名じゃなくて他の生徒だったら、『王』は他所のクラスとの積極的な交友は認めなかっただろう。

 

「必要最低限の協力さえしてくれればそれで良い。これ以上の譲歩は出来ないがな。どうする?」

 

「分かりました、その条件を呑みましょう」

 

「クククッ、交渉成立だ」

 

 そう言うや否や、龍園はスクールバッグから一枚の書類を取り出し、長テーブルの上を走らせて椎名に送った。

 なるほど、口約束ではなく、ちゃんとした書面での契約にするのか。良く考えている。

 彼女は迷うことなく印鑑を押した後、携帯端末を(かざ)す。そしてカメラモードにしたのだろう、シャッター音がすぐに和室内に響く。

『王』は満足そうにその様子を眺めていた。オレも同感で、彼女の利発さには舌を巻く。

 

「それでは先に帰りますね」

 

「もうちょっと残っていけよ」

 

「今日は新刊の発売日なので、書店に行かなくてはなりませんから。それに……龍園くんもその方が都合が良いでしょう?」

 

 椎名はそう言い残して、部屋から出て行った。宣言通り、書店へと足を向けたのだろう。

 取り残されたオレと龍園の間には、何とも言えない気まずい雰囲気が流れる。

 顔を俯かせた彼の心情は外面からは分からないが……多分、(わら)っているんだろうな。

 ややしばらくして、彼はおもむろに顔を上げた。狂気に染まった獰猛な瞳がオレの体を射抜く。

 

「あの女は味方なら心強いが、敵になるとちょっと面倒だ。潰す手間を増やさない手はない」

 

「だから手駒(てごま)までとはいかなくても、手元に置くようにあの条件を出したのか」

 

「当然だ。──さて綾小路。本題に入ろうか」

 

 オレは無言で頷く。

 今までの話は全て椎名に向けられた事柄だ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 椎名はそれを分かっていたからこそ舞台から一旦降り、オレと彼だけの状態にしたのだ。

 そしてある程度、彼が言おうとしていることは察せられる。その鍵は彼と彼女の会話から覗いていたのだから。

 

「単刀直入に言おう。──俺のスパイになれ」

 

 

 

§

 

 

 

 夜遅く。今なお照明が照りついているケヤキモールから出て、オレは移動していた。こんなにも遅い時間に出歩いているのは初めてだから、ドキドキしてしまう。

 雲の隙間から漏れている月明かりを頼りにして、寮への道を突き進む。管理人は労働時間外なので()らず、無人の出入口を通過する。

 喉が乾いたので、ロビーに置かれている自販機で無料飲料水を購入。少し呷って、エレベーターに向かう。

 どうやらエレベーターは現在七階で停止しているらしく、少なくない時間を過ごすことに。

 やることも特にないので、オレはエレベーター内を映すモニターに目を向けた。驚くべきことに、そこには制服姿の堀北が映っていた。

 

「……何言われるか分からないし、適当にやり過ごすか」

 

 すぐさま行動する。自販機の影に隠れたオレは、時が過ぎるのをただ待つのみ。

 軽やかなサウンドがロビーに優しく木霊(こだま)する。堀北が一階に降りてきたのだ。

 彼女は嘗てない程に顔を強張らせていた。しきりに周囲を確認しながら寮から出ていく。

 オレは逡巡してから、彼女の後を追うことにした。彼女のような優等生がこんな時間にどこに行くのか好奇心が湧いたのだ。

 それに彼女の表情を考えれば、隣人としては多少心配してしまうというもの。

 暗闇に紛れる彼女を追うこと少し、寮の裏手の曲がり角に差し掛かったところで、オレは素早く身を隠す。

 彼女の足が止まったのだ。こんな所で理由も無く止まるはずがない。予想は的中して、そこには一つの男の影があった。

 

鈴音(すずね)。まさかここまで追ってくるとはな」

 

「……」

 

「何か返事をしたらどうだ」

 

「兄、さん…………」

 

 暗がりに加えて声だけなので断定は出来ない。

 だがオレはこの男を知っていた。いや、オレだけでなく、高度育成高等学校に在籍している生徒なら必ず知っているだろう。

 その男は現生徒会長である堀北(まなぶ)だった。彼の声の残滓は幸か不幸かオレの耳に残っていたらしい。

 堀北の台詞から察するに、恐らく彼らは家族、そして実の兄妹なのだろう。それ自体に驚くことは何もない。部活説明会のことを考えれば想像は出来るし、実際にそうだと考えていたからだ。

 

「兄さんに追い付くためにここに来ました。もう、過去のダメな私じゃありません」

 

「……追い付く、か。そんな不純な動機でこの学校を選んだと言うのか? なるほど、それならお前がDクラスであることも必然ということだ」

 

「それは──でも──私は……!」

 

「お前は過去とは違うと言ったが、断言しよう。お前は三年前と何も変わっていない。自分の欠点を欠点と認めない愚か者に送る言葉は何もない。何故なら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 兄妹とは到底思えない程の内容だな。

 堀北の兄貴の言葉のナイフに、堀北は何も言い返す術が無いようだった。平生の彼女からは考えられないほどに。

 これ以上は流石に駄目だと思ったその時。

 

「今はたとえDクラスでも、私は必ずAクラスに(のぼ)ってみせます」

 

「「無理だな」」

 

 期せずして、オレと堀北の兄貴の台詞が重なった。

 慌てて口を閉ざすが、第三者の存在には感づいていないようで安堵する。

 

「無理なんかじゃありません」

 

「無理だと言っている。お前はAクラスはおろか、Cクラスにすらなれないだろう。それどころかクラスも崩壊するだろうな。実力至上主義のこの学校は、お前が考えている程甘くはない」

 

「……絶対に辿り着きます」

 

「無理だと言っているだろう。本当に聞き分けのない妹だ」

 

 堀北の兄貴はそう言って、妹との距離を詰めた。

 陰から現れた彼の顔は、とても無機質なものだった。機械のような能面な顔で、彼が何を考えているかを考えることは不可能。

 堀北は無意識下で一歩後ずさり、開いた距離を彼はさらに詰める。

 そして実の妹の手首を壁に押し当てる。

 

「どんなに俺が否定しても、お前が妹という事実は覆らない。Dクラスの妹を持つAクラスの兄。恥をかくのは俺だ。鈴音。今すぐこの学校から去れ」

 

「出来ません。私は必ずAクラスに…………!」

 

「なら俺は何度でも言おう──無理だとな。今のお前では上を目指す資格も、そして力もない」

 

 堀北の華奢(きゃしゃ)な身体が宙に浮いた。考えるよりも体が動く、そんな文章で良く使われる表現を、オレは体感していた。

 彼がこれ以上の行動をする前に、オレは地を蹴り肉薄する。気配を感じ取られる直前に、堀北の手首を摑んでいる彼の右腕を摑み取り、動きを制限した。

 

「──何だ、お前は?」

 

 奴は鋭い眼光をオレに向け短く問い掛けてくる。

 オレが口を開く前に、堀北が驚愕(きょうがく)した表情で。

 

「あ、綾小路くん……!?」

 

「綾小路……? 聞き覚えがある名前だな」

 

 そう言うが、オレと奴の面識は皆無で、これが初めてだ。

 

「あんた、今堀北を投げ飛ばそうとしていただろ。ここはコンクリだぞ、いくら兄妹でもそれはやっちゃいけないんじゃないのか?」

 

「盗み聞きは感心しないな。そしてこれは俺と鈴音の問題の……言い換えれば家族の問題だ。部外者が口を挟むな」

 

「そうか、それは悪かったな。取り敢えず──その手を離せ」

 

「こちらのセリフだ」

 

 睨み合う。オレたちは目の前の敵をどう排除するか、そのことだけに思考を専念していた。

 

「やめて、綾小路くん……」

 

 だからこそ、堀北の絞り出した声に反応するのが遅れてしまった。

 今夜の彼女はオレの知っている堀北鈴音とは別人だと言われた方がまだ納得出来るだろう。

 妹の懇願に兄は応えるようだった。脱力し、戦意がないことを行動で示す。

 仕方がないと嘆息してから、渋々彼の腕を放す。

 

 刹那、オレの顔面めがけて途轍もない速さの裏拳が飛んできた。

 

 回避出来たのは奇跡に等しい。オレは上半身を仰け反り間一髪(かんいっぱつ)で躱し、敵と距離を取ろうとした。

 だが敵は、オレの行動を見越した上であの攻撃をしてきたのだろう。拳の後にワンテンポ遅れて、今度は回し蹴りが迫る。

 だがこれはフェイクだ。真の狙いは──オレの胸倉を摑み、地面に叩き付けること。

 回し蹴りを上に跳躍することで避け、弾丸の速度で飛んでくる開いた手を受け流す。

 互いに硬直し、今度こそオレたちは距離を取った。

 

「良い動きだ」

 

「それはどうも」

 

 投げられた賛辞を軽く受け止め、短く礼を告げる。

 堀北の兄貴はここでようやく臨戦態勢を解除し、浅く呼吸をした。

 そして興味深そうに、眼鏡の奥にある瞳を妖しく輝かせて問いかけてくる。

 

「何か習っていたか?」

 

「ピアノと書道なら。あぁそうだ、小学生の時、全国音楽コンクールで優勝したこともあるぞ」

 

「ほぅ……是非とも聴かせて貰いたいものだ。……中々にユニークな男だな」

 

「褒めているのか?」

 

「さてな。そして思い出したぞ、お前のことをな。──綾小路清隆(きよたか)()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。さらに先月の小テストでも五十点。狙ったな?」

 

「偶然って怖いですね」

 

 そう、偶然だ。

 オレは偶然そのような点数を取っただけに過ぎない。堀北の兄貴がオレのことを知っているのは、恐らくその情報をどこかで耳にしたからだろう。

 さらなる憶測をすれば、生徒会の活動の際に得たというのが最も濃い線か。

 

「しかし正直意外だぞ。鈴音、まさかお前に友達が居るとはな」

 

 兄は見直したかのように妹を讃えた。それは本当のようで、少しだけ両目が見開かれている。

 

「彼はそのようなものじゃありません。ただのクラスメイトです」

 

「相変わらず孤高と孤独を履き違えているな。それからお前、綾小路といったか。お前のような奴が今年は多いと聞いているが……期待しているぞ」

 

 勝手に期待されても困る。

 堀北の兄貴は最後まで妹を妹と扱わないまま、オレの横を通り過ぎて、そのまま闇に姿を眩ませる。

 

「上のクラスに上がりたければ死に物狂いで足掻(あが)け。それが最も近道だ」

 

 聞こえるか聞こえないかの小さな声。

 堀北学。一際異彩を放つ生徒会長。彼が何を思い、その言葉を告げたかは分からない。

 けれどオレにはどうしても、不器用な兄が妹に贈る不器用なアドバイスとしか思えなかった。

 

「悪い、盗み聞きをするつもりはなかったんだけどな……。大丈夫か?」

 

 壁に体を預け顔を俯かせている堀北に、オレは一応声を掛ける。

 彼女の心中は彼女だけにしか分からない。ただ、『大丈夫か』としか言えない自分自身に心底呆れるしかほかなかった。

 夜の静けさが、今の状態をそのまま表しているようだった。一陣の風がどこからか吹き、オレたちの体を通過した後、彼女は不意に。

 

「さっきの話、本当? 受けたテスト全教科五十点って……」

 

「入学試験の時のは分からない。でも小テストの点数が五十点なのは本当だ。どっちにしろ偶然だけどな」

 

 肩を竦めて答える。

 堀北はここでようやく顔を上げて、オレの顔を直視する。オレもまた彼女と目を合わせた。

 

「兄さんは空手五段、合気道四段の熟練者よ。そんな兄さんと互角に戦えるなんて……」

 

「言っておくが武術は何も修めてないぞ。ピアノと茶道をやってたけどな」

 

「さっきは書道って言ってたわよ」

 

「……書道もやってたんだよ」

 

 嘘ではない。実際のところ、オレは本当にピアノと書道、そして茶道をやっていた。ここにピアノがあれば……そうだな、ヴェートーベンの交響曲第九番を弾いても良い。

 

「あなたのこと、よく分からないわ」

 

「たった一ヶ月と少しの付き合いなんだ、むしろ熟知されたら困る。お前もそうだろ?」

 

「……そうね……。戻りましょう。誰かに見られたら誤解を生みかねないわ」

 

「同感だ」

 

 ましてやオレの場合、椎名と付き合っていると殆どの生徒に思われているようだし。寮に戻り、そのままエレベーターに搭乗。オレの部屋がある四階で停止した。

 別れを告げようとすると、

 

「明日からの勉強会。あなたは参加しないのよね?」

 

「堀北もその方が良いだろ?」

 

「ええ。……引き留めてごめんなさい。また明日」

 

「また明日」

 

 エレベーターの扉が閉まるのを確認してから、オレは我が家にようやく着いた。

 今日は色々なことがあって、正直とても疲れた。重たい体に鞭を打って、シャワーを浴びてからベッドの上に寝転がる。

 数時間振りに携帯端末を手に取ると、膨大な量の数のメッセージがグループチャットに送られていた。

 流石は現役高校生だと戦慄(せんりつ)する。

 既読だけでも付けておこうと思い、閉じそうになる瞼をなんとかこじ開け確認した。

 須藤(すどう)(いけ)山内(やまうち)たちが主に会話をしていたようだ。時々挟まれるのは沖谷(おきたに)のメッセージ。今日までは参加していなかったはずだが、多分、池が誘ったのだろう。

 

『堀北マジすげぇ!』

 

『それなー。アレで性格が普通だったら惚れてるわ。俺と山内は櫛田ちゃんに教えて貰ってたからあんまりだけどさ、どうだったんだ?』

 

『教え方が本当に上手だったかな。正直、学校の先生よりも先生だったと思う』

 

『沖谷、お前文章だと普通に会話出来るんだな』

 

『当たり前だよ。その、直接話す時は緊張しちゃうけど……。須藤くんはどうだった?』

 

『教え方が上手いのは分かったけどよ……その前に俺自身の学力の低さを痛感したぜ』

 

『おいやめろよ。嫌な現実突き付けるなよ!』

 

『確か小学生の学力扱いだったっけ……。でもまっ、俺が本気を出せば大学生並みの学力を誇るんだけどな!』

 

『はい出ました嘘ww』

 

『嘘じゃねぇよ!』

 

『『『分かった分かった』』』

 

『お、沖谷まで! 綾小路ー、お前から何か言ってやってくれよ!』

 

『あれ? そう言えば一つだけ既読付いてないね。綾小路くん見てないのかな?』

 

『あぁー、櫛田ちゃんと堀北と勉強会の作戦会議をしているんだっけ? 櫛田ちゃん櫛田ちゃん櫛田ちゃん櫛田ちゃん櫛田ちゃん』

 

『池お前、正直気持ち悪いぞ』

 

『な、何だよ須藤! お前だって、誰かを好きになったらこうなるって! なっ、山内!』

 

『そうだそうだっ! 櫛田ちゃんは天使、異論は認めないっ! もし誰かと付き合ってるなら……俺はその男を殺す!』

 

『あはは…………。でも綾小路くん凄いよね。だって、他のクラスの女の子と付き合っているんでしょ?』

 

『本人は否定しているけどなー。俺独自の調査によれば、名前は椎名ひよりだって』

 

『相変わらずのコミュニケーション能力だな』

 

『おう、褒めろ褒めろ! で、話を元に戻すけど、図書館の四隅の一角をほぼ毎日貸し切っているみたいだぜ。図書課の先生が教えてくれた』

 

『お、お前いつそんなことを……』

 

『休憩中にちょっとな!』

 

『今は会ってないのかな?』

 

『そうじゃないか? 仮にもテスト週間に入ったからなー。あっ、そうだお前ら。話変わるけどさ』

 

『『『どうした?』』』

 

『テスト終わったらさ、堀北と櫛田ちゃんにお礼をしようぜ。何か買ってさ』

 

『良いね、池くん!』

 

『それは良いけどよ……ポイントあるのか?』

 

『俺ちなみにゼロー』

 

『山内お前……!』

 

『じゃあ池はあるのかよ?』

 

『ないけどさ』

 

『僕、少しならあるよ』

 

『俺も三千ポイントは残ってる』

 

『『おおおおおおおおおっ!』』

 

 盛り上がっていたようで何よりだ。最後の履歴は一時間も前だった。今更投稿しても遅いな。

 安堵の息を吐く。

 堀北の教え方にはち言い方に問題があったから、陰で悪口でも言っているものだと内心ひやひやしていたのだが……心配は杞憂だったか。

 堀北の兄貴が言った言葉が想起される。

 彼は言った、堀北がAクラスに上がるのは不可能だと。

 オレもつい数分前は彼に同意したが……このまま彼女が成長すればあるいは……。

 そして勉強会がこのまま上手く捗れば、須藤や池たちが赤点を取る可能性は極めて低いだろう。

 だがそれも、全てが可能性の話でしかない。

 何が起こるのかなんて、誰にも分かりはしないのだから。

 

 

 

§

 

 

 

 Dクラスが退学者を出さないために行動してから、あっという間に一週間が駆けていった。

 現在のDクラスでは、主に三つの派閥が構築されていた。

 一つ目は言わずもがな、平田(ひらた)のグループ。彼と、彼女の軽井沢(かるいざわ)をはじめとしたもので、率先的に勉強会を開いている。小グループが連結し、強大な組織に変貌(へんぼう)していた。

 二つ目は堀北のグループ。『赤点者の救済』を理念に作られたこのグループはあくまでも一時的なもので、他者から見たら滑稽でしかないだろう。だが、これまでやる気を見せなかった人間の突然の変わりように、クラスメイトたちは驚きを隠せないでいた。

 三つ目は……集団に群れることを嫌う人種の集まり。赤点を取る心配が無いオレたちにとって、率先してどこかのグループに参加する理由が見当たらないためだ。

 ちなみにオレは二つ目と三つ目に片足ずつ足を突っ込んで立っている状態だ。自分からは動かないが、求められたら動く。まさに事なかれ主義を体現しているだろう。

 隣人の堀北曰く、勉強会は思いの外順調に回っているらしい。

 

「勉強することが楽しくなったのかしら……?」

 

 堀北は珍しく困惑の色を浮かべてオレにそう言ってきた。

 兎にも角にも、今日という日付けを以て、中間テストまであと一週間となる。最初の試練が着実に迫りつつあることに一年生は緊張していたが、オレの見立てでは誰も退学にはならないだろうな。

 キーンコーンカーンコーン! 昼休みの開始を告げるチャイムが鳴る。

 刹那、須藤が一目散に食堂へと駆けていった。運動神経抜群の彼は、場所取りという非常に重要な役割を担っているのだとか。

 堀北、櫛田、池、山内、沖谷もやや遅れて席から立ち上がる。手には教科書やノート、筆記用具があり、食堂で昼食を食べたらそのまま図書館に行くためだ。

 実に効率的だと思う。

 効率さを求めるのなら教室でやる方が時間の手間はかからないのだが、堀北は集中力を高めるためには、騒がしい教室では適切ではないと判断したようだ。

 放課後の図書館は多くの生徒が勉強目的で訪れて埋め尽くされるから、その補充を兼ねているのだろう。とはいえ、それだけではない。

 教室では平田グループが勉強会を開いているからな。話し掛けられる可能性は高いだろう。必要以上の人付き合いを彼女は嫌うから、それを防ぐ目的もあるはずだ。

 

「テスト範囲は無事に全部出来そうか?」

 

「当然よ。私が教えているというのもあるけれど、彼らの勉強意欲が異常に高いから問題ないわ。本音を言えば、テスト終了後も持続させて欲しいのだけど」

 

「かなり難しいだろうな。けどま、良かったじゃないか。お前の尽力のおかげでDクラスは赤点者を出さずに済みそうだぞ」

 

 ぱちぱちと手を叩いて素直に称賛すると、頭蓋骨に無言で手刀が撃ち込まれた。……痛い。

 

「堀北さん、行こう?」

 

「櫛田さん、何度目になるか分からないけれど、私を待つ必要はないわ。どうせ合流するのだから」

 

「おいおい、そんな冷たいこと言うなよ〜。俺たちは仲間だろ?」

 

「私はあなたたちを仲間だと思ったことは──ちょっ、引っ張らないで」

 

「良いから良いからっ」

 

 櫛田たちに引き摺られていく堀北。ようやく彼女にも気が許せる友達が出来たんだな……。いや、それは流石にないか。

 ほら、手を取ろうとした山内の手を払っているし。沖谷はそんな様子を苦笑いで眺めていて……堀北は兎も角として、彼は打ち解けたようだ。

 オレも適当に済ませるとしよう。食堂に行くのは堀北たちの後を付いていくようで何となく気まずくなりそうだから、ここはやっぱりコンビニにするか。

 学生証カードと携帯端末をブレザーのポケットの中に押し込み、廊下に出ようとしたところ。

 

「きみはいつも独りで哀れだねぇ綾小路ボーイ」

 

『自由人』の称号を欲しいままにしている高円寺(こうえんじ)に背後から声を掛けられた。

 オレと彼の接点は無いに等しい。そんな彼がどうしてオレに……いやその前にかなり面倒臭い。

 渋々顔だけ振り向かせる。

 

「確かにオレは独りだけどな、そう惨めな気持ちにはならないぞ。むしろ、独りだからこそ得られる時間がある」

 

「はははははっ。そう言うわりには、キミの背中からは哀愁さが漂っているのだがねえ。そうだ、今から私とカフェにでも行かないかい?」

 

「…………今なんて?」

 

「きみもそんな顔をするんだねえ。面白い顔を見せてくれた礼だ、もう一度だけ言おう。綾小路ボーイ、今から私とランチタイムを共に過ごさないかい?」

 

「………………理由を聞いても良いか?」

 

「なに、私の気まぐれだと思えば良い。無論、誘ったのは私だ。マネーくらいは払おう。その上でどうかな?」

 

 高円寺六助(ろくすけ)という人間は、自分がしたいようにこれまでの人生歩いてきたんだろうな。

 金髪を掻き上げ見下ろしてくるその姿勢には思うところがないわけではなかったが、ここは一つ、クラスメイトとして一緒の時間を共有してみるのもありかもしれない。

 それに、タダ飯が貰えるのならば是非とも貰いたいからな。

 

「分かった」

 

「では行こう。麗しのレディーたちが()を待っているからねえ」

 

 ふはははは! 高笑いしながらどんどん離れていく高円寺。廊下のど真ん中を歩き、なおかつ大声を出していたら人の注目も集めるというもの。

 あぁ、こいつか……と、諦観の目で多くの生徒が『自由人』を眺め、揃って長く重いため息を零す。ここまでが一連の流れなんだろうな……。

 オレは軽はずみで承諾したことを後悔しながら、彼の背中を追い掛けた。

 訪れたのはカフェだった。ただのカフェではなく、如何にも女性専用といった内装のカフェだった。つまり、オレのような人間が訪れる機会はまずない。目の前にあるのは全て未知の塊。

 事実、客層の八割以上は女子という……非常に居心地が悪い。

 

「……帰りたい……」

 

「はははははっ、何度訪れてもこの店は良いねえ。綾小路ボーイもそう思わないかい?」

 

「…………思えないな…………」

 

「それはきみの経験が足りてないだけだねえ。おや、レディーたちが()を呼んでいる。レディーを待たせるのはクールなボーイとは言えない、すぐに行かなくては」

 

 店員にちょっとだけ同情。こんな客が店内に居たらさぞかし迷惑だろうな。

 高円寺は胸を張りながら奥に突き進んで行った。彼の背中に隠れ、オレも追従する。

 

「高円寺くーん、こっちこっち〜」

 

「遅いよ〜」

 

 最奥の多人数用のテーブル席。そこにはそれなりの数の女子生徒が目をハートマークにして高円寺を待っていた。

 高円寺は女子生徒の間に座り、愉快そうに笑う。呼応する女たちの黄色いきゃきゃうふふの声。

 そんな光景を目の前で見せられたオレは立ち竦んでしまい、放心してしまう。

 

「綾小路ボーイも座り給え」

 

「あ、あぁ……」

 

「高円寺くん、この子は?」

 

 オレが空いている隅の方の椅子に座ったところで、女子生徒の一人が興味深そうに高円寺に尋ねた。

 

「私のクラスメイトさ。独りで居たから、たまには級友と過ごすのも良いと思ってね」

 

「それもそうだね〜。でも珍しいね、高円寺くんがクラスメイトを誘うなんて〜」

 

「はははははっ、興が乗っただけだよレディー。おっと、早速ランチを頼まなくては。ヘイ、クラーク」

 

「お決まりでしょうか」

 

「いつものを頼むよ」

 

「畏まりました。そちらのお客様は当店のご利用は初めてですよね? お決まりになられましたか?」

 

 まさかここで、伝説の『いつもの頼む』が聞けるとは……。嬉しいような悲しいような……。

 っと、そんなこと感じている場合じゃない。横に座っている女子生徒がメニュー表を渡してくれたので、彼女に礼を言ってから吟味する。

 メニューはパスタやらケーキやらと女性が好きそうな料理ばかりで、男のオレからしたら物足りない感じは否めない。

 適当にカルボナーラを頼み、店員に注文する。店員の男性は慇懃(いんぎん)にお辞儀をしてから立ち去って行った。

 高円寺の周りではとても楽しそうな空気が流れていたが、オレの周りでは真逆だった。殆どが高円寺と会話をしていて、対面に座っている人だけが困ったように微笑んでいる。

 

「えぇっと、きみ……綾小路くんだっけ? きみもDクラス?」

 

「そうですが」

 

「私もDクラスなんだ。ううん、ここにいる皆Dクラスかな」

 

 私『も』Dクラス? 

 人の名前と顔を覚えるのが苦手な部類に入るオレだが、流石にクラスメイトのことは一応頭の中に入れている。まあ、顔と名前を一致させているわけではないが。

 だが、彼女たちは思い浮かばない。そうなると、導かれる解答は一つだけだ。

 

「先輩でしたか」

 

「うん。三年生」

 

 オレはこの時、高円寺六助という人間に心底恐怖した。

 まさか歳上に囲まれて昼食を取っていただなんて! 

 

「綾小路ボーイ、女性は歳上に限ると思わないかい?」

 

 全く以てそんなことは思わないが、龍の逆鱗には触れたくないので黙って頷く。

 

「ごめん、名乗ってなかったね。私は鈴木(すずき)玲奈(れいな)。さっきも言ったけど三年D組」

 

「一年クラス組綾小路清隆です」

 

 差し出された手を摑み、握手を交わす。まあ、社交辞令だろうな。紛れ込んできた異物に興味はないだろうし、あちらの会話に加わるんだろうな。

 だがオレの勝手な思い込みは外れる。鈴木先輩はにこにこと微笑み掛けてきたのだ。

 

「ね、綾小路くん。きみはどこかの会社の御曹司(おんぞうし)だったりするのかな?」

 

 その言葉で、オレは全てを察した。

 つまりこのテーブル席に集まっている女子生徒は高円寺六助に打算で近付いていることになる。

 というのも彼は高円寺コンツェルンの一人息子であり、将来社長のポストに就くことが約束されているからだ。

 自分の売り込みをする心意気は買いたいところだが、女子の闇を視た気がする……。

 そして目の前の鈴木先輩も同族ということか。

 

「いえ、普通の一般家庭ですよ。少なくとも高円寺のような立派な家柄ではありませんね」

 

「そうなんだ」

 

「残念でしたね、当てが外れて」

 

「あはは……確かに綾小路くんの言うことはあるよ。ほら、Dクラスは生活が大変でしょ? けど言わせて貰うなら私はタダ飯を貰いに来ているだけ。それ以上でもそれ以下でもないかな」

 

 嘘ではないのだろう。実際、鈴木先輩は高円寺の方を見向きもしていないし。しかし、本当でもないのだろう。

 話に挙がった当の本人はオレたちの会話を聞いていたはずなのに、鈴木先輩を怒鳴りつけたりはしなかった。多分、薄々は察しているんだろうな。

 それを悟ることが出来るくらいには彼は優秀だ。

 

「お待たせ致しました。熱いのでご注意を」

 

「ありがとうございます。──高円寺くん、はい、あーん」

 

「はっはー! ビューティフルレディーに身の世話をされるのは最高だねえ」

 

「もうっ、おだてないでよ〜」

 

 運ばれた料理を『あーん』して貰っている。本当に凄い奴だ……。

 三年生相手に物怖じする気配が全然見られない。むしろ、肌を密着させようとする有様だ。

 

「私たちもする?」

 

「お断りします」

 

「つれないなー」

 

「先輩は良いんですか? お金を得る貴重な機会が減りますよ」

 

「そうだね。だけど私は必要最低限のおこぼれが貰えたらそれで満足しているから。それに高円寺くんと話すより綾小路くんと喋った方が楽しそうだし」

 

 その根拠はどこから来るんだろう。当然の疑問が湧くが、すぐに打ち消す。

 出会ってたった数分で何かが分かるわけでもない。

 

「中間テストの勉強はどう? 赤点取ったら即退学だから、気を付けてね」

 

「皆必死になって勉強していますよ」

 

「綾小路くんは違うんだ?」

 

「もちろんオレもです。けど驚きました、本当に即退学なんですね」

 

「うん。実際、何人かの生徒が退学させられてるからね。でもまあ、自業自得と言われればそれまでなんだけどさ」

 

 なかなかにドライな性格の持ち主のようだ。

 カルボナーラを口に運びながら、オレと鈴木先輩は取り留めのないことを話す。彼女はとても聞き上手で、話していて苦にならなかった。

 昼休み終了まで十分を切った。

 これ以上長居をしたら授業に遅れてしまうため、客は減りつつある。オレたち一行(いっこう)もその流れに乗って、椅子から立ち上がる。会計は全て高円寺が払ってくれた。

 どこからそんなポイントが出てくるのか気になるが、考えても無駄なだけだ。

 三年生の女子生徒たちと別れる。「また今度ねー!」と目をハートマークにして彼女たちは自分の教室に向かう。だが鈴木先輩は違った。高円寺……ではなく、オレをじっと見つめている。

 

「握手しない?」

 

「それは大丈夫ですが……さっきもしましたよね?」

 

「さっきは社交辞令だからノーカウントだよ」

 

 やっぱりさっきのは社交辞令だったんだな……。

 鈴木先輩と固く握手をする。結ばれた手を上下に軽く振ってから、彼女は満足そうに微笑み、自分の教室に向かっていった。

 

「やはり女性は歳上に限ると思わないかい?」

 

「……そうだな……」

 

「はははっ。綾小路ボーイ、これからも私が気まぐれを起こしたら共にランチタイムを過ごそうではないか」

 

「その時が来たらな」

 

 高円寺はオレの返答に満足したのか、行きと同じように高笑いしながら帰る。オレはため息を吐いてから、彼の背中を追い掛けて行った。

 

 

 

§

 

 

 

 五時限目の開始五分前。

 教室に入ると、そこは喧騒に包まれていた。いや違う。いつも以上に騒々しい。

 殆どの生徒が不安そうな表情を浮かべ、何やら必死に話し込んでいるようだった。

 耳をそば立てるが雑音が混ざり合っているために難しい。

 取り敢えず席に座るかと思い立ったその時。

 

「綾小路!」

 

 須藤がオレの姿を視認するや否や俺の名前を叫んで駆け寄ってくる。それに追従するように池や山内、沖谷に、最後に、やや遅れて櫛田が近付いてきた。

 

「どうした、そんな顔になって……?」

 

 何かが起こっていることは分かる。だが、それが何かが判別出来ない。

 困惑するオレの質問に答えたのは櫛田だった。焦燥に駆られた様子で口を開く。

 

「テスト範囲が変更されていたの。しかも今日じゃなくて、先週の金曜日に!」

 

 その瞬間、オレは悟った。

 この一週間の努力が全て無に還ったことを。

 そしてこのままでは──退学者が出ることを。

 



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一学期中間試験

 

 テスト週間。学生の間では『地獄』と認識をされているこれは、けれどそう言われる程過酷なものではない。

 というのも、勉強するのもしないのも結局のところは本人の自主性に委ねられている為だ。もちろん、将来のことを考えれば勉強して良い点数を取るのが理想だが、たかが十数年しか生きていない高校生にとって、勉強とは苦痛でしかない。

 それ故に結局のところ、上記に述べた通り『自由』となる。

 とはいえ、それは普通の高校ならという話に限定されるが。

 日本政府が主導して創立したこの高度育成高等学校は、幸か不幸か、その『普通』の枠組みには収まらない。

 何せ、たった一教科でも赤点を取れば即退学──厳密には自主退学扱いらしいが──の罰を与えられてしまう。

 現代日本で高校を卒業することは当たり前となっているし、また社会に出てからもそうである者とそうでない者には差が出てしまう。分かりやすく述べるのなら、生涯を通して得られる総所得額の差だろうか。

 ()にも(かく)にも、高度育成高等学校に在籍する生徒たちは死にもの狂いで勉強をする必要があるということだ。

 須藤(すどう)(いけ)山内(やまうち)の三バカトリオに沖谷(おきたに)を加えた堀北(ほりきた)主催の勉強会。それは櫛田(くしだ)の支援もあって順調に回っていた。

 そう、()()()()()。過去の話だ。

 

「……テスト範囲の大幅な変更か……」

 

「ええ。茶柱(ちゃばしら)先生にさっき確認したけれど、そう告げられたわ。甚だしいのは何故変更されたその日……先週の金曜日ではなく今日報告したのか、その点に尽きる。それに、Dクラスの誰かが彼女に問い合わせをしなかったら、最悪変更されたことを知らないままテスト当日を迎えていた可能性も高い」

 

 堀北が教えてくれた情報を纏めると以下のようになる。

 勉強会組は昼休みの時間、いつものように図書館でテスト勉強に励んでいた。

 須藤や池たちの勉強意欲は期間限定だと思われるがとても高く、その時間では堀北が出した課題の答え合わせをしていたそうだ。

 自分が出した解答が丸だったら喜び、間違いだったら悲鳴を上げる。

 池と山内が一喜一憂(いっきいちゆう)している中、数人の生徒が彼らに声を掛けた。

 曰く、声が大きいからもっと静かにしてくれと苦言を呈されたらしい。

 この時期の図書館は一年生から三年生まで大勢の生徒が利用している。九割がたの生徒が勉強目的で訪れている館内は、ある程度の喧騒は仕方がないと言えるだろう。

 ただ池と山内はその許容範囲を超えてしまった。それだけのこと。

 全面的にこちらが悪いため、彼らはすぐに謝った。文句を告げた生徒は受け入れた。

 ここまでは良い。問題はここからだった。

 その生徒は堀北たちがDクラスであることを知り、喧嘩を売ってきたのだ。

 曰く、『不良品』のお前らの何人が退学するか見ものだ、そのような言葉を吐かれたらしい。

 これに反発したのは沸点が低い須藤だった。堀北もAクラス以外の生徒はどんぐりの背比(せいくら)べだと表現した。自虐も混ざっている気がするがスルーしよう。

 喧嘩を売ってきた生徒は皮肉なことにCクラスの生徒だった。正しくどんぐりの背比べ。

 大声で怒鳴り合うD、Cクラスの両生徒たち。さぞかし他の生徒にとっては迷惑だっただろうな。

 このままではいずれ殴り合いの本当の喧嘩に……そんな時だ。ある一人の生徒が場に躍り出た。

 その生徒はBクラスの女子生徒。一之瀬(いちのせ)と名乗った彼女は言葉巧みに頭に血が上っている両者を(いさ)め、諍いを収めてみせた。

 一之瀬という苗字に、オレは一つだけ心当たりがある。以前星之宮(ほしのみや)先生に何やら相談を持ち掛けていた人間だと思われるだろう。

 Cクラス側は分が悪いと判断したのか一之瀬に謝ってから図書館を去って行った。

 だがその際、彼らは捨て台詞を残した。

 

『ハッ、お前らは本当に馬鹿だな。テスト範囲が変えられたことすら分からないなんてよ』

 

 茶柱先生が配布したテスト範囲のプリントが間違っていた、その線は無いだろう。

 そうなると考えられることは二つ。

 一つ目。クラスごとに受けるテストの内容が変わっており、またそれに呼応してテスト範囲も違っている。

 だがそれは違う。というのも、中間、期末テストで受けるテストの内容が違っていたら不公平だからだ。

 いや、中には違う学校もあるだろう。だがこの学校には独自のシステムがある。そう、ポイント制度だ。

 五月一日に学校側は、支給されるポイントはクラスの成績がそのまま反映されると告知していた。それを考慮するのなら、テスト問題は同じにしなくてはならない。そうでなければポイント制度の基準も曖昧なものになってしまう。

 二つ目。Cクラスの生徒たちの嘘。負け犬の遠吠えらしいと言われればそれまでだが、すぐに判明される脆い嘘を言うとは考えられない。

 堀北たちは真偽を確かめるために職員室へ赴いた。茶柱先生は最初は面倒臭そうに対応していたそうだが、彼女がテスト範囲のことを問うと思い出したように新しいテスト範囲をメモ帳に書き出して渡したという。

 放課後のSHR前。茶柱先生が到着するまでの時間を使ってオレは堀北から一連の流れを聞いていた。

 

「それでこの惨状か……」

 

 Dクラスの教室内はどんよりとした雲に覆われた時の天気のように暗く、漆黒の闇に染まっていた。

 殆どの生徒が顔を俯かせ、中には嗚咽(おえつ)を漏らす生徒も。確か赤点候補者の一人だったはずだ。自分が退学する姿を想像してしまっているのだろうか。

 堀北はそんなクラスメイトたちを一瞥(いちべつ)する。

 

「けれど、無理もないわ。だって、この一週間の彼らの努力が泡となって消えたことを意味しているのだし。って言うかあなた、随分と余裕なのね。携帯を呑気に使って遊んでいるなんて」

 

「別に遊んでるわけじゃないぞ。ちょっと友達とメールのやり取りをしているだけだ」

 

「笑えない冗談ね」

 

 端末の液晶画面から顔を上げることなくそう弁明したら、鼻で笑われた。

 これ以上弄っていたら後が怖いのでブレザーのポケットに押し込む。

 

「中間テストまで残り一週間か。修正、出来そうか?」

 

 言葉にしながら自分でも思う。かなり難しい、と。

 この一週間培ってきた技術が全て消失した、これだけならまだカバー出来るだろう。恐らく堀北や櫛田なら問題はないはずだ。

 だが須藤や池たち、赤点候補者たちはどうだろうか。いくら勉強意欲を出したところでそれは急拵(きゅうごしら)えのものでしかなく、やる気があっても身体……脳が付いていけないだろう。これまでは二週間という充分な期間があったためにまだ余裕があった。

 だがどうだろうか。すぐ目の前にあるのは『絶望』だ。心が折れてしまっても誰にも責められないだろう。

 

「……当然よ。私は彼らに約束したわ。赤点者を決して出させないとね。なら私には彼らを導く義務がある」

 

 僅かばかりに浮かぶ不安の色。流石の堀北も動揺はするだろうし、焦りもするだろう。

 

「率直に聞かせてくれ。今の須藤たちのポテンシャルで、中間テストは乗り越えられそうか?」

 

「だから言っているでしょう。私には彼らを導く義務が──」

 

「違う。オレが聞きたいのはそこじゃない。客観的な事実を知りたいんだ」

 

 訪れる沈黙。

 しばらく経って、堀北はようやく口を開いた。

 

「……かなりギリギリね。須藤くんたちが挫折せず勉強した状態でよ…………」

 

 その言葉に偽りはないだろう。

 この一週間生徒と──態度こそ度々問題はあったようだが──接してきた教師がその評価を降したのだ、堀北を信じよう。

 

「お前たち、席に着け──どうした、私をそんな親のかたきを見るような目で睨んで」

 

 茶柱先生が教室に踏み入れる。彼女は今、人間の負の感情に襲われているだろうな。

 最初は(いぶか)しんでいたが、やがて気付いたようだった。軽い調子で、

 

「テスト範囲の変更のことか。確かに伝え忘れたのは私のミスだ、それについては謝罪しよう。済まなかったな」

 

「感情が込もっていませんよ!」

 

 池が糾弾するように悲鳴を上げる。それに追従する生徒たち。

 

「そう言われてもな、忘れてしまったことは仕方がないだろう。安心しろ、中間テストまであと一週間はある。()()()()()()()()()()()()

 

「その根拠はどこから出てくるんですか?」

 

 平田(ひらた)が席から立ち上がり尋ねる。彼にしては珍しく、顔にはいつもの柔和な笑みは浮かんでいなかった。

 それも当然か。せっかく自分が率先して勉強会を開いていたというのにこの状況だからな。

 茶柱先生は一貫して無機質な表情で。

 

「担任としてお前たちを信じている。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「しかし先生、それでもこれはあまりにも……!」

 

「それなら言葉を変えようか。いいか、()()()()()()()()()。お前たちが社会に出たら、想定しなかった、想定し得なかったトラブルに必ず一度は遭遇する。その時お前たちはただ泣き叫ぶだけなのか? 違うだろう、そんな時間があるのなら頭を使え。他者に助けを求めるのも一つの手だ。──連絡事項は特に無い。明日も元気に登校するように。解散」

 

 五分にも満たないSHR。

 茶柱先生は一方的にそう言い切った後、強引にSHRを終わらせて退室した。

 誰も居ない教壇をオレたち生徒は呆然と見ることしか出来ない。

 本当は分かっているのだ。彼女の言う通りだと、すぐに次の行動を起こさなくてはならないと、頭の中では分かっている。

 けれどこのやるせない気持ちをどうすれば良いのか。どう向き合えば良いのか。それを図りかねているのだ。

 

「──皆、聞いて欲しい」

 

 無人の教壇に上がるのは先導者である平田。相変わらずの行動力の高さだ。

 (にご)った目が彼に向けられる。しかし彼は物怖じすることなく、むしろより一層、覚悟を決めたようだった。

 

「中間テストまで残り一週間。新しいテスト範囲は金曜日のそれとは大幅に異なっている。今回僕たちは赤点者を出さず、ポイントを得る算段だった。最初に言うけどこれは提案だ。──今回の中間テスト、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 先導者が出した結論。

 それは来月の六月一日に得られるかもしれないポイントを捨てる代わりに、生徒全員が生き残る道を選ぶことだった。

 メリットもある。だがデメリットもある。

 どちらも捨ててはならないもので──だが、どちらかを捨てなくてはならないもの。

 この世界は常に等価交換で成り立っている。どちらも得る、そんな物語のような話は非情なこの世界では起こらないし、起こってはならない。

 

「平田、それがどういうことか本当に分かっているのか!?」

 

 幸村(ゆきむら)が信じられないとばかりに目を剥き、平田へ抗議する。あの日の再演だな。ただ違うとすれば、櫛田が止めていないところか。その櫛田は今回は傍観の姿勢を取るらしい。正解だ。

 幸村という男子生徒は堀北と同様、自身がAクラスであることを当然であると考えている人種だ。だからこそDクラスであることに不満を持っていて、Aクラスに上がりたいとも思っているはず。

 しかし興奮している幸村とは違い、平田は終始冷静だ。

 

「もちろんだよ幸村くん。もし来月もポイントが得られなければ、ますます他クラスとの差は出てしまうだろうね」

 

「だったら……!」

 

「でも何よりも、まずはこの最初の試練を皆でクリアする必要があると僕は思うんだ。退学者が出たらどれだけポイントが引かれるか分からない」

 

「でも俺たちのポイントはゼロだ。引かれる要素なんかない」

 

「本当にそうかな? 確かに僕たちのポイントはゼロだ。けど、もし見えない側面……つまりマイナスがあるとしたら? 幸村くん、聡いきみならそれが分かっているはずだ」

 

 やはりというか、平田もその可能性には勘付いていたようだった。想像以上に優秀だ。

 だからこそ分からない。

 どうして彼が『不良品』の巣窟であるDクラスに配属されたのかが。恐らく、相応の理由があるのだろう。まぁただの憶測だが。

 幸村は平田の主張に折れたようだった。彼も薄々気付いてはいたのだろう、渋々ながらも引き下がる。

 

「あなたはどう思う?」

 

 堀北が尋ねてきた。少し考えてから答える。

 

「どう思うって、平田の意見か? そうだな……個人的にはかなり良いと思う。やることは何も変わらないが、それでもポイントを得るというハードルは下がったからな。とはいえ、平田は最初からポイントについては度外視していたみたいだったが」

 

 そう、やることは何も変わらない。

 ただひたすらに勉強あるのみだからだ。

 違うとすれば、それは心の持ちようだろう。作戦会議でDクラスは『中間テストの結果によって、ポイントが得られる可能性が高い』という結論を出した。

 貧乏生活を余儀なくされているオレたちからしたら是が非でもポイントは欲しいところだし、無いよりは有った方が良いに決まっている。必然的に、クラスはポイントを得ることを第一目標にしてきた。

 だが今回のアクシデントで、裏の目的を表に出さなくてはならなくなった。

 本当に上手いものだ。

 平田洋介(ようすけ)という男は恐ろしい程に人間の人心掌握(じんしんしょうあく)に長けている。

 

「これはクラスの今後を左右することだ。多数決で決めたい。皆、机の上に顔を伏せて、賛成か反対か挙手をして欲しい。それで良いかな?」

 

 真剣な表情で確認を取る平田に、全員が首肯する。

 纏まりがないDクラスが今、奇跡的にも一つになろうとしていた。

 

「今このクラスでは主に三つのグループに分けられていると思うんだけど、それぞれ代表者を出して集計役を僕と担って欲しい。これは公平性を求めるために必要だと思う」

 

「堀北さんっ」「堀北」「堀北」「堀北」「ほ、堀北さん」

 

 櫛田、池、山内、須藤、沖谷が真っ先に堀北鈴音(すずね)という人間を推挙した。即答だった。

 とはいえ当の本人は嬉しそうではなかったが。まぁ無理もないか。彼女もオレと同様、目立つことは嫌う性質だし。

 しかし彼女は応える義務がある。櫛田はそれが分かっているからこそ指名したのだろう。残りの四人は、多分、深く考えてはいない。

 

「……私が代表として出るわ」

 

 嫌そうながらも堀北は椅子を引いて立ち上がり、平田の元に向かう。

 殆どの生徒たちがきっと驚いているだろう。特に櫛田が推薦したことは彼らに衝撃を与えたに違いない。

 

「もう一人はそうだね……綾小路(あやのこうじ)くん、どうかな?」

 

 まさかの平田直々の指名に、オレは嬉しさよりも、面倒臭さが上回るのを感じた。

 だから最大限に顔を歪めることにする。

 

「どうしてオレが……?」

 

「きみはこのクラスだと中立の立ち位置に居るからね。どのグループ……派閥にもある程度属しているきみなら、その資格があると思うんだけど……。もちろん、強制はしないし、彼以外に名乗り出る人が居たらそちらを優先するよ。──どうかな?」

 

 途中からはクラスメイトへの確認だった。当然というか、平田が推しているこの状況では誰も名乗り出ることは難しい。

 幸村でさえも頷く有様だ。まぁ無所属の連中は基本的には自分さえ守れればそれで良いと思っているからな。

 

「…………分かった、責任を以て集計役を務めさせて貰う」

 

「ありがとう、綾小路くん」

 

 平田は笑顔を浮かべてオレを手招きした。

 緩慢(かんまん)な動きで登壇すると、クラスメイトたちの視線を浴びることになる。……嗚呼、世界は残酷だ。

 池と山内がこの場に似合わない人間に対して失笑しているのを極力目に収めないように注意していると、先導者の演説は続いた。

 

「皆、僕たちがやるべきことは決まっている。テスト勉強を必死にやることだ。そしてポイントを得ること。けれど今回、僕たちは予想外の事態に襲われている。何度も言うけど、ポイントを得ることは捨ててでも、赤点者を出さないことだけに専念しよう」

 

「俺らからしたらそれは有難いけどさ、赤点扱いの点数が分かるのかよ?」

 

 池が平田の救済措置に感謝しながらも、しかし疑問の声を上げる。

 彼の言う通りだ。

 この場の全員が思っていることだろう。すなわち、学校側は赤点者をどのような基準で判断するのか?

 平田は池に軽く頷きを返してから、自論を主張する。

 

「この前の小テスト、Dクラスの平均点は64.4。それを割る2すると、32.2になるよね。そしてあの日、菊池(きくち)くんの名前の上で茶柱先生は赤線を引いた。これから出されることは一つだ。つまり、クラスの平均点割る2に達していない点数所持者が赤点となるんじゃないかな」

 

「けど平田くん、それはかなりリスキーじゃない? この前の算出方法はそうかもしんないけどさ、今回もそうなるとは限らないんじゃ……」

 

 発言したのは平田の彼女の軽井沢(かるいざわ)だった。意外だ、てっきり頭の中はお花畑だと思っていたのだが。いや、それは流石に失礼か。心の中で謝るとする。

 彼女の主張も正しい。

 そもそもの話、オレの記憶違いでなければ茶柱先生は一度たりとて赤点の算出方法を口にしていなかった。

 

「軽井沢さんの言い分も分かるよ。確かにこれは相当のリスクが伴う。だけどおかしいと思わない? 優秀な生徒はAクラスに、不出来な生徒はDクラスに配属されている。例えばAクラスの点数を基準に赤点のボーダーラインが引かれるのだとしたら、どれだけの生徒が退学になるか、見当も付かないんじゃないかな。堀北さんはどう思う?」

 

 意見を求められた堀北はやや考える素振りを見せてから。

 

「これに於いては平田くんが正しいと思う。そもそもの話、テスト範囲が大幅に変更されているこの状況、多分学校側は意図的にやったと見るのが妥当でしょうね。茶柱先生が伝え忘れたのは教師として失格だけれど」

 

 人付き合いに難があるとはいえ、堀北の学力は学年でもトップクラスだ。

 その彼女の援護が加わったら、いくら女王の軽井沢と言えど引き下がるを得ない。

 

「だけど何度も言うけど軽井沢さんの懸念も尤もだよ。だからクラス全体で五十点に点数を調整しよう。これならまず赤点者が出ることはないはずだよ」

 

 結局のところ、それが無難なところか。

 これなら赤点者が出ることは防げる。が、須藤や池たちにとっては厳しい戦いとなることは必須。

 平田もそれは分かっているだろう。ただ現状打てる手はこれしかない。本質は何一つとして変わっていないが、言葉巧みに生徒たちを自分が思い描いている結末に誘導しているのだ。

 

「話が長くなったね。今から多数決を取ろうと思う。皆、顔を机の上で伏せて欲しい。僕の案に賛成する生徒は手を挙げてくれないかな。もちろん、挙手しないからと言って誰も咎めたりはしないし、僕と堀北さん、綾小路くんは結果について『誰が手を挙げた、誰が手を挙げなかった』そんな話は絶対にしないから安心して欲しい」

 

 Dクラスの生徒全員が顔を机の上に伏せる……かと思われたその瞬間。

 

「私は失礼するよ。これ以上ここに居ても意味はないからねえ。それでは諸君、精々頑張り給え。アデュー」

 

 今まで大人しくしていた高円寺(こうえんじ)が教室から出ていった。

 流石は『自由人』。ある意味で期待を裏切らないな。ちょっとだけ憧れてしまう。

 

「高円寺、あの野郎……!」「自由にも程がある……!」「協調性無さすぎだろ!」

 

「ま、まぁ彼は無効票とするから。それに赤点を取るとは思えないしね」

 

 これには平田も苦笑を禁じ得ない。

 成績は常にトップ近いからな。一番謎に包まれている男だ、高円寺六助という人間は。

 

「それじゃあ始めようか」

 

 今度こそ多数決が行われる。

 平田と堀北は無言で票数を数えているようで、オレも倣って挙げられている手をカウントすることにした。

 一人、二人、三人、四人、五人────。

 圧倒的大差と言うべき結果と言えるだろう。オレ、平田、堀北、無効票扱いの高円寺を除いた現在のDクラスの生徒数は合計三十六人。

 26対10で、平田の案は可決された。

 顔を上げるように先導者が指示を出す。それに従う民衆。

 

「結果を発表するよ。多数決の結果、僕の案が通った。中間テスト、僕たちは赤点者を出さないためだけに行動する。それで良いね?」

 

 平田の最終確認に、全員が首肯した。

 こうして一年D組は貴重なポイントを得る機会を自ら放棄することで、最初の試練に臨もうとするのであった。

 会議は終わった。

 すぐに生徒たちは行動を開始する。勉強会に参加する者、一人で勉強をする者、あるいは勉強をしない者と多種多様だ。

 特に何もしなかったオレだが、こう、凄く疲れた。

 対人恐怖症になるかもしれないレベルだ。いや、それは流石に盛りすぎか。

 

「ごめんね綾小路くん」

 

 平田が申し訳なさそうに頭を下げてきた。

 

「いや、平田の判断は的確だったと思う。けどこれからはやめてくれ、ストレスで髪の毛が抜けそうだ」

 

「あはは……うん、これからはやめるよ。綾小路くんはテスト勉強、どうするんだい? もし良かったら一緒にやらないかな」

 

「……オレからしたら渡りに船だが、良いのか?」

 

「もちろんだよ」

 

 参加するかしないか、少々迷ってしまう。

 恐らく平田のこの誘いは善意百パーセントのものだと思われる。ここは承諾して親交を深めるとするのが吉か……?

 激しい葛藤(かっとう)の末、オレは決めた。

 

「悪いな、参加させて貰う。ただ自分勝手で悪いとは思うんだが、明日からで良いか? この後はちょっと用事があるんだ」

 

「うん、分かった。軽井沢さんや他の皆には僕から説明しておくよ。それじゃあ綾小路くん、また明日」

 

「また明日」

 

 自分の席に戻り、スクールバッグを肩に担いだ。堀北や須藤たちの勉強会連合は既に教室にはおらず、図書館に移動しているようだった。

 兎にも角にも、オレも出来ることをやるとしよう。

 

 

 

 

§

 

 

 

 寮の自室に帰ったオレはテスト勉強をすることも、元々から備え付けられているパソコンを開いて暇潰しすることも、趣味である読書をすることもなく『その時』を待っていた。

 約束の午後五時三十分。

 机の上に放置していた携帯端末が小刻みに震動し、誰かからメールが届いたことを示唆した。

 

「来たか。取引成立だな……」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 返信は来なかった。

 だがそれで良い。そうでなくてはならない。

 オレは一度頷いてから今メールのやり取りを交わした相手の連絡先と、その全ての履歴を迷うことなく廃棄した。

 ポイントの取引が行われたことは履歴として残り消せないが、誰と取引したかはこれで分からなくなる。

 全ては闇の中に葬り去られた。

 だがまだやるべきことがある。オレは画面を操作し、ある人物に電話を掛けた。

 幸いにも、その人物はすぐに出てくれた。何かを言われる前に、オレは素早く話を切り出す。

 

「頼みがあるんだ」

 

 

 

 

§

 

 

 

 時は流れ、テスト二日前の水曜日。中間テストは金曜日に実施され、カウントダウンが確実に迫りつつあった。

 SHRを終え、茶柱先生が用済みとばかりに教室を出ていく。彼女はオレたち生徒の実情に対して何も興味がないのだろう。まあ、教師に限らず人間とは厄介事(やっかいごと)に首を突っ込みたくないものだからそれも当然といえば当然か。

 とはいえ、この数週間にわたって生徒たちから彼女への好感度は大きく下降しているが。

 

「皆、帰る前に聞いて欲しい」

 

 入れ替わるようにして登壇した平田が、帰り支度を進める生徒たちに呼び掛けた。

 

「平田くん、それは今聞かなくちゃいけないものかしら。残り二日という状況で、くだらないことに時間を割く理由は──」

 

「とても大事なことなんだ」

 

 堀北の言葉を平田にしては珍しく遮って、神妙な面持ちで彼は答えた。

 これ程に真剣な表情を浮かべているのは初めて見るので、流石の堀北も聞く姿勢を取る。

 そこで彼女はようやく、彼が手に持っている大量の印刷物に気付いたようだった。

 

「明後日の中間テスト、力になれることがあるんだ。まずはこのプリントを見て欲しい」

 

 列の一番前の生徒に先導者は流れるようにしてそのプリントを配っていく。

 当然オレの元にも届いた。目を通すとしよう。

 

「これって、問題集……?」

 

 誰かの呟きが響いた。

 そう、配布された紙には黒インクで文字の羅列がぎっしりと焼かれており、それは国語、英語、数学、理科、社会の問題があった。

 

「見て分かると思うけど、これはテストの問題集だ」

 

「そんなの見れば分かるぜ。けどよ、俺らは堀北から同じようなモンを貰ってンだけどな」

 

「流石は堀北さんだね。でも須藤くん、これはただの問題集じゃないんだよ。これは──過去問だ」

 

 過去問。特定の試験で過去に出題された問題を意味するものだ。

 つまりこれは、東京都高度育成高等学校に於いて、数年前に嘗ての生徒が受けたテストで他ならない。

 

「実は一昨年の中間テスト、これと同じ問題だったみたいなんだ。だからこれを軸にして勉強すれば、高得点を得ることが出来ると思う。そして、昨日可決された僕の案は無効だね。これなら最高の結果を手に入れられるよ」

 

「うおおおお! マジかよ! ごめんな平田、俺、お前のことを誤解していたぜ!」

 

「俺もだぜ。ごめんな、内心、イケメンハーレム野郎とか思っていて!」

 

 池と山内が感極まったようにテスト用紙を抱き締め、平田の手を摑んで激しく上下に振るう。平田は彼らの都合の良さに苦笑いを浮かべていたが……。

 でも他の生徒も同じようなものだ。突如舞い降りた幸福に興奮を隠せない。

 そんな中、一人の生徒が平田に近付いた。須藤だ。

 

「平田……。その、これまで悪かったな……」

 

 不器用ながらも謝罪を口にして頭を下げる須藤。

 平田は一瞬突然のことにきょとんとしてしていたが、すぐに破顔した。

 

「須藤くん、これを有効活用して一緒にテストを乗り越えよう!」

 

「おう! ……本当に、サンキューな」

 

 一ヶ月前、須藤は一方的ながらも平田に対立した。そしてそれは今日まで続いていた。

 だがたった今、彼らは一応は手を取り合った。

 須藤健という人間が、人間として成長している証でもあるだろう。とはいえ、すぐに激昂したり態度が悪いのは変わっていないが。

 それでも成長は成長だ。もし本格的にDクラスが脱却するために行動を開始したら、彼の力は必ず必要になるだろう。

 そしてもう一人、平田に近付く生徒が。堀北だ。

 

「平田くん」

 

「堀北さん。ごめんね、狡をするような手を提案して」

 

「いいえ。あなたの行動は正しいと思う。だから教えて。その問題用紙、誰から貰ったの?」

 

「部活の先輩からだよ。僕はサッカー部に所属しているからね、先輩に無理を言って──」

 

「違うわね」

 

 平田の言葉を断ち切り、堀北は否定した。

 

「あなたは、少なくとも昨日まで、私と同じように過去問を入手するという案が頭の中に浮かんでいなかった。当然よ。だからこそ、あの多数決を取ったのだから。つまり能動的では無く、受動的……()()()()()()()()()()()()()()()()()()。違う?」

 

「……正解だよ堀北さん。確かに僕は過去問なんて単語は微塵も思い付かなかった。そして堀北さんの言う通り、これは偶然の産物だ」

 

「誰があなたにその過去問を渡したの?」

 

「ごめんね、それは言えない。クライアントがそう指示してきたんだ。けど安心して欲しい、その人はDクラスの生徒で、仲間だから」

 

「……分かったわ。改めてありがとう、平田くん。その生徒にもお礼を言っておいて 」

 

「うん、分かったよ」

 

 会話を終わらせた堀北は須藤や櫛田を集めて図書館にと移動を開始した。

 オレは平田と共に彼女たちの背中を見届ける。

 

「綾小路くんはこれからどうする? この過去問があれば自分でも勉強は出来ると思うんだけど……。それでも、皆でやることに意義があるからね、きみの意思を尊重するよ」

 

「是非とも継続的に参加させてくれ」

 

「うん!」

 

 それから二日間。オレたちDクラスの生徒たちは一心不乱に勉強を再開した。

 過去問の存在はとても有難く、大半の生徒が平田に感謝をしただろう。だが例外はもちろんいて、高円寺は過去問を受け取らなかった。

 とはいえ、彼に関しては誰も心配していなかった。成績だけは良いし、何度も述べるが、結局のところは自分次第なのだから。

 平田グループの軽井沢や他の生徒は突然の来訪者であるオレの参加に最初は戸惑っていたが、それでも先導者の事前の説明のおかげで追及されたりはしなかった。

 まぁでも、平田グループの中でオレが話せるのはその中心人物だけだったから必然的にオレと平田の会話率は上昇し、女子から邪魔者扱いの目で見られたが……それは全面的にオレが悪いため仕方がないと割り切ることにした。

 そして二日後の金曜日。

 オレたち一年生は最初の試練に臨むことになる。

 

 

 

 

§

 

 

 

「欠席者は無し。全員居るようで何よりだ。もし欠席していたら一教科につき十点……つまり合計五十点最初から差し引いた点数になっていたからな。先生は嬉しく思うぞ」

 

 金曜日。とうとうこの日がやって来た。一学期中間テストの実施日だ。

 茶柱先生が数分前に教室に足を踏み入れ、愉快そうに小さく笑みを浮かべる。

 そして登壇し、オレたち生徒を見下ろした。

 

「お前たち落ちこぼれの『不良品』にとって、最初の試練になるわけだが。どうだ、しっかり勉強してきたか?」

 

「僕たちはこの数週間机に齧りつきながら勉強に向き合ってきました。他のクラスは兎も角として、このクラスから赤点者が出ることはありません」

 

「ほう。やけに自信があるようだな平田。それが虚勢か、はたまた……。しっかり見極めさせて貰うとしよう」

 

 茶柱先生の煽りにも、誰も反応を返すことはしない。

 口で語る必要はないと分かっているからだ。

 そして四十人全員が自信に満ち溢れている。

 彼女はオレたちの反応を面白そうに眺めてから、テスト開始のチャイムに間に合わせるために問題用紙、解答用紙を裏向きにして配り始めた。

 一時限目は社会。暗記教科だ。ここで(つまず)くようでは正直厳しい戦いとなるだろうし、最初の出来が悪かったら後の教科にも影響が出るかもしれない。

 

「もし今回の中間テストと七月に実施される期末テスト。どちらでも退学者を出さなかったら、お前たち全員夏休みにバカンスに連れて行ってやる」

 

「バカンス、ですか? バカンスって、あの伝説の……?」

 

「お前が何を以て伝説と判断しているのかは知らないが、バカンスなんて一つしか無いだろ。そうだなあ……青い海、白い砂浜、そして照りつく()の光。夢のような生活を送らせてやる」

 

 茶柱先生が言った言葉に反応して、オレたちはその夢のような生活を頭の中で想像する。

 青い海、白い砂浜、照りつく陽の光。何よりも──可愛い女の子の水着が見れる合法的な機会。

 

「先生、言質(げんち)は取りましたよ!」

 

「池、まさかお前の口から『言質』なんて単語が聴けるなんてな……」

 

「そりゃ勉強しましたからね! ──お前ら、死ぬ気で赤点を回避するぞ!」

 

「「「おおおおおおおっ!」」」

 

 池の台詞に呼応するクラスメイトの咆哮。特に男子が凄い。そりゃあ凄い。

 反対に女子たちは冷ややかな目だ。無理もないな。

 

「普段からこれくらいの覇気を出してくれると嬉しいんだが……」

 

 茶柱先生が一歩後退る。そしてため息を一つ零した。

 やがて始業のチャイムが校舎中に鳴り響く。

 

「中間テスト──始め」

 

 一斉に問題用紙、解答用紙を表にする。

 まずやるべきことは解答用紙の名前の記入欄に自身の名前を書くこと。もし満点を取っても、名前の記載が無ければ採点されないからだ。

 シャープペンシルが紙の上を走る音を聞きながら、オレは問題に目を通した。過去問と同じ、あるいは類似した問題がどれだけ残っているか。

 その有無の差で、一般生徒は兎も角として、赤点候補組の未来が決まるといっても過言ではない。

 ────良し。

 オレは内心ガッツポーズを作った。怖いくらいに過去問と一致している。

 さり気なくを装って教室内を見渡すが、見たところシャープペンシルを止めている生徒は居なかった。須藤、池、山内、そして沖谷。誰もが真剣極まる表情で問題用紙と睨めっこして、時には笑顔を見せる。

 恐らく解答を忘れてしまったが、自力で思い出すことに成功したのだろう。彼らの努力が実っている証でもあり、また指導した堀北の凄さが伝わるな。

 二時限目は国語、三時限目は理科が続き、現在は四時限目の数学だ。

 数学に関してはほぼほぼ実力となるが、過去問を入手していたオレたちの敵ではなかった。

 昼休みに入る。四十五分の昼休み、生徒たちは昼食を教室で済ませ、復習を油断なくして最後の教科である英語に対応出来るようにしていた。

 堀北の周りにも須藤や池たちが集まり、最後の授業が開かれている。

 

「英語は重要単語が分かればそんなに難しくない。けれど中には複数の意味を持つものもある。例えばこの“will”。一般的には未来形としての助動詞として使うけれど、文脈と、“will”の配置場所からそれがおかしいのが分かるわよね? 沖谷くん、品詞は?」

 

「ええっと、未来形じゃないなら、名詞かな。意味は『意志』だったよね……?」

 

「正解よ。つまりこれは──」

 

 これなら本当に安心だな。

 隣に居るのは堀北たちにとって邪魔だと判断し、オレは平田たちの元に向かう。

 彼は笑顔でオレを輪に入れてくれた。軽井沢や取り巻きの女子連中も異物の混入を受け入れたのか、笑顔……とは言わなくても声を掛けてくれる。

 

「綾小路くんやっほー」

 

「お、おう……」

 

 現役女子高生の相手は正直疲れるな。いや、言い訳をするのなら普通に話すことは良いのだ。

 椎名(しいな)や堀北は一般的な女子高生とは言い難いし、これまで接してきた中でまともなのは櫛田だった。

 とはいえその櫛田とも近からず遠からずの距離感なのが実情だ。

 そして女子高生とは時にして意味が分からない単語を連発するのが多い。なんて言うか、脳が処理出来ないのだ。

 

「それじゃあ僕たちも始めるとしようか。まずだけど、配点が多い所を狙っていって──」

 

 時間ギリギリまで復習をして、オレたちは最後のテストに臨んだ。

 英語は基礎が出来ていないと解けない。殆どの生徒が穏やかな気持ちで取り組む中、赤点候補組は最後まで気が抜けないだろう。

 ただ、オレは確信していた。

 彼らがこの最初の試練を無事に達成することが出来ると。

 

 

 

§

 

 

 

 土日を挟んだ月曜日。朝のSHR。

 チャイムと同時に教室にへと足を踏み入れた茶柱先生は、驚いたように生徒を見回す。それもそのはず、室内には緊張した空気が余すことなく蔓延(まんえん)していたからだ。

 今日は中間テストの結果発表が聞かされると告知されていたため、オレを含めた全一年生は固唾を呑んでいる。

 

「先生。今日結果発表が行われると伺っていますが、それはいつでしょうか?」

 

「おいおい、どうした平田。お前だったらあれくらいのテストは余裕なはずだ。違うか?」

 

「……良いから答えて下さい」

 

「喜べ、今からだ。放課後のSHRでは手続きが間に合わないからなあ」

 

 手続き、という言葉に敏感に反応する一部の生徒。

 言わずもがな、赤点候補組。

 池や山内は神頼みなのか手を合わせ、沖谷は不安そうに身動ぎし、そして一番の退学候補である須藤は──唯一、真正面から茶柱先生を見ていた。

 それは、彼がスポーツをする時に見せるただひたすらに真摯な目。

 生徒の名前と点数の一覧が載せられた大きな白い紙がホワイトボードに貼られ、オレたちは凝視する。

 

「正直なところ、私は感心している。国語、数学、並びに社会では同率一位……つまり、満点が十五人以上居た。……どうしたお前たち。やけに静かだな。嬉しくないのか?」

 

 誰も歓声を上げないのを、茶柱先生は訝しんだ。

 池が盛大な音を立てて席から立ち上がり、必死な表情で彼女に問い詰める。

 

「先生、そんなことより赤点者は!? 赤点者は居るんですか!?」

 

 訪れる沈黙。

 茶柱先生はわざとらしく一度真意の読めない笑みを浮かべてから、ゆっくりと口を動かす。

 

「おめでとう。──今回の中間テスト、赤点者は誰一人として居ない。つまり、全員合格だ」

 

 再度訪れる沈黙。

 そして────。

 

「「「やったあああああ!」」」

 

 一気に爆発した。

 誰もが皆歓声を上げ、生き延びたことを喜んでいる。中には友達と抱き合う者も。

 堀北は笑みを浮かべることはしなかったが、それでも安堵していることは誰の目にも明らかだった。

 

「今回のDクラスの成績は学年トップ……と言いたいところだが、残念なことに二位だ。一位はCクラス。三位はAクラス、四位はBクラスとなった」

 

 だがその安堵も、すぐに疑惑へと変わってしまう。

 殆どの生徒はクラス成績なんて聞いてはいないだろうが、平田や櫛田、堀北をはじめとした生徒はすぐに異常性に気付いた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 今回の中間テスト、オレたちのクラスは過去問という手段を使って臨んだ。当然、テスト勉強も誰一人として怠らなかった。

 だからてっきり学年トップの成績を収められると、誰もが内心は思っていただろう。そうでなくとも、少なくともワースト一位という成績にはならないと考えていたはずだ。

 もし仮に負けるとしたら、Aクラス。そう思考するのが普通であり、だからこそ、Cクラスが首位になったことが異常だと勘付く。

 

「……どういうこと? どうしてCクラスが……」

 

「Cクラスも過去問を手に入れていたんだろうな。そうとしか考えられない。恐らく、オレたちより早い段階で手に入れていたんだろう」

 

「……だとしたら、侮れないわね」

 

「それでは各々、今日も真面目に授業を受けるように。朝のSHRはこれで終わりだ。それと綾小路、この前の続きの個別相談を行うので、今から私と共に来い」

 

 喧騒に包まれる教室から出るその間際、茶柱先生はそう言ってオレを名指しした。

 堀北が意外だと言うように怪訝な目を送ってくる。

 

「あなた、個別相談なんてやっていたのね。ぼっちであることを相談していたのかしら」

 

「……まぁな。けどそれは一ヶ月も前の話なんだけどな。どうして今更蒸し返すのか……」

 

「茶柱先生も一応は教師、ということでしょうね」

 

「違いない」

 

 短く答え、オレは茶柱先生が待っている廊下に足を動かす。

 道中、須藤や池たちとすれ違う。全員がオレの肩を叩き、勝利の余韻(よいん)を共有しようとしてくる。オレはそれに返しながら先生の元に向かった。

 

「黙って付いてこい」

 

 そう言い残し、茶柱先生は足早に廊下を渡る。オレは彼女の要望通りにした。

 彼女が案内したのは屋上だった。昼は食事中に解放されているが、朝や放課後は施錠されている。

 とはいえそれは、生徒だったらだ。同伴者は教師。彼女は施錠用の鍵を用いて屋上に通じる扉を解錠し、オレを屋上にと促した。

 背後で扉が閉まる音が響き、また施錠される音が響く。

 どうやら会話を聞かれたくないらしい。

 

「嘘まで言ってオレを呼び出したのには、何か理由があるんですか?」

 

 こちらから話を切り出す。

 

「今回の中間テスト、Dクラスは好成績を残した。職員の間でもお前たちを称賛する声は少なくない。このまま順当に行けば、来月にはポイントが入るだろう」

 

「そうですか。それは何よりです。餓死したくないですし。それより先生、早く本題に入って下さい。すぐに一時限目が始まりますから」

 

「安心しろ。教師の私が生徒を呼び出しているんだ、このことでポイントは引かれない」

 

 逃がすつもりは毛頭ないらしい。

 校舎の中から始業のチャイムが鳴るのを、オレの耳が拾った。

 茶柱先生はスーツのポケットから煙草を一本取り出し、ライターで火を点ける。

 生徒の前で何をやっているんだと思うが、指摘したところで何も変わらないだろう。

 彼女は冷徹な瞳をオレに向け、そして言う。

 

 

 

「それでは本題に入ろう。Dクラスが過去問を手に入れたこと、そしてCクラスが学年トップになったのは全て、綾小路──お前の仕業だな」

 

 

 



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絡繰

 

「Dクラスが過去問を手に入れたこと。そしてCクラスが学年トップの成績を残したのは全て、綾小路(あやのこうじ)──お前の仕業だな」

 

 風と共に投げられた不可視の刃は、オレの体に深く刺し込まれた。動揺してはならない。カマを掛けられている可能性が捨てきれないからだ。

 茶柱(ちゃばしら)先生から視線を外し、雲の流れを眺める。先程までは晴れだったはずだが、いつの間にか曇り空に変わっていた。

 

「何を言っているか分かりませんね。過去問を手に入れたのは平田(ひらた)ですし、共有したのも彼です。Cクラスについても何も知りませんよ」

 

「あくまでも白を切るつもりか。それなら決定的な証拠を提示しよう。──お前は上級生に接触し、ポイントを支払うことで過去問を入手した」

 

「断定しますね」

 

「上級生には上級生の課題がある。お前が三年Dクラス鈴木(すずき)玲奈(れいな)と取引したことは把握済みだ」

 

「Cクラスについてはどう説明しますか?」

 

「状況証拠だから憶測の域は超えないな。それは認めよう。だが私は確信している。お前が暗躍したとな。どうだ、違うか?」

 

 茶柱先生は自分の答えに確たる自信があるようだった。

 そしてこの学校側はどうやら、生徒の動きをかなり監視……いや、閲覧出来る権限があるらしい。

 これ以上逃げても時間の無駄だと判断し、オレは静かに首を縦に振る。

 

「……やけにあっさりと認めるな」

 

 拍子抜(ひょうしぬ)けたように茶柱先生が軽く目を見張る。どうやら、オレがこんなにも早く認めるとは想定していなかったようだ。

 彼女から視線を逸らし、再度空を眺める。このまま時が過ぎれば雨になるだろう。それ程までに分厚い積乱雲(せきらんうん)が空を支配していた。幸い天気予報をチェックしていたおかげで傘は持ってきているが、それも昇降口だ。

 全身びしょ濡れになるのは勘弁したいところなので、オレはこの数週間の行動を思い返しながら、彼女に説明を開始した。

 

 

 

 

§

 

 

 

 オレが本格的に動き出したのは高円寺(こうえんじ)六助(ろくすけ)とランチを共に過ごした時からだった。

 この時オレは三年Dクラスの鈴木玲奈と邂逅(かいこう)し、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。しかしながら出会ったばかりの男女……しかも先輩後輩関係にあるオレたちが連絡先を交換しようものなら、いくら高円寺にご執心(しゅうしん)な取り巻き女子でも気付くだろう。

 手に入れたのは店を出て彼女たちと別れるその寸前、鈴木先輩と握手をした時だ。

 一回目はただの社交辞令。二回目は交友を深めるため。部外者だったらそう考えるだろう。事実、取り巻き女子たちもそう考えていたに違いない。

 だがしかし、それは普通ならだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。オレは訝しながらもそれを受け取った。

 最初は彼女の意図が分からなかったが、教室に戻りテスト範囲が変更されたことを知り、オレは彼女が『何か』を望んでいるのを悟った。

 茶柱先生がテスト範囲の変更が決定された金曜日に、何故自分が受け持っている生徒たちに教えなかったのか、それは大した問題ではない。

 本質的な問題は、どうしてテスト一週間前に学校側が大幅にテスト範囲を変えたのか、そこに全ては集結する。物事の事象には必ず理由があり……思考すれば自ずと答えは出てくる。

 

 結論を告げると──最初から学校側はその予定だったのだ。

 

 だがここでさらなる問題が浮上する。

 学力が高い生徒なら対応出来ようが、低い生徒は対応出来ない可能性が高い。Dクラスだったらおよそ過半数の生徒が退学処分となるだろう。

 これが普通の進学校ならまだ分かる。

 しかし──ここは『普通』とは縁遠い学校だ。そもそも須藤(すどう)(いけ)をはじめとした生徒が在籍している時点で、この学校は学力だけで生徒を測っていないことが窺える。

 つまり言い換えれば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そしてそれは茶柱先生の言葉からも推察出来る。

 彼女は五月一日、この学校の理念を説明した際に『お前たち全員が赤点を回避する方法はあると、私は確信している』と口にした。

 散々暴言を吐いたのに、そのような言葉が出るとは到底考えられない。

 つまり、彼女は陰ながらもヒントを出していたのだ。そして事実、彼女はいつも言葉に何かしらの含みを持たせて話している。

 学校の狙いを理解したオレは、茶柱先生が放課後のSHRを始める前に鈴木先輩に連絡、過去問の所在を尋ねた。

 

 それこそが、鈴木玲奈が望んでいたことに他ならない。

 

 返信はすぐに来た。

『過去問はある』と。その吉報を知らされたオレは彼女と取引をするべく、ポイントを支払うことで過去問を入手しようとした。

 最初は一万五千ポイントで買う予定だったが、彼女は二万ポイントを要求してきた。

 恐らく過去問を後輩に渡すことは黙認されているが、それでもかなりのリスクが伴うのだろう。

 オレは二万ポイントを手放すことを決意したが、追加として小テストを要求した。

 前回の小テストの際、最後の三問は高校一年生が解ける問題とは到底言えなかった。もちろん、堀北(ほりきた)や高円寺、幸村(ゆきむら)といった例外はあるが、それでもおかしなことに変わりはない。

 今にして思い返すと、あの時から学校側は明確なヒントを出していた。もし小テストの過去問を入手していれば満点は造作もないこと。事実、過去の小テストと、オレたちが受けた小テストの問題は一問一句違わなかった。

 そしてオレは、小テストと同様に中間テストが、毎年、使い古しされているのを確信した。

 その後は簡単だ。

 鈴木先輩と取引を交わした後、彼女の連絡先及びメールアドレスを消去したオレは、平田に連絡を取った。

 オレが過去問を入手したこと、クラスに過去問を流して欲しいことを頼んだ。その時、過去問はテスト二日前に流して欲しいとも、さらにオレの存在を隠すようにも頼んだ。

 何故手に入れた翌日ではなく二日前に指定したのか、それは安易に過去問のことを(おおやけ)にすれば赤点者が出ることを激減出来る反面、勉強意欲が出ないと考えたからだ。それではこの場しのぎでしかなく、本質的な問題の解決とは言い難い。

 先導者は快諾(かいだく)した。

 オレが彼に連絡したのは、彼なら絶対にオレのことを誰にも言わないと信じたからだ。そういう意味なら櫛田でも良かったが、ここは同性の彼を採用した。さらに述べるのならば、この前彼女に対して感じた小さな違和感が、彼女に報告することを躊躇(ためら)わせた。

 これでDクラスが赤点者を出すことは無くなり、オレたちは学年二位ながらも大躍進することが出来た。

 それが顛末だ。

 

 

 

 

§

 

 

 

 最後までオレの言葉を聞き届けた茶柱先生は終始無表情だった。

 だが突如として大声を出して笑い始める。

 

「ははははっ。お前は面白いなあ、綾小路」

 

「これで満足出来ましたか」

 

「あぁ……と言いたいところだが、まだ一つだけ説明されていないぞ。Cクラスの成績をどう説明する?」

 

「オレは何もしていませんよ」

 

「なら質問を変えよう。椎名(しいな)ひよりを助けようとはしなかったのか?」

 

「椎名は頭が良いですから、過去問を渡す必要性はないでしょう。それにいくら友人とはいえ、彼女は違うクラスの人間です。敵に塩を送る馬鹿がどこにいますか?」

 

「ふむ……まぁ良い。これ以上問い詰めてもお前は口を割らないだろうしな」

 

 茶柱先生はいつもの無機質な表情、そして冷たい瞳でオレを見つめた。

 早く教室に戻りたいが、校舎に通じる扉を開けるためには鍵が必要であり、それは彼女が持っている。

 

「綾小路、私はお前を高く評価している。そしてそれは、早くもこうして現れている。過去問を入手することは正解の一つだ。だがここまでは少し頭を(ひね)れば自ずと答えは出てくる。人間とは結局のところ自分が可愛い生物だからな、他者と共有しようとは考え付かないし、仮に考え付いても中々実行に移せない。お前が初めてだぞ、自分のクラスだけでなく、他所のクラスにも情報を流したのはな。このロジックにこそ価値があると、私は考えている」

 

「先生は『結果』ではなく『過程』を重視するんですか」

 

「いいや? あくまでも『過程』は『結果』の副産物だ。まずはより良い『結果』を求めることが先決だ」

 

「オレは初めて茶柱先生、あなたに共感していますよ」

 

「そうか、それは何よりだ。──おっと、話し込んでしまったな。一時限目の終業のチャイムが鳴る。個別相談は終わりだ」

 

 わざとらしくその言葉を言い、茶柱先生は校舎に通じる扉を解錠した。

 先に行くよう無言で促してきたので、オレは軽く会釈をしてから自分の教室に向かう。彼女は次の時間で授業を受け持っているのか、職員室に向かった。

 お互い別れの言葉は口にしない。そんなものは望んでいないのだから。

 廊下を移動している途中に、休み時間の開始を告げるチャイムが校舎中に響いた。一人の生徒がまるまる授業に参加していなかったのだ、注目を浴びることは必須。

 逃げ出したい衝動に駆られるが、次の授業をサボれば追及が怖いので、ため息を吐いてから教室に足を踏み入れた。

 

「おっ、やっと帰ってきたか」

 

 比較的近くに居た須藤(すどう)が声を掛けてくる。何を話していたんだと聞かれたので、適当にはぐらかして答えた。

 

「随分と長かったのね」

 

 今度は隣人の堀北が声をかけてくる。

 須藤のように嘘を言ってもすぐに看破されるだろうと思い、嘘と真実を混ぜることにした。

 

「茶柱先生がそれはもうオレを心配していてな。ありがた迷惑なことだ」

 

「自分勝手にも程があるでしょう。あなたから先生に相談したんじゃないの?」

 

「まぁそうなんだけどな……」

 

「おーい、二人とも! 明日の夜暇か? 打ち上げしようぜ、打ち上げ!」

 

 (いけ)山内(やまうち)櫛田(くしだ)、須藤に沖谷(おきたに)を連れて提案してきた。

 打ち上げか、如何にも学生がやりそうなことだ。憧れ自体は前々からあったから参加したいが……。

 

「オレが参加しても良いのか?」

 

「良いんだよ。綾小路は勉強会を開く時に尽力したんだろ? ならその権利はあるって! なあ、お前ら?」

 

 まさか池の口から『尽力』なんて単語が出てくるなんて。茶柱先生が驚くのも無理はないな。

 

「うん、もちろんだよ。綾小路くん、縁の下の力持ちだったから、一緒に喜びを分かち合いたいなっ」

 

「ははははは、良かったな綾小路。櫛田ちゃんの許可を得ることが出来たぞ」

 

 態度を一変させる池に、オレは思わず呆れてしまう。しかもガチだからなあ……オレ、いつか後ろから刺されるかもしれない。

 

「私は断らせて貰うわ」

 

 オレが内心でため息を吐いていると、堀北が空気を読まずそう言った。

 

「え〜、堀北さんが居ないと打ち上げの意味ないよ〜」

 

「そうだぜ堀北。お前が居ないとな〜」

 

「そうだそうだ〜」

 

 不平不満を垂らす櫛田、池、山内。須藤と沖谷は何も言わなかったが、堀北の参加を望んでいるのは態度から見れば一目瞭然だ。

 渦中(かちゅう)の堀北はオレに目を向けて、どうにかしろと指示を出してきたが、オレはそれに気付かないフリをする。助け舟を出してやっても良いが、ここは好意に甘えても良いだろう。

 彼女は自分が孤立無援なのを悟り、やがて嫌々そうにしながらも一度頷いた。

 

「…………分かったわよ」

 

「「「やった!」」」

 

 イエーイ! とハイタッチする三人に、堀北は重く長いため息を堂々と零した。

 気持ちは分からなくはないが、我慢して欲しいところだ。

 脳内の予定帳に明日の予定をしっかりと記したオレは、何となく携帯端末を取り出して電源を付ける。

 一件だけメールが届いていた。差出人は椎名からだった。最後に彼女と会ったのは龍園(りゅうえん)に夕食を奢られた時だから、かなり久し振りだ。

 

『今日からまた、図書館で会えますか?』

 

 着信時間は一時間前。多分、朝のSHRが終わった後すぐに文字を打ったのだろう。

 

『遅くなって悪い。そうしよう』

 

『ええ。それでは』

 

 椎名とやり取りを交わすと、ようやく中間テストが終わったのだと実感出来るのだから不思議だ。

 これで忌々しい勉強からは暫く解放され、自由に放課後を使うことが出来る。図書館を利用する生徒も激減するだろうし、静かに過ごすことが出来るだろう。

 そのことに喜びを感じていると、視線が多く集まっているのに遅まきながら気が付いた。

 

「……どうかしたか……? そんな、意外なようなものを見る目でオレを見て……」

 

「う、ううん! えっと、その、綾小路くんがそんな顔をするなんて思わなかったから……」

 

 代表して櫛田が答える。賛同する池や須藤たち。

 さらには堀北までもがそういった顔で見てくるのだから何が起こっているのかまったく分からない。

 堪らずに困惑してしまう。

 

「そんなにも変な顔をしているのか?」

 

 もしそうなら、普通にショックだが。

 オレの雰囲気を敏感(びんかん)に感じ取ってか沖谷が可愛らしく両手をわちゃわちゃと振りながら否定する。相変わらず男らしさが欠片も見受けられないな。

 

「えっと、綾小路くん……無表情とまではいかないけど、感情の起伏が普段から全然見られないから……。だからその、そんな嬉しそうな顔をするなんて思わなくて……」

 

「これまでは苦笑とか困惑とかはあったんだけどね……」

 

「この前私があなたにスペシャル定食を奢った時以上に感情が表に出ているわ」

 

「んなっ!? 綾小路、お前……堀北に奢られたのかよ……!」

 

 須藤が何故か食い下がった。今にも胸倉が摑まれそうで怖い。どうしてか単純に気になるが、今はスルーするとしよう。

 それよりも……──。

 気になって頬を触ってみると、確かに沖谷たちの言う通りだった。

 口角が僅かに上がっているのが感じられる。

 

「なんか携帯見た時に一気に変わったよな。例の女子か?」

 

「椎名ひよりだっけ? けっ、これだからリア充は……」

 

 須藤が首を傾げ、山内が忌々しそうに睨んでくる。女の嫉妬は醜いと以前聞いたが、男の嫉妬も醜いものだと思う。

 池だけじゃなくて彼にも殺される可能性が高くなってしまった。

 一方、首を傾げるのは堀北だ。友達が少ないからその弊害といえる。こういう時困るよな。必然的に得られる情報が少なくなるから、話題に付いていけない。

 

「椎名ひより? 誰かしら。Dクラスじゃないわよね?」

 

「Cクラスの美少女だぜ。なんでもほぼ毎日、図書館で会ってるんだってよ」

 

「まさか綾小路くんに、他所のクラスに友達が居たなんて……」

 

 堀北が何やら戦慄(せんりつ)している。

 そんなにもオレは孤独体質だと思われているのか。

 ()(たま)れない空気を払拭するべく、オレはわざとらしく咳払いをする。

 

「……そろそろ二時限目が始まるぞ。ほら、席に着け。解散だ解散」

 

「「覚えとけよ、綾小路ぃ!」」

 

 池と山内が泣き叫びながら自分の席に戻る。櫛田、須藤、沖谷もなんとも言えない微妙な表情で立ち去って行く。

 彼らの背中を見送っていると、隣人が目を合わせることなく。

 

「綾小路くん」

 

「何だよ堀北。ぼっち同盟を破ったことに対して怒っているのか?」

 

「違うわ。そもそも私とあなたはそんな同盟を結んでいないじゃない」

 

 堀北はそろそろ、『冗談』の意味を覚えた方が良いと思う。もうちょっと丸くなればこいつにも友達が出来るだろうに……まあ、本人が望んでいないから仕方がないか。

 とはいえ、彼女の意思は櫛田や池たちには通じていないようだけど。

 

「他所のクラスの生徒と付き合うのは構わないけれど、くれぐれもDクラスの情報を渡さないようにしなさいよ」

 

「もちろんだ。それくらいの分別はある」

 

「なら良いわ」

 

 堀北はオレの答えに一応の納得を示してくれたのか、それ以上言及してくることは無かった。

 この学校の特質とはいえ、違うクラスの人間と付き合うのには骨が折れる。

 二時限目、三時限目と授業を受けながら、オレは自分の『変化』に内心、盛大に戸惑っていた。

 どうやらオレにとって、椎名ひよりという少女は日に日に大きくなっているらしい。

 

 少なくとも、彼女が困っていたら助けようと思うくらいには。

 

 ……いやそれは、少し考えれば分かることか。そうでなかったらオレはあのような行動をしなかったに違いない。

 今はただ、放課後が楽しみで仕方がなかった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 放課後。

 オレは帰りのSHRが終わるや否や図書館へと足を向けた。

 いつもはあっという間に辿り着くのだが、不思議なことに一秒一秒がとても長く感じられる。

 館内に入ると、図書課の先生が「彼女、既に居ますよ」と教えてくれた。

 これが顔パスという重鎮(じゅうちん)の力なのかと思いながら礼を言い、オレはいつもの場所に赴いた。

 彼女は珍しくも本を読んでいなかった。それどころか、机の上には何も乗せていない。姿勢正しく座り、窓から見える花壇を眺めているようだった。

 

「椎名」

 

「こんにちは。またお会い出来て嬉しいです、綾小路くん」

 

 椎名はふわりと優しく微笑み、そうオレの名前を呼んだ。

 オレは彼女の隣の席に腰掛け、彼女の顔を見つめる。彼女も同じように、オレの顔を見つめた。

 

「まずはお礼を言わせて下さい。綾小路くんが渡してくれた過去問で、Cクラスは学年トップを得ることが出来、また、私は龍園くんから正式に認められました。これからは心置き無くあなたと付き合えます。本当にありがとうございました」

 

 椎名はそう言って、オレに笑顔を見せてくれた。

 

 ──真相を話すとしよう。

 

 茶柱先生の憶測通り、オレは平田だけでなく、椎名にも過去問を渡していた。

 Dクラスの指導者に情報を提供した後にオレは、椎名にも連絡を取った。そしてこの時、オレではなく、彼女が過去問を入手したと報告するように助言した。

 彼女が過去問を手に入れたことにして彼に渡せば、提示された条件を達成出来るからだ。出された条件は、『椎名ひより及び協力者として綾小路清隆が行うCクラスの利益になることを行う』ことであり、椎名が『王』に渡せば晴れて達成出来る。

 そしてここでさらに策を弄した。平田には二日後に過去問を流して欲しいと訴えが、反対に彼女にはすぐに『王』へ渡すように指示を出した。

 この決定的な時間のズレにより、CクラスがDクラスより好成績を残せる可能性が跳ね上がったわけだ。それに、Dクラスのもともとの目標は退学者を出さないこと。モチベーションから差があるのだから、結末は容易に想像出来た。

 彼女は突然の出来事に困っていたが、事情を話せば納得してくれた。そしてその日のうちに過去問を龍園に流した。

 これで彼女は龍園からの信用を勝ち取り、さらにCクラスに過去問を流した龍園は『王』として確固たる地位を得ることが出来るわけだ。

 

 誰もが損をしない展開。

 

 水面下(すいめんか)で『王』に叛逆を画策していただろう生徒たちは納得せざるを得なくなり、彼の軍門に下ることになるだろう。

 結果的に敵に塩を送るようなことになったが、後悔はしていない。むしろこれはオレにとって必要な行為だった。

 

「龍園はどんな反応をしていたんだ?」

 

「電話越しだったので正確には分かりませんでしたが……かなり驚いていました。とはいえ、彼も過去問を得ようと動いていたみたいでしたけれど……。自分以外の人間がその方法を思いついたことに驚きを隠せなかったのでしょう」

 

 いつもの無表情に戻って、椎名は淡々と答える。

 先程の笑顔はどこにいったんだろうと思わなくもないが、まあ、オレが言えることでもないか。

 クラスメイトからも変な誤解を受けているようだし……。

 

「成績はどうだったんだ?」

 

「私は全教科満点でした。あとは金田(かねだ)くんもですね。他の人たちも概ね好成績を残していました」

 

 いくら過去問があったとはいえ、まさか全教科満点とは。それだけ椎名と金田が普段から勉強している証と言える。

 

「綾小路くんはどうでしたか?」

 

「八十から九十を徘徊(はいかい)していたな。けど、もともと素の頭が良いとは言えないから、これで満足している」

 

「Dクラスの皆さんも赤点者が出なくて何よりです。来月はポイントも入るのではありませんか?」

 

「多分な。とはいえ、今ポイントが振り込まれても大した額じゃないと思うけどな」

 

 オレの予想では、精々が50ポイントから100ポイントの間だと思っている。50ポイントだったら五千円、100ポイントだったら一万円か。

 それでも大金であることに変わりはない。昔は『一万円で一ヶ月を過ごすことが出来るのかプロジェクト』なんて番組があったと、池がこの前教えてくれた。

 ちなみに彼はその番組を参考にして、現在ゼロ円生活を送っているらしい。一万円自体が無いのに参考になるのか甚だ疑問だが、彼のその姿勢には素直に感心する。

 曰く、食堂にて無料で売られている山菜定食も味わえば美味いとのこと。彼の強さを感じられずにはいられなかった。

 堅苦しい話はこれで終わりだ。

 椎名もそれは思ったようで、スクールバッグのチャックを開き、一冊の本を取り出して表紙を見せてくる。

 

「ところで綾小路くん、この本を知っていますか? ウィリアム・アイリッシュ著の『幻の女』です」

 

 知識としてはある程度知っている。

 ウィリアム・アイリッシュ、これは本名ではなく、実際の名前はコーネル・ジョージ・ホプリー=ウールリッチであり、彼は様々なペンネームを使ったアメリカの推理作家だ。

 日本ではアイリッシュ名義の『幻の女』が有名なため、日本人からは『ウィリアム・アイリッシュ』と認識されている。

 オレが知っているのはここまで。

 あとは目の前で瞳を輝かせている文学少女に尋ねるとしよう。

 

「名前は一応知ってる。主人公が可哀想だとは噂で聞いたことがあるな」

 

「はいっ。この物語の鍵は題名通り『幻の女』が担っていまして──」

 

 横で楽しそうに朗らかに笑う椎名は、とても綺麗だった。

 時折見せるその表情を、これからも見たいなと、オレは本心で思う。

 だが、同時にもう一人のオレが告げてくるのだ。

 

 

 

 ──お前にそんなことは出来ない。何故なら、それこそが綾小路清隆(きよたか)という人間なのだから。

 

 

 



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幕間 ─『戦争』の幕開け─
変化していく人間関係


 

 一学期中間テストが完了し、その試験結果が各クラスの担任から発表された。

 

 一位──一年Cクラス

 二位──一年Dクラス

 三位──一年Aクラス

 四位──一年Bクラス

 

 その驚愕(きょうがく)的な結果は渦中(かちゅう)の一年生だけでなく、二年生、そして三年生までをも巻き込み、高度育成高等学校は(しば)し、いつも以上の喧騒さに包まれた。

 何度も告げるが、学校側は新入生が入学する際、『優秀な人材』はAクラス寄りに、逆に『不出来な人材』はDクラス寄りに配属した。

 その根底(こんてい)を覆す程の結果──すなわち、下位クラスの下克上に(みな)、驚きを隠せないでいる。

 各クラスのリーダー格の生徒は当然、何が起こったのかを確かめようと躍起になっているだろうし、水面下(すいめんか)では火花をバチバチと飛ばし合っていることは想像に難くない。

 とはいえ、交友関係が比較的狭いオレでは、蔓延(まんえん)し緊張した雰囲気を感じ取ることは出来ても、これといった情報が得られないのだから特に何かを感じるわけでもない。

 

 ただ確実に言えることは──このままのDクラスでは、他所のクラスとは戦うことすら出来ない事実がある、ということ。

 

 というのもひとえに、団結力の無さが全てに直結するだろう。

 現段階では平田(ひらた)洋介(ようすけ)がクラスの(まと)め役を担っている。だが、クラス一丸となってAクラスを目指しているわけではない。ポテンシャルだけでならDクラスがAクラスを目指すことだけは出来そうなものだが、個性が強過ぎる生徒が多過ぎて、先導者が制御出来ていないのが実情だ。

 それに今回好成績を残すことには成功したが、他の三クラスとのポイントは未だに絶望的だ。A、Bクラスとは少しばかり縮められただろうが、一番近くにいるCクラスには逆に離されてしまう形となった。

 そろそろ本格的に、クラス間での戦争──クラス闘争が始まる頃合だろう。

 まあ、オレには関係のないことだ。これからも平穏な学生生活を送れればそれで良い。

 

 

 

 中間テストから一夜明けた早朝、オレは学校指定のジャージに着替え、必要最低限の装備を整えてから一階のロビーに降りた。

 テスト週間から須藤(すどう)と始めたジョギングをするために、彼と合流するためだ。雨天時以外はほぼほぼ毎朝走っており、もはや習慣となりつつある。青春を謳歌(おうか)しているのが実感出来るな。

 ロビーのソファには既に彼が座っていて、オレを待っていた。近寄る足音に気付き、こちらに軽く手を挙げてくる。

 

「おっす、綾小路(あやのこうじ)

 

「おはよう、須藤。今日はいつもより早いな 」

 

「テスト乗り越えたからな、昨日の夜は喜びで興奮しちまってよ。中々寝付けなかったんだ」

 

『三バカトリオ』と、不名誉極まりない渾名が付けられている須藤(けん)が中間テストを乗り越えたことには、多くの生徒が驚いていた。

 無理もない。

 小テストでは(ある意味で)驚異の十四点を取り、遅刻に居眠りを繰り返してきた彼が赤点を取らないなんて、驚かない要素がないからな。

 確か中間テストの彼の平均点は六十七、八点だった気がする。これで一般的なテストだったら高成績だったが、こと今回のテストにおいては学年平均を下回る成績だ。それでも誇るべきことだと、オレは思う。

 準備体操を二人で入念に行ってから、事前に決めていたコースを走る。最初はジョギングだから、彼と話す余裕が多少はある。

 

「今日から部活に参加するのか?」

 

「ああ。結構な日数を休んじまったからな、少しでも多く練習しないとならねえ。けどこうして毎日運動してたから、そこまでの心配はしてないけどな」

 

「なら良かった。明日からはどうする? もともと、テスト期間中の体力の衰えを緩和するために走っていたから、終わった今、やる必要は余りないけど……」

 

「綾小路さえ良ければこれからも続けていきてえ。駄目か?」

 

「もちろん構わない。健康にも良いしな。だけど須藤、授業中に寝るなよ?」

 

 一応釘を指す。

 部活が今日から再開されるのだとしたら、疲労はこれまで以上に溜まるだろう。

 この学校のバスケットボール部がどれだけ厳しく激しい練習をしているのかは、部員ではないオレでは分からない。

 だが、バスケットボールは球技の中でも特に体力を使うスポーツだと以前耳にしたことがある。しかも須藤は本気でプロになろうとしている。どんな練習でも真剣に、真摯(しんし)に、そして全力で打ち込んでいるはずだ。

 これに朝のジョギングを加え、さらに学生の本分である学業が付随してくる。身体を壊さないのか友人として心配だ。

 彼はオレの危惧に一言礼を告げてから、しかし、大丈夫だとばかりに力強く頷いた。

 

「気遣ってくれてサンキューな。けどよ、本気でバスケのプロになろうとしたらもっと力を付けなくちゃな」

 

「……なんかお前、ちょっと変わったな」

 

 オレの率直な感想に、須藤は照れくさそうにガリガリと後頭部を掻いた。

 四月、入学当初あった猛々(たけだけ)しい覇気(はき)は心做しか鎮まっているし、何より──素直に人に礼を告げるところとか特にそうだ。

 

「何かあったのか?」

 

「……笑わねぇか……?」

 

「笑うはずがないだろ。人が変わる、変わろうとしている。それだけでも凄いのに、その理由を聞いて、笑うはずがない」

 

 本心を告げる。

 友人が変わろうとしている。それが良いか悪いかは本人にしか分からない。だが、その『変化』はとても大切なことだと、オレは思う。

 それに、オレ自身興味があった。何も変われないオレが、どうしたら変われるのか。そのヒントが得られるかもしれない。

 

「俺……堀北(ほりきた)に惚れたんだ」

 

 須藤は西空に顔を見せつつある朝日を眩しそうに眺めながら、ふとした拍子にそう言った。

 脳が数秒フリーズし、稼働するまでこれまた数秒必要とした。

 須藤健が堀北鈴音(すずね)に惚れた。その過程が全然想像出来ない。

 

「……悪い。もうちょっと詳しく教えてくれないか」

 

「勉強会に俺や(いけ)たちは参加しただろ? 俺と沖谷(おきたに)は堀北に(おも)に教えて貰ったんだけどよ。……ここまでは綾小路も居たから知っているよな?」

 

「ああ」

 

 池と山内(やまうち)櫛田(くしだ)にぞっこんだから、堀北は敢えてそうやって組み分けたんだろうな。好きな人が勉強を教えてくれる、男が動くのには充分だと判断したんだろう。

 

「俺は馬鹿だ。小学生なみの学力だ。この数週間、痛感した。……正直、勉強が将来必要になるかは分かんねぇ。──けど、やっておいて損はないって今は思ってる」

 

 やっておいて損はない。勉強なんて無価値だと考えていたであろう須藤が、消極的にとはいえ、一歩歩き出した。

 その最大の理由が堀北の存在なのだろうと推測する。

 

「堀北はよ、馬鹿にしながらも俺に勉強を教えてくれた。生意気(なまいき)な口の悪さに何度も顔面を殴ってやろうと思った。バスケのプロを目指すことを否定された時は特にそうだ。俺は女は殴らない主義だが、あの時ばっかりは摑み掛かりそうになったぜ」

 

 須藤は当時のことを思い出しているのか、遠い目になりながら語り始めた。オレは彼の言うことは一理あると、内心、首を縦に振る。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 相手を見下すその考えが、彼女が『不良品』の巣窟(そうくつ)であるDクラスに配属された理由だと、オレは考えている。

 彼女の兄、堀北(まなぶ)も彼女に対して言っていた。『孤高と孤独を履き違えている』と。『孤高』と『孤独』。一見それらの言葉は似ているようが──しかし、違う。

『孤高』とは能動的なこと。自分から独りで居ることを好み、(こころざし)を持つこと。

『孤独』とは受動的なこと。仲間や身寄りがおらず、最期(さいご)まで独りで居ること。

 堀北は中途半端なのだ。だからこそ、堀北の兄貴は妹に対してあんなにも冷たいのだろう。もしくは別の理由があるのかもしれないが、それは部外者のオレでは推し量ることは出来そうにない。

 須藤の告白は続く。

 

「あいつは勉強会最終日に、一人一人に声を掛けて言ったんだ──

 

『私は最初、バスケットボールについて何も知らず、あなたを否定した。スポーツでプロになる厳しさ、過酷さを勝手に想像して、無理だと、無謀だと勝手に評して愚かな人だと哀れんだ。けれど、本当に愚かな人だったのは私だった。本気で目指しているあなたが、それを知らないはずがないのにね。須藤くん、今回勉強会で培った努力や頑張りを忘れず、バスケットに活かして。そうすればあなたは、日本が誇る一流の選手になれるかもしれない。──今回あなたは人一倍努力したわ。醜い足掻(あが)きだと人は言うでしょうけれど、けど、その努力は本物よ。明日の中間テスト、ベストを尽くしなさい』

 

 ──あの時、本当に嬉しかったんだ。俺はよ、綾小路、自分で言うのもなんだけど、自分のことはクズだと思っている。バスケ以外取り柄がないクズだってな。けどそのクズを、堀北は認めてくれた。惚れちまったよ」

 

 気付けば俺と須藤は身体を動かすのを止めて、互いの顔を見つめていた。

 彼の表情はとても誠実で、真摯なものだった。どうやら本当に、彼は心の底から堀北に惚れたようだ。

 

 ────()()()()

 

 誰かを好きになるということ。誰かを嫌いになるということ。誰かを愛するということ。誰かを憎むということ。

 そんな感情がオレには湧かないからだ。だがもし、もしオレが誰かを想うとしたら、その時オレは────。

 

「長くなっちまったな。……変か?」

 

「いや、全然。友人として応援するよ。でもそうか、だから昨日、オレが以前、堀北に昼飯を奢られた時の話に食い付いてきたのか」

 

 納得する。

 好きな女がそこら辺の男に飯を奢っていたら邪推するというものだ。それに自惚れでなければ、堀北と一番仲が良いのはオレだしな。

 一人勝手に頷いていると、須藤が恐ろしい形相(ぎょうそう)で顔を近付けてきた。怖い、冗談抜きで怖い。

 

「俺の心の内を(さら)したんだ。その時の話を詳細に教えてくれ」

 

「その前に、まずはジョギングを再開させるか」

 

 同伴者の答えを聞かずに、足を動かす。いつもよりスピード上げ、冷たくて固いコンクリートを蹴る。流石と言うべきか、須藤はすぐに追い付いてきた。

 オレは彼が求めているだろう言葉を言った。

 

「堀北が勉強会を開くその前に、相談を受けていたんだ。そのお礼を込めて、昼食を奢られただけだ」

 

「本当か? 嘘じゃないよな」

 

「安心しろ。むしろオレは最初、喜ぶ前にあいつを疑ったしな」

 

「なら良いけどよ……。なぁ綾小路、どうしたら堀北を落とせると思う?」

 

「恋愛経験ゼロのオレに聞くか」

 

「それでも池や山内よりは頼りになるだろ」

 

 比較対象がその二人だと、頼られてもあまり嬉しくないな……。

 嫌そうな顔を向けたくなるが、仕方ないので真面目に考えてみよう。

 須藤健が堀北鈴音を落とせる方法。……何だろう、全然思い付かない。

 

「……今のお前じゃ無理だろうな」

 

「ンなことは分かってんだよ。その上で聞いてんだ」

 

「……まずだけど、もうちょっと落ち着いた方が良いだろうな。須藤はすぐに『暴力』で物事を解決しようとするだろ? それは止めた方が良いんじゃないか? 少なくとも一般的な女子はそんな男は嫌いなはずだ」

 

 まぁでも、堀北がその一般的な女子に当てはまるかと尋ねられたら閉口するしかないが。

 というかそもそもの話、彼女は異性と付き合いたいとか思うのだろうか。仮に須藤が『良い男』に成長したとしても、彼女自身が恋愛に興味がなければ意味のない気がする。

 

「もし堀北が誰とも付き合わない腹積もりならどうするんだ?」

 

 オレの質問に、須藤は間髪入れず即答した。

 

「あ? そん時はそん時だ。あいつが首を縦に振るまで何度もアタックするだけだぜ。──おっ、そろそろ飛ばすか。先に行ってるぜ!」

 

 聞いているこっちが恥ずかしくなるような言葉を言い残し、須藤は一気に加速する。たちまち彼の後ろ姿が離れ、距離が開いた。

 オレはそんな彼を呆然と眺める。数秒後、ハッと我に返り、彼を追うべく、オレも朝空の下を駆けた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 朝の日課を終わらせて須藤と別れた後は、シャワーを浴びたり、洗濯物を干したり、朝食を済ませたりと忙しい。

 社会人にとっても学生にとっても朝の時間はあっという間に過ぎ去っていく。一秒たりとも無駄には出来ない。

 寮生活の弊害(へいがい)と言えるだろうな。普通なら家族に頼むことも、自分でやらなくてはならない。この前池と山内が面倒臭いと愚痴(ぐち)を零していたが、それも分かるというもの。

 

絨毯(じゅうたん)でも買った方が良いか……?」

 

 朝食のトーストを口に運び、今日の天気予報をテレビの液晶画面越しに観ていると、ふと、そんなことを思い立った。

 以前椎名(しいな)が我が家を訪ねてくれた際、オレは日本人として、『おもてなし』の心が欠けていたように思える。彼女には寮に予め用意されていた座り心地があまり宜しくない座布団に座らせてしまった。彼女は特に文句を言ってきたわけではなかったが、どうしても気にしてしまう。

 しかしこの先の寮生活で、いったい、どれだけの数の友人が遊びに来てくれるんだろう。その考えに至ると、どうしても二の足を踏んでしまうのだ。

 自分で言うのもなんだが、オレは友達が少ない。高校に入学してからもう少しで二ヶ月が経とうとしているが、部屋に通したのは椎名一人だけだ。

 …………悲しくなってきた。これ以上考えるのはやめよう。虚しくなる一方だ。

 濁った目でトーストを齧っていると、部屋のチャイムが鳴った。ロビーからではなく、玄関側だ。

 一瞬居留守(いるす)を使うことを考えたが、後が怖いからやめた。とはいえ、これで相手が接点のない生徒で、遊びで鳴らしたのならオレにも考えがある。

 

「はい」

 

 万が一に備え、脳内で四百二十五の対処法を考えながら玄関に向かうと、訪ね人の正体が判明する。

 

「おはよう、綾小路くん。朝早くから押しかけてごめん。今、時間良いかな?」

 

 聞き馴染みのあるクラスメイトの声だった。

 爽やかなイケメンボイスを出す同級生を、オレは一人しか知らない。

 

「どうした平田」

 

「改めておはよう、綾小路くん」

 

 扉を解錠し開け放つと、そこには一年Dクラスの人格者、平田洋介が申し訳なさそうな顔をして立っていた。彼が制服姿であること、そして右肩に担がれているスクールバッグから、登校中にオレの部屋を尋ねたことが窺える。

 外で放置することは簡単だが、流石にそれは相手に対して失礼極まりないことだ。

 

「中に入るか?」

 

「うん、お邪魔させて貰うよ。本当にごめんね」

 

 本日二度目の謝罪を口にする平田を安心させるために、オレは慣れない笑顔を浮かべて彼を我が家に招き入れた。

 おめでとう平田。オレの家に来たのはお前で二人目だぞ……!

 彼は子どものようにはしゃぎながら廊下を進んで行った。普段の彼はクラスではクラスを纏めるためだけに行動していると言っても過言ではないから、彼の歳相応な様子はとても珍しい。これで彼女の軽井沢(かるいざわ)にでも動画を送ったらどうなるだろうか。……怖いからやめておこう。

 しかしそんな様子もリビングに行く頃には収まり、やがて困ったように彼は片頬を掻いた。

 この流れは知っている。椎名の時と同じ展開だ。オレは先を越される前に予防線を張った。

 

「悪いな、何も無い部屋で」

 

「う、ううん。……ただ入学した時のことを思い出しちゃったよ。でも意外……でもないかな。綾小路くん、無駄なことはしないイメージがあるから」

 

 この二ヶ月でオレの性質をある程度は理解しているようだ。

 平田はテーブルの上に置かれているトーストやミルクに視線を送る。

 

「朝ご飯の途中だったんだね」

 

「ちょっと待ってくれると助かる。すぐに食べ終わるから」

 

「綾小路くんのペースで食べて良いよ。僕は押しかけた身だからね」

 

 ならその言葉に甘えさせて貰おう。オレは平田にテレビのリモコンを託してから、出来るだけ朝食を早く終わらせるため、口の運動をいつもより早くした。

 

 ──数分後。

 

 オレと平田は床に腰を下ろして向かい合っていた。

 椎名にも使って貰った例の座布団は座り心地が悪そうだ。これで池や山内だったら文句を言うんだろうが、目の前に居るのは、彼らとは一線を画す我らがDクラスのリーダーだ。

 彼はいつも浮かべている柔和な微笑みをオレに向けながら、話を切り出すタイミングを見計らっているようだ。こちらから仕掛けるとしよう。

 

「それで、用件はなんだ?」

 

「綾小路くんと、どうしても二人きりで話がしたかったんだ。ほら、学校だとその……軽井沢さんや他の女の子たちがいるからね」

 

「モテる男は自由な時間が少ないな」

 

「あははは……」

 

 オレのちょっとした嫌味に、けれど平田は怒ることはせず気まずそうに苦笑いを浮かべるだけだ。

 これがモテる男の力なのか。平田洋介、本当に恐ろしい男……!

 彼はこほんと咳払いをしてから、深々とオレに頭を下げてくる。突然の出来事にオレが慌てている中、彼は言った。

 

「まずは綾小路くん、過去問を僕に渡してくれて本当にありがとう。きみのおかげでDクラスからは退学者が出なかった」

 

「そこまでお礼を言われることじゃないと思うけどな。それにオレが過去問を入手していなくても、平田や堀北だったら退学者を出させなかったと思うぞ」

 

「それな……無理だったと思う……」

 

 弱々しく首を横に振る平田に、オレは何も言うことが出来なかった。

 下手な(なぐさ)めはかえって相手を傷付けるだけだと判断し、何故そのように考察したかを尋ねる。

 

「理由を聞いても良いか?」

 

「……これはあくまでも僕の想像だ、その点は予め了承して欲しい。──何もアクシデントがなかったら、皆クリア出来たと思う。多分だけどね。けど……」

 

「唐突なテスト範囲の変更で、確率は一気に下降した」

 

「特に須藤くんや池くん、山内くんたちはギリギリだったと思う。いいや、彼らだけじゃない。クラスの過半数は『赤点』の二文字が迫っていた」

 

 平田のその考えは正しい。事実、堀北もオレのしつこい追及によって、渋々ながらも認めたのだから。

 さらには茶柱(ちゃばしら)先生の伝達ミス。オレたち一年Dクラスは途轍もない数の不幸に襲われていた。

 死神の鎌は首筋に当てられていたってことだ。

 

「綾小路くんのおかげだ。きみの働きがあって、僕たちは中間テストを乗り越えられた。その『結果』は変わらない。それに今回、僕たちは学年二位の成績を残せた。来月はポイントが支給されるんじゃないかな」

 

 素晴らしい慧眼(けいがん)だと、オレは内心舌を巻いていた。

 平田洋介は、こと現在のDクラス内でなら、総合的には首位に位置するだろう。

 確かに彼の言う通り、オレが裏で働いた影響はとても大きかっただろう。しかし、効果を発揮出来たのは彼がこの二ヶ月でしっかりとした土台を作ってきたからだ。

 例えばもし、オレが誰にも過去問を渡さずに、自分の手でクラスメイトに流そうとしたら。当然彼らは疑うだろう。

『どうしてお前が……?』と、そのように評価され、過去問の価値が大きく下落してしまう可能性が高かった。

 女だったら見惚れるであろう笑顔を見せる少年。彼がオレに感謝しているのは本当だろう。

 しかしそれだけじゃない。彼は礼を告げること以外にもう一つ、明確な目的があってここに来た。

 

「何も言わないんだ?」

 

「言うって、何をだい?」

 

()()()()()()()()? オレがDクラスだけじゃなくて、Cクラスにも過去問を流したことを」

 

「困ったな……。まさか綾小路くんの方から言ってくるとは思わなかったよ」

 

 平田は短く嘆息(たんそく)した。彼ほど優秀な人間が、オレが暗躍したことを察せられないはずがない。もちろん、情報が何もなかったら気付かないだろうが……。

 一呼吸置いてから、彼は言う。

 

「少なくとも僕に分かることは、綾小路くん、きみがDクラス、そしてCクラスに過去問を流したことだけだ。そして多分、この前言っていた椎名ひよりさんが関係しているんだよね?」

 

「その解釈で合っている」

 

 Dクラスで平田だけが、オレと椎名のクラスを越えた付き合いをより詳細に認知している。

 数週間前、オレは彼から遊びに誘われ、そして放課後を使い時間を共有した。遊んだと言っても、実際は取り巻きの女子生徒たちのせいで、ぼっちと化したオレからすれば男としての差を見せ付けられて内心滝の涙を流すはめになり、お世辞にも楽しいとは言えなかったが……。

 とはいえ、ほんの数分なら彼と二人きりになる時間が必ず訪れる。オレはその貴重な瞬間を使用し、彼にオレと椎名の事情を話した。

 クラス闘争には、クラスメイトとしては必要最低限協力するが、率先しては動かないこと。Cクラスの椎名ひよりとこれから先も付き合いを継続すること、だが、互いのクラスの内情は決して触れないこと。

 

「正直言うとね、僕は綾小路くんのことをもっと冷めた人だと思っていたよ。気分を害したらごめんね」

 

「いや、それは大丈夫だけどな……。それより教えてくれ。『冷めた人』って、どういうことだ?」

 

「うーん、なんて言ったら良いのかな……。きみはクラス内で、堀北さんや須藤くんたちと最も仲が良いと思うんだけど、関係性が薄いように思えるんだ」

 

 関係性が薄い、か。

 

「もっと悪く言うと、上辺だけの付き合いって言うのかな。相手からの好意は受け取るけど、自分からは好意を投げないっていうか……」

 

 なるほど。言われてみれば確かにそうだな。

 流石はDクラスの先導者。自分のクラスメイトのことを良く観察している。

 

「ここからは何も確証がない憶測だよ。──多分、椎名ひよりさんが危機的状況にあったんじゃないかな。この前までCクラスはちょっとした内紛状態だったからね。彼女はそれに巻き込まれてしまった。綾小路くんは彼女を助けるために作戦を決行した。違うかい?」

 

「八割がた合ってる」

 

「つまり、きみはあくまでも椎名ひよりさんを救うために動いたってことだよね。……嫌な質問をするけど、もしこれで何もなかったら、きみはクラスのために過去問を手に入れようと動いた?」

 

 嘘は許さない、そんな意思が平田の瞳から伝わる。オレは彼の瞳を真正面から受け止め考えてみた。

 もし、もし龍園(りゅうえん)(かける)が取引を持ち込まなかったら……オレは須藤や池たちのために動いただろうか。

 

「……どうだろうな。その時にならないと分からない、そう答えるしかない」

 

 不誠実極まりない解答に、平田は声を荒らげるわけでも、胸倉を摑むわけでもなく、ただ優しく微笑んだ。真意が読めない純粋な微笑。

 彼は窓から覗き見える雲を見つめながらふいに……。

 

「僕はね、綾小路くん。()()()()()()()()()()()()()

 

「……辛いと思わないのか?」

 

 オレの質問に、平田はキョトンとした顔になった。まるでそんな考えに至らなかったかのように。

 

「辛い? あはは、そんなこと思ったこともないよ。全部、僕が願ったことだからね。そんな感情、湧き出したことは一度もないかな」

 

 無邪気に笑う少年の顔を見て、オレは逆に顔を強張らせてしまった。彼が抱えている『闇』の一端を垣間見た気がした為だ。

 平田洋介は善人だ。善行を尊ぶ人間だ。困っている人が居たら率先して声を掛け、そして助けるだろう。既知だろうと未知だろうと関係なく、彼は身体を張って助けるだろう。

 しかし同時に、壊れているとも思う。彼が『苦痛』を感じた時──何が起こるか見当もつかない。

 

「ごめん、話が長くなっちゃったね。僕としては綾小路くん、きみが他のクラスの人とどう付き合おうと口出しはする気はないよ。そもそもこの学校が特殊なだけで、普通ならもっと他クラスとも交友があっても良いしね」

 

「オレとしたら願ったり叶ったりだけど、本当に良いのか?」

 

「うん。けど代わりに、それとは別に一つだけお願いを聞いて貰っても良いかな。──綾小路くん、出来ればきみには、個人的に僕に協力して欲しいんだ」

 

「……それはつまり、Dクラスの一員としてじゃなくて、平田洋介という人間の仲間になれってことか?」

 

「その解釈で間違ってないよ。きみは敢えてその聡明さを隠しているんだと、僕は考えているんだ」

 

「過大評価はやめてくれ。ちょっとだけ悪知恵が働くだけだ」

 

 オレの返答に、平田は無言の微笑を浮かべるだけだった。

 どうやら彼はある程度の確信を持って事を進めようとしている。

 先導者が求めているもの、それは絶対的な『協力者』。裏切らない『駒』と言うべき存在を彼は渇望している。

 今のDクラスではAクラスを目指すことなど夢のまた夢。このまま『変化』が何もなく『不良品』のままだったら日々のお小遣いを稼ぐことだけで精一杯だろう。

 だからこそ彼は求める必要がある。自身を裏切らない、いや、裏切れない者を。

 

「具体的にはどうすれば良い?」

 

「これから先、Dクラスは内輪揉(うちわも)めが高い確率で起こると僕は視ている。その時誰かが諌める必要がある。そしてその役割は──傲慢かもしれないけど──僕しか担えないとも視ているんだ」

 

「少なくとも現状はそうだろ。……なるほど、その時オレはお前に賛同すれば良いんだな」

 

「うん。僕のグループは軽井沢さんをはじめとした女の子たちが多くて、代わりに男の子は少ないからね。この前の一件で池くんや山内くん、何よりも須藤くんとの開いていた仲を縮められたのは良かったけど、それでもあと一歩足りないのが僕の見解だ。特に、須藤くんとは仲良くしていきたい」

 

 運動能力に大きな偏りがあるDクラスで、須藤は必要だからな。

 それに何より、彼と最も仲が良いのはオレだ。オレが平田を推せば、彼も高確率で付いてくるだろう。

 彼からしたら一石二鳥だな。

 

「綾小路くんには僕が意見を言った時、僕を支持して欲しいんだ。もちろん、きみの意思を捻じ曲げろとまでは言わない。考えが合わなかったら反対してくれて構わない。なるべくで良いんだ。……代わりに僕は、きみと椎名ひよりさんの味方をするよ。クラス闘争が始まってなお、友達付き合いをしているきみたち二人には、遠からず厄介事が降り掛かると思うから。その時僕は全面的にきみたちの味方をする。約束する」

 

「分かった。その提案を呑む。平田はオレを、オレは平田を利用するってことだな」

 

「言葉はちょっと悪いけどね」

 

 平田は苦笑いしながら、右手をオレの方に差し出す。オレは彼の自身の右手で摑み、結ばれた糸を二、三回上下に揺らした。

 お互いにデメリットはなく、メリットしかない契約。

 こうなることは正直予想出来なった。しかし平田洋介という男とこうして協力体制を作れたのはかなり良かったと思う。絶対的な信頼関係を築くより、今回のようなケースの方が莫大な効果を生み出すこともある。

 

「それじゃあ()()、そろそろ時間だから行こう」

 

「……!?」

 

 これ以上は本格的に遅刻のピンチだ。クローゼットからハンガーに掛けられている学校のブレザーを取り出し身に纏う。

 忘れ物がないか最終チェックをしていると、横から恐る恐ると言った具合に……。

 

「あ、綾小路くん? さっき、僕のことを『洋介』って……」

 

「悪かったか? 名前呼びをしている間柄なら、お前をいつも支持したとしても問題ないと思うんだが」

 

「ううん、何も問題ないよ。それじゃあ今から、僕も清隆(きよたか)くんと呼ぶね」

 

「ああ」

 

 洋介は無垢なる笑顔を浮かべて、嬉しそうに一度頷いた。

 寮から出て通学路を彼と並行しながらやや小走りに移動していると、ふと思い出したように話を振ってくる。

 

「そうだ清隆くん。今日の昼休み空いているかな。軽井沢さんたちと一緒に打ち上げを開く予定なんだけど、もし良かったらどうだい?」

 

「オレが参加したら、お前の彼女が怒りそうで怖いけどな」

 

「あはは。大丈夫だよ、軽井沢さんはそんなことで怒りはしないから。それにきみは一緒に勉強した仲間だからね、反対はしないはずだよ」

 

 オレのような人間からしたら、軽井沢のようなイケイケギャルは『敵』に分類される側の人間だ。

 いわゆる陽キャラVS陰キャラ、みたいな? まぁ結果は語る必要はなく、轟沈(ごうちん)することは容易に想像出来る。

 数秒迷う。平田の先程の様子から、オレを誘う予定ではなかったのは一目瞭然。

 しかしオレたちは協力関係になった。

 突然オレたちが下の名前で呼び合うような間柄になれば、誰もが訝しむ。だから彼はカモフラージュのために、今回の祝勝会を通して仲良くなったことにする算段なのだろう。

 

「悪いな、それじゃあお言葉に甘えて参加させて貰う」

 

「ありがとう。昼休みは一次会で、放課後二次会が開かれるんだけど、これにはどうする?」

 

「悪いな、放課後は先約で埋まっている」

 

「椎名ひよりさんかい?」

 

「いや、須藤や池たちと買い物に行く予定なんだ。それに今日、椎名は部活があるそうだから、彼女は関係ない」

 

「もし良かったら、何を買いに行くか教えてくれないかな」

 

「堀北と櫛田宛のプレゼント。ほら、オレは兎も角としてあいつらは彼女たちに教えて貰ってたからな。そのお礼がしたいんだろう。オレはその付き添いだな」

 

 池の提案の元、今日の夜は中間テストの打ち上げが開催される。

 参加者は堀北、櫛田、須藤、池、山内、沖谷、そして最後にオレだ。

 オレは別段、勉強会に参加して彼らと一緒に苦楽を共にしてはいないのだが、彼らから誘われたのだ。

 場所は未定、集合時間も未定、色々と不安はあるが、今どきの高校生はこれくらいの無計画さの方が気楽で良いのかもしれない。

 校舎に入り、洋介と一緒に教室にへと足を踏み入れると、多種多様な表情のクラスメイトがオレたちを出迎える。殆どは困惑が圧倒的に多かった。無理もないかもしれない。

 これまであまり接点がなかった二人が、楽しそうに? 談笑しながら登校してきたのだ。

 

「平田くんと綾小路くんがなんで……?」

 

「偶然だろ、偶然」

 

「でも綾小路くん……はイマイチ分からないけど、平田くん、とても楽しそうだよ。ってことは、一緒に登校してきたんじゃないの?」

 

「あの二人、あんなに仲が良かったのか?」

 

「平田くん主催の勉強会に途中から参加してきたんだけど、多分その時に仲良くなったんじゃないかな」

 

 クラスメイトたちのヒソヒソ話をなるべく耳に入れないように注意しながら、オレは洋介と別れて自分の席にへと向かう。

 朝のSHRまでにはまだ時間があったが、オレたちが最後の組のようで、殆どの生徒が着席しているようだった。

 テーブルの留め具にスクールバッグを掛けていると、右隣から挨拶が出された。

 

「おはよう、綾小路くん」

 

「おはよう。……どうした堀北、お前から挨拶をしてくるなんて、明日は雪でも降るのか?」

 

「そんなわけないでしょう。それよりあなた、どうして平田くんと一緒に……?」

 

「勉強会を通して仲良くなったんだ。あいつは良い奴だからな」

 

「……そう、ならそれで良いわ。話は変わるけれど、打ち上げはどこで開かれるのかしら」

 

「さぁな。カフェやレストラン……に行くのが妥当なんだろうけど、池や山内たちはポイントに余裕がなさそうだ。おおかた、誰かの寮の部屋じゃないか」

 

「池くん、山内くん、須藤くん、そして私の部屋だったら参加は辞退するからそのつもりで」

 

「オレに言われても困る」

 

 まあ、堀北の気持ちは分かる。

 自分の部屋が会場に使われると後片付けが面倒臭いし、何より女性が異性を招きたくないのは当然だな。

 池、山内、須藤の三人は普段の日常生活から、彼らの寮の部屋がどうなっているかはある程度想像がつく。散らかっている様子が簡単に脳裏に思い浮かべられるが、けれど同じ男としてフォローさせて貰えば、男の部屋なんてそんなものだろう。

 兎に角、今日は人生で初めての打ち上げだ。楽しみに待っているとしよう。

 



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表裏一体

 

 四時限目の授業の終了を告げるチャイムが校舎に響き渡り、同時に、昼休みの開始を告げた。教科担当の英語教師、真嶋(ましま)先生が号令を掛ける。

 

「今回習った関係詞はとても大切な文法なので、復習をしっかりするように。本日はここまで」

 

「「「ありがとうございました」」」

 

 真嶋先生はオレたち生徒の挨拶に、特にこれと言った反応を返すことなく教室をあとにする。茶柱(ちゃばしら)先生と同様、彼は『冷たい先生』という印象を生徒たちに持たれていた。

 とはいえ、ひとえに『冷たい』と言っても様々だ。茶柱先生の場合は生徒に非協力的で冷淡(れいたん)、『どうして教師をやっているのか分からない』といった具合だが、真嶋先生は『話し掛けたら話してくれるし、分からなかった箇所があったら教えてくれる、けど積極的じゃない』といった具合で『フラット』……つまり、常に生徒たちとは一定の距離を保ち続けている。そしてそれは、自分が受け持っている一年Aクラスの生徒だろうと変わらない。

 ちなみに彼が受け持っている教科は先に述べた通り英語だが、少し前は別の教科担当としても勤めていたのだとか。そのことから、彼が教師として優れていることが窺える。

 一年Bクラス担任、星乃宮(ほしのみや)先生だけは彼女のフレンドリーな性格であるがために生徒たちから慕われている。いや、慕われているは誤用だな。あれは多分、『歳上の近所のお姉さん』と言ったものか。

 お姉さんとして扱うには些か無理があるけれど(実年齢的に)、総じて彼女は人気が高い。

 A、B、Dクラスの担任とは面識があるが、唯一Cクラスの担任とだけは無かった。名前だけは一応知っているが、これから先の学校生活で接点を持つとは到底考えられないから頭の隅にでも置いておこう。

 ()にも(かく)にも学生にとって至福のひとときである昼休みの突入だ。高度育成高等学校の昼休みは四十五分。『普通』とは縁遠いこの学校だが、そういった基本的なシステムは全国各地の学校と同じだ。

 

清隆(きよたか)くん、行こうか」

 

 洋介(ようすけ)がイケメンスマイルをいつものように浮かべながら誘ってくる。彼が教室の中を移動するだけで、彼に骨抜きにされている女子生徒たちは目をハートマークにする。そんな光景を怨嗟(えんさ)の目で見る男子生徒たち……というのが、Dクラスの昼休みの開始を意味していた。

 しかし今日に限っては、そのルーティンは行われなかった。

 

「ああ、今行くよ洋介」

 

「「「……!?」」」

 

 オレが平田(ひらた)の下の名前……『洋介』と呼び捨てにしただけで教室は騒然となる。須藤(すどう)(いけ)山内(やまうち)といったこのクラスで比較的仲良くしている男連中は驚愕的(きょうがくてき)な表情を浮かべて目を()いているしな。

 隣人の堀北(ほりきた)は流石と言うべきか、感情を顔に出すことはしなかったが、それでもテーブルの引き出しに参考書やノートをしまおうと動かしていた手を止めるくらいには驚いている。

 ……困ったな……。

 まさかここまで過剰に反応されるとは、正直思ってなかったんだが。ああ……胃が痛い。

 

「どこで打ち上げをするんだ?」

 

軽井沢(かるいざわ)さんや他の女の子と話したんだけど、カフェに行こうと思っているんだ」

 

「……カフェか……」

 

「あはは……清隆くんはカフェとか行かなさそうだもんね。無理強いはしないけど……どうかな?」

 

 数週間前の苦い記憶が頭の中でフラッシュバックする。高円寺(こうえんじ)に誘われ、肩身の狭い思いを味わったあの敵地。

 あの時はただただ目の前で繰り広がれていた光景に呆然(ぼうぜん)としていた。何せすぐ近くにはクラスメイトが歳上の女性を侍らせていたのだから。

 しかし、しかしだ。

 今回は洋介が居るし、打ち上げに参加する女子生徒たちともある程度は話すことが出来るようになっている。

 それに彼とは協力関係を築いたばかりだ。『これから先』のことを考えると、断るのは得策ではないか。

 

「分かった。カフェで構わない」

 

「うんっ。まずは軽井沢さんたちと合流して──」

 

「平田くーん、それと……綾小路(あやのこうじ)くんも。早く行こう?」

 

 女王軽井沢が下僕の女子たちを率いて催促(さいそく)してくる。洋介の名前を呼ぶ時と、オレの名前を呼ぶ時の温度差について言及したいところだが、後が怖いからやめておこう。

 女王は彼女としての特権を存分に振るい、彼氏の片腕に抱き着きどんどん引っ張っていく。

 おお……! 衆人環視がある中で堂々と……! 流石は今どきの花の女子高生。

 洋介は苦笑いこそ浮かべているが、苦痛ではなさそうだ。彼なりに楽しんでいるのだろう。

 ──だが、そうだとしたら、どうして彼らはあんなにも()()()()()()()()()()。彼氏彼女の関係である彼らの仲は安泰(あんたい)そのもので、破局を迎えるとは到底考えられない。だが違和感を覚えるのも事実。

 恋愛経験ゼロのオレが、恋愛エキスパートの彼らに何かを言う資格はない。男女の交際はオレが考えている以上に神経を使うのだろうし、難しいのだろう。ただ……『薄っぺらい』と、彼らの後ろ姿を見てそう思った。

 男女差が激しく偏る隊列の中、オレは出来るだけ後ろに位置した。

 こういう時困るよな、中途半端の付き合いをしていると何を話したらいいか思い付かない。それが異性だったら尚更だ。

 肩を落としながらため息を零してしまう。

 

「「ハア────」」

 

 オレだけではないもう一人の声。

 どうやら、一歩先を歩く女子生徒もオレと同じような心境のようだ。

 おっと、そんな風にコメントしている場合じゃない。

 オレと彼女は自然と瞳を合わせる。

 

「あっ、えっと、その……あのっ……」

 

 が、すぐに逸らされた。

 少女はオレが傷心したことに気付いたのか、おずおずとこちらに目を向けてきた。目と目が合うが、またすぐに逸らされてしまう。

 何とも言えない気まずさを抱えながら、オレは彼女が誰かを思い出していた。

 当然ながらクラスメイトだ。名前は確か──王美雨(ワンメイユイ)、だったか。呼びづらい名前のため、『みーちゃん』という愛称が生徒間では使われている。

 (ワン)と呼ぶべきか、それとも『みーちゃん』と呼ぶべきか。

 彼女もオレと同様、洋介主催の勉強会に参加していた勉強仲間だ。しかし残念なことに彼女と話したことは皆無。

 そんな状態の中で『みーちゃん』と呼ぶのは照れくさいと言うか……。

 

「あ、綾小路くん、だよね?」

 

「そうだけど……。王美雨(ワンメイユイ)、だよな?」

 

 お互い、名前は知っているのに確認するというおかしな事態に襲われる。

 オレは悟った。彼女も悟った。

『あっ、このひと同族だ……』と。すなわち──友達が少ない孤独さを共感出来る人間であると。

 

「わ、私のことは『みーちゃん』でいいよっ。本名だと呼びづらいだろうし。私も綾小路くんって呼ぶからっ」

 

「分かった。ならこれからは『みーちゃん』って呼ぶことにする」

 

「うん……」

 

 会話が不自然に途切れる。これがオレの限界か……。

 思い返してみれば、オレって女の子とまともな出会いを一切していない気がする。

 付き合いがある女性を思い浮かべてみよう。

 まずは椎名(しいな)ひより。今でこそ彼女の存在はオレの中でしだいに大きくなっていっているが、それでも入学式のあの日、バスの中で会わなかったら、絶対そうはならなかったはずだ。

 次に堀北鈴音(すずね)。隣人の彼女とは出会い的な瞬間でならまともだったが、初対面で事なかれ主義というオレの信条を全否定されたし、名乗っても最初は断られてしまった。

 最後に櫛田(くしだ)桔梗(ききょう)。彼女は堀北と仲良くなりたいがためにオレに近付いてきた。もちろん、それが悪いとは言わない。連絡先を交換してくれただけでオレのような人間からしたら幸運だ。

 オレって本当に友達少ないな……。いや待て、落ち着くんだ。一旦冷静になろう。

 これはいい機会じゃないか? せっかくだ、みーちゃんと仲良くなろう。

 相互理解が何よりも大切だ。

 

「みーちゃんはどうして『みーちゃん』って呼ばれているんだ?」

 

「さっきも言ったけど、私の名前って呼びづらいよね? 日本にやって来た私に、初めて出来た友達が付けてくれたの」

 

「ハーフじゃないんだな」

 

「うん。私の両親はどちらも中国人なんだ」

 

 中国、中国か……。つまり彼女は外国人というカテゴリーに区分されるのか。

 そんな彼女が話す日本語はとても見事なものだ。

 

「日本には留学しに来た──悪い、不謹慎(ふきんしん)な質問だったか」

 

「ううん、そんなことないよ。綾小路くんの予想通りかな。中学一年生の時、お父さんが仕事でね。私やお母さんもその流れで」

 

 家族そのまま引っ越してきたのか。

 さぞかし勇気がいる決断だっただろう。

 

「これは単純な興味なんだけどな。苦労はしなかったか?」

 

「苦労?」

 

「言葉の壁とか、文化の違いとか」

 

「うーん、カルチャーショックはかなりあったかも。例えば──餃子(ぎょうざ)とかかな」

 

「餃子?」

 

 思いもしなかった単語の出現に戸惑ってしまう。

 餃子とは中国料理の点心の一つ。小麦粉を練って伸ばした薄い皮で、豚のひき肉や細かく刻んだ野菜を包んで半月形にし、焼いたり、()したり、ゆでたりしたもの──だったはずだ。

 

「中国の一般的な餃子は水餃子(みずぎょうざ)なんだけど……ここまでは知ってる?」

 

「ああ。ニンニクを中に入れず、別皿ってところまでは一応知識としては知ってる」

 

 日本では肉の臭みを打ち消すためにニンニクを皮の中に入れるが、本場では違うと、以前耳にしたことがある。

 

「それならこれは知ってるかな。日本だと『餃子定食』ってあると思うんだけど、綾小路くんは食べたことある?」

 

「食堂で二、三回は」

 

「そうなんだ。けどね、中国だと、『餃子定食』っていう概念はないんだよ」

 

「……?」

 

「うん、それが日本人の普通の反応だよね。日本だと主食はお米だけど、中国だと餃子が主食なんだ。だから、ご飯と一緒に餃子を食べるっていう考え方がないんだよね」

 

 食文化の違い、か。

 言われてみればそうかもしれないな。

 餃子に限らず……例えばラーメンやそば、うどんなどの麺類。日本人や朝鮮人は麺を(すす)りながら食すが、欧米人はその行為を嫌うという。なんでも啜る音──ズルズルと言った音が不快になるのだとか。

 

「あの時は本当に驚いたよ。ほら、中学校までは給食があるよね。何度か『餃子定食』が出されたんだよ。皆美味しそうにご飯と餃子を交互に口に運んでいて……『え〜!?』って思ったかなあ」

 

「皆、好きなように席に座ってくれないかな」

 

 おっと、話し込んでいたら目当てのカフェ、パレットに到着していた。

 洋介の指示の元、各々好きな席に座る……わけがなく、皆のヒーローを奪い合う熾烈な戦いが始まる。

 男だったら楽なんだが、女が居ると面倒臭いよな、こういうの。『笑顔を浮かべているが目が全く笑っていない』と小説でよく使われる表現があるが、なるほど、確かに無言の圧力が掛けられている気がする。

 数少ない男の数の少なさを主張して洋介の近くに行くことは充分に可能だろう。が、そうすると後が怖い。苛めとは些細なことで起こるものなのだ。

 オレはそそくさと案内された長テーブル……その右端を陣取ることにする。

 対面に座ったのは奇遇にもみーちゃんだった。彼女は多分、人とのコミュニケーションが苦手なのだろう。オレみたいな同族だったらシンパシーを感じて会話を楽しむことが出来るが、逆に軽井沢みたいな強気なタイプだと思うように話せられない。

 そしてそれは、普段の生活から窺える。

 というのも彼女は、洋介のグループではないからだ。確か、()(がしら)といった比較的落ち着きのあるグループに属しているはずだ。

 彼女がこの場に居るのは、たんに付き合いの問題なんだろうな。先導者からの誘いを断れば、クラスの半分の女子を敵に回すだろうし、今後の学校生活に支障を来す可能性も高くなる。

 女子たちの長い戦いは終わった。

 オレの対面には先程も述べたがみーちゃん。左は篠原(しのはら)という、女王の従者。左斜め前は確か……松下(まつした)だったか。彼女は女王の完全な仲間ではないが、みーちゃんと同じく付き合いの問題だろう。

 

「今日の昼食は僕が全額負担するから、好きなものを頼んで欲しい」

 

「えっ? で、でも平田くん……それは流石に悪いよ。ポイント全額って、一体幾らになるか分かんないし」

 

 軽井沢の猫被りの声。ちなみに彼女は、彼氏彼女の特権を乱用し、見事に洋介の左隣を陣取っている。カーストトップに位置するDクラスの女王に敵はいないな。

 だがな軽井沢。オレは知っているぞ。五月一日のあの日、お前がクラス中の生徒たちからポイントを半ば強制的に貰っていたのを。どれだけの生徒が被害を被ったことか……。

 

「大丈夫だよ軽井沢さん。僕はあと三万ポイントは所持しているからね。むしろ払わせて欲しいんだ」

 

「平田くんっ……!」

 

 尊敬の眼差しを洋介に向ける軽井沢。いや、彼女だけじゃない。オレ以外の全員がそうだ。

 これで益々彼の株が高騰したな。

 

「清隆くんも安心して好きなものを頼んで良いよ」

 

「それじゃあ遠慮なく」

 

 カルボナーラを頼む。洋介は手馴れた手付きで店員を呼んだ後、人数分の料理を注文する。

 少しばかり訪れる空白の時間。

 やがて軽井沢が不意に、核心に迫る質問をした。

 

「なんか平田くんと綾小路くん、一気に仲良くなったよね?」

 

「勉強会を通して、清隆くんとは親交を深めたんだ。そうだよね?」

 

「今日だって、朝食の時間を一緒に過ごしたからな」

 

「「「ええ────!?」」」

 

 驚き声がパレット内に響いた。周りに居た生徒たちがオレたちを訝しんで一瞥(いちべつ)してきたが、すぐに興味をなくしたようにそれぞれの時間に戻っていく。

 有り得ないとばかりに軽井沢たちは仰天している。

 

「……綾小路くんが……?」

 

「良くよく見てみれば顔整っているよね……」

 

「わっ! イケメンランキング五位にランクインしてる!」

 

「ほ、本当だ……! で、でも根暗そうランキングにも載ってる……」

 

 もの凄く口を挟みたい。

 何だよその、なんとかランキングって。女子の闇は深いな……。

 いや待てよ。龍園(りゅうえん)と初めて会った時、奴はランキングについて知っている素振りを見せていたな。……どうやって知ったんだろう。

 嘆息(たんそく)してから正面を見ると、みーちゃんと視線が合う。ランキングについて尋ねてみたい衝動に駆られたが、なんとか踏みとどまる。

 

「そんなにオレと洋介が仲が良いことが意外か?」

 

「う、ううんっ! そんなことないよっ!」

 

 反応からして嘘をついているのが丸わかりだ。数秒後、みーちゃんは顔を俯かせて。

 

「平田くんが、男の子を下の名前で呼ぶなんて思わなかったから。Dクラスでも苗字呼びだし……」

 

「さっきも言ったけど、勉強会で仲良くなったんだ。もともと洋介とは時々だけど喋っていたからな、共有する時間が増えれば自ずと仲良くなる」

 

「確かに言われてみれば、勉強会だと平田くん、綾小路くんとよく話してたもんね」

 

「良く見てるんだな」

 

「えっ!? う、うん……」

 

 送られた称賛に、みーちゃんはやや過剰に肩をビクンと震わせる。褒め慣れていないのか?

 軽井沢たち女性陣はオレと洋介の仲に一定の理解を示したのか、すぐに別の話題で盛り上がる。内容はここ最近流行っている服についてだった。

 洋介は笑顔で的確な相槌(あいづち)を打ち、話を広げることに尽力していた。

 そしてオレとみーちゃんだけが隔離されてしまう。

 こちらもこちらで盛り上がるとしよう。

 

「さっきの話の続きをして良いか?」

 

「うん、大丈夫だよっ」

 

「食文化で躓いたことは分かった。他で苦労したことは無かったのか? さっきも聞いたけど言語の壁とか」

 

「言葉の壁かあ……。最初はやっぱり大変だったかな。でもそこまでじゃなかったよ。私が通うことになった中学校には英語が得意な人たちが多かったから、すぐに打ち解けられたんだ」

 

「そう言えばみーちゃんはこの前の中間テスト、英語は満点だったな」

 

 国語や数学、社会で多数の満点者を数多く輩出した一年D組だが、英語や理科となると一気に減少した。

 いくら過去問があるとはいえ、英語、そして理科は基礎が理解出来ていないと解けないからな。特に英語はそうだろう。ちなみに、須藤や池たちが最も苦しめられた教科でもある。

 Dクラスの英語の満点者、つまり同点首位は堀北鈴音、高円寺六助(ろくすけ)幸村(ゆきむら)輝彦(てるひこ)、平田洋介、そして最後に──王美雨(ワンメイユイ)の合計五人。

 

「英語で満点は凄いと思う」

 

「ううん。確かに私は英語が得意だけどね、平田くんが過去問を手に入れてくれなければ満点なんて取れなかったよ。茶柱先生から渡された時、嬉しさのあまり泣きそうになっちゃった」

 

 はにかんでから、みーちゃんは洋介をキラキラとした眼差しで盗み見る。その表情はさながら、『恋する乙女』そのものであった。

 なるほど、どうやらみーちゃんは洋介に惚れているらしい。流石はクラスのヒーロー、いったい、どれだけの女性を落とせば気が済むのか。

 とはいえ、残念なことに彼女の恋は叶いそうにない。平田洋介には軽井沢(けい)という交際相手が居るのだから。

 それは彼女も分かっているはずだ。自分の恋が成就しないことは、一ヶ月も前から分かっている。だが、誰かを想うこと、その気持ちを持つことを誰が責められるだろうか。

 王美雨(ワンメイユイ)の視線に、洋介は気付かない。軽井沢も気付かないし、他の女子たちもそうだ。

 彼女が勇気を振り絞ってこの打ち上げに居るその最大の理由。それは好きな人と──たとえ、距離が離れていても同じ空間に居たかったからなのだろう。

 

「……羨ましいな……」

 

 声に出して呟いてしまう。幸いにもオレの独り言は誰にも拾われなかった。

 須藤(けん)は堀北鈴音に惚れている。王美雨(ワンメイユイ)は平田洋介に惚れている。

 そして──平田洋介は軽井沢恵と交際している。

 人間とは『変化』を嫌う生き物だ。特にそれは、誰かとの繋がりが変わる時に顕著に現れる。

 同性だったら他人から友達に。友達から親友に。親友から旧友に。

 異性だったら他人から友達に。友達から想い人に。想い人から愛する人に。

 注文した料理が運ばれた。

 洋介が代表して、周りに迷惑が掛からないように配慮しながらもグラスを上空に掲げた。

 

「乾杯」

 

「「「乾杯!」」」

 

 

 

 

§

 

 

 

「かんぱーい!」

 

 池が喜びに満ち溢れた表情でグラスを掲げ叫ぶ。

 楽しい時間が過ぎるのはあっという間だ。気付けば学校は終わっていて、夜を迎えていた。昼休みの打ち上げとは違い、夜の打ち上げは男女比が逆転していた。オレ、須藤、池、山内、沖谷(おきたに)と男子が五人なのに対して、女子は堀北に櫛田と二人しかいない。

 皆、目標であった中間テストクリアを果たしたこと、勉強から解放されたことで笑顔だ。まあ、堀北は相変わらずの仏頂面だが。

 だが、池が以前言っていた、『苦楽を共にする仲間』に近付いているのかもしれない。

 昼も感じたが、友人と喜びを分かち合うということはとても意味があると思う。嗚呼……オレは今青春を味わっているな。

 とはいえ、たった一つだけ不満点がある。

 

「おいおい、どうしたんだよ綾小路。そんな暗い顔をしてさ」

 

「打ち上げを開くのは賛成だけどな。……どうして会場がオレの部屋なんだよ」

 

 そう、打ち上げ会場はオレの部屋だった。

 オレの咎めに池は飄々(ひょうひょう)とした様子で答える。

 

「俺、山内、須藤の部屋は散らかってんだよ。女子の部屋でやるわけにもいかないだろ?」

 

「だとしても他にも場所はあっただろ。ケヤキモールのレストランとか」

 

「そんなポイントが残ってると思うか?」

 

 恥ずべきことなのに胸を張る。なんだろう、悪いのは向こうの筈なのに、一瞬ながらもオレが悪いと錯覚(さっかく)してしまった。

 正直なところ、まったく予想しなかったわけではない。それでもなあ……。

 オレが黙っていると、沖谷と須藤が室内を見回しながら……。

 

「「……何も無い……」」

 

「悪かったな。オレだってそれは感じている」

 

「で、でも意外かな。綾小路くん、読書が趣味だって聞いていたから、本棚くらいはあると思ってたんだけど……」

 

「出来るだけ図書館で借りているからな。あそこは大抵の本はあるから、ポイントを支払ってまで買う必要性はない」

 

「あれっ? でも机の上に何冊か置かれてるね?」

 

 櫛田が興味深そうに本を手に取り、可愛らしく小首を傾げて尋ねる。池と山内はそんな彼女を見て(もだ)えている。

 

「『まるで天使のような』……? ねえ、綾小路くん。これって外国の本だよね?」

 

 ああ、と肯定の頷きを返す前に……。

 

「正確にはアメリカ合衆国の推理作家、マーガレット・ミラーが書いた作品よ」

 

 オレの台詞が横から取られた。今の今まで読書に勤しんでいた堀北が答えたのだ。

 せっかく答えようと思ったのに……。

 

「その天使のなんちゃらはどうでも良いけどさ。本当にこの部屋、なんにも無いよな。ある物と言えば本くらいだし……櫛田ちゃんはどう思う?」

 

 池、お前は今、オレと堀北を敵に回したぞ。

 まぁでも、本を読むことを率先としない人間からすれば、そんなものはやっぱりどうでも良いのかもしれないな。

 櫛田は『まるで天使のような』を元の場所に戻してから、先程の須藤や沖谷のように室内をゆっくりと見回す。オレという人間が勝手に評価されているようで、この時間は憂鬱(ゆううつ)だ……。

 

「うーん、確かに皆の言う通り何も無いけど……それでも、私的には充分に良いと思うよ。簡素だけど清潔感があるしね」

 

「「はははっ、良かったな綾小路!」」

 

 私怨(しえん)で思い切り背中を叩かれる。沖谷だけが背中を優しく摩ってくれた。どうして彼は男として生まれたんだろう。

 

「けど本当に、今回の中間テストで赤点取らなくて良かったよな。俺、絶対取ると思ってたもん」

 

「僕もかな。特にテスト範囲変更が茶柱先生から正式に告げられた時は、絶望で泣きそうになったよ」

 

「お前、間違ってもクラスの中で泣くなよ? 絶対黒歴史として残るからな」

 

「もちろんだよ。男がめそめそ泣くなんて、高円寺くんの言葉を借りるわけじゃないけど(みじ)めにも程があるし……」

 

 この時、この打ち上げに参加している全員が心を一つにして、同じことを思った。すなわち──『そういう意味じゃない』と。

 ほんと、どうして沖谷は男として生まれたんだろう。

 

「櫛田ちゃんと堀北には感謝感激雨あられだぜ!」

 

「ううん。私は堀北さんの手伝いをしただけだよ。実際、テスト週間の後半は堀北さんに任せっきりだったしね」

 

「そんなことはないわ。櫛田さん、あなたが居たからこそ、池くんと山内くんは勉強意欲が続いたし、効率も上がったのよ。だから──ありがとう」

 

 堀北が初めて、櫛田に面と向かってお礼を言った。

 櫛田は突然の出来事にしばらく呆然としていたが、ハッと我に返ると破顔する。彼女が浮かべた笑顔は、この二ヶ月で一番輝いているように見えた。

 

「それと、私はあなたたちのために勉強を教えたわけじゃないわ。私のために──退学者が出るとクラスの評価が下がると判断したから教えたに過ぎない」

 

「ここは嘘の一つでも言えよ」

 

「例えば?」

 

「『私、あなたたちのことを大切に思っているから!』とか? 好感度上がるぞー」

 

「要らないわよそんなもの。それと、その下手なモノマネはやめて貰えないかしら。不愉快だわ」

 

 渾身(こんしん)のモノマネが全否定された……。

 兎にも角にも、堀北はこの二ヶ月で少しは成長している。入学当初の彼女だったらこの場には絶対来なかっただろうしな。

 このまま成長を続けたら、彼女はどうなるのか。単純に気になるが、気楽に待っていよう。

 

「それと、中間テストを乗り越えたくらいで調子に乗らないことね。次に待っているのは期末テスト。今回は平田くんが過去問を入手してくれたおかげで突破出来たけれど、次もそうなるとは限らない。それに何よりも、ポイントを得る方法を模索する必要があるわ。とはいえ、これはある程度摑めたけれど」

 

「堀北さん、やっぱりそれって今回の?」

 

 櫛田が堀北に尋ねる。彼女が尋ねた事柄は、Dクラスが出した、『中間テストの結果如何では、ポイントが得られる可能性が高い』、このことだろう。

 他の皆も無駄話は止めて静聴するようだ。

 

「ええ。このまま行けば間違いなく、来月はポイントが振り込まれているでしょうね。私の見立てだと……多くて100ポイント、少なくて80ポイントと言ったところかしら」

 

「八千円相当か! よっしゃっ、これで来月は学んだことが活かせるなっ!」

 

 池が言っているのは恐らく、この前教えてくれた『一万円で一ヶ月を過ごすことが出来るのかプロジェクト』のことだろう。

 上手くいくかどうか大変興味がある。来月になったら聞いてみるとしよう。

 

「なあ堀北。お前はお前のために俺らに勉強を教えてくれたんだよな?」

 

「そうね」

 

「じゃあお前は──Aクラスを目指しているのか?」

 

「Aクラスを……目指す? え、マジで?」

 

「須藤くんの言う通りよ。私はAクラスを目指すわ」

 

「ややや、でもさ、いくら堀北でもそれは難しいんじゃない? 頭が良い連中ばっかなんだろ?」

 

 懸念は正しい。

 恐らく、堀北レベルの連中がゴロゴロ居るだろうな。今回勝てたのは策を(ろう)しただけに過ぎない。何もしなかったらまず負けていただろう。

 

「僕は……そうは思わないかな。多分だけど、勉強面だけでクラス分けはされていないと思う」

 

 沖谷も真実に近付きつつあるようだ。

 学校側の判断基準が何かを模索することが、この実力至上主義の世界で生き残り、そして勝ち上がる(すべ)

 

「沖谷くんの言う通り。けれど、勉強が出来なければ論外ね」

 

「あはは……」

 

「でもさ堀北さん。今はまだ無理かもしれないけど、一緒に頑張れば出来るよ。絶対に!」

 

「櫛田さん、その根拠は何かしら。言っておくけど精神論は要らないから」

 

「えーっと、ほらっ。一本じゃ折れる矢も複数あれば折れないでしょ?」

 

「その一本の矢が必要最低限の強度を保ってないと意味がないわ」

 

「ええーっと、ほらっ。一人より二人、二人より三人、三人より四人じゃないかなっ!」

 

「さっきと同じよ」

 

 必死に四人の良いところを探しては持ち上げる櫛田を、堀北は遠慮なく叩き落とす。

 タチが悪いのが、彼女が言っていることは正論なこと。櫛田は涙目になった。

 可哀想だから彼女をフォローする。

 

「でもま、対立するよりは仲良くするのが賢い一手だろうな。この先どんな困難が訪れるか皆目見当もつかない」

 

 その時自分独りなのかそうじゃないのか、その違いはとても大きいだろう。

 

「だから綾小路くん、あなたは平田くんと仲を縮めたと?」

 

 しまった、今度はこっちに飛び火した。

 洋介との協力関係を告げるわけにはいかない。適当な言い訳を考えていると、須藤が不満そうにオレを見る。

 

「俺は苗字なのに、平田は下の名前で呼び捨てなのかよ」

 

「あー、その、なんだ。須藤もそうするか?」

 

「綾小路は何も分かってねぇな。こういうのは自然となるもんなんだよ。なぁお前ら?」

 

「「同意ー」」

 

「僕もそう思うかな」

 

 まさかの男子一同の全否定。

 黙っている女性陣に助けを求めるが、堀北は自分から話を振っておきながら飽きたのか文字の羅列に意識を割いているし、櫛田は苦笑いを送ってくれるだけだ。

 

「オレと洋介のことは置いといて、だ。堀北、本気でAクラスに行こうと思うのなら、仲間は一人でも多い方がいいぞ。そこまではいかずとも、出来るだけ仲良くした方が懸命だ」

 

「……間違いではないわね」

 

 渋々ながらも、堀北は認めた。

 

「これからも仲良くしようねっ」

 

「「喜んで!」」「うんっ」「ああ」

 

 さて、そろそろ打ち上げも幕引きだ。

 男だけだったらまだやれるだろうが、女性をこれ以上拘留(こうりゅう)するのは世間体的にダメだろう。

 オレは池たちにモールス信号でさり気なくを装って合図を送った。どうしてモールス信号なんて覚えているのかというと、四月中に遊び半分で覚えたから、と言うしかない。

 その熱意を勉強に活かせればテスト勉強はもっと楽に出来ただろうに……まぁ、こうして役に立っているのだから良しとするか。

 ここ最近付き合いを始めた沖谷だけは修得していなかったが、それでも気付いてくれた。

 

「堀北、櫛田。池たちが話があるようなんだ。聞いてやってくれ」

 

「何かしら。もう帰りたいのだけれど」

 

「私は大丈夫だよ」

 

 お膳立てはした。後は池たちが頑張るだけ、オレは見守ることしか出来ない。

 池たちは横一列に正座で並んだ。それはもう綺麗な座り方だった。

 

「改めて堀北、櫛田ちゃん。俺たちに勉強を教えてくれて、ありがとうございました!」

 

「「「ありがとうございました!」」」

 

「これ、お礼に買ったんだ。もし良かったら受け取って欲しいな」

 

 池が代表してプレゼントが入った袋を堀北と櫛田、一人ずつに手渡す。彼の手は緊張で震えていた。無理もないか。断られた時のことを考えてしまうのは仕方がない。

 堀北は困惑の表情を浮かべた。

 櫛田は喜びの表情を浮かべた。

 最初に口を開いたのは櫛田だった。

 

「ありがとうっ! 本当に嬉しいよ! ここで中身を見ても良いかな?」

 

「もちろん」

 

「ほらっ、堀北さんもっ」

 

「え、えぇ……」

 

 対照的な表情を浮かべながらも、二人は袋を丁寧に、そしてゆっくりと開封する。

 中から出てきたのは、クマとウサギのぬいぐるみだった。クマが堀北、ウサギが櫛田だ。

 

「これ、どうやって……?」

 

「今日の放課後、こいつらとケヤキモールに行ってよ。そこでそのぬいぐるみを買ったんだよ」

 

 須藤が照れくさそうに後頭部を掻きながら答える。

 

「私が聞きたいのはそうじゃないわ。池くんや山内くんはポイントがゼロのはずでしょう? いくら全員で負担するとしても、ポイントそのものが無いんだから払えるはずが……」

 

「オレが四人にポイントを貸す形にしたんだ。そのぬいぐるみは一個2000ポイント、つまり二千円。二つ分だと四千円になる。堀北の言う通り、池と山内はポイントがゼロで、須藤と沖谷も似たような状況だ。だからオレが代替わりすることになったんだ」

 

 ポイントを貸して返されない心配はない。何故ならポイントの讓渡は学生証カードに履歴として残るからだ。

 彼らが渋る対応をするのならば、学校側に報告すればいい。そうすればポイントは返ってくるし、何らかの罰が与えられるだろう。

 

「とっても可愛いよっ。大事にするねっ」

 

 櫛田の反応は良好だった。貰ったウサギを抱き締め、にこりと微笑む。ウサギじゃ比にならないくらいに、彼女の方が何倍も可愛い。

 まあ、そんなことは思っても口には出せないのだが。

 とはいえ、ここまでは予想が出来た。天使の心を持つ櫛田なら喜んでくれるだろうと、それは確信していた。

 問題は堀北。果たして彼女はいったいどんな反応をするのか? もしこれで『要らない』なんて言われたら、彼女に惚れている須藤は首を吊るかもしれない。

 何を隠そう、クマのぬいぐるみを選んだのは他ならない彼なのだ。

 彼女は無表情だった。喜んでいるのか、悲しんでいるのか、それとも怒っているのか。

 静寂が室内を包み込んだ、その数分後──。

 

「あ、ありがとう…………」

 

 堀北は顔を俯かせてから、短くもその言葉を言った。

 そのままそそくさと帰り支度を素早く終わらせ、「おやすみなさい」と律儀(りちぎ)に告げてから玄関ドアを開け、俺の部屋から出ていった。

 再度訪れる静寂。

 不意にやがて、須藤がぽつりと漏らす。

 

「やっぱり、堀北は最高だぜ……!」

 

 

 

 

§

 

 

 

 打ち上げは終わった。

 ……終わったが、正確にはまだ問題が残っている。

 昼の打ち上げは良かったな……。何せ、昼食を食べる、それだけで済んだのだから。

 反対に夜の打ち上げには面倒なことが残っていた。そう……後片付けだ。

 堀北は帰ってしまい、須藤や池たちも帰ってしまい、後片付けなんて考えていなかったんだろうな。実際、部屋を提供したオレがそうだった。

 これが非常に面倒臭い。床に散らばっているゴミの数々。グラスも洗わないといけないしな。しかもその殆どがオレがやったことじゃないのだから、当然やる気はなかなか起こらないというもの。

 ……これからはオレの部屋で打ち上げはしないようにしよう。

 

「綾小路くん、これってプラスチックゴミかな?」

 

 もし櫛田が手伝いを申し出てくれなければ、四百二十五の手段を以て彼らに報復するところだった。

 それにしても……櫛田は凄いな。卓越したコミュニケーション能力は言わずもがな、嫌なことも率先して自分が動くことで対処している。どれだけの数の男を落としたんだろう。

 

「ねえ、綾小路くん。質問があるんだけど良いかな?」

 

「オレで答えられる範囲なら良いぞ」

 

「あはは、綾小路くんらしいや。──やっぱり、椎名さんや堀北さんみたいな女性(ひと)がタイプなの?」

 

「……悪い、質問の意図が分からないんだが」

 

「うーん、なんて言ったら良いのかなぁ。綾小路くん、クラスだと堀北さんと、放課後だと椎名さんといつも一緒に居るじゃない?」

 

「椎名については認めるが、堀北は全然違うぞ。あいつはただの隣人だからな、必然、話す機会が増えるだけだ」

 

「それでも、二人って根幹的な性格が似ていると思うんだっ」

 

「そうか?」

 

 全然そうは思えない。

 椎名だったら天然だし、堀北だったら毒舌だし。

 って言うか、櫛田は椎名と話したことがあるのか。この前は無いと言っていたのに……流石だな。

 

「同じ女の子として気になっちゃって。私、魅力ないのかな?」

 

「そんなことはないと思うぞ」

 

 櫛田で魅力がないなんて言ったら、九割以上の女子高生は彼氏が作れないと思う。

 

「コップ洗ったよ〜」

 

「ありがとう、櫛田。本当に助かった」

 

「どういたしましてっ。じゃあ私、部屋に戻るね。おやすみなさい」

 

「ああ、おやすみ」

 

 時刻は午後十時を回ろうとしていた。こんな夜遅くに女の子を出歩かせるわけには普通ならいかないが、幸いにもこの学校は寮生活。女子生徒の部屋は上層で、セキュリティも万全のはず。万が一の事態にはならないと見て良いだろう。

 欠伸をしながら制服のブレザーを脱ぎ掛けたその時、オレはベッドの上に置かれている携帯端末の存在に気付いた。

 恐らく櫛田のだろう。きっと忘れて行ったんだろうな。ちょっとドジなところも可愛い。

 明日学校で渡せば良いか……と思案したところで、ブブッと軽く振動し、軽快なサウンドが鳴る。その後すぐにまた同じ動作が。振動オンリーのオレとは違うが、設定を変更すればカスタマイズ可能だ。

 それにしても、流石は人気者。ひっきりなしにメールが来るなんて羨ましい。

 今からでも間に合うかどうかは甚だ疑問だったが、オレは櫛田を追い掛けることにした。出来るだけのことはやっておいた方が良いだろう。

 彼女の携帯端末を手に取り、部屋から飛び出してエレベーターに向かう。寮のエレベーターは二つあるのだが、一つは二階で停まっていて、もう一つは現在稼働していた。室内を映すモニターの中には櫛田の姿があった。

 

「間に合わなかったか……」

 

 仕方がない。諦めるとしよう。

 (きびす)を返そうとして……オレはある異常な点に気付く。櫛田が乗っているエレベーターは上昇……ではなく、下降していた。

 先程も述べたが女子生徒の部屋は上層に振り分けられている。となると、彼女が向かうべきは上だ。

 しかしながら、現実は正反対。エレベーターは下降を続け、遂に一階ロビーにまで到達する。彼女はそのままエレベーターから出て行ったようだ。

 こんな時間にどうして? そう、疑問に思う。

 男と密会しているのだろうか。だとしたら池や山内は血涙(けつるい)を流すだろうが……。

 夜の散歩だとしても少々怪しい。

 追い掛けるか、追い掛けないか。

 激しい葛藤に(さいな)まれ──オレは、追い掛けることにした。

 個人的に大変興味があった。櫛田がどこに行き、何をやるのかが。

 エレベーターではなく階段を使って一気に一階ロビーまで移動する。そのままロビーを通過して寮を出ると、漆黒の闇がオレを出迎えた。

 光源となるものは月と、計画的に立てられている街灯の頼りない光だけ。

 ────見失ったか?

 櫛田の姿を探す。男と逢引していようと散歩をしていようと、こんな夜遅くに遠出するとは考えられない。

 寮の敷地内から出て、五分程歩くと海が見える。彼女はそこに居た。暗闇の海を眺めているのか、鉄柵を両手で摑んでいるようにも見えた。地面のコンクリートには彼女のスクールバッグが置かれている。

 彼女に後ろから声を掛けて、忘れ物を届けることは簡単だ。

 だが何となく、そう、何となく近付き難い。

 こんな時一体どうやって声を掛ければ良いのか、それがオレには分からない。

 やっぱり明日、学校で渡すとしよう。その方が良い気がする。優しい彼女のことだ、怒ったりはしないはずだ。

 引き返そうとしたその時──。

 

「あ────ウザい」

 

 一瞬、誰の声か分からなかった。それ程までに冷たく、重い声。

 オレは慌てて、近くに佇んでいた一本の巨木に身を隠す。

 人の気配はオレと櫛田以外感じられない。オレが声を出したわけではない。

 導き出される結論は一つ。

 櫛田があの声を出したのだ。

 

「マジでウザい。本当にウザい。死ねばいいのに……」

 

 あの櫛田からは到底考えられないほどの暴言。今の彼女を見たら、池や山内、いや、Dクラスの生徒たちはどんな反応をするのだろうか。

 

「最悪。最悪最悪最悪最悪。堀北マジでウザい。アハハ、なにプレゼントを貰ったくらいであんなにも動転するんだか。やっぱりぼっちは違うわね。お高く止まってるからそうなるのよ」

 

 櫛田が言っているのは、堀北のことのようだった。

 

「何であんな奴がこの学校に居るのよ。何で、何で、何で──どうして……。退学してくれないかな? ううん、いっそのこと、退学させれば良いんだよ。アハハハハ」

 

 櫛田桔梗という人間は善人だ。洋介同様、困っている人を見掛けたら手を差し伸べ、誰の世話でも焼く優しい女の子。クラスだけじゃなく、学年を超えた人気者。

 

 そんな少女の──『闇』。

 

 以前感じた正体不明の違和感。その答えが、彼女の『闇』。

 人間とは仮面を被る生き物だ。常に自分を偽る生き物だ。表の顔と裏の顔を使い分ける生き物だ。

 脳が警戒音を鳴らす。これ以上ここに居るのは危険だと、下手したら命を取られかねないと、退避を指示する。

 だがここで疑問が生じる。

 櫛田には実は裏の顔があった……というのはさしたる問題ではない。問題は、どうして嫌っている──いや、憎んでいる堀北に対して積極的に近付いたのか。

 普通ならその逆で、距離を取ろうとするはずだ。

 だが彼女は何度もめげずに堀北をランチに誘ったり、放課後に遊ぼうと誘い続けた。そして勉強会に参加し、結果的に述べるのならば堀北を支えたことになる。

 矛盾だらけの行動。

 しかしここで、オレは一つだけ納得をしていた。

 堀北が最初期から櫛田を避けてきたその理由。彼女は向けられている『敵意』に気付いていたのだ。

 堀北鈴音という人間は対人能力に問題がある。すぐに相手を蔑むところや、高円寺とは違った『自分主義』の考えなど、それは多岐に渡る。

 そんな彼女だが、本質的には善人だともオレは思う。彼女は妥協はしない。けれど物事に真剣に向き合っている人間には譲歩をする。

 勉強会でそれは現れている。もし須藤や池たちがテスト勉強に欠片も意欲を見せなかったら、彼女はばっさりと、情け容赦なく彼らを切り捨てただろう。下手したら、『ポイントがゼロの状況の今なら、退学者が出た方がクラスのため』といった判断を降したかもしれない。

 ……櫛田はとうとう、鉄柵を足で蹴る所業にまで打って出た。見える限りでは監視カメラはない。恐らく、ストレスが爆発する直前にここを訪れ、解放しているのだろう。

 何度も何度も鉄柵を蹴り続ける。

 遅まきながらオレは、命令された撤退行動を全うすることにした。息を殺し、気配を殺す。

 後退している、その真っ只中の時だった。

 

 ピロン♪

 

 櫛田の携帯端末が鳴った。

 彼女は八つ当たりを一旦止めて、辺りを警戒する。

 

「誰」

 

「……」

 

「言っておくけど、そこに居るのは分かっているから」

 

 その言葉に嘘はないだろう。どこから音が漏れたのか、ある程度ながらも察知することは簡単だ。

 オレは寄り掛かっていた幹から背中を離し、要望通りに姿を現す。

 

「……ここで、何をしているの」

 

 櫛田はオレの出現に一瞬だけ目を見開かせたが、すぐにそう尋ねる。

 

「何をしているのかと聞かれたら、夜景を観ていたんだ。綺麗(きれい)だよな、海」

 

「私が聞きたいのはそんなことじゃない。──見たの?」

 

「見てないって言ったら納得するのか?」

 

「ううん、まさか」

 

 だろうな、とは思っても口には出さない。

 櫛田は十メートル程あった彼我(ひが)の距離をゆっくりと歩きながら詰めてくる。逃げること自体は簡単だが、オレの足は糊付けされたかのように動かなかった。

 代わりに手を動かし、彼女の携帯端末を見せる。

 

「櫛田、忘れ物──」

 

「もし誰かに話したら容赦しないから」

 

「…………もし話したら?」

 

「綾小路くん、レイプって知ってる?」

 

 脈絡の無い話題転換に、オレは訝しむよりも先に、その単語の意味を思い出していた。

 暴力、もしくは脅迫などによって、強制的に婦女を犯すこと。強姦(ごうかん)と言っても同じ意味だ。

 そこまで思考が至ったところで、櫛田が何をやろうとしているのかを察した。

 

「……オレにレイプされそうになったって、警察にでも突き出すつもりか」

 

「そうよ」

 

「櫛田。オレも質問したいが、冤罪(えんざい)って知ってるか?」

 

「もちろんだよ。けど安心して。()()()()()()()()

 

「何を言って──!?」

 

 俺の台詞を遮り、櫛田はオレの右手首を摑んだ。恐ろしい形相で獲物を睨み、その隙を的確について自身の胸元へと持っていく。

 オレの右手は今、櫛田の胸を揉む形になっていた。

 柔らかい感触──だが、それもすぐに消える。

 

「これであんたの指紋、服にべっとりと付着したから。もし誰かに話したら、私はこの制服を警察に持って行って、あんたを牢屋にぶち込んでやる」

 

「……本気なのか」

 

「本気よ。この制服は洗わずに保管するから。分かった?」

 

「…………分かった。だから手を離してくれ。そろそろ痛い」

 

 櫛田はもう一度強く睨んでからオレの訴えを叶えてくれた。

 

「約束よ」

 

 再三念を押してくる櫛田に、オレは無言で頷いた。

 

「……その生き方、辛くないか?」

 

「辛いよ。たとえ堀北……堀北さんのような嫌いな相手でも仲良くしないといけないんだから」

 

「だったらどうして」

 

「誰からも好かれたいと思い、行動することが悪いこと? まっ、あんたみたいな奴には分からないと思うけど」

 

「友達が少ないから分からないな」

 

 肩を(すく)めて答える。櫛田に優越感を与えるためにそう言ったのだが、彼女はそうは思わなかったようだ。

 瞳に宿る剣呑さが、さらに激しくなる。

 

「違う。あんたは基本的に人に無関心なだけでしょ。ねぇ綾小路くん。今度は私も聞きたいかな。椎名さんや堀北さん、須藤くん、それに平田くん。誰でも良いけど──友達だと思ってる?」

 

「思ってるぞ」

 

「嘘。あんたはいつも受動的で、率先して誰かを助けようとしていなかった。堀北さんから依頼を請けて須藤くんたちを勉強会に参加させようとしたんでしょうけど、それが無かったらあんたは何もしなかった。それに、堀北さんがAクラスを目指すことに皆が同調する中、あんただけは肯定も否定もしなかった。違う?」

 

「さあな」

 

「答えるつもりはないんだ」

 

「どう思おうとお前の勝手だ」

 

「……まっ、それならそれで良いよ。そうだ、この際言っておくけど。私、あんたみたいな地味で根暗い奴は嫌いだから」

 

「そうか」

 

「ほら、やっぱりショックを受けない。それってつまり、私に対して何も思ってなかったってことでしょ。だって普通なら何らかのリアクションをするからね。けどあんたにはそれが何もない。怖いくらいに」

 

 櫛田はしつこく言及してくる。彼女はどうやら確信を持っているようだった。

 彼女の追及に答えるとするなら、それは当然のことだ。人とは少なからず本音と建前を使い分ける醜い種族。

 口では『大好き』と言っていても、本当は『大嫌い』なのかもしれない。

 それこそ、今目の前に居る少女のように。

 

「でもそんな綾小路くんだからこそ、信じられるかな。他人に関して無関心なあんたなら信じられる」

 

「褒めているのか?」

 

「貶めているんだよ。そう言えば、椎名さんと仲良くしているのはどうして? どんなバカでも、この学校の異質さを踏まえれば、他クラスとの交友は難しいって分かるはずだよね。何か狙いがあるんじゃないの?」

 

「狙いなんて何もないさ」

 

「あぁそうか……ごめん。誤解してたよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。私よりタチが悪いじゃん、それって」

 

「仮に櫛田の言う通りだとして……そうか?」

 

「そうだよ。確かに私は嫌な女だけどさ、それでも最初から誰かを嫌いになるわけじゃない。けど、あんたはその『最初』がないんだね。見向きもしない……それって残酷なことだよ」

 

「オレのことなんて今はどうでも良いだろ。違うか?」

 

「それもそうだね。最終確認だよ。──約束する?」

 

「ああ、約束するよ。今夜目にしたことは誰にも言わない」

 

「まっ、仮にあんたが誰かに私の本性を言ったとしても、誰も信じないと思うけど。あんたのクラス内での地位は良くも悪くもゼロ。たとえ平田くんと仲良くなろうと、それは変わらない。だって、人への根本的な認識は覆らないんだから」

 

 退路は塞がれている、か……。

 しかしここまで散々言われるのは釈然としない。せめて何か意趣返しを……。

 ────閃いた。

 

「なぁ櫛田。つまりお前は、オレが言いふらさないという考えを持つ自分に、かなりの自信があるんだよな」

 

「そうだけど、それがなに」

 

「そんなに自信があるのなら、わざわざ胸を触らせる必要はなかっただろ」

 

「うぐっ──それは──流石に焦っちゃって」

 

「焦りの中自分の胸を触らせる。それはつまり、櫛田はビッチ認定ってことで宜しい──ごめんなさい。冗談です。だから太ももを蹴らないで下さい」

 

「バカ言うからだよ!」

 

 女の子とは到底考えられない力強さだ。

 冗談でも嘘でもなく、とても痛い。

 人間、怒るとこんなにも力が増大するんだな……。

 櫛田の怒り顔に恐怖を感じていると、彼女は急に真顔になった。

 また怒鳴られるのかと身構えているオレを尻目に、彼女は海を眺める。

 そしてオレに向き直った。

 

「それじゃあ綾小路くん、今日はもう夜遅いから帰ろう? それと、携帯届けてくれてありがとうっ」

 

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 風が吹いて彼女の髪が揺れる。美しく佇む女性を見て、オレはついぞ言うことが出来なかった言葉を胸中で呟いた。

 

 ──櫛田。どっちが本当のお前なんだ?



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第三章 ─虚偽─
佐倉愛里の独白


 

 人と触れ合うのが苦手だ。

 人と目を合わせて話すのが苦手だ。

 人が集まっている所で過ごすのが苦手だ。

 

 人と触れ合う勇気がない。

 人と目を合わせて話す勇気がない。

 人が集まっている所で過ごす勇気がない。

 

 何を考えているのか分からない。

 

 ──目の前で共に笑い、共に泣いているあなたは、本当はどんな気持ちなんですか? 

 

 そう、考えるととても怖くて。

 いつからこんな風になったのかは覚えていないけれど。

 漆黒の闇に覆われた、禍々(まがまが)しいもの──感情。

 いつか本物の『絶望』を味わう気がして。

 気付いたら私は、哀れで醜い臆病者(おくびょうもの)になっていた。

 

 だから、今日も私は独りで居る。

 

 ただ一つ言えることは、『人は独りでは生きていけない』ということ。

 どれだけ孤独を愛そうと。

 どれだけ孤独を受け入れようと。

 私という一人の人間は、『誰かとの繋がり』がなくては生きていけない。

 

 臆病者(わたし)はある一つの方法を思い付いた。

 偽りの仮面を被り、本当の自分を隠すこと。この時だけは人とコミュニケーションが上手く取れた。『向こう側』の人たちはいつも私を褒めてくれる。称賛してくれる。持て(はや)してくれる。

 けれど……ふと、我に返ると感じる──私と『私』に付き纏う()()()

 前も、後ろも、右も、左も、上も、下も──頼りになる『光』は視えない……。

 真っ暗な仮初(かりそめ)の世界。

 世界は決して綺麗なことばかりじゃない。『光』もあれば『闇』がある、そんな当たり前のことを……だけど、私はどこかで認められない。

 現実だと受け止めることは簡単だ。その勇気が私にはないだけ。たったそれだけのこと。

 

 相反(そうはん)しているこの気持ちは多分、誰にも共感されないだろう。支離滅裂(しりめつれつ)だと言われても文句は言えないし、他ならない私がそう思ってしまっている。

 

 ──嗚呼。

 

 ────今日も私は、『私』になる。

 

 

 

§

 

 

 

 最悪なタイミング、って言うのが世の中にはあると思う。

 自分が願ったわけではないのに起こった……()()()()()()()()()()

 それをたまたま偶然視界に収めてしまう理不尽さを、人生で一度は体験したことがあると思う。

 その時人はどうするのだろうと、混濁(こんだく)した思考が頭の中で渦となっている中、漠然(ばくぜん)と考えた。

 放課後に独りで特別棟に入り、自撮りポイントを探していた私が見付けたのは、目的の場所とは程遠いものだった。

 予想外にも程がある──事件現場。体が縮んだ名探偵(めいたんてい)な小学生もこの展開には呆然とするだろう。……案外、見慣れた光景として頭を切り替えるかもしれないけど。

 事件現場と決め付けるのはまだ早計だった。事件らしい事件は、まだ起こっていなかったのだから。緊迫とした雰囲気から私が誤ってそのように感じただけ。

 幸いにもまだ『話し合い』にはなっていた。

 

「おいおい、こんな時間に何の用だよ。この後は自主練で忙しいんだ、早く終わらせろよな」

 

 真っ赤な髪色が特徴な男子生徒が苛立(いらだ)ったように用件を尋ねる。言ったことは事実なようで、彼は部活の練習着だと思われる衣服を身に纏っていた。

 私のクラスメイトの須藤(すどう)くんだ。

 彼と対面しているのは三人の生徒。少なくとも、私たちが所属しているDクラスの生徒ではない。

 交友関係が絶望的にない私ではどこのクラスかは判別出来なかったけれど、それでもこんな人目に付かない場所、そして放課後という時間帯から、『喧嘩』が起きるであろうことは、いくら私でも簡単に想像出来た。

 

「って言うか、話は部活についてじゃないのかよ。何で部外者が居るんだよ、小宮(こみや)近藤(こんどう)

 

「俺たちの友達の石崎(いしざき)だ。まっ、用心だよ用心。お前は喧嘩っパヤイからなあ?」

 

「あァ?」

 

「おいおい、早速顔に出ているぜ? ちょっとのことで怒る須藤を警戒するのは普通のことだろうよ」

 

 空気が一段と重くなった。

 鋭い視線のぶつかり合い。

 私に向けられているわけじゃない。それどころか須藤くんたち四人は第三者の私が盗み聞きしているとは到底考えてないだろう。

 逃げたい。

 一目散に床を蹴って、寮のベッドに飛び込んで枕を抱いて、今日のこの出来事を忘れ去りたい。

 けれど私の体は動かない。どうして、どうして……。恐怖で震える私を助けてくれるのは誰も居ない。

 

「石崎が居んのは分かった。だったら早く用件を言えよ。この後先輩と自主練を──」

 

「そこだよ、そこ。須藤お前さぁ……今度の夏の大会、レギュラーとして迎え入れられんだって?」

 

「は? どうして石崎、お前が……ああそっか。こいつらから聞いたのか」

 

「バカでもそれくらいは分かるんだな。まずは須藤、レギュラーおめでとう。なんでも小宮と近藤が言うには、一年生で選ばれたのはお前だけなんだろ?」

 

「……それが何だよ」

 

 須藤くんの返答を、石崎くんは鼻で笑った。

 

「Dクラスの『不良品』のお前が大会に出る? ハハハッ、笑わせるなよ! 学校の汚点(おてん)のお前が大会に出て良い道理がないだろ? だからお前──レギュラーから降りろよ。もちろん自分からな」

 

 一瞬、石崎くんが何を言ったか分からなかった。

 それは私だけではないようで、当事者の須藤くんもそうだったようだ。

 彼は(ほう)けた表情を浮かべていたが、何を言われたのかを理解した次の瞬間には憤怒の顔になる。

 それでも彼は留まっていた。湧き上がる怒りをなけなしの自制心で抑え、衝動に駆られそうになる自分を抑制していた。

 私はそんな彼を見て、彼のこの数週間の『変化』に驚嘆していた。

 教室で席が近いから彼のことは一方的ながらも程々には知っている。

 最初の一ヶ月は学校を遅刻して、授業に参加すると思ったら居眠りを繰り返しと、生活態度は最悪──絵に書いたような不良少年。

 クラスのリーダー的立ち位置に居る平田(ひらた)くんにすら牙を()き噛み付いた。クラス内だけじゃない。彼は様々な場所で何かしらの問題を生み出していた。

 私が彼のことを知っていたのは、絶対に近付きたくないという意思に従ったものだった。とはいえ、そうでなくとも、彼は不良生徒として名を馳せていたから自然と耳に入っていただろう。

 そんな、人として底辺な彼が成長の(きざ)しを見せたのは……一学期中間テストの試験週間に入った頃だった。

 まず、授業に真面目に……とはお世辞にも言えないけれど参加するようになった。というのも彼は授業中は他のこと──机の引き出しからプリントを取り出し、それを一生懸命に取り組んでいたからだ。

 それは、彼だけじゃない。(いけ)くんも、山内(やまうち)くんも、何度か話したことがある沖谷(おきたに)くんも。彼ら四人は授業そっちのけでシャープペンシルを紙の上で必死に走らせていた。

 これは後で知ったのだけれど、彼らが真面目に向き合っていた物の正体は、堀北(ほりきた)さんが作成した対中間テスト用のプリントだったらしい。

 そして決定的に変わったのが、中間テストが返却された翌日からだった。

 彼は些細なことで暴力を振るうことを止めた。もちろんカッとなった時は衝動のままに手を出してしまっていたけれど、それでも素直に謝罪を口にするようになっていた。……少なくとも彼は、『理不尽な暴力』を止めることを決意したらしい。

 一時期Dクラス内で取り上げられた程だ。

 

「……レギュラーって言ってもな、あくまでも候補でしかない。実際に、大会に出場出来るなんて分からないんだぜ? お前らだってそれくらいは分かってんだろ」

 

「だとしても、だ。『不良品』のお前が選ばれることに問題があるんだよ」

 

「ハッ。だとしたらおかしいじゃねえか。この学校は実力至上主義なんだろ? ならこれも実力のうちじゃねぇのか?」

 

「須藤……付け上がるなよ」

 

 双方睨み合う。

 私はこの時、些細な違和感を抱いていた。違和感は次第に大きくなり、確信に変わっていく。

 須藤くんと敵対しているのはあくまでも小宮くんと近藤くんのはずで、石崎くんは万が一の保険……言い換えれば、用心棒であるはずだ。

 けれど、二人は最初に口を交わした後はずっと唇を閉ざし、部外者の石崎くんに全てを任せている。

 彼らが問題に取り上げているのは、『不良品』である私たちDクラスの生徒が、公式戦に出場すること。

 なのにどうして、舞台に上がっているのは石崎くんだけなのか──。

 

「二人から聞いたんだけど、須藤、お前は本気でバスケのプロを目指しているんだってな」

 

「あ? それが何だよ?」

 

「おいおい、本気で言ってたのかよ! てっきり嘘だと思ってたぜ! 傑作だな! お前のような底辺の人間がなれるわけないだろうが! ──いっそのこと、部活辞めろよ。その方がお前の為になるぜ」

 

「……ッ!」

 

 睨み合いは殺意へと変貌(へんぼう)した。

 ヘラヘラと笑いながら須藤くんを煽る石崎くん。それに付き従う小宮くんに近藤くん。

 私は分からなった。どうして石崎くんたちがそんな酷いことを面と向かって言えるのかが。

 

 ──これ以上は見ちゃいけない。逃げないと……!

 

 けれど私の足は動かない。思うように力が入らず、壁に重心を預け、立っているのがやっとな状態だった。

 

「言いたいことはそれだけか……?」

 

「おぉ〜、怖い怖い。そんなにも顔を真っ赤にしてよ。俺たちを殴って喧嘩でもするか?」

 

「ハッ──上等。後悔すんなよ」

 

 売り言葉に買い言葉。

 頭の沸点が超えた須藤くんは鍛えている身体能力を総動員して廊下の床を蹴り、石崎くんに肉薄(にくはく)する。

 喧嘩なんて非日常から離れて安穏な生活を送っている私からでも一目見ただけで分かる程に、須藤くんの動きに無駄は無かった。

 きっとそういった荒事に普段から慣れているのだろう。

 軽薄な笑みを浮かべていた石崎くんたちも、目の前に迫りつつある災厄には、固く目を瞑るしかないようだった。

 私も彼らと同じように目を閉じる。

 襲いかかってくるであろう痛みに備え、彼らは身構える──

 

「…………えっ?」

 

 しかしその苦痛はついぞ彼らを打たなかった。

 聞こえ、そして拍子抜けたその言葉に私は恐る恐る目を開ける。

 瞼をこじ開け、バレないように細心の注意を払いながら顔を出して確認する。

 私は今、とても困惑の表情を浮かべているだろう。

 想像していた最悪の光景は映らず……。

 須藤くんは手を振りあげてこそいるが、それでも顔面に当たる直前の所で、踏みとどまっていた。

 

「お前を殴りたくてしょうがねえ。──けど、ダチに言われたからな。『暴力』で物事を解決するのは良くないって。良かったな石崎、怪我を負わなくてよ。おおかた俺を挑発して喧嘩騒ぎを起こす、そんな腹積もりだったようだけどな」

 

 須藤くんは冷静だった。瞋恚に燃えていた紅い炎は鎮火され、対峙する者全てを凍てつかせる。

 そしてどうやら彼は、石崎くんたちの『狙い』にも感付いてる様子だった。

 お世辞にも私は頭が良いとは言えない。小学校、中学校と、これまで受けてきたテスト結果は赤点でこそないけれど、それでも良いか悪いかを聞かれたら『悪い』部類に入る。

 次世代、日本を先導していく若者を育成するという理念を掲げる、この高度育成高等学校にどうして私が入学資格を得られたのか、それはこうして在籍していても分からない。入試テストの成績は悪かっただろうし、面接なんて目も当てられないだろう。

 私が出来損ないの巣窟(そうくつ)であるDクラスに配属されたのは至極当然、自明の理と言える。

 そんな私でも、考えることは出来る。

 須藤くんの推測通りだと仮定すると、石崎くんたちは『暴力沙汰』を引き起こすことが狙い? 

 でもいったい何のために? 

 

「俺はレギュラー候補から自分から降りることも、部活を辞めることもしねえ。お前らが何をしようと勝手だが、俺を巻き込むな」

 

 須藤くんは石崎くんたちを見下ろしてそう告げると、ゆっくりと彼らに背を向けた。

 そして彼はやや小走りで廊下を移動する。

 刹那、私の心拍数は今までのそれとは段違いに跳ね上がり、心臓は脈打つ。当然だ。私が隠れている所に彼が接近しつつあったからだ。

 私たちが居る場所は特別棟。本校舎とは違い、この特別棟の造りは比較的シンプルだ。というのも、この棟には理科の実験室や家庭科の調理実習室といった、火器を扱う教室がいくつかある。

 自然災害や事故が起こった場合、円滑に避難をするためにこの棟は単調な造りになっていた。

 何が言いたいのかというと、特別棟から出るルートは限られている、ということ。私のすぐ傍にある階段から降りるのがセオリーだ。

 

「…………?」

 

 須藤くんが僅かに戸惑いの声を上げる。私の存在に、彼の研ぎ澄まれた気配察知能力が発動したのだろう。

 体は自由を取り戻したけれど、私は蛇に睨まれたかのようにまたもや動けなくなる。彼と相対するまで五秒にも満たないだろう……。

 真っ赤な髪の毛が現れる──

 

「チッ、仕方がない。小宮、近藤、プラン変更だ。綾小路(あやのこうじ)に手を出すぞ」

 

 ──直前に、そんな声が廊下に反響した。

 

「おい、今なんつった」

 

 須藤くんのドスの効いた声。

 彼は動かしていた足を止め、通った道を戻る。

 

 ──今度こそ逃げないと。

 

 それが正しい選択のはずだ。これ以上ここに居たら、厄介事に巻き込まれてしまうかもしれない。……既に巻き込まれているけれど、それでも、今ならまだギリギリ間に合う……。

 

「何だよ須藤。お前にはもう用はないから、帰って良いぞ。先輩と自主練すんだろ?」

 

「いいから言え。綾小路がなんだって?」

 

「あいつは俺たちのクラスの椎名と仲良くしているからなあ……」

 

「ンなことは聞いてねえよ。知ってるしな。──お前ら、今度は俺じゃなくてあいつに喧嘩売るつもりか?」

 

「喧嘩を売るなんて、勝手なことを言うなよ。決め付けは良くないぜ。ちょっと話をするだけさ。まあ、成り行き如何ではお前の言う通りになるかもな」

 

 ニヤニヤと嗤う石崎くんたち。彼らは須藤くんを取り囲んだ。

 退路が絶たれたことに須藤くんは脂汗を浮かべる。流石の彼でも、一対三では勝ち目が薄い。

 私はそんな情景を、気付けば震える手を動かし、カメラのレンズで捉えていた。無音で切られるシャッター。

 そこでようやく私は、本格的にここから一刻でも去るべく、地獄から抜け出せる唯一の脱出口に動き出した。

 震える体。上下左右に、焦点が合わない瞳孔(どうこう)

 階段の手摺(てすり)にみっともなく支えられながら、私は一歩、一歩と下降する。

 階段を半ば程降りたところで怒鳴り声が聞こえた。

 それが誰の声なのかは分からない。

 須藤くんかもしれない。石崎くんかもしれない。小宮くんかもしれない。近藤くんかもしれない。

 徐々に遠のいていく災禍。

 上で何が起こったのか。

 須藤くんは無事なのか。

 石崎くんたちの目的は何なのか。

 気になることはいくつかあったけれど、私はそれらを強引に、目覚めさせてはならない怪物として厳重に鍵を掛ける。

 

 ──今はただ、一刻も早く寮に帰りたかった。

 




今回の話から要所要所で、この二次小説に於ける、高度育成高等学校に在籍している生徒のデータベースを載せたいと思います。

氏名 綾小路清隆
クラス 一年Dクラス
部活動 無所属
誕生日 十月二十日

─評価─

学力 C+
知性 C+
判断力 C-
身体能力 C-
協調性 C-

─面接官からのコメント─

積極性に欠け、将来の展望も持ち合わせておらず、現段階では期待の薄い生徒と評価するしかない。何故当校を志望したのか甚だ疑問である。
面接の受け答えには特にこれと言った問題は見受けられなかったが、それでも予め『用意した』ような言い方であり、喋る機械と会話をしているような錯覚に襲われた。
また特別な資格が何も無いことも評価としてはあまり芳しくなく、別途資料から、Dクラス配属が適任だと思われる。
教師との関係及び、親しい友人が出来ることをまずは望む。

─担任のコメント─

入学当初、彼はクラス内での友人作りに失敗したようで、心配していました。しかし現在はある程度の友人を作り、学生生活を楽しんでいるようです。
特に同学年のCクラスに在籍している椎名ひよりとはとても仲が良く、放課後は時間を共有しているようです。お互いに好いているのでしょう。彼らは図書課の先生から話題に挙がる程に図書館を利用しており、休み時間や昼休み、自習の時間には本を読んでいる姿がよく見られます。
Dクラス内では須藤健、堀北鈴音といった生徒と仲が良く、最近は平田洋介とも関係を深めているようです。
中間テストの際は学友と共に試験勉強をし、見事乗り越えました。テスト結果は彼の努力が反映されており、入試試験のそれとは大きく異なっています。
これからも担任として見守りたいと思います。


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賽は投げられた

 

 金曜日の放課後。

 翌日は土曜日なために学校は休日を控えている。部活動に所属している生徒は各々(おのおの)の部活の練習に行かなくてはならないが、それを抜きにしてもこの『休み前の放課後』は学生にとって味方であり、また至福の一時だ。

 オレがこの高度育成高等学校に入学を果たしてから、あと残り数日で三ヶ月が経とうとしていた。

 月日の経過というものはオレが考えていた以上に早く過ぎるようで、七月中旬に行われる期末テストを無事に突破すれば夏季休暇となり、約一ヶ月は自由な時間を過ごすことが可能になる。

 

 ──五月一日にこの学校独自の理念を説明され、オレたち生徒は戸惑うしかなかった。

 

 ここで改めて、高度育成高等学校が採用している異質なもの──Sシステムについて復習するとしよう。

 学校から無償で提供されている携帯端末にはおよそ子どもが使う分には困らない機能がある。そういった分野に詳しい友人から聞いたのだが、市販で売られている最新機種と同等以上の性能らしい。

 オレはすぐ隣で黙々と読書に勤しんでいる少女を軽く一瞥(いちべつ)してから、彼女を邪魔しないように配慮しつつ、制服のブレザーのポケットから端末を取り出す。そのままプリインストールされているアプリを起動させた。

 ちなみにプリインストールとは電子機器に予めインストールされているもののことだ。

 アプリを起動させると、学籍番号とパスワードを入力するように指示が出され、オレは曖昧ながらも覚えつつある長い記号の羅列を打ち込んだ。

 ログインすると様々な項目が画面に表示される。学校側からの連絡事項や、学校公認の掲示板など多岐に渡る。

 その中の一つである『残高照会』をタップする。

『残高照会』からは様々なことが出来る。自分が現在保有しているポイントの確認や、クラスが保有しているポイントの確認。さらには、ポイントを誰かに譲渡することすら可能だ。

 上記に述べたポイントは二つに分けられている。

 一つ目が末尾に『cl』と明記されている。これはクラス……つまり、英単語の“class”の略称だと言われており、クラス単位が保有しているポイントのことだ。

 二つ目が末尾に『pr』と明記されている。これはプライベート……つまり英単語の“private”の略称だと言われており、生徒個人が保有しているポイントのことだ。

 毎月一日にクラスポイントが振り込まれ……クラスポイント×100がプライベートポイントに反映されている。つまりこれら二つは連動しているのだ。

 プライベートポイントとは学校の敷地内だけで使えるお金であり、このお小遣いを使って初めて、オレたちは楽しい学校生活を送ることが可能になる。日用品を買ったり、電化製品を買ったり、映画やカラオケといった遊びにはこれが必需品だ。

 さて、オレが所属している一年Dクラスのクラスポイントは0cl。この状態が五月から続いており、Dクラスの生徒は数ヶ月に渡ってゼロ円生活を余儀なくされている。

 とはいえ、入学当初は1000cl──十万円が支給されていたのだ。

 この学校は生徒の実力を測ることで評価している。オレたちDクラスは『評価ゼロ』というあまりにも情けない評価が出され、結果、0clとなった。

 ポイントの減少の要因は様々だ。授業中の居眠りやお喋り、朝登校の遅刻、さらにはテスト結果が悪ければどんどん容赦なく削られていく。

 逆にポイントが増える要素は、まだはっきりとは解明されていない。どうしたらポイントが増えるのかを模索(もさく)することが、クラスポイントが増える最大の近道と言えるだろう。

 そしてクラスポイントは学生へのお小遣い以上に重要な役割を担っている。ポイントが高い順からAからDクラスへと割り振られるのだ。

 例えばDクラスがCクラスより多くクラスポイントを保有していたと仮定しよう。その場合DクラスはCクラスになり、クラスが変動される。そして三年後の卒業時に、Aクラスの生徒だけが、自分が望む進学先及び、就活先への道が叶えられるのだ。

 長々と語ってしまったが、これさえ分かっていればそれで良い。

 クラス闘争が、この学校の真髄だ。

 

「──来月はポイント、貰えると良いですね」

 

 携帯端末を空中に(かざ)して、五月から何一つとして変わっていない数字を眺めていると、少女が声を掛けてきた。

 赤の他人だったら無視を決め込むところだが、少なくともオレにとって彼女は大切な友人だ。

 一年Cクラス、椎名(しいな)ひより。この学校で初めて出来た友人。クラス争奪戦が本質のこの学校で、オレたちは友達付き合いを続行していた。お互い読書という共通の趣味を持っているために、ほぼ毎日のように放課後は図書館で時間を共有している。

 端末を制服のブレザーのポケットに戻してから、オレは体全体を左に向けて彼女と向き合う。

 

「中間テストの結果が上手く反映されていると助かるんだけどな」

 

「きっと大丈夫ですよ。Dクラスは学年二位の成績を残しましたし、授業態度も改善されたのですよね?」

 

「最初の一ヶ月と比べたら雲泥(うんでい)の差だ」

 

 特に三バカトリオの改心ぶりが凄く、それは担任である茶柱(ちゃばしら)先生でさえも認める程だ。

 

「なら皆さんは限りなくベストを尽くしたことになります。学校側もそれは分かっているでしょうし、後は待つだけです」

 

 椎名はそう言って、オレを安心させるかのようにして、少しだけ微笑(ほほえ)んでくれた。入学当初、彼女は滅多に感情を顔に出さなかったのだが、現在は少ないながらも見せてくれるようになった。

 彼女との付き合いがより深くなっている証拠だろう。

 

「ところで綾小路(あやのこうじ)くん。差し支えなければ教えて欲しいのですが……()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「五万と少し。幸い、まだ残っているから生活には苦労していないけど、それでもかなり苦労する」

 

 だからこそ来月はポイントが欲しいところだ。長期休暇が目と鼻の先にあるから、最低でも二万円分は残さなくてはならない。

 椎名はオレの返答に驚いたようだった。

 

「節約していますね」

 

「特に意識はしていないんだけどな……。読書以外特にこれといった趣味がないから、必然的にあまり使わなくて済む。ああ……だけど、寮の部屋に絨毯(じゅうたん)を買う予定だ。この前は辛い思いをさせちゃったし」

 

「そうでもありませんよ?」

 

「椎名はそう言ってくれるけど、他の連中……クラスの友人が多少なりとも文句を言ってきたんだ。だから内装を鮮やかにしたい」

 

「確かに寂しかったですものね……」

 

 何よりも、あの居心地悪い沈黙をなくしたいところだ。割と切実に。

 とはいえ、この計画がいつ果たされるかは分からないのが正直な感想だ。貧乏生活を強いられているDクラスにとっては、どんな些末なことにもポイントは消費したくない。

 オレは余裕があるからまだマシだが……池や山内といった奴らは血涙(けつるい)を流しているからな。

 

()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「そうですね……少しお時間を下さい」

 

 椎名は断りを入れてから、スクールバッグの中に手を入れ携帯端末を取り出した。端末ケースはオレと同様にデフォルトのままで、こう言っては失礼だが、花の女子高生らしくない。

 いや、そんなことを言ったらどこぞの隣人もそうなのだが。

 端末の上で走る指の速度は遅かった。彼女の性格からして、普段は必要な時以外は使用していないのだろう。

 

「えっと……わっ、十三万ポイントはありますね。これなら何冊、本を買うことが出来るのでしょう」

 

「まさかとは思うが、自分がどれくらい持っているのか認識していなかったのか?」

 

「分かりましたか」

 

「いやいや、流石にその反応を目の前で見せられたら誰でも分かると思うぞ」

 

 視線を横に流す椎名に呆れてしまう。後先考えて浪費するよりは格段に良いが、それでも、自分がどれだけ使ったのかを気にすることは大切だ。

 ある意味で金銭管理が出来ていないな……。

 

「かなり残しているんだな。てっきり、本を沢山買っていると思っていた」

 

「どうしても手元に置いておきたい本は書店で買っています。けれどここの図書館は蔵書(ぞうしょ)数が数え切れない程にありますから、使わなくて済むんです」

 

「そうだな……。出来れば卒業までに読破したい」

 

「良いですねっ。一緒に頑張りましょう」

 

『本日の閉館時間となりました。当館をご利用していらっしゃるお客様はお忘れ物がないよう確認をしてからお帰り下さい。またのご利用をお待ちしております』

 

 天井にあるスピーカーから館内放送が響く。現代では珍しく、案内の声は機械じゃなくて人間のもの。柔らかい女性の声だった。

 そしてオレと椎名は発生源に心当たりがあった。というのも、彼女はオレたちが日頃から良くして貰っている、図書課の先生だったからだ。

 どうやら今日の当番は彼女らしい。

 オレたちは後片付けをしてから椅子から立ち上がる。スクールバッグを肩に掛けて出口に向かう。

 自動ドアを潜り西空を一瞥する。夏が本格的に近付いている証拠として、太陽はまだ碧空(へきくう)に浮かんでいた。

 

「夏ですね」

 

 横に並んで歩いていると、椎名が小さく呟く。

 地球温暖化が進むその影響か、年を跨ぐ度に気温は上昇していた。夏の本番である八月に突入したらどうなるのか……考えるだけで憂鬱(ゆううつ)だ。

 その気分のままため息を零してしまう。

 

「せめて衣替えがあると助かるんだけどな」

 

「この学校はありませんからね」

 

「学校の敷地内はエアコン完備だから、仕方がないのは分かるが……」

 

「私たちはスカートですからまだ楽ですが、男の子たちは苦労しそうですね」

 

 悟られない程度に椎名を盗み見る。

 改めて思うけど、肌が凄く白いんだよな。彼女の綺麗な髪色と合わさって、肢体がとても輝いている。

 それに……上手く表現出来ないが、こう、清涼(せいりょう)感がある。うら若い女性が着ることによってその効果は何倍にも跳ね上がるのだ。

 ……性犯罪者が考えそうなことを考えていた。暑さにやられたのかもしれない。

 

「でも、綾小路くん。部活の先輩が以前教えてくれたのですが、制服にはなんでも、様々なバリエーションがあるようですよ」

 

「……バリエーション?」

 

「例えば……夏服でしょうか。基本的には私たちが着ているこの服を着るのが義務付けられていますが、どうしても嫌な場合はそう言った商品が売られているようです」

 

「売られているってことは、ポイントを支払うってことか」

 

「それもかなり高額のようですよ」

 

 それならオレが買うことはまずないだろう。

 確かにブレザーは熱が(こも)りやすく、比例して暑くなりやすい。だが先程会話したように、学校の校舎内はエアコン完備だ。

 学寮から学校までは徒歩で数分の距離。精々が二十分くらい。その二十分(往復四十分)の時間に、わざわざ大金を叩く必要性は現時点では感じられない。

 

「あとはそうですね……冬服でしょうか。この制服の上に羽織るものとして、登校用のスクールコートが売られるようです」

 

「夏のオレたちとは違って、女子は苦労しそうだな」

 

 女子生徒はスカートを穿()かないといけないから、下半身は、それはもう極寒の地となるだろう。

 反対にオレたち男子生徒はズボンだから、ある程度の風や冷気は守ってくれる。

 この学校に入試したのが四月。現在は七月。あっという間に春から夏に移り変わろうとしている。だから多分、夏から秋に、秋から冬になるのも束の間だろう。

 未来に何が起こっているのかは分からない。もしかしたら隣に居る少女は居ないのかもしれない。

 ただ……雪を見てみたいと思った。今までの人生で、オレはまだ一度たりとも本物の雪を見たことがなかったからだ。

 寮に入り、管理人に軽く会釈をしてから椎名と共にエレベーターに乗る。オレの部屋が四階なのに対して、彼女の部屋はもっと上の階層だ。必然的にオレの方が早く降りることになる。

 

「それじゃあ椎名。良い週末を」

 

 浮遊感が四階で終わり、エレベーターのドアが開く。

 廊下に一歩足を踏み入れた瞬間、制服の(そで)が弱めに……けれど、確実に握られた。

 振り返ると、そこには手を伸ばしている椎名の姿があった。数秒見つめ合っている間にドアが閉まろうとする。

 片手を添えることで押さえ、彼女の言葉を待った。

 

龍園(りゅうえん)くんからの伝言です。『契約は成立した。だから綾小路、俺の邪魔をするな』とのことです」

 

「ならオレからも頼めるか?」

 

「はい、もちろん」

 

「『分かった。お前の邪魔を、オレはしない』」

 

「確かに受け取りました。それでは綾小路くん。あなたも良い週末を過ごして下さいね」

 

 椎名は(あわ)く微笑んでから、ドアの開閉を妨げているオレの手を優しく手に取って離させた。

 そして軽く手を振りながらドアを閉めて、エレベーターを再稼働させる。乗り物はゆっくりと音を立てながら上昇して行った。

 エレベーターの中を映すモニターをしばらく眺め、オレは自分の部屋に向かう。

 彼女が図書館内や帰途(きと)についている最中に龍園からの伝言をオレに伝えなかったのは、誰かに聞かれるかもしれないリスクがあったからだろう。

 どうやらCクラスの『王』は何かしらの行動を起こそうと……いや、()()()()()()()()()

 だからこその、このタイミング。

 これは警告だ。もしオレが彼の行動の邪魔をしたら……彼と対立することになるという。

 そして多分。

 近いうちに彼が何をしたのか分かるだろう。

 

 

 

 

§

 

 

 

 土日を有意義(ゆういぎ)に過ごし、月曜日が訪れた。週明けの朝というのは人間の天敵だ。

 今日は、クラスメイトの須藤(すどう)とのジョギングは、中止となった。昨夜彼からメッセージが届き、そう言った旨の内容が書かれていた。

 早起きは三文の徳だが、たまには遅刻しないギリギリの時間に起きるのも良いかもしれない。そう思っていたのだが、いつものように覚醒(かくせい)してしまった。ふわぁと欠伸を漏らし……どうしたもんかと頭を捻る。寮を出るにしても早すぎることは言わずもがな、朝食を取るにしても同様だ。

 

「散歩でもするか……」

 

 真紅(しんく)と純白に彩られたジャージに着替え、携帯端末を片手に寮から出る。朝日は既に昇っていて、照りつく陽の光が眩しい。

 須藤といつも走っているコースを歩く……というのも一手だが、たまには違う風景を見てみたいと思い、海沿いの道を歩くことにした。

 海面に視線を向ければ、そこには程よく透き通った清流がある。だが、よくよく目を凝らせばプラスチックゴミといった人間の負の遺産が漂流していた。

 海はこうして、利己的な種族によって穢されているのだろう。

 どんなに外見を取り繕っても意味はない。

 オレたち人間はこうして、『後の世代の人間がやってくれるだろう』と勝手に判断し、勝手に託していく。

 それを何十、何百回と繰り返し、過去の所業を悔い改める。だがその時には致命的に遅く、取り返しがつかない。

 そしてそれは、他ならないオレもだ。

 

「──まさかお前がここに居るとはな」

 

 後ろから声を掛けられる。聞いたことがある声だった。鋭く、低い声。

 オレは嘆息してからそちらに目を向ける。そこには予想通り、生徒会長堀北(ほりきた)(まなぶ)がオレ同様、学校指定のジャージ姿で立っていた。

 

「それは逆にオレも言いたい。その姿……ジョギングか散歩か?」

 

「そうだ。しかし綾小路、どうしてお前のような奴がこの時間に外に居る。俺はてっきり、お前はこういったことに無頓着だと思っていたが」

 

「随分な言い草だな」

 

 まるでオレのことを知り尽くしているような口振りだった。

 奴との接点はたった一度、しかもその一度もせいぜいが数分の時間だったはずだ。

 

「これでも生徒会長を任されている。ある程度の性格は分かるというものだ。綾小路、お前はこういった非生産的な行いは率先してやらない男だ。何か理由があるのだろう。違うか?」

 

「確かにあんたの言う通り、友人との付き合いだけどな」

 

「ならその友人はどこに居る」

 

「昨夜メールが届いて、今日はやらないことになったんだ。習慣となったからか目が冴えて、現在に至っているところだ」

 

 一呼吸置いて。

 

「なら俺と付き合うのはどうだ」

 

 突然の申し出に面食らってしまう。

 堀北学はオレのクラスメイトである堀北鈴音(すずね)の実の兄で、妹に関して暴力を振るおうとしていた男だ。幸いその場に居合わせたオレが介入出来たおかげで一大事にはならなかったが、あの時オレが受けた印象を語るとするならば、彼はもっと冷酷な性格だと思っていた。

 それに何よりも、何故『不良品』のオレにアプローチをしてきたのか。妹には散々な罵倒を浴びせたのにも拘らずだ。

 

「分からないな。オレとあんたの妹は同じDクラス。けど対応に差がありすぎるだろ。あいつの方が遥かに優秀なはずだ」

 

「確かに鈴音の方が総合的には優秀だろう……データ上ではな」

 

「この前も言ったが、入試試験の点数の一致は偶然だ」

 

 堀北学は無表情でオレを見つめるだけだった。

 着けている眼鏡を外し、次の爆弾を投下する。

 

「今ではもう騒ぎは鎮まっているが、中間テストは面白い結果となった。下位クラスの下克上(げこくじょう)はこの学校全域に広まっただろう。良くも悪くもな」

 

「オレは何もしてないぞ。ああ……あんたの妹は率先して勉強会を開いて、赤点候補組を救済していたけどな」

 

「だが、通常ならその救済は間に合わなかったはずだ。大幅な試験範囲の変更。鈴音は対応出来ただろうが、学力が芳しくない生徒は絶望していただろう」

 

「あんた、妹を褒めているのか貶めているのか分からないぞ」

 

「仮にも家族だ。身内の実力は把握している」

 

 堀北学はそう告げてから、ゆっくりと歩き出した。

 オレが彼の背中を追わなくても文句は言われないだろうし、彼はそのまま朝の日課を続けるだろう。

 逡巡してから、オレも同じ方向に動く。彼の一歩後ろを付いていくことなった。

 

「お前の勘違いを訂正しておこう。別段俺は、Dクラスだからといって、彼らが愚かだとは思っていない」

 

「その理由を聞いても?」

 

「これ以上は語れない。だがそうだな……俺が優秀だと考えている生徒を一人、例に挙げるとしよう。──鈴木(すずき)玲奈(れいな)

 

 知っている女性の名前が挙げられ、オレはしばらくの間、言葉を失った。

 中間テストの際、オレは彼女と取引をした。それは過去問を譲渡して貰うことであり、オレはその代償として少なくないポイントを喪失することになった。

 

「話を戻すとしよう。綾小路、お前は鈴木と接触し過去問を入手、それを自分のクラスメイトと共有した。結果、DクラスはCクラスには一歩及ばなかったが、B、そしてAクラスを押し退けて学年二位の成績を残した」

 

 鈴木先輩が堀北学と繋がっていたとは思いもしなかった。それが正直な感想。

 彼女は様々な『顔』を持っている。その数は計り知れない。高円寺(こうえんじ)六助(ろくすけ)とランチを共にしていたのも、やはり明確な理由があったのだろう。

 もし敵に回したら面倒だ。とはいえ、オレと彼女が今後関わりを持つことはないだろう。

 

「あんたが鈴木先輩を評価しているのは分かった。もしかして交際相手だったりするのか?」

 

「鈴木とは同盟相手に過ぎない。大まかな内容は言えないが……彼女は役に立つ。それだけだ」

 

 堀北学は淡々と言葉を並べる。一瞬、変な勘繰りをしてしまったが……彼の態度からして、オレの邪推は当たらないだろうと察した。

 

「だが腑に落ちないことがある。今回、一年生が上級生にアクションを掛け、そして過去問を入手した功績を持つのはお前だけだ。となると──何故Cクラスが学年一位になった?」

 

「単純な学力の問題だと思わないか?」

 

「いや違うな。Cクラスの生徒は、ほぼ全員が全ての科目に於いて九十点以上を取っていた。実力の善し悪しだけで所属クラスは振り分けられていないが、それを抜きにしても異常だ」

 

 どうやらこの学校の生徒会は、オレが想像していた以上の権力があるらしい。

 そして生徒会長の言葉から、一つ重要な事実が告げられた。うっかり漏らしたことはないだろう。

 話せば話す程に分かる。

 この男は、堀北鈴音の完全上位互換だ。

 

「お前の周囲を調べてみると、答えはすぐに出た。一年Cクラス、椎名ひより。──お前は自身のクラスだけじゃなく、Cクラスにも過去問を流した。それも相当早い時期……恐らく、鈴木から取引をした直後……Dクラスよりも早くに。結果、決定的な『時間のズレ』によってCクラスが学年一位となった」

 

 嘘だと言い張ることは難しい、か……。

 

「正解だ。あんたの推論に間違いはない」

 

 パンパンとわざとらしく手を叩き称賛する。

 堀北学は送られた賛辞に誇ることはなかった。それだけの自信があったのだろう。

 高度育成高等学校に入学してからもう少しで三ヶ月。必然的に、彼の情報は一年生の間に浸透している。

 当然と言うべきかAクラスで、一年時に行われた生徒会選挙で上級生を倒し、圧倒的な支持を得て生徒会長に就任。彼の手腕はそれはもう見事なもので、曰く『歴代最高』らしい。

 

「綾小路清隆(きよたか)という人間が暗躍したことを知っている人間は少ない。お前の担任、椎名ひより、鈴木玲奈、俺……あと二、三人は居るだろうが、ごく限られている。そして恐らく、その全員がお前のことを口外しないだろう。──実に見事だ」

 

「あんたはどうなんだ」

 

「綾小路、俺はお前を買っている。だからこそ俺はお前との友好的な付き合いを望もう」

 

「過去問を手に入れたその閃きが、偶然だとは思わないのか」

 

「思わないな。そうでなければお前と話そうとは思わないし、何より、不必要な情報をリークしていない」

 

 堀北学は立ち止まり、オレの瞳を覗き込んできた。

 彼がオレのことを買っているのは分かった。どうやら先日の一件、そして今回のオレの裏の動きで、完全にマークされてしまったらしい。

 だがここで一つ疑問が生じる。

 

 何故一年生のオレにそこまでして目を掛ける?

 

「……何が狙いだ?」

 

「言っただろう。友好的な付き合いを望むとな」

 

 友好的な付き合い、か。

 生徒会長がわざわざそうまで言う理由。考えても現段階では分からないが……。

 

「その友好的な付き合いとやらには、どこまでが範囲内に該当するんだ?」

 

「俺個人で出来ることならなるべく叶えよう。例えば……そうだな、今ここでお前に五十万ポイントを譲渡しても構わない」

 

「…………見返りは?」

 

「反対に綾小路。お前は俺に協力して貰う。具体的な内容はまだ口には出せないが、恐らく二学期中に判明するだろう」

 

「そこまでオレがこの学校に居る保証はないぞ。下手したらテストで赤点を取って退学しているかもな」

 

「そんな愚かな行動を起こす可能性がある人間に、こうして交渉は持ち掛けていない」

 

 冷静にメリットとデメリットを分析する。

 メリットは言わずもがな、堀北学という人間を仲間に入れられる点だ。生徒会長という役職に就いているこの男が味方になれば、万が一のことが起こったら頼りになるだろう。彼の影響力はそれだけ絶大だ。

 デメリットは、彼からの協力要求が何か分からないことか。無理難題を押し付けられる可能性も高い。

 

「分かったと言いたいが……保留させてくれ。オレがあんたを頼ったら、その時はあんたに協力しよう。今はまだ口頭での約束しか出来ないな」

 

「構わない。むしろ即決されたら、逆にこちらから断るところだった。──綾小路、携帯を出せ」

 

 脈絡の無い話題転換にオレが戸惑っている間に、堀北学は自身の携帯端末をズボンのポケットから出し、オレを待っていた。

 無言で送られてくる視線の圧力に耐えられくなって、オレも携帯を出す。

 

「貸して貰っても大丈夫か?」

 

「あ、あぁ……」

 

 おずおずと携帯端末を差し出す。奴は特別何か礼を言うことはしなかったが、受け取った瞬間、素早く両方の機械を操作した。凄まじい速度だ、椎名の比じゃないぞ……。

 オレの携帯端末はすぐに返された。

 画面に目を落とした瞬間、オレは思わず、目の前で佇む彼に目を向けてしまう。

 

「……これはなんの真似だ?」

 

 オレが所持しているポイントは、五万ポイントから一気に上昇し、十五万ポイントに変貌していた。

 オレの残高が十万ポイント増額したのだ。

 困惑の表情を浮かべている中、堀北学は、大金を手放したのにも拘らず、無表情のままで言った。

 

「俺からの投資だと思えば良い」

 

「……あんたが何を抱えているのかは知らないが……オレのこと、買い被り過ぎじゃないか?」

 

「さて、な……。俺はもう行く。なかなかに有意義な時間だった」

 

 徐々に遠ざかる背中。携帯端末の電源を付けると、時刻は程々に良い時間帯だった。かなりの時間、オレたちは話し込んでいたらしい。

 真逆に方向転換し、一旦寮に帰ろうとしたその時だった。

 堀北学がオレを引き留めた。

 

「そう言えば先週の金曜日の放課後、ある報告が生徒会に届いた」

 

「そうか」

 

「恐らく学校中を巻き込むだろう。今回は完全に悪い方向でだ」

 

「オレには関係ないことだけどな」

 

「渦中に居るのが同じDクラスの生徒だとしてもか?」

 

 オレはその問いに答えない。今度こそ寮に帰るために足を動かした。

 堀北学はオレの行動を想像していたのか、食い下がることはしなかった。興味が尽きたのか、彼の気配が消失していく。

 もし仮に彼が言ったことが事実だとするのならば、非常に面倒臭いことが起こっているのだろう。

 彼の性格からして余計な嘘は言わないはずだ。

 

「学校中を巻き込む、か……」

 

 謀略を巡らす邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)の『王』に、誰が餌食になったのか。それが堀北学の言う通りDクラスの生徒なのか。

 その全てがオレにとってはどうでも良い。

 

 何故なら──どう足掻こうと結末は変わらないのだから。

 

 たとえ洋介(ようすけ)や堀北、櫛田(くしだ)がどう動いたとしても、最後の景色は変わらない。

 賽は投げられた。あとはひたすら、前に進むことだけに専念しよう。

 




氏名 椎名ひより
クラス 一年Cクラス
部活動 茶道部
誕生日 一月二十一日

─評価─

学力 A
知性 A
判断力 E+
身体能力 E
協調性 D

─面接官からのコメント─

物静かな生徒。提出された情報によると、幼少期の頃から独りで過ごす傾向が強い。親しい友人も殆ど居らず、また彼女自身、必要と思っていないように感じられた。しかしその反面、自分が好きなこと……読書に対しては積極的な姿勢が見られる。
高い知性が感じられ、中学生とは到底思えなかった。聞かれた質問に対してのレスポンスも悪くない。
友人関係の構築を頑張って欲しい。

─担任からのコメント─

クラスに対する協調性は皆無であり、クラス内での話し合いの際も出欠こそしているものの自分の意見を言うわけでもなく、ただ黙っているだけで非常に残念である。
しかし放課後は一年D組の綾小路清隆と日頃から会っているようで、それは図書課の先生から報告が上がった際に、職員の間で話題になる程。この学校の異質さを踏まえれば、クラスを越えた友人付き合いは難しいが、彼らは至って普通に続行している。
中間テストは全科目百点という偉業を残したが、学年では同一一位という結果になった。
体育の授業では身体能力が極端に低いため、最低評価を付けるとする。
他クラスの生徒との付き合いも良いが、自分のクラスの学友とも交友関係を築いて貰いたい。


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地雷

 

 一年Dクラスの朝はいつも賑やかで、良く言うなら元気があり、悪く言うなら(やかま)しい。とはいえ、それも無理はない。何故なら基本的にDクラスの生徒は真面目(まじめ)とは縁遠いし、今日は土日を挟んだ月曜日。

 休日に自分が体験した出来事を友人に話すことに夢中になってしまうのは、学生なら当然のことと言える。

 オレは喧騒(けんそう)に包まれている教室の中、ひとり黙々と読書に勤しんでいた。オレが読書人間であることは既に周知の事実となっているのか、この時間帯に声を掛けてくる友人はまず居ない。せいぜいが朝の挨拶を交わす程度だ。

 隣人の堀北(ほりきた)も文庫本を手に取り、黙々(もくもく)と活字に目を通している。オレの席の周りだけ異様(いよう)な静寂に包まれ、俗世間とは完全に隔離していた。

 朝のSHRが十分後に控えた頃、一人の女子生徒がオレ……ではなく、堀北に近付く。

 

「おはよう、堀北さんっ」

 

「…………おはよう、櫛田(くしだ)さん」

 

 嫌々そうに挨拶を返す堀北。彼女と櫛田は一緒に勉強会を開いた同士なのだが、彼女たちの仲は全然縮まっていなかった。

 そんなに嫌いなら無視を決め込めば良いのに……と個人的には思うが、変に律儀(りちぎ)な堀北は、相手からの誠意には応える性質があった。

 

綾小路(あやのこうじ)くんも、おはようっ」

 

「………………おはよう、櫛田」

 

 視線を外すことなく、オレは櫛田に挨拶を返した。

 オレの態度に堀北は何か言いたそうにしていた気配があったが、面倒臭(めんどうくさ)く感じたのか、天敵の意識からフェードアウトしていき、自分の趣味に戻って行った。

 今度は代わりにオレが彼女の対応をすることになる。

 これが男友達だったら内心は荒れに荒れているが、目の前に居るのはDクラスの女神、櫛田桔梗(ききょう)だ。

 ここで彼女に対して失礼な態度を取ったら、最近創設された『櫛田エル親衛隊』に駆除されてしまう。いや、割と冗談抜きで。

 

「何を読んでいるの?」

 

「アガサ・クリスティ著の『ABC殺人事件』だ」

 

「あっ、私でも知ってるよ。かなり有名だよね〜」

 

 無難に返す櫛田は流石だった。さり気なく話題を作り、友人との距離を縮めようとする。

 しかも気負った風に見えないのだから恐ろしい。いったいどれだけの男が、彼女に骨抜きにされてきたのか……!

 

「でも私、どんな内容かはイマイチ分からないんだ。教えてくれないかな?」

 

「良く聞いてくれたな櫛田。『ABC殺人事件』は、さっきも言ったが、アガサ・クリスティの作品で──」

 

「具体的にはアガサ・クリスティが十八作目に著した長編推理小説。この作品の見所は題名の通り、“A”“B”“C”のアルファベット順に、人が殺されていくところかしら」

 

「「……」」

 

 オレと櫛田は黙るしかなかった。オレの台詞が取られたんだけど……。

 ……そう言えば、この前もこんなことがあったような気がする。堀北の性格上……絶対わざとだな。心做しかドヤ顔しているし。

 なんとも言えない沈黙の中、流石の櫛田も撤退(てったい)を決めたようだ。

 

「……あっ、もうこんな時間! 綾小路くん、また今度、本の話してね」

 

「あ、あぁ……」

 

 あれ程の苦笑いを浮かべた櫛田エルを見たのは初めてだな。(いけ)山内(やまうち)は新しい女神の一面に感涙の涙を流しているし……。

 

「ここ最近櫛田さん、やけにあなたに付き纏うわね」

 

「お前に付き纏っている、の間違いだろ」

 

「そんなわけないでしょ。綾小路くんだって感じているはず。違う?」

 

「まあ、な……」

 

 相変わらず、人付き合いに問題があるとは思えない鋭い指摘だ。

 堀北の言う通りだった。

 オレが櫛田桔梗という人間の『闇』を知ったその時から、彼女はさり気なくオレとの距離を精神的に縮めている。感付いているのはオレや堀北くらいだろう。

 理由は分かっている。上記に挙げたように、オレが彼女の秘密──『闇』を一方的に知っているからだ。あちらからしたら気が気じゃないだろう。

 オレがどれだけ『約束は守る』と訴えても意味は無い。だからオレは、直接的な被害が出なければ特に文句を言うつもりはない。彼女の好きなようにさせた方が波風(なみかぜ)立たないだろし……可愛い女の子との交流は大切だ。

 

「その本……よく読むわね」

 

 堀北が『ABC殺人事件』を目で()し、訝しげな表情をオレに向ける。

 

「そんなに好きなの? 確かに面白いとは思うけれど、何度も読み返そうとは思わなかったわね」

 

「同感だな」

 

「だったらどうして? 最低でも一ヶ月に一回は、『ABC殺人事件』を読んでいるわよね、綾小路くん」

 

「さあ……どうしてだろうな」

 

「答えるつもりはないと?」

 

「ああ」

 

 この時オレは初めて、堀北に対して明確(めいかく)な拒絶をした。彼女はオレの返答に一瞬言葉を失ったようだが、それ以上の詮索はしてこなかった。

 実に有難い。

 代わりに彼女は、別のことについて尋ねてきた。

 

「ポイント、振り込まれていると思う?」

 

「答えは既に出ているだろ」

 

「……それもそうね」

 

 オレは携帯端末を取り出し、プリインストールされているアプリを起動、そのまま『残高照会』のウィンドウを開いた。

 プライベートポイントは十五万と少し。

 クラスポイントは──。

 朝のSHR開始まで残り二分を切ると、Dクラスの喧騒さは次第に(しず)まっていき、全員が各々の席に着席し、始業のチャイムが鳴るのを静かに待っていた。

 

「おはよう諸君。今日も暑い中よく登校したな。遅刻や欠席届けは無し、先生は嬉しく思うぞ」

 

 校舎に始業の(かね)が響くと同時に、担任の茶柱(ちゃばしら)先生が入室してきた。片手には筒状(つつじょう)に丸められた紙が握られている。恐らく、今月のポイントがあそこに書かれているのだろう。

 真意が分からない笑みを浮かべる様は、見る人によっては恐怖を感じるかもしれない。だが流石に、この三ヶ月の付き合いで、オレたち生徒も彼女のことは何となくだが分かっている。

 オレたちDクラスの生徒は心を通わせ、一つの結論に至った。

『絶対なにかある!』と。

 緊迫とした空気がしだいに流れる中、堪えられなった池が悲鳴にも似た声を出した。

 

佐枝(さえ)ちゃん……じゃなかった、茶柱先生! 今月もオレたちは0clなんですか……!? 朝見たら振り込まれてなかったんですけど!」

 

「そう結論を早く出すな。確かにお前たちDクラスに、今はまだポイントは振り込まれていない。それは事実だ」

 

「そ、そんな……うん? 『今はまだ』? それっていったい……」

 

「これを見ろ……と言いたいが、担任の私から言うべきことがある。池、心中(しんちゅう)は察するが今は座れ」

 

 諭すように言われたら、池は黙って座るしかなかった。希望と絶望が半々に浮かんでいる様子が、ありありと想像出来る。

 茶柱先生はこほんと咳払いをしてから、おもむろに口を開ける。

 

「さて、ポイントの発表をする前に、学校側から、お前たちに対する評価を告げるとしよう。──はっきり言って、私たち教師陣は諸君らを『不良品の中の不良品』だと考えていた。当然だ。何せ当校が創立されて以来、最初の一ヶ月で1000clを使い切ったDクラスはなかったからな」

 

 告げられる正論に、オレたち生徒は反論することが出来ない。

 そんなオレたちを他所(よそ)に、茶柱先生は言葉を続ける。

 

「中間テストは何人の生徒が赤点を取るのか、職員室ではそれはもう議論が交わされた。ちなみに言うと、およそ半数の生徒が赤点を取ると予想していた」

 

「「「……」」」

 

「しかしお前たちは見事乗り越えてみせた。しかもB、Aクラスを押し退けてだ。Cクラスには一歩先を許してしまったが、そんなことは些細なこと。問題は、誰一人として欠けることなく試験を突破し、結果的には、Cクラスと共に『下克上』を果たしたことだ。正直に言おう。私は今でも感心している」

 

「「「…………」」」

 

「この『下克上』を称賛する声は少なくない。さらにまた、お前たちの授業態度の改心ぶりは凄まじく、四月とは大幅に違っていた。特に須藤(すどう)、お前の変化には度肝を抜かれたぞ」

 

「……」

 

 直々に褒められたのにも拘らず、須藤は無言だった。嬉しそうにも見えないし、照れ隠しをしているようにも見えない。

 

「ここまでが学校側からの総評だ。さて──お前たちが待ち侘びているポイントの発表を行おう」

 

 そこで初めて、茶柱先生は手にしていた紙を大きく広げた。ホワイトボードに貼り、後列に居る生徒たちに見えるよう、立ち位置をずらす。

 

 一年Aクラス──1000cl

 一年Bクラス──650cl

 一年Cクラス──500cl

 一年Dクラス──95cl

 

 

「「「よっしゃああああああ!」」」

 

 歓声の雨を降らすクラスメイトたち。そんな彼らを、茶柱先生にしては珍しく、薄いながらも本当の笑みを浮かべて見守っていた。

 

「……どういうこと?」

 

「なんだ堀北、嬉しくないのか? これで今月はゼロ円生活はなくなったぞ」

 

茶化(ちゃか)さないで。あなた、もしかして気付いてないの? 一学年全クラスが、ポイントを増やしている。異常よ。よく見なさい」

 

 言われた通りに凝望(ぎょうぼう)する。

 全てのクラスが先月の六月から、およそ100cl分上昇していた。

 Aクラスは初期ポイントの1000clに返り()いている。だが、差額は二番目に少ない。一番少ないのはBクラスだった。

 反対に一番大きいのは、オレたちDクラス。次にCクラスと言ったところで、多分これは、先程茶柱先生が言っていた、『下位クラスの下克上』が成立したからだと思われる。

 

「嬉しさのあまり飛び跳ねるのは結構だが、そうも言ってられない。今回の査定ではお前たちが一番ポイントを得たことに変わりはないが、それでも縮まった距離は極わずか」

 

「うっ……そ、それはそうですけどっ。ちょっとくらい喜んだって」

 

「喜び過ぎると、現実を直視した時に辛くなるから言っている。話を戻すとしよう。今月七月に、一学年全クラスにポイントが振り込まれているのにはちゃんとした理由がある。まぁ端的に言うと、中間テストを無事にクリアした、お前たちに対するご褒美のようなものだ。各クラスに最低、100clが与えられている」

 

「あれ? でも、それならおかしくないですか? だったら俺たちの保有ポイントは100clになるんじゃ……」

 

「安心しろ。その100clから査察のマイナス対象があっただけだ」

 

「な、なるほど──じゃない! あんだけ頑張ったのに減点があったとかマジかよ……」

 

 げんなりする池に、茶柱先生は苦笑するだけで慰めたりすることはしなかった。彼もそれは分かっているのか、愚痴を言うだけにとどめている。賢明な判断だな。

 だが、あの悲惨(ひさん)な状況からは考えられない程の成果だ。大半の生徒が笑顔を見せる中、ごく少数の生徒に限ってそれはなかった。

 先程から無言を貫いている須藤に、洋介(ようすけ)高円寺(こうえんじ)、最後に堀北だ。

 

「がっかりしたか堀北。まぁ無理もない。実質、現状維持のようなものだからな」

 

「そんなことはありません。得たものもありましたから」

 

 堀北の言葉に反応する池と山内。

 

「「堀北先生、教えて下さい!」」

 

「……自分でそれくらい考えなさい」

 

「「助けてホリえもーん!」」

 

 池と山内が、『助けてドラ〇もん』と言うように堀北に懇願(こんがん)する。他の生徒たちが突然の事態に奇異の眼差しを『先生』に向け、さしもの彼女もこれには羞恥(と怒り)で顔を真っ赤に染めるしかなかった。

 多分彼女は答える気はなかったに違いない。だが、ちょっと引き気味のクラスメイトたちの視線の数々、そしてなにより……数週間『先生』をやっていた名残りで、渋々ながらも答えるしかなかった。

 

「……あなたたちが積み重ねてきた負債(ふさい)は、マイナスポイントにならなかったってことよ。──そうですよね?」

 

「ふむ……まあ、それくらいなら答えよう。堀北の言う通り、目に見えないマイナスポイントは存在しない。少なくとも現段階ではな」

 

 またなんとも含みのある言い方だな。茶柱先生の言葉を信じるとするならば、『先』のことは彼女自身にも分からないってことか。

 やったああああ! と叫ぶ池と山内に、堀北は冷たい眼差しで命令する。

 

「先月まではゼロポイントだったから特に苦情は言わなかったけれど、SHRの最中も査定を受けていると思った方が良いわ。だから大袈裟に反応しないことね」

 

「「イエス、マム!」」

 

 舐めているとしか思えない返事に、『先生』は殺意を込めた視線を飛ばすことで黙らせた。

 そんな光景を部外者のオレたちは唖然(あぜん)とした様子で眺めていた。『勉強会で何があったんだろう』とは当然に思ったが、尋ねると命の保証は出来ないので、誰も尋ねることはしなかった。

 とここで、洋介が挙手をする。茶柱先生の許可を受け立ち上がると、彼は質問をした。

 

「今月のポイントについては理解しました。学校側の寛大(かんだい)な処置には感謝もします。でも先生、だとしたらどうして、プライベートポイントが振り込まれていないんですか?」

 

 脱線していた雰囲気を元に戻すその手腕は見事としか言い様がない。

 原点回帰する洋介の質問に、他の生徒たちもようやく、事の異常さを理解したようだった。

 

「実は少しトラブルがあってな。一年生のポイント支給が遅れている。悪いとは思うがもう少し待ってくれ」

 

「他クラスの奴らはポイントが有り余っているだろうから良いけど、俺たちは死活問題なんですけど! 雲泥の差ですよ!?」

 

「池お前……『雲泥の差』などと、よくそんな言葉を知っているな。先生はお前の向上心を嬉しく思うぞ」

 

 目を見張る茶柱先生。演技じゃなくて、本当に驚いているようだった。

 これには池も憤慨(ふんがい)する。

 

「中間テストの時も似たようなことを言ってましたけど、俺だってやれば出来るんですよ!?」

 

「その調子のまま期末テストを受けてくれ」

 

「茶柱先生、ポイントはいつ頃支給されるのでしょうか?」

 

「なかなかに良い質問だな、平田。現段階では何とも言えないのが正直なところだ。トラブルが解決されたら、残されているポイントがすぐに支給される手筈になっている……としか、今は答えようがない。──さて、朝の連絡事項は以上だ。今日は月曜日で怠いだろうが、頑張って授業を受けてくれ。解散」

 

 茶柱先生の言葉に違和感を感じたのは、ごく限られた生徒だけのようだった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 週明けで皆、身体は重たいだろう。だが誰一人として集中力切れを起こすことなく、四時間の授業を受け──昼休みに突入した。

 張り詰めた空気は一気に霧散(むさん)し、殆どの生徒が携帯端末と学生証カードを持ち、食堂に向かうべく友人を誘っていた。

 Dクラスの生徒は貧乏生活を毎月送っているために、食堂で売られている無料の定食を食べることがすっかり板についている。最初は文句を言っていた生徒も、既に慣れてしまったのだろう。特に何かを言うこともなく、移動を開始していた。

 

「なんだか……頼もしくなっているな。もし節操な暮らしという点で査定されたら、ぶっちぎりで一位を獲れるんじゃないか?」

 

「自業自得だけれど……これは成長と思うべきかしら。それより綾小路くん、今日は須藤くんや池くんたちとお昼、一緒に食べないのね」

 

「基本的には、あっちから誘われたらだからな、仕方がない。それに……たまには一人で食べたい時もあるし」

 

 別に須藤や池たちが嫌いなわけではない。彼らは友人だと、少なくともオレは思っている。

 が、男同士で行動する時は疲れる時があるのも事実。

 

「あれだけ友達を作ろうと無駄な努力をしていたのに、出来たらその態度。付き合いが面倒臭くなったのかしら。だとしたら失笑ものね」

 

 相変わらず容赦がない。

 

「お前は……今日も独りか。すっかり孤独体質の哀れな少女になったな」

 

「構わないわ。だって私は独りが好きだもの」

 

 ささやかな仕返しすら出来ないこの状況……なんだろう、泣きたくなってきた。

 心に傷を付けていると、堀北は平均的な大きさの弁当箱をスクールバッグから取り外し、包みを広げる。

 

「材料費と手間、バカにならないんじゃないか?」

 

 堀北はここ最近食堂には足を向けず、寮で自炊した弁当を持ってくるようになった。

 彼女のような手作り派はとても少ない。例えば隣人。例えば──なんと驚くことに高円寺。

 中間テスト前までは食堂やカフェで、上級生の女子とランチを共にするという……(にわか)には信じられない所業に打って出ていたが、流石にポイントが尽きたのだろう。堀北のように弁当を持参するようになった。

 その弁当を持って食堂やカフェに行くのだと思っていたのだが……ずっと教室で食べている。別に、カフェは兎も角として、食堂で弁当を食べちゃ駄目なんて校則はないのだが……。

 高円寺コンツェルンという日本有数の大企業、その一人息子は学力や身体能力だけでなく、こう言った家事能力にも長けているようだ。彼が料理をする姿は全然想像出来ないが……遠目から見るに、弁当箱に収まっているおかずはとても美味しそうだ。

 そして決まって言うことが──

 

「ふっ、流石は私だ。今日も完璧だねえ。特にこの唐揚げは絶品だ。おっと、記念に写真を撮らなくては」

 

 自分で作った料理を自画自賛している。いや、本当に美味しそうなんだけどな。唯我独尊ここに極まり。

 これで他人との協調性を得たら完璧超人でAクラス配属だっただろうに……人間はやっぱり、何かしらの欠点があるんだな。

 と、他にも手作り派はいる。女子が圧倒的に多いのは必然と言うべきで、机を合わせておかずの交換をしている。例えば……みーちゃんや()(がしら)といった生徒。

 女子生徒の中で独りなのは隣人に……あとは、佐倉(さくら)だ。一応クラスメイトだから顔と名前は辛うじて覚えているが、接点は皆無。九割以上の生徒がそうだろう。

 彼女はみーちゃん以上にコミュニケーションが苦手で……クラスから浮いていた。みーちゃんや井の頭は彼女と仲良くなりたいようだが……なかなか話が切り出せないでいると、この前相談を受けた。

 

『佐倉さん……大丈夫かな? ……綾小路くんはどう思う?』

 

『何とも言えないな。無理に話をしようとしても警戒されるだろうし……まずは挨拶からするのが無難じゃないか?』

 

『それが良いねっ。ありがとう、綾小路くん!』

 

『ところでみーちゃん。どうしてオレに? 洋介には相談しなかったのか?』

 

『えぇっ!? ど、どうして平田(ひらた)くんが出てくるの!?』

 

『え?』

 

『……え?』

 

『……まぁその話は一旦置いといて。結局、洋介とは佐倉について話さなかったのか?』

 

『うん。平田くんは……その、優しいしカッコいいけどっ。でも──私たちの気持ちを完全には汲み取れないと思ったから…… 』

 

 みーちゃんとは時々だが、機会があれば話す間柄になっていた。先日の洋介主催の打ち上げの際、独りぼっちだったオレたちが出会い、惹かれ合ったのは当然と言えるだろう。

 ……と聞くと恋の予感がしないでもないが、彼女は洋介に惚れているから、悲しきかな、その可能性は絶無。

 堀北のように侮辱や嫌味を言うわけでもないから、椎名(しいな)の次に話していて苦を感じない。その次に堀北、最後に櫛田と言ったところか。

 話を戻すとしよう。佐倉は比較的大人しめの生徒。下世話だが、一時期胸が大きいと男子の間では(もっぱ)らの噂になり、一躍(いちやく)ときの人となった。

 自分に忠実な池や山内たちが騒いでいたが……地味故にすぐに忘れられた。今なお関心を持っているのはみーちゃんや井の頭、あとは洋介に櫛田くらいだろう。

 そんな彼女は今日も独りで昼を過ごすようだった。

 独りは独りでも、孤独を好むどこぞの隣人とは決定的に違う。

 そのどこぞの隣人はオレの視線を追って佐倉を目に留めたが、すぐに離した。

 

「質問に答えるけれど」

 

「……?」

 

「綾小路くんが聞いてきたんじゃない。『手間と材料費、バカにならないんじゃないか』って」

 

「あ、あぁそうだったな……。是非とも教えてくれ」

 

「答えを言うと、スーパーにも無料食品が売っているのよ。もちろん、一ヶ月につき何個とか決められているけれど」

 

「それで作っているのか……」

 

 寝耳に水だった。オレも寮の自室で朝食だけは作っているが──寮には学校のそれとは別に、食堂があるため夕食はそこで食べている──、必要な材料はコンビニで調達していたから、スーパーにそんなものが売っているとは思わなかった。

 それにしても……。

 

「文武両道に加えて料理の腕も良いのか。高円寺といい、お前といい……性格だけが残念──」

 

「いただきます」

 

 今度はスルーされた。どんどん対応がおざなりになっていく……。

 下手に刺激したら後が怖い。

 コンビニにでも行って、適当な弁当を買うことにしよう。幸いにもポイントは今朝の一件で潤っているから問題ない。

 オレは隣人から逃げるかのようにそそくさと教室から出て、最寄りのコンビニに行き昼食を調達したのだった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 放課後に入った。長い長い束縛から解放された生徒たちは自分にとっての『有意義な放課後』を過ごすために、昼休み同様、各々自由に動いていた。

 とはいえ、Dクラスのオレたちはポイントに余裕がないから、寮に帰るのが大半だ。

 今日、椎名は部活動があるために彼女と図書館で会うことは出来ない。別に図書館くらい、カラオケや焼肉とは違って一人で訪ねても恥ずかしくはないのだが、彼女が居なければ楽しくない。

 さてどうしたもんか。池や山内、沖谷(おきたに)たちは櫛田と遊ぶ約束を大声で取り付けていたから──沖谷は非常に居心地悪そうだったが──、彼らの予定が埋まっているのは知っている。

 須藤は部活で忙しいだろうし……と、そんな時だった。

 

「須藤。お前に話がある──どうした、やけに準備が早いな」

 

「分かってる。だから行こうぜ。まずは職員室で良いのか?」

 

「ああ。それでは行こう」

 

 一瞬の出来事だった。

 茶柱先生が須藤の名前を呼んだら、彼はすぐに呼応した。まるで、予めに放課後、先生から呼び出しをくらうことが分かっていたようだった。

 そうでなければ、あんなにも早く対応出来るはずがない。

 Dクラスの生徒たちは、今のやり取りをさして気にしていないようで、雑談に花を咲かせていた。

 オレも頭を切り替え、放課後の予定を脳内で計画する。

 とはいえ答えはすぐに、『帰宅』という二文字が浮かび上がったが……。

 スクールバッグを肩に担ぎ教室から出ようとするオレに、背後から声が投げられた。

 

清隆(きよたか)くん。放課後空いてるかな。もし良かったら一緒に遊ばないかい?」

 

 有難いことに洋介が誘ってくれた。いつも彼にベッタリな、交際相手の軽井沢(かるいざわ)の姿は見られず、周りの取り巻き女子たちも居ない。

 本当に珍しく、彼は一人だった。

 

「駄目だったかな?」

 

 返答を用意するのに時間が掛かりすぎてしまい、あらぬ誤解を与えてしまった。

 オレは慌てて首を横に振る。

 

「いや、大丈夫だ。けど洋介こそ部活に行かなくて大丈夫なのか?」

 

「うん。昨日は他校と練習試合があったからね、今日はその代休なんだ」

 

「なるほど。けど遊びに行くとしてもどこに行く? ポイントはあんまりないぞ」

 

 実際は違うが、ここは敢えて嘘を吐く。

 洋介個人になら、オレが膨大な額のポイントを所持していることを教えても構わないが、ここは公共の場だ。誰が聞いているか分からない場所で、不容易に発言はしない方が良い。

 

「あははは……もちろん僕だってそうだよ。ついこの前、プライベートポイントが一万切っちゃったからね。僕としてもあまり消費したくないかな」

 

「じゃあどこに?」

 

「遊ぶといっても、どこかに行くことだけじゃないと思うんだ。清隆くん、この前はきみの部屋を訪ねさせて貰ったから、今日は僕の部屋に来てくれないかな」

 

「分かった。是非行かせてくれっ」

 

 嬉しさのあまり、声が上擦ってしまった。

 この三ヶ月の寮生活、友人の部屋で遊ぶ経験が無かったオレからしたら、今回のこの誘いはとても魅力的だったから。

 堀北に隣人としての礼儀を尽くすべく、一応別れの挨拶を──しようとしたその時には隣席は空だった。あいつ、帰るの早すぎだろ。

 洋介と共に教室を出て、寮に向かう。思えば、彼とこうして二人きりで歩くのは『あの日』以来か。

 寮に帰る道中、オレは心の中でさめざめと泣いていた。

 というのも……分かっていたことだったが、平田洋介という人間は人気者だ。それはもう声を掛けられる。主に女子生徒に。

 中には、こいつ絶対洋介に惚れているだろ! と断定出来る程にアピールしてくる生徒も居たが、彼は笑顔で対応してみせた。

 …………やっぱりイケメン+サッカーは最強のカードだな。

 そして一番辛いのが──

 

「やっほー平田くん……と誰?」

 

 オレの知名度の低さにある。しかも男女関係なく。

 この差は正直いってキツい。

 いやまあ、彼ら彼女らの反応は至って普通のことだと思う。実際、オレだって顔おろか名前だって知らないし。

 ──…………別に気にしてないし。

 友人に嫉妬する自分に対して自己嫌悪していると、ようやく寮に辿り着く。

 エレベーターに搭乗し、五階で降りる。廊下を通って何部屋かの玄関扉を通過すると、先導した洋介がようやく止まった。

 

「狭い所だけど、(くつろ)いでくれたら嬉しいよ」

 

「狭いもなにも、間取りは同じだけどな」

 

 思わず口を挟んでしまう。洋介は何が面白いのか一度笑ってから、鍵穴にキーを差し入れ、ゆっくりと玄関扉を開けた。

 羨ましいか女子……! オレは今、お前たちのヒーローの部屋に居るぞ! ……興奮のあまり、変な気分になってしまった。

 たった今しがた彼に言ったばかりだが、寮の部屋は公平性を保つために間取りは同じだ、

 だから台所やベッドの位置は基本的には同じであり、そこにどう『自分らしさ』を出せるのかが重要になってくる。

 そのことを考慮すると、彼の部屋は見事と言うしかなかった。

 無駄な物が一切なく、日頃から掃除しているのだろう、部屋は心做しか輝いているようだ。

 本棚には学校の参考書やノート、サッカー関連の本がジャンルごとに並べられていて、綺麗に立てられている。ベッド傍には深緑色の絨毯(じゅうたん)が敷かれていて、リラックス効果が見るからにありそうだ。

 

「好きな所に座って良いよ」

 

 制服のブレザーをハンガーに掛け、クローゼットの中に押し込みながら言ってくる。オレは逡巡した後、絨毯の上に腰を下ろした。

 洋介は台所に移動してから冷蔵庫を開け、声だけを振り向かせて問い掛けてくる。

 

「緑茶か麦茶、それかインスタントコーヒーがあるけどどれが良い?」

 

「麦茶で頼む」

 

「うん」

 

 予め貯蔵されているのだろう、すぐに台所から現れた。両手にはお盆が持たれていて、二人分の空のグラスと、麦茶が入っている容器が置かれていた。

 キンキンに冷えた液体がグラスに注がれ、そのまま差し出される。

 少量飲むのを見届けてから、洋介は話を切り出した。

 

「もうすぐ一学期も終わるね」

 

「そうだな。まあ、その前に期末テストがあるけど。三バカトリオが乗り越えられるか不安だな」

 

「堀北さんに期待するしかないね。もちろん、僕も出来ることはやるけど……それでも彼らにとっては彼女の方が適任かな」

 

 違いないと首肯する。

 堀北なら彼らを長期休暇まで連れて行ってくれるだろう。櫛田も協力すれば盤石だ。

 とはいえ、いずれは自分から勉強するように仕向けなければならない。下手に助けると『先』で困るのは彼らだ。

 

「期末テストは試験範囲が変更されないと尚良いな」

 

「それは大丈夫じゃないかな。前回の中間テストは多分、学校側からしたら前哨戦(ぜんしょうせん)を設けたに過ぎないと思うんだ。そう考えると、今回クラスポイントを得ることが出来たのは大きいと思う」

 

「それでもAクラスとの差は905clか」

 

「せめて、今回以上に莫大なクラスポイントを獲得出来る機会があれば助かるんだけどね。そうなればクラスはもっと団結するから」

 

 クラス競争を誰もが望むわけではない。

 少なくともDクラスの生徒たちにとって、終着点は茨の先だ。殆どの生徒は日々の小遣いを稼げればそれで良いだろう。

 真剣にAクラスを目指そうとしているのは、堀北や幸村くらいなものだ。

 そして多分──洋介はどちらでもない。

 彼は『平和主義者』だ。

 今はまだクラスが『ポイントを得る』ことで一応は纏まっているが、『充分なポイントを得た』その先にどうなるのかは分からない。

 Aクラスを目指すのか。Dクラスのまま『不良品』の烙印を押されるのを良しとするのか。

 それに他にも気掛かりなことがある。でもこれについてはのちのち確認すれば良い。

 

「清隆くん。これはBクラスの友達から聞いたんだけどね……ここ最近、Cクラスが動いているそうなんだ」

 

「Cクラスが?」

 

「うん。Bクラスの生徒と、Cクラスの生徒がこの前ちょっとした騒動を起こしたようでね。幸い騒動そのものはBクラスのリーダーが鎮圧させたんだけど……気にならないかい?」

 

「今月のポイント支給が遅れていることと、何か関係があると?」

 

 先導者は確たる信念を持って頷いた。

 流石に考え過ぎだとオレが口を挟む前に、彼は言葉を続ける。

 

「僕は今回の件について、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「根拠を聞いても?」

 

「今朝の須藤くんは元気がなかった。あの場面なら誰もが喜びの感情を表に出すはずなのにね」

 

「それを言うなら、堀北だって特に嬉しそうじゃなかったし、洋介だってそうだろ」

 

「こんな言い方はあんまりしたくないけど……僕と堀北さんはDクラスの中じゃ『出来る』人間だから」

 

 珍しく高慢な言い方をする。

 なるほど、確かに洋介の言う通りだ。

 須藤は茶柱先生から褒められても破顔するわけでもなかったし、終始無言だったな。

 

「そして極め付きに……さっきの放課後。茶柱先生が呼ぶことを、須藤くんは予想していたみたいだった。あの反応の速さは異常だよ」

 

「つまり洋介は、須藤がCクラスの生徒と何らかの事件を起こしたと?」

 

「僕は喧嘩だと思っている」

 

 生徒間の諍いだったら、喧嘩が挙げられるのは普通のことか。流石だな。

 

「仮にお前の言う通りだとしたら……面倒だな」

 

「清隆くんもそう思う? 僕も賛成だ。Bクラスのそれとは大きく異なっている。事実、僕は友達から忠告されるその瞬間まで、BクラスとCクラスに確執(かくしつ)が走ったことを知らなかった。なのに今回は──学年、いや、学校を巻き込むかもしれない」

 

 それはつまり、Cクラスは確実な必殺の一撃があることを示している。

 

「もちろん、僕の勘違い──妄想(もうそう)の類だったらそれがベストだ」

 

 オレは脳内で嘆息してから、グラスに残っている麦茶を一気に呷る。

 

「仮に、仮に──洋介の主張が正しいものだとしてだ。今回オレは身動き出来ないな」

 

 何故なら『王』と交わした契約がある。個人的な行動は限りなく出来ないだろう。

 もし破れば契約は破綻。その時オレは龍園からしたら敵になり……色々と面倒臭いことになる。

 

「そうなると──詰みだね」

 

「オレをあまり買い被らないでくれ」

 

 堀北学といい、洋介といい……過大評価にも程がある。オレはそんな『出来た』人間じゃない。

 しかし先導者はオレの指摘に対して肯定も否定もしなかった。ただ真意が摑めない微笑みを浮かべる。

 しばらくの間、部屋は静寂に包まれた。

 そんな中、ピロン♪ 携帯のサウンド音が鳴った。オレの端末からだった。

 目で彼に謝罪してから電源を付ける。

 メッセージが一着届いていて、差出人は櫛田からだった。

 

『須藤くんがCクラスの生徒と暴力事件を起こしちゃったみたいなの。相談したいから、綾小路くんの部屋で集まれないかな?』

 

 オレは内容を確認した後、洋介にゆっくりと液晶画面を見せた。

 彼は突然のことに訝しんでいたが、すぐに顔を強張らせ、真剣な面持ちに変える。

 

「……最悪の展開だね……」

 

「取り敢えず、櫛田と……多分須藤も居るだろうから合流する。洋介はどうする、来るか?」

 

「いや、僕は行かないよ。助けを求められたのは僕じゃなくて清隆くんだから。けどもし良かったら、詳しい情報を後で教えてくれないかな」

 

「分かった」

 

 洋介に別れを告げ、オレは部屋から出る。

 エレベーターは使わず、階段で四階まで降りる。その時には須藤と櫛田は居た。

 恐らくメールした時には居たのだろう。部屋を尋ねたが留守で、あのメッセージを飛ばしたのだ。

 近くに入ればラッキーくらいの感覚だったに違いない。逆に言えば、事がそれだけ重大だと分かる。

 

「綾小路くん……!」

 

 櫛田が(かす)れた声を出してオレの名前を呼んだ。彼女は池や山内たちと遊んでいたはずだが……きっと、須藤に相談を受けて彼らとは別れたのだろう。

 

「……」

 

 須藤は怒ったような、悲しいような、悔しいような……様々な色が混ざった表情で顔を彩らせていた。唇は固く閉ざされ、作られている握り拳は小刻みに震えている。

 だが、オレが彼に掛ける言葉はない。

 オレは無言で部屋の玄関扉を開け、彼らを招き入れた。

 




氏名 平田洋介
クラス 一年Dクラス
部活動 サッカー部
誕生日 九月一日

─評価─

学力 B+
知性 B
判断力 B+
身体能力 B
協調性 A-

─面接官からのコメント─

中学時代はクラスの中心人物として、生徒、教師から絶大な信頼を得ていた。問題行動を起こすこともなく、定期テストもかなりの高点数を取り、非常に優秀な生徒である。
しかし、一部の証言から、彼が当時ニュースとして扱われたら事件への関与が発覚した。
このことから、Aクラス配属を見送り、Dクラスに配属する。

─担任からのコメント─

Dクラスの生徒だけでなく、他クラスの生徒とも交流があり、また短い期間で信頼を勝ち取っています。
学業では好成績を残し、所属しているサッカー部にも真面目に取り組んでいるようです。
交際相手の軽井沢恵とは清い付き合いをしており、彼らが間違った道を歩くことはまずないでしょう。
中間テストの際は自ら率先して勉強会を開き、クラスに貢献しました。
ここ最近は同じクラスの綾小路清隆と深い交流があるようで、教室内で会話しているのを度々見掛けます。
これからもDクラスを導いて欲しいです。


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憐れな罪人

 

 自分の部屋に友人を招き入れるのは、中間テストの打ち上げ以来だ。

 物置部屋に放置してあった座布団(ざぶとん)を二人分用意し、彼らに座るよう声を掛ける。

 それを見届けてからベッドの上に腰を下ろすと、非常に居心地悪い空気が蔓延(まんえん)した。

 

「悪い、ちょっと待ってくれ」

 

 黙り込んでいる二人の返事を待たず、オレは携帯端末を操作した。すぐに終わらせ、ベッドの上に放置する。

 さて、話を聞く準備は出来た。あとは何かしらのアクションを待つだけだ。

 そんな中堪えきれなくなったのか、櫛田(くしだ)がやや大袈裟(おおげさ)な反応を見せる。

 

「わあっ、えっと、相変わらず綺麗(きれい)な部屋だねっ」

 

 綺麗な部屋に見えるのは、ただ単に物が無いだけだ。

 そう指摘したい衝動を、オレはなんとか踏みとどまって呑み込んた。

 櫛田は悪手だと自覚しているのか、おろおろと視線を泳がすばかりだった。須藤(すどう)は須藤で顔を俯かせている為、話が全然進まない。

 仕方がない。ここはオレが話を切り出すか。

 

「それで、さっきのメッセージは本当なのか?」

 

「その……あのね、綾小路くん。これには──」

 

「悪いが櫛田には聞いていない。須藤、どうなんだ?」

 

 言葉を挟んで黙らせる。

 事実確認をするだけなら櫛田が答えても良かった。()()()()()()()()()

 口を(つぐ)む彼女から視線を逸らし、オレは須藤をしっかりと見据えた。未だに顔を俯かせている為視線が交錯することはなかったが、それでもオレが返答を求めていることは分かるはずだ。

 

「……ああ、そうだ……」

 

 今にも掻き消えそうな弱々しい声で、咎人(とがびと)はゆっくりと頷いた。

 その報告を聞き届けた時、オレは内心、Cクラスの『王』を素直に称賛していた。

 

「先週の金曜日、Cクラスの連中を思わず殴っちまってよ。今日の放課後、知ってるかもしんねぇが担任に呼び出されたんだ。そしたら──」

 

「下手したら停学処分になるかもしれないって、茶柱(ちゃばしら)先生に言われたみたいなの」

 

 学校側からしたらそれは当たり前か。

 茶柱先生の呆れ顔が脳裏に浮かび上がるが、今はそんなことどうでも良い。

 

「須藤がCクラスの生徒と暴力事件を起こしたのは分かった。だがそれだけだと要領が摑めないから、もうちょっと詳しく話して貰えるか?」

 

「……俺も悪いのは分かってるつもりだ。殴ったのは俺だからな。けどよ、先に喧嘩を売ってきたのはCクラスの方なんだ。俺は連中を返り討ちにするために……!」

 

「須藤くん、落ち着いてね。ね?」

 

 両肩を震わせる須藤の手に、優しく自分の手を添える櫛田。

 一回空気を変えるべきだと判断し、二人分の麦茶を用意して、彼らに提供する。

 オレの労力は無事に報われ、彼らの……特に須藤の呼吸を落ち着かせることに成功した。

 

綾小路(あやのこうじ)にはこれまで何度か言ってきたから覚えてくれていると思うが、顧問の先生からこの前、夏の大会にレギュラーとして迎え入れられるって話をされたんだ」

 

 覚えているよな? そんな意味が込められた視線がオレに送られ、オレは無言で頷き返す。

 須藤のバスケットボールの才能が日を(また)ぐごとに開花しているだろうことは想像に難くない。特に中間テストが終わってから、彼はより一層努力してきた。

 一年生がこの時期、大会に出場する。

 これは、部活に所属していない生徒でも分かる程の偉業だ。現に今、櫛田が目を見開いている。

 

「レギュラーって凄いじゃない須藤くん! おめでとう! 今度皆でお祝いするね!」

 

「サンキューな。けど別に、まだ可能性の話だ。まあ……一年の中じゃ俺だけだけどな」

 

快挙(かいきょ)だよ、快挙!」

 

 何度も手を叩き、尊敬の眼差しを櫛田は須藤に送る。可愛い女の子から送られる賛辞に、彼は照れ臭そうに鼻を掻いた。

 しかし、それは一瞬。表情をすぐに戻し、話を再開させる。

 

「レギュラー候補だけじゃねえ、絶対レギュラーにのし上がってみせると俺は奮起していた。ここ最近は部活終了後、先輩と自主練をやっていてよ。その準備をしてた──そんな時だった」

 

「Cクラスの人たちが須藤くんに絡み出したみたいなの。あれっ? でもそれだと、その人たちは同じバスケ部員ってことになるよね?」

 

「櫛田の言う通りだ。同じ部員の小宮(こみや)近藤(こんどう)に特別棟へ来るよう呼び出したんだ。話があるとかなんとか言ってよ。さっきも言ったけど、先輩との自主練があったし無視をしても良かった。けど連中とは度々言い合いをしていたから、これを機に腹を割って話をしようと思って、先輩に謝ってから特別棟に行ったんだ」

 

 ここまで聞けば、何故喧嘩が起こったのか、その理由がある程度察しは付く。

 オレが気付いたのだ、櫛田も同様のようで、顔色をサッと変えた。いつも笑顔を絶やさない彼女だが、この時ばかりは憤怒(ふんど)に染める。

 

「もしかして小宮くんと近藤くんは、須藤くんがレギュラー候補に選ばれたのが気に食わなかったの? それって完全に嫉妬じゃない?」

 

「それなら話はまだ簡単だったんだけどな……。特別棟には小宮と近藤と……石崎(いしざき)って奴が居たんだ」

 

「え? 石崎くんって同じCクラスの? けど話に関係ない部外者じゃ……?」

 

「なんでも石崎は小宮たちのダチらしくてよ。自分のダチを差し置いて、Dクラスの『不良品』の俺がレギュラー候補に選ばれたのに納得いかなかったんだと。最初は自分からレギュラー候補入りを辞退するよう俺に説得してきたんだけどな、そんな要求呑むわけがねえ。断ったらとうとう、部活を辞めろと言ってきてな。それも断ったら殴り掛かってきたから、やられる前にやったんだ」

 

「何だかそれ……彼らには悪いけど、幼稚(ようち)にも程がない?」

 

 あまりの馬鹿馬鹿しさに、怒りを通り越して呆れてしまう櫛田。それにはオレも同意見だ。

 須藤の語った内容を全て信じるとするならば、結構面倒臭い展開だ。

 まずだが、最初に仕掛けてきたのはCクラス側。主犯は石崎と視て問題ないだろう。共犯が小宮に近藤。

 彼らは須藤の躍進(やくしん)が気に入らず、先週の金曜日の放課後に須藤を特別棟に呼び出した。彼らの狙いは須藤健がバスケ部を辞めること。

 しかし須藤は彼らの要求を真っ向から拒否し、実力行使……つまり暴力行為に手を掛けた。だが彼らにとって誤算だったのは、須藤健の身体能力の高さを見誤っていたこと。

 三対一なら勝てると思い込んでいたのだろうが、為す術もなく敗北。連中からしたら屈辱的で、自尊心が大きく削られただろう。

 やられっぱなしでいられるわけもなく、須藤と別れた後すぐに学校に報告した。

 

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 だがオレはもっと濃い情報を多数所持している。それこそ──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「つまり、仕掛けてきたのは石崎くんたちってことだよね? じゃあ須藤くん、悪くないじゃん。先生には言わなかったの?」

 

「もちろん言ったぜ。あっちから脅迫紛いのことをしてきたことをよ。けどよ、俺、これまでがこれまでだったろ? だから信じて貰えなくて……」

 

「それは、そうだね……」

 

 須藤がこれまで起こしてきた騒動が、全て裏目に出てしまっている。

 例えばこれで須藤ではなく櫛田だったら。茶柱先生や他の教師も聞く耳を持ったはずだ。

 日頃から悪行をしている人間と、日頃から善行をしている人間。

 どちらを信じるのかと問われたら、後者の人間を信じるだろう。

 だがそれは、何も無い状況ならの話だ。

 

「先生は何て言ったの?」

 

「来週の火曜日まで時間を与えるから、Cクラスが犯人であることを証明しろって……。もし出来なかったら俺は夏休みまで停学。あとは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()って言われた」

 

 もし来週の火曜日までに須藤の無実を証明出来なければ、Dクラスが受ける傷は浅くない。

 

「そんなのおかしいよ! ……確かに須藤くんが殴っちゃったのは悪いけど、それでも、今までの『過去』があるから、そんな理由で判断するなんて……! 須藤くん、ここ最近は授業も真面目に受けていたし、バスケの練習だってより精を出していたのに──」

 

「だからこそ、なんだろうな」

 

「綾小路くん、それってどういう……?」

 

「須藤(けん)が変わろうとしていることはDクラスの生徒はよく知っている。櫛田の言う通り、オレだって頑張っていると思う。それは成果として出ている。中間テストの結果発表の時、茶柱先生は須藤を名指して褒めていた。あの茶柱先生が、だ。つまり彼女は須藤に対して、少なからず期待していたということになる。だが、今回の『喧嘩』が起きてしまった。期待していた状態で、結果的には裏切られた形になったんだ。そうなったら、櫛田だったらどう思う?」

 

「……ガッカリするよね……」

 

 それに話は、どっちが良いか悪いかの簡単なものじゃないだろう。

 須藤が石崎たちを殴ったとはいえ、一対三の状況を作ったCクラスにも過失はある。

 だから須藤だけじゃなく彼らにも何らかの処罰が下されるはずだ。

 それが意味することはたった一つ。

 

「罰の大きさは兎も角として、『喧嘩』に関わっている人間全員が(とが)められるだろうな」

 

「……ッ!」

 

「で、でも! 正当防衛が当てはまるんじゃ!?」

 

 オレは首を横に振ることで、櫛田の主張を否定した。さっきから彼女の言葉を尽く否定しているが、なにも、根拠がないわけじゃない。

 正当防衛とは、急に乱暴を受けたときなどの不正な侵害に対し、自分や他人を守るため、やむを得ず相手に害を加える行為のこと。

 そしてこれは、小説やドラマのように簡単には成立しない。

 

「須藤の話を聞く限り、石崎たちはあくまでも『言葉』で脅迫してきただけだ。刃物を所持していたなら兎も角、違うんだろ?」

 

 須藤を一瞥して確認をとる。

 

「ああ……」

 

「片方だけの要求を一方的に聞くわけにもいかないから、約一週間の期間が設けられたんだと思う」

 

 そして期日までに第三者が納得いく証拠が提示出来なければ、今ある証拠──『怪我』で判断するしかない。

 その主旨を告げると、櫛田は沈痛な面持ちで言葉を漏らした。

 

「だから須藤くんの方に重い罰が与えるってこと?」

 

「先に訴えた方の強みだな。()()()()()()()()()()()()()()()

 

「マジでどうすれば良いんだよ……。だって、だってこんなのあんまりだろ! 俺も悪いのは認める。謝罪だってする。けどだからといってこんなのって……! それに俺だけの問題じゃねえ、クラスにも迷惑を掛けちまう!」

 

 顔を両手で抱え慟哭する須藤に櫛田が彼の背中に手を添えた。優しく摩り、自分が居ることを告げている。

 そんな彼女は顔だけ振り向かせてオレに問い掛けた。

 

「綾小路くん、何か手はないかな?」

 

「……言葉で説明しても意味が無いなら、他の手段をとるしかない。例えば──目撃者の有無」

 

 まあ、そんな都合が良い展開があったら苦労はしない。

 事件現場は特別棟。放課後の時間に好き好んで訪れる訪問者などそうそう居るはずがないだろう……。

 ところが、須藤は下げていた頭を勢いよく上げ、考え込む仕草を見せた。

 

「……誰かの気配を感じた気がする。そうだ──俺はあの時、傍に人の気配を知覚して……」

 

「須藤くん、勘違いの可能性は?」

 

「無い。間違いないぜ」

 

 暗闇の中、突如どこからか射し込んだ希望の光。

 櫛田がやった! とばかりに頬を緩ませる中、しかしオレは彼女に同調出来ない。

 仮に須藤の言う通り、目撃者が居たとしよう。一部始終を見ていたのなら願ったり叶ったりだが……最悪の場合、さらに窮地に陥ることも覚悟しなければならない。

 例えばその目撃者が──仮称としてXとする──須藤がCクラスの生徒を殴り飛ばした直後から見ていたら、こちら側にとっては最悪の判断材料として学校側に提示されるだろう。

 それにもしXがD及びCクラスの生徒の場合。前者だったら証拠能力が大きく削がれるし、逆に後者の場合、自分のクラスメイトが不利になるような発言はしないはずだ。

 

「今取れる解決方法は、主に二つ。一つ目はCクラス側が自分の非を認めること。それが一番だよね」

 

「櫛田には悪いと思うけどよ……それは無理だぜ。バカな俺でも分かる。あいつらはそんなタマじゃねぇし、自分から訴えたのに取り下げるなんて──まして、自分の非を認めるなんて天地がひっくり返っても起きねぇよ」

 

「うん、私もそれは須藤くんの話を聞いて分かったつもり。二つあるって言ったけど、実質的には一つだけ。つまり──目撃者を捜すこと」

 

 結局、それが無難なところか。

 Xを捜すことに異論は無い。今回ばかりは櫛田の主張が正しいとも思う。

 だがここで、さらなる問題が浮上する。

 

「目撃者を捜す。口で言うのは簡単だが、どうやって捜すんだ? 一年生だけでも百六十人。二、三年生を頭数に入れたら合計、四百八十人だぞ」

 

「一年生は一人一人地道に行くとして……上級生の場合はクラス単位で聞くしかないよね」

 

 さらりと凄いことを言ってのけるな。

 櫛田はクラスメイトとして……いや、須藤の友達として、全面的に協力するようだ。

 気合を入れるためか、可愛らしく両拳を握る彼女を見て、須藤も元気が出たようだった。

 オレと櫛田を順番に見て、彼は精一杯頭を下げる。そして願いを口にした。

 

「……本当に悪いな。何度も何度も迷惑を掛けてよ。けど頼む──助けてくれ」

 

「もちろんだよ、須藤くん! ね、綾小路くん?」

 

「……オレで出来ることならな」

 

 嘘で塗り固まれた言葉を吐く。

 自分でも思う、感情がこもってないと。

 現に櫛田だって気付いているはずだ。だからこそ彼女はオレに同意を求めるようにして、問い掛けてきたのだから。

 彼女が何かを言う前に、オレは須藤に頭を上げるように言った。

 

「取り敢えず須藤、お前は何もするな。当事者が動くと面倒になるからな」

 

「…………分かった。綾小路には借りを作ってばかりだな。お前が困っていたら絶対力になるから、その時は頼ってくれ。もちろん、櫛田もだぜ」

 

「うんっ」

 

「そんじゃあ俺は帰るわ。今日は悪かったな、いきなり押し掛けてよ」

 

「気にするな」

 

  また明日なと別れの挨拶を口にしてから、須藤はオレの部屋から出て行く。

 オレは彼の小さな背中を廊下で見届けてから、自分の部屋に戻った。

 

「……櫛田はまだ残っているんだな」

 

「あはは……ごめんね綾小路くん。けど聞きたいことがあったから。質問良い?」

 

「オレに答えられることなら」

 

 ベッドの上に放置しておいた携帯端末を手に取り、液晶画面の上で指を走らせる。その片手間に聞くと、櫛田は──表情を一変させた。

 それはオレが垣間見た彼女の『裏』の顔。この場に居るのはオレと彼女だけだから、限定的ながらさらけ出しているのだろう。

 

「ねえ。綾小路くんはさ。今回の一件、乗り気じゃないよね」

 

「どうしてそう思う?」

 

「だって必要以上に話に参加しなかったじゃない。慰めることも、励ますこともあんたは何一つしなかった。凄く淡々としてた。違う?」

 

「櫛田がそう思うならそうなんじゃないか」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「おかしなことを聞いてくるな。当然、櫛田も須藤も映っているさ」

 

 携帯端末から視線を外すことなく答える。全く、変な質問だな。

 しかし櫛田はオレの態度や言葉に強い(いきどお)りを覚えたのか、殺気を飛ばしてきた。

 女子高生が飛ばせるものじゃないと思わせる程、鋭く、濃厚なもの。

 

「オレにその『裏』を見せて良いのか?」

 

「綾小路くんにはもう露呈(ろてい)しているから。意味が無いじゃない。それにあんたも、嫌いって言われた人間から愛嬌なんて振られたくないでしょ。って言うか、あんたも人と話しているのに携帯弄るとか、人の事言えないじゃない」

 

「それは悪い事をしたな」

 

 仕方なく櫛田を見る。入学当初あった彼女への好感度は、ここ最近どんどん減りつつある。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 何も変わっていないオレという人間に対して呆れ、苦笑してしまう。

 それが自分に向けられたものだと誤解したのか、より険しい顔付きになる彼女だった。

 

「やっぱり綾小路くんは冷たくて残酷だよね」

 

「そうは言ってもな、オレに出来ることなんて高が知れてるぞ。強いて言うなら須藤の話に相槌(あいづち)を打ったり、傾聴するくらいだ。はっきり言って、オレなんかに頼るより、洋介(ようすけ)堀北(ほりきた)あたりに助けを求めた方が効率が良いだろ」

 

「だとしても──須藤くんはね、私や堀北さん、(いけ)くんや山内(やまうち)くん、沖谷(おきたに)くんに頼る前に綾小路くんを頼ったんだよ。どうしてだと思う?」

 

「……」

 

「それだけあんたを友達だと思っているんだよ。助けが欲しい時、真っ先に頼るくらいにはね」

 

 櫛田は『表』と『裏』の顔をごちゃごちゃに混ぜながらそう言い切った。

 オレはそんな彼女に困惑(こんわく)してしまう。いや、それは違うか。彼女が告げたことが理解出来ないでいる。

 確かにオレと須藤は仲が良い。

 入学してからのこの短くない月日の中で、オレは様々な人と接点を持ってきた。

 別に優劣を付けるわけではないが、自分にとっての大切な人も出来ている。

 総合的な観点なら首位は椎名(しいな)ひよりだ。女性の友人としても、気が合う友人としても、彼女は他の人間の追随を許さないでいる。

 

 ──それじゃあ須藤は?

 

 オレは強引に思考を断ち切った。

 時を同じくして、櫛田もいつもの『表』の顔に戻る。いつもの人懐こい柔和な笑みを浮かべてこう言った。

 

「綾小路くんはさ、もうちょっと他人に興味を持った方が良いんじゃないかな」

 

「この前も似たようなやり取りをした気がするが、別に、オレは他人に対して無関心なわけじゃない」

 

「うん、知ってるよ。だからさ、なんて言ったら良いのかな──視野を広く持つべきだと思うな」

 

「……そこまで言うなら、心掛けてみる」

 

「うんっ」

 

 櫛田スマイルに当てられて目を離す。しまった、今の表情、撮っておけばよかったな。そしたら『櫛田エル親衛隊』に高く売れたのに……。

 いや、流石に冗談だが。明日あたり池や山内にさり気なくを装って自慢するとしよう。

 

「話を戻すけど、綾小路くんはどうするの?」

 

「さっきも言ったろ。……オレに出来ることはするさ。まあ、出来ることは高が知れてるけど。オレが役立つとは思えないから、あまり当てにはしないでくれ」

 

「そんなことないよ。きっと役に立つよ。何かのっ」

 

 明確な根拠は告げられなかった。悲しい。内心さめざめと泣いていると、櫛田は小首を傾げながら考え込む。

 

「うーん、やっぱり聞き込み調査が一番だよね。まずはDクラスの皆に事情を説明して、協力要請するのが無難かな?」

 

「だろうな。まずは賢人の力が欲しい。洋介や堀北、幸村(ゆきむら)やみーちゃんと言った学力が高い生徒には率先して協力して貰うのが良いんじゃないか」

 

「幸村くんと堀北さん、協力してくれるかな?」

 

「このままいけば最悪、せっかく得たクラスポイントは水の泡だ。彼らはAクラスを真剣に目指しているから、手を貸してくれるさ……多分」

 

 幸村は兎も角として、堀北に関しては自信がない。だって堀北だからな……。

 自分の部屋に帰る櫛田をエレベーターまで見送り、オレはベッドの上で仰向けに寝転がる。

 照明の光をぼんやりと眺めながら、オレは思考の海にしばらく浸った。

 期末テストと夏季休暇を目前に控えた七月上旬。

 クラス競争の前哨戦の開幕。

 Dクラス対Cクラスのこの図式。

 他クラスの陣営も何かしらの動きを見せるだろう。

 

 ──と、そんな時だった。

 

 携帯端末が振動し、軽やかなサウンドを響き渡らせながらメッセージが届いたことを告げる。

 画面をつけて差出人を確認すると、登録していないメールアドレスだった。しかもフリーメールアドレスだからタチが悪い。

 まあ、差出人は心当たりがあるが……。

 そのメールアドレスには短くこう書かれていた。

 

 

 

『俺の勝ちだ』

 

 

 

 その文面を目に通した瞬間、オレは(わら)っていた。

『王』がわざわざ勝利宣言をしてくるなんて、正直、思いもしなかった。

 だからオレも彼に返そう。放たれた言葉は、部屋に小さく反響した。

 

 

 

「俺の勝ちだ──龍園」

 

 

 



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事件の概要

 

 日が(また)いだ翌朝の火曜日。

 今日から一週間後までに須藤(すどう)(けん)の無実を証明出来なければ、彼は停学、さらにはDクラスのクラスポイントからも幾ばくかのポイントが削られてしまう。

 時を同じくして、オレと須藤の朝のジョギングもしばらくは休止することになった。これは彼からの申し出であり、オレは受諾(じゅだく)。いつ再開されるかは未定だが、最悪の事を想定しておいた方が良いだろう。

 とはいえ、朝早くから起床することはオレの日常生活に組み込まれてしまったのか、身体は自然と覚醒してしまった。

 その為、一人で散歩をした。数奇なことに堀北(ほりきた)(まなぶ)とまたもや遭遇して一緒に散歩をすることになったが……まあ、それは別に良いか。

 いつもと同じ時間に寮を出たのだが、途中忘れ物をしたことに気付いて慌てて戻り、遅刻寸前の時間帯に校舎に入る。

 そのまま一年Dクラスに早歩きで突入すると、室内は異様な雰囲気に包まれていた。

 平生(へいぜい)はチャイムと同時に訪れる担任、茶柱(ちゃばしら)先生が既に居たからだ。

 

「おはよう、綾小路(あやのこうじ)。珍しいな、遅刻ギリギリだぞ。あと二分だ」

 

「……すみません。忘れ物をしてしまいまして」

 

「それなら仕方がない……と言いたいが、遅刻は査定の対象になりかねないので気を付けるように。ほら、さっさと席に着け。お前以外は座っているぞ」

 

 茶柱先生の言う通りだった。

 教室を見渡せば、空いている席は一つだけ。もちろんそれはオレの席。

 そそくさと教室の後ろを渡る中、オレは違和感を覚えた。いくら教師が居るとは言っても、今はまだ一応自由時間。

 Dクラスの授業態度は大幅に改善されたが、それでもこの時間帯に囁き声一つないのはおかしい。

 嫌な予感を覚えがら自分の席に座ると同時に、隣人が声を掛けてきた。

 

「おはよう、綾小路くん」

 

「おはよう、堀北(ほりきた)。なあ、どうして今日はこんなに静かなんだ?」

 

「つい数分前に、ちょっと色々とあったのよ。すぐに分かるわ」

 

 そう言われたら黙るしかないか。

 一時限目の授業の準備をしていると、朝のSHRを告げる始業の鐘が校舎中に響いた。

 教卓で目を閉じその時を待っていた茶柱先生が、出席簿片手に号令を掛ける。

 

「それでは朝のSHRを始める。欠席者及び、遅刻者無し。他のクラスでは夏風邪を引いた生徒が出始めているからな、先生はこの出席率を嬉しく思うぞ」

 

 相変わらず心が込もってない賛辞だ。いや、これが茶柱先生の精一杯なのか?

 益体の無いことを考えながら彼女の有難い言葉を聞く。そして、オレは再度違和感を覚えた。

 いつもは話半分で話を聞く姿勢を取っていた(いけ)山内(やまうち)といった連中が、背筋を伸ばして真剣に聞いていた為だ。

 まあ、彼らの場合は昨日『先生』に命令されたからな。まだ納得が出来る。

 問題はその堀北だ。いつも浮かべている仏頂面だと言われればその通りなのだが……表情が妙に張っているような気がする。

 

「さて──今日はお前たちに一つ報告がある。とはいえ、綾小路以外は櫛田(くしだ)と須藤が説明していたから知っているだろう。しかしそれでは満足のいく説明とは言えないからな、面倒かもしれないが清聴してくれ」

 

 茶柱先生は浅く呼吸をしてから、おもむろに話し始めた。

 

「先週の金曜日の放課後、うちのクラスの須藤と、Cクラスの小宮(こみや)近藤(こんどう)石崎(いしざき)たちがトラブルを起こした。学校側はこのトラブルを『暴力事件』だと断定している」

 

 刹那、教室内が震えた。とはいえ、それも一瞬。

 なるほどとオレは一人納得していた。違和感の正体はこれだったのだ。

 つまり、オレが登校する前に櫛田と須藤がクラスメイトへ報告したのだろう。当事者の須藤が動くことはあまり(この)ましくないが、今回の場合は当事者としての義務が発生する。

 その判断は正しいものだ。

 DクラスとCクラスの間に確執(かくしつ)が生じたこと。責任の度合いによっては須藤の停学、さらにはクラスポイントが削減されること。全てが学校側によって赤裸々(せきらら)に晒された。

 彼女は最初から最後まで淡々としていて、自分に課せられた義務を達成させることに専念していたようだった。

 

「──と、ここまでが、学校側……中立的立場からの報告だ。それでは今から質問を受け付けよう」

 

「先生、だとしたら何故学校側は結論を出していないのですか? 須藤くんから前もって僕たちは説明されましたが、それでも聞かせて下さい」

 

「今回最初に訴えてきたのはCクラスの方だ。彼ら曰く、『一方的に殴られた』とのこと。ところが、真相を確認したところ、須藤は『否』と言った。殴ったのは事実だが、最初に挑発……喧嘩を売ってきたのはCクラスだと。そうだな、須藤?」

 

「ああ……俺ももちろん悪いが、あくまでも最初に仕掛けてきたのは向こうだ」

 

 茶柱先生の確認に、須藤は堂々と答える。

 どうやらこの一夜で、彼なりに吹っ切ることが出来たようだ。

 

「この『暴力事件』の面倒なところは、どちらもが『被害者』だと主張しているところだ。今ある確かな証拠は、須藤が連中を殴ったことだけ。それ故に、須藤の無実を証明したければ、その証拠を私たち学校側へ提示して貰いたい。具体的には須藤が言っている目撃者だな。──念の為聞いておくが、一部始終を目撃した生徒はこのクラスに居るか?」

 

 誰も挙手をしなかった。

 それはつまり、XがこのDクラスの人間ではないということ。そのことにオレは内心安堵(あんど)する。

 仮にXが居て、さらにDクラスだった場合、それこそ決定的な証拠でなければ受理(じゅり)されない可能性が高いからだ。

 

「目撃者については現在、各クラスの先生がこの時間を使って尋ねているはずだ。名乗り出てくれるのが一番だが、あまり期待しない方が賢明だと助言しよう」

 

「仮に目撃者が名乗り出なかった場合、学校側は期日を早めたりしませんよね?」

 

「無論だ。お前たちが須藤を救いたいのなら、常識の範囲内でなら自由に動いてくれて構わん。だが今回のこの一件、クラスメイトだからと言って無理に行動しなくて良いぞ。何故ならそれはあくまでも対岸の火事であり、クラスポイント云々はさておいて、基本的には自分には関係ないからだ」

 

 ざわ、と教室はしばらくの間喧騒に包まれた。

 茶柱先生が語ったことがそれだけ衝撃的だったからだ。

 仮にも聖職者がそんな暴言を吐いて良いのかと疑問は尽きないが──極端だが、それも一つの選択だろう。

 ほんと、何を考えているのやら。

 動揺に包まれる中、洋介(ようすけ)が静かに問い掛けた。

 

「……茶柱先生はどのような考えですか?」

 

「それは教師としてか? それとも茶柱佐枝(さえ)という人間としての主観としてか?」

 

「後者です」

 

 少し考え込んでから、茶柱佐枝は答えた。

 

「ふむ……私から言わせて貰えば、須藤は愚かにも程があるな。せっかく良い傾向だったのに残念に思う。まぁまだ、自分にも非があると認めているだけマシだがな。平田(ひらた)、これで満足か」

 

「……はい、ありがとうございました」

 

「それでは朝のSHRはこれで終了だ。本日も頑張って授業を受けてくれ」

 

 言うや否や、颯爽(さっそう)と教室をあとにする茶柱先生。

 一時限目が始まるまであと十五分はある。何かやるとしたら、今しかない。この機会を脱するわけにはいかないだろう。

 (みな)(みな)、周囲の友人と目だけで会話している──そんな、重苦しい空気が室内に充満した。さしもの洋介や櫛田もタイミングを測れずにいる。

 そんな中、椅子を引く音がやけに大きく反響した。

 須藤だ。

 彼は無言でゆっくりと足を動かし、教卓へと静かに登った。

 視線という視線が彼に収束し貫通する。困惑、怪訝、様々な色の矢が突き刺さる。

 数秒後……彼は頭を深く下げた。

 

 

 

「クラスに迷惑を掛けて──本当に悪い」

 

 

 

 顔を上げることなく、須藤は懺悔(ざんげ)した。

 誰もがこの突如舞い降りた出来事に何も言うことが出来ず、瞠目(どうもく)するしかなった。

 入学当初、生徒が彼に抱いている心象は最悪だった。遅刻を何度も繰り返し、登校してきたと思えば居眠り。些細なことで苛立ち、暴言を吐き、自分の思うようにいかなかったら災禍(さいか)の化身となる。

 しかしこの数ヶ月で、彼はゆっくりとした速度だったが『変化』の兆しを見せるようになった。

 自分の罪を認めることは、口で言うのは簡単だが実際に行動出来る人間は数少ない。

 何故ならそれは、自分という人間を保つための防衛装置。自我を証明させる手段なのだから。

 

「昨日の夜……俺なりに考えてみたんだ。今回の『喧嘩』は人為的なものだ。けどよ……原因は俺自身にあるんじゃねぇかって、考えたんだ。お世辞にも俺は平田や櫛田のような善人なんかじゃねえ。どうしようもないクズだ。そんなクズが自分勝手に助けを求めるのは最低だとも思うし、カッコ(わり)ぃ。けど──頼む。俺を助けてくれないか?」

 

 驚き、目を見張り、息を呑む。

 誇りを捨てて、須藤は願った。『助けて欲しい』と口にした。それがどれだけ難しいことか──。

 クラスメイトたちが多種多様な反応を見せたまま、少なくない時間が過ぎ去っていく。

 空白の時間の中で、先導者が颯爽と席を立ち、咎人(とがびと)に近付く。そしてしっかりとした口調で、彼に手を差し出した。

 

「僕は須藤くんを助けるよ。何があろうとね」

 

 須藤は差し出された手を摑まない。いや、摑めない。これまで独りで生きてきたから、そのやり方を知らない。

 空に浮く手から視線を外し、恐る恐る尋ねる。

 

「……俺が嘘を吐いているって思わないのか……?」

 

「なら聞くけど嘘を吐いているのかい?」

 

「ンなわけねぇだろ……!」

 

「なら、僕は須藤くんを信じる。僕たちはクラスメイトで、この先一緒に戦う仲間だ」

 

 改めて手が差し伸べられる。

 先導者の瞳の中には確固たる覚悟の(ほのお)が揺らめいていた。助けたい……いや、助けるという決意の(あらわ)れ。

 叛逆者はゆっくりと自身の手を伸ばし、おずおずと握る。しかしそれはすぐにかたく結ばれ、須藤の目に光が灯った。

 

「──僕は須藤くんを何があろうと助ける」

 

 先導者の決意表明。

 その覇気に何人の生徒が呑まれただろう。自分を()してまで他者を救おうとする()()()()()()

『お人好し』なんてそんな生易しい言葉では言い表せない。もっと別の、正体が摑めない『何か』。

 多くの生徒が瞑目(めいもく)する中、一人だけ動く生徒が居た。

 オレからしたら意外な人物だった。

 

「あたしも平田くんにさんせー」

 

 洋介の交際相手、軽井沢(かるいざわ)(けい)。間延びた声を出しながらも、Dクラスの女王としての風格がそこにはある。

 

「須藤くんは十分反省しているし、何より、冤罪(えんざい)だったら問題でしょ? それにさー──あたし、そういうの一番嫌いなんだよねー」

 

 間延びた声の調子は最後まで変わらなかった。だが、最後の部分だけは他者を威圧するだけの力があった。

 軽井沢は洋介の味方をすること以上に、自分が気に入らないからという理由で賛成するようだ。

 女王の持つ影響力は絶大だ。

 須藤が皆の前で謝罪し、洋介が手を差し伸べ、軽井沢が纏める。これで女子生徒は仲間に引き入れたのも同然だが、まだ男子生徒が残っている。

 一致団結するまであと『一歩』足りない。その一歩を埋められるのは調停者だけだ。

 すなわち──櫛田桔梗(ききょう)。彼女もまた行動を起こした。

 

「私も須藤くんを助けるよ。だってそれが友達だと思うから。池くんもそう思うよね?」

 

「櫛田ちゃんの言う通りだぜ。正直最初は須藤のバカさに呆れて何も言えなかったけどさ。けど……うん、俺たち友達だからな。須藤、貸しだからな!」

 

「ああ……! 借りを作らせてくれ!」

 

 池の言葉に、須藤は即答する。

 櫛田と池はDクラスの中で最もコミュニケーション能力に長けている。池は女子からの心象が良いとはお世辞にも言えない。それは常日頃からの生活態度に些か問題があるからだ。

 ()()()()()()()()()()

 そして何より、今回池は自分の意思で須藤を助けることを決めた。()れている櫛田が助けると言った、というのもあるだろうが、少なくとも安直には決めていないだろう。

 須藤と同じく、彼もこの三ヶ月で変わり始めている。

 今はまだ種は芽吹(めぶ)いていないが、遠くない未来、Dクラスの戦力として咲き誇るかもしれない。

 

「まずは目撃者を捜すことから始めよう。部活に所属している人は聞いてみて欲しい」

 

「私は所属していないけど、友達に聞いてみるね」

 

「あたしもー」

 

「『Dクラスが目撃者を捜している』っていう情報をなるべく多く拡散して欲しい」

 

 先導者の指示の下、須藤救済のために動き始めるDクラス。以前彼が危惧していた、『Dクラスの崩壊』はこのままいけば起こらないだろう。

 今回の一連の事件は彼らに任せるとしよう。

 

 

 

 

§

 

 

 

「……任せるつもりだったんだけどな……」

 

 昼休みに突入した。

 オレは何故か櫛田に堀北、須藤、池、山内(やまうち)沖谷(おきたに)といったメンバーと共に食堂を訪れ、食事をしていた。理由は簡単で、作戦会議をするためだ。

 言い訳をすると、四時限目が終了した時点で教室から出てフェードアウトする予定だった。だがオレの完璧な計画を壊した人間が居た。

 櫛田だ。

 昨夜の会話で、彼女は前もってオレの計画を予期していたのだろう。実に恐ろしい……!

 その彼女はと言えば、今は櫛田スマイルを浮かべて池や山内たちと談笑していた。

 遠巻きに眺めると、周りの人間に悟られない程度にウィンクされる。まあ……これくらいだったらまだ『誤差』だ。

 そろそろ頃合いだろうと思ったのか、皆が須藤をじっと見た。中には堀北も入っていて、何やら思案しているようだ。

 

「改めて頼む。俺を助けてくれ」

 

 一人一人順番に顔を見て、須藤が深々と誠心誠意(こうべ)を垂らす。これ以上の言葉は不要だろう。

 堀北以外の友人が力強く頷く中、彼女だけは未だに神妙な面持ちで須藤を凝視していた。

 

「一つだけ聞かせて。須藤くん、あなたは何故この『暴力事件』が生まれたか理解している?」

 

 質問の意図が分からないのか、沖谷が首を可愛らしく傾げた。これで女だったら櫛田とは違った意味でクラスの人気者になっていただろうな。

 堀北は意味が無いことはやらない、しない主義の人間だ。無論、この質問には意味がある。

 ここで須藤が間違った答えを口にしたら、堀北鈴音(すずね)の積極的な支援は望めないだろう。

 頭を上げることなく、罪人は自らの『罪』を言う。

 

「……俺の日頃の態度が悪かったからだ。だから俺はCクラスの奴らに狙われた」

 

「ええ、そうよ。そのことが分かっていれば良い。……そして須藤くん、残念な報告がある。須藤健の無実は『奇跡』でも訪れない限り、獲得出来ない」

 

「ちょっと待てよ堀北。それってどういう──」

 

「『暴力事件』が成立した時点で、DクラスCクラス共に小さくない傷が付けられるってことよ」

 

 流石と言うべきか、堀北は既に事件の本質を見抜いていた。恐らく、オレとほぼ同じ考えだろう。

 彼女は三バカトリオにも理解出来るよう、出来るだけ噛み砕きながら説明する。

 すっかり『先生』と認識されているようで、誰もが彼女の言葉に傾聴する。

 

「──分かった? つまりこれは、須藤くんの無実を証明するための戦いじゃない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……そのためにはどうすれば良いのかな?」

 

「目撃者を捜すしかない。彼──彼女かもしれないけど──を見付けることでようやく、戦いの土俵(どひょう)に立てる」

 

 それでもやるべき事は山積みだ。

 普通の方法では、期日の一週間後までに到底間に合わないだろう。だが諦めたらそこで試合終了──こちらの完全敗北。

 深刻化している事態にようやく気付いたのか、誰もが口を噤んだ。

 しかしそれも数秒で終わり、櫛田が席を立つ。

 

「ごめん皆。あそこに仲良くさせて貰っている先輩が居るから、ちょっと探ってみるね」

 

「悪いな櫛田」

 

「ううん、大丈夫だよ」

 

 優しく微笑んでから、空のトレーを持ちオレたちから離れていった。

 いつの間にかオレ以外の全員が食べ終えている。

 待たせているのかなと思い箸を動かす速度を早める。

 

「おいおい、櫛田ちゃんが話し掛けている先輩って、男じゃないか!」

 

「なぁにぃ? ……う、嘘だろ……! ほ、本当だ……。しかも超絶イケメンじゃん!」

 

「良いなあ。僕もあれくらい男前に……」

 

「沖谷は筋肉がないんだよ。今度一緒にバスケやろうぜ」

 

「うんっ」

 

 沖谷もすっかりこのメンバーに馴染んでいるようだ。

 彼らが純粋に会話を楽しんでいる中、池と山内は絶望の表情を浮かべていた。

 視線を辿った先には、櫛田が上級生だと思われる先輩と談笑している姿があった。なるほど、確かにイケメンだな。

 その光景を目の当たりにした彼らの表情がそれはもう凄い。『櫛田エル親衛隊』隊長、副隊長の両名は突き付けられる現実に何も言えなかった……。

 

「失礼するわ」

 

「堀北さん?って、もう行っちゃった……。急にどうしたんだろう?」

 

 堀北の突然の退去に、沖谷が戸惑う。池と山内は先の光景から目を背け、堀北に関心を向けるが分からないだろう。

 そんな中オレと須藤だけは察していた。彼女と入れ替わるようにして、二人の男女が近付いている。

 

「席、座っても宜しいでしょうか?」

 

 可愛らしい声が女子生徒から出された。

 低い身長、鮮やかな紫色の髪といった容姿の彼女に、高度育成高等学校に在籍している生徒は必ず見覚えがあるだろう。

 池が驚き声を出す。

 

「三年生の(たちばな)先輩と……堀北生徒会長!?」

 

 周りの生徒が池の叫び声に反応し、こちらに顔を振り向かせてくる。辺り一帯がちょっとした喧騒に包まれた。

 無理もないか。

 何せどちらもこの学校では超がつく程の有名人。

 生徒会長の堀北学は言わずもがな、彼にいつも連れ添っている橘先輩も有名だ。

 彼女は生徒会書記で、当然と評するべきか三年Aクラス。

 

「そこのお前、席、座っても良いか」

 

 堀北学がオレに声を掛けて聞いてくる。

 彼と会うのは今朝以来だが、どうやら、初対面の振りを装うようだ。オレとしてもその方が有難い。

 

「オレに拒否する権利はありませんよ。どうぞご自由に」

 

 味噌汁(みそしる)(すす)りながら答えると、喧騒さが一気に飛ばされ、完全な静寂が訪れた。

 

「ちょちょちょ、綾小路、お前! 口に気を付けろよ! 相手は生徒会長だぞ! もっとこう……あるだろ!」

 

「そうなのか? 敬語は使っているから問題ないだろ」

 

「あーもう! す、すみません先輩……。こいつ時々、素でこんな態度をとっちゃうんですよ……」

 

 大量の汗を流しながら何故か平謝りする池。

 急にどうしたんだろう。いや割と本気で。

 疑問に思い周囲の友人に助けを求めるが、彼らも池と同様に有り得ないものを見る目でオレを凝視していた。

 これってオレが悪いのか?

 

「いえ、大丈夫ですよ。ここは食堂ですから、むしろ、そんな畏まった態度をとられるとこちらが戸惑ってしまいます。ですよね、堀北くん」

 

「橘の言う通りだ。それでだが、席、座っても良いか?」

 

「どどどどどうぞ! ──あっ、ヤバい!俺たちこの後用事があるんだった! そうだよな山内!」

 

「おおおおおおう! 五時限目の準備をしないとな! 須藤と沖谷もそうだったよな!?」

 

「「……?」」

 

「「そうだったよな!?」」

 

 物凄い剣幕で同意を要求され、須藤と沖谷は機械的な動きで頷いた。

 同意を得た池と山内はそのままオレに視線を流し……呑気に昼食を食べているオレになんとも言えないような顔付きになる。

 

「……先に教室に戻って良いぞ」

 

「悪いな綾小路〜。ごめんねごめんね〜。──行くぞお前ら! 遥か彼方(かなた)地平線(ちへいせん)まで!」

 

「俺は一生付いていくぜ友よ!」

 

「「さらば!」」

 

 茶番にも程があるやり取りを交わしたかと思ったら、池と山内は須藤と沖谷の手を強引に引っ張って食堂から姿を消した。

 

「面白い人たちですね……。そう思いませんか、堀北くん」

 

「ユニークなのは認めよう」

 

「では失礼しますね……えっと、きみは?」

 

「橘、人の名前を聞く時は自分から名乗るのが礼儀だ」

 

「あっ、そうでしたね。こほん。私は三年Aクラス、橘(あかね)と言います。ご存知だと思いますが、こちらが──」

 

「同じく三年Aクラス、堀北学だ」

 

 池たちが居なくなったこの状態でも、堀北学はオレとの初対面を装いたいらしい。そのことを察知し、敬語を使う。

 

「はじめまして。一年Dクラス、綾小路清隆です」

 

 俺の目の前に堀北学が、彼の隣に橘先輩が椅子に座り、昼食を食べ始める。

 流石と言うべきか、どちらも所作がとても美しい。教育が行き届いている証拠だ。

 それよりも……気になることがあった。女性故に少量の昼食ですぐに食べ終えた橘先輩に質問をする。池の忠言を元に言葉遣いを丁寧にすることを忘れない。

 

「先輩方はどうしてここに?」

 

「……? 食堂でお昼を過ごすのは普通だと思いますけど……」

 

「すみません、質問が悪かったですね。どうしてこんな中途半端な時間にやって来たんですか?」

 

 食堂の壁に掛けられている時計を一瞥すると、時間はかなり差し迫っていた。あと二十分もすれば昼休みは終了し、五時限目が始まる。

 堀北学たちが食堂に着いたのは恐らく四、五分前といったところだろう。

 この時間帯に食堂を利用し始める生徒は少ない。大半の生徒はあっという間に昼食を食べ終え、時間ギリギリまで談笑するのが常だ。

 純粋に気になって聞いたのだが、橘先輩は僅かに顔を(しか)めた。

 

「実は先週末から、生徒会の仕事が増えていまして。というのも……」

 

「お前のクラスメイトが『暴力事件』を起こしたことは知っているだろう。その対処に追われている」

 

「それは……すみません」

 

「いえ、綾小路くんが問題を起こしたわけではありませんから」

 

気にしないで下さいと、安心させるかのように橘先輩は言ってくれた。

 もっと堅苦しい人だと思っていたが、どうやらそれは違ったらしい。多分、仕事の時は自分の中でオンオフをしっかりと区別しているのだろう。

 

「それにしても……生徒間での(いさか)いは随分と久し振りですね、堀北くん」

 

「学校を巻き込んだものとなるとかなり久しいだろう」

 

「こういった問題事にも生徒会が介入するんですか?」

 

「そうですね。とはいえ、どれだけ深刻な問題なのかも関わってきますが。具体的には──」

 

「橘、それ以上は口にするな」

 

「ご、ごめんなさい……」

 

 小さな肩を震わせ傅く橘先輩。当たり前と言うべきか、堀北学の方が立場は上なようだ。

 

「さっきから気になっていたんですけど……オレがDクラスだからといって、先輩方はオレを『不良品』だと馬鹿にしないんですね」

 

「私も堀北くんも、所属クラスがどこであろうとそのようなことはしません!」

 

 とんでもない! と言った具合に口調を荒らげる橘先輩。

 数秒後、落ち着きを取り戻した彼女は諭すように言った。

 

「A、B、C、D。この学校は実力至上主義の理念を掲げています。それに当て()めると確かに、Dクラスは最弱クラス……つまり、『不良品』なのでしょう。けど、本当にそうですか? 外側だけで判断するのは愚かな行為ですし、ちゃんとその人に向き合うことが大事だと思いますよ」

 

 橘先輩の言葉を『不良品』と言って馬鹿にしてくる一年の奴らに聞かせたい。

 お手洗いに行ってきますね、そう言い残し、彼女はトイレの向かった。

 いつしか食堂に残っている生徒はごく少数となっていた。昼休み終了も近い。

 

「橘先輩、良い女性(ひと)だな」

 

「彼女は俺が最も信頼出来る人間だ」

 

「付き合っているのか?」

 

 冗談でそう言ったら無言で睨まれた。妹もそんな感じで相手を威圧するぞ……。

 

「それで、何でわざわざオレの所に来たんだ?」

 

 朝の一件は偶然だが、流石に今回もそれとは思えない。

 

「俺が以前言ったことを覚えているか」

 

「近々学校中を巻き込む騒動が起こるって話か。あんたの言う通りだったな」

 

 そのことを考えると、橘先輩に強くは言えないと思うんだが。とはいえ、もちろん口には出さないが。

 テーブルを挟んで対峙している男は眼鏡のレンズをハンカチで拭きながら、こんなことを尋ねてくる。

 

「綾小路、お前はどうするつもりだ?」

 

「……どうする、とは?」

 

「中間試験のような策がないのかと聞いている」

 

「さぁな。けどある程度オレの事情を知っているあんたは知っているだろう? 今回オレは──」

 

「身動き出来ない、か……。いや、その必要性がないと言うべきか?」

 

「そんな所だ」

 

「今回の『暴力事件』、正攻法ではとてもじゃないが、Dクラスは完全勝利を摑めないだろう」

 

「そうでもない。あんたの妹がきっと活躍するだろうさ」

 

「それこそ有り得ない話だな。鈴音にどうこう対処出来る規模のそれではない。あいつも感じているはずだ」

 

 相変わらず身内に対して厳しい。

 

「逆にオレからも聞くが、あんたは『答え』を出しているのか?」

 

「……さてな。仮に俺が『答え』の道筋を告げられると言ったら、綾小路、お前はどうする?」

 

 視線が交錯する。

 先に逸らしたのは堀北学の方だった。橘先輩が戻ってきたから、そちらに意識を()いたのだろう。

 

「お待たせしました。堀北くん、綾小路くん、授業がもう少しで始まりますから今日はお開きにしましょう」

 

「ええ。先輩方、今日はありがとうございました。有意義な時間を過ごすことが出来ました」

 

「私もきみのような後輩と話すことが出来て良かったです。ちょっとした夢だったんですよ」

 

「そう言えば、以前そのようなことを言っていたな。生徒会に所属していると後輩から畏れられる……だったか」

 

 畏れられているのは生徒会長も同じだと思うから安心して欲しい。

 

「そうだ、せっかくですし連絡先の交換をしませんか? 何か困ったことがあったら先輩として助けますよ?」

 

 不意に舞い降りた幸運に戸惑ってしまう。

 まさかここで先輩の連絡先を貰える機会に恵まれるとは思わなかった。

 上級生との接点は出来るだけ持っておいた方が良いだろう。生徒会の人間なら尚更だ。

 

「ぜひお願いします」

 

「はいっ。──登録終了です」

 

「そろそろ時間だ、行くぞ橘」

 

「あっ、待って下さい堀北くん。それでは綾小路くん、また機会があったら」

 

 先に出口に向かう堀北学を追い掛ける橘先輩。

 

「堀北くんは綾小路くんと連絡先、交換しなくて良かったんですか?」

 

「必要ない」

 

 あの二人仲が良いな。

 正直に言うと、堀北学にあんなにも親しい異性が居るとは思わなかった。

 どうやら兄は、交友関係の意味でも妹を軽々と超越(ちょうえつ)しているようだ。

 さて、オレも早く教室に戻るか。

 五時限目は日本史で、担任の茶柱先生が教科担任だ。遅刻しようものなら朝の一件が蒸し返されてしまう。

 眠気を我慢して戦いの場に赴くとしよう。

 




氏名 櫛田桔梗
クラス 一年D組
部活動 無所属
誕生日 一月二十三日

─評価─

学力 B
知性 B
判断力 B-
身体能力 B
協調性 A

─面接官からのコメント─

学力、身体能力共にBクラス相当。彼女が卒業した学校の教師からの心象評価も極めて高い。
同級生に限らず、上級生、下級生にも仲が良い友人が居たことから、ずば抜けたコミュニケーション能力の持ち主である。面接では満点を取り、度肝を抜かされた。
正直な気持ちを述べると、善意の塊としか思えなかった。
Bクラス配属予定だったが、別途資料による事実を憂慮し、Dクラスに配属する。担任はしっかりと見守るように。

─担任からのコメント─

入学するや否やクラスの人気者となり、男女共に好かれています。中には『櫛田エル親衛隊』といったものが出来るくらいであり、Dクラス内では女神として敬われています。
さぞかし楽しい学校生活を送っていることでしょう。


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第三勢力の参戦

 

 放課後に突入した。

 この時間から、須藤(すどう)を救いたいと願う生徒たちは行動を本格的に開始するようだ。

 とはいえ、Dクラスの生徒全員が参加するわけではない。

 茶柱(ちゃばしら)先生の言った通り、誰が何をしようとそれは自由だ。口出しする権利は誰にもありはしない。

 話を聞く限りでは、自分たちの足で地道に目撃者Xを捜すようだ。

 高度育成高等学校に在籍している生徒は、どんなに低く見積もっても四百五十人は居るだろう。最大値は四百八十。

 そんな大勢の生徒相手に聞き込み調査をするというのは……非常に効率が悪いし面倒臭(めんどうくさ)い。

 まあ、オレが参加するわけではないから、偉そうに口を挟むことはしない。

 自由にやって貰うとしよう。

 

「あなた、どこに行く気?」

 

 スクールバッグを肩に担ぎ教室から出ようとすると、隣人に呼び止められた。

 珍しいこともあるものだと思い、彼女に視線を向ける。

 

「どこって……図書館だが……」

 

綾小路(あやのこうじ)くんは須藤くんのために何かしないのかしら」

 

「逆に堀北(ほりきた)はそうするんだな?」

 

 オレが尋ねると、堀北は言葉を少し詰まらせた。

 

「……ええ、最初はするつもりはなかったけれど……」

 

「須藤が充分に反省しているから、協力する気になったのか」

 

 だとしたら驚きものだ。

 堀北も良い具合に角が取れ始めているのだろう。

 

「まあ、綾小路くんが居ても役に立つとは思えないけれどね」

 

 前言撤回。相変わらずの毒舌だ。

 だが、助かる。

 堀北の言う通り、オレが居たところで出来ることは何もない。逆に彼女が居たら心強いだろうが。

 

「そういうわけだ。それに安心しろ堀北。()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「そんな見え透いた嘘を吐かれても困るのだけれど……」

 

「じゃあ、また明日」

 

 肩を(すく)めて廊下に向かう。

 幸いと言うべきか、まだ教室にはかなりの生徒が残っている。生徒Aが消えたところで誰も気付かないだろう。

 あと一歩で境界線を通過する……そんなタイミングで、堀北の声が背に届いた。

 

「Cクラスの椎名(しいな)さん、だったかしら。あなたが会っている人は」

 

 どうにも今日の堀北は饒舌(じょうぜつ)というか、積極的だな。

 顔だけ振り向かせて彼女の質問に答える。

 

「そうだ、一年Cクラス椎名ひより」

 

「良くもまあ、敵対しているクラスの生徒と会おうと思えるわね。理解しかねるわ」

 

 呆れた調子で彼女は苦言(くげん)を呈した。なるほど、確かに彼女の言う通りだろう。

 だが別に理解して貰おうとは思わない。

 そんな気持ちは微塵も湧かない。

 

「別にオレと椎名が喧嘩したわけでも、敵対しているわけじゃないからな。それに堀北だって知ってるだろ? オレの信条は事なかれ主義だ」

 

 その言葉を残し、今度こそオレは教室をあとにした。

 最初は人口密度が低かった廊下も、昇降口に辿り着く頃にはしだいに高くなっていく。

 友人と遊びに行く者、寮に帰る者と多種多様な用事を持つ生徒と一杯だ。

 

一之瀬(いちのせ)さん、今日はどこに行く?」

 

「うーん、そうだなぁ……。食材切らしているから、途中、デパートに行きたいかも」

 

「うわぁ凄い! 私も自炊しようかなー。けど料理出来ないし……」

 

「だったら一緒に作ろうよ!」

 

「えっ、良いの? なら一之瀬先生、ご教授、お願いします!」

 

「ええっ!? せ、先生なんてそんなやめてよー」

 

 昇降口で相手を待っていると、そんな会話が聞こえてきた。

 青春を謳歌(おうか)しているなーと思い発生源を見ると、そこには大勢の生徒が一人の少女の周りに居た。

 彼女がグループの中心人物なのだろうことは想像に難くない。

 美しいストロベリーブロンドのロングヘアに、非常に整っている容貌(ようぼう)。文句なしの美少女だが、何もそれだけでそうと決めつけたわけではない。

 下の名前は知らないが、上の苗字は俺でも知っている。一之瀬という名の、Bクラスの生徒だ。

 なんでもBクラスの実質的なリーダーなようで、優秀な生徒らしい。どれくらいかは詳しく知らないが、噂になるくらいには成績を収めているのだろう。

 和気藹々(わきあいあい)とした雰囲気の集団はそのまま昇降口を出て行った。あれが本物のリア充と感心する。

 

「こんにちは、綾小路くん」

 

 壁に寄り掛かりぼんやりと過ごしていると、少女の声が聞こえた。

 待っていた友人、椎名ひよりだ。

 軽く手を挙げて挨拶を返す。

 

「それじゃあ行きましょうか」

 

 行く場所はもちろん図書館だ。

 ここ最近オレと椎名は、一緒に図書館に行くようになっていた。最初は待ち合わせ場所を図書館にしていたのだが、櫛田(くしだ)(いけ)曰く、オレたちは交際しているという嘘の情報が各所に出回っているらしい。それなら開き直ってもいいだろう。

 だが、今日はその前にやるべき事がある。

 オレは先陣を切ろうとする彼女を引き止めた。

 

「悪いが少しだけ時間を貰えないか? ちょっと行きたい場所がある」

 

「それは構いませんが……いったいどちらに?」

 

「特別棟だ」

 

 

 

 

§

 

 

 

 幻覚が見えそうになる程に暑い特別棟に、オレと椎名は訪れていた。

 本物の事件が起こったら黄色いテープが貼られ、立ち入り禁止の文面を見ることが出来るのだろうが、別に殺人事件が起こったわけでもないため、入ることは普通に可能だ。

 調理実習を行う家庭科室、科学や地学、生物といった実験を行う理科室など、この棟には普段は使用しない施設が(まと)めて作られている。

 何らかの部活が活動の際に使うわけでもないため、放課後のこの時間、特別棟はとても静かだ。恐らく誰も居ないだろう。

 ()()()()()()()()()()()()()

 

「そう言えば綾小路くん。龍園(りゅうえん)くんとはここ最近会っていますか?」

 

()()()()()()()()()()()()。けど昨日メールが届いてきた。あれは椎名が?」

 

「ごめんなさい。彼が教えろと言ってきたので……」

 

「責めてはないから安心しろ。あぁだけど、代わりと言ってはなんだけど、龍園の連絡先を教えて欲しい」

 

 使うかは分からないが、持っておいて損はしないだろう。

 

「はい、大丈夫ですよ」

 

 龍園(かける)宛ての連絡先を椎名から教えて貰い、オレの携帯端末に登録する。そして登録した画面をスクリーンショットして、すぐに登録した情報を消去する。

 フリーメールアドレスを作ったところで、彼女がオレの瞳を下から覗き込んで聞いてきた。

 

()()()()()()()()?」

 

「どうかな。()()がどれだけ聡いか、その全容がまだ明らかになってないから何とも言えない」

 

「綾小路くん」

 

「どうかしたか?」

 

「私は──いえ、なんでもありません。それより、この階ですよね? 『暴力事件』が起こったのは」

 

 いつの間にか三階に登っていた。この階にあるのは……確か、理科室だったか。一年生はまだ数回しか利用していない為記憶があやふやだ。

 遮蔽物が何も無い廊下に出る。

 

「……暑いですね……」

 

「……そうだな。室温何度あるか想像もしたくない……」

 

「四十度以上あるかもしれませんよ」

 

 そう言った椎名は真顔だった。

 否定出来ないのが辛いところだ。

 はっきり言って特別棟の室内の暑さは異常だ。

 夏場の学校なんてこんなものだと言われたらそこでおしまいだが、オレたちが通っている学校は、校舎の中は快適さを追求しているからな。

 

「……どうしましょう。夏服、買うべきでしょうか」

 

 以前話した、プライベートポイントを用いての制服の別バージョンの購入。椎名はそれを迷っているようだった。

 

「難しいところだよな。熱中症(ねっちゅうしょう)になったら目も当てられないだろう。だが、ポイントを支払うと思うとなかなか……」

 

「…………はい」

 

 隣で歩く椎名はとても辛そうだ。正直言ってオレもキツい。

 こんな事になるのなら、道中、飲料水をどこかで購入すべきだったか。朦朧(もうろう)とする意識の中、意地で窓に向かう。風でも入ればまだ助かる……。

 

「今、窓を開ける……」

 

「──待って下さい、綾小路くんっ」

 

「……!?」

 

 椎名の焦り声が廊下に大きく反響したその時には遅かった。

 オレは既に窓を全開に開放していて、突如、体を(あぶ)る熱風が侵攻してきたのだ。

 絶え間ない波状(はじょう)攻撃を浴びたオレは、風圧によって二歩程後退せざるを得なかった。

 

「だ、大丈夫ですかっ」

 

「…………大丈夫じゃないかも」

 

 倒れそうになる身体を無理矢理に動かし、廊下の壁にもたれ掛かる。そのまま臀部(でんぶ)を床に不時着させた。

 ボーっとしていると、椎名がスクールバッグから下敷きを取り出し、パタパタと扇いでくれた。

 

「……悪いな」

 

「いいえ、私もごめんなさい。もっと早く気付くべきでした」

 

 このままだと際限なく互いに謝る気がするから、これ以上はやめよう。

 過去に戻りたい衝動(しょうどう)に駆られていると、ようやく、外と内の空気が混ざりつつあるようだった。

 室内の温度が僅かずつだが低くなり、新鮮さを取り戻していく。

 オレの体力も徐々に回復してきた。

 

「椎名は座って休んでいてくれ、すぐに戻るから」

 

「……分かりました。お気を付けて下さいね」

 

 何に気を付ければ良いんだろう。

 そんな疑問を持ちながら椎名から離れる。とはいえ、目と鼻の先の距離だ。

 須藤と小宮(こみや)近藤(こんどう)石崎(いしざき)たちはここで相対した。それは須藤本人から聞いている為間違いないだろう。

 遮蔽物が何も無い廊下。あるのは並べられている窓に……特別教室へと通じる扉。だがこの扉は授業以外は鍵が掛けられている。中には刃物や薬品類が常備されている為だ。

 これがオレたちがいつも視界に収めている光景だ。

 オレは無言で視線を上……天井に向けた。あるのは、電気を通すためのコンセント。そのまま瞳孔を動かすと、いくつものコンセントが放置されていた。殆どが放置されているようで、埃を被っているのが圧倒的に多い。

 今度は下……床に向ける。あるのは(かす)かな埃やゴミ。掃除が行き届いていない証拠だ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()。これなら上手くいくだろう──。

 待たせている椎名の元へ急ぐ。片手を差し伸べて彼女の手を取り立ち上がらせた。

 

「ありがとうございます」

 

「気にしないでくれ。むしろ謝るのはオレの方だ。悪いな、想像以上に時間を使った」

 

「ふふっ、今日の私たち、謝ってばかりですね」

 

「言われてみればそうだな」

 

 互いに苦笑いを零す。

 窓を施錠すると、すぐに、引いていた暑さがまた蘇ってきた。

 オレと椎名は急いで特別棟から出て、外界に逃亡を図った。

 

 

 

 

§

 

 

 

 今日は図書館の利用は控えることにして、代わりに、ケヤキモールの中にあるカフェに向かうことにした。

 辛い思いをさせてしまった椎名にお詫びをするためだ。幸いと言うべきか、オレの所持プライベートはそこそこある。これくらいなら造作(ぞうさ)もない。

 

「好きなものを頼んでくれ」

 

「それなら、お言葉に甘えさせて頂きますね。それではこれをお願いします」

 

 椎名が選んだのは軽食用のサンドイッチだった。

 オレも同じものを選び、ちょうど近くを通り掛かった店員にオーダーを告げた。

 空いている時間帯なのか、すぐに届けられる。

 それにしても……彼女とこうして、図書館以外で過ごすのは初めてだ。

 まあ、場所が変わってもやることは何一つとして変わらないのだが。

 互いにスクールバッグから一冊の本を取り出し、黙々と活字の羅列に目を通した。

 

 ──一時間後。

 

 集中力が途切れ、オレは目頭(めがしら)をおさえ、文章から目を逸らした。ただ読むだけならあまり苦労しないが、オレが今読んでいたのは推理小説。

 犯人が誰かということを思考しながら読んでいくのは中々慣れるものではない。

 軽く伸びをしていると、オレの様子が視界に映ったのだろう、椎名もまた読書をやめた。開いていた(ページ)(しおり)を挟んでから、テーブルの上に静かに置く。

 

「オレに気を遣わなくても良いぞ」

 

「いえ、私も疲れましたから。そうですね……お喋りでもしましょうか」

 

 その意見には賛成するが、改まってそう言われると何を話したら良いか分からないな。

 雑談ってものは意識してつくるものじゃないんだな……。

 これで同じクラスだったら話はまた違ったんだけどな。

 オレの表情を読み取ってくれたのだろう、椎名が話を切り出してくれた。

 

「以前も少し触れましたが……あと数日で夏休みですね」

 

 オレにとってはその存在があるだけで嬉しいものだ。

 とはいえ──。

 

「……これといった予定は埋まってないけど……」

 

 自分で言ってて悲しくなってくる。

 部活をやっていたら、それこそ本物の青春を謳歌出来るのだろうか。

 

「椎名は茶道部、活動あるのか?」

 

「無いですね。余程のことがない限り、文化部は活動がありません」

 

 そうなのかと相槌(あいづち)を打つ前に、彼女は「ですから」と言葉を繋げて言った。

 

「どうでしょう。もし予定が合えば、一緒に過ごしませんか?」

 

「もちろんだ──って言いたいけど、良いのか?」

 

 オレからしたら願ったり叶ったりだが、これが同情からくるものだとしたら申し訳ない。

 そんなオレの浅はかな考えを撃ち破るかのように、椎名は一度頷いた。

 

「なら頼む」

 

「はいっ」

 

 そう言って、椎名は微笑を浮かべた。

 良し、これで約一ヶ月間、寮の自分の部屋に引きこもるという最悪の展開は防げた。

『約束』を交わす。必ず守るとしよう。

 ちょうど良い時間になったので、カフェから出る。支払いは当然オレだ。

 彼女と連れ立って帰路についていると、大勢の生徒が纏まって歩いていた。

 つい数時間程前に昇降口で見掛けた、一之瀬たちのグループだ。

 ビニール袋が吊るされていることから、オレたちと同じように、彼女たちもまた、ケヤキモールに居たのだろう。

 集団行動の弊害と言うべきか、歩くのが遅い。彼らを抜き去ると、「あっ」と声が出された。

 

「椎名さん、こんばんは!」

 

「一之瀬さん、こんばんは」

 

 どうやら椎名と一之瀬は顔見知りらしい。

 正直なところ意外だった。とはいえ、挨拶くらいだろう。現に、二、三回程言葉を交わして会話は終わった。

 自分のグループがあるからな、人気者も大変だ。

 ……勝手に嫉妬するのは醜いからやめるようにしよう。

 一之瀬は椎名から視線を逸らし、ここで初めてオレを認識したようだった。

 

「はじめまして。一年Bクラス、一之瀬帆波(ほなみ)です」

 

「一年Dクラス、綾小路清隆(きよたか)だ」

 

『Dクラス』の部分で、何人かの生徒が嘲笑を浮かべたのをオレは見逃さなかった。無理もないか、学校公認の『不良品』だからな。

 だが一之瀬はそんな気配を微塵(みじん)も浮かべなかった。それどころか友人に振り向き。

 

「ごめん皆、今日は先に帰ってくれないかな。どうしても綾小路くんに……ううん、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そんなことを言い出した。

 一之瀬の急な要望に、友人たちは不満さを出すことなく、笑顔で了承する。

 

「えー、って言いたいけど帆波ちゃんの言葉なら別に良いかー」

 

「じゃあな一之瀬委員長ー」

 

「また明日ー」

 

「ごめんね皆。また明日」

 

 別れの挨拶を交わし、一之瀬の友人たちは去っていった。耳をそばだてるが、彼女の悪口を言っている気配は感じられない。変わらず、楽しそうな雰囲気を維持していた。

 確信する。

 彼女は絶対、櫛田と同じタイプだ。つまり──コミュニケーションの塊。

 友人たちを見送った彼女は、オレと椎名に頭を下げて、まずは謝罪した。

 

「デート中に邪魔をしてごめんなさい」

 

 そして反応が困ることを口にする。

 冷静に客観視すると、確かに赤の他人から見たらオレと椎名はデートの真っ最中なのだろう。

 しかしオレも、多分椎名も、デートだとは思ってない。

 椎名にアイコンタクトを送り、対処を求める。

 

「いえ、大丈夫ですよ一之瀬さん。それより綾小路くんに何の用でしょうか?」

 

「……やっぱり気にしてるよね」

 

「……? ただ私は、一之瀬さんらしくないなと思って尋ねたのですが」

 

「にゃはははー……」

 

 困ったように頬を掻く一之瀬にオレと椎名は怪訝な表情を浮かべているだろう。

 微妙な空気が流れるが、それも刹那のこと。

 一之瀬はこほんと咳払いしてから、用件を告げた。

 

「今朝のSHRで、担任の星之宮(ほしのみや)先生から『暴力事件』のことを聞いたんだ」

 

 茶柱先生が告げたように、全クラスで事情が説明されたのだろう。

 一之瀬の用件が、もっと踏み込んだ情報を知ることだと思えば、多少の強引さも納得出来る。

 オレは一歩前に出て彼女に向き合った。

 

「あー……一之瀬が何を望んでいるのかは分かったんだけどな、でもどうして他所のクラスのことを?」

 

 Bクラス側からしたらこの展開は望ましいはずだ。

 下手に首を突っ込んで被害を蒙るくらいなら、傍観の姿勢を取った方が良いだろう。

 少なくともBクラスのリーダーならば、そうするのが最善だ。

 

「やっぱり疑ってる?」

 

「悪い言い方をすれば、一之瀬の言う通りだ。裏があるようにしか思えない」

 

「心外だなあ……って言いたいところだけど、まっ、それが普通だよね。うーん、困ったなあ……」

 

 苦笑する一之瀬。

 個人的には話しても良かったが、最悪──計画に支障を来す可能性も捨てきれない。

 視線が交錯する中、椎名がオレのブレザーの袖を軽く引いた。

 

「綾小路くん。一之瀬さんなら大丈夫ですよ。()()()()()()()()()()()()()……。それにどの道、彼女があなた以外の生徒に声を掛けたら意味がありません」

 

 椎名が言うことも一理あるか。

 明日あたりにも、DクラスがXを探していることは大衆の目に留まるだろう。

 オレは嘆息(たんそく)してから一之瀬に説明した。

 Cクラスの三人が須藤に呼び出されたこと。でも事実は逆で、須藤がCクラスに呼び出され喧嘩を売られたこと。撃退したら学校側に虚偽の申告をされ、一部始終を見ていたと思われるXを探していること。

 彼女は真面目に話を聞き入っていた。そしてなるほどとばかりに一度頷く。

 

「だからDクラスの人たちが教室に来たってことかー」

 

「そうなのか?」

 

「あれ、知らなかったんだ? 実はそうなんだよね。さっき連絡が来たんだけど、何人かの生徒がBクラスの教室に足を運んできたの」

 

 一之瀬はそう言いながら、オレに自身の携帯端末を見せるために体を近付けた。

 距離感が近い……。無意識だったら恐ろしい……!

 当たりそうになる大きな果実から強引から視線を外し画面を眺める。

 そこには確かに、彼女が言った内容が書かれていた。

 櫛田や池たちがBクラスの教室を訪ねてきたこと、そしてXを捜していること。とても細やかに書かれている。

 彼女はオレが見たことを確認してから、距離をあけて悩む素振りを見せる。

 

「ねぇこれってさ、かなりの大事(おおごと)なんじゃないかな? だってどっちも『被害者』だと言い張っているんでしょ?」

 

「そうだな。だから櫛田たちも動いているんだろう」

 

「きみは違うの?」

 

「もちろんオレだって動いているさ」

 

「そうには見えないけどなあ……」

 

 訝しげな視線をオレに寄越してくる。

 まぁ無理もないか。一之瀬はオレと椎名を交互に見てから、部外者が口を挟むことではないと考えたのか、それ以上の言及はしてこなかった。

 

「でもこの時期に騒動かー。ううん、この時期だからこそかな?」

 

「どういう意味だ?」

 

「綾小路くんと椎名さんは、夏休みの噂、知ってる?」

 

 夏休みの噂?

 何の事だとオレが困惑する中、椎名はどうやら知っているようだった。

 

「南の島でバカンス、ですか?」

 

「うん。椎名さんは知っていたんだ。綾小路くんは?」

 

「言われてみれば……担任がそんなことを言っていた気がするな」

 

 必死に記憶を辿ると、思い出した。

 あれは確か……中間試験当日だったか。生徒を激励するための嘘だと思っていたのだが、他クラスの椎名と一之瀬が知っていることを考慮するに、信憑性(しんぴょうせい)はかなり高いだろう。

 

「良かったですね、綾小路くん。夏休みの予定がまた一つ埋まりましたよ」

 

「……」

 

「綾小路くん?」

 

「……悪い、過去にちょっとあってな。旅行はあんまり好きじゃないんだ」

 

「よ、余程の事があったんだね……」

 

 オレの虚ろな目から察したのか、若干引く様子を見せる椎名と一之瀬。

 乾いた笑みを張り付かせながら、当時を思い出す。

 旅行といって思い出すのは、幼い頃家族と一緒にアメリカのニューヨーク市を観光したこと。一ミリも楽しくなかったな……。

 

「えっと……だ、だけどさ! 仲が良い友達と行くからきっと楽しくなるよ!」

 

「でもそれも、仲が良い人たちならですよね……。クラスに特別親しい人が居ない私はどうなるんでしょうか……」

 

「し、椎名さんも!」

 

 無視すれば良いのに、毎回反応を返してくれる一之瀬は面白い。

 

「と、兎も角! 私が言いたいのは、そのイベントでクラスポイントが大きく変動するんじゃないかなってことなんだよ」

 

 負のオーラを消し去り、冷静に考える。

 高度育成高等学校は贅の限りを尽くしている。そんな理想郷なら夏休みのバカンスなんて充分に可能だろう。

 だがこの学校の異質さを考えれば、何か目的があるのだろうことは想像に難くない。

 入学当初だったら無邪気に期待出来たんだけどな、また一つ不安の種が生まれたか。

 

「一之瀬さんのその推測は正しいでしょうね。普通の学校生活ではどんなに頑張っても、稼げるクラスポイントは微々たるものですし」

 

「椎名さんもそう思う? 私の予想だとね、いきなりAクラスにのし上がることは無理でも、それに近いことは出来ると(にら)んでいるんだよね」

 

「まぁその前に、今は『暴力事件』で手一杯だから、未来のことを考えても仕方がないな」

 

 Dクラスにとって、あるかもしれない未来なんてものはどうでも良い。

 一之瀬はそれもそうだねと首肯してから、やや躊躇(ためら)いがちに。

 

「んー、その事なんだけどね。もし良かったら私も手伝おうか?」

 

「……理由を聞いても良いか?」

 

「失礼かもしれないけど、今のきみたちのやり方じゃ目撃者は見付からないんじゃないかな」

 

「ご尤もな意見だけど……」

 

 そんなことは誰だって分かっている。それこそ三バカトリオだって気付いているだろう。

 じゃあだからといって、「えっ、マジで良いの? 助かるわー」なんて言えるものでもない。

 

「一之瀬には悪いけど、オレが決められることじゃない。洋介は──平田(ひらた)や櫛田に聞かないと……」

 

「やっぱり即決は出来ないよね」

 

「ああ、オレにそんな決定権は皆無だからな。代わりと言ってはなんだけど、橋渡しは出来ると思う。一之瀬、明日の放課後、予定は空いてるか?」

 

 突然のオレの質問に、一之瀬は困惑しながらも律儀に答えた。

 

「明日? ……うん、大丈夫だけど……」

 

「明日オレが平田や櫛田たちに事件現場に行くように仕向ける。だから一之瀬は偶然を装ってそこに行けば良い。そして……」

 

「協力申請を申し込めば良いんだね? けどなあ……うーん……」

 

 思案する一之瀬。

 短い時間ながらも、彼女の性格はある程度分かった。多分彼女は、裏表がない善人タイプ。

 洋介や『表』の櫛田すらを軽々と超えている。

 そんな彼女だからこそ、オレが提示した条件を呑むのに躊躇う。茶番劇を披露しろと言っているようなものだからな。

 激しい葛藤の末、一之瀬は毅然(きぜん)たる態度で了承した。

 

「──分かった。それじゃあ綾小路くん、頼めるかな」

 

「ああ、任せてくれ」

 

「何かお礼がしたいんだけど……」

 

「別にそんな、気にしなくて良いぞ」

 

 だが一之瀬は首を横に振った。

 

「そうだ、プライベートポイントを譲渡するってのはどうかな?」

 

「……良いのか?」

 

「うん、流石に高額は無理だけどね。幾ら欲しい?」

 

「あー、そうだな……。じゃあ1000pr頼む」

 

「それじゃあ少なすぎるよ。5000prでどうかな?」

 

「……好きにしてくれ……」

 

 なんかもう、色々と面倒臭く感じたので投げやりに答える。

 一之瀬はオレのぞんざいな態度に文句を言うこともなく、携帯端末を操作する。

 が、すぐに戸惑いの声を上げた。

 

「どうやってポイントを譲渡すれば良いのかな? 椎名さん知ってる?」

 

「ごめんなさい。存じ上げません」

 

「……代わりにオレが教えようか?」

 

「本当にごめんね綾小路くん」

 

「いや、大丈夫だから頭を上げてくれ」

 

 なんだかオレが悪さをしているような錯覚に陥るから。

 メールアドレスを伝える。

 

「これで合ってる?」

 

 一之瀬は間違いがないかとまたもや身を寄せて、携帯端末を見せてきた。

 椎名とはまた違った意味での天然だな……。

 って言うか、出会って一時間も経っていない異性同士が、普通こんな距離感で良いのか?

 

「次はどうすれば良いのかな?」

 

「ポイントの送金画面を開いてくれ。左上に自分のIDがあるはずだ」

 

 素早い手付きで指を液晶画面の上で走らせる。

 堀北(まなぶ)の次くらいには早い。

 僅かなラグの後、送金画面が表示された。

 その瞬間、一之瀬は「あっ」と声を上げる。そして不自然さを隠しきれないで、オレから距離を取った。

 しかしそれもすぐに打ち消す。

 

「おー、あったあった。これだね?」

 

「ああ。あとはそのIDからオレのメールアドレス先に、一時的なトークンキーが発行出来るんだ。それをオレに伝えてくれれば正式な譲渡が可能になる」

 

「なるほどねー。助かったよ綾小路くん。説明上手だね」

 

 そんなことはないと思うが、ここは素直に称賛を受け取っておこう。美少女から褒められるという観点からみてもチャンスを逃す手はない。

 

「それじゃあ私はもう行くね。これ以上邪魔しちゃ悪いし」

 

 一之瀬は微笑んでから、走って寮に向かっていった。

 取り残されたオレと椎名はしばらく呆然としてから、顔を見合わせる。

 

「帰るか」

 

「はい」

 

 並行して歩く。

 通学路の並木道を通過する道中、オレは隣を歩く椎名に尋ねた。

 

「椎名」

 

「何でしょう?」

 

「Bクラスのクラスポイントってどれくらいか覚えているか?」

 

「650clですね」

 

「……」

 

「綾小路くん?」

 

 椎名が怪訝そうに見つめてくる。

 だがオレは、彼女に配慮する余裕がなかった。

 数分前オレが見た、一之瀬の携帯端末に表示されていた、ある部分が脳裏に焼き付いて離れない。

 

 ──何をどうしたらあんな事が出来るのか。

 

 頭の中で何度も算盤を打つが、ついぞ答えは導き出されなかった。



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洞察

 

 タイムリミットまであと六日を切った。

 Dクラスの教室はいつも以上に(にぎ)やかさで、廊下にも響いていた。朝の時間を使って情報交換をしているのだろう。

 教室の中に入ると、洋介(ようすけ)がオレの登校に真っ先に気付いたようだった。

 

「おはよう、清隆(きよたか)くん」

 

「おはよう、洋介。目撃者は見付かったか?」

 

「いや、残念なことに見付からなかったよ。他のクラスの教室にも足を運んだんだけどね、なかなか……」

 

 悔しそうに唇を()み締める洋介。やはりというか、そんな簡単に成果は出ないか。

 まぁでもそれも仕方がない。

 

「オレも昨日、椎名(しいな)に聞いてみたんだけどな。Cクラスの連中も当たり前というか……兎に角、目撃者は居ないようだった」

 

 さらりと嘘を吐く。

 

「Cクラスの人たちについては最初から諦めてるけどね。でもそっか……ありがとう。清隆くんもどうだい?」

 

 この『どうだい?』はオレも情報交換の場に参加するかしないかの言葉だろう。

 逡巡(しゅんじゅん)してから、オレは一度頷いた。

 極端に関わりを持たないというのも、怪しまれてしまう要因となってしまう。

 洋介のあとに従い、オレも軽井沢(かるいざわ)櫛田(くしだ)たちの元へ向かう。その中に堀北(ほりきた)の姿は無かった。

 室内を見渡すが、彼女の姿は見られない。スクールバッグすら無いことから、多分、まだ登校してないのだろう。

 

「おはよう、綾小路(あやのこうじ)くん。来てくれたんだね」

 

「まぁな。洋介から聞いたけど、目撃者は見付からなかったんだってな」

 

「はあ? 何それ、綾小路くんは何もしてなかったじゃない」

 

「軽井沢さん、そんな言い方は良くないよ。それに清隆くんには昨日、Cクラスの情報を探って貰っていたんだ。個人的にね」

 

 怒る軽井沢を優しく(たしな)める洋介。彼氏の影響力は流石で、彼女はあっさりと納得してしまう。

 全員の視線がオレに集まる。

 調査結果を報告しろと催促(さいそく)してくるようだった。

 

「残念なことに、Cクラスにも目撃者は居なかった。むしろ話を聞いたら、男連中には殴られそうになったぞ。これ以上刺激しない方が良いと思う」

 

 またさらりと嘘を吐く。

 こうやって(おど)せば、Cクラスへの接触はまず無くなるだろう。

 軽井沢や櫛田をはじめとした女性陣はその光景を想像したのか顔を強張(こわば)らせる。そして尊敬の眼差しをオレに向けた。

 しまった、やり過ぎたか。

 

「綾小路、お前よく無事だったな。ちょっと見直したぜ」

 

 (いけ)が背中を叩いてくる。力が微妙に強いのは絶対に私怨(しえん)だろうな。

 

「だけどさ……まじでどうする? 一年には片っ端から声を掛けたし……」

 

「上級生にも探りを入れるしかあとはないけど……」

 

 当然と言うべきか、あまり乗り気じゃなさそうだ。

 コミュニケーション能力が高くないと出来ない芸当だからな、その気持ちは分かる。

 

「櫛田さんと池くんには申し訳ないけど、先輩への聞き込みをお願いしても良いかな」

 

「私は大丈夫だよ。仲の良い先輩に聞いてみるね」

 

「櫛田ちゃんが言うなら俺も良いけどさ。あまり期待するなよ、平田。バカな俺でも分かるけど、確率は絶望的だぜ──な、なんだよ皆。その驚いた顔は」

 

「「「お前本当に池?」」」

 

「失礼にも程があるぞ!」

 

 涙目で叫ぶ池。

 いや、割と本気で疑ってしまう。茶柱(ちゃばしら)先生の気持ちがよく分かった。ここ最近彼の語彙力の上昇が凄い。

 このままいけば、国語の成績が上がっていくだろうな。期待していよう。

 

「ま、まぁ池くんのことは一旦置いておくとして」

 

「おい沖谷(おきたに)!」

 

「でもこのままだと最悪の展開になっちゃうんじゃないかな。だって僕たちはまだ、戦う武器すら持ってないんだから……」

 

「もしかしたら須藤(すどう)が嘘を吐いているんじゃねえの? 自分の無実を訴えたいがためにさ。俺だったらそうするし」

 

「「「流石、嘘吐きは言うことが違う」」」

 

「池と対応が違い過ぎるだろ!」

 

 そんなことを言われても、山内(やまうち)はこの三ヶ月間で吐いた嘘の数を思い返した方が良いと思うぞ。

 遠慮なく矢が飛ばされるのを敏感に感じたのか、彼は下手くそな口笛を吹いた。

 

「僕たちに出来ることは、須藤くんを信じることだけだ。そして彼の信頼に応えることだと、僕は思う」

 

「あなたのその(こころざし)は凄いと思うけれど、最悪の事を想定しておいた方が良いでしょうね」

 

 遅めの堀北の登場に、池や山内たちが真っ先に反応を示す。

 

「あっ、堀北先生だ」

 

「池くん、前から思っていたのだけれど、その『堀北先生』はやめてくれないかしら。もう勉強会は終わったのだし、その呼称(こしょう)は必要ないはずよ」

 

「え〜、良いじゃん。それに期末テストも勉強会開くんだろ?」

 

「開かないわよ」

 

「「えっ」」

 

 絶望の表情を浮かべる生徒たち二名。

 大量の汗を頬に流す教え子の姿に、先生は一度ため息を吐いてから。

 

「……冗談よ。赤点を取られても困るから、一応開くわ」

 

「「助かった!」」

 

「ただし妥協は一切しないからそのつもりで」

 

「「やってやらぁ!」」

 

 雄叫びを上げる。

 軽井沢が『こいつらバカだわー』と嘲笑しているのに気付かないほど、彼らは喜んでいた。

 さり気なく沖谷や櫛田も申請しているあたり、堀北主催の勉強会は好評のようだ。

 

「堀北さんの言う通り、最悪の展開は想定しておかないとね」

 

「だとしたらまたゼロ円生活か……。ただでさえ俺らは綾小路に借金があるのに……」

 

「あー、借金については最悪、卒業までに返済(へんさい)してくれたらそれで良いぞ」

 

 まぁその場合、月日が遅くなる程、彼らに対する友情パラメータは下降していくが。

 

「無料の山菜定食とかはまだ受け入れられるけどさ、やっぱりポイントは欲しいよね。友達との付き合いもあるし、服とかアクセサリーとかも買わないと……」

 

 軽井沢の言葉に同調する女性陣たち。

 そこら辺女子は苦労しそうだよな。男に生まれて良かったと思える貴重な機会だ。

 

「それにさー、他のクラスの子たちがオシャレな服とか着てたりさ、食堂で美味しそうなご飯を食べているとさ、凄くイラってくるんだよね。何て言うのかなー、力の差を見せ付けられている気がしない?」

 

 またもや軽井沢の言葉に同調する女性陣たち。

 女子の闇は深いからな、圧倒的な差を突き付けられたら嫉妬もするだろう。

 

「Aクラスだったら今頃、一生……は無理だけど、それでも充分なお金があるんだろうな。ああああああ! 裏山(うらやま)!」

 

「「「うるさい。けどその気持ちは分かる」」」

 

 はぁと重たいため息を長く吐くクラスメイトたち。

 そんな中、堀北は失笑していた。お前たちがAクラスなんて無理に決まっているだろ、バカめ! (意訳)とか思っているんだろうな。

 こいつももうちょっと他者との時間を共有する気持ちがあったら、Aクラス行きだったかもしれないのに。

 

「一瞬でAクラスに行く裏技とかあったら最高なのにな」

 

「そんな方法があったら苦労しないと思う」

 

「沖谷お前……ここ最近俺に冷たくないか?」

 

「そ、そうなのかな? 自分だとよく分からないけど……」

 

「堀北のが移ったんじゃないか?」

 

 本人が居る前でよく言えるな……。

 その堀北はどこ吹く風だ。流石としか言い様がない。

 

「だけど池くんの言うことは尤もだよね。Aクラスとのクラスポイントの差は905clだし……」

 

「だよな!」

 

 想い人である櫛田の同意を得られたからか、有頂天(うちょうてん)になる池。

 クラスポイントが一番近いCクラスでさえ、405clの差がある。入学してまだ三ヶ月とはいえ、この差は絶望的だ。普通のやり方では小遣い稼ぎで精一杯だろう。

 そう考えると、一之瀬(いちのせ)が昨日言っていた、『クラスポイントの大幅な変動』は充分に起こる可能性が高い。

 

「──喜べお前たち。裏道は一つだけ存在するぞ」

 

 教室の前方入口から、そんな声が聞こえた。声と同時に、Dクラスの担任、茶柱先生が入室してくる。

 ここ最近はSHRの数分前に居るケースがやけに多いな。

 

「ちゃ、茶柱先生!? えっ、会話を聞いていたんですか?」

 

「あれだけ声が大きかったら嫌でも聞こえてくる。他のお前たちも、気持ちは分かるがもう少し落ち着きを持て」

 

「す、すみません……。って、今なんて?」

 

 聞き返す池。

 それは教室に居た生徒の気持ちを代弁(だいべん)したものだった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「またまた〜。茶柱先生、いくら俺らでも、そんな嘘には騙されませんよ〜。なぁお前ら?」

 

 何度も頷く仲間の支援に、池は自信を持つ。やめてくださいよねと苦言を(てい)した彼だったが、茶柱先生の堂々とした佇まいから、おかしく感じ始めた。

 今度は先導者が口を開く。

 

「茶柱先生、詳細な情報の開示をお願いします」

 

「答えは既に言っている……と言いたいところだが、流石の私も、教え子全員を敵に回したくはない。それでは説明するとしよう」

 

 そう言って、茶柱先生はホワイトボードに何やら書き出した。日本史の先生だからか、書くのがとても早いし上手だ。

 数分後、空白だった黒板には、びっしりと黒色の軌跡が輝いていた。

 それはいまさら過ぎる、Sシステムのことだった。

 

「普通の方法では、クラスポイントを重ねることによってAクラスを目指すのが一般的だ。お前たちもそれはこの数ヶ月で痛感しているだろう」

 

「そうですね。ですがその普通じゃない一手があると、茶柱先生はたった今仰いました」

 

「ああ。この学校に入学した日の事を思い出して欲しい。私はお前たちに、ポイントで買えないものはこの学校にはないと通達したはずだ。つまり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 茶柱先生はオレを一瞥(いちべつ)する。

 中間試験の際、オレはプライベートポイントを消費することで、三年Dクラスの鈴木(すずき)先輩から過去問を入手している。

 クラスポイントとプライベートポイントはリンクしているのが常だが、物事には必ず例外も存在する。

 それがプライベートポイントの『譲渡』。昨日の一之瀬のように、ポイントのやり取りは自由に学校公認だ。

 理論的上では行える手段だ。

 

「質問です。何ポイント貯めれば可能なのでしょうか」

 

「2000万prだ。頑張れ」

 

「頑張れって……いやいや、無理無理。無理ですよ! 2000万prですよ!?」

 

「そうだそうだ〜!」

 

「横暴だ〜!」

 

「理不尽だ〜!」

 

 各所で巻き起こるブーイングの嵐。

 茶柱先生は教え子の姿に呆れた様子を微塵(みじん)も隠そうとせず、淡々と答える。

 

「仕方ないだろう。()()()()()()()()()()()()()()。仮に桁を一つ落とせば、Aクラスに在籍する生徒は軽く百人は超える。そんなAクラスのバーゲンセールなど無価値だ」

 

 確かに初期クラスポイント……10万prの状態だったら容易だろう。

 

「俺からも質問ですけど。過去にクラス替えした生徒は居るんですか?」

 

「良い質問だな。答えを告げると否だ。理由は言わなくても分かるだろう。学校側は特別措置としての方法は残しているが、実質不可能なものとして設定している」

 

 うげぇと顔を(しか)めるクラスメイトを他所に、オレは脳内で算盤(そろばん)を弾いていた。

 仮に10万prを三年間維持出来たとして、最高は360万pr。そして恐らく、どんなに頑張っても、クラス単位で稼げるポイントは400万届くかどうか。つまり五分の一。

 しかし『譲渡』すれば、また話は違ってくる。

 洋介、池とバトンが繋がれる中、次に質問をしたのは堀北だった。

 

「過去最高、どれだけのプライベートポイントを貯めた生徒が居るんですか? もし宜しければお聞かせ願いたいです」

 

「お前も中々良い質問だぞ堀北。三年程前だったか、あれは卒業間近のBクラスの生徒だったか。1200万prを所持していたな。私の記憶違いでなければ、そいつが最高だと思われる」

 

「せ、1200万pr!? それもAクラスじゃなくてBクラスの生徒が!? 何それ凄い!」

 

「じゃあ私たちもワンチャン出来るんじゃ!?」

 

「だからもう少し落ち着けを持てと言っているだろう。話は最後まで聞け。そいつは確かに1200万prを貯めた。……が、卒業寸前で退学になった。もちろん自主退学ではない。学校側が退学処罰を与えた」

 

「……それって、その人が悪いことをしたんですか?」

 

「櫛田の想像通りだ。そいつは詐欺(さぎ)行為をした。入学したての知識が浅い一年生に対して、そいつは哀れな雛鳥を騙したんだ。結果、学校はそいつをなんの躊躇い無く退学させた。そうだろう? ルールは守るためにあるものであり、破るためにあるものではない。着眼点は悪くなかったがな」

 

 当時の出来事を思い出したのか、やれやれと首を横に振る茶柱先生。

 

「つまりだ、犯罪を犯しても2000万prは貯まらないということだ。仮にお前たちがAクラスを本気で目指すなら、クラスポイントの総合点で上がるのを勧めるぞ」

 

「先生、質問良いですか」

 

「ん? どうした綾小路、お前が質問をするなんて明日は槍でも降るのか?」

 

 ことさらにわざとらしく驚く仕草を見せる茶柱先生。だがそれは彼女だけでなく、周りのクラスメイトもそうだった。

 だが前言撤回するわけにもいかない。

 

「これは他のクラスの友人から聞いたのですが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 オレの言葉に仰天するクラスメイト。

 当然だ。なにせDクラスの生徒は、そんな情報は一度たりとて耳にしていないのだから。

 どういうことだと大勢の視線が茶柱先生に収束する。

 

「綾小路の言う通りだ。部活の活躍によっては、クラスポイント及びプライベートポイントが報酬として与えられるケースがある」

 

「「「はあああああああ!?」」」

 

「済まない済まない。すっかり伝達を忘れていた。綾小路のおかげで思い出せた、感謝する」

 

「もしかしてさっきの裏道も忘れていたんじゃ?」

 

「悪いな」

 

 相変わらずの茶柱先生の態度に、生徒たちは口をあんぐりと開けるしかなかった。

 女子生徒の一人が不満そうに口を尖らせる。

 

「もっと早くから知っていたら部活やっていたかもしれないのに……」

 

「それは違うぞ。部活動はポイントのためにやるものじゃない。仮にそんな軽い気持ちで入っても、長続きはしないだろう。本気で打ち込んでいる友人に対して申し訳ないと思わないのか、お前は?」

 

「うっ──それは……。けど可能性はあるでしょう!」

 

「そうだな、その可能性があることは認めよう。まぁ低いと思うがな」

 

「うぅ……」

 

 容赦ない口撃(こうげき)に、女子生徒は撃墜(げきつい)された。

 可哀想に……。心の中で同情する。

 けどまぁ個人的には、オレは茶柱先生寄りの意見だ。不純な動機で何かをやろうとしても、最初の頃は上手くいったとしても、徐々に成果は残せなくなるだろう。

 それに部活に真摯(しんし)に取り組まずふざけたら、マイナスの査定を受ける可能性も充分にあるだろう。

 どちらにせよ言えることは、オレたちの担任教師は性格が悪いということだ。

 

「さて、そろそろ朝のSHRが始まる。席に着くことをお勧めしよう」

 

 見れば、チャイムが鳴る三分前だった。

 慌てて自分の席に向かう生徒たち。

 席に戻って、一時限目の授業の準備を前もってしていると、堀北が声を掛けてきた。

 

「ねぇ綾小路くん」

 

「どうした?」

 

「仮に目撃者がDクラスに居たらどうなるかしら」

 

「無いよりはマシだろうけど、決定的な証拠にはならないだろうな。もしかして堀北、目撃者を見付けたのか?」

 

 まさかと思い尋ねると、堀北は口を(つぐ)んだ。

 数秒後、おもむろに首を横に振る。

 

「……いいえ。なんでもないわ」

 

「そうか」

 

 相槌を打つと、軽やかなメロディが校舎中に響いた。始業を告げるチャイムだ。

 堀北の様子は明らかにおかしかったが、向こうがそう言うのならオレから詮索することはしなかった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 放課後になり、現在は作戦会議の時間だ。それは構わない。だが不満がある。

 

「……どうしてオレの部屋なんだろうな」

 

「あはは……ごめんね清隆くん」

 

 申し訳なさそうに頭を下げる洋介。まぁこの面子(めんつ)なら大丈夫か。

 人数分の麦茶を用意し、一人一人手渡していく。

 部屋に居るのは、オレ、洋介、堀北、櫛田、そして──

 

「私も居て良いのかなぁ……?」

 

 一年Bクラス、一之瀬帆波(ほなみ)が紛れていた。

 櫛田とはまた違った可愛らしさで首を捻る。

 池や山内が居たら『萌えー!』とか言うんだろうな。ただ残念なことに、定員オーバーだ。

 本来なら彼らや沖谷、須藤も部屋に入れたかったのだが、容量にも限界がある。

 それにしても……。

 

「よく堀北が認めたな」

 

「何よその言い方。一之瀬さんが協力してくれた方がメリットがあると思ったから、認めたに過ぎないわ。けど、何故特別棟に居たかは疑問だけどね」

 

「にゃはははー……」

 

 困ったように頬を掻く一之瀬。

 目が合うと、『ありがとう』と唇の動きで伝えてきた。

 オレの部屋に来る前、洋介と堀北は事件現場の特別棟の三階に出向いていた。正確にはオレがそうするように指示を出したのだが。

 そして計画通り、一之瀬は偶然を装って洋介たちに接触、協力を申し出た。最初、堀北は一之瀬を疑っていたようだったが、なんとか無事にある程度の信頼を勝ち取ることに成功したようだ。

 まぁ堀北が駄目だと言っても、洋介が居るからどちらにしろ成功したと思うが。

 

「そう言えば綾小路くん、今日は椎名さんと会わなくて良いの?」

 

「用事があるそうだからな」

 

 今朝、携帯端末にメッセージが届いていた。

 だから今日は久し振りに一人で過ごそうと思っていたのだが……結果、洋介たちを招き入れることになった。

 これ以上文句を言っても仕方ないか。

 

「それで、どうだったんだ?」

 

「じゃあまずは私から報告するね。放課後を使って二年生、三年生の先輩に池くんと一緒に聞き込みしたけど、(かんば)しくなかったかな。ごめんね……」

 

 落ち込む櫛田に、洋介がすぐさまフォローを入れる。

 

「櫛田さんと池くんでダメなら無理だったと思うよ。清隆くんもそう思うよね?」

 

「同感だな。洋介、事件現場はどうだったんだ?」

 

「そうだね……特にこれといったものはなかったかな」

 

「そうか……防犯カメラでもあったら良かったんだけどな。そんな上手くはいかないか」

 

「学校の校舎の中にあるのは原則的には教室くらいなものだからね。あとは確か職員室だったかなぁ」

 

 一之瀬も会話に加わり、知恵を絞ってくれている。

 櫛田も興味を持ったらしく、オレに尊敬の眼差しを向けてきた。

 

「けど綾小路くん、よく防犯カメラのこと知ってたね。私なんて今言われるまで気付かなかったよ」

 

「入学初日に知る機会があったんだ。櫛田も、意識を少しでも割いていれば見掛けていたと思う」

 

 今度は一之瀬がオレに尊敬の眼差しを向けてきた。

 ほへーと口を半開きにして、感嘆の声を出す。

 人から褒められるなんて滅多にないことなので照れ臭さを感じてしまう。

 

「うーん、困ったね。目撃者を捜すことそのものが間違っているのかな」

 

「どういうこと平田くん」

 

「つまり、目撃者を見掛けたその目撃者を捜すんだよ。事件当日、特別棟に入っていく生徒を見た生徒が居るかもしれない」

 

 思い付きにしては悪くないアイディアだ。

 放課後に特別棟に入る生徒なんて普通なら皆無だから、たまたま見掛けた生徒が疑問に思い、覚えているかもしれない。

 

「悪くない案だとは思うけれど、圧倒的に時間が足りないわ。それに、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 堀北が言った言葉の意味が分からず、一瞬、静寂が部屋を支配した。

 最初に我を取り戻したのは櫛田だった。

 

「堀北さん、それってどういうこと?」

 

「──()()()()

 

「……えっ?」

 

「『暴力事件』を目撃した生徒よ。櫛田さんや平田くんならある程度は知っているはず」

 

「……同じクラスの佐倉さんが……?」

 

 櫛田と洋介が思わず顔を見合わせてしまう。

 オレも表情にこそ出さなかったが、大変驚いていた。

 Dクラス陣営が驚愕する中、唯一他クラスの一之瀬だけは首を傾げた。

 

「綾小路くん、その佐倉さんって誰なの?」

 

「Dクラスの女子生徒だ。平生は大人しい性格で、そこの堀北以上にコミュニケーション能力に問題がある」

 

 そう説明すると、殺気が飛ばされる。言わずもがな、堀北からだった。

 しまった、後半部分は言うべきことじゃなかった。

 

「けど堀北さん、どうして佐倉さんだと?」

 

「昨日の須藤くんが謝罪していた時、あるいは平田くん、あなたが彼に手を差し伸べた時、一人だけ──そう、一人だけ目を伏せていた生徒が居た。彼女を除く全員が関心を寄せていた中、佐倉さんだけがそのような行動を取っていた。何故だと思う?」

 

「自分に関係があることだったからか」

 

「えぇその通り」

 

 オレは内心、堀北の観察力の高さに舌を巻いていた。

 あの状況で冷静に教室全体を俯瞰するなど、そう簡単に出来ることじゃない。

 

「けど堀北さん、佐倉さんが目撃者だとどうして断定出来るの? まだ可能性があるって話だよね?」

 

「いいえ、違うわ一之瀬さん。今朝確認したから」

 

 だから今日は登校するのが遅かったのか。佐倉はいつも、遅刻にならない程度の時間に登校しているからな。

 どうやら堀北は、本気で須藤を救おうとしているようだ。

 

「うん? でもさ堀北さん。どうして昨日確認しなかったの?」

 

「Dクラスからの証人だと決定的な武器にならないからよ。だから昨日と今日の放課後どちらかで、他クラスから目撃者を見付けるのがベストだった。けれど……」

 

「そうか、明日はもう木曜日。これ以上の時間のロスは無くしたいってことだね。だけど目撃者を見付けられなかったらこっちの完全敗北だ。この際効力は度外視(どがいし)するべきだと言いたいんだね」

 

 平田が納得したように頷く。

 ようやく問題が一つ片付いた……と言いたいところだが、またもや問題は浮上する。

 たった今しがた客観的な佐倉のイメージを知った一之瀬が、客観的な意見を口にした。

 

「目撃者が見付かったのは吉報(きっぽう)だと言いたいけど、佐倉さんが証言してくれるかな。証言するってことは、大衆の中で発言するってこと。今聞いた感じだと、彼女には難しいんじゃない?」

 

「まぁそこは頼むしかないな」

 

「いきなり押し掛けるのはダメだよね? 佐倉さんの性格的にも」

 

 その配慮はオレにも適用されて欲しかった。

 

「櫛田は確かクラスメイト全員の連絡先を持ってたよな。悪いが掛けて貰えないか?」

 

「もちろん良いよっ」

 

 櫛田が携帯端末をスクールバッグから取り出し、佐倉のだと思われる番号をプッシュした。

 その間に、一之瀬が声を抑えて出す。

 

「凄いね櫛田さん。どうやったらそんなことが出来るんだろう」

 

「一之瀬は持ってないのか?」

 

 だとしたらちょっと……いや、かなり意外だ。

 オレの質問に、一之瀬は頷いた。

 

「女の子は持っているんだけどね、男の子は持ってない子もいるかな。ほら、無理に聞き出すと良くないじゃない?」

 

「そうだな」

 

「あっ、そうだ綾小路くん。私と連絡先、交換してくれないかな?」

 

「もちろんだ」

 

 一之瀬と連絡先を交換し合う。

 ここ最近、オレの通話帳にどんどん名前が載っていく。入手当初とは段違いだ。

 感涙していると、携帯端末を耳に当てている櫛田が顔を少しばかり顰めた。

 

「ダメ、無理だね。あとでもう一度掛けてみるけど無理だと思う」

 

「どういう意味だ?」

 

 疑問に思ったので尋ねてみる。

 櫛田は難しそうな表情を浮かべながら説明してくれた。

 

「連絡先は教えて貰えたんだけど、よく知らない私から連絡されても迷惑だと思うの。実際、堀北さんも上手くいかなかったようだし……」

 

 さり気なく堀北をバカにする櫛田。

『表』の顔しか知らない洋介や一之瀬たちは分かりやすい具体例を出しただけだと誤解しているだろう。

 一方、朧気ながらも嫌われていると察している堀北と、『裏』の顔を知っているオレからしたら反応に困ってしまう。

 

「電話がダメなら、あとはもう直接行くしかないよね。櫛田さん、頼めるかい?」

 

 先導者の指示に、調停者は了承する。

 

「うん。頑張るねっ」

 

「それじゃあ今日は解散しようか」

 

 帰り支度を済ませ、ぞろぞろと玄関口に向かっていく友人たち。その際、空になったグラスを片付けることを彼らは忘れなかった。

 池や山内たちに見習わせたい。割と本気で。

 寮の廊下で別れの挨拶を交わし自分の部屋に戻り、メールを作り送信する。返事はなかったが、まぁ問題ないだろう。

 明日の準備でもしようと思い立った、その時だ。

 玄関のチャイムが鳴った。

 誰だろうと思いながら玄関扉を開けて対応すると、そこには一之瀬の姿があった。

 

「どうした一之瀬、忘れ物か?」

 

「ううん、綾小路くんと話したいことがあって。入っても良いかな?」

 

「ああ」

 

「ごめんね。お邪魔します」

 

 一之瀬は先程と同じ場所に腰を下ろした。

 

「お茶はどうする?」

 

「うーん、出来れば貰いたいかな。ちょっと長話になりそうだから」

 

「了解」

 

 洗ったばかりのグラスに再度液体を注ぎ込む。

 お盆に二つ分のグラスを置き、両手でしっかりと手に持って一之瀬の元に向かった。

 話して分かったことは、一之瀬帆波は非常に話していて苦にならないということ。おめでとう、椎名、みーちゃんの次にランクインだ。まぁ本人からしたら嬉しくないだろうが。

 そしてあと分かったことがある。

 

 それは龍園翔と同等以上に警戒すべき相手だということ。

 

 もし一之瀬帆波と敵対することになったら潰すのに苦労しそうだ。まぁ対峙するのは堀北や洋介たち。

 オレは普通に、彼女とはそこそこの友達付き合いをすることにしよう。



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目撃者Xの葛藤

 

 タイムリミットまであと五日を切った。

 時間の経過(けいか)というものは早いもので、あっという間に一日が終わりを告げる。

 茶柱(ちゃばしら)先生が光の速さで教室をあとにすると同時に、櫛田(くしだ)は席を立ち、一人静かに帰り支度を進める佐倉(さくら)に近寄った。

 事情を知っている生徒が櫛田の奮闘(ふんとう)を見守ろうと息を(ひそ)める中、オレは微かな違和感を覚える。

 どうにもいつもの彼女らしくない。緊張しているのだろうか。

 無理もない。須藤(すどう)命運(めいうん)は彼女にかかっている。

 

「佐倉さんっ」

 

「……!? ……な、なに……?」

 

 眼鏡(めがね)を掛けた少女──佐倉が突如投げられた声に大きく反応した。

 まるで恐怖に怯える(うさぎ)のようだ……と評したいところだが、オレは既に嫌な予感がした。

 オレが不安を覚える中、櫛田は再度アクションを試みる。

 

「ちょっと佐倉さんに聞きたいことがあるんだけど、良いかな? 須藤くんのことで……」

 

「ご、ごめんなさい……私この後、用事があるので……」

 

 遠回しに会話を拒絶する佐倉。

 視線を逸らし、櫛田の顔を見ようともしない。話すことはありませんと、そういった雰囲気がありありと見て取れる。

 しかしここで退()くわけにはいかない。

 櫛田はなおも続行しようと、体を佐倉に一歩近付けた。だが佐倉は一歩……いや、二歩程椅子を引く。

 

「そんなに時間取らせないよ? とても大切なことだから話をさせて欲しいの。須藤くんが『暴力事件』に巻き込まれた時、佐倉さん、近くに居たって……」

 

「ぁ……。し、知らないです。堀北さんにもそれは言われたけど、全然、全く、これっぽっちも何も知りません」

 

 いやその反応は何かを知っているものだぞ。

 とはいえ、佐倉は弱々しくもキッパリと否定した。

 てっきりもっと話すことが苦手だと思っていたのだが、意外にも、『芯』はしっかりと通っているようだ。

 彼女の態度にはさしもの櫛田も(ひる)んだようだった。

『どうしよう?』とオレに助けを求める視線を送ってくる。いや、どうしてオレなんだ。そこは洋介(ようすけ)堀北(ほりきた)あたりに──。

 オレは嘆息してから、一度頷くことで続行を指示した。

 ここで諦めるわけにはいかない。佐倉の存在が、須藤救出の実質的な鍵なのだから。

 

「……もう、帰って良いですか……」

 

 櫛田が沈黙している(すき)を突き、佐倉はそう言った。

 佐倉愛里(あいり)という人間に、細いながらもしっかりとした『芯』があるのは分かった。

 しかしどこか様子がおかしい。例えば、上記にも述べたが彼女は未だに、櫛田と目を合わせていない。ずっとだ。

 これが異性だったらまだ分かるが──実際、みーちゃんという前例がある──、仮にも彼女たちは連絡先を交換している。そんな相手に対して、佐倉の態度は異常だ。

 

「お願い。少しだけで良いから時間を貰えないかな?」

 

「ど、どうしてですか……? 私は何も知らないのに……」

 

「厳しいわね。櫛田さんでダメなら、もう無理じゃないかしら」

 

 傍観(ぼうかん)していた堀北が呟いた。

 彼女の言う通りだろう。誰とでもすぐに仲良くなれる櫛田がダメなら、少なくともDクラスの生徒じゃハードルは一気に高くなる。

 異性ではなく同性だったら(いけ)や洋介でもまだチャンスはあっただろうが。

 歯痒(はがゆ)く感じたのか、櫛田が佐倉の両手を取ろうとする。しかし空を切った。

 佐倉が大きく距離を取ったからだ。

 その光景に、大勢の生徒が目を見張らせたことだろう。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ──人は誰しも、『パーソナルスペース』を持っている。

 

 これは別名、『パーソナルエリア』や、『対人距離』とも言われ、()()()()()()()()()()()()()()()()()のことを指す。

 女性よりも男性の方が一般的にはこの空間は広いと言われているが、これは民族や文化などによって変わることもある。

 当然だが、親密な相手程に空間は狭くなり、逆に敵視している相手程広くなる。

 そのパーソナルスペースを、文化人類学者のエドワード・ホールは主に四つに分けた。

 その四つとは、密接(みっせつ)距離、個体(こたい)距離、社会(しゃかい)距離、そして公共(こうきょう)距離。そしてこの四つにはそれぞれ、近接相(きんせつそう)遠方相(えんぽうそう)がある。

 例えば密接距離は、家族や恋人など、ごく親しい者だけに許される距離だ。近接相は0~15cm。遠方相は15~45cm。当然、この距離に他人が侵入すればする程、人間は激しい不快感を抱く。

 今回の場合は、お互いの表情がハッキリと識別(しきべつ)出来る点から、個体距離が適用される。近接相は45~75cm。遠方相は75~120cm。

 櫛田は個体距離の、遠方相を選んでいた。そして近接相の範囲内に踏み込もうとした。彼女の凄いところは、遠方相から近接相に急激的に移行したとしても、相手に不快感を与えないところ。

 

 パーソナルスペースを発動させないとでも言ったら良いだろうか。

 

 だが佐倉愛里はそれを許容(きょよう)しなかった。

 時間が経つにつれて収束する視線という矢に、佐倉は泣きそうな表情になりながら荷物を纏める。

 

「さ、さよなら……!」

 

 今にも()き消えそうな細い声を出し、別れ言葉を一方的に口にする佐倉。

 そして、机の上に置かれていたデジカメを両手で抱え、教室の外に出ようとする。

 そんな時だった。

 

「「あっ!」」

 

 悲鳴が出される。

 扉から顔だけ出して櫛田と佐倉のやり取りを不安そうに見守っていたみーちゃんと、佐倉がぶつかってしまった。

 そしてデジカメが床に落ちてしまう。小さな音がやけに大きく反響した。

 どちらが悪いという話ではない。

 ()いて言うのなら、(うつむ)いて早歩きしていた佐倉だろう。

 顔を青くするみーちゃんを他所(よそ)に、佐倉は慌ててデジカメを拾い上げる。

 

「嘘……。映らない……!」

 

 デジカメが映らないことに、佐倉は誰の目から見ても分かる程にショックを受けていた。みーちゃんはそんな佐倉を見てますます顔色を悪くする。

 どうやら落ちた衝撃で、デジカメが壊れた……にしては言い過ぎだろうから、故障してしまったようだ。

 何度も電源ボタンを押したり、バッテリーを入れ直したりするが、ついぞ光が(とも)ることはなかった。

 

「ご、ごめんなさいっ。私がぶつかったから……」

 

「違うんです……私が悪いんです。ちゃんと前を向いて歩かなかったから……!」

 

「それも違うよ。悪いのは急に話し掛けた私だよ……」

 

 櫛田の謝罪も、佐倉には届かない。

 

「……ごめんなさい。もう行きますね……さよなら……」

 

 結局最後まで、佐倉は誰かの顔を直視することはなかった。彼女はそそくさと教室から出ていってしまった。

 みーちゃんや櫛田はそんな彼女の背中を見届けることしか出来なかった。

 重たい空気が教室に流れる中、須藤が唇をキツく噛み締め悔しそうに拳を握った。

 

「どうすりゃ良いんだよ……!」

 

 答える者は居なかった。

 しんと教室内が静まり返る中、しかし、思わぬところから言葉が飛ばされる。

 

「──諦めたらどうだね、レッドヘアーくん」

 

 その男は須藤を見ることなくそう言った。

 いつものように、持参している手鏡を見て髪の手入れをしている。自分のことにしか関心がないと豪語(ごうご)する高円寺(こうえんじ)六助(ろくすけ)だ。

 

「哀れなレッドヘアーくんにアドバイスしよう。きみの無実はどう足掻(あが)こうと証明されない。それはそこのクールガールからも再三言われていただろう?」

 

 クールガールとは恐らく、堀北のことだろう。

 

「それは、そうだけどよ……」

 

「あのガールが仮に目撃者だとしても、彼女は証言しないだろうさ。なら最初から自分の罪を認めれば、罪は軽くなるだろうねえ」

 

 佐倉に頼れないと判別したこの状況なら、それが唯一出来る最善なのだろう。

 高円寺六助は唯我独尊、傲慢な男だが、彼はいつだって真実を口にする。

 

「まぁボーイやガールが何をしようとそれは勝手だ。精々頑張ると良い。それでは see you」

 

 笑みを深め、高円寺はスクールバッグを片手に教室から出ていった。多分、寮に帰るんだろうな。

 呆然と見送る者が殆どの中、池が悔しそうに言う。

 

「なんだよあいつ! 英語、滅茶苦茶発音良いじゃん!」

 

「池くん、そこに突っ込むのは間違っていると思うよ」

 

「お、おう沖谷(おきたに)……」

 

 あれだけオドオドしていた沖谷の成長具合に、大勢の生徒が驚きを表しているだろう。

 あれだな、天使から堕天して小悪魔になったとでも表現すれば良いだろうか。

 さて、オレももう行くとしよう。

 放課後の賑わいをだんだんと見せ始めるDクラスの教室を出る。

 昇降口には既に椎名(しいな)が居た。通行人の邪魔にならないように配慮していたのか、隅の方でぼーっとしている。

 

「椎名」

 

綾小路(あやのこうじ)くん。こんにちは。今日は少し遅かったですね。何かありましたか?」

 

「まあ、そんな所だ」

 

 いつもはオレの方が先に着いて、椎名を待っているのが常だからな。

 Dクラスの担任は用がない時はすぐにSHRを終わらせるから、その点に関しては、生徒からは評価されていたりする。

 移動しながら彼女に経緯(けいい)を話す。

 目撃者Xが事実上発覚したこと。それがDクラスの生徒であること、しかし説得に失敗し逃げられてしまったこと。

 

「Dクラスはどうするつもりですか?」

 

「さあ。櫛田が上手く佐倉を説得することを願うしか出来ないんじゃないか?」

 

「中々難しいものですね……──綾小路くん」

 

 靴を履いて玄関から出ようとしたところで、椎名が小さな声で囁く。

 オレは無言で頷いて、数十メートル先を歩く女子生徒を見据える。

 鮮やかなピンク色の、ツインテール。体を小さくして歩くその姿は、佐倉愛里だった。オレよりも早く教室から出ていって、てっきりもう寮に帰ったとばかり思っていたのだが……。

 

 ──ここで呼び留め、オレが佐倉を説得するか?

 

 だが同じクラスとはいえ、オレと彼女の接点は皆無。櫛田が失敗してしまった今日のタイミングで、下手に刺激しない方が得策だろう。

 隣を歩く椎名に目配せをして、何も見なかったことにしようとした。

 だがそうはならなかった。

 校門に行くと思われていた佐倉が、別の方向に足を動かしたのだ。その方角にあるのは一つの建物だけ。

 彼女が向かう先は──特別棟。

 

 ──さて、どうしたものか。

 

 悩んでいると、椎名が言う。

 

「追い掛けたらどうでしょうか。千載一遇(せんざいいちぐう)のチャンスですし、上手く言えませんが……彼女からは、その……」

 

「分かった」

 

「私は先に図書館に行っていますね。彼女も、他クラスの私が居ると困るでしょうし」

 

「ああ。じゃあ椎名、また後で」

 

 椎名と一旦別れ、オレは気配を殺して佐倉の背中に追従(ついじゅう)する。

 さっきの櫛田と彼女のやり取りから察するに、多分、佐倉愛里という人間はパーソナルスペースがとても広いのだろう。

 オレは公共距離の中で、遠方相を採用する。これは複数の人間が見渡せる空間のことで、距離は7m以上だ。

 佐倉は特別棟の出入口の前で辺りをキョロキョロと見渡す。オレはすぐに近くの物陰に隠れる。

 

 ──バレたか?

 

 危惧するが、どうやら違うようだ。多分、特別棟に入る姿を目撃されたくないのだろう。

 人影がないことを何度も確認してから、彼女は特別棟の中に入って行った。

 オレも後を追おうとするが、近くの自動販売機が目に留まった。

 人間とは学ぶ生き物だ。特別棟の中は、今日もとても暑いだろう。

 二本分の飲料水を購入してから、オレは地獄への門を潜った。

 建物内に侵入すればするほど、蒸し暑さがオレの体を襲う。厳暑(げんしょ)(むしば)む中、オレは体を引き()って事件現場の三階に登った。

 佐倉は窓から見える景色を眺めているようだった。

 

「──どうして、こうなっちゃったのかな……」

 

 ぽつりと漏らされた独り言。

 椎名が気に掛けるのも分かる。佐倉はもう、精神的に参っていた。

 彼女の内面を正確に推し量ることはオレには出来ない。しかし、勝手な想像は出来る。

 オレはわざと靴音を鳴らし、彼女の関心を寄せた。

 狙い通り、佐倉は両肩を震わせながらすぐに反応する。

 

「誰──あなたは……?」

 

「同じ一年Dクラス、綾小路清隆(きよたか)だ」

 

「あっ、はい……佐倉、愛里です……」

 

 礼儀は弁えているのか、佐倉はオレの簡素な自己紹介に答えてくれた。

 不審者じゃないことに安堵したのか(思われていたら傷付く)、彼女は一つ息を吐いた。

 だがそれもすぐに疑念となり、オレに困惑の表情を見せる。どうしてオレがと思っているのだろう。

 嘘を吐いたら良くないだろうと思い、オレは真実を口にした。

 

「佐倉が特別棟に入っていくのがたまたま視界に映ってな。悪い、尾行させて貰った」

 

「……」

 

 ふと、自分でも思った。

 あれ、これってストーカーじゃないか? 

 しまった、本当に不審者じゃないか。

 これで佐倉が警察に突き出しても、文句は言えないだろう。

 その光景を想像していると、しかし佐倉は悲鳴を上げることも、糾弾することもしなかった。

 何がどうなっているのかは分からないが、兎に角話を続けよう。こんなことで警察に捕まりたくない。

 

「佐倉はどうしてここに?」

 

「あっ、えっと……その……私は、写真を撮るのが趣味で……今日はその下見に……。デジカメはさっき壊れてしまいましたから……」

 

 その言葉に嘘は無いのだろう。

 事実、佐倉の手には携帯端末が握られている。

 だがそれは本当の理由ではない。とはいえ、それを追及したりはしない。

 疑問に思ったので、もっと別のことを尋ねる。

 

「写真を撮るって……いったい、何を撮っているんだ?」

 

「廊下とか……窓から見える景色とか……自然が多いです……」

 

 そう言って、佐倉は携帯端末を操作してから恐る恐る画面を見せてくれた。

 そこには彼女が言った通り、色とりどりの自然の景色が映っていた。朝焼けや、夕焼け、風に揺れる草木(くさき)など……本当に多種多様だ。

 素人のオレでも分かる程に、撮り方がとても上手い。

 

綺麗(きれい)だな……」

 

 思わず感想を呟くと、佐倉は少しだけ……本当に少しだけだがオレに体を近付かせた。

 

「……分かりますかっ? この景色を撮るためにかなり時間を使ったんです」

 

 そう言って、一枚の写真を指差す。

 それは、夕日の眩しい光が多くの水溜まりの水面に反射して輝く、とても幻想的な情景だった。

 水溜まりの大きさによって、光の光量も千差万別。一つの芸術となっている。

 

「ちなみにどれくらい?」

 

「……一時間程だと思います……」

 

 マジかよ、そんな単語が口から出そうになった。

 オレは素直に感心してしまう。到底、オレには出来そうにない。多分……というか絶対に、飽きてしまうだろう。

 そこまで考え、オレは確信した。

 佐倉はきっと、椎名や須藤と同じ人種だ。つまり、好きなことに対してはどこまでも真摯(しんし)に向き合えるひと。

 

「もっと話してくれないか? オレはほら、知ってるかもしれないけど読書しかこれと言った趣味がないから、ここ最近物足りなく感じていてな」

 

「えっ……でも……」

 

「ダメか?」

 

「う、ううん……! じゃあまずはこれを──」

 

 佐倉はそのまま、オレに趣味について話してくれた。曰く、この写真は宝物だとか、曰く、この写真を撮るために遠出をしたとか。まぁ遠出と言っても、高度育成高等学校の施設内の話だが。

 一通り話したいことは言ったのだろう、彼女は汗を流しながら息を長く吐く。暑いし疲れただろうと判断し、オレはスクールバッグの中を漁った。

 

「良ければ飲んでくれ。もちろん、封はしてある」

 

「えっと、良いんですか……? あっ、その前にお金……」

 

「大丈夫だ。渡しておいてなんだけど、それ、無料のものだから」

 

 そういうことならと、佐倉は無料飲料水を受け取った。

 一度(あお)ったところで、彼女は不思議そうに首を傾げ、オレを見つめた。

 

「どうかしたか?」

 

 尋ねると、彼女は視線を少し逸らしてから答える。

 

「……綾小路くんは、私が目撃者だと聞かないんですね」

 

「なら逆に聞くが、『暴力事件』の現場を見たのか?」

 

「……それは……」

 

 語尾を濁らせる佐倉。真実を彼女が見たのは間違いないだろう。そして多分、告白するかも迷っているだろう。

 そんな彼女にだからこそ、オレはこの時、本心で言った。

 

「佐倉。仮にお前が目撃者だとしても、名乗り出る義務はない。無理矢理に証言しても意味はないし、何より──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「えっ……? それって……」

 

 戸惑う佐倉に、オレはさらに言葉を畳み掛ける。

 

「もちろん、佐倉が証言してくれたら心強いのは確かだ。けど、誰かに強制されるんじゃなくて、自分の意思で決断して欲しい。そうしたら、佐倉は『成長』出来る。そう思う」

 

「成長、ですか……?」

 

「ああ。考えてみてくれ」

 

「う、うん…………」

 

「じゃあオレは帰るから。また明日」

 

 また明日……小さな声で挨拶が返された。

 オレは振り返ることなく、片手を挙げることで応えた。

 さて……時間をかなり使ってしまった。

 これ以上椎名を待たせるわけにもいかない。

 足を出来るだけ早く動かす。数分程で図書館に着いた。

 オレが図書館への入口に立つ少し前に、自動ドアが稼働した。ちょっとタイミングが悪い。

 自動ドアが完全に開放されるのを待つ。

 開け放たれたその先には三人の男と一人の女が居た。

 邪魔だと思い、無言で彼らの道を開ける。

 

「──よう。今日もひよりと逢引か?」

 

 通り過ぎるのかと思いきや、一人の男がオレに声を掛けた。

 男の行動に、彼の仲間だと思われる生徒たちは怪訝そうに男を見る。しかし男はそれを無視し、オレに詰め寄る。

 

()()()()?」

 

()()()()()()。タイムリミットまであと五日……いや、四日か。『不良品』のお前らがどうなるか、大層見ものだな」

 

「Cクラスの生徒か、お前は」

 

「てめぇ、龍園(りゅうえん)さんになんつう口の利き方を!」

 

石崎(いしざき)、お前はちょっと黙ってろ。アルベルトも、伊吹(いぶき)もだ」

 

 龍園と呼ばれた男がそう言うと、石崎と呼ばれた男は口を(つぐ)んだ。こいつが『暴力事件』に関与した生徒の一人か……。

 オレと龍園の視線が交錯する。

 

「忠告だ。これ以上ひよりに……Cクラスの人間に近付くな。もし継続するようなら──潰すぞ」

 

「そうか──断る」

 

 そう告げると、龍園はオレの胸倉(むなぐら)を摑んで、そのまま図書館の壁にオレの身体を押し付けた。

 ひんやりと冷たく、固いコンクリートの壁が背中に直撃し、痛みがじんわりと広がる。

 

「龍園!」

 

「黙っていろと言ったはずだ伊吹」

 

「そうじゃない。ここには人の目があるって言ってんの」

 

 伊吹の鋭い声。

 だがしかし、龍園は彼女の指摘を鼻で笑うだけだ。

 視線を横に向ければ、確かに伊吹の言う通り、通行人が二、三人程居る。彼ら彼女らは遠巻きに眺めるだけだ。

 助けは期待出来ないだろう。

 

「そろそろ、手を離してくれると嬉しいんだけどな」

 

「クククッ……面白いな、お前。良いぜ、今日はこのくらいにしてやる」

 

 龍園は(あや)しく(わら)ってから、オレの胸倉を離した。そして両手をブレザーのポケットに入れ、オレを見下ろす。浮かんでいるのは残忍な笑み。

 支えを無くしたオレはずるずると壁を滑り、地面に尻もちをついてしまった。

 

「悪い悪い。ほら、手を貸してやるよ」

 

 龍園はそう言って、ポケットから右腕を差し出す。

 どうやら、今の一連の流れはあくまでも『事故』として処理するつもりらしい。

 

「そりゃどうも」

 

 上から目線が鼻についたが、オレは差し出された手を摑む。まさかオレがそうするとは思ってなかったのか、取り巻きの石崎や伊吹たちは何やら驚いているようだった。

 

「せいぜい、惨めに踊るんだな」

 

 そう言い残し、龍園は去って行った。慌てて後を追う石崎と、アルベルトと呼ばれた屈強な男。

 伊吹は何か言いたそうにオレを数秒見つめたが、やがて彼らの背中を追行していった。

 

 それにしても……なかなか、龍園は粋なことをするものだ。

 

 まぁ確かにこちらの方が確実だが、それでも他の方法もあっただろうに。

 いや……これも龍園(かける)という人間の性質か。

 どうにも奴は、スリルを求める傾向にあるな。これで負けるようなら『王』失格だが、そんなことはまず起こらないだろう。

 彼らが去っていった方向を軽く一瞥(いちべつ)してから、オレは制服にこびり付いたゴミや(ほこり)を落とした。

 図書館に入ると、冷たい風が館内に流れていた。冷房のありがたさを肌に感じつつ、いつもの席に向かう。

 途中、顔見知りの女性職員とすれ違う。相手もオレに気付いたのか、軽く会釈をしてきた。オレも会釈を返す。

 椎名はいつもと同じように読書に勤しんでいた。

 彼女の右隣の席に座る。

 

「随分と遅かったですね。何かありましたか?」

 

「ああ。佐倉と話していた。やっぱり彼女が、目撃者で間違いない」

 

「やけに断言しますね。根拠はあるのですか?」

 

「質問を質問で返すようで悪いが、椎名は『コールドリーディング』って知ってるか?」

 

「ええ。まさか、綾小路くん……」

 

 首肯する。

 椎名の想像通り、オレは佐倉に対して、コールドリーディングと呼ばれる話術の一つを使用した。

 これは、外観を観察したり何気ない会話を交わしたりするだけで相手のことを言い当て、相手に『わたしはあなたよりもあなたのことをよく知っている』と信じさせる話術。

 一般的には詐欺師や宗教家、占い師や手品師が使用するが、警察官による誘導尋問や恋愛など、その幅はとても広い。

 そしてこれの一番凄いところは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 コールドリーディングは意図して使う者だけに限らず、無意識下の中で使う者も居る。

 身近な人間を例に上げるとするならば、それはやはり櫛田桔梗(ききょう)が真っ先に挙げられるだろう。

 彼女は『パーソナルスペース』を発動させず、さらには『コールドリーディング』を無意識で使っているがために、人とのコミュニケーションが容易に出来る。次点なら池寛治(かんじ)か。

 

「オレは佐倉の趣味……撮影に対して興味を持ったことをアピールすることで、彼女の警戒心を薄くしたんだ」

 

「そして綾小路くんからは『暴力事件』について尋ねなかったんですね」

 

「ああ。特別棟に行った時点で、佐倉が告白するかどうか葛藤していたのは分かっていた。ある程度会話をすることで、オレが『無害』であると彼女に思い込ませたんだ」

 

「なるほど。結果、彼女は共感してくれる人……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そして──」

 

「実際に認めこそしなかったが、それでも、佐倉愛里が目撃者だという決定的な情報をオレに漏らしてしまった」

 

 とはいえ、オレは佐倉がXであることを椎名以外に口にはしない。

 佐倉が証言したところでCクラス側に致命傷は与えられないし、何より、その(やいば)はオレが既に持っている。

 そう、オレたちの中ではもう、『暴力事件』は解決している。

 



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度重なる相談事

 

 タイムリミットまであと四日を切った、一週間の終わりを告げる金曜日。

 明日から学校は二日間の休みに入る為、さらなる目撃者を捜すにしても今日が限界だろう。

 ちなみにどうでも良いことだが、高度育成高等学校に建てられている寮は、合計四つだ。

 そのうち三つは学生寮で、学年別に分けられている。なお、寮の部屋は学校のクラス替えがないのと同様に、三年間継続して使用することになる。オレたち一年生に割り当てられている寮は、去年の三年生が使用していたものだ。

 残りの一つは教師たちやショッピングモールなどで働く、住み込みの従業員が暮らす寮だ。

 朝、洋介(ようすけ)と朝食を共にしたオレは、彼と一緒に寮のエレベーターから降りた。

 

「あの門の先には地獄が待っているのか……」

 

「あはは……清隆(きよたか)くんは夏、苦手かい?」

 

「苦手というか……どうにも慣れないな。ほら、学校には冷房が完備されているだろ? だから余計、ギャップにやられるというか」

 

「分かるよ。(ぜい)を尽くしている学校の弊害(へいがい)だね」

 

 洋介の共感を得られたことで嬉しくなる。

 些細なことでも誰かに支持されるということは、なかなか、気分が高揚(こうよう)するな。

 緩みそうになる頬を理性で堪えていると、ついこの前友人になった少女の声が聞こえてきた。

 発生源は、寮の管理人が勤務(きんむ)している場所からだった。

 

「──ありがとうございます。よろしくお願いします」

 

 声の主は、一年B組のリーダー、一之瀬(いちのせ)帆波(ほなみ)だった。

 彼女の美しいストロベリーブロンドのロングヘアーが窓から射し込む朝陽(あさひ)にきらきらと反射する。

 堂々と背筋を伸ばして直立するその姿は、男女を問わず魅了していた。

 朝から良いものを見たと、自分の幸運の高さに感謝していると、なんと、彼女はオレと洋介の元に近付いてきた。

 

「おっはよー、綾小路(あやのこうじ)くん、平田(ひらた)くん」

 

 くっ……! ま、(まぶ)しい……! 

 心做(こころな)しか一之瀬の周りには洋介とはまた違ったきらきらオーラが雰囲気として如実に現れていた。

 

「おはよう、一之瀬さん」

 

 さ、流石は平田洋介……! これくらいでは動揺しないのか……!? 

 ただただオレが圧倒されていると、一之瀬と洋介が怪訝(けげん)そうに視線を寄越(よこ)してくる。

 とはいえ、オレもここ最近は様々な人と関係を築いている。だから辛うじて普通に返せた。

 

「おはよう、一之瀬」

 

「うん、おはようっ。いやー、今日もあの先は暑いだろうねー」

 

 一之瀬も暑さを想像したのか、苦笑いを(こぼ)した。

 

「ちょうど良かった。実は昨日、作戦通り、櫛田(くしだ)さんが佐倉(さくら)さんの説得を試みたんだ」

 

「櫛田さんなら適役だよね。それで、どうだったのかな?」

 

「残念なことに──」

 

「平田くーん!」

 

 洋介の台詞がどこからか飛ばされた声によって遮られる。この猫被りの無駄に可愛らしい声音(こわね)からして、犯人は一人しか居ない。

 そこにはやはりというか、洋介の交際相手である軽井沢(かるいざわ)(けい)が立っていた。相変わらず、ギャルっぽさがぷんぷんと出ている。

 どうにもオレは、彼女のようなタイプが苦手だ。少なくとも、自分から積極的に交流を持とうとは思えない。

 

「おはよう、平田くん、一之瀬さん。あとついでに綾小路くんも」

 

 まさか(めん)と向かって『ついで』扱いされるとは。

 貴重な体験を浴びていると、一之瀬が同情の眼差しをオレに送ってきた。泣きたくなるからやめて欲しい。

 

「ねぇねぇ、平田くん。一緒に学校行こうよ!」

 

「もちろんだよ軽井沢さん。けどちょっと待ってくれないかな。実は一之瀬さんとは協力関係にあってね、今は昨日の顛末(てんまつ)を話しているんだ」

 

 流石は先導者。頼み方がとても上手い。

 自分のクラスの問題に直結するのならばと、軽井沢は渋々ながらも頷いた──かのように思われた。

 そこでDクラスの邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)の女王は、哀れな村人Aを見て、にんまりと(わら)う。

 

「だったら綾小路くんでも出来るでしょ。一之瀬さんも問題ないよね?」

 

「私としては情報が入手出来たらそれで良いけど……」

 

「ほらね? いくら綾小路くんでも、このくらいなら出来るだろうしさ」

 

 確かにその通りなんだが、もうちょっと言い方を良くして欲しい。

 しかも軽井沢の言い分もある程度は正しいところがイヤらしい。もっとバカだと思っていたが、意外にも頭の回転は悪くないようだ。

 

「いや、でも……それは……」

 

 心の中で悪態(あくたい)を吐く中、さしもの洋介も返答に困るようだった。言わばこれは、自分の彼女を取るか、それとも友達を選ぶかの瀬戸際(せとぎわ)だからな。

 

 ──……仕方ない。ここはオレが折れるとするか。

 

 別に、女王の睨みが怖いわけじゃない。

 

「あー、オレに構わず、洋介は軽井沢との時間を大切にしてくれ」

 

「流石、分かってるー。綾小路くんもこう言ってくれていることだしさ。行こうよ平田くん」

 

 洋介は数秒悩む素振りを見せてから、やがておもむろに頷いた。

 

「……それじゃあ清隆くん、お言葉に甘えさせて貰って良いかな」

 

「ああ」

 

「ごめんね。また学校で会おう」

 

「じゃあねー」

 

 軽井沢は洋介の左腕に抱き付き、そのまま学校へと引っ張っていく。軽井沢洋介のカップルは誰から見ても熱々(あつあつ)だった。

 いつもはあんなにも頼り甲斐(がい)がある先導者も、彼女の前ではああなってしまうのか……。

 彼らの去っていく背中をぼんやりと眺めていると、一之瀬がわざとらしく咳払いを一つした。

 

「えーと、それじゃあ私たちも行こうか?」

 

「……オレが居て良いのか?」

 

 怖々(こわごわ)尋ねる。

 

「もちろんだよ。話もあるし……何より、綾小路くん。きみ今、全身から負のオーラが出ているから……」

 

「…………そんなにか?」

 

「……うん」

 

 言いづらそうに告げる一之瀬。

 彼女の言う通り、人間不信一歩手前の状態だった。危ない危ない。

 それにしても、良い奴にも程がある。

 心の中で彼女を崇拝(すうはい)していると、「ほら早く行こう」と催促してくる。

 オレは嘆息(たんそく)してから、今しがたの出来事は忘れることにした。人間、嫌なことは忘れたい生き物だ。

 寮から出て並木道を通る。やっぱり暑い。

 オレは彼女の斜め後ろを歩きながら、佐倉について話すことに決めた。

 

「さて、半ば強制的に任されたとはいえ、使命は果たすか。どこから話したら──」

 

「おはよう一之瀬委員長〜」

 

 悩んでいると、後方から二人の男子生徒が一之瀬に声を掛け、抜き去って行った。そのうち一人の男子はオレを睨み付けていった。

 まぁ気持ちは分かるから怒ったりはしない。

 それよりも気になることがあった。

 

「前々から思っていたんだが、どうして一之瀬は『委員長』って呼ばれているんだ?」

 

 素朴な疑問に一之瀬はあっけらかんと答える。

 

「私学級委員長やってるからその関係かな。ちょっと恥ずかしいけどね。さっきはその仕事で、管理人さんに寮の部屋の要望を纏めた紙を提出していたの」

 

「なるほど……って、いや違う。『学級委員長』なんて役職があるのか? オレたちのクラスにはそんなもの……」

 

 もしかして、Dクラス以外のクラスはそういったシステムがあるのかと猜疑心(さいぎしん)が生まれてしまう。

 普通なら驚くべきことなのだろうが、うちの担任なら忘れていた、なんてことも充分に起こり得るだろう。

 そんなオレの危惧を、一之瀬は「違う違う」と片手を横に振った。

 

「Bクラスが勝手に作っただけだよ。役職が予め決まっていると楽じゃない?」

 

「確かに、何かあった時は助かるな。他にもあるのか?」

 

「うん。『学級委員長』に『副学級委員長』、『書記』とかかなー。まぁやっぱり、あくまでも形式的なものだから、実際にやっているわけじゃないけどね」

 

 それでも有事の際は、彼らは一之瀬に協力するだろう。

 彼女は多分、全て理解しているのだ。

 他者が自分に求めているその有様を。

 そんな一之瀬帆波だからこそ、Bクラスの生徒は彼女を信頼しているのだろう。

 

「──さて。それじゃあ話してくれないかな? 昨日の顛末を」

 

 一之瀬に説明する。

 昨日の放課後、櫛田が佐倉に接触したこと。しかしやはりというか佐倉はコミュニケーションが苦手で、櫛田であっても説得に失敗し、逃げられてしまったこと。

 全てを聞き終えた一之瀬は、淡々と事実を再確認してくる。

 

「ふーん……じゃあやっぱり、佐倉さんからの態度からして、彼女が目撃者なんだね」

 

「さぁどうだろうな。櫛田が怖くて逃げたって線もあるぞ」

 

「にゃはははー……確かに綾小路くんの推測も、完全には的外れじゃないよね。けどなあ、主観的にそれはないと思うよ」

 

 だろうな、とは思っても口にはしない。

 学校に近付けば近付く程、登校中の生徒も多くなる。彼ら彼女らは一之瀬の姿を視界に収めると、彼女に声を掛けていった。

 Bクラスだけでなく、そこには他クラスの生徒や上級生だと思われる生徒もあった。

 どこかデジャブ感を抱えながら、オレは黙々と一之瀬に付いていく。

 一通り生徒の群れを(さば)いたところで、彼女はオレと並びながら言う。

 

一昨日(おととい)頼まれたことだけどね、準備にもうちょっと掛かるかな。二つのうち一つは、今日の放課後から稼働させる予定だよ」

 

 さっそく動いてくれたのか。

 オレは一之瀬に感謝しつつフォローする。

 

「いや、最悪月曜日までに稼働してくれたら良い。むしろ早いな。てっきりもうちょっと掛かると思っていた」

 

「ううん、すぐに作れるよ。綾小路くん、機械に弱い?」

 

「あー……どうだろうな。一通りの操作は出来ると思うが」

 

「なら出来ると思うよ。けどきみのその気持ちも分かるかな。新しいことに挑戦するのは勇気がいるよね。それで悩むこともある」

 

 ちょっと意外だ。

 てっきり一之瀬はどんなことにも全力投球する女性だとばかり思っていた。

 そこまで考え苦笑する。

 会ってまだ数日の人間に、オレはどうして勝手な評価をしていたんだか。悪癖だな、これは。

 

「もし困ったことがあれば、オレで良ければ相談に乗るぞ。クラスメイトだと話せないこともあるだろうしな」

 

 とはいえ、相談されるとは思ってない。一之瀬なら自分で対処するだろうしその能力があるだろう。

 ところが、彼女はこう言った。

 

「ならさ、お言葉に甘えても良いかな? 実は聞きたいことがあるの」

 

 まさかの展開だ。

 自分から面倒事に首を突っ込むなんて……! 数秒前の自分を殴り飛ばしたい衝動(しょうどう)に駆られるが、言ってしまったものは仕方がない。

 

「……力になれるかは分からないが、それでも良いなら」

 

「うん。綾小路くんって、どうやって椎名(しいな)さんと付き合えたの?」

 

「……は?」

 

 思わず聞き返したオレは悪くないだろう。

 それだけ、一之瀬が尋ねてきたことは衝撃的だったのだ。いやいや、確かに相談に乗るとは言ったが、まさか恋愛相談なのか?

 というかそれ以前に……。

 

「オレと椎名は付き合ってない」

 

「えっ、そうなの? あんなに仲が良いのに?」

 

「このやり取り何回目になるんだろうなあ……。兎も角、本当に付き合ってないから」

 

「そうなんだ……。じゃあ次の質問なんだけど、女の子に告白されたことってある?」

 

「…………は?」

 

 またもや聞き返したオレは悪くないだろう。

 どうにも話の本筋が摑めないというか……。

 だが質問されたからには答える必要があるのも事実。

 

「いや、ないが……」

 

 あれ、おかしいな。視界が(かす)むような……。

 オレの全身から出る哀愁(あいしゅう)さに、一之瀬は色々と察してくれたのか、それはもう何度も謝ってくる。

 ブレザーの袖で目元を拭ってから、今度はこちらから問い掛ける。

 

「もしかして、誰か好きな人が居て、告白したいのか? でもどうしてオレに……?」

 

 とてもじゃないが、出会って数日の異性に相談することじゃない。

 それこそクラスメイトなり親しい友人に相談するのが普通なんじゃ? 

 勝手に話を進めようとするオレを、一之瀬は慌てて止めた。

 

「違うの。確かに綾小路くんの想像通り、恋愛相談になるんだけどね。実は私、告白されるみたいなの」

 

『みたいなの』って随分と他人事のように言うな。

 いや、それはオレの邪推か。

 一之瀬も戸惑っているのだろう。そして多分、告白してくるであろう男は……。

 

「Bクラスの生徒か……」

 

「あちゃー、やっぱり分かっちゃうかー……」

 

「それで、一之瀬はどうしたいんだ?」

 

「……それは、その……」

 

 顔を俯かせる一之瀬に、オレは強引にでも尋ねる。

 

「告白される日はいつなんだ?」

 

「今日の放課後、体育館裏って書かれてあったけど……」

 

 かなり急だな。もし一之瀬に用事があったらその男はどうするつもりだったんだろう。

 そんなことを疑問に思ったが、まぁそこはどうでも良い。

 

「──昼休み」

 

「えっ?」

 

「一之瀬がもし良ければ、本格的に相談に乗ろうと思う。時間、空いているか?」

 

「……良いの? 相談しておいてなんだけど、これってかなり面倒事だよ?」

 

「頼み事をしたからな、借りを返す……とまでは流石にいかないが。どうだ?」

 

 一之瀬は迷っていたようだった。

 しかし、自分が頼れる相手はオレ以外に居ないということに気付いたのか、顔を上げて言う。

 

「頼んでも良いかな」

 

「分かった。そうだな……教室や食堂じゃ目立つだろうから、昼食後、告白される場所の体育館裏に集合で良いか?」

 

「うん。詳しくはメールでやり取りするね」

 

 校門を通過し、昇降口玄関で一之瀬と別れる。

 オレは廊下を渡りながら、ひと知れずため息を吐いてしまう。まさか自分から面倒事を抱えるなんて……。

 教室に入り自分の席に座ると、挨拶に来てくれた櫛田が心配そうに視線を送ってきた。

 

「綾小路くん、どうかしたの? 疲れた顔をしているけど……」

 

「……いや、何でもない……」

 

「なら良いけど……何かあったら相談してね」

 

 にこやかに微笑んでから、櫛田は他の友達の所に行った。次に、当たり前というか、先に教室に着いていた洋介がオレに声を掛けてくる。

 

「さっきはごめん清隆くん──って、どうしたんだい? 随分と疲れた顔をしているけど……」

 

「……いや、何でもない……。それとさっきのことは気にしないでくれ」

 

「う、うん……。何かあったら相談してくれると嬉しい。僕たちは友達だからね」

 

 にこやかに微笑んでから、洋介は自分の席に戻って行った。

 櫛田といい、洋介といい……善人にも程があるだろ。

 どうしたら自分からそのように言えるのか、凄いと言うより怖い。

 

「はあ──」

 

「うるさいわよ」

 

 隣人から厳しい視線が飛んできた。

 

「はい、ごめんなさい」

 

 すぐに謝る。隣人は最後にもうひと睨み利かせてから、読書へと意識を戻した。

 悪いのはオレだからな、逆ギレなんてしない。

 兎にも角にも、自分で言った言葉には責任を持たないといけないだろう。実際問題、恋愛なんてしたことがないオレが力になれるかは自分でも甚だ疑問だが、友人のためだ、ベストを尽くすとしよう。

 

 

 

§

 

 

 

「それでは本日の授業はここまで。週末となり明日は休みになるが、予習復習は忘れないように」

 

「「「ありがとうございました」」」

 

 四時限目が終わった。

 オレは昼食に誘いに来てくれた須藤(すどう)の申し出を断る。食べ物は喉を通りそうになかった。

 

「調子でも悪いのか? 顔色悪いぜ?」

 

「……まぁそんなものだ。悪いな」

 

「気にすんなよ」

 

 須藤に申し訳なさを感じつつ、オレは一之瀬との待ち合わせ場所──体育館裏へと足を運ぶ。

 別にオレが告白されるわけではないんだけどな。どうにもそわそわしてしまう。

 ──もしかして、これが恋? 

 そんな冗談はさておいて、オレはあることを失念(しつねん)していたことに遅まきながら気付いた。

 この学校には二つの体育館があるのだが、いったいどっちに行けば良いんだろう? 

 一之瀬に確認してみると、第二体育館とのことだった。連絡先を交換しておいて良かったとしみじみ思う。

 綺麗な碧空(へきくう)をぼんやりと眺め、オレは何となくその情景を撮った。雲ひとつない快晴に、深緑色の葉っぱを携えている木。名前は何か知らないが……なかなか、写真を撮るというのも存外、面白いかもしれない。

 ちょっとの角度で映る景色が様変わりする。

 数回シャッター音を無人の体育館裏に響かせていると、遠くから人の気配を知覚した。

 

「綾小路くん。待った?」

 

 ここは素直に事実を告げるべきところか? いやでも、小説だと別のことを言っていたような気が……。

 直感に従い、オレは言う。

 

「いや、今来たところだ。それにしても、随分と早かったな。もう少し掛かると思っていた」

 

「あはは……ご飯が喉を通らなくてね。ごめんね、待たせちゃった」

 

 これ以上、大丈夫だと告げてもこのやり取りはずっと続くかもしれない。

 昼休みの時間は有限だ。

 雑談するにしても、今は問題を片付けるべき。

 一之瀬もそれは分かっているのか、懐から一枚の手紙を取り出すと見せてきた。

 

「見ても良いのか?」

 

「うん……。相手の子には申し訳なく思うけどね、実際に見て貰った方が良いと思うから」

 

 そういうことならと、オレはしっかりと手紙を見る。

 可愛いシールが貼られた、可愛らしいラブレターだ。これを男がと一瞬不思議に思ったが、人の価値観は千差万別。気を取り直し拝読する。

 油性のボールペンで書かれたと思われる黒の軌跡を目で追う。

 四月、入学してからずっと気になっていたこと。最近自身の想いに気付き、告白する勇気を持ったこと。

 どこまでも真摯(しんし)に書かれた内容だった。

 一之瀬に礼を言ってから、ラブレターを返す。

 

「私……恋愛には(うと)くって。どうしたら相手を傷付けずにいられるか……私は、その子と仲良くしていたいから。だから綾小路くんを頼らせて貰ったの。椎名さんと付き合っている噂が流れているきみなら、良い対処法を知っていると思ったから。まぁその噂は、結局のところ噂だったんだけどね……」

 

「告白のことは秘密にしたいんだよな?」

 

「うん。同じクラスの子だからというのもあるけど、やっぱり当事者以外には知られたくないかな……」

 

 自嘲する一之瀬。

 オレはそんな彼女を見て、ふと疑問が湧いた。

 

「失礼かもしれないが、一之瀬は告白慣れしているんじゃないか?」

 

「えっ!? や、全然だよ! これまでの人生、そんな経験は一度もないよ。だからこうして綾小路くんに助けを求めているんだし」

 

 衝撃の事実。

 こうして一之瀬に相談されなかったら信じられなかっただろう。

 ルックスは最高だし、性格も良い。

 普通なら玉砕(ぎょくさい)覚悟で一人くらい告白しそうなもんだが。

 

「私なりに調べてみたんだけどね。『付き合っている人がいる』か、『好きな人がいる』って状況が一番良いんだって。そうすればあまり傷付けずに済むって、ネットに書いてあったんだけど……」

 

「後者は兎も角として、前者は嘘がバレたら最悪の展開になるだろうからやめた方が良いと思う」

 

「だ、だよね……」

 

 互いに黙り込む。

 ダメだな、さっきから一之瀬の意見を否定していて、相談役らしいことは何も出来ていない。

 

「悪いが、もう一度手紙、見せてくれないか?」

 

「えっ? うん、大丈だよ」

 

 手紙を受け取り、改めて文章を読む。

 これでも趣味が読書なのだ、相手の心情くらいは読み取れる……と思いたい。

 何度も目を通す。

 

 ──あなたが好きです。

 ──付き合ってくれませんか。

 

 分かることは、差出人の男性が一之瀬帆波という女性を好いていて、告白したこと。

 そして、その想いは本物だということだ。

 オレはしっかりと一之瀬の目を見て、静かに口を開いた。

 

「一之瀬。恋愛経験ゼロのオレが『何を偉そうなことを』と思うだろうし、何ならオレでもそう思う。だがやっぱり、断るならしっかりと断った方が良いと思うぞ。どんな理由を言ったところで、大なり小なり、相手を傷付けてしまうからな」

 

「で、でも──」

 

「それに、文面いっぱいまで書かれたこの文字。多分、お前に告白した相手は何度も何度も失敗しては、挑戦したんだと思う。今の時代、印刷だって出来る。これだけの文字数だ、書くのは面倒だろう。だがこいつは手書きで書いている。──告白って、とても勇気がいるものだと、オレは思う。『好き』って言葉がどれだけ言うのが難しいのか、それは一之瀬にだって分かるはずだ。敢えてキツい言い方をするが、お前はどこまでも真摯なこの想いに、正面から向き合わないのか?」

 

「……!」

 

 オレの言葉に、一之瀬は息を呑んだ。

 まさかオレがここまで言うとは思ってなかったんだろう。いやまあ、オレ自身そう思っているのだが。

 ラブレターを彼女に返し、オレは続けて言った。

 

「もちろん、一之瀬がどんな対応をしようとそれは自由だし、責めるつもりも毛頭ない。さっき言ってた作戦も、仮初の意中の相手をオレにしてくれたって構わない。その上で聞く。──どうする?」

 

 顔を俯かせ、一之瀬は悩み始める。

 オレの言うべきこと……言いたいことは全て彼女に伝えた。彼女に言ったことは虚言ではない。

 ベタな展開だが偽りのカップルを装っても構わないし、もしそうなっても、オレが一之瀬を振れば良い。

 そうすれば彼女が受けるダメージは無いだろう。

 まぁその場合、オレが悪目立ちをしてしまうが……彼女を助けると言ったのはオレ自身。これくらいなら甘んじて受け入れるべきだ。

 昼休み終了まで七分を切った。そろそろ答えてくれないと五時限目に遅刻してしまう。

 オレが一之瀬、と呼ぶより前に、彼女は俯かせていた顔を上げた。

 そして言う。

 

「──私が間違ってた。千尋(ちひろ)ちゃんの気持ちを、本当の意味で分かってなかった。これって傲慢(ごうまん)だよね」

 

「傲慢は言い過ぎ──って、ちょっと待ってくれ。……なぁ一之瀬、差し支えなければ教えて欲しいんだが、千尋ってひとは男なんだよな?」

 

「……? 千尋ちゃんは女の子だよ。それがどうしたの?」

 

「いや、何でもない」

 

 なるほど、全て理解した。

 思えば、おかしい点は多々あった。可愛いシールに、可愛らしいラブレター。そして極め付きは、男にしてはやたら綺麗な字。もちろん男でも字を綺麗に書く人間は五万といるが、それを遥かに超えていた。

 オレは同性愛者だろうと偏見の目では見たりしない。

 だってそうだろう。

 愛の形は人それぞれ。そこに間違いなどあるはずがないのだから。

 

「放課後の四時だったよな。もし良ければ近くで待っていようか?」

 

 オレの申し出に、けれど一之瀬は軽く首を横に振る。

 

「ううん。これ以上綾小路くんを巻き込めないよ。それに、椎名さんとの時間を邪魔しちゃ悪いしね」

 

「いや、だからオレたちは付き合ってないんだが」

 

「もちろん分かってるよ。だけど本当に大丈夫だから」

 

「そっか」

 

 ならばもう、オレの出る幕はない。

 第二体育館裏から校舎に移動する。

 

「それじゃあ、私はここで別れるね」

 

「ああ。オレが言うのもなんだけど頑張ってくれ」

 

「うんっ」

 

 一之瀬はオレに笑顔を見せてから、自分のクラスに向かった。

 本当はもうちょっと感傷に浸りたかったが、そうも言ってられない。もうすぐ授業が始まる。

 無人に等しい廊下を急いで渡り、自分の教室に駆け込む。五時限目の教科は英語だ。

 教科担任の真嶋(ましま)先生は既に登壇していて、遅刻ギリギリのオレに当然気付いていたが、何も言うことはしなかった。

 代わりに、クラスメイトからの呆れた視線がオレに寄せられる。

 

「おっせーぞ、綾小路〜」

 

「ほらほら、早く座んないと授業始まるぞ〜」

 

 池と山内が笑いながら言ってくる。

 オレはぎこちなく笑い返してから、自分の席へと光の速さで移動した。

 幸い、参考者やノートは机の引き出しに入れておいた為、準備は既にしてあるも同然。

 時計を確認すると、授業開始三十秒前だった。

 

「あなた、何をしていたの?」

 

「保健室に行ってたんだ。体調が悪くてな」

 

「確かに、気分が優れなさそうだったものね」

 

 朝からのオレの異変を、当然、隣人の堀北(ほりきた)は知っていた。これで心配してくれたら嬉しかったんだけどな、そんなイベントは起こらなかった。

 興味が尽きたのか、堀北は意識をオレから外したようだった。

 次の瞬間、校舎に始業のチャイムが鳴り響く。

 

「起立」

 

「「「お願いします」」」

 

 一礼してから席に座る。

 一之瀬の依頼は解決したと判断しても問題ないだろう。

 オレが出来ることはした。

 あとの問題は彼女たちのもの。オレが出来ることはもう何も無い。

 真嶋先生がホワイトボードに書き込んでいく英語の構文をノートに写していると、オレは強烈な空腹を覚えた。

 

「……腹減ったな……」

 

 とはいえ、力尽きるわけにはいかない。

 何故なら隣には、正義の鉄槌(てっつい)を下す悪魔が居るのだから。奴のことだ、容赦はしないだろう。

 オレは五時限目、六時限目と断続的に襲い掛かる空腹感と戦い、なんとか勝つことに成功したのであった。

 

 

 

§

 

 

 

 金曜日の夜とは学生だけに限らず、多くの人間の味方だ。

 椅子の背もたれに体重を預けながら、携帯端末を操作する。プリインストールされているアプリを起動させ、目当てのウィンドウを開く。

 それは、生徒なら誰もが利用出来る学校公認の掲示板だった。

 そこには一件の書き込みがあった。

 先週起こった『暴力事件』の目撃者及び情報提供を求めている。もちろん匿名で書き込むことも可能で、情報の質によってはポイントを支払うとも書かれている。

 

 これこそが、オレが一之瀬帆波に依頼したことに他ならない。

 

 もちろん、オレ独自でも作ることは可能だ。

 だが大半の生徒は、Dクラスの生徒はプライベートポイントに枯渇しているものだと思っている。

 そんな中で、ポイントが無いはずのDクラスの人間が、『情報によってはポイントを払います』なんて言っても意味は無い。気味悪がられるだけだ。

 それに比べ、Bクラスが作ったらそのような感情は抱かないだろう。ましてや作ったのは一之瀬帆波。疑う余地は無い。

 そして送られた情報は、オレと一之瀬の共通のボックスに送られる手筈になっている。

 これが彼女に頼んだものの一つ。もう一つは、同じ内容が書かれた貼り紙を、校舎内の掲示板に貼ってもらうこと。

 これには少々の時間が掛かってしまうが問題ない。月曜日までに用意して貰えればそれで良い。

 今回、この方法を提案したのは一之瀬ではなくオレだ。ここで一つ、実験をしておきたい。

 端末をぼんやりと眺めていると、電話が入った。

 着信欄には、(ワン)美雨(メイユイ)の名前が。

 困惑しながら、けれど通知をオンにする。

 

「もしもし──」

 

「も、もしもしっ」

 

 一度聞いただけで分かる。緊張度合いが凄い。

 まぁみーちゃんの性格を考えれば、異性相手に自分から電話するとはあんまり思えないからな。

 

「落ち着いてくれ、みーちゃん。どうしたんだ?」

 

「夜遅くにごめんなさい。その……綾小路くんに相談があって……」

 

 思わず天井を仰ぎ見たオレは悪くない。

 マジかよ……心の中で嘆息する。

 沈黙していると、みーちゃんが泣きそうになっているのが息の調子から分かった。

 

「ダメだったかな……?」

 

「いや全然。それで相談って?」

 

「あっ、うん。えっと……私昨日、佐倉さんのデジカメを壊しちゃったから……。その責任を取りたいんです」

 

 確かに、みーちゃんと佐倉がぶつかったのは紛れもない事実だし、その結果、デジカメは床に落下、故障してしまった。

 

「みーちゃんの気持ちは分からなくはない。だが、大事なものならもう修理に出しているんじゃないか?」

 

 佐倉はそれはもうショックを受けていたからな。

 自分の趣味を再開させるためにも、店に行って修理申請している可能性は高いだろう。

 そんな予想はあっさりと打ち砕かれた。

 

「話を聞いてみたんですが……その、まだ行ってないみたいです。理由は──」

 

「確かにこう言っちゃ佐倉に悪いが、一人で行けるとは思えないな。あぁなるほど、それでみーちゃんが申し出たんだな?」

 

「うん。綾小路くんには前々から相談していましたが、佐倉さんとは友達になりたくて。これを機会にって思ったんです。櫛田さんも罪悪感は覚えていましたが、私が無理を言って代わって貰いました」

 

 それなら納得もつく。

 だが他に気になる点があった。

 

「それでどうしてオレにもその話を?」

 

「自分勝手なお願いをすると……綾小路くんにも同伴して貰えないかなと思って……」

 

「いや、それは構わないが……男のオレが居ても良いのか? 佐倉は人見知りだから、オレが居ても……」

 

「もちろん理由はあります。まずだけど、佐倉さんが綾小路くんを指名しました。この理由は教えて貰えなかったんですけどね。次にこれが一番重要なんですが──店員さんが怖いんだそうです」

 

 店員が怖い? 

 何だそれはと聞きそうになって、冷静に考える。

 佐倉愛里は大人しめの性格で、コミュニケーションも苦手な部類に入る女性なのはもう既に分かっている。

 だが彼女はオレの見立てでは、何か切っ掛けがあれば変わり始めるだろうとも思っている。

 オレがコールドリーディングを使ったから、というのもあるが、それでも彼女はある程度の会話は出来ていた。

 ましてや、完全に人との接点を断つことは絶対に不可能だ。

 いくらなんでも、一人での買い物くらいは出来るだろう。ましてや店員が怖いなんて──そこまで考え、オレは一つの考えに至った。

 

「その店員は男なのか?」

 

「そうみたいです。佐倉さんがデジカメを買いに行った時、対応した一人の男の店員さんが怖かったらしくて……」

 

「分かった。いつ行くことになっているんだ?」

 

明後日(あさって)。どうですか……?」

 

 となると日曜日か。

 予定は特に無し。行けるだろう。

 

「行けるぞ」

 

「うんっ、本当にありがとうっ。あっ、それじゃあ切りますね。夜遅くにごめんなさい」

 

「気にしないでくれ。おやすみ」

 

「おやすみなさい」

 

 通話が終了する。

 佐倉がどうしてオレを指名したかは分からない。あの短い時間で、本当にオレのことを『無害』だと信じ込んでいるのかもしれないし、他の理由があるのかもしれない。

 風呂の準備をしていると、本日二度目の電話が入った。

 着信欄には、櫛田桔梗(ききょう)の名前が。

 

「もしもし──」

 

「もしもし綾小路くん。今時間良い?」

 

「風呂の湯を沸かしているから、それまでだったら良いぞ」

 

「うん。みーちゃんから聞いたと思うけど、明後日お願いしても良いかな?」

 

「それは大丈夫だが……櫛田は来ないんだな」

 

 不思議に思ったのでそう尋ねると、彼女は一度笑ってから言った。

 

「みーちゃんにどうしてもってお願いされたからね。それに応えるのは友達として当然だよ」

 

「そういうものなのか?」

 

「そういうものだよ。──どう、綾小路くん。少しは他人に興味を持った?」

 

『表』から一転、『裏』の顔に切り替わる櫛田。

 

「さあ、自分だとイマイチよく分からないな。それより良いのか? 電話越しとはいえ、その顔をオレに見せて。いや、この場合はその声を聞かせての方が正しいか」

 

「部屋には私しか居ないしね。あっ、それともそっちには誰か居る?」

 

「逆に聞くが居ると思うか?」

 

「まさか」

 

 容赦ない口撃(こうげき)に、オレの精神がどんどん削られていく。

 櫛田は魔女のように笑ってから、『表』に戻して忠告してきた。

 

「みーちゃんと佐倉さんのことよろしくね? 二人ともコミュニケーションが苦手だから。綾小路くんから話題を振るんだよ?」

 

「……善処します」

 

「あはは、また今度話聞かせてね。それじゃあ綾小路くん、良い週末を。おやすみー」

 

 おやすみ、と返す前に通話は途切れた。

 ここ最近櫛田のオレに対する扱いが雑になっている気がする。気の所為か? ……気の所為だと思うことにしよう。

 



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魔女

 

 タイムリミットまであと二日を切った、休日二日目の日曜日。

 オレは一人、ケヤキモールへ足を運んでいた。休日は平生(へいぜい)、寮の部屋にこもり怠惰(たいだ)な日々を過ごしているオレからしたらこの場所はどうにも慣れない。

 まあ、友達付き合いで何回か来てはいるから、そこまで怯えているわけではないが。

 みーちゃんと佐倉(さくら)が指定した時間帯は午後だった。休日なのに早起きするのはなるべく控えたい性分だから助かる。

 集合場所に到着したのは良いが、ケヤキモールのどこで会うのかは決めていなかった。とはいえ、すれ違うことはまずないだろう。

 学校から支給されている携帯端末は、友達登録をしていると自分の位置情報や友達の位置情報を確認することが出来る機能がある。

 もちろん、非表示にすることも可能だが……どうしてこんな機能をと、首を傾げてしまう。下手したらストーカーが生まれてしまうだろう。

 実際、オレの友人がやっていたしな……。誰がとは言わないし、もちろんやめさせたが。

 まずはみーちゃんと合流するのがベストだろう。オレは佐倉の連絡先を知らないからな。

 待ちながら本でも読むかと思い、近くの、連なっているベンチに腰掛ける。片方はオレと同じように待ち合わせの約束でもしているのか埋まっていて、何やら携帯端末を操作していた。

 流石は現役高校生。

 結局、今日のこの時間に至るまで佐倉愛里(あいり)以外の目撃者Xは現れなかった。これだけ動いたのだ、恐らく、Xは彼女しか居ないのだろう。

 一之瀬(いちのせ)に作って貰った掲示板にも、Xの証言は無かった。だが有益な情報が投稿されなかったわけではない。

 結局のところはオレも現役高校生。文庫本を閉じ鞄に入れてから、オレは携帯端末を操作する。そして一之瀬帆波(ほなみ)と共有のボックスを開いた。

 そこには数々の情報があった。中にはポイントを支払っても良いと思える程のものも。

 例えば『暴力事件』に関わっている生徒の一人、Cクラスの石崎(いしざき)。彼は中学時代、学校を代表する不良だったらしく、喧嘩の腕も結構立つそうだ。地元じゃ恐れられていたのだろう。そして現在は『王』の下僕(げぼく)か。皮肉なもんだ。

 匿名での書き込みだったが、かなり質が良かったので、既にポイントは送金してある。名目上は一之瀬が送っているが、そのポイントの本当の持ち主だったのはオレだ。

 ベンチに腰を下ろすこと数分、みーちゃんが登場した。

 可愛らしい私服姿だ。オレが彼女の想い人だったら良かったんだが、済まないみーちゃん。オレは洋介(ようすけ)じゃない。

 急いで来たのか、彼女の呼吸は少し荒れていた。……いや、それだけじゃないな。恐らく、異性と休日に会うことに緊張しているのだろう。

 

「お、おはようっ!」

 

「おはよう、みーちゃん」

 

「ごめんなさい、待たせちゃいましたよね?」

 

 このやり取りは一昨日、一之瀬と行った。

 

「気にしないでくれ。佐倉だって来てないし……」

 

「えっ?」

 

「……えっ?」

 

 そう言うと、みーちゃんは不思議そうに首を傾げる。

 ……話が微妙に噛み合ってないな。

 彼女は自身の携帯端末を操作して、二秒程じっくりと見てから、オレに言った。

 

「佐倉さんなら、すぐそこに……」

 

 みーちゃんが指差したのは、オレ……ではもちろんなく、隣のベンチだった。

 まさかと思い慌ててそちらに顔を振り向かせると、隣で座っていた人物は、気まずそうに会釈(えしゃく)をしてくる。

 叫ばなかったのは奇跡に等しいだろう。自分を褒めたいところだ。

 

「ごめんね……影薄くて……。こんにちは……」

 

「いや、謝らないでくれ。謝るのは寧ろオレだ。悪いな、存在は認識していたんだが……」

 

「あ、綾小路(あやのこうじ)くん……それはフォローになってないです……」

 

 しまった、動揺しておかしなことを口走(くちばし)ってしまった。

 これは怒られても文句は言えないが、だが一つだけ言い訳をさせて欲しい。

 佐倉は帽子を目深(まぶか)に被っていて、しかも顔をすっぽりと覆う白マスクを装着していたのだ。彼女だと判別出来る要素といえば、鮮やかな桃色のツインテールのみ。仕方ない仕方ない。

 自己正当化していると、彼女はマスクを外してから自虐(じぎゃく)する。

 

「この恰好(かっこう)……不審者っぽいですよね……」

 

「不審者っていうか、なんて言うか……。風邪でも引いたのか?」

 

「だ、だったら今日は休んだ方が……」

 

 実際、佐倉の顔色はすこぶる悪い。

 血の気が引くなんて表現がよく使われるが、今の彼女の様子はまさにそれだった。

 心配してしまうオレとみーちゃんに、佐倉はわちゃわちゃと大きく手を振って言う。

 

「い、いえ違うんです……! ただその、こうすれば人の視線も集まらないかなと思って……」

 

「残酷なことを言うが、それだとますます集めると思うぞ……」

 

「ですよね……あはは……」

 

 引き()った愛想笑いを浮かべる佐倉。

 ヤバい、これは想像以上だ。先日の、写真について語っていたあの生き生きとした様子はどこにいったんだろうと思ってしまう。

 済まない櫛田(くしだ)。オレのような人間には率先して話題を振るような偉業は達成出来そうにない。

 これは『表』と『裏』両方で罵倒(ばとう)される気がする。そうなったら耐えられないぞ、主にオレの精神が。

 オレがだらだらと嫌な冷や汗を流していると、みーちゃんが意を決したように口を開いた。

 

「そ、それじゃあ行きましょう! ──えっと、デジカメの修理は電気屋さんで良いんですよね?」

 

「そのはずだ。そうだよな?」

 

「あっ、はい……。すみません、こんなことに付き合わせてしまって……」

 

「気しないで下さい。前から私、佐倉さんと友達になりたいと思っていましたから……その、不謹慎(ふきんしん)だけど嬉しいんです」

 

 はにかむみーちゃんに、佐倉は言葉を失ったようだった。躊躇(ためら)いながら、怖々(こわごわ)尋ねる。

 

「……私と、友達ですか……?」

 

「うんっ」

 

 笑顔で即答するみーちゃん。

 佐倉は露骨なまでに戸惑っていた。みーちゃんの言葉が本当か嘘か、判別しようとしているのだろう。

 恐らく佐倉愛里という人間は、これまでの人生において、特別親しい友人が一人も居なかったのではないか。

 だからこそ、差し出される手を摑めない。善意か悪意か、それを確かめる(すべ)を持たないからだ。

 故に、櫛田桔梗(ききょう)の申し出を断ってしまった。もちろん、櫛田が佐倉と友達になりたい気持ちに嘘はないだろう。だが彼女の『表』と『裏』の顔を知っているオレからすれば、どうしても打算的な行動がやや目立ってしまう。

 それが悪いとは言わない。人間とは大なり小なり自分の利益を優先せざるを得ないからだ。

 みーちゃんは言いたいことは言ったのか、ケヤキモールのパンフレットを見て、どこに電気屋があるのかを調べ始める。

 このショッピングモールはかなり大きい為、探すのに苦労しそうだ。案の定、(うな)り始まる。

 デジカメを買った張本人がここに居るのだから聞けば良いのに……と思ってしまうオレは駄目なのだろう。

 だからオレは何も指摘せず、その間に、顔を(うつむ)かせている佐倉に囁く。

 

「みーちゃんは本気で、佐倉と友達になりたいと思っているぞ」

 

「でも……どうして私なんかを……? 私は影が薄いですし、こんな性格です。こんな私と友達になっても、(ワン)さんに良いことなんか……」

 

「そうかな。この前佐倉と話した時、オレは楽しかったぞ。それに──友達になるのに、そんなこじつけの理由なんて欲しいのか?」

 

「……!」

 

「もちろんオレも、佐倉とは友達になりたいと思っている。別に今日答えを出さなくて良い。考えてみてくれ」

 

「うん……」

 

「見付けましたっ。綾小路くん、佐倉さん。こっちですっ!」

 

 パンフレット片手に先行するみーちゃん。

 いつもの大人しい性格はなりを潜めているようだ。もし洋介が軽井沢(かるいざわ)と交際していなかったら、いつもとは違う彼女の姿に悩殺されたのではなかろうか。

 兎にも角にも、まずは電気屋に行くことが任務だ。佐倉が恐れている男性店員がどんな奴なのか、それはまだ判明してないが、充分に注意するとしよう。

 

 

 

§

 

 

 

 ケヤキモールは高度育成高等学校に在籍している生徒が利用することを大前提に作られている。

 学校と提携(ていけい)しているのだろう、全国的にも有名な量販店が設けられている。オレでも知っている店がちらほら目に留まる。

 知らない店も中にはあり知的好奇心が(うず)くが、今はその衝動を抑えなくてはならない。

 

「ここか」

 

「うん、間違いないね。思ったより小さいかな」

 

「もともと、電気屋なんて使う頻度は少ないからな」

 

 それでも、生活するにあたって必要なものは揃えられていると思う。ちらりと商品の一つを一瞥すると、そこにはノートパソコンが売られていた。ポイントは……──Dクラスの生徒じゃ無理だな。

 

「えっと、どこで修理の受付をしているんでしょう?」

 

 みーちゃんがキョロキョロと店内を見渡す。大量に売られている商品の所為で、視界はかなり悪い。

 一番背の高いオレが背伸びして店内を探ると、それらしきカウンターが見えた。

 

「あれじゃないか?」

 

「……すぐに直るかな」

 

 デジカメを両手で握る佐倉は不安そうだった。

 気休め程度の言葉を彼女に言ったところで意味はないだろうと判断し、その代わり、歩く速度を早める。

 (くだん)の男性店員は、見たところ居ないな。居たら佐倉が何らかの反応をするだろうし……。

 勤務していないことを願いながら、カウンターに辿り着く。しかしカウンターには誰も居なかった。

 カウンターの上に置かれてあった呼び鈴をチリンと鳴らすが、店員はなかなかやって来なかった。

 

「──すみません」

 

 女の子が声を大きく出すのは恥ずかしいと思い、代表してオレが客の存在をアピールする。

 

「申し訳ございません、お客様。対応が遅くなり……」

 

 数秒後、裏に通じるであろうと扉から一人の男が現れる。

 みーちゃんが安堵(あんど)の息を吐く中、オレのやや後方に居た佐倉が鋭く息を吸ったのが気配で分かった。

 

 ──まさかこいつか? 

 

 いや、まだ断定は出来ない。

 

「すみません、デジカメが壊れてしまって。修理をお願いしたいんですが」

 

「えぇはい、もちろん承ります。しかしデジカメはどちらに?」

 

 オレがデジカメを持っていないことに、男性店員は怪訝そうな視線を送ってくる。

 オレの隣に立っているみーちゃんにも視線を送るが、彼女も当然持っていない。

 オレはひと一人分のスペースを作り、みーちゃんにアイコンタクトで指示する。

 

「佐倉さん」

 

「……」

 

「佐倉さん?」

 

「…………は、はい!」

 

「デジカメを出してくれって、店員さんが……」

 

「は、はい……。お願いします……」

 

 恐る恐ると言った具合に、両手に抱えていたデジカメを渡す佐倉。

 男性店員は特に気にした風もなく、デジカメを受け取る。その時、彼と彼女の手が一瞬触れてしまった。

 びくんと震える佐倉に男性店員は慌てて謝罪する。佐倉は大丈夫ですと弱々しく言った。

 だがオレは見ていた。男性店員はわざと手が触れるようにしていた。まず間違いないだろう。

 

「悪い、ちょっとトイレに行ってくる。実はさっきから腹が痛かったんだ。みーちゃん、あとは頼めるか?」

 

「え? う、うん大丈夫だけど……」

 

 それじゃあと言い残し、オレは彼らから離れていく。

 もちろん、腹痛なんて感じていないしトイレにも行かない。

 オレは店を一旦出てから、再度入店する。そして改めて彼らの近くに行き、バレないように物陰に身を潜めた。

 幸い、この店は商品が雑多(ざった)しているから視界が悪い。見付かる危険性はまずないと言えるだろう。

 耳を()ますと、彼らの会話が聞こえてくる。

 とはいえ、男性店員が一方的に話し掛けているだけだ。可愛い女の子だからハイテンションになっている。

 もともとコミュニケーションが苦手な部類に入るみーちゃんと佐倉だ。たじろぐしかない。

 男性店員は脈アリだと思ったのか──だとしたら滑稽(こっけい)だが──、とうとうデートに誘い始めた。

 仕事しろと突っ込みを入れたいが、まだだ。まだオレが出るわけにはいかない。

 どうやら彼はシアタールームで上演されている女性アイドルのコンサートに誘っているようだ。相当なアイドルオタクなのか、自身が所持している情報を使い、言葉巧みにアプローチを掛けている。

 どうやったら初対面の人間にそんな所行が出来るのか、呆れを通りこして尊敬してしまう。

 

「ね、ねぇどうかな? もちろん男の僕が奢るからさ」

 

「ご、ごめんなさい! えっと、デジカメはどうなんですか!?」

 

 みーちゃんは彼の気迫に呑まれそうになっていたが、なけなしの勇気を振り絞ってデートの誘いを拒否してみせた。

 今にも泣きそうだ。本当に悪いみーちゃん。だが、もう少しだけ我慢してくれ。

 店員は残念そうにしていたが、流石にマズいと判断したのか、デジカメの中を慣れた手付きで開いた。

 原因はすぐに分かった。

 なんでも、落ちた衝撃で一部のパーツが破損してしまい、上手く電源が入らないらしい。デジカメ自体はこの学校で買ったこと、そして保証書を保存していたために無償で修理して貰えるようだった。

 幸運にも、内部データは無傷で、佐倉はSDカードを受け取る。SDカードは小さいため、またもや肌が触れてしまう。

 

 ──そろそろ戻るか? いや、まだ決定的とは言えないか。

 

 あとは必要事項を紙に書けば正式に申請出来る。……ところが、佐倉はボールペンを走らせなかった。

 

「佐倉さん?」

 

「……」

 

「お客様、どうかなさいました?」

 

「………………」

 

 みーちゃんと男性店員が声を掛けるが、佐倉は黙り続け立ち竦む。よく見ると、彼女は微かに震えていた。

 何よりも──。

 男性店員は今までのハイテンションが幻だと思わせる程に、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 佐倉を──いや、申請用紙を凝視している。みーちゃんは佐倉に関心を寄せているから気付いてないが、男性店員は不気味な笑みを浮かべていた。

 

 ──決まりだな。

 

 緩慢な動きで佐倉が手を動かす……その前に、オレは彼女に近付き、そして無言でボールペンを奪った。

 

「あ、綾小路くん……?」

 

 困惑している佐倉を無視し、オレは申請用紙を見つめる。ある部分を見て、男性店員が狙っていたものを朧気ながら察した。

 そしてオレはすらすらとボールペンを走らせる。氏名、性別、住所など、電話番号など、多岐にわたる要項を埋めていく。

 

「ちょ、ちょっときみ。このカメラの所有者はそこの彼女だよね?」

 

「確かに店員さんの言う通り、これのもともとの所有者は彼女です。しかし実は、今度貸して貰う約束をしていたんですよ。直ったらすぐにカメラで写真を撮りたくて……。そうだよな?」

 

 これで佐倉が否定すれば面倒だが、幸い、彼女はオレの意図を()んでくれた。

 首を何度も上下に振る。

 

「いや、しかし──」

 

「メーカー保証は販売店も購入日もしっかりと書かれていますし、店員さんはそれを確認しました。法律上、問題はないですよ? それとも──彼女じゃなければならない理由があるんですか?」

 

 顔を上げることなく尋ねると、動揺した気配が出された。露骨過ぎる程に、男性店員は慌てていた。

 そんな彼にオレは、書き終わった申請用紙を手渡す。

 

「それではお願いします。いつ頃修理は終わりますか?」

 

「に、二週間程だと……」

 

「そうですか。いやー、直るのが楽しみですよ。それじゃあお願いしますね」

 

「……ご利用、ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております……」

 

 男性店員に見送られて、店から出る。

 数分移動し、充分な距離を稼いだと判断。手頃のベンチに座るよう、みーちゃんと佐倉に勧めた。

 すぐにみーちゃんが質問してくる。

 

「綾小路くんっ。さっきのあれって、どういうこと?」

 

「ああ……と言う前に、確認すべきことがある。佐倉が怖がっていた男性店員は彼だよな?」

 

「うん……」

 

「それは私も気付いていました。佐倉さん、傍から見ていても分かる程に怯えていましたから……」

 

「みーちゃん、よく頑張ったな。必死に佐倉を庇ってた。凄いと思ったぞ」

 

「ありがとうございます……ってもしかして、綾小路くん、私たちの会話を見てたんですか?」

 

「ああ。腹痛なんて嘘だった」

 

 軽く首肯する。

 みーちゃんは「ええ!?」と驚き声を上げてから、周りのことを考えてから声を抑えてどうしてと尋ねてくる。

 

「その前に謝らせてくれ。みーちゃんと佐倉には辛い思いをさせてしまった」

 

「う、ううん……。それより教えてくれませんか? 綾小路くんは何がしたかったんですか?」

 

「佐倉があの男性店員に怯えていたのは早い段階から分かっていた。まぁとはいえ、みーちゃんと佐倉は女の子だからな、世の中にはああいった人間が居てもおかしくない」

 

「そ、そうですね……」

 

「そこまでだったら言い方は悪いが、みーちゃんたちには犠牲になって貰うつもりでいた。もちろん、みーちゃんがデートの誘いを上手く避けられなかったら助けるつもりだったけどな」

 

 だからこそ、みーちゃんがしっかりと拒絶したことには驚いた。実際のところ、流されるか心配だった。

 

「だがみーちゃんのおかげで、奴の狙いが分かった。それは、()()()()()()()()()()()()()

 

「ええっ!? ご、ごめんなさい……」

 

 周囲の人間にペコペコと謝罪するみーちゃん。何だか見ていてほっこりするな……。

 一方、佐倉は見るからに恐怖していた。無理もない。それだけ、オレが言ったことは理解の範疇(はんちゅう)外にあるだろう。

 

「佐倉。(こく)な質問をするが、あの店員と会うのは二回目なんだよな?」

 

「う、うんそうだけど……」

 

「……そうか」

 

 だとしたらおかしい。

 あの男性店員と佐倉が望まぬ邂逅(かいこう)を果たしたのは偶然だろう。それにしては……随分と佐倉に拘っていたような気がするのだ。

 隣にはみーちゃんも居た。本人を前にしては恥ずかしくて言えないが、彼女だって充分に可愛い。

 実際、奴はみーちゃんにもデートの誘いをしていた。

 だが佐倉に視線を向けた途端──雰囲気が一変したかのように感じたのだ。

 

「最初に会った時はどんな感じだったんだ?」

 

「デジカメを買いに行った時、声を掛けられて……。それもかなりしつこくて……気持ち悪くて……」

 

 当時を思い出しているのだろう、語尾を震わせながらも佐倉は教えてくれた。

 佐倉も充分に可愛い女の子だ。

 だが職を失うリスクを冒してまで、たまたま視界に映った女の子にナンパを行うか? 普通なら理性が本能を抑えるはずだ。

 その普通があの男性店員には通用しないのか? もしそうだとしたら非常に危険だ。

 

「もし次、あの電気屋に行くようなら、誰かに付き添いを頼むしかないだろうな」

 

「そうだよね……何かあったら危ないし……」

 

 一番良いのはあの店に二度と近付かないことだが、それは現実的ではない。

 佐倉は何やら考えていたようだった。

 そしてみーちゃんに振り向いて頭を下げる。彼女が突然の出来事に驚くより前に、佐倉は頼んだ。

 

(ワン)さん。もし良ければ、ですけど……。付き添い、お願い出来ますか?」

 

 みーちゃんはぽかんと呆然としたが、すぐに我を取り戻して笑顔を見せた。

 そして佐倉の両手を摑んで……。

 

「もちろんだよっ」

 

「ありがとう。本当にありがとう」

 

 この時初めて、佐倉はみーちゃんの瞳をしっかりと見た。視線が数秒交錯する。

 彼女は小さな声でもう一度「ありがとう」と言ってから、今度はオレに向き直った。

 

「綾小路くんも、今日は本当にありがとうございました。なんてお礼を言ったら……」

 

 いや、そこまで大袈裟(おおげさ)に言わなくてもと、つい思ってしまう。

 オレがやったことと言えば、申請用紙の紙を書いたくらいだ。みーちゃんの方が何倍も佐倉の助けになっていただろう。

 そうだ、そう言えば彼女に見せたいものがあったんだった。

 オレはズボンのポケットから携帯端末を取り出し、ギャラリーのアプリを起動。そして一枚の写真を選択し、彼女に見せた。

 

「これは……?」

 

「私も見て良いですか?」

 

「ああ」

 

 二人が見えやすいよう、ベンチの上に携帯端末を置く。

 

「わあっ。如何にも、夏って感じがしますねっ」

 

「昨日撮ってみたんだ。暇だったからというのもあったけど、面白そうだったからな」

 

「この写真……第二体育館ですか?」

 

「よく分かったな」

 

「私も時々ですけど、ここで写真を撮るんです。けど、一人で行くと目立っちゃうから、なかなか行けないんですけどね……」

 

「あはは」と自嘲する佐倉。

 しかしすぐに消し去り、真剣に画面を見つめた。

 

「どうしたらもっと良い写真を撮れると思う?」

 

「そうですね……この場合だと、もう少し下から撮った方が良いと思います。木と空、どちらも入れたいのなら、その方がインパクトがあると──どうかしましたか……?」

 

「いや、続けてくれ」

 

 佐倉は不思議そうに首を傾げたが、今は講評に集中したのか、すぐに意識を写真へと戻した。

 真剣な表情で写真について語る彼女は、本の内容について語る椎名と同じだった。

 だからつい笑みを零してしまった。それだけのこと。

 講評を終えた佐倉は羞恥心で顔を真っ赤に染めながらオレに携帯端末を返した。

 

「すみません……熱くなっちゃって……」

 

「いや、とても参考になった。ありがとう」

 

「い、いえそんな……」

 

「でも凄いですね、佐倉さん。私なんて普通の写真しか撮れないです。随分と長いんですか?」

 

「ううん……小さい頃はそうでもなかったんだけどね。あれは確か中学生の時かな。お父さんにカメラを買って貰って……この世界に惹かれていったの。カメラについては全然知らないけどね」

 

「それとこれとは別だと思います。綾小路くんはどう思いますか?」

 

「みーちゃんと同感だな。そう言えば、佐倉は風景専門なのか? 人物とかは撮らないのか?」

 

「えええっ!?」

 

 ずさっと兎のように反応し、ベンチの上をスライドする佐倉。オレとみーちゃんは顔を見合わせて、揃って首を傾げてしまう。

 ごくごく普通の質問をしたと思うんだが……。

 

「ひ、秘密……その、恥ずかしいから……」

 

 恥ずかしいものを撮っているのかと邪推してしまう。

 佐倉は頬を赤らめ、もじもじしていた。櫛田とはまた違った可愛い威力だ。危ない危ない。池や山内のように叫び出すところだった。

 

「お、お手洗いに行ってきても良いかな……」

 

 こちらもまた、もじもじとしていた。女の子だからな、心中は察する。

 オレは頷いた。佐倉も了承する。

 佐倉と二人きりになったオレは、この時間を利用することにした。

 

「みーちゃんとは友達になれそうか?」

 

 一拍置いてから、佐倉は頷いた。

 

「……(ワン)さんは凄いですね。私にはあんなこと、出来ない……」

 

「これはオレの友人が言っていたんだけどな。『新しいことに挑戦するのは勇気がいる。そして悩むこともある』……これって、当たり前のことなんだと思う。けど、なんて言ったら良いのかな……この当たり前のことが出来たら、そしたら、『成長』出来るんだとも思う」

 

「私は……『成長』出来るでしょうか?」

 

「さあ。それはオレには分からない。けどそうだな……まずはやっぱり、挑戦するのが大事なんじゃないか?」

 

「そう、ですね……」

 

 押し黙る佐倉。

 訪れる静寂。

 空白の時間を過ごし、みーちゃんが戻ってくるのを待つ。そんな時だった。

 

「あの、綾小路くんっ」

 

「どうかしたか?」

 

「れれれれれ、連絡先、交換して貰っても良いでしょうか……?」

 

 佐倉は小さな一歩を踏み出した。

 だからオレは、それに応えなければならない。

 

「もちろんだ。これからも写真について教えてくれると嬉しい」

 

「う、うん……!」

 

 連絡先を交換し合う。

『佐倉愛里』の名前をしっかりと登録したタイミングで、みーちゃんが帰ってきた。

 

「お、お待たせっ。この後はどうしましょう?」

 

「解散が無難なところじゃないか?」

 

 みーちゃんと佐倉は了承した。

 現地集合、現地解散。

 どうやら彼女たちはこの後も遊ぶようだが──みーちゃんが佐倉を誘っていた──、オレは帰るとしよう。

 何故なら、櫛田への報告があるからな。どっちの顔が出るか……想像するだけでも恐ろしい。

 ぶるりと体を震わせてから、オレは帰途についた。

 

 

 

§

 

 

 

「お邪魔しまーす」

 

「……好きな所に座ってくれ」

 

 夜。

 報告をするために櫛田に電話を掛けると、彼女は直接会って話を聞きたいと言い出し、オレの部屋にやって来ていた。

 正直に言うと、気乗りしなかったどころの騒ぎじゃない。断りたかった。割と本気で。

 だがチキンなオレにはそんな愚行をする勇気がなかった。佐倉には上から目線であれだけ言っておいてこの有様だ。笑われても文句は言えまい。

 

「ど、どうぞ……キンキンに冷えた麦茶です」

 

「うむ、苦しゅうない! って、綾小路くんどうしたの? そんなに怯えてさ」

 

 おかしそうに笑う櫛田。

 良かった、まだ『表』だ。

 彼女は美味しそうに麦茶を呷る。こんな些細な動作でも可愛いと思わせるあたり、流石だな。

 

「──それで、どうだったの?」

 

「さて、どこから話したら……」

 

「もちろん全部だよ?」

 

「……はい」

 

 オレは櫛田に全て言った。

 みーちゃんと佐倉と一緒に、予定通りケヤキモールの電気屋に行ったこと。佐倉が怖がっていた男性店員と遭遇してしまい、対応に追われたこと。そして彼女たちが友達になったこと。

 

「ふーん、なんだ。意外に上手くいったんだね」

 

 拍子抜けたように瞬きをする櫛田。

 そして何やら思案する様子を見せた。

 

「ううーん、結局、佐倉さんが目撃者だとは認めさせられなかったんだ」

 

「面目ない」

 

「あはは、大丈夫だよ。もともとその点に関しては期待してなかったしさ」

 

 櫛田は楽しそうに口撃してくる。

『表』の顔でそんな風に言われると、なかなか、受ける傷は半端じゃないな……。

 

「綾小路くんってさ、意外に繊細(せんさい)だよね」

 

「息を吸うかのようにそんな罵倒されたら、誰でも傷付くと思うぞ」

 

「違う違う、そういうことじゃなくってさ。随分と感情を出すようになったなって思っているんだよ」

 

「まるで表情筋が働いてなかったかのように言わないでくれ」

 

「だってそうだったし」

 

 至極真面目な顔で断定されたら、言葉を返すに返せなくなってしまう。

 

「でもさ綾小路くん。どっちにしろ綾小路くんは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「どうしてそう思うんだ?」

 

「だってさ──()()()()()()()()()()()()()。だからかな」

 

 違う? と魔女は(あや)しく微笑む。

 

「ずっと不思議に思っていたんだよね。今は平田くんがいるから分からないけど、少なくとも『暴力事件』が起こった時、綾小路くんと最も仲が良かった同性の友達は須藤(すどう)くんだった。けど綾小路くんは、彼に頼られた時、特別、何も反応をしなかった。驚くことも、悲しむことも、怒ることも。最初は、須藤くんのことを友達じゃないと思っているんじゃないかと疑っていたんだけどさ、どうにも違う。口と態度では関わりたくないとアピールしていたのに、綾小路くんは受動的ながらも行動していた。これって変じゃない?」

 

「続けてくれ」

 

「じゃあ続けるね。綾小路くんは須藤くんを救うために行動していた……いや、今もしているのかな? これは事実だよ。少なくとも客観的には、ね。私はこの絶望的な状況をどうにかする(すべ)は思い付かないし、多分、堀北(ほりきた)……堀北さんもそうなんじゃないかなあ。だって、焦っているのが分かるもん。けど綾小路くんには一貫してその様子が見られない。例えば私が佐倉さんに接触した時も、酷く退屈そうだったよね。須藤くんの命運が掛かっていたのに。まるで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。どうして? ──そこまで考えて、私なりに答えを出したんだけどさ」

 

 にこにこと、魔女は笑みを絶やさない。

 今この瞬間を楽しんでいるのは間違いないだろう。

 だがそれはオレも同じ。

 果たして櫛田桔梗がオレと同じ景色を視れるか──それが楽しみだった。

 だからオレは彼女に尋ねる。

 

「それで、櫛田はどんな答えを出したんだ?」

 

「うん。それじゃあ言うね──綾小路くん『暴力事件』が起こるって知っていたんだよね?」

 



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茶番劇

 

 魔女に問い掛ける。

 偽りの仮面を被っている彼女はいったい、どのような答えを出したのか。

 

「それで、櫛田(くしだ)はどんな答えを出したんだ?」

 

「うん。それじゃあ言うね──綾小路くん、『暴力事件』が起こるって知っていたんだよね?」

 

 その答えが櫛田桔梗(ききょう)の口から出た瞬間──オレは多分、(わら)っていたのだと思う。

 対する魔女もにこにことした笑みを崩さない。

 自分に絶対の自信が無いと、そのような表情は浮かべられないだろう。演技だったら大したものだ。

 麦茶を一口(あお)ってから、オレは言う。

 

「確かに櫛田の言う通り、オレは今回の『暴力事件』が起こることを早い段階から知っていた」

 

「あっさり認めるんだね?」

 

「嘘を言ったところで時間の無駄だからな。さて、答え合わせをするとしよう」

 

 オレは出来るだけ(わか)りやすく教えた。

 何故今回の『暴力事件』が生まれたのか、その経緯(けいい)を全て。

 何が狙いなのか、そして最後の光景を──。

 さしもの櫛田も、壮大(そうだい)な計画の前には茫然自失(ぼうぜんじしつ)するしかなかったようだが。

 

「それ、一歩間違えたら失敗するんじゃ……?」

 

「ああ。一人で(おこな)ったらほぼ100%失敗しただろうな。それだけ(もろ)いのは認めよう」

 

 だがそれは、()()()()()()()だ。

『共犯者』が居れば、成功確率はいっきに上昇する。

 

「けど結果的には、計画通りなんだね……」

 

「そうだな。唯一の誤算は佐倉(さくら)愛里(あいり)という目撃者が居たことくらいか。まぁそこは仕方ないとも思っている」

 

「……いつから、考えていたの?」

 

「言っておくが、オレが考えたわけじゃない。櫛田も知っているだろう、Cクラスの実態は」

 

「独裁者による恐怖政治だよね。あくまでも綾小路(あやのこうじ)くんは、巻き込まれたんだと言いたいんだ?」

 

 事実その通りだ。

 だが櫛田に告げても信じようとしないだろう。

 彼女の瞳の奥底には恐怖の色がありありと見て取れた。冷静さを懸命に取り繕っているが、(のぞ)けば分かる。

 オレという人間を理解しようとしているのだろうが、それは無理に等しい。何故ならオレだって、綾小路清隆(きよたか)という人間を理解していない。

 

「さて、()にも(かく)にも、櫛田は計画を知ってしまったわけだが。お前はどうする? 計画を誰かに打ち明けるか?」

 

「……」

 

 別にそれでも構わない。もちろん、オレはただならぬ被害を受けるだろう。

 ()()()()()()()()()()

 

「もし私が誰かに言ったら、私のことを言うんでしょ?」

 

「ああ。この世界は等価交換で成り立っているからな。それくらいのことはやらせて貰う。自爆覚悟でもな」

 

 だからこそ櫛田は、誰にも告白することが出来ない。

 

「けどさ、綾小路くんが私のことを言っても、誰が信じるのかな?」

 

「ふむ、それを言われると弱いが……けどそれは、数ヶ月も前のことだ。オレにとっては幸運なことに、そして櫛田にとっては不幸なことに、オレには今、少なくない友人がいるぞ。全部信じる……とまでは流石にいかないだろうが、疑問には思うだろうな。そして彼らの胸の奥底には漂うだろうさ」

 

「……ッ!?」

 

 そう、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 三ヶ月間必死になって作り上げてきた『櫛田桔梗』というイメージに(ひび)が走ることを、他ならない彼女が容認出来るはずがない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 櫛田は唇を()()め、オレを強く(にら)む。せめてもの抵抗だろうが、オレにはそんな攻撃は効かない。

 もう一押しか。手札をもう一枚切るとしよう。

 

「これは言いたくなかったんだけどな。櫛田。オレには、お前が仮面を被っていることをクラスメイトに信じさせる手段がある」

 

「そんなわけ──いや、まさか……あんた、私との通話を録音して……!?」

 

 察しが良いのは助かる。

 しかし──。

 

「それだけじゃない。不思議に思わなかったか? お前がオレに本性を見せていた時、オレは時々、携帯端末を操作していたはずだ。その時の会話も全て録音してある」

 

 論より証拠。

 オレは櫛田に意識を割きながら、慣れた手つきで携帯端末を操作する。そして再生ボタンをタップした。

 

 

 

『──オレにその「裏」を見せて良いのか?』

 

『綾小路くんにはもう露呈(ろてい)しているから。意味が無いじゃない。それにあんたも、嫌いって言われた人間から愛嬌なんて振られたくないでしょ。って言うか、あんたも人と話しているのに携帯弄るとか、人の事言えないじゃない』

 

『それは悪い事をしたな──』

 

 

 

「……ッ!」

 

 櫛田が目を見開き絶句する。

 今再生した録音は、須藤がオレに『暴力事件』のことを説明し、彼が帰った後、オレと櫛田が話していた時のものだ。

 他にもいくつか録音のデータは残っているが、その全てを彼女に見せることはしない。その方が彼女の恐怖心を(あお)ることが出来るからだ。

 殺意が宿された視線と、無機質な視線が交錯する。

 無音のまま数分流れ……彼女は静かに息を吐いた。

 

「分かった、誰にも言わない」

 

「契約成立だな。オレは櫛田の、櫛田はオレの秘密を誰にも漏らさない」

 

 手を差し出す。

 櫛田はオレの手を摑み、すぐに離した。随分と嫌われたものだが、仕方がないと割り切ろう。

 

「……一つだけ聞かせて。私がこうすることも、計画の一部分だったの?」

 

「ああ……と言いたいところだが、あいにく違う。最初は組み込まれてなかった。けど()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 あとは簡単だ、櫛田がそう動くように誘導すれば良い。

 

「やっぱり私を警戒していたんだ」

 

「お互いにな」

 

 櫛田があの出来事以降、オレに今まで以上の接点を持つために動いたことは当然の帰結と言える。だからこそ彼女はオレに目を光らせていた。

 しかし逆に言えば、オレも彼女を観察することが出来た、ということ。

 そして彼女はオレに『表』と『裏』両方をたびたび見せてしまった。彼女の生き方は常時ストレスを抱えるもの、故に、秘密を知っているオレに(さら)してしまう。

 

「どう訴えても、櫛田は疑ってしまうだろう?」

 

「そうだね。100%信じることなんて出来ないかな」

 

「だからお互いの『闇』を共有する必要性を感じていた。この方がお前も安心するだろうと思ったからだ」

 

 櫛田の存在如何(いかん)によっては、オレの平穏な学校生活はそのうち崩壊してしまうかもしれない。

 彼女にずっと意識を割くのは苦労するだろう。

 別に友情を信じていないわけではない。だが人間とはどうしても疑念を抱えて生きる生き物だ。

 だからこそ、()()()()()()()()()()()()()()()()。ただそれだけの話だ。

 

「はあ……今日、ここに来るんじゃなかったよ」

 

「でも良かったじゃないか。今日から安眠出来るぞ」

 

 そう言うと、人を殺せる目で睨まれた。怖い。

 

「後悔しても仕方ないと思うけどな。だけどそうだな……一つだけアドバイスをするのなら、櫛田、お前はこういったことに向いてない。やるとしてももっと用心を兼ねるべきだ」

 

「……肝に(めい)じておく。それで──どうするの?」

 

「さっきも言ったと思うが、少なくともその時までは、オレは別に何もしないさ。堀北(ほりきた)がどう動こうと、()()()()()()()()()()。佐倉が目撃者として証言してもだ」

 

「けどこのままじゃ計画は完遂(かんすい)出来ないんじゃない? 一方的に須藤くんが糾弾されておしまいだよ」

 

「そこもちゃんと手は回してある。けど意外だな、やけに結末が気になるんだな」

 

 既に話は終わっている。

 てっきりオレは、契約が成立した時点で自分の寮の部屋に戻るとばかり思っていたのだが……。

 純粋に不思議に思ったので尋ねると、櫛田は何故か閉口し、両腕を組んで悩み始めた。

 

「うーん……なんて言ったら良いのかな。綾小路くんと違って、須藤くんを助けたいというのもあるんだけどさ……それ以上に、上手くいくか気になるんだよね。そして綾小路くんをバカにしたい」

 

「なら、バカにされないようにするさ。オレだって須藤は救いたいと思っているぞ」

 

「いやいや、それは流石に無理があるよ」

 

 片手を振り、冗談はやめろと言ってくる。

 

「須藤が被害者になったのは完全にまぐれ、偶然だ。もちろん、()()()()()()()()()()()()

 

 少なくともその観点に関しては、オレは関わっていない。とはいえ、須藤が巻き込まれたら楽だと思ったのも事実。

 オレの必死な弁明に、櫛田はジト目で見てくるだけだ。

 そんな彼女も可愛いと思わせるあたり、実に恐ろしい。魔性(ましょう)の女だな。口が裂けても言えないが。

 時計を見ると、かなり遅めの時間帯を指していた。

 女の子をこれ以上長居させるわけにはいかないだろう。彼女もそれは分かっているのか、帰り支度を始めた。

 

「それじゃあ、私は帰るね」

 

「ああ。また明日──」

 

 言葉の途中で、携帯端末が軽く振動する。

 悪いと一言断りを入れてから電源を付けていると、櫛田はバカにしたように鼻で笑って。

 

「綾小路くんにメッセージを送るなんて、余程暇なんだろうね」

 

「ほっとけ──佐倉からだ」

 

「佐倉さんとも連絡先交換したんだ? ここ最近綾小路くんの周りには、可愛い女の子が多くない?」

 

「櫛田も充分可愛いぞ」

 

「うーわ、棒読みで言われても嬉しくないよ」

 

 喧嘩を売ってるの? ドスの利いた低い声。

 しまった、ついつい雑な対応をしてしまった。

 だが今の櫛田とのやり取りはかなり楽だ。彼女も、そしてオレも限りなく素で言っているからだろうな。

 これはこれで楽しいと思う。

 兎にも角にも、メッセージアプリを起動させる。

 そこには衝撃的な内容が書かれていた。

 無言で櫛田に見せる。

 

「えっと──『須藤くんのことですが、もしかしたらお役に立てるかもしれません』──分かっていたことだけど、やっぱり佐倉さんが目撃者だったんだね」

 

 しみじみと感傷に浸る櫛田。

 オレからしたらいまさら何をと思ってしまうが……。

 

「どうするの? 佐倉さんが居ても居なくても計画は進むんだよね?」

 

 無自覚で佐倉を(おとし)める櫛田が怖い。

 いや、これは別にバカにしているとかそういう話じゃないのだろう。

 ただただ、彼女は佐倉を心配しているのだ。

 

「せっかく申し出てくれたんだ。佐倉の意思を尊重しよう」

 

「ならそれで良いけどさ」

 

 櫛田は強くは言ってこなかった。

 彼女を玄関口まで送り届ける。扉を開けると、蒸し暑さが襲撃し、オレたちの体を(むしば)んだ。

 

「おやすみなさい、綾小路くん」

 

「ああ。おやすみ、櫛田」

 

 別れの挨拶を交わし、櫛田はエレベーター乗り場まで向かったようだった。

 オレは自分の部屋に戻り、ベッドの上に仰向けで寝転がる。

 これで中間試験終了時から付き纏っていた目先(めさき)の問題は片付いた。もちろん、今後も注意は必要だが、まず安心出来るだろう。

 明日は月曜日。

 タイムリミットはすぐそこに潜んでいた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 タイムリミットまであと一日を切った。

 干からびそうになる身体を渾身の力で引き()りながら、学校に向かう。男子一同が暑さに絶望する中、反対に女子一同は涼しそうだ。

 この前も思ったが、女子高生の制服姿にはこう、清涼感がある。とても涼しそうだ。

 ため息を吐きながら校舎の玄関を通過する。

 いつもと違うことに気付いたのは、下駄箱から少し先にある階段の踊り場に出た時だ。

 そこには掲示板があり、かなりの人集りが作られていた。

 

「情報提供お願いします」

 

 透き通った女性特有のソプラノの声。

 Bクラスの一之瀬(いちのせ)帆波(ほなみ)だ。彼女の両手には数枚の紙が抱えられていた。周りにはクラスメイトだと思われる生徒たちが、彼女同様、紙を抱えている。

 

「どうしてBクラスの一之瀬さんが手伝ってるの?」

 

 それはごく素朴な疑問だった。

 とある女子生徒から投げられた質問に答えるべく、一之瀬は迷わず言う。

 

「友達のためかな」

 

「へ? 須藤くんと友達だったんだ?」

 

「ううん、違う違う。他の友達のためにね」

 

「もしかして、男……!?」

 

「それも違うよー」

 

 一之瀬を中心として、人集りは構成されていた。

 オレはその光景を視界に収め、舌を巻いてしまう。正直、ここまでの影響力があるとは思ってなかった。

 掲示板を見てみると、そこには一枚の紙が貼られていた。オレの依頼通り、学校のHPと同じ内容のものだ。

 内容はいまさらのことだった。

 躊躇(ちゅうちょ)したが、意を決して中心部に向かう。

 

「あっ、綾小路くん。おはよう!」

 

 思わず顔が引き()ってしまったオレは悪くないだろう。

 そんな大声で名前を呼ばないでくれ……。嗚呼、大量の矢が飛ばされる……!

 

「……お、おはよう一之瀬。悪いな、Dクラスのためにわざわざやって貰って」

 

「ううん、当然のことだよ。約束したからね、協力するって」

 

「幾ら掛かったんだ」

 

「大丈夫だよ、これくらいはね」

 

 嗚呼……(よど)んだ心が浄化されていくようだ。

 悪いな、池に山内たち『櫛田エル親衛隊』。仮に入るとするならば、オレは一之瀬の方に加入する。

 

「それに、準備したのは私じゃないから。ほら、神崎(かんざき)くん」

 

「……一之瀬、俺はこういったことは苦手なんだけどな……」

 

「神崎くんはもうちょっと積極性を身に付けよう?」

 

「……善処する。済まない、一年Bクラス、神崎隆二(りゅうじ)だ」

 

「一年Dクラス、綾小路清隆だ」

 

 差し出された手を握りながら、オレはさり気なく神崎を観察する。

 物腰はやや固めだが、雰囲気からして優等生なのがすぐに分かった。高身長、すらりとした体型。平田とはまた違ったベクトルを持つイケメンだ。

 彼は周りの生徒に聞かれないようにするためか、顔をやや近付け(ささや)いてくる。

 

「一之瀬からは、何か特別な理由は説明されていない。綾小路、お前がそうするよう彼女に頼んだと言われたからな」

 

「……それでも協力してくれるのか?」

 

「一之瀬が協力するに値すると判断したのなら、俺はそれに従うだけだ。とはいえ……ここまで手伝わされるとは思わなかったけどな……」

 

 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる神崎。

 あぁなるほど、彼は多分、オレと似たタイプだ。

 勝手に親近感を湧かせてしまう。

 

「それじゃあ一之瀬に神崎、あとは頼む」

 

「任せて」「ああ」

 

 軽く一礼してから、オレは教室に向かう。

 これでピースは揃った。あとは堀北がどう動くかだが……この状況で彼女はどのような決断を下すのか。

 それが少しだけ楽しみだった。

 

 

 

 

§

 

 

 

「──それでは、今週も頑張ってくれ。SHRはこれにて終了とする」

 

 そう告げるや否や、茶柱(ちゃばしら)先生はもう用はないとばかりに職員室に向かい始める。

 オレは佐倉に声を掛けてから、担任教師を追い掛ける。声を掛けるべきタイミングは彼女が職員室に入る直前だ。

 

「茶柱先生」

 

「うん? どうした綾小路、私に何か用か?」

 

 本当はみーちゃんか櫛田を連れてくるのが良かったんだが、ここはオレが引き受けることにした。

 その方が話しやすいし……何より、茶柱先生と会話をすることが出来る。彼女がどのような対応をするか、(じか)で確認したかった。

 

「実は『暴力事件』のことなんですが。ここにいる佐倉が──」

 

 オレは茶柱先生に説明した。

『暴力事件』を目撃していた生徒が発覚したこと。それが一年Dクラス、佐倉愛里であることを。

 茶柱先生はオレの言葉を最後まで聞いてから、佐倉に視線を送る。

 

「綾小路の話によれば、『暴力事件』を見ていたそうだが」

 

「……はい。見ました」

 

 自信が無い……わけではなく、単純に茶柱先生が苦手なのだろう。無理もないか。

 佐倉はびくびくしながらも肯定する。

 彼女は詳細に語った。特別棟の三階で、偶然、喧嘩が勃発するのを見てしまったこと。そこにはD、Cクラスの生徒が居たことを。

 

「お前の話は分かった。が、はいそうですかと素直に聞き入れるわけにはいかないな」

 

 やっぱりそうか。

 いっそ、残酷なまでに告げられた言葉に、佐倉は何も言えないようだった。恐らく理由が分からないのだろう。少し冷静になれば分かることだが、動揺している彼女ではそれは無理か。

 オレが代わりに茶柱先生と会話を試みる。本来なら、話すのは佐倉の役目だが、これくらいは許して欲しい。

 

「先週の時点で佐倉が名乗り出なかったからですか」

 

「そうだ。先週の火曜日の朝のSHRの際、私はお前たち生徒に尋ねたはずだ。『目撃者は居ないか?』とな。佐倉、何故その時に名乗り出なかった」

 

 これで彼女が欠席していたらまだ言い訳は出来た。

 だがDクラスの生徒は、ここ最近は無欠席だ。他ならない担任の茶柱先生がそれを知っている。彼女にしては珍しく褒めていたしな。

 

「それは……その、私は人と話すことが苦手だから……」

 

「これでも担任だ。お前の性格はある程度理解していると自負している。お前は、クラスメイトたちに嘘の証言をするよう脅迫(きょうはく)されたんじゃないか? どうなんだ綾小路?」

 

「さあ。オレに言われても困ります。ただ事実を言うのなら、佐倉がオレに相談してきた。オレは茶柱先生に言うべきだと助言した。結果、彼女はここに居る。それだけですよ」

 

 淡々と答える。

 茶柱先生は一度苦笑してから、改めて佐倉を見つめる。

 どうなんだ? と今度は佐倉に無言で問い掛けた。

 佐倉は一瞬怯んだが、それでも、精一杯に声を出して茶柱先生に強く訴えた。

 

「……クラスの人が、困ってるから……! 私が証言することで助かるなら……そう、思ったんです!」

 

「ほう……。この短い間で、お前は『成長』したようだな」

 

 意外だったのか、軽く目を見張る茶柱先生。

 佐倉愛里が『自我』を持ち始めたことに、驚いているようだ。

 

「分かった、よく頑張ったな……と個人的には言いたいところだが、そうも言ってられない。もちろん私は教師として学校側に報告する義務があり、その用意もある。だが須藤(けん)が無罪を勝ち取れる確率は0%だ」

 

「そ、そんな……私が、躊躇(ためら)っていたから」

 

「それは違うぞ佐倉。確かにお前がこのギリギリのタイミングで名乗り出たのは理由としてあるだろう。だけどな、Dクラスからの目撃者だと証拠能力が減衰する、それだけのことだ」

 

「綾小路の言う通りだ。そこだけは履き違えないように。そして残念なお知らせだ。場合によっては佐倉、お前には審議当日に出席して貰う可能性が高い。人と話すことが苦手なお前に、それが出来るか?」

 

 茶柱先生は試していた。

 ここで佐倉が迷ったら、彼女はもしかしたら目撃証言を受理しないかもしれない。

 教師の義務なんてものは、彼女には通用しない。それは既に露呈している。

 オレが心配する中、ところが佐倉は顔を青ざめさせながらも頷いた。

 

「……昨日、そうなることは言われましたから。だから、大丈夫、です……」

 

「そうか。それでは正式に受理しよう。そしてこれは向こう側からの提案だが、審議当日には最大で二人までの同席を認めるそうだ。人選はしっかりとすることだな」

 

「ええ、そのつもりですよ。それでは、オレたちはここで失礼します。行こう、佐倉」

 

「う、うん……」

 

 授業の開始も近い。

 遅刻したら隣人が怒りそうだ。

 ところが佐倉を引き連れて教室に向かおうとするオレを、茶柱先生は呼び留めた。

 何でも話があるのだとか。この人と二人きりで話す時は決まって面倒臭い。過去の経験から断りたかったが、許してはくれないだろう。

 

「悪いが先に教室に戻ってくれ。堀北や櫛田には、同席者について説明してくれると助かる」

 

「わ、分かった……頑張ってみるね……」

 

 猫のように背中を丸めながら、佐倉は教室に戻って行った。不安だが、頑張って貰うとしよう。

 

「また生徒指導室に行くんですか?」

 

「いや、すぐに終わる」

 

 だとしたら何故このタイミングなのか。

 疑問は湧くが、答えてくれるとは思えない。

 茶柱先生は体重を壁に預け、いつもの冷徹(れいてつ)な瞳でオレを見据える。

 

「先程言った同席者だが、綾小路、お前が出席しろ。もう一人は堀北、もしくは平田だ」

 

「何故オレが出る必要が? 勝つことに専念するのなら、ここは今先生が仰った二人で臨むべきだと思います」

 

「無論、理由はある。一つ目は、佐倉の精神状態のためだ。知らない人間ばかりの空間に放り込む程、私は冷たくないぞ」

 

「だとしたらオレじゃなくて、みーちゃん……(ワン)が適任でしょう。実際、彼女たちは友達になりましたからね。もちろんオレもそうなりましたが、異性より同性の方が彼女の支えになるでしょう」

 

(ワン)は学力面に於いては優秀だが、それでもコミュニケーションに於いては使えん」

 

「そうでもありません。彼女はこの前、見事、ナンパを退(しりぞ)けてみせた実績があります」

 

「大変興味深いが、それでもまだ種子は完全に芽吹いてないだろう」

 

 それを言われると弱い。

 オレは思わずため息を吐いた。

 

「一つ目は分かりました。二つ目は何ですか? あるのでしょう?」

 

「綾小路。お前は今回の『暴力事件』、どこで線引きをするべきだと思う?」

 

「質問の答えになっていませんよ」

 

「良いから答えろ」

 

 有無を言わせない口調で、茶柱先生は迫る。どうやら珍しくも、興奮しているようだ。

 再度ため息を吐いて、オレはDクラス側の総意を告げる。

 

「先程先生も仰いましたが、無罪は勝ち取れないでしょうね。だとしたら、お互いに妥協点を模索するしかないでしょう。例えば、Cクラスは100clのマイナス、Dクラスはクラスポイントの全損失とか」

 

「さらりと恐ろしいことを言うなお前は。そうなれば今月もお前たちはゼロ円生活だぞ。まぁ尤も、お前は被害を受けないだろうがな」

 

「それでも、最悪の結末──須藤健の『退学』は防げるのだから良いでしょう。長い目で見れば、それだけの価値がある。彼はきっと、クラスの財産になりますよ」

 

「本気で言っているのか?」

 

「ええ」

 

 即答する。茶柱先生はオレの返答を予想していなかったのか、僅かにたじろいだ。

 確かに須藤は、今はまだ足を引っ張っている。

 だが今回の一件で、痛い程に身をもって痛感したはずだ。きっと猛省するだろう。

 いや、仮定の話じゃないな。そうでなくてはならない。

 

「そろそろ質問に答えて下さい。どうしてオレに出て欲しいんですか」

 

 一瞬の静寂。

 

「私がお前を買っているからだ」

 

 告げられた答えに、オレは面食らってしまう。

 そんな私情でオレを選ぶというのか、この人は。

 茶柱先生の考えがイマイチ理解出来ない。思えば、不審な点はこれまでにもいくつかあった。

 バカバカしいと一蹴することは造作もない。

 だがオレは、その選択をしなかった。

 むしろ都合が良い。

 

「分かりました、茶柱先生の要望通りにしましょう。ただし条件があります」

 

「私に出来ることなら」

 

「もし須藤健が無罪を摑んだその時には──オレ個人にプライベートポイントを振り込んで下さい」

 

「そんな要求を、私が呑むとでも?」

 

「おかしなことではないでしょう? この学校は実力至上主義の理念を掲げている。ならこの絶望的な状況で『勝利』することもまた実力だ。そうは思いませんか」

 

「一理通っている……と言いたいが、ダメだな。認めるわけにはいかない」

 

「なかなか強情ですね。ならこうしましょう。どのような結末を迎えても、詮索は無しでお願いします」

 

「それはつまり、お前には道を拓ける(すべ)があると言っているのか」

 

「どうでしょう。オレかもしれませんし、堀北や平田(ひらた)かもしれません。だけど先生も分かっているはずだ。正攻法じゃ勝てないことくらいは」

 

「……分かった。お前たちの好きなように動け。ただし、咎められても私は庇わないぞ」

 

 苦し紛れの忠告に、オレはついつい笑ってしまう。

 そんなものは求めていないし、期待してもいない。

 ある程度ながら、茶柱先生の性格も分かり始めている。恐らく彼女は、とことん、自分に被害が無いように動きたいのだ。

 それだけだったら最低な部類に入るだろうが、何か別の目的があると思わざるを得ない。

 

 ──Aクラス行きでも狙っているのか?

 

 いや、まさかな。放任主義の彼女がそんなことを望んでいるはずがないか。

 兎にも角にも、彼女にはこれから目を光らせておこう。

 備えあれば憂いなしとも言うしな。

 

「それじゃあオレはここで」

 

「ああ。万が一授業に遅刻してもポイントは引かれないよう手筈しておくが、それでも、道草は食わないように」

 

「了解です」

 

 出来るだけ急いで教室に向かったが、残念なことに遅刻してしまった。

 隣人がとても怖かったが、事情を説明したら納得してくれた。

 危ない危ない。

 人生で二度目の、コンパスの針で痛い思いをするという思い出を作るところだった。

 ちなみに、佐倉は勇気を振り絞って言伝の任務を無事に果たしたようだった。みーちゃんの助けがあったようだが、それでも偉い。そのうち彼女たちは親友になりそうだ。

 

 

 

 

§

 

 

 

 昼休み。

 確認を込め、オレたちDクラスは作戦会議を開いていた。一応、出席するかどうかは自由になっていたが、なんと驚くべきことに、全員が参加した。

 高円寺(こうえんじ)長谷部(はせべ)幸村(ゆきむら)といった一人を好む人間が参加したことには意外に感じてしまったが、高円寺は多分、ただの気紛れだろうな。

 先導者が登壇し、この一週間に起こったことを再確認する。そして、目撃者が見付かったこと、それが佐倉愛里であることを発表した。

 先導者は目撃者を公表するか、それとも匿名にするかどうか迷っていたが、佐倉が了承したためその名前を出すことを決めたようだ。

 

「茶柱先生が言うには、明日の審議会には同席者が最大二人まで認められているらしい。これは向こう側……つまり、Cクラスからの提案のようだね」

 

「うーわ、腹立つ。私たち舐められているんじゃない?」

 

軽井沢(かるいざわ)さんの言う通りだ。僕たちは見下(みくだ)されている。だからこそ、これを最大限に利用させて貰う。そして二人のうち一人は、清隆くん……綾小路くんに決まっている」

 

 先導者の意向に、室内はざわついた。

 どうしてお前が? そのような意味が込められた視線がオレに送られた。

 すぐに助け舟が出される。それは櫛田からだった。

 

「私は賛成かな。須藤くんと仲が良いしね。それに佐倉さんともここ最近は仲が良いみたいだしね」

 

 その瞬間、男子陣の殺気がオレに向けられた。

 本当に仲が良いのはみーちゃんだと声を大にして言いたい。

 Dクラスの女神がそう言うのならと、多くの生徒が納得した。恐ろしい、これが信者か。

 とはいえ、櫛田には助けられた。後で礼を言うとしよう。

 

「綾小路くんが同席するのに異論はないね。あともう一人可能なんだけど……僕は、堀北さんが良いと思う。彼女が須藤くんのために頑張っていたのは皆知っていると思うし、須藤くんも安心出来ると思うんだ。どうかな?」

 

「私は賛成ー。逆に堀北さんじゃないと出来なくない?」

 

「そうだよな……だって『先生』だもんな 」

 

「期待しているぜ堀北!」

 

「頑張って!」

 

 投げられる声援の数々。

 堀北は最初戸惑っていたが、やがてゆっくりと頷いた。

 入学前の刺々しさはかなり無くなっている。とはいえ、相手を罵倒(ばとう)することはしょっちゅう。しかしそれも、個性として認められている。

 良くも悪くも彼女には『裏』がないからな。

 まぁ本人は不服そうだが。

 彼女の兄が見たらどんな反応をするのだろうか。少しずつ変わり始める妹の姿に、何を思うのだろうか。

 そんなことを考えていると、須藤が席から立ち、佐倉の元に近付いた。席は近いから、すぐの距離だったが……。

 生徒が見守る中、須藤は静かに頭を下げた。

 

「巻き込んじまってわりぃな、佐倉。けど頼む、俺を助けてくれ……!」

 

「……は、はい。私に出来ることなら……」

 

 ぎこちなく頷く佐倉。

 須藤と佐倉。性格は似ても似つかないし、恐らく、今回の出来事が無かったら三年間、接点は皆無だっただろう。

 だがその二人はこうして交わった。

 人生とはとても面白い。何が起こるのかは誰にも分からないのだから。

 須藤は佐倉から離れ、堀北とオレの元にも近付く。

 

「明日は頼むぜ、二人とも」

 

「正直、どこまで善戦出来るかは保証しかねる。けれど、ベストを尽くすわ──約束する」

 

「オレが居たところで戦力になるかは分からないけど、堀北同様、出来る限りのことはするさ」

 

「ああ!」

 

 やれるだけのことはやった。

 もしこれで須藤が何らかの処罰を受けても、誰も文句は言わないだろう。

 それどころか、一生懸命に戦った彼らを褒め称えるかもしれない。

 あの状況から良くやったと、良く戦ってくれたと……。

 戦に身を投じた彼らを、誰もが労うだろう。そしてこれを機会に、須藤は晴れてDクラスの仲間入りを果たし、堀北も仲間の大切さを学び始めるだろう。

 

 

 

 だが、彼らはついぞ気付かない。

 

 

 

 全てが、虚偽で満たされていることに。

 

 

 



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審議会

 

 Dクラスにとって運命の日。オレはいつもよりも格段に早い時間帯に寮を出た。

 並木道(なみきみち)を通過し、目指す先はもちろん学校。

 だが一年D組の教室ではない。オレは特別棟に向かった。とある人物と会う約束をしていたからだ。

 早朝の特別棟は無人だ。階段を登ると、靴音が反響し、一つの音楽を奏でる。

 特別棟三階。……いや、この表現は正しくないだろう。『暴力事件』の現場に、オレは足を踏み入れた。

 そして一人の男がオレを出迎えた。

 

「遅いぞ、綾小路(あやのこうじ)

 

「それはすみません、堀北(ほりきた)先輩」

 

 生徒会長、堀北(まなぶ)はオレの誠意が尽くされたとは言い難い謝罪に、一瞬眉を(ひそ)める。

 

「その敬語はやめて貰おうか」

 

 どうやら気に食わなかったのは、オレの言葉遣いだったらしい。

 眼鏡のレンズ越しに見える瞳は、心做しかいつもより鋭く思われた。

 ここは世間話を話すことで、お互いの心理的距離を縮めるとしよう。

 

「今日も暑いな」

 

「そんなことはどうでも良い。早く話の本筋に入れ。時間の無駄だ」

 

 オレの努力はあっさりと一刀両断された。

 流石は兄妹。対応の仕方が限りなく類似している。

 肩を(すく)めてから、彼の要望に応えるとする。

 

「あんたには生徒会長として、聞きたいことがある。一人の生徒としてな」

 

「……なら俺も、生徒の(おさ)として答えよう。だが分かっているとは思うが、その域を超える質問には答えられない」

 

「当然だな。()()()()()()()()()()()()()()。時期尚早だ。──一つ目、今回の『暴力事件』、今日の放課後に審議会が行われる予定だが……生徒会は関与するのか?」

 

 まずは様子見だ。

 東京都高度育成高等学校は多くの謎に包まれ、その実態はまだ分かっていない。

 生徒会も同じだ。堀北学のこれまでの言動から想起するに、普通の学校とは違い、生徒会には相当の権力があることは想像出来る。

 生徒会長は悩む素振りを見せることなく、生徒の問い掛けに淡々と答える。

 

「お前の言う通りだ。この学校には様々な特殊なルールがあるが、今回のような生徒間の(いさか)いの場合、問題のあったクラス担任、その当事者、そして我々生徒会との間で決着がつかれる」

 

「次の質問だ。あんたの言葉をそのまま鵜呑(うの)みにするのなら、どうして同席者が認められたんだ? ルールに反している……とまでは流石にいかないが、少し逸脱(いつだつ)しているように思える」

 

「簡単なことだ。知っているとは思うが、Cクラス側が申請したから、これに尽きる。これで満足か?」

 

 オレは軽く首肯した。

 つまりだがある程度の要望は通る、ということ。その確認が取れただけでこの会話に価値がある。

 もちろん()に適っていないものは容認されないだろう。だが今回の場合、仮に須藤(すどう)茶柱(ちゃばしら)先生のみ審議会に臨むのなら、Cクラス側が圧倒的に数の優位に立つ。

 恐らく、Dクラス側が申請しても許可されただろう。

 

「次の質問だ。()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「……なに?」

 

「例えばだ。あんたら生徒会が判決を出せなかった場合、もしくは何か別の要因があった場合……判決の延長が認められるかどうかを聞いている」

 

 この質問にはさしもの生徒会長も、発言を慎重に考えているようだ。

 数秒間の沈黙の末、彼はおもむろに口を開く。

 

「原則では、延長……つまり、再審議は起こらない。何故ならそれ程の案件になるとするのなら、最初からそれだけの猶予(ゆうよ)を与えるからだ。だがお前が聞きたいのはこの答えではないのだろう?」

 

「ああ。もっと深い意味が欲しい」

 

「なら残念なことに、お前の質問にはこれ以上答えられない。理由はいまさら言うまでもないだろう」

 

 これ以上の情報の取得は難しいか。

 堀北学は恐らく、一度決めたらそのことを変えないだろう。それだけの意志力が彼にはある。

 逆に今度は彼がオレに質問を投げてくる。

 

「俺も綾小路、お前に聞くべきことがある。昨日審議会に出席する人員(じんいん)を聞いた。そしてその中にはお前の名前があった。てっきり俺は、お前は目立つことを避けているものだと思っていた。……それは間違いだったのか?」

 

 不思議そうにオレを見つめてくる。

 嘘は許さないと、そんな気迫が彼から伝わる。

 両者の視線が交錯した。

 オレは一度嘆息(たんそく)してから、堀北学に本心を告げる。

 

「あんたの推察通りさ。オレは『暴力事件』が起こったことも、そして友人の須藤が巻き込まれたことも、その全てがどうでも良い」

 

「なら、何故──?」

 

「さてな。ただ言えることは、あんたの疑問には審議会で答えることになる、ということだ。(さと)いあんたのことだ、オレが……いや、()()()()が何を狙っているのか、審議会が終わる頃には全て分かると思う」

 

 そう言うと、堀北学は面白そうに一度笑った。「なかなかに有意義な時間だった」と呟き、特別棟から出るために階段を降り始める。

 

「放課後、楽しみにしていよう」

 

「そうしてくれ。……そうだ、あんたにもう一つ質問があった。どうやったらあんなにも早く端末を操作出来るようになるんだ?」

 

 この一週間、頭の隅から離れなかった疑問を口にした。

 堀北学の連絡先を交換した記憶がオレにはない。少なくとも自分からは申請していない。

 だがある程度は推測出来る。

 十中八九、先週の月曜日、オレが彼から10万prを渡された時だろう。あの短い時間でプライベートポイントを譲渡し、さらには連絡先も登録する。

 気付いたのはふと何気なく連絡帳を開いた時。するとそこには、『堀北学』の文字があり、二回程画面を見返してしまった。

 あの時程彼に畏敬(いけい)の念を覚えた時はない。

 ごくりと生唾(なまつば)を飲み込んで身構えるオレに、彼は誇ることもせずに言う。

 

「慣れだ」

 

 衝撃の事実。

 ……いやいや、慣れで到達できる領域ではないと思うんだが、あれは。

 ところが堀北学は……いや、歴代最高と言われている生徒会長は、堂々とした佇まいを崩さなかった。

 

「話は終わりか? それなら俺はこれで失礼する」

 

「あ、あぁ……」

 

 オレはただただ、離れていく背中を眺めることしか出来なかった。

 流石だな。携帯端末の操作スピードでも妹を軽々超えるなんて……!

 ……テンションがおかしくなった。危ない危ない。衝動のままに叫び出すところだったぞ。あまりの暑さに思考が混濁(こんだく)したのだろう。

 これ以上ここに長居する理由はない。オレは新鮮な空気を少しでも早く吸うために、階段を駆け下りた。

 

 

 

§

 

 

 

 一年Dクラスの教室に入ると、室内には誰も居なかった。

 無理もない。何せ生徒が登校するにはまだ早すぎる時間帯だからだ。

 こうして一人で居ると──あの日、オレがこの学校に入学した日のことを思い出す。

 理由は違うが、それでも無人の教室に放り出された矮小(わいしょう)な一人の人間は、何も無い空間で漂うしか(すべ)がなかった。

 自分以外に誰も居ない。

 嗚呼……どうしてもあの光景が想起されてしまう。記憶が湧き上がってしまう。

 

 ──()()()()()()

 

 脳裏に浮かび上がった瞬間、オレは(かぶり)を振ってから、強制的に映像を削除した。とはいえ、ただの延命治療でしかないが。

 そこまで思考してから自嘲する。

 結局オレという人間に、完全な安寧(あんねい)なんてものは訪れないのだろう。

 どれだけ拒絶しようと、逃げようとしても巻き込まれてしまう。そう、早いか遅いかの違いでしかない。

 もはや呪われている。

 今もそうだ。今回の一件で、オレの認知度は上がってしまうだろう。()()()()()()()()()()()()

 遥か高みの星々(ほしぼし)を見ようと青空をぼんやりと眺めていると、後方の出入り扉が静かに開き、静かに閉じられた。

 誰だろうと視線を送ると、そこには佐倉(さくら)が立っていた。

 

「おはよう、佐倉」

 

「お、おはよう……綾小路くん。早いね……」

 

「まぁな。ってか、敬語、やめたんだな」

 

「う、うん……。(ワン)さん……みーちゃんに、敬語は他人行儀な気がして、やめて欲しいって言われたから……」

 

 佐倉とみーちゃんの仲は良好のようだ。

 その証拠に、彼女は『みーちゃん』と言い直したからな。友達として認め始めているのだろう。

 

「ダメ、かな?」

 

「いや全然。むしろその方が良いと思うぞ。同級生だし、友達だからな」

 

「う、うんっ」

 

 とはいえ、オレの友人にはもの凄く丁寧な言葉遣いをしてくれる女性が居るのだが……。

 まぁ彼女の場合はそれが素だと思うから別に良いか。

 佐倉は自分の身を守るために、敬語を使っていたのだろう。

 その策はある意味では正しいが、ある意味では間違っている。

 親しくなった相手に敬語を使われるというのは、どうしても違和感を覚えてしまうものだ。距離を感じてしまう。

 

「席、座ったらどうだ?」

 

 立ったまま会話をするというのも苦行だろう。佐倉は申し訳なさそうに一度謝ってから、自分の席に座った。

 いや別に、これくらいでは余程器量(きりょう)が狭い人間でもない限り怒らないと思うが。

 

「えっと、綾小路くん……」

 

「どうかしたか?」

 

 佐倉はおずおずとオレの顔を見ては逸らして、見ては逸らしての動作を繰り返した。

 とても面白い。笑いを(こら)えていると、彼女はオレの雰囲気から察したのか、羞恥心(しゅうちしん)で顔を真っ赤に染めてしまう。

 これ以上からかうと良くないと思い、オレからボールを投げた。

 

「それで、どうして佐倉はこんなにも早く来たんだ?」

 

 投げられたボールは佐倉の元に行き、受け止められる──

 

「ご、ごめんなさい……」

 

 ──ことはなかった。

 ……キャッチボールって、独りだと出来ないんだな……。

 当たり前のことを再認識していると、何度も頭を下げられた。悲しくなるからやめて欲しい。

 咳払いをしてから、もう一度尋ねる。今度は答えてくれた。

 

「そ、その……昨日、今日のことを……してしまって……」

 

 とはいえ、耳を()まさないと聞こえない程の音量だったが。

 

「悪い、もうちょっと声を大きくしてくれ」

 

「は、はい……。昨日、審議会のことを考えていたら寝れなくて……。茶柱先生の前では須藤くんを助けたいって……言えたのに……心の準備もしていたのに……その時のことを考えたら……」

 

「……」

 

「……ダメだね、私は……いつもいつも、周りのことを考えちゃう」

 

 佐倉の気持ちは、分からなくはない。それどころか、人間として備わっている当然の反応と言えるだろう。

 例えば周りを(はばか)らずに自由に行動した場合、周りに与える被害は甚大なものではない。そしてそれを継続していたら、いつしか自分にそのまま……いや、それ以上のものとなって返ってくるのだ。

 まぁ中には、高円寺(こうえんじ)のように自分大好き人間も居る。しかしそのようなタイプは少数派だ。それが日本人という種族である。

 

「……今ならまだ、やめられるぞ」

 

「やめられるって……私が、審議会に出席することをですか……?」

 

「ああ。茶柱先生に事情を話せば、あるいは」

 

「でもそれじゃ……須藤くんが……!」

 

「そうだな。Dクラスの唯一の武器は無くなってしまうだろう。だけどな、どちらにしろ向こうはDクラスからの証人という点で攻めてくるだろうさ」

 

 それが佐倉のような、平生は大人しい性格の証人だったらなおさらだ。

 正直なところ、彼女の存在はあってもなくても問題ない。櫛田(くしだ)に告げたように、計画は既に最終段階に入っているのだから。

 故に、佐倉愛里(あいり)が無理をする必要はない。

 そう思ってしまうのは、オレが異常なだけか。

 オレは逡巡(しゅんじゅん)してから、言葉を紡いだ。

 

「須藤のため、Dクラスのため……そんな考えは一度全部、捨てた方が良いんじゃないか?」

 

「えっ……?」

 

「今日佐倉愛里が証言するのは、『暴力事件』を見たという真実を話す自分自身のため、そう思えば良い」

 

 誰かのために何かをする。

 その考えを……(こころざし)を蔑ろにするわけではない。事実、洋介(ようすけ)一之瀬(いちのせ)のような人間も居ると、オレはこの学校に入学してから知った。

 だが時にしてその信条は自身に破滅を(もたら)す。

 

「自分が『成長』するために……今回の『分岐点』を利用する。そのために佐倉は発言する。それで良いじゃないか」

 

「私自身のため、ですか……?」

 

「ああ」

 

『自我』を持ち始めた佐倉にはまだ実感が湧かないかもしれない。

 しかしいつしか、今日の日を思い返す日が来たら。その時後悔の念を抱くようならいっそのこと……。

 

「──当たって砕けろ」

 

 佐倉は一瞬、きょとんとした表情をオレに見せた。

 そしてくすくすと笑い始める。

 彼女は一度微笑(ほほえ)んでから、オレに言った。

 

「ありがとう、綾小路くん。勇気が出たよ」

 

 

 

§

 

 

 

 六時限目が終了し、現在は帰りのSHR。

 いつもの和気藹々(わきあいあい)とした空気は教室には流れておらず、ぴりぴりと緊迫した空気が流れていた。

 

「さて、お前たち……特に須藤にとっては運命の日になったわけだが。どうだ、準備は万全か?」

 

 堀北(ほりきた)へ静かに問い掛ける茶柱先生。クラスメイトたちも彼女に視線を送り、不安げな様子は隠せない。

 

「無論です。ベストを尽くします」

 

 ところが堀北は、いつもと同じ態度を崩さない。それは虚勢か、それとも……。

 茶柱先生は薄く笑ってから、SHR終了の旨を告げた。

 

「それでは行くぞ。私に付いてこい」

 

 言うや否や、茶柱先生は教室を出ていく。

 審議会が開演されるのは午後四時から。現在は三時五十分。時間の余裕は無い。

 堀北、須藤、佐倉と合流し、教師のあとを付いていこうとすると、数々の声援が送られた。

 

「ファイト!」

 

「頑張ってね!」

 

「応援しているから!」

 

 あれだけ纏まりがなかったDクラスが、一つの集団へと形成され始めている。

 仲間意識が芽生えつつある証だろう。

 今回の『暴力事件』は、多くの人間のターニングポイントになりそうだ。

 

「堀北。休み時間に予め言ったと思うが……」

 

「分かっているわ。でも大丈夫よ。土壇場(どたんば)で言われるのなら兎も角、事前に忠言されたのだから」

 

「何の話だよ?」

 

「何でもないわ。須藤くん。分かっていると思うけど、あなたはなるべく発言しないように。大人しくしているのよ」

 

「ああ、もとからそのつもりだ。堀北と綾小路に全部任せるぜ」

 

 本心からそう思っているのだろう。

 須藤は信頼の言葉を(おく)ってくれた。自分の運命がこれから裁定されるというのに、気負った様子は見られない。

 丸投げしているわけではないだろう。ただ自分には何も出来ないから、堀北やオレを頼る。

 自棄(やけ)になっているのではない。覚悟を決めているだけだ。

 茶柱先生はオレたちを無言で先導し、校舎四階へと(いざな)った。そしてそこには一つの部屋が。

 教室の入口には『生徒会室』のネームプレートが刺さっていた。一般生徒ならまず訪れない領域だ。

 Dクラスの担任は扉をノック……するその前に、教え子を静かに見つめた。

 

「実質これが、クラス闘争、その前哨戦(ぜんしょうせん)となるだろう。まさか自分の担当するクラスが巻き込まれるとは思わなかったがな」

 

「……何を仰りたいのですか?」

 

「堀北。お前たちDクラスがAクラスに行きたいと願うのならば──この戦い、勝利してみせろ」

 

 それは茶柱先生なりの激励(げきれい)だった。

 堀北や須藤、佐倉の三人はいつもの彼女とは違うことに戸惑いの声を上げてしまう。放任主義の彼女がどうして? そのような感想を抱いているのだろう。

 しかしそれも一瞬。

 すぐに表情を引き締め、頷いた。

 

「佐倉は指示があるまで隣の教室で待機だ。中にはお前以外にも生徒が居るかもしれないが、接触は控えるように」

 

「はい……」

 

「それでは、行くとしようか」

 

 くるりと回転し、茶柱先生は今度こそ扉をノックする。返事はすぐに出され、彼女は生徒会室の中へと足を踏み入れた。オレたちもあとに続く。

 教室内は長机が並べられており、ぐるりと長方形が作られていた。

 Cクラスの三人は既に席に着いていた。彼らの体には包帯が幾重(いくえ)にも巻かれており、その姿は見ていてとても痛々しい。

 ……なるほど、同情を誘う作戦か。

 彼らの横には、三十代後半と思われる男性が居た。

 

「遅れました」

 

「いえいえ、時間にはまだ余裕があります。お気になさらず」

 

「お前たちは知らないだろう。一年Cクラスの担任、坂上(さかがみ)先生だ」

 

 茶柱先生が坂上先生を紹介してくれた。

 彼は眼鏡を掛けており、如何(いか)にもな理系教師といった印象を与えてくる。油断は禁物だな。

 

「そして彼がこの学校の生徒会長だ。彼の横に立っている彼女は書記だな」

 

 生徒会長と書記は部屋の奥に居た。

 彼は最終確認だろうか。机の上に置かれている書類に目を通していた。

 彼女はそんな彼を守るかのように寄り添っている。オレと目が合い、悟られない程度に会釈してくれた。オレも返す。

 堀北は一瞬兄に視線を送ったが、すぐに逸らした。オレが事前に教えたおかげだろう、目に見えた動揺は感じられない。

 オレたちはCクラス陣営と向き合うようにして席に座る。

 

「それではこれより、先日起こった『暴力事件』についての審議会を開きます。Cクラスからは担任の坂上先生、そして訴えを起こした小宮(こみや)くん、近藤(こんどう)くん、そして石崎(いしざき)くん。Dクラスからは担任の茶柱先生、訴えられた須藤くん。そして今回は同席者として、堀北さんと綾小路くんが居ます。これは既に認められたことであり、この瞬間から、『暴力事件』の関係者として見なします。他の生徒を呼ぶ際は、一言(ひとこと)申し出て下さい。生徒会からは現生徒会長堀北学及び、私、生徒会書記の(たちばな)(あかね)が参加します。なお、進行は私が務めさせて頂きます。現段階で、質問はありますか?」

 

 通過儀礼として、橘書記はそう言ったのだろう。

 少なくともこの段階では特別、質問はない。

 ところが意外な人物が手を挙げた。茶柱先生だ。

 

「それでは私から。生徒会長、どうしてお前が足を運ぶ。いつもなら橘だけのはずだが?」

 

「それはおかしなことを仰いますね茶柱先生。確かに私は日々多忙の故、信頼のおける橘に任せてしまう機会が多い。しかし裏を返せば、時間が許せば私は議会に参加するようにしています。それだけのことですよ」

 

「……なるほどなるほど。よく理解した。済まなかったな、時間を無駄にしてしまった」

 

 含み笑いを浮かべる茶柱先生だが、堀北学はそれに反応をすることがなかった。

 彼女が言外に言っていることは、『妹が居るからお前はここに居るのではないか』ということだろう。流石に全部合っている気はしないが、大まかな意味合いとしては正しいはずだ。

 橘書記は咳払いを一つしてから、事件の概要(がいよう)を説明していく。内容はいまさら確認するまでもない。

 

「──以上のような経緯を踏まえ、学校側は『暴力事件』だと断定しています。双方の主張を客観的に聞き、どちらが正しいのかを見極めさせて頂きます」

 

 互いに無言で頷く。

 戦いの火蓋(ひぶた)が今、切られた。

 

「小宮くんと近藤くんの二人は、同じバスケットボール部の須藤くんに呼び出され、放課後、特別棟に出向いた。そこで喧嘩を売られ、一方的に殴られたと主張しています。被疑者の須藤くん、これは真実ですか?」

 

「そいつら……小宮たちが言っていることは嘘……嘘です。俺が彼らに呼び出されて行った……行きました」

 

 間髪入れず須藤が否定する。

 堀北の言い付けを守るために、慣れない敬語を使っていた。Cクラスの連中は失笑していたが、これもまた『成長』だ。

 あくまでも訴えたのは向こう側。こっちは少しでも心証を良くしなければならない。

 

「さらにお聞きします。須藤くんは今否定しましたが、実際はどうだったのですか? 詳しくお願いします。そして暴言でない限り、普段の言葉遣いで構いません」

 

 橘書記の言葉に、須藤は安心したようだった。

 いつもの口調で話し始める。

 

「俺はその日、部活の先輩と一緒に自主練をする予定だったんだ。その日も約束していた」

 

「須藤くんはそのように言っていますが、小宮くん、近藤くんはどうなのでしょうか?」

 

「彼が言っていることは嘘です。……確かに先輩と一緒に自主練をしているようですが、その日は彼から呼び出してきたんです!」

 

「橘書記、宜しいでしょうか?」

 

 すっと手を挙げたのは堀北だ。

 橘書記がどうぞと言う。了解を貰った彼女は、Cクラスの連中を冷めた目で見ながら言った。

 

「現段階で、小宮くんたちは嘘を吐いています。その証拠もあります」

 

「ほう。具体的には?」

 

 言葉を挟んだのは生徒会長だ。

 堀北は一瞬(ひる)んだが、すぐに態勢を整える。

 

「須藤くんと自主練をしている相手を、証人として用意しています。入室の許可を頂きたいのですが」

 

「……生徒会長」

 

「許可する」

 

「私が呼んでこよう」

 

「お願いします、茶柱先生」

 

 一旦生徒会室から居なくなる茶柱先生。

 小宮と近藤たちは目に見えて狼狽(うろた)えていた。まさかここから切り込むなんて想像すらしていなかったのだろう。坂上先生も同様のようだ。

 数秒後、茶柱先生が一人の男子生徒を連れてくる。その人物が登場した瞬間、須藤が声を上げた。

 

「……キャプテン!」

 

「久し振りだな須藤」

 

 キャプテンと呼ばれたその生徒は、須藤に笑い掛けた。

 冷静に観察する。身体を覆う筋肉は厚く、完成されていた。須藤以上のものだ。

 キャプテン……つまり、この人はバスケ部のリーダーか。堀北は彼に協力を申し出たのだろう。

 

「三年Bクラス、石倉(いしくら)だ。バスケットボール部のキャプテンでもある。発言する前に、まずは謝罪をさせて欲しい。うちの部員が迷惑を掛けてしまったことを。こいつらが諍いを度々起こしていたことを俺は知っていたが、軽く見ていたようだ。俺の監督責任だ。申し訳ない」

 

 石倉先輩はそう言って、深々と頭を下げた。

 無理もない。忘れがちだが、この『暴力事件』はD、Cクラス間の事件だけでなく、バスケットボール部の身内での事件の側面も持ち合わせている。

 集団を率いる長としてのけじめだろうか。

 

「石倉先輩、まずは来て下さりありがとうございます。先輩のおかげで、嘘を正すことが出来ます。証言、お願いします」

 

「それでは石倉くん、どうぞ」

 

「俺は『暴力事件』が起こった日、部活が終わった後に須藤と一緒に自主練することを約束していた。そして彼は小宮たちに呼び出されたから、自主練を開始するのは遅らせて欲しいと願い出て来た。俺は了承した」

 

「それは事実ですか?」

 

「ああ。誓って嘘は言っていない」

 

「ありがとうございます。それでは隣の教室に退席して下さい。茶柱先生、お願い出来ますか」

 

 ああ、と茶柱先生は石倉先輩を引き連れて出ていく。すぐに戻り、席に座り直した。

 中断されていた議会が再開される。

 

「これで須藤くんが呼び出されたのが分かると思います。部活の先輩……さらに石倉先輩は部活のキャプテンです。明確な上下関係がある中、須藤くんが嘘を吐く理由はどこにもないでしょう」

 

「それは、しかし……」

 

「小宮くんたちに聞きます。堀北さんの主張は正しいですか? 自分たちから呼び出したと認めますか?」

 

「……はい、認めます…………」

 

「さらに聞きます。……何故嘘を吐いたのですか?」

 

 当然の追及に、小宮たちは答えない。いいや、答えられない。

 これではどちらが被疑者か分かったものではない。黙秘権が被疑者には認められているからだ。

 それにしても……堀北は凄い。たった一人証言させるだけで、彼女は須藤の心証をプラス方向に、小宮たちの心証をマイナス方向にした。

 

「嘘が一つ露呈(ろてい)しましたが、共通することもあります。それは石倉くんが先程言っていましたが、彼らの間に喧嘩の火種(ひだね)があったということです。小宮くんたち、どうなのでしょうか?」

 

「諍いというか……須藤くんが見下してくるんです」

 

「見下す?」

 

「はい。彼は一年の中では群を抜いてバスケが上手い。もちろん僕も、近藤くんも必死になって練習して追い付こうとしています。けどそんな僕たちを、須藤くんはバカにしてくるんです」

 

「それは須藤くんが、あなたたちに面と向かって暴言なり暴行をした……という解釈で良いでしょうか?」

 

「そういうわけではありませんが……態度に出ていたんですよ。あれは絶対、僕たちをバカにしていました。それで反論したら逆ギレしてくるんです」

 

 苦し紛れにも程があるな。事実、須藤は青筋(あおすじ)を浮かべているし。

 被害妄想にも程があると言いたいが……完全には否定出来ない。何故なら──。

 

「生徒会独自の調査によれば、須藤くんはこれまでに小規模ながらも問題行動を度々起こしてきました。会長はどのように思われますか?」

 

「小宮たちの思い込みだと断ずることは出来ないだろう。彼らの主張を一部認める」

 

 これで状況は五分五分か。

 とはいえ、今までのはお互いの能力を視るためのもの。

 前半戦から後半戦へ突入する。

 

「僕たちは須藤くんに殴られました! これは覆しようのない事実です!」

 

「小宮くんたちはこう言っていますが……須藤くん、何か弁明はありますか?」

 

「確かに俺はこいつらを殴った。けど、先に喧嘩を売ってきたのは向こうだ」

 

 両者共に相手の主張を叩き潰そうと躍起(やっき)になる。

 やはりというか、Cクラス陣営は『怪我』という証拠を武器にして戦うつもりのようだ。

 確かにそこを論点にされると、オレたちは窮地に追い込まれてしまう。

 だが戦えないわけではない。そこの部分では負けを認めても、足掻くことは出来る。

 

「質問、宜しいでしょうか」

 

「許可します」

 

 堀北は橘書記に黙礼してから、小宮たちに鋭い視線を浴びせる。

 身を竦ませる彼らが哀れでしょうがない。敵ながら同情してしまう。

 

「あなたたちが須藤くんを呼んだのはいまさら、確認するまでもありません。そこで聞きます。どうして石崎くんがこの事件に関わっていたのでしょうか。小宮と近藤くん二人だけならまだ話は分かります。おおかた、彼の才能に嫉妬し、脅迫……失礼、話し合いがしたかったのでしょう。しかし何故、直接関わりのない石崎くんが居たのでしょうか?」

 

「それは……用心のためです。男として恥ずかしい限りですが、僕たちと須藤くんでは身体能力に差があり過ぎます。話し合いの結果如何(いかん)では、沸点が低い須藤くんが暴れる可能性がありました」

 

「それは面白いことを言いますね。つまりあなたたちは、彼に暴力が振るわれる可能性があると想定していたのでしょうか?」

 

「そうです」

 

 この展開は予習しておいたのだろう、澱みのないスムーズな会話だった。

 さしもの堀北も、これには退くしか方法がないようだった。

 だが彼女にはなくても、オレにはある。

 オレは静かに挙手をする。そして橘書記から発言許可を貰った。

 

「お前たちが石崎たちを頼った理由はなんだ?」

 

「頼りになる友達だからですよ」

 

「石崎の同郷曰く、彼はなんでも、中学時代は学校を代表する不良生徒だったようだが。そのことは知っていたのか?」

 

「知りませんでした。けどだとしたら僕たちにとっては幸運でした。結果的に心強い人に用心棒をやって貰っていたんですから。まぁ尤も、こうして一方的に殴られたんですけどね」

 

 オレは左隣に座っている堀北にアイコンタクトを送る。

 僅かながらも突破口は開かれた。

 

「だとしたらおかしくないでしょうか?」

 

「おかしい? どこがでしょうか?」

 

「多少ではありますが、私には武術の心得があります。だからこそ分かるのですが、複数の敵と相対した場合の戦いは乗数的に厳しく難しくなります。喧嘩慣れしている石崎くんを含めたあなたたちが一方的に傷を負ったのは腑に落ちません」

 

「……それは僕たちに、戦う意志がなかったからですよ」

 

「だとしたらなおさらおかしいですね。あなたたち三人に戦う意志はなかった。なら何故須藤くんは怪我を負わなかったのでしょうか。いえ、言い方を変えましょう。どうして三人とも大怪我を負う必要がありますか? 一対三の状況で、これはあまりにも不自然です」

 

 堀北の主張は一般論という観点ならこの上ない威力を誇っていた。

 戦う意志が無いのなら、誰かやられている時に逃げれば良い。それか助けを呼びに行けば良い。後者は無人の特別棟故に難しいだろうが。

 

「僕たちにはそれだけの友情があるんです!」

 

「友達が一方的に殴られている光景を目の当たりにしながら、等しく怪我を負う友情ですか。面白いですね」

 

 鼻で笑う堀北。

 

「……なんと言おうと、これは僕たちの付き合い方です。堀北さんにとやかく言われる筋合いはありません」

 

 睨み合いが数秒続いた。

 堀北が『(ことわり)』を武器とするならば、彼らは『怪我』を武器にする。

 なかなか決着が付かないことに()れたのか、彼らは自らの傷を指しながら言う。

 

「堀北さんがどれだけ常識を()こうと、それは意味がありません。何故なら、そこに居る須藤くんにそんなものは通用しないのですから。彼は非常に暴力的な生徒だ! その証拠がこれです!」

 

 頬に貼っていたガーゼをゆっくりと剥がす。全員の視線が集まり、擦りむけた傷が露出した。

 オレは堀北に囁く。

 

「……堀北、出し惜しみしている余裕はないぞ」

 

「……ええ……」

 

「Dクラスからの主張は終わりか?」

 

 つまらないとでも言いたげな冷徹な目。

 

「須藤くんが彼らを殴り付けたのは事実です。しかし、先に喧嘩を売ったのはCクラスです。一部始終を目撃した生徒も居ます」

 

「では、その生徒を入室させて下さい。茶柱先生、お願いします」

 

「了解した」

 

 やや面倒臭そうに茶柱先生は席を立つ。

 ……いや、気持ちは分かるけどそれを表に出すなよ。

 Dクラス最後の刀が鞘から抜かれる。

 

「し、失礼します……」

 

 小さな声で入室の声が出される。

 聞き間違えるはずもない。佐倉だ。茶柱先生は彼女の背中を押し、席に座るように勧めた。

 緊張しているのは誰の目から見ても明らかだ。彼女の視線は安定せず、あちらこちらに(うつ)る。

 橘書記が助け舟を出した。

 

「所属クラス及び、名前を聞かせて下さい」

 

「……一年Dクラス、佐倉愛里です」

 

「昨日茶柱先生から報告があった際には驚きましたが、まさか、Dクラスの生徒でしたか」

 

 坂上先生は眼鏡のレンズを拭きながら失笑した。

 それに追随する小宮たちCクラスの生徒。

 

「何か問題でも?」

 

「いえいえ、全然ありませんよ」

 

 生徒間で緊張が走るように、教師間でも走っているようだ。

 もしかしたら、教師の世界も実力至上主義なのかもしれない。

 

「では証言をお願いします」

 

「は、はい……。わ、私は……──」

 

 言葉が止まる。

 静寂が徐々に訪れ始め、Cクラス陣営はにやにやと笑い始める。勝利を確信したのだろうか。

 堀北が声を掛けようと口を開きかけるが、すぐに思い留まる。

 その判断は正解だ。下手に佐倉を励ましたり鼓舞(こぶ)すれば、あちらは佐倉愛里が目撃者だということを信じないだろう。

 無理矢理言わせていると弾圧されるリスクが非常に高い。

 佐倉は大量の汗を流していた。息遣いも荒い。

 彼女は視線を泳がせ──オレと目が合った。

 オレは無言で頷き、精一杯、彼女を支えようと試みる。

 

「これ以上は時間の無駄ですね」

 

 静寂を良しとしなかった坂上先生が、苛立ちの声を上げた、その時だった。

 

「──私は、見ました。須藤くんと小宮くんが喧嘩をしているところを……!」

 

 声主を特定するのに数秒要したのは仕方がないことだろう。悲鳴に近い叫び声。

 それは女性の声だった。

 茶柱先生でもなく、堀北でもなく、橘先輩でもない。

 正真正銘、佐倉愛里の音だった。

 

「詳しく聞かせて貰えますか、佐倉さん」

 

「は、はい。私は……確かに見ました、小宮くんたちが須藤くんを挑発していたところを。須藤くんはその時、部活の練習着を着ていました……小宮くんたちは制服でした……」

 

 形勢が変わり始める。

 Dクラスの切り札は、想像以上の効果を生み出そうとしていた。

 佐倉は居心地悪そうにしながらも、言葉を精一杯、たどたどしくも続ける。

 

「最初……小宮くんたちが須藤くんと話していたんです。けど途中から、石崎くんが須藤くんと話すようになって……小宮くんと近藤くんは何も喋りませんでした。それで……須藤くんを挑発して……取り囲んで。それでも彼は、思い留まりました。殴る直前で拳を引いて……帰ろうとした彼を、彼らはさらにとめたんです。それで、月曜日登校したら、『暴力事件』になっていると知って……」

 

 その時の光景を思い返したのか、顔色をどんどん悪くしていく佐倉。

 彼女の口から紡がれる『事実』にCクラス陣営は歯軋りするしかない。そんな中、坂上先生が挙手をした。

 

「質問をしても良いでしょうか、生徒会長」

 

「許可します」

 

「ありがとうございます。……佐倉さん、あなたは本当に事件を目撃したのですか? 話を聞いてる感じだと、須藤くんがうちの生徒を殴った瞬間は見ていないのですよね?」

 

「は、はい……」

 

「なら今の話を全面的に信じるわけにはいきません。須藤くんから話を聞いた上で、より精度が高い話をでっち上げることは可能だ」

 

 それはつまり、創作物なのでは? と疑っているのだろう。確かに作ろうと思えば充分に創造出来るだろう。

 佐倉が語った内容は……現実味が有り過ぎた。リアリティとでも変換しようか。

 

「未だに佐倉さんが目撃者だと認めないと?」

 

「えぇその通りですよ。佐倉さんの性格はある程度分かりました。どうやら彼女は大人しく優しい性格の持ち主のようだ。例えば堀北さん、あなたが『偽りの暴力事件』のシナリオを作り、彼女に俳優として演技させている。違いますか?」

 

 堀北が否定する……その前に、思いがけない所から嘲りの声が出される。

 

「バカバカしいですね、坂上先生。担任の私が断言しますが、今の佐倉にそんな余裕はありませんよ」

 

 ここでまさかの、茶柱先生の援護が届いた。

 てっきりずっと傍観して我関せずの態度を取るとばかり思っていたのだが。

 まぁ援護といっても、佐倉に傷を付けてしまうものだが。事実だから何も言い返せない彼女が可哀想だ。

 

「……証拠を見せれば良いんですか?」

 

「あるのなら見せて貰いたいものです」

 

 そんなものはないだろう? そんな意味が込められた嘲りの視線。絶対に茶柱先生への報復を兼ねているな。

 ところが佐倉は頷くことはしなかった。それどころか首を大きく横に振る。

 

「──証拠なら、あります」

 

 出されたのは一個のUSBメモリだった。

 

「……私はデジカメでしっかりと撮りました。このUSBメモリに、データとして残っています」

 

「橘」

 

「はい。お借りしてもよろしいでしょうか、佐倉さん」

 

「は、はい……」

 

 照明が消え、シャッターが下ろされる。光が射し込む余地はない。この学校の生徒会室はいったい、どのような作りになっているのだろう。

 そして最後に、プロジェクターが下ろされた。橘書記はノートパソコンとプロジェクターの画面を連動させ、一つのファイルを映し出させる。

 それは、須藤が小宮、近藤、石崎らの三人に囲われている瞬間のものだった。

 須藤は脂汗を一滴流し、緊張しているようだった。反対にCクラス連中は、にやにやと嗤っている。

 

「……これで私が目撃者なのは認めて貰えると思います」

 

 坂上先生は言葉を詰まらせるしかなかった。

 この写真の効果は非常に大きい。見方によっては、小宮たちが須藤を脅迫していると思わせてくれるだろう。

 だがそれでも決定打に欠ける。

 そしてそれを、この男が見逃すはずがない。

 

「よく分かった……と言いたいところだが、疑問が一つ残る。佐倉、これはいつ撮ったものだ?」

 

「え……?」

 

 質問の意図が分からないのか、佐倉は首を傾げてしまう。

 隣で、堀北が息を鋭く呑む気配がした。彼女も気付いたのだろう。

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 坂上先生もその考えに至ったのか、気勢を取り戻す。

 

「そうだ、生徒会長の言う通りだ。佐倉さん、きみはさっきこう言ったね。小宮くんたちが須藤くんを取り囲んだと。それはこの時の写真かな?」

 

「は、はい……そうです」

 

「なら残念なことに、これをそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。小宮くんたちは須藤くんを挑発した、だが彼は思い留まった。これはその時のものなのでしょう? ならこれは、直接『暴力事件』に繋がるとは言い難い」

 

「そ、そんな……!?」

 

 驚愕に目を見開く佐倉に、生徒会長が答える。

 

「これが『暴力事件』の直前のものだったら証拠能力は文句なしだった。須藤の正当防衛は認められただろう。だが『波』は二回あった。一回目、彼はそれをやり過ごしたのだろう。この写真はその一回目の『波』のもの。それをたった今、お前が認めた。……しかし『暴力事件』が起きたのは二回目の『波』の時。お前は、その二回目を見る前に特別棟から出てしまった。一定の証拠能力はあるが、絶対的なものではない」

 

 残酷なまでに告げられた言葉。

 佐倉は勇気を出した。須藤のために、クラスメイトのために……何より、自分が『成長』するために足を踏み出した。

 しかし結果はこれだ。彼女の努力は中途半端に実っただけ。彼女の心境を表すのならば、『絶望』というたった二文字で終わってしまう。

 互いに致命傷を与えられない。

 拮抗する(いくさ)

 無言の圧力が掛かる中、坂上先生が疲れたように息を吐いた。

 

「……どうでしょう。ここは落とし所を模索しませんか」

 

「ほう。それはなかなか面白いことを言いますね、坂上先生。具体的には?」

 

 問い掛けたのは茶柱先生だ。

 しかし坂上先生は彼女には目もくれず、生徒会長に打診する。

 

「いつまで続けても話し合いは平行線のままでしょう。私たちCクラスも、Dクラスもお互いの主張を曲げる気はさらさらない。……そこで落とし所です。私は教え子にも責任があると思います。例えば最初に須藤くんに呼び出されたと嘘を言ったところです。複数対個数の状況に追い込んだのもそうですし、そのうち一人は喧嘩慣れしているそうだとか。さらにはあの写真もあり、そういった『雰囲気』を先に作ったのは彼らだ」

 

 誰も口を挟まない。

 坂上先生は言葉を続ける。それは折衷案だった。

 

「──しかし、直接的な『被害』を(こうむ)っているのはあくまでもこちら側だ。そこで、須藤くんは二週間の停学。小宮くんたちは一週間の停学。手を出したか否か、ここで境界線を引きませんか?」

 

 生徒会長は黙って聞いていた。そしてゆっくりと頷く。それはつまり、彼がCクラス側の折衷案を認めた、ということ。

 恐らく佐倉の証言と写真がなければ、須藤にはもっと重い罰が下されていたはず。

 

「茶柱先生はどう思われますか?」

 

「担任としてはこれ以上、そちらが譲歩してくれるとは思っていません。なので私には断る理由はありません」

 

 あくまでも茶柱佐枝(さえ)個人として、彼女はCクラス側からの和解を受け入れるつもりらしい。

 須藤も佐倉もこれ以上は無理だと察知したのか、諦観の表情を浮かべる。

 オレは堀北の横顔を盗み見た。彼女の瞳には闘志が感じられたが、同時に諦めの色もあった。理性が本能を上回っているのだろう。

 ここで彼らの提案を呑み込むのが最善だろう。拒絶した場合、戦場はさらに荒れてしまう。

 そうなれば最悪の展開、須藤(けん)の『退学』も起こり得る。

 最初から分かっていたことだ。どんなに足掻いても、どんなに抵抗しようと、証拠が身内から出され、さらには証拠能力も100%じゃないのなら意味は無い。

 

 ──Dクラスに『勝利』は摑めない。

 

 オレはこの一週間を振り返った。

 須藤が皆の前で謝罪し、目撃者Xを死に物狂いで捜し……そして堀北までもがクラスに貢献するように動いた。

 あれだけの絶望的状況から、良くもまぁここまで戦い抜いたと思う。素直に称賛もしよう。

 

 

 

 だからオレも動くとしよう。計画の完遂は目前だ。

 

 

 

「答えは出ましたか?」

 

「ええ。私たちはその提案を──」

 

 受け入れる。その言葉が出される前に、オレは自身の言葉を強引に捩じ込んだ。

 

「──拒否します」

 

 は? 間抜けな音が誰かから出された。

 堀北も、須藤も、佐倉も、茶柱先生も。

 小宮も、近藤も、石崎も、坂上先生も。

 橘先輩も。

 驚愕に色を染める。何を言っているんだお前はと、目を見開く。

 そして堀北学だけが──静かに笑っていた。

 

「オレたちDクラスは、その提案を受け入れません」

 

 聞き間違いを起こさせないように配慮し、オレは改めて、そう、宣言した。

 笑いから一転、仏頂面に戻った生徒会長が、務めを果たすべく、静かに問い掛ける。

 

「その理由を聞いても?」

 

「理由は主に二つあります。一つ目は、須藤健に『前科』を残させないためです。彼はバスケットのプロを本気で目指している。そんな彼に『前科』があったら困るだろうし、彼はDクラスの『財産』だ。そう簡単には手放せません」

 

「もう一つは?」

 

「オレが、証言してくれた石倉先輩や佐倉、そして何より、友人の須藤を信じているからです」

 

「素晴らしい友情だ……そう言いたいところですが。えっと、きみは──」

 

「綾小路です」

 

「そう、綾小路くん。きみはDクラスに相応しい生徒のようですね。実に愚かだ。きみのその浅はかな考えが、他ならない友を追い込むのかもしれないのですよ?」

 

「だとしてもオレは、須藤健の『無実』を主張します」

 

 正気か? そんな意味が込められた視線がオレに刺さる。

 だがそんなものはどうでも良い。

 坂上先生は失笑してから、生徒会長に同意を求めた。

 

「坂上先生の言う通りだ。折衷案が通らないのなら、我々生徒会は独自の裁量で沙汰を下す。審議会の延長は認めない。何故なら、これ以上の進展は無いからだ」

 

「今ならまだ綾小路くんの狂言(きょうげん)として流しましょう。その上で最終確認をします。受け入れますか?」

 

 その言葉に嘘偽りはないだろう。

 ここでオレが拒否をしたら、生徒会独自の裁量で沙汰が下されるだろう。恐らく、受ける傷は折衷案よりも多いはずだ。

 堀北と目が合う。須藤と目が合う。佐倉と目が合う。

 三人とも未だに呆然としている。堀北もそうなのは意外だったが……まぁ良いか。

 オレは茶柱先生に声を掛けた。

 

「茶柱先生、確認したいことがあります」

 

「……言ってみろ」

 

「先生は入学した時、そして一週間前にこう仰いました。『この学校で買えないものはない』と。そしてその例として、Aクラスへの裏道を教えてくれましたよね」

 

「……それが、どうかしたか……?」

 

 オレは茶柱先生との会話を一方的に終わらせ、生徒会長の目を真っ直ぐ見据える。

 視線が交錯した。

 

「生徒会長、お願いがあります」

 

「聞くだけ聞こう」

 

 

 

「審議会を延長して下さい。もちろん、対価は必要です。その対価として──

 

 

 ──プライベートポイントを支払いましょう」

 

 

 

 本日何度目になるか分からない静寂。

 最初に我を取り戻したのは坂上先生だった。オレを見下し、心の底から嘲笑する。

 

「はははは! 何を言うのかと思いきや、プライベートポイントを支払う? なるほど、綾小路くん、きみの『それ』は可能でしょう。この学校で買えないものはありませんからね。ルールには則っている。しかしですね──」

 

「綾小路、Dクラスのお前に幾ら払える?」

 

「言っておきますが、2万、3万では到底足りませんよ。まぁこの額ですら、きみには払えないでしょうが」

 

「済まない、話を前に進み過ぎたな。Cクラス側はこの売買を認めるか? 認めた場合、綾小路が支払うポイントは小宮たちに振り込まれるが」

 

「ええ、審議会の延長を認めます」

 

「そうか。では改めて聞こう。綾小路、お前には幾ら払える? 最低でも5万prは必要だが、お前にはそれがあるのか?」

 

「あるわけないでしょうが! ほら、素直に諦めろよ綾小路! 『不良品』のお前には無理だって! なあ!」

 

「そうだそうだ!」

 

「小宮くん、近藤くん。それ以上の暴言は看過出来ません」

 

 

 橘書記が見兼ねて注意するが、連中はにやにやと醜悪に笑っている。払えるわけがないと確信しているからだ。

 坂上先生も、茶柱先生も異論は申し立てない。それどころか微動だにしなかった。まるで──分かり切っているかのように。

 学校公認の『不良品』。

 それがDクラスに所属する者が押し付けられる烙印だ。最低5万pr。他クラスにとってその額は払えない額ではない。

 Aクラスの生徒なら余裕だろう。

 携帯端末をブレザーのポケットから取り出しながら、オレは静かに嗤う。

 5万prを所持している、ことにではない。

 5万prという請求額に拍子抜けしたからではない。オレはそれ以上の額を用意していたのだから。それこそ万が一に備え、()()()()()2()5()()p()r()()()()()()()()

 

 

 

 なら、何故嗤っているのか。

 

 

 

 計画がついに完遂されたからだ。この時の為だけに、()()()()は計画を立てていた。

 

 

 

 

「──10万prを支払いましょう。これで延長を認めて頂けますか」

 

 

 




一月五日 当初、石倉先輩のことを三年『A』組だと表現していましたが、原作をよくよく読み返すと、三年『B』組でした。読者の皆様には誤解を与える表現をしてしまい、申し訳ございません。


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『暴力事件』の真相

 

 異例の審議会の延長。

 一年Dクラス綾小路(あやのこうじ)清隆(きよたか)が10万prを支払い、その権利を買った。

 その情報は瞬く間に広がった。

 何故、どうして、どうやって──。

 中間試験同様、一年生だけでなく二、三年生をも巻き込んだ騒動は、まだ終幕を迎えていない。

 当たり前というか、クラスメイトたちはオレを責めた。無理もない。Cクラスからの折衷案を呑むのがあの時の最善だった。

 そんなことは誰の目にも明らかだった。

 しかしオレの暴走によって、オレたちはまだ嵐の渦中で停滞している。

 朝のSHRで茶柱(ちゃばしら)先生がオレの暴走を事務的に告げて以来、Dクラスの教室は嫌な空気が流れていた。

 現在は三時限目と四時限目の間の休み時間。

 クラスメイトたちは遠巻きにオレを見てひそひそと話すだけ。陰口でも叩いているのだろうか。

 オレは反論することもせず、ただ黙々と甘んじてその糾弾を受け入れている。

 須藤(すどう)、みーちゃん、佐倉(さくら)といった生徒はオレに近付こうとしてきたが、オレから話し掛けないようにメールで指示を出しておいた。ここでオレを庇えば、彼らの立場がなくなってしまうだろう。

 

「あなた、どうする気?」

 

「……オレに話し掛けない方が良いぞ」

 

 その中で堀北(ほりきた)だけは、オレとの会話を試みていた。

 一応忠告するが、彼女はそれを鼻で笑った。もとから孤独少女の性質だからか、彼女には通用しないらしい。少しだけ羨ましいと思った。

 そんな彼女は真面目な声で言う。

 

「綾小路くん。正直、あなたは不気味な存在よ」

 

(やぶ)から(ぼう)になんだ、その言い草は。オレは極々一般的な生徒だぞ。小説だったら脇役の中の脇役だな」

 

「少なくとも大半の生徒にとっては、でしょうね」

 

「堀北は違うと?」

 

 文庫本から視線を上げ、堀北を見る。

 彼女は憮然の表情を浮かべていた。

 

「何故Dクラスのあなたに10万prがあるのか、そんなことは些細なことよ。問題は、その多額のプライベートポイントをどこから手に入れたのか。違う?」

 

「簡単なことを聞いてくるんだな」

 

「……良いから答えなさい」

 

「友人に譲渡して貰っただけだ」

 

 肩を竦めながら事実を言うが、堀北は納得してくれないようだ。

 無理もないか。いったいどこに、十万円を渡す奴がいるか。そいつは気が触れているか余程のお人好しだ。

 

「話を戻すと、やっぱりあなたは不気味な存在よ。あなたが何を考えているか、その考えが私には読めない」

 

「何も考えてないさ。ただあの時は……そうだな、あの時も言ったが、石倉(いしくら)先輩や佐倉、須藤を信じたいと思ったんだよ」

 

 精一杯感情を込めたが、呆れ顔で返された。

 お前がそんな虚言(きょげん)を言っても私は信じないと言われたようだった。

 

「策でもあるの?」

 

「さぁな。けど10万prを支払って延長出来たのはたった一日か。これってかなりのぼったくりだと思わないか?」

 

「兄さん……生徒会長の話を聞いていたでしょう。本来ならあそこで判決が出されていたのだから、これが妥当なところでしょうね。……やっぱりどう頭を(ひね)っても、たった一日……いいえ、あと半日で何か出来るとは思えない」

 

 堀北の指摘は正しいだろう。

 たった一日審議会が延長されたところで、意味は無いのかもしれない。過去を悔いるのかもしれない。

 それこそ『奇跡』でも起こらない限り、状況は何一つとして好転しない。

 

 それなら──『奇跡』を起こせば良い。ただそれだけのこと。

 

 

 

 

§

 

 

 

 昼休みに突入した。

 嫌な視線が降り注ぐ教室をあとにするため、椅子を引いて立ち上がった。荷物が入ったスクールバッグを肩に担ぐ。

 たったそれだけの動作でも、クラス中の視線を集めているのが嫌でも分かる。

 彼らの瞳の中には、嘲りと、猜疑(さいぎ)と、そして恐怖の色が浮かんでいた。

 それらを軽く流し、オレは教室から出て特別棟に向かった。道中あった自動販売機で、無料飲料水を購入することを忘れない。

 この一週間で何回足を運んでいるか分からないが、やるべきことがある。

 スクールバッグからある物を取り出したオレは、数少ない昼休みの時間を無駄にしないよう、迅速(じんそく)に準備を進めた。

 そして作業が無事に終わったところで、一人の生徒が姿を見せる。美しいストロベリーブロンドのロングヘアを持つ女子生徒は、オレの知る限り一人しか居ない。

 彼女は廊下を走りながらオレに近付いてきた。どこがとは言わないが、もの凄く揺れる。天然とは恐ろしいものだ。

 

「ごめん、ちょっと私用があって……遅れちゃった」

 

「いや、気にしないでくれ。暑いし疲れただろ。良かったら飲んでくれ」

 

 ありがとうと言いながら受け取る一之瀬(いちのせ)

 ただ飲むだけなのに、彼女の所作はとても美しかった。

 長話するつもりはないが、暑いものは暑い。

 オレは窓を開けて、新鮮な空気を入れる。もちろん前回の反省を活かし、開けた瞬間に退避するのを忘れない。

 人間とは学ぶことが出来る生き物だ。

 

「審議会のことは私のクラスにも届いているよ。計画通りだね」

 

「ああ。一之瀬にはほんと、頭が下がるよ。お前の信条に背く中、協力してくれて本当に助かる」

 

「信条っていうか……まぁ確かに、好ましくはないかな」

 

 けどね、と一之瀬はオレの目をしっかりと見て言う。

 

「それとこれとは別だよ。私情を優先したら、いつ負けるか分からないからね。私はしっかりと天秤(てんびん)に掛けて、綾小路くんに協力することを決めた。それだけのメリットがあると判断したからだよ」

 

「そうか」

 

「うん。……でも驚いたかなあ……まさかDクラスに、きみのような生徒が居るなんてね。完全にノーマークだったからさ」

 

 オレは苦笑を零した。

 他クラスからすれば、警戒するに値するDクラスの生徒は少ないだろう。精々が平田(ひらた)洋介(ようすけ)櫛田(くしだ)桔梗(ききょう)高円寺(こうえんじ)六助(ろくすけ)、堀北鈴音(すずね)くらいなものだ。

 

「綾小路くんはどうするの? これから先目立っちゃうんじゃない?」

 

「それならそれで好都合だ。オレはこれ以上動くつもりはないからな」

 

「あはは……まぁ確かにね。きみが暗中飛躍したことに気付けるのはどれだけいるんだろう」

 

「一之瀬は気付いたじゃないか」

 

 ところが彼女は手をひらひらと振る。

 

「まさか! 違和感は覚えていたけどね、それでも核心には至らなかったよ」

 

 謙遜(けんそん)するが、オレは確信している。

 必ず一之瀬帆波(ほなみ)はオレの元に辿り着いただろう。今回上手く()けたとしても、それは時間の問題だ。

 櫛田はオレが誘導することによって答えを得た。だが彼女は自分の足でオレの前に現れたのだ。現れてみせた。

 だからこうして、今回、オレは彼女に『協力者』として助けを求めた。

 

「いやー、一番可哀想なのはAクラスだよね。同じ一年生なのに蚊帳(かや)の外だもん」

 

「蚊帳の外っていうか……いや、あながち間違ってないか。Aクラスはどうなっているのか分からなかったからな。除外させて貰った」

 

 入学してからこの三ヶ月間、オレは様々な噂を耳にした。

 例を挙げるとするならば目の前に居る少女。聡明な彼女の噂はいまさら語る必要は無いだろう。

 Cクラスの実情も、知ろうと思えば知ることは出来る。オレにはCクラスの生徒である椎名が近くに居るし、詳細な情報は取得出来ないが、全体像は摑めた。

 しかしAクラスは調べても要領が摑めないものだらけだった。信憑性が薄いのだ。例えばAクラスは現在、二大勢力によってクラスが分けられているそうなのだが、片方の勢力のリーダーは分かったが、もう片方のリーダーは分からなかった。

 はっきり言って不気味だ。もっと踏み込めば分かるだろうが、下手に首を突っ込めば喧嘩を売られたと思われてしまう。

 

「Aクラスに関しては様子見だな」

 

「そうだね、それが正しいと思うよ。クラスの地盤が固まったとは言い難い現状だと尚更だよね」

 

「それでも一之瀬はオレに協力してくれるんだな」

 

「善意100%じゃないのが申し訳ないけどね」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 一之瀬は微笑んでから、オレに手を差し出してきた。少し躊躇したが、ズボンで手汗を拭き取ってから彼女の手を摑む。

 今回限りの『契約』は交わされた。

 手を離し彼女と間合いを取ると、彼女は「あっ」と声を出し、首を傾げた。

 

「ところでさ、『協力者』は私以外にもう一人居るんだよね? いったい誰なの?」

 

「あぁそっか、言ってなかったな。悪い。洋介……平田だ。作戦決行前に集合してくれ」

 

「平田くんも関与しているのかー。意外かも」

 

「最初は渋い顔をされたけどな……未来を見据えてくれたってことだろうさ」

 

「なるほどねー。いやー、ちょっと私後悔しているよ。メリットもあるけど、デメリットもあるからさ。結果的にはきみたちDクラスが強くなる要因になるからね」

 

「その点については諦めてくれ」

 

「まっ、仕方ないか。それじゃあ、暑いから行こうよ」

 

 熱中症になっちゃうからねと、彼女はオレの手を引いて特別棟の廊下を渡る。

 女の子と本格的に手を繋いだのは初めてだ。しかもそれが一之瀬のような美人。絶対に忘れないようにしよう。

 

 

 

 

§

 

 

 

「それではこれで、帰りのSHRは終わりだ。解散」

 

 茶柱先生が号令を掛け、本日の学業は終わりを告げた。

 やっと水曜日の終わりか……まだ学校が二日もあると思うとげんなりしてしまうが、今は他のことに意識を割くべきだろう。

 

「行くぞ。須藤、堀北、綾小路」

 

 言うや否や、茶柱先生は先に生徒会室に向かい始める。

 須藤と堀北も裁判所に向かい、オレも続く。昨日とは一転、クラスメイトたちの声援は送られなかった。

 中には、須藤くん可哀想……と呟く生徒も。

 こりゃ完全に、クラスを敵に回したな。後ろから刺されないように注意するとしよう。

 廊下の窓から教室を一瞥すると、一瞬、洋介と目が合った。小さく頷き合う。

 生徒会室は校舎四階だ。階段を登っていると、下から声が投げられた。

 

「あ、綾小路くん……!」

 

 その音を聞いた瞬間、オレはまさかと思いつつも振り返る。茶柱先生たちも同様だ。

 そこには佐倉が荒い息遣いで立っていた。走ってきたのか、息遣いは荒く、顔を真っ赤に染めている。

 

「茶柱先生、時間に間に合えば良いんですよね?」

 

「ああ。開始は午後四時からだ。くれぐれも遅れるなよ」

 

 釘を刺してくる茶柱先生に、オレは頷き返した。

 堀北は興味がないのか、階段を登る動作を再開させる。須藤は訝しげな視線を佐倉に寄越したが、関わるべきではないと察したのか、彼女たちのあとを追った。

 居なくなったのを確認してから、オレは佐倉に近付くために階段を降りた。

 

「大丈夫か?」

 

「う、うん……久し振りに全力で走ったよ……」

 

「運動しないとダメだね」と、佐倉は笑った。

 疲労困憊(ひろうこんぱい)なのは誰の目から見ても明らかだったが、彼女に気を遣う時間は余りない。

 彼女もそれは分かっている。息を整えてから、彼女は不安げな目をオレに見せた。

 

「今から……話し合いだね……」

 

「そうだな……って言うか、メールでオレに話し掛けるなって言ったろ?」

 

「ううん……私は良いの。クラス内での立場なんて、私にはないから」

 

 否定したいが否定出来ない……。

 目頭を押さえるオレを、佐倉は不思議そうに見ていた。

 

「みーちゃんも……私も、心配していたから。綾小路くんは……私たちを信じてプライベートポイントを払って話し合いを延長させてくれたのに……クラスの皆は(めん)と向かっては言ってないけど責めていて……」

 

「それが正常だ。坂上先生も仰っていただろ? 愚かにも程があるって。事実その通り──」

 

「そんなことないよっ!」

 

 大声を出して、佐倉は強く叫んだ。

 オレはそんな彼女を見て瞠目してしまう。何が彼女をそこまで駆り立てているのか分からない。

 

「あの……綾小路くんはどうして、石倉先輩や須藤くん、そして私を信じてくれるんですか?」

 

 どうして、か。

 結末を知っている身からすれば、これは信じるか信じないかの話ではない。

 しかしそれを言うわけにはいかない。

 オレは言葉を選んで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「友達を信じるのは当然だろ?」

 

「そっか……うん、そうだよね。ありがとう綾小路くん。綾小路くんには勇気を貰ってばかりだね」

 

「佐倉……?」

 

 どうにも様子がおかしい。

 こう言っては失礼だが、()()()()()()()

 何故廊下を走り、疲労困憊になりながらもオレを追い掛けてきたのか。

 何故彼女は(あわ)く微笑んでいるのか。

 

「私ね……綾小路くん。みーちゃんや綾小路くんに告白すべきことがあるんだ」

 

「告白?」

 

「うん。けどその前に、私が前に進むために……『成長』するために、やらなくちゃいけないことがあるから。また今度言うね。それじゃあ綾小路くん、話し合い、頑張ってね。私は、その……何があっても綾小路くんと友達で居るから。きっとみーちゃんも」

 

 さよなら、佐倉は別れの挨拶を口にして去っていく。

 嫌な予感がする。

 オレは彼女を追い掛けたい衝動に襲われた。今彼女をこのまま見送れば、彼女が消えるような錯覚さえ覚えた。

 思い過ごしならそれで良い。オレの妄想ならどんなに安心できるだろう。

 

 ──脳が警戒音(アラーム)を出し続けている。

 

 オレは携帯端末を素早く操作し、ある人物に連絡を取った。

 応答した人物が声を挟む、その前に、オレはそいつに言った。

 

「頼みがあるんだ──」

 

 頼み事を手早く告げると、電話相手は非常に面倒臭そうな声を出した。しかしそれも数秒で収まり、一言、分かったと了承した。

 過保護だなとバカにされたが、背に腹はかえられない。

 オレは改めて礼を告げてから、生徒会室に足を運んだ。

 

 

 

 

§ ─同日:特別棟:午後三時四十五分─

 

 

 

 放課後を迎えた特別棟は蒸し暑い。そんなことは分かり切っていたはずなのに、どうしても暑いと感じてしまう。

 スクールバッグから下敷きを取り出してパタパタと扇いでいると、タオルで汗を(ぬぐ)っている男の子の姿が視界に留まった。

 この学校に在籍している生徒は制服のブレザーの着用が義務付けられているから、夏は私たち女子生徒が有利だ。

 まぁ冬は立場が逆転しちゃうんだけど……。スカートだから仕方がないとはいえ、これは中々に問題だ。友達から聞いた話では、個別でプライベートポイントを支払うことでスクールコートが購入出来るそうだ。是非とも買うとしよう。

 

「平田くんは暑そうだねー」

 

「あはは……暑いよ、途轍(とてつ)もなくね。小宮(こみや)くんたちには文句の一つでも言いたいところかな」

 

「おお、良いね!」

 

「一之瀬さんは……見る限りだと涼しそうだね」

 

 いやいや、もの凄く暑いよ! そう叫びたい衝動に駆られたが、やめておいた。

 この暑さの中、エネルギーはなるべく消費したくない。その代わり、すぐ近くで買ったジュースで水分を補充する。Dクラスの平田くんはポイントに余裕がないからか無料飲料水だ。

 偽善だと思われるだろうけど、申し訳なさを感じてしまう。

 

「ごめんね、何か買ってくるべきだったかな」

 

「いいや、大丈夫だよ。この無料飲料水も、味わえばそこそこ美味しいからね」

 

 平田くんは噂で聞いた通りの人の良さだ。

 てっきり憎まれ口でも叩かれると最悪覚悟していたから、ちょっと拍子抜けしてしまう。

 これも友達から聞いた話だけど、一年生女子生徒の間には様々な種類のランキングがあり、男子生徒を格付けしているそうだ。

 例えばイケメンランキングや、お金持ちランキング、優しい人ランキング、将来結婚したら不倫しそうランキング、さらには気持ち悪いランキングなんてものもあるそうだ。

 ……私はそれを友達から聞いた時、同性ながら、『女子の闇』を垣間見たような気がした。同意を求めてくる友達に私は苦笑いしか出来なかった。

 平田くんは多くのランキングで上位に入っていて、女の子たちの憧れの元だ。彼とは少ししか接していないけど、なるほど、言われるだけはあるなぁって思う。

 イケメンランキングでは堂々の二位だ。外見と性格で大きく稼いでいるそうだとか……。後者は兎も角、前者はなぁ……。

 これもまた偽善だと思われるだろうけど、やっぱり人は、外じゃなくて内で視るべきだと思う。

 心の中で自嘲(じちょう)しながら、そう言えば『彼』もランキング上位者として名を載せていたなと思い出した。

 確かイケメンランキングでは四位だった気が……いやでも、根暗そうランキングでも上位者だったような気が……。

 良くも悪くも『彼』はプラスマイナスゼロだ。少なくとも第一印象はそんなものだろう。

 ところが『彼』を少しでも探ってみると中々、噂は絶えない。本人は知らないだろうけど……。

 曰く、『Cクラスの生徒と付き合っている』だとか、『自由人と唯一、同性で昼食を共にした英雄』だとか、『生徒会長に失礼な態度を取った』だとか、中には耳を疑うようなものもある。

 私と『彼』が出会ったのは偶然だったけれど、それでもすぐに『彼』が綾小路清隆くんだと分かった。椎名(しいな)さんとの噂が出回ってからは彼の写真は女子生徒の間であちらこちらに流れていたから。

 

「平田くんはどうして、綾小路くんのことを下の名前で呼んでいるの?」

 

「えっ?」

 

 ぱちくりと瞬きした。

 自分で聞いておいて笑ってしまった。答えを聞くまでもない。それだけ彼らが親しいだけだろう……。

 ところが平田くんは何やら思案し始めた。

 

「うーん……そうだね、一言では言えないかな。どうしてだい?」

 

「ううーん……どうしてだろう?」

 

 質問しておいて理由が分からない。

 平田くんはそんな私を見て苦笑いを零した。ちょっと……いや、かなり恥ずかしい。

 

「いつまで続くかは分からないけど、清隆くんはこれから、一年生の中で台風の目となるだろうね。幸い、夏休みが入るからまだマシだけど……」

 

「……どこまで計算しているのかな?」

 

「それは僕にも分からないよ。何せ、計画を打ち明けられたのはついこの前だからね。より具体的に言うなら、一之瀬さんが僕たちに協力し始めてくれた次の日だよ」

 

 私よりも後だったのか……。綾小路くんにとって、順序はさほど問題ではないのだろう。

 

「責めなかったの?」

 

「責めようと思ったさ。けど残念なことに、長い目で見ればDクラスに大きな利益を(もたら)すからね。怒るに怒れなかったよ」

 

「本当、清隆くんは性格が悪いね」と平田くんは笑う。

 そう、綾小路くんの恐ろしいところはそこにある。

 彼の瞳に映っているのはどこまで先の景色なのか。一人だったら不可能に近いそれを、彼は『協力者』を募ることで達成させてしまう。

 

「絶対、注目を浴びることも考えていると思う」

 

「にゃはははー……だよねえ。彼に気取られていたら平田くんに喰われちゃうから、難しいよ」

 

 本当に恐ろしい。

 平田くんは優秀だ。意識が綾小路くんに割かれている他クラスを出し抜くなんてことは充分に可能だ。

 これが、Dクラスに纏まりがなかった頃だったらまだ良かった。しかし今のDクラスには徐々に仲間意識が生まれ始めている。

 平田洋介くん。軽井沢(かるいざわ)(けい)さん。櫛田桔梗さん。堀北鈴音さん。さらにこれに、綾小路清隆くんも加わるのか……。

 これで学校公認の『不良品』なんて、嘘にも程がある。

 今はまだ、500近いクラスポイントの差があるから余裕がある。

 けどこれも、夏休みの間に詰められるだろう。私の見立てでは、長期休暇中に『ボーナスポイント』を得る機会があるはずだ。

 尤も、これに勘付いているのは私だけじゃない。他クラスのリーダーたちも察し、水面下で動き始めているだろう。

 クラス争奪戦、その始まり。前哨戦(ぜんしょうせん)。それはついに、最終局面を迎えようとしている。

 時間を確認する。

 そろそろ待ち人が来る頃合いだろう。

 

「それじゃあ私は一旦隠れるね」

 

「うん。出るタイミングは一之瀬さんに一任するよ」

 

 Bクラスの私が最初から居たら不自然だ。

 私は平田くんから離れ、近くの角に隠れた。

 そして程なくして、三人組の男子が暑い暑いと愚痴を零しながら姿を現した。小宮くん、近藤(こんどう)くん、石崎(いしざき)くんのCクラスの生徒。

『暴力事件』の『被害者』だ。少なくとも現段階では。

 

「櫛田ちゃんが俺たちに何の用かな?」

 

「も、もしかして……告白!?」

 

「だとしたら三人はおかしくないか?」

 

「って言うか、このままだと審議会に遅刻するんじゃないか?」

 

「大丈夫だろ。体調を崩しましたとでも言えば良いさ」

 

 言葉を聞く限りだと、彼らは随分と楽観、嬉しそうな様子を窺わせた。

 無理もない。

 小宮くんたちを呼び出したのは、櫛田さんなのだから。同性の私から見ても彼女は可愛いから、彼らのテンションが上がるのは当然だろう。

 ところが彼らのその雰囲気はなくなった。十中八九、平田くんに気付いたからだろう。

 

「やあ。小宮くん、近藤くん、石崎くん」

 

「は? 確かお前は……平田だったか? どうしてお前が居るんだよ? 櫛田ちゃんはどこだよ?」

 

「まずはそのことについて謝らせて欲しい。櫛田さんはここには来ないよ。あれは嘘だったんだ。僕が強引に彼女にメールをさせたんだ。彼女には嫌われてしまったけどね」

 

 チッ──舌打ちが誰かの口から出された。この暑い中特別棟へ足を運んだのに、彼らの願った人は居なかった。その反応は当然だろう。

 

「おいおい、平田。だとしたら何の用だよ」

 

「決まっているだろう。話し合いがしたいのさ」

 

 はあ? ……この声は多分、石崎くんだろうか。何度か話したことがあるからまず間違いないだろう。

 

「話し合いだぁ? おいおい平田、俺たちにいまさら、そんなものは必要なのか?」

 

 それとも暑さでやられたか? バカにしたように笑う石崎くんたち。私は知っていたが、やっぱり彼がリーダー的な立ち位置なのだろう。

 平田くんは怒ることもせず、「勿論だよ」と言う。

 

「友人が身を削ってまで逆転の機会を作ってくれたんだ。何かしたいと思うのは当然じゃないかな?」

 

「はははは! 友人っていうのは綾小路のことか! 平田、ダチは選んだ方が良いぜ!」

 

「そうかな? 少なくとも僕は清隆くんのことを大事な友人だと思っているよ。──それよりいい加減、話し合いをしよう。時間もないしね」

 

「ハッ、これだから『不良品』は困るんだ。どう足掻いたって真実は隠せねーんだよ! 俺たちは須藤に殴られた!」

 

「そんなことは重々承知しているよ。議論するつもりも毛頭ない。僕たちDクラスも、きみたちCクラスも絶対に『被害者』だと言い張る。それは彼から聞いたさ」

 

「だったらどうする? 俺たちをここで足止めでもするか? それでも別に良いぜ?」

 

 挑発する石崎くん。しかし平田くんは取り合わない。

 石崎くんたちに脅しの類は通用しない。特に石崎くんは尚更だ。流石、中学時代は学校を代表した不良生徒だ。

 そこまで考え、私は一人自嘲した。人のことを私は言えないのに、何を偉そうに思っているんだろう。

 

「もう行こうぜ」

 

「そうだな。あ〜あ、櫛田ちゃんに会いたかったなあ……」

 

 立ち去る彼らを、平田くんはとめない。とめる必要がないからだ。

 そろそろ私も舞台に上がるとしよう。

 

「久し振りだね。特に石崎くんとは」

 

 私は石崎くんたちの進路を阻むようにして立ち塞がる。

 

「お、お前は……一之瀬!?」

 

 私の突然の登場に、彼らは目に見えて動揺した。彼らには借りがある。私のクラスメイトが以前、Cクラスに絡まれたのだ。

 その時は幸い、今回の『暴力事件』のようにはならなかったけれど……Cクラスの『王』は侮れない。

 けど不思議なものだ。因果なことに、私は今回、結果的には、Cクラスを助けることになるのだから。

 

「どうしてお前がここに居るんだ!?」

 

「どうしてって言われてもなー……きみたち、私が一枚噛んでいるのをまさか知らなかったの? あれだけ分かりやすく動いていたのに?」

 

「……Bクラスは関係ねぇだろ!」

 

「関係ない? 何を言っているのかな石崎くんは。関係なかったら私はここに居ないよ?」

 

「うぐっ……」

 

「まぁ私のことは置いといてさ。嘘で皆を巻き込むのは感心しないなあ」

 

 わざとらしくため息を吐く。

 

「『被害者』は俺たちなんだよ! 須藤に殴られたんだ、俺たちは! 話し合いをしようとしてな! あいつは将来DV夫になりそうで怖いぜ!」

 

「いやいや、それは流石に言い過ぎだよ。後で須藤くんに謝りなよ?」

 

「うるせえ!」

 

 ()える石崎くん。小宮くんと近藤くんも追随する。

 平田くんが視線を送ってきた。どうやら活躍の場を譲ってくれるらしい。

 

「最初に言っておくね。『退学』になりたくなかったら訴えを取り下げるべきだよ、今すぐにね」

 

「……は? 訴えを取り下げるだぁ? 何バカなことを言ってやがる」

 

「きみたちが嘘を吐いているのは残念だけどお見通しなんだよね、って言っても?」

 

「は、はぁ……?」

 

「ねぇ石崎くん、きみはこの学校がどうして創立されたのか知ってる?」

 

「確か……次世代の担い手となる人間の育成」

 

 近藤くんが呟いた。聞いたのは石崎くんなんだけど……まぁ良いか。

 私はそう! と相槌を打って、言葉を続ける。

 

「そしてそのために、学校側は実力至上主義を掲げている。最初はそうだね……入学試験の時かな?」

 

 とはいえ、その基準はまだ分かっていない。

 高度育成高等学校に『普通』なんて常識は通用しない。それはこの三ヶ月間で痛感している。

 

「何が言いたいんだよ、お前はっ」

 

「まぁまぁ、落ち着きなって。そう、この学校は実力至上主義を掲げている。例えば前回の中間試験。きみたちCクラスは見事、学年一位の好成績を残したよね」

 

「ハッ、ざまぁみやがれ。どうしてか分かるか? 特別に教えてやる──」

 

「過去問でしょ?」

 

「「「……ッ!?」」」

 

 当てられるとは思っていなかったのか、石崎くんたちは目を見開かせた。

 これを聞いた時は寝耳に水だった。

 

「学校側は過去問を黙認していた。これは紛れもない事実だよ。見抜いたきみたちの『王』は凄いね」

 

「当然だ! 俺は龍園さんに付いていく!」

 

 個人的には、それはやめた方が良いと思う。

 Cクラスの『王』……龍園(りゅうえん)くんは必要とあらば平然と仲間を切り捨てるだろう。一切の躊躇なくだ。そしてそれは多分──。

 とはいえ、忠告することはしない。私から言っても意味は無いだろう。

 

「さてさて……随分と回り道をしちゃった。何が言いたいかって言うと、学校側はあらゆる視点から私たち生徒の実力を測っているんだよ」

 

「……」

 

「おかしいと思わなかった? どうして学校側は、きみたちに訴えられた須藤くんをすぐに処分しなかったのかな?」

 

「そんなの決まっている。不公平になるからだ。訴えた者勝ちになるから、今回の場合は一週間の期間を設けたんだろ」

 

 石崎くんの考えは正解だ。

 だけど私は否定する。

 

「言ったでしょ? 『学校側はあらゆる視点から私たち生徒の実力を測っている』ってさ」

 

 勿体付けるようにして答えを()らす。

 石崎くんたちは暑そうに何度も何度も手で風を扇ぐ。窓を閉め切った特別棟に、新鮮な涼しい風はやってこない。さらに季節は夏。西の空に沈みつつはあるけれど、まだまだ陽の光は顕在だ。

 彼らは今、灼熱地獄(しゃくねつじごく)の刑に処せられている気分だろう。

 脳への負担は相当なもののはずだ。

 

「そろそろ答えを言おうかな。石崎くんたちも辛そうだし……私たちもかなり厳しいからね」

 

「だったらその答えとやらを──」

 

()()()()()()()()()()()()。これが答えだよ」

 

 ぽかんと、石崎くんは間抜けな表情を作った。

 意表を突くという意味でなら、充分な一撃だっただろう。彼らが思考を停滞しているその間に私は彼らの横を通り過ぎ、平田くんの横に移動した。

 ここからは彼の役目だろう。

 

「状況が理解出来たかな?」

 

 平田くんの問い掛けに、ようやく彼らは我を取り戻した。そして慌てて顔を見合わせる。

 一人より二人。二人より三人。仲間が居ること、そのことに安堵し、彼らは一つの結論を出した。

 

「お前たちのそれは有り得ない!」

 

「有り得ない、か……。うん確かに、石崎くんたちの言う通りだ。けど、あるのさ。たった一つだけ、学校側が事件の真相を知る方法がね」

 

「ハッ! そんなものあるわけ──」

 

「あれ、見えるかい?」

 

 言葉を遮り、平田くんはある部分を指さした。天井付近を指さしている。

 彼の指先を目で追うと、そこには──()()()()()

 廊下の隅から隅を映す監視カメラは、時折、左右に首を振っていた。まるで、たった一つの見落としすら(ゆる)さないと告げるかのように。

 平田くんはゆっくりと罪人に近付いた。それはさながら、処刑執行人のようだった。

 

「これで僕たちが言っていることが分かったかな?」

 

「ば──そんなバカなことがあるか! 俺たちは確かに確認した! 防犯カメラがないことを! そもそも廊下に防犯カメラなんてないはずだ!」

 

「口、滑らせたね」

 

 どこまでも平田くんは笑顔だった。

 怖いくらいに綺麗な笑顔だった。

 石崎くんは慌てて口を閉ざすが、もう遅い。彼は制服のブレザーから携帯端末を取り出し、画面を三人に見せた。カメラの動画モードが作動していた。音声は充分に拾われているだろう。

 

「これでもまだ、きみたちは認めないだろう。だから説明すると、確かにそれは正しい。だけど物事には必ず例外がある。さて、その例外とは何だろうね? 答えを言うと、一つ目は職員室。これは言わなくても理由が分かるはずだ。そしてもう一つは──」

 

「特別教室がある所だよ。ところで小宮くん、特別棟三階にある教室は何か分かるかな?」

 

「……?」

 

 分からなくても無理はない。

 私たち一年生が特別棟を利用した回数はまだ少ないから。私自身、今回の一件がなかったら、まだ覚えていなかった。

 

「私が答えを言うとね──理科室だよ。さて問題です、理科室では実験を行います。時には危険な実験もあるでしょう。当然、学校側はもしもの時のためにあることをしなくてはなりません。それは何でしょうか?」

 

「……防犯カメラの設置……」

 

「正解だよ。これで僕と一之瀬さんの言葉を信じて貰えるかな」

 

「う、嘘だろ……」

 

「夢だろ、これ……!」

 

 小宮くんと近藤くんは顔を真っ青に染めていた。

 そんな中石崎くんだけはまだ闘志を残していた。震えながらもあちらこちらに視線を動かす。

 

「無駄だよ。防犯カメラはここだけじゃなくて、この階層の各所にしっかりと設置されているからね」

 

 それでもなお、石崎くんの瞳の奥には戦意があった。

 素直になれば良いのにと思ってしまうけれど、それだけ龍園くんに心酔しているのだろう。

 

「防犯カメラは無いって、確かに龍園さんは言っていた! それにオレたちも前日に確認した! 龍園さんと一緒にだ!」

 

「それは絶対の自信があるのかい? 特別棟は知っての通りシンプルな造りになっている。これは災害時、円滑に避難出来るようにという学校側の意向だろう。そしてシンプル故に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。きみたちが確認したのは別の階だったんじゃないかな? この暑さだからね、勘違いしてもおかしくはないよ」

 

 彼は一回嘆息してから、言葉を続けた。

 

「よく思い返してみなよ、石崎くん。僕が清隆くんから聞いた話では、堀北生徒会長は、清隆くんが審議会の延長を申請した時、『必要ない、これ以上は進展しないからだ』って言ったそうだね。どうしてだと思う? ……そう、学校側が最初から僕たちの実力を測っていたとしたら? だとしたら納得いかないかい?」

 

 平田くんはさらに揺さぶりを掛ける。

 

「こんな悪質な嘘を吐いたんだ。きみたちには『退学』の罰が与えられるだろう。同情の余地はないね」

 

『退学』の二文字が、彼らに突き付けられる。

 恐怖に震える石崎くんたち。

 視界が闇で覆われる彼らに、平田くんは一筋の光を灯した。

 

「とはいえ、須藤くんがきみたちを殴ってしまったのもまた覆しようのない『事実』だ。──だから、訴えを取り下げてくれないかな。須藤くんはDクラスの『財産』だ。彼に『前科』があると、彼の夢……バスケットのプロも実現が難しくなるだろう。何せ今の時代、情報は瞬く間に拡散するからね。そしてこれは、きみたちにも言えるよ」

 

 平田くんは一歩、もう一歩と大罪人に近付いていく。

 私が言うのもなんだけど、彼もどうやら気分が高揚しているようだ。

 ……いや、私とは違うか。

 彼が今纏っている雰囲気は少しだけ……そう、本当に少しだけだけど綾小路くんに近い。

 彼と彼が仲が良いのは短い付き合いの私でも見ていて分かった。

 けど彼らは、ただ単に仲が良いんじゃだけない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 そんなことを、ふと、死神を視て思った。

 石崎くんはがくがくと震えながら、制服のズボンのポケットから携帯端末を取り出した。

 

「まっ、待ってくれ……! せめて電話を一本させてくれ……!」

 

「ダメだ──と言いたいところだけど良いよ」

 

「あ、ありがとう……」

 

 何度も番号を押し間違え、石崎くんは電話を掛けた。

 九分九厘、龍園(かける)くんに掛けているのだろう。

 一コール、二コール、三コール……。

 結論を告げるのならば、龍園くんは電話に出なかった。

 最後の砦すらも壊され、石崎くんは床に尻餅を突いて項垂れる。小宮くんも、近藤くんも気付けば同じ様な有様だ。

 やがて特別棟三階の廊下に、小さな声が反響された。

 

「──分かった。訴えを取り下げる」

 

 

 

 

§ ─同日:ケヤキモール:午後四時十分─

 

 

 

 視線を感じる。

 嫌でも視線を感じる。

 (ねば)り付くような……気持ち悪い視線だ。

 ケヤキモールに一人でやって来た私は、つい先日利用したばかりの電気屋を訪ね、あの男性スタッフと話す決意をした。

 彼は私の『裏』を知っているから。別にそれは良い。覚悟はしていた。

 そういった目で視られることも覚悟の上で、私は、その世界に飛び込んだのだから。

 けれどそれは『裏』の時だけ。『表』の時は精々が時々で、一瞬で終わる。

 影が薄く、『自分』がない私になんて、誰も気に掛けてくれない。

 むしろそれを望んでいた。だって私は人と関わるのが苦手だから。

 どうしてもその人の瞳を見ると分かる。()()()()()()()。その人の『本質』が。

 電気屋さんに男性店員は居なかった。

 けれどケヤキモールの中を歩いている時に、視線を感じた。何度も感じている濁ったものだ。

 そして今私は、人気(ひとけ)のない場所にへと、怪物を誘おうとしている。

 それが実に愚かな考えか、ついぞ私は気付かなかった──。

 

 

 

 

§ ─同日:生徒会室前:午後四時十五分─

 

 

 

 生徒会室前廊下で、オレたちDクラス陣営はCクラス陣営を待ち侘びていた。

 再審議が開かれる予定時刻は昨日と同じく午後四時から。しかし彼らは約束の時間に間に合わなかったのだ。

 

「きみたちが何かしているんじゃないんですか!?」

 

 坂上先生が怒鳴り付けてくる。

 彼は生徒思いのようだ。それが本心かは分からないが。

 確かに状況を見れば、彼のように思うだろう。

 茶柱先生が不敵な笑みを浮かべ、堂々と迎え撃ってくれた。

 

「何か、とは? 私は何も知りませんよ。おおかた、手洗いにでも行っているのでしょう。彼らはかなりの重傷を負っていますから、苦労するでしょうしね」

 

「くっ……しかし! 綾小路くん、きみが友人に頼んで小宮くんたちを脅迫しているんじゃないのかね!?」

 

「残念なことに坂上先生、それは有り得ませんよ。実は昨日の暴走のせいで、友達が減ってしまい……頼れる友人はオレにはもう居ないんです。先生の仰った通りですよ、実に愚かな行動でしたね。只今絶賛、後悔しているところですよ」

 

 皮肉を返すと、坂上先生は悔しそうに唇を噛み締めた。

 堀北と須藤は何がどうなっているか分かっていない様子だ。いや、堀北だったらそのうち気付くだろう。

 

「生徒会長たちと少し話をしてきますね」

 

 返事を待たず、オレは生徒会室に足を踏み込んだ。

 生徒会長と書記の二人は酷く退屈そうだった。

 入室したオレに、(たちばな)書記が可愛らしく首を傾げた。オレ一人しか居ないことに疑問を持ったのだろう。

 

「小宮くんたち、まだ来ませんか?」

 

「はい」

 

「そうですか……困りましたね。生徒会長、どうしましょうか? 彼らが居ない状態で再審議を始めますか?」

 

「ああ……と言いたいが、今回の場合、再審議をいつ始めるかは綾小路が決める権利を持っているだろう。お前はどうしたい?」

 

「彼らが来るのを待ちますよ、もちろん」

 

 はあ……橘先輩からため息が漏れる。

 オレと堀北(まなぶ)は苦笑してしまう。気持ちは分かる。

 

「橘、席を外して貰えないか。この男と話すことがある」

 

「分かりました。綾小路くん、すぐそこにポットと紙コップがあるので、どうぞ飲んで下さいね」

 

 言われて見てみれば、確かに隅の方にそれらしき物がある。

 橘先輩は不満を何一つとして言うことなく、一礼してから生徒会室をあとにした。

 自分が関わってはならない領域だと察したからだろう。

 お言葉に甘え、オレはポットから紙コップに液体を注ぐ。この味は……緑茶か。平生は麦茶だから、新鮮な味だ。

 全部呷ったところで、堀北学が話を切り出した。

 

「さて綾小路。答え合わせをしよう」

 

「あんたがどこまで答えに迫れるか、楽しみにしている」

 

 洋介や一之瀬、『協力者』たちの報告はまだ届いていない。意外に時間が掛かっているが、それだけ石崎たちが抵抗しているのだろう。

 

 

 

「結論を先に出すとしよう。今回の『暴力事件』は──お前とCクラスが作った、人為的なものだな?」

 

 

 

 ぱちぱちと、オレは手を叩いた。

 それはつまり、堀北学の解答が正解だということ。

 彼の言う通りだ。

 今回の『暴力事件』、オレたちが仕組んだもの。

 もちろん、誤算もいくつかあった。例えば佐倉愛里(あいり)という、目撃者Xの出現。昨日、写真を見た時は内心、冷や汗を少しばかり流していたし、堀北の健闘ぶりには驚かされた。

 だが結局、須藤(けん)の『無実』は勝ち取れなかった。何故ならCクラスからすれば、彼を一日でも停学処分にさせれば良い。それだけのこと。

 そして須藤健が連中を殴った時点で、『無罪』は有り得ない。

 そしてオレたちの目的は二つある。

 

「お前たちの狙いは二つ。一つ目は、生徒間の諍いに、学校側がどこまで関与し、どのような判決を出すか。だがこれはあくまでも副産物。お前たちの真の狙いは──プライベートポイントがどこまで使えるか、その効果を実証すること」

 

 そう、それこそが今回、オレたちの最終目的だった。

 そのためだけにオレと龍園翔は計画を緻密に作り、実行してみせた。

 

「いつから考えていた?」

 

「五月上旬から」

 

 即答すると、堀北学は目を見張った。

 そして面白そうに喉を鳴らす。眼鏡のレンズ越しに見える瞳には、確かに、好奇心の色が映っていた。

 視線で尋ねてくる。

 オレは携帯端末を制服のブレザーから取り出した。小刻みに震えたからだ。メーセージが届けられた合図であり……『暴力事件』が消失した瞬間でもある。

 石崎たちが特別棟から校舎四階の生徒会室に移動するまで、どんなに急いでも十分は掛かるだろう。

 オレは目の前で答えを待つ彼に、全ての真実を話した。

 

 

 

 

§ ─五月上旬:和食店:夜─

 

 

 

 突然だが、五月上旬、オレと龍園がケヤキモール内にある和食店での出来事について聞いて欲しい。

 一緒に店を訪れていた椎名は既に居ない。本の発売日だと言って、本屋に行ってしまった。

 オレは龍園と向かい合うようにして座っていた。

 彼は意識の隙を突くようにして、誘惑してくる。

 

「単刀直入に言おう。──俺のスパイになれ」

 

 拒否するよりも先に、オレは呆れ顔を浮かべてしまった。

 龍園が何を言おうとしていたのかは察していたが、それでも、本当に言ってくるとは思わなかったからだ。

 

「オレが素直に頷くと本気で思っているのか?」

 

「ククッ、まさかな。逆にすぐ頷いていたらこの話はなかったことにしてたぜ。けど良いのか? 俺に協力しないということは、俺を敵に回すことだぜ?」

 

「Dクラスのオレなんかに時間を割いても良いことなんて何一つとしてないぞ」

 

 肩を竦めるが、龍園は静かに嗤い続ける。

 そして何やら言い始めた。

 

「綾小路清隆……ごく普通な一般生徒。お前のことを調べさせたが、そんな評価しか出なかった。すぐに調査が終わって驚いたくらいだぜ。──全てに於いて平凡な男」

 

「何を言い出すのかと思えば、そんなことか。言い返したいところだが、事実だからな。甘んじて受け入れるさ」

 

「ハッ──綾小路、嘘を吐くんじゃねぇよ」

 

「嘘? 何を言っているのかよく分からないな」

 

 とても愉しそうに、龍園は唇を歪める。

 それはつまり、何かを確信しているということ。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()、綾小路。学力でも、身体能力でもお前は、ちょうどクラスの真ん中に位置するだろう。恐らく学年でも変わらないだろうさ」

 

「何が言いたいんだ?」

 

()()()()()()()()()()

 

「断定するからには証拠があるのか?」

 

 犯人が言いそうなことを言うと、獰猛な目で、龍園翔はオレを見つめた。

 しかしオレが頷くわけがない。

 ……喉が渇いたな。オレは焙じ茶が入っているグラスを口元に近付ける。

 美味いなと呟いた、その瞬間だった。

 

「……ッ!?」

 

 龍園が素早い動作で殴りかかって来る。場所は顔。オレは首を傾けることで避けた。グラスに入っていた液体が僅かに溢れる。

 

「この距離で避けるか……!」

 

「この距離も何も、別に誰でも避けられるだろうさ。テーブルを挟んでいるから、一定以上離れている」

 

「クククッ、ジョークにもならないぜ。お前は飲み物を飲んでいた。当然、意識はそっちに割かれていたはず。が、お前は避けてみせた」

 

「偶然だ、偶然」

 

「まぁ良い。綾小路、お前が実力を隠していることが分かった、それだけで収穫はあった」

 

 ()()()()()()()()

 そう言ったところで、この男は考えを改めないだろう。

 

「話を戻すとしよう。スパイの話だったか。それはオレに、自分のクラスを裏切れと?」

 

「クラス闘争に興味が無いのなら、最悪、椎名が居れば良いだろ。事実今のお前に、特別親しい友人は居ない。違うか?」

 

「違うな。龍園、確かにお前の言う通り、事情があってオレは実力を隠している。それをこの短時間で察したのは素直に称賛しよう。だがお前は一つだけ読み違えていることがある」

 

「読み違えていることだと?」

 

 

 

「ああ、オレはいざとなったら椎名を切り捨てるだろう」

 

 何故多少無理をしてまで、他クラスの椎名ひよりと深い友人関係を築いているか?

 もちろん、オレ自身、彼女のことを好いているというのもある。女性として魅力的だとも思っている。これはオレの本心だ。

 だがしかし、同時に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。彼女が『使える』人間なのは、入学してからの一ヶ月で分かっていた。

 とはいえ、そうなって欲しくはないとも思う。

 

「お前は面白いなあ、綾小路! 話せば話す程分かるぜ、俺とお前は同じだ」

 

「そうかもしれないな。否定する気はない。オレも……そしてお前も、()()()()()()()()()()()()()

 

 どうしても自分に利益があるのかを考えてしまう。

 これは呪いだ。呪縛が解ける日は来ないだろう。

 

「さて、スパイの話だったか。クラスを売るにしても、それ相応の対価が必要だ」

 

 言外で、用意してあるんだろうな? と問う。

『王』は当然とばかりに頷く。

 

「安心しろ、クラスを売ってもらうにしてもその話は今じゃない。オレの計画に『共犯者』として協力してくれればそれで良い。伝達役としてひよりを使う」

 

「それで、その計画とはやらは?」

 

「虚偽で満たされた『暴力事件』を起こす」

 

「……『暴力事件』か、一筋縄じゃいかないぞ。下手したら巻き込まれた生徒は『退学』になるかもしれないな」

 

 さらには尻尾を摑まれて、オレたちの元に辿り着く生徒も居るかもしれない。

 

「無論、計画は慎重に進める必要がある。Dクラスのお前と、Cクラスの俺とで管理するんだ」

 

 正気を疑いたくなるが、龍園翔は本気だ。

 冷静に思考する。

 実質不可能だが、不可能ではない。成功確率は半分すら超えないだろう。

 

「そこまでして実行するメリットは?」

 

「学校側の対応及び、プライベートポイントで出来ることの実験だ」

 

「一つ目は分かる。だが二つ目はいまいち要領が摑めないな」

 

 確かにプライベートポイントは出来るだけ所持しておいた方が良いだろう。

 しかしプライベートポイントはあくまでもクラスポイントの副産物だ。少なくともオレはそのように認識している。

 

「もしかして綾小路、お前……知らないのか?」

 

「知らないって、何をだ」

 

「Aクラスへの裏道に決まっているだろ。おいおい、まさか本当に知らないのか?」

 

「ああ。この一ヶ月間、そんな話は一度も耳に挟んでいない」

 

 必死に記憶を探るが、それらしき情報は見付からなかった。どうやら龍園の態度から察するに、一年生全体の共通認識らしい。

 オレは彼から教えて貰った。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。裏を返せば、ポイントさえ払えばAクラスに昇ることが出来る、ということのようだ。

 とはいえ、対価はそれ相応に高く、2000万prが必要になること。

 さらに彼は教えてくれた。

 部活動や個人の活動で何らかの成績を残せば、クラスポイント及びプライベートポイントが振り込まれること。

 全部初耳だった。

 

「担任から言われなかったんだな。ククッ、お前らの担任は話に聞いていた以上の(くず)だな」

 

 嘲るように、龍園は茶柱先生を(おとし)めた。

 

「お前の狙いは分かった。やるだけの価値があると思う。特に二つ目はな。『共犯者』として手を貸すのも良いだろう。だが──弱いな」

 

「それは計画がか?」

 

「いいや、違う。龍園。もし『偽りの暴力事件』が成功したそのあかつきには、オレにプライベートポイントを譲渡してくれ」

 

「報酬が欲しいと?」

 

 面白そうに龍園は目を細める。

 聡い彼のことだ、現在の所持プライベートポイントは10万pr以上はあるだろう。五月分のCクラスのクラスポイントは490cl。

 その数値を基準にして計算する。

 

「ああ。オレは報酬として15万prを要求する。もちろん、今すぐに払って欲しいわけじゃない。分割払いでどうだ?」

 

「高いな。10万pr、これが上限だ」

 

「……分かった。遅くても今年中には譲渡してくれ。椎名経由で送ってくれればそれで良い」

 

『契約』が結ばれた。

 この決断が正しいか、それとも間違いなのは分からない。それでも後悔はしないだろう。

 

「綾小路、お前がもしクラス闘争に参加すると言うのなら、その時は相手になってやるよ。ひよりを使っても良いぜ」

 

「負ける未来は思い浮かべないのか?」

 

「負ける未来? そんなものはいつも思い浮かべている。俺はいつだって負けてきたからな。だが──最後に勝つのは俺だ。過程なんざどうでも良いんだよ」

 

 その言葉を瞬間、オレは今日初めて、心の底から笑みを浮かべた。

 

「2000万pr貯まったら、Cクラスに行くのも面白そうだな」

 

「その時は歓迎してやる。俺の片腕としてな」

 

「冗談よしてくれ。Dクラスに居ようと、Cクラスに居ようとオレは面倒事には巻き込まれたくないんだ。傍観させて貰う。平穏な学校生活を送れたらそれで良いのさ」

 

「ククッ、そう言う割には首を突っ込むけどな」

 

「今回だけだ」

 

 オレが今回手を貸すのは、何度も言うがそれだけの価値があるからだ。

 高度育成高等学校で生き抜いていくためにやるべきことは、学校の『システム』と『ルール』を理解すること。

 ()()()()()()()()()()()()

 例えば『プライベートポイントで買えないものはない』。学校側はこの言葉を公言しているが、限度がある。例えば生徒の人権なんてものは買えないだろう。本人の承認があれば話は別だろうが。

 兎にも角にも、その限度を見極めることが何よりも大切だ。

 

 

 

 

§ ─同日:生徒会室:午後四時二十二分─

 

 

「なるほど、よく分かった。およそ二ヶ月の準備期間の果てに、お前と龍園は『偽りの暴力事件』を起こしたというわけか」

 

「ああ。時期的にもちょうど良いと判断した。夏休みを目処に、クラス争奪戦が本格的に始まると視ているからだ」

 

 そうだろうと視線で問い掛けるが、堀北学は答えなかった。いいや、答えられなかったと言うべきか。

 

「時期を六月の下旬に決めたお前たちは、次に誰を『偽りの暴力事件』に巻き込むのかを考えた」

 

「Cクラスからは龍園の下僕の石崎は決定事項だった。そして不運にも選ばれたのが、須藤健だった。かなり早い段階から決まっていたよ」

 

「仮にも友人だろう。龍園をとめなかったのか?」

 

「いや、むしろ好都合だった。オレが当時関わりがあったのは須藤くらいだったからな。逆にやりやすかったくらいだ」

 

 オレが何故これまで須藤と朝の非生産的な行いに付き合ってきたのか。それはオレがこの時間を気に入ったから、というのもあるが、それはひとえに彼との信頼関係を築くため。

 彼が堀北鈴音に惚れたのは完全に計算外だったが、彼から恋愛相談を受けることでより一層、彼からは信頼されるようになった。

 彼の平生の行いを良く軌道修正させたのも、『偽りの暴力事件』が起こった時に、またこいつは面倒事を起こしたのかとDクラスのクラスメイトに思わせ、失望させるため。

 だが現実的に考えて、クラスメイトの助けがなければ須藤健は一方的に負ける。

 故に『成長』した彼が何らかの行動を起こすことは想像出来たし、そこに先導者が手を差し伸べることも想定内。そして一致団結……とまではいかないが、それに近いことが出来ればそれで良い。

 

「須藤健を標的にするにあたって、次は小宮と近藤を巻き込む必要があった。須藤の才能は入学当初から逸脱していた。嫉妬していた彼らは、あっさりと石崎に協力してくれたよ」

 

「あとは全て、龍園の策なのだろう?」

 

 正確には、龍園の策をオレと椎名が補完した形になる。

 彼女もまた、計画に関わった者の一人。争い事を好まない彼女は最初、『偽りの暴力事件』を起こすことに否定的だった。説得するのに時間を割いた。

 

「しかし運の要素が多分に含んでいたな。もし我々が権利を売らない、もしくは、10万prでは足りないと言ったらどうするつもりだった?」

 

「いや、確信していた。()()()()()()()()()()()()()()。学校側がそう、公言している以上、その言葉には意味を持たせないとならない。そして仮に学校側が請求額を決めるにしても、精々が10万pr辺りだろうと。その読みが外れても、オレは25万pr所持していたからな。それ以下だったら払えた」

 

「なに……25万prだと? そのうちの5万prはお前が元々所持していたもの、10万prは俺が譲渡したものだが……残りの10万prはどのようにして手に入れた?」

 

「龍園のプライベートポイントだ。だから今の彼の手持ちポイントは実質Dクラスの生徒とさほど変わらない状態だ」

 

「なるほど……と言いたいが、だとしたら何故、昨日の早朝に俺を呼び出した。確信していたのなら必要性は皆無だろう」

 

「生徒会がどこまで学校のルールを知っているのかを聞きたかったんだ。電話で話すようなことじゃないし、かと言って一年のオレが三年のあんたと話すのは話題となるだろう? だから敢えてあの場所にした」

 

 そのためだけに密会したと言っても過言ではない。

 この男は目立ってしまうから、人目を盗んで会うことに神経を使ってしまう。

 それにこの男はルールの中でオレの味方をしている。第三者に悟られない程度に、ひっそりとだ。それに応える必要があった。

 

「なるほどな……Cクラスから同席を認めるように申請させたのもお前たちの策略か」

 

「ああ。傍から見ていたら『不良品』を見下しているようにしか映らないだろう。学校の風潮を利用させて貰った。これで答え合わせは終わりだ」

 

「会長、綾小路くん。Cクラスの生徒がやって来ました」

 

 ノックし、橘書記が生徒会室に足を踏み入れる。

 困惑を隠せないでいる彼女に、生徒会長が声を掛ける。

 

「どうかしたか?」

 

「……小宮くんたちが、訴えを取り下げたいと言ってきています」

 

「ほう。……取り敢えず、全員着席させろ」

 

「分かりました」

 

 生徒会長の指示のもと、橘書記は一旦室内を退出し、関係者全員を呼びに行った。程なくして、Dクラス陣営の茶柱先生、堀北、須藤が、Cクラス陣営の坂上(さかがみ)先生、小宮、近藤、石崎が現れ、各々の席に座る。

 進行役の橘書記がまず先に口を開いた。

 

「それでは先程の話を生徒会長と綾小路くんに伝えて下さい」

 

 三人は尋常じゃない程の汗を掻いている。様子がおかしいのは誰の目から見ても明らかだった。

 代表して答えたのは石崎だった。

 

「この話し合い……無かったことにして欲しいんです」

 

「それはつまり、和解した、もしくは和解したいということか?」

 

 生徒会長が鋭い視線を浴びせる。

 露骨なまでに狼狽(うろた)えるが、それでも石崎は言った。

 

「ち、違うんです……。今回の件、僕たちは遅まきながらどちらが悪いという話じゃないことに気付いたんです。だから訴えを取り下げたいんです」

 

「訴えを取り下げる、か」

 

「何がおかしいんですか茶柱先生!」

 

 言葉を荒げる坂上先生に、茶柱先生は薄く笑みを浮かべて答えた。

 

「いや、失礼。てっきり私は今回、綾小路の暴走のせいで我々Dクラスが完全敗北するものと思っていたので。それがよもや訴えを取り下げるとは……意外な結末に驚いているだけですよ」

 

 歯軋りした彼は、次のターゲットとしてオレを定めた。

 

「綾小路くん! きみが何かしたのでしょう!? 小宮くんたちを脅すなりしたんじゃないんですか!?」

 

「坂上先生……僕たちはもう何があろうと訴えを取り下げます。考えは変えません」

 

 理解出来ないと、坂上先生は唖然とするしかなかった。

 頭を両手で抱える。

 その一方で、生徒会長と書記は小声でやり取りを交わしていた。どのように対処するか話し合っているのだろうか。

 やがて橘書記が生徒会の考えを口にした。

 

「訴えを取り下げると言うなら受理します。話し合いの最中に於いて、審議を取り消すケースは極稀にですが起こり得ますから。ただし規定に則り、小宮くんたちには諸経費として、プライベートポイントをいくつか徴収します。構いませんか?」

 

 初耳だとばかりに顔を見合わせるが、三人は頷いた。

 何があっても彼らは意志を変えないだろう。

 だがそこに待ったを掛ける人物が居た。

 

「待てよ。勝手に訴えて、勝手に取り下げる!? しかも大幅に遅刻して!? そんなの認められるわけがないだろうが!」

 

 須藤の不満は尤もだ。

 しかしそれでは困る。オレが彼を(いさ)める前に、生徒会長が何やら思案し始めた。

 

「須藤の主張も当然と言えよう。客観的に見れば、小宮たちの行動は自分本位のもの、自己中心的なものだ。よってポイントの徴収とは別に、綾小路にプライベートポイントを納入して貰おうか。一人につき1万prだ」

 

「ま、待ってくれないかね生徒会長! 生徒会に納めるのなら納得出来るが、どうして彼に……」

 

「小宮たちが時間に間に合っていたら、ポイントの徴収だけで済ませました。しかし坂上先生、彼らは開始時刻に大幅に遅刻している。どのような理由があるにせよ、これは紛れもない事実です。そして同時に、許されてはならないものです」

 

 生徒会長は冷静に言葉を続ける。

 

「判決を下すのは我々生徒会だ。これは絶対的なものであり、揺らぐことはない。しかし今回、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「どういうことだよ? 綾小路の方が強い権限を持つって?」

 

 話に付いていけない須藤が疑問の声を上げる。

 答えたのは茶柱先生だった。

 

「綾小路が昨日10万prで買ったのは、実質的には話し合いの場そのものだと言うことだ。例えば彼は、小宮たちを待たずに再審議会を開くことが出来た。しかし彼は待った。遅れてやって来たのにも拘らず身勝手に訴えを取り下げるなどと、許されるわけがないだろう?」

 

「そっか、そうだよな!」

 

 分かっているかは甚だ疑問だったが、本人が納得しているのならそれで良いか。

 

「その上で聞こう。訴えを取り下げるか?」

 

「は、はいもちろんです」

 

 一人につき1万pr。合計3万prがオレの手元に戻ってきた。ラッキーだと思うことにしよう。

 

「Dクラス側は認めるか?」

 

「……ええ、認めます」

 

「それではこれで『暴力事件』は終わりだ。解散してくれて構わない」

 

 学校中を巻き込んだ『暴力事件』は呆気なく幕を下ろした。

 Cクラス陣営は生徒は安堵の、教師は悔しそうな表情をそれぞれ浮かべながら生徒会室を出て行った。

 すぐに坂上先生の追及する声が聞こえてきたが、どうでも良いことだ。

 オレたちDクラス陣営も早々に立ち去ることを決める。扉を閉める直前、橘先輩が手を軽く振ってくれた。

 廊下に出ると、オレは茶柱先生に確認を取った。

 

「『暴力事件』は終わった。それはつまり、須藤は今日から部活に参加出来ますよね?」

 

「無論だ。青春を励むが良い。今だけだからな、思う存分に遊べるのは。それでは私は失礼する。仕事が山積みだからな」

 

 去っていく彼女の背中に哀愁さが漂っていたのは気の所為だと思いたい。

 残されたのはオレ、堀北、須藤の三人になった。

 どんな風に話を切り出したら良いかを考えていると、須藤に両肩を摑まれた。興奮しているのか、かなり痛い。

 

「綾小路、本当にサンキューな! お前にはいつも迷惑を掛けちまってよ……謝らせてくれ」

 

「謝るのはむしろオレの方だぞ。悪いな、勝手に行動して。今回は運が良かったよ。だからお前が謝って、感謝するのはオレじゃない。洋介や櫛田、そして堀北だ」

 

「もちろん堀北たちにも感謝している。けどよ……上手く言えないけどよ、俺は昨日、綾小路、お前があの行動を取ってくれた時嬉しかったんだ」

 

「そうか」

 

 須藤は照れているようだった。

 

「須藤くん。そろそろ部活に行ったらどう? 石倉先輩や顧問の先生が待ち侘びていると思うわ」

 

「ああ! そんじゃあまた明日な!」

 

 心の底から破顔(はがん)して、須藤は廊下を駆けて行った。走ると危ないが……今日は無礼講か。

 一週間強、彼は大好きなバスケットを禁じられた。是非とも部活を楽しんで貰いたい。

 これで残されたのはオレと堀北の二人。

 静寂は不意に切られた。

 

「──あなた、何をしたの?」

 

「何をしたとは?」

 

「Cクラスの三人が理由なく訴えを取り下げたとは思えない。なら答えは決まっている。あなたが昨日10万prを躊躇なく支払ったのは、昨日の時点で……いいえ、それよりも早い段階で解決策を思い浮かべていたから。違う?」

 

「想像に任せる」

 

「あくまでも答えるつもりは無いと」

 

 睨んでくるが、オレは見つめるだけに専念する。

 堀北鈴音に『偽りの暴力事件』を告げる気持ちはない。彼女は洋介とは違って、利用価値が感じられないからだ。

 もちろん、優秀だとは思う。

 しかしそれだけだ。

 現時点での彼女は、ただ優秀な生徒でしかない。

 

「それじゃあ、オレは帰る。また明日」

 

 一応挨拶をしたが、返事は返されなかった。

 予め分かっていたことだが、今回の一件でオレは、他の生徒からある程度警戒されるだろう。だが一応、布石は打っておいた。

 充分に機能するとは思えないが、無いよりかはマシだろう。

 オレは今後、動くつもりはない。ごく普通な平穏の学校生活を送るつもりだ。

 それにオレが動かなくても、変わりつつあるDクラスならある程度は戦えるだろう。

 オレが今回、『表』とは別に『裏』で狙っていたことは三つ。

 

 一つ目は、櫛田桔梗に『契約』を持ち掛けること。

 

 二つ目は、Dクラスの結束力を限りなく高めること。

 

 三つ目は、須藤健をDクラスの『財産』にすること。

 

 これら全ては計画当初には無かったもの。準備期間中、湧き上がったものだった。

 特に一つ目はオレにとっては真っ先に片付けたい問題だった。櫛田桔梗の存在如何(いかん)によっては、オレの高校生活に支障を来す可能性が高い。だからこそ、両者の立場を限りなく平等にすることによって、『契約』を結ぶ必要があった。

 二つ目、三つ目は、平田洋介を本格的な『協力者』に仕立て上げるもの。計画を打ち明けた際彼は当然ながら良い顔をしなかったが、Dクラスには何も被害が(こうむ)らないこと、そして長い目で見れば莫大な利益を齎すことを告げたら一応は納得してくれた。

 一之瀬帆波がDクラスに近付いてきたのは完全に想定外だった。そして彼女だけが、朧気(おぼろげ)ながらも『暴力事件』の本質を見抜き、オレに接触してきたただ一人の生徒だった。

 敵に回すよりかは、味方にした方が遥かに良い。嘘を嫌う彼女が、頷いてくれるとはあまり思っていなかった。

 しかしオレが偶然得てしまった情報、中間試験の下位クラスの下克上のカラクリ、そして今回の『表』の狙いを教えたら『協力者』として虚偽で満ちている筋書(シナリオ)に登場してくれた。

 今回の『偽りの暴力事件』、最大の被害者は言わずもがな須藤健だろう。怨まれても文句は言えない。

 玄関口で靴を履き替え、校門を通過しかけたところで、電話が一本入った。

 画面には、『椎名ひより』の名前が載っていた。

 

「もしもし」

 

「もしもし、全部終わりましたか?」

 

「ああ、丁度今終わったところだ」

 

「では、今すぐにケヤキモールに来て頂けますか? 綾小路くんの読み通り、佐倉さんが──」

 

「すぐに行く」

 

 通話を切り、オレは地を蹴った。

 すぐに椎名の位置情報が送られてくる。どうして彼女がと疑問は湧いたが、すぐに解消された。おおかた、巻き込まれたのだろう。

 示したのはケヤキモール内にある家電量販店の搬入口だった。

 

 



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佐倉愛里の分岐点 Ⅰ

 

 大型ショッピングモール、ケヤキモール。その家電量販店の搬入口。

 私はその場所で、一人の男性と向き合っていた。

 相手は()()()()()()で、私が恐れている人。

 勇気を出して彼の顔を見上げると──彼はどちらかと言うと小柄だが、私よりは大きいからだ──、彼はその動作を待っていたのだろう、目が合った。そしてにっこりと笑い掛けてくる。

 

「ぁ……!」

 

 無音の悲鳴を上げて視線をすぐに逸らす。

 視界を遮るようにしてスクールバッグを(かざ)し、私は一歩、二歩と後ずさった。

 

「どうしたんだい?」

 

 さも不思議そうな声が届く。近付く気配。

 完全に間合いが無くなる前に、私はさらに後退した。

 一歩、二歩、三歩、四歩──そこで背中が、固い何かに当たった。じんわりとした小さな痛みと、冷たい感触が全身に伝わっていく。

 

「あぁ……大丈夫かい? 怪我、していないかい?」

 

 心配そうな声色。事実、男性店員は私を心配しているのだろう。気遣っているのだろう。

 だから気付かない。察しない。あるいは、そんな考えなんてものは彼の中にはないのかもしれない。

 全てが彼の所為なのに……。

 私が当たったのは、どうやら倉庫のシャッターのようだ。

 退路は絶たれ……彼我(ひが)の距離が怪物の進行によってじわじわと詰められていく──。

 

「もう、私に連絡してくるのはやめて下さい……!」

 

 その直前に、私は悲痛な叫び声をもってして防ぐ。

 行進が止まる気配。

 スクールバッグを少し下にずらす。眼鏡のレンズ越しに私の目が男性店員の姿を捉える。

 そこには、理解出来ないとばかりに純粋な表情を浮かべている、醜悪な怪物の顔があった。

 目が合う。

 

「ぁ……うぁ……!」

 

 だが、私は逸らさなかった。

 本能に従いそうになるけれど……理性で無理矢理抑える。

 

「どうしてそんなことを言うんだい?」

 

 絶句した。

 衝撃のあまり思考が停止する。

 

「僕はきみのことが好きなんだ。本当に……本当に好きなんだよ。雑誌できみを初めて見た時からね……」

 

「……雑誌……」

 

 呟いてから、鋭く息を呑んだ。

 やっぱり、目の前に居る彼は私の『秘密』を知っている。私の『仮面』を知っている。

 

「いやあ、あの時の僕の興奮を、きみは分かってくれるかな? きみみたいな天使を、僕はこれまで見たことがない!」

 

「ひ、人違いです……!」

 

 慌てて否定するが、それが意味を為すことはなく。

 彼はきょとんと瞬きしてから言った。

 

「人違いなんかじゃないよ。そうだよね愛里(あいり)……──いや、この名前じゃ不適切か──(しずく)?」

 

 彼はズボンの右ポケットから自身の携帯端末を取り出し、何やら慣れた手付きで操作を始めた。

 

 ──逃げなくちゃ……!

 

 脳が警戒音を最大音量で鳴らし警告してくる。いや違う。警告は誤用だ。これは──()()

 

「今きみのブログにアクセスするね」

 

 一緒に見よう? と怪物は嗤う。

 彼は今携帯の操作に夢中だ。逃げるなら今しかない。

 私は気取られない程度に退路を探す。正面突破は彼が居るため無理だ。

 残されたルートは二つしかない。右か──左か。

 逡巡の(のち)、左を選ぶ。そうすればケヤキモール、つまり多くの人が居るからだ。流石の彼も追ってこれないだろう。

 

「はあ……はあ……!」

 

 自然と呼吸が荒くなる。心臓は嘗てない程に早く脈打ち、汗が薄らと額に浮かぶ。

 脳内でカウントダウンを始める。

 五、四、三──

 

「だ、大丈夫かな? 体調でも崩したのかな? けどもうちょっと待ってね」

 

 ──二、のタイミングで怪物が私の変化に気付いてしまった。

 二、一、ゼロ……逃亡の合図は鳴らされていたけれど……私は動けなかった。

 立っているのもやっとな状態の私を他所(よそ)に、彼はようやく液晶画面から顔を離す。

 

「ほら、見てよこれ!」

 

「それ、は……」

 

 それは、私がよく見慣れたものだった。下手したら毎日見ているかもしれない。

 男性店員が携帯を操作してアクセスしたのは、一つのブログ。

 個人が趣味で作成したとは思えない程に……そのページは作りが()っていた。まるで──その手の業者が時間を割いたかのように。

 私の『仮面』が怪物の手によって、容赦なく(あば)かれ、晒される。

 

()()()()()()()()()。凄いよね……あの有名少年誌にすら堂々と載っているんだからさ! もうほんと……掲載された時はとても嬉しかったよ!」

 

 鼻息荒く怪物は語った。

 そう、確かに彼の言う通りだ。

 私の名前は佐倉愛里。けれど同時に、私はもう一つの名前を、別の側面を持っている。それこそがグラビアアイドルの雫という少女だ。

 

「どうして私の正体が……!?」

 

「うふふふ、眼鏡を掛けていようと髪型を変えていようとすぐに分かるさ。それにレンズに度が入ってなかったからね。確信したよ。きみが四月に僕の店を訪ねて来た時は、嬉しさのあまり泣きそうになった!」

 

 これなんか凄いよ! 彼は一枚の写真をアップし、拡大させた。

 普段の私とは違い、撮られた『私』は柔和(にゅうわ)に笑っている。クラスメイトの誰が見ても、佐倉(さくら)愛里が雫であることを信じないだろう。

 ところが彼は恐ろしいことに一目見ただけで私の正体に気付いたという。

 

「きみがグラドルデビューしてからもう二年かあ……僕の色褪(いろあ)せた人生はきみと出会ったことで色付いたよ」

 

 私が『私』になったのは二年前。中学二年生の頃だ。

 何故芸能界の世界に踏み出したのか、その理由は自分でも分からない。

 けれど私はグラビアアイドル雫として活動を開始した。

 グラビアアイドルの仕事の一つとしてブログを強制的にやらされた。

 それは別に良い。

 予め説明は受けていたし、『私』を見た他人がどのような感想を抱くか興味があったから。

 

『可愛いね!』

 

 この初めての感想が送られてきた時、私はとても嬉しかった。それからも私を応援してくれるメッセージが少しずつだが増えてきて……嬉しさのあまり泣きそうになったことは良い思い出だ。

 もちろん純粋なものだけじゃないことは分かっている。性的なものも多分に含まれていただろう。

 事務所からは毎日の更新はしなくて良いと言われていたけれど、私はデビューしてからほぼ一年間、三百六十五日書き続けた。

 内容はごくありふれたもの。その日楽しかったことや悲しかったこと、思ったことなど私が書きたいと思ったことを綴った。

 一年が経ち、私は中学三年生、受験生になった。流石に勉学を疎かにするのはダメだと思い、事務所に相談、グラビアアイドルの活動を停止した。ブログでは更新が出来ないので、専用のSNSアカウントを作成。ファンの人たちはわざわざ足を運んでくれて、不定期更新の私のツイートに答えてくれた。

 進学先が高度育成高等学校に正式に決まり、私はグラビアアイドルの活動を再開出来ると(たか)を括っていたけれど……現実は無情だった。

 予め学校のルールは説明されていたが、まさかここまで徹底して外部との連絡を遮断されるとは思ってなかったのだ。

 ブログの活動は一方的なものになった。写真を投稿することは出来るけれど、寄せられた感想に反応することが出来ないのだ。

 罪悪感を覚えながらも、私は、せめて多くの写真を投稿することで彼らの期待に応えようと思った。

 しかし私がケヤキモールの家電量販店でデジカメを購入したあの日──全てが崩壊した。

 

『運命って信じる? 僕は信じるよ。これからはずっと一緒だね』

 

 最初はただの行き過ぎた妄想(もうそう)だと思った。事実、これまでにも何件かこういった機会には遭遇したから。

 だが……同じような内容の文面はそれから毎日送られてきて、エスカレートしていった。

 

『いつもきみを近くに感じるよ』

 

『今日は一段と可愛かったね』

 

『目が合ったことに気付いた? 僕は気付いたよ』

 

 とても怖かった。

 初めて感じた、本物の恐怖。

 そして極め付けに……この前の日曜日。友達になったみーちゃんと綾小路(あやのこうじ)くんと一緒に壊れてしまったデジカメの修理に行き、私と男性店員は会ってしまった。

 もちろん予想はしていた。最悪の展開は前もって準備していた。

 けれど私は立ち尽くすばかりで何も出来なかった。

 もし綾小路くんがあの時助けてくれなければ、私の詳細な個人情報を怪物に与えてしまっていた。

 そして、その日の夜。

 男性店員のだと思われるメッセージがブログに届けられた。

 

『ほら、神様は居たよ。きみの友達の女の子、とても可愛かったね。流石だよ。けどどうして男が居たんだい? ねえ、どうして? もしかして彼氏だったりするのかな? 教えてよ』

 

 私は決めた。

 怪物と直々に話をしようと。

 彼は日頃から私を観察している。それはこれまでのメッセージから明らかだった。

 もしかしたらみーちゃんや綾小路くんにも彼は近付くかもしれない。

 だとしたらとても危険だ。

 私に初めて出来た友達。

 もし、もし大怪我でも負わされたら──。

 それに良い加減……『成長』するべきだと思った。生まれ変わるべきだと思ったのだ。

 だからこそ私は、『私』から脱却するためにここに居る。

 ……けど、けれど。

 私は今、逃げたくてしょうがない。

 この、顔が視えない化け物から逃げて、逃げて逃げて、逃げて逃げて逃げて……逃げて──どうするんだろう? 

 

「僕が如何にきみのことが好きなのかは分かってくれたと思う……。好きだ、好きなんだ。愛していると言っても過言(かごん)じゃない! この気持ちを抑えることは無理だよ!」

 

「やめて……やめて下さい!」

 

 私はあらん限り叫んだ。

 ほへ? 思わぬ反撃に男性店員が間抜けな表情を作る。

 その隙にスクールバッグのチャックを開け、中を漁った。……いや、漁る必要はない。

 (ひも)で纏めた物体の束を摑み、私は迷うことなく地面に叩き付けた。落ちた衝撃で紐が緩んだのだろう、不快な音と共に辺りに散らかる。

 それは手紙だった。色とりどりの封筒に入れられた手紙。

 

「あ……あぁ……! なんてことを……これは僕たちの愛の結晶じゃないか!」

 

 慟哭(どうこく)の悲鳴を上げる彼に私は追及する。

 

「どうして私の部屋知っているんですか! ……どうして、どうしてこんなものを送ってきたんですか!?」

 

「……」

 

「答えて下さい!」

 

「……決まっているじゃないか。僕たちは心で繋がっているんだよ」

 

 うふふふふと……と、歪んだ笑み。

 怪物はしばらくの間嗤っていたが……不意にぴたりと動作をやめた。狂気に満ちた瞳がぎょろりと私の肉体を捉える。

 これは……これは知っている。

 女性なら絶対に一度は体験したことがある。

 汚らわしく、いやらしい目。

 

「ひどいじゃないか……僕たちの愛の結晶をこんな風に扱うなんて……。いくら雫……いや、愛里でも許されないことがあるんだよ?」

 

「ぁ……ぅあ……!」

 

 蛇に睨まれた(かえる)のように、私は何もすることが出来なかった。

 悲鳴をあげることも、逃げることも、思考そのものすら奪われてしまったのだ。

 気付けば私の両肩は腐った両手によってがしっと摑まれていて……身動きが取れない状況に遭った。

 携帯端末を使って誰かに助けを求めたいけれど、それは望み薄だ。流石に事前にとめられるだろう。

 出来ることと言えば両足をじたばたと(ちゅう)を蹴ることと、精一杯睨むことだけ。

 しかし私の決死の反抗はますます彼を興奮させてしまい……形勢は一向に変わらない。

 

「あは、あははははははははッ!」

 

 怪物が狂ったように嗤う。

 嗤い続ける。

 そして──押し倒された。

 すぐ近くにあるのは彼の醜い顔。()り切れていない(ひげ)が顎に生えていて、肌に掛かる息は腐っている。彼の視線が向かう先は私の胸。

 下卑(げび)た笑みと下卑た目だ。

 

「一つになろう愛里。大丈夫、痛くないから……」

 

「やめ、やめて……!」

 

 当然、私の訴えが聞き届けられるはずもなく。

 男性店員は「大丈夫。大丈夫だからね」と呪文を唱えてから──私の胸を摑んだ。

 布越しとはいえ、他人に触られることに強い不快感を覚える。

 

「わぁ、大きいね……。これが、これが愛里のおっぱいかぁ……!」

 

 感極まったかのように吐息を漏らす。

 ぐにゃぐにゃと優しさなど欠片もない手付きで胸が揉まれる。

 

 ──私、レイプされそうになっているんだ……。ううん、レイプされているのかな? 

 

 思考が混濁(こんだく)する。

 何が正常なのか判別が付かない。

 せめて涙は流すまいと誓う。

 私は最後に足掻く。

 精一杯睨む。

 

「なんだよ……なんだよその表情は! 気に入らないなあ! 気に入らない、気に入らない!」

 

 怪物はとても情緒不安定で、ぶつぶつと呟いた。

 澱んで濁った目が私に向けられ、無言でおもむろに腕が引かれた。

 何をしようとしているのか、何をされようとしているのか。

 

 ──殴られる! 

 

 私は襲い掛かってくる痛みに備え、きつく目を閉じた──

 

 

 

「──()()()

 

 

 

 不意に投げられた声。

 私のものじゃない。男性店員のものでもない。

 ──じゃあ誰が……? 

 困惑し、瞼を開けようとしたところで──カシャッ。

 高い機械音がやけに大きく反響した。

 カシャッ、カシャッ、カシャッ。

 聞き慣れた音。

 そうこれは──カメラのシャッター音。

 

「どけよおっさん」

 

 再度声が投げられた。向かう先は察するに、今まさに私に殴り掛かっていた男性店員だろうか。

 

「あっ、いや……えっ?」

 

 突然の出来事に狼狽する男性店員。

 

「ククッ、おいおい、意思疎通が出来ないのか? もう一度だけ言ってやる──どけ」

 

 鋭く、尖った、低い声。聞いたことがないものだ。

 だがそれは、他者を強引に従わせる覇気が込められていた。男性店員は私から離れ、すぐ隣に尻餅を突く。

 ここでようやく私は、声主を仰ぎ見ることが出来た。

 そこには一組の男女が立っていた。服装から察するに、私と同じ高度育成高等学校に在籍している生徒だろう。

 少なくとも私の知り合いではない。もしかしたら上級生かもしれない。

 

()()()、しっかりと写真を撮れよ」

 

 男性の指示に、ひよりと呼ばれた女性が首肯した。携帯端末のレンズを私……ではなく男性店員に集中させる。

 

「一応言いますが、やり過ぎないで下さいね」

 

「クククッ、俺たちは強姦されそうになった女を救うため、やむなくそこの犯罪者を返り討ちにした。これが筋書きだ。どうだ、中々に面白いだろう?」

 

「どうぞお好きになさって下さい。まあ、すぐそこに防犯カメラがありますから、龍園(りゅうえん)くんは過剰防衛で警察のご厄介になりますが」

 

 ひよりさんが無表情でそう言うと、龍園と呼ばれた男性は露骨なまでに舌打ちをした。

 

()()()()()()()()()()()()()()。どうだひより。Cクラスのために俺の傘下に下る決意は出来たか」

 

「龍園くん、そろそろしつこいですよ。何度もお伝えしていますが、私は争い事が嫌いなんです」

 

「クハハッ、面白いことを言うな。だとしたら何故今回俺に協力した」

 

「そういった内容の『契約』でしたから、仕方がないでしょう。それに──いえ、なんでもありません」

 

「奴が計画に関わったからだろう?」

 

 さも愉快そうに龍園くんがひよりさんに尋ねると、彼女は一瞬だけ無表情を崩して眉を(ひそ)めた。

 

「龍園くん、それ以上は……」

 

「分かってる。俺も、お前と奴を敵に回したくはないからな。少なくとも今は、身内で争っている暇なんかねえ」

 

「私も彼もあなたの身内になったつもりはありませんけどね」

 

「辛辣だなあ、おい」

 

 一度薄く笑った後、龍園くんは表情を百八十度変えた。

 私には目をくれることも無く、男性店員に一歩、また一歩とゆっくり近付いて行く。

 彼は残忍な笑みを浮かべながら見下ろした。

 

「一応言ってやる。俺たちはこの目で全部見たぜ」

 

「ななななななな、何のことかな?」

 

 唇を震わせて、男性店員は尋ねる。

 それが間違いだったことにすぐに気付かされた。

 

「言ったろ。全部だってな。お前が女子高生にストーカー行為をしていたことも、そして強姦をやろうとしていたこともな」

 

「す、ストーカー行為? ご、強姦? きみは何を言っているのかな? 大人をからかうのも……」

 

 その瞬間。

 龍園くんの瞳が爛々(らんらん)と輝いた。笑みを深め、(たの)しそうに喉を鳴らす。

 

「ほう。まだ逃げるか。その度胸は認めてやりたいが……残念なことに証拠はある。例えばそうだな──すぐそこの手紙とか、だな……」

 

「や、やめろ! 僕と愛里の神聖な手紙に触るな!」

 

「知るか」

 

 龍園くんは男性店員の訴えを無視し、地面に散らばっている手紙の一つを手に取った。

 封を手でびりびりと破りながら、ひよりさんに声を掛ける。

 

「綾小路はいつ来そうだ?」

 

 彼女は携帯端末を操作した。

 数秒後、わっ、と驚き声が漏らされた。

 

「えっと……かなりの速度でここに向かっているようですね」

 

「チッ、分かっちゃいたが、あいつはどれだけ実力を隠せば良いんだか……。──それとそこの女……佐倉だったか」

 

 一瞬、自分に投げられたものだとは考えが及ばなかった。

 

「……は、はい」

 

「お前はひよりの近くに居ろ。そこの男に強姦されたいならこれ以上は言わないがな」

 

 その言葉を聞いた直後、私は自分でも驚く程素早く立ち上がり、ひよりさんの元に駆け寄った。

 

「愛里!?」

 

 背後で名前が呼ばれたが、振り返ることはしなかったし、もう、声を聞くのも嫌だった。

 

「はじめまして。今更ですが自己紹介を。椎名(しいな)ひよりと申します。佐倉愛里さんですよね?」

 

「はい、佐倉愛里です……」

 

「混乱していらっしゃると思いますが、あなたが安心できるだろうことを言いますね。薄々察していらっしゃるとは思いますが、もうすぐ綾小路くんがここに来ます」

 

「綾小路くんが……?」

 

 思わず椎名さんの顔をまじまじと見てしまう。

 彼女はこくりと頷いてから、優しく私を抱き締めた。

 

「ごめんなさい。本当ならもっと早い段階で助けられたのですが……決定的な瞬間を捉えるまでは手出しが出来なかったんです」

 

「い、いえそんな……むしろ私は助けて貰った身ですから……。それより、こうなることを予想していたんですか?」

 

 馬鹿な私でも分かる。

 まるで見計らったかのようなタイミングで、椎名さんと龍園くんは場に躍り出た。偶然にしては出来すぎだ。

 彼女は一度私の背中を摩ってから、抱擁を解いた。

 同性でも見蕩(みと)れる程に綺麗な顔がすぐそこにある。

 無表情じゃなかったら写真に映えるだろうなあ……と、私は何となく思った。

 そんな私の気など知らず、彼女は質問に答えてくれた。

 

「佐倉さんの仰る通りです。綾小路くんは今日のあなたの様子の変化から、()()()()()()()()()()()()()。しかし再審議会に彼は出席しないといけません。そこで彼は私に電話をして、あなたの護衛を依頼したんです」

 

「えっとつまり……私を尾行していたんですか?」

 

 恐る恐る確認すると、椎名さんは表情を微塵も崩さず頷いた。

 

「そういうことになりますね。不快にさせてしまいごめんなさい。ちなみに龍園くんが居るのは、私が彼を頼ったからです」

 

「だ、大丈夫ですから……」

 

 ただちょっと……いやかなり驚いただけだ。

 まぁそれを抜きにしても引いてしまったけれど。

 何ていうか……摑み所がない女性だ。ふわふわと雲のような不思議な雰囲気、とでも言ったら良いのかもしれない。

 

「──ククククッ、クハハハハハハッ!」

 

 哄笑(こうしょう)が突然出された。

 何事かと思い発生源を見ると、そこには大声で笑っている龍園くんの姿が。

 彼の手には一枚の手紙。近くには破られた封筒が捨てられている。

 

「何がおかしい!」

 

 男性店員が抗議の声を上げる。

 龍園くんは一頻(ひとしき)り笑った後に……けれど男性店員を一瞥してからまた笑った。

 

「これが笑えずにいられるかよ。こりゃあ想像以上だぜ。まさか本当に、本気のラブレターを大の大人が女子高生に送るなんてなあ……。ひよりはどう思う?」

 

「愛情表現は人それぞれです」

 

「ハッ、これだから優等生は──」

 

「ですが、それを考慮しても度を越していると思います。相手の気持ちを考えないのは悲しいですね」

 

「だそうだぜ、変態野郎」

 

「ぼ、僕は変態なんかじゃない!」

 

 龍園くんは鼻で笑った。

 男性店員は顔を歪ませるが、彼は気にも掛けない。

 持っていた便箋を高々と掲げた後にねじ曲がった一方的な想いが綴られた文書を読む。

 

「『今日は見たところ体調が悪そうだったけど大丈夫かな? 風邪を引いたのなら学校を休むんだよ? 返信がなくて僕は悲しいよ。読んでくれているのかな? あぁだけど、体調が悪いなら仕方がないよね。快復することを神様に祈っているよ』……ちなみに聞くが、これは何だ?」

 

「決まっているだろう! その日……今から一ヶ月と十一日前、愛里は顔色が悪かったんだ。だから僕は彼女を心配して──」

 

「もう良い、黙ってろ」

 

「そ、そんな言い方はない──」

 

 ダン! 盛大な衝突音が響く。

 男性店員を黙らせるようにして、龍園くんが倉庫のシャッターを強く蹴ったのだ。

 彼と、そして私も平生では有り得ないことに直面しているからか、身を震わせる。

 

「ひより、俺はもう行く。あとは好きにしろ」

 

「犯罪者と女子高生を一緒に放置するって、かなりの鬼畜ですね、龍園くん」

 

「あ? 俺が奴から請けた依頼は佐倉の救助だけだ。充分達成したはずだぜ。それに安心しろ、奴はすぐに来る」

 

「……仕方がないですね。分かりました、それでは龍園くん、ごきげんよう」

 

 龍園くんは面倒臭そうに嘆息した。

 椎名さんの独特な空気についていくのはそれだけ苦労するのだろうか。

 彼はズボンの両ポケットに手を突っ込みながら立ち去った。

 残されたのは私と、椎名さんと、犯罪者。

 今なら逃げられると判断したのか、彼は冷たいコンクリートから臀部(でんぶ)を離そうとする──。

 

「逃亡はおすすめ出来ませんよ。このまま警察署に自首するのが最も刑が軽くなるでしょう」

 

「と、逃亡って……きみと言いさっきの男の子と言い、やっぱりまだ勘違いしているようだね。僕はそこの女の子にデジカメの使い方を教えていただけで──」

 

「何度目になるか分かりませんが、良い加減認めたらどうですか? あなたの過ちは私がこの携帯でしっかりと撮りましたし、すぐそこには防犯カメラがあります」

 

「……」

 

「近日中に一件のニュースが流れるでしょう。大人が女子高生をストーカーし、暴行し、さらには強姦未遂で逮捕、というニュースが。あなたの社会的地位は永遠に失われ、一度失ったものは返ってきません。一つだけアドバイスするなら、やっぱり自首がベストだと思います。逃亡しても構いませんが、日本の警察の力は凄いですし、近年は顔認証システムを試験的ながらも採用しています。──諦めて下さい」

 

 椎名さんは朗々と語った。

 犯罪者が辿る結末を。傍から聞いているだけでも、未来に光が灯らないことは明らかだった。

 彼はしばらくの間は呆然としていたが──。

 

「く、クソ──!」

 

 立ち上がり、椎名さんに殴り掛かる。

 涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら、ふらふらとした足取りで、けれど確たる意識が乗せられて。

 腐っても彼は男だ。全力で殴られたらかなりの大怪我を負ってしまう。

 私は咄嗟に、私を庇ってくれている恩人を救おうとした。背中を押して、彼女を横にずらそうと試みる。

 そう、これで良い。代わりに私が攻撃ルートに入って殴打されるだろうけれど、これで良いんだ。

 しかし、それよりも早く。

 

 

 

「──()()()()()()()()()()()

 

 

 

 感情の一切が消え去った、冷徹な声。

 結論を告げるのならば、椎名さんが殴られることはなかった。

 握り拳が彼女の端正な顔に直撃するその直前で、暴行者の手首が摑まれたからだ。

 

「あ、綾小路くん……!」

 

 自分でも驚く程に、この時の私は驚愕していたと思う。

 割って入っていたのは綾小路清隆(きよたか)くんだった。

 彼がこの場に登場したことに対して驚いたわけではない。彼が来ていることは椎名さんから知らされていたからだ。

 私が驚いたのはそこじゃなくて──。

 

「い、痛い痛い! や、やめてくれ!」

 

 綾小路くんは静かに怒っていた。

 怒鳴ることも、憤怒の色に顔を染めることもせず……ただ静かに彼は怒っている。

 悲鳴を上げる男性店員を、彼は冷徹な眼差しで見据える。いや、『見据える』じゃない。見下ろしているんだ。

 

「椎名、警察は?」

 

「いえ、まだ呼んでいません。大事になったら、佐倉さんが『悲劇のヒロイン』となってしまいますから」

 

「そうか。それじゃあ悪いが、今から呼んで貰えるか?」

 

「分かりました」

 

 椎名さんが警察に電話を掛け、事情を説明する。

 通話が途切れた。

 あと数十分もすれば警察官が駆け付けるらしい。

 

「あんたの社会的地位はゼロどころかマイナスになった。あんたがどうして佐倉を執拗に狙っていたのかは知らないし興味もない。けどあんたは彼女を傷付け、そして捕まる。あんた──終わったな」

 

「ヒッ……!」

 

「綾小路くん。それは先程私がお伝えしました。これ以上は傷口を抉るだけですよ」

 

「……そうか」

 

 少し残念そうに彼は眉を下げた。

 

「ごめんなさい、傷付けちゃいましたね」

 

「いや、良いんだ。むしろそう言われると余計にへこむから……」

 

 状況にそぐわぬ会話にぱちくりと瞬きしてしまう。

 程なくして、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。

 流石にここまで来れば、自分がどうなるか分かったらしい犯罪者は項垂れて脱力した。

 それでも綾小路くんは拘束の手を緩めなかった。

 

「大丈夫ですか!?」

 

 複数のパトカーが近くに停止して、男性警察官の群れが駆け寄ってくる。

 皆、表情はとても固い。まるで映画のワンシーンのようだと、当事者の私は他人事のように考えた。

 

「彼が犯罪者です。引き渡します」

 

 慎重に犯罪者を引き渡す。

 ガチャ! 手錠の鍵が架かった音が、やけに大きく鳴った。彼の両側に二人の警察官が控え、パトカーの中に連行していく。

 最後まで男性店員は無言だった。彼が何を考えているのか、それは分からないし分かりたくもない。

 

「ありがとう。けどきみは……いや、きみたちは自分が大変な危険な状況に遭ったことは自覚しているね?」

 

 綾小路くんが代表して答えた。

 

「ええ。そこの男を捕まえようとはせずに逃げるべきだったとは思います。反省はしていますよ」

 

「……なら良いんだ。被害者の彼女ときみたちには事情聴取をお願いしたいが……いや、今日はよそうか」

 

「ええ、その方が佐倉のために──」

 

 私は言葉を遮って、話を進めようとする彼らに割り込んだ。

 

「わ、私は大丈夫です。調査に協力します……」

 

「いや、しかし……」

 

「大丈夫ですから……!」

 

「……分かりました。きみたちはどうする?」

 

「私もご一緒します」

 

「そうか。……きみは?」

 

「あー……そのことなんですけど。実はオレ、全部を見たわけじゃないんです。そこの彼女……椎名から連絡を貰って駆け付けたんですよ。だからオレに聞いても意味は無いと思います」

 

「なるほど……だとしたら尚更早く我々を呼ぶべきだったと言いたいが……まぁ良い。きみたちが安全なら小言を言うのはもうやめよう。きみ、名前は?」

 

「綾小路清隆です」

 

「では綾小路くんに関してはまた後日事情聴取をするかもしれないということで良いかな?」

 

「ええ、構いませんよ。あぁ実は、椎名の他にももう一人目撃者が居たようなんですが……椎名、彼はどこに?」

 

「帰りました」

 

 これには綾小路くんも男性警察官も頭を抱えた。

 

「まったく……今どきの高校生は何を考えているか分からないよ。帰った男の子の名前は?」

 

「龍園(かける)くんです」

 

「椎名さん、きみと彼は同じ光景を見ていたんだよね?」

 

「そうですね」

 

「なら彼にもまた後日、事情聴取をお願いすると伝えてくれないかな?」

 

「分かりました。しっかりと伝えておきます」

 

「それでは行きましょうか」

 

 警察官に促され、椎名さんと私はパトカーに乗るべく移動する。

 先に椎名さんが乗った。

 私も続こうとしたところで、声が掛けられる。綾小路くんからだった。

 

「まったく……無茶しすぎだ」

 

「ご、ごめんなさい……。けどどうしても、必要なことだと思ったから」

 

「もし佐倉の身に何かあったらみーちゃんが心配するぞ。もちろんオレもだ」

 

 呆れたように言う彼に、私は乾いた笑みを貼りつかせることで答えた。

 苦笑の後に、改めて謝罪する。

 

「あはは……うん、本当にごめんなさい。あ、あのね綾小路くん。私、綾小路とみーちゃんに話したいことがあるんだ……。聞いて、くれるかな?」

 

「ああ」

 

「うんっ。綾小路くん──」

 

 ありがとう、と私は彼に言った。

 そして綾小路くんは言葉少なめに言った。

 

「よく頑張ったな」

 

 その瞬間、固く引かれていた糸が緩くなった。

 私は胸の内から込み上げてくる名前のない感情に抗って彼に振り返り、一度笑顔を見せた。

 いつもの取り繕った偽物の笑顔じゃなくて、人が心の底から浮かべる本物の笑顔を、私は浮かべることが出来た。

 

 

 

§

 

 

 

 去っていくパトカーを見送ってから、オレは長いため息を吐いた。

 オレの嫌な予感は当たってしまった。

 佐倉愛里の『成長』の速度は、凄まじいの一言に尽きるだろう。

 オレは短く言った。

 

「──居るんだろう、龍園?」

 

 オレ以外に人影はない。事実さっき、椎名は龍園は帰宅したと言っていた。

 だが確信があった。

 彼はこの場に残っていると。

 

「お前は気配を察知出来る特技も持っているのかよ」

 

 背後から届く男の声。

 振り返ると、そこには一年C組龍園翔が立っていた。呆れを含んだ表情を浮かべている。

 

「まずは礼を言わせてくれ。佐倉を助けてくれてありがとう」

 

「ハッ、お前にそんな対応をされると明日の天気が心配になるぜ」

 

「まるでオレが、日頃から誠意を見せていないかのように言うんだな」

 

「ククッ。違うのか?」

 

「少なくとも今回は本心だ」

 

「なら受け取ってやる。しかし驚いたぜ、まさかお前が俺を頼るとはな」

 

 龍園の言う通りだった。

 再審議会のためにオレが生徒会に赴いている途中、オレは佐倉に呼び止められ会話をした。

 いつもの彼女らしくないと直観したオレは、彼女が何かをしようとしているのを朧気(おぼろげ)ながら察した。

 そうは言っても心当たりは一つだけ。

 あの男性店員に一人で会うのだろうことは、少し頭を捻れば考えがつく。

 もちろん違ったかもしれない。だがその可能性はあった。

 故にオレは彼女と別れた後に龍園翔に連絡を取った。

 理想を言うのなら平田(ひらた)洋介(ようすけ)が良かったが、彼はその時間は『協力者』として、石崎(いしざき)ら三人を陽動しなければならなかった。

 堀北(ほりきた)(まなぶ)に頼ることも視野に入れたが、彼も生徒会長として席は外せない。

 残ったのが龍園だった。

 

「一つ分からないことがある。どうして椎名が居たんだ?」

 

「決まってるだろ。一人で佐倉を尾行するのはつまらないからな、暇そうなひよりを誘っただけだ。実際暇そうだったぜ? ここ最近はお前と逢引していなかったからな」

 

「あー……それについてはまた今度お詫びするさ」

 

「まっ、ひよりを誘ったのは失敗だったけどな。あいつ、マイペースにも程がある」

 

 苦々しそうに龍園はため息を零した。

 確かに彼と椎名の相性はあまり良くないだろうな。彼は言わずもがなだが、彼女も自分本位な考えを微細だが所持している。

 会話が噛み合わない光景がありありと脳裏に浮かび上がった。

 

「さて、『契約』は果たされた。綾小路、お前は今後どうする? 俺的には友好的な付き合いを望むがな」

 

「それは一年Cクラスの『王』という意味でか? それとも龍園翔という個人的な意味合いでか?」

 

「前者が望ましいが……後者だ。お前も椎名も、仮に敵に回すにしても今は遠慮したいのが正直なところだぜ。特にお前とはな。お前を完全に手中に入れられるとは思わない」

 

 言外で、()()()()()()()()()と告げられる。

 自問する。仮にオレが龍園の仲間になったとして、裏切るだろうか? 

 自答する。答えは決まっているだろう──。

 

「賢明な判断だな。オレもお前とはなるべく戦いたくない。あまり認めたくはないが、オレたちは思考回路が似ているからな」

 

 全面衝突したら斃すのに手間が掛かる。

 

「クククッ。戦うにしても今じゃねえ。まずはAクラスを斃すことが先決だ」

 

「Aクラス、か……」

 

 龍園の言葉を反芻(はんすう)する。

 オレの態度が癪に障ったのか、彼は目尻を上げた。

 

「俺が負けるとでも?」

 

「どうだろうな。Bクラスも、Aクラスもまだ不確定要素が多い。Bクラスは一之瀬(いちのせ)帆波(ほなみ)がリーダーだろうが──」

 

「なるほど。確かにAクラスは謎が多いな。俺が知っている情報を公開してやろう。今Aクラスは内部分裂中だ。リーダーの選出で争っている」

 

「……誰なんだ?」

 

「二人居る。一人は葛城(かつらぎ)という男。もう一人は坂柳(さかやなぎ)という女だ。前者は兎も角として、後者は調べてもなかなか情報が摑めねえ」

 

 それだけでも充分だ。

 葛城と坂柳か……櫛田を使って調べさせるにしても、彼女の扱いには気を付けないといけないか。

 

「さっきの話だけどな、俺個人としても龍園翔個人と繋がりを持つことは歓迎だな」

 

 他クラスとの繋がりはあった方が良い。

 もちろん、使えるか使えないかで天秤に掛けた上で、という条件はあるが。

 

「クラス闘争に、お前は参加しないんだよな?」

 

「少なくとも自分からはな。この前も言ったが、オレにも事情がある。龍園。仮にお前がAクラスに上り詰めてオレに勝負を仕掛けてきたとしても、オレは余程のことがない限りその申し出を受けないだろう」

 

「ククククッ。ならその時は、強引にでもお前を勝負の場に出させてやる」

 

「そうか」

 

 とはいえ、仮定の話ではなくオレたちはいつか必ず衝突するだろう。

 ──ならその時は全力で相手をしてやろう。そして龍園、お前を倒そう。

 

「話は終わりだ」

 

 言うや否や、龍園は足早に立ち去った。

 オレは彼の背中を見届けてから、帰路につくことにした。

 この一週間はとても長かった。

 今後、オレが表立って行動をする気はない。それは彼に言った通りであり、オレの本心でもある。いや──ただの願望か。

 ()()()()()()()()

 今回の一件でオレはしばらくの間は悪目立ちするだろう。再三述べるがオレからはなにもするつもりは無いが……もしもの時は戦う必要があるだろう。

 そのためにやるべきことは何か? 

 

『駒』が必要だ。

 

 思い通りに動かせる『駒』が、今後は必要になるだろう。

 今度の夏休みに『何か』が起こる。

 ちょうど良い機会だ。有効活用させて貰うとしよう。

『駒』を選ぶのはその時で良い。

 



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幕間 ─理想の在処─
分岐点 Ⅱ


 

 一年Cクラスの訴えの取り下げにより、東京都高度育成高等学校、全学年を巻き込んだ『暴力事件』は一応の解決をみせ、再び平穏が訪れた──。

 と言いたいところだが、残念なことに一学期期末試験がオレたちを待ち受けていた。

 一科目でも赤点を取ったら即退学という罰を下されるので、渦中(かちゅう)のクラスであった一年Dクラスの生徒たちは休む(ひま)もなく新たな試練に臨むことになった。

 当初は赤点者が出ることが危惧(きぐ)されたが、幸いにもオレたちDクラス、そして一年生からも退学者は生まれなかった。

 Dクラスを導いたのはやはりと言うか平田(ひらた)洋介(ようすけ)だった。交際相手の軽井沢(かるいざわ)(けい)と協力して率先して勉強会を開き、彼、彼女の影響力はますます増大することになった。

 一番危険視されていた三バカトリオ、須藤(すどう)(けん)(いけ)寛治(かんじ)山内(やまうち)春樹(はるき)と言った問題児たちについては、堀北(ほりきた)鈴音(すずね)及び櫛田(くしだ)桔梗(ききょう)が洋介とは別に勉強会を開催することで難を凌ぐことに成功してみせた。

 特に今回最も試験結果で注目を浴びたのは池だろうか。彼は現代文の教科でトップファイブに堂々と到来したのだ。これにはクラス担任である茶柱(ちゃばしら)先生も素直に称賛しており、彼が照れ臭そうに後頭部をぽりぽりと()いていたのは印象的だった。

 とはいえ、別段驚くべきことでもないとオレは思っていた。彼はDクラスの中で櫛田と並ぶ高いコミュニケーション能力の持ち主だ。評論分野ではまだ躓くだろうが、小説分野ではほぼ満点の成績を残してみせた。

 三バカトリオ、なんて不名誉な渾名(あだな)からまず先に脱却するのは彼かもしれない。

『暴力事件』に巻き込まれた須藤は、とても落ち着いた学校生活を送っていた。勉強に関してはある程度の意欲をみせ、『先生』から褒められると嬉しそうにしていた。平日や休日はほぼほぼバスケットボールの練習に取り組み、バスケットのプロ選手になるという夢を叶えようとしている。

 山内は(あい)も変わらずDクラス筆頭の『ホラ吹き』として名前を馳せていた。最近は佐倉(さくら)愛里(あいり)に熱い視線──本人から相談された──を送っているようだ。もしかしなくても惚れたのだろう。

 と、ここまでが最近のDクラスに起こった出来事だ。

 

 視点を変え、今度はオレについて語りたいと思う。

 

『暴力事件』の審議会の際、オレは訴訟者である石崎(いしざき)小宮(こみや)近藤(こんどう)の三人に10万prを支払うことで結論を伸ばすことに成功した。

 学校側は『暴力事件』だと断定していたが──訴えを取り下げ事件そのものがなくなったため過去形だ──、オレを含めた極一部の人間は『偽りの暴力事件』と呼んでおり、事件そのものを意図的に起こしたのだ。

 結果を先に報告しよう。

 目的を果たすために行動したオレは、代償として、クラスから浮いた存在になった。『不良品』のDクラスの生徒が10万prという大金を躊躇(ちゅうちょ)なく捨てたことだけでも目立つ要因となるのに、その翌日にはCクラスが訴えを取り下げたのだ。

 当然、真相を何も知らない生徒からしたら訳が分からないだろうが、それでも、オレが何かをしたのではないかと憶測することは出来る。

 綾小路(あやのこうじ)清隆(きよたか)という、これまで注目されなかった生徒の突然的な台頭に、気味悪がるのは当然の帰結と言えるだろう。

 興味、困惑、恐怖、とだいたいこれらの感情が彼らを支配し──構築しつつあった友人関係が一部崩壊した。

 クラスで友人だと断言出来るのはごく限られている。

 平田洋介、櫛田桔梗、須藤健、佐倉愛里、(ワン)美雨(メイユイ)あたりが真っ先に挙がるだろうか。

 平田洋介とは『協力者』としてある種の契約を結び、櫛田桔梗とは『不可侵条約』を結んでいる。

 次点で軽井沢恵や堀北鈴音だろうか。前者は洋介繋がりで、後者は隣人として。

 池や山内、沖谷(おきたに)と言ったメンバーとは完全に疎遠となってしまった。同時に、彼らと仲が良い、友達の友達の生徒たちとも縁は絶たれた。

 他クラスとなると、Cクラスで椎名(しいな)ひより。Bクラスで一之瀬(いちのせ)帆波(ほなみ)が挙げられる──。

 

「さて、お前たちは念願の夏休みに突入するわけだが、どうだ、楽しみか?」

 

 思考を中断して、オレは質問を投げてきた茶柱先生を遠くから静かに見据えた。

 期末試験を無事に通過したオレたち生徒は只今絶賛、一学期最後の帰りのSHRを行っていた。

 池がもちろんとばかりに頷く。

 

「モチのロンです! 俺は信じていましたよ、佐枝ちゃんセンセーが約束を守ってくれるって!」

 

 瞳を輝かせているのがありありと想像出来る。

 嬉しさのあまり流れた感涙の涙をブレザーの袖で拭いながら、彼は嗚咽(おえつ)を漏らした。

 いちいちオーバーリアクションだなぁ……と普段なら思われるだろうしクラスメイトから一斉に突っ込まれるだろうが、今回に限ってはそんなことはなかった。

 皆、輝かしい未来に思いを馳せだらしなく頬を緩めている。

 

「夏のバカンス! 青い海、白い砂浜、そして──可愛い女の子の水着姿! あははははははははは! もう、笑いがとまりません! あははははははははははは!」

 

「そ、そうか……それは何よりだ……」

 

 教え子の醜態(しゅうたい)に教師は一歩後退った。心做しか顔が引き攣っているし、あれは絶対に引いているな。

 だが、まぁ気持ちは分かる。

 茶柱先生は一学期中間試験の際に、『もし今回の中間テストと七月に実施される期末テスト。どちらでも退学者を出さなかったら、お前たち全員夏休みにバカンスに連れて行ってやる』と言っていたが、それは本当のことだったのだ。

 しかしバカンスだけではないだろう。

 

 ──絶対に何か裏がある。

 

 それが各クラスのリーダーの出した結論だった。Cクラスの『王』あたりは水面下で動いていそうだ。前哨戦は終わり、本格的なクラス闘争の開幕となるだろう。

 とはいえオレ自身楽しみだ。

 高校生活初の長期休暇、夏休み。浮かれに浮かれて顔が綻ぶのも仕方がない。

 

「今更集合時間や注意事項は確認しない。お前たちも高校生だからな、そんな時間があるのなら早く解放されて遊びたいだろう。──只今を以て、一学期の全過程を終了する。解散」

 

 うおおおおおおお! 雄叫びを上げるクラスメイトたち。

 遊びの計画を立て始める者、寮に帰る者、運動部の宿命(しゅくめい)か部活動に(はげ)む者と様々だ。

 オレはそんな彼らを一瞥してから、音もなく席を立った。今日のところは帰るとしよう。

 明日は洋介と外で遊ぶ約束をしているから、寄り道して明日の体力を損なうわけにはいかない。

 明後日(あさって)は椎名とケヤキモールに行って、買い物の予定だ。バカンスの準備をするらしい。

 スクールバッグを肩に担いだところで、教室前方から茶柱先生がオレの名前を呼んだ。

 

「綾小路、佐倉。悪いが職員室に来て貰おうか。大事な話がある」

 

 言うや否や、彼女は足早に教室をあとにした。

 クラスの連中は一瞬怪訝(けげん)な視線をオレと佐倉に向けたが、すぐに興味が尽きたのか関心を外した。

 

「綾小路くん、今度は何をしたの?」

 

「お前な……朝の挨拶以降、一言も会話をしていなかったのに第一声がそれか」

 

「特に話すこともないじゃない。それにあなたもその方が都合が良いでしょう?」

 

 否定出来ないのが悔しいところだ。

 隣人の堀北と会話をするのは(やぶさ)かではないが、未だにオレに嫌な視線を送ってくる(やから)が居るのも事実だからな。

 

「……まっ、取り敢えず行ってみるとするさ」

 

 またな、と隣人に別れを告げてから、オレは佐倉の姿を捜す。

 彼女はみーちゃんと一緒に居た。『暴力事件』以来、彼女たちは急速に仲を深めており、言わば親友の域にまで昇華していた。普通に羨ましい。

 

「佐倉」

 

 声を掛けると、佐倉はそれはもう顔色を悪くしていた。

 

「あ、綾小路くんっ。わ、私先生に呼ばれて……何か怒られるようなことしちゃったのかな……?」

 

「だ、大丈夫だよ愛里ちゃん。綾小路くんも居るから」

 

 みーちゃんは佐倉の背中を擦りながら優しく諭す。

 彼女の言いたいことは分かる。一人より二人だ。

 

「それじゃあ行こうか」

 

「う、うん……」

 

「が、頑張ってね二人とも」

 

 ……何を頑張れば良いんだろう。

 疑問が湧いたが、オレは敢えてスルーした。おおかた精神論のようなものだろう。

 みーちゃんに別れを告げ、オレは佐倉を促した。

 彼女と連れ立って廊下を歩く。相も変わらず、好奇な視線がオレを待ち構えていた。

 良い加減沈静化してくれると助かるんだが、この調子だと最悪、二学期にも尾を引きそうだ。

 階段を降ったところでオレは、自分の軽率さに気付かされた。オレだけなら自業自得のため甘んじて受け入れるが……。

 歩きながら、隣の少女に謝罪する。

 

「悪い。迷惑を掛けるな」

 

 ところが佐倉は、不思議そうに首を傾げるだけだ。

 オレは言葉を続けて聞いた。

 

「視線、佐倉にも行ってないか?」

 

「ううん、大丈夫だよ。皆、綾小路くんだけを見ているからかな」

 

「……分かるのか?」

 

「うん。周りの視線ばかりを考えて生きてきたから……何となく、だけどね……」

 

 恥ずかしいけど、と自嘲の笑みを浮かべる。

 オレは言葉にこそしなかったが、佐倉に尊敬の念を覚えていた。

『悪意』を知覚出来る能力というものはとても稀有(けう)なものでかなり役に立つ。それが彼女のような女性、さらには美少女なら尚更だ。

 

「綾小路くんも大変だね。その、もし良かったら相談に乗るから……と、友達としてっ」

 

「そうだな、その時が来たら頼らせて貰う」

 

「うんっ」

 

 佐倉は嬉しそうに微笑んだ。

 職員室が間近になった所で、オレは二人の生徒が出入り口前で立っているのを視界に収めた。

 どちらとも良く知る人物だった。

 

「こんにちは、綾小路くんに佐倉さん」

 

 二人のうちの一人、椎名が軽く手を振って挨拶をしてくる。オレは手を挙げることで応え、佐倉はこわごわと会釈をすることで応えた。

 オレは最後の一人に視線を向ける。そこには一年Cクラス、龍園(りゅうえん)(かける)の姿があった。

 

「久し振りだな、龍園」

 

「ハッ、精々が数週間だろうが」

 

「龍園くん、挨拶は大事ですよ?」

 

 椎名が諭すと、龍園はあからさまに苦い顔を作った。

 

「……チッ」

 

 わざとらしく舌打ちする。

 オレは笑いを堪えるのに苦労した。薄々察していたが、龍園は椎名に苦手意識を持っているようだ。

 だがまぁその気持ちは分かる。オレも時々、彼女の行動には付いていけない時があるからな。

 二人が日頃から仲良く行動をするようには見えないから、何かしらの理由があったのだろう。

 そしてここまで来れば、ある程度は想像出来る。

 

「椎名たちも職員室に呼ばれているとみて良いんだよな?」

 

「はい。SHRが終わるや否や坂上(さかがみ)先生に半強制的に連行されまして……だから龍園くんは機嫌が悪いんです」

 

「確かに俺は今お世辞にも機嫌が良いとは言えないが、その殆どの原因はお前にあるんだが」

 

 怒りを通り越して疲れを感じている龍園。

 Cクラスの人間が今の彼の様子を見たらさぞかし驚くだろうな。『王』の風格は限定的ながらも完全になくなっていて、今の彼はごく普通の高校一年生男子だ。

 

「……取り敢えず、中に入るとするか」

 

 自然と二列の形になって、生徒たちは魔境にへと足を踏み入れた。

 前衛がオレと椎名、後衛が佐倉と龍園という……かなり変な陣営となってしまったが。

 職員室に入る機会は普通の生徒はあまりない。普通の高校なら各自、教科係や委員会に属しているものだが、この学校にそんなシステムは確立されていないからだ。

 厳粛な空気が流れている中、各自の担任を捜す。幸い、目当ての人物はすぐに見付かった。

 茶柱先生は坂上先生と何やら話をしていた。遠目から見ても仲が悪そうだ。数週間前の騒動を考慮するのならば仕方がないのかもしれないが。

 オレたち四人が近付くと、教師たちは何も無かったかのように装った。なんだろう、社会の闇を垣間見た気がする。

 

「良く来たな。まさか揃ってやって来るとは想定していなかったが」

 

「たまたま会っただけですよ」

 

 やや目を見開いて、茶柱先生は「驚いたぞ」と言った。

 オレは彼女から一旦視線を外し、Cクラス担任の坂上先生を軽く一瞥した。やはりと言うか、恨みがましい目で見られる。

 どうやら、まだオレが何かしたと疑っているらしい。教師は一つの物ごとにそこまで固執する程に暇なのかと邪推してしまう。

 このメンバーの中で誰が交渉に相応しいのかを検討する。いや、検討する必要はなかった。あまり気乗りしないがオレが代表者になるのが一番だろう。

 

「それで茶柱先生、ご用件は何でしょうか?」

 

「ああ、すぐに終わらせる……と言いたいところだが、お前たち四人には生徒指導室に来て貰おうか」

 

「だったら最初からそこを集合場所にしろよ」

 

「こ、こら龍園!」

 

「俺は正論を言っただけだ」

 

「すみません茶柱先生、日頃から彼の態度には注意しているのですが……」

 

 慌てて平謝りする坂上先生が、ただただ可哀想だ。

 どうやら彼は、自分の教え子にはかなり甘いらしい。あるいは別の意図があるかもしれないが。

 それでも問題児の龍園の面倒を見る事が大変なことに変わりはないだろう。

 同情していると、椎名がくいくいとブレザーの袖を引いた。どうしたと目で問うと、彼女は顔をオレの耳元に近付けて囁く。

 

「あのように仰っていますが、注意したのは最初の一回だけですけどね」

 

 同情心は綺麗(きれい)さっぱりどこかに吹き飛んだ。

 これもまた大人の付き合い、社会の闇なんだろうなあ。

 構いませんよ、と薄く嘲笑の笑みを坂上先生に向けた我が担任は、「付いてこい」と職員室をあとにする。後を追うのは坂上先生で、オレたちはその後方に位置しながら移動を開始した。

 とは言っても、生徒指導室は職員室のすぐ近くに用意されているのだが。

 

「な、何が起こるのかな……?」

 

 道中、佐倉が後ろから小声で尋ねてくる。

 オレはなんと答えたら良いか判断がつかなかった。

 正直、彼女以外の面々は何が起こるのか、何が話されるのかを察していた。

 そして渦中に居るのが佐倉愛里であることも確信している。

 オレは逡巡(しゅんじゅん)した。話すことは造作もないが、下手すると彼女に精神的な負荷を与えてしまいかねない。いや、どの道数分後には同じ運命を辿るのだが、果たして、オレの口から話すことが良いと言えるのか。

 

「着いたぞ。中に入れ」

 

 悩んでいたら生徒指導室に着いてしまった。

 室内の内装は以前訪れた時と全く以て同じだった。給湯室に通じる扉然り、置かれたテーブルに椅子然り。

 椅子が二人分足りないことに、椎名がまず先に気付く。

 

「椅子、給湯室から持ってきましょうか?」

 

「済まないな」

 

 女性に雑事を一方的にやらせるわけにもいかないだろう。

 

「オレも手伝ってきます」

 

 龍園と佐倉に先に座るよう言ってから、オレは椎名に追従した。

 扉を潜ると、生徒指導室同様、前と変わらない光景があった。当たり前だが、盗み聞きをする輩は居ないか。

 とそこで、一件のメールが届いた。差出人には『須藤健』の名前が。今度バスケットボールをやらないかという誘いだった。手加減してくれという旨を書き込んでから快諾する。

 その後携帯端末を操作して、制服のブレザーの右ポケットにしまった。

 椎名は既に折りたたみ椅子を畳み、持ち運ぼうとしていた。しまった、手伝いのつもりが手伝いになっていなかった。

 

「悪い。手伝わせて貰っても良いか?」

 

「もちろんですよ。それではお言葉に甘えさせて頂きますね」

 

 椎名はお礼を告げてから、一個の椅子をオレに渡した。欲しい数は二つなので、もう一つは彼女自身が持つことになる。

 一瞬、二つ持とうか迷った。オレの瞳が微かに揺らいだのを見たのだろう、彼女は「ありがとうございます。でも大丈夫ですから」と一言断りを入れた。

 本人がそう言っているのならオレがでしゃばるのは良くないだろうし、同時に傲慢(ごうまん)でもあるだろう。

 隣室に戻ると、茶柱先生たちは着席した状態でオレたちを待っていた。

 先程とは違い、前衛が佐倉と龍園、後衛がオレと椎名の陣営となる。オレたちから左側にDクラス担任が、右側にCクラス担任の図式となった。

 シンとした静寂が一瞬訪れ、すぐに、龍園が話を切り出した。

 

「それで、俺たちを呼び出していったい何の用だ? こちとら夏休みを一秒でも楽しむのに忙しいんだがな」

 

 流石は龍園。

 教師相手にも微塵も物怖じしない。まぁ茶柱先生は一年Cクラスの日本史も受け持っていると以前口にしていたから、彼らは初対面ではない。が、やはり凄いものだ。

 だが茶柱先生も負けていない。子どもの挑発に乗る程彼女は愚かではなかった。

 謝意が込められていない謝罪をしてから、さっそく本題に入る。

 

「佐倉愛里、椎名ひより、龍園翔、そして綾小路清隆。学校は特例としてお前たち四人にのみ、クラスポイントとは別に、個別的なプライベートポイントを振り込むことを先日決定した。今日集まって貰ったのはその通達のためだ」

 

「えっと、どうしてですか……? どうして私たち四人だけに?」

 

 佐倉が戸惑いの声を上げる。

 無理もないか。突然、脈絡もなくクラスポイントとは別にプライベートポイントが与えられると言われて、はいそうですかと喜べるわけがない。

 現時点で生徒がポイントを得る方法は二つ。

 一つ目は、毎月一日に行われるポイントの支給。例えばDクラスのクラスポイントは現在95cl。現金に換算するならば×100するので九千五百円。

 二つ目は、生徒間でやり取りされるポイントの『譲渡』だ。これについては学校側からは特に制限は掛けられておらず、自由に交渉することが出来る。現にオレも、この譲渡システムを利用し、多額のプライベートポイントを所持している。

 茶柱先生は佐倉の質問に、なかなか、答えようとしなかった。先程のオレと同じく、どのように言うか言葉を選んでいるのだろう。

 しばらくして、彼女はおもむろに重たそうな口を開いた。

 

「……嫌な記憶を思い出させるようで悪いが、佐倉、お前はついこの前、ケヤキモールの家電量販店に勤めていた男性店員から前々からストーカー被害を蒙っていて、そして強姦に遭いそうになったな?」

 

 瞬間、佐倉の両肩が震えた。

 彼女がどのような心情を抱えているか、全部分かるとは到底言えないが、ある程度は察せられる。

 やがてこくりと彼女の顔が上下する。

 

「綾小路を除いた三人には既に警察から事情聴取を受けて貰っており、これ以上、学生のお前たちがこの事件に関与することはないと思ってくれて構わない」

 

「先生方、質問をしても宜しいでしょうか?」

 

 挙手をしたのは椎名だ。

 担任の坂上先生が許可を出し、彼女は珍しくも強い口調で詰問する。

 

「何故、今回のような事件が起こったのでしょうか」

 

「椎名さん。それはどのような意味合いですか?」

 

「私と龍園くんは最初から最後まで全てを目撃しました。ですから、佐倉さんが芸能人であることも、犯罪者が行き過ぎたファンだったことも理解しています。その上で伺いますが、学校側は彼女の素性を知っていたのですか?」

 

「それは……私の口からは言えません。何故なら佐倉さんは一年Dクラスの生徒だ。生徒の個人情報を教師全員が知ってはなりません。茶柱先生、あなたはどうですか?」

 

「……無論、知っていた。理由は言わなくても分かるだろう。お前たちはまだ子どもだからな、故に、そのような活動をする際には学校側の許可がいる。まぁそうは言っても、ルールとして活動は極端に制限されるがな」

 

 間違いないな? と佐倉に確認を取った。彼女は首肯する。

 

「話を戻すとしましょう。学校は佐倉さんがグラビアアイドルであることを認めていました。であるならば、このような事態が起こり得る可能性を想定していなかったのですか?」

 

「「……」」

 

 茶柱先生と坂上先生は無言で返答に窮していた。

 椎名の追及が尤もなものであり、また正論だからだ。

 さらなる追い討ちをかけるべく、龍園がさも愉快そうに笑いながら言った。

 

「佐倉の寮の部屋には何通もの手紙が送られていたそうじゃなねえか。おかしいと思うべきだよなあ……何せこの学校は、外部との連絡が遮断されている。管理人は不思議に思わなかったのか? 不定期的ながらも郵送される膨大な脅迫文をよ」

 

「……管理人が、生徒のポストに郵便物が届けられていたのを知っていた……というのは否定出来ない。事実違和感を抱いていたようだ。だが、誰のポストに何が投函されたのかを知る術はないだろう」

 

「ククッ、そりゃそうだろうさ」

 

 笑みを深めているのが見なくても分かるな。

 しかしオレも椎名や龍園とほぼほぼ同じ意見だ。

 些細なことだが爆弾は埋められていた。管理人が違和感を放置せず然るべき場所に報告していたら、今回の事件は未然に防ぐことが可能だったかもしれない。

 茶柱先生と坂上先生はただただ目を伏せることしか出来なかった。

 子ども……しかも自身の教え子に言われるがままにされるのは大層屈辱的だろう。反論したいのだろうが……流石に相手が悪いか。

 しばらくして、茶柱先生が深々と頭を下げた。坂上先生も釣られて頭を下げる。

 

「──佐倉には辛い思いをさせてしまった。私も深く反省している。もっと気に掛けるべきだった」

 

「い、いえそんな……! 先生、顔を上げて下さい!」

 

 恐縮そうに首を小さくした佐倉が、この状況で不釣り合いで、少しばかり見ていて面白かった。なんて言うか……和むな。

 彼女は中途半端に顔を後方に振り向かせて、オレに救援信号を目で送った。

 

「本格的に話を戻しましょうか。学校側の誠意は分かりましたし、佐倉もそれを受け取りました」

 

 目で確認すると、物凄い勢いで顔が縦に振られた。

 この場所から早く解放されたくて仕方がなさそうだ。

 オレはこの事件に関わったとは言い難い。事実茶柱先生が口にしていた通り、オレは警察から事情聴取を受けていないから、この見解は間違っていないだろう。

 なのにこの場で一番の部外者であるオレが代表して話を進めるのは皮肉なものだ。

 

「それでポイントを振り込むのと、どう繋がるんですか?」

 

「簡単なことだ。教師として色々と叱りたいところはあるが、それでもお前たちは級友を助けるために、巨悪な犯罪者に立ち向かい、逮捕に貢献した。学校はこれを実力と認めたということだ」

 

「それでポイントを支給すると?」

 

「ああ」

 

 即答する茶柱先生。

 椎名が隣で表情を(くも)らせるのを知覚する。(さと)い彼女のことだ、学校の狙いには当然気付いているだろう。

 龍園も絶対に察しているだろうが、意外なことに、彼はその点を指摘しなかった。まぁ彼の現在のプライベートポイントは少ないからな。貰えるものは貰っておいて損はないという考えなのだろう。

 

「具体的な数値を教えて頂けますか」

 

「もちろんだ。まずは綾小路清隆。お前には7万prが贈られる」

 

 妥当なところだろう。

 オレが事件現場に現れたのは舞台の終盤の終盤。貰えるだけラッキーだと思うべきだ。

 

「次に椎名ひより及び龍園翔。きみたちには15万prが贈られます」

 

 15万pr……換算すると十五万円か。かなりの大金だ。

 坂上先生の言葉に、Cクラスの二人は文句を言うことはせず了承の頷きをした。

 最後に残されたのは佐倉だ。

 事件の一番の被害者である彼女はどれだけのプライベートポイントが捧げられるのだろうか。

 

「最後に佐倉愛里。お前には30万prが贈られる」

 

「さ、30万──!?」

 

 想像以上の額に、被害者は驚愕に満ちた叫び声を出した。普段の彼女なら絶対にしないだろうが、それだけ衝撃的だったのだろう。

 

「驚いているが少ないくらいだと、私個人では考えている。が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。その考えのもと、30万prになった」

 

「そんな……多過ぎるくらいです。あ、ありがとうございます……」

 

 茶柱先生はきょとんとした後、声を立てて純粋に笑った。いつもの冷たいものではなく、素で笑っているのが感じられる。

 

「お前は面白いことを言うなあ。佐倉、お前は巻き込まれたんだぞ? 糾弾ではなく、まさか感謝を告げられるとは思ってなかったな」

 

 苦笑いを浮かべる茶柱先生に、佐倉は恥ずかしそうに顔を俯かせた。

 けれど数秒後には上げ、ぽつぽつと口を動かす気配が感じ取れた。

 

「もちろん、とても怖かったです。けど友達が居てくれたから……だから私は、悪い意味でも良い意味でも、この日々のことを忘れないと、そう、思います」

 

「そうか。須藤と同様、お前も『成長』したんだな」

 

 茶柱先生は感慨深げに吐息を漏らした。

 前々から薄々ながらも察していたが、やっぱり彼女は人間で、人情はあるらしい。

 平生は隠れている側面が(さら)される中、坂上先生がこほんと咳払いをした。

 

「先程茶柱先生が仰いましたが、今回のポイント配給は特例です。今回のことを知っているのは先生方、そして生徒会長だけに(とど)まっています」

 

 随分と含みがある言い方だ。

 それにしても……まさか生徒会長すらも知っているとは。この学校の生徒会にはどれだけの権力があるのか、まだまだ謎は深まるばかりだな。

 

「ク、クク。無償でポイントをやるから口外しないようにという口封じのつもりか」

 

「つもりか、ではない。そのようにして貰わないと困る。当校が日本有数の進学校であることは知っているだろう。日本政府が創立した学校の生徒が事件に巻き込まれたなんてニュースは極力流したくない」

 

 日本有数の進学校云々については全くの嘘だったわけだが。

 だが対外的にはそのように偽りの宣伝をしており、甘美な言葉に(まど)わされた純粋無垢な生徒がこの高度育成高等学校を受験するのだ。

 生徒たちから白けた視線が送られるが、日本政府の犬は無表情で、けれど朗々と語った。

 

「無論、これは私たち大人の自分本位な考えだ。佐倉が正式にあの犯罪者を訴えたいのならばそれでも構わないが……どうする?」

 

 ふるふると被害者は首を横に振った。

 汚いやり方だ。

 茶柱先生が言ったように、この提案は自分本位のものだ。故に佐倉は蹴ることが出来、あの犯罪者を裁判で訴えることが出来る。

 しかしそうなると彼女は『悲劇のヒロイン』となってしまうわけだ。おまけに彼女は芸能人。世間では『マスゴミ』と蔑称が付けられている彼らがここぞとばかりに騒ぎ立てるだろう。

 学校内の敷地内では基本的には外部との接触及び連絡は禁止されているが、このようなケースの場合は恐らく例外的に適用されないだろう。

 他人の視線にひと一倍敏感な佐倉だ、当然、オレ以上に起こり得る出来事を想像出来るだろう。

 

「……分かりました。先生たちの申し出を受けます」

 

「そうか。ポイント支給についてはお前たちお楽しみのバカンスに行く直前の前夜に振り込まれる予定となっている。それが嫌ならば、この後に行う手続きを取ろう。どうする?」

 

「俺は今すぐに欲しい」

 

 名乗り出たのは龍園だった。

 彼の狙いは分かった。分割払いで良いと言ったはずなんだが……意外にも彼は、こう言った約束事は早めに果たすようだ。

 いや違うか。

 先を見通しての判断だろう。実に賢明だな。

 

「話はこれで終わりだ。夏休みの貴重な時間を使ってしまい悪かったな。各自解散してくれて構わないぞ」

 

「龍園くんは私と職員室に来て下さい。手続きを済ませますから。椎名さんはどうしますか? ついでに行うことも可能ですよ?」

 

「それでは私もお願いします」

 

 Cクラスが先に生徒指導室をあとにする。

 オレと佐倉も椅子から臀部(でんぶ)を離そうとするが、待ったが掛けられた。

 

「綾小路、お前には悪いが残って貰う」

 

 先程の発言はどこに飛んだんだ。

 げんなりするが、ここで断ると、のちのち、面倒臭いことになりそうだ。そんな確信がオレにはあった。

 

「私、待ってるね」

 

 佐倉はそう言ってくれたが、茶柱先生はその誘いを断ち切った。

 

「悪いがかなりの長話になる。済まないが佐倉、今日のところは帰ってくれ」

 

「……だそうだ。悪いな」

 

「う、ううん……大丈夫だから。あ、あの綾小路くんっ」

 

「なんだ?」

 

「今度だけどね……。みーちゃんと綾小路くんと私で、ど、どこか遊びに行きませんか!?」

 

「……」

 

 オレは瞑目した。

 まさか向こうから遊びに誘ってくるとは考えもしなかったからだ。

 

「あぅ……だ、ダメ?」

 

「いや、大丈夫だ。遊ぼうか。日程や場所はチャットで決めるってことで良いか?」

 

「うんっ。茶柱先生……さ、さようなら」

 

「ああ。良い夏休みを過ごしてくれ」

 

「綾小路くんも」

 

「ああ、また今度な」

 

 一際大きく顔を綻ばせて、佐倉は生徒指導室から出ていった。

 部屋に残ったのはオレと茶柱先生の二人だけ。

 沈黙が降り注ぐ中、オレは椅子から立ち上がった。

 

「椅子、戻してきますね」

 

 返事を待たず、オレはさっさと両脇に折りたたみ椅子を挟んで給湯室に向かった。元の場所に戻す。

 これまでオレは茶柱先生と個人的に話す機会が少なくなかった。そしてその殆どが面倒臭い案件のもの。

 生徒と教師が話すようなものはあまりなく、今回の一件もそうだろうと軽々と想像出来る。

 嘆息してから移動し、彼女の真正面に座った。

 

「それで茶柱先生、オレにいったい何の用ですか?」

 

「綾小路、お前はこの部屋についてどう思う?」

 

 さっそく本題に入ろうとするオレに、彼女は話に全然関係ないことを言ってきた。

 理解に苦しむ質問だが、少し考えて答える。

 

「生徒が行きたくない場所トップスリーに入るんじゃないんですか」

 

「ほう。参考までに聞くが、そのトップスリーには何が入る?」

 

「上から順に、職員室、生徒指導室、生徒会室ですかね」

 

「さらに聞くが、何故そう思う?」

 

「何故って……」

 

 オレは答えに窮した。

 明確な言葉があるわけではないからだ。

 黙り込む生徒に、教師は薄く笑った。

 

「済まない、嫌な質問だったな。……そう、私もお前と同じ意見だ。おおかたお前が挙げた部屋が、ランクインするだろう。だがここで疑問が生じる。何故だ? どの部屋も生徒を害する部屋ではない。にも拘らず、お前たちは心の奥底で苦手意識を持っている。思春期とは難しいものだよ。そうは思わないか?」

 

「教師であるあなたがそう考えるのならば、そうなんじゃないんですか」

 

「だがこの苦手意識は生徒だけが持つものだ。特にこの部屋は良いぞ。何せ監視の目がない。個人のプライバシーに多く関わる話をするが故の配慮だな」

 

 確認すると、確かに言う通りだった。

 監視カメラが設置されていない。

 

「話とは私に関するものだ。教師になって以来誰にも言わなかった身の上話でもある。興味ないだろうが、戯言だと思って聞いて欲しい」

 

 茶柱先生の身の上話、か。

 彼女が言ったように、オレはそんなものに興味はないし、聞いたからと言って特に関心を示さないだろう。

 だがそれとは別に興味があることがある。

 これまで不明瞭だった彼女の輪郭がここで浮かび上がるかもしれない。

 

「突然で悪いが、お前たちDクラスには担任の茶柱佐枝(さえ)はどのように思っている?」

 

「そうですね……まずは美人だと思いますよ。実際、入学当初は殆どの男子が騒いでいましたからね。女子でも憧れを持つ生徒は多かったと思います。まぁ五月になってからの先生の豹変ぶりにはド肝を抜かれていましたが」

 

「それで?」

 

「他の先生と比較して構わないのなら、Dクラスの行く末に無関心、どうして教師をやっているんだろうと疑問に思っている生徒が多いようですね。先生はかなりの問題発言を何度か口にしていますし、まあ、妥当なところじゃないですか」

 

 あくまでもDクラスの生徒が持っている共通の印象を語った。

 茶柱先生はオレの言い回しに気付き、目を細めて尋ねてくる。

 

「まるで、お前は違うと言いたげだな」

 

「ええ。オレの印象は少しばかり彼らとは違います。先生は自分のことを冷酷な人間だと思っているようですが……あなたは、そこまで非情には徹することが出来ない人間だ」

 

 先入観を無くせば誰にも分かることだ。

 茶柱佐枝という人間は、大多数の人間から視れば『冷たい』『残酷』『薄情』と言った心象が持たれることだろう。

 だがそこまでの人間ではない。

 とはいえ──そこに弱点が見え隠れしているのだが。

 

「オレと先生は何度か、こうして二人きりで話す機会がありましたよね」

 

「ああ、そうだな」

 

「オレなりに考えてみました。何故──入学当初は生徒Aでしかなかったオレを、あんな嘘を()いてまで呼び出したのか。何故──オレを須藤健の判決を巡る審議会に参加させようとしたのか。何故──こうしてオレたちは話をしているのか。しかも茶柱佐枝という人間のプライバシーに関わるものですよ、考えないわけがない」

 

「……答えを聞かせて貰おうか」

 

 茶柱先生の雰囲気が一変する。

 殺意が込められた眼光は、見る人を恐怖で縛らせるだろう。

 しかしそんなものはオレには意味が無い。

 現にほら──唇が微かに震えている。

 オレは勿体ぶるようにして呼吸を繰り返した。

 殺気は高まるばかりで、同時に、唇の震えは大きくなる。

 そしてオレは自身の答えを口にする。

 

「茶柱先生、()()()()()()()()()()()()()。違いますか?」

 

 下克上──Aクラスになること。

 オレのこの考えを誰かに言ったら、茶柱先生を少しでも知っている人間は鼻で笑ってバカバカしいと一蹴するだろう。

 確たる証拠なんてものはない。オレがこの三ヶ月間で抱えてきた違和感に従ったが故の妄言の(たぐい)だ。

 だが──。

 相対する彼女は目を剥いていた。オレの妄言が事実に彩られていく。

 

「……何故、その答えに辿り着いた……?」

 

「最初に違和感を覚えたのは四月下旬に行われた小テストの時でした。あの時茶柱先生は監督官として教室を巡回していましたよね。そしてあなたは、オレの横を通る際に一度止まった。最初は偶然だと思っていましたよ」

 

 オレの席は窓際の一番後ろ。

 方向転換をするために一度立ち止まるのは不自然なことではない。

 だからあの時は疑問にこそ思ったが大して気にはしなかった。

 

「茶柱先生がオレのことを知っている……知りすぎているのは、こうして話す度に分かってきました。どうしてかは分かりませんが。恐らく、綾小路清隆という人間を推し量ろうとしていたんじゃないんですか?」

 

「……」

 

「沈黙は肯定と見なします。……あなたの過去に何があったのかは分かりませんが、兎にも角にも、あなたは下克上を狙う使命を負っていた。これまでの朝夕のSHRの際、あなたは生徒に告げるべき事柄を言ってこなかった。普通なら許されませんが、恐らく、これは各担任の判断に任されているのでしょう」

 

 実際、彼女は本当に告げるべき事柄は告げていた。

 もちろん知っていて損は無い情報はいくつかあった。が、知らなくても損は余りない。

 茶柱佐枝は『道化師』としてDクラスの担任を務めていた。

 

「オレはさらに考えました。何故、茶柱佐枝は必要以上に情報を与えなかったのか? それは──あなたが『優良品』に変わり得る可能性を持つ『不良品』なのか見極めるため。違いますか?」

 

「……」

 

 またもや沈黙。

 オレは嘆息してから言葉を続ける。

 

「先日の審議会の際。先生は佐倉が目撃者として場に躍り出た際、坂上先生の詰問から庇っていましたよね。あの時ではどちらが勝つかまだ分からなかった、だから咄嗟に言葉が口から出た。もちろん、これだけじゃありません。あなたが捨てた情報は、大半がプライベートポイントに関するものでした。その反面クラスポイントについてはちゃんと伝えています。あなたはクラスの意識がクラスポイント──クラス闘争に向くように誘導していた」

 

 矛盾だらけだった茶柱佐枝の言動が解明される。

 

「……お前は恐ろしい奴だな……」

 

「随分と話を折ってしまいましたね。それじゃあ教えて下さい。先生の身の上話を」

 

「ああ、聞いてくれ」

 

 茶柱先生曰く、彼女も数年前は高度育成高等学校に在籍していた生徒の一人だったようだ。それはつまり、一年クラスの担任、星之宮(ほしのみや)知恵(ちえ)も同期だと判断して良いだろう。

 茶柱佐枝は『不良品』の巣窟、Dクラスに選出された。もっと優秀だと思っていただけに、これに関しては素直に驚いた。

『不良品』と言っても、彼女が在籍していた当時は今程の圧倒的な差はなかったらしい。卒業する三年の三学期まで、AクラスとBクラスのクラスポイントの差は100cl。充分に巻き返せる数値だろう。

 些細なミスで戦況は一変する。

 その些細なミスを、茶柱佐枝が犯した。否、犯してしまったと表現した方が正しいだろうか。

 結果、Aクラスの夢は粉々に砕かれてしまった。

 過去を語る彼女の口から出た言葉のはしはしから、過去を悔いているのが感じられた。

 そして今、彼女は教師となった。薄々ながらも察していたが、教師も教師で実力至上主義のようだ。

 

「お前たちは『不良品』の烙印を押されているが、私は、()()()()()()()()と考えた。堀北鈴音、平田洋介、櫛田桔梗、高円寺(こうえんじ)六助(ろくすけ)と……潜在能力(ポテンシャル)の高い生徒が多い」

 

 当たり前だが、その中にオレの名前はなかった。

 

「それでは何故、先生はわざわざこの話を?」

 

 それこそ、今挙げた候補の中から誰かに告げれば良い。殆どの生徒が彼女に同情し、任せて下さい!と言うだろう。

 ところが彼女はこう言った。

 

「私は綾小路、お前こそがAクラスに上がるために必要不可欠な存在だと考えている。例えば中間試験や、つい先日の『暴力事件』──」

 

「先生、それは詮索はしないと約束したはずですが」

 

「……無論、約束は守る」

 

 言葉での約束なんて交わしても意味は無い。

 なのに人は約束を交わす。

 約束を守ることが信頼関係を築けると理解しているからだ。

 

「その件については良いでしょう。それより、オレが下克上に必要? なるほど、確かに茶柱先生、あなたならそう考えても仕方がないでしょう。だが察しているはずだ、オレが何を望んでいるのかを」

 

「ああ。お前が如何(いか)に平穏を望んでいるのかは分かっている」

 

「ならこれ以上の話は無駄ですね。あなたはオレが動くことを期待しているようですが、オレはそのつもりが微塵もない。話は平行線のままで、どちらも折れることはないでしょう」

 

 椅子から立ち上がる。

 スクールバッグを担ぎ、別れの挨拶を口にしようと顔だけ振り向かせると……そこには、ただならぬ気迫をもってしてオレを睨む茶柱先生の姿が。

 

「……まだ何かあるんですか?」

 

「──数日前、『ある男』が学校に接触してきた。彼はこう言った。綾小路清隆を退学させろ、とな」

 

 なるほど、まだ話はあるようだ。

 オレはわざとらしくため息を漏らしてから、聞く姿勢を一応は取った。だが椅子には座らない。

 ブレザーの左ポケットに片手を突っ込む。

 傲岸不遜(ごうがんふそん)なスタンスを取るオレに、茶柱先生は眉間に縦皺(たてしわ)を作る。

 

「退学させろ、ですか。その男はそれ以上何か言いましたか?」

 

「いいや、何も。彼はその言葉を言うなり電話を切ったからな」

 

「また奇怪な電話ですね。その男が何者かは知りませんが、本人の意思を無視して退学なんてさせられませんよ」

 

「当然だな。第三者がどう言おうと、退学になど出来るはずがない。この学校の生徒で居る限り、お前はルールによって守られている。これは絶対的なものだ。が、問題行動を起こせばその限りではない」

 

「問題行動、ですか」

 

「そうだ。飲酒、喫煙(きつえん)(いじ)め、盗み、カンニング。この学校はそう言った不祥事にはとても厳しい」

 

 彼女の言葉に嘘は含まれていないだろう。

 

「残念ですね。オレはそんな馬鹿げた行為をする程愚かじゃないんで」

 

「お前の意思は関係ない。私がそうだと判断すれば、全てが現実になるということだ。退学にはなりたくないだろう?」

 

「それ、本気で言ってますか? 確かに教師の言葉には一定の『力』がありますが、生徒にも同等の『力』があり、大きさで言えば生徒の方が大きいですよ」

 

 ところが茶柱先生は薄い笑みを浮かべてみせた。

 虚勢にはどうしても見えない。この女は多分、本気でやろうとするだろう──そう思わせるだけの力があった。

 

「脅迫ですか。随分と陳腐(ちんぷ)な手ですね」

 

「これは取引だ、綾小路。お前は私のためにAクラスを目指す。私はお前のために全力で綾小路清隆を守ろう。公私混同を私は好かないが、それすらも視野に入れている」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 彼女はあくまでも取引と言っているが、これは脅迫以外の何物でもない。

 そもそも取引とは同じ立場の者同士が交わすものだ。

 オレはこれを脅迫だと断定する。故にまずは、立場を対等にしなくてはならないだろう。

 オレはブレザーの左ポケットからある物を取り出した。

 それは小型の盗聴器だった。

 

「……盗聴器、か……」

 

「ええ、当然ですよ。あまりにも嫌な予感がしたものですからね」

 

「……ちなみに聞くが、どこから録音した?」

 

 オレは答えることはせず盗聴器を操作した。

 こちらの方が早いだろう。

 微かな駆動音と共に声が出される。

 

『──……まだ何かあるんですか?』

 

『──数日前、ある男が学校に接触してきた。彼はこう言った。綾小路清隆を退学させろ、とな』

 

『──退学させろ、ですか。その男はそれ以上何か言いましたか?』

 

『──いいや、何も。彼はその言葉を言うなり電話を切ったからな』

 

『──また奇怪な電話ですね。その男が何者かは知りませんが、本人の意思を無視して退学なんてさせられませんよ』

 

『──当然だな。第三者がどう言おうと、退学になど出来るはずがない。この学校の生徒で居る限り、お前はルールによって守られている。これは絶対的なものだ。が、問題行動を起こせばその限りではない』

 

『──問題行動、ですか』

 

『──そうだ。飲酒、喫煙、苛め、盗み、カンニング。この学校はそう言った不祥事にはとても厳しい』

 

『──残念ですね。オレはそんな馬鹿げた行為をする程愚かじゃないんで』

 

『──お前の意思は関係ない。私がそうだと判断すれば、全てが現実になるということだ。退学にはなりたくないだろう?』

 

『──それ、本気で言ってますか? 確かに教師の言葉には一定の『力』がありますが、生徒にも同等の『力』があり、大きさで言えば生徒の方が大きいですよ』

 

『──脅迫ですか。随分と陳腐な手ですね』

 

『──これは取引だ、綾小路。お前は私のためにAクラスを目指す。私はお前のために全力で綾小路清隆を守ろう。公私混同は私は好かないが、その分野すら視野に入れている』

 

 今しがたの会話が再生された。

 オレと茶柱の視線が交錯する。

 

「……これは問題行動だぞ、綾小路」

 

「ええ、でしょうね。茶柱先生が学校に訴えたらそのような判定が出るでしょう。ですが……それはあなたも同じこと」

 

「互いに武器を持ったか」

 

 これで良い。

 教師が生徒を訴えたら、生徒もまた教師を訴えれば良いだけだ。問題行動となるだろうが、退学処分には程遠いだろう。

 むしろ生徒を脅迫した彼女の方が痛手を蒙る。

 茶柱はどうでも良い。やろうと思えば辞職にだって追い込めることが出来るだろう。

 

「これは少し考えれば分かることですが、夏休みに行われるバカンス。二週間もの無償の善意。これは嘘ですよね。()()()()()()()()()()()?」

 

「……」

 

 茶柱は口を噤んだ。

 これは最重要事項のはずだから、彼女は決して口を割らないだろう。

 

「その際に何が起こるのかは分かりませんが……そうですね、こうしましょうか。夏のバカンス中に起こった出来事に対してはオレも全力で事に臨みます。クラスのためにベストを尽くしましょう。その代わり、先生はオレを卒業まで守って下さい。もちろん、今後一切の脅迫はなしです」

 

「一時的な協力と永続的な協力が認められると思っているのか?」

 

 無論、認められるわけがない。釣り合っていないことは誰の目にも明らかだ。

 逆に容認されたら疑って然るべきだ。

 

()()()()()()()()()()()()()()()。あなたはオレの存在が必要不可欠だと言いましたが、なら、オレが居ない状態でもAクラスに行けるだけの戦力を持たせれば良い。そうなればオレは必要ないはずです」

 

「だが──」

 

「呑めないと言うならこの話はなかったことにしましょうか。それが互いの為になる。オレたちは夏休みについて談笑した、これで終わりです」

 

 静寂が室内を支配する。

 茶柱は数分に渡って思案していた。

 彼女が本当に下克上を狙っているのならば、取るべき行動は決まっている。

 おもむろに声が響いた。

 

「……分かった。取引に応じよう。まさか、脅迫のつもりが取引になるとはな……」

 

 その点については茶柱自身の失態だ。

 口振りから察するに、会話を録音することは想定していた。なら何故、その想定をもっと形にしないのか。

 あるいは、これこそが茶柱の狙いだったかもしれない。だとしたら評価を改める必要があるだろう。

 

「それじゃあ、オレはこれで」

 

「……ああ、良い夏休みを」

 

 送られた声は心做しか疲弊を帯びていた。

 生徒指導室を退室し、玄関口に辿り着いたところでオレは、ブレザーの右ポケットから携帯端末を出した。

 表示されているのは、『録音中』という文字。停止ボタンを押し、端末を元の場所に戻す。

 オレは盗聴器だけでなく、端末でも茶柱との会話を録音していた。

 盗聴器を使っていたのは、茶柱が『あの男』の話題を口にした時から。端末を使っていたのは、椎名と共に給湯室から折りたたみ椅子を持ち運んだ時からだった。

 これで茶柱への対策は出来た。

 

 問題は──『あの男』が本当に接触してきたかどうか、判断がつかないところだ。

 

 茶柱の嘘だという線、本当だという線はそれぞれ半々だ。

 真実を確かめる(すべ)がないオレは、彼女の取引を完全にとまではいかないもある程度は応じる必要があった。

『あの男』に一教師が役立つかと聞かれたら否だが、学校側からの助っ人はないよりはマシだろう。

 そのためにも『結果』を出さなくてはならない。

 脳内で様々な策謀が思い浮かぶ。実現不可能から実現可能なものまで千差万別。

 Dクラスが『勝つ』ために必要な方法。

 ()()()()()

 今回に限っては『勝つ』ことに専念する必要はない。

 Dクラスが充分に戦えるように仕向ければ良い。

 そのためにやるべきことは──ただ一つだけ。

 オレは並木道を通りながら、何となく空を見上げた。

 夏空。天高く昇った太陽が激しく照りつける。そのあまりの眩しさに目を細める。

 平穏を誰よりも望む人間は、その実、最も平穏から遠ざかる。

 厳夏が本格的に襲来する中、クラス闘争が今まさに開幕しようとしていた。

 



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幕間 ─夏休み前編─
夏の始まり


 

 昨日(きのう)から学生が待望していた長期休暇に入った。

 普通とは縁遠い高度育成高等学校だが、流石に夏休みは全国各地の高校と同じように訪れるらしい。

 文化祭や修学旅行はどうなるのだろうかと、オレは実は期待しているが……まあ、恐らくは無理だろうなとも諦めている。在学中、生徒は外部との接触は禁じられている。区画から無断で出ることは(かな)わないし、見咎(みとが)められた場合相応の罰が与えられるらしい。個人の問題……つまりプライベートポイントのみならず、クラスポイントにも影響を与えると考えた方が良いだろう。また、SNSの利用にもオレたちは気を遣う必要がある。こちらに関しては随時学校側が確認しているそうで、問題がある発言をした生徒は生徒指導室に連れていかれるようだ。実際に数名の生徒が居るので間違いない。

 その為オレのこの夢が叶えられることはないだろう。高度育成高等学校は設立されてからまだそこまでの年数が経っている訳でもないため、オレが在籍している時代に校則(こうそく)が劇的に変わるとは思えない。

 

「眠い……」

 

 時刻は朝の八時三十分。本来なら朝のSHRが行われ、担任が出席を取っているだろう時間帯だが、それも今はない。

 学生寮から校舎までは数分の距離とはいえ、決められた時間に行動するということは思春期のオレたちにとって厳しいものがある。それが社会に出てからは当たり前のことだと頭の中では分かっていても、反抗心を持つことは自然だと思う。

 つい最近までは規則正しい生活を送っていたのに、一度でも気が(ゆる)むとあっさりと堕落(だらく)してしまう。継続は力なり、とはよく言ったものだ。

 そんなことを考えながら朝食を済ませ、身支度を整える。この後は人と会う約束をしているのだ。

 起床してから一時間後の九時三十分。ピンポーンという音が部屋に響く。玄関扉を開けると、太陽の光が射してくる。あまりの眩しさに思わず瞬きをする。徐々に光に慣れていき、目の前の人物を浮き彫りにしていった。

 

「おはようございます、綾小路(あやのこうじ)くん」

 

「おはよう、椎名(しいな)

 

 オレが挨拶を返すと、友人──椎名ひよりは微笑んだ。

 学校の制服ではなく、私服を着ている。休日に会うことは一学期の間あまりなかったので新鮮だ。

 

「遠慮せず入ってくれ」

 

「はい、それではお邪魔しますね」

 

 異性の部屋に遊びに行くことが校則で禁じられているわけではないが、思春期真っ(さか)りの高校生にとっては些細なことが変な噂になりかねない。

 ばったりと部屋から出た男子生徒と運悪く遭遇することを回避する為、先に椎名を通す。

 玄関の鍵は……閉めなくても良いだろうと判断した。流石に無断で突入してくるような奴は居ないだろうし、椎名が不安になるのは避けたい。

 

「綾小路くん。とうとう絨毯を買われたのですね」

 

「昨日、友達と買いに行ったんだ。余裕が少し出来たからな」

 

「それは素晴らしいと思います」

 

 基本的にDクラスの生徒は極貧生活を余儀なくされている。それは四月の一ヶ月で1000ポイントあったクラスポイントを全て使い果たしてしまったからだ。今月の七月からポイントが入り始めたが、その額は微々(びび)たるもの。昨日……つまり、夏休みの開始と同時にようやく振り込まれていたが、殆どの生徒は生活用品に既に使い切って居るだろう。スーパーやコンビニには一応の救済措置が用意されていて、無料商品が置かれているが、それも無限にある訳じゃない。一ヶ月に何回買えると決まっていて、それは記録として残っているので慎重になる必要がある。

 しかしオレともう一人の生徒だけは事情が異なる。オレはおよそ20万prを所持しているが、もう一人の生徒──佐倉(さくら)愛里(あいり)には30万prが例外的に一気に支給された。佐倉の所持プライベートポイントは学年でも高い順位に位置することになったことだろう。

 話を戻そう。つまりオレには、ある程度自由に使える分だけのポイントがあるということだ。

 

「お友達……と言うと、度々話題になっている平田(ひらた)洋介(ようすけ)くんでしょうか?」

 

「……よく分かったな。その通りだ」

 

 まさか当てられるとは思ってなかった為、驚く。

 椎名は深緑色の絨毯(じゅうたん)の上に「失礼しますね」と律儀にも言ってから腰を降ろし。

 

「綾小路くんの交友関係からある程度は察せられます」

 

 事も無げにそう言う。

 うぐっとオレは言葉に詰まる。椎名の指摘が全て正しかったからだ。

 

「他のお友達……確か、須藤(すどう)くん? とも思ったのですが、お話を伺う限りでは、この色は彼の趣味ではないかなと思いました」

 

「大正解だ。洋介……平田に付き合って貰ったんだ」

 

 昨日、オレは友人の一人である平田洋介という男と遊んだ。これまでは重要な話があったりと、純粋な遊びはして来れなかったが、昨日初めて普通の男子高校生らしく遊べたと思う。午前中は公園でサッカーをし、午後にケヤキモールというショッピングモールに行き、ゲームセンターや映画を観た。その際、ホームセンターに行き絨毯を買った。

 話を聞き終えた椎名は「ふむ」と頷いてから、

 

「だとしたら申し訳ないですね。二日連続でケヤキモールに行くことになるのですから」

 

 椎名と遊ぶことは何日も前から決まっていた。ケヤキモールに(おもむ)き、近々学校主催の行事であるクルージング旅行の準備をする為、付き合って欲しいと打診を受けていたのだ。

 しかし洋介とケヤキモールに行ったのは突発的な行動だ。男子高校生のノリというものを体験することが出来たのは良かったが、配慮に欠けていたな。弁明すると、彼女の用事のことは覚えていたので、彼女の用事には被らないようにしたが……いや、これは明らかに不誠実だな。

 

「椎名が謝ることは何もない。むしろ謝るのはオレの方だ。悪いな、勝手に動いてしまって」

 

「いいえ、気にしないで下さい。お友達との付き合いは大切ですから。それが同性なら尚更でしょう。ああ、けど──」

 

「私が男性だったら、ちょっと怒っていたかもしれませんね」と椎名は言った。

 それを見たオレは深く反省し、頭を下げる。

 

「本当に悪かった。代わりにはならないと思うが、今日はとことんこき使って良いぞ」

 

 すると彼女はにこりと笑った。

 

「では、お言葉に甘えさせて頂きますね」

 

「もう行くか?」

 

 集合場所と集合時間は決めていたが、その後はその時その時で考えようということになっていた。

 椎名の買い物がどれだけ時間が掛かるのかは、実際行ってみないと分からないだろう。なら早々に目的を果たした方が効率的だ。

 

「いいえ、先程はあのように申しましたが、実の所、買い物そのものにはあまり時間は掛からないと思います」

 

「そうなのか?」

 

「はい。夏服を買いに行くだけですから。すぐに済むでしょう」

 

 あっけらかんと彼女は言った。

 なるほどと納得する自分とは別に、少し腑に落ちない自分も居る。

 小説では女性の買い物は長い、とよく表現されている。女性の目は刺激に敏感で、少しでも興味が引かれる商品があると本来の目的すら忘れてしまうほどにふらふらとそちらに足が向くからだ。

 もちろん、小説で得た知識だけで疑っているわけじゃない。洋介も似たようなことを言っていたのだ。

 友人曰く、

 

「清隆くん。きみも重々注意した方が良い。女の子の買い物には死ぬ気で行った方が良いよ」

 

 との事だ。昨日伝えられたから間違いない。それに洋介の表情は本気(マジ)のものだった。普段の彼からは想像が付かないが、それだけ軽井沢(かるいざわ)(けい)という女の子と行くのには骨が折れるのだろう。

 だからオレが半信半疑になるのも仕方がないことだと思う。しかしそれを言って良いのかとも思う。

 

「……綾小路くん?」

 

「いや、何でもない。そうだな、ケヤキモールに行くのは午後からにするか」

 

「暫くの間お邪魔しますね」

 

 言うや否や、彼女は俊敏な動きで持参していたバッグから一冊の本を取り出した。図書館で借りてきたのだろう、裏表紙に図書館のバーコードのシールが貼られている。

 

「……なるほどな」

 

 オレは相変わらずの椎名に苦笑いを浮かべた。

 恐らく、良いところで終わっていたのだろう。続きが気になっていたから、あのような提案をしてきたのだと容易に想像がつく。

 本の虫の友人は、在学中に図書館に置かれている本全てを読破することを目標としている。保管されている冊数は何千……下手したら何万にも届いているだろう。その数を踏破するのは普通なら無理だ。

 だがしかし、本を愛してやまない椎名なら。何食わぬ顔で実現出来そうな気がするのだから不思議だ。

 冷茶を二人分用意し、折り畳み机の上に置く。

 

「昼はどうする? モールで食べるか?」

 

 頭がこくりと小さく縦に動く。

 一応、意識の何割かは外の世界に割いているようだ。

 オレはもう一度苦笑してから、勉強机の上に置いていた一冊の小説に手を伸ばす。

 題名は──『グリム童話集』。ヤーコプ・グリムとヴィルヘルム・グリム……通称、グリム兄弟が編纂(へんさん)したメルヒェン集だ。メルヒェンとは、昔話という意味。そしてここで気を付けて欲しいのが、この童話集は創作物ではなく、グリム兄弟が収集したものだということ。正式名称は『子どもと家庭のメルヒェン集』であり、この本はそれを日本語訳したものだ。

 普段は推理小説を読みがちなので、たまには趣向を変えたいと思い、本の紹介コーナーに置かれていたこの本を手に取ってみた。

 思えば、ここ最近は色々と多忙だったからあまり読書していなかったな。せっかくの機会だ、じっくり、ゆっくりと読もう。

 オレは少しずつ本の世界に意識を傾けて行った。

 

 ──二時間後。

 

 静寂に包まれていた部屋に、ぱたんと、音がなる。

 目だけ動かして発生源を見ると、そこには、本を閉じた椎名の姿があった。

 

「読み終わったのか?」

 

「ええ、はい」

 

「珍しく時間がかかってたみたいだな」

 

 頁数(ページすう)にもよるが、大半は一時間から二時間もあれば読破出来る。それが椎名のような文学少女なら尚更だ。

 しかし今回は長かった気がする。そんなオレの指摘に、椎名は答えた。

 

「これは推理小説なのですが、どうにも分からないところがあって」

 

「へえ……椎名がそう言うなんて本当に珍しいな」

 

「そう、ですね……。ですがどうしても分からないんです。何度考えても、私には分かりませんでした」

 

「推理小説ってことは……トリックとかか?」

 

 質問してから、いや、それは無いなと否定した。トリック……つまり犯行手段は推理小説の(きも)とも言える。読者に分かるように説明されなければならない。

 なら他に理由があると考えるべきだろう。

 椎名は両腕で本を抱き締めながら言った。

 

「分からない……と申しましたが、納得出来ないと表現した方が良いでしょうか」

 

「納得出来ない、か……」

 

「ええ、ですからこれは私の癇癪(かんしゃく)です。私は……犯人の動機が何度読み返しても納得出来ませんでした」

 

「それは気になるな。また今度読もうかな」

 

 だから題名を教えてくれとオレは頼んだ。

 しかし、彼女は黙考してから首を横に振る。

 

「……いいえ。綾小路くんには紹介したくありません」

 

 思わず目を見張る。

 椎名が本を紹介したくないと口にするのは初めてだ。

 

「どうしてだ?」

 

「それは…………」

 

 椎名自身、理由が分からないようだった。

 だがオレに紹介したくないのは本当のようで、オレはそこまで言うのならと引き下がる。

 裏表紙の色や大きさ、デザインから後で探し出すことは可能だが、それはやめておこう。

 

「ごめんなさい。ですが、どうしても私は……」

 

「謝る必要はないさ」

 

 気にするなと再度言うと、椎名は小さく頷いて手提げバッグの中に本を仕舞った。

 

「お茶、飲んでいないが大丈夫か? 外は暑いと思うから、飲んでおいた方が良いと思うぞ」

 

 今は冷房が効いているから何不自由なく快適に過ごせているが、外が厳暑(げんしょ)なのは間違いない。

 水分補給をしっかりと摂らないと熱中症になることも充分に有り得る。

 

「頂きますね」

 

「ああ」

 

 飲み終わり空になったグラスを受け取り、台所の流しで水に浸けておく。

 荷物は……携帯と学生証くらいで良いか。

 

「それじゃあ、行こうか」

 

「はいっ」

 

 先にスニーカーを履いて貰い、玄関扉を開けて貰った。すぐに靴箱から地味な色のシューズを取り出し、足を通す。ガチャガチャッと、鍵が掛かっているのを確認した。

 

「どうする? エレベーターを使うか?」

 

「階段を使いましょう。運動不足を少しでも解消したいです」

 

「そうか。それはいい心構えだと思うが、何かあったのか?」

 

 階段を降りながら尋ねる。

 これまで彼女の口からは運動をしたい──こんなことは一言も漏らしたことはなかった。

 むしろ椎名は運動そのものに対して忌避感……とまでは行かなくても、苦手意識を持っていた筈だ。

 

「笑いませんか?」

 

「笑わない。約束する」

 

「……その、お恥ずかしながら……体育の成績が……」

 

 語尾は掻き消えていったが、確かに聞き取れた。

 なるほどな、とオレは納得する。

 そういう理由なら何とかしたいと思うだろう。

 

「事情は分かったが……そんなに酷かったのか?」

 

「ええ……壊滅的(かいめつてき)でした」

 

 切実にそう言われたらオレは口を(つぐ)むしかない。

 

「特に水泳が厳しかったですね。いえ、それ以外も厳しかったのですが……正直、単位を取れたのは授業を真面目に受けていたからだと思います」

 

 授業態度で点数を稼いだということだろう。

 普通の生徒にとっては──ここでは、平均的な能力を所持している者を指す──授業態度の評価項目はあってもなくてもあまり関係ないものだ。しかし、向上心が高く少しでも良い成績を取りたい生徒や、試験の結果が芳しくない生徒にとってはとても大切になってくる。前者は成績が加点されるアイテムとして、後者は救済措置として重宝されるのだ。

 そして椎名にとって体育は苦手極まるもの。だからこそ、授業態度の評価項目が生命線だったのだろう。

 

「綾小路くんは一学期の成績、どうでしたか?」

 

 学生寮のフロントをそのまま横切り、並木道(なみきみち)に入ったところで、椎名がそう尋ねてきた。

 

「可もなく不可もなくだったかな。順位を付けたら多分、学年平均くらいだと思う」

 

 すると隣を歩く彼女は不思議そうに首を傾げる。

 

「中間試験の結果はかなり良かったですよね?」

 

「あれは昔習ったことの範囲だったからな。流石に中学に習ったことはそう簡単には忘れないさ」

 

 中間試験とは違い、期末試験の結果は殆どの生徒は点数が落ちていた。維持出来ていたのは学年でも極わずか。その中には椎名も含まれている。

 

「それにしても……凄い人混みだな……」

 

 往来する生徒の数は尋常ではない。この並木道は一年生から三年生まで、各学年の学生寮へ続く道の分岐点であったり、学校へ通じる道であったり、オレたちの目的地であるケヤキモールへ通じる道であったりと様々な役割を持っている。

 長期休暇が始まり、みんな、思う存分に楽しもうという気概が伝わってくるようだ。

 

「──きゃっ」

 

 小さな悲鳴が隣から出る。

 擦れ違った男子生徒の肩と椎名の肩がぶつかったのだ。

 彼女が転倒する前に、オレは手を伸ばし、

 

「……ッ。大丈夫か?」

 

「は、はい……」

 

「悪い悪い。怪我はないか?」

 

 上級生だと思われる生徒に、椎名は「大丈夫です。こちらこそ申し訳ございません」と答える。その事に安堵した彼は再度謝罪をしてから、学生寮がある方向に足を向けて行った。

 

「モールはこの倍は居そうだな」

 

「……そうですね。ごめんなさい、綾小路くん。これなら先に本来の用事を済ませるべきでしたね」

 

「まあ、実際に行ってみないと分からないさ。取り敢えず隅に移動しよう」

 

 人が少ない場所に行けば、先程のような衝突事故に遭うこともないだろう。

 気を付けながら歩いていると、前方から二人の男女が歩いてきた。カテゴリー的には知り合い以上友人未満。彼らもオレの姿を認知したのだろう、そのまま直進してくる。

 

「久し振りだな」

 

「そうでもないだろ。精々二週間行くか行かないかくらいだ」

 

 オレの言葉を堀北(ほりきた)(まなぶ)は顔面通りに受け取ったようで、「それもそうだな」と言った。

 

「こんにちは、綾小路くん。そしてあなたは……」

 

「初めまして、一年Cクラス所属の椎名ひよりと申します。生徒会長の堀北学先輩と書記の(たちばな)(あかね)先輩ですよね?」

 

「ええ、そうです。ご丁寧にありがとうございます」

 

 椎名の挨拶に、橘先輩は好感を持ったようだった。

 そのまま女性陣が話し始めるので、オレたち男性陣も少し話をすることに。

 

「どうだ、綾小路。一学期は楽しめたか?」

 

「どうかな。一番楽しかったのは何も知らなかった最初の一ヶ月だとは思うが」

 

「クラス闘争はどうでも良いという認識。これは変わらないか」

 

「ああ、それはもちろん。上のクラスに行くことに魅力を感じない」

 

 すると生徒会長は面白そうに口元を歪めた。

 

「ほう……それは何故だ? 就職率、進学率ともに100パーセント。この恩恵を得られるのはAクラスだけだが、将来のことを考えると魅力的ではないか?」

 

「あまりそうは思わないな。それにだ、その(うた)い文句は厳密には嘘だろう」

 

「何故そう思う?」

 

 オレは一拍置いてから自分の考えを口にする。

 

「例えばだ。これまで野球に何も興味を持たなかった生徒Aが居るとする。そいつは野球ボールを触ったこともないし、グローブを手に填めたこともない。バットを振ったこともない。仮にこの生徒Aが何らかの切っ掛けで野球選手になることを夢見たとしよう。そして生徒AはAクラスで卒業したとする。それじゃあ、ここで疑問が湧く。この生徒Aは野球選手になれるのか?」

 

 生徒会長はオレの疑問に即答した。

 

「無理だな」

 

 そう断定されたら、分かっていたこととはいえ、面食らってしまったものだ。

 

「綾小路、お前の考えは正しい。就職率、進学率100パーセント。この数字は間違いない。だが、『Aクラスで卒業した』という実績一つだけで夢が叶う筈がない。社会はそんなに甘くないということだ」

 

「なるほどな。つまり学校に出来ることはそいつの望む形に近しい将来を提示することだけということか」

 

「その解釈で間違ってないだろう」

 

 思わず嘆息する。

 全てが『嘘』だと糾弾出来ないのがイヤらしい。

 

「しかし、随分と価値のある情報を教えてくれるんだな」

 

 頭が回る奴だったらこの考えにはすぐに辿り着くが、教師に真偽を尋ねてもはぐらかされるのがオチだろう。

 だが目の前に居るのは高度育成高等学校の(おさ)だ。そして彼と話をする度に感じるのは、絶大な権力。はっきり言って異常だ。

 

「構わない。お前が言い触らすことはないだろう」

 

 確かに言う通りだが、やけにオレを気に掛けるな。

 それは誰もが憧れるような理想的な先輩と後輩の関係……ではないだろう。

 

「綾小路。旅行から帰ってきたらお前と話をしたい」

 

「……それはまた面倒臭そうだな」

 

 渋面を浮かべると、堀北学は薄く笑う。

 

「お前にとってはそうだろうな」

 

「是非とも断りたいものだ」

 

「だが俺にとっても、そしてお前にとっても無関係な話ではない。特にお前たち一年生にとってはな」

 

 また奇妙な言い回しだな。

 オレ個人ではなく、一年生ときた。余程重要な話だと容易に想像出来る。

 

「今ここで話すことは出来ないのか?」

 

「残念ながら。話すことは出来るが、今のお前ではその意味までは完全に理解出来ないだろう」

 

「……分かった。帰ってきたらオレから連絡する。日程はその時に決めたいと思うが、それで良いか?」

 

「ああ、それで頼む。代わりと言ってはなんだが、昼食くらいは奢ろう」

 

 生徒会長に飯を奢らせる一般生徒。これってかなり凄いことだと思うが、タダ飯にありつけるなら遠慮なくそうしよう。

 こちらの話は一段落ついたが、向こうはまだのようだった。

 

「椎名さんは夏服を買いましたか?」

 

「いえ、それがまだなんです。買おうか買わまいか悩んでいるですが……中々決断出来なくて。橘先輩のそれは夏服ですよね?」 

 

 どうやら、制服について話をしているらしい。

 堀北学も橘茜先輩も制服を着用している。恐らく、午前中は学校に行って、生徒会の仕事を行っていたのだろう。

 

「夏休みも生徒会は活動しているのか。大変だな」

 

「そうでもない。それに活動しているのは我々だけではない。大半の運動部は精を尽くしているだろう」

 

「本当は終わっていた筈なんですが、『暴力事件』の関係でいくつかの仕事が残っていたんです」

 

 オレたち一年DクラスとCクラスの所為だということだ。オレと椎名は各クラスを代表して頭を下げた。

 すると橘先輩は慌てたように、

 

「い、いえ! 綾小路くんと椎名さんの所為ではないですから!」

 

「「……」」

 

『暴力事件』を計画したのは龍園で、オレと椎名はそれに加担したんです、とは流石に言えない。

 もう一度頭を下げると、先輩はフォローするようにこう言った。

 

「ええっと……夏休みを利用して生徒会の改装を行う予定でもあったので、本当に、全然、気にしなくて大丈夫ですから!」

 

 そういうことならとオレたちは先輩に甘える。

 事情を知っている生徒会長は、口元がぴくぴくと震えていて、笑いをこらえているようだ。思わず殴りたくなるような顔だったが、ここはグッと我慢する。

 

「お二人はどこか出掛けるんですか?」

 

「ええ、ケヤキモールにちょっと。旅行の準備をしたいと思いまして」

 

「なるほど」

 

「橘、俺たちもそろそろ行こう。これ以上引き留めるのも悪い」

 

「そうですね。それでは綾小路くん、椎名さん。豪華客船、楽しんで来て下さい。お話を聞かせて貰えると尚良いです」

 

 そう言って、彼らは別れの挨拶を口にしてからオレたちが通った道を進んで行った。このまま学生寮に帰るのだろう。

 

「お前はやけに綾小路や椎名を気に掛けるな」

 

「それはもう、可愛い後輩ですから」

 

「後輩なら南雲(なぐも)が居るだろう」

 

「南雲くんは私ではなくて会長に懐いていますからね。そんな彼なら、会長も憂うことなく生徒会長の座を渡せるんじゃないですか?」

 

「……そうだな」 

 

 風に乗り、そのような会話が聞こえてきた。

 先輩たちの背中が小さくなるまで見送ってから、オレは椎名に声を掛ける。

 

「橘先輩、どうだった?」

 

「とても良い先輩だと思います。会長さんのことをとても大切に想っていることが伝わってきました」

 

 それが尊敬からくるものなのか、あるいは恋慕(れんぼ)からくるものなのか。知っているのは橘先輩本人だけだろう。

 雑談をしながら歩くこと数分、オレたちは目的地であるケヤキモールに到着する。モールは想像通り……いやそれ以上に人で混雑していた。

 夏休みに入るのは生徒だけじゃない。学校の敷地内で働いている大人もそうだ。室内は冷房が入っているが、この人の多さだと効いているとはあまり言えないな。

 取り敢えず近くのベンチに腰を下ろす。

 

「何か食べたいのはあるか?」

 

 携帯端末に予めダウンロードされている、モール内のマップを見ながらそう尋ねると、

 

「私は特にありませんね。綾小路くんにお任せします」

 

「そう言われてもな……オレも特に食べたいものがあるわけじゃないから」 

 

 互いに「何でもいい」となると、こういう時に困るよな。椎名は「ふむ」と呟いてから。

 

「昨日、平田くんと来た時はどうしたんですか?」

 

 何故ここで洋介が? と思いつつも、

 

「昨日は……そうだな。冷やし中華を食べたな」

 

 控えめに言って、とても美味しかった。冷めたラーメンだと最初は勝手に思っていたのだが、いざ食べてみると美味かった。

 

「なら綾小路くん。私も冷やし中華が食べたいです」

 

 そう、椎名は主張してきた。

 思わずぱちくりとオレは瞬きしてしまう。

 

「駄目……でしょうか?」

 

「そういうわけじゃないが……」

 

 ただ急に冷やし中華を食べたいと言ってきたので不思議なだけだ。平田に関係しているのか? 

 どうにも今日の椎名は色々と変だな。

 

「ごめんなさい、綾小路くん。やっぱり今の発言は取り消して──」

 

「いや、食べに行こう」

 

 とはいえ、彼女が自己主張するのはとても珍しいことでもある。なら出来るだけそれに応えたいと思う。

 

「で、ですが……二日連続で同じ料理になってしまいます……」

 

「気にしないでくれ。オレももう一度食べたいと思ったからな。それが今日だったということだ」

 

 言いながら、オレは立ち上がる。そして尚も躊躇っている彼女に手を貸して、強引ながらも立って貰う。

 ラーメン店の場所は確か……二階だったか。エレベーターは混んでそうだから、エスカレーターを使うとしよう。

 

「よし、行こう」

 

 椎名は顔を俯かせながらも小さく頷いた。オレは彼女の手を握り直し、人でごった返しているケヤキモールの中を突き進む。

 後ろを見なくても、彼女がそこに居ると分かる。右手から伝わるオレのものではない熱。その温もりが、彼女の存在を教えてくれた。

 オレは思う。

 せめて今だけは、クラス闘争とは無縁で居たいと。

 成高等学校一年生が東京を旅立つその前。オレはその日常を噛み締めていた。たとえいつか、彼女と離れることになっても、この記憶は思い出として胸に残り続けるだろう。

 



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佐倉愛里の決意

 

 これまでの人生に於いて、私に『友達』は居なかった。ううん、この表現は正しくないよね。居なかったんじゃない。私が勝手に怖がって、作ることを拒絶していただけ。

 誰かとの繋がりがなければ人は生きていけない。そんな当たり前のことが頭では分かっていても、私は恐怖心に支配されたままだった。

 けれど高度育成高等学校に入学してから、私は変わることが出来た……と思う。相変わらず臆病だけど、少しだけ……けれど私にとってはその少しがとても大きな意味があって──『勇気』を持つことが出来るようになった。

 

「すぅー……はぁー……」

 

 昨日から高度育成高等学校の生徒は夏休みに入った。そして二日目を迎えた今晩、私は携帯端末の前で深呼吸をしていた。

 

「ど、どうしよう……緊張する……!」

 

 意味もなく髪の毛を(いじ)り、とうとう手鏡を取り出した。鏡に映っている私は、想像通りの顔をしている。全体が(ほの)かに赤らみ、耳まで侵食している。そんな自分が見ていられなくて、あわあわと両手を振ってしまった。

 

「出来るできる私は出来る。大丈夫だいじょうぶ……」

 

 最後にもう一度深呼吸してから、私は携帯端末を勢いよく摑む。そしてPINコードを打ち、そのままチャットアプリを開く。

 このチャットアプリは相手と友達申請をすることで、いつでもどこでも相手と話すことが出来る。無料で電話をすることも出来るし、最近はビデオ通話も実装された。若者の多くがこのアプリをインストールしている。

 私の『友達』に登録されているのは自慢じゃないけど少ない。つい数日前までは櫛田桔梗(くしだききょう)さんや平田洋介(ひらたようすけ)くんしか居なかった。二人とも、(ひと)りの私を心配して『友達』になろうと誘ってきたのだ。ここだけの話、当時は何とかやり過ごせないかと思ったりもしたけど……。

 一応、『一年Dクラス』というグループにも参加しているけれど、このグループに誰かの発言が投稿されることはあまりない。平田くんが明日の学校での用事について連絡することが時折(ときおり)あるくらいだ。

 

王美雨(みーちゃん)……綾小路(あやのこうじ)くん……」

 

 数日前、『友達』になった二人に思いを馳せる。

 王美雨(ワンメイユイ)さんと、綾小路清隆(きよたか)くん。

 この二人が、高校で初めて出来た私の友達の名前だ。

 突然だけれど、臆病な私には一つだけ他人に誇れることがある。その人の目を()たら、ある程度その人のことが分かる、ということ。

 もちろん、あくまでも()()()()だから外れることもある。けれど私はこの『目』を大切にしていた。

 何故、この『目』が私にあるのか。それが私の『秘密』に関係しているのは間違いないだろう。

 王美雨(ワンメイユイ)さんが私と似たような人種なのは『目』を使うまでもなくすぐに分かった。コミュニケーションが苦手な私たち。私と違うのは、彼女には行動に移せる『勇気』があるということ。

 けれど──綾小路清隆くん。彼の『目』を視た時、私は嘗てない衝撃に(おそ)われた。未知(みち)に対する興奮か、それとも未知に対する恐怖なのか。どちらにせよこれまで視たことがない(ひとみ)の『色』だった。私はあんな『色』を持つ人を見たことがない。全てを照らす純白の輝きと、全てを覆う暗黒。相克(そうこく)している二つの『色』は私の『目』を()き付けた。

 

「よしっ!」

 

 先に王美雨(ワンメイユイ)の名前をタップし、チャット画面に飛ぶ。私から言葉を(おく)ったことはまだ一度もない。これまでの履歴(りれき)を見ると、『分かりました』『はい』『うん』など、全てが事務的な対応をしてしまっている。

 愛想がないにも程があるし、あまりにも失礼だ。けれど(ワン)さんは何度も何度も私に言葉を(おく)ってくれた。

 

「今の私なら……出来る……!」

 

 予め頭の中で考えていた文章を(つく)っていく。何度も打ち間違え、短い文章なのに何分も時間が掛かってしまった。それがあまりにも私らしくて苦笑い。

 と、視界の隅に現在時刻を示すデジタル時計があった。

 

「ど、どうしよう……!? 今から送ったら迷惑じゃないかな!?」

 

 時計は残酷にも『22:34』を表示していた。

 あわあわと震える私を誰かが見ていたら、さぞかしその誰かは呆れ返るだろう。

 

「あっ」

 

 漏れた声が自分のものだと気付くのにそこそこの時間を要した。

 携帯端末を持つ両手が震える。そこには、誤タップで送った文章が新しく表示されていた。

 

『明日、もし良かったら遊びませんか?』

 

 私は無性に泣きたくなった。あまりにも自分が惨めだと思ったのだ。

 

 ──そ、そうだ……今ならまだ投稿を取り消せる……! 

 

 そうだ、そうしよう。それで気にしないで下さい、と謝罪コメントを()えれば良い。コメントを消すために必要な操作をしようと──して、私は硬直する。

『既読』というマークが付いたのだ。つまり、(ワン)さんは私の遊びの誘いメールを読んだということになる。

 

「……」

 

 気付けば私は目を見開いて、彼女の返信を待っていた。その瞬間を見逃さないよう、神経を()()める。

 ごくりと生唾(なまつば)を呑み込んだ、その時──携帯端末が振動した。画面が切り替わり、中央には『王美雨(ワンメイユイ)』の名前が。

 

「どどどどど、どうしよう!?」

 

 まさかの展開にわたわたと慌てる。

 と、取り敢えず電話に出ないと……! 

 手を一度止めてから、勢いよくコールボタンをスワイプした。

 

「も、もしもし……」

 

『もちろん良いですよ! どこに行きますか!?』

 

 興奮した様子の(ワン)さんは、矢継ぎ早にそう尋ねてきたので、却って私は落ち着きを取り戻した。自分よりも動揺している人を見ると、自分は冷静さを取り戻すといつよくある話は、本当だったらしい。

 そして自分でも分かるほどに口元を綻ばせる。

 

「こんばんは、みーちゃん」

 

 すると(ワン)さんも冷静になったようだった。

 

『〜〜〜〜〜ッ!?』

 

 声にならない悲鳴を上げているのが伝わってくる。私も彼女の立場だったらそうなる謎の自信があった。

 

「あ、あのね……まずはごめん。急に誘っちゃって……」

 

『そんなことないですよ! 私こそ、ごめんなさい。愛里(あいり)ちゃんが誘ってくれたのが嬉しくて……』

 

「う、ううん……そんな、全然……」

 

『う、うん……』

 

「「…………」」

 

 コミュニケーションが苦手な人間同士が話すと、自然と会話が途切れちゃう。そしてこの微妙な沈黙が私たちにとっては何よりも辛いんだよね……。

 いつもの私だったらここで向こうが話してくれるのを待っている。

 けれど。

 私は意を決して口を開けた。

 

「あ、あのね、みーちゃん」

 

『……うん』

 

「改めて言うね。明日、私と遊ばない?」

 

『もちろんだよ!』

 

 喜びの感情が全身に駆け巡る。

 何だか無性に泣きたくなってくるなぁ……。

 でも、私の話はまだ終わってない。だから、泣くとしても、もうちょっと我慢しないと。

 

「あのね、みーちゃん。遊ぶにあたって、お願いがあるんだけど……」

 

『……?』

 

「明日なんだけど、もし良かったらなんだけどね。綾小路くんも誘いたいんだ」

 

『名案だと思います。だけど綾小路くん、予定空いてるでしょうか』

 

「そ、そうだよね……急だもんね……」

 

 しかも前日の深夜に誘うだなんて、非常識だと怒られても仕方がない。……次は時間帯にも注意しよう。

 しかし(ワン)さんが気になっている点は私とは違うようだった。 

 

『綾小路くん、夏休みは椎名(しいな)さんと殆ど一緒に居るってこの前言っていたような気が……』

 

「ふぇ? 椎名さんって、Cクラスの?」

 

『うん。……あれ? もしかして愛里ちゃん、知らないんですか?』

 

「椎名さんは知ってるけど……綾小路くんと仲が良いのは初めて知った、かな……」

 

 外に関心を寄せてこなかったこれまでの自分を呪った。

 (ワン)さんは私に教えてくれた。

 綾小路くんと椎名さんの付き合いの長さを。何でも二人は入学した当初から親交があるらしく、それはクラス闘争がある中でも依然として続いているようだ。

 

『クラスの垣根を完全に越えているから、一年生のベストカップルと呼ぶ子も多いみたいですね』

 

 実際は交際していないのにね、と(ワン)さんは苦笑いした。

 

『ただやっぱり、綾小路くんの椎名さんに向ける感情は他の友達とは違うみたいです。男友達の平田くんや須藤(すどう)くんよりも大切にしていると思います』

 

「は、初めて知った……」

 

 思い返せば、私が『事件』に巻き込まれた時、椎名さんは綾小路くんの指示で助けに来たと言っていた気がするから、(ワン)さんの言う通り、やっぱり二人の関係は『特別』なのだろう。

 

『もし良かったら私から彼に連絡してみましょうか?』

 

「う、ううん……私から連絡する。これは、私がしないといけないから……」

 

『……?』

 

 私の言い回しが気になったのか、(ワン)さんからそのような雰囲気が伝わってきた。

 そんな彼女に私は言う。

 

「取り敢えず……綾小路くんにメッセージ送ってみるね……」

 

 話はそれからだ。

 通話を繋いだ状態のまま、私は携帯端末の『王美雨(ワンメイユイ)』の画面を切り替え、『綾小路清隆』の画面に移行する。

 男の子に自分からメッセージ、それも遊びの誘いの文面を送るのは初めての体験だ。

 けれど先程の(ワン)さんの経験が役に立ち、今回はすんなりと送れた。

 

「あっ……既読付いた……」

 

『綾小路くん、何だって?』

 

「えっと……」

 

 果たしてそこには、余分な情報を取り除いた文章が投稿されていた。

 

『午後からだったら構わない』

 

 彼らしい、簡素な文面に私は苦笑(くしょう)を一つ零す。

 そして私の返事を待っている友達二人に、一人には口頭で、もう一人には文章で「ありがとう」と送った。

 その後、話はとんとん拍子で進んでいき、翌日の十三時に学生寮の食堂で集まることになった。

 

『愛里ちゃん、また明日。おやすみなさい』

 

「う、うん……おやすみなさい。その……ありがとう……」

 

 (ワン)さんは『楽しみにしてるね』と笑ってから、通話を切った。

 賑やかさから一転、部屋に静寂が訪れる。無音なのはいつものことで慣れているけれど、今日は寂しいと感じる。

 綾小路くんには私の『秘密』が既に知られているけれど、私からはまだ直接言っていない。(ワン)さんは尚更だ。

 正直、反応が怖いという思いはある。けど二人とはこれからも友達でいたいから。隠し事はしたくないから。

 

 

 

 だから明日──私は自身の『秘密』を告白する。

 

 

 



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櫛田桔梗の苦労

 

「あー! ほんと最悪!」

 

 四脚机を挟んだ向こう側で少女が突然叫び出した。

 オレはノートの上で走らせていたシャープペンシルをぴたりと止める。

 

「……急にどうしたんだ?」

 

 無視する訳にも行かず、オレが恐る恐る尋ねると、少女──櫛田(くしだ)桔梗(ききょう)はダン! と振り上げていた両手をテーブルの上にぶつけた。

 力の調整に失敗したのか、返ってきた痛みは思ったよりも大きかったらしく、すぐに涙目になる。

 オレが無言で様子を見守っていると、彼女はぎろりと睨んできた。

 

「あんた、今私のこと馬鹿だと思ってるでしょ」

 

「あのな、被害妄想にも程があるぞ」

 

「なら違うって言うの?」

 

 はあ、と内心でオレはため息を吐く。

 下手に答えたら面倒臭(めんどうくさ)くなるのは間違いない。……いや、この状況も既に面倒臭いが、まあ、これくらいならまだ『青春』の一(ページ)に入るだろう。

 そんなことはおくびにも出さず、

 

「馬鹿だとは思ってない。たださっきも言ったが、急にどうしたんだと思ったんだ」

 

「ようは馬鹿にしてるってことでしょ」

 

「……なら遠慮なく言わせて貰うが。今日の櫛田は随分と荒れているな」

 

 クラスメイトが今の彼女を見たらさぞかし驚くだろう。いやその前に、自分の目が節穴なのではないかと疑うか。

 それだけ今の櫛田と学校での櫛田には齟齬(そご)が見られる。

 

「……綾小路(あやのこうじ)くん」

 

「何だ」

 

「私ってさ、ほら、人気者じゃない?」

 

 オレは素で『こいつは何を言っているんだろう?』と思った。

 

「私ってさ、ほら、人気者じゃない?」

 

 オレは内心を隠して首肯した。

 櫛田桔梗がクラス、学年、学校の人気者なのは誰もが知る客観的事実だ。

 なんでも『親衛隊』なる存在もあるらしい。……まあ、これについては本人は迷惑に感じているようだが。

 

「私って何で人気者だと思う?」

 

「……可愛いからだと思うが」

 

「あっ、今照れたね」

 

 異性に『可愛い』だなんて、内心で思うことはあっても面と向かって言うのはとてもハードルが高い。

 簡単に言えるのは優男か節操なしだろう。

 羞恥心を抱きつつ、さらにオレは冷静に評価する。

 

「あとはそうだな……性格の良さじゃないか?」

 

「おっと、これは皮肉かな?」

 

「って言われてもな。なら何て答えたら良かったんだ?」

 

「いやいや、合ってるよ。そう、綾小路くんの言う通り。私は私のことを一番に理解している。櫛田桔梗は学校のマドンナであり、容姿は可愛くて性格は良い。それが私」

 

 オレは思わず白けた目で見てしまう。

 彼女の真実──魔女を認知しているのはオレだけだ。

 

「結局、それがさっきの発言にどう繋がるんだ?」

 

「ところで綾小路くん。今の期間は何?」

 

 しかし、櫛田はまたもや話題を変えてきた。

 こちらの質問には一向に答える気配がない。控え目に言ってとても疲れる。

 だが櫛田は無駄なことはあまりしないタイプだ。それが魔女になれる一因でもあるのだが。

 

「それで? 今の期間は?」

 

「夏休みだな」

 

「今日は何日目?」

 

「四日目だな」

 

 すると彼女はオレの答えに満足気に頷く。

 にぱーっと笑う。刹那、笑顔は反転した。

 

「自由な時間が全然ないんだよね」

 

「そうか」

 

 オレが曖昧に相槌を打つと、黒い笑顔が向けられた。気が弱い人なら下手したら一目見ただけで気絶するだろう。それだけの威力だ。

 

「……櫛田」

 

「何?」

 

「取り敢えず今日分の課題を終わらせないか?」

 

 シャープペンシルの先をノートに何回か当てる。すると黒い跡が何個か出来た。

 そう、俺たちは先程まで学生の最大の宿敵である課題と向き合っていたのだ。しかし、集中力が途切れたのか、櫛田が声を上げ──今に至る。

 

「綾小路くんは私の話がどうでも良いの?」

 

「そんなことはない。ただな、話を聞くにしてもこっちの都合も考えて欲しいって言っているんだ。そもそも事前のアポイントも無しに突撃してきたのはお前だろう」

 

 そう、指摘すると彼女は気まずそうに視線を逸らした。

 今朝突然、部屋に取り付けられているインターホンが鳴った時は驚いたものだ。何せ今日は、午後からはクラスメイトと約束をしているが午前は完全にフリーだったのである。そして来客が櫛田桔梗であると知った時の驚きは、とてもではないが言葉に出来なかった。

 

「普段のお前ならどんなに遅くても前日の夕ご飯前には連絡を寄越すのにな」

 

『表』と『裏』を使い分けている櫛田だが、元々、彼女の性質は善性だ。その歳にして一般常識を完璧に身に付けている。これは高校一年生ということを考えると凄いことだと思う。

 

「……ごめんなさい」

 

 反省し、素直に頭を下げる友人にオレは「もう大丈夫だ」と声を掛けた。

 

「話は課題を終わらせてからきちんと聞かせて貰う。だからまずはさっさと終わらせよう」

 

「うんっ」

 

 櫛田がオレの部屋を訪ねた用件は『一緒に課題をやろう?』というものだった。事実彼女が持ってきていた手提げ袋の中には分厚い教科書やノート、筆記用具がびっしりと入っていた。

 それが建前だということには、もちろん、気付いていた。しかし先程述べたように、今日の午前中は暇だったこと、また、オレ自身そろそろ課題に手をつけ始めようと思っていた為、彼女が部屋に上がることを承諾した。

 

「頑張ろう!」

 

 気合を入れ、オレたちは強大な敵と対峙するのだった。

 

 ──二時間後。

 

 うーん、と櫛田が大きく伸びをする。服越しからでも分かる大きな双丘が震えた。(いけ)山内(やまうち)など、欲望に忠実な男子が見たら息を荒らげるだろう。

 

「お疲れ」

 

「綾小路くんもね」

 

「今、お茶を入れ直す」

 

「わぁー、ありがとう!」

 

 空になっていたコップを持って立ち上がり、オレは一旦台所に向かった。

 

「氷は入れるか?」

 

「お願い!」

 

 予め氷を数個入れる。冷蔵庫から麦茶が入った容器を取り出し、コップに注いだ。するとパチパチと氷の弾ける音が鳴る。

 櫛田は律儀にもオレを待っていた。携帯端末を弄るなり好きにしてくれて構わないのだが、彼女のこういう所はとても好ましい。

 

「今日分の課題を片付けたことを祝って──乾杯!」

 

「か、乾杯」

 

 コツン、とコップの縁がぶつかる。喉が渇いていたことも相まって、オレたちは一気に呷った。

 

「綾小路くんはさー、苦手な科目とかある?」

 

「……そうだな。数学や化学は苦手だと思う」

 

「やっぱり本好きだから文系なんだね」

 

「…………かもな」

 

「……? 何その不自然な間?」

 

「いや、何でもない」

 

 ふぅーん、と櫛田は腑に落ちなさそうな顔をしながらも引き下がってくれた。

 

「櫛田はどうなんだ?」

 

「私も綾小路くんと同じかな。国語や英語は得意なんだけどね」

 

 流石はコミニュケーションの塊だとオレは舌を巻く。

 

「ふと今思ったんだけどさ。私たちは来年、文理選択をするのかな?」

 

「ああ、確かに気になるな」

 

 一般的な普通の高校なら、一年生は文系理系関係なく幅広い分野の科目を習い、二年生からは各々が将来進みたい分野のことを考えて文系科目か理系科目かを選ぶイメージがある。

 だが、オレたちが通っている高度育成高等学校は生憎(あいにく)普通じゃない。そもそも日本政府がわざわざ創立した、これだけでも異常だろう。

 

「オレはあまり詳しくないんだが、一般的にはどうなんだ?」

 

「うぅーん……学校にもよるけど、大抵は二年生からは文系、理系ごとにクラスを再編するみたい。その方が楽だもん。でも私たちは──」

 

「原則、クラスはこのままだよな」

 

 クラス替えはないと、入学式の日に、確かに茶柱(ちゃばしら)はそう言っていた。

 それはひとえにこの学校独自のシステム──『クラス闘争』が理由だろう。クラス闘争は基本的には個人戦ではなく団体戦。いわば運命共同体だ。

 だがしかし、学校側も一応『裏道』を用意している。それこそが──。

 

「2000万prかー。まだ誰も成し遂げることが出来ていないんだよね?」

 

 ──2000万prを学校に納め、自分が望むクラスに移籍するという方法だ。

 いつ移籍するかの決定権もある為、卒業間近にAクラスに行くことも可能。

 とはいえ、その時期には自分の歩く道が定まっていると思うので、あまり効果はないと思うが。

 そう考えると、その辺りのことはどうなるのだろうかと疑問は絶えない。

 具体的には大学入試や就職試験などだ。『進学率就職率ともに100パーセント』という謳い文句を学校は掲げているわけだが、この恩恵を受けられるのはAクラスのみ。

 クラス闘争で何が起こるかは分からない。

 最下位のDクラスが大逆転勝利しAクラスに上り詰めることも可能性では零じゃない。

 その辺りの説明はまだ一度もされてないので、先を見据えている生徒にとっては不安材料になっているだろう。

 

「話が随分と脱線したな。結局櫛田は何を言いたかったんだ?」

 

 そう尋ねると、櫛田は表情を歪めた。

 

「綾小路くん。さっきも言ったけど、今は夏休みだよね。学生にとっては至福の期間だよね」

 

「あ、ああ……」

 

「今日で四日目になるわけだけど。私はね、綾小路くん。まだ一日たりとも夏休みを満喫していないんだよ!」

 

 櫛田は叫んだ。それは魂からの叫びであった。

 だがしかし、それは可笑(おか)しい。

 櫛田桔梗が夏休みを満喫出来ていないだなんて、そんなことが起こり得るのだろうか。

 オレは思ったことをそのまま口にする。

 

「全然そんなことはないと思うが……」

 

 すると櫛田は(めじり)を上げた。

 そして厳しい口調でこう言う。

 

「なら、昨日までの三日間の出来事を教えてあげる。まず一日目、Aクラスの男子たちと──」

 

 それから数分に渡って、彼女の回想は続いた。

 一日目はAクラスの男子たちと遊び。二日目はCクラスの女子たちと遊び。そして昨日、Dクラスの女子たちと遊んでいたが、途中でAクラスの一日目とはまた違った男子たちと遭遇、そのまま合流して遊んだようだ。

 

「聞いた感想は?」

 

「……お疲れ様でした?」

 

 首を傾げながらオレが告げると、櫛田はテーブルに突っ伏した。

 名前を呼んでも身動ぎ一つせず、何ていうか、そう──まるで(しかばね)のようだ。

 

「何でどうでも良い奴らと遊ばないと行けないの……。特に昨日は最悪。ただでさえ軽井沢(かるいざわ)さんが居て面倒だったのに、そこに男子どもが来て……! しかも彼女はイケメンに(なび)いたし……! 平田(ひらた)くんと付き合っているんじゃないの、違うの?」

 

「そこら辺、洋介(ようすけ)と軽井沢のカップルは何ていうか……一線を引いている印象を受けるよな」

 

「あー、もう……何で私があいつらと……!」

 

「何でって……櫛田が誘ったんじゃないのか?」

 

「そんなわけないじゃない。何でわざわざそこまで仲良くない奴らに私から遊びに誘わないといけないの?」

 

 いやまあ、それはその通りだが。

 

「だったら断れば良かったじゃないか」

 

 オレの考えだが、嫌なら嫌だとはっきり断れば良い。

 その日は都合が悪いと、そしてまた今度遊ぼうと言えば相手は引き下がるだろう。

 しかし、櫛田はオレとは違う考えのようだ。

 恐ろしい形相でオレを睨んでくる。

 

「ハッ、これだから友達が少ない根暗男子は」

 

 ……美少女から真正面から罵倒されるとこんなにも堪えるんだな。

 オレが傷心しているのにも関わらず、彼女は言葉を続ける。

 

「綾小路くんには分からないと思うけどね、こういうのは一度しか機会(チャンス)がないの。その機会を棒に振ったら面倒なんだから」

 

「そんなことはないと思うが」

 

「……駄目だ、話が通じない」

 

 諦めないでくれと思ったが、すぐに、面倒だからこれ以上続けるのはやめようとも思った。

 

「ましてや私はみんなのマドンナだよ? 断れるわけがないじゃない」

 

「……自分で言って恥ずかしくないのか?」

 

「…………恥ずかしいけど、それが何?」

 

 今の櫛田は完全に開き直っている状態だと言えよう。

 それだけ精神的負荷が掛かったのだと思われる。

 理解は出来ないが、想像は出来る。

 自分の時間をどうでも良いことに費やしているのだ。その心労はどれ程のものなのか。

 

「それで今日、オレに突撃しようと思ったのか」

 

 オレが嫌がるとは思わないのだろうか。そこを尋ねると、彼女は何食わぬ顔で。

 

「うんそうだよ。もう今更綾小路くんに何を思われても良いし」

 

 信頼してくれていると思えば嬉しいものだ。

 櫛田が『仮面』を被っていることを知っているのはオレだけだ。だから、と言って良いかは分からないが、オレの存在は防波堤の役割を担っているのだろう。

 先日『契約』を交わしたのも一因にあるだろうが。

 

「あー、私も青春を送りたいよ……」

 

「いやいやいやいや、何を言っているんだお前は」

 

 はたから見たらリア充そのものだろうに。

 と、ピロンとサウンドが鳴った。櫛田の携帯端末からだ。恐らく、チャットアプリの友達からのメッセージの着信を告げる通知音だろう。その後、二回、三回と連続して鳴った。

 彼女は美少女に有るまじき死んだ目で携帯端末を一瞥してから、そのままポイとベッドの上に放り投げた。

 

「良いのか?」

 

「良いんだよ」

 

 本人がそう言うのなら、良いのだろう。

 

「綾小路くん、これは私から善意の言葉なんだけどね。友達から連絡が来ても迂闊に見ちゃいけないよ。まずはステータスウィンドウで誰から着信が来たのかを確認するの。そしてどうでも良い相手からだったら後に回す。分かった?」

 

「でもそれは余計に疲れるんじゃないか?」

 

「……その一時を凌げればそれで良いんだよ」

 

 その後も櫛田桔梗による処世術講座は続いた。

 講座が終わると、彼女はこう聞いてきた。

 

「この後は綾小路くん、遊びに行くんだっけ?」 

 

「ああ」

 

佐倉(さくら)さんとみーちゃんかー。良いなぁ、あの子たちだったら私もウェルカムなのに……」

 

 はあ、と櫛田は長いため息を吐いた。

 

「っていうか、綾小路くんこそ青春を謳歌しているよね」

 

 じろりと見られる。それはまるで非難しているようだった。オレは散らばっていた筆記用具を纏めながら。

 

「……そうだな。今はかなり充実している」

 

 そう、首肯した。

 

「へえー……まさか頷くなんて思わなかったな」

 

 改めて自覚する。オレはこの高校生活を心から楽しんでいると。クラス闘争というものこそあるが、それを加味してもお釣りが出てくる程に。

 だが──そうも言ってられなくなった。

 オレは表情を変え、櫛田と向き合う。彼女も空気が変わったのを敏感に察知し真剣な顔付きに変えた。

 

「『契約』についてだが。前払いという形になって悪い」

 

「良いよ、それは。私もその方が気が楽だし。だけど、分かってるよね?」

 

「ああ。お前の邪魔は決してしない。オレに出来ることは何でも手伝おう」

 

 彼女は笑った。そして言う。

 

「バカンス、楽しみだね」

 

 櫛田は魅力的に笑う。

 自分を偽る魔女の末路がどうなるのか。

 オレはそれが気になって仕方がなかった。

 



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佐倉愛里の分岐点 Ⅱ

 

 午前いっぱいを使って、櫛田(くしだ)と長期休暇の課題に取り組んだオレは彼女と別れ、学生寮一階にある食堂へ向かっていた。

 階段をゆっくりと降りていると、もの凄い速さで階段を駆け上っている(けん)と遭遇する。

 

「おお、清隆(きよたか)じゃねえか!」

 

「よっ!」と健は気さくな挨拶をしてくる。

 オレも軽く手を挙げて応えた。

 

「清隆は今から飯か?」

 

「ああ、そんなところだ」

 

「食堂だったら今なら空いてるぜ。さっき堀北(ほりきた)たちと飯食ったんだ」

 

 口振りから察するに、どうやら、堀北主催の勉強会は夏休みであろうとも行われているようだ。いや、時間が膨大にある夏休みだからこそなのかもしれない。

 約一ヶ月の膨大な時間を、決して無駄遣いしないという彼女の強い意思を感じた。

 友人から有力な情報を入手したオレは礼を告げた後、「ところで」と話を切り返した。

 

「何やら急いでいたみたいだが、どうかしたのか?」

 

 すると彼は顔を瞬く間に青ざめさせた。 

 

「やべえ、そうだった! 俺、この後部活があるんだよ! シューズを忘れちまって──やべえ! 遅刻なんてしたら先輩に殺される!」

 

「マジか」

 

「マジだ。まあ、運動部なんてそんなもんだけどな」

 

「……部活に入っていなくて良かった」

 

「ははっ、確かに清隆にはキツいかもな。お前、変に抜けているところがあるから」

 

「じゃあな!」と律儀に別れを告げ、愉快な友人は雄叫びを上げながら再び駆け上がっていった。オレは「衝突事故を起こすなよー」と言ってから、足を再び動かし始めた。

 食堂は健が教えてくれたように空いていた。長期休暇に入り生徒は学生寮に居る時間が長くなるので混雑を想像していたのだが、どうやら、オレの想像とは違い、食堂を利用する者は少ないようだ。あるいは、生徒の生活習慣が乱れているのかもしれない。

 時刻は十二時四十五分。約束の時間まで充分に余裕があることに安堵しつつも、オレは食堂を見渡した。一年生の総人数は百六十名。日本政府が創立した高度育成高等学校はあらゆる面で他の公立及び私立の学校より優れている……らしい。らしい、というのは知識でしかオレは知らないからだ。

 兎にも角にも、それはこの食堂にも現れている。広々とした空間は椅子を引いても後ろの席と当たることはない。さらにはカウンター席、テーブル席に区別されている。

 約束している人物を探し──発見。向こうもオレの視線に気付いたのか、顔を上げ、オレたちは目を合わせる。

 

「あ、綾小路(あやのこうじ)くん……!」

 

 椅子から立ち上がり、彼女──佐倉(さくら)愛里(あいり)はわざわざオレの元に駆け寄ってきた。

 それは愛嬌が良い犬だと錯覚させる程で、オレはついつい頬を弛めてしまう。

 

「ど、どうしたの……? 私、変かな?」

 

「いや、何でもないさ。こんにちは、佐倉」

 

「う、うん! こんにちは!」

 

 ぎこちなくも、佐倉は笑った。近くを偶然通り掛かった男子生徒が見惚(みほ)れる。それだけ彼女の笑みは魅力的だった。

 

「随分と早いみたいだが……悪い、もう少し早く来るべきだったな」

 

「ううん……そんなこと、ないよ……。私も十五分前に来たばかりだから……」

 

 つまり彼女は集合時間の三十分前に居たということだ。

 もしこれが櫛田にでも話が行けば、説教される未来が容易に想像出来る。『表』だろうと『裏』だろうと、同級生の女の子に怒られるというのは是非とも避けたいので、彼女の耳に入らないことを切に願おう。

 佐倉が座っていたのは隅のテーブル席だった。オレは彼女の対面に座る。

 

「ありがとう、席を確保してくれていて」

 

「私が勝手にやったことだから気にしなくて良いよ」

 

 そうは言うが、人見知りの佐倉が席を陣取るのは苦行だったのではないかと心配になる。少なくともオレは苦痛に感じる。

 ましてやこれまでの佐倉の『来歴』を考えれば、通常より人の視線には敏感になるだろうし、それは彼女本人が以前言っていた。

 だが──とオレは改めて彼女を観察する。表情はやや疲れているように窺えるが、全くの嘘でもないようだ。

 

王美雨(みーちゃん)が来るまで待っていようか」

 

「うん、せっかくなら一緒に食べたいよね」

 

 その言葉を皮切りに、会話が途絶える。

 オレも佐倉も多弁ではないし、相手に合わせるタイプだから、こうなるのは必然だろう。

 とはいえ、この空気が気まずいとか、嫌だとかいう訳では断じてない。同類だからこそ、互いに尊重し合えることがあるということだ。

 ぼんやりと過ごしていると、食堂の出入口から一人の女子生徒が姿を現す。(つや)のある漆黒のツインテールは彼女のアイデンティティだ。

 彼女はオレたちの姿を見付けると、早歩きで近付いてきた。

 

「ごめんなさい、遅くなっちゃいました」

 

 女子生徒──王美雨(ワンメイユイ)は申し訳なさそうに頭を下げた。

 考える事は同じだと思いながら、オレと佐倉は時間前だから気にしないで欲しいと伝える。

 

「取り敢えず、昼食にしようか。先に取りに行ってくれ」

 

「そんな、私が一番遅かったですから……」

 

 寧ろ佐倉とオレが先に行くべきだと主張した。佐倉も「私には構わず……」と遠慮する。

 なら、とオレはこのように提案した。

 

「三人一緒に行こう。幸い利用者はあまり居ないから、席を外しても大丈夫だと思う」

 

 立ち上がり、数台並んで設置されている券売機に行く。メニューがとても豊富で、何を頼もうかと悩んでいると、右隣のみーちゃんがため息を吐いた。

 

「どうかしたか?」

 

 彼女は苦笑して、こう答えた。

 

「ううん……ただ、せっかくの友達とのご飯ですけど、食べられるのは限られているなと思ったんです」

 

 言いながら、みーちゃんが示したのは山菜定食だった。定価零円のこの定食はすっかりとDクラスに馴染んでいた。偏食しがちな若者にとってはとても健康的だろう。

 とはいえ、殆ど毎日食べていたら飽きもする。みーちゃんはクラスの中でも計画的にプライベートポイントを使っていた部類だが、流石に、振り込まれるポイントが少なければ底も尽きていくというものだ。

 先日、Dクラスは久方振りにプライベートポイントが入ったが、現金に換算すると10000円にも満たない。数週間後にはクルージング旅行が控えているので、貧しいDクラスに限らず、どのクラスもその準備にポイントを消費するのは間違いないだろう。

 

「わ、私奢るよ……」

 

 そう、申し出たのは佐倉だった。

 

「わ、悪いよ! ねえ、綾小路くん!」

 

「そうだな。女の子に奢って貰うのは気が引ける」

 

 櫛田に万が一にでも聞かれたら、ありったけの侮蔑の眼差しと罵倒が贈られそうだ。

 ……オレ、櫛田に凄く恐怖心を抱いているな。

 

「愛里ちゃん、お金に余裕あるの……?」

 

 自身がそうなのだから、佐倉もまた、プライベートポイントには余裕がない筈だとみーちゃんは思ったのだろう。

 佐倉の趣味──写真を撮ることを考えれば、カメラや写真の現像代は想像以上に掛かっている筈だ。

 だがしかし、みーちゃんは同時にこうも思ったのだろう。佐倉が嘘を吐く訳がないというものだ。

 佐倉は気まずそうにやや視線を逸らしつつも、慣れた動作で『残高照会』をする。そして画面をオレたちに見せた。

 

「えっ、これって──!?」

 

 目を見開き、愕然とするみーちゃん。慌てて口を閉ざしたのは正解だろう。もしあと一秒でも遅ければ、画面に表示されている金額を口にしてしまうところだっただろうからだ。

 果たしてそこには、大金が表示されていた。額にして、28万pr。

 とてもではないが、Dクラスの生徒では所持出来ないプライベートポイントだ。いや、学年を通しても、これだけの額を所持している生徒はごくわずかだろう。

 

「佐倉、すぐに消した方が良い」

 

「う、うん」

 

 佐倉はオレの言葉に素直に従った。アプリケーションが閉ざされ、ホーム画面が表示される。プライバシーのことを考え、オレとみーちゃんは視線を切る。

 みーちゃんの動揺は未だに収まっていない様子だった。だが、誰が聞いているか分からない公共の場で尋ねるのは迂闊過ぎる。

 佐倉が気まずそうにしながらも、

 

「ええっと、だから、二人とも、私が奢るよ……?」

 

 と、再度提案してきた。

 彼女の強い意志を感じたみーちゃんは、やがて、了承の頷きを返した。

 オレにも視線が送られる。男が女に料金を払って貰うのは格好悪い。それにオレも、彼女には遠く及ばないがプライベートポイントは充分持っている。だが、オレが辞退すればみーちゃんはまた遠慮するだろうし、何より、佐倉の厚意を無碍にする気がしてならない。

 オレは男としてのプライドを捨て、

 

「悪いな、ご馳走になる」

 

 そう、言ったのだった。

 好きな物を頼んで良いからね、と言う佐倉の言葉に甘え、オレとみーちゃんは各々選んだ。

 佐倉が代表して学生証をセンサーに翳し、会計が済まされる。

 券が発行され、そのまま食堂のおばちゃんに手渡す。数分待つと、頼んだ料理が出された。トレーごと受け取り、そのまま、元の席に戻る。

 既に彼女達は戻っていて、オレを待っていた。対面に座り──厳密には、みーちゃんの前──オレたちは合掌、昼食を開始する。

 

「「「……」」」

 

 全員とも多弁ではない為、無言で食事が行われる。

 最初に食べ切ったのは男のオレだった。次に、みーちゃんと佐倉がほぼ同じタイミングで終わる。

 

「この後はどうするつもりだ?」

 

 今回の主催者は佐倉だ。

 彼女は「ええっと」と口篭りながらも、しっかりと準備をしてきたようで、提案をしてきた。

 

「わ、私の部屋に来てくれませんかっ」

 

「「えっ」」

 

 オレとみーちゃんは揃って、驚きの声を出した。思わず顔を見合わせ、首を傾げる。

 アイコンタクトを交わすが、佐倉の意図がさっぱり分からない。結局、オレたちは揃って訝しげな視線を発言主に向けてしまった。

 

「あっ、その、違うの! 大事な話があるんでございます!?」

 

 顔を真っ赤にして、彼女はそう言った。出鱈目(でたらめ)な日本語を使った自覚が、さらに羞恥心を抱かせ、今ではすっかりと熟れた林檎のようになっている。

 みーちゃんが水を勧めると、佐倉は消えそうな声で「ありがとう……」と言い、一口飲んだ。

 落ち着きを戻したところで、オレたちは話を再開する。

 

「大事な話か……正直、オレはある程度見当がついているが……」

 

「そ、そうなんですか……」

 

 仲間外れだと思ったのか、みーちゃんが眉を下げた。

 彼女をフォローしつつ、「だが」とオレは佐倉に言った。

 

「みーちゃんは兎も角として……男のオレが佐倉の部屋に行くのは……」

 

 学生寮は男女共用だ。下層は男性が、上層は女性がそれぞれ部屋を割り当てられている。

 異性の部屋に行くことが禁じられている訳ではないが、女性が男性の部屋に行くよりも、その逆の方が、人の目に触れた時話題になる──と、櫛田に以前教わった。

 

「そ、そっか……そうだよね……」

 

 困ったな……と佐倉は呟いた。佐倉としては、部外者が居ない場所で話をしたいのだろう。オレもそれには同意見だ。下手をすれば、彼女の学生生活が根底から覆ることにもなりかねない。

 

「あー……嫌なら全然構わないんだが」

 

 と、わざとらしくオレが口を開くと、佐倉とみーちゃんは小首を傾げた。

 こほんと咳払いを打ち、提案する。

 

「オレの部屋はどうだろう」

 

「「……? ……ッ!?」」

 

 変化は激的だった。佐倉は引いた熱が一気に戻り、みーちゃんに至ってはぐるぐると目を回している。

 彼女たちの性格を考えたら無理もないだろう。

 

「何だったら、部屋に居る時は動画を撮ってくれても構わない」

 

 そうすれば、何かされるのではないかという不安が多少は軽減されるだろう。

 

「そ、そこまでする必要はないですよ!」

 

「う、うん……みーちゃんの言う通り!」

 

「じゃあ……」

 

 オレが確認を取ると、二人は顔を見合わせてから、こくりと首を縦に振った。

 そうなれば話は早い。微妙な空気が流れているのを感じつつ、オレたちは食堂を後にすると、エレベーターではなく階段で学生寮を上っていく。エレベーターに乗ると誰と遭遇するか分からないからだ。他クラスなら兎も角として、クラスメイトとは鉢合わせたくない。

 階段を上り終わると、オレは素早く鍵穴に鍵を挿した。ガチャ、という音が鳴り、解錠されたことを告げる。物陰に隠れている二人に手招きすると、彼女達は駆け出した。

 

「入ってくれ」

 

「「お、お邪魔します」」

 

 先に二人を通し、オレは誰にも見られていないことを確認してから、扉をそっと閉じた。

 瞬間、オレはどうしようもなく自分が情けなくなった。なんだか無性にそう思ったのだ。これはそう、例えるなら──浮気を必死に隠しているようではないか。

 実際にはオレは誰も交際をしていないので批難される謂れはないのだが……うん、これ以上考えるのはよそう。

 

「煎茶で良いか?」

 

 リビングで所在なさげに腰を下ろしている二人に声を掛ける。すぐに了承の旨を告げる返事が返ってきたため、パックではあるがお茶を用意した。ちなみにどうでも良いが、ここ最近は趣向を変え、様々な種類のお茶を試していたりする。

 そのうちお茶評論家だと自称するとしよう。……櫛田の冷めた目が怖いからやっぱりやめておこう。

 

「どうぞ」

 

「「い、頂きます」」

 

 ただの煎茶であるのだが、みーちゃんと佐倉は爆弾を受け取ったかのように腰が引けた状態であった。

 傷心するオレを見てか、佐倉が慌てて。

 

「ち、違うんです! 怪しい薬が入っているとかは思っていないんですけど!」

 

「…………そうか」

 

「ご、ごめんなさいごめんなさい!?」

 

 佐倉は意外にも思ったことをズバズバという性格の持ち主のようだ。

 そんな、友人の新たな一面を知ることが出来たオレは引き攣り笑いを浮かべることしか出来なかった。

 お通夜のような雰囲気になる前に──既になっているような気がするが、それは気の所為だと思おう──オレは「それで?」と佐倉に話を振った。

 

「早速で悪いが、話を聞かせて欲しい」

 

「う、うん……。その前に、化粧室を借りても良いかな?」

 

「ああ」

 

 学生寮の部屋の間取はどこも統一されている。これは生徒に不平等を与えない為だ。

「ありがとう」とお礼を言いながら、化粧室に姿を消す佐倉の背中を見送りながら、みーちゃんがオレに質問した。

 

「綾小路くんは、愛里ちゃんの話についてある程度の見当はついているんですよね?」

 

「さっきも言ったが、その通りだ。恐らく、というか、まずそれで間違いないと思っている」

 

 そうなんですか……と呟くみーちゃん。

 自分だけが蚊帳(かや)の外に居たようで、やはり、悲しみがあるのだろう。顔を俯かせていたが、すぐに上げると、決然と宣言した。

 

「でも、わざわざ私と綾小路くんを呼んだってことは、かなり大切な話だと思います。私は愛里ちゃんの友達として、向き合いたい」

 

「そうか。みーちゃんは、強いな」

 

 しかしながら、彼女は首を横に振った。

 

「いいえ、強いのは寧ろ綾小路くんです」

 

「……オレが?」

 

 ぱちくりと瞬きするオレに、みーちゃんは言った。

 

「他クラスの椎名(しいな)さんと未だに仲良くしています。あっ、それを責めているわけじゃなくてっ! ──最初はみんな、他クラスの生徒とも交流をしていました。でも今はそれももう、なくなっています。こんなの普通の学生生活では有り得ないことです。表では仲良くしていても、裏では相手の弱点はないかと探っていますから」

 

「クラス闘争の弊害だな。競争することによって味方とはより強固な絆を築き上げることが出来るが、敵対勢力になるとそうはいかない」

 

「ええ、その通りです。だから私は、綾小路くんが羨ましいんだと思います。私は臆病だから、すぐ近くに好きな人が居るのに、告白出来ない」

 

 彼女の懸想の相手は、平田(ひらた)洋介(ようすけ)だ。王美雨本人から直接そのように話を聞いた訳ではないが、それはDクラスの殆どの生徒が知っている。

 そしてそれは、洋介も知っているだろう。

 だが、彼はそのうえで尚、何もしない。彼は軽井沢(かるいざわ)(けい)という女子生徒と交際をしているからだ。平田は誠実な人間だ。浮気は決してしないだろうし、みーちゃんが恋焦がれている平田洋介という男は、そのような行為はしない。

 しかしながら、オレはこうも思う。根拠がある訳ではない。だが、確信があった。

 もし仮に平田洋介が誰とも付き合っていなくても、彼は決して、みーちゃんの告白を──いや、誰からの告白も受けないだろう。

 可笑しな話だとは分かっている。現実として、彼は一人の女性と付き合っているのだから。その障害がなければ、みーちゃんにも可能性はある筈だと、普通ならそう思うだろう。

 言葉では説明出来ない『違和感』を、オレは平田洋介と軽井沢恵の、一見すると順風満帆な交際生活に対して抱いている。

 

「オレは椎名とはおろか、誰とも付き合っていない」

 

 結局、オレが友人に言えたのは当たり障りのない事実だけだった。

 みーちゃんは苦笑すると、しかし「そうじゃないんです」と言った。

 

「それでも、綾小路くんは椎名さんと仲良くしています。実のところ、私何度か、お二人が一緒に居るところを遠目から見ているんです」

 

 驚きはしない。

 オレたち、高度育成高等学校に通っている生徒は限定されている区画で生活しているからだ。条件が整えば、学友と会うこと、すれ違うことは何ら珍しくない。

 

「……私には、無理だと思いました。綾小路くんには椎名さんと距離をとる選択もありました。それは椎名さんだって同じです。でも、お二人はどちらもその選択を取らなかった」

 

「そんな難しく考えることじゃないと思うけどな。オレも、そして椎名も。一緒に居たいと思って、今も関係が続いている。ただそれだけだ」

 

「だから、綾小路くんは強いんです」

 

 ならばと、オレは口を閉ざした。

 みーちゃんも話を戻す。

 

「ごめんなさい、話が脱線しました。つまり、私が言いたいのは、愛里ちゃんとは友達でいたいってことなんです」

 

 ──やっぱり強いのは、みーちゃんの方じゃないか。

 そんな言葉が口から洩れそうになったが、オレはそれを呑み込んで「そうか」とだけ返した。

 佐倉が化粧室を使って五分が経過した。そしてついに、扉の開閉音がやけに大きく部屋に反響する。

 みーちゃんが緊張した面持ちとなり、その時を待つ。

 

「お、お待たせ……」

 

 語尾が震えている。だが、確かにそこには『芯』があるのだと、オレは直感した。

 オレはみーちゃんに合わせ、『彼女』の方を向いた。

 

「愛里……ちゃん?」

 

 掠れた、戸惑った声を出したのは、やはりみーちゃんであった。

『彼女』──佐倉愛里はいつものように似合わない苦笑いを浮かべた。だが、いつもと違うところもある。

 

「その恰好(かっこう)は、なに……?」

 

「……やっぱり、驚くよね。綾小路くんはあまり驚いていないみたいだけど……」 

 

「そんなことはないぞ」

 

 そう言ったが、佐倉はオレの発言を信じたようには見えなかった。

 そしてオレは、改めて佐倉愛里を観察した。

 服装は、先程と同じ私服。

 だが、普段の彼女を知っている人が『今の彼女』を見ても、佐倉愛里だとは思わないだろう。

 服装は今述べたように全く同じ。違う点は以下の二つ。

 一つ目。普段のツインテール、ではないということ。二つに()んでいた鮮やかな桃色の髪は下ろされ、照明に照らされ艶やかな光沢があった。

 二つ目。これこそが最も違う点。それは、彼女が纏っている『雰囲気』。普段の彼女はおどおどしていて、お世辞にも活発的ではなく、人と話すのもやっとな状態だ。他者との会話については最近少しずつ改善されてきていると思うが、まだ、種は完全に芽吹いていない。

 それがどうだろうか。平生浮かべている苦笑いはそこにはなく、あるのは多くの人を魅了してやまない素敵な笑み。背筋をぴんと伸ばし、口元は柔らかい曲線を描いていて、纏っている『雰囲気』はとても明るい。十人の男が彼女と道ですれ違ったら、十人が美少女を二度見する為に振り返るだろう。

 

()()()()()()。私は『(しずく)』。グラビアアイドルの『雫』と申します」

 

 にっこりと花が咲くように、『雫』と名乗った少女は満面の笑みを携え、そう言った。

『佐倉愛里』という少女の、もう一つの姿──グラビアアイドルの『雫』。

 沈黙だけが部屋にはあった。

 佐倉、否、『雫』はオレたちの反応を静かに窺い、オレはそれを分かっていながらも無反応を貫いていた。

 そして、最後の一人、王美雨(ワンメイユイ)という少女は、明かされた『秘密』に呆然としていた。

 

「……ごめんなさい。打ち明けるのが遅くなってしまって」

 

『雫』の口調で、佐倉は謝罪する。

 オレは頭を下げようとする彼女を手で制すと、

 

「謝ることじゃない。佐倉の立場を考えれば、容易に打ち明けることは出来ない筈だ。オレは芸能界というものに詳しくはないが……様々な制約があるんだろう?」

 

「うん。私は隠れてグラビアアイドルの仕事をしていたから、事務所から言われているんだ。信頼出来る人にしか、教えるなって」

 

「なら、尚更だ。佐倉は誰にも言うつもりはなかった。少なくとも、部外者であるオレたちには。そのうえでお前はオレたちに話している。なら、そのことに感謝こそすれ、怒ることは決してない」

 

「……そう言って貰えると、嬉しいな」

 

 困ったように、けれど、嬉しそうに、『雫』ははにかんだ。オレはそれを見て確信する。やはり、彼女は『雫』であると同時に、『佐倉愛里』なのだと。そんな至極当然のことを、再認識した。

 そしてそれは、オレだけではなかったようだ。

 

「あああああああ愛里ちゃんがグラビアアイドル!?」

 

 驚愕こそ顔一面に広がっているが、みーちゃんが我を取り戻す。……取り戻したかと言うと疑問ではあるが、無反応ではなくなったのだから、良しとしよう。

 

「まさか友達が芸能人だなんて……」

 

 煎茶を一口飲んだ彼女は、しみじみと呟いた。

 

「芸能人って言うと、ちょっと語弊があるかも……」

 

「そうなのか?」

 

 気になる部分だったので、オレが質問すると、『雫』は「う、うん」と微妙に首を縦に振った。

 

「テレビには出演していないから。少年誌の表紙は何回か飾らせて貰ったことはあるけど……」

 

「そ、その少年誌の名前を聞いても良いかな?」

 

「調べれば出てくると思うから、良いよ。えっと──」

 

『雫』が口にした少年誌は、『娯楽』に疎いオレでも知っている程に有名なものだった。

 グラビアアイドル『雫』の知名度はオレの想像を遥かに超えているのだろう。

 

「これが、私の『秘密』です」

 

『雫』は──いや、佐倉は背筋を真っ直ぐに伸ばし、オレと、みーちゃんを見詰めてくる。

 そして、みーちゃんがゆっくりと口を開けた。

 

「愛里ちゃんがグラビアアイドルなのは分かったけど……私は今、他の疑問が生まれている。どうしてあんな額のプライベートポイントを所持しているの?」

 

 王美雨(ワンメイユイ)は聡い少女だ。佐倉愛里にはまだ『秘密』があるとすぐに見抜いた。

 質問された佐倉は迷っているようだった。学校側から直々に、あの『事件』の関係者──佐倉、龍園(りゅうえん)、椎名、そしてオレの四人──は部外者には決して口外しないよう言われており、もし万が一にでも破り、それが知られれば重い処分を受けるだろう。そのリスクを冒して、友人の質問に答えるかどうかを、佐倉は迷っている。

 だが──それだけではないだろう。見れば、佐倉の両手は小刻みに震えていた。フラッシュバックし、恐怖心が再び込み上げてきているのだろうことは想像に難くない。

 それに気付いたみーちゃんが声を掛ける。

 

「ご、ごめん。言えないことならそれで良いのっ。愛里ちゃんが不正をしたとか、そんなことは思っていなくて、ただその……気になっちゃって」

 

 佐倉は「ごめんね……」と心から申し訳なさそうに目を伏せた。

 それは何に対しての謝罪なのか。勝手な推測をするならば、それは全てに対してじゃないだろうか。

 沈黙を破ったのはみーちゃんだった。「愛里ちゃん」と名前を呼ぶ。おずおずと顔を上げる彼女にみーちゃんは優しく微笑みかけた。

 

「ありがとう、私に『秘密』を打ち明けてくれて。それが、本当に嬉しいよ」

 

「みーちゃん……」

 

「うん、だから。えっと……これからもよろしくね」

 

「…………うんっ!」

 

 顔一面に笑顔という花が咲く。

 佐倉は静かに涙を流した。みーちゃんが慌てて手巾を取り出して、彼女に手渡す。

 オレとみーちゃんは彼女の嗚咽が収まるまでずっと待った。

 

「ごめん……もう大丈夫」

 

 彼女はそう言って、深々と頭を下げた。

 オレとみーちゃんは黙ってそれを受け入れた。

 沈黙が降り立つ前にオレは「さて」とわざとらしく言った。彼女たちの怪訝な視線を浴びながら、オレは苦笑して提案する。

 

「せっかくの夏休みだ、遊ばないか」

 

 二人の友人は顔を見合わせると、うん、と頷いた。

 それからオレたちは大いに遊んだ。遊ぶ中で佐倉から別の相談──クラスメイトの山内から視線を感じるという内容だった──を受けたり、クラス闘争について話したりした。

 佐倉愛里、王美雨(ワンメイユイ)

 至って普通の少女たち。そんな二人だからこそ、オレは彼女たちとの時間が楽しいと、そう思えるのだろう。

 



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第四章 ─人格形成─
『天国』と『地獄』の境界線


 

 多くの子どもが『真っ白い部屋』に居た。

 (みな)(みな)椅子に座り、机の上に置かれている空白の紙を埋めるために、手に持っているシャープペンシルをただひたすらに走らせる。

 無駄なものは一切何もなく、この部屋にあるのは、机と、椅子と、最低限の筆記用具と──子どもたちだけ。

 難しい式を、彼らは難しい顔で組み立てていく。

 時には頭を抱え、時には苦悶(くもん)の声を上げ、時にはシャープペンシルを放り投げる者も居る。

 窓の向こう側には白衣を(まと)った大人が数名居て、()()()の表情、仕草、はてには心拍数すらも監察している。

 内界と外界は完全に絶たれていて、境界線を超えることが出来る者は一握りの権力者だけ。

 どれだけの時間が経っただろうか。

 やがて、一人……また一人と子どもは減っていく。

 時間の経過が過ぎる程に、被験者の数もまた比例して減っていく。

 

 泣き出す者が居た。

 

 怒り出す者が居た。

 

 困惑する者が居た。

 

 絶望する者が居た。

 

 現実を受け止める者が居た。

 

 現実を受け止められない者が居た。

 

 前、後、右、左。

 

 この世界から彼らは音もなく消えていく。まるで、最初からそこには誰も居なかったかのように……真っ白い空間だけが代わりに生まれる。

 その中でオレは、ひとり黙々とシャープペンシルを動かしていた。

 人が消失していくのは知覚していた。だがオレは、彼らの消失に何も思うところがなかった。否、それは誇張だろう。

 

 ──……ああ、また居なくなったんだな。

 

 答えを解答欄(かいとうらん)に書き込みながら、頭の片隅でそんなことを思考する。が、それも一瞬。

 感情は通り過ぎ定着はしない。すぐに『無』に帰る。

 そしていつしか、室内に居るのはオレだけとなっていた。

 

 ──…………嗚呼、またか。

 

 何度目かの結果に心の中でため息を零す。無論、手は動かし続ける。

 すると机に影が出来る。誰かが内界に侵入してきたのだ。

 

清隆(きよたか)

 

「────」

 

 この窮屈な部屋で、オレの名前を呼ぶ者はたった一人だけ。

 だがオレは特に反応を返すことはしなかった。

 何故男がオレを呼んだのか、何を話そうとしているのか。その全てがどうでも良かったからだ。

 無反応を示すオレを見ても、男が機嫌を悪くする気配は感じられなかった。

 むしろオレが顔を上げでもしたら、男はどうするのだろうか。その点については(いささ)か興味が湧いたが、浮上した好奇心という名の感情はすぐに沈められる。

 

「清隆、よく覚えておけ」

 

 再度オレの名前を呼んでから、男はそう言った。

 そこでようやくオレは顔を上げ、彼の顔を静かに見つめた。

 声色、息遣いから分かっていたが、その男はオレが知っている男だった。既知の間柄と言えなくもないが、だからといって相手することに特別な喜びは感じられない。

 顔を上げた理由はただ一つ──『命令』だからだ。

 この空白の部屋の中では、男の言うことは絶対的なものであり、何人(なんぴと)たりとも逆らうことは赦されない。

 互いに無感情な表情で互いの顔を凝視する。

 やがて、男は言った。

 

「──『力』を持っていながらそれを使わないのは、愚か者のすることだ」

 

 

 

§

 

 

 微睡(まどろ)み。

 頭が優しく撫でられる感触によって、オレはおもむろに瞼を開けた。

 脳が働き、意識が急速に冴えていく。

 朧気だったものの輪郭(りんかく)がしっかりとした線になり存在を浮き彫りにしていくまで、そこまでの時間は掛からない。

 すると頭上から美声が投下された。

 

「──おはようございます。熟睡出来ましたか?」

 

 オレはぱちくりと何度か瞬きしてから、声主を視認した。

 非常に整った顔立ちに、見る人を見惚(みほ)れさせてやまない純白の髪色。陽の光に反射して、今は白銀に映っている。

 友人の椎名(しいな)ひよりだ。

 

「……おはよう」

 

「ええ」

 

 起床の挨拶を口にすると、椎名は薄く微笑んだ。同時に、右手でオレの頭部を撫でながら。左手には文庫本が握られている。

 後頭部に感じるのはひとの温もり。確認するまでもなく少女の太腿だろう。

 彼女の小さな顔越しに見えるのは無限の蒼穹(そうきゅう)。雲一つがない碧空(へきくう)に、眩いばかりに輝く太陽。

 何となく右手を伸ばすと、彼女は読み掛けの本をオレの腹の上に置いてから握ってくれた。

 まるで(けが)れを知らないかのように白く、それでいて華奢な指がオレの指にしっとりと絡み付く。

 肌と肌との接触によって感じるあたたかさ。

 オレはこのひとときを堪能することにした。恐らく、今のオレは嘗てない程に心の底からリラックスしているだろう。この喜びが嬉しくもあり、同時に、悲しくもある。

 ややしばらくすると、彼女が問い掛けてきた。

 

「まだ眠りますか?」

 

 何とも甘美(かんび)な誘いだ。

 本音を言うと、是非ともこの至福の時間をまだまだ過ごしたい。この穏やかな気持ちを抱えたまま……少しとは言わずに、ずっと過ごしていたいくらいだ。

 だが、そうも言ってられないだろう。

 

「……いや、起きるよ」

 

 首を横に振ると、土台の少女の膝もまた微かに揺れる。

 椎名は(くすぐ)ったそうにしてから、オレを起こそうと背中に手を押し当ててくれた。彼女に全部任せるわけにはいかないので、オレも自身の意思で身体を起こす。

 

「どれくらい寝てた?」

 

 ベンチに座り直している椎名に確認すると、彼女はやや考え込む仕草を見せてから答えた。

 

「そうですね……だいたい一時間くらいでしょうか」

 

「あー……悪いな。ずっと同じ姿勢で疲れただろ」

 

 ところが少女はふるふると首を横に振った。

 携帯端末を取り出して操作してから、オレに液晶画面を見せてくる。

 画面を見た瞬間、オレは思わず顔を引き()らせた。何故ならそこには熟睡しているオレの姿があったからだ。

 

綾小路(あやのこうじ)くんの寝顔、とても可愛かったですよ」

 

 ですから見ていて飽きませんでしたと、椎名は悪びれず言う。

 勝手に写真を撮るなよと苦言を(てい)したかったが、少し考えてからやめておいた。

 彼女の言葉が本当なら、一時間という長時間に渡ってオレは彼女を束縛(そくばく)していたのだ。オレの寝顔の写真一つで済むのなら、それに越したことはないだろう。

 

「ですがちょっとびっくりしちゃいました。綾小路くん、気付いたら眠りについていましたから」

 

「……気持ち良くて、ついうっかりな。悪い」

 

 椎名とオレは一時間前までは確かに読書に(きょう)じていたのだが、ぽかぽかとした陽射しによってオレの意識は眠りに(いざな)われてしまったようだ。

 視線を逸らしながら言うと、彼女は「責めていませんから」と言ってくれた。

 

「綾小路くんの気持ちも分かります。何て言ったって、私たちは今……海の上に居るんですから」

 

 そう、オレたちは……いいや、高度育成高等学校に在籍している一年生は現在、太平洋のど真ん中に居た。

 常夏(とこなつ)の海。無限に広がる青い空。澄み切った空気に混じる微かな塩の香り。そそぐ潮風は夏の厳しい陽射しを感じさせず、オレたちの身体を優しく包み込んでは旅をしていく。

 

「まさしくシーパラダイス、だな」

 

「ええ。まさか生きているうちにこんな体験が出来るなんて……思いもしませんでした」

 

「うおおおお! 最高だああああああああああ!」

 

 どこからか聞こえてくる聞き慣れたクラスメイトの声。

 彼は今、この豪華客船のデッキで遊んでいるはずであり、オレたちが現在居るのはその反対側であるため聞こえるはずもないのだが……。

 潮風によって運ばれてきたのだろうか、それとも彼の歓喜の声があまりにも大きかったのだろうか。

 

「ふわあ……」

 

 欠伸(あくび)を噛み締め、空気に漏らすと、くすりと椎名が笑いながら、悪戯(いたずら)っぽく聞いてくる。

 

「やっぱりまだ眠りますか?」

 

 ぽんぽんと自身の膝を叩きながら、彼女は「いつでも構いませんよ」と言った。

 堪らずにオレは苦笑する。

 入学当初から椎名とは友人関係を築いているが、まさかここまで親しくなるとは正直なところ思っていなかったのだ。

 純粋に嬉しく思う。

 オレがこの数ヶ月で変わったように──そう思いたい──、彼女もまた随分と変わっていた。最初あった無表情は今ではすっかりと()せていて、彼女本来の色が彩られるようになっている。

 

「けどまさか、本当に豪華客船に乗れる日が訪れるとは思っていませんでした。もちろん、学校から説明はありましたけれど……正直、実物を見るまで半信半疑だったんですよ」

 

 その気持ちはよく分かる。

 中間試験、期末試験、さらにはアクシデントとして『暴力事件』が起こったりしたが、オレたち一年生は、百六十人全員が一学期の全過程を終了させた。

 待望の長期休暇を迎えたオレたちを待っていたのは、学校が用意した二週間の豪華旅行。豪華客船によるクルージングだった。

 

「お父様お母様……私を産んでくれてありがとう! お土産(みやげ)は買えないけど、無事に卒業出来たら思い出話をたっぷりと聞かせるね!」

 

「神様、私を産んでくれてありがとう! これからは嫌なことがあっても八つ当たりしないね!」

 

 二人の女子生徒の会話が、なかなかにアレな内容だった。

 特に後者は酷かった。本当に神様が居たら神罰(しんばつ)を降しそうだな。

 しかしながら、彼女たちの気持ちは当然と言えよう。

 一般人からしたら規格外の旅行であることは確かだからだ。日本政府が創立したこの学校は、学費や諸々な雑費を払う必要が皆無。そしてそれは、このイベントにも適用されるようだ。

 オレたちが乗り込んでいるこの客船も外観は圧巻の一言であり、また内部施設も充実している。一流の有名レストランに演劇が楽しめるシアター、遊戯施設、さらには高級スパまでもがあるのだとか。

 

「個人で旅行しようとしたら……何十、いや何百万は一気に消えそうだな……」

 

「赤字じゃないんでしょうか?」

 

「どうだろうな……。普通に考えたら椎名の言う通り赤字だけど……それを帳消しにする何かがあるんじゃないか」

 

 常識的に考えて、一介の高校生にここまでの無償の行いは異常だろう。

 

「今日から二週間、何が起こるのでしょうか……」

 

「分からない、としか言い様がないな」

 

 (ぜい)の限りを尽くした豪華旅行は二週間の計画だ。

 最初の一週間は無人島に建てられているペンションで夏を満喫し、その後の一週間は客船の中での宿泊になっている。

 オレとCクラスの『王』の見立てでは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……。

 

「ところで、綾小路くん」

 

「何だ?」

 

「私は兎も角として……クラスメイトの方たちと一緒に行動しなくて良いのですか?」

 

「あー……そうだな……」

 

 オレは言葉を(にご)らせた。

 椎名の指摘は尤もなものだ。

 客船のラウンジで朝食を食べてから、オレは彼女と行動を共にしていた。一度たりとてクラスメイトの元に向かう素振りを見せていないオレを気に掛けるのは必然だろう。

 無論、オレだってクラスの連中と合流したい気持ちは多少なりともある。

 ……が、現実はとても残酷なのだ。

 

「ほら、この前の一件があっただろ? 完全に……とはいかないけど、まだクラスから浮いているんだよな……」

 

「その、ごめんなさい……」

 

「椎名が謝ることじゃないから……」

 

 暗い空気が漂う。

『暴力事件』でオレが取った行動は、未だに多くの生徒から関心と反感を寄せられている。オレの所属クラスであるDクラスでは我らが先導者によって幾分かは鎮圧されているが、それでも時々ながらも嫌な視線を感じるのが実情だ。

 とはいえ、完全に自業自得だから文句は自分にしか言えないのだが。

 洋介(ようすけ)はクラスメイトの面倒を見るのに忙しく、(けん)は客船の中にあるジムで身体を鍛えているそうだ。二人とも、旅行先なのにぜんぜん旅行を楽しんでいないな。

 これまでは健を含めた三バカトリオ、沖谷(おきたに)とよく一緒に居たものだが、すっかりと疎遠となっている。

 佐倉(さくら)やみーちゃんとは遊ぶ仲ではあるけれど……女性と居るなら椎名と一緒に居た方が格段に楽だ。

 

「それでしたら、龍園(りゅうえん)くんとはどうでしょうか?」

 

「それ、本気で言っているのか」

 

「もちろん冗談です」

 

 笑えない冗談はやめて欲しい。割と切実に。心が虚しくなるから。

 そう言えばと、オレは隣に座っている少女を失礼にならない程度に眺めた。

 大半の生徒が持ってきた私服や、客船内で借りることが出来る水着に着替えている中、彼女は未だに制服姿だ。

 

「着替えないのか?」

 

 疑問に思ったので尋ねたところ、椎名は呆れたようにオレの体を指さした。

 

「綾小路くんこそ着替えないのですか?」

 

 オレもまた制服姿だった。

 流石に熱中症になるのでブレザーは脱ぎ、長袖ワイシャツに長ズボンといった姿だ。

 なるほど、確かに言う通りだな。

 

「面倒だからオレは着替えないかな」

 

 洋介のような(さわ)やかイケメンなら私服姿にも価値があるだろうが、オレのような人間が着ても意味は無いだろう。

 

「私も同じです。私服は兎も角として……水着は嫌ですね」

 

 それはかなり勿体ない。

 椎名程の美少女なら、水着はさぞかし似合うと思うんだが……。

 

「理由を聞いても?」

 

「水着に着替えても、デッキのプールで泳ぐわけでもありませんし……。それに何より、知っているとは思いますが……私、運動が苦手なんですよ」

 

 椎名は苦虫を噛み潰したように(うめ)いた。

 オレは得心した。確かに以前、そのようなことを言っていた気がする。

 

「よくそれで水泳の授業が出来たな……」

 

「いえ全然です。何度か適当な嘘を吐いて欠席したくなりました」

 

 当時を思い出しているのか顔を顰める。

 私、運動音痴なんです……と、椎名は自虐するが、それでも授業に参加していたのは偉いと思う。

 Dクラスの女子はそれこそ彼女が言ったように、適当な嘘を何人も吐いていたしな。担当教師のおっさん先生が可哀想だった。

 

「無人島まであと何時間くらいでしょうか」

 

「予定だと、昼前には着くって聞いていたよな」

 

 現在時刻を携帯端末を使って確認すると、昼前を指していた。いつも以上に時間の経過が早く感じるのは、オレ自身、このバカンスを楽しんでいるからだろう。

 

 ──そんな時だった。

 

『生徒の皆様にお知らせします。お時間がありましたら、是非デッキにお集まり下さい。間もなく島が見えて参ります。しばらくの間、非常に意義ある景色をご覧になって頂けるでしょう』

 

 突如として艦内放送が流れる。近くに居た生徒たちは歓喜の声を上げているが、オレと椎名は違った。

 

「『奇妙』な放送でしたね」

 

「ああ」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 真意を摑もうにも情報が少な過ぎる。

 オレたちは勧められるがままにデッキに向かうことにした。反対側のためにかなり歩くことになるが、それは仕方がないと割り切るしかない。

 道中、たくさんの生徒の後ろ姿を見掛ける。オレたちと同様、放送に導かれてデッキに向かっているのだ。

 

「あれ? 綾小路くんに椎名さん!」

 

 背後から声が掛けられた。

 椎名と揃って身体を振り向かせると、そこには一年B組の委員長を務める一之瀬(いちのせ)帆波(ほなみ)の姿が。

 やっほー! と元気よく挨拶をしてくる。

 

「久し振りだねー、二人とも!」

 

「最後に会ったのは……あの時か。久し振りだな、一之瀬」

 

「お久し振りです、一之瀬さん」

 

 挨拶を交わしたところでオレは、一之瀬が一人で居ることに気付いた。

 友人が少ないオレや椎名とは違い、彼女は学年を超えた有名人。そんな彼女が一人で居ることに、ちょっとだけびっくりする。

 椎名も同じ感想を抱いたのか、嫌味にならないように配慮しながら尋ねた。

 

「お一人ですか?」

 

「私? うん、そうだよー。『冒険をしよう!』って誘われたんだけどねー」

 

「冒険か……」

 

「それはまた……アグレッシブですね……」

 

「にゃはははー、二人とも思ってることが顔に出ているよ……」

 

 苦い顔を浮かべてしまい、一之瀬に指摘される。流石の彼女も苦笑いだった。

 しかし冒険か。無人島での生活が終わったら、一通りは散策をした方が良いかもしれない。もしもの時に活かせる可能性があるだろう。

 

「けど断ったんだな。何か他に用事があったのか?」

 

「うん。星乃宮(ほしのみや)先生って分かるかな。Bクラスの担任なんだけどね」

 

「確か保健の先生ですよね。直接の面識はありませんが、多くの生徒からかなり慕われているのは耳にしています」

 

「綾小路くんは……そう言えば、随分前に話してたよね」

 

「よく覚えているな。一之瀬の言う通り、何回か喋ったことはあるけど……あんまり良い思い出はないな……」

 

「綾小路くん、また顔に出ているよー」

 

「あー……別に嫌いじゃないんだ。ただちょっとだけ苦手なんだよな」

 

 そう言うと、二人は得心がついたように頷いた。

 彼女たちとは親しくさせて貰っているから、オレの性格は分かっているのだろう。

 

「それでさ、星乃宮先生とスパを利用していたんだ。凄いよね、ここはさ。無償ってところが本当に凄いよ……」

 

 彼女はしみじみと呟いた。どうにも一之瀬らしくない、(うれ)いを帯びた表情だが……まあ、こんな日もあるだろう。

 客船内では、どの施設も無料で利用することが出来る。

 日頃から金銭不足に襲われているDクラスの生徒からしたら実にありがたいことだ。

 

「星乃宮先生についてだけど……そう言えば、神崎(かんざき)くんも同じようなことを入学したての時に言ってたかな。あっ、この前二人で遊んでたよね、ケヤキモールでさ」

 

 思い出したように一之瀬は言った。

 神崎もまた彼女と同じくBクラスの生徒だ。

 

「夏休みのほんとの序盤に一回だけだけどな。偶然会ったから、そのまま流れで過ごしたんだ」

 

「そっか、なら良かったよ。神崎くん、あまり自分をアピールしないからさ、心配だったんだよね」

 

「綾小路くんと同じタイプですね」

 

「そうそう、そうなんだよねっ。……お節介かもしれないけどさ、これからも彼と仲良くして貰えないかな」

 

「もちろんだ」

 

 オレ自身、神崎の性格は好ましかった。

 最初の出会いこそ微妙なものだったが、人間、少しでも時間を共有すれば印象はすぐに変わる。

 恐らく、椎名とも気が合うだろう。

 

「あっ、二人は今もしかしてデート中だったりするのかな?」

 

 だとしたら私邪魔だよね……と、一之瀬は申し訳なさそうな顔を作るが、全然そんなことはない。

 オレと椎名の共通の友人といえば、彼女くらいしかいないからな。

 それに何より……。これは、デートって言えるのか? 

 彼女いない歴=実年齢という経歴を日々更新している身からすれば、首を傾げてしまう。

 

「大丈夫ですよ、一之瀬さん」

 

 そうですよね? と目で確認されたのでもちろんとばかりに首肯する。

 一之瀬は安堵の息を吐いてから。

 

「二人はデッキに向かおうとしているのかな?」

 

「ええ。さっきの放送が気になりましたから」

 

「綾小路くんも?」

 

 逡巡してから、オレは頷いた。

 彼女の前では嘘を吐いても意味は無いだろう。

 

「やっぱり気になっちゃうよね、あの放送。──今回は綾小路くん、きみはどうするのかな?」

 

「……」

 

 一之瀬らしく、真正面から切り込んできた。

 さてどうしたもんか。

 DクラスとBクラスは協力体制を築いている。というか、オレが仲介役を担ったわけだが……。

 オレ自身、一之瀬帆波とは出来ることなら争いたくない。だが今回に限っては──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 オレは茶柱(ちゃばしら)を恨んだ。奴の所為で面倒臭いこと極まりない状況にまで圧迫されているのだ。

 

「……」

 

 なおも黙り込むオレに、一之瀬は不思議そうに首を傾げた。

 彼女からしたら、オレが否定すると予め想定しての問い掛けだったのだろう。

 

「まっ、それならそれで良いよ。どっちみちこの学校の異質さを踏まえたら、クラス闘争は必然的に起きるわけだしね」

 

「…………悪いな」

 

「ううん、むしろ私こそごめんね。踏み込みすぎたからさ。けど綾小路くん、これだけは言わせて欲しいかな」

 

 一之瀬はこほんと咳払いしてから、言葉を続けた。

 

「何があっても私たちは友達だよ。これは絶対だから、覚えておいて欲しい」

 

 そう言い切った彼女は微笑んだ。

 予想だにしていなかった言葉にオレが呆然とする中、遠くから一之瀬を呼ぶ声が出された。

 ちらりと一瞥(いちべつ)すれば、そこでは数名の女子生徒が手を振っていた。友人だろう。

 

「あっ、ごめんね二人とも。お呼ばれされちゃったから、私もう行くね。また後で会えたら会おうよ」

 

「もちろんです。それでは一之瀬さん、ごきげんよう」

 

「うんっ」

 

 パタパタと廊下を小走りして、一之瀬は友人たちの元に向かった。合流し、彼女を中心にして歩き始める。

 オレは去っていく背中をただただ瞠目して見届けるしか出来なかった。

『何があっても私たちは友達だよ』か……。迷いなく断言出来るのは一之瀬帆波という少女の魅力だろう。

 誰しもが彼女の在り方に羨望の眼差しを向けるのは当然のことだ。

 だが──オレはどうだろうか。

 そこまで考えて自嘲する。()()()()()()()()()()()()()()()()()? 悪魔が静かに囁いた。

 

「──私たちも行きましょうか」

 

 オレの内心の変化を察したのか、椎名がオレの手を摑んで言ってきた。

 船内から出ると、最初に歓迎したのは先程から変わらない碧空に、爛々(らんらん)と光る太陽。

 あまりの眩しさに目を細めてしまう。

 視線を上から下に下げたところで、地平線上にぽつんと浮かぶ点が微かに映った。

 

「あそこで一週間過ごすのですね」

 

「「「うおおおおおおおおおおお!」」」

 

 柵から身を乗り出して歓声を上げている大勢の生徒たち。

 着々と近付いてくる無人島を一目見ようと群衆がひしめき合っている。

 

「痛っ……!」

 

 どこからか小さな悲鳴が出された。

 

「だ、大丈夫か京介(きょうすけ)!? おい、何するんだよ!?」

 

 続けて出された怒号。

 どちらも聞き慣れたものだ。

 オレは椎名に一言(ひとこと)言ってから、騒動の中心部に向かうことに決めた。赤の他人なら無視を決め込むところだが、いくら疎遠になったとはいえ、クラスメイトの危機には駆け付けるべきだろう。

 

「おっ、清隆じゃねぇか。こりゃあいったいどうなってんだ?」

 

 道中、私服のジャージ姿の健とばったり会った。

 首には純白のタオルが巻かれていて、顔には疲労の色が少し浮かんでいる。

 移動しながら手短に話す。

 

「ジムはどうだったんだ?」

 

「おう、ここは最高だぜ。最新鋭の設備が何個もあってよ、めちゃくちゃ鍛えられるな!」

 

 健は不良少年から熱血少年に変貌していた。

 入学当初から到底考えられない程の変化だが、これもまた『成長』と言えるだろう。

 

「ここか……人が多いな……」

 

 遠巻きに眺めている人集りが邪魔だった。

 これでは中心部に辿り着くのに苦労しそうだ。

 

「俺に任せろよ、清隆!」

 

 ふんす! 鼻から息を吐き出して、須藤は腕をぐるぐると回し始めた。

 どうやら、やや強引にでも突貫する作戦のようだ。

 いつもならやめろと言うところだが──

 

「頼む」

 

「おうよ!」

 

 うおおおおおお! 雄叫びを上げ、健は前へ前へと一直線に進行する。オレは彼の真後ろにびしっと張り付き追うだけで良いから、物凄く楽だった。

 押し寄せる波をバッサバッサと切り捨て、オレたちは舞台に登った。

 そこでは争いの構図がしっかりと描かれていた。

 (いけ)櫛田(くしだ)、沖谷といったDクラスの生徒を、顔は辛うじて見覚えがあるが名前は知らないAクラスの生徒が見下ろしている。

 彼らAクラスの顔には侮蔑の表情がありありと浮かんでいた。

 小声で隣の友人に囁く。

 

「……健、両者の間に立ってくれ。分かっているとは思うが──」

 

「分かってる。暴力は振るわねえ……体格差を見せ付けるだけで充分だ」

 

 今の健なら全幅の信頼をおけるな。

 彼と別れ、オレは池や櫛田たちのもとに向かった。

 その間に健が中間点で立ち塞がる。

 

「綾小路くん、須藤くん!」

 

「これはいったい……どうなっているんだ?」

 

「あいつらが京介の肩を突き飛ばしたんだ!」

 

 池が憤りを隠せない表情で()える。平生の彼からは考えられない程の気迫(きはく)を以て、敵を強く睨む。

 オレは沖谷の傍に立っている櫛田に真偽を確かめた。彼女はこくりと頷く。

 なるほどな……予想通りと言えば予想通りか。

 

「な、何だよお前らは! 急に出てくるんじゃねえよ!」

 

 Aクラスの生徒の一人が、圧倒的な体格を誇る健の登場に怯みながらもそう言った。

 彼らも知っているはずだ。健が先の『暴力事件』の渦中の人物だったことに。

 結果はCクラス側の訴えの取り下げによって彼の無実は事実上証明されているが、それでも、彼が喧嘩に強い、という事実は残っている。

 

「あ? 俺たちはダチのために駆け付けたんだ。それのどこが悪いんだよ」

 

 ポキポキと骨を鳴らしながら、健は静かに佇む。

 今の彼はさしずめ正義のヒーローと言ったところか。

 彼が牽制している間にオレは事実確認を取った。

 

「彼らが沖谷の肩を突き飛ばしたのは分かったけど、それは明確な悪意があったのか?」

 

「当たり前だろ、綾小路! じゃないと、京介があんなにふらつくわけがない! そうだよな、櫛田ちゃん!」

 

「そう……だね。これには私も池くんと同じ意見かな。さっきの放送が流れるまで、私たちはデッキの一番良い場所で海の景色を堪能していたの。けど放送が流れて、他の人たちが一気に押し寄せてきて……」

 

 そこでAクラスの生徒が絡んできたのか。

 騒動は時間が経つにつれて大きくなっていく。

 最初は小規模だったが、今では甲板に居る生徒全員の関心が寄せられる程の大きさになっていた。

 その中には当然、A、DクラスのみならずB、Cクラスの生徒も居る。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ぴりぴりとした剣呑な空気が流れ、青空の下には似合わない重たい雰囲気に移行する。

 良い機会だ、これを活かさない手はない。

 

「櫛田、悪いけど二人を頼む」

 

「……えっ? あ、綾小路くん!?」

 

 櫛田に一方的な命令を伝え、オレは自身の名を呼ばれるのも(はばか)らずに健の隣に立った。

 奴らに会話を聞かれないよう、モールス信号で仲間に『待機』の指示を出す。

 

「お前は……綾小路、だったか」

 

 Aクラスの生徒の一人が呟く。

 

「こいつが……?」

 

「ああ、間違いない」

 

 その瞬間、彼らの意識は健からオレに集中する。

 目には警戒の色がありありと浮かんでいた。そして僅かな恐怖の色も。

 オレは無感動に周囲一帯を見渡してから、おもむろに口を開いた。

 

「……一応そっちの弁明を聞くが、沖谷をわざと突き飛ばしたのか?」

 

「ハッ、これだから不良品は!」

 

 すると奴らの一人が鼻で笑った。目には嘲りの色を、顔には侮蔑の表情を浮かべ、失笑する。

 と、ここまで聞けばどこぞの『王』が想起されるが、悲しきかな、彼にはそこまでの度胸がないらしい。

 

「もう一度言ってみろや!」

 

 健がひと睨みしただけで「ひいっ……!」と悲鳴を上げた。

 奴らからしたら完全に想定外だったのだろう。確かにDクラスには特別、身体能力に秀でた者は少ない。

 挙がるとしてもここにいる須藤(すどう)健や、自由人である高円寺(こうえんじ)六助(ろくすけ)ぐらいなものか。

 その高円寺と言えば、遠巻きからオレたちをにやにやと笑いながら眺めていた。てっきり一人悠々と過ごしているかと思っていたが……いや、彼もまた違和感を覚えたからこそここに居るのだろう。

 助けてくれと頼ったら彼の気分如何では助けてくれそうだが、まあ、借りを作りたくないから却下だな。

 

「それで、どうして沖谷を?」

 

「お、お前らもこの学校の仕組みは理解しているだろ。ここは実力至上主義の世界だ。Dクラスに人権なんてないんだよ! この客船には高級レストランがあるけどな、お前らに使う権利なんてない! ハンバーガーでも食ってろ!」

 

「あぁん!? てめ、ハンバーガーをバカにすんなよ! お前……お前、ハンバーガーはなあ! 最高のジャンクフードなんだよ!」

 

 思わぬところで健の怒りを買ったようだ。ガルルルゥ! と威嚇するさまは百獣の王、ライオンのようだ。

 だが、沸点を迎えたのは彼だけじゃないらしい。そこかしこから「そうだそうだ! ハンバーガーをバカにすんじゃねえ!」といった非難の言葉が飛ばされる。

 徐々に増えていくアンチAクラス。

 

「う、うるさい! と、兎も角だ……不良品は不良品らしくしていろ! こっちはAクラス様なんだよ!」

 

 声高にAクラスの有能さをアピールするが、残念なことにそこまでの効力はなかった。

 野次馬の女子生徒たちの会話がどこからか聞こえてくる。

 

「うわぁ……中間試験の時、その不良品のクラスに負けたのに何を言っているんだろうね」

 

「ちょっ、やめてあげなよー。ここは調子に乗らせて自尊心を満たしてあげるのがベストなんだからさー」

 

 悪意のない言葉は刃となって、彼らの心を引き裂いた。

 向けられる同情の視線。

 形勢が圧倒的に不利だと遅まきながら察したのか、彼らは苛立ちながら立ち去って行った。

 

「勝った、のか……?」

 

 池が後ろで小さく呟いた。

 そして、あらん限りに叫び出す。

 

「うおおおおおおお! やってやったぜ──!」

 

 勝利の雄叫びを上げる池に続いて、他のDクラスの生徒からも「やった!」とはしゃぐ声が出された。

 すぐにオレたちを囲み、勝利の余韻(よいん)に浸る。

 

「かっこよかったよ、みんな」

 

 そう言ったのは松下(まつした)──正直、下の名前はうろ覚えだ──だった。

 普段は篠原(しのはら)佐藤(さとう)──同じく、下の名前はうろ覚えだ──と行動をしているために、今も彼女の周りには二人が居た。

 照れたように笑う池が、「どこがかっこよかった?」と尋ねる。いつもなら調子に乗るな! と言われるのだが、今回はそんなことは起こらなかった。

 代表として、クラスの女王である軽井沢が答えた。

 

「そうだねー。池くんは実は意外に友達想いってことが分かったし、須藤くんはボディーガードとして立ち塞いでいたし、綾小路くんは……綾小路くんは……?」

 

 ううーん、と首を捻る軽井沢。

 必死に良い点を探しているのは伝わってくるのだが、彼女と浅からぬ因縁があるオレからしたら、絶対にわざとだろ! と思わなくもない。

 そんな彼女をフォローするかのように、櫛田が尊敬の眼差しを向けてきながら言った。

 

「綾小路くんもかっこよかったよ! 冷静に話を進めようとしていて……それに須藤くんもコントロールしていたしね」

 

「おいおい……俺はこいつの犬かよ……」

 

 健が勘弁してくれよとばかりに両手を挙げる。すると笑いが起こった。

 そこに山内(やまうち)が「俺が居たらもっと早くに鎮圧出来たのにな!」と便乗し、笑い声はますます大きくなる。

 この学校に入学してから四ヶ月が経とうとしているが、一学期の最後の一ヶ月で、オレたちDクラスの仲は急速的に縮まっていた。

 今も、最初は不良少年として怖がられていた須藤を交えて冗談を言い合っているのだから、仲間意識が生まれているのは間違いないだろう。

 

「あれ、揉め事が起こっていると聞いて慌てて来たんだけど……その心配は要らなかったようだね」

 

 洋介の登場に、場のボルテージは最高潮に達した。

 流石はDクラスの先導者だ。

 ちなみに、今はオレが所属するグループのリーダーでもある。一学期が終わる最後の日、旅行に向けた宿泊部屋のグループが決められた。

 その際、オレたちは迷うことなくグループを結成した。健が入りたそうにしていたが、彼は池、山内、沖谷のグループに招かれていたため出来なかった。

 オレたちのグループは、オレ、洋介、幸村(ゆきむら)、高円寺の四人。なかなかに面白い人員だと自分でも思う。

 

三宅(みやけ)くんと話していたから来るのが遅くなっちゃってね。けど良かった、清隆くんのおかげだよ」

 

「オレは何もしていないぞ。むしろ今回活躍したのは健や池だ」

 

「そうだぜ平田!」

 

「うん、皆凄いよ!」

 

 洋介の笑顔が眩しくて直視出来ない。

 イケメンスマイルに崩れていく女子生徒たち。ここまでが一連の流れなのだから末恐ろしい。

 戦々恐々しながら、椎名の姿を捜す。彼女は人集りから一歩引いた場所で、海の景色を眺めていた。

 視線の先にあるのは無人島。点だった島はくっきりとした輪郭を浮かばせていて、オレたちを待ち侘びているようだった。

 

「──争い事は嫌ですね」

 

 視線を外すことなく、彼女はそう言った。

 オレは無言で少女の隣に行き、潮風に身を委ねる。

 そのまま数分が流れ、歓声の声が豪華客船中で溢れ出た。

 上陸の時がすぐ目前……それだけの距離になったからだ。

 生徒たちの熱気と興奮が高まっていく中、しかし船は桟橋をスルーした。てっきり島に着けられると思っていたんだが……──なるほど、そういうことか。

 島の周りを迂回(うかい)する船に、けれど不満の声が上がることは決してなかった。

 

「凄く神秘的な光景ですね……」

 

 言葉とは裏腹に、椎名の表情は晴れない。

 

「……」

 

 オレは彼女に掛ける言葉がなかった。

 島の観察を続ける。だが、船の旋回速度が早いために苦労する。

 国から借り受けて管理する島の面積は約0.5k㎡、最高標高230m。日本全土から見ればちっぽけな島だが、百数十名がバカンスで過ごすには充分程だ。

 

『これより、当学校が所有する孤島に上陸致します。生徒の皆様は三十分後、全員ジャージに着替え、所定の鞄と荷物をしっかりと確認した後、携帯を忘れず持ちデッキに集合して下さい。またしばらく御手洗に行けない可能性がありますので、きちんと済ませておいて下さい。繰り返します──』

 

 二度目の船内放送が流れた。

 ぞろぞろとグループ部屋に向かい始める生徒たちを他所に、椎名はなかなか動こうとしなかった。

 彼女を待つ必要性は皆無だ。むしろここはオレが彼女を促す場面だろう。

 だがオレは、敢えてその選択をしなかった。ただ静かに彼女を待つ。

 

「──争い事は嫌ですね」

 

 オレは二度目のその言葉を受け入れた。

 どちらともなく互いの顔を見つめ合う。

 少女の顔は複雑な色で彩られていた。彼女が何を想い、何を考えているのか──。

 突然、一陣の強烈な潮風がどこからか運ばれる。

 反射的に目を(つむ)り、瞼を開けると、彼女の身体がとても近くにあって、オレは心の底から驚いた。

 

「────」

 

 少女が紡いだ音が少年に届けられる。

 次の瞬間には彼女の身体は元の位置に戻っていて……淡く微笑んでから彼女は言った。

 

「それでは私は先に失礼しますね。綾小路くん、また今度会いましょう」

 

 綺麗なお辞儀を披露してから、椎名は客船内に入っていく。自分の部屋に戻り、戦いの準備をするためだろう。

 オレは彼女の背中が消えてなくなるまで見届けてから……静かに吐息を漏らした。

 頭をすぐさま切り替える。

 デッキに残っているのはオレ一人だけだった。すぐ目の前にある無人島を観察する。

 向かう先は『地獄』だ。

 豪華客船が『天国』だとするなら、ここは──

 

「『天国』と『地獄』の境界線、か……」

 

 独り言を呟き、オレは部屋に戻るために足を向けた。

 

 

 

§

 

 

 

 扉を開けて部屋に入ると、そこにはオレ以外のメンバーが既に揃っていた。

 全員が学校指定のジャージに着替えている。

 

「遅かったね、清隆くん」

 

「先にトイレに行ってたんだ」

 

 洋介に返事しながらてきぱきと着替える。

 その途中で、幸村が感心したとばかりに頷いてから。

 

「なるほどな……混んでたか?」

 

 声が掛けられたことにオレは内心驚いた。

 このメンバーの中で最も接点がないのは幸村だ。会話をしたことは片手で数えられる程で、まさか話し掛けられるとは思っていなかった。

 ……いやまあ、共同部屋だから必然と言われたらそうなのだが。

 

「いや、まだそこまでは混んでいなかったかな。けどあと数分もしたら生徒で溢れると思う」

 

「そうか……早めに行った方が良いかもな」

 

 集合時間まであと二十分はある。時間的猶予はまだあるが、それは何もしなかったらの話だ。

 

「幸村くんの言う通りかもしれないね。ここに来るまでの道中、先生方が生徒に注意していたから、万が一があると思った方が良いかもしれない」

 

 そんなことがあったのか。

 幸村は洋介の言葉で、早々にトイレに行くことを決意したようだ。情報を教えたオレに一言礼を告げてから、部屋をあとにする。

 

「僕も行ってくるよ」

 

 洋介も室内から居なくなり、残ったのはオレと高円寺の二人になった。

 そこまでの仲でなかったらこの状況は辛いが、幸い、彼は自分以外に興味がないと豪語する変人だ。

 現に今も何やら分厚い本を読んでいる。姿勢が綺麗なのは気の所為ではないだろう。

 相変わらず、自分磨きに熱心なことだ。

 

「先程のはなかなか、ユニークなショーだったと称賛しておこう、綾小路ボーイ」

 

 学校から配布されたパンフレット片手に荷物の最終チェックを行っていると、不意に、愉快そうな声が出された。

 珍しいことがあるものだと思い声主を横目で見るが、彼は活字から目を逸らしていない。

 そこまで真面目に対応しなくても問題ないと判断し、オレもまた、作業を再開させながら答える。

 

「ユニークなショーってどういうことだ?」

 

「ふふふ、なに、言葉通りの意味さ。綾小路ボーイ、きみは意外にも賢いようだねえ」

 

「何のことだ?」

 

「惚けても無駄だよ。先程のショー……いや、ショーはショーでも茶番劇だが、()()()()()()()()()()()()()()()。あれには流石にこの私も、Aクラスの彼らには同情を禁じ得なかったよ」

 

 ふははは! 声を上げて笑う高円寺。

 オレは彼の評価を一段階上にあげた。なるほど、どうやら彼にはオレの真意が摑めたらしい。

 

「高円寺こそ、デッキには行ってたんだな。てっきり船内放送は無視するものだと思っていた」

 

「なに、気が向いただけさ。それに広大な海、そして雄大な自然をバックにポーズをとる私というのも絵になるだろう?」

 

「……そうか?」

 

「そういうものさ。綾小路ボーイ、きみにはまだ早い世界かもしれないがねえ」

 

「ただいま、清隆くん、高円寺くん。二人は準備、終わったかい?」

 

 洋介が幸村と一緒に戻ってきた。

 先程までの笑い声が嘘のように、高円寺は口を閉ざし静かになる。

 やっぱり、オレに話し掛けたのはたんなる気まぐれではなく──無論、気まぐれなのに違いはないだろうが──、タイミングを見計らっていたのだろう。

 全員が荷物を持ったところで、洋介が号令を掛けた。

 

「よし、それじゃあ行こうか。あっ、携帯はちゃんと持っているね?」

 

「……何も、一緒に行く必要はないだろう」

 

 幸村が不満そうだ。

 まあ、彼の心中は察せられる。もともとこのグループはアブれた者同士が組んで成り立っているからな。

 そんなグループで行動を共にする道理はない。それは洋介も当然分かっている。

 

「幸村くんの言う通りなんだけどね。僕は一応、このグループのリーダーに選ばれているんだ。だからしっかりと役目を果たさないといけない」

 

 正論を言われたので、幸村は頷くしかなかった。

 

「……分かった。平田をリーダーにしたのはグループの総意だから、ここは従う」

 

「ありがとう。高円寺くんも、指示に従ってくれるかな」

 

「ふふふ、そうだねえ……。普段の私なら断りを入れているが、今の私は気分が良い。平田ボーイ、ここはきみを尊重しよう」

 

 これには流石の洋介も苦笑いだ。幸村は自由人の思わぬ返答に驚く。うん、気持ちは分かるぞ。

 兎にも角にもと、オレたちは揃って部屋を出た。廊下に出ると多くの生徒が渡っていて、集合場所であるデッキを目指している。

 

「まるで(あり)の大行進だな」

 

「うーん、僕はちょっと違う印象を受けるかな。蟻は生活のために働くわけだけど、今の僕たちは違うからね」

 

 雑談を交わしながらデッキに行くと、そこには既に学年の半数程の生徒が待機していた。

 どうやらクラス別に分けられているらしく、客船の階段に近い順から、A、B、C、Dクラスの生徒たちが二列で並んでいる。

 池が最前列に居ることから出席番号順だろう。

 担任、茶柱の元に向かうと、彼女はクリップボード片手に、生徒と同じジャージに着替えていた。まあ、砂浜にスーツは合わないからな。

 

「平田グループ、全員居ます」

 

「うん、ご苦労。見て分かる通りだ、並んでくれ」

 

 オレの姓は綾小路の『あ』なため、池の隣に腰を下ろした。

 全員が集まるまでまだ時間が掛かりそうだ。

 携帯端末を教師の前で弄るのは流石に憚られるが、かといって、他にやることがない。

 おまけに甲板には陽の光を遮るものが何もない。先程までは気にならなかったが、こうして無為な時間を過ごすと否が応でも暑さを感じてしまう。

 

「暑いなー、綾小路」

 

「あ、ああ……そうだな」

 

 言葉を詰まらせてしまったのは許して欲しい。

 再三述べるが、あの一件以降、オレと池の間にはなんとも微妙な空気が流れていたために距離が離れてしまった。

 しかしどうだろうか。今彼は、オレに話し掛けている。

 友人関係が崩壊したオレとは違い、彼なら後ろに座っているクラスメイトと会話をすることなど造作もないことだし、実際オレはそのように考えていたのだが……。

 困惑していると、池がおずおずと口を開いた。

 

「その……これまでは悪かったよ。ごめんな、勝手に気味悪がって」

 

「いや、気にしないでくれ……って言いたいけど、どうして急にまた?」

 

 すると彼はこう言った。

 

「さっき綾小路、俺や京介、桔梗(ききょう)ちゃんを助けてくれただろ? 健から聞いたぜ、指示を出したのはお前だってさ」

 

「指示なんて大仰なものじゃない。ただ健には、睨みを利かせるように頼んだだけだ」

 

「それでもさ、お前が俺たちを助けようとしてくれたことは事実だろ?」

 

 そんなことはない。

 正直なところ、オレはクラスメイトだったら誰でも良かった。

 だが、それを池に告げる必要はないだろう。客観的に見れば彼の言う通りであり、勘違いしてくれた方がオレの利になるのだから。

 

「まあ、な……」

 

「だからさ、謝ろうと思って……。仲直り、してくれるか?」

 

「仲直りも何も、オレたちは喧嘩していたわけじゃないだろう」

 

「そりゃ、そうだけどさ……」

 

 歯切れ悪く語尾を濁らせる。

 平生の池らしくないが、彼なりに誠意を見せているのは伝わってくる。

 

「オレたちは喧嘩はしていなかった。ただ、思い違いが起きていただけだ。それで良いだろ」

 

 言外で、彼の申し出を受けることを告げる。

 コミュニケーション能力に長けている彼は、すぐにオレの意図に気付いた。

 

「……! そっか、そうだな!」

 

 破顔し、無邪気に喜ぶ池。

 こうしてオレと彼の仲は元通りになったわけだが、だからといって、彼の友人である山内や沖谷ともそうするかと聞かれたら否だ。

 そのことを告げると彼は当然とばかりに頷いた。流石、友達付き合いの良さに定評のある男は違うな。

 

「そう言えば、櫛田のことを下の名前で呼ぶようになったんだな」

 

「お、流石綾小路! 良くぞ気付いてくれた! 実はさっきさ──」

 

 嬉嬉として池は語った。

 Dクラスの女神、櫛田エルを崇拝し……愛してやまない池は悩んでいた。入学してから四ヶ月が経とうとしているが、想い人との距離はなかなか縮まらない。ただでさえ彼女は学年を超えた人気者で、このままではいつ交際相手が出来ても不思議ではない。

 星の数程のライバルを出し抜くには、何らかのものを形として残す必要があるだろう。

 珍しくも真剣に考えた彼は、ある一つの結論を出した。

 それこそが名前の下呼びである。

 とはいえ、決心したのは良いが実行に移せるかと聞かれたらそれは否だ。

 同性の友人なら兎も角として、相手は異性、しかも想い人だ。

 もしここで、『ごめんね』などと言われたらショックのあまり自殺を図るかもしれない。

 彼は一歩が踏み出せないでいた。

 しかし先程の一件で、彼は友人を助けるために行動を起こすことが出来た。

 

「──結局のところは気持ちしだいだなって思ったんだよ。そんでAクラスの奴らを追い返した後に言ったんだ……!」

 

 池は櫛田を呼び出し、二人きりで話をした。

 遠巻きに眺めるのは彼の友人たち。エールを送る仲間たちに応えようと、彼は緊張しながらも想い人の名前を呼ぶ。

 これが、彼女を苗字で呼ぶ最後の機会にするために。

 

『く、櫛田ちゃん!』

 

『うん? どうしたの、池くん』

 

『突然だけど、し、下の名前で呼んで良いかな!? ほ、ほら苗字呼びだとよそよそしいって思ってさ! も、もちろん嫌なら嫌って言って──』

 

『うーん、そうだなあ……。なら私は、寛治くんって呼ぶね?』

 

『……へっ?』

 

『あれ、ダメだったかな……?』

 

『桔梗ちゃ────ん!』

 

 こうして池は一歩、男に成長したらしい。

 数十分前のことを思い出しているのか、感涙に(むせ)び泣き始める。

 オレは取り敢えず放置することに決めた。

 今の彼を相手するのは面倒臭いからな。

 

堀北(ほりきた)グループ、全員居ます」

 

「うん、ご苦労」

 

 視線を上げると、そこには堀北を含めた四人の女子生徒が報告をしていた。

 グループのリーダーとして、堀北が茶柱と話している。

 

「しかし堀北……てっきり私は、お前のグループが一番早くここに集まると思っていたんだが」

 

「期待に添えず、申し訳ございません」

 

「あぁいや、責めているわけではない。集合時間には確かに間に合っているからな。それでは並んでくれ」

 

「……それでは失礼します。先生が仰った通りよ、並びましょう」

 

「「「はーい、堀北先生!」」」

 

「だから『先生』はやめてって言っているでしょう……」

 

 珍しくも堀北は愚痴を漏らしていた。

 考え方が少しずつ良い方向に傾いているとはいえ、まだまだ彼女には更生の余地はあるだろう。

 無駄な付き合いを嫌う彼女だが、ここ最近は彼女に絡み始める生徒が出始めていた。池や山内たちが彼女のことを『先生』呼びしているから、すっかり渾名となっている。

 と、ここでオレは堀北に違和感を覚えた。一見いつもと変わらない様子だが……どうにも顔色が悪いというか……。それに、普段は綺麗に纏められている髪が、今日は乱れているような……。

 

「気の所為にするのは早計かもな……」

 

「何がだよ?」

 

「……いや、何でもない」

 

「ではこれより、Aクラスの生徒から順番に降りて貰う。それから島に携帯端末の持ち込みは禁止だ。担任の先生に各自提出し、下船するように」

 

 拡張器を持った男性教師、真嶋(ましま)先生が指示を出す。

 若者の利器が回収されると聞いて、そこかしこで不満の声が上がった。

 無人島にインターネット回線が繋がっているとは思えないとはいえ、今の携帯端末には様々な機能が備わっている。

 中にはカメラモードを使って写真を撮りたいと願う生徒も居るだろう。

 ちらりと後ろを振り返ると、佐藤(さとう)の隣で並んでいる佐倉が目に見えて落ち込んでいた。写真撮りが彼女の趣味だからかなり堪えているようだ。

 彼女をあとで慰めるとして、ようやく、Aクラスから下船が始まる。

 

「こういう時に差別を感じるよなー。いっつもAクラスを優先してさー」

 

「まあ、それは仕方がないことなんだろうな」

 

「相変わらず、綾小路は変に冷静だよなー。お前は理不尽に思わないのかよ?」

 

「多少は思うさ。けど愚痴を零しても学校の対応は変わらないだろ?」

 

「そうだけどさー」と言う池は納得いかないのか、唇を尖らせる。

 座ったまま背を伸ばすと、彼はあからさまに眉を顰める。

 

「どうかしたか?」

 

「いやさ……やけに厳重だと思ったんだよ。見ろよ、生徒の両脇に先生が居て、荷物検査をしてるぜ」

 

 言われて見てみると、確かにそのようだった。

 一人に割り当てられる時間はせいぜいが数秒だが、百数十人の生徒にやるとなると時間が掛かるというもの。

 

「サエちゃん……じゃなかった、茶柱先生! 俺たちの出番はいつなんですか!? このままじゃ熱中症になっちゃいますよ!」

 

「そうだな……見たところ、あと二十分は掛かるだろう。喉が渇いた生徒はすぐ近くの蛇口(じゃぐち)から水分を補給しても構わない。ただし、すぐ戻るようにな」

 

 池を含めた何人かの生徒がぞろぞろと立ち上がり、水分補給をするべく移動を開始した。

 オレも彼らと同じように腰を上げたが、けれど後を追うことはしなかった。その代わりに、先に下船したAクラスの生徒を眺める。

 そこから少し離れた所では先に降りていた教師たちが真剣な面持(おもも)ちで話をしていた。

 分かりきっていたことだが、やはり、何かがあるようだ。

 

「綾小路。用がないなら戻れ」

 

 背後から茶柱の声が投げられる。目が合うと、彼女は若干気まずそうに逸らした。

 

「すみません、早く砂浜を駆けたくて我慢出来ませんでした」

 

 言いながら再度列に並ぶ。

 我らが担任の予見通り、ちょうど二十分後、オレたちDクラスの下船になった。

 出席番号が一番早いオレが、最初に荷物検査をされる。

 

「携帯端末は?」

 

「もちろんここにあります。どうぞ」

 

「うん、ありがとう。それじゃあ、Cクラスの横に並んでくれ」

 

「分かりました」

 

 そこからDクラスの生徒、総勢四十人が無事に荷物検査を終え、オレたち一年生はデッキから砂浜に場所を移して、再び並んだ。

 最後に茶柱がタラップから降りる。そしてクリップボード片手に言った。

 

「それでは点呼を行う。名前を呼ばれたらしっかりと返事をするように」

 

 えー! と驚く生徒たち。

 先程、甲板でやったばかりなのにやる意味があるのかと問いたいのだろう。

 しかしそれも、我らが担任の冷たい目線で鎮圧させられるわけだが。

 

「では始めるとする。綾小路清隆」

 

「はい」

 

「池寛治(かんじ)

 

「はい!」

 

 元気良く答える池に、茶柱は薄いながらも笑みを浮かべる。

 

「相変わらず元気だけはあるな、お前は。次──」

 

 生徒全員が居ることを確認した茶柱は、予め準備されていた白い壇上に登っている真嶋先生に報告をした後、他の教師と同じように自分が受け持つクラスに戻った。

 真嶋先生は生徒を見渡してから挨拶をする。

 

「今日、この場所に無事に着けたことをまずは嬉しく思う。しかしその一方で、一名ではあるが病欠で居ないことは残念でならない」

 

「……そんな奴が居るんだなあ。可哀想に……」

 

 学校行事とはいえ、これは豪華旅行だからな。休んでしまった生徒には同情するが、まあ、仕方がないと割り切って貰う必要があるだろう。

 真嶋先生が挨拶を口にしている最中、ふいに異質な音が響いた。

 何だと生徒が発生源を見ると、そこには作業服を身に纏っている大人が数名居て、何やらテントを設置しているようだった。いや、テントだけじゃない。金属製の長机に、同じ材質の折り畳み椅子。しまいにはノートパソコンまでもがケースから出された。

 

「何だろう、あれ……?」「ねえ、先生たちの表情、ちょっとおかしくない? 上手く言えないけど……こう、険しいような……」「私も思ってた……」「俺たちは今からバカンスを満喫するんだよな、そうだよな?」

 

 困惑はやがて不安に変貌し、それはじっくりと伝播していった。

 隣の池も表情を引き攣らせている。

 あ、綾小路……と池が囁いてくるが、オレは何も答えなかった。その代わりに視線を上げ、茶柱の瞳を覗き込む。

 だがすぐに逸らされてしまった。

 彼女の視線の先には真嶋先生の姿があった。

 なるほど、どうやら彼が開幕宣言をするらしい。

 

 ──始まるか。

 

 不安が頂点に達したのを見計らったかのような、そんな絶妙のタイミングで、真嶋先生は告げる。

 

 

 

「それではこれより──本年度最初の『特別試験』を行う」

 

 

 

 

 



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無人島試験

 

 高度育成高等学校第一学年:第一回特別試験

 

 ─概要(がいよう)

 

 今回の特別試験は実在する企業研修を元に作られた実践的、かつ現実的なものである。生徒が如何(いか)にして一週間の無人島生活を過ごし、如何にして対応性や柔軟性を向上させるか、教師一同楽しみにしている。

 

 ─要項─

 

 テーマ:『自由』

 

 内容:一週間の無人島生活

 

 場所:無人島

 

 期間:八月一日正午〜八月七日正午

 

 初期所持品(個人)──

 筆記用具、着替えのジャージ及び下着類。

 

 初期所持品(支給品)──

 八人用テント(二つ)、懐中電灯(二つ)、マッチ(一箱)、歯ブラシ(ひとり一つ)、日焼け止め(無限)、生理用品(女性のみ・無限)、マニュアル(一つ)、腕時計(ひとり一つ)、簡易トイレセット(ひとクラス一つ)。

 

 ─ルール─

 

 ・テーマが『自由』のため、常識の範囲内でならどのような一週間を過ごしても問題はなく、また、二学期以降の成績にも一切の反映はしない。

 

 ・A〜Dクラス、全てのクラスに300ポイントを支給する。このポイントを消費することによって、マニュアルに載せられている道具類や食材を購入することが出来る。なお、原則的にはマニュアル外のものは購入出来ないが、万が一、欲しいものが出た場合は担任教師に確認をするように。場合によっては認められるものがある。

 

 ・特別試験が終わった時点での残当ポイントを全て、夏休み以降──厳密には九月一日からのクラスポイントに代替して振り込むこととする(例:50ポイント→50cl)。

 

 ・支給された腕時計の着脱は許可なく行えない。試験終了まで身に付けること。許可なく外した場合はペナルティが与えられる。この腕時計には時刻の確認だけでなく、体温や脈拍、人の動きを察知するセンサー、GPS機能が備わっているため、万が一、危機に(ひん)したら迷わず救助信号を出すように。

 

 ・各クラスはベースキャンプをまず先に決めること。正当な理由なくして変更及び移動は認められない。なお、各クラスの担任教師は試験終了までクラスと行動を共にする決まりになっており、ベースキャンプの隣に拠点を構え、そこで点呼を取ること(注:点呼については下記『ルール:マイナス査定の基準』に書かれている)。

 

 ─ルール:マイナス査定の基準─

 

 ・著しく体調を崩したり、大怪我をしてしまい続行が難しいと判断された者は、マイナス30ポイント。及びその者はリタイアとなり、客船に強制収容、安静に過ごして貰う。

 

 ・環境を汚染する行為を発見した場合。マイナス20ポイント。

 

 ・毎日午前八時、午後八時に行う点呼に不在の場合。一人につきマイナス5ポイント。

 

 ・他クラスへの暴力行為、略奪行為、器物破損などを行った場合、生徒の所属するクラスは即失格とし、対象者のプライベートポイントの全没収。

 

 ・今回の試験でマイナスに陥ることはない(注:上記の『ルール』から意訳)。

 

 ─追加ルール:Ⅰ─

 

 ①まず先に、各クラスでリーダーを一人選出して貰う。例外はない。

 

 ②島には『スポット』と呼ばれる箇所が幾つか設けられており、占有権がある。そのため、占有したクラスのみ使用出来る権利がある。ただし公平性を保つために『スポット』の占有権は八時間で効力を失い、次に占有される時まではどのクラスも『スポット』を活用出来る権利が与えられる。

 

 ③『スポット』を一度占有する度に1ポイントのボーナスを得ることが出来る。ただしこのボーナスポイントは暫定(ざんてい)的なものであり、試験中は利用することが出来ない。

 

 ④スポットを占有するためには『キーカード』が必要である。

 

 ⑤他クラスが占有している『スポット』を許可なく使用した場合、50ポイントのペナルティ。

 

 ⑥占有した『スポット』は常識の範囲内でなら自由に使って構わない。

 

 ⑦キーカードを使用することが出来るのはリーダーだけである。

 

 ⑧正当な理由なくしてリーダーの変更は出来ない。

 

 ⑨『スポット』の占有上限は設けないものとする。

 

 ─追加ルール:Ⅱ─

 

 ①最終日の朝の点呼のタイミングで他クラスのリーダーを当てる権利が与えられる。

 

 ②リーダーを当てることが出来たらひとクラスにつきプラス50ポイント。逆に言い当てられたら50ポイント支払う義務が発生し、さらには試験中に貯めた『スポット』のボーナスポイントも全額喪失する。

 

 ③見当違いの生徒をリーダーとして学校側に報告した場合、罰としてマイナス50ポイント。

 

 ④権利を行使するか否かは自由である。

 

 ─最終日:八月七日について─

 

 ①朝の点呼後、全生徒が浜辺に集合。万が一、リタイアしてしまった生徒は客船内の一室に集まって貰い、そこで待機。なお、特別ルールの権利を使うか否かは、各クラスの意思に任せるとする。

 

 ②試験の結果発表を行う。発表するのはクラス順位と、試験で得たクラスポイントのみである。

 

 ③上記二つが終了した後、第一回特別試験を正式に終了とする。以降は、客船内での生活に戻る。

 

 

 

§

 

 

 

「──以上かな」

 

 マニュアルに書かれていることを洋介(ようすけ)が出来るだけ()(くだ)いて音読(おんどく)した。

 そして聞き終えたオレたちDクラスの生徒は緊張を隠せないでいた。

 つい数分前に真嶋(ましま)先生から衝撃的なこと──特別試験が始まることを告げられたばかり。

 今回の特別試験の内容は『一週間の無人島生活』。どのように過ごすのも『自由』な異質な試験。

 当初は多くの生徒から不満の声が上がったが、ここまで来たらやるしかない。そう思うまでに時間はあまり掛からなかった。

 現在は担任の補足説明を終え、砂浜で今後の行動を話し合っている最中だ。

 

()にも(かく)にも、まずはベースキャンプの場所を探さないといけないよね」

 

「ここじゃダメなのか?」

 

「うん。陽射(ひざ)しをもろに浴びてしまうし、食料調達にも向いていないから。やっぱり森に入って、島そのものを探索する必要があると思う」

 

 洋介の意見は全て正しいものだ。

 皆が険しい表情を浮かべてる中、彼はちらりと横を一瞥した。その視線の先には、先程まではA、B、Cクラスが居たのだ。しかし既に彼らの姿はない。

 

「他のクラスも行っちゃったし……どうするよ!?」

 

「落ち着いて(いけ)くん。ここで下手(へた)に焦るよりは皆の意見を一つに纏めた方が良い。のちのちに影響するかもしれないからね」

 

「『スポット』を探す必要もあるよな……。くそっ、やることが多すぎだ!」

 

 幸村(ゆきむら)が呻いた。

 次に声を上げたのは篠原(しのはら)だった。剣呑な目付きでオレ……ではなく、オレが両手に抱えている簡易トイレを(ゆび)さす。

 

「トイレの問題も何とかしないと! 無理、私たちには無理!」

 

「そうよそうよ!」

 

「うぅ……何でこんなことに……」

 

「流石にこれは……」

 

 いつか問題になると思ってはいたが、今取り上げなくても……と思ってしまうのはオレが男だからか。

 現にある一人の男子生徒が。

 

「はあ? トイレくらいこれで我慢しろよ!」

 

 と、言ったところで女性陣からブーイングされた。しかし男子も負けておらず、出来るだけ節約したい幸村や、意外なことにクラスの女王、軽井沢(かるいざわ)が反対派として立っている。

 

「か、軽井沢さんはそれで良いの!?」

 

「うん、まぁねー。あたしはどちらかと言うとこっち寄りかな。我慢しようと思えば我慢出来ることは、我慢するべきことだと思うよ」

 

 クラスの女王が敵に回ったことに女性陣は怯んだ。如実(にょじつ)なカースト制度が作られているからな、今後のことを考えると二の足を踏んでしまう……そんなところか。

 その中で真っ向から意見を申し立てる篠原は凄いと言えるだろう。

 

「でも……あたしはやっぱり無理!」

 

「うん、だから別にあたしはそれで良いと思うよ。あっ、でもこれだとあたしが女っぽくないかな?」

 

 たはは……と軽井沢は薄く笑った。

 櫛田(くしだ)佐倉(さくら)やみーちゃんといったオレの友人たちは緊急会議に加わってこそいなかったが、顔が引き()っているように見えるのは気の所為ではないだろう。堀北(ほりきた)は相変わらずの無表情だ。

 暑いなーと手をパタパタ扇いで傍観していると、白熱する論争に意外な人物が登場した。

 

「……トイレに時間を割いている余裕はないだろ。本堂(ほんどう)、お前の気持ちは分かる。俺だってポイントはなるべく残したいが、仮に俺たちが女だったら同じことを言っていたと思うぞ」

 

「み、三宅(みやけ)……。それは、そうだけど……」

 

 三宅明人(あきと)。どこのグループにも属さない人間だ。部活は確か弓道部で、寡黙(かもく)な印象をクラスメイトたちに持たれている。

 なおも食い下がろうとする本堂に、本堂の友人である池が彼を窘めるように。

 

「俺も三宅と同じ意見かなー。だってさ、仮設トイレは綾小路(あやのこうじ)が持っている一つしかないんだぜ? 現実的に考えてこれ一個で済むとは思えないぜ」

 

「い、池まで……。お前はそれで良いのかよ! 小遣いが欲しいって何度も言ってただろ!?」

 

「そりゃ欲しいけどさ。『スポット』があるんだろ? ならそこで充分に挽回出来るって! たった20ポイント、すぐに巻き戻せるさ」

 

「ぼ、僕も寛治(かんじ)くんに賛成かな……」

 

 男の()沖谷(おきたに)がさらに賛成派に付く。彼は奥義、上目遣いを決行。本堂はあっさりと折れた。幸村も折れた。軽井沢は可愛い! と身悶えた。

 この時オレたちは心を一つにして同じことを叫んだ。

 

「「「沖谷恐るべし!」」」

 

 これで意図的に出来るようになったら……沖谷は魔性属性が付与されるだろう。

 今までは洋介が仲裁役を担ってきていたが、ここ最近は彼の出番はなくなりつつある。良い傾向だな。

 もちろん彼が先導者であることに変わりはない。

 彼はクラスメイトを森の中に入るように促し、日陰を探した。そこに案内し、腰を下ろすように声を掛ける。

 

「ここを暫定的なベースキャンプにするとしよう。今から待機組と、探索組に分けようと思う。性差別的な発言はあまりしたくないけれど、女の子たちより体力がある僕たち男の子が探索組に出るべきだと思うんだけど……どうかな?」

 

 反対意見が出ることはなかった。

 

「もちろん、強制するつもりはない。この島について僕たちは未知だ。下手に動いて遭難でもしたらそれこそ最悪だからね。そのうえで、やってくれる人は居るかな」

 

「俺は行くぜ」

 

 (けん)が真っ先に名乗り出た。

 Dクラス内、いや学年でも屈指の身体能力を誇る彼が動いてくれるのはありがたい。

 

「これまで俺はクラスに迷惑ばかり掛けてきたからな。むしろ行かせてくれ」

 

 瞳には確かな決意の色が灯っていた。

 多くの生徒が彼の変貌に驚き、そして感心しているだろう。

 先の『暴力行為』で得たものは確かにあったのだ。

 

「お前はどうすんだよ、高円寺(こうえんじ)

 

 視線が向かう先は優雅にポーズを取っていた高円寺。この事態に於いても相変わらずブレないのは凄いな。

 健が声を掛けたのはひとえに、彼よりも高円寺の方が身体能力が優れていると認めているからだ。

 だが彼に期待しても無駄だろう。これまでクラスに一切の貢献をしてこなかった彼が協力するとは思えないからだ。

 だが彼は白い歯を見せて言う。

 

「ふふふふ、今日の私は普段にも増して気分が良い」

 

「……つまりどういうことなのかな?」

 

平田(ひらた)ボーイ、面倒な問い掛けはやめたまえ。せっかくの貴重な機会を失いかねないからねえ」

 

「そうだね……。きみは今回の特別試験、積極的に協力してくれるってことかい?」

 

「そういうことになるねえ。私が居る間は手を貸してあげることも吝かではないよ」

 

 また何とも高円寺らしい言い方だな! そう、クラスメイトの大半は考えているだろう。

 だがオレは……オレだけが白けた眼差しを向けていた。

 

 ──良くて二日……いや、こいつの性格上一日持てば良いか。

 

 基本的に人を疑うことをしない洋介は思わぬ戦力の増強に喜びを隠せない。

 

「ありがとう、高円寺くん!」

 

「ふふふふ、何、お礼を言われることではないさ。その代わり平田ボーイ、探索のペアは私が選んでも構わないかな?」

 

「え? う、うんそうだね……その人が良いって言うなら……」

 

 先導者から言質を取った高円寺は、無言でDクラスの面々を見渡した。

 そしてある一点で停止する。視線の先には──。

 

「では綾小路ボーイ。私たちは今からエクスプローラーだ」

 

 そう言って、高円寺は白い歯を見せてくる。

 

「おいおい高円寺……どうして清隆(きよたか)なんだよ?」

 

 健が不思議そうに声を上げた。

 他の生徒も同様で困惑に色を染めている。

 

「ここ最近ボーイは注目を浴びているようではないか。私も彼に少なからず興味を覚えてねえ。それに彼とは以前、諸君らの中で唯一ランチを共にした仲さ。交流があるマイフレンドを選ぶのは当然だろう?」

 

「あぁそっか……確かにそんなことがあったって噂になったよな」

 

「あったあった! 懐かしいねー、あれからもうだいたい三ヶ月だよ!」

 

 面倒臭い手回しは必要なかったかもしれないな。

 興味深そうな視線が最終的にオレに収束する。

 オレはクラスメイトを見渡した。どうやら彼らは高円寺の『嘘』に納得しているようだ。

 自分が取れる最良の選択は何かを冷静に思考する。

 

「……分かった。一緒に『スポット』を探そう」

 

「では行こう、綾小路ボーイ。豊かな自然が私たちを待っているからねえ」

 

 高笑いしながら森の奥地に侵攻する高円寺の背中を、オレは嘆息してから追い掛けた。

 背後に届けられるのは同情の眼差し。自由人の相手は疲れるからなあ……とか、そう思っているんだろうな。

 青々と茂った緑は、森の中へ足を踏み入れる度に色濃くなっていく。

 どれだけ歩いただろうか。

 オレたちの任務は『スポット』を探すことだが、オレたちは一切(まっと)うしていない。いやまあ、結果的にはそうなるのだが。

 オレは高円寺の背中を追い掛けることだけに専念していた。

 しかしそろそろ無言の時間も飽きてきたところだ。

 

「──ところで高円寺」

 

「何かな綾小路ボーイ?」

 

 聞き返す彼に、オレは躊躇うことなく切り出した。

 

「お前、リタイアするつもりだろ」

 

 半歩前を歩く彼は特別な反応をしなかった。

 そして急に立ち止まる。高円寺六助(ろくすけ)は平生浮かべている不敵な笑みと共にオレを見下ろした。

 

「きみは何を言っているのかな?」

 

「隠す気がないのにその言葉はわざとらしいぞ」

 

「ふははは、確かにきみの言う通りだねえ。しかし私は先程確かに言ったはずだ。『私が居る間は手を貸してあげることも吝かではないよ』とね」

 

「ああ、そうだな。だがそれはお前が試験に臨んでいる間だけの限定的なもの。逆に言えば、試験を強制的に終わらせたら責任を果たす必要はなくなる」

 

 洋介たちは、高円寺六助の全面的な協力が遂に叶ったと考えていることだろう。

 他ならない彼自身がそう告げたのだから。

 だが良くよく言葉を噛み砕けば単なる『言葉遊び』だとすぐに分かる。いや、言葉遊びなんてものは烏滸(おこ)がましいか。

 

「今回の特別試験。Dクラスはポイントを得ることに固執している。だから、クラスメイトが助け合うことは必然となる──そう、考えさせられている。だが四十人の生徒全員が同じ考えのもと動くわけじゃない。お前のように試験なんてどうでも良いと考えてもおかしくないからな」

 

「見事だよ綾小路ボーイ。きみの想像通り、明日の今頃には私はこの島には居ないだろうねえ」

 

「豪華客船で悠々自適な生活を過ごすつもりか」

 

 尋ねると笑みで返された。

 クラスポイントが大きく変動する特別試験。オレが今しがた語ったように、多くの生徒が真面目に取り込もうとしているだろう。

 小遣い稼ぎのために、あるいはAクラスを目指すために。

 だが中にはそんなことに関心を寄せない人間も居る。高円寺のような人間からしたら、今回の特別試験に臨んだところでメリットは無いに等しい。

 

「どんな『嘘』を吐く予定だ?」

 

「ふふっ、教えてあげよう。体調不良にするつもりさ」

 

 息を吸うかのように自然と即答するのは流石だな。

 変に頭痛や腹痛と言うと学校も面倒な対応をするかもしれないから妥当なところか。

 

「安心したまえ。私は約束を守るナイスガイだからね。期待には添えよう」

 

「お前のリタイアで30ポイントの損失か……」

 

 大きいと見るか、それとも小さいと見るか……。

 脳内で算盤を弾く──特に問題はないな。

 

「さて、私はきみの質問に答えたんだ。私からも質問良いかな?」

 

「答えられる範囲なら答える」

 

「実に保険に入るねえ。──何故きみはあんなことをしたんだい? 私は綾小路ボーイ、きみはスチューデントウォーズに興味がないとばかりにシンキングしていたんだが?」

 

 この男に嘘は言っても通用しないだろう。

 むしろ下手に機嫌を損ねるとのちのちの計画に支障を(きた)す可能性がある。

 こいつが他人の行動について誰彼構わずに吹聴するとは思わないが、それも絶対ではない。

 

「詳しい事情はお前も興味がないだろうから、簡潔に言うぞ」

 

「実に私好みの回答方法だよ。それでは聞かせてくれるかな?」

 

 かくかくしかじか。オレは高円寺に要所要所暈しながら説明した。

 担任に脅迫されたこと。脅迫し返したこと。取引をしたこと。この二週間だけクラス闘争に参戦することになったこと。

 聞き終えた高円寺はいつも以上に高らかな笑い声を上げ、森に響きかせた。

 

「ふははは! HUHAHAHAHAHA!」

 

 ……とうとう人外の域に足を踏み出したか。

 高円寺の狂った笑い声に引いていると、彼は太陽に眩く反射して光る金髪を掻き揚げながら尊大に言った。

 

「今日は近年稀に見ない程に愉快な気持ちになるねえ。綾小路ボーイ、きみはやはり面白い」

 

 だが、と彼は言葉を続けて。

 

「──()()()()()()()()()()()。退屈、とでも形容した方が良いだろう。綾小路ボーイ、これは私のアドバイスだ。自由を求めるなら自由に振る舞う必要性はナッシングなのだよ」

 

「どういうことだ……?」

 

「ふふ、それはきみ自身が答えを出さなくてはねえ」

 

 高円寺の言葉を、自由人の気紛れ、余興の類だと判断することは造作もない。

 しかしこの時だけは、頭の片隅に取り留めておこうと思った。

 

「随分と話し込んでしまったねえ。それでは行くとしようか」

 

 それからは無言の時間が過ぎていった。

 オレは道無き道を通りながら思考を巡らす。

 無人島というだけはあって、人工物は皆無だな。パッと見ではあるから、一概には言えないが……。

 

 ──徹底しているな……。やっぱり無駄なものはないか……。

 

 とはいえ、その分だけ探索は楽になるんだが。

 そろそろ目当てのものが出てくるだろう。

 数分が流れたところで、オレたちは開けた場所に出た。

 人が故意に切り開いたと思われる道。コンクリートで舗装されているわけではもちろんないが、明らかに『道』として成り立っている。

 そしてどうやら『道』は一直線に()かれているようだった。

 

「ふむ……登ってみるとしようか」

 

「……は? 高円寺お前、何を言って──!?」

 

 言うや否や、高円寺はオレの言葉を無視して木登りを開始した。

 どこに足を掛けるか、どうやって登るか、ルートに迷いがない。野生児かと突っ込みを入れたかったが、今更かと思い直す。

 ひょいひょいと流れるようにして影が動き、気付いたら彼は頭上、三、四メートル程の高さに居た。

 

「きみも来たまえ、綾小路ボーイ。登ることは造作もないだろう?」

 

 頭上から催促の声が降られるが……、えっ? 

 

「いや、いやいやいや。都会っ子のオレがお前みたいに出来るわけがないだろう?」

 

 抗議すると、珍しくも高円寺は困ったように微笑む。

 

「しかし綾小路ボーイ。そうも言ってられないのだよ。私たちが目指す先に、スチューデントが二人居るのだからねえ」

 

「そういうことか……」

 

 この段階で他クラスとの接触は控えたい、か……。

 今日の高円寺はやけにクラスに──いや、オレに協力的だと言える。

 って言うか、何気に衝撃的な発言があったな。

 

「お前、ここから見えるのか?」

 

「当然さ。私の視力は素晴らしいからねえ。くっきりと視たよ、洞窟に入っていく彼らをね。これできみが何をするべきなのかは決まっただろう?」

 

「……分かった。少し待ってくれ」

 

 言いながら、先程の高円寺の動きを脳裏に思い浮かべる。

 巨木の幹に恐る恐る触れると、ひんやりとゴツゴツとした感触が返ってきた。

 (まぶた)を閉じ、記憶した動作を再生。

 当然だが、地面に近い程木の枝は太く、逆に空に近い程木の枝は細くなる。

 思い返してみれば、彼は殊更に太い枝を伝っていたな。現に今も太い枝の上に乗っている。

 なるほど……何となくは分かった。

 やり方さえ分かればあとは野生児の真似をするだけで良い。

 

「──行くか」

 

 呟き、オレは拙いながらも木を登り切った。

 高円寺が立っている所まで上昇させる。

 

「おお……やってみるもんだな」

 

 地上とは段違いの景色に感嘆の声を出してしまう。

 これなら移動が楽になるな。この一週間重宝するとしよう。

 

「それでは行こうか、綾小路ボーイ」

 

「えっ──早っ!」

 

 間抜けな返事をした時には遅かった。

 どんどんと高円寺の背中が遠ざかっていく。

 木登りは修得出来たが、次は空間移動を修得しないといけないのか……。

 木から木に移動する、ドラマやアニメ、小説だったらよく使われる描写だ。

 しかしよもや自分が実践することになるとは思いもしなかった。

 まあ……幸運なことに見本がある。先程と同様、オレは体の動きを高円寺に投影(とうえい)しながら木々の隙間を縫って行った。

 

 ──落ちたら骨折だけじゃ済まないだろうな……。

 

 程なくして、オレはようやく、高円寺が先に見ていたものを視界に映すことが出来た。

 山の一部にぽっかりと大穴が空いた洞窟、その入り口。

 

「『スポット』があることは間違いないな」

 

 むしろあからさま過ぎるだろう。

 とはいえ、『スポット』を占有するためには専用のキーカードが必要であり、使用権限は各クラスにつき一人だけ選ばれる代表者……リーダーだけにある。

 隣の木に乗っている高円寺に確認する。

 

「二人の生徒が入って行ったんだよな?」

 

「下らない嘘は言わないさ。嘘吐きは泥棒の始まりと言うしねえ。それは美しくない」

 

 何ともまあ、説得力がある言葉だな。

 内部に生徒が二人居る。

 ばったり出くわしたら面倒なため、オレは陰に隠れた。

 ところが高円寺は身を潜めない。

 

「……隠れないのか?」

 

「隠れる必要があるのかい? ルール上、他クラスの生徒への暴力行為は禁じられている。何も恐れる必要はないさ。それに──」

 

「それに?」

 

「──身を隠すなど美しくないからねえ! 見たまえ綾小路ボーイ、木の枝に座り、幹に寄り掛かり陽の光を浴びる私を! ふふふ、(アイ) am(アム) beautiful(ビューティフル)!」

 

 無駄に発音が良いとイラッとするな。

 額に手を当ててため息を漏らしたところで、入り口から人の姿が。

 オレは隠れているから問題ないが、高円寺は普通に姿を晒しているため、当然のように見付かった。

 

「──お前、誰だ!?」

 

 一人の生徒が尋ねてくる。

 顔だけ覗かせると、そこには高円寺が先程教えてくれたように、二人の生徒が居た。

 片方は深緑色の髪を短く刈り取っており、もう片方は驚くべきことにスキンヘッドだ。性別はどちらも男。

 声を上げたのは髪の毛がある方だ。

 

「グリーンボーイ、人に名前を尋ねる時は自分からだと your parents アンド your teacher から習わなかったのかい?」

 

「は、はあ!? な、何だよお前……妙に英語の発音良いし……」

 

 髪の毛所持者が困惑した。うん、分かるぞその気持ち。

 高円寺の彼に対する興味はなくなったのか、スキンヘッドの方に顔を向けた。

 

「俺はAクラスの葛城(かつらぎ)だ。こっちは弥彦(やひこ)と言う。もし良ければ、名乗って貰えないだろうか」

 

 ──こいつがAクラスのリーダーの片割れか。

 改めて悟られない程度に見る。

 目を引くのはやはりスキンヘッド。ファンションか、はたまた何かの病気持ちか……それは分からないが、少し下を注視すれば感想はまた違ってくる。

 真紅と純白で彩られているジャージの上からでも分かる程の筋肉質さに、ガタイの良さ。服を脱げば筋肉の塊が現れるだろう。

 隣の弥彦と比べたら差は一目瞭然だな。

 自分のことを棚に上げて両者を観察していると。

 

「ふふふ、どうやらそっちのスキンヘッドボーイは礼儀を弁えているようだねえ。では私も名乗ろう。私の名前は高円寺六助さ」

 

「お前が……?」

 

「葛城さん、こいつはアレですよ、一年でも話題の自由人です!」

 

 弥彦が彼の前に出て吠えた。さながら主を守る忠犬のようだ。

 葛城はしばらくの間思案している様子だったが、やがて弥彦の右肩にぽんと手を添えて逆に前に出る。

 

「か、葛城さん……?」

 

「この男は弥彦、お前では荷が重いだろう。俺が話す」

 

 賢明な判断だな。

 いくらAクラスと言えど高円寺の相手は難しいだろう。

 何せ、常識が通じないからな。こういう相手が一番面倒だ。

 

「高円寺、何故お前がここに居る?」

 

「何、クラスメイトからお願いされてね。凡人では出来ることと出来ないことがある。であるならば、高いポテンシャルを持つ人間が凡人を導くことは当然だろう?」

 

「ほう……。しかし、お前一人なのか? Dクラスでは平田洋介という男がクラスを(まと)めていると聞いているが、彼はお前の単独行動を認めたと?」

 

 言外に、そこにはお前以外に人が居るんじゃないか? と葛城は尋ねているのだ。

 オレが内心唸っていると、そんなオレの内心など知ってか知らずか、高円寺は飄々(ひょうひょう)と答えた。

 

「ふふ、平田ボーイは私をとめたがね。しかし私の行動に付いてこれる者はDクラスには皆無に等しい。あるいは、レッドヘアーボーイなら数分は持つだろうがねえ」

 

「レッドヘアーボーイ……須藤のことか。なるほど、彼程の逸材なら納得は出来るが……」

 

「葛城さん、随分と他クラスのことを知っているんですね……」

 

 感心する弥彦に、けれど葛城は表情を変えることはなかった。

 それどころか嘆息してから味方を見下ろす。

 

「弥彦、この際だから言っておこう。この学校は確かに異質さがあり、また実力至上主義を掲げている。故に、俺たちAクラスが優れていると思う──思ってしまうのは仕方がない側面がある。だが、だからこそ俺たちは他のことに関心を寄せることがある」

 

「で、でも……! 精々がBクラスじゃないですか! CやDクラスとのクラスポイントの差は歴然ですよ!」

 

「中間試験を覚えているだろう。学校側が『不良品』と蔑称している下位クラスに俺たちは負けたんだ」

 

 葛城は弥彦を窘める。

 彼はしょぼくれる部下から視線を外し、高円寺に向き直った。

 

「──話を戻すとしよう。率直に尋ねるが、高円寺、すぐ近くにはお前のクラスメイトが潜んでいるのではないかな?」

 

「ふふっ、さてねえ。私がどう答えたところできみたちは納得しないだろう?」

 

 含みがある言い方をするなよ! 文句を言いたいが、声を出すわけにはいかない。

 しかし困った。いやほんと、冗談抜きで。

 身に付けた空間移動を使用しても絶対に物音が生まれてしまうし、地面に降りても絶対に視認されるだろう。

 そうなると今後の行動に支障を来す可能性が高い。

 当然、葛城は弥彦と一緒に辺りを散策するだろう。見付かるのも時間の問題だ。

 

「俺は下を見ますから、葛城さんは上をお願いします」

 

 葛城は片腕に装着している腕時計を一瞥してから、

 

「いや、クラスに合流するとしよう」

 

 と、意外なことに撤退の指示を出した。

 いくら上司の指示とはいえ、これには弥彦も納得出来ない。

 

「葛城さん!?」

 

「ここに俺たちが到着してから十分だ。話し過ぎたな。これ以上の長居はリスクを伴うだろう」

 

「し、しかし……良いんですか?」

 

「良くはない。しかし現に、お前が見下していた『不良品の生徒』がここに居る。他の生徒が来るのも近いだろう」

 

 と言うと、弥彦は苦々しい表情を浮かべた。

 葛城も眉間に(しわ)を寄せている。

 行くぞ、と上司は部下を引き連れて立ち去ろうする。

 そんな彼らに高円寺は笑いながら言葉を投げた。

 

「安心したまえ。きみが恐れていることにはならないだろうさ」

 

 葛城は返事をしなかった。

 二人の後ろ姿が森に消えるのを見届け、オレは安堵の息をゆっくりと吐き出した。

 さらに二分程経つのを待ち、戻ってこないかを確認する。

 

「高円寺、オレは今から洞窟の中に行ってくるから、見張り、頼めるか?」

 

「見張りをする必要があるとは思えないがねえ」

 

「そうか」

 

 恐らく、洞窟内部はそこそこ広いはずだ。

『スポット』があるにしても最奥、仮に高円寺が訪問者が来たことを報せたとしても意味はないだろう。

 せめてトンネル式になっていたら話は別なのだが……期待薄か。

 

「……まあ、兎に角頼む」

 

 高円寺は何も言わなかった。それどころか鼻歌を歌って気持ち良さそうに日光を浴びている。

 良くもまあ、ここまで自由奔放に生きることが出来る……と感心しながら、オレは乗っている木の枝から地面に身を投じた。

 とはいえ恐れる必要はない。これくらいの高さなら、余程打ち所が悪くない限り死ぬことはないからだ。

 無事に着地したオレは迷うことなく洞窟に入っていく。はたして数秒も掛からずに壁に直面した。

 そしてそこには埋め込むようにしてモニター付きの端末装置が設置されていた。

 無人島にそぐわないのは言わずもがな、つまりこれが学校側が意図的に(のこ)した『スポット』なのだろう。

 同じような装置がこの島の至る所に散在しているのだ。今回のように分かりやすい所や、中には、最初から知っていないと到達出来ない場所にもあるだろう。

 画面を覗くと、そこには『Aクラス─7時間44分─』という文字がでかでかと表示されていた。

 このカウントダウンがゼロになるまでAクラス以外のクラスはこの洞窟を利用することが出来ず、許可なく利用した場合は50ポイントのペナルティが与えられるのだ。

 

「洞窟の場合……条件に触れる行動は何だ……?」

 

 洞窟の利点。

 真っ先に思い浮かぶのは雨風から体を守ることが出来ることか。一定時間の経過と視るべきか? 

 そうであるにせよ、そうではないにせよ、どちらにしてもこれ以上の長居は必要ないだろう。

 収穫は充分にあった。

 外に出て高円寺と合流する。

 

「取り敢えず、一回浜辺に戻るか」

 

「オーケー、綾小路ボーイ! と言いたいところだがねえ。私はこれで失礼するよ」

 

「……理由を聞いても?」

 

「なに、どうせ明日にはここを離れているんだ。その前に雄大な自然を散歩したいと思ってねえ。カメラがないのが残念だが、いやしかし、私を上手く撮ってくれるカメラマンが居ないのだから仕方がないか」

 

 と、彼は少し残念そうに呟いた。

 いつもならうっわー、流石だわー! と呆れているところだが、短い時間とはいえ高円寺には世話になった。

 

「佐倉って、知っているか?」

 

「ふふ、巨乳ガールのことかい?」

 

「……」

 

 絶句してしまったオレは悪くない。

 いやまあ、確かに佐倉は巨乳に該当する胸の持ち主だ。

 しかし高円寺でもそういった観点でも人を視るのだと思うと……、こう、やっぱり彼も人間なんだなと親近感が湧くな。

 

「その佐倉なんだけど、写真を撮るのが趣味なんだ。今度撮ってもらったらどうだ?」

 

「ほう? それは良いことを聞いたねえ。巨乳ガールではなく、カメラガールだったとは!」

 

 巨乳ガールってのもなかなかにアレな渾名だと思うけれど、カメラガールってのもなかなかにアレな渾名(あだな)だな……。

 

「では綾小路ボーイ、さらばだ!」

 

「点呼前には合流しろよー……」

 

 念の為忠告したが、はたして、野生児に届いたかは分からなかった。

 願わくば集まって貰いたいものだ。

 高円寺の高らかな笑い声が森に木霊し、それもやがて遠くなっていく。何も知らない人間からしたらかなりのホラーものだ。

 オレは恐怖で震える生徒に合掌してから、スタート地点である浜辺に向かうのだった。

 

 

 

§

 

 

 

 八月。

 夏。

 暑い。

 灼熱の光を遮るものが何も無い砂浜はそれはもう地獄だった。

 朦朧(もうろう)とする意識の最中、オレは億劫になりながらも辺りを見渡す。しかし、見えるものと言ったら海と、砂と、森だけで、Dクラスの生徒は目をどんなに右往左往させても視界には映らない。

 現在時刻が午後の四時を過ぎているこの時間帯、適度な休憩と適度な水分補給をしなければ熱中症になってしまうだろう。

 おかしい、オレの聞き違いでなければこの地には女子たち──待機組が居るはずなのだが。

 

「……誰も居ない」

 

 独り寂しく呟くが、反応は何も無かった。

 いやいやいや! と激しく頭を振り、必死に脳を回転させる。

 が、出される結論はこれしかない。

 

「──置いていかれたか……」

 

「いやいや、居るからね!?」

 

 突如として焦ったような声が出された。

 砂浜……ではない。森の方からだった。木々の隙間からひょっこりと顔が出される。

 

「やっほー、綾小路くん」

 

「……櫛田か」

 

「わあ、驚いてる驚いてる。綾小路くんのその表情はなかなかにレアだね」

 

 くすくすと笑いながら櫛田は森の中から出てくる……かと思いきや、こいこいと手招きしてきた。

 訝しながら近付くと、彼女は数歩先を歩き始める。

 

「実はね、綾小路くんが来る前に須藤くんのチームが『スポット』を見付けたんだ」

 

「健のチームって言うと……」

 

 探索隊が正式に組まれる前にオレと高円寺は作戦を開始したため、クラスの行動はよく知らない。

 そこら辺を尋ねると彼女は詳細に語ってくれた。

 

「須藤くん、平田くん、池くんで構成されたチームと……、あとはまあ、適当に作ったかな。ほら、うちのクラスって身体能力に特別秀でた生徒は少ないじゃない? 一位は高円寺くん、二位は須藤くん、三位は平田くんだよね」

 

「そうだな」

 

 友人としては健が首位に輝くことを祈っている。とはいえ、一つだけ気になる点がある。

 

「身体能力が高い健と洋介が組むのは分かる。その方が活動範囲も広まるしな。けどだったら、どうして池が?」

 

 池はコミュニケーション能力は素晴らしいが、それ以外の観点では良くて平均だろう。そんな彼がどうして? 

 

「ああ、それはね。池くん、キャンプ経験者なんだってさ。それを聞いた平田くんが是非とも経験者の知恵を貸して欲しいって頼んだの」

 

「なるほどなあ……。クラスに経験者が居るってのはラッキーだったな」

 

「うん、そうだね。私も感心しちゃった。このままいけば池くん、女の子たちにモテそうだよね。ここ最近は落ち着いているしさ、さっきのAクラスとの対決の時も、男らしい! って意見がそこそこ出ていたし」

 

 良かったな池。

 お前にはもしかしたらモテ期が到来するかもしれないぞ。まあ、想い人からは好意を持たれることはなさそうだが。

 せっかく格好良いところを見せたのにな……と、オレが池に同情していると、櫛田は口調を変えずに楽しそうに言う。

 

「──けどさ、私が驚いたのは綾小路くんが面倒事に自分から関わったことだよ。私たちDクラスの生徒は他のことに気を取られすぎたから、不思議に思っていない。けど、他のクラスの生徒はどうかな? 私から言わせて貰えば、綾小路くんはとても『不気味』だよ」

 

 顔を振り向かせ、櫛田は面白いねと笑った。

 自分が所属するDクラスでオレの本性を意図的に垣間見せているのは洋介、そして目の前に居る少女だけだ。とはいえ、高円寺もこれに入ったわけだが。まぁ害はないから問題ない。

 兎にも角にも、先の一件の真相を知る数少ない人物である櫛田が、オレに疑惑の目を向けるのは当然だろう。

 いつしかオレたちは立ち止まり互いの顔を凝視していた。

 近くの木の幹に寄り掛かり長考する。

 

 ──さて、どうしたもんか。

 

 オレが目指している『結末』に、櫛田桔梗(ききょう)という存在は必要だ。最初は堀北鈴音(すずね)を使うことを視野に入れていたが……現段階では彼女の方が利用価値が高い。

 

「下手に探られると困るから先に言っておく」

 

 そう言うと、櫛田は驚いた様子を見せた。

 どうやらオレが答えるとは想定していなかったらしい。

 何かあるんじゃないの? そんな意味合いが込められた訝しげの視線が送られる。

 

「これは洋介と高円寺の二人にしか言ってないことだ」

 

 Dクラス内では、という言葉は敢えて呑み込む。

 

「平田くんは分かるけど……何で高円寺くん?」

 

「さあ……これについては成り行きとしか言えないな」

 

「ふぅん」

 

 それで? と無言で問われる。

 オレはすらすらと迷うことなく、目的の一端を語った。

 

「オレは今回の特別試験で、Dクラスの順位を一位とまでは流石にいかないが、最低でも二位以上にさせる予定だ」

 




2019年7月22日。
追加ルール:Ⅱについてですが、説明の仕方に問題がありました。ご迷惑をお掛けして申し訳ございません。

氏名 池寛治
クラス 一年D組
部活動 無所属
誕生日 六月十六日

─評価─

学力 D-
知性 D
判断力 D
身体能力 C-
協調性 B-

─面接官からのコメント─

学力や身体能力面といった点に於いては、特に秀でた部分は見られない。良くて平均である。
筆記試験でも成績は悪かった。
しかし、面接になると評価を変えざるを得ないだろう。採点では上位十五パーセント、配属されるDクラス内ではトップに近い成績を残しみせた。
彼の最大の長所はコミュニケーション能力である。
時折、面接官に対して敬語を使わない場面が見られたが、試験時は中学三年生なので仕方がない側面もあると判断する。
とても楽しそうに話す姿には、ついつい、面接官も試験であることを忘れてしまった程である。
もし彼が勉学や運動、何らかのことに目覚めたら、Dクラスの中核を担う人物となる……かもしれない。

─担任からのコメント─

入学当初の四月は、授業中やHR中であるのにも関わらず『サエちゃんセンセー』と呼んできたので苛立ちましたが、現在は良き『先生』を見付けたおかげか、改善されつつあります。本当に良かったです。
また期末試験では現代文で高得点を叩き出し、クラスでトップファイブになりました。
ここ最近は山内春樹、沖谷京介らと遊んでいるようです。



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無人島試験──一日目《拠点選び》

 

 櫛田(くしだ)の案内の下、オレは(けん)のチームが見付けたという『スポット』に辿り着いた。

 端的に述べると、そこは『川』だった。

 

「じゃあ、私の案内は終わり!」

 

「ああ、ありがとう櫛田」

 

「──清隆(きよたか)くん! 良かった、無事だったんだね!」

 

 洋介が真っ先にオレの到着に気付き、やや駆け足で近付いてくる。

 

「オレが最後か?」

 

「いや、高円寺(こうえんじ)くんも居ないけど……はぐれちゃったのかい?」

 

「はぐれたと言うべきか……あいつ曰く、散歩らしい。まあ、あいつは大丈夫だと思うぞ」

 

「そうだね。高円寺くんならどこの環境でも生きていけそうだよ」

 

 オレは洋介と話しながら辺りを見渡した。

 まず目が引かれるのは大岩。不自然なくらいに大きい。遠目から見ると、中をくり抜いて、その空いたスペースに装置が埋め込まれているようだった。

 Aクラスが占有している洞窟内にあったものと同種のものだろう。

 

「ここをベースキャンプにするのか?」

 

「うん、そのつもりだよ。清隆くんと高円寺くんの意思を聞かないで決めたのは悪かったかな。ごめん」

 

「いや、オレもお前だったら同じ判断をしていただろうから全然良いぞ」

 

 むしろ褒め称えるべきだろう。

 水源を確保出来るか否かによって、この無人島生活の質が大きく変わってくる。

 オレは改めて川を観察した。

 幅10メートルはあるだろうか。水面を覗くと、現代では考えられない程に綺麗(きれい)()んでいる。周りは深い森と砂利道に囲まれていて、恐らく学校側が意図的にこの空間を作ったのだろう。

 下流は随分と先まで続いているようで、もしかしたら海にまで繋がってるのかもしれない。そうだとしたら一種の『道』として砂浜までいけそうなものだが、そうは問屋が卸さないようで、道の高低差がかなり激しそうだ。上流部分は特に険しそうで、オレたちが立っている場所だけが平地となっている。

 

「ここをベースキャンプにすることはさっきも言ったけど賛成だ。占有はするのか?」

 

「僕としては占有すべきだと思っているよ」

 

 普段は中立的な立場を取っている洋介にしては、確固たる意思が感じられる言葉だった。

 自分でも思っているのか、彼は一度苦笑いする。

 

「もちろん、これには理由があるんだ。付いて来て」

 

 オレは洋介に連れられて川辺を歩いた。

 高低差がまだ少ない下流を選ぶ判断は流石だな。

 空き地はすぐに無くなり、すぐに森に入る。

 

「あれを見て欲しい。僕が何を言いたいのか分かると思うよ」

 

「あれは……立て看板か?」

 

『川』を利用出来そうな場所には、木製の立て看板が建てられていた。

 目を細めて確認すると、そこには『この川は占有したクラスだけが利用出来ます。それ以外の者が利用したい場合、占有したクラスの許可を得て下さい』という文字が書かれていた。

 

「なるほど……、学校側も上手く考えているか……」

 

「『川』のように占有スペースが大きいとこうなるんだろうね。(いけ)くんがさっき言っていたんだけど、この川の水は飲めそうなんだ。もちろん、彼の言葉をそのまま鵜呑(うの)みするわけにはいかない。言い方は悪いけど、誰かが実験台になる必要がある。けど、もし上手くいけばポイントの削減に繋がるよね」

 

「それに『川』を占有すれば、必然と他のクラスは他の水源を確保する必要があるからな」

 

 それなら占有した方が良いだろう。

 流石に『スポット』を一つも占有しないのは愚行だ。何もこれは、ボーナスポイントを得ることが出来るから述べているわけではない。

『スポット』を占有して初めて、『スポット』は効果を発揮するからだ。今回の場合は水源の確保であり、恐らく、『スポット』は何らかの利益を(もたら)すのだろう。

 

「──清隆くん。僕は()(じゅく)したと、今のDクラスを視て思うんだ。()()()()()()()()

 

「分かった。いつかの約束を守るとするよ」

 

「お互い、苦労するだろうね」

 

「そうでもないさ。一人なら辛く思うだろうけど、二人なら半分に出来る」

 

 キャラじゃないことは分かっていた。その上でオレたちは互いの拳をごつんとぶつけ合った。

 洋介と一緒に元の場所に戻ると、そこではオレたちと高円寺を除く三十七人の生徒が待っていた。

 

「皆、聞いて欲しい。僕はここをベースキャンプ、なお且つ、すぐそこにある『スポット』を占有したいと考えている。反対の人は居るかな?」

 

 誰も反対意見を口にしなかった。

 洋介は満足そうに頷き、先導者として、次の指示を素早く出す。

 

「占有するにあたって、僕たちはリーダーを選出する必要がある。じゃないと、占有するために必要なキーカードを貰えないからね」

 

平田(ひらた)くんは誰が良いと思ってるの?」

 

 軽井沢(かるいざわ)が皆の心を代弁して尋ねるが、彼は答えることはしなかった。

 

「僕から話をしておいてなんだけど、リーダーを決めるのは後にしたいと考えているんだ。まずは仮設テントや仮設トイレ、そして付随(ふずい)のワンタッチテントを組み立てる必要がある。余裕を持ってから誰が適任か議論しよう。どうかな?」

 

「あたしは賛成ー」

 

「俺もだぜ!」

 

「僕も」

 

「私も」

 

 そうして、オレたちDクラスはまず先に住処を作ることになった。

 洋介の支持率は凄まじいものだと、オレは舌を巻くばかりだ。

 仮設トイレ、ワンタッチテントはすぐに組み立てられた。トイレは20ポイントを支払うことで業者が指示した場所に用意してくれたし、ワンタッチテントも比較的簡単に組むことが出来た。

 問題は仮設テントで、これが中々に難しいものだった。一応、取扱説明書(とりあつかいせつめいしょ)茶柱(ちゃばしら)から渡されたが、かと言って、実際に行うとなると苦戦は必至だ。

 しかしここで一人の生徒が活躍する。その人物はふむふむと頷きながら説明書に目を通すや否や、

 

「うん、これなら何とかなるな!」

 

 と言うのだった。

 

「池くん、それは本当かい!?」

 

「嘘は言わないぜ。取り敢えず、川辺(かわべ)近くは絶対に駄目だぞ!」

 

 Dクラスで唯一のキャンプ経験者、池寛治(かんじ)

 彼の指導により、オレたちは仮設テントを組み立てる目処がたった。

 これ程までに彼が頼もしいと思った日はないだろう。男女問わずして尊敬の眼差しが向けられる。

 篠原(しのはら)が不思議そうに尋ねる。

 

「どうして川辺は駄目なの?」

 

「水がいつ来るか分からないからな。雨が降ったら水位が上昇するだろ? だから川端にテントを置いたら危ないんだ」

 

 真面目な顔で池は語る。

 多くの生徒が感心している中、彼は気付いていないのか追加の注意事項を口にした。

 

「木の下がベストかな、やっぱりさ。水捌(みずは)けも良いし、雨風を凌げるしさ」

 

 迷うことなくすらすらと出される言葉には説得力があった。

 今回の特別試験、平田洋介以上に池寛治が活躍することは間違いないだろう。

 

京介(きょうすけ)、手伝ってくれよ」

 

「う、うん! どうやるの、寛治くん?」

 

「まずは──」

 

 てきぱきと仮設テントが組み立てられていき、数分後には、見事な仮の住まいが作られた。

 これなら余程のことがない限り壊れることはないだろう。

 支給された仮設テントは八人用のものが二つ分。当然、クラスの四十人全員が利用出来るわけではない。

 強引に詰めたとしても、精々、二十人が限界だろう。

 ここで真っ先に意見を述べたのは篠原の傲慢チーム(仮称)だった。

 

「私たち女子が使うべきだと思う!」

 

 同調するようにして、佐藤(さとう)前園(まえぞの)といった生徒がリーダーの背後に控える。

 軽井沢の女王チーム(仮称)や、それ以下の独立チーム(仮称)は静観の構えを取っていた。

 

「篠原さんたちの気持ちも分かるよ。けどやっぱり、ここは皆で話し合いをした方が良いと思う。場合によっては、僕たち男子が使うことも視野に入れた方が良いんじゃないかな。例えば、片方は女子、もう片方は男子みたいに。その方が禍根を残さないと思うんだ」

 

「平田くん!?」

 

「……彼、平和主義をやめたのかしら。いつもならここは、無駄な諍いは回避するはずよね。あるいは、言葉巧みに誘導するはず」

 

 先導者の肯定を得られなかった篠原たちが面食らう中、いつの間に居たのか、堀北(ほりきた)が、そう、囁いてきた。

 確かに見方によってはそう映るかもしれない。

 ()()()()

 洋介が何をしようとしているのか、彼の真意を知っているのはオレだけだ。

 オレは堀北の言葉を返すことせず、無言で彼女から離れていった。向かう先は先導者の隣。

 

「オレも洋介の意見に賛成だな」

 

「はあ? ここ最近、綾小路くんさあ、調子乗ってない?」

 

 クラスの総意なのだろうか。

 オレの友人以外の生徒が鋭い眼差しを向けてきた。

 特に篠原の圧が凄まじい。誰彼構わず自分の意見を言えるところは彼女の美徳(びとく)だが、だからと言って、もう少し時と場所を選んで欲しいものだ。

 

「あのな……オレたちは一週間集団生活を送るんだぞ。お前の気持ちは分かる。けど、もうちょっと考えて発言した方が良いんじゃないか」

 

「だから! 何で協調性の欠片もない綾小路くんにそんなことを言われないといけないの! もう良い、この際だから聞く! 『暴力事件』で綾小路くん、何をしたの!?」

 

「何をした、とは?」

 

 肩を(すく)めてみせると、篠原の怒りは頂点に達したようだった。

 

「馬鹿にしてるの!?」

 

 憤怒で顔を染める彼女に対して、オレは多分、無表情で彼女を眺めているのだろう。

 そのまま数秒過ぎた。

 篠原の怒りは収まったようだった。いや、違う。彼女の瞳の奥に宿るのは微かな恐怖だった。

 それでもなお睨み付けてくる胆力(たんりょく)は流石と言えるだろう。

 膠着した言い争い。

 いつしか、嫌な空気が流れ始めた。

 しかし突如として断ち切られることになる。

 

「清隆、落ち着けよ」

 

「痛っ……!」

 

 背後に立った健が拳骨を頭に落としてきたのだ。直前に気配は感じていたけれど、殺意や害意(がいい)といった嫌なものじゃなかったため、体が反応しなかった。

 鈍い痛みが徐々に伝わっていく。

 堪らずに無言で睨んでしまうと、しかし、彼はむしろ呆れたような顔で。

 

「らしくないぜ清隆。普段のお前はもっと冷静だろ」

 

「……」

 

「篠原や平田、そしてお前の意見は分かるけどよ。こんな風に対立するなら、いっそのこと、テントを全員分用意すれば良いじゃねえか。だろ?」

 

 ちょうどマニュアルを所持していた軽井沢に、多くの視線が寄せられる。

 

「えっと……仮設テントは一つにつき10ポイントの消費だって。二つは欲しいから、20ポイントの損失になるのかな」

 

「ちょっと待ってくれ! それは容認しかねる。初日だけで40ポイントも使うのか!?」

 

 Aクラス行きを日頃から目指している幸村(ゆきむら)が、少しでもポイントを残すために訴えたのは必然と言えるだろう。

 いや、彼だけじゃない。

 ポイント保持派は実際のところかなり居るようで、その中には女子生徒の姿もあった。男子だったら山内(やまうち)本堂(ほんどう)外村(はかせ)たち。女子だったら(もり)長谷部(はせべ)、そして松下(まつした)たちだ。

 静寂が場を支配しようとした──その時だった。

 

「なら、折衷案(せっちゅうあん)を出すしかないでしょう」

 

 一声(いっせい)を放ったのは堀北だった。

 いつもの無表情に若干の苛立ちを混ぜながら、彼女は言った。

 

「篠原さんたちは女子がテントを独占したいと主張している。平田くんと綾小路くんは腰を据えて話し合うべきだと主張している。須藤(すどう)くんは、全員分のテントを用意すべきだと主張している。幸村くんや山内くんたちはポイントの消費を控えるべきだと主張している。軽井沢さんや櫛田さん、そして私はどちらでも良いと考えている」

 

 堀北はまず、誰が何を望んでいるのかを浮き彫りにしていった。

 彼女は近くに散らかっていた木の枝を一本摑んで、地面に四つの構図を書いていく。

 とても分かり易かったのは、ひとえに、彼女の能力が総じて高いからだと言えるだろう。

 

「さっきの綾小路くんの言葉じゃないけれど、全員が全員、自分の我儘(わがまま)を言っていたら切りがない。なら、どこかで線引きするしかないでしょう」

 

「堀北さんは、どこでするべきだと思っているのかな?」

 

 櫛田の問いに、講演者は迷うことなく即答した。

 

「簡単な話よ。つまり、今日だけは各自の判断に任せれば良い。テントで寝泊まりしたい人はテントを。野宿したい人は野宿をすれば良い」

 

「「「……!?」」」

 

「今のDクラスには必要なことだと思うわ」

 

 彼女が言ったことは『自由行動』。

 特別試験という未知な出来事に直面しているのにも拘らず、たかがこれしきのことで争っているDクラス。

 足並みを揃える必要があるのは言わずもがなだろう。

 しかし現状のDクラスではまだまだ難しい。

 それ故の、『自由行動』。この特別試験で何が求められているのかを、自分で考える必要があると堀北は言っているのだ。

 

「だけど堀北さん、それ、正気? 仮に男女が野宿するとしてさ……かなり危ないんじゃないの?」

 

 言外に、襲われるんじゃないの? と言っている。

 

「そこは祈るしかないわね。少なくとも、野宿にはそれだけの危険性が伴う。男だろうと女だろうとね」

 

「それは、そうかもしれないけどさ……」

 

「我儘を言って、そして実行して許されるのは子どもまで。だけど私たちはもう高校生なのよ。良い加減、自分の行動には責任を持つべきじゃないかしら」

 

 堀北の覇気は凄まじかった。

 それぞれの派閥の中核を担っている人物たちは、ただただ彼女の気迫に恐れ慄く。

 生徒たちが後退る中、オレと洋介は悟られない程度に笑みを交わした。

 

 ──第一関門、突破だな。

 

 結局のところ、仮設テントは全員分用意することにした。

 野宿の危険性に気付いたというのもあるが、何よりも、堀北の言葉によって頭が冷えたからだろう。

 表のMVPが堀北鈴音(すずね)なら、裏のMVPは須藤健だ。

 不良少年から熱血少年へと進化を遂げた彼なのだが、先日の『暴力事件』で学んだのだろうか、感情的になるのを抑えている(ふし)が見られる。既に彼は、Dクラスの立派な『財産』と言えるだろう。個人的にはもうひと皮剥けたら最高だな。

 

「茶柱先生、仮設テントを二つお願いします」

 

「分かった。発送には時間が掛かるから、その点だけは了承してくれ」

 

 これで火種はまた一つ鎮圧された……と、言いたいところだが。

 まだ一つだけ問題はある。しかも無視することは出来ない、非常に重要な案件だ。

 生徒たちが小さな円を幾重にも重ね、会議を開くことになった。議題は一つだけ。

 

「──誰をリーダーにしたら良いと思う?」

 

 先導者の問い掛けに、すぐに答えられる者は居なかった。

 まず大前提として、AからDクラス、各クラスで一人、リーダーを選出する必要がある。これは強制的なものであり、例外はないのだという。

 リーダーの存在価値はとても高い。

『スポット』を占有するためには専用のキーカードが必要であり、使用権限はリーダーだけに与えられている。もし占有しなければ、オレたちが暫定的ながらも占有している『川』の水を利用することが出来なくなる。さらには、ボーナスポイントの追加も無くなってしまう。

 せっかく水源を得たのだ、これを活かさない手はないだろう。

 

「まず確認すると、『スポット』の占有権は八時間で切れてしまう。今は午後五時三十二分。仮に六時からここを占有するとしよう。その場合、明日の午前二時に効果は切れてしまう。流石に真夜中だから心配はないと思うけれど、確実に言えることは、『スポット』の更新をする時にリーダーが見られたら最悪だ」

 

『川』を挟んでいても、三百六十度森であることに変わりはない。

 いつ、誰が目を光らせているのかは分からない。

 今だってそうだ。

 オレたちは小さな円を何重にも重ねて、さらには、声を最低限のボリュームにして会議を開いているが、人外じみた聴覚の持ち主が居たら、呆気なく情報が露呈されてしまう。

 現にオレはつい数時間前、馬鹿みたいに視力が良い高円寺と行動を共にしていた。可能性がないとは言えないだろう。

 皆が押し黙る中、率先して手を挙げた人物が居た。

 

「私は平田くんが良いと思うけどなあ。……いや、先に言っておくけど、彼氏だから選んでるわけじゃないからね」

 

 と、軽井沢は己の求心力を余すことなく使い、言葉を続ける。

 

「まずだけどさ。リーダーは絶対にバレたらダメなわけじゃん。だって他のクラスに露呈したらマイナス50ポイント。しかも、占有で得たボーナスポイントも喪失しちゃう。だから、リーダーを守り抜くことは大前提なわけだよね」

 

 そうだよね? 無言で尋ねられ、皆は頷いた。

 軽井沢は安堵の息を一度吐いてから、けれど次の瞬間には真面目な顔になる。

 

「となると、リーダーを誰にするのかが焦点になるじゃん。そんなのはあたしでも分かるよ。この重役を全う出来る生徒が、このDクラスに何人居ると思う? あたしは、平田くんが一番だと思うな」

 

「ちょっ、ちょっと待ってくれよ! そりゃ、お前の言う通りだけどさ……けど平田だと露骨(ろこつ)すぎじゃないか?」

 

「それは……そうだけど。けど『灯台もと暗し』って言葉もあるくらいだし、ここは敢えて普段から目立っている平田くんをリーダーにするのも策じゃない?」

 

「お前……『灯台もと暗し』なんて言葉知ってたんだなあ……」

 

 池が感慨深そうにうんうんと何度も首を縦に振った。感心しているのだろうか。

 まあ、うん。その気持ちは分かる。軽井沢は学力、身体能力ともに微妙だからな。

 だけど軽井沢も、彼には言われたくないだろう。

 

「ハッ、これだから池くんは。たった一回、現代文のテストで良い点を獲ったからって自惚れているの? あー、ヤダヤダ」

 

 相対する池と言えば、珍しくもかなり本気で怒っているようだった。額には青筋が浮かび、心做しか、体全体が震えているように窺えた。

 

「い、言ってくれるじゃん。だったら二学期の中間テスト、勝負するか?」

 

「ふ、ふーん。良いよ、やってやろうじゃない。まあ、あたしには平田くんがいるし? 勝利は確実よね」

 

「はあ? 確かに平田は頭良いけど、こっちには堀北先生がいるんだぜ? 俺が勝つに決まっているだろ」

 

「ハッ」

 

「ヘッ」

 

「「ぐぬぬぬ……!」」

 

 両者睨み合う。

 軽井沢は洋介の、池は堀北の絶対性を信じているようだった。

 これにはお互いの先生も困ってしまうだろう。

 洋介は苦笑いしているし、堀北は自分の教え子の暴走に呆れているのかこめかみに手を当てている。

 話が変に脱線してしまうのはDクラスの運命なのだろうか。

 

「──と、兎に角!」

 

 大声を出して間に入る櫛田に、さしもの軽井沢と池も退くしかなかった。

 とはいえ、彼女越しに睨んではいるのだが。

 櫛田はこほんと可愛らしく咳払いをしてから。

 

「軽井沢さんと寛治くんが言っていることはどっちも正しいと思う。その上で、私なりに考えてみたんだけど……私は、堀北さんが適任だと思うんだ。平田くんだとやっぱり目立ち過ぎちゃう。軽井沢さんも同じだよね。けど、責任感がある人がなるべきなのも事実だよね。だから私は堀北鈴音さんを推薦します」

 

 Dクラス内では地位を築きつつあるが、堀北はまだそこまでの域には突入していない。他クラスの生徒もノーマーク、とは言わないがそれ程注目していないだろう、ということを櫛田は言っているだろう。

 堀北は、特別、これと言った反応を返すことはしなかった。いや違う。よくよく注視すれば、彼女が驚いているのが窺えた。その証拠に目が普段よりも見開かれている。

 自分が嫌われていると分かっている相手から推挙されるとは思っていなかった、ということだろう。

 しかし驚きは一瞬、冷静さを取り戻した彼女は周りの反応を待つことにするようだった。

 

「ぼ、僕は賛成かな……。堀北先生なら、大丈夫だと思う……」

 

 小さな声で沖谷が賛成の意を表明する。

 

「「俺も俺も!」」

 

 と、追従したのは池と山内だ。

 健も「堀北なら安心だしな!」と想い人を後押しする。

 彼ら四人は堀北鈴音個人の永続的な『仲間』だと判断して構わないだろう。

 これは彼女の行動の成果と言える。一学期の間、彼女は赤点者を出さないためにクラスに貢献してきた。蒔いた種は芽吹き始めている、ということだろう。

 クラスメイトの反応は、(おおむ)ね好感触だった。

 実際のところ、Dクラスでリーダーの役目を全う出来る生徒はオレが考える限りでは四人。

 平田洋介。

 軽井沢(けい)

 櫛田桔梗(ききょう)

 堀北鈴音。

 上記四人になら任せることが出来る。

 とはいえ、軽井沢の場合は些か不安が残るが。しかし持ち前のカリスマ性によって充分に補えるだろう。

 

「僕も賛成かな。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「「「……は?」」」

 

 それは実に衝撃的な言葉だった。

 これまで、先導者としてクラスをあるべき姿に導いてきた男の、思いもしない一言。それに皆呆ける。

 

「ひ、平田くん……!? それって──」

 

 どういうことだと交際相手に尋ねられ、洋介は頬を右手で()きながら困ったように笑う。

 やがて、彼は自身の胸中を語った。

 

「誤解をしないで欲しいけど、何も、無責任にさっきの言葉を言ったわけじゃないんだ。まずだけど今回の特別試験、これはとてもじゃないけど、試験中の一週間じゃ全貌は摑めない。仮に知ろうとしたらそれなりに動く必要がある。それはつまり、仮に僕がリーダーになったらリスクを伴うよね。そうじゃなくても、恐らく、僕には監視の目が付くと思う。三百六十度森なんだ。気配でも消されたらおしまいだよ。だから僕はリーダーにはなれないんだ」

 

 再三述べるが、これまでのDクラスは洋介をはじめとした一点集中型だった。

 良くも悪くも平田洋介を中心にしていた、ということ。

 堀北は暫くの間考えていたが、やがて、おもむろに頷いた。

 

「──分かった。私が引き受ける」

 

 リーダーの力強い言葉に生徒たちは歓声を上げた。

 

 ──第二関門、突破だな。

 

 オレは顔が緩みそうになるのを意志力で堪えた。

 洋介が茶柱にリーダーが選出されたことを告げ、キーカードを貰い受けて来る。

 これで『スポット』を占有することが可能になったわけだ。

 キーカードを託された堀北は早速リーダーの責務を果たすために行動を開始する。

 認証装置が埋め込まれている大岩に集まり、リーダーの正体がバレないようにするため輪になった。そこから念のために、全員がそれとない動きで装置に触れる。

 

 ──装置に触れるのはオーケーなんだな。

 

 遠目から見守っている茶柱も指摘はしなかったから、触れるだけなら問題ないのだろう。

 程なくして、『Dクラス ─7時間59分─』という文字が表示された。

 現在時刻は午後五時四十八分。

 占有権は八時間で切れてしまうため、ボーナスポイントを円滑に稼ぐためには、明日の午前一時四十八分前には起きている必要がある。

 しかし現実的に考えて、慣れない環境での慣れない行動には途轍もない負担が強いられるものだ。特に今の堀北なら、常人の二倍は厳しいだろう。

 まあ、本人は決して認めないだろうし、先程の彼女の言葉を用いるのならば、オレたちは高校生。何があっても自己責任だ。

 兎にも角にも、これで最低限の生活基盤は整ったと言えるだろう──

 

「これで何とか生き残れそうか……」

 

 独り言を呟くと、たまたま聞いたのか、池が何を言っているんだお前とばかりに。

 

「何言ってんだよ綾小路! まだまだやるべきことは沢山あるんだぜ?」

 

「そ、そうなのか……?」

 

「まずだけど火が必要だろ。あとは夕ご飯も用意しないといけないし……まあ、水は何とかなるかもしれないけどなあ」

 

「か、寛治くん。もしかして……川の水を飲む気?」

 

「は? マジかよ? これ、飲めるのかよ?」

 

 沖谷と山内も会話に加わる。

 オレも彼らと同意見だ。

 先程洋介から話を聞かされた時は困惑したが、改めて考えると躊躇してしまう。

 上から水面を覗く限りではとても綺麗だが、飲めるかどうかと聞かれたら首を傾げてしまう。

 衛生的にも心配だ。

 とはいえ、頭の中では心配は杞憂(きゆう)だと分かっている。ここが本当の無人島なら不安しか湧かないが、この島は仮にも学校……ひいては、国が管理しているのだ。

 もしこれで体調が著しく悪化したり、病院に連行されたりしたら盛大に叩かれるだろう。

 しかしどうしても躊躇してしまう。

『未知』の出来事に二の足を踏んでしまうのは仕方がないことだ。

 その旨を告げると、池は「そっか……」と残念そうに嘆いてから。

 

「けど言われてみればそうだよな……。悪い、配慮が足りてなかったぜ……」

 

「どうしたの?」

 

 そう言って来たのは松下だ。

 いつもは篠原や佐藤と共に行動を共にしているのに、珍しく一人で居るらしい。

 

 ──いや、それは決め付けか……?

 

 思えば先程の仮設テントの増設についての討論の際、彼女はポイント保持派に立っていた。

 あの時はさして気にはならなかったが……。

 しかし今こうして一人で居るということは、篠原のグループには完全には属していないのかもしれない。

 

「川の水について相談していたんだ」

 

 オレが代表して答えると、松下は流水を一瞥した。

 

「断固反対とまでは流石にいかないけど、進んでは飲もうとはしないかな。やっぱり、衛生面を考えると──って、綾小路くん、何その顔」

 

「いや、意外に考えてくれるんだなと思って。てっきり、頭ごなしに否定されると思っていたからな」

 

「「「それな!」」」

 

 この場にいる男子一同が激しく頭を縦に振った。

 松下は不服そうに長い栗色の髪、その前髪を弄りながら。

 

「私は篠原さんじゃないんだからさ」

 

 と、友人に毒を吐いた。その言葉にオレたちは頬を引き攣らせてしまう。

 

「お前たちは友達だよな……?」

 

「そりゃあ友達だよ。けどだからと言って、友達だから全てに賛同するわけじゃない」

 

「何話してんの?」

 

 友人である篠原が数人の手下を引き連れて来た。

 刹那、松下は不自然なくらいに綺麗な笑顔を浮かべ、彼女たちに説明した。

 最後まで聞き終えた篠原の第一声は、

 

「はあ? 川の水飲むとか……あんた正気?」

 

 という、罵倒だった。

 平生の池なら何かしら言い返す場面だったが、松下の予言が的中しているため、口を半開きにすることしか出来なかった。

 やがて、彼は「わ、悪い。軽はずみだったよ」と言い残してから、沖谷と山内を引き連れて離れていく。

 

「女子(こえ)ぇ……!」

 

「あいつら、腹の中じゃあんな風に思っているのかよ。怖っ! 俺ちょっと、これからは安易な発言はしないようにするわ」

 

「俺も……! 天使は桔梗ちゃんだけだな……」

 

「あははは……、まあ、うん。気持ちは分かるかなあ……」

 

 ひそひそと囁きながら撤退する彼らを、篠原たち女子生徒は不思議そうな顔で見送った。

 試しに松下に目線を送れば、口パクで『ほら、私が言った通りでしょ?』と勝ち誇ったように薄く笑った。

 これまで彼女との接点はあまりなかった。精々が勉強会で、分からないところを教え合ったくらい。

 しかしこの特別試験、一週間クラスメイトと一緒に過ごすことによって、彼らの思わぬ一面を見ることが出来るのかもしれない。

 篠原や松下たちが離れていくのと同時に、今度は櫛田がやって来た。

 

「綾小路くんはあっちを手伝わなくて良いの?」

 

「あっちって?」

 

「ほら、あれだよ」

 

 彼女が指さした場所では、男子生徒が一致団結して仮設テントを組み立てていた。

 女子の分を先程組み立てたおかげか、ぎこちなさは多少残っているものの、洋介と池が上手く指示を出しているため、あと数分もすれば配置完了だろう。

 健が率先して重たい部品を持って組み立てに貢献しているのがとても印象的な光景だ。

 

「オレは……そうだな。木の枝でも集めてこようと思う」

 

()()でもするつもりなんだ?」

 

「どのみち火はあった方が良いだろう。支給された懐中電灯はたった二つだ。夜になったらかなり苦労するだろうしな」

 

「考えているんだねえ……。けどごめんね綾小路くん。手伝いたいのは山々なんだけど、私は今から食料調達隊隊長としての責務があるから無理かな」

 

 櫛田は申し訳なさそうに両手を合わせる。

 オレは手伝って欲しいとは一言も言ってないのだが……。いや、これは傲慢な考え方か。

 

 ──食料調達隊隊長って何だろう……。

 

 素朴にそう思ったけれど……聞くのはやめておいた。名前からして意味は分かるし、ここは彼女の活躍を期待するとしよう。

 

「もう六時だから気を付けるんだぞ」

 

「あはは……綾小路くん、その言い方だと私のお父さんみたいだね。大丈夫だよ、ここら辺を軽く散策するだけだからさ」

 

「そうか」

 

「うん。それより、綾小路くんも気を付けるんだよ? 一人では行動しないこと。夜の森は危ないって、さっき、()()()が言っていたから尚更だよ」

 

 分かったとばかりに深く頷くと、櫛田は満足そうに一度笑った。そして彼女が指揮する食料調達隊のメンバーの元に向かっていく。

 さて、オレも動くとするか。

 何もしてない人間というのは目立つものだ。ぼーっとしていたら誰かに怒られてしまう。

 適当な枝を探すにしても、まずは櫛田の言い付けを守らなくてはならないだろう。

 誰か暇そうな奴は居ないかなあ……と探していると、堀北と目が合った。

 一応、声を掛けてみるとするか。

 

「森の中に入ろうと思っているんだが……一緒にどうだ?」

 

「残念だけれど、私は動けないわよ。クラス単位での行動なら兎も角、少人数でのそれは難しいわ」

 

「……悪い、考えが足りなかった」

 

 堀北はリーダーだからな。

 不必要にベースキャンプから動くわけにはいかないのだろう。

 しかし随分と柔らかい物言いだな。

 てっきり一刀両断されると思っていたんだけどな……こいつも、良い意味で変わりつつある、ということか。

 

「けど綾小路くん、心配する必要はないわ」

 

「は? お前、何を言って……」

 

 堀北が何を言っているのか分からず、オレは戸惑ってしまった。

 彼女はそれ以上は何も言わず、オレに背を向けた。

 と、同時に──

 

「あ、綾小路くん!」

 

佐倉(さくら)とみーちゃんか。どうかしたか?」

 

「うぅん、綾小路くんが焚き火に使う材料を集めに行くって櫛田さんから聞いたから……」

 

 佐倉の言葉に、みーちゃんが言葉を続けて。

 

「手伝おうかなって思ったんです」

 

 ここでようやくオレは、堀北が言っていた意味が理解出来た。

 心の中で彼女に感謝を言う。

 

「じゃあ、頼めるか?」

 

「「うんっ」」

 

 佐倉とみーちゃんという心強い味方の協力を手に入れたオレは、二人と一緒にベースキャンプから移動を試みる。

 森の中に入ると、オレたちはただただ驚いた。

 この時間ともなると、太陽は沈みつつあるようで、赤い夕日の眩い光が森の中に射し込んできてとても幻想的だ。

 

「カメラがあればなあ……」

 

 佐倉が、そう、呟くのも納得出来るってものだ。

 みーちゃんもうっとりと吐息(といき)を零している。

 いつまでもこの光景を眺めていたい気持ちに駆られるけれど、逆に言えば、夜の訪れが早いとも言えるだろう。

 季節は夏のために日照時間は長いが、それでも、時間は限られている。

 

「じゃあ、適当に集めるか」

 

「どういうの集めたら良いのかな?」

 

「言われてみれば……、愛里(あいり)ちゃんの言う通りだよね」

 

 地面に顔を寄せてみれば、様々な木の枝だと思われるものが散らかっている。

 単純に大きいもの、小さいもの、太いもの、細いものと本当に様々だ。

 キャンプ経験がある池なら兎も角として、とてもではないがオレたちのは判別出来そうにない。

 

「一応、どれも平等に拾うか」

 

「「うん」」

 

 さてと──それじゃあ、頑張るとするか。

 一本一本丁寧に拾う。

 小説や漫画やアニメの登場人物(キャラクター)たちは普通にやっていたが、創作と現実だとぜんぜん違うな。

 木屑が手の皮を裂きそうで怖い。

 

「綾小路くんは夏休みの前半、どういう風に過ごしていたんですか?」

 

 みーちゃんが、そう、問い掛けてきた。

 この特別試験で長期休暇も折り返しになる。

 一ヵ月後の今頃は二学期の初日を終え、楽しかった―楽しむつもりでいる―夏休みを振り返っているんだろうな。

 

「そうだな……──初日は洋介とサッカーして、次の日は椎名(しいな)と買い物に行ったな。あとは日にちを跨いで健とバスケをやって、みーちゃんたちと遊んで……──まあ、それくらいだな」

 

「けっこう遊んだんですね」

 

「そうか?」

 

「前半でそれだけ遊べば充分だと思いますよ」

 

 比較対象がないからいまいち実感出来ないな。

 洋介や櫛田だったら毎日が予定で埋まっているんだろうな。他だったらBクラスの一之瀬(いちのせ)とか。

 まあ、他人(ひと)他人(ひと)であり、オレはオレだ。

 他ならないオレが満足出来ていればそれで良いか。

 想定外の出来事や邂逅もあったりしたが、今のところは充実していると言えるだろう。

 

「二人はどうだったんだ?」

 

 今度はオレが尋ねた。

 

「私は写真を撮る日々を過ごしてたかな。みーちゃんにも協力して貰って。改めて、ありがとうみーちゃん」

 

「ううん、お礼を言われることじゃないよ! また誘ってね」

 

「オレも、出来ることなら手伝うぞ」

 

「……うんっ! 本当にありがとう、二人とも!」

 

 佐倉は嬉しそうに微笑んだ。みーちゃんもつられて笑顔を浮かべた。本当に仲が良くなったな。

 オレは自分が抱えているもの、そして二人が持っているもの、その総数をざっくりとだが数えた。

 

「一度拠点に戻るか」

 

「そうだね。そろそろ日も暮れるだろうし……」

 

「わ、私も良いよっ」

 

 三人でベースキャンプに戻ると、そこでは合計四つの仮説テントが立派に立てられていた。

 男子生徒で二つ、女子生徒で二つのようで、それぞれが離れた場所にあるのは当然といえるだろう。

 立地条件も池の指示より満たされているようだ。

 櫛田率いる食料調達隊はまだ帰還していないのか、彼らの姿は見られない。

 

「おいおい綾小路、どこに行ってるのかと思ったら枝拾いしていたのかよ。誘ってくれたら一緒に行ったのにさ、水臭いぜ! 俺とお前の仲だろぅ?」

 

 背中をバシバシと叩き、山内がそう言ってきた。

 

 ──調子が良いことを言うなあ……。

 

 オレがこう思うのも仕方がないだろう。

 ここ最近彼とはあまり話していなかった為、お世辞にも仲が良いとは言えないだろう。精々が普通だ。

 胡乱気(うろんげ)な眼差しで彼を見るが、彼はオレの訴えには気付いていないようだ。

 何やらハイテンションでオレ──ではなく、佐倉とみーちゃん、特に佐倉をじっと見つめる。

 

「おいおい綾小路。女の子にこんな重たいものを持たせちゃダメだろ! 手伝うよ、佐倉!」

 

「……へ?」

 

「良いから良いから! ほら、(ワン)も!」

 

「……えっ、あの……!」

 

 そう言って、山内は二人分の荷物をやや強引に奪った。

 流石に二人分は重たいのか両手に収まらず数本落ちてしまう。

 佐倉とみーちゃんは戸惑い、オレにどういうこと? と無言で聞いてきた。だが、オレに山内の考えが分かるはずがない。

 首をふるふると横に振ったところで、彼は上機嫌で、

 

「ほら、行こうぜ綾小路! 焚き火をするならベースキャンプの中央部分が一番だ! 広場っぽいのを作ってたぜ!」

 

「あ、ああ……」

 

「二人とも、もし困ったことがあったら俺を遠慮なく頼ってくれよな! (おとこ)、山内春樹(はるき)! 必ずや馳せ参じるぜ!」

 

 ガッツポーズのつもりなのか、白い歯を見せて山内は笑った。

 

「「あっ……、うん……」」

 

 二人は引き()り笑いを浮かべ、尋常じゃない速度で女子用の仮設テントに向かっていった。

 放置していた自分のスクールバッグを置くという意味合いも兼ねているのだろうが、何よりも、山内から距離を取りたかったのではないだろうか。

 

「ふっ、俺もこれでリア充の仲間入りか……。綾小路もそう思うだろ?」

 

 全然思わない。

 しかしそれを言ったところで山内には効果がないだろう。

 何というか……自分の世界に入っている気がする。

 

「それより、どうして急にあんなことを?」

 

 拠点の中心部に向かう傍ら聞いてみると、彼は真面目な顔で言った。

 

「実はさ……俺、佐倉を狙おうと思っているんだ」

 

「……そうか」

 

「何だよ、もうちょっと驚いても良いだろ!」

 

 山内の無茶振りを適当にいなしながら、オレは胸中で「マジかよ……」と呟いていた。

 彼が佐倉愛里という女性を好いている、ということそのものにはさしたる驚愕はない。

 何故なら佐倉本人から度々ながらも相談を受けていたからだ。

 彼女曰く、「やけに山内くんから視線を感じるんだ……」とのこと。

 相談を受けたオレとみーちゃんは、何分、これまでの人生で交際経験がなかったために上手い助言は出来なかったけれど、精一杯彼女を応援した。

 彼女はつい数週間前にストーカー被害に遭ったばかりだ。

 山内が行き過ぎた好意をぶつけるとは思いたくないが、万が一があるか。

 一応は友人として釘を刺した方が良いだろう。

 

「お前が佐倉のことが好きなのは分かった。だけど、友人として言わせて貰うけど、彼女はとても臆病な性格だから、あまり強引にはアプローチしない方が良いと思う」

 

「さっすが、リア充は言うことが違うな!」

 

「……悪い。どうしてオレがリア充に分類されているのか聞いても?」

 

「そりゃあ、椎名ちゃんと付き合ってるからだよ! 羨ましいぜ綾小路! あんな美少女と交際出来るとか!」

 

 このやり取り何回目になるんだろうか。

 辟易としてしまうのは許して欲しい。

 まず事実として、オレと椎名は付き合っていない。

 オレたちの今の状態を表すなら、俗に言うなら、友達以上恋人未満の関係だと思う。

 その辺を告げると、山内は恐ろしい剣幕でオレを睨んだ。

 

「これだからリア充は! 何だよ、惚気(のろけ)かよ!」

 

「……いや、だから──もう良い……。それより質問良いか。どうして佐倉なんだ?」

 

 佐倉から話を聞いた時から気になっていたことだった。

 山内は池と同様に、櫛田が好きだったはずだ。

 脈があるかは兎も角として、いくら何でも、佐倉を狙う──つまり、アプローチするにしては突然すぎる。

 自分でも驚く程オレの声は真剣味を()びていた。

 どうやら自身で考えていた以上に、オレは佐倉のことを友人だと認識していたらしい。

 荷物を地面に下ろした後、オレたちは茶柱からマッチを受け取り、元の場所に戻った。

 彼はマッチ棒を一本取り出しながら言った。

 

「いやさあ……、見る目がなかったって反省しているんだぜ? けど佐倉は地味だったから埋もれていたんだよ。けど良くよく見てみれば可愛いじゃん? 俺、たまたま眼鏡を外したところを目撃したんだけど……もう、可愛いのなんのって! 何よりも、おっぱいが大きい! ありゃあもう凶器だよ!」

 

 ()みたいなあ! と山内は空想の胸を揉んだ。傍から見ていたら変態にしか見えないな。

 彼の奇行は兎も角として、オレはどうしたものかと頭を捻った。

 というのも、思った以上に下衆(げす)な理由だから反応に困る。

 いやまあ、彼の名誉のために言うならば、容姿や胸の大きさも充分に魅力的に映るのは仕方がないことだ。

 そこを責めるつもりはない。

 だが──それは本当に好きだと言えるのだろうか。

 何を偉そうに言っているのだとは自分でも思う。

 人間、第一印象を重視する──してしまうのは呪いに等しい。

 しかしそれは上辺のものだろう。

 想いを告げるのならば事情は変わってくるのではないだろうか。

 オレが黙っていると、山内は鼻歌を歌いながらマッチ棒を側薬に擦り付けた。

 

「あれ? 確か寛治は楽勝だって言っていたんだけど……」

 

 素早くマッチ棒を(やすり)の上で走らせるが、チッという微かな音が響くだけだ。

 やり方が悪いのだろうか。

 山内と顔を見合わせて対処法を考える。しかし作戦が思い付くわけもない。

 

「池を呼んだ方が良いんじゃないか?」

 

「もう一回! もう一回だけだからさ!」

 

「いやでも……マッチ棒にも数があるし……」

 

 もし全本尽きたらポイントを消費して購入することを視野に入れなければならない。

 そうなったらポイント保持派から強烈なバッシングを受けることは想像に難くないだろう。

 

「何やってんだ?」

 

 額にタオルを巻いた健がオレたちの肩の間から顔を出してきた。滝のような汗が流れているのは、仮設テントを四つ分率先して作ってくれたからだろう。

 彼の尽力がなければこんなにも上手く出来なかったな。

 堀北に後で、彼を褒めるように伝えておこう。基本的には素直じゃない彼女だが、称賛すべき時は称賛するくらいの器量はある。

 今の彼なら調子に乗ることもないだろうし、これくらいの役得があっても良いはずだ。

 かくかくしかじか。

 オレは彼に語った。焚き火の用意をしたこと、今は火を点けている最中であることを。

 

「上手くいかないのか?」

 

「ああ、オレと山内で交互で試してみたんだけど全然だ」

 

 実際は山内しか挑戦していないが、ここは嘘を吐いた方が良いだろうと判断する。

 

「ちょっと貸してみろよ」

 

「良いけど……どうするつもりだ?」

 

「どうって──こうすんだよ!」

 

 うおおお! 健の熱い雄叫びがベースキャンプに響く。

 彼は尋常じゃない速度でマッチ棒を鑢の上で走らせた。

 

 ──な、なるほど……、力でゴリ押しか……。

 

 呆れを通り越して尊敬の念を覚える。

 すると、棒の先端で火が(とも)り始めた。

 焔が空気に混ざらないうちに、彼は落ち葉やら枝やらが重なって出来た土台の上に爆弾を投下する。

 最初は弱々しかったが、健はさらにもう一本爆弾を作り、またもや投下させ、強引に着火させた。

 するとどうだろう。

 オレたちがよく知る焚き火へと姿を変えたではないか。

 

「お前……。すっかりと脳筋になったなあ」

 

 山内がそう言うのも尤もだろう。

 激しく同意だな。

 健はどうだ! と言わんばかりのドヤ顔だった。

 

「ただいまー」

 

 どうやら、櫛田率いる食料調達隊が帰ってきたようだ。

 ほぼ全員が自然とオレたちが居る焚き火近くに集まる。

 

「これ、綾小路くんたちが作ってくれたの?」

 

「ああ。まあ、健の独擅場だったけどな」

 

「どちらにせよありがとう! おかげで無事に帰ることが出来たよ! 煙が昇っていたから、分かりやすかったんだ!」

 

 焚き火の役割は様々だ。

 暖を取ったり、調理に使えたり、照明にもなる。

 それだけでない。

『火』という概念は地球上で暮らす人類にとって欠かせないものだ。人々の心に安心を齎し、そして、癒しを与えてくれる。

 食料調達隊の帰還に喜んでいるのも束の間、隊長は申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「だけどごめんね、ご飯になりそうなものは見付けられなかったの。どんどん視界が悪くなって……正直、遭難しそうだったんだ。本当にごめんなさい」

 

「いやいや、桔梗ちゃんが謝る必要はないさ! なっ、平田!」

 

「そうだね。むしろ、懐中電灯たった二つで頼んだ僕が(あさ)はかだったよ」

 

 いつの間にか夜になっていた。

 微かに茜色が混ざってはいるけれど、あと数分もすれば漆黒に覆われるだろう。

 特別試験初日、最後の試練は食事だった。

 池を除いた全員が初めて臨むキャンプ。オレたちは時間を使い過ぎたのだ。

 誰かが悪いわけではない。

 全員が全員、やるべきことをやっていた。

 

「ポイントを使うしかないだろう」

 

 そう言ったのは幸村だった。

 皆の目が集まる中、彼は(おく)することなく言う。

 

「流石に夕食を抜くのは良くないだろう。無人島生活はまだ初日だ。もしここで体調を崩し、試験から脱落したらその分ポイントが引かれてしまう。それは避けたい。なら、ここはポイントを使って夕食を購入するしかないだろう」

 

 反対意見は出なかった。

 ポイント保持派の幸村が言ったから、それなりの効果があったということだろう。

 

「平田、一番安いもので出費は幾らになりそうだ?」

 

 マニュアル片手に洋介は読み上げる。

 

「えっと……、栄養食とミネラルウォーターのセットになるね」

 

 彼はさらに概算を言った。

 何でも、食料や飲料水はクラス単位で一食6ポイントになるが、セットにすると10ポイントになるそうだ。

 現在、オレたちDクラスは仮設トイレ一個、仮設テント二個を購入している。

 今のところ、40ポイントの支出だ。

 ここでさらに、今日分の夕食をポイントで賄うとなると、試験初日から50ポイント、つまり、全体の六分の一を失うことになる。

 ポイント保持派に限らず、皆、出来るだけ多くのポイントを残したいと考えるのは当然のことだ。

 ただでさえ、Dクラスは貧しい生活を送っているのだから。

 しかし、背に腹は返られない。

 怖いくらいの静寂が場を支配する──そんな時だった。

 

「HAHAHAHA!I have just came back here(私はここに戻ってきた)!」

 

「この声は──」

 

「私さ!」

 

 高笑いしながら、森の奥から現れたのは高円寺だった。

 相変わらず、無駄にネイティブな発音をする奴だ! という突っ込みは誰も出来そうになかった。

 というのも、上半身裸だったからだ。

 だが、一番驚愕したのはそこではない。

 彼は脱いだジャージや体操服、はてには肌着すらも活用して、それらの口を結んで簡易的なバッグを制作し、中に大量の荷物をひきつめ、さらにどうやったのかは知らないが、それらを身体に装着していたのだ。

 

「こ、高円寺くん……。その中には何が入っているんだい?」

 

「ふふふ。平田ボーイ、まずは落ち着きたまえ」

 

 高円寺は笑みを浮かべ、一つ一つバッグを降ろした。

 皆が何だなんだとざわつくなか、彼はもったいぶるように、結んであった部分を解いた。

 

「こ、これって──!?」

 

 誰かが息を呑んだ。

 それもそのはず。

 バッグから出現したのは食料だったからだ。

 色とりどりの木の実や果実、中には、数本だがトウモロコシなんかもある。

 オレたちが唖然(あぜん)としていると、

 

「これで私のミッションはコンプリートだねえ」

 

 彼は誇ることもなくそう言った。

 これが高円寺六助の実力、その片鱗とでも言うのだろうか。

 不良品と蔑まれているDクラス。

 それぞれが何らかの欠陥を抱えている生徒たち。

 しかしどうだろう。

 今年のDクラスは一味違う。

 茶柱が期待する──期待してしまうのも頷けるってものだ。

 

「ありがとう、本当にありがとう高円寺くん!」

 

「俺はお前のことを勘違いしていたよ!」

 

「私も! これからは高円寺様って言うね!」

 

「なら俺は高円寺さんだな!」

 

 感謝の言葉が救世主に届けられる。

 高円寺は白い歯をきらりと輝かせながら愉快そうに笑った。

 

「諸君! 今日は優雅なディナーにしようではないか!」

 

「「「うおおおおおおお──!」」」

 

 夕食──いや、宴の準備が始まる。

 結局、浮いた10ポイントはすぐに無くなった。

 簡単な調理器具一式に5ポイント、シャワー室に5ポイントとして代替されたからだ。

 これには反対意見も出なかった。

 二つとも必要なものだと全員が納得したからだ。

 やがて、宴が始まった。

 皆、仲が良い友人たちと食べ始める。

 最初、オレは洋介の所に行こうとしたのだが、流石はイケメンなだけあって、人気は絶大だったので断念することに。

 健、池、山内、沖谷(おきたに)や櫛田は堀北の元に集まっているようだ。先生は嫌そうな顔をすることもなくただただ流れに任せているようだ。

 あれは諦観しているな……、と思った瞬間、先生から強烈な睨みが飛ばされてきた。今、あそこに入ったら殺される気がする。

 佐倉やみーちゃんと食べるという線もあるけれど、彼女たちは比較的おとなしい同族たちと食べていて、オレが邪魔しては駄目だろう。

 

「おや綾小路ボーイ。Are you free(ひまかい)?」

 

「……Yes(はい),I am(そうです)

 

 高円寺はオレの返答に満足そうに笑い、「付いてきたまえ」と言った。

 焼きトウモロコシが一本ずつ片手に握られているから、夕食の誘いだろう。

 思えば、一学期に彼とランチを共にしたときにオレは、機会があれば一緒に食べる約束をしていたな。

 せっかくだ、ここは約束を果たすとしよう。

 彼の案内の下辿り着いたのはベースキャンプから程よく離れた川辺だった。

 耳を澄ませば、Dクラスの皆の賑やかな声が聞こえてくる。

 

「座りたまえ」

 

 促してきたので、オレは彼の隣に座った。

 すると、高円寺は「食べたまえ」と一本手渡してくる。

 礼を告げてから、オレはまじまじと黄金色の長棒を眺める。

 鼻腔をくすぐる良い匂いだ。

 刹那、空腹感が身体全体に襲い掛かった。

 朝、客船内での朝食以降、胃の中に何も入れてないのだから当然だ。

 勢い良くかぶり付く。

 

「おお、美味いな……!」

 

「無論だとも。何せ、この私が採ってきたのだからねえ」

 

 実を食い尽くすまで、そこまでの時間は掛からなかった。

 本音を言えばもっと食べたいが、数も限られている。

 未練を断ち切ったオレは、仰向けになって夜空を眺めている高円寺の方を向いて、

 

「それにしても……どうやって見付けたんだ?」

 

 と尋ねた。

 ところが高円寺は──

 

「なに、簡単なことさ」

 

 と言うだけで、教えてはくれなかった。

 

「綾小路ボーイ、サービスタイムはここで終わりだ。あとはきみがやるべきことだろう」

 

「そうだな。まあ、ここまで助けてくれるとは思っていなかったけど」

 

「私は約束は守るのだよ」

 

「なら、お礼といってはなんだけど、お前を楽しませるとする」

 

「HUHUHU! HUHAHAHAHAHA! 楽しみにしているよ、綾小路ボーイ! 結果しだいでは、また気が向いたら遊ぶとするさ」

 

 特別試験を『遊び』と断言出来るのは素直に凄いと思った。

 高度育成高等学校、第一回特別試験初日の八月一日。

 一年Dクラスの残存ポイント──250ポイント。

 



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無人島試験──二日目《思わぬ助っ人》

 

 意識の覚醒(かくせい)は思ったよりも早かった。

 瞼をおもむろに開けると、視界に映るのは見慣れた寮の白い天井──ではなく深緑色のテントの天蓋(てんがい)だった。

 

「知らない天井か……」

 

 一学期、クラスメイトが教えてくれたアニメのワンシーンで、主人公の少年が呟いていた台詞(せりふ)を口にしてみる。

 上半身だけ起こすと、右隣では(けん)が、左隣では洋介(ようすけ)が寝息を立てていた。

 二人とも窮屈(きゅうくつ)そうだ。

 無理もない。

 オレたちが現在使用しているこのテントは、本来ならひとつに付き八人用なのだ。

 その許容量を大幅に超えた十人、それも第二次成長期を迎えている男が強引に入っているのだ、こうなるのも無理はないだろう。

 実際、オレもキツく感じているのだから、身体が大きい健はオレの比ではないだろう。

 それに、寝汗を掻いていて室内は若干(にお)っている。幸いにも、テントは使い方次第でメッシュ素材に代えることが出来るため──通気性に富んだ透孔生地──夜風を入れることが出来たのは僥倖と言えよう。

 オレはクラスメイトを起こさないように細心の注意を払いながら、物音を立てずにテントの中から出た。

 照りつく太陽の眩しさに目を細めてしまう。

 オレは軽く伸びをしてから、『スポット』の装置が埋め込まれている大岩に近付いた。

 液晶画面には『Dクラス ―3時間30分―』という簡素な文字が表示されていた。

 Dクラスがこの『スポット』を占有したのは、昨日、八月一日の午後五時四十八分のことだ。占有権は八時間で切れてしまうため、本来ならこの『スポット』は使えず、画面には何も浮かんでいないはずなのだ。

 だがしかし、こうして『スポット』はDクラスによって占有されている。

 これが意味をすることは即ち、『スポット』の占有が更新されたことを表している。

 占有するためには専用のキーカードが必要であり、使用権限があるのはクラスで選出された一人のリーダーだけだ。

 

「無茶をするな……」

 

 短く呟く。

 現在時刻は午前六時三十分。

 つまり堀北(ほりきた)は皆が寝静まっている真夜中の午前二時頃に起きて、リーダーの役目を(まっと)うするべく、独自で動いたのだ。

 これでボーナスポイントが1ポイント、皆が知らないところで増加されたのだ。

 各々のテントの出入り口付近にはスクールバッグが置かれている。荷物をひとクラス分──つまり、四十人分だ──纏めて置くと自分のを探すのに苦労するし、何よりも、異性のバッグのチャックを間違えて開けてしまったら最悪だ。よってこのようになったのである。

 

「──あれ? 綾小路(あやのこうじ)くん?」

 

 純白のタオルを首にぶら下げたところで、遠くから訝しげな声が飛ばされた。

 より具体的に言うと、女子テントが設置されている方からだった。

 誰だと思い顔を振り向かせる。そこには意外な人物が立っていた。

 

「……松下(まつした)か」

 

「おはよう、綾小路くん。きみ、朝早いんだね」

 

「それはオレも言いたい。お前だけか?」

 

「うん。寝づらくて目が覚めたの」

 

 そう言いながら、松下は自身のバッグの中を(あさ)る。そして紺色(こんいろ)のタオルを取り出した。

 

「顔、洗いに行くんだよね? どうかな、一緒に行かない?」

 

 オレは松下の誘いに乗ることにした。

 ここで下手に断ると後々面倒臭いことになりそうだし、個人的にも、彼女に興味を持ち始めていたからだ。

 

「後ろ、跳ねているよ」

 

 後頭部に手を当てると、彼女の言う通りだった。

 ぴんと髪の毛があらぬ方向へ跳ねている感触がある。

 松下は女性だからか身嗜(みだしな)みに気を付けているようで、どこに出ても恥ずかしくない恰好(かっこう)だった。

 堀北や櫛田(くしだ)長谷部(はせべ)がDクラス内では三大美人と言われているがためにあまり目立ってないが、松下も充分、美人の部類に入るだろう。

 女性にしてはやや背が高く、腰まで伸ばされた栗色のロングヘアーはくせっ毛一つなく、同色の瞳からは確固たる意思の光が宿っている。

 

「いまさらだけど、この川の水って顔に掛けても大丈夫なのかな?」

 

「大丈夫だと思うぞ」

 

「へえ、やけに断言するじゃん。根拠があるんだ?」

 

 昨日は曖昧(あいまい)な位置に立っていたけれど、今日なら問題ないと判断する。

 オレは松下の目を真っ直ぐに見ながら説明した。

 

「どうしてこの『川』が『スポット』なのか、そこを考えれば自ずと答えは出てくる。つまり、学校側はこの川が安全だと暗に保証しているわけだ」

 

「そう言えば、綾小路くんは昨日高円寺(こうえんじ)くんと探索に行ってたっけ。誰も聞いてなかったから忘れていたけれど、『スポット』は見付けられたの?」

 

「ああ、確認したのは一つだけどな。だが残念なことに、先にAクラスが占有していた」

 

 と言うと、松下は「ふぅーん」と感心したようだった。

 説得力を持たせるため、オレは自分から川の水を掬い上げて自分の顔に勢い良く掛けた。

 感想を言うと、とても冷たかった。地表(ちひょう)熱気(ねっき)に着々と包まれ始めている中、この冷たさは有難(ありがた)い。

 彼女はオレがタオルで拭っている様子を見て覚悟を決めたようだった。

 

「わっ──冷たい!」

 

 目を丸くする。

 どうしてこんなにも気持ちが良い水温なのかが気になるのだろう。

 やることもないので軽く教えることにした。

 そもそも川の水とは地上に降り注いだ雨や雪解けなどの水が、地表を流れたり地表から地中に浸透したりして高い方から低い方へと集まって出来たものだ。

 山の地中は太陽の熱の影響を受けず、地中──つまり、地下水から()き出た液体は温まりにくく冷めにくい性質がある。

 そこら辺を出来るだけ噛み砕いて言うと──

 

「凄いね綾小路くん。物凄く分かり(やす)かったよ」

 

 彼女は尊敬の眼差しをオレに向けてきた。

 かなり照れ臭いな。

 

「じゃあ、いただきます」

 

 オレが視線を逸らしている間に、松下は両手を合わせてから水を掬い上げて口元に運んで行った。

 そしてごくごくと飲み始める。

 

「美味しい……! これ、凄く美味しい!」

 

 とびきりの笑顔を見せてくる。

 オレはかなり驚いた。

 まさか自分から飲みに行くとは……。

 オレも彼女に(なら)い喉を潤わせる。

 

「けどちょっと意外だった」

 

「……? 何がだ?」

 

「綾小路くん、意外にも饒舌(じょうぜつ)だから。平田(ひらた)くんが開いてくれた勉強会でも一人黙々と勉強していて、誰かから話し掛けられないと反応しなかったじゃん。いざこうして話してみると認識の齟齬(そご)が生まれるね」

 

 それを言うなら、オレも意外に感じていた。

 松下は堀北に似てクールなイメージがあったのだが……いざ話してみると感情表現がかなり豊かだな。

 彼女と雑談をしていると、やがて対岸の森から二人の生徒が現れた。一人は知っているが、もう一人は知らない。

 オレは知っている方に声を掛けた。

 

「おはよう神崎(かんざき)。偵察か?」

 

 一年Bクラス所属、神崎隆二(りゅうじ)

 あまり目立ってはいないが、Bクラスのリーダー、一之瀬帆波の片腕として彼女を支えている生徒だ。

 もう一人も恐らく……というか絶対にBクラスの生徒だろう。

 

「驚いたな。まさかこんな早朝から起きているなんて……」

 

「お前たちも同じだろう」

 

 指摘すると、神崎は思わずと言ったように苦笑を零した。

 彼は穏やかに流れている川を一瞥(いちべつ)し、

 

「特別試験が始まって今日で二日目だ。俺たちは他クラスの動向を探りに来ている」

 

「そうか。なら分かっているとは思うが、オレたちは『川』を占有した。ちなみに装置があるのはあの大岩だ」

 

「ちょっ、ちょっと綾小路くん。そこまで言っちゃ……」

 

 松下が慌てるが、オレはそこまでのリスクは伴わないと判断する。

 この『川』が『スポット』なのは誰の目から見ても明らかだし、何だったら、川辺には立て看板がある。それに、装置が埋め込まれている大岩は不自然なくらい大きい。

 考えるまでもなく想像は出来る。

 

「情報提供感謝する。代わりと言っては何だが、俺たちのキャンプ地を教えよう」

 

「お、おい! 神崎それは──」

 

「教えて貰ったんだ、こちらも応えなくては失礼だろう。それにどのみち俺たちの拠点の場所は見付かる」

 

 仲間の制止を、神崎は正論で黙らせた。

 少しだけ可愛そうだと思い同情する。

 

「ここから道なりに浜辺に戻る途中に折れた大木がある。そこから南西に入って進んだ先に俺たちのキャンプ地がある。必要なら来てくれても構わない。その時は歓迎する」

 

 と言う割には、相方は不満そうだが。まあ、無理もない。自陣の本拠地に敵を招くのだ。その反応は当然だ。

 やがて、Bクラスの二人は森の中に姿を消した。

 

「偵察って言っていた割にはあっさり引き下がったね……」

 

 不思議そうに松下は首を傾げた。

 オレは「そうだな」と彼女に同調する。

 神崎たちが撤退したのは、オレと松下が起きていたから……というのもあるのだろうが、それ以上に、任務自体を成功させたからだ。

 まずだが、『川』が『スポット』であることを知った。

 次に、Dクラスがこの地をベースキャンプの場所にしていることを確認した。

 さらにどれだけポイントを消費したのかの大まかな計算。大きなものを購入した場合、隠すことは難しい。例えば仮設テントなどは最たる例だろう。もちろん、小物だったら隠すことは出来るが……。

 最後に──Dクラスのリーダーが誰なのか。しかし聡明(そうめい)な神崎のことだ、これは期待していなかったに違いない。

 

「歓迎するの言葉の真実は置いておくとしてさ。どうするの綾小路くん。行くの?」

 

「取り敢えず、洋介や堀北に相談してみる。話はそれからだな」

 

 洋介も、そして堀北も他クラスの動向は気になっているはずだ。

 オレとしては、B、CクラスよりもAクラスの動向が気がかりだ。

 今回の特別試験、『オレが目指す終着点』に辿り着くために情報収集は欠かせない。

 とはいえ、これについてはあまり心配していない。何もしなくても情報は運ばれてくる。

 オレは松下に「質問良いか」と声を掛けた。

 

「質問? 答えられる範囲内なら良いけど……」

 

「松下は今回の特別試験、やっぱり勝ちたいのか?」

 

「変な質問だね。……もちろん、勝ちたいに決まっている」

 

「それはどうしてだ?」

 

 さらに問い掛けると、彼女は思案顔になった。

 顎に手を当ててしばらく考え込む。

 一年生が高度育成高等学校に入学してから早くも四ヶ月だ。

 最初の一ヶ月で1000cl(=十万円)という額を全て失い、オレたちは満足な小遣いすら貰えず、貧しい生活を余儀なくされている。

 先月ようやくクラスポイントが振り込まれたけれど、他クラスと比べたら雀の涙程しかないのが現実だ。

 オレとしては、クラス闘争なんてものには興味はない。

 茶柱に脅されているから夏休みの間は最大限クラスに貢献するつもりだが、その後はAクラス行きを目指している堀北や幸村(ゆきむら)に一任することになるだろう。

 先導者である平田洋介でさえも、クラス闘争そのものにはあまり重点を置いていないのだ。とはいえ、これはオレの勝手な分析だが、大方は合っているだろう。その証拠が、あの『契約』である。

 

「──私はプライベートポイントが入れば取り敢えず満足かな。今回の形式だとポイントを残せば残す程の勝率は上がる。クラスポイントとプライベートポイントは連動してるでしょ。だから私は勝ちたい」

 

 だから昨日は篠原の味方をしなかったんだな……、という言葉は吞み込んだ。

 付き合いの浅いオレが必要以上に首を突っ込んでは駄目だろう。

 

「これで満足した?」

 

「ああ、ありがとう。とても参考になった」

 

「なら良かった。……なんか、ちょっと変かもね」

 

「何がだ?」

 

 尋ねると、彼女はオレから視線を外して朝空を仰望する。

 やがて松下は薄く笑いながら言った。

 

「昨日まではあまり接点がないきみと、こんな風な形で喋っていることだよ」

 

「そうだな」

 

 とオレが言うと、松下は静かに微笑む。

 そして目を合わせて言った。

 

「綾小路くんとは友達になれそうかな」

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 午前八時。

 朝の点呼の時間となった。

 点呼の際に同席しなかった場合は一人に付き5ポイントのマイナスとなる。

 ベースキャンプの中央部分に生徒たちが集まり始める。

 

「おはようー」

 

「うーっす」

 

「ふわあ……、眠い……」

 

「ここはどこ? 私は誰?」

 

「寮の有難さが身に()みて感じられるぜ……」

 

 大半の生徒──特に男子は眠気眼(ねむけまなこ)だった。女子はそこら辺は気を使っているのか身嗜みは整えられているが、それでも、慣れない環境での生活に疲労は隠せないでいた。

 

「先生は昨夜、客船内で寝たんですか?」

 

「さてなあ……」

 

 女子生徒の質問に、茶柱(ちゃばしら)はにやりと(わら)った。

 あっ、嫌な予感がする……! とオレたちが思う中、けれど彼女はいつもの顔に戻って言った。

 

「答えを言うと、私は──私たち教員は客船内に戻ってはいない。特にクラスを受け持っている教師は、余程のことがない限り持ち場を離れることが許されていない」

 

 つまり茶柱はこの一週間、オレたちと一緒に無人島生活を送るってことか。

 とはいえ、ポイント制限があるオレたちとは違い、衣食住に困ることはないだろう。

 

「先生のテント、やけに大きくないですか?」

 

 見れば、茶柱が使っているテントは一人が使うにしては大きかった。

 使用者は口元を歪め、

 

「大人の特権ってやつだ」

 

 そう、世の中の現実を隠すことなく口にした。

 恐らく、水や食料も無制限、かつ無限に支給されるのだろう。

 ずるい! と不平不満を言う教え子たちを見下ろし、彼女は愛用だと思われるクリップボードを片手に取る。

 

「それでは朝の点呼をとる。名前を呼ばれたら返事をするように──」

 

 淡々と担任は生徒たちの名前を呼ぶ。

 相変わらずやる気が感じられないが、まあ、いつものことだ。

 

「──以上、三十九名。欠席者はなしだな。あとはお前たちの好きなようにしろ」

 

 言うや否や茶柱は用がないとばかりに踵を返そうとする。

 しかし、Dクラスの生徒たちはここでようやく違和感を覚えた。

 担任の言葉に妙な引っ掛かりを感じる。

 

「待って下さい」

 

 真っ先に声を上げたのは堀北だった。

 テントに入ろうとしていた茶柱を呼び止める。

 

「どうかしたか堀北」

 

 振り返った彼女はひどく億劫そうにしていた。

 面倒臭く感じているのを隠しもしない。

 堀北はそんな彼女相手でも臆することはなかった。

 

「茶柱先生は先程、三十九名の生徒が居ることを確認しましたよね」

 

 三十九名、というところを強調する。

 やり取りを見守っていた生徒たちは堀北が言っていることを理解する。

 

「おかしくね……?」

 

「だよね。Dクラスの生徒って四十人のはずだよね」

 

「実は三十九人だったとか……?」

 

「いやでも、『欠席者はなし』って言っていたから、それはないだろ」

 

 困惑する彼らはどういうことだと首を傾げる。

 すると、篠原(しのはら)が「あっ」と声を上げた。

 

「いまさらだけど、高円寺(こうえんじ)くん居なくない?」

 

「言われてみれば確かに……」

 

「ほんとだ。ってか、どうして気付かなかったんだろ」

 

「あんだけ濃いキャラなのになー」

 

 高円寺六助(ろくすけ)の消失に、皆、不思議がる。

 堀北は茶柱に詰問した。

 

「どういうことでしょうか、茶柱先生。まず大前提として、私たちDクラスの生徒は四十人です」

 

「そうだな。お前の言う通りだ。少なくとも現時点で、試験で赤点を取った生徒や、素行不良で退学処分を言い渡された生徒もいない」

 

 担任教師はわざとらしく、そう、言った。何人かの生徒が敏感に反応する様子を、彼女は面白そうに窺っている。

 不良品の巣窟、それがオレたち属しているDクラス。

 実際何度か、オレたちはその危機に直面した。

 故に言い返すことは出来ない。

 ところが、堀北は(いきどお)ることもなく冷静に言った。

 

「ええ、私たちはまだ誰も欠けていません。つまりですが、先生の言葉には誤りがあります。訂正して下さい」

 

「ほう。なかなか言うようになったじゃないか。中学時代、お前は誰もが畏れる程の優等生だったと、送られてきた書類には書かれてあった。教師に歯向かうことはせず、また、些細な校則違反を起こすこともしない。そんなお前がまさか、こうして私に物申してくるとはな」

 

 堀北は何も言わない。

 ただずっと、対峙する茶柱を凝視する。

 茶柱は薄く笑みを浮かべ、

 

「しかし残念なことに堀北。私が言ったことは事実だぞ」

 

「ということは、やはり高円寺くんは──」

 

「ああ。あいつは特別試験を脱落した」

 

 刹那。

 静寂が場を支配した。

 脳が一時思考を停止させる。

 一陣の風がどこからか飛ばされ、オレたちの体を突き抜けて行ったところで、オレたちは事態をようやく理解した。

 

「「「はあああああああ──!?」」」

 

 驚愕の声が森全体に響き渡る。

 突如出されたエネルギーの奔流に、木の枝で休んでいた数羽の小鳥たちが羽を広げた程だ。

 

「ちょっ、ちょっと待って下さいよ!」

 

 (いけ)が「いやいやいやいや!」と首を激しく横に振りながら。

 

「脱落? は? 高円寺が? 何で?」

 

 それは皆思っていることなのか、事情を知っているであろう担任に詰め掛ける。

 茶柱は何十層にもなって包囲する生徒たちを鬱陶しげに手で払う。

 やがて、真面目な顔で言った。

 

「高円寺六助は体調不良を訴えた。その結果が今に至る」

 

「つまり、彼は今船内に居ると?」

 

 堀北の最終確認に茶柱は静かに頷く。

 

「そういうことになる。結果、体調を崩したということで、お前たちの所属ポイントは30ポイント引かれることになった。これはルール上仕方がないことだ。あいつには『治療』と『待機』が義務付けられた。次に会うのは八月七日となる」

 

「さらに聞かせて下さい。彼はいつリタイアしたのですか?」

 

「朝方だ。全く、起こされたこちらの身にもなって欲しいものだ」

 

 やれやれとばかりに嘆息する。

 これでオレたちが使ったポイントは80ポイントになった。

 残りは220ポイントとなる。

 

「何だよ、何なんだよ! せっかく、これからは高円寺さんって呼ぼうと思っていたのに!」

 

「私も! これからは高円寺様って呼ぼうと思っていたのに!」

 

 皆、ショックを表す。

 まあ、無理もないか。

 それだけ、本来の実力、その片鱗をオレたちは垣間見せられたのだから。

 しかし誰も、彼に対して強い憤りを零すことはしなかった。

 そもそも彼はここに居ない。仮想の人間に怒りをぶつけたところで意味はないし、何よりも、『仮病』だと断定することは出来ない。

 何故なら、彼がDクラスに齎した恵みは凄いの一言でしか言い表せないからだ。

 膨大な量の食料。節制すれば、明日の朝まではこと『食事』に関してはポイントは使わなくて済むだろう。つまり、これから食べる朝食、昼食は我慢する方針なので抜き夕食、そして明日の朝食と、合計三食分だ。

 今のところ、彼が最も無人島生活に貢献しているのは間違いない。

 とはいえ、特別試験という観点になるとプラスマイナスゼロになるのだが。

 栄養食とミネラルウォーターのセットを注文した場合は一食につき10ポイントだが、セットにしない場合は6ポイント。

 つまりだが、セットの場合は相殺出来るが、そうではない場合は12ポイントのマイナスとなる。

 

「高円寺くんが抜けた穴は僕たちで埋めるしかない。尽力してくれた彼を責めるわけにはいかないよね」

 

 内心はどうであれ、皆、洋介の言葉に頷いた。

 こうして、表向きは脱落者を糾弾することはなくなった。

 

「それでは、私はここで失礼する」

 

 話が終わったと判断したのか、今度こそ茶柱はテント内に向かった。

 朝の点呼が終わりオレたちは『自由』に過ごすことになる。

 とはいえ、集団生活を送るのだ。

 プライベートな時間は削られてしまう。

 

「──皆、聞いて欲しい」

 

 先導者がクラスメイトに呼び掛ける。

 

「昨日の時点で決めておけば良かったんだけど、それぞれ、役割を決めたいと思うんだ。例えば、食料を探す隊や、『スポット』を探す隊とかだね。どうかな?」

 

「あたしは賛成~」

 

 軽井沢(かるいざわ)が真っ先に先陣を切る。

 すぐに他の生徒も、

 

「私も」「俺も」

 

 と賛成した。

 反対意見は結局出なかった。

 その方が効率的、なおかつ充実した生活を送れると判断したからだろう。

 男子は先導者、女子は女王が上手く纏め上げ、様々なチームを作っていく。

 なかでもオレが驚いたのは──

 

「うーん、(ワン)さんや()(がしら)さん、佐倉(さくら)さんたちはベースキャンプで基本的には待機を頼める?」

 

「私は大丈夫だよ」

 

「う、うん……」

 

「は、はい……」

 

「なら良かった! あっ、そうだ。その代わりと言っちゃなんだけどさ、皆のご飯を作って貰える? 確か皆、お弁当は手作りだったよね?」

 

 軽井沢の圧倒的な指示力の高さだ。

 彼女はみーちゃんたちと話した後、今度は篠原たちに近付く。

 

「そんで、篠原さんは王さんたちを手伝ってあげて。確か料理部だったよね。佐藤(さとう)さん、松下さんたちは皆の服を洗ってあげて。二人だと厳しいと思うから、他の子にも頼むからさ。どう?」

 

「ね、ねぇ軽井沢さん。それってもしかして男子の服も……?」

 

「あははは、そんなわけないじゃん。下着は他の男子にやらせるよ。けど上着は頼めるかな。基本男子たちには食べ物や『スポット』の探索で忙しくなって疲れるだろうしさ」

 

「そういうことなら、私は良いよ」

 

「私も」

 

 ありがとう! と軽井沢は笑みを浮かべる。

 そして別のグループに話し掛けていった。

 

「女王の本領発揮か」

 

 独り言を呟くと、洋介が朗らかに笑いながら近付いてきた。

 

「軽井沢さんは一見すると、我儘(わがまま)な女の子だと思われてしまいがちだ。確かに、彼女にそういった一面があるのは事実だ。けどね、それだけで女の子たちの頂点に鎮座出来るわけじゃないんだよ」

 

 それはどこまでも優しい言葉だった。

 洋介の言う通りなのかもしれないな。

 これまでオレは、軽井沢が女王として君臨出来ていることが不思議だった。しかし今なら何となくだが分かるような気がするな。

 

「流石、彼氏は言うことが違うな」

 

「あははは……そうでもないよ。さて清隆くん、きみにはこれといった役割は与えないよ。理由はいわずもがな、これで良いかい?」

 

「ああ。ありがとう、洋介」

 

「ううん、お礼を言うのは僕だよ」

 

 オレは平田洋介を利用する。

 彼は綾小路清隆(きよたか)を利用する。

 これがオレたちの結んでいる『契約』なのだから。

 その後、Dクラスは次の議題に取り掛かった。

 水の確保の問題だ。

 オレたちが占有している『スポット』では、『川』の使用権限が与えられている。

 洗濯や風呂の際は気にすることなく使えるが、実際に飲むとなるとどうしても躊躇してしまうものだ。

 しかし、池の懸命な訴えにより何とか打開策を模索ことになる。

 

「誰かが──言い方は悪いけれど──実験体になるしかないよね。もちろん、強制するつもりは全くないよ。その上でどうかな?」

 

 やってくれる人は手を挙げほしい、先導者の呼び掛けにまず先に反応したのは池だった。

 迷いはない、そんな彼の意思が込められているからか、天高く伸ばされる。

 洋介は静かに一同を見渡していた。

 彼は自分の影響力を理解している。故に静観することしか出来ない。

 そんな彼と目が合う。

 オレは頷いた。

 

「──オレも協力する」

 

 誰かが息を呑んだ、そのような気がした。

 櫛田が静かに笑っているのが知覚出来る。

 

「清隆がそう言うんなら、俺も……」

 

「いや、健はやめてくれ」

 

 手を挙げようとした健を、オレはとめた。

 

「お前はこのクラスで一番機動力がある。高円寺が抜けているからなおさらだ。そんなお前が倒れたら大変なことになる。健だけじゃない。洋介も池も、お前たちは必要不可欠だ。そもそも、複数人でやる必要はないからな」

 

 オレ一人の犠牲で済ませようと、オレは言った。

 安全性については、今朝、松下に言った通りだ。

 それに実際に飲んでいるが、腹の調子はいつも通りだ。

 しかしそのことを知らない人間からすれば、オレの対応は納得出来ないのか、

 

「けどよ……」

 

「そうだぜ、綾小路! それでお前が死んだらどうすんだよ!」

 

 いやいや、勝手に人を殺すな。

 けれど、健や池がオレのことを心配してくれているのは分かった。ちょっと嬉しい。

 櫛田が不満そうにしているのが感じられた。

 

「清隆……お前……それで良いのかよ?」

 

「ああ。昨日の篠原じゃないが、オレはあまりクラスに貢献していないからな。これくらいなら喜んでやらせてくれ」

 

「な、なら私も飲もうかな。貢献って意味なら私もしていないし……」

 

「わ、私もっ!」

 

 みーちゃんと佐倉だ。

 ほんと、この二人には助けられるな。人前で話すのは苦手なのに……、嬉しくて、ちょっと泣きそうだ。

 櫛田が不機嫌そうなのを察した。

 

「俺も! 俺も飲むぜ!」

 

 想い人の頑張る姿に胸打たれたか、山内(やまうち)が名乗り出た。

 おお……! ホラ吹きも恋の前では変わるようだ。

 思えば、健が明確に変わり始めたのも堀北に恋慕(れんぼ)の念を覚えてからだな。

 もしかしたら山内もまた、これを機に変わり始めるかもしれない。

 

「ぼ、僕も……」

 

「私も大丈夫だよ。私も特別、これと言った役割が与えられなかったからね。食料調達隊の隊長は寛治(かんじ)くんに引き継がせちゃったから」

 

 沖谷や櫛田も了承する。

 櫛田が比較的自由の身になったのは、その方が彼女の潜在能力が発揮されると判断されたからだ。

 彼女だけでなく、洋介や軽井沢、堀北もその立ち位置に居る。

 と、櫛田が他の生徒にバレないようにオレに微笑んだ。タイミングとしては最高だが、なるほど、どうやら怒っているらしい。

 口パクしてくる。

 

 ──あとで覚えてなよ。

 

 ただただ櫛田が怖い。

 今の彼女とは話したくない。もしかしたら殺されるかもしれないな……。

 

 

「……なら、私も飲む。怖いけど……」

 

 篠原も戸惑いながら手を挙げた。

 

「良いのか篠原。別に無理をする必要はないぞ」

 

「綾小路くんにあんなことを言ったんだから、これくらいはやらないと」

 

 なるほど、彼女の中でも引けないものがあるようだ。

 さっきの軽井沢じゃないが、篠原が何故軽井沢と同様慕われているのか、その理由が分かった気がする。

 

「なら俺も飲もう。この特別試験……、俺は役に立たなそうだからな……」

 

 幸村は悔しそうに唇を噛んだ。

 日頃からAクラスを目指している彼にとって、自分が何も出来ないのは到底許されないのだろうか。

 

「危険性を少しでも減らすため、汲んだ水は沸騰させた方が良いだろう」

 

「あー、確か殺菌(さっきん)出来るんだっけ?」

 

「そうだ。余程のことがない限り大丈夫だとは思うが」

 

 それでも心配だと彼は言った。

 多くの生徒が感心し「流石、成績が学年トップクラスの人間が言うことは違うな!」と誰かが称賛した。

 対して、褒められた幸村は呆れているようだった。

 

「こんなことにすら気付かないのか……」

 

「あはは……。でも幸村くん、さっきの言葉を訂正させて欲しい」

 

「何をだ、平田」

 

「きみはさっき『俺は役に立たなそうだからな……』って言ったけれど、そんなことはないよ。このクラスにそんな人は居ない」

 

 力強く断言する。

 幸村は先導者の言葉に言葉を返すことはしなかった。

 こうして、実験体に志願したのはオレ、みーちゃん、佐倉、山内、沖谷、櫛田、篠原、幸村の八人となった。

 

「それじゃあ皆、今日も一日、頑張ろう」

 

 洋介の言葉に、Dクラスの生徒たちは力強く頷き返した。これなら余程のことがない限り大丈夫だろう。

 それは裏付けされた予感。

 今朝の神崎たちがやっていたように、オレも、他クラスの動向を視察しに行くとするか。

 特別試験二日目の八月二日。

 本格的なサバイバルゲームが始まろうとしていた。

 



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無人島試験──二日目《一年Bクラス視点》

 

「それじゃあ皆、今日も一日頑張ろう!」

 

「「「おお────!」」」

 

 私の呼び掛けにクラスメイトたちが気合の入った声で応えてくれた。

 仲間たちがとても頼もしくて、私はついつい笑みを(こぼ)してしまう。

 

「それじゃあ~、私はここでお暇するわね~」

 

「あっ、はい。分かりました」

 

 星乃宮(ほしのみや)先生が教師専用のテント内に入って行った。

 足取りが覚束(おぼつか)ないのは気の所為ではないだろう。

 

 ──またお酒を飲んでいたのかな……?

 

 Bクラスにとっては毎度のことなので、皆、華麗にスルーした。

 人間、慣れとは恐ろしい。

 高度育成高等学校、第一回特別試験。

 今日、八月二日はその二日目を迎えている。

 他クラスのリーダーたちは『機会が与えられる』とは考えていたけれど、よもや、無人島生活になるとは思わなかっただろう。私だってそうだ。

 むしろ詳細な内容を予知していたら怖い。

 

一之瀬(いちのせ)、話をしたいのだが良いか?」

 

「もちろんだよ、神崎(かんざき)くん」

 

 私は神崎くんの言葉に迷うことなく頷いた。

 本音を言えば、彼にはもう少し主体性を持って貰いたい。

 一応は『学級委員長』の役職に就かせて貰っているので、私は誰よりも、自分が属するクラスのことを知っているつもりだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「場所を変えたい」

 

「内密の話ってことだね。良いよ。じゃあ、移動しよっか」

 

「悪いな」

 

「ううん。これくらいは当然のことだから」

 

 私と神崎くんは拠点から少し離れることにした。

 何かあった時のために皆が見える場所だ。

 私は近くの大木の幹に体重を預け、目線で神崎くんを促した。

 彼は念の為か辺りを見渡してから、おもむろに口を開けた。

 

「今朝、他クラスの偵察に行ってきたんだが……」

 

 流石神崎くん、仕事が早い。

 

 ──だけどまさか、朝方に行っていたのかあ……。

 

 頼んだのは私だけど、ちょっと無理をさせちゃったかもしれない。

 

「……うん。どうだった?」

 

「Aクラスはやはり『洞窟(どうくつ)』を、Cクラスは『浜辺(はまべ)』を、そしてDクラスは『(かわ)』を、それぞれベースキャンプの地として定めているようだ」

 

「そっかあ……──ってちょっと待って。Cクラスは浜辺にしたの?」

 

 思わず胡乱(うろん)げな眼差しを彼に送ってしまった。

 神崎くんを疑うわけではないけれど、それだけ、聞かされた内容が予想外だったからだ。

 ところが、教えてくれた彼もそこは同じなのか、瞳の奥には困惑の色が宿っていた。

 何でも、Cクラスが拠点に選んだのは『浜辺』らしい。

 仮設テントを組み立て、一週間の生活基盤を整えるためには、お世辞にも適地とは言えないだろう。『スポット』が付近にあるにしても、損得を天秤に掛けると『損』だ。

 必死に脳を回転させるけれど分からない。

 

 ──これも龍園(りゅうえん)くんの策謀(さくぼう)なのかな。

 

 いや、あるいは前回同様、『彼』も関与している──?

 

「……一之瀬?」

 

 いけないけない。

 神崎くんに心配を掛けてしまった。

 現状で何も分からないのは当然だ。

 得ている情報が皆無に等しいのだから、これは当たり前のこと。

 まだ焦る段階じゃない。

 

「……ひとまず、Cクラスのことはまたあとで考えよっか」

 

「了解した。それではAクラスについてだが──」

 

 神崎くん曰く、Aクラスは山の洞窟内で構えているらしい。

 中を覗き見ようとしたようだけれど、垂れ幕が出入り口に垂れ下がっていて、内部は確認出来なかったようだ。

 

「すまない。Aクラスについては、これ以上は……」

 

「ううん、これだけでも助かるよ。むしろ、強引に突入しようとしなくて良かった」

 

「流石にリスクが伴うからな」

 

「ルール違反になっちゃうからね」

 

『追加ルール:Ⅰの⑤ 他クラスが占有している「スポット」を許可なく使用した場合、50ポイントのペナルティ』に該当するかもしれないからだ。

 支給されたのは300ポイントなので、もし犯してしまったら六分の一を喪失してしまう。

 恐らく、Aクラスが選んだ場所──洞窟内部には『スポット』があるはずだ。

 暗幕を使っているのも『スポット』及びリーダーを隠すための作戦だろう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 より多くのポイントを残すためには、どうしても『我慢』する必要がある。

 そして……『未知』の出来事にどう対処するのかを問われている気がしてならない。

 

「ねえ、神崎くん。暗幕はどっちの指示だと思う?」

 

「100パーセント、葛城(かつらぎ)のものだろう。坂柳(さかやなぎ)は今回、欠席しているそうだからな」

 

「やっぱり葛城くんかあ……」

 

 これはまた面倒なことになった。

 Bクラスが一之瀬帆波()、Cクラスが龍園(かける)くん、Dクラスが平田(ひらた)洋介(ようすけ)くんと、これら三つクラスには先導者が居て、それぞれのクラスを率いている。

 けれど、Aクラスはまだだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 それなのにトップを独走していることは驚愕すべきことであり、Aクラスに所属する生徒の潜在能力(ポテンシャル)が極めて高いことを暗示していると言えるだろう。

 

 ──けど逆に言えば、今なら一撃をお見舞い出来るかもしれないよね。

 

 私はこの考えを頭の(すみ)に置いてから、

 

「Aクラスは分かったよ。私もあとで行ってみる」

 

「……危険じゃないか?」

 

「大丈夫だよ、危害は加えられないからさ」

 

「だが……」

 

 渋る彼を、私はことさら明るい笑顔で安心させた。

 ややして、はあというため息が吐かれる。

 

「……分かった。なら、俺も行こう」

 

「流石! 神崎くんがいれば百人力だねっ」

 

 と言うと、彼は微妙な顔になった。

 それに何も、そこまで警戒する必要はないという根拠もある。

『ルール:マイナス査定の基準 他クラスへの暴力行為、略奪行為、器物破損などを行った場合、生徒の所属するクラスは即失格とし、対象者のプライベートポイントの全没収』となっているからだ。

 もちろん、これに抜け道があるのも事実。被害者が対象者を訴えなければこのルールで(さば)くことは出来ない。

 Cクラスの『王』なら兎も角として、流石に、このような悪逆非道な行為をAクラス……ましてや、『慎重派』の葛城くんが実行するはずがない。

 

「Aクラスについては分かったよ。最後に、Dクラスについて教えて」

 

「ああ。Dクラスが拠点に選んだのは先程言ったが川で──」

 

 と、そこで神崎くんは不自然に言葉を区切った。

 クラスメイトの女の子が声を掛けてきたからだ。

 

帆波(ほなみ)ちゃん、神崎くん、ちょっと良いかな?」

 

 私たちはもちろんと頷いた。

 断る理由はないし、もとより、私の勘が「何かある」と囁いている。

 そしてどうやら、私の第六感(シックス・センス)は的中したようだった。

 少し意識すれば分かる。

 空間が不自然に揺らいでいる。

 

「さっそく来たか」

 

「……来たって、誰が?」

 

 尋ねながら()()の発生源に移動する。

 神崎くんが答えるよりもはやく、私は答えを得た。

 Bクラスのベースキャンプ地と外界、その境界線に二人の男女が立っている。彼らを見て納得する。

 

「……なるほどねー」

 

「すまない一之瀬。こうして事後承諾になってしまったが……」

 

「ああ、うん。そこは大丈夫だよ」

 

 目を伏せる彼に気にしないように言ってから、私は男女に近付いた。

 こほんと咳払いをして喉の調子を整える。

 

「やっほー、櫛田(くしだ)さんに綾小路(あやのこうじ)くん」

 

 私の挨拶に、二人は軽く頭を下げて。

 

「こんにちは、一之瀬さん!」

 

「……昨日ぶりだな、一之瀬」

 

 櫛田さんは同性の私でも見惚(みほ)れるような可愛らしい笑顔で、綾小路くんは薄く笑って返してくれた。

 実に対照的な二人だけれど、意外と、()()()()()()()()()()()()()()()

 

「今朝方ぶりだな、綾小路」

 

「悪いな、さっそく来させて貰った。歓迎はあまりされてないようだが……」

 

 居心地悪そうに、綾小路くんは首を小さくした。

 隣の櫛田さんも彼同様……ではなかった。それどころか、興味深そうにきょろきょろと辺りを見渡している。

 彼女は神崎くんを見て。

 

「はじめましてっ、櫛田桔梗(ききょう)ですっ!」

 

 無垢なる笑み、とはこのようなものを言うのだろう。

 

 ──可愛い!

 

 くらりと、一瞬、意識が遠のいた。

 何ていう破壊力だろう。

 気付けば、遠巻きで様子を眺めていた男の子たちもぼーっと櫛田さんを見つめていた。

 

「『櫛田エル親衛隊』なんてものが出来るのも頷けるな……」

 

 綾小路くんが小さく呟いた。

 

 ──『櫛田エル親衛隊』って何だろう……。

 

 そんな疑問が浮かび上がったけれど、何となく、それは知ってはいけないような気がしてやめといた。

 これには、綾小路くん並みに表情を崩さない神崎くんも何かしらの反応が──

 

「そうか。俺は神崎隆二(りゅうじ)という。よろしく頼む」

 

 相変わらずのポーカーフェイスだった。

 二人はそのまま、友好の証としてか、握手を交わした。

 そんな中、綾小路くんと目が合った。

 

 ──私だけかな、気まずくなっているの……?

 

 ──安心しろ、オレも同じだから……。

 

 この瞬間、私は勝手ながらも、彼とますます友達として仲良くなれた気がした。

 

「改めてこんにちは。ごめんね二人とも、皆、特別試験と慣れない環境で神経を使っているからさ」

 

「そっかあ……、うん、そうだよね。ごめんね、急に押し掛けちゃって」

 

 櫛田さんは申し訳なさそうにした。

 私は慌ててぶんぶんと頭を振る。

 

「ううん、そんなことはないよ! けどそうだね、お互いのためにも、数分が限界かな……」

 

「それだけ貰えれば充分だ」

 

「そう言って貰えると嬉しいかな。──皆、あとの対応は任せて貰えないかな」

 

 声を張って呼び掛けると、皆、笑顔で「良いよー」と言ってくれた。

 本当、このクラスの人たちは良い人ばかりだ。

 私と神崎くんは来訪者の二人をもてなすため、ベースキャンプを案内することにした。

 もちろん、『スポット』──装置の場所には近付けない。

 これは余計な火種のもとを作らないためだ。

 

「見たところ、ここの『スポット』は『井戸』なのかな?」

 

 軽く一周したところで、櫛田さんがそう尋ねてきた。

 これくらいなら答えても良いと判断する。

 

「うん、そうだよ。私たちBクラスが占有しているのは『井戸』だね」

 

 井戸とは地面を深く掘り、あるいは管を地中に打ち込むことによって地下水を汲み上げるようにしたものだ。

 これでBクラスは水源の確保に成功した。

 綾小路くんが感心したように、

 

「良い場所を押さえたな」

 

「にゃはははー、それがそうでもないんだよねー」

 

「……そうか?」

 

 怪訝な眼差しが送られてきた。

 私は内心戸惑った。

 聡い彼なら簡単に気付くと思っていたけれど……。

 

 ──だめだめ、綾小路くんは友達なんだから。疑っちゃだめ。

 

 それに私は腹の探り合いがお世辞にも得意とは言えない。

 

 ──なら、いつも通りにいこう。

 

 と、思った瞬間だった。

 櫛田さんが彼のジャージの袖を引く。

 

「あっ、そっか。テントが用意出来ないんだね」

 

 彼女の言う通りだ。

 井戸の周りは木々で囲まれていて、全員分の仮設テントを組み立てようにも空間がない。

 

「なるほどな……。その代わりに用意したのがハンモックなのか」

 

 綾小路くんの視線の先には、純白のベッドがある。

 

「正解! 支給品のテント二つに、およそ二十人分のハンモックを注文したんだ」

 

「当たり前だけど、私たちとは生活様式が全然違うね」

 

 まさしく、今回の試験テーマである『自由』になっていると言えるだろう。

 

「ハンモックかあ……ちょっと憧れちゃうな」

 

「そうなのか」

 

「うん。やっぱりさ、キャンプをするとしたらテントも思い浮かべられるけれど、同時に、ハンモックも出るんだよねー。綾小路くんはどう?」

 

「キャンプか……オレは()()かな。どんな感じなのか興味があったから」

 

「うんうんっ、焚き火も良いよね!」

 

 櫛田さんはにこやかに何度も頷いた。

 私も会話に参加する。

 

「やっぱり、昨日()がっていた黒煙(こくえん)の一つのうち一つはDクラスのものだったんだね」

 

「あっ、……ということはBクラスも?」

 

「ううん、違うよ。私たちはランタンを光源にしていたから」

 

 昨日揚がっていた黒煙は二つ。

 Aクラスは洞窟を占領しているようだから、いずれ見付かるとしても、慎重派の葛城くんは、自らは姿を現さないだろう。

 そうなると、あの黒煙は他クラス(Cクラス)のものだということになる。

 

「なあ一之瀬。これは平田や堀北が気にしていたことなんだが」

 

「うん? 何かな?」

 

「オレたちはこの前協力体制を築いたわけだが……現在も継続していると視て良いのか?」

 

「……これはまた難しいね……」

 

 座りなよ、と勧めながら私は手頃なハンモックの上に臀部を着けた。

 櫛田さんは子どものようにはしゃぎ声を上げて座ったけれど、綾小路くんは立ったままだった。

 神崎くんもそうだ。

 どうしようかなと思案していると、櫛田さんが。

 

「えいっ」

 

「……!?」

 

 服の袖を力強く引いて、綾小路くんを隣に座らせた。

 それはとても洗練された動きだった。

 彼は困ったように後頭部を()いてから、やがて嘆息した。

 どうやら従うことに決めたらしい。

 

 ──仲良いなあ。

 

 ふと、そんな感想を抱いた。

 相手が櫛田さんだから、というのもあるかもしれないけれど、この時私はそれ以上のものを何となくだが悟った。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そのような雰囲気を醸し出している気がする。

 私は僅かに身動ぎしてから、彼ら……特に綾小路くんの瞳を直視した。

 

「──私はきみたちのクラスとは仲良くしたいと考えているかな」

 

 視線が絡み合う。

 Aクラスは強大で、クラス闘争の頂点に君臨している。

 Cクラスは、個々の能力はそこまでではないと思うけれど、それでも、何をするのか予測出来ない不気味さがある。特に『王』と、その側近たち。

 だが一番謎なのはDクラスだ。

 平田洋介くんや堀北(ほりきた)鈴音(すずね)さん、櫛田桔梗さんなど……脅威度で言えば最も高い。

 そしてそこに拍車を掛けるのが目の前で対峙している綾小路清隆(きよたか)くんだ。

 先日の『暴力事件』を知っている数少ない人物だからこそ、彼の異質さが分かる。

 目的のために躊躇なく友人を使い、捨てて、何食わぬ顔でその友人と学生生活を送っている。たとえ恨まれると分かっていても彼は迷わない。しかも、その行為に何かしらの意味が生じるのが恐ろしい。

 どこまでも自身が望む展開にする緻密な計画性。

 彼はクラス闘争には興味がないようだけれど、それだって、口先だけかもしれない。

 最悪の展開は、彼と『王』が『暴力事件』のように共謀すること。

 そうなったらもう、誰にも止められない。

 

 ──『何があっても私たちは友達だよ。これは絶対だから、覚えていて欲しい』──

 

 この言葉に嘘偽りはない。

 私は綾小路くんを友達として()いている。

 だから、いつか私が彼に無様に(やぶ)れることがあっても、それは私が彼に負けただけであって、彼を憎むのはお門違いだ。

 それに確信がある。

 彼が表舞台──この言い方はしっくり来ないけど──に登場するのは、自らのためだけだろう。仮にクラス闘争に興味があり、本気でAクラスを目指すのならもっと動きがあって(しか)るべきだ。

 冷静に自分が取るべき行動を選ぶ。

 沈黙を破ったのは綾小路くんだった。

 

「平田や堀北も、一之瀬と同じようにBクラスとは協力関係でいたいと考えている」

 

「そっか。なら、継続中ということで良いかな?」

 

 念のために尋ねると、綾小路くんと櫛田さんは頷いた。

 これで良い。

 これが現状打てる最善手だった。

 私が肩の荷を下ろそうとしたところで、神崎くんが手を挙げた。

 

「俺個人も、Dクラスとの協力関係は良いと考えている。しかし気になるのだが、どこで線引きをする?」

 

 次の議題は、協力関係の定義を定めるというものだった。

 前回はあくまでも私という一之瀬帆波個人がDクラスに──特にその中心人物たちか──力を貸していた。

 ところが正式にクラスとクラスが組むとなると話はまた変わってくるだろう。

 櫛田さんが考え込む素振りを見せながら、

 

「うーん、これは私たちが勝手に決めちゃ駄目だよね?」

 

 と、綾小路くんに確認を取った。

 

「櫛田の言う通りだな。最低でも平田や堀北、軽井沢(かるいざわ)あたりには話を通すべきだろう。あるいは、Dクラスの生徒全員で共有する必要が出てくるな」

 

「なら今回は、ポイントを現段階でどれだけ消費したか。その報告会で良いんじゃないかな?」

 

 私の問い掛けに、二人は迷わなかった。

 私は断りを入れてから自分のスクールバッグが置かれている場所に行き、中からマニュアルを取り出した。

 三人の元に戻り、私は白紙ページを開いた。それを二人に見せる。

 

「記録しているんだね」

 

 そこにはBクラスが購入したアイテムや食料などが書かれていた。

 櫛田さんが感心したように、ボールペンの筆跡をしげしげと眺める。

 

「見ての通りだけど、一応、説明するね。私たちが現時点で購入したものは、ハンモック、調理器具セット、小型テントにランタンに仮説トイレ。餌釣り用の釣竿をいくつかと、あとはウォーターシャワーかな。合計ポイントは──」

 

「70ポイントか」

 

 櫛田さんの隣から覗き込んだ綾小路くんが私の言葉を引き継いでくれた。

 つまり私たちBクラスは約25パーセント、ポイントを消費している計算になる。

 四分の一、と聞くと大きい数字だと思ってしまうかもしれないけれど、これは仕方がないこと。

 学校側はポイントを使わせることを前提にして、今回の特別試験を用意しただろうからだ。

 例えば支給品から如実に出ている。

 ひとクラス四十人なのに、これはあまりにも足りない。

 

「Dクラスはどんな感じなのかな?」

 

「そっちと殆ど同じだ。まずだが仮設テント二つに──」

 

 そう言いながら、綾小路くんはDクラスの情報を教えてくれる。

 前置きした通りで、彼我の消費ポイントに差はあまりないようだ。

 と、思ったその時だった。

 彼が言いづらそうに、語尾を濁らせたのだ。櫛田さんも似たような顔になっている。

 

「あー……今朝、高円寺(こうえんじ)が脱落した」

 

「「……」」

 

 思わず呆けてしまった私と神崎くんは悪くないだろう。

 

 ──……へ?

 

 ぽかんとクエスチョンマークが頭上に表示されているのが自覚出来る。

 あの神崎くんでさえも間抜け面を晒しているくらいだ。

 

「……高円寺くんって『自由人』として有名なひとだよね……?」

 

「ああ、そうだな。まあ、色々とあってな……」

 

 綾小路くんは視線を逸らした。

 櫛田さんも視線を逸らした。

 

「えっと……、じゃあ、きみたちは30ポイント引かれちゃったんだね……」

 

「そういうことになるな」

 

 いくら友軍といえど、本質的には敵だ。

 だからここは内心は喜ぶべき場面なのだろうけれど……。

 

「にゃはははー……」

 

 私は引き攣った笑みしか出来なかった。

 何ともいえない空気が流れる。

 

「えっと、し、質問良いかなっ」

 

 そんな雰囲気を、櫛田さんが壊してくれた。

 私はこの波に乗った。

 ことさら明るく、

 

「質問? もちろんだよ!」

 

「この『ウォーターシャワー』って何なのかな? 名前からしてお風呂に関係があることは分かるんだけど……」

 

「ポイントも5ポイントと、仮設シャワーよりも安いだろ。Dクラスには一人だけキャンプ経験者がいるんだが、その生徒すらも知らなかったんだ」

 

「あー、ごめんね。私もそれについてはよく知らないんだ」

 

「あれ、そうなんだ。なら何で買えたの?」

 

 櫛田さんが疑問に思っている点は、何故『未知』のものを購入出来たのか、というところだろう。

 何度も述べるが、王道を行くのならこの試験は『我慢』の競い合いだ。

 ポイントを残すために、どれだけ節制を心掛けるか。

 その意識の差によって試験の結果は変わってくる。

 そして私たちBクラスはこの王道を辿っている最中だ。

 彼女からしたら、何故、浪費というリスクを伴ってまで購入する決断に至ったのか不思議でならないのだろう。

 

「簡単なことだよ。そっちのクラスに頼り甲斐がある生徒がいるように、こっちのクラスにもいるんだ」

 

「Bクラスにも(いけ)くんと同じようにキャンプ経験者が?」

 

「うぅーん、それとはちょっと違うかな。その子はキャンプ経験も何度かあるそうなんだけど、もっと広い分野……つまり、アウトドア系が趣味なんだよ」

 

 その生徒のおかげで、ウォーターシャワーの有用性に気付くことが出来た。

 私は客人を井戸、その横に置かれている大型の機械の元に案内する。

 内部の仕組みはさっぱり分からないけれど、使い方は簡単だ。

 

「まずだけど、このタンクに水を入れたら数分でお湯が出来るんだ」

 

「熱源はガス管だな。全て使い果たしたら追加注文する予定だ」

 

 物は試しと、私は神崎くんと協力して披露することにした。

 最後まで見届けた彼らは、浮かび上がった次の質問をしてくる。

 

「ウォーターシャワーの利便性は分かった。けど、問題はどこでシャワーを浴びるんだ?」

 

「私もそれは思ったかな。まさか外で浴びたり……?」

 

「あははは、流石にそれはないよー。あれが何か分かる?」

 

 私が指さした場所を見た二人はきょとんとした顔になった。

 やがて櫛田さんが訝しげな目線をそちらに向けながら、

 

「あれって最初に支給された簡易トイレと一緒に支給されたテントだよね?」

 

 と、確かめてきたので私は「うん、そうだよ」と首肯した。

 正確にはワンタッチ式テントと言うらしいけど……まあ、分かれば良いかな。

 

「俺たちは仮設トイレを購入した。すると支給された簡易トイレやこのテントの役目は無くなってしまう。しかしそれではあまりにも勿体ないだろう」

 

「資源は有効活用しないと駄目だよね。クラスの皆で話し合った結果、簡易トイレそのものはもしもの時用に保管、そしてこのテントはシャワー室として代用することにしたんだ」

 

「生地は防水で厚い。これなら女子生徒でも使用可能になる」

 

「もちろん、女の子の場合は万が一に備えて護衛は付くけどね。あとは時間も決められているかな」

 

 具体的には、男の子の入浴が午後八時半から午後十時半の間、女の子が午後六時から午後八時の間だ。

 一人あたりの時間も決められている。この制限時間に関しては、集団生活という側面がある以上仕方がないことだと、皆、納得済みだ。

 その後も説明を続けた。

 それらも全て終え、私たちは客人を見送ることにした。

 

「一之瀬さんたちは凄いね! たくさんのことを工夫して、少しでもこの無人島生活を楽しもうと努力してるんだもん!」

 

「て、照れるなあ……」

 

「ううん、本当に凄いことだよ! そうだよね、綾小路くん」

 

「そうだな。特に、テントの下にビニール袋を敷いていることには驚いた」

 

 ただテントを組み立てるだけだと、背中に当たるのはごつごつとした固い地面の触感だ。

 私たちは支給された簡易トイレセットの中にあったビニール袋に注目した。

 簡易トイレをそのまま使う際、利用者はビニール袋を使う必要がある。そして星乃宮先生に聞いてみたところ、これは無制限で支給されるのだと分かったのだ。

 

「綾小路くんたちはさ、このマニュアルを見た時にどう思った?」

 

 学校から配られたマニュアルはとても分厚くそれなりのページ数がある。

 書かれていることは特別試験の日程、ルール、簡易的な地図──地形と方角しか書かれていない。完璧に仕上げるのは不可能に近い──、そして、ポイントで購入可能なもののカタログだ。

 このカタログが冊子の大部分を占めているけれど──

 

「そうだね……。()()()()()()()()()()()

 

「綾小路くんは?」

 

「櫛田と同じだな」

 

「神崎くんは?」

 

「同じだな」

 

「うん、だよね。私だってそうだよ」

 

 この感想は私たちだけでなく、カタログを開いて、自身の目で見たら同じように抱くだろう。

 圧倒的に情報が足りない。

 カタログには物品の写真や名前が載せられているだけで、その用途は書かれていないのだ。また大きさも分からない。

 この取扱説明書は、その時その時、物品が届いた時に渡される。

 

「先生に聞いても要領を得ないものばかり……というか、先生は試験に関することだから教えてくれない」

 

 生徒と最も仲が良い星乃宮先生ですらも、そのルールは決して破らない。

 もし破ってしまったら相応の『罰』があるのだろう。

 

「だけど、ここが難しいところなんだけどさ。二人は、『ルール』の二項目目を覚えている?」

 

 尋ねると、彼らはしばらく考える素振りを見せてから、やがて首を横に振った。

 

「私も一字一句正確には覚えてないんだけどね。それじゃあ、ここを見て貰えないかな──」

 

 ──『A〜Dクラス、全てのクラスに300ポイントを支給する。このポイントを消費することによって、マニュアルに載せられている道具類や食材を購入することが出来る。なお、原則的にはマニュアル外のものは購入出来ないが、万が一、欲しいものが出た場合は担任教師に確認をするように。場合によっては認められるものがある』──

 

 私は最後の部分を指さした。

 

「──『なお、原則的にはマニュアル外のものは購入出来ないが、万が一、欲しいものが出た場合は担任教師に確認をするように。場合によっては認められるものがある』……特に注目するべきなのはここで、何となく、私が言いたいことは分かるかな」

 

「えっと……つまり、もしかしたら思いもよらないものや出来事が認められるかもしれないってことなのかな」

 

「その通り。例えば私たちはこの特別試験を臨むにあたって、自分の携帯端末を先生に預けているよね。だけど、ルールにはこのことは──もっと言えば、プライベートポイントについては述べていないよ」

 

 これについてはまだ確かめていない。

 私のこの予想が当たっている確率は低いだろう。

 

 ──でもゼロじゃないよね。

 

 言いたいことを言えた私は、味方にも敵にもなる二人を静かに見据えた。

 

「また今度来させて貰っても良いか?」

 

「うん、それは大丈夫だよ。あっ、けどクラスの皆のことも考えると、綾小路くんと櫛田さんだけかな、歓迎出来るのは。きみたちのことはクラスメイトに言っておくから、邪険にはされないはずだよ」

 

「分かった。明日あたりもう一度来させて貰う」

 

「楽しみにしてるね。あっ、そうだ。二人は他クラスにはもう行ったの?」

 

「ううん、それがまだなんだ」

 

「場所、教えようか?」

 

 これくらいなら同盟の範疇内(はんちゅうない)だろう。

 ところが、綾小路くんは私の提案を断った。

 

「他クラスの場所を知ったのはお前たちの努力の賜物だろう。それをオレたちが横取りするような形で知るのは間違っている気がする」

 

 そう言って、彼は神崎くんを一瞥(いちべつ)した。

 確かに綾小路くんの言う通りだ。

 

 ──偵察班の努力を、私が踏み(にじ)るようなことはしちゃいけないよね。

 

 私はまだリーダーとして相応しくない。

 そう、強く再認識した。

 

「それじゃあ、オレたちはここでお暇する」

 

 その言葉を契機に、綾小路くんと櫛田さんは境界線から外に足を踏み出した。

 私と神崎くんは彼らの背中が森の中に消えるまで見送った。

 

「さて、私たちも頑張ろう!」

 

「ああ、そうだな」

 

 気合を入れ直す。

 私が出来ることを、一つ一つ丁寧にやっていく。

 それが『結果』に繋がると、私は信じているのだから。

 まずはAクラスに行くとしよう。

 

 

 夕方。

 Bクラスのベースキャンプ地はいつも以上の喧騒に包まれていた。

 というのも、予期せぬ来訪者が到来してきたからだ。

 誰も、その人物には近付こうとしない。神崎くんや千尋(ちひろ)ちゃんや柴田(しばた)くんなど、私の親しい友人でさえも遠巻きに眺めているだけだ。

 今朝、綾小路くんや櫛田さんが来た時も似たような現象は起こったけれど……今回はそれ以上のものだ。

 その人物に向けられている視線の数々には明確なる『敵意』が含まれていて、僅かに『戸惑い』がある。

 私はゆっくりと来訪者の元に歩んで行った。

 

「──どうしたのかな、Cクラスの金田(かねだ)くん?」

 



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無人島試験──二日目《櫛田桔梗の分岐点 Ⅰ》

 

 一之瀬(いちのせ)が率いるBクラスを訪ねた後、オレと櫛田(くしだ)はまず先にAクラスの拠点に向かうことにした。

 単独行動なら高円寺(こうえんじ)から教わった移動方法を用いていたのだが、流石に、女の子の櫛田には厳しいものがあるだろう。

 だから普通に地上を歩くことにした。

 

「一之瀬さんたちは凄かったねー」

 

 隣を歩く櫛田はそんな感想を口にした。

 何がどう凄いのかは具体的には言われなかったけれど、彼女が何を言いたいのかは察せられる。

 

「そうだな。Bクラスの創意工夫には尊敬の念を覚えた」

 

「あれでBクラスだもんね。Aクラスはいったいどんな生活様式を見せてくれるのかな」

 

「さてな──こっちだ櫛田。ここを抜ければ舗装された『道』に出るはずだ」

 

 立ち止まり、オレは目的地の方角を指さした。

 念の為、ズボンのポケットから簡易的な地図を取り出す。

 

「その紙、もしかして勝手に切り取ってきたりしないよね?」

 

「……」

 

 オレは黙秘権を行使(こうし)することにした。

 何も聞かなかった風を装い、地図と睨めっこする。

 

「……綾小路(あやのこうじ)くん?」

 

「あー……、もしかして悪かったか?」

 

「悪いって言うか……マニュアルに挟まれている地図や白紙ページは数枚しかなくて皆の共有財産なんだからさ、せめて誰かに一言(ひとこと)言おうよ」

 

「こら!」と彼女はやや背伸びをして頭にチョップを下ろした。

 威力は配慮されていたけれど、こうして、誰かに「悪い」と言われたのは久々だったので新鮮だった。

 

「それにさ、朝、軽井沢(かるいざわ)さんから聞いたんだけど、点呼の時点で何枚か巧妙(こうみょう)に切り取られていたんだって。一応確認するけれど、それって綾小路くんがやったの?」

 

 疑いの眼差しに、オレは首を横に振ることで違うと意思表示した。

 正確な時間は曖昧だが──

 

「オレが拝借したのはベースキャンプを出る直前だったから違うぞ」

 

「なら、誰がそんなことをしたんだろうね」

 

「さあな。堀北(ほりきた)あたりじゃないか?」

 

「うーん、けど堀北さんなら何か言うと思うんだよなあ……。だって『先生』だしね。池くんたちに示しがつかないもん」

 

 字面では褒めながら、しかし、口では苦々しそうに櫛田はその言葉を吐き捨てた。

 そんな様子の彼女を見ても、いまさら、これといったショックは受けないけれど、その代わり、同情してしまう。

 櫛田のこれは不治の(やまい)に近いだろう。

 彼女が呪縛(じゅばく)から解放されるのは死ぬ瞬間だけだ。

 

「堀北さんたち、今頃は『スポット』見付けているかなあ」

 

 キーカードを用いて装置を起動させることが出来るのは各クラス選出されたリーダーただ一人だ。

 オレたちDクラスのリーダーは堀北鈴音(すずね)のため、彼女にはかなりの負担を()いることになる。

 長距離の移動による肉体的な疲れだけでなく、リーダーという重大な役職を務める責任感による精神的な疲れがあるだろう。

 だからといって、リーダーは既に決められている。ここは彼女の頑張りに期待するしかない。

 

「見付けても占有されていたら時間を見計らってもう一度行かないといけないから、半分は運だな」

 

「確か『スポット』探索班は、平田(ひらた)くん、軽井沢さん、堀北さん、須藤(すどう)くんにその他生徒たちだっけ?」

 

 大勢の生徒が移動する、その姿を他クラスの生徒に見せ付けることに意味がある。

 特に洋介(ようすけ)や軽井沢といった、クラスの中核を担っている生徒が紛れることによって、カモフラージュの効果は何倍にも跳ね上がる。

 

「ところで、綾小路くん」

 

「何だ?」

 

「さっき私たちはBクラスを訪ねたわけだけどさ、協力関係を継続して良かったの? それともあれは嘘なのかな?」

 

「いや、嘘じゃないぞ」

 

 長い目で見れば、Dクラスとしても、オレ個人としても、Bクラスの生徒たちとは仲良くしておいた方が良い。

 オレたちは『特別試験』そのものの全容を知っているわけではない。

 ただ一つ言えることは、『特別試験』がクラス闘争に大きく関わっていること。

 今回は形式上無人島生活という形でクラスが(しのぎ)を削っているが、次回もこうなるとは誰も明言していない。

 

「櫛田なら心配は要らないが、恐らく、一度か二度、あるいはそれ以上の回数で他クラスとの協働が必要になる場面が来るはずだ」

 

「……例えばA・Bクラス連合VSC・D・クラス連合みたいってこと?」

 

「その通りだ」

 

 その時、いつも自クラスの生徒が傍に居るかは分からない。 最悪、味方は誰も居ないという状況にもなりかねないだろう。

 

「敵で八方塞がりということを防ぐためにも、ある程度は他クラスの生徒と交流を持っておいた方が良い」

 

「だから、Bクラスを選んだんだ……?」

 

「ああ。さっき彼らのベースキャンプを観察してよく分かった。彼らはDクラス(オレたち)の上位互換だ。正直、あそこまで順応しているのは異常だな」

 

「一之瀬さんの力だね」

 

 洋介と同等……いや、あるいはそれ以上だ。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 一之瀬帆波(ほなみ)という女性は、そういった時程に真価を発揮するのだろう。

 彼女は迷いなく王道を行く。

 奇策による邪道が王道を打ち砕けない、と言うつもりはないが、どうしても限界があるのも事実だ。

 究極的な王道は最も効率が良い。それはたった一振りで絶大な威力を誇る(つるぎ)だ。

 

「綾小路くんが言いたいことは分かったよ。それでさ、Aクラスの拠点の場所はどこなの?」

 

「そうだな……──ここだ」

 

 オレは地図の一点を指した。

 現在地からは差程遠くない。『道』に出れば十分もあれば辿り着くだろう。

 それから数分で、オレたちは森を抜けて『道』に出た。洞窟は山頂付近にあるので、やや緩い坂道を登る。

 

「やっぱり、Cクラスは最後にするんだね」

 

「『やっぱり』って……どういう意味だ?」

 

「またまたー、気持ちは分かるよ? (いと)しの椎名(しいな)さんと会うのは最後の楽しみにしたいもんね」

 

 にやにやと笑いながら、櫛田はオレの腹を肘で()いてきた。

 これが池や山内あたりにやられたらイラッとくるのだろうが、流石は櫛田エルと評すべきだろうか、無駄に可愛らしい。

 

「あのな……別に椎名に会いに行くわけじゃないぞ」

 

「……ふぅーん、綾小路くんがそう言うのなら、そういうことにしておこう!」

 

 魔女は最後にニヤッと笑った。

 雑談をその後も交わしながら登ること数分、オレたちはとうとう敵の本拠地に辿り着いた。

 まずは様子見をすべきだと判断し、適当な草陰に身を隠す。隠蔽性を少しでも上げるため、オレたちは、一度、距離を置いた。

 頷き合い、オレたちは静かに前を見据えた。

 

 ──魔物の口だな。

 

 ふと、そんな感想を抱き、胸中で呟いた。

 

「入り口近くにあるのは、仮設シャワー室と……仮設トイレだね。うわっ、見てよ綾小路くん。仮設トイレ、二個も配置されてるよ!」

 

 どうやら男性用、女性用と分けているようだ。

 櫛田が驚いたのは、仮設トイレを二個買った事実そのものにだろう。

 オレたちDクラスや、一之瀬率いるBクラスはトイレは一個しか購入していない。

 というのも、一個で充分だからだ。

 オレたちは支給品として簡易トイレのセットを配られている。仮設トイレに利用者が居たとしても、どうしても我慢が出来なければ、最悪、簡易トイレを使えば良い。

 

「強者の余裕ってものなのかな……。Aクラスにとっては、仮設トイレ購入で生じるポイントは微々(びび)たるものなのかな……」

 

「どうだろうな。だが櫛田、今はそれ以上に問題があるぞ」

 

「分かってるよ。『アレ』でしょ? 綾小路くんが言っているのはさ……」

 

 びしっと手で拳銃を作った彼女は、その銃口(じゅうこう)を『魔物の口』に躊躇うことなく向けた。

 そこにあるのは、外界と内界とを仕切る線。

 黒色のビニールを繋ぎ合わせた垂れ幕が下がっており、洞窟内部を見ることが出来ない。

 

「あれって(ずる)くない?」

 

 櫛田がぷんすかと憤りを表す。

 動作では『ぷんすか』と可愛らしい表現が適切だが、彼女の目はとても冷めていた。

 よく同時に出来るなと、彼女の多彩な能力に感嘆する。女優にでもなれば、その演技力と彼女の容姿が合わさって売れそうだな。

 

「気持ちは分からなくもないが、ルール上は問題ないだろうな」

 

「どうして」

 

「これは実際に見てないから違うかもしれないが、多分、あの垂れ幕は洞窟内部、そのぎりぎりの位置にあるんだと思う」

 

「……そっか。Aクラスは絶対に占有しているだろうから、占有権の範囲内なんだね」

 

「そういうことだ。何の権限が与えられているかは知らないから、結局のところ、何とも言えないけどな」

 

 しかし考えれば考える程に分からないものだ。

 洞窟で付与されるものは何だ……?

 単純に内部の利用なら、昨日、オレが入った時点でポイントは引かれているはずだ。

 

 ──『追加ルール:Ⅰの⑤ 他クラスが占有している『スポット』を許可なく使用した場合、50ポイントのペナルティ』──

 

 ところがオレが侵入しても何も起こらなかった。

 ……いや、視野が狭くなり過ぎていたか。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そしてこれは恐らく、『スポット』の占有権より強いものだろう。

 いつの間にか隣に移動してきたのか、櫛田が顔を見上げて尋ねてきた。

 

「綾小路くん、どうする? 突撃? それとも撤退?」

 

「──突撃だな」

 

「さっすが!」

 

 撤退しても良いことは何もない。

 これではクラスの皆に申し訳ないだろう。

 櫛田はオレの返答に満足げに微笑んでから、「じゃあ、行こっか!」と立ち上がって、オレの手を引いた。

 視界が揺らぎ、半ば自動的にオレも立ち上がる。

 覚悟を決め、オレたちは敵陣地に(おく)することなく赴く。

 

「私から声を掛けるから、綾小路くんは基本、後ろで黙っていてね。その方が都合が良いでしょ」

 

「分かった。頼りにさせて貰う」

 

 彼女は嬉しそうに頷いた。

 直立不動している門番役に生徒に向かって、櫛田が声を掛けた。

 

「こんにちはー」

 

「……? 誰だお前ら──!? く、くくく櫛田ちゃん!?」

 

 訝しげな目線も、すぐに驚愕に変わった。

 かなりのボリュームだったために、すぐ近くに居たAクラスの生徒たちがぞろぞろと集まりだす。

 

「あ、あの……!? えっ!?」

 

 当然ながら、櫛田は訳が分からず戸惑う。

 素の表情で慌てる彼女は珍しいがそれは無理もないだろう。

 

「俺、『櫛田エル親衛隊』末端の者です! 是非握手をさせて下さい!」

 

 びしっと勢いよく右手が伸ばされた。女神は強張った笑顔で対応する。

 

 ──これってもう、宗教のレベルだろ……。

 

 池と山内が作り出した『櫛田エル親衛隊』、その実態はオレが考えていた以上に広がっているのかもしれない。

 

「こ、こほん。私は一年Dクラスの櫛田桔梗(ききょう)ですが──」

 

「知ってます!」

 

「……わ、私と綾小路くんはきみたちのクラスがどんな風に無人島生活を送っているのか知りたいんだ。中に入れて貰えるかな」

 

「もちろんです──!」

 

 お任せ下さい! 末端隊員は無駄に大きな声で、無駄に力強く頷いた。

 垂れ幕を上げようとしたところで、ようやく我に返ったのか、一連の流れを傍観していたAクラスの生徒から待ったが掛けられる。

 

「お前は何を言っているんだ!?」

 

 そう問い詰める彼に、オレは見覚えがあった。

 昨日、オレと高円寺よりも先に洞窟を訪ねていた二人組の一人であり、名前は確か……弥彦(やひこ)だったか。

 もう一人の人物、葛城(かつらぎ)は姿が見受けられない。

 何かしらの理由があって留守(るす)にしているのだろう。あるいは、内部に居るかもしれないが。

 

「おいお前、何を勝手に中に通そうとしてるんだよ!? お前正気か!?」

 

「うるせー! 世の中には絶対に譲れないものがあるんだよ! 俺たち『櫛田エル親衛隊』には、唯一にして絶対な(おきて)がある!」

 

 そう熱く語る末端隊員は、並大抵ではない気迫を以てして弥彦を睨んだ。

 弥彦は空気に当てられたのか、ごくりと生唾を呑み込んで、静かに尋ねた。

 

「な、何だよ、掟って……」

 

「──崇拝することだ!」

 

「……なん、だと…………!?」

 

 くわっと両目を見開かせ、末端隊員はうおおおおお! と暑苦しく吠えた。

 その咆哮は他者を圧倒させる力が確かにあった。

 弥彦は戦慄し、オレはドン引きし、女神櫛田は──表情が無くなった。

 どうやら防衛本能が働いたようだ。以前彼女は、彼女の生き方は疲れると口にしていたけれど……、なるほど、自業自得とはいえ、これは同情してしまう。

 

「と、兎に角だ! 女神だが何だか知らないが、駄目なものは駄目だろ!」

 

 弥彦の強い主張に、けれど末端隊員は頷かない。

 それどころか哀れみの眼差しを送り。

 

戸塚(とつか)……」

 

 戸塚とは多分、弥彦の苗字だろう。

 

「な、何だよ!?」

 

「そんなんだからお前は駄目なんだよ」

 

「はあ!?」

 

「世の中にはな、『可愛いは正義!』って言葉があるんだぜ。俺は、この言葉を生み出した偉大な人物を尊敬している!」

 

「お、お前……。だからお前は坂柳(さかやなぎ)派に身を置いているのか……!?」

 

 末端隊員はふっと笑っただけだった。

 戸塚は瞠目して、次の瞬間、顔を真っ赤に染め上げた。

 

「そんな理由でお前は葛城さんに敵対すると!?」

 

「そんな理由だと? 俺にとってはそれだけでも充分なのさ。なあ、お前ら?」

 

 にやりと坂柳派の男は笑う。

 それに呼応したのか、ぞろぞろと彼の周りに生徒が集まり始めた。

 否、彼だけじゃない。

 戸塚の周りにも集まり始めている。

 

「櫛田、あとで坂柳について教えてくれると助かる」

 

 小声で囁くと、魔女は妖艶な笑みを浮かべた。

 

「私が知らないって可能性は考慮してないんだ?」

 

「なら聞くが、知らないのか?」

 

()()()

 

 とても頼もしい。

 櫛田の価値は思ったよりも何倍も高いな。

 もちろん相応の対価を支払うことになる。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 葛城派と坂柳派の対立は思った以上に激化しているようで、双方、睨み合っていた。

 些細な出来事で破裂する爆弾に近い。

 そんなAクラスの様子をオレたちはすぐ近くで観察していた。

 この場に全てのAクラス所属の生徒が居るわけではないため何とも言えないが、坂柳派がやや劣勢という印象を受ける。

 兎にも角にも、今日は一度、撤退した方が良さそうだ。

 

「──お前たちは何をしている」

 

 櫛田に声を掛けようとしたタイミングで、背後から低く、それでいて太い声が届いた。

 振り返ると、そこには屈強な体格を誇る男が居た。上半身は裸であり、なおさら、彼の常人離れした筋肉質さが窺える。

 Aクラスのリーダー、その一柱(ひとばしら)、葛城だ。

 彼は部外者を一瞥してから、森の中から()ってきただろう野菜を片手に、葛城派と坂柳派、その対立の中間点に立った。

 

「今は身内で争っている場合ではないだろう。それぞれの配置に戻ってくれ」

 

 戸塚以外の葛城派の生徒たちは立ち去ったけれど、坂柳派の生徒たちはこの場に残った。

 

「葛城……あまり調子に乗るなよ……!」

 

「お前、葛城さんに何て口の()き方を!」

 

 分かりやすい挑発に戸塚が反応する一方、葛城は眉一つすら動かさない。

 それどころか部下の肩をぽんと叩き宥める余裕すら見せる。

 

「弥彦、お前も戻れ」

 

「し、しかし葛城さん!」

 

「こうなることは予め分かっていたことだ。弥彦、俺はお前を信用している。この意味が分かるな?」

 

「……分かりました。期待に添えるよう、精進します」

 

 戸塚は葛城に最敬礼してから、自身の持ち場に向かっていった。

 葛城は彼を見送ってから坂柳派の生徒数名に向き直る。

 

「俺は諸君らの全面的な協力を求めているわけではない。坂柳に付くというのならそれはそれで構わない。しかし今は特別試験、Aクラスの生徒全員が力を合わせる必要があると俺は考えている」

 

「坂柳が居ないからお前の指示に従えと?」

 

「……そうだ」

 

 集団生活を送る以上、ある程度の秩序は保つ努力をしろと、葛城は言っているのだ。

 言っていることは正しいが、だからといって、はいそうですかと納得出来るはずもない。

 不満げな顔を隠そうとしない彼らに葛城は言った。

 

「二週間のバカンス生活に於いて、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。これは言いたくなかったのだが、つまり、あまりにも協調性のない者は俺の口から彼女の耳に入るということだ」

 

「「「……!?」」」

 

「ここまで言えば、諸君らが何をするべきなのか……分かるだろう?」

 

 そう言って、葛城は目を細めた。

 すると一人、また一人と生徒は散らばっていく。彼らが何を考えているのか、その詳細は推し量れそうになかった。

 オレはそんな様子を見ながら物思いに耽っていた。

 

 ──Aクラスも『何かが起こる』ことを予期していたか。

 

 これでどのクラスも準備段階では同率ということになる。

 そして坂柳の欠席。思えば、昨日、真嶋(ましま)先生が言っていたな。あれは彼女のことだったのか。

 

「まずは見苦しい場面を見せてしまったことを謝罪しよう。すまなかった」

 

 Aクラスのリーダーはそう言って、オレたちに深々と頭を下げた。

 それが偽りのものではなく本物……、つまり、彼が心から思っていることはすぐに伝わってきた。

 弥彦やその他の生徒たちが慕う理由も頷けるな。

 

「ううん、気にしないで葛城くん」

 

「そう言って貰えると助かる。改めて自己紹介をしよう。俺の名前は葛城康平(こうへい)。宜しく頼む」

 

「櫛田桔梗ですっ」

 

「綾小路清隆(きよたか)だ」

 

 最後にオレが名乗り終えると、葛城は僅かに目を見張った。

 オレが彼を注視していなければ気付かなかっただろう、僅かな変化。

 一之瀬帆波。

 龍園(りゅうえん)(かける)

 二人と同種の雰囲気、覇気(はき)を感じ取ることが出来た。

 

「櫛田のことは知っている。学年を超えた人気者。Aクラスでもきみに恋い焦がれている生徒は多い」

 

「えへへー、何だか照れるねー」

 

 はにかむ櫛田は傍から見ていてもとても可愛かったが、葛城は特に、これといった反応を返すことはなかった。

 どうやら彼の興味は彼女にはないらしい。

 その代わりじっとオレを見つめてくる。

 

「そして綾小路、お前のことも一応は知っている」

 

「そうか。ちなみにどれくらい知っているんだ?」

 

「──綾小路清隆。櫛田と同じDクラス所属。一学期終了間近に起こった『暴力事件』、そこでお前は如何(いか)なる手段を以てか『暴力事件』を解決してみせた。注目度は抜群、台風の目と言っても差し支えはないだろう」

 

「おお! 綾小路くんも人気者だね!」

 

 このこのー! と櫛田は肘を腹にぐりぐりと捻り込んできた。

 どうにもあれ以降、彼女のスキンシップが多くなっている気がする。

 オレとしては構わないのだが、しかし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 まあ、その時はその時で何とかするとしよう。

 

「お前の存在が浮かび上がって来たのは本当にごく最近のことだ。多くの生徒がお前という生徒に驚き、そして恐怖を覚えていることだろう」

 

 葛城の言う通りだろう。

 実際、自分が所属するクラスでも時折、そういった視線が送られてくるのだから。

 他所のクラスだったら、なおさら、未だに混乱していてもおかしくない。

 

「さて、お前たちは何の目的のためにここに来た?」

 

 それは形式上の確認。

 身長差があるため、葛城の強面がオレと櫛田、両方の視界を上から覆い始める。

 オレは見上げながら堂々と言った。

 

「率直に言うと偵察に来た」

 

「……ほう。偵察にか」

 

「ああ。さらに単刀直入に言おうか。──『洞窟』の内部を見せてくれ」

 

 視線が交錯した。

 互いに沈黙し、意思を込めた瞳で睨み合う。

 やがて葛城はおもむろに口を開けた。

 

「それは出来ないな」

 

「……分かった。ならここで帰らせて貰う」

 

 言うや否や、オレは背を向けて歩き始めた。

 

「あ、綾小路くん!? ちょっと待ってよ!」

 

 すぐに櫛田が追い付いてきたが、葛城が動く気配は感じられなかった。

 葛城がどのような表情を浮かべているか気になったが、結局、最後までオレは振り返ることはしなかった、

 

 

 

 

§

 

 

 

「あんなあっさり撤退して本当に良かったの? っていうか、わざわざ行った意味がなくない?」

 

 再び森に入りCクラスのベースキャンプ地を探していると、並行して歩いていた櫛田がそう尋ねてきた。

 オレは彼女の質問に答える前に現在時刻を確認した。

 午後三時七分。

 季節は八月なので日照時間はとても長いが、流石に、六時までにはDクラスの拠点に戻ってクラスメイトに姿を見せたいところだ。

 

「良かったのか、それとも悪かったのかと聞かれたら微妙だな。Aクラスがどんな風に生活しているのかを知ることが出来なかったのは悪かったと思う」

 

 とはいえ、収穫もあった。

 これまでオレは洞窟の利便性について、はっきりとした答えを得ることが出来なかった。

 しかし今なら分かる。

 出入り口が一つしかない洞窟は、Aクラスが先程やっていたように垂れ幕なり暗幕なりで塞げば、鉄壁の隠蔽性(いんぺいせい)を誇る。

 

「オレたちDクラスは『川』を拠点に定めたよな。Bクラスは『井戸(いど)』を、そしてAクラスは『洞窟』だ。どうしてオレたちはそうしたんだと思う?」

 

「どうしてって……色々と理由はあるけど──やっぱり、近くに『スポット』があるからかな」

 

「正解だ。ボーナスポイントの存在はかなり大きい。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 だからこそ撤退せねばならなかった。

 Aクラスだけじゃない。

 Dクラスも、Bクラスも、そして恐らくCクラスも『スポット』の地を自らの陣地として活用している。

 つまりこれは言わば、『スポット』の独占行為と言えるわけだ。

 

「そっか、ようやく綾小路くんが何を言っているのか分かったよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そしてこの一つを試験終了まで守り通し利益を得る。これは暗黙のルールになっているんだね」

 

「もし犯したら試験そのものが破綻しかねない。オレたち『川』の権限は『川の水の活用』だけだろう? けどそれだけだ。究極的に言えば、陣地そのものに侵入することは可能だ」

 

『スポット』が『川』か『洞窟』なのか、その違いでしかないということだ。

 もしその点が納得出来ないのならそれは、『スポット』を占有されてしまった者たちの不手際であり、責めるのはお門違いだろう。

 

「ところで櫛田、そろそろ坂柳……いや、Aクラスの実態について教えてくれると助かる」

 

 そう言うと、隣を歩いていた櫛田は無言で数歩先を歩き、やがて静止した。

 くるりと半回転し、魔女は静かに微笑む。

 

「さっきのあれで分かっているとは思うけど、確認も込めて説明するね。一年Aクラス。今年のAクラスは過去類を見ない程に優秀らしくてね、先生たちも驚いているみたい。その優秀さはクラスポイントからも一目瞭然」

 

 直近のAクラスのクラスポイントは1000cl。

 Dクラスは95clのため比我(ひが)の差は絶望的だ。

 

「Bクラスは一之瀬帆波さん。Cクラスは龍園翔くん。そして私たちは平田洋介くん。高度育成高等学校の理念──実力至上主義が掲げられてからもう三ヶ月。どのクラスも集団を率いる生徒が出現したの」

 

 リーダーの選出は様々だ。

 ある者は自分から率先して『求心力』を使って。

 ある者は『道化師』の役目を押し付けられて。

 その方法に善し悪しはなく、兎にも角にも、彼らはなるべくしてなった。

 魔女はいつもの口調を変えて語り始めた。

 

「ところがどうでしょう。優秀なはずのAクラスはまだ中核を担う人物は現れていません。何故でしょうか? 正解は、その人物が二人居たからです。さて、奇しくもその二人は男女の組み合わせでした」

 

「その男女が──」

 

「葛城康平くんと、坂柳有栖(ありす)さんです。二人の思想は決して相容れないものでした。葛城くんは『()()』。当然ですがAクラスと他クラスのクラスポイントの差は大きいです。余程のことがない限り順位が入れ替わることはありません。Aクラスは優秀な生徒が多いですから、愚行をしなければ卒業まで一位でいられるでしょう」

 

「坂柳は違うと……?」

 

「大正解! 坂柳さんは葛城くんの真逆──『()()』。他クラスを攻めて真正面から潰すというものでした。当然ですが、相応のリスクが伴います。失敗したら被害は尋常なものではないでしょう。『防衛』と『攻撃』。この前の『暴力事件』。学年を超えて学校中を巻き込んだこの騒動は、しかし意外にも、Aクラスにとっては注目する余裕はなかったのです」

 

 何故なら内輪揉(うちわも)めしていたのですから……、櫛田は口元を歪めて妖しく嗤った。

 魔女の哄笑(こうしょう)が木々の間を縫って響く。

 ややして、彼女は別人のように表情を変えた。

 

「──これで満足かな」

 

「ああ、非常に役立つ情報をありがとう」

 

「なら良かったよ。やくそく、まもってね」

 

 裏切ったら容赦しないからと彼女は顔を耳元に近付けて囁いた。

 オレは無言で頷いた。

 櫛田はにこりと一度朗らかに笑うと、オレの右手を取り言った。

 

 

 

「それじゃあ、行こっか──清隆くん」

 

 

 

 



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無人島試験──二日目《一年Cクラスの豪遊》

 

 Cクラスがベースキャンプの地として居住しているのは無人島の『浜辺(はまべ)』だった。

 オレと櫛田(くしだ)の二人は森の(しげ)みからしばらくの間彼らの様子を観察していた。

 まず気になるのが立地だ。

 当然ながら浜辺は無人島生活には向いていない。ただでさえ厳暑(げんしょ)が身体を(むしば)むのに、日陰(ひかげ)がない浜辺では体力が削られてしまう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「これはまた……豪遊(ごうゆう)してるねえ……」

 

 感心しているのか、それとも呆れているのか、恐らくは後者だろう。

 櫛田は小さな口元に手を当ててそんな風に呟いた。

 オレも全くもって同じ感想を抱いていた。

 どうやらCクラスの『王』は予想の斜め上を走る特技があるらしい。

 

「何が狙いなんだろうな」

 

「あれ、清隆(きよたか)くんは知らないんだ?」

 

 彼女はさも不思議そうに首を傾げた。

 無理もない。彼女は『暴力事件』が『偽りの暴力事件』だと知る数少ない人物の一人だ。

 オレが龍園(りゅうえん)策謀(さくぼう)してしていたのを彼女は知っているのだから、今回の特別試験もそうなるだろうと思うのは自然なことだ。

 

「前回のあれは例外的なものだからな。正直言うと、龍園が何を考えているのか現段階では全然分からない」

 

 肩を(すく)めると、櫛田は訝しながらも再び前を見据えた。

 オレも彼女に(なら)い『有り得ない光景』を瞳に映す。

 

 ──Cクラスは文字通り『豪遊』していた。

 

 A、B、Dクラス、どのクラスとも根本的な生活様式が違う。

 仮設トイレやシャワー室が配置されているのは当然として、日光対策のターフ、バーベキューセット、チェアーにパラソル。

 そのパラソルの下には純白のラウンドテーブルが置かれていて、机上にはスナック菓子にドリンクが置かれていた。遊びに使う器具も乱雑に置かれている。その中には()()()()()()もあった。

 およそ『楽園(パラダイス)』と呼べるだけの娯楽品に、そしてそれに見合うだけの設備が揃えられている。

 沖合では水上バイクが水面を駆け抜け、水飛沫(みずしぶき)を辺りに散らしていた。

 網の上では肉が焼かれていて、香ばしく、美味しそうな匂いが浜辺全体を包み、笑い声が絶えることは決してない。

 

「うわあ……どれくらいのポイントを使っているのかな」

 

大雑把(おおざっぱ)に計算すると──150ポイントは使っているだろうな」

 

 大勢の生徒が持参してきた水着に着替え級友と共に遊んでいる。

 彼らの瞳に不満の色は映らない。不安の色も映らない。しかし戸惑ってはいるようで、何人かの生徒は心の底から遊んでいるわけではなさそうだ。

 それはつまり、全ての説明が『王』からされているわけではないということ。

 

「どうする? 突撃? それとも帰還?」

 

 眩く輝く太陽は(あかね)色に染まりつつあった。大空も色彩を変えつつある。

 まだまだ完全なる夜には時間が掛かるとはいえ、安全性を最優先するなら帰還すべきだろう。だが──。

 

「……突撃、だな」

 

「さっすが!」

 

 無人島の地形はあらかた把握した。

 夜の森は迷子になる可能性が跳ね上がるが心配無用だろう。最悪の場合は支給された腕時計から救難信号を送れば良い。

 それよりも他クラスの情報を持ち帰ることの方が重要だと判断する。

 茂みから足を踏み入れ、オレたちは浜辺に侵攻した。

 ややして一人の男子生徒がオレたちの前に立ち塞がった。

 

「あっ、石崎(いしざき)くん。こんにちはっ」

 

 櫛田がにこやかに挨拶をしたが、石崎は無言で会釈(えしゃく)をするだけだった。

 彼は彼女にはそれから注意を向けることはなく、その代わり、オレを複雑そうな顔でじっと見てくる。

 

「……案内する」

 

 その言葉を言い残し、石崎は先を歩いた。

 遊んでいたCクラスの生徒たちは侵入者の存在に気付き始めていたが、オレたちに関わるつもりはないようだった。

 二つ分の視線を感じたのでそちらに目線を送ると、そこには小宮(こみや)近藤(こんどう)の姿が見受けられた。彼らも石崎と同様、複雑そうな顔になっている。

 オレと彼らの接点といえば、『暴力事件』での審議会で直接対決した時だけだ。

 彼らからしたら対応に困っている、そんなところか。

 石崎はオレたちを一人の男まで先導した。チェアーの背もたれに体を預けている男に声を掛ける。

 

「連れてきました」

 

「ご苦労」

 

「恐縮です」

 

「大事な客人だ。キンキンに冷えたドリンクを持ってこい。それと座る場所も用意しろ」

 

「分かりました」

 

 石崎は最敬礼してから、駆け足で砂の上を駆けて行った。

 程なくして、彼は二人分の丸椅子とジュースが入ったペットボトルを持って走ってきた。

 

「今から何人(なんぴと)たりともここに近付かせるな」

 

「承知しました」

 

 言うや否や、石崎は一定の距離の場所まで走り仁王立ちする。どうやら門番兵の役目を務めるようだ。

 小宮と近藤、そして屈強な体格を誇る男子生徒──確かアルベルト、と言ったか──が協力するようだ。

 人払(ひとばら)いを済ませた男はサングラスを外しながら。

 

「まずは座れよ」

 

 男がそう促してきたので、オレと櫛田は顔を見合わせてから石崎が用意した丸椅子に腰を下ろした。

 地面一面が砂で覆われている所為か足場が安定しないな。

 

「──歓迎するぜ」

 

 龍園はにやりといつもの獰猛な笑みを浮かべながら、オレたちにそう言った。

 オレは櫛田にアイコンタクトを送り、ここはオレに全て任せて欲しいと頼んだ。彼女は小さく頷き、体を椅子ごと少し後ろにずらす。

 

「久し振りだな、龍園」

 

「おいおい、お前は毎回その挨拶を口にしないと気が済まないのかよ、綾小路(あやのこうじ)

 

「そんなに毎回は言ってないと思うが……」

 

 首を捻ると龍園は鼻で笑った。

「うわあ……」と櫛田が小さく呟いた。

 その声を拾ったのか、龍園はさも面白そうに口元を歪ませて今度は愉快そうに笑う。

 

「お前は確か……櫛田だったか。おいおい。おいおいおい、綾小路。まさかお前が学年の女神(笑)を連れているとはな」

 

 明日の今頃は背中から刺されているんじゃないか? 奴はけらけらと嘲笑(ちょうしょう)する。

 それにしても……流石は龍園だな。まさか本人を前にして『女神(笑)』と口にするとは。

 背中から刺されるのはお前だろという言葉を呑み込むのに、オレは多大なる自制心を必要とした。

 

「龍園くん? だっけ? やだなー、もう。私は女神なんかじゃないよー。だからその呼び方はやめてくれないかな」

 

「ククッ。お前は面白いな。気に入ったぜ」

 

「ふふっ。ありがとうっ。私も龍園くんとは仲良く出来そうかなっ!」

 

 出会ってまだ五分も経っていなのに、心做しか、両者の間には溝が生まれたようだ。

 性格が合わないだろうことは何となく予想していたけれど、まさかここまでになるとは……。

 

「そいつがお前の『駒』かよ、綾小路」

 

『駒』という部分に櫛田は敏感に反応した。

 龍園も、そして櫛田もオレの一挙一動を見逃さないようにしている。

 オレは逡巡してから、龍園の言葉を否定した。

 

「違うな。桔梗(ききょう)はオレの『パートナー』だ」

 

 断言して訂正する。

 ()()は目を白黒させて唖然としているようだ。

 やがて、龍園は腹を抱えて大声で純粋に笑い始めた。

 

「ククッ、クハハハハッ!」

 

「何がそんなに面白いんだ?」

 

「これが笑わずにいられるかよ。綾小路。お前はいつか必ず後悔するぜ? 櫛田を『パートナー』ではなく、『使い捨ての駒』として選ばなかったことをなあ」

 

 それは龍園なりの忠告だったのかもしれない。

 彼は気付いているのだ。

 櫛田桔梗が抱えている『表』と『裏』の存在に。

 いや、それは違うか。オレが気付かせただけに過ぎない。

 この場にオレが櫛田を連れてきた時点で、彼は、オレと彼女の関係性について察した。ただそれだけの話だ。

 

「その話はまた今度にするとしてだ。龍園。これはいったいどういうことだ?」

 

「お前にしては珍しく具体性に欠けた質問だな」

 

揶揄(からか)うのはやめてくれ」

 

 懇願すると、『王』は気分を良くしたのかゆっくりと語り始めた。

 

「見ての通りだ。俺たちは夏のバカンスってやつを楽しんでいるのさ」

 

 傍にあったペットボトルのキャップを緩めながら、彼はそう言って白い歯を覗かせた。

 誇らしげに両手を広げ自らの偉業を伝える。背中越しに映るのは、確かに、『楽園』と呼んでも差し支えない光景だ。

 しかし────。

 

「……こんなことって……」

 

 櫛田が愕然(がくぜん)とするのも仕方がないことだろう。

 傍から見ていたら、『王』が取っている行動は愚行に他ならず、理解など出来るはずもない。

 彼は失望の眼差しを櫛田に送り、短く嘆息した。

 

「──()()()()()、とでも言うつもりか? だとしたらお前はDクラスに相応しい『不良品』だぜ?」

 

「……何を、言ってるの……!?」

 

「教師も言っていただろうが。今回の特別試験、そのテーマは『自由』だとな。配られたマニュアルにも常識の範囲内でなら好きに過ごして良い旨が書かれている。俺たちはルールの範囲内で楽しんでいるに過ぎないのさ」

 

「…………じゃあ龍園くんは、この特別試験で勝つつもりはないって言っているんだ」

 

「ハッ──どうして面倒臭い試験なんぞに真正面から臨む必要性がある」

 

 龍園のやり方はルール上は何一つとして問題ない。

 しかし、学校側の意図には乗っていないと言わざるを得ない。

 だが、彼はそれを分かっているのだろう。

 オレたち生徒に何が期待されているのか、何をして欲しいのか、彼はその全てを既に熟知しているのだろう。

 

「学校は最高の遊ぶ舞台を用意してくれたんだ。遊ばないとむしろ申し訳ないだろう? 最高だぜ? お前ら他クラスの奴らが飢えに耐え、暑さに耐えて『我慢』しているのを想像しながらキンキンに冷えたジュースを飲むのはなあ……」

 

 そう言い放ち、龍園はチェアーから立ち上がり大型のテントに向かっていった。

 特別に見せてやる、その言葉に従ってあとを追いかけると、テントの中には大量のダンボール箱がぎっしりと積まれていた。

 

「食料と水だ。これだけあれば早々に枯渇することはないだろうよ」

 

 言いながら、箱の傍にあるクーラーボックスから炭酸飲料の封を開けて喉を潤した。

 ぷはあと息を吐き口元を片手で拭う。

 

「どれだけのポイントを使ったのかすら、もしかして知らないの?」

 

「あ? ちまちま計算なんてしてられるかよ」

 

 狂っている、ひとによってはそのような感想を抱くかもしれないな。

 しかしここまでくれば、オレも、そして櫛田も龍園の策略、その一端を解明することが出来る。

 

「もしかして龍園くん……!」

 

「ほう……流石に分かるか。お前の想像通りだ」

 

「やっぱり、クラス単位で試験をリタイアするつもりなんだ……」

 

 桔梗は両肩を震わせてから瞑目した。

『王』の戦略。

 それは一年Cクラスに所属する生徒全員が特別試験を脱落すること。

 馬鹿馬鹿しいと一蹴することは出来ない。

 出来るか否かと問われたら充分に実現可能だ。

 現にDクラスからは高円寺(こうえんじ)六助(ろくすけ)という男が体調不良によって豪華客船内での静養が義務されている。

 とはいえ、これには問題が一つある。

 

「なら余計に有り得ないよ……。Cクラスにも当然、クラス闘争に前向きなひとがいるはず。まさか生徒全員が龍園くんの案に乗ったとでも言うつもりなのかな?」

 

 櫛田の指摘は正しい。

 こんな作戦とも言えないものに全員が賛同するわけがない。

 ところが、『王』は言葉に詰まるわけでもなく、それどころか、ますます笑みを深めるばかりだ。

 

「お前は前提を間違えているのさ。何故話し合いなんかを設ける必要がある? 何故一人ひとりの意見、そんなものを聞く必要がある? ──ああ、なるほど。これが民主主義だったらそうかもなあ。だがな、完全なる『平等』なんてものは訪れない。これはこの世の真理(しんり)だ。今の政治家を見てみろよ。民主主義の名の下に、選挙で選ばれた奴らは国民から(しぼ)りあげた税金で(ふところ)を潤すことで精一杯だ」

 

「……そんなことはないよ。確かに龍園くんの言うことは正しい側面もある。けれど政治家のひとたち全員がそんな考えを持っているわけじゃない。中には国を(うれ)いているひともいるはずだよ」

 

「そうだな。だがはたして、どれだけの数の人間がそんな殊勝な思想を持っていると思う?」

 

「……ッ!?」

 

 彼女は否定できなかった。

 龍園の言葉を違うと断ずることは口では簡単だろう。

 しかし他ならない櫛田桔梗だけはそれが出来ない。何故ならそれは『櫛田桔梗』という人格を否定することに繋がるからだ。

 

「もう一度言ってやる。完全なる『平等』なんてものはこの世には訪れない。未来永劫にだ。支配する者と支配される者。それがこの世の真理であり、覆ることはない。もし『王』に楯突(たてつ)く愚民がいるのなら、『王』は容赦なく断罪する」

 

 それはつまり、実際に『王』に謀反を起こした者がいたことを指している。

 一人か、二人か──あるいはそれ以上。

 

「断罪って……いったい何をしたの?」

 

「決まっているだろう。追放したのさ」

 

「追放……。クラスから追い出したんだ……」

 

 櫛田が絶句するその横で、オレは一人熟考していた。

 龍園の言葉を疑うことなく鵜呑みにするのならば、今回の特別試験で、Cクラスがポイントを得ることは無くなる。

 朝夕の点呼の際に出席しなければポイントが引かれ続けるからだ。ルール上、今回の特別試験でマイナスに陥ることはない。総合的なクラスポイントには直結しない。

 つまりCクラスは今回の特別試験でDクラスの『敵』にはなり得ない。

 

「だから綾小路。お前は勝手に暗躍するが良いさ。櫛田を使い、お前が望む展開にしてみせろよ。むしろ楽しみだぜ。お前の実力が分かるんだからな」

 

「お前はオレと戦いたかったんじゃなかったのか?」

 

 不可解な点はここにある。

 龍園はオレと雌雄を決したい思いがあったはずだ。

 何故ならオレたちは思考回路が似ているのだから。どちらが優れているのかを競いたいと思うのは当然の帰結。

 彼にはオレの事情を事前に説明してある。つまり、オレが前向きにクラス闘争に臨むことを、彼と、そして『彼女』には早い段階で伝えていた。

 ならば、今回の特別試験は彼にとって千載一遇の機会のはず──。

 

「今のお前と戦っても面白くも何ともない。勝敗に拘らずだ。お前が使える『駒』はそこに居る櫛田桔梗だけ。俺も充分な『手札』が揃っているとは言えない。そんな状態でお前と戦うと? ハッ──そんなの楽しくないだろうが」

 

 好戦的な笑みを形作り、龍園は瞳を爛々(らんらん)と輝かせた。

 そんな様子の彼を見てオレは確信する。

 目の前に居るこの男は特別試験を脱落する気なんてさらさらない。

 如何なる手段を用いるかは甚だ不明だが、彼にとっては、この試験はまだ『前哨戦』でしかないのだ。

 

「邪魔したな。帰らせて貰う。また会おう、龍園」

 

 丸椅子から立ち上がり、オレは別れの言葉を告げた。

 彼と次に会うのは恐らく試験最終日になるだろう。

 櫛田を連れて背を向けて立ち去ろうとすると、龍園がオレを呼び止めた。

 

「ひよりとは逢引(あいびき)しないのか?」

 

「……いや、今は良い」

 

 首を横に振って答えると、龍園は呆れたように。

 

「ぼっちのあいつを慰めるのはお前の役目だろうが」

 

「ぼっちって……流石にこの時期にもなれば、一人くらいは友達が出来ただろ」

 

「まあな。しかし残念なことに、その唯一の友人は俺に逆らって追放されたばかりだ」

 

 今度はオレが呆れてしまった。

 

 ──元凶はお前だろうに……。

 

 ため息を吐いていると、櫛田がオレの背中をぽんと軽く押した。

 

「行ってきなよ。私はここで待ってるからさ」

 

「……いや、流石にそれは悪いというか……」

 

「良いから良いから! ほらほら、女の子を待たせちゃ駄目だよ?」

 

 そう言いながら、彼女は今度は強く背中を押した。

 目で早く行けと命令してきたので、オレは後頭部を掻いてから、言葉に甘えさせて貰うことにした。

 龍園から居場所を聞いてみたところ、「知るかよ」というあんまりな返事がきたので、自分で捜すことに。

 

 ──居た。

 

 しばらく彷徨(うろつ)いていると、ようやく、それらしき影が視界端に微かに映った。

『彼女』は拠点からやや離れた場所に居た。

 木の幹に体を預け、朱色に染まった海面をぼんやりと眺めている。

 

「──椎名(しいな)

 

 反応するまでに、ややタイムラグが生じた。

 彼女はゆっくりと顔を見上げ──オレの姿を視認したのか──微かに微笑(ほほえ)む。

 

「おや、綾小路くんではないですか。ご機嫌よう。いえ、この言い方は何故かしっくりときませんね。こんばんは?」

 

「『ご機嫌よう』も『こんばんは』もあまり変わらないと思うぞ」

 

「そうかもしれませんね。──どうぞ」

 

 言いながら、彼女は自身の左隣の砂浜を叩いた。

 勧められるがままに腰を下ろす。

 

「ずっとこうしているのか?」

 

「ええ。本は持参することが出来ませんでしたから」

 

「飽きないのか?」

 

「ええ……」

 

 私は元々独りでしたから……、彼女はそう呟いた。

 オレは目を伏せ思考の渦の真っ只中に身を投じた。

 ここで同情するのは間違っているのだろう。

 彼女は助けを求めていないのだから。

 だから龍園の要望である『慰め』なんてものは不要だ。

 それからオレたちは時間が許すまで時を過ごした。

 ただただ水平線の果てを眺めるだけ。

 

「そろそろ行くよ。椎名はどうするんだ?」

 

「私はもうしばらくここに居ます。この光景を目に焼き付けておきたいんです」

 

「そうか。じゃあ、またな」

 

「ええ、またお会いしましょう」

 

 別れの挨拶を交わすと、それきり、彼女はオレに視線を向けることはしなかった。

 何事もなかったかのように、闇に染まりつつある世界の果てを見つめる。

 オレは腰を上げて来た道を戻って行く。踏み締めた足跡は、なかには上書きされているものがあった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 Dクラスの拠点に戻ったオレと櫛田は、すぐに異質な空気が川全域に流れていることに気付いた。

 嫌な予感を覚えながら中心部である焚き火に向かう。

 オレたち以外は全員戻っていたのか、クラスメイトたちはほぼほぼ集まっているようだった。

 

「清隆くん……! それに櫛田さんも! 良かった、無事だったんだね! なかなか帰ってこなかったから心配していたんだ!」

 

 洋介(ようすけ)安堵(あんど)の表情を浮かべながら、真っ先に、オレたちの帰還に気付いてくれた。

 彼の声に反応してか、他の皆も「おかえりー」と顔を綻ばせて言ってくれた。

 オレと櫛田が行動を共にしていたことを訝しむ生徒が出ると思っていたのだが、どうやら、彼らの関心は別のものに寄せられているようだ。

 

「改めてただいま、平田(ひらた)くん。ところで何かあったの?」

 

「そうだね……ちょっとあってね……。実際に見て貰った方が早いかな」

 

 洋介はオレたちを発生源まで案内してくれた。

 人集(ひとだか)りを抜けた先には一人の人物が居た。

 性別は女。髪色は花緑青で髪型はショートカット。体型はやや小柄か。

 このような女性はDクラスには居ない。となると、考えられるのはこの限定された状況なら一つだけ。

 彼女は他クラスの者だ。

 問題は──赤く()れた跡がある左頬。

 どんなに鈍い人間でも、それが人為的なものであることは分かるだろう。しかもかなり強い力で叩かれたことが窺えた。

 

「だ、大丈夫……!?」

 

 櫛田が慌てて駆け寄る中、オレは洋介に小声で尋ねた。

 

「彼女は?」

 

「一年C組、伊吹(いぶき)(みお)さん。どうやら、龍園くんと()めてクラスから追い出されたようなんだ」

 

 伊吹澪という少女の存在によって、Dクラスは新たな局面を迎えようとしていた。

 

 

 

 高度育成高等学校、特別試験二日目の八月二日。

 

 ・各クラスの拠点。

 Aクラス──洞窟。

 Bクラス──井戸。

 Cクラス──浜辺。

 Dクラス──川。

 

 ・各クラスの残存ポイント(但し、ボーナスポイントは含めない)。

 Aクラス──?

 Bクラス──230ポイント。

 Cクラス──?

 Dクラス──205ポイント。

 



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無人島試験──三日目《不穏な影》

 

 高度育成高等学校特別試験、三日目の八月三日。

 残しているのは205ポイントと、Dクラスはまずまずの成果を残していた。

 現時点でDクラスが確保した『スポット』はベースキャンプを含めて三つ。これは昨日、つまり二日目、リーダーである堀北(ほりきた)をはじめとした探索班の成果である。

 話を聞くと、それ以外にも二つ程見付けたそうなのだが、Bクラスに既に占有されていたとのことだ。

 こればかりは早い者勝ちなので仕方がない。もし次に占有したいのなら権限が切れる八時間を待つしかない。

 

「熟睡だな……」

 

 覚醒(かくせい)してむくりと上半身を起こし両隣を見ると、そこには深い眠りに(いざな)われている洋介(ようすけ)(けん)の姿があった。

 いや、彼らだけじゃない。テント内をぐるりと見渡せば、他の(みんな)も似たような感じだ。

 疲労が蓄積(ちくせき)されているのだろう。無理もないことだ。慣れない環境、慣れない生活、極め付きには特別試験の存在。この無人島でオレたちが直面するのはだいたいが『未知』のものばかりなのだから。

 

「外に出るか……」

 

 独り言を(つぶや)き、オレは友人たちを起こさないよう配慮(はいりょ)しながら寝室から出た。

 まずは占有している『スポット』を確認することにする。昨日と同様、堀北が夜中に起きて更新したのだろう、未だにDクラスが占有権を与えられていた。

 拠点の中心部である()()には、調理場に食材の保管庫といった様々な簡易的な設備が揃えられていた。出費は限りなく控えられているため、そこまでのダメージはない。

 オレは手頃な石の上に腰を下ろし、川の水面を眺めながら思案に(ふけ)ることにした。

 

「一年Cクラス、伊吹(いぶき)(みお)、か……」

 

 まず先に考えたのは、昨日からオレたちが一時的に保護することになった一人の少女のことだ。

 昨日の夕方、オレと櫛田(くしだ)はA、B、そしてCクラスの偵察に(おもむ)いた。それぞれのクラスでそれなりの収穫を得たオレたちが拠点に戻った時、そこには伊吹澪という女子生徒が居たのだ。

 洋介曰く、彼女はCクラスの『王』、つまり龍園(りゅうえん)(かける)に対して謀反(むほん)を起こしたらしい。

 一年Cクラスは龍園翔という『王』のもと、独善的な絶対王政が成り立っている。

 今回の特別試験に()いて、彼は試験を真面目に取り組むつもりがないらしく、支給された大量のポイントを『娯楽』に使った。

 肝心な説明がされず、さらにはクラスの共有財産であるはずのポイントを浪費され、伊吹は真正面から龍園にどういうことだと問い詰めたらしい。

 しかしそれでも『王』からは明確な理由が明示されなかった。

 彼女はそれが我慢ならず対立したが、何も出来ずクラスから追放された。

 彼女を見付けたのは山内(やまうち)沖谷(おきたに)の二人のようで、焚き火に使う枝集(えだあつ)めの帰りに、巨木の幹に身体を寄り掛からせる少女を発見したのだとか。

 今持っている情報で解釈してみるとしよう。

 主に二つのパターンが考えられる。

 一つ目は、伊吹澪が本当の意味でクラスから追放された、というパターン。良くよく記憶を(さかのぼ)ると、オレと彼女は一応の接点はあった。『暴力事件』が起こり、オレと龍園が初対面を装って学校の図書館前で遭遇した時、彼女は暴れる彼を(いさ)めていた。アルベルトと石崎(いしざき)が『王』の行動に口を挟まなかったのに、彼女だけはそうしていた。また昨日、『王』自身が自らに歯向かう者は断罪すると口にしていた。彼らの仲が悪いのは本当だろう。

 二つ目は、全てが『嘘』──つまり、伊吹澪が『スパイ』という可能性だ。彼女は実は龍園とは()めておらず、あの左頬の痛々しい怪我も、『(うそ)』を『(まこと)』にするためのカバーストーリーだとしたら……?

 しかし──そんなことが起こり得るのだろうか。

 一つ目にせよ、二つ目にせよ、どちらの可能性も(くる)っているとしか思えないものだ。

 

「……駄目だな……」

 

 一難去ってまた一難、と言うべきだろう。

 Dクラスにとっても、そしてオレにとっても『伊吹澪』という少女はいつ爆発するか分からない爆弾だ。取り扱いがとても難しく、慎重に事に臨む必要がある。

 

 ──面倒な案件を拾ってきたな……。

 

 山内と沖谷を責めるつもりはない。

 彼らがとった行動は(いささ)か軽率と言わざるを得ないが、それでも、損得を考慮しないで人助けを実行出来るのは素晴らしいことだ。

 まあ、そこら辺は昨日堀北から叱られていたから、部外者のオレが兎や角言うことではないか。

 

「一度招き入れた以上、今更、追い出すことは出来ないか……」

 

 人間とは不思議なもので、視えない概念──すなわち、『倫理(りんり)』というものに縛られてしまう。

 ひとを殺してはならない、ひとのものを盗んではならない、ひとを苛めてはならない。

 この『倫理』というものは不可視の(くさり)であり、身体に(から)まれているこれを断ち切ることは難しい。

 仮にオレたちが伊吹を見捨てた場合、それが最善だと理解していても、どうしても罪悪感は生まれるものだ。

 そうなれば今後にも悪影響を及ぼすかもしれない。

 

「まずは様子見が無難なところか──」

 

「何が無難なの?」

 

 突然背後から声を掛けられ、オレは両肩を震わせてしまった。

 どうにもここ最近、オレは(たゆ)んでいるな。

 もし『あの男』が今のオレを見たら何を思うのだろう。少なくとも落胆(らくたん)、あるいは失望に似た感情を抱くのだろう。

 しかしオレはそうは思わない。むしろ喜ばしく歓迎すべきことだろう。

 漏らしそうになったため息を抑え、オレは座位(ざい)のまま、上半身だけを振り向かせた。

 

「おはよう、松下(まつした)

 

「うん。おはよう、綾小路(あやのこうじ)くん」

 

 朝の挨拶を短く交わすと、彼女は体一つ分スペースを空けて、オレの右隣に腰を下ろした。

 川の水を両手で(すく)い上げ、そのままぱしゃりと顔に掛ける。

 

「冷たくて気持ち良いね」

 

 首にぶら下げていたタオルで顔を拭きながら、松下はそう言った。

 オレは気取られない程度に彼女を観察した。一つひとつの動作が重たく、そして(だる)そうに見えるのは気の所為ではないだろう。

 

「大丈夫か?」

 

「……え?」

 

「いや……疲れているように見えたから……」

 

「ああ、うん……。正直、疲れはあるかな……。綾小路くんは全然そうには見えないね」

 

「そんなことはないぞ」

 

 ところが、松下は訝しげな眼差しを送ってきた。

 どうやら彼女の目にはそうは映らなかったらしい。

 

「まあ、良いや。それで? こんな朝早くから、一人で何を考えていたの?」

 

 私に力になれることがあるなら遠慮なく言ってねと、数少ない友人はそう言ってくれた。

 オレは逡巡(しゅんじゅん)した。

 しかし一人では限界もあるか。自ずと視野が狭くなるし、ここは松下に相談相手になって貰うとしよう。

 

「昨日、山内たちが伊吹って女の子を拾ってきただろ」

 

「まるで犬を拾ってきたみたいな言い方だね……」

 

「……兎に角、その子について考えていたんだ」

 

 悩みを打ち明けると、松下は難しそうな表情を浮かべる。傍に転がっていた手の平サイズの小石を(つか)み、大きく振り被って水面目掛けて思い切り投げた。

 投石された小石は緩やかに落下し、ぽちゃんと微かな水音を立てて底に落下して行く。

 

「伊吹さんについて、誰かから聞いた?」

 

「洋介からは一通りの事情は聞いた」

 

「なら、先に私の考えを口にするよ。伊吹さんは『スパイ』だよ、ほぼ間違いなくね」

 

 オレは瞠目(どうもく)した。

 まさか彼女の口からそのような過激的な意見が出るとは思っていなかったからだ。

 口調や声音からして、冗談を言っているようではなさそうだ。

 

「どうしてそう思うんだ……?」

 

「明確な根拠があるわけじゃないよ。伊吹さんはここに来てから不自然な動きは一度たりとてしていないし、『スポット』にも近付いていない。それどころか率先してそうしているしね」

 

「じゃあ、何故?」

 

「逆に怪しいんだよね。何かこう……上手く言えないけど──女の勘ってやつかな」

 

 まさかの第六感(シックス・センス)だった。

 とはいえ、馬鹿馬鹿しいと一蹴することは出来そうにないな。

 

「他の女子たちはどんな感じだ?」

 

「うーん、意外にも皆、伊吹さんにかなり同情してるね。特に軽井沢(かるいざわ)さんとか櫛田(くしだ)さんとか、あとは篠原(しのはら)さんもかなあ」

 

 伊吹の左頬の『跡』が、彼女たちの同情心を誘っている。

 

「女子の大半は伊吹さんを擁護(ようご)する側に立っていると思う。隠すことなく警戒しているのは堀北さんくらい」

 

 堀北も注視しているか。

 ほんと、今回の特別試験は彼女にとって(つら)く厳しいものになるな。しかしAクラスを本気で目指すのならば、これくらいは乗り越えなければならないのだろう。

 そんなことを他人事のように思った。

 

「男子たちはどう?」

 

「そっちと似たような感じだな」

 

「……そっか。なら試験終了まで、私たちは伊吹さんと過ごすんだね……」

 

 昨日は突然のことで見送られたが、今日の朝の点呼が終わってから、様々なことを協議する段取りになっている。Bクラスとの関係についても含まれている。

 

憂鬱(ゆううつ)そうだな」

 

「憂鬱って言うか……ああ、うん、そうかもね。ご飯の時は伊吹さんの分も考慮しないといけないしさ」

 

 ひと一人分の食料を調達するということは、存外、難しいものだ。

 ポイントを消費することで賄うことも出来るが、それでも、支給されるのはDクラスの生徒だけであり、Cクラスの伊吹には配られない。

 これは昨夜の時点で確認済みだ。

 言い換えれば、これもまた特別試験のテーマである『自由』に沿()っていると言えなくもない。敵である他クラスの人間に手を差し伸べるか否かすら、オレたちは試されているのだ。

 

「綾小路くんはどう思う?」

 

 松下の問い掛けに、オレは迷うことなく即答する。

 

「松下と同意見だな。伊吹はかなり疑わしいだろう」

 

「……何が狙いなのかな」

 

「そこまでは分からないな」

 

 見当は無くはない。

 しかしまだ確信には至ってない。

 憶測の域を超えないものを言って混乱させない方が良いだろう。

 

「なあ、松下」

 

 静かに呼ぶと、彼女は僅かに身動ぎした。

 

「な、何……?」

 

「お前に頼みたいことがある」

 

 松下が何らかの反応を示す前に、オレは頼み事を口にする。

 内容そのものは簡単だ。

 彼女なら期待以上の成果を出してくれるだろうとも思っている。

 問題は……彼女がオレの依頼を請けてくれるかどうかだが──。

 

「分かった。それくらいだったら良いよ」

 

「助かる。お礼と言っては何だけど、試験が終わったらプライベートポイントを支払おうか」

 

 働きにはそれに見合うだけの賃金(対価)を渡すべきだ。

 特別試験の結果が反映されるのは九月からの振込(ふりこみ)になっている。基本的にDクラスの生徒は貧しい生活を送っているため、これなら彼女も喜んでくれるだろう──。

 ところが、松下は首を横に振った。

 

「ううん、ポイントは大丈夫」

 

 そういう事ならとオレは引き下がった。

 松下とは良い友人関係を築くことが出来そうだ。

 

 

 

 

§

 

 

 

 昼前。

 オレは一人でベースキャンプを離れることにした。昨日約束した、Bクラスの元に外交官として赴くためだ。

 歓迎されるのはオレと、そして櫛田の二人だけなので、彼女を連れて行こうとも思ったが、やめておいた。

 オレと違い彼女は人気者だ。

 男女問わず困り事を相談される。みーちゃんが浮かない顔で彼女に相談しているのを遠目に見てから、オレは、今日は単独行動をすることに決めた。

 櫛田にとってもその方が良いだろう。良くも悪くも──悪い方に傾いているが──オレはここ最近目立っている。そんなオレと連日行動を共にすれば彼女が疑われてしまう。

 それは避けなくてはならないことだ。

 高円寺(こうえんじ)から教わった空間移動を用いて木々の間を()うようにして飛ぶ。

 音を(ころ)しながら上空を駆け、程なくして、オレはBクラスの拠点である井戸に辿り着いた。

 

「ほんと、便利だな……」

 

 地上を歩くのとは全然違う。オレは想像以上の利便性に驚いた。

 これなら活動範囲が大幅に広がるだろう。

 周りに誰も居ないことを確認してから、着地し、オレはBクラスのベースキャンプに足を踏み入れた。

 当然、Bクラスの生徒たちは訪問者の存在に気が付くが、何も言ってはこなかった。

 それどころか井戸から汲んできた水を差し出してくれた。

 

「話は聞いています。今日は櫛田さんは一緒じゃないんですね」

 

 とある女子生徒の言葉にオレは頷いた。

 新鮮な液体を一気に飲み干し、一之瀬の所在を尋ねる。

 しかし彼女は数名の生徒を引き連れて朝から留守(るす)にしているようで、話を聞くところによると、いつ帰ってくるのか、正確な時間は分からないのだそうだ。

 

「お昼の時間なのでそろそろ帰ってくるとは思いますが……どうしますか?」

 

「ここで待たせて貰って良いか?」

 

 一度帰還するのも手だが、それだと入れ違いになってしまうかもしれない。

 なら確実な方を選んだ方が賢明というものだ。

 

「承知しました。それではこちらに来て下さい」

 

 名の知らぬ女子生徒はそう言って、近くのハンモックに案内してくれた。

 どうやらここで待っていろと、そういうことらしい。

 

「分かっているとは思いますが、あまりここからは動かないで下さいね」

 

 妥当で的確な指示だろう。

 いくら協力体制を築いたとはいえ、本質的にオレたちは敵同士。余計な火種(ひだね)を生むわけにはいかない。

 了承の旨を口にすると、彼女は律儀に一礼してから去っていった。

 特にやることもないので、Bクラスの様子を観察する。

 彼らの生活様式は基本的にはDクラスと同じなようで、各々、役割分担がしっかりとされているようだ。

 

「──やっほー、綾小路くん!」

 

 ぼーっと眺めていると聞き慣れた声が届いた。

 ストローベリーブロンドの美しいロングヘアが太陽の光を反射してきらきらと輝いている。

 一之瀬(いちのせ)は右手を挙げながらにこにこと近付いてきた。左手にはマニュアルが抱えられている。

 

「ごめんね、待たせちゃった?」

 

「いや、そんなには待ってないぞ」

 

 ここだけ切り取ればデートに赴くカップルの会話だが、残念なことにそんなことは未来永劫訪れないだろう。

 もし一之瀬に交際相手が出来たら、その彼氏は大量の嫉妬の眼差しを送られるんだろうな。

 心の中でそいつに合掌(がっしょう)してから、オレは神崎(かんざき)の姿が見られないことに気付いた。

 

「神崎は一緒じゃないのか?」

 

「うん。諸事情があってね。そっちも、櫛田さんは居ないんだね」

 

「諸事情があってな」

 

 そう返すと、一之瀬は何故か笑い出した。

 くすくすと声を立てて笑ってから、彼女は「隣、座るね」と言ってからオレの右隣に腰を下ろした。

 生地(きじ)に負荷が掛かり、微かにハンモックが揺れる。

 

「単刀直入に聞くけど、平田(ひらた)くんや堀北さんは何て言ってた?」

 

 一之瀬らしく、真正面から切り込んできた。

 彼女が尋ねているのは、協力体制、その詳細だ。

 

「これはDクラスの総意だということを先に伝えておく。まずだが、この協力関係がいつまで続くのか、という点だが──」

 

「うんうん、聞かせて」

 

「クラス闘争の序列が密接になった時でどうだろう」

 

 現在の序列はAクラスが頂点に位置し、それから、B、C、Dとなっている。

 これから先の未来、この序列が変わることがあるかどうかは分からない。しかし可能性としては充分に有り得る。

 そもそもの話、オレたちが協力関係を維持出来るのは、オレたちにとっても、一之瀬たちにとっても、互いが直近の敵ではないからだ。

 

「私もそれが一番良いと思うよ」

 

 同意を得ることに成功したオレは安堵の息を吐き出した。

 聡い一之瀬なら分かってくれるとは思っていたが、それでも、この項目を入れられたのは大きいだろう。

 

「次だが、オレたちは今後も、今回のような非常事態が起きると視ている」

 

「私たちもそれは同じかな。多分、二学期からは『特別試験』と名目が付くものが増えてくると思う」

 

「いくら協力体制を()くとはいえ、いつも味方でいられるとは思ってない。だからその時その時、今回のように協議する必要があると思っている」

 

「不満はないよ。一度規約を作っちゃうとそれに縛られちゃうだろうしね」

 

 オレたちはそこで自然と会話を断ち切った。

 ここまでは予定調和であり、次の議題こそが一番大事となる。

 

「もう一度告げるが、これはあくまでもDクラスの総意だ。そちらに不都合な点があったら遠慮なく言ってくれ」

 

「ううん、今のところは問題ないよ。──それじゃあ、今回の特別試験、私たちはどのような関係でいるべきかな?」

 

「Dクラスとしては、まずは情報の共有だな。具体的には試験五日目までの残存ポイントの報告。あとは予想外の出来事とかか」

 

 一之瀬はマニュアルの白紙ページを開き、オレの言葉をそのまま書き写しているようだった。

 綺麗な黒色の文字が領域を侵食していく。

 彼女を一瞥してから、オレは再び口を動かした

 

「次に──というか、これが最後だが──試験最終日についてだ。より具体的には──」

 

「追加ルール、その二つ目だね」

 

『追加ルール:Ⅱ』は以下の通りだ。

 

『─追加ルール:Ⅱ─

 ①最終日の朝の点呼のタイミングで他クラスのリーダーを当てる権利が与えられる。

 ②リーダーを当てることが出来たらひとクラスにつきプラス50ポイント。逆に言い当てられたら50ポイント支払う義務が発生し、さらには試験中に貯めた『スポット』のボーナスポイントも全額喪失する。

 ③見当違いの生徒をリーダーとして学校側に報告した場合、罰としてマイナス50ポイント。

 ④権利を行使するか否かは自由である』

 

 この追加ルールはとても大きい。

 他クラスのリーダーを当てさえすればエクストラポイントとして50ポイントを獲得出来、さらには、対象のクラスはボーナスポイントを全損失させることが出来るのだ。反面、外した場合はマイナス50ポイントのペナルティを受けることになってしまうが……。

 諸刃(もろは)(つるぎ)と言えるだろう。

 

「──つまり、互いにリーダーは当てないってことだね?」

 

「そういうことになるな。もちろん、50ポイントはとても大きい。一之瀬たちが拒否するならそれならそれで構わない。ただ言っておきたいのは、こっちは無記名で書く予定だ」

 

 権利を使うか否かはクラスの意志に委ねられている。

 いくら同盟を結ぶとはいえ、『ルール』を主張されたら仕方がない。

 その場合は追及することなく引けと、堀北から言われていた。

 

「なるほどね……『信頼』されるにはまず自分から『信用』する必要があると……。うん、良いよ。──その提案、私たちは正式に受理(じゅり)します」

 

 一之瀬は真っ直ぐオレを見つめた。

 オレ個人としてはその言葉を聞けただけでも充分『信頼』出来ると判断出来る。

 しかしこれでは他の生徒は納得出来ないだろう。

 

「……クラスのひとたちの意見を聞かなくても良いのか」

 

「大丈夫だよ。皆、分かってくれると思う。そもそも、私たちは偵察は向いてないからね。他クラスのリーダーを当てるなんて、ほぼ無理だと諦めていたんだ」

 

 ひとクラスでも至難の業だよと、一之瀬は苦笑した。

 仮に自分以外、つまり三クラスのリーダーを当てようと考えたら、確率はとても小さいものになる。

 数打てば当たるとは言うものの、これでは実質的には不可能だろう。

 だからこそ他クラスの情勢を探る必要がある。

 しかし当たり前だが人間には向き不向きがある。一之瀬たちにはそれが不向きだった、ただそれだけのこと。

 

「正直なところさ、守ることで精一杯かな。『スポット』を更新する時はほんと大変だよ。何十人もの生徒を動員して、誰が見ているか分からない、そんな不確定要素が強い森の中で更新するのはさ」

 

 やれやれだね、と一之瀬は疲れたようにため息を吐き出した。

 よせば良いのに、オレは堪らずに言ってしまう。

 

「……やっぱり大変か?」

 

「へ? 何が?」

 

「いや、クラスのリーダーは大変なのかと思って」

 

 すると彼女は迷いながらも答えた。

 

「大変かそうじゃないかと聞かれたら、一概には言えないかな。……ね、綾小路くんはさ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 その問いの意図が分からず、オレは思わず何度かぱちくりと瞬きしてしまった。

 どういうことだと目で尋ね返すが、一之瀬は前言撤回することはなく、じっとオレの顔を凝視してくるばかりだ。

 オレは目を伏せ、自分の内心を初めて一之瀬に吐露する。

 

「これはオレの本心だが、オレは一度たりとて、オレが、一之瀬が言う──『特別な人間』だと思ったことはない」

 

 自分のことを一番理解しているのは自分だ。

 だからオレは即答出来る。

 

 ──オレはそのような『出来た』人間ではない。

 

 すぐ隣では頷く気配が感じられた。

 

「私も、私も──綾小路くんと同じだよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。傲慢な言い方になっちゃうけど、クラス単位の力は弱まっちゃうだろうけどね。それだって許容内だよ。だからさ、それくらいなんだよ。一之瀬帆波(ほなみ)が抜けても一年Bクラスは上手く回る」

 

「断言、するんだな」

 

「もちろん。だって確信しているから」

 

 オレはこの時、一之瀬帆波という女性に対して、心の底から尊敬の念を覚えた。

 彼女という存在は皆を照らす太陽に近いのかもしれない。

 オレがじっと見つめると、彼女は恥ずかしそうに両手でわちゃわちゃと振った。

 

「こ、こほん。随分と遠回りしちゃったけど、きみの質問には答えられないかな。だってこれは、答えちゃいけないものだと思うから。ごめんね」

 

「いや、充分だ。とても良い話を聞けた」

 

 だからありがとうとオレが頭を下げると、彼女は「あー!」とか、「うー!」とか顔を両手で覆いながら言った。

 ややして小さな声で「……どういたしまして」と呟いた。それから頬を僅かに朱色に染めて、

 

「な、何だかなあ……。椎名(しいな)さんがきみに惹かれる理由がちょっと分かった気がするよ……」

 

「どういう意味だ……?」

 

 一之瀬は答えてはくれなかった。

 呼吸を数回繰り返してから、表情を改める。

 

「それじゃあ、条約に基づき、情報交換しよっか」

 

 お互いに自クラスが消費したポイントの概算を報告した。

 Dクラスの方がより多くのポイントを使っているが、それは高円寺の脱落も込みしてだ。

 それでも充分に射程内に位置しているのだから、接戦と言えるだろう。

 

「さてと、次はそうだねえ……あっ、結局、綾小路くんはA、Cクラスの拠点は見に行った?」

 

「昨日行ってきた」

 

「そっか。私も昨日と、そして今日、つまりさっき行ってきたんだ。次の議題はこれにしない?」

 

「ああ、そうだな。オレも相談したいと思っていたところだ」

 

 まずはAクラスから、双方の見解を話すことになった。

 昨日この目で見た光景をそのまま口にする。

 

「Aクラスは何をしているのか、その一切合切が分からないな。森に居る時だって食料の調達や『スポット』の更新くらいで、オレたちと大差ないだろう」

 

「やっぱり内部がどうなっているのか確かめる術がないのは辛いよねえ……。ほんと、葛城(かつらぎ)くんは良い場所を拠点にしたよ……」

 

「葛城とは面識はあるのか?」

 

「うーん、あんまりかなあ……。廊下ですれ違った時に挨拶を交わす程度だよ」

 

 櫛田といい、そして隣に居る一之瀬といい、どうやったらクラスの垣根を越えて未だに大勢の生徒と仲良く出来るのか知りたいものだ。

 

「今度は私からも聞きたいかな。綾小路くんは、Aクラスの実情を知ってる?」

 

「概要は理解しているつもりだ。葛城と坂柳がリーダーの座を争っているらしいな」

 

「いやー、調べてみるとかなり仲が悪いらしいね。けどなあ、葛城くんの情報は兎も角として、坂柳さんの情報はあまり芳しくないんだよ」

 

 そう言えば、龍園も似たようなことを言っていたな。

 仮にも葛城とやり合っているのだ、何かしらの行動はしているはず。

 この推測が正しいとすると、つまり坂柳は漏洩(ろうえい)する情報を限りなく少なくしているということだ。

 

「今のAクラスは葛城くんの指示の元で動いていると視て問題ないだろうね」

 

「その点については一之瀬の言う通りだ。偶然その話を聞く機会に恵まれたんだが、彼はその旨を坂柳派の生徒たちに伝えていた」

 

「切り崩すなら今だと思うんだけどなあ……」

 

 確かに、足並みが揃っていない現状のAクラスなら、上手くいけば痛手を与えることが出来るかもしれない。

 葛城は充分脅威に値する男だ。櫛田が『防衛』と表現するだけはある。

 常に冷静沈着な男を崩すということは、鉄壁の城に臨むということと同義だ。

 せめてどこかに付け入る隙があれば話は別なんだが……それも難しいだろうな。

 

「Aクラスは一旦置いておくとして。Cクラスはどう視る?」

 

「一般論を言うなら、理解不能、これに尽きるんだろうな」

 

「だよねえ……」

 

 困ったように片頬を掻いて、一之瀬は頭を抱える素振りを見せる。

 

「クラス全体を巻き込んでの脱落、かあ……」

 

「いや、どうやらそういうわけでもないらしい──」

 

 オレは一之瀬に説明した。

 伊吹澪という少女が『王』に対して謀反を起こし、失敗し、クラスから追放されたこと。そんな彼女をDクラスが保護していること。

 最後まで聞き終えた彼女は驚愕を(あらわ)にした。

 

「私たちも昨日、Cクラスの生徒を保護したんだ。金田(かねだ)くんって言うんだけど……」

 

 知ってる? そう尋ねられたが、オレは首を横に振った。

 名前自体は聞いたことがある。確か『王』の知将だったはずだ。あとは……、そう言えば、中間試験では椎名と同様、全ての科目で満点をとっていたか。

 

「金田くん、お腹を思い切り蹴られたみたいなの。(あざ)が酷くてね、放置するわけにもいかないから招き入れることにしたんだ」

 

「どうしてそうなったのか聞いているか?」

 

「……ううん、詳しいことは何も。ただ、龍園くんと揉めたらしくてね、それだけかな、分かっていることは。実を言うとね、神崎くんがここに居ないのは、言い方は悪くなっちゃうけど彼の監視をやって貰っているんだ」

 

「妥当な判断だな」

 

 龍園が大量のポイントを躊躇(ためら)うことなく消費したのも、そう言った側面があるのかもしれない。

 朝夕の点呼のタイミングで生徒が居なければ、その度にポイントは差し引かれる。一人ならまだ兎も角、二人にもなればその額は段々と大きくなっていく。

 それを防ぐためにあのような行動を……?

 となると、導き出されるのは、龍園は昨日の時点で全てのポイントを使い切った、ということになる。

 

浜辺(はまべ)にさっき行ったんだけどね。既に(もぬけ)の殻だったよ」

 

 せめて龍園くんに問い質したかったなと、一之瀬は怒気が込められた口調で言った。

 断罪された二人の反逆者。

 何故、どうしてと疑問が湧き水のように溢れ出てくる。

 

「Aクラスといい、Cクラスといい、ほんと、攻略するのは大変だよ」

 

 それでも一之瀬は、出来ないとは口にしなかった。

 確たる自信があるのか、それとも見栄を張っているのかは分からない。

 

「金田のことはどうするつもりだ?」

 

「クラスの皆と話し合った結果、試験終了まで一緒に暮らすことになったかな。流石にあんな大怪我を負わされているのを見るとね……。そっちは?」

 

「今朝、お前たちと同じような結果になった」

 

 クラスの九割が伊吹に対して同情していた。中には龍園をぶん殴ってやる! と豪語する者もいたくらいだ。

 オレは静かに腰を上げて、彼女と向き合った。

 

「今日はここで失礼するよ」

 

「りょーかい! こっちも何かあったらお邪魔させて貰うね」

 

「ああ、歓迎させて貰う」

 

 背を向けて歩き出そうとすると、一之瀬は「あっ、そうだ」と言ってからオレを呼び止めた。

 

「だめだよ綾小路くん、森の中を一人で歩いちゃっ。遭難するかもしれないよ」

 

「あー……、そうだな。肝に銘じておく」

 

 オレは彼女の言葉に曖昧に頷いてから、今度こそ立ち去った。

 自陣に戻る傍ら、思考を加速させる。

 もちろん、考えることはCクラスについてだ。

 Bクラスでは金田が。Dクラスでは伊吹が。

 一人だけだったらまだ確証は持てなかったが、流石に二人となると話は違ってくる。

 彼らは『スパイ』だ。

 少なくともオレはそう考える。

 

 ──松下の勘は当たっていることになるな……。

 

 ここからは彼らが『スパイ』だという前提で話を進めるとして、問題は、彼らの目的が何か、というところにあるな。

 その目的が判明した時、『王』の狙いも自ずと知ることになっていくだろう。

 




氏名 高円寺六助
クラス 一年Dクラス
部活動 無所属
誕生日 四月三日

─評価─

学力 A
知性 C
判断力 C
身体能力 A
協調性 E-

─面接官からのコメント─

『唯我独尊』を地で行く生徒である。これがなかったら文句なしのAクラス配属が決められていただろう。
中学校から送られてきた資料、また、たった一度の面接では彼の実力は推し量れそうにない。
『知性』や『判断力』がC判定なのはその影響を受けているからである。
兎にも角にも、性格の改善を求め、Dクラス行きとする。

─担任からのコメント─

性格については引き続き、根気良く指導する所存です。


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無人島試験──四日目《休息》

 

 高度育成高等学校特別試験、四日目の八月四日。

 (まぶた)を開けるとそこには見慣れつつある緑色の天蓋(てんがい)があった。

 熟睡している友人たちを起こさないよう細心の注意を払いながら外に出る。

 機械が埋め込まれている大岩に近付き、画面を視界に入れると、オレは息を鋭く呑んだ。

 

「限界が近いか……」

 

『スポット』は占有されていなかった。

 それが意味することはすなわち、これまで陰ながらボーナスポイントを得るために夜中に起き、占有権を更新していた堀北(ほりきた)が精神的、そして肉体的にも限界が近いことを表している。

 想定していたよりも大分早かったが、それは無理もないことだろう。

 堀北は今回の特別試験、並々ならぬ想いを抱えて臨んでいる。それは誰の目にも明らかだ。

 毎日のように森の中を探索して、『スポット』を見付け次第占有し、さらには教え子たちの相談にも応じようとしている。

 

「今日を入れてあと三日、最終日までもつかどうか──」

 

「何をしてるのかしら?」

 

 両腕を組んでそんな感想を零したところで、鋭い言葉が飛ばされてきた。

 発生源の方向に顔を向けると、そこには堀北が立っていた。

 

「おはよう。朝、早いんだな」

 

「……どの口がそれを言うの」

 

 じろりと睨まれる。

 普段だったら多少なりともこわ! と思うのだが、今の彼女を見ても感じることは何も無い。

 

「皆が起床するまであと一時間はあるぞ。二度寝でもしたらどうだ」

 

 堀北はオレの提言(ていげん)を聞き入れず、近くの木に身体を預ける。

 

「あなたと一度、試験中に話がしたかった」

 

「変なことを言うな。何度か喋っているだろ」

 

 オレが揶揄(からか)っても、彼女は眉間に(しわ)を寄せるだけだった。

 普段ならここで罵声の一つでも放たれるんだろうが……これは思ったよりも悪い状態なのかもしれない。

 それにしても……、まるで(はか)ったかのようなタイミングだな。

 偶然か、あるいは必然か──。

 

「単刀直入に聞くけれど、あなた、この特別試験で何がしたいの?」

 

 堀北は目を細め、オレの一挙一動を逃さないようにしているようだった。

 オレも彼女に(なら)い、数本離れた木に身体を預ける。ギシッと音を立てて揺れ動き、大小、数枚の葉っぱが(ちゅう)を舞った。

 

綾小路(あやのこうじ)くんと平田(ひらた)くんが協力しているのは分かる。けれど何を狙っているのか、それが分からない」

 

 オレと洋介(ようすけ)の関係性を伝える気はない。

 何故ならそうしたところで意味がないからだ。ただ一つ言えるのは、特別試験が終了した時、オレたちの目的は達成される、ということ。

 少なくとも、そうなれば良いなとオレたちは願っている。

 沈黙を貫くと堀北は嘆息した。

 

「……まあ、良いわ。その代わり、と言っては何だけど、これだけは聞かせて頂戴」

 

「答えられる範囲なら良いぞ」

 

「あなたは今回、クラス闘争に積極的に協力してくれている。これは間違ってないのね?」

 

「その解釈で間違ってない」

 

 結果的には堀北の言う通りになるだけだ。

 あくまでも茶柱(ちゃばしら)の要望を実行する必要があるから、オレはそうしているだけにすぎない。

 

「オレからも一つ聞かせてくれ」

 

「何かしら」

 

「堀北。お前、体調は大丈夫か?」

 

「──ッ!?」

 

 息を鋭く呑む気配が感じられた。

 その反応だけで図星だと分かってしまう。

 平生(へいぜい)の堀北ならこのような失態は犯さないだろう。

 

「……確信があるような口振りだったわね。いつから気付いていたの」

 

「最初から。厳密には、豪華客船上で最初の点呼を行った時からだな」

 

「そう……。そんなに早い段階で……」

 

 あの時、堀北のグループは客船のデッキに集まるのが一番最後だった。

 時間内だったとはいえ、優等生を地で行く彼女らしからぬ出来事だったと思う。

 担任教師の茶柱もオレと似たような感想を覚えたようだった。

 さらには乱雑に流されていた髪の毛。普段の身嗜みのレベルが高水準だったために気付いた者は少なかっただろうが、仮にも隣人だから違和感を覚えた。

 極め付きには、あの時、あの場にデッキに登場しなかったこと。あの『奇妙』な放送が流れても部屋から出なかった、これだけでもおかしいものだ。つまり彼女はベッドの上で睡眠をとっていたと考えられる。

 

「リーダーに推薦(すいせん)された時、断ればまだマシだったかもな」

 

 そしたらここまで疲弊することもなかっただろう。

 しかし堀北はオレの言葉に頷かなかった。

 

「……()()()()()()()()()()()()()。平田くんや軽井沢(かるいざわ)さん、櫛田(くしだ)さんは他クラスからとても注目されている。……反面、私はそこまで注視されていないわ」

 

「そうでもないだろ。地雷(じらい)を踏むようで悪いが、お前が現生徒会、その会長の妹であることは察せられることだ」

 

 それだけでも人々の関心を集めるというものだ。

 ところが堀北は自嘲の笑みを浮かべ、

 

()()()()()()()()()()()()()()()()。兄さんは……堀北(ほりきた)(まなぶ)は高度育成高等学校が創立されて以来、歴代最高の生徒会長と呼ばれ、全生徒から畏怖の念を集めているわ。その妹がDクラス所属(不良品)だなんて……期待外れにも程があるでしょう」

 

 オレは表情にこそ出さなかったが、内心、驚嘆していた。

 

 ──入学した四月とはまるで別人だな。

 

 そんな感想を抱いてしまうのも仕方がないことだろう。

 何せオレが観察していた堀北鈴音という少女は、基礎的なステータスは高いが、それを帳消しにする程の欠点を持っていたのだから。自らの短所を口にし、受け入れるのは並大抵のことではない。

 彼女は言葉を続ける。

 

「注視されていない私だからこそ──『不良品の巣窟』に埋もれている私だからこそ、他クラスの度肝を抜かせることが出来る」

 

 強い意志を込めた言葉だった。

 嗚呼(ああ)……堀北、お前は変わろうとしているんだな。

 彼女はこの試験で身を以て痛感しているはずだ。独りで出来ることの限界と、仲間の必要性を──。

 

「だから自身の体調が優れないのに、夜中、誰にも相談せずにここの『スポット』の占有権を更新していたのか」

 

 相談していたら、そいつは堀北をとめているはずだ。まあ、とめられたところでこいつが従うとは思えないが……。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それこそ──『不良品』と呼ばれ、(さげす)まれているDクラスにだって」

 

「そうだな。確かにお前の言う通りだ。王道を行くのなら、この特別試験は『我慢』をしたものが勝つように成り立っている」

 

 節制を心掛け、1ポイントでも多く残す。

 堀北の慧眼(けいがん)は物事をしっかりと捉えているだろう。

 

「『自由人』である高円寺(こうえんじ)くんだって、気紛れとはいえ協力してくれた。彼の活躍のおかげで、Dクラスは幸先が良いスタートを切ることが出来た」

 

「それがたとえ、プラスマイナスゼロの活躍でも?」

 

 ポイント面で考えれば、高円寺の行動は帳消しになる。

 

「クラス全体の士気を上げることが出来た。纏まりが絶望的になかったDクラスが、今は協力し合っている。彼はその切っ掛けになったのよ」

 

「そうかもしれないな」

 

 オレ個人としても、初日、高円寺と一緒に探索出来て良かった。

 豪華客船上で静養を義務付けられている彼は今頃、何をしているのだろう。そんなことを予想しようとして……やめておいた。『自由人』の行動なんて分かるはずもない。

 

「お前が勝ちたがっているのは理解した。その上で聞くが、伊吹(いぶき)についてはどう考えている?」

 

 尋ねると、堀北は押し黙った。

 顔を俯かせて唇を強く噛み思案する。

 ややして、彼女はおもむろに話し始めた。

 

「……正直なところ、伊吹さんについては分からないわ」

 

「分からない、とは?」

 

「言葉通りよ。様々な検証をしているけれど、憶測の域を超えないものばかりだわ」

 

 彼女は困惑しているようだった。

 人間は先入観といったものに影響を受けやすい。

 一度認識した出来事を改めるのは難しいものだ。

 

「綾小路くん。私は龍園(りゅうえん)くんとは直接的な面識はない。ただ噂くらいは耳に入れている。狡猾的(こうかつてき)で、凶暴な男。あなたは彼と(しゃべ)ったことはある?」

 

「何回かは。堀北、お前の認識は間違っていない。龍園は危険な男だ。伊吹が言っていることも嘘とは断言出来ないだろう」

 

 あくまでも客観的な視点から告げると、堀北は右手を額に当てた。

 

「けれど伊吹さんについては、そこまで危険視していないわ。何故ならCクラスは試験を脱落したのだから。Bクラスには金田くんが避難したそうだけれど、仮に彼らが私たちのリーダーを探り当てたとしても、精々が100ポイント。だったら真面目に試験を取り組んだ方が良いに決まっている。龍園くんもそれくらいは理解しているはずよ」

 

「そう、だな……」

 

 言葉に含みを持たせると、案の定、彼女は食い付いてきた。

 身体を木の幹から離してオレを直視してくる。

 

「綾小路くん、あなたが昨夜、クラスの皆の前で言ったのよ。まさか虚偽の申告をしていたのかしら。Cクラスがまだ戦場に残っているとでも?」

 

「まさか。何一つとして嘘は()いていないさ。報告通り、Cクラスのベースキャンプの『浜辺』は、一之瀬が教えてくれたように(もぬけ)(から)だったさ」

 

 一応はクラスの代表として一之瀬と正式な条約を結んだ後、オレは彼女の言い付けを破って浜辺に向かった。

 百聞は一見に如かず、この目で見ておきたいと思ったからだ。

 結果は言うまでもないだろう。

 

「ならやっぱり、Cクラスは『敵』として成立しないわ。それよりも……問題はAクラスよ。彼らが何をしているのか、そっちの方がCクラスよりも分からないから不気味ね」

 

 彼女としてはCクラスよりもAクラスの方が危険度は遥かに高いらしい。

 

「テントに戻るわ……」

 

 堀北はオレにそう言ってから自身の仮設テントに向かった。

 のろのろと緩慢とした動きは平生の彼女からは到底考えられないものだ。

 声を掛けるべきかと思ったが……やめておいた。

 堀北の決意は並々ならぬものだ。クラス闘争そのものに興味がないオレが気遣っても嫌味にしか聞こえないだろう。

 それに、本当に容態が悪ければ学校側も動くはずだ。そのために、二十四時間装着が義務付けられた腕時計がある。

 異変が感知されれば茶柱が駆け付けるだろう。さしもの彼女も、教え子の危機には重たい腰を上げるはずだ。

 

 

 

§

 

 

 

 朝の点呼が終わり、茶柱が教員用テントに入っていくのを見届けてから、洋介が声を張り上げた。

 

「皆、聞いて欲しい。今日は大岩以外の『スポット』の更新はやめようと思うんだ。試験四日目の今日は一日休みにしたいと思う。どうだろうか」

 

 突然のことに、皆、呆然とした。

 最初に我に返ったのは幸村(ゆきむら)だった。

 瞳孔を大きくさせて発言者に詰問する。

 

「平田、それはどういう了見だ!?」

 

 今にも胸倉を摑み掛かりそうな勢いだ。

 彼に続いて多くの生徒が声を上げるが、洋介は落ち着いた姿勢を崩さない。

 

「特別試験は今日で四日目だ。ここまで僕たちは良くやっていると思う。清隆(きよたか)くん……綾小路くんの報告によれば、あのBクラスとも接戦を繰り広げている。これはとても凄いことだと僕は思うんだ」

 

「なら尚更だろう! 接戦だからこそ、ここで休んだりしたら負けることになる! Bクラスだけじゃない、Aクラスにもだ!」

 

「……そうだね。幸村くんの主張は正しいと思うよ。けれど──」

 

 洋介は言葉を一旦区切り、クラスメイト全員の顔を見渡した。

 一度目を伏せ、瞬間、勢い良く開ける。

 そこには朝の堀北と同様、覚悟を決めた者の姿があった。

 

「けれど、皆、心身ともに疲れている。想定外の出来事に僕たちは順応しようしているけれど、そのペースが早すぎるんだ。このままじゃ誰かが倒れてしまう」

 

 クラスメイトたちの顔色は、お世辞にも良いとは言えなかった。大半の生徒は辛そうな表情を浮かべている。

 人間には恒常性(ホメオスタシス)と呼ばれる機能が備わっている。簡単に説明すると、生体を一定の状態に維持しようとする働きのことだ。流石にまだ、完全には適応していない。

 もちろん、なかには例外もいる。体力が自慢の(けん)はけろりとしているが、それは彼が日常的に体を鍛えているからに他ならない。

 

「……なら、休みたい奴だけ休めば良いだろ。俺は先を見通していたから、体力をまだ温存している」

 

 幸村の意見は一理あるだろう。

 実際、何人かの生徒も彼の言葉に賛同していた。

 だがしかし──

 

「幸村くん、それじゃあ駄目なんだ。誰かが休まなかったら、それはそのひとを犠牲にしていることになるんだよ。僕はそれだけは認められない」

 

 普段は友人の意見を優先にする平田洋介という男が、ここまできっぱりと言い放ったことに誰もが愕然(がくぜん)としただろう。

 対峙している幸村が半歩後退する程の覇気(はき)

 次の瞬間には収まり、そこにはいつもの平田洋介が居た。

 

「それに幸村くん」

 

 言いながら空いた距離を詰めて、洋介は幸村の顔付近に手を伸ばす。

 幸村が言葉を失っている時を見逃さず、洋介は掛けられている眼鏡を外した。

 

「意識していないかもしれないけど、きみもかなり疲れているよ。ほら見て、レンズが少し汚れている」

 

「あ、あぁ……」

 

「いつものきみなら、些細な汚れすら見逃さないはずだ。けれどこうなっているということは、余裕がないことを意味しているんじゃないかな」

 

 洋介はそう言ってから、ジャージのズボンから青色のハンカチを取り出して丁寧に眼鏡のレンズを拭いた。

 最後に汚れが無いことを確認してから、彼は「勝手にごめんね」と謝りながら持ち主に返す。

 傍観していた生徒たち、そして当事者である幸村でさえも何も出来なかった。

 

「幸村くんだけじゃない。皆、知らず知らずのうちに消耗しているんだ。もし無茶をして体調を崩して試験を強制的に脱落することになったら──そんなの、嫌だろう? だから皆、今日は夏のバカンスを楽しもうよ」

 

 異議を唱える生徒は誰もいなかった。

 こうして、一年Dクラスは特別試験を一時中断することになった。

 

 

 朝食を食べ終え、片付けも終わらせたオレたちは各々好きなように自由行動に移ることに。

 クラスメイトの大半は海で遊ぶようで、そうではない者は森の中に入り純粋に探索を楽しむようだ。

 

「なぁおい、清隆。ほんとに良いのかよ、遊ばなくてよ?」

 

 ちくちくとした雑草の上に腰を下ろし、木陰で涼んでいると、健が水着片手にそう尋ねてきた。

 オレは胡座(あぐら)をかいて彼を仰ぎ見てから、

 

「流石にベースキャンプに誰も居ないのはなあ……」

 

 閑散(かんさん)したベースキャンプを見渡す。

 皆、最初こそ戸惑っていたがやがて受け入れ、わずか十五分程で姿を消してしまった。その行動力は凄いものだと思う。

 

「誰かは留守番する必要があるだろう」

 

 拠点に残っているのはわずか数名で、それも、休息を必要とする生徒たちが主立っていた。女子生徒が大半で、そこにはみーちゃんや佐倉(さくら)、堀北も含まれていた。

 堀北の容態が悪いことには、まだ誰も気付いていないようだった。彼女がベースキャンプに残ると言っても、皆、堀北さんだからと疑問に思うことはなかった。

 兎にも角にも、健常者の一人くらいは看病役として、また、拠点を守る留守番役として残らなければならないだろう。

 

「けどよ……」

 

「大丈夫だ。オレは元々インドア派だからな。むしろ、こうしてゆっくり出来るのは久し振りだから楽なくらいだ」

 

 気にする必要はないと説く。

 ところが健は不満そうだった。何もオレがやる必要はないと思っているのだろう。考えが顔に出ているから分かる。

 このままだと彼もここに残ると言いそうだな。友人としては、バスケットのプロ選手を目指して日々練習に励んでいる彼が息抜きすることを望みたい。

 

「「おーい、早く来いよ──!」」

 

 どうしたものかと頭を悩ませていると、(いけ)山内(やまうち)たちの催促する声が届いた。

 

「ほら、呼んでるぞ」

 

「……分かった。わりぃな、清隆」

 

 申し訳なさそうな健にオレは苦笑を禁じ得なかった。

 こいつも堀北と同様、入学した時とは別人のようだ。

 去っていく健を最後まで見送ってから、オレは近くの木の幹に背中を預けた。

 特にやることもないのでぼーっと流れる雲を眺める作業に勤しむ。

 

「暇だな……」

 

 欠伸を噛み殺しながら呟いたところで、接近してくるひとの気配を感じた。

 誰だと思い視線だけそちらに向けると、そこには一人の少女が立っていて、オレを静かに見下ろしていた。

 

「隣、座っても良いか」

 

「……どうぞ……」

 

「……」

 

 伊吹はオレの右隣に無言で腰を下ろした。他クラスの生徒の伊吹も、自然とこの場に残っていたようだ。

 ひと三人分のスペースを空けて、彼女はこちらを見て尋ねてくる。

 

「お前が綾小路、で良いんだよな……?」

 

「そうだが……」

 

 それがどうかしたのかと目で問うと、彼女は視線を外して青と白のキャンパスを凝視する。

 疑問は持つけれど、どうしても解消したいことじゃない。それに聞いたところで教えてくれるとも分からない。

 面倒に感じたオレは、いつしか、ゆっくりと襲い掛かって来た睡魔に身を委ねようと──

 

「ひよりがお前のことを話していたから、前々から気になっていたんだ」

 

 したところで、意識を覚醒させた。

 ごつごつとした背板から上半身を剥がし、今度こそオレは、彼女と会話をする姿勢をとった。

 

椎名(しいな)のことを知っているのか」

 

「知っているも何も、同じクラスだから。それに……あのクソみたいなクラスで唯一の友達だし」

 

「へぇー……」

 

 オレは思わず惚けてしまった。

 龍園が言っていた、椎名のクラス内での唯一の友達。それは横に居る伊吹だったのか。

 彼女はオレの反応が気に食わなかったのか、眉間に皺を寄せる。

 

「なに、何か文句でもあるの?」

 

「いや、全然」

 

 首を横に振って否定する。

 そうすると伊吹も引き下がらざるを得ず、不満そうにしながらも追及を控えた。

 代わりに彼女は話題を少し変えて話し掛けてきた。

 

「あいつ、変わってるだろ」

 

「マイペースだとは思う」

 

 同意すると、彼女は気を良くしたようだった。

 

「綾小路、お前のことは時々だけど話題に出ていた」

 

「さっきもそんなことを言っていたな。……たとえば?」

 

「色々」

 

 聞きたいところをはぐらかされてしまった。

 でもそうか、椎名にも友達が出来たのか。そのことが自分のことのように嬉しく思ってしまう。

 と、オレはあることに遅まきながら気が付く。

 

「あー……悪かったな」

 

「悪かったなって……なんのこと?」

 

 謝れる謂れはないと首を傾げる伊吹に、オレは言葉を続けた。

 

「ほら、島に上陸する前、椎名を独占しちゃっただろ。一緒に船内を見たかったんじゃないかと思って」

 

 すると彼女は、一瞬、真顔になってから、

 

「はあ──」

 

 と心底呆れたようにため息を零した。

 目を白黒させてしまうオレに、伊吹は嘆息してからこちらを睨んでくる。

 

「あんたね……ここ最近仲良くなった私より、入学当初から仲が良いあんたを選ぶのは当然のことでしょ」

 

「……そうなのか……?」

 

 この時ばかりは伊吹の言っていることが分からなかった。

 確かにオレと椎名は仲が良い、と思う。そう言った目で見られることにも慣れてしまっている。

 しかしながら、孤独体質を何気にここ最近は気にしていた彼女が、ようやく出来た同性の友人よりもオレを選ぶのだろうか。

 

「ひよりも変わってるけど……お前も変わってるな……」

 

 類は友を呼ぶんじゃないの、と伊吹はここで初めて、薄いながらも笑みを浮かべた。

 

「どちらにせよ、私はトレーニングルームで体を鍛えていたからな。だから綾小路が私に謝る必要はない」

 

 武道でも嗜んでいるのだろうか。

 まるで健のようだなと、そんな感想を抱いた。

 会話が途切れ、天気を観察することに夢中になる。

 そのまま数分が経過したところで、オレは意を決して地雷を踏むことに決めた。

 

「お前、龍園と揉めたんだって?」

 

「……ッ!?」

 

 息を呑む気配。こちらを鋭く睨む気配。

 しかしオレは伊吹を一瞥することすらなく、西空を眺めていた。

 

「オレも、椎名とクラスを超えた友人関係を築いているから、龍園とは何度か面識がある。あいつ、結構、無茶をするよな」

 

 話していて分かった。

 伊吹はオレと龍園が繋がっていることを知らない。

 だから今朝の堀北と同様、あくまでも客観的な視点で話を進める必要があるだろう。

 

「……無茶なんてものじゃない。やる事成す事滅茶苦茶する奴よ」

 

 まるで親の仇の話をするように、彼女は苛立(いらだ)たしげに手元の雑草を右手で引き抜き、躊躇うことなく握り潰した。

 ぐしゃっとした音が出され、まるでそれは、雑草の断末魔(だんまつま)のようだった。

 

「なあ……龍園は本当に誰の意見を聞くこともせずにあの策を講じたのか?」

 

「『策』なんて立派なものじゃない。あいつは……あいつは自分のことしか考えていないのよ」

 

「しかしそれでも一定の支持はある。違うか?」

 

 そうでなければ、もっと大勢の生徒が謀反を起こしているだろう。

 ところが伊吹は「それは違う!」と、強く否定した。

 

「あいつは支持なんかされていない。ただ……Cクラスがクラス闘争で勝つためには、龍園が必要だから。だから皆従っているだけにすぎない」

 

「龍園のことは嫌いか」

 

「当たり前でしょ。誰があんな奴を好きになると思う?」

 

 何を言ってるんだお前はとばかりに言われてしまったら、オレはこくこくと頷くしかない。

 ちょっとだけ龍園に同情する。よくもまあ、ここまで嫌われるものだ。ある意味尊敬もする。

 あの堀北だって、ここ最近は櫛田に対しても態度が柔らかく──なってないな。一貫して同じだった。

 

「でも龍園の総合的な能力は評価しているんだな」

 

「……認めたくないけどな。手段はお世辞にも褒められたものじゃないけれど、仮にも『王』として即位するだけはある」

 

 武道に長けた伊吹だからこそ、人間的に好きかどうかは置いておくとして、龍園の異才を認めているのだろう。

 その姿勢は個人的には好ましく映った。

 

「──でも、だからこそ……! だからこそ、自分勝手に行動するあいつが許せない。せめて何らかの説明をしてくれたら、まだ話は違う。けどあの男は──!」

 

 このまま放置したら龍園を殺しに掛かりそうな勢いだ。

 

「取り敢えず落ち着けよ。怒ったところで龍園は今頃客船内だ。無駄なエネルギーを消費するだけだ」

 

 それだと龍園に益々笑われるだけだぞと(さと)せば、伊吹は舌打ちしてから矛を収めた。

 彼女は新鮮な森の空気を吸い込んだ後に、オレに気遣うような目線を送ってきた。

 

「ひよりのことはどうするつもりなんだ?」

 

「どうするもこうもないだろう。椎名が拒むなら話は別だが、基本的には今までのように付き合っていく予定だ」

 

 彼女の目をしっかりと見て宣言すれば、伊吹は安心したのか「そうか」と頷いた。

 どうやら椎名のことを心配してくれているらしい。良い友達を持ったなと思い……傲慢な考え方を猛省する。

 実際のところ、龍園に対しては、今のところはそこまでの害はない。友好的な付き合いを望むと彼本人から言われているし、オレも、出来ることなら争いは回避したい性質の持ち主だ。

 仮に直接対決するとしても、卒業間近が濃厚だろうか。

 

「それにしても……さっきは驚いた。まさか丸一日を休みにするなんて……。平田? だったか。随分と思い切ったことをするんだな」

 

 感心半分、呆れ半分といった具合に、伊吹は呟いた。

 洋介のこの判断が正しいかどうかはまだ分からない。

 少なくともBクラスとはボーナスポイントで差が出てしまっただろう。占有していた『スポット』のいくつかは他クラスに占拠されているかもしれない。

 

「もしかしたら自分が遊びたかったかもしれないな」

 

 他クラスの人間は思ったことをそのまま口にする。

 

「今日の休みは、建前としては疲れた体を癒すためのものだろ。でも実際に休んでいるのはごく数名だ。平田もここには居ない。きっと遊んでいるんだろうさ」

 

 否定はしない。事実その通りだからだ。

 洋介の指示にどうしても納得が出来なかった生徒の何人かは、森を純粋に探検するという名目を使って、『スポット』を探しているだろう。

 

「発言者がここに残らないのは筋が違うんじゃないのか」

 

 オレは最後まで何も言わなかった。

 彼女の発言は一理あるからだ。

 ただ……オレだけは知っている。

 洋介が何故強引にあの案を通したのか、そして何故、平田洋介らしくない行動をしているのかを──。

 

「一日中留守番するつもりか?」

 

「そのつもりだが」

 

 Bクラスには報告をするために赴く必要があるが、それだって、すぐに終わることだ。昼飯の時間には全員が集まるので、その時間帯に行けば滞りないだろう。

 外で遊ぶことそのものには忌避感はないが、今後のことも考えると体力は温存しておきたい。

 明日からは櫛田と一緒に『偵察』──ではなく、『攻撃』に移行するつもりだからだ。

 特別試験が始まってから今日で四日目。

 オレなりに学校側の意図を推測してみた。

 テーマが『自由』の今回の無人島生活、特別試験。

 これを内訳すると、八割はクラス内に於ける協力関係の有無を確かめられている『守り』の試験。残りの二割は他クラスに対する偵察、情報収集能力を問われている『攻撃』の試験だと判断する。

 仮説が正しいとするならば、今のDクラスは『守り』はほぼ満たしていると判断しても良いだろう。度々諍いが起こることもあるがそれも小規模で、すぐに沈静化している。洋介が口を挟む機会も減ってきているから、これは疑う余地もない。

 しかし『攻撃』はと聞かれると微妙なところだ。『守る』ことに精一杯なDクラスで、他クラスの情勢を調べているのはオレと櫛田の二人だけ。

 人員をもう少し割いて欲しいのが本音だが、かと言って、これ以上は望めないだろう。

 洋介がオレと櫛田に特別な役割を与えなかったのは──今は外交官としてBクラスとやり取りをしているが──瞬時に、『守り』よりも『攻撃』の方が重要で、試験の結果がより大きく左右されるだろうと気付いたからに他ならない。

 Dクラスが最上の『勝利』を摑むために、オレもそろそろ、本格的に動くとしよう。

 



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無人島試験──五日目《嵐は唐突に訪れる》

 

 特別試験、五日目の八月五日。

 いつもと同じ時間に意識を覚醒(かくせい)させたオレは、しかし昨日までのそれとは違い寝室から出ることはなかった。

 その代わりに、すぐ傍で寝息を立てている洋介(ようすけ)……の、枕元に置いてあるマニュアルに手を伸ばす。

 一通り目を通したとはいえかなり大雑把(おおざっぱ)だったから、確認を込めて読み直したいと前々から思っていたのだ。

 特別試験の概要や追加ルール、ポイントで購入出来る道具類(アイテム)や食材などのカタログを吟味する。

 この前オレは、この特別試験の内訳を、『守り』八割、『攻撃』二割だと判断した。

 この考えを改めることはない。ルールを熟読すればする程に、オレの推測が的を射ていることを確信していく。

 それでは『守り』と『攻撃』とは何なのだろうか。まずはこれをしっかりと定義(ていぎ)する必要があるだろう。

 今回の特別試験に()いて、『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そのためにはクラスメイトとの協力が必要不可欠だ。それ故に、クラスの統率力が高い程にこの『守り』はより強固(きょうこ)なものになる。

 しかしこれだけではこの特別試験は勝つことが出来ない。どのクラスも必要最低限やる事だからだ。

 それ故に『攻撃』にこそ勝敗を握る(かぎ)がある。

 それでは『攻撃』とは何なのか。

 ここまで聞けば(おのず)ずと答えは出るだろう。『攻撃』とは他クラスのリーダーを的中させること。言い換えれば、『()()()()():()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 エクストラポイントを獲得することが出来るか、あるいは、他クラスがペナルティを負うように誘導するかが、最終的な結果に繋がる。

 

 BクラスとDクラスは正式に同盟を結んだために相互攻撃することはないが、A、そしてCクラスは可能だ。

 しかしそれすらも一筋縄(ひとすじなわ)ではいかないだろう。

 Aクラスは隠密性(おんみつせい)が極めて高い洞窟(どうくつ)を拠点に定めているし、Cクラスは大半の生徒が試験そのものを脱落(リタイア)しているために『攻撃』を仕掛けようにも相手がいない。保護している伊吹(いぶき)に聞いても有益な情報は摑めないだろう。

 特別試験は今日を入れて残り三日。いや、最終日は朝の点呼が終わり次第浜辺に集合するため、実質的にはあと二日と視た方が良いだろう。

 

 ──少し急ぐ必要があるかもな……。

 

 本音を言えば独りで行動したい。櫛田(くしだ)と、元々、行動を共にする予定だったとはいえ、二人だと行動範囲に制限がついてしまう。

 それが女の子だったら尚更だ。彼女は女性の中では運動神経は比較的良い位置にいるが、流石に、男性には勝てない。

 これが高円寺(こうえんじ)(けん)、洋介だったら文句なしだったのだが、まあ、こればかりは仕方がない。皆、自分がやるべき事をしっかりと(まっと)うしているのだ。不満を言ったところで意味はないし、それは彼らに対する冒涜(ぼうとく)だろう。

 マニュアルを読み進めていくと、何も書かれていない、空白のページに辿り着く。最初は五ページあったこれには切り取られた(あと)がいくつか残っていた。

 

「──あれ……、もう起きていたんだね?」

 

 隣で寝息を立てていた洋介が目を擦りながら起き上がった。

 目が合うと爽やかなイケメンスマイルをオレに向け、「おはよう、清隆(きよたか)くん」とこれまた爽やかに小声で挨拶をしてくる。

 オレもまた小声で「おはよう、洋介」と挨拶を返した。

 彼は意識を切り替えることをすぐに成功させたようで、オレが抱えている分厚い書物に気付き、訝しげな視線を送ってきた。

 

「何か気になることでも書いてあった?」

 

「いや、改めて、ルールとか購入可能なものを確認しておこうと思ってな」

 

「ああ、なるほど。基本的には皆が目に付く場所に置いているからね。じっくり見ようと思ったら今の時間くらいしかないよね」

 

 マニュアルは、いつ、誰でもが確認出来るようにベースキャンプの中心部である焚き火近くに設置したテーブルの上に保管されている。

 何か困ったことがあったらすぐに閲覧出来るようにという配慮がされているわけだ。

 しかし暗黙の了解というか、これには制限時間があったりする。長い時間その場に居たら、拠点で洗濯やら食器洗いやらと雑事をこなしてくれている生徒から「あいつ何してんの」という目で見られるのだ。

 それはオレの望むことではない。これ以上の悪目立ちは回避したいところだ。

 ぱたんと閉じてから、オレは洋介にマニュアルを返した。

 

「あれ、もう良いのかい?」

 

「洋介が起きる前から読んでいたからな。それだけの時間があれば充分だ」

 

「ああ……なるほど。清隆くんは暇な時間があればいつも読書してるから、読むのがひとより早いのかもしれないね」

 

 言われてみればそうかもしれない。

 高度育成高等学校に入学する以前も読書はしていたが、現在は比較にならないくらいに本を読む機会に恵まれているな。

 一般的な学生よりは、オレが制覇した書物の数は多いだろう。

 

「全校生徒の中でも、かなり上位に位置すると思うよ」

 

「それなら、椎名(しいな)は最上位に近いだろうな」

 

 彼女程の読書中毒者は中々居ないと思う。

 乗船する際に配られたパンフレットによると豪華客船には簡易的ながらも図書館があるようだった。椎名のことだ、きっと既に訪れているだろう。

 オレも気になるから、試験が終わったら誘ってみるか。

 

「清隆くんは、椎名さんのことが余程大切なんだね」

 

「……どうなのかな……」

 

「意識してないかもしれないけれど、きみは彼女のことを特別視しているよ。間違いなくね。僕にはそれが分かるんだ」

 

 洋介はそう言って、オレに優しく微笑み掛けた。

 何故だか無性に恥ずかしくなったオレは、友人の目線から逃れ、適当な方向を向いてしまう。

 目を泳がせるオレに、彼は言葉を続けた。

 

「……クラスメイトたちは変わりつつある。四月とは別人だと思えるようなひともいる」

 

 やや大きな(いびき)をかいている、嘗ての不良少年をオレたちは真っ先に見た。

 あれ程嫌っていた勉強にも意欲を出し始め、バスケットのプロを目指して日々努力している。クラスに馴染めなかった──馴染もうとしなかった男の姿はそこにはなかった。

 

須藤(すどう)くんだけじゃない。皆、ゆっくりと自分のペースで良い傾向に変化が生じている。けど僕は清隆くん。きみが一番変わったと思っているんだ」

 

「……」

 

「嘘じゃないよ。こんなことで嘘は吐かない。少なくとも僕はそう思うんだ」

 

「どうしてそう思うんだ?」

 

 静かに問い掛けると、洋介は困ったように片頬を掻いた。

 しばらくして、オレの友人は(かつ)ての胸中の想いを打ち明け始める。

 

「きみと初めて会った時、僕はきみに対して親近感を勝手に抱いたんだ」

 

「親近感?」

 

 思わず首を傾げてしまう。

 オレと洋介に、そのような共感出来るものは特になかったはずだ。

 逆にオレは、率先してクラスを纏めあげようと臆することなく挑戦する彼に尊敬の念を覚えた程だ。

 今でこそオレたちは対等な友人関係を築けているけれど、四月の時点では対等とは縁遠いものだった。

 それも当然のことだろう。

 片方は性格が良く爽やかなイケメン、もう片方はただただ根暗い影が薄い一般生徒だ。

 あの時のオレたちに似通った部分は一片たりともなかった。

 訝しんでいる間にも洋介の告白は続く。

 

「何て言ったら良いのかな……今の『平田(ひらた)洋介』は本来の僕じゃないんだ」

 

「……二重人格とでも言うつもりか?」

 

 二重人格とは一人の人間が全く違う別々の人格を二つ所持していること。

 二重人格の代表として挙げられるのは、1885年に執筆され、翌年の1886年にロバート・ルイス・スティーヴンソンが著した『ジーキル博士とハイド氏』だろう。通称は『ジキルとハイド』だろうか。

 物語を簡略的に説明すると──医者のヘンリー・ジキルは病んだ父親のため、何より、人類の幸福と科学の発展のために『人間の悪と善を分離する薬』の研究を進め、ある日、彼は薬の開発に成功した。しかしセント・ジュード病院の最高理事会のメンバーである上流階級の面々に神への冒涜であると批判され、人体実験の申し出を断られる。婚約者との婚約パーティーの帰り、彼はとあるパブで美しい娼婦(しょうふ)と出会い、たった一つの解決策を見出した。

 ──薬を自分で試す。

 ジキルは『人間の悪と善を分離する薬』を己自身に投与(とうよ)した。

 実験は成功し、ヘンリー・ジキルという一人の人間の身体には、『善の人格であるヘンリー・ジキル』と『悪の人格であるエドワード・ハイド』という、相反(そうはん)する二つの人格が芽生えた。ちなみに、エドワード・ハイドの『ハイド』とは英語の"hide"が掛けられているという。

 ジキルからハイドに変身した男は、最高理事会のメンバーを躊躇うことなく殺し始める。

 主人格であるジキルの支配も揺らぎ始め────

 洋介は小さく首を横に振り、オレの懸念を否定した。

 

「二重人格なんて、そんな大層なものじゃないよ。──昔の僕がきみに似ているんだ。昔の僕はクラスの中心的人物なんかじゃなかった。どらちかというと、日陰の存在だったんだよ」

 

 そこまで聞いて、オレは洋介が言う、『親近感』の正体を知った。彼は多分、オレを通して嘗ての自分を視ていたのだろう。

 

「日陰の存在だった僕だったけれど、不満な点は何も無かった。むしろ当時の僕は、いわゆる、『リア充』なんてものには未来永劫なれないなと思っていたくらいだったんだ」

 

「……でも今のお前はそうなっている」

 

「うん、そうだね。狙ってやったこととはいえ、僕自身、ここまでやれるとは思ってなかったかな」

 

 つまり、何らかの『切っ掛け』があったのだと考えるのが妥当だろう。

 日陰に居て満足していた者が陽射しを浴びる者になろうとする理由。

 女子から注目されてモテたいとか、そんな理由ではきっとないだろう。

 洋介は言った、嘗ての平田洋介(自分)綾小路清隆(オレ)は似ていたと。

 なら導き出されるのは一つだけ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「何があったんだ……?」

 

 尋ねると、洋介はひどく辛そうな表情を浮かべた。

 悔悟(かいご)、後悔、負い目、罪悪感──数々の自責の色がありありと彼の顔に(いろど)られ、そこには、柔和な笑みを常に携えている好青年の姿はどこにもなかった。

 

「僕は、僕は────」

 

 自らが犯した罪が断罪されるのを恐れるように、あるいは──期待しているように──少年は震える唇をおもむろに動かし始め……

 音が紡がれる直前、外界から怒鳴り声が伝わってきた。

 

「ちょっと男子! 今すぐに起きて!」

 

 オレと洋介は会話を中断させ、口を閉ざして無言で互いの顔を見合った。

 声主は女性だろうか。声音からして怒っていることが窺えるが……状況が全くもって分からない。

 

「早く起きなさいよ!」

 

 二回目の怒声。今度は彼女の声に従って、他の女性の声も投げられてきた。そのどれもが起床を催促するためのものであり、どうやら彼女たちは仮設テントから出ることを所望しているらしい。

 

「うっせぇなー……!」

 

「まだ起きるには早いだろ……」

 

「なななな何だ!? 地震か!? 天変地異なのか!?」

 

 クラスメイトたちが不平不満を言いながら(まぶた)を開け始める。

 熟睡中に無理矢理起こさせられたのだ、皆、とても気が立っていた。

 

「皆はここで待っていて欲しい。僕が事情を聞いてくるよ」

 

 言うや否や、洋介は身嗜みを軽く整えてから仮設テントを飛び出して行った。

 ちらりと覗いた横顔はとても強張っていた。

 

「いったい何なんだよ……まだ眠たいのによ……」

 

「分からないな。まずは洋介を待つとしよう」

 

「お前はこんな時でも落ち着いてんな……」

 

 健が感心したように言った。

 

「慌てたところで何も好転しない。なら最初にやるべき事は平常心を持つことだろう」

 

 オレは他のクラスメイトにも聞こえるよう、やや大きめな声を出した。愚痴を漏らしていた生徒や、混乱していた生徒はオレの言葉に納得したようだった。

 慣れないことをするものではない。少し痛めてしまった喉に手を当てて調子を戻していると、健がオレの水筒を渡してきた。

 

「ありがとう」

 

 礼を告げてから唇を湿(しめ)らせる。

 室内は異様な静寂に包まれて行った。状況を摑むため、外で女子生徒と話しているだろう洋介の動向を知るために耳を澄ます。

 

「どうして──そんな────有り得ない!」

 

「でも──平田くんは──安心して────連れてきて!」

 

 しかしどれだけ集中しても、断片的な音しか拾うことが出来そうになかった。というのも、女子生徒たちの声が幾重(いくえ)にも重なっていて、彼女たちが何を言っているのか聞き取れなかったからだ。

 現状分かっていることといえば、何故だが知らないが多くの女子生徒たちが怒り狂っていることだけだ。

 

「これ、やばくね……」

 

 誰かがそう、小さな声で呟いた。

 何が具体的にやばいのか、内容はさしたる問題ではない。ただオレたちは、時間が経つにつれて事態が只事(ただごと)ではないことを知覚していく。

 数分後、地面を踏み締める音が近付いてきた。

 ゆっくりと外界に通じる入口が開かれ、一瞬、眩い閃光(せんこう)がオレたちを刺す。

 点滅した視界が正常になると、そこには予想通り、洋介が立っていた。

 

「……皆、今すぐに外に出て欲しい」

 

 洋介の顔付きはとても険しいものだった。

 それだけでオレたちは確信する。事態は一直線に最悪に進んでいることを。

 

「分かった。平田がそう言うんなら……」

 

 健が真っ先に彼の指示に従った。

 誰もが躊躇して怖気付くなか、彼だけは違った。自らが仲間を先導するように、彼はそれ以上言葉を言うことなく、光の先へ姿を消していく。

 

「俺も行く……」

 

「俺も……」

 

 健につられるようにして、他のクラスメイトたちも腰を上げて外に出る。

 最後に残ったのはオレだった。洋介と目が合い、一度頷いてから、オレもまた処刑場へ向かっていく。

 Dクラスの面々が集ったのは拠点の中心部である焚き火広場だった。

 どうやら洋介はオレたちの前にもう一つの男子テントに声を掛けていたようで、既に全員が揃っていた。

 いや、それは違う。

 クラスの女王である軽井沢(かるいざわ)と、彼女の従者的立ち位置に居る二人の女子生徒の姿が見られない。さらには櫛田も居ないようだった。

 嫌な汗が首筋に流れた。

 

「僕が最後だよ」

 

 ベースキャンプを一周した洋介が、そう、報告した。

 Dクラスは男と女という対立の構図に分かれているようだった。()()()()()()()()()()()()()()

 洋介だけが彼我の中点に居ることを許されている。

 

「ど、どうしたんだよ……そんなふうに俺たちを(にら)んでさ」

 

 無言の圧力が堪えきれなくなった池が、声を震わせながらも尋ねた。

 普段の彼らしからぬ、他者を気遣い、自分が下手に出る行動。

 ところが女子たちはそんな彼の行動が気にくわなかったのか、ますます、オレたちを強く睨んでくる。

 彼女たちの瞳には侮蔑と──明確な敵意が灯っていた。

 篠原(しのはら)が一歩彼我の距離を詰め、洋介を除いた男子全員を睥睨(へいげい)してから、憤怒に染まり切った表情でこう言った。

 

「今朝、軽井沢さんの下着が()くなってたの。これが何を意味するか、分かる?」

 

 分からないとは言わせないと、篠原の表情が雄弁(ゆうべん)に語っていた。

 先に聞いていただろう洋介は別として、オレたち男子生徒の間に、小さなどよめきが広がっていく。

 それは時間が経つにつれて肥大化し、収まりがつかない業火(ごうか)に変貌した。

 喧騒に包まれるオレたちに、篠原はさらにもう一歩足を踏み出して糾弾の姿勢をとる。

 

「男子のなかに犯罪者がいるのよ!」

 

 オレたちは絶句した。

 篠原の言ったことが分からなかったわけではない。頭の中ではそうだろうとも思っていた。

 しかし言葉にして口に出すと、朧気だったものは途端に現実味を帯びてくる。

 犯罪者──下着泥棒。

 軽井沢恵の下着が、朝、消失していた。下着を入れていた鞄……スクールバッグは仮設テントの出入り口付近の外に置いていた。荷物を中に入れると、すぐに室内が一杯になって生徒が睡眠をとれないから、このような処置をとった。

 当然ながら、男子テントには男子の荷物が、女子テントには女子の荷物が置かれていた。

 つまり性別を狙うことは可能であり、また、夜中に起きて鞄の中を漁り盗むことも充分に可能だ。さらにスクールバッグにはアクセサリーがついているものも多々あり、逆説的には、個人を特定することも不可能ではない。

 

「軽井沢さん、今、テントの中で泣いてる。櫛田さんたちが慰めているけど……」

 

 篠原は軽井沢たちが居るだろう女子用の仮設テントを一瞥してから、再度、敵と定めた男子を睨んだ。

 彼女だけじゃない。多くの女子たちも同様だった。

 例外は王美雨(みーちゃん)佐倉(さくら)()(かしら)といった、クラスでも大人しい性格の持ち主のみ。

 男子も当然、ずっと黙っていられるわけがない。心当たりがない罪を糾弾されているのだから不愉快になるに決まっている。

 

「俺たちはやってない!」

 

「そうだぜ! そんなことをやる程馬鹿じゃねえよ!」

 

「お、俺知ってる……! これ、冤罪って言うんだぜ!」

 

 外村(博士)が誰かの口調を真似たのか、普段の口調を捨て去ってそう叫んだ。

 多分、アニメに出てくる登場人物(キャラクター)が物語の中で言った言葉なのだろう。

 それは兎も角として、冤罪、という言葉は男子たちに天啓を与えたようだった。

 

「冤罪だ!」

 

「冤罪だ!」

 

「冤罪だ!」

 

 冤罪だ! 冤罪だ! デモンストレーションを行進する民衆のように、男子たちは結束して憎き女子たちに抗議する。

 さしもの彼女たちもこの逆襲には怯まざるを得ないようだった。

 現在分かっていることといえば、軽井沢の下着が昨夜から今朝の間盗まれたことだけだ。

 男性が女性の下着を盗む、というものが一般的な下着泥棒の認識だろうが、それはあくまでも先入観に縛られているに過ぎない。

 あるのは確立した証拠ではなく、状況証拠だけだ。

 

「皆、まずは落ち着いて……!」

 

 洋介の制止の声も届かない。

 それどころか業火の波は拡がるばかりだ。

 今の状況では誰が何を言っても意味はなさない。

 Dクラスがゆっくりと育んできた絆に亀裂が入ったのを、オレは幻視した。

 

『暴力事件』、そして『無人島試験』。

 

 これら二つの出来事で積み重ねてきたものが音を立てて崩落していく。

 これが他クラスだったらどうだろうか。

 酷い惨状を視界に収めながら、そんなことをふと考えた。

 一之瀬(いちのせ)でも猛々しく燃える(ほむら)を鎮静化させるのは難しいだろう。葛城(かつらぎ)も苦労するだろう。

 龍園(りゅうえん)だったら、意外にも、易々と対処出来るかもしれないな。絶対的な『力』の前には何人たりとも逆らえない。

 

 破滅への一途を辿る中、オレは一人の女子生徒を観察する。

 

『彼女』は女子の群れの後方にいた。そして口では男子を非難していたが、隙間から一瞬覗いた表情はひどく億劫(おっくう)そうだった。

 それを見たオレは、一つの決断を下す。

 

 ──特別試験は折り返し地点を経て、終盤戦に移行する。

 



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無人島試験──五日目《推理》

 

 結局、朝の点呼の時間の開始直前になっても、言い(あらそ)いは終わりを迎えなかった。

 むしろ時間が()つにつれて騒動はより大きなものになっていく。

 

「ふむ……お前たち、状況は一応理解したが、まずは並んだらどうだ」

 

 流石に見兼(みか)ねたのか、我らが担任がそう声を掛ける。茶柱(ちゃばしら)は愛用のクリップボード片手に教え子を見渡して、珍しくも、優しく(たしな)めた。

 朝夕の点呼の際に出席しなければ、その都度、ポイントが差し引かれてしまう。

 その展開だけはどうしても避けたいという男女の共通認識が上手く作用し、幸いにも、朝の点呼は無事に開始された。

 

「それでは始めるとする。名前を呼ばれた者は返事をするように──」

 

 感情の起伏(きふく)が見られない茶柱の声が、異様に静まり返ったベースキャンプに木霊(こだま)する。各々、名前を呼ばれたら返事した。

 生徒たちの声には覇気(はき)が込められていなかった。特に軽井沢(かるいざわ)はひどいもので嗚咽(おえつ)が混じっていた。

 

「私が──つまり、教師が軽井沢の下着が()くなったことに関与することはないと、最初に明言しておこう。普段の学校生活なら兎も角、な……。個人的には思うところがないわけではないが……」

 

「で、ですが先生!」

 

 生徒の抗議の声を茶柱は無視した。

 用は済んだとばかりに教師用テントの中に消えていく、放任主義の担任を、生徒たちは見送ることしか出来なかった。

 

「──はっきり言うけど、私は男子の誰かが犯人だと思っているから」

 

 重たい沈黙を破ったのは篠原(しのはら)だった。

 彼女の瞳には確かな決意の(ほむら)が灯っていた。否、彼女だけじゃない。多くの女子生徒が彼女に賛同している。

 場を支配できる唯一の人物である軽井沢は櫛田(くしだ)をはじめとした数名の女子たちに連れられて自身の仮設テントに戻ってしまった。

 耳を澄ませば啜り泣く声が聞こえてくるようだ。

 

「ごめん、篠原さん。確認を込めてもう一度聞きたい。軽井沢さんの下着は本当に無くなっているのかい?」

 

 と、洋介(ようすけ)が聞けば、篠原は態度をあからさまに変えた。

 

「うん、何度も確認したから間違いないよ。昨夜、軽井沢さんがシャワーを浴びる時までは何も問題はなかったから」

 

「そう……ありがとう、篠原さん」

 

「気にしないで。平田(ひらた)くんが謝ることじゃないよ」

 

「何で平田は例外なんだよ……!」

 

 池が納得いかないとばかりに怒る。山内(やまうち)外村(博士)本堂(ほんどう)なども同調するが、女子たちは鼻で笑うだけだった。

 残酷なことを言うなら普段の行いの差だろう。

 兎にも角にも、勘違いという唯一の救いは失われたわけだ。

 

 ──剣呑な空気が広場に流れる。

 

 ごく自然と、男子と女子は睨み合っていた。クラスメイトに向ける眼差しでは到底ないだろう。

 女王代理の役職に就任した篠原が口火を切った。

 

「兎に角。これってもの凄い大問題だと思うんだけど。犯罪者と一緒にあと二日も過ごすとか無理に決まってるでしょ」

 

「だから! 俺たちは盗んでないって! なあ、お前ら!?」

 

 対抗するのは池だ。

 彼に従い、男子一同、冤罪(えんざい)だ! 冤罪だ! と叫ぶ。

 先程は一定の効果が見込(みこ)めたが、流石に二回目ともなると耐性がついたようで、女子たちは意に(かい)さなかった。

 それどころか余計に侮蔑の度合いが増えたような気がする。

 女性陣は両腕を組んで、このように言ってきた。

 

「盗んでないって言うんならさ、荷物検査させてよ」

 

「「「はあ──!?」」」

 

 身勝手な要求にオレたち男子は反抗的な声を上げてしまう。

 

「し、篠原さん……、流石にそれは……」

 

 洋介が彼女を落ち着かせようと必死に試みるが、芳しい成果は得られなかった。

 篠原は平田に対してだけ申し訳なさそうな表情を浮かべ、けれど、一歩も引くことなく持論(じろん)を展開する。

 

「私たち女子は男子の中に犯人がいると疑っている。男子たちは犯人なんかいないって言っている。なら、手っ取り早く済ませるためにもこれが一番だと思うんだけど?」

 

 彼女の主張は一理あるだろう。

 取り敢えずのところ、自らの潔白を示すためならそれも手だが──。

 オレは嘆息(たんそく)してから軽く手を挙げて注目を集めた。

 

「ちょっと良いか」

 

「……なに、綾小路くん」

 

「荷物検査をするのは構わないが、仮にこの中に犯人がいるとして、そいつはこの展開を想像出来ない程の間抜けなのか?」

 

 言葉を()くして冷静に説くと、篠原は不満そうにしながらも、一応は聞く姿勢をとった。

 

「何が言いたいの……?」

 

「つまり、だ。軽井沢の下着が出てくる可能性は極めて低いんじゃないのか」

 

 余程の馬鹿でない限り、女子が身辺調査を行おうとすることは想像出来るはずだ。

 篠原は荷物検査を要求しているが、軽井沢の下着が見付からなかったら仮設テントにも侵攻(しんこう)しようとするだろう。

 オレの言葉にはそれなりの効果があったのか、男子全員と、理解ある数名の女子は賛同してくれた。

 ところが篠原は止まらない。止まることが出来ない。

 

「……確かに綾小路くんの言う通りかもしれない。けどさ、下着泥棒なんて正気を疑うような人間の行動を予測出来るはずないよね。もしかしたらまだあるかもしれないじゃない」

 

 どうやら理性は微かながらも残っていたようだった。

 そう言われてしまったら黙ることしか出来ない。

 推測を展開することは出来るが、それは確定されたものではないのだから。

 

「……篠原さん。少しで良い。男子で話す時間をくれないかな」

 

「…………分かった。平田くんがそう言うなら」

 

 不承不承ながらも彼女は首を縦に振った。

 これまでクラスのために尽力し、クラスメイトから多大なる支持を集めてきた洋介だからこそ出来た芸当だろう。

 これが他の生徒だったら作戦は失敗したはずだ。

 

「けど、なるべく早くしてね。──時間があまりにも掛かったら強引にでも実行するから」

 

 後半は洋介を除く男子たちに向けられた言葉だった。

 反感を覚える生徒が少なくない中、洋介はすぐに男子全員を男子用仮設テントの前に集める。

 そして話し合いが始まった。

 

「皆を疑いたくはない。けれど、確認せざるを得ない。──軽井沢さんの下着を盗んだひとがいるのなら、今、この場で申し出て欲しい」

 

 緊張を隠せない強張った声で、洋介は静かにクラスメイトを尋ねた。

 自分の交際相手が被害に()っているのだから、内心は荒れに荒れているだろう。それを表に出さないのは凄いを通り越して異常(いじょう)だ。

 オレは悟られない程度に級友たちを見渡す。余程の道化師(ピエロ)なら話は別だが、普通、何らかの反応を示すはず──。

 

「……申し出はないみたいだね」

 

 安堵の息を吐いてから、けれと、洋介はすぐに表情を真面目なものに戻した。

 

「僕はきみたちを信じるよ。そのうえで聞きたい。僕たちはどうするべきだろうか」

 

「戦うべきだ! いくら何でも理不尽だろ!」

 

「俺も寛治と同じだぜ! 流石に()が過ぎてるって!」

 

 池、山内がそう意気込んだ。

 さらに沖谷(おきたに)が言葉を詰まらせながらも自らの意志を口にした。

 

「ぼ、僕もこれは言い掛かりだと思う……。軽井沢さんは平田くんの彼女さんだし……、下着を盗むなんて、そんなことしないよ」

 

「良く言ったぞ京介! 軽井沢の下着を盗むくらいだったら桔梗(ききょう)ちゃんや佐倉(さくら)長谷部(はせべ)あたりを狙うよな!」

 

 なあお前ら!? と池が言えば、多くの男子生徒が「そうだそうだ!」と強く賛同する。魂の叫びだった。

 それに山内が血相を変えて、

 

「お前らは櫛田エル親衛隊だろうが! 他の女子を見てちゃ駄目だろ!」

 

「……ハッ、そうだった! サンキューな春樹(はるき)、女神を裏切るところだったぜ!」

 

「お、おう……。けどまあ、お前の気持ちも分かるぜ。特に佐倉の胸は超一級品だからな!」

 

 げへへへと下卑(げび)た笑い声を上げる山内に、彼の近くにいた生徒たちが二歩程後退った。特に沖谷はその倍は後退している。

 察しが良い人間ならば、今しがたのやり取りで山内が佐倉に対して好意的な感情を抱いていることを察するだろう。

 しかし誰もが口に出して尋ねなかった。今の彼がただただ、気持ち悪いと思ったからだった。

 内容は兎も角として、実際のところ、軽井沢の下着を盗もうとするだろうか。

 いや、断りを入れると軽井沢(けい)が可愛くないわけじゃない。

 しかし随分前に述べたが、Dクラスの『三大美人』と言えば、堀北鈴音(ほりきたすずね)櫛田(くしだ)桔梗、長谷部波瑠加(はせべはるか)の三人だ。そこに彼女はカテゴリーされていない。

 ましてや軽井沢は洋介の交際相手だ。一年生の中でも交際している男女は何組か存在しているが、彼らの仲は極めて友好で、その中でも群を抜いて『理想的なカップル』として認知されている。

 なら、独り身の──表現が適切ではない気がするが──可愛い女子を狙った方が良いに決まっている。その方が遥かに都合が良いってものだ。

 

「池くんや山内くんの気持ちは分かるよ。ならまずはやっぱり、身の潔白を証明した方が良いんじゃないかな」

 

「待て平田。それはつまり……荷物検査に応じろと?」

 

「……うん、その通りだよ幸村(ゆきむら)くん。堂々と臨んで、無実を摑み取る。そうすれば篠原さんや他の女の子たちも謝罪してくれるはずだ」

 

「けどよぅ……」

 

 なおも渋るクラスメイトに、洋介は頭を深々と下げた。

 

「女の子たちに逆らえない僕が情けなくも従った。だからきみたちは仕方なくも足並みを揃えてくれた。この筋書きでどうだろう」

 

 そこまで言われたら、皆、そうせざるを得なくなってしまうものだ。

 幸村が重たいため息を吐き、テント前から自らの鞄を持ち出してくる。

 

「……仕方ない。ここは平田の顔を立てる」

 

「ありがとう、幸村くん!」

 

「別に……こうしている間にも時間は削られていくんだ。ただでさえ俺たちは昨日休息をとって他クラスと差が生まれている。これ以上は見過ごせない、それだけの事だ」

 

 幸村なりの譲歩、ということだろう。

 今まで集団に群れることを嫌い、度々、洋介と言い争いをしてきた彼が認めた。

 次に動いたのは(けん)だった。幸村と同様、スクールバッグを肩に担いで戻ってくる。そしてどさりと地面の上に置いた。

 

「俺も良いぜ」

 

「ありがとう、須藤(すどう)くん!」

 

「お前には沢山の借りがあるからな。これくらいで返せるとは思ってねえが、協力はするさ。そうだよな、清隆」

 

 健が笑いながらそう言ってくる。

 

「さっき篠原にも言ったが、荷物検査をやること自体にはそこまでの拒絶感はない。それに他ならない洋介の頼みだからな」

 

 オレもまた荷物を持ち出し、そう、宣言した。

 すると一人、また一人と仮設テントに向かう生徒が出始める。

 池と山内は最後まで嫌がっていたけれど、流れには逆らうことが出来ず、結局、渋々ながらも他の皆に同調した。

 

「あーあ、嫌な世の中になったぜ。すぐにオレたち男を疑うなんてさー」

 

「マジでそれな。けどま、身の潔白を証明したら反撃開始だぜ。特に篠原は許さない」

 

 焚き火広場に二列になって移動していると、後方から、そんな二人の会話が聞こえてきた。

 最前列にオレは居るのだが、彼ら以外は黙々と歩いていたため、自然と耳に入ってきたのだ。

 流石にこれにはオレも洋介も苦笑いを禁じ得ない。

 ベースキャンプはそこまで広くない。寝室から広場まで移動するのに掛かる時間はどんなに掛かっても二分程だ。

 道程(みちのり)の半分を通り過ぎたところで、それは起きた。

 

「ぁ……」

 

 一瞬、誰が上げた音か分からなかった。

 それはとても間抜けていた。まるで、感情がそのまま吐露したかのような、そんな、小さな悲鳴。

 発生源は後方──今しがたまで女子生徒たちに対して愚痴を零していた池と山内が居る所からだった。

 

「ど、どうしたんだよ寛治……?」

 

 皆の訝しげな視線が集まる中、山内が代表して尋ねた。

 ところが池は反応しない。

 彼は自分が注目していることに気が付かない程に、一心不乱に、チャックを開けた自分のスクールバッグを凝視していた。

 今度は沖谷が「寛治くん……?」と声を掛けるが、それでも彼は応えることはなかった。

 

 ──嫌な予感がするな……。

 

 右頬に冷や汗が伝うのをオレは感じた。いや、オレだけじゃない。洋介や健、幸村など、皆、顔を強張らせている。

 行進が自然と止まる。

 女子生徒たちも不自然さを察知し、疑惑の目を向けてくる。

 山内が冗談交じりで、

 

「も、もしかしてお前が犯人だったりして〜……?」

 

「……ッ!?」

 

 刹那、池は体全体を大きく震わせた。

 チャックを勢い良く閉め、スクールバッグを両手で抱き、ぶんぶんと無言で首を横に振る。

 しかしそこまでの露骨な反応をされて察しない程オレたちは鈍くなかった。

 嫌な空気が流れる。

 (ごう)()やした篠原がいつの間にか接近したのか、険しい目付きで池に命令した。

 

「見せて」

 

「い、嫌だ!」

 

 幼子のようにふるふると弱々しく頭を振るが、篠原がそれを許容するわけがない。

 ずんずんと篠原が彼我(ひが)の距離を詰め、池はずるすると後退(あとずさ)り……その攻防が続いた。

 永遠に続くかと思われたその時、ついに、池は恐怖で足を縺れさせてしまい、尻餅を突いて倒れてしまった。

 

「なか、見るから」

 

「や、やめろ……!」

 

 池の懇願に応じることなく、彼女はゆっくりとチャックを開け放った。

 そして中を見た瞬間──篠原は絶句した。

 

「これって……!?」

 

「お、おい篠原……何が入っているんだよ」

 

 山内が怖々と尋ねる。

 彼女はありったけの侮蔑の眼差しで池を見下ろし、逡巡してから、中から『それ』を取り出す。

 オレたちは確かに見た。

 篠原が逡巡したのは、軽井沢に気を(つか)ったからだろう。『それ』は公衆の面前に見せて良いものではないからだ。

『それ』は、男性が持つ必要がないもの。

『それ』は男性が絶対に穿くことがないもの──穢れ一つない純白の下着だった。

 

「────最低」

 

 短いその言葉が、どれだけ池に突き刺さったか、想像すら(ぜっ)するだろう。

 篠原以外の女子生徒も集まり、いつしかオレたちは犯罪者を取り囲んでいた。

 意識していたわけじゃない。ただ何となく……そう、何となく、オレたちはそのようにしていた。

 

「マジ有り得ない……」

 

「人間の(くず)じゃん」

 

「何でこんな奴と同じクラスなの? うわ、本当に最悪……」

 

 女子たちの口撃が池を襲う。

 相手の気持ちなど微塵も考慮されていない不可視の刃が彼を刺し込む。

 洋介が池の前に立ち庇い、

 

「皆、まずは落ち着くんだ! 池くんだと決め付けるのは──」

 

「平田くん、気持ちは分かるけど……流石にこれは……」

 

 主導権は全てあちらが持っている。

 最悪な流れだ。持ち直すのは事実上不可能だろう。

 しかし池も黙っているわけがない。彼は必死な形相で叫んだ。

 

「違うんだよ! 気付いたら入ってたんだ!」

 

「この期に及んで言い訳とか……」

 

「本当なんだって! そもそもの話、俺にそんな時間なんてなかった!」

 

「時間なんてそれこそいくらでもあったでしょ」

 

「うぐっ……で、でも! 俺は本当に────!」

 

「良い加減に認めなよ。醜いにも程があるから」

 

 池の決死の訴えも、この、『池寛治が下着泥棒の犯人である』という雰囲気になっている中では意味をなさない。

 むしろ冤罪だと主張すればする程に──生徒たちの中では猜疑心(さいぎしん)が生まれていく。

 女子生徒は侮蔑の眼差しを、男子生徒は哀れみの眼差しを彼にそれぞれ送っていた。

 

「どうして、誰も信じてくれないんだよ……」

 

 嗚咽を漏らすが、それは仕方がない側面もあるだろう。

 これが洋介だったらまだ話は違ったはずだ。

 しかし日頃の行いが、こうして今、彼にそのまま跳ね返っている。

 自業自得だと言われたらそれまでだが──

 女子たちの罵声が池に降り注ぐ中、その声は放たれた。

 

 

 

「待ちなさい」

 

 

 

 全員が思わず文字通り固まった。

 そして今まで静観していた、声主である一人の少女を見る。

 

「池くんが下着泥棒だと決め付けるのは早計だと思うけれど」

 

「堀北さん……」

 

 堀北は意志が込められた力強い瞳でクラスメイトを見渡した。

 優雅に池の元まで近付き、篠原と対峙する。

 流石の篠原も、今の堀北を相手するのは厳しいと思ったのか、すぐに突っかかることはなかった。

 

「池くんの鞄から、軽井沢さんの下着が出てきた。だから彼が下着泥棒の犯人だと? それはあまりにも浅慮な考えだわ」

 

「……で、でも実際にそうじゃない。状況証拠として充分だと思うけど」

 

「ええ、そうね。状況証拠としては、ね」

 

 堀北は含みを持たせるように言った。

 そして彼女の推測が展開されていく。

 

「5W1Hで考えていきましょう。"when(いつ)”"who(だれが)”"where(どこで)”"what(なにを)”"why(どうして)”"how(どのように)”。まずは"when(いつ)”、これははっきりしているわ。今日、つまり、八月五日の明朝(みょうちょう)。具体的には『午前五時から六時の間』かしら」

 

「で、でも堀北先生……どうして昨夜は違うんですか」

 

 沖谷が遠慮がちに手を挙げ、言葉遣いを正しいものにしながら質問をした。

 先生は教え子に向き直り、

 

「単純なことよ、沖谷くん。篠原さん、確認だけれど、軽井沢さんの下着は昨夜のシャワーを浴びる時まではあったのよね?」

 

「そう聞いているけど……」

 

「なら、夜の時間帯は除外しても良いでしょう。夜中は暗闇に覆われていて、移動するとなると光源になるものが欲しいわ。焚き火は安全面から火を消していたし、唯一の光源となる自然の恵みである月も、昨夜は雲で隠されていた。ましてやここは森の中。都会とは違い、必ず、懐中電灯が必要になる」

 

「なるほどな。懐中電灯の光が夜中に突如として現れたら誰かが気付く、ということか」

 

「幸村くんの言う通りよ。そうなると、犯行時間はとても限定されたものになる」

 

 これで"when(いつ)”は分かった。

 全員が納得したのを確認してから、堀北は次の項目に話を進める。

 

「次に"who(だれが)”。これは後回しにしましょうか」

 

「だから堀北さん! そこに居る池くんが──」

 

「少し黙ってなさい。話は最後まで聞くことをおすすめするわ。質問なら兎も角、ごちゃごちゃにされたらあなたも嫌でしょう」

 

「……ッ!」

 

 篠原は歯軋りして懸命に堀北を睨むが、当の本人はどこ吹く風だ。

 流石に相手が悪いだろう。

 

「次に"where(どこで)”と"what(なにを)”。これは簡単ね。"where(どこで)”は一年Dクラスのベースキャンプ、より厳密には、『軽井沢恵が寝泊まりしている仮設テント前』かしら。"what(なにを)”は『軽井沢恵の下着』」

 

 堀北は淡々と事実を述べていく。

 

「次に"why(どうして)”。これも飛ばしましょうか」

 

 するとクラスメイトたちは疑問符を頭上に浮かばせた。

 

「どうしてだよ、堀北。馬鹿な俺でも分かるぜ、下着泥棒は下着を盗みたいから犯行に及ぶんじゃねぇのか?」

 

 と、健が尋ねると、堀北は「そうね」と頷いた。

 なら何故彼女は見送ったのか。皆の疑問に彼女は答える。

 

「須藤くんの言う通りでしょうね、あくまでも一般的には。男性が何故異性の下着に興奮するのかは興味もないけれど。兎に角、これについてはあとでちゃんと説明するから。──最後に"how(どのように)”。これも簡単なことで、『犯人が軽井沢恵の下着が入った荷物を(あさ)り、そのまま盗みに及んだ』でしょう」

 

 これで残りは"who(だれが)”と"why(どうして)”になった。

 堀北は一度浅く空気を吸ってから、再び口を動かし始める。

 

「"why(どうして)”から行きましょうか。何故、下着泥棒は軽井沢恵の下着を盗んだのか。さらに言うならば──()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 堀北も先程の男子生徒たちと同様、下着を盗まれたのが『軽井沢恵』というポイントに着目したようだ。

 困惑する同性に、彼女は『平田洋介という交際相手がいる彼女が狙われるのは男性にとって都合が悪い』と説明する。

 

「軽井沢さんは容姿は整っている方だけれど、わざわざクラスの女王としてふんぞり返っている彼女に喧嘩を売るかしら。いいえ、私はそうは思わない。なら他の女子を狙った方が良いわ」

 

「でもそれは堀北さんの主観でしょ。どうしても軽井沢さんのものが欲しかったかもしれないじゃない」

 

「そうね、その可能性もあることは否めないわ。なら尚更、ここの部分に拘るべきじゃないかしら」

 

「……どういうこと……?」

 

「軽井沢恵が被害者になったのは、『必然』か『偶然』か、ということよ」

 

「はあ? そんなの『必然』に決まってるでしょ。軽井沢さんの鞄にはハート型のアクセサリーが着いているんだから、それを目印にすれば良いだけじゃない」

 

 篠原の指摘に堀北は頷く。

 

「つまり、軽井沢さんは狙われて下着を盗まれてしまった、ということになる。()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 軽井沢恵の下着を盗む理由。

 どうやら堀北は事の本質がしっかりと視えているようだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

「まず男子が軽井沢さんを狙う理由。実は陰で彼女に惚れている男がどうしても欲しかったからかしら。次に女子だけれど──」

 

『女子だけれど』という言葉に、クラスメイトたちは敏感に反応した。

 佐藤(さとう)という女子生徒が堀北に表情を歪ませながら尋ねた。

 

「ちょっ、ちょっと待ってよ堀北さん! まさか私たちの中にも犯人がいる可能性があるって言ってるの!?」

 

 有り得ない! と彼女は思っているようだった。

 いや、佐藤だけじゃない。大半の女子生徒は彼女と同じ思いなのか、愕然としている。

 堀北は淡々と言葉を続けた。

 

「何を言っているのかしら、これは至極当たり前のことよ。さっき、あなたの友達の篠原さんが言っていたじゃない。生徒の誰もが、犯行に及ぶことが出来たと。なら男子だけを容疑者として尋問するわけにはいかないでしょう?」

 

 喉元を詰まらせる佐藤に代わり、今度は篠原が異議を唱える。

 

「何で女子が女子のものを盗むわけ!?」

 

「分からないのかしら。つまり──」

 

 と、堀北は軽井沢が居るであろう仮設テントを一瞥してから、少しだけ声量を小さくして言った。

 

「──軽井沢さんは確かに一定のカリスマ性があるわ。それはこの特別試験に如実に出ている。だけれどね、人間、良い側面もあれば悪い側面もある。彼女は我儘よ。たとえば五月、この学校の理念を説明された後に、プライベートポイントが無いからと何人かの女子生徒からポイントを借りていたはず」

 

 するとその女子生徒たちが反応を見せた。

 おずおずと手を挙げ始める者が出た。やがて、一人、また一人と続いていく。

 王美雨(みーちゃん)()(かしら)など、大人しい子たちが比較的割合を占めているようだった。

 

「私……その、まだポイントを返されてないかな。3000pr貸していたんだけど……」

 

「わ、私も……1000pr返してもらってない」

 

「あたしも──」

 

 軽井沢はかなりのポイントを借りているようだった。

 10000prは優に超えている。

 堀北は名乗り出てくれた彼女たちに礼を告げてから、このように言った。

 

「プライベートポイントがどれだけ重要なのかは、皆も薄々ながら理解しているでしょう。それは先日の『暴力事件』で、そこで我関せずとばかりに傍観している綾小路くんが証明している」

 

 どうやら堀北としては、ここで綾小路清隆という人間を舞台に登場させたいらしい。

 ……仕方ないか、彼女の思惑に乗ることにしよう。

 

「……堀北の言う通りだろう。プライベートポイントはとても価値があるものだ。この前オレは最終審議の延長のために多額のポイントを払ったわけだが、つまりこれは、プライベートポイントの汎用性の高さを意味しているということになる」

 

 その最たる例として、2000万prを対価とするクラス移動がある。

 茶柱も言っていたが学校の敷地内で買えないものはない。

 

「話が逸れてしまったけれど、軽井沢さんが恨まれるような行動をしているのもまた事実よ。特に今挙げた例は金銭的なもの。積み重ねてきた信頼関係が崩れることは充分に起こり得る」

 

 つまり"why(どうして)”は、『軽井沢恵を(おとし)めるため』という線も考えられるということだ。性的興奮を得る以外の可能性が浮かび上がった。

 ここまで言えば、皆、堀北の言いたいことが分かるだろう。

 

「篠原さんの言う通り、状況証拠としては池くんが一番の容疑者よ。けれど、クラスの誰もが実現出来たという点を忘れてはならないのではないかしら。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。彼が容疑者として注目を集めれば、自分に疑惑の目が向けられることは殆どないもの」

 

 池寛治を下着泥棒として仕立てあげる。

 そうすれば真犯人の元に辿り着く者は限りなく居ない。

 

「最後に"who(だれが)”だけれど、私は三つのパターンを考えているわ。一つ目は間抜けな池くんが犯人というパターン。二つ目はDクラスの誰かというパターン。そして三つ目は──」

 

 堀北はそこで言葉を区切って、その人物を正面から見定めた。

 その人物は皆から離れた場所に居た。一本の幹に体を預けさせていた。

 何故その人物が居なかったのか。

 答えは簡単だ。部外者だからと、女子生徒たちがその人物をそこに放置していたからだ。

 はたして、数多くの視線が矢となってその人物に降り掛かる。

 堀北は低い声を出して名前を読み上げた。

 

「──Cクラスの伊吹(いぶき)さん、というパターンよ。そして私は伊吹さんが犯人だと思っているわ」

 

 その人物──伊吹は堂々と物怖じすることなく、堀北の目を直視した。

 双方の視線が交錯する。他の生徒たちが野次馬の如く固唾を飲んで見守る中、その応酬は続いた。

『彼女』は最後の瞬間まで相手から目を逸らすことをしなかった。

 

 





氏名 篠原さつき
クラス 一年D組
部活動 料理部
誕生日 六月二十一日

─評価─

学力 D-
知性 D-
判断力 D
身体能力 D
協調性 C

─面接官からのコメント─

全ての評価項目に於いて成績は芳しくない。Dクラス配属とする。

─担任からのコメント─

独善的な性格の持ち主です。
自分がそうだと決めたら変えることがありません。
この性格を何とかすることを急務とし、指導にあたりたいと思っております。


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無人島試験──五日目《勝利への道は》

 

 (いけ)寛治(かんじ)への処罰はひとまず見送られた。

 それもひとえに堀北(ほりきた)の弁護の成果と言えるだろう。

 彼女が提示した三つの可能性は、①池寛治が犯人である、②Dクラスの生徒の誰かが犯人である、③伊吹(いぶき)(みお)が犯人であるというものだった。

 そして、生徒たちは①と③の可能性が高いと判断したようだった。

 まず①の、池寛治が犯人であるというものは、篠原(しのはら)佐藤(さとう)を含めた大半の女子生徒がそうだと信じて疑っていないようだ。間抜けで愚かな池が衝動的に犯罪を犯したと、彼女たちは主張している。

 逆に大半の男子生徒とほんの僅かな女子は③の、伊吹澪が犯人であると考えていた。他クラスの生徒である彼女は、Dクラスの妨害をするために龍園(『王』)から送られてきた『スパイ』で、片頬にある『怪我』も、同情心を抱かせるためのフェイクなのだと彼らは主張している。

 

『単刀直入に聞くけれど、伊吹さん、あなたが犯人なの?』

 

『いや、私じゃない』

 

 堀北は伊吹にそう尋ねたが、伊吹は罪を認めなかった。

 その時彼女は堀北の瞳を臆することなく直視していた為、彼女を擁護する者曰く、『嘘を吐いているようにはとても見えない』とのことらしい。

 

「何度も言わせないで! だから池くんが──!」

 

「いや! 伊吹が──!」

 

 互いに一歩も引かない。

 これ以上は時間の無駄だろう。話し合いの範疇(はんちゅう)を超えているのだから当然だ。

 理性的な部分は双方ともに残っておらず、本能が命じるままに、感情をそのまま吐き出している。これでは獣だ。

 オレはちらりと隣の洋介を一瞥(いちべつ)した。そしてオレはここまでかと目を伏せる。

 今の洋介は『先導者である平田(ひらた)洋介』とは、とてもではないが言い(がた)いだろう。

 

 ──計画はまだ早かったかもしれないな。

 

 心の中で、そう、呟いた。

 オレはため息を吐いてから、言葉の攻撃が交わっている戦場に身を投じた。

 

「提案したいことがある」

 

「……なに、綾小路(あやのこうじ)くん」

 

「このままだと日が暮れる……は流石に言い過ぎだが、時間が勿体ないだろう」

 

「何が言いたいの」

 

 視線がオレに収束していった。

 篠原はオレを警戒しているようだった。

 無理もないだろう。彼女からすれば、オレという人間はこの特別試験中で幾度も彼女に対して否定的な構えをとってきた。

 流石に居心地悪く感じたので、オレは咳払いをしてから、このように言った。

 

「どこかで折衷案(せっちゅうあん)を出すしかない。まずだが、男子用テントと女子用テントの間に境界線を引いて、不可侵条約を結ぼう。次に、池には悪いが随時誰かが彼を監視する。最後に、伊吹の監視だ」

 

 すると篠原は露骨なまでに渋面を作った。

 彼女も馬鹿じゃない。

 オレが彼女たちに最大限譲歩しているのが分かっているのだ。断りたいが断れない、そんなところか。

 

「……軽井沢(かるいざわ)さんがそれで良いって言うなら……」

 

「もちろんだ。被害者だからな、彼女の要望を叶えるのは当然のことだろう」

 

「……ちょっと待ってて……」

 

 篠原はそう断りを入れてから軽井沢が居る仮設テントに向かった。

 程なくして彼女は戻ってきた。櫛田(くしだ)や軽井沢の友人もここでようやく合流する。

 

「軽井沢さん、了承してくれたから。ただ……暫くは一人で居させて欲しいって」

 

「……そうか。兎に角、今日のところはここで一旦お開きにしよう。それで構わないだろうか」

 

 こうして、皆、沈んだ面持ちで解散していく。

 堀北や健たちは早速『スポット』の占有に赴くようだ。少しでも多くのボーナスポイントを得ることによって、クラスに活気を与える作戦らしい。

 上手くいくかは兎も角として、何もしないよりはマシだろう。

 オレは兼ねてより計画していた他クラスの『攻撃』を開始するため、櫛田を呼ぼうとして……やめておいた。

 

桔梗(ききょう)ちゃん、相談したいことが──」

 

「櫛田さん、相談したいことが──」

 

 男女問わず櫛田は頼られている。

 今のDクラスには、彼女こそが最も必要な人材だといえる。

 今の洋介や軽井沢は『使える』とはお世辞にも言い難い。ここは戦線に復帰するのを待った方が良いだろう。

 となると、単独行動が無難なところだろうか。

 じっと櫛田を見つめていると、目線に気付いたのか、オレの方をちらりと見た。

 

『ごめん、無理かも……』

 

 口の動きでそう伝えてくると、彼女は次の生徒の相談を受け始める。

 一之瀬には怒られるだろうが……これは言い訳を考えておく必要があるな。

 オレは単独行動を決行することにした。動こうとしたところで、オレを呼び止める掠れた声が背中に届いた。

 

「綾小路……」

 

「池か……。悪いな。ああするしかなかった」

 

 頭を下げると、彼は「謝んなくて良い……」と言ってくれた。

 普段の快活な表情はすっかりとなりを潜めている。

 池は今、絶望の(ふち)に立たされているのだろう。日頃から仲を良くしていた男子生徒も彼には近付かず、傍に居るのは沖谷(おきたに)山内(やまうち)の二人だけだ。

 それはつまり、彼のことを心から心配しているのが彼らだけ──櫛田や(けん)が居ればもう少し増えてくるだろう。しかしそれも誤差だ──であることを意味している。

 

「堀北が居なかったら俺……問答無用で犯罪者扱いだったんだよな……」

 

 ぽつぽつと彼は言葉を紡ぐ。

 オレは姿勢を正して傾聴することにした。相槌(あいづち)も打たず、返答もしない。ただ黙って彼の嘆きを聞くだけ。

 

「どうして……俺は……本当に盗んでないのに……」

 

「……」

 

「ちくしょう……誰がこんな事を……」

 

「…………」

 

「……なぁ綾小路……」

 

「なんだ」

 

「俺が日頃から馬鹿なことを言っていたから……こうなったのか……? もう少し物事を考えて行動していたらさ、こうはならなかったのか?」

 

 オレはその問いに答えるべきか迷った。

 逡巡してから、彼に残酷な事実を告げる。

 

「あまり言いたくないが、その側面は少なからずあるだろうな」

 

「……ッ! へへっ……なら、自業自得じゃねえかよ……!」

 

 そう言うと、池は静かに泣き始める。沖谷が優しく背中を擦ると、彼の慟哭(どうこく)は大きくなっていった。

 男子生徒も、女子生徒も、泣き崩れる池を見て何も言えなかった。

 やがて彼は自分の仮設テントの中に姿を晦ませた。沖谷と山内が付き添っていく。そして中からは嗚咽の声が漏れてきた。

 程なくして、その二人も苦々しい表情で出てくる。軽井沢と同様、一人で居る時間が欲しいのだろう。

 嫌な空気が充満する。

 この場の殆どの人間が特別試験のことなどもはやどうでも良く思っているだろう。

 クラスの結束なんてものは失われたと、誰もが思っている。

 

 ──『敗北』の二文字がすぐそこにある。

 

 今のDクラスには全てが足りない。

 クラスの中核を担う生徒の強制的な戦線離脱によって生じる戦力不足。いくら堀北でも、ここからの立て直しは厳しいだろう。

 極め付きには仲間を疑う疑心暗鬼の状態。もしかしたら隣に居る奴は下着泥棒なのかもしれない。そんな、極限の状況。

 

 ──何よりも、『勝つ』気概が欠片も見受けられない。

 

 一学期の間、オレたちDクラスは様々な騒動に直面してきた。

 今年のDクラスは一味違うと、誰もが思っていることだろう。

 予兆として『一学期中間試験』。Dクラスは二位を獲得した。A、Bクラスといった上位クラスを押し退けてだ。

 次に『暴力事件』。須藤(すどう)健を救うため、生徒たちは協力して目撃者Xを捜した。そして結果的には事実上の勝利を得た。それがたとえ仕組まれていたことであっても、何かを成し遂げたという『成功体験』は『自信』になる。

 個々としての成長は見られる。堀北や健、佐倉(さくら)といった生徒たちはその(きざ)しがある。

 だが──クラス闘争はあくまでも団体戦。いくら個人の力が増加したところで、それが全体に反映されなければ意味がない。

 昨日までのそれとは違い、静寂に包まれた焚き火広場をオレは見渡してから、今度こそ動き始めた。

 まずは生徒の住居からやや離れた所に建てられている教員用テントに赴き、外から担任を呼ぶ。幸いにも茶柱(ちゃばしら)はすぐに出てくれた。

 

「どうも」

 

 軽く挨拶をすると、彼女は表情をやや引き締めたものに変えた。

 

「どうかしたか綾小路」

 

「注文したいものがあります。頼めますか?」

 

 用件を手短に告げると、茶柱は無言で注文表をオレに手渡してきた。

 品名や個数など、意外にも記入項目はそこそこあるらしい。

 オレはすらすらと迷いなくボールペンを走らせる。

 紙を提示すると、彼女は悩ましげな表情を浮かべた。

 

「出来ませんか?」

 

「……いや、出来ないことはない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。ただしある程度は時間が掛かるだろう」

 

「構いませんよ。遅くても今日の夜には受け取れれば良いです」

 

「分かった。正式に受理しよう。代償として15ポイント差し引かれるがな」

 

 高いと視るべきか、それとも安いと視るべきか。

 どちらにせよオレの答えは変わらない。

 

「ええ、大丈夫です。宜しくお願いします」

 

 了承の旨を伝え、背を彼女に向けると、茶柱はオレを呼び止めた。

 

「待て」

 

「何でしょうか?」

 

「お前は『それ』を使って何をする気だ……?」

 

「学校側は想定していたのでしょう? なら、先生方の想像通りになると思いますが」

 

 話を終わらせ、オレは茶柱の元から立ち去った。

 ベースキャンプを離れる前に、ある生徒に声を掛ける。

 

「沖谷、ちょっと良いか」

 

「あ、綾小路くん……」

 

 沖谷はオレに呼び止められると気まずそうな表情を浮かべた。

 そう言えばと思い出す。

 池とは違い、沖谷とはまだ仲直りをしていなかったな。これまでは間に誰かが居たから問題はなかったが、面と向かって話すことに引け目を感じている……そんなところだろうか。

 

「ご、ごめんね、僕──」

 

「いや、気にしないでくれ」

 

 彼が何かを言う前に、オレは先回りして謝罪を受け入れた。

 元々喧嘩をしていたわけじゃないからな。

 

「それよりも、一つ聞いても良いか?」

 

「うん、何でも聞いてよ」

 

 オレは沖谷に尋ねる。

 彼はオレの意図を測りかねているようだったが、それでも快く教えてくれた。

 

「ありがとう」

 

「これで綾小路くんの助けになるのなら良いかな」

 

 別れようとすると、彼はオレを引き止めた。

 どうかしたのかと聞くと、沖谷は苦虫を噛み潰したような表情でオレに言う。

 

「寛治くん、大丈夫かな……」

 

「どうだろうな。オレたちは彼の持ち前の明るい性格に頼ることしか出来そうにない」

 

「……僕の所為(せい)だよね。他クラスのひとを疑いもせずに連れてきたから……」

 

 伊吹が『スパイ』で軽井沢の下着を盗んだ犯人なら、間接的には、沖谷や山内が池を傷付けているとも考えられる。彼はそう考えたようだ。

 心情は察せられるが、オレはそうは思わない。

 確かに彼らの行動は些か軽率だと言わざるを得ないが、以前述べたように、普通の人間なら、怪我をしている伊吹を見たら助けようと思うだろうし、実行に移すはずだ。

 それを彼に告げたところで意味はないだろうと考え、オレは先程のお礼を込めてこのようにアドバイスした。

 

「そう思うなら、出来るだけ池の傍に居たら良いんじゃないか? どの道監視はしないといけないし、今の彼には沖谷のような理解者が必要なはずだ」

 

「僕が、理解者……?」

 

「オレはそう思う」

 

 これはオレの主観だが、池がDクラスの中で最も気を許しているのは沖谷だと思う。

 山内とも仲は良いが……どちらかと言われたら沖谷じゃないだろうか。

 その証拠に、彼はわざと突き飛ばされた友人のためにAクラスを相手に物怖じせず対峙している。

 やがて彼は決意を固めたようだった。

 

「うん、僕、やってみるよ」

 

「なら良かった。じゃあオレは行ってくる」

 

「気を付けてね」

 

 友人に見送られ、オレは今度こそ拠点をあとにした。

 

 

 

§

 

 

 

 個人的な寄り道と、Bクラスへの訪問を終えた後──一之瀬(いちのせ)には単独行動の件について怒られた──、オレは森の中を移動していた。

 目指す先はAクラスのエリアだ。同盟を結んでいるBクラスとは違い、敵対関係であるAクラスの生徒ともし遭遇したら面倒な事になるだろうが、それは仕方がないと割り切ることにする。

 Aクラスは洞窟を拠点に構えているわけだが、ここで兼ねてより疑問だった点を解消しておこうと思う。

 そう、『スポット』である洞窟の利点だ。

 Bクラスの『井戸』やDクラスの『川』のように、どの『スポット』も基本的には目に見える利益を(もたら)すものが多い。

 しかし『洞窟』は? と聞かれると、第一に挙げられるのは雨風を凌げるという点だろう。

 だがはたしてそれだけで『スポット』に選ばれるだろうか。

 無論、雨風を凌げるというのはとても魅力的だ。だが弱い。つまり、目には見えない利益を齎してくれるのではないかと、視点を変えれば答えは出てくる。

 

 ──『洞窟』の一番の魅力は場所そのものにある。

 

 試験開始時、何故葛城(かつらぎ)はここを押さえたのか。いや、違うな。()()()()()()()()()()()()辿()()()()()()()

 答えは簡単だ。それは五日前、特別試験という概念が真嶋(ましま)先生から発表される前に遡る。

 つまり、豪華客船が上陸する寸前の時だ。

 あの時生徒たちは、艦内放送によってデッキに誘われた。その内容はこうだ。

 

 ──『生徒の皆様にお知らせします。お時間がありましたら、是非デッキにお集まり下さい。間もなく島が見えて参ります。しばらくの間、非常に意義ある景色をご覧になって頂けるでしょう』──

 

 注目すべき点は、『非常に意義ある景色を──』のところだ。生徒に無人島を見させるためには、こんな回りくどく言う必要は皆無だろう。

 察しの良い生徒はこの『奇妙な艦内放送』が流れた瞬間、無人島には何かがあって、学校側はヒントを与えようとしているのだと解釈出来る。

 事実、オレや椎名(しいな)は違和感を覚えたし、一之瀬や高円寺(こうえんじ)も同様のようだった。だからこそ、高円寺六助(自由人)は珍しくも集団の中に交じっていた。

 そして決定的なのが上陸する直前の出来事。客船は島の周囲を一周した。大半の生徒は気分が高揚(こうよう)していたがために気が付いていなかったが、あれは、無人島の構造──言い換えれば、『スポット』がどこにあるのかを教えていたのだ。その証拠に、客船は速度を落とすことをしなかった。もしそうしたら多くの生徒が流石に気付くだろう。さらには、観光としてはあまりにも不自然だ。

 

 葛城康平(こうへい)()()()()()()()()だった。

 

 だからこそ慣れない土地での探索なのにも関わらず、迷うことなく洞窟への最短ルートを通ることが出来た。

 ここまでが葛城の迅速(じんそく)な行動の説明となる。オレと高円寺も近道をしたが、出発に時間が掛かってしまった。それ故に、重要な拠点を逃してしまった。

 ここまで聞けば、さらなる疑問が浮上するだろう。

 何故数多ある『スポット』の中から洞窟を選んだのか? という疑問だ。『洞窟』以外にも数箇所、『スポット』と思われる建物はあった。

 慎重な男が迷うことなく占有を踏み切る理由が、この場所にあるとしたらどうだろう。

 この五日間、オレはかなりの頻度で森の中を探索をしてきた。そしてその過程でいくつかの『スポット』を発見している。

 オレは辺りに誰も居ないことを確認してから、地図を覗き込む。黒丸が『スポット』を指していて、それらは地図上に散らばっている。

 

「やっぱり(かたよ)りがあるか……」

 

 呟き、オレは確信した。

 浜辺寄りよりも森の中の方が明らかに『スポット』は散在しており、そして──洞窟周辺の数は明らかに多い。

 それはつまり、効率良くボーナスポイントを獲得出来ることに直結する。

 今から行く場所が、地図を完全なものにする。

 

「確か……こっちだったか……」

 

 地図を頼りに森の中を移動していると、ある所で、耳がある音を拾った。

 神経を研ぎ()まして正体を探る。風音ではない。オレの想像通りなら──。

 足早になりながら発生源に一直線に突き進むと、オレは森を抜け出て海岸に出た。

 崖の上から落ちないよう注意を払いながら、オレは上半身をやや傾け、自然の雄大さを目に焼き付ける。

 大海。

 オレは思わず憂いを帯びた吐息を漏らしてしまった。

 

「絶景、だな……」

 

 カメラがあればこの景色を撮りたいと思わせるくらいには素晴らしい。

 オレはその後三分程見入ってから、行動を再開した。

 

「……この下だったはずだけど……」

 

 洞窟周辺には『スポット』と思われる施設が多く散らばっているのは述べた通りだ。

 崖に沿ってゆっくりと歩いていると、一見、死角になりそうな場所に梯子が掛けられているのを見付けた。力を入れて強く握ってみると、びくともしない。念入りに打ち付けてあるのだろうと推測する。落ちたら大怪我じゃ済まないだろうからな。

 島に上陸する前にみつけないと、まず、辿り着けない場所だな。

 梯子を降り終え、オレはそのまま目星を付けていた場所に足を進める。数分後、視界に小さな小屋が映った。

 間違いなく『スポット』だろう。そのまま近付く。

 外周を一周して、窓から誰も居ないことを確認してから、オレは扉を開けて室内に入った。この時、閉め忘れることはしない。

 足を踏み入れると、まず目が引かれるのはやや大型な装置。言わずもがな、『スポット』の占有に使う機械だ。予想通り、液晶画面には『Aクラス ─3時間28分─』という文字が表示されていた。

 隣にはガラスケースが置かれていて、中には、釣りに使うと思われる道具類が保管されていた。四桁の数字のダイヤル式ロックで、開けられないようになっている。

 恐らく、キーカードを翳して占有したら、数秒だけ暗証番号が明示されるのだろう。

 

「次、行くか──」

 

 と、オレは閉口した。

 ギギィ……と扉の開閉音が響いたからだ。

 オレが何かしらの反応をする前よりも早く、

 

「ここはAクラスの占有している場所だぜ」

 

 唯一の出口で立ち塞がるのは二人の男子生徒。

 恐らくはAクラス所属の生徒だろう。

 片方は金髪で、見た目だけだったら如何にもなヤンキーだ。もう片方は黒髪のロングヘアーで、高校生とは思えない風貌(ふうぼう)をしている。

 運悪く遭遇してしまったか。

 

 ──さて、どうしたもんか……。

 

 悩んでいると、金髪の男が機械に近付き画面を覗き込む。『スポット』の確認だろう。もちろん、もう一人の人相の悪い男は唯一の脱出路を塞ぐことを忘れていない。抜け目がないな。

 

「やっぱ駄目だな。まだ占有権が切れてないから、こいつがリーダーなのかは分からないぜ」

 

 金髪の男は仲間にそう報告するが、その仲間はオレを監視することのみに専念していて、話を聞いていないようだった。

 けれど彼は怒ることもせずに笑みを携え、なんと、オレに手を差し出してきた。

 

「俺は一年クラス組の橋本(はしもと)正義(まさよし)。こっちは──」

 

「……」

 

 橋本は話を振るが、もう一人の男は無言で佇むだけだった。

 

「──こほん。……同じく、一年Aクラスの鬼頭(きとう)(はやと)だ」

 

 お前の名前は? 目で尋ねられ、オレは答えた。

 

「一年Dクラス、綾小路清隆(きよたか)だ」

 

 名乗った瞬間、室内の空気が一変した。

 鬼頭は目を細め、橋本は面白そうに唇を三日月型に歪める。

 

「……そうか。お前が綾小路か」

 

 値踏みするように橋本はオレをじろじろと観察してきた。

 居心地が悪いことこの上ないが、形勢は明らかにこちら側が不利だ。密閉された小さな部屋、さらには数も向こうの方が多いとなると、下手に動くのは決して得策ではない。

 

「一人か?」

 

「……まあ、そんなところだ」

 

「へぇー……」

 

 橋本は真意が摑めない表情でオレを見つめてから、やがて、大きなため息を零した。

 瞬間、またもや空気が一変する。緊迫とした空気は静かに霧散して行った。

 オレの横を通り抜け、ガラスケースのダイヤル式ロックを解錠し、橋本が三本の竿を取り出す。

 一本を鬼頭に投げ渡し──彼は慌てることもなくキャッチした──、次に自分の分を取ってから、最後に、オレに無言で差し出してきた。

 

 ──え……?

 

 戸惑うオレに彼はにやりと笑いながら、

 

「どうだ、綾小路。お前も一緒にやらないか?」

 

「……本気で言っているのか?」

 

「もちろんだぜ。鬼頭は寡黙で何も喋らないからな、毎日、この時間はとても退屈なんだ」

 

 鬼頭はまだ一言も声を発していない。

 オレは橋本から視線を外し彼を観察する。かなり鍛えていることが羽織っているジャージの上からでも察せられた。いや、彼だけじゃなく橋本もか。橋本の場合はいわゆる細マッチョという奴だろう。

 黙っていると、橋本は竿の先端を自らの右肩にぽんぽんと当てながら、

 

「いくら敵同士だからといって、俺たちは高校生だろ? 苦楽を共にする仲間なんだ、たまには学校の理念なんてものは捨てて遊ぼうぜ」

 

 似たようなことを、随分前に池か山内のどちらかが言っていたな。

 オレは熟考の末……軽く頷いた。それは了承の意を示すもの。

 橋本はオレの肩に手を回しながら笑った。

 

「そうこなくちゃっな! いっぱい釣ろうぜ!」

 

「……」

 

「……」

 

「なんだよお前ら! 元気ねぇな! そんなんじゃモテないぜ?」

 

 お、おう……凄いハイテンションだな。

 

「あっ、けど綾小路には椎名ちゃん? だったっけ? 兎に角、彼女が居るんだっけか。羨ましいぜ」

 

 どうやらAクラスの方にも正しくない情報が流れているようだ。

 

「いや、彼女じゃないけど」

 

「またまた、冗談を言うなよ。嫌味に聞こえるぜ!」

 

 オレは橋本のペースに戸惑うばかりだ。

 池や山内に近い雰囲気を感じるが……それは違うだろう。

 当然だが、この男は計画無しにオレを釣りに誘ったわけではない。

 貼り付けた笑顔も、行動も、言葉も、全てが打算の上に成り立っている。さしずめ『道化師(ピエロ)』といったところか。

 橋本正義。鬼頭隼。

 彼らが『どちら側の人間』なのかを知ることが出来れば、オレは王手を指すことが出来るだろう。

 

「こっちに行くと穴場があるんだ。沢山釣れるんだぜ」

 

 竿を肩に担ぎ、橋本は歩いていった。機嫌が良いのか、鼻歌を歌っている。

 オレはそんな彼の背中を追い掛け、オレの後ろを鬼頭がついて行く。

 逃げるつもりは毛頭なかったが……オレは警戒を怠らないことを改めて心に誓った。

 彼らは恐らく、Aクラスの中でもかなりの実力者だろう。

 それはつまり、学年の中でも事実上のトップに位置しているということだ。

 

「ここだ」

 

「……良い場所だな。波が立っていないし、風も気持ち良い」

 

「おっ、分かるか」

 

「いや、クラスメイトが教えてくれたんだ」

 

 この五日間、Dクラスの毎度の食事には、主菜として川で釣り上げた魚が出されていた。副菜として、森の中で採ってきた野菜や果物などが挙げられる。

 しかしそれだと栄養面が心配なため、一日に一回は学校側に栄養食を注文していた。

 川の水を飲むことも、被験者としてオレや幸村、篠原たちが誰も体調の悪化を申し出なかったことから、全員が飲むことに合意。ポイントの出費削減に成功した。

 そう考えると、Dクラスはかなり特別試験に適応していたと言えるだろう。

 その一番の要因は、大量のクラスポイントを得るという決意……も、当然あるだろうが、これまでのDクラスの生活習慣に起因するかもしれないな。

 五月一日からオレたちDクラスの生徒は貧乏生活を余儀なくされている。もちろん、自業自得なために弁護することは出来ないが、しかしそれでも、得るものはあったんじゃないだろうか。

『我慢』を()いられるこの特別試験で、Dクラスは最もその耐性があった。むしろ試験中の方が豪華な食事だと豪語する者も居るくらいだ。

 だからこそ、現在進行形で加速しているDクラスの失墜は残念極まりないなと思ってしまう。

 

「綾小路。お前、釣りはやったことあるか?」

 

「いや、一度もないな」

 

「なら良く見ておけよ。こうやってやるんだ」

 

 橋本が餌を針に括り付け、ひょいと軽く振って、海面にウキを浮かせる。

 鬼頭も彼に続く。

 オレはただただ舌を巻いた。オレが経験のない初心者、だというのもあるだろうが、初心者目から見ても、二人の動作は無駄がなく綺麗だった。

 Dクラスだったら、池と良い勝負が出来るだろう。

 

「ほら、やってみろよ」

 

「あ、あぁ……」

 

 オレは彼の催促に従い、たどたどしくも準備を始めた。

 橋本と鬼頭の真似をする。

 

「餌を多く取り付け過ぎだ。もっと少なくても良いぞ」

 

 注意を受け、オレは要所要所飛ばされてくる指示に従った。

 高円寺から空間移動を師事(しじ)した際は動かすのは自分の身体だけで良かったため簡単だったが、こちらは熟練の技が必要なようで、マスターするには時間が掛かるだろう。

 特別試験が終わったらこれを使う機会には恵まれないだろうが、新しい知識、新しい技術を身に付けるのは久し振りなため新鮮だな。

 結局、オレは一時間程橋本たちと釣りに興じた。

 

「悪いな、綾小路。全部貰っちまってよ」

 

「いや、気にするな」

 

 釣った魚はAクラスに全て譲渡することにした。敵に塩を送る行為だけれど、魚は鮮度が大事だからな。Dクラスのベースキャンプに戻る時には、この厳夏のことだ、腐っているかもしれない。それにこの場所は元々Aクラスが押さえていた場所だ。その方が良いだろう。

 

「そうだ、夏休み、一緒に遊ばないか。その時には飯を奢るぜ」

 

「分かった。それで頼む」

 

「おうよ。楽しみだな。鬼頭はどうする?」

 

「……」

 

「行くそうだ」

 

 ──……どうして鬼頭は無言なのに、橋本は分かるんだろう。これが慣れって奴なのか。

 兎にも角にも試験終了後の予定が決まった瞬間だった。

 それなりの収穫があったために良しとしよう。

 

 

 

§

 

 

 

 夕食前にベースキャンプに戻ると、オレはピリピリと緊迫とした雰囲気を感じ取った。

 一日経てばある程度は鎮静化すると思っていたが……、流石にそんな上手くは行かないか。

 

「はい、綾小路くん。夕ご飯だよ」

 

 佐倉が王美雨(みーちゃん)と一緒にオレの夕食を持ってきてくれた。

 料理班は料理部の篠原をはじめとして、彼女たちも入っている。夕食の時間になると、彼女たちが配ってくれるわけだ。

 

「ありがとう、二人とも。──あー……、男子にはオレが配ろうか」

 

 男女の仲が決裂している状況では不用意な異性との接触は控えるべきだろう。

 現に、配給してくれているのは彼女たちだけ。班長である篠原は女子の分だけ配り、男子のものは触ろうともしなかった。

 現在は軽井沢の傍に待機して、虚ろな目になっている彼女を懸命に慰めている。そして時折、男子陣営の方を向いては、恐ろしい剣幕で睨むことに一所懸命になっていた。

 まあ、最低限の役割は果たしているから、弾劾は出来ないだろう。個人的には思うところがないわけではないが……。

 ところが、二人はオレの申し出に対して首を横に振り、みーちゃんがこのように言った。

 

「これ以上の悪化は駄目だと思ういますから、私たちが繋ぎ止めることが出来れば良いかなって愛里(あいり)ちゃんと相談したんです」

 

「そっか。なら、二人の行動にはちゃんと意味があると思う」

 

 と、みーちゃんはオレに一歩近付き囁いてきた。

 

「平田くん、大丈夫でしょうか……?」

 

「みーちゃん、どういうこと?」

 

 佐倉が小首を傾げると、みーちゃんは浮かない顔で言った。

 

「うん……朝から平田くんの様子が変に思えて……」

 

 男子と女子の間に壁が生まれている中、洋介だけはその高い絶壁を越えることが赦されていた。

 交際相手である軽井沢の下着が盗まれたのだ、彼氏である彼はその権利がある。女子も文句はないようだ。

 洋介は一見するといつも通りに見えるが、人間観察に長けている人間なら気付くだろう。

 

「……どうかな。情けない限りだけど、オレには分からない」

 

「綾小路くんで分からないなら、きっと、誰にも分からないですよね……」

 

「そんなことはないんじゃないか。実際、みーちゃんは洋介の変化に気付いたんだろ?」

 

「で、でも……確証はなかったですし……」

 

 そのまま語尾を小さくしていく。

 オレは友人としてみーちゃんを励まそうと思い……やめておいた。

 これは彼女の問題だ。

 相談されたのなら兎も角として、今は、彼女がどのような決断をするのかを見守るべきだろう。

 彼女たちに再度礼を告げてから別れた。

 いつもなら健と食べているけれど、彼は沖谷や山内の所に行き、死んだ顔をしている池の元に居る。

 

「寛治くん、元気だして!」

 

「……」

 

「堀北先生がきっと犯人を捕まえてくれるからさ、安心しろって! そしたら篠原たちに逆襲しようぜ! な?」

 

「……」

 

「寛治……俺はお前を信じるぜ」

 

「……」

 

 友人たちが必死に声を掛けるが、池が応えることはなかった。

 無言で箸を動かし、焼き魚を口に運ぶ。普段の彼だったら、「女の子の手料理だ! 最高だぜ!」と言うものだが……。

 オレが行ったところで池の助けにはなれないだろう。

 そう判断し、オレは手頃な石の上に一人で、腰掛け、久し振りに一人で夕食の時間を過ごすことに決めた。

 両手を合わせ、

 

「いただきます」

 

「隣、良いかしら」

 

「お前な……せめて返事を聞いてからにしろよ」

 

 オレは堀北に苦言を呈したけれど、彼女は華麗にスルーした。

 これみよがしにオレはため息を吐くが、それでも堀北はどこ吹く風で、勝手に夕食を食べ始める。

 まあ、オレも堀北には用があったから、都合が良いと思うか。

 美味しいご飯を食べ終え、暫し、オレたちは無言の時間を共有した。

 時間を見計らって、オレは彼女に短く尋ねた。

 

「堀北、体調はどうだ?」

 

「お陰様ですっかり元通り……とは流石にいかないけれど、かなり回復したのは事実ね。ええ、お陰様でね」

 

「言い方に棘を感じるぞ」

 

「何を言っているのかしら。平田くんが昨日あの提案をしたのは、綾小路くん、あなたが彼にそう指示したからでしょう」

 

「何のことやら」

 

 両肩を竦めると、堀北は無言で睨んできた。

 すっかりと覇気が戻っているな。

 

「平田や軽井沢はもう機能しないだろうな」

 

「……私から見ても、今の彼らは充分な戦力とは言えないでしょうね」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 オレは彼女に向き合い、瞳を覗き込んだ。

 そして堀北は迷うことなく即答する。

 

 

 

「当然よ。私は希望を信じる。私は──私たちは『勝利』を摑める」

 

 

 

 彼女は言い切った。

 オレはさらに尋ねる。

 

「『勝利』のためならどんなこともするか?」

 

()()()。卑劣な手段は選ばないわ。私は正面から敵と戦い、完全勝利を手に入れる」

 

「そうか。なら堀北、オレはお前に『勝利』の道筋を教えることが出来る」

 

「聞かせて頂戴。一筋の光を摑み、手に入れる方法を」

 

「分かった」

 

 オレは周囲に誰も居ないこと、そして聞き耳を立てている者が居ないことを確認してから彼女に語った。

 Dクラスが『勝つ』ための方法を。

 全てを聞き終えた堀北は、暫し言葉を失っていた。

 そして、静かに聞いてくる。

 

「綾小路くん、あなた……正気?」

 

「もちろんだ。Dクラスが『勝つ』ためにはこうするしかないとオレは思う」

 

「……そうね。それに私もあなたの策を却下出来る程の妙案なんてものはない」

 

「なら、全て納得してくれるってことで良いんだな?」

 

 言いながら、オレは右手を堀北に差し出した。

 彼女もまた右手を伸ばし、二人の手が繋がる。

 こうして『契約』は交わされた。

 

 

 

 高度育成高等学校、五日目の八月五日。

 

 ・各クラスの残存ポイント(但し、ボーナスポイントは含めない)。

 Aクラス──? 

 Bクラス──175ポイント。

 Cクラス──? 

 Dクラス──135ポイント。

 

 



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無人島試験──六日目《堀北鈴音の変化》

 

 

 

 ──突然だけれど、今から私の話を聞いて欲しい。無人島生活が始まる前、具体的には、その二日前のことだ。

 

 

 

 その日、私は学校が用意したバカンスのため──結局、バカンスなんてものではなかったけれど──、学生寮の自室で二週間という長期旅行の準備をしていた。

 私自身、暇さえあれば遊んでいる(いけ)くんや山内(やまうち)くんのようなアウトドアなタイプではない。むしろ隣人の綾小路(あやのこうじ)くんのようなインドアなタイプだ。……まあ、これについては甚だ遺憾だけれど。

 

「……何冊くらい持って行こうかしら」

 

 荷物は多い。

 制服や学校指定のジャージ、私服、下着類と衣服だけでもかなりの量がある。これに勉強に使う参考書やノート、さらには暇潰し用の小説といった私物を含めれば、それを考えるだけでも憂鬱になりそうだ。

 

須藤(すどう)くんや池くんたち……しっかり持ってくるかしら」

 

 嫌な予感しかない。

 一学期中間試験以降、須藤くん、池くん、山内くん、沖谷(おきたに)くん、そして櫛田(くしだ)さんは私のことを何故か『先生』と敬称を付けて呼ぶようになった。

 特に、定期的に行っている勉強会の時はこれは絶対であり、変な癖がついてしまったのか、普段の学校生活に()いても使うしまつ。さらには、他の生徒たちもそう呼ぶようになっている。

 私は何回かやめてとこれまでに伝えてきたのだけれど、彼らは私の命令に従うことはなく──とうとう、私が折れることになった。

 

 ──堀北(ほりきた)先生! 

 

 (まぶた)を閉じると、彼らの純粋な瞳が浮かぶ。きらきらと輝いているそれは私に対しての絶対的な信頼を意味している……のだと思う。

 これまでの人生に()いて、このような経験は皆無だった。

 だからこそ私は狼狽(うろた)え、戸惑(とまど)い──彼らを突き放せないでいる。

 夏休みは時間が多い。

 それはつまり、他クラスとの基礎的な能力……具体的には、学力の差を詰めることが出来る絶好の機会だということだ。

 なので三日に一回は図書館で勉強会を(もよお)している。余程の理由がない限り欠席は認めていない。

 場合によっては出す課題を二倍にすると事前に脅していたお陰か、今のところは全員が無遅刻無欠席だ。皆、必死な形相で参考書と戦っている。特に須藤くんや池くんが素晴らしい。

 前者は部活動があって大変だろうに、よく付いてきてくれていると思う。そう言えば、バカンスが終わったら大きな大会があると言っていた。バカンスが息抜きになることを祈ろう。

 後者は、一学期期末試験の現代文の科目で好成績を残せたことにより、自信が付いたからかもしれない。私自身、彼のコミュニケーション能力には目を見張(みは)る部分があると思っていたけれど、まさか、少し解き方を教えるだけでああなるとは思っていなかった。とはいえ、他科目では赤点ギリギリの悲惨(ひさん)な結果なのだけれど……。

 明後日から二週間のバカンスに入るわけだけれど、勉強が出来る時間は多々あるはずだ。時間は有限なので、有効に使わなくてはならない。

 荷物をあらかた準備し終わったところで、机の上に置いていた携帯端末が軽やかな着信音を鳴らした。

 

「誰かしら……」

 

 一番有り得るのは櫛田さん。とはいえ、入学当初あった強引な絡みも、最近は減りつつある。

 私は、自分が彼女に嫌われていることを知っている。その理由は分からない。いや、違う。分かろうとしないだけね。

 何故嫌っている私の勉強会に参加して、私をサポートしてくれているのかは知らない。彼女に明確な目的があるのは確かだろうけれど、直近の問題ではないため、私は、暫くは静観することに決めていた。

 もちろん問題の先送りでしかないことは重々承知。

 だからこそ、櫛田さんとはいつか決着をつけるだろう。まあ、ここ最近の彼女の興味は私にではなくて、綾小路くんにあるようだけれど。

 兎にも角にも私の携帯端末に登録している友人は少ない。

 Dクラスで言えば櫛田桔梗(ききょう)さんに須藤(けん)くん、池寛治(かんじ)くんに山内春樹(はるき)くん、沖谷京介(きょうすけ)くん、平田(ひらた)洋介(ようすけ)くんに……綾小路清隆(きよたか)くんくらいだ。他クラスで言えば一之瀬(いちのせ)帆波(ほなみ)さん。

 多分、もしこれでランキングされたら、私はDクラスで堂々の頂点に位置するだろう。

 それ程までの少なさ。とはいえ、不満はない。友人が多く居たら居たで付き合いが面倒臭くなるだろうからだ。

 

 ──着信が来ていて、それをリアルタイムで知っている以上、応答しないわけにもいかないわね。

 

 五コール目で携帯端末の液晶画面を覗いて、私は思わず両目を見開かせてしまった。

 全く予想だにしなかった人物からの電話だったからだ。

 

茶柱(ちゃばしら)先生がどうして……」

 

 私が所属するDクラスの担任だ。

 クラス担任には、教え子の電話番号やメールアドレスが知られている。これは教師が生徒に、個別的な連絡が出来るようにという措置だ。

 戸惑いながら、私はボタンをタップした。

 

「こんにちは」

 

『……出ないかと思ったぞ』

 

「申し訳ございません。荷造りしていましたので」

 

『ほう。もう準備しているのか』

 

 感心したのか、薄く笑ったのが感じられた。

 間違いなく私の担任の茶柱佐枝(さえ)先生だ。

 無機質な冷徹な声を聞き間違えるはずがない。

 そう言えばこの前、勉強会の休み時間の時に池くんが、『茶柱先生ってクラス闘争に興味がないのかなあ』って、友人たちと話していたわね。

 私もそこは気になるところだ。

 客観的には、茶柱先生は生徒に無関心で放任主義。

 一時期は美人な先生だと──具体的には四月。学校側が楽園だった時──、多くの生徒から(した)われていたけれど、今では真逆の評価を与えられている。

 しかし今月の上旬に発生した『暴力事件』で、その認識は私の中では変えられつつあった。

 あの日、彼女との会話は今でも思い出せる。

 

 

 

 ──『実質これが、クラス闘争、その前哨戦となるだろう。まさか自分の担当するクラスが巻き込まれるとは思わなかったがな』

 

『……何を仰りたいのですか?』

 

『堀北。お前たちDクラスがAクラスに行きたいと願うのならば──この戦い、勝利してみせろ』──

 

 

 

 何故、生徒に無関心な茶柱先生があのような激励(げきれい)を飛ばしたのかは今でも分からない。

 仮に彼女がクラス闘争──下位クラスの下克上(げこくじょう)を狙っていたとしても、自らの教え子に告白しないのは矛盾している。

 思案していると、訝しげな声が届いた。

 

『……どうかしたか?』

 

 私は逡巡(しゅんじゅん)してから、臆することなく言った。

 

「率直に言いまして、何故、茶柱先生が私に電話を掛けているのか考えていました」

 

『なに、私なりのコミュニケーションという奴だ』

 

「冗談は程々にして下さい」

 

『おっと、すまないすまない。だがコミュニケーションというのは本当のことだ。明後日から二週間のバカンスにお前たちは行くわけだが、現在は生徒にとって待望の長期休暇、夏休みだ。これが学期中にあればこのような電話はしなくて済むのだがな、上から体調確認をしろと指示が来た』

 

「面倒臭さを隠そうともしていませんね」

 

『事実、面倒だからな』

 

「それでは簡潔に終わらせるとしましょう。私の体調は良好です。余程のことがなければ崩すことはないでしょう」

 

僥倖(ぎょうこう)だな──』

 

 何かを書き込む気配。

 恐らく、電話越しの茶柱先生は今頃、何らかの用紙に生徒の現時点での容態を書き込んでいるのだろう。

 

『これで終わりだ。協力感謝するぞ』

 

「いえ、当然のことです。それではこれで──」

 

 失礼します、と言ってから回線を切ろうする私を、彼女は慌てて止めた。

 

『待ってくれ。今回電話を掛けたのにはもう一つ理由がある』

 

 理由? 

 茶柱先生が私に、いったい、何の用件があるというのだろう。

 教師が生徒を呼ぶ。所感(しょかん)だが、個人的なものかしら。これで異性だったらもっと怪しんでいるけれど……。

 

「手短にお願いします」

 

 私の申し出に、けれど彼女は是としなかった。

 

『いや……今日、お前と直に会って話をしたい。学校に来れるか?』

 

「可能か不可能かと聞かれたら可能です。しかし、何のお話をするのでしょうか」

 

 言外に、先生の意図を教えろと伝える。

 ──答えてくれるとは思わないけれど……。

 ところが、彼女は意外にもこのように言った。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?』

 

 一瞬の沈黙の後、私は気付けば、了承の返事をしていた。

 それから、場所と時間を向こうから指定される。

 

「それでは先生、また後程」

 

『ああ。気を付けて来いよ』

 

 声はそこで途切れた。

 私は真っ暗になった携帯端末の液晶画面を元の場所に置いてから、雨戸(あまど)を開けてベランダに出た。

 冷房が効いた部屋とは違い、外は熱気に覆われていた。空を見上げると、そこにはギラギラと照り輝く太陽が。

 

「夏服でも買おうかしら……」

 

 以前櫛田さんが、プライベートポイントを支払うことで夏服を買えることを教えてくれた。

 高校生活はまだまだ始まったばかり。長い目で見れば、購入することを視野に入れても良いかもしれない。

 

 

 

 夕暮れ時。

 私は一人で並木道を歩いていた。何人かの生徒たちとすれ違うが、彼らは私が通った道……すなわち、寮に帰っているのだろう。

 皆、友人……あるいは、恋人と思われるひとと連れ添っていた。

 上級生のカップルが横を通り過ぎたところで、私は、暇潰しも兼ねて『恋』とは何なのかを考えることにした。

 が、すぐにどうでも良くて思考を断ち切る。

 恋愛という概念そのものを否定するわけではない。ただ、自分とは縁遠いと思ったからだ。

 それにしても──

 

「教師という仕事も案外忙しいのね……」

 

 茶柱先生が指定した場所は、学校にある生徒指導室。指定時間は午後の六時頃だった。

 というのも、あの後、電話を切った後は他の生徒への連絡。そしてそれが終わったら会議が開かれるそうなのだとか。

 益体のないことを考えていると、二人の男女が歩いてきた。

 流石に何度もカップルを見ると辟易(へきえき)としてしまうものね。遊んでいる時間があればもう少し有意義に過ごせば良いのにと思ってしまう。

 顔が視認出来る距離まで近付いたところで、私は思わず絶句してしまった。

 

「堀北か。今からどこかに出掛けるのか?」

 

「……」

 

「……堀北?」

 

 私は彼の呼び掛けに反応することが出来なかった。

 さぞかし今の私は他者から見たら滑稽に映っていることだろう。

 言い訳をすれば、それだけ驚いている。

 暑さで渇きつつある喉を鳴らし、私は彼の名を呼んだ。

 

「あ、綾小路くん……」

 

 綾小路くんは呆然とする私を見て、珍しくも、いつもの無表情を崩して、怪訝そうに首を捻った。

 

「綾小路くん。そちらの方はお知り合いですか?」

 

 無様にも立ち尽くしていると、彼の真横にいた女子生徒が尋ねた。

 私はそこで初めて彼女に目線を向けた。まず、見るひとの目を惹き付けてやまないのは穢れ一つない綺麗な純白の髪だろう。夕陽に反射している影響からか白銀にきらきらと光っている。同性の私から見ても、彼女は美少女──

 そして私は彼女の顔を直視したところで益々驚いてしまった。

 普段の綾小路くん並みの無表情だったからだ。

 

 ──ど、どういうことかしら……。

 

 らしくもなく動揺してしまう。

 私が混乱しているのを知ってか知らずか、彼らは私を放置して会話を始めた。

 

「椎名は面識がなかったな。簡潔に言うとオレの隣人だ」

 

「綾小路くんの隣人さんですか。……ああそう言えば、何度かお話に挙がったことがありましたね。確か……授業中に寝そうになったら正義の鉄槌が下されるのだとか。思い出しました。堀方(ほりかた)さんでしたっけ」

 

「……()()だ、堀北。堀北鈴音(すずね)だな」

 

「……ごめんなさい。──ところで、どうしてひとの顔と名前は覚えづらいのでしょうか……。綾小路くんは何故だと思います?」

 

「何故って聞かれても……。オレも苦手だから何とも言えないな」

 

「おや、そうだったのですか。初耳です。なら私たちは仲間ですね。これからは同族として、一緒に頑張っていきましょう」

 

「お前なあ……」

 

 我を取り戻した時には遅く、彼らはへんてこな会話を続けていく。

 しかも恐ろしいことに、どちらも基本的には無表情、さらには言葉に感情が込められていない。

 この時程、櫛田さんや池くんのことが凄いと思ったことはない。

 

 ──……限定的で良いから二人のコミュニケーション能力を分けて欲しいわね。

 

 今の私を兄さんが見たらどう思うかしら……。考えるだけでもぞっとする。悪夢に等しいわね。

 だが、この混沌(こんとん)に満ちた空気を変えなければならないという使命感が、私を次の行動に(うつ)させた。

 

「あ、綾小路くん。そちらの女性は……?」

 

「あー……悪い。──堀北も名前は知っているだろうけど、オレの友人の椎名(しいな)ひよりだ」

 

「こんにちは? それともこんばんはでしょうか? どちらにせよ、はじめまして。椎名ひよりと申します」

 

「……堀北鈴音よ……」

 

 椎名さんは私が名乗り終えると、「会えて嬉しいです」と、少しだけ表情を崩して微笑(ほほえ)んだ。

 いつもの私だったら挨拶を交わしたらすぐに彼らと別れている。けれど、私の脳は厳暑(げんしょ)で負荷が掛かっているのか、その選択を選ばなかった。

 

「……二人はどこかで遊んでいたのかしら?」

 

「書店に行って本を何冊か購入して、その後はカフェで時間を潰していたな」

 

「今日は新刊の発売日だったんです。今月は豊作でして、思わず、沢山買ってしまいました」

 

「ですから荷物が重たいです」と椎名さんは言った。

 視線を下に下げれば、彼女はパンパンに膨らんだ黒色のビニール袋一つを両手で持っていた。分厚い本の背表紙が覗き見える。確かに重そうだ。

 性差別的な発言をするわけではないけれど、綾小路くんが持ってあげれば良いのにと思ってしまう。

 糾弾して気勢を取り戻そうとして──私はまたもや絶句した。

 

「……綾小路くん……」

 

「……? どうかしたか堀北。今日のお前、変だぞ」

 

「……自覚はあるわ。…………それより、差し支えなければ教えて欲しいのだけれど、あなたが持っているものは何かしら」

 

「…………?」

 

 私の質問の意図が分からないのか、綾小路くんは心底怪訝そうな顔になった。

 それから、彼は平坦な声を出して、

 

「何って、本が入ったビニール袋だが……これがどうかしたか?」

 

「……ちなみに、誰が買ったのかしら?」

 

「全部椎名だが」

 

「そ、そう…………」

 

 私は改めて綾小路くんが手に持っているものを見る。

 彼が述べたように、それは本が入った黒色のビニール袋だった。椎名さんと同じタイプのものだから、購入場所は同じだろう。

 ビニール袋は限界まで膨らんでいる。店員の努力が窺えた。びっしりと隙間なく詰められている。椎名さんのものはある程度ながら隙間があるのにも拘らず……。

 問題は……綾小路くんが持っている袋の数だった。片手でひと袋、つまり、合計二袋。

 思わず顔が引き攣る。

 

「椎名さん、あなた……沢山買ったのね……」

 

「今月は豊作でしたから」

 

 椎名さんはいたって真面目に同じことを口にした。

 

 ──豊作だからといって、こんなにも買うのは異常だと思うけれど……。

 

 そんな言葉が出そうになったが、私は意志力で強引に口をきつく閉ざした。

 

「堀北は制服を着ているが、学校にでも行くのか?」

 

「ええ、まあね。机の引き出しに大事な忘れ物があることを、今、気付いたのよ。今日の私は駄目ね。らしくないもの」

 

 私が作った咄嗟(とっさ)の嘘を、綾小路くんと椎名さんは信じたようだった。

 

「そうか。しかし……学校は開放されているのか?」

 

「茶柱先生には連絡済みよ」

 

「なら、ここで別れるとするか。また明後日会おう。引き留めると悪いしな」

 

「ご機嫌よう、堀北さん。また今度お話しましょうね」

 

「え、えぇ……」

 

 二人は別れの挨拶を交わすと、連れ添って寮に帰って行った。

 私は彼らの背中が離れていくのを眺めてしまう。

 綾小路くんが他クラス……一年Cクラスの椎名ひよりさんと仲が良いのは知っていた。

 友人関係が極端に少ない私でも、彼らの噂は度々耳に入ってきたからだ。ましてや、綾小路くんは私の隣人。知らないはずがなかった。

 だから、彼らが一緒に居ることそのものには最初こそ驚いたけれど、すぐに納得した。

 本人たちが言っていたように一日を過ごしていたのだろう。

 彼らは入学初日から意気投合して、現在に至っているのだとか。だがそれにしても──

 

「仲が良すぎじゃないかしら……」

 

 五分にも満たない会話だったけれど、すぐに理解した。

 Dクラスの綾小路清隆くんと、椎名さんと居る時の綾小路清隆くんは全然違う。

 何が、と聞かれると答えに窮するけれど……。強いて言うとするならば、雰囲気、だろうか。

 

「……」

 

 私はため息を吐いてから、再び足を動かし始めた。

 数分も歩くと高度育成高等学校の校舎が見えてくる。

 校門、玄関口を通り、私はそのまま生徒指導室に向かった。

 

 ──ここに来るのは随分と久し振りね。

 

 生徒指導室を訪ねた回数は、一回だけ。五月一日、私は学校の理念を説明された日、私はどうしても自分がDクラス配属であることを認められなかった。

 今でも私はこの考えを変える気はさらさらない。

 何故私が──堀北鈴音がAクラスでないのかと、学校側に訴えを起こしたい。

 しかし……そうも言ってられなくなってきた。

 子どもの癇癪(かんしゃく)を爆発させている時間はない。

 それに、私がAクラスに上がったら、学校の教師やDクラスだからと見下してきた生徒たちを今度は私たちが見下せば良いだけの話だ。

 茶柱先生は廊下の壁に体を預けさせて、私を待っていた。

 

「終業式以来だな、堀北」

 

「そうですね。お久し振りです、茶柱先生」

 

「挨拶はこのくらいにして、早速、中に入って貰おうか。話は中でも出来るからな」

 

 言いながら彼女は、生徒指導室のたった一つの出入り口を開けた。

 先に入れと目で催促してきたので、軽く頷いてから入室する。

 室内は以前訪れた時と同じ内装だった。

 

「珍しいものはないだろう。席に座れ」

 

「失礼します」

 

 私と茶柱先生と向き合った。

 お互いの瞳のレンズ越しに自らの姿を確認する。映っている私は愛想の欠けらもない無愛想なものだった。

 彼女から話を切り出してはくれないと判断し、私は体を身動ぎしてから、

 

「それで茶柱先生。今日はどのようなご用件でしょうか」

 

「おかしなことを言うな。予め伝えておいただろうに」

 

「ええ、そうですね。しかし先生、私は未だにあなたの言葉を受け入れられずにいます」

 

「だろうな。私がお前の立場だったら、私もそう思うだろう」

 

 茶柱先生が声を立てて笑うのに対して、私は表情を一切動かさなかった。

 

「先生のご用件はクラス闘争について。これで合っていますか?」

 

「だから何度も言っているだろう。お前が確認した通りだ」

 

「具体的には何を話すのでしょう?」

 

 ところが、彼女は私の問いに答えなかった。

 両目を伏せ、両腕を胸の上で組み、何やら思案している。

 やがて、彼女は唐突にこのように言った。

 

「堀北。お前は今のDクラスを視てどう思う?」

 

「……それが先生が求めているものですか」

 

「ああ、そうだ」

 

 私は口を閉ざし先程の彼女のように考え込む。

 今のDクラスを視てどう思うか。

 答えは既に脳内で出ていた。

 

「主観的にも、そして客観的にも、今のDクラスは過去──入学した当時のクラスとは別物です」

 

「ほう……。根拠を聞いても良いか」

 

「まずですが、生徒の『成長』が顕著に現れています。須藤健くんが最たる例でしょうか」

 

「そうだな。奴については担任の私も感心しているところだ。以前の『暴力事件』以降、度々起こっていた諍い事も一切ない。部活のバスケットを全力で臨んでいると、顧問からも話を聞いている」

 

 他には? 目で尋ねられ、私は先程思っていたことを伝える。

 三バカトリオと蔑まれていた生徒の急激な進化を。

 全てを聞き終えた茶柱先生は興味深そうに私を見つめてきた。

 

「すっかりと『先生』になっているな」

 

「……揶揄(からか)っているのでしょうか」

 

「本心だ。堀北、お前の言う通り、須藤、池、山内……は微妙なところだが、兎も角、お前が導いてきた『生徒』たちは日々成長している。だがな、私はお前も成長しているように見受けられるぞ」

 

「…………」

 

「自分では中々実感出来ないだろうがな」

 

 嘘を言っているようには見えない。

 私は吐息を零してから自分の『変化』と向き合った。

 四月、五月、六月、七月。

 茶柱先生の言う通りだろう。そう、確かに私は変わった。

 自分のことは自分が一番知っているし、理解している。

 

「そうですね」

 

 だからこそ、意外にもすんなりと認めることが出来た。

 

「戸惑っているようだな」

 

「正直なところ、先生の言う通りです。まさか、まさか私が──」

 

 普通の高校生活を送っているなんて……、私が漏らした言葉はとても小さかった。

 そしてここまでのやり取りで、見えてきたものがある。

 茶柱先生の不可解な行動、言葉が、一つの形になっていく。

 

「先生の使命が『それ』なんですか。すなわち、DクラスがAクラスに上り詰める──下克上」

 

「……」

 

有耶無耶(うやむや)にされては困ります」

 

 この機会を逃したら、目の前の大人は口を割ろうとしないだろう。

 確信があった。

 茶柱先生は目を逸らそうとするけれど、逃がすわけにはいかない。私は目を細め、彼女の瞳を直視し続ける。

 数分にも渡る攻防の末……、茶柱先生はおもむろに首を縦に振った。

 それは私の推測が正しいことを示していた。しかしだからといって、私は喜ぶ気にはなれなかった。

 

「だとしたら何故、先生はあのような感心されない態度を普段からとっているのですか。下克上を本心から狙っているのなら、もっとやりようはあるでしょう」

 

 矛盾を指摘しても、茶柱先生は表情を微塵も変えない。

 それどころか、このように言ってきた。

 

「下位クラスの下克上がどれ程困難なのか、堀北、お前はまだ理解していない」

 

前途多難(ぜんとたなん)なのは重々承知しているつもりですが」

 

「違うな。お前たちは絶望を味わっている気分なのだろうが、こんなのはまだ序の口だ」

 

「これ以上の苦難が待ち受けていると?」

 

「それもある」

 

 彼女はさらに言葉を続け、

 

「最初の一ヶ月で1000clを使い果たしたのはお前たちが初めてだと、私はあの日、お前たちに言ったな」

 

「良く覚えています。先生は仰いましたね。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「その言葉を撤回するつもりはない。だがしかし──お前たちは恵まれている」

 

「……恵まれている……?」

 

 意味が分からず、私は首を傾げてしまった。

 

 ──何が恵まれているのかしら。

 

 頂点に君臨するAクラスとは絶望的なまでにクラスポイントに差があり、三位のCクラスとだって、簡単には覆せない程の差がある。

 困惑する私を見て、茶柱先生は薄く笑った。

 

「分からないようだな」

 

「素直に申し上げますと。教えて下さい、茶柱先生。『不良品』として蔑まれ、疎まれている私たちのどこに恵まれている要素があるのでしょうか」

 

退()()()()()()()()()()()()()

 

「……ッ!」

 

「これは奇跡のようなものだ。お前も薄々察してはいるだろうが、当校のクラス配属は、高校入試の際に受けて貰ったテストよりも、面接の成績の方がより大きく反映されている。だからといって、テストそのものが無価値なわけではない」

 

 高度育成高等学校では、定期試験の際に一科目でも赤点を取れば、問答無用で退学処分──正確には、自主退学扱いのようだけれど──を言い渡される。

 理不尽だ……と言うつもりはない。私たちは学生で、学生の本分は学ぶことにある。学ぶと言っても様々だけれど、最低限修めなければならないのが勉学だろう。

 何もしないで自己本位な考えを口にする者はとても滑稽(こっけい)で、愚か者のすることだ。

 

「なるほど、順当ならDクラスの私たちの誰かから脱落者が出てもおかしくはないと、先生は仰りたいのですね」

 

「その通り。実際、これは過去に起こった出来事だから隠さずに言うが、一学期の課程が修了した時点で、何人かの生徒が赤点を出し、学校を去っている。二学期になると、学年で一人は名簿から消えているな。しかもその一人はDクラスの者だ」

 

「今後の参考にします」

 

 これは情報共有をしといた方が良いかもしれないわね。

 特に須藤くんや池くん、山内くんといった、成績が芳しくない生徒なら尚更だ。

 

「先程の発言の、『恵まれている』の意味が分かりました。クラスポイントにマイナスはありませんが、それが卒業まで続くとは思えません。そして退学者となると、必ずクラスポイントのマイナス査定の項目に該当するでしょう」

 

「私が野心を表に出さなかったのは、まず一番にこれが挙げられる。もし一学期終了時点で退学者なんてものを一人でも出してみろ、他クラスとのクラスポイントの差はまさに、『絶望』と言っても差し支えないだろう」

 

「しかし先生は、いち生徒である私に自分がひた隠しにしてきた野心をこうして話しています。それはつまり、あなたが希望を見出したから……違いますか?」

 

 だとしたら全て腑に落ちる。

 ところが、彼女は首を縦に振ることも、横に振ることもしなかった。

 

「どうだろうな。包み隠さず言うのなら半信半疑だ」

 

 全てを賭けるには至らない、ということだろうか。

 茶柱先生は言葉を続けて、

 

「今年のDクラスは近年稀に見る程の逸材が揃っている。堀北鈴音、平田洋介、櫛田桔梗、高円寺(こうえんじ)六助(ろくすけ)が真っ先に挙げられるだろう。さらには中間試験や先日の『暴力事件』。()()()()と考えてしまうのは仕方がないと思わないか」

 

 客観的にも、今年のDクラスは一定の戦果を叩き出している。

 希望に(すが)れない人間が希望を見出してしまうのも無理はないだろう。

 

「お話は良く分かりました。先生の心中もある程度は察せられます。しかしこれだけの会話をするために、私たちは、今、この場に居るのでしょうか」

 

 見たところ、監視カメラが設置されているようには見えない。

 それはつまり、内密な話が出来るということ。

 確かに今までの会話は、茶柱先生からしてみたら他人には聞かれたくないだろうけれど、今日この日に話す必要性は全くない。

 対峙(たいじ)している顔をじっと見つめていると、やがて、彼女は囁くようにして口を動かした。

 

「──お前は綾小路清隆をどう視る?」

 

 一瞬、質問の意味が分からなかった。どうして彼の名前が出るのかと疑ってしまう。

 私はすぐに言葉を返すことか出来なかった。そして確信する。

 

 ──これが茶柱先生の本題ね……。

 

 ややして、私は言った。

 

「不気味な存在です、綾小路くんは。何を考えているのか……、いいえ──彼の行動理念が分かりません」

 

 入学式の日、綾小路くんは『事なかれ主義者』だと自身のことを評した。

 最初聞いた時、私は彼の信条を真に受け、特に疑問に思うことはなかった。それどころか下らないものだと一蹴した。

 けれど────

 私の胸中の思いは茶柱先生も(かか)えているのか、彼女は深く頷いた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それはお前たちも察しているだろう」

 

『不良品』と呼ばれる所以はそこにある。

 何かしらの欠陥があるから、私たちはDクラスに配属させられている。

 

「では聞こう。綾小路の『それ』は何だ?」

 

「……ッ」

 

「『暴力事件』を契機(けいき)に、綾小路は今や学年に問わず、様々な生徒から関心を寄せられている。断言しよう。今のあいつは台風の目だ」

 

「……台風の目、ですか……」

 

「お前がAクラスに上り詰めたいと心から思うのなら、留意しろ。これは私の憶測だが、綾小路は『暴力事件』が起こることを前もって知っていたのではないかと、私は考えている」

 

 それは私も一度は考えたことだった。

 綾小路くんがあの騒動が起こることを知っていたとするならば、彼のあの不可解な行動にも説明がつく。

 

 ──でも何の為に……? 

 

 (うず)く。答えはすぐそこなのに……辿り着けない。

 

「綾小路は必要とあらば躊躇(ためら)いなく仲間を切り捨てるだろう。いや、違うな。そもそもの話、お前たちDクラスの生徒のことを仲間と認識しているのかすらも怪しいところだ」

 

「……なら先生は椎名さんのことはどのようにお考えですか?」

 

「椎名というと……一年Cクラスの椎名ひよりのことか」

 

「ええ、そうです。実は先程、私は二人と会いました。傍目から見ていても、彼らの仲はとても良いように見受けられましたが……」

 

 尋ねると、茶柱先生は難しい顔になった。

 背凭(せもた)れに上肢(じょうし)を預け、数秒、沈黙する。

 数秒後、考えが纏まったのか、彼女は姿勢を正すとこのように言った。

 

「綾小路が、何故、椎名と未だに交流をしているのかは分からない。単に気の合う友人だからなのか……それとも、何か別の狙いがあるのか……。どちらにせよ、綾小路の取り扱いには気を付けろ。もし間違えたら──」

 

 ──あいつの闇に呑み込まれるぞ。

 全身の肌という肌が粟立(あわだ)つのを感じた。

 私は深く頷いた。

 長期休暇中、何かが起こる。

 私は、私が為すべきことを為せば良い。

 

「話はこれで終わりだ」

 

 その言葉を合図にして、私たちはどちらともなく立ち上がった。

 先に私が廊下に出て、茶柱先生を待つ。彼女はポケットから鍵を取り出すと施錠した。念の為に一、二回程ちゃんと閉まっているのか確認するのを忘れない。

 

「それでは堀北、もう日が暮れているから、気を付けて帰るように」

 

「はい。また明後日会いましょう」

 

 簡潔に別れを済ませると、茶柱先生はすぐ近くの職員室に向かっていった。背中に哀愁さが漂っていたのは気の所為だと思いたいわね。

 私も帰宅するため、昇降口に向かう。靴を地面に置き、足を通そうとした瞬間──

 

「──くしゅん」

 

 寒くないのに、私はくしゃみをしてしまった。

 周りに誰も居らず、聞かれなかったのは僥倖だけれど……。

 額に右手を持っていき当てるけれど、異常は感じられない。目眩や呼吸の乱れもない。

 

「今日は早めに寝ましょう……」

 

 そう呟いてから、私は靴を履き、今度こそ帰途についた。

 余程話し込んでいたのか、夕焼け色だった空は、既に、暗闇に覆われていた。

 

 

§

 

 

 

 意識が覚醒した。

 私は上半身をむくりと起き上がらせ、それから軽く伸びをした。

 

「特別試験も六日目になるのね……」

 

 実質的には、今日が無人島試験の最終日となる。

 明日は朝の点呼が終わりしだい、仮設テントや使った器具などを片付け、そこから、浜辺に集合する手筈(てはず)になっていた。

 

「全く……無様なものだわ……」

 

 ほんと、自分が嫌で嫌で仕方がない。

 綾小路くんが嘗て言った通りだった。

 独りでは何も出来ない。どうしようもなく、限界がある。

『スポット』の占有権を更新する時も、一人では行えない。女性である私には、男性のような屈強な力はない。

 豪華客船に搭乗した時から、私は体調が悪かった。その事を告げれば、リーダーの役割は与えられなかっただろう。でもどうしても私がやる必要があったし──これは綾小路くんには言わなかったけれど──何よりも、私がやりたかった。けれど結果はこのザマだ。綾小路くんが平田くんを説得し、四日目、クラス全体で休みを取らなければ──私はそうだと確信している。彼が認めるとは思えないけれど──、私は必ず体調を悪化させ、最悪、倒れていただろう。そうなれば試験脱落のペナルティが課せられ、クラスに迷惑を掛けてしまう。

 それだけじゃない。

 下着泥棒の容疑者として祭り上げられた池くんだって、完全に救うことは出来なかった。『暴力事件』の時もそうだ。須藤くんを完全に救うことは出来なかった。

 Dクラスの状態は最悪の一言に尽きる。

 クラスの女子生徒を纏めあげていた軽井沢(かるいざわ)さんは未だに意気消沈しているし、平田くんも、戦力とは到底言えないだろう。昨夜だって、軽井沢さんの傍に居たけれど、彼は何も出来ずにいた。

 かろうじてDクラスが原型を留めているのは、ひとえに、櫛田さんの奮闘のおかげだ。また、(ワン)さんや佐倉(さくら)さんといった尽力も大きい。

 彼女たちが居なければ、今頃、Dクラスは空中分解していただろう。

 

 ──だからこそ、『勝つ』必要がある。

 

 私は手の指で自身の髪を()きながら、昨夜、綾小路くんから提示された作戦を思い返した。

 ルールに沿ったその攻撃力は絶大だ。上手く行けば、Dクラスが首位に立つことすらも出来る。

 彼は別れる寸前、このように言ってきた。

 

『堀北、この作戦はお前が考え、そして実行したことにしてくれ』

 

『何故かしら』

 

『これ以上の悪目立ちは避けたい。それに──今のお前なら、Dクラスを導けると判断した。だからこそ、洋介ではなくお前に話した』

 

 集団を先導するためには必要なものがある。

 一つ、カリスマ性。

 そしてもう一つは、実績だ。

 

『分かった。あなたの思惑通りに動いてあげる』

 

 私の答えに満足したのか、綾小路くんは短く首肯してから去った。

 隣で熟睡している櫛田さんを一瞥してから、私は音を殺して寝室から出た。

 いつもだったら燦々と眩く太陽が出迎えるけれど……、空は、灰色に染まりつつあった。

 

「雨が降るかもしれないわね」

 

 雲行きが怪しい。

 私にはどうしても、私たちの行く末を暗示しているように見えて仕方がなかった。

 

 

 特別試験六日目の、八月六日──開幕。

 

 



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無人島試験──六日目《勝つ為の布石》

 

 特別試験六日目、八月六日の早朝。

 規定の時間になったので、洋介の身体を揺らす。

 

「……おはよう、清隆(きよたか)くん」

 

「ああ、おはよう」

 

「それじゃあ、行こうか」

 

 洋介が身嗜(みだしな)みを整えるのを待ち、オレたちは寝室から出る。すると彼は懐疑的な声を出した。

 

「昨夜は雨でも降ったのかな……?」

 

「そうだろうな」

 

 じめじめとした()し暑さ。さらには、地面を見れば水溜(みずた)まりやぬかるんだ場所が見受けられる。

 昨日までとは別の景観なのだから、驚くのも無理からぬことだろう。

 空を見上げると、見渡す限りが灰色に(いろど)られている。陽の光が分厚い雲を通り抜ける(すべ)はなさそうだった。

 実質的には、無人島生活は今日が最終日だと判断して問題ないだろう。明日は朝の点呼が終わりしだい、辺りの片付けで(いそが)しくなり、その後はすぐに浜辺に集合することになっているからだ。

 そして一年生全員が揃ったところで──脱落者は豪華客船の一室に集められるが──、特別試験の結果が発表される。

 

「最悪の天候だね……」

 

「恐らく……というか、絶対に雨が降るだろう。小雨(こさめ)なのを祈りたいが……」

 

 大雨になったら、ベースキャンプは甚大(じんだい)な被害を受けるだろう。

 テントの出入り口には、幸村(ゆきむら)三宅(みやけ)が立っていた。顔が浮かないのは気の所為(せい)ではないだろう。そんな彼らにオレたちは声を掛けた。

 

「「おはよう、二人とも」」

 

「「……おはよう」」

 

 朝の挨拶を簡潔に終わらせ、オレたちは早速とばかりに本題に入る。

 

「そうか……次の当番は平田(ひらた)と綾小路だったのか」

 

「うん。二人ともお疲れ様。何か『異常』はあったかい?」

 

「いや、何一つとして問題はなかった」

 

 幸村が力強く断言する。とても頼もしいな。

 そして彼は顔色を変えて空を睨む。

 

「くそっ……! まさか雨が降るなんて……!」

 

「さっき、川を見てきたが……駄目だな。とてもじゃないが釣りは出来ないだろう。水源の確保は頑張れば出来るだろうが……それも危ういかもな」

 

 水位が上がり、水嵩(みずかさ)が増しているのだろう。

 川の水流の流れが速くなり、下手に近付けば危険だ。巻き込まれてしまうかもしれない。その辺は生徒たちが全員起きたら情報を共有する必要があるだろうな。

 

「さっきはトイレに間に合って良かったな」

 

「ああ。危なかったけどな」

 

 すると三宅は納得したようだった。それから体調を気遣われる。

 そしてオレたちは話し合いを少しした。

 話を聞き終えた洋介は彼らの不安を取り(のぞ)くように殊更(ことさら)明るい笑顔を浮かべて二人を(ねぎら)った。

 

「改めてお疲れ様。あとの見張り番は僕たちに任せて、二人は疲れた身体を休めて欲しい」

 

 見張り番というのは、昨日、生徒たちが考えた抑止力の一つだ。下着泥棒の犯人が愉快犯にしろ、そうではないにしろ、これ以上、被害者を出してはならない。男女の共通認識として、昼夜を問わず、仮設テントの周りを監視するようになった。当然ながら、男子テントは男性が、女子テントは女性がだ。

 さらに抑止力の一つとして、男子テントと女子テントの場所の距離を離した。

 そして次の番がオレと洋介の二人だった。

 

「ああ、頼んだぞ平田。これ以上、犯罪者を出すわけにはいかないからな」

 

「俺と幸村は寝るから、朝の点呼の時間になったら起こしてくれると助かる」

 

「分かった。それじゃあね」

 

 洋介はにこやかに笑いながら、仮設テントの奥に入っていくクラスメイトを見送った。

 次の瞬間、彼の柔和な笑みはまるで嘘のように消え失せる。

 

「洋介……お前、大丈夫か?」

 

 オレが尋ねると、洋介は乾いた笑みを無理矢理張り付かせ──それから、やはり、()(かえ)る。

 

「正直なところ、外面を整えるので精一杯かな」

 

「そうか」

 

「ほんと、情けない限りだよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だからこそ、(いけ)くんを助けることが出来なかった。ましてや交際相手(軽井沢さん)すらもね」

 

「それは仕方がないんじゃないか。あの状況じゃ、出来ることなんてたかが知れてるだろ」

 

 オレの冷静な指摘に、けれど彼は気色を浮かべることはなかった。それどころか益々顔を(くも)らせて押し黙ってしまう。

 オレはそんな様子の洋介を見ながら考え始める。

 (かつ)て述べたように、平田洋介は善人である。

 困っている人間がいたら自分の損得なんてものは考慮せずに、気付けば体が動いていた、結果的に手を差し伸べていたというタイプだろう。

 一之瀬(いちのせ)帆波(ほなみ)程では流石にないが、現代社会でこのような行動を取れる人間は珍しいものだと思う。

 問題があるとしたらそれは──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 だからこそ、平田は今回『契約』の遂行を提案してきた。とはいえそれは、途中までは上手くいっていたが今となっては達成されてない。

 オレが思考に(ふけ)っていると、ぽつぽつと、彼は言葉を紡いだ。

 

「……僕はね、清隆くん。全ての人間を救えるとは到底思っていない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。違うかな……?」

 

「極論だが正解だろう。ひと一人で出来ることには限界がある」

 

「だから僕は、今の『僕』になった。せめて大切な人は──助けたいと。そう、思ったんだ……」

 

「思った、か。今は違うのか?」

 

「……どうだろうね……。僕にも分からないよ」

 

 洋介はそう言って、自虐(じぎゃく)の笑みを張り付かせた。

 オレは彼の肩を軽く叩き、

 

「兎に角、まずは仕事を全うするか」

 

「ああ……うん。そうだね……」

 

 ベースキャンプを軽く一周して──もちろん、女子テントには一切近付かない──、異常がないかを確認する。そして元の場所に戻った。洋介の歩幅はとても小さくて、時間が掛かってしまったが……仕方ないだろう。

 池寛治(かんじ)という容疑者が生贄として差し出されなかったら、まだ洋介は機能していたかもしれない。だが現実はこれで、仮定の話をしたところで意味はなさない。

 ここで彼を慰めるのは簡単だ。このように言えば良い。

 

 

 

 ──『お前は良くやっている』

 ──『お前が気に病むことじゃない』

 

 

 

 だがしかし、それは問題の先送りでしかない。

 それに──()()()()()()()()()()()()()

 オレは、再度、灰色に塗られたキャンパスを見上げた。

 

「大雨を覚悟した方が良いだろうな」

 

「……やるべき事が多くあるね……」

 

 改めて話題を振るが返ってきた言葉はとても弱々しかった。

 兎にも角にも、打ち込んだペグの再確認や、釣りが出来ない状況でどのように食料を得るのか、雨が降り出したらどのように対処するのかなど、今日は慌ただしくなるだろう。

 しかし今のDクラスにそれだけの『力』があるだろうかと聞かれたら……オレは首を横に振らざるを得ない。

 軽井沢の下着が盗まれたことなんて、皆、内心はどうでも良く思っている。いや、もちろん中にはそうじゃない人間も居るだろう。だがそれはごく少数だ。

 特別試験へのフラストレーション。これまでつとめて意識しないようにしてきた、胸の内に抱えてきたもの。その限界を事件が引き金となって突破したに過ぎない。ただそれだけのこと。

 

「洋介」

 

 声を掛け、反応が返ってくるまでに数秒を要した。

 

「……何だい、清隆くん……」

 

「あの日……お前がオレの部屋を初めて訪ねて来た時、オレたちは約束したことがある。それを覚えているか」

 

「もちろんだよ。きみは僕のために手を貸し、僕は()()()()に手を貸す。お互いに利用し合う」

 

「ああ。だからオレは、『契約』に基づきお前に協力する。たとえお前が『勝つ』ことを諦めていたとしてもな」

 

 平田洋介の意志なんてものは関係ない。

 すると案の定、彼は血相を変えて否定してきた。

 

「……諦めているわけじゃない。僕は────!」

 

「いいや、お前は諦めている。Dクラスをどうしたら維持出来るかだけを考えている」

 

「……ッ! ……それのどこが悪いんだい!?」

 

「悪くはない。それも作戦の一つだ。けど今それを選んだら、お前は近いうちに必ず後悔する」

 

「そんなの分からないじゃないか……ッ!」

 

()()()()()()()()。仮にDクラスがかろうじて原型を取り留めたとしても、それは九死に一生を得ただけに過ぎない。同じことを繰り返すだけだ」

 

 再生と崩壊を永遠に繰り返す。そのうち再生は崩壊に追い付かなくなり、いずれ、跡形もなく消滅するだろう。

 オレは先導者に滔々と語り掛ける。

 

「落ち着くんだ。『勝つ』ためのピースは既に所持している。あとは慌てることなく当て()めれば良い。それに、お前が全部を抱え込まなくても良いんだ。もっと仲間を信じたらどうだ?」

 

「仲間を……信じる?」

 

「ああ。さっきも言ったが、ひと一人で出来ることなんてたかが知れてる。人間にはどうしても向き不向きがあるからな。どうしても自分一人じゃ(あらが)えないと思ったなら、仲間を頼れば良い」

 

 人間なのだから、迷ったりもするし(つまず)きもする。時には転倒することもあるだろう。

 それは悪いことじゃない。

 周りにいる人間が手を差し伸べれば良いだけの話。簡単なことだ。

 

「困ったな……まさか清隆くんからその言葉が贈られるとはね。きみは……どうしてそんなにも冷静に物事を視ることが出来るんだい?」

 

 畏怖の視線が送られてくる。

 

「さあ、どうしてだろうな」

 

「……清隆くんは凄いね。思わず憧憬(しょうけい)してしまうよ。けれど同時に、僕はきみが恐ろしい。前々から感じてはいたけどね」

 

 徐々に瞳に焔が燃え上がっていく。

 オレは簡潔に先導者に問い掛けた。

 

「覚悟は出来たか?」

 

「──覚悟なんて大層なものはまだ形成されていない。けれど、僕は僕に出来ること……為すべきことを為すよ」

 

「それで良い。お前のおかげで王手を指すことが出来た。完全決着(チェック・メイト)は──『勝利』は目前だ」

 

 片手を差し伸べると、彼は迷うことなく摑んだ。

 

 

 

§

 

 

 

 朝の点呼の時間になり、Dクラスの生徒全員が起床する。男子の溝は未だに埋まっていなかったが、男子たちはあることに気付く。

 

「女子たち、様子がおかしくね……?」

 

「は? 何がだ?」

 

「いや……何て言うのかな……そわそわしているというか」

 

「どこがだよ」

 

「そっちじゃねえよ。あっち……軽井沢が居る方だ」

 

 当事者たちに聞かれないよう、男子生徒たちはひそひそと小声で話す。

 彼らが言っている違和感の正体は、主に軽井沢……の従者二人──名前は確か……園田(そのだ)石倉(いしくら)だったか──だった。いや、彼女たちだけじゃない。櫛田(くしだ)も彼女たち程ではないが、動揺をしていた。さらには篠原や佐藤も狼狽している。そして皆、軽井沢を気にしていた。昨日の件があるにしても、過剰に見られる。

 

「何かあったのか?」

 

「さあ? って言うか、あいつらに共通点とか特になくね?」

 

「──こほん。それでは六日目の点呼を始める。名前を呼ばれたらしっかりと返事をするように。一番、綾小路(あやのこうじ)清隆」

 

「はい」

 

「二番、池寛治────」

 

 担任が手早く点呼を終わらせると、皆が散らばる前に、先導者が声を張り上げた。

 

「実質的には今日で特別試験も終わりだ。みんな、頑張ろう!」

 

「「「……おお──!」」」

 

 先導者の鼓舞に、呼応する生徒たち。

 空元気なのが明白だ。しかしそれで良い。ここまで来たら気力で乗り切るしかないだろう。

 

「見ての通り、今日は空が荒れ模様だ。昨夜雨が降った影響か、川も荒れている。とてもじゃないけど釣りは出来そうにない」

 

「じゃあ、森の中から採るか、非常食を注文するしかないってことか」

 

「うん。さらには、いつ雨が降るか分からない。『スポット』の更新は近場だけのものにしたいと思う。どうだろうか」

 

 これにはポイント保持派も容認する。

 利益を求め続けたら災いとなって降り掛かるものだと理解しているからだろう。

 

「やるべき事は沢山ある。皆、昨日のことは一旦置いて、協力しなければならない。分かってくれるかな」

 

 男子生徒は女子生徒を。女子生徒は男子生徒を。互い、顔を見合わせる。

 昨日あれだけ激しく争ったのに、今更手を取り合うことが出来るのか……? と、彼らの顔には書いてあった。

 何とも言えない空気が流れる中、一つの声が投下された。

 

 

 

「──平田くんにさんせー」

 

 

 

 状況にそぐわぬ間延びた声。

 オレたちは一斉に声主の方に視線を向ける。

 そこに立っていたのは軽井沢(かるいざわ)だった。昨日は一日中仮設テントの中で涙を流していた彼女が、皆の前で発言をしてこなかった彼女が、初めて声を出した。

 一番驚愕したのは、先程の女子生徒たちだった。軽井沢と仲の良い園田や石倉が「恵ちゃん!?」と言い、篠原も「軽井沢さん!?」と言う。事情を何も知らない生徒たちからすれば、彼女たちの反応が大袈裟に見えてしょうがない。

 だが軽井沢は彼女たちの言葉に反応せず、さらには、降り注いでくる数々の視線にも物怖じすることなく、それどころか、一歩足を踏み出して、ある人物の名を呼んだ。

 

「池くん、話があるんだけど」

 

 話が振られた池は隅の方に居た。近くに居るのは沖谷(おきたに)山内(やまうち)(けん)の三人だけ。

 男子の領域には居ることが(ゆる)されているが、かと言って、沖谷たち以外の者が彼に話し掛けることはオレが知る限りではなかった。

 

「……軽井沢……」

 

 普段の快活さは見る影もない。

 軽井沢とは対照的に一歩後退る池を見て、女子生徒の何人かが嘲笑した。情けないとでも思っているのだろう。とても陰湿だな。

 そんな一部の女子たちに健が(すご)む。

 

「てめぇら、良い加減に……!」

 

「「「ヒッ……!」」」

 

「チッ」

 

 情けなく悲鳴を上げる小物に、彼は苛立ち混じりに舌打ちを一つ打った。

 これまで彼は良く堪えてきたと思う。

 己を(りっ)し、暴力での強引な解決を未然に防いできた。しかし友人の悲惨(ひさん)な現状、さらには、見下してくる女子生徒たちに自制が利かなくなり、元々、そこまで高くなかった沸点を超えてしまった。

 しかしそんな彼を諌めたのは他ならない池だった。肩に手を置き、

 

「健、やめてくれよ。気持ちだけで良いからさ」

 

「けどよ寛治! 流石にこれはイラつくぜ!」

 

「……良いんだよ。全部、俺の自業自得なんだからさ」

 

「寛治くん……」

 

京介(きょうすけ)もサンキューな。春樹(はるき)もだぜ? お前らが居なかったら、俺は──」

 

 言葉を区切り、彼は小さな笑みを零した。

 そして池は普段の彼からは想像がつかない程の真剣な表情を浮かべ、一歩、二歩と軽井沢に足を向ける。

 そして男子と女子の領域の境界線、ぎりぎりの所で立ち止まった。

 

「話があるんだろ? 待たせたな、軽井沢」

 

「ほんとそれ。茶番劇? って言うの? 見ていて退屈だったしー」

 

 前髪を右手で弄りながら、クラスの女王は玉座から降り立った。

 全員が固唾を飲んで見守る中、口火を切ったのは池だった。

 

「それで軽井沢、話って何だよ?」

 

「あれ、もしかして分かんない? 池くんってやっぱ馬鹿だねー」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ー」

 

「あははは、何それ、おもしろーい」

 

 緊張感の欠片もないやり取りに野次馬は唖然とするしかなかった。口を半開きにするしかない。

 どちらとも自然な笑みを携え、取り留めのない会話を続けていく。

 本題に入ったのはおよそ五分後のことだった。

 

「それでさー、池くん──あたしの下着、盗んだの?」

 

 トーンが二段階程下がる。

 底冷えた声音に、大勢の生徒が震えた。

 クラスのカースト制度、その頂点に位置する者、それが軽井沢恵だ。

 特別試験が開始される前までオレは、何故、軽井沢(けい)が君臨出来ているのか甚だ疑問だった。

 他にも候補者は居たはずだ。彼女たちを押し退ける『力』がなければ、玉座に座ることは赦されない。

 だがこの六日間で否応なく理解させられた。軽井沢恵には他者を従えるだけの確かな『力』がある。

 

「どうなるんだよ、これ……」

 

 呟き、そして誰かがごくりと生唾(なまつば)を飲み込む音が聞こえた気がした。それだけ場は緊迫している。

 

「平田や堀北(ほりきた)はどうしてとめないんだ……?」

 

 洋介や堀北は静観を貫くことを決めていた。ここで部外者が口を挟んだら話がごちゃ混ぜになってしまうし、何よりも、これは避けて通れないものだからだ。

 

 それがたとえ『悲劇』を呼び起こす可能性があると分かっていても。

 

 オレはちらりと隅の方に居る伊吹(いぶき)を見る。表情からは彼女が何を考え、そして思っているのかは分かりそうになかった。彼女が送られてくる視線を感じる前に、オレは視線を外して元の場所に戻した。

 池の緊張度合いは想像すら絶するだろう。何せこれは『裁判』なのだから。

 容疑者がどれだけ無実を訴えたところで、裁判官は女王だ。三権分立なんてものはカースト制度には当て嵌らない。つまり、彼女の如何によっては──『死刑』が言い渡される。そうなれば池寛治の高校生活は幕を閉じる。楽しい学校生活は永遠に訪れず、彼は近いうちに学校を去るだろう。

 そんな予感──いや、確信がオレたちにはある。

 生と死の瀬戸際に彼は立っている。やがて、咎人は重たい口を開け──

 

「俺はやっていない、無実だ!」

 

 ──澱みなく言い切った。

 瞬間、完全な空白の時間が舞台を包む。

 軽井沢は値踏みするかのように、囚人を上から下までじろじろと見る。一秒がとても長く感じる。

 やがて、彼女はおもむろに両腕を胸の上で組みながら、

 

「ふぅーん。けどさ、信じられるわけがないよね。だって池くんだし。あたし知ってるから。水泳の授業が始まった時に、池くんや山内くんが中心となって、くだらない事をしていたことをさ」

 

 ぎくりと反応したのは、名前を呼ばれた山内だった。まさか自分が議題に挙げられるとは思っていなかったのだろう、冷や汗をかく。

『くだらない事』とは、男子たちの一部で行われていた賭けのことを指しているのだろう。内容は、Dクラスの女子生徒の中で誰が一番胸が大きいかというものだった。

 

「山内くんだけじゃないから。外村(そとむら)くんや本堂(ほんどう)くんもやっていたよね。もっと知ってるから」

 

 恐ろしい程に軽井沢の指摘は的中していた。

 Dクラスという小さなコミュニティなら、軽井沢恵の情報力は櫛田(くしだ)桔梗(ききょう)をも(しの)ぐかもしれない。

 

「つまりさ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? 常日頃から馬鹿みたいな発言ばかりしているひとのことを? ねぇ池くん、どうなの?」

 

「……ッ!」

 

「黙ってちゃ何も分からないし」

 

 軽井沢の口調は責めているものではなかった。ただ残酷なまでに客観的視点から告げている。

 平生からは考え付かない程の冷静さだ。何か要因があったのだろうか。

 自然と池は顔を俯かせていた。これまでの褒められたものではない悪行が、面と向かって糾弾される。そのダメージは並大抵の傷じゃない。

 沖谷が堪らなくなってなけなしの勇気を振り絞り飛び出そうとした瞬間、

 

 

 

「──それでも」

 

 

 

 不意に沈黙が破られた。

 小さな、けれど、確かな意志を感じさせる音。

 声主の少年は、境界線を踏み抜き、領域に入る。

 顔を上げ、彼は叫んだ。

 

「それでも、俺はお前の下着を盗んでない!」

 

「今なら特別に、罪を認めれば赦してあげるって言っても?」

 

「ああ!」

 

 他者を圧倒させる覇気。池の心からの咆哮(ほうこう)に多くの生徒が気圧された。

 軽井沢は口を三日月型に歪め、

 

「へぇー……。──なら、信じてあげる」

 

 あっけらかんと、そう、言った。

 言葉の意味を理解するのに、皆、数秒の時間を必要とした。

 

「「「…………は?」」」

 

 ()しくもそれは、クラスの皆の心が一つになった間抜けな感嘆詞だった。

 呆然とする生徒たち。

 最初に我を取り戻した篠原(しのはら)が、どういう事だと女王に問い質す。

 

「か、軽井沢さん!? 池くんを赦すって──!?」

 

「いや、だからさ。本人が違うって断言している以上、疑うのは可哀想かなって思ってさ」

 

「可哀想って……被害者は軽井沢さんなんだよ!?」

 

「そうなんだけどさ。下着を盗まれたのはショックだったし泣いたけど……恨まれるような事をあたしもしてきたんだしね。──五月に借りたプライベートポイントは利子付きで早いうちから返させて貰うから、皆、それで許してくれないかな?」

 

 篠原から視線を外し、そう言って、王美雨(みーちゃん)や他の女子たちに懇願する。

 

「私はそれで大丈夫です」

 

「みーちゃんがそう言うなら、私も……」

 

「あたしも大丈夫、です……」

 

「ありがと」

 

 見事にお辞儀する。

 やれやれと軽井沢は神妙な面持ちで静観している堀北が居る方向を一瞥した。彼女たちの視線が、一瞬、交錯する。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。肩を竦め、

 

「つまりさ、お互い様ってこと。ならさ、これ以上ぐたぐだ言っても仕方ないじゃん」

 

「お前……それで良いのかよ?」

 

「良いわけないじゃん。けど仕方がないから、妥協してあげる」

 

 傲慢にも女王は沙汰を下した。

 戸惑う池に、彼女は勝気な笑みを浮かべて、

 

「それに池くんとは二学期の中間テストで勝負する約束をしているしね。まあ? 結果は見なくても分かるけど?」

 

 そう、挑発した。

 大半の生徒が何で今どうでも良い話を? と困惑する中、オレは心の中で舌を巻いていた。

 既にクラスは女王の術中に嵌っている。

 そしてオレが分かって、Dクラス屈指のコミュニケーションの塊の男が、気付かないはずがなかった。

 彼もまた勝気な笑みを浮かべて、

 

「おいおい。勝手に勝負の結末を決めるなよな。ヘヘッ、ほんと、『負け犬ほどよく吠える』よな!」

 

「「「……」」」

 

「え? あれ? 何だよお前ら、その微妙な顔は? もしかしてお前ら……知らないのか?」

 

「「「…………」」」

 

 池は狼狽(うろた)えながらクラスメイトを見渡すが、誰も目を合わせようとしなかった。

 そして皆の視線が彼の『先生』に収束する。

 堀北は憂鬱(ゆううつ)そうにしていたが、これは避けて通れないと判断したのだろう、長く、そして重たいため息を吐きながら、自身の『生徒』に辛辣な言葉を浴びせる。

 

「正解は『弱い犬ほどよく吠える』よ、池くん。それと、その言葉はこの場に於いては誤用よ」

 

『弱い犬ほどよく吠える』とは力のない犬ほど相手を威嚇すること。

 池と軽井沢の学力はどっこいどっこいだと思われるので正しくないだろう。少なくともつい数秒前までは、だが……。

 羞恥で顔を真っ赤に染める池に、軽井沢は手で指しながら大声で笑った。

 

「あははは! チョーウケるんですけど! うんうん、そうだよね。『弱い犬ほどよく吠える』!」

 

「く、くそぅ……! ほ、ほりえもーん!」

 

 生徒が縋り付いたが、先生は華麗に無視した。

 

「それじゃあ、そろそろ本格的に動きましょう。だいぶ時間を使ってしまったわ」

 

「「「はーい!」」」

 

 こうして呆気なく、池に対する断罪は終わりを迎えたのだった。

 同時に、男女の溝も各地で埋まったようだった。もちろん、中にはこの状況が気に食わない、不服な生徒も居るだろう。

 しかし、ここで一応は解決した問題を蒸し返す愚行をしたら、叩かれるのは目に見えている。

 女王の手腕は見事なものだった。業火の波をわずかな時間で鎮圧させるなんて普通のことじゃない。

 その普通じゃないことを普通のように気負うことなく実行してみせるのだから、恐ろしいものだ。

 友人と何やら話している彼女を遠目で眺めていると、洋介が近付いてきた。

 

「きみの言う通りだったね」

 

「何がだ……?」

 

「仲間を頼るってことだよ。ありがとう、清隆くん。僕はまた同じ過ちを犯すところだった」

 

「礼を言われることじゃない。それにそれは、お前の彼女に言うことだろ」

 

 ところが、先導者は微笑んで首を横に振った。

 

「そうだね。けど清隆くん、僕はそこまで馬鹿じゃないよ」

 

「何の話だ」

 

「きみが軽井沢さんに働き掛けたんだよね?」

 

「オレと彼女が話す機会なんて一度もなかったぞ」

 

「うん、僕もその点は疑っていない。けどそれは清隆くんに限った話だ。女の子たちの誰かに、軽井沢さんを説得させたんじゃないのかな?」

 

「洋介の推測が正しいとして、お前は誰がその役目を担ったと考えている?」

 

「堀北さんか、櫛田さんかな」

 

 やはりというか、真っ先に挙げられたのはその二人だった。

 オレが日頃から仲良くしていて、かつ、任務を全う出来る者と言えばそれくらいだろうという、明確な根拠が洋介にはあるのだろう。

 

「あるいは、今朝。きみはトイレに行ったと言っていたけれど、それは嘘なんじゃないのかい? 何かしていたんじゃないのかい?」

 

 洋介はオレの返事を待たず、言葉を続ける。

 

「きみが常に冷静なのは、未来予測にも似たものがあるからなんだろうね。清隆くん、きみの中ではもう特別試験は終わっているんじゃないのかい」

 

「そんなことはない」

 

 詰みまで『相手』を追い込んだとはいえ、まだまだ不確定要素がある。

 その不確定要素を無くすため、今から動くわけだが。

 

「洋介。オレは今からベースキャンプを離れる。あとは任せても良いか」

 

「分かった。クラスのことは僕に任せて、きみは、きみが為すべきことを為して欲しい。雨がいつ降るか分からないから、気を付けて」

 

「ああ」

 

 先導者と別れたオレは、一旦仮設テントに戻った。正確にはその出入り口付近に置かれている、荷物置き場だ。

 雨に備えるため、Dクラスの生徒たちは慌ただしく動き始めていた。つまり、それだけひとの目が拡散するということ。

 昨日茶柱に注文した物をスクールバッグから取り出すと、オレはそれをジャージのズボンの右ポケットの中にしっかりと入れた。左ポケットには無人島の地図を忍ばせる。

 ベースキャンプをあとにしようとするオレを、呼び止める者が居た。

 

「待って」

 

「どうかしたか、伊吹」

 

 立ち止まり、顔だけ振り向かせる。

 伊吹は堀北に似た無愛想な顔だった。表情からはとてもじゃないが内心を推測することは出来ないだろう。

 声が聞こえるか聞こえない場所で、松下(まつした)が様子を見守っていた。どうやら現在の伊吹の監視役は彼女らしい。

 

「一人でどこに行くつもり?」

 

「Bクラスのベースキャンプだが」

 

「嘘でしょ」

 

「嘘じゃない」

 

「今回の特別試験、DクラスとBクラスは同盟関係にあるらしいけど、それは五日目までのはず」

 

 他クラスの人間を匿っている以上、内部の情報を完全に秘匿することは不可能に近い。

 クラス全体での話し合いの時は、極力、伊吹には席を外して貰っていたが、それも万能ではないか。

 

「それはポイントの消費についてだ。何かあれば情報は共有すべきだろう。Bクラスは仮設テントとハンモックを使っているから、屋根がなくて困っているはずだ。何か力になれるかもしれない」

 

 仮設テントは防水仕様だが、ハンモックはそうじゃないはずだ。どんなに木陰の下に設置したところで、とてもではないが降り注ぐ槍を防げないだろうと、一之瀬は言っていた。

 昨夜に一度雨が降っていることは一目瞭然で、今頃Bクラスは壊滅的な被害を受けているかもしれない。

 

「もう行って良いか。時間が惜しいからな」

 

「待って。もう一つ聞きたいことがある」

 

「簡潔に済ましてくれると助かる」

 

 顔だけじゃなく、身体全体を振り向かせ伊吹と向き合う。

 オレが目で催促すると、彼女は問い掛けてきた。

 

「さっきのあれで、あいつ──池だったか──に対する扱いは多少なりとも和らぐだろうな」

 

「同感だ。皆の前であれだけの宣言が出来るのは凄いことだろう」

 

「けど、軽井沢の下着が盗まれたことに変わりはない。()()()()()()()()()()()。違う?」

 

 ここで初めてオレは、伊吹から人間らしい感情を感じた。

 なるほど、少なくとも『今の伊吹澪』と『Dクラスに保護された伊吹澪』は似て非なる存在のようだ。

 

「お前の言う通りだとして、じゃあ、誰が生贄とやらに傀儡(くぐつ)される?」

 

「決まってるだろ。余所者(よそもの)の私だ」

 

「それは仕方がないことだろう」

 

 至極当然のことだ。

 堀北や一部の女子生徒、男子のほぼ全員が伊吹に疑惑の目を向けている。

 女王の軽井沢が池を信じると言った以上、次に疑われるのは他クラスの人間になるだろう。

 

「綾小路、お前も私を疑っているのか?」

 

「どうかな……半信半疑といったところだ」

 

 適当にはぐらかそうと試みるが、伊吹の追及からは逃れられそうになかった。

 嘆息してから上辺の回答を口にする。

 

「あまり面と向かっては言いたくないが、他クラスのお前を怪しんでいるのは事実だ。けど伊吹は椎名(しいな)の友達だろう。せっかくあいつに友達が出来たんだ、そのお前を疑いたくはない」

 

「だから半信半疑、か……」

 

「優柔不断だと笑っても良いぞ」

 

 ところが彼女は目を見開かせて驚いているようだった。

 オレの言葉を頭の中で反芻(はんすう)しているのだろう。

 やがて、彼女はオレの瞳を直視して言った。

 

「……ありがと。まさかそんな風に言って貰えるとは思ってなかった」

 

「気にすることじゃない。もう行って良いか?」

 

「ああ。時間を取らせて悪かったな」

 

 オレは彼女と別れ、そのままベースキャンプをあとにする。

 今しがたの会話はもちろん全て嘘だ。

 オレは伊吹が下着泥棒の犯人だと確信している。同時に『スパイ』であり、彼女の『狙い』も既知している。

 伊吹(みお)の『狙い』とはすなわち、Cクラスの『王』──龍園(りゅうえん)(かける)の『狙い』だということだ。

 今度奴と会ったら、彼女は『スパイ』に向かないことを教えるとしよう。

 そう、伊吹澪は致命的までに『スパイ』としては役に立たない。

 あるいは──龍園はそれを知っていて、敢えて、その命令を下したのかもしれないな。

 

「行くか……」

 

 誰も居ないことを確認してから、オレは修得した技術を用いて木登りした。

 数秒後、目線が大きく変動し、視界に映る景色が様変わりする。木の枝は少し濡れていて滑るが、行動に支障を来す程のものではないと判断する。

 足を空間に踏み入れようとした瞬間、頭上から一筋の光が射し込む。突然の刺激に思わず目を細めてしまう。

 右手を(かざ)しながら顔を見上げた。幾重にも重なった雲が奇跡的にも間隙をつくり、そこから陽の光が漏れだしている。

 とはいえ、これは限定的なもの。雨が降る条件は整っている。

 オレは表情を引き締め、今度こそ、空間移動を開始した。

 



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無人島試験──六日目《堀北鈴音の後悔》

 

 昼前。

 森の中を一つの集団が移動していた。足取りに迷いはない。理由は単純明快(たんじゅんめいかい)で、何回も通った道だからだ。脳がしっかりと記憶し刻んでいる。

 

「辺りをしっかりと見張って頂戴」

 

「もちろんだぜ、堀北」

 

 須藤(すどう)くんが力強く返事をした。

 Dクラスの生徒十五人が、この場には居た。これだけの部隊を編成するのにはもちろん理由がある。

 言わずもがな、占有した『スポット』の更新をするためだ。Dクラスのリーダーは私であり、敵には絶対に露呈(ろてい)されてはならない。

 もし正体を当てられたら、敵に多大なクラスポイント──エクストラポイントを与え、こちらは逆に失うことになる。さらには、特別試験中、必死に積み上げてきたボーナスポイントもが全て()(かえ)ってしまう。

 

「今から更新するわ。改めて周囲の警戒を」

 

「「「了解!」」」

 

 視覚で確認する。仲間たちと、深緑で生い茂る木々以外は何も映らない。

 聴覚で確認する。聴こえるのは、風が通過する音だけ。

 私は嘆息(たんそく)してしまった。どれだけ用心してもし過ぎることはないけれど、遮蔽物が多い森では限界があるわね。

 幾重にも重なるバリケードを仲間たちが瞬く間に展開し、私の姿は外部から完全に見えなくなった。

 そして私はジャージのズボンの左ポケットからキーカードを取り出し、目の前に鎮座している装置の上で翳す。赤外線が鮮やかな燐光を描いて漏れ出し、キーカードに刻まれている『ホリキタスズネ』本人であることと、埋蔵されていると思われるICチップの照合を開始する。

 微かなサウンドともに、光線は消失し、機械の液晶画面に変化が起こる。そしてすぐに『Dクラス ─7時間59分─』という文字が表示された。

 

「終わったわ。ご苦労様」

 

 尽力してくれた彼らを(ねぎら)う。彼らは安堵の表情を一瞬浮かべてから、真剣な顔付きになり、陣形を隊列に戻した。

 私はジャージのズボンの右ポケットから無人島の地図を取り出した。これは綾小路(あやのこうじ)くんが私に託したものだ。とはいえ、彼から直接的に受け取ったものではないけれど。

 

「良くもまあ……これだけ正確に……」

 

 凄いを通り越して呆れてしまう。

 これには綾小路くんが特別試験で見てきたものが細かく書かれていた。他クラスの拠点の位置や『スポット』の場所はもちろんのこと、『道』として活用出来る人工的なものに、休憩場所に適した場所など多岐に渡る。

 彼が一人で行動をしていたのは知っていたけれど……まさかたった数日でここまで調査出来るなんて。

 何故彼がクラス闘争に積極的な姿勢を見せているのかはどんなに考えても分からない。理由があるのは明白だけれど……。

 だがしかし、これは二重の意味で好機(こうき)だ。

 一つ目は、単純にDクラスの戦力が大幅に向上されるということ。この地図だけでも、綾小路清隆(きよたか)くんが優秀なひとであることは察せられる。彼がいつまで手を貸してくれるのかは分からないけれど、兎にも角にも、その間は希望が持てる。

 二つ目は、綾小路清隆という人間性を知る機会に恵まれているということ。『事なかれ主義』なんて矛盾した信条を何故彼が掲げているのか、その一端でも知ることが出来れば良い。

 

堀北(ほりきた)さん、次はどこに行く?」

 

「そうね……次は──」

 

 女子生徒からの質問に、私は地図を見た。

 平田(ひらた)くんの指示では、『スポット』の更新、もしくは占有は近場だけに限られている。無理のない距離で行ける場所は数個しかなくて、それだって、他クラスに占有されていたら意味がない。しかし辺り一帯は既に私たちの管轄内だ。

 

「次は北に行きましょう」

 

「北ってどっちー?」

 

「おいおい、馬鹿だな。北はあっちだぜ。な、堀北?」

 

「そっちは真反対の南よ」

 

 私が間違いを指摘すると、格好付けようとした男子は羞恥で顔を真っ赤に染めた。

 両手で顔を覆い、ぷるぷると震える。

 その姿に多くの生徒が笑った。下品(げひん)なものではなく、それは純粋なものだった。

 

「少し休憩しましょう。各自、しっかりと水分補給するように」

 

「「「はーい!」」」

 

 私は気付かれないように安堵の吐息を静かに吐き出した。

 

 ──これなら大丈夫かしら……。

 

 朝の軽井沢(かるいざわ)さんと(いけ)くんの対話の成果は如実に表れている。落差がとても激しくて、あまりの単純さにほとほと呆れてしまうけれど、兎にも角にも、Dクラスは持ち堪えることが出来た。

 もちろん、そうじゃない生徒も中には居るはずだ。特に、朝の『あの出来事』を見た生徒なら特に。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 何故、どうしてと疑問は絶えない。どうして『彼女』があのような行動を……? そしてこれからも『彼女』は彼に協力するのだろうか? 

 彼と彼女に接点なんてなかったはず。しかし彼女は彼に協力している……あるいは、無理矢理に協力させられている──? 

 

 ──駄目ね……一旦、保留しましょう。

 

 私は頭を振ってから思考を切り替えた。

 綾小路くんの計画には相応のリスクがある。けれどそれは当たり前のこと。ノーリスクハイリターンなんてものは実現しない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「まだ何か隠してるわね……」

 

「……? 堀北さん、何か言った?」

 

「いえ……(ワン)さんは大丈夫なのかしらと思って」

 

 しれっと嘘を吐く。

 と、私は気落ちした。

 高校に入学する前まではこんな虚言は言わなかったのに……、これはあれね、絶対、隣人の悪影響を受けているわね……。

 私の内心を知らず、彼女はぽんと合いの手を入れて、

 

「ああ! みーちゃん、辛そうだったもんね!」

 

「何がだよ?」

 

「何って……そりゃあ……。ねぇ……?」

 

「いやいや、『ねぇ……?』って言われても。そんなんじゃ分かんねーよ。お前は分かるか?」

 

「いんや、全然。もっとはっきり言って貰わないとなあ……」

 

「やれやれ……これだから男って奴は。そんなんじゃあ、生涯独身だぜ?」

 

「お前……何だよその謎のテンション」

 

 うわぁ……と、男子たちは引いた。

 私から言わせて貰えば、どっちもどっちだと思うけれど……、誤魔化すために話題を振ってしまった手前、責めることは出来ないわね。

 うむむと(うな)っていた男子が、「あっ」と小さく声を上げて、

 

「分かった! 生理だな!」

 

「「「あぁ……なるほど!」」」

 

 (ワン)さんは何度か深刻な顔をして櫛田(くしだ)さんに相談していた。その正体がこれだ。

 納得したとばかりに何度も首を縦に振る男子たちに、私たちは白けた視線を送る。

 

 ──どうしてこう……男って生き物はデリカシーに欠けるのかしら……。

 

 思えば、池くんと山内(やまうち)くんも、今でこそ自分から率先して私主催の勉強会に参加しているけれど、最初は櫛田さん目当てだったものね。

 

「けどなら助かったな」

 

「助かったって……何がだよ」

 

「つまりさ、生理は体調不良の審査に引っ掛からないってことだよ。もしそうなら、(ワン)さんは今頃船の中だろ?」

 

「おっ、確かにそうだな。ラッキー!」

 

「休憩はお終いよ。行きましょう」

 

 くるりと背を向け、私は先導するようにして前を歩き始める。

 すると背中に力強い返事が届いた。

 南西からはより分厚い積乱雲が時間の経過とともに接近している。時折()の光が漏れ出てくるけれど、安心は出来ない。どんなに遅くても夕方には本格的に降り始めるだろう。

 そんな予感──いや、確信があった。

 特別試験も実質的にはあと半日。終盤は荒れそうだ。

 

 

 

 

§

 

 

 

『スポット』の更新を無事に終わらせ、私たちはベースキャンプに戻った。

 私は付いてきてくれたクラスメイトたちにお礼を告げてから、解散を命じる。小休憩を要所要所で入れたとはいえ、みんな、体力を大きく削られたはず。体調管理を怠らないよう念を押した。自嘲してしまうけれど……。

 すると慌ただしい雰囲気が全体に流れていることに気付く。沖谷(おきたに)くんが走りながら、

 

(けん)くん、お帰り! ちょうど良かった!」

 

「どうしたんだよ、京介(きょうすけ)

 

「健くんの力が欲しくて。きみだけが頼りなんだ」

 

「ってことは力仕事か。任せてくれよ」

 

「うんっ、ありがとう!」

 

「あっ、堀北さん。平田くんたちが呼んでるよ。どうやら会議開いているみたい」

 

「伝令ありがとう、小野寺(おのでら)さん」

 

 拠点の中心部である()()広場に向かうと、そこではDクラスの首脳陣が折り畳み式の長机──ポイントを代償に借りているものだ。十個につき5ポイント消費する──を三つ程くっ付けて会議を開いていた。

 参加者は平田くん、軽井沢さん、櫛田さんにはじまり、各班のリーダーが顔を並べている。

 

「あっ! 堀北さん、お帰りなさい!」

 

 真っ先に私の帰還に気付いた櫛田さんが、笑顔をこちらに向けてきた。

 他のみんなも一様に歓迎の言葉を送ってくる。

 私は一度敬礼をしてから、議会に足を踏み入れた。そのまま櫛田さんの隣に立つ。

 

「堀北さん、疲れているところ悪いけど、まずは報告をお願い出来るかな」

 

「もちろんよ。──私たちは今しがた、ベースキャンプのそこの大岩を含め、合計三つの『スポット』を更新、そして運良く帰りに見付けることが出来た箇所を一つ占有してきたわ」

 

「へえ! ラッキーじゃん!」

 

「軽井沢さんの言う通り朗報だね。移動中、何か気になる点はあったかい?」

 

「そうね……ベースキャンプからあまり離れなかった、というのもあるだろうけれど、他クラスの生徒の痕跡(こんせき)が全くなかったかしら」

 

 地面がまだぬかるんでいるから、誰かしら通っていたら足跡が付くはずだ。

 しかしながら、そのようなものはなかった。もちろん、見落としていた可能性があるし、単純に、占領地に誰も侵入していなかった線の方が何倍も高いけれど。

 

「脱落したCクラスは置いておくとして……AとBクラスは僕たちと同様に、雨に備えているのかもしれないね。だから動けないんじゃないのかな」

 

「けど平田くん、Bクラスはそうだろうけど、Aクラスは違うと思うな。『洞窟』を拠点に構えている以上、特別な準備は必要ないと思うんだ」

 

「櫛田さんの意見は尤もね。彼らが何をしているのか、その一切合切が分からないのは痛いわ」

 

 Bクラス以外の情報が少な過ぎる。

 最も警戒すべきなのはAクラスだと思っていた。しかし、綾小路くんからあの話を聞かされたからか、その思いは今では全くない。

 それどころか、もし綾小路くんの予想が正しければ──同情を禁じ得ない。

 

「Aクラスの動向が気掛かりだけれど、そちらばかりに意識を割いていたら駄目だよね?」

 

「うん、その通りだ。やるべきことは沢山あるから、効率を重視しないとね。まずは仮設テントの移動だ。もともと木の下に設置していたけれど、もしものことを考えてもっと内地に移動する必要がある」

 

「まぁ、そこは男子たちに任せるしかないかー。私たち女子は夕ご飯の早めの準備と、その他雑事だよね?」

 

 男性は力仕事を、女性はそれ以外の仕事で分担しているようね。

 平田くんと軽井沢さんの報告によれば、現在の達成率は50%を少し超えたあたりだそうだ。一番時間が掛かっているのは夕ご飯の準備で、これは(ワン)さんが生理で戦線を離脱したのが尾を引いているのだとか。ここは料理部の篠原(しのはら)さんが上手くやってくれるのを祈るしかない。

 

「最後に、綾小路くんのBクラスへの訪問かな」

 

「あたしは賛成出来ないけどねー。同盟関係になったとはいえ、敵なんだからさ、別に率先して手を差し伸べる必要はなくない? 向こうから言われたら別だけどさ」

 

「軽井沢さんの意見も一理あるとは思う。けど、長い目で見れば僕たちに莫大な利益を(もたら)してくれるよ。Bクラスなら僕は信じられる」

 

「あたしもそこは分かってるつもり。Bクラス……というより、一之瀬(いちのせ)さんならあたしも信じられる。けどさぁ、何だかなぁ……善人がいつまでも善人だとは限らないじゃない?」

 

 私は驚きを隠せなかった。

 軽井沢さんの主張の正しさに──ではない。

 これまで彼女は平田くんの言葉に全て賛同していた。()れた弱み、とはまた違うだろうけれど、基本的には彼女は常に彼にべったりで、意見の対立なんて起こそうともしてこなかったから。

 

「Bクラスとの盟約を全否定するわけじゃないけど、もうちょっと待った方が良かったと思うんだけど」

 

「……うーん、難しいね。堀北さんはどう思う?」

 

 櫛田さんはあくまでも中立の立場をとった。

 ()()()()()()()

 私と彼女の間には不可視の確執が走っているけれど、今回は暗黙の了解で協力し合っている。

 

 ──全ては己の利のために。

 

 私はわざと少し()を作ってから、

 

「そうね……私としてはベストのタイミングだったと思うわ。軽井沢さんの危惧も尤もだけれど──この先も似たような試練が待ち受けているとしたら、そう、考えてみたらどうかしら」

 

「……例えば?」

 

「今回はクラス対抗戦の形式になっているわね。けれどそれが次回も当て嵌るとは限らない。クラスメイト──仲間と離れ離れになって戦う可能性も充分にあるわ」

 

「僕も堀北さんに賛成だ。Dクラスで言えば、櫛田さんや池くんの二人は学年を通して友達が多いけれど、みんながみんな、彼らのように友達が多いわけじゃない。他クラスとのある程度の繋がりは必要不可欠だと思う」

 

 納得したのか、彼女はうんうんと首を縦に振った。

 

「そっか……、そうだよね。事前に何の説明もせずにあたしたちを無人島に放り込むくらいだもんね、それくらいは学校も(いと)わないかぁ……」

 

 軽井沢さんの他者を引き連れるカリスマ性には目を見張るものがあるけれど、それは身内の中だけ。外に出たら求心力は何段階か下がってしまう。彼女自身、それが分かっているのだろう。それ以上は何も言わなかった。

 その後も会議は続き、一段落ついたところで、私は声を小さくして一番気になっていたことを尋ねた。

 

「──ところで……伊吹(いぶき)さんの様子はどうかしら?」

 

「今は山内くんが監視当番だね」

 

 櫛田さんが簡易的に作られた当番表を見ながら答えた。

 

「不安ね……」

 

「同感ー。幸村(ゆきむら)くんや三宅(みやけ)くんの方が何倍も安心出来るよねー」

 

「そ、そんなことはないと思うなっ。山内くんだって務めを立派に果たしてくれるはずだよ!」

 

「いやいやいや、はっきり言っておくけど、あたし、山内くんのことは全然信用してないから。正直、容疑者が池くんじゃなくて山内くんだったら、絶対に引かなかったと思うし」

 

 と、これには皆も神妙な面持ちになる。

 そして私は違和感を覚える。

 思案して──気付いた。

 平田くんが山内くんのことを庇わなかったからだ、この(うず)きが発生したのは。

 この六日間、平田くんの行動に統一性がなさすぎる。

 Dクラスを平生のように導くのかと思えば、放任主義のような構えをとり──彼が、いや、()()が何を考えているのかさっぱり分からない。

 私は思考を切り替え、さらに質問した。

 

「それで、伊吹さんに何か行動はあったのかしら」

 

「うーん……、何もないみたいだね。これまでと同様、トイレとシャワーを浴びる時以外は微塵も動かないみたい」

 

「っていうか、どうして堀北さんはそんなにも伊吹さんを気にするわけ?」

 

「他クラスの伊吹さんは不確定要素だもの。下着盗難事件とは関係なしに、彼女は見張るべきだわ」

 

「ふぅーん。もしかして堀北さんってさぁ、意外に繊細?」

 

 揶揄(からか)うようにして、軽井沢さんがにんまりと笑う。

 イラッとしたけれど、大人な私は華麗に無視した。

 

「伊吹さんについては引き続きお願い」

 

「はいはい、分かってるって」

 

「会議中悪い。仮設テントの移設が終わったぜ」

 

「そう、助かるわ──須藤くん……、その恰好(かっこう)は?」

 

 みんなの視線が彼に収束する。

 櫛田さんが「きゃっ」と可愛らしく声を上げて、両手で目を塞ぎ、軽井沢さんは「うーわっ」と呆れた。

 私も似たようなもので、片手をこめかみに当ててため息を零してしまう。

 

「おいおい、何だよお前ら……」

 

 不思議そうに首を傾げる彼に、平田くんが苦笑しながら言った。

 

「須藤くん、どうして上半身が裸なんだい?」

 

「……? 単純に、蒸し暑いからだけどよ」

 

 それがどうかしたか? と須藤くんは尋ねた。

 さすがにこれは問題だと判断し、私は彼に軽く睨みを()かせた。

 

「気持ちは分かるけれど、生活の場所である公共の場でその恰好は宜しくないわ」

 

「でもよ、暑いもんは暑いんだよ。特に今日は暑いぜ。熱中症で倒れちまいそうだ」

 

「それはあたしたちだってそうだから。けどあたしたち女子はその暑さを一生懸命我慢しているの」

 

「せめて下着だけでも着なさい」

 

 私と軽井沢さんが結託して批難すると、須藤くんは渋々ながらも頷いた。

 後頭部を掻きながら、

 

「……わーったよ。悪かったな」

 

 謝罪してから、彼はすごすごと退席した。

 

「須藤くん、本当に変わったねえ……」

 

 櫛田さんがしみじみと呟いた。

 昔の彼なら真っ向から牙を立てていただろう。

 実際のところ、男子生徒の中で最も活躍しているのは須藤健くんだ。Dクラスのリーダーである平田くんはクラスから外に出て動くことが出来ない。軽井沢さんも同様だ。

 けれどそれが正しい。リーダーというものは常時冷静に物事を俯瞰的に視るためにも、腰を上げてはならないのだ。

 その為にも各々の『力』が欲しくなる。櫛田さんや池くんなら『コミュニケーション力』、私や幸村くん、王さんといったものは『学力』、須藤くんなら『体力』のように、人間には必ず、『武器』となるものを所持している。

 

「──以上で会議を終わらせたいと思う。まずはみんなを呼び集めようか」

 

「みんなー、集合ー」

 

 平田くんと軽井沢さんの招集によって、わずか数分でDクラスの生徒たちが集まった。

 この場に居ないのは勝手に脱落した高円寺(こうえんじ)くん、生理で倒れている(ワン)さんに、彼女を介抱している佐倉さん、伊吹さんを監視している山内くんに、あとは……未だに帰還していない綾小路くんだ。

 

「もうすぐ雨が降る。作業が一段落したらその前に一度は各々のタイミングで休憩して欲しい。堀北さんたちはお昼ご飯も欠かさずに食べてね。それと、早いうちにシャワーを浴びて欲しいかな」

 

「俺たち男は川で浴びて来ても良いか?」

 

氾濫(はんらん)はだいぶ収まったと聞いているから構わないよ。けれど釣りは禁止だ。くれぐれも気を付けて。それとBクラスのひとたちに助太刀する可能性があるから、頭の片隅にでも覚えていて欲しい。これは綾小路くんが帰ってきたら話し合おう」

 

 連絡事項を平田くんが滔々と告げていく。

 クラスメイトたちは真剣な面持ちで話を聞いていた。自分に何が出来るのか、クラスに少しでも良いから貢献しようという意志が感じ取れる。

 

「──以上だ。みんな、とうとう試験は一日を切った。必ず乗り越えよう」

 

「「「おお────!」」」

 

 仲間たちが雄叫びの声を辺り一帯に響かせる。

 勝ちたいという強い想いが具現化された咆哮は、真夏の熱気をも軽々と凌駕(りょうが)する程の『熱』を持っていた。

 

 

 

「堀北さん、シャワー浴びに行こうよ!」

 

 午後三時を八分程過ぎたところで、櫛田さんがにぱぱーっと明るい笑顔で──近くにいた男子が倒れた。全くもって理解出来ない──誘ってきた。

 彼女の片手には着替えが入った手提げバッグがある。どうやら私を逃がしてくれそうにはないようね。

 

「駄目?」

 

 口を開けないのを不安に思ったのか、櫛田さんは上半身を屈めて上目遣いで、そう、尋ねてきた。

 私はこれ見よがしにため息を吐いてから、

 

「駄目、というわけではないけれど。シャワー室は一室一人用よ。一緒に行く必要性を感じないのだけれど」

 

「まあまあ、良いじゃん! それに無人島生活が入ってから、私、堀北さんと一度も楽しくお喋りしてないし!」

 

「……分かったわ。ただし、待ち時間の(あいだ)だけよ」

 

「素直じゃないなぁ」

 

 私は分かっているよとばかりに何度も首を縦に振る櫛田さんに無性に苛立ちを感じたけれど、私は無駄なエネルギーを消費することを避けるため、眉間に皺を寄せるだけにとどめた。

 

「少し時間を頂戴。準備してくるから」

 

「うん!」

 

 待ってるね! 櫛田さんの声を背中で受け止めながら、私は女子生徒用仮設テントに向かった。

 見張り番の生徒に「お疲れ様」と労ってから寝室に入る。

 私たちが利用しているものは八人用テントなので、室内はそこそこの面積を誇る。けれどそのスペースも布団がびっしりと敷かれているため、どうしても窮屈に感じてしまう。男子生徒は私たちの比じゃないだろう──

 

「何で──あんなことを──!?」

 

「何でって──秘密──」

 

「誰に──命令──そんなことを──!?」

 

「それは──篠原さん──」

 

 薄暗い室内に踏み入れると、そこには篠原さんや佐藤(さとう)さん、松下(まつした)さんが居た。いつも一緒に居るメンバーね。どうやら熱く話をしていたようで、来訪者に気付くのが遅れた。私の姿を視認するや否や、彼女たちは口を(つぐ)んだ。

 荷物置き場のスペースには多くのスクールバッグが綺麗に整頓されて置かれていた。その中でも、一つだけ色が違うものがある。それは他クラス、一年Cクラスの伊吹さんのもの。彼女の荷物をここに収納するにあたって実は一悶着あったけれど、渋々ながらも合意してくれた。スパイ疑惑の目が彼女に向かっている中、下手に逆らうと形勢が悪くなると判断したのだろう。

 兎に角にも、篠原さんたちとは話す間柄ではない。私は彼女たちを軽く一瞥してから、自分のスクールバッグから予め用意しておいた替えの服を取り出した。

 ズボンのポケットに入っていた無人島の地図とキーカードを鞄の底にしまう。シャワーを浴びる際、着ていた服は皆の分を纏めてそのまま洗濯するため、中に入っていたら駄目だからだ。

 

 ──新しい火種、ね……。

 

 私は胸中で呟いてから、息苦しい仮設テントを抜け出した。

 櫛田さんを捜すと、彼女はすぐに見付かった。男子生徒と何やら話をしているようだ。顔を視認出来る所まで近付くと、私は足早に移動した。

 

「帰って来たのね」

 

「堀北……まるで帰って来て欲しくなかったような口調だな」

 

 流石に傷付くぞ、と綾小路くんは両肩を竦めてみせたが、私はもう騙されない。彼は絶対にそんなことは思わないだろう。

 

「いつ帰って来たのかしら」

 

「ちょうど今しがただ」

 

「雨が降り始める前に戻って来れて良かったね」

 

 心配だったんだ、と櫛田さんは両手を重ねたけれど、私は決して騙されない。彼女は絶対にそんなことは思っていないだろう。

 私は後ろ髪を手で()きながら、小声になって綾小路くんに尋ねた。

 

「それで? 首尾はどうなのかしら?」

 

「先に言うと、Bクラスへの協力はやらなくて良いそうだ。自分たちの力で乗り越えると言われたよ。こちらは順調だ」

 

「……そう。私もちょうど今仕込んだところよ」

 

「なら、あとは任せる。オレは今から洋介と軽井沢に事の顛末を報告してくるから」

 

 綾小路くんはそう言ってから、私たちに背を向けて行った。

 私はにこにこと笑っている櫛田さんに声を掛けた。

 

「それじゃあ、私たちも行きましょう」

 

「うんっ」

 

 ちょうど私たちが最後だったらしく、熱いシャワーを浴び、焚き火広場に戻ると、そこでは既に早めの夕食をとっているクラスメイトたちが居た。Bクラスに助太刀をしていたら確実に遅れていただろう。

 沢山の物が置かれていた広場は景観が変わっていた。迫る雨に向けて片付けたためだ。今ではぼうぼうと灰色の煙を揚げている焚き火だけが残っていて、生徒たちはそれを円のようにして包んでいた。

 

「堀北さん、櫛田さん、ど、どうぞ……」

 

「「ありがとう」」

 

 佐倉さんからトレーを受け取る。今日は釣りが出来なかったので、メニューは野菜や果物といったヘルシーなものばかりだった。男子生徒たち、特に須藤くんが絶望の表情で手を動かしている。明日の今頃は客船に戻っているので、それまでは我慢をして欲しい。

 私たちは集団から少し離れた場所で腰を下ろした。自分のペースで食事を進める。

 

「綾小路くん、伊吹さんと何を話しているんだろうね」

 

 櫛田さんの声に従って見てみると、彼らは私たちと同様、集団から少し離れた場所で腰を下ろしていて──真反対側だ──、何やら喋っていた。不気味な程にどちらも無表情だ。距離がある所為で内容は推し量ることしか出来そうにない。

 不意に、隣の彼女が、

 

「綾小路くんってさあ、全然笑わないよね」

 

「急に何を言い出すのかしら」

 

 視線を元に戻すと、櫛田さんは両腕を組んで唸っていた。そして、「あっ」と声を上げて私を見つめる。

 

「堀北さんも笑わないよね」

 

「あなた……だいぶ失礼なことを言っている自覚がある?」

 

「けどそれは、堀北さんがそういう性格だからだよね。この前池くんたちが教えてくれたんだけど、『ツンデレ』って言うんだって」

 

「……何を言っているか分からないわね」

 

 けれど、揶揄われているのは分かった。

 

 ──今度出す宿題の量を二倍にしましょう。

 

 決して忘れないように誓っていると、櫛田さんは私の表情から何かを察したのか、慌てて、

 

「兎に角! 堀北さんはさ、笑おうと思えば笑えると思うんだよね。そうでしょ?」

 

「……まぁ、そうね」

 

「だけどさ、綾小路くんからは何も感じ取れないんだよ。心から何かを想って笑っているところを一度も見たことがないなぁ……」

 

「一度も、ではないでしょう。いつだったか、私たちはこの目で目撃しているわ」

 

 私の中で、一番印象に残っているのは、私が彼に食堂の中で最も価格が高いスペシャル定食を奢った時。あの時は感情が表出していたと思う。

 

「言われてみれば確かに。でもなぁ……、うーん……」

 

「何が言いたいのかしら」

 

「あっ、ごめん。つまりさ、綾小路くんって笑い方を知らないんじゃないのかな」

 

「……?」

 

 思わず首を傾げてしまった。困惑してしまう。

 訝しげな顔をする私を対照的に、櫛田さんは、むしろ、自身の言葉で答えを得たようだった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。『()()』──()()()、『()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 私にも思い当たる節があった。

 綾小路くんが感情のままに言葉を発したり、動いたりするところを、私は見たことがない。けれど私はそれ以上に気になることがあった。

 

「櫛田さん」

 

「何かな」

 

「あなたの『それ』を否定する気はないわ。けれど『それ』はいずれ身を滅ぼすわよ」

 

「……あははっ、もしかして忠告してくれているの?」

 

 だったら嬉しいなぁ、と櫛田さんは屈託なく笑った。私はじっと彼女を凝視する。

 すると──男子生徒たちから女神と持て(はや)されている微笑みが跡形もなく消失する。そこにあるのは魔女の蠱惑(こわく)に満ちた微笑み。

 

「私はね、堀北さん。()()()()()()

 

「……」

 

「やっぱり驚かないんだね」

 

「……いいえ。驚いているわ。ただそれは、あなたが私を嫌っているという事実ではなくて、いつ、誰が話を聞いているか分からないこの状況下でそのことを口に出したことよ」

 

「大丈夫だよ。誰も私たちに注目していないから」

 

 櫛田さんは断言する。確かに彼女の言う通りで、耳を傾けている生徒は視界上では映らなかった。しかしそれは見える範囲での話のはず。

 

 ──なのに何故、彼女は断言出来るの? 

 

 私は知らずのうちに二の腕を(さす)っていた。得体の知れないものに対峙している時に感じる本能的な恐怖。

 魔女は望んでいただろう私の醜態を見ても微笑みを崩さない。それが余計に恐怖心を煽る。

 

「櫛田さん、あなたは──」

 

 私はそこで言葉を区切った。

 頭に冷たい感触が生まれたからだ。違和感はすぐに収まったけれど──すぐに、二度、三度と連なっていく。

 

「雨、ね……」

 

 とうとう恐れていた事態になった。

 いや、むしろ、天気が良く持ったと言えるわね。

 ぽつぽつとした小さな雨音は時間の経過とともに大きくなっていく。

 

「みんな、手筈通りに動くんだ!」

 

「「「了解!」」」

 

 平田くんが素早く指示を飛ばすよりも早く、各々、自分の役割を果たすために行動していた。

 特別試験、突発的に発生したその最後の試練を、彼らは声を掛け合い、手を取り合って超えていく。

 

「三宅、こっちを手伝ってくれ!」

 

「あれ!? 伊吹さんが居ないよ!? やっぱり彼女が──」

 

「ふぅー。やれやれ、この世界は残酷だね……」

 

「ヒャッハー! 俺は今、最高にフィーバーだぜ!」

 

 私はその様子を目に焼き付けてから、ベースキャンプの僻地に向かう。雨の中でも絶えず燃える焔が遠ざかっていく。

 はたして、そこには空を睨んでいる茶柱(ちゃばしら)先生がいた。黒い傘を差している。

 彼女の瞳には何が映っているのだろう。

 近付く気配に気付いたのか、彼女は視線を下げて私を視認した。

 

「どうした堀北。お前は動かないのか?」

 

 茶柱先生が(いぶか)しんでくる。

 私は濡れて垂れ下がってきた前髪を鬱陶(うっとう)しく思い、右手で払い除けてから、用件を彼女に簡潔に言った。

 

「────」

 

 聞き終えた彼女は両目を見開かせる。有り得ないとばかりに驚愕に満ちた目。

 

「堀北……お前はそれを本気で言っているのか?」

 

「はい、その通りです。まさか私の申し出を断りはしませんよね?」

 

 畳み掛けると、茶柱先生は逡巡の後、短く首肯した。

 

「……分かった。ただし規定に則り──」

 

「覚悟の上です。先生、お願いします。既に限界です」

 

 教師は物言いたげな表情を浮かべてから、仮設テントから純白のタオルを取り出した。

 入れと促されたので、会釈してから入る。降り掛かる雫が消え失せ、頭部が冷えていくのを感じた。すると茶柱先生はタオルを頭に被せてきた。

 

「移動しながら拭け」

 

「……ありがとうございます……」

 

 私たちは声が飛び交うベースキャンプに背を向け、森の中に入っていった。暗闇の中を照らすのは懐中電灯の光だけ。

 木々の枝が揺れ、地面の草花が揺れ、ざあざあと雨が降り続ける。ぴかっと視界を点滅させる閃光に、遅れてやって来る轟音。稲妻が天から降り注ぎ、走り抜ける。

 私は瞼を閉じ、この激動の六日間に思いを馳せる。

 

 ──悪いものではなかったわね……。

 

 そして私たちは目的地に辿り着いた。制限時間内に到着出来て良かったと安堵の息を胸中で吐き出す。そこには大勢の大人が居た。Aクラス担任の真嶋(ましま)先生が代表して駆け寄ってくる。

 

「茶柱先生、彼女は?」

 

 しかしながら、彼女は答えなかった。

 その代わり無言で私をじっと見つめる。真嶋先生も私に注視する。

 私は息を吸ってから宣言した。

 

「体調を崩してしまいました。試験をリタイアしますので、静養させて下さい」

 

 この選択に後悔はない。

 いいえ、それは嘘。

 

 ──最後まで特別試験に臨みたかった。

 

 手続きを簡潔に済ませ、私は不要になったキーカードを茶柱先生に渡した後、彼女の引率のもと自分の部屋に戻る。そして茶柱先生は何も言うことなく部屋をあとにした。バタンと扉が音を立てて閉ざされる。

 窓越しに見える景色はどこまでも漆黒に覆われていた。私は時が経つのも忘れてただひたすらに凝望する。気分は嘗てない程に最悪だった。

 

 

 

 高度育成高等学校、第一回特別試験、六日目の八月六日。

 ・各クラスの残存ポイント(但し、ボーナスポイントは含めない)。

 Aクラス──? 

 Bクラス──? 

 Cクラス──? 

 Dクラス──? 

 



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無人島試験──最終日《結果発表》

 

 八月七日。

 特別試験の最終日を迎える今日、オレたち生徒はベースキャンプの後片付けをしてから浜辺に集まっていた。

 A、B、C、Dクラスと列を形成し、各々、出席番号順に並んでいるが、Cクラスだけが空白になっている。しかし誰も疑問の声を上げない。それはつまり、どのクラスもCクラスの愚行を知っているということだ。事前説明によれば、脱落した生徒は客船内の一室に集められているはずだ。

 この場に集まっているのは生徒だけであり、学校関係者、そして各クラスの担任でさえも居なかった。彼らは客船のデッキに居て、恐らく、小規模な会議や試験の集計をしているのだろう。

 

「なぁ、綾小路(あやのこうじ)堀北(ほりきた)のことは本当に知らないのか?」

 

 右隣に座っている(いけ)がそう尋ねてくる。何度目か分からない質問に、気持ちは分かるが、流石に辟易(へきえき)してしまうところだ。

 

「知らないな。むしろ、どうしてみんな、オレに質問をしてくるのか聞きたいところなんだが」

 

「だってお前たちは仲が良いからさ。みんな、綾小路なら知っていると思っているんだよ」

 

「そうでもない。オレと堀北はただの隣人だ。オレよりもお前や山内(やまうち)沖谷(おきたに)(けん)櫛田(くしだ)たちの方が彼女のことを知っていると思う」

 

 オレが知っているのは堀北の外面だけだ。入学当初ならいざ知らず、現在は彼女主催の勉強会に参加している池たちの方が理解を深めているだろう。

 いや、彼らだけじゃないか。耳を澄ませば、このような会話が聞こえてきた。

 

「堀北は大丈夫だと思うか?」

 

「どうかな。体調不良を訴えて試験を脱落したらしいが」

 

「けどこれで私たちは30ポイントが引かれちゃうんだよね。責めるつもりはないけど……」

 

「ちょっと……いや、かなり痛いよなぁ」

 

「せめて誰かに言って欲しかったよな」

 

「堀北さんの性格的に、それは無理だったんじゃないかな。多分、一人で背負い込み過ぎたんだと思うよ……」

 

「何だよ、それ……。俺たちは仲間だろうが!」

 

 他クラスの生徒たちが試験が終了する喜びで思い思いに談笑している中、Dクラスだけは暗い雰囲気に包まれていた。

 みんな、昨夜行方を晦ませ、試験を脱落した堀北を心配している。彼女の努力は各々の目で見てきたため、表向きで彼女のことを責めている生徒は見えなかった。

 

伊吹(いぶき)さんも雨が降るなり消えたし。やっぱりスパイだったのかな」

 

「けどだとしたら、この場に一人はCクラスの奴が居ないと辻褄(つじつま)が合わなくないか?」

 

「綾小路くんの報告によると、金田(かねだ)ってひとも伊吹さんと同じように、他クラスのBクラスに避難したんだよね。けど居ないみたいだし……」

 

「何が何だかさっぱり分かんねぇよ」

 

 規定時間の正午になっても客船から教師たちは降りてこない。

 

「あーあ、試験ももう終わりかぁ」

 

 空気を変えるためか、池がわざとらしく大声を出した。生徒たちもこれ幸いとばかりに雑談に移行する。話題はもちろん、この七日間や試験結果についてだ。

 

「綾小路はこの七日間どうだった? ちなみに俺はそこそこ楽しめたぜ!」

 

「そうだな。楽しい時間もあったけど、辛い時間もあったな」

 

「そうだよなぁ。特にお前は外交官としてBクラスに交渉に行ってたりしたもんなぁ……」

 

 お疲れ、と池は片手をオレの肩に置いて労う。

 

「お前も苦労しただろう。お疲れ」

 

 今度はオレがそうすると、池は「ははは……」とらしくなくも乾いた笑みを浮かべた。

 あの出来事は池にとって地獄以外の何物でもなかっただろう。対人恐怖症になってもおかしくないが、池は友人と、そして己の力で乗り越えた。良い意味でも悪い意味でも経験になっただろうな。

 

「綾小路は船に戻ったら何する? ちなみに俺はステーキを大量注文するぜ!」

 

「それは良いことだと思うが、いきなりそんな重たいものを沢山食べて腹を壊さないか?」

 

「うっ……言われてみればそうだな。一個だけにしておくよ……。それでお前は何をするんだ?」

 

「そうだな──」

 

 言葉を区切り考えてみる。

 池のように美味い料理を食べるというのもありだし、薄汚れている身体を綺麗にしたいという欲求もある。あるいは──。

 考えが纏まったところで、

 

「あっ、やっぱり聞きたくない」

 

 池がそう言ってきた。

 呆然とするオレに、友人は羨望(せんぼう)嫉妬(しっと)が入り混じった目を寄越した。

 

「どうせ真っ先に椎名(しいな)ちゃんの所に行くんだろ?」

 

「……は?」

 

「しらばっくれるなよ。分かってる、俺は分かってるからな。だからくれぐれも(みな)まで言うなよ。泣きたくなるから」

 

「いやちょっと待ってくれ──」

 

『ただいま試験結果の集計をしております。暫くお待ち下さい。既に試験は終了しているため、各自、飲み物やお手洗いを希望をされるようでしたら休憩所をご利用下さい』

 

 オレの言葉を(さえぎ)るようにして、そのような放送が流れた。一人の男性がこちらに近付き、休憩所がある方向を生徒たちに教える。

 この場に(とど)まる必要は全くない。みんな、友人たちと顔を見合わせてから休憩所にぞろぞろと向かう。足取りが軽いのは気の所為ではないだろう。

 

「よっしゃー! ジュースジュース!」

 

「あっ、待ってくれ──」

 

 悲しきかな、オレの言葉は砂浜を駆ける友人には届かなかった。どこにそんな力があるのだと突っ込みたいくらい、彼は猛スピードで遠ざかっていく。

 オレは堪らずにため息を吐いてしまった。仕方がない、これは誤解を解くのは諦めるとしよう……。

 

「あ、綾小路くん……」

 

 とぼとぼと砂浜を踏みしみていると、右隣から一つの声が掛けられた。停止し、そちらを見ると、そこには佐倉(さくら)王美雨(みーちゃん)がオレに手を振っていた。どちらとも控え目なのがまた面白い。

 オレは手を軽く手を挙げながら彼女たちに合流した。

 

「「綾小路くん、試験、お疲れ様」」

 

「二人もお疲れ様。二人とも大活躍だったな」

 

「そ、そんなことないよ……」

 

「う、うん。愛里(あいり)ちゃんの言う通りです……」

 

 二人とも恥ずかしそうに首を縮めるが、オレは言葉を撤回することはしなかった。

 主観的にも、そして客観的にも、彼女たちはクラスに貢献してくれていた。Dクラスの食事は彼女たちをはじめとした食事班のおかげで成り立ったと言っても過言ではないだろう。何よりも、彼女たちは男女間で溝が生まれた際、その溝を埋めようと奮闘していた。

 

「でもそれなら、綾小路くんだって凄かったよ」

 

「……えっ?」

 

 まさかそのように言われるとは露ほども思っていなかったので、オレはぱちくりと瞬きしてしまった。

 

「うんうんっ。Bクラスとの交渉役を最後まで務めるだなんて凄いと思うな!」

 

「上位クラス相手に……本当に凄いと思ったんです。私には絶対に出来ないことですから」

 

「……なら、お互い頑張ったってことだな」

 

 頬を()きながらそう言うと、二人は満面の笑みで頷く。近くに居た男子グループが胸を押え(うずくま)った。オレは首を傾げる彼女たちを見て戦慄してしまった。無意識なのが恐ろしい。

 

「そう言えば、みーちゃんは昨日、大丈夫だったのか? テントの中に一日中居たようだったけど」

 

「ほへっ……!? だ、大丈夫! 大丈夫ですよ!?」

 

 顔を真っ赤に染めて物凄い勢いでそう言われたら、引き下がるしかなかった。みーちゃんが櫛田に何度か相談していたのは知っていたから、気になっていたんだが……、本人がこのように言っていることだし、忘れるとしよう。

 休憩所に着き、オレたちは一旦別れた。彼女たちがクラスの他の女子生徒たちに呼ばれたためだ。彼女たちと入れ替わるようにして、今度は洋介(ようすけ)が近付いてくる。今日話すのは初めてだな。

 

「やぁ、清隆(きよたか)くん」

 

「洋介」

 

「はいこれ。もし良かったら」

 

 彼は二つ持っていた紙コップの一つをオレに手渡してくる。オレを待っていてくれたのだろう。オレには勿体ないくらいの素晴らしい友人だ。礼を言ってから受け取ると、程よく冷たい感触が伝わってきた。

 

「何が良いか分からなかったから、無難に水を選んできたんだ」

 

「それで充分だ。悪いな」

 

「謝ることじゃないよ。僕たちは友達じゃないか」

 

 自然とそう言えるのは凄いことだろうな。

 オレたちは紙コップをグラスに見立て、液体を零さないよう注意しながら軽く(ふち)をぶつけ合う。液体が軽やかに宙を舞った。

 そのまま酒を呷るようにして──飲んだことは一度もないが──ぐびっと飲み込む。

 

「ぷはぁー、美味しいね」

 

「そうだな。特にこの瞬間は格別な味がする」

 

「軽食も用意されていたけど、どうする? 取りに行くかい?」

 

「この肉は俺のものだ! お前ら、絶対に……絶対に肉を逃すんじゃねえぞ!」

 

「「「あったりまえだあああ!」」」

 

 うおおおおおお! と砂浜に野太い声が響き渡る。聞き馴染みがある声の主はやはり友人で、健がDクラスの男子生徒たちを引き連れて軽食の争奪戦に身を投じていた。A、Bクラスの生徒たちと熾烈な戦いを演じている。

 オレはそんな休憩所の一角を見てから、

 

「やめておくよ。怪我をしたくないしな」

 

「あはは……大袈裟(おおげさ)だと言いたいけど、万が一も有り得るかなあ……」

 

「とめなくて良いのか」

 

「流石に無礼講だよ」

 

「違いないな」

 

 洋介と共に笑い合う。友人と喜びを共有することは、存外、悪いものではない。

 ひとしきり笑ってから、彼は表情を真面目なものにした。オレもつられる。

 

「改めてお疲れ様。きみには毎回驚かせられるよ。けど僕たちはこれでようやく戦える」

 

「それはちょっと早いんじゃないか。試験の結果発表はまだ終わってないぞ」

 

「いいや、僕は確信しているよ。僕たちの揺るぎない『勝利』をね──」

 

「一年生の諸君、注目」

 

 キィンという拡声器のスイッチが入るノイズの後、そのような声が砂浜に駆け巡った。

 生徒たちが一斉にそちらを振り向くと、そこにはAクラス担任真嶋(ましま)先生、Bクラス担任星之宮(ほしのみや)先生、Cクラス担任坂上(さかがみ)先生、そして我らが担任の茶柱(ちゃばしら)が横並びになっていて、その横に学校関係者と思われる大人たちが勢揃いしている。

 表情を引き締め、列を形成しようとする一年生に、彼はこのように言う。

 

「そのままリラックスしてくれて構わない。先程放送で流したように、既に試験は終了している。これは言わば、夏休みの一部分だと思って欲しい」

 

 だからといって、オレたちが言葉通りに受け取れるとは限らない。むしろますます緊張が走ったような気がした。

 完全なる静寂が包む中、真嶋先生は苦笑いしてから話を続けた。

 

「まずは第一回特別試験、無人島試験、ご苦労であった。そしてこの一週間、我々教師はきみたちの過ごし方、選んだ道をこの目で見させて貰った」

 

 言葉を区切り、彼は自分の直接的な教え子を見る。

 

「──籠城(ろうじょう)するクラス」

 

 次に、Bクラスを見る。

 

「──仲間との連携で共に試練を乗り越えたクラス」

 

 次に、Cクラスのスペースを見る。そこには未だに誰も居なかった。しかし彼は言葉を続ける。

 

「──試験そのものを楽しむことに費やし、豪遊するクラス」

 

 

 

「おいおい、それは俺たちのことか?」

 

 

 

 みんな、突如出された声に驚愕の声を出した。

 発生源の方向に顔を向けるが、そこには誰も居ない。あるのは新緑の木々が生い茂る森だけ。

 

「まさか──」

 

 誰かが有り得ないとばかりに呟いた。その声に反応したのかどうかは分からない。ただその人物はゆっくりと生徒たちに姿を現した。

 

「よう、雑魚ども」

 

 男は無様な顔を晒している生徒たちを一瞥するや否や、そのように嘲笑った。

 一年生の間に走る緊張は先程の比ではない。何故、どうして脱落した彼が……と疑問が絶えない。

 

「あいつが……、龍園(りゅうえん)なのか……」

 

 これまで裏で暗躍してきた男が、遂に表舞台に姿を現した。その衝撃は計り知れない。

 

「でも何あの恰好……」

 

 龍園は全身がぼろぼろだった。纏っているジャージは汚れ、露出している肌には擦り傷や切り傷が多く見られ、顔には長さが整っていない髭が生え、髪は乱雑で光沢を失っていた。

 それでもなお、龍園は不敵な笑みを崩さない。

 そのままAクラス……葛城(かつらぎ)が居る場所にまで近付いた。

 

「お、お前! 葛城さんに何の用だ!?」

 

 戸塚(とつか)が尋ねるが、龍園は相手にしない。

 

腰巾着(こしぎんちゃく)は黙ってろ。俺に用があるのは、葛城、お前だけだ」

 

「……龍園……」

 

「葛城、久し振りだな。戦果は上げられそうか?」

 

「……あぁ、お前のおかげでな。協力感謝する」

 

 葛城の言葉に、部外者の生徒たちは困惑するしかなかった。当事者だろうAクラスの生徒たちだけが葛城と龍園の会話を不愉快そうに眺めている。中でも坂柳(さかやなぎ)派と思われる生徒たちはそれが顕著に出ていた。

 

「しかし龍園。何故このタイミングで俺に声を掛けてきた。その必要性は全くないはずだ」

 

「ククッ、お前にとってはそうでも、俺にとっては別なだけだ」

 

「なに……?」

 

 言葉の意味が分からないのか、葛城は眉を(ひそ)めた。

 それがツボに入ったのか、龍園は両手で腹を抱えて笑った。そして唐突にこのように言う。

 

「葛城、断言してやる。お前は負けるぜ」

 

「……理解不能だな。俺が負ける要素はない。そのために俺は龍園、お前と『契約』した。お前が裏切ることは視野に入れていたが、それだって高が知れている。我々Aクラスに死角はない」

 

「ククッ、だろうな。垂れ幕なんて面白みのないふざけたことをやったんだ。この試験、こと物理的な『守り』に関してはAクラスがぶっちぎりで一位だろうぜ。さらには物事を冷静に視るお前のことだ、当然、俺のことは微塵(みじん)も信用してないはずだ」

 

「なら何故、お前は断言したというのだ」

 

「さてな。どちらにせよ、答えはすぐそこにある。負ける覚悟をしておくんだな」

 

 龍園はそう言い残し、葛城の元から去っていく。そして独りで結果発表を待つようだった。

 時間が経つにつれて、生徒たちのどよめきも段々と沈静化していった。真嶋先生がこほんと咳払いしてから、中断された話を再開させる。

 A、B、Cクラスの次は、オレたちDクラスに焦点が当てられる。

 

「──最後に。長大な壁に何度もぶつかりながらも、諦めず、足掻(あが)いたクラス」

 

 その言葉はすとんと胸の内に落ちた。

 最初から最後まで、Dクラスは波乱に満ちた出来事に直面してきた。それが血肉(けつにく)となり、今のDクラスがある。

 

「どのクラスも自分の道を模索し、歩いていった。総じて素晴らしい試験だったと思う。改めて、ご苦労であった。──試験結果を発表する前に、今から、ポイントについての確認をしたいと思う」

 

 基本的なポイントは、試験開始時に各クラスに支給された300ポイント。しかしながら、このポイントをそのまま残すことは実質的には不可能であり、生活する上で欲しいものがあったらポイントを減らすことで購入が可能だった。さらにはルールを破った場合、その都度差し引かれる。つまりは減点方式となる。

 しかしながら、無人島各所に点在する『スポット』と呼ばれる装置。各クラスで一人選出されたリーダーが更新をすることにより、一回の更新につき1ポイントのボーナスポイントが加算される。

 最後に、エクストラポイント。八月七日の朝の点呼の際、全てのクラスに、他クラスのリーダーを当てる権限が与えられる。そのルールは以下のようになっている。

 

『─追加ルール:Ⅱ─

 ①最終日の朝の点呼のタイミングで他クラスのリーダーを当てる権利が与えられる。

 ②リーダーを当てることが出来たらひとクラスにつきプラス50ポイント。逆に言い当てられたら50ポイント支払う義務が発生し、さらには試験中に貯めたボーナスポイントも全額喪失する。

 ③見当違いの生徒をリーダーとして学校側に報告した場合、罰としてマイナス50ポイント。

 ④権利を行使するか否かは自由である』

 

 以前オレが述べたように、このエクストラポイントを得るか否かによって、試験結果は大きく左右される。

 

「僕たちが残したのは基本ポイントが100ポイント。ボーナスポイントが40ポイント。合計、140ポイント。もし仮に高円寺(こうえんじ)くんと堀北さんが脱落しなかったら200ポイントだったんだよね」

 

「そうだな。生活必需品によるポイント消費よりも、アクシデントによるポイント消費の方が大きかったな」

 

「とはいえ、僕たちは最善を尽くした。後悔は僕にはない。きっとみんなもそうだと思う」

 

 オレたちは各々に出来ることを全力で取り組んだ。Dクラスのみんなを見渡すと、誇らしげに胸を張っている生徒が殆どだった。

 

「だからこそ、絶対に成果を出さないといけない。頑張ったのにその努力が報われない。それを理解したその時、ひとは生きる活力を(うしな)ってしまうから」

 

 全員が固唾を呑んで、今か今かと『その時』を待っていた。静かな熱がゆっくりと燃え上がっていく。

 そしてとうとう、『その時』が訪れた。

 

「それでは今から、特別試験の結果発表を行いたいと思う。最初に告げておくが、試験結果は集計係以外の者は誰も知らない。よって、私や、他の先生方も知らないことを理解して欲しい。なお、結果に関する質問は一切受け付けていない。自分たちで結果を受け止め、分析し、『次』に活かして欲しい」

 

 真嶋先生は集計係と思われる女性から一枚の紙を受け取る。

 そして数秒後、彼はおもむろに読み上げた。その直前、息を飲んだのは気の所為だろうか。

 

「最下位──一年Aクラス、20ポイント」

 

「「「は──?」」」

 

 みんな、ぽかんと間抜け面を晒す。

 思考が停止し、真嶋先生の言葉を呑み込み、理解するのに、数秒の時間を費やした。

 いつまで経っても我を取り戻さない生徒たちを、真嶋先生は放置することに決めたらしい。

 

「次に、三位──一年Cクラス、50ポイント」

 

「クククッ。当然だな」

 

 龍園は満足そうだった。悟られない程度に、オレに視線を寄越してくる。オレは面倒臭かったので無視した。

 その間にも真嶋先生がさらに言葉を続ける。

 

「次に、二位──一年Dクラス、190ポイント」

 

「おいおい、どうなっているんだよ!? 何でDクラスが190ポイントも!?」

 

 それはAクラスから出された絶叫だった。

 だがそれはDクラスも同じ。結末を知っていたのはごく少数。それ以外の生徒たちは想定を大幅に超える結果に目を白黒させていた。

 

「最後に、一位──一年Bクラス、210ポイント。それではこれで特別試験の結果発表を終了とする。船が出港するのは今から二時間後。それまでは自由に過ごしてくれて構わない」

 

 解散、という言葉は誰も聞いていなかった。

 舞台は荒れに荒れていた。

 Aクラスの生徒たちは葛城を囲み、何やら糾弾している。じっと眺めていると、新しく友人になった橋本(はしもと)鬼頭(きとう)の姿が映った。橋本が気付いたのか、ぱちんとウィンクしてくる。

 一番落ち着きを見せているのはBクラスだった。一位になったのにも拘らず、過度に喜ぶこともなく、桟橋に掛けられたタラップを登っていく。一之瀬(いちのせ)神崎(かんざき)と目が合うと、無言で頷かれた。また後日、彼らとは機会を作って話をする必要があるだろう。

 Cクラスは……と言うより、龍園は獰猛(どうもう)な笑みを携えながら、一人で客船に戻っていった。恐らく……いや、確実に、石崎(いしざき)やアルベルトといった彼の下僕が待ち構えているのだろう。

 DクラスはAクラスに比べたらだいぶマシだが、それでもかなりの喧騒に包まれていた。先導者である洋介にどういうことだと尋ねるが、彼は客船に戻ったら説明すると口にする。一応は納得するクラスメイトたち。

 今回の特別試験、結果を的中させることが出来たものは意外にも多いだろう。とはいえ、彼らはただ単に答えを知っていただけに過ぎないが。

 

「葛城! どういうことだ!? 説明しろよ!」

 

「待てよお前ら!? 一旦落ち着いて──」

 

「うるせえ! 黙ってろ腰巾着!」

 

「えーっと、Aクラスはそのままにして、僕たちも戻ろうか。確か客船には大きな部屋がいくつかあったから、試験結果について聞きたいひとが居るのなら、二時間後、出航してから集合しよう。それで良いかな?」

 

「「「了解」」」

 

 クラスメイトのあとを追い、オレも客船に戻った。タラップを登り終わると、すぐ傍で待機していた職員が携帯端末を配っていた。久々の携帯に、みんな、おおっ! と感動の声を上げる。

 デッキにはツヤツヤテカテカ姿の健常者そのものといった高円寺や、何も言わずに試験を脱落した堀北が申し訳なさそうな顔をしていたりして、みんなの関心は彼らに向くことになる。

 

「高円寺、お前なぁ!」

 

「ノンノン、私のことは高円寺さんと呼ぶのではなかったのかい。あれは嘘だったのかい?」

 

「高円寺さん、お前なぁ!」

 

「へい、ボーイ。どうかしたかい?」

 

「お前と話していると疲れるわ!」

 

「ほ、堀北さん……大丈夫?」

 

「えぇ……。みんな、その、ごめんなさい。勝手に脱落してしまって……」

 

「……やっぱり、理由があったりするの?」

 

「……えぇ。言い訳はその時にさせて貰えないかしら」

 

「ん。分かった、ただし、きっちりと説明してよね」

 

 オレは彼らに背を向け、この場を去ることにした。

 堀北や高円寺とは話したいことがいくつかあるが、機会はいくらでもある。彼らもオレの誘いを否とはしないだろう……多分。

 熱いシャワーを浴び、我ながら特徴のない私服に着替えたところで、一件のメールがチャットアプリ上で届いた。このアプリは大手有名アプリであり、いつでもどこでも、友達登録さえしていれば自由にコミュニケーションが取れる優れものだ。発信主とは先程まで『友達』になっていなかったのだが、どうやら向こうから申請をしてきたようだ。

 迷うことなくイエスボタンをタッチし、フリーズ後、専用の画面が表示される。あちらも現在進行形で見ているためか、次のメッセージが飛ばされる。

 そこには今すぐに会いたいという旨が書かれていた。オレから元々誘うつもりだったがために、手間が省けて良かったと思うと同時に、若干の申し訳なさを感じてしまう。

 唯一の問題点は会う場所だが……──客船の見取り図を取り出して眺め、めぼしい場所を発見する。座標を送ると了承のメッセージがすぐさま来た。

 

「良し、行くか」

 

 携帯端末を前開きの上着ポケットに突っ込み、オレは部屋をあとにした。

 道中、沢山の生徒と擦れ違うが、それも目的地に近付くと減っていく。それもそのはず、オレが向かっている場所は最下層のフロア。関係者以外立ち入り禁止のフロアでもある。施錠されていればその一つ上で話そうと思っていたが、乗組員が利用するためか、鍵は掛かっていなかった。こういったフロアは必要がなければひとは訪れない。密会に適した場所だな。

 扉を開けると、約束していた人物は既に居た。開閉音で訪問者であるオレの存在に気付くと、その人物は安堵の吐息を吐き出す。どうやら乗組員でないことに安心したようだった。禁止フロアに侵入しているのだから、その不安も当然かもしれないな。もし誰か来たら庇うとしよう。

 カツン、カツンと足音が反響し、彼我の距離が一メートル程になる。

 微かな照明が照らす中、オレたちは自然と視線を交錯させた。

 やがて──

 

「やっほー、綾小路くん。昨日振りだね」

 

 その人物は──松下(まつした)千秋(ちあき)はあの日と同じように、そう、挨拶をしてきた。

 



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松下千秋の分岐点 Ⅰ

2019年7月22日(1)。特別試験の結果について、作中、ポイント概算が行われるのですが、そこで表記の仕方に問題があり、さらに、ポイント計算にこちらに不備がありました。
ご迷惑をお掛けして申し訳ございません。

20019年7月22日(2)。特別試験の結果について、またしても、こちら側の不備がご指摘されました。それに伴い、再度、見直したいと思います。なお、修正されるのはあくまでもポイント概算だけであり、順位については変わりません。
何度もご迷惑をお掛けしてしまい、誠に申し訳ございません。


 

「──まずは特別試験、お疲れ様って言った方が良いのかな?」

 

 松下(まつした)は栗色の前髪を弄りながらそう言った。

 オレが無言で居ると、やがて、彼女は嘆息してから頷いた。

 

「うん、やっぱり互いに労わないとね。お疲れ様、綾小路(あやのこうじ)くん」

 

「お疲れ、松下」

 

 我ながら愛想(あいそ)の欠片もないオレの短い返答に、けれど、松下は満足したようだった。

 近くの柵に身体を預け、道中、買ってきたのであろうミニペットボトルを羽織っている上着のポケットから取り出し、唇を湿(しめ)らせる。

 喉を潤した彼女は元の場所に器を戻してから、おもむろに口を開けた。

 

「綾小路くん、これで満足かな。きみの望む結果になった?」

 

「ああ。松下のおかげで、Dクラスは好成績を収めることが出来た。協力してくれてありがとう」

 

 精一杯感情を込めてお礼を言い、頭を下げると、松下は薄く笑った。

 

「それじゃあ、聞かせてくれるかな。どうしてDクラスが上位クラス相手に勝てたのか。どうしてAクラスが最下位になったのか。──私に全てを教えて欲しい」

 

「もちろんだ。お前にはそのことを聞く権利があるからな」

 

 平田(ひらた)洋介(ようすけ)でもなく、堀北(ほりきた)鈴音(すずね)でもなく、そして櫛田(くしだ)桔梗(ききょう)でもない。今回の特別試験に於いて、オレが最も頼ったのは目の前に居る少女だ。

 オレは松下の要望に応えるため、無人島生活、この七日間、オレが何をしたのか、その一切合切を説明することにした。

 

「順番に話したいと思う。質問があったら適宜してくれると助かる。なるべく答えるつもりだ」

 

「うん、分かった」

 

「まずは……そうだな。一学期の話になるが、オレたちは体育の授業で水泳を受けていたよな。おかしいと思わないか? 通常なら六月下旬からのはずだろう?」

 

「そうとは言い切れないよ。私たちの学校は室内プールを完備している。六月下旬から行うのは単にその季節が適しているだけ。環境さえ整えば、授業は可能になるんじゃないかな」

 

 オレは内心舌を巻いた。

 松下はあまり目立たないが、頭の回転は悪くない。堀北や幸村(ゆきむら)高円寺(こうえんじ)王美雨(ワンメイユイ)といった生徒ばかりが陽の光を浴びているが、彼女はDクラスの中ではトップクラス、特に数学では学年でも上位に食い込んでいる。

 

「じゃあ、体育教師がやけに熱心に指導してくるとは思わなかったか?」

 

「……? 先生なんだからそれは当然じゃないの? ただまぁ……やたらと補習を受けさせようとしたところは嫌だったな」

 

「答えを言うと、授業中、彼が泳げない生徒に重点を置いて指導をしていたのは、その時点で、今回の特別試験が起きることを知っていたからだ」

 

 あの時おっさん教師は『まぁそう言うな。泳げる奴はモテるぞ? それに泳げるようになれば必ず後で役に立つからな』と口にしていた。一見、モテる発言を強調するための言葉だと思うだろう。オレもそう思っていた。しかしこの七日間でその認識を改めた。必ず役に立つの意味とは、すなわち、海に行き、泳ぐ可能性を暗に示していたのだ。

 

「なるほどね……。つまり、少し意識を割くだけで、夏休みに何かが起こることを察することが出来たんだ。思えばタダの夏のバカンスなんて有り得ないし、他のクラスは特別試験の概要が真嶋(ましま)先生から説明されたらすぐに動いていたもんね。その時点で勝負は始まっていたんだ」

 

「洋介や堀北も予期していたが、お前たちにプレッシャーを与えたくなかったんだろうな。だから教えなかった」

 

 情報を知っているか知らないか、これだけでも戦いは大きく左右されるものだが、今回に於いては該当しない。時には知らなくても良いことがある。

 

「松下はこの豪華客船が無人島に停泊する直前の出来事を覚えているか?」

 

「出来事……? あの時起こったことといえば……、船のアナウンスと……デッキでの軽い揉め事の二つだよね」

 

「そうだ。まず先に言うとあの時のアナウンスは『奇妙』だった」

 

「……奇妙?」

 

「あの時の内容は──『生徒の皆様にお知らせします。お時間がありましたら、是非デッキにお集まり下さい。間もなく島が見えて参ります。暫くの間、非常に意義ある景色をご覧になって頂けるでしょう』──というものだった。じゃあ聞くが、非常に意義ある景色とは何だと思う?」

 

 尋ねると、松下は(あご)に手を当てて考え込む。

 二分程待っても回答は出されなかったため、オレはヒントを与えることにした。

 

「この一週間、オレたちが奪い合って来たものだ」

 

「──『()()()()()()。……そっか、分かったよ。非常に意義ある景色とは、『スポット』の位置だったんだ」

 

 要所要所でヒントを与えれば、松下には答えに辿り着く能力がある。

 

「このアナウンスについては覚えておいてくれ。また後で出てくるからな」

 

「うん。次は……デッキで起こった揉め事だよね? 今疑問に思ったんだけど、どうして綾小路くんは率先してあんな面倒事に首を突っ込んだの?」

 

「良い着眼点だ。まずはあの時起こったことを復習するとしようか」

 

 アクシデントの全容は以下の通りだ。

 アナウンスが流れるまで、Dクラスの面々がデッキの見晴らしの良い場所で海を観賞していた。しかしアナウンスが放送され、ぞろぞろと生徒たちがデッキに集まる。そこで、不良品のDクラスが特等席に居ることが気に食わなかったAクラスの生徒数名が絡み始め、沖谷(おきたに)の肩を突き飛ばした。

 

「あの出来事にオレが率先して参加したのにはもちろん理由がある。簡潔に言うと、Aクラスを全クラスの共通の敵にするためだ」

 

「……え? そんなことが可能なの?」

 

「可能だ。この学校は実力至上主義を掲げているためか、下位クラスは理不尽な目に遭うことが多々あるだろう?」

 

 例えばそれは、客船が桟橋(さんばし)に停留し、生徒が砂浜に降りる時。あの時Aクラスから降り、下位クラスの生徒たちは屋根がなく、日陰がない場所で数十分もの間待たされた。茶柱(ちゃばしら)が飲料を飲む許可を出さなければ、何人かが熱中症を起こしても不思議ではなかった。もちろん、先に行った分Aクラスはオレたちの到着を待つことになるが……理屈では分かっていても、認めたくないことだってある。

 

「ましてやAクラスの生徒は自分が優良品であることを鼻にかけ、他クラスを見下している奴が多い」

 

 オレが知る中で最も顕著に表れていたのは戸塚(とつか)だ。

 どうやら松下もそれは常々思っているようで、眉間に(しわ)を作ることで同意してくれた。

 

「Cクラス以上に、Aクラスに対する各クラスの心象は最悪だ。そこにあの出来事が起こった。オレたちDクラスに落ち度が一切ないとは言わない。スペースを空けることだって出来たかもしれないからな」

 

 しかしながら彼らは手を出した。

 

「これで実質的に、先月上旬に起こった『暴力事件』の再演出になる」

 

「そこに、この前の事件で台頭してきた綾小路くんが登場することにより、さらに人々の関心を集めたってことだね」

 

「その通りだ」

 

 オレが冷静にAクラスを()く姿を見て、傍観者は『Aクラスが悪い』と思い込む。そしてこれまで溜まりに溜まってきたフラストレーションが臨界点を超える。

 

「これによりAクラスは晴れて悪役になったわけだ」

 

 そしてこの時点でオレは、可能ならAクラスを潰すことを決めていた。

 事前の仕込みが終わり、オレたちは砂浜に降りる。

 そして真嶋先生から特別試験の説明を受けた。

 

「オレが高円寺とペアを組んで探索に出たことは覚えているか?」

 

「もちろんだよ。みんな、綾小路くんが可哀想って意見で同調していたしね」

 

 分かっていたこととはいえ、そこそこショックを受けるな……。

 自由人に振り回されるなんて哀れ……、そう、クラスメイトが思っても不思議ではない。だが──。

 

「あれは高円寺なりの気遣い……言い換えれば、彼の気まぐれだった。彼はデッキ上でのオレの狙いに気付いていた。そしてオレが行動出来るようにサポートしてくれた」

 

「仲が良いの?」

 

「いや……、どうだろうな……」

 

 言葉を(にご)す。

 仲が良いのか悪いのかと聞かれたら、良い部類に入るのだろう。少なくとも嫌われてはいないはずだ。まあ尤も、高円寺にそのような感情があるのかは甚だ不明だが。

 

「心当たりとかは?」

 

「……何ヶ月か前に一緒に昼飯を食べたんだが、その時に気に入られたのかもしれないな」

 

「ほへー……」

 

 口を半開きにする松下は見ていて面白かった。

 高円寺とペアを組んだオレは、そのまま無人島を開始する。

 

「オレたちが向かった場所は、(のち)にAクラスがベースキャンプに定めた拠点だった」

 

「そこも『奇妙なアナウンス』で、船の上から見ることが出来たんだね。でもどうして? 『洞窟』は山頂付近だよね? 他の場所でも良かったんじゃない?」

 

 良い着眼点だ。

 松下の質問は物事の核心に触れているものが多い。だからこそ手間を省けて話を展開することが出来る。

 

「これを見てくれ」

 

 そう言いながら、オレはズボンのポケットに忍ばせていた一枚の紙を取り出す。

 それは無人島の地図。

 松下に手渡すと、彼女は訝しながらも視線を落とす。そして「あっ」と小さく声を上げた。

 

「『洞窟』付近に『スポット』がかなり密集してる!」

 

「その通りだ。中には、予め知っていないとまず辿り着けないような場所もある」

 

 例えば、オレが橋本(はしもと)鬼頭(きとう)たちと初対面した崖下が該当する。これ一つだけでなく、事前知識が無ければ存在すら摑めない『スポット』が他にも数個程島全体に点在していた。

 

「『スポット』が密集しているということは、それだけリーダーが動かなくて良いことになる。更新にはリーダーと、キーカードが必要だからな」

 

 つまり、リーダーの正体を隠すことに繋がるということ。

 冷静沈着な葛城(かつらぎ)が試験開始後すぐに即断したのは、『洞窟』が機能的な役割を果たすと理解していたからだ。

 だがしかし──。

 

「葛城はここで一つ失敗をした」

 

「……失敗?」

 

「ああ。それは、同じ考えを持つ人間の存在の可能性を排除したこと」

 

 オレは松下に、オレと高円寺が『洞窟』の出入口から葛城と戸塚の二人が出てくる場面を目撃したことを告げる。彼らをやり過ごした後、『スポット』の装置──厳密には、占有の権限の制限時間を確認したこともだ。

 これを聞いただけで、頭の()()しに拘らず、オレが何を言いたいのか分かるだろう。

 

「Aクラスのリーダーは葛城くんか戸塚くんになるんだね」

 

「正解だ。そしてオレはこの時点で戸塚だろうと予想を立てていた」

 

「それはまたどうして? 確かに、クラスリーダーである葛城くんがリーダーだと決め付けるのは安直だよ。けどそれを狙ってのフェイクだという可能性もあるよね。つまり確率は半分。賭けるには値しないんじゃないかな」

 

「そうだな。Aクラスの生徒は欠席者を除いて三十九人。二人に(しぼ)ることが出来たとしても、それが絶対じゃないのなら意味がない」

 

 オレは松下の言葉に頷く。

 一日目の時点では、葛城康平(こうへい)か戸塚弥彦(やひこ)、どちらかがリーダーであることしか分からなかった。だがこれは大きな収穫と言える。つまり、オレはAクラスに対して王手を指していた。

 兎にも角にも、高円寺の思わぬ協力により、オレたちDクラスは初日の消費ポイントを抑えることに成功した。彼のおかげで、クラス的にも、そして個人的にも試験は良い滑り出しが出来た。

 

「高円寺と別れたオレは、そのまま一人で浜辺に戻った。とはいえ、そこには櫛田以外誰も居なかったんだけどな……」

 

「あはは……」

 

 これには松下も苦笑いを浮かべるしかなかった。

 本来ならあの場所には女子生徒が待機しているはずだったのだ。しかしオレが戻るよりも前に洋介や(けん)(いけ)の班が偶然『スポット』を発見、クラスメイトは既に『川』に移動していた。

 あの時感じた孤独感は、かなり心に来たものだ。

 

「その後はクラスに合流した。一日目の流れはこんな感じになるな。質問はあるか?」

 

 念の為確認すると、彼女は両腕を組んで考え始める。それは無理矢理に質問内容を考えている、という様子ではなかった。

 

「うーん……。()()()()()()()()()()()()()

 

 しかし何かは結局分からなかったようで、「ごめん」と謝ってから、話の続きを促してくる。

 

「二日目の早朝。オレは松下、お前と出会った」

 

「私たちが初めて面と向かって喋った瞬間だね」

 

 松下と話したのは偶然だ。むしろ、かなり早い時間帯だったのにも拘らず起きていたのだから驚いたものだ。

 オレたちは会話の最中で、Bクラスの偵察班だと思われる神崎(かんざき)ともう一人の男子生徒と出会う。そこでオレたちはBクラスのベースキャンプの位置を教えて貰った。

 

「朝食を食べた後、オレは櫛田と一緒に他クラスの拠点に赴いた」

 

「櫛田さんを選んだのは何か理由が?」

 

「ああ。Dクラスで最も交渉役に適しているからな」

 

 櫛田桔梗は汎用性がとても高い。まあ、それ以外にも理由はあるのだが……、彼女に話すことではないか。

 

「Bクラスを訪ねたオレたちは、先の『暴力事件』で結ばれた協力体制について尋ねた。あの時は一之瀬(いちのせ)個人の協力だったが、これからはクラス単位での協力になるからな」

 

「そして一之瀬さんたちと正式に同盟を結んだんだね」

 

「その後はAクラスを訪ねたわけだ」

 

『洞窟』に到着すると、オレは二つの不可解な点を発見した。一つ目は、『洞窟』の出入口に暗幕を垂らし、外界から視界を遮ったこと。二つ目は、『洞窟』の出入口付近に置いてあった二個の仮設トイレ。

 

「一つ目は分かる。明らかな独占行為だもんね。けど二つ目はどうして?」

 

「DクラスもBクラスも、結局、仮設トイレは一個しか購入しなかっただろ?」

 

「そりゃあ、まあ、簡易トイレがあるから。最悪、それで済ませれば良いからね」

 

「だがAクラスはそうしなかった」

 

「たかが数ポイント、Aクラスにとってはそれくらいの認識なんじゃないの?」

 

「いいや、違うな」

 

 葛城は坂柳(さかやなぎ)とリーダーを争っている立場にある。だが坂柳は欠席。普通の人間なら、ここで何らかの成果──つまり、より多くのポイントを残したいと考えるはずだ。

 買わなくて良いものを買った、その情報は試験が終了次第速やかに坂柳派の生徒が告げ口するだろう。そうなれば坂柳はこの点で葛城を糾弾する。

 

「この不必要なポイント消費については覚えておいてくれ。後で補完するから」

 

 葛城と話した後、オレと櫛田は残っている敵地──Cクラスの拠点に赴いた。『浜辺』を開放し、思うがままに遊び尽くすCクラスの生徒たち。ここでオレたちは筒抜けのベースキャンプを見ることが出来た。

 石崎(いしざき)に案内され、オレたちはCクラスの『王』と対峙した。その後オレたちは『川』に戻る。するとクラスから追放された伊吹(いぶき)(みお)が保護されていた。

 

「伊吹を保護した時点で、オレは彼女が『スパイ』だと八割がた考えていた。松下は違うようだったけどな」

 

「うん。この前も言ったけど、私は彼女を保護することに内心では反対だった。最初から疑っていたからね」

 

 だが松下の第六感(シックス・センス)とは別に、Dクラスは伊吹を保護することに決めた。その最大の要因は伊吹澪の左頬にあった大きな腫れ。同情心を誘い出す『王』の作戦は、善良な人間をいとも容易く罠に嵌めた。

 こうして他クラスの人間を保護し、二日目が終了する。

 

「質問はあるか?」

 

「ううん、無いよ」

 

 三日目の早朝、オレは二日連続で松下と話す機会に恵まれた。そして会話の過程でオレは松下千秋(ちあき)の有用性を見出し始めた。

 オレはすぐに行動に移った。具体的には、彼女に一つの頼み事をした。

 

「あの時は本当に驚いたよ。まさか──伊吹さんのスクールバッグを(あさ)って欲しいだなんてさ」

 

「男のオレが女性の所有物を漁っているのを見られたら問答無用で退学の処遇を言い渡されるだろうからな」

 

 それぞれの仮設テントの出入口にオレたちは自分の荷物を置いていた。

 せめてどこか纏めて放置されていたら松下の手を煩わせる必要もなかったんだがな。

 兎にも角にも、彼女はオレが理由を言うと快く引き受けてくれた。

 そしてスクールバッグのチャックを開けた彼女は目を見開かせただろう。

 

「ほんと、驚きの連続だったかな。まさか綾小路くんが予見したようにデジカメが入っていたとはね……」

 

 伊吹が佐倉(さくら)のように写真を撮ることが趣味であるのならデジタルカメラが入っていてもおかしくはないだろう。だが、彼女は言っていた。龍園のやり方は気に食わないと。実際に話してみて、彼女の『王』に対する憎しみは本物だと充分に伝わってきた。

 個人のものを特別試験に持参することは禁じられていた。つまり、入っていたデジタルカメラはポイントで購入したものになる。クラス闘争にひたむきな姿勢を見せる彼女が個人の都合でデジタルカメラを購入することは矛盾している。

 

「あのデジカメは、リーダーのキーカードを撮るためのものだったんだよね?」

 

「ああ。もし成功すれば莫大な利益を得ることに繋がる」

 

 そのための布石として、伊吹は最初から最後までDクラスで目立った行動をしなかった。疑われないよう、順応な振りをしていたというわけだ。恐らくは金田(かねだ)も似たようなものだろう。

 

「綾小路くんは私と同様、伊吹さんが『スパイ』だと確信していたんだよね。だったら龍園くんはどうなの?」

 

「そっちも同じだ。二日目の時点で、オレは龍園が、最後まで脱落しないことを見抜いていた」

 

 Cクラスは『浜辺』を大々的に開放していた。そしてオレは興味深いものを見付けていた。それは無造作に放置されていた無線機。

 これだけでも伊吹が『スパイ』であること、そして龍園の思惑に辿り着ける。

 

「でもちょっと待って。無線機だけで、そう、考えるのは無理があると思う。単純に遊びに使っていたんじゃないの?」

 

「それもあるかもしれない。だがオレは五日目──とある場所に埋められていた無線機を見付けた」

 

「とある……場所?」

 

「伊吹を発見したのは沖谷と山内(やまうち)だったよな。オレは五日目、沖谷に聞いたんだ。どこで伊吹と遭遇したのかをな」

 

 鞄の中に入れては駄目だ。デジタルカメラなら言い訳出来るが、無線機はそうはいかない。しかしながら、適当に埋めては無くす可能性がある。だからこそ、目立つ場所を選ぶ必要がある。事実、沖谷たちと伊吹が遭遇したのは、周りより一際大きい木の傍だったようだ。さらに沖谷の話によれば、彼女は巨木の幹に身体を預けていたようだ。そして決定的だったのが、視界に入らない位置、つまりは頭上の枝に小さな布が巻かれていた。足場があまり安定しない森の中、呑気に上を見ながら歩ける奴はそうは居ない。

 案の定、伊吹は地中に無線機を仕込んでいた。特別試験の最中で学校から借りている以上、客船に持っていくことは当然ながら出来ないだろう。

 

「これで龍園の狙いが判明しただろう」

 

「龍園くんの計略とは他クラスのリーダーを当てること──即ち、エクストラポイントの獲得なんだね」

 

 松下は愕然(がくぜん)とした様子だった。

『王』に恐れの感情を抱いているのだろうが──オレは首を横に振り否定した。

 

「それだとデジカメの説明がつかない」

 

「龍園くんが伊吹さんや金田くんを信用してなかったからじゃないの?」

 

「いや、仮にも二人は『スパイ』に選ばれるくらいだ。金田は兎も角、伊吹本人は否定するだろうが、彼らの間には絶対的な主従関係が成り立っている」

 

 もし二人が虚偽の報告をしたとしても、それはすぐに試験結果という形で暴露される。Cクラスの残存ポイントはゼロ。そこから過程を計算することは容易い。

 裏切り者が居れば『王』は容赦なくそいつを断罪する。

 

「じゃあ、どうして……?」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……ッ!?」

 

 まず、Cクラスの人間ではない。次に、オレたちDクラスでもなければBクラスでもない。

 残るクラスは──。

 

「まさか……、Aクラスってこと……!?」

 

「正解だ」

 

「じゃ、じゃあAクラスとCクラスが手を組んでいたってことなの!?」

 

 オレは無言の頷きを返す。

 彼女は何やら驚愕しているようだが、考えてみるとそうでもない。

 

「BクラスとDクラスが同盟関係を確立したように、AクラスとCクラスもそうしていただけだ」

 

 とはいえ、オレたちとは違い、彼らの同盟は恐らく、今回だけのものだと思われる。長期的に組んだところでどちらともメリットがないからだ。

 

「四日目に拘っては特に言うことはないだろう」

 

「いやいや、あるからね。どうして平田くんがあんならしくない強行手段をとったのか、知っているなら教えて欲しい」

 

 やはり松下もそのような感想を抱いたのか。ということは、他の生徒も同様だと考えて良いだろう。

 

「簡単なことだ。オレが洋介にそのように指示を出したからだ。堀北が瀕死(ひんし)の一歩手前だったからな」

 

「堀北さんが……?」

 

「ああ」

 

 四日目の早朝。オレは体調が(すぐ)れない堀北を見て、このままでは彼女が試験終了まで身体が持たないことを察知した。

 それでは困るため、オレは洋介に休息期間を設けることを相談した。

 

「洋介は了承した。それで一日の休息が晴れて成立した」

 

 考えてみると、四日目が一番平和だったな。結果論を述べるのならば、堀北の体調云々に拘らず、この休みはあって良かったと言えるだろう。

 

「五日目。松下が起きるよりもより早く、伊吹が行動を起こした。軽井沢(かるいざわ)の鞄から下着を抜き取り、適当な男子生徒──池の鞄に入れた」

 

「でもどうして? 伊吹さんの使命はDクラスのリーダーを暴くことだよね。他クラスの生徒が疑われるのは時間の問題で、リスクを冒す必要はなかったんじゃないのかな」

 

「想定していたよりもDクラスに纏まりがあり、焦ったんだろうな。クラスカーストのトップに位置する女子の下着が盗まれたんだ、当然、クラスは荒れる」

 

「綾小路くん、軽井沢さんのこと嫌いなの?」

 

「そんなことはない。苦手なだけだ」

 

 すると松下は微妙な表情を浮かべた。そこから一つため息を漏らす。

 

「綾小路くんってさ、意外にも好き嫌いがハッキリしているよね」

 

 オレは素で驚いてしまった。

 まさかそのようなことを言われるとは思っていなかったからだ。そう言えば、櫛田にもこの前似たようなことを言われたような……。

 こほんと咳払いしてから、話を続ける。

 

「何はともあれ、伊吹の作戦は成功したわけだ。堀北が池を上手く弁護したおかげで何とか踏みとどまったが、Dクラスは結束を失ってしまった」

 

「や、やけに他人事のように話すんだね……」

 

 彼女は引いているようだった。

 薄情な奴だと思われているのだろう。

 だが──。

 

「松下も似たようなものだろう?」

 

「……何を言っているのかな……?」

 

 あくまでも松下は白を切る算段のようだ。

 それならそれで構わない。

 オレは彼女の瞳を捉えながら言った。

 

「この七日間、松下のことを観察させて貰った。オレが言えたことじゃないが、お前もかなり破綻していると思う」

 

 一秒、二秒、三秒、四秒──。

 五秒が経過したタイミングで松下は「ふぅー」と前髪を弄びながら長い吐息を吐き出した。

 

「あー、やっぱり。感じていた視線の正体は綾小路くんだったんだね」

 

「気付いていたのか」

 

「まぁね。女の子だから」

 

 と、松下は言いながらけらけらと笑う。

 やがて彼女はおもむろに口を開けた。

 

「私はね、綾小路くん。きみの言う通り、かなりおかしいんだよ。例えば私は篠原(しのはら)さんと佐藤(さとう)さんといつも一緒にいるけれど、時々、そう、時々なんだけどね──あれ、何で私はこのひとたちと遊んでいるんだろう? って思う時があるんだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そのくせ、独りになったらなったで誰かと一緒に居たいと思うんだよ」

 

 彼女たちのことが嫌いなわけじゃないんだよ? と松下は続けて言った。

 オレにはその言葉が、自分に言い聞かせているようにしか思えなかった。

 恐らく、松下千秋が不良品の巣窟であるDクラスに配属された理由はここにあるのではないだろうか。

 感情の起伏が激しい──たったそれだけの短い言葉で表現するのは適切ではないし彼女に失礼だ。

 

「悪い、かなり話が脱線したな。兎に角、オレはその後も引き続き単独で動くことを決意した」

 

 まずオレは茶柱に声を掛け、クラスメイトに何も言うことなくポイントを勝手に使った。クラスの生徒である以上、ポイントを消費して物を注文することは誰にでも出来ることは確信していた。

 

「何を頼んだの?」

 

 オレは無言でそれを彼女の目の前で翳す。

 すると松下は何度目かの困惑に顔を染めた。

 

「それって……、携帯だよね?」

 

「他の何かに見えるか?」

 

 正真正銘、それは生徒が学校から支給されている携帯端末だった。

 自分のものであることを証明するため、先程、松下と交わしたチャットの履歴を見せる。しかしそれでも彼女は腑に落ちないようだった。

 

「でもおかしいよ。携帯は船から降りる時に没収されたし、マニュアルの商品カタログにもそんな項目はなかったはず。出来ないと思うんだけどな」

 

「違うな。マニュアルのルール要項には──『A〜Dクラス、全てのクラスに300ポイントを支給する。このポイントを消費することによって、マニュアルに載せられている道具類や食材を購入することが出来る。なお、原則的にはマニュアル外のものは購入出来ないが、万が一、欲しいものが出た場合は担任教師に確認をするように。場合によっては認められるものがある』と明記されてあった」

 

 つまり、余程頓珍漢(とんちんかん)なものでなければ、学校は応えるという意思を見せていたのだ。例えば、マニュアルに載っているデジタルカメラではなくて、自分が旅行に持参してきたデジタルカメラを使いたい場合は適応されるだろう。

 

「でもどうして携帯を?」

 

「そこは後で答える。茶柱先生に注文用紙を渡した後、オレは沖谷から当時の情報を聞き出し、ベースキャンプを抜け出した」

 

 ベースキャンプをあとにしたオレがまず向かった場所はBクラスの拠点である『井戸』。条約に基づき、五日目までにどれだけのポイントを消費したのかを交換した。

 オレはこの段階で、伊吹及び金田が『スパイ』であることを一之瀬に告げた。だがオレは金田を追い出さないで欲しいと彼女に頼んだ。それだと困るからだ。

 

「困るって……何に?」

 

「悪いが、そこも後で答える」

 

「……綾小路くんさ、答える気ある?」

 

「だから謝っているだろう。ここで答えても良いが、多分、頭がこんがらがるぞ」

 

 そう言うと、松下は渋々ながらも引き下がった。

 

「Bクラスへの用事を済ませた後、オレはその足でAクラスが占領しているエリアに侵入した」

 

「でもさ、『洞窟』の出入口は垂れ幕で塞がれていたよね。意味がないと思うんだけど」

 

「それはベースキャンプに限った話だ。流石に他の『スポット』にも似たような隠蔽工作をしたら、Aクラスは罰則(ペナルティ)を受けていただろうな。オレが侵入した理由は、Aクラスの生徒と会うためだ。より具体的には坂柳派の生徒だな」

 

 Aクラスには二つの派閥があり未だに争っている。それは緊急事態である特別試験だろうとも続いていた。いや、緊急事態だからこそだろうか。人間とは非常事態に陥った時に本性が現れる(けもの)だ。その時に真価を発揮出来るか否か、というポイントはとても大きい。

 坂柳が旅行を欠席している今こそが、葛城にとってはまたとない好機。慎重な男も『勝つ』ためには手段を選ばない。そのために彼は龍園と『密約』を交わした。

 

「ここで一つ、先延ばしにしていた問題を解こうか。龍園の狙いについてだ」

 

「今度こそ分かったよ。綾小路くんの解説、そして龍園くんの試験結果の態度から考えるに、Aクラスと『密約』をすることだよね」

 

「ああ」

 

「じゃあ質問。『密約』の内容は? って、これも後に回すんだよね?」

 

 送られてくる視線が痛い。オレは無言で頷いた。

 兎にも角にも、崖下の小屋でオレは二人のAクラスの生徒と出会う。そう、橋本と鬼頭の二人だ。

 オレは釣りに興じながら二人がどちらの派閥の人間なのかを探った。

 

「そしてオレは二人とも坂柳派の人間であるのを知った」

 

 橋本はすぐに教えてくれた。まあ、鬼頭は無言だったが……。

 計画通り坂柳派とコンタクトをとることに成功したオレは、その日は何もすることなく翌日、つまり、試験六日目に回すことに決めた。

 

「何で見送ったの? その日にしちゃえば良いんじゃない?」

 

「理由は二つある。一つ目は信頼関係がゼロに等しいからだな」

 

 特に橋本正義(まさよし)。彼がどのような思想の持ち主なのかを、断片的でも良いから欠片(ピース)を集めたかった。

 

「二つ目は?」

 

「ここで茶柱先生に頼んだ携帯が関係してくる。彼らと交渉する上で、どうしてもそれが欲しかったんだ」

 

 だがその時点では、オレは携帯端末を所持していなかった。頼めばすぐに用意されると思っていたのだが、そこそこの時間を必要した。

 二人が翌日、つまり六日目も来ることは分かっていた。それは橋本自身が、『この時間は毎日暇』だとオレに釣りを誘う時に口にしていたからだ。

 ベースキャンプに戻ったオレは堀北と話をした。それは共同戦線の約定(やくじょう)。そしてオレは彼女を使って松下を呼び出した。

 

「昨日は朝早くから悪かったな」

 

「ほんとだよ。一人になっていたら全然喋ったことがない堀北さんから急に声を掛けられたからさ。しかもきみが呼んでいるなんて。その上、堀北さんには説明を一つもしていなかったようだしね」

 

「堀北には話してもよかったが……、あいつは変に律儀というか、嘘を好まないからな。苦渋の決断ってやつだ」

 

「いやいや。それは違うでしょ」

 

 何を言ってるの? 呆れを含んだ目で見られたので、わざとらしく咳払いを打って誤魔化す。

 みんなが寝静まっている間──見張り役を除く──、オレと松下はトイレを装って密会した。ここでオレは彼女に二つのことを頼んだ。

 一つ目は──。

 

「まさか軽井沢さんと喧嘩しろだなんて」

 

「喧嘩じゃない、弾劾(だんがい)だ」

 

「同じようなものだからね、それ」

 

 物凄く怖かったからねと松下は苦言を呈してきた。

 何故松下と軽井沢をぶつけさせたのか。理由は二つある。

 一つ目は、彼女たちが同じ仮設テントで寝泊まりしていたから。ちなみに、軽井沢、園田(そのだ)石倉(いしくら)、篠原、佐藤、松下、堀北、櫛田に小野寺(おのでら)長谷部(はせべ)が一緒に寝ていたようだった。何とも驚きのメンバーだな。松下が別だったら、最悪、堀北にその役をさせるつもりだった。

 二つ目は崩壊した男女の戦争を終戦、もしくは停戦させるため。しかし普通にやって上手くいくはずもない。そのため、事の発端である下着の盗難事件である被害者の軽井沢を説得することが急務となった。

 軽井沢ではなくても池でも良いと思うだろうが、絶対的な影響力を持つクラスカーストの頂点に位置する彼女に協力して貰った方が遥かに効果は高くなる。

 オレが先程『弾劾』と表現したように、松下にさせたことは簡単だ。すなわち──軽井沢のこれまでの悪行を責める、ただそれだけ。

 

「軽井沢は言い返すことが出来なかったはずだ」

 

「その代わり、軽井沢さんは絶対に私のことを嫌っただろうけどねっ!」

 

 流石にこれは彼女も憤慨(ふんがい)ものなのか、鋭い目付きで睨んでくる。オレはそれを明後日の方向に何とか逸らした。

 

「一応確認するが、感情では何も言ってないよな?」

 

「当たり前だよ。指示通り、ねちっこく正論を何度も言っただけ。特にプライベートポイントのことは軽井沢さんにとっても痛かったみたい」

 

 軽井沢は何度も述べるがクラスカーストの位置する生徒だ。集団のトップに鎮座するためには、それ相応の行動と責任が問われる。

 今回、松下が行ったことは簡単だ。軽井沢が入学してから現在までに度々ながらも起こしてきた問題行為について責めるだけ。客観的視点から追及することで、彼女の悪事を他ならない彼女自身に認めさせる。

 そして今回の下着盗難事件については、軽井沢にも問題が少なからずあると自覚させた。

 

「堀北さんの後ろに居たから何も知らない子たちは勘違いしてくれたと思うけど……、本当に、本っ当に肝が冷えたからねっ!」

 

 涙目で首をがくがくと揺らされた。

 松下は容姿だと可愛いよりは美人の部類だが……、前も思ったが、これだと可愛いという評価が出されそうだな。

 

「あーあ、これだと篠原さんや佐藤さんとも縁を切るしかないかなぁ……」

 

「縁を切るって……そこまでなのか?」

 

 純粋に疑問に思ったので尋ねると、松下は神妙に頷いた。

 

「綾小路くんが考えている以上に、女の子の闇は深いんだから。今時純粋無垢の女の子なんて居ないからさ、幻想は早めに捨てた方が良いよ」

 

 そう言われたら、オレは機械のように何度も頷くしかなかった。

 女の子の闇はさておいて、一つ、気掛かりな点があるが──それは後回しにするか。

 松下に頼んだことはもう一つある。それはDクラスのリーダーのキーカードを、伊吹の鞄に入っていたデジタルカメラで撮ることだ。

 

「堀北とは丁度よくタイミングが合ったようだな」

 

「私としてもあのタイミングはベストだったよ。篠原さんが執拗かったからさ。佐藤さんは佐藤さんであわあわしているだけだったし……まあ、追い払うのに苦労したけど」

 

 憂鬱(ゆううつ)そうにため息を吐き出す。

 オレがその結果を招いたとはいえ、申し訳ないと思わなくもない。

 松下は堀北のスクールバッグの中からキーカードを取り出し、そして『ホリキタスズネ』と表記された部分をレンズでしっかりと捉えた。これで伊吹は『Dクラスのリーダーの正体を暴く』という自らの使命を、何もせずとも達成したことになる。

 そしてオレは時間を見計らって伊吹に一人で近付き、オレが彼女の正体を知っていること、そして手助けしたことを知らせた。

 

「ちなみにその時の伊吹さんの反応は?」

 

「無言で睨まれた。殺されるかと思ったよ」

 

「殺されるって……そこまで?」

 

 綾小路くん、伊吹さんに恨まれるようなことをしたの? と松下は言ってきた。

 伊吹がオレに殺意を向けた理由。その理由は、恐らく、オレが最初から『スパイ』だと知っていたのにも拘らず、あのような欺瞞(ぎまん)に満ちた会話を行ったからだろう。

 彼女からしたら、オレの行いは裏切りに映ったのかもしれないな。

 

「そして危惧していた雨が降り始めた。予め準備をしていたとはいえ、慌ただしくなるのは避けられない。伊吹は上手く逃げてくれたよ」

 

「堀北さんもこの時に試験を脱落したんだよね?」

 

「ああ」

 

「理由は? って、どうせこれも後回しなんだよね」

 

 流石、ここまでの流れを良く分かっている。

 とはいえ、全ての謎はすぐに解明される。

 

「試験六日目までは『防衛』でしかなく、『勝つ』ための下積みでしかない」

 

 試験七日目によって、試験の勝敗は決まる。

 そう、各クラスから選出されたリーダーを的中させることが出来れば、結末は大きく変わる。それこそ、朝の点呼の時点で、0ポイントだったCクラスが逆転することも不可能ではない。

 オレは携帯端末を操作し、作業を終わらせると、それを松下に見せた。

 

「これって──!?」

 

 覗き込むや、驚きを露にする。

 そこには試験結果から導き出した概算が書かれていた。

 

 

 

§

 

 

 

〈Aクラス〉

 七日目、朝の点呼──270ポイント。

 

《攻撃》

 A→B。失敗。マイナス50ポイント。

 A→C。無し。

 A→D。失敗。マイナス50ポイント。

 

《防衛》

 B→A。成功。Bクラスに50ポイント支払う。

 C→A。成功。Cクラスに50ポイント支払う。

 D→A。成功。Dクラスに50ポイント支払う。

 

《結果》

 合計値(トータル)──20ポイント。

 

 

 

§

 

 

 

〈Bクラス〉

 七日目、朝の点呼──160ポイント。

 

《攻撃》

 B→A。成功。プラス50ポイント。

 B→C。無し。

 B→D。無し。

 

《防衛》

 A→B。失敗。

 C→B。無し。

 D→B。無し。

 

《結果》

 合計値(トータル)──210ポイント。

 

 

 

§

 

 

 

〈Cクラス〉

 七日目、朝の点呼──0ポイント。

 

《攻撃》

 C→A。成功。プラス50ポイント。

 C→B。無し。

 C→D。無し。

 

《防衛》

 A→C。無し。

 B→C。無し。

 D→C。無し。

 

《結果》

 合計値(トータル)──50ポイント。

 

 

 

§

 

 

 

〈Dクラス〉

 七日目、朝の点呼──140ポイント。

 

《攻撃》

 D→A。成功。プラス50ポイント。

 D→B。無し。

 D→C。無し。

 

《防衛》

 A→D。失敗。

 B→D。無し。

 C→D。無し。

 

《結果》

 合計値(トータル)──190ポイント。

 

 

 

§

 

 

 

《総合結果》

 一位:一年Bクラス──210ポイント。

 二位:一年Dクラス──190ポイント。

 三位:一年Cクラス──50ポイント。

 四位:一年Aクラス──20ポイント。

 

 

 

§

 

 

 

「──真嶋先生から聞いた時にも思ったけど……、これってやっぱり変だよ。どうしてAクラスが四位なの?」

 

 何も知らない生徒からしたら、Aクラスの最下位について興味を持つことは当然だろう。

 オレは浅く呼吸をした。

 今までしてきた説明が無駄とは思わない。だが、ここからが各クラスの渦巻く思惑に繋がるのだ。先程も述べたが、彼女にはそれを知る権利がある。

 

「まず、Aクラスはこの画面を見れば分かるように、今朝の八時の時点で、残存ポイントは270ポイントだった」

 

 Aクラスは試験開始時に、坂柳の欠席によって容赦なくペナルティを受けていた。その額が30ポイント。つまり、Aクラスはそれ以降、1ポイントも消費しなかったということになる。

 

「いやいや! そんなこと出来るわけ──」

 

 何かに気付いたのか、松下は不自然に言葉を区切った。表情が強張(こわば)り「まさか……」と小さく呟く。

 どうやら真実に気が付いたようだ。

 

「お前の考えている通りだ。ここで、AクラスとCクラスの『密約』が関係してくる。CクラスがAクラスに何を求めたのかは分からない。だが、その逆──Aクラスが何故Cクラスと結ぶメリットがあるのか、それは分かるだろう?」

 

「Cクラスの300ポイント……──それを全部譲渡したんだね」

 

 より正確に言うならば、ポイントそのものを他クラスに譲渡することは出来ないだろう。単位はついていないが、試験終了後、クラスポイントとして加算されるのなら、それは実質的にはクラスポイントとして扱われるはずだ。

 学校はプライベートポイントのやり取りは認めているが、クラスポイントのやり取りは認めていない。

 それならどうするか。答えは簡単だ。ポイントを崩し、他のものに代替すれば良い。

 

「Cクラスは豪遊に使う以外のポイントを全て物資に使い、それをAクラスに譲渡したと思われる」

 

 その証拠に、龍園自身がオレと櫛田に案内した大型テント。そこには大量のダンボール箱が収められていた。箱の中に入っていたのは食料と水だ。

 

「でもだったら、豪遊する必要はないと思うな。本当に必要最低限なポイントだけ残せば、より美味みのあるものになると思うんだけど」

 

「本当にクラス同士のものだったらな、それもありだろう」

 

「どういうこと……?」

 

「龍園はクラスメイトに殆ど何も言っていない」

 

 とはいえ、それだと流石に誰も従わないだろうから、大雑把には告げていただろうが……。

 事実、Cクラスの生徒たちはそのような『色』を感じ取ることが出来た。

 

「それに、だ。確かにCクラスは豪遊していたが、実際のところ、そこまで遊んでいたわけじゃない」

 

 マニュアルのカタログ欄には遊び道具も載っていたが、殆どが少ないポイントで買えるものばかりだった。遊びに使ったポイントは仮設テントを含めても100ポイントが限度だろう。仮設トイレは支給された簡易トイレがあるのだから購入する必要はない。そのポイントでAクラスの分の物品を注文すれば良いのだから。

 

「でも仲間に何も言わないって……」

 

「Cクラスは龍園が支配するクラスだ。誰も反抗することは出来ない。それに仮に龍園がクラスメイトに全てを語っていたら、奴の計画に(ほころ)びが生じる恐れがある」

 

 櫛田のように自分を偽ることが出来る人間の集団だったら、その可能性もごく僅かだがあっただろう。

 しかし『仮面』を付けることに慣れていない人間が、彼女のように演技出来るはずがない。ましてや大人数になれば尚更だ。

 

「Aクラスの270ポイントの謎については理解したよ。じゃあ、次。どうしてAクラスは『攻撃』と『防衛』、共に失敗しているの?」

 

「そうだな……まずは何故『攻撃』が失敗したのかを話そうか」

 

 AクラスはB、Dクラスに『攻撃』していた。もし仮にリーダーを的中させることに成功すれば、彼らには100ポイントがされ加算、さらに、両クラスのボーナスポイントが無くなる。

 しかしながらAクラスは『攻撃』に失敗している。

 

「まず大前提として、他クラスのリーダーを探り的中させる、ということはとても至難だ」

 

「そうだね。そのように学校側も試験を作っただろうし」

 

「普通の『攻撃』ではどんなに頑張っても数人に絞ることしか出来ない」

 

 そう、普通の『攻撃』なら。

 なら話は簡単だ。普通ではない『攻撃』をすれば良い。

 

「葛城の性格上、Aクラスが表立って動くことはしないだろう。というより、出来ない。そこでCクラス──龍園が登場する。秘密裏に『密約』を交わした後、彼は伊吹と金田を『スパイ』としてB、Dクラスに解き放った」

 

 AクラスがCクラスに求めたのは物資と、他クラスのリーダーの情報。

 そして伊吹と金田の怪我は『嘘』を『真』にするためのフェイク。

 

「『スパイ』として潜り込むことに成功した二人は、試験中、一度たりとて目立った行動をしなかった。当然だ。下手に動けば任務が果たせなくなるからな」

 

 しかし伊吹は動かざるを得ない状況にまで追い詰められた。彼女の想定外は、Dクラスが思いの外協力して試験に臨んでいたこと。

 そこで伊吹は強硬策に打って出る。クラスの中核を担う人物、軽井沢の下着を盗むこと。池が選ばれてしまったのは偶然だろう。

 

「だがそれでも、伊吹はキーカードを目視することさえ出来なかった」

 

「なるほどね。そこで私が舞台に登場したんだ」

 

 松下の協力の下、Dクラスのリーダーの情報をわざと伊吹に漏らした。

 そして彼女は試験六日目の昨夜、雨に紛れて敵地から脱出、恐らくは龍園に合流したのだと思われる。

 

「そろそろ真実を教えて欲しいな」

 

「ああ。答えを言うと──今朝の点呼の時点で、Dクラスのリーダーは堀北鈴音ではなく、平田洋介に変えられていたからだ」

 

「……!? ちょっ、ちょっと待って。……うん、カラクリは分かったよ。リーダーの情報を漏らしたのはそのためだったってことだよね。でもおかしいのはここからだよ。リーダーの変更って認められるの?」

 

「認められるからこのような結果になった」

 

 実際にマニュアルにもそのように明記されている。

 

 ──『追加ルール:Ⅰの⑧:正当な理由なくしてリーダーの変更は出来ない』──

 

 オレは彼女の疑問に答えるため、渇きつつある喉を鳴らした。

 

「通常ならリーダーの変更は松下の言う通り認められない。だが、リーダーが試験を脱落したら。それは『正当な理由』として成立する」

 

 リーダーが居なければ『スポット』の占有及び更新が出来なくなる。

 たとえ堀北が仮病だと学校側が確信していたとしても、Cクラスの生徒の脱落を認めている以上、学校側は公平性を保つために堀北の脱落を認めざるを得ない。

 

「葛城は何も疑わず、龍園からそのデータを受け取っただろうな」

 

 葛城は龍園を信用していなかったが、それでも、目の前で証拠が出されたのだから、その証拠そのものには猜疑心が一欠片も生まれなかったはずだ。

 

「これでAクラスがDクラスに対して『攻撃』を失敗した説明が終わりになる。次はBクラスに対してだが──」

 

「そこも分かったよ。綾小路くんがどうして一之瀬さんに金田さんを追い出さないで欲しいと頼んだのか。私たちと同じようにさせるためだよね?」

 

「百点満点だ」

 

 BクラスもDクラスと同様にリーダーを変更。Aクラスからの『攻撃』を防いだ。

 Cクラスについては説明しなくても問題ないだろう。単純に葛城がリスクを恐れたからに過ぎない。

 

「次に、何故Aクラスが全クラスから集中砲火を浴びたのか。まずここで、オレが客船上でとった行動が影響を与えている」

 

 Aクラスは一年生共通の敵という状況のことだ。

 

「でも、Aクラスのリーダーを射止めるって……それこそ至難の業じゃないの?」

 

「その通りだ。龍園がさっき浜辺で言っていたが、こと物理的な『防衛』という観点なら、Aクラスは他クラスの追随を許していなかった」

 

『洞窟』の出入り口を垂れ幕で塞ぎ、内部を隠蔽した。これにより、『スポット』の装置、リーダー、そして、Cクラスから提供された物資を秘匿することに成功していた。

 正しく鉄壁の牙城と言えるだろう。

 

「じゃあ……、どうして……?」

 

 オレは首を傾げる松下に簡潔に言った。

 

「内部分裂だ」

 

「……え? 」

 

「オレが坂柳派に近付いた理由がここにある。坂柳派の生徒からしたら、仕方がないとはいえ、葛城がリーダーを務めることに不満を抱き、面白くないと思うのは当然のことだ」

 

 だからこそ、この間隙(かんげき)を突くことが出来る。

 試験七日目、まずオレはベースキャンプをあとにして一人で橋本に会いに行った。そこには鬼頭は居なかったが、問題は何もない。

 

「オレは橋本からAクラスのリーダーの情報を買うつもりだった」

 

 そのために茶柱に携帯端末を注文した。現在所持しているプライベートポイントを公開するためだ。必要だったらそれ以外のこともやるつもりだった。

 しかしながら松下は腑に落ちないようだった。それも当然だろう。Dクラスの生徒は貧しい生活を余儀なくされている者が大半だ。先月からようやくクラスポイントの支給が再開されたとはいえ、その額は微々たるもの。何かを買う……ましてや、それが他クラスの情報なんて、おいそれと出来る芸当ではない。

 実際にその目で見て貰った方が早いと判断し、オレは携帯端末を操作して、彼女に画面を向けた。

 するとたちまち彼女の瞳が思い切り見開かれる。

 

「嘘……! だいたい……に、20万pr!?」

 

 どうしてこんな大金を!? 目で尋ねてくるが、オレは言葉を濁らした。とてもではないが、流石に、入手方法まで言うことは出来そうにない。

 

「うん? でも待って……つもりだった?」

 

 違和感を口にする松下にオレは頷いた。

 

「これはオレも想定外だったが、橋本は何も見返りを求めることなくオレに教えてくれた」

 

「それはまた……どうして?」

 

「さぁな。葛城に従うのが余程嫌だったのか、あるいは、他の理由があったのか──どちらにせよ、オレは橋本から『トツカヤヒコ』と入力されていたキーカードを写した写真を受け取った」

 

「あっ、じゃあ、綾小路くんの推測は当たっていたんだね」

 

「そういうことになるな。その後オレはBクラスに持って行き、その写真を共有した」

 

 これでB、Dクラスは『攻撃』の準備が完了した。

 

「Cクラスが……龍園くんが『攻撃』出来たのも、橋本くんから教えて貰ったからなのかな」

 

「そこは分からない。ただ……Aクラスの中に裏切り者が居るのは間違いないだろうな」

 

 今回の特別試験、嘗てない程に各々の思惑が絡み、交錯したものとなった。

 Aクラスは最後まで意志を統一することが出来ず、これまでの悪行が重なり全クラスを敵に回して敗北した。

 Bクラスは仲間との連携で攻守ともに堅実な一手を打ち、結果的に、総合評価一位の栄光を摑んだ。今回の特別試験で一番『波』が立たなかったのは間違いなくこのクラスだろう。ただ彼らの唯一の誤算は降り掛かった雨。これにより、急遽、多大なポイント消費を必要とした。本当なら一位と二位の差はもっと広がっていた。

 Cクラスにとって試験結果はあくまでも副産物でしかなく、大局を見据えた行動を起こした。()の『王』が何を為したのか、その詳細が判明された時、Cクラスはクラス闘争に於いて真の姿を見せるだろう。

 そしてDクラス。今回の特別試験で獲得したクラスポイントにより、ようやく、この絶望的な状況から()()がるための準備が整った。

 松下に伝えるべきことは伝えた。

 話を聞き終えた彼女がじっとオレの瞳を覗き込んでくる。

 

「──綾小路くん、きみが凄いひとっていうことは分かったよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「そうかもしれないな」

 

「それできみは何をしたいの? 私を利用するだけなら、ここまで深い話をしなくても良いよね。けどきみは私に話してしまった」

 

 松下がやってきたように、オレも彼女の瞳を覗き込む。

 そこに恐怖や不安の色は灯っていなかった。あるのは純然たる──。

 オレは簡潔に言葉を届けた。

 

「率直に言うが、これから先のクラス闘争に於いて、オレに協力して欲しい」

 

「返答をする前に、一つだけ聞かせてくれないかな。どうして私なの?」

 

 何故平田洋介でもなく、堀北鈴音でもなく、櫛田桔梗でもなく──松下千秋なのか。彼女が聞きたいのは『そこ』なのだろう。

 ここで嘘を吐くのは愚行以外の何物でもない。

 本心を告げる。

 

()()や堀北たちのことをオレは信用していない。彼らとここまで協力してきたのは、友人だからじゃない。互いの利害が一致してきたからに他ならない」

 

 そう、オレは彼らのことを微塵も信用していない。だからオレはいつも重要なことはいつも彼らには最後の最後まで言って来なかった。

 最初の試練である『一学期中間試験』や先月の『暴力事件』……そして、今回の『無人島試験』でも同様だ。ぎりぎりになるまでオレは自身の『計画』を打ち明けてこなかった。

 ただ唯一例外は居るが、それはまた別だ。

 

「オレがお前を選んだのは、Dクラスの中で松下が一番オレに近いと思ったからだ」

 

 性格や行動理念ではない。

 ただ純然にその感想を強く抱いたのが彼女だった。

 ややして、彼女は閉じていた瞼を開ける。そして、はっきりと言葉を口ずさんだ。

 

「良いよ」

 

「ありがとう」

 

「綾小路くんと居ると退屈しなさそうだしね」

 

「それはないな。オレと居ても退屈しかしないと思うぞ、先に言っておくが」

 

 既にこの場に用はない。

 オレたちは並んで禁止エリアから脱出する。今後のことを考えれば距離を置けば良いのだろうが、まだここは下層エリアだ。

 松下と取り留めのない雑談をしながら、とうとう中層エリアに入る。

 

「それじゃあ、またね──清隆(きよたか)くん」

 

「ああ。また会おう──千秋(ちあき)

 

 軽く手を振ってから、千秋は去っていった。恐らくは自分の部屋に戻るのだろう。

 予定では今から三十分後、平田がクラスメイトに特別試験の顛末を話すことになっている。全員参加の義務があるというわけではないが、オレはBクラスとの橋渡し役を担うことになった。参加するのが道理だろう。それに不参加にしたら、また要らぬ注目を集めることになる。

 程なくして、チャットアプリのクラスのグループに、一枚の画像が投稿された。発信主は平田のようで、画像の一部が青色で塗られている。どうやら大部屋の予約に成功したようだ。名義はDクラスのようで、他クラスの生徒が潜入することを防ぐことに成功したようだ。

 オレはそのままそこに向かうことにした。

 長い一本道の廊下を渡りながら、今回の特別試験を総合的に振り返る。

 様々なことがあったが、一番の収穫はやはり松下千秋という『駒』の獲得に成功したことだろう。

 毎度毎度平田や堀北、櫛田たちと『契約』をするのは面倒臭い。あと残っているのは平田と櫛田の二人。前者は半分程は完了しているが、後者は──。

 

「出来れば夏休み終了前に全てを終わらせたいところだな……」

 

 とはいえ、兎にも角にも、これで『勝つ』ための手札がまた一つ用意出来たわけだ。

 

 ──この世界は残酷なまでに『勝つ』ことが求められる。

 

『敗者』は『勝者』に(なぶ)られ、虐げられる。

 そう、この世界は『勝つ』ことが全て。

『勝つ』ためには手段を選ばない。

 オレにとって全ての人間は『勝つ』ための『道具』でしかない。

 過程は関係ない。

 どれだけの犠牲を払おうとも構わない。

 

 最後にオレが勝っていれば、それで良い。

 



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無人島試験──各クラスのその後 Ⅰ

 

「みんな、集まってくれてありがとう」

 

 壇上に立つ平田(ひらた)が、まずはそのように挨拶をした。

 ここは豪華客船、二階層目の大部屋。オレたち一年Dクラスの生徒の殆どがこの集会に集まっていた。ちなみに欠席者は高円寺(こうえんじ)の一人だけだ。

 既に船は無人島から離岸している。海上はもっと揺れを感じると思っていたのだが、違和感はあまり覚えない。これは船の造りと、何よりも、操舵手がとても素晴らしいからだろう。

 予定では今から平田が特別試験の結果について話す段取りになっている。必要とあらばオレや堀北(ほりきた)も壇上に立たなければならない。

 人前に立つことは緊張する以前に憂鬱(ゆううつ)だが……、まあ、嘆いていても仕方がない。覚悟を決め、オレは先導者が話し始めるのを待った──。

 

 

 

§ ─同時刻:豪華客船:第一階層─

 

 

 

 Dクラスがそうしているように、他クラスもまた、特別試験の振り返りを行っていた。

 Dクラスが二階層目のひと部屋を借りているのに対して、Aクラスは一階層目のフロアの隅にある中部屋を学校に申請して借りていた。既にAクラスの生徒全員が席に着いている。

 

「どういうことだ、葛城! 納得が行く説明をしろ!」

 

「そうだぞ! どうしてあんな悲惨な結果になったのか、お前にはその義務があるはずだ!」

 

 Aクラスは未だにクラス闘争に向けてリーダーが選出されていない。

 葛城(かつらぎ)康平(こうへい)坂柳(さかやなぎ)有栖(ありす)が対立しており、また、同時に、クラス内でも葛城派と坂柳派と分裂していた。

 しかし今、その分裂は事実上消失していた。理由は簡単。特別試験の結果に於いて、Aクラスは最下位という成績を残してしまったからだ。

 いや、これがまだ接戦の末の最下位という結果なら、彼らはそこまで言わなかったかもしれない。葛城派の生徒も歯向かってくる敵に対して反論していただろう。

 だが結果は──残存ポイントが20ポイントという……、あまりにも凄惨(せいさん)なものだった。

 これには葛城派の生徒も坂柳派の生徒の反乱を諌めることは出来ない。

 むしろ彼らはこのように考えていた。すなわち──寝返るなら最初で最後のチャンスである、と。

 

「おい、どうなんだよ葛城!」

 

「……」

 

「黙ってないで何か言えよ!」

 

 葛城は無言を貫いていた。

 多くの生徒が評するように、葛城は冷静沈着な男だった。危ない橋は渡らず、一か八かの賭けはせず、彼はこれまでの人生を過ごしてきた。

 それはひとによっては『臆病』だと思うかもしれない。だがしかし、堅実な一手は普通の攻撃では破ることはとてもではないが出来ない。

 故に、葛城はあくまでも冷静に試験結果を受け止めていた。何故Aクラスが敗れたのか、最初こそ動揺は隠せなかったが、しかし、ある程度の時間が経った今なら分かる。

 目を伏せ佇む葛城を見て、坂柳派は好機だと判断し口撃を重ねていく。それはとてもではないがクラスメイトに向けるものではなかった。

 戸塚(とつか)が主を守ろうと、

 

「お前ら落ち着けよ! 葛城さんだってショックを受けているんだ!」

 

「うるせえ! 『腰巾着』は黙っていろよ!」

 

「な、何だと……!?」

 

「いつもいつも葛城の傍に居るお前が『腰巾着』じゃないのなら、他に何が『腰巾着』なのか聞きたいくらいだぜ!」

 

 標的が葛城から戸塚に移行するが、しかしだからといって、この荒れに荒れた状況が変わるわけではない。むしろ混沌はさらに深まる。

 葛城が唇をきつく真一文字に引き結んでいる中、不意に、雑音がやや混じった声が轟いた。

 

 

 

『葛城くん。他の皆さんの言う通り、あなたには事態の説明の義務があると思いますが』

 

 

 

 刹那──音が途切れた。

 葛城派も坂柳派も関係なく、この場に居る生徒全員が口を閉ざし、発生源に視線を送る。

 はたして、そこには一人の女子生徒が居た。紫色のサイドテールが特徴的な、落ち着いた雰囲気の持ち主。

 

神室(かむろ)……」

 

 戸塚が小さく呟く。声には敵意が存分に含まれていた。それもそのはず、神室は坂柳派──しかも、坂柳の『従者』としてAクラスの生徒たちには認識されていたからだ。

 しかしながら、戸塚の視線は彼女からすぐに離れることになる。否、方向は同じだ。ただ彼女が両手で持っている『物』に自然と向く。

 それは彼だけじゃない。全員がその『物』を凝視する。神室が居心地悪そうに身動ぎするが、そんなものは彼らにとってはどうでも良い。

 

『おやおや、皆さん、どうかされましたか。先程と同じように騒いでくれて構いませんよ』

 

 神室が両手で持っている『物』とは携帯端末だった。入学した際に支給された変哲もないもの。

『従者』は嘆息してから、おもむろに端末の液晶画面をクラスメイトに向けた。画面は起動中なのか眩く光っている。

 そして画面には『通話中』という文字と、『坂柳有栖』という文字が表示されていた。

 

『ご機嫌よう、みなさん』

 

「坂柳……」

 

 葛城の呟き声に、坂柳は敏感に反応する。

 ふふふっという上品な笑い声。しかし彼らは知っていた。画面の向こうで彼女は(わら)っているのだと。

 

真澄(ますみ)さんから話は伺っていますが……まずは謝罪させて下さい。今回の特別試験に於いて、私は何もすることが出来ませんでした。試験を欠席し、30ポイントもの多額なポイントを失わせてしまいました。本当に申し訳ございません』

 

「そんなことありません! 坂柳さんがこの旅行に来れないのは仕方がないことです!」

 

「そうですよ! みんな納得しています!」

 

 多くの生徒が──坂柳派が主だが──坂柳の欠席を慰める。

 そう、事情を知らない可能性がある他クラスの者なら兎も角として、Aクラスの者が坂柳の欠席を責めることは出来ない。その点については派閥を問わずして仕方がないと割り切っていた。

 

『……ありがとうございます。私はみなさんの優しいお言葉に涙が出そうです』

 

 すると葛城派の生徒が舌打ちを一つ小さく打った。「白々しい……!」と怒りを端末越しの坂柳に吐き捨てる。

 だがしかし、坂柳は気分を害したようではなかった。淑やかな微笑。

 

『──ですが、この結果には欠席者である私にも詳しい話を聞く権利があるはずです。違いますか、葛城くん?』

 

「そうだな……、お前の言う通りだ」

 

『ではお聞かせ下さい。嘘偽りなく、事実を』

 

 坂柳の言葉を契機に、自ずと、中部屋には二つの陣営が成立していた。言わずもがな、葛城派と坂柳派である。

 両勢力は数こそほぼ等しいが、しかし、どちらに勢いがあるのかは一目瞭然であり、坂柳派の方が優勢であった。

 

「分かった。長い話になるが、まずは聞いて欲しい」

 

『もちろんですとも。何せ時間はたっぷりあるのですから。いくらでもお付き合いします』

 

 坂柳は悠然とした姿勢を崩さない。

 程なくして、葛城は話し始めた。この七日間、自分が何をしたのか。その全てを一切合切話す。

 聞き終えた生徒の反応はお世辞にも良いとは言えなかった。葛城派は目を伏せ立ち尽くし、坂柳派は愚かな彼らに対して嘲笑する。

 

『……ふむ、話は理解しました。話を纏めさせて下さい。葛城くん、あなたはまず先に『洞窟』を占有し、そこをベースキャンプに定めることを早々に決めた』

 

「ああ、その通りだ」

 

『その点についてはあなたの判断は正しいと言えるでしょう。私も参加していたらそのようにしていましたから』

 

 ──ですが、と坂柳は語尾をやや強くして、言葉を続けた。

 

『葛城くん、あなたは一つ失敗しましたね。まず一つ目、同じことを考える生徒の出現の可能性に気付きながらも急いでしまった。事実、Dクラスの高円寺くんと遭遇してしまったのでしょう?』

 

「……ああ」

 

『しかしそこはまあ、運が悪かったとも言えますから仕方がない側面もあったでしょう。次に二つ目。話を聞くところ、戸塚くんがリーダーだったそうですが……、何故、リーダーとたった二人で行動したのですか? もっと大人数で動いていたら仮に他クラスと遭遇しても誤魔化しが利くというのに』

 

 葛城は何も言えなかった。

 坂柳の指摘は全て正しかったからだ。しかし葛城も自分の行動が相当にリスキーだったのは自覚していた。それでも尚行動したのは、ひとえに、自分が絶対的に信頼出来るのが戸塚しか居なかったからだ。

 

『失敗らしい失敗はこれくらいでしょうか。『洞窟』の出入口に垂れ幕という……個人的に面白くない手段をとったのも、まあ、良いでしょう』

 

「しかし坂柳さん! Cクラスとの『密約』はあまりにも!」

 

 坂柳派の生徒が坂柳に申し立てる。

 綾小路の推測通り、AクラスはCクラスと『密約』を交わしていた。

 坂柳は「ふむ」と言ってから、

 

『確かに私たちAクラスにとってはそこそこの痛手でしょう。ですが私は葛城くんを責めることは出来ません。()の『王』との『密約』は葛城派、坂柳派を問わず、みなさんが合意したものでしょう。ならそれはみなさんの責任です。葛城くん一人を糾弾することは道理ではないと思います』

 

 坂柳が敵対派閥を庇っている。だがしかし、当の本人である葛城は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。

 それを知ってか知らずか、坂柳は話を再開させた。

 

『さてそれでは、試験結果についてです。葛城くん、申し訳ございませんが、もう一度お願い出来ますか? どうやら電波が悪いようでして、実は上手く聞き取れませんでした』

 

 ごめんなさいね? と坂柳は嗤った。

 葛城は両手を力強く握りながら、けれど、顔に内面を見せることなく淡々と試験結果について述べる。

 先程とは違い、中部屋に響かせるよう、大きな声で。

 

「──……以上だ」

 

『ふむふむ……、よく分かりました。そうですか……20ポイントですか。なるほどなるほど……』

 

 面白おかしそうに言葉を反芻させる。

 坂柳派の生徒が神室に近付き、携帯端末に顔を近付けて尋ねた。

 

「坂柳さん! どうして俺たちが負けたのか、あなたなら分かるはずだ! 教えて下さい!」

 

『ふふふ……本来なら葛城くんの役割ですが、彼は未だにショックを受けているようですし、ここは私が答えることとします』

 

「お願いします!」

 

 生徒全員が耳を傾け、坂柳の言葉を聞き逃さないようにする。

 坂柳は美しい声で滔々(とうとう)と語り始めた。

 

『まずですが、Aクラスは朝の点呼の時点で270ポイントありました。これは記録として残っています。では何故、20ポイントにまで大幅に下がったのか。みなさんもおわかりかと思いますが、それは──我々が『攻撃』と『防衛』、どちらに於いても失敗したからです』

 

 Aクラスは総合的には高い能力の持ち主が多い。故に、それくらいのことは考えればすぐに理解した。

 だがしかし、何故失敗したのか、そこだけはいくら考えても答えを出せなかった。

 

『『攻撃』から私の推論を言いましょうか。B、Dクラスへの『攻撃』に失敗した最大の理由、それは彼らのリーダーが変えられていたからです』

 

「「「──は?」」」

 

『次に『防衛』に失敗した最大の理由、それはAクラスの生徒の誰かがリーダーの情報を流したからです』

 

「「「────は!?」」」

 

 爆弾を投下され、生徒たちは驚愕を顕にした。騒然となる中部屋。憶測の域を超えない持論のぶつけ合い。

 坂柳は部屋が静かになるのを待ってから、

 

『『攻撃』の失敗については、恐らく、向こう側に優れた生徒──Xと呼称しましょうか──が居たからなのでしょう。リーダーの変更が可能か不可能か、私はルールが書かれたマニュアルを読んでいないので何とも言えませんが……そうとしか考えられません。Xは私たちの『密約』にまで辿り着き、そして、土壇場になってリーダーを変更させたのでしょう。それがBかDクラスまでは分かりませんが、どちらにせよ、Xはその情報を同盟を結んでいるクラスに共有した』

 

 喉が渇きました……、坂柳は一言断りを入れてから、何かを飲んだようだった。『従者』である神室は普段の彼女を思い出し、紅茶なのだと当たりを附ける。

 

『次に『防衛』についてですが……私はこれも、Xの仕業だと考えます。XはAクラスの生徒の誰かに近付き、()()()()()()()。そう、それがたとえ仲間を裏切る行為だとしても──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。あとは『攻撃』と同じです。同盟クラスと共有した……こんなところでしょうか。Cクラスも同様でしょう。つまりXが、陰で龍園くんとも繋がりがあるのだとしたら……、脅迫材料も共有されていてもおかしくはありません』

 

 坂柳の推論は、聞いた者をそうだと思い込ませるだけの説得力があった。事実、矛盾している点は表面上はない。

 葛城が異議を唱えないことも信憑性に繋がった。敵対派閥の生徒でも、彼の能力がAクラスの中でもトップクラスなのは認めている。その彼が何も言わないということは、つまり──。

 しんとした静寂が支配する中、ノイズが走った。

 

『みなさん、何を気落ちしているのでしょうか。確かに私たちは大敗を喫しました。しかし私はそこまでのものではないと考えます。以前から考えていたのですが、私たちAクラスは他クラスを多々見下してきました。その結果が今回の彼らの逆襲に繋がったのです。今回は良い意味での経験になったでしょう。直近の敵であるBクラスには差が詰められてしまいましたが──()()()()()()()()()()()()()()。私たちの優勢は変わりません。これからは一致団結して、クラス闘争に臨みましょう』

 

 刹那──歓声が部屋に響き渡る。

 坂柳の演説は坂柳派はもちろん、仮初の敵である葛城派の生徒の心にも届いたようだった。それはつまり、坂柳派に寝返った、ということ。

 そして彼らは確信する。

 坂柳有栖に従えばAクラスに『敗北』は有り得ないと。

 そこからは早かった。会議は瞬く間に終わり、一人、また一人と退席していく。彼らの顔は不安の色は一切なかった。あるのは約束された勝利に対する希望だけ。

 残ったのは葛城と、それでも尚、彼を見捨てない少数の生徒たち。

 戸塚が頭を深く下げた。

 

「葛城さん……すみませんでした! 坂柳の推測が正しいなら、俺の所為で──」

 

 坂柳派からは『腰巾着』と揶揄されていた戸塚だが、しかし彼もまた、Aクラスに配属されるだけの能力が確かにあった。

 彼は理解していた。

『防衛』に失敗したのは、裏切り者にキーカードを写真で撮られたということに。それは自分の失態に他ならない。

 頭を下げる戸塚に、ぽんと大きな掌が乗せられた。

 

「気にするな。お前はこの七日間、よくやってくれた。俺が動けない時は率先してクラスを纏めあげようとしてくれただろう。今回我々が負けたのは、ひとえに、俺の責任だ。お前たちも、今なら坂柳派に移籍出来るぞ」

 

 葛城は理解していた。坂柳という人間が、敵対する人間に対してどれだけ苛烈な手を打つのかを。

 今後も自分に付くと、彼女の手は彼らに向かう可能性がある。それは葛城の望むことではない。だからこそ、わずかでも迷っているのなら自分を切って欲しい──。

 しかし誰もその言葉に頷かなかった。

 

「俺は葛城さんに付いていきますから!」

 

 戸塚の言葉を皮切りに、彼らは葛城を慰めた。

 

「そうだよ! 私も戸塚くんと一緒!」

 

「坂柳は気に食わねえ……。あんたに付いた方が何倍もマシだ」

 

 普段は笑顔を見せない葛城も、折れ掛けていた心を直し、頼もしい仲間たちに顔を綻ばせて礼を言う。

 

「ありがとう。これからも宜しく頼む」

 

 腰を九十度曲げた最敬礼。

 大敗した葛城派の焔は、しかし、より一層激しく燃える。

 絆を確かめた彼らも、一人、また一人と退席していき、やがて葛城と戸塚の二人になった。

 

「葛城さん、俺たちも行きましょう」

 

「いや……、悪いが、少し一人にさせてくれ」

 

「葛城さん……。分かりました、先に失礼します」

 

 敬礼をしてから、戸塚もまた、部屋をあとにする。

 葛城は彼を見届けた後、両腕を組んで思考に耽ることにした。

 二、三分程、経っただろうか。物音一つなかった部屋に音が鳴り始める。それは電話の着信音だった。

 葛城はズボンの左ポケットから携帯端末を取り出し、わずかに眉を寄せたあと、応答ボタンをタップした。

 

「何か用か、坂柳」

 

『いえいえ、用という程のものではないのですが。葛城くんが何か私に言いたいのではないかと愚考しまして』

 

 だからこうして電話を掛けています、と坂柳は言った。葛城は長い沈黙の末、掠れた声を出した。

 

「坂柳……お前わざと、Aクラスを負けさせたな?」

 

『おやおやおや、何を言っているのでしょう。葛城くん。疲れが溜まっているのでは?』

 

「そうかもしれないな。だからこそ、嘘偽りなく教えてくれ。今回の最大の敗因、それはお前がそのように仕向けたからだ」

 

 坂柳は旅行を欠席している。

 だが葛城は確信していた。

 特別試験に直接参加していなくても、坂柳有栖なら充分に可能であることを。

 数秒経過したところで、ぱちぱちぱちと小さな拍手が葛城に送られた。

 

『正解です、葛城くん。私は旅行の存在を知ったその時から、Aクラスに敗北させることを決めていました。ええ、あなたの言う通りです。憐れな裏切り者はXに脅迫されていた? ふふふ、ご冗談を。私がそのように指示を出していただけですよ』

 

 坂柳は饒舌(じょうぜつ)に語った。

 まず当然として、坂柳は学校から豪華客船による旅行が行われることを知った時に、何かが起こることを察知した。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 葛城が今回の特別試験で手柄を立てようと思うことも分かっていた。クラス内での派閥争いに終止符を打ちたいと考えるだろうとも予測していた。

 だがしかし──参加出来ないからと言って、坂柳に出来ることは何もないのか? 

 それは否である。

 坂柳は自身に忠誠を誓っている生徒の中から、より利用出来る『駒』を選出した。それがたとえ『道化師(ピエロ)』だと分かっていても、自分には制御出来る。

 そこからの話は簡単だ。彼女は『道化師』である橋本(はしもと)に、手段は問わないのでAクラスを裏切るように指示を出した。

 橋本は坂柳の指示に従い、綾小路と龍園に戸塚がリーダーであることを教えた。とても簡単な話。

 

『私を憎むのは言っておきますが筋が違いますよ。私はあなたに言いましたよね。有事の際の指揮権はあなたに一存すると。行動には責任が伴います。あなたは外の敵ばかりに気を取られ、内の敵を軽く見過ぎていた。試験結果に響くような裏切りをするとは考えないのが普通でしょう。が、しかし、その普通を勝手に納得したのはあなた自身。もっと周りを視るべきでしたね』

 

「分かっている。しかしこれだけは聞かせてくれ……。そこまでして……坂柳、お前はクラスを率いたいのか?」

 

 昂る感情を抑え、葛城は冷静を装って坂柳に問う。

 

『クラスを率いたい、ですか……。そうですね、あなたの言うことは何割かはあります。私は誰かの下になど絶対に付きたくありません。しかしそれ以上に──』

 

 そこで坂柳は言葉を区切った。

 葛城はその時連想してしまった。坂柳が悠然と椅子に腰掛け、歪に嗤っていることを。

 

『──()()()()()()()()()? ええ、面白くない。私はですね、葛城くん。クラス闘争には勝ちます。ですがそれが一方的な遊戯(ワンサイドゲーム)だとしたらどうでしょう? 微塵も楽しくないじゃないですか。私は敵が全力を尽くした上での完全勝利を望んでいるのです』

 

 そのためにAクラスをわざと負けさせた。たとえ不利になるとしても、その上で──『勝つ』。

 葛城は思わず絶句した。

 坂柳の残忍な攻撃性を、葛城は理解していたつもりだった。しかしそれは勘違いだった。

 彼女はクラス闘争になど興味は微塵もない。彼女からしたらそれはただの暇潰しにしか過ぎない。

 自分が楽しむために彼女は行動する。その枠組みの中にクラス闘争があるだけだ。

 そう、彼女にとってはクラス闘争に『勝利』することは目標なのではなく、確定された過程に過ぎない。

 

『葛城くん。今後、あなたが何をしようと私は何も言いません。私の派閥に入るのなら喜んで歓迎しましょう。敵対するならそれはそれで良し。ですがその場合、今回はあくまでも警告でしたが、次からは本格的に潰します』

 

 ──それではご機嫌よう、と坂柳は別れの挨拶を口にしてから電話を切った。

 葛城は携帯端末を元の場所に戻そうとして……はたと気付く。自分の右手が震えていることに。

 

「坂柳……お前にだけは負けるわけにはいかない」

 

 坂柳は危険だ。

 彼女の思想には狂気を(はら)んでいる。必要とあらば彼女は、使えなくなった用済みの『駒』を退学させる可能性が高い。

 それだけは防がなくては──。

 決意を胸に、葛城は中部屋をあとにした。

 

 

 

§ ─同時刻:図書館─

 

 

 

 夕陽が窓から射し込む図書館の四隅の一角。そこは普段、綾小路(あやのこうじ)椎名(しいな)が独占している場所であった。

 坂柳は椎名が座っている場所に腰掛け、微笑を浮かべながら花壇を眺めていた。

 

「ふふふ。ふふふふっ……」

 

 我慢しようと試みるが、どうしても笑ってしまう。

 それもそのはず、全てが坂柳の計画通りに行っているからだ。

 Aクラスの惨敗、敵対派閥である葛城の失脚──

 

 ──そんなものはどうでも良い。

 

 坂柳はクラスメイトの前ではXと呼称していたが、橋本から話を聞いていたのだ。つまりは、Xの正体を知っている。

 予想通りの正体。

 そうであって欲しいという願望。

 

「綾小路清隆くん……」

 

 憂いを帯びた吐息と共に、彼の名前が紡がれる。

 綾小路清隆(きよたか)。先月の『暴力事件』から台頭してきた謎の生徒。それが生徒たちの印象だろうが──坂柳はそんなものより深く、彼のことを知っていた。

 とはいえ、綾小路は坂柳のことは知らない。

 坂柳が一方的に綾小路のことを理解しているだけに過ぎない。

 頬杖をつきながら、願うことはただ一つ──。

 

「嗚呼……早く()いたいです……」

 

 坂柳は懸想(けそう)の相手を強く、強く想いながら、邂逅(かいこう)(とき)を今か今かと待ち侘びていた。

 それはさながら恋に落ちている乙女のようだった。

 



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無人島試験──各クラスのその後 Ⅱ

 

 A、Dクラスがそうしているように、他クラスもまた、特別試験の振り返りを行っていた。

 BクラスはAクラスと同様に第一階層のラウンジで行っていた。公共スペースであるこの場所は貸し切ることは出来なかったが、一之瀬(いちのせ)は問題は無いと判断していた。隠すようなことは言わないつもりだからだ。

 

「えー、こほん。今回は皆様、お集まり頂きありがとうございます」

 

 右手をマイクに見立て、一之瀬が挨拶をする。

 

「「「あははははっ!」」」

 

 するとラウンジが笑い声で満たされた。

 変に畏まっている一之瀬が面白かった、というのもあるが、単純にこの一時(ひととき)を楽しんでいるからである。

 一之瀬は笑顔を絶やさない。時を見計らって──途中、話が何回か逸れた──、

 

「それじゃあみんな、聞いて欲しい。今回の特別試験の顛末を」

 

 彼女はクラスメイトの顔を最後に見渡してから、滔々と臆することなく語り始めた。

 

 

 

§ ─同時刻:豪華客船:地下三階─

 

 

 

 A、B、Dクラスがそうしているように、Cクラスもまた、特別試験の振り返りを行っていた。場所は地下三階。地下一階から地下三階は娯楽施設となっており、その中の一つとして、カラオケルームも備わっていた。

 Cクラスはその中でも一番大きい部屋を借りていた。通常ならとんでもない額を請求されるが、豪華客船上にある施設は全てが無料のために出来る芸当である。

 室内を照らすのはやや暗めの照明だけ。カラオケに使うテレビは電源が落とされている。

 

「お前らが最後か?」

 

 入ってきた石崎(いしざき)、アルベルトに龍園(りゅうえん)は尋ねる。すると彼らは頷き、出入口付近に立った。それは誰も終わるまでは逃さないという、クラスメイトに対する宣誓布告。

 しかしそれを見た龍園は、

 

「良い。お前らも座れ。お前らのスペースはちゃんと空けてある」

 

「はい!」「Yes(承知しました)boss(ボス)

 

 彼らは龍園のすぐ近くに腰を下ろした。無論、いつでも指示に対応出来るよう、脱力することはない。

『王』は自身の忠実な『下僕』たちに対して満足げに頷く。

 コーラを呷った龍園は、にやりと獰猛な笑みを作ってから、固唾を呑んで身構えているクラスメイトに言った。

 

「まずはお前ら、特別試験、ご苦労だった」

 

「「「……え?」」」

 

 思わず、生徒たちが呆けたような声を出す。それもそのはず、彼らはまさか、『王』から(ねぎら)いの言葉を贈られるとは微塵も考えていなかったのだ。

 そんな様子の彼らが見てて面白かったのか、龍園は「ククッ」と笑う。

 

「さてそれじゃあ、お前らが気になってることを説明してやろう。そう、特別試験の結果についてだ」

 

「「「……ッ!」」」

 

「まずはお前ら、これを見ろ」

 

 龍園はそう言って、ファイルに厳重に仕舞っていた一枚の紙を取り出した。

 A4サイズのその紙を、龍園は石崎に渡す。困惑しながらも受け取った石崎は、訝しみながらも目を落とし……そして極限まで目を見開かせた。

 紙を何度も見返し──龍園にどういうことかと尋ねる。しかし『王』は答えない。

 

「石崎、終わったなら紙を回せ」

 

「は、はい」

 

 隣のアルベルトに回す。彼は石崎のような醜態は晒さなかったが、しかし、掛けているサングラスの奥では驚いていた。

 

「Wow……」

 

 呟き、隣の伊吹(いぶき)に回す。

 不機嫌そうな顔を隠そうともしなかった彼女だったが、石崎とアルベルトと同様、すぐに顔色を変えた。

 

「龍園! これはいったい──」

 

「ククッ、落ち着けよ伊吹。お前の心中は察するが、いちいち答えていたら切りがねえ。ほら、読み終わったら次に回せ」

 

「…………分かった」

 

 渋々ながらも伊吹は隣に座っている椎名(しいな)に渡す。受け取った彼女は一瞥してから、すぐに次の生徒に回した。

 そんな彼女を龍園はつまらなさそうに見ていたことに誰も気付かなかった。程なくしてCクラスの生徒全員に紙は行き届き、龍園の元に戻ってくる。

 

「──さてと、それじゃあ質問タイムだ。今の俺は機嫌がすこぶる良い。馬鹿にも分かるよう、優しく答えてやろう」

 

「……それじゃあ、私から一つ。龍園、あんたはどこまで読み切っていたの?」

 

 真っ先に切り込んだのは伊吹だった。

 自分を相手に微塵も臆することなく行動出来る胆力を、龍園は内心評価しており、また、伊吹を個人的に気に入っていた。

 

「良い質問じゃないか、伊吹。ああ、良い質問だ」

 

「勿体ぶらずに早く答えなさいよ」

 

()()

 

「……は?」

 

 伊吹だけじゃない。

 龍園の言葉に、殆どの生徒が目を丸くしていた。

 例外なのは予め知らせておいたCクラスの『知将』である金田(かねだ)と……椎名の二人だけ。

 

「いちから説明してやる。まず今回の特別試験に於いて、Cクラスの『勝利』とはAクラスと『密約』を結ぶことだった。それはこの紙に書かれてある通りだ」

 

 ぺらぺらと紙を振る。

 はたして、その紙は単なる紙ではなかった。

 CクラスとAクラスの『密約』、その全てがぎっしりと書かれていた。押印の欄にはAクラス担任である真嶋(ましま)と、Cクラス担任の坂上(さかがみ)の印鑑が押してある。それはつまり、学校側がこの『密約』の立会人になったということ。

 

「B、Dクラスがリーダーを変更することも、可能性としては視野に入れていた。だからこそ『攻撃』の対象にしなかった」

 

 それはひとえに、龍園が綾小路のことを警戒しているがために出来た芸当。

 夏休み前、彼は綾小路(あやのこうじ)から、一時的にクラス闘争に参加する旨を伝えられていた。

 故に、綾小路が裏で動くことを彼は知っていた。

 龍園と綾小路の性質は酷似していた。

 龍園は考えた。

 仮に自分が綾小路の立場なら、どのように動くのか。どのように暗躍するのか。

 ルールから逸脱することは出来ない。

 ならば、ルールの範囲内で、その上で、意表を突き確実な『勝利』が取れる方法とは何か──? 

 時間はそれこそいくらでもあった。

 龍園は一人での無人島生活を余儀なくされていたからだ。ルール要項が記載されているマニュアルと睨み合う時間は無限に等しい。というか、それ以外にやることがなかったのだ。

 Cクラスのリーダーは保険を掛けるため適当な生徒をクジ引きで選び、試験を脱落させていたため『スポット』の占有は出来ない。

 仮に保険を掛けずリーダーが『リュウエンカケル』だとしても、迂闊に動くことは出来ない。表向き、Cクラスの生徒は追放された伊吹と金田以外は無人島に存在していなかったのだから。もし龍園が『スポット』を占有、もしくは更新した場合、他クラスが見付けたら疑念を抱かせてしまう。

 

「そして俺はAクラスをリーダーを当てる形で裏切った。とある生徒から情報を得て追加ルールの権利を使った」

 

「あ、当たり前のように言うんですね……」

 

 流石の石崎もこれには引く。

 そんな彼の頭をアルベルトが叩いた。力加減がされていなかったのか、小気味良い音が部屋に響く。

 

「でも腑に落ちないことがある。あんたのクズな性格は兎も角として……」

 

 と、言葉を続けようとした伊吹に、思わぬところから待ったが掛かった。

 

「伊吹さん。女の子がそのような言葉を使ってはいけませんよ」

 

「ひ、ひより……」

 

 伊吹はぎぎぎと音が鳴りそうな程にゆっくりと、隣に座っている、自分の唯一の友人に顔を向けた。

 Dクラスに『スパイ』として潜入していた時は上手く立ち回っていたが、元来、伊吹はそこまで沸点が高くなかった。

 下手したら不真面目な生徒が多いCクラスの中でも一番低いのでは? という自覚は一応あったが……しかし、こればかりは仕方がないだろうと思う。

 

「伊吹さん。私は友達として、あなたの将来が心配です」

 

「……」

 

「それだと良い男性と結婚出来ませんよ?」

 

「あんたは私の母親なの!?」

 

 堪らずに突っ込むが、しかし当の本人は不思議そうに首を傾げるばかりである。

 

「いえもちろん違いますよ。だから言ったじゃないですか、友達として心配ですって」

 

「こ、この……!」

 

 伊吹は歯噛みした。

 隣で能天気に美味しそうに烏龍茶を飲んでいる友人に、彼女は頭を引っ叩こうかと本気で思案した。

 ぐぬぬぬと唸っていると、龍園が「クハハハハッ!」と腹を抱えて大爆笑していた。

 鋭く睨むが龍園は動じない。

 と、椎名が不意に「ところで龍園くん」と話し掛けた。

 

「あ? 何だよ?」

 

「実は前々から気になっていたのですが……、龍園くんの笑い方ってかなり独特ですよね。どうしてですか?」

 

 瞬間──龍園の笑い声が途絶えた。

 この時、お世辞にも仲間意識なんてものは欠片も見られないCクラスの生徒たちは、奇跡的にも心を一つに通わせた。

 

 ──天然って怖い! 

 

 Cクラスは表では龍園が畏怖されていたが、裏では椎名が畏怖されていた。とはいえ、当人は決して知らないのだが……。

 絶句する龍園に椎名が「教えて頂けますか?」と再度問い掛ける。心做しか瞳がきらきらと輝いていた。

 

「ふふっ……」

 

「おい伊吹、そのにやけ面をすぐに引っ込めろ。酷く不愉快だ」

 

「嫌よ。あんたが押されている機会なんて早々ないし、ここは友人としてひよりの肩を持つ」

 

「伊吹ぃッ!」

 

 先程の仕返しとばかり、伊吹は椎名越しに龍園を煽った。たちまち額に青筋を浮かべる龍園だが、彼女は益々にやりと嗤う。

 その様子を間近で見ている石崎は顔面蒼白でぶるぶると震えていた。仲の良い近藤(こんどう)小宮(こみや)たちは同情しながらも友人が生還出来るか陰で賭けをしていた。ちなみに二人とも出来ない方に賭けていた。結果、賭けとして成立しなくなり中止となった。

 混沌、ここに極まる。

 事態が一応の沈静化を見せたのは十分程経った後だった。

 龍園は舌打ちしてから、伊吹に話の再開を促す。

 

「それで腑に落ちないことってのは何だ?」

 

「どうしてあんたは態々こうしてクラスメイトを集めて、らしくもなく会議なんて開いているの?」

 

「おかしなことを言うじゃねえか。クラス闘争には団結が必要不可欠だ。俺はお前たちを頼っているんだぜ……──って言ったら怒るか?」

 

「別に……ただただ呆れるだけよ。怒りを通り越してね。誰があんたのその薄っぺらい言葉を信じると思う?」

 

 それはクラスの総意なのだろう。

 伊吹の言葉に多くの生徒が賛同した……心の中で。

 両腕を組み伊吹はじっと龍園を見据える。Cクラスの中で真っ向から『王』に意見を言えるのはごく限られている。『知将』である金田、伊吹、椎名の三人くらいだ。

 とはいえ特別、龍園は意見を言うことを禁じているわけではない。多くの生徒が勇気を振り絞ることが出来ないだけだ。

 龍園は目を伏せ考えているようだった。そしておもむろに低い声を出す。

 

葛城(かつらぎ)や一之瀬は雑魚だ。潰そうと思えばいつでも潰せる」

 

「なら、坂柳(さかやなぎ)は……?」

 

「そ、そうですよ龍園さん。いくら龍園さんでも、坂柳は……」

 

 厳しいのではないか、という指摘を……龍園は黙って受け入れた。

 本来なら有り得ない光景に、生徒たちの間にどよめきが走る。

 

「そうだな。認めよう。確かに坂柳は強敵だ。苦戦は免れないだろう」

 

 どよめきは喧騒に変化した。

 それもそのはず、これまでの『王』は弱気など一切吐いてこなかったからだ。いつも不敵に笑い、相手を嘲る、それが龍園(かける)という男。

 自分たちが見ているのは幻覚か何かかと目を擦る生徒が出始めたところで、彼は飄々と言葉を続ける。

 

「──()()()()()()()。苦戦はするだろう、だが、俺は勝つ」

 

 と、ここで『王』は傲岸不遜にも笑った。

 生徒たちが安堵の息を吐く一方、しかし伊吹は依然として同じ表情だった。

 

「ならどうして……? 葛城も一之瀬も、坂柳にも勝てる自信があるのなら……、余計に、納得が出来ない」

 

「ククッ……今はまだ時じゃねえ。安心しろ、俺の手段は変わらない。方針もだ。微塵も揺らぎはしない。だが、その時までに手札を整えなきゃ駄目ってことだ。これで満足か」

 

「全然。でもまあ、クラス闘争にあんたは必要だ。だから従ってあげる」

 

 両肩を竦め、伊吹はそう言った。

 龍園は「それで良い」と満足げに頷いた。

 そして自分の『駒』をゆっくりと見渡す。

 

「お前らも黙って俺の言う通りに動け。正気を疑うような指示が出されても任務を遂行しろ。それが俺たちの『勝利』に繋がるからだ」

 

「「「──は!」」」

 

「以上で会議は終わりだ。解散」

 

『王』の号令に従い、彼らはすぐにカラオケルームをあとにする。

 彼らに不満などはない。不安もない。何故なら今回の特別試験に於いて、自らが仕える『王』の絶対的な強さを理解したからだ。

 部屋に残ったのは龍園、石崎、アルベルト、伊吹、そして椎名の五人だった。

 

「ひより、私たちも行こう」

 

「ええ。特別試験での出来事について教えて下さいね」

 

「いや待て」

 

「何……? 解散って言ったのはあんただけど」

 

 席を立とうとしたタイミングで、龍園が二人を制止した。訝しむ伊吹に、けれど龍園は、

 

「お前じゃねえ。ひより、お前は残れ。話がある。二人きりでだ」

 

「はあ? 何でひよりが……っていうか二人きりって……」

 

「分かりました。お話しましょう」

 

 何ら動じることなく椎名は了承した。

 伊吹が「あんた正気!?」と言う中、彼女は友人を安心させるために少し微笑む。

 

「大丈夫です。伊吹さんが心配していることは起こりませんよ」

 

「そうだぞ。俺をそこいらの獣と一緒にするな。別に襲ったりしねえよ」

 

 心外だとばかりに龍園は言った。

 伊吹は男と女を一つの部屋に居る状況を思考した。しかも男は龍園で、女は椎名ときた。考えられる限り最悪の組み合わせだ。何が起こるか微塵も見当が付かない。

 石崎とアルベルトに目で協力を申請するが、彼らは華麗に気付かない振りをした。

 話が進まないことに苛立ちを覚えたのか、龍園が口調をやや荒くしながら、

 

「そんなに心配なら外で待っていれば良いだろ。話自体はすぐに終わるからな」

 

「……分かった」

 

 あちらから譲歩した以上、ここで伊吹が食い下がるのは道理ではない。本人たちが納得している以上、部外者が必要以上に口出しするのは間違いだ。

 石崎とアルベルトと共に、伊吹は部屋をあとにした。とはいえ、何があってもすぐに反応出来るように耳を澄ましているのだが……。

 龍園は後頭部をがりがりと()いてから、長く、それでいて重たいため息を吐いた。

 

「お疲れのようですね」

 

「誰の所為だと思ってやがる」

 

 毒を吐かれても椎名は何も反応しなかった。

 龍園はそんな様子の彼女を見て、苛立ち混じりに舌打ちをこれ見よがしに打つ。無人に等しいルームに、その音は大きく反響した。

 

「それで龍園くん。お話とは何でしょうか?」

 

「面倒臭いから単刀直入に聞く。ひより、お前は今後どうするつもりだ?」

 

「ふむ……、今後とはどういう意味でしょう?」

 

「簡単なことだ。クラス闘争に参加するか否か」

 

 すると椎名は表情を切り替えた。

 これだ、この表情が見たかったのだと、龍園は口角を上げる。

 自分相手にも何ら動じることはなく、その上、微かながらも殺気を飛ばしてくるその胆力。

 

「あの時確かに私は言ったはずです。私はクラス闘争に興味はないと」

 

「そうだな。だがそうも言ってられない状況になりつつある。綾小路はさらに各クラスのトップ連中に警戒されるだろう」

 

「それは……、そうかもしれませんね……」

 

 同盟クラスであるBクラスは元よりそうだろうし、Aクラスも綾小路に目を光らせるだろう。

 

「これまでは互いの利害が一致してきたからこそ、俺たちは裏の裏で協力関係を築けていられた。だが今後もそうなるとは限らない──奴から話は?」

 

「詳しくは……。ただ、担任の茶柱(ちゃばしら)先生に脅迫されたとは聞いています」

 

「それもおかしな話だ。つまり綾小路には脅迫されるだけの『何か』があるってことになる。まあ、これはどうでも良いがな……」

 

 ひとには誰にも明かせない『秘密』が必ずある。

 それが大きいか小さいかだけの違いでしかない。

 これが葛城や一之瀬、坂柳だったら龍園は遠慮なくこの『秘密』を探っていた。そして突き詰め、使えるものだったら良心の呵責に苛まれることなく使っていただろう。

 だがしかし、綾小路の場合は別だった。

 龍園には綾小路と雌雄を決するという、強い欲求があった。自分と酷似している性質を持つ者を、彼は今までの人生で見たことがない。どちらが『勝者』になり、どちらが『敗者』になるのか。その舞台につまらないものは不必要だと彼は考えていた。

 

「話を戻すか。奴が動くのはこの旅行の間だそうだ。その後は適当にのらりくらりと学生生活を送るらしい。が、これは明確な違反だ」

 

 事情はどうあれ、綾小路がクラス闘争に参加した事実は変わらない。

 眉を顰める椎名に龍園は一方的に告げた。

 

「俺は旅行中にあと一回、特別試験が開催されると視ている。他のトップ連中もそうだろう。そして試験の難易度は段違いに難しくなるだろう。試験内容にもよるが、お前にも奴と同様、参加して貰うぜ? それが奴の払った代償だ」

 

 彼女は目を伏せて思案しているようだった。

 やがておもむろに椎名は頷く。

 

「良いでしょう、分かりました。争い事は嫌いですが……──仕方がありません。私に出来ることなら率先して協力しましょう」

 

 その言葉を言い、椎名はカラオケルームをあとにした。そのまま伊吹と合流し、移動したようだった。

 龍園は薄暗い室内の中、にやりと嗤う。

 

「さて……下積みは終わった。俺も本格的に()()に参加するか」

 

 初戦は絶対に落とせない。

 だからこそ、多少無茶をしてでも椎名を半ば強制的に舞台に登場させる。それだけ彼女は潜在能力が高いからだ。

 クラスの士気は良い。

 用意出来た『駒』も自分の思惑通りに動くだろう。

 龍園は飲み掛けのコーラを呷ってから席を立ち、部屋を出ていった。

 

 

 

§ ─第三階層─

 

 

 

「──最終確認だ。みんなこれで納得してくれたかい?」

 

 数時間に渡る会議がようやく終わりを迎えようとしていた。

 平田の説明はとても細かく丁寧だった。誰か一人でも分からない疑問を覚えた生徒が居れば、彼は何度も同じことを説明し、言葉を噛み砕き、誰かを見捨てることをしなかった。

 結局のところ、オレが壇上に立つ機会は数回程あった。外交官として表向きは動いていたため仕方がないだろうと割り切っている。

 特別試験の振り返りを行い、脚光を浴びる生徒が出た。言わずもがな、堀北(ほりきた)である。Dクラスが二位という成果を残せたのは彼女だと先導者は語り、また、彼女もまたそのように上手く振舞った。

 今のところ、オレが裏で動いたことを知っている生徒は、Dクラスでは千秋(ちあき)、平田、堀北、櫛田(くしだ)高円寺(こうえんじ)の五人。Aクラスでは橋本(はしもと)鬼頭(きとう)、そして恐らくは坂柳の三人。Bクラスでは一之瀬と神崎(かんざき)の二人。Cクラスでは龍園、伊吹、椎名の三人。

 そして誰もオレについては言及しないだろう。唯一Bクラスだけは損得関係なく吹聴出来るが、義を重んじる一之瀬と神崎なら信じられる。

 

「よし、それじゃあ会議は終わりだ。改めてみんな、特別試験お疲れ様」

 

 平田の号令により振り返りが終わった。クラスメイトたちが瞬く間に退席していく。

 

「堀北さん凄いね!」

 

「これが……人間の可能性なのかもしれないな……」

 

「平田くんにも私たち頼ってばかりだし。そろそろやめた方が良いかもねー」

 

「良かったな(いけ)! これでお前の無実は証明されたわけだ!」

 

「ああ……! これからは馬鹿なことはしないようにするぜ!」

 

「腹減ったー! ハンバーガーでも食いに行こうぜ!」

 

 さてと、オレもそろそろ出るか。

 平田と堀北、櫛田の三人が『次』の打ち合わせをしているのを一瞥してから、オレも動くことを決める。

 携帯端末を長ズボンから取り出して現在時刻を確認。十八時を示しており、かなりの時間を使ったのだと再認識した。

 適当な店に入り空腹を満たしたあと、オレは一旦寝室に戻る。四つあるうちのベッドは一つ埋まっていた。

 

「おやおや、綾小路ボーイではないか。Good evening!」

 

 仰向けの姿勢で読んでいる雑誌から目を外すことなく、高円寺はそのように挨拶をしてきた。表紙を見ると、『必見! 完全な肉体美の作り方!』という題名だった。彼はいったい何を目指しているのだろう。

 というか、相変わらずネイティブな発音をする奴だな……。

 オレは高円寺に挨拶を返してから、自分のスクールバッグの整理をする。洗濯物がある場合、指定時間までに学校に届けなければならないからだ。今日分のジャージと下着をネットの中に放り込む。

 一旦荷物を床に置いてから、オレは高円寺に話し掛けた。

 

「高円寺には感謝している。助けてくれてありがとう」

 

「ふふっ、何を言っているのか分からないねえ」

 

 オレは懐から一枚の紙を取り出し、高円寺に翳す。しかしそれでも尚、彼は雑誌から目を離さない。

 

「これは無人島の地図だが……、これは高円寺、お前が書いたものだな」

 

 するとようやくオレに意識を割いた。高円寺は雑誌を閉じ、そして胡座をかく。

 地図を手渡すと彼は、

 

「ふむ……、これは確かに私の筆跡だねえ」

 

「お前は特別試験の一日目で、無人島の探索をほぼほぼ完了させた。そしてお前は『スポット』を書き込み、俺の鞄の中に放り込んだ」

 

 違うか? と問うと高円寺は微笑と共に頷く。

 

「綾小路ボーイの言う通りさ。だがボーイ。私に礼を言う必要はない。私の気分が良かった、ただそれだけなのだからねえ」

 

「そうか。なら自己満足で言わせて貰う。ありがとう。物凄く助かった」

 

 すると高円寺は無言で地図を渡してきた。そして再び元の姿勢に戻る。

 どうやら捨てろと、そういうことらしい。自由人の行動に苦笑してから、オレは無価値となった紙を丸め、部屋に常備されているゴミ箱に放り投げた。

 ネットの中身が見えないよう適当なビニール袋の中に入れ、オレは携帯端末とそれを所持して部屋をあとにする。

 廊下を渡り、洗濯機が回っている部屋に向かう。コインランドリーに近いだろうか。流石は豪華客船。何台もの機械が用意されている。これなら混んでて待つことはないだろう。

 ただプライバシーの流出を防ぐため、係の大人が居る。そしてどうやら、今の時間帯は茶柱が担当のようだった。会いたくないひとと遭遇してしまった……。

 そしてさらに最悪なことに部屋にはオレたち以外誰も居なかった。何台か回っているが、あと数十分は洗い続けるだろう。

 特別試験での疲労が溜まっているのが自分でも感じられる今、茶柱と話したくない。彼女はオレに何か言いたげにしていたが、オレの顔を見て留まったようだった。

 ビニール袋からネットを取り出し、それごと機械の中に投入する。手続きが必要なので、そのまま茶柱の元に向かう。

 

「終わるのは一時間後だ。どうする? 今日中に取りに来るか? それとも明日にするか? その場合朝になるが……」

 

「明日でお願いします」

 

「分かった。必ず取りに来るように」

 

 最低限のやり取りを交わし、オレは部屋から出た。

 特にやることも無くなったので、さてどうしたものかと歩きながら思案する。

 そう言えば……、この豪華客船では確か演劇が楽しめるシアターがあったな。急げばぎりぎり間に合うだろうが……やめておくか。

 疲れているしちょっと早いが寝るとしよう──と思った時、ズボンのポケットに入れている携帯端末が震えた。

 オレは画面を見た瞬間、すぐに歩き始める。

 月光が照らす外廊下に出て、暗闇の中にぽつんと浮かぶ幻月を見ながらそのまま渡る。昨日、一昨日と雨が降ったおかげか、漆黒の中に漂う光は強調されているように思えた。

 向かう先は船の反対側。ひとの気配は感じられず、静寂が広がっている。

 目的地に辿り着くと、はたして、少女は一週間前のあの時と同じように腰を下ろしているようだった。

 

「お帰りなさい、綾小路くん」

 

 近付いてくる一つの気配を感じ取ったのだろうか、彼女は顔を振り向かせる前にその言葉をオレに贈っていた。

 

「どうしてオレだと分かったんだ?」

 

 順序が完全に逆だったので尋ねると、彼女はきょとんとしたように、

 

「分かりますよ。だって綾小路くんですから」

 

「何だそれ……」

 

「ふふふ、なら、秘密です」

 

 そう言ってオレに微笑んだ。

 彼女はオレを隣に座るよう促したが、放心していたオレは動くことが出来なかった。

 

「もう……、仕方がありませんね──」

 

 一度苦笑いしてから、すたすたと迷いない足取りで近付いてくる。そして気付けば、視線を下げればすぐ近くには彼女の端正な顔があった。

 

「椎名……?」

 

「綾小路くん、だいぶお疲れのようですね」

 

 オレの顔をじっと見つめ、彼女はそう言った。

 

「そう、かもしれないな……」

 

「なら休みましょう」

 

 少女は優しくオレの手を引きベンチに誘った。

 そして気が付けば視界が動き、一週間前と同様に、彼女の顔が頭上にあった。

 

「話は伺っています。かなり無茶をしたようですね」

 

 言いながら、オレの頭を撫でる。優しく、何度も、何度も、彼女は撫で続ける。

 

「綾小路くん。私も事情が変わりました。クラス闘争に少なくとも一回は参加せざるを得ない状況になりました」

 

「それでオレを呼んだのか」

 

「……はい。電話なりメールなりと手段は色々とあったでしょう。しかし……どうしても直接言いたくて……」

 

 ごめんなさい、と目を伏せ謝罪してくる。

 オレは右手を伸ばして彼女の頬に触れた。あたたかい。これがひとの温もりなのだろう。彼女がやってくれたように、オレも撫でる。

 

「椎名が謝ることじゃない。そもそもそうなった理由はオレだろう」

 

「いいえ、それは違います。私があなたとこうして会いたいと思っているのは私の意志です。私が選んだことです」

 

 決然と少女は言い切った。

 

「少しだけ寝て良いか?」

 

「ええ、もちろん。おやすみなさい」

 

 襲い掛かる睡魔に抗えず、オレはゆっくりと瞼を閉じる。直前まで映っていた椎名はとても美しく、そして綺麗だった。

 



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第五章 ─十二匹の獣─
櫛田桔梗の独白






 

 ──人間にはそれぞれが抱えている『理想(りそう)』がある。野望や、願望、(こころざし)、あるいは──幻想(げんそう)

 じゃあ、『理想』っていったい何? 

 私が思うに、それは追求しようともがいて、足掻(あが)いて、『努力』なんて、綺麗なものでは語れないもの、さらにその先の奥で辿り着く──『執念(しゅうねん)』なのだと思う。

 その『執念』の果てに、自らが望む完璧なものが形成される。当然、その道は長く、(けわ)しい。多くの人間が足を踏み出し、けれど、『絶望』というものに足を絡み取られ、(つまず)き、転び、そして──挫折(ざせつ)する。

 だから、ひとは自分の『理想』通りに生きているわけじゃない。諦め、自分には出来ないのだと勝手に判断し、俯き、二度と顔を上げることは決してない。奇妙なことに、時間が経過すればするほど、理想主義者は消えていく。

 

 ──それじゃあ、私は、『理想』の『私』に至っているだろうか。

 

 自問自答する。

 答えは『Yes』。私は、自分が追い求めている『私』に至っている。

 同性の中でも優れた容姿であることを、私は物心ついたときには理解していた。それだけじゃない。頭の回転がはやく、記憶力があったから、勉強は出来たし、運動神経が良く、からだだって柔らかかったから、スポーツだって出来た。手先が器用だから、折り紙や裁縫だって出来たし、咄嗟の出来事にも対応出来る自信がある。

 潜在能力(ポテンシャル)は極めて高いと、主観的ではなく、客観的に、私は評価されるだろう。

 

 ──それじゃあ、私は、完璧な人間だろうか。

 

 自問自答する。

 答えは『No』。私より可愛い女の子は当然いるし、私より頭が良い子、運動神経が良い子はいて、私より優れた子はそれこそ星の数ほどいる。

 全てが当然のことだ。そう、当然で、少し考えれば分かる、当たり前のこと。

 でも、ひとには、大なり小なり、これだけは絶対に他人に負けたくないってものがあると思う。それが自分の存在意義、言うなれば、自己同一性(アイデンティティ)に繋がるからだ。

 勉強でも、運動でも、容姿でも、何でも良い。

 そんな、自分の(ひい)でたもので他人に負けたとき、ひとには『悔しい』っていう感情が芽生える。その『悔しさ』をバネにして、ひとはさらに磨きをかけるわけだけれど、今はどうでも良いこと。

 全てに於いて能力が平均より上の私には、一つだけ。

 そう、たった一つだけ、大きなコンプレックスがあった。

 私は身近な誰かに負けるたび、感情が大きく揺さぶられる人間だったのだ。

 負けず嫌い、そんな言葉では言い表せないくらいに、私は、負けたことを自覚したその瞬間には、強い憤りと──深い闇に覆われた。

 小さい頃、幼稚園児や小学生のときはまだ良かった。些細なことで、周囲の人間はちやほやしてくれた。それはテストだったり、体力テストだったり、駆けっこなんてものも含まれる。

 何をやっても一番だった。クラスのヒーローであり、また、アイドルでもあった。拍車をかけたのは、私が他者を見下さず、傲慢な態度を取らなかったことだろう。結果、私の人気はクラス、学年を越えたものになった。

 けれど現実は非情だ。

 私は確かに『凡人』ではなかった。しかし、『天才』ではなかった。私が至れたのは精々が『秀才』で、そこが限界だったのだ。

 中学生になった私は、早々に、現実がどれだけ非情なものなのかを理解した。否応なく理解させられた。

 各分野で才能を開花させるひとたちに私は出会ったのだ。

 人間には必ず何らかの才能がある。それがマッチしたとき、ひとは、そのひとだけが持つ真価を発揮させる。そして、他者はそれを『天才』という(くく)りに入れるのだ。

 そしてそんな『天才』には勝つことが『凡人』には(ゆる)されない。

『天才』と戦えるのは『天才』だけ。

 勝てない相手には勝てない。それがこの世界の真理。

 だから私は逃げ道を探した。戦う土俵を変えて、自分だけの才能を見付けるために。二度と、この屈辱を味わわないために。

 誰にも負けないものが欲しい。尊敬と羨望──憧憬(しょうけい)が欲しい。

 自分は優れているのだと、優越感に酔いたい。

 そんな私はついに見付けた。

『凡人』と『天才』、その垣根が存在しないものを。

 

 ──『信頼』。

 

 それを勝ち取ることを、私は答えとした。誰よりも好かれることで、私はこの穴を埋めようとしたのだ。

 必要なことは全て行った。

 視界に入れることさえ嫌な男子と仲良くし、馬が合わない女子とも仲良くした。虐められている子に手を差し伸べ、けれど、虐めっ子は糾弾せずに、自分だけが味方ということを潜在意識に刷り込ませた。心が弱っている相手を懐柔することは造作もなかった。

 感情を押し殺し、偽りの言葉を言って、偽りの笑みを浮かべ、偽りの優しさを振り撒いた。

 もちろん、いつもがそうだったわけじゃない。

 私だって人間だ。嬉しいと思ったら素直に表現した。ただ、嫌なことを誰にも吐き出さなかっただけ。

 そうして、自然と、私は仮面を被るようになり──あまりにも呆気なく、私は再び人気者になった。さらに良いことに、その人気度合いは嘗てのものより大きかった。同級生、先輩後輩、教師、保護者、地域のひとに、見知らぬ誰か。私という人間の存在は、多くの人間に知られるようになった。

 私は歓喜に震えた。

 これだ。これこそが私が欲しかったものだと。

 その日々は幸せだった。

 私は確信する。『信頼』とは何物にも勝る美酒なのだと。

 さらに私は、その領域に足を踏み入れた。私は奥地で知った。

『信頼』というものの裏には『秘密』があるのだと。

 

 ──ひとは心の底から信頼出来る相手が出来たとき、自らの『秘密』を曝け出す。

 

 人間の精神は『秘密』の重圧に耐えられるほど頑強ではなく、その逆で、ひどく脆弱(ぜいじゃく)だからだ。だから誰かに吐き出すことで自分を保とうとする。

 私は他者の『秘密』を知りたいと思い、衝動に駆られるままに動いた。

 そして私は身近な人間の『秘密』を掌握した。

『秘密』は相手の『命』と言っても良い。私は酔い続けた。

 しかしだからと言って、幸福ばかりだったかと聞かれたらそうじゃない。

 仮面を被り続けることはとても大変で、私は多大なるストレスを抱えなければならなくなった。相手の『闇』を(じか)で触れるのだから当然だ。

 それでも私はやめなかった。いや、やめられなかったのだ。

 苦痛の先には甘美があると知っていたから。それはもしかしたら麻薬だったのかもしれない。

 

 絶え間ない苦痛と、束の間の快楽に酔いしれていたとき──

 

 

 ────『事件』が起きた。いや違う。私が起こしたのだ。

 

 

 でもそれは仕方がないよね。

 

 だって、みんなが私を拒絶したんだもん。

 

 やられたらやりかえす。先に裏切ったのはそっちなんだから、文句は言わないでね? 

 

 

 

 ──でも代償にみんなの中の『私』は存在ごと否定された。

 

 

 

 どうして、どうして、どうして──? 

 

 それを私は求めていないのに。

 

 私が求めるのは『信頼』ただそれだけ。『憎悪』はいらない。

 

 みんなから信頼される存在になるために、あの優越感を味わうために。

 

 だからあんなことは二度と繰り返さない。そう、誓った。

 

 あんな『悲劇』は起こさない。そう、誓った。

 

 完璧な『私』になろう。

 

 みんなが望む『私』に。

 

 大丈夫、次は失敗しない。

 

 私は新しい生活に胸を躍らせた。

 

 私が入学した高度育成高等学校は外部との連絡が禁止されている。

 

 だから私が『私』であることを知るものはいない。

 

 そう、思っていた。

 

 なのに、なのに、なのに────。

 

 あの日、あの時、あの瞬間、私は出会ってしまった。

 

 自分が忌み嫌う相手に。けれどそれだけだったら問題はなかった。今までのようにやれば良いだけなのだから。

 

 問題は──その人物が、私が犯した『罪』を知っていること。

 

 私が『私』であることを知っている、それだけならまだ良い。

 

 幸い、『彼』なら、こちらが刺激しなければ向こうから攻撃してくることはない。互いの『秘密』、その一端を握っているから大丈夫。彼に私の存在価値を証明し続ければ、裏切られることはない。そして私にはそれだけの能力がある。彼が言った『パートナー』という言葉。そう、確かに私たちは『パートナー』だ。だから自分の『素』を曝け出せる。他人に興味がない彼になら、ありのままの自分でいられる。

 

 でも──堀北(ほりきた)鈴音(すずね)

 

 あいつを潰さなければ、私に平穏は訪れない。

 

 そのためなら何でもやろう。

 

 

 

 たとえ仲間を裏切ってでも、私は『私』のために行動する。

 

 



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干支試験

 

 無人島で行われた特別試験が終了してから、早くも三日が経過していた。オレたち、高度育成高等学校、一年生を乗せた豪華客船は、何事もなく、太平洋上での航海を続けていた。嵐に遭遇することもなく、まさしく、平穏と言って差し支えないだろう。

 無人島での一週間のサバイバルは、これまで、何不自由なく青春を謳歌してきた若者には苦行以外の何物でもなかった。これが一週間ではなく、二週間だったら、生徒たちは試験なんてものはお構いなく、学校に暴動を起こしていたかもしれない。

 しかし、地獄は終わった。

 基本、男という……ましてや、十代の子どもは野獣であり、性に()えた肉食動物だ。地獄から解放された反動か、男子生徒たちの瞳は普段よりもぎらつき……互いに牽制しながら意中の女を巡っているらしい。だがそれは女子生徒たちも同様のようだ。みんな、運命的な何かを渇望(かつぼう)している。とはいえ、それは仕方がないのかもしれない。ここは全てが揃った豪華客船。さらには、船の中にあるものは全て無料(ただ)ときた。(ぜい)の限りを尽くしたこの旅行で、『何か』を期待するなと言う方が無理な話だ。

 実際、何組かのカップルが誕生しているらしい。「羨ましい!」と(いけ)が言っていたな。しかし、そう言った彼からは言うほどのものは感じられなかった。どうやら、先の『あの一件』を経て、また一段階成長したようだ。

 そんな友人と言えば、今は堀北(ほりきた)先生による夏期講習なるものが開かれているらしく、そこに参加している。まさかこの旅行でも勉強会が開かれるとは。死んだ顔で集合場所に向かう彼に、オレは思わず同情してしまった。だが──。

 

桔梗(ききょう)は参加しないのか?」

 

「うん? 何のこと?」

 

 櫛田はオレの質問に可愛いらしく首を傾げた。

 オレたちは、今、船の屋上、その端にあるカフェに居て、共に昼食を取っていた。エレベータの中で偶然遭遇し、流れでそのまま現在に至る。クラス、いや、学年のマドンナと二人きりの状況、入学した当初のオレなら萎縮していただろうが、流石(さすが)に今なら問題ない。

 目でどういうことなのかと尋ねられたので、今度は省略せずに尋ねた。

 

「夏期講習、堀北の手伝いをしないのかと思ってな」

 

 すると櫛田(くしだ)は合点がいったようだった。

 

「ああ、そのこと? うん、問題ないよ。今は先生と生徒のマンツーマンだからね。私がすることは何もないんだ」

 

「マンツーマンって……。それは凄いな……」

 

 オレは思ったことをそのまま口にした。

 まさかその段階にまで至っていたとは……。これはもう、生徒が開く勉強会の範疇を優に超えているだろう。

 心配なことがあるとしたら……、

 

「……襲われないと良いが」

 

「襲われるって、堀北さんが?」

 

「ああ、特に(けん)が心配だな」

 

「ああ……いくら堀北さんでも、須藤(すどう)くんは厳しいかもしれないねえ」

 

 堀北は過去武術を嗜んでいたようで、そこら辺の男なら彼女には到底太刀打ち出来ないだろう。教え子である、池、沖谷(おきたに)山内(やまうち)程度なら仮に襲われても問題なく対処出来るはずだ。

 だがしかし、そんな彼女も鍛えられた屈強な男が相手では厳しいだろう。バスケットで日々身体を鍛えている須藤では、流石の彼女でも分が悪いだろうな。

 ところが、櫛田はオレの懸念を否定した。

 

「大丈夫だよ。前の須藤くんだったら危険性はあったかもしれないけど、いまの彼なら大丈夫」

 

「……それもそうだな」

 

「堀北さんもそれが分かっているからやっているんじゃないかな」

 

 けどまあ、須藤くんの恋路(こいじ)は前途多難だけど……と、櫛田は言った。

 

「いまさらだけど、気付いていたんだな」

 

「もちろん。須藤くんは顕著だから、私だけじゃなくて、みんな気付いているよ。今時あそこまで純粋(ピュア)なのも珍しいんじゃないかなあ」

 

「ちなみに、桔梗は上手くいくと思うか?」

 

 純粋に気になったので尋ねると、櫛田は微妙な顔になった。

 それだけでオレは察してしまった。

 彼女は視線を逸らしながら、

 

「須藤くんの勝率は絶望的だね」

 

「そ、そうか……。健は絶望的か……」

 

 オレは友人を思って合掌した。

 櫛田はそんなオレを見て一度笑ってから、このように言う。

 

「ううーん、何ていうのかな。私見(しけん)だけどね、須藤くんそのものには、多分、問題ないと思う」

 

「どういうことだ?」

 

 すると櫛田は脈絡もなく、このように言う。

 

「いま最も注目を浴びているのは、清隆(きよたか)くん、きみだよ。良くも悪くも、だけどね」

 

「そうなのか」

 

「うーわっ、興味なさげな反応」

 

「……オレのことは置いといて、話を続けてくれ」

 

 櫛田はオレをつまらなそうに見てから、

 

「男子生徒で清隆くんの次に注目を浴びているのは、なんと、須藤くんなのです!」

 

 わざとらしく、そのように言った。

 どうにも彼女にはナレーション気質があるような気がする。

 

「最初は不良少年として名を馳せていたけど、須藤くん、変わったでしょ?」

 

「そうだな」

 

 入学当初のことを考えれば、別人と言っても過言ではないだろう。

 

「テストの成績は良くないけど、須藤くんが池くんたちと一緒に頑張っているのは結構広まっていてね。彼、身体能力は学年でも最上位の部類に入っているし、意外にも、かなり友達想いだからさ、『良いなっ』っていう女の子が急上昇中なんだ」

 

「それはまた……池や山内たちが聞いたら荒れそうだな」

 

「あははっ、そうかもね」

 

 だがここまで聞けば、櫛田の言っていることにも頷けるな。

 確かに、いざ、考えてみれば須藤本人にはそこまでの問題が感じられない。

 となると、問題は……そこまで考え、オレは思わずため息を吐いてしまった。

 

「清隆くんも分かったようだね」

 

「まあな。問題は堀北にあるってことだろ?」

 

「だいせいかいっ!」

 

 ぱちぱちぱちと櫛田は満面の笑みで拍手した。

 それを目の当たりにしたオレは頭を抱えてしまう。そんなオレに構うことなく、櫛田は遠慮なく残酷な言葉を言った。

 

「多分……というか、絶対に、堀北さん、須藤くんの好意に微塵も気付いていないよ」

 

「……やっぱりか」

 

「うん。これは私の推測だけど、あれは初恋もまだだね」

 

「そ、そこまで分かるのか……」

 

 断言する櫛田に、オレは畏敬の念を覚えた。

 尊敬の眼差しで見ると得意げに胸を張る。

 さらに彼女は続けて、

 

「堀北さんは多分、昔から他者を寄せ付けない孤高(笑)気質のひとだったんだと思うんだよね」

 

「……まあ、否定はしない。それより、言い方に悪意を感じたんだが……」

 

「気のせい気のせいっ」

 

 本人がそう言うのならとオレは無理やり納得した。

 彼女に話を促す。

 

「つまりさ、堀北さんはひとからの好意がいまいち分からないんじゃないかな。面と向かって須藤くんから『好き』って言われない限り、下手したら永遠に気付かないと思うよ」

 

「なるほどな……充分にあり得るか」

 

 ということは、須藤の恋はやはり前途多難ということだ。少なくとも、堀北から須藤に告白する、というパターンはなさそうだしな……。

 堀北目線に立って須藤のことを視てみると……、オレは思考を断念した。

 哀れ、須藤。頑張れ。オレは心の中で応援しているぞ……。

 オレが数少ない友人にエールを送っていると。

 

「清隆くんはどうなの?」

 

「どうって……何がだ?」

 

「またまた、とぼけちゃって~」

 

 このこの~と、櫛田が頬を突いてくる。

 普通なら面倒臭く感じるのだろうが、そうさせないのは彼女だからこそ出来る『(わざ)』なのだろうか。

 

「もちろん、椎名(しいな)さんのことだよ」

 

「……お前が望んでいるようなことは何もないぞ」

 

「またまた~、ご冗談を!」

 

「ほんとうだ」

 

 良い加減しつこいぞと非難の眼差しを送れば、櫛田はつまらなそうにしてから、それ以上の追及をやめた。

 ジュースで唇を湿らせてから、彼女はごめんねと一言謝罪してきた。

 オレはそれを受け入れてから、再度、同じことを口にする。

 

「オレと椎名の間には何もないぞ」

 

「そう言うわりには、この太平洋上でも大半は一緒にいるみたいだけど?」

 

「何でそれを……って、いまさらか」

 

「二人は有名だからねえ。自然ときみたちの情報は女子の間で出回るんだよ」

 

 そう言うと、コミュニケーションの化身は机の上に置いていた自身の携帯端末を取り出した。素早く動かし、画面を見せてくる。

 オレは嫌な予感を(たずさ)えながらも、しかし、好奇心に逆らえず、恐々と覗いた。

 それはグループチャットのようで、『スクープ!』という文字のもと、一枚の写真が投稿されていた。オレが彼女に膝枕して貰っている写真だ。熟睡しているオレに、読書している彼女。

 どうやら『あの時』のもののようで、なんと、既読数が三桁を超えている。オレはそこで見るのをやめて、彼女に返した。

 

「いつの間に……」

 

「だから言ってるじゃん、二人は有名だって。『一年生ベストカップルランキング』で毎回上位にくるからねー」

 

「……ちなみに、一位はどこなんだ?」

 

平田(ひらた)くんと軽井沢(かるいざわ)さんのカップルだね。ちなみに、きみたちは今回、惜しくも二位でしたっ」

 

 おめでとう! 櫛田は先程と同じように拍手を送る。

 肖像権の侵害だとか、ランキングなんてつけているのだとか、色々と突っ込みたいところはあった。しかしそれらを訴えても意味はないだろう。

 だからオレは答えてくれそうな質問をした。

 

「えーっと、どうしてオレと椎名がそのランキングに載っているんだ?」

 

「……?」

 

「いや、そんな不思議そうに首を傾げないでくれ、頼むから」

 

「あはははっ、冗談冗談。うん、清隆くんの言いたいことはわかるよ? どうして交際していない二人が載っているのか? ってことだよね?」

 

「ああ」

 

 ふざけた名前のランキングだが、オレたちはそれに適していない。なのに何故? 

 

「うーん、実際、これは女子の間でもかなり荒れた論争なんだよね」

 

 そう語る櫛田はとても真剣だったので、オレは「そ、そうか……」と曖昧に頷くしかなかった。

 

「これが突発的なものだったら、条件を満たしてないから、それで話は終わりだったんだけど……」

 

「まあ、オレたちは入学当初から付き合いが続いているからな」

 

「いえーす! っというわけで、特別措置が施されたんだ!」

 

 もはや何も言うまい……。

 オレはどうしたもんかと悩み、考えることをやめた。

 こればかりは仕方がないと諦めよう。

 だが、これだけは一応言っておく。

 

「勝手に噂するのは構わないが、写真だけはやめてくれ」

 

「もちろん。私も、勝手に写真を撮らないよう言ってあるから」

 

 ほら、これ証拠だよと言われて画面を見てみれば、櫛田がやんわりと投稿者に注意していた。他の生徒からも言われているようだ。

 これなら一応は安心だな。櫛田には頭が上がらない。

 

「ありがとう、助かる」

 

「どういたしまして、流石にこれは良くないと思ったしね」

 

 その後も、オレたちは昼食を進めた。

 ここ最近改めて思っているが、櫛田といるのは楽だ。互いの闇を握っていて、変に取り繕う必要がないからだろう。それは彼女も同じなのだろう。それが伝わってくる。

 友達が多いと、自然と話題も増える。共通の話題が一番盛り上がるものだが、そこは櫛田の話術によって何とでもなるのだから凄いものだ。

 正直、椎名の次に、一緒に居て楽しい。

 

「──いやー、もうすぐで夏休みも終わりだねえ」

 

「あと二週間とちょっとはあるけどな」

 

「いやいや、あとそれしかないからね!」

 

 楽しい時間はあっという間だよと、櫛田は言った。

 確かに彼女の言う通りだろう。オレ自身、それは感じていた。

 自由に過ごせる長期休暇は学生にとってまさしくパラダイスだ。

 

「このまま何も起こらないと良いけど……」

 

 彼女が案じているのは、いわずもがな、特別試験のことだろう。

 

「いまのところは平穏だけどな……」

 

 無人島試験が終わり、三日が経っている。その直後は、大半の生徒は新たな特別試験に身構えていた。それもそのはず、この学校は生徒の意表をつくのに拘りがあるようだからだ。しかし、一日、二日、三日と、段々、生徒たちは身構えることそのものに疲れ始め、いまはこのひと時を楽しもう! と考えている。まあ、こればかりは仕方がないことだ。生徒たちの対応は適していると言えよう。

 

「仮にこのまま旅行が終ったら、クラスポイントはどうなるのかな」

 

「いい機会だし、計算してみるか」

 

 オレは携帯端末を取り出し、無料でインストール出来るメモ帳アプリを開いた。

 先日の特別試験でA~Dクラス、全てが大小の差はあれどポイントを得ている。現在のそれぞれのクラスポイントは計算してみたところ、以下の通りだ。

 

 ・一年Aクラス──1020cl

 ・一年Bクラス──860cl

 ・一年Cクラス──550cl

 ・一年Dクラス──285cl

 

 画面を見た櫛田が「ううーん」と悩ましげな声を上げた。

 とはいえ、それはオレも似たような心境だ。

 

「やっぱり、他クラスとの差は絶望的だね」

 

「こればかりは自業自得だからな」

 

「ほんと、この前は勝ててよかったよ。もし最下位だったらと思うと……ぞっとする」

 

 無人島試験に於いて、DクラスはBクラスに続いて二位という好成績を残すことに成功していた。しかしそれでも、彼女の言うようにクラスポイントの差は絶望的だ。初期ポイントが0clだということを考えれば、大躍進だとは思うが……。

 

「クラスメイトたちの様子はどうだ?」

 

「そうだねえ……何ともいえないかな。警戒はしている、けれどそれだけって感じ」

 

「軽井沢はどうだ?」

 

「いつもと同じだよ。不自然なくらいにね」

 

「桔梗もそう思うか?」

 

「もちろん」

 

 話に挙がっている軽井沢という生徒は、Dクラス女子のスクールカーストに於いて頂点に位置する。

 性格は、まあ、良く言うならば我儘といったところか。それだけなら却って虐めの対象にでもされそうだが、彼女にはひとを従えるカリスマ性があり、それがあるからこそ、女王としてDクラスを纏めている。またそれに拍車をかけるのが、クラスの先導者である平田という生徒の交際相手という点だ。影響力は圧倒的に強い。

 そんな彼女だが、先日の試験に於いて、彼女はCクラスの伊吹(いぶき)という女子生徒に下着を盗まれている。伊吹本人が認めてこそいないが、Dクラスでは周知の事実だ。犯人の目的も、堀北が立証している。

 

「だからこそ、伊吹に突撃するとばかりに思っていたんだが」

 

「私もそう思っていたんだけど……。軽井沢さんの中では、もう、触れたくない事柄なんじゃないかな」

 

 確かに、その線は充分にあり得るか。忘れたいことなど、人間には何個もあるからな。

 

「軽井沢さんのこと、気になるの?」

 

「いや、クラスメイトとしての興味の範疇内だ」

 

「あー……、清隆くん、彼女のこと嫌っているもんねー」

 

「……苦手なだけだ」

 

 訂正を試みたが、意味はなさなかった。

 まあ、遠からぬことなのでそこまで食い下がることはしない。

 時計を何となく見ると、丁度良い頃合だった。

 

「そろそろ出るか」

 

「うん」

 

「あっ、桔梗ちゃん!」

 

 カフェから出ると、他クラスの女子生徒が櫛田に声を掛けた。流石、人気者は凄い。櫛田に目で別れを告げてから、オレは彼女と別方向に歩き始めた。

 

「ねえねえ、あれって綾小路(あやのこうじ)くんだよね!」

 

「うん、そうだよー」

 

「桔梗ちゃんって、彼と仲が良いの?」

 

「うん。クラスの男の子の中だと一番かな」

 

「……もしかして、好きだったり?」

 

「あははは、それは未来永劫ないよー」

 

「お、おう……。かなりきっぱりと言うんだね。あたし、思わず言葉につまちゃったよ」

 

 背後でそんな会話が繰り広げられていた。

 この後は椎名と会う予定になっている。図書エリアでまったりと過ごすのだ。約束の時間まで三十分はあるので、一旦、自室に戻ることを決める。エレベータを使おうと思ったのだが、真昼間の時間の所為か、長蛇の列になっていた。そこまでの拘りもないため、階段を使う。三階に下り、廊下に出ると、オレは点々としている染みを見付けた。

 見たところ、オレの部屋がある方向に繋がっているようだ。

 ……嫌な予感がする。

 そして跡を追うようにして歩いていくと、オレは元凶にまで辿り着いた、いや、辿り着いてしまった。果たして、そこには二人の人間が居た。そのうち一人は同級生で、さらには、ルームメイトだ。見なかったことにしてスルーするのが最善なのだろうが……この男には借りがある。

 

「……どうかしたか、高円寺(こうえんじ)。っていうか、その恰好はなんだ?」

 

 一応、尋ねる。

 高円寺はいつものように高笑いしながら、

 

「ふはははは! おや、綾小路ボーイではないか! 見ればわかるだろう? クエスチョンの意味がわからないのだが?」

 

 オレはこめかみを押さえた。

 だが現実逃避していても仕方がない。改めて高円寺の姿を直視する。

 彼は上半身が裸で、下に海水パンツを穿いていた。そして床に現在進行形で落ちていく透明な液体。もしかしなくても、オレが今しがた居た一階にあるプールでひと泳ぎしてきたのだろう。

 

「お客様は……こちらのお客様のご友人でしょうか?」

 

 今までオレたちのやり取りを黙って見ていたもう一人の人物……従業員が涙目で聞いてきた。

 と、オレは返答に窮してしまう。オレと高円寺の関係は『友人』というカテゴリーに含まれるか、判断に迷ったからだ。これが平田なら即答していたのだろうが……こればかりはいつまで経っても成長しない気がする。

 とはいえ、ここはオレが思っていることを言えば良いだろう。彼らの視線を感じながら、

 

「ええはい、そうですよ」

 

 そう、答える。

 すると従業員は助かった! という表情を浮かべた。高円寺は真意が読めない笑みだ。

 

「それで従業員さん、どうかしたんですか?」

 

「実はですね、お客様──」

 

「こちらのボーイが私に何度も話し掛けてきてねえ。やれやれ、人気者は困ってしまうよ」

 

 従業員──いや、ボーイではなく、高円寺がオレの質問に答える。

 絶対に悪意があるなとオレは確信したが、もう少し頑張るか……主にボーイのために。

 

「あー……それでボーイさんはどうして彼に何度も話し掛けているんですか?」

 

 今度は高円寺が割り込む前に、ボーイは早口で答えた。

 

「こちらのお客様にお伝えするのは四回目なのですが、プールから上がられた後にお体を拭いてから、出て欲しいのです。他のお客様に迷惑ですから」

 

 当たり前のことすぎて反応に困った。

 って言うか四回目って……薄々察していたとはいえ、まさか常習犯だったとは。オレはたまらずにボーイを憐れんでしまう。

 

「高円寺、ボーイさんはこう言っているが」

 

「申し訳ございません、私は『サトウ』と申します。ボーイはやめて頂ければ……」

 

「ふふ、しかしだね綾小路ボーイ、私は一度たりとも迷惑だとは言われていないのだよ」

 

「そうなのか」

 

「そうなのだよ。それにだ、こうも言うだろう? ──水も滴る良い男とねえ!」

 

 その水も滴る良い男は、一度笑ってから、ふさあっと髪の毛を掻き揚げた。同時に、水が廊下と壁に付着する。それをサトウボーイが慌てて痕跡を残さないようにしながら拭いた。流石はプロだ。

 

「……お前に羞恥心はないのか」

 

「羞恥心? 私のこの美しい肉体のどこに恥ずかしがる場所があるというのかな?」

 

「……いやでも、服を着ないと風邪をひくぞ」

 

「ノープロブレム。私には何も関係ないねえ。それにだ、綾小路ボーイ。私は物心ついたときから身体を拭かないようにしているのだよ」

 

「……」

 

 もはや何も言うまい。

 人間には出来ることと出来ないことがある。出来ないことに挑むのは無謀ってものだ。

 オレはわざとらしく「あっ」と声を上げ、

 

「おっと、もうすぐ約束の時間だ。すみません、それじゃあ、オレはこれで失礼します」

 

「お客様!?」

 

「おや、そうなのかい。それでは綾小路ボーイ、See you」

 

「See you」

 

 すまない、サトウボーイ、オレはあなたのことを忘れない。内心、涙を流しながら、オレは戦線離脱するのであった。

 

 

 

§

 

 

 

 豪華客船に搭乗してまで本を読もうとする人間は少ないのか、図書エリアはオレと椎名以外、誰も利用していないようだった。他に居るのは妙齢の女性スタッフだけだ。

 

「ところで綾小路くん」

 

 読書をしていると、不意に、向かい合わせに座っている彼女が声を掛けてきた。一瞥するが、椎名は分厚い本から視線をあげていない。つまり、そこまで重要な話ではないということだ。

 

「うん? どうかしたか?」

 

 オレも彼女と同じようにして、話を促す。

 椎名はぺらりとページを捲ってから、

 

「旅行は楽しんでますか?」

 

「普通だな」

 

「普通と言いますと?」

 

「最初はそこそこ楽しめたが、今ははっきり言って退屈だ」

 

「なるほど……」

 

「椎名は?」

 

「私も綾小路くんと同じです。海の景色は見飽きてしまいましたし、興味が引かれるものがあまりないですね。あっ、でも……」

 

「でも?」

 

「ご飯は美味しいです。私、普段はコンビニで済ませてしまいますので、そこは幸せですね」

 

 互いにテンポ良く話が続く。

 しかし、椎名のコンビニ癖は何とかならないものか。

 

「コンビニ弁当ばかり食べていると身体に良くないぞ」

 

「それ、伊吹さんにも言われました。えっと、彼女いわく『あんた早死にするからやめなさい!』とのことです。綾小路くんはどう思います?」

 

「全面的に同意だな」

 

 本を置き、重々しくオレは頷いた。

 椎名も本を置き、オレたちは暫し見つめあう。

 ややして、彼女は真顔で、

 

「確か、学校にはお弁当の持参が出来ましたよね」

 

「そうだな。オレの友人にも何人かいる。でもそうしなくても、学食を使えば良いんじゃないか?」

 

「いえ、それはあまり気乗りしません。人ごみは好みませんから」

 

「なら、弁当になるな」

 

「なるほど……ですが綾小路くん、これには問題が一つありまして」

 

「何だ?」

 

「私、料理が苦手です」

 

 そして真顔のまま、椎名は言い切った。

 なのでオレも真顔で尋ねる。

 

「苦手なのか」

 

「はい。自慢ではありませんが、料理経験は皆無に等しいです」

 

「……それは苦手じゃなくて、出来ないって言ったほうが良いと思うんだが」

 

「ごめんなさい。見栄を張りました、出来ません」

 

 やはり真顔のまま、椎名は悪びれることなく言い切った。

 

「ちなみに他の家事は?」

 

「で、出来ますっ」

 

「そ、そうか。なら何で料理だけ……?」

 

「その……別にやらなくても、今の時代、そこまで困らないじゃないですか。お金……プライベートポイントさえあれば、飢え死にすることはないですし、聞くところによると、スーパーでは無料で商品が売られているのだとか」

 

 段々と尻すぼみになっていく。

 どうやら、自分でも醜く言い訳しているのは自覚しているようだ。

 オレは頭を抱えた。これは本気で何とかしないと……。

 

「あー、うん、良く分かった。戻ったら一緒に練習するか?」

 

「……ちなみに綾小路くん、料理に自信は?」

 

「人並みには出来る」

 

「おおっ」

 

 きらきらとした尊敬の眼差しで椎名はオレを見た。何だか、無性に悲しくなってくる……。

 と、そんなオレの気を知らず、

 

「ところで綾小路くん」

 

「……何だ?」

 

「先程のお話に関係してくるのですが……殺人事件とか、起きないものですね」

 

「…………は?」

 

 呆けてしまったオレは悪くないだろう。ぱちぱちと何度か瞬きしてしまう。

 しかし椎名はオレの様子がおかしく見えたのか、不思議そうに首を傾げた。

 オレは一呼吸してから、目の前の天然少女に言った。

 

「ちょっと何を言っているか分からないんだが」

 

「ふむ……。綾小路くんなら知っていると思いますが、この世の中には、『現実は小説よりも奇なり』という言葉があります」

 

「イギリスの詩人、バイロンの言葉だよな」

 

 世の中の実際の出来事は、虚構である小説よりも不思議であるという意味だ。人生に於いて何が起こるか予想が出来ないという意味でもある。

 それがどうかしたのかと目で尋ねると、

 

「私たちが乗っているこの客船は、それはもう、設備が整っています。維持費にどれだけのお金が必要か、予想もつきません」

 

「まあ、そうだな。とはいえ日本政府が造ったから、税金から補填されていると思うぞ」

 

「私も同意見です。そして現在、この船に乗っているのは学校関係者と、政府に雇われたスタッフだけでしょう」

 

 オレは黙って、彼女に話の続きを聞くことにした。

 

「綾小路くん、これだけの『条件』が揃っています。何か『事件』が起きてもおかしくないとは思いませんか?」

 

 いたって真面目な表情で、椎名はそう言った。

 オレはふむと思案してみる。

 確かに『条件』は揃っていなくもない気がする。だが──。

 

「そんな簡単に起こったら困る」

 

「ですね」

 

 オレたちは頷き合い、話を終わらせた。

 丁度近くを通り掛かったスタッフが、なにか物言いたげにしていたのは気の所為だろう。

 読書に戻ろうとしたその時だ──キーンという高い音がしたのは。これは学校からの指示であったり、行事の変更などがあった際に送られてくるメールの受信音だった。とはいえ、実際に送られてくるのはこれが初めてだったりする。

 オレと椎名は一瞬視線を交錯させてから、

 

「椎名の予感が当たったな」

 

「ええ。でも、当たって欲しくなかったです」

 

「違いない」

 

 だが、無視することは出来ない。

 オレたちは携帯端末を取り出し、メールを開く。と、ほぼ同時に船内放送が流れ、意識はそちらに流れた。

 

『生徒の皆さんにご連絡致します。先程、全ての生徒宛に学校から連絡事項を記載したメールを送信致しました。また、メールが届いていない場合には、お手数ですがお近くの教員、及び、スタッフにまで申し出て下さい。非常に重要な内容となっておりますので、確認漏れのないようお願い致します。もう一度繰り返します──』

 

 オレたちは今度こそメールに目を通した。そこには、以下の内容が書かれていた。

 

『間もなく特別試験を開始致します。各自指定された部屋に、指定された時間に集合して下さい。十分以上遅刻した生徒にはペナルティを課す場合があります。本日十八時までに、二階、204号室に集合して下さい。所要時間は二十分ほどですので、お手洗いなど済ませた上、携帯をマナーモードか電源をオフにしてお越し下さい』

 

「「特別試験……」」

 

 同じ呟き声が出る。そして同じように嘆息した。

 定期試験や体力測定のようなものではないと思いたい。だが、確実に言えることは、『特別』と銘打っている以上、通常の内容ではないだろう。

 気になる点はいくつかあるが……、オレは椎名に声を掛けた。

 

「互いに見せ合わないか?」

 

「もちろんです」

 

 オレはDクラス、椎名はCクラスと、本来ならオレたちは別々のクラスだ。クラス闘争のことを考慮するなら、平穏が崩れ落ちようとしているこの時点で早々に離れるべきだろう。ましてや、同じメールが届いていない可能性もある。だが、オレたちは自分たちの立ち位置を理解している。今の会話が成立したということは、互いに利があることを意味している。

 自分の携帯端末を手渡し、彼女を受け取る。

 

「これは……」

 

「場所と時間だけが違うようですね」

 

「あとの基本的な文章は同じみたいだな」

 

 端末を返し、しばし、静寂に包まれた。

 いま確実に分かっていることは、特別試験が行われること、その一点だけだ。疑問なのは、指定された場所、及び時間が椎名と違うということ。単純にクラスごとそうしているのか、あるいは、何か理由があるのか。

 

「前回の例に当てはめれば、恐らく、この召集は特別試験の説明だと思う」

 

「同意見です。試験なのですから、ルールや勝敗など、伝えることがあるはずです」

 

「となると、やっぱり、疑問になるな」

 

「ええ。何故運営は、一年生を纏めて集めなかったのでしょう」

 

 その方が遥かに効率的だ。船内で一年全員が集まれそうな場所は……映画館に、パーティ会場、ビュッフェレストランくらいか。数こそ少ないが、それでもある。それがまさか生徒を隔離、限定して、試験に突入させるとは……。

 とはいえ、やるべきことは変わらない。

 

「それでは綾小路くん、ご健闘を祈っています」

 

「ああ。椎名もな」

 

 その言葉を皮切りに、オレたちは腰を上げた。

 特別試験の開始が宣告されている以上、本来なら敵同士のオレと椎名が行動を共にしてはならない。

 図書エリアの出入り口で無言の挨拶を交わし、オレたちは別れた。

 三階の自室に戻ると、部屋は無人で、ルームメイトである、平田、高円寺、幸村は出かけているようだ。割り当てられているベッドの縁に座り、携帯端末を取り出すと、二人の少女からメールが届いていた。

 優先度が高いほうから応えることとする。電話を掛けると相手はすぐに出てくれた。

 

『もしもし?』

 

「オレだ」

 

『清隆くん……そのネタは古いよ』

 

 グサッと言葉の刃が深く刺さり、オレはちょっと傷付いた。こほんと咳払いし、

 

「いま一人か?」

 

『うん、もちろん。だから名前呼びしたわけだしね。きみのほうは?』

 

「こっちも大丈夫だ。用件はメールについてか?」

 

『うん。一応報告しとこうと思って』

 

 必要なかった? と千秋(ちあき)が聞いてきたので、オレは「助かる」と口にした。

 実に優秀だ、手間が省ける。

 互いにメールの内容を伝え合う。

 椎名のときと同様、場所と時間だけが違った。千秋は十九時、207号室に招集が掛かっているらしい。

 

「連絡助かる」

 

『何かすべきことはある? って、まだないか』

 

「ああ。取り敢えずは待機だ」

 

『了解』

 

 ブツン! とノイズが走り、電話は終了した。

 オレはそのまま指を走らせ、もう一人の少女に電話……ではなく、メッセージを送った。理由は簡単だ、罵倒されると思ったからだ。

 

『遅い。既読がついてから時間が経ったのはなぜかしら』

 

 悲しきかな、どうやらどちらにせよ、オレは罵倒される運命にあったようだ。

 

『悪い。ちょっと立て込んでてな』

 

『次はすぐに返すように。もし遅くなったら……分かるわね?』

 

 堀北は、そう、脅迫してきた。

 個人的には、既読つくのが数日後とか日常茶飯事のひとに言われたくない。だが、下手に返せば恐ろしいので『善処する』と返信する。

 次のメッセージはすぐに届いた。

 

『学校からのメールは見たわね?』

 

『ああ。こっちは十八時からで、204号室だ』

 

『そう。私は二十時四十分で206号室よ。やっぱり、違う生徒もいるようね』

 

『同じ生徒を見付けたのか?』

 

『ええ。池くんと須藤くんが同じみたい。けれど、沖谷くんと山内くんは違うようね。もちろん、あなたとも』

 

 どうやら、『生徒』たちはすぐさま『先生』に頼ったようだ。それだけ彼らの間には信頼関係が構築されているのだろう。

 

『私の知り合いではあなたが一番はやいわ。報告よろしく』

 

『了解』

 

 この言葉を最後にして、メッセージは途絶えた。

 少し意識を割けば、外からは生徒たちの喧騒が聞こえてくる。

 他クラスの動向が気になるが、まずは様子見に徹するか。自分に何が出来るのか、それを見極めなければならない。

 

 

 

§

 

 

 

 指定された十八時、その五分前にオレは204号室に来た。二階のこの層は客室で占められている。しかし少し視線を動かせば、あちらこちらに生徒が居て、所在無さげに立っていた。もしかしなくても、メールで呼び出されたからだろう。

 さて、これは部屋に入って良いのだろうか。一分待ち、突入することに決める。ノックを三回すると、「入りなさい」という声が。声音からして、男性だろうか。

 オレは深呼吸してから、ゆっくりと客室に足を踏み入れた。するとそこには、スーツを着こなす一年A組、真嶋(ましま)先生が椅子に腰掛けていた。テーブルの上に置かれている何らかの資料に目を落としていたが、オレの存在によって、軽く会釈をしてきた。それに返す。

 彼の前には二人の生徒が座っていた。

 

「もう一人は綾小路殿でござったか! 宜しくでござる!」

 

「綾小路か。朝振りだな」

 

 挨拶をしてきたのは、外村(そとむら)幸村(ゆきむら)だった。

 外村はいわゆる()タクというもので、それを誇りにしている生徒だ。男子生徒からは『博士』という渾名がつけられ、慕われている。そんな彼はコンピュータに詳しく、自分専用のものを組み上げるほどだ。Dクラスに於いてこの分野で右に出る者はいないだろう。ただ、普段から理解不能な口調で話しているため、女子からは引かれている。高校生にしては太っているのも起因しているのだろうが……。

 幸村は眼鏡を掛けた生徒で、こと学力に拘っては、学年でも最上位の部類に入る。ただ、他者と行動を共にすることを嫌い、普段は一人で居ることが多い。そんな彼も先日の特別試験で考えを変えるようになったのか、入学当初あった他者への蔑みはなくなりつつあるようだ。堀北の男性版と言えるかもしれない。そんな彼はこの旅行中、オレのルームメイトでもある。

 

「席に着け」

 

 真嶋先生から指示が下りた。オレは頷き、気になったことを質問する。

 

「先生、どちらの席に座れば良いですか?」

 

 そう、椅子は四つ並べられていた。オレがいまから座るにしても、空席が出来てしまう。それに、席は指定されているのかもしれない。だがそれはオレの懸念でしかなかったようだ。

 

「どちらでも構わない。好きなほうに座れ。もう一つはじきに埋まるだろう」

 

「分かりました」

 

 博士の隣に座る。

 そして時刻は十八時を迎えた。

 しかし空席は埋まらなかった。遅刻している生徒がいるのは誰の目にも明らかだが……はたして誰なのだろう? オレ、幸村、博士にこれまでそこまでの繋がりはない。法則性が仮にあるのだとした、『仲の良さ』だけはなさそうだ。となると、そこまで複雑に考える必要はなくなる。

 恐らく、この面子は同じクラスの生徒が集められているのだろう。そこから細かく何らかの『条件』でオレたちが選ばれた、この線が濃厚か。あるいは、それすらもランダムなのかもしれないが。

 二分経ったところで、真嶋先生はため息を吐いた。

 

「最悪、あと八分待つ。それまでは好きにしてくれ」

 

 お喋りの許可が出たわけだが、しかしだからといって、教師の前で楽しい時間が過ごせるとは思えない。ましてやそれが、ほぼほぼ接点がなかった相手だとなおさらだ。

 無言の時間が流れる。

 変化が起きたのは、十八時を五分過ぎたときだった。

 コンコンコンと、やや控えめなノックが響く。真嶋先生は嘆息してから、

 

「入りなさい」

 

 と言った。はたして、勇敢なる遅刻者の正体は──。

 

「失礼しまーす」

 

 オレ、幸村、博士の三人は絶句した。

 それだけ来訪者が意外すぎたのだ。

 いやまあ、性格から考えると遅刻するのも納得してしまうのだが。

 

「あれ? どうして幸村くんと綾小路くんと……ええと、外村くん? がいるわけ?」

 

「良いからまずは座りなさい。時間厳守だとメールで伝えていたはずだ」

 

「……すみません」

 

 真嶋先生がちょっと強めに威圧すると、軽井沢はうぐっと言葉に詰まりながら謝った。軽井沢は椅子の前に辿り着くと、ふむと考える仕草をする。そしてオレを一瞥すると、「まっ、綾小路くんなら良いか」と言い、オレの隣に座った。その言葉の意味は何なのだろう。

 

「一年Dクラス、綾小路、軽井沢、外村、そして幸村だな。改めて、俺は真嶋という」

 

「知っていまーす」

 

 軽井沢の言葉に、内心、オレも頷いていた。

 真嶋先生は苦笑いしてから、

 

「なに、通過儀礼だ。──それでは今から、第二回特別試験の説明を行う。質問は許可するまで受け付かないのでそのつもりで。逆に、こちらが質問したら、答えられる範囲で答えるように。分かったな?」

 

「「「「はい」」」」

 

 みんな、質問したいことは山ほどあるだろう、しかし先手を打たれた以上、従うしかない。

 

「それではまず質問だが、きみたちは十二支を知っているか?」

 

 脈絡もない質問に、オレたちは面食らった。

 戸惑い、クラスメイトと顔を見合わせる。

 だが問われた以上、答えるしかない。

 幸村が代表して言った。

 

()(うし)(とら)()(たつ)()(うま)(ひつじ)(さる)(とり)(いぬ)()のことですよね」

 

「その通りだ。今回の特別試験では、一年生全員を十二のグループ、つまり、干支(えと)に分けて行う。そして試験の目的はシンキング能力を問うものとなっている」

 

 シンキング……考える力? 

 まだまだ分からないことだらけだな。

 

「社会人に求められるのは多くあるが、しかし、基本的には大きく三つに分けられる。行動力(Active)思考力(Thinking)、そして協調性(Communication)だ。この前の無人島生活では、協調性に比重が置かれていた。それはきみたちが一週間で身をもって痛感しただろう。だが、今回は思考力だ」

 

「ちょっ、まっ、待って……下さい!」

 

 堪らずに、といった様子で軽井沢が声を上げる。

 質問ではないからか。真嶋先生が注意をすることはなかったが、それでも、ちょっと不機嫌そうだ。

 彼女は不服を申し立てようとして……相手にされないことを予見したのか、隣のオレに話し掛けて来る。

 

「綾小路くん、意味、分かる?」

 

「だいたいは」

 

「……外村くんと幸村くんは?」

 

「拙者はいまいちでござるなあ」

 

「俺は分かる。ようは、今回の試験は頭を働かせないとならないということだろう」 

 

「幸村の言う通りだ。思考力……考え抜く力とは現状を分析、課題を明らかにする力だ。問題の解決に向けたプロセスを明らかにし、準備する力。想像力を働かせ、新しい価値を生み出す力。それが今回は必要になってくる」

 

 真嶋先生の言うことは概ね賛同出来るな。

 

「察しているとは思うが、ここに居る四人は同じグループとなる。そして今この瞬間、別の部屋でも『きみたちと同じグループとなる』生徒たちに同じ説明がされている」

 

 なら何故、その『同じグループの生徒』を一箇所に纏めないのだろうか。

 その方が遥かに効率的だというものだろう。

 と、そこまで考えてオレは一つの回答に辿り着いた。

 

「なるほどな……」

 

 オレの呟き声を、両隣の二人が拾う。

 

「何かわかったわけ?」

 

「で、ござるか?」

 

「ほう。綾小路、分かったなら聞かせて貰おうか」

 

 真嶋先生が面白そうに口角を上げた。

 黙っている幸村も聞きたそうにしている。

 オレは先生を直視しながら答えた。

 

「もし仮にクラスを三グループずつに分けて行うのなら、ここに十二から十五人の生徒が居ないとおかしい。だが、それくらいの人数ならこんな小部屋を使わなくても、スペース自体はあるはずだ。その方が効率が良いからな。でもそれとは真反対のことを行っている」

 

「綾小路殿、もう少し簡潔に、分かりやすくお願い出来ますでござるか?」

 

 頭がこんがらがっているのか、日本語がおかしくなっている外村が、そう、懇願してきた。

 オレは要望に応えるため、簡潔に言う。

 

「先程の真島先生の『きみたちと同じグループとなる』発言。これは、他クラスの生徒が同じグループになる、ということだ。そして今回はA~D、全ての生徒が入り交じったうえで試験に臨む──違いますか?」

 

 真島先生の返答は、首を縦に振ることだった。

 呆然とする生徒に彼は説明する。

 

「正解だ。各グループは一つのクラスで構成されることなく、各クラスから三から五人ほどを集めて行われる。そして今回、きみたちの『仲間』になる。事前説明がなければ混乱するだろうからな。それでは試験が成立しない。なら、こちらの方が遥かに効率が良いだろう」

 

 とはいえ、それはあまり意味を為していないようだがな……先生はそう呟いた。

 真っ先に我を取り戻したのは幸村だった。

 

「先生! それはあまりにも理解に苦しみます」

 

「それは何故だ?」

 

「簡単なことです。俺たちはこれまで他クラスと競い合う形でクラス闘争に臨んで来ました。なのにこれは……」

 

「面白いことを言うな、幸村。学校生活はまだまだ始まったばかりだ。このような些事でそれでは先が思いやられるぞ」

 

「うっ……」

 

「そうだよ幸村くん」

 

「……どういう意味だ、軽井沢」

 

 思わぬところから援護射撃が飛ばされ、幸村は驚きながらも尋ねた。

 

「いやさ、他クラスと仲間になることって、よくよく考えればいまさらじゃない?」

 

「言われてみれば……女王陛下の仰る通りでござるなあ」

 

 オレたちDクラスは、無人島試験に於いて一年Bクラスと正式な同盟関係を結んでいる。それは半永久的なものであり、試験内容によっては、その条約が適応される可能性も存分にある。

 今回は規模こそ違うが、その延長上にあるのだと、軽井沢は言っているのだ。やがて、幸村は落ち着いていった。

 

「話を続けよう。今回、きみたちが配属されるのは『卯』のグループ。そしてここにメンバーリストがある。必要を感じるのであれば、メモをとってくれても構わない。退室時には返却してもらうので、そのつもりで」

 

 言いながら、ハガキサイズの紙が渡される。そこにはグループ名である『卯』の文字と──『兎』とかっこで書かれていた。これからは馴染み深いこちらで表記した方が良いだろう──メンバーの名前が記載されていた。

 

 一年Aクラス──竹本(たけもと)(しげる)町田(まちだ)浩二・森重(もりしげ)卓郎(たくろう)

 一年Bクラス──一之瀬(いちのせ)帆波(ほなみ)浜口(はまぐち)哲也(てつや)別府(べっぷ)良太(りょうた)

 一年Cクラス──伊吹(いぶき)(みお)真鍋(まなべ)志保(しほ)(やぶ)奈々美(ななみ)山下(やました)沙希(さき)

 一年Dクラス──綾小路(あやのこうじ)清隆(きよたか)軽井沢(かるいざわ)(けい)外村(そとむら)秀雄(ひでお)幸村(ゆきむら)輝彦(てるひこ)

 

 他クラスでオレが知っているのは、一之瀬と伊吹の二人だけだな。

 中でも、伊吹に会うのが少々恐ろしい。この前の試験でオレは彼女に嫌われているだろうからだ。その原因は明白にオレなので、これを機に謝罪しておこう。

 

「うわー。伊吹さんいるし……」

 

 横の軽井沢が憂鬱そうにため息を吐いた。彼女たちの関係はとても複雑だ。なんせ、下着を盗まれた被害者と犯人である。学校側が対処しないと茶柱によって伝えられている以上──本来ならこのような対応はありえないだろうが──伊吹にペナルティが課せられることはない。だからこそ、軽井沢には煮えきらない想いがあるはずだ。しかし、昼、櫛田と話したように、そういった行動が微塵も見受けられないのはどういうわけなのか……。気になるが、これは部外者が首を突っ込んでは駄目だろう。頭の片隅に入れるので留めるのが賢明だろう。

 今はそれよりも優先するべきことがある。

 真嶋先生が話を再開させるべく、喉を鳴らす。オレたちはすぐに聞く姿勢をとった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。つまり、Dクラスではなく、兎グループとして行動をした方が賢明と言えよう」

 

 そうは言うが、それはおかしな話だろう。

 試験結果はクラス闘争に於いて非常に関わってくるはず。そもそも、何を以て『勝利』とするのか、その定義すら定まっていないのに、運営は何を望むのだろう。

 

「特別試験の各グループに於ける結果は四通りしかない。例外は存在せず、必ずどれかに当て嵌る。これはそういった試験だ。これを見なさい」

 

 言いながら、一人ひとりに次の資料が配布される。

 少しくしゃくしゃになっているのは、前のグループの生徒の所為だろう。つまり、この資料も生徒に持ち帰らせる気はないようだ。

 オレたちは命じられるがままにその資料に目を通す。それはホッチキスでとめられていた。一枚捲ると、分かっていたことだが、特別試験の基本ルールについて記載されていた。

 

 

 

§

 

 

 

 ─夏季グループ別特別試験説明─

 

 本試験では各グループに割り当てられた『優待者』を基点とした課題となる。定められた方法で学校に答えを提出することで、四つの結果のうち一つを必ず得ることになる。

 基本的なルールは以下の通りである。

 

 ・試験開始当日、午前八時に学校から一学年全生徒に向けてメールを送る。『優待者』に選ばれた者には同時にその旨を伝える。

 

 ・試験の日程は明日から四日後の午後九時までとする。なお、一日の完全自由日を挟むとする。

 

 ・一日に二度、グループだけで所定の時間及び部屋に集まり、一時間の話し合いを行うこと。

 

 ・一時間の過ごし方は各グループの自由とする。話し合いが望ましいが、最悪、部屋から出なければそれで良い。

 

 ・試験の解答は試験終了後、午後九時三十分から午後十時までの三十分とする。

 

 ・解答は、一人につき一回までとする。二回以上行った場合、学校側は受け付けない。

 

 ・解答は自分の携帯端末を使い、貼られたメールアドレスに送信すること。それ以外は一切受け付けない。

 

 ・『優待者』にはメールにて答えを送る権利が無い。

 

 ・自分が所属するグループ以外への解答は無効とする。

 

 ・試験結果については、最終日の午後十一時、一学年全生徒に向けてメールにて知らせる。

 

 

 

§

 

 

 

 大まかなルールとしては以上の通りだが、さらにルールは細かく枝分かれし、禁則事項も多い。これは下手したら先の特別試験よりも多いのではないだろうか。

 両隣の博士と軽井沢が絶句している。気持ちは分かる。これを覚えるのは大変だからな……。

 オレは控えめに片手を挙げて、

 

「すみません。これ、写真で撮って良いですか?」

 

「……まあ、良いだろう。ただし、誰かに電話、メールなどはしないように」

 

「もちろんです」

 

 重く頷き、オレはパシャリと画像に残した。博士と軽井沢も追従する。

 撮り終えたのを確認してから、真嶋先生はページを捲るよう指示を出す。はたして、そこには特別試験の『結果』について記載されていた。

 

 

 

§

 

 

 

 ─試験結果─

 

 ・結果Ⅰ──グループ内で優待者及び優待者の所属するクラスメイトを除く全員の解答が正解していた場合。グループ全員に50万prを支給する。さらに、優待者にはその功績を称え、50万prが追加で支給される。

 

 ・結果Ⅱ──優待者及び所属するクラスメイトを除く全員の答えで、一人でも未回答や不正解があった場合、優待者には50万prを支給する。

 

※《pr》とは、プライベートポイントの単位のことである。

 

 

 

§

 

 

 

 これはまた……一癖も二癖もありそうな試験結果だな。

 オレはクラスメイトをさり気なく横目で見た。全員、驚愕の色で顔を染めている。

 無理もないだろう。

 何せ、100万prすら獲得可能なのだから。はっきり言って破格すぎる。

 そして試験の鍵を握るのは『優待者』の存在だ。

 

「それでは口頭で説明をする。まず今回の特別試験に於いて、『優待者』は非常に大きなアドバンテージを持っている。これは分かるか?」

 

 流石にこれは全員分かったようだった。

 先生は話を続ける。

 

「例えばそうだな……綾小路、お前が『優待者』だとしよう。その場合、『兎』グループの全員が解答に『綾小路清隆』とすれば、おめでとう、きみたち全員に漏れなく50万prが入る。綾小路はさらに50万prが追加される。逆に誰か一人でも解答を間違えた場合、その時は綾小路だけが50万pr獲得出来る」

 

「改めて聞くと理不尽じゃん! ……です」

 

 軽井沢が思わずといったように声を上げる。丁寧語をぎりぎり言えたのは偉いな。

 真嶋先生は軽井沢に何故そう思うのかと尋ねた。彼女は慣れない敬語を使いながら、

 

「だって『優待者』に選ばれるだけでプライベートポイントが手に入るんでしょう!? そんなの『優待者』の一人勝ちじゃないですか!」

 

「俺も軽井沢と同意見です。真嶋先生、これは特別試験として成立しているとは思えません」

 

 さらに幸村が援護する。

 軽井沢と幸村の仲はお世辞にも良いものではなかったはず。しかしこうしてやっている。やはり何か心境の変化があったのだろう。

 そして二人の抗議は正論だ。

 しかしそんな二人を博士が諌める。

 

「まあ、待ち給えよ幸村殿、女王陛下。数々のアニメを制覇し、ラノベを読破してきた拙者が断言するでござるが、これは残り二つの試験結果が重要ということでござる。そうでありますでしょう?」

 

「……外村の言う通りだ。──突然だが、きみたちは『人狼ゲーム』というものを知っているか?」

 

 この場にいる全員が頷いた。

 

「知ってる知ってる! 超楽しいよね!」

 

 ね! と軽井沢がオレにそう言ってくるが、オレは返答に困った。

 瞳が揺らいだのを見た彼女が有り得ないとばかりに追及してくる。

 

「え!? 綾小路くん、やったことないの!?」

 

「……まぁな」

 

「なのに知ってるんだ!?」

 

「人狼ゲームを題材にした本は何冊か出版されているから、それを読んだことがある。それだけだ」

 

「……あー、流石は読書人間。けどなんかゴメン」

 

 謝られても困る。あと、その生暖かい目をやめて欲しい。

 人狼ゲームとは、元々は『汝は人狼なりや?』というタイトルのもので、アメリカのゲームメーカーが発売したものだ。パーティーゲームであるこれは、会話、そして自身の推理力を使いプレイヤーはゲームに臨んでいく。

 ルールはいたってシンプル。

 プレイヤーは、『村人』──村人の中でも何らかの『役割』が与えられる場合がある──、もしくは村人に成りすました『人狼』に分けられる。そして村人陣営対人狼陣営の戦いになる。

 人狼は村人を襲って殺すため、村人は殺されないために人狼を探し、殺す必要がある。

 ゲームには二つの時間がある。『昼』と『夜』である。

『昼』の時間帯はプレイヤー間での話し合いになり、プレイヤーは村人に扮した人狼を探す。そして人狼だと思われるプレイヤーを絞り、処刑する。つまりは村人の攻撃と言えよう。

『夜』の時間帯は人狼が村人を一人喰う。喰われた村人は死んだ扱いになるので、ゲームから強制的に脱落する。

 こうしてプレイヤーはゲームの進行とともに減っていき……どちらが生き残るのかを勝負するわけだ。

 ゲームの勝敗条件は、以下の二つ。『人狼がすべて死亡した場合』と、『村人の数が、人狼の数と同数、またはそれ以下となった場合』である。前者の場合は村人陣営が勝ち、後者の場合は人狼陣営が勝つ。

 問題は、何故、『人狼ゲーム』というものを話に出してきたのか。結果ⅠとⅡだけを考えるならば、その例えは意味をなさないだろう。全員で結果Ⅰを目指せば良い。仮に優待者が結果Ⅰを望まなかったとしても、それはそれで選択肢としてある以上、責めることは出来ないだろう。

 となると、やはり、博士が言ったように、結果ⅢとⅣに『何か』があるのは明白だ。その『何か』に、人狼ゲームという例えが繋がっているのだろうか。

 

「裏を捲りなさい。そこに試験結果ⅢとⅣが書かれている」

 

 オレたちは一斉に手を動かした。

 そして文字の羅列を凝視する。

 そこにはこのように書かれていた。

 

 

 

§

 

 

 

 ─試験結果─

 

 以下の二つの結果に関してのみ、試験中、二十四時間いつでも解答を受け付けるものとする。また試験終了後三十分間も解答を受け付けるが、どちらの時間帯でも間違えばペナルティが発生する。

 

 ・結果Ⅲ──優待者以外の者が、試験終了を待たず答えを学校に告げ正解していた場合。答えた生徒の所属クラスは50clを得ると同時に、正解者に50万prを支給する。また、優待者を見抜かれたクラスは逆に50clのマイナスを罰として課す。及び、この時点でグループの試験は終了となる。なお、優待者と同じクラスメイトが正解していた場合、答えを無効とし、試験は続行する。

 

 ・結果Ⅳ──優待者以外の者が、試験終了を待たず答えを学校に告げ不正解だった場合。答えを間違えた生徒が所属するクラスは50clを失うペナルティ。優待者は50万prを得ると同時に、優待者の所属クラスは50clを獲得するものとする。答えを間違えた時点でグループの試験は終了となる。なお、優待者と同じクラスメイトが不正解した場合、答えを無効とし受け付けない。

 

 

 

§

 

 

 

 これで試験の全貌が明らかになった。

 結果ⅠとⅡだけだったら、試験の内容はとても簡単だった。何せ、全ては優待者の自由だ。どちらの結果になっても誰も損はしない。

 しかしここで、結果ⅢとⅣが特別試験を混沌なものに豹変させる。

 そこに(いざな)うのが『裏切り者』。

 これだと誰も自分が『優待者』だと名乗ることはないだろう。『裏切り者』に捕食されかねないからだ。

 プライベートポイントだけでなく、クラスポイントすらも獲得が可能なのだ、今後のクラス闘争のためにも、結果ⅠやⅡを待つことは出来ないだろう。

 無論、『裏切り者』にも相当の覚悟が必要ではある。もし誤った解答をしてしまった場合、自分の所属するクラスの足を引っ張るだけでなく、『優待者』のクラスにはポイントを与えてしまうのだから。

 だが『裏切り者』は確信を持ったら必ず、躊躇うことなく裏切るだろう。

 

「今回、学校側は匿名性についても充分に考慮している。試験終了後の結果発表では、各グループの結果と、クラス単位でのポイントの増減のみ発表する」

 

「つまり、『優待者』や『裏切り者』の名前は一切公表しないということですか?」

 

「ああ、これは非常に扱いが難しいからな。虐めが生まれる危険性も孕んでいる以上、当然の措置だ」

 

 匿名性ということで、様々なことを学校側に要求出来るようだ。ポイントを振り込んだ仮IDを発行して貰うことや、分割での支給などである。

 だがそこにも限界があるだろうが……指摘しても仕方がないか。

 この特別試験、『優待者』を見付けるのが勝利に繋がるのは間違いないが、それは果てしなく至難だろう。

 今回の特別試験のクリア方法を簡潔に纏めると以下の通りになる。

 

 ・グループ全体で『優待者』が誰なのかを共有し、クリアする、『全員』の勝利。

 ・最後の解答を誰かが間違え『優待者』が勝利する。

 ・『裏切り者』が『優待者』を見付け出す。『裏切り者』及び、その者が属するクラスの勝利。

 ・『裏切り者』が判断を誤る。『優待者』及び、その者が属するクラスの勝利。

 

 面白いのは、四つ全てに報酬が約束されていることだろう。

 そしてクラスポイントが絡む以上、上手く運べば、DクラスがAクラスに下克上をすることも不可能ではない。

 それだけの『可能性』がこの試験にはある。

 だからこそ禁則事項が細かくあるのだろう。

 

「この場で伝えておこう。きみたちにはプライベートポイントがある。原則的にはプライベートポイントで買えないものはない。それは事実だが──」

 

 と、そこで真嶋先生はちらりとオレを一瞥した。あの時のオレの行動を、彼も注意しているのだろうか。説明を続ける。

 

「この禁則事項を変更することは出来ない。これは絶対だ。仮に2000万pr出されても学校側は認めない」

 

 特別試験が成立しないのだから当然だな。

 オレは紙を捲り戻し、改めて禁則事項を見た。

 先程はさらっと流していたが、『退学』という文字が書かれていた。退学処罰を受ける行為としては、他人の携帯を盗む、脅迫行為によって『優待者』の情報を入手する、勝手に携帯を操作して解答を学校に送るなどといったものだった。さらに、最終試験終了後はすぐに解散しなければならないようで、一定時間、他クラスとの生徒同士での話し合いは禁じられるらしい。いざこざを未然に防ぐためだろう。ここにも『退学』の二文字が。

 明日の午前八時に学校から送られてくるメールには『優待者』の情報がある。このメールのコピー、削除、転送、改変などの行為も禁じられている。これは『退学』とまではいかないようだが、それでもかなりの重い罰が課せられる。逆に裏を返せば、このメールは絶対的な意味を持つ。情報の強奪は禁じられているが、許可する、あるいは、許可されれば何も問題ない。そういった共有の際には確実な信頼を得ることが出来るだろう。

 言葉に意味を持たせるためか、怪しい行為があった場合は運営による徹底した調査が行われるという旨が、ここだけ赤字で書かれていた。場合によっては、専門家すらも参加するらしい。

 そして特別試験の説明は最終段階に移っていく。

 

「きみたちは明日から、午後一時、午後八時の時間に、指定された部屋に向かって貰う。試験中は扉にグループの名前が印刷されたプリントが貼られている。間違った部屋に入ることはこれでないだろう。そして初日だけは、初顔合わせなので、自己紹介を必ずやって貰う。それさえ終われば、あとは好きにしてくれて構わない」

 

 自然とオレたちは顔を引き締めていく。

 真嶋先生は生徒一人ひとりを見渡してから、おもむろに口を開けた。

 

「これで特別試験の説明を完了する。きみたちの健闘を祈る」

 

「「「「はい」」」」

 

 この部屋はあと三十分は好きに使って構わない、という言葉を残して、真嶋先生は部屋をあとにした。

 部屋はしばらくの間無音だったが、不意に、「はあ」というため息が静寂を断ち切った。  

 軽井沢が両腕を組みながら、

 

「まっ、面倒臭いけどやるっきゃないかー。このメンバーだと色々と不安だけど……」

 

 そう言って、彼女はまたもやため息を吐く。

 次に言葉を発したのは幸村だった。

 

「俺もそれは同感だな。とはいえ、同じグループになった以上は協力するしかない」

 

「で、ござるねえ……」

 

「綾小路も異論はないな?」

 

「ああ」

 

 オレが頷くと、残りの一人に視線が集まる。軽井沢は億劫そうにしながらも頷く。

 幸村は眼鏡をくいっと上げながら、一つの提案をした。

 

「明日、学校からメールが送られてくる。もしかしたらこの四人の誰かが『優待者』に選ばれるかもしれない。もしそうなっても、不用意に集まるのはやめよう。しっかりと安全な場所で報告しあった方が良いだろう」

 

 その言葉を皮切りに、今度こそオレたちは解散した。

 さてと、まずは堀北に報告をするか。チャットアプリを開き、簡潔に作った文と、部屋で撮った写真を全て送る。

 自室に戻りながら、オレは今回の特別試験について思考を巡らせる。そして自分に何が出来るのか、何が出来ないのか、その境目を早々に区切った。

 この試験、間違いなく荒れるだろう。そんな確信を胸に、オレは廊下を歩き続けた。



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干支試験──堀北鈴音の勝率

 

 ふわあ、と欠伸を噛み締めながら、オレはゆっくりと覚醒した。眠気眼を摩り、室内を見渡すと、オレ以外誰も居なかった。

 どうやらみんな、先に朝食を食べに行ったようだ。寝間着から外着に着替えて部屋から出る。

 廊下は生徒で溢れていた。

 

「おいおい、また試験かよ……」

 

「ほんと、ふざけてるとしか言いようがないよな」

 

「夏のバカンス? 何それ美味しいのって感じだよ」

 

「──この世界に神はいない。この世界に神はいないんだ!」

 

「しかも他クラスと協力するんだろ? それなんて無理ゲーだよ……」

 

 話題はやはりと言うか、特別試験に関してのものが圧倒的に多いようだった。

 エレベーターは混雑しているようなので、階段を使い一階に下りる。船の看板に足を向け、そこにあるカフェ、『ブルーオーシャン』に入店した。既にピークは過ぎたのか、客の姿はない。

 これは好都合だな。

「お好きな席にどうぞ」というスタッフの言葉に甘え、オレは日陰にあたる不人気そうな席を選んだ。適当に軽食を注文し、待ち人を待つ。時刻は七時半。これなら問題ないだろう。

 約束の時間五分前になったところで、その人物は現れた。

 

「おはよう。早いのね」

 

 堀北(ほりきた)はテーブルの上に置かれた空になった丸皿を見て、そう、挨拶をしてきた。オレは「まあな」と返事をし、対面に座るよう促した。

 

「堀北は済ませたのか?」

 

「……ええ、櫛田(くしだ)さんと済ませてきたわ」

 

「随分と仲良くなったじゃないか」

 

 すると堀北は半眼になった。

 これ以上は身の危険を感じるので、咳払いをして、早速話の本題に入る。

 

「それで? そっちはどうだったんだ?」

 

 昨日。オレは堀北に特別試験が開催されること、そして、その情報をチャットアプリで送った。しかし、目の前の彼女は自らの情報を送ってくることはしなかったのだ。唯一来た連絡といえば──。

 

「ここで会う提案だけとか、堀北、お前……」

 

 不満を言うが、堀北はすまし顔で、

 

「だってあなた、こうしないと来ないじゃない」

 

 違うかしら? と無言で聞かれたら、オレは答えに窮するしかなかった。

 視線を泳がしながら尋ねる。

 

「……そ、それで、学校からの呼び出しや詳細は一緒だったのか?」

 

「ええ、あなたが送ってきた資料通りだった。十二のグループ、四つの試験結果、そして──」

 

 堀北の言葉を遮るようにして、キーンという甲高い音が鳴る。オレたちは話を中断させた。アラームを解除し、一秒の誤差もなく送られてきたメールに目を通す。

 午前八時、つまり、今送られてきたメールは学校からのもので、試験に関する重要な情報が載せられている。

 そこにはこのように書かれていた。

 

『厳正なる調整の結果、あなたは優待者に選ばれませんでした。グループの一人として自覚を持って行動し、試験に挑んで下さい。本日午後一時より試験を開始致します。本試験は三日間行われます。(うさぎ)グループの方は二階にある兎部屋に集合して下さい』

 

 堀北が読み終えるのを待つ。

 そして無言で互いの携帯端末を交換した。

 内容は『ほぼ同じ』だった。相違点はグループ名と集合場所のみ。オレが『兎』なのに対して、彼女は『(りゅう)』グループのようだった。

 

「優待者に選ばれたら文面が『選ばれました』になるのでしょうね」

 

 堀北は不快感を隠そうともしなかった。

 確かに文章をそのまま受け止めたら、『優待者』に選ばれるためには何らかの『条件』があると思った方が良いだろう。『厳正なる調整の結果』という一文から、それは明白だ。

 その『条件』が何か分かれば、この試験、勝ったも同然だろうが、簡単にはいかないだろう。

 

「『優待者』のことを考える前に、まずは『竜』グループの構成メンバーを教えてくれ」

 

「……それもそうね。先に言っておくけれど、見たら驚くと思うわ」

 

「驚く……?」

 

 不思議に思いながら、彼女からメモ帳を受け取る。一目見た瞬間、オレは言葉の意味を理解した。

 そこにはこのように書かれていた。

 

 

 

§

 

 

 

 ─『(たつ)(竜)』グループ─

 

 一年A組──葛城康平(かつらぎこうへい)西川亮子(にしかわりょうこ)的場信二(まとばしんじ)矢野小春(やのこはる)

 一年B組──安藤紗代(あんどうさよ)神崎隆二(かんざきりゅうじ)津辺仁美(つべひとみ)

 一年C組──小田拓海(おだたくみ)鈴木秀俊(すずきひでとし)園田正志(そのだまさし)龍園翔(りゅうえんかける)

 一年D組──櫛田桔梗(くしだききょう)平田洋介(ひらたようすけ)堀北鈴音(ほりきたすずね)

 

 

 

§

 

 

 

 そこでオレは言葉の意味を悟った。

 彼女が言ったように、明らかに()()()()()

 各クラスの中核を担う、もしくは、潜在能力(ポテンシャル)が高い生徒でグループが構成されている。

 Aクラスの葛城や、Bクラスの神崎、Cクラスの龍園、そして我らがDクラスでは、櫛田、平田、そして、目の前の堀北。

 偶然、ではないだろう。このグループは意図的に作られていると()るべきだ。

 

「苦労するだろうな」

 

他人事(ひとごと)のように言うのね」

 

「気分を害したなら謝る」

 

 謝意を示すと、堀北は鼻を鳴らした。

 しかし前言を撤回するつもりはない。

 Dクラスで組める最強の布陣であることは間違いないだろうが、苦戦は必至だ。

 Aクラスには冷静沈着な男、葛城がいるし、Bクラスには頭が切れる神崎が、そして、Cクラスには何をするか分からない不気味な龍園。

 特に龍園は本気で『勝ち』にくるはずだ。

 瞼を閉じればあの時、椎名(しいな)が浮かべた表情が想起される。()()()()()()()()()()()()()()

 思案していると、堀北が眉を寄せながら、

 

「けれど一つ腑に落ちない点があるわ」

 

「そうだな。つまり、お前が言いたいのは──」

 

「ええ、一之瀬(いちのせ)さんの不在よ。私たちの予想が正しければ、彼女が『竜』に配属されていないのはおかしい」

 

 一之瀬帆波(ほなみ)。Bクラスのリーダーである彼女が『竜』にいないのは変だ。

 

「私は相応の理由があると考えているわ」

 

 そう言って、じっとオレを見つめてくる。

 中々核心に触れてこない堀北に、オレは静かに尋ねた。

 

「……何が言いたい?」

 

「彼女が配属されたのが『兎』グループじゃなかったら分からなかった。けれど『兎』には綾小路くん、あなたがいる」

 

「それはつまり、()()()()()()()()()()?」

 

「ええ」

 

 ふむ……筋は一応通っているか。

 問題は一之瀬がそれを知っているか知らないか。

 各グループの配属が作為的なものだと考えた場合、それぞれの担任が決定権を持っていることは明白だ。

 Bクラスの担任は星乃宮(ほしのみや)先生だったか。となると、一之瀬のこれは彼女の独断か? とてもではないが、憶測を越えないな。

 

「無人島試験に於いて、私──堀北鈴音の活躍があってDクラスは勝てたと……そう、噂が流れてるわ。そしてその噂は櫛田さんが流しているそうじゃない」

 

「友達の努力が実ったのが嬉しかったんだろうな」

 

「綾小路くん、あなたでしょう? 彼女に指示を出したのは」

 

「質問を質問で返すようで悪いが、どうしてそう思う?」

 

「彼女は絶対にそんなことしないわ。嫌っている相手のために、そんなことをするメリットがないもの」

 

「なら答えをはぐらかせることなく言うと、答えは『Yes』だ。オレが頼んだ」

 

 櫛田の影響力は学年を優に超え、学校全体にまで及ぶ。彼女はオレの指示に従い、『堀北鈴音の台頭』を友人との会話に刷り込ませた。

 そして意図的に噂を作り、拡散させた。特別試験が三日しか経っていないのにも拘らず、この噂は密閉された船内ということも相まって、一年生のほぼ全員が知っているだろう。

 

「言い訳をするが、時間の問題だったぞ」

 

「……ええ、分かっている。クラスメイトの前であんな『嘘』を吐いたんだもの、覚悟はしていたし、している」

 

 これからは堀北は、平田や軽井沢(かるいざわ)、櫛田などと一緒にクラス闘争に臨むことになる。彼女の注目度は時間が経てば経つ程に上昇するだろう。

 そして反比例にオレはいつもの日常に戻っていく作戦だ。願わくば、争いとは無縁の生活を送りたいものだ。

 

「綾小路くん、一之瀬さん……ひいては、星乃宮先生には気を付けた方が良いと思うわ」

 

 どうやら純粋に心配してくれているらしい。本当、良い具合に角が丸まったな。

 オレは有難くその忠告を受け取ることにした。

 

「分かった。けどこの際だから伝えておくが、今回、オレが出来ることは限られていると思う」

 

「……そうね。お互い、苦労すると思うわ」

 

 それはひとえに、特別試験の内容が関係してくる。

 他クラスとの『話し合い』が大前提で必要になる中、オレはその分野では向いていないし、かなり警戒されているだろう。

 下手したら、『話し合い』が成立するかも怪しいところだ。

 

「今回、『優待者』に選ばれたか否かはとても重要よ」

 

「そうだな。そしてオレたちは違う」

 

「クラスの誰が『優待者』なのか分かれば、『条件』に辿り着く手掛かりになるのだけれど……」

 

 それは難しいと言わざるを得ないだろう。仲間に背中を預ける覚悟が必要だ。全幅の信頼を寄せなければならない。だが──。

 

「平田くんはきっと、『優待者』については自己申告制にするでしょうね」

 

「葛城も、一之瀬も、似たような方針をとるだろうな」

 

 今回のこの試験、それだけの危険性を孕んでいる。

『百』のために『一』を犠牲にする──極端だが、クラス崩壊が起こってもおかしくはないだろう。

 なら最初から各々の判断に任せた方が良いだろう。自己責任という形を作った方が安全だ。

 と、堀北はオレの言葉が気になったのか尋ねてきた。

 

「龍園くんは違うと?」

 

「分からない」

 

 すると彼女は目を伏せ考え込んだ。

 二分が経ったところで、堀北は首を横に振る。

 

「……彼が噂通りのひとなら、確かにそのような策を練るかもしれない。クラスメイト全員に『メールを見せろ』と言えば、試験の『根幹』に挑める挑戦権を得ることが出来るわ。けれど綾小路くん、それは不可能よ」

 

「不可能、か……。どうしてそう思う?」

 

「龍園くんではなく平田くんや一之瀬さんだったら可能かもしれない。けれど彼には無理よ。全員が彼の指示に従うとは到底思えないわ」

 

「それは禁則事項に抵触するからか?」

 

 堀北は頷いた。

 特別試験には禁則事項がある。字の如く、犯してはならないルールのことだ。もし破った場合、違反者にはそれ相応のペナルティが課せられる。

 その中には、『他人の携帯を勝手に使わず、メールを開いてはならない(意訳)』というものが含まれている。もし龍園が無理矢理クラスメイトのメールを見ようとした場合、彼には『退学』という一番重い罰が与えられる。

 

「いつの世も暴君の末路は決まっているわ。圧政者は民から見放され、断頭台に登るのよ」

 

「──面白いことを言うじゃねえか」

 

 すっと、頭上に影がさした。

 オレたちが座っている席は日陰があまり当たらない場所だが、今、突然の来訪者によって完全に陽の光は遮られた。

 オレたちは会話を中断し、犯人に視線を送る。そこには一年C組の『王』を名乗る不遜な生徒、龍園翔と、彼に仕えるようにして、伊吹澪(いぶきみお)の二人がオレたちを見下ろしていた。

 どちらもオレの知り合いだ。

 しかし彼らの興味は現在堀北にあるらしい。

 

「はじめまして、かしら」

 

「ククッ、確かに、こうして(じか)で話すのは初めてだな」

 

「自己紹介をする必要は?」

 

「あるぜ。何せ、俺はこれまでお前にノーマークだったからなあ」

 

 龍園が早々に堀北を(あお)り、言外に、警戒する程の相手──『敵』として見なしてなかったと告げている。

 だが堀北は凛とした佇まいを崩さない。

 

「あら、それはあなたの見る目がなかった、それだけのことじゃないかしら」

 

「ほう……中々言うじゃねえか」

 

 龍園は獰猛な笑みを浮かべる。

 そして彼は何を思ったのか、近くのテーブル席をこちらにくっ付けた。注文を取りに来たスタッフに、

 

「追加注文だ。俺はコーラを」

 

「畏まりました。そちらのお客様は如何なさいますか?」

 

「……オレンジジュースで」

 

「畏まりました」

 

 彼は慇懃(いんぎん)に一礼してから、離れていった。数秒後、頼んだドリンクが運ばれてくる。そこでようやく、堀北に意識を戻した。

 

「それで、お前の名前は?」

 

「ひとに名前を尋ねる時はまずは自分から名乗るのではなくて?」

 

「おっと、これは失礼。名乗る必要がないと思ったんだ。許せ」

 

「……どこまでふざけるのかしら」

 

 一言言葉を交わす度、堀北の表情が歪んでいく。分かってはいたが、彼女と彼は正しく『水と油』。絶対に相容れることはないだろうな。

 無言の睨み合いが続く。

 先に折れたのは、結局、堀北だった。無駄な時間だと判断したのだろう。嘆息してから、

 

「堀北鈴音よ」

 

「そうか。まあでも、知っていたがな」 

 

「……あなたにはひとを怒らせる特技があるようね」

 

 今にも龍園に掴みかかりそうな勢いだ。

 龍園はさらに嬉々として燃料を投下する。

 

「おいおい、これくらいで怒るなよ、()()

 

 とうとう堀北の背後に修羅(しゅら)が顕現した。

 オレは心の中で合掌する。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)……。

 

「気安くひとの下の名前を呼ばないで」

 

「おいおい、下の名前で呼ぶことによって、そこに信頼関係がうまれるんだろうが」

 

「減らず口を」

 

「何だったら、鈴音も俺を『翔』と呼んでも構わないぜ?」

 

 オレは呆れを通り越して感服した。

 常々思っていることだが、こうやって、自分がしたいように行動出来ることは凄いだろう。まあ、時と場所を選んで欲しいとは思うが……。

 傍観していたオレは、このままでは埒が明かないため、もう一人の傍観者に視線を送った。

 

『伊吹』

 

『……』

 

『伊吹』

 

『…………なに?』

 

『龍園をなんとかとめてくれると助かる』

 

『断る。別に、私に被害があるわけじゃないし』

 

 そう言われると弱いな……。

 オレと伊吹が目で会話をしているこの最中にも、堀北と龍園の会話は激化の一途を辿っている。

 はあ、と、オレはため息を吐いた。仕方がない、ここはオレが口を出すか……。

 

「あー、二人とも」

 

「何かしら綾小路くん。あいにく、あなたに構っている暇はないのだけれど」

 

 ……まさかの、味方に罵倒された。かなりショックを受けていると、さしもの伊吹も同情してくれたのか、龍園に声を掛ける。

 

「龍園、そろそろ……」

 

「あぁ……? 見ての通り、俺はいまこの愉快な女をおちょくるのに忙しいんだが」

 

「そんなのいつだって出来るでしょ。この後は用事があるんだから、早く話を終わらせて」

 

「ちっ、仕方ねぇな」

 

 龍園はそう言って矛を収めた。

 オレは伊吹に感謝の眼差しを送ったが、悲しきかな、無視された。

 

「あなたと話していると疲れるわ……。それで結局、何をしに来たの?」

 

 堀北がこめかみを押さえながら、用件を尋ねる。彼女からしたら一刻も早く立ち去って欲しいのだろう。

 

「ククッ、なに、宣戦布告さ。俺も本格的にゲームに参加しようと思ってな」

 

「クラス闘争をゲームと言うのは、あなたくらいのものでしょうね」

 

「ははっ、そう、褒めてくれるな」

 

「貶めているのよ」

 

 堀北に罵倒されても、龍園は余裕の笑みを崩さない。

 

「下準備は済んだ。あとは『勝つ』だけの単純作業だ」

 

「そう……。なら勝つことを確信している龍園くんに聞くけれど、あなたはこの干支試験、負ける気はないのね」

 

「当たり前だ。あぁそうだ、鈴音。はじめに言っておくが、俺は『優待者』じゃないぜ」

 

 龍園の発言に堀北と伊吹が息を呑む。そして二人とも彼を睨んだ。

 敵である堀北からしたらブラフを考え、『答え』を知らされているかもしれない伊吹からしたら、龍園の行動に文句を言いたいのだろう。

 

「信じられないって顔だな」

 

「あなたの話を馬鹿正直に信じるひとがいるとは思えないけれど」

 

「なら綾小路、お前はどう思う?」

 

 と、ここで龍園は沈黙していたオレに話を振ってきた。どう思う、か……。オレは言葉短く、

 

「興味がないな」

 

「ほう……。それは何故だ?」

 

「龍園、お前のその言葉が正しいのか、あるいは嘘なのか、そんなことは関係ない。お前の遊びに乗ってやるほど、オレは暇じゃない」

 

 確定された情報なら兎も角として、真偽が五分五分なら、それは考えるに値しない。

 

「ははっ、それもそうか。──なら、これならどうだ?」

 

 龍園は薄く笑うと、自身の携帯端末を上着のポケットから取り出し、何か操作をしたと思ったら、液晶画面を上にして、テーブルの上を走らせた。

 画面を覗き見た堀北が驚愕する。

 

「……本当に、『優待者』じゃないのね……」

 

 言いながら、オレにも見せてくる。画面に表示されているのは、学校からつい先程送られてきたメール。

 オレと堀北と同じ文面だ。

 

「あなた……正気?」

 

「酷い言い草だな。俺は自身の潔白を証明しただけだぜ?」

 

 やれやれだぜと、龍園はわざとらしく肩を竦める。

 堀北は険しい表情のまま、彼に詰問する。 

 

「龍園くん、あなたがそこに居る綾小路くんと繋がりがあるのは、こうして話して分かったわ」

 

「そうか。随分と遅かったな。平田や一之瀬の方が何倍も早かったぜ」

 

「……だからこそ、二人がこうして一緒に居るタイミングで、率直に聞くわ。あなたたちは今回も裏で共謀するの?」

 

「──ククッ、クハハハハハハ!」

 

 龍園は腹を抱えて大声を出して笑い出す。隣の伊吹が十センチメートル程距離を離したが、彼はそんなことはお構いなく、笑い続けた。

 

「良いな、お前。まさか直接聞いてくるとは思わなかったぜ。この暇潰しにも価値があったってことだ」

 

「……質問に答えなさい」

 

「なら俺も、嘘偽りなく答えよう。安心しろ、そんなことは起こり得ない」

 

 オレをちらりと一瞥し、言葉を続ける。

 

「そもそも俺と綾小路がこれまで裏、そしてさらに裏の裏で繋がっていられたのは、互いに利害があったからだ。だがそれは切れた」

 

「……それは何故かしら?」

 

「ククッ、全てを教えるわけにはいかねぇな。ただ一つ言うならば──俺はこいつを怒らせたのさ」 

 

「だそうだけれど、綾小路くん、どうなの?」

 

「怒るようなことをされた覚えがないが……」

 

 龍園は可笑しそうに笑った。そしてふと思い出したように隣の伊吹に話を振る。

 

「そういえば……お前の怒りは収まったのか?」

 

「はあ?」

 

「お前、この前まで俺や綾小路に怒り心頭だったじゃねえか」

 

「ああ……そのこと」

 

 合点したのか、伊吹は嘆息した。

 オレンジジュースで喉を潤し、龍園、そしてオレを見てから、再度ため息を吐いた。

 

「……もう良い。騙された私が悪いから。っていうか、あんたたちに構ってる暇がない。ただでさえひよりに振り回されているんだから」

 

「「「……」」」

 

 オレ、堀北、龍園の三人は思わず同情してしまった。

 天然少女である椎名を制御するのに多大なる労力を必要とし、頑張っているのだろう。

 

「伊吹さん……あなたも苦労しているのね……」

 

「ちょっと、その憐れみの目をやめてくれない」

 

「確かあなたは綾小路くんと同じ『兎』グループだったわね。苦労すると思うけれど、頑張って。こう言うのも変だけれど、敵ながら応援しているわ」

 

 あの堀北が他者を気遣うなんてな……。

 

「俺からもひよりのお守りを任せるぜ」

 

「龍園! っていうか、本来なら綾小路、あんたの役目でしょうが!」

 

「そんなことを言われても困る」

 

 クラスが違うのだから、それは無理ってものだ。

 何とも言えない空気が暫し流れる。

 と、龍園が仕切り直しとばかりに、再び、堀北に狙いを定める。

 

「お前が先の試験で活躍したという噂が流れているようだな」

 

「ええ、らしいわね」

 

「馬鹿な奴らはその噂を信じきっているんだから滑稽だぜ。九割の嘘に、一割の真実。人間って生き物はそれを判断出来ない」

 

「なら龍園くん、あなたがその噂を嘘だと言えば良いじゃない。全ての策を考えたのは綾小路清隆であり、堀北鈴音は利用されただけの女だと吹聴すれば?」

 

「面白いことを言うなぁ、お前。実行してやっても良いぜ」

 

 すると堀北は「ふっ」と鼻で笑った。

 眉間に皺を寄せる龍園に、彼女は言う。

 

「あなたにはそれが出来ないわ。綾小路くんが裏で動いていたことを知っている人間は、私の推測では十人前後、といったところかしら。けれど私を含め、彼らは決して口を割らない。()()()()()()()()()()()。違うかしら?」

 

「否定はしない」

 

「……互いに武器を持っているから、ってこと?」

 

 伊吹が小さく尋ねた。

 堀北は「ええ」と頷き、それから、オレに強烈な視線を送る。

 

「しかもその『武器』は生半可なものじゃない。はっきり言って冷戦に近いわね」

 

 彼女が断言すると、伊吹は有り得ないものを見るような目でオレを見た。

 その瞳の奥にあるものを確かめようしたところで、龍園に遮られる。

 

「この前はAクラスを徹底的に攻撃したが、今回はどのクラスにも行うぜ。精々足掻くんだな」

 

「なら私も、『王』を名乗るあなたを斃したという『功績』欲しさに、正面から相手しましょう」

 

「威勢が良いじゃねえか。()()()()()()()()()。今回の『干支試験』、致命的までにお前たちには向いていない」

 

「あら、それはあなたも同じでしょう?」

 

 堀北の指摘に、龍園は無言の笑みで答えた。

 それは虚勢か、はたまた自信の表れか。

 

「さあ、ゲームを始めよう」

 

 龍園は話は終わったとばかりに椅子を引く。どうやら、彼の用事は終わったようだ。

 そして俺たちを見下ろす。目が合うと、彼は唇を動かして何かを言いかけたが、音になる寸前でとめたようだった。

 

「また会おう。行くぞ伊吹」

 

 別れの言葉を一方的に告げてから、龍園は伊吹を引き連れてカフェから姿を消す。

 騒々しさがなくなり、静寂が訪れた。

 

「龍園くんたち、偶然ここに来たわけじゃないわよね?」

 

 確認を求めてきたので、オレは同意を示した。

 

「そうだな。おおかた、オレか堀北に見張りを派遣していたんだろう」

 

 手下に見張りをさせ、場所を特定させる。

 そして八時になり、一斉メールを確認してから強襲してきた……そんなところか。

 

「Bクラスとの同盟はどうする?」

 

「このあと協議する予定よ。Dクラスからは私と平田くんが。Bクラスからは一之瀬さんと神崎くんが。とはいえ、既にある程度は決まっているけれどね」

 

 今回の干支試験は同盟として扱わないだろう。長く付き合うためにはそれが堅実な一手だ。

 

「このあと、九時からの予定よ。終わったら話の内容をクラスのチャットアプリに送るわ」

 

 報告・連絡・相談は大事だからな。

 それから堀北がオレを直視し、このように言った。

 

「綾小路くん。今回の干支試験、私は今の私の全力を出して臨みたいと思う」

 

「そうか」

 

「だから手助けは無用よ」

 

「オレは一度も手助けなんてしていない。ただ機会を作っただけだ」

 

 オレはいくつかの選択肢を提示してきただけに過ぎない。

 

「率直に聞くわ。私の勝率は何パーセントある?」

 

 いきなりのことに面食らった。

 ぱちくりと瞬きしてから、静かに尋ねる。

 

「……確認するが、『勝利』の定義は?」

 

「クラスポイント及びプライベートポイントの総獲得数」

 

 淀みなく即答した。

 面白くなったオレは目を伏せ思案する。

 現在の堀北鈴音が全ての潜在能力を発揮した状態での勝率を──。

 あらゆる観点から考え、オレは答えを出した。

 

「十パーセント前後だな」

 

 告げた数値はあまりにも低いものだった。

 堀北は表情を強張らせ、小さな声で呟く。

 

「そう……」

 

 てっきり反論なり罵倒なりされると思っていたが、堀北は怒りを顕にすることはなかった。

 ただ冷静にオレの言葉を受け止めている。

 

「三十パーセントはあると思っていたのだけれど」

 

「そうだな。オレも最初はその辺だと考えた」

 

「なら、どうして?」

 

 オレは彼女の問いに答えなかった。

 オレの反応が雄弁に語っていると、堀北はすぐ気付く。

 

「なるほど。その理由に辿り着くことが、私の『勝利』に繋がるのね?」

 

「ああ」

 

 話すことは話した。

 オレたちは椅子から立ち上がり、カフェをあとにした。エレベーターを使い、オレだけが三階で降りる。三階に男子生徒の部屋があるからだ。ちなみに女子生徒は一個下だ。

 

「じゃあな」

 

「ええ、また会いましょう」

 

 堀北と別れを済ませ、喧騒で響く廊下を渡る。

 自室に戻ったオレはベッドの上で仰向けになる。

 こうしている間にも他クラスは何らかの戦略を練っているに違いない。

 だが残念なことに、今回、オレに出来ることは高が知れている。

 堀北には十パーセントと言ったが、実際のところ、もっと低い数値をオレは出していた。

 

 ──高くて五パーセント。

 

 それがオレの出した結論だ。

 だからこそ楽しみでもある。

 長期休暇に行われる特別試験。

 クラス闘争、一つの区切りになるこの試験で、堀北がどれだけ戦えるのか。

 注目している生徒は堀北だけじゃない。

 はたして彼らはどのような行動をするのか、そして誰が干支試験の『根幹』に辿り着けるのか。

 十二匹の獣の乱闘が、いま始まろうとしていた。

 



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干支試験──グループディスカッション一回目

 

 干支試験が始まる十三分前、オレと幸村(ゆきむら)は部屋の前で外村(そとむら)を待っていた。

 オレと幸村は同室のため、自然と一緒に行く流れになり、そこから、連絡先を持っているオレが外村に連絡を取り、Dクラス男子陣は一緒に試験会場に赴こうと事前に約束をしていたのだ。

 

「遅いな……」

 

 壁に身体を預けている幸村からは微かな苛立ちを感じる。

 本当は試験開始十五分前に集合の約束をしていたのだが、二分を過ぎても、彼の怒りの矛先である人物はなかなか姿を現さないのだ。

 

「どうする綾小路(あやのこうじ)。置いていくか?」

 

「いや……あと三分待とう。ギリギリまで待った方が良いと思う」

 

 試験開始前から不和が生じるのは避けたい。

 幸村は長いため息を吐いた。

 

「一応、チャットでもメッセージを送ってみる」

 

 上着の内ポケットから携帯端末を取り出し、オレは待ち人に簡潔な文章を送った。

 しかし既読はつかない。

 外村はオレたちと同じ階層にいるはずで、また、借りている部屋はクラスごとである程度の区画が出来ている。なので、近くの閉められている扉を片っ端から開けていけば、彼を呼ぶことは出来るだろう。

 だがそんな時間的猶予はないし、些か、常識にも欠ける行為だろう。こんなことで先生に怒られたくはない。いやそもそもの話、部屋に居るのかすら定かじゃない。

 

「ああ、全く! 外村は何をしているんだ!?」

 

「昼寝しているのかもしれないな」

 

 軽く冗談を言った、その時だった。

 携帯端末が小刻みに震え、メロディが流れる。

 

「……もしかして外村か?」

 

「あ、ああ……」

 

 液晶画面には『外村秀雄(ひでお)』という文字が。

 出ろ、という無根の圧力が掛けられ、オレはボタンをタップし、端末を耳に当てた。

 

「もしもし──」

 

『コ、コポゥ。あ、綾小路殿でござるか!? 吾輩は外村である!』

 

「あ、ああ……そうだけど」

 

 一瞬、掛ける相手を考えずに電話をしているのか? と思ってしまった。

 幸村にも聞こえるよう、オレはスピーカーモードに変更する。そんなことを露ほども知らない外村は、衝撃的なことをオレたちに言ってくる。

 

『綾小路殿ー、お助け!』

 

「……何かあったのか?」

 

『イエスでござるよ! 拙者、ただいま、絶体絶命の窮地に追いやられているのでござる! ……コポゥ。こ、これが三途の川なのでござるか……?』

 

「いったい何が起こっている?」

 

 聞こえてくる声音からは焦燥がありありと伝わってくる。

 苛立っていた幸村もいまは表情を変えている。

 

「まずは落ち着け。博士、お前はいまどこにいるんだ? 助けにいけるかもしれない」

 

 そう尋ねると、彼はこのように言った。

 

『トイレでござる』

 

 瞬間、オレの頭は空白になった。

 見れば、幸村も口を半開きにして呆然としている。

 固まるオレたちに、外村はさらにこのように言ってきた。

 

『いやはや、鰻重(うなじゅう)を三つも食べては駄目でござるなあ。満腹でござる。そして腹の調子が悪いでござる。控えめに言って、気分は最悪でござるよ……』

 

「馬鹿かお前は!?」

 

『そ、その声は幸村殿でござるか……?』

 

「あぁそうだ! お前、試験には間に合うんだろうな!?」

 

『えーと、それは〜……』

 

 声がどんどん尻すぼみになっていく。

 やがて廊下は静寂に包まれた。

 いまこの階層に居るのは、オレと幸村、そして、腹を下した外村だけだろうな……。

 

「取り敢えず、茶柱(ちゃばしら)先生にでもメッセージを送ったらどうだ?」

 

『あっ、それは既にやったでござる。プライベートポイントが引かれるとの通達を受けたでござるよ』

 

 なら最初にオレたちに伝えて欲しかった……。

 

「──! 行くぞ綾小路! 外村、お前、あとで覚えていろよ!?」

 

 言うや否や、幸村は廊下を走り出した。

 真面目な彼が非行に走るとは……と、場違いなことを考えていると、

 

『おぷっ。あ、綾小路殿……俺の(しかばね)を越えて、どうか、Dクラスに活路を……!』

 

 ──こいつ、実はかなり余裕があるだろ。

 

 そんなツッコミを脳内で入れてから、オレは「お大事に」と告げてから回線を切った。

 これは完全に出始めに失敗したな……。

 現在時刻は午後零時五十六分。

 あと四分もあると思うべきか、はたまた、あと四分しかないと思うべきか……。

 

「綾小路、早く来い!」

 

 遠くから急かす声が響く。

 オレは嘆息してから床を勢い良く蹴り出した。

 エレベーターを使うよりも階段を使った方が早いと即座に判断し、オレたちは凄まじい勢いで、階段を上った。

 ここまで二分。

 そして『兎』というプレートが貼られた扉を手分けして探す。そして残り時間二十秒を切ったところで、遂にオレは見付けた。

 

「幸村、こっちだ」

 

「ああ!」

 

 オレは扉を開け放ち、先に幸村を通した。彼のあとに続き──二秒後。

 

『ではこれより一回目のグループディスカッションを開始します』

 

 簡潔で短いアナウンスが流れた。

 オレと幸村にとっては福音だが、他の生徒にとっては地獄への案内だろう。

 

「大丈夫か?」

 

「ぜぇ……あ、あぁ……大丈夫だ……」

 

 肩で息をする幸村は酷く辛そうだ。額には大量の汗が噴き出しているし、膝も震えている。

 勉学にかけては優秀な成績を収めているが、運動に拘ってはその逆だからな……。この数分の出来事は彼にとって苦行だったに違いない。

 

「あー、えっと、きみたち?」

 

 そんなオレたちにおずおずと声が掛けられる。

 声主はオレの友人の一人、そして一年B組の生徒である一之瀬(いちのせ)帆波(ほなみ)だった。

 平生、笑顔を絶やさないその美貌は、しかしいまだけは表情が引き攣っているように(うかが)える。

 

「ええーっと、取り敢えず、座ろっか?」

 

 彼女の提案に頷き、オレと幸村はそそくさと空いている席に座った。

 

「あんたたち……何してんの?」

 

 隣の軽井沢(かるいざわ)が呆れたようにその言葉を言ってきた。

 

「……色々とあったんだ」

 

「ふーん。あっそ」

 

「はいこれ、綾小路くん、幸村くん」

 

 一之瀬が紙コップを渡してくる。見れば、部屋の隅にはピッチャーと紙コップが置かれている。自由に使って良いと彼女は判断したのだろう。

 オレたち二人は礼を言ってから受け取り、一気に(あお)った。

 

「改めてありがとう。助かった」

 

 付き合いがあるオレが幸村の分も込めて頭を下げる。

 

「いやいや、これくらい気にしないでっ」

 

 優しい彼女は一度微笑んでから、自分の席に戻っていった。

 流石は一之瀬。櫛田(くしだ)双璧(そうへき)をなすほどの人気度合いは健在か。

 

「ねえ綾小路くん。外村くんは?」

 

 オレは尋ねてくる軽井沢から逃れるようにして視線を逸らした。

 だが、逃げた先には伊吹(いぶき)を含めたCクラスの連中が、さらに逃げた先にはAクラスの連中が、最後の逃げ場であるその先には一之瀬を含めたBクラスの連中がオレをじっと凝視していた。

 つまりはこの場にいる全員が、時間になっても埋まらない席を不思議に思っている。

 

「あー、外村は長く険しい戦いに──」

 

「勿体ぶらずに早く答えなさいよ」

 

「……はい」

 

 かくかくしかじか。

 オレは嘘偽りなく滔々(とうとう)と語った。

 全てを聞き終えた、『兎』グループの面々の反応は様々だった。

 軽井沢や伊吹のように呆れる者も居れば、一之瀬のように苦笑いしている者も居るし、Aクラスの連中のように馬鹿にしている者も居る。

 

「それで、外村くんは来れるわけ?」

 

「……分からない。回復したら来ると思うが──」

 

『『兎』グループに通達します。体調不良の為、一年Dクラス外村秀雄さんは現在行われているグループディスカッションに参加出来なくなりました。『兎』グループの生徒の皆さんは、彼抜きで最初のディスカッションを行って下さい』

 

 そんな放送が流れた。

 言い回しからして、運営側はこの部屋だけに放送を流したのだろう。

 軽井沢がため息を吐き、

 

「はあ……最悪。こんなヤツと同じクラスなんて……」

 

 言いながら、空席を睨んだ。

 やがて何とも言えない空気が部屋を侵食していく。同時に、ぴりぴりと張り詰めていくのを、オレは肌で感じた。

 みんな、居ない生徒のことを考えても仕方がないと判断し、意識を特別試験に向けている。

 その切り替えの早さは多分、前回の無人島試験で(つちか)われたものだろう。異常事態(イレギュラー)が立て続けに起こった先の試験で、こういった能力が開花したのだ。

 無言で視線が飛び交い、警戒している。

 その中に紛れ、オレも室内を見渡した。

 クラスごとである程度固まっているのを確認する。

 オレが知っている顔は、味方であるDクラスの生徒と、友人の一之瀬、そして知人の伊吹だけだ。

 あとのメンバーは顔は辛うじて見覚えがあるが、名前は知らない……そんな感じだ。

 牽制し合っている中で勇敢にも最初に動いたのは、一人、静かに微笑んでいた一之瀬だった。

 

「はい、ちゅーもく!」

 

 明るく声を出し、右手を挙げることで注意を引き付ける。

 

「ちょっとアクシデントがあったけど、そろそろ話し合いを始めよう! まずは学校からの指示があった、自己紹介からやらないかな? 初めて顔を合わせるひともいるだろうしね」

 

 一之瀬は素早く動き、他クラスを出し抜き、干支試験を仕切る人間に立候補した。

 討論として成立させるためには司会者役が必要になるのは必須。

 誰もが憧れ、やりたいと思うだろう。

 しかし司会者役というのはかなり面倒な仕事だ。グループに不和を生じさせてはならないし、率先して『話し合い』の場を用意しなければならない。

 つまり、羨望以上に、嫌だという気持ちが大半の人間は上回る。

 だが一之瀬からはそんな様子は微塵も感じられない。むしろその逆で楽しそうだ。

 

「あれが一之瀬さんか……」

 

 左隣の幸村が小さく呟く。

 彼も一之瀬の存在は認知しているが、実際、こうして近くで見るのは初めてなのだろう。

 声音からは微かな畏敬の念を伝わってくる。

 それは彼だけじゃなく、他の生徒も同様のようだ。

 Aクラスの生徒たちは戸惑いを隠しきれないようで、

 

「だ、だが今更自己紹介をする必要があるのか?」

 

「そうだぞ。学校も本気で言っていたとは思えないな」

 

「うーん……私はそうは思わないけどなあ。例えばこの部屋に音声を拾う機械が隠されていたらどうする? その場合困るのは自己紹介しなかったひとだし、グループの責任にも問われちゃうかもしれないよね」

 

 そうなった場合、きみたちに責任が取れる? と一之瀬はAクラスの生徒たちに問う。 

 

「分かった。やるとしようか」

 

「ありがとう! 他のひとたちも異論はあるかな?」

 

 一之瀬は誰も声を上げないことを確認してから、まずは自分からとばかりに自己紹介を始めた。

 

「私は一年Bクラス、一之瀬帆波(ほなみ)です──」

 

 彼女が終わったあとは、残りのBクラスの生徒たちが。そこから各クラスごとに自己紹介をしていく流れが出来る。

 

「俺は一年Dクラス、幸村輝彦(てるひこ)だ。宜しく頼む」

 

 ぱちぱちぱちと、一之瀬だけが、各自の自己紹介が終わったあとに拍手をしていた。

 打算ではなく、自分がしたいからしているのだろう。それが分かるから、みんな、誰も彼女の行いを咎めない。

 軽井沢の番が終わり、最後に、オレが椅子から立ち上がる。

 脳裏に思い浮かぶのは、あの忌まわしい記憶。そう、四月、入学した時に行った、あれだ。

 あれから四ヶ月。

 オレは入学してから多くのひとと会い、親交を深めてきた……つもりだ。だからあの時のような悲惨なものは断じて行わない──! 

 

「あー……えっと、綾小路清隆(きよたか)です。あー……短い間ですが、えー……宜しくお願いします」

 

「ぷっ」

 

 軽井沢が口元を押さえて吹き出した。

 おかしい……あの時のに比べたら遥かにマシだと思うのだが……。

 そんなにも酷いのか。

 ちょっと……いや、かなりショックを受けていると、

 

「やっほー、綾小路くん! 今回はよろしくね!」

 

 一之瀬が笑顔でオレを受け入れてくれた。

 軽井沢も是非とも彼女を見習って欲しい。そんな思いを込めて彼女に視線を送るが、ヘッと小馬鹿に笑うだけだった。

 

「外村くんは今度来た時にやって貰うとして、これで自己紹介は終わりかな?」

 

 これで事実上、運営側からの指示は達成したことになる。

 一回のグループディスカッションに使われる時間は一時間。

 用意されている時計を見ても、やはりというか、時間はそこまで経っていなかった。あと五十分弱はある。

 そして初顔合わせの際の自己紹介以外、学校からは何も指示がされていない。

 事前説明でも、自由に過ごして良い旨が伝えられている。つまり、真面目に話し合うのも良し、携帯端末を弄るのも良しだということだ。

 流石に初回なだけあってそういった態度を取る者は居ないようだが……それは室内の異様な雰囲気に支配されているからに過ぎない。

 先程と同じ光景だ。

 みんな、互いに牽制し合っている。

 この中で動けるのは──オレの目は自然と一之瀬に寄せられた。そして彼女と目が合う。

 

『任せて』

 

 彼女は唇で無音を発してから、パンッ! と手を叩くことによって大きな音を出した。

 

「議論をする以上、誰かが進行役を担うことになるよね。私はそれに立候補します。他にやりたいひとはいるかな?」

 

 流れは完全に一之瀬にある。

 この時点までの彼女の行動は満点と言っても良い。

 普段からBクラスのリーダーとしてクラスを纏めているからこそ、彼女には何をするべきなのか理解しているのだ。

 軽井沢もDクラスの女王として君臨こそしているが、彼女の場合、一之瀬のような広範囲に拘っては不向きだ。単純な素質の問題だろう。逆にクラス単位なら、軽井沢の他者を従える能力には目を見張るものがある。

 結局、挙手するものは誰もいなかった。

 

「うん、それじゃあ、私が務めさせて貰うね。試験中、代わりたいと思ったひとは遠慮なく言って欲しいな」

 

 そうは言うが、誰も名乗り出ないだろう。

 一之瀬が余程、司会者役が下手なら話は変わるだろうが……彼女に拘ってそんなことはないだろう。

 

「干支試験を始めるにあたって、まずは情報の共有をしたいかな」

 

「そんなことに何の意味がある? 時間の無駄じゃないか?」

 

 町田(まちだ)というAクラスの生徒が両腕を組みながら尋ねた。

 確かに彼の言うことは一理ある。

 だが、司会者役はそうは思わないようで、微笑みながら、

 

「もしかしたら『何か』があるかもしれないよ? 例えば、私たちは『兎』グループじゃなくて、クラスごとで集まったよね。実は一部のクラスにしか伝えられていない事柄があるかもしれない」

 

「それはどうかな。前回の無人島試験、そして今回の干支試験。学校は中立の立場をとっている印象を受ける。公平に徹しているのは間違いないだろう」

 

 流石は優秀な生徒が集められるAクラス。

 単純な潜在能力(ポテンシャル)は高いか。

 だが、一之瀬の微笑が崩れることはない。

 つまり、対処可能だということだ。

 

 ──そろそろだな。

 

 彼女が口を開きかけたところで、オレも口を挟む。

 

「オレは一之瀬に賛成だな。可能性が(ゼロ)じゃないなら、追求出来るところはした方が良いと思う」

 

「綾小路……!」

 

 自己紹介の際に竹本(たけもと)と名乗ったAクラスの生徒が、忌々しそうにオレを睨み付けてくる。もう一人の森重(もりしげ)も同様だ。

 どうやら完全に、オレはAクラスを敵に回しているようだ。

 だが彼らに構っている時間はない。

 オレは沈黙している最後の陣営……その中でも知人を選び、声を掛けた。

 

「伊吹」

 

「……なに?」

 

 怠そうに聞き返してくる。

 オレは苦笑してから言葉を続けた。

 

「お前は一之瀬の提案、どう思う?」

 

「……良いんじゃない? どうせ時間は有り余っているんだし。それに、一之瀬が言っていることも可能性としては有り得るしね。担任から説明されたわけじゃないから、教師が重要な情報を秘匿(ひとく)していたかもしれない」

 

「あっ、やっぱりそうだったんだね。私たちBクラスは坂上(さかがみ)先生から受けたんだ。伊吹さんたちは?」

 

「茶柱先生から」

 

 オレは一度頷いてから、彼女たちに同調する。

 

「オレたちも担任から聞かされたわけじゃない。そうだよな、軽井沢?」

 

「まぁね。あたしたちは真嶋(ましま)先生からだった」

 

「そっかー。じゃあきみたちAクラスは──」

 

「お前のとこの担任だ」

 

 つまり、オレたちはそれぞれ、『敵』のクラスの関係者から特別試験の説明を受けたことになる。

 生徒思いの教師が、自分が担当するクラスが有利になればと画策(かくさく)した可能性は決して低くない、と言うことだ。

 

「分かった。そこまで言うなら賛同しよう」

 

 Aクラスが提案を呑んだことにより、オレたちは各クラスの代表者を選出し、昨日聞かされた内容を発表し合った。

 Aクラスからは町田が、Bクラスからは一之瀬が、Cクラスからは伊吹が選ばれ、そしてDクラスからは幸村が自ら志願した。

 最初、勝手に言い出したオレが役目を担おうと言ったのだが、彼が「俺にやらせてくれないか」と頼んできたのだ。断る理由は特にないし、何より、彼の積極性に当てられ、任せることにした。

 それから十数分を掛けて発表が行われる。

 結局のところ、危惧していた事態はないようだった。無論、発表者が意図して隠していた可能性もある。しかし観察していたところ、そのようなことはなさそうだった。何より、これ以上はやりようがない。

 

「うん、みんなありがとう。話を纏めると、こんな感じかな──」

 

 部屋の四隅に置かれていたホワイトボードを中央に持っていき、一之瀬は黒色のマジックをすらすらと動かし、以下のようなことを書いた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 ─干支試験の結果と勝敗─

 

 結果Ⅰ──グループ全体で『優待者』が誰なのかを共有し、クリアする。『全員』の勝利。

 結果Ⅱ──最後の解答を誰かが間違え『優待者』が勝利する。

 結果Ⅲ──『裏切り者』が『優待者』を見付け出す。『裏切り者』及び、その者が属するクラスの勝利。

 結果IV──『裏切り者』が判断を誤る。『優待者』及び、その者が属するクラスの勝利。

 

 

 

 

§

 

 

 

「さて」と、一息ついた司会者は、腰に手を当てながら、最初の爆弾を笑顔で振り撒き始める。

 

「最初にみんなに聞きたいことがあるんだ。私としてはみんなが『優待者』じゃないことを前提に聞かせて貰いたいんだけど、みんなはこの干支試験に於いて──何が最善だと思う?」

 

「最善って……どういうこと?」

 

 自己紹介の際に(やぶ)と名乗ったCクラスの女子生徒が、思わずといった具合で尋ね返した。

 一之瀬は笑顔のまま、爆弾を振り撒き続ける。

 

「つまりね。全員で試験をクリアする……結果Ⅰが、私はこの試験での最善だと思うんだ」

 

 試験結果Ⅰは、──『グループ内で優待者及び優待者の所属するクラスメイトを除く全員の解答が正解していた場合。グループ全員に50万prを支給する。さらに、優待者にはその功績を称え、50万prが追加で支給される』──というものだ。

 グループ全員に50万prという大金──優待者だと倍の100万pr──が支給される。

 誰もが損をせず、誰もが得をする。それが結果Ⅰ、学校が『勝利』と広報しているもの。

 一之瀬は司会者役を担いながら、攻撃を仕掛けている。

 一見すると何でもないような……当たり前の質問だろう。

 だがそれは違う。

 この場に居る者で、彼女の真意に気付ける者は何人居るだろうか。

 

「……俺は一之瀬さんと同意見だ」

 

 幸村が慎重にその言葉を紡いだ。

 次の瞬間、町田がにやりと(わら)ったのを、オレは見逃さなかった。彼は表情をすぐさま戻すと静観の構えをとる。

 様子から察するに、どうやら彼は気付けたようだ。他のAクラスの生徒とは明らかに風格が違う。

 逆に幸村は一之瀬の狙いに気付けなかった。だからこそ、彼は冷静さを装いながらも、困惑を隠せないでいる。

 

「私も、それが一番だと思う」

 

 自己紹介の際に真鍋(まなべ)と名乗ったCクラスの女子生徒が幸村に続く。伊吹を除く他の女子二人も「私も」と口にした。

 そして呼応するようにして、Bクラスからも発言者が現れる。青くサラッとした髪に、やや中性的な顔立ち。Dクラスだと沖谷(おきたに)に近いかもしれない。そんな彼の名は浜口(はまぐち)哲也(てつや)

 

「僕はもちろん肯定します。結果Ⅰが最良なのは一目瞭然です。ならば、それを目指して協力することは自然なことだと思います」 

 

 真嶋先生は昨夜、クラス闘争のことは一旦忘れろとオレたちに言った。

 それは恐らく、他の先生方も同様なのだろう。

 だからこそ、一之瀬はあの質問をした。

 そう、賛同した生徒たちは気付いていないが、これは彼女が張った網だ。彼女の質問が何気なく聞こえたからこそ、賛同者は迂闊にも口を滑らせた。彼らは自分が『優待者』ではないから出来たのだ。

 一之瀬は一致団結の必要性を説きつつも、『優待者』を絞ろうとしている。

 もちろん、張った網が必ずしも機能するとは限らない。賛同者が嘘を吐いている可能性も充分にある。だがやる価値もまた、充分にある。

 と、オレが一之瀬の作戦を分析していると、その張本人が周りの人間に悟られないよう、オレに視線を送ってきた。

 先程の借りを返すかと思い、流れが切れる前に、オレも渇いている喉を鳴らす。

 

「オレも賛成だな。プライベートポイントが不足しているから、大金を得られるチャンスを棒に振りたくない」

 

「私も同じー。外村くんもそうだと思うよ」

 

 居ない人間の考えを推測で語るのはあまり良くないが、今回は軽井沢に助けられたな。

 これでDクラスは満場一致で一之瀬の案に賛同したことになる。

 

「伊吹さんはどう思う?」

 

 一之瀬は沈黙していた伊吹にそう聞いた。

 

「……まあ、理想なのは結果Ⅰだと思う」

 

 どうやら、聞かれたら答えるというスタンスをとる腹積もりのようだ。

 いや違うな。

 クラスメイトの反応から察するに、伊吹は普段の学校生活でもこのように過ごしているのだろう。

 椎名(しいな)と仲良くなったのも、彼女たちの性格が若干似ているからかもしれない。

 最後に一之瀬はAクラスに目を向ける。彼らの顔には不信の色が多分に含まれていた。

 町田が静かに話し始める。

 

「一之瀬、その質問はずるくないか?」

 

「ずるい? それはどうして?」

 

 すると彼は表情をさっと険しいものに変えた。

 

「一之瀬、お前はさっきこう言ったよな。『みんなが『優待者』じゃないことを前提に──』と。『自分が優待者ではない』なら、報酬が多いものに期待するのは当然だろう。それに……自分から『優待者』だと告白する奴なんて居るはずがないだろう」

 

 と、町田がここまで言えば、みんな、一之瀬の真意に気付いたようだった。

 彼女がやっていたのは『優待者』と『悪人』の炙り出しだ。

 

「そうか……誘導尋問」

 

 幸村がハッとしたよように呟く。

 直接質問したら警戒するのは当たり前のこと。一之瀬は巧みな話術によって、『裁判』をやっていたのだ。

 

「とてもではないが、適切な質問とは言えないな」

 

 ──()()()()()()()()()()()

 

 それが、一之瀬のことを知っている殆どの人間が抱いていることだろう。

 そしてこの印象は、既に深層意識にまで届いている。

 このひとならひとを騙さない、悪いことをしない、一之瀬は入学してからのわずか数ヶ月で信頼を獲得した。

 人間は一度『このようなものだ』と認識すると、それを中々変えることが出来ない。

 固まってしまった固定観念を溶かすことは難しい。

 だから幸村をはじめとした生徒は疑念を抱くことなく彼女の質問に答えてしまった。

 そして安易に答えるということは、この『兎』グループの中での優劣が決まるということでもある。

 町田が先程嗤ったのは、劣っている『不良品』に向けての嘲笑に他ならない。

 町田の批判に対応したのは浜口だった。冷静に対処する。

 

「確かに町田くんの言うことはあまり褒められたものではないかもしれません。しかしやり方こそそうではあっても、質問としては妥当ではないですか? 」

 

「ほう……」

 

「それに一之瀬さんは脅迫のようなことは一切していませんよ」

 

 問われた側には黙秘権があるということだ。

 ──Aクラス対Bクラス。

『兎』グループの干支試験はこのような形で幕を開けた。

 浜口の指摘に、森重という男が想定内といったようにこのように言った。

 

「そうか。なら俺たちは黙秘させてもらう。大した考えも持たず、直情的に喋るのは馬鹿がすることだ」

 

 Cクラス、そしてオレたちDクラスの面々を睥睨し、彼は目を伏せた。他の二人も町田に倣い、両腕を組み、彼らは口を噤む。

 

「ありゃりゃ、これは失敗だったかな?」

 

 一之瀬の苦笑いを浮かべる。

 そんな彼女を浜口が慰めた。

 

「いえ、あなたの質問は至極普通のものでした。誤算だったのは彼らの警戒心が想像よりも高かったこと、それだけです」

 

 と、彼は唇をきつく閉ざしているAクラスの連中を見据えた。

 

「ですが町田くん、あなたは先程『適切な質問ではない』と言いましたよね」

 

「……ああ、俺は確かにそう言ったな」

 

「では、あなたが思う『適切な質問』を教えてもらいますか? まさか、好きな料理や趣味といったものではないでしょう?」

 

「なるほど、つまりは代替案を出せと、お前はそう言いたいんだな」

 

 浜口は頷いた。

 彼の主張は尤もなものだ。

 しかし町田は鼻で笑い、

 

「代替案? そんなものはない」

 

 と、言い切った。

 これには浜口も驚いたのか、一瞬、言葉が詰まったようだった。しかしすぐに冷静さを取り戻し、どういうことだと問い詰める。

 

「町田くん、代替案がないのに一之瀬さんを責めるのはおかしいのではないでしょうか。この干支試験に於いて、『話し合い』こそが『勝利』に至るための唯一の道だと僕は思います」

 

 Aクラス抜きで『話し合い』をしては駄目だと浜口は訴える。

 しかし彼らの構えが解除されることはない。

 一貫して『話し合い』を拒否する。

 

 ──面倒だな。

 

 オレは一之瀬に視線をアイコンタクトを送った。無言で頷かれる。

 彼女からバトンを貰い受けたオレは、おもむろに口を開けた。

 

「お前たちが何を話そうと、あるいは、何に答えようとそれは自由だ。でも土俵にあがってもらわないと困るな」

 

 試験への参加を要求するが、むしろますます彼らの警戒心を高めてしまったようだった。

 と、彼は不意にこのようなことを言い出した。

 

「このグループには三人の警戒対象がいる」

 

 警戒対象、か……。

 町田は言葉を続けた。

 

「一人目は一年Bクラス一之瀬帆波。Bクラスを指揮するリーダーだ。対象に入るのは当然だな」

 

「にゃはははー、これは照れるねー」

 

「とはいえ、どうしてこのグループに配属されたのかという疑問もあるがな」

 

 その言葉に一之瀬が反応することはなかった。

 町田は次に意外な人物を見た。

 

「次に、一年Cクラス伊吹(みお)。口では龍園(りゅうえん)を嫌っているようだが、先の試験、お前は龍園に従いスパイとして潜入した。つまり、感情は兎も角として、龍園のことは認めているということだ。龍園に近しい人物として、警戒対象に入っている」

 

「……あっそ」

 

 伊吹は興味なさそうだった。

 最後に町田はオレを見てきた。

 

「そして一年Dクラス綾小路清隆。先の『暴力事件』で台頭してきたかと思えば、無人島試験に於いてはたいした活躍はしていない。唯一、Bクラスと同盟を結んだ時には『外交官』として同クラスの櫛田桔梗(ききょう)と共に動いたようだが、これはDクラス内で一之瀬と接点があったからに過ぎない。ましてや櫛田がいたんだ、お前が居なくても同盟の成立は成功していただろうな」

 

「長々と喋って、町田くんは何が言いたいんですか?」

 

 浜口が割って入り、町田の真意を問うが、彼は目もくれない。

 ──だが、と言い、

 

「だが俺は……いいや、葛城さんはお前のことを強く警戒している」

 

 なるほどな、彼が何を言いたいのかようやく分かってきた。

 つまり、この男の背後には──

 

「全部、葛城くんの指示ってことかな?」

 

 一之瀬が静かに尋ねた。

 試験が開始されてからのAクラスの行動、それは一年A組葛城康平の命令なのだと。

 町田は不敵に笑った。

 

「さて、これで分かっただろう? 俺たちはお前たちのことなど微塵も信用していない」

 

「だから話すことは何もないと?」

 

「ああ、そうだ。そしてこれこそが、葛城さんが提唱したやり方だ」

 

 室内に動揺が走る。

 戸惑い、困惑、疑惑……。

 両隣のクラスメイトは「どういうことだ……!?」「はあ!?」と言葉にして驚愕を表していた。

 その中でオレと一之瀬だけが落ち着いていた。

 

「うーん、ちょっとよく分からないな、つまりきみたち……ううん、この場合は葛城くんって言った方が良いのかな? 彼は『優待者』の勝ち逃げを許すと?」

 

 仮に『話し合い』を行った場合、最も得られる結果は結果Ⅱだろう。この場合、『優待者』だけがプライベートポイントが支給される。

 

「でもさ、きみたちの中に『優待者』がいて、その情報が共有されているかもしれないよね」

 

「『Aクラスの生徒の優待者が所属するグループ』だけこの作戦が提唱されていると? そう思うなら、他のグループに聞いてみるが良い」

 

「いや、やめておくよ。すぐにバレる嘘を、葛城くんが吐くわけないもんね」

 

 一之瀬は微笑し、そう言った。

 

「でもさ、それでも私は賛同出来ないな」

 

「さすが一之瀬だな。これだけで葛城さんの真意に気付いたか」

 

 そして町田はオレに視線を送る。

 オレから何かを感じ取ろうとするのは結構だが、役者不足だ。

 数秒後、諦めたのか彼はオレから目を離し、理解出来ていない者たちに説明し始めた。

 

「いいか、お前たちは『誰が優待者なのか』を気にするばかりで『話し合い』をすることこそが最善だと思い込んでいるようだが、それは違う」

 

「まるで、『優待者』がどうでも良いかのように言いますね」

 

「ああ。何故なら、『話し合い』なんてものを持たなければ、この試験、必ず勝てるからだ」

 

 と、町田は一旦言葉を区切る。

 ピッチャーから紙コップに水を注ぎ、一気に飲み干してから、話を再開させる。

 

「先程の一之瀬を真似しよう。一之瀬はさっき、『最善』について尋ねたな。なら、俺が聞くことは一つ。この試験の『最悪』は何だと思う?」

 

 干支試験の結果は四つしかない。

『最善』を結果Ⅰだとするなら、『最悪』は──。

 町田は適当に軽井沢に当てた。

 

「えーっと、結果Ⅲじゃないの……?」

 

「何故そう思う?」

 

「だ、だって『優待者』が見破られて誰かが『裏切り者』になったら、『優待者』のクラスは損害を受けて、『裏切り者』のクラスは得をするから……」

 

「その通りだ。 『裏切り者』が出た時点で、この試験は『敗北』となる。クラスとしては『勝ち』でも、グループとしては結果Ⅲだろうが結果IVになろうが『負け』だ。さらに聞こう。それ以外だとどうなる?」

 

 隣のオレ……ではなく、飛ばし、幸村に尋ねる。

 明らかに意図的だが、これくらいなら支障は出ないので深く追及はしなかった。

 幸村は黙考し、

 

「……マイナス要素がないな」 

 

「正解だ。結果Ⅰ、結果Ⅱと共に、ポイントのマイナスが出ない。運営にしか負担は掛からないということだ。だが、結果Ⅰに固執し、『裏切り者』を出したらどうなる? ──マイナスになるのは自明の理。ならば、不必要なリスクを負う必要は皆無だ。現に俺たちAクラスは他クラスのことを疑っている。ここは無難に結果Ⅱを取るべきではないのか?」

 

 と、そこで軽井沢が小さく声を出した。

 

「でもさあ、『優待者』に偏りがあったらどうなの? 例えば町田くんたちAクラスに十二グループ分、『優待者』が十二人いたら? そしたらさ……えっと──」

 

「600万prだ」

 

 計算に手こずり、携帯のアプリを使おうとする彼女を、幸村がフォローした。

 

「流石は幸村くん。ガリ勉は頼りになるわー」

 

「喧嘩を売っているのか、お前は」

 

「いや全然。むしろ褒めてるしー」

 

 ならもう少し態度とか言い方があると思うが……。

 まあ、こればかりは軽井沢の性格だと諦めるしかないな。

 

「軽井沢の言うことは一理あると思う。それにクラスポイントだろうと、プライベートポイントだろうと、価値は等しいものだ。特にプライベートポイントの有用性はここに居る綾小路が証明している。賛同は出来ないな」

 

 クラスポイントは直接的なクラス闘争に関係してくる。このクラスポイントの総量の結果により、クラスの順位が変わる。

 プライベートポイントは無限の可能性を持っている。このように言うと詐欺を疑うかもしれないが、これは紛れもない事実だ。普段の学生生活ではお小遣いとして食費や娯楽品に使える。だが、このポイントはそれ以外にも使用が可能で、最大の効果は強制的なクラス間移動だろう。2000万pr用意すれば、生徒が望むクラスへの転属が行われる。

 そして『優待者』が誰なのか分からなければ、それは『どこのクラスに優待者がいるのか』分からないことと同義だ。

 この特別試験は非常に大きな危険性を孕んでいるため、自分のクラスの『優待者』ですら把握するのは難しい。他クラスなら尚更だ。

 軽井沢の危惧が的中し、どこかのクラスに集中していたら、それは『事件』としてなるかもしれない。

 だが葛城は『終始無言』という策を提唱してきた。つまり、この試験の『からくり』に気付いているからこそ出来る芸当だ。

 

「学校がそんな不公平なことをすると思うか? 説明の際にあれだけ公平性を強調してきたのは彼らだろう。ましてや俺たちは先程、事前説明も公平にされていたのだと確認したばかりだ。一之瀬もそれは分かっているだろう?」

 

「……そうだね。きみたちの考えは私も持っているよ。『優待者は各クラスに三人ずつ選ばれている』っていうのは、少し考えれば分かること」

 

 一之瀬は淡々と事務的に言った。

 それを好機だと判断したのだろう、町田はすらすらと入れ知恵を披露する。

 

「『話し合い』をして疑い騙し合う、潰し合う方がグループ関係は滅茶苦茶になる。自分が発する一言が勝敗に繋がるかもしれない。そんな重圧の中、平静に臨めるやつがいるのか? 俺はそうは思わないな」

 

 想像してみろ、と町田は言った。

 するとCクラスの山下という女子生徒が「ヒッ……!」と声を漏らした。

 

「龍園はヘマをしたやつに何をするんだろうな。俺は他クラスだから知らないが、きっと、凄惨の一言では語れないんだろうなあ……」

 

「うーん、いくら何でも、さすがの龍園くんもそんなことはしないと思う、なあ……」

 

「ハハッ、それは一之瀬、お前がお気楽だからだ。龍園の黒い噂を知らないわけがないだろう? 奴の噂は俺たちの耳に届いているからな」

 

 伊吹を除くCクラスの女子は完全に怯えた表情になった。そんなクラスメイトに伊吹は優しく声を掛けることもない。

 見かねた浜口が、

 

「町田くん、それ以上は──」

 

「そうだな。これ以上はただの脅しだ、話を戻すか。兎に角、俺の言いたいことは分かっただろう? 結果Ⅰ、あるいは、結果Ⅲになった場合、得られる恩恵は大きいが、その分、失うものも大きい。今後のクラス闘争に大きく響くだろうな。ならば、この試験で無謀な挑戦をするのは得策ではないと思うがな」

 

 以上が葛城の作戦なのだろう、話し終えた町田は周りを見渡した。

 いや、『周り』という表現は適さないだろう。

 正確には一之瀬とオレと二人にのみ注視している。

 オレは内心で嘆息してから、司会者に一つの提案をした。

 

「一之瀬、ここで一回多数決でもとったらどうだ?」

 

「そうだね。──それでは皆さんに尋ねます。皆さんは、Aクラスの作戦に賛成しますか、それとも反対しますか? あと五分したら尋ねますので、準備をお願いします」

 

 無言の時間が五分流れる。

 司会者は席から立ち上がるとホワイトボードの前に移動し、『賛成』という項目と、『反対』という項目を作る。そしてくるりと半回転し、

 

「賛成するひとはいますか?」

 

 賛成はAクラスの三人を入れて八人。町田、竹本、森重、真鍋、藪、山下、軽井沢、幸村が挙手をした。

 

「反対するひとはいますか?」

 

 反対は五人。一之瀬、浜口、別府、伊吹、オレが挙手をした。

 

「それじゃあ、ちょっと面倒だけど、賛成派と反対派で分かれよっか。その方が討論っぽいしね」

 

 否定的な意見は特に出なかった。

 部屋の窓側に反対派が、通路側に賛成派がそれぞれ集まり、席に座る。

 オレの右隣に一之瀬が、左隣に伊吹が座った。

 すると、幸村が非難の眼差しを送ってきていることに気付いた。

 

「おい、どういうことだ綾小路」

 

 幸村からしたら、オレの行動は理解出来ないのだろう。あるいは、知っている味方が軽井沢だけという状況に不安を覚えたのかもしれない。

 

「そのままだ。オレは葛城の作戦にはとてもではないが賛同出来ない」

 

「……どうしてだ。誰も損をしないんだぞ。お前は昨日、真嶋先生に効率性について語っていたよな。矛盾しているんじゃないか?」

 

 オレはそこで初めて幸村の顔を直視した。

 すると彼は怯えたように身動ぎした。

 視線を外し、オレは声量を意図的に調整し、自分の意見を述べる。

 

「理由は主に二つある。一つ目は、葛城の戦略があまり現実的ではないからだ。──町田、確認するが、いまこの瞬間にも、お前たちAクラスの生徒はそれぞれのグループでこの荒唐無稽な策を話しているんだよな?」

 

「ああ、その通りだ」

 

「つまりお前たちは、一年生全員が『話し合い』をせず、終始無言でいることを強要しているわけだ」

 

 沈黙というものは存外、精神的に負荷を掛けやすいものだ。

 ましてや、堀北(ほりきた)や龍園といった生徒が黙っているはずもない。この時点で葛城の作戦は作戦として成り立たなくなる。

 

「それだけじゃないよね。もし仮にきみたちの考え通りに私たちが従ったとして、試験終了時に、『優待者』が名乗り出る保証はどこにもないよね? 50万prを持ち逃げするかもしれないよ?」

 

「それはクラスの問題だろう。信頼関係がしっかりと成り立っていないから、そのようなことを考えるんだ」

 

 町田のその言葉に、一之瀬は無言で微笑んだ。

 そしてそのまま地雷を踏みに行く。

 

「なら聞くけれど、きみたちAクラスにそれが出来るの? 私はそうは思わないなあ」

 

「……!? 一之瀬、お前……!」

 

 ギリッと奥歯を噛む。

 オレも一之瀬に続き、

 

「Aクラスの内部分裂は誰でも知っていることだ。説得力に欠けるな」

 

「……だから言っているだろう、内輪の問題は内輪で解決すべきだと。他所の人間にとやかく言われる筋合いはないな」

 

「それもそうだね」

 

 あっさりと一之瀬は引き下がった。

 町田は拍子抜けたようだったが、そう感じるのならば、彼ではやはり役者不足だろう。

 オレはこほんと咳払いを打ち、

 

「話を戻すか。まず一つ目はさっき言った通りだ。一年生全員が沈黙を貫き通せるとは思えない。次に二つ目だが、お前たちは『誰も損をしない』ことを強調しているが、それは嘘だろう?」

 

 刹那、町田の顔が露骨なまでに強ばった。

 

「お前たちの作戦そのものを否定するわけじゃない。葛城の作戦は堅実な一手だろうな。どのクラスにも均等に『優待者』がいるのなら、各クラスずつ150万prが支給されるわけだ」

 

 オレの言葉を、一之瀬が引き継いでいく。

 

「でもさ、それってAクラスだけが提案出来ることでもあるんだよね」

 

「……? それってどういう意味?」

 

「彼らが提唱しているのは、いわば『一時休戦』。クラス闘争は一旦おいて、お小遣いをみんなで学校から貰おうというもの。でもこれって、無人島試験でも出来たよね?」

 

 無人島試験の際、追加ルールというものがあった。

 これは各クラスから一人選ばれたリーダーを当てたら追加のクラスポイントが入るというもの。そして追加ルールの権利を使うか否かは各クラスの判断に委ねられた。

 

「特別試験の度にこんな『一時休戦』をするの? 卒業までにあと何回特別試験が開催されるのか分からないのに?」

 

 幸村の顔が段々と張り詰めていくのが目に見えて分かる。

 どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのだと思っているのだろう。

 

「『一時休戦』をするってことは、クラスの変動も起こり得ないってこと。私はBクラスの委員長として、そして、Aクラスを目指す者として、貴重なチャンスを棒に振るわけにはいかない」

 

「……だが一之瀬、それをお前が言うのか? 結果Ⅰの是非を真っ先に問いたお前が? お前の言っていることは支離滅裂だな」

 

「うん、そうだよ。きみたちの主張が変わらないと判断したから、いま、ここではっきり言うね。私はAクラスの生徒が『優待者』じゃないと分かったなら、『話し合い』をしなくても良いと考えている。けれど、Aクラスに万が一でも『優待者』がいる可能性があるのなら、私は戦う覚悟があるよ」

 

 決然と一之瀬は言い切った。

 町田は理解出来ないとばかりに頭を振り、これみよがしにため息を吐いた。

 一番手っ取り早いのは、Aクラスの生徒全員が携帯端末を取り出し、学校からのメールをオレたちに見せることだろう。改変は認められていないため、自分の潔白を証明することが出来る。

 だが、それが出来るはずもない。自分だけが見せることなど認められるはずがない。彼らはそう考え、また、それは他の生徒も同様だろう。

 

「だからお前たちは反対すると?」

 

 町田の問いにオレたち否定派は頷いた。

 と、軽井沢が椅子から立ち上がり、そのままこちらの陣営に移った。

 どうやらこちら側に付く気になったようだ。ワンテンポ遅れ、幸村も合流する。それから真鍋たちCクラスの生徒も移り、賛成派はAクラスだけになった。

 

「なら俺たちから言うことはもう何もない。『話し合い』をするなら勝手にやってくれ。俺たちは今後一切関与するつもりがないことを言わせて貰おう」

 

「そっかー、それは残念」

 

 一之瀬は頬をぽりぽりと掻いた。

 そんな彼女に、町田は言う。

 

「……だが一つだけ分かったことがある。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「「……!?」」

 

 浜口と別府が表情を険しくし、町田を鋭く睨んだ。

 これまで、意見が対立することこそあったが、それでも、互いを尊重していた。

 だが町田はその一線をこえた。

 室内に流れる空気は『最悪』の一言に尽きるだろう。

 

「……町田くん、きみは何を言ったのか分かっているんですか」

 

「落ち着けよ浜口。『素』が出かけているぜ」

 

「構いません。それよりも、何故、あのようなことを言ったのですか」

 

 浜口の反応は自然なものだ。

 自分が所属する、尊敬しているリーダーが、見方によっては、貶されたのだ。

 Bクラスは仲間思いの生徒が多い、というのは本当のようだな。

 別府も無言の圧を放つことで加勢するが、対して、町田の佇まいに変わりはない。

 

「何故だと? 俺がそう思ったからに決まっているだろう」

 

「茶化さないで下さい」

 

「なら言うが、こいつはただの『偽善者』だ。普段の善行はただの『布石』でしかないんだろうさ」

 

「町田くん──!」

 

「一之瀬、お前は何か言うことはないのか」

 

 町田は浜口から逃れると、無言の一之瀬に視線を送った。

 自然と、この場にいる全員の目が彼女に吸い寄せられる。

 どんな表情を浮かべているのだろう、どんな言葉を言うのだろう。それが全員の気になるところだろう。

 一之瀬は怒ってはいなかった。それどころかむしろ、困っているようだった。

 

「ううーん……、ごめんね。正直に言うと、私はきみたちが何を言っているのか分からないかな」

 

「……は?」

 

 呆然とする彼に一之瀬は、

 

「町田くんは私のことを『偽善者』だと思っているんだよね?」

 

「あ、ああ……」

 

「そうだね、確かに私は『偽善者』かもしれない。そして言わせて欲しい。──私は、一度たりとて自分が『善人』だと思ったことはないよ」

 

「な……!?」

 

「きみは普段の私と、特別試験に臨む今の私に差異を感じた。だから私を『偽善者』だと評価したんだよね、きっと。……うん、それは正しいよ。私はみんなが抱いているような人物じゃない。Bクラスが勝つためなら『嘘』だって平然と吐くからね」

 

 だから困るなー、と一之瀬は困惑の顔で言った。

 

「誰かを助けたいと思ったら助ける。助けたくないと助けない。みんなが言う『善人』って、自分の気持ちを偽るひとだと思う。私は自分の気持ちに蓋をするのは嫌。だから、『偽善者』なんだと思うよ」

 

 ──『悪人』だとは思いたくないけどね、彼女は朗らかに笑う。

 町田や浜口らは絶句していた。それだけ一之瀬の言葉が衝撃的だったからだろう。

 誰も二の句を紡げないでいる。

 一之瀬帆波の価値観、彼女の根幹となる思想を否定することは何人たりとて赦されない。

 

「……俺たちは『話し合い』に参加する気はないからな」

 

 結局、町田が言えたのはそんな捨て台詞だった。

 そして逃げるようにして席から立ち上がり、廊下に通じる扉に向かっていく。

 

「おい、どこに行くんだ」

 

 幸村の制止に答えたのは、キーンという甲高い音だった。

 

『──以上をもちまして、一回目のグループディスカッションを終了します。生徒の皆さんは引き続き、クルージングを楽しんで下さい。もちろん、各部屋に残って『話し合い』をして頂いても構いません』

 

「ということだ。この部屋に残る強制力はこれでどこにもない。俺たちは出させて貰う。構わないよな?」

 

「うん。また夜に会おうね」

 

 一之瀬の別れの挨拶に、町田たちは何も答えなかった。

 次に退出したのは伊吹たちCクラス。伊吹が最初に腰を上げ、すたすたと歩き、部屋をあとにする。そこから残りの三人も続いていく。

 残ったのはこれでBとDクラスになる。

 

「どうする? 私たちだけでも続ける?」

 

 一之瀬の提案に、軽井沢が面倒臭そうに答えた。

 

「あたしはパス。この後用事があるし」

 

「そっか。幸村くんは?」

 

「……悪いが、俺も遠慮させて貰う。一人で一度考えさせてくれ」

 

 軽井沢、幸村が姿を消す。

 

「僕たちも失礼しますね。お疲れ様です」

 

 浜口、別府が後を追う形で労いの言葉を掛けてから退室した。

 これで部屋に残ったのはオレと一之瀬の二人だけになる。

 

「にゃはははー、『話し合い』の『は』の字にもならなかったねー」

 

 言いながら、彼女は動かした椅子を元に戻していく。オレも手伝い、ホワイトボードに書かれた文字を消した。

 

「ありがとう、手伝ってくれて」

 

「これくらいならいくらでも手伝う」

 

「それは頼りになる!」

 

 そこで言葉が途切れた。

 オレたちはじっと見つめ合った。

 十数秒が経過したところで、オレから話を切り出す。

 

「一之瀬らしくない作戦だったな」

 

「……にゃははは、やっぱり綾小路くんもそう思う? 私もやっていて思ったよ」

 

 今回、一之瀬がやったことは荒らし行為だ。

 彼女は司会者に立候補して、その立場を余すことなく使い、場を荒らした。

 

「今のところは私の筋書き通りかな」

 

「葛城のあの作戦もか?」

 

「うん。私も、BクラスがAクラスだったら似たような……って言うか、同じことをやっていたと思う。だけど私たちは彼らからしたら下位クラス。追う立場の私たちが戦うためには同じ土俵に立って貰わないとね。そう思って彼らを挑発したんだけど……やっぱり誘いには乗らないかあ」

 

「Aクラスは町田が別格だな」

 

 だね、と一之瀬は同意する。

 

「でも葛城くんや坂柳さんには遠く及ばないよ。Aクラスに配属されるだけはあると思うけどね」

 

 仮想Aクラスでは物足りない、彼女からはそんな不満さえ感じ取れるようだ。

 それは傲慢か、あるいは、それに見合っただけの実力が一之瀬帆波という少女にはあるのか。

 彼女の持つ本来の実力はまだまだ推し量れそうにない。

 

「綾小路くん、既に耳に入れていると思うけど、今回、同盟は適応されない手筈になっているよね?」

 

「そうだな。堀北からはそう聞かされている」

 

 正午になったタイミングで、Dクラスのグループチャットに、堀北から一つのメッセージが投稿された。

 それは干支試験中でのBクラスとの同盟について。両クラスから代表者が集まり、協議の末、今回は適応されなくなった。

 とはいえ、より正確には、各グループの判断に任せる、というものらしい。ただしどのような結果になろうとも自己責任の扱いになるようだ。

 しかし何故この話を持ち出してくるのだろう? 

 訝しむオレに、一之瀬はこう提案してきた。

 

「綾小路くん、クラスとしてではなくて、今回、個人的に私と協力しない?」

 

「……なるほど。それはまた魅力的な提案だな」

 

 一之瀬を味方に出来るのはとても心強い。彼女が活躍すればするほど、オレの噂もそろそろ落ち着いてくるだろう。

 そして恐らく、今回の試験に於いて、オレと彼女がとる手段はほぼほぼ同じだろう。彼女の暴走は、それをオレに陰で告げるための茶番でしかなかった。

 だが安易に了承するわけにもいかないだろう。

 実はブラフで、彼女は『優待者』なのかもしれない。その線が完全に捨て切れなければ協力することは出来ない。

 それに一之瀬と共闘すれば、彼女にオレの情報がある程度は漏れるのは避けられない。

 堀北の見立てでは彼女は星乃宮先生からの刺客。つまり、オレがとった行動がBクラスの担任に伝わる可能性は高いと言わざるを得ないだろう。

 答えは決まったな。

 

「悪いが、丁重に断らせて貰う」 

 

 一之瀬はオレの返答を予想していたのだろう、驚きはしなかった。

 だがしかし、彼女は驚かなかったが、次の瞬間、オレが驚くことになる。

 というのも、オレに携帯端末を翳し、見せてきたからだ。目を逸らせと本能が訴えるが、オレの瞳孔は固まったままで梃子でも動かない。

 

「どういうつもりだ……?」

 

 画面が表示しているのは『身の潔白』を証明するもの。朝、学校から送られてきたメール。

 そこにはオレと完全に一致した文面が記載されていた。

 

「安心して、誰かに言うつもりは一切ないよ」

 

「オレは理由を聞いている」

 

 目を細めて尋ねると、一之瀬は視線を逸らすことなく、堂々と言った。

 

「私から提案しているんだから、これは当たり前のことだよ。『信頼』されるためには、まずは、それ相応の『対価』が欲しいよね」

 

 彼女はさらに言葉を続けた。

 

「どうかな? これでも私の申し出を断る?」

 

 オレは思案する。

 オレがここで頷く義理はないし、義務もない。

 全ては彼女が勝手にやったことだ。

 

 ──だからオレは『否』と口にすべきなのだろうか?

 

 いいや、それは違うだろう。

 今後のことを考えれば、他者との繋がりはより多く、より強いものにした方が良い。

 

「分かった。干支試験、一緒に攻略しよう。ちょっと待ってくれ、オレも見せる」

 

「いやいや! それは駄目だよ!」

 

 一之瀬の言葉を無視し、『契約』の証として、オレも自身の『身の潔白』を彼女に提示する。

 しかし彼女は目を閉じて見ようとしない。

 

「『信頼』されるためには、それ相応の『対価』が欲しいんだろ? オレは一之瀬を『信頼』する。だから一之瀬にも、オレを『信用』して欲しい」

 

「……そう言われると、弱いなあ」

 

 彼女は苦笑いしてから瞼を開け、オレの携帯端末に顔を近付けた。彼女の美貌がすぐ目の前にある。

 これが天然か……。

 

「まずはどこのクラスに『優待者』がいるのかを絞り出そうと思うんだ」

 

「賛成だな。場はあと五回設けられる。そこまで焦る必要はないだろう」

 

「私は浜口くんと別府くんが『優待者』なのかそうじゃないのか知らないんだ。綾小路くんはDクラスのひとたちのを知ってる?」

 

「いや。悪いな、あの三人とは仲が良い方じゃないんだ」

 

「そ、そうなんだ」

 

 一之瀬の苦笑いが見ていて辛い。

 そこから軽く雑談に入り、オレたちは別れた。廊下を渡りながら、オレは思考する。

 一回目のグループディスカッション、他のグループがどうかは知らないが、『兎』グループは『混沌』の一言に尽きるだろう。

 だがしかし、それはさしたる問題ではない。

 いま、オレが一番気になっていることは、一人の生徒の不可解な行動だ。

 だがそれはオレの勘違いかもしれない。

 だからこそ、あと数回は様子見。

 判断し、踏み込むのはそれからでも問題ないだろう。

 自分の部屋に向かっていると、上衣のポケットにしまっていた携帯端末が一度震えた。

 ロックを解除すると、一件のメッセージが届いていた。送り主は平田からだった。

 

『すぐにラウンジに来て欲しい。龍園くんをはじめとしたCクラスが──』

 

 そこまで目を通し、オレは方向転換をする。目指す先は一階のラウンジ。

 どうやら『王』も大々的に動き始めるようだ。



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干支試験──『王』の宣戦布告

 

 高度育成高等学校に入学したのが四月。

 一ヶ月後、新入生は各クラスの担任から、異色を放つ学校の理念──『実力至上主義』を聞かされた。そして『クラス闘争』に身を投じることとなる。

 月日は巡り──現在は八月。クラス闘争は長期休暇なのにも関わらず豪華客船上で繰り広げられていた。

 

 龍園(りゅうえん)(かける)が当初クラス闘争に抱いた感想は──()()()()()、というものだった。

 

 学校のシステムに……ではない。そこにコミュニティーがある以上、そしてそれが二つ以上ある以上、他者との競い合い、蹴落とし合いは避けられない。

 これは生物としての本能だ。

 誰もが争いたくない、相手を傷つけたくないと口にしながら……しかし、誰もが戦いに臨む。

 どんなに巧みに言葉を繕ったところで、この事実は隠せない。人間はいつも矛盾を抱えている。

 そのように考える龍園だからこそ、自分の存在価値に優劣を付けるクラス闘争は好ましかった。

 彼は捕食者だ。

 入学した時から『違和感』はあり、『何か』が起こることは容易に想像出来た。

 

 ──五月、龍園は歓喜に震えた。

 

 運営が『殺し合い』を容認する声明を発表したのだ。

 龍園は寮の自分の部屋で大声を出し、腹を抱えて笑った。これまでとは違い、大々的に、派手に、(たの)しめると。

 しかしその身を焦がすような()は数週間もすれば冷めてしまった。

 端的に言えば彼は落胆したのだ。

 一年Cクラスの『王』として即位した時、彼は自陣の強化よりも『敵』の情報収集に心血を注いだ。

 

 ──何故か。

 

 理由は至ってシンプル。

 龍園翔という男に一之瀬(いちのせ)帆波(ほなみ)のような天賦(てんぶ)の才……ひとを惹き付ける『カリスマ』など持ち合わせてないからだ。

 ましてや龍園が即位した方法は(おおやけ)に出来るものではなかった。奇襲や脅迫など、それこそあらゆる手を使い、彼は即位した。

 ゆえに、『こいつは何をするのか分からない』という『恐怖心』を深層意識にまで刷り込ませた。

 恐怖政治、あるいは、独裁政治に効果があるのは歴史が証明している。

 暴君が断頭台に登ったのは、欲に動かされた愚か者が『加減』を間違えたからだ。

 ならば、匙加減(さじかげん)を間違えなければ良い、ただそれだけの話。

 クラスメイトからしたら意味不明だっただろう。

 龍園は他クラスの情報収集と同時に、もう一つ、あることを行っていた。

 即ち──使()()()()()()

『王』に協力する者、あるいは、異を唱える者。後者ならさらに良い。

 主体的に『行動』することが出来るか否か。そして戦力に値するか否か。

 期限は五月いっぱい。

 龍園は『駒』の選定を密かに行っていた。

 はたして、選ばれた者は──少ないが居た。

 まず……『王』の真意に気付き、即位直後にコンタクトをとってきた金田(かねだ)(さとる)。彼は龍園相手にも臆することなく、自分の価値を()いてみせた。龍園は喜んで彼を『知将』として招き入れた。

 しかし龍園の計画はここで少々綻びが生まれる。

 以後、金田のように『龍園の真意に気付いたうえで近付いてきた者』が居なかったのだ。

 それもそのはず。

 Cクラスの生徒は身体能力が高い者は多かったのだが、頭脳面で優れた者はあまり居なかったのだ。

 龍園は現代日本の『学歴社会』を本心から馬鹿にしていたが、流石に、これには慌てた。

 ある程度の教養……知性は必要だからだ。馬鹿では『勝つ』ことは出来ない。

 結局のところ、()()()()()は現れなかった。

 が、しかし。龍園の内心の僅かな焦りとは別に『駒』に相応しい者は続々と出現し始めていた。伊吹(いぶき)(みお)山田(やまだ)アルベルト、石崎(いしざき)といった生徒たちだ。龍園は彼らを『駒』として活用することを決めた。特に気に入ったのは伊吹だった。

 並行して行っていた本来の目的である情報収集は確実な成果を出していた。実力者がすぐに表舞台に姿を現していたからだ。また、『駒』たちが初仕事ということで張り切って──若干一名面倒臭さを隠そうともしなかった不届き者が居たが──集めたということもある。

 あらかた『敵』の情報を入手したところで──龍園は落胆した。

 失望、とも言い換えることが出来るかもしれない。

『王』の『敵』として相応しい相手が全くもって居なかったからだ。

 唯一、自分が『負けるかもしれない』と思わせられたのは、一年Aクラス、坂柳(さかやなぎ)有栖(ありす)のみ。

 他の人間では相手にもならない。

 龍園にとってはその唯一の『敵』ですら、自分が喰らう光景が想起された。

 とはいえ、嘗て伊吹たちに語ったように手こずるだろう。むしろ最初は倒される可能性の方が高いと冷静に分析もしている。

()()()()()()

 勝てない相手では断じてない。

 最初こそ敗れるだろうが、最後に勝つのは自分だ。

 本当の実力とは──最後の最後に勝ち、立っていること。そして敗者を見下ろすことだ。

 過程は関係ない。

 兎にも角にも、失望した龍園は一つの決断をした。

 すなわち、これ以上の参謀は必要ないというものだ。

 不確定な情報があるのは否めないが、『脅威』には値しないと判断したのだ。

 そこでようやく、『王』は自陣に目を向ける。

 既に分かっていたことだったが、Cクラスは身体能力が優れた者が多かった。何かしらの武術を習っていた生徒が多く、そうでなくても、腕っ節が強い。

 だが決定的なまでに、学力に拘っては駄目だった。

 A、Bクラスはもちろんのこと……不良品と蔑まれているDクラスにすら劣っているだろう。

 これは完全に龍園の想像だが……学校側はある程度の『法則性』を初期のクラス編成に組み込んでいるのではないだろうか。

 Aクラスは平均潜在性が高く、Bクラスは協調性が高く、Cクラスは身体能力が高く、そしてDクラスは尖っているものがあるが、それを打ち消すほどの欠陥がある。

 この考えが正しければ、ことCクラスはクラス闘争に不向きだと言わざるを得ないだろう。

 学生の本分は──龍園はそんなことは露ほども思っていないが──勉学に勤しむことだ。

 高度育成高等学校では、定期的に行われる試験で、一科目、一点でもボーダーラインを下回ったら即退学になる。

 そして試験結果が数ある査定項目、その中でも重要なものなのは明らかだろう。

 だがそれは通常のやり方ならの話。救済措置なのかこの学校にはいくつか『裏道』が用意されている。

 ……尤も、安易に『裏道』を通ることは出来ないが。

 龍園は四月下旬に行われた小テストを参考にして、現段階でのCクラスの学力を測った。

 そこで殊更に目を引いたのは二人の生徒。

 一人目は『知将』として招き入れた金田悟。

 もう一人が──椎名(しいな)ひよりだ。

 小テストの結果では、椎名は金田よりも高い点数をとっていたのだ。

 小テストの問題は中学生でも解ける初歩的な問題ばかりで構成されていたが、数問は応用問題で、普通の高校一年生では解けない難問だった。

『王』の計画では、金田、椎名、そして自身を入れた三人で『頭』を担うはずだったのだ。だが待てど暮らせど彼女は龍園に何も接触してこなかった。

 彼女が『王』の真意に気付かなかった……という線はないと龍園は考え、彼は椎名の情報を集めた。

 入手した情報は以下の通りだった。

 まず一つ目。彼女は争いを忌避(きひ)する人種である、ということ。これは業を煮やした龍園自身が直で確かめたので間違いない。

 椎名は龍園にこのように言った。

 

『クラスメイトとして最低限の協力は約束しますが、私が自主的に参加することはまずありません。お互い、不干渉でいた方が良いでしょう』

 

 甚だしいことに、彼女の言葉は正しかった。

 二つ目。コミュニケーションに問題がある、ということ。彼女は他者との触れ合いに興味がなく、また、その必要性を感じていなかった。これは普段の生活を観察すればすぐに露呈した。休み時間は自分の席で黙々と読書に没頭し、授業で行われるグループワークの際も必要最低限しか話さない。部活は茶道部に所属しているようだが、それも毎日あるわけではなく、部活が無い日は図書室にこもっている。

 

 ──彼女の興味は趣味である読書に注がれている。『味方』にもならないが、『敵』にもならない。

 

 この結論をだし、龍園は椎名を諦めることにした。

 彼女の優れた知性は素晴らしく是非とも欲しいが、それ以上に問題点もある。何よりも、戦う意思がない人間がいたら士気に関わってくる。

 ……だがしかし、そんな彼女だったが、石崎が持ってきた情報によると、一人だけ……そう、たった一人だけ、心を開いている相手がいるようだった。

 

 それこそが────。

 

 

 

§

 

 

 

「それで龍園くん、きみは何をしたいんだい?」

 

 俺の前に立つ、一年Dクラスの平田(ひらた)洋介(ようすけ)という男が、張り詰めた空気の中、にこやかに笑いながら、そう、尋ねてきた。

 

「質問の意味がわからないな」

 

「うーん……なら、もっと単刀直入に聞こうか。ぞろぞろとCクラスのひとたちを大衆の目に晒しやすい場所に集めて、僕たちを誘い出して、きみの目的は何だい?」

 

 豪華客船は全九階層と屋上に分けられている。地上五階、地下四階だ。

 一階はラウンジや宴会用のフロアとなり、屋上にはカフェやプールがある。

 二階は今回の干支試験の開催場。

 三階から五階は客室が用意されており、今回は俺たち、高度育成高等学校の一年生がその身分となっている。三階が男性、四階が女性となっており、これは教師や学校関係者も例外ではない。ただし異性の階に行ってはならない、というルールは定められていない。強いて言うなら、深夜零時から午前六時間の滞在及び立ち入りが禁止されている。咎められた場合、一回目は注意、二回目はプライベートポイントの徴収、三回目はクラスポイントが引かれると言った具合に、行為を重ねる毎に重い罰が与えられる。

 地下一階から三階はカラオケや舞台などの娯楽施設。また、簡易的だが図書館やスポーツジムが設置されている。

 地下四階は禁止エリアとなっている。

 そして現在、場所は一階、ラウンジ。

 俺は平田の言葉を鼻で笑った。

 

「ここは公共の場だぜ。ましてや俺たちは誰にも迷惑は掛けていない。突っかかられる(いわ)れはないはずだ」

 

 ラウンジは二四時間利用可能だ。深夜の時間での利用は極力控えるように通達されているが、現在時刻は十五時を少し過ぎたあたり。

 咎められる筋合いは何もない。

 すると平田は、

 

「気分を害したなら謝るよ」

 

 ごめんねと奴は頭を下げたが、そんな気がないことは俺からしたら丸わかりだ。

 他の奴ら……特に馬鹿な女子どもは騙されているようだがな。

 

「でも龍園くん、自己弁護するけれど、僕がこう思うのも仕方がないと思うんだ」

 

「ククッ、ほんとに言い訳しやがる」

 

 平田洋介という男を、これまで俺は『つまらない男』と評価していた。

 奴の在り方が滑稽の一言に尽きるからだ。

 自分の『理想』に酔いしれることが出来たなら、こいつは、こうも『面白い男』に変貌しなかっただろう。

 だがそれがどうだろう。

 結果として、目の前の男は()ちつつある。

 

「まあ、お前がそう思うのも無理はねえか。なに、たまにはクラスメイトと親睦を深めようと思ってな」

 

「──時間が勿体ない。話は手短にしろ」

 

 会話に割り込んできたのは平田の半歩後ろにいた一人の男。

 一年Aクラス所属、葛城(かつらぎ)康平(こうへい)だ。眉間に皺を寄せて目を細めている。

 俺は薄く笑い、静かにラウンジを見渡した。

 広大な空間は二分化されていた。

 東側に俺たちCクラス、総勢四十名。

 西側に他クラスの生徒。数は多すぎて分からないが、一年生の半分は居るだろう。殆どは雑魚で烏合の衆。不遜にも俺の前に居るのは平田、葛城の二人だけ。

 俺は葛城に言った。

 

「まあ、待てよ。役者がまだ揃っていない」

 

「役者だと?」

 

「ああ。……おっと、来たようだぜ」

 

 壁を突き破り、現れたのは一人の女。

 一年Bクラス、一之瀬帆波だ。

 奴はいつもの憎たらしい笑顔で俺たちに近付く。

 

「ありゃりゃ、これは完全に出遅れたかな?」

 

「そうでもないぜ」

 

「……なるほど、確かに役者不足だったな」

 

 葛城はそう言うが、

 

「何を言ってやがる。まだ揃っていないだろうが」

 

「貴様こそ何を言っている。お前は誰を求めている?」

 

「分からないのか?」

 

 嘲りの眼差しを送ると、葛城はさらに顔を顰めた。

 すると一之瀬が「あっ」と声を上げた。

 

「堀北さんとか?」

 

「いや、堀北さんは龍園くんの誘いに乗らなかったんだ」

 

「あれ、そうなんだ?」

 

「グループディスカッションが終わってすぐに、龍園くんは『面白いものを見せてやる』と言って、僕を含めた竜グループの生徒に言ったんだ。けれど堀北さんは『興味がないわ』と言って帰っちゃってね」

 

 平田の説明に一之瀬は「なるほどねー」と頷く。

 

「なら龍園くんは誰を待ってるの?」

 

 俺は質問してきた一之瀬ではなく、元々の質問者に顔を向けた。

 

「葛城、坂柳を呼べ」

 

「何だと……?」

 

 坂柳の名前が出た瞬間、葛城の警戒度は臨界点を超えたようだった。

 

「何故彼女に電話をする必要がある?」

 

「良いから早くしろ。時間がもったいないぜ」

 

 そう言っても、葛城は微塵も動かなかった。

 同時に確信する。

 この男では坂柳には到底勝てないだろう。天地がひっくり返っても有り得ないな。

 坂柳有栖が『女王』として君臨する光景が目に浮かぶ。

 と、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そして俺はさらにもう一つ、別のことを確信した。

 

「なら、私がするね」

 

「それは構わねえが、なんだ、お前は坂柳の連絡先すらも知っているのか」

 

「うん、そうだけど」

 

「ククッ、フハハハハハハハハッ!」

 

 俺は笑った。

 ありったけの嘲笑を込めて、馬鹿な女を見下す。

 

「理解出来ないな。Aクラスはお前……いや、お前らBクラスからした『宿敵』だろうに」

 

 煽っても電話番号を打つ手は止まらない。

 

「うぅーん、それはそうなんだけど。龍園くん、きみが正しいのは分かるよ。けれどたかが連絡先一つで勝敗は変わらないんじゃないかなあ」

 

「かもしれないな。だがお前のやり方だと辛いだけだぜ」

 

 一之瀬は俺の言葉を最後まで聞き入れることなく、携帯を操作し続けた。

 そして番号を打ち終えたのだろう。指を止め、ここで初めて俺に顔を向ける。

 

「掛けるよ」

 

「早くしろ」

 

 それがひとにものを頼む態度なのかなぁ、と不満を言ってから、彼女はコールボタンをタップした。

 スピーカーモード、さらには、音量を最大値にしているようで、旋律はシンとした静寂を包み、この場に居る全員が携帯から漏れ出るメロディを聴いた。

 数秒後、一筋のノイズがザザっと音を立て、空間を走り抜ける。

 

『こんにちは』

 

 それは、何てことない普通の挨拶。

 俺は口元を歪ませた。

 この声音、そして、画面越しからでも伝わってくる重圧。

 間違いなく、一年A組所属の坂柳有栖だ。

 

「もしもし、坂柳さん?」

 

『聞こえていますよ、一之瀬さん』

 

「急に掛けてごめんね。いま時間貰っても良いかな?」

 

『大丈夫ですよ』

 

 一之瀬たちは一言二言言葉を交わす。それはあまりにもありふれた上辺だけの言葉だ。女どもの闇は深いからなぁ、と俺は茶番劇を最後まで見る。

 

『──さて、挨拶はこの辺りにしましょうか。私を招いたのは一之瀬さんではないのですから』

 

「あれ、分かるんだ?」

 

『ふふ、主催者に挨拶をしないのは無礼というもの。そうでしょう?』

 

 一之瀬が無言で携帯を渡してくる。

 俺は受け取り、それを近くのテーブルに置いた。そのまま椅子に座る。

 

「よう、坂柳」

 

『おやおや。ある程度予想はしていましたが……やはりあなたでしたか。──こんにちは、龍園くん』

 

「学校に独りで残り、戦いに参加出来ない気分はどうだ?」

 

 先制攻撃を込めて煽ると、返ってくるのは控えめな笑い声。

 

『そうですねえ、退屈で退屈で仕方がないですよ。学校もないですし、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ククッ、そうか。それは残念だなあ」

 

『ええ、ええ。とても残念です。ただそうは言っても、頼めば介助者がついてくれるのですが。いつも埋まっている図書館の席をいまは使えるので嬉しいですね』

 

「あ? 何を言ってやがる?」

 

『いえいえ、ただの雑談です』

 

 後半の部分は何を言っているのか俺には分からなかった。いや、ある程度は推測出来るが、それに何の意味があるのかが分からない、といった方が正しい。

 それはまるで、俺ではない誰かに聞かせているような、そんな物言いだ。

 だがそれは俺の知ったことではない。

 さらに俺は仕掛ける。

 

「お前の居ないAクラスは雑魚だな。相手にもなりはしない」

 

「……」

 

「代行リーダーは事実だからか言葉も出ないようだぜ」

 

 眉間に皺を寄せている葛城は、しかし、それ以上のことは出来ない。

 彼には乱入する『資格』がないからだ。辛うじて、この愉快なパーティーに出席出来るだけ。

 とはいえ、実はそれとは別に理由があるからだが。

 

『葛城くんは分別がついていますからね、余計な行動はしないのですよ』

 

「ククッ、それがクラスメイトに対する態度かよ。慰めたりはしないのか?」

 

『しかし龍園くん、私が仮に彼を庇ったとしても、彼は私に感謝はしないでしょう。ましてや、彼の私に対する感情はもっと黒くなるでしょう』

 

「好戦的なお前らしくないな」

 

『ふふふ、私は確かにそのような性格ですが。しかし、無駄なことはしないのです』

 

 言外に、葛城如きにリソースを割くのは勿体ないと告げる。

『攻撃』の坂柳と、『防御』の葛城。

 二人が相容れないのは当然のことだ。奴らは最後まで歩調を合わせることは出来ないだろう。

 そこがAクラスの弱点だった。

 だがその晒された部分は塞ぎつつある。

 派閥争いはもうじき終わり、すぐに『女王』が君臨するだろう。王は君臨すれども統治せず、そんな言葉は俺たちには当てはまらない。

 

「坂柳、無人島試験の結果は耳に入れているな?」

 

『もちろん。私たちAクラスは惨敗したことを、私はよく知っています』

 

「ほほう……感心なことだ。てっきり自分が居れば無様を晒すことはなかったと……そう喚くものだと思っていたぜ」

 

 すると坂柳は可笑(おか)しそうに笑った。

 

『面白いことを仰りますね』

 

「なんだ違うのか?」

 

『ふふ、さあ……。私は無人島試験の概要と、過程と、そして結末。それらをクラスの皆さんから教えて貰いました。ですが私はそれを伝えて貰っただけ。それだけなのです』

 

「それもそうだな。『IF(もしも)』の話をしても意味がない。事実として、お前たちは負けた」

 

『おやおや、しかし龍園くん。確かに私たちは負けましたが、それはあなたにも言えることでは?』

 

 上辺だけの言葉を交わす。

 この会話に意味はない。

 ただの時間潰し、あるいは、これも『選定』だ。

 

「ほざけよ。あんな試験、真面目に取り組む奴の方が負けだというものだ」

 

「──ということは、今回は違うと?」

 

 今まで沈黙していた平田がここで開口する。

 当然、突然のことに坂柳は疑問の声を上げた。

 

『聞き覚えがない声ですね。どちら様ですか?』

 

「これは失礼。はじめまして、僕は一年D組の平田洋介だよ」

 

『ああ……あなたが平田くんですか。はじめまして、私は一年Aクラスの坂柳有栖と申します。あなたのご活躍は私の元にも届いています。そうですね──さながらあなたは『先導者』と言ったところでしょうか』

 

「そう言われると嬉しいかな。ありがとう」

 

 平田はにこりと(いびつ)に笑った。

 その顔のまま、彼は嘆願した。

 

「坂柳さん、僕も話に交ざって良いかな?」

 

『もちろんです。平田くんとは機会があればお話したいと思っていましたから』

 

「なら私も良いかな?」

 

 一之瀬の質問に坂柳は笑いながら即答した。

 彼女は機嫌が良さそうに、このように言う。

 

『感慨深いものですね……まさかこのようにして、各クラスの代表者が集まるとは。嗚呼……いまこの時ほど、旅行に参加出来なかったことが悔やまれて仕方がありません』

 

「うんうん、それは私もかなあ。壮観だね」

 

 見れば、既にラウンジの外にまで、生徒は集まっているようだった。

 一年生の九割は居るだろうか。

 俺は目だけ動かして『奴』が居るのを確認する。甚だしいことに『奴』は俺が嫌ってやまない雑魚の中に身を隠していた。

 そして俺はこの時を待っていた。

 俺はおもむろに椅子から腰を離し、静かに『敵』を一瞥する。それから俺はクラスに合流し、背後に控えさせた。

 気分が最高潮に達する。

 

「俺たちCクラスは全クラスに対して宣戦布告する」

 

 この瞬間、俺はこの場を完全に支配した。

 

「「「……ッ!?」」」

 

 数秒を掛け、遅れて爆発する衝撃。

 これまで俺たち一年生は面と向かってこのやり取りをして来なかった。

 だがそれは俺の望むことではない。意図して避けるのなら、強引にでも巻き込んでやる。

 啖呵を切る俺に一人の女が、不意に。

 

『ふふ、ふふふふふふっ』

 

 坂柳が笑う。奴の本当の笑い声は純粋さと、愉快さと、そして多くの狂気を孕んでいた。

 

『あなたでは無理ですよ、龍園くん。いいえ、あなただけではありません。葛城くんも、一之瀬さんも、平田くんも──()()()()()()()()()()()()()辿()()()()()()

 

「それはやってみないと分からないんじゃないかな」

 

『いいえ、分かりますとも。あなたたちでは『至高』の領域、その末端すら拝めないでしょう』

 

 一之瀬の言葉を、坂柳は両断する。

 さらに奴は続けて言った。

 

『人間の成長とは恐ろしいものですが、いまの速度では致命的なまでに遅い。それはこの状況が物語っています。たった一人の嘘吐きすら看破出来ないとは、高がしれていますね』

 

「なら坂柳さん。きみは違うと?」

 

『ええ、当然です。私は干支試験の根幹に、既に辿り着いています』

 

「ならどうしてクラスに共有しないんだい? きみの言葉をそのまま信じるなら、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 平田の鋭い指摘。

 前回の特別試験でAクラスは悲惨な目に遭った。

 勝利方法が分かっているのなら、この絶好の機会を活かさない手はない。ましてやここで坂柳がクラス闘争に貢献したら、Aクラスの派閥争いは奴の勝利で終わる。

 

『如何にも、現在、私はこの試験の結末を大きく変えられます』

 

「じゃあどうして?」

 

『決まっていますよ、一之瀬さん。私は参加者ではないからです。私は前回も、そして今回も部外者なのですから』

 

「それじゃあ坂柳さんは何もしないの? 動かないの? たとえそれで負けることになっても?」

 

『ええ、はい』

 

「……理解出来ないな」

 

 平田の呟きに坂柳はくすりと笑ったようだった。

 

『そうですね。この中で私に共感してくれるのは龍園くんだけでしょう』

 

 非常に腹立たしいことにな、という言葉を俺は呑み込んだ。

 

『お話はこれで終わりでしょうか?』

 

「ああ」

 

『では、電話を切らせて頂きますね。それではみなさん、ご機嫌よう。どうか私を楽しませて下さいね』

 

 ブツン、とノイズが響いた。そしてツー、ツーという音が何度も鳴る。

 ああ……本当に苛立つ。

 だが──面白い。

 俺は無言で携帯を一之瀬に渡す。礼は言わないし、奴も期待していない。

 葛城、一之瀬、平田、そして俺の四人は視線を交錯させ、足を別々の方向に向けた。

 俺と葛城がほぼ同時に動き出し、ラウンジから出る。一之瀬と平田は残るようだ。B、Dクラスは同盟関係を結んでいるから話し合いでもするのだろう。

 

「龍園さん、ちょっと待って下さい!」

 

 背後から数十人の足音。俺の配下たちだ。

 

「坂柳のあの発言、あれをどう受け止めますか!?」

 

 石崎が焦りの顔で尋ねてくる。

 他の配下たちも同様だ。不快なことに動揺してやがる。

 干支試験の根幹に辿り着いたという、奴の言葉を鵜呑みにしているのだろう。奴の気紛れで試験が一転することを恐れている。

 だが──。

 

「安心しろ、奴には何も出来ない」

 

「で、ですが!」

 

「なら奴が気紛れを起こす前に勝負をつければ良い。違うか」

 

「そ、そうですが……」

 

 これだけ言葉を尽くしても、石崎をはじめとしたクラスメイトは不安を拭えないようだった。 

 

「チッ、仕方ねえ。一度しか言わねえからよく聞け」

 

 俺は黙考してから、おもむろに唇を動かす。

 説得材料となるものは多くある。それらを一つずつ丁寧に伝える。

 話を聞き終えた配下たちは納得し安堵の表情を浮かべた。

 俺は獰猛に嗤い、

 

「今晩で片をつける。出来るな?」

 

 呼応し、すっと目の前に現れたのは二人の生徒。

 配下たちがどよめくの中、Cクラスの『頭』を担う者たちは俺を見つめる。

 一人は『知将』である金田悟。彼は眼鏡を掛け直し、

 

「当然ですよ、龍園氏」

 

 にやりと笑った。俺はその答えに満足する。

 そしてもう一人は──

 

「お前にも期待しているぜ?」

 

 ──椎名ひよりは静かに頷いた。

 



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干支試験──櫛田桔梗の分岐点 Ⅱ

 

 喧騒に包まれるラウンジ。

 龍園翔(りゅうえんかける)の全クラスへの宣戦布告により、干支試験の波乱の波はさらに強くなった。

 しかしオレにとってはどうでも良い。平田(ひらた)に呼ばれたから来たものの、感じたものは茶番劇に対する呆れだけ。

 

「時間の無駄だったな……」

 

「あはは、言うねー」

 

 独り言に割り込んできたのは櫛田(くしだ)だった。

 近くに居ることは目視していたが話し掛けられるとは思っていなかった。

 場所をエレベーターに移す。オレと櫛田以外、乗客は居なかった。オレが奥に入り、彼女が前に立つ。

 

「お前も居たんだな」

 

「まぁね。私も堀北さんみたいに無視をしようかなと思ったんだけど。でもやっぱり面白そうかなって思って」

 

「感想は?」

 

「うーん、きみの言う通り時間の無駄だったよ。あぁでも、坂柳(さかやなぎ)さんが登場した時は少しだけわくわくしたかな」

 

 一年Aクラス坂柳有栖(ありす)。オレは一度も会ったことがない為、彼女のことは間接的にしか知らない。

 

桔梗(ききょう)は坂柳とは遊ぶ仲なのか?」

 

 純粋に疑問に思ったので尋ねてみると、彼女は可笑(おか)しそうに笑った。

 

「いやいや、あれは無理だね。私と坂柳さんが遊ぶことは多分、未来永劫ないと思うな」

 

「それはまたどうしてだ?」

 

「あはは……清隆(きよたか)くん、それは本気で言ってる?」

 

 質問を質問で返されたオレは戸惑った。

 ここでようやく櫛田はオレに顔を振り向かせる。そこでは魔女が妖しく口元を歪んでいた。

 

「私はね清隆くん。『女王』に刃向かう程馬鹿じゃないよ」

 

 驚くほど静かにエレベーターが停止する。電光掲示板では『3F』の文字がオレンジ色で輝いている。

 

「ほら、着いたよ」

 

「……ああ」

 

 色々と言いたいことはあったが、オレはそれらを呑み込み、一つに纏めた。

 

「じゃあ、待たな」

 

 扉が完全に閉じる寸前、櫛田は唇を動かしていたが……何を言っていたのかは分からなかった。

 彼女が呑まれないことをオレは願おう。

 それしかオレには出来ないのだから。

 自分の部屋に戻るため廊下を歩き、扉を開けると、

 

「ああああああああぁぁぁやぁぁぁぁのこおおおおううううううじいいいいぃぃぃぃ……!」

 

「……」

 

「ああああああああぁぁぁやぁぁぁぁのこおおおおううううううじいいいいぃぃぃぃ……!」

 

「……」

 

 怨嗟の声、そして沈黙が繰り返される。

 オレは内心で頭を抱えた。

 目頭を片手で摘み「マジかー……」と小さく呟くのは許して欲しい。

 

「あー、えっと……どうかしたか山内(やまうち)?」

 

 放置することは出来ないし、無視をすることも出来ない。

 オレがおずおずと声を掛けると、クラスメイトの男はふらふらと覚束ない足取りでこちらに近付いてくる。

 逃げようにも背後はひんやりと冷たい扉。退路は完全にない。

 

「助けてくれよ綾小路(あやのこうじ)!」

 

「いや……助けるって何を……?」

 

「助けてくれってえええぇぇぇ!」

 

 だ、駄目だ……会話が成立しない。

 実のところ、オレは何故山内がここに居るのか見当がついている。

 だが関わりたくない気持ちの方が正直なところ大きい。

 

佐倉(さくら)があああぁぁぁぁ……! ああああああああぁぁぁ!」

 

 とうとう山内はオレの両肩をがくがくと揺さぶってきた。

 いまオレはどんな表情をしているのだろう。

 高度育成高等学校に入学してからの数ヶ月で、オレは数多くのことを経験した。

 はじめての出来事を何度も繰り返すうちにオレは成長したはずだ。友人が言うのだから、多分、それは間違っていないのだろう。

 だが、しかし──。

 これはちょっと無理かもしれない。

 

「……一旦落ち着いたらどうだ。顔が凄いことになっているぞ」

 

 一言では言い表せられない程のものになっている。

 というか、いま気付いたのだが──。

 

「なぁ山内」

 

「……な、何だよぅ?」

 

「お前、どうやって室内に入ったんだ?」

 

 全ての部屋はオートロック式だ。入室する為には指紋認証をする必要がある。

 

「……高円寺(こうえんじ)が……ズズズッ、開けてくれたんだ」  

 

「ああ、高円寺が……」

 

 室内に入るためには内部から開けて貰うしかない。

 まさか高円寺が……と思いながら室内を軽く見渡すが、彼は留守にしているようだった。

 

「グズッ……あいつなら……ズズッ、どっかに行ったよ」

 

 これは完全にオレの予想だが、恐らくはこれで合っているだろう。

 まず、山内はオレに相談したいこと──内容は予想がついているが──があって部屋を訪れた。しかしオレは部屋に居なかった。そこで高円寺が扉を開け、彼を招いたのだろう。

 だが高円寺の性格上、彼がひとを自分から招待するとは思えない。

 山内は廊下に居た時からこの状態で、扉越しから伝わってくる雑音が喧しくてしょうがなく、さらには近所迷惑のことも考えて、嫌々ながら行動したのではないだろうか。

 そして美しくない山内を放置して部屋を出たに違いない。そう考えると、山内が無事なのは奇跡に等しいんじゃないだろうか。

 

「あー……取り敢えず、鼻水を何とかした方が良いと思うぞ」

 

 汚いから、という言葉を直前で言わなかったのは自分でも偉いと思った。

 ズボンのポケットからティッシュを取り出し、数枚、彼に手渡す。

 ズズズズゥゥッッッという音が盛大に鳴り、ようやく山内の顔はまともなものになった。

 

「座ったらどうだ」

 

 立ち話するのは疲れるし、何よりも、この超絶至近距離を何とかしたい一心で提案すると、山内は素直に聞き入れた。

 平田が使っているベッド、その縁に座る。オレは彼と向かい合う形で自分のベッドの縁に腰掛けた。

 

「それで……用件はいったい何だ?」

 

「分かっているだろ! 佐倉についてだよ!」

 

 怒鳴られてしまった。

 これはかなりまずい状況かもしれないな。

 

「つまり、お前は恋愛相談をしたいんだな?」

 

 最終確認をすると、山内は憮然(ぶぜん)としながらも頷いた。

 ここでオレが取れる選択肢は二つ。一つ目は相談に応じるというもの。二つ目はその逆だ。

 どちらを選択しても面倒臭いことになるのは目に見えている。

 そのうえでオレはどちらを取るべきなのだろう。

 ……いや、そこまで考える必要はないかもしれない。希望的観測だがそう願おう。

 

「相談を受けることは了承するが、助言とかはあまり期待するなよ」

 

「ありがとう……! ありがとう綾小路! お前だけが心の友だぜ!」

 

 感極まって泣く前に、早く話をして貰いたい。

 

「彼女持ちのお前に話を聞いて貰えるだなんて……これは勝ったも同然だぜ!」

 

 訂正したい箇所があったけれど、時間の浪費にしかならないと判断し、オレは無言で話を促した。

 

「俺が佐倉のことを好きなのはこの前言ったよな」

 

「ああ、無人島試験の最中に聞いたな」

 

「そう、そうなんだ! 俺は佐倉のことが好きなんだ! 愛していると言っても良い!」

 

「…………」

 

「何だよ。文句でもあるのかよ!?」

 

 オレの無言が癪に障ったのか睨んでくる。

 オレは「何も無い」と一言謝罪する。けれど、胸の中の靄をきりばらいすることが出来ない。

 何故彼は軽々と『愛』などと宣うことが出来るのだろう。

 これは嘲りではない。純粋な興味だ。

 お世辞にも山内は佐倉と仲が良いとは言えない。

 いや、その段階ですらない。

 彼らの関係は良くてクラスメイト、悪くて赤の他人だろう。

 それも当然だろう。

 山内春樹(はるき)が佐倉愛里(あいり)への恋心を自覚したのはつい最近のことなのだから。

 そして彼が彼女に惹かれた最大の要因は身体的特徴──胸だ。

 それが悪いこととは言わない。

 生物である以上、自分に適した優れた相手──山内春樹の場合、まず何よりも胸の大きさなのだろう──と恋仲になりたいとは自然なことだ。

 

 だからこそ、人間は都合の良い『外面』だけを視て、『内面』には気付かず──あるいは気付いたとしても、まるでないかのように扱う。

 

 オレは対面に座る山内の顔をじっと見つめ、思考に耽る。

 何故、彼は軽々と『愛している』と言えるのだろうか。

 愛情とは無縁の人生を送り、そのレールの上を歩いてきたオレは、それが知りたくて仕方がない。

 それを知った時オレは────。

 思考を中断し、オレは彼に尋ねた。

 

「最後に確認するが、本気なんだな?」

 

「ああ!」

 

「……分かった。話を聞かせてくれ」

 

 山内は安堵の表情を浮かべ、けれど悲痛な面持ちに戻る。そしてゆっくりと話を始めた。

 

「実は……俺、避けられている気がするんだ」

 

「避けられているって……佐倉にか?」

 

「あぁ、間違いない……」

 

 オレは困惑した。

 これまでの山内の様子からして、もっと重たい話になると思っていたからだ。いや、当人からしたらそうなのかもしれないが……。

 

「あー……悪い。もうちょっと詳しく頼む」

 

「お前……それを聞くのかよ」

 

「嫌なのは分かるが、そこは了承して貰わないと話にならないぞ」

 

「けどよぅ……」

 

 とはいえ、佐倉本人に話を聞くという方法も残されている。しかしそれはあまりにも彼女に酷だろう。

 山内は渋々ながらも、

 

「俺さ、無人島試験が終わってから佐倉にずっと声を掛けていたんだ。ほらさ、やっぱり最初は仲良くなることからが定石だろ?」

 

「そう……なのか?」

 

「ケッ! なら椎名(しいな)ちゃんに当て嵌めてみろよ」

 

 唾を吐いてから、山内はそう言う。

 オレは胸中でため息を吐いてから想像してみた。

 言われた通り、椎名の輪郭を描き出す。

 

「どうだ?」

 

「……そうだな、山内の言う通りだと思う。仲良くないひとと付き合おうとは思わないだろうな」

 

 あくまでも一般論を言ってみると、それはもう嬉しそうに山内は頷いた。

 友人にせよ恋人を作るにせよ、まずは自分から歩み寄ることは必要だろう。

 つまり、山内の行動は正しいと言える。

 

「最初は挨拶からしてみたんだ」

 

「挨拶か」

 

「ああ。けど佐倉は返事をしてくれないんだよ。ひどいと思わないか?」

 

「……それ、本当か?」

 

「当たり前だろ! こんなことで嘘を吐くかよ!」

 

 いや、確かにそうなのだが……。

 しかしどうにも腑に落ちない。

 昔の佐倉なら兎も角として、今の彼女なら挨拶くらいなら充分対処出来るはずだ。

 

「さらに聞いてくれよ綾小路。佐倉だけじゃなくて、(ワン)も返してくれないんだぜ? ほら、最近あの二人仲が良いだろ?」

 

「ああ、そうだな。それより……みーちゃんもか……?」

 

 オレのなかにますます猜疑心が生まれる。

 佐倉一人ならまだ兎も角として、みーちゃんまでも返事をしないだろうか。

 オレが尋ねようと喉を鳴らす前に、大音量が部屋に響いた。

 

「おまえっ! (ワン)のことを『みーちゃん』だと!? 渾名呼びだと!?」

 

 まるで親のかたきを見るような目で、山内は鋭い眼差しでオレを睨んできた。

 胸倉を摑まれそうな、そんな勢いだ。

 

 ──本格的に面倒臭くなってきたな……。

 

 今日の山内は相手するのに疲れる。こんな時平田が居れば丸投げ出来るのにな……。いやでも、彼らはそんなに仲は良くないか。

 実に今更だが、どうしてオレは何人ものクラスメイトから恋愛相談をこれまでに受けているのだろう。

 思考がどんどん泥沼化しそうだったので、まずオレは彼の誤解を解くことにした。

 

「みーちゃん……(ワン)の渾名呼びだが、そんなにおかしなことじゃないだろう」

 

「いやいやいや、おかしいからな! 親しく『みーちゃん』だなんて……!」

 

「本人がそう呼んでとクラスメイトに言っているのは山内だって知っているはずだ。実際数こそ少ないが男子だって何人か呼んでいる」

 

 しかし言葉を尽くしても、山内は冷静さを取り戻さなかった。

 

「前から思っていたが、綾小路、お前!」

 

「な、何だ……?」

 

「何でお前のような無表情なやつが女の子と仲良く出来るんだよ!」 

 

 それは心からの叫びだった。

 山内は天──ではなく、天井に向かって熱く吼える。

 オレは初めて本気で引いた。

 慟哭している隙をついて逃走することは出来ないだろうか。……出来ないんだろうなあ。

 

「…………話を戻しても良いか」

 

「逃げるのかよ──わ、悪い。謝るからその目をやめてくれ、頼むから」

 

 自分でも自覚出来るほどの冷めた目で、オレは脱線した話を元に戻すために言った。

 

「山内の話を信じない訳じゃないが、どうにも想像出来ないというのが素直な感想だな」

 

「け、けどよぅ……」

 

「ちなみに挨拶はどんな風にしていたんだ?」

 

 試しに聞いてみる。

 すると山内は佐倉たちにやるように実演する為か、こほんと咳払いし、

 

「例えば朝の挨拶な。──おはよう佐倉、(ワン)! 今日も二人は可愛いなあ! 昨日の二倍……いや三倍……いやいや五倍は可愛いぜ!」

 

「……」

 

「おはよう佐倉、(ワン)! 今日も二人は──」

 

「分かったからもう一度言わなくても良い」

 

 おっ、そうか? と彼は呑気そうに笑った。

 こめかみを押さえるオレを、山内は心底不思議そうに見てくる。

 自分の行動は正しいものと信じてやまないのだろうか。

 だとしたらこれは問題だろう……色々な意味で。

 

「前半の挨拶は良い」

 

「そうだろそうだろ!」

 

「……問題は後半だ。どうしてナンパ男が言いそうな挨拶なんだ?」

 

「女の子の容姿を褒めることは大事だろ。これがブスだったらもちろん言わないさ。そんなの嘘だからな。けど佐倉たちは可愛いだろ? だから会う度に称賛することによって、俺はきみを見ているということをアピールしようと思ってな」

 

 思ったよりも考えられていて驚いた。

 が、しかし……これはなあ……。考える方向性が違うと思う。

 

「山内の作戦は充分に伝わってきた。お前なりに考えて行動していたんだな」

 

「分かってくれるか、綾小路!」

 

「その上で言うが、容姿を褒めるのはまだ早いと思う。まだ山内たちの関係性はただのクラスメイトだ。だから……そうだな、まずは軽い世間話くらいで良いと思う」

 

 段階を踏めと優しく諭す。

 

「世間話かぁ……。綾小路はどんなのが良いと思う?」

 

「…………天気の話とかはどうだ?」

 

「それだと爺ちゃん婆ちゃんの話だろうが!」

 

「そ、そうだな……」

 

 これはオレも反省する。

 初顔合わせなら天気の話も有効だろうが、急に山内がころっと話題を変えたらますます怪しまれるか。

 備え付きのテレビの横に置いてあるデジタル時計を確認すると、時間に余裕があまりないことに気付く。

 これは早々に話を終わらせなければならない。

 その為には──気は乗らないが──もっと真剣になるか。

 同性、ではなく、異性と仲良くなる方法。

 申し訳ないが、佐倉は普通の女の子……とは言い難い。オレは彼女の『秘密』を知っているからだ。

 その観点からみても、佐倉愛里という少女を攻略するためには、普通の方法では難しいだろう。

 そしてオレは親しくさせて貰っている女性の友人から、何名かをピックアップする。

 一之瀬(いちのせ)は駄目だ。櫛田も駄目だろう。

 堀北(ほりきた)は……論外だな。佐倉とは性格が似ても似つかない。

 最後に残ったのは、やはりというか、『彼女』だった。

 

「趣味の話はどうだ……?」

 

「趣味? そんなんで良いのかよ?」

 

「ああ、そうだ。相手……佐倉の趣味について聞くのはどうだろう?」

 

「けど俺、佐倉の趣味なんて知らないぜ」

 

「ならまずは軽く自分の趣味を言って、それから、佐倉について聞けば良い」

 

 結局オレが言ったのは恋愛の初歩だろうが、間違ってはいないはずだ。

 佐倉も自身の写真撮りという趣味について、興味を示されたら話に応じるだろう。

 

「そうか! 俺、分かったぜ!」

 

「それは良かった」  

 

 オレが万感を込めて頷くと、山内は「うおおおおおおおぉぉぉ!」と拳を天井に突き刺す勢いで立ち上がる。

 

「ありがとう綾小路! 本当にありがとう! 俺たちは心の友だぜ!」

 

「ああ、そうだな」

 

「俺、この試験頑張るよ! 絶対に優待者を見付けて、功績を上げて……佐倉に格好良いところを見せるんだ!」

 

「ああ、そうだな……──ちょっと待ってくれ。いま何て言った?」 

 

 しかし山内にオレの声は届かなかった。

 紅潮した顔で、一人の漢は叫ぶ。

 

「うおおおおおぉぉぉ! 俺がやれるってことを証明してやる!」

 

 オレが制止する間もなく、山内は部屋から出ていった。

 バタン! と扉が勢いよく閉められた音が、とても大きく響く。

 …………。

 オレは携帯端末を操作し、オレの心情を最も理解してくれるだろう一人の友人にメッセージを送る。

 

『お前の大変さが少しは分かった』

 

『は? 何言ってんの? 頭大丈夫?』

 

 確かにそう言われても仕方がない程の脈絡のなさだが、これはあまりにも辛辣なのでは? とオレはさめざめと心の中で泣いた。

 ここ最近、どんどんオレに対して口が悪くなっている気がする。心をオレに開いていると喜ぶべきか……。

 

『あっ、今の履歴ちゃんと消しておいてね』

 

『もし消さなかったら?』

 

 興味本位で試しに聞いてみたのだが、既読だけがついた。普通に怖い。

 恐怖心に従い履歴を消したところで、突如、画面がメロディと共に通話モードに切り替わる。

 そこには『櫛田桔梗』の名前が表示されていた。意を決して、オレはコールボタンをタップする。

 

「もしもし──」

 

『やっほー。さっき振り。しっかりと消してくれた?』

 

 オレはここで妙案が浮かんだ。

 好奇心が疼くとも言えよう。

 後悔するとしても、オレはこの選択をすることをとめられない。

 

「遅くなったが、今日も桔梗は可愛いなあ。昨日の二倍……いや、三倍……いやいや五倍は輝いているぞ」

 

『……』

 

「今日も桔梗は可愛いなあ──」

 

『聞こえているからやめてくれない? 気持ち悪くて吐きそう』

 

 ……なるほど。山内、やっぱりあの挨拶は駄目なようだぞ。

 女の子からこんなことを電話越しでも言われたら、中々に心が抉られるな。

 と、オレが消沈していると、櫛田はため息を吐き、  

 

『あのね、清隆くん。おおかた誰かに影響されたんだろうけれど、それは本当にやめた方が良いから』

 

「そ、そんなにか……?」

 

『うん。百年の恋も冷めるレベルだよ』

 

 私が相手で良かったねと櫛田は言った。

 

『清隆くん、ひとには向き不向きがあるんだよ。きみのような無表情且つ言葉に感情が込められていない棒読みのひとが言っても意味ないから。ね?』

 

「分かった。分かったからもうやめてくれ。何だか泣きたくなってくる」

 

『その言葉すらも棒読みなんだよ……』

 

 そうは言われても、それこそ、ひとには向き不向きがあるんだと思う。

 オレは空気を変えるために咳払いをして、 

 

「ログは消したぞ」

 

『わあっ、ありがとう清隆くんっ!』

 

 天使の声とはこのようなものを言うのだろう。

 何人の男がこの魔女に騙されるだろうか。

 本当に……ひとを騙し、自分を偽るのが得意な少女だ。

 だからこそ、オレはこの言葉を贈る。

 

「大丈夫か?」

 

『……ッ。何のこと?」 

 

「本当は連絡するつもりはなかった。けどやっぱり、心配になってな」

 

『……ほんとうに……困っちゃうなぁ……』

 

 疲れたように櫛田は息を吐いた。

 メールを送ったのは、彼女の状態を知るため。ここで彼女が過剰な反応を示した時、オレの杞憂は当たったことになる。

 そして履歴を消せなど、わざわざ彼女が言ってくる必要はない。もとよりオレは消すつもりだったのだから。

 それは彼女も知っている。

 なのにも拘らず、彼女は電話を掛けてきた。

 彼女が縋れるのはオレしかいないのだから。

 

『……あと少しで、二回目のグループディスカッションが始まるね』

 

 現在時刻は午後の六時を少し回ったところだ。八時から二回目のグループディスカッションが開始される。

 

「そうだな。上手く出来そうか?」

 

『愚問だよ。当然、出来るに決まって……──』

 

 彼女の言葉を遮って、オレはこう言った。

 

「今ならまだ戻れる。それでも、桔梗、お前はとまらないか?」

 

『……』

 

「正直、お前の拘りがオレには分からない」

 

『ふふっ、おかしいことを言うね。……私だけじゃない。誰もがみんな、この黒く、醜い感情を持ったことがある。……だから、清隆くんだけだよ、分からないのは』

 

「そうなのかもしれないな、少なくともいまは」

 

『うん……でも、きみは少しずつ歩いているよ。それは私が保証する』

 

 会話が途切れる。

 実のところ、オレはどのようになっても良い。

 櫛田がどの選択をしても、オレに実害が出ることはないからだ。全ての業を背負うのは彼女一人だけ。

 しかし……だからといって、苦しんでいる彼女のことを放置し、見捨てても良いのだろうか。

 それは違うだろう。

 それではあまりにも不義理だ。

 何よりも、他ならないオレがそれを拒んでいる。

 だからこの時初めて、オレの本心を彼女に告げる。それがたとえ残酷なものだとしても。

 

「お前が進む道は茨の道だ。これまで以上にお前は疲弊し、そしてストレスを抱えることになるだろう」

 

『そう、だね……』 

 

「もう一度聞く。桔梗、お前はその道を進むか?」 

 

 彼女の荒れた息遣いが伝わってくる。

 オレは瞼を閉じて彼女の答えを待った。

 はたして、数分後──。

 芯が通った声が、オレの元に届く。

 

『私は進むよ。失敗したら私は全てを(うしな)う。だけど、だけどね。それでも私は嫌なんだ。だから私は仲間を裏切ってでも行くよ』

 

「分かった」

 

『……ごめんね。これで私たちは正真正銘、運命共同体になったんだ』

 

「そうだな、旅は道連れとも言うしな。たとえお前が挫折し、周りから蔑みの目を向けられ、絶望したとしても、オレだけは味方でいよう。約束だ」

 

『それは嬉しいなあ。けど言い方が上から目線で腹立つかも』

 

「気分を害したなら謝る」

 

『ううん、大丈夫。──あはは、なんか私たち、悲劇に居るみたいだね。椎名さんにちょっと悪いかも』

 

 でも、私は悪い子だから謝らないけどねと、少女は寂しそうに言った。           

 オレは、悪友(桔梗)が報われる日はあるのだろうかと、思わずにはいられない。

 

 

 

§

 

 

 

 干支試験、二日目を迎えた、早朝の午前六時。

 船上は荒れていた。

 何故ならば、運営側からの大量のメッセージが、この時までに、生徒の元に届いていたからだ。

 

『鼠グループの試験が終了致しました。鼠グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『牛グループの試験が終了致しました。牛グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『兎グループの試験が終了致しました。兎グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『竜グループの試験が終了致しました。竜グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『馬グループの試験が終了致しました。馬グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『羊グループの試験が終了致しました。羊グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『猿グループの試験が終了致しました。猿グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『鳥グループの試験が終了致しました。鳥グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『猪グループの試験が終了致しました。猪グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

 

 ──それは正しく、試験終了を告げる託宣(たくせん)だった。

 

 



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干支試験──乱闘

 

 ──九匹の(けもの)咆哮(ほうこう)を上げたのは一瞬だった。

 

 

§

 

 

 

 一時間ほど仮眠を取っている間に、二件のメッセージが届いていた。佐倉(さくら)王美雨(みーちゃん)の親友コンビだ。二人からメールが来るのは珍しいな。

 佐倉からは試験そのものへの不安が述べられていた。千秋(ちあき)から既に伝えられていたが、彼女たちは同じ『牛』グループだ。ちなみに、『牛』グループの構成メンバーは──。

 

 

 

§

 

 

 

 Aクラス──沢田恭美(さわだやすみ)清水直樹(しみずなおき)西春香(にしはるか)吉田健太(よしだけんた)

 Bクラス──小橋夢(こばしゆめ)二宮唯(にのみやゆい)渡辺紀仁(わたなべのりひと)

 Cクラス──時任裕也(ときとうひろや)野村雄二(のむらゆうじ)矢島麻里子(やしままりこ)

 Dクラス──池寛治(いけかんじ)佐倉愛里(さくらあいり)須藤健(すどうけん)松下千秋(まつしたちあき)

 

 

 

§

 

 

 

 (いけ)須藤(すどう)は日頃から仲良くしているから問題ないが、それ以外となると駄目だな。

 人選を担任がやったと仮定して……茶柱(ちゃばしら)は完全にこのグループを捨てているな。

 人見知りで大人しい性格の佐倉から救難信号が来ても責めることは出来ないだろう。きっと、一回目は自分なりに頑張ったのだろう。だが悲しきかな、文面から察するに、努力は報われなかったようだ。

 千秋にフォローさせても良いが……これまで接点のなかった人間が急に話しかけて来たりしたら、佐倉は驚くだろうし、疑念を持つはずだ。

 オレと千秋の繋がりを知る者は今は極力控えたい。

 と、なると──。

 オレは電話帳から一人の人物に電話を掛けた。

 

「どうした清隆(きよたか)。お前からなんて珍しいな」

 

「実はちょっとした頼み事をしたくてな」

 

「それは別に構わねえが……」

 

「安心しろ。簡単なことだ。(けん)、お前、佐倉と同じグループだよな?」

 

「ああ、そうだけどよ」

 

「頼みというのはだな。少しで良い、試験中、佐倉に気を配って欲しいんだ」

 

 須藤が何らかの反応を示す前に、オレは言葉を畳み掛ける。

 

「頼めないか?」

 

「……分かった。佐倉にはこの前助けて貰ったからな、これで借りを返せるとは思わねえが……兎も角、引き受けたぜ。だが先に言っておくが清隆、あまり俺に期待するなよ」

 

 俺じゃなくて寛治の方が適任だろうに……と、須藤は独り言を言いながら通話を切った。

 彼の言う通りだろう。だがそれが出来ない『事情』があるのだ。

 オレは佐倉に、困ったことがあったらオレだけではなくクラスメイト……特に、同じグループの生徒に頼ってはどうかという旨のメールを送った。

 

「さて……次はみーちゃんか……」

 

 内容は以下の通りだった。すなわち──。

 

高円寺(こうえんじ)くん、ずっと鼻歌を歌って髪の毛を整えているんです。私、どうすれば良いんでしょう……?』

 

 ──というものだ。

 みーちゃんは『猿』グループに配属されたようで、その中には我らが自由人、高円寺も含まれていたようだ。もう一人は本堂(ほんどう)のようだ。

 何故オレに高円寺の対処法を聞いてくるのだろうかと考え、思い当たる節が数多くあることに気付く。

 何だかんだ、あいつとはそれなりの交流があるからな。

 そして彼女は、オレたちの仲が良いと錯覚したのだろう。だから救難信号を送ってきたわけだ。

 

『高円寺は勘定に入れない方が良いと思う。そして残念なことに、オレは応援しか出来ない。だから頑張ってくれ』

 

 済まないみーちゃん。これがオレの限界なんだ。

 彼女の慟哭の声が脳裏に浮かんだが、まあ、優秀な彼女のことだ何とかするだろう。

 

「そろそろ行くか……」

 

 グループディスカッションは一日に二回行われる。二回目のグループディスカッションが行われるのは夜の二十時からだ。

 規定時刻よりも三十分以上早い時間に部屋を出たオレは、一人、廊下を歩く。そこで大量の荷物を両手に抱えた友人の姿を見付けた。

 

一之瀬(いちのせ)

 

 声を掛けると、彼女は顔だけこちらに振り向かせた。

 

綾小路(あやのこうじ)くん! こんばんは!」

 

 にこりといつものように微笑んでいるが、額に流れる一筋の汗をオレは見逃さなかった。

 これが友人ではなく赤の他人だったら「大変そうだな」くらいの感想しか抱いているだけなのだが、流石に、友人の中でも殊更に仲良くしている──と、オレは思っている──相手を見捨てるのは良くない。

 オレは「こんばんは」と夜の挨拶を口にしてから、

 

「重たいだろう。貸してくれ、持つから」

 

「ええっ!? いやそれは綾小路くんに悪いよ」

 

 やはりというか、彼女はオレの申し出を断った。

 だがしかし、ここで折れるわけにはいかない。

 

「女だから、というのはあまり好きじゃないんだが。ここは男のオレを立ててくれると助かる」

 

「うーん、でもなあ……」

 

「こんなところを隣人にでも見られたら嫌味を言われそうなんだ。だから頼むよ」

 

 そう言うと、一之瀬は可笑しそうに笑った。

 彼女は逡巡した後、上目遣いで尋ねてくる。

 

「……じゃあ、お願いしても良いかな?」

 

「頼んでいるのはオレの方だぞ」

 

「うん。ありがとう!」

 

 そう言いながらも、彼女は全ての荷物を渡しはしなかった。

 どうやら一之瀬にも引けないものがあるようだ。

 オレがどれだけ言葉を尽くしても、これ以上の譲歩は望めないだろう。

 

「どこまで運べば良いんだ?」

 

「試験会場までお願い」

 

 そうなると、これは試験に使われるものなのだろうか。

 気になって視線を下げて荷物を良くよく見れば、そこに答えがあった。

 

「一之瀬、これは……」

 

「あれ、綾小路くん呆れてる?」

 

「いや、そういうわけじゃないが……」

 

 大量の荷物の正体、それは様々な遊び道具だった。

 目視しただけでも十種以上はある。

 

「これ、どこから調達したんだ?」

 

「地下三階から下は娯楽施設があるよね? 申請すれば借りられるんだ」

 

「……もしかしなくても試験中に、遊ぶのか……?」

 

「うん、そのつもりだよ」

 

 答えはシンプルで、また、即答だった。

 オレは胸中で「マジかー」とある意味で驚いていた。

 一之瀬は困ったように頬を掻いてから、しかし、真剣な顔でこのように言った。

 

「私たちのグループ……ううん、どこのグループでも討論は成立してないでしょ? Aクラスは口を閉ざしているし、Cクラスはさっきの『宣戦布告』があった。私たちB、Dクラスは対立こそしていないけれど、完全な仲間じゃない」

 

 真嶋(ましま)先生……ひいては、学校は、今回の干支試験に於いて、クラス闘争の概念は一度捨て去るべきだと試験の説明時に告げた。

 考えるまでもなく無理難題な話だ。

 試験結果に……ひいては、クラス闘争に直結するものがある以上、無条件での『和平』など有り得ない。

 

「だが、それとこれに何の繋がりがあるんだ?」

 

「いやー、みんなで一緒に遊ぶことによって、仲良くなったりしないかなあと思ってね」

 

 そう言うものだから、オレは一之瀬の顔が直視出来なかった。

 聞いているこちらが恥ずかしくなってしまう。

 

「誘いに乗ると良いな」

 

「うん!」

 

 二人並んで廊下を渡り、程なくして試験会場に辿り着く。部屋には誰もいなかった。試験開始までまだまだ余裕があるから、当たり前かもしれない。

 取り敢えず、部屋の隅に荷物を置き、オレたちは向かい合わせるようにして適当な椅子に座った。

 

「綾小路くんはお昼の龍園(りゅうえん)くんの『宣戦布告』を見た?」

 

「ああ、平田(ひらた)……洋介(ようすけ)からメールが来てな。思い切った行動をするものだと思った」

 

 オレの言葉に一之瀬は「うんうんっ」と何度も頷いた。

 

「いやー、本当にあれには驚いたよ。このタイミングでやるのかと思ったな。──綾小路くんはどう視る?」

 

「質問を質問で返すようで悪いが、一之瀬はどう視ているんだ?」

 

 オレの考えは口にしてもしなくても構わないが、まずは一之瀬の考えを知りたい。

 

「私はね……龍園くんのあの行動は『意味』があると思っているんだ」

 

「それはつまり、彼が『勝利』を確信しているということか?」

 

「中には私たちを混乱に(おちい)りさせたいという、彼の常套句(じょうとうく)の『嘘』だと思うひともいるかもしれないけどね」

 

「一之瀬は違うと?」

 

「うん、そうだよ。──龍園くんは仲間のCクラスのひとたちの目の前で宣誓した。これってとてもリスキーだよ。もしCクラスが大敗したら、龍園くんの支持は完全に無くなる。そうなったら彼は『王』では居られなくなる」

 

「その反面、もし仮にCクラスが他クラスを蹂躙した場合、Cクラスは──」

 

(とき)の声をあげるだろうね」

 

 そしてその進撃の被害は計り知れないだろう。

 四月からずっと続いているパワーバランスが崩れ──クラスの入れ替えが起こり得る。

 一之瀬たちBクラスはその餌食になるだろう。

 オレが所属しているDクラスは最下位なため被害は受けない……そんな都合が良い話はない。

『王』はあの時、確かに全勢力に対して『宣戦布告』したのだ。

 敵味方問わず、『波』は襲い掛かるだろう。

 

「オレも一之瀬の考えの通りだと思う。現段階で、いま最も干支試験の『根幹』に近いのは龍園(かける)だ」

 

 すると一之瀬は長くため息を吐いた。

 

「せめて自分のクラスだけでも『優待者』が誰なのか分かれば話は違うんだけどね」

 

「ならクラスメイトに呼びかければ良いだろう」

 

 Bクラスなら……いや、一之瀬帆波(ほなみ)ならそれが簡単に出来る。

 一之瀬はオレの言葉を苦笑で返した。

 聡い彼女のことだ、それが最善手だとはとうの昔に分かっている。

 だがしかし、彼女にはそれが出来ない、

 彼女は優しい人間だ。

 ところが今回のように『誰かを生贄にする可能性』があると、その優しさが呪いとなり、決断が出来なくなる。

 オレはBクラスの内情を知らない。

 友人と言えるのは一之瀬と神崎(かんざき)の二人くらいだ。

 しかし、これだけは言える。

 

 

 

 ──クラス闘争で最も『勝利』に遠いのは一年Bクラスだ。

 

 

 

§

 

 

 

『──これより二回目のグループディスカッションを開始します』

 

 そんなアナウンスが部屋に響いた。

 一回目の時と同じように、各クラスは一箇所に集まり、他クラスとは一定の距離を置いている。

 オレはゆっくりと室内を見渡した。一回目にあった、試験そのものへの不安や困惑といったものはそこにはなく、既に払拭されているようだ。

 ただしその分、敵対意識が増長されている。

 無言の睨み合いが続く中、一之瀬がおもむろに立ち上がり、Dクラス……いや、外村(そとむら)に視線を送る。

 

「まずは外村くんの自己紹介が必要だよね。外村くん、やって貰っても良い?」

 

「ひぃぃぃ……!」

 

 外村は完全に怯えていた。

 この殺伐(さつばつ)とした空気の中、発言するのは慣れていない大多数の人間からしたら恐怖だろう。

 懇願の目をオレや幸村(ゆきむら)に送ってくる。幸村は早々に目を逸らした。

 自業自得だと言いたいのだろう。オレも全面的に同意見だ。だがそれを言ったところで、彼の恐怖心が和らぐわけではない。その逆も充分に有り得るだろう。

 どうしたものかと思案していると、オレの右隣に座っている軽井沢(かるいざわ)が、

 

「早くやってくんない?」

 

 ぽつりと、けれど低い声でそう言った。

 

「はぃぃぃぃ!」

 

 すると、外村はすぐに立ち上がる。

 どうやら女王の言葉の方が彼にとっては余程に怖かったらしい。

 軽井沢にその気があったのかどうかは分からないが、どちらにせよ、ナイスプレーだ。

 

「拙者は一年Dクラス所属、外村秀雄(ひでお)(そうろ)う! 宜しくお願い致しますでござる!」

 

 いつもの変な日本語が、さらに変になっているが……まあ、良いか。

 って言うか、外村の自己紹介を聞いているのがDクラスとBクラスだけなのだから憐れんでしまう。

 ぱちぱちぱちと形式的に拍手が贈られ、外村は光の速度で席に戻った。

 

「外村くん、ありがとう! それじゃあ、グループディスカッションを始めようと思うんだけど──」

 

「待て」

 

「……? どうかしたのかな、町田(まちだ)くん?」

 

 司会者の言葉を遮った町田は、一之瀬の問いに答えることなく、無言でCクラスを見つめる。

 最初は無視をしていたが数秒間にも渡って見られたら、Cクラスも反応せざるを得なかった。

 

「なに……?」

 

 真鍋(まなべ)が代表して口を開けるが、町田は彼女には目もくれなかった。

 

伊吹(いぶき)、お前に聞きたいことがある」

 

「は──? どうして伊吹……さんなの!?」

 

 ぎりぎりのところで敬称を付けたのは伊吹の怒りを買うと思ったからなのか。

 そしてオレたち他クラスは確信する。

 このCクラスの面子(めんつ)の中で最も発言権があるのは真鍋たちではなく、伊吹なのだと。

 その伊吹は面倒臭さを隠そうともせず、

 

「私に何か用?」

 

「ああ。とはいっても、お前にではなく、龍園にだと言った方が適切だろう」

 

「なら私じゃなくて、龍園に聞けば良いでしょ」

 

 尤もな指摘だ。

 だが町田はそれを無視する。

 

「単刀直入に聞く。──龍園は何を考えているんだ?」

 

 先程のオレと一之瀬の会話の巻き戻しに等しかった。

 葛城(かつらぎ)の命令……ではない。恐らくこの質問は町田の独断だろう。

 伊吹は嘆息してから、

 

「私が知っているとでも?」

 

「どうだろうな。だがその可能性は極めて高いだろう。何せお前は限りなく龍園の近くにいることを許されている。真鍋たちのような雑兵とは違う。お前や石崎(いしざき)、アルベルトらには話してても何ら可笑しくはない」

 

 するとここで初めて、伊吹は笑った。

 そして彼女は呆れたようにこのように言う。

 

「あのね、仮に私が知っていても、教えるわけないでしょ。町田、あんたのような馬鹿が居るとは、Aクラスも底が知れているわね」

 

「……そうか。だが忘れるな。お前たち三クラスは、その馬鹿が所属しているクラスに負けているのだとな」

 

 互いに挑発する。

 オレはやはりと胸中でため息を吐いた。

 些細なことでこのように争うのだ。

 話し合いなど不可能。

『和平』を望むのならば、どこかで『落とし所』を見付け、尚且つ、それが納得出来るものでなければならない。

 

「えーっと、じゃあ改めて──グループディスカッションを始めたいと思います。みんなの姿勢は変わらない?」

 

 司会者の視線の先にはAクラス。

 

「当然だ。俺たちAクラスは黙秘をする」

 

「さっきは伊吹さんに質問したのに? それは可笑しいんじゃないかな?」

 

「全員が疑問に思っていることを代弁しただけに過ぎない。俺が質問しなくても、一之瀬、お前や他の奴がそうしただろう」

 

 随分と勝手なことを言うものだ。

 Aクラスは取り付く島もない。意固地になっているとも言えるが……かなり面倒だ。

 一之瀬もこれ以上の進展は望めないと判断したのだろう。隅に置いていた例のものを取り出す。

 

「一之瀬さん、さっきから気になっていましたが……それは何でしょうか?」

 

「見ての通りだよ、浜口(はまぐち)くん。今からみんなで遊ぼうと思ってね」

 

 浜口は、一瞬、表情を引き()らせ、

 

「そ、そうですか……」

 

 と、曖昧に頷いた。もう一人のBクラスの生徒、別府も似たようなものだ。

 

「一之瀬さん、本気か?」

 

 幸村が我慢ならないように、語尾をやや強くして問い掛けた。

 それは他のみんなも同じで、特にAクラスの町田たちは冷ややかな目で一之瀬を見ている。

 

「もちろん、強制はしないよ? ただ一時間ずっと(だんま)りなのは建設的じゃないと思うんだよね。ほら、この試験で初めて会ったひとも居るわけだし。せっかくの機会だから仲良く……とまではいかなくても、ある程度の仲にはなりたいかなと思って」

 

「それは表の理由だろう。裏の理由は何だ?」

 

「疑い過ぎだよ。うーん、ならこうしよっかな。今から試験終了まで、試験に関する話題は一切しない。これならどう?」

 

 参加するひとは挙手をしてねと、一之瀬は言った。

 浜口と別府(べっぷ)の二人は当然として、他の生徒は……と思ったその時、名乗り出る猛者が現れた。

 

「拙者、やるでござる!」

 

 その男の名前は外村秀雄。Dクラスを代表する()タクだ。様々なゲームを制覇(自称)している彼が参加するのはある意味当然だろう。

 

「綾小路殿もどうでござるか?」

 

「……そうだな。確かに暇だしな」

 

 博士のおかげで、自分から挙手をする必要がなくなった。心の中で礼を言っておく。

 

「おいお前たち──」

 

 幸村が顔を険しくして、何か言おうとしたが、それよりも前に。

 

「じゃあ、あたしもやるー」

 

 軽井沢が呑気そうに間延びた声を出した。

 とうとう幸村の顔は露骨なまでに崩れた。

 

「お前たち本気か!?」

 

「参加したくないなら、幸村くんだけ参加しなきゃ良いじゃん」

 

「そういう問題じゃない! 俺たちはこの干支試験で協力すると約束しただろうが! なのに──」

 

 すると我らが女王は呆れたように言った。

 

「いやいや、もちろん、それはそうだけどさ。たかが遊び一つで試験結果が変わるとは思えないし。それに試験に関する話題はしちゃいけないってルールがあるんだからさ、大丈夫だって」

 

「……勝手にしろ。俺は参加しないからな」

 

「はいはい、どうぞご自由にー。一之瀬さん、見ての通りだから」

 

「にゃはははー、うん、分かったよ。ありがとう」

 

 言葉の歯切れが悪いのは、オレたちDクラスのチームワークのなさにだろうな。

 オレを含めて、Dクラスの生徒は良くも悪くも個性的な生徒が多い。

 

「他にやるひとは居る?」

 

 気を取り直したように一之瀬が問い掛けると、Cクラスの生徒全員が手を挙げた。

 伊吹が参加表明をするとは思わなかった。真鍋たちもぎょっと目を剥いているし。何か理由でもあるのだろうか。

 

「町田くんたちは──」

 

 どうかな? と聞くよりも早く。

 

「無論、辞退させて貰う」

 

 町田はそう言い、Aクラス陣営は揃って携帯端末を弄り出した。

 不用意に声を掛けたり、近付いたりしたら怒りを買いそうだ。

 一之瀬は彼らに視線を送ってから、

 

「それじゃあ、まずはみんなでやれるトランプからやろっか。ババ抜きで良い?」

 

 実に楽しそうに、そう、声を掛けたのだった。

 オレたちは円を作り、それぞれ配置に着く。席の位置はくじ引きで決め、オレの左隣が伊吹、右隣が浜口となった。

 ババ抜きのルールは実にシンプルだ。最後にジョーカーを持っているひとが負ける。上がりゲームとも言われるこれは、そのシンプルさ故に、プレイヤーのスキルが表れる。

 

「これがババかなぁ〜……」

 

「フフフフ、さてなぁ……」

 

「うん、これに決めた! ──わっ、ババかぁ!」

 

 そして既に、一之瀬がその突出した弱さを出していた。

 いや、本当に弱いのだ。

 既に三戦目となるが、一之瀬は毎回負けている。というのも、感情がそのまま出てしまっているのだ。

 ポーカーフェイスがきっと苦手なのだろう。天真爛漫な一之瀬らしいと言えばらしい。

 そして逆にトップを独走する者も居る。

 この状況を心から楽しんでいるであろう博士だ。これがまた実に強い。ポーカーフェイスはさることながら、いわゆる、『勝負運』があると考えられる。

 あながち、様々なゲームを制覇したというのも──何を以て『制覇』とするかは分からないが──嘘ではないかもしれないな。

 リーダーの惨敗する姿をこれ以上見たくなかったのだろう。浜口が提案をした。

 

「席位置を変えませんか?」

 

 くじ引きをして、オレたちは各々の席に着く。

 右隣にCクラスの山下(やました)。そして左隣には──

 

「またお前か……」

 

 またもや伊吹だった。

 何ていう確率を引き当てているのだろう、互いに。

 

「今度はさっきとは違う回りでやってみよう」

 

 オレが伊吹からカードを引くということになる。

 そして四戦目が始まる。

 早々に抜けたのはやはり博士だった。その次に浜口、(やぶ)と続いていく。

 順調に各々が手札を減らしていく。同時に、ジョーカーも移動しているはずだ。

 

「はい、上がりねー」

 

「やった! 初めて上がれた!」

 

「おめでとうございます、一之瀬さん」

 

 ついに残ったのは伊吹とオレだけになった。

 

「一騎打ちでござるな」

 

 博士がぽつりと呟く。

 伊吹の手札は二枚。対するオレの手札は一枚。つまり、彼女がジョーカーを所持しているということになる。

 ジョーカーを引かなければオレの勝ちとなる。しかしジョーカーを引いた場合、勝負は続き、形成は逆転し、オレが不利になるのだ。

 

「どっちが勝つのかなぁ……。ね、浜口くんと別府くんはどう思う?」

 

「そうですね……。僕は伊吹さんだと思います」

 

「別府くんは?」

 

「俺は……綾小路だと思う」

 

「拙者は当然、綾小路殿でござる!」

 

 外野が好き勝手に言っていた。

 って言うか、博士、Bクラスと仲良くなり過ぎだろ。()タクの順応性って凄いよな……。

 そんなことを考えていると、伊吹とばっちり目が合った。いや、それは言い方が悪かっただろう。

 彼女はずっとオレだけを見ていたのだ。

 

「さあ、早く引きなさいよ」

 

「そう()かすな。どっちを選ぶか迷っているんだ」

 

 この勝負、勝っても負けても正直どちらでも良い。

 伊吹は何やらオレとのこの勝負に拘っているようだが、オレがそれに乗る理由はない。

 それに彼女にはある程度オレの情報が知られている。この干支試験を契機にクラス闘争から身を引きたいオレからすれば、無駄な騒動は起こさないのが堅実な一手だ。

 

「こっちの右はどうだろうな」

 

「……」

 

「左はどうだろうな」

 

「……」

 

 反応は特にどちらもなし。

 確実に勝てる方法をオレは所持しているが、やはり、ここは適当に済ませよう。

 

「よし、右にしよう」

 

 わざとらしく言葉を言い、オレはカードを引いた。

 手元に来たカートは、ニタリと気持ち悪く笑っている道化師。

 オレたちの様子から勝負はまだ終わってないことを察知したのだろう。外村が「綾小路どのおおおぉぉぉぉッッ!?」と悲痛な声を出した。

 結局、オレはそのまま負けた。

 ぱちぱちぱちと白熱な? 勝負を行ったオレたちに拍手が贈られる。

 

「ありがとうございました」

 

 場の雰囲気的にオレがそう言うと、伊吹は無言で頷く。だが口角の僅かな上がりをオレは見逃さなかった。どうやら勝てて嬉しいようだ。

 グループディスカッションの残り時間がとうとう十分を切り、流石にもう一戦やるのは厳しいということで、あとは各々好きに過ごすこととなった。

 

「ただいまでござる、幸村殿」

 

「ああ……」

 

 笑顔の博士とは対比的に、幸村は渋面だ。きっと『兎』グループの『優待者』を考えていたのだろうが、難しかったのだろう。

 

「明日もグループディスカッションが上手く行かなければ遊ぶようですしおすし。幸村殿もどうでござるか?」

 

「いや、俺は辞退する。勝手にやっていてくれ」

 

 残念でござるぅ〜と博士は言った。もしかしたら、幸村と仲良くなりたいのかもしれない。

 そんなことを呑気にオレが考えていると、『それ』は脈絡もなく、唐突にやって来た。

 

 

 

「──ねえ、軽井沢さん」

 

 

 

 真鍋が軽井沢に話し掛けたのだ。ただ話し掛けたのではなく、真剣な顔で、そして低く重たい声で。

 突然のことに軽井沢は戸惑う様子を見せる。しかしそれは一瞬で、いつもの強気な女王の顔になった。

 

「なに? 真鍋さん」

 

「聞きたいことがあるんだけど」

 

「聞きたいこと……?」

 

 首を傾げる軽井沢に焦れたのだろう、真鍋はさらに言った。

 

「私の勘違いじゃなかったから良いんだけど……リカと夏休み前に揉めた?」

 

「は? 何それ。って言うか、リカって誰よ」

 

「私と同じCクラスの女の子。眼鏡を掛けていて、お団子頭なの。覚えてない?」

 

 軽井沢だけでなく、外野のオレたちも戸惑う。 

 先程までの和気藹々とした楽しい空気から一転、どんよりとした空気に満ちていく。

 我関せずの態度を取り続けていたAクラスも、携帯から目を離し、事態を眺める。

 

「私……ううん、ナナミとサキも確かに聞いたんだよね。Dクラスの軽井沢って女子に意地悪されたって。カフェで順番を待っていたら割り込まれて、挙句の果てには突き飛ばされたって。この前、そんなことを聞いたんだけど」

 

 これはまた……面倒臭いことになりそうだ。

 みんなの視線が軽井沢に集中する。

 いつもの彼女ならそれに対抗出来るだけの力があったのだが、動揺しているようで、それどころではないようだ。

 

「それで? 覚えてないの?」

 

「……知らない。ってか何? あたしに文句でもあんの?」

 

「文句あるに決まってるでしょ。最初は気の所為かとも思ったんだけどね、ここに来る前にリカに確認したから」

 

「確認って……どうやって……」

 

「SNS。軽井沢さん、平田くんや友達と撮った写真をよく投稿してるでしょ」

 

 ソーシャルネットワークの利便性は述べるまでもないだろう。

 オレたちはインターネットを通じて様々な情報を世界中に送信出来るようになった。反面、迂闊に発言をすると自分の情報が筒抜けになってしまうことも少なくない。名前や性別、年齢、住所など、世の中には『プロ』が潜んでいて、虎視眈々(こしたんたん)と機会を窺っている。

 基本的に、メリットにはデメリットも付随するものだ。

 そのデメリットが軽井沢に襲い掛かっている。

 

「私は軽井沢さんが写っている写真をリカに見せたの。そしたら彼女は頷いた。──ねえ、本当に覚えてないの?」 

 

「……ッ!?」

 

「私たちも……そしてリカも大事(おおごと)にしようとは思ってない。この前の『暴力事件』のようにはなりたくないから。でもね、謝って欲しいの。リカって自分で全部抱え込んじゃうタイプだから、私たちが何とかしてあげないといけないから」

 

 それは彼女たちの最大限の譲歩であり──同時に、死刑宣告でもあった。

 この場に於ける最善は軽井沢が『誠意』を見せることだ。すなわち、自分の非を認めること。

 もちろん、これは第三者が聞いたものでしかない。真鍋はリカなる女子生徒から聞いたと言っている。つまり、リカが嘘を吐いている可能性も多少はある。

 だがしかし、その可能性はやはり可能性でしなく、実際に起こった出来事だと推察出来る。

 これまでに軽井沢恵という生徒は小規模ながらも問題行動をしているのだから。

 問題にならなかったのは自分が統治しているDクラスだったから。何よりも、問題行動をしていても、彼女はDクラスに貢献していたから。

 だからこそ見逃されていた。

 しかしそれは内輪(うちわ)の問題でしかなく、一歩でも外に出れば話は変わってくる。

 

「それでどうするの?」

 

 約束することは簡単だ。

 しかし女王気質の少女である軽井沢恵にそれが出来るのかと言われれば、それは否だろう。

 そしてオレは、一回目の試験から感じていた違和感の正体を突き詰めた。

 軽井沢の行動が、全て、『らしくない』のだ。

 オレや幸村、博士にはいつものように女王らしく振る舞っているが、他クラスの生徒には『圧力』を掛けていない。

 それどころかあまり発言してもいない。

 受動的に、聞かれたら答える、というスタンスを取り続けている。まるで何かに恐れているように。

 

「軽井沢さん、私の話聞いてる?」

 

「……聞いてるわよ」  

 

「なら答えて。どうするの?」  

 

『いつもの』軽井沢なら言い返しているはずだ。

 しかし彼女は、『いつもの』とは程遠い姿を見せている。

『いつもの』彼女は偽物なのか? そんな錯覚を抱かせるほどの普段との『ズレ』。

 そしてオレにはこの体験を既にしていた。忘れもしない。忘れることなど出来ない。

『表』と『裏』を使い分ける魔女。桔梗(ききょう)の正体を見破った時と同じだ。

 

「ねえ、早く何か言って」

 

 時間の経過と共に、真鍋が苛立って行くのがわかった。

 それはリカという友人を思っての義憤か、あるいは、ただの自己満足なのか。

 どちらにせよ言えることは、この状況が危機的な一歩手前であること。

 お人好しの一之瀬も今回ばかりは静観している。

 これは当人たちの問題であり、オレたち外野の人間が無遠慮に口を挟んではならないからだ。それに、下手すれば事態はさらに深刻なものになりかねない。

 張り詰めた空気の中、不意に、ザザッというノイズが走った。

 

『──以上をもちまして、二回目のグループディスカッションを終了します。生徒の皆さんは引き続き、クルージングを楽しんで下さい。また前回申したように、各部屋に残って『話し合い』をして頂いても構いません』

 

「……仕方ないから、明日まで待ってあげる。それじゃあね」

 

 そう言って、真鍋は取り巻きの二人を連れて部屋をあとにした。

 軽井沢の態度に苛立ちこそあれ、彼女たちからしたらそれすらも余興に変換出来るのだろう。

 残された軽井沢は俯いていたが、やがて顔を上げると、外野に激情の視線を浴びせた。

 

「誰かに言ったら容赦しないから」

 

 最後にひと睨みすると、彼女は部屋を出ていった。

 軽井沢はオレ、幸村、そして博士の三人に特に言ったのだろうことは想像に難くない。

 

「ああ、クソッ! 軽井沢のやつ……また問題を!」

 

「しかし幸村殿、仕方ない側面もあると思うでござるよ」

 

「仕方ない? 話を聞いて、そして何よりもあの軽井沢の様子を見れば、そんな余地はどこにもないだろ」

 

「幸村殿はクラスカーストにはまるで興味がないでござるからなあ……」 

 

 博士はそう言うと、のそのそと緩慢な動きで退出した。

 Aクラス、Bクラス、伊吹とそれに続いていく。一之瀬は何か言いたげにしていたが、結局、最後まで何も言わなかった。

 残ったのはオレと幸村の二人のみ。オレも出ようとすると、彼に呼び止められる。

 

「綾小路。お前は外村が言ったことが分かったか?」

 

「まあ、何となくは……」

 

「……そうか。ありがとう」

 

 幸村も姿を消す。

 オレは部屋に残った。廊下に出ても良いが今はまだ『兎』グループの生徒が近くに居るかもしれない。もう一度会うのは避けたいところだ。

 

「一応、平田に知らせておくか」

 

 流石に平田になら報告しても良いだろう。彼らは交際しているのだから。

 すぐに既読は付いたが、返信が来るのには二分ほど時間が掛かった。

 軽井沢に関しては彼に任せるとしよう。正直、彼女に構っている時間がない。

 彼女を懐柔し『駒』にすることも考えたが、これ以上の『駒』は必要ないし、率先していつ爆破するか分からない爆弾を背負うのはリスキーだ。

 そしてオレは一人の人物に電話を掛けた。

 

『様子見は終わったの?』

 

「まあ、そんなところだ。ちなみに今どこにいる?」

 

 場所によっては込み入った話が出来なくなる。

 千秋もそれは分かっているので、

 

『一階の『ブルーオーシャン』っていうカフェ』

 

「驚いたな……。オレの行き付けの店だ」

 

『あっ、そうなんだ。奇遇だね』

 

「一応確認するが、一人か?」

 

『それはもちろん。あっ、そうだ。私、あのグループから脱退したから』

 

「…………そうか」

 

 さらりと言われたので、反応するのに時間が掛かってしまった。

 千秋は可笑しそうにこう言う。

 

『清隆くんがそうなるように仕向けたのにね。……もしかして罪悪感とか抱いている?』

 

「いや、それはないな」

 

『なら良いよ。私が言うのも何だけど、将来、私は抜けていたと思うから。早いか遅いかの違いでしかない。だから気にしないで』

 

 つくづく思うが、千秋の処世術は恐ろしい。

 

「話を戻すか」

 

『うん』

 

「単刀直入に聞くが──今回の干支試験、お前は勝ちたいか?」 

 

『……つまり、きみは既に、この試験を攻略したと?』

 

「そう思ってくれて構わない」

 

 堀北が聞いたら強烈な視線を飛ばしてきそうだな。

 千秋は軽く笑ってからこのように言った。

 

『ポイントは欲しいけど、今回はパス』

 

「それはまたどうしてだ?」

 

『私が真っ先に疑われるから。『誰が』裏切り者なのかは分からないかもしれない。けれど、試験結果から『どこのクラスのどのグループが』までは分かると思う。そして私が所属しているグループに於いて、私以外の三人はお世辞にもそんな離れ業は出来ない』

 

「それはまた、随分な自己評価だな。池や須藤、佐倉にだって可能性はあるぞ」

 

『だとしても、私が一番注目されるのは避けられないよね。──って言うか、清隆くん。私は約束したはずだよ。きみに協力するって』

 

 責め立てるように彼女はそう言った。

 

「試すようなことをして悪かった」

 

『別にそれは良いよ。私がきみでも、同じようなことをしていたしね』

 

 千秋はオレの意図を全て理解していた。

 ここで彼女がオレの甘言に惑わされているようなら、彼女の価値はかなり落ちていた。

 

『それで? 試験は終わったでしょ? 攻略方法を教えてくれない?』

 

「悪い。それは嘘だ。少なくとも現段階では何も分かっていない」

 

『は────ッ!?』  

 

 怒気がひしひしと伝わってくる。

 それから数十分を掛けてオレは怒り狂う千秋に謝り、何とか許しを得た。

 その代わりに、代償は高くついた。具体的には、ケヤキモールの高級レストランを奢らされることになった。

 ……自業自得だから何も言えないな。

 

「日にちはそっちに合わせる」

 

『わあ、楽しみだなあ……。それじゃあ、またね』

 

「ああ、また連絡する」  

 

 プライベートポイントの心配をしながら寝室に戻ると、扉越しから怒号が聞こえてきた。

 慌てて部屋に入る。

 

「おい高円寺! お前少しは真面目にしてくれないか!」

 

「真面目? 私はいつだって大真面目だよ、幸村ボーイ」

 

「ふ、二人とも……落ち着いて……」

 

 ルームメイトである、幸村、高円寺、平田の三人が言い争いをしていた。

 

「あー……、ただいま」

 

 一応、声を掛ける。

 すると幸村は気まずそうに顔を逸らし、高円寺は腕立て伏せを行ない、そして平田はオレと目が合うと安心したように息を吐いた。

 

「何があったのか……は聞くまでもないが、一応、聞いておく。洋介、何があった?」

 

「えっと、実は──」

 

 平田曰く、二回目のグループディスカッションが終わったので、彼は幸村と互いの状況を報告し合っていたらしい。高円寺も誘ったのだが、彼は肉体美の追求で忙しいと断ったようだ。

 とはいえ、二人も高円寺の参加を期待していたわけではないだろう。

 幸村はまず、Dクラスの『優待者』を探すことが試験の『根幹』に直結すると考えたようで、平田に心当たりがないか聞いた。

 しかし今回の干支試験、Dクラスは基本的に各自の判断に任せている。『優待者』の生徒が名乗り出るのも自由だ。

 

「平田は知っているのか?」

 

 誰が『優待者』なのか、という言葉は隠してオレが聞くと、先導者は首を振った。

 

「僕は本当に知らないんだ。見当もつかない。だから幸村くんの期待には応えられないって言ったんだ」

 

「……それは分かっている。だが平田、お前ならと思ったんだ」

 

 幸村の言う通り、平田に告白する生徒が居ても可笑しくないだろう。

 しかしそれならば、彼は分かっていたはずだ。

 たとえ先導者が『優待者』が誰なのかを知っていたとしても、彼は決して教えないと。

 それが分からないほど幸村は愚かではない。

 あるいは、そんなことが眼中に入らないほど、焦っているのか。

 兎にも角にも、幸村は平田の答えに一応は納得し、引き下がろうとしたらしい。

 だがこの時、彼は聞いてしまったのだ。

 自分たちは真剣に試験について話しているのに、高円寺が呑気に鼻歌を歌っているのを。

 

「どうしても我慢ならなかった。こいつは高い能力を保持していながら、それをクラスのために使おうとしない。僅かでも腰を上げてくれれば、Dクラスにどれだけの利益が出るか……」

 

 自然とオレたちの視線が高円寺に寄る。

 彼はタオルで汗を拭き取りながら、にこやかに笑う。

 

「幸村ボーイ。ボーイが私に期待してくれているのは分かったよ。ふふっ、きみも随分と素直になったじゃあないか」

 

「……俺が素直になったところで、お前はその尊大な態度を変えないだろうが」

 

「何故自分のありのままの形を変える必要がある? 私は私だ。そしてきみはきみさ」

 

 高円寺は言葉を続けて言った。

 

「きみだけじゃない。多くのクラスメイトが、私の参戦を期待しているのだろう。前回の無人島試験、私の貢献は非常に大きかったようだからねえ」

 

 実際はプラスマイナスゼロに等しいけどな、という突っ込みは抑える。

 

「──だが。それは自分への甘さじゃないかね」

 

「なに……?」

 

「人間には出来ることと出来ないことがある。それが『凡人』と『天才』なら尚更だ。ゆえに、きみたち才能がない人間は一度堕落すると、とことん堕ちるのさ。私は寛容だ。出来ないことをやれとは言わないさ。効率的ではないからねえ」

 

 と、ここで平田が話に加わった。

 

「……でも高円寺くん。それは矛盾してないかな。きみの話をそのまま鵜呑みにすると、つまり、きみたち『天才』は『凡人』が困っていたら助ける義務が生じるんじゃないかい? きみの言葉をそのまま使うなら、その方が効率的だろう?」

 

「如何にも。無論、私とてそのようにするさ。だがしかし、それは足掻きをしている者のみにだよ、平田ボーイ」

 

 高円寺は笑みを消し、すっと目を細めた。

 

「全く呆れてしまうねえ。きみたち『凡人』は私のような『天才』を恐れ、忌避している。『才能』に妬み、そして恐怖している。だが少しでも自分に嫌なことがあると『天才』に押し付けるのさ。自分たち(『凡人』)には何も出来ないと、お前(『天才』)なら出来ると、きみたち(『凡人』)は当然のように殺す」

 

 それは今まで明かされることがなかった、高円寺六助という人間の根底にあるものなのだろう。

 彼は大企業の跡取り息子だ。つまり、彼の人生には既にレールが敷かれている。そんな彼だからこそ、幼少期の頃から『社会』に出ていても可笑しくない。

 ご高説を垂れてくる教師とは言葉の重みが違った。

 

「自己紹介した時にも言ったが、私は美しくないもの──醜いものが嫌いだ。他人に頼る前に、もっと限界まで自分を追い詰めてみたらどうかね?」

 

「だが高円寺。お前の行動に迷惑を被っている者もいる」

 

「ほう、それは誰かね。綾小路ボーイ、きみは知っているのかい?」

 

「ああ。みーちゃん……王美雨(ワンメイユイ)だ。お前、彼女の懇願に耳を貸さなかったそうじゃないか」

 

「ふふふ、それは当然さ。耳を貸す必要がないからねえ。私は私のやりたいようにやる。事実、私はルールに何も抵触していない。私は考えた結果、グループディスカッションには参加しないと決めたのさ」

 

「そうか。それならそれでも良い」

 

 オレは話を終わらせ、幸村を軽く見た。

 これで幸村も、高円寺には何も期待出来ないと分かってくれるだろう。

 

「今日はもう休もうか。大丈夫だよ、幸村くん。試験はあと休息日も入れて三日ある。落ち着いて、冷静に考えれば攻略の糸口が見付かるはずだよ」

 

「ああ、そうだな──」

 

 と、幸村が頷いたところで、高円寺が携帯端末を手に取った。

 そして「ふむ……」と呟く。

 無論、オレたちはそれに関与しない。各々就寝の準備を始める。

 

「しかしあと三日も続くとはただただ面倒だ。あのガールは意外にも強いようだしねえ。──おめでとう、ボーイたち」

 

 高円寺はオレたちにそう言った。

 声を掛けられるとは思っていなかったので、全員、反応するのに時間が掛かってしまう。

 そして、その数秒の間に、彼は鼻歌を歌いながら、携帯を操作する方の手を素早く動かした。

 

「高円寺くん、いったい何を──」

 

「ふふふ、なに、試験を終わらせようと思ってね。嘘吐きを発見するなど、私の手に掛かれば造作もないさ」

 

 "Mission complete"とネイティブに発音された直後、部屋に甲高い音が走り抜ける。

 

「おい高円寺、お前……ッ!」

 

「メールを確認したらどうかね?」

 

「……!」

 

 オレたちは一斉に運営からの確定事項を告げる文面に目を通す。 

 

『猿グループの試験が終了致しました。猿グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

 予期していた通りの内容が淡々と書かれていた。

『猿』グループに誰が配属されているのか、その全員をオレは知らない。知っているのはDクラスの生徒のみ。そしてその中には高円寺が含まれている。

 不審な言動と、この状況。

 つまり、犯人は目の前の男だ。

 

「これで私は自由の身になったわけだね。アデュー」 

 

 オレたちはただただ唖然とするしかない。

 その間にも高円寺は携帯端末を放り投げ、タオルと着替えを手に持ち、バスルームに姿を消す。

 運営からの通達は参加者全員に送られ、高円寺の突発的行動はすぐに知れ渡ることになった。それに伴い、平田に携帯端末が何度も震える。

 

「ごめん、ちょっと対応してくるよ。みんなは先に寝てて良いから……」

 

『裏切り者』の登場に混乱するのは分かるが……これは流石に先導者が可哀想だ。

 そんな風に同情していると、オレの携帯端末も彼ほどではないが、何回か震えた。

 千秋、堀北(ほりきた)、須藤、佐倉、みーちゃんといった友人たちだ。

 

「高円寺の奴! 結局、自分が楽をしたいだけじゃないかっ」

 

「だがあいつの洞察力や観察力には目を見張るものがある。もし宣言通り『優待者』を暴いていたら……」 

 

「そういう問題じゃないっ。俺が言うのも何だが、協調性がなさすぎる!」

 

 幸村の怒りは限界を突き抜けてしまったようだ。

 千秋たち全員に返信をしている最中、またもやキーンという甲高い音が鳴る。

 

「ちっ、今度は何だ!?」

 

 幸村はその言葉を境に口を閉ざした。

 文字を打つ手を一旦停止させ、オレはメールアプリを開く。

 そしてオレは目を見開いた。

 運営からのメールが、同時刻に八件届いている。それらは全て未読のものだった。

 

『鼠グループの試験が終了致しました。鼠グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『牛グループの試験が終了致しました。牛グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『兎グループの試験が終了致しました。兎グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『竜グループの試験が終了致しました。竜グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『馬グループの試験が終了致しました。馬グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『羊グループの試験が終了致しました。羊グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『鳥グループの試験が終了致しました。鳥グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『猪グループの試験が終了致しました。猪グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

 八月十一日。

 二十二時五十二分。

 それは、獲物を喰らう獣たちが咆哮の刻だった。

 

 

 

§ ─同時刻:豪華客船:地下三階─

 

 

 

 豪華客船、地下三階のカラオケのパーティールーム。

 そこには総勢三十九名の人間が居た。

 暗がりの室内の中、龍園は獰猛(どうもう)に嗤う。

 

「──お前たち、よく聞け。この干支試験、俺たちCクラスの『勝利』だ」

 

「「「うおおおおおおおお────!」」」

 

『王』の勝利宣言により、部屋は歓喜に包まれた。

 



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干支試験──考察

 

 きっちり午前六時にオレは意識を覚醒させた。

 上半身を起こし、寝室を見る。隣のベッドでは平田(ひらた)がすやすやと寝息を立てていた。その向こうでは幸村(ゆきむら)が、そして窓際では高円寺(こうえんじ)が睡眠している。

 

「ふわぁ……」

 

 眠気眼を擦りながら洗面所に向かう。この後はひとと会う約束をしているので、身嗜みを整えなくてはならないのだ。

 

「あれからもうだいたい七時間か」

 

 昨夜のあの騒動の所為で、豪華客船は真夜中なのにも拘らず騒々しかった。結局、事態の自然な沈静化が見込めないと判断した学校が強制的に()()し、部屋から出ることを禁じたのだ。

 先生が各部屋を巡回するという異例の事態になり──オレたちの部屋に来た真嶋(ましま)先生からは疲労が感じられたほどだ。茶柱(ちゃばしら)が来なくて良かったと、オレたちは心をひとつにしたものだ。

 地味な寝間着から地味な私服に着替え終わったタイミングで、平田が目を覚ました。

 

「うぅーん……。おはよう、清隆くん」

 

「おはよう、洋介(ようすけ)。まだ寝てなくて良いのか?」

 

 平田は時間ぎりぎりまで混乱に陥っているクラスメイトの対応に追われていた。ひっきりなしに掛かってくる電話に、彼は嫌な顔一つせず出ていたのだろうことは想像に難くない。

 

「……もう少し眠るとするよ。流石に昨夜はちょっとだけ疲れたかな」

 

「そうすると良い」

 

清隆(きよたか)くんはどこに行くんだい?」

 

堀北(ほりきた)に呼び出しされていてな。そうだ。見てくれこのメールを」

 

 オレはやれやれと頭を振りながら、堀北からの脅迫状を見せた。

 脅迫状は二件届いていた。

 一件目は、高円寺の暴走をルームメイトであるオレがとめられなかったことへの批判がつらつらと述べられていた。

 二件目は、八件のあのメール。どうやら彼女はオレが何かを知っていると思っていたらしい。明日の朝──つまり、今朝だ──会う予定を一方的に取り付けてきたのだ。

 

「えっと、これは……うん……」

 

 平田は苦笑いで答えた。そして、彼から送られてくる同情の眼差し。

 

「僕のところには堀北さんからは何も届いていなかったかな」

 

「あいつなりの気遣いじゃないか、多分」

 

 その気遣いをオレにも適応させて欲しかった。

 ここ最近、オレに対しての対応が雑なように感じ……いや、前からだった。

 ……自分で言っていて悲しくなってくる。

 

「そんな訳だから、出てくる」

 

「うん。行ってらっしゃい」

 

 平田の見送りに手を振ってから、オレは廊下に足を踏み入れた。

 まだこの時間帯、大半の生徒は寝ているのだろう。廊下にひとの気配は感じられず、異様な静けさがあった。

 エレベーターに到着したオレは、そのまま室内に入り、『B3』のボタンを押した。

 

 ──そう。

 

 オレが先程平田に言ったことは全てが本当ではない。確かにこの後、オレは堀北と会う約束をしている。しかしその時間は午前八時からで、場所は屋上のカフェ『ブルーオーシャン』だ。

 今から会うのは別の人物。

 地下三階からは娯楽施設が用意されている。そしてその中の一つが、カラオケだ。

 朝なのにも拘らず、ここは騒々しいな。積極的にはあまり来たくない場所だなと、そんな感想を抱く。

 艦内地図で、カラオケの区画を確認。地下三階の半分を占めているようで、何十部屋もある。特に一番目立つのは、収容可能人数が四十人を軽々と超えるパーティールーム。これが四部屋もある。学校側が用意した、クラス単位で使える密会の場所ということだ。

 受付に向かうと、そこには黒と白が混色した制服を着用している男性店員が居た。

 

「いらっしゃいませ。おはようございます。ご予約はされていますか?」

 

「六時三十分に予約した綾小路清隆です」

 

 支給されている携帯端末から、施設の予約が出来る。

 

「それでは、学生証のご提示をお願い致します」

 

「お願いします」

 

 確認はすぐに済み、学生証が返された。

 

「お客様、本日は二名様の予約を承っておりますが……」

 

「中で合流することは出来ますか」

 

「畏まりました。お連れのお客様のお名前を伺っても宜しいでしょうか?」

 

 簡潔に名前だけ告げた後も、オレと店員とのやり取りは続いた。

 カラオケの機種やコースなど、どうやら、カラオケというものはオレが考えていた以上にしっかりと出来ているようだ。正直、代金さえ払えばあとは放置されるものだと思っていた。

 

「こちらがドリンクバー専用のグラスとなります。お客様、大変申し訳ございませんが、当店では、お食事及びお酒の注文は承っておりませんのでご了承下さい」

 

 どうやら普通のカラオケ屋では、料理や酒が注文出来るらしい。初めて知った……。

 硝子(ガラス)性のグラスと伝票を渡され、ようやく、オレは解放された。

 部屋は二号室で、最新機種なのだとか。ドリンクバーで烏龍(ウーロン)茶を用意してから、部屋に向かう。

 

「おお、これが……」

 

 恐る恐る扉を開けたオレは、思わず感嘆の声を出した。

 想像以上に部屋は大きく、また、清潔に保たれている。壁に掛けられているのは大型の薄型画面。様々なアーティストの告知PVが大音量で流れている。

 出入口付近には電気のスイッチがあり、オレはその横にあるエアコンのスイッチを操作し、冷房をつけた。

 オレはそのままL字型のソファーに座った。

 テーブルの上に置かれていたタブレットを持ち、色々と弄っていると、扉に影が差した。

 

「おはよう、清隆くん」

 

「おはよう、千秋(ちあき)。昨夜はよく眠れたか?」

 

「まあ、程々かな──って、何をやってるの?」

 

 そう言いながら、オレの対角線上に優雅に座り、訝しげな視線を送ってくる。

 そして彼女は腑に落ちたように頷いた。

 

「なるほど。きみは今日が初カラオケなんだ」

 

 おめでとう、と持ってきたグラスを掲げる。

 どうやら祝ってくれるようだ。

 

「「乾杯」」

 

 グラスを合わせると、軽やかな心地良い音が鳴った。

 そのままオレたちは中身がなくなるまで一気に呷る。

 ぷはぁーと、息を吐いた千秋は、そこで不思議そうに首を傾げた。

 

「カラオケが初めてなんてねー」

 

「もとから興味はあったんだけどな。中々行く機会に恵まれなかったんだ」

 

「ああ……なるほど。そう言われると納得かな」

 

 とはいえ、相手が千秋だとは思わなかったが。

 まさか、ほんの一ヶ月前まで接点がゼロに等しかったクラスメイトと一緒に行くなど、想像もつかなかった。

 

「千秋はよく、こういった場所に行くのか?」

 

「うーん……自分からはあんまり。誘われたら付き合いで行くくらいかな」

 

 付き合いと言うと、篠原(しのはら)佐藤(さとう)といった女子たちか。

 

「でもちょっと勿体ないかもね。初カラオケがこんな形になるなんて」

 

「そうでもないさ。今度来る時の参考になったからな」

 

 とはいえ、次があるかは分からないが。

 千秋は慣れた動作で機械を弄り、音量をゼロにした。とてもありがたい。

 雑音が無くなった部屋は静寂に包まれる。

 

「時間も有限だから、開始しても良いか」

 

「うん、いつでも良いよ」

 

 オレは携帯端末を取り出すと、九件のメールを順番に表示させた。

 

 

 

§

 

 

 

『鼠グループの試験が終了致しました。鼠グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『牛グループの試験が終了致しました。牛グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『兎グループの試験が終了致しました。兎グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『竜グループの試験が終了致しました。竜グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『馬グループの試験が終了致しました。馬グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『羊グループの試験が終了致しました。羊グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『猿グループの試験が終了致しました。猿グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『鳥グループの試験が終了致しました。鳥グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『猪グループの試験が終了致しました。猪グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

 

 

§

 

 

 

 千秋は画面を数秒睨んでから、ゆっくりと息を吐いた。

 

「ごめん、全然分からない」

 

「謝る必要はないさ」

 

 やって貰いたかったことは現状の確認。

 何が起こっているのかを見極めることが先決だ。

 オレはまず、九件のメールの中から、一つのメールを選んだ。

 

 ──『猿グループの試験が終了致しました。猿グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』──

 

「知っているかもしれないが、このメールを送信した犯人は高円寺だ」

 

「噂通りだったんだ」

 

「ああ。オレたちの前で堂々とな。天晴(あっぱ)れと言うしかない」

 

 高円寺の暴走。

 それは最初に出来た『波』。

 しかし、この『波』を軽々と超えるものが生まれ、一年生を襲った。

 

 ──『牛グループの試験が終了致しました。牛グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『兎グループの試験が終了致しました。兎グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『竜グループの試験が終了致しました。竜グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『馬グループの試験が終了致しました。馬グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『羊グループの試験が終了致しました。羊グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『鳥グループの試験が終了致しました。鳥グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『猪グループの試験が終了致しました。猪グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』──

 

「次にこの八件のメールだ。千秋、これは誰がやったと思う?」

 

龍園(りゅうえん)くん率いるCクラス」

 

 彼女は即答した。

 この観点については議論を交わす必要はないだろう。

 

「オレも同意見だ。ところで、千秋は『王』を名乗る龍園の行動が正しいと思うか?」

 

「正しいと思うな。私は、龍園くんが『根幹』に辿り着いたと思う。八件のメールは、Cクラスを除く各クラスの『優待者』を暴いたから送信したんだろうね。そして『勝利』を確信した以上、攻勢に出るのは当然だよね」

 

 試験結果は一斉に開示される。

『裏切り者』のグループが出ても、試験が終了されるだけで、結果は出ない。

 つまり、試行錯誤しながらの挑戦が出来ないということだ。

 

「Cクラスが『勝利』したと前提して話を進めよう。現段階だと、Cクラスは莫大な利益を得ていることになるよな」

 

「そうだね。彼らが選んだのは試験結果Ⅲ。400cl及び400万prを獲得するんだ」

 

 結果Ⅲに関しては──『優待者以外の者が、試験終了を待たず答えを学校に告げ正解していた場合。答えた生徒の所属クラスは50clを得ると同時に、正解者に50万prを支給する。また、優待者を見抜かれたクラスは逆に50clのマイナスを罰として課す。及び、この時点でグループの試験は終了となる。なお、優待者と同じクラスメイトが正解していた場合、答えを無効とし、試験は続行する』──というものだ。

『裏切り者』が所属しているクラスは得をし、『優待者』が見抜かれたクラスは損をする。

 

「高円寺が当てていると良いんだが」

 

「だったら良いんだけどね。外していたら結果Ⅳになるのかぁ……」 

 

 結果Ⅳに関しては──『優待者以外の者が、試験終了を待たず答えを学校に告げ不正解だった場合。答えを間違えた生徒が所属するクラスは50clを失うペナルティ。優待者は50万prを得ると同時に、優待者の所属クラスは50clを獲得するものとする。答えを間違えた時点でグループの試験は終了となる。なお、優待者と同じクラスメイトが不正解した場合、答えを無効とし受け付けない』というものだ。

『裏切り者』が所属しているクラスは損をし、『優待者』が所属しているクラスは得をする。

 

「高円寺を勘定に入れるのはやめよう」

 

「賛成。不確定なものを入れるのは馬鹿だからね。希望的観測は考えちゃ駄目だよ」

 

「各クラス平等に三人ずつ『優待者』が居るとして、Cクラスに三人全員見抜かれているとさらに仮定する。その場合、オレたちは150clのマイナスだ」

 

 Dクラスの現在のクラスポイントは285cl。このままでは135clになってしまう。

 極貧生活を余儀なくされているDクラスにとって、このマイナスはあまりにも厳しい。無人島試験で稼いだのにこんなあんまりな結果では、クラス闘争そのものに対する意欲も失われるだろう。

 栗色の髪の毛、その先端を弄りながら、千秋は不思議そうに呟いた。

 

「やっぱり腑に落ちないかな」

 

「何がだ」

 

「龍園くんはどうやって『優待者』を暴いたんだろうね。彼のことだから、自分のクラスの『優待者』は把握していると思う」

 

「そうだろうな。強引にでも炙り出しているだろう」

 

「でも、それでもたった三人。干支試験を攻略するためには『法則性』を見抜く必要があるよね。とてもじゃないけど、たった三人で見抜けるほどこの試験は簡単じゃないと思うな」

 

「そのうえで千秋はどう考えているんだ?」

 

「簡単なことだよ。各クラスに本物の『裏切り者』が居る。その人物はクラスを売り、『王』に情報を渡した。見返りが何かまでは分からないけどね。そしてそれが可能なのは限られている。各クラスの中核を担う……あるいは、それに近しい人物が裏切った。これが私の推論。どうかな?」

 

 ぱちぱちぱちとオレは手を叩く。

 やはり千秋は優秀だ。

 先入観に囚われず物事を柔軟に考えられる。

 

「Dクラスの中にも『裏切り者』が居るかもしれないよね」

 

「見当はついているのか?」

 

「……ううん。これに関しては私も分からない。清隆くんは知っているの?」

 

「ああ、知っている」

 

 オレが首を横に振れば、千秋の疑念は疑念で収まるはずだった。本物の『裏切り者』が居るのは確定しているが、それがDクラスの生徒なのかは分からない。だがオレが肯定したことにより、彼女は『Dクラスに裏切り者が居る』ことを知った。

 すると彼女は嘆息した。

 じろりと半眼の視線を寄越してくる。

 

「ほんと、きみは何者なの?」

 

「ごくごく一般の生徒のつもりだ」

 

 昔なら断定していたが、それももう、今は出来ないだろう。仕方がないとはいえ、オレの情報は知る者は知っている。

 そして今後も松下千秋と協力するためには、こちらもそれなりの誠意を尽くす必要がある。

 

「私の予想を言っていいかな、Dクラスの『裏切り者』について」

 

「分からないんじゃなかったのか?」

 

「言わせようと誘導している癖に、それはあんまりじゃないかな」

 

 悪い、と謝意を込めて片手を上げると、千秋は呆れたように息を吐いた。

 

「動機を無しに挙げるとすると、実現可能なのは五人かな……。平田くん、軽井沢さん、櫛田(くしだ)さん、堀北さんかな。ああ、あと、高円寺くんも一応挙げるよ。だから五人」

 

「お前の考えは正しい。基本的には、クラスメイトから人望がある生徒を列挙するだろうな。高円寺については、まだ分からないが」

 

()()()()()()()()()()()()()()()。候補者はみんな、クラス闘争のために貢献してきたひとたち。高円寺くんは除くけどね。だからこれ以上はお手上げ状態だよ」

 

 ああ、だけど……と千秋は一度考え直したのか。

 

「ごめん、軽井沢さんも外すかな。もし軽井沢さんが『裏切り者』ならきみが知っているわけがないもんね」

 

「それはまたどうしてだ?」

 

「本物の『裏切り者』を知るためには、そのひとと一定以上の関係である必要がある。そしてきみと軽井沢さんに接点はない」

 

「それは分からないんじゃないのか? もしかしたら裏で繋がりがあるかもしれないぞ」

 

 という言葉に、千秋は一笑してからばっさりと言った。

 

「だって清隆くん、彼女のこと苦手でしょ?」

 

「……否定はしない。ただ一応弁解しておくが、嫌っているわけじゃない」

 

「分かっているって。多分相性の問題だろうね。きみは静かな人間だけど、彼女は真逆のタイプだから」

 

 お前もどちらかと言えばそちら側の人間だったけどな、という言葉は呑み込んだ。

 千秋は桔梗のように自分を偽っていたわけではない。ただ処世術を持ち、上手く活用していただけ。

 だからこそ、ここで彼女に聞きたいことがあった。

 

「千秋は軽井沢のことをどう思っているんだ?」

 

 すると露骨に眉を顰める。

 

「きみって普段は無害そうな顔をしているのに、時々、平気で地雷を踏みに行くよね」

 

「そ、そうか……?」

 

「無意識ならタチが悪いよ。計算しているなら兎も角として──いや、それでも良くはないけど──なるべく直した方が良いと思うな」

 

 なるほどとオレは頷いた。

 言われてみれば、これまでにも何人かの友人に似たようなことを言われたような気がする。

 深く反省しよう。

 

「それで何だっけ、軽井沢さんのことだっけ?」

 

「ああ、是非とも情報が欲しい」

 

「……それはつまり、彼女をこちら側に引き込むということ?」

 

 自分では不満なのかと疑っているようだ。

 ここで変に暈すのは彼女からの関係に後々響くだろう。

 オレは首を横に振り、「そのつもりはない」と前置きしてから言葉を続けた。

 

「実は軽井沢に違和感を覚えているんだ」

 

「違和感……?」

 

「ああ、どうにも『らしくない』気がしてな。ここでさっきの質問に戻るが、千秋は軽井沢のことをどう思う?」

 

「どう思う? って言われても……」

 

 確かに答えにくい内容だったと、オレは反省する。

 

「軽井沢恵を知人に説明する際、千秋はどのように表現する?」

 

「ああ、なるほどね。──女王、かな」

 

「やっぱりお前もか。オレも一緒だ」

 

 それもそうだよと彼女は苦笑い。 

 

「Dクラスの総評でもあるからね」

 

 そう、軽井沢恵は女王である。

 Dクラスの女子生徒を纏めあげ、先導者である平田と協力し、クラス闘争に貢献してきた。

 オレは千秋に、干支試験中での軽井沢の『らしくない』行動を全て告げた。

 聞き終えた彼女は髪の毛を弄りながら思案に耽る。

 

「可笑しいと思わないか?」

 

「直接この目で見たわけじゃないから何とも言えないかな。ただ清隆くんの違和感が正しいとするなら──つまり、本質的に彼女が『女王』ではないのなら。筋は通るとは思う」

 

「そうか……」 

 

「でもどうして? 清隆くんはさっき、彼女のことをスカウトしないって言ったよね? 軽井沢さんのことを知ってどうするつもりなの?」

 

 やはりそこが気になるのだろう、千秋は疑問をぶつけてくる。

 

「別に何もしないさ。ただもし、オレたちの推測が的中していたならば──千秋、軽井沢はDクラスの『(がん)』になるかもしれない。そこだけは頭の片隅に置いといてくれ」 

 

「うん、分かった」

 

 もし可能性があるのならば、早急に除去すべきだ。

 とはいえ、オレがその役割を担うことは出来ない。

 きっと、これが最後の試練になるだろう。

 先導者がどのような決断をするのかによって、Dクラスの未来は変わる。

 



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干支試験──堀北鈴音の分岐点 Ⅰ

 

「何か弁明はあるかしら?」

 

 午前八時。

 千秋(ちあき)と別れ、オレは屋上の『ブルーオーシャン』に向かっていた。そして堀北(ほりきた)はオレよりも早く来ていたようで、会って早々、()め付けきながらそう言ってきたのであった。

 オレは対面に座ってから、何のことかと(とぼ)ける。

 

「……まるでオレが罪に問われているみたいだな、その言い方だと」

 

 茶化しても、彼女は表情を変えない。

 

「あなた、こうなることが分かっていたでしょう」

 

「こうなることと言うと……この現状のことを言っているのか?」

 

「当然でしょう。他に何があるのかしら。だからあなたは私の勝率をあんなにも低く設定した。違う?」

 

 眼光がより強く、より鋭くなる。

 並の人間が相対したら震えるだろうなと、そんな感想を他人事のように抱きながら、オレは注文を聞きに来たスタッフに、適当な軽食を頼んだ。

 ホットドッグとホットコーヒーのセットがすぐに運ばれてきた。とても美味しそうだ。

 

「頂きます」

 

 オレが熱い液体を飲んでいる間にも、彼女からの言及は続く。

 

「……真面目に聞きなさい」  

 

「真面目に聞いているさ。だから言うが、オレもこうなるとは思っていなかった」

 

詭弁(きべん)ね」 

 

 堀北は一刀両断する。

 ストローでグラスの中をかき混ぜながら、オレは、さてどうしたものかと思い悩む。

 彼女はさらに非難する。

 

「試験が始まる前に、私はあなたと龍園(りゅうえん)くんに聞いたわよね。今回も裏で繋がるのかと。あれは嘘だったのかしら?」

 

「もちろん嘘じゃないさ。オレと龍園の間にはもう何もない。事実、オレたちはあの一件以降一度も会ってもいないし、連絡も取り合っていない」

 

「なら綾小路くん。あなたは全くの無関係だと?」

 

「さあ……どうだろうな」

 

 言葉を濁らせるが、堀北相手に通じるはずもない。

 

「全くの無関係とは言えないだろうな。だが堀北、再三言うが、全てを知っていたわけじゃない」

 

「でしょうね。なら教えなさい。あなたが知っていること全てを」

 

「オレが知っているのは、お前も知っていることだ。すなわち、龍園の『宣戦布告』のみ。オレは龍園がその準備をしているのを知っていた」

 

「そのうえであなたは何もしなかったのね。私に相談をすることもしなかった」

 

 空になった皿を、店員を呼んで片付けさせる。

 

「綾小路くん、あなたなら容易に推測出来たはずよ」

 

「買い被りだな。何回も言っているが、龍園の行動は完全に予想外だった」

 

 いや、これだと語弊があるか。

 龍園の行動ではなく、Cクラスの行動だと言った方が良いだろう。

 

「仮にお前に警告していたとして、堀北、お前に何が出来た? 奴は用意周到に水面下で動いていた。パフォーマンスを入れながらな。お前は何が出来たんだ?」

 

「それは……けど、心構えは違っていたはずよ」

 

「そうだな。だがそれだけだ。お前は何も出来はしなかった」

 

 堀北から、憤怒が、敵意が送られてくる。

 凄まじい激情だ。

 こんなにも感情を剥き出しにしている彼女は初めて見た。恐らくは、彼女の兄も滅多に見たことがないのではないだろうか。

 

「綾小路くん、あなたはいつだってそうね。あなたはいつだって、自分のことしか考えていない。周りの人間などどうでも良いのでしょう」

 

 堀北はさらに言葉を続ける。

 

「『暴力事件』の時もそう。無人島試験の時もそう。そして今回の干支試験だって。綾小路くん、あなたは入学式の日、私に『事なかれ主義者』だと自分を表現したわよね。覚えているかしら」

 

「ああ、確かにオレはそう言った」

 

 あの日あったことは全て余すことなく覚えている。その中でも堀北との邂逅はかなり印象深い。

 

「あの時はすんなりと言葉を受け入れた。いいえ、受け入れてしまった。でも今は違う。矛盾よ。事なかれ主義という信条を掲げているひとの行動じゃないわ」

 

「ならオレは何なんだ?」

 

 純粋に気になったので聞いてみると、堀北は即答した。

 

「断言しましょう。あなたは『事なかれ主義者』じゃない。ただの『傍観者』よ」

 

『傍観者』という言葉は、意外にもすんなりとオレの胸の内に溶け込んだ。

 オレは甘んじて堀北の糾弾を受け入れる。

 

「はっきり言いましょう。綾小路くん、私はもう、あなたの暗躍を見逃すことは出来ないわ」

 

「……そうか。ならどうする? オレをクラスメイトの前で吊し上げるか?」

 

 それならそれで構わない。

 須藤(すどう)佐倉(さくら)王美雨(ワンメイユイ)といった友人は居なくなるだろうが、ただそれだけの話だ。

 

 ──同時にオレは、自分が何も変わっていないのだと自覚する。

 

 結局、いくら『外側』が変わったように見えても、オレの分厚く、光の灯らない『内側』は変わらない。闇に覆われた心が晴れることはない。

 本当に、自嘲してしまう。変わらない、変わることが出来ない自分に。

 

「……いいえ、私は何もしない。この学校は実力で生徒の善し悪しを測っているのだから。私にもっと力があれば、あなたの悪行を防ぐことが出来た。けれど私には出来なかった」

 

「見逃してくれるんだな」

 

「ええ……癪ではあるけれどね。……綾小路くん、私はもう……あなたを決して頼らない」

 

「頼らない、か……それはまた奇妙なことを言うな。お前は一度たりとてオレを頼っていないだろう」

 

 オレが勝手に介入してきただけだ。

 ところが、彼女は首を横に振り、

 

「いいえ、違うわ。私は弱くなった。その弱さが、この危機的事態を招いているのよ……」

 

 吐き捨てるかのように堀北は言った。まるで過去の自分を悔やんでいるかのようだ。

 こうなることを未然に防げた。そう思い、けれど出来なかった自分を責めているのだろうか。

 オレはそんな彼女をじっと見詰める。

 

「お前が望んでいるのならそうしよう。だが堀北」

 

「……何かしら」

 

「今のDクラスじゃAクラスには上がれない。Cクラスにすら勝てないだろう。お前はオレが裏で動いていたことが気に食わないようだが、それとは関係なしに、単純な戦力差で、天地がひっくり返ってもお前たちは勝てない」

 

「……ええ、そうでしょうね。今の私たちじゃ勝てないわ」

 

 客観的事実を堀北は受け入れた。

 状況を冷静に視ることが出来なければ、未来の展望は語れない。大言壮語を口にする愚かな夢想家(ロマンチスト)だ。

 彼女は目を伏し、黙考する。

 そして彼女はおもむろに瞳を覗かせた。意志が込められた、強い輝きだ。

 

「これまで私は困惑していたわ。(いけ)くんや須藤くんたちは私のことを『先生』と呼んでくる。他のクラスメイトもそうよ。私はこれまで独りだったから、誰かとの繋がりを否定してきた」

 

 堀北鈴音の独白は続く。 

 

「けれど、分かった。私たった独りで出来ることには限界がある。平田(ひらた)くんや一之瀬(いちのせ)さんは言わずもがな、葛城(かつらぎ)くん、坂柳(さかやなぎ)さん、龍園くんまでもが、仲間を率いている。綾小路くん、あなたもそうなのでしょう?」

 

「ああ、オレにも居るな」

 

 嘘を吐いたところで意味はない。

 これまでの過程で、堀北は桔梗(ききょう)と千秋の存在を認知しているのだから。

 

「私は、私は────」

 

 ただの名前のない少女が、いま、オレの目の前で殻を破ろうとしている。自分のこれまでの人生を振り返り、価値観を捨て、藻掻(もが)き、羽ばたこうとしている。

 

 

 

「今までの考え方は改めるわ。私は──私たちは、必ずAクラスで卒業する」

 

 

 

 凛と言葉が放たれた。

 この数ヶ月間、兆候はいくつもあり、幾度の『試練』は彼女を昇華させるに至った。

 入学当初とは一線を画す覇気。

 最後に良いものが見れたと、心からそう思う。

 同時に。

 

 ──堀北鈴音の昇華とはすなわち、オレとの決別を意味している。

 

 堀北は真っ直ぐオレを凝視する。

 

「綾小路くん、あなたが何をしようとそれは構わないわ。クラス闘争に参加するのも、しないのも、それは個人の自由だもの。ただし、Dクラスの邪魔をするのなら、私は本気であなたを打ち破りに行くわ」

 

「肝に銘じよう」

 

「……これで私たちはただの隣人よ」

 

 関係の初期化。そう繕ったところで意味はない。

 この時、この瞬間。

 オレと堀北は事実上、隣人とは程遠い敵対関係に大きく変わった。

 

「綾小路くん、私が今からすることもあなたは……」

 

「オレは?」

 

「──いいえ、何でもないわ。それじゃあ」

 

「ああ、じゃあな」 

 

 オレたちは決別の挨拶を交わす。

 堀北はこちらを振り返ることなく、迷いない足取りで立ち去って行った。

 

「思ったよりも早かったな……いや、そうでもないか」

 

 自身が歩く『道』を定めたということだ。

 オレは思わず苦笑いする。同時に、彼女に憧れた。

 定められたレールを淡々と歩いてきたオレからすれば、『道』を切り開ける者は憧憬の対象だ。嫉妬すら覚えてしまうほどに。

 

「さて、残りの時間。何をするか……」

 

 今回の干支試験は、生徒全員が一緒に終了を迎えるわけではない。

 グループで『裏切り者』が出た時点で、そこのグループは試験終了だ。部屋に集まる必要はないと、運営側からのメールでも伝えられている。つまり、多くの生徒が試験から解放されていることだ。

 だがしかし、全体の試験終了ではない。

 残っているのは計三匹の獣たち。

 討たれない限り干支試験は続く。

 特別試験は今日を含めて残り三日。

 恐らく、今日はずっとこのまま船上は嵐に包まれるだろう。

 各クラスのリーダーは仲間の不安や動揺を(おさ)めるのに精一杯のはずだ。

 つまり、実質的にはタイムリミットはあと二日ということになる。さらに、明日は休息日だ。

 起死回生の挽回──は、()()()()

 

 

 

 

 既に龍園率いるCクラスの『勝利』は確定している。

 

 

 

 

 だが『完全勝利』ではない。

 最後の足掻(あが)きが心折れずに出来るか否か、戦いは既にその次元に至っている。 

 別れ際の堀北の言葉が想起される。昇華した彼女なら、あるいは────。

 行動を起こす、その準備期間は明日一日だけ。

 

「苦いな……」

 

 熱かったコーヒーはすっかりと冷めていた。そしてオレの呟き声は風に溶けていった。

 



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分岐点 Ⅲ

 

 干支試験、二日目が終わりを迎えようとしていた。

 龍園(りゅうえん)の率いるCクラスの攻撃の余波は、あれから二十四時間が経った今でも引いていない。

 一応の平穏こそ保たれているが、それは仮初(かりそめ)のもの。各クラスのリーダーたちが懸命に作り上げたものでしかない。

 

「これからどうなるんだろうな……」

 

「分かんないよ……。私たちももう、余裕はないかもね……」

 

「そんなことはない!」

 

「こえ、震えているよ……」

 

「ごめんな……情けなくて……」

 

「今はまだ退学者とか出てないけど……二学期になったら出るのかな……」

 

 豪華客船の一階の廊下を歩いていると、すれ違った二人の男女がそのように話していた。名前こそ知らないが顔には見覚えがある。どちらもAクラスの生徒だ。

 話にあったように、最も優秀なクラスに、これまでの余裕はあまりない。Aクラスは一学期の間、特にこれといった成果を出していないのが大きな要因だろう。とはいえ、それは仕方がない側面もある。彼らはこれまで部外者であり、クラス闘争に参加してきたのは先の無人島試験からなのだから。内輪揉めで時間を消費してしまったのが決定的だったということだろう。

 試験開始前まではこの時間、多くの生徒が廊下を行き交っていたのだが、今はそれはない。

 全体の九割は心折れ、部屋に引きこもっている。

 Dクラスでも、この絶望的状態で戦意を保てていられるのはごくわずかな者のみ。

 A、Bクラスも似たようなものだろう。

 では、何故オレが廊下を歩いているか。理由は至極簡単かつ明瞭で、天体観測をしたいと思ったからだ。

 部屋の窓からでも夜空は覗き見ることは可能だが、それだと少々味気ないと前々から思っていたのだ。屋上から仰ぐ景色は格別ということで、旅行が始まって以来、屋上は有名スポット……もとい、カップルに占有されていた。当然、オレに単身で乗り込む勇気などあるはずもない。数少ない友人を誘おうとも考えてはみたが、何となくそれは嫌だった。

 だがいまなら、オレのような独り身でも満喫出来るはずだ。

 さらに、天気予報によれば今夜は雲一つないそうで、これを逃すのは実に勿体ない。

 何か飲み物でも買おうと、意気揚々(いきようよう)と自販機に近付くと、オレは意外な組み合わせの三人組の背中を見付ける。

 一年Aクラス担任、真嶋(ましま)先生。Bクラス担任、星乃宮(ほしのみや)先生。そしてDクラス担任の茶柱(ちゃばしら)だ。

 三人は小さなバーに居た。ちらりと他を一瞥すれば、他にも何人か先生方が居る。そう言えばと……オレは一つ思い出していた。

 ここは大人たちが愛してやまない居酒屋やバーなどの施設が密集している区画だったな。

 とはいえ、別に生徒に入店が禁じられているわけではない。ただ学生であるオレたちにはまだ早いと思うのは自然なことで、ここはいつも閑散としていると、(いけ)がこの前教えてくれた。

 どうやら、自分でも気付かないほどオレは浮かれていて、この区画に迷い込んでしまったようだ。

 

「それにしても……珍しい組み合わせだな」

 

 いや、オレがそう思うだけで、実際は違うのかもしれない。同じ一年生を受け持つ教師。こうして飲みに行っている可能性は充分にある。まあ、そのように考えるとCクラス担当の坂上(さかがみ)先生が居ないのが気掛かりだが。ハブられていないのかとちょっと心配になってしまう。

 あるいは、もっとプライベートな関係かもしれない。茶柱と星乃宮先生が親友なのをオレは知っているし──正直なところ、あれから数ヶ月が経った今でも未だに半信半疑だが──真嶋先生も何らかの繋がりがあるのかもしれない。

 気になったオレは方向転換し、彼らに気付かれないよう細心の注意を払いながら、声量がぎりぎり届く所まで近付く。

 

「何かさー、久し振りだよね。この三人が同じ席にこうして腰を下ろすなんてさー。本当は昨夜の予定だったけど」

 

「仕方がないだろう。我々が緊急時に動くのは当然のことだ。──それにしても、因果なものだ。結局俺たちは教師という道を選んだんだからな」

 

「よせ。そんな話をしても何も意味がない」

 

「もう、サエちゃん。そんな釣れないことを言わないでよー」

 

 オレの想像は的中していたようだ。三人は知己の仲だと考えて良いだろう。

 先生たちはグラスを掲げ、

 

「「「乾杯」」」

 

 カツン、という音が小さく鳴った。

 遠目から覗いていると、グラスの中の液体の色が違うことに気付く。考えてみれば当たり前だが、自分が好きなものを頼むか。

 未成年のオレは何が何だかさっぱり分からないし、何故、大人たちが酒を愛するのか分からないが、取り敢えずあと数年は待とうと思う。

 未成年飲酒して退学、なんて嫌すぎる。

 先生たちは(あお)ると──星乃宮先生の飲みっぷりが凄まじい。女性とは思えない──ゆっくりと酔い始めていく。

 

「私たちももうかなりの歳かぁ〜」

 

「そうだな。月日の経過とは早いものだとここ最近は特に思う」

 

「真嶋くんは結婚とかしないの〜?」

 

「さて、な……」

 

「もう、誤魔化さなくても良いじゃない。私この前見ちゃったんだから。この前デートしてたでしょ? あれは新しい彼女?」

 

「驚いた……見ていたのか……」

 

 そう言った真嶋先生だが、驚いている風には見えなかった。とはいえ、こちらからでは表情が見えないため何とも言えないが。

 

「でも意外だよね。真嶋くんって、朴念仁っぽいのにさ、結構移り気だよね」

 

「……」

 

「あれ、黙っちゃう?」

 

 けらけらと星乃宮先生は笑った。

 すっかりと酒の肴にされている真嶋先生がちょっとばかり可哀想だと思わなくもない。

 真嶋先生は硬い声で、

 

「星乃宮、お前こそ前の男はどうした?」

 

「おっと、そう来たか〜。──あはは。二週間で別れちゃった」

 

「そうか……」

 

 すると、今まで無言だった茶柱が。

 

「こいつは深い関係になると一気に冷めるタイプだからな。その男も可哀想に」

 

「むっ、サエちゃんそれは言い過ぎだよ。ほら、こういう恋愛ってさ、過程こそが一番楽しいと思うんだよね〜。こう、どきどきしてさ〜……けど付き合ったらそのどきどきも無くなっちゃうでしょ?」

 

「ほんとうにお前はタチが悪いな……」

 

 呆れるように言った。

 好機とみた真嶋先生も茶柱に加勢する。

 

「茶柱の言う通りだ。そういう台詞は普通、男が言うことなんだがな」

 

「おっと、真嶋くんも敵になるか。残念、これだと真嶋くんとはやれないね〜。まあ、やる気ないけど〜。私たちはベストフレンドだし、関係悪くしたくないでしょ?」

 

「安心しろ、それだけはない。それに教員同士が付き合うなど問題以外の何物でもないだろう」

 

「相変わらず堅物だな〜」

 

 先生たちの飲み会は続く。

 自分たちの最近の出来事──茶柱は殆ど口を挟まず、聞き手に徹していた──を語り終えた後は、必然的に、勤め先に話題がシフトしていった。

 

「それにしてもさ、今年の一年生の子たちは曲者というか、特殊な子が多いわよね〜。坂柳(さかやなぎ)さんとかどうなの?」

 

「知っての通り非常に優秀だ。理事長の娘という色眼鏡(いろめがね)ではなるべく視たくないが……やはり、優秀さは引き継いでいるのだろう」  

 

「私時々、あの二人が本当に親娘(おやこ)かと時々疑ってるのよね。ほら、性格が真反対じゃない? 似ても似つかないっていうか」

 

「なら父君ではなく母君の遺伝子を多く引き継いでいるのだろう。──星乃宮のBクラスは安泰だな」 

 

「うん、みんな良い子。特に一之瀬(いちのせ)さんは素晴らしいわ。頭は良いし、性格は良いし、何より、とても可愛いもの!」

 

 星乃宮先生は、一之瀬のことをかなり気に入っているようで、その後も数分に渡って彼女の魅力を語った。

 聖職者といえど教師は人間。当然好き嫌いはあるし、どうしても比較してしまうもの。プライベートな場所だからこそ、このような会話がゆるされるのだろう。

 

「サエちゃんはどう? クラスの子とちゃんと仲良くしている?」

 

「私は……」

 

「あっ、ごめんね〜。サエちゃんには難しいかあ」

 

「喧嘩を売っているのか、お前は」   

 

「まっさかぁ〜? 別に、さっきの意趣返しだとか思ってないしぃ?」

 

「だが星乃宮が言っていることもあながち間違ってはないだろうな。あまり言いたくないが、茶柱、お前のクラスは問題行動を起こしすぎだ」

 

「そうそう。まだ一学期なのに、ある意味凄いよね。一点の分野だけ見れば光っているんだけど、それ以外がなあ……」

 

「……と、言われてもな。あいつらは私の言葉など聞かないさ。私は嫌われているからな」

 

 茶柱はグラスを持ち自嘲した。

 すると、星乃宮先生がくすくすと可笑しそうに笑う。 

 

「けど実際面白いよね。今年の一年生は良くも悪くも豊作と凶作のバランスが保たれているし。──真嶋くんのクラスが勝つのか。私のクラスが勝つのか。坂上先生のクラスが勝つのか。サエちゃんのクラスが勝つのか。正直言うとね、全然予想出来ないよ。今回の干支試験もそう。結果がどうなるのか楽しみ」

 

「……そうだな。だが俺たちに出来ることはない。教え子たちの奮闘を見守り、必要とあらば守る。これが俺たちの使命だ」

 

「うふふ。真嶋くんのそういう熱いところ、私嫌いじゃないよ」

 

「だから俺はお前に聞こう。星乃宮、どうして一之瀬帆波(ほなみ)を『竜』グループに入れなかった?」

 

「それは私も気になっていた。通例では『竜』グループは各クラスの代表を担任が選び、配属させる。だがBクラス代表の一之瀬は居ない」

 

 オレたち生徒の推測通り、『竜』グループの構成メンバーだけは意図的に成り立っていたようだ。

 真嶋先生と茶柱はじっと星乃宮先生を見つめる。観念したように、やがて彼女は言った。

 

「一応弁明するとね、巫山戯(ふざけ)ているわけじゃないのよ? 確かに二人の言う通り、生活態度や学業の成績だけを見れば、一之瀬さんはBクラスの中で一番で、他の子の追随を許していないわ」

 

「──だったら何故?」

 

「話は最後まで聞こうよ、サエちゃん。──いま言ったように、一之瀬さんは優秀よ。けれどそれだけで社会で活躍出来るとは限らない。むしろその逆、数値じゃ測れない『何か』に本質があると思うのよね。だから私は一之瀬さんを『竜』グループから外したの。驕ることなく学び、成長して欲しいと思ったのよね」

 

「なるほどな……一理ある」

 

 真嶋先生は納得したが、しかし、茶柱はそうは思わなかったようだ。

 

「尤もらしいことを言って誤魔化そうとしたって、そうはいかないぞ」

 

「目、目が怖いよサエちゃん!」

 

 笑顔笑顔! と星乃宮先生は言うが、茶柱は彼女の言葉を無視する。

 

「お前が一之瀬を外した理由、他に理由があるんじゃないのか」

 

「もう、何を言ってるの?」

 

 首を傾げる親友に、彼女はさらに言葉を続けた。

 

「率直に聞こう。チエ、お前は私への個人的恨みで判断を誤ったのではないのか?」

 

「あはは。サエちゃんのそういうところ、私好きだなあ。嘘を嫌い、単刀直入に聞くのって難しいもんね」

 

「……早く答えろ」

 

「十年前のあの事を言っているなら、見当違いにも程があるよ。とっくの昔に水に流したって〜」

 

 星乃宮先生の表情は終始変わらない。

 対して、覗いた茶柱の横顔は見たことがないくらいに張り詰めていた。

 

「……どうだかな。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そうだろう?」

 

 その質問に星乃宮先生は答えなかった。茶柱も畳み掛けるようなことはしない。

 オレが想像している以上に、彼女たちの関係はとても複雑なのだろう。

 そろそろと退散しようと思ったその時、星乃宮先生は追加のアルコールを注文し、そして一気に飲み干した。

 

「ぷはぁー。でも二人とも、確かに私の行動は良くないかもだけどさ、坂上先生も問題じゃない?」

 

「坂上先生がか?」

 

「うん。龍園くんは『竜』グループじゃないでしょ。ううん、龍園くんだけじゃない。他の子も『竜』グループにはとてもじゃないけど適していないと思うなあ……」

 

「だが龍園はCクラスを支配している。彼が選ばれても可笑しくはないだろう。それと、後者の発言は聞かなかったことにする」

 

 そして真嶋先生は厳しい口調で不満げな星乃宮先生を窘める。

 

「兎にも角にも、規則ではないがモラルは守ってくれないか。同期の失態を上に報告したくない」

 

「はーい、流石、学年主任の言葉は違う〜」

 

 反省しているようには露ほども見られないが、真嶋先生は諦めたのか、それ以上叱責することはなかった。

 そこからはまた取り留めのない雑談に戻っていく。

 今後こそオレは立ち去ることにした。短い時間のつもりだったが、すっかりと長居してしまった。

 だが三人の人柄を知ることが出来た。何より、一之瀬の『兎』グループへの配属の理由も分かった。堀北(ほりきた)の忠告通り、星乃宮先生はオレを警戒しているのだろう。それがクラス闘争を思ってのことか、あるいは、茶柱が言ったように私怨(しえん)なのかは分からないが……ともあれ、収穫はあった。

 気配を殺してオレは移動し、そのままエレベーターに直行。屋上に上る。

 外に出ると、満天の星空がオレを出迎えた。

 

「改めて見ると……凄いな……」

 

 フェンスに近付いたオレは、顔を見上げて星々を眺める。天の川が夜空を流れている。格別輝いているのはあれは夏の大三角形だろうか。

 船外のデッキは静寂に包まれていた。今日来て良かったとつくづく思う。

 懐から携帯端末を取りだし、ナイトモードで写真を数枚撮る。画質はやや悪いが、携帯ではこれが限界なのだと妥協する。佐倉(さくら)王美雨(みーちゃん)に後日送ろう。

 近くのベンチに腰を下ろし、ぼんやりと時間を過ごす。たまにはこんな日があっても良いだろう。

 どれだけの時間を過ごしただろうか。不意に視界が遮られた。

 

「こんばんは、綾小路くん」

 

 振り向けば、椎名(しいな)が微笑を浮かべてそこに居た。会う約束はしていない。だが彼女はここに居る。まず間違いなく、オレの端末が発信しているGPSから位置情報を割り出したのだろう。

 私服姿の彼女は純白のワンピースを着ていた。彼女にとても似合っている。月光も相まって、一瞬、妖精かと錯覚したほどだ。

 取り敢えず、オレも挨拶を返す。

 

「こんばんは、椎名」

 

「お隣、良いですか?」

 

「ああ、もちろん」

 

 ありがとうございますと言ってから、彼女はオレの左隣に座った。

 手を少し伸ばせば届く距離に居る。ちらりと横顔を見れば彼女の端正な顔がすぐ近くにある。

 オレは高鳴る胸の鼓動を抑えようと試みるが、むしろ、時間の経過とともに高まるばかりだ。

 オレが悶々としていることに彼女は気付かない。ぽつりと言葉を漏らす。

 

「……どうして()いに来たのか聞かないんですか?」

 

「……聞いて欲しいのか?」

 

「もう、質問を質問で返さないで下さい」

 

 反射的に謝ろうと口を開きかけるが、

 

「──あなたに無性に逢いたかったんです。だから逢いに来ました。どうしても誰も居ない二人きりの時間が欲しかったんです」

 

 発せられた言葉で半開きにしてしまう。

 

「ごめんなさい、迷惑でしたね。せっかくの天体観測を邪魔してしまって……」

 

「そんなことはない。オレも一人は寂しいと思っていたところだ」

 

「……そう言って頂けると嬉しいです」

 

 椎名は綺麗に微笑む。

 あまりにも美しいものだから()せられてしまう。

 彼女はオレから視線を外し、虚空を凝視した。目を細め、拳を強く握り締めている。

 何かを言おうと葛藤しているのが伝わってくる。

 オレはただじっと待っていた。

 程なくして、彼女はおもむろに言葉を紡ぐ。

 

「昨夜の騒動は龍園くんの暴走──多くのひとたちが、そう思っていると思います。ですが真実は違います。龍園くんではなく、私の暴走です」

 

 一言一言を噛み締めるように、ゆっくりと独白を続ける。自分の罪を受け入れるかのように。

 

「龍園くんや、噂に聞くと坂柳さんも、他者を傷付けることを(いと)いません。いいえ、彼らだけじゃありませんね。多くの方が、潜在的に持っていると思います」

 

「……そうだろうな」

 

「私は争い事が好きではありません。相手が傷付くのも嫌ですし、自分が傷付くのも嫌です。──しかし、自分の目的の為なら、手段を選ばず、卑劣な手を使っても構わないとも思っています」

 

「オレも同じだ」

 

 例えば龍園の常套手段である『暴力』。 

 有りか無しかと聞かれたら、オレは逡巡の後に『有り』だと答えるだろう。

 横に居る彼女も同じ考えの持ち主だったようだ。

 

「今回の干支試験、私は、龍園くんに力を貸しました。そして十二人の『優待者』を彼と共に暴きました。()()()()()()()()()()()()()()……()()()()()()()()()()()()()()。たとえそれが、自分勝手なエゴなものだったとしても」

 

「そこまでしたお前の願いは何なんだ?」

 

「あなたです、綾小路くん」

 

 即答された。椎名は姿勢を変え、背筋を伸ばし、真っ直ぐとオレを見る。

 

「綾小路くんの事情はある程度知っています。担任の茶柱先生から脅迫されていること。そしてこの夏休みでの特別試験で『結果』を残さないといけないことも」

 

 長期休暇に入る前、彼女と『王』の二人だけにはオレの事情を伝えていた。

 

「だが椎名は事前にオレに教えてくれただろう。特別試験に参加し、龍園に協力することを」

 

 無人島試験が終わったその日の夜、彼女は確かにオレに教えてくれた。その必要はなかったのにも関わらずだ。

 ところが、椎名は首を横に振った。

 

「……打算的なものです。そうすれば罪悪感も薄くなると思いました」

 

「感じているのか?」

 

「……はい。でも今は違います。最初は罪悪感を感じました。でも、でもいまは……あなたに嫌われると思うと身体が、こころが震えるんです」

 

「…………」

 

「あなたの複雑な立場を知っていながら、私は、わたしは────」

 

「もう良い」

 

 これ以上の少女の慟哭を聞きたくなかった。いまにも泣きそうな彼女の顔を見ていたくなかった。

 だからオレはこの名前の知らない感情に従い、椎名を抱き締めた。華奢な身体をオレの身体で包み込む。

 

「あ、綾小路くん──」

 

「嫌うはずがないだろう」

 

「……ッ!?」

 

 びくんと震える。

 オレは少女を抱き締める力を強くした。彼女がどこかに行かないように、力強く。

 

「お前が謝ることは一つもない。むしろ謝るのはオレの方だ」

 

 ここまで椎名が思い詰めるとは思っていなかった。

 いや、これはただの醜い言い訳だな。

 

「オレの厄介事に巻き込んでしまって済まない。本当ならお前は平和な生活を送れたのにな……」

 

「……確かにそうかもしれません。本の虫の私は毎日のように図書室に通っていたでしょう」

 

 でも、と彼女は一度言葉を区切る。

 そして顔を仰がせて言った。

 

「でも私は独りでした。もしかしたらあなたと逢うこともなく、三年間を過ごしていたかもしれません。それは……、それは嫌です」

 

「……オレも嫌だな、そんな三年間は」

 

 とてもつまらないものだ──そこまで思ったところで、オレは胸中で苦笑を禁じ得なかった。

 平凡で、平和な生活を送ることがオレの望みだった。少なくとも入学当初は、そう、思っていたはずだ。だから仮初の自分を偽り、擬態(ぎたい)しようとした。偽りの都合の良い『綾小路清隆(キャラクター)』を創造し、集団に馴染もうとした。

 だがしかし、現在、この考えが変わりつつあるのをオレは自覚する。

 そしてその要因は一目瞭然だ。

 目を落とせば、少女はオレの胸板に縋り付いていた。

 この胸の中に居る彼女を手放したくないと。誰かに渡したくないと強く思う。

 

 ──それはオレが生まれて初めて手に入れた『感情』だった。

 

 数分、あるいは数時間。

 オレと椎名はずっと互いのぬくもりを感じていた。

 

 

 

§

 

 

 ──嗚呼。

 

 

 ────だが何故、オレは自分の顔を見たくないと思うのだろうか。

 

 

 



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干支試験──平田洋介の原罪

 

 干支試験、三日目。

 三日目といっても、今日は試験が行われない休息日。とはいえ、殆どの生徒は試験を終了させているため『休息日』の意味はない。

 午前七時丁度に僕は意識を覚醒(かくせい)させた。

 普段の学校生活はこの時間よりも早いため、贅沢な気持ちになる。長期休暇の良いところは、好きな時間に起きて、好きな時間に寝られるところだと思う。

 

「ふわぁ……」

 

 軽く欠伸(あくび)をしながら上半身を起こし、寝室を確認する。僕の左隣が綾小路(あやのこうじ)くんで、右隣が幸村(ゆきむら)くん。そして窓際が高円寺(こうえんじ)くんだ。

 部屋に居るのは僕と綾小路くんの二人だけだった。高円寺くんは朝の肉体美のために、幸村くんは分からないけれど、朝食を食べに行ったのかもしれない。

 

「熟睡しているなぁ……」

 

 綾小路くんは側臥位(そくがい)になって寝ていた。昨夜は日付を跨いでも帰ってこなかったから、その反動なのかもしれない。

 話を聞くと、どうやら天体観測をしていたらしい。はたしてそれだけなのか、僕は内心疑問に思ったけれど──親しき仲にも礼儀あり。いくら友人とはいえ不必要にプライベートに首を突っ込むのは失礼だ。

 それに……昨夜の綾小路くんは様子が可笑(おか)しかったと、僕は思っている。嬉しさと喜び──(さび)しさを混ぜ合わせたような、そんな複雑な表情を浮かべていた。

 綾小路清隆(きよたか)という人間は、恐ろしい程に感情が表出しない。時々出るそれは仮初のものだと僕は考えている。しかし昨夜の綾小路くんからは(なま)の感情が浮き出ていた……ように見えた。

 幸村くんと高円寺くんは寝ていたから見ていないけれど、僕は、昨夜に『何か』があったのだと確信している。

 とはいえ、綾小路くんから相談をしてこない限りは先程も述べたように僕は何もしないつもりだ。

 

「さて、着替えるかな」

 

 白を基調とした私服に着替える。これは交際相手である軽井沢(かるいざわ)さんに選んで貰ったものだ。

 僕は恋愛面に関しては周りのひとが思っている程成熟していない。むしろその逆、素人(しろうと)だ。

 なので、ケヤキモールで彼女に選んで貰った時は、内心、滝の汗を流していた。あの場に友達が居なくて良かったと心から思っている。特にBクラスの友人である柴田(しばた)くんにでも目撃されていたら、僕はこのネタで散々揶揄(からか)われたに違いない。

 そんな事を考えていると、近くに置いていた携帯端末が軽く震えた。クラスメイトの堀北(ほりきた)さんからだ。

 

『おはよう、平田(ひらた)くん。突然ごめんなさい。今日の十四時、私が提示する場所に来られないかしら。大事な話があるの』

 

 彼女から誘われるのは初めてだ。

 そして提示された場所はカラオケだった。これだけ見ると単純に遊びだと錯覚してしまうけれど、あの堀北さんがこんな事をするわけがない。

 誰の目にも触れることなく、話とやらをしたいのだろう。そして恐らく、話題は干支試験のものになるだろう。何を話すのか、興味が湧いた。

 

『もちろん構わないよ。また後で会おう』

 

 承諾メールを送信すると、すぐに既読が付いた。けれど返信されることはない。綾小路くんから度々聞かされているけれど、堀北さんは随分と無駄を嫌うようだ。

 とはいえ、僕と彼女に盛り上がれる共通の話題があるかと聞かれたら、答えに窮するけれど……。

 それから二十分後、綾小路くんが起床した。

 

「……おはよう、洋介」

 

「おはよう、清隆くん。寝癖ついてるよ」

 

「……そうか。教えてくれてありがとう」

 

 大きく伸びをした友人は、そのまま脱衣室に姿を晦ませた。

 一緒の寝室を使うようになって驚いたことだけれど、彼はかなり寝る。やる事がない時は仮眠をとっていることがとても多い。

 

「清隆くん、後で朝ご飯食べに行かない?」

 

「……悪い、水音で聞こえなかった。もう一度言って貰って良いか?」

 

 しまった、完全にタイミングを間違えた。

 僕はさっきよりも大きな声で、

 

「朝ご飯、食べに行こうよ」

 

「分かった。ちょっと待ってくれ」

 

 数分後、綾小路くんは身嗜みを整えた。海老(えび)色の前開き上着が、とても彼に似合っている。

 

「その服、旅行中に初めて着るよね」

 

「そうかもしれないな。旅行前に友人に選んで貰って、中々着る機会に恵まれなかったんだ」

 

「へー! ちなみにその友人って椎名(しいな)さんかい?」

 

 からかい混じりに聞いてみると、綾小路くんは目を瞬かせた。どうやらその通りのようだ。

 

「……驚いた。よく分かったな」

 

「何となくかな。ただ漠然とそう思って」 

 

 相変わらずの仲の良さだと僕は感嘆した。

 もしかして昨夜も椎名さん絡みなのだろうかと邪推してしまう。

 しかし、すぐにこの考えは打ち消した。

 普段の学校生活なら兎も角として、いまは特別試験中だ。二人は試験中、徹底的に会わないようにしていることを僕は知っている。

 程なくして、綾小路くんは準備を終えたようだ。

 

「待たせた。それじゃあ行こう」

 

「うん。あっ、そうだ。何か食べたいものとかある?」

 

「特にない。ただそうだな……重たい物は遠慮したいところだな」

 

「それもそうだね。まだ朝だし、胃もたれになったら大変だ」

 

 共に連れ立って廊下を歩いていくと、沢山の生徒とすれ違う。

 龍園(りゅうえん)くんが起こした騒動も、一日と半日経ってようやく引きつつあるようだ。

 考えてみると、この休息日は意外にも意味があるのかもしれない。束の間の平穏で、みんなが開放的な気持ちになれたらと思う。

 

「おはよう、平田!」

 

「よっす、平田!」

 

 エレベーターに向かう道中、クラスメイトや他のクラスの友達が声を掛けてくれた。

 僕はそれに笑顔で応える。

 

「お前……大変だな……」

 

 一人ひとりに挨拶を返し終わり、エレベーターに乗ると、綾小路くんが畏怖の目で僕を見詰めてきた。

 

「疲れないか?」

 

 思わず面食らった。

 まさかここまで単刀直入に尋ねてくるなんて。

 言葉を濁すことは造作もない。いつものように笑顔を浮かべれば良いだけだ。それだけで引いてくれるだろう。

 だがしかし、敢えて僕はその選択を取らなかった。

 

「男の子だけならまだ楽かな」

 

「……女子たちは苦労するのか、やっぱり」

 

「苦労……うぅーん、そうかもしれないね……」

 

 より正確に言うと、反応に困る。

 多くの生徒が、平田洋介という人間は社交的な人物だと思っているだろう。しかし、それは少しばかり違う。僕は『僕』を演じているだけ。

 もちろん、友達が困っていたら助けたいと思う。それは紛れもなく僕が思っていること。でも、その『意思』を『意志』に変えているのは『僕』であって僕じゃない。

 あの忌むべき『出来事』を僕は決して忘れていない。あの時の凄惨な光景は決して脳裏から離れない。だから僕は今日も『僕』で居られる。

 エレベーターは僕たちを屋上に運んだ。

 デッキの人口密度はすっかりと元通りになっている。大型プールが設備されているからか、水着姿の生徒も居るほどだ。

 どこか二人で入れる店はないかと探す。

 

「表は一杯みたいだな」

 

「そうだね……。裏側に行こうか?」

 

 数こそ少ないけれど、確か数店舗はあったはず。

 しかし、綾小路くんは首を横に振った。

 

「いや、船内で食べよう」

 

「構わないけど……どうしてだい?」

 

「中ではあまり食べたことがないから、これを機会に行こうと思ったんだ」

 

「そういうことなら分かったよ。何店舗か、美味しいご飯を出してくれるところを知っているから、そこのどこかで良い?」

 

「悪いな」

 

 気にしないで、と僕は言ってから、来た道をもどる。後を追う綾小路くん。

 飲食店は一階と屋上に集中している。僕たちが居るのは屋上。上るなら兎も角として、下りるだけなら階段の方が遥かに早い。

 この豪華客船では様々な設備が用意されているけれど、それは飲食店も同様だ。

 普通の学生ではまず行くことが出来ない超高級レストランがあったり、某有名ハンバーガーチェーン店があったりと、その幅も広い。

 本当に、『贅』の限りを尽くしたクルージングだと思う。

 ゴミひとつない廊下を歩いていると、僕たちは一人の女子生徒と遭遇した。

 

「おはよう、一之瀬(いちのせ)さん」

 

「うん? あっ、平田くんに綾小路くん!」

 

 一年Bクラスを率いているリーダー、一之瀬帆波さんは、「やっほー」と言いながら大きく手を振った。

 人気者の彼女の周りにはいつもひとがいるけれど、いまは珍しくも一人のようだ。

 

「平田くんとこうして会うのは久し振りだね」

 

「うん、そうだね。会うのは会議の時くらいだし」

 

「綾小路くんとは二日振りかな?」

 

「ああ、そうだな」

 

「私は友達と合流しようとしているんだけど、二人はどこに向かっているの?」

 

「朝ご飯を食べに、適当な店に入ろうと思ってね」

 

 どこかお勧めはあるかな? と僕が尋ねると、一之瀬さんは両腕を組んで考える仕草をした。

 逡巡の後、彼女は携帯端末を取り出すと、一つのPDFを開き、ある一点を指し示した。

 

「この前千尋(ちひろ)ちゃん……クラスの友達と行ったんだけど、ここはかなり美味しかったかな」

 

 僕と綾小路くんは画面を見て、

 

「ここは……定食屋かい?」

 

「そんな店まであるんだな……」

 

 思わず顔を見合わせてしまう。

 僕たちの反応が面白かったのか、一之瀬さんはくすくすと笑った。

 

「提供している料理も幅広くて良いと思うな」

 

「清隆くん、どうだい?」

 

「……そうだな、せっかく一之瀬が勧めてくれたんだ。ここにするか」

 

 僕は改めて画面を覗き込む。

 例の店がある場所は現在地からは少し遠かった。しかし、お腹の準備をするにはこれくらいでちょうど良いだろう。

 

「ありがとう、一之瀬さん。早速行ってみるよ」

 

「うんっ。感想聞かせてね!」

 

「約束するよ。それじゃあ、僕たちは行くね」

 

「ばいばーい」

 

 別れの挨拶を交わした直後、一之瀬さんは「あっ、そうだ」と声を上げて。

 

「ごめん清隆くん。この前の約束なんだけど、ちょっと別の大事な用事が入っちゃって。破棄して貰えないかな?」

 

「分かった。そういうことなら、また今度にしようか」

 

「本当にごめんね?」

 

「気にすることはないさ」

 

 最後に頭を下げてから、今度こそ一之瀬さんは足を動かしていった。

 綾小路くんが無言で彼女を見送るなか、僕は内心で驚愕していた。

 Dクラスの男子生徒の中で、綾小路くんと仲が一番良いのは自分だと、僕はそう自負している。

 だから彼の交友関係もある程度は知っている。そして僕が言うのも何だけれども、彼は男性よりも、女性との繋がりの方が多い。特にここ最近は益々増えているような気がしてならない。

 

「清隆くん……僕はきみが恐ろしいよ……」

 

「……? 藪から棒になんだ?」

 

「いや、何でもない。ごめん失言だった。忘れてくれないかな」

 

「あ、あぁ……」

 

 困惑を隠しきれないないまま、綾小路くんは曖昧に頷いた。気まずい空気が完全に降りかかる前に、

 

「そ、それじゃあ行こうか」

 

 僕は咳払いしてから、移動を開始した。

 数分後、僕たちは目当ての定食屋──船の中でこの表現が正しいのかは分からないけれど──に辿り着いた。頷き合い、深緑の暖簾が垂れているお店『元祖、お袋の味』に入店する。

 

「いらっしゃいませ!」

 

 白のエプロンと、白の三角巾を着けている若い女性スタッフがボードを片手に近付いてくる。

 すると隣の綾小路くんは半歩下がった。

 対応を僕に丸投げする魂胆のようだ。

 

「お客様、お好きな席にお座り下さい」

 

 失礼にならない程度に店内を見渡す。僕たち以外にお客さんは居ないようだった。

 綾小路くんの性格を考えれば、あまり目立たない、つまりは死角の席が妥当かな。

 僕も、せっかくの友人との食事の最中に邪魔はされたくないし。

 結局、四隅の席を僕たちは陣取ることにした。

 

「さて……何を選ぼうかな……」

 

 メニュー表を眺め、どれにするか悩んでいると、

 

「オレはこの豚汁定食にする」

 

「……決めるの早いね」

 

 綾小路くんが光の速さで即決した。そしてちびちびと烏龍茶を嗜み始める。

 

「ゆっくり決めて良いぞ」

 

「お言葉に甘えさせて貰うよ」

 

 いつもは僕が待つ側だから、待たす側は新鮮だ。

 

「うん、決まったよ。すみません──」

 

 三分ほど掛けて料理を決め、スタッフを呼び、彼女に注文した。

 グラスの中が空になりつつあったので、僕は烏龍茶を追加で入れた。「ありがとう」と目で言われたので、僕も、「どういたしまして」と返す。

 料理が来るまでの時間、僕たちは取り留めのないことを話す。

 そんな折、綾小路くんが気遣ったように言った。

 

「疲れているようだが……」

 

「そう、だね……。久し振りにゆっくりしているよ……」

 

「謝った方が良いか?」

 

 何を? という疑問は湧かない。

 僕は首を横に振り、気遣いは無用だと答える。

 

「いや、謝罪は必要ない。こと今回に限っては、きみは無関係……とまでは行かないけど、少なくとも、当事者ではないからね」

 

 それに元々、そういう『契約』だ。

 僕には彼の胸倉を摑むことは出来ない。出来るとしたら、それは──。

 

「兎にも角にも、事態は泥沼化している」

 

「洋介はこのままで終わらせる気か?」

 

「それはつまり、Cクラスの『完全勝利』を許すってことかい?」

 

 無言で頷かれる。

 僕は姿勢を整えてから、おもむろに口を開いた。

 

「代替案がないわけじゃない。一つだけ、そう……一つだけ、僕たちは足掻くことが出来る方法がある」

 

「やっぱり洋介もその考えに至っているか」

 

「……でも事実上不可能なことかな」

 

「どうしてそう思う?」

 

「問題は二つ。まず、その方法をとる難易度が桁違いだ。次に、仮にその方法がとれたとしても、必ずしも『成果』が出るとは限らない。その逆だってある。むしろ、そっちの方が高い」

 

「なら、どうする?」

 

「そうなったら、白旗をあげるしかないだろうね。一学期のクラス闘争の覇者はCクラスだと認めるしかない」

 

 対面している綾小路くんは無表情だ。

 彼は内心、何を考えているのだろうか。その思想を僕は知りたい。

 だから僕は、誰にも言うつもりがなかった本音を彼に伝える。

 

「僕は今回、大敗北しても構わないと考えている。それこそ、最下位の成績でも良い」

 

「それはまたどうしてだ。Dクラスを率いているお前が、どうしてそう言う?」

 

「勝ち過ぎたからだよ。そしてDクラスの勝因は、全てきみにある。けれどきみはこの先、クラス闘争に参加する気がない。──大局を見据えたら、至極当然のことだと思わないかい?」

 

「だから一学期最後の特別試験で大敗を喫することで、兜の緒を締めようとしているのか」

 

「まあ、ね」

 

 Dクラスは一学期の間、良い意味でも悪い意味でも『成長』した。それは必然のこと。何故なら僕たちは殆どのアクシデントに関わってきたのだから。

 想定外の出来事を経験した後、人間は器を昇華させることが出来る。

 だからこそ、僕はここで『敗北』を味わうべきだと考えている。

 これから先のクラス闘争に於いて、将来、僕たちは必ず負ける時が来る。

 全勝無敗を夢見るほど、僕は夢想家(ロマンチスト)ではない。

 

「お待たせ致しました。豚汁定食のお客様──」 

 

「オレです」

 

 料理が運ばれてきた。

 右手に箸を持ち、食事を開始する。

 

 ──うん、美味しいね。

 

 舌鼓を打ちながら、僕たちは話を再開する。

 

「清隆くん。僕には一つ、恐れていることがあるんだ」

 

「何だ、それは?」

 

「Dクラスから退学者が出ることだよ」

 

 そう、それこそが僕が最も忌避していることだ。

 綾小路くんは黙って傾聴している。

 

「今はまだ、『敗北』が退学に直結している特別試験は行われていない。でもいつか開かれるはずだ」

 

「……そうだな。二年生、三年生の現状を考えれば、そう考えるのは妥当なところだろう」

 

 噂によると、上級生のDクラスは、僕たち以上に悲惨な目に遭っているようだ。

 クラスポイントも同様で、実質的には0clらしい。それはつまり、彼らが特別試験で敗北してきたことを意味する。そして同時に、生徒の数も少ないようだ。

 

「退学者が出る特別試験でもし負けたら……それが、プライベートポイントでも避けられないものだったら……。僕は想像しただけで身震いがとまらないんだ」

 

「お前の言いたいことは分かった。確かに、そういう観点から考えたら、今のうちに負けられる戦いで負けておいた方が良いかもしれないな」

 

「これが弱気な考えだということはわかっている。僕はそれを阻止する使命がある。でも絶対はない。清隆くん、きみは僕を臆病者だと笑うかい?」

 

「臆病者だとは思わない。だが守りに入り過ぎてる気がするな」

 

「でも言っただろう? 唯一無二の抵抗策は、事実上不可能だって。きみは違うと考えるのかい?」

 

 すると綾小路くんは箸を箸置きの上に置いた。皿の上は綺麗に更地になっている。僕も同様だ。

 

「オレもお前と同じ考えだ。九分九厘不可能だろうな」

 

「なら──」

 

「だが洋介、堀北はまだ諦めていないようだぞ」

 

 一瞬、頭の中が空白になった。

 

「……確かに堀北さんの性格を考えれば、決して諦めようとはしないだろうね。なるほど、確かに盲点だった」

 

 だから僕を呼び出したのだろう。

 段々と笑いが込み上げてくる。

 そして僕は思う。

『僕』はもう、Dクラスに不必要だと。

 結局、僕は『僕』になり切れなかった。坂柳さんは僕を『先導者』と評したけれど、とんでもない。

 僕は鍍金(めっき)の先導者でしかなかった。

 

「彼女なら出来ると思うかい?」

 

「さあ、どうだろうな。だが堀北はまだ諦めていない。その事実がある」

 

 僕が考えたのは妥協案でしかなかった。負ける為の口実を作りたかっただけなのだと自覚する。

 

「なら僕も、堀北さんに期待しようかな」

 

 ひとはひとに期待する。

 それは勝手に抱く希望。

 自分には無理だと思い、挫折したから期待する。

 

「ありがとう」

 

 唐突な僕のお礼に、綾小路くんはきょとんと目を瞬かせた。

 そして僕には、もう一つ彼にお礼を言うことがある。だから僕はそっちの話題にすり替えた。

 

「遅くなったけど、軽井沢さんのことも教えてくれてありがとう。ほら、(じか)でお礼を言う機会が中々なかったから」

 

「本人とは話をしたのか?」

 

「うん、綾小路くんが教えてくれた直後にね」

 

 軽井沢さんと、Cクラスの女の子たちとの間に起きた確執。

 事実確認をすれば、彼女は渋々ながらも自分の非を認めた。しかし、謝ろうとは中々してくれそうにない。とても難解な問題だと思う。

 

「軽井沢さんについては、僕に一任してくれないかな」

 

「元々そのつもりだったが……。どうするつもりだ?」

 

「幸い、『竜』グループの試験は終了している。軽井沢さんと真鍋(まなべ)さんたちが会う機会は減った。あとは夏休みの時間が、どうにかしてくれることを祈っているよ」 

 

「らしくないな。いつものお前なら仲裁するだろうに」

 

「軽井沢さんの彼氏の僕が仲裁に入っても良いことはないからね。それに、女子の間での喧嘩や苛めは、僕たちが想像している以上に闇が深い」

 

 そう言うと、綾小路くんは「そ、そうなのか……」と引いたようだった。

 

「だから取り敢えずは様子見かな」

 

「分かった。何か困ったことがあったら遠慮なく相談してくれ」

 

「その時は頼りにさせて貰うよ」

 

 雑談をした後、僕と綾小路くんはそのまま店で別れた。

 

「さて、行こうか──」

 

 僕は正義の味方じゃない。

 どちらも助ける、そんな綺麗事は成り立たないと知っている。

 いや、違う。

 あの時──僕は思い知らされた。

 脳裏に焼き付いているあの時の光景を、僕は決して忘れない。

 だから僕は、きっといつまでも己の『原罪』に囚われ続けるのだろう。

 

 



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干支試験──休息

 

 鳥籠(とりかご)の中に囚われていた小鳥は、蒼空(そら)への憧れが強くあった。燦々(さんさん)と照りつく太陽の下、自分の翼をはためかせ、風と共に旅をしたいと、そう思っていた。

 小さな世界から抜け出し、どこまでも、それこそ地平線の彼方(かなた)まで行きたいと。

 他者に縛られることなく、監視されることもなく、自由気ままに平凡な生活を送りたいと。

 そう、思っていた。

 

 ──そして自由の翼を得たオレは、初めて、人生を謳歌(おうか)することが出来ていた。

 

 初めて体験すること。初めて見るもの。外界は『未知』で満ちていて、オレはその一つを知る度に喜びを感じていた。それはきっと、学習していることが実感出来るからだろう。

 だが着実にタイムリミットは迫っている。刻々と、まるでいたぶるかのように。オレを壁に押し込み、逃げ道を塞いでいく。

 茶柱のあの発言が嘘か誠か、それは重要じゃない。『あの男』なら、強引な手に出ても何ら可笑しくはないのだ。それこそ、直接学校に押し入り、オレを『あの場所』に戻そうとしてもオレは驚きはしない。とはいえ、こちらに関しては対策は出来ている。

 

 入学当初のオレは、目立たず、普通の生活を送りたいと思っていた。

 

 しかしこの考えは徐々に変わりつつある。入学したての頃は、平和で平凡な生活で満足していた。ところが、学校に通うようになってわずか数ヶ月で、オレは『平和で平凡な生活』では満足出来ないようになった。

 ()()()()()()()()()()()()

 もしかしたら、自分は変われるのではないかと。自分の抱えている深い『闇』が消滅し、『光』が射し込むのではないかと。

 そうなれたらどんなに良いか。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 この『闇』が消滅などすることはない。この虚無がなくなるなど有り得ない。何故ならそれは──。

 

「ひゃ……くっ!」

 

 ──大きな声が泥沼に陥ろうとしたオレの思考を中断させる。

 オレは軽く(かぶり)を振り、完全にそれを消し去ってから声主を見た。

 数少ない友人の一人、須藤(すどう)(けん)は息を荒らげながら腕立て伏せを行っていた。着ているスポーツウェアは汗で遠目からでも分かるほどに濡れている。これではスポーツウェアの意味がないが、逆に言えば、それだけ、彼が頑張っているということだ。

 干支試験、三日目の今日は休息日。とはいえ、殆どの生徒は試験が終了しているが。

 平田(ひらた)と朝食をとったあと、オレは須藤にメールで呼ばれた。二人で遊ぼうという旨の内容で、特に用事がなかったオレは了承した。

 指定場所は地下二階で、そこの一角には簡易的ながらもスポーツジムが備わっていた。もはや何でもありだと、須藤から聞かされた時は思ったものだが、日本政府が直接この豪華客船の制作に関わっているのだから、考えてみれば当然かもしれない。

 そして現在、須藤は日課である筋力トレーニングを行っている。オレはベンチに座り、見学していた。

 

「百四十九! ひゃく……ごじゅうッ! ハア……ハァ……これで二セット目が終わりだぜ……」

 

 脱力し、床に激突する。

 オレは「ひんやりして気持ちいいぜ……」と言っている友人に労いの言葉を掛けた。

 

「お疲れ」

 

 仰向きで肩を上下させている須藤に、用意していたスポーツドリンクを手渡す。

 彼は「あんがとよ……」と言ってから、ペットボトルの蓋を外し一気に(あお)った。

 

「ぷはぁー! 美味え!」

 

「それは良かった」

 

「まじで生き返るぜ!」

 

 もう一度、呷る。

 ごくごくと喉を鳴らしながら勢いよく飲んでいき、とうとう、満タンだった容器はすぐになくなり空になった。

 そこでようやく須藤は上半身を起こした。

 

「ほら、これを使え」

 

 言いながら、純白のフェイスタオルを放る。

 須藤は右手で難なくキャッチすると、そのまま顔全体に流れる汗を押し当てた。そしてごしごしと拭き取る。

 しかし汗はいくら拭き取っても流れ出る。念の為用意しておいたもう一枚のタオルを放った。

 

「二枚目だ」

 

「悪いな、清隆(きよたか)。ほんと助かるぜ」

 

「礼は良い。それよりもちゃんと拭き取れよ。風邪でも引いたら大変だ」

 

「わーってるよ」

 

 全く、お前は俺の母親かよ……そんなことをぶつぶつ呟きながらも、須藤は素直に従った。

 アスリートを目指す者としての意識が彼の中に芽生え始めているのだろう。少なくとも、昔の彼なら一言くらいは何か言いそうだ。

 

「よし、休憩するか」

 

 近くに置いていた、学校指定のジャージ──赤と白の色で構成されている──の上着を羽織(はお)った須藤は、オレの右隣に腰を下ろした。

 

「悪いな、急に誘っちまってよ」

 

「全然大丈夫だ。特に予定もないしな」

 

「清隆……反応に困る自虐はやめてくれ」

 

 と言われても、事実なのだから仕方がない。

 友人が居ないわけではない。Dクラスだけでも、隣に居る須藤や平田、(いけ)高円寺(こうえんじ)──まあ、彼の場合は判定が難しいが、特に訂正もされていないから、恐らく大丈夫だろう──など、こんなにもオレは男友達に恵まれている。女友達だったら佐倉(さくら)王美雨(みーちゃん)千秋(ちあき)桔梗(ききょう)だな。とはいえ、後者の二人は、友人は友人だが、なんとも説明しづらい関係だが。

 少し考えただけでもこんなにも居るのだ。改めて考えてみても、オレは恵まれているだろう。

 だがしかし、これとそれとでは些か話が変わってくる。

 オレは葛藤の末、須藤に告白することにした。

 

(けん)……聞いてくれるか」

 

「な、何だよ。急に神妙な顔になって」

 

「……お前、『神妙』なんて言葉を知っていたんだな」

 

「ぶっ飛ばすぞ」

 

 引き()り笑いを浮かべ、須藤はグーを見せてきた。

 しまった、思ったことをそのまま口に出してしまった。

 オレが謝罪すると彼は嘆息して、

 

「はぁ──。俺は時々、お前が怖い時があるぜ」

 

「……そうなのか。ちなみに、どこら辺か聞いても良いか?」

 

「変に恐れを知らないところだな」

 

 千秋も似たようなことを言っていたな。

 どうやら須藤に指摘されるほどのもののようだ。これからは気を付けよう。

 

「そんで? さっきの話に戻るが、何か悩みでもあるのか?」

 

「ああ……実はな、遊びの誘い方が分からないんだ」

 

「…………は?」

 

 友人はオレの告白にぽかんと口を開け、文字通り固まった。

 須藤がこのような反応をしていることから、普通の人間にとってはオレの悩みは『悩み』に該当しないのだろう。

 だがしかし、もう一度言うが、それは普通の人間ならだ。生憎とこれまでの人生、オレは『普通』からは程遠い生活を送ってきた。

 だからオレは分からないし、知らない。

 これまでひとを呼べたのはそれが必要なことだったからだ。それは相手にとっても同じで、それを誘う口実にしてきたに過ぎない。

 そんなことをある程度(ぼか)しながら説明すると、須藤はため息を吐いた。

 

「清隆……お前、俺以上に馬鹿だな」

 

 そして再度ため息を吐く。呆れているのが表情から一目瞭然だ。

 思うことがないわけではなかったが、オレは黙って彼の言葉を待つ。

 

「ダチを遊びに誘うのに理由なんて要らないだろ」

 

 あっけらかんと須藤は言った。

 

「お前のことだ、どうせ、もし向こうに用事があったらどうしようかとか思ってんだろ?」

 

 図星だった。

 オレが言葉に詰まっていると、須藤はさらに続けてこのように言った。

 

「相手の事情なんて考えるなよ。もし都合が悪かったら何か言ってくるぜ」

 

「……でも急に誘ったら迷惑じゃないか?」

 

「だから、そうだったら言ってくるって言ってんだろ。……もしかしてお前、擦れ違いでダチが消えるのが怖いのか? もしそうなったら、そいつはお前とダチじゃなかったってことだ」

 

「そんな暴論な……」

 

「でもそうだろ?」

 

 真っ直ぐな瞳がオレを射抜く。

 

「薄々感じていたけどよ、お前は対人能力に関しては俺以上に全然駄目だな。こんな俺にも、これまでの人生、ダチの一人や二人はいたぜ? なのにお前は、まるではじめてのようだ」

 

「はじめて、か……」

 

 須藤は頷き、

 

「ああ、なんっつーのかな。そうだ、例えるとこれだぜ」

 

 そう言って手で指したのは、首に掛けていたタオル。純白のそれは真っ白で、空白だ。

 そしてオレは驚愕した。

 須藤健の野性的な『勘』を甘く見ていたわけではない。だがここまでだとは、想像の遥か上だった。

 

「もうちょっと勇気を出しても良いんじゃねえのか?」

 

「……そうだな。自分でも考えてみる」

 

「おう! そんでもって、俺を誘ってくれ!」

 

 バシン! と須藤は俺の背中を強く叩いた。そしてにかっと笑う。

 ほんと、あの不良少年がここまで変わるなんてな。

 

「よし、再開するか。清隆も一緒にどうだ?」

 

「そうだな。悪いが──」

 

 断ろうとし、オレは踏みとどまった。

 刹那の思考の末、オレは返事を待っている友人に言う。

 

「……せっかくだ、オレもやる」

 

「おっ、そうか!」

 

「ちょっと待っててくれ。受付に行ってくる」

 

 確か申請すれば、スポーツウェアの貸し出しが可能だったはずだ。ついでにタオルやスポーツドリンクも用意するとしよう。

 ベンチから立ち上がり、オレは一旦須藤と別れる。

 叩かれた背中は未だに痛んでいたが、どうしてか、決して嫌ではなかった。





氏名:須藤健
クラス:一年D組
部活動:バスケットボール部
誕生日:十月五日

─評価─

学力:E
知性:E
判断力 :D+
身体能力:A+
協調性:D

─面接官からのコメント─

学力、生活態度共に多々問題があり、入試結果では学年最下位を記録した。なお、この試験結果は当校設立以来のワーストであり、Dクラス配属以外に検討の余地はないだろう。ただし、スポーツ、特にバスケットボールの技量に於いては中学生の段階から高校生級と判断されており、身体の土台が作られているのを見た時は正直驚いた。当校は本年度よりスポーツ分野にさらなる力を入れていくが、彼の存在は生徒に大きな影響を与える……かもしれない。精神面での成長を強く求める。

─担任のコメント─

入学当初は一匹狼でした。特に生徒間でのトラブルは日常茶飯事であり、頭を悩ませていました。最初は池寛治、山内春樹、また、綾小路清隆とよく行動を共にしており、クラスの中心的人物である平田洋介と一方的ながらも対立していました。しかし、中間試験の際、クラスメイトである堀北鈴音の勉強会に参加し、心変わりがあったようです。見事中間試験を乗り越えたあとは、真面目に授業を受けるようになりました。
七月に起こった『暴力事件』では渦中の人物として騒ぎを起こします。しかし、自分の無実を証明するため、堀北鈴音、櫛田桔梗、平田洋介らクラスメイトと行動をすることにより、他者との協力が必要なことを学んだようです。結果、Cクラスの訴えの取り下げにより、事実上の勝利を獲得するに至りました。
無人島試験では、率先して自分が出来ることを行い、Dクラスに貢献していました。また意外にも、彼が争いを諌める場面もありました。
現在は将来の夢である、バスケットボールのプロを目指して部活動に熱心に励んでいます。生徒間のトラブルもなくなり、本当に良かったです。
この一学期、最も成長したのは間違いなく彼であると、私は確信しています。


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干支試験──ランチタイム

 

 午前中は須藤(すどう)と共に筋トレに時間を費やした。久し振りに身体(からだ)を鍛えることが出来たので良かったと思う。そしてそれ以上に、彼とさらに親しくなれた……と思う。

 タオルを首に掛けて廊下を渡っていると、数名の生徒と擦れ違う。女子生徒は須藤の鍛え抜かれている身体に興味津々のようで──刺激が強いのかもしれない──、顔を赤らめながらも視線を寄越していた。

 

「ねえ、彼が……!?」

 

「うんそうだよ、間違いない!」

 

「格好良いね!」

 

 そんなことを(ささや)き合い、熱が込もった目で須藤を見る。

 この前桔梗(ききょう)が言っていたように、須藤の人気は絶賛急上昇中のようだ。つい最近までは恐れていたのに、何ともまあ、現金なものだ。

 とはいえ、良い傾向であることは間違いない。友人としても須藤が学校に馴染(なじ)むことは喜ばしい限りだ。

 

「随分とモテモテじゃないか」

 

「あ? ああ、そうだな」

 

 試しに揶揄(からか)ってみたが、期待したような反応は返ってこなかった。

 横顔をちらりと盗み見るが真顔だった。……どうやら、照れているわけではなさそうだ。

 

「意中の女に向けられるなら俺も嬉しかったんだがな」

 

 ぽつりと小さく呟く。

 須藤は堀北(ほりきた)に惚れている。だからこその発言なのだろう。

 

「最近、あいつとはどうなんだ?」

 

「……全然進捗ないぜ」

 

 悔しそうに彼は言った。

 いや、実際悔しいのだろう。須藤が堀北(ほりきた)への(おも)いを自覚したのが二ヶ月ほど前。彼は自分なりに不器用ながらもアプローチをしてきたはずで、それが実っていないのだから、それは悔しいに決まっているか。

 

「悪かった。調子に乗った」

 

 オレは己の自分の先の行いを恥じた。

 とても軽率な問いだったと思う。

 

「お前が謝ることは何もない」

 

 寛治(かんじ)春樹(はるき)だったらアイアンクローを決めているけどな、と須藤は冗談交じりにそう言った。

 

「けどそうだな、罪悪感を覚えているなら……今度また、俺の恋愛相談の相手になってくれよ」

 

「それは全然構わないが。あまり期待はしないでくれよ」

 

「わーってるよ。ただ、お前なら心置きなく相談出来ると……俺が勝手に思っているだけだ」

 

 さらりとそんなことを須藤は言った。

 オレが返事をする前に、須藤の部屋に辿り着いた。

 

「そんじゃあな。今日は付き合ってくれてサンキューな」

 

「ちょっ」

 

 ──と待て、というオレの言葉が届くことはなく。

 一方的にオレに別れを告げ、友人は姿を消した。

 オレはこの時初めて、色々な意味で須藤が恐ろしいと思った。

 そしてさらに思う。

 この須藤のアプローチが効かない堀北は、どれだけ堅物(かたぶつ)なのだろうか。以前の桔梗の推測は九分九厘的中していると確信する。

 

「……取り敢えず、シャワーを浴びるか」

 

 船内は冷房が効いているが、一汗(ひとあせ)かいた後だと寒さを感じる。汗で濡れている服を交換するという意味でも、気持ち悪さを無くすためにも、熱いシャワーを浴びたいものだ。

 無人の自分の部屋に戻ったオレは、すぐにシャワーを浴び、私服に着替えた。

 携帯端末を確認すると、あと数分で時刻は十三時になろうとしていた。

 どの店も混雑が予想されるが、筋トレのおかげで空腹感を覚えている。()(ごの)みしないで適当な店に入るのが吉だろう。

 

「まずは上に行くか……」

 

 前開きの上着を羽織(はお)り、部屋から出ようとすると、ピピッという電子音が鳴った。直後、扉が開かれる。

 

「おや、綾小路(あやのこうじ)ボーイではないか」

 

 "Good afternoon(こんにちは)!"と、彼は相変わらずのネイティブな英語で挨拶をしてくる。

 

「ランチかい?」

 

「ああ、昼食を取ろうと思ってな。行ってくる」

 

 高円寺(こうえんじ)に別れを告げ、オレは部屋から出る。そして廊下を渡っている最中、違和感を覚えた。

 何だろうかと考え、すぐに答えに辿り着く。

 そうだ、高円寺が服を着ていたのだ。豪華客船内での高円寺は自分の肉体を他者に見せ付けるためなのか、海水パンツだけで過ごしている。流石に就寝時は違うが。

 はっきり言って野生児だが、客船内では水着の着用が認められているため、彼が教師に連行されることはない。とはいえ、あまりにも見境(みさかい)がないため、一部の女子生徒から苦情? が出ているようだが。

 そんな彼がどうして? 些細な疑問が浮かび上がるが、オレは、別段気にすることでもないかと思い直した。そもそも自由人の行動を一々気にしていたらきりがない。偶然今日はそんな気分の日だったのだろう。

 あるいは、何か用事でもあったのかもしれないな。

 本来の目的に沿い、オレはエレベーターではなく、上階に通じる階段に向かった。エレベーターの中は混んでると思ったからだ。

 出来るなら人混みには突入したくない。そしてそう思うのはどうやらオレだけではないらしい。

 

「はあ……はあ……」

 

「だ、大丈夫? ちょっと休憩する?」

 

 下から聞きなれた声が聞こえた。

 オレは逡巡(しゅんじゅん)してから立ち止まる。数秒後、息絶えだえな状態の友人がゆっくりと姿を現した。

 

「みーちゃん。佐倉(さくら)。久し振りだな」

 

 軽く手を上げて声を掛けると、二人は……特に佐倉は驚いたようだった。

 

「ぜえ……ぜえ……綾小路くん……!?」

 

 自分の状態を恥ずかしく思ったのか、佐倉は顔を真っ赤にしてオレの名前を叫んだ。

 慌てて王美雨(みーちゃん)が彼女の口元を塞ぐ。

 

「あ、愛里(あいり)ちゃん!」

 

「──! ご、ごめんなさい……」

 

「いや……オレもちょっと配慮に欠けていた。悪かった」

 

「う、ううん……私が勝手に驚いただけだから」

 

 そう言って、佐倉は肩を激しく上下させる。

 オレはみーちゃんに視線を送る。彼女はしっかりとオレの意図を汲み取ってくれた。

 

「愛里ちゃん、やっぱりちょっと休憩しよう?」

 

「う、うん……。ごめんね、体力なくて……」

 

「気にしないで。綾小路くんも、そうですよね?」

 

 オレは頷いた。

 二分ほど経った後、佐倉は体力を回復させたようだった。呼吸をゆっくり整える。

 

「お、お待たせ……。もう大丈夫だよ……」

 

 そういうことならと、オレたちは再び足を動かし始めた。階段を登りながら、オレは話を振った。

 

「なあ、二人はどこに行く予定なんだ?」

 

「屋上に行くところです。お昼ご飯を食べようかなって」

 

「そうか。でも凄いな。オレは今の時間帯、とてもじゃないが行く気になれないな」

 

「わ、私が行こうって誘ったんだ……。一人なら行けないけど、みーちゃんとなら行けるかなって思って……」

 

 オレは内心で驚いた。

 あれだけひとと関わることに恐怖を感じていた佐倉が、自分から人口密度が高い場所に行こうと言うなんて……。

 オレも彼女の勇気を見習いたい。

 

「それじゃあ、オレはここで」

 

「うん、またね綾小路くん」

 

「また今度会おうね」

 

 彼女たちと別れたオレは、レストランエリアを彷徨う。部屋から出る前は取り敢えず腹を膨らませたいと考えたが、こうして来ると、美味しいものを食べたいなと思ってしまう。

 特にオレは、そういった『美味しい料理』からは無縁な生活を送ってきたためか、かなり拘りがあるようだと、ここ最近自覚した。

 あちらこちらの店に行っては、ガラスケースの料理の見本と睨め合う。

 と、そんな時だった。近付いてくる気配が一つ。

 

「あれっ、綾小路くん?」

 

 笑顔で声を掛けてきたのは桔梗(ききょう)だった。

 やっほー、と軽く手を挙げている。オレはそれに返してから、

 

「珍しいな。一人か?」

 

「私? うん、そうだよ。いまは完全にフリーかな。綾小路くんは……って聞くまでもないね」

 

 事実だから何も言い返せないが、だからといってあんまりである。

 傷心していると、オレの雰囲気から感じ取ったのだろう、「ごめんごめん」と謝ってきた。しかし笑いながらだ。はっきり言って全然誠意が伝わってこない。

 くすくすとひとしきり笑ったあと、桔梗は名案とばかりに手を合わせた。

 

「ねっ、もし良かったらさ。いまから一緒にご飯食べに行かない?」

 

「櫛田もまだなのか?」

 

「うん。どこのお店に入ろうか迷ってたところなんだ。綾小路くんもそうでしょ?」

 

「お前……もしかして……」

 

「実はちょっと前から尾行していました!」

 

 悪気もなく言い切った。

 

「ならもっと早くに声を掛けてくれたっていいだろ……」

 

「いやぁー、あまりにも真剣な目で睨んでいるものだから」

 

 いけしゃあしゃあと彼女は(のたま)う。いっそ清々しささえ感じるな。

 そんなことを露ほども知らない彼女は、

 

「それじゃあ、行こう!」

 

 と、オレに号令を掛ける。オレが答える前に、彼女はずんずんと歩き始めた。

 オレは慌てて彼女の背中を追い掛け、疑問をぶつける。

 

「行くって……櫛田もどこにするか迷っていたんじゃなかったのか?」

 

「うん? ああ、それは一人で行くなら、だよ。友達と行くならまた話は変わってくるよね」

 

「な、なるほど……」

 

 流石は桔梗だと感心する。

 彼女はさらにこうも言った。

 

「まあ、そうは言っても……友達と行くって言っても色々あるから注意が必要だけど」

 

「そうなのか……?」

 

「もちろんだよ。まず大まかに分けると、やっぱり性別が第一に来るかな。同性か異性か、これはとても重要だね」

 

 それはオレも分かる。

 男友達だとラーメンやカレーなど重たいものを遠慮せずに食べに行こうと提案出来るが、女友達には中々言い出しづらい。この解釈で間違っていないだろう……多分。

 

「そこからどんどん選択肢が出てくるんだ。で、TPOに合わせて絞ってくんだよ。とはいえ、ある程度の経験は必要だから気を付けてね」

 

「とても勉強になった。教えてくれてありがとう」

 

「どういたしましてっ」

 

 オレたちは雑談をしながら歩く。桔梗は豪華客船でも隅の方にオレを案内して行った。

 こんな場所にもまばらではあるが店は並んでいるようだ。とはいえ、客の気配は全く感じられない。

 まあ、それも当たり前といえば当たり前なのだが。

 

「着いたよ。ここが今日の目的地!」

 

 そう言って、桔梗は手を右手に向ける。

 そちらを見て視界に入ったのは、白色の壁だった。一面が純白で染められており、完全に廊下の景色に溶け込んでいた。よくよく見てみれば、自動扉がある。センサーの色も同化しており、徹底している印象を受けた。

 ここが何の料理の提供をしているのか外装だけでは全然分からない。

 オレが呆然としていると、案内人は誇らしげに胸を張りながら、

 

「ここのお蕎麦(そば)は絶品なんだよ〜」

 

「そ、そうなのか……。っていうか、蕎麦屋なのか……」

 

「あれ? お蕎麦嫌いだった? それともそばアレルギーだったりする?」

 

「いや、そういう訳じゃないが……」

 

 オレは歯切れ悪く答える。

 いまわかっていることは、この怪しさ満載な店が蕎麦屋であることだけだ。……いや、それさえもにわかには信じ難いのだが……。

 オレが躊躇していると、

 

「さあ、中に入ろっか」

 

 桔梗はオレの右手を掴み、そう、促す。

 刹那、実に遅まきながらオレの脳が警戒音(アラーム)を鳴り始めた。

 

 ──嫌な予感がする……。

 

 明確な根拠がある訳ではない。ただ第六感(シックス・センス)が非常事態警報を出しているのだ。

 オレは櫛田桔梗の本性を知っている。だから、と言って良いのだろうか。オレは彼女の『表』と『裏』両方に接することが出来た。そしてまず間違いなく、この店に入ったら、桔梗は『裏』の顔になるのだろう。

 

「櫛田……?」

 

「どうしたの綾小路くん? ほら、中に入ろう?」

 

 逃げようにも既に逃げられない状況だ。摑まれている右手を振りほどくことは造作もない。

 しかしそれをやるのは躊躇(ためら)われるし……それに、桔梗と共に行動してこうなることを内心見越していたのにも関わらず、のこのこと彼女に付いていったオレに落ち度があるだろう。

 一度決めたら早かった。オレは返事を待っている彼女に頷く。

 

「そうだな……せっかく櫛田が勧めてくれているんだ。入ろう」

 

 オレは敢えて彼女の手を握り返した。すると、満足そうな笑みが返される。

 自動扉を潜り、オレたちは入店する。

 そしてオレは思わず、

 

「……は?」

 

 という、今日一番の間抜け声を出してしまった。

 というのもオレたちを待ち構えていたのは愛想が良い店員ではなく、端末だったのである。

 

『ようこそ、いらっしゃいませ!』

 

 端末──大型タブレットのスピーカーから漏れるのは機械的な女性の声。

 オレはどういうことだと桔梗に視線を送った。すると彼女はにんまりと笑う。

 

「あはは、驚いた? ここはね、清隆くん。完全個室制のお店なんだ」

 

「…………なるほど」

 

 驚いたが、腑に落ちる部分もあった。

 客のプライバシーを漏洩させないために外装をあのようにして店内を見せないようにしているのだろう。そして完全個室制の店だったら桔梗は遠慮なく本音を言うことが出来るというわけだ。それにここまでしているのだ、部屋はまず間違いなく防音だろう。

 

『お客様、タブレットを操作して下さい』

 

 桔梗が無言の凄みのある笑みで、オレに操作するよう命令してきた。

 言われるがまま、オレは見た目にそぐわず重い機械を手に取り、必要項目を入力していった。

 聞かれたことはごく普通のことだった。何人での来店なのか、年齢、そして肝心のメニューくらいだ。オレは山菜そばを、桔梗は月見そばをそれぞれ注文する。

 

『承りました』

 

 そしてピコン! というサウンドともに、新しいウインドウが表示される。それは店内の見取り図であった。タブレット上部にはでかでかと『No.501』という数字が主張されており。まず間違いなくここがオレたちが案内される部屋なのだろう。

 オレと桔梗は場所を確認してから、指示された部屋に向かった。

 廊下は異常な程に(しず)かだった。壁には見事な絵画が何枚か飾られており、また、各部屋の扉の前には番号が書かれたプレートが貼られている。

 

「研究所みたいだと思わない?」

 

「ああ、そうだな」

 

 程なくして、オレたちは『No.501』のプレートが貼られた扉に辿り着いた。ドアノブを回し、室内に入る。

 

「おお……!」

 

 中に入った瞬間、オレは思わず感嘆の声を出してしまった。隣の桔梗が悪戯(いたずら)が成功した幼児のように嬉しそうに笑う。

 

「ねっ、凄いでしょ!」

 

「ああ……。正直不安しかなかったが……完全に吹き飛んだ」

 

 素朴な外とは違い、室内は一転して見事な内装だった。部屋は和室で、適した調度品が無駄なく置かれている。だがしかし、そこには一つの異物が紛れていた。小型のタブレットだ。とはいえ、これは何かあった時に使うものだろう。それを考えれば仕方がないか。

 

(ほう)けていないで座ったら?」

 

 先に座布団(ざぶとん)の上に腰を下ろした桔梗に促され、オレも彼女に倣った。

 

「……?」

 

「どうかしたの?」

 

「いや……」

 

 オレはどこか既視感を覚えていた。以前、似たような雰囲気の店に入ったような気がする。と、そこまで考え、オレは正体に気付いた。龍園(りゅうえん)椎名(しいな)と訪れた和食店にどことなく近いかもしれない。

 

「よくもまあ……この店を知っていたな」

 

「この前友達に誘われてきたんだー。せっかくだから、仲が良い清隆くんにも紹介しようと思って」

 

「嘘とはいえ、どうもありがとう」

 

 すると、彼女は眉間に皺を作った。

 どうやら心外らしい。

 桔梗はオレの目を真っ直ぐ捉えて言った。

 

清隆(きよたか)くんはさ、私がきみをこの店に連れてきたのは何か意味があると考えているんだろうけどさ」

 

 下手(へた)な嘘を吐くよりは認めた方が早い。オレは黙って頷いた。

 彼女は「素直だね」と苦笑いしてから、

 

「今回はそれとは完全に無縁だから」

 

「なら安心だな」

 

「ふぅーん。信じるんだ?」

 

「仲が良い友達だからな」

 

 そう告げると、桔梗は笑った。

 棚から二人分の湯呑みを取り出し、彼女はテーブルの上に用意されていた冷茶が入った水筒に手を伸ばす。そして液体を注ぎながら、

 

「二人きりの状況って中々作れないねー」

 

 そんな発言をする。

 何人の男がこの言葉を聞いて勘違いするだろうか……。

 

「この前一緒に朝ご飯を食べただろう?」

 

「それとこれとではまた話が違うよ。いつ邪魔が入ってくるか分からないし」

 

「確かに……クラスメイトなら兎も角、知らない奴には邪魔されたくないな」

 

「でしょ? もうね、何回も(ことわ)っているのに馬鹿な男子たちはご飯に誘ってくるし……何で学習しないんだろうね?」

 

 疲れたように彼女は息を吐いた。

 そして湯呑みを「はい、どうぞ」と手渡してくる。こういうことがさらりと出来るのは彼女の魅力だとつくづく思う。

 

「実際のところ、男女の比率はどうなんだ?」

 

 何となく気になったので尋ねると、彼女は、

 

「そこはちゃんと半分ずつに調整しているよ。ビッチって思われたくないし」

 

「……大変なんだな」

 

「他人事のように言っちゃって」

 

 じとりと睨まれる。実際に他人事だからな……という言葉は言わないでおいた。

 

「みんなこの旅行ですっかりと(うわ)ついちゃってさ」

 

「ああ……そういえば、何組かカップルが生まれたんだろう? オレの耳にも入っている」 

 

「どうせ思い出作りでしょ」

 

 思い出……? 

 オレが首を傾げると、桔梗は苦々しい顔で、

 

「クラス闘争が激化するにあたって、私たちはいつ退学しても可笑(おか)しくない。なら、その前に青春っぽいこと……つまり、恋愛を体験したいと思っているんだよ」

 

「嫌そうな顔だな」

 

「そりゃあ、もちろんそうだよ。──私はその考え自体を否定する気はないよ? それは個人の価値観だから。でもね、それに私を巻き込まないで欲しいと思うのは必然じゃない?」

 

「確かにな。でもまあ、ある意味良いんじゃないのか? それだけお前は自分の価値があると認められるということだろう?」

 

 承認欲求の塊である彼女ならむしろ喜ばしいことなのでは? と、オレが尋ねると桔梗はやれやれと呆れたように首を振り、ため息を吐いた。

 

「それとこれとでは話が別だよ。例えばさ、とある男子生徒Aが私に告白するとするじゃない?」

 

「ああ」

 

「私はもちろんそれを断るよね」

 

「断るのか」

 

「うん、断るよ。──兎にも角にも、まず、これだけで噂が出回るよね。『男子生徒Aが学年の人気者である櫛田桔梗に告白した』っていう噂がさ。すると男子は喜び、女子は舌打ちするんだよ」

 

「……それはまたどうしてだ? 男子が喜ぶのは、まあ、分からなくはないが……」

 

 自分ならあるいは成功するのではないか、と思えるからな。

 もちろん、男子生徒Aが失敗したからといって、男子生徒Bや、Cが成功する確率は変わらない。それが分かっていても、そう思ってしまうのは仕方がないことだ。

 しかし女子についてはよく分からない。

 

「自分で言うのもなんだけど、私って可愛いと思うんだよね」

 

 桔梗は真顔で言った。

 とはいえ、これに関しては議論の余地もないだろう。彼女は可愛い。その容姿は殆どの男を惹き付けるだろうし、それは客観的事実として証明されている。

 

「他の独り身の女子からしたら、私のような女の子は早く誰かと交際して欲しいと思っているんだよ。その交際相手がイケメンじゃなくて、冴えない男子だったら最高だよね」

 

 男子だったら、イケメンが地味な女の子と付き合うようなものか。

 

「独り身の可愛い女の子には同性の敵が出来やすいんだよ。堀北(ほりきた)さんなんて一時期は学年中の女子たちから敵認定されていたからね」

 

「桔梗はどうなんだ?」

 

「…………それ、本人に直接聞く?」

 

「嫌なら答えなくて良い。単純に気になっただけだからな」

 

「……さて、どうなんだろうねえ。私も全員の女の子と仲が良いわけじゃないから。ただまあ……確実に言えるのは、一之瀬(いちのせ)さんには敵わないかな」

 

 オレはさらに尋ねる。

 

「桔梗から視て、一之瀬はどういう人間なんだ?」

 

「善人」

 

 彼女は即答した。

 

「あんな女性を私は見たことがないよ。美人だし、巨乳だし、性格は良いし、頭も良い。あはは……男の下卑(げび)た妄想がそのまま実体化したみたいだよね」

 

「……言い方に悪意を感じるぞ」

 

「でも実際そうじゃない?」

 

 と言われたら、オレには否定出来るだけの材料がなかった。

 

「普通なら一之瀬さんは嫌われるんだよ、裏ではね。そうだね……堀北さんあたりだったら『偽善』だと一刀両断するんじゃないかな」

 

「……充分に有り得るな」

 

「でも彼女を嫌っている人間は居ない。それは全て、あの性格に起因しているんだよ。困っている人が居たら損得勘定関係なしに手を差し伸ばし、そして救える能力が彼女にはある。もうね……ここまでだと嫉妬する気も湧かないよね」

 

 そう言って、彼女は冷茶で喉を潤した。

 そして今度は彼女がオレに尋ねてくる。

 

「清隆くんは一之瀬さんのことをどう思っているの?」

 

「基本的には桔梗と同じだな」

 

「基本的には? 気になることでもあるの?」

 

「ああ、幾つかあるが……。一番気になっているのは、どうして一之瀬がBクラスに配属されたかという点だ」

 

 普通なら彼女はAクラス行きだ。

 性格は言わずもがな、中間及び期末試験でも成績は上位にランクインしている。そんな一之瀬がどうしてと思うのは間違っていないはずだ。

 

「……言われてみれば確かにね。でも清隆くん、それは私たちの先入観でもあるんじゃない? 私たちが知っているのは、高度育成高等学校に入学してからの一之瀬帆波(ほなみ)さん。もしかしたら彼女は中学時代不良だったかもしれないよ? そして学校はそれを知っていてBクラスに配属したのかも」 

 

 結局考えたところで、理由が分かる訳でもないか。

 入学試験の筆記試験や面接で失敗した可能性もあるし、あるいは──彼女の過去にあるかもしれない。

 

「下手に首を突っ込むのはやめておきなよ」

 

「ああ、それは重々承知だ。お前の時のようなことになるのは避けたい」

 

「あははは、言うねー」

 

 にこにこと笑うが、目が据わっていた。

 

「だがそのおかげでお前と親しくなれた」

 

「うっわ、だったらもうちょっと嬉しそうに言いなよ」

 

「……これでも結構頑張っているんだ」

 

「喜怒哀楽。きみにはそれが……特に『喜』が欠如しているね。いったいきみはどんな幼少期を過ごしてきたの?」

 

「気になるのか?」

 

「……まあ、かなり。でも詮索はしないよ。誰にだって言いたくない過去はあるし……」

 

 ──私は死にたくないからね。

 そう言って、桔梗は引き下がった。

 

「お蕎麦、楽しみだね」

 

 彼女がその言葉を言った直後、扉が三度叩かれた。

 何て良いタイミングだ。

 どうぞ、とオレが声を出すと、料理を持った若い男性が現れた。彼は「失礼致します」と言ってから一礼すると、テーブルの上に料理を音を立たせずに置く。相当の教育を受けているようで、その動作はとても流麗だった。

 彼が退室した後、オレたちは居住まいを正した。

 

「「いただきます」」

 

 合掌し、オレたちは箸を手に取る。

 オレが頼んだ山菜そばはとても美味であった。この麺は手打ちなのだろうか……そんな感想を抱きながら啜る。

 あまりの美味しさに汁まで夢中になって完食した。

 そしてオレは目の前の彼女が笑っていることに気付く。箸を置き、じっとオレを見詰めていた。

 

「……どうかしたか?」

 

 だがしかし、桔梗は意味深に笑うだけで、

 

「何でもないよ」

 

 オレが何度尋ねても、悪友は教えてくれなかった。

 

 

 

§

 

 

 

 干支試験、三日目の休息日。

 その、十四時五十八分。

 一年Dクラスのグループチャットに、一件のコメントが投稿された。

 

『今日の二十時、全員、私が指定する場所に来て下さい。干支試験について、大事な話があります』

 

 発信主は──堀北鈴音(すずね)だった。

 

 





氏名:佐倉愛里
クラス:一年Dクラス
部活動:無所属
誕生日:十月十五日

─評価─

学力 :C+
知性 :C
判断力 :D
身体能力 :D
協調性 :D-

─面接官からのコメント─
相手の目を見て話すことや言葉の組み立てなどといった、コミュニケーションの水準が高校生のそれに達していない。学力や身体能力なども同様である。しかしながら、趣味であるカメラについて尋ねると、たどたどしくもその楽しさを説明してくれた。また、否定するところは否定するなど、『芯』はあるのを感じた。恐らくはこれまでの人生に於いて、成功体験が少なかったために自分に自信がないのだと考えられる。敢えて、問題のある生徒が多いDクラスに配属することで、彼女が成長出来ることを期待したい。

─担任からのコメント─
入学当初は友達も居らず、居心地が悪そうでした。また勉学に於いても変化は見られず、中間試験で赤点を取ることは容易に想像出来ました。しかし、平田洋介の作戦により、彼女は何とか試験を突破しました。正直私は彼女が次の期末試験で退学になると考えていました。
しかし試験前に『暴力事件』が発生。彼女はその重要参考人となりました。審議会までの一週間、彼女は沢山の生徒と関わるようになります。そしてこれを機に、クラスメイトである王美雨、また、綾小路清隆と友人になりました。
審議会では自分の言葉を言い、『暴力事件』を解決することに尽力しました。
『例の事件(※別途資料参考)』では私たち学校側の失態により『被害者』となってしまいましたが、この経験が彼女の『芯』を確立させました。
しかしながら『例の事件』が少女である彼女に与えた精神的ダメージは大きいでしょう。これからはそちらの面でも指導していき、また、必要であれば専門職にも相談していきたいと考えております。


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干支試験──逆襲の一手

 

 干支(えと)試験、三日目の休息日。

 時刻は二十一時、十五分前。

 場所は豪華客船、二階層の大部屋。そこには大勢の生徒が集まっていた。

 

「おいおい……どういうことだよ? 何で他のクラスの連中が居るんだよ?」

 

 近くに居た(いけ)が疑問の声をあげる。

 他の生徒も似たようなもので、友人と顔を見合わせていた。

 そう、この部屋には三つの集団が交じっていた。

 一年Aクラス、一年Bクラス、そして一年Dクラスの三クラスが一堂に(かい)している。

 

「俺たちは堀北(ほりきた)に呼び出されたんだけどさ。お前たちは?」

 

 池がBクラスの男子生徒に話し掛ける。

 

「僕たちもそちらと同じです。唯一違うのは、僕たちを呼んだのは一之瀬(いちのせ)さんです」

 

「そっか……。Aクラスもそうなのかな?」

 

「恐らくは。……ただ、声は掛けない方が賢明でしょうね」

 

「……みたいだな」

 

 池はAクラスの生徒を一瞥(いちべつ)してから、深く頷いた。

 彼らは出入口付近に固まっていた。

 Bクラス、Dクラスの二クラスが感じていることが、『他のクラスの生徒が居ることに対する困惑』だとしたら、彼らの感じていることは『この場に居ることに対する不満、あるいは、苛立ち』だろう。

 恐らくは出入口付近に固まっているのも、招集した人物へのせめてもの抵抗を示しているのだろう。

 

「堀北は……まだ来ていないようだな。平田(ひらた)も居ないしよー……」

 

「だなぁー。何がなんだか分かんねえよ……」

 

 池の周りにDクラスの男子生徒が徐々に集まり始めていく。平田とはまた違った『人望』が彼にはある。

 

「あ、綾小路(あやのこうじ)くん!」

 

「みーちゃん。さっきぶりだな」

 

 王美雨(ワンメイユイ)が人垣の中から現れる。すぐ後ろには佐倉(さくら)も居て、二人は離れないように手を繋いでいた。

 不安そうに四方(しほう)を見るが、何か分かる訳でもない。上目遣いで尋ねてきた。

 

「何が始まるんでしょうか……?」

 

「綾小路くんは何か知ってるの……?」

 

「いや、何も知らない。佐倉……どうしてその質問を?」

 

 逆に尋ねると、彼女は驚いたように、

 

「えっ!? その……堀北さんと綾小路くん、仲が良いから。堀北さんから何か聞かされているんじゃないかなって……そう思って……」

 

 どんどん言葉が尻すぼみになっていく。

 顔を俯かせていく彼女にオレは慌てて謝った。

 

「わ、悪い。怒っているわけでも、責めているわけでもないんだ。ただ純粋に気になったんだ」

 

「う、ううん……謝るのは私の方だよ。ごめんね。まだ私……」

 

「焦る必要はない。お前は自分のペースで行けば良い」

 

 気落ちする佐倉を慰める。みーちゃんも肩に手を置いて「そうだよ、愛里(あいり)ちゃん!」と声を掛けた。そして元気を出す佐倉。

 オレはそんな二人を見て和んでいた。何ていうか……こころが癒される……。

 と、そんなところに一人の男が佐倉に声を掛けた。

 

「佐倉!」

 

「……ッ!?」

 

「こんにちは! いや、今はこんばんはだな! 悪い悪い! 時間感覚が狂っちまっててよ!」

 

「こ、こんばんは……山内(やまうち)くん」

 

 山内は笑顔だが、対する佐倉は引き気味だ。引き攣った笑みで対応している。彼のアプローチには彼女も気が付いている。

 彼女が山内の想いに応えるか否か、本人から直接聞いているわけではない。オレとみーちゃんは以前に相談を受けただけだ。

 

「な、なあ佐倉っ。今度一緒に(めし)食べに行かないか? 俺、美味(うま)い料理を出してくれる店を知ってるんだ!」

 

「そ、そうなんですか……。えっと……山内くんは博識ですね」

 

「おう! で、どこに行く!? いやその前に、いつ空いてる!? ちなみに俺はいつでも空いてるぜ!」

 

 しかしそれを考慮しても、これまでの山内と佐倉のやり取りを見る限りでは、脈がないことは明白だ。

 それはオレだけじゃない。みーちゃんも、そして、第三者であろうとも、少し見れば分かること。

 だが恋する少年は気付けない。恋は盲目、とはよく言ったものだ。

 そんなことを考えていると、みーちゃんがオレの服の袖を軽く引いた。

 

「綾小路くん……どうしよう……?」

 

 素の口調で話すくらいには焦っているようだ。普段は異性と話す時は敬語だからな。

 もちろん、彼女が困っているのは聞くまでもなく、佐倉についてだろう。

 親友が迷惑を被っているのを助けたい、しかし、自分が他人の恋路を邪魔して良いのか、その踏ん切りが中々つかないのだ。

 

「みーちゃんがしたいようにすれば良いと思う」

 

「えっと……それって……!?」

 

「お前にとってどっちが優先すべきことなんだ?」

 

「優先……?」

 

「言い方が悪かったな。──難しく考える必要はない。佐倉を助けたいのなら、助けてもオレは良いと思う」

 

「でもそうすると山内くんが……」

 

 王美雨は平田洋介に恋をしている。それは一年Dクラスの殆どの生徒が認識していることだ。だが彼女の恋が実ることは無いに等しい。

 何故ならば、意中の相手には軽井沢恵という交際相手が既にいるのだ。そしてこのカップルの仲は円満で、別れることはほぼほぼないと言われている。

 そんな彼女だからこそ、同じ境遇の山内の気持ちが分かるのだろう。

 しかし親友を心配する気持ちも本物だ。

 だから彼女は決断が出来ない。

 そしてそれは悪いことではない。彼女にとってはどちらも大切、素晴らしいことだと思う。

 オレにとっても、佐倉、山内の二人は友人だ。それは間違いない。

 みーちゃんと違うとすれば、両者を比較した場合、オレの中での優劣が決まっているということ。

 

「山内」

 

 意中の女性と話せている喜びで興奮している山内の肩の上に、オレはそっと手を置いた。

 

「何だよ綾小路。いまお前と話す時間はないぜ?」

 

「残念だが、もう時間だ」

 

「はあ? 時間って何のことだよ?」

 

「もうすぐ堀北が到着するだろう。見てくれ、あと三分で始まる」

 

 言いながら、オレは電源を着けた携帯端末……より具体的には、現在時刻を目の前に示す。

 あれだけあった喧騒もなりを潜めつつある。こうすれば佐倉は山内から解放されるだろう。

 事実、無駄話をしている生徒は少数になっている。佐倉はそれを敏感に感じ取ってか焦りの表情を浮かべていた。

 

「で、でもよ!」

 

 山内が不服そうに声を出す。

 そして彼の声は多くの生徒の関心を寄せてしまい、佐倉や、周りに居るオレたちDクラスの男子陣に奇異の視線が向けられるようになった。

 オレはみーちゃんにアイコンタクトを送る。

 

「愛里ちゃん、向こうに女の子たちがいるから……そっちに行こう?」

 

「う、うんそうだね。ごめんなさい、山内くん。話はまた今度に……」

 

「お、おい!?」

 

 佐倉はぺこりと頭を下げ、みーちゃんが彼女を引っ張っていく形で人垣の中に姿を消す。

 そんな彼女たちを山内は無念そうに見送った。そしてオレに詰め寄る。

 

「ああああああああぁぁぁやぁぁぁぁのこおおおおううううううじいいいいぃぃぃぃ……!」

 

「……落ち着け山内。さっきから言っているが、もうすぐ時間になる」

 

 体感ではあと一分もないだろう。

 だが暴走している山内には通じない。彼の怨嗟の声は静まっていた部屋中に響き渡り、とうとう、オレたちは注目を集めていた。

 

「どうする? いっそのこと俺が頭を軽く殴って……」

 

「やめろよ、健。また問題になるぞ」

 

「そうだけどよ……。でもまさか寛治、お前に言われるとは思わなかったぜ……」

 

「……反省したんだ。あんなことが起こったから」

 

 オレが山内を窘めていると、須藤と池がそのような会話をしていた。気になることがあったが、いまはそちらに意識を割く余裕がない。

 そしてとうとう、時刻は約束の時間になった。唯一の出入口の扉がゆっくりと開かれる。

 

「失礼するわ」

 

「遅くなってごめんね、みんな」

 

「……失礼する」

 

 部屋に入ったのは、六人の男女。

 一年Dクラス、堀北及び平田。

 一年Bクラス、一之瀬及び神崎(かんざき)

 一年Aクラス、葛城(かつらぎ)及び橋本(はしもと)

 各々のクラスのリーダーたちの出現に、部屋に緊張が稲妻の如く走る。

 山内も空気に当てられたのか口を噤んだ。

 堀北を先頭にした彼らは、迷いない足取りで歩く。自然と、生徒たちは道をあけ、彼らの通り道を作った。そして彼らは壇上に立つ。

 

「おいおい、いったい何が始まるんだよ……」

 

 須藤が、そう、呟いた。そして壇上の中央に立った彼女を見上げる。

 彼女──堀北は黙ってオレたちを見下ろしていた。この状況に戸惑っているオレたちに声を掛けることもせず、ただそこに立っているだけ。

 背後の五人も何もしない。平田と、一之瀬と、橋本は笑い。葛城と神崎は無表情だ。

 オレはこの状況にどこか既視感を覚えていた。

 そう……確かこれは『あの時』の──。

 やがて部屋から音が途切れ────

 

「私は一年Dクラス、堀北鈴音(ほりきたすずね)です」

 

 彼女はおもむろに唇を動かし、目を見開き、そして凛とした言葉を出した。

 



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干支試験──獣の屍

 

 A、B、Dクラスの生徒が一堂に会し、堀北(ほりきた)鈴音(すずね)の演説を聞いている中、Cクラスの生徒もまた『王』の召集に応えカラオケのパーティールームに(つど)っていた。

 全員が揃ったのを確認してから、『王』──龍園(りゅうえん)(かける)は厳かに口を開けた。

 

「急な呼び出しに集まって貰って悪かったな」

 

 形式的な謝罪を行う。

 

「い、いえ……それは全然構いませんが……龍園さんの用事もだいたいは分かりますし……。なあ、アルベルト?」

 

「Yes,Boss」

 

 Cクラスの中で最も忠実な家臣である石崎、アルベルトがそう言うと、龍園は満足そうに口元を歪めた。

 それだけで何人かの女子生徒は恐怖を覚えたが、何とか隠すことに成功する。尤も、仮に龍園が気付いていたとしても彼は何もしなかっただろうが。

 

「さて……前置きの挨拶は程々にして、早速会議に移るとしようか」

 

 一拍置いて、龍園は言葉を続ける。

 

「お前たちも既に知っているとは思うが、他クラスの連中が本格的に動き始めた。金田(かねだ)、説明を」

 

「──承知しました。龍園氏の仰る通り、A、B、Dクラスの生徒が一斉に移動を始めました。移動する方向が同じなこと、また、同じ時間帯であることから間違いなく『誰か』が働き掛けたものだと推測されます」

 

「その『誰か』は誰だとお前は思っている?」

 

「憶測になりますがそれでも宜しいですか」

 

「構わない」

 

『王』が即答すると、『知将』はふむと考える素振りをする。掛けている眼鏡をクイッと上げてから、

 

「一年Dクラス、堀北鈴音だと思われます」

 

「ほう……それはまたどうしてだ? 普通なら一之瀬(いちのせ)だと思うが?」

 

 ひとを集めるのにもまた、人望が必要となる。

 クラスの垣根を越えて生徒を招集出来るのは、一之瀬帆波(ほなみ)だけだ。それはひとえにカリスマという天性の才能。暴君の恐怖政治では絶対に得られないものでもある。

 

「もちろん、一之瀬帆波も関わっているでしょう。ですが根本に居るのは堀北鈴音かと。一之瀬帆波ならもっと大々的に自分の存在をアピールしています。先の『暴力事件』のように」

 

「確かに一理あるな。奴が中心なら、他の奴らは安心出来るだろう」

 

「ええ。一之瀬帆波ではないと……次に考えられるのは、葛城(かつらぎ)康平(こうへい)平田(ひらた)洋介(ようすけ)くらいなものでしょう。しかし葛城氏は数々の失態により影響力はゼロに等しく、また平田氏も、最近は活発に動いている様子ではない。となると、先の無人島試験で頭角を現した──」

 

「堀北鈴音が有力だと?」

 

 その問いに『知将』は深く頷いた。自分の解答に絶対の自信があるのか、表情に不安は一切ない。

 龍園は自分の参謀の有能さを改めて確認する。そして家臣たちに目を向けた。

 

「ここまでで質問がある奴は居るか?」

 

「「「……」」」

 

『王』がわざわざ確認してきたことに、多くの家臣が驚いた。室内は騒然となり、囁き声が飛び交う。

 それは『王』の変化への戸惑い。

 これまでの『王』だったら自分が納得したら終了。納得出来なかった伊吹(いぶき)をはじめとした生徒が噛み付く……というのが一連の流れだった。

 しかし七月に起きた『暴力事件』を経て、『王』は家臣にも目を向けるようになった。もちろん、それが恐怖政治であることに変わりはない。

 Cクラスの頂点に位置しているのは紛れもなく龍園翔であり、彼の決定には誰も逆らえない。

 だが家臣の同意を得るようになった──この些細な変化が、Cクラスの運命(うんめい)を変えることになる。

 

「それじゃあ……私から一つ」

 

「ククッ、やっぱりお前が手を挙げるよな」

 

 想定していたように龍園は笑った。そして挙手をした伊吹に無言で発言するよう催促する。

 

「『誰が』三クラスを招集したのかはどうでも良い。問題はその『理由』じゃないの?」

 

 核心を突く質問に龍園は満足気に頷いた。

 

「伊吹の言う通りだ。そう、『誰が』なんて大した問題じゃないのさ。とはいえ、完全に度外視するわけにもいかないがな。今回問題なのは、何故堀北が三クラスを、一之瀬やあの慎重な葛城までをも巻き込むことが出来……このタイミングで動いたのかだ」

 

「た、確かに……一之瀬は兎も角として、葛城が他クラスに協力するなんて考えられないですね」

 

「ああ……葛城は無人島試験で俺に裏切られているからな。他クラスへの協力にはより一層慎重になっているはずだ」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()。それってつまり、協力するに値する『何か』が堀北にはあったってことでしょ? 重い腰を上げる程度には」

 

 それを聞いて室内は再度のどよめきに覆われた。

 自分たちが窮地に陥っているのではないかと錯乱している。そんな彼らに『王』は、

 

「──静かにしろ」

 

 一言。

 出された騒音は、たった一言で嘘のように一瞬で消え去り静寂が訪れる。

 

「何を慌てる必要がある? ()()()()()()()()()()()()()()()。あいつらがしているのは最後の抵抗だ。足掻きだ。そんな瑣末(さまつ)なことにいちいち驚くんじゃねえ。分かったか?」

 

「「「──はい!」」」

 

「良い返事だ。だがお前たちの不安も分からなくはない。お前たちは干支試験の『根幹』を知らないからな」

 

 龍園は不敵に、不遜に獰猛に笑う。

 猛禽類の獣の如く瞳をギラつかせ、一人嗤う。

 

「堀北鈴音が三クラスを招集している理由。それはA、B、Dクラスで同盟を結ぶためだ」

 

「それは流石に俺でも分かります。干支試験を攻略するためですよね?」

 

「正解だ、石崎」

 

「で、でも同盟を結べるんですか……?」

 

 石崎のその疑問は殆どの生徒が抱えていた。

 友人と顔を見合せ、揃って首を傾げる。

 現在、同盟を結んでいるのはBクラスDクラスだけである。その同盟も、今回の干支試験では適用されていないと聞く。

 だからこその疑問なのだ。

 

「普通なら無理だ。BクラスとDクラスだけなら容易(ようい)だろうが、今回はAクラスも居るからな」

 

「だったらAクラスは呼ばなければ良いじゃない。そしたらもっと話は簡単になるんじゃないの?」

 

 と言ったのは伊吹だ。

 しかしその指摘に否と答える者がいた。

 

「いいえ、それは無理です」

 

「ひより……」

 

 今まで閉口していた少女、椎名(しいな)がばっさりと切り捨てた。彼女はクラスメイト……ではなく、隣に座っている友人のために説明を開始する。

 

「干支試験の『根幹』に挑む権利は、並大抵のことでは得られません。ましてや彼らは絶体絶命のピンチですから、確実に成功させなければなりません。作戦の成功確率を少しでも上昇させたいと考えるのは当然のことです」

 

「……つまり何が言いたいの?」

 

「ごめんなさい……もっと簡単に言いますね。──堀北さんの狙いはただ一つ。A、B、Dクラス。合計九人の『優待者』を明らかにした上で、私たちCクラスの『優待者』を突き止めることです」

 

「「「────は?」」」

 

 椎名の言葉に、龍園、金田を除く全員が間抜けな声を出した。一瞬の静寂、そして、

 

「「「はあああああああああああ!?」」」

 

 驚愕の声が響く。カラオケのパーティールームという性質上、音は無駄に反響し鼓膜を襲い、龍園は苛立ちの舌打ちを一つ打った。だが先程のように黙らせることはしない。意味がないと分かっているからだ。

 数分後、ようやく生徒たちは動揺を収めることに成功した。

 

「特別試験が始まる前、先生方は仰いました。今回の試験はクラス闘争という概念を一度捨て去り、クラスの垣根を越えて協力すべきだと。そしてその具体例として私たちに結果Ⅰを提示してきました。では改めて復習をしましょう。結果Ⅰから結果IV、全てです」

 

 そう言って、椎名は一つ一つを音読していく。

 

 結果Ⅰ──グループ内で優待者及び優待者の所属するクラスメイトを除く全員の解答が正解していた場合。グループ全員に50万prを支給する。さらに、優待者にはその功績を称え、50万prが追加で支給される。

 結果Ⅱ──優待者及び所属するクラスメイトを除く全員の答えで、一人でも未回答や不正解があった場合、優待者には50万prを支給する。

 結果Ⅲ──優待者以外の者が、試験終了を待たず答えを学校に告げ正解していた場合。答えた生徒の所属クラスは50clを得ると同時に、正解者に50万prを支給する。また、優待者を見抜かれたクラスは逆に50clのマイナスを罰として課す。及び、この時点でグループの試験は終了となる。なお、優待者と同じクラスメイトが正解していた場合、答えを無効とし、試験は続行する。

 結果Ⅳ──優待者以外の者が、試験終了を待たず答えを学校に告げ不正解だった場合。答えを間違えた生徒が所属するクラスは50clを失うペナルティ。優待者は50万prを得ると同時に、優待者の所属クラスは50clを獲得するものとする。答えを間違えた時点でグループの試験は終了となる。なお、優待者と同じクラスメイトが不正解した場合、答えを無効とし受け付けない。

 

「各グループに一人居る『優待者』。この存在が試験をより複雑化しているのは今更言うまでもないことだと思います。そして断言しましょう。()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「それも分かってる。『裏切り者』が生まれるからでしょ?」

 

 伊吹が同意を示す。他の面々もそれぞれの反応を示した。

 

「クラスポイントの変動があるのですから、利益が出る結果Ⅲを求めるのは当然のことです。そして私たちCクラスは全クラスを敵にする形で『裏切り者』になりました」

 

「現状で確定している、俺たちが得るポイントは──クラスポイントが400cl。プライベートポイントが400万prだ」

 

 破格の報酬に生徒ら生唾を飲み込む。

 

「予め言ってあったように、『裏切り者』にはポイントが入り次第俺に送って貰う。そして100万prをお前たちに分けて支給する。残りのプライベートポイントは俺が管理する。異論はないな?」

 

「あんたが馬鹿なことに使わなければね」

 

「安心しろ。契約書を用意する。既に坂上にも話は通してあるからな」

 

 なら構わないと伊吹が言うと、彼女を筆頭に、了承の声が続いていく。九月になればクラスポイントが大幅に向上されること、また、『王』が家臣一人一人に褒賞を与えると明言したため彼らは納得した。

 

「話が随分と脱線しましたね。私たちCクラスが結果Ⅲを選んだ以上、他のクラスも当然結果Ⅲを選び、私たちを攻撃してきます」

 

「残っているのは『(とら)』、『(へび)』、『(いぬ)』よね。つまりこの三つにCクラスの『優待者』が紛れているってことよね」

 

「ああ、その通りだ。丁度良いか。『優待者』の三人は手を挙げろ」

 

『王』が命令すると、三人の生徒が挙手する。

 

「まずだが、学校によって『優待者』の選定が行われた際、俺はメールで、『優待者』は名乗り出るように言った。それはお前らも知っていることだろう」

 

 堀北が一度は考え、しかし捨てた方法。それを龍園はやって見せた。龍園が一言『そうしろ』と言えば、その言葉通りになる。『王』の命令には何人たりとも逆らえない。

 伊吹は三人を見た後、それで? と椎名に問い掛けた。

 

「あんたのやり方に今更是非は問わない。けど見たところ共通点なんてものはないけど?」

 

「そのようなものはありません。性別、氏名、血液型、出身地、生年月日、趣味や特技など……あらゆる観点から視ても誰もが納得するものはありません」

 

「はあ? じゃあどうやって『優待者』を暴くの?」

 

「そ、そうだぜ! 何らかの法則性はあるんだろうけどよ……これじゃとても無理だろ。分かるわけが……」

 

「ええ、そうです。自分の所属するクラスだけでもたった三人です。そしてたった三人で『根幹』にはとてもじゃないですが辿り着けません」

 

 ますます困惑する生徒たち。

 ここで龍園が口を開く。

 

「ひよりの言う通り、たった三人じゃ土台無理な話だ。だが一人、二人、三人……もっと増えたらどうだ? 『優待者』が判明すれば判明するほど法則性に気付けるとは思わないか?」 

 

「そ、それはそうでしょうが……。で、ですが龍園さん……それは無理じゃないですか?」

 

「ほう……どうしてそう思う?」

 

「どうしてって……他クラスの『優待者』を知るためには──ああああああッッッ!?」

 

 言っていて途中で何かに気付いた石崎は表情を変えて『王』に顔を向ける。そこから伊吹をはじめとした他の生徒も気付き、畏怖の視線を『王』に送った。

 

「お前たちの想像通りだ。誰がとは流石に言えないが──()()()。『()()()()()()()()()

 

 全員、信じられない思いだった。

『本当の裏切り者』の存在。

 自分のクラスを裏切るなど、はいそうですかと理解出来るはずがない。

 そしてその『本物の裏切り者』と繋がっている自分たちの『王』が……ただただ恐ろしかった。

 

「そいつが持ってきた情報を得た俺は、金田、ひよりと一緒に『優待者』を暴いた。あとは簡単だ。お前たちを一斉に集め、そして一斉に八人の『裏切り者』を出させた。直前に高円寺に先を越されたのは痛いが……こればかりは仕方がないことだ」

 

 とても簡単そうに龍園は言う。

 Cクラスの生徒は改めて確信した。

 龍園翔こそ、CクラスがAクラスになるために必要不可欠な存在だと。

 

「それであんたたちが見抜いた法則性……特別試験の『根幹』は結局何なの?」

 

「あっ、やっぱり気になりますか?」

 

「そりゃあ……ここまで言われれば気になるでしょ」

 

 だから早く教えてと伊吹が言うと、椎名はにっこりと笑い。

 

「まだ語る時ではありません。伊吹さん、探偵が全て説明するとは思わない方が良いですよ?」

 

 刹那、伊吹の額に青筋が何本か浮かんだ。暗がりの部屋の中でも分かるほどに、濃い青筋が。

 伊吹はこの友人をどのように絞めるか考え、龍園は腹を抱えて笑い、石崎は「このひとも色んな意味で怖いなー……」と感想を抱き、アルベルトは「Wow……」と呟き、他の生徒は「こんなこと、この前もあったなあ……」と過去に浸った。

 伊吹が椎名の両頬に手を伸ばしたところで、龍園が乱れた呼吸を整えてから言った。

 

「ククッ……説明してやっても良いが、ひよりの言った通りだ。まだその時じゃない。無いとは思うが、このクラスから『本当の裏切り者』が出る可能性もあるからな」

 

 そんな度胸がある人間が、龍園さんの下にいるとは思えませんよ! という言葉を石崎はすんでのところで呑み込んだ。

 

「まず間違いなく、奴らの同盟は結ばれるだろう。そして俺たちの『優待者』が暴かれるだろうな。つまり俺たちの獲得ポイントは、250clと400万prということになる。だが案ずるな。さっきも言ったが俺たちの『勝ち』に変わりはない。そしてお前たちはこれまで通りに俺の指示に動け。分かったか?」

 

「「「────は!」」」

 

 一人、また一人と生徒がルームから出ていく。

 残ったのはいつかの時のメンバーだった。

 

「龍園くん、お話があります」

 

「ああ、分かっている。お前ら、席を外せ」

 

 石崎、伊吹、アルベルトが退室する。

 椎名はソファーから立ち上がり、龍園の対角線上に座る。そして無表情で言った。

 

「龍園くん。私の役目はこれで終わりです」

 

「そうだな。お前は期待通り……いや、期待以上の働きをしてくれた。だからこそお前が惜しいが……仕方がない」

 

「元の立ち位置に戻っても問題ないですね?」

 

「好きにしろ。精々奴と仲良く過ごすことだな。だがなひより、お前は必ず戦線に戻ってくるぜ? あいつと今後も関わっていくならそれは必然だ。決して逃げられないだろうよ」

 

「そうでしょうね。ですが私はそれを覚悟しています。私はCクラスではなく、彼を……綾小路くんを選んだ。この選択に後悔はありません」

 

「たとえ退学になったとしてもか?」

 

 椎名はその問いに答えなかった。手早く帰りの支度をし、最後に、顔だけ振り向かせる。

 

「お世話になりました」

 

 ゆっくりと扉を閉める。外で待っていた伊吹と合流し、寝室に戻るのだろう。

 龍園は横に置いていた鞄から一枚の書類を出す。それは椎名ひよりとの契約書。汚れ一つないその紙を──右手で鷲掴み小さく丸めた。そして念入りに小さく破いてから、部屋の隅に置かれていたゴミ箱に放り捨てる。

 

「土台は全て整った。まずは雑魚共を蹴散らし……次に坂柳(さかやなぎ)を潰そう。そして最後は──お前が相手だぜ?」

 

 龍園は自分が戦う光景を想像して身震いする。

 それは恐れからか、あるいは、期待からか。

 

「綾小路、お前と早く殺し合いたいぜ……!」

 

 ()うか()われるかの極限の死闘。

 龍園翔はそれを求めている。

 

 

 

§

 

 

 

 干支試験、三日目の安息日。

 深夜の二十三時三十分ちょうど。

 全生徒に三通のメールが運営から届いた。

 

『虎グループの試験が終了致しました。虎グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『蛇グループの試験が終了致しました。蛇グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

『犬グループの試験が終了致しました。犬グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気を付けて行動して下さい』

 

 夜が明け、朝になり。

 本来行われるはずだった特別試験最終日。

 運営は異例の、特別試験の切り上げを宣言。

 同日の正午に試験結果の発表を行うことを告知した。

 

 



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干支試験──試験終了

 

 干支試験、四日目。

 本来なら今日は特別試験の最終日だ。

 しかし昨晩を以て、()(鼠)、(うし)(牛)、(とら)(虎)、()(兎)、(たつ)(竜)、()(蛇)、(うま)(馬)、(ひつじ)(羊)、(さる)(猿)、(とり)(鳥)、(いぬ)(犬)、()(猪)──全ての干支(えと)から『裏切り者』が現れ、試験の続行が不可能になった。

 本日の正午を(もっ)て特別試験の結果を告知をすると同時に、特別試験は終了する。

 

綾小路(あやのこうじ)くんは上手くいっていると思う?」

 

 すっかりと行きつけになったカフェ、『ブルーオーシャン』にて、対面に座っている千秋(ちあき)がそう尋ねてきた。

 どう答えたら良いかオレは思い悩む。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()。確実にCクラスの『優待者』は暴かれ、A、B、そしてDクラスにポイントが入るだろう」

 

 昨晩。堀北(ほりきた)鈴音(すずね)によって招集を受けた三クラス。彼女の目的は、三クラスの一時的な同盟の要請であり、虎、蛇、犬グループの『優待者』を暴くことだった。

 そのために三クラス分──合計九人の『優待者』を明らかにする必要があると彼女は考え、堀北はそれを実行してみせた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 どのクラスからも批判の声は出た。特にAクラス陣営は顕著であったが、覚醒した堀北が相手ではまるで相手にならなかった。

 その後堀北は各クラスの代表者を集め、彼らと共に特別試験の『根幹』に挑んだ。

 そしてとうとう──Aクラスが虎を、Bクラスが蛇を、Dクラスが犬を()つのに至った。

 

「むしろ問題はこの後だな。この先のクラス闘争にどのような影響を与えるか……その規模が完全に予測出来ないのが難しい」

 

「ふぅーん。()()()()()──」

 

 と、千秋はオレから目を離し、周りを見渡す。

 現在時刻は午前十一時。昼食には少し早いが、早すぎる時間帯でもない。席は程々に埋まっており、その中にはクラスメイトの姿もあった。向こうも気付いているのか、度々オレたちに無遠慮な視線を送っては、ひそひそと囁き合って、また嫌な視線を送ってきている。

 彼女はオレに注意を戻し、

 

「何で私たちは今、こうして会っているの?」

 

「嫌だったか?」

 

 そう尋ね返すと、彼女は渋面を作った。唇を尖らせ、トロピカルジュースをストローで一気に吸い込む。

 

「嫌だったら誘いに乗ってない。でも不思議なだけ。綾小路くんは目立つのが嫌いなんじゃないの? だからこれまでは隠れて会っていたわけだし」

 

「お前の言う通りだ。……だが考えてみたんだが、色々と今更な気がしてな。状況的にもそろそろだと思ったんだ」

 

「そう? いつかはバレるだろうけど……まだ充分隠し通せたと思うけど」

 

 千秋は納得いかなさそうな様子だ。オレは逡巡してから、ゆっくりと口を開けた。

 

「オレだけじゃない。これは千秋の為でもあるんだ」

 

 すると彼女は目を見開いた。

 固まっている千秋にオレは言葉を続ける。

 

「オレも、そしてお前も……クラスの立ち位置がとても不安定だ。篠原(しのはら)たちの動向が気になるしな」

 

「なるほどね……。私はあれ以来一言も喋ってないけど……」

 

「確かお前たちは同じ部屋じゃなかったか?」

 

「必要最低限しか話してないのは、喋っているに入ると思う?」

 

「いや、思わない。──話を戻すが、オレたちは一定以上のヘイトを稼いでいると思った方が良い」

 

 良くも悪くも、オレは目立ってきた。オレという存在は、クラスメイトからしたら『不気味』だろう。

 そして千秋はそこまでは行かないにしても……篠原をはじめとした女子たちからの評判は悪くなっているはずだ。彼女が軽井沢(かるいざわ)に対して弾劾したのは、殆どの女子生徒は知っているはずだ。噂が流れるのは一瞬なのだから。ましてや、桔梗(ききょう)平田(ひらた)などから話を聞くに、女性の闇は深いらしい。悪意で噂を都合よく改竄されても可笑しくはないだろう。

 

「お前がそうなっているのはオレの責任だ。日頃から一緒に行動することで、オレたちが繋がっていると他の奴らに見せたい」

 

 大半の奴らはオレのことを気味悪がっている。そんなオレが千秋と日頃から行動を共にすれば、彼らは錯覚するだろう。そしてオレの『庇護下』にある松下千秋に何かをしようなどとは思わないはずだ。

 

「つまり、私を守ってくれるの?」

 

「どれだけの効果があるのかは正直分からない。だが抑止力にはなると思う。どうだ?」

 

 これはあくまでも提案だ。

 嫌がるようなら別の手を考える必要があるが……。彼女にも言った通り、これはオレのとるべき責任。そのための労力は厭わない。

 彼女は考える素振りを見せてから、

 

「……分かった。二学期からはなるべくきみと居るね」

 

「助かる。迷惑を掛けて本当に悪いな」

 

 オレは誠意を込めて頭を下げた。

 すると足に軽目の衝撃が走る。蹴られた、と認識するよりも早く、頭上から「顔を上げて」と声が降った。

 恐る恐る緩慢とした動作で頭を上げると、そこには、オレを睨んでいる彼女の顔が。

 

「……()()()()()()()

 

 出された声は怒気で満ちていた。

 真っ直ぐな目でオレを見る。

 

「私は自分の意志できみに協力することに決めたの。だからそこに関しては、きみが私に謝ることなんて何もない」

 

「……分かった」

 

 オレが重く頷くと、千秋は目元を弛めた。

 

「今後の方針はまた後で話す。まずは特別試験の結果の発表を待とうか」

 

「うん、そうだね。ちょっと早いけどお昼ご飯も食べようか」

 

 顔馴染みになったスタッフを呼び、オレたちは昼食を始める。オレはスパゲッティを、千秋はサンドイッチをそれぞれ注文した。

 燦々(さんさん)とした太陽が屋上を照らす中、徐々にひとの気配が増えていく。ブルーオーシャンも賑わいを見せ始めていた。

 

「あっ、あれ堀北さんたちじゃない?」

 

「……どこだ? ひとが多くて見れないな」

 

「ほら。あっちだよ」

 

 そう言って、千秋は指を向ける。彼女の言う通りだった。堀北、桔梗、須藤(すどう)(いけ)山内(やまうち)沖谷(おきたに)……いわゆる『堀北グループ』の生徒が居る。彼女たちはオレたちの存在に気付くことなく、大人数でも(はい)れるカフェを探し、やがて見付けると、そこに足を向けて行った。

 前回の特別試験とは違い、今回の特別試験は生徒が同じ場所に集まり、そして待つ必要がない。

 なので仲が良い友人や、自分が所属しているグループに足が向くのは必然だろう。

 

「これで本格的に、三大勢力の完成だな」

 

「……? ああ、そうかもね。平田くんや軽井沢さんが率いるグループ。堀北さんが率いるグループ。そして残りは私たち(あぶ)(もの)

 

 実際はもっと細やかに枝分かれしているが、それは精々二人から多くても五人ほど。つまり影響力は無いに等しい。そしてその殆どは平田のところへ行くだろう。あるいは、一気に勢力を増した堀北のところへ。

 全体的な印象としては、女子生徒は平田グループ、男子生徒は堀北グループに行っている印象が強いか。

 そして残りはクラスから爪弾きされている者たちだ。オレや千秋、高円寺などだ。

 

「あと一分だね」

 

 生徒たちはお喋りや食事をやめ、自分の携帯端末を取り出し、食い入るようにして画面を凝視する。

 そして時刻は──午前十二時、午後零時となる。

 同時に一斉に送られてくるメール。キーンという耳障りな音が豪華客船上に響く。

 オレたちは迷うことなくメールアプリを開き、フォルダの一番上にある、未開封の箱を開いた。

 

 

 

§

 

 

 

 特別試験──干支試験の結果発表を本メールを以て告知する。なお、試験結果に関しての質問や抗議は一切受け付けない。本試験は正常に行われ、そして、以下の試験結果が生まれた。

 

 

 子(鼠)──『裏切り者』の正解により結果Ⅲとする。

 丑(牛)──『裏切り者』の正解により結果Ⅲとする。

 寅(虎)──『裏切り者』の正解により結果Ⅲとする。

 卯(兎)──『裏切り者』の正解により結果Ⅲとする。

 辰(竜)──『裏切り者』の正解により結果Ⅲとする。

 巳(蛇)──『裏切り者』の正解により結果Ⅲとする。

 午(馬)──『裏切り者』の正解により結果Ⅲとする。

 未(羊)──『裏切り者』の正解により結果Ⅲとする。

 申(猿)──『裏切り者』の正解により結果Ⅲとする。

 酉(鳥)──『裏切り者』の正解により結果Ⅲとする。

 戌(犬)──『裏切り者』の正解により結果Ⅲとする。

 亥(猪)──『裏切り者』の正解により結果Ⅲとする。

 

 

 以上の結果から、クラスポイント及びプライベートポイントを以下のものとする。

 

 

 一年Aクラス──マイナス100cl。プラス50万pr。

 一年Bクラス──マイナス100cl。プラス50万pr。

 一年Cクラス──プラス250cl。プラス400万pr。

 一年Dクラス──マイナス50cl。プラス100万pr。

 

 

 以上の結果から、来月、九月一日に支給されるクラスポイントを以下のものとする。なお、このクラスポイントは暫定的なものであり、場合によっては増減する可能性がある。

 

 

 一年Aクラス──920cl

 一年Bクラス──760cl

 一年Cクラス──800cl

 一年Dクラス──235cl

 

 

※《cl》とはクラスポイント、《pr》とはプライベートポイントの単位である。

 

 

 

§

 

 

 

 静寂が豪華客船を襲う。

 試験結果は結果Ⅰから結果IVまでの四通りがあったはずだった。しかし十二匹の獣からはどの獣からも『裏切り者』が出現し、結果Ⅲが出た。

 そしてオレたちはほぼ同時に読み終わる。

 数秒見詰め合い、先に口を開けたのは千秋だった。

 

()()()()()()()()()()()()

 

「そうなるな。Aクラスとの差も無くなりつつある」

 

 残りの夏休み、Cクラスの生徒が何も問題を起こさなかったら、二学期からは龍園(りゅうえん)の率いるCクラスがBクラスとなり、逆に一之瀬(いちのせ)率いるBクラスがCクラスとなる。

 

「オレたちの同盟も解消されるだろうな」

 

 今までオレたちがクラス間の同盟を結んでいられたのは、すぐ直近の敵ではなかったからという点が大きい。

 だがクラスの序列が変動した以上、同盟の存続は難しいだろう。何故ならDクラスは狩る者になり、Bクラスは標的となるのだから。

 あるいは、共闘しての打倒上位クラスという共通の目標を作り、維持するという方法もなくはないが……。そこは一之瀬と堀北がどのように話し合うかだな。

 

「分かっていたこととはいえ……やっぱりショックだね。Cクラスがダントツのトップか……」

 

 Cクラスだけがクラスポイント、プライベートポイントともに加算されている。しかしDクラスを含む他のクラスはクラスポイントが減算されている。

 

「今回の真のMVPは高円寺(こうえんじ)かもしれないな」

 

 そんな個人的な感想を漏らすと、千秋は肯定の声を上げた。

 猿グループの試験結果は結果Ⅲ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 だったらクラスに攻略方法を教えろとクラスメイトは思うだろうが……自由人相手に何を言っても無駄なことは既に分かりきっているため、胸中にとどまらせるだろう。彼の気紛れでDクラスは救われたと思うべきだ。

 結局オレたちが長期休暇で得られたポイントは190cl。0clだった時のことを考えると進歩していると言えるが、表舞台で戦えるのはまだまだ先になりそうだ。そんなことを他人事のように思う。

 

「それで清隆くん。そろそろ教えてくれない?」

 

「何をだ?」

 

「決まってる。干支試験の『根幹』だよ。先に言っておくけど、知らないって言っても納得しないから」

 

「そうだな。言っておこう。恐らくは──」

 

 オレは携帯端末を操作し、メモアプリを開く。断りを入れてから手を動かし、数分後、テーブルの上を走らせて彼女に見せた。

 読み終えた千秋は息を呑む。

 

「……ッ! なるほど、確かにこれなら……」 

 

「納得してくれたか」

 

「うん、まあね。でもだからこそ分からないな。いったい誰が──」

 

 言葉を切り、彼女はオレの携帯端末を操作し、画面を見せてきた。そこには、このように書かれていた。

 

 ──『本当の裏切り者』なのか。

 

 オレが読み終わるのを確認すると、千秋はすぐに削除キーを押し続ける。すぐに文字は跡形もなく消えた。

 

「悪いがこればかりはお前であっても教えられない」

 

「分かってるよ。詮索しようとも思わない」

 

「話が早くて助かるな」

 

 引き際を弁えているのは素晴らしいことだ。

 そしてオレは目の前にいる『駒』──いや、『協力者』に今後の方針を告げる。

 

「正直なところ、オレは二学期からはあまり動かない予定だった」

 

 それどころか、クラス闘争から身を引くつもりだった。

 茶柱(ちゃばしら)には脅迫されているが、そちらの対処は造作もない。あの記録があり、それをオレが所持している以上、迂闊な行動は出来ない。

 また脅迫してきたら、その時は躊躇なく牙を剥けば良い。ただそれだけのことだ。

 しかし、それは過去の話だ。

 

「だが事情が変わった」

 

「事情?」

 

「ああ。だから今後は──Dクラスとは関係なく、オレ個人で動こうと思っている」

 

「それがDクラスを裏切る形になっても?」

 

 オレは頷いた。

 

「二学期からは平田に代わって堀北がDクラスを率いていくだろう。平田は補佐役に収まるだろうな。そして、その堀北と争うことも辞さないつもりだ」

 

「乗りかかった船だから、今更降りるとは言わない。でも何のために? きみは何のためにそこまでしようとするの?」

 

 オレは伝える。

 生まれて初めて持った『感情』全てを。

 

「────」

 

 聞き終えた彼女は一度笑ってから、「うん、分かったよ。それなら充分」と頷いた。

 オレは思う。

 いまの『オレ』を『あの男』はどう思うだろうか。

 怒るのか、哀しむのか、それとも喜ぶのだろうか──。

 そこまで考え、オレは何を馬鹿なことを……とつまらないことを考えた自身に対して呆れた。

 

 ──考えるまでもなく。

 

『あの男』はいまの『オレ』を視たら、『失望』するのだ。

 



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幕間 ─夏休み後編─
椎名ひよりの願望


 

 見慣れた光景、というものがあると思います。

 それは何度も何度も繰り返され、脳に記銘された情報。

 人は回数を重ねるごとにそれに徐々に慣れて、尊ぶようになっていくのでしょう。そして、受け入れ、それが自分にとって当然のように思えてくるのです。

 

 ──なら。

 

 私の目の前に起こっていることも、今はもう、『見慣れた光景』という言葉で表現出来るのでしょうか。

 ふと、そう思った私は身動ぎしてしまいます。視線を外し、揺れるカーテンの隙間から覗く、何処までも蒼い夏空を見ました。

 

「──どうかしたか」

 

 ぼんやりとそうしていると──私の行動を訝しんだのでしょう──声が一つ、下から掛けられました。

 私はハッとすぐに意識を戻すと、「何でもありません」と薄く微笑みながら言います。すると声主は軽く頷き、今までそうしていたように瞼を閉ざしました。

 

「いつまでそうしていられますか」

 

 彼が夢の世界へ旅立たないうちに、私は囁くようにして話しかけました。

 私の質問に、彼──綾小路(あやのこうじ)くんはゆっくりと瞼を開けて、私を下から覗き込んできました。すると彼は申し訳なさそうに。

 

「すまない、痛かったか」

 

「いいえ、まだ全然大丈夫ですよ。責められていると感じてしまったのなら、ごめんなさい」

 

 そう、私が謝罪すると。

 綾小路くんは「いや」と言葉少なめに首を横に振った。

 彼を支えている太腿(ふともも)が揺れます。私は彼の頭が固い床──絨毯(じゅうたん)は敷かれていますが──にずり落ちないよう、上から優しく固定しました。しかし何処か、この行為に気恥しさを覚えてしまいます。

 

「今、何時だ?」

 

「……十五時少し前ですよ」

 

「そうか……そろそろ起きるとするか……」

 

 テーブルの上に置かれているデジタル時計を見て私が答えると、綾小路くんは呟くように言いました。

 

「先程も申しましたが、まだ寝てて構いませんよ?」

 

 しまった、と思った時には時既に遅く。

 気付けば私は、そのような言葉を思わず投げかけていました。

 綾小路くんは私の提案を意外だと思ったのでしょう。一瞬だけ驚いた表情を見せると、考え込むように瞳を伏せました。

 その様子を窺いながら、私は反省していました。再度に渡っての提案を、彼は面倒に感じているかもしれません。

 しかしながら、前言撤回することは出来ないでしょう。自分の言葉には責任を持たなければなりませんし、それこそ、彼を混乱させてしまうでしょうから。

 

「そうだな──」

 

 数十秒──私にとっては数十分のようにも感じられましたが──が経った頃、綾小路くんはおもむろに瞼を開けました。

 どのような返答が来るのかと身構える私に、彼は言います。

 

「なら、あと少しだけ頼めるか。居心地の良いここを離れるのは惜しい」

 

「……っ! はい、喜んでお貸しします」

 

 自分でも声が弾んでいるのが分かります。

 綾小路くんは微かに笑うと、瞳を閉ざしました。そして、身体全体を私に預けてきます。程なくして寝息を立て始めました。浅い呼吸と共に胸が膨らんでは萎み、彼が今この瞬間生きている事を教えてくれます。

 それはきっと、彼なりの『信頼』を表しているのでしょう。

 四六時中一緒、という訳には流石にいきませんが、私たちは沢山の時間を過ごしてきました。

 だから、綾小路くんがいつも何かに警戒しているのは自ずと伝わってきましたし、その矛先は私にも向けられていたように感じます。

 それが悪い事だとは思いません。生物である以上、自分の周りの存在が敵だと認識する……認識してしまう事は本能であり、逆に言えば、生存本能が正しく作用された行動だと言えるでしょう。あるいは、そのような厳しい環境下で過ごしてきた者にとっては、それが当然になると思います。

 しかし最近は、最初の頃と比べれば遥かに無くなったと感じます。それを強く意識するようになったのは、豪華客船上での出来事でしょうか。星々が見守る船上で彼と過ごした一夜。あの夜から、私達の関係は少し、けれど確実に変わったと思います。

 どのように、と尋ねられると答えには窮しますが。ただこの変化が良い方向に傾けば最良なのは間違いないでしょう。その為に私はあの月夜を受け入れたのですから。

 

「……」

 

 ミーン、ミーンと鳴く(せみ)の声。夏の風物詩。

 冷房の風をずっと浴びていては身体に悪いので、窓は開けて網戸にしています。何処からか運ばれてくる風は夏特有の熱が多量に含まれていて、四季を感じ取れます。

 綾小路くんが寝苦しくならないよう、何もしないよりはマシだと下敷きをパタパタと扇いで風を送ります。そうすると額に薄らと浮かんでいた汗は消え去りました。

 ずっとそうしていられたら良かったのですが、手を使うのは大変で、体力が壊滅的にない私は──体育の成績が絶望的なのは忘れたいくらいの苦い記憶です──限界を感じた所で別の手に切り替えます。そうして小休憩を挟んでいても疲れるものは疲れるもので、私はついにやめてしまいました。

 

「…………」

 

 綾小路くんの頭に手を添えながら。

 このままずっと、この時間が続けば良いのに──それが無理である事を分かっていながら、私は、そう思わずにはいられません。

 そう、今の時間は仮初のもの。仮初の平和。

 長期休暇であるこの夏休みが終われば、私たちはクラス闘争という、熾烈で苛烈な戦いに身を投じる事となるでしょう。

 それが生徒である私たちの義務である以上、他者と競い合い、時には蹴落とし合うのは必然であり、変えられようのない運命なのです。

 私は、戦うのが嫌いです。誰とも争う事なく皆が平和で過ごせれば、それが良いと心から思います。

 しかし同時に、必要であれば戦わなければならないとも思っています。それは自分を守る為であったり、あるいは、自分の大切な人や物を守る為であったり──何か理由があるのなら戦わなければならないと、そう、思うのです。

 だから私は、戦う事を決意しました。

 

 ──豪華客船上で行われた、特別試験。

 

 その内容は、各グループの中に一人居る『優待者』を見付けるというもの。それが如何に至難なのかは、誰の目から見ても明らかでした。『優待者』が誰か分かった次の瞬間には『裏切り者』が現れ、『裏切り者』が属するクラスが勝ちとなります。反対に『優待者』が暴かれたクラスは負けとなります。

『攻撃』か、あるいは『防御』か。

 私の所属するCクラスは『攻撃』を選びました。Cクラスを支配している『王』──龍園翔(りゅうえんかける)くんはまず初めに、自分のクラスの『優待者』を明らかにしました。

 これは、選ばれた『優待者』に何らかの法則性があると睨んでいた為です。とはいえ、一クラス分──たった三人の『優待者』を明らかにした所で『根幹』には辿り着けません。

 私は自分の『目的』を果たす為にこの特別試験に参戦し、Cクラスを勝たせる為に龍園くんに微力ながら協力しました。

 とはいえ、最初は上手くいきませんでした。Cクラスが誇る知将、金田悟(かねださとる)くんもその場には居たのですが、得ている情報が少な過ぎます。しかしこれは龍園くんも想定していた事のようで、彼は衝撃的な行動に打って出ます。

 

 それこそが、他クラスの生徒から『優待者』を教えて貰うという作戦でした。

 

 無論、通常ならこの作戦は上手くいきません。大前提として、自分のクラスの『優待者』を他のクラスに教えるという事は、裏切り行為なのですから。

 次に、それがたとえ自分のクラスであろうとも、『優待者』を知るのは限りなく難しいからです。口は災いの元と言います。いつ情報が漏れるか分からない状況で、迂闊な行動は出来ません。Cクラスは『王』の命令が出されたので話は別ですが、A・B・Dクラスは定石通りその辺りは徹底していました。各チームのリーダーでさえ、自分のクラスの『優待者』が誰だったのかは恐らく知らないでしょう。

 つまり、Cクラスを除く三クラスは必然的に『攻撃』ではなく『防御』を選ぶしかなかったのです。

 先に述べた通り、龍園くんの作戦は通常なら上手くいきません。しかし彼は、この無謀な作戦を成功させました。そして彼は、とあるクラスの『本当の裏切り者』から、そのクラスの『優待者』の情報を貰いました。

『本当の裏切り者』が誰なのかは、Cクラスでは龍園くんだけが知っています。しかし私や金田くんを含めた、『王』に協力した生徒は『何処のクラスから裏切り者が出たのかを知っている』為、完全に推測出来ない訳ではありません。

 

 そして私は、その人物に心当たりがあります。

 

 とはいえ、誰かに話すつもりは一切ありません。その人物にも事情はきっとあるのですし、何よりも、敵に回したくないのが本音です。

 もし『本当の裏切り者』が暴かれた時、その時はそのクラスどころか学年がその人物の狂気に巻き込まれる事となるでしょう。

 

 話を戻しましょう。

 

『本当の裏切り者』から『優待者』が誰なのかを教えて貰った私達は、『根幹』へと挑みました。

 そして私達は、この特別試験を完全攻略するのに至りました。

 

 その後はとても簡単です。

 

 龍園くん率いるCクラスはすぐに行動に移り、運営にメールを一斉送信します。そして大量のクラスポイント及びプライベートポイントを獲得しました。

 

 無論、他クラスも黙ってやられている訳ではありませんでした。Dクラスの堀北鈴音さんがA、Bクラスに協力を持ち掛け、彼等はCクラスの二歩後になってようやく『根幹』へ挑みます。

 あまりにも遅い行動。とはいえ、これはクラス闘争。寧ろ、他クラスを説得してみせた堀北鈴音(ほりきたすずね)さんは『偉業』を成し遂げたと言えるでしょう。龍園くんもこれには驚いたようで──彼の見立てでは、Bクラスの一之瀬帆波(いちのせほなみ)さんかDクラスの平田洋介(ひらたようすけ)くんだったようです──面白そうに笑っていました。

 

 二回目の特別試験はCクラスの勝利に終わりました。

 

 クラスの序列は変わり、二学期からCクラスはBクラスになり、BクラスはCクラスになります。

 とはいえ、クラスポイントの差は本当に少しなので、すぐに再変動することも充分にあるでしょうが。

 

 そして私は、二学期からはクラス闘争から身を引きます。たった一度の参戦で何を言っているのかと指摘されれば答えに窮するところですが、これは決定事項です。

 夏休みの間に行われるであろう出来事──特別試験の存在を、各クラスのリーダーは予感していました。

 龍園くんは事前にある提案をしてきました。『王』が認める程の成果を私が出した際は、それを置き土産として私の行動には一切の口出しをしないという内容です。

 私はこの提案を呑みました。

 それはきっと、いえ、間違いなく──どこまでも最低で自己中心的な考え、そして実に愚かな行動なのでしょう。

 クラス闘争から身を引くという事は、傍観者になるという事。クラスメイトが栄光を摑んでいる時も、あるいは失墜している時も、ただ眺めているだけ。

 侮蔑の視線を送られても文句は言えませんし、言いません。暴力を振るわれるのは嫌ですが、それだけで話が済むのなら、私は喜んで殴られ、蹴られましょう。

 私は、それだけの事をした自覚があります。そして私は、自身の選択に一片の悔いがありません。救いようのない愚か者ですね。

 開き直っている、と指摘されればそうなのですが。

 それでも私は、この選択を後悔しません。たとえどのような末路を迎えようとも、私は、自分の決断を恥じる事はしないでしょう。

 

 けれど。

 

 どれだけ私が──私たちがそれをどれだけ望んでも、私たちは必ず戦線に戻るのでしょう。

 だから、願わくば。

 どうか、今だけは。

 この時間だけは、誰にも侵されないように──。

 



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誕生日パーティーの誘い

 

 誕生日(たんじょうび)。特定の人間がこの世に生まれた日だ。一年に一回のみある、その人間の為だけの記念日。各家庭では規模こそ差異があるものの誕生日パーティーが開かれ、家族や友人、恋人が参加する。パーティーにはご馳走が並べられ、参加者は誕生日プレゼントを持参し、それを贈呈する。

 誕生日プレゼントに選ばれる物は様々であり、共通して言えることは、誕生日を迎えた者に対する一途な想いだけ。

 

「──なるほどな……」

 

 携帯端末の液晶画面に書かれていた文字の羅列を読み終え、オレは自然とそう呟いていた。

 学んだ事をノートに書き写し、纏める。作業を終えたオレは思わず、

 

「これ、詰んだな……」

 

 と、つい弱音を漏らしてしまう。

 

 ──事の発端は、つい数分前。

 

読書をしていると、友人である櫛田(くしだ)桔梗(ききょう)からメッセージが送られてきたのだった。

 

『来週の水曜日、()(がしら)さんの誕生日なの。今、出れる人で誕生日パーティーを開こうと企画中! プレゼントを考えておいてね』

 

 上記のメッセージが来た時、非常に困った。その要因は幾つかある。アプリを閉じたオレは一度考える時間が欲しいと思い、現在、彼女に返信出来ないでいた。

 メッセージが来てから既に一時間が経っている。既読マークが着いている事から、オレがメッセージを見た事は向こうも知っているだろう。これは所謂『既読無視』の状態であり、世間一般的にはあまり宜しくない行為とされている。

 これ以上考えた所で妙案が浮かぶ気配はまるでしなかった。桔梗とのチャットルームを再び開いたオレは、『なあ』と話を雑に振る。次いで、

 

『幾つか聞きたい事があるんだが』

 

 と、メッセージを送る。

 幸いにもすぐに既読は着いた。数秒後、

 

『私のメッセージに対する第一返信が「なあ」とは、君も偉くなったものだね』

 

 という、言葉を頂戴する。

 どうやら、オレが今の今まで彼女に返信しなかった事がお気に召さないようだった。これに関してはこちらが悪い為、素直に謝罪する。

 

『悪かった、これからはなるべく早く返すようにする』

 

『ほんとだよ。全く、これだからコミュ障は困るよね。そういう根本的な所は四月から何も変わってないよね』

 

 友人からのメッセージを携帯端末のステータスウィンドウで確認し、どうでも良い相手からだと無視をしていた者とは思えない発言だ。だが、反論はしない。言い返した所で、返ってくるのは正論という言葉の暴力だろう。

 コミュニケーションに長けた桔梗に、お世辞にもコミュニケーションに長けていないオレが挑むのは無謀そのもの。村人が魔王を倒すくらい、荒唐無稽な話だろう。

 精神的ダメージを負っていると、端末の画面が切り替わった。次いで、軽やかなメロディーが流れる。なんと、櫛田がオレに電話を掛けているのだ。

『櫛田エル親衛隊』に属する者だったら感極まって咽び泣くのだろうが、残念ながらオレは『一之瀬エル親衛隊』に属している者。いや、『櫛田エル親衛隊』は兎も角、『一之瀬エル親衛隊』なんてものは存在していないが。

 兎にも角にも、オレにはこれが福音ではなく凶報のように感じられた。しかし、出ないという選択肢はない。数秒後、オレは意を決して横にスワイプする。

 

『遅いよ』

 

 底冷えた第一声。

 この声をクラスメイトに聞かせたい。果たして、いったい何人がクラスのマドンナのものだと気付けるのだろうか。

 

「あー……悪かった。実は今外に居てな。少し移動していたんだ。時間が掛かったのはそれだな」

 

清隆(きよたか)くん、見え透いた嘘は吐かない方が良いよ』

 

「……嘘かどうかは分からないと思うんだが」

 

『ふぅーん、へぇー。まだ白を切るつもりなんだ』

 

 桔梗は無感情でそう言った。どうやら、オレが嘘を吐いていると確信しているようだ。

 オレが思案していると、彼女は「忘れちゃったの?」と問い掛けてくる。とても怖い。尚も黙るオレに、彼女は言った。

 

『位置情報』

 

 その言葉でようやくオレは思い出した。

 オレたちが普段使用している携帯端末は入学した時に学校から支給されたものだ。そして、この携帯端末は普通の携帯端末とは仕様が少々異なっている。

 その一つとして、自分の位置情報がリアルタイムで公開されている。学校、そして認めた相手には現在位置が発信されており、やろうと思えばいつでも特定出来るのだ。

 無論、現在位置と言ってもそれは携帯端末がある場所だ。そこに所有者が居るとは限らない。だが文明が発達している現代日本に於いて、携帯端末を持たず外出する事は全然ないだろう。

 話を戻そう。普段この機能を使わないでいる為すっかりと忘れてしまっていたが、確かにオレは自分の現在位置を公開していた。女性だったら話は変わってくるが、オレは男性。誰かに視られるのも生まれ育った環境の所為で慣れてしまっている。特に実害もなかったのでその辺りの細かい設定をしていなかったのだ。

 桔梗は電話を掛けてくる前にオレの現在位置を確認したのだろう。

 

『思い出したみたいだね』

 

「あ、あぁ……」

 

『さて、清隆くん。何か言う事があるんじゃない?』

 

 オレは精一杯の感情を込めて、言った。

 

「大変申し訳ございませんでした」

 

『はい、よく出来ました! 許します!』

 

 桔梗からの慈悲を受けたオレは「ありがとうございます」と言うしかなかった。

 彼女は面白そうに笑うと『それで? 何を聞きたいの?』と尋ねてくる。

 

「井の頭の誕生日パーティーにオレが出席しても良いのか?」

 

 オレは現在、クラスで複雑な立ち位置に置かれている。より具体的に述べると、大多数のクラスメイトからは避けられているのだ。

 交流があるのは極わずかな生徒のみ。その生徒の誕生日パーティーならオレも出たいとは思うが、井の頭は接点のある生徒ではない。

 彼女からしても、せっかくの自分のパーティーにオレのような人間が出席したところで嬉しくないだろう。 それが異性なら尚更で、下心があると思われても文句は言えないだろう。

 それは桔梗も分かっている筈。事実彼女はオレの返答を予想していたのか、口調を乱さずに滔々と答えた。

 

『良いか悪いかと聞かれたら、悪いかな。やっぱり今でも、清隆くんのことを不気味に思っている子は居るからね』

 

「それが分かっているなら、何故?」

 

『うぅーん。強いて言うなら、私のお節介かな』

 

 何だそれは、と思わず言葉を零す。

 

『さっきも言ったけど、きみの事を恐れている子は多い。男女問わずにね』

 

 でも、と桔梗は言葉を続ける。

 

『そうではない子が居るのも事実。今回井の頭さんの誕生日パーティーに出席する子は、クラスの何処の派閥にも属していない子が多いの』

 

「まあ、それはそうだろうな」

 

 井の頭はクラスでもあまり目立たない生徒だ。類は友を呼ぶと言うべきか、必然的に、彼女の友人も似たような性質の人物が多い。

 オレの友人である王美雨(みーちゃん)佐倉(さくら)も、井の頭とは友人関係を築いている。

 

『今Dクラスはとても不安定。どこかの誰かさんがクラスカーストを掻き乱してくれたからね』

 

「そうか。そのどこかの誰かさんには困ったもんだな」

 

『……ハア。全く、分かってはいたけど、どこまでも他人事のように言うんだね』

 

 スピーカーから漏れる、桔梗の呆れ声。オレはそれを沈黙で応えた。

 とはいえ、それとは別に疑問も浮かぶ。

 

『お前が言う程なのか、今のDクラスは』

 

「……そうだよ。今は夏休みだから表面化していないだけ。二学期が始まったら皆気付かざるを得ない」

 

 まず間違いなく、Dクラスの内情を一番知っているのは今電話で話している彼女だ。

 具体的に尋ねると、桔梗はすらすらと答えた。

 

『まずだけど、今までのDクラスは主に三つの派閥に区分されていたの。一つが、平田(ひらた)くんや軽井沢(かるいざわ)さんの派閥』

 

「ああ、そうだな。クラスの半分は属しているんじゃないか」

 

『概ねその通り。次に、堀北(ほりきた)さんの派閥。私や三馬鹿トリオ、沖谷(おきたに)くんが属しているよね』

 

「そして最後に、まあ、オレのような溢れ者だよな」

 

『うん、そうだよ。きみのように協調性の欠片もない生徒だよね』

 

 言葉に刺があるがあるのは気の所為ではないと思うが、事実である為何も言い返せない。

 これまでのDクラスには三つの派閥があった。溢れ者グループは論外だが、他の二つには確かな結束力があったと言えるだろう。

 ところが桔梗は、それが乱れていると言う。

 

『無人島試験、そして干支試験。この二つの試験は良くも悪くも私たちに影響を与えた。そうでしょ?』

 

 無言で肯定する。

 二週間のうち二回行われた、特別試験。これは通常の中間試験や期末試験とは全くもって違う、高度育成高校ならではの特異な試験だ。

 そしてこの二つの試験はオレたち生徒を極限にまで追い詰めた。

 

『それまで知らなかった……知ろうとしなかったひとの本性。それが浮き出たの。当然、これまで通りの関係を築くことは難しくなる』

 

 桔梗が『良くも悪くも』と表現した理由はここにある。

 過酷な環境に置かれたオレたちは追い詰められ──それまで隠してきた、あるいは、自分でさえ知らなかった本性が現れるようになった。

 

『堀北さんグループも、溢れ者グループも被害は何も受けなかった。寧ろ堀北さんグループは日々成長しているから、マイナス要素が一つもなかったの』

 

「つまり、地盤が揺らいでいるのは──」

 

『そう、平田くん軽井沢さんグループ』

 

 桔梗は言葉を続けた。

 

『これまであった、平田くんの求心力が無くなりつつあるの。ほら、特別試験中の平田くんは、『らしくない言動』が目立ったでしょ?』

 

 平田洋介(ようすけ)はDクラスの実質的なリーダーだ。入学した当時から彼は『先導者』としてDクラスを導いてきた。

 だが、特別試験。どちらの試験に於いても、彼は不可解な行動が多々見られた。

 とはいえ──オレの思考を読んでいるかのように、桔梗は何て事のないように言った。

 

『でも、これはそこまで問題じゃないんだよね。ううん、寧ろ、平田くんの望み通りに行っているのかな? 違う?』

 

 オレは内心で舌を巻いた。

 櫛田桔梗の最大の強さはここにあると言えるだろう。コミュニケーションに長けた彼女は微かな人間関係の乱れから情報を集め、考察し、答えに辿り着ける。オレのような人間には出来ない芸当だ。

 

『私と同じように、きみが平田くんと何らかの『契約』を交わしているのも分かったよ』

 

「まあ、そういう事だ。オレの想定よりはだいぶ早かったが、平田はその決断をしたよ」

 

『なるほどね』

 

 桔梗はそう言うと、『じゃあ聞くけど』と一呼吸置いてから尋ねてきた。

 

『軽井沢さんの失脚も平田くんの計画通りなの?』

 

「……? どういう事だ?」

 

 意味が分からず、オレは首を傾げた。

 困惑するオレを雰囲気で察したのだろう、桔梗は深々と溜息を吐いた。

 

『軽井沢さんの影響力が揺らぎ始めたのは、無人島試験の時から。下着盗難事件の時、軽井沢さんは弾劾された。一学期にあった、彼女の問題行動を指摘された。もちろん、これは突発的なものではなくてきみが松下さんに指示を出したものによるもの』

 

 そこまで読めているのは流石としか言いようがないだろう。

 無人島試験の際、オレは松下千秋(まつしたちあき)と接触する機会が多々あった。彼女の能力を知ったオレは特別試験を攻略する為に協力を持ち掛けた。現在、彼女とは協力関係にありDクラス内で最も頼りになる存在だ。

 そして桔梗の言う通り、無人島試験の最中、オレは千秋に幾つか指示を出した。その中の一つに、軽井沢への弾劾がある。

 仮にもクラスカーストの頂点に位置する女王への弾劾だ、必要性がなければやる必要はない。ましてや正当性がなければDクラスの女子ほぼ全員を敵に回す事になる。オレもそれは分かっていたが、試験中に起きたある出来事によって行う必要が出てきたのだ。

 それは、軽井沢恵の下着盗難事件。女子生徒は男子生徒の中に犯人が居ると訴え、池寛治という男子生徒の鞄の中から彼女の下着が出てきてしまった。とはいえ、これはCクラスから送り込まれていたスパイ──伊吹澪によるものだと判明している。しかしながらこれが分かったのは試験後であった。

 試験中に起きてしまったこの事件によって、Dクラスの男女間には深い溝が生まれることとなった。

 そこでオレは千秋に一つの指示を出した。それこそが、軽井沢への弾劾だ。より具体的には、彼女が一学期の間に行ってきた悪業──クラスメイトからプライベートポイントを半ば強引に貰い、それを返していないという内容──を指摘し、軽井沢自身にも問題行動があったことを自覚させた。そして容疑者であった池を許し、Dクラスの男女の間を持ったのだ。

 この弾劾を知っているのは極わずかな生徒のみ。女子生徒はほぼ全員知っているだろうが、反対に、男子生徒は何も知らないだろう。

 

「だが、その後の軽井沢の行動はクラスに貢献していたぞ。揺らいだのは事実だが、失脚とまではいかないんじゃないのか」

 

 事実、その後の無人島試験では平田と共にDクラスを最後まで纏めていた。女王としての地位は盤石だとオレは考えていたのだが。

 その旨を伝えると、桔梗は『まぁね』と一度は肯定の相槌を打つ。しかしながら彼女は続けて言った。

 

『その後何も起こらなかったら、軽井沢さんは女王として君臨し続けられた』

 

 それはつまり、『何か』が起こったという事。

 そしてオレには一つだけ心当たりがあった。

 

真鍋(まなべ)たちか」

 

『へえ……知っていたんだ? そう、きみの言う通りだよ』

 

 真鍋志保(まなべしほ)という生徒がCクラスに居る。彼女は干支試験の際、軽井沢へ執拗(しつよう)に話し掛けていた。

 その内容は、真鍋の友人──リカという女子生徒が軽井沢から嫌がらせを受けたというもの。その確認だ。

 軽井沢はその場では知らぬ存ぜぬの態度を取り、その後の追及も無視をしていた。そして話が進展する前に干支試験は終了してしまい──ここまでがオレの知っている事だ。

 

「真鍋たちが何か動いているのか?」

 

『正解。クラスメイトと一緒に学年の女子にこの話をしているの。一年生の女の子が多く所属しているグループチャットがあるんだけど、そこでも発言していてね。ほんと、馬鹿だよね』

 

 心底そう思っているのだろう、声には嘲りの感情がありありと込められていた。

 

「そのグループに軽井沢は属しているのか?」

 

『当然。言ったでしょ? 一年生の女の子の多くが所属しているって。クラスカーストのトップに位置する軽井沢さんが参加していない道理がないじゃん』

 

「確かにそれはそうだな。それで、軽井沢は何か反応したのか?」

 

『何も。ずっと沈黙している』

 

 なるほど、とオレは相槌を打つ。

 軽井沢の判断は賢いものと言えるだろう。

 恐らくではあるが、軽井沢が嫌がらせをしてしまったのは事実だろう。もししていないのであれば干支試験の時にキッパリと言っている筈だ。

 だが、それをしていないという事はその事実を半ば認めているという事に他ならない。だが、完全に認める訳にはいかない。もし認めたら最後、一学期の間に積み上げてきたものが全て台無しになるからだ。

 疑念は種と植えられ、発芽しようとしている。この状況で軽井沢が口を開けば種が芽吹くこととなる。だからこそ、彼女が取れる選択は『沈黙』のみ。『沈黙』を取れば、『推測』の範疇にあるからだ。とはいえ、

 

『はっきり言って冷戦状態だよ』

 

 桔梗の言う通りだろう。

 賢い選択ではあるがこれも時間の問題、時間稼ぎでしかない。夏休みという、学校に行かない長期休暇がこの問題を自然解決する確率は極めて低いだろう。

 そして、オレの中では一つ疑問が生まれていた。

 

「平田は何か動いていないのか?」

 

 平田と軽井沢は交際関係にある。 

 オレは干支試験中、軽井沢の彼氏である平田には直接報告をしていた。てっきり、彼が既に解決しているものとばかりに思っていたのだが。

 

「平田でも解決が難しいのか……。だとすると、『暴力事件』と同様……いや、それ以上に面倒臭くなりそうだな」

 

『さあ、ね。今の所平田くんは何もしていないよ。気付いていないのか、あるいは、気付いていて静観しているのか』

 

 恐らく、平田には何らかの考えがあるのだろう。そう結論付けたオレは「話はだいたい分かった」と話を戻す。

 

「軽井沢、そしてDクラスの不安定さについては分かった。つまりお前は、オレに派閥を作ったらどうかと言っているんだな」

 

『大正解! これは私の予見だけどね、Dクラスはこれからまた荒れるよ。間違いなくね』

 

「Aクラスのような内紛になっても可笑しくはない、か……」

 

「特別試験の内容によっては、そうなるだろうね。そうなる前に、きみも味方を作っておいた方が良い」

 

 桔梗の言う事は一理あるだろう。

 現時点で、利害関係なくオレの仲間だと言えるのは松下千秋のみ。今後の事を考えれば、あと数人は協力者を募っても良いかもしれない。

 オレは暫く黙考してから、桔梗に返事を返した。

 

「……いや、お前には悪いがやっぱりやめておく」

 

『へえ……。何で?』

 

 トーンが二つ程下がり、冷えた声がスピーカーから出る。

 桔梗は恐らく、オレが断るとは思っていなかったのだろう。オレは彼女に説明した。

 

「せっかくの誕生日に、オレのような部外者が本来の目的とは違う、別の目的で参加するのは違うだろう。それだと井の頭に申し訳がない」

 

 一年に一度しかない、自分が主役の日。それが誕生日の筈だ。オレにはまだ経験がないが、その日は幸福で満ち溢れた日になる筈だ。

 そのような素敵な日に交流が限りなく少ない知人が祝いに行くのは間違っているだろう。ましてや、祝う気がないのだから尚更だ。

 

『……清隆くんってさ、変な所で真面目だよね』

 

 数秒後、呆れたように桔梗はそう言った。

 

「失礼な。オレはいつだって真面目だぞ」

 

『ははっ、それ、本気で言ってるの?』

 

 オレは沈黙で答え、「そういう訳だから」と続ける。

 

「誘いはありがたいが、今回は辞退させて貰う。井の頭にはお祝いの言葉だけ伝えて欲しい」

 

『はあ……分かった。こっちも無理言ってごめんね』

 

 その後軽く雑談をしてから、オレは桔梗との電話を終えた。

 自分の派閥の形成。正直な所、先程の桔梗の提案はとても興味が引かれた。

 だが彼女の話に乗ったら、オレは彼女に貸しを作る事となる。『お節介』だと表現していたが、その思惑が完全にない訳ではなかっただろう。

 それに、派閥を作るのはまだ時期尚早だ。ただでさえオレはクラスから浮いているのだから、これ以上の悪目立ちは暫く避けるべきだろう。

 読書を再開しようとして、誕生日について纏められたノートが目に留まる。

 

「誕生日、か……」

 

 これまでは誰かの誕生日を祝う事も、自分の誕生日を祝われる事がなかった。高校生になった今なら、オレは、誕生日という一日を本当の意味で過ごす事が出来るのだろうか。

 幸か不幸か、オレの誕生日はまだ先だ。ほんの少しくらいなら、楽しみにしていても良いのかもしれない。

 



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松下千秋の分岐点 Ⅱ

 

 これまでの学校生活に於いてオレは、休日に外出する事が滅多になかった。それこそ一学期の間は片手で数える程しかなかったと思う。

 そうなると、一つの問題が浮上する。名付けるなら、私服枯渇問題だ。何だそれはふざけているのかと言われそうだが、オレは至って真面目だ。

 放課後は殆ど毎日図書館で過ごしていたから制服姿で何ら問題なかったが、しかし、長期休暇となるとそうにも行かない。学校がないという事は、至極当然ではあるものの制服を着る機会がないという事だ。何らかの部活や委員会などに所属していればそうでもないが、オレは何処にも入っていない、いわば帰宅部。そのような人種のオレが制服を着ていれば悪い意味で注目の的となるだろう。

 いやそもそも、前提を間違えているのだ。長期休暇に遊びに行くとなったら、制服は論外だろう。人生経験があまりにも乏しいオレだが、それは何となく察していた為、今の所愚行は犯さずに済んでいる。

 だが、それも限界に近い。

 友人との外出は楽しいが、前日の夜はコーディネートで悩んでいる。まあ、コーディネートと言えるほどのファッションセンスはないのだが。

 

 ──兎にも角にも。今日、オレはクラスメイトの女の子と遊ぶ約束をしていた。

 

 櫛田から、()(がしら)(こころ)の誕生日パーティーの招待を断った、その翌日。

 学生寮、一階。フロアに備え付けられているソファーに腰掛け、オレはとある人物を待っていた。

 壁に掛けられている時計を確認する。十三時五十分。約束の時間まであと十分といったところだった。今なら忘れ物をしていてもぎりぎり間に合うだろう。とはいえ、オレの場合は携帯端末と学生証があれば事足りる為、忘れ物の心配はないのだが。

 

「ねえねえ、知ってる? 今度占いの先生がケヤキモールに来るんだって! ほら、最近有名なあの人!」

 

「えっ、それマジ!?」

 

「マジ! せっかくだから一緒に行こうよ!」

 

「行く! 絶対に行く! 夏休みはイベントが盛り沢山だね!」

 

 すぐ横を、二人の女子生徒が通り過ぎていく。記憶が確かなら、Bクラスの生徒だったか。いや、()Bクラスか。正式にクラスの序列が変動した訳ではないが、二学期の開始と共に公表されるのは確実。ややこしくなりそうだ。

 結果として話を盗み聞きしてしまったが、占いか。機会があれば行っても良いのかもしれないな。  

 そのような事を考えながらぼんやりと過ごしていると、背後に人の気配を感じた。顔をそちらに向けると、そこには約束の相手が居た。

 

「こんにちは」

 

 松下(まつした)千秋(ちあき)は申し訳なさそうにしながら、昼の挨拶をしてきた。

 オレは片手を上げる事でそれに応えると、ソファーからゆっくりと立ち上がる。

 

「ごめんね、遅くなって。本当はもう少し早く着く予定だったんだけど……」

 

「集合時間には間に合っているから、謝る必要はないぞ。女の子の準備は時間が掛かるだろう」

 

 事実、千秋がお洒落をして来ているのはオレにも分かった。高校生にしてはだいぶ大人びた服装だが、それを着こなすのは流石としか言い様がない。何処ぞの社長令嬢だと言われても信じてしまうだろう。

 

「あー、その服装、とても似合っているな」

 

 女性の服装は兎に角褒めるべし。

 数少ない女友達から教わった事を思い出し、ぎこちなくも言葉を絞り出す。千秋はきょとんとしてから、次いで、呆れたように溜息を吐いた。そのまま、じろりと見詰めてくる。

 しまった、もっと具体的に褒めるべきだったか。いやだが、細かく言ったらそれは変態的じゃないか──などと内心慌てていると、彼女は表情を変えることなく言った。

 

「相変わらず、きみは変な所で間抜けだよね」

 

「そ、そうか……。それは悪い」 

 

「ハア……まあ、良いよ。それじゃあ清隆(きよたか)くん、今日は宜しくね」

 

 そう言うと、千秋は優しく微笑んだ。

 オレは平静さを取り戻すと、そのまま千秋と一緒に学生寮の出入り口に足を進める。

 

「実は今日、楽しみにしていたんだ。清隆くんがどこに連れて行ってくれるのかなって」

 

「……期待に応えられるよう善処する」

 

 オレは今日、松下千秋と遊ぶ約束をしていた。それこそ、豪華旅行から帰ってきた直後には日程を決めていた。

 その理由は幾つかあるが、これまでの彼女に対する報酬によるところが大きい。夏休みの間に二度行われた特別試験に於いて、彼女はオレに多大なる協力をしてくれた。特に無人島試験では、彼女が居なければオレが裏で動く事は難しかっただろう。

 しかし、彼女には危険な橋を渡らせてしまった。特に軽井沢(かるいざわ)に対する弾劾はかなりの精神的ストレスとなっていただろう。それが少しでも解消されればと思い、オレからこの話を持ち掛けたのだ。

 

「本当に今日は、清隆くんが全部奢ってくれるんだよね?」

 

「ああ、男に二言はないさ。遠慮する事はないぞ」

 

「おおっ、格好良い!」

 

 初めて送られてくる称賛の眼差しに、オレは得意気になって胸を張った。

 オレが所持しているプライベートボイントは約20万pr。1pr(プライベートポイント)=1円な為、日本円に換算してもオレは20万円という大金を持っている事になる。一年生の中でだったら上位に位置付けられるだろう。

 金欠で極貧生活を強いられているDクラスの生徒であるオレが、何故そのような大金を手にしているのか。これにはそれなりの経緯がある。この学校が常々謳っている言葉を借りるとするならば、『実力を示した』という事になるか。

 とはいえ実の所、偶発的なものに過ぎないのだが。

 

「取り敢えず、ケヤキモールに行こうか」

 

 大型複合施設であるケヤキモールの名前を出すと、千秋は苦笑しつつも頷いた。恐らくはオレのありきたりな計画に対してなのだろうが、娯楽が少ないこの学校で遊ぶ場所となると、ケヤキモールくらいしかない。

 並木道を連れ立って一緒に歩きながら、オレたちは取り留めのない話をした。とはいえ、夏休み前までは特に接点がなかったオレたちだ。やはり話題となるのは学校生活に関してのものとなり、特に、特別試験に関連したものが多くなる。いつ誰が聞き耳を立てているか分からないので内密な話はあまり出来ないが。

 

「次はどんな特別試験が待ち受けているのかな」

 

「内容は分からないが、それ以外なら多少は予想出きる。例えば、頻度とかだな」

 

「と、言うと?」

 

「夏休みという期間だけでも二回行われた。これは長期休暇という、学校がない期間だからこそ出来た芸当だと思う」

 

 なるほどね、と千秋は相槌を打った。

 

「いくら私たちの高校が異常とは言え、日本政府が創立している以上、学業を疎かにする事は出来ない。そう考えると、出来る回数にも限度があるって事だね」

 

「その通りだ。冬休みに持ち越すか、あるいは──二学期中に行うか。オレは後者だと睨んでいる」

 

「私も同意見かな。クラスポイントが大きく変動するのが特別試験の特徴だとするなら、その機会は公平に与えないとね」

 

 オレたち生徒がクラス闘争を強いられている以上、それは学校側の義務だと言えるだろう。『実力至上主義』という謳い文句を使っているのなら、その『実力』を測る機会はあって然るべきだ。

 それはたとえ、不良品の集まりだと蔑まれているDクラスだろうと同じ事。オレたちDクラスにとって、特別試験は至難であると同時に絶好の機会なのだ。

 もちろん、実力を示す事は難しい。この場合、『実力を示す』とは特別試験で優秀な成績を残す事と同義だが、基礎学力や身体面でオレたちDクラスは他クラスに大きく劣っている。

 その為、クラス闘争で勝ち上がっていく無難な方法は、他者と協力する事だろう。これはDクラスに限らず、どのクラスにも当て嵌る事だ。

 個人でAクラスに昇る事が出来るのは、ほんのひと握りの猛者だけだ。

 

「──あっ、見えたよ」

 

 緑豊かな並木道を出ると、大型複合施設であるケヤキモールが姿を見せる。生徒や学校関係者が使うだけあって、その規模はとても大きい。

 夏の陽射しから逃げるようにして施設内に入ると、ひんやりとした空気がオレたちを迎えてくれた。冷房が程よく効いていて気持ちいい。

 

「少し休むか?」

 

「ううん、全然大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」

 

 千秋はそう言うと、辺りを見渡しながら続けて言った。

 

「でも、ちょっと喉が渇いたかな。確かすぐ近くに自動販売機があったと思うんだけど……」

 

「あそこにあるな」

 

 先に見付けたオレが指をさすと、千秋は「記憶通りだった」とどこか誇らしげにしながら自動販売機へ足を向けた。オレもその背中を追う。

 自動販売機は二台横並びに置いてあり、様々な種類が取り揃えてあった。水やお茶、炭酸水にジュースと大人から子供まで飲める親切さだ。

 千秋が悩んでいる横で、オレは250mlの水を購入する。500mlだと多いし、喉を潤すならこれで充分だ。250mlの方が安いのでポイントの削減にも繋がる。何より、荷物を必要以上に持たなくていい。何かバッグでも持っていれば良かったのだが、残念な事に、オレは持ってきていなかった。さらに詳しく言うと、バッグと呼べる物はスクールバッグしかない。携帯端末と学生証さえあれば事足りていた為、買う必要性を特に感じていなかったのだ。

 だが、こうして友人と外出するとなると話は変わってくる。最近、オレはそれをひしひしと感じている所なので、購入を前向きに検討したいと思う。

 そんな事を考えていると、千秋も何を買うのか決めたようだった。彼女が学生証を機械に翳す前に、オレは自分の物を翳した。軽快な機械音が出されると同時に、ペットボトルが取り出し口に落ちる。それを渡すと、彼女は驚いたような表情を浮かべていた。

 

「えっ、良いの……?」

 

「いや、そういう約束だろう」

 

「……まあ、それはそうだけど……」

 

 千秋は小声で何か続けると、何度か深呼吸をした。そして、栗色の髪の毛を耳に掛け直す。

 その様子を見て、オレは理解に及んだ。出発前の会話を、彼女は本気にしていなかった、つまり冗談だと思っていたのだ。だが今のやり取りで、今日の支払いは全てオレが持つということを確信し、慌てているのだろう。

 

「ほ、本当に大丈夫なの? 無理はしていない?」

 

 その質問に、オレは即答した。

 

「無理は何もしていない。オレがそこそこの小金持ちなのは、千秋も知っているだろう」

 

「それは知っているけど……」

 

「流石に全財産使われるのは困るが、まあ、そこはお前の良心に委ねるさ。とはいえ、その反応から心配しなくて良さそうだけどな」

 

 冗談を交えながら言うも、千秋は中々首を縦に振らなかった。

 生徒が個人で所有するプライベートポイントには『可能性』がある。上手く使えば、自分や仲間の危機から脱する事も出来る。彼女はそこについて考えているのだろう。

 さて、どうしたものか。オレとしては、これは彼女に対する報酬。その報酬の形がマネーなのは自分でも些か問題な気がするが、これが一番手っ取り早いのも事実。しかし彼女が嫌がるのなら、変える必要があるだろう。

 

「どうする? 千秋が望むなら、他の形で応えても良い。オレはどちらでも構わないから、お前が決めてくれると助かる」

 

 そう言うと、千秋は悩み始めた。そして数分後、彼女は言った。

 

「正直、私にプライベートポイントの余裕はあまりない。だから、ご飯だけご馳走になるよ」

 

「そうか、分かった。なら、プライベートポイントで何か困る事があったら言ってくれ。出来る限り力になろう」

 

「それだとあまり変わっていない気がするけど……うん、分かった。それでお願い」

 

 千秋は複雑そうな表情を浮かべつつも、オレの提案を受け入れた。

 まさかここまで話が大きくなるとは思っていなかったが、兎にも角にも、話はこれで終わった。

 オレたちは自動販売機を離れると、ケヤキモールの中を見て回る。

 

「清隆くんはケヤキモールによく来るの?」

 

「質問を質問で返すようで悪いが、そう思うか?」

 

「うーん、あんまりそうは思わないかな。きみ、完全にインドア派だもんね」

 

「そういう事だ」

 

 会話を楽しみつつ、様々な店を訪れる。千秋に答えたように、オレがケヤキモールに足を運んだ回数は両手で数えられる程度だ。

 大型複合施設なだけあって、店舗は多い。映画館やイベント広場といった施設も併設されているのだから驚きだ。

 

「それにしても、やっぱり混んでいるな……」

 

 充分な道幅があるものの、それを埋め尽くす人の数にオレは慄いてしまう。学生も多いが、学校関係職員も多く見える。彼等にとっても、今は夏休み。羽目を外したく思うのは当然だろう。

 オレの独り言を拾ったのか、やや前を歩いている千秋が顔を振り向かせてきた。気遣わしげに視線を送ってくる。

 

「大丈夫? 人酔いしてない?」

 

「まだ大丈夫だ。何か頭痛とか吐き気とか感じたら言うから」

 

「無理はしないでね」

 

 これまで過ごしてきた環境の所為だろう。オレは人が密集する場所が苦手だった。好き好んで行こうとは思えない。そう考えると、椎名と過ごしていたあの図書館は正しく理想郷だと言えよう。二学期も是非とも活用したいものだ。

 気を紛らわせながら歩いていると、不意に千秋が足を止めた。どうかしたのかと尋ねると、ある店を指さす。

 

「ごめん、清隆くん。ちょっと寄ってもいい?」

 

「ああ、それは全然構わないが……」

 

 答えながら、オレは引き攣った表情を浮かべた。

 その店はピンク一色の内装で、ぬいぐるみからアクセサリーが取り揃えられていた。女子高生を対象にしているのだろう。店員も美人で、男が入るのは些かハードルが高い。

 仮にオレが一人の時に入店しても捕まりはしないだろうが、場違い感を感じるのは間違いないだろう。まあ、今は千秋が居るから精神的ダメージはそんなに受けないと思うが……。

 オレの言いたい事は千秋も察しているのか、

 

「きみは近くのベンチで休んでて」

 

 と、言ってくれる。

 オレはその言葉に、素直に甘えさせて貰う事にした。大丈夫だと意地を張っても仕方がないからな。

 幸い、店のすぐ近くにベンチはあった。千秋が店内を回っている姿も見れる。オレはそれをぼんやりと眺めながら、今後の予定を考えていた。

 メインイベントである夕食まではまだ時間がある。このまま施設内の店を回るのもそれはそれで楽しそうだが、カフェにでも入って雑談をするのも良いだろう。

 どちらにせよ、彼女と過ごす時間は大事にしなければならない。

 オレと千秋は協力関係にあるが、互いの事を熟知しているのかと聞かれると、それは断じて否だ。そもそも夏休みに入るまでは接点らしい接点もなかったのだ。精々が平田(ひらた)主催の勉強会だった。相互理解を深める為には、一緒に行動し、話す事が最も効果的だ。

 

「あれ?」

 

 水を飲んでいると、聞き慣れた声が耳朶(じだ)を打った。発生源に顔を向けると、そこには二人の男子が立っていた。

 

綾小路(あやのこうじ)じゃないか! 久し振りだな!」

 

「お前がケヤキモールに居るだなんて、明日は槍でも降るのかよ!?」

 

 そう言いながら、二人の男子──(いけ)寛治(かんじ)山内(やまうち)春樹(はるき)はオレに近付いてきた。ちなみに、やや失礼な挨拶をしてきたのは山内の方である。

 

「久し振りだな、二人とも」

 

 オレの言葉を受けて、池が全くだと言わんばかりに頷いた。

 

「本当だぜ。最後に会ったのは船上じゃないか?」

 

「……ああ、言われてみればそうかもしれないな」

 

 旅行が終わってからはほぼずっと学生寮の自室で過ごしていたから、池や山内といったクラスメイトとも顔を合わす機会がなかった。

 平田や須藤(すどう)といった友人とは何回か会っていたが、それは言わない方が賢明だろう。

 

「こんな所で何をしているんだ?」

 

「少し休憩している。ほら、ここは人が多いだろう。ちょっと疲れてな」

 

 買い物中の千秋を待っている事は別に言わなくても良いだろう。彼女との関係を隠している訳ではないが、わざわざこちらから話す事でもない。

 千秋が戻ってきた時に二人がまだ居たらその時に説明すれば良いだろう。

 そして、池はオレの言葉に納得したようだった。

 

「そうだよなぁー、こういう場所に慣れていないお前じゃ疲れるかもなぁ」

 

「まあ、そういう事だ。我ながら情けないとは思うが、どうか笑わないでくれ」

 

 オレが懇願すると、池は「笑うかよ」と心外そうに言った。入学当初の彼なら間違いなく腹を抱えて笑っていただろうが、これまでの学校生活や特別試験を経て、少しずつ成長しているという事だろう。

 

「お前、本当に一人か? 椎名(しいな)ちゃんと一緒に居るんじゃないのか?」

 

 オレが久し振りにクラスメイトとの雑談を楽しんでいると、山内が辺りをきょろきょろと見ながらそんな事を言ってきた。

 

「……居ないが、どうしてそう思うんだ?」

 

「いやさ、陰キャのお前が用もなしにここに来るのも可笑しいだろう。ましてや一人でさ。だから疑問に思ったんだよ」

 

「椎名はオレと同じで人混みが苦手だからな、仮に誘っても遠慮されるさ」

 

「ふぅーん」と言いながらも、山内は疑惑の目を送ってくる。確かにオレがここに一人で居るのは可笑しいかもしれないな。

 これは千秋が戻ってくる前に会話を終わらせた方が良さそうだ。

 

「それで、二人は何の用で来ているんだ?」

 

 オレが尋ねると、池が「あっ、そうだった!」と声を上げた。

 

「実はさ、今度心ちゃんの誕生日で、誕生日会があるんだよ。桔梗(ききょう)ちゃんから招待を受けてさ!」

 

「なるほどな。さしずめ、誕生日プレゼントを買いに来たということか」

 

「そういう事だ! どうだ綾小路、羨ましいだろう! 俺と寛治は女の子の誕生日会に呼ばれる程の人徳があるんだぜ!」

 

 そうか、とオレはひとまず頷いておいた。

 オレも誘われた事は言わない方が良さそうだ。山内の機嫌が良くなるよう、話を合わせる。

 だが、持ち上げ過ぎたのだろう。

 彼は鼻穴を膨らませると、「そうだ!」とにやけながら突拍子もない事を言い出した。

 

「決めた! 俺夏休み中に、佐倉(さくら)に告白する!」

 

「「えっ」」

 

「今の俺なら、きっと佐倉も受け入れてくれる筈だ! なあ、お前らもそう思うよな!?」

 

 オレと池は文字通り固まるしかなかった。顔を見合わせ、視線を交差させる。どうやら、オレたちは同じ考えをしているようだった。

 先に口を開けたのは池だった。慎重にしながら、山内へおもむろに尋ねる。

 

「なあ、春樹。お前が佐倉に惚れてるのは何回か聞いていたけどさ……ちょっと急なんじゃないのか?」

 

「そんな事ないだろ。俺が佐倉にハートを射抜かれてから、もうすぐでひと月だぜ。寧ろ遅いくらいさ」

 

「いやでもさ、お前、佐倉とまともに話した事すらないんだろ。この前俺に、そう相談してきたじゃないか」

 

 どうやら山内はオレ以外の友人にも相談をしていたようだった。

 池に図星を突かれたのか、山内は「うぐっ」と呻き声を上げる。池は真面目な表情でさらに続けた。

 

「これは俺の善意だけどな、ろくに話したこともないのに告白だなんて、断られるに決まっているさ。佐倉ならしないだろうけど、最悪、クラス中の女子に知れ渡る事になるぞ」

 

 山内は段々と顔を青くしていった。池の言った最悪のパターンを想像して、身を震わせる。

 逡巡の末、オレも池に加勢する事にした。

 

「告白はまだ早いと、オレも思う。もう少し待った方が良い」

 

「……じゃあ、いつになったら良いんだよ。俺はいつになったら佐倉と付き合えて、きゃっきゃうふふなリア充生活を送れるんだよっ」

 

 悲壮な表情を浮かべ、山内は嘆いた。今にも世界を憎み出しそうだ。

 そして、オレは彼に掛ける言葉が見付からなかった。

 何故ならオレは、山内の告白が失敗するであろう事を知っている。山内から相談を受けていると同時に、佐倉からも相談を受けているからだ。

 佐倉から直接的な言葉を聞いた訳ではないが、彼女の様子から考えられるに、もし告白されたら断るだろう。

 とはいえ、それは現時点での話だ。今後佐倉が山内のアプローチを受けて、考え方が変わる可能性は零ではない。

 

「平田や綾小路みたいに、楽しい青春を過ごしたいんだ! 可愛い彼女を作って、沢山遊んで、そして、そして……! うへっ、うへへへへへへへへっ」

 

 そう言って、山内は気持ち悪い笑い方をした。学校でならまだしも、公共の場ではやめて欲しい。現にほら、周囲の人間から奇異の眼差しを送られてくるから。そのうち警備員を呼ばれるかもしれないな。

 

「ほ、ほら、行くぞ春樹! 目的を忘れるなよ、俺たちは心ちゃんの誕プレを買いに来たんだぞ!」

 

 敏感に空気を感じ取ったのだろう、池は山内の腕を取ると、そのまま引き摺るようにして離れ始めた。

 

「じゃ、じゃあな綾小路。また会おうぜ!」

 

「ああ、またな」

 

 別れの挨拶をし、オレは二人を見送った。暫くは奇怪な笑い声が響いていたが、やがてそれもなくなる。

 出来ていた人集りも事態の収束を察したのか、ぞろぞろとなくなっていた。ふぅ、と息をついていると、千秋が戻ってくる。

 

「どうしたの? 何か疲れてる?」

 

 そう言って、千秋は不思議そうに首を傾げた。小休憩をとっていた人間がどんよりとした雰囲気を出しているのだから、それは当然だ。

 オレは彼女に今起こった出来事を話そうかと思ったが、やめておく事にした。何でもないと答えるのには無理があったが、追及が飛んでくる事はなかった。

 

「それで、そっちはどうだった? 何かめぼしい物はあったのか?」

 

「ううん、特に何も。やっぱり、数週間じゃ品揃えは大して変わらないね」

 

 数週間、というのは豪華客船での旅行期間のことを指しているのだろう。

 残念だったなと声を掛けつつ、オレはベンチから立ち上がる。そして、移動しようと声を掛けた、その時だった。

 

「……ッ!」

 

 千秋が表情を強張らせ、鋭く息を呑む。僅かに後退し、瞳を揺らした。

 只事ではないと思い視線を向けると、そこには数人の女子高校生が立っていた。

 オレも、そして千秋も彼女たちの事は知っていた。それもその筈、彼女たちはクラスメイトだった。

 逃走は逃がさないと言わんばかりに、オレたちが何か行動に移すりよも先に、向こうが先手を打ってきた。

 

「久し振り、松下さん。それに、綾小路くんも」

 

 篠原(しのはら)さつきはそう言って、オレたちに挨拶をしてきた。

 言葉だけ抜き取れば、それは何て事のない普通の挨拶。だが、オレも、そして千秋もそれが普通ではない事を感じ取った。

 何故ならば、篠原から嫌悪の眼差しが送られてきていたからだ。

 

 

 

§

 

 

 

 この状況を全く想定していなかったのか、と聞かれたらそれは否だ。それ故にオレは、今直面しているこの状況に比較的冷静でいられた。

 だがしかし、それはあくまでもオレの話だ。オレの横に立っている栗色の髪の少女──松下(まつした)千秋(ちあき)は違う。

 

「……篠原(しのはら)さん」

 

 千秋は(うめ)くようにして目の前に立っている人物──篠原さつきの名前を呟くと、それきり口を閉ざした。

 彼女もオレと同様、この状況を全く想定していなかった訳ではないだろう。夏休みという長期休暇のこの時期、大型複合施設であるケヤキモールに生徒が遊び先として選ぶのは何ら不思議な事ではない。現にオレたちがそうであり、クラスメイトと鉢合わせる事は充分にある。それこそ、先程オレはクラスメイトである(いけ)山内(やまうち)の二人に会ったばかりだ。

 だがいくら想定していようとも、実際に直面すると思うように行動出来ないのは何ら珍しくない。

 

「ふぅーん」

 

 篠原がオレと千秋を交互に見ながら、そう呟く。その剥き出しにされている嫌悪という感情に、千秋は動揺を隠せない。

 しかし、それは千秋に限った話ではなかった。

 篠原の友人たちもそれは同様であり、彼女の背後で慌てている様子が見て取れた。千秋と篠原の仲が良好なものではなくなった事を、彼女たちは知っているのだろう。こういった人間関係の変化を、思春期である女子高校生がキャッチしない筈がない。ひそひそと囁き声を交わし、遠くから無遠慮に視線を飛ばしてくる。

 そしてその中には、オレの友人である櫛田(くしだ)桔梗(ききょう)も含まれていた。可愛らしくアワアワとしながら、事態の行く末を見守っている。彼女の本性を知っている身からすれば、それが演技なのは分かりきっている事だった。内心はさぞかし愉快な事になっている事だろう。

 

 ──助けてくれ。

 

 オレがアイコンタクトを送ると、それを拾った桔梗はどこまでも邪悪に笑った。さしずめ、魔王のようだ。

 だがその邪神に(すが)るしか、この状況を打破する術はない。第三者、()つ、クラスの人気者である彼女にしか出来ない事だ。とはいえ、それが分かっているからこそ、彼女は悪い笑みを浮かべているのだが。

 

 ──貸し一つだよ。

 

 桔梗はパチッとウインクすると、わざとらしく「あれ?」と声を出した。当然、皆の視線は彼女に集中する。千秋と松下以外の視線を浴びた彼女は、人好きのする笑みをにっこりと浮かべた。

 

「松下さんと綾小路(あやのこうじ)くんが一緒に居るだなんて、珍しいね?」

 

「……まあ、確かにそうだな」

 

「それも見た所二人きりみたい。あっ! もしかして、付き合っているのかな!?」

 

 助けてくれとは伝えたが、この助け方は違うだろ。非難の眼差しを送るも、桔梗は何処吹く風だった。

 篠原の友人たちが、桔梗の爆弾発言に声にならない悲鳴を上げる中、桔梗はさらに言った。

 

「あれれ? でも確か、綾小路くんは椎名(しいな)さんと付き合っていなかったっけ?」

 

「あれれー?」と桔梗は不思議そうに可愛らしく首を傾げる。オレからしたらそれが、天使の笑みではなく悪魔の笑みにしか見えない。

 桔梗の目的は分からないが、オレに出来ることは事実を言うことだけだ。

 

「面白い事を言うな、櫛田。残念だが、オレは誰とも付き合っていないぞ」

 

「あっ、そうだったんだ!? クルージングの時も、二人が一緒に居る所を見た子が多くいたから、てっきりそうだと思っていたよ! 中には、綾小路くんが椎名さんに膝枕されている所を見た子もいたし!」

 

「…………まあ、仲が良い事は否定しないが」

 

 オレがそう言うと、桔梗は「そうだよね!」と、深く頷いた。それから、彼女は千秋に視線を送りつつ言った。

 

「でも、知らなかったなぁ……。綾小路くん、松下さんとも仲が良かったんだねっ」

 

 少なくとも一学期の間、オレと千秋には何も接点がなかった。それが今はこうして一緒に居るのだから、何も知らない生徒からすれば不思議でしかないだろう。

 そして、その何も知らない篠原の友人たちは桔梗の言葉を受けてまたもやひそひそと言葉を交わす。

 

「実際の所、どうなのかな……?」

 

「綾小路くんがCクラスの椎名さんと仲が良いのは周知の事実だけど……」

 

「そうだよね。この前のランキングでも平田くん軽井沢さんのカップルを差し置いて、堂々の一位だったもんね……」

 

「でもさ、学校がない夏休みにわざわざ会うのも可笑しくない?」

 

「ある程度の関係を築いているのは間違いないよね」

 

 などと、彼女たちは続々と推測を口にする。

 オレは内心、深々とため息を吐いた。こうなる事は分かっていたものの、面倒臭い事に変わりはない。

 だがしかし、こうなったのはオレの責任だ。全ての原因はオレにある。

 例えば、もし千秋と篠原がこのような冷えた関係になっていなければ、この場はもっと明るい雰囲気になっていた筈だ。今尚、根も葉もない憶測を口にする彼女たちも、幾許かは変わっていただろう。

 行動には責任が伴う。当たり前の事だ。そして、その責任をオレは少しでも果たさなければならない。オレは閉ざしていた口を開けると、この場に居る全員に聞こえるように言った。

 

「ここに居る千秋とは、この前の特別試験の時に仲良くなった。その時に遊ぶ約束をしていてな、今日がその日だったんだ」

 

 オレが下の名前を言うと、篠原を含む全員が各々の反応を示した。

 それらを無視しながら、オレは言わなくても良い事を敢えて続けて言った。

 

「そうだな……こう言おうか。他クラスを含めた女子生徒で最も仲の良いのが椎名だとしたら、千秋はDクラスの女子生徒で最も仲が良い」

 

「なん……!? ちょっ……!? 清隆くん!?」

 

 オレの言葉で我を取り戻した千秋が驚愕の声を上げる。

 とはいえ、彼女に対応している時間はない。

 考える時間を与えないよう、オレはさらに続けた。

 

「そういう事だから、ここで失礼させて貰う。この後は一緒に、晩御飯を食べる約束をしているんだ」

 

 一方的に別れを告げ、オレは全員の目の前で千秋の手を取る、ゆっくりと歩き始めた。

 愕然としているクラスメイトの横を通り過ぎる。そして、最後尾に居る桔梗と一瞬だけ視線が交錯した。彼女はやはり愉快そうに嗤っていて、真意は分からない。

 その攻撃的な笑みをオレは脳に刻みつつ、千秋の手を引きながらクラスメイトから離れていく。

 

「待って」

 

 しかしながら、背後に制止の声が掛かる。無視すれば良かったのだが、千秋の足が止まってしまい出来なかった。

 オレは顔だけ振り向かせ、声主に何の用かと目で尋ねた。

 

「一つ、聞きたい事がある」

 

 篠原はそう言うと、オレに近付いてきた。そして、周りに聞こえないぎりぎりの声量で尋ねてくる。

 

「綾小路くん、あんたが松下さんを使ったの?」

 

「質問を質問で返すようで悪いが、何の事を言っているんだ?」

 

「あんたが松下さんに、軽井沢(かるいざわ)さんを責め立てるように指示を出した。違う?」

 

 篠原さつきの長所は、確たる『自分』を持っている所だろう。自分の思った事、感じた事、考えた事を即座に行動出来る人間は中々居ない。ただでさえ同調圧力に日本人は弱く、それ故に彼女のような人種は非常に稀有だ。

 彼女は特別試験で松下千秋が女王である軽井沢恵を弾劾した時から、不思議でならなかったのだろう。軽井沢の下着が盗まれたという事件が起こった直後、普通なら周りの人間は同情する。だがしかし、千秋がとったのは慰めではなくて批判。盗まれる軽井沢にも問題はあったのではないか、という指摘だ。

 それまで彼女たちは曲がりなりにも友人関係にあった。為人はある程度互いに知っている仲だ。

 それ故に彼女はずっとこれまで、あの時から疑念を抱いていたのだろう。何故、松下千秋はあの時にあのような突発的な行動をしたのだろうか、と。

 そして今日、千秋と共に居るオレを見て確信したのだ。

 松下千秋の背後に居るオレ──綾小路清隆という存在に。

 

「ああ、そうだ。オレが千秋に指示を出した」

 

 オレが事実を認めると、篠原は一瞬だけ目を見開いた。そして、敵意を含んだ目で睨んでくる。

 

「前々から思っていたけど、私、綾小路くんの事嫌い」

 

 そう宣言すると、篠原はクラスメイトの下に戻っていった。最後にオレと千秋を一瞥してから、雑踏の中に姿を消す。

 暗鬱とした空気がオレたちの間に流れる。数分前まではそれなりに楽しい雰囲気だったと言っても、信じる者は少ないだろう。

 ここに長居していても状況は好転しない。そう判断したオレは、千秋に「行くか」と声を掛けた。

 時間はまだ早かったが、目的である飲食店が立ち並ぶ区画に向かう。様々な料理を扱った専門店が看板を立てており、料理の良い匂いが鼻腔をくすぐった。そして数分後、オレたちは目的地に到着する。

 

「このお店?」

 

「ああ、そうだ」

 

 オレが頷くと、元気を取り戻しつつあった千秋は「ふぅーん」と呟いてから、

 

「見た所焼肉屋のようだけど……何か理由でもあるの?」

 

 と、首を傾げてみせた。

 オレが案内したのは、彼女が言った通り焼肉屋であった。マスコットのぶくぶくと太った大きな牛が看板に描かれており、「ボクを食べて食べてー!」と言っている。食べられる側がこの台詞を言うのは色々と問題な気がするが、触れるのはやめておこう。

 何でもこの焼肉屋は高級な焼肉を安く提供している事で有名らしい。ネットで見た掲示板に書かれていた内容を思い出しつつ、オレは質問に答えた。

 

「特に深い理由はない。ただ、オレは人生で一度も焼肉を食べた事がなくてな」

 

「えっ、それ本当?」

 

「本当だ。まあ、両親が厳しくてな。あまり自由が利かなかったんだ。今は親の目もないから、食べてみたいと思ってな」

 

 事情を説明すると、千秋はとても驚いたようだった。

 

「確か、カラオケもこの前が初めてだって言ってたよね。ご両親、そんなに厳しかったんだ?」

 

「……ああ、それはもう厳しかったな。──まあ、オレのつまらない身の上話は置いておくとして、中に入ろうか」

 

「うんっ」

 

 店内に入ると、肉の焼ける音とその匂いがオレたちを歓迎した。すぐに、美人な店員が対応してくれてテーブル席に案内してくれる。

 

「個室なんだ」

 

「ああ、その方が良いだろうと思ってな。そこだけは事前に調べてきた」

 

 防音室である事も確認済みだ。これで心置きなく、二人だけの時間を楽しむ事が出来る。邪魔者は居ない。

 千秋と向かい合って座ったタイミングで、店員がにこやかに笑いながら話し掛けてきた。

 

「お客様、当店は初めてのご利用ですか?」

 

「ええ、そうです」

 

「畏まりました。それでは、当店について説明させて頂きます。当店は──」

 

 注文方法やおすすめのメニューなどの説明をすると、店員は「それでは、ごゆっくりどうぞ」と一礼してからここを後にした。

 オレは改めて店内を見渡した。豪華な内装にも驚きだが、総じて店員のレベルが高い。美男美女ばかりだと、ここが本当に焼肉屋なのかと疑ってしまうというものだ。

 

「ふふっ、清隆くんソワソワしているね」

 

 おしぼりをオレに手渡しながら、千秋が微笑ましいものを見るような目で、そう笑った。

 そうだな、とオレは素直に頷く。この学校に来てから数ヶ月、オレは『初めての経験』を多くした。だがしかし、まだまだ多くの『未知』がこの世界にはある。

 まずは単品ずつ注文していくのか、食べ放題かを選ぶ事になる。「清隆くんは男の子だから、食べ放題の方が良いと思うな」という千秋からの助言を受け、これはすぐに食べ放題で決まった。

 先程の店員が網をセットしている間、オレはタッチパネルを操作しながら──近年はこれを取り扱っている店が増加しているらしい。実際、学校敷地内にある店の殆どはこれを採用している。恐らくは運用試験も兼ねているのだろう──千秋に尋ねた。

 

「千秋はどれが良い?」

 

「私は奢って貰う立場だから、どれでも良いよ──って言いたいけど、今回はそうもいかないかな」

 

「……? どういう事だ?」

 

 オレの疑問に、千秋は得意気に胸を張りながら答えた。

 

「焼肉にはね、清隆くん。注文の順番があるの」

 

「……なるほど?」

 

「その顔は分かってなさそうだね。まあ……簡単に言うと、より美味しく食べる為のセオリーかな」

 

 例えば、と彼女は続けた。

 

「最初はタン塩、これに限るね」

 

 すると、網をセットし終えた女性店員が感心したようにぱちぱちと拍手をした。

 オレたちが視線を送ると、彼女は「申し訳ございません」と謝罪しつつも、恐る恐るといった具合に言う。

 

「そちらのお客様の博識さに驚いてしまいました。高校生でご存知の方は中々見掛けないものでして」

 

「あー、いえ。父から教えて貰っただけですから……」

 

「失礼致しました。ごゆっくりどうぞ」と、店員はオレたちの前から姿を消した。

 このまま、頬をやや赤く染め上げている千秋を観察していても面白そうだが、それは可哀想か。

 

「注文は千秋に任せても良いか。次回の参考にしたいから、教えてくれると助かる」

 

「うんっ」

 

 千秋は笑顔を浮かべると、タッチパネルを操作した。暫くすると、注文した肉が運ばれてくる。

 一番最初に運ばれてきたのは、先程話題に出たタン塩だった。

 

「私が見本を見せるね。こうやって焼くんだよ」

 

 そう言いつつ、千秋はトングで肉を挟むと網の上へ丁寧に置いた。目で促され、オレも見様見真似でやってみる。だが、狙った場所から少しズレたところに肉は着地してしまった。

 

「意外に難しいな……」

 

「なら、どんどん焼いていこっか。あっ、でも焼き過ぎには注意してね。焦げると大変だから」

 

「わ、分かった」

 

 二、三枚とタン塩を網の上に置いていく。

 それから四分が経っただろうか。「そろそろ取ろう」と千秋が言い出した。取るというのは、この焼けた肉を網の上から取り出す事だろう。

 オレは近くにあった肉にトングを伸ばすも、

 

「あっ、待って!」

 

 と、制止の声が出される。オレがびくっと手を止めると、千秋は真剣な表情でオレが取ろうとしていた肉を凝視していた。

 

「そのお肉、まだ早いかな。こっちだったら大丈夫だと思う」

 

「な、なるほど……」

 

 今度は、許可が出た肉にトングを伸ばす。すんなりと取れると思っていたのだが、肉が網に張り付いていて難しい。力任せで強引に取ると、肉が千切れてしまった。

 千秋は一度笑うと、こうやるんだとばかりに綺麗に取ってみせた。

 

「おお……!」

 

 称賛の眼差しを送ると、千秋はドヤ顔になった。そのまま、ひょいひょいと慣れた動作で踊っていた肉を回収する。

 そのタイミングで、肉とは別に注文していたご飯やスープといった料理が運ばれてくる。香ばしい匂いに、オレは腹の虫が鳴るのを止められなかった。そしてそれは千秋も同じようだった。

 

「「頂きます」」

 

 二人だけの夕食が始まった。タン塩は独特な噛み応えがありつつも、あっさりとした淡白な味わいでとても美味しかった。

 その後も千秋主導の元、様々な肉を注文していく。タン、カルビ、ロース、赤身、そしてホルモン。

 なるほどな、とオレは腑に落ちた。タン塩を最初に食べる理由は、味付けが最も薄いからなのだろう。後に食べる肉は濃い味付けのものばかりで、最後の方にタン塩を食べたら、その肉の味を正しく味わえなくなるのだろう。

 

「こんなに美味しいご飯を食べたの、久し振り」

 

「そうだな。普段は山菜定食ばかりだからな」

 

「きみは毎食ご馳走を食べられるだけの余裕があるでしょ」

 

「そこは否定しないが、Dクラスのオレが高い物ばかり食べていたら悪目立ちするだろ」

 

 それはそうだね、千秋は頷いた。

 とはいえ、極貧生活を強いられるのもあと数日。二学期になれば、特別試験で得たクラスポイントがそのままプライベートポイントとなって振り込まれる。何事もなければ20000prは入る筈だ。他クラスと比べたら雲泥の差ではあるが、これから上げていけば良い。

 至福の食事の時間はあっという間だった。ラストオーダーも終わり、最後に頼んだデザートもついに食べ終わってしまう。タッチパネルでは滞留時間を示す数字が着々と減っていた。あと十分と少々で、会計をしなければならない。

 そしてその間に、千秋とは話をする必要がある。

 

「さっきは本当にすまなかった。かなり気分を害しただろう」

 

 まずは、先程の篠原との一件を謝罪する。深く頭を下げると、「顔を上げて」と声が掛けられた。

 

 千秋は真剣な面持ちでオレを見詰めていた。そして、おもむろに話し始める。

 

「清隆くんが謝る事は何もない。私は篠原さんではなくて、きみを選んだ。この先のクラス闘争に於いて、私に何が必要なのかを考えた結果だからね」

 

「……そう言って貰えると助かる。ならオレは、お前の選択が間違っていなかったと証明し続けよう」

 

「ふふっ、期待しているね」

 

 千秋はそう言って、優しく微笑んだ。オレは、この約束を決して忘れないよう肝に銘じた。

 

「早速だがこれからについて話をしたい」

 

「これからって言うと、二学期からの事だよね。この前きみは、個人で動くって言っていたけれど……」

 

「その方針に変わりはない。もちろん、特別試験の時はクラスに協力する予定だ。だがそれとは別に、オレ個人で動こうと思っている」

 

「私もそれには賛成かな。一学期の間、Dクラスは上手く立ち回っていたと思うけど、当然、他クラスは警戒すると思う。少なくとも、『ただの不良品の集まり』だとは思ってくれない筈」

 

 尖った生徒は多くいるが、Dクラスの基本的な能力が他クラスに劣っているのは間違いない。クラス闘争がより熾烈な争いになる以上、集団から脱却した個で動く必要が出る。

 

「当面の目標は?」

 

 千秋の質問に、オレは即答した。

 

 

 

「Aクラスへの切符──2000万prの獲得だ」

 

 

 

「異論はないよ。私も将来の事を考えたら、Aクラスの特権は是非とも欲しいからね」

 

 Aクラスの特権。それ即ち、『望む進学先及び就職先への斡旋』だ。オレはこの特権については露ほども興味はないが、2000万prには価値がある。これだけの大金があればある程度の事は実現可能だろう。

 

「だけど清隆くん、どうやってそれだけの額を集めるの? 確か、今のきみの所持プライベートポイントは20万prだったよね。百倍にするのは中々難しくない?」

 

 千秋の指摘は何も間違っていない。

 普通の方法では2000万prを手にするのは不可能に近い。だが、実現可能ではある。学校もそのぎりぎりのラインを見極めている筈だ。

 問題は、その方法だ。

 そしてそれを考える前に、まずは行うべき事がある。

 

「これはまだ仮案だが、まずは聞いて欲しい──」

 

 オレの言葉を聞くと、千秋は「ええっ!?」と驚愕の表情を浮かべた。

 

 

 

§

 

 

 

 ──千秋と遊んでから、数日後。

 

 オレは夏休みなのにも関わらず、制服を着ていた。炎天下の中汗をかきながら歩き、校舎に入る。目的地に向かう道中、一人の男子生徒とすれ違う。

 

「何故、お前が……?」

 

 そんな呟き声が出されるも、オレは聞こえなかった振りをした。世間話をするような間柄ではないし、約束の時間に間に合わなくなったら先方に失礼だろう。

 校舎は冷房が効いていなかった。とはいえ、学校がないのだからそれも当然か。不気味なほど静かな廊下を通り、階段を上がる。そして数分後、ついに目的地に到着する。

 ここに来るのは三回目か。自分の意思で来たのは、これが初めてだ。今日の話の結果によっては、今後も来る事になるだろう。

 ノックを三回すると、入室の許可が出た。オレは形式的に挨拶をしてから、おもむろに扉を開けた。

 

「久しいな、綾小路」

 

 この部屋の主──『生徒会長』堀北学はそう言って、オレを出迎えた。

 



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分岐点 IV

 

 思えば、堀北学(ほりきたまなぶ)との縁は一学期の頃から始まった。

 その時オレは偶然にも、彼とオレのクラスメイトである堀北鈴音(ほりきたすずね)が実の兄妹(きょうだい)である事を知る事になった。そして彼と軽く拳を交えるようになり、結果、興味を持たれるようになってしまった。

 その時はその場で切れる縁だと思っていた。彼との戦闘で実力を出してしまったのは完全に計算外だったが──全力ではないが、それは向こうも同じだろう──接触してくる事はないだろうと考えていたのだ。

 事実、下級生であるオレたち一年生が上級生と交流する機会は、公の場では今の所ない。部活動にでも所属していれば話は別だが、オレは無所属。向こうも生徒会と接点を持つ事はなかった。

 しかし現在に至るまで、オレと彼の奇妙な関係は続いている。DクラスとCクラスの(いさか)いである『暴力事件』の時には、情報を与えていたとは言え、オレと龍園(りゅうえん)が意図して事件を起こしたのを見抜かれた。その結果、彼はさらにオレに対して興味を示すようになった。

 人生というのは何が起こるか分からないと、心から思う。

 とはいえ、生徒会長の彼と一般生徒でしかないオレが表で関わったら周りは何事かと怪訝に思うだろう。それが分かっていたからこそ、これまでオレたちは裏で会う事しかして来なかった。

 だがそれも、今日の話によっては変わってくるだろう。

 

粗茶(そちゃ)ですが、宜しければどうぞ」

 

 案内された席に着くと、『生徒会書記』の役職に就いている少女──橘茜(たちばなあかね)はそう言いながら緑茶が入っている湯呑みを差し出してきた。鮮やかな紫紺の髪色に、特徴的な二つのお団子がとても可愛らしい。男心を擽られる男子生徒は多いだろう。

 

「さっそく話を──と、言いたい所だが。この炎天下だ、汗をかいて疲れているだろう。話はそれからでも悪くない」

 

「そう言って貰えると助かります、生徒会長。それではお言葉に甘えさせて頂きます」

 

 オレが頭を軽く下げると、堀北学は眉間に皺を寄せた。何を今更畏まっているのかと、鋭い視線を送ってくる。

 彼の気持ちはオレも分かる。自分でも気持ち悪いとは思うが、ここには橘先輩が居る。彼女が居る間は、生徒会長を尊敬している生徒を演じなければならないのだ。

 かと言って、この状況で橘先輩を無理に退室させるのは難しい。生徒会長が指示を出せば彼女は従うだろうが、疑問は抱く筈だ。

 それに、今からする話は橘先輩も決して無関係ではない。それが分かっているからこそ、堀北学は何も言えない。

 出された緑茶を飲みながら何となく室内を眺めていると、オレは僅かながら違和感を覚えた。失礼にならない程度に視線を彷徨わせる。

 すると橘先輩はそれを感じ取ったのだろう、「どうかしましたか?」と尋ねてきた。

 

「オレの勘違いかもしれませんが、この部屋にどこか違和感を感じました」

 

 素直に思った事を答えると、橘先輩はなるほどと首を縦に振った。そして教えてくれる。

 

「実はこの夏休みを利用して、この生徒会室を改装工事していました。綾小路くんが言っている違和感の正体は、恐らくそこにあると思います」

 

「なるほど……しかし改装工事ですか。たったひとつの部屋にそこまで大掛かりな事をするだなんて、学校はよく許可を出しましたね」

 

「この学校の生徒会は普通の学校とは違いますからね」

 

 そうなんですね、とオレは相槌(あいづち)を打つ。

 

綾小路(あやのこうじ)くんとお会いするのは随分と久し振りですね。こうして面と向かって話すのは、初めて会った時以来でしょうか」

 

「『暴力事件』の審議会の時は、お互い忙しかったですからね」

 

 審議会の時、橘先輩は生徒会の人間として司会と書記の役割を担っていた。そしてオレはクラスの代表として出席しており、ろくに話す事も出来なかった。

 

「あの時は大変でした。まさか夏休みを目前に控えた状況で問題事が起きるとは思ってもみませんでしたからね」

 

「それは本当に申し訳ないです。しかし、あの事件でクラスメイトは大きく変わりました。もちろん、良い意味でです」

 

「それなら良かったです。とはいえ、それが一時的なものでは駄目ですよ、綾小路くん。あの子が立派になるよう、助けてあげて下さいね」

 

「無論です」

 

 オレが力強く頷くと、橘先輩は満足したように笑った。『暴力事件』の真相を知らないであろう彼女には、この対応をするしかない。

 その一方、真実を知っている堀北学からすれば、これは質の悪い喜劇にしか映らないだろう。

 

「綾小路くんたち一年生が入学してから四ヶ月が経ちましたが、この学校はどうでしょうか?」

 

「そうですね……辛い出来事も沢山ありましたが、総じて言えば最高だと思います。ここまで勉学に専念出来る環境を、オレは知りません」

 

 オレの偽りの言葉に、橘先輩は目を見開いた。「それは良かったです!」と朗らかに笑う。

 オレはさらに続けた。

 

「ただ、突然開催された『特別試験』には驚きました。オレだけではなく、殆どの生徒が度肝を抜かされましたよ」

 

「……それは、そうでしょうね。私たち三年生も、初めて臨んだ『特別試験』の事は今なお覚えています。それだけ衝撃的でしたから」

 

「恥ずかしながら、オレたちDクラスは最初何も動けませんでした。他クラスはすぐに行動を開始していたというのにです。オレたちが『不良品』の烙印を押されている理由を痛感しましたよ」

 

「そんな事はありません。想定外の場面に自分が直面した時、すぐに行動出来るのはもちろん素晴らしい事ではありますが、それが裏目に出る事も多々あります。まずは考える事が大事です」

 

「ありがとうございます。前々から思っていましたが、橘先輩は優しいですね。Dクラス所属のオレにも、分け隔てなく接してくますから」

 

 最後の言葉は本心だった。Dクラスは学校公認の『不良品』。その評価をオレを含めたDクラスの生徒はされている。快進撃のおかげで『オレが所属している一年Dクラス』はその風潮はなくなりつつあるが、他学年は『Dクラスだから』という理由で嘲笑される事は珍しくないと聞く。そしてそれを裏付けるように『他学年のDクラス』のクラスポイントの数値は絶望的だ。

 もちろん、それは『オレが所属している一年Dクラス』も同じ事。二学期以降もこの快進撃が続くかは分からない。他クラスも警戒を上げるだろう。この状態を保つのは極めて難しい。

 それだと言うのに、橘先輩は初めて会ってから現在に至るまで、『Dクラスだから』とは一言も言って来なかった。生徒を公平に扱わないといけない生徒会に所属しているからというのもあるだろうが、これは彼女の性質による所が大きいのだろう。

 

「以前にも言いましたが、『クラス』という外側で判断するのではなく、『その人』と向き合う事が大切だと私は思っていますから」

 

 橘先輩は照れくさそうにしながらも、確たる意思をもってそう言った。

 彼女の言葉は事実その通りだろう。

 だがしかし、文明が発達している現代に於いても理不尽な差別は存在する。人はそれを『悪』だと言うが、無意識でそれを行っている事は珍しくなく、またそれに気が付く事はないのだ。

 

「流石、堀北生徒会長が最も信を置いているだけはありますね」

 

 オレがそう褒めると、橘先輩は顔を真っ赤に染め上げた。そして俯き、表情を隠す。

 しまった、やり過ぎたかと反省していると、咳払いが一つ出た。オレと橘先輩が揃って視線を送ると、そこには無表情の堀北学が居るではないか。もしも妹が見たら卒倒しそうだな。

 

「そろそろ雑談の時間は終わりだ」

 

 生徒会長の言葉で、それまで賑やかな雰囲気はピリッとした緊迫としたものに変わった。

 橘先輩もスイッチをオフからオンにし、真面目な表情を浮かべる。オレはもう少し彼女との雑談を楽しみたかったが、部屋の主にそう言われては断れない。

 

「綾小路、まさかお前自らから話をしたいと言ってくるとはな。想像もしていなかったぞ」

 

「そうですか。しかし生徒会長、お言葉ですがオレから言い出さなかったら貴方から誘いがあったのでは? 少なくともオレはそう思っていますが、違いますか?」

 

「違わないな。お前とは一度、夏休みの間にゆっくりと話す時間が欲しいと思っていた。だがまさか、こうして生徒会室に乗り込んでくるとは思っていなかった」

 

 この部屋は堀北学の領域と言っても良い。つまりオレは、敵地に真正面から突っ込んだようなもの。

 オレのやり方を多少なりとも知っている彼からすれば、オレの行動は不可解なのだろう。

 

「随分前に話した──『友好的な付き合い』。それについて話をしようと思いました」

 

「ほう……?」

 

「堀北生徒会長と、オレは仲良くしたいと考えています。そのような相手に誠意を見せないのはおかしな話でしょう」

 

「……なるほどな。お前の言いたい事は分かった」

 

 堀北学はそう言うと、雰囲気を一変させた。それは生徒会長という表の顔に、堀北学という個人の裏の顔を足したもの。

 橘先輩は一瞬だけ彼の変化に驚くも、すぐに表情を戻した。それから、オレを見詰める。

 

「綾小路くん……きみには堀北くんにその顔をさせるだけの『何か』があるという事ですか」

 

「それはどうでしょう、橘先輩。少なくとも堀北先輩はそう思ってくれているようですが」

 

 オレは橘にそう答えると、堀北学に視線を送った。橘もオレに倣いそうした。

 オレたち二人の視線を受け──彼は眼鏡を掛け直すと、瞳の光をより一層強くする。そしておもむろに口を開けた。

 

「確かに、オレは以前お前に『友好的付き合いを望む』と言った。その意味が分からないお前ではないだろう。それ故に俺が問う事は一つだ。覚悟はあるのか」

 

「覚悟、か。それはどうだろうな」

 

 だが──と、オレは続けた。

 

「だが、欲しい物が出来た。その為にオレはあんたと手を結んでも良いと思った」

 

「それは、俺を利用するという事か?」

 

「それが互いの利になる。オレはオレ自身の為にあんたを利用し、あんたはあんた自身の為にオレを利用する。それだけの話だろう」

 

 視線が交錯する。

 オレたちは視線を決して逸らす事なく、睨み合うようにして見つめ合った。

 先に緊張を解いたのは、堀北学だった。微小を浮かべ、どこか柔らかい声音で言う。

 

「随分と良い顔をするようになったな、綾小路」

 

「……良い顔?」

 

「ああ、そうだ。お前の欲しい物が何かは知らないが、余程大事な物なのだろう。初めて会った時とは別人な印象を受けるぞ」

 

「……どうかな。オレは変わったつもりはないが、あんたがそう言うのならそうなんだろう」

 

 オレがそう答えると、堀北学はもう一度笑った。

 そして、オレたちの会話を聞いていた橘も同意するように言う。

 

「私も堀北くんと同じです。とはいえ、二人のやり取りを見て確信しました。綾小路くん、きみ、演技をしていましたね。さっきまであった礼儀正しさが、今のきみからは微塵も感じられませんから」

 

「平たく言えばそうなりますね」

 

「……むっ、全く悪びれません!」

 

 怒っているのか、ぐわぁー! と身体全身を使う橘。オレはそんな彼女に言った。

 

「すみません、先輩。オレは貴方に『先輩を尊敬している後輩』を演じていました」

 

「やっぱり! 可笑しいと思っていたんですよ! まだ数回しか話した事ないのに、何でこんなに持ち上げてくれるのかなって!」

 

「とはいえ、貴女に言った『優しい』という言葉は本心ですが」

 

「……!? で、ですが! それが本当かどうかは分からないじゃないですか!」

 

「そうでしょうね。だからオレはこれから、先輩にそれが真実であると誠意を見せるしかありません」

 

 橘は「むむむ……!」と唸りながらも、オレを睨んだ。それから数十秒後、苦い表情と共にため息を吐く。

 

「思う所がない訳ではありませんが、まあ良いです。その代わり、綾小路くん」

 

「はい、何でしょう」

 

「その取って付けたような態度はもうやめて下さい。堀北くんと同じような対応で構いません」

 

「分かりました、そうさせて貰います」

 

 オレが神妙に頷いてみせると、橘は暫く何か言いたそうに口をもごもごとしていた。しかしそれ以上何かを言うことはなく、口を閉ざす。

 そんな彼女にオレは気になっていた点を尋ねた。

 

「ところで、橘先輩は普段生徒会長の事を『堀北くん』と呼んでいるんですね」

 

「んなっ!?」

 

「さっきからずっとそう言っているので、少し驚きました。いえ、別に不思議でも何でもないんですけどね」

 

 ただずっと、橘は堀北学の事を『生徒会長』や『会長』と呼んでいた。二人は三年Aクラスで、クラスメイトでもある。だから何も可笑しくはない。ただずっとそのように聞いていたから、オレが勝手に新鮮さを覚えただけだ。

 

「話を戻そう」

 

 口をアワアワとする橘を華麗にスルーし、堀北学は脱線していた話を戻した。

 

「お前が協力してくれると言うのなら、俺が断る理由はない。元はと言えば俺から申し出た事だからな」

 

 この瞬間から、オレと堀北学は協力関係になった。

 

「今の所、オレからあんたに頼む事はない。だからまずは、あんたがオレに何を望むのか聞きたい」

 

 オレがそう促すと、彼は無言で頷いた。理知的な瞳を強く輝かせる。

 

「単刀直入に言うが──綾小路、お前には生徒会に入って貰いたい。そして、『副会長』に就いて貰いたい」

 

「えっ!?」と橘書記が言葉を漏らす。それから彼女は恐る恐る本気かと生徒会長に視線を送った。だが彼は何も言わず、言葉を撤回しない。その意味を理解した彼女は呆然とするしかなかった。

 だが、それはオレも同じ思いだった。生徒会に勧誘される事は想定していたが、まさか『副会長』とはな。

 

「まずは聞かせてくれ。今まで無所属だったオレが『副会長』にいきなり就く事は可能なのか?」

 

「可能だ。この学校の生徒会では、『副会長』の上限は二名となっている。そのうち一枠は既に埋まっているが、生徒会長であるオレならその一枠を埋める事は可能だ」

 

「ま、まって下さい会長! 確かにそれは校則上可能ですが、例年は一人です! それに強引に彼を『副会長』にしたら、他の役員から不満が出ます! いえ、生徒会に限らず他の生徒からも苦情が出ても可笑しくありません!」

 

 我に返った橘がそう叫ぶも、生徒会長は何も言わない。無言で部下の訴えを受け止める。

 とはいえ、橘書記の言う事は尤もだ。

 表向きは何の実績も持たないオレが突然『副会長』に就任したとしても、周りはあまり歓迎しないだろう。

 

「それだけならまだ良いです! 最悪、会長に責任が問われます!」

 

『副会長』として何の成果も出せなかった場合、その責任はオレを推薦した堀北学に問われる事になる。『歴代最高』と評された堀北学生徒会長の名前に傷がつく事になる。堀北学の事を慕っている橘茜からしたら、それは絶対に避けたい事態なのだろう。

 さらに最悪なのは、責任を問われた堀北学の求心力が無くなる事だ。彼らはあと半年と少しでこの学校を卒業する身。Aクラスと言えど、絶対の保証はない。三年生のクラス闘争にさらなる爆弾が投下される事は確実だ。

 それが分からない彼ではないだろう。それを分かっていながら、彼は強硬策に出る必要性を感じているのだ。

 

「何があんたをそこまで駆り立てる? まずはそれを教えて欲しい」

 

 オレが質問すると、堀北学は答えた。

 

「俺は現在に至るまで、この学校が築き上げてきた伝統を固持し続けてきた。それはこの学校の仕組みやルールに納得出来ているからであり、それが正しいものだと思ってきたからだ」

 

 だが──、と彼は続けて言った。

 

「その根底は今、覆ろうとしている」

 

「どういう意味だ?」

 

「……生徒会長の俺が言う事ではないが、この学校は来年から大きく変わるだろう。それが良い方向なら歓迎していただろうが、俺の予見では悪い方向に変わる」

 

 悪い方向、か。

 

「その具体例は?」

 

「そうだな──来年、この学校からは退学者が溢れかえるだろう」

 

「それの何処が悪いんだ? この学校は容赦なく『退学』を言い渡すだろう。例えば定期試験で赤点を取った時や、あるいは今後、特別試験でも『退学』というペナルティが科せられるだろうさ」

 

「それが本来の形なら、まだ良い。それがその者の実力不足なら、それは本人の責任だ。違うか?」

 

「まあ、そうだな。つまりあんたは今後、乱れた規律によって『退学者』が沢山出ると、そう言いたいんだな」

 

「その通りだ」

 

 なるほど、とオレは頷いた。

 話を鵜呑みにするなら、堀北学は生徒会長に就いてからずっと、この学校の伝統を守ってきた。つまりは、変化する事を避けてきた。保守的とも取れるだろう。

 しかし、この伝統は壊されようとしていた。当然彼はそれを阻止しようと思ったが、それは難しいと考えた。何故ならあと二ヶ月程で生徒会選挙が行われ、恐らく目の前の男は生徒会長を退任する事になるからだ。

 

「遅過ぎるとは自分でも思っている。何故こうなるまで放置していたのかとな。だが、過去を悔いても意味はない。俺は少しでも規律を守る為、対抗出来るだけの勢力を作ろうと考えた」

 

 それに選ばれたのがオレ、という事か。

 

「あんたがそうまでして警戒しているんだ、相当の実力者なんだろうな」

 

 目の前の男はこの学校の全生徒の中で最強の一角として数えられるだろう。

 

 いったい誰だと目線で投げ掛けると、彼は言った。

 

「──南雲雅(なぐもみやび)という男だ」

 

 南雲雅。

 それが堀北学の、引いてはオレの『敵』になり得る存在の名前か。

 当然と言うべきか、オレはその名前に覚えはなかった。

 

「お前が知らなくとも無理はない。南雲は二年生だからな」

 

「その南雲が危険だと、あんたは考えているんだな」

 

「その通りだ。これまで南雲は、俺の目の前では『先輩を尊敬している後輩』を演じてきていた。だが生徒会選挙が近付いてきた今、南雲は隠してきた本性を徐々に見せるようになった」

 

 そこでオレは違和感を覚えた。

 今目の前の男は『俺の目の前では──』と言った。この発言から想像するに、南雲雅は恐らく──。

 

「お前の想像通りだ。南雲は現生徒会副会長であり、次期生徒会長でもある」

 

「待って下さい、会長。まだ生徒会選挙は行われていません。確かに南雲くんは優秀な人材ではありますが、彼がそうなるとも限りません」

 

「それはないな。俺たち三年生に出馬資格はなく、一年生からも出ないだろう。その気があるならそろそろ選挙活動の準備に入らないと間に合わないが、そのような報告は受けていない。一方、生徒会副会長の南雲は話は別だ。準備はしなくても良い」

 

 橘書記の台詞を一刀両断する生徒会長。

 だが、オレの疑問は尽きなかった。確かに一年生が出馬しないという彼の予想は間違っていないだろう。

 

「待ってくれ、二年生はどうなんだ。一人くらい立候補しても可笑しくはないだろう」

 

「それもない。何故なら二年生は、南雲の支配下に置かれているからだ」

 

 何だそれは、とオレは思った。

 クラスならまだ分かる。実際オレたち一年生は各クラスにリーダーがおり、そのリーダーに従ってクラス闘争を行ってきたからだ。

 だが一学年を支配下に置くのは聞いた事がない。普通の学校ならまだ話は分かるが、クラス闘争があるこの学校でそれが可能なのだろうか。

 

「お前の疑念は分かる。だが、事実だ。そうだろう、橘」

 

 同意を求められた橘は、答えづらそうにしながらも一度頷いた。

 

「……そうですね、二年生が南雲くんに支配されているのは有名な話です」

 

 二人とも嘘を吐いている様子は微塵もない。

 オレはそれを事実なのだと認識した。そうする事で、『敵』について思考する。

 つまり今後オレは、『二年生全体』との戦いに身を投じる事になる訳か。

 

「お前も分かっただろうが、『敵』はとても強大だ。この勝負は『数の暴力』という不利から始まる」

 

「……なるほどな。あんたがどうして『副会長』に就かせたいのか分かった」

 

『生徒会長』には遠く及ばないだろうが、『副会長』にもそれなりの権力が与えられる事は明白。

 堀北学はオレに戦う為の『武器』を少しでも与えようとしてくれているのだ。

 

「お前が生徒会に入るのが嫌だと言うなら、それを強制するつもりはない。『副会長』に就くと同時、南雲はお前の事を『敵』だと認識するだろう。そうではなくとも、意識はする筈だ。お前の性格を考えれば、それを避けたいと思っても責めるつもりはない。形はどうあれ、お前が協力してくれるというのならそれで良い」

 

 堀北学は続ける。

 

「知っての通り、『副会長』は『生徒会長』の次の役職だ。お前がこの先学校生活を送る上で、『副会長』という『力』が必要な時が来るかもしれない」

 

 そう言うと、堀北学は口を閉ざした。無言でオレに決断を委ねる。

 オレの『副会長』就任に反対的な立場であった橘も口を挟む事はなく、オレの意思を尊重するようだった。

 オレは目を閉じ、黙考する。

 メリット、そして、デメリット。それらを天秤にかけ、頭の中で算盤を弾く。

 そして──オレは結論を出した。

 オレはおもむろに瞳を開けると、堀北学の瞳を真正面から見詰めて言った。

 

「オレは──」

 

 オレの言葉を聞き入れ、堀北学は一度頷くのだった。

 



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葛城康平の葛藤

 

 その男──一年Aクラスに所属している葛城康平(かつらぎこうへい)は現在、窮地に立たされていた。

 それは、一年Aクラスのリーダー争いの旗色が悪い、という事。長期休暇の夏休みに入るまでは敵対派閥である坂柳有栖(さかやなぎありす)率いる『坂柳派』と、自身が率いる『葛城派』の勢力は拮抗していた。否、それ所か過激的な『攻撃』をする彼女を恐れる者が多かった為『葛城派』の方が優位に立っていた。

 それは葛城の自惚れではなく、客観的な事実だった。

 しかしながら──無人島試験。突如として行われたこの特別試験によって、『葛城派』の優位性は失われる事になる。

 特殊な事情があり豪華旅行そのものに参加出来なかった坂柳の代わりに、葛城がAクラスのリーダーに就く事になった。『葛城派』にとって、坂柳が居ない二週間という期間は最大のチャンスだった。逆に言えば『坂柳派』にとっては最大のピンチだった。

 

 ──この特別試験の結果によって、Aクラスの今後が決定する。

 

 それがAクラスの共通認識だった。

『葛城派』は葛城の指示のもと動き、一致団結して特別試験に臨んだ。『坂柳派』も内心はどうであれ、クラス闘争に負けては本末転倒だと分かっていた為表向きは葛城に従った。

 葛城は優秀な男だった。普段は『石橋を叩いて渡る』タイプであり、慎重な男だった。

 だが無人島試験に於いて、葛城は慎重さを捨て去り、強硬策に打って出た。

 それは何故か。

 それは、着実に迫ってくる他クラスに警戒をしていたからだ。

 Bクラス、Cクラス、そしてDクラス。どのクラスもリーダーを据えて万全を期して特別試験に臨んでいたが、Aクラスのみそれが出来ていなかった。入学して数ヶ月が経つというのに、未だに身内で争っている。これでは『不良品』だと言われても文句は言えないだろう。

 優秀な人材が多いAクラス。それ故に、誰をリーダーにするかで揉めたのだ。

 さらには、夏休み開始直前に起こった『暴力事件』。葛城にはどうしても、『CクラスとDクラスの不良が起こした馬鹿な喧嘩』だとは思えなかった。Aクラスの生徒は下位クラスの愚かな争いだと嘲笑っていたが、葛城はそうではなかった。恐らくは、坂柳もそうだろう。

 それはCクラスを率いる男──龍園翔(りゅうえんかける)の存在にある。葛城の見立てでは、龍園は独裁者ではあるものの、無駄な事はしない性格だと考えていた。一見すると無意味な行為なそれも、何か意味があるのではないかと。龍園の『暴力』は確かに恐ろしいが、『暴力』だけでクラスを率いるのは非常に難しい。そのうち、暴君に謀反を企てる臣下が現れても可笑しくない。だが、Cクラスの生徒は龍園に恭順を示している。それはつまり、『暴力』だけではない『魅力』が、龍園翔にはあるという事。

 その龍園が意味もなく『暴力事件』を起こす筈がない──というのが、審議会が開かれるまでの葛城の考察だった。しかしこの考察も、Dクラスの生徒──綾小路清隆(あやのこうじきよたか)が審議会を延長した事で変わる。結果的にCクラスは訴えを取り下げ、その代償として少なくないプライベートポイントを払った。あまりにも出来すぎた展開に疑問を持つも、葛城に真実を確かめる術はなかった。

 結果はどうあれ、Dクラスは事実上『完全勝利』した。誰もが『痛み分け』だと予想していたが、そうはならなかった。

 

 ──この出来事により、葛城は早急に地盤を固めなければならないと強く思うようになる。

 

 そして、満を持して挑んだ──特別試験。無人島試験のみならず干支試験でも、Aクラスは『敗北』した。特に無人島試験では言い訳の余地もない『大敗』。Aクラスの獲得ポイントは僅か20cl。他クラスとの距離を詰められてしまう結果となった。干支試験では龍園率いるCクラスが如何なる手を用いてか全クラスの『優待者』を暴き出し、単独での勝利を収めてみせた。その間、葛城に出来る事は何もなかった。リスクを冒さない無難な策ばかりを講じ、後手に回った。結果、あっさりと負けた。

 あと数日で二学期が始まる。流石の葛城も、学校への登校が憂鬱だと感じていた。先の数々の失態により、同士は多くが『坂柳派』へと寝返った。

 それを責めるつもりはない。それが正常な判断だ。自分は言わば、『終わった人間』。

 味方だと言って残ってくれた生徒には悪いが、葛城は坂柳に全面降伏しようとすら考えている。

 自分だけなら、良かった。だが自分に付き合ってくれる人間をこれ以上巻き込む訳にはいかない。坂柳は今後、徹底的に『葛城派』を潰しに掛かるだろう。彼女が不要だと判断したら、退学にすら追い込むかもしれない。それがたとえクラスメイトだとしても、彼女からしたら『葛城派』は『敵』だ。彼女の性格を考えればその可能性は極めて高い。

 その最悪を避ける為には、葛城が坂柳に服従するのが最善だ。そうすればAクラスは一枚岩になり、クラス闘争にも本腰を入れられる。下位クラスからの攻撃にも問題なく対処出来るだろう。

 

「──だが、本当にそれで良いのか……?」

 

 それまで黙考していた葛城は、そう、声に出して自問自答した。

 長い時間、葛城は考えていた。過去と、現在と、そして未来。それらを分析し、自分に何が必要なのかを模索していた。

 

「……」

 

 確かに自分は、『終わった人間』なのかもしれない。今一番、クラスに貢献していないのは間違いなく自分だ。Aクラスが二度も敗北したのはひとえに、自分の責任だ。

 だがしかし、ここで坂柳に頭を下げる事が本当に最善だと言えるのか。

 葛城は、自分がリーダーである必要はないと考えている。何故なら葛城康平という人間はリーダーの『器』はなく、あくまでもリーダーを補佐する能力に長けているからだ。

 

「俺は、どうすれば良い……?」

 

 服従か、抵抗か。坂柳有栖の軍門に下るか、あくまでも自分こそがリーダーに相応しいと虚勢を張るか。

 葛城は目を伏せ、自問自答を繰り返す。

 ここが一つの分岐点だと、葛城は分かっていた。ここで取った選択によって、今後の学校生活……引いては人生が決まると言っても過言ではない。

 優秀だからこそ、葛城は迷う。慎重だからこそ、彼は重い決断が中々出来ない。どうしても二の足を踏んでしまう。

 

堀北(ほりきた)生徒会長が俺を断ったのも、今なら理解出来るな」

 

 数時間前の出来事を思い返し、葛城は苦笑いした。

 その時だった。

 軽やかなメロディが室内に流れる。チャイムの音ではなく、一階からの呼び出し。葛城は一旦考え事を中止し、いったい誰かと思考を巡らせる。

 今日、誰かと会う約束を葛城はしていなかった。真っ先に思い浮かぶのは今なお自分を慕ってくれているクラスメイト、戸塚弥彦(とつかやひこ)だが、突然押し掛けてくるような真似をした事は一度もない。そもそも戸塚は自分のルーム番号を知っている。『葛城派』の人間も同じだ。

 それはつまり、葛城とは普段関わりのない者からの呼び出しである、という事。

 

「堀北生徒会長だろうか……?」

 

 数時間前、自分から持ち掛けた話に対して考え直し、前向きに検討してくれたのかもしれない。それは個人的なものであるが、目下悩んでいる問題が一つでも解決される事に越したことはない。

 少しの期待と共にモニターを覗き込んだ葛城だったが、その期待は裏切られる事となる。しかしそれがどうでも良いと感じられる程、彼は衝撃を受けていた。予想だにしなかった人物が、そこには映されていたからだ。

 通話ボタンを押すと、向こうもそれを認識したのだろう。安堵したかのように息を吐くと、おもむろに口を開けた。

 

「突然の来訪、すまない。大事な話がある。中に入れて貰えないか」

 

 一年Dクラス──綾小路清隆は葛城にそう言った。

 葛城は改めて、自分が今分岐点に立っているのだと自覚せざるを得なかった。

 



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葛藤康平の分岐点 Ⅰ

 

 堀北学(ほりきたまなぶ)と話をした後、オレはそのまま学生寮に戻っていた。しかし自分の部屋には向かわず、一階のモニターホンを使用する。こちらから通話を掛けると、すぐに応答があった。真面目な声音には少し警戒の色が伴っている。それもその筈。オレたちはこれまで会話も碌に交わしてこなかったからな。厳密にはその機会がなかったのだが。

 変な事を口走る前に、オレは率直に用件を伝えた。数秒後、「分かった、良いだろう」と返答があり、オレの突然のアポイントメントが受け入れられる。取り付く島がない勢いで断られると最悪考えていた為、幸先が良いと言えるだろう。

 エレベーターに乗り、上階へ。すぐに目当てのフロアに到着する。学生寮は驚く程静かで、人の気配はあまり感じられない。夏休みという事で、外出をしている生徒が多いのだろう。オレは目的地に到着すると、インタホーンを軽く押した。ピンポーン、と軽やかなメロディが出される。

 静かな足音が近付いてきて、ガチャ、と解錠音が出された。扉が開き、この部屋の主が姿を現す。

 

「──綾小路(あやのこうじ)……。まさか本当にお前だとはな……」

 

 その人物──一年Aクラス所属の葛城康平(かつらぎこうへい)はそう言うと、オレを見下ろした。

 オレと葛城の視線が交錯する。その一瞬の出来事で、葛城はこれが現実なのだと理解したようだった。

 真剣な表情になると、オレが入れるように扉を大きく開ける。

 

「世間話をしに来たわけではないだろう。入ってくれ」

 

「話が早くて助かるな」

 

 Dクラスのオレと、Aクラスの葛城が部屋の玄関前で堂々と話をしている所を見られたら、色々と面倒な事になる。少なくとも葛城にとってはそうだろう。

 その言葉に頷いたオレは、部屋の中に入った。それを確認した葛城は鍵を施錠する。招かれざる客を阻止する為という意味合いもあるだろうが、逃げ場はないぞとオレに暗に伝えているのだ。

 それから葛城は向き直ると、鋭い視線をオレに送った。

 

「お前を疑う訳ではないが、ボディチェックをさせて欲しい」

 

「分かった。携帯も電源を消そう」

 

 オレは葛城の目の前で携帯端末の電源を落とすと、さらに、ポケットに入っている物を全て取り出して床に置いた。そして両手を上にあげて、邪な感情は抱いてないと誠意を見せる。しかし葛城からの懐疑的な眼差しは収まらず、「失礼する」と一言言ってからオレの身体を触り始めた。

 

「上着の内ポケットの中も見せて貰えないか」

 

「もちろんだ。好きなだけ調べてくれ」

 

 出された指示に素直に従い、オレはブレザーを脱いだ。それを手渡すと、葛城は厳しい顔でポケットに次々と手を入れ始める。盗聴器の類がないか怪しんでいるのだろうが、オレは現在、そのような物は一切持ち合わせていない。

 だが、どれだけオレがそう言っても意味はない。彼自身の目で確認して貰う事に意味がある。

 それから葛城は入念に調べると、ようやく満足したのだろう。申し訳なさそうにしながら、オレにブレザーを返す。

 

「疑ってすまなかった。気分を害しただろう」

 

「オレが女ならそうなんだろうが、オレは男だからな。これくらいは全然気にしないさ。それに、葛城の気持ちは分かるつもりだ」

 

 そう言うと、葛城はぴくりと眉間を動かした。

 

「……そうか。そう言って貰えると助かる」

 

 葛城は再度謝罪の言葉を口にすると、リビングへ通じる扉のドアノブに手を掛けた。顔だけオレに振り向かせて言う。

 

「こちらだ。とはいえ、部屋の間取りは殆ど大差ないだろうから、ある程度は想像が付くだろうが」

 

 葛城の言葉に導かれ、オレはリビングへ通された。へえ、とオレは内心で感想を洩らす。想像していたが、部屋はとても綺麗に整頓されていた。真面目な性格がそのまま反映されていると言えるだろう。

 リビングに面している洋室、その勉強机の上には、参考書とノート、そして筆記用具が置かれていた。オレが来るまでは勉強していたのかもしれない。この男の事だ、長期休暇の課題は終わらせているだろう。自由な時間を一秒たりとも無駄にはしないという強い意志をオレは感じ取った。

 

「綾小路、あまりジロジロと見られては困る」

 

「悪い。あまり友人の部屋には来たことがなくてな、新鮮さを覚えていたんだ」

 

「意外だな。お前には友人が多い印象を受けていた」

 

「……自分で言うのも何だが、オレは地味で根暗だからな。友人はあまり多くないんだ」

 

 自虐しながら肩を竦めて見せるも、葛城は腑に落ちないようだった。変わらずに疑わしい視線を送ってくる。

 

「本当にそのような人間なら、今俺の部屋にお前は来ていないだろう」

 

 そう言うと、葛城は椅子に座るようオレに促した。そしてテーブルの上に湯呑みと菓子を置くと、自身も椅子に腰掛ける。

 テーブルを挟み、オレたちは真正面から向かい合う。

 

「思えば綾小路、こうしてお前と二人きりで話すのは初めてだな」

 

「そうだな」

 

 オレは葛城の言葉に頷いた。

 オレたちが会話をした事はたったの一回のみ。『無人島試験』の最中、オレはAクラスの情報を得る為に桔梗を伴って敵陣地に向かった事がある。その時応対したのが、この葛城という男だった。

 普通の学校なら兎も角、クラス闘争の性質上、それは仕方のない事だろう。

 

「それで綾小路、話とは何だ。わざわざこうして目立つような真似をしているのだ、意味があるのだろう?」

 

「それはこれからの話し合いの『結果』によって変わってくるだろうさ」

 

 ただ時間を浪費し無駄になるか、あるいは、有益な話になるのかは葛城次第。それを暗に伝えると、彼は険しい表情を浮かべた。

 

「あんた相手に駆け引きは通用しないだろうから、単刀直入に言う──葛城、手を貸してくれないか?」

 

「……手を貸す、とはどういう意味だ。お前は何を望んでいる」

 

 もっと具体的に話をしろ、と目が語っていた。オレは頷き、話を続ける。

 

「二学期になれば生徒会選挙が行われる。この事は知っているか?」

 

「無論だ。学校に在籍する者として、興味を持たない筈がない」

 

「そうか、なら話は早い。実は、次期生徒会長の南雲雅(なぐもみやび)という男子生徒を倒したいと考えている。葛城にはその手助けをして欲しい。今日はその要請のために来た」

 

「……何? それはどういう事だ?」

 

 怪訝な表情を浮かべる、葛城。

 オレはそれに構わず、話を続ける。

 

「オレは堀北生徒会長と個人的な繋がりがあるんだが、その堀北生徒会長から南雲雅という生徒の事を聞いた。何でも、来年からこの学校は大きく変わるらしい。堀北生徒会長はそれを憂慮している。出来る事ならそれを阻止したいともな。そこでオレに『南雲降ろし』の作戦を持ち掛けて来たんだ。オレはそれに賛同している」

 

 事実をありのまま伝えるも、葛城は腑に落ちなかったようだった。それ所か疑問はますます増えたようで、鋭い視線はこちらに向けられたままだ。

 

「……正直、このような話を聞かせられるとは想像もしていなかった」

 

「そうだろうな、無理もないさ」

 

「それ故に俺の中には、幾つもの疑問が浮かんでいる。質問をしても良いか」

 

「もちろんだ。オレに答えられる範囲の質問なら、嘘偽ることなく答えよう」

 

 オレと、葛城。二人の視線が交錯した。

 

「まずは一つ目だ。綾小路、お前は堀北生徒会長と個人的繋がりがあると言っていたが、それは本当なのか。俄には信じ難い話だ」

 

「質問を質問で返すようで悪いが、どうしてそう思うんだ?」

 

「三年生の堀北生徒会長と、一年生の綾小路。接点を持つのは難しいだろう。ましてや、俺の記憶が確かならお前は無所属。どこで知り合った?」

 

 葛城の疑問は尤もなものだ。相手は最高学年、さらには生徒を統括する生徒会長。オレたち一年生からしたら、雲の上の存在に等しい。

 そのような相手と、オレがいつ接点を持つようになったのか。言い換えれば、この話そのものを葛城は疑っている。

 

「『暴力事件』の時だな。オレがDクラスの代表として、審議会に出席したのは知っているだろう」

 

「ああ、聞いている」

 

「その時にオレは10万prを支払って審議会を延長させたんだが、それはあんたも知っている事だろう」

 

「……ああ、それも知っている。俺たち一年生だけではなく、二、三年生の耳にも届いているだろう」

 

 オレはさらに言った。

 

「その時に目を付けられたんだ。Dクラスのオレが10万pr持っているのは不自然だろう。その時に連絡先を交換したんだ」

 

 そう言うと、葛城は口を閉ざし黙考した。オレの言葉に虚偽がないか考えを巡らせている。

 そして、その判断はとても正しい。何故ならオレは嘘を吐いているからだ。堀北学と出会ったのは、五月上旬。しかしその出会い方は最悪なものであり、またその場には堀北鈴音も居た。兄妹事情を説明する訳にもいかないだろう。

 だがしかし、オレが今言った言葉に『矛盾』はない。何も知らない人間からすれば、それが真実だと思うだろう。

 

「証拠、と言ったら良いか分からないが。少なくともオレが堀北生徒会長と連絡を取り合う仲なのは、これを見て貰えれば分かると思う」

 

 言いながら、オレは携帯端末の電源を付けた。それをテーブルの上に載せ、葛城が見えるように端末する。電話帳を開き、履歴が表示される。その中には『堀北学』の名前と電話番号がある。

 

「今ここで電話を掛けても構わない。何だったら葛城、あんた自ら堀北生徒会長に話を聞くと良い」

 

 ここまで言えば葛城も、態度を変えざるを得ない。

 

「……いや、やめておこう。これから、お前の話に価値があるものとして聞かせて貰う」

 

 葛城はそう言うと、湯呑みに手を伸ばした。少しでも時間を稼ぎたいのだろう。

 単純に喉が渇いていたオレも、湯呑みに手を伸ばす。ひんやりとした液体が身体へ流れるのを感じた。これは、麦茶だろうか。

 

「綾小路、お前と堀北生徒会長との関係性は分かった。未だ疑問は残っているがな」

 

 そうか、とオレは相槌を打つ。

 

「南雲雅という男は俺も知っている。とはいえ、あまり深くは知らないがな。最初はBクラスに配属されていたがクラスを率いてAクラスに成り上がった男である事、そして、現生徒会副会長である事くらいだ」

 

「南雲が二年生を支配しているという事は?」

 

「それも耳には入れていたが、今日この瞬間まではただの噂程度の認識だった。だがその認識は間違いだったようだな」

 

 葛城の認識を責める事は出来ないだろう。

 一つの学年を支配するのは、クラス闘争の性質上不可能に近い。だが堀北学と橘茜(たちばなあかね)はそれを事実だと言っていた。

 つまり不可能に近い事を南雲雅は可能にした、という事。同時に、かなりの実力を有している事にも繋がる。

 

「南雲副会長が次期生徒会長となるのは確定だろう。俺もその見解には同意見だ。しかし、学校を変えるという話はあまり想像出来ないな」

 

「堀北生徒会長曰く、学校の根幹そのものを変えるつもりらしい。来年の今頃は退学者で溢れ出ているそうだ」

 

「……なるほどな。それが実現可能かどうかはまた話が変わってくるだろうが、もしそうなれば確かに問題だろう」

 

 そうは言いながらも、葛城は実感が湧かない様子だった。

 それは仕方のない事だろう。現にオレだって、その光景はいまいち想像出来ない。とはいえ、これにはオレの育ってきた環境にも原因があるだろうが。

『百聞は一見に如かず』。つまるところどれだけ話をしていても、その現実に直面しなければ人間は何も学ばないという事だ。

 それで対応が間に合えば良いが、堀北学の口調からして、既に後手に回っている状況だ。つまり、形勢はとても不利だと言える。

 

「敵は『二年生全員』だと想定しよう。対抗勢力はどれくらいいる?」

 

「今の所分かっているのは堀北生徒会長、そしてオレだけだ。他にも協力者は居ると聞いてはいるが、まだ知らされていない」

 

「……つまり、たった数人で戦いを挑むという事か。綾小路、それはあまりにも無謀なのではないか?」

 

 呆れを含ませながら、葛城は正論を告げてくる。古今東西より、『数』というのは戦況に大きく左右する。たとえ一騎当千の実力者が居たとしても、やがて『数の暴力』によって地に伏すだろう。

 オレは反論せず、その言葉を受け入れる。

 

「……先の『暴力事件』もそうだが、堀北生徒会長がお前を高く買っている事から、お前に底知れぬ実力があるのは間違いない事実なのだろうな」

 

「……」

 

「だがしかし、逆に言えばそれだけだ。『台風の目』である事は認めよう。だがどれだけの実力者なのか分からない以上、簡単には頷けない話だ」

 

 堀北生徒会長はまだしも、オレを信頼する事は難しいと暗に告げてくる。

 これはクラス闘争の弊害と言えるだろう。クラスメイトなら兎も角、オレたちは本来敵対関係にある。オレが一之瀬帆波や平田洋介のような人格者ならまた話は違ってくるが、葛城からすればオレは未知数の不気味な存在。

 そのオレが突然部屋に押しかけ協力してくれと助けを求めた所で、この慎重な男がすぐに頷く訳がない。

 

「そもそも何故、今になってお前が表舞台に姿を現す? これまでお前は目立つような行動を避けていた印象を受けている。そのお前が、何故今更?」

 

 どうやら、葛城の疑念はそこに集約しているようだった。

 オレの真意を知り、そして納得するまで、この男は梃子(てこ)でも動かないだろう。

 

「堀北生徒会長にも言った事だが、欲しい物が出来た。それを手に入れる為に、オレは今後、Dクラスとしてではなく個人で動くつもりだ」

 

 それはつまり、綾小路清隆(あやのこうじきよたか)がある意味ではクラス闘争に参戦するという宣戦布告。

 葛城は表情を揺るがす事なく、淡々と言った。

 

「個人で動くという事は、お前は仲間であるクラスメイトすら裏切るつもりなのか」

 

「それはどうだろうな。時と場合による、としか言えない。だがそれも考えている」

 

「あくまでも自分の目的の為だけに動くという事か。自己中心的な考え方だな、綾小路」

 

「否定はしない」

 

 オレと葛城の視線が交錯する。

 それから暫くして、葛城はため息を吐いた。緊迫した空気がゆっくりと霧散する。

 

「綾小路、お前の覚悟は分かった。お前の目的が何かは分からないが、これからの学校生活を変える程の決意だ。余程大事な事なのだろうな」

 

 そう言うと、葛城はもう一度ため息を吐いた。

 

「……もう一つ聞かせて欲しい。今日俺の所に来たのは、誰の意思だ? 堀北生徒会長か?」

 

「他ならないオレだ。葛城の言った通り、敵はあまりにも強大だ。少しでも戦力が欲しい。そう考えた時、あんたの存在が真っ先に浮かんだ」

 

 堀北学の実の妹である堀北鈴音(ほりきたすずね)も候補の中には入ったが、オレと彼女は今冷戦状態にある。能力値という観点でみれば平田(ひらた)一之瀬(いちのせ)でも構わないが、オレは敢えて葛城を選んだ。

 

「……何故、俺なのだ。何故、俺にこの話を持ち掛けてきた?」

 

 当然、葛城もそれは疑問に思う。

 

「何故とは変な事を聞くな。優秀な人材を味方にしようと考えるのは普通の事だろう。あんたはAクラス。是非とも力が欲しい」

 

「やめてくれ、自分が虚しくなるだけだ。知っているだろう、俺は今や『終わった人間』だ」

 

「あんたが率いる『葛城派』が事実上の壊滅状態なのを言っているのか?」

 

「……ああ、その通りだ。お前が来るまで俺は、その事について考えていた。ここでの選択が、今後に大きく左右すると考えているからだ」

 

 そうだろうな、とオレは相槌を打つ。そして言葉を続ける。

 

「だからこそオレは、あんたを選んだ」

 

「……何?」

 

「葛城、あんたの立場は理解出来る。『葛城派』と『坂柳派』の比率は恐らく、3:7……いや、下手したら2:8と言った所か。降伏するなら今しかない」

 

 比率は適当に想像して言っただけだが、どうやら当たっていたようだ。葛城は悔しそうに顔を歪める。

 

坂柳有栖(さかやなぎありす)は好戦的な性格の持ち主だと聞いている。その牙がクラスメイトに向けられても何ら可笑しくはないだろう」

 

「……」

 

「あんたは今、究極の選択を迫られている。坂柳の軍門に降り、負う必要のないリスクを冒しながら──仲間を失う危険性を伴いながらクラス闘争に臨むか。それとも自らこそがリーダーに相応しいと虚勢を張り続けるか。お前が仲間思いなのは話していれば分かる。どちらの選択も非常にリスキーだ。タイムリミットは目前。だからこそあんたは、悩んでいる。違うか?」

 

 葛城が既に決断していたなら、この話を聞いた時点で断っていた筈だ。だが彼はそれをしなかった。

 

「この『南雲降ろし』に参加するという事は、そういう事だ。戦うか、戦わないか。葛城、あんたはどうしたい? 何をしたい?」

 

「……」

 

「聡いあんたの事だ、クラスの内紛がいかに愚かなのかは分かっている筈だ。坂柳がリーダーに立候補した時、彼女に譲る事も一つの手だった。だが葛城、あんたはそれをしなかった。クラスが今後辿る厳しい道を誰よりも憂慮したからこそ、あんたは同士を募り愚行だと分かっていながら対立したんじゃないのか?」

 

「…………」

 

「今回の話も同じだ。もし南雲が生徒会長になったら、この学校は大きく変わる。規律は乱れ、不必要な犠牲者だって出るだろう。葛城、あんたはそれを見過ごせるのか?」

 

 葛城康平は求めている。

 背中を押してくれる『誰か』を、無意識で求めている。

 

「葛城、選べ。オレはあんたの選択を尊重する」

 

 葛城は瞳を伏せ、沈黙した。そして夜の帳が降りた頃、男は遂に決断する。

 

「──お前の話に乗ろう。その『南雲降ろし』に、俺も参加させてくれ」

 

『終わった人間』など、目の前には居ない。

 敗北を味わい泥を被った男は、瞳に強い意思を宿して再起した。

 オレが右手を差し出すと、葛城は迷うことなく手にとった。

 

「もう少し話を深く聞かせてくれ。まさか無策で挑むという訳ではないだろう。具体的にはどうするつもりだ?」

 

 オレはそれに答えようと口をおもむろに開ける。先程堀北学に伝えた、オレの意思を改めて言葉にした。

 

「まずは二学期から、オレと葛城が生徒会に所属する。そしてオレは堀北生徒会長の推薦によって、生徒会副会長に就任する」

 

 そう伝えると、葛城は目を見開いた。流石にこれは完全に想像外だったようだ。

 湯呑みに手を伸ばし、思考を回す。そして、思わずと言ったように呟いた。

 

「生徒会……? 俺とお前がか? そしてお前が、副会長だと?」

 

「ああ、そうだ。不服か?」

 

「……不服ではない。だが、複雑な心境だ。お前も知っているだろうが、俺は以前生徒会に入ろうと足を運んだが、生徒会長に断られている」

 

 そのような話は全く知らなかったが、ここは言わないでおこう。

 だが今思い返せば、オレが葛城をスカウトしようと提案した時堀北学はどこか気まずさそうな表情を浮かべていた気がする。

 

「数時間前、俺とお前は学校ですれ違っていただろう。個人的な相談も兼ねていたが、改めて生徒会に入らせて欲しいと頼んでいた」

 

「そうだったのか」

 

「その反応からすると、堀北生徒会長からは何も聞かされていなかったみたいだな」

 

 オレが頷くと、葛城はさらに続けて言った。

 

「小学校に中学校と、俺はこれまで学校の重要な委員会や生徒会に所属してきた。この学校でもそうしようと思ったのだが、堀北生徒会長に断られてしまった」

 

「ならどうして、もう一度生徒会に入らせて欲しいと頼んだんだ。堀北生徒会長の性格なら、一度決めた事は変えないと思うが」

 

「それは俺も思っていた。だが、俺と同じ境遇だった一之瀬が生徒会に入ったと聞いてな。無所属の場合、四月から六月末の間か十月の生徒会との面接で合格をする必要がある。俺と一之瀬はそれが出来なかったが、期間外なのにも関わらず一之瀬が入ったと聞いた。一之瀬に確認したら、彼女を気に入った南雲が堀北生徒会長に直談判をしたそうだ」

 

 気になる点はあるが、一旦置いておこう。話を聞いた葛城は一縷の望みをかけて先程再度生徒会に突撃したが、生徒会長の回答は変わらず撃沈したという事か。

 それなら確かに気まずいな。

 

「だがそれも、状況は変わった。堀北生徒会長はあんたを迎え入れてくれるだろう。実際、反対もされなかったからな。多分、何らかの理由があったんだ。また今度聞けば良いさ」

 

「……そうだな。だが綾小路、もし堀北生徒会長が俺の能力不足を理由に断っていたのなら、俺は生徒会に入らない。もちろん、『南雲降ろし』には協力するがな」

 

「そうか、分かった。その時はあんたの意思を尊重する」

 

 とはいえ、葛城の心配は杞憂だと思うがな。

 

「堀北生徒会長には、オレから話を通しておく。恐らく一度顔を合わせて話をする機会があると思うから、そのつもりでいてくれ」

 

「分かった。分かり次第連絡してくれ」

 

 オレは葛城と連絡先を互いに交換する。久し振りに電話帳が埋まり、少し嬉しい。

 

 それからオレたちは軽く雑談を交わした。話してみると、葛城とは思いの外話が合った。

 

「──そう言えば、さっき個人的な相談があると言っていたな。それは解決出来たのか?」

 

 ふと思い出した事を振ってみると、葛城は渋い表情を浮かべた。

 

「……いや、まだだ。だが、良いのだ。これは入学前、校則の確認を疎かにした俺の責任だ」

 

「……? どういう事だ?」

 

 再度尋ねても、葛城は中々口を割らなかった。オレは打算抜きで言う。

 

「何か力になれるかもしれない。あんたさえ良ければ、話だけでも聞かせて欲しい」

 

 そう追及すると、葛城は逡巡の末口を開けるのだった。彼の口から出される悩みはとても深刻なものだった。

 話を全て聞いたオレは、「なるほど」と相槌を打つ。

 

「オレ一人なら難しいが、あと一人居れば何とかなりそうだ」

 

「……何? それは本当か?」

 

 オレは自信を持って深く頷くと、携帯端末を操作する。そして強力な助っ人に、今から来れるかと連絡するのだった。



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家族愛

 

 ──曰く。

 

 葛城康平(かつらぎこうへい)には病弱な双子の妹が居た。両親と祖父母既に他界している葛城家にとって、家族の(きずな)は何よりも大切なものであり、重視するものだった。

 だがその最愛の妹と、葛城は離れ離れになってしまう。

 何故なら葛城が入学した学校──高度育成高等学校は在学中の三年間、余程の非常事態を除き外出を禁じている。それはつまり、家族に会えないという事を意味していた。オレをはじめとした一部の生徒にとっては最大の魅力だったが、葛城にとっては最大のデメリットだった。

 妹を大事にする葛城にとって、この校則は非常に煩わしいものだった。家から近い学校を適当に選び妥協しようとさえした。それ程までに葛城は妹の事を家族として愛していた。

 だがその兄を、妹は必死に諌めたのだという。妹にとって、葛城はとても自慢な兄であり、自分の所為でこれ以上人生を狂わせたくなかったのだ。

 葛城は悩みに悩んだ末、この学校に入学する事を選んだ。この学校は学費を政府が全て負担する為、実質タダである。病弱の妹は優しい親戚の家で何不自由ない生活を送っているが、金銭面で負担を掛けているのが葛城は申し訳ない思いでいっぱいだった。せめて自分だけでも、と思うのは当然の帰結だった。

 見事高度育成高等学校に入学を果たした葛城は、これまでの人生では想像さえ出来なかった様々な出来事に直面する。自分と同格、あるいはそれ以上の強大な敵と鎬を削るクラス闘争は、彼にとっては過酷な試練の連続だった。敗北を味わい、挫折を知ったものの、それでも彼は戦う事を諦めなかった。

 そうして気が付けば、葛城は学校に入学してから早くも数ヶ月が経ち夏休みに入っていた。そして葛城家にとって『大事な日』が近付いていた。

 それは、八月二十九日。この日は葛城兄妹がこの世に生を受けた日だった。これまでは互いに誕生日プレゼントを贈りあっていたが、今年はそれが難しくなってしまう。

 とはいえ、それは入学前から事前に説明があった事だった。生徒とその家族はそれに同意して入学している。当然、葛城もそこは承知していた。

 だがここで、誤算が生じる。それは校則が徹底的に定められている事だった。葛城は事情を話せば荷物一つくらいなら送れるだろうと考えていたが、それは甘い考えであった。

 一応学校の敷地内に郵便局はあるものの、それは学校関係者や教師が使う為にあるもの。オレたち生徒が郵便局の職員に頼み込んでも門前払いをされるだろう。最悪なのはそのまま学校に報告され、罰則を受ける事だ。あくまでも未遂な為『退学』とまでは行かないだろうが、プライベートポイントの減額で済めば御の字だろう。

 そこで葛城は次の一手を考えた。生徒に最も近しい立場の人間──つまり、生徒会に頼ろうと思ったのだ。だがその淡い希望も、生徒会長の堀北学(ほりきたまなぶ)によって一刀両断されてしまう。生徒会長は葛城の事情を聞き同情を寄せた上で、『ノー』という回答を叩き付けたのだ。

 

「──なるほどな。話は分かったぜ」

 

 話を最後まで聞いた須藤(すどう)は、両腕を組んでそう言った。

 葛城の相談を受けたオレが、強力な助っ人として彼をこの部屋に呼んだのだ。幸いにも部活動が終わる時間帯だったようで、彼はすぐに来てくれた。

 

「改めて紹介しよう。(けん)、こっちが葛城康平だ。Aクラスのリーダーの一人だと言えば分かるか?」

 

「おう、流石にそれくらいは知っているぜ」

 

「それで葛城、こいつが須藤健だ。詳しい紹介は欲しいか?」

 

「いや、不要だ。須藤の事は良くも悪くも知っている。だがしかし……まさかここまで変わるとは。率直に言って驚いている」

 

 二人は初顔合わせとなる為、必然的にオレが仲介役となる。だが、その必要は殆どないようだった。互いに必要最低限の情報は持合わせているようで、手間が省けた。

 

「それでよ、清隆(きよたか)。どうして俺を呼んだんだ?」

 

 考える事が苦手な須藤が、そうオレに尋ねてくる。基礎学力が堀北によって向上されつつある彼ではあるものの、基本的には頭よりも体が先に動くタイプなのは変わっていない。だが、それが悪いとは一概には言えない。今回の場合、須藤は持ち前の『直感』で自分がいくら考えても駄目だと判断したのだろう。

 

「こいつ……葛城の事情は分かったけどよ、俺に出来る事は殆どないと思うぜ。そりゃ、助けになりたいとは思うけどな」

 

 頭を捻りながら、須藤はそう言った。ここに呼ばれた理由を探している。

 そしてそれは、葛城も同じだった。

 

「来てくれた須藤には申し訳ないが、俺も彼と同意見だ。そろそろ彼を呼んだ理由を聞かせて欲しい」

 

 オレはそれに答える前に、一つ確認を取る。

 

「その前に、一つ確認させて欲しい。葛城、あんたの目的は妹に誕生日プレゼントを送り届ける事だよな」

 

「ああ、その通りだ」

 

 テーブルの上には、葛城が妹の為に用意された誕生日プレゼントが置かれていた。従業員に頼んだのだろう、綺麗にラッピングされている。

 

 オレはそれを見ながら、静かに問うた。

 

「その為に手段を選ばない覚悟はあるか?」

 

 そう言うと、葛城はオレの真意が分かったようだった。困惑の表情から脱却し、真剣な顔付きになる。

 

「それはつまり──校則を破れ、という事か?」

 

 肯定の頷きを返すと、葛城はますます厳しい表情を見せる。オレの今の発言が本気かどうかを疑っているのだろうが、オレは至って真面目だった。

 鋭い視線を寄越してくる彼の瞳をまっすぐ見詰めながら、オレはその結論に至った理由を話す。

 

「まず、あんたは数時間前に生徒会に向かった。最初の一手として、事情を話す事で理解を貰おうと思った」

 

「……そうだ。だが同情はされたものの、校則違反に当たるからと言われてしまった。『外部との連絡を一切禁じる』──この校則はこの学校が設立されてからある校則の一つ。とはいえ生徒会長の口振りでは、当初は今ほど厳しくはなかったようだがな」

 

 恐らく、発送する荷物の中に認められていない荷物などを入れてしまった生徒が居たのだろう。

 規則を破る者が居たのなら、当然、その規則が厳しくなるのは当然の事だ。

 

「次の一手として、あんたは恐らく『プライベートポイントでの対応』を求めた。違うか?」

 

「……その通りだ。この学校は実力至上主義──『ポイントで買えない物はない』と先生たちも公言している。俺は最後の手段としてそこに懸けた」

 

 生徒個人が所有している『プライベートポイント』の価値はとても高い。例えば、『暴力事件』の際、オレが審議会の延長に成功したように様々な用途に用いる事が可能だ。

 葛城はAクラス。毎月振り込まれるポイントはオレや須藤が所属しているDクラスと比べたら雲泥の差だろう。さらにはこの男の事だ、無駄な出費はせず半分は残している筈。

 だがその交渉も、上手くは行かなかった。

 

「プライベートポイントは万能ではないと、俺は生徒会長に言われてしまった。校則で決まっている事は簡単には捻じ曲げられない、とな」

 

 だがそれもおかしな話だろう。この学校に校則はあってないような物であり、様々な抜け道がある。恐らく、学校が意図してそのように作っているのだろう。

 兎にも角にも、葛城が考えた戦略はことごとくが失敗に終わった。そこでどうしようかと悩んでいたのだ。

 

「葛城、残された手はこれしかないと思うがな」

 

「だが綾小路(あやのこうじ)、それは……!」

 

「無論、もし学校にバレたら重たい罰則を受けるだろう。『退学』はないと信じたいが」

 

 冗談を言うも、それで笑いが生まれる事はなかった。もう少し勉強してからやろう。

 思い悩む、葛城。そんな彼に声を掛けたのはオレではなく須藤だった。

 

「まずは清隆の話を聞いてみようぜ。その上で決めれば良いだろ」

 

 その言葉は、停滞していた思考を前に進めたようだった。「そうだな」と頷くと、葛城は目で訴えオレに話を促す。

 オレがした質問の答えにはなっていないが、まあ、良しとするか。本音を言えばここで決断して殻を破って欲しかったが……──そう思いつつ、オレは口を開けた。

 

「正規方法は存在自体がない。施設職員に頼み込んでも駄目なら、オレたちの手で届けるしかないだろう」

 

「待ってくれないか、綾小路。無断外出しようものならそれこそ『退学』となるぞ」

 

「いや、その心配はない。ここに唯一(ゆいいつ)一人だけ、堂々と外に出る事が出来る人間が居る。そうだろう?」

 

 言いながら、オレは須藤を見た。自然と、葛城の目もそちらに釣られる。

 そしてその須藤はと言うと、オレが何を言いたいのか完全に理解したようだった。

 

「そうか、分かったぜ! 部活の大会だな!」

 

 大正解だ、とオレは頷いた。

 オレたちが居る場所はあくまでも『学校』だ。隔離施設の側面があるのは否定出来ないものの、日本政府が大きく関わっている立派な『高等学校』である。いくら校則が厳しくとも、部活動の活動までは制限が出来ない。

 

「作戦は至ってシンプルだ。ここにいる健が、バスケ部の大会中に上手いこと抜け出し、ポストに投函する。これしか方法はないと思う」

 

 オレがそう説明すると、葛城と須藤はそれぞれ異なる反応を示した。

 まずは葛城だが、こちらはオレのアバウト過ぎる作戦に対して懐疑的なものになっている。

 そして、この作戦の(かなめ)である須藤は不安な表情を浮かべていた。もし学校にバレたら、現行犯である彼が一番重たい罰を受けるだろう。さらにはこれまでの素行の悪さを考えれば、今度こそ弁明の余地はない。部活の強制退部で済めば御の字、最悪なのは言わずもがな『退学』だ。だがバスケットボールというスポーツでプロ選手になる事を夢見ている彼からすれば、どちらも等しく重たい罰となる。そうなる事を不安に思っているのだろう。

 

「健、思う所はあると思うがまずは聞かせて欲しい。当日の流れをなるべく詳細に教えてくれないか?」

 

 口を閉ざしている葛城の代わりに、オレが頼む。

 須藤は「あ、ああ」と頷くと、両腕を組んで真面目に考え出した。

 

「まず朝だが、バスに乗る前に簡単な荷物検査を行うな。それで、その時に携帯も没収される。その後は開催地に向かって、着いたらすぐに着替えて試合だな。飯はその日の状況によりけりだが、だいたいは大会が終わった後に現地で食べる事になっている。他に聞きたい事はあるか?」

 

「着替える場所や荷物の管理はどうなっている?」

 

「用意された更衣室の中だな。着替えの最中は流石に見張りはないけどよ、それ以外は監視の目がとても厳しいぜ。何せ、他校の奴らとはろくに話す事も出来ないからな。トイレもそうだが、俺たちだけ専用のスペースがあるな」

 

 外部との連絡を禁じる、を出来る限り行っている訳か。

 

「食事の持参は認められているのか?」

 

「ああ、認められているな。事前にポイントを払って弁当を頼むか、自分で弁当を用意するかのどっちかだ。少人数だが、弁当を持ってくる奴は居るぜ」

 

「それなら、持ち込む事自体は簡単だな。──葛城、入学した時に貰った弁当箱と水筒はあるか?」

 

 状況をシミュレーションしていたのか、返事がされるまでに少々時間が掛かった。再度葛城に声を掛けると、彼は言われるがまま首を縦に振る。

 そして腰を上げると、キッチン棚の中に仕舞われていた弁当箱と水筒を取り出した。

 

「プレゼントは弁当箱の中に、袋は丸めて水筒の中に入れれば良いだろう。あとはこれを何食わぬ顔で持って行けば良い」

 

「な、なるほど! 流石清隆だぜ!」

 

 須藤からの純粋な称賛を素直に受け取りつつ、葛城にどうだと視線で尋ねる。

 しかし須藤とは違い、彼の硬い表情が崩れる事はなかった。

 

「持ち込み方法はそれでいいかも知れない。いくら学校とは言え、流石に中身までは見ないだろう。だが、問題はまだ残っているぞ」

 

「確かにそうだよな。俺が上手く教師の目を掻い潜ったとして、どうやって送るんだ? それに現金もないぜ?」

 

「その通りだ。綾小路、これについてはどうするつもりだ?」

 

 オレたちが所持しているプライベートポイントは、あくまでも学校内でのみ使える物だ。敷地外に出た途端、たとえそれが100万prでも無価値となってしまう。

 

「着払いで送れば良い。伝票くらいなら敷地内でも貰えると思う」

 

 実際に貰った事はないので、不確定な要素になってしまうが。

 オレは二人を交互に見詰めながら言った。

 

「今話したのは、現実的ではあるがとてもリスクの伴うものだ。それを理解した上で実行するかどうかを決めてくれ」

 

 オレに出来るのはあくまでも作戦の立案のみ。この先は葛城と、何よりも実際に任務に就く須藤が決める事だ。

 沈黙を破ったのは、葛城だった。須藤に向き直ると、深々と頭を下げる。

 

「須藤、もしお前さえ良ければ引き受けてはくれないだろうか。俺のクラスメイトには、このような事は頼めない。是非お前の力を貸して欲しい」

 

 格上のAクラスが、格下のDクラスに頭を下げる。その事実に、須藤は衝撃を隠せないでいた。

 オレはそんな須藤に声を掛ける。

 

「これはデメリットばかりの話じゃないぞ、健。お前にも確かなメリットがある」

 

「……それは、どういう意味だ?」

 

「さっきも言ったが、この作戦は非常にリスクがある。お前が見事成功した暁には、葛城もそれ相応の『誠意』を見せてくれる筈だ」

 

 オレがそう言うと、葛城は顔を上げた。「それは俺も考えていた」と前置きした上で続ける。

 

「10万prを報酬として支払わせて欲しい。これが俺なりの『誠意』だ」

 

「なっ……!? 10万prだと!?」

 

「ああ、Aクラスの俺ならそれが可能だ。どうだろうか?」

 

 Dクラスのオレたちにとって、10万prという額はとても大きい。ただでさえ極貧生活を強いられているのだ、その生活にある程度慣れたとは言え、欲しいと思うのは何も変ではない。

 

「健、この前新しいバッシュが欲しいと言っていたよな。10万prあれば良い物が手に入れられるだろう」

 

 バッシュとは、バスケットシューズの事。本気でバスケットボールに打ち込んでいるからこそ、その消耗は早い。須藤が以前そのように嘆いていた事を、オレは記憶していた。

 須藤は暫く悩んでいた。両腕を組み、葛藤する。それから数分後、彼は覚悟を決めた眼差しでおもろむに口を開けた。

 

「──葛城、その作戦乗ったぜ。お前は妹の為、俺は俺の為に協力する。それで良いな」

 

「感謝する。お前のような実直な男が協力してくれると言うのなら、とても心強い」

 

 葛城は再度頭を下げると、「しかし」と須藤を意味深に見詰めた。

 

「失礼ながら須藤、俺が抱いていたお前の印象は『素行の悪い典型的な不良』だった。暴言に暴力は当たり前、授業にも不真面目。正しくDクラスに相応しいと思っていた」

 

「お、おう……中々言うじゃねえか。なあ清隆、こいつの事一発殴っても良いか? 良いよな?」

 

「だがこうして対面して、その印象は百八十度変わった。無論、良い意味でだ」

 

 そう言うと、葛城は須藤に右手を差し出した。握手を求められている、という事に須藤はすぐ気付く。

 本来なら葛城は敵であり、今回限りの協力となる。それ故に彼がこの握手に応じる必要は全くない。

 だが、須藤は迷いなくその手を取った。口角を上げ、笑みを見せる。

 

「作戦を詰めよう」

 

 オレの言葉に、二人は力強く頷き返した。

 作戦の成功率を少しでも上げる為、オレたちはすっかりと日が暮れている事も忘れて話し合った。葛城が堅実な意見を出し、須藤が大胆な意見を出し、そしてオレがそれを補完する。

 突発的に出来たこの三人組の相性は意外にも良いように感じられた。

 そして作戦の立案が終わる。時間は二十時を過ぎていた。明後日に大会を控えている須藤は身体のコンディションを整える為、早々に自室へと戻って行った。「今度三人で遊ぼうぜ」と言葉を残したのは、これもまた彼なりの『成長』を表しているのだろう。

 

「それじゃあ、オレもそろそろ行く。悪かったな葛城、結局長居する事になった」

 

 しかし腰を上げようとするオレを、葛城が制した。彼はどこか柔らかい表情を浮かべていた。

 

「綾小路、もし良ければお前にも『誠意』を見せたい。どうだろう」

 

「それは有難いが、良いのか……?」

 

「ああ、お前にこそ『誠意』を見せたいと思ったのだ。そうしなければ不誠実だろう」

 

 葛城は言葉を続ける。

 

「もし今日お前と話をしなければ、俺は本当に『終わった人間』だった。そう遠くないうちに『坂柳派』へ降伏していただろう」

 

「焚き付けておいて何だが、それも『正解』の一つだろう」

 

「そうだな、確かにその通りだ。だがその選択をしたら最後、俺はきっとこの学校で何も為せなかっただろう。恐らくはつまらない学校生活を送っていた筈だ」

 

 オレは黙って彼の話を傾聴した。

 

「今回の校則破りもそうだ。お前からこの案を出されるまで、俺は微塵も考えを持っていなかった。いや、頭の片隅では浮かんでいた。だがリスクが伴うからと無意識下で却下していたのだ」

 

 その言葉に嘘はないだろう。優秀なこの男の事だ、校則違反という案そのものが全く無かった訳ではなかった。だが生来の慎重さがその考えを切って捨てていた。

 

 ──そして、オレが葛城の相談に親身に乗ったのもここに理由がある。

 

 堀北学が率いる勢力に、オレと葛城は属する事になった。オレたちの目的はただ一つ、『南雲降ろし』だ。『敵』を『二年生全員』だと想定するなら、ただ勉学や運動が秀逸では通じない。ローリスク・ハイリターンではなく、ハイリスク・ハイリターンの戦略を取る必要がこれから出てくるだろう。その選択に迫られた時、一瞬の躊躇が命取りとなる。これは葛城康平の最大の弱点とも言えるだろう。

 だが今回葛城は、そのハイリスク・ハイリターンの戦略を選んだ。本音を言えば即決して欲しかったが、そこはこれからの『成長』に期待したい。逆に言えば、もしこれから葛城が『成長』しなければ坂柳有栖(さかやなぎありす)率いる『坂柳派』には未来永劫勝てないだろう。

 

「綾小路、お前には少額だが5万prを譲渡したい。微々たる額で不満はあるだろうが、どうだろうか?」

 

「不満なんてある筈もないさ。知っての通り、オレたちDクラスは極貧生活を送っているからな。5万prあれば暫くは生活に苦労しなさそうだ」

 

「そうか、分かった。すぐにでも渡したいところだが、それは明後日以降でも良いだろうか?」

 

「それで構わない。須藤の前にオレが貰うのは道理じゃないからな」

 

 葛城の『誠意』──すなわち、プライベートポイントの譲渡。須藤が作戦を成功した時、彼には葛城から10万prが支払われる。

 とはいえ、須藤が嘘を吐いて虚偽報告する可能性もある。その為にはどうにかして直接確認する必要があるが、オレと葛城は敷地内から出られない。

 その為、携帯端末でその瞬間を録画する事が作戦の一つとなっていた。しかし須藤の携帯端末は大会当日の朝に回収される為、別の携帯端末を用意する必要がある。オレや葛城のものでは足がつく可能性がある為、全くの部外者──第三者を巻き込む必要があった。その第三者もオレが推薦し、貸して貰えるよう交渉済みだ。

 葛城が録画を確認し次第、須藤とオレにはプライベートポイントが振り込まれるだろう。

 

「それにしても、驚いたな」

 

 今度こそ帰ろうと玄関で靴を履いていると、葛城がそう呟いた。何がだと視線で尋ねると、彼は感心したように言った。

 

「須藤の凄さにだ。彼の身体能力が高いのは知っていたが、まさか一年生で大会に同行するとはな。普通なら居残り組となるだろう」

 

 それは事実だった。何度も言うが、この学校は徹底的に外部との接触を禁じている。たとえ大会に出る仲間の応援という名目があったとしても、余程大きな大会でなければ許可は出ないと、須藤が以前教えてくれた。

 ただただ感心している葛城に、オレは面白半分でさらなる爆弾を投下してみる事にした。

 

「ちなみに明後日の大会、健はスタメンで出るそうだぞ」

 

 驚愕の表情を浮かべる葛城に「またな」と声を掛け、オレは部屋を出た。最後に良い表情を見れたと言えるだろう。

 一年生のこの時期にスタメン入りを果たした須藤健は、これで晴れてDクラスの『財産』となった。近い将来必ず、彼の実力が発揮される時が来るだろう。その時が来るのが待ち遠しいものだ。

 

 

 

§

 

 

 

 ──余談ではあるが。

 

 大会当日。須藤は試合で大暴れをしたと聞く。ダンクに続くダンクで会場を大きく沸かせ、チームの勝利に大きく貢献したそうだ。そして彼は大会と並行して、葛城からの任務を遂行してみせた。休憩時間に教師とチームメイトの目を掻い潜り、近くの郵便ポストまで爆走。その一部始終はしっかりと録画されており、ミッションをクリアしたのだ。

 とはいえ、実際に葛城の妹へ届いたのかは分からない。向こうからの返信は全て学校によってシャットアウトされてしまうからだ。それ故に、判明するのは卒業後となってしまう。だが葛城も、須藤も、そしてオレもそれが出来たと信じている。

 こうしてオレは今後、葛城康平と友人関係を築いていく事になったのだった。

 



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綾小路清隆の分岐点 Ⅰ

 

 夏休みも残り数日となり、二学期が着実に迫りつつあった。中には出された膨大な課題の数に絶望している生徒も居るだろうが、幸いな事にオレは既に終わらせている。それ故にオレは何も慌てることなくこの夏休みという期間を最大限に楽しんでいた。

 今日は特にやる事もなかった為、一日を寮の自室で過ごしていた。最近は色々と慌ただしかった為、久し振りにゆっくり出来たと言えよう。とはいえ、それは自分一人で出来たものではない。

 オレはちらりと、真横に座っている少女に視線を送る。読み始めてから既に二時間程が経っているが、相変わらず凄まじい集中力だ。まるで彫刻のように微塵も動かず、意識は本の世界へ向かっている。

 最近は椎名(しいな)と過ごす時間がまた一段と増えてきていた。互いに用事がない日、彼女はオレの部屋にやって来て一日を過ごす。雑談をする日もあれば、テレビを観る日もある。時にはカラオケやゲームセンターなどに行く日もあった。だがその殆どは小さな読書会に割り当てられていた。

 出会った当時は別々の本を読んでいたが、最近は同じ本を読む事が増えてきていた。彼女が用意してくれた本を読んだあと、感想や解釈を語り合うのがすっかり日課になっていた。

 

「そろそろ晩御飯にしようか」

 

 無音の室内に、オレの声が響く。しかし椎名には届かなかったようだった。それを証明するかのように、数秒後、本の(ページ)を捲る音が出る。

 オレは小さく溜息を吐くと、彼女の左肩をゆっくりと揺さぶった。

 

「椎名、そろそろ戻ってきてくれ。御飯の時間だぞ」

 

 そう声を掛けてようやく、彼女の意識は本の世界から現実へと戻ったようだった。ぱちくりと一、二回瞬きすると同時、徐々に瞳に光が灯る。

 

「……ごめんなさい、すっかりと没頭していました。今は何時でしょうか?」

 

 無言で携帯端末を(かざ)す事で、オレは彼女の疑問に答えた。すると椎名は「まあっ」と驚いたように声を上げると、気まずそうに視線を逸らした。

 現在時刻は十七時三十分を過ぎている。真夏の夜はまだ明るく夕方だと錯覚しそうだが、そろそろ夕食の準備をしても良い頃合だろう。

 

「もうこんな時間なんですね。てっきり十四時くらいだと思っていました……」

 

「いや、それはないからな。それに、お前が読み始めたのは十五時過ぎからだっただろう」

 

「……ふむ、確かにそうですね」

 

 天然少女の発言に苦笑いしつつ、オレはゆっくりと立ち上がった。随分と長い間絨毯(じゅうたん)の上で座っていた為か、軽い立ちくらみを覚える。

 

「椎名、今日は何を作りたい?」

 

 手を貸しながら尋ねると、彼女はそれを笑顔で受け取りながら「ふむ」と声を漏らした。

 

「確か卵はまだありましたよね。もしそうなら、玉子焼きを作りたいです」

 

「分かった。なら、そうしようか。ただ前回は一緒に作ったからな、今回は一人で作ってみると良い」

 

「……が、頑張ります」

 

「そんなに気負う必要はないさ。一人、と言ってもオレはすぐ近くに居るから何かあれば遠慮なく声を掛けてくれ」

 

 そう言うと、椎名は安堵したようにほっと息を吐いた。

 椎名は料理が得意ではない。この学校に入学するまでの料理経験は家庭科での調理実習しかなかったそうだ。果たして、それを経験値に数えて良いのかは甚だ疑問だが、大半の生徒はそうなのではないだろうか。何故なら家には料理を作ってくれる家族が居り、まだ子供である彼らは時間になれば料理が出されると甘えていたのだ。

 だが、この学校に入学するにあたって、その甘えは一切通じなくなる。何故ならこの学校は寮制であり、生活には全て自分一人に責任が掛かるからだ。食事、洗濯、掃除にゴミ出しといったありとあらゆる所まで、自分一人で対応しなければならない。恐らく、殆どの生徒はこの現実に直面してから初めて親の有難みを実感しただろう。

 椎名もその一人だった。これまでの人生に於いて、本にしか特に興味を示してこなかった彼女は生活能力が皆無に等しかった。とはいえ、生来の真面目さと勤勉さで殆どは自分一人で解決してみせた。

 だが、その彼女でさえも難しいものがあった。それこそが料理である。聞く所によると、一学期の間はコンビニ弁当や食堂で済ませる事が大半だったのだそうだ。彼女だけでなく、料理が出来ない殆どの生徒はそのようにしていただろう。事実オレも昼食はそのようにしているから。だがしかし、それがほぼ毎食だと話は違ってくる。食堂ならまだしも、コンビニ弁当は化学調味料の塊と言っても過言ではない。その過剰摂取が身体に悪いのは少し考えれば分かる事だ。

 その考えは彼女の友人の一人、伊吹澪(いぶきみお)も同じだったようで、口を酸っぱくして言われてしまったとの事。そこでオレが彼女に料理を教えようかと提案し、彼女は受け入れたのだ。それが、クルージング旅行中の出来事である。

 

「それにしても、少々意外でした」

 

「何がだ?」

 

「失礼かもしれませんが──伊吹さんもそうですが──綾小路くんも私と同類だと思っていましたから」

 

 台所に向かいながら、椎名がそんな事を言う。

 そして、その推測は間違っていない。伊吹は知らないが、少なくともオレは、これまでの人生に於いて料理などした事なかった。

 訂正すると、『知識』としては知っている。包丁の握り方や使い方、様々な調理方法も知ってはいる。だがそれはあくまでも『知識』であり、実体験に基づいた理論ではない。

 とはいえ、それはあくまでもこの学校に入学するまでの話。クラスの隣人が毎日弁当を持ってきている為興味を持ったオレは、何度か料理をした事がある。そして人並みにまで料理が出来ると判断した時、オレは、『手間を掛けるくらいなら料理は積極的にしなくても良い』という結論を出していた。それ以降は気紛れで料理をしていたのだった。

 それ故に、彼女の推測は何も間違っていない。だが今更真実を白状するのも格好悪い。

 見栄を張った事を後悔しつつ、オレはクルージング旅行が終わった後、数日部屋にこもって料理の腕を磨いていた。その結果、自分で言うのも何だが、人並みレベルからは脱却していると思う。無論、クラスの隣人の腕には遠く及ばないが料理素人に教えるくらいなら出来るまでに成長したのだ。

 

「今日こそは()がさないようにしてみせます」

 

 むんっ、と気合を入れる椎名。どうやら以前作った時に黒焦げとなってしまった事をまだ引き摺っているようだ。まだ数える程しかこの勉強会は開いていない為そんなに気にする事ではないと思うが、本人のやる気に水を差す必要もわざわざないだろう。

 だが、ここで一つのアクシデントが発生した。

 調理道具と具材を揃え、まずは手を洗おうと水道の蛇口を捻るも水が出ないのだ。

 

「どうしましょう、綾小路くん」

 

 そう言って、椎名は不安な表情を浮かべる。彼女の代わりに今度はオレが蛇口を捻るも、いくら捻った所で何も出なかった。ますます表情を曇らせる彼女に「大丈夫だ」と声を掛けつつ、オレは原因を考えた。

 最後に使ったのは昼過ぎだった筈だ。その時はいつもと同じように出ていたのを覚えている。確かに出ていたものが、今は出ていない。オレたちが壊してしまった可能性もあるが、それは限りなく低いだろう。

 そうなると、原因はもっと別の所にある筈だ。オレは携帯端末を手に取ると、友人たちに片っ端からチャットを送った。その内容は、寮の水道がちゃんと出るのかというもの。

 程なくして、オレのメールに気付き、確認出来る状況にあった数人の生徒から返信が来る。その答えはいずれも、オレの予想したものであった。

 

「今他の友人に確認したが、彼らも使えなかったみたいだ」

 

「そうですか……。あっ、私にも伊吹さんからメールが着ていますね。彼女も使えないようです」

 

 不特定多数の生徒が使えない。一応他学年の生徒にもメールを送ると、すぐに(たちばな)先輩から返信があった。どうやら三年生の寮も水道から水が出ておらず、疑問視する声が出ているようだ。現在堀北生徒会長が学校に確認の電話をしているようで、今はその報告を待っているとの事。

 恐らく、水道局に何らかのトラブルがあったのだろう。

 数分後、オレの予想は的中する事になる。オレと椎名の携帯端末が同時に鳴り、確認すると、学校から一件のメールが着信されていた。その内容を(まと)めると、水道局にトラブルがあり、寮全体の水が出ない状況に陥ってしまったようだ。現在復旧作業を行っているようだが、最悪、早朝まで掛かる可能性もあるとの事。

 

「これは……困りましたね……」

 

 そうだな、とオレは頷いた。

 一応学校側もフォローはするつもりのようで、一度に2リットル以上の水が必要な場合は食堂で配って貰えるようだ。

 しかし、注意事項も同時に記載されている。まず食堂での水の支給は早い者勝ちであるという事が書かれていた。これは仕方のない事だろう。学校としてもこの事態は突発的なもの。寧ろここまで迅速な対応をしてくれるだけで有難い。また、大混雑が予想されるコンビニエンスストアは余程の緊急時を除き一時利用不可となった。そして、ケヤキモールには無料で利用出来るミネラルウォーターが何台か設置されているが、通常利用は認めるもののボトルなどに入れて持ち帰る行為は禁止とされていた。

 最大の問題点はトイレだろう。タンクに水が貯蔵されているとはいえ、使えるのはたったの一回のみ。頻回にトイレに行く習慣のある生徒がもし居たら、ゾッとしているのではないだろうか。

 

「どうしましょう、綾小路くん」

 

 先程と同じ台詞を口にする、椎名。

 

「……そうだな。取り敢えず、椎名には悪いが今日の勉強会は中止だな。まずは食堂に降りて水を確保しよう」

 

「それには私も同じ意見です。メールにも書いてありましたが、早い者勝ちですからね。今こうして話している間にも誰かが押し掛けているかもしれません」

 

「それで肝心の晩御飯だが。ケヤキモールで適当に済ませようと思うが、それで良いか?」

 

「ええ……大丈夫です。私もそれが最善だと思いますから」

 

 水の要らない料理は幾つかあるが、片付けが面倒になる。支給される水をその用途に使うのは勿体ないだろう。

 用意した調理器具と具材を片付ける。椎名の表情が残念そうに見えるのは気の所為ではないだろう。それだけこの勉強会を楽しみにしてくれていると思えばオレとしても嬉しいものだ。

 

「また今度誘うから、その時に作ろう」

 

 気が付けばオレの口はそう動いていた。

 そしてどうやら、オレの咄嗟の判断は正しかったようだった。それまでの曇っていた顔が嘘だったかのように晴れ渡り、笑顔を見せてくれる。

 どこか照れ臭くなりながら身支度を整え、オレたちは部屋を出た。エレベーターを使って一階に降り、食堂に足を進める。

 

「やっぱり、すぐに来て良かったですね」

 

 食堂には既に数十人ほどの列が出来ていた。確実に手に入れる為に急いできたのだろうか、中には息を切らしながら並んでいる生徒も居る。

 最後尾に行くと、見知った生徒の背中があった。

 

「やあ、清隆(きよたか)くん。きみたちも来たんだね」

 

 そう言って爽やかな笑みを浮かべるのは、オレの数少ない友人である平田洋介(ひらたようすけ)だった。

 彼はオレの隣に居る椎名に軽く会釈をすると、それ以上話す事はせず前を向こうとしたが、その彼にオレは声を掛けた。

 

「さっきは急にメールして悪かったな」

 

 オレが友人たちに一斉送信したメールの中には、当然ながら平田も入っていた。

 軽く謝罪をすると、平田は「とんでもない」と言った。

 

「寧ろ助かったよ。きみがあのメールを送ってくれるまで、僕は全然気付いていなかったからね」

 

「そうだったのか。それならあのメールにも意味はあったのかもしれないな」

 

 それにしても、平田と直接会話をするのは随分と久し振りだ。最後に会ったのはクルージング旅行での船内だったかもしれない。

 メールのやり取りはしていて何回か遊ぼうとは話題になっていたのだが、それは中々出来ずにいる。サッカー部の活動もそうだが、ただでさえ人気者の彼は予定がぎっしりと埋まっているようでフリーな日を探す方が難しいのだ。

 オレが一人だったらこの後飯でもどうかと誘っていたかもしれないが、ここには椎名が居る。流石のオレも、それが最低な行為なのは分かっている為、その機会は次回になりそうだ。

 

「僕たちの分は問題なくありそうだけど……メールにも書かれていた通り、全員分はなさそうだね」

 

「そうだな。早い者勝ちだから仕方ないが」

 

 そんな話をしている間にも、列はどんどん長くなっていった。そしてとうとう、一人の男性職員が立て札を持って最後尾に近付く。

 

「申し訳ございません。これ以上は水を支給出来ません」

 

 一人の女子生徒が列に並んだ所で、その男性職員が声を張り上げた。立て札を置き、自身もその場に留まる。すぐに新たな希望者が現れるが、立て札を見て落胆しながら自室に戻る。中には何とか出来ないかと交渉する生徒もいたが、男性職員は一貫して首を縦に振らなかった。一度認めたら際限がないし、そもそも許容量に達しているのだから当然か。

 

「そう言えば清隆くん、知っているかい? 最近ケヤキモールに、有名な占い師さんが来ているそうだよ」

 

「あー……そんな噂、何回か聞いた事あるな。でも確かプライベートポイントを支払わないといけないんだろう?」

 

「まぁね。向こうも慈善活動じゃないから仕方ないと思うよ。とはいえ、僕たちは躊躇してしまうよね」

 

 一般的なDクラスの生徒は貧乏生活を送っている。毎月に支給されるプライベートポイントは食事や生活用品に使われる為、入学当初のような豪勢な生活はとてもではないが出来ない。

 だがオレは現在、額にして25万程のプライベートポイントを所持している。これは個人的な活動で手に入れた物であり、平田は知らない。あと数日もすれば特別試験の結果が反映され、ある程度纏まったクラスポイント並びにプライベートポイントが支給される為、それまでは適当に話を合わせる必要があるだろう。

 

「綾小路くんは興味がありますか?」

 

 平田と話をしていると、それまで人形のように黙っていた椎名がそう尋ねてきた。

 

「興味があるかないかと聞かれたら、どちらかと言うと無いな。ただ機会があれば行っても良いかもしれないとは思っている」

 

 優柔不断な答えを口にすると、彼女は「そうですか」と言った。それからおずおずと続ける。

 

「もし綾小路くんが良ければ、今度一緒に行きませんか?」

 

 オレは少々意外に思った。てっきり椎名は、オレと同じように占いなんてものはあまり信じないタイプだと考えていたからだ。

 そんな事を考えていると、平田が何故かニコニコしながら。

 

「良いじゃないか、清隆くん。僕が話を聞いた限りだと、占いは二人一組で行かないとやって貰えないみたいだよ」

 

 そうなのか、と相槌を打ちつつも疑問に思う。オレのイメージでは、占いは一対一でやって貰うものだと思っていたからだ。

 

「それなら、明日──は、悪い、用事があった。明後日(あさって)にでも行こうか」

 

 誘い返すと、椎名は「はいっ」と笑顔を見せた。

 それから数分後、とうとうオレたちの番がやってくる。

 

「それじゃあ清隆くん、また会おう」

 

「ああ、またな」

 

 先に受け取った平田がそう別れの挨拶をしてくる。オレと椎名に見送られ、彼は食堂をあとにした。そしてすぐにオレたちの番となる。

 水を受け取ったオレたちは一旦自室に戻る。流石に2リットルの水を持ち歩くのは疲れるからな。寮のロビーで合流したオレたちはそのままケヤキモールに向かった。

 夕日は西に沈みつつあるものの、暑さはまだまだ続いている。これであと少しすれば季節としては秋になるのだから驚きだ。

 ケヤキモールに到着したオレたちはそのまま適当な飲食店に入る。夕食を食べ終えたオレたちは、用事も特にない為すぐに帰路についた。

 

「もうすぐで二学期が始まりますね」

 

 すぐ隣を歩く椎名が、ふと、そう呟いた。彼女は足を止めると、近くに設置されていたベンチに視線を送った。

 

「綾小路くん、もし良ければあそこでお話をしませんか」

 

「そうだな……たまにはそれも良いかもな。それにオレも、椎名には話があった所だ」

 

 オレが了承の返事をすると、椎名は無言で微笑んだ。

 しかしベンチに座っても、彼女は中々口を開けようとしなかった。沈黙と静寂(せいじゃく)を破るのは、今なお絶えずに響く蝉の鳴き声と、時折訪れる風の柔らかい音。

 夜空をぼんやりと眺め、過ぎ去る時間に身を委ねる。入学するまではたった一秒でさえ時間を浪費する事は許されなかったが、今ではこうして自分の好きなようにする事が出来る。その現実が、手に入れた自由が、あの真っ白な空間から出られてよかったと心を震わせる。

 

「椎名」

 

 先に口を開けたのはオレだった。とはいえそれは、この時間に退屈を感じたからでも、彼女が中々話をしようとしなかったからではない。

 ただオレから話をしたいと、そう思ったからだった。

 

「椎名」

 

 今度は強く呼び掛ける。返事はなかったが、それに構わずオレは言葉を続けた。

 

「まだ確定じゃないが、オレは二学期から生徒会に入る予定だ。そして、副会長に就く」

 

 堀北学(ほりきたまなぶ)葛城康平(かつらぎこうへい)に宣言した事を、オレは今初めて隣に居る少女に打ち明けた。その機会は幾らでもあったが、オレはそれが出来ずにいた。

 長い沈黙の末、彼女はようやく口を開けた。

 

「そうですか……副会長になられるのですね。それにしても、かなり急に決まりましたね。驚きです」

 

「この前、堀北生徒会長から誘われたんだ。オレはその魅力的な提案に乗る事にした」

 

「なるほど。それはまた……他の皆さんも、大層驚くでしょうね。綾小路くん、人気者になれるかもしれませんよ」

 

 面白そうに椎名はくすくすと笑った。

 人気者になる云々(うんぬん)はさて置いて、注目を浴びるのは避けられないだろう。それも悪い意味でだ。『不良品』だと蔑まれているDクラスの生徒がいきなり生徒会副会長に就く事は前例がないと、現生徒会長は言っていた。

『暴力事件』の時以上に、オレという存在は他生徒から関心を集める事になるだろう。

 その意味が分からない彼女ではない。

 

「私は……争い事が嫌いです」

 

「オレもだ」

 

「……そうですね。私も貴方(あなた)も、ただ平和に学校生活を送りたい。()()()()()()。それなのに貴方は今、きっと貴方自身の意思で大きな戦いに臨もうとしています。嗚呼(ああ)……本当に、人生とは思い通りに行かないものですね」

 

 どこか悲しそうに、椎名はそう言った。それから無言で満天の星空を見上げる。

 

「今から私が言う事は、貴方を縛り付ける事になるかもしれません。この言葉が呪いになって、貴方から『自由』を奪うかもしれません」

 

 泣きそうな表情で、とても辛そうに少女は胸の内をさらけ出そうとしていた。

 オレはそれを見詰めながら、場違いにも、それをどこか嬉しく思っていた。オレが彼女と出会った時は全く動かなかった顔が、今、様々な色を映している。

 

「それでも……それでも、私は──」

 

 そしておもむろに、彼女はオレの方にふわりと風のように倒れ込んだ。オレの両膝に、彼女の頭が乗る。いつもオレがやって貰っている事を、今日はオレが彼女にそうしている。

 

綾小路(あやのこうじ)くん。綾小路清隆(あやのこうじきよたか)くん」

 

 椎名がオレの名前を呼ぶ。その言葉に込められた感情を、意味を、オレはまだ知らない。だがそれが何よりも純粋で、決して穢されてはならない尊い想いである事は伝わってきた。

 そして、彼女は言った。

 

「私は貴方に──恋をしています」

 

 生まれて初めて貰った、告白。生まれて初めて向けられた、愛情。

 誰もが一度は、この儀式を想像するだろう。オレもそうだ。好きな相手と結ばれる事を夢想したのは一度や二度ではない。

 オレはゆっくりと、静かに長く息を吐いた。先程までの彼女と同じように、どこまでも暗く、どこまでもあたたかい夜空を見詰める。雲一つない空に浮かぶ、とても綺麗な月。

 

「──」

 

 徐々に上昇していく心拍数。視界は興奮によって朧気(おぼろげ)になり、靄がかかる。今にも心臓が身体が飛び出そうな、そんな錯覚にすら陥ってしまう。

 もし、もしも入学前のオレが今のオレを視たら何を思うのだろうか。羨望の眼差しを向けるのだろうか、それとも失望の眼差しを向けるのだろうか。この学校で得られたものは確かにあったのだと喜ぶのか、あるいは下らない一時の感情なのだと唾棄するのか。

 それは、分からない。"IF"の話をしても時間の浪費でしかない。仮定の話だ。それは分かっている。それを分かっていながら、オレはそれを想像してしまう。

 オレは瞬きを一回した。視界が鮮明になり、思考も正常になる。

 そして、すぐ目の前に居る少女を見た。

 美しい銀の長髪がカーテンとなり、互いの表情は見えない。

 だが、それで良かったのかもしれない。オレも、そして彼女もそれを今は望んでいなかったからだ。

 

「──」

 

 気が付けばオレは少女の頭に手を伸ばすと、ゆっくりと()でていた。

 

「オレも、椎名の事は大事に思っている」

 

 これが自分の声なのかと、一瞬、オレは自分自身を疑ってしまう。それだけ穏やかな声音だった。

 機械のような冷たい『こころ』の持ち主でも、このように誰かを慈しむ事が出来るのかと、どこか他人事のように思う。

 

「薄々気付いているとは思うが、オレは少しばかり特殊な環境下で生まれて、そこで育ってきた」

 

 この学校に来てから初めて明かす、オレの過去。その相手が彼女になるとは思いもしていなかった。

 

「家族や友達、人間ならあって然るべき人間関係と、オレは無縁だった。だから正直に言えば、困惑している」

 

 びくりと、椎名は身体を震わせる。

 だが──、とオレは手を止めることなく言葉を続けた。

 

「だがそれ以上に……そうだな──嬉しいとも思っている。すまない、この気持ちをどう表現すれば良いか分からない」

 

 実に情けない話だが、オレは嘘偽ることなく本音を口にする。

 

「告白してくれて、ありがとう。多分、今日の事は生涯忘れないと思う。椎名が初めてで、本当に良かった」

 

 そして、オレは言った。

 

「だが、すまない。返事はまだ出来そうにない。まだ、明確に答える訳には行かない」

 

 それはきっと、とても残酷な言葉なのだと思う。

 告白をしてくれた相手にする返事では断じてない。誠意を示せていない。あまりにも不誠実だ。

 答えを態度では示しつつも、言葉では示さない最低な男。もし第三者がこの場に居れば、そのような感想を抱くのではないだろうか。

 だが当事者であるオレの気持ちもまた、その第三者には分からないだろう。分かるのは自分自身と、彼女だけだ。

 そうだ、第三者なんて関係ない。これはオレと彼女の物語だ。

 

「椎名が(ゆる)してくれるのなら、どうか待っていてくれないか」

 

 オレはそれだけ言うと、口を閉ざした。瞳を閉ざし、その時を待つ。

 どれだけの時が経ったのか、それは分からない。だが不意に、それまで膝に乗っていた重みが無くなった。

 目を開けると、椎名は淡い微笑みをオレに向けていた。囁くように口を動かす。

 

「待っています。いつまでも、待っていますから。だからお願いです、綾小路くん。私はいつまでも貴方を待っていますから……どうか、どうか、居なくならないで下さい」

 

 それが、椎名の望みならば──と、オレは短くもしっかりと首肯した。

 

「そろそろ、寮に戻ろうか」

 

 オレがそう言うと、彼女は頷いた。

 ベンチから立ち上がったオレは、寮のある方向へ身体を向けた。しかし足を動かす前に、「綾小路くん」と背中に声が掛かる。それはこれまでの中で、一番柔らかくて、優しい声だった。

 まだ話し足りない事があるのかと、身体を振り向かせた、その時。

 

「──!」

 

 オレは衝撃と驚愕のあまり、目を見開いた。

 すぐ目の前には、椎名の美しい顔があった。だが、いつもよりも高い位置にある。恐らくは、いや、まず間違いなく背伸びをしているのだろう。何度も見惚(みほ)れてきた顔だったが、唯一、宝石のような輝きを放つ瞳は伏せられていた。

 そしてオレの唇は、彼女の柔らかい口で重ね合わされていた。

 突然の出来事にオレは硬直するも、身体が拒否反応を示す事はなかった。それどころか気が付けば、両腕は彼女の背中に回っていて、彼女の華奢な身体を抱き寄せていたのだ。自然とオレの目は閉じ、この時間に身を委ねていた。

 高校一年生、その真夏の夜。オレはこの日の出来事を絶対に忘れないだろう。

 



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恋愛相談

 

綾小路(あやのこうじ)、約束通り俺の恋路(こいじ)を応援して貰うぜ!」

 

 そう言って早朝からインターホンを連打してオレを起こしたのは、クラスメイトである山内春樹(やまうちはるき)だった。

 玄関前で騒がれても近所迷惑の為、取り敢えず中に入れる。山内は「久し振りにくるなー!」と言いながら意気揚々と部屋に入るも、突然、何故か棒立ちになる。

 

「お、お前……! 綾小路、何だよこれは!」

 

 両肩を震わせながら、山内はオレをきつく睨んでくる。だがしかし、オレにはその理由がまるで分からない。事前に来る事はわかっていた為──約束の時間よりもだいぶ早かったが、彼の事情を考えれば仕方ないのかもしれない──一応、掃除はしておいたし菓子も補充していたのだが、何が彼の逆鱗(げきりん)に触れてしまったのだろうか。

 怨嗟(えんさ)を込めた眼差しで、彼は叫んだ。

 

「女の匂いがする! しかも複数の!」

 

 は? 思わず()で呟くオレに、山内は険しい面持ちでさらに言った。

 

「隠したって無駄だぞ、綾小路! 恋愛マスターたる俺には分かるんだ! ここは野郎の部屋じゃない!」

 

「そんな事はないと思うが……何を根拠に言っているんだ?」

 

「俺の直感だ! 何というか、ここは甘いんだよ! お前、女の子を、しかも数人! 部屋に連れ込んでいるな!?」

 

 理解不能な暴論を振り(かざ)す山内に、オレは何も言えなくなってしまう。

 もしここに堀北が居たら、さぞかし冷たい目で彼女は彼を見ていただろう。

 オレが絶句していると、山内はさらに続けた。

 

「キッチン棚に巧妙に隠されている、このマグカップは何だ!? 男がこんな上品な物を使う筈がない!」

 

「いや、そんな事はないと思うが」

 

「それだけじゃないぞ! 何だ、この可愛らしいぬいぐるみは!? お前のような根暗(ねくら)な奴が持って良いものじゃないぞ!」

 

「それはこの前、ゲームセンターに行った時にクレーンゲームで手に入れた物だ」

 

 まあとはいえ、マグカップは椎名のもので、ぬいぐるみも千秋と出かけた時にゲットしたものだが。そういう意味では、山内の暴論は当たっていると言えよう。

 それから暫く、山内の暴走は続いた。部屋の隅々まで目を光らせ、何かを発見する度に声を上げる。しまいには冷蔵庫の中まで(あさ)り始めた。見られて困るようなものは一切置いてないとは言え、流石に非常識が過ぎる行いだろう。

 正直に言えばすぐにでも帰って欲しいが、それは出来ない。オレは嘆息すると、彼の気が済むまで好きにさせる事に決めた。

 携帯端末を適当に弄り、ネットサーフィンに興じる。そうしていると、一件のメールが届く。それは個人的なものではなく、グループチャットに届いたものだった。とはいえ、グループに所属している人数はオレを含めてわずか三人。

 

『ど、どうしようどうしよう!?』

 

 アプリを開いて確認すると、そこにはそんな文字が投稿されていた。どうかしたのかとメッセージを送ろうとしたその時、違う人物からメッセージが投稿される。

 

『どうかされましたか、愛里(あいり)ちゃん?』

 

 オレもすぐに続く。

 

『どうかしたのか?』

 

 これでグループ全員が集まったという事になる。これは、佐倉愛里(さくらあいり)王美雨(みーちゃん)、そしてオレの三人で形成された友達グループだった。

 Dクラスで唯一と言っても良い、オレが打算なく付き合い始めたグループでもある。グループに投稿される内容はごくありふれたものであり、特に多いのは佐倉が撮ったどこかの景色の写真が多い。それにオレとみーちゃんが反応を示し、交流を重ねている。夏休みが終わる前にも、遊ぶ約束をしていた。どこで遊ぶかは分からないが、楽しいものになるだろう。

 そのような事を思いつつ、次のメッセージが届くのを待つ。

 

『あ、あのね、私今日のお昼に櫛田さんに呼ばれたの。それも校舎裏に! 私何か()()()()()()()()()()()!?』

 

 相応焦っているのか、文末が崩れていた。

 だが今の佐倉の心境からすれば、誤字脱字など些細な事でしかないだろう。

 取り敢えずオレはみーちゃんと共に佐倉を落ち着かせようと、言葉を投げ掛ける。そうすると彼女は我を取り戻したようで、『ごめんなさい』という言葉と共に可愛らしいスタンプが投稿された。

 オレはちらりと山内に視線を送る。暴走が終わる気配はまだない。

 

『校舎裏って言うと、第二体育館に通じる所か?』

 

『う、うん……多分そうだと思う。綾小路くん、どうしよう。私、何かやっちゃったかな……?』

 

 オレはさらに質問した。

 

『いつ櫛田からメッセージが届いたんだ?』

 

『昨日の夜、二十二時を少し過ぎた時間かな。本当はその時に相談したかったんだけど、迷惑だと思ってすぐに言い出せなかったの』

 

『迷惑だなんて、そんな事はないですよ。綾小路くんもそうですよね?』

 

『ああ、そうだな。時間帯によってはすぐには読めないかもしれないが、迷惑だなんて事は全然ない』

 

『うぅ……ありがとう……』

 

 泣きながら感謝の意を示している動物のイラストが描かれたスタンプが今度は投稿される。気にするなと、オレとみーちゃんは文字で返信した。

 

『しかし、櫛田さんは愛里ちゃんに何の用件があるのでしょうか?』

 

 みーちゃんはさらに続ける。

 

『何か伝えたい事があれば、今私たちがしているようにチャットでやり取りをすれば良いでしょうし、前日の夜にアポイントメントを取るのも櫛田さんらしくない気がします』

 

『そ、そうだよね……。それに何で、校舎裏なんだろう……? ああやっぱり、私、何か失礼な事をしちゃったのかな!?』

 

 疑問は渦巻く。

 オレは、はあ、と溜息を吐いた。とはいえそれは、彼女たちに対してではなく、これから起こるであろう出来事に対してだ。

 

「おい綾小路、そろそろ俺の相談に乗ってくれよ」

 

 オレが予め用意しておいたスナック菓子を食べながら、山内がそう言ってくる。

 これ以上、佐倉の相談に乗る事は出来ない。そのように判断したオレは『悪い、これから用事があるから離れる。ただ櫛田からの呼び出しには行った方が良いと思う。下らないイタズラをするような性格じゃないからな』というメッセージを残してアプリを閉じた。

 携帯端末をマナーモードにしたオレは、そのまま山内に視線を送る。

 

「それで、他所の家を(あさ)って満足したか」

 

「うっ……わ、悪かったよ。たださっきも言ったけどよ、この部屋の至る所から『女の匂い』がしたんだ。だからついな」

 

 バツの悪そうな表情を浮かべながら、言い訳を口にする山内。オレが少し睨んで不機嫌を演技すると、流石の彼も反省したようだった。「悪かった。もうしない」と頭を下げる。

 

「分かった、次からはしないでくれ。それを約束してくれるなら、今回は許す」

 

 ブンブンと、山内は首を激しく振った。

 そして、オレは「それで」と話を切り出した。

 

「改めて確認させて欲しい。山内、お前が今日ここに来た理由は何だ?」

 

「決まっている! 恋愛相談の為だ!」

 

「その相手はクラスメイトの佐倉愛里で間違いないな?」

 

 ああ! と力強く叫ぶ山内。そして彼は続けた。

 

「忘れたとは言わせないぜ、綾小路。お前に携帯を貸した時、俺の恋愛相談に応じてくれるって言ったよな!?」

 

「ああ、確かに言ったな。安心しろ、オレも約束を反故にする気はない」

 

「それなら良いんだ。もし破っていたら俺の部下五百人がお前をボコボコにしていただろうからな」

 

 わかり易すぎる嘘を適当に流しながら、オレはこうなった経緯を思い出していた。

 今日から数日前、オレは須藤(すどう)葛城(かつらぎ)と共に校則違反を犯した。それも、『外界との接触を禁じる』という、この学校で最も重要な校則の一つだ。それは葛城の双子の妹に誕生日プレゼントを届ける為であったが、違反は違反。もし学校にバレたら重たい罰則を受けるだろう。その為、オレたちは綿密な計画を立てた。

 作戦は至ってシンプル。実行者が部活の大会中に教師とチームメイトの目を掻い潜って、着払い伝票を貼った誕生日プレゼントを郵便ポストに入れるというもの。

 そのうちの一つとして、携帯端末を一台用意するというものがあった。作戦の実行者は須藤一人。オレと葛城はその様子を現地で直接見れない。無いとは思うが、須藤が嘘を吐く可能性もある。そこで作戦の関係者の物ではない携帯端末で、須藤が郵便ポストに投函(とうかん)する様子を録画する必要があったのだ。

 その携帯端末の持ち主として、オレは山内春樹を選んだ。そして、『もし携帯端末を貸してくれたら恋愛相談に応じる』という交換条件を持ちかけたのだ。オレは以前より彼から恋愛相談を受けてはいたが、協力的な姿勢は見せていなかった。当然、山内は唐突な申し出に驚いただろう。だが佐倉に執着している彼は困惑しつつも、オレの交渉に応じないという手はない。何故ならオレは佐倉と最も仲の良い男子生徒であり、佐倉攻略の鍵はオレが握っていると言っても過言ではないからだ。

 そして、今日。山内はオレの部屋を訪れてきた訳だ。

 

「今日という一日を、俺は特別な日にする! その覚悟を持って、俺は今日ここに来た!」

 

 気合十分といった様子だ。オレは改めて山内の気持ちを確認──今、聞き逃せない言葉があったような気がする。

 

「ちょっと待ってくれ。『特別な日』にすると言っていたが……まさか、お前……」

 

 オレが恐る恐る尋ねると、山内はにんまりと笑った。得意げに胸を張りながら堂々と宣言する。

 

「お前の想像通りだ。俺は今日、佐倉に告白する! そしてリア充の仲間入りを果たすんだ!」

 

 山内はその未来を想像しているのか、だらしない顔となっている。

 

「その約束も取り付けてある。正確には、櫛田(くしだ)ちゃんに頼んだんだけどよ」

 

 オレが絶句していると、彼はバッグから一通の白い手紙を取り出して渡してくる。反射的に受け取ると、そこには文字が羅列されていた。

 どことなく既視感を覚えながら、オレは呟く。

 

「これは……ラブレターか……?」

 

「おいおい、それ以外の何に見えるんだよ」

 

 呆れたように息を吐くと、山内は言葉を続ける。

 

「これには俺の、佐倉に対する一途(いちず)な想いが書かれている。これを彼女に渡せば、俺の気持ちが伝わる筈だ」

 

「……」

 

「さあ、遠慮はいらないぜ。読んでみろ!」

 

 言われるがままに、オレは手紙に視線を落とす。

 ラブレターと呼ばれるものを読むのはこれで二回目だが、果たして、どのような事が書かれているのだろうか。

 

拝啓 佐倉愛里様

僕は以前よりあなたの事が気になっていました。付き合って下さい。──追伸、僕と付き合ってくれたら毎月ポイントを全額差し出す覚悟です。いくらでも貢ぎます! 

 

 ……何だ、これは。思わず思った事がそのまま口から出そうになったが、すんでのところでとどまる。

 確かにそこには、山内の佐倉に対する想いが書かれていた。確かにこれなら、ラブレターと呼べない事もないだろう。

 ないだろうが、これではあまりにも……。

 

「……相談内容は手紙の添削で良いのか」

 

「ああ、その通りだ。綾小路、お前は読書が趣味だったよな。沢山の本を読んでいるお前になら、この難関任務も達成出来ると思ったんだ。頼むぜ」

 

 なるほど、とオレはその人選に納得した。自惚れではないが確かにDクラスの中で本を読んでいるのはオレだ。

 安直過ぎる理由だとも言えるが、まあ、それにとやかく言うつもりはない。寧ろここは選ばれたのだと前向きに捉えるとしよう。

 オレはドヤ顔をしている山内に、視線を一切寄越さず言った。

 

「分かった。それじゃあ、まずは全部書き直そうか」

 

「……へ?」

 

 オレは筆記用具と、一枚の用紙を取り出した。

 そして、まずはどこから取り掛かろうかと悩むオレに、山内が慌てて言った。

 

「ま、待ってくれよ綾小路! 全部書き直すって……本気で言っているのかよ!?」

 

「オレは至って真面目だ。冗談でこんな事は言わない。このラブレターは論外だ」

 

「論外、だと……!?」

 

 まるで理解出来ないと、山内が目を見開いて慄く。

 オレは淡々とさらに続ける。

 

「まずは内容以前の問題だ。この奇怪なフォントは何だ。初めて見たぞ」

 

「そりゃそうだろうな。数多あるフォントの中から普段お目にかかれないものを選んだからな。その方がインパクトあるだろう」

 

「確かにインパクトはあるかもしれない。だがそれは、悪い方向でだ」

 

 どこから拾ってきたのかは知らないが、文字がとても酷く汚れている。これでは内容がとても良くても敬遠されてしまうだろう。それが佐倉のような大人しい女性なら尚更だ。

 いや彼女でなくとも、ドン引きするか。これを一目見て気に入る人間は余程の奇人変人(きじんへんじん)だろう。

 

「奇を衒う必要はない。フォントは普通のものでいい」

 

「そうかぁ……? まあ、分かったよ」

 

「次に、これは批判じゃなくて確認だが……印刷を選んだんだな」

 

「ああ、俺はお世辞にも字が綺麗じゃないからな。へにゃへにゃ文字なんか見せたら、佐倉に笑われちまうぜ」

 

 そうか、とオレはひとまず頷いておいた。

 ラブレターなら手書きの方が想いを伝えやすいとオレは思うが、ここは山内の考えを尊重しよう。

 

「印刷なら尚更、誤字脱字に気を付けたいが、見た所それはないな」

 

「流石にそこは気を付けているぜ」

 

「だが山内、差出人であるお前の名前が文末に書かれていない。これだと誰からのラブレターか分からないぞ」

 

 それがつい先日までストーカー被害に遭っていた佐倉なら尚更、差出人が不明なのは不気味に思う筈だ。このラブレターを直接手渡すにしろ、そうではないにしろ、差出人の記入は大切だろう。

 

「次に、文章だ。畏まった文章から一気に簡略化し過ぎだ。もう少しお前の想いを書いた方が良いと思う」

 

「そうかぁ……? 俺は単刀直入に伝えた方が良いと思うけどなぁ」

 

「お前が直接告白するなら、それで良いかもしれない。だがラブレターの良い所は文字として残せる所にある。本番なら緊張して上手く口が動かなくても、この方法ならその心配は要らないだろう」

 

「つまり、どういう事だよ?」

 

「お前がどれくらい佐倉の事が好きなのか、しっかりと伝える事が出来る。その方が成功確率も上がるだろう」

 

 ラブレターの最大のメリットを諭すと、山内は納得したようだった。

 

「よっしゃ、すぐに書き直すぜ!」と、山内は意気込んだ。そんな彼にオレは、最後にして重要な部分を伝える。

 

「最後に、この『追伸』の部分だが」

 

「ああ! お前も分かってくれるか心の友よ! これなら佐倉もイチコロだろ! そうだろう!?」

 

「論外だ。まずは自分で読み返してみろ」

 

 山内に怪奇文章を突きつける。しかし彼は、まるで分からないといった様子を見せていた。

 

「どこの世界に、貢ぎますと言われて喜ぶ女の子が居るんだ」

 

 そう指摘すると、山内は心外だと言わんばかりに答えた。

 

「それは分からないだろ! 実際、パパ活をしている女子高生だっているじゃないか! その女の子たちはお金が欲しいからキモいおっさん達にお金を貢いで貰っているじゃないか!」

 

 そこを言われると否定は出来ない。実際、SNSでは裏垢を使ってそう言ったやり取りが多いと聞く。

 だがしかし、それは架空の人物。山内がラブレターを渡そうとしている相手の事を考えるべきだろう。

 

「断言するぞ、山内。佐倉はこのラブレターを貰っても喜ばない。絶対にだ」

 

「お、おう……お前がそこまで強い口調で言うのも珍しいな」

 

「それだけお前の恋を応援しているって事だ。山内、少しでも成功率を上げたいならもう少し考えた方が良い」

 

 オレが真剣な目を向けると、山内はようやく考え直したようだった。

 それまで浮かべていたヘラヘラとした笑みを収め、表情を改める。そしてオレからラブレターを取ると、グシャグシャに紙を丸めてゴミ箱に放り投げる。

 

「頼む、綾小路。俺に力を貸してくれ!」

 

 今まで見たことがないほど真剣な顔付きになった山内は、そう言いながら深々とオレへ頭を下げた。

 オレは一度頷くと、出来る限り力になる事を約束する。

 そうして、約束の時間になるギリギリまで、オレと山内はラブレターの内容と告白の練習を重ねるのだった。

 



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赤い糸は結ばれるか

 

 場所は寮から学校へ変わる。

 何とか佐倉(さくら)へのラブレターを完成させた山内(やまうち)とオレの二人は一度制服に着替えた後に再度集まり、そのまま学校へ向かっていた。

 

「あ、暑いぜ……」

 

 山内が額に汗を流しながら、そう愚痴(ぐち)を零す。その気持ちは分かる、とオレは無言で頷いた。

 八月も既に下旬(げじゅん)。あと数日で九月を迎えようとしているとはいえ、真夏はまだまだ続きそうだ。

 半袖のカッターシャツを着ているとはいえ、ハンカチで拭っても汗はいくらでも出てくる。

 

「なあ、綾小路(あやのこうじ)……一つ聞きたい事があるんだけどよ」

 

「何だ?」

 

「どうして急に、俺の相談に親身になって応じてくれたんだ? これまでは嫌そうな反応だっただろ?」

 

 校門を通った所で、山内がそう尋ねてきた。彼からしたら、その疑問は当然だろう。

 何故ならオレは山内の言う通り、これまであまり真面目に取り合わなかったからだ。

 約束の場所、第二体育館へ通じる道を歩きながら、オレは少し考えて答える。

 

「この前携帯を貸して貰っただろう。そのお礼をしたいと思ったんだ」

 

 そう口にすると、山内は不満そうな表情を浮かべた。

 

「いや、そんな建前はどうでも良いんだよ。馬鹿な俺でも、それが建前なのは分かるぜ」

 

 本音を言えと、言外で告げてくる。

 嘘を常日頃から言っている山内からしたら、オレが吐いた嘘を見抜く事など造作もなかったようだ。まあオレとしても、本気で隠そうとは思っていなかったが。

 

「そうだな……それなら、真面目に答えるとする」

 

「そうしてくれよ。怒らないからさ」

 

 そういう事ならと、オレは答えた。

 

「正直な所、つい昨日までオレは、約束をしたとはいえ、お前の相談に真面目に応えるつもりはあまりなかった」

 

「お、おう……すごいぶっちゃけるな」

 

「だが、変わった。遊びではなく本気で佐倉へ告白するつもりだと伝わってきたら、オレもそれに応えようと思った」

 

 昨晩椎名(しいな)からの告白を受け取った時、オレは自身の中で考え方が変わったのを自覚した。

 遊びの告白なら話は別だが、本気で自身の想いを伝えるのはとても勇気がいる事だと分かった。何せ告白された側であるオレがあれだけ緊張したのだ。告白した側の彼女の緊張、焦燥(しょうそう)、そして不安。それらは想像すら難しいだろう。

 絶対に成功する告白、そんなものこの世にはない。成功するか、失敗するか。そのどちらかだ。間違っても『絶対』が介入する余地はないのだと、オレは学んだ。

 だからオレは、佐倉には悪いが山内に協力しようと思った。もし山内春樹(やまうちはるき)が本気で佐倉愛里(さくらあいり)と結ばれようと努力し、その覚悟を持っているのなら、なるべくそれに応えようと思ったのだ。

 そのような事を──椎名からの告白は伏せつつ──伝えると、山内は衝撃を受けたように固まった。

 そして、ぽつりと呟く。

 

「俺、お前の事全然知らなかったんだな……」

 

「……どういう事だ?」

 

 気になったので、今度はオレが尋ねる。

 暫くして、山内は「怒らないで聞いてくれよ」と断ってから言った。

 

「俺はこれまで、お前の事を()えない陰キャだと思っていた。椎名ちゃんみたいな美少女と仲良くなれたのも、たまたまだと思っていた。俺や寛治(かんじ)(けん)みたいな人種だと思っていたんだ」

 

 でも、と山内は続ける。

 

「それは違ったんだな。俺はお前の事を根暗で影が薄い陰キャだと先入観で見ていた。それで満足していた。でも、それは大きな間違いだった。ほら、特別試験の時にお前と篠原が軽く揉めた時があっただろ? 覚えてるか?」

 

 山内が言っているのは、無人島試験での出来事だろう。

 二つしかない仮設テントを誰が使うのかで議論していた時の事だ。クラスメイトである篠原(しのはら)さつきが女子生徒に優先的に使わせろと訴えてきたのだ。それに対して、Dクラスのリーダー、平田洋介(ひらたようすけ)は篠原の意見を尊重しつつも、場合によっては男子生徒が使っても良いと言った。オレはその時、率先して平田の意見に賛成したのだ。

 その時のオレは『暴力事件』で悪目立ちをしていた為、クラスメイトから距離を置かれていた。篠原もその一人であり、軽い口論となってしまった。

 その時の事を思い出していると、山内が言った。

 

「あの時さ、俺や他の奴等は『何をでしゃばっているんだ』って思ったんだ。『陰キャが調子に乗るな』とも思っていた」

 

「そうだったのか。だが山内、それは間違っていない。そう思われても仕方のないことを、オレはしていたからな。その自覚はあるつもりだ」

 

 フォローするも、山内は「違うんだよ」と顔を横に振る。

 

堀北(ほりきた)が勉強会の時によく言う言葉があるんだ。『もっと深く考えなさい。すぐに思考を止めるのではなく、限界まで考え抜きなさい』ってさ」

 

「……それはまた、スパルタだな」

 

「実際そうだぜ。夏休みも余程の事がない限り、勉強会に強制出席となるからな」

 

 勘弁してくれとゲンナリとした表情を浮かべていたが、その口調はとても穏やかだった。最初は嫌々参加していた勉強会に、彼なりに意義を見出しているのだろう。

 

「今なら少しは、その意味が分かりそうな気がする」

 

 そうか、とオレは頷いた。

 それからオレたちは無言となり、目的地へ向かった。道中、数名の運動部の生徒とすれ違いつつ、第二体育館に到着する。

 携帯端末を見て現在時刻を確認すると、約束の時間まであと二十分を切っていた。思ったよりも足が早く動いていたようだ。

 

「ところで、どうして校舎裏なんだ? 生徒が普段通らないからか?」

 

 夏休みのこの期間、ここに通るのは運動部くらいだろう。そう思いつつも、何かを話す事で少しでも緊張が和らげばと、オレは山内に尋ねた。

 山内は緊張で固い表情を浮かべながらも、オレの質問に答えた。

 

「噂になっているんだ。ここで告白すれば必ず成功するってさ」

 

「……」

 

「おい、その疑問に満ちた視線を俺に送るな! それに、校舎裏での告白は王道なんだよ! ほら、お前が読んでいる本の中でも、そう言った描写を見掛けた事はあるだろ?」

 

 それは事実なので、取り敢えず頷いておく。

 ようは、『伝説の木の下で──』の別バージョンという事で、彼からすれば、少しでも成功する確率があるのならそこに()けたいのだろう。

 

「な、なぁ綾小路……今更だけどさ、本当にこの文章で良いんだよな……?」

 

 不安に駆られた顔で、山内がそう尋ねてくる。

 オレは彼を安心させる為、視線を逸らすことなくはっきりと言った。

 

「文章自体は問題ない。少なくとも最初の怪奇文章と比べたら雲泥の差だ」

 

「お、おぅ……確かにそうかもしれないけどさ、お前って時々、ものすごく口の悪い時があるよな」

 

「気にするな」

 

 いや、それは無理だぜ! と強く突っ込む山内。

 

「落ち着け、山内。あれだけ文章を直して、練習もしたんだ。あとは練習通りにするだけだ。違うか?」

 

「そうだけどよぅ……でも、俺に出来るのかな。そこが不安なんだよ」

 

 顔を青ざめて、山内はそう吐露(とろ)する。

 そんな彼に、オレはニヒルな笑みを浮かべて──似合ってないのは重々承知だ──彼の胸を軽く叩いた。

 

「お前は小学生の時は卓球で全国に、中学時代は野球部でエースで背番号は四番だった。そうだろう?」

 

「そ、それは……! でもそれは、綾小路、お前も知っているだろ!?」

 

「いいや、何も知らないな。もう一度言う。お前は小学生の時は卓球で全国に、中学時代は野球部でエースで背番号は四番だった。そんなお前なら、告白をする事は造作もない。違うか?」

 

 オレがそう煽ると、山内は覚悟を決めたようだった。

 乱れていた呼吸を落ち着かせ、ドヤ顔を浮かべて胸を張る。両膝が震えているのは武者震いで、決して悲観的な思いからくるものではない。

 そして山内はその表情のまま、オレの言葉にこう付け足した。

 

「けどインターハイで怪我をして今はリハビリ中だ。これを忘れているぜ、綾小路」

 

「そうか、そうだったな。すっかりと忘れていた」

 

 惚けてみせると、山内は「勘弁してくれよ、頼むぜ」と笑いながら肩を叩いてくる。

 

「そろそろオレは行く。告白、頑張れよ」

 

 佐倉の事だ、早めに来てもおかしくはない。部外者のオレがこれ以上ここに長居しても意味はないだろう。

 しかし、足早に立ち去ろうとするオレへ、山内はこう言ってきた。

 

「待ってくれ、綾小路。お前には俺が告白する所を見ていて欲しいんだ」

 

「……それは、オレは構わないが。お前は良いのか?」

 

「ああ、俺がちゃんと告白する所を、見ていて欲しい。嘘を吐かずに向き合う俺を、見届けて欲しいんだ」

 

 友達に告白シーンを見られる。成功すれば良いが、失敗すれば気まずくなるのは必至。

 そのリスクを承知の上で、山内はオレに頼み込んできた。

 オレは逡巡の末、ゆっくりと頷いた。そして今度こそ、オレは彼の視界から消えた。

 適当な物陰に潜んだオレは、携帯端末を取り出すと現在時刻を確認する。約束の十分前、いつ佐倉が来ても不思議ではない。そう思いながら、オレはさらに携帯を操作する。とある生徒のアカウントを開く。そして位置情報を確認すると、点滅はすぐ近くにあった。座標は校舎裏付近に生い茂っている木々をさしている。

 そこに向かうと、見知った人物が先程までのオレと同様、息を潜めていた。オレは音を立てず近付くと、背後からその人物の肩を優しく叩く。

 

「──ッ! ──ッ!?」

 

 悲鳴を上げかける口を、オレは塞いだ。あたたかい唇から漏れる息を感じる。

 オレは「悪い」と謝罪をすると、相手が落ち着くのを待った。数十秒後、呼吸が安定した彼女に声を掛ける。

 

「やっぱりお前も来ていたんだな、みーちゃん」

 

 その人物──王美雨(ワンメイユイ)は「ええ」と小さく頷いた。

 

「愛里ちゃんは来なくても大丈夫だと仰いましたが、心配になったので来てしまいました」

 

 みーちゃん曰く、オレがアプリを閉じた後も暫くはチャットが続いていたとの事。そして最終的には佐倉も覚悟を決め、桔梗(ききょう)と会う決心をした。心配になったみーちゃんは自分も同伴しようかと提案したが、それは悪いからと断られてしまったの事。

 

「私がここに来たのは、お二人が来る三十分前です」

 

 それはまた随分と早い時間帯だ。

 いくら桔梗と言えど、流石に三十分前行動はしないだろう。みーちゃんもそれは分かっていたが、それを上回る程に心配だったのだろう。

 

「しかし待ってみれば、櫛田(くしだ)さんの代わりに綾小路くんと山内が来て……どういう事だろうと疑問に思っていた所です」

 

 そう言った視線の先では、山内が緊張した面持ちで所在なさげに立っていた。秒単位で表情が変わり、何も事情を知らない人間から見たら不審人物だと警察へ通報するかもしれない。

 

「綾小路くん、これだけは事前に確認させて下さい。櫛田さんは今日、ここに来ませんね?」

 

「ああ、その通りだ。山内が櫛田に、佐倉を呼ぶように依頼した。そう聞いている」

 

「なるほど」

 

 そうは言いつつも、みーちゃんの顔は腑に落ちていなかった。

 オレは一声掛けてから彼女の隣に移動すると、事情を説明しようと口を開ける。しかしその前に、事態が動いてしまった。

 

「綾小路くん、愛里ちゃんです」

 

 先に気付いたみーちゃんが、小声で言ってくる。

 校舎裏に現れた佐倉はきょろきょろと辺りを見ながら歩いていた。

 

「えっ……? 何で?」

 

 佐倉の表情には困惑がありありと出ていた。

 それも当然だろう。何故なら彼女を呼び出した櫛田が居ないからだ。居るのは櫛田ではなく、山内。

 オレは今のうちにこれだけは先に頼んでおこうと思い、みーちゃんへ囁いた。

 

「みーちゃん、思う所はあるだろうが、今から起こる出来事が終わるまでは、どうか黙っていて欲しい。そして願わくば、見守っていて欲しい」

 

「わ、分かりました……。綾小路くんがそこまで言うのも珍しいですもんね」

 

 こくりと、みーちゃんは頷いた。

 そしてオレたちが見守る中、山内と佐倉は無言で向かい合っていた。最初に話を切り出したのは、意外な事に佐倉からだった。

 

「あ、あの……どうして山内くんがここに? あっ、それとも櫛田さんの代わりに、山内くんが来たんですか?」

 

 何故ここに櫛田が居なくて山内が居るのかを、佐倉は尋ねた。その当然の質問に、山内は中々答えられない。

 (だま)すような形で呼び出しをした事を今更ながら後悔しているのかもしれない。

 しかし、答えなければならない。山内もそれは分かっている。数十秒後、彼は質問に答えた。

 

「悪い! 佐倉をここに呼ぶよう、櫛田ちゃんに無理言って頼んだんだ!」

 

 そう言って、山内は深々と頭を下げて謝罪する。

 我に返った佐倉が「あ、頭を上げてください!?」と慌てて言うまで、彼は頭を下げ続けていた。

 

「山内くんがここに居る理由は分かりました。それで……山内くんは私に何か用事があるんですよね?」

 

 用件を尋ねる、佐倉。まさか今から告白されるだなんて微塵も思っていないだろう。

 しかしそれも、どれだけ経っても何も言わない山内を見て変わってくる。告白されるとは思い至らなくとも、何か重大な事が起こるのだろうと身構える。

 それは、外野のオレたちにまで伝わってきた。オレが沈黙していると、みーちゃんが服の袖を遠慮がちに引っ張りながら、上擦った声を出して尋ねてくる。

 

「あ、綾小路くん……! まさか山内くん、愛里ちゃんに──!?」

 

「みーちゃんの想像通りだ。山内は今、佐倉へ告白しようとしている」

 

「なっ──!?」

 

 あんぐりと口を開け、みーちゃんは絶句した。それから我に返ると、山内と佐倉へ視線を送ってから、再度オレに顔を向けた。

 

「で、でも綾小路くん! 愛里ちゃんは山内くんの事を、その……!」

 

 言いにくそうに語尾を小さくするみーちゃん。

 

「そうだな、佐倉は山内の事を恋愛対象として見ていない。オレとみーちゃんに困っていると相談してきたくらいだからな」

 

「そ、それなら失敗するんじゃないですか? 」

 

「それは分からない。少なくとも、まだな」

 

 山内から執拗に絡まれて困っていると、佐倉は何度かオレとみーちゃんに相談してきた。

 その事を考えるなら、山内の告白は失敗するだろう。

 だがそれはあくまでも『過去』であって『今』ではない。可能性は限りなく低いだろうが、決してゼロではない。

 想いを伝えられた佐倉の気が変わり、山内の告白を受け入れる可能性は確かにある。

 第二体育館を使っている運動部の声が聞こえる。その内容からして、恐らくはバレー部だろう。

 時刻は夕方。燃えるような夕陽が地上を照らし、青色の空は茜色に変色しつつある。そして、場所は日常がすぐ近くに感じられる校舎裏。さらには絶対成功するという噂の告白スポットだ。

 なるほど、確かにこれなら王道だな。告白する環境として、今、この校舎裏は最も適している。

 

「俺、俺……ッ!」

 

 口を開けては閉ざすを、何度も繰り返す。呼吸は荒くなり、山内は立っているのもやっとな状態だった。

 だがそれは、佐倉も同じだった。今自分が置かれている状況を遅まきながら理解した彼女は、顔を真っ赤に染めて目尻には涙さえ溜めている。これまでの彼女だったら、逃げ出していたかもしれない。だが彼女はその気持ちを必死に抑え、山内に真正面から向かい合っていた。

 そして、いったいどれだけの時間が経ったのか。その時は突然、しかし必然的に訪れた。

 

「俺……佐倉の事が好きだ! 好き……です! こ、これを受け取って欲しい……です!」

 

 そう言いながら、山内は自身の想いをしたためたラブレターを佐倉へ勢いよく差し出した。

 シンとした静寂が訪れる。今この瞬間、山内と佐倉は単なるクラスメイトではなくなった。告白した男性と、告白された女性へと関係は大きく変わる。

 隣にいるみーちゃんの動揺をオレが感じ取っている間にも、場はゆっくりと前へ進んでいく。

 

「あ、ありがとう……ございます……」

 

 感謝の言葉を言いながら、佐倉がおずおずと差し出されたラブレターに手を伸ばす。そして受け取る瞬間、彼女の細い指と、山内の太い指が当たった。

 

「ご、ごめんなさいごめんなさいっ……!?」

 

 熟れた林檎の顔になりながら、そう言う佐倉。山内は山内で「い、いや大丈夫だから……」と口にするので精一杯の様子だった。

 再び訪れる静寂。重たい空気に逆らって先に動いたのは、またもや佐倉だった。

 

「あ、あのっ……返事はいつすれば良いですか……?」

 

 受け取ったラブレターを胸に抱きながら、そう尋ねる。

 その言葉に、山内は喜びを露わにした。目の前で切り捨てられるという展開にならなかったからだろう。

 山内はたどたどしくも懸命に舌を動かす。

 

「あ、明日……! この時間に! 聞かせて欲しい!」

 

「……っ!」

 

「あっ、駄目だったか!? 何か用事があるなら、それを優先して貰っても良いから!」

 

 慌てる山内へ佐倉は「い、いえ!」と言う。

 

「わ、分かりました! 明日、ここでまた会いましょう! そ、その時に返事を伝えます!」

 

「あ、ああ! 俺、待ってるから!」

 

 佐倉はその言葉に頷き返すと、「し、失礼します!」と駆け出した。そのまま脇目を振らず校舎裏をあとにする。

 残された山内は呆然と突っ立っていた。そして地面に崩れ落ち、尻もちを着く。

 

「すまない、みーちゃん。オレは山内へ声を掛けないといけないから、話は今すぐには出来そうにない」

 

「そうですね。むしろ、山内くんの所へ行ってあげて下さい。山内くんには今、綾小路くんが必要ですから」

 

「そう言って貰えると助かる。今晩は空いているか?」

 

 もし空いているなら話をしたいと伝えると、みーちゃんは逡巡の末に首を横に振った。

 

「いえ、気にはなりますがまだやめておきます。愛里ちゃんが明日山内くんへ返事をするまで、私は何も聞かない事にします」

 

「そうか、分かった」

 

「それでは綾小路くん、私はここで失礼します」

 

 そう言ってぺこりと頭を下げると、みーちゃんは寮へ帰って行った。

 オレは彼女を見送ってから、ゆっくりと山内へ近付く。わざと靴音を鳴らしながらオレの存在を伝えていたが、山内が反応する事はなかった。夕焼け空をぼんやりと眺めている。

 

「山内」

 

 オレが声を掛けたところでようやく、山内は我を取り戻したようだった。

 

「お、おぅ……綾小路……」

 

「大丈夫か?」

 

「ははっ、大丈夫……とは言えないな……」

 

 身体に力が入らないんだ、と彼は言った。

 

「ここに居たら熱中症になるかもしれない。取り敢えず移動するぞ」

 

「いや、だからさ、力が入らないんだって──おおぅ!?」

 

 山内が素っ頓狂な声を上げる。オレがやや強引に彼を起こしたからだ。

 

「お、お前……意外に力あるんだな……」

 

 そんな山内を連れて、オレは第二体育館から通じる渡り廊下に移動した。そのまま近くにあったベンチに腰を下ろす。

 脱力している山内を一旦置き、オレは自動販売機でジュースを二本購入した。そして彼の元に戻ると、そのうちの一本を手渡す。

 

「ありがとな。くぅー! やっぱり冷たい飲み物は良いなぁ! 身体に効くぜ!」

 

 そう言って、山内は初めて笑顔を見せる。まだ強ばっているが、だいぶ良くなったと判断する。オレもそれに倣い、炭酸ジュースを一気に(あお)った。

 普段は天然水やお茶ばかり飲んでいる為、とても新鮮だ。だが決して嫌なものではない。

 

「悪かったな、綾小路」

 

 夏風を浴びていると、不意に、山内がそんな事を口にした。

 いったい何だと目でオレが尋ねると、山内は恥ずかしそうに頬をポリポリと掻きながら言った。

 

「告白の台詞だよ。練習した時はもっと良い言葉だったのにさ、結局、あんな事しか言えなかった」

 

「謝るような事じゃない。お前はあの時、自分の心の声に従ってあの言葉を口にしたんだろう?」

 

 

「それは、そうだけどさ。せっかくお前も一緒に考えてくれたのに……俺、自分が情けなくて仕方がないぜ」

 

 相当落ち込んでいるのか、山内は肩を落としながら上手く告白出来なかった事を後悔しているようだった。

 オレからすれば自分の想いを伝えられただけ凄い事だ。少なくとも昨晩、オレはそれが出来なかった。いや、厳密にはしなかった。その事実は今後、オレに重い枷となって身体にのしかかるだろう。

 だからオレは、山内が羨ましい。普通の恋愛をしている彼が、とても羨ましいのだ。

 

「明日か……俺、今日は一睡も出来ない気がする……」

 

 佐倉からの返事の内容を想像しているのだろう、山内は顔を青くしながらそう呟いた。

 オレはそれに何も言えない。大丈夫だと言っても、それは気休めでしかないからだ。

 山内に出来るのは、祈る事だけ。自分の恋が成就(じょうじゅ)する事を祈る事しか出来ない。

 明日、山内は佐倉から返事を貰う。時間にして、わずか二十四時間後の事だ。当事者である山内からすれば、それはどのような感覚なのか。それは本人にしか分からないだろう。

 ただ確実に言える事がある。それは明日が、山内春樹と佐倉愛里にとって、人生に()ける分岐点の一つになるという事だ。

 



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接触

 

 いよいよ、夏休みも残り一週間を切った。生徒がその準備に追われ始める中、オレは一日たりとも無駄な日は過ごさない心積りでいた。

 

「朝早くから悪いな」

 

「いえいえ、お気になさらず。綾小路(あやのこうじ)くんはこの後大事な用事があるのでしょう?」

 

「ああ、そうだ。オレの、というよりかは友人のだが……その結末を見届ける義務はあると思っている」

 

 隣を歩く椎名(しいな)にそう言うと、彼女は「そうですか」と微笑を浮かべた。

 現在時刻は朝の時間帯を少し過ぎた、かと言って昼にもまだ入っていない午前九時三十分。

 空を見上げると、青色のキャンバスが広がっていた。最近は同じような天気がずっと続いていて、熱中症の注意喚起が連日されている。あと一時間程で、太陽は頂点に達し、気温はさらに上がるだろう。

 

「そう言えば、綾小路くん。綾小路くんは占いを信じていますか?」

 

 出来る限り日陰を選んで歩いていると、椎名が、ふと、思い出したようにそう尋ねてきた。オレは「そうだな……」と一拍置いてから、何て答えたら良いかと悩む。

 

「正直な所、あまり信じていない。とはいえ、全く信じていない訳でもないな」

 

 曖昧な回答を口にすると、椎名は「なるほど」と、無表情で頷いた。それから会話は途切れ、無言の時間が流れる。

 しまった、とオレは思う。これから占いをして貰いに行くというのに、今の発言ではあまりにも消極的過ぎたか。とはいえ、今更前言撤回する訳にもいかないだろう。

 オレは今日椎名に誘われて、ケヤキモールへと足を向かっていた。夏休みが終わるまで滞在しているという、有名な占い師に占いをして貰う為だ。

 そのような噂は何度か耳に入れていたものの、椎名に語った通り、オレは占いについて懐疑的だ。占い師に未来を透視する能力があるのか、と考えた時、どうしても首を傾げてしまう。

 そしてこの結論が変わる事はまず無いだろう。だが現実として、占いは商売として成り立っている。テレビや雑誌で取り上げられる事は珍しくなく、それはつまり、確かな効果があると世間が認めているという事だ。

 

「それならどうして、今回は私の誘いに応じてくれたんですか?」

 

 沈黙を破り、椎名がどこか遠慮がちに尋ねてくる。

 至極当然の疑問だろう。

 何故オレのような占いに懐疑的な人間が、わざわざ占いをして貰うのか。オレはその質問に答えた。

 

「理由はいくつかある。まず、実際に体験してないのにそうだと決め付けるのは違うと思った。次に、夏休みの思い出として残したいと思った」

 

 思い出、という部分に椎名が反応を示す。オレはそれに気付かない振りをしながら、さらに続けた。

 

「それに、せっかく椎名が誘ってくれたんだ。それなら出来る限り応えたい。そう、思った」

 

「……あ、ありがとうございます」

 

「いや……礼を言われるような事じゃないが……」

 

 何となく気恥ずかしくなって、互いに顔を逸らす。

 椎名から告白をされてから、一日と少し経っている。オレはその時、明確な答えを敢えて口にしなかった。それが最低な行為で、あまりにも不誠実なのは重々承知している。オレを取り巻く環境がそれを許さなかった、と言うのはただの言い訳だろう。

 答えは自分の中では決まっているが、果たして、それはいつになるのか。オレは内心で、今日二度目の溜息を深々と吐いた。

 話を戻そう。

 椎名(しいな)ひよりという女性はオレ──綾小路清隆(あやのこうじきよたか)という男性に告白をした。当然、オレたちは今までの関係ではいられなくなる。

 親しい友人であることに変わりはない。だが、恋人ではない。その境目に、オレたちは今立っている。

 電話やチャットでは普段と同じようにやり取りが出来ていたが、こうして顔を合わせるとどうしても意識してしまう。

 時間が解決してくれるとは思うが、それまではどこかぎこちない空気が度々流れるだろう。

 

「あっ、見えましたよ。ケヤキモールです」

 

 学生寮から歩くこと数分、大型複合施設のケヤキモールが姿を現す。自動ドアを潜ると、ひんやりとした冷たい空気がオレたちを迎えた。

 施設内には生徒の姿がちらほらと既にあった。夏休みを最後まで楽しむぞ、という強い意思を感じるな。

 占いスペースは五階にあるとの事で、上階に向かう為オレたちはエレベーターに足を向けた。しかしエレベーター前には十数人程の客が列を作っている状態だった。次の便に乗れるかは怪しいだろう。

 

「エスカレーターで行きましょうか」

 

 同じ結論に至った椎名が、そう提案してくる。オレはその提案に頷きを返しつつも、こう言った。

 

「せっかくだ、階段で行かないか?」

 

 エレベーターの横には階段がある。当然と言うべきか、利用している客の姿はない。

 

「……一応、理由を伺っても宜しいでしょうか?」

 

「運動不足解消だな」

 

 オレが端的に答えると、椎名は渋面を作った。体育の成績が悲惨な結果になった彼女としては、そこに触れられると弱いのだろう。

 だがこの先、ある程度の体力は必要になってくると考えられる。無人島試験が良い例だろう。それは言われなくとも、彼女は分かっている。激しい葛藤の末、観念したように了承の相槌を打った。

 重い足取りの彼女と共に、オレは階段へ歩いていった。負のオーラを全身から出す彼女を見て、エレベーター前に居る客達がぎょっと目を剥く。そんな彼らに構わず、オレたちは階段を登り始めた。

 

「はあ……はあ……」

 

 最初は隣に居た椎名だったが、すぐに限界が来てしまった。今はオレの五段下で荒い呼吸を繰り返している。手摺にしがみついている状態の彼女を見て、オレは何も言えなくなってしまった。

 想像以上の体力の無さだ。本人の真面目な授業態度がなかったら、単位取得は出来なかっただろう。

 

「大丈夫か?」

 

 上から声を掛けると、椎名は弱々しい表情を浮かべながら「か、辛うじて」と喘いだ。オレは彼女の所まで下りると、体力がある程度回復するのを待つ。

 

「……ごめんなさい。幻滅しましたよね、綾小路くん」

 

「そんな事はない。体力の有無は、これまでの人生がそのまま反映されるに過ぎない。今の椎名はそれがマイナスな状態なだけだ」

 

「……そうですね。何も反論出来ません」

 

「まずは、マイナスをゼロにする所から始めよう。そしてゆっくりと、自分のペースでプラスにしていくんだ」

 

 そう励ますと、椎名は申し訳なさそうにしながらも「ありがとうございます」と頭を下げた。数秒後、呼吸が落ち着いたのを確認してから、オレたちは再び階段を登り始める。

 五階に到着した時、椎名は息も絶え絶えな状態だった。がくがくと膝が震え、顔もやや青白い。オレは近くのベンチまで彼女を誘導し、座るように促した。

 ちょうど自動販売機があったので、適当にジュースを購入する。安いとは思うが、せめてものご褒美だ。

 

「私、本格的に運動を始めます。これでは、駄目ですね。もっと、しっかりしないと……」

 

 ジュースを一口飲んだ椎名が、そう呟いた。

 

「その意気だ。微力ながら、オレも手伝う」

 

「ありがとうございます。綾小路くんがいれば百人力ですね。これなら、もっと頑張れそうです」

 

 そう言って、椎名はオレに笑顔を見せた。

 体力が完全に回復した彼女はベンチから立ち上がると、オレを見下ろしながらある方向を指さす。

 

「お待たせしました、もう大丈夫です。占いスペースはあちらですから、行きましょう」

 

「そうだな。そうしようか」

 

 先を歩く椎名のあとを追う。それにしても、迷いのない足取りだな。いくら地図があるとはいえ、少しは迷ってもおかしくはないと思うが。相当入念に準備をしてきてくれたのかもしれない。

 そんな事を考えていると、喧騒と共に人集りが見える。まず間違いなく、目的地はここだろう。

 

「カップルばかりだな」

 

 椎名に聞こえないよう注意しながら、思った事をそのまま呟く。男性同士は一組も居らず、女性同士が何組か列に並んでいるがこれは少数だ。

 ある程度想定はしていたが、どうしてもソワソワとしてしまう。周りからしたら、オレと椎名はそのような関係に見えるのだろうが。

 

「どの先生に占って頂きますか?」

 

 列を管理していた女性が、そう言いながら声を掛けてきた。首に掛けられているのは社員証であり、職員であることを示している。

 話を聞くと、占い師はどうやら数名居るようだった。客は誰に見てもらうのかを選ぶ事が出来るとの事。終わった後、他の占い師に占って貰う事も出来るようだが、その場合は再度列に並び直す必要があると説明を受ける。

 

「何方が良いとか希望はありますか?」

 

「いいや、特にはないな。椎名に任せる」

 

「分かりました。それでは──」

 

 椎名は一度頷くと、一つの列を指さす。随分と思い切りの良い選択だな、とオレはそれを見て思った。これも予め決めていたのかもしれない。

 職員に誘導され、オレたちは最後尾につく。数えてみると、客はオレたちを含めて六組だった。一組十分掛かる計算だとしても、六十分、一時間は使う事になりそうだ。下手したらそれ以上は掛かるだろう。この後の用事には差し支えないが、それだけの時間を立ちっぱなしになるのは精神的に堪えることになる。

 

「いや、だからこそ、か……?」

 

「……? どうかされましたか?」

 

「いや、何でもない。気にしないでくれ」

 

 一時間もの待ち時間。それをどう過ごすか、どう過ごせるかを試されているのではないだろうか。カップルだらけの客を見ながら、そんな事を思った。

 

「そう言えば綾小路くん、ご存知ですか?」

 

 椎名がふと思い出したように、携帯端末を操作しながらそう尋ねてきた。差し出された画面を見ると、そこには図書館のホームページが映し出されていた。

 

「この夏休み期間中に、新しい本が補充されたそうです。それもかなり」

 

 彼女の言う通りだった。

 どうやらこの長期休暇を利用して、図書館は書物の整理を行っていたようだ。それに伴い、分野を問わず入庫したと書かれている。

 

「楽しみですねっ」

 

 満面の笑みを浮かべ、椎名はそう言った。瞳もキラキラと輝いているようだ。相変わらずの彼女に、オレはついつい苦笑いしてしまう。

 とはいえ、オレ自身楽しみでもある。一学期は推理小説を主に読んでいたが、今後は趣向を変えて別分野の本を読むのも良いだろう。

 新しい知識を得るのを楽しいと思えるようになったのは、間違いなく彼女のおかげだ。

 

「あっ、でも綾小路くん、生徒会に入るんでしたっけ……」

 

 それまでの笑みが嘘だったかのように、彼女の顔は途端に曇った。

 

「これまで通り、気軽に会うことは難しいかもしれない。だが、生徒会の活動が毎日ある訳でもないだろう。椎名も部活があるだろうから、予定が合えばまた一緒に行けば良いさ」

 

「そうですねっ。その時は必ず声を掛けて下さいっ」

 

「ああ、約束だ」

 

 そんな風に話していると、ふと、オレは前方から視線を感じた。最初は気の所為だと思っていたが、数秒経ってもその感覚は消えなかった。

 まるで、人を値踏みするかのような視線だ。

 流石に気の所為ではないだろう。無視出来ればそれでも良かったが、その視線は椎名にも向けられている。

 視線の正体を突き止めようと、オレはゆっくりと顔を向けた。

 果たしてそこには、一組の男女が立っていた。オレたちの三組前で並んでいる彼ら──特に金髪の男子が視線を送ってきている。

 

「悪い、ちょっと行ってくる」

 

 椎名に断りを入れてから、オレは列から外れて彼らに近付いた。

 彼らは美男美少女だった。どちらも顔立ちが非常に整っており、芸能事務所に所属していると言われても信じるだろう。

 どちらも、見覚えのない顔だ。一年生ではなく、恐らくは二年生。あるいは、三年生か。どちらにせよ上級生であることに変わりはない。そして今、それはあまり関係のないことだ。

 問題なのは、彼の纏っている雰囲気だ。他者を威圧させる風格、その佇まいは間違いなく強者であると伝えてくる。堀北学(ほりきたまなぶ)に似て非なる存在感を放っている。

 

「気の所為だったらすみません。オレたちに何か用がありますか?」

 

 オレが声を掛けると、男子生徒は愉快そうに唇を曲げた。そして、彼は声を張り上げてこう言った。

 

「すみません、俺たちの順番抜かしていって下さい」

 

 職員はそれに介入することはしなかった。当人同士の問題だと判断したからだろう。

 二組のカップルが戸惑いながらも、空いた分を前に詰めていく。その間男子生徒は薄い笑みを携えて「どうぞ! 遠慮なく!」と言っていた。

 順番を譲ったのは、オレたちと話す時間を稼ぐ為だろう。もちろん、オレたちがそれに乗る義務はないがそうしたら色々と面倒な事になるだろう。

 

「オレたちに何の用でしょうか?」

 

 改めて、オレが再度尋ねる。

 すると、金髪の男はそれまで浮べていた微笑を無くした。そして、オレを真正面から見詰めてくる。その瞳の奥にある色をオレが判別するよりも前に、彼は口を開けた。

 

「用という程でもない。だが、お前たちの会話に興味を持った。だから話をしようと思った。簡単な話だろう?」

 

「そうですか。しかし一体、オレたちの話のどこに興味を持ったんですか? 他人が聞いて面白いと思うような内容ではなかったと思いますが」

 

「いや、なに。生徒会について話していただろう?」

 

 その確認に、オレは無言で相槌を打った。

 さらに金髪の男は続けて言った。

 

「それだけじゃない。そこの女子の口から出た『綾小路』という苗字。お前、一年Dクラスの綾小路清隆だな?」

 

「ええ、それはそうですが。しかし先輩、まずは先輩について教えて貰っても良いでしょうか」

 

 まずは名乗れと暗に伝える。

 目の前の人物は唇の端を吊り上げると、面白そうに「へえ」と呟いた。

 

「この俺を前にしてそんな言葉を言う奴がいるだなんてな。なずなに誘われて仕方なく、このつまらない占いに来た甲斐があったってもんだ」

 

 なずな、と呼ばれた女子生徒が不満そうに唇を尖らせる中。

 ようやく、その男は自分の正体を明かした。

 

「俺は、南雲雅(なぐもみやび)。初めましてだな、後輩」

 

 南雲雅。その名前を聞いた時、オレは内心で、なるほどな、と呟いた。

 現生徒会副会長にして、現生徒会会長の堀北学が最も警戒している人物。一つの学年を実質的に支配し、学校の在り方を大きく変えようしている『変革者』。

 それが今、オレたちの目の前に居る。

 なるほど、と思ったのは堀北学に対する共感からくるものだ。現生徒会長とは違った能力を、目の前の男は持っている。その覇気は決して凡庸のものではなく、優れた個であることを伝えてくる。

 

「雅、そんなに威圧しないの。後輩を虐めてると思われちゃうから」

 

 重たい空気を破ったのは、それまで口を閉ざしていたなずなと呼ばれる女子生徒だった。栗色の長髪に、向日葵(ひまわり)のアクセサリーがチャームポイントの彼女は、南雲とは違った種類の視線をオレたちに送っている。

 南雲はなずなの言葉に肩を竦めると、こう言った。

 

「威圧した覚えはないがな。だがまあ、そう見えたということなら謝罪しよう。悪かったな」

 

「いえ。それについてはオレも、そして彼女も一切気にしていませんよ」

 

「そうか、それなら良かった。ほら見ろなずな、お前の心配し過ぎだ。何も問題はない」

 

「あんたね……ハア、もう良い」

 

 呆れたようになずなはため息を長く吐くと、咳払いをしてから自己紹介をした。

 

「遅くなったけど、初めまして。私は、朝比奈(あさひな)なずな。宜しくね」

 

「綾小路清隆です。宜しくお願いします」

 

 オレは軽く会釈をすると、隣の椎名にアイコンタクトを送った。流石に彼女も自己紹介しなければ変だろう。

 

「自己紹介が遅れてしまい申し訳ございません。私は、椎名ひよりと申します。宜しくお願い致します」

 

 そう言って、椎名は微笑と共に綺麗なお辞儀を披露した。

 朝比奈先輩はそれをぽかんと呆けて見ていたが、我を取り戻すと慌てて頭を下げ返した。

 簡単ながらも、これで自己紹介は終わった。オレはやや脱線してしまった話を戻す為口を開ける。

 

「それで、南雲先輩の具体的な用件は何でしょうか?」

 

「だから言っただろう。生徒会について話していたお前たちの会話に興味を持ったとな。俺は副会長だ。次期生徒会長でもある。気になるのは当然の事だろうぜ」

 

「それは、そうかもしれませんね」

 

 オレが相槌を打つと、南雲先輩は「分かってくれたか」と満足そうに白い歯を覗かせた。顔面偏差値が高い者の芸当と言えるだろう。

 

「お前のことは知っているぜ、綾小路」

 

「そうですか。次期生徒会長に知って頂けてるとは光栄ですね」

 

「ははっ、思ってもない事を言うなよ」

 

 南雲先輩はそう言うと、顔付きを変えた。たちまち、それまで霧散していた覇気が纏われる。

 朝比奈先輩が「雅!?」と声を上げる中、彼はそれを無視して、先程と同じ種類の視線をオレに送ってくる。数ヶ月前まで浴びていた、人を観察する目。

 

「綾小路清隆。『不良品』の巣窟たる一年Dクラス所属。勉学、身体能力の評価はどちらも普通」

 

 どこで調べてきたのか、南雲先輩はこの学校に於けるオレの客観的な評価を話し始めた。

 とてもつまらない話ではあるが、ここは聞き手に徹していた方が良いだろう。

 

「お前が表舞台に上がったのは、『暴力事件』の時。一年Dクラスと一年Cクラスの生徒が起こした『暴力事件』、その審議会に於いてお前は助っ人として参加。学校が両者に喧嘩両成敗の裁決を下そうとした直前、お前は審議会を延長させる為多額のプライベートポイントを支払った。そして、その翌日。何故か一年Cクラス側が訴えを取り下げた事により、『暴力事件』そのものは無くなった。結果、関係者は時間だけを無為に費やすこととなった」

 

 オレは黙って、その先を促した。

 

「次に、お前たち一年生は初めての『特別試験』に臨むことになった。この試験に於いて、お前は特に目立った活躍はしていない。強いて言えば、D・Bクラスが結ぶ同盟の橋渡し役となったくらいだ。だがこれはお前が居なくとも成立していただろう。何せ、Bクラスを率いているのは帆波(ほなみ)であり、交渉を持ち掛けたのは桔梗(ききょう)だ。失敗する筈がない」

 

「……一年生の櫛田を知っているんですね」

 

「アレは、良くも悪くも注目の的だからな。とはいえ入学早々、俺に声を掛けてきたのには驚いたが」

 

 その言葉を聞いて、オレはある事を思い出した。オレは、南雲先輩のことを一度だけ目にしたことがある。あれは、いつだったか。そうだ、オレの記憶が確かなら『暴力事件』の時だ。喧嘩を目撃していた人物Xを探す為、櫛田が、南雲先輩に話し掛けているのを見た記憶がある。その時には既に上級生との繋がりを持っていたのかと、オレは内心で舌を巻いた。

 それと同時に、オレは何度目になるか分からない確信を抱く。やはり、櫛田桔梗(くしだききょう)という人間は対人コミュニケーションに於けるエキスパートだと。彼女の右に出る者はそうはいないだろう。

 オレの把握していない人脈を、彼女はいくつも持っているに違いない。

 オレが櫛田の有用性を改めて確認している中、南雲先輩は話を進める。

 

「次に行われた、『特別試験』。その概要までは俺の権限では調べられなかったが、帆波から内容は聞いている。そして、その結果もな。なずな、お前も聞いたら驚く筈だ」

 

「……?」

 

「学校の試験結果の公表を待たずして、こいつら一年生は『特別試験』を終わらせた。本来の日程よりも早くだ」

 

「……!? そんな事が、出来るの?」

 

 朝比奈先輩が目を見開いて、驚愕の表情を浮かべた。

 その疑問に、南雲先輩は笑いながら答える。

 

「極めて異例だが可能だ。こいつらが臨んだ『特別試験』は条件的にはそれが可能だったということだ」

 

「そうなんだ……それは、凄いね……」

 

「そうだな。実際、試験結果は実質的には一つのクラスの完全勝利となっている。正しく偉業と言えるだろうぜ」

 

 南雲先輩はさらに言った。

 

「学校は、それはもう慌てたそうだ。当然だ、予期せぬ結果になったんだからな。緊急会議が開かれ、対応をどうするかで大いに揉めたそうだぜ」

 

 だが、そうなるのは当然だろう。何せ船上で行われた『干支試験』は、龍園翔(りゅうえんかける)率いる一年Cクラスが圧倒的な戦果を残して大勝したからだ。もし堀北鈴音(ほりきたすずね)が他クラスに協力を募り纏めあげなかったら、それこそ残りの三クラスは完全敗北していた。

 

「大いに揉めたとは、どういう事でしょうか?」

 

「簡単に言えば、追加の『特別試験』を行うか否かだな。とはいえ、お前たちの知っての通りそれは却下された訳だが。それには幾つか理由があるが、その最たる理由はクラスポイント及びプライベートポイントを変動させたくはなかったからだったと聞いている」

 

『特別試験』はポイントが大きく動く。それは、良い意味もあるが悪い意味もある。実際、二学期からはクラスの序列が変動する事が確定している。これ以上の混乱を、学校は嫌ったのだろう。

 それ以外に考えられるのは、『特別試験』の質か。これまでオレたちが臨んできた『特別試験』は二つとも一癖も二癖もある内容だった。学校側も入念に準備していた筈だ。だが、急拵えで用意した質の悪い『特別試験』では意味がないと判断されても可笑しくない。

 

「話を戻そう。この試験に於いても綾小路、お前は特に目立った活躍はしていなかったと、帆波から聞いている」

 

『干支試験』ではオレと一之瀬(いちのせ)は同じグループに配属されていた。そして『干支試験』中、オレは一之瀬と裏で協力関係を築いていた。あのような試験結果で終わった為、結果論として、そこに意味はなかったのかもしれないが。

 それにしても、南雲先輩は先程から一之瀬の名前をよく出すな。葛城(かつらぎ)から得た情報によれば、一之瀬を生徒会に入れるよう生徒会長に進言したのは副会長の南雲先輩だったか。個人的な繋がりがあっても可笑しくはないか。

 

「『暴力事件』の時、お前は『時の人』だった。当然だ、その時期には全員、既に表舞台に出ているからな。だがお前は如何なる手段を用いてかこれを解決し、一気に生徒の注目を集めた」

 

 一之瀬は、『暴力事件』の真相を知っている数少ない人物の一人だ。

 南雲先輩の言い回しだけでは判断出来ないが、彼女は、意図して伝える情報を選んでいたのかもしれない。彼女の性質を考えればその可能性の方が高いだろう。

 しかしそれは断定出来ず、『罠』の可能性もある。ここでの発言はやはり控えるべきだろう。

 

「お前は表向き、二つの試験では大した活躍をしていない。『暴力事件』の時のような華々しい戦果を出していない。だが、本当にそうなのか? それを教えてくれよ、綾小路」

 

「教えるも何も、南雲先輩の仰った事が全てですよ」

 

「そうはぐらかすな──そう言っても、お前は教えないだろうな」

 

 オレはそれに返答しなかった。

 

「前、進みましょうか。一組終わったようです」

 

 椎名の声掛けに従い、オレたちは空いた分を前に詰めた。そして先程から、オレたちの列には誰も並んでこない。オレたちの間に流れている異様な空気を感じ、遠慮しているのだろう。

 

「さて、話の本筋に戻ろうか。つい昨日、堀北生徒会長が緊急の生徒会会議の招集を掛けた」

 

 南雲先輩は真剣な表情でそう言うと、話を進める。

 

「現生徒会長はとても真面目な御方だ。夏休み中生徒会の活動がない訳じゃないが、率先して行うものでもない。ましてやこの前まで、生徒会室は改装工事で使用出来なかったからな」

 

「それで、堀北生徒会長は何の為に雅たちを呼んだの?」

 

「そう、そこだ。俺たち生徒会メンバーがその招集に応えたのは、その理由を知りたかったからだ。そして堀北生徒会長は、生徒会に新たなメンバーを入れたいと言った」

 

 この場で一番の部外者の朝比奈先輩が、話の流れを理解したようにハッと俺を見る。まさか、という視線。

 南雲先輩は「なずなの想像通りだ」と満足そうに頷きながら、こう言った。

 

「生徒会長が直々に推薦した人物、それがお前だ──綾小路清隆」

 

 オレはそれに頷いた。

 

「そうですね、確かにオレは堀北生徒会長から生徒会に誘われました。最初は驚きましたが、考えた結果、自分に利があると思いその誘いに応じる事にしました」

 

「嘘……? この子が?」

 

「お前の気持ちはわかるぜ、なずな。何せ昨日、俺も似たような感想を持ったからな」

 

 南雲先輩は朝比奈先輩に共感の言葉を投げ掛けると、一歩、オレに近付いた。

 

「堀北生徒会長が推薦したのは、お前を含めて二人。そのうちの一人は、まだ分かった。そいつは生徒会の門を一回叩いてきたからな。帆波の例もある。そいつについては俺も、他の生徒会員も否定の意見は特に出さなかった。元々、今年の一年の生徒会メンバーは少なかったからな。その補充は急務だった」

 

 だが、と南雲先輩は目を妖しく輝かせながら続けて言った。

 

「綾小路、お前についてはまだ保留中だ。その理由が何か、分かるか?」

 

「思い当たるのは幾つかあります」

 

「言ってみろ」

 

「真っ先に思い浮かぶのは、オレがDクラスの生徒だからでしょうか。『不良品』の烙印を押されているオレが生徒会に相応しくないと判断されても仕方ないでしょう」

 

「違うな。その考えなら、Aクラス以外は等しく『不良品』だ。俺自身、最初に割り振られたクラスはBクラスだった」

 

 とはいえ今はAクラスだがな、と南雲先輩は獰猛に笑う。

 

「俺の自慢話は今度聞かせてやる。他には何かないか? 」

 

「そうですね……堀北生徒会長は、オレを副会長に推薦すると言っていました。そこでしょうか?」

 

「それは、ある。これまで何の活動もしてこなかった生徒がいきなり副会長に就くのに消極的な意見はかなり出た。下手をすれば、生徒会そのものの威信に関わるからな」

 

「しかし、南雲先輩の口振りからすればそれもまた違うようですね」

 

「その通りだ。違う。このまま考え続けさせてやりたいが、そろそろ時間もないか。答えを教えてやる」

 

 列は着々と進み、次の番は南雲先輩と朝比奈先輩だった。あと数分もすれば彼らの番となる。

 その前に話を終わらせたいのは同意見の為、オレは答えを聞くことにした。

 

「お前を副会長に推薦したのが、堀北生徒会長だからだ」

 

「ちょっと待って、それ、どういうこと? 」

 

 その言葉を聞いて真っ先に反応を示したのは朝比奈先輩だった。頭上にクエスチョンマークを浮かべ、その言葉の意味を噛み砕こうとしている。

 南雲先輩は愉快そうに笑いながら、朝比奈先輩に言った。

 

「お前を推薦したのが俺だったなら、他のメンバーは頷いていただろう。堀北生徒会長と(たちばな)書記は分からないがな」

 

「……? ごめん雅、やっぱりよく分からないんだけど?」

 

「つまりだ、堀北生徒会長は俺への牽制目的でこいつらを入れたいのさ。生徒会長の任期はあと数ヶ月で終わる。そして、次期生徒会長になるのはこの俺だ」

 

 自分がそうなるのは決定事項だと言わんばかりの、絶対的な自信。自信過剰ではなく、それは裏付けされた実力からくる自負だろう。

 

「堀北生徒会長──いや、堀北先輩は典型的な模範生だ。俺は先輩の事を心から尊敬している。憧れだって抱いている。そこに嘘や偽りはない。だが、俺たちの掲げる思想は真反対ものだ」

 

 南雲先輩は──否、南雲はそう断言する。

 

「これまで俺は、堀北先輩に従ってきた。良い関係を築いてきた。だがそれも、もう終わりだ。先輩もそれを察知したんだろう」

 

「……つまり?」

 

「こいつを副会長に就かせることは、『宣戦布告』と同義だ。そうする事で、堀北先輩は敵対する姿勢を俺に見せているのさ」

 

 朝比奈先輩が鋭く息を呑んだ。そして目を細めると、無言でオレを観察してくる。

 敵意は感じられないが、かと言って、友好的なものでもない。ここに来て初めて、朝比奈先輩はオレという人間に本格的な興味を持ったのだろう。

 

「『後釜』、『後継者』とでも言い換えられるか。堀北先輩の一番の憂慮は、先輩の卒業後だろう。卒業したら、当然だが先輩は外部の人間となる。俺に干渉することも出来なくなる。未来を憂いた先輩は自分の意志を継がせる相手として、こいつを選んだ訳だ」

 

 南雲は凶暴な笑みを隠さない。獰猛に笑い、剥き出しの闘争心を表に出す。

 

「他の生徒会メンバーそれには気付いている。当然、それを認められる筈もない。その一方で、教師たちは生徒会長の判断を口では早計だと言いつつも尊重する素振りを見せている。『歴代最高』と言われている堀北先輩を信頼しているからだ」

 

 さらに南雲は言葉を続ける。

 

「だから今、お前の生徒会入りは保留となっている。お前がその気でも、認められるのは難しいぜ?」

 

「そうですか。それは残念です。堀北生徒会長の口振りから、それは絶対だと思っていました」

 

「そう言う割には落ち着いているな。だが、それは正しい。生徒会長の権限を使えばそれは可能だからな。ようは、早いか遅いかの違いでしかない」

 

 ここでオレの中で、一つの疑問が生まれた。それを解消する為、南雲に質問する。

 

「先程から先輩は他の生徒会メンバーはと仰っていますが、先輩自身はどのように考えているのでしょうか?」

 

「俺としては、お前が生徒会に入るのならそれはそれで良いと思っている。堀北先輩が選んだ男だ、興味はある」

 

 だが、と南雲は言った。

 

「だが、喜んで敵に塩を送る程間抜けでもなければ、その理由も特別ない」

 

 オレの生徒会入りについてはあくまでも中立だと、南雲は暗に告げてきた。

 中立なのは自分の勝利を疑っていないからだろう。あるいは、堀北学との戦いをより楽しむ為か。

 これまでの話を統合する。

 南雲はオレを歯牙にも掛けていない。口では興味があると言っているが、その実態は無関心。南雲の関心は堀北学にのみ向けられている。オレのことなど眼中にないのだろう。ここで突いてみるとしようか。

 

「それなら南雲先輩、オレに機会をくれませんか」

 

「機会だと?」

 

「はい、南雲先輩がオレを推挙すれば他のメンバーも首を縦に振ってくれるでしょうから。先輩がそう思えるだけの動機付けを作るチャンスをオレに下さい」

 

 オレがそう提案すると、南雲は腹を抱えて笑い出した。

 

「面白いなぁ、綾小路。まだそうはなっていないが俺たちは仮にも敵対関係なんだぜ? それが分かっているのか?」

 

「ええ、そのつもりです。しかしオレも、時間を無為に費やすことはしたくありませんから。たとえそれが確定しているとしても、オレは、それを指を銜えて待つことは出来ません」

 

「なるほどな。どうやら綾小路、お前にもお前なりの『目的』があるようだ。それを果たす為には、俺も、そして堀北先輩すらも踏み台にするつもりか」

 

 南雲は声を立てて笑うと、おもむろに口を開けて言った。

 

「何て生意気な奴だ。だが、いいぜ。暇潰しが出来そうだ。その提案に乗ってやるよ。お前が副会長に相応しいと、そう、俺に思わせるだけの実力を見せてみろ。それが出来たら認めてやる」

 

「合格ラインは?」

 

「そうだな……次の『特別試験』、非常に優秀な成績を収めてみせろ」

 

「ということは、二学期開始と同時に『特別試験』があるということですね?」

 

「その通りだ。とはいえ、あくまでも例年通りの話だがな。それが無かったら他のを考えてやるから安心しろ。だが、チャンスはこの一度きりだ。これを逃せばお前の生徒会入りは数ヶ月後になる。仮に入ったとしても、堀北先輩が居ない生徒会にお前の居場所はない。それを覚悟しておくんだな」

 

 オレは「分かりました、それでお願いします」と了承した。

 オレと、南雲の視線が交錯する。オレたちは数秒見つめ合うと、火花を散らした。

 そしてタイミングよく、南雲たちの前の組の占いが終わったようだった。布を潜り部屋に入る直前、南雲は最後に顔を振り向かせてこう言った。

 

「そう言えば、今朝学校から来たメールは見たか?」

 

「ええ、はい。確か、夏休み最後の三日間限定で水泳部が普段使用している特別水泳施設が利用可能になるんでしたっけ」

 

 夏休みも終盤ということもあり、学校が用意した最後のイベントだ。利用可能回数は混雑すると考えられる為、原則的には一人一回のみ。どうしても複数回利用したい場合は、1万pr支払う必要がある。

 施設には様々な設備が備わっており、とても楽しめる内容になっているのだとか。

 南雲はオレの返答に満足そうに頷くと、こんな提案をしてくる。

 

「最終日、お前もそこに来い。せっかくだ、生徒会メンバーで遊ぼうじゃないか」

 

 どうやら、初顔合わせの場をセッティングしてくれるようだ。正直なところ、気乗りはあまりしない。夏休み最後の一日をそれで使いたくない。

 そんなオレの考えを見透かしているかのように、南雲は一度笑う。

 

「安心しろ、精々一時間くらいの予定だ。それ以外は好きに過ごすと良いさ」

 

「……そういう事なら、分かりました」

 

 オレが了承すると、南雲は携帯端末を出してくる。連絡先を交換し、これでやり取りが可能になった。

 そして今度こそ、南雲はオレたちの前から姿を消した。嵐が過ぎ去り、緊張していた空気がゆっくりと霧散していく。

 

「すまない、椎名。気分を害してしまったな」

 

「気にしないで下さい。ただ──」

 

 それから彼女は珍しく呆れたような表情を浮かべると、ため息を小さく吐いた。

 

「綾小路くんはいつもモテモテですね」

 

 そう真顔で皮肉を言うと、椎名はぷいっと前を向いた。そこから一切、オレに視線を送ることはない。

 これはもしかしなくとも、怒っているのだろう。出会ってから初めて、オレは彼女を怒らせてしまったのだ。

 オレは順番が来るまでの間、彼女の機嫌を取るべくひたすら努力するのだった。桔梗と千秋(ちあき)の二人に助けを内心で求めたが、桔梗は馬鹿にしたように笑い、千秋は呆れたようにため息を吐くところがありありと脳裏に浮かぶのだった。

 



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占い

 

 何とか椎名(しいな)の機嫌を取り戻す事に成功した、直後。

 南雲(なぐも)朝比奈(あさひな)先輩がお礼を言いながら部屋から出てきた。どうやら占いが終わったようだ。二人は部屋から出るとオレたちを一瞥してから、雑踏の中に消えていく。

 ここでまた話し掛けられたら困っていた為ありがたい。

 

「迷い人よ、来るが良い」

 

 部屋の中から、そんな言葉が送られてくる。嗄れた声だ。声音からして女性、さらにはかなり高齢だろう。

 オレは椎名と顔を見合わせると、一緒に暗幕を潜った。未知を予言する者の領域へ、足を踏み入れる。

 室内は思ったよりも本格的だった。三十ルクス程の暗めな照明。テーブルには何冊もの分厚い本が積まれ、真ん中にはやや大きな水晶玉が置かれている。

 オレたちをここに導いた声主は、やはりオレの想像通り老婆だった。漆黒のローブを目深(まぶか)に被っている所為で表情は窺えないが、その口元は(あや)しく歪んでいる。

 先程の『迷い人』という台詞に、室内の装飾。客の心を惑わせることで今から占われるぞという意識を芽生えさせる、見事な戦略だ。

 老婆はオレたちをフードの奥から見ると、「おや?」と怪訝な声を出した。

 

「そちらのお嬢さんは……?」

 

 占い師は数秒椎名を見詰めると、突然、笑い始めた。それは仮にも占い師が出しては行けない俗っぽい笑い声だったが、椎名に何かあるのだろうか? 

 クエスチョンマークを頭上に浮かべるオレを他所に、老婆は雰囲気を(まと)い直すと、オレたちに着席するよう促した。

 疑問は尽きなかったが、取り敢えずそれに従う。背もたれのない丸椅子に腰掛けたのを確認すると、占い師はテーブルの引き出しからはある物を取り出した。

 

「まずは──料金の支払いを」

 

 オレは思わず、半眼になってしまった。

 占い師が取り出したのは、小型カードリーダーだった。

 拍子抜けしてしまうとは、まさにこの事だろう。この文明の利器の登場により、これまであった、占いの館のような雰囲気が一気になくなった。

 

「えぇい、その顔をやめんか」

 

 オレの視線に耐えられなくなったのか、老婆が怒ったように言う。それから、言い訳のように言った。

 

「仕方あるまい、お前さんたちは現金を持っておらぬのじゃからな。そうであろう?」

 

「……」

 

「何か言わんか! せめてその無言をやめよ!」

 

 そう大声を出した老婆は、喉を酷使してしまったのか()せこんでしまった。

 

「だ、大丈夫ですか?」

 

 見兼ねた椎名が慌てて丸椅子から立ち上がり、背中を優しく摩った。

 彼女の懸命な介助により何とか老婆は呼吸を落ち着かせると、ペッ、と(つば)を吐く素振りを見せる。もちろん、あくまでも素振りであって実際にそうした訳ではないが。

 

「さっきの軽薄そうな金髪男といい、最近の若者はこれだから好かん。お主も、この女子(おなご)のように善良な心を持とうとはせんのか」

 

「はあ……、それはすみません」

 

「心のこもっていない謝罪など()らん。ありがとう、お嬢さんも席に着きなさい」

 

 この天と地ほどの扱いの差は何なのか。

 一言くらい文句を言う権利があるとは思うが、これ以上老婆の機嫌を損ねたくない。つい先程、椎名を怒らせてしまったばかりだしな。

 オレはそれを呑み込むと、懐から学生証を取り出した。そして、差し出された料金表を見下ろす。

 

「……」

 

 高いな、という言葉を漏らさなかったのは奇跡に等しい。

 一番安くても5000prだ。そんな簡単には手が出せない。幸いオレの所持プライベートポイントはかなり余裕があるが、躊躇してしまうのはオレが貧乏性だからだろうか。

 そんなオレの考えは老婆には筒抜けのようで、呆れたようにため息を吐くとこう言ってきた。

 

「本来ならもっと高いのじゃぞ。それを特別価格にしているんじゃ、寧ろ感謝して欲しいくらいじゃ」

 

「な、なるほど……それは、失礼しました」

 

「ふん、分かれば宜しい。それで、お主たちは何を選ぶんじゃ?」

 

 料金表には様々なコースの値段と、簡単ながらもそのコースの説明が書かれていた。

 まず『基本プラン』として、学業、仕事、恋愛といったオーソドックスなものがある。そこにオプションを追加することによって、占って貰える内容が増えるようだった。

 

「私は『基本プラン』のみでお願いします」

 

「良いのか? お主にやっても意味はないじゃろうて」

 

「はい、それで構いません。私がここに来たのは報告の為ですから」

 

 椎名と老婆の不可解な会話に疑問を持ちつつ、オレは料金表と睨めっこする。ここは無難に『基本プラン』だけにしようかと思った所で、オレの目は、見慣れない単語に留まった。

 

「すみません、この、『天中殺(てんちゅうさつ)』というのは何ですか?」

 

「知識が何もないお主に簡単に説明すると、『その人物の悪い時期を予見する』というものじゃな」

 

「なるほど、そんな事も可能なんですね」

 

 ふむ、とオレは頷いた。

 しかし、『自分の悪い時期』とはまた抽象的だな。捉え方によって、その意味は大きく変わるだろう。

 他のセットにも一応目を通すも、興味を引かれるものはなかった。オレは老婆に、『基本プラン』+天中殺のセットを依頼する。

 先に椎名が、次にオレが支払いを済ませる。少なくない額が消えたが、思い出料金だと思えば良いだろう。

 

「まずはお嬢さんから占おう。まずは手相(てそう)から──」

 

 椎名の占いを隣で聞く。

 老婆はすらすらと言葉を紡いで行った。オレはてっきり、占いにはもっと時間が掛かるものだと思っていたのだが、意外にもそうではないようだ。水晶玉を見て老婆が目を見開くこともなく、占いは順調に進んでいく。

 

「最後に、恋愛。とはいえこれは、儂が占う必要はないじゃろう」

 

 何だそれは、とオレは思った。

 だが椎名は占い師の言葉に同意見のようで、頷きを返した。そして柔らかな微笑を携えて、老婆に頭を下げる。

 

「ありがとうございました。これも、貴女が勇気をくれたおかげです」

 

「なに、お主が礼を言うようなことではない。儂はお主がこれから迎えるであろう未来、その一つを偶然視たに過ぎないのじゃから。それを受け、動いたのはお主自身。そして、その未来を勝ち取ったのもお主じゃろうて」

 

「そうだとしても、貴女がその切っ掛けをくれなければ私は前に進めませんでした。だから、ありがとうございます」

 

 椎名がそう言うと、老婆はフードの奥で優しく笑ったようだった。

 占い師は「こほん」と咳払いを打つと、オレに視線を送った。鋭い眼光がオレの身体を射抜く。

 

「儂の占いはお主の顔、手、そして心を視る。その中でお主が視られたくないものを視えることがあるが?」

 

「構いません、お願いします」

 

「良かろう、それでは始めよう。まずはお主について簡単に教えるのじゃ」

 

 そう言うと、老婆は生年月日や血液型などを聞いてくる。それらをメモすると、先程の椎名と同様、まずは両手を出すように指示した。

 オレがその通りに従うと、占い師はおもむろに口を開けた。

 

「ふむ──」

 

 そこから語られるのは、オレの未来。とはいえそれは数多あるものの一つでしかない。運命という言葉を仮に使わせて貰うなら、その歯車は簡単に噛み合わなくなり、じきに修正される。

 それを何回も繰り返しながら、人は生きていくのだ。

 と、まあ──壮大に述べはしたが、忘れることなかれ、占いは商売である。椎名の時と同様、基本的には当たり障りのない事を言われる。

 

「お主はつまらんな。さっきの金髪もそうであったが、もう少し、占いを楽しもうとは思わんのか」

 

 学業について説明されたところで、老婆が占いを中断してそんな文句を言ってきた。

 ため息を深々と吐く老婆へ、オレは精一杯の感情を込めてそんな事はないと口にする。

 

「充分に楽しんでいますよ」

 

「嘘を言うでない。さっきから、表情一つ変えぬではないか」

 

「それは、すみません。生まれつきです」

 

 軽く頭を下げると、老婆は再度ため息を吐いた。それから、オレの隣に居る椎名を見る。

 

「お嬢さんや。焚き付けた儂が言うのも何じゃが……この男、ロクでもないぞ」

 

 本人の目の前でそれを言うか、普通。今度はオレが文句を言いたかったが、グッとそれを堪える。同時にオレは、ある事を確信した。とはいえ、それは後でも確かめれば良いだろう。

 

「ロクでもない、ですか……確かにそう言われると、そうかもしれませんね……」

 

「そうだろう、そうだろう。沢山の人間を占ってきた儂が断言しよう。さっきの男もそうじゃが、こやつらは『破綻者』じゃ。間違いない」

 

「否定したい所ですが……それはちょっと、難しいですね……」

 

 この場にオレの味方は居ないのか。

 非難の眼差しを送ると、それに気付いた椎名は微笑を浮かべながらオレに謝罪をした。

 

「ふふっ、ごめんなさい。つい、意地悪をしてしまいました」

 

 それから彼女は、老婆を真正面から見詰める。「それでも」と言い、言葉を紡ぐ。

 

「それでも私、この人の事が好きなんです。数少ない友達には『男の趣味が悪いわね』と言われてしまいましたが……この気持ちに嘘は吐きたくありません」

 

 老婆の驚く気配が伝わってきた。

 だがそれは、オレも似たようなものだった。人生で二回目の、はっきりと告げられる好意。それにどうしても心が揺らいでしまう。

 頬を朱に染める椎名を、老婆はフードの奥から慈愛の眼差しで見ているようだった。そして、優しい声音で言う。

 

「そうか……お嬢さんがそう言うのであれば、これ以上、儂から言うことはない。占いを続けるぞ、()()

 

 占い師はそう言うと、占いを再開した。

 中断された占いの進行が止まったのは、二、三分程しか経った時だった。

 

「ほほぅ……小僧、お主は幼少期、過酷な環境下で生まれ、そこで育ってきたな」

 

 ここに来て初めて、占い師は占いらしい占いをした。

 だが、その言葉と雰囲気に騙されてはならない。具体的な説明をされなければ、それは単なる言葉遊びに過ぎないのだ。

 占いとは、占い師と客の間に交わされる意思疎通だ。占い師は客の些細な表情の変化、仕草、息遣いといった様々な項目を整理し、そこからその客の人物像を深掘りしていく事に長けている。コールドリーディングと呼ばれる話術を用いる彼らは、きっと、人間観察が生まれつき趣味なのだろう。

 ──そのような事を考えてしまうオレは、占いに向いていないのだろうが。

 だがそれはあくまでも、オレに限った話。当事者のオレがつまらないと思っている一方で、隣に座っている椎名はとても真剣な表情を浮かべている。一言も聞き漏らさないと目が雄弁に語っていた。

 

「だがしかし、お主はそれを不幸とは感じておらぬな?」

 

「それは、どうでしょうか。自分でもよく分かりませんね」

 

「つまりお主にとってそれは、さほど重要ではないという事だ」

 

 占い師はそう断言すると、占いを再開した。結局、『基本プラン』の内容で引っかかったのはそこだけだった。

 

「次に、天中殺についてじゃな──」

 

 オレが唯一惹かれた、天中殺についての占いが始まる。

 少し期待しているオレの目の前で、占い師はぴたりと手を止めた。

 

「何と……」

 

 意味深な呟き。そして送られてくる驚愕の視線。

 どうやら、占い師をそうさせるだけの結果が出たようだ。オレが尋ねるよりも先に、椎名が不安そうに老婆へ話し掛ける。

 

「どうだったんですか?」

 

 占い師はその質問に中々答えようとしなかったが、数秒後、深呼吸を一度してから重い口を開けた。

 

「小僧……お主は、宿命天中殺の持ち主じゃ」

 

 そう厳かに言われても、初めて聞く言葉な為反応に困る。そしてそれは、椎名も同様だった。

 占い師はオレたちの困惑を感じ取ると、宿命天中殺が何たるかを説明する。

 何でも天中殺は大きく分けて、二つに分類されるらしい。運命天中殺と、宿命天中殺だ。運命天中殺は後天的に回ってくる、『神が味方しない時期』の事を指すらしい。それは人間なら誰しもが持っているもの。そこに、宿命天中殺が追加される事により──まあ簡単に言うと、宿命天中殺の持ち主は生まれてから死ぬまで運の悪い人生を送るとの事だ。

 不幸体質、とでも表現すれば良いだろうか。

 

「長い経歴を持つ儂じゃが、よもや、宿命天中殺の持ち主と巡り会おうとは……」

 

「あの……綾小路くんのそれは、そんなにも珍しいのでしょうか?」

 

「うむ、稀の中の稀よ。そういう意味では、小僧は稀有な存在じゃな」

 

 だがしかし、説明を受けた感じでは、それはあまり良い意味合いのものではないのだろう。

 我が事のように顔を曇らせる椎名に、オレが言葉を掛けるよりも先に。

 占い師は「何か勘違いをしているようじゃが」と言った。

 

「先に述べたように、宿命天中殺は稀。しかしだからといって、一生不運が定められている訳ではない」

 

「それは、本当ですかっ」

 

「嘘は言わんよ。確かに流れが悪く、家系、親の恩恵を得られないなどの弊害はあるが、それはあくまでも個性。何を成すか、あるいは成せるかはこれからの自分自身が決めること」

 

 そして老婆は、オレに初めて慈悲の眼差しを送った。

 

「悲観する必要もなければ、喜劇の主人公のように振る舞う必要も全くない」

 

 そして、占いが終わったことを告げられる。

 最後の最後に占いらしい占いをして貰ったが、血眼になって耳を傾ける程のものでもなかったな。

 それが正直な感想ではあるが、興味深い話であったのも事実。

 

「占い師さんは、来年も来られますか?」

 

「分からん。じゃがまあ……ここの生徒は(みな)、良くも悪くも『可能性』に充ちておる。老体に鞭打って足を運ぶ価値はある。それはお嬢さん、お主もじゃよ」

 

「分かりました。そして、ありがとうございました」

 

「なに、気にするでない。お嬢さん、今のお嬢さんが()るのは、数多の選択肢から悩みに悩んで選んだ結果によるものじゃ。それを、決して後悔するでないぞ」

 

 丸椅子から立ち上がった椎名は最後に深々と頭を下げると、部屋を出ていった。

 オレもそれに続こうと立ち上がる。流石に失礼かと思い軽く頭を下げ、老婆に背を向けた。そして、退室する直前。

 

「待つのじゃ、小僧」

 

 声が掛けられる。

 オレは顔だけ振り向かせると、視線で用件を尋ねる。占いは終わった。椎名とは違い、オレと老婆にこれ以上話す事はないはずだが。

 そんなオレの内心を無視して、占い師はおもむろに口を開けた。

 

「宿命天中殺の持ち主には、『試練』が訪れる」

 

「『試練』、ですか」

 

如何(いか)にも。それは、厳しい『試練』じゃ。そして、大抵の人間はそれを乗り越えられない。それ故に宿命天中殺の持ち主は憐れまれてしまう」

 

「それが、間違っていると?」

 

「うむ。本来、宿命天中殺の持ち主には、それを打破するだけの力が備わっておるのじゃ。ここの言葉を使うなら、『実力』とでも言おうか」

 

「しかし、『大抵の人間はそれを乗り越えられない』のでは?」

 

 オレが矛盾を指摘すると、占い師はニヤリと笑った。

 

「言ったであろう。『何を成すか、あるいは成せるかはこれからの自分自身が決めること』とな」

 

 占い師は続けて言った。

 

「お嬢さんの手前(てまえ)敢えて言わなかったが、お主にはこれからも様々な『試練』が訪れるであろう。それは過酷なもの。それが終わっても、『試練』に次ぐ『試練』が待ち構えておる。──お主の意思とは関係なく、お主は『闘争』に身を投じる運命(さだめ)となる。その覚悟はあるか?」

 

 この夏休みの間、何度似たような問いをされてきたのか。数えるのも億劫だが、これはもしかしたら、最後通牒なのかもしれない。

 だが、オレにそのようなつもりは毛頭ない。

 ガイウス・ユリウス・カエサルの言葉を使うなら──()()()()()()()()()

 

「心配には及びませんよ。オレは、オレに出来ることをやるだけですから」

 

 そう告げると、老婆は「そうか」と短く頷いた。その内心は分からないが、暴こうとも思わない。

 これで本当に、占いは終わり。だがオレは最後に、置き土産としてこの言葉を残した。

 

「そう言えば──彼女が、随分とお世話になりました」

 

「……気付いておったのか」

 

「隠す気もなかったでしょう」

 

「カカッ、それもそうじゃな」

 

 愉快そうに笑う老婆に頭を下げ、オレは部屋を出た。暗幕を潜ると、人工的な光が目に刺さる。あまりの眩しさに目を細めていると、椎名が傍に近付いてきた。

 

「何を話されていたんですか?」

 

「そうだな──いや、それよりも先に、質問したいことがある」

 

「何でしょう?」

 

 出口に向かいながら、オレは椎名へ質問をする。

 

「椎名、お前はオレと一緒に来る前に一度、ここに来ているな? そして、あの占い師に占って貰っている。違うか?」

 

 椎名は「ええ、はい」と素直に認めた。

 

「実は伊吹(いぶき)さんに誘われて、数日前にあの占い師さんに占って頂いていました。やっぱり、分かりますよね」

 

「そうだな、お前がその気ならもう少し時間は掛かっていただろうが」

 

 椎名が目的地に迷わなかったのも、数人いる占い師の中からあの老婆を選んだのも、そして、『基本プラン』のみにしていたのも、それで説明がつく。

 

「あの占い師さんに、相談に乗って頂いたんです。その内容は……──」

 

「いや、最後まで言わなくて良いぞ」

 

「そう言って貰えると助かります。あなたから言われると、恥ずかしくて死にたくなるでしょうから……」

 

 ここからはオレの推理だ。だが、これで合っているだろう。

 まず数日前、椎名は彼女が言った通り、友人の伊吹に誘われてあの老婆に占いをして貰った。伊吹が占いに興味があったのは正直意外だったが、人の趣味にとやかく言うつもりは毛頭ない。

 椎名はその誘いに応じて、せっかくだからと、恐らくは恋愛を占って貰った。そして、彼女は占い師から助言を貰った。

 

「占い師さんに、報告をしたかったんです」

 

 その報告をする為には、椎名は何らかの行動をしなくてはならない。その結果が、()()()()()()()()()に繋がったという事だろう。

 

「……随分と、思い切りの良い決断をしたな」

 

「そうですね。そう言われてしまっても、何も言えません。でも綾小路くん、私はこれ以上、我慢出来なかったんです。あなたへの想いに蓋をする事が、どうしても出来ませんでした」

 

「……そうか」

 

「はい、そうです」

 

 そう言うと、椎名はオレの腕に抱きついてきた。

 突然の事に気が動転してしまうオレは、我ながら実に情けない。周囲から送られてくる奇異の視線の数々。交際相手が居る世の男性はこれを浴びているのかと思うと、思わず敬服してしまうというものだ。

 だが、忘れてはならない。たとえそのような行動をしていたとしても、オレたちは正式な交際関係ではないということを。

 もしオレたちの事情を他人に知られれば、椎名には同情が、オレには嘲笑が送られるだろう。

 ここでの正しい選択は、やんわりと彼女を引き離すことだ。

 それは、分かっている。

 だが、溢れんばかりの笑顔を浮かべている彼女に、そのような残酷な仕打ちは出来なかった。

 あの時、あの瞬間。オレは彼女を拒絶しなかった。それを考えれば、何を今更、このような些事で頭を悩ませているのか。

 オレはそれが開き直りだと自覚しながら、ゆっくりと歩く。出口で別れるまでの間なら、これくらい、彼女の意思を尊重しても良いだろう。

 



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茶柱佐枝の分岐点 Ⅰ

 

 椎名(しいな)と別れたオレは一度学生寮に戻ると軽い昼食を済ませる。あまり美味しくない昼食を摂ると制服に着替え、学校に足を運んだ。

 つい昨日、山内春樹(やまうちはるき)佐倉愛里(さくらあいり)に告白をした。その返事が今日、これからされるのだ。

 どちらも共通の友人ではあるものの、オレは部外者だ。だがしかし、山内から懇願され、オレはその行く末を見守る義務を負った。

 正直なところ、告白の成功率は極めて低いと言わざるを得ない。それは告白した山内自身がよく分かっているだろう。それなら少しでも成功確率を上げる為に、もっと多くの時間と情熱を捧げるべきだった。

 だがその選択を、山内は取らなかった。それにはきっと、激しい葛藤と、大きな決断が必要だった筈だ。

 

「そう言えば……久しぶりに一人だな……」

 

 通学路を歩きながら、ふと、そんな事を呟く。

 思えば、この夏休みはいつも誰かと居たような気がする。その大半を占めていたのは椎名(しいな)だったが、他にも桔梗(ききょう)千秋(ちあき)佐倉(さくら)王美雨(みーちゃん)須藤(すどう)といった友人が居た。

 

 この学校に入学する前──それこそ、あの『空白の部屋』に居た頃のオレに、今のオレを見せたらどのような反応を示すだろうか。

 

 そんな疑問を抱きつつも、オレは校舎に入る。告白の返事まで、あと一時間はある。その前にオレは()()()()()()を済ませる必要があった。

 夏の音楽、(せみ)の鳴き声を聴きながら廊下を歩く。数分後、オレは生徒指導室の前に居た。この教室には何かと縁があるな。

 ノックを三回すると、すぐに「入れ」と指示が出る。その声音に緊張が多分に含まれているのはオレの勘違いではないだろう。

 失礼します、とオレは声を掛けてから扉をゆっくりと開けた。ガラガラ、と扉の動く音がやけに大きく反響する。

 

「来たか、綾小路(あやのこうじ)

 

 一年Dクラス担任、茶柱(ちゃばしら)は硬い表情を浮かべながらオレを出迎えた。

 オレが来る前に動かしたのだろう、必要のない机と椅子は隅に置かれていた。オレは会釈してから、用意された椅子に腰掛ける。

 

「……私も学んでいる。そこには誰も居ないぞ」

 

 隣室の給湯室に視線を送るオレを見て、茶柱は苦笑していた。

 

「まずはすまないな、急な呼び出しだっただろう」

 

「いえ、大丈夫ですよ。幸い今日は空いていましたからね。それに急とは言っても、数日前にはメールを受信していましたから」

 

 茶柱から二者面談をすると学校公式のメールを受け取ったのは、今から数日前の事だった。

 日程はオレに合わせると書かれており、オレは今日を指定した。むしろ急な呼び出しをしたのはオレの方だ。何故なら、メールを送信したのは昨晩。オレが社会人なら常識がないと非難されて然るべきだろう。

 

「お前とこうして話すのは、あの時以来か」

 

「そうですね。先生がオレを脅迫して以来です。脅迫されてから数日は不安で全然眠れませんでしたよ」

 

 肩を竦めながらそう答えると、茶柱はオレを強く睨んだ。

 だがオレは謝罪しない。この教師が生徒を脅迫してきたのは紛れもない事実だからだ。

 

「……脅迫か。だが綾小路、それはお前もだろう」

 

「それは違いますよ。あくまでもオレは、自分を守る為に仕方なくです。それと誤解を解いておきますが、オレがしたのは『脅迫』ではなく、『取引』ですよ」

 

 その点を強調しておく。

 言い合っても時間の無駄だと結論付けたのだろう。茶柱は露骨にため息を吐くと、机の上に置いてあったペットボトルの蓋を開け、喉を湿らせた。

 オレにも無言で渡してくる。ありがたく受け取り、オレもこれからに備えて何口か口にした。

 

「……その『取引』についてもだが、お前とはこうして二者面談をする必要が出た。本題はそちらにある。まずはそれから話を進めよう」

 

「ええ、そうですね。お願いします」

 

 オレが頷いたのを確認してから、茶柱は話を始めた。

 

「つい先日の事だ。現生徒会長堀北学(ほりきたまなぶ)から学校にある打診が来た。その内容は、ある二人の一年生を生徒会に入れたいというものだった。しかもそのうち一人は生徒会長直々に副会長に推薦するという内容だ」

 

「仕事が早いですね、生徒会長は」

 

「という事は、やはり──」

 

「先生の仰る通りです。オレは二学期から、生徒会に入りたいと考えています」

 

 茶柱はオレの言葉を聞くと、表情を険しいものにした。そのまま、低い声音で尋ねてくる。

 

「本気か?」

 

「少なくとも、その意思はありますよ」

 

「……冗談ではないのだな?」

 

 いっそ執拗(しつこ)いくらいに、茶柱は確認をしてくる。そこに並々ならぬ感情が宿っていると思うのは、決して気の所為ではないだろう。

 だがオレの答えが変わらないのを察すると、彼女は深々とため息を吐いた。

 

「二学期を目前にして、また厄介な問題が増えたな……」

 

「いち生徒が生徒会に入りたいと言っているだけですよ。教師としては、生徒の意欲的な姿勢に喜ぶべきでしょう。それを『厄介な問題』とは、中々な言い草ですね」

 

「そうは言うがな……お前とて分かっているだろう。普通の学校なら兎も角、生憎、ここは普通じゃない。この学校に於ける生徒会とは、それだけ重要な位置付けにある」

 

 そうだろうな、とオレは内心で相槌を打つ。

 先の『暴力事件』で、生徒会はいわば司法の役割を担っていた。生徒には過ぎた権力だろう。また、堀北学や南雲雅(なぐもみやび)の口振りから察するに、『特別試験』への介入も可能だと考えられる。

 

「現生徒会長からは、奴が自らスカウトしたと聞いているが……それは本当か? 正直な所、あの男がそのような事をするとは思えない」

 

「間違いありませんよ。入学したばかりの頃に、堀北先輩と縁が出来ました。それ以降、何度か面倒を見て貰っています。それでこの前、勧誘されました」

 

「……そうか。正直に言うと、お前たちの繋がりにはとても驚いている。だが同時に、腑に落ちる部分もある」

 

 茶柱はそう自己完結した。恐らく、堀北鈴音(ほりきたすずね)を思い浮かべているのだろう。

 あながち間違っていない為、否定はしない。

 

「私たち教師としては、この問題を重く捉えている。その理由が分かるか?」

 

 南雲と同じ事を言ってくる。だがここで南雲から既に話を聞いていると言うのはあまり得策ではないだろう。

 茶柱の言葉が真実ならば、南雲のあの時の発言はあまりにもリスキーだ。学校が正式に公表していない情報を、誰が聞いているか分からない公共の場で喋ったのは危険な行為だと言えよう。

 それが分からない南雲ではないだろう。それを承知の上で、南雲はオレとの会話を選んだ訳だ。

 

「幾つか思い当たりますが、先生の口から教えて貰っても良いでしょうか」

 

 茶柱は「分かった」と頷くと、説明を始める。

 

「まず、Dクラスの生徒がいきなり副会長に就任した前例はない。それが何故かは分かるだろう」

 

「オレたちDクラスは『不良品』の烙印を押されていますからね。そんな生徒が生徒会、さらには副会長にいきなり就任すれば、一般生徒からの反感を買うのは避けられないでしょう」

 

「その通りだ。たとえばお前が一学期中に何か実績を残していれば話は変わってくる。だが、お前の成績は良くも悪くも普通。唯一国語の成績は良いが、飛び抜けたものではない」

 

 そう言いながら、茶柱は手元に置いていたファイルから一枚の紙を取り出すと、それを見せてきた。

 それは成績表だった。学校が出したオレの評価が書かれている。終業式に受け取っていたが、オレは今に至るまで、これを真面目に見ていなかった。

 担任が言ったように、オレの成績は至って普通だった。国語の成績がほんの少し高いくらいだ。

 

「調整したのが仇となったな、綾小路」

 

 ニヤリ、と茶柱は嫌らしい笑みを浮かべた。

 全て知っているとは思わないが、目の前の人間はオレの経歴を知っている。だからこその、この発言だ。

 

「かと言って、部活動に取り組んでいる訳でもない。言わば、お前の履歴書は白紙に等しい」

 

 そう言って、茶柱は就職活動に例えてくる。所謂『学チカ』がないと言いたいのだろう。

 

「先生たちの言いたいことは分かりました。しかし、おかしな話ですね。生徒会はあくまでも生徒が運営する独立組織の筈です。先生たち教師がどれだけ憂慮したとしても、意味はないと思いますが」

 

「なるほど、なるほど。つまりお前は、余計なお世話だと言いたいのだな?」

 

「言葉は悪いですが、そうなりますね。それに前例を破るのもまた、その時代の役割でしょう」

 

 オレがそう答えると、茶柱は薄く笑った。そして意外にも、オレの指摘は尤もだと認める。

 

「綾小路、お前の言う通りだ。我々教師に、そこまで介入する権限はない。ましてや、生徒会長直々の推薦だ。今の生徒会長──堀北学は『歴代最高』の生徒会長として名を馳せている。教師は奴に、全幅の信頼を傾けている」

 

「オレの希望は受理されるという認識で良いでしょうか?」

 

「ああ、何事もなければすぐにでもな」

 

 また含みのある言い方をする。

 オレは嘆息すると、反撃に転じる。南雲から情報を得ているオレにとって、それは謎掛けにもならない。

 

「先生の言い方だと、何かあるようにしか聞こえませんよ。おおかた、他の生徒会役員がオレを認められないのでしょうが」

 

「つまらんな。だが、正解だ」

 

 拍子抜けだと言わんばかりの表情を浮かべる、茶柱。相も変わらず性格の悪いのことだ。

 

「詳しく言うと、もう一人の生徒会入りは特に反対意見は出ていない。こちらに関しては二学期開始と同時に告知されるだろう」

 

 そのもう一人とは言わずもがな、一年Aクラスの葛城康平(かつらぎこうへい)だ。だがその話は特に関係ない。茶柱も必要のない事は話さない。

 

「だがお前に関しては見送りとなっている。反対意見を口にする者は、現生徒会長の推薦とはいえ、お前にそれだけの『実力』があるのか半信半疑だと言っているぞ」

 

「そうですか、それは困りましたね」

 

「お前を歓迎する者は皆無に等しい。現生徒会長が退任したら、お前は居心地の悪い気分を味わうだろう。それでもなお、お前の意思は変わらないのか?」

 

「何一つ変わりませんね。それに居心地の悪さ、という点についてはクラスでも大差ないでしょう」

 

 自分のクラスのDクラスですら、オレの居場所はあまりないのが現状だ。それは担任の茶柱も把握しているだろう。

 

「だがな、綾小路。それはお前の責任、言わば自業自得だ。社会とはそういうものだぞ」

 

 社会人の担任から戒めの言葉を頂戴する。オレはそれを素直に受け取った。

 そしてようやく、茶柱はオレの意思が本当に変わらないのを認めたようだった。何度目になるか分からないため息を吐くと、一枚の用紙と封筒をオレに渡してくる。

 

「必要書類だ。二学期が始まるまでに書いておけ。書類は始業式の日に回収する。何か不明な点があればメールを寄越せ」

 

「分かりました」

 

 三つ折りにし、オレは用紙を封筒に入れた。スクールバッグを念の為に持ってきたのは正解だったと言える。

 

「まだ時間はあるか?」

 

 壁に掛けられている時計を確認すると、時間にはまだ余裕があった。

 オレが肯定の頷きを返した瞬間、茶柱は纏っている雰囲気を一変させた。ここからは教師の茶柱佐枝ではなく、一人の人間としての茶柱佐枝となる。

 

「単刀直入に聞こう。()()()()()()()()()()()()()?」

 

「何を、とはまた変な事を仰いますね。それに先生らしからぬ、具体性に欠けた質問でもあります」

 

「その生意気な態度と返事も、今は目を瞑ろう。綾小路、お前は夏休みに入る前にこう言った筈だ。平穏な学校生活を望む、とな。クラス闘争に参加する気は微塵もないと、そう言っていた筈だ」

 

「安心して下さい、先生の記憶違いではありませんよ。確かにオレは、先生にそう言いました」

 

 オレが認めると、茶柱は表情をより一層と険しいものにした。

 

「その為にお前は、私と『取引』をした。この夏休みの間、お前は有事の際に動きベストを尽くす。その代わり、私はお前を守るとな」

 

 オレは目で先を促した。

 

「お前は先の二回の『特別試験』に於いて、劇的な活躍はしなかった。それどころか、クラスの和を乱す行動もしている」

 

「……」

 

「とはいえ、それは『表』から()た話でしかない。これは私の推論だ。だが、私はこれを確信している。『無人島試験』に於いてDクラスが二位に付けたのは、『リーダー』に選任された堀北鈴音による功績によるもの──ではない。全てはお前が『裏』で動いていたからだ」

 

 茶柱はそう断定すると、推論を続ける。

 

「お前は如何なる手段を用いてか各クラスの『リーダー』が誰かを暴いた。そしてDクラスの『リーダー』を当てられるのを防ぐ為、堀北鈴音を試験終了前に故意にリタイアさせた。試験終了直前の体調不良の訴えがそうだ。さらに、エクストラポイントの増減から考えられるに、お前はBクラスにも情報を共有したのだろうな」

 

 茶柱は淡々と、その推論をオレに聞かせた。

 担任の教師は試験中、クラスと一緒に行動をする義務があった。それはつまり、茶柱は冷静にクラスを俯瞰する事が出来たということだ。

 そして教師には、試験結果を細かく閲覧する権限がある。それを用いれば、オレの具体的な行動は把握出来なくとも、何をしたのかはある程度推測出来るだろう。『結果』から『過程』を読み解くのはそんなに難しい話ではない。

 

「『無人島試験』の結果は、非常に満足のいく結果だった。私は改めて、お前の異質性、特異性を感じたよ」

 

「そうですか。しかしその言い方だと、『干支試験』は違ったようですね?」

 

「ああ、そうだ。何だ、あの試験結果は。あんな試験結果になるとは、誰も予想していなかったぞ」

 

 茶柱は怒気を含ませながら、オレを強く睨む。

 

「『干支試験』は、Cクラスの完勝で終わってしまった」

 

「茶柱先生は、それを悔しいと思っているんですね」

 

「当然だ。まさかこんなにも早い段階で、クラスの序列が変動するとは思いもしないだろう。少なくとも我々教師陣は思っていなかった」

 

 二学期から、龍園(りゅうえん)率いるCクラスがBクラスに昇格し、一之瀬(いちのせ)率いるBクラスがCクラスに降格する。

 この夏休みの間で、クラスポイントは大きく増減した。その結果、二学期からはA、新B、新Cクラスの三つ巴の状態となる。

 オレが所属しているDクラスはその遥か下。そこに割り込む余地は今のところない。

 

「『結果』もそうだが、その『過程』にも驚愕すべき点がある」

 

「試験が早く終わったからですか?」

 

「……その通りだ」

 

 重い、肯定の頷きが返される。

 二日目の夜にCクラスが勝利宣言を行い、その翌日の三日目(休息日)に堀北鈴音が纏めあげた生徒の『悪足掻(わるあが)き』によって特別試験は終了した。

 

「……その通りだ。はっきり言おう、この『結果』と『過程』はどちらも異常だ」

 

 それが、学校の思惑通りに動かなかった一年生に出された評価なのだろう。

 

「話を戻そう──綾小路、お前ならこれを阻止出来た筈だ。違うか?」

 

「それは、オレを買い被り過ぎですよ。『干支試験』は言わば、これまでの人間関係の積み重ねと言っても過言ではありません。オレのような人間とは相性が頗る悪い」

 

「それは一理ある。だが、お前ならある程度の情報があれば試験の『根幹』に辿り着けた筈だ。違うか?」

 

「どうでしょうね。とはいえ、先生。もし仮にオレが『優待者』を誰か見抜いたとしても、オレを信じる人間は極めて少ないですよ。悪目立ちしていますからね、オレは」

 

 オレが肩を竦めると、茶柱は無言の圧力をより一層強くした。

 

「Cクラスがあんなにも早く『根幹』に辿り着けた理由がある筈だ」

 

「先生は、その理由に見当が付いていますか?」

 

「……ああ、ある程度はな」

 

 茶柱は表情を渋くすると、考察を口にする。

 

「試験結果から考えられるに、その主な理由は二つある。一つは、Cクラスのリーダー、龍園翔(りゅうえんかける)が実行した戦略によるものだ」

 

「その戦略とは?」

 

「まず、龍園はクラスメイトに『優待者』が自分だと名乗り出るように声を掛けた。あのクラスは『独裁者』による圧政で成り立っている。逆らう者は居ないだろう」

 

「なるほど。それで龍園は十二人のうち三人の『優待者』を発見したという事ですね。驚きですね」

 

 茶柱はオレの相槌を無視し、言葉を続ける。

 

「もう一つは──『()()()()()()()()()()()。これしか考えられない」

 

「……? 『本当の裏切り者』とは?」

 

「その白々しい態度をやめろ。お前もその答えを既に得ている筈だ」

 

 その言葉に従い、オレは演技をやめた。

 茶柱はそれを確認すると、忌々しそうに続ける。

 

「Bクラスからではない。あのクラスは一之瀬帆波(いちのせほなみ)が神格化されているからな」

 

「神格化、ですか。それはまた、面白い表現を使いますね」

 

「黙って話を聞け──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「だからこそ、『本当の裏切り者』ですか」

 

 茶柱は沈痛な表情で首を縦に振ると、こう言った。

 

「もし仮に、Dクラスに『本当の裏切り者』が居るとしよう。なぁ、綾小路。ソイツは誰だと思う?」

 

「さぁ、皆目見当もつきませんね」

 

「……尚も言い逃れするか。それなら、こう聞こう。綾小路、お前は『本当の裏切り者』が誰なのかを知っているな?」

 

「知っているのかもしれませんし、知らないのかもしれません。そして、質問を質問で返すようで悪いですが、先生には誰か心当たりがありますか?」

 

 茶柱が正しい答えを得ているのか、それはさほど重要ではない。いくらそこに個人的な感情があろうとも、教師の領域を踏み外すことは許されない。

 だが、少しだけ興味があった。どこまでクラスの内情を把握しているのか、そして、それについてどのように考えているのか。

 

「……一人、そうではないかと考えている生徒が居る。証拠と呼べる物は一切ないが……そのような芸当が出来るのは、Dクラスの生徒の中ではソイツだけだろう。動機は不明だがな」

 

「それで、茶柱先生は誰だと考えているんですか?」

 

「……いや、口にするのはよそう。そうしたら最後、私はソイツに呪われそうだ」

 

 その口振り、その様子から嘘の気配は微塵も感じられない。茶柱は正解に辿り着いている。そして彼女自身も、それを確信している。

 それを躊躇ったのは、今、彼女が口にした通りだ。

 頭を振った茶柱は、脱線した話を戻す。

 

「……話が随分と脱線し、遠回りしてしまった。私がお前に聞きたいのはな、綾小路。お前は今後、どうするつもりだ?」

 

「どうするつもり、とは」

 

「そのままの意味だ。夏休み前の発言と、今のお前の行動。明らかに矛盾が生じている。お前が本当に平穏な学校生活を送りたいのなら、何故、副会長に就こうとする? これを矛盾として、何を矛盾とするんだ?」

 

「そうですね。その自覚はありますよ」

 

 オレはそう言うと、茶柱の瞳をじっと見詰めた。そしてそのまま、自分の考えを口にする。

 

「オレは今後、クラスではなく自分の為だけに行動します。副会長に就くのはその足掛かりでしかありません」

 

「……それはつまり、クラス闘争に参加するという事か?」

 

「そうとも言えますし、そうではないとも言えます。場合によってはクラスに貢献するでしょう。その逆も然りですが」

 

「……なるほど、『自分の為だけ』とはそういう意味か」

 

 茶柱は、オレの行動指針を理解したようだった。

 今後のクラス闘争に於いて、綾小路清隆(あやのこうじきよたか)という人間は『味方』にも『敵』にもなり得る存在となる。

 オレの経歴をある程度知っている茶柱だからこそ、その意味が分かる。

 

「私が説得──いや、『脅迫』したとしてもその決意を変えるつもりはないな?」

 

「愚問ですね、先生」

 

「……そうか。それならば、『取引』も中止になるな」

 

「構いませんよ。ただし先生、くれぐれも覚悟して下さい。オレを『敵』に回すという事は、そういう事です」

 

 容赦するつもりは一切ないと告げると、茶柱の表情は強張った。オレはそんな彼女に、ある提案を持ち掛けた。

 

「とはいえ、オレも必要以上に『敵』は作りたくありません。そこで先生、オレから一つ提案があります」

 

「……何だ?」

 

「そう警戒しないで下さい──関係を改めてリセットしませんか」

 

「……私とお前は、ただの担任教師と生徒。そうしたいと?」

 

「はい、その通りです。オレはどちらでも構いませんが、先生にとってはその方が賢明かと」

 

 唇を噛み、葛藤する茶柱。

 これは、最初にして最後の温情。オレの提案を蹴った時、オレたちは敵対関係となる。

 それが分からないほど、茶柱は愚かではない。

 

「……全く、大人を馬鹿にするのも大概にしろよ。私たちの関係、その本質は何も変わらないだろうに」

 

「そうでもありませんよ。オレが先生を『敵』だと判断しているなら、とうの昔に攻め落としています」

 

 事実を告げると、茶柱は唇を噛み締めた。そして激しい葛藤の末、おもむろに口を開ける。

 

「……いくつか、聞きたい事がある。嘘偽りなく答えろ。それがお前の提案を呑む条件だ」

 

「わかりました。それでは、どうぞ」

 

 オレが頷くと、茶柱は質問をしてきた。

 

「もしお前の利になるのなら、クラス闘争で良い成績を収めるのだな?」

 

「そうですね。基本的にはそうなります。先生がこの言葉を聞いて安心するかは分かりませんが、オレがクラスを裏切る事はそうはないと思ってくれて良いです」

 

 クラス闘争の性質上、それは、切っても切り離せないシステムだ。

 仮に裏切るとしても、それは『計画』の最終段階に入った時だろう。

 打倒Aクラス──下克上を狙っている茶柱からしたら、そこの成否が気になるのは当然。オレの発言から、すぐに『敵』になる事はないと読み取る。

 

「クラスポイントはかなり離されていますが、今のDクラスは決して弱くありません。順調にこのまま育てば、他クラスとも充分に戦えます」

 

 多くの生徒が、それぞれの『成長』を遂げている。あるいは、その『(きざ)し』を見せている。今のDクラスは、四月の時の『不良品』ではない。

 それは、目の前の茶柱も分かっている。希望が少しずつ大きくなっていくのを、彼女は感じている事だろう。

 

「……最後に、これを聞かせろ。何がお前を変えた? 何がお前の感情を揺さぶった?」

 

「どうしても欲しいものが出来た──それに尽きます」

 

「……? 欲しいものだと?」

 

「ええ、流石にそれが何かまでは言えませんが。しかし、そういった意味では先生、オレは先生にとても感謝しているんですよ」

 

「……なに? 感謝だと?」

 

「こちらの話です」

 

 茶柱は暫く困惑していたが、これ以上オレに答える気がないのを察すると追及してこなかった。

 

「これでもう、話は終わりでしょうか?」

 

「ああ、時間を取らせてすまなかったな。もう行って良いぞ」

 

「分かりました。それでは茶柱『先生』、また二学期から宜しくお願いします」

 

『先生』と敢えて強調すると、茶柱先生は顔を渋くしながらも頷いた。

 スクールバッグを肩にかけ、オレは唯一の出入口に身体を向けた。そんなオレに、茶柱先生が声を掛ける。

 

「綾小路、『イカロスの翼』を知っているか?」

 

 オレは足を止め、しかし顔を向けることなくその質問に答えた。

 

「もちろん、知っていますよ。有名なギリシャ神話ですからね」

 

 話を簡単に概略すると──嘗てギリシャには、ダイダロスという発明家が居た。そんな彼はミノス王から、怪物ミノタウロスを閉じ込める迷宮を造れと命じられる。果たしてダイダロスは広大な迷宮を造り上げたが、最終的には王から見放され、息子と共に塔へと幽閉されてしまう。

 その息子こそが、イカロスだ。

 ダイダロスは息子のイカロスと協力し、塔からの脱出を企てる。鳥の羽を集めて大きな翼を作ったのだ。大きな羽を糸でとめ、小さな羽は蝋でとめた。

 やがて翼は完成した。自由を求めて飛び立てるようになったが、その時、父ダイダロスは自身の息子にこんな忠告をした。

 

『あまり高く飛ぶと、蝋で固めた翼が大地に焼かれて溶けてしまう。くれぐれも気を付けろ』──と。

 

 その忠告を受けたイカロスは、父と共に塔から飛び立った。しかし彼は手に入れた自由で舞い上がってしまい、空高く飛んでしまう。彼は、父からの忠告を忘れてしまったのだ。

 その結果、太陽の熱で蝋は溶けてしまう。そして、翼を失ったイカロスはそのまま海へ撃落してしまい死んでしまうのだ。

 

「お前はまるで、イカロスのようだな」

 

 イカロス。自由を求め、自由を手に入れ、その果てに死んでしまった愚か者。

 それがオレなのだと、茶柱先生は皮肉を口にした。

 

「だとしたら、今オレは飛び立つ瞬間に居ますね。──準備はこの夏休みで整った。オレは、自由(それ)を求めて羽ばたきます」

 

「勇敢……いや、違うな。お前のそれは蛮勇だよ。傲慢とも言えるだろう」

 

「そうかもしれませんね。しかし先生もご存知の通り……オレ(イカロス)あなた達(ダイダロス)の忠告を守りませんから。だから──」

 

 オレは顔を茶柱先生に向け、こう宣言した。

 

「オレは、戦いますよ」

 



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王美雨の分岐点 Ⅰ

 

 生徒指導室をあとにしたオレはそのまま、急ぎ足で校舎裏に向かっていた。

 

「遅いぞ、綾小路(あやのこうじ)!」

 

 既に居た山内(やまうち)が文句を言ってくる。約束の時間にはまだかなりの余裕があったが、彼の精神状態を考慮すれば配慮に欠けていたと言えるだろう。

 

「悪い、どうしても外せない用事があったんだ」

 

「それなら仕方ないけどよ……ちなみに聞くけど、まさか女の子と会っていた訳じゃないよな?」

 

「……」

 

「おい、何だよその反応! 何で目を逸らすんだ! おい、何とか言えよ綾小路!」

 

 今にも殴り掛かってきそうな山内を、必死に宥める。だがやはりというか効果はまるでなく、寧ろ、逆効果だった。

 必死に謝り通すこと数分、ようやく、山内は機嫌を取り戻した。椎名(しいな)といい、今回の事といい、今日のオレは何度謝罪をすれば良いのか。今日は厄日かもしれないな。

 そんなことを思っていると、山内が徐々に狼狽え始める。

 

「ど、どうしよう綾小路!? 俺、いったいどうすれば良いんだ!?」

 

 約束の時間は十六時。佐倉(さくら)のことだ、その五分前にはきっと来るだろう。現在時刻は十五時四十三分な為、あと数分でその時はやってくる。

 秒単位で表情を大きく変える山内を、情けない男だと評価するのは簡単だ。だがオレは、少なくともオレだけはそれに共感しなければならない。

 

「落ち着け、佐倉に格好悪い所を見せるつもりか?」

 

「そ、そうだけどよぅ……」

 

「深呼吸をして呼吸を落ち着かせるんだ。オレも、時間ギリギリまでここに居るから」

 

 すると山内はオレの言葉に従い、何度も深呼吸を繰り返した。持参してきたペットボトルの蓋を開け、一気に呷る。何かしてないと気が済まないのだろう。

 それからさらに二分が経った。流石にこれ以上ここに居るのは危険だ。

 

「山内、オレは行くぞ──」

 

 顔を青くしている山内に声を掛け、オレなりに激励の言葉を送ろうとした、その時だった。

 頭部に、何か冷たい感触がした。手を当てるもそこには何もない。気の所為かと思ったが、それは何度も繰り返された。

 

「あ、雨だ! 綾小路、雨が降ってくるぞ!?」

 

 先に気付いた山内が、焦ったように声を上げる。そしてそれは、正解だった。

 つい数分前まで空は晴れ晴れとした夏空だったが、それが嘘であったかのように、気が付けば灰色が支配していた。今朝見た天気予報だとそのような事は言っていなかったが、それも百パーセントの確率ではない。

 盛大な音を立てながら、強い雨が降り始める。建物と床に当たる音に紛れて、運動部の生徒だろうか、どこからか悲鳴が聞こえた。

 

「山内、取り敢えず中に避難するぞ」

 

 一時的なものであるのを祈るが、まずは室内に入ってこの雨を凌がなくては。そう思い声を掛けるも、山内はなかなか動こうとしなかった。

 

「山内? どうかしたか?」

 

 再度声を掛けると、ようやく、山内はオレに顔を向けてこう言った。

 

「悪い、綾小路。俺、ここで佐倉を待ってるよ」

 

「本気か……? 下手したら風邪を引くぞ?」

 

「だとしても、俺は今日、佐倉とここで待ち合わせをしているんだ。男の俺が待たなくてどうするんだよ」

 

 その瞳には並々ならぬ決意が宿っていた。オレがどれだけ説得しても、山内は頷かないだろう。

 今日という一日が自分にとって大きな意味のある日になるのだと、山内は悟っているのだ。

 覚悟を決めている人間にどれだけ言葉を尽くしても、それは意味がない。寧ろそれはより強固なものとなる。

 

「……分かった。そこまで言うのなら、オレはお前を尊重しよう」

 

「サンキューな。あっ、だけど綾小路、俺には構わずお前は避難しろよ。お前が俺に付き合う義理はそもそもないんだからさ」

 

 自分に付き合わせてしまうばかりに、オレが体調を崩すのを山内は恐れている。

 

「……分かった。それじゃあ、オレは建物の中から見届ける」

 

「ああ、頼む」

 

 そう言うと、山内はキメ顔を見せてきた。オレは彼の両膝が震えているのに気付いていない演技をしつつ、軽く頷きを返すと校舎の中に避難する。

 オレが避難を終えた時には、雨はいよいよ本格的なものになっていた。ハンカチで出来る限り水分を取りながら、携帯端末を操作して天気予報を確認する。

 幸いにもこの雨は一過性のものであり、数分もすればやむとの事だった。この予報が的中しているのを願わずにはいられない。

 一階からでは佐倉に気付かれる可能性があると判断し、二階に移動する。廊下の窓から見下ろすと、約束の場所にはまだ山内しか居なかった。

 雨に打たれている山内は、しかしそんなのどうでも良いと言わんばかりに待ち人がやって来るであろう方向を見詰めている。

 しかし、いくら待てども佐倉は来なかった。約束の時間にはまだなっていないが、山内の心情を考えれば、それは地獄にも等しいだろう。

 そんな事を考えていると、不意に、背後に人の気配を感じた。

 

「……こんにちは、綾小路(あやのこうじ)くん」

 

 不安な表情を浮かべて挨拶してきたのは、<ruby><rb>王(ワン)美雨</rb><rp>(</rp><rt>みーちゃん</rt><rp>)</rp></ruby>だった。彼女もこの雨に濡れたのだろう、全身が濡れてしまっている。

 

()()()()、綾小路くんも来ていたんですね」

 

 そう言って、みーちゃんはオレの隣に立った。一歩も動くことなく佐倉を待ち続けている山内を一瞥すると、オレに視線を送った。

 

「……昨日綾小路くんには言ったと思いますが、私はここに来るつもりはありませんでした」

 

「だが、お前はここに居る。佐倉から相談をされたんだな?」

 

「……はい。昨晩、愛里(あいり)ちゃんから電話が掛かってきて……山内くんから告白をされたと言われました」

 

 沈痛な表情で、みーちゃんはそう答える。

 当然ながら、オレはみーちゃんと佐倉の間にどのような会話があったのかは知らない。だがその表情から、ある程度は察せられる。

 

「今、愛里ちゃんは最低限の身嗜みを整えています。この雨の所為で、濡れてしまいましたから……」

 

 学校からタオルを借りている、とみーちゃんは言った。それから彼女は口を閉ざし、視線を山内に戻す。

 それから数分が経ち、約束の時間になる。ここで山内の様子が変わった。まさか佐倉が来ないのではないか、そんな不安が募っているようだった。

 

「雨、やむな……」

 

 まるで、オレの呟きに反応するように。

 地面を強く打つ雨が弱くなり、瞬く間に雨はやんだ。曇天の隙間から陽の光が射し込む。

 

「──来ました。愛里ちゃんです」

 

 みーちゃんがそう報告してくる。

 果たしてそこには、佐倉が立っていた。急いで走ってきたのだろう、遠目からでも、その疲弊と焦燥が伝わってくる。

 山内も佐倉に気が付いたのか、安堵の表情をまずは浮かべた。しかし、それは一瞬。それはすぐに強張り、身体も硬直してしまう。

 窓を開ければ、今から行われるであろう出来事を全て把握出来るだろう。だがオレも、そしてみーちゃんもその気はなかった。

 オレたちが頭上で見守る中、遂に、状況は動き出す。全身がずぶ濡れになっている山内へ、佐倉が慌てて駆け寄った。

 

「──」

 

「──」

 

 分かりやすい二人は、その表情、仕草、行動からある程度何が話しているのか分かる。

 まず恐らく、佐倉は遅刻してしまったのを山内に謝罪した。通り雨というハプニングこそあったものの結果的に佐倉は約束の時間通りに来ることが出来ず、山内を待たせてしまった。自分がもっと早く来れば、山内は冷たい雨に打たれ続けなくて済んで良かったかもしれない。

 そう謝罪する佐倉に、山内は格好付けて気にするなと言っただろう。

 ここで会話は一旦途切れ、再び膠着(こうちゃく)が訪れた。

 

「私は、綾小路くん……昨日から、ある一つの疑問がありました」

 

 視線を友人とクラスメイトに向けながら、みーちゃんがそう言った。

 

「どうして綾小路くんは、山内くんに協力しているのか? という、疑問です」

 

「当然の疑問だな」

 

「はい、そうですよね。私と綾小路くんは、愛里ちゃんから何度も相談を受けています。山内くんからアプローチをされていること、そして、それに困っていることを」

 

 その事実の確認に、オレは無言で頷く。その気配を感じ取ったみーちゃんは、さらに続けた。

 

「他の人が山内くんに協力するのは、何も不思議ではありません。しかし、私と綾小路くんが協力するのはおかしいでしょう」

 

「山内に無理やり協力させられているかもしれないぞ」

 

「それはありません。綾小路くんは強い人ですから、山内くんに詰め寄られても首を横に振る事は出来る筈です」

 

「それはまた、随分な過剰評価だな」

 

 オレがそう言うと、みーちゃんは苦笑したようだった。

 

「以前にも似たようなことを言いましたよね。私は綾小路くん、あなたの強さが羨ましいんです」

 

「オレは強くなんかないさ」

 

 寧ろこの学校に来てからは弱くなっている。数値化し、折れ線グラフにでもすれば、それは一目瞭然だろう。

 だがそれを言う必要はない。みーちゃんは狙い通り、オレの言葉を謙遜と受け取ったようだった。

 

「綾小路くん、あなたは凄い人です。少なくとも、私はそう思っています」

 

「……」

 

「そんな綾小路くんが、理由もなしに山内くんに協力するとは思えないんです。最初は正直に言うと、愛里ちゃんの事を裏切ったのかと思ってしまいましたけど……」

 

 みーちゃん──<ruby><rb>王(ワン)美雨</rb><rp>(</rp><rt>ワンメイユイ</rt><rp>)</rp></ruby>という人間はその優れた頭脳を活かして論理的思考をする事が出来る。直感的思考をしがちな若者が多い中、この能力を保持しているというだけでも称賛に値するだろう。コミュニケーション能力こそ控え目な性格と口下手が災いして足を引っ張っているが、中国からの留学生である彼女は『外の世界』を知っている貴重な人材だ。

 

「みーちゃんの中で、答えは出ているのか?」

 

「確証はありませんが、一つだけ」

 

「そうか。それなら悪いが、『答え合わせ』は終わってからだ──いやもう、()()()()()

 

 オレたちの視線の先で、一つの決着が訪れていた。

 照り付ける太陽の下、深々と頭を下げる佐倉。そして、表情を今まで以上に強張らせる山内。

 二人はそれから二言(ふたこと)三言(みこと)話したようだった。最後にもう一度佐倉が頭を下げ、校舎裏をあとにする。

 その後ろ姿を、山内は呆然と見送っていた。

 一つの恋愛が、終わった。その結果は──わざわざ述べる必要もないだろう。

 

「『答え合わせ』をしようか、(ワン)

 

 愛称の『みーちゃん』ではなく『(ワン)』と呼ぶと、彼女は寂しそうにしながらも頷いた。

 そしてオレに身体を向けると、顔を上げて言った。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そうですね?」

 

「その通りだ。オレは山内の佐倉への想いが実らないのを分かっていながら、敢えて、山内からの恋愛相談に真剣に応じた」

 

「それだけじゃありませんよね。愛里ちゃんから聞きました。ラブレターの文章が、とても心揺さぶられるものだったと。こう言っては失礼ですが、山内くんにそれだけの文章が書けるとはあまり思えません」

 

 その言葉に、オレはついつい苦笑いしてしまう。こじつけな暴論ではあるが、的を射ているからだ。

 

「みーちゃんの推測通りだ。今言った通り、オレは結末を予期しながらも、山内に全面的に協力した」

 

 それは、絶望的な確率を少しでも上げる為だ。

 

「私が分からないのは、そこです。綾小路くんは山内くんの恋が報われないのを分かっていながら、その上で全面的に協力しました。その目的は、何ですか?」

 

 オレの矛盾を指摘しつつ、(ワン)は尋ねてくる。

 

「二学期に入る前に、問題を解決したかった。まずはこれが第一に挙げられるな」

 

「クラス闘争がより激化するから、ですよね……?」

 

「その通りだ。山内の恋が成就するにしろそうではないにしろ、この夏休み中に何らかの『進展』が必要だと考えていた」

 

 今後、どのような『特別試験』がオレたちを待ち受けているかは分からない。だがその難易度は、先の『無人島試験』や『干支試験』と同等、あるいはそれ以上のものとなるだろう。

 そこに、『余分なもの』を持ち込む余裕は残念ながらない。山内と佐倉の問題はそれに該当する。不安定な恋愛は『毒』になり得る。それを誰よりも、オレが分かっている。

 

「綾小路くんにとって、山内くんの告白の成否はどうでも良かったんですね……」

 

「そうだな、否定はしない。ただ、山内が本気で佐倉に告白をするつもりなら、それに応えようと思ったのもまた、確かな事実だ」

 

 オレの執拗いくらいの確認に、山内は意志を曲げることはなかった。それ故にオレはラブレターの添削を行い、告白の練習にまで付き合った。

 だがそれも、椎名からの告白があったからだ。もしなかったら、オレは他の手段を取っていただろう。

 

「……それは、とても残酷な事ですね」

 

 とても悲しそうに、(ワン)は目を伏せる。彼女自身、想い人が居る身だ。その共感は言葉では表現出来ないだろう。

 (ワン)はおもむろに目を開けると、強い口調でオレに尋ねる。

 

「そうまでした目的は何ですか?」

 

「山内と佐倉、二人に新たな『切っ掛け』を与えたかった」

 

「……『切っ掛け』?」

 

「それは何ですか?」と聞いてくる(ワン)を残し、オレは階段を降りた。逡巡の後、追ってくる気配。

 階段に反響する靴音、それに混ぜ、オレは(ワン)に話し掛ける。

 

『今からオレは、山内に促進剤を投与する』

 

「……ッ!? えっ、何で!?」

 

 伝わってくる動揺、そして驚愕。

 それもその筈。オレは今、日本語ではなく中国語で(ワン)と話しているからだ。

 足をとめ狼狽している彼女へ、オレは顔を振り向かせてさらに言った。

 

『そんなに驚く事じゃないだろう。数こそ少ないが、外国語を話せる生徒は居る』

 

 中国語でそう指摘すると、(ワン)は唇を震わせた。目をあらん限りに見開かせ、立ち尽くす。

 

『山内が待っているから、オレは先に行っている。オレが今からする事を見れば、促進剤とは何かが分かる筈だ』

 

 最後にそう声を掛けると、オレは再び階段を降り始めた。二階から一階に降り、渡り廊下に移動する。

 山内はオレが近付いても反応を示さなかった。まるで石像のように、身体を硬直させている。その視線は、佐倉が去った方向から微塵も動いていなかった。

 

「山内」

 

 声を掛けると、ようやく、山内はオレの存在を認識したようだった。

 

「あ、綾小路……」

 

 声を震わせ、オレの名前を呼ぶ。

 そしてオレの来た意味を理解するとへなへなと脱力し、そのままコンクリートの上に尻もちをついた。

 

「そうか……俺、佐倉に振られたんだな……」

 

「……」

 

「振られ、たんだ……!」

 

 言葉にした、直後。山内は目尻から涙を流し、蹲る。

 校舎裏に暫く、男の嗚咽(おえつ)が響いた。

 オレはそんな彼を、黙って見守ることしか出来ない。このタイミングで慰めの言葉を掛けても意味はない。オレに出来るのは、ただそこに居るだけだ。

 

「──勝ち目がないのは分かっていたんだ」

 

 蹲った姿勢のまま、山内がおもむろにそう言った。オレは耳を傾け、彼の独白を待つ。

 

「脈がないのは、薄々察していた。それに、気付かない振りをしていたんだ」

 

「……」

 

「誰かと付き合いたかった。青春を送りたかった。佐倉ならもしかしたら俺でも行けるんじゃないかって、そう、思ったんだ。ほんと、俺って馬鹿だよなぁ……。何様だって思うよ……」

 

 独白は続く。

 

寛治(かんじ)も、(けん)も変わった。沖谷(おきたに)だってそうだ。なぁ綾小路、信じられるか? 三人とも、つい数ヶ月前までは俺と同じ場所に居たんだぜ? それが今じゃ、クラスに貢献するようになり始めているんだ」

 

「だから、それに並び立とうとしたんだな。お前は佐倉と付き合う事で、変わろうと思った」

 

「……ははっ、やっぱり、お前は凄いな。お前の言う通りだ。変われない俺が変われるとしたら、そこにあるんじゃないかって……そう、思ったんだ」

 

 一緒に馬鹿をやっていた友人は気が付けば、隣に居なかった。それどころか自分の数歩先を歩いていた。その背中は着実に遠くなっていき、そのうち、手の届かない場所に行ってしまうのではないか。

 自分が取り残される不安、そして、焦燥。それを抱いていたのだと、山内はその胸中を吐露する。

 

「佐倉がさ、聞いてきたんだ。『何で私を好きになったんですか?』ってさ。俺は、その質問に答えられなかった。ただ衝動のままに、佐倉が良いとしか言えなかった」

 

 独白は慟哭となり、続く。

 

「綾小路、お前の事もそうだったけどさ……俺は、佐倉の事もちゃんと視ていなかった。ただその身体的特徴に惹かれていただけだったんだよ……」

 

 懺悔をするように、山内は言った。

 

「それでも、好きだったんだろう?」

 

「……どうかな。それももう、分からない。ただ、お前と一緒にラブレターを作っている間は、好きだったんだと思うよ」

 

「それなら、お前の想いは尊いものだ。誰かを好きになること、誰かを嫌いになること。それはとても簡単なものなのだと、オレはついこの前、大切な人から教えて貰った」

 

 オレがそう言うと、山内は苦しそうに言葉を洩らした。

 

「嘘吐きの俺に出来ることなんて、何一つもないんだ……!」

 

 声を上げて泣く、山内。

 今、山内は自分が嫌いでしょうがないのだろう。友人は変わったのに、自分は何一つとして変わっていない。嘘を吐き続けてきた自分の人生に、後悔と、憎悪すら抱いているだろう。

 自己嫌悪に陥っている人間に、顔を上げさせ、前を向かせるのは非常に難しい。どのような優しい言葉を掛けて慰めても悲観的に捉えてしまうからだ。

 だが然るべきタイミングで、然るべき言葉を言えばそれは違ってくる。

 そしてそのタイミングは『今』であり、その言葉をオレは知っている。

 

「山内、今お前がすべき事はそれなのか?」

 

 問題提起を山内に投げ掛ける。

 だが山内はそれに反応しない。自分の殻に閉じこもり、考える事を放棄する。現実から目を逸らし、それに気付かない振りをしている。

 それでは、何も変わらない。それでは、何も『進展』しない。

 

「お前の自己評価は正しい。お前はいつも、自分をよく見せようとしてきた。格好付けようとしてきた。だからお前はいつも、誰にも分かる嘘を吐いてきた。それがお前にとってたった一つの『武器』であり、自尊心を満たすものだったからだ」

 

 徹底的に、残酷的なまでにオレは山内を否定する。

 

「クラスメイトはお前の言動に呆れていたな。まともに取り扱っていたのは入学当初か。それ以降はお調子者のお前に付き合っていたに過ぎない」

 

 嘘を重ねれば重ねるほど、嘘吐き者の信頼はなくなる。やがて、その前段階の信用もされなくなる。

 Dクラスの生徒からの心証が悪いと、オレは事実を突き付ける。言葉には感情を一切乗せず、機械的に告げる。

 

須藤健(すどうけん)は『暴力事件』を経て改心した。Dクラスに身体能力が秀でた人材は少ない。普通の学力さえあれば、須藤はDクラスの大きな『武器』となる。そしてその努力を、須藤はずっと重ねている」

 

「……っ」

 

池寛治(いけかんじ)は元来のコミュニケーション能力を活かし、クラスの緩衝材の役割を担う事が多くなった。そして『無人島試験』の際に起こった、軽井沢の下着盗難事件。冤罪を着せられた池は精神的な成長を大きく見せるだろう」

 

「……やめろ」

 

沖谷京介(おきたにきょうすけ)もそうだ。池と交流を重ねた沖谷は元々あった引っ込み思案な性格が改善傾向にある」

 

「…………やめてくれっ」

 

 顔を上げ、悲痛な表情で山内はそう訴える。

 だがオレはその叫びを無視し、言葉を続けた。

 

「入学してからの数ヶ月、多くの生徒がそれぞれの『成長』を示している。もちろん、その歩幅には差がある。だが着実に、一歩を踏み出している」

 

 耳を塞ごうとする山内の両手を摑み、退路を塞ぐ。目線を合わせ、その瞳を見詰める。

 

「だが山内春樹──お前はどうだ? この一学期、何をしていた?」

 

「お、俺は……ッ!」

 

「何もしていなかっただろう、お前は。精々が堀北主催の勉強会に参加しているくらいか」

 

 畳み掛けるように圧迫すると、山内は唇を悔しそうに噛み締めた。

 

「確か──『もっと深く考えなさい。すぐに思考を止めるのではなく、限界まで考え抜きなさい』だったか。堀北はいいことを言うな」

 

「……何が言いたいんだよ?」

 

「自分自身から目を逸らすな。お前が変わりたいと言うのなら、そう強く思うのなら、そうするしか方法はない」

 

 今の山内に必要なのは、己の弱さと向き合う事。これまでの自分を客観的に振り返り、何が良くて何が悪かったのかを分析する事。

 そしてそこから課題を見出し、一歩を踏み出す勇気を持つ事。

 

「俺、変われるのかな……?」

 

「それを決めるのは山内、お前自身だ」

 

 それが出来なければ、今後、山内春樹(やまうちはるき)がクラス闘争で戦い抜く事は出来ない。その果てに待っているのは自身の破滅。

 これ以上、オレに出来ることはない。ヒントは充分過ぎる程に与えた。このチャンスをものに出来るかは、全て山内次第だ。

 それを無意識でも分かっているのだろう、山内はこれまでとは違い、安直な答えを口にしなかった。堀北鈴音という教師から教わった言葉を胸に、彼なりの答えを見出そうと懸命に足掻く。

 

「──」

 

 そして、その時はきた。

 山内はおもむろに立ち上がると、オレを真正面から見詰める。真剣な表情を浮かべる彼は、微々たるものであったが、纏っている雰囲気を確かに変えていた。

 

「俺が、間違っていた……」

 

 硬い声音で、山内はそう言った。

 オレは黙って、彼の言葉に耳を傾ける。

 

「綾小路、俺は間違っていたんだな。俺は寛治や健たちと比較して、勝手に嫉妬していたんだ。あいつらが成長出来たのは、あいつらが頑張っていたからなのにさ」

 

「……」

 

「頑張るのはダサい事だと思っていた。勉強も、運動だってそうだ。頑張ったって報われる筈がないと思っていた。必死になって何かに打ち込む奴らを、俺は馬鹿にして……同時に、憧れていたんだと思う。だから俺はそいつらになる為に嘘を吐いて、逃げてきたんだ。それをずっと、繰り返してきたんだな」

 

 自己覚知した山内は、そう、己の胸中を吐き出した。

 

「これから、どうするつもりだ?」

 

「しょうもない嘘を吐くことをやめる。まずは、それからさ。それが俺の、第一歩だ」

 

「道程は長く険しいぞ、山内。周りからの評価を覆すのは簡単な事じゃない。それは分かっているのか?」

 

「俺は馬鹿だから、分からない。でも、やらなきゃならないんだ。先を行っているあいつらに追い付くには、それをしなきゃならないんだ」

 

 決然と、山内は宣言した。

 その決意がこれからも続くかは分からない。少しすれば嘘吐きに戻るかもしれない。

 だが、それはまだ誰も知らない未来の話。未来はいくつにも枝分かれし、可能性が眠っている。

 そこに賭けてみる価値はある。それが人間という種族の唯一無二の強さなのだから。

 

「ありがとな、綾小路。お前に恋愛相談して良かったと、心から思うぜ」

 

 そう礼を言ってくれるが、それは大きな間違いだ。寧ろ山内には、オレを恨む権利がある。

 だがそれを説明した所で意味はない。山内が気付いていないのなら、その方が互いの為だろう。

 

「俺、寮に帰るわ。綾小路は?」

 

「悪い、この後別の用事があるから学校に残る」

 

「そうか。ははっ、お前は人気者だな」

 

 山内はそう笑うと、「じゃあな」と言ってオレに背を向けた。その背中が一回り大きく見えたのは、決して気の所為ではないだろう。

 渡り廊下に設置されているベンチに腰掛ける。数秒も経たずして、(ワン)が姿を見せた。ひと二人分の距離を置き、オレの隣に座る。

 

『あれが、促進剤ですか?』

 

 中国語で話し掛けてくる。オレはそれに中国語で「ああ、そうだ」と返した。

 

『綾小路くんは……やっぱり、凄いですね』

 

『そうか』

 

『……それでもやっぱり、残酷です。あんな方法をわざわざ用いなくても、山内くんは変われました。変われたと思います』

 

『そうかもしれない。だがそれは、いつの話だ?』

 

 オレが静かに問い掛けると、(ワン)はそれに答えられなかった。

 それは当然だ。未来を予測する事など、誰にも出来やしない。(ワン)の訴え通り、山内は自分で変わろうと奮起するかもしれない。実際その胸中を吐露もしていた為、可能性はあるだろう。

 だがそれは確定された話ではない。一つの仮定でしかない。

 

『どうしても、あの方法じゃなければ駄目だったんですか?』

 

『駄目だった。山内も、そして佐倉もだが──二人を救えるのは今しかない』

 

『……愛里ちゃんも?』

 

 佐倉の名前を出すと、(ワン)は想定外だったのか戸惑いの表情を浮かべた。

 オレは(ワン)に顔を向けると、一つの事実を伝える為口を開けた。

 

『はっきり言おうか。今のDクラスで最も足を引っ張っているのが、山内と佐倉だ』

 

『ッ!? そ、そんな事──ッ!?』

 

『ない、と言い切れるか? 悪いが、オレは出来ない。勉強も運動も、他の分野に於いても、二人の能力は他の生徒に比べて劣っている』

 

 オレがそう断言すると、(ワン)は怯んだ。オレはさらに畳み掛ける。

 

(ワン)も充分理解していると思うが、クラス闘争はその一回一回が重い意味を持つ。今はまだオレたちも一年生だから、学校も手心を加えているだろう。だがこの先、回数を重ねる毎に試験の難易度は増し、他クラスとの戦争は激化する』

 

『そ、それは……!』

 

『時には、犠牲者すら生まれるだろう。その時最も候補に挙がるのが、山内と佐倉の二人だ』

 

『それなら、犠牲者が生まれないよう皆で協力すれば良いじゃないですかっ』

 

『もちろん、それがベストだ。だがな、(ワン)。お前は本当に、犠牲者──退学者が出ないと考えているのか?』

 

 質問すると、(ワン)は目を逸らした。

 その反応が如実に語っている通り、退学者は必ず生まれる。それは上級生の在籍数を確認すればすぐに分かること。

 ましてやオレたちは『不良品』のDクラス。他クラスよりもそのリスクは高いと言わざるを得ない。

 

『それでも、愛里ちゃんは頑張っています! 確かにまだ結果は出ていませんが……努力はしています! 綾小路くんも、それはご存知の筈です!』

 

『そうだな。お前に勉強を見て貰っているのは知っている。他にも、入学当初は全くなかった主体性を持ちつつある。山内とは違い、佐倉は歩き始めていた。それは認めよう』

 

『それなら!』

 

『だが、遅い。今のペースじゃ追い付けない。佐倉がそこに到着した時、他の生徒はもっと先に居る』

 

 佐倉の努力は友人のオレたちだからこそ分かっている。それ故に、(ワン)は否定出来るだけの材料がないことを知っている。

 

『恋愛という、一つの契機。これは良くも悪くもその人に影響を与える。今ここで変わらなければ、変わろうとしなければ、二人が迎えるのは破滅だ』

 

『……山内くんは上手くいきましたけど、愛里ちゃんがどうなるかは分かりません』

 

『それは嘘だろう、(ワン)。もし佐倉が今までの佐倉なら、さっきの場所にはお前も居た筈だ。一人じゃ不安だからと、そう申し出ていた筈だ』

 

 他ならない(ワン)自身が、それを言っていた。佐倉に頼まれ、見届けにきたと。

 

『……本当に、何でもお見通しなんですね』

 

『何でもは無理だ。だがこれまでの会話から、推測出来るだけの材料はあった。それにオレも、佐倉が自分で克服出来ると見込んでいる』

 

 佐倉愛里という雛は既に孵っていた。自立はまだ無理でも、自律は可能だ。

 オレはそれを促そうとしただけ。

 

『オレが今回やったのは、確かに残酷な事だ。恋愛という、普通なら尊ぶべきものをオレの手で壊した。その自覚はある』

 

『……私が愛里ちゃんや山内くんに真実を話すと言ったら、綾小路くんはどうしますか?』

 

『どうもしない。言っただろう、自覚はしていると。お前がそうしたいのなら、そうすれば良い』

 

『そんな事──そんな事、出来ません。私が話せば、二人は傷つきます。山内くんの覚悟も、愛里ちゃんの勇気も、全て無かった事になってしまいます』

 

 そう言うと、(ワン)は顔を俯かせた。そして数分後、彼女は結論を出したようだった。

 顔を上げてオレに向き合うと、複雑な表情を浮かべながらこう言う。

 

『──……私は今日、綾小路くんとは会わなかった。友達が勇気を振り絞って告白の返事をする所を、遠くから見守っていた。そういう事にしておきます』

 

 心から納得している訳ではないだろう。思う所は依然としてある筈だ。だがしかし、(ワン)はそれを呑み込んでそう言った。

 それから彼女は逡巡の末に、こう尋ねてくる。

 

『綾小路くんは……これから、どうされるおつもりですか?』

 

『これから、か。これはまた、変な質問をするな』

 

『ご、ごめんなさい。でも、気になってしまって。今の綾小路くんと、学校での綾小路くんは違うように思えて仕方ないんです』

 

 それはそうだろう。そう思わせるようにオレが仕向けてきたのだから。中国語でわざわざ話しているのもその一環に過ぎない。

 

『取り敢えず、勝ちに行きたいと思う』

 

『──ッ!?』

 

『その為には、戦力の底上げが必要だ。固まりつつあった地盤も崩れようとしているみたいだしな。それなら、まずは個の戦力を上げる必要があるだろう』

 

 こう言えば、(ワン)はオレの話している事がクラス闘争についてだと考える。オレの今回の行動はクラスと二人の為だったのだと勘違いする。

 仮にそうではなくとも、オレの今後の行動指針が何かは分からない。

 九つの嘘に一つの真実を交ぜることにより、嘘の質は格段と上がり、看破されにくくなる。

 

「それじゃあ、オレは行く。またな、(ワン)

 

 中国語から日本語に切り替え、オレは別れを告げる。

 オレの話は終わった。しかしベンチから立ち上がろうとするオレを、(ワン)は「待って下さい!」と留めた。

 

「っ……!」

 

 目が合うと、(ワン)は狼狽えた。その瞳の奥底にあるのは、不安と、恐怖。

 これまでよき友人だと思っていたオレという人間が突然見せた特異性。それに彼女は戸惑い、そして慄いている。

 だが(ワン)はそれらを振り払うと、確かな意志を感じさせる瞳と言葉でこう言った。

 

「『(ワン)』だなんて、他人のように言わないで下さい。これまで通り、『みーちゃん』と呼んで下さい!」

 

「……あまり勧められないな。お前も今回の件で分かっただろう。オレが碌でもない人間だという事は」

 

「碌でもなくなんてありません! 確かに今の綾小路くんは怖いですけど……」

 

 それでも、と(ワン)は言葉を続ける。

 

「それでも、綾小路くんは私の憧れなんです!」

 

 オレに憧れていると、目の前の少女は確かにそう言った。

 (ワン)はオレを見上げながら、さらに続ける。

 

「最初は平田くんがそう言っているから、ただ漠然とそう思っていました。でも綾小路くんと友達になって、沢山の時間を過ごすうちに、本当にそう思うようになったんです」

 

 (ワン)との付き合いは一学期中間試験の頃から始まった。平田主催の勉強会に参加した際に、オレたちは知り合った。そこから縁は続き、彼女の言う通り、かなりの時間を共にしてきた。

 これまで何度か彼女が口にしてきた、『凄い』という評価。それはただの感想ではなかったのだと、彼女は訴える。

 

「私は、綾小路くんのように強くなりたいんです」

 

「オレと関わるという事は、戦いに身を投じる事と同義だ。それは分かっているか?」

 

「この学校に居る以上、それは必然です。綾小路くんが許してくれるのなら、これからも近くに居させて下さい」

 

 それはまるで、告白のようだった。

 オレという人間に憧れ、オレのような強さが欲しいのだと、(ワン)は言ってくる。

 

「分かった、お前がそこまで言うのなら認めよう」

 

「ほ、本当ですかっ!?」

 

「嘘は吐かないさ。──だが最初に言っておくが、オレはお前に何かを教えるつもりはない。今回の山内や佐倉のように、オレがお前に何か働き掛けることはしない」

 

 学ぶなら勝手に学べ、と暗に告げる。その果てに、(ワン)の求めた『強さ』が手に入れられるかは分からない。

 だがそこまで言ったにも関わらず、(ワン)は言葉を撤回しなかった。

 

 それを見たオレは──面白い、と思った。

 

 純粋な気持ちで憧憬を抱く目の前の少女の行き着く先、オレという人間を別の視点から間近で視た彼女がどのような『変化』を見せるのか。

 

「それじゃあ行こうか、『みーちゃん』」

 

「はい、『清隆(きよたか)くん』!」

 

 今日、一つの恋愛が終わった。それが今日という真夏の中で起きた、主な話。

 だがその裏側では新たに一つ、奇妙な関係が構築されていた。それを知る者は当事者を除き、今はまだ誰も居ない。

 



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一之瀬帆波の分岐点 Ⅰ

 

 とうとう、夏休みも残り一日を切ろうとしていた。

 今日は最終日の前日。明後日(あさって)から二学期が始まり、クラス闘争が再開する。

 いや、『再開』というのは正しくないだろう。各々この夏休みの間に、『勝つ』為の準備を整えている筈だ。約一ヶ月もの長期休暇、のほほんと過ごしている生徒の方が少ないだろう。

 

「世間の流行(はや)りはよく分からないな……」

 

 桔梗(ききょう)から教えて貰った若者で流行の音楽──曰く、円滑な人間関係構築の為には、こう言った事にも敏感でなければならない──を聴いていると、ブツッと、ノイズが突然走った。

 オレが携帯端末に視線を送ろうとすると、これまで流れていた音楽とは別の音楽が流れ始める。誰かからの電話を告げる着信音だ。

 誰だろうと思いつつ端末を手に取ると、そこには『一之瀬帆波(いちのせほなみ)』の文字が映っていた。珍しいな、とオレは率直な感想を抱く。

 連絡先こそ交換しているものの、他クラスの生徒という事もあり、これまであまり交流した事はなかった。その数少ない交流もチャットが殆どであり、向こうから電話を掛けてくるなど初めてである。

 

「もしもし?」

 

 試験中だったら訝しむ所だが、今はそうではない。また、断る理由も特にない為オレは素直に応じた。

 

『あ、綾小路(あやのこうじ)くん? これ、綾小路くんので合ってるよね?』

 

「ああ、合っているぞ」

 

『そっかー、良かったぁー! 初めて掛けるから、心配だったの!』

 

 そう言って、一之瀬は安堵の息を吐いたようだった。

 その気持ちはオレもよく分かる。特に入学当初は、初めて手にした携帯端末の操作に悪戦苦闘したものだ。世間ではこれが普及していると知識では知っていたが、百聞は一見にしかず、いざ自分が体験すると戸惑ってしまうものだ。

 電話を掛けるのもそうだ。わずか数桁の数字を入力するだけで遠く離れた相手と通話出来るなんて、昔の人間は想像すらしていなかった筈だ。それが今では当たり前のように出来るのだから、技術の進歩とは凄いものだろう。

 

『ごめんね、夜中に突然電話を掛けちゃって』

 

「謝るような事じゃないさ」

 

 電話に出られなければオレは出ないからな。それに夜中と一之瀬は言うが、今はまだ二十一時を少し過ぎた時間だ。あと二時間遅ければ話は変わってくるが、気にしなくて良いとオレは伝えてくる。

 

「それで、用件はなんだ?」

 

 先に述べた通り、オレは一之瀬と楽しく雑談をするような間柄ではない。『暴力事件』や『無人島試験』や『船上試験』でこそ協力していたが──船上試験では個人的な協力関係であった──クラス闘争という性質上、オレたちは基本的には敵対しているのだ。

 とはいえ、もちろん、オレは彼女のことを友人だと思っているし、それは彼女もきっとそう思ってくれているだろう。

 だが再三述べるが、オレと一之瀬との関係は、椎名(しいな)のような『深い』ものではないのだ。あるいは、龍園(りゅうえん)葛城(かつらぎ)のような特殊なものでもない。

 良くも悪くも普通の友人。それがオレと一之瀬の関係性である。

 一之瀬はオレの質問に、珍しくも言い淀んでいた。普段の快活さは控えられており、「えーっと……」と、らしくもなく言葉を選んでいる様子だった。

 それから一之瀬は口を開けるのに数秒を要した。そして、大きく息を吸ってからその言葉を言った。

 

『明日、綾小路くん予定空いているかな!?』

 

「空いているか空いてないかと聞かれたら、微妙な所だな。十六時からは予定があるから、それまでなら今の所暇だ」

 

『あっ、うん、それは知っているんだけどね!?』

 

 一之瀬はそう言うと、オレが口を挟む前に言葉を続けた。

 

『明日綾小路くん、南雲先輩に呼ばれているんだよね?』

 

「……ああ、そうだ」

 

『綾小路くんは知っていると思うんだけど、私この前、生徒会に入ったの。明日の十五時、特別水泳施設が集合場所だよね?』

 

「……なるほどな、そういう事か」

 

 一之瀬の言った通り、オレの明日の予定は、南雲からの呼び出しである。より正確には、生徒会副会長就任を希望しているオレと、それをあまりよく思っていない生徒会メンバーとの初顔合わせだ。

 一之瀬帆波はつい先日生徒会に入ったと、生徒会長から聞いている。オレの話を知っていたとしても何ら不思議ではない。

 つまり一之瀬は南雲から、オレが逃げないよう一緒に来いと命令を受けたのだろう。南雲の判断は正しい。実際、あまり気乗りしてないからな。

 だが同時に、南雲の心配は杞憂でもある。

 

「わざわざそんな事しなくても、オレはちゃんと行くぞ。副会長にはそう伝えてくれ」

 

 生徒会に入りたいと表明している以上、生徒会関係での面倒事は覚悟している。『南雲降ろし』もその一つだ。

 一之瀬に面倒を見て貰う必要はないと伝えるも、しかし、一之瀬は慌ててこう言った。

 

『ご、ごめんね。私の言い方が悪かったかな。先輩たちに会う前に、個人的に二人で話せないかな?』

 

 そこでようやく、オレは早とちりしていたのを悟った。

 どうやら一之瀬は、オレと話をしたいようだ。生徒会というワードを出したのは、話を切り出す為だろう。

 

『どう、かな……?』

 

 その声音には不安が含まれていた。たかだか会って話をするくらいオレは全然構わないのだが、それだけ、重要な話を一之瀬はしたいのかもしれない。

 もしそうだと仮定する。すると、次の疑問が生まれてくる。何故オレなのか、という疑問だ。

 一之瀬は学年でも屈指の人気者だ。わざわざオレを選ぶ理由は何処にもない。

 とはいえ、これはあくまでもまだ仮定の話。オレに断る理由はない。

 

「分かった、喜んで応じさせて貰う」

 

『ほんと!?』

 

「ああ、嘘は吐かないさ。ただ、時間と場所はこっちが指定しても良いか?」

 

『うん、もちろんだよ!』

 

「それじゃあ、十三時にオレの部屋でどうだ?」

 

 一之瀬が内密の話をしたいのなら、人の目がない場所の方が良い。一之瀬は人気者だし、オレも悪目立ちしているからな。そして話をしてからそのまま一緒に、南雲が待っている特別水泳施設に行けば良いだろう。

 我ながら良いプランだと思ったが、しかし、一之瀬からの反応はあまり芳しくなかった。

 

『どうかしたか?』

 

『あー、えーっと……。何て言えば良いのかな……』

 

「……?」

 

 再度言い淀む、一之瀬。

 オレが首を傾げていると、一之瀬はとても言いにくそうにこう言った。

 

『だ、大丈夫なのかなって思って……。ほ、ほら! 私が綾小路くんの部屋に行って、椎名さん怒らない?』

 

 そこでようやくオレは、一之瀬が何を不安視しているのかを察した。

 沈黙するオレに、一之瀬はさらに続ける。

 

『私は綾小路くんの部屋でも全然良いんだけど、変に誤解を招いちゃうかもしれないから』

 

 なるほど、とオレは腑に落ちる。

 すっかりと感覚が麻痺してしまっていたが、殆どの生徒はオレと椎名が交際関係にあると思っている。これまではそれが間違いだと訂正してきたが、これからは対応を考え直す必要があるだろう。

 山内(やまうち)が以前言っていた、女の匂いがする云々も真面目に考えなければならないのかもしれないな。

 オレの部屋に普段遊びに来る女子は、椎名と桔梗が主か。最近は千秋(ちあき)もそこに入りつつあるな。

 

「あー……うん、心配は有難いが大丈夫だ」

 

 多分、という言葉を脳内で付け足す。

 数週間前まではそこに絶対の自信があったが、今はどうか分からない。というのも、先日、南雲と朝比奈先輩と初めて会った時に椎名はオレに皮肉を言ってきたからだ。

 だがあの時と今回は状況がやや違う、と思う。うん、そうだな間違いない。

 

『い、一応椎名さんに確認を取ったらどうかな?』

 

「いや、それは寧ろ悪手な気がするな……」

 

 男としての勘が、そう告げてくる。

 オレは頭をブンブンと振ると、ゴホン、と咳払いした。

 

「兎に角、大丈夫だ。明日、オレの部屋に来てくれ」

 

『わ、分かった。──あっ、そうだ! 何なら綾小路くん、私の部屋はどう?』

 

「そっちの方が怒られるからオレの部屋で頼む」

 

 オレが早口で懇願すると、一之瀬は「う、うん」と言った。

 それからオレたちは少しだけ雑談をしていたが、時間も遅くなり始めていたので頃合を見て通話を終えた。

 

 

 そして、翌日。

 

 

 約束通り、オレの部屋には一之瀬が来ていた。部屋に通したオレは玄関の鍵を閉めると、事前に用意しておいたクッションに座るよう促した。

 

「部屋、かなり綺麗にしているんだね……」

 

「そうか……?」

 

「うん、私の部屋よりもよっぽど綺麗だよ。男の人の部屋だと言っても、信じる人はあまり居ないんじゃないかな」

 

 感心したように、一之瀬が息を吐く。

 これも桔梗による教育の賜物だな。曰く、誰がいつ遊びに来ても良いように一定の清潔さを維持するのは常識らしい。流石は桔梗だ、今度会ったら報告がてら何かお礼をしよう。

 そう思っていると、一之瀬が辺りをキョロキョロと見ている事に気が付いた。

 

「変な物でもあるか?」

 

 そう尋ねると、一之瀬は顔を赤くして「ご、ごめんね!」と謝ってくる。気にしてないと伝えると、彼女は赤くなった顔を戻しながらこう答えた。

 

「この前来た時よりも、かなりもの増えたなぁって思ったの。この絨毯もなかったよね」

 

 言いながら、床に敷いている絨毯を控えめに触る。来客者の多くが買えと訴えてきた為、平田と買ったものだ。

 

「そうだな……確かに、増えたかもしれないな」

 

 最初は我ながら味気ない物置同然の部屋だったが、その時と比べたら雲泥の差だろう。

 テーブルを挟んでオレたちは向かい合う。時間的にそろそろ本来の目的を済ませるべきだろう。雑談はその後からでも遅くない。実際、昨夜はそうしたからな。

 だが、今一之瀬が纏っている雰囲気はオレの目から見ても分かるほど普段とまるで違っていた。

 普段の明るいものとは程遠い、息が詰まるような重苦しいもの。まるで、何かに悩んでいるようだ。

 あと一分経ったら、オレから話そう。そう決めた、その時だった。

 

「正直……今でも迷ってる。でも、しないといけないと思うから。だから私は今、きみの目の前に居る」

 

 固く閉ざしていた口をおもむろに開け、一之瀬が沈黙を破る。その表情はとても張り詰めている。

 オレは姿勢を正し、お茶で唇を湿らせた。

 

「そんなに重要な話なんだな」

 

「うん、私にとってはとても大切な話。南雲先輩と会う前に、どうしても話をしたかったの。それが、これからきみに言う言葉への『誠意』だと思うから」

 

「南雲副会長と会う前に、か……」

 

 その言葉を反芻する。

 一之瀬はクラス闘争に臨んでいる時、否、それ以上に真剣な顔付きをオレに見せてくる。

 そしてついに覚悟を決めたのか、彼女はおもむろにこう言った。

 

 

 

「綾小路くん。これから私は、きみの『敵』になると思う」

 

 

 

 一之瀬(いちのせ)が、そう、言った。そして口をきつく結ぶと、オレの事をジッと見詰めてくる。

 シンとした静寂が部屋を支配する中、オレは一之瀬を見つめながらその発言の意味を考えていた。

 彼女が口にした、『敵』という言葉。それは今後、オレと敵対関係になるという意思を表しているのだろうか。

 オレは目を閉じると、思考をさらに深くする。

 オレと彼女はこれまでに何度か協力する事があった。

 一度目は、『暴力事件』の時。オレと龍園(りゅうえん)が画策した『暴力事件』の真相に、彼女だけが唯一自分の手で辿り着いてみせた。オレは『暴力事件』の目的を説明する事で、彼女を共犯者に加えた。

 二度目は、無人島試験の時。オレと桔梗(ききょう)の二人がDクラスを代表してBクラスに赴いた時、彼女は親身に対応してくれた。これがD・Bクラス間の同盟に繋がった。そしてAクラスに一緒に攻撃をしようと話を持ち掛けた時、彼女は否定から入るのではなく、オレの話に聞く耳を持ってくれた。その結果、Aクラスに大打撃を与える事に成功した。

 そして、三度目。干支試験の時にはクラスとは別に個人的な協力関係を築こうと彼女自ら提案してきた。オレは了承し、グループディスカッション中、アイコンタクトといった非言語コミュニケーションを用いる事により試験攻略をともに目指した。試験があのような形で終わっていなければ、オレは恐らく、最後まで一之瀬と協力していただろう。

 これまでオレたちは敵同士ながらも共に戦ってきた。もちろん、それは利害が一致していたからだ。

 だがその前提条件以上に、オレと一之瀬の間には確かな(えん)がいつの間にか出来ていた。

 売り言葉に買い言葉で対応するのは簡単だ。『敵』と話す事は何もないと一之瀬をこの部屋から追い出せば良い。そうすればオレたちの関係はリセットされるだろう。

 だがしかし、その選択が正しいとはオレには思えない。

 そもそも何故、一之瀬はわざわざオレに敵対宣言をしに来たのだろうか。これが一之瀬の『誠意』なのだとしたら、それは意味を履き違えていると酷評せねばならないだろう。

 一之瀬が口にした、『敵』という言葉。それは一般的な意味とはかけ離れた意味合いを持つのだとしたらどうだろうか。

 そうだとするならば、この時点で結論を出すのはあまりにも愚行で早計、短慮(たんりょ)というものだろう。

 

「取り敢えず、詳しい話を聞けると思って良いんだな?」

 

 オレが静かに尋ねると、一之瀬は張り詰めていた表情を僅かに緩めた。

 それを見たオレは正解を選んだのだと確信する。今のは、一之瀬からの『問題』だったのだ。この『問題』に気付けるか否かで、オレと一之瀬の関係は大きく変わっていたのだろう。少なくとも、一之瀬はそのつもりだった。

 

「ごめんね、回りくどい方法を取っちゃって。でも、どうしても確かめたかったの」

 

「謝る必要はない。お前が安心するというのなら、いくらでもオレを試してくれ」

 

「あはは、凄い自信だね」

 

 調子に乗ってみせたオレを見て、一之瀬は安堵(あんど)したようだった。それから、こう呟く。

 

「やっぱり、綾小路くんは凄いなぁ……」

 

 その称賛の言葉に、オレはどう反応したら良いか戸惑ってしまう。

 最近オレは、『凄い』という評価を周りの人間から受けている。それはきっと、とても有難い事なのだろう。この世界にはその評価を受けたくても能力が及ばずそれとは真逆の評価を受ける人間など星の数ほど居る。

 だがオレからすれば、オレのような人間は『凄い』とは程遠い人間なのだ。

 それは他でもない、オレ自身がよく知っている。

 

「綾小路くん。もし良ければ、本題に入る前に私の独白を聞いて欲しい」

 

「……分かった。是非、聞かせて欲しい」

 

「とても退屈でつまらないと思うけど、そこは許してね」

 

 一之瀬はそう言うと、微かに微笑んだ。窓から覗き見える夏空を見ながら、おもむろに話を始める。

 

「この学校に入って、もう五ヶ月が経った。多くの人が多少なりとも『成長』している。綾小路くんも、そう思わない?」

 

「……そうだな。それはきっと、クラス闘争が多分に関係しているんだと思う」

 

「うん、私もそう思う。クラス闘争という一つの大きな『切っ掛け』があるからこそ、私たちの間には競争意識が生まれ、自己変革が起こる」

 

 あまりにも『特殊』な『環境』。通常の高校生なら、このような出来事にはまず直面しない。

 つまり、クラス闘争とは言うなれば、オレたち子供が大人になってから少しずつ経験していく『社会』の『模擬練習』なのだ。

『特別試験』はそれを『実践する場所』と言えるだろう。

『実力至上主義』──この学校の理念が、それを物語っている。

 

「綾小路くん、私はこう思っているんだ。最も『成長』したのがきみたちDクラスなのだとしたら、その反対、最も『停滞』しているのはBクラスだとね」

 

「それどころか」と悔しそうに唇を噛みしめ言葉を続ける。

 

「私のクラスは、弱くなっている」

 

 初めて聞く、一之瀬の弱音。

 それが嘘や演技だとは、オレには思えなかった。

 一之瀬は心から、自分の率いているクラス──Bクラスが弱いと思っている。

 

「あはは、私に失望したよね?」

 

 言葉を何も返さないオレを見て、一之瀬がそう言う。その表情に浮かんでいるのは、自虐、自嘲といった彼女には似合わない負の物。

 

「仮にもクラスのリーダーがこんな事を考えちゃいけない、思っちゃいけないのは分かってるの。でも私はやっぱり、仮にもクラスのリーダーだから──だから、分かっちゃうんだ……」

 

 大多数の人間は、一之瀬帆波(ほなみ)という人間を『明るい』『優しい』『元気』といった印象を持っているだろう。そこにはオレも含まれている。

 否、含まれていた。

 オレも、大多数の人間も認識を間違えていたのだろう。

 オレがそんな確信を抱く中で、一之瀬の独白は続く。

 

「Aクラスは正真正銘の『天才』の集まり。坂柳(さかやなぎ)さんや葛城(かつらぎ)くんといった、あまりにも手強い人間が山ほど居る。内部分裂しているAクラスを落とせてないのが、それを証明している」

 

 今なお、Aクラスは内部分裂をしている。それは誰をクラスのリーダーにするかで揉めているからだ。

 この夏休みはAクラスを打破するのに最も適した時期だったと言える。だが結局、AクラスはAクラスのまま。クラスポイントを削ぎ落とす事は出来たが、約1000クラスポイントという優位性の所為で落とす事は出来なかった。

 

「Cクラスは龍園くんという絶対的象徴……『暴君』が即位したその時から『烏合の衆』から『独裁国家』に変わった。ううん、最近はそれにすら変化が生まれてきている」

 

 龍園(かける)は紛れもなく『暴君』だ。それは十人が十人、全員が首を縦に振る共通事項である。

『暴君』として即位した龍園がまず行った事は、秩序とは程遠いクラスを統治する事だった。その方法こそ問題視されるものだったが、結果として、龍園は見事にクラスを掌握した。

『暴君』か『賢王』か。果たしてどちらが優れた『王』なのか。これは、『王』という概念が生まれた時から今なお続いている問題だ。

 だが、確実に言える事がある。それは『暴君』の『政治』に、確かな『効果』があるということ。

 その証拠が、クラスの序列変動にある。龍園率いるCクラスは下克上に成功し、明日の九月からはBクラスとなる。

 もし仮に、『暴君』が最期の時まで『暴君』のまま君臨し続けられたとしよう。その末路が断頭台ではないとしよう。それは限りなく低い確率だが、それを成し遂げた者こそが『暴君』であり、『賢王』なのだ。

 つまり、『暴君』と『賢王』はコインの裏表のようなもの。それは後世の人間であるオレたちが様々な要素から解釈しているに過ぎない。

 

「Dクラスは、『原石』。磨けば光る、そんな人たちが集まっている。もちろん、取り扱いには注意しないといけない。でも結果として、確かな輝きを持つ人が続々と現れている」

 

 それが、一之瀬が分析した結果か。

 ここでオレは初めて、彼女に質問を投げる。

 

「それなら、Bクラスはどうなんだ?」

 

「っ……」

 

「お前がさっき言っただろう、仮にもクラスのリーダーだから分かると。それを聞かせて欲しい」

 

 一之瀬の瞳が、揺らぐ。その言葉を口にしたくないと、が震える。

 言いたくない事は言わなければ良い──そう、口にするのは簡単だ。

 だがそれをした所で意味はない。寧ろただの時間の浪費でしかない。それではこの時間に価値などない。

 何故なら、オレたちの話の本題はまだ始まってすらいないからだ。そして、悠長に話している時間も、残念ながらもう無い。

 それは、一之瀬自身がよく分かっている筈だ。

 

「Bクラスは……──()()()()()……!」

 

 これまで自分のクラスを『B』と呼んでいた一之瀬が、『C』と言う。その悲壮な覚悟を、その振り絞った勇気を、オレは尊重しよう。

 

「Cクラスは……クラスの皆が仲が良い。他クラスに散発的に見られる諍いは起こらないし、団結する事で真価を発揮する」

 

「そうだな、それで間違ってないだろう。クラス闘争は団体戦だ。つまりお前のクラスは最もクラス闘争に適しているんじゃないか」

 

「……それは、違うんだ。違うんだよ、綾小路くん」

 

 一之瀬は弱々しく首を横に振ると、今にも泣き出しそうな表情を浮かべる。それはまるで、道に迷った子供のようだった。

 

「Cクラスは、仲が良い。互いが互いを尊重し、そこには平和がある。でもそれは、上辺(うわべ)だけの平和、そして仮初の秩序なの」

 

「……」

 

「互いが互いを尊重している──言葉にすると、とても素晴らしい事だと思う。私も、そう思ってた。Aクラスに配属されなかったのは残念だったけど、でも、このクラスに配属されて、こんなにも素敵な人たちと一緒に戦えるんだと思うとそれも無くなったの」

 

 だけど、と一之瀬はさらに続ける。

 

「私たちのクラスは、何も『発展』がなかった。互いが互いを尊重するばかりで、そこに『決断』がなかった。その結果、私たちのクラスは龍園くんたちに負けた」

 

「それは仕方のない側面もあるだろう。あれは、予測不可能な出来事だった」

 

「……そうだね、そうかもしれない。私も、そう思う。問題は、その後だった」

 

「夏休み中、クラスみんなで集まる機会を用意したの」と一之瀬は打ち明ける。

 そして一人の少女は項垂(うなだ)れながら、こう言った。

 

「大多数の人は、危機感なんてものは持っていなかった。まだ夏休みが終わったばかりだと言う人がいた。序列は変動したけど、その差はないも同然ですぐに逆転出来ると言う人がいた」

 

 それは批難ではなく、ただ、事実を並べているだけだった。一之瀬は淡々と機械のように、彼女が見た『異様な光景』を語る。

 

「それでね、最後にはみんな口を揃えてこう言うの。『うちには一之瀬さんが居るから大丈夫。一之瀬さんに付いていけば絶対勝てる』って、言うんだ……」

 

 それはあまりにも楽観的で、無責任で、残酷な言葉だと言わざるを得ない。

 言われた一之瀬の心中は想像すら難しい。いや、他者が想像をする事そのものが残酷な仕打ちだと言えるだろう。

 そこでオレは、茶柱(ちゃばしら)先生が言った言葉をふと思い出した。

 

 ──『あのクラスは一之瀬帆波が神格化されているからな』──

 

 なるほど、とオレは()に落ちる。

 茶柱先生も腐っては教師。他クラスとはいえ、そのクラスの問題が何かは把握していたという事か。

 

「私は、自分の意思でクラスのリーダーに名乗り出た。みんなでクラス闘争を戦い抜いて、最後にはAクラスで卒業したいと思ってた」

 

「……」

 

「クラスのみんなが、私は好き。でも私、どうしたら良いのか分からなくなっちゃって……私の存在がみんなを歪めているのなら、それを何とかしなくちゃいけなくて……」

 

 一之瀬は苦しそうに、胸のうちを吐露(とろ)した。そして項垂れたまま、こう呟く。

 

「だから私は、南雲先輩の手を取ったの……」

 

「……どうしてそこで、副会長の名前が出てくるんだ?」

 

 オレの質問に、一之瀬はなかなか答えない。

 時計の針が刻む音が部屋に大きく反響する中、オレは一之瀬が口を開けるのを待った。

 そしておもむろに、一之瀬はぽつぽつと話を再開する。

 

「私はかなり前から、生徒会に入りたいって、生徒会長に申し出ていたの。私の他には、葛城くんもそうだった」

 

「その話は聞いている。だが、生徒会長はそれを拒否していたんだろう?」

 

「うん、面談もやって好感触だったんだけどね……」

 

 まさか断られるとは思っていなかった、と一之瀬は言った。それだけの自信があったという事だ。

 

「葛城くんはそれで諦めちゃったんだけど、私は違った。面談は何回も出来るっていう話だったから、何回も足を運んだの」

 

 普通なら葛城のように諦めるだろう。だが、一之瀬はそれをしなかった。

 ここで疑問が生まれる。何故そうまでして、生徒会に拘るのかという疑問だ。

 はっきり言って、それは異常な執着だと言わざるを得ない。

 しかしその理由をオレに語る事なく、一之瀬は話を進める。

 

「……夏休み前だったかな。南雲(なぐも)先輩に声を掛けられたのは」

 

 その日は生徒会長だけでなく、副会長も面談官として席に着いていたという。

 通常合否の通達は後日携帯端末にメールで報せる事になっていたが、何度も面談に臨む一之瀬にはその場で生徒会長が結論を出していたそうだ。

 その日も生徒会長は変わらない結論を出した。一之瀬はそれに落胆しつつも、次こそはと意気込んでいたという。

 そして、退室しようとした時。いつもは無言で見送られるが、この日は違い、彼女に声を掛ける者が居た。

 

「南雲先輩は面談中一言も言葉を発していなかったんだけど、私に声を掛けてきたの。そして私と話をした後、堀北生徒会長に『これだけの逸材を生徒会を入れないのは勿体ない。彼女は、生徒会に相応しい人間だ』って言って、私の生徒会入りを支持してくれたの」

 

 そこからはあっという間の出来事だったそうだ。

 副会長直々の推薦(すいせん)によって、一之瀬の立場は一般生徒から変わった。彼女の挑戦を知っている他の生徒会役員も、副会長に賛同した。

 

「決め手だったのが、今年の新入生がまだ誰も生徒会入りをしていなかった事。例年なら二、三人入れているみたいなんだけど、生徒会長は今年に限ってそれをしなかった」

 

 南雲は生徒会の人員不足を強調した。学校の教師すらも巻き込み、生徒会長を説き伏せたらしい。

 その結果、これまでの苦労がまるで嘘だったかのように呆気なく、一之瀬は生徒会役員になった。

 

「それから南雲先輩は、私を気にかけてくれるようになったの。南雲先輩も私と同じで、最初はBクラスからのスタートだったみたいで、私の気持ちが分かるって言ってくれた。生徒会の仕事も、その殆どは南雲先輩が教えてくれた」

 

 それから一之瀬は南雲とよく話をするようになったと言う。最初は生徒会に関連するものが多かったが、次第にそれ以外、個人的な事も増えていったそうだ。

 そして一之瀬は南雲を慕うようになっていった。頼りになる先輩だと、彼女はごく自然にそう思うようになっていった。とても充実した日々だったと、一之瀬は語る。

 

「クルージング旅行から帰ってきてから暫く経った時、南雲先輩から大切な話があるって誘われた」

 

 その日、南雲は一之瀬を朝から晩まで連れ回したそうだ。南雲は一之瀬が知らなかった施設の遊び場に連れていき、一之瀬を楽しませたという。

 夕食は完全個室のレストランだった。密室を警戒する一之瀬に、南雲は大事な話があるからと訴え、半ば無理やり連れ込んだらしい。

 そして南雲はディナーもそこそこに切り上げると、一之瀬にこう言ってきたという。

 

「『俺と一緒に堀北生徒会長を倒さないか』──南雲先輩は私に、そう言ってきた」

 

 オレは無言で話を促す。一之瀬は自分のタイミングで、話を続けた。

 

「最初は訳が分からなかった。南雲先輩は堀北生徒会長を尊敬していたし、私に何度もその話をしてきたから。自分が唯一尊敬している偉大な先輩だって、そう、言っていたから」

 

 実際南雲はオレと出会った時も、同じような事を言っていた。

 

戸惑(とまど)う私を他所に、南雲先輩はその意気込みを語っていた。そしてもう一度、私に言ってきたの。一緒に堀北生徒会長を倒そう、一緒に、『革命』を起こそうって」

 

「……それで、一之瀬はそれに頷いたのか?」

 

 二度目の質問を投げる。

 一之瀬はそれに、首を小さく横に振る事で答えた。

 

「私はそれに……何も言えなかった。南雲先輩には恩義を感じているけど、その時の南雲先輩はいつもと違って怖かったから。先輩が言う、『革命』。それが恐ろしいもののような気がしたの」

 

 そして、一之瀬はさらにこう言った。

 

「沈黙する私に、南雲先輩は一つの『取引』を持ち掛けてきた」

 

「『取引』?」

 

「それは、私が南雲先輩の派閥に完全に入る事と引き換えに、二年生全体で私のクラスを支援するっていう内容だった」

 

 その話を聞いたオレは、南雲(みやび)という男の本性、その一端を垣間見たような気がした。

 一見すると一之瀬にしか利がないが、その実態はまるで違う。

 南雲は堀北学(ほりきたまなぶ)との戦い──その後まで見据え、布石を打っている。

 

「このままじゃ、私のクラスは負ける。でももし南雲先輩から支援を受ければ、話は変わってくる。南雲先輩が言ってたの、これから先の戦いはひと学年の枠内に収まらず学校全体を巻き込んだものになるって」

 

 自分を犠牲にすれば、勝ち星を拾えるかもしれない。その可能性を提示され、一之瀬は悩んでいる。

 いつもの一之瀬ならこんな話、聞く耳すら持たないだろう。自分と仲間を信じて突き進むと言い切った筈だ。

 だがBクラスからCクラスへの降格、仲間からの悪意ない言葉、クラスリーダーという重責がいつしか呪縛(じゅばく)となって、一之瀬の心を(むしば)むようになっていた。

 

「それからまた暫くして……この前、生徒会会議が開かれたの。その時堀北生徒会長は、綾小路くんと葛城くんの二人を生徒会に入れたいと言った。ましてや綾小路くんを副会長に推薦すると言ったの」

 

 そう言うと一之瀬は顔を僅かに上げ、薄く笑った。

 

「私はその話を聞いた時、素直に嬉しかった。他の人たちは懐疑的だったけど……綾小路くんと葛城くんの二人なら一緒に生徒会でやって行けるって、そう思えたから。でも、違ったんだね……──」

 

 会議が終わった後、一之瀬は南雲に呼び出された。『取引』について話をすると身構えていた彼女に、南雲は全く別の事を話したという。

 

「きみたち二人は、生徒会長が集めた南雲先輩への対抗策。堀北生徒会長はそうする事で、戦う覚悟がある事を南雲先輩に示したんだ……」

 

 一之瀬はそう言うと、オレをジッと見詰めた。そして唇を震わせながら、とても辛そうに言った。

 

「綾小路くん、私はどうすれば良いのかな……?」

 

「……」

 

「……どれだけ考えても、分からないの。クラスの事も、生徒会の事も、そして、これからの私の事も、全く分からない……」

 

 一之瀬帆波は『善人』か『悪人』か。そう聞かれた時、彼女を知る者は前者だと口にするだろう。

 それにはオレも含まれるが、それはどうやら間違いだったようだ。

 一之瀬帆波は『純粋』なのだ。彼女は特別な人間でもなんでもなく、ただの一人の少女だった。

 

「オレの考えを伝える前に、一つの聞かせてくれないか。どうしてこの話をオレにしてくれたんだ?」

 

 一之瀬は視線をややオレから逸らしながら、ボソボソと答えた。

 

「綾小路くんなら、最後まで私の話を聞いてくれると思ったから。ほら、私がクラスの子からラブレターを受け取って、綾小路くんに相談した事があったでしょ?」

 

「ああ……そんな事もあったな」

 

「あの時から綾小路くんは私にとって、『特別な友達』になったんだ」

 

「そうか……分かった。ありがとう、一之瀬」

 

 それならオレも、一之瀬の『誠意』に応えるべきだろう。

 オレはすっかりと温くなった麦茶を一気に呷ると、自身の考えを口にした。

 

「悩む事は何もないぞ、一之瀬」

 

「……ぇ?」

 

「お前は、お前のやりたいようにやれば良い。そう言っているんだ」

 

 ぱちくりと瞬きする一之瀬。ぽかんと口を半開きにしているその様は珍しく、可愛らしい。

 そんな場違いな感想を抱きながら、オレは言葉を続ける。

 

「クラスリーダーが嫌になったのならやめれば良い。生徒会長と副会長の戦いに巻き込まれるのが嫌なら、はっきりとそれを口に出したら良い。簡単な話だろう」

 

「……ちょっ、ちょっと待って綾小路くん! 綾小路くんはそう言うけど、そんな簡単な話じゃ──」

 

「いいや、とても簡単な話だ。そもそもどうして一之瀬、お前一人がそんなに抱え込む必要がある? お前の悩みはお前のクラスメイトが一緒に背負い、そして解決していくべきものの筈だ」

 

 オレがそう言うと、一之瀬は押し黙った。

 

「生徒会の件もそうだ。断言するが、副会長はお前の事なんてどうでも良いと思っている」

 

「そ、そんな事──」

 

「そんな事はある。副会長は最初からお前を自派閥に引き入れるつもりで、これまで面倒を見てきたに過ぎない。お前に恩を売る事で、お前という『駒』を手に入れる為だ。話を聞いていたオレがそう思うんだ。当事者のお前だって、不思議に思っていた。違うか?」

 

「そ、それは……──」

 

 そしてオレは、それが残酷だと知っていながら、その事実を突き付ける。

 

「ハッキリ言うが一之瀬、お前は戦いに向いていない。その優しさは長所であると同時に、弱点でもある。それはお前も自覚しているだろう」

 

「……」

 

「さらに言えば、クラスリーダーにも向いていない。普通の学校なら話は変わってくるが、少なくともクラス闘争があるこの学校では全く適性がない」

 

「……っ!」

 

「お前の優しさが、クラスメイトから考える力を無くしてしまった。その結果がこれだ。一之瀬帆波、お前という存在によって良くも悪くも傾いてしまう事態を招いた。今は悪く傾いている」

 

「…………っ!」

 

「そしてお前は、誰かに頼る事を知らない。お前がもっと誰かに悩みを打ち明けていれば、お前のクラスは今の悲惨な状態にはならなかっただろう。お前のクラスはみんなが仲が良い。だが円の中心に居るお前は、誰とも繋がりを持てなかった。『みんな』の中にお前という存在は入っていなかった。つまり、お前の頑張りが、努力が、却ってクラスを駄目にしたんだ」

 

 それからオレは淡々と、一之瀬に言葉のナイフを刺し続ける。

 それを一之瀬が望んでないのは分かっている。今一之瀬が望んでいるのは優しい言葉だろう。

 

『お前は何も間違ってない』

『お前はよく頑張っている』

『お前の努力は必ず報われる』

 

 そんな、慰めの言葉を一之瀬は欲している。

 だが、それをした所で意味は何もない。

 この場では良くとも、今後も一之瀬はこの苦しみを味わい続けるだろう。

 そしていつしか本当に、一之瀬が壊れる日が来る。それは予感でもなく、確定した未来だ。

 

 一之瀬はここに来た時、オレの『敵』になるかもしれないと言った。

 

 その言葉の意味を、オレは考えなくてはならない。

 一之瀬がどれだけの必死な想いを抱えて、オレの所に来たのか。

 その覚悟を、その勇気を無駄にしてはならない。

 一之瀬がオレの事を『特別な友達』だと言うのなら、オレもまた、そのように想おう。

 

 オレは今日、一之瀬帆波を壊す。

 

 オレの言葉を聞き終えた一之瀬は、その顔を絶望一色で染めていた。

 

「私は……クラスに不必要な存在……?」

 

 自分という存在の意義を自問自答する。

 

 再度、述べる。

 

 オレは今日、一之瀬帆波を壊す。

 そしてそのうえで、一之瀬帆波を、その在り方を再生させる。

 

 やがておもむろに、一之瀬はゆらゆらと立ち上がった。オレには目をくれず、玄関へ向かおうとする。それは歩行とはいえず、這っているに等しい。

 美しい髪もその輝きは()せてしまい、これが一之瀬帆波だと言っても信じる者は少ないだろう。

 

「どこに行くつもりだ?」

 

 声を掛けるも、一之瀬は振り向く事はしなかった。聞こえていなかったのか、あるいは聞こえていて無視をしたのか。

 それは別に、どちらでも良い。オレはのそのそと動く彼女の手を掴み、もう一度声を掛ける。

 

「一之瀬、話はまだ終わってないぞ」

 

「……」

 

「お前はもう終わったつもりでいるんだろうが、オレの話はまだ終わってない。一方的に話をして勝手に出ていくのは常識に欠ける行為だと思うが」

 

「…………」

 

「オレの知っている一之瀬帆波は、そんな非常識な人間じゃないんだけどな」

 

 そう言うと、一之瀬はガバッと顔を振り向かせた。長髪が宙を舞う。

 

「何で……なんで……! そんな事を……──!」

 

 一之瀬はそう声を震わせながら、オレを強く睨んだ。だがその行為を自覚した次の瞬間、自分自身が信じられないと言うように目を大きく見開き、そのまま膝から崩れ落ちる。

 オレは怪我しないよう、少女の身体を抱き留めた。重い衝撃が身体に掛かるが、それは彼女がここに居る証でもある。

 

「……()()()は、みんなが言うような『善人』じゃない……。そんな事を考えた事なんて一度もない……ただ、わたしは──」

 

 胸の中の一之瀬が、そう、言葉を吐き出す。

 一之瀬が今の一之瀬になったのは、過去に『何か』があったとみて間違いないだろう。その『何か』があり、一之瀬は背伸びしようと思った。そしてそれを出来るだけの能力が、少女にはあった。

 だが、そんなものに興味は微塵もない。詮索しようとも思わない。

 大事なのは、『過去』ではなく『現在(いま)』。少女が望み、そして苦しみながら悩んでいる『未来(これから)』の事だ。

 オレはずっと、少女の慟哭(どうこく)が終わるまで聞き続けた。

 

「ねえ、綾小路くん。これからわたし、どうすれば良いのかな……?」

 

 何度目になるか分からない、同じ問い。

 オレはそれに、同じ答えを返す。

 

「さっきも言ったと思うが、お前は、お前のやりたいようにやれば良い」

 

「やりたいように……?」

 

 言葉を繰り返す一之瀬に、今度はオレが質問する。

 

「今、お前は何をしたい?」

 

「それが、大事な事なの……?」

 

「ああ。お前が今心からやりたい事を、聞かせて欲しい」

 

 一之瀬は暫く悩んでいた。

 数分経って、少女は顔を上げてオレを見詰めながら口を小さく動かす。

 

「今日はもう、外に出たくないかな……。出来る事なら綾小路くんと、ずっと一緒に居たい」

 

「それをお前が望むなら」

 

「……うん。でも、駄目だよね。だってそろそろ、南雲先輩たちの所に行かないと……」

 

 時計を確認すると、十五時を少し回っていた。そろそろ身支度を整え、準備をしなければならないだろう。

 

「サボるか」

 

「えっ!? だ、駄目だよ綾小路くん。今日は綾小路くんと葛城くんが初めて生徒会役員と会う大切な時間なんだから……」

 

「葛城も呼ばれているなら、それで大丈夫だろう。オレもお前と同じで、行くのを面倒臭く思っていたんだ」

 

「で、でも私たちが行かなかったら、嘘だってすぐにバレちゃうよ」

 

 慌てる一之瀬とは対照的に、オレの心は決まっていた。

 そうと決まれば早い。オレは南雲に、今日は身体の調子が悪い為行く事が出来ない事を伝える。

 また、葛城にも同じ内容に加えて謝罪のメッセージを送った。針のむしろとなるだろうが、頑張れ葛城。鉄壁の心を持つお前なら大丈夫だ。

 オレはそのまま携帯端末の電源を迷いなく切り、音信不通の状態にする。

 

「ほら、一之瀬も」

 

「え? え?」

 

「良いから、早く」

 

 呆然とする一之瀬に声を掛け、オレは指示を出す。一之瀬は戸惑いながらも言われるがままに手を動かし、生徒会のグループチャットにメッセージを飛ばした。

 そして誰かが反応する前よりも先に、携帯端末の電源を切る。

 

「ど、どうしよう綾小路くん!? 私たち、何てことをしちゃったんだろう!?」

 

「落ち着くんだ一之瀬。今更過去は変えられないぞ。だからこのままサボろう。一蓮托生だ」

 

 渾身のドヤ顔を披露すると、一之瀬は暫くアワアワと混乱していた。

 そんな可愛らしい様子をオレは眺める。これがきっと、本来の一之瀬の姿なのだろう。

 

「どうだ、やりたい事をやってみた感想は?」

 

「凄くドキドキしたよ! 何だったら、今もしているよ!? 悪い意味で!」

 

「そうか、そうだろうな。オレも後悔しているところだ」

 

 肩を竦めてみせると、一之瀬は「うにゃあ!?」と奇妙な声を上げた。

 オレはコップにお茶を入れ直すと、一之瀬にそれを手渡した。一之瀬は小さくお礼を言うと、少し飲む。

 

「今のが、大事な事だったの……?」

 

 一之瀬は呼吸を落ち着かせると、そう、尋ねてきた。

 

「一之瀬、お前は優しい人間だ。お前がそうなったのにはそれ相応の理由があるんだろうが、その土台に善良な心があったからこそ、今のお前が出来たと思う」

 

「……」

 

「だからこそお前は、もっと我儘(わがまま)で良いんだ。もっと自分のやりたい事を、口に出して良いんだ。自分の想いを言う事は決して悪い事じゃない」

 

「……でもそれって、迷惑じゃないかな?」

 

 不安そうに首を傾げる、一之瀬。

 一之瀬は頼られる事には慣れている。だがその反面、誰かに頼るという事を知らない。

 その在り方を、オレは今日徹底的に壊す。

 

「言っただろう、自分の想いを言う事は決して悪い事じゃないと。一之瀬、お前は誰かから……そうだな、クラスメイトから悩みを打ち明けられた時、迷惑だと感じた事があるか?」

 

「ううん、一度もないよ」

 

「そうか。そして大多数の人間もそれを面倒だとは感じない。時と場合にもよるが、基本的には頼られて嬉しいと感じる。オレだってそうだ」

 

 自分の悩みを、どうでも良い相手には話さない。信頼している人間にのみ、人は『秘密』を共有する。

 そして受け手は、『自分が認められている』と思う。その解釈は正解であり、承認欲求が満たされる。

 友人の話をここでするなら、櫛田桔梗は『承認欲求の権化』と言える。彼女はそれを自覚しており、それ故に、彼女はコミュニケーション能力という側面では他者の追随を許さない。

 

「オレはさっき、一之瀬にクラスリーダーは向いてないと言った。その言葉を撤回する気はない。お前はサブリーダーとして初めて真価を発揮するタイプだ」

 

「……うん、それは自分でも分かってる。ううん、分かってたつもりだった。だけど今日、綾小路くんと話した事でそうだと自覚した」

 

「そのうえで、聞こう。お前は今後も、クラスを率いていきたいか? 他の生徒に委ねるつもりはあるか?」

 

 至近距離で見詰め合う。

 そして一之瀬は長い、長い沈黙の末に一つの答えを出した。

 

「わたしの所為で、クラスは一度負けた。でも、まだ完全には負けてない。クラス闘争はまだまだ続くから。だから、もし許されるなら──」

 

 そう言うと、一之瀬はオレからゆっくりと身体を離す。そしてオレを真正面から見定めると、自分の意思を口に出した。

 

「──今度は……今度こそ、()はクラスのみんなと勝ちに行く。自分の弱い所と向き合って、困ったり悩んだりしたらみんなと話し合う。そして、私のクラスがAクラスで卒業する」

 

 一之瀬は言葉を続ける。

 

「生徒会の事もそう。南雲先輩には恩義を感じているけど、私たちの為に『取引』は断わろうと思う。だから、副会長の派閥にも入らない。かと言って、生徒会長陣営にもつかない。私は、私が直接この目で見て、正しいと思った方に味方する」

 

 キッパリと、一之瀬はそう宣言した。

 それを見たオレは、『破壊』と『再生』が上手くいったのだと確信に至った。

 まだ『芯』には罅が入っているが、それも何れ時間の経過と共に無くなるだろう。むしろ以前より、より強固なものとなるに違いない。

 

「ど、どうかな……?」

 

 何も反応しないオレを見て、一之瀬が不安そうに尋ねてくる。それはまるで、親に回答の正否を尋ねる子供のようで……気が付けばオレは、少女の頭を撫でていた。

 

「あ、ああああああああ綾小路くん!?」

 

 気持ち悪いと手を払いのけられるかと思ったが、一之瀬は羞恥で顔を真っ赤で染めこそすれ、何もしなかった。

 

「オレたちは、似ている部分があるな」

 

 呟いた独り言に、一之瀬が反応する。

 

「私と、綾小路くんが……?」

 

「ああ」

 

 それ以上オレは答える気はなく、それを察した一之瀬も追及してくる事はなかった。

 それからオレたちは夏休み最後の一日を二人きりで過ごした。一之瀬は「これ以上は椎名(しいな)さんに悪いよ」と言っていたが、今の彼女に必要なのは気の置けない友人だ。それがたまたま異性のオレだったという話。

 

「今更聞くのもどうかと思うけど、良かったの? 綾小路くんからしたら、私はあのまま落ちぶれていた方が良かったんじゃない?」

 

 夕食前の暇つぶしで行っていた消しゴム落とし──机の上に配置された消しゴムを指で弾いて、相手の物を落とすゲーム──の最中、一之瀬がそう聞いてくる。

 オレは面白い遊びもあったものだと思いながら、その質問にこう答えた。

 

「クラス闘争の事を考えたら駄目なんだろう。だが一之瀬は今日、クラス闘争の事は何も考えずにオレの所に来たんだろ? 『特別な友達』として」

 

「う、うんそうだけど……改めて言葉にすると恥ずかしいね」

 

 そう言って、頬をかく一之瀬。

 オレは狙いを定めながら、話を続けた。

 

「それならオレも、それに応えるべきだと思った。それがオレなりの『誠意』だと思ったんだ」

 

「そっか……。ありがとう、綾小路くん」

 

「礼を言われるような事じゃない。寧ろ一之瀬は、オレを罵倒しても良いくらいだ。それだけ酷い言葉を言った自覚はあるからな」

 

 言いながら、オレは自分の消しゴムを指で弾く。コースは良かったが力が弱かったようで、一之瀬の消しゴムの目の前で止まってしまい攻撃は失敗してしまった。

 一之瀬は絶好のチャンスを無駄にしないよう張り切りながら、オレの言葉にこう答える。

 

「あはは、確かに驚いたかも。だって今日の綾小路くんと今までの綾小路くん、まるで別人みたい。今日の綾小路くんが、本当の綾小路くんなの?」

 

「どうかな。オレはいつだってオレのつもりだが」

 

「そっか、そうだよね」

 

 ジョハリの窓で言うところの『盲点の窓』だな。自分は気付いていないが、他者は知っている自己。一之瀬はそれを今日、発見したのかもしれない。

 だがそれは、オレも同じだ。一之瀬の本当の姿を、オレは見る事が出来た。それはきっと、とても幸運な事なのだと思う。

 

「綾小路くんはさ、これから本格的に表舞台に出るつもりなんだよね?」

 

「そうだな。お前には隠しても意味がないから言うが、勝ちに行こうと思ってる」

 

 副会長就任を希望している事を、一之瀬は知っている。そのような人間がクラス闘争とは無縁でいたいとは思わないだろう。

 

「困った……。これはまた、とんでもない強敵が現れたね……」

 

 オレのやり方の一つを、一之瀬は今日自身の身をもって知った。それ故に他クラスの誰よりも、そこに強い危機感を覚えるだろう。

 そういう意味では、『手札』が一つ割れてしまった事になるか。

 消しゴム落としは遂に最終局面を迎えていた。オレの消しゴムが机の端に追い詰められており、そして最悪な事に、次の番は一之瀬となる。

 当てさえすれば一之瀬の勝利は確実。だがもし外したら、一之瀬の消しゴムはそのまま落下し自滅。オレの勝利となる状況だ。

 

「綾小路くん。この勝負に勝ったら、二つ、お願いがあるんだけど……良いかな?」

 

「二つもか。それは強欲だな」

 

「そ、そうだよね……やっぱり、今の話はなかった事に……」

 

「嫌とは言ってない。ただし、オレが叶えられる範囲のものにしてくれ。それなら良いぞ」

 

 オレが了承すると、一之瀬は顔を輝かせた。

 

「もし一之瀬が負けたら、その時はどうする?」

 

「それはないよ。私、勝つから!」

 

 物凄い気合と自信だ。そして宣言通り、一之瀬はオレの消しゴムに自身の消しゴムを命中させ、勝利してみせる。

 敗北を受け入れたオレは、一之瀬のお願いとやらを尋ねた。

 

「一つ目は、もし私と戦うような事があったら、その時は全力で戦って欲しい」

 

「それはクラス闘争でか?」

 

「それも含めて、全ての勝負で。特別試験で私のクラスと戦う時も、遠慮はいらない。本気で来て欲しい」

 

「分かった……と、言いたい所だが。オレのクラスとお前のクラスは相互不可侵の条約を結んでいる同盟関係にある。その辺はどうするつもりだ?」

 

 そう確認を取ると、一之瀬は不思議そうに首を傾げた。

 

「あれ? もしかして堀北(ほりきた)さん、まだクラスの人たちに言ってないの?」

 

「……何も聞いてないぞ」

 

「そうなんだ。それなら、みんなに思い切り夏休みを過ごして欲しかったのかもしれないね」

 

 堀北の意図は分からないが、今更今聞いた話を無かった事には出来ない。

 一之瀬に話を進めるよう促す。

 

「私たちの同盟は二学期開始と同時に無くなることになったの。私たちはこれから、直近の敵になるから」

 

 Dクラスと元Bクラスが同盟を結べた一番の理由がそこだからな。今後DクラスはCクラスになった一之瀬クラスを追う事になる。

 

「分かった、お前がそれを望むならそうしよう。それで、もう一つのお願いは?」

 

 しかしここで、一之瀬は目を露骨に逸らした。モジモジと身体を動かし、中々口を開けようとしない。

 

「一之瀬?」

 

 オレが声を掛けると、一之瀬は覚悟を決めたようだった。パチン! と両手で両頬を強く叩くと、グイッとテーブルから身を乗り出して言う。

 

「これからは、な、名前で呼んで欲しいな!」

 

「……名前?」

 

 瞬きするオレに、一之瀬は頬を赤く染めながらも「うん!」と首を縦に振った。

 何だそんな事かとオレが思う中、少女は早口でこう言った。

 

「綾小路くんは『特別な友達』だからそう呼んで欲しいなって思ったのあっでも椎名さんが駄目って言うなら全然大丈夫だからどうかなお願い──」

 

「それならオレの事は『清隆(きよたか)』だな、『帆波』」

 

「──へぅあ!?」

 

 素っ頓狂な声を上げる、一之瀬。否、帆波。

 感情表現がこの数時間で一気に大きくなったなと思いつつ、オレは言った。

 

「オレにとっても、『帆波』は『特別な友達』だからな。それなら、『清隆』と呼んで欲しい」

 

「……」

 

「あっ、でもこれだとオレのお願いにもなるか。それならやっぱりなしに──」

 

「ううん、それ、すっごく良いよ! そうしよう!」

 

 満面の笑みを浮かべ、帆波はそう言った。時々思うが、もう少し自分が可愛いことを自覚した方が良いな。

 椎名とは違った天然だな、これは。オレはそう結論付けると、夕食の準備をする為腰を上げた。

 

 それにしても、と帆波と一緒に料理しながら思う。

 

 この夏休みは様々な出来事があった。

 二度にわたる特別試験。それに伴って変化する人間関係。

 そして、オレの考えも大きく変わった。

 入学する前は平凡で平穏な学校生活を送れたらそれで良いと思っていたが、今のオレはそれとは真逆の行動指針を持っている。

 本当に、人生とは何が起こるか分からないな。だからこそ、面白いのだろう。

『あの男』が無駄だと切り捨てたもの、それをオレがそうだと判断するのはまだ早い。

 だが、オレの根幹にある考えは何も変わってない。

 

 ──この世界は『結果』が全て。『過程』は関係ない。最後に『オレ』が勝ってさえすれば、それで良い。

 

 この考えが変わることは、すなわち、オレの性質が変わることはきっと来ないだろう。

 それは諦観と言って良い。

 だがしかし──と、オレは同時に期待もしているのだ。きっと誰かが、この空虚な部屋からオレを出してくれるのではないか、と。

 その『誰か』を、オレは待っているのかもしれない。

 自分では何も出来ないからこそ、人は、人に期待するのだ。

 



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堀北鈴音の夏休み Ⅰ

 

 

堀北(ほりきた)センセー、今日はそろそろ終わろうぜ!」

 

 シンとした居心地の良い静寂を、(いけ)くんが破った。

 私は内心でため息を吐きつつも顔を上げると、疲労困憊(ひろうこんぱい)といった表情を浮かべている自身の『生徒』を見る。

 

「もう少し集中出来ないのかしら?」

 

 あくまでも、確認を込めた質問。そこに呆れや苛立ちといった個人的な感情は挟まない。何故なら今の私は池くんの『教師』だからだ。

 池くんは私の質問に「うぐっ」と言葉を詰まらせながらも、こう訴えた。

 

「勉強を始めてからぶっ通しで二時間だぜ、流石にキツいって!」

 

 心底疲れたように池くんがそう言うと、賛同する声が上がる。山内(やまうち)くんだ。

 

寛治(かんじ)、よく言った! 堀北、これ以上は無理だ! 頭が回らない! なぁ(けん)、お前もそうだよな!?」

 

 話を振られた須藤くんは顔を上げると、自信満々(じしんまんまん)にこう答える。

 

「俺はまだ出来るぜ。バスケの試合に比べたらへっちゃらさ。あと一時間は余裕だな」

 

 そう言って、ドヤ顔を浮かべる須藤(すどう)くん。その堂々とした言動から、見栄を張っている訳ではないと分かる。

 そして、その言葉は正しい。最近の須藤くんの集中度合いには目を見張(みは)るものがある。この前大会に出場したと聞いているけれど、それ以降、彼の意欲はより高くなったように感じる。

 

「この脳筋! 何でもかんでもバスケで換算するんじゃない!」

 

「何だとゴラァ! 誰が脳筋馬鹿だ!」

 

「そこまでは言ってねえよ! でも、言うつもりではあったよ!」

 

 言い争いを始める、須藤くんと山内くん。とはいえ、喧嘩ではない。ただのじゃれ合いだ。男子のノリって奴だろう。その証拠に池くんは腹を抱えて笑っている。

 だが、私がそれに付き合う道理はない。私はコホンと咳払いを打つと、彼らの注意を引き付けた。

 

「静かにしなさい。ここはお店で、私たちはここを使わせて貰ってるのよ。まさか出禁を食らいたいのかしら?」

 

 ここは、学校の敷地内にあるカフェだ。当然私たちの他にも客は居る。あまり騒ぎを起こすと学校に報告され、最悪な場合、クラスポイントを引かれるかもしれない。

 私が強く睨み付けると、問題児たちは揃って降参のポーズを取った。首を小さくする彼らに、私は露骨にため息を吐いてみせる。

 すると面白いことに、彼らはビクッと身体を震わせた。そしてビクビクとしながら顔を見合わせ、私の機嫌を伺ってくる。

 いつの間にか、このような流れが出来ていた。池くんや山内くんたちが馬鹿な事をやって、それを私が叱るという流れだ。実に下らない茶番劇。

 私は再度ため息を吐くと、店内に設置されている時計を見やった。現在時刻は、午後の十七時九分。始めたのが十五時になる直前だった為、池くんの言う通り、二時間はこの『勉強会』を行っている事になる。

 本音を言うと、あと一時間は勉強したい所だ。

 そう思いながら私は、『生徒』の状態を把握する。

 今日、私が開いた『勉強会』に参加しているのは、私を除外して四人。池くん、山内くん、須藤くん、そして黙々と勉強している櫛田(くしだ)さんだ。

 いつもだったらここに、男性にしてはとても可愛らしい外見を持つ──本人にこれを言うと傷付くので言わないのが暗黙の了解となっている──沖谷(おきや)くんもいるのだけれど、彼は数日前から夏風邪を引いてしまった為居ない。体調はかなり快復していると何度かお見舞いに行っていた池くんから聞いているから、明後日から始まる二学期には問題なく来れると思う。

 須藤くんと櫛田さんはまだ余裕がありそうだけれど、池くんと山内くんは集中力が切れてしまったようでソワソワと落ち着きない。いつもだったら二人とも、あと三十分は持っているのだけれど……その理由に心当たりがある私は方針を決めた。

 

「分かったわ、今日はこの辺りでお開きにしましょうか。ただし、今解いている問題は全力で解きなさい。それが条件よ」

 

 私がそう言うと、池くんと山内くんは露骨に喜んでみせた。いえーい! とハイタッチすらしている。

 すると、これまで事態の成り行きを静観していた櫛田さんが小声で私に聞いてきた。

 

「堀北さん、良かったの? 本当はもう少しやりたかったんじゃない?」

 

「そうね、それはあなたの言う通りよ」

 

「なら、どうして?」

 

「池くんと山内くんは、勉強する意欲が無くなってしまった。須藤くんはああ言っていたけれど、そのうち彼らの空気に呑み込まれるでしょう」

 

「ああ、なるほどね」

 

 腑に落ちたのか、櫛田さんはそれ以上言葉を挟む事はしてこなかった。

 

「言ってみるもんだな!」

 

「そうだな! だが俺は信じていたぜ、堀北先生なら許してくれるって!」

 

 調子の良い事を言う、教え子二人。私は大きく咳払いを打つと、シャープペンシルの先を向けた。

 ひいっ! と怯えた彼らは顔を青くしながらコクコクと頷くと、自分の問題に向き合った。

 全く、面倒の掛かる問題児たちだ。

 とはいえ、彼らの気持ちが分からない訳ではない。今日は八月三十日。そして今日は、夏休み最後の勉強会だ。

 流石の私も、夏休み最後の一日を彼らから奪うほど鬼ではない。

 

「終わった!」

 

 最後に解き終えた池くんが、そう報告してくる。

 私は預かっていた解答集を渡すと、丸つけをするよう声を掛けた。

 私の勉強会では、教材として市販の問題集を取り扱っている。

 市販の問題集というのはとても役に立つ。解説が載っている為、基本的にはそれを読めば分かるようになっているからだ。問題も基礎から応用と幅広いレベルが設定されており、私は重宝している。

 丸をつける赤ペンの音、そこに時折交ざるバツの音。それを聞きながら私は、丸つけをしている彼らの表情、その一つ一つを見逃さない。

 解説を読んで理解したつもりになって欲しくないからだ。その場では『分かったつもり』になっていても、それは『理解』からは程遠い思い込み。私は彼らの『つもり』を見逃さない。幸いな事に、彼らはとても分かりやすい。表情にすぐ出る彼らの嘘を看破するなど容易い事だ。

 唯一櫛田さんだけは例外だが、彼女は本来私の勉強会に参加しなくても問題ない為、その点については心配してない。ただ、そんな彼女が何故今なお参加しているのかは疑問だが。

 

「なあ堀北、質問良いか? ここの問題なんだけどさ……」

 

「そこは、教科書のここにヒントが載ってるわ。まずはそこから考えてみて頂戴」

 

「分かった」

 

 私はあくまでも、彼らの補助に努めている。解説を読んでも分からなかった時に、『先生』の私が対応するようにしている。

 とはいえ、すぐに答えを教える訳ではない。まずは、何故その答えに辿り着いたのか、その過程を最後まで聞く。その上で、どこで間違っていたのかのヒントを与え、一緒に考える。

 それを繰り返し、思考力を底上げしている。

 思考を止めないこと、これが一番大事な事だと信じているからだ。

 この時間が勉強会で最も大切だと、私は思っている。

 

「全員終わったわね?」

 

 そう確認すると、彼らは揃って頷いた。 その顔は達成感で彩られており、彼らは確かな手応えを感じているだろう。

 これで、勉強会は終わり。いつもならここで解散しているけれど、『教師』としては何か声を掛けるべきだろうか。

 そんな事を私が悩んでいると、「なぁ、堀北!」と池くんが口を開く。

 

「明日さ、みんなでプールに行こうぜ!」

 

「……プール?」

 

「そう、プールだよ、プール! 堀北の所にも学校からメールが来ていただろ!?」

 

 突然の事に困惑する私に、池くんが熱弁する。私は記憶を遡った。

 確か数日前だったかしら、学校から一つメールが届いたのは。

 その内容はとてもシンプルで、普段、水泳部しか利用出来ない特別水泳施設を限定的に開放するというものだ。施設の利用そのものは無料で、高度育成高等学校の生徒なら誰でも利用可能だった筈。

 

「寛治の言う通りだ。せっかくの夏休みだ、プールに行かないのは損だぜ堀北! 健もそう思うだろ?」

 

「そうだな、定番の一つだもんな。一理どころか()()あるぜ」

 

 山内くん、須藤くんも池くんに同調した。ただし、須藤くんはやや棒読みだったが。そして、私は確信する。どうやら事前に男子たちは話し合いをしていたようだ。

 静観している櫛田さんは定かではないけれど、彼女の性格を考えればその内心はどうであれ首を縦に振るだろう。

 とはいえ、私の中では既に答えは出ている。

 

「悪いけど、私はパスするわ」

 

 行く気はないと告げると、男子たちは「えぇー!?」と不満そうに声を上げた。そして口々に批難してくる。

 

「良いじゃんかよ、行こうぜ堀北! 真夏のプールは最高なんだぜ?」

 

「そうだ、そうだ! いつ行くの? 今でしょ!」

 

「堀北、俺もお前と一緒に行きてぇよ」

 

 私は、重く長いため息を吐いた。その熱意がどこから来るのか甚だ疑問で、呆れてしまう。

 

「あのね……プールはクルージング旅行で楽しむ機会があったでしょう?」

 

 実際、あの豪華客船には大型プールがあった。大多数の生徒はそこで一回は楽しんでいた筈だ。

 私からすれば、その一回で充分。しかしどうやら、男子たちは違うようだった。

 

「堀北、お前は何も分かってない。あの時は特別試験があって、それどころじゃなかっただろ!」

 

 山内くんが強く訴える。まあ確かに、その気持ちは分かる。旅行の最初こそ私たちは何も考えずに能天気に過ごしていたけれど、無人島試験から帰還したあとはそうではなかった。緊迫した空気が流れていたのは認めるし、その備えがあったからこそ、干支試験にも万全の体制で臨めたのは否定しない。

 

「なぁ、櫛田ちゃんからも何か言ってくれよ!」

 

「わ、私?」

 

「ああ、俺たちみたいな馬鹿じゃこれ以上の説得は無理だ! だけど、櫛田ちゃんならそれが出来る!」

 

 頼む! と山内くんが懇願する。

 櫛田さんは最初こそ「うーん……」と悩んでいたけれど、結局、男子たちの圧に押されてしまった。八方美人はこれだから困るのよね。

 

「堀北さんはどうして、プールに行きたくないの?」

 

 頑なにイエスと言わない私に、櫛田さんがその理由を尋ねてくる。

 

「何か用事でもあるのかな?」

 

「別に……用事なんてものはないわ。ただ、明後日から始まる学校生活の準備があるわね」

 

「でも堀北さんならそれ、終わらせてるよね」

 

「あなたね……根拠のない推測はただの妄想よ」

 

 呆れながら私がそう指摘すると、櫛田さんは「あはは、確かにね」と一度頷いた。しかし、彼女は言葉を撤回するつもりはないようだ。

 私という人間の性格を考え、そうする可能性が高いと彼女は結論を出しているのだろう。

 そして、それは悔しいけれど正解だ。学校の準備は昨日のうちに終わらせている。

 

「話せない理由なら、これ以上は聞かない。ただ話せる理由なら、きちんと話した方が良いと思うな。そうしたら、寛治くんたちも納得すると思う。そうだよね?」

 

 櫛田さんが池くんたちにそう話を振ると、彼らは首を縦に振った。彼らとしても無理強いはしたくないのか、口々に約束の言葉を言ってくる。

 その表情はとても切実で、どうやら彼らは余程私とプールに行きたいらしい。

 これではまるで、私が悪者のようだ。そして、そういう雰囲気をいとも簡単に作ってみせた櫛田さんが恨めしい。

 観念した私は、理由を説明した。

 

「……別に、特別な理由なんてないわよ。ただあなたたちも知っているでしょうけれど、私は人混みがあまり好きではないわ。ましてや水着に着替えるだなんて……」

 

 客観的に見て、私の容姿は整っている。まず間違いなく人の目を集めるだろう。下卑た視線が送られてくるのは確実と言える。

 ましてやグループで行くなら尚更だ。このグループには人気者の櫛田さんや、友達の多い池くんが属している。そこに安寧はなく、一日中何らかの騒動に巻き込まれるだろう。

 

「これが、私が行きたくない理由……──って、顔を見合わせてどうしたの?」

 

 私がそう尋ねると、須藤くんがこう呟いた。

 

「……何ていうか、普通の理由だな」

 

 それはどういう意味かと目で尋ねる。

 彼は「わ、悪い!」と慌てて謝罪しながらこう言う。

 

「いや、その……堀北もそんな風に言う事があるんだと思ってよ」

 

「それな。俺、ちょっと……いや、かなりビックリしたぜ」

 

「俺も」

 

 まるで地球外生命体を発見したと言わんばかりに好き勝手言ってくる。甚だ心外ね。

 眉間に皺を寄せて無言の圧力を飛ばしていると、櫛田さんが「ふふふっ」と声を立てて可愛らしく笑った。

 私には分かる。これは、私の事を嘲笑っているわね。しかし噛み付いたところで、彼女は飄々とした態度で私の攻撃を躱すだろう。

 

「……兎に角、これで私の理由は話したわ。納得してくれたかしら?」

 

 男子たちは顔を見合わせると、意思を共有したようだった。池くんが代表して答える。

 

「まあ、そういう事なら無理強いは出来ないか。残念だけど、仕方ないか……」

 

 須藤くんと山内くんも同意見なのか、残念そうにしながらも引き下がった。

 これで話は終わりだ。彼らには悪いが、私抜きで楽しんできて貰おう。

 

「それじゃあ、私はこれで失礼するわ。また明後日、学校で会いましょう」

 

 しかし、帰り支度を済ませた私が別れを告げ、今まさに席から立とうとした、その時だった。

 

「やっぱり残念だな。せっかくの夏休みだもん、私はみんなで遊びたかったな」

 

 櫛田さんがそんな事を言い出した。

 その言葉を聞いた私は思わず、櫛田さんを強く睨む。終わった話を何故続けようとするのか、その真意を尋ねる。

 しかし、流石は櫛田さんと言うべきか。私の先程の予想通り、彼女は微笑を崩さない。

 

「寛治くんたち、この夏休みとても頑張ってたもんね。一生懸命、勉強してたもんね。須藤くんなんて、部活と両立しながらだったし。それでレギュラーを勝ち取っただなんて凄いよ!」

 

 笑顔を浮かべながら池くんたちを褒める櫛田さん。それに彼らは戸惑いを浮かべながらも、裏表のない称賛に照れている。

 そうしてあっという間に、櫛田さんはこの場を掌握してみせた。私も帰るタイミングを逃してしまう。

 

「……櫛田さん、何を言いたいの?」

 

「そんなに怖い顔をしないでよ、堀北さん。ここに沖谷くんがいたら涙目になっちゃう!」

 

「居ない人の事を話してもしょうがないでしょう。回りくどいから、はっきり言いなさい」

 

 目を細めて私が軽く威圧するも、櫛田さんはそれを笑みで受け流す。

 男子たちが青ざめているのを尻目に、彼女はにっこりと笑顔を深くするとこう言った。

 

「今言ったように、私たちはこの夏休みの間頑張ったと思う。堀北『先生』は、池くんたち『生徒』の頑張りを感じなかった?」

 

「……そうね。頑張っていたのは認めるわ。学力は高校生の水準にまだまだ追い付いていないけれど、必死になって付いてきてくれたと思う」

 

 本心を告げると、櫛田さんは「そうだよね!」と相槌を打つ。

 

「それならさ、『生徒』の頑張りに応じるのも『先生』の仕事なんじゃないかな?」

 

「……つまり、私も明日参加しろと?」

 

「もちろん、無理強いするつもりはないよ。でも池くんたちはこの勉強会に少なからず拘束されていた。堀北さんはこの事実に対して何とも思わないの?」

 

 櫛田さんの言葉は一理ある。

 元々この勉強会を夏休みの間にもやろうと思ったのは、池くんたちが計画的に学校から出された課題に取り組むとは思わなかったからだ。そして私の心配は的中し、彼らは中学時代、夏休み最終日に泣いていたという。須藤くんにいたっては課題を提出すらせず、彼の暴力性に怯えた教師も注意する事が出来ず、そのままだったらしい。

 これを聞いた私は勉強会を開く事を決心し、駄々を捏ねる子供を部屋から引っ張り出し、課題に取り組ませたのだ。その甲斐あって、クルージング旅行から帰ってきた時には全員が課題を終わらせていた。

 それ以降の勉強会は、目的の主旨からは外れていると言えるだろう。

 

「ちょっと待ってくれよ、櫛田。それは違うだろ。堀北が俺たちを拘束していたんじゃねえ……俺たちが堀北を拘束していたんだ」

 

 須藤くんがそう言った。それに続くように、池くんと山内くんも口々に言う。

 

「……だな、健の言う通りだ。どうせ課題を終わらせても、その後は調子に乗って勉強しなかった気がする」

 

「ま、まぁ!? 俺はお前らとは違った……いや、嘘だ。俺もダラダラしていたと思う」

 

 須藤くんはそうではないけれど、池くんと山内くんの二人は基本的には櫛田さんの味方だ。

 その味方のまさかの裏切りに遭い、櫛田さんは衝撃を受けたようだった。それから、項垂れる。

 

「……ごめんなさい。失言だった」

 

「い、いや! 謝る事じゃないって! 俺たちも、それに堀北も気にしてないって! そうだよな!?」

 

「な? な!?」と同意を求める池くんの言葉に、須藤くんと山内くんが慌てて頷く。

 視線を集めた私は、自分でも分かるほどの仏頂面で答えた。

 

「……私も気にしてないわ。櫛田さんの主張は尤もだもの」

 

「……許してくれるの?」

 

「許す、許さないじゃないわ。これ以上の口論は無駄だと言っているのよ」

 

 私はそう言うと、何が最適解か考えた。

 池くんたちは明日、私とプールで遊びたいと純粋に思っている。そして櫛田さんもどういう訳か、私をそこに誘導したいようだ。

 それにはきっと、何らかの意図がある筈。

 

「……分かったわ。櫛田さんの言葉に乗せられるのは甚だ癪だけれど、あなたたちに付き合ってあげる」

 

「マジで!?」と驚く男子たち。

 ハイタッチし喜びを分かち合っている彼らの横で、私と櫛田さんは見つめ合っていた。

 

「明日が楽しみだね、堀北さん」

 

 そう言うと、櫛田さんはにっこりと天使のような笑顔を浮かべた。

 だが私にはそれが、天使とは程遠い魔女のものに見えて仕方がなかった。

 どうやら、夏休みはまだ終わらないようね。



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堀北鈴音の夏休み Ⅱ

 

 集合時間十分前に学生寮のエントランスに降りると、既に(いけ)くんたちは集まっていた。余程楽しみにしていたのか屈託ない笑顔を浮かべ、談笑している。

 

「あっ、堀北(ほりきた)さん! おはよう!」

 

 私に気が付いた櫛田(くしだ)さんが、可愛らしい笑みを浮かべながら挨拶してきた。池くんたち男子もそれに続く。

 

「おはよう。それじゃあ、行きましょうか」

 

 全員が揃った以上、ここに長居する意味もない。私が号令を掛けると、彼らは座っていたソファーから立ち上がり移動を始めた。

 男子たちを先頭にし、私と櫛田さんの二人がその後ろを数歩離れた距離から追う。

 

「あっちぃ!」

 

 学生寮から出た瞬間、凄まじい熱気が私たちを襲う。

 何もしてないのに汗が出てしまい、私は思わず顔を顰めた。このグループで唯一運動部に所属している須藤(すどう)くんは慣れたものなのか涼しい顔をしている。

 明日から九月に入るが、まだまだ夏は続きそうな予感だ。

 

沖谷(おきや)も来れたら良かったんだけどなぁー」

 

 プールがある特別水泳施設に向かう道中、池くんが残念そうに呟いた。沖谷くんは数日前から夏風邪を引いてしまっている為、勉強会を欠席していた。そして、今日も欠席するようだ。

 

「寛治くん、さっき沖谷くんのお見舞いに行ってくれたんだよね? 体調はどうだった?」

 

 櫛田さんが心配そうにそう質問すると、池くんは彼女を安心させるように笑いながらこう答えた。

 

「体調はすっかりと元通りだったよ、桔梗ちゃん。だけどまぁ、一応病み上がりだから今日はパスするって」

 

「そうだね。その方が良かったと思う」

 

「明日が始業式じゃなきゃ、話はまた変わってきたんだけどな」

 

 明日から私たちは二学期を迎える。学期が始まる初日に学校を休むのは色々とリスキーだと言える。

 沖谷くんの判断はとても正しい。

 

「そう考えるとさ、長いようで短かったよな。明日の今頃は教室に居るんだぜ?」

 

 山内くんの言葉に、須藤くんが「だな」と相槌(あいづち)を打つ。

 

「俺はずっと部活だったからよ、特にそう感じるぜ。休みの日は勉強してよ、一日があっという間だったな」

 

「健はほんとに凄いよな。俺なんて途中でぶっ倒れる自信があるよ」

 

「へへっ、体力には自信があるからな!」

 

 得意げに胸を張る須藤くん。そして、その言葉を証明するように全身の筋肉が膨張した。鍛え抜かれた身体は鋼のようだ。

 そんな風に冷静に分析していると、私の視線に気付いた須藤くんがドヤ顔を見せてくる。私はそれに、適当に返した。

 

「他の奴らも誘ったんだけどさ、みんな予定があるからって断られたんだよなー」

 

「ちなみに、誰を誘ったんだ?」

 

「博士とか本堂(ほんどう)とか、その辺の連中だな。あっ、あとは綾小路(あやのこうじ)も誘ったな」

 

 その言葉に、私はつい反応してしまう。

 

「池くん、綾小路くんも誘ったのかしら」

 

「……? お、おう。そうだけど……駄目だったか?」

 

「駄目という訳ではないけれど……」

 

 私らしくない、言葉を(にご)す返答。それに池くんたちは違和感を覚える。

 男子たちが不思議そうに顔を見合せている中、私は池くんに一歩近付いた。

 

「綾小路くんは、今日来るのかしら?」

 

「い、いや……今言った通り、誘ったんだけど断られたんだよ。別の奴に誘われていたみたいでさ」

 

「そう……」

 

 私はそう呟くと、それ以上質問を投げなかった。

 当然と言うべきか、違和感を確信に変えた池くんが恐る恐るといった様子で尋ねてきた。

 

「あー……もしかして堀北、綾小路と何かあったのか?」

 

「そんな事はないわ。ただ私は、このグループでプールに行くものだとばかりに思っていたから驚いただけよ」

 

「そ、そうか……それは悪かったな」

 

「怒っている訳ではないから大丈夫よ」

 

 私はそう一方的に話を断ち切ると、男子たちを追い越して施設へ足を進めた。

 慌てて追い掛けてくる彼らの気配を感じながら、私はため息を吐いた。我ながら、自分の未熟さに呆れと共に苛立ちが募ってしまう。

『綾小路』という名前が池くんの口から出た瞬間、私は、私の中の感情がぐちゃぐちゃになったのを感じた。

 

 ──正直な所、私は綾小路清隆(あやのこうじきよたか)という人間に底知れない不気味さを抱いている。

 

 それは、一部を除いたDクラスの生徒も同じだろう。

 だが私は彼ら以上に、綾小路くんと関わる機会があった。それは、クラスの隣人としてもそうだし、仲間としてもそうだったと思う。

 それ故に私は、彼の異質さに気が付いた──気が付いてしまった。

 彼は、私たちクラスメイトを『仲間』だと思ってない。その無機質な瞳に映っているのは、『道具』──『駒』なのではないか。私を含めた全ての人間が、彼を勝たせる為の『駒』でしかないのではないか。

 所詮、これは根拠のない憶測だ。だがそれから、私は綾小路くんが『怖い』と思うようになった。そして、今までの関係を断ち切った。

 彼の本性、その一端を少しでも知ってしまったから。もう戻れないと、思ってしまったからだ。

 この選択が正しいものかは分からない。多分、生涯かけても解けないと思う。そんな確信を、私は抱いている。

 それから私たちは無言で歩き、特別水泳施設に向かった。

 

「おっ、見えたぞ! あそこだ!」

 

 重苦しい雰囲気を吹き飛ばそうと、池くんが声を張り上げる。そこに申し訳なさを感じつつ顔を動かすと、大きな建造物が視界に映った。

 特別水泳施設。普段は水泳部の生徒のみ利用出来るこの施設は、一昨日(おととい)から今日までの三日間限定で、一般生徒に開放されていた。

 

「これは……凄い人集りだね……」

 

 櫛田さんがやや大袈裟(おおげさ)に驚き声を上げる。

 施設内は大勢の生徒で賑わいを見せていた。そして全員、プールバッグを持っている。

 そして、流石は日本政府が直接創立したというだけはあるのか、更衣室も男女別は当然の事、学年別に用意されていた。いったいいくらの税金が使われているのかと、私は考えずにはいられない。

 

「そんじゃあ、二十分後にここで集合で良いか?」

 

 プールへと通じる廊下を指さしながら、須藤くんがそう確認を取った。確かにここなら合流する事も容易いだろう。

 

「構わないわ。それじゃあ、また後で会いましょう」

 

 男女別に分かれる。

 私は櫛田さんと一緒に女子更衣室に入ると、部屋の隅にあるロッカーに向かった。ここなら視線もあまり多くは集まらないだろう。

 

「堀北さん、どんな水着を持ってきたの?」

 

「……あなたは何故さも当然のように、私の横のロッカーを使っているのかしら?」

 

「……? 一緒に来ているのに離れている方が逆に可笑しくない?」

 

 何を言っているんだと純粋な目で言われたら、私に断る術は無くなってしまう。

 仕方がないと割り切った私は、櫛田さんの存在を無視する事に決めた。ロッカーを開け、鞄を中に入れる。

 

「あっ、そう言えば堀北さんラッシュガード持ってきた? 学校の授業とは違って、着ても良いんだって!」

 

「……当然、持ってきているわ。男子たちの下卑(げび)た視線を不必要に集めたくないもの」

 

「あはは! 流石堀北さん! 自分の身体に自信がないと、今の発言は出来ないよ!」

 

 何が面白いのか、櫛田さんは声を立てて笑った。それから彼女は値踏みするように、私が着替えている所をジロジロと見てくる。

 

「うわぁ、肌白いね。お人形さんみたい」

 

「あなたね……さっきから一々何なのかしら。煽っているの?」

 

「えっ!? まさか!? ただ私は、思った事を言っているだけだよ!」

 

 心外だと言わんばかりに、櫛田さんは慌ててそう言った。男子たちが居ないからか、今の彼女は随分と調子に乗っている。

 周りから見たらいつもの櫛田さんに見えるのだから、本当に恐ろしいものね。

 

「あれ? 櫛田さん?」

 

 櫛田さんに声が掛けられる。人気者の彼女ならそれはいつもの事だけれど、その声主には私も聞き覚えがあった。私たちが揃って顔を向けると、そこにはクラスメイトの篠原(しのはら)さんと佐藤(さとう)さんが居た。

 

「あっ、堀北さんも居たんだ……」

 

 佐藤さんの失礼な発言は兎も角、こうして、Dクラスの女子生徒四人が集まった事になる。

 私は櫛田さんに会話を丸投げする事に決め、この間に着替えを終わらせる事にした。

 

「久し振りー! 最後に会ったのは、ケヤキモールで遊んだ時だったっけ?」

 

「うん、そうだね。私は元気だったけど、二人はどう? 体調とか崩してない?」

 

「うん、もちろん! 私も篠原さんも元気だよー!」

 

 きゃいきゃいと話を弾ませる櫛田さんと佐藤さん。篠原さんはその横で水着に着替え始めていた。

 そこで私は、篠原さんの纏っている雰囲気に違和感を覚える。私の記憶違いでなければ、彼女の性格を考えれば、話の輪に入っていても可笑しくない。

 

「櫛田さんは堀北さんとプール?」

 

「うん! あとは池くんと山内くん、須藤くんも居るよ!」

 

「うわぁ……三馬鹿トリオと一緒か……。変な事されないように気を付けてね」

 

「ご愁傷様(しゅうしょうさま)」と、佐藤さんが手を合わせた。それに櫛田さんは愛想笑いを浮かべる。

 その様子を見た私は苛立ちを覚えた。櫛田さんにではなく、佐藤さんにだ。

 久しく聞いてなかった、『三馬鹿トリオ』という言葉。これは入学当初に出来た渾名であり、池くん、山内くん、そして須藤くんの三人をさしている。

 確かにあの時の三人は、そんな蔑称を付けられても文句が言えない程に落ちぶれていた。彼らこそ正しく『不良品』に相応しい生徒だったと思う。

 しかし、あれから数ヶ月が経った今は違う。彼らの『先生』として間近で視てきた私だからこそ、それは違うと主張出来る。

 

「ほ、堀北さんどうしたの? ちょっと怖いよ?」

 

 佐藤さんが怯えたように、一歩、後ろに下がった。

 そこでようやく、私は佐藤さんを睨んでいた事に気付く。

 

「……何でもないわ」

 

 私はそう言うと、着替えを再開した。

 気まずい空気が、私たちの間に流れる。私は自分の未熟さに再度自虐しながら、少しでもこの場から離脱する為に動いた。

 

「ごめんね、佐藤さんが何かした訳じゃないの。たださっき、私が怒らせちゃっただけだから……」

 

「そ、そうなんだ……。良かったぁ……私、怖くて泣きそうになっちゃったよ……」

 

「大丈夫だから安心してね。佐藤さんたちは、今日は二人? 他の子は?」

 

「あー……今日は私たちだけなんだ。ほら、今、クラスの間に変な空気流れてるじゃん? 誘おうとは思ったんだけど、気が引けちゃって……」

 

「そっか……そうだよね。明日からの二学期、どうなるのかな……」

 

「私、心配で仕方がないの。軽井沢(かるいざわ)さんなんて、旅行から帰ってから一度も部屋から出てないらしいし……」

 

 櫛田さんと佐藤さんの会話は、何とも気になる内容だった。

 クラスの間に、変な空気が流れている? 

 それはまた実に抽象的な言い方だ。そもそも、今は夏休み。生徒たちは各々の友人を除き、クラスメイトと会う事はしない。

 だが、ここで嘘を吐くメリットもない。それはつまり、彼女たちの言葉が真実であるという事。

 あとで櫛田さんに確認しようと思いつつ、私は着替えを終えた。

 

「それじゃあ、私は先に行っているから。あなたも早く着替えなさいよ」

 

 一応櫛田さんに声を掛け、私は更衣室を出る。

 集合場所では既に、男子たちが待っていた。彼らは私の登場に喜ぶも、ラッシュガードを着ているのを見ると露骨に落ち込む。

 

「待たせたわね」

 

「お、おぅ……いや、待ってないけどな! それより、櫛田はどうしたんだよ?」

 

 須藤くんが目を逸らしながらも、そう聞いてくる。

 私は事情を説明し、櫛田さんの着替えが遅れている事を伝える。

 

「ごめん、お待たせ!」

 

 櫛田さんが早歩きで、更衣室から出てきた。私とは違い、ラッシュガードはしていない。そのあられもない姿に男子たちが鼻をだらしなく伸ばす中、櫛田さんは私たちと合流を果たす。

 

「思ったよりも早かったわね。あと数分は掛かると思っていたわ」

 

「本当はもう少しお話していたかったんだけどね、今日はみんなと来ているから。あまり待たせるのも悪いし」

 

 櫛田さんは再度「ごめんなさい」と謝罪した。男子たちはそれに、やはり顔をだらしなく歪めながら受け取った。

 兎にも角にも、これで全員が揃った。私たちは廊下を渡り、プールに出る。

 

「うっひょー! すげー! 想像以上だな!」

 

 山内くんが興奮を隠しきれずにそう叫ぶ。周りの生徒に迷惑だからやめてほしいが、そう言ってしまう気持ちも分からなくはなかった。

 施設が、普段とはまるで違う様相を見せているからだ。生徒で賑わっているのは当然として、様々な売店が並んでいる。

 

「こりゃ、すげぇな。まるで夏祭りみたいだぜ……」

 

 須藤くんが、そう、呟いた。それに呼応するように、池くんと山内くんが前に出た。

 

「おい、あれは射的か!? あそこにあるのは金魚すくいか!?」

 

「見ろよ寛治、焼きそばが売られているぞ! たこ焼きもある!」

 

 すげー! と驚嘆を口にする男子たち。いつもだったら周りから白い目を向けられるけれど、今日に限っては違うようで、生徒たちは一様にハイテンションだった。

 様々な種類の売店。須藤くんが言った、『夏祭り』というのもあながち間違いではない。

 だが私はそれ以上に一つ、気になる事があった。

 

「どういう仕組みなのかしら……?」

 

 売店を運営しているのが教師や学校関係者ではなく、生徒なのだ。しかも、一部だけではなく全てである。

 一年生ではない。そうなると、上級生という事になる。

 浮かべている表情は喜怒哀楽様々だが、一つ共通しているのは、彼らがとても真剣に取り組んでいるという事だ。

 

「……ねえ、堀北さん。これってもしかして……」

 

 私同様、違和感を覚えた櫛田さんが小声で話し掛けてくる。

 

「……『特別試験』、なのかもしれないわね」

 

 私が答えると、櫛田さんは鋭く息を呑んだ。

『特別試験』。クラス闘争をより熾烈に、より加速化させる為の舞台だ。

 私たち一年生は、無人島試験、干支試験という二回の特別試験を行った。

 そして当たり前だが、上級生もそれなりの回数をこなしているだろう。

 この売店も、特別試験が関係しているのかもしれない。

 

「おい見ろ、お前ら! あそこに流れるプールがあるぞ! すっげー!」

 

 何も気付かない男子たちが少し羨ましかった。

 もちろん、私のこれはあくまでも推測に過ぎない。全く見当外れの可能性は十分にある。

 だがその可能性を考慮してしまった今、彼らのように純粋な気持ちで楽しむ事は出来そうになかった。

 

「ほら、早く行こうぜー! プールは待ってくれねぇぞー!」

 

「そうだぞー! 時間は有限だぞー!」

 

 池くんと山内くんが催促してくる。須藤くんにいたっては我先にと流れるプールに向かっていた。

 私はため息を吐くと、彼らの後を追った。

 プールは三種類あった。スタンダードなプール、流れるプール、そして競技用のプールだ。人気度合い的には、競技用、流れるプール、そしてスタンダードだろうか。

 特に競技用プールにいたっては、現在、試合が行われているのか歓声が聞こえてくる。

 

「おいおい、有名人でも居るのかよ?」

 

 須藤くんが首を傾げてしまうのも仕方がない。

 人集りが二重にも三重にも出来上がっている所為で、肝心の試合は先頭に居る観客の特権となっている状態だからだ。余程見応えがある試合内容なのか、あるいは須藤くんが言ったように有名人が試合に参加しているのか。

 それは恐らく、後者なのだろう。観客の殆どは女子生徒で占められており、俗に言う、黄色い歓声が飛ばされているからだ。

 

「堀北さん、顔! 顔に出ているよ!?」

 

 櫛田さんが何か言ってくる。私はそれを無視すると、競技用プールを背にして歩き始めた。

 男子たちが慌てて追い掛けてくるのを感じながら、スタンダードプールへ足を動かす。

 

「まずは準備運動をしましょう。足をつって溺れでもしたら大変だわ」

 

「えー! けど他の奴ら、そんなのしてないぜ?」

 

 嫌そうに山内くんがそう言う。

 確かに彼の言う通り、殆どの生徒はプールにやって来るや否や飛び込んでいる。

 だが私に言わせれば、それは自殺行為だ。

 

「あなたたちはニュースを見ないのかしら? 僅かな水深でも人は溺れるのよ?」

 

「あっ、私それ聞いた事がある。2.5センチの家庭用プールで溺れて死んじゃった子供も居るんだよね」

 

「その通り。僅かな油断、慢心が命取りとなるの」

 

 分かったかしら? 無言で圧力を掛けて尋ねると、山内くんはコクコクと首を縦に振った。

 

「池くんと須藤くんも異論はないわね?」

 

 二人も頷く。

 

「俺はボーイスカウトで教わったからな。準備運動の大切さは知っている」

 

「俺も、部活の時はまずアップからするからな。身体を解さねぇと、万が一の時に動けねぇ」

 

 その言葉を聞いて、山内くんが「マジかよ」と呟いた。それから、真剣な表情を浮かべる。今のどこにスイッチがあったのかは疑問だったが、真面目に取り組むようならそれで良いと判断する。

 

「それじゃあ、始めよっか。あっ、でも恥ずかしいから場所を移そうよ」

 

「……まあ、それくらいなら良いわ」

 

 施設の隅に移動し、私たちは準備運動を行う。周りから冷やかしの声が何度か飛んできたが、須藤くんが「あァ?」と睨むと退散していった。

 こういう時、須藤くんは頼りになる。高校生離れした体格の良い彼に睨まれたら、大半の生徒は今みたいになるからだ。

 

「よく堪えたわね」

 

「ハッ、耐えるも何もねぇよ。あんな奴ら、構うだけ時間の無駄だ」

 

 Dクラスの中で、精神的に最も大きく成長したのは須藤くんで間違いない。入学当初にあった暴力性は着実になくなりつつある。気に入らない事があってもすぐに実力行使はせず、『間』を作るようになった。そして何が正しいのかを考えるようになった。

 

「あなたが活躍する日も近いかもしれないわね」

 

「当たり前だ。そうじゃなきゃ、俺を信じてくれたお前たちに恩を返せねぇよ」

 

「……それなら、『期待』しているわよ」

 

「っ! おう!」

 

 私なりの激励の言葉を贈ると、須藤くんは一瞬目を見開いてから、力強く頷いた。

 準備運動を終え、私たちはプールに入る。他の生徒も居る為空いているスペースを陣取り、私たちは遊ぶ事になった。

 

「堀北さん、そぉれ!」

 

 櫛田さんが可愛らしく声を上げながら水を掛けてくる。だがその威力は本物であり、私を攻撃をする気満々だった。しかも男子たちが見ていない時を見計らっているのが余計に腹立たしい。

 私は何とかそれを避けると、彼女に問い掛けた。

 

「覚悟は出来ているんでしょうね、櫛田さん」

 

「あはは、何の事? 私はただ、堀北さんと仲良く遊びたいだけだよ?」

 

「その笑顔を剥がしてあげる。そうすれば男子たちも幻想を捨てるでしょう」

 

「あはっ、堀北さんは難しい事を言うね」

 

 プツン、と私の中で何かが切れる音がした。

 いい加減に我慢の限界だった。私は両手で水を掬うと、それを遠慮なく櫛田さんに浴びせる。

 しかし、流石は櫛田さんと言うべきか。彼女はすぐ近くに居た池くんを盾にして自身の身を守った。

 

「ごべぇ!? な、何だよ堀北!?」

 

「そこを退きなさい、池くん。櫛田さんを落とせないわ」

 

「何言っちゃってんの!?」と、悲鳴を上げる池くん。そんな彼に、櫛田さんは上目遣いで言った。

 

「お願い、私を守って! 寛治くん!」

 

「喜んで! 桔梗ちゃ──ん!」

 

 池くんはそう言うと、威勢の良い雄叫びを上げる。そして櫛田さんを守るように、私の目の前に立った。

 それを見た私は呆れてしまう。

 

「あ、あなた……冤罪を掛けられた時に何とも思わなかったの?」

 

 無人島試験の時、池くんには一つの冤罪が掛けられた。クラスメイトの軽井沢さんの下着を盗んだというものだ。それはスパイとしてDクラスに潜入してきた伊吹さんの仕業だった事が判明し、彼に対する疑いは晴れているが、あの時の池くんは相当深い傷を負っていたように思う。

 あれから数週間経っているとはいえ、たったそれだけで癒えるとは思えない。

 そんな風に私が考えていると、池くんが心外だと言わんばかりに叫んだ。

 

「そりゃあ、思ったさ! 何で俺がこんな目にと思ったし、泣きもした!」

 

「それなら、どうして……?」

 

「決まってんだろ! 堀北、俺は俺だ! 可愛い女の子が好きなのは、変わんねえ! ただそれだけの事だ!」

 

 そんな馬鹿みたいな事を、池くんは宣言する。

 

「俺は、桔梗ちゃんを守る! この誇りにかけて! 俺を敵に回すという事はそういう事だぞ、堀北!」

 

 私はあまり読まないけれど、もしこれが漫画なら『ドドン!』とか、そんな効果音がつくのだろうか。

 謎の敗北感を抱く私を見て、山内くんと須藤くんが良くやったと池くんを褒め称える。

 櫛田さんもこの展開は読めていなかったのか、その顔には困惑があった。

 それから気を取り直し、私たちは遊びを再開した。

 

「よっしゃ、俺の勝ちだな!」

 

 スタンダードプールにはレーンが何個かあり、そこを使って競泳をした。

 結果は言うまでもなく、須藤くんの単独勝ちとなった。その次に私、櫛田さん、池くんと山内くんと同じくらいのランキングだった。

 

「凄いね、須藤くん。これなら高円寺くんにも勝てるんじゃない?」

 

 一学期の授業の時、男女別にタイムを測る事があった。その時の結果は、高円寺くんが一位で、その次が須藤くんだった。

 あれから数ヶ月が経ち、成長した須藤くんなら勝てるのではと櫛田さんは思ったのだろう。

 しかし、須藤くんの反応は微妙だった。

 

「いや……多分、まだ負けるな。あの時は分かんなかったけど、今は少し、分かる。俺はまだ、あの領域まで辿り着いてねぇ」

 

 それが、彼我の実力差を分析した須藤くんの結論。

 それを聞いた櫛田さんは不思議そうに首を傾げていたが、武道を習っていた私にはそれが分かる気がした。

 

「そろそろ流れるプールに行こうぜー」

 

 池くんの提案に乗り、私たちはスタンダードから場所を移し、流れるプールに向かった。

 ドーナツ型のこのプールは人工的に流れを起こしており、水が循環するように作られている。

 私たちは緩やかな流れに身を任せて楽しむ。

 

「これ、思ったより楽しくないな」

 

「だな。飽きるっていうか」

 

 最初ははしゃいでいた池くんと山内くんだったが、ふと我に返るとそんな事を言い出した。

 

「子供の時はもっとワクワクしたんだけどなー」

 

「それだけ、寛治くんが大人になったって事だね」

 

「そうかもしれないな!」

 

 褒められたと勘違いした池くんが、上機嫌にドヤ顔を浮かべた。

 世の中には知らない方が幸せな事があると思い、私は敢えて訂正しなかった。

 

「そろそろお昼ご飯食べよっか?」

 

 櫛田さんが時計を見ながら、そんな提案をしてきた。

 現在時刻は十一時三十分。売店を見ると、既にちらほらと列が出来始めている所がある。

 

「そうね。少し早いけれど、混雑したら大変でしょうから今のうちに済ませましょう」

 

 男子たちも「賛成!」と了承を得る。私たちはプールから上がると、売店が並んでいるフードコートに足を運んだ。

 そして、大きめのテーブルを陣取るのに成功する。

 

「男の子たち、先にご飯買ってきて良いよ。私と堀北さん、ここで留守番してるから」

 

「えっ、良いのか?」

 

「うん! ねっ、堀北さん?」

 

 私はそれに無言で頷くと、男子たちにその意を視線で伝える。彼らは「悪いなー」と言いながら、売店に向かっていった。

 

「何にしようかなー。堀北さんはどうするの?」

 

「まだ決めてないわ。適当な物にするつもりよ」

 

「あはは、堀北さんらしいかも。記念に美味しい物を食べたいとは思わないの?」

 

「私はそうしたいけどなー」とにこにこと言う、櫛田さん。

 私は付近に誰も居ないのを確認してから、彼女に尋ねた。

 

「あなた、今日はやけに私を目の敵にしてくるわね」

 

「あはは、何の事?」

 

「言い逃れするつもりなら、それはそれで構わないわ。ただ、これ以上は気を付けなさい。池くんたちもそろそろ気付くんじゃないかしら」

 

 特に池くんはそう言った空気に敏感だ。このグループの潤滑油は一見、目の前の櫛田さんだと思うかもしれない。

 だが、それは違う。このグループが成り立っているのは、池くんがそうするように上手く調整してくれているからだ。

 

「ほんと、堀北さんのそういう所が私は嫌い」

 

 櫛田さんから『嫌い』と言われるのはこれで二回目だ。

 

「表情、微塵も動かないんだね。普通なら大なり小なり反応するんだけどな。どこかの誰かさんにそっくり」

 

「その誰かは知らない。けれど私は自分の性格が、人からあまり好かれるものではないと分かっているつもりよ」

 

「何それ、自虐? それとも自分は高潔な存在なんだって、自慢しているの?」

 

 そう言いながらも、櫛田さんは笑顔だ。その内心は荒れに荒れているだろうに、それを悟らせないように笑顔を浮かべ、偽りの自分を演じている。

 

「あなたの在り方を否定するつもりはないわ。社会に出たら、自分の個人的な感情は持ち込めないもの。私はあなたのそれを、素晴らしい能力だと思っている」

 

「それはどうもありがとう」

 

「だからこそ、疑問があるわ。あなたは何故、未だに勉強会に参加しているの?」

 

 櫛田さんは本来、勉強会に参加する必要はない。自己学習を怠らなければ赤点などまず取らないだろうし、それ相応の努力を彼女はしている。

 嫌いな相手が主催している勉強会に参加するのは、櫛田さんにとって百害あって一利なしの筈だ。

 

「今日のプールもそうだけど、あなたは強引に私をここに連れてきた。それは何故?」

 

「どうして、かぁ……。うーん、そうだね……嫌がらせ?」

 

「つまり、答える気はないという事ね」

 

「さっすが堀北さん。理解が早くて助かるよ」

 

 はあ、と私はため息を吐く。そんな私を、櫛田さんは笑いながら見ていた。

 

「それなら、他の事を教えて頂戴。あなたに関するものではないのだから、それくらいはいいでしょう?」

 

「えー。池くんたちは迷惑掛けても良いのに、私は駄目なんだ?」

 

 可愛らしく首を傾げる櫛田さんを、私は強く睨む。すると彼女は両肩を竦めながら、

 

「答えられる事なら、教えてあげる」

 

 と、心底嫌そうに言った。

 

「さっきあなたが佐藤さんと話していた事について教えて。クラスに流れている『変な空気』って、何の事かしら?」

 

「はあ? 堀北さん、それ本気で言ってる?」

 

「私はいたって真面目よ」

 

 櫛田さんは暫く胡乱げな眼差しを送ってきていたが、ふと、何かに気が付いたように「あっ」と声を上げた。

 

「そっか、そう言えば堀北さん……」

 

 そして何やらブツブツと呟くと、何故か可哀想なものを見る目で私を見てくる。

 いったい何なんだと私が思っていると、櫛田さんは面倒臭そうにしながらも口を開けた。

 

「今、Dクラスの女子の間には不穏な空気が流れているの」

 

「……それはどう言う意味かしら?」

 

「言葉の通りだよ。それ以上でもそれ以下でもない。まあ、よくある事だよ」

 

 そう言うと、櫛田さんは口を閉ざした。

 

「待ちなさい、それじゃあ答えになってないわ」

 

「……私が口で言っても、堀北さんが事態の深刻さを理解出来るとは思わない。どうせ明日、学校に行けば分かるよ」

 

「そうだとしても、私には知る権利がある筈よ。違う?」

 

 しかし私が強気になっても、櫛田さんの態度は変わらなかった。

 

「知る権利、か……。堀北さん、これから堀北さんはDクラスを率いていこうと思っているんだよね?」

 

「……ええ、そのつもりよ」

 

 思う所がない訳ではない。

 だが平田くんの夏休みの中の言動を考慮するに、恐らくはそうなるだろう。

 

「これは善意なんだけどさ──今の堀北さんに、集団を率いる事は出来ないよ」

 

「……何故、そう思うのかしら?」

 

「簡単な事だよ。堀北さんは確かに、入学した時とはまるで違う。池くんたちや他の子と関わった事で、生きていくには他人が必要なんだって分かったんだろうね」

 

 まるで、私という人間、その全てを知っているかのような言い方。

 その言葉を聞いて、私は一つの確信を得た。だが私はそれを表に出さないよう注意する。

 

「でもそれは、最初の一歩に過ぎないよ。堀北さん、もっと周りを視ないと駄目。そうしないと、それはあなたの独り善がりになっちゃう」

 

 それはあまりにも、抽象的な表現だった。

 

「干支試験の時、堀北さんはA、B、Dクラスの生徒を集めてあんな作戦に打って出たけど、あれはとてもリスクのあるものだった。それは分かっている?」

 

「……ええ」

 

「とはいえ、確かにあの場では、堀北さんの考えた作戦が最も有効だったのも事実だけど。まさか正体を隠している『優待者』に名乗り出るよう言うだなんてね」

 

 私は数週間前の出来事を振り返った。

 船上で行われた干支試験は、龍園(りゅうえん)くん率いるCクラスの無差別攻撃によって、そのまま行けばCクラスの単独勝ちとなる所だった。

 龍園くんたちは『優待者』の法則性を見破ったのだ。自分のクラス三人分だけでは、試験の根幹には辿り着けない。それはつまり、何処かのクラスに『本当の裏切り者』が居るという事だ。

 その方法を、私は真似る事にした。A、B、そしてDクラスの生徒を集めて説得を行い、一時的な同盟を結ぼうと提言した。元々の同盟相手であるBクラスはすぐに了承、これ以上の敗北は避けたかったAクラスも渋々ながら了承した。

 それから私は各クラスから代表者を一人ずつ選定し、『優待者』は代表者にメールで名乗り出るようにした。そこからは簡単だ。九人分の『優待者』の情報、これだけの情報があって答えに辿り着けない方が可笑しい。

 

「まさか、干支の順番と参加者の氏名の五十音順が連動しているだなんてね。思いもしなかったよ」

 

 それこそが干支試験の根幹だった。

 

「答えが分かるとかなり拍子抜けだったけど、その発想を試験中に得るのは至難だよね」

 

「……あなたには感謝しているわ、櫛田さん。あなたがみんなの前で名乗り出てくれたおかげで、他の『優待者』も名乗り出る勇気が持てた」

 

 九人いる『優待者』、そのうちの一人こそが櫛田さんだった。彼女は自分の言葉と、『優待者』の証たるメールを堂々と見せる事で、他の『優待者』が動きやすい空気を作ってくれた。

 彼女の協力がなければ、作戦は失敗していたかもしれない。

 

「まっ、精々頑張って」

 

「心にも思ってない事を言うのね」

 

「あははっ」

 

 それ以上、櫛田さんは私と話すつもりはないようだった。

 

「お待たせ──―って、あれ? どうしたんだ?」

 

 池くんが昼食を携えて戻ってきた。私と櫛田さんの間に空気を敏感に感じ取ったのだろう、不思議そうに首を傾げる。

 私は「何でもないわ」と言って、彼が手に持っている物に言及した。

 

「焼きそばにしたのね」

 

「おう! 夏と言えばやっぱり焼きそば! これに尽きるぜ!」

 

「そう……私も同じのにしようかしら」

 

「それなら、あっちにあるぞー」

 

 そう言って、池くんは焼きそばの売店がある方向を指さした。私は椅子から立つと、池くんと櫛田さんに声を掛ける。

 

「私も買ってくるわ」

 

「それじゃあ、私も行こうかな。寛治くん、留守番お願いしても良い?」

 

「おう!」

 

 池くんに見送られ、私と櫛田さんはテーブルを離れた。

 

「また後でね、堀北さん」

 

「……ええ」

 

 櫛田さんとも別れ、私は売店に向かう。池くんが言うだけはあり、焼きそばは人気なのか数人の列が出来ていた。店の回転率を確認し、問題がなさそうなのでそのまま最後尾につく。

 

「いやー、しかし誰も相手になりませんね先輩。相手が弱過ぎて話になりません」

 

「……そうか」

 

「先輩、もっと楽しんで下さいよ。可愛い後輩と遊んでいるんですから」

 

 私は自分の耳を疑った。今聞こえてきた会話、その声主の一人に思い当たりがあったからだ。

 まさかと思いつつ、私は恐る恐る顔を上げる。そこには、二人の男性が立っていた。私には気が付いてないようで、話を続ける。

 

「しかし正直、先輩が来てくれるとは思っていませんでしたよ。これまでいくら誘っても、中々乗ってくれませんでしたからね。俺、悲しかったんですよ?」

 

「冗談はよせ。『可愛い後輩』が先輩に虐められるのを防ぐ為だ。その為なら重い腰も上げよう」

 

「ははっ、これは一本取られました。でも先輩、安心して下さい。俺はあの一年を『敵』だと思ってないんで。虐めるも何もありません」

 

「……『敵』だと思ってない、か。それなら、お前は俺の事を『敵』だと思っているのか?」

 

「うーん……これはまた難しい質問ですね。先輩の事は尊敬していますよ」

 

「答えになってないな」

 

「おっと、怒らないで下さいよ先輩。──真面目な話をしますと、今はまだ『敵』だと思っていません。今日先輩を誘ったのは、純粋に思い出作りの為ですよ。今のうちですからね、先輩と遊べるのは」

 

「……そうか。それなら俺も、今日という日を楽しく過ごすとしよう」

 

「そう来なくっちゃ! それでこの後なんですが、帆波(ほなみ)たち一年と合流したら交流試合をしようと考えていまして──」

 

 そこで、会話が途切れる。

 私の視線に気が付いた、金髪の軽薄そうな男性がこちらを振り向いたからだ。

 

「どうした? 俺に何か用か?」

 

 私はそれに何も答えられなかった。

 金髪の男性は暫く私の様子を訝しんでいたが、私の目が自分を捉えていない事に気が付く。

 

「へえ、先輩も中々隅に置けませんね。まさかこんな可愛い後輩と接点があっただなんて。(たちばな)先輩が悲しみますよ」

 

 面白そうにニヤニヤと笑う、金髪男。

 私が慌てて勘違いを訂正する前に、それまで沈黙していた眼鏡を掛けた男性──否、実の兄は億劫そうに口を開けた。

 

「お前のそれは二重の意味で邪推だ」

 

「いやいや、そんな訳ないでしょ。だってこの一年、最初から俺じゃなくて先輩を見詰めていましたもん」

 

「家族なのだからそちらを優先するだろう」

 

「へえ、家族ですか……──って、え? こいつがですか?」

 

 金髪男は驚いたようにそう言うと、兄さんをまじまじと見詰めた。だがいつまで経っても言葉を撤回しない兄さんを見て、冗談の類ではないのだと理解したようだった。

 

「これは驚きました。先輩、妹が居たんですね。初めて聞きましたけど」

 

「……言ってないからな」

 

「教えてくれたって良かったでしょう。先輩の妹なら挨拶に行きたかったのに」

 

 金髪男の苦情を、兄さんは無視した。

 

「初めまして、俺は二年Aクラスの南雲雅(なぐもみやび)だ。堀北先輩──お兄さんには、生徒会でお世話になっている。宜しくな」

 

 そう言って、金髪男──南雲先輩は友好的な笑みを浮かべながら私に手を差し出してきた。

 断っても良いが、そうすると兄さんの顔に泥を塗る事となる。私は出来る限りの愛想笑いで、それに応じた。

 

「初めまして、堀北鈴音(すずね)です。宜しくお願いします、南雲先輩」

 

「ああ、宜しくな『鈴音』」

 

 いきなり名前で呼んでくるのに、私は不快感を抱く。これまでの私なら腹を立てて睨んでいただろう。

 だが、今の私は違う。私は内心を隠してそれを受け流す。

 

「ところで、鈴音はどこのクラスなんだ? いや、聞くまでもないか。先輩の妹なら当然Aクラスか」

 

 当たり前のように、南雲先輩はそう言った。

 それに私は胸が締め付けられる。久しく感じていなかった痛みに、私は顔を歪めてしまう。

 

「……私は、Aクラスではありません。Dクラスに配属されました」

 

「おいおい、冗談はよしてくれよ鈴音。そんな詰まらないジョーク、何も面白くないぜ?」

 

「……嘘じゃありません。私は、『不良品』のDクラスです」

 

 最初は有り得ないと言わんばかりの表情を浮かべていた南雲先輩だったが、程なくして、嘘ではないと分かったようだった。

 

「そうか、悪かったな鈴音。辛い思いをさせただろう」

 

「……いえ」

 

 気まずい沈黙が私たちの間に流れる。

 

「南雲、俺たちの番だ。早く注文するぞ」

 

 兄さんが南雲先輩に声を掛ける。見ると、次の順番は兄さんたちだった。

 

「それじゃあ鈴音、俺と先輩はもう行く。傷付けてしまった謝罪はまた今度させてくれ」

 

 南雲先輩はそう言うと、先に会計を済ませていた兄さんを慌てて追い掛けていった。

 私は遠ざかっていく彼らの背中を──兄さんを見送る事しか出来ない。

 

「……」

 

 兄さんと会うのは、これで二回目。そして二回目とも、私は兄さんとまともに口を利く事さえ出来なかった。

 私は、あの時よりも成長している筈だ。その実感は確かにある。

 だが成長しても、私は兄さんと目を合わす事すら出来なかった。私は何も言えなかったし、兄さんも私に何も言わなかった。

 

『ところで、鈴音はどこのクラスなんだ? いや、聞くまでもないか。先輩の妹なら当然Aクラスか』

 

 南雲先輩の悪意なき言葉が、私の精神を蝕む。

 

「……弱いわね、私は」

 

 

 

 

§

 

 

 

 それから私はみんなの所に戻り一日を過ごしたが、正直、午後の記憶はあまりない。競技用プールが午前よりも賑やかだった事は何となく覚えているが、それ以外は特筆すべき事はなかった気がする。

 帰宅した私は、靴を脱ぐとそのままベッドの端に腰掛けた。窓から覗き見える空は茜色。まだまだ夏は続くと言わんばかりだ。

 

「明日から、二学期が始まる……。もっと、頑張らないと……」

 

 そう、立ち止まっている時間はない。

 走り続けなければ、『勝つ』事は出来ないのだから。

 



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第六章 ─螺旋階段─
間違い続けている『寄生虫』の独白


 

 突然だが、私の懺悔を聞いて欲しい。

 

 ──()()()()()()

 

 人生に於いて、人は望もうが望まないが『分岐点』に立つと思う。

 一生が百年という長い年月にまで伸びてしまった現代の文明社会に於いて、その『分岐路』は一個や二個じゃない。

 もちろん、個人差はあるだろう。だが『それ』は確かにあり、私たち人間はそれに直面する度に自分が進む道を選んでいる。

『それ』は、ゲームのように失敗したらリセットする事は出来ない決断だ。

 そして決断するのは、当事者たる自分自身。

 誰かに委ねることは決して(ゆる)されない『それ』は、使命とも言えるかもしれない。

 

 私はそれが、嫌で嫌で仕方がなかった。

 

 星の数ほどある選択肢の中から『正解』を探し当てるのは容易なことではない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。その逆も然りだ。

 私たちはいつも、より良い未来を夢想している。

 そして、その責任を負えるのもまた、自分だけだ。それは罪を犯すようなものであり、自分だけが抱えられるもの。誰かに譲渡することも、誰かに負担を共有することも認められない。

 そうして、私たちは今この瞬間を生きている。

 

 私はそんな人生が、大嫌いだ。

 

 私が『明確な間違い』を選んでしまったのは、中学生の時だった。

 それまで順風満帆に楽しく中学校生活を送っていた私は、たった一度の『選択ミス』であっさりと転覆した。

 覆水盆(ふくすいぼん)(かえ)らず──ということわざがあるように、一度起きてしまった出来事は二度と元には戻らない。

 今でも脳裏に焼き付いて離れない、当時の光景。

 力無く項垂れて涙を流す私を見て(わら)う、醜悪な獣たちの姿。

 あの時の惨めさ、情けなさ、受けた屈辱は少し思考するだけで想起される。そして、光が見えない暗闇と絶望を決して忘れはしない。

 

 私は次の『分岐路』で誤った道を選ばないよう、それだけを考えて最低で最悪な中学校時代を過ごした。

 

 そして、私は高度育成高等学校へ入学を果たした。

 

 私は過去の経験を活かし、入学して早速行動を起こした。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、クラスの女子たちを率いる『女王』として気丈に振る舞った。

 もちろん、これらは全て虚像であり本来の私からはかけ離れている。

 私の過去を知っている人物が見たら抱腹絶倒ものだろう。

 いつかボロが出て、私の正体が割れてしまうかもしれない。そう考えると、身体の震えがとまらなかった。だが私はそのリスクを承知の上で行動し、仮初の平穏を摑み取った。

 そうして、私は今の私を確立した。学校の異質性には驚いたが、クラス闘争なんてものは私には関係のないことだと思っていた。Aクラスになれずとも普通の学校生活を送れればそれで良いと思っていた。

 私は、安堵していた。これで私の生活を脅かす危険分子は無くなったのだと思い込み、愚かな私は過去の出来事をいつしか忘れていた。

 否、忘れ去ろうとしていたのだ。記憶の彼方へ押し込み、過去を無かったことにしようとしていたのだ。

 

 その代償を、私は払うこととなった。

 

『あの時』と同じだ。何も考えず楽して取った選択が、私を今苦しめている。

 浅はかな私を嘲笑うかのように、現実を突き付けてくる。

 

『不良品』と呼ばれ、他クラスから蔑まれている私たちDクラス。

 だがこの一学期で、皆、少しづつ『成長』している。あれだけ馬鹿にされていた三馬鹿トリオも、見違える程大きくなった。

 

 だが、私はどうだろうか。

 

 ()(なか)(かわず)大海(たいかい)()らず。私は小さな世界で満足してしまい、外へ目を向けようとしなかった。

 いつしか私は井の中に取り残され、誰も居なくなっていた。

 

 私が今置かれている状況は『最悪』の一歩手前だ。

 

 だがそれも、夏休みという時間があったからに過ぎない。

 クルージングが終わり寮へ帰ってから、私は一度も部屋から出ていない。ここだけが唯一の逃げ場であり、一歩でも外に出れば最後、悪意が私を襲うと確信している為だ。

 

 時間が解決すると淡い期待をしていたが、寧ろ、問題はますます深刻化していた。

 

 だから私は、唯一の味方──否、『寄生先』に助けを乞うた。

 その人物がこの問題を解決出来ると信じ、恥も外聞なく助けて欲しいと縋り付いた。

 

 その人物は私を助ける代わりにある条件を提示してきた。

 それは、とても簡単に達成出来る条件とは言えない条件。

 

 だがしかし、私はその条件を呑めなかった。

 

 差し出された救いの手を衝動に駆られるがままに払い除けた私は、愚者にも程があるだろう。

 だが提示されたその条件は『最善な方法』ではあっても『最良の展開』を迎え入れられるかは分からないものだったのだ。

 そのリスクが少しでもあるのなら、私はその選択を取れない。

 

 なんて都合の良い考え。なんて自分勝手な人間なのだろうか、私は。

 

 私はその人物に罵詈雑言を浴びせた。問題の本質を何も分かってないと、あらん限りに罵倒した。もっと上手く助けろと上から目線で詰りもした。

 そうして、その人物との繋がりもなくなった。

 というか、携帯端末の電源を切って音信不通にしているのが正しい。誰かからの着信を見る勇気すら、今の私にはない。

 ただ、私が餓死で死なれては困るのだろう。食料だけは毎朝、日の出がない早朝、玄関前に置いてくれている。私は外に誰も居ないのを確認しながら、それを回収し一日を過ごす。

 

 なんて惨めなんだろう。

 なんて情けないんだろう。

 

 唯一の拠り所すら自業自得で失ってしまった私は、ひとりで生きていけない弱い『寄生虫』そのものなのだ。

 

 明日から、二学期が始まる。間違い続けている私に、『正解』が選べるとは到底思えない。

 絶望が、すぐそこにまで近付いていた。

 



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