子猫と令嬢に愛された青年は、修羅場の海を懸命に泳ぎ続ける (ソノママチョフ)
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前編 二人の「カノジョ」
「てんし」と「あくま」


 その年の梅雨入りが宣言されてから、ちょうど一週間後の金曜日。

 そこかしこに緑が見え、テレビや週刊誌の「住みたい街」ランキングに載ることもある首都圏の住宅地にて。

 

 街はこの日も雨に見舞われていた。

 夜になった今も降り続いて、姿を現しているはずの月をも隠している。

 

 街の中心部からは少し外れた場所に長い坂があった。

 雨音と水の流れが続くその坂道を、一人の青年が小走りで登っている。

 

 青年は、やや癖のある髪をしていた。

 顔立ちは柔和で、まだ少年の面影が残っている。

 体格は成人男性の平均よりもわずかに大きい。

 全体的には由緒ある家柄の子弟を思わせる、穏やかで整った容姿をしていた。

 多くの人が良い印象を抱くであろう、好青年である。

 

 もっともそんな感想を本人に伝えれば、間違いなく苦笑が返って来るに違いない。

 彼は名家の生まれなどではない。

 それどころか今は天涯孤独の身であった。

 

 母親は青年が幼い頃、他界していた。

 以降、男手一つで育ててくれていた父親も、この年の初めに失っている。

 それも青年の目の前で、交通事故によって亡くなったのだ。

 

 父親は生前、青年には愛情をもって接してくれていた。

 ただし母親が亡くなってからは、女性というものの存在を、自分の周囲や家庭内からも消し去ろうとしていた気配があった。

 おかげで青年も男子校へ通わされたのに始まり、女性に縁のない生活を強いられていた。

 そのため青年は成長した今も、女性への接し方に悩むことが多々あった。

 

 父親は母親との馴初めについては滅多に語らなかった。

 ただ時折、ぽつりぽつりと断片的な事柄を伝えてくれたので、青年も当時のことをある程度までは把握できていた。

 二人の交際については双方の親族が大反対したらしい。

 結婚する時も駆け落ち同然だったようで、以降、父母は親族と絶縁状態になっていた。

 

 実際、青年も親戚という存在には会ったことがない。

 それでも実家の連絡先は教えてもらっていたので、父親が亡くなった際、青年は連絡をとっている。

 しかし葬儀への参列者や弔電等は、親族からは無かった。

 

 もっとも青年は当時、喪主を務めて慣れない仕事に忙殺されていたので、親族たちの非情さに憤慨する暇もなかった。

 それに葬儀が終わった後は新生活の準備もあり、彼らのことなど次第に忘れてしまっていた。

 

 

 

 

 青年が、道端の暗がりにある何かに気を惹かれた。

 一定のリズムで続けていた足運びを停止する。

 青年の黒い瞳に段ボール箱が映った。

 

 箱の中では、濡れそぼった白・茶色・黒の三色の毛並みを持った猫が小さな体を震わせていた。

 隣には雨で破れかけた紙も入っている。

 そこには「どなたかもらってください」と記されていた。

 

「これは間違いないな。完璧な捨て猫だ」

 

 情景を見て、なぜか納得したように青年は呟く。

 子猫と青年の視線が、交差した。

 

 子猫の瞳は右が黄色、左が青色だった。

 表情からは、助けを求めるというよりも威嚇しているような気配が感じられる。

 しかし青年は気にすることなく、優しく箱ごと子猫を抱え上げ、話しかけた。

 

「幸い俺のアパートはペット可だ。女気もない。そんな俺が新しい家族を作るとなると、まあペットを飼うしかない訳で」

 

 にこりと微笑み、口調を励ますようなものに変える。

 

「そんな俺に出会えたんだ。今までは不幸だったようだけど、おまえこれからはきっとついてるぞ」

 

 子猫は理解したのか、しないのか。

 依然として青年を見つめたままだった。

 ただ少なくとも、箱の中から逃げ出そうとはしなかった。

 

 

 ──────

 

 

 首都東京の、まさに中心部。

 数多くのオフィスビルが立ち並ぶ中。

 特に周囲の目を惹く、美しい、特徴的な外観をした建物があった。

 

 その建物は白と銀を基調とした色合いをしていた。

 双子のように並び立った二つのビルを、渡り廊下でつなげている。

 陽光を取り入れるため窓も多数、設けられていた。

 

 正門ちかくの目立つ場所には、青い、大きな看板が設置されていた。

 そこに記されているロゴは日本で五本、いや三本の指に入るであろう、名の知れた自動車メーカーのものである。

 

 地上部分は二十階にも至り、地階も三階まで築かれている。

 四階には社員用の食堂が設けられていた。

 そこは昼休み時ともなると、スーツや作業着を着た社員達でごった返し、大変な喧騒を見せる。

 

 忙しなく会話を続ける者。

 トレイに料理を乗せ空席を探す者。

 それら様々に行動する人々の中に、窓近くの席で向かい合う、男性二人の姿があった。

 そのうちの一人は、子猫を拾ったあの青年である。

 彼は対面にいる銀縁メガネをかけた肥満気味の男に、笑いながら話かけていた。

 

「それでさあ、ミーコが可愛いんだよ。昨日も俺のベッドに入ってきて。あいつのためにちゃんと寝床を買ってやったのに、俺の隣がいいって……」

「うるせえぞ耕作(こうさく)! 何回目だと思ってるんだ、その話!」

 

 銀縁メガネの男が怒鳴りつけるようにして会話を遮った。

 青年──耕作は、意に介さない風で答える。

 

「何回目って、今日はじめてだが」

「そうじゃねえ。昨日も、一昨日も、その前も、似たような話をさんざん聞いたわ!」

「そうだっけ、忘れてたわ」

 

 耕作は、あっけらかんと答えた。

 銀縁メガネの男は苛立たし気にラーメンをかき混ぜる。

 

「大体おまえがその子猫を拾ったのは何ヶ月も前だろう。なんで最近になって急に惚気だしたんだ。口を開けばミーコ、ミーコって」

 

 質問されても、耕作はすぐには答えなかった。

 カレー皿へスプーンを置き、手を組み、神妙な顔をする。

 それから後、逆に問いかけた。

 

良太(りょうた)、一月ぐらい前に何か大きな事件がおまえに起きなかったか?」

 

 銀縁メガネの男──良太は、首を捻り悩む素振りを見せた。

 だがそれも、わずかな間のことだった。

 すぐにだらしない笑みを浮かべる。

 

「俺と香奈(かな)たんが付き合い始めた」

「たんって言うな、気持ち悪い。そこでだ、わが友よ。俺がミーコについて語るのを止めたら、ここで何が起きるであろうか?」

「俺が香奈たんの素晴らしさを延々と話すことになるな」

 

 なるほど、それが原因か。

 と言って良太は何度も頷いた。

 耕作は忌々しそうにカレーを口に放り込む。

 その姿を見て、良太はわざとらしくため息をついた。

 

「しかしなあ、耕作よ。友人の惚気話に対抗するためにペットの惚気話を持ち出したりして。空しくはならないのか、おまえは」

「空しい」

 

 耕作は即答した。

 

「だったら、おまえも彼女を作ればいいだろ」

「作れるもんならとっくの昔に作ってるわ。非モテ同盟結成していたくせに、この裏切り者」

「というかだなあ……おまえ見栄えはいいじゃないか」

 

 もしこの場に十人の女性がいるとして。

 耕作と良太、どちらかと付き合わなければならないと言われたら、九人までは耕作を選ぶだろう。

 良太はそう言って、友人を励ました。

 

 もっとも最後に、

 

「まあ香奈たんは絶対に俺を選ぶけどな」

 

 と言って、結局のろけてしまっていたが。

 

「最後のを言いたいだけだろ」

 

 言い返しつつ、耕作は考える。

 

 自分でも、容姿はそれほど悪くないはずだという自信はある。

 ただの自惚れかもしれないが。

 

 しかし女性を前にすると、どう対応していいか分からなくなってしまうのである。

 この性分のおかげで、これまでの人生、彼女を作るチャンスをことごとく潰し今に至ってしまっていた。

 女性と良い雰囲気になったり、好意を寄せられてるのではないかと思うことも何度かあったのだが。

 結局、うまくいっていない。

 

「いっそダメ元で、秘書課の河原崎(かわらざき)さんにでもアタックしてみたらどうだ」

 

 良太の提案に、耕作は渋い顔を見せた。

 

「そんな残酷なことを言うなんて。それでも友人かおまえは」

「美人だし、性格もいいって評判だろ」

「我が社の、創業者一族の御令嬢に特攻して失敗したら、俺の社内での立場はどうなるんですかね」

「知らん」

 

 友人の温かい返答を聞き、耕作は毒気を抜かれたような顔になる。

 しばらくして肩をすくめると、コップに残っていた水を一気に飲み干した。

 

「ま、俺にはミーコがいるよ。それに今は不満なんかない」

 

 負け惜しみとしか言いようがない台詞を告げて、耕作は立ち上がる。

 良太もやれやれとばかりにため息をついてから、席を立った。

 

 

 ──────

 

 

 耕作の住むアパートは、最寄りの駅から住宅街を通っている一本道の坂を登り切ったところにある。

 築二十年は経っているという代物だ。

 だが古さの割に全体的には小奇麗な外観をしている。

 壁面も白色で丁寧に塗られていた。

 またペットの飼育も許可されており、そのため防音対策も万全であった。

 

「ミーコ、帰ったぞー」

 

 帰宅した耕作が、玄関の扉を開けるや否や。

 三毛猫──ミーコが部屋から駆け出してきた。

 甘えるように鳴き、耕作にまとわりつく。

 数か月前のみすぼらしい姿が嘘のように、毛艶もでて美しくなっていた。

 

 ミーコは身体をさかんに耕作へこすり付けていた。

 やがて耕作が手にしているレジ袋に興味が移ったらしく、それを嗅ぎまわる。

 耕作が中から刺身のパックを取り出すと、瞬時に飛びついた。

 

「いたたたた! やめろ、やめろって!」

 

 抗議の声を上げてはいるが、耕作の顔は笑ったままである。

 彼はミーコを抱えて部屋へ入って行きながら、

 

「毎日ミーコに出迎えてもらえる俺は、幸せだ」

 

 と、改めて思っていた。

 

 

 

 

「ご馳走様でした」

 

 食事を終え、耕作は挨拶する。

 と言ってもミーコの他、室内には誰もいない。

 だが「挨拶はきちんとするように」と、父から厳しくしつけられていたので、一人でもその習慣は守っていたのだ。

 ちなみにミーコはかなり前に食事を終えて、今は耕作の膝の上でまどろんでいる。

 

 ミーコの首筋を撫でながら、耕作は昼間の会話を思い出していた。

 女性と付き合うとどういう気持ちになるのだろうか。

 嬉しいものなのか。

 楽しいものなのか。

 耕作には漠然として分からない。

 

 しかし良太は香奈と出会い、変わった。

 それまでの彼は神経質で、しょっちゅう不機嫌そうな顔をしていた。

 だが今は、世界の幸福を独り占めしているかのような笑みを四六時中うかべている。

 

 耕作はその笑顔に可愛げなどは感じない。

 どちらかと言えば小憎らしいとすら思っていた。

 しかしその満面の笑みを思い浮かべているうち、耕作はふと、独り言ちていた。

 

「俺も彼女がほしいなあ」

 

 それからぼんやりとベッドに本棚、それから机とイスにパソコンが並んだ特徴も色気もない、殺風景な部屋の中を眺めていた。

 

 しばらくの後。

 耕作は誰かに見つめられているように感じていた。

 周囲を見回す。

 目を下に向けた時、膝の上から耕作へと向けられている、ミーコの視線に気が付いた。

 

 ミーコの黄色い右目と青い左目に問いかけられているように感じ、耕作は慌てて言い訳めいたものを口にする。

 

「あ、違うぞミーコ。彼女が欲しいって言ってもミーコに不満があるわけじゃない。そもそもミーコは家族な訳だし。家族と彼女は別腹、じゃなかった別物で……」

 

 話を続けるうち、猫に弁解している滑稽さに耕作も気が付いた。

 わざとらしく咳払いした後、ミーコを床に降ろし夕食の後片付けを始める。

 

 その姿もミーコはじっと見つめていた。

 

 

 ──────

 

 

「コーサクは食事をくれるし、気持ちのいい暖かいベッドで寝かせてくれるし、先にフワフワのついた棒で遊んでくれるし、愛してくれる……」

 

 その夜。

 ミーコはベッドの中で耕作に抱き付きながら、考えていた。

 もっとも子猫の思考なので、実際はここまでハッキリとしたものではなかったが。

 

「コーサクは私が欲しいものは、なんでもくれる。なんでも。でもコーサクは何も欲しがらなかった。今日までは。……『カノジョ』ってなんなのかな? コーサクが欲しがるぐらいなんだから、手に入れるのがすっごく難しいものなんだろうけど。でも、私が『カノジョ』を手に入れれば……」

 

 暖かく、愛情に溢れた温もりの中。

 ミーコはただ耕作を想い続ける。

 

「『カノジョ』をプレゼントしたら、きっとコーサクは喜んでくれる。もっと愛してくれる! ……でも私が手に入れる必要はないんだよね。『カノジョ』がコーサクのものになれば、それでいいんだ。どうかコーサクが『カノジョ』を手に入れられますように……」

 

 その願いは、ミーコが眠りに落ちるまで続いた。

 

 

 

 

 朝の訪れのような眩い気配を感じ、ミーコは目を開ける。

 途轍もない光を発している白い塊が、目の前に浮かんでいた。

 

 その存在にミーコは驚き、さらに別の異変も感じていた。

 ミーコは布団の中にいるはずなのに、部屋の中を見渡せていたのだ。

 急いで耕作を起こそうとしたが、身体が動かない。

 

 唖然とするミーコの前で、光の塊は徐々にその形を変えて行く。

 人型になり。

 白い衣をまとった少女となり。

 背から白く輝く羽を生やし、頭上に金色の輪を浮かべた。

 

 少女は「てんし」と名乗った。

 布団の存在などないかのようにミーコの額に手を添え、さらに語りかける。

 

「おめでとう。あなたの相手を思いやる純粋な心を、神様は愛されました。願いをかなえて下さるそうです」

 

 頭の中に直接響いてくるような、不思議な声だった。

 ミーコが聞いたことのない単語が、話の中には含まれていた。

 にもかかわらず、ミーコは話の意味を完全に理解できていた。

 

 話し終ると少女は再び姿を変え、光の塊に戻る。

 段々と明度を落としていくと、最後は蝋燭の炎のようになり、そのまま消えてしまった。

 

 

 

 

 ミーコは呆気に取られていた。

 しばらくして我に返ると、少女の去った部屋の中で狂喜する。

 

 願いがかなう! 

 コーサクは「カノジョ」を手に入れられる! 

 コーサクの役に立てたのだ! と。

 

 喜びを爆発させ、部屋の中を駆けずり回ろうとした、その時。

 ミーコは、まだ身体が動かないことに気がついた。

 

 次の瞬間。

 部屋の中央に今度はあらゆる光、色彩を飲み込んでしまったかのような闇の塊が現れたのを目にする。

 

 その塊も徐々に形を変えていった。

 人型になり、黒いタキシード姿の男となり。

 背中から禍々しい、虫のような翅脈が入っている羽を生やした。

 

 男は「あくま」と名乗った。

 やはりミーコの額に手を添え、語りかける。

 

「おまえの美しい魂を俺に渡せば、願いをかなえてやろう」

 

 その声も頭の中に直接ひびいてくるようなものだった。

 しかし先ほどとは違い、ミーコは言葉の意味を漠然としか理解できなかった。

 

 ミーコは先刻の少女の言葉を思い出す。

 そして、既に願いはかなえられたのでその必要はない、と男の申し出を断った。

 

 男は再度、ミーコを誘惑した。

 

「神がおまえの願いをかなえるのは、承知している。その上で俺も願いをかなえてやる。つまりそこに寝ている男は『カノジョ』を二つ、手に入れられるのだ。多いほうが男も喜ぶのではないか?」

 

 ミーコは考える。

 確かに欲しいものが手に入るのなら、一つよりも二つの方が耕作も喜ぶだろう。

 そのためならば自分の魂など──魂の意味も漠然としか理解できなかったが──惜しくはないと。

 

 決断は早かった。

 ミーコは男と取引することにした。

 

 男は喜び姿を変え、闇の塊に戻る。

 光の時とは異なり、闇は消えることなく四方八方へ広がっていった。

 部屋全体が闇に包まれると同時に、ミーコは深い眠りに落ちていった。

 

 

 ──────

 

 

 翌朝。

 耕作はミーコの様子に異変を感じていた。

 と言っても、具合が悪そうに見える、というような類のものではない。

 むしろいつもよりも元気にすら見えている。

 

 それでも耕作は、ミーコの仕草に違和感を覚えた。

 歩く時の足の、微妙な角度の違い。

 あるいは鳴き声の、わずかな高低の差。

 そういった普段との小さな差異に、耕作は気づいたのだ。

 実はまだミーコは眠っていて、その身体を誰かが操っているのではないか、などという考えすら耕作は抱いていた。

 

 ただし先にも述べた通り、病気には見えない。

 明らかに異常な行動をしているという訳でもない。

 話しかければちゃんと反応するし、じゃれついてもくる。

 ミーコを可愛がるあまり心配性になっているのかもしれない、とも耕作は思っていた。

 

 それでも不安はぬぐいきれない。

 早朝にもかかわらず近所の動物病院に連絡をとっている。

 しかし返答は、

 

「とにかく一日、様子を見て下さい。それでも心配だったら明日つれてきて下さい」

 

 というものだった。

 実際、客観的にはどこにも異常は見られない訳で、アドバイスの仕様がないのだろう。

 

 適当な理由をつけて会社を休んで側にいようか、とも耕作は考えた。

 だがそれを実行してしまうと、社会人失格であろう。

 耕作も諦めざるを得なかった。

 

「じゃあミーコ、行ってくる」

 

 言い様のない不安を抱えたまま。

 耕作は、部屋を出た。



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変化

 この日も耕作は、昼休みには良太と食堂に行くつもりだった。

 ところが良太は来客の対応をしなければならなくなっていた。

 耕作は食堂に行く気も削がれ、外出する。

 

 季節は春。

 陽光は暖かく、オフィス街にもどこからか樹々の香りと鳥のさえずりが流れてくる。

 心地良い風を受けた耕作は、外で食事をするのも悪くない、と思っていた。

 コンビニで弁当を購入した後、適当な場所はないかと辺りを見回す。

 

 その時。

 穏やかな空気を切り裂く高く鋭い悲鳴を、耕作は聞いた。

 反射的に声の出所に目を向ける。

 

 横断歩道の中央に一人の女性がいた。

 そこに大型のトラックが、猛スピードで突っ込んできている。

 

 歩行者用の信号は青だった。

 それでも運転手が居眠りでもしているのか、もしくは機器トラブルでもあったのか、トラックはスピードを緩める気配がない。

 

 だが、深く考える余裕など耕作にはなかった。

 レジ袋を放り投げ、間髪入れずに飛び出したら。

 彼の脳裏には、今と同じような状況で大型車両に跳ね飛ばされた、父親の姿が浮かんでいる。

 目の前で人が死ぬなど。

 たとえそれが他人であっても、そんな経験はもうまっぴらだった。

 

 しかし冷静に状況を見れば、女性を助けるのは絶望的と言えた。

 飛び出した時点で女性との距離は、耕作よりもトラックの方が近かったのである。

 彼我の速度の差を考えれば、なおさら追いつくはずもない。

 しかしそれでも、耕作は足を止めなかった。

 

 耕作の視界が、突如として白く染まった。

 トラックが爆発したのではない。

 太陽が生まれ出でたかの如く、巨大な光の塊が、いきなり耕作の眼前に現れたのだ。

 その眩しさに、耕作は思わず瞼を閉じた。

 

 数秒後、目を開ける。

 耕作は腕の中に先の女性を抱え、歩道上で突っ伏していた。

 自分でも何が起きたのか理解できず、呆然とする。

 

 周囲の通行人、特に女性の同僚らしき人々から驚きと称賛の言葉が雨の様に降り注いできた。

 だがそれらの声は耕作の耳には入ってこない。

 女性がうつ伏せになったまま動かなかったので、そちらに気を取られていたのだ。

 

 ショックで失神したのかもしれない。

 耕作はそう思い、救急車を要請するよう周囲に呼びかけようとした。

 

 しかし、彼が声を発するよりも早く。

 腕の中で女性が動き始めた。

 意識を取り戻したのか、起き上がって耕作に向き直る。

 彼女の顔を見て、耕作は息を飲んだ。

 

 そこにあるのは、白く美しい肌。

 黒く澄んだ大きな瞳。

 長い髪は黒絹のように麗しく流れていた。

 

 身体は女性らしい起伏に富んでいる。

 有名ブランドのスーツに包まれていても、スタイルの良さがはっきりと分かった。

 

 完成された容姿は、ともすれば近寄りがたい雰囲気すら感じさせそうではあった。

 しかし柔らかそうな口元が、それを絶妙なバランスで食い止めている。

 まぎれもない、掛け値なしの美女である。

 

 この女性を耕作も良く知っていた。

 彼女の名は河原崎静音(しずね)

 耕作が勤める会社の創業者一族、その令嬢である。

 

 

 

 

「いや、そんな大したことしたわけじゃないですし……」

 

 お礼に昼食を御馳走させて欲しい。

 という静音からの申し出を、耕作はそう言って断った。

 しかし静音は半ば強引に、同僚との約束も反古にして耕作を何処かへと連れていく。

 

 そして現在はというと。

 耕作は、これまで足を踏み入れたこともない高級志向の洋食店にいた。

 そこで長ったらしい名前のランチを食べながら、居心地の悪さを感じ、沈黙に耐えていた。

 女性を相手にすると、やはり何を話せばいいのか分からなくなってしまうのである。

 

 耕作は父親を深く尊敬していた。

 だが女性に対する苦手意識を植え付けられた点についてだけは、恨みがましい感情を抱かざるを得ない。

 父親本人はともかく、息子まで母親への愛情に殉じさせる必要があったのだろうか。

 などと愚にもつかないことを、彼は考えていた。

 

 ふと我に返る。

 女性を前にして一人で思考に沈んでしまっていた。

 失礼なことをしてしまったと、激しく後悔する。

 

 つまらない男ね、と静音もさぞ呆れているだろう。

 そう思い、改めて彼女の顔を見直した。

 

 耕作の予想は外れる。

 静音は微笑みを絶やさないまま、彼を眺め続けていたのだ。

 

 さすがにこれは状況を打開しなければならない。

 耕作は決心し、口を開こうとした。

 

 だが静音の、鈴を転がすような声によって遮られる。

 

「女性と話すのが苦手なのでしょう? 無理はなさらないで下さい」

 

 自分の情けない態度を見て、憐れみを持ったのだろうか。

 耕作はそう思い、少なからず落ち込んだ。

 

「いえ、違うんです」

 

 耕作の心情が、表情にも表れていたのだろう。

 静音は慌てて発言を訂正した。

 

「私、よく存じ上げてます。吉良(きら)さんのこと」

「え?」

 

 素っ頓狂な声を、耕作は上げてしまっていた。

 吉良というのはつまり、彼の名字だった。

 

 

 ──────

 

 

 その日の夜。

 耕作はいつもの坂道を、小走りというよりも小躍りといった方が良いであろう足並みで上っていた。

 浮足立ち、満面の笑みを浮かべる彼の姿をもし良太が見れば、普段の自分を棚に上げて背中を蹴飛ばしたに違いない。

 耕作の脳内は今やお花畑で埋まり、昼間の静音との会話を延々と再生していた。

 

 静音は確かに耕作のことを知っていた。

 それも噂話を聞いている、という程度のことではない。

 耕作の所属部署や交友関係、さらには趣味や食事の好き嫌い、他にも諸々に至るまで。

 ほとんど全てと言っていい事柄を知っていたのだ。

 

 しかも驚愕した耕作に対し、彼女は、

 

「以前から、ずっと吉良さんのことを見てましたから」

 

 と告げたのだ。

 

 女性経験が皆無に近い耕作といえども、それが告白とほぼ同義の台詞だということは分かる。

 さらに彼女は、切っ掛けを作ってくれたドライバーには感謝している、とまで言っていた。

 

 静音は耕作のコンプレックスを知った上で、彼に好意をもってくれたのだ。

 そうと分かった時、耕作の緊張もほぐれた。

 それからの彼は自分でも信じられないほど、静音に話しかけられるようになっていた。

 

 二人の距離は、あっという間に縮まった。

 お互いにアドレスを交換し、明日以降も会う約束をして二人は食事を終える。

 別れ際に小さく手を振っていた静音の姿も、耕作を興奮させた。

 

「このような出会いをもたらしてくれたのだから、やはりあのドライバーには感謝しなければならないな。河原崎さんと結婚することになったら招待するべきだろうか……」

 

 などと、気の早すぎることまでも考えていた。

 

 自分でも気が付かないうちに、耕作は自宅に到着していた。

 有頂天になって周りが見えなくなっていたらしい。

 特に反省することもなくドアを開け、声を出す。

 

「ミーコ、帰ったぞー!」

 

 

 

 

 異変にはすぐに気づいた。

 いつもなら間髪入れず飛び出してくるはずの、ミーコの姿がない。

 耕作は今更ながら、今朝ミーコの様子がおかしかったことを思い出した。

 

 浮かれた気分は一瞬で吹き飛んだ。

 鞄を投げ出し、キッチンを駆け抜け、奥の扉を開けた。

 先とは比較にならないほどの大声で叫ぶ。

 

「ミーコ!」

 

 扉を通過すると同時に。

 耕作は部屋の中央で座り込む、裸の少女を発見した。

 

 年齢は十代前半ぐらいだろうか。

 白い肌はきめ細かく、暗闇の中でも光り輝くように美しい。

 そして彼女に対し本来問うべき「誰だ?」という言葉は、耕作からは出て来なかった。

 

 なぜなら。

 少女がなびかせる白・茶色・黒の、腰まで届く三色の頭髪に、見覚えがあったから。

 自分を見つめる、途方に暮れたような黄色い右目と青い左目は、よく知ったものであったから。

 その瞳の奥底にある、自分に向けられた絶大な信頼と愛情を、感じ取ったから。

 

「コーサク……」

 

 それはミーコが初めて、耕作の名を人語で呼んだ瞬間であった。



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力の発動 一

「厄介な物事が発生した時は、問題点を一つずつ、順番に解決していくべきだ」

 

 耕作は少女と正座で向き合いながら、考えた。

 とは言っても、どこから手を付ければいいのやら、ではあるが。

 咳払いを一つした後、質問を始める。

 

「つまり、君はミーコなんだな」

 

 少女は激しく、何度も頷いた。

 

 耕作も先ほどは、一目みるなり少女をミーコだと思っていた。

 おかげで今も普通に会話ができている。

 

 しかし落ち着いて考えれば、そもそも猫が人間になるはずもない。

 三色の髪の毛にしても染めているのかもしれない。

 黄色い右目と青い左目は、カラーコンタクトかもしれない。

 

「しかしこれは、さすがに無理だろうな」

 

 耕作は少女の頭部に突き出ている二つの突起物、いわゆる猫耳を見て思った。

 試しに摘まんで引っ張ってみる。

 

「痛い痛い痛い痛い痛い! コーサク、痛い!」

 

 少女は涙目になり、抗議の声を上げた。

 猫耳にはよく見ると血管があり、血が通っているのも分かった。

 

 耕作は猫耳から手を放すと、続いて三色の髪の毛を掻き分け、人間であれば耳があるであろう場所を探ってみた。

 そこには他の頭皮と同じように、髪の毛だけが生えていた。

 

「あっ……コーサク、んっ……」

 

 少女がなにやら艶めかしい声を上げだした。

 耕作は慌てて手を放し、少女から距離を開ける。

 それから彼女の全身を観察した。

 

 少女の肌はまさに「白磁のような」という表現が相応しい白さだった。

 色の異なる両眼には、宝玉のように透き通った輝きと、湖をも凌駕する深さがある。

 目鼻立ちは美神の愛娘として生まれ出でたかのような、幼さを残しながら同時に気高さをも感じさせる、完璧な造形をしていた。

 類まれなる、万人の視線を釘付けにするであろう美しさである。

 

 身体は顔と同様、十代前半の少女程度には発達している。

 今は耕作のワイシャツを着せているので見えないが、胸も既に膨らみ、主張を始めていた。

 先ほど目にした少女の全裸姿を思い出し、耕作は慌てて頭を振った。

 

 ともかく、少女が普通の人間でないことは分かった。

 ならば次は、彼女が本当にミーコなのかどうかという点が問題になる。

 しかし、どうやって確かめればいいのだろうか。

 

 少女本人のことは既にある程度まで質問を終えていた。

 そこで耕作は、自分についてどれだけ知っているのかを聞いてみることにした。

 

「俺の名前は?」

「コーサク、吉良耕作」

「歳は?」

「二十四歳」

「じゃあ……」

「コーサクのことならなんでも答えられるよ。好物は私と同じマグロのお刺身。でも私はあんまり食べちゃいけないんだよね……。嫌いな食べ物は無し。趣味はもちろん、私と遊ぶこと。それ以外には将棋と水泳。テレビはあんまり見ないけど、日曜にやってる将棋番組は欠かさず見てる。あ、それと夜中に時々ちんちんいじってるよね。その時はパソコンにある『巨乳』ってフォルダの中から……」

「やめてくれ、それ以上言うな!」

 

 今までミーコの前で晒してきた痴態を思い出し、耕作は頭を抱えた。

 猫の時は当然ながら気にもしていなかったが、今や相手は美少女である。

 恥ずかしいどころの話ではなかった。

 ここに至って耕作は、少女がミーコであることを認めた。

 

 

 

 

「それで、なんでこんなことになったんだ」

 

 相手がミーコであると分かったならば、話は次の段階に移るべきである。

 耕作の問いに対しミーコは、昨夜、自分の身に起きたことを説明した。

 

 耕作の呟きを聞いたこと。

 願いが叶うよう祈ったこと。

 天使と悪魔が現れたこと。

 それから眠りに落ちて目覚めたら人間になっていたこと、等々である。

 

「天使と悪魔か……」

 

 耕作は呟き、思考の海に沈んだ。

 

 にわかには信じがたい話である。

 とは言っても、猫が急に擬人化するなどという奇病があるとは考えられない。

 他に納得できる説明も思いつかない。

 それになんと言っても、ミーコが自分に嘘をつくとは思えない。

 

 信じるしかないだろう。

 耕作はそう結論付けた。

 しかしそうだとすると、彼には一つ、どうしても放っておけないことがあった。

 

「なんでそんな勝手なことを!」

 

 怒気を込め、耕作はミーコを叱った。

 

「ニャッ!?」

 

 耕作が珍しく本気で怒っている。

 それに気づき、ミーコは涙目になった。

 

「ごめんなさあい……」

 

 頭を下げ、謝る。

 しかし耕作が続けて、

 

「魂を渡すなんて約束したら、どうなるか分かってたのか!」

 

 と言ったので、

 

「え?」

 

 と、呆けてしまった。

 

 どうも自分が考えたのとは違う理由で、耕作は怒っているらしい。

 ミーコはそう思い、恐る恐る問いかけた。

 

「あの……私が悪魔に魂を上げるって約束したから、怒ってるの?」

「ん?」

 

 今度は耕作がミーコの意図を測りかね、困惑した。

 

「それ以外に怒る理由なんかないだろ?」

「私が勝手にコーサクの願いをかなえようとしたから、とか……」

「ミーコが俺のことを思ってしてくれたんだから、怒るわけないだろ。とても嬉しいよ」

「コーサク!」

 

 自分の事を心配し、怒ってくれていた。

 その事実に気付いたミーコは、喜びのあまり満面の笑みを浮かべて耕作に抱き付いた。

 

 耕作の鼻腔に、猫だった頃の匂いをわずかに思い出させる、ミーコの甘い香りが広がる。

 耕作は酩酊しそうになり、慌ててミーコを引き離した。

 生真面目な顔と正座を作り直し、毅然とした態度で再び説教を始める。

 

「とにかく魂を渡したりしたら、とんでもないことになるんだぞ」

「どうなるの?」

 

 問いかけられて、耕作はいきなり言葉に詰まってしまった。

 

 はて。

 悪魔に魂を取られるとどうなるのだろうか。

 

 碌でもないことになるのは予想できた。

 しかし具体的にどうなる、と問われると、信心深い訳でもない身としては答えようがない。

 地獄に落ちるとでも言えばいいのだろうか。

 そんなことを告げるのは、ミーコが可哀想だ。

 

 そう考える耕作は、この期に及んでもミーコに甘かった。

 

「レモンや唐辛子が敷き詰められた部屋に閉じ込められるんだぞ」

 

 結局、そう返答した。

 耕作はこの時、自身の発想の貧困さに自分でも呆れていた。

 ミーコが嫌がりそうなものと言うと、情けないことにそれぐらいしか浮かばなかったのである。

 

 それでもミーコは顔を崩し、泣きそうな素振りを見せていた。

 だがしばらくすると。

 彼女は両手の人差し指を突き合わせ、呟いた。

 

「……が、我慢する」

「え?」

「私が我慢すれば、コーサクは『カノジョ』を手に入れられるんでしょう? それでコーサクが幸せになれるんなら、我慢する」

 

 かわいい。

 ミーコの健気さに、耕作は身体中の血が頭に上ったような興奮を感じていた。

 ミーコを抱きしめたい衝動にも駆られたが、全身の力を振り絞って自制する。

 そして「いいかい、ミーコ」と前置きをしてから、説得を始めた。

 

「俺の幸せは、ミーコが幸せになることだ。ミーコがそんな可哀想なことになったら、その時点で俺は不幸だ。だから自分を大事に……」

「コーサク!」

 

 こちらは自制する気など更々ない。

 ミーコは再び、耕作に抱き着いていた。

 

 

 

 

「ところでコーサク、『カノジョ』のことだけど……」

「ん?」

「『カノジョ』ってなんなの?」

 

 その説明をしていないことに、耕作は今更ながら気が付いた。

 

「それはまあ、恋人のことだ」

「コイビト?」

「猫っぽく言うと、俺とつがいになる女性のことかな」

「ああ、交尾の相手か」

 

 ミーコの単刀直入な表現を聞いて、耕作はよろけそうになる。

 

「それもあるけど、それだけじゃないぞ。一緒に出かけたり、遊んだり、食事をしたり。将来は結婚もして、一緒に生活して子供を作って育てて、共に老いていき、最後まで傍にいて、死後は同じ墓に入る人だ」

 

 結婚に幻想を持っているような返答になってしまった。

 でもまあ、間違いではないだろう。

 耕作はそう思いつつ、説明を終えた。

 ミーコは黙って聞いていたが、その後なにやら考え込んでしまった。

 

 一分ほどの時間が流れた後。

 ミーコは数回、得心するように頷いた。

 立ち上がって耕作に人差し指を突き出し、叫ぶ。

 

「分かった! コーサクそれだニャ!」

「へ?」

 

 耕作は間の抜けた声を出していた。

 ミーコは気にせず、話を続ける。

 

「私が人間になった理由だニャ! 私はコーサクと遊べるし、一緒に生活することもできた。でも交尾したり子供を作ったりするのは無理だった。でも人間になったことで、その欠点は克服されたんだニャ! これで私はコーサクの彼女になれる!」

 

 ミーコは話し終えると「幸せいっぱい」と書かれた顔を耕作に向けた。

 

 一方、耕作は「ああ、やっぱりそうなのか」と思っていた。

 彼も気づいてはいたのだ。

 ミーコが擬人化されたのは、自分の彼女になるためなのだということを。

 

 それにしても「彼女が欲しい」という願いをかなえるため、飼い猫を人間にするとは。

 随分とひねくれた方法をとるものだ。

 耕作は、なんとはなしに溜め息をついていた。

 

 そして改めてミーコの笑顔を眺めた時。

 耕作は、ふと気づいた。

 神と悪魔のどちらによってミーコは人間になったのだろうか、と。

 

 耕作は立ち上がってキッチンに行き、冷蔵庫からビールを取り出す。

 再び部屋に戻ると、ビールをグラスに注ぎつつ、さらに考えを進めていった。

 

 猫を擬人化する。

 そんな悪趣味なことを神がやるとも思えない。

 しかし、悪魔にそんな力があると考えるのも空恐ろしい。

 どちらにしても、天使なり悪魔なりをもう一回よびだして、話を聞きたいところだ。

 

 考え込む耕作の前で、ミーコは耕作の恋人になれる喜びに浸り、悶えまくっていた。

 涎すら垂らしている。

 だがしばらくすると、何かを思い出したように表情を改め、耕作に話しかけてきた。

 

「そういえば約束通りだとすると、彼女がもう一人」

 

 言葉は、そこでアラーム音に遮られた。



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力の発動 二

 スマートフォンが鳴っている。

 耕作はミーコに待つように伝え、画面を確認した。

 

 相手の名前を見るなり、耕作は「まずい」と思っていた。

 しかし切る訳にもいかない。

 ミーコに背を向けるようにして、通話を始める。

 

「吉良さん? ごめんなさい、何度か連絡したんですが。返信がなかったので気になってしまって……」

 

 静音の、鈴を転がすような声が流れてきた。

 彼女の言う通りで、耕作のスマートフォンにはメッセージの着信履歴が数多く残っていた。

 だがミーコのことがあり、耕作は今の今まで気づけなかったのだ。

 

 耕作は女性経験に乏しい。

 だがそれでも、直感で自分が危険な状況にいると気づいた。

 慌ててミーコから距離をとり、小声で話し出す。

 

「こちらこそすみません。ちょっと帰宅直後から立て込んでしまって……」

「何かあったんですか?」

「いや、大したことは」

「コーサク、誰と話してるの?」

 

 横からミーコが口を出してくる。

 耕作は動揺した。

 

「あら? どなたかいらっしゃるんですか?」

 

 静音からも追及が飛んでくる。

 動揺はあっという間に頂点に達した。

 

「いやいやいやいや! ちょっと親戚の子が遊びに来てまして!」

「親戚?」

 

 静音が訝しげな声を出す。

 耕作は「しまった!」と思っていた。

 静音は、耕作が親戚一同から疎遠になっていることも知っていたのだ。

 

「いや、今さら和解したくなったらしいんですよ! それで使いをよこしてきたんです! でも子供を使いにするなんておかしいですよね、何を考えてるんでしょうか! それじゃ、話し合わなきゃいけないんで! 詳しいことはまた明日!」

 

 苦しいどころではない言い訳であった。

 それでも耕作は強引に電源を切り、通話を終えると、スマートフォンを手にしたまま肩で息をついた。

 

 ミーコが再び問いかけてくる。

 

「コーサク。今の相手、誰かニャ?」

「会社の人だよ」

 

 静音には明日、謝るとして。

 今はこちらの問題を片付けなくてはならない、それも早急に。

 耕作は考え、ひきつった笑みを浮かべた。

 

「ふーん。でもそいつ、メスなんでしょ?」

「男だよ」

「嘘」

 

 嘘じゃない。

 と、言いかけた時。

 耕作は、ミーコの雰囲気が変わっていることに気が付いた。

 瞳が濁り、暗く沈んでいる。

 

「おかしいな、コーサクが私に嘘をついた。今までそんな事なかったのに。コーサクが嘘をつくなんて……ううん、コーサクは悪くない。誰かがコーサクに嘘をつかせたんだ。きっとそうだ、そうに決まってる……」

 

 ミーコの周囲には冷気が漂っていた。

 室温が急激に下がる。

 部屋の環境は春から厳冬へと変わった。

 ミーコから放たれる冷気は、それほどに凄まじいものだった。

 

 耕作はミーコと周囲の変化に唖然としつつ、考える。

 寒い。

 とてつもなく寒い。

 室温は間違いなく十度以上も下がっているだろう。

 

 だがそれにしては、おかしなことがある。

 耕作は床に置かれたグラスを見た。

 ビールが激しく泡立っている。

 いや、ビールが泡立つのは当たり前だが、この泡の沸き方は……。

 

「沸騰している!?」

 

 耕作は戦慄する。

 同時に背後のキッチンから、高い金属音が鳴り響いた。

 

 耕作は振り返り、キッチンに目を向ける。

 棚から食器が飛び出し、床に散乱しているのが分かった。

 さらにそれらの中で、今も振動を続けている物体があることにも気がついた。

 

 それは包丁だった。

 耕作の背筋に、氷柱が立つ。

 

 包丁は動きを次第に大きくして、ついには跳ねるように飛び上がった。

 そのまま宙に滞空する。

 耕作の部屋へ切っ先を向けると、凄まじい速度で突進した。

 

「速い……!」

 

 とても避けられない。

 耕作は包丁に刺し貫かれることも覚悟した。

 

 しかし、その予想は外れる。

 

「コーサクに嘘をつかせたのは誰だ!」

 

 ミーコが叫ぶと同時に。

 包丁は耕作の脇をすり抜け、窓に激突したのだ。

 跳ね返り、床に転がる。

 

 だがすぐに振動を再開し、またしても浮き上がって窓に激突した。

 跳ね返されては、また浮き上がろうとする。

 その行動を繰り返していた。

 

 異様な光景を見ているうち、耕作は包丁が窓を突き破って外に飛び出そうとしているのだと気づいた。

 包丁を操っているであろうミーコを抱きしめ、耳元で話しかける。

 

「ごめん、ミーコ! 確かに相手は女の人だ、嘘を言ったりして悪かった!」

 

 耕作の、必死な呼びかけを聞いて。

 ミーコは口から呼気を吐きだし、耕作の腕の中で崩れ落ちた。

 包丁も動きを止め、乾いた音を立てて床に落ちる。

 

 耕作はミーコを支え、顔を覗きこんだ。

 顔色はわずかに青白くなっていたが、それ以外は特に変わりなさそうである。

 耕作は安堵した。

 

 しばらくの後。

 ミーコは口を開いた。

 

「許さないから……」

 

 その呟きを聞き。

 耕作は、全身から血の気が引くのを感じていた。

 

 しかしミーコが続いて、

 

「コーサクに嘘を言わせるような人は、私は絶対に許さないから……」

 

 と言ったので、多少なりとも落ち着けた。

 どうも自分に対して怒っていた訳ではないらしい。

 と、思ったのだ。

 

 とはいえあの包丁を放置していたらどこに向かい、どんな惨劇を引き起こしたか。

 想像するだに恐ろしい。

 耕作は考えると同時に、再び寒気を感じていた。

 

 それにしても今のミーコの能力はなんなのだろうか。

 調べておかないと、いつまた同じような目に合うか分からない。

 耕作は深呼吸をして口を開いた。

 

「ミーコ」

「何?」

「よく嘘だって分かったな」

「そりゃ声が聞こえたからニャ」

 

 なるほど。

 と、耕作はミーコの猫耳を見つつ納得した。

 猫の時と同様、聴覚は発達しているらしい。

 

「もう一つ、言わなければいけないことがあるんだが」

 

 そう前置きしてから、耕作は告白を始めた。

 

「ミーコ。悪魔に魂を渡したら、レモンや唐辛子が敷き詰められた部屋に閉じ込められると言ったけど、あれも嘘だ」

「ニャ!?」

 

 耕作は身構え、先ほどのような事態の発生に備えた。

 しかしミーコの様子は変わりない。

 冷気や、それ以外の異変も発生しなかった。

 

「怒らないのか?」

 

 耕作は尋ねた。

 

「うー……ちょっと怒ったけど、私を心配したからそんな嘘をついたんでしょ? だったら大丈夫」

「じゃあ、さっきの嘘にはなぜあんなに怒った?」

「女のせいでコーサクが嘘をついたと思ったら、猛烈に腹が立ったんだニャ」

 

 なるほど。

 と、耕作は再び納得した。

 

「それと、どうやって包丁を操ったんだ?」

「頭が熱くなったら、勝手に動かせるようになって……」

「今でも動かせそうかな?」

「やってみる」

 

 ミーコは答えると「う~」となにやら唸り始めた。

 食器やその他の家具に至るまでを睨み、念力を込めている。

 だが、どれもピクリとも動かなかった。

 

「ダメだニャア」

「いや、ありがとう。じゃあ……」

 

 耕作はおもむろに立ち上り、パソコンに向かった。

 そしてものすごく恥ずかしくはあったのだが、ネットできわどい格好をした女性の画像を検索し始めた。

 

 ミーコは大人しく、耕作の行動を見ていた。

 だが。

 

「コーサク?」

 

 さすがに気になったのか声をかけてきた。

 耕作は返答しない。

 画面に集中し、様々な女性を眺め続けた。

 

 ミーコの声色に、段々と剣呑な響きが含まれていく。

 

「コーサク、なんで……?」

 

 そして、遂に。

 耕作は背後から冷気を感じた。

 

「やっぱりか」

 

 と思い、振り向こうとする。

 だがそれよりも早く。

 

「コーサクを誘惑するな!」

 

 ミーコの怒声が轟いた。

 モニターが浮き上がり、天井に叩きつけられる。

 

 耕作は大慌てでミーコの元に戻った。

 彼女の身体を抱きしめ、落ち着かせる。

 それから後。

 自分の考えをまとめていった。

 

 ミーコが見せた、物体を操る超能力。

 その力の源泉は、おそらく嫉妬心にある。

 先ほどのミーコは本人も言う通り、耕作が誰かのせいで嘘をついたという点に怒っていた。

 誰かが自分と耕作の仲を引き裂こうとしたと、そう思ったのだ。

 それが超能力の発動につながった。

 

 怒りの対象が女だったという点も重要だと思われる。

 実際、耕作がパソコンで女性を見ていただけでミーコは力を発動させた。

 

 ミーコの、神様や悪魔によってかなえられることになった願いは、耕作に彼女を作るというものだ。

 そしてミーコは今、自分自身が耕作と結ばれることでそれを成し遂げようとしている。

 

「願いを妨げる要素があれば排除しなければならない。この超能力も、そのために与えられたのだろうか」

 

 耕作は暫定的に結論付けてみた。

 あくまで想像に過ぎないが、真実と大きく外れていないようにも思える。

 耕作の話を聞き、ミーコも自分の力をコントロールする方法を、なんとなく理解したようだった。

 

 なんにしてもミーコを擬人化するだけでなく、やっかいな能力まで与えてくれたものだ。

 神だか悪魔だか知らないが、やはりもう一度、話をしなければならないだろう。

 彼らを呼び出す方法を、なんとしても見つけ出す。

 それを最優先にしてこれからは行動しなければならない。

 

 と、耕作は考えていた。

 

 

 ──────

 

 

「彼が嘘をつくなんて……」

 

 ピンクを中心とした華やかな、ややもすると少女趣味とも捉えられかねない色調の家具が揃えられた部屋の中。

 河原崎静音は、周囲の景色とは似つかわしくない、暗く青ざめた顔で呟いた。

 

 彼女の手は今も、つながらない電話をかけ続けている。

 どれだけの時間こうしているのか、彼女自身にも分からなくなっていた。

 生気を失った表情で、彼女は思考を続ける。

 

 耕作のことは、よく理解している。

 彼が嘘をつくなど滅多にありえない。

 なのにまさか、それが自分の身に降りかかるとは。

 

 親戚の子が彼を尋ねてくるなどありえない。

 それも分かっている。

 ではあのとき聞こえてきた女の声は、誰のものなのだろうか。

 自分が知る限り、彼の周りには自宅に上り込めるほど親しい女はいないはずだ。

 そもそも女の影すら見えなかったのに。

 

 いずれにせよ、嘘をついてまで傍にいさせようとする女だ。

 危険きわまりないと言える。

 今すぐにでも乗り込み、始末すべきだろうか。

 

 ……まだ早い、か。

 耕作とは今日きっかけを作ったばかりだ。

 彼の心が離れてしまっては、元も子もない。

 

 穏便に済ますのか。

 強行手段をとるのか。

 決めるのは彼と話をしてみてからでも遅くはない……と、いいのだが。

 

「しょうがないわね」

 

 静音はスマートフォンを床に叩きつけようとして、途中でその動きを止めた。

 そして何処かの電話番号を引き出し、通話を始めていた。



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ミーコと話し合い

 耕作の人生で最も波乱に富んでいたであろう一日は、終わりを告げた。

 翌日。

 少なくとも表面上は平穏に朝を迎える。

 

「起きろ、ミーコ」

「ん……ンニャ」

 

 耕作は目を覚ましたが、ミーコは今だ爆睡している。

 ミーコは耕作の、彼女にはサイズが大きすぎるトレーナーを、半ば以上はだけながら着ていた。

 涎まで垂らしている彼女を、耕作は目のやり場に困りつつ揺り動かす。

 

 猫だった時のミーコは、かなりの早起きだった。

 目覚まし時計がわりに鳴き叫び、耕作を起こすのが日課となっていたのだが。

 人間になってその習性もなくなってしまったのだろうか。

 それとも、昨夜の騒動で疲れているだけだろうか。

 と、耕作は考えた。

 

 ミーコが寝ぼけ眼で、目をこすりながら起き出した。

 耕作は彼女の顔を拭いてやり、髪の毛を解かしながら──ちなみにうっかりして猫用のブラシをそのまま使っていたが──尋ねる。

 

「どうだった?」

 

 ミーコは頭を横に振った。

 

「そうか、駄目だったか。ありがとう、じゃあまた他の方法を考えてみよう」

 

 昨日の話によれば、天使と悪魔はミーコの願いをかなえるために現れている。

 それならばと、耕作は昨夜ミーコに頼みごとをしていた。

 天使と悪魔が現れますように、と、眠りに落ちるまで願い続けてもらったのだ。

 しかし残念ながら、試みは失敗したようであった。

 

「さすがに安直だったか」

 

 耕作は呟き、寝ぐせのついた自分の髪をいじくった。

 一方ミーコは耕作にしがみつき、首筋をこすり付けている。

 

 しばらくの後。

 耕作は彼女に声をかけた。

 

「ところでミーコ」

「なに?」

「昨夜言った通り、ちゃんとベッドで寝なさい」

「ニャ!?」

 

 耕作の部屋は広さ六畳で、壁際に一人用のベッドが置いてある。

 だがそこは現在、無人であった。

 二人がいるのは、部屋の中央に敷いた毛布の上である。

 

 ミーコは耕作から手を放すと、

 

「だって……」

 

 と両手の人差し指を突き合わせ、上目遣いで抗議の眼差しを向けてきた。

 

 耕作は昨夜、ミーコにベッドを使わせるつもりだった。

 自分は床で寝ることにしたのだ。

 しかしミーコは、一緒に寝ると言い張った。

 耕作は彼女を説得し、さらに寝付く前に二度、自分のところへ忍び込んできたのを追い帰している。

 

 しかし結局、目を覚ませば耕作の隣にいた訳である。

 その姿を見て耕作はため息をついてしまっていた。

 もっとも「やっぱりこういうところは猫の時と変わらないんだな」と、喜んでいたりもしたが。

 

「だってじゃありません。ベッドで寝ないなら、マグロの刺身はもう買ってこないぞ」

「ニャ!?」

 

 ミーコは可愛らしい口を開け、本気で驚いた表情を見せた。

 さらに大げさに手をついて落ち込み、泣き崩れる。

 

「うう……酷いニャ、コーサクと寝られないなんて。こんなことなら人間にならなければよかった」

 

 この分だとまた今日も忍び込んでくるだろうな。

 と、思いつつ。

 耕作はミーコの頭を撫で、さらに話を続けていった。

 

「ひょっとしたら、天使や悪魔を呼び出すには何か条件があるのかもしれないな」

 

 それは半ば独り言であった。

 しかし聞いたミーコも頭をひねって考え出している。

 天使と悪魔が来た、あの時。

 周囲に何か普段と異なる状況はあっただろうか、と。

 

 考え続けるうちに。

 ミーコはふと、なにかを思い出したような顔を見せた。

 

「そういえばコーサク」

「ん?」

「天使や悪魔が約束を果たしたのなら、コーサクにはもう一人彼女ができているはずだけど」

「うん」

 

 耕作は、ミーコの頭を撫でる手を止めた。

 

「それが昨夜、電話で話してた女なの?」

「分からん」

 

 その答えは嘘ではない。

 昨日おきた事柄から判断すると、静音がミーコの他に選ばれたもう一人の彼女である可能性は高い。

 しかし、確信がある訳でもない。

 耕作からすると「そうであってほしくない」というのが正直な気持ちである。

 

 仮に天使と悪魔を呼び出し、話し合い、双方が引くという結論になったとする。

 静音がもう一人の彼女であれば、その時点で耕作との付き合いもなくなってしまうだろう。

 それを残念と思う男としてのスケベ心は、耕作にも多分にあったのだ。

 

 耕作は先日まで、女性と付き合えるなど考えてもいなかった。

 それなのに、随分と変わったものである。

 この欲深さというか単純さには、本人も呆れていた。

 

 とは言え耕作にしてみれば、ミーコは別としても、まともに話せる初めての女性なのだ。

 しかも美人だし、大人しやかだし。

 胸も大きいし……。

 

「むー」

 

 形の良い眉をゆがめ、不満そうに自分を見つめているミーコの表情に、耕作は気づいた。

 考えが顔に出ていたらしい。

 そう思い、慌てる。

 

「他にもそれらしい女がいるとか?」

「いや、そういう訳じゃないが」

「むー」

 

 ミーコは再度、不満そうに唸った。

 顎に白く細い指をあて、考えに沈む。

 

 ややあってから。

 彼女は高らかに宣言した。

 

「とにかく、コーサクの周りに私以外の女は必要ない!」

「へ?」

 

 虚を突かれた耕作の前で。

 ミーコは決意を込め、言葉を続けていく。

 

「あの時、私は『カノジョ』って言葉がよく分からなかった。でも意味の分かった今なら、はっきり言える! 私の願いは、私がコーサクの彼女になることだニャ!」

 

 ミーコは腰に手を当て、膨らみかけの胸を張った。

 

「だからなんとしても天使と悪魔をもう一度よび出して、私以外のもう一人の彼女という願いを取り消してもらうニャ!」

 

 なぜか自信満々と言った口調で、ミーコは話を終えた。

 

 耕作の考えは当然ながら異なる。

 彼の最大の目標は、ミーコと悪魔が交わした「魂を渡す」という約束を取り消すことである。

 それに、ミーコが今のままで良いとも思えない。

 

 人間のままでいれば、いつか誰かの目に留まるだろう。

 ミーコの存在が世間に知られれば、大騒ぎになるのは目に見えている。

 髪や目の色だけなら誤魔化しようもあるだろう。

 だが、彼女には猫耳もある。

 身体検査などをすれば、普通の人間と異なる特徴がどれだけ出てくるか分からない。

 

 マスコミに騒がれ、世間に弄ばれ。

 もみくちゃにされた挙句、神の御業ともてはやされ、どこぞの宗教に御神体として祭り上げられるか。

 逆に悪魔の悪戯と蔑まれ、魔女狩りにあうか。

 それは極端としても、真っ当な生活を送れるとは思えないのだ。

 

 ミーコを人間にしたのが悪魔なら、契約を取り消す。

 猫に戻るなら、それはそれでよし。

 

 しかし神が人間にしたとなると、ややこしくなる。

 魂を悪魔に渡さない交渉と、ミーコの身体を改善する交渉の、同時進行になるからだ。

 神と悪魔、双方が相手となれば難度も上がるだろう。

 

 耕作はミーコに、

 

「まず天使と悪魔を呼び出して、どちらがミーコを人間にしたのかを確認してから、対応を考えよう」

 

 と、提案してみた。

 

 ミーコに異存はなかった。

 交渉相手を特定しなければならないのは、彼女も同じなのだ。

 それからどうするかは、その時の問題だ。



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静音とも話し合う

 耕作のオフィス。

 多くの社員がパソコンと向き合い、あるいは電話で連絡をとったりしている。

 

 良太はこの日、やはりモニターと睨み合っていた耕作へ時折り目をやっていた。

 耕作が小休止すると声をかける。

 

「今日のおまえの顔は、なんなんだ」

「そんなに酷いか」

「酷いというか面白い。まさに七色の変化だな」

 

 それはまあ、さぞ面白いだろうな。

 と、耕作も心中同意していた。

 

 耕作は仕事中も、昨日おきた事柄について考え続けていたのだ。

 その間、様々に顔色を変えている。

 ミーコのことで悩み、解決策を考えている時は青い顔をしていた。

 そして神や悪魔に怒りを覚えた時は赤い顔、といった感じである。

 

「で、どうなったんだ。河原崎さんとは」

「どうというと?」

 

 友人の問いに、耕作は質問を返した。

 声にぎこちなさがあったのは彼も自覚している。

 

「昨日、河原崎さんが事故にあったらしいが。その時おまえが疾風のごとく現れて河原崎さんを救い、その後かっさらって行ったと、もっぱらの噂だぞ」

「最後だけ微妙に違う」

 

 憮然として抗議しつつ。

 耕作は静音についても考えを巡らしていった。

 

 彼女との会話を思いだせば顔はにやけ、赤くなる。

 昨夜のことを彼女に説明しなければならないと考えると、青くなる。

 顔色はまたしても様々に変化していた。

 

 そんな耕作を、良太は呆れつつも黙って眺めていた。

 だがやがて手を叩き、分厚い唇を開いた。

 

「まあ何があったのかは分からんが、俺にとってはめでたいことだな」

「なんでおまえがめでたいんだ」

「河原崎さんと上手くいけば、おまえは将来、役員にもなれるだろ。そうなれば親友の俺もきっと引き上げてくれる。そうだろ?」

 

 良太は片目を閉じ、不気味としか表現しようのないウインクを見せた。

 耕作は口をポカンと開ける。

 それから後、肩をすくめて友人に返答した。

 

「その予想は、最初の段階で躓くかもしれないな」

 

 

 ──────

 

 

 昼休み。

 耕作は、昨日と同じ洋食店で静音を待っていた。

 日中に彼女へ連絡を取ったところ、話し合いの場としてこの店を指定されたためである。

 

 耕作は周囲の光景を眺めつつ、

 

「やはりここは、彼女のお気に入りの場所なんだろうな」

 

 と、考えていた。

 

 店は耕作のオフィスからはほど近い、専門店ばかりが入っているビルの最上階にあった。

 窓からの眺めは遮る物もなく、遠くまで見渡せる。

 陽光が建築群のガラスや壁面に反射し、煌めいていた。

 その景観の素晴らしさは、常であれば心に落ち着きをもたらしてくれることだろう。

 

 だが残念ながら、耕作の心境は穏やかとは言い難かった。

 昨日に比べれば身体に硬さはない。

 しかし、胃が痛くなるような不安感は比ではなかった。

 なにしろ昨夜に続き、またしても修羅場を迎えようとしているのである。

 

 これから静音には、自宅にミーコ、つまり少女がいたことの説明をしなければならない。

 それも昨夜の言い訳の整合性をつけるように、である。

 今に至っても上手い解決策が浮かんでいなかったこともあり、耕作の気分は沈みっぱなしであった。

 

 耕作に遅れること五分。

 静音が到着する。

 黒のパンツスーツを隙なく着こなし、颯爽とした姿を見せていた。

 もっとも表情は昨日に比べ、硬い。

 目には剣呑な光があり、周囲に威圧感すら与えていた。

 

 静音は席に着くと、まず耕作に待たせたことを謝罪した。

 ウェイターに簡単な注文を済ませると、早くも話を切り出す。

 

「それで吉良さん、昨夜のことについてですけど」

「はい」

「吉良さんが親族の方々とどのていど不仲なのかは、私も存じております。だから昨夜、急に和解しようとして、しかも女の子を訪問させるというのは……」

 

 そこまで話すと、静音は口ごもってしまった。

 うつむき、テーブルの上で両手を重ね合わせる。

 

 耕作には返す言葉がない。

 洗いざらい真実を話す、という訳にもいかないのだ。

 

 猫が擬人化したなどと、信じてもらえるとは思えない。

 冗談か、さもなければ耕作が狂ったと考えるのが普通だろう。

 

 仮に信じてもらえたとしても、静音から周囲へ話が広がれば、ミーコの存在が世に知られてしまう。

 静音を信用しない訳ではない。

 しかし今回の事態について知る者の数は、より少ないほうが良いと思われた。

 

 何も話せない。

 従って今、耕作にできるのは。

 

「すみません」

 

 と、頭を下げ謝ることだけであった。

 

「今回の件については、まだ話せません。自分に都合の良い話をしているのは分かっています。でもしばらくの間、待っていてほしいんです。全てが解決したら必ずお話します、何があったのかを」

 

 声に苦渋の色をにじませて、耕作は告げる。

 怒りにまかせ引っ叩かれることも、彼は覚悟していた。

 しかしその予想は外れる。

 

「私のこと、信用して頂けないのでしょうか」

 

 静音の声からは怒りよりも悲しみが感じられた。

 耕作は驚き顔を上げる。

 彼を真摯に見つめる、黒く澄んだ瞳がそこにあった。

 

「何があったんですか。今の耕作さんは、とても苦しそうに見えます。私は貴方の力になりたい。それに貴方の問題は、私にはもう他人事ではないんです」

 

 ああ、この人は素晴らしい人だ。

 と、耕作は感動していた。

 同時に「やはり、この人を巻き込む訳にはいかない」とも思っている。

 

 静音は被害者なのだ。

 彼女が神か悪魔によって、自分の彼女となるべく選ばれたのだとすると、それは人生を操作されたことになる。

 仮に今回の事態とは無関係だったとしても、本人に非のないところで迷惑をかけていることになる。

 

 そして耕作にはもう一つ、静音を巻き込みたくない理由があった。

 なけなしの勇気を振り絞り、静音の手に自分の手を重ね、告げる。

 

「ありがとうございます。でも、俺が自分で解決します。貴女の気持ちに応える資格があるかどうかが、それで分かるはずです」

 

 静音から愛情を向けられるのは、耕作も嬉しかった。

 彼自身、彼女に対しては少なからず好意を持っている。

 

 しかしこの先もミーコが人間であり続けたとしたら。

 それでも尚、静音の気持ちに応えられるだろうか。

 耕作にはまだ判断がつかなかった。

 

 静音の愛情を受け入れ、協力を求めた挙句、最後に彼女を裏切ることになるかもしれない。

 そんな事態は、絶対に避けねばならない。

 耕作はそう思っていたのだ。

 

 耕作の言葉を聞いた静音は、依然として表情を曇らせていた。

 しかし数瞬の後。

 

「分かりました。お待ちしております」

 

 目尻にわずかに涙を浮かべつつ、それでもほがらかな笑顔で返答した。

 

 耕作は安堵した。

 とは言え結局のところ、問題を先送りしただけである。

 静音をいつまでも待たせておくわけにはいかない。

 そのためには……。

 

 考えに沈もうとした耕作の手を握り返し、静音が告げる。

 

「でも一つだけ、お願いをしてもいいでしょうか?」

 

 彼女の顔を見直した時。

 耕作は、違和感を覚えていた。

 静音の浮かべた笑みが、先のものとは異なるどこか酷薄な、肉食獣を思わせるものであったからだ。

 

 

 ──────

 

 

 耕作のアパートへと向かう坂は、最寄りの駅から始まり、住宅街を一本道に突きぬけている。

 今夜もその坂を登りながら、耕作は静音との会話を思い出していた。

 

「来週金曜の夜、お時間を頂けますか?」

 

 それが静音の願いであった。

 

「その程度のことなら、いくらでも」

 

 耕作は即答した。

 しかし来週の金曜日となると、十日も間が開いている。

 その日を指定した理由を、耕作は尋ねた。

 

「準備がありますので」

 

 静音の返答を聞き、耕作は考えた。

 

 デートに誘われているのは分かった。

 しかし十日もかかる準備とは、なんであろうか。

 盛大に歓待されても恐縮する。

 それに、その日までに事態が解決しているとは限らない。

 場が白けなければいいのだが……。

 

 考えつつ坂を上り続けること、約十分。

 アパートに到着する。

 耕作は気持ちを切り替えるために一息すってから、ドアを開けた。

 

「ミーコ、帰っ……」

「コーサク!」

 

 耕作が挨拶を終えるよりも早く、ミーコが飛びかかるような勢いで抱き着いてきた。

 彼女は頭に「万が一、人の目についても大丈夫なように」と、耕作に勧められた帽子を被っている。

 だが勢いのあまり、それも吹き飛ばしそうになっていた。

 

 ミーコは耕作を玄関に引き倒し、全身の匂いを嗅ぎまわる。

 それが終わると、彼の胸板へさかんに首筋をこすりつけていた。

 

 

 

 

「ご馳走様でした」

 

 二人は挨拶をして、食事を終える。

 耕作はキッチンで後片付けを始めた。

 

 ミーコはベッドの上で横になり、満足そうに膝を抱えて丸くなっていた。

 やがて何かを思い出したように顔を上げ、視線を耕作に向けた。

 起き上がって歩きだし、耕作の元へたどり着く。

 そして後ろから彼に抱き着いた。

 

「コーサク……」

「なんだい、ミーコ」

 

 耕作は片付けの手を休めず、穏やかな声で答える。

 

「そろそろ、する?」

「なにを?」

「交尾」

 

 耕作は食器を手から滑らせ、取り落した。

 高い音がキッチンに響き渡る。

 

 耕作は慌ててミーコに向き直った。

 しゃがみ込み、目線をミーコよりも下にする。

 そして乾き、狼狽しきった声を出した。

 

「い、い、い、いきなり何を言いだすんだ」

「本気だよ?」

 

 ミーコは耕作を見つめる。

 黄色い右目と青い左目は、既に潤んでいた。

 

「コーサクが望むなら、いいよ?」

 

 バカなことを。

 と言いかけて、耕作は息を飲んだ。

 目が吸い寄せられるようにして、ミーコの整った顔へ向けられる。

 

 宝石のような光を放つ瞳。

 白い肌に映える、赤い唇。

 それは絶句するほどの美しさだった。

 

 もともと完璧だったはずの美貌が、さらに輝きを増していたのだ。

 その事実に耕作は驚いた。

 

 視線は続いて、ミーコの細い首筋からトレーナーをわずかに押し上げている胸元へ向けられる。

 鼻腔には彼女の、甘い、雄の本能を刺激する香りが飛び込んで来た。

 

 耕作は酩酊する。

 本能に身を任せ、ミーコの頬を両手で包み込んだ。

 唇をミーコのそれと重ねようとする。

 ミーコは目を閉じ、歓喜の瞬間が訪れるのを待った。

 

 だが、両者の唇が接するまで間数髪というところで、耕作は動きを止める。

 身体をミーコから引き離した。

 両手はミーコの頬から、肩へと置き換えられる。

 彼は、言葉を紡ぎ出した。

 

「ミーコ、ありがとう。でも今は違う、その時じゃないんだ」

「コーサク……」

 

 ミーコの瞳と声色は、失望の暗い色で染まっていた。

 彼女の、悲し気な表情を見つめながら。

 耕作は考える。

 

 ミーコは必ず、幸せにする。

 彼女を拾った時に胸へ刻んだこの誓いは、必ず守ってみせる。

 

 ミーコと結ばれるのならば、彼女を人間として、真っ当な恋人として扱い、幸せにしなければならない。

 彼女の身体をむさぼった挙句、猫に戻して知らんぷり。

 などとそんな非道な真似はできるはずもないし、考えたくもない。

 

 ミーコが猫に戻るのか、人間で居続けるのか、はっきりするまでは。

 彼女が幸福になる道筋を見つけられるまでは。

 結ばれる訳にはいかない。

 それが耕作の、今の思いだった。

 

「ミーコは必ず幸せにするよ。信じてくれるかな」

 

 耕作は諭すように、しかし力強く告げる。

 ミーコは彼の、決意の込められた少年のように純粋な瞳を見つめ返し、

 

「うん」

 

 と、頷いた。

 彼女には今の言葉を疑うという選択肢は、ありえなかったのだ。

 

 耕作は思う。

 時間は少ない、と。

 静音のこともある。

 それにミーコの求愛を断り続けられる、その自信もなかった。



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疑惑

 日曜日の午後。

 

「普段着に寝間着……それに下着も。よし、一通りあるかな」

 

 耕作は、自宅に届けられた大きな段ボール箱の中身を確かめ、呟いた。

 届いたのはミーコの新しい衣服である。

 

 これまでミーコには、耕作の服を着せていた。

 しかし、いつまでもそうしている訳にもいかない。

 かと言って耕作一人で少女の服を買いに行くというのも、ためらわれた。

 

 そこで結局、通販で購入することにしたのだ。

 現物を確かめられないのでサイズが合うのかが心配ではあったが、多少の差異はやむを得ないところである。

 

 耕作の左隣にはミーコが座っている。

 彼女は自分のために用意された様々な服を見て、年頃の少女らしく目を輝かせていた。

 やがて箱の中から衣服を引っ張り出し、身体に重ね合わせ、

 

「ね、ね、コーサクはどれを着てほしい?」

 

 と、満面の笑みで耕作に尋ねた。

 

「そのブラウスとスカート、ミーコが選んだやつだろ。まずそれを着てみたら?」

 

 耕作が示したのは、黒と白を基調とした上下揃いの服のことである。

 言葉通り、その服を選んだのはミーコ自身であった。

 

「うん」

 

 ミー子は頷いて立ち上がり、その場で服を脱ぎ始めた。

 耕作は慌てて部屋から飛び出し扉を閉め、キッチンで待つこととした。

 ふとあることを思い出し、ミーコに声をかける。

 

「ちゃんと下着も着るんだよ」

「忘れてたニャー!」

 

 ミーコの叫び声が響き渡った。

 どうやら、図星だったらしい。

 

 昨日のうちにブラのつけ方をネットで調べ、教えておいたのだが。

 大丈夫だろうか。

 などと考えていた耕作の脳裏に、ミーコの下着姿が浮かびあがった。

 耕作は頭を振り、煩悩を追い払うことに専念する。

 

 十数分も過ぎた頃。

 ミーコが声をかけてきた。

 

「入っていいニャ」

「お邪魔します」

 

 耕作は、場違いな言葉を発しながら扉を開けた。

 

「おうっ……」

 

 部屋に入るなり。

 耕作は、めまいを起こしそうになっていた。

 

 ミーコは足を交差させ、スカートの裾を両手で持ち上げたポーズで、耕作を出迎えていた。

 今の彼女は服の色も相まって、まさに小悪魔めいた魅力を発揮している。

 

「似合う?」

 

 ミーコが尋ねた。

 

 耕作の顔を見れば、返答は不要と言ってもよかっただろう。

 年頃の少年少女が初めて異性に告白する瞬間を迎えたとしても、ここまで赤面することはないのではないか。

 というぐらい、彼の顔は赤かった。

 

「と、と、と、とても似合うよ」

 

 固まって動かなくなった顔と口を無理やりこじ開け、耕作は返答した。

 

「嬉しい!」

 

 そして喜んだミーコが両手を広げ、抱き着いて来た瞬間。

 

「いま死ねたら、俺は本望かもしれない」

 

 などと思っていた。

 

 

 

 

 数十分の時が過ぎた。

 ミーコは今だに床に並べた衣服を四つん這いになって眺め、はしゃいでいた。

 耕作はその様子をベッドに座って眺めている。

 くつろいだ姿勢のまま、彼は声をかけた。

 

「ミーコ、表に出たくはないか?」

「ううん」

 

 ミーコは下を向いたまま返答した。

 耕作は意外に思い「本当に?」と尋ねた。

 

「うん」

 

 ミーコの答えは変わらなかった。

 

 遠慮しているのかな。

 と、耕作は思った。

 しかしミーコが室内飼いの猫だったことを思い出し、考えを改める。

 縄張りの中にいるのが一番安心、という習性は変わっていないのかもしれない。

 

「コーサクは必ずここに帰ってくるし。コーサクが隣にいてくれれば、それでいいニャ」

 

 顔を上げ晴れやかに笑いながら、ミーコは答えた。

 耕作は感動する。

 同時にミーコに一つ、伝えておかなければいけないことがあるのを思い出していた。

 手を組み、口を開く。

 

「ミーコ、次の金曜日なんだけど」

「なに?」

「その日は帰るのが遅くなると思う。先に食事を済ませて待っていてくれるかな」

 

 耕作の口調は神妙なものだった。

 それを感じ取ったミーコは、正座で耕作に向き直る。

 

「なんで?」

「人と会う約束があるんだ」

「……あの女?」

 

 ミーコの声には、ひどく冷たい響きがあった。

 耕作は、女の直感の恐ろしさを知った。

 とは言え、嘘を言う訳にもいかない。

 

「そうだよ。河原崎さんに会うんだ」

 

 耕作は初めて、ミーコに静音の名を伝えた。

 ミーコの周囲に冷気が漂い始める。

 

「そういえば聞いていなかったけど、そいつはどういう女なの?」

 

 ミーコの目は据わり、耕作の一挙手一投足を見逃さぬよう、全身を捉えていた。

 耕作は背筋に冷や汗を流しつつ、説明を始める。

 静音との出会い。

 彼女がどれだけ耕作のことを知り、心配してくれているのかを。

 

 耕作が話している間、部屋の中では地震でも起きたかのように家具が軋んだ音を立てていた。

 ただし先日の包丁とは異なり、激しく暴れ出すようなことはなかったが。

 

 耕作が話を終えると、ミーコは即座に容赦のない言葉を吐き出した。

 

「コーサク、その河原崎とかいう女と会ったら駄目」

 

 その返答は耕作も予想していた。

 ベッドから床へ姿勢を改めて座り直し、説得を始めようとする。

 だがそれよりも早く、ミーコが畳みかけてきた。

 

「その女、怪しいニャ。とっても」

「怪しい?」

 

 予想していなかった言葉が飛び出してきたために、耕作は戸惑った。

 一方ミーコは、正座のまま前に進み出る。

 

「なんでその女は、コーサクのことをそんなに知ってたのかニャ? 事故の日までほとんど接点がなかったのに、詳しすぎるニャ。こっそり調べていたとしても、耕作に全く気づかれずに済むとは思えないし。大体そんなにコーサクに興味を持ってたなら、同じ会社にいるんだし、もっと早く会いに来てもおかしくないニャ」

 

 言われてみれば、その通り。

 耕作は、ぐうの音も出なくなってしまっていた。

 やや癖のある髪をかき回しながら、ミーコの言葉を心の中で反芻する。

 

 確かに、全てが始まったあの日。

 耕作が静音を事故から救った、あの瞬間まで。

 二人の接点は、ほぼ皆無だった。

 

 高嶺の花の令嬢と、一般庶民である。

 同じ会社に勤めているというだけで、そもそも住む世界が違うのだ。

 

 それにミーコの言う通り、静音が以前から耕作について調査を行っていたのなら、少なからず社内の噂にはなるだろう。

 耕作もそういった噂を耳にしたり、異変を感じるなりしたはずだ。

 だがそんな気配は、これまで全くなかった。

 

 こんな簡単なことに気づかなかったとは。

 初めてまともに話せた女性、それも素晴らしい美人ということで、有頂天になってしまってたのだろうか。

 耕作は考え、己のうかつさに今更ながら天を仰いだ。

 

 一方、ミーコの話はまだ続いている。

 

「だからあの日から急に、盛りのついた犬みたいにコーサクにまとわりついてくるなんて、どう考えてもおかしいニャ。つまりその女は……」

「その女は?」

 

 ミーコは立ち上がると、耕作の目と鼻の先まで顔を近づけた。

 

「操られてるか、洗脳されている可能性があると思う」

 

 耕作は「いくらなんでもそんなこと」と、否定しようした。

 しかしミーコは、反論する間すら与えてくれなかった。

 

「だってコーサクに一切かかわってこなかったのに、あの日を境に急変するなんておかしいニャ。神様か悪魔、どっちかにコーサクの情報を与えられて、感情なり意志なりをコントロールされてるとしか思えない」

 

 反論したいが材料がない。

 という状況に陥り、耕作も参ってしまった。

 

 静音との会話や彼女の笑顔を、耕作は思い出す。

 あれが全て、本来の静音ではなく他者の作為の下にある、という考えは、耕作の気分を沈ませた。

 そのような残酷な所業、もはや悪魔にしかなし得ないとすら思える。

 

 しかしその場合、ミーコを人間にしたのは神ということになる。

 逆もまたしかりで、双方とも悪趣味極まりない。

 耕作は「無神論者の楽園が存在するのであれば、そこへ逃げ出したい」とさえ思い始めていた。

 

 ひとしきり髪の毛をかき混ぜ、考えに沈む。

 それからようやくと言った感じで、口を開いた。

 

「なるほど、ミーコの言う通りかもしれないな」

「そうだニャ」

 

 ミーコは得意満面な表情を見せ、さらに小さな胸を張ってみせた。

 だが、

 

「じゃあ、金曜日は必ず河原崎さんと会わないとな」

 

 という耕作の言葉を聞くと、顎を落とし、愕然とした表情を見せた。

 当然、抗議する。

 

「なんで!?」

「会って確認してみるよ。河原崎さんが、自分の意思で俺に関心を持ってくれているのかどうかを」

 

 耕作の声は寂しげではあった。

 だがそこには同時に、強い希望の光も灯されていた。

 ミーコは泣き顔と怒り顔を絶妙にブレンドした表情で、問いかける。

 

「どうやって?」

「直接きいてみる。いつから俺に興味を持ってくれていたのかを」

 

 それが突破口になるのではないか。

 と、耕作は思っていた。

 以前、静音が話した言葉を思い出す。

 

 ──以前から、ずっと吉良さんのことを見てましたから。

 

 あの時は、それ以上きかなかった。

 

 だが改めて問いかければ、具体的な日時までは無理でも、耕作に好意をもった時期なら言えるはずである。

 その時からあの日に至るまで、静音の行動に矛盾点があるかどうか。

 それを確かめれば、静音が神か悪魔に操られているのかどうかについても、答えが得られるだろう。

 洗脳されて急に耕作に好意を持ったのであれば、話の辻褄は合わなくなるはずだ。

 

 もっとも、記憶そのものまで書き換えられている可能性もある。

 しかしそれでも、どこかに無理は出てくるはずだ。

 と、耕作は考えていた。

 

 耕作の説明を聞いても、ミーコは尚、不満げな表情を見せていた。

 涙まで浮かべながら耕作の両腕を掴み、説得を始める。

 

「だとしても、そんな女ほっとけばいいニャ。かかわり合いになっても、コーサクがその女に取りこまれるだけだニャ」

 

 放っていい訳がない。

 と、耕作は思った。

 しかしミーコに伝えたのは、別の事柄だった。

 

「ミーコ、これはチャンスだ。河原崎さんが誰かに操られていたとしても、それを本人に自覚させられれば、きっと元に戻りたいと思うだろう。自分が人形のように扱われるのは、誰だって嫌だ」

 

 そのためには静音の身に起こったことも含め、今回の事態についての全てを、彼女に話さなければならないだろう。

 それは耕作も覚悟していた。

 

 だが、それでも。

 静音が操られていることを認識し、そこから解放されることを望んでくれれば、事態を解決する糸口が掴めるかもしれない。

 それに「もう一人の彼女」がいなくなるというのは、ミーコにとっても悪い話ではないはずだ。

 耕作がそう説明すると、ミーコも渋々納得していた。

 

「どちらにしても、天使なり悪魔なりを呼び出さなきゃいけないのは変わりない。できれば金曜日までにその方法を見つけて、河原崎さんに迷惑をかける前に解決できるといいな」

 

 耕作はミーコの頭を撫でつつ、笑いかけた。

 ミーコはまだべそをかいていたが、その声を聞くと、安心したのか笑い返している。

 

 

 ──────

 

 

 耕作の願いは、かなわなかった。

 天使にも悪魔にも会えぬまま、金曜日を迎える。

 

 もちろん手をこまねいていたわけではない。

 耕作は怪しげな儀式や呪文の類まで用いて、天使や悪魔を召還しようとした。

 それでも結局、天国の扉も地獄の蓋も、開かなかったのである。



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来訪者

 金曜日まで、残り二時間となった頃。

 河原崎静音は、自宅の応接間に客人を迎えていた。

 随分と遅い時間の訪問ではあるが、この時間を指定したのは静音自身である。

 

 都内某所にある河原崎邸は、広く、大きい。

 設計したのは先代の当主である。

 地上三階、地下一階の建屋には、両手両足の指ではとても足りないほどの数多くの部屋があった。

 しかもその多くが、一般家庭における広間の倍以上の広さがあった。

 いま静音がいる部屋にしても二十畳を軽く超えている。

 

 二世帯どころか三世帯、四世帯が入っても持て余しそうな建屋である。

 しかし現在、ここには静音と客人の他、数名の使用人がいるだけだった。

 静音の両親は数日前からヨーロッパに出張している。

 

 静音は大理石製のチェスセットが置かれたテーブルを挟み、客人と対していた。

 彼女の後ろには黒いスーツを着た大柄な人物が佇んでいる。

 

 静園は写真の束を手にして、それに目をやっていた。

 やがて唇を開く。

 

滝沢(たきざわ)さん。つまりこの女は先週から彼の部屋に居座り続けている、ということでしょうか」

「はい。左様でございます、河原崎様」

 

 静音の向かい側に座る客人が、恭しい口調で答えた。

 

 滝沢と呼ばれたその男は、三十代前半と思しき外見をしている。

 瘦身かつ目も切れ長で、鋭い。

 才気あふれる油断ならない男、といった印象である。

 そして見た目通り、静音から依頼を受けた分野に関しては特に非凡な男であった。

 

「日中はどこにも出かけておりません。それに電話をかけても、インターホンを鳴らしても、全く反応しませんでした。おまけにカーテンを閉め切っているので、中の様子を見る機会はほとんどありませんでした」

 

 滝沢の苦労話を聞きながら、静音は写真の束をめくっていく。

 彼女はそのような単純な所作さえ、優雅で美しい。

 

 と言っても、本人が意識して、ことさら美し気に行動している訳ではない。

 眼前の相手に美貌をアピールする必要性など、静音は全く感じていなかった。

 彼女は今、他のことに気を取られている。

 

 静音の心は、滝沢から手渡された写真の束に向けられていた。

 そこには、白・茶色・黒三色の髪と、黄色い右目と青い左目をした少女の姿が写っていた。

 ほとんどの写真が、わずかに空いたカーテンの隙間から身体の一部分だけを写したものではあったが。

 

「他に親しい女はいないのですね?」

 

 写真をめくる手を止めず、静音は尋ねる。

 

「ございません。その女だけでございます」

 

 そう。

 と、わずかながらも安心したような声を、静音は発した。

 

 しかし、新たな写真を目にするや否や。

 静音は猛烈な勢いでそれを握りつぶしていた。

 表情は変えていないが、こめかみには血管が浮き出ている。

 

 滝沢と、静音の後ろで佇む人物が、共に息を飲んだ。

 静音は内心で暴風が荒れ狂っているのを押し隠すように、つとめて冷静な声を出す。

 

「ご苦労様でした。この件については調査を打ち切っても結構です。請求書は私あてに郵送してください」

 

 続けて後ろの人物へ目を向ける。

 

加藤(かとう)さん、滝沢さんをご自宅までお送りして下さい」

 

 その言葉に黒スーツの人物は、

 

「かしこまりました」

 

 と、答えた。

 

 加藤と呼ばれたその人物は、二メートルに届こうかという長身だった。

 しかもただ背が高いというだけでなく、骨太で、肉厚だった。

 歳は四十代半ばといったところであろうか。

 短く刈られた髪に、彫りの深い顔をしている。

 

 そのうえ、上下黒のスーツをまとっているのだ。

 一見すると用心棒か、あるいはボディガードか、と思わせる風貌である。

 

 だが勘の鋭い人間が見れば、加藤という人物に何かしら違和感を覚えるかもしれない。

 そしてより注意深い者なら、この人物の胸を見て真実に気づくだろう。

 この巨人は女性だった。

 

 二人の様子を見た滝沢は、口と目を操作して完璧な作り笑いを浮かべた。

 

「いえ、その必要はございません。実はこの後にも別の依頼がございまして……」

 

 立ち上がり、慇懃な礼をする。

 

「商売繁盛で結構なことね」

 

 静音も笑い、玄関まで滝沢を見送った。

 

 

 

 

「加藤さん、明日の件ですけど」

 

 自室に戻る途中。

 静音は傍らに立つ女丈夫に声をかけた。

 

「はい、お嬢様」

「少し予定が変わりそうだわ。詳しいことは明朝、指示します」

 

 加藤は黙って頷いた。

 しかし、何か腑に落ちないことがあったのだろうか。

 遠慮がちに静音へ問いかけた。

 

「それにしても、よろしかったのでしょうか」

「……なんのことかしら?」

「吉良様のことです。お嬢様は吉良様に、返事を待つ、と約束されたのでは」

 

 静音は足を止めた。

 耕作との会話を思い出す。

 

 ──しばらくの間、待っていてほしいんです。

 ──分かりました。お待ちしております。

 

「約束は破っていないわ。彼が話をしてくれるまで待ち続けるつもりよ」

 

 静音の返答を聞き、加藤は面食らった顔を見せる。

 静音は黒髪をなびかせ、振り返った。

 

「でもその間、私も勝手に調べている。それだけのことだわ」

 

 罪悪感など皆無な口調で、静音は告げた。

 加藤は絶句する。

 

 静音は丸く握りつぶされた写真を加藤に差し出すと、微笑しつつ命令した。

 

「これを捨てて……いえ、燃やして下さい」

 

 楽し気な口調とは裏腹に、静音の目は笑っていない。

 加藤は恭しく礼をして写真を受け取った。

 

 それから後。

 加藤は静音を、彼女の部屋まで見送った。

 部屋のドアが閉まってからも、加藤は長い間その場で佇んでいた。

 やがて思いつめたような表情で写真を広げる。

 

 どこから撮ったのであろうか。

 そこには、アパートのドアを開ける耕作と、彼に飛びつくミーコの姿が写っていた。

 

 

 ──────

 

 

「じゃあ、行ってくる」

 

 金曜日の朝。

 耕作は出勤しようとした。

 だがスーツの裾を白く細い手に引っ張られ、引き留められてしまう。

 このようにして出勤の邪魔をされるのは、この日だけでも三回目だった。

 

 耕作は呆れながらも、限りなく優しい声でミーコへ説得を始める。

 

「ミーコ、分かってるだろ? 今日は行かなくちゃいけないんだ」

「でも……」

 

 ミーコは潤んだ瞳を、上目づかいで耕作へと向けた。

 両手は胸の前で祈るように組んでいる。

 必殺技をいくつも繰り出し、耕作を引き留めているのだ。

 

 耕作は、思わず白旗を上げたくなっていた。

 しかし感情を理性で叩きのめし、ミーコに告げる。

 

「心配しないで。必ず今日中に帰ってくるから。約束するよ」

「うん」

 

 その言葉を聞き、ミーコもようやく諦めた。

 代わりに目を閉じ、唇を差し出し、キスをせがむ。

 

 耕作は一瞬、悩む素振りを見せた。

 その後でミーコの期待する場所ではなく、彼女の額に唇を当てる。

 

「じゃ、じゃあ行ってくる」

 

 顔の赤さを自覚した耕作は、急いで踵を返し、ドアを閉めた。

 

 

 

 

 耕作を見送った後も、ミーコは不安の中にいた。

 それでも「約束してくれたんだから、大丈夫」と自らに言い聞かせ、心を落ち着かせる。

 ピンクストライプの寝間着のまま、ベッドの上に寝転がった。

 膝を抱えて丸くなり、夜の訪れを願う。

 

 しかしその時から、負の感情が次から次へとミーコに襲い掛かってきた。

 それは、耕作が自分から離れるのではないかという恐怖であり、あるいは彼の身に危機が訪れるのではないかという、漠然とした不安であった。

 

 普段、耕作が出勤してから帰宅するまでの間、ミーコが部屋の中でやることと言うと。

 食事と睡眠以外では、耕作のことをひたすら考える、ただそれだけである。

 稀にテレビを見たりパソコンで遊んだりしたとしても、短時間にすぎない。

 ミーコにとって耕作のことを考え、彼の帰宅を待つ時間は、楽しいものでもあったのだ。

 

 しかし今日は違っていた。

 耕作のことを考えても、楽しい気分にはならなかった。

 悪いことばかり考えてしまうのである。

 

 耕作は約束してくれたが、大丈夫だろうか。

 あの女に取りこまれてしまうのではないか。

 やっぱり自分もついていって、この手であの女を始末したほうが良かったのではないか……。

 などと物騒なことも考えつつ、悶々として、ただ待つしかないのだ。

 

 ミーコは時計を見た。

 耕作が出て行ってから、まだ十分しかたっていない。

 

「今なら、追いかければ間に合うかも」

 

 そう考えると、居てもたっても居られなくなった。

 ベッドから降り、飛び出しかける。

 しかしそこで耕作の言葉を思い出し、自重した。

 

 再びベッドに寝転がり、白い天井を見上げる。

 見慣れた光景のはずなのに、天井に押しつぶされそうな圧迫感をミーコは覚えていた。

 口から大きな息の塊を吐き出す。

 続いてうつ伏せになり、何も見ない、聞かないようにして、ただ時が過ぎるのを待った。

 

 ひたすら恐怖に耐え続け、身も心も憔悴しきった後。

 ミーコは「もう夜になったのでは」と思い、顔を上げた。

 しかし、まだ日は高い。

 再び時計を見ると、耕作が出勤してからまだ半時も過ぎていなかった。

 

 泣き叫びたくなるのを、ミーコは必死にこらえた。

 ただひたすらに耕作の名を呼び、嗚咽を漏らし、丸まって世界を拒否する。

 そんなことを繰り返して、いやになるほど繰り返しているうちに。

 疲れ切ったミーコは、いつの間にか眠りに落ちていた。

 

 

 

 

 ──コーサクは食事をくれるし、気持ちのいい暖かいベッドで寝かせてくれるし、先にフワフワのついた棒で遊んでくれるし、愛してくれる……。

 

 いつかと同じ夢を再び見たような気がして、ミーコは目を覚ました。

 身体を起こし、周囲を見回す。

 部屋の暗さ、カーテンから透けて見える星空。

 さらに外の静けさから、夜の訪れを知った。

 

 時計に目をやると、日付が変わるまで三十分を切っていた。

 耕作はまだ、帰宅していない。

 

 ミーコは両手で頭を抱え、絶叫する。

 しかし彼女の肉体、特に声帯は、激しい感情に耐えきれなかった。

 口からは息が抜ける低く乾いた音だけが漏れた。

 

 ミーコの周囲で冷気が渦を巻き始めた。

 部屋中の家具が軋み、振動する。

 ミーコは今や、殺意の塊と化しつつあった。

 

 だがその時。

 彼女の、常人を遥かに凌駕する五感が、アパートの前に車が止まる気配を捉えた。

 

 耕作がタクシーかなにかで帰宅したのだろうか。

 そう思い、ミーコは怒気を収める。

 

 車のドアが開く音がした。

 中から人が降りてくる。

 だがその気配は、耕作のものではなかった。

 ミーコは再び絶望する。

 

 しかし彼女はすぐに、異変が起きていることを察した。

 降りてきた人間の足音に覚えがなかったのだ。

 つまりその人物は、アパートの住人ではないということになる。

 

 住人ではなくても、来客の可能性もあるだろう。

 ところがその人物は、よどみない足取りでアパートの階段を上がってきた。

 通路を進み、ミーコの部屋の前で止まる。

 

 誰だ? 

 ミーコは考えた。

 耕作でないことは、確実である。

 ミーコはベッドから飛び出し、帽子をかぶり、玄関の前に立った。

 相手が扉をこじ開けようとしたら全力で阻止するつもりだった。

 

 彼女の準備は無意味となる。

 ドアノブに鍵が差し込まれる音が聞こえたかと思うと、扉はあっけなく解錠されたのだ。

 

 ミーコは驚愕した。

 この部屋の鍵を持つのは耕作だけである。

 ミーコですら──外出しないため当たり前なのだが──持っていない。

 

 それなのに、なぜ? 

 考えるうちに、ミーコは思い出す。

 扉の前にいる人物の足音が、ハイヒールという靴のものであったことに。

 それは女性専用の靴のはずだ。

 ということは、今ここに侵入しようとしているのは……。

 

 軋んだ音を立て、ドアが開く。

 小気味良い足音を響かせて入って来たのは、招かれざる来訪者。

 

 黒く澄んだ大きな瞳に、ロングの黒髪。

 黒のパンツスーツを隙なく着こなした、掛け値なしの美女──。

 

「こんばんは。ミーコさん、とお呼びすればよろしいかしら? わたくし、河原崎静音と申します」

 

 静音の、普段は他者に暖かい印象を与える口元が、今は両端が吊り上がって三日月型になっていた。



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対決 一

 ピンクストライプの寝間着姿のまま、少女はキッチンに立つ。

 黒いスーツを着た女は、玄関で豊かな胸を張った。

 身長は、女の方が頭一つ分だけ大きい。

 

 ドアは既に閉じられており、照明も点いていない。

 どこからか漏れ入ってくるわずかな光だけが、室内を照らしている。

 常人であれば一メートル先のことさえ識別できないような、闇の中だ。

 

 しかし少女は、卓越した視覚によって苦もなく女の目を捉えている。

 そして女にしても、どのようにして見ているのか、少女に据えた目線を全く動かさない。

 

 少女は歯をむき出し、唸り声をあげ、露骨に威嚇する表情を浮かべた。

 女は穏やかな、しかし血の気の無い酷薄な微笑みで、それに応じる。

 二人の初対面は、友好的と表現できる余地が全くない、殺伐としたものとなっていた。

 

 殺してやる! 

 つい先ほどまで、そう切望していた相手が現れたのだ。

 ミーコにとっては、ある意味で待ちに待った対面だった。

 だが今は、目の前の女を嬲り殺しにするよりも先に、確認しておかなければならないことがあった。

 

「……コーサクはどこ?」

「聞いてどうするの?」

 

 静音は鼻で笑い、問い返す。

 さらには笑みを崩さぬまま、嘲りの言葉をも発した。

 

「貴女はもう、彼のことを気にする必要はないのよ」

「答えろ!」

 

 ミーコは激昂し、怒声を轟かせた。

 周囲では既に冷気が渦を巻きだしている。

 

 その様子を、静音は無感動な目で眺めていた。

 やがて肩をすくめ、口も呆れたような形に開く。

 

「吉良さんは車の中で休んでいるわ。今はよく眠っている……心配しなくても、信頼できるドライバーがついているから大丈夫よ」

 

 まあ、貴女が心配する必要はないのだけれど。

 と、小馬鹿にした声で、静音は言葉を付け足した。

 続けて、今度は怒りの感情を滲ませながら、ミーコを問いただす。

 

「それにしても、彼にどういう入れ知恵をしてくれたのかしら、貴女は?」

「……なんのことだ?」

 

 問い返しつつ、ミーコは慎重に静音との距離を測っていた。

 

 ミーコはすでに臨戦態勢をとっている。

 ただし物体を操る超能力については、まだ完全にコントロールする自信を持てずにいた。

 静音との距離が近すぎると、流れ弾のように飛んできた包丁やナイフが、自分にも当たる可能性があったのだ。

 従って静音からは、もう少し距離を置く必要がある。

 

 後ずさるミーコへ、静音が声をかけた。

 

「今夜、彼が聞いてきたのよ。私がいつから彼のことを好きになったのかって」

 

 静音はミーコを冷然と眺めつつ、この夜、耕作との間で何があったのかを語り始めた。

 

 

 ──────

 

 

 今からさかのぼること、数時間前。

 耕作と静音が約束した、金曜日の夜が来た。

 静音は待ち合わせ場所で耕作と合流すると、彼を個室制のレストランへと連れて行った。

 

 小奇麗な制服をまとい、完璧な礼儀作法を身につけたウェイターが、二人を部屋まで案内する。

 通された部屋の照明は、薄暗かった。

 その代わり中央にある丸いテーブルに、それ自体が発光するような仕掛けが施されていた。

 その凝った作りによって、室内には夢幻的な空間が広がっている。

 静音らしく品が良い、ムードもある店だった。

 

 ここまでの道中、耕作は緊張しっぱなしであった。

 だが部屋の様子を見た時には、多少なりともホッとしている。

 

 彼からしてみると、先日の「準備がありますので」という静音の発言から、どんな場所に連れていかれるのかと構える気持ちもあったのだ。

 万が一、いきなり両親を紹介されたりしたら、対応に困るどころの話ではない。

 しかしこの店なら、普通のデートとして収まるだろう。

 もっとも普段の彼であれば、気後れして絶対に足が向かないような高級店ではあったのだが。

 

 二人は席に着くと、お互いに仕事の疲れをねぎらい合った。

 それからはごく普通に会話も弾んでいた。

 運ばれてくる様々な料理も、どれも素晴らしく、二人は楽しい時間を過ごしていった。

 

 静音も、わざわざこの日を指定した割には、特に変わった様子を見せなかった。

 楽しそうに笑って、耕作と同じ時間と空間を共有できることを喜んでいる。

 

「このまま普通のデートとして終われれば、幸せなんだろうな」

 

 耕作もそう思っていた。

 それでも彼は、グラスに残っていたワインをあおって踏ん切りをつけると、用意していた質問を口にした。

 

「河原崎さんは、いつから俺に興味を持ってくれたんですか」

 

 問いを受けた静音は、不思議そうな顔を見せていた。

 小首をかしげ、耕作に問い返す。

 

「興味を持ったというのは……つまり、私がいつから貴方を好きになったか、ということでよろしいのでしょうか?」

 

 自分の意図を直球の表現で返されて、耕作は動揺した。

 だが、ここで誤魔化す訳にもいかない。

 

「その通りです」

 

 耕作は、顔に熱い血液が集まるのを自覚しつつ、努めて冷静さを保って静音の言葉を肯定した。

 同時に、口と舌の動きがおかしくなっていることにも気が付いた。

 ろれつが回らなくなりつつあったのだ。

 

「肝心な時に、飲み過ぎたか」

 

 心の中で自分の不甲斐なさに、舌打ちする。

 

「ずっと前からですわ」

 

 静音は目じりを下げ、可愛らしく微笑して答えた。

 その返答は、耕作も予想していた。

 あらかじめ準備していた通りに、質問を続ける。

 

「ずっと前というと、具体的にいつからでしょうか?」

 

 問いを受け、静音は今度は困惑した表情を浮かべた。

 耕作の心中を探るように、問い返す。

 

「どうしてそのようなことを、それほど気になされるのですか?」

「重要なことなんです。理由はこの後お話しますが……」

 

 そこまで話したところで。

 耕作は自分の身に、明白な異変が起きていることに気が付いた。

 口が動かなくなっている。

 正確に言えば、何か大きなものを咥えさせられたように、口内の微小な動作ができなくなっていた。

 

 酔っぱらっているとしても、これはおかしい。

 実際、耕作の頭はまだはっきりしていた。

 今まで感じたことのない感覚に、彼は戸惑う。

 

 耕作の様子を見て、静音は、

 

「どうかなさいました?」

 

 と、声をかけてきた。

 

「いや、ご心配をおかけしてすみません。大丈夫です」

 

 耕作はそう答えた。

 

 いや、答えたつもりだった。

 ところが彼の口から出てきたのは、

 

「い……、ごし……す……。だ……」

 

 という、呻き声とすら言えない言葉だけであった。

 

 耕作は愕然とする。

 目を覚ますため、頭を振ろうとした。

 ところが首を傾けた途端、バランスを崩してしまった。

 大きな音を立て、テーブルに突っ伏してしまう。

 

 何をやっているんだ。

 自分の身体は、一体どうしてしまったんだ。

 

 考えると同時に、焦りと、得も言われぬ恐怖が襲い掛かってきた。

 それでも、うつ伏せになったまま動かせなくなっている身体を、無理やりに起こそうとする。

 静音に醜態を見せてしまった謝罪をし、助けを求めようとしたのだ。

 

 だが、手をテーブルにつこうとした瞬間。

 両腕の感覚も無くなっていることに、彼は気がついた。

 

「ずっと前からですわ」

 

 静音が立ち上りながら、言葉をかけてくる。

 彼女はその後、歩いてテーブルを回り、耕作の背後に移動したようだった。

 うつ伏せ状態の耕作からは、彼女の姿は見えなくなっている。

 

 肩に静音の手が置かれる感覚があった。

 鼻腔に香水の匂いが広がる。

 耳元から静音の心地よい、身と心をとろけさせるような声が聞こえてくる。

 

「何を疑問に思われるの? 私は貴方が好き、貴方は私が好き。お互いに好意を抱いている、それで十分ではなくて?」

 

 五感が急速に遠くなっていく。

 そこで耕作の意識は途切れた。



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対決 二

「……下らない質問をしてきたりして、彼は疲れていたのね」

 

 耕作への深い同情を込めて、静音は話を終える。

 他方、ミーコへ向けられた眼光には、激しい怒りがあった。

 静音は前へ進み出ると、傲然とした姿勢でミーコを問いただした。

 

「ところで、一応きいておくけど。貴女、悪魔と契約したのよね? その変身は、あいつらの仕業なのでしょう?」

 

 ミーコの脳裏に、危険を知らせるシグナルが鳴った。

 

「……こいつ、何者だ!?」

 

 ミーコは考える。

 

 静音は暗闇の中でも、日中と変わりないようにミーコを見て、会話をしている。

 その時点で、既に常人ではありえない。

 さらに今、彼女は悪魔のことも話し出していた。

 ミーコの擬人化が彼らの能力によるものだと、そう言っているのだ。

 ミーコ本人ですら、神か悪魔か、どちらの仕業かはまだ分かっていなかったのに。

 

 眼前の女性が予想以上に危険な相手であることを、ミーコは悟った。

 これまで以上に警戒を強める。

 沈黙し、相手の一挙手一投足を逃さないようにしながら、なおも距離を取っていった。

 

 ミーコの様子を見て、静音は自分から会話を続けていった。

 

「答えたくないなら別にいいけど。それにしても貴女みたいな厄介者が傍にいたんじゃ、吉良さんも気が休まらないでしょうね。だから……」

 

 ミーコに右手人差し指を突き付け、宣告する。

 

「彼のために、心配事をなくしてあげるわ」

 

 宣戦布告か! 

 察すると同時に、ミーコは後方へ跳びすさった。

 キッチンから部屋へと戻り、叫ぶ。

 

「死ね!」

 

 派手な金属音が、あちこちで鳴り響いた。

 食器棚からナイフ、フォーク、包丁が飛び出した。

 部屋の中からはカッターナイフ、ハサミ、ドライバー等が飛び出してくる。

 それらの凶器は宙を走り、静音を包囲するようにして滞空した。

 

 一瞬の間をおいて。

 全ての凶器が同時に動き出した。

 猛烈な勢いで静音に向け、突進したのだ。

 しかも彼女の目、腹、胸、喉と、急所ばかりを狙っていた。

 

 静音は眼前で起きている出来事を、冷めた目で見ていた。

 ただその場に立つだけで、何の行動もとっていない。

 

 しかし突進していた多数の凶器は、彼女の身体に突き刺さる直前、突然うごきを止めた。

 そのまま落下して、床に転がる。

 ミーコは唖然とし、口を開けたまま立ちつくしてしまった。

 

 静音が呆れた声をかけてくる。

 

「なにかと思えば、下らないわね。この程度の小細工で私を殺すつもり? 貴女が契約した相手って、よっぽど無能な低級悪魔だったみたいね」

 

 嘲弄され、ミーコは激怒した。

 再び超能力を発動させる。

 今度は凶器類だけではなく、フライパンやドライヤーからテレビのリモコンに至るまで、ありとあらゆる物体を静音に向け、突撃させた。

 

 しかし、やはり静音には通用しなかった。

 それらの物体は、静音の身体まで間数髪のところで、ことごとく静止してしまう。

 そして落下すると、空しく床に転がった。

 

「終わりかしら? じゃあ私の番ね」

 

 静音は目じりを下げ、にこやかと表現されるに足る笑顔を浮かべた。

 右手の掌を、前方へ突き出す。

 

 次の瞬間。

 ミーコは真後ろに吹っ飛ばされていた。

 壁に激突し、崩れ落ちる。

 帽子も脱げ落ち、三色の長髪が宙に舞い、猫耳が晒された。

 

「がはっ……!」

 

 叩きつけられた衝撃によって、ミーコの背中一面には激痛が走っていた。

 それでも彼女は闘志を衰えさせることなく、痛みに耐え、起き上がろうとする。

 

 だがその動きも、瞬く間に封じられてしまった。

 両手が見えない力に引っ張られ、後ろ手に回されてしまう。

 さらに手首と、そして両膝に、透明な鉄の輪のようなものがはめられる感触があった。

 輪はミーコを捻り上げるように、力を込めてくる。

 

 身体中を襲う激痛に、ミーコは思わず悲鳴を漏らした。

 しかしそれでも尚、彼女の闘志は衰えない。

 殺意に満ちた目を静音に向け、這いずり、部屋の中央まで進み出る。

 

 一方、静音は部屋の中に入ると、ミーコの猫耳に目を向けた。

 

「中途半端な人間になったものね、この化け猫」

 

 嫌悪感をむき出しにした言葉を、ミーコに浴びせかける。

 さらに侮蔑の眼差しをもミーコに送り、形の良い顎を上げた。

 

「正確には化け猫よりも泥棒猫かしら? 泥棒化け猫だと……ちょっと語呂が悪いわね」

 

 自分の発言が面白かったのだろうか。

 静音は微笑を浮かべた。

 

 片やミーコは、圧倒的に不利な状況にありながらも顔を上げ、叫んだ。

 

「泥棒猫はおまえだ!」

 

 罵倒され、静音は眼光をさらに冷ややかなものにする。

 無言のまま顎を小さく動かし、ミーコへ発言を続けるように促した。

 

「コーサクと恋人になるのは私だニャ! 私はずっと、コーサクと暮らしてきた。生まれてすぐコーサクに拾ってもらって、それからずっと。私はコーサクがいれば、他のことなんてどうでもいい」

 

 ミーコの、普段は黄と青の両目が、今は殺意と怒気によって赤く染まっているかのようだった。

 

「でもおまえはコーサク以外の男とも付き合い、交尾してきたんだろ! おまえこそ淫乱な泥棒猫だニャ! 操り人形のくせに、横から急に出てきて……!」

 

 そこまで話したところで。

 ミーコはまたしても、壁際まで吹っ飛ばされていた。

 しかも今度は、超能力を使われたのではない。

 静音は自らの足で、ミーコの腹を蹴飛ばしていたのだ。

 

 底冷えするような声が、部屋の中に響き渡る。

 

「私が操られている? 勘違いするんじゃないわよ、この化け猫が」

 

 何かが静音の逆鱗に触れたのだ。

 美しかったはずの顔は歪み、今や般若と化していた。

 

 ミーコは、蹴飛ばされた腹と、またしても壁に叩きつけられた背中の痛みで、まともに呼吸もできなくなっていた。

 床に転がったまま、口を陸に上げられた魚のように開けている。

 

 その前へ、静音は歩み寄ってきた。

 

「利用されたのは貴女よ。おまけにずっと彼と暮らしてきた、ですって? 笑わせるんじゃないわよ、貴女が彼と一緒にいたのなんて、わずか一年にも満たない間のことじゃない。私は違う」

 

 静音はミーコの手前、あと一歩といったところで歩みを止める。

 そして上を向き、虚空を見つめると、うっとりとした表情で語り始めた。

 

「私は今でも覚えている、彼に初めて会った日のことを。あれは、彼のお母さんが亡くなった日。私は当時、彼の住む街を見回っていた」

 

 静音の身体が発光を始めた。

 ミーコは苦痛に耐えながら、ぼんやりとした目で、その姿を捉えている。

 

「彼はね、お母さんの遺体の傍にいて、とても寂しそうだった。当然よね、まだ子供だもの」

 

 当時の情景を思い出しているのだろう。

 静音は両手を胸の前で組み、目を閉じた。

 

「でも彼は、泣いてはいなかったのよ。むしろお父さんの方が号泣して大変だったわ。……そんなお父さんを、彼は慰めていたの。『僕がついてるよ』って。強い子だなあって、感心したわ」

 

 静音の身体から発する光は、強さを増していく。

 

「でもその夜……彼は自分の部屋へ戻った時に、泣いたのよ。一人で。そして一生懸命、神様にお願いしていたわ。『お母さんを生き返らせてください』って。残念ながらその願いはかなえられなかったけど……」

 

 光は強さを増し続け、部屋全体を白く染めようとしていた。

 

「そのとき私は彼の姿を見て、思ったの。いつかこの子の役に立ちたい。願いをかなえてあげたい。傍にいてあげたい。一緒になりたいって」

 

 静音は今や、太陽と見まがうような光の塊と化していた。

 

 ミーコは愕然として顔を上げる。

 そして思った。

 この光景、この光の塊を見たことがある、と。

 

 それは全てが始まったあの日。

 眠りに落ちていた彼女の前に、確かにこの光の塊は現れていた。

 

「その時からずっと、私は彼を見ていたわ。ずっと昔から……彼が子供の頃から……」

 

 光の強さに、ミーコは目も開けていられなくなる。

 

 爆発的に広がる光輝の中。

 静音の声だけが、響き続けていた。

 

「彼だけを……」

 

 光の塊は、徐々にその形を変えて行く。

 人型になり、白い衣をまとった少女となり。

 背から白く輝く羽を生やし、やがて頭上に金色の輪を浮かべた。

 

 あの時の天使が、ミーコの目の前にいた。



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天使、かく語りき 一

 ミーコは魂が抜けたかのように呆然と口を開け、目を見開き、眼前に現れた少女──天使を眺めていた。

 

 天使は身体に、染み一つない純白の衣装をまとっていた。

 背中には二枚の、同じく真っ白な羽を生やしている。

 だがその色を除けば、白鳥の美麗さよりも鷹の猛々しさを感じさせる、勇壮な外観をしていた。

 

 巻き毛の頭髪は胸の辺りまで届き、頭上の輪に劣らぬほど金色に眩く輝いていた。

 瞳はサファイアのように青く、その内に幾多の星々を煌めかせている。

 

 顔立ちは名工の手によるガラス細工のように整っていた。

 ミーコとどちらが美人かと言われても、甲乙つけがたいほどである。

 ただし同じ美人と言っても、趣は多少なりとも異なる。

 具体的に言うと、ミーコの顔立ちが日本人を思わせるのに対し、天使は白人のそれであった。

 

 年の頃はミーコと同年代か、やや幼いかもしれない。

 あくまで外見は、ではあるが。

 

 

 

 

 天使は踊るようにして、ミーコの前でくるりと回った。

 それから背中の羽を、左右の壁へ届きそうになるぐらい大きく広げる。

 

「この姿になるのは久しぶり……でもないわね。まだ二週間も経ってないもの。ところでどう? 驚いたかしら」

 

 ミーコは答えない。

 というよりも眼前の出来事にただただ呆気に取られ、答えられないでいた。

 その様子を見て、天使は自ら話を進めていく。

 

「目の前の事実を理解はすれど受け入れることはできない、ってところかしらね。まあいいわ」

 

 天使は口角を上げ、腰に両手を当てた。

 

「貴女が私を見るのは今日を含めて二回目……でも私は長い間、貴女達を見ていたのよ。正確に言えば彼、吉良さんをね。それこそ彼が子供の頃からずっと……少年だった彼が青年へと成長するのを、ずっと隣で見てきたの」

 

 天使の声に、陶然とした色合いが増していった。

 

「私は彼の全てを知っている。成功も失敗も。誇れるところや、他の人には言えない恥ずかしいところも。どんな青春を過ごし、挫折を味わったか。そして彼が胸に抱いている愛情と、憎悪も」

 

 天使はそこまで話すと、深く息を吐いた。

 声色に、今度は威嚇の色を強くして宣告する。

 

「……私だけが、彼の全てを知っている。他には誰一人知らない。それこそ彼自身でさえ覚えていないであろうことまで、全てをね。……だから彼は私のものなの。これだけは絶対に揺るがない、揺るがせないわ」

 

 発言を終えると、天使はミーコを見下ろした。

 自分とミーコとでは、耕作を愛した期間に圧倒的な差がある。

 当然、愛情の深さや大きさも比べものにはならない。

 天使はそう思い、今は勝ち誇っていた。

 

 だが。

 言われるがままとなっていたミーコの目に、この時、小さな火が灯った。

 火はあっという間に、炎から業火へと勢いを増していく。

 ミーコは、猫が威嚇するように歯をむき出しにした。

 

「……言いたいことはそれだけかニャ?」

「え?」

「コーサクを見続けていたからって、それがどうした? そんなもの、コーサクには関係ない。コーサクはおまえのことなんか知らない。おまえが勝手に覗いていただけだろ!」

 

 天使は息を飲む。

 

「でも私は違う! コーサクは私を拾ってくれた! 家族にしてくれた! ……おまえの思い込みなんか知るか! コーサクが選んだのは私だ! 分かったら消え失せろ、この白くてヒョロヒョロなアヒルのなりそこない!」

 

 空気が、一瞬にして凍りついた。

 ミーコは天使の思い上がりに冷水を浴びせたのだ。

 

 天使の、もともと白かった肌からさらに血の気が引き、蒼白になる。

 天使は無言でミーコの傍まで歩みよると、三色の髪の毛を掴み、ミーコの身体を引き起こした。

 

 ミーコは髪を引っ張られ、先の激突による痛みにも襲われながら、闘志を全く衰えさせない。

 獰猛な、今にも噛みつくかのような表情を天使に向けていた。

 

 片や天使は、顔から感情を完全に消していた。

 ガラス細工のように精巧な面容が、冷たく輝いている。

 細く華奢な腕でミーコをさらに持ち上げ、目線を合わせた。

 

「言ってくれたわね、この化け猫」

 

 凍土で固められた、仮面の下。

 憤激が溶岩のように煮えたぎり、渦を巻いている。

 天使の声や表情には、相反するものが同居する、底知れない恐ろしさがあった。

 

「消えるのはおまえの方よ。彼の前からだけじゃなく、人間界からも消し去ってやるわ」

 

 天使はミーコの髪を放した。

 ミーコはバランスを崩し、両膝を床に打ちつけて座り込んでしまう。

 

「楽に死ねるとは思わないことね。この部屋には結界を張ってあるから、どんなに叫んでも誰にも気づかれないわよ。せいぜい苦しんで……」

 

 発言の途中、天使が眉をひそめた。

 突然、彼女の身体は再び輝き始める。

 ミーコは異変を察し、後ろ手を組まされた体育座りのような姿勢のまま、部屋の角まで後ずさった。

 

 先ほどと同じように光は強さを増し続けた。

 天使は巨大な光の塊となる。

 輪郭を崩して人型に変化すると、今度は天使ではなく黒髪の美女、河原崎静音の姿となった。

 

 静音は自らの身体に目をやった後、髪をかき上げ、頭を振った。

 

「……時間切れだわ。あの姿のままでは、人間界にはあまり居られないのよね。まあ元々もどるつもりもなかったんだけど。まったく、貴女のせいで予定外のことばかり起きるわ」

「……なんのことだ?」

 

 ミーコの問いに対し、静音は腕を組み不満げな態度をとった。

 

「今夜のことよ」

 

 当初の予定では、静音は耕作を眠らせた後、彼を連れて自宅へ直行する予定だった。

 耕作が起きたら月曜日まで肌を重ね続け、彼を虜とするつもりだったのである。

 

「そのための薬や道具も、全部用意してあったのに」

 

 静音の口ぶりは、いつの間にか拗ねたようなものとなっていた。

 

「でも彼にまとわりついていた女が貴女だと分かって、先に始末しなければならなくなったのよ」

 

 静音が滝沢から受け取った写真には、耕作と、人間になったミーコの姿しか写っていなかった。

 静音は疑問を抱いた。

 耕作が飼っていた猫は、どこへ行ったのだろうか? と。

 

 だがその疑問は、ミーコの三色の髪と色違いの両目に気づいた瞬間、氷解していた。

 

「……まさかと思ったけどね。でも、吉良さんと同棲しているというだけでも万死に値するわ。悪魔と契約したのだろうと、そうでなかろうと、さっさと片付けるに越したことはない。そう思ったのよ」

 

 静音の両眼に、無機質な光が宿った。

 

「貴女の痕跡は完全に消し去ってあげるわ。もちろん、吉良さんの中からもね。貴女を始末した後で彼を愛しつくして、私のことしか考えられないようにしてあげるわ……。この部屋に帰ってきた時に貴女がいなくても、きっと気にも留めなくなっているはずよ」

 

 欲情と愉悦に塗れた顔で、静音は告げた。

 

 ミーコは憤怒の表情でもがき、手首と膝にはめられた拘束を外そうとしている。

 だがそれらの努力は、全て無駄となっていた。

 拘束はびくともしない。

 

 暴れ続けるミーコへ、静音は両掌を向けた。

 

「じゃあ覚悟はいいかしら? 予定がだいぶ変わっちゃったけど、いい加減、本筋へ戻らせてもらうわよ」

「河原崎さん、申し訳ないけどその予定、もうちょっと変更できるかな」

 

 穏やかな声が静音へかけられ、玄関に明かりが灯される。

 声を聞き、光を受け、静音は驚愕した。

 

 だが彼女は同時に、脊髄が痺れるような官能をも覚えていた。

 声の主は、彼女が最も愛情を注ぐ相手であったからだ。

 静音は振り返り、玄関に佇む耕作の姿を見た。



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天使、かく語りき 二

「なぜ……?」

 

 静音は茫然と口を開け、立ちすくんでしまった。

 今の状況は彼女にとって、理解できないものだったのだ。

 

 耕作の飲み物へ入れさせた薬の効果は、まだ数時間は残っているはずだった。

 ミーコを始末し、耕作を家へ連れ帰る。

 それを可能とするだけの、十分な時間があるはずだった。

 だのになぜ、彼は意識を取り戻せたのか。

 

 その疑問には、すぐに答えが与えられる。

 玄関のドアが開き、耕作の後ろからもう一人、別の人物が入ってきたのだ。

 上下黒のスーツを着たその人物は、天井にぶつかりそうな頭をかがめつつ、勢いよく進み出て静音の前で土下座した。

 

「お嬢様! この加藤、いかなる罰もお叱りもお受けいたします! ですからこのようなことは、どうかもうおやめ下さい!」

 

 巨体を丸め懇願する女丈夫の姿を見て、静音は呆気にとられてしまった。

 その前で、加藤は尚も諫言を続けていく。

 

「吉良様を拉致するだけでなく部屋へ押しかけて狼藉に及ぶなど、正気とは思えません! どうか目を覚ましてください!」

 

 加藤はそれから後も「なにとぞ、なにとぞ」と、やや時代がかった言葉を繰り返した。

 

 静音も全てを理解した。

 両手を腰に当て、怒りを抑えた、淡々とした口調で問いかける。

 

「加藤さん、まさか貴女が裏切るとはね。一応きかせてもらうけど、薬の効果が短かったのはなぜ?」

 

 加藤は平伏したまま答え始めた。

 

 耕作に飲ませた薬は、静音から依頼されたものではなかったのだ。

 その薬は即効性はあるものの、持続性は薄かった。

 それにレストランを出た後で、加藤は密かに解毒剤を耕作に飲ませていた。

 

 説明を聞き。

 静音は苦虫を噛み潰した顔で、命令した。

 

「そう、分かったわ。貴女への処分は追って伝えます。車に戻って待機してなさい」

「お嬢様……」

 

 加藤は顔を上げ、静音を仰ぎ見た。

 静音は加藤に一瞥をくれただけで、すぐに耕作に向き直った。

 

「ここから先は、私と彼の時間なの。貴女に割く時間なんて一秒たりともない。すぐに出ていきなさい」

 

 主人から突き放され、加藤は捨てられた子犬のような顔を見せた。

 よろけながら立ち上がると、静音に向かって一礼する。

 そして、肩を落としたまま部屋を出ていった。

 

 耕作は加藤とすれ違う際、声をかけた。

 

「ありがとうございました」

 

 加藤を見送ったのち部屋へ入り、照明のスイッチを入れる。

 そして真っ先に、ミーコへ声をかけた。

 

「ただいま」

「お帰りなさい、コーサク!」

 

 ミーコは目に涙を浮かべた。

 これ以上ない、最高の笑顔で耕作を迎える。

 耕作も笑顔で応えた後、時計へと目を向けた。

 

「ぎりぎり日付が変わる前に帰ってこれたかな。約束を破らずに済んだ」

 

 時刻は二十三時五十八分だった。

 

 

 

 

 耕作とミーコはそれぞれ部屋の角、ちょうど対角線上に位置している。

 二人の間には静音が佇んでいた。

 室内には、緊張、疑問、愛情、といった様々な思惑や感情が混在し、充満している。

 それは喉が締めつけられるような感覚をも、耕作に与えていた。

 

 張り詰めた空気を打ち破るようにして。

 静音が唇を開いた。

 

「いつから聞いてらしたんですか?」

「いや、今きたばかりですよ。まだ薬が抜けきっていないみたいで、足元もおぼつかないんです」

 

 耕作は正直に答えた。

 

「だから今はまだ、何が起きているのかもさっぱり分からないんです。一体どうして……」

 

 問いかけつつ、耕作は静音に歩み寄ろうとする。

 ミーコが間髪入れずに警告を発した。

 

「コーサク、近づいたらだめ! そいつ、天使だニャ!」

「へ?」

 

 警告を聞き、耕作は二重の意味で混乱した。

 

 まず、静音が天使だという話が唐突すぎた。

 さらに天使に近づいてはいけない、と言うのも意味不明である。

 天使とは神の使いであり、正義の味方ではないのだろうか。

 

 だがミーコの緊迫した表情と声からすると、ただならぬ事態に足を踏み入れようとしているのは間違いないようだ。

 耕作はそう判断し、足を止めた。

 

 静音が不快感を露わにした声をかけてくる。

 

「ずいぶん素直に、その化け猫の言うことを聞くんですね」

「ミーコは俺の不利益になることはしませんし、言いませんから」

 

 答えると同時に、耕作は「しまった」と思っていた。

 

 ミーコは、耕作を騙すようなことはしない。

 一方、静音は薬を盛って拉致しようとした。

 自分の発言は静音に対する皮肉にも取られかねない、と思ったのだ。

 

「でもまあ、約束を破って寝床に忍び込んできたりはしますけど」

 

 と、静音をなだめるつもりで言葉を継ぎ足した。

 だがそれは、明らかに逆効果であった。

 静音は目に見えて逆上し、こめかみの血管を膨れさせてしまう。

 

 耕作は慌て、今度は理論立った説明を始めた。

 

「でも今みたいにミーコを、超能力かなにかで拘束しているのを見ても、河原崎さんが普通の人じゃないのは分かります」

「……」

「それに誰にも連絡せず、一人でミーコをどうにかしようとしていたみたいですしね。それだけの自信と知識があるんでしょう」

 

 耕作の説明を聞いている間も、静音はまだ剣呑な雰囲気を漂わせていた。

 だがそれでも、次第に落ち着いてきたらしい。

 溜め息を一つついてから、再び口を開いた。

 

「それで、これからどうされるおつもりですか?」

「どうしたらいいのかは、正直、俺にも分かりません。だから判断の材料が欲しいんです」

 

 これが事態を解決する、最後のチャンスになるかもしれない。

 そう考えながら、耕作は願い出た。

 

「俺やミーコに何が起きたのか。河原崎さんが知っていることを教えてもらえますか?」

 

 静音は細く白い手を顎に当て、考える素振りを見せた。

 だがそれは、ほんの十数秒ほどのことだった。

 

「聞いても仕方がないと思います」

「なぜですか?」

「私の結論は変わりませんもの」

「というと……」

「そこの化け猫を始末して貴方を家へ連れ帰る、ということです」

 

 困った結論だ。

 と耕作は思ったが、さすがに口には出さなかった。

 やや癖のある頭髪をかき混ぜつつ、説得を試みる。

 

「俺やミーコに関わることです。せめて、納得できる理由を知りたい。納得してそれを受け入れるかどうかは、また別問題ですけど」

 

 耕作はそこで、一拍の間を置いた。

 続いて少年のように清雅な顔に強い意志の力を込め、静音へと告げる。

 

「少なくとも今は、その結論を突き付けられても全力で拒否しますよ」

 

 耕作の決心を聞かされて。

 静音はまたしても顎に手を当て、思考を始めた。

 

 今度は数分間も考えた後。

 静音は耕作を見つめ返し、答えた。

 

「分かりました。でも条件が三つあります」

「どんなことでしょうか」

「一つ。私が話す事柄については、他言無用に願います」

「もちろんです、分かりました」

 

 元より誰かに話すつもりもない。

 耕作からしてみれば、最初の条件は特に問題とも思えなかった。

 

「二つ。私が話す前に、まず貴方が知っていることを教えてください。私も全ての事実を知っている訳ではないんです」

「いいですよ」

 

 耕作は、これまたあっさりと了承していた。

 

 猫耳を生やしたミーコを目の前にしている以上、静音に隠す必要がある事柄など、もはや残っていない。

 全てを話し、協力を仰いだ方が良いだろう。

 と、耕作は思っていた。

 

 耕作の返答を聞き、静音は頷く。

 だが次に彼女が見せた所作は、耕作が予想だにしていないものだった。

 淫猥と表現してよい笑みを浮かべ、媚を売るようにして耕作へにじり寄ったのだ。

 

「三つ。これから私のことは、静音って呼んでください」

「え?」

 

 予想外の条件に、耕作は一瞬思考を止める。

 だが静音の目は、本気であった。

 ねっとりとした視線で耕作の口元を捉え、離さない。

 

「ねえ、早く呼んで。し・ず・ね。さあ早く」

 

 静音は口から涎まで垂らしながら、せがみ続けた。

 

 耕作は絶句していたが、やがて覚悟を決める。

 ミーコがなにやら絶叫し暴れているのが目に入ったが、無視して口を開いた。

 

「し、静音……さん」

「んー……まあいいわ。許してあげる、耕作さん」

 

 静音は両手を頬に当て、悦に入っていた。

 その後ろでミーコは涙目になり、悔しさのあまり唇を噛んでいた。



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天使、かく語りき 三

「そうですか、私が去った直後に悪魔が来ていたとは……」

 

 静音は耕作の説明を聞き終えると、唇を歪め、悔しそうに呟いた。

 彼女にとって悪魔の行動は予想外だったのだろう。

 

「しばらくここに残っていれば良かったのかしらね……まあ、もう遅いけど。ありがとうございます、よく分かりました」

「どういたしまして」

 

 耕作の話が終われば、次は静音が事情を説明する番となる。

 彼女は初めに、自分が天使であることと、耕作の母が亡くなった日に彼を見初め、それからずっと見守り続けていたという事実を告白した。

 

 この時点で、耕作は既に頭を抱えてしまっている。

 

 ミーコが猫だった頃、耕作は彼女の前で様々な痴態を晒していた。

 後日それを思い出した時には、思わず赤面している。

 

 ところが静音には、それ以上の痴態や醜態を見られていた訳である。

 なにしろ自分の半生を覗かれていたのだ。

 首を釣りたくなるような恥ずかしさを、耕作は覚えていた。

 

 そして静音にしても、耕作とは別の意味で恥ずかしかったらしい。

 恋心を告白した少女のごとく頬を赤らめ、うつむいていた。

 

「それにしてもなんで今頃になって、俺の前に姿を見せたんですか」

 

 憔悴しきった顔で、耕作は尋ねた。

 

「仕方がなかったんです。私たち天使には、神様に定められた規則があります。そのため姿を現す訳にはいきませんでした」

 

 申し訳なさそうな顔で語った後。

 静音は詳しい説明を始めた。

 

「天使には使命があるんです」

 

 使命とは人間でいうところの仕事のようなものである。

 数多くいる天使が、それぞれ異なる使命を神から託されているのだ。

 

 そして使命を遂行するとき以外は人間の前に姿を現してはならず、また力を振るってはならないともされていた。

 ただし、悪魔に攻撃された、というような非常事態であれば別となる。

 

「私は神様から、三つの使命を託されていました」

 

 神が静音に託した使命のうち、一つ目は「純粋で美しい心の持ち主を見つけ、その願いを神様まで届けること」であった。

 さらにその願いは、直接本人の利益になるものであってはならない、とされていた。

 

 本人に直結する願いだと私利私欲となってしまい、美しい心の持ち主として相応しくない。

 他者の幸せにつながるものでなければならないのだ。

 

「あの日、そこにいる化け猫が抱いた『耕作さんに彼女ができますように』という願いは、この条件に当てはまりました。だから神様までお届けしたんです」

 

 静音は、暗い目をミーコに向けた。

 ミーコは座り込んだまま低い唸り声をあげ、静音を睨み返している。

 

 二人の様子を眺めつつ。

 耕作は「なるほど」と相槌を打っていた。

 それから後、心に浮かんだ疑問を口にする。

 

「でも静音さんは、天使として勤めながら人間としての生活も送っていたんですか?」

「いいえ、それはこれから説明いたします」

 

 静音は再び説明を始めた。

 

 静音に託された使命のうち二つ目は「届けた願いごとが神様に受理されたら、それを実現させること」であった。

 耕作は、またしても疑問を抱いた。

 

「つまり神様は願いを受け付けるだけで、実際にかなえるのは静音さんたちになるんでしょうか?」

「その通りです」

 

 弾んだ声で、静音は答えた。

 

 神様も、投げっぱなしな対応をするんだなあ。

 と、耕作は考えた。

 

 もっとも天国と人間界を治めているとなると、小さな願いごとを一つ一つをかなえて回るのは忙しすぎて無理なのかもしれない。

 それで全能と言えるのか、という気もするが。

 

 静音の話は、核心へと迫っていく。

 

「神様から許可を得て、私は耕作さんに彼女を作ることにしました。……正確に言えば、私が彼女になる、そのつもりでした」

 

 静音の声からは、耕作に向けられた執念にも似た愛情が感じられた。

 その底知れない響きに、耕作は思わず背筋を寒くしている。

 

「耕作さん、その為にこの身体を手に入れました。この身体の持ち主だった河原崎静音は、あの事故で死ぬ運命だったんです。それを変更して助けた上で、魂には肉体から出ていってもらいました。彼女は善行を積んでいたので、天国に行きました」

 

 耕作は言葉を失った。

 ただし心のどこかでは「やはりそうだったか」とも考えている。

 

 あの時の状況を思い返すに、天使が発揮したであろう不思議な力の助けがなければ、静音は助からなかったはずなのだ。

 その点は、耕作にも納得できた。

 

 だが、まだ生きている人間の魂を抜き取ってしまうという手法には、やはり慄然とせざるを得ない。

 身体を奪われて、静音本人の魂は何を思ったのだろうか。

 

 やりきれない思いを抱きつつ。

 耕作は問いかける。

 

「魂を抜き取るなんて、そんなことが可能なんですか」

「普通なら無理です。でも本来は死ぬ運命……寿命を迎えた人間ですから、それなら簡単です」

 

 静音は、非情なまでに落ち着いた口調で述べ続けた。

 

「その後は、抜け殻になった身体に入り込んで記憶を合わせれば、作業は終わります」

 

 過去の行いを語っているうちに、耕作への情念も燃え上がってきたのだろう。

 静音の黒い目は、今や濃暗色となっていた。

 

 その、深く暗い目に見つめられているうちに。

 耕作は不思議な感覚を覚えていた。

 

 五感が遠くなり、全身が静音へ引き寄せられていく。

 意識もおぼろげになり、まともな思考ができなくなっていた。

 頭の中では、静音の言葉だけが響き続けている。 

 

「耕作さん。長い間まち続けて、やっと訪れた機会だったんです。私は貴方と一つになりたかった。この想いをかなえるために、心の美しい者が貴方の幸せを願う、その日が来るのを待ち続けました。それも、ただの幸せでは駄目だったんです。私が貴方と結ばれる、きっかけにならなければ……。そして遂にあの日が訪れたんです。あの日、あの瞬間、私の心は歓喜で満たされました。この点についてだけは、そこの化け猫に感謝しています」

 

 静音は話しながらも、ゆっくりと耕作に近づいている。

 耕作は身じろぎすらできないまま、その姿を眺めていた。

 

 耕作は今、静音の術中に落ちようとしていた。

 静音は言葉の端々に、密かに情愛の言霊を込めていたのだ。

 それによって耕作の心を捕らえ、自身の愛欲で満たされた底なし沼へと引きずり込もうとしていた。

 

 耕作には、その圧倒的な力に抗うすべはない。

 静音の艶やかな声と深い瞳に魅入られ、そして畏れるあまり、蛇に見込まれた蛙のようになってしまっていた。

 

 だが、この時。

 自分に向けられた、少女の必死な叫び声を耕作は聞いた。

 

「コーサク、駄目だニャ! しっかりして!」

 

 ミーコが拘束された身体を懸命に動かし、耕作に向けて這いずっていた。

 目には涙が浮かんでいる。

 その、青と黄の瞳を覆う透明な雫を見て、耕作は我に返った。

 

「待ってください。まだ質問があります」

 

 頭を振りつつ右手を前に出し、静音の動きを掣肘する。

 

 静音は一瞬、眉間に皺を寄せていた。

 しかしすぐに表情を緩めると、穏やかな顔で「なんでしょうか?」と、尋ねた。

 

「ミーコのことです」

 

 耕作はミーコへ目を向けた。

 ミーコから縋り付くような視線が返ってくる。

 耕作は優しく、そしてどこか悲し気にも見える笑みを彼女に送った後、再び静音に問いかけた。

 

「静音さん。貴女の力でミーコを完全な人間にするか、でなければ元の猫に戻すことはできますか?」

「コーサク、そんな!」

 

 ミーコは叫び、さらに悲鳴をも上げた。

 悲痛な声が、部屋中に満ちていく。

 完全な人間になるのはともかく、猫に戻るのは彼女の本意ではないのだ。

 

 静音はミーコを一瞥した後、頭を振った。

 

「それは無理です。元の姿に戻るには、悪魔と同意の上で契約を解除する必要があります」

「……では、悪魔に魂を奪われる、という約束を反古にするのも無理ですか?」

「いえ、それは簡単です」

 

 静音は、楽しげな声で即答した。

 耕作の心を埋めていた暗雲が、あっという間に吹き飛んだ。

 ミーコを救う方法がある。

 その希望が、彼に再び活力を与えたのだ。

 

 だがそれも、ごくわずかな間のことだった。

 

「耕作さん。貴方と化け猫は、まだ男女の仲にはなっていませんね? もしそうなっていたら、貴方の性格からして元の猫に戻そうとは考えないはずですから」

「はい」

「じゃあ、今すぐその化け猫を殺しましょう。貴方の彼女になる前に死ねば、悪魔との契約は履行不能になります。魂を奪われるという約束も、当然なくなるはずです」

 

 耕作は絶句した。

 死人のように青ざめ、片膝をつく。

 

 その様子を見たミーコもまた、ショックを受けていた。

 ただし彼女は、自分が助からないという事実についてよりも、耕作の心がひどく傷ついたことを悲しみ、嘆いていた。

 

「コーサクをいじめるな!」

 

 絶叫し、泣きわめき、静音に罵倒の言葉を浴びせかけた。

 

 静音は心底あきれたような表情を浮かべる。

 ミーコに向けて手をかざし、再び超能力を発動させようとした。

 

 だがその動きは、苦渋に塗れた耕作の声によって遮られる。

 

「いや、ミーコを殺すなんて冗談じゃない」

 

 耕作はうつむいたまま、重い口を開いていた。

 静音は彼の前にかがみこみ、諭すようにして話しかける。

 

「でもそれ以外、方法はないんですよ?」

「……静音さん。魂は悪魔に取られた後、どうなるんですか?」

「分かりません。魂をどのように扱うのかは悪魔によって異なります。でも間違いなく絶望が訪れる、とだけは言えます」

 

 苦虫を数十匹かみ潰したような表情を、耕作は浮かべる。

 それでも彼は絶望に耐えて顔を上げ、静音を真正面から見据えた。

 

「だとしても、殺すなんて冗談じゃない。そんなことがミーコにとって幸せなはずはない。俺が解決する方法を見つけます」

「どうやって?」

「……今はまだ、分かりません。でも必ず見つけ出します。ミーコは俺が幸せにする。約束したんです」

 

 静音の周囲に、目視できるほどの勢いで殺意のオーラが立ち上った。

 耕作の心をここまで捉えた恋敵に対する、嫉妬心の現れである。

 

 しかし彼女はこの時、自分を真っ直ぐに見つめてくる耕作の、少年の面影を残した力強い眼差しに抗い難い魅力を感じていた。

 最愛の男の、これまで見た中で最も凛々しく美しい瞳が、そこにあった。

 

 ――この瞳を、眼差しを、私一人で独占したい。

 

 その激しい欲求を満たすために。

 静音は行動を始める。

 

「耕作さん、最後にお話しすることがあります」

 

 静音は立ち上り、神から託された三つ目にして最後の使命の内容を、耕作に告げる。

 それは「悪魔と、その企みを見つけ出し、痕跡をも残さぬよう排除すること」であった。

 つまり今回で言えば、悪魔の力で人間になったミーコが排除の対象となる。

 

「やはり私の結論は変わりません」

 

 静音が冷徹に告げる。

 その途端、耕作の両手が見えない力で後ろ手に回された。

 

「静音さん、待っ……!」

 

 抵抗する間もなかった。

 耕作の両手首と両膝は、透明な輪で拘束されてしまう。

 耕作はバランスを崩し、床に転がってしまった。

 

「コーサク!」

 

 耕作の危機を見て。

 ミーコは叫び這いずりながら、超能力を発動させようとした。

 

 静音が即座に、右掌をミーコに向ける。

 壁に肉体が激突する、重く激しい音が轟いた。

 ミーコは壁際からずり落ちると、またしても苦痛のため呼吸ができなくなってしまっていた。

 

 恋敵が無力化したのを見て。

 静音は耕作の傍で膝をついた。

 

「でも使命なんてどうでもいいんです。それがあろうとなかろうと、耕作さん、貴方の隣にこの女がいるのは許せない」

 

 静音は耕作の頬を、両手で包み込んだ。

 顔を愛する男の、文字通り目と鼻の先まで近づける。

 

「耕作さん、私が貴方の恋人になります。将来は妻にもなるわ……いいえ、貴方が望むなら母にもなる。娘にも。姉にも、妹にも。友人にも、それこそペットにだって。貴方の周りに私以外の女なんていらないのよ」

 

 静音は美しくも独占欲に塗れた、狂った微笑を浮かべた。

 続いて思い直したように表情を引き締めると、目を潤ませ、声をも震わせながら告白の言葉を口にする。

 

「二十年ちかく待ち続けて、やっと言える……愛しています」

 

 耕作は自分に向けられた、底知れない深さを感じさせる漆黒の瞳を見つめ返した。

 瞬時に思考を巡らし、決断を下す。

 全身の力を込め、首を上げた。

 

 そして静音に唇を重ね、キスをした。



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ゆずれないもの 一

 静音に告白され、迫られて、耕作は考えた。

 

 彼女の想いを聞き、理解はした。

 正直、自分には手にあまるほどの愛情だとは思う。

 

 だがそれでも、不快には思わない。

 これまで女性には縁がなかった自分を、これほどまでに愛してくれたのだ。

 身に余る光栄とすら思えた。

 

 静音はここに至るまで随分と過激な手段をとってきた。

 だがそれも、天使と人間という、本来むすばれるはずのない相手への恋を成就させるために、そうせざるを得なかったのだろう。

 彼女の想いを受け入れて安心させれば、共に幸福な未来を築けるかもしれない。

 

 だが彼女は、ミーコを殺そうとしているのだ。

 それだけは絶対に許す訳にはいかない。

 ミーコの命と引き換えに得られる幸福など、そんなものに意味はない。

 ミーコは必ず守ってみせる。

 

 とは言っても、ミーコと、そして自分も拘束されている今の状況は絶体絶命と言える。

 おまけに静音は、既に説得できる相手ではなくなっていた。

 さらに言えば普通の人間である自分は、全くと言っていいほどの無力である。

 となれば、やはりミーコの能力に頼るしかない。

 

 普段のミーコであれば、静音には歯が立たないだろう。

 だが自分の推測が正しければ、ミーコが持つ超能力、その力の源泉は嫉妬心にあるはずだ。

 だからミーコの嫉妬を煽るために、静音とキスをする。

 単純かつ馬鹿馬鹿しい方法だが、他に良い手段が思いつかなかった以上、仕方がない。

 

 しかし、そう上手くいくだろうか。

 ミーコが嫉妬のあまり力を暴走させてしまったり、逆に意気消沈して全てを諦めてしまう可能性もあるだろう。

 そもそも嫉妬心が本当に力の源になっているのかどうか。

 

 キスをする直前、耕作は様々に不安を抱いていた。

 しかしそれでも、彼は勝負にでたのだ。

 

「どう転んでも、責任は自分にある」

 

 と、腹をくくっていた。

 

 静音は、耕作の接吻を受けるや否や目を見開き、硬直してしまっていた。

 耕作に何をされたのか、理解できていないようであった。

 

 だがそれも、わずかな間のことにすぎなかった。

 静音は両手を滑らせて耕作の頭と背中の後ろに回し、彼の上半身を抱きかかえた。

 唇を開き、舌を耕作の口腔に差し入れる。

 そして愛する男の歯や歯茎、さらには唇の裏側に至るまで、舌の届く全ての範囲をなめまわした。

 漏れ出た唾液も一滴のこらず吸い上げている。

 

 耕作が口を閉じようとしても、彼女は許さなかった。

 口をこじ開け、執拗に舌と唇を動かし続ける。

 しかも一連の行為の間、静音は目を最大限に開き、瞬きすらせず耕作を見つめていた。

 

 耕作はなすがままにされながらも、目をミーコへと向ける。

 ミーコは床の上でくの字に転がったまま、二人のキスを見ていた。

 というよりも、耕作が静音になぶられるのを見せつけられていた。

 

 ミーコの、もともと白磁のように白かった肌からは、さらに血の気が引いていた。

 顔色は蒼白というに相応しいものとなっている。

 黄色い右目と青い左目は焦点を失い、両方とも灰色と化していた。

 美しい唇も青白く半開きとなり、

 

「あ……あ……あ……あ…………」

 

 という呟きを繰り返している。

 その呟きはやがて、抑揚のない声へと変化した。

 

「コーサクがキスをしてる、コーサクがキスをしてる……私以外の女と……なんでなんでなんでなんでなんで。おかしいおかしいおかしいおかしい。そんなの間違ってるよ、許されない……コーサクが、コーサクが、コーサク……」

 

 しばらくすると、蝋燭の炎が消えるように声は途切れてしまった。

 静音が耕作の唇をむさぼる音だけが、部屋の中で続いている。

 

 だが数瞬の後。

 ミーコの小さな、しかし地獄の番犬も尻尾を巻いて逃げ出すのではないかというほどの、憎悪に満ちた声が通った。

 

「よくも……」

 

 ミーコの両眼に、雷火が灯る。

 

「よくもよくもよくもよくもよくもよくも! 私だってまだなのに! ぶっ殺してやる! この薄汚い鳥公が!」

 

 瞬間。

 部屋の中に竜巻が発生した。

 ミーコを中心として発生した冷気が、渦を巻いたのだ。

 

 家具や本の他、部屋中にあったあらゆる物体が跳ね飛び、壁や天井に激突した。

 ベッドですら浮き上がり、激しく暴れまわっている。

 

 静音は異変に気づくと、名残惜しそうに唾液の糸を引きながら唇を離した。

 立ち上がり、ミーコに相対する。

 

 宙に浮いていた全ての物体が、静音に向けて一斉に突撃した。

 常人では到底さけられないはずの、豪速である。

 

 しかしそれらの物体は、やはり途中で動きを止めてしまった。

 静音の身に届くことなく停止し、そのまま落下してしまう。

 

「学習しないわね。そんなもの無駄だって、何度やってみせれば分かるのかしら?」

 

 静音は両手を腰に当て小首を傾げた姿勢で、うんざりしたような声を漏らしていた。

 

「まあいいわ。貴女に付き合うのも、これが最後。本当に終わりにして……?」

 

 静音の動きが、言葉と共に止まった。

 彼女は今、訝しげに眉を歪めている。

 さらに腰もかがめると、両掌を目の前にかざした。

 その手は左右共に、わずかに震えていた。

 

 さらには両足も振動を始めている。

 それに気づくと、静音は驚愕し、口を大きく開けた。

 すると顎はだらしなく落ち、口からは嘔吐するような呻き声だけが漏れ出てくる。

 

 耕作は、静音の身体が異常なまでに発熱していることに気が付いた。

 傍にいるだけで暑さを感じるほどの、ミーコの冷気をすら打ち消す熱波が、静音から放出されている。

 

「これは一体……」

 

 考えるうちに、耕作は思い出した。

 ミーコが初めて超能力を発動させた時のことを。

 あの時、冷気が充満した部屋の中にありながら――ビールが沸騰していた。

 

「ミーコ、やめろ!」

 

 耕作は叫び、惨劇を阻止しようとする。

 しかしそれも手遅れだった。

 

 静音が、両生類が潰される時のような醜い呻き声をあげ、くずおれた。

 その全身から、一斉に湯気が上がる。

 口から流れでた唾液には、泡が浮いていた。

 身体は白く変色し、皮が剥がれ、ただれていく。

 眼球も白濁し、浮かんだ気泡によって崩れ、溶解していった。

 

 静音は、身体中の体液を沸騰させられたのだ。

 

 

 

 

 耕作の両膝と両手にはめられていた枷が、消滅する。

 耕作は立ち上がり、静音の身体に目をやった。

 かつての美女は、身体のあちこちが崩れ、原形をとどめない無残な有様を晒している。

 耕作は奥歯を噛みしめると、続いてミーコの元へ駆け寄った。

 

 ミーコは力を使い果たしたのか、目を閉じ、床に倒れていた。

 耕作は彼女の上半身を抱きかかえ、必死になって呼びかける。

 その声が届いたのだろうか。

 ミーコは薄く眼を開いた。

 

「コーサク……」

「ミーコ、大丈夫か? 痛いところはないか?」

 

 ミーコは問いかけには答えず、耕作の身体に抱き付いた。

 服を破かんばかりに、彼の背中へ爪を立てる。

 

「許さないから……。コーサクに近づく女は、絶対に許さないから……」

 

 耕作の胸に顔をうずめ、目を閉じ、ミーコはその言葉を繰り返した。

 

「前にも似たようなことを言われた気がするな」

 

 そう思いつつ、耕作はミーコを抱きかえす。

 猫だったころをわずかに思い出させる、少女の甘い香りが鼻腔に広がった。



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ゆずれないもの 二

 室内が、昼に転じたかのように明るくなった。

 耕作は身体を起こし、光の発生場所へ顔を向ける。

 ミーコも目を開いた。

 

 莫大な量の光は、二人の背後で発生していた。

 倒れた静音の身体が、光の塊へ変化していたのだ。

 あまりの光量に、耕作は思わず手を目の前にかざした。

 ミーコは耕作にしがみついたまま牙をむき、威嚇する様子を見せる。

 

 光の塊は今回も白い衣をまとった少女になった。

 羽を最大限に広げ、立ち上がる。

 そして目を血走らせ、こめかみに青筋を立て、口を開いた。

 

「やってくれたわね、この化け猫」

 

 天使の恫喝に対し、ミーコよりも早く耕作が反応する。

 ミーコを守るようにして天使の前に立ちふさがったのだ。

 

「静音さん、それが貴女の本当の姿なんですか」

「はい。こんな形でお見せすることになるとは、思っていませんでしたが」

 

 天使は頬を薄く朱に染めながら答えた。

 しかしすぐに表情を引き締めると、毅然とした口調で耕作に願い出る。

 

「耕作さん、そこをどいて下さい。先ほども言いましたように、私はその化け猫を殺さなければなりません。使命と、そして私と貴方の未来のために」

「お断りします」

 

 天使は眉間に皺を寄せた。

 

「なぜですか?」

「ミーコを殺させる訳にはいきません」

「こういうことを言うのは心苦しいのですが。耕作さん、私を止められるとお思いですか?」

 

 天使の言葉は静かながらも、有無を言わせぬ迫力があった。

 だがそれでも、耕作は怯まない。

 

「……無理かもしれません。でも今の静音さんは相当ダメージがあるように見えます。ミーコだけは、なんとか逃がしてみせますよ」

 

 普段と同じ、落ち着いた様子で耕作は答えた。

 

 だがその発言には、根拠などなかった。

 さらに言えば、耕作はミーコを助けられる自信も、本当はもっていなかった。

 

 天使が持つ力の強大さは、十分に理解させられた。

 その力を前にして、自分にどれほどのことができるとも思えない。

 そしてなにより、ミーコが大人しく逃げるとも思えない。

 

 とはいえ、最悪の状況は脱したのだ。

 ミーコが期待に応えてくれた以上、今度は自分がやらなければならない。

 なにがなんでも、ミーコだけは助けてみせる。

 

 耕作はそう思い、天使に対峙していたのだ。

 その決意の前には、自信の有無は問題にすらならなかったのである。

 

 命がけで恋敵を守ろうとする、耕作の姿を見て。

 天使は説得を始めた。

 

「耕作さん、よく考えてください。そこの化け猫が悪魔と交わした契約は、死ぬことで解除されます。それ以外、方法はないんですよ?」

「駄目です、お断りします」

「なぜですか?」

 

 耕作は答える前に、一拍の間を置いた。

 そして半ば自分に言い聞かせるようにして、心情を告げていく。

 

「俺の幸せは、ミーコが幸せになることです。今ここで死んでも、ミーコが幸せになれるとは思えません。……たぶん、俺の我がままなんでしょうけど。でもミーコが不幸なら、俺も不幸です」

 

 耕作の言葉を聞き、天使の顔は鬼面へと変化していく。

 他方、ミーコは喜びのあまり目を潤ませ、彼の名を呼び、後ろから抱き付いていた。

 少女の温もりを背中で感じながら、耕作は断言する。

 

「だから俺自身のためにも、ここをどく訳にはいきません」

 

 天使の心中で、嫉妬が激しく暴れ出す。

 彼女の髪は比喩でなく逆立っていた。

 

 だが同時に。

 彼女の内では、耕作に対する愛情もまた、身を焼き尽くさんほどに燃え上がっている。

 耕作の言葉には少年の純粋さと、青年の覚悟が混在していた。

 その響きに、天使はまたも魅了されていたのだ。

 

 彼女はさらに、耕作の柔和かつ整った顔立ちや、精悍な体躯を見つめ直し、その全てに酔いしれた。

 情熱のおもむくまま、視線を愛する男の瞳へ向ける。

 

 そして。

 天使は耕作の瞳の奥に、あるものを見つけていた。

 

 

 

 

「……?」

 

 耕作が、訝し気な表情を浮かべる。

 天使の様子が急におかしくなったからだ。

 

 目を見開き、頭を両手で抱えている。

 うつむいた顔は、濃く深い陰で覆われていた。

 口からは「そんな、まさか……」といった呟きが漏れている。

 その様は「絶望」という言葉の、生きた見本と言ってもいい。

 

 耕作は不審に思うと共に、天使に対する警戒を解き、声をかけようとした。

 天使はその動きを遮るかのように、顔を上げる。

 

「耕作さん、それとそこの化け猫。二人とも動かないでください。大丈夫です、危害は加えません」

 

 天使は右の掌を耕作とミーコに向け、目を閉じた。

 数瞬の後。

 耕作は、またしても天使の身体が光りだしたように感じていた。

 

 だがそれは、誤りであった。

 身体を発光させていたのは、耕作とミーコだったのだ。

 二人から発した白色の光は、部屋の中で半球を形作る。

 やがて収束し一点に集まると、一筋の光線となって天井を突き抜け、直上へと進んでいった。

 

 深夜ではあったが、耕作のアパートから天に向け闇を貫いた光線を、多くの人が目にしている。

 もっともほとんどの人は「今の現象はなんだろう」と疑問に思いつつも、すぐに忘れてしまっていたが。

 光線は、やがて天に飲み込まれて消えた。

 

 再び天使の身体が輝きだした。

 光の塊と化した天使は、しばらくすると黒いパンツスーツを身につけた美女、河原崎静音へ変化する。

 その身体はミーコによって破壊される前の美しい姿を、寸分の狂いもなく再現しているかに見えた。

 

 しかし静音は、変身が終わるや否や床に片膝をついてしまった。

 咳き込んだ口から、血が零れだす。

 

「この化け猫が……完全に修復するには、まだ時間がかかりそうね」

 

 口元から出た血が首筋へ流れ、一筋の赤い糸となって落ちていった。

 青白い肌に映えたその朱によって、静音の美貌も凄惨で妖艶なものへと引き立てられている。

 

「大丈夫ですか?」

 

 耕作も今は、先ほどまで命を懸けて対峙していた相手ということも忘れ、静音の身体を気遣っていた。

 静音は疲労しているにもかかわらず、精一杯の笑顔を浮かべる。

 耕作は安心すると共に、問いかけた。

 

「ところで、さっき俺達になにをしたんですか?」

「今はまだ、知る必要はありません。いずれ時が来ればお話し致します」

 

 静音は身体の埃を払うような仕草を見せ、立ち上がった。

 ハンカチを取り出し、口元をぬぐう。

 

「その化け猫に負わされた傷の影響で、今日はもう、これ以上は力を使えそうにありません。残念ですが引き上げます」

 

 と、静音は耕作に告げた。

 負け惜しみなのかもしれないが、彼女の口調は毅然としており、悔恨の情など感じさせないものだった。

 

 静音は耕作に向けて一礼すると、踵を返し玄関に向けて歩き出した。

 ドアを開けたところで動きを止め、振り返る。

 

「耕作さん、私は必ず貴方を手に入れてみせます。待っていてください」

 

 静音は凛とした表情で、最愛の男を真っ直ぐに見据えていた。

 その姿を、耕作は素直に美しいと思っていた。

 そして一瞬、惚けてしまっている。

 もっともその様子に気づいたミーコが、静音に向けて唸り声をあげると、すぐに我に返ったが。

 

 ドアが閉じ、静音は去っていく。

 彼女の足音が消え車が遠く走り去るまで、耕作とミーコは一言も口をきかなかった。



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それぞれの決意 一

 静音が去った後の、部屋の中。

 耕作はベッドで横になりながら、周囲を見回した。

 ちなみにミーコもベッドに横たわり、耕作に身体をすりよせている。

 

「ミーコ」

「なに?」

「これ、どうしようか」

 

 耕作が目で指し示した情景は、惨憺たるものだった。

 台風にでも襲われたかのように、ありとあらゆる家具、物品、さらには衣服までもが散乱していた。

 二人がいるベッドにしても、普段の壁際から部屋のほぼ中央まで移動している。

 さらに冷蔵庫が逆さまになっているのを見た時には、耕作も思わず絶句していた。

 

「うー……」

 

 ミーコは両手の人差し指を突き合わせ耳も垂らし、困ったような唸り声をあげた。

 惨状を引き起こした張本人なので、当然の反応ではある。

 耕作は苦笑すると、ミーコの頭を撫で、優しく声をかけた。

 

「まあ、幸い今日は休みだし。二人でやれば、片付けも早く終わるんじゃないかな」

「ニャ!」

 

 ミーコは嬉しそうな鳴き声を上げた。

 耕作を抱きしめる腕に、力を込める。

 さらに愛情に満ち溢れた表情で、首筋を耕作の胸元へこすりつけた。

 

 ミーコはさらに身体をせりあげ、耕作に覆いかぶさる格好となった。

 愛する男の顔を、真正面から見つめる。

 

「コーサク……」

「……ミーコ」

 

 ミーコの瞳は潤み、頬は赤い。

 息遣いも荒くなっていた。

 発情の色が、全身で露わとなっているのだ。

 わずかに舌を覗かせた可愛らしい口唇が、耕作に迫っていく。

 

 耕作は唇を重ねられるよりも早く、口を開いた。

 

「交尾ならしないぞ」

「ニャ!?」

 

 予想外の言葉を聞かされて。

 ミーコは身体を起こし、抗議の声を上げた。

 

「なんで!? 今すっごく愛が盛り上がって、頂点に達した感じになったのに!」

「なんだそれは。静音さんが言ってただろ、ミーコと恋人になると、悪魔に魂を取られるのが確定するから駄目」

「そ、そんな!」

 

 恋情の頂から、奈落へと突き落とされて。

 ミーコは目に涙すら浮かべて耕作にすがりつき、懇願を始めた。

 

「じゃあ先っちょだけでいいから」

「駄目」

「じゃあ指二本だけでいいから」

「駄目」

「じゃあ、指の第一関節まで」

「駄目ったら駄目」

「そ、それならせめてキスだけでも……」

「それも駄目」

「なんで!?」

 

 キスしたら俺が我慢できなくなる。

 とは、さすがに耕作には言えなかった。

 

「とにかく駄目」

「生殺しだニャー!」

 

 ミーコの悲痛な叫びが、部屋中に響き渡った。

 

 耕作は黙ってミーコの頭を抱え、両手で抱きしめる。

 そしてミーコの、尚も行為を迫り続けてくる声を聞き流しつつ、思考の海へ沈んでいった。

 

 色々なことがありすぎた。

 問題は解決しないどころか、余計ややこしくなった気がする。

 

 しかしこれから自分がやらなければならないことは、はっきりしている。

 ミーコの魂が悪魔に取られるのを阻止することだ。

 そのためにも契約が完了する、つまりミーコと恋人になるのは避けなければならない。

 

 とは言っても、どこまでミーコの誘惑に耐えられるだろうか。

 この点については、自分でも全く自信がない。

 

 いっそのこと、自分も地獄へ行く方法を探した方が良いのだろうか。

 そうすればミーコが悪魔に魂を取られた後も、傍にいてあげられるかもしれない。

 二人一緒なら、どんな環境でも少なくとも寂しくはないのではないか。

 ……馬鹿な考えだろうか。

 

「こんど静音さんに会ったら、どうすれば地獄へ行けるのか聞いてみようか。素直に教えてくれるとは思えないし、正直に言えばしばらくは会いたくないんだけどね……」

 

 その声は小さすぎて、ミーコの耳にも届かなかった。

 

 

 ――――――

 

 

 静音は帰宅すると、すぐに自室へと向かった。

 部屋に入る直前。

 つき従っていた加藤へ、声をかける。

 

「こんな時間に誰が来るとも思えないけど。来客があっても取り次ぎは不要です。誰一人、私の部屋へは入れないように」

「かしこまりました」

 

 恭しく返事をする加藤に対し。

 静音は、冷え切った眼光を浴びせた。

 

「こんど裏切ったら、容赦しないわよ」

 

 剃刀で切りつけてくるような言葉を受け、加藤は大量の冷や汗を流す。

 最敬礼をすると、扉が閉まってからも尚しばらくの間、顔を上げなかった。

 

 

 

 

「そろそろのはずだけど……」

 

 個室としては広すぎる部屋の中央で、静音はスーツ姿のまま何かを待っていた。

 照明は落とされており、全てが闇の中にある。

 

 やがて部屋の片隅に、蝋燭の炎ほどの、ごく小さな光が現れた。

 その光はあっという間に、光量と大きさを増していく。

 四方八方を明るく照らし出すと、姿を変え、翼を生やした少女となった。

 

 少女の外見は、静音の正体である天使と同じぐらい美しかった。

 年齢は十代後半ほどに見える。

 彼女は翼を羽ばたかせて浮き上がると、ゆっくりと移動し、静音の前で着地した。

 

 静音が顔をほころばせ、声をかけた。

 

「お久しぶり、サラサ。お元気そうで何より」

「ああ、まったくもってしばらくぶりだ」

 

 サラサと呼ばれた天使は、微笑みながら答えた。

 しかしすぐに笑みをおさめると、片眉を上げて怪訝な顔を見せる。

 

「君も元気というか、そんな姿になっているとは。人間と同化したのか、それは」

「これについては、またの機会に説明するわ」

 

 静音はサラサへ椅子に座るよう勧め、自身はベッドに腰かけた。

 それから後、改まった口調で語りかける。

 

「それより私が依頼した件について、報告を頂けるかしら」

「随分と性急だな。まあいいだろう、ジーリア、それでは……」

 

 ジーリア。

 それは、静音の正体である天使の名だ。

 ところが静音は本名を呼ばれたにもかかわらず、しっくりこないような、妙な違和感を覚えていた。

 ごくわずか、眉間に皺を寄せる。

 

 サラサも静音の様子に気づいた。

 

「どうかしたのか?」

 

 再び怪訝な顔で問いかける。

 しかし静音は頭を横に振り、問題ないという意志を示した。

 腑に落ちない気持ちを残しつつ、サラサは報告を始める。

 

「分かった。それではジーリア、依頼のあった二人が死後どうなるかを知りたい、ということだったな」

 

 静音は首肯する。

 サラサの言う二人とは、当然ながら耕作とミーコのことである。

 

 静音は二人の情報を集めて光と化し、天国にいたサラサへ送っていたのだ。

 彼らが死後、どのような運命を辿ることになるのか。

 それを調べてもらったのである。

 

「まず、君が言うところの化け猫だが。魂は悪魔に取られるから地獄行きだな」

 

 予想通りの返答を聞き、静音は唇の両端を上げた。

 

「やはりね。でも、悪魔との契約はまだ終了していない。今すぐ死んだとしたらどうなるのかしら?」

「君が分からないとは思えないが」

「天国の正確な判断を知りたいのよ」

 

 静音の問いは、あの時もし耕作が説得を受け入れ、ミーコが殺されるのを許していたとしたらどうなったか、ということでもある。

 サラサは肩をすくめ、答えた。

 

「今すぐ死んでも悪魔によって化け猫、つまり妖魔にされてしまっているからな。地獄行きだ」

「契約が終了しようとしまいと関係ない、ということね?」

「そうだ」

 

 サラサは断言し、さらに説明を続けていく。

 

 ミーコは悪魔に擬人化された時点で、その身に邪悪な力を帯びた存在となってしまっていた。

 俗に妖魔と呼ばれるその存在は、悪魔の眷属でもある。

 彼らは天国からすると不浄な生き物となるので、受け入れる訳には行かない。

 

 つまるところミーコの魂は、どうあがいても地獄に落ちるのである。

 ミーコが耕作の恋人になった場合は、魂は契約通り、死後すぐに悪魔のものとなる。

 その前に死ねば、しばらくは地獄をさまようこととなるだろう。

 しかし結局は、数多くいる悪魔、いずれかの手に落ちるはずだ。

 違いはその程度にすぎない。

 

 説明を聞き終えると、静音は深く頷いた。

 彼女にとっては、しごく当然の話であった。

 しかしこの事実を耕作に伝えれば、ミーコが殺害されるのを先刻以上の覚悟で阻止しようとしただろう。

 だから伏せておいたのだ。

 

 得心したような静音の姿を見て。

 サラサは再び口を開いた。

 

「では続いて、吉良耕作という男だが……」

 

 静音の心臓が、大きく跳ね上がった。



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それぞれの決意 二

「これも地獄行きだ」

 

 サラサの宣告を聞くと、静音の心と身体は一瞬にして凍りついてしまった。

 死人のように青ざめたその顔を見て、サラサも目をみはる。

 部屋はあらゆる物質が活動を止めたかのように、静寂によって支配された。

 

 やがて静音の、一ミリたりとも動かなかった身体の中で、唇だけがわずかに開いた。

 

「……間違いはないのかしら」

「ない」

 

 サラサは静音の異様な雰囲気に気圧されていたものの、それでも即答してみせた。

 それによって落ち着きも取り戻せたのか、明瞭な口調で説明を始める。

 

「吉良という男は妖魔に魅了されてしまった。魂は既に汚れている」

 

 妖魔とは先にも述べた通りミーコのことである。

 耕作はミーコに惹かれたがために、邪悪な力の影響を魂に受けてしまった。

 サラサはそう言っているのだ。

 となると当然、天国としては彼を受け入れる訳には行かない。

 

「良い素質を持っていたようだが、惜しいな。とは言っても、あの妖魔のためなら神様にすら逆らいかねん。この男は、そこまで染まってしまっている」

 

 サラサの説明を聞いても、静音は今だ氷像の如く微動だにしていない。

 口だけを静かに動かし続けていた。

 

「天国に行く可能性は、もう残っていない?」

「ああ。君の方がよく分かっていると思うが、ひとたび妖魔に魅入られたら、それで終わりだ」

 

 邪悪な力に影響された魂は、絶対に救われない。

 だから無垢な魂を守るため、静音や、他にも数多くの天使たちが、悪魔を排除する使命を託されているのだ。

 

 静音は天国のことわりと己の使命について、思い起こした。

 目を閉じ、長嘆息する。

 

 分かってはいたのだ。

 静音は先刻、耕作の瞳の奥に黒い影が揺らめくのを見た。

 それは彼の心身が、既に邪悪によって染められつつあることの証だった。

 となれば耕作は地獄に落ちざるを得ない。

 

 だがその結論は、静音にとっては受け入れがたいものだった。

 だから万に一つの可能性に賭けて、彼の情報を天国に送り、サラサに調べてもらったのだ。

 しかしその願いも虚しく、残酷な結論が突き付けられてしまった。

 

 静音は立ち上り、目を開け、上を向く。

 遥か上空にある天国へ思いをはせると、長い間そのままの姿勢を保っていた。

 

 やがて、彼女は決断を終える。

 顔をサラサへ向けると、落ち着いた声で礼を述べ始めた。

 

「ありがとう、サラサ。もう報告は結構よ」

「そうか。それで、これからどうするんだ?」

「天国に帰るわ」

「なに!?」

 

 サラサは大声をあげていた。

 さらに信じられないといった様子をも見せ、問いかける。

 

「ちょっと待て、なにを言っているのか分かっているのか?」

「ええ、分かっているわ」

 

 サラサが動揺をあらわにしているのに対し、静音は今だ冷静さを保っていた。

 声は淡々としており、かつ無機質で、およそ情というものを感じさせない。

 サラサは息を飲みつつ、今度は説得を始めた。

 

「分かっているなら、今一度確認させてもらう。君の報告にあった化け猫、こいつは妖魔だ。そしてそれを見つけたのは君だ。つまり……」

「私はその化け猫を退治しなければならない。その使命がある、かしら?」

「その通りだ」

 

 二人が話している通り。

 悪魔排除の使命を託されている天使は、悪魔と彼らの企みを見つけた時には、本人がその事案に対するすべての責任を負うとされていた。

 他の天使の助けを借りても構わないが、総指揮は本人が取り、問題を解決しなければならない。

 

 しかし静音は、責任を全うせずミーコを放置したまま天国に帰還すると言っているのだ。

 それはつまり、神の命令に背くということでもある。

 当然ながら罰が下されるだろう。

 

「私は地獄に落とされ、堕天使となるでしょうね」

「そこまで分かっていて、なぜ?」

 

 それが望みだからよ。

 静音は口には出さず心の中だけで答えると、さらに思考を進めていった。

 

 仕方がないではないか。

 それ以外、方法はないのだ。

 

 耕作は地獄に落ちる。

 阻止する手段は無い。

 ならば彼と共に居るためには、自分が地獄に行くしかない。

 

 考えうる限り最悪の状況ではある。

 だがそこには、耕作からミーコを引き離すための最後の希望もあった。

 

 あの二人は遅かれ早かれ結ばれるだろう。

 その予測は痛恨きわまりないものだ。

 

 しかしその場合、ミーコの魂は悪魔のものとなる。

 他方、耕作の魂は死後しばらくは地獄をさまようだろう。

 つまり二人は、離ればなれとなるのだ。

 

 ならば自分は堕天使となり、耕作の魂を手に入れてみせる。

 そして永遠に手元に置いて、愛し続けるのだ。

 

 静音は耕作への狂愛で埋め尽くされた未来図を脳裏に描きあげた。

 唇を歪め、よこしまな笑みを浮かべる。

 

 サラサは狂気に満ちた静音の姿を見て、背筋が寒くなるような感覚をおぼえていた。

 それでも友人の暴走を止めるため、最後の説得を始める。

 

「人間と同化したり、どうも色々と無茶をしすぎたようだし情状酌量の余地があるとも思えん。まず確実に地獄行きだぞ?」

「分かってるわ。何度も言わせないで、私は天国に帰る」

 

 静音は毅然として言った。

 サラサは深く長い溜め息をつき、肩を落とす。

 

「人間として生活しているのなら家族もいるだろう。君が亡くなったら、彼らは悲しむんじゃないか?」

「そんなこと、気にする必要もないわ。もともと死んでいるはずの人間だし」

 

 静音は相も変わらず、冷然と突き放した。

 さらに善は急げとばかりに、肉体から天使の魂を解き放つため行動を始める。

 目を閉じ両手を胸の前で組み、瞑想を始めたのだ。

 

「この身体ともさようなら、ね」

 

 呟き、口元を小さく動かし始める。

 サラサもついに諦めたのか、今は大人しく見守っていた。

 

「……?」

 

 静音が口を閉じ、眉をしかめた。

 サラサも異変を察し、問いかける。

 

「どうした?」

「……引き留められたのよ、この身体に」

「なに?」

 

 サラサは、またしても絶句していた。

 眼前では静音が、困惑した表情で自身の両掌を眺めている。

 

「君の他には、魂は入っていないんだろう?」

「ええ、もちろんよ。だからこの身体は、ただの抜け殻のはずなんだけど……」

「出られないのか?」

 

 サラサの心に、今度は恐怖の感情が沸き始めた。

 あり得ないことが起きている。

 

「いいえ、強引にやればなんとか……でも気になるわね。ちょっと時間をもらってもいい?」

 

 静音の要請に、サラサは無言でうなずいた。

 

 静音は再びベッドに腰かけ、額に右手の人差し指と中指をあてる。

 目を閉じ、人間には聞き取れない音階の声で呪文を唱えた。

 その音波に反応したかのように、カーテンが不規則に揺れた。

 

「同化する前にちゃんと精査したんだけど……もう一度、身体を調べ直してみる」

 

 静音の全身が、青く淡い光によって包まれる。

 光には光度の強い、球形をした部分がいくつも存在しており、機械仕掛けの如く走り回っていた。

 静音の身体を調べ、報告を送っているのだ。

 

 両足。

 両手。

 胴体。

 心臓。

 全て問題なし。

 

 次々と送られてくる報告を聞き、静音は確信する。

 

「やはり脳か」

 

 光球を停止させると、再び呪文を唱えだした。

 全ての光球が静音の右手に集まる。

 

「深層まで潜り込まないと……」

 

 呟くと同時に、静音は右手の指先を額に当てた。

 光球が頭部へと吸い込まれていく。

 

 途端に。

 脳に刻まれた過去の記憶が、次々と静音の目の前で再現されていった。

 大学生の頃から、高校生、さらにその先へと。

 記憶は過去へ過去へと遡り続ける。

 

 目に映る情景は、記憶が薄れていくためか次第におぼろげなものとなっていった。

 所々かすれて見えないような部分も発生している。

 遂には大部分を闇が占めるようになってしまったが、静音はそれでも、さらに記憶を遡り続けた。

 

 底の無い穴の中を、ひたすら落ちていく。

 そんな作業の果てに。

 静音は脳のかなり深い場所で、固い箱のような記憶を見つけた。

 中身を確認するため意識を集中させる。

 しかし箱は、簡単には開かなかった。

 

 静音は新たに光球を作り出し、集め、箱へぶつけ続けた。

 持てる力を全て発揮して箱をこじ開けようとしたのだ。

 

 箱は尚も抵抗を続けていた。

 だがとうとう限界に達したのか、ひびが入るような音と感覚を静音に与え、破裂する。

 

 静音の眼前に、鮮やかな光景が広がった。

 

 そこは市街地にある、ブランコと砂場だけの小さな公園だった。

 静音の身体は小さく、まだ小学生にもなっていないであろうと思われた。

 目の前には、ままごとの道具が並んでいる。

 その奥には一人の少年がいて、静音に笑顔を見せていた。

 

 その少年を見るや否や。

 静音は彼が何者なのかを悟り、喫驚した。

 最愛の男が、そこにいたのだ。

 静音と同じぐらい幼くはあったが、それでも耕作だということはすぐに分かった。

 

 だがしかし、耕作のその姿は静音が初めて見るものでもあった。

 耕作の母親が死去する、つまり静音が見初める前のものなのだろう。

 

 幼い静音と耕作は、仲睦まじく遊んでいた。

 だがしばらくすると、静音は幼い身体に緊張を走らせ、なにか重大なことを耕作に告げた。

 その言葉は聞こえない。

 記憶に残っていないのか、もしくは天使の力をもってしても暴けないほどに強く守られているのか。

 それは今の静音にも分からなかった。

 

 耕作は静音の言葉を聞き、驚いたような表情を浮かべる。

 しかしすぐに強い決意と意志を感じさせる、まっすぐな眼差しを静音に向けた。

 微笑み、静音に何ごとかを語りかける。

 その声も、今の静音には聞こえなかった。

 

 他方、幼い静音は耕作に微笑みを返している。

 それから二人は小指を出し合い、指切りをして、何かを約束していた――。

 そこで記憶は終わる。

 

 静音は我に返った。

 少しの間、茫然としていたものの、やがて唇を三日月型にする。

 

「そんなに大事な約束だったのかしら? 貴女自身、ほとんど忘れていたはずなのに」

 

 嘲るような声に、サラサが反応した。

 

「どういうことだ?」

「いいえサラサ、貴女に言ったんじゃないわ……。ふん、先約を主張する気かしらね、この身体」

 

 静音は立ち上り、腰に両手を当てる。

 一呼吸おいてから、サラサに語りかけた。

 

「天国に帰るのは、まだ先ね。もうしばらくの間、人間として生活していくことにしたわ」

 

 サラサはここまで、恐怖やら困惑やら、様々な感情に襲われ途方に暮れていた。

 それでも静音の決意を聞くと、飛び上がって喜んでいる。

 静音の手を取り、満面の笑みを浮かべた。

 

「そうか! 思い直してくれたか!」

「そういう訳でもないけどね」

 

 苦笑しつつ、静音は考える。

 

 耕作と恋仲になるために築き上げた計画は、計算外の事態に邪魔され続けてしまった。

 挙句の果てには、耕作が将来、地獄へ落ちることにまでなってしまった。

 そのため、自分は自暴自棄になっていたのだろう。

 安易に地獄へ落ちるという結論を導き出してしまった。

 

 確かに耕作を手に入れるには、もはや地獄へ行くしかないように思える。

 だがそれもまた、自分の計算に過ぎない。

 一方、自分の周囲では、今も計算外のことが起き続けている。

 

 それならば、今はまだ見つけられていないだけで、現状から逆転する方法もあるのではないだろうか。

 なにしろ、ただの抜け殻だったはずの身体が魂を引き留めたのだ。

 このようなこと天国にいる天使の大半が信じないだろう。

 

 ならばやってみせる。

 ミーコを地獄に落とし、耕作とは人間界で結ばれ、死後も天国で共に暮らすのだ。

 

 高望みにすぎる願いかもしれない。

 だが地獄まで彼を追いかける気持ちは、微塵も変わっていない。

 この覚悟がある限り、なんでもできる。

 

 静音は決意すると、豊かな胸を張ってサラサに正対した。

 

「これからどうなるかは、まだ分からないけど。どんな結果になっても、まず初めに貴女に報告するつもり」

「分かった。今回の件については私のところで報告を止めておく」

 

 サラサの返事を聞き、静音は久方ぶりの柔らかな笑みを浮かべた。

 

「感謝するわ。借りができたわね」

「気にするな、いずれ利子を付けて返してもらう」

 

 サラサは、世の男性達が見れば一撃で籠絡されそうなウインクを、静音に贈った。

 続けて羽を広げ、別れの挨拶をする。

 

「では、さようならだ。早く妖魔を退治して帰ってきてくれよな」

 

 サラサは巨大な光の球に変身する。

 光球は急速に縮み、蝋燭の炎ほどの大きさになると、そのまま消えた。

 

 静音はしばらくの間、サラサが消えた後の空間を見つめていた。

 やがてスーツ姿のままベッドへ寝ころぶと、枕を抱え、独り言ちる。

 

「あの化け猫は殺せない。殺せば私は使命を全うしてしまい、地獄に行く方法を失う」

 

 一つ一つ。

 静音は現状を確かめ、自身が向かうべき道を探していく。

 

「それに生かしておけば、いずれ契約が終了して、あいつの魂は悪魔のものとなる。耕作さんが地獄に落ちても再会する可能性は、ほぼゼロだわ。ここまでは良いのだけれど……」

 

 静音の声音に、暗く重い響きがこもっていく。

 

「でも契約を終了させるためには、二人が結ばれなければならない……」

 

 耕作とミーコが結ばれるなど、悪夢のようなものである。

 静音は思わず歯ぎしりし、無意識のうちに両手へ尋常でない力をこめた。

 腕の中にあった枕が、あっという間に引きちぎられる。

 白い羽毛が飛び出して部屋中に広がった。

 

「まあ、私の話を聞いた耕作さんなら、しばらくは手を出さないでしょうけど。耕作さん……耕作さんの魂を天国に迎え入れる、その方法を見つけだせれば……」

 

 そうすれば、ミーコを遠慮なく始末できる。

 静音は使命を果たせる上に、耕作と人間界で結ばれ、死後も天国で共に暮らせるだろう。

 

「難解なパズルだけどね。必ず見つけだしてみせるわ、正解を」

 

 部屋中に舞い上がった羽毛は、やがて雪のように降ってくる。

 その華麗な眺めは、自分の未来を祝福してくれているように静音には思えていた。



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後編 三つの種
嵐は突然やってくる


 耕作は午前中の仕事に一区切りをつけた後、一息いれるため休憩所を訪れた。

 テレビなどでもよく宣伝されている、平凡な銘柄のコーヒーを購入する。

 

 耕作は入社してからというもの、この場所では同じコーヒーばかり飲んでいた。

 だからと言って、お気に入りという訳でもない。

 どれを飲もうかといちいち悩むのが面倒くさかったのだ。

 

 コーヒーに限った話ではない。

 耕作の生活は、ごく最近までは変化の乏しいものであった。

 

 朝起きて。

 出社して。

 仕事をして。

 帰宅して。

 猫だった頃のミーコと遊び、就寝する。

 

 色気のない、平々凡々な生活である。

 ただそれでも耕作には、特に不満などなかった。

 

 いや。

 たった一言だけ、耕作は不満、あるいは願望を述べたことがある。

 

「俺も彼女がほしいなあ」と。

 

 あの時から彼の生活は、情愛と嫉妬に塗れたものへと変わってしまったのだ――。

 

 考えるうち、耕作はふと我に返った。

 頭を小さく横に振り、コーヒーを一口ふくむ。

 喉を通り抜ける苦みと冷たさが、疲労感を多少なりとも解消してくれた。

 

 耕作の部屋とほぼ同じ広さの休憩所には、二組のテーブルと椅子が並んでいた。

 しかし現在、そこには耕作の他に人の姿はない。

 ここに来るまでは良太も同行していたのだが、彼は煙草を吸うため、今は喫煙室にいる。

 

 耕作はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を眺めた。

 

「……相変わらずか」

 

 溜め息まじりに呟く。

 画面には大量のメッセージを受信したという通知が映し出されていた。

 そのほとんどが、静音から送られたものだった。

 

 今日は木曜日である。

 耕作のアパートで起きた大騒動からは、五日が経過していた。

 

 静音はこの間、ひっきりなしにメッセージを送ってきた。

 朝一番の「おはようございます」から夜の「おやすみなさい」に至るまで。

 ほとんど一日中である。

 

 耕作も最初は律儀に返信していた。

 だが仕事にも差し支える状況になったので、詫びを言って、以降は返信を控えている。

 同時に静音にも送信は控えるよう、やんわりと勧めていた。

 

 しかし彼女は一向に止めようとはしなかった。

 相も変わらず一日中、メッセージを送り続けてきたのだ。

 そこまでやるとなると、静音も仕事に限らず、支障が出るのが当たり前のはずである。

 ところがメッセージの文面を見る限り、全く苦にしていないようであった。

 

「さすがは天使というべきなんだろうか」

 

 耕作も感心するやら唖然とするやら、といった心情であった。

 

 送られてくるメッセージの多くは、挨拶や、たわいのない雑談だった。

 だが静音は時折り、二人きりで会いたい、と提案してくることもあった。

 それらの誘いを耕作は断わり続けている。

 

「でもこのままじゃ、埒が明かないしなあ」

 

 耕作は何とはなしに、呟いた。

 

 実際のところ、耕作も静音とは会って話をしたいと思っているのだ。

 ミーコと一緒に居続けるため地獄に行く方法を教えてもらう、ということだけではない。

 それは最終的な手段である。

 まずはミーコを悪魔の契約から助ける、その方法を見つけなけらばならないだろう。

 

 しかし耕作にしてもミーコにしても、天国や地獄についての知識があまりにも不足していた。

 知識がなければ対策も見つけられない。

 そのためにも静音に会い、天国や地獄についてより詳しく教えてもらう必要があった。

 

 だが彼女に会うとなると、不安があった。

 また罠を仕掛けられるかもしれないのだ。

 最悪の場合、ミーコと静音が再び戦うようなことにもなりかねない。

 

 そこで耕作は、静音と直接は会わずに話を進めようとした。

 電話やメッセージで、時にはそれとなく、あるいは単刀直入に、天国や地獄について問いかけたのだ。

 

 しかし静音は、

 

「耕作さん、それについては直接お話させて下さい」

 

 と、強く主張してきた。

 

 なんとしても、耕作と二人きりで会おうしている。

 その姿勢に対しては、やはり警戒せざるを得ない。

 

 しかし今の状況を続けたところで事態は解決しないのだ。

 従って耕作はここ数日、

 

「なにか切っ掛けがあればなあ」

 

 と、考え続けていた。

 

 静音とは会わねばならない。

 彼女には自分と、難しいだろうがミーコにも力を貸してもらう必要がある。

 協力を確実なものとするためには、なにかの切っ掛け、材料が必要だ。

 どうやってそれを見つければ良いのだろうか。

 

 耕作が思い悩んでいる間に、良太が喫煙所からやってきた。

 彼はスマートフォンを見つめたまま沈思する友人を見て、声をかけた。

 

「どうした? 恋の悩みか?」

 

 耕作はすぐに将棋のアプリを立ち上げた。

 将棋の手順を考えているように取り繕ったのだ。

 しかし良太には見抜かれていたらしい。

 彼はにやついた笑みを浮かべると、胸を一つ、叩いてみせた。

 

「金なら貸さんが、恋愛についてならいつでも相談に乗るぞ」

「涙が出るほど頼もしい言葉だな」

「当たり前だ。恋愛については俺の方が先輩だし、俺の将来にもかかわることだからな」

 

 耕作が静音と結ばれれば、自分も便乗して出世できる。

 良太の中では、その計画は今も絶賛進行中なのだろう。

 皮肉も通じないほどに盛り上がっている友人を見て、耕作は呆れ、肩をすくめた。

 

 良太はもちろん、悪人ではない。

 だからと言って「飼い猫と天使に求愛されており、しかも飼い猫は地獄に落ちる危機に瀕している」などと相談する訳にもいかない。

 耕作は、まだしばらくは一人で悩み続けねばならないようだった。

 

 

 ――――――

 

 

 同時刻。

 同じく耕作の勤め先のビル。

 耕作がいた場所からは十数階も上の、主に役員などが利用する会議室にて。

 

 静音はそこで行われているミーティングに朝から参加していた。

 休憩に入るや否や、すぐにスマートフォンを取り出す。

 画面を見つめると、思わず独り言ちた。

 

「まだ警戒されている、か」

「え?」

 

 静音が急に声を出したため、隣に座っていた女性が驚き、声をかけてきた。

 静音は慌てて片手を振り、なんでもないという意思を示す。

 スマートフォンから手を放すと、次の議題の資料へ目を通し始めた。

 だがそれらの行動とは裏腹に、彼女の意識は耕作へのみ向けられている。

 

 耕作に警戒されているのは、静音にも分かっていた。

 何度もメッセージを送って自分と会うよう懇願しても、その度に断わられるか話をそらされていたのだから、当たり前なのだが。

 

 静音は耕作に会い、何をしようとしているのか。

 目的は二つあった。

 まずは単純に、彼との仲を深めようというものだ。

 

 静音にとっては無念かつ不愉快きわまりないことだが、耕作は今、明確にミーコに惹かれている。

 彼女のことを第一に考え、行動しているのだ。

 しかし惹かれているとは言っても、その気持ちはまだ恋心と飼い猫に対する親心が相半ばしているはずである。

 

 一方で静音のことも嫌ってはいない。

 それどころか少なからず好意を抱いている。

 その自信は、静音にもあった。

 ならば恋敵に決定的な差をつけられる前に、彼との仲を深めておく必要がある。

 

 そしてもう一つの目的はというと。

 耕作の魂を救うため悪魔祓いの儀式を行ってみる、というものであった。

 

 ただし、天使の力を使う訳ではない。

 静音は人間界に伝えられている悪魔祓いの方法を試してみようと思っていた。

 

 静音は今まで、それらの儀式については児戯にも等しいものとしか思っていなかった。

 だが現在、彼女の周りでは自らの身体のことも含め、予測すらできなかったことが発生している。

 それによって彼女は、人間が秘めている可能性にかけてみたい、という気持ちになっていたのだ。

 

 ただし問題が一つあった。

 耕作に悪魔祓いの儀式を行うとなると、彼の魂に何が起きているのかを話さなければならないだろう。

 当然、耕作はショックを受けるはずだ。

 

 それはやむを得ないとしても、その上で「悪魔祓いの儀式を行いたい」と申し出れば、彼は間違いなく、

 

「ミーコにも試して下さい」

 

 と言ってくるだろう。

 静音としては、それは避けたいところであった。

 従ってなんとしても二人きりで会い、一気に話を進める必要がある。

 

 ミーコを救う気など、静音にはさらさらない。

 それに耕作の魂から悪魔の影を追い払えれば、同時に彼を連れ去り、今度は自分の愛情で染め上げるつもりだった。

 その上でミーコも始末する。

 ここまで企んでいるあたり、耕作の警戒心は正しかったと言えるかもしれない。

 

「いっそのこともう一度、彼のアパートへ乗り込んでみるべきかしら?」

 

 静音の思考が過激な方向へと傾きかけた。

 

 その時。

 スマートフォンに、着信が入った。

 

 静音は画面を見る。

 そこにはアルファベットと数字が複雑に入り組んだ番号が表示されていた。

 およそ人間界ではありえない電話番号である。

 静音も眉をひそめた。

 

 ミーティングの参加者に詫びを言って、立ち上がる。

 廊下に出たところで通話を始めた。

 

「はい」

「ジーリア、私だ」

「サラサ!?」

 

 静音は驚きのあまり、大声を出してしまっていた。

 慌てて周囲を見回す。

 廊下の先に何人かの人影が見えたが、特に気にしている様子はなかった。

 静音は安心し、胸をなでおろした。

 

 間髪入れずに。

 サラサの切羽詰まった声が耳へ飛び込んでくる。

 

「こんな連絡方法を取ってすまない。だがジーリア、急いで君に連絡を取らなけらばならなかったんだ」

「なにがあったの?」

「よく聞いてくれ。前代未聞の非常事態が発生した――」

 

 

 ――――――

 

 

 数時間後。

 耕作のアパートにて。

 

「んふふ……」

 

 ミーコはお気に入りのブラウスとスカートを着て、ベッドの上で寝ころんでいた。

 腕には耕作のパジャマを抱えている。

 

「コーサク……」

 

 ミーコは呟き、パジャマに顔をうずめた。

 愛する男の残り香を胸いっぱいに吸い込み、悦に入ったような声を上げる。

 

「んふふふふ……」

 

 幸福のあまり、ミーコは満面の、というよりはだらしない笑みを浮かべた。

 しばらくすると匂いを嗅ぐだけでは収まらなくなったようで、パジャマに頬ずりし始めた。

 さらにはパジャマを股の間でも挟み、全身を絡みつかせる。

 

 心行くまで身体をこすりつけた後で、ミーコは可愛らしい口を開けた。

 パジャマを甘噛みし、口に含む。

 唾液を布地に染み込ませた後、吸い戻すという行為を繰り返す。

 そして歯型をあちらこちらに刻み付けた。

 

 もし猫のままであったのなら、ミーコは喉を鳴らしていただろう。

 ベッド上を左右に転がりまわる彼女は、ひたすら幸せに浸りきっている。

 その後も長い間、ミーコはベッド上で悶えていた。

 

 しかしそのうちに、ふと何かを思いついたような顔を見せた。

 起き上がり、ベッドから飛び出す。

 パソコンの前に座ると電源を入れ、キーボードを激しく叩きだした。

 真剣な眼差しでモニターを見つめ続ける。

 

 もし耕作が今のミーコを見れば、いつの間にこんなに上手くパソコンを扱えるようになったんだと、驚くに違いない。

 それほどに見事な手捌きで、ミーコはタイピングとマウスの操作を続けていった。

 

 キーボードを叩く小気味よい音が響き続ける。

 ミーコとモニターの映像以外には、他に動くものはない。

 変化の乏しい情景が部屋の中で続いていた。

 

 だがしばらくすると。

 ミーコの目に映る景色が、一斉に暗くなった。

 

「ニャ?」

 

 ミーコは驚き、周囲を見回す。

 モニターはもとより、部屋の照明までが消えていた。

 

「停電かニャ?」

 

 ミーコは立ち上ると、発達した視力で帽子を探し出して頭にかぶった。

 猫耳を隠してカーテンを開ける。

 そして驚愕した。

 

 窓から見える景色は、まぎれもない快晴である。

 日光がさんさんと降り注いでいた。

 

 だがしかし、その光が部屋の中には入ってこないのである。

 窓一面に風景画を貼り付けたかの如く、景色は鮮やかながらも光を伴っていないのだ。

 部屋の中は、依然として黒一色に染まっていた。

 

 呆気にとられたミーコの耳に、パソコンから微小な機械音が届く。

 パソコンの電源は落ちていなかったのだ。

 それなのに、光だけが消えている。

 

「またおまえか、鳥公!」

 

 ミーコは叫び、戦闘態勢をとった。

 眼前の不可思議な現象を、静音が引き起こしたと思ったのだ。

 だがしかし。

 ミーコはすぐに、それが間違いだったと気づいた。

 

 静音は天使であり、光を伴っている。

 だが現在、部屋の中は光が失われ、闇に覆われているのだ。

 ということはつまり、今この現象を起こしているのは……。

 

 ミーコがその考えに至った時。

 部屋中に広がっていた闇が、一転してミーコの眼前に集まり始めた。

 

 急速に収束した闇は丸い塊となった。

 そして、さらに形を変えていく。

 

 闇の塊は、人型になり、黒いタキシード姿の男となった。

 背中から禍々しい、虫のような翅脈が入っている羽を生やす。

 

「おまえは!」

「久しぶりだな、小娘。……思ったよりも元気そうだな」

 

 かつてミーコの願いをかなえ、彼女を人間へと変えた存在。

 悪魔が、再び姿を現していた。



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悪魔は提案する

 悪魔は、以前と変わらぬ外見をしていた。

 耕作よりも年上、二十代後半ほどにみえる。

 身長も耕作より高い。

 

 黒い髪を胸に届くほど長くのばしている。

 顔立ちは整っており端正と表現しても良い。

 ただし顔色は青白く、血が通っているようには見えなかった。

 

 目には不気味な、情を感じさせない光が灯っており、ある種の爬虫類を思わせた。

 背に生えている羽は昆虫のような翅脈がありながらも、全体としては蝙蝠に近い外観をしていた。

 

 ミーコは戦闘態勢を保ったまま悪魔に対峙する。

 牙を覗かせ、威嚇の声をも上げた。

 

 悪魔は鼻で笑う仕草で、ミーコに応えた。

 さらに両手を開き、おどけたような声を出す。

 

「おいおい。俺はおまえの恩人だぞ? そう構えなくてもいいだろう」

「恩人?」

「忘れたのか? おまえが人間になれたのは誰のおかげだ?」

 

 ミーコは眉間に皺を寄せ、唇も歪めてみせた。

 顔と態度で不満をあらわにしたのだ。

 

 もっとも、悪魔の言う通りではある。

 ミーコは彼のおかげで人間となり、耕作の恋人になる資格を得た。

 この点については彼女も感謝せざるを得ない。

 

 しかし悪魔は契約の際、ミーコに曖昧な情報しか与えなかった。

 さらには「カノジョ」は一人よりも二人、多い方が耕作も喜ぶ、などという今となってはでたらめとしか思えないことも言っていた。

 半ば騙すようにしてミーコに契約を結ばせたのだ。

 そのおかげで彼女の魂は将来、悪魔が手にすることとなってしまった。

 

 ミーコは耕作と恋人になれるのであれば、魂などくれてやっても良いと思っている。

 だが耕作はミーコの将来を憂い、今も悩んでいるのだ。

 当然ながら彼は悪魔に良い感情など持っていない。

 

 耕作が不快に思う相手となれば、それが誰であれ、ミーコにとっても敵となる。

 彼女は悪魔に痛烈な言葉を叩きつけた。

 

「感謝はしてる。でも、コーサクの敵は私の敵だ!」

 

 敵意をむき出しにしたミーコを見て、悪魔は唇の片端を上げる。

 酷薄な、見る者を凍りつかせるような笑みが面上に現れた。

 

「あの男への思慕は、以前よりも深まったようだな。結構なことだ」

 

 満足げに告げると、悪魔は自分の長髪を指先で絡めとり、うっとりとした目で眺めた。

 自己愛に満ちたその所作を見て、ミーコは鼻白む。

 悪魔は黒髪をひとしきりいじくり回すと、ミーコに向き直った。

 

「本題に入るとしよう。今日はおまえに、一つ提案をもってきた」

「提案?」

「あの男にとっても良い話だ」

 

 あの男。

 つまり耕作のためになる話だと、悪魔は言っている。

 その言葉の魅力にミーコは逆らえなかった。

 目の前の相手が信用ならないのは重々承知していたが、それでも彼女は話を聞こうとした。

 

「どういうことかニャ?」

「契約を解除してやろう」

「え?」

「おまえが同意さえすれば、その瞬間に契約は消滅する。おまえは元の猫に戻り、魂も守られる」

 

 悪魔の話を聞き、ミーコは一瞬、呆然とした。

 彼女にとって予想外の申し出だったのだ。

 

 契約が消滅し、魂は守られる。

 これはミーコにとって悪い話ではない。

 

 だが猫に戻ってしまえば、耕作の恋人になる可能性も消滅するのだ。

 それは彼女にとって悪いどころではない。

 最悪の話であった。

 

 ミーコは激怒した。

 まなじりを吊り上げ、部屋中に怒声を轟かせる。

 

「何を言い出すかと思えば、ふざけるな!」

「短い期間ではあったが、人間としてあの男と暮らせたんだ。これ以上の高望みはやめておけ」

 

 悪魔の態度は依然として居丈高である。

 しかし声音には諭すような、穏やかな響きが込められていた。

 

 だからと言って、ミーコが説得を受け入れるはずもない。

 

「断る! 私はコーサクの恋人になって、ずっと一緒に暮らすんだ!」

「おまえがそう願ったとしても、あの男はどうなんだ?」

「なに?」

「おまえが猫に戻ることを望んでいるんだろう。違うのか?」

 

 ミーコは絶句してしまった。

 悪魔の言葉が冷水となって降り注ぎ、怒気を一瞬にして鎮火させてしまったかのようだった。

 

 ミーコは考える。

 悪魔の発言は間違ってはいない。

 実際、耕作は静音に対し、ミーコを猫に戻す方法はないかと聞いていたのだ。

 この事実は変えようがない。

 

 だがしかし。

 耕作は同時に、ミーコを完全な人間にする方法はないか、とも聞いていたのだ。

 それを思い出し、ミーコは覇気を取り戻す。

 傲然と胸を張り、悪魔へ答えた。

 

「違う!」

「ほう? どう違うんだ?」

「コーサクは、私を心配しているだけだ!」

 

 耕作は、ミーコの魂が悪魔の手に渡ってしまうということについて嘆いている。

 そして彼女が人間になりきれていないことについても、悲しんでいた。

 このままではミーコは、いま平穏に暮らせないばかりか、将来は地獄に落ちなければならない。

 だから彼女を救うために猫に戻すという選択肢も考えている。

 

「でもそんな心配は、私が吹き飛ばしてみせる!」

 

 黄色い右目と青い左目に、決意の炎を燃え上がらせて。

 ミーコは断言した。

 

「コーサクの悩みは、私が解決する! そしてコーサクを、世界一しあわせにしてみせる!」

「おまえが解決するだと? どうやって?」

「……それはまだ分からないけど。でも、きっとやってみせる! だからおまえは引っ込んでろ!」

 

 これ以上ないほどの勢いで、ミーコは悪魔の提案を拒否した。

 

 悪魔は眉間に皺を寄せる。

 顎を上げ、傲然とミーコを見下ろした。

 続いて発せられた声には、低く冷たい、聞く者の心臓を握りつぶすような威圧感があった。

 

「思い上がりもほどほどにしておけよ、小娘」

 

 悪魔は一歩、足を踏み出した。

 足下から墨をぶちまけたような、黒い染みが床に広がっていく。

 周囲にも、どす黒い瘴気が立ち上り始めた。

 

「俺が契約を解除するなど、本来はありえないことなのだ。それを……」

 

 瘴気は次第に勢いを増していった。

 部屋中が闇に覆い尽くされようとしている。

 

 異様な光景を目にしながらも、ミーコは怯むことなく戦闘態勢を取った。

 姿勢を低くして激突に備える。

 彼女の周囲では冷気が渦を巻き始めていた。

 春から厳冬へと、室温が急激に下がっていく。

 

 その時。

 悪魔が、なにを思ったのだろうか、急に足を止めた。

 目を細めてミーコの様子を観察する。

 やがて小さく舌打ちを漏らすと、右手をひるがえした。

 

 ほとんど間を置くことなく、キッチンから包丁が飛び出してくる。

 凶器は空を切り、ミーコに向け豪速で突進した。

 

 ミーコは即座に反応する。

 超能力を発動させ、眼前で包丁を弾き返した。

 高い金属音が鳴り、凶器は天井に深く突き刺さる。

 

「貴様!」

 

 ミーコが叫ぶ。

 冷気が彼女の怒りに同調し、勢いを増して台風と化した。

 さらにはナイフやハサミといった凶器があちこちから飛び出し、悪魔を包囲した。

 

 自身を取り囲む凶器の群れを、悪魔は無感動な目で眺めていた。

 視線をミーコに戻し、問いかける。

 

「小娘、おまえの身体に起きた変化は人間になったことと、物体や熱を操る超能力を得たこと。その二点で間違いないな?」

 

 悪魔からは不機嫌な様子が消えていた。

 発言からも、事実を確認する以上の意図は感じられない。

 

「それがどうした!」

「よかろう」

 

 悪魔は頷き、一歩退いた。

 部屋中に拡散していた瘴気も急速に引いていく。

 

「今日は引き上げるとしよう。しばらく時間を与えてやる。提案についてもう一度、よく考えておくんだな」

 

 悪魔は宣言し、再び身体を変化させていった。

 

「待て!」

 

 ミーコの静止も間に合わなかった。

 あっという間に、悪魔は闇の塊に変貌する。

 続いて拡散し、辺りを再び黒一色に染めたかと思うと、次の瞬間には消滅した。

 部屋には光と、日常が戻っていた。



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誤算、のち帰還 一

「悪魔が現れた!?」

 

 耕作は帰宅するなり大声をあげていた。

 ミーコから日中の出来事について聞かされたためだ。

 

 取るものもとりあえず、まずはミーコの無事を確認する。

 彼女が一つの傷も負っていないと分かると、深い安堵の溜め息をついた。

 連れ立って部屋へ入り、ベッドに並んで腰かける。

 それからミーコを落ち着かせるため頭を撫でながら、詳しく話を聞いていった。

 

 話が終わると、耕作は再びホッとした顔を見せた。

 

「まあなんにしても、ミーコが無事でよかったよ」

「コーサク!」

 

 最愛の男が、なによりもまず自分の身を心配してくれたのだ。

 ミーコは感激した。

 瞳を潤ませ、彼の身体へ飛びつく。

 首筋を中心として全身を耕作にこすりつけた。

 

 耕作は身体に押し付けられる、柔らかくなめらかなミーコの肢体と、そこから発せられる甘い香りに酩酊しそうになっていた。

 身体中の血がたぎり、雄の本能が呼び覚まされそうになる。

 慌てて頭を振り、煩悩を追い払った。

 それから気を静めるため髪の毛をかき回しつつ、ミーコの話を心の中で反芻していく。

 

 悪魔はなぜ、契約を解除しようとしたのか。

 それは分からない。

 しかし探し求めていた切っ掛けを、遂につかめたかもしれない。

 悪魔の行動を静音に伝えれば、彼女の協力を確実なものにできるだろう。

 

 その理由は。

 悪魔はおそらく、ミーコの魂を奪うためだけに契約を結んだ訳ではない、ということにあった。

 もっと深い企みを隠している。

 耕作にそう思わせるほど、悪魔の発言にはおかしなところがあった。

 

 まず第一に。

 悪魔はミーコが猫に戻るよう、耕作が望んでいることを知っていた。

 契約成立後も耕作達の様子をなんらかの方法で監視していたのだろう。

 

 契約が遂行されるのを見守っていたのかもしれない。

 しかしそうなると、静音の妨害があった際に全く手を出してこなかったのはおかしいともいえる。

 

 第二に。

 ミーコが耕作に抱いている愛情が深まったことを、悪魔は喜んでいた。

 

 契約がうまく進んでいるのを喜んだのかもしれない。

 だが、直後には契約解除を申し出ているのだ。

 ミーコが耕作を好いていればいるほど、契約解除は難しくなるはずだ。

 それを喜ぶのでは、つじつまが合わない。

 

 そして第三のおかしな点は。

 ミーコの身体に起きた変化は二点なのかと、彼女に聞いていることだ。

 ミーコを人間にし、超能力も与えたのは悪魔のはずである。

 その本人がなぜ、わざわざミーコに確認したのだろうか。

 

 悪魔の考えは人間には理解できないものなのかもしれない。

 それにしても疑問を抱かざるを得ない。

 

 悪魔は何か深い企みをもって、ミーコと契約を交わした。

 さらに今日、どんな思惑を抱いたのか改めて接触してきている。

 これを静音に知らせれば、彼女の協力も得やすくなるだろう。

 

 静音は悪魔に対し相当な敵愾心を持っている。

 だから悪魔に対抗し、その企みを阻止するためであれば、耕作や、それにミーコとも足並みを揃えてくれるのではないか。

 

「甘い考えかもしれないな。でもせっかく訪れた機会だ、利用しない手はない」

 

 耕作はそう独り言ち、結論づけた。

 

 静音から全面的な協力を得られなくても、事態を解決する糸口ぐらいは見つけねばならない。

 まずは明日。

 静音に会って今日の出来事を伝える。

 

 それから彼女の協力を仰ぎ、天国や地獄について詳しく教えてもらう。

 なんとかミーコを救えるよう話を進めるのだ。

 全ては耕作の交渉、話術にかかってくる。

 

 耕作は正直いって、交渉となるとあまり自信はなかった。

 ミーコや静音が例外なだけで、女性と話すこと自体、苦手にしているぐらいである。

 だがそれでも、やらなければならないのだ。

 

「コーサク……」

 

 ミーコの小さな声を、耕作は聞いた。

 思考を中断し、彼女へ視線を向ける。

 ミーコは密着していた身体を耕作から離すと、両手の人差し指を突き合わせ、恐る恐るといった様子で問いかけてきた。

 

「怒ってる?」

「なにを?」

「私が猫に戻らなかったことを……」

「いいや」

 

 耕作は一瞬、沈黙した。

 だがすぐに柔らかな微笑みを浮かべる。

 ミーコの頭を撫で、彼女の不安を取り除くべく語りかけた。

 

「ミーコが決めたことだ。それに俺のことを想って、そうしてくれたんだろ。とても嬉しいよ」

「コーサク!」

 

 愛情と信頼に満たされた返答を聞き、ミーコはまたしても涙目になった。

 耕作に抱きつき、先ほどに勝る勢いで身体をこすりつける。

 耕作は雄の本能を抑えるため、再び努力しなければならなくなっていた。

 

 再びミーコの頭を撫でつつ、彼は考える。

 ミーコへの答えは、嘘ではない。

 しかしそこには、彼女には隠した別の思いもあった。

 

 つい先ほど。

 自分はミーコが悪魔と遭遇し、無事だったことを喜んでいた。

 彼女の身体に傷一つなかったことを、喜んでいた。

 

 そして同時に。

 ミーコが変わらなかったことにも確かに喜びを抱いていた。

 自分に絶大な愛情を注いでくれる、類まれなる美少女。

 彼女が消えてしまわなかったことを喜んだのだ。

 

 この心情に気づいた時。

 耕作は激しく自分を恥じていた。

 

 自分はミーコを助けようとしているのではないか。

 それなのに彼女が魂を救う機会を逃して人間で居続けたことに、喜びを覚えるとは。

 これでは自分の欲望のためにミーコを犠牲にするのと、なんら変わりがないではないか。

 

 自分の気持ちは未だに、かくも曖昧なままなのだ。

 こんな男にミーコを責める資格などない。

 彼女は一直線に自分を愛し、恋人となるべく努力し、行動してくれているのに。

 

 耕作は大きく深呼吸をした。

 ミーコから身体を離し、真剣な顔を彼女に向ける。

 神妙な雰囲気にミーコは目を丸くした。

 

 数瞬の後。

 耕作は重い口を開いた。

 

「でもミーコ、もし今日と同じ状況に俺が立ち会ったとしたら」

 

 唇を閉じ、一拍の間を置く。

 そして自身の心にも刻み付けるようにして、彼は告げた。

 

「その時には、俺は悪魔に契約を解除するよう、お願いするつもりだ」

「コーサク……」

「それは分かってくれるかな」

 

 優しい、諭すような声だった。

 だがその言葉はミーコにとって、あまりにも悲しいものだった。

 実際、彼女は顔に陰を落とし、うつむいてしまっている。

 

 それでもミーコは、しばらくすると顔を上げた。

 そして涙目ながらも精一杯の力で笑みを浮かべ、

 

「うん」

 

 と、頷いた。

 

 

 ――――――

 

 

 耕作の計画は、いきなり頓挫する。

 

 翌日の朝。

 いつものように静音からメッセージが送られてきた。

 耕作はさっそく、

 

「今夜お時間を頂けませんか。お話ししたいことがあります」

 

 と、申し出た。

 

 静音は間違いなく大喜びして、了承するだろう。

 彼はそう思っていた。

 しかし返答は、

 

「耕作さん、申し訳ございません。今夜はお会いすることができません」

 

 というものであった。

 

 これには耕作も面食らってしまった。

 当然、理由を尋ねる。

 ところが静音の返答は、歯切れが悪いというか、とにかく会えないの一点張りだった。

 思わぬ状況に、耕作は頭を抱えていた。

 

 

 ――――――

 

 

 翌週月曜日。

 耕作の勤め先にて。

 

 耕作は他部署とのミーティングのため、会議室へ移動するべくエレベーターを待っていた。

 この間にも、彼は思案を続けている。

 

 考える内容はというと。

 勤め人としては残念なことに、差し迫ったミーティングについてなどではなかった。

 静音について考えていた。

 耕作はこの日に至るまで、静音には会えないままだったのだ。

 

 静音から送られてくるメッセージの量は、以前と変わりない。

 大量かつ頻繁に送られてきていた。

 文面も以前と変わっておらず、耕作への執心と、愛情が込められたものだった。

 

 メッセージを読む限り、静音の耕作に対する愛情は変わっていないように思えた。

 ところが彼女は、対面だけは頑として拒んでいたのだ。

 

 なにか真っ当な理由があれば、耕作も納得できる。

 例えば出張にでも行っているのなら疑問に思うこともないだろう。

 ところが静音は、理由についても言葉を濁したままだったのだ。

 

 高く小気味の良い音が耕作の耳に届いた。

 エレベーターが到着したのだ。

 耕作は思考を続けたまま、数名の先客がいるエレベーターへ乗り込んだ。

 

 このビルの清掃員は非常に勤勉な人々であるらしい。

 エレベーターの中も綺麗に掃除がされていた。

 壁面にも染み一つない。

 小さな花と蝶の模様が描かれている壁紙を眺めながら、耕作は尚も考え続けた。

 

 ひょっとすると、悪魔が現れたことと静音の変化には、なにかしら関係があるのではないか。

 偶然にしてはタイミングが合いすぎている。

 

 となると、静音に危険が迫っている可能性もある。

 悪魔に影響され、耕作に会いたくても会えない状況に陥っているのかもしれない。

 だとすると一刻も早く彼女を助けなければならない。

 

 しかし逆に、静音に会うことで耕作に危険が及ぶのかもしれない。

 静音の性格からすると、耕作と会うためなら自分の身などかえりみないはずだ。

 だが耕作に危険が迫るということになれば、対面も躊躇するに違いない。

 なぜそんなことになるのかと言われても、正直さっぱり分からないのだが。

 

「どちらにしても、交渉うんぬんとか考えている場合じゃなさそうだ」

 

 静音に会うまでは悪魔の話は伏せているつもりだった。

 しかし彼女の変化を見る限り、事態は思った以上に進んでいるのかもしれない。

 静音には、取り返しがつかなくなる前に悪魔の行動を教えておく必要がある。

 

「今日中に、電話なりメッセージなりで悪魔について伝えておこう」

 

 耕作は決断した。

 

 再び高い音が鳴った。

 エレベーターが停止している。

 目の前にある扉が、静かに開き始めた。

 

 耕作は人の流れに乗り、エレベーターを出て、考えごとをしながらも歩き出す。

 そうして十数メートルも進んだ時。

 彼は、周囲の様子がおかしいことに気がついた。

 

 壁に貼られている掲示物が見慣れないものになっている。

 廊下に並ぶドアの配置も、どこかおかしい。

 次の瞬間、耕作は悟った。

 

「しまった」

 

 考えごとにふけるあまり、目的の階を通り過ぎてしまったのだ。

 思い返せば、そもそもエレベーターのボタンを押した記憶もない。

 自分のうかつさに呆れつつ、耕作は来た道を引き返し始めた。

 

 廊下には所々、観葉植物がならんでいた。

 照明にも美術品のような装飾が付いている。

 この階にはおそらく役員のオフィスや、特に重要な来客を迎える部屋などが設けられているのだろう。

 平社員の耕作にとっては、あまり居心地のいい場所ではない。

 

「それに、万が一……」

 

 嫌な予感に襲われ、耕作は呟いた。

 

 直後。

 耕作にほど近い場所にあったドアが開いた。

 中から数名の男女が出てくる。

 そのうちの一人を目にして、耕作は思わず声を上げた。

 

「あっ」

 

 静音がいたのだ。

 彼女もすぐ耕作に目を向け、

 

「え?」

 

 と、呟いていた。

 

 偶然にも程がある。

 と、耕作が自分の悪運を祝うべきか呪うべきか迷っている間に。

 静音は表情を、目まぐるしく変化させていった。

 

 彼女はまず、口を丸くして驚きをあらわにした。

 続いて花が咲いたような笑みを浮かべ、視線も熱く、ねっとりとしたものにする。

 

 しかしそれも一瞬のことだった。

 すぐに我に返ったのか、笑顔を収める。

 さらに狼狽しきったように手を口に当て、叫び声をあげた。

 

「耕作さん! 今すぐ離れ……!」

 

 そこまで話したところで。

 静音は言葉を止める。

 気を失ったのか、目を閉じ、表情を消し、その場で崩れ落ちた。

 

 耕作は静音の様子に呆気にとられていた。

 それでも危機を察すると、間髪入れずに彼女へ駆け寄った。

 

「静音さん!」

 

 膝をつき、美女の身体を抱きかかえる。

 

 周りにいた静音の同僚と思しき人たちも、困惑と驚きの声を上げていた。

 彼らは静音だけでなく、耕作にも次々と声をかけてきた。

 しかし耕作の耳には、その言葉は届かない。

 彼は今、静音の安否だけに気を取られていたのだ。

 

「静音さん! 大丈夫ですか!」

 

 必死になって呼びかけたが、返事はなかった。

 耕作は救急車を要請するべく、スマートフォンを取り出した。

 

 その時。

 耕作の腕に、白く細い指が添えられた。

 静音が手を差し出し、耕作の動きを制止したのだ。

 

「静音さん?」

 

 耕作は不安と喜びの入り混じった声で、問いかける。

 

 静音の瞼がゆっくりと開いていった。

 黒く美しい瞳は、すぐに耕作へと向けられる。

 

「ああ……」

 

 静音の口から漏れ出たその声には、感極まったかのような響きがあった。

 目には、あっという間に涙があふれていく。

 静音は頬を赤く染め、耕作を掴む腕に力を込めた。

 

 今の静音の姿は、耕作がかつて見たことのないものだった。

 身体から指先、さらには髪の毛の一本一本に至るまで生命力が満ち、光り輝くかのようだ。

 神々しいばかりの美しさに、耕作も思わず息を飲んだ。

 

 彼が見つめる、その前で。

 静音の唇が開いていく。

 

「……会いたかった、会いたかった、こーくん。私です。静音です」

 

 その言葉には、万感の思いが込められていた。



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誤算、のち帰還 二

「……へ?」

 

 耕作は間の抜けた声を上げていた。

 彼にとって静音の言葉は、予想外どころか理解不能なものだったのだ。

 

 目の前の女性が静音ということは、もちろん知っている。

 疑う余地もない。

 それに会いたかったと言われても、顔を合わせなくなってから十日しかたっていない。

 静音にしてみれば十分に長い期間なのかもしれないが。

 

 自分の感動に耕作が同調していないことを、静音も気づいたらしい。

 耕作の両腕を掴み、必死になって呼びかけてきた。

 

「こーくん、思い出して!」

 

 静音の異常な様子を見て。

 周りの人々は、彼女へ心配気な声をかけた。

 

 しかし静音は、それらの人々には見向きもしない。

 ただ耕作だけを見つめ、懇願を続けていた。

 

 他方、耕作はというと。

 静音の訴えを聞き、ますます混乱してしまっていた。

 彼女が今、自分になにかしらの助けを求めているのは分かっている。

 とは言っても、どうすれば良いのであろうか。

 

 周囲の人々は、静音だけでなく耕作にも何が起きているのかと問いかけるようになっていた。

 中には「彼女に何をしでかしたんだ!」と、恫喝まがいの言葉をかける者もいた。

 おまけに騒ぎを聞きつけたのか、野次馬も次々に集まっていた。

 

 厄介なことになってきた。

 とにかくまず、静音を落ち着かせなくてはならない。

 場所を移動して救急車を呼び、専門家に診てもらった方が良いだろう。

 と、耕作は考えた。

 

 しかし彼が行動を始めるよりも早く。

 先にも勝る勢いで、静音が声を上げた。

 

「こーくん!」

 

 その、必死な叫び声を聞いた時。

 耕作の脳裏に一つの疑問が浮かんだ。

 

 先ほどから静音が繰り返している、「こーくん」という呼び名。

 耕作が覚えている限り、その名で彼を呼ぶのは亡くなった母、一人だけのはずだったのだ。

 わずかに記憶に残っている母は、暖かく優しい声で、いつも「こーくん」と呼びかけてきた。

 

 静音がなぜ、その呼び名を繰り返しているのだろうか。

 彼女の身体に母の魂が宿ったのだろうか?

 いくら天使や悪魔と言えども、そんな悪趣味で無意味なことをするとは思えないが。

 それに静音は今も、自分のことを「静音」と言っている。

 それなのに、なぜ。

 

 考える耕作の視線が、静音のそれと重なった。

 黒く深く、そして澄んだ瞳が、耕作を見つめている。

 そこには己の全生命をかけて哀願する、彼女の切迫した感情が涙となって現れていた。

 涙はきらめき、光となり、耕作の内へと飛び込む。

 そして彼の心を一直線に貫いた。

 

 刹那。

 耕作は思い出す。

 自分を「こーくん」と呼んだ人物が、もう一人いたことを。

 

 それは遠い遠い昔。

 耕作がまだ小学生にもなっていなかった頃のことだ。

 当時、彼が住んでいた家の近くには小さな公園があった。

 ブランコと砂場だけが設けられたその公園で、彼は同い年の少女とよく遊んでいた。

 

 二人はとても仲が良かった。

 子供同士でありながら、滅多に喧嘩をしなかった。

 おままごとでは当然のように夫婦役を演じていた。

 毎日のように顔を合わせていた。

 将来もずっと傍にいるはずだと、お互いに思っていたかもしれない。

 

 その少女は、黒く長い髪をしていた。

 丸い瞳も同じように黒かった。

 幼いながらも目鼻立ちがはっきりしていて、人目を惹く、可愛らしい女の子だった。

 あの子の名は、確か――。

 

「……しーちゃん?」

 

 耕作は静音に呼びかけた。

 

 その言葉の効果は絶大であった。

 静音の表情が一瞬にして変化する。

 切羽詰まった泣き顔から、太陽を思わせる輝かんばかりの笑顔へと。

 目に浮かべた涙も悲しみによるものから喜びによるものへと、種類を変えていた。

 

 彼女は美しい声をこれ以上ないくらいに張り上げ、答えた。

 

「はい、しーちゃんです! 思い出してくれたんですね、こーくん!」

 

 爆発した感情のおもむくままに。

 静音は耕作に飛びついた。

 

「嬉しい!」

 

 力いっぱい耕作を抱きしめる。

 両目から大粒の涙を流すと、喜びのあまり、そのまま泣き崩れてしまった。

 

 耕作の胸に、ミーコよりもはるかに豊かな双丘が押し付けられる。

 得も言われぬ柔らかさに、耕作は男の欲求を直撃され、慌てふためいた。

 全身にも成熟した女性の肢体が絡みついてくる。

 布地ごしでも十分に感じられる柔肌の心地よさと、鼻腔に飛び込んでくる芳香に、耕作は抗えなかった。

 

 頭はまだ混乱している。

 にもかかわらず、身体は急激に興奮を増していた。

 両手が無意識のうちに、静音を抱き返すため動き始める。

 周囲にいる人々が、どよめきにも似た声を上げた。

 

 その声を聞き、耕作は我に返る。

 自分と静音に向けられた数多くの視線に、彼は今更ながら気がついた。

 

 肌に棘が刺さるような感覚があった。

 耕作に向けられた視線には、驚愕だけでなく嫉妬や怒りにも似た感情が含まれていたのだ。

 それによって視線は槍と化し、耕作を突き刺してくるのである。

 

 理由は、はっきりしている。

 多くの男性社員にとって高嶺の花だった令嬢が、どこの馬の骨とも分からない男に抱き付き、今は泣きじゃくっているのだ。

 耕作は、自分が極めてまずい状況にいることに気づいた。

 

 彼にも、静音に何が起きているのかは分からない。

 しかし周囲の人々は全責任が耕作にあると思っているだろう。

 このままでは、つるし上げを喰らうのは必定である。

 

 今の状況を説明するにしても、

 

「静音さんはこの前まで天使でしたが、今は俺の幼馴染になっています。俺と再会して喜んでくれているみたいです」

 

 などと言えるはずもない。

 従って耕作としては、彼らに捕まったり、追及されたりする訳には行かない。

 どうやってこの場をごまかせば良いだろうか。

 

 しかし耕作には考える時間すら与えられなかった。

 一人の女性社員が耕作をまじまじと見つめた後、呟いたのだ。

 

「あら? そう言えば貴方、先日も……」

 

 その女性は、静音が事故にあった時も現場に居合わせたのだろう。

 そのため耕作を覚えていたのだ。

 女性は周囲の人々へ何やら説明を始めていた。

 

 考えている場合じゃない。

 静音のことは心配だが止むを得ない。

 三十六計、逃げるに如かず。

 

 耕作は決断した。

 泣きじゃくる静音の肩に手を置き、身体を引きはがす。

 

 耕作から離されて、静音は泣き声を抑えた。

 涙で濡れそぼった顔を耕作へ向ける。

 そして心の底から安心したような、晴れやかな笑みを浮かべた。

 

「こーくん……」

 

 その笑顔を見た耕作の胸に、刺すような痛みが走る。

 それでも彼は、白々しいばかりに平静を装った態度と声で語りかけた。

 

「良かった。静音さん、もう大丈夫なようですね」

「え?」

「皆さん、あとはよろしくお願いします。俺はミーティングがありますので、それでは」

 

 言うが早いか。

 立ち上って後ろを向き、脱兎のごとく駆けだした。

 階段を目指し全力で走り続ける。

 

「え……。待って、こーくん!」

 

 背後から静音の叫び声が聞こえてくる。

 しかし耕作は耳を貸すことなく、階段ロビーに飛び込んだ。

 速度をゆるめることなく階段を駆け下りる。

 

 あまりの勢いに、すれ違う人々が皆、奇異の視線を向けてくる。

 それらの人々も無視して。

 耕作はただひたすら階下へと向かっていった。



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人の噂は蜜の味

 なんとか助かった。

 

 会議室に飛び込み、耕作は胸をなでおろした。

 ミーティングはまだ始まっていなかった。

 追ってくる人もいない。

 

 室内にいる社員達は、耕作の汗にまみれた姿を見て驚いていた。

 彼はそれに対して「遅刻するかと思った」などと言ってごまかしている。

 社員達が呆れ苦笑を浮かべたのを見て、耕作はホッとした。

 

 どうやら納得してくれたようだ。

 とりあえずは、めでたしめでたし。

 

 ……当然ながら世の中そう上手くいくものではない。

 落ち着いて考えれば、すぐに分かることだ。

 騒動の場にいた人々は、耕作を見失ったとなれば静音に話を聞くはずである。

 彼女が説明すれば、耕作の身元などあっという間に判明するだろう。

 

 という訳で耕作は、ミーティングが終わるなり課長に呼び出される羽目となっていた。

 

 

 ――――――

 

 

 課長と二人きりで話を続けること、数十分。

 耕作はようやく解放された。

 オフィスに戻ると、自分の席でへたり込んでしまう。

 

 同僚にも既にある程度うわさが広まっているらしい。

 彼らは興味津々といった目で耕作を見ていた。

 もっとも多くの者は、詳しく話を聞きたいと思いつつ、さすがに躊躇われる、という態度をとっていたが。

 

 ところが中には遠慮なく話しかけてくる者もいる。

 良太だ。

 彼は耕作に苦笑まじりの声をかけた。

 

「大変だったな、色男」

「……それはひょっとして俺のことか」

「色男が嫌ならプレイボーイでもいいぞ」

「それもいらん」

 

 そんな呼ばれ方をされるのは、心外だ。

 と、耕作は拗ねた口ぶりで抗議した。

 

 良太は、できの悪い生徒の答案を見た教師のように、唇をへの字にした。

 銀縁メガネに手を添え、友人に自覚を促そうとする。

 

「耕作、今現在おまえが周りからどう見られているのか、分かっているか」

「浅学非才の身なれば、とんと分りませぬ。ご教授お願い致します」

 

 ヤケクソ気味な心情を時代がかった台詞に込め、耕作は返答した。

 良太は、こちらも大仰に頷きつつ、

 

「よかろう」

 

 と言って説明を始めた。

 

 耕作は先日、トラックに轢かれそうになった静音を颯爽と助けだした。

 しかもその後、二人で手に手を取り合い何処かへと去っている。

 

 そして今日。

 耕作は偶然、静音と遭遇した。

 すると彼女は喜びのあまり大声で泣きだしてしまった。

 それなのに耕作は泣いてすがる彼女を振り切り、逃げるようにしてその場から立ち去っている。

 

 これらの出来事を真っ当に解釈すると。

 耕作は事故を契機として静音と恋仲になりながら、早くも彼女を捨てようとしている。

 そのようにしか見えない。

 と、良太は結論づけた。

 

 話を聞き終え、耕作は肩を落とす。

 やはりそうか。

 というのが彼の心情であった。

 

 分かってはいたのだ。

 良太に言われるまでもない。

 耕作にも周りからそう見られているという自覚はあった。

 それに先ほどまで話をしていた課長も、同じ見解を持っていたのだ。

 

 課長は男性で、四十路になったばかりである。

 だが頭髪にはすでに白いものが目立ち、年齢よりも老けて見えた。

 

 入社以来、今日に至るまで無遅刻無欠勤。

 仕事においても特筆すべき功績はないが失敗もほとんどない、安定した手腕を見せている。

 浮いた噂なども聞いたことがない。

 

 その真面目な課長にしてからが、

 

「男女の間には色々あるだろう。それについては四の五の言うつもりはない。しかし、公私の区別はつけるように」

 

 と、耕作と静音が付き合っているという前提で話を進めてきたのだ。

 

 耕作も黙っていた訳ではない。

 きっぱりと、

 

「事故が切っ掛けで親しくはなりましたが、恋人という訳ではありません」

 

 と答えている。

 しかし課長は、全く信用していないのか、渋い顔をしていた。

 その後も静音との関係や今回の騒動について様々に質問し、苦言を呈してきている。

 

 ただし声を荒げたりはしなかった。

 大人の態度を示したというよりは、打算が働いたのかもしれない。

 

 耕作が将来、静音と結ばれるようなことにでもなれば、間違いなく自分よりも上の役職に就くだろう。

 だとすれば悪印象を持たれるのは得策ではない、という訳である。

 そんな考えを抱かれても、耕作としてはうんざりするだけであったが。

 

 ただ残念なことに、耕作の同僚たちも多かれ少なかれ似たような考えを持っていた。

 良太などはその筆頭と言えよう。

 なにしろ自分も便乗し出世させてもらおうと企んでいるぐらいなのだ。

 彼は友人と静音を結ばせるべく、親身になって相談に乗ろうとした。

 

「で、河原崎さんになんの不満があるんだ。美人で金持ちで、非の打ちどころがないだろ」

「不満というか、別に付き合っている訳じゃない」

 

 耕作は再び交際を否定した。

 さらに「友人であり、色々相談に乗ってもらってもいるが恋人ではない」ということを、納得してもらえるように説明している。

 

 しかし話を聞き終わっても、良太は釈然としない様子であった。

 課長よりは耕作を信じているようではあったが、それでも半信半疑と言った感じである。

 

 耕作は考える。

 静音はあれから、どうしているのだろうか。

 しばらく距離を置かれ、偶然再会したかと思ったら、急に幼馴染の人格が現れて感激し泣き出したのだ。

 尋常な事態ではない。

 

 悪魔が現れたことも含め、一連の出来事には何かしらの理由があるはずだ。

 単純に彼女が心配ということもある。

 会って、話をしたい。

 

 しかし社内の様子を見る限り、彼女とは社員の目がある場所では会わないようにした方が良いだろう。

 これ以上、二人が交際しているだの、痴話喧嘩しているだのと言った噂が広まるのは避けなければならない。

 時間と場所を考える必要がある。

 

 

 ――――――

 

 

 その日の夕刻。

 耕作は仕事を終えると、良太と連れ立ってオフィスを出た。

 廊下を進んでエレベーターに乗り込む。

 一階に到着すると、正面玄関に向かって再び歩き続けた。

 

 そして社員用のゲートを通過し、ロビーに出たところで。

 広大な空間に響き渡る、溌剌として澄んだ声を耕作は聞いた。

 

「こーくん!」

 

 ロビーにいた人々の視線が一点に注がれる。

 そこには黒いパンツスーツを着た素晴らしい美女がいて、ちぎれんばかりに手を振っていた。

 彼女の目と声は耕作にのみ向けられている。

 

 唖然呆然。

 耕作は表情の選択に困り、その場で立ち尽くしてしまった。

 

 良太も口を開け、呆気にとられた様子だった。

 だが彼は、やがて肩をすくめると、首を横に振った。

 友人の肩を軽く叩き、しみじみとした声をかける。

 

「じゃあ後は若い二人に任せて、邪魔者は退散させてもらうわ」

「おい、ちょっと待て」

 

 耕作の呼び止めも聞かず、良太はさっさとどこかへ行ってしまった。

 代わりに静音が、軽やかな足取りで耕作の元へと駆け寄ってくる。

 人垣が自然に割れ、二人をつなぐかのように道を作り出した。

 

 鮮やかな光景と静音の笑顔を見て。

 耕作はしかし、天を仰いでいた。



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幼馴染は嫉妬する 一

 ウェイターに案内され、耕作は席につく。

 窓からの眺めは過去に見たものと構図は同じだったが、色合いは大きく異なっていた。

 

 ビルは黒く連なっていた。

 そこに窓が数限りなく並び、白く鮮やかに輝いている。

 ネオンの七色の光も至るところにちりばめられていた。

 星々が地に落ちて光る海となったかのような眺めに、耕作も思わず嘆声を漏らしている。

 

 彼は今、この洋食店に三度目の来訪を果たしていた。

 過去二回と景観は変わっていたが、向かい側の席には、これまでと同じく静音が座っていた。

 彼女はウェイターが離れると、すぐ耕作に頭を下げた。

 

「ごめんなさい!」

「え?」

「待ち伏せみたいな真似をして、こーくんを誘ったりして。本当は事前に連絡をすべきだったんだろうけど……」

 

 ああ、そのことか。

 と、耕作は納得した。

 

 ロビーでいきなり声をかけてきた後。

 静音は衆目の集まる中、彼の腕を取り、

 

「やっと再会できたんだから、お祝いをさせて」

 

 という理由でこの洋食店まで連れて来たのである。

 

 耕作も彼女との話は望んでいたので、強く断るようなことはしなかった。

 だがそのおかげで二人の噂はさらに広まってしまっただろう。

 あらかじめ電話なりメッセージなりをしてくれれば、上手い待ち合わせ場所も思いついたかもしれないが。

 

「でもこーくん、あの人に何度もメッセージを送られて困っていたみたいだから」

「あの人?」

「最近まで私の身体を使っていた人」

 

 静音の声色が濁った。

 隠しきれない嫌悪の感情が、彼女の内から漏れ出したのだ。

 

 天使のことか。

 と、耕作もすぐに理解した。

 たしかに天使からは大量のメッセージを送られて辟易していた。

 何度か止めるよう促してもいたのだ。

 

 発言からすると、静音の頭には天使だった頃の記憶も残っているのだろう。

 それに「私の身体」というからには、かつての幼馴染と河原崎静音は同一人物ということになる。

 ひょっとしたら二人は別の人物で、幼馴染の人格が静音の身体に宿ったのではないか、という可能性も耕作は考えていたのだが。

 どうやらそれは間違いであったようだ。

 

 ウェイターがシャンパンを運んでくる。

 耕作は銘柄などはあまり分からなかったが、それが高級品であることは理解していた。

 二人で再会を祝し、乾杯する。

 

 静音は感極まったらしい。

 耕作を無言で、ただじっと見つめていた。

 他方、耕作にしてみると、手放しで幼馴染との再会を喜ぶような心境にはとてもなれなかった。

 現状、分からないことが多すぎる。

 周囲に目を配りつつ、彼はたずねた。

 

「あの人は、今どこに?」

 

 耕作は「天使」という単語を伏せた。

 静音に合わせたというよりも慎重を期したのだ。

 

 現在、店の中はほぼ満席だった。

 多くは男女の二人組だが、家族連れの姿もいくつか見える。

 誰かに話を聞かれてもおかしくはない。

 天使だの悪魔だの話して本気にとられるとは思えないが、用心に越したことはないだろう。

 

「分からない。でも少なくとも、ここにはいないと思う」

「そうなんだ」

 

 耕作は、静かに呟いた。

 彼は今、言いようのない寂しさと不安を覚えていた。

 

 天使には色々と困らされた。

 彼女は今回の騒動の発端であり、ミーコの命も狙っていたのだ。

 

 それでも彼女は耕作に、計り知れないほどの愛情を注いでくれた。

 十何年にも渡って見守り続けてくれたのだ。

 それほどまでに愛されたことは、異性に慣れていない耕作にとって大きな喜びであった。

 

 それにこの先も彼女には助力を求めるつもりだった。

 天国と地獄について学ばなければならないことが、たくさんあった。

 その望みも叶わなくなってしまったのだろうか。

 今生の別れになったとは限らない。

 それでも途方に暮れたような思いを、耕作は抱いていた。

 

 耕作の沈んだ顔を見て、静音は子供のように頬を膨らませた。

 

「こーくん、不満なの?」

「え?」

「私が帰って来るよりも、ずっとあの人にいてほしかった?」

「いや、そういう訳じゃないよ」

 

 耕作は慌てて取り繕った。

 シャンパンを一口、喉に流し込むと、気持ちを切り替えて答える。

 

「しーちゃんに再会できたのは、とても嬉しいよ」

「本当?」

「もちろん」

「ありがとう……」

 

 静音は一瞬で不満を収め、華やかな笑みを浮かべた。

 

 その様子を見て、耕作も安堵した。

 厄介な事柄は後回しにしてまずは食事と会話を楽しもうと、心を新たにする。

 

 それから二人の間では穏やかな時が流れていった。

 主な話題となったのは二人が共に過ごした子供時代、公園での話である。

 

 当時、駈け足は静音の方が早かったとか。

 静音が壊してしまったおもちゃを、耕作が一生懸命なおしてくれたとか。

 たまに他の女の子に耕作が気を取られたりすると、静音が露骨にむくれてしまったとか。

 二人の記憶は多少の差異こそあれ、ほとんど一致していた。

 

 料理が終わり食後のワインが運ばれる頃になって。

 静音がポツリと呟いた。

 

「でも私はあの頃のことを、ずっと忘れていたんだよね。いつの間にか……」

 

 両手をテーブル上で組み、視線を下に向ける。

 

「入社してこーくんをみかけても、ぜんぜん気づかなかったし」

 

 後悔の念が込められた、消え入りそうな声だった。

 耕作も神妙な顔になる。

 

「いや、それは俺も同じだよ。しーちゃんに言われるまで、すっかり忘れていた。ごめん」

 

 耕作は大げさに頭を下げた。

 静音は驚き、自身も謝罪する。

 二人は頭を下げ続けていたが、やがてタイミングを合わせたように姿勢を正すと、昔のように笑い合った。

 

 なごやかな空気の中。

 耕作は最近の出来事について質問した。

 

「しーちゃんは俺のことを、どうやって思い出したのかな?」 

「あの人が私の記憶を引き出したの。私の身体に異変が起きている、と言って」

「異変?」

 

 なにやら不穏な響きを持つ単語である。

 耕作は詳しい事情を知りたがった。

 しかし静音は、この場で話していいものかどうか判断に迷っている様子だった。

 

 彼女の悩む姿を見て、耕作は話題を切り替えた。

 

「そういえば、どうやってその……帰ってこれたのかな?」

 

 静音の魂は、なぜ肉体へ戻れたのか。

 それは耕作にとって大きな疑問であった。

 しかしこの点についても、彼女は返答を避けた。

 

 疑問が解消されないため、耕作は手を口に当て、しばし考えに沈んだ。

 それから改まった口調で問いかけた。

 

「しーちゃん、一つ失礼な質問をしてもいいかな?」

「なに?」

 

 静音は笑顔で問い返す。

 耕作は躊躇しつつ、それでも思い切って口を開いた。

 

「君は本当に、しーちゃんなのかな?」

 

 静音は、まばたきを数回くりかえした。

 それからキョトンとした表情で、簡潔に答える。

 

「そうだよ?」

「そうか。うーん……」

「信じられない?」

 

 静音は悲し気で、そしてわずかに怒気も込められた声を発した。

 耕作は慌てて釈明する。

 

「いや、違うんだ」

 

 順序だてて説明を始めた。

 

 しーちゃんと静音。

 名前は合っている。

 今の面立ちにも幼い頃の面影は残っている。

 話す事柄も耕作の記憶と一致していた。

 

 だが静音は大富豪の令嬢だ。

 片や耕作は、平々凡々とした一般人の家庭に育ってきた。

 その二人に、子供時代とは言え、なぜ接点が生まれたのだろうか。

 

 記憶に残る二人が過ごした情景は、ごく普通の街中にある公園でのものだ。

 なぜそんな場所に静音はいたのだろうか。

 耕作の家族が住むようなありふれた住宅地に、彼女の一家が住居を構えるとは思えない。

 

 さらにもう一つ、静音と話をするうちに思い出したことがある。

 幼い静音には、いつも大人が一人、付き添っていたのだ。

 静音と手をつないで歩く姿を耕作は覚えている。

 大柄で立派な体格をした人物だったので、普通に考えれば父親であろう。

 

 だがその人物は、耕作も目にしたことのある静音の父とは見た目があまりにも異なっていた。

 静音の父は、若い頃はさぞかし浮き名を流しただろうと思われる、すっきりとした二枚目である。

 間もなく五十に届こうかと言う年齢でありながら、スタイルも良い。

 子供の頃に見た人物とは体格も雰囲気も違いすぎるのだ。

 

 耕作が説明を終えると、静音は目を伏せて黙ってしまった。

 と言っても、図星をつかれた、と言う雰囲気ではない。

 何と答えるべきか、言葉を探し悩んでいるように耕作には見えた。

 

 しばらくの後。

 静音は頭を下げた。

 

「ごめんなさい。理由はあるんだけど、ここで話せるようなことじゃないの」

 

 静音は顔を上げ、周囲を見回した。

 店の中には依然、多くの人がいた。

 

 耕作にも静音の心情は分かった。

 複雑な家庭の事情があるのだろう。

 詳しい話をするには場所を改める必要がありそうだ。

 考えつつ、ワインを口に含む。

 

 静音も同様の考えを抱いたらしい。

 先ほどとは変わった溌溂とした声で、耕作に提案した。

 

「こーくん」

「なんだい?」

「これから私の家に来ない?」

 

 耕作はワインを吹き出しそうになった。

 

 再会して、その日のうちに家に招待されるなど、いくら幼馴染でも展開が早すぎるのではなかろうか。

 まして二人とも、うら若き男女なのだし。

 などと考える彼は、奥手と言うよりは男女関係について厳格すぎるのかもしれない。

 

 あるいは理性的にすぎるのかもしれなかった。

 特に理性と感情が対立した場面などでは、彼はほとんどの場合、理性を優先させている。

 

 静音も、そんな彼の考えと本質を見抜いたようだ。

 

「大丈夫よ、こーくんなら。それに幸い、お父様もお母様もまた海外に行っちゃったから、家にはいないの」

 

 なるほど。

 ……いや、それはそれでまずいだろう。

 と、耕作は考えた。

 

 静音はまたしても耕作の心を見抜いたらしい。

 安心させるべく、家の状況を説明してきた。

 

「住み込みで働いてくれてる人が何人かいるから、二人っきりってことはないわよ」

 

 明るく、いたずらっぽくもある口調だった。

 それを聞き、耕作の心配、あるいは不届きな思いも取り除かれる。

 彼はやや癖のある髪をかき回し、なおも考え続けた。

 やがて控えめに声を出す。

 

「ごめん、しーちゃん。やっぱり今日は無理だ」

「どうして?」

「あまり遅くなると、ミーコが心配する」

 

 ミーコの名を耳にした、その途端。

 静音は表情を一変させた。



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幼馴染は嫉妬する 二

 静音の眉間に皺が寄った。

 奥歯が噛みしめられ、柔らかな口元も醜く歪む。

 目尻はつり上がり、黒い瞳には炎が浮かび上がった。

 彼女の顔は今や般若と化していた。

 

 怒気をあらわにした静音を見て、耕作は息を飲んだ。

 気温が急激に下がったように感じられる。

 彼は言葉すら失い、絶句してしまった。

 

 静音が、彼女には似つかわしくない、底冷えのするような低い声を出す。

 

「ミーコさん……こーくん、そんなにあの子が大事なの?」

「……うん」

 

 耕作はつばを飲み込みつつ、それでもはっきりと答えた。

 

 しかしその答えは、静音にとってやはり気に入らないものであったらしい。

 彼女は両こぶしを握り締め、再び獰猛な声を出した。

 

「こーくん。ちょうどいいから今つたえておくけど。あの子から離れなきゃダメ」

「え?」

「あの子、こーくんに悪い影響を与えている」

「いや、そんなことはないんじゃないかな」

「ダメだってば!」

 

 激しい衝突音が店中に響き渡った。

 静音が両手をテーブルに叩きつけ、勢いのままに立ち上がり、イスを後ろに突き倒したのだ。

 

 店中の人々が一斉に耕作たちへ目を向ける。

 ウェイターも驚き、駆け寄ってきた。

 ざわめき声が二人を取り巻いた。

 

 騒然とした空気によって、静音も多少なりとも冷静さを取り戻したらしい。

 騒ぎを起こしたことをウェイターと周囲に詫びて、再び席に着いた。

 沈んだ顔で口を開く。

 

「取り乱してごめんなさい、こーくん。でもお願いだから、私の話を聞いて」

「うん。いきなり否定したりして、俺も悪かったよ」

 

 静音の気持ちを楽にするため、耕作は優しくほほ笑みかけた。

 静音もホッとしたのだろう。

 今だ表情は暗いながらも、落ち着いた口調で語り始めた。

 

「あの子のせいで、こーくんの魂は汚れてしまった。そう言っていたの」

「誰が?」

「あの人と、あの人の仲間が」

 

 天使と天使の仲間?

 魂が汚れるというのも、どういうことなのだろうか。

 

 耕作が考える間にも、静音は訴えかけてくる。

 

「こーくんはこのままだと……ううん、もうすでに取り返しがつかなくなっているって」

「へ? それもその、あの人が?」

 

 静音はためらいながらも、小さく頷いた。

 

 魂が汚れ、取り返しがつかなくなっている。

 それがどんな事態を指しているのか、耕作にはさっぱり分からない。

 

 ただ、堕落したとか、よこしまな考えを抱くようになった、というような単純な話ではないのだろう。

 静音の暗い口調や表情は、深刻な事態の発生を示していた。

 原因がミーコにあるということは、つまり悪魔にかかわりがあるのだろうか。

 

「私はこーくんを救いたいの。だからこーくん、私の家に来て」

 

 静音が、畳みかけるようにして提案してきた。

 

「……? それは、まだ助かる方法があるってことなのかな?」

「うん。成功するかどうかは分からないけど」

 

 静音が言った、耕作を助ける方法とは、天使が計画し準備していた儀式のことだ。

 天使は去ってしまったが、儀式の手順は記憶として静音に残っている。

 従って実行にも問題はない。

 と、静音は告げた。

 

 そうか。

 天使が自分と会いたがっていたのは、それが理由だったのか。

 だとしたら、申し訳ないことをした。

 彼女の善意を信じられず、警戒して距離を取ってしまったのだ。

 この先また会う機会があれば、素直に謝りたい。

 しかし、そうだとすると……。

 

 沈思する耕作に、静音は尚も懇願する。

 

「二人きりなら詳しい話もできるよ、こーくん。だから……」

「分かった」

「本当に!?」

「うん」

 

 静音は、今度は喜びのために飛び上がった。

 両掌を合わせて顔をほころばせる。

 

 周囲の視線が再び二人へ向けられた。

 その多くには、

 

「さっきは修羅場かと思ったのに。上手いことやったようだな、あの男」

 

 という念が込められていた。

 

 赤の他人にまでプレイボーイという評価を抱かせてしまったとは、つゆ知らず。

 耕作は静音に、神妙な声をかけた。

 

「でもしーちゃん、条件が二つあるんだけど、いいかな?」

「なに?」

 

 静音は満面の笑みで聞き返す。

 耕作はテーブル上で両手を組み、表情をより真剣なものへと改めた。

 

「今日これからしーちゃんの家に行くのは、やっぱり難しい」

「うん……」

「それに俺も、色々と準備しておきたい。だから話をする時間と、それに場所も、俺が決めていいかな?」

「いいよ」

 

 静音はあっさりと了承した。

 

 耕作も、この条件は受け入れられるだろうと思っていた。

 問題は次である。

 深く息を吐き、唇を舐め。

 彼は二つ目の条件を口にした。

 

「もう一つ。その場にはミーコも同席させてほしい」

 

 その要求を聞くや否や。

 静音は再び怒気を爆発させた。

 

「どうして!?」

 

 テーブルに、今度は拳を叩きつける。

 先の騒ぎにも耐えたワイングラスが転がり、黄金色の染みがテーブル上にひろがった。

 アルコールを混在させた果実臭が、耕作の鼻を突いた。

 

 ウェイターが再び、慌てて駆けつけてくる。

 他の客たちはもう慣れてしまったのか、うんざりした目で耕作たちを一瞥すると、すぐ各々の会話へ戻っていった。

 

 ウェイターが控えめに、これ以上さわぎを起さないよう釘をさしてきた。

 耕作は恐縮する。

 だが静音の怒りは収まらなくなっていた。

 突き放した言葉でウェイターを下がらせ、耕作を問いただす。

 

「なんで……なんで、あの子を連れてくるの?」

「しーちゃん。ミーコの影響で、俺がなんらかの被害を受けたというのなら」

 

 努めて冷静に、穏やかに。

 そして優しい声で、耕作は静音を諭していく。

 

「それは俺一人の問題じゃない。ミーコの問題でもあるし、ミーコも被害者なんだ」

 

 ミーコはいつも、耕作のことだけを考えてくれている。

 愛してくれている。

 耕作に害を及ぼそうなどとは、一瞬たりとも考えていないはずだ。

 

 にもかかわらず、ミーコによって耕作が取り返しのつかない状況に陥っているのだとしたら。

 彼女は意志に反する事態を引き起こしていることになる。

 それは彼女にとって不幸なことだ。

 

 耕作は説明を終えた。

 再び静音に願い出る。

 

「ミーコが不幸なら、助けてあげたい。だからしーちゃん、ミーコにも話をして力を貸してあげてほしい」

「そんなに……」

 

 静音はうつむいていた。

 肩は震え、声も絞り出されるようなものに変わっている。

 しばらく沈黙を保った後。

 彼女は顔を上げ、すがりつくような声を出した。

 

「そんなに、あの子が大事なの?」

「うん」

 

 耕作は一拍の間も置かず、断言した。

 彼のミーコに対する感情は、恋心と親心が合わさり複雑なものになっている。

 だが彼女を想う気持ちは確固たるものだったのだ。

 静音の心が乱れ騒ぎ立っているのに対し、彼の心は今きわめて静かで、落ち着いていた。

 

 たがその平静は、静音の問いかけによって崩壊する。

 

「私よりも?」

「え?」

「私よりも、あの子が大事なの?」

 

 いや、ちょっと待て。

 なんでいきなり、そんな話になるんだ。

 耕作は、喉元に短刀を突き付けられたような気分になっていた。

 

 混乱し、恐怖する。

 彼にとって女性からこういった類の質問を受けるのは、当然ながら初めてのことであった。

 

 質問の意図は理解している。

 ミーコと静音、どちらを恋人にするのか今この場で選べ。

 と、二者択一を迫られているのだろう。

 天使が去り幼馴染に戻ったはずなのに、静音が耕作へ向ける好意は衰えていない。

 その点も耕作の困惑に拍車をかけていた。

 

 そんな彼を、静音は一挙手一投足をも逃さぬよう見つめている。

 有無を言わせないような迫力に気圧されつつ。

 それでも耕作は口を開いた。

 

「ミーコは家族、しーちゃんは幼馴染で友人だ。どっちが上とか下とか、そんなことはないよ。二人とも大事だ」

 

 耕作の、悩んだ末の返答である。

 しかしそれは嘘だった。

 彼は今、ミーコのことを第一に考えている。

 静音も大切な友人ではあるが、ミーコには及ばない。

 

 だが耕作は、それを口にする訳には行かなかった。

 ミーコを恋人と認めれば後戻りできなくなる。

 静音の協力も得られなくなるだろう。

 先に待つのは、ミーコが地獄に落ちるという残酷な結末だけだ。

 

 嘘をつかざるを得なかった己の不甲斐なさには、耕作も呆れていた。

 罪悪感も抱いている。

 

 ただ静音には、それなりに受け入れられたらしい。

 不満気に口を歪め頬を膨らませはしたものの、爆発するようなことはなかった。

 それから長い間、沈黙した後。

 小さな声で彼女は答えた。

 

「分かった。こーくん、あの子も連れてきていいよ」

「ありがとう」

 

 耕作はホッと、大きく息をついた。

 肩から力が抜けていく。

 背中に冷たい感触が広がったのは、いつの間にか大量の汗を流していたためだ。

 

 なんとか乗り越えた。

 後は当日までに準備を終えるだけだ。

 

 考える耕作の耳に、静音の声が届いた。

 

「でもこーくん、覚えておいて」

「え?」

「こーくんに迷惑をかけるような人は、私は絶対に許さないから」

「……ありがとう」

 

 迷惑をかける人とは、ミーコのことだろう。

 それは耕作にも分かっている。

 ミーコに敵対心を持たれるのは喜ばしいことではない。

 

 だがそれほどまでに自分を想ってくれるというのは、嬉しいことだ。

 その点については、耕作は素直に感謝していた。



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愛は貪欲 一

 耕作のアパートへと続く坂道は、街灯と月明かりに照らされているにもかかわらず、暗く静かだった。

 彼の足音だけが響き続けている。

 

 結局、遅くなってしまった。

 ミーコは心配しているだろうな。

 と、耕作は考えた。

 

 にもかかわらず、彼の足並みはアパートへ近づくにつれて速度を落としていった。

 今日の出来事をミーコにどう説明すれば良いのか、考えがまとまらなかったからだ。

 

 基本的には起きたこと言われたことを正直に伝えるつもりだった。

 だがミーコの影響で耕作に被害が及んでいる、などと話せば、彼女はショックを受けるだろう。

 信じられない、そんなはずはない、と怒り出すかもしれない。

 

 それに静音に対して、あまり敵対心を抱かせないようにもしたかった。

 静音が天使から幼馴染に戻ったのは和解のチャンスでもある。

 全面的に仲良くなるのは難しいだろうが、まっとうな話し合いができる程度には仲を修復しておきたかった。

 

 考え続けるうちに、耕作はアパートへ到着してしまう。

 結局、結論は出ていない。

 これ以上は考えたところで堂々巡りだろう。

 後は場の流れとミーコの機嫌を見て、どう話を進めるか判断するだけだ。

 

 耕作は決断した。

 大きく深呼吸し、ドアを開ける。

 

「ミー……」

「コーサク!」

 

 耕作の足音を聞いて待ち構えていたのだろう。

 ミーコが猛烈な速さで飛びついてきた。

 そのまま耕作の胸元に首筋や頬をこすりつける。

 あまりの勢いに、耕作は二歩ほど後退してしまっていた。

 

 ミーコはさらに、耕作を玄関へ押し倒そうとする。

 ところが、

 

「……ニャ?」

 

 と呟くと、急に動きを止めた。

 続いて耕作に抱き付いたまま、さかんに彼の胸元を嗅ぎまわる。

 それから彼の肩や腕、さらには下半身に至るまで全身を嗅ぎまわった。

 

「どうした?」

 

 いつもと異なる様子のミーコを見て、耕作は心配し声をかけた。

 ミーコは彼の胸元に顔を埋め戻し、低い声で問い返した。

 

「コーサク、なにがあったの?」

「え?」

「コーサクから、あいつの臭いがする」

 

 ミーコの宣告には、暗く重い響きがあった。

 

 耕作の背に霜柱が立つ。

 それは恐怖によって引き起こされた、というだけのものではなかった。

 ミーコの周囲で冷気が渦を巻き始めていたのだ。

 

 玄関先にある靴箱や、はては台所にある食器類も振動を始めている。

 ミーコは怒り、既に超能力を発動させていたのだ。

 

 耕作もすぐにそれに気づき、

 

「しまった!」

 

 と、今更ながら己のうかつさを呪った。

 

 ミーコの言う「あいつ」とは静音のことであろう。

 静音とは先刻まで会っていただけではなく、昼間には抱きつかれてもいた。

 そのため彼女の香りが耕作の身体に残っていたのだ。

 

 ただそれは、耕作に限らず、常人であれば気が付かないほどのものである。

 しかしミーコの鋭敏な嗅覚が逃すはずもない。

 相手が静音であればなおさらである。

 

 底知れない恐怖を感じ、ミーコの能力を甘く見ていた自分を呪いつつ。

 耕作はミーコの両肩に手を置いた。

 今もうつむき、肌に爪を立ててくる彼女をなだめながら、部屋の中へといざなう。

 

「話を始めるには最悪の状況かもしれないな、これは」

 

 と、彼は心の中で嘆息していた。

 

 

 

 

「あの鳥公!」

 

 ミーコは一連の話を聞き終えると、即座に怒声を上げた。

 

 自分が傍にいない間に愛する男に手を出された。

 そのうえ、自分によって彼が被害を受けているなどと吹き込まれもした。

 静音に対する怒りはミーコの沸点をはるかに凌駕していた。

 部屋の中では包丁やらドライバーやら、様々な凶器が宙を乱舞し始めている。

 

 耕作はミーコの有無を言わせぬ迫力に、圧倒されていた。

 だが、このまま放置しておくわけにもいかない。

 ミーコの怒気をおさえるため、わざと的外れな言葉をかける。

 

「ミーコ、今のしーちゃんは鳥……天使さんじゃないぞ」

「ニャ!?」

 

 思いもかけなかった指摘を受け、ミーコは面食らった。

 爆発していた怒気が方向性を失い、頭の中を駆け巡る。

 困惑する思考の中。

 それでも彼女は憎い相手を罵倒する、新たな言葉を見つけ出した。

 

「うー……じゃあ、あのホルスタイン! 乳でか女!」

 

 ……。

 あまりにも子供じみている。

 というよりも、ミーコはひょっとして胸の大きさがコンプレックスなんだろうか。

 と、耕作は考えた。

 

 呆れると同時に、彼の恐怖心は薄れていく。

 冷静な目を少女の胸元へ向けた。

 

 ピンクストライプのパジャマに覆われている少女のふくらみは、歳相応には発達している。

 少なくとも耕作はそう思っている。

 まあ静音に比べると惨敗とまではいかなくても、大敗ぐらいはしているだろうが。

 と、呑気かつよこしまな考えをも彼は抱いた。

 

「う~」

 

 ミーコが鋭く睨み付けてきた。

 耕作は慌てて胸から視線を外し、彼女の頭を撫でる。

 

 ただミーコにしてみれば、この場合なぐさめられても嬉しくも何ともなかった。

 

「五年後には追いつくから!」

 

 負け惜しみとしか取れない言葉を発し、ミーコは耕作に抱きついた。

 同時に、周囲に舞っていた凶器が乾いた音を立てて床に落ちた。

 

 耕作は、可能性を感じさせるような気がしないでもない少女の胸の感触を、身体で受け止めつつ、

 

「とりあえず、先のことを話し合える程度には落ち着いてくれたようだ」

 

 と、安堵していた。

 

 

 

 

「それでいつ、あの乳でかと会うつもりなの?」

「うーん」

 

 二人はベッドの上に並んで座りながら相談している。

 耕作は髪の毛をかき回し、考えるそぶりを見せた。

 だがそれも、長い時間ではなかった。

 

「次の日曜日にするつもりだよ」

「どこで会うの? やっぱりあいつの家?」

「いや。どこかのレストランに個室を予約して、そこで会うつもりだ」

 

 いきなり静音の家に行くのは早計にすぎる気がする。

 まずは耕作の魂が汚れているといった辺りの詳しい事情を聞いておくべきだ。

 その上で、なにが最善の方法なのかを皆で話し合う。

 それが耕作の考えだった。

 

 それに静音とかかわりの浅い場所であれば、以前のように薬を混入されるといった、罠を仕掛けられる可能性も少なくなる。

 今の静音は天使ではなくなったが、万が一は考えておくべきだ。

 この考えは彼女には失礼にあたるものなので、心が痛む。

 だがミーコも同席する以上、万全を期さなくてはならないだろう。

 

 耕作は説明を終えた。

 ミーコは横から彼を見上げつつ、問いかける。

 

「でもそうなると……」

「ん?」

「私も外出するんだよね」

「うん」

「大丈夫なの?」

 

 ミーコは心配気な顔をしていた。

 ただそれは、初めて外の世界に出る不安の表れ、というものではない。

 人の目について騒動になり、耕作に迷惑がかかるのではないか、という点を彼女は心配していたのだ。

 

 耕作はミーコの頭にある二つの突起物、猫耳に目を向けて考える。

 たしかに彼女が世間に見つかってしまえば、それこそ世界中がひっくり返るような大騒ぎになる。

 耕作にとっても悩みの種であった。

 

 帽子をかぶらせ、猫耳と三色の髪の毛を隠し、サングラスとマスクを着用させる。

 そこまでやれば猫の面影も、桁違いの美貌も隠せるだろう。

 もっとも、見るからに怪しげな人物として逆に注目を集めてしまうかもしれないが。

 

「まあできるだけ近場に店を見つけて、出歩く距離も少なくすれば、大丈夫じゃないかな」

 

 耕作は自分の不安も振り払うため、明るく声をかけた。

 ミーコも弾んだ声で彼に話を合わせる。

 

「うん。それに夜なら、暗くて目立たないかもしれないし……」

「いや、ミーコ。出かけるのは昼間にするつもりだよ」

「ニャ!?」

 

 ミーコは目を丸くした。



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愛は貪欲 二

 ミーコは静音と会うのは、夜中になると思っていた。

 昼間となれば騒ぎになる可能性は大きくなる。

 心に抱いた疑問を彼女はそのまま口にした。

 

 耕作は穏やかに答える。

 

「その通りだよ。昼間の方が人は多い」

「じゃあ、なんで?」

「そうすればミーコもしーちゃんも、喧嘩はしにくくなるだろ?」

 

 耕作の指摘は落ち着いたものだった。

 

 いくら個室での話し合いとは言え、店の中には他にも数多くの人がいる。

 店の外ともなれば、より多くの通行人がいるはずだ。

 そんな状況で以前と同じようにミーコや静音が戦おうものなら、どれほどの騒ぎになるだろうか。

 想像するだに恐ろしい。

 

 だが、だからこそ、二人には自制を促せる。

 と、耕作は思ったのだ。

 さらに言えば、これは天使の力を失った静音よりもミーコに対する処置になる。

 

 前回ふたりが戦ったのは深夜であり、静音が結界を張った部屋の中だった。

 だから騒ぎにならずに済んだのだ。

 しかし次は、そうはいかない。

 と、耕作はミーコに釘を刺した。

 

「うー……」

 

 ミーコは両手の人差し指を突き合わせて耳も垂らし、不満げな様子を見せた。

 それでも耕作が、

 

「こら」

 

 と言って彼女の頭を強めに撫でると、不承不承ながら頷いている。

 

 それから何を思ったのだろうか。

 ミーコは耕作に抱き付くと、胸に顔をうずめ、そのままじっとしていた。

 

「ミーコ?」

 

 不安げな様子の彼女に、耕作は声をかける。

 ミーコは返事をしない。

 抱き付いたまま沈黙を続けている。

 部屋の中にミーコと耕作の、息遣いの音だけが広がっていった。

 

 長い時間が過ぎた後。

 ミーコはようやく口を開いた。

 

「コーサク」

「なんだい、ミーコ」

「コーサクは、あいつの言うことを信じてるの?」

 

 ああ。

 やっぱりそれを気にしているのか。

 と、耕作は思った。

 

 ミーコは静音の発言に対し、自分を貶めるための嘘なのではないか、という疑いを抱いているのだろう。

 そして耕作には、自分を信じてほしい、と思っているはずだ。

 

 耕作はミーコの気持ちを思いやった。

 そのため、すぐには返答できなくなっている。

 ミーコは彼を見上げ、哀願するような声で再び問いかけた。

 

「私のせいでコーサクが取り返しのつかないことになってるって、信じてる?」

「んー……」

 

 耕作は自分の、やや癖のある頭髪をかき回した。

 天井を見つめ、しばし考えに沈む。

 それからミーコの真剣な、しかし不安と悲しみが隠し切れなくなっている目を見つめ返し、ゆっくりと答えた。

 

「うん、まあ……信じてるよ。しーちゃんは嘘を言っているようには見えなかった」

「そう……」

 

 ミーコの顔から血の気が引いていった。

 瞳には涙が浮かぶ。

 耕作を掴む手からも力が抜けていった。

 

 今にも泣き崩れそうになっている彼女を見て、耕作はそれでも穏やかに語りかけた。

 

「ミーコ、信じているからこそ、しーちゃんに会うんだ」

「うん……」

「それに問題を解決しないとミーコと一緒にいれなくなるだろ?」

 

 耕作の言葉は力強いものだった。

 ミーコに向ける顔にも、いつもと変わらぬ微笑が浮かんでいる。

 彼女も思わず息を飲み、最愛の男を見つめ直した。

 

 耕作はミーコを安心させるため、普段であれば気恥ずかしくてとても口にできないような言葉を、思い切って告げた。

 

「いや、ちょっと違うな。俺はずっと、ミーコの傍にいるよ。問題が解決しなくても、取り返しがつかないままでも構わない」

「コーサク!」

「でもお互い、より安心して暮らせるようにするために、しーちゃんに会うんだ。分かってくれるかな」

「うん!」

 

 ミーコは喜び、再び耕作の胸に顔をうずめた。

 全身を彼の身体にこすりつけていく。

 

 ミーコはこの時まで巨大な不安に襲われていた。

 静音との話し合いの結果、耕作が自分から離れてしまうのではないかという思いに、とらわれていたのだ。

 耕作がいない暮らしなどミーコにしてみればなんの意味もない。

 いや、恐怖そのものと言ってもいい。

 

 その不安を耕作は打ち消してくれた。

 彼はいつまでも自分の傍にいてくれる。

 約束してくれたのだ。

 

 ミーコは歓喜のあまり、耕作の目と鼻の先まで顔を接近させた。

 潤んだ瞳で彼を見つめ、桜色の唇を開く。

 

「コーサク」

「なんだい、ミーコ」

「好き」

「へ?」

 

 唐突に愛情を告げられて。

 耕作は動揺し、すっとんきょうな声を上げてしまっていた。

 

 一方ミーコは彼を、今も真剣に見つめている。

 色違いの両目は澄み切っており、そして耕作を飲み込むかのように深い。

 耕作もその美しさに息を飲んでいた。

 

 言葉を失った耕作に向け、ミーコは告白を繰り返す。

 

「好き、大好き」

「急にどうしたんだ、ミーコ」

「愛してる」

「……ありがとう」

 

 耕作の謝辞を聞いたミーコは、目を閉じ唇を差し出した。

 明らかにキスを望んでいる。

 それは耕作にも分かっていた。

 

 しかし耕作はミーコの頬を抑え、彼女の額にキスをする。

 それでも頭には急激に血が上っていった。

 頬も熱くなる。

 赤面した顔を見られる恥ずかしさから耕作はミーコの頭を抱え、胸に抱いた。

 

「コーサク、どきどきしてる」

 

 耕作の激しく高鳴る鼓動を聞き、ミーコが呟いた。

 耕作は羞恥心とミーコの可愛らしさから、動揺し、もはやなんと言えばよいのか分からなくなっていた。

 黙ったままミーコを力強く抱きしめる。

 

 愛する男に抱かれて。

 しかしミーコは、ごくわずかながら寂しさを覚えていた。

 

 彼女の告白に対し、耕作は「ありがとう」と答えた。

 感謝してくれたのだ。

 だがしかし「俺も好きだよ」とか、「愛している」とは言ってくれなかった。

 

 昔、ミーコがまだ猫だった頃。

 耕作は冗談まじりに彼女に向けて「好きだ」と言うことがあった。

 いやそれどころか、酔っぱらった時など「愛してるぞ」とも言ってくれたのだ。

 

 だがミーコが人間になってからは、それらの言葉は失われてしまった。

 理由は彼女にも分かっている。

 耕作は、それらの言葉を一度でも口にすれば気持ちを抑えられなくなると思っているのだろう。

 まだミーコと結ばれる訳にはいかない。

 そう思い、心をせき止めているのだ。

 

 先ほどの「ずっとミーコの傍にいる」という約束にしても、残念ながら告白ではない。

 飼い猫と飼い主の関係に戻った上で、ミーコと共に暮らすという意味も込められているのだ。

 

 ……でも、ひょっとしたら。

 と、ミーコは考える。

 自分の考えは、気にしすぎているというだけのことなのかもしれない。

 今でもせがめば、彼は言ってくれるかもしれない。

 

「コーサク、『好き』って言って」

 

 と、お願いすれば。

 彼は少年のように顔を赤らめつつ、答えてくれるかもしれない。

 

 ただそれでは、自分の寂しさは埋められない。

 やはり最初は、彼みずから、彼の意志で言ってほしいのだ。

 好きだと。

 愛している、と。

 

 ミーコは考えると同時に、とても悲しい気持ちになっていた。

 耕作の暖かい身体に頬をこすり付ける。

 そして彼を取りこもうとするかのように、服の上から軽く歯を立てていた。



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油断大敵

 耕作は翌日から、さっそく会食の準備を始めた。

 と言っても、それほど大がかりなものではない。

 

 まずは近場にあり個室も備えたレストランをインターネットで探し出す。

 実際に訪問して中を確かめ、問題ないと判断すると、すぐ日曜日の予約を入れた。

 ミーコを変装させるためのサングラスなどの小道具も通販で取り寄せた。

 

 木曜日には準備もほぼ終わったので、静音に会食の時間と場所を連絡する。

 彼女もあっさりと了承してくれた。

 後は当日、日曜日を待つだけである。

 こうして耕作は、いたって平穏に今週を乗り切ろうとしていた……。

 

 ……という訳でもなかった。

 なぜかというと、彼はこの間、静音から積極的なアプローチを受けるようになっていたのだ。

 

 前回の耕作との会食でタガが外れてしまったのだろうか。

 静音はまるで天使が再臨したかのように、毎日ひっきりなしにメッセージを送ってくるようになった。

 内容は挨拶から世間話、さらには露骨な求愛の言葉まで様々である。

 

 耕作はそれらのメッセージを見るたび、天使の時と同様、喜ぶどころか溜め息をついてしまっていた。

 従って返信も極力ひかえ、やり過ごそうとしている。

 

 だが静音は、当然というべきか、そんな消極的な対応では満足できなかったらしい。

 さらに大胆な行動を取るようになっていった。

 

 

 

 

 木曜日。

 チャイムの穏やかな音色が耕作のオフィスを通り過ぎた。

 昼休みが始まったのだ。 

 

 耕作は腕を広げて身体をほぐしてから、食堂へ行くため立ち上がろうとした。

 すると、その時。

 

「こーくん!」

 

 溌溂とした声が彼の耳に飛び込んだ。

 耕作は愕然としつつ、恐る恐る声の方へ顔を向ける。

 静音の、花の咲くような笑顔がすぐ目に入った。

 彼女はリスや子熊が描かれた可愛らしいカバンを一つ、手にしている。

 

 静音は耕作に駆け寄ると、弾んだ声を出した。

 

「こーくんのために一晩かけて作ってきたの」

 

 手にしたカバンを前に差し出す。

 中にはおそらく彼女お手製の弁当が入っているのだろう。

 

 周囲から耕作に向かって、嫉妬で矢と化した視線が次々と飛んで来た。

 苦笑や舌打ち、さらには揶揄と羨望にまみれた声も上がり始める。

 耕作は、あっという間に居たたまれなくなっていた。

 

 静音の腕を掴み、逃げるようにしてオフィスから出ていく。

 二人だけで話せる場所を探し出すと、周囲の目があるのでこういうことはやめてほしい、と申し出た。

 

 しかし静音は納得しなかった。

 頬を膨らませて反論する。

 彼女の言い分はつまるところ、

 

「あの子はこーくんと暮らして毎日一緒にご飯を食べてるのに。ずるい」

 

 というものであった。

 

 静音がミーコへ向ける嫉妬心は勢いと激しさを増し続けている。

 周りの目も問題にならなくなっているのだろう。

 耕作はそう思い、頭を抱えたくなった。

 

 それでも耕作は、社内では目だった行動はとらないでほしい、と説得を続けた。

 彼の真摯な言葉と真剣な眼差しには静音も逆らえない。

 長い説得の末ではあるが、最後には彼女も頷いていた。

 それでもまだ、納得できかねる、と言う顔をしてはいたが。

 

 彼女はまた、交換条件として今日だけは一緒にお弁当を食べてほしい、と要求してきた。

 これについては耕作も、ためらいながらではあったが了承している。

 

 食事の間中、静音は実に幸せそうな表情で耕作を見つめ続けていた。

 ちなみに味の方はと言うと、耕作が今まで口にしたものの中で五本、いや三本の指に入るほど美味しかった。

 

 

 ――――――

 

 

 静音がちょっかいを出してきたとなればミーコが黙っているはずもない。

 それに静音と会食した月曜日以降、耕作は帰宅するたび、ミーコから静音の行動について質問されるようになっていたのだ。

 

 軽く受け流そうとしてもミーコは執拗に問い詰めてきた。

 さらに言えば耕作も嘘をつくのは苦手である。

 という訳で木曜日の夜、彼は静音が弁当を持って押しかけて来たことを、洗いざらい白状させられてしまっていた。

 

「あの乳バカ女!」

 

 話を聞き終えたミーコは、もはや意味をなしていない言葉で静音を罵った。

 その上、

 

「じゃあ明日は私がコーサクのお弁当を作る!」

 

 とまで言い出した。

 

 耕作はまず絶句し、続いてミーコをなだめにかかった。

 彼女が手作りしたお弁当など、会社の同僚に見つかろうものなら、またどんな噂を立てられるか分からない。

 

「頼むからそれだけはやめてくれ」

 

 と必死になって、何十分にもわたって説得を続ける。

 その結果、なぜか二人の間では「明日、耕作の朝食をミーコが作る」という妥協案が採択されてしまっていた。

 

 

 

 

 翌日、金曜日の早朝。

 耕作は炊き立てのご飯の、食欲をそそる香りによって目を覚ました。

 

「コーサク、起きた?」

 

 気配を察したミーコが声をかけてきた。

 耕作はまぶたをこすりつつ返事をする。

 ミーコは飛びつくようにして彼に抱きついた後、すぐにキッチンへと引き返していった。

 数分後、両手で盆を抱えて戻ってくる。

 

 盆の上には、お椀と大皿がそれぞれ一つずつのっていた。

 お椀には白米が、大皿にはマグロの刺身が、それぞれ山のように盛られている。

 その様子を見て、耕作は思わず息を飲みこんだ。

 

 白米はともかく刺身の量は、はっきり言って尋常ではなかった。

 おそらく五人分はあるだろう。

 以前からミーコのため冷凍マグロを買いだめするようにしていたのだが。

 見る限り、どうやらそれを全て使い切ってしまったようである。

 

 マグロの刺身は彼女にとって最高のご馳走である。

 おまけに解凍して切り分けるだけとなれば、それほど手間もかからない。

 ご飯を炊くのも簡単である。

 つまりミーコにとっては、これがあらゆる意味で最高の献立なのだろう。

 しかしこの量は……。

 

 朝から大量の生魚を目にして、耕作は喉に込み上げるものを感じてすらいた。

 だが、

 

「コーサク、早く食べて食べて」

 

 とミーコに、しかも笑顔で急かされては、断わるすべはない。

 耕作は引きつった笑いを浮かべると、無理やりに口を開け、赤い肉片を次から次へと放り込んでいった。

 

 

 ――――――

 

 

 その日の夜。

 仕事を終えた耕作に良太が声をかけてきた。

 

「河原崎さんだけじゃなく、たまには俺とも付き合えよ」

 

 彼は銀縁メガネに手をかけ、不気味としか表現しようのない笑みを浮かべていた。

 初対面の相手であれば間違いなく不快感を抱くであろう友人の顔を見ながら、耕作は考える。

 

 静音との会食は二日後に迫っている。

 当日まではそちらに専念したいところだ。

 しかし……。

 

 耕作の迷いには理由がある。

 実はこの日、彼は既に一度、友人の誘いを断っていたのだ。

 

 昼休み。

 いつものように良太から食堂へ誘われた際、耕作の腹の中にはまだ大量の刺身が残っていた。

 おかげでとても昼食をとる気にはなれず、良太には一人で食堂に行ってもらったのだ。

 あまりに誘いを断り続けるのは気が引ける。

 耕作は腕を組み、さらに考えた。

 

 ずいぶん長い間、女性に振り回される日が続いていた。

 相手が美人ばかりとは言え、気疲れもしてくる。

 たまには男だけで気楽に飲みに行くのも良いかもしれない。

 それに帰りが遅くなっても同伴者が男であれば、ミーコの怒りも爆発したりはしないだろう。

 

 耕作は誘いを受けることにした。

 それでも念のため釘を指しておく。

 

「あまり遅くまでは付き合えないぞ」

 

 耕作の返事を聞き、良太はなぜかホッとしたように息を吐いていた。

 

 二人は連れ立って会社を出る。

 玄関前に停まっていた一台のタクシーが二人の前にゆっくりと進み出てきた。

 良太が自慢げに、自分が手配した車だと説明する。

 耕作は感心しつつタクシーに乗り込んだ。

 すると運転手は、まだ行き先も聞かないうちに車を走らせ始めた。

 

 驚き、運転手に声をかけようとした耕作を、良太が遮る。

 

「行き先はあらかじめ伝えておいたんだ。今日は全て、俺に任せておけ」

 

 良太は自信満々と言った感じで胸と腹を張った。

 

「ずいぶん段取りが良くなったな」

 

 耕作は友人を褒めつつも、同時に漠然とした不安を胸に抱き始めていた。

 良太が自分のために、ここまで準備を整えてくれたというのは、単純に喜ぶべきことである。

 だが現在、良太の挙動からは普段あまり見慣れない、落ち着きのなさのようなものが感じられるのだ。

 

 耕作の心配は時間がたつにつれて大きくなっていった。

 オフィス街を走っていたタクシーが、いつの間にか繁華街をも抜け、住宅地へ入っていった。

 しかもそこには小奇麗で大きい、一見して裕福な家庭のものであろうと思われる住宅ばかりが並んでいた。

 

「おい良太、いったいどこに向かってるんだ」

 

 不安のあまり、耕作は良太を問い詰める。

 良太は抑揚を押しつぶしたような、無理に平静を装った声で答えた。

 

「本当に美味い店は、こういう所に隠れているもんだ」

 

 あり得そうな話ではある。

 だが良太は顔中に大量の汗を流し、目も耕作から逸らしていた。

 明らかに様子がおかしい。

 耕作は正体不明の危機感に突き動かされ、運転手に車を止めるよう声をかけた。

 

 だがその要求は受け入れられなかった。

 運転手は耕作の制止をことごとく無視したばかりか、むしろ速度を上げて車を進めていった。

 車はやがて大きな門扉を通過する。

 何処かの住居の敷地内に入り込んだのだ。

 

 その住居には、この高級住宅街の中でも飛び抜けて広い敷地面積があるようだった。

 大きく開いた門を通過すると、手入れが施された樹々が森のように広がっている。

 中央にはこれまた幅の広い一本道が走っていた。

 タクシーはその道を進み続け、大きな白い住宅の前で停車した。

 

 住宅の前には数名の人影が居て、タクシーを出迎えるように並んでいた。

 彼らの中心にいる人物を見て、耕作は絶句する。

 

 静音がいたのだ。

 彼女はいつもの黒いパンツスーツではなく、華やかなピンクのワンピースをまとっていた。

 いつもの凛とした雰囲気に可愛らしさも合わさり、美しさはいっそう際立っていた。

 

 呆然として言葉もない耕作に、良太が声をかけた。

 

「最近、おまえが冷たい。なんとか話し合う機会を作りたいから、協力してほしい。と、河原崎さんに相談されたんだ」

 

 ……そういうことか。

 自分を誘い込むために良太を利用したのか。

 となるとここは彼女の家なのだろう。

 と、耕作は理解した。

 

 静音にしてみれば、良太を自分の計画に協力させるのは、それほど難しいことではなかっただろう。

 彼は元々、耕作と静音が付き合っていると思っていた。

 耕作が否定しても半信半疑であったのだ。

 

 おまけに昨日、静音は弁当を持って耕作のオフィスまで押しかけてきている。

 もはや疑う余地はない、と思っても仕方がない。

 

 となると静音は、耕作への求愛と同時に良太を味方とするため、わざわざ目立つように行動したのかもしれない。

 その考えに至り、耕作は眉間に皺を寄せた。

 

 良太が深い溜め息と共に言葉をかけてくる。

 

「河原崎さんにどんな不満があるのか知らないが、あんな良い人はおまえにはもったいないぐらいだ。自分の身も振り返って、よく考えて、話し合ってみろ」

 

 耕作は温厚ではあるが、聖人君子ではない。

 自分を信じず厄介な事態を招いてくれた友人に対し、殴る、あるいは怒鳴りつけたいという気持ちはあった。

 

 だが良太は耕作の将来を考え、友情のために骨を折ってくれたのだろう。

 まあ多少は自分が出世することも考えているかもしれないが。

 

 耕作にとってはありがた迷惑な話である。

 それでも彼は、友人を責める気にはならなかった。

 

 結局は自分の態度が曖昧だった、覚悟が足りなかったということなのだろう。

 良太に八つ当たりしたところで何の解決にもならない。

 自分が蒔いた種だ、責任は自分で取る。

 

 耕作は今回も理性で感情を抑え込んでいた。

 

「……ありがとよ」

 

 良太に礼を述べると車を降り、静音と向かい合った。



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彼女達の事情 一

 静音が、待ちきれない、とばかりに駆けよってくる。

 耕作の前で立ち止まると、夜空に響き渡るほどの元気な声で挨拶をした。

 

「いらっしゃいませ、こーくん!」

 

 彼女の所作には全く悪びれたところがない。

 耕作も毒気を抜かれてしまっていた。

 それでも彼は咳ばらいをした後、厳しい表情で口を開いた。

 

「しーちゃん、約束したのは日曜じゃなかったかな」

 

 わざと不機嫌な声を出し、静音を問い詰める。

 ところが彼女は、耕作の不快気な様子も全く気にしなかった。

 ほがらかな態度を崩さず、平然と答える。

 

「もちろん分かっているわ」

「へ?」

 

 予想外の返答に、耕作は間の抜けた声を出してしまった。

 静音は畳みかけるようにして、考えを述べ始める。

 

「日曜には約束通りこーくんと、それにあの子とも会うつもり。でもその前に、こーくんと二人きりで話をしたかったの」

 

 あまりと言えばあんまりな発言に、耕作は唖然とした。

 

 静音の言い分は、どう考えてもおかしい。

 だが反論したところで彼女は受け入れないだろう。

 それに今ここで口論しても、何の意味もない。

 無駄に時間を消費するよりは話を先に進めるべきだ。

 

 耕作はそう考えた。

 ため息を漏らしつつ、二人きりで話したい理由を問いかける。

 静音は有無を言わせぬ口調で答えた。

 

「あの子が傍に居たら、こーくんは気を使っちゃう。そんな状況で冷静に考えられるはずもないでしょ?」

 

 残念だが一理あるかもしれない。

 と、耕作は思った。

 本人も自覚しているが、彼はミーコに対しとことん甘い。

 ミーコが隣に居る状況では、彼女にとって厳しい決断を下せるはずもないのだ。

 

 しかし静音の要求を受け入れれば、彼女の話だけを一方的に聞かされることになる。

 ミーコは同席していない以上、反論できないのだ。

 それは公平ではないし真っ当とも思えない。

 

 だが今の状況では、静音の要求を断り切れるはずもない。

 ではどうすればよいか。

 耕作は考え、すぐに結論を導き出した。

 

 静音の要求は受け入れる。

 これから彼女と二人きりで話し合う。

 だがその際、自分はミーコの代理人という意識も持って意見、判断する必要がある。

 なによりもまずミーコの身を第一に考えるのだ。

 それを心に刻んでおけば、静音に何を告げられたとしてもバランスは保てるはずだ。

 

 耕作は決心し、口を開いた。

 

「分かった。そこまで言うなら、しーちゃんの話を聞くよ」

「本当に!?」

「ああ」

 

 静音は飛び上がって喜んだ。

 さらには勢いのまま耕作に抱きついてくる。

 

「しーちゃん、ちょっと! ほら、人が見てる!」

 

 耕作は眼前に居並ぶ、静音の使用人たちと思しき集団を身体で指し示した。

 彼らは全員、顔をうつむけたり他所を向いたりして、反応に困ったような顔を見せていた。

 

 静音もその様子に気が付いた。

 名残り惜しそうにしながらも、耕作から離れる。

 しかしやっぱり我慢できなかったのか、両手で耕作の右腕をからめとった。

 引っ張るようにして彼を家の中へ連れて行く。

 

 使用人たちが二人に道を開け、一斉に礼をした。

 耕作は彼らのうち一人の大柄な人物に目を向ける。

 

「あの人は、たしか加藤さんと言ったかな」

 

 かつて耕作を助けた女丈夫の姿が、そこにあった。

 

 

 

 

 耕作は応接間に案内された。

 とんでもなく広いその部屋には、高級そうな家具や調度品が数多く置かれていた。

 とは言っても成金趣味にありがちな目もくらむような派手さはない。

 耕作のような一般人にも落ち着きと居心地の良さを与えてくれる、上品なものばかりであった。

 

 彼は今、テーブルを挟んで静音と対している。

 コーヒーを運んできた女中が退室すると、部屋の中には二人だけが残された。

 

 静音が優雅な所作でコーヒーを口にする。

 出来栄えに満足したのか、耕作にも勧めてきた。

 耕作は誘いを断る。

 さらには雑談にも付き合おうとせず、目的の話を切り出した。

 

「しーちゃん、この前の話だと、俺の魂が汚れて取り返しのつかないことになっている、しかもその原因はミーコにある、ということだけど」

 

 誘いを断られ、静音はわずかに頬を膨らましていた。

 それでも耕作が話し終えると表情を改め、真剣な顔つきになる。

 

「うん。……こーくん、これから話すことはまぎれもない事実なの。だから落ち着いて聞いて」

「分かった」

 

 耕作は頷いた。

 静音は一拍の間を置いた後、話し始める。

 

 およそ二週間前。

 静音の身体を支配していた天使――ジーリアはミーコと戦い、傷を負わされ、この家に引き上げた。

 しばらくすると彼女の前にサラサと名乗るもう一人の天使が現れた。

 そしてジーリアに次のような報告を行った。

 

 ミーコは悪魔の力で妖魔と化している。

 そのため契約が終わろうが終わるまいが、いずれは地獄に落ちる。

 

 耕作もまた妖魔の影響を受けてしまっている。

 彼の魂はすでに汚れており、天国では受け入れられない。

 彼もいずれは地獄に落ちるのだ。

 そして耕作とミーコが地獄で再会する可能性は、皆無に近い。

 

 静音が語った内容は以上である。

 ……千里眼や順風耳の能力を持つ者であればすぐに分かっただろうが、この話には嘘が含まれていた。

 

 まず耕作の魂が汚れた理由についてである。

 これは正確には、彼がミーコに惹かれたがためなのだ。

 しかし静音はそれを伏せ、ミーコに全責任があるかのように話していた。

 

 続いて将来、耕作とミーコが地獄に落ちた時の状況についてである。

 二人が再会できなくなるのは契約が完了していた時だ。

 極端な話、契約が終わる前に二人で心中でもすれば状況は変わってくる。

 

 その場合、魂は同時に同じ場所から地獄に落ちる。

 従って地獄で再会する可能性も、低くはあるが皆無という訳ではない。

 そのうえで二人ともに同じ悪魔の手に落ちれば、一緒に居られる時間も長くなるだろう。

 

 静音が意図的に嘘をついたのは以上の二点である。

 彼女からするとこれらの点について真実を話すのは、不都合、あるいは不愉快きわまりないものであったのだろう。

 

 だが耕作には今の段階で静音の嘘を見抜くのは不可能だった。

 さらに言えば真実の部分だけでも衝撃的な内容である。

 彼は顔面を蒼白に染めていた。

 頭を抱え、髪の毛をかきむしり、苦悶を全身で露わにする。

 

 ただ耕作は、自分が地獄に落ちるということについては、それほど苦悩していない。

 それよりもミーコが地獄に落ちるのを避けようがないという点について、激しく悩み、苦しんでいた。

 彼女が確実に不幸になるというのは、耕作にとって耐えられないほどの苦痛であったのだ。

 

 これまでの努力が無になり、将来についても全く希望が持てなくなったのだ。

 耕作は底なしの闇へ突き落されたような心境になっていた。

 静音の話それ自体が、彼にとっては地獄のようなものであった。

 

 耕作の絶望感は時と共に、さらに深さを増していく。

 視界が急速に狭まり、暗転した。

 頭痛や吐き気が立て続けに襲ってくる。

 床がうねるような感覚に捉われ、身体を支えられなくなり、テーブルに手をついた。

 

 今にも倒れそうになっている耕作に、静音は優しく声をかけた。

 

「でもこーくん、安心して。まだ希望はあるんだから」

 

 漆黒に染まっていた耕作の視界に、小さな光が灯った。

 彼も思い出したのだ。

 静音が以前から、成功するかは分からないが助かる方法はある、と言っていたことを。

 

「あの人……ジーリアさんが見つけた方法なら、きっとこーくんを助けられるはず」

 

 その言葉を聞き、耕作は考える。

 

 自分のことはどうでもいい。

 その方法は、まずミーコに用いなければならない。

 あの子を救わなくては……。

 

 苦しみながらも耕作は顔を上げた。

 静音が顔を、文字通り目と鼻の先まで寄せてくる。

 彼女は熱を帯びた口調で語りかけてきた。

 

「こーくん、私は貴方に救われた。だから今度は私が貴方を助けてみせる」

「……? しーちゃん、それはどういうことかな?」

 

 耕作の脳裏に困惑の芽が生えた。

 確かに彼は静音を事故から守り、命を救った。

 だがあれは天使の力によるものだ。

 彼女がそれを知らないはずがない。

 

「こーくん、貴方は私をこの世界に戻してくれた。そして、本来の私も取り戻させてくれたの」

 

 静音は熱い吐息と共に言葉を紡ぎ出した。

 しかし耕作の困惑は、ますます大きくなっている。

 

 言葉を失っている耕作を見て、静音はソファーに深く座り直した。

 傍らに置いてあった呼び鈴を押し、小気味良い金属音を鳴らす。

 この呼び鈴は機械仕掛けになっており、使用人へ呼び出しの信号を送るようになっていた。

 

 しばらくの後。

 ドアが開き、黒いスーツを着た巨人、加藤が現れる。

 

「お呼びでございますか、お嬢様」

 

 静音は座ったまま顔だけを加藤に向けた。

 そして普段の優しげなものとは異なる、どこか酷薄にすら感じられる笑みを浮かべた。

 

「こーくんに私の話をする前に、お母さんにも一度、ちゃんと挨拶をしていただこうと思って」

 

 その言葉を聞き、耕作は立ち上がらんばかりに驚いた。

 この家には今、静音の家族はいないと思っていたのだが。

 まさか母親がいたとは。

 

 だがその考えは誤りであったことがすぐに分かる。

 加藤が怪訝と恐縮を相半ばさせた表情で、静音に申し出たのだ。

 

「恐れながらお嬢様、奥様はまだ出張から戻られておりません」

「分かっているわ」

 

 静音は即答した。

 さらに微笑みを消し、場を凍てつかせる言葉を加藤に向け、放つ。

 

「お義母様が居ないのは、もちろん承知しているわ。私が言ったのはお母さん、貴女のことよ」



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彼女達の事情 二

 なに?

 今、しーちゃんはなんと言った?

 

 静音の発言の意味を、耕作はすぐには理解できなかった。

 目の前にいる、たくましい身体をした女丈夫――加藤が自分の母親だと、静音は告げたのだ。

 耕作は言葉を失い口を開けたまま、ただ情景を眺め続ける。

 

 加藤も衝撃を受けたらしい。

 呆然とした様子で立ち尽くし、彫りの深い顔に濃い影を落としていた。

 額には汗がにじみ、唇はわずかに震えている。

 

 他方、静音は完全に表情を消していた。

 能面のような顔で加藤を見つめている。

 

 誰もが言葉を失い、無音の時間は永遠に続くかとも思われた。

 だが、しかし。

 やがて加藤が震える唇を開き、絞り出すようにして声を発した。

 

「お嬢様……」

 

 静音はわずかに目を細めただけで、返事はしなかった。

 顔を耕作に向け、寂しげな声音で、しかし明確に告げる。

 

「こーくん、いま言った通り私の本当の母親はこの人、加藤さんなの」

「それは一体どういう……」

 

 耕作はまだ思考も言葉も追い付かない。

 その間に静音は説明を続けていく。

 

「おかしいよね? 母親なのに私の従者になっているなんて。……こんな狂った母娘関係になったきっかけは、お父様の女癖の悪さにあったんだけど」

 

 静音の声は次第に怒りの色を増していった。

 

 静音の父親は若い頃、大変な美男子だった。

 加えて大企業の御曹司ということもあり、女性には絶大な人気があった。

 

 さらに言えば当人も女性への関心は人並み外れて大きかった。

 己の衝動のおもむくまま様々な女性と関係を持ち、浮名を流し続けていたのだ。

 相手は職場の同僚から芸能人、果ては一介の学生に至るまで、様々だった。

 

 ただそれだけ女遊びを繰り返したにもかかわらず、なぜか子供はできなかった。

 この点については本人も疑問と不安を抱き、医者に自分の身体を調べてもらっている。

 

 その結果。

 父親は、先天的に子供を作りにくい体質をしていたことが判明する。

 これは河原崎家の当代としては重大な欠陥と言えた。

 後継者を残すという責務を果たしにくくなるからだ。

 父親もこの事実を初めて知らされた時には、少なからず落ち込んでいる。

 

 もっとも彼は、そのまま若い身で引退してしまうような弱い人間ではなかった。

 女性と数多くの修羅場を経験したため、逆境で開き直る図太さも持ち合わせていた。

 そこで彼は「子供を作る機会をより多く設けるため」と言う理由で自己弁護をして、女漁りに拍車をかけていくようになっていった。

 

「結婚してからもそれは変わらなかったらしいわ」

 

 静音は吐き捨てるように言った。

 

 破滅的と言ってもいいほどの色に溺れる生活を続ける中。

 父親は若き日の加藤にも手を出した。

 

 当時、加藤は河原崎家の使用人として勤め始めたばかりであった。

 すでに今と変わらぬ体躯で、中年男性のように厳つい、美人からはほど遠い顔立ちもしていた。

 そんな相手と、なぜ父親は関係を持ったのだろうか。

 理由ははっきりしない。

 

「美食ばかりではなく、たまにはゲテモノも食べたくなったのかしらね?」

 

 冷笑を浮かべながら、しかし眉間に皺も寄せて静音は言った。

 

 加藤との関係も、父親にとっては分厚い女性遍歴のうちの一ページに過ぎない。

 そのはずだった。

 だが、奇跡が起きる。

 加藤が身ごもったのだ。

 

 その事実を知った時。

 父親は驚き、続いて疑問を抱いた。

 本当に自分の子供なのだろうか、と。

 

 多くの女性と関係を持ち、数えきれないほど情交を行い、諦めかけていた中で初めて結果が出たのだ。

 父親は、当然のように医者に検査を要求した。

 結果として生まれた子供――静音は間違いなく彼の子種だということが判明する。

 父親は狂喜した。

 

 だがその時、彼に冷水を浴びせる者がいた。

 彼の妻。

 後に静音の義母となる人物だ。

 

 義母の生家は河原崎家に匹敵するほどの資産家だった。

 というよりも血筋としてはこちらの方が遥かに格上の、由緒正しい名門である。

 その名家の娘として育ったため、義母は美人ではあったが気位が高く、大変に嫉妬深い面もあった。

 

 それでも彼女は、夫が浮気を繰り返していた点については我慢を重ね、見て見ぬふりをしていた。

 子供を授かっていないという負い目があり、夫の体質も理解していたからだ。

 だが実際に他の女が身ごもったと知ると、そんな事柄は全て吹っ飛んでしまった。

 

 義母は怒りを爆発させた。

 夫に罵声を浴びせ、加藤を家から叩き出した。

 そして加藤親子と縁を切るよう、夫に迫ったのだ。

 

 父親は加藤親子を守るべく反論したが、義母は頑として譲らなかった。

 義母の生家の力は父親も無視できない。

 できるのは加藤へ十分な仕送りをするという妥協案を義母に飲ませる、それが精いっぱいだった。

 

 結局、加藤は幼い静音と共に河原崎家を追われる羽目となる。

 そして当時、耕作が住んでいた街にたどり着き、そこに住み始めたのだ。

 

 静音の話を聞き、耕作は思い出す。

 幼き日に静音に付き添っていた大柄な人物のことを。

 あれは加藤だったのだ。

 服装も体格も男としか思えなかったので静音の父親だと思っていたが。

 

 事実を知った耕作は、加藤に目を向ける。

 加藤は神妙な顔で礼をした後、申し出た。

 

「改めてお久しぶりでございます、吉良様。まさか吉良様があの時のお子様だったとは、まったく気づきませんでした。不明を恥じるばかりでございます」

「いや、そんな。お気になさらないでください」

 

 答えつつ、耕作は考える。

 

 静音が以前、自分の街に住んでいた理由は分かった。

 しかしそうだとすると、今の彼女はなぜ、河原崎家の令嬢と言う地位にいるのだろうか。

 耕作は躊躇いつつ、疑問を静音にぶつける。

 

 静音は嘲り笑うような表情と声で答えた。

 

「お父様に天罰が下ったの」

「天罰?」

 

 静音は頷き、さらに語り続ける。

 

 加藤母娘が追放された後、静音の父親は大病にかかった。

 ようやく生まれた我が子を追い出さざるを得なかった不甲斐なさと、女狂いの生活で、心身の疲労が限界に達したのかもしれない。

 一命はとりとめたものの、引き換えとして大きな代償を払う羽目になる。

 子供を作る能力が完全に失われてしまったのだ。

 

 この事実を知り、父親は愕然とする。

 だが彼以上に彼の親族たちが大騒ぎし、色めきだった。

 彼らからすると自分、あるいは自分の子供が次の当主となるチャンスが訪れたのだから、当然ではある。

 

 早くも骨肉の争いを始めようとしていた親族たちの様子を見て、父親は考えた。

 このまま内紛が起きれば河原崎家にとって一大事となる。

 となればそれを避ける手段は、一つしかない。

 

 彼は決心した。

 妻に向かって土下座し懇願する。

 静音を自分の子として受け入れてほしい、と。

 

 夫の要求を、義母は容易には受け入れなかった。

 激しい言葉を夫に浴びせかけ、何日にもわたって抵抗を続けた。

 しかし最後には他に手段がないと悟ったのだろう。

 歯ぎしりをし、憎悪に満ちた表情ながらも、首を縦に振っている。

 

「でもお義母様は一つだけ条件をつけたの」

「条件?」

「そう。変質的な、とても人とは思えないような条件をね」

 

 静音の言葉には耕作が驚くほどの、明確な嫌悪の念が込められていた。

 

 義母のつけた条件とは。

 それは、静音だけでなく加藤も河原崎家で受け入れるというものだった。

 その話を初めて聞かされた時、父親は妻の寛大さに驚き、涙ながらに感謝の言葉を述べている。

 

 だがその反応は間違いだった。

 彼の妻は加藤母娘に情けをかけるつもりなど、これっぽっちもなかったのだ。

 

 義母は加藤を迎えると、即座に彼女を元通り使用人、それも静音の従者に任命した。

 さらに親子の縁も切らせて、母には娘を「お嬢様」と呼ぶように強制した。

 そして娘には母を「加藤さん」と呼ばせたのだ。

 

 もちろん呼び名だけでなく、生活のあらゆる面で主従関係を徹底するよう命令した。

 静音が加藤に情けをかけるような素振りを少しでも見せれば、情け容赦なくなじり、折檻を加えた。

 逆に加藤が肉親の情を見せた時などには、自分だけでなく静音にも加藤を責めさせている。

 母親を土下座させたうえ、娘に頭を踏みつけさせたり、冷水を浴びせかけさせたりしていたのだ。

 それを今に至るまで、延々と続けさせた。

 

 義母の陰湿な復讐の内容を聞かされ、耕作は絶句する。

 主人と従者と言う立場を長きに渡って強制され、この母娘はどんな気持ちでいたのか。

 彼には想像すらできない。

 

「でもね、こーくん。加藤さん……お母さんを使用人として扱うことなんて、大したことじゃなかった」

「……え?」

「親子の縁が切れたぐらい、どうってことなかった」

 

 静音は口と目を閉じ、うつむいた。

 それからさばさばとした、しかし底知れぬ迫力を秘めた声を発する。

 

「だって私はこの家、河原崎家に迎えられて……そして、殺されたんだから。親子の縁が切れたぐらい、大した問題じゃなかった」

 

 耕作は息を飲んだ。

 明るく居心地が良かったはずの部屋が、静音の発言によって暗く寒気がするものへと変わっていた。

 

 河原崎家に迎えられてから静音は変貌を余儀なくされていった。

 河原崎家の令嬢として。

 次期当主として。

 心も身体もそれにふさわしいように作り替えられていったのだ。

 

 彼女を矯正したのは義母だけではない。

 父親や周囲にいる数多くの人々が、教育と言う名のもとに情け容赦なく彼女の人格を踏みつぶし、蹂躙した。

 立ち振る舞いや教養だけではない。

 自由であるはずの思想や信条に至るまで、徹底的に改めさせられた。

 それは静音からしてみれば、泣くどころか逃げ出したくなるほどの辛い日々であった。

 

 だが幼い静音には抵抗するすべはない。

 彼女の中に芽生えていた本来の人格は、周囲の圧力によって完膚なきまでに消滅させられる。

 つまり彼女は「殺された」のだ。

 

 そして彼女には新たな人格が上書きされる。

 美しく聡明な、非の打ち所がない令嬢「河原崎静音」が。

 

「だからこーくん、あんなに大切に思っていた貴方のことも、私は忘れてしまった」

「……」

「でも」

 

 静音は視線を耕作に向けた。

 燃え上がるような情熱を込め、宣告する。

 

「そんな私を、こーくんは助けてくれた。だから今度は私がこーくんを助ける」



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最後のかけら 一

 静音の決意を聞かされて。

 しかし耕作は、安心するような心境にはなれなかった。

 今の彼女からは猛禽類のような気配が感じられたのだ。

 鋭く隙のない眼差しで獲物――耕作を見つめている。

 

 耕作は乾いた唇を開いた。

 

「……さっきも聞いたけど、それはどういう意味なのかな」

 

 静音の辛い境遇は分かった。

 だがそこから彼女を助けた覚えは、やはりない。

 

 静音はすぐには答えなかった。

 顔を横に向け、加藤へ声をかける。

 

「ありがとう加藤さん、もう下がって結構よ」

 

 巨体の従者は恭しい礼をすると、静かに部屋から出ていった。

 その後ろ姿を見送ってから、静音は耕作に向き直る。

 

「先週の木曜日に私……正確に言えばジーリアさんだけど。彼女の元へ天国から連絡が入ったの」

「天国から? と言うと相手は……」

「そう、サラサさん」

 

 先週の木曜日といえば悪魔がミーコの前に姿を現した日ではなかったか。

 と、耕作は考えた。

 

「話の内容は、私の魂が不思議な力を発揮している、というものだったんだけど」

「不思議な力?」

「うん。私の魂はその力を使って、天国からこの身体へ戻ろうとしていたらしいの」

「それはつまり……」

「生き返ろうとしていた、ということ」

 

 静音の声は次第に緊迫感を増していく。

 

 前代未聞の非常事態。

 静音の魂に起きた現象を、サラサはそう評していた。

 

 過去、神の意思によって天国にいた魂が人間界へ戻される、つまり生き返ったという例は、少なくはあるが皆無ではない。

 だが魂が勝手に生き返ろうとするなど、かつてありえない出来事だったのだ。

 このままでは天国と人間界の関係や、さらには生と死のことわりすらも崩壊しかねない。

 天国全体が騒然となった。

 

 サラサはその渦中にあって、まず慌てふためく周囲の天使たちを落ち着かせた。

 それから静音の魂に何が起きているのかを詳しく調べ始めた。

 その結果、彼女はある事実を発見する。

 人間界へ戻るべく静音の魂が発揮している力、そこには二つの特徴があった。

 

「一つ目の特徴は力の性質……説明が難しいんだけど。属性とでも言えばいいのかな」

 

 属性?

 ゲームなどでよく聞く炎属性とか氷属性とか言う、あれのことだろうか。

 と、耕作は考えた。

 思ったままを問いかけると、静音からは頷きが返ってくる。

 

「うん。それでサラサさんによると、私の魂が発揮していた力はあの子……ミーコさんが使っていた超能力と、ほぼ同じ属性を持っていたらしいの」

「え?」

「あの子が使う物体を操る超能力と、私の魂が発揮した生き返ろうとする力では、まるで違うように思えるけど。力の働き方に共通点があったらしくて」

 

 サラサは以前、ジーリアの依頼でミーコと耕作、二人の身体や魂を調べていた。

 だから天使たちの中で彼女だけが気づいたのだ。

 静音の魂が発揮した力は、ミーコを人間とし、物体や熱を操る超能力ともなった力と同じ性質を持っていた。

 

 耕作は首をひねりながら尋ねる。

 

「ミーコと同じ属性……それはつまり、悪魔の力ということでもあるのかな」

「うん」

 

 悪魔の力が天国で発動している。

 この点もサラサを驚愕させていた。

 天国に悪魔の力が侵入するなど、これもまた前代未聞のことであったのだ。

 

 話を聞くうち、耕作はふと疑問をおぼえた。

 

「しーちゃんはサラサさんから聞いたことだけを話しているようだけど、天国にいた時のことは覚えていないのかな?」

 

 静音は頷いた。

 

「今の私には、身体に残っている記憶しかなくて」

 

 従って天国についてはサラサに聞かされた以上のことは分からない。

 逆に言えばジーリアに憑依されていた間の記憶は持っている。

 静音はそう答え、さらに話を進めていった。

 

「そして私の魂が発揮した力の、もう一つの特徴だけど……」

 

 そこまで話したところで。

 静音は再び、息をのむほどに美しく、同時に寒気すら感じさせるほどの迫力にも満ちた真っ直ぐな眼差しで、耕作を射貫いた。

 

「こーくん。私の魂は、貴方を求めていたの」

「え?」

「貴方に会いたい、貴方の傍に行きたい。その気持ちが力の源泉になっている。サラサさんはそう言っていた」

 

 静音は断言した。

 その声は熱く、さらに絡みついてくるかのような淫猥な響きも帯びていた。

 全身からは恋情の炎が立ち上っている。

 

 強烈なまでの愛情を向けられて、耕作は絶句する。

 しかし彼は、それでも状況を理解しようと試みた。

 

 耕作への愛情が静音を生き返らせる力となった。

 彼女はそう言っている。

 想い人への愛によって生き返るというのは、大昔、それこそ神話の時代からある話だ。

 妙な表現になるが定番の奇跡といえるかもしれない。

 

 ただ耕作は静音の話に現実感を持てなかった。

 大体そんなことが可能なら、地上は生き返った人間で溢れかえってしまうだろう。

 

 もっとも「そんな馬鹿な」と切り捨てる気持ちにもなっていない。

 静音の言葉には疑問を許さない、有無を言わせないだけの迫力と説得力があったのだ。

 それに耕作にも思い当たる節があった。

 

 彼は以前、ミーコが扱う超能力について、力の源になっているのは嫉妬心ではないかと言う仮説を立てていた。

 愛情と嫉妬心。

 これら二つの感情は表裏一体のようなものともいえる。

 しかもミーコと静音の想い人は、ともに耕作だ。

 悪魔の属性を持っている点といい、二人の力には共通している部分がいくつもある。

 

 耕作はそこまで考えると頷き、話を切り替えた。

 

「……サラサさんは他にも何か言ってきたのかな?」

 

 静音は口元を歪め、頬を膨らませた。

 自分の求愛をそらされたように感じたのだろう。

 それでも質問には答えている。

 

「忠告してきた。こーくんに会っちゃダメだって」

 

 静音の魂が耕作を求め、生き返ろうとしている。

 この状況で受け入れる側の身体が耕作に対面したりすれば、それがきっかけとなって本当に生き返ってしまうかもしれない。

 

 その際ジーリアにどんな影響が及ぶのか、想像もできない。

 少なくとも身体にとどまるのは不可能だろう。

 従って事態の解決策が見つかるまで耕作に会ってはならない。

 サラサはそう忠告してきたのだ。

 

「なるほど、それで……」

 

 耕作は得心した。

 だから天使は金曜日以降、自分と会うのを拒否していたのか。

 静音の身体から追い出されれば、最悪の場合、耕作に二度と会えなくなるかもしれない。

 天使はそれを恐れたのだろう。

 

「そう。でもあの時、こーくんは私のところへ来てくれた。だから今、私はここにいる」

 

 静音は断言した。

 彼女の身体から、再び恋情の炎が立ち上っている。

 

 耕作は考える。

 危険だ。

 このままでは、静音の愛情に飲まれかねない。

 

 月曜日に自分は偶然、彼女の前に現れた。

 それによってサラサが危惧していた通り、魂が身体へ戻ったのだろう。

 その点を静音は感謝してくれているのだ。

 

 だがあの出来事は偶然に過ぎない。

 静音が過剰に恩義を感じる必要もない。

 そう伝え、彼女の情熱を静めるべきだ。

 

「しーちゃん、あれは偶然だ。俺がしーちゃんを助けようと思ってした訳じゃない。だからあまり……」

「違う!」

 

 耕作が言い切らないうちに、静音は彼の意を強く否定した。

 

「偶然なんかじゃない! こーくんが約束してくれて、私はそれを信じていた! だから帰ってこれたの! こーくんが約束を守ってくれたから、私は今、ここにいる!」

「約束?」

 

 耕作は困惑しつつ、問い返した。

 

 静音は深く頷いて立ち上がる。

 テーブルに手をつき、上体を耕作に向けて傾けた。

 

「忘れちゃった? あの公園で交わした、私との約束を」

「……」

 

 耕作は沈黙してしまった。

 

 静音との約束。

 現在彼女が見せている鬼気迫る、あるいは切羽詰まったかのような様子からすると、それはよほど重要なものなのだろう。

 だがどれだけ思い出そうとしても、それらしい記憶は浮かんでこなかった。

 

「……ごめん」

 

 謝罪の言葉を述べる。

 静音の顔が一瞬にして青ざめ、目には涙が浮かび上がった。

 

 静音が悲しんでいる。

 おかげで情熱は収まったようだが、心に傷を負わせてしまった。

 激烈なまでの愛情に戸惑うあまり、大切な友人を傷つけてしまうとは。

 耕作は己のふがいなさに、怒りと失望を覚えていた。

 奥歯をかみしめ、眉間にしわを寄せる。 

 

 耕作が自責の念にさいなまれているのを、静音も気づいたらしい。

 ハッとした顔を見せると、ソファーに座り直し、うつむいてしまった。

 小さく悲しげな声を出す。

 

「ごめんね。昔のことだもん、忘れて当然なのに……」

「いや、昔のことでも約束は約束だ。それを忘れるなんて、どう考えても俺が悪い」

「ううん。私だってほとんど忘れていたのを、ジーリアさんに記憶を引き出されてやっと思い出したのに……」

 

 静音は顔を上げた。

 そして今度は毅然とした、明瞭な口調で話し始める。

 

「あの約束を交わしたのは、こーくんと離ればなれになる数日前のことだった」



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最後のかけら 二

 今から二十年ちかくも昔の、ある晴れた日のこと。

 静音はいつもと同じように家の近くにある公園で、耕作と遊んでいた。

 二人はままごとをして、これまたいつもと同じように夫婦役を演じていた。

 

 ただこの日の静音は完全にいつも通りというわけではなかった。

 胸に重大な悩みを抱えていたのだ。

 そしてそれを耕作に告げるべきか否か、迷い続けてもいた。

 悩みと迷いは暗く厚い雲となって彼女の心を覆いつくし、いつもは熱中するはずの遊戯に対しても、どこか上の空にさせてしまっていた。

 

 静音の普段と異なる様子に耕作も気づいたらしい。

 心配そうに声をかけてきた。

 

「しーちゃん、だいじょうぶ?」

「えっ……なにが?」

「きょうはなんだか、ぼーっとしてるよ」

 

 指摘を受け、静音は慌てた。

 両手を振りながら言い訳を始める。

 

「ちがうの、ぼーっとしてるんじゃなくて……」

 

 そこまで話したところで言葉が続かなくなってしまう。

 それからしばらくの間は下を向いたまま、ただじっとしていた。

 

 静音はやがて踏ん切りをつける。

 顔を上げ、大好きな少年の顔を真正面から見つめた。

 躊躇いつつ口を開く。

 

「あのね、こーくん……おはなししなきゃいけないことがあるの」

「なに?」

「……もうすぐおわかれしなきゃいけないの」

「え?」

「わたしのおうち、もうすぐおひっこしするんだって」

 

 耕作は口を大きく開け、呆然とした様子を見せた。

 そして立ち上がらんばかりの勢いで叫んだ。

 

「え……そんなのやだよ!」

 

 子供らしからぬ悲痛な声。

 それを聞き、静音の感情をせき止めていた心の堤防も決壊した。

 

「わたしもこーくんとはなれたくない! でも……でも……」

 

 静音の語彙は、まだ幼く拙い。

 彼女の悲しみを表現しきるだけの力は備わっていなかった。

 情の波は行き場を失い身体からあふれ出す。

 大きな瞳に、あっという間に涙がたまっていった。

 

 静音の、今にも泣き叫びだしそうな姿を見て。

 耕作は、はっとした顔になった。

 続いて思いつめたような表情を見せたかと思うと、大人びた、強い決意を感じさせる眼差しを静音に向ける。

 

 大好きな少年にじっと見つめられて。

 静音は一瞬、息が止まるような不思議な感覚をおぼえていた。

 心臓が高鳴り頬も熱くなる。

 これまで感じたことのない熱く激しい衝動が、彼女に襲い掛かってきていた。

 

 耕作は急に表情を変えた。

 優しくやわらかな、静音が大好きな笑みを浮かべる。

 

「しーちゃんは、ぼくといっしょにいたいんでしょ?」

「もちろん! でも……」

「じゃあ、まっててよ! ぼくがんばるから!」

「え?」

 

 静音には耕作の意図が分からなかった。

 口と目を丸くして少年を見つめ返す。

 すると耕作は、次から次へと言葉を投げかけてきた。

 そのどれもが力強く、決意に満ちたものだった。

 

「ぼくがんばっておかねをためて、しーちゃんをむかえにいくよ! そしたら、またまいにちいっしょにあそぼう! だから……すこしのあいだだから、まってて!」

 

 耕作の顔には太字で大きく「自信満々」と記されていた。

 自分の言葉を信じて疑わない少年の純粋な思いが、面上に現れたのだ。

 

 彼の顔を見て。

 言葉をかみしめて。

 静音は身体が、急速に暖かくなっていくように感じていた。

 心も、まるで太陽そのものにでもなったかのように明るく輝き始めていく。

 

 歓喜にあふれる気持ちのまま。

 彼女は問いかけた。

 

「こーくん、ほんとうに!?」

「もちろん!」

「やくそくしてくれる!?」

「うん!」

 

 耕作は迷うことなく右手の小指を差し出した。

 静音もすぐ、自分の小指を彼のそれと絡める。

 

「やくそく!」

 

 この時まで耕作は、静音に一度だって嘘をつかなかった。

 約束は必ず守ってくれた。

 その彼が断言してくれたのだ。

 耕作は、いつか必ず迎えに来てくれる。

 

 先ほどまで静音の心を覆っていた暗く厚い雲が、今はきれいさっぱり吹き飛んでいた。

 

 

 ――――――

 

 

「それからすぐ私はこの家に引き取られて……河原崎家の後継者としてふさわしい人間になるための、過酷な教育が始まった」

 

 静音の口調が急に変わった。

 耕作との思い出を語っていた時の弾んだ様子から、冷たく淡々としたものへと。

 

「辛くて苦しくて……身を削がれるような毎日が続いた。自分が何者かも分からなくなっていって……こーくんとの約束を心の支えにしていなかったら、私はもっと早くこの家に殺されてたと思う」

 

 静音の顔色も今は青白くなっていた。

 生気を感じられない。

 語る内容も含め、今の彼女は「絶望」という言葉を擬人化したかのような存在となっている。

 

 そんな静音を見て、耕作は苦悩する。

 彼女の残酷な様子に心を痛めたというだけのことではない。

 彼は今だ「約束」について思い出せなかったのだ。

 静音の話を聞き、懸命に記憶を探っても、当時の情景がかすかに脳裏に浮かぶ程度でしかなかった。

 

 なんと情けないことか。

 静音に申し訳ない。

 と、耕作は強い罪悪感を覚えていた。

 

 耕作のそんな気持ちを知ってか知らずか。

 静音は尚も語るのをやめない。

 

「でも結局、私の抵抗も儚いものだった……この家の娘としてふさわしい人間へ作り替えられてしまったんだから。こーくんのことも、ほとんど忘れさせられてしまった」

 

 そこまで話したところで、静音は口を閉じた。

 

 部屋の中が静まり返る。

 情景も絵画のように動かない。

 コーヒーの芳香だけが、ごくわずかに宙を漂っていた。

 

 静音になんと声をかければいいのだろうか。

 耕作は途方に暮れてしまっていた。

 

 なにを伝えればいいのか。

 どう声をかけるべきなのか。

 いくら考えても答えは見つからなかった。

 

 だがそれでも。

 彼女をいたわる、慰めの言葉をかけなくては。

 耕作は決意した。

 

 その時だった。

 

「でも」

 

 静音がつぶやいた。

 黒く美しい瞳に火が灯る。

 吐き出される呼気が熱く、勢いのあるものへと変わっていった。

 流れる黒髪も、目に見えて艶を増していた。

 

 静音の口調と表情が、またしても一変したのだ。

 先ほどまでの暗く冷たいものから、熱く、底知れないほどの執心を感じさせるものへと。

 

「でも、あの約束は生きていたの」

 

 一拍の間を置いた後。

 静音は、次から次へと言葉を紡ぎだした。

 

「お父様やお義母様や、他にも数多くの人々が望んでいた『河原崎家の娘』へと作り替えられていく中で……私の心は、それでもあの約束だけは守っていたの」

 

 静音は大切な、かけがえのないものを守るかのように、両手を胸の前で組んだ。

 

「心の中の奥深く……私ですら気づかなくなるほどの奥底にしまい込んで、何重にも封をして、守っていたの。いつか絶対、こーくんは迎えに来てくれる。それを忘れないために」

 

 静音は優しい、慈母のような微笑みを浮かべる。

 

「あの約束は私が、本当の私が、最後まで守っていたものなの。たった一つのちっぽけなかけら。でも……」

 

 静音はこみ上げるものをこらえるかのように、一度うつむいた。

 数瞬の間、その姿勢を保った後。

 顔を上げる。

 

「その小さなかけらが、こーくんを待ち焦がれる気持ちが、私を生き返らせる力になった。こーくんも、私が一番必要としていた時に、約束通り迎えに来てくれた。だから……あの約束が、こーくんが、私を助けてくれたの! 本当の私も取り戻させてくれたの!」

 

 静音は語り終える。

 それから先は涙のにじむ目で、ただ耕作を見つめ続けた。

 

 愛情と執心に満ち、どこか鬼気せまるかのような様相をも見せている静音を眺めながら。

 耕作は考える。

 

 幼い子供同士が将来の再会を約束する。

 それは世にありふれた、ごくごく平凡な光景だろう。

 自分と静音が特段めずらしいことをした訳ではない。

 

 大人になって再会したのも、結局は偶然だ。

 幸運だったのは間違いないが意図した行動ではない。

 そもそも自分は静音と別れてから約束を守る努力をしていただろうか。

 全く自信がない。

 

 だが静音は、二人の関係に運命を感じたのだろう。

 そのため過去の思い出を過剰なまでに美化してしまっているのではないか。

 自分は彼女が思っているような、奇跡を起こせるような立派な人物などではないのに。

 それが耕作の、無情ともいえる結論だった。

 

 ただ、だからと言って。

 自分の認識と異なるからと言って。

 静音の気持ちをはぐらかす、あるいは否定するようなことは彼にはできなかった。

 

 彼女は幼い頃のありふれた約束を、とても大事にしてくれた。

 さらには、その約束によって命が救われたと信じてくれているのだ。

 自分をこんなにも想い続けてくれたのだ。

 その気持ちを踏みにじるような真似はできない。

 

 耕作は一つ、大きな深呼吸をする。

 静音に正対し、幼いころと同じ真っ直ぐな目で彼女を見つめ、答えた。

 

「しーちゃん。長い間、待たせてごめん」

 

 その言葉を聞くや否や。

 静音は目に、今度は歓喜による涙をにじませた。

 閉ざされていた唇もほころび、花が開くような笑みを浮かべる。

 

 耕作は安堵する。

 しかし同時に、胸をえぐられるような気持ちをも抱いていた。

 

 ミーコのことがある。

 ミーコを一番大切に思う気持ちは今も揺るがない。

 静音の想いにどれだけ応えられるだろうか。

 最終的には彼女を悲しませることになるかもしれない。

 

 だが、諦める訳にはいかない。

 ミーコを幸せにするのはもちろんのこと、静音も傷つけたくはない。

 皆が幸せになる方法など、ありはしないだろうが。

 それでも、少なくとも自分を大切に思ってくれる人の気持ちには、精一杯こたえたい。

 

 と、耕作は心に誓っていた。



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幼馴染は牙を剥く 一

 過去の話は一段落となった。

 二人は続けて未来、つまりどのようにして耕作とミーコの魂を救うかについて話を進めていく。

 まず初めに静音が、ジーリアの考えと彼女が進めていた計画について説明した。

 ジーリアは人間界に伝わる悪魔祓いの方法で耕作を救うつもりだった、と。

 

 話を聞き終え、耕作は呟く。

 

「悪魔祓いの儀式、か……」

 

 ジーリアは静音の身体に起きた奇跡に驚き、人間界の可能性に賭けてみたくなった。

 だから人間界に伝わる方法を用いようとした。

 その考えは理解できる。

 

 しかし魂を救う手段として確実なものと言えるのかどうか。

 耕作は一抹の不安を覚えていた。

 

「大丈夫よ、こーくん。きっとうまくいくから」

 

 耕作の気持ちを察したのだろう、静音が励ましてくる。

 おかげで耕作の不安も、多少なりともやわらいだ。

 

 それに現状、他に手段はないのだ。

 試してみる価値はあるだろう。

 と、耕作は決心した。

 

 静音が弾んだ声をかけてくる。

 

「それにね、もう用意もできてるの」

「用意?」

「うん。私の部屋に儀式で使う道具を揃えておいたわ。それ以外の事前準備も、全部おわらせてあるから」

 

 静音の手際の良さに耕作は驚いた。

 彼女はさらに、急かすようにして話を進めていく。

 

「善は急げっていうし。こーくん、さっそくだけど今から私の部屋に……」

「いや、しーちゃん。それはちょっと待ってくれ」

「どうして?」

 

 心底ふしぎそうな表情で、静音が問いかけてきた。

 一方、耕作は腕を組み、考え込むような素振りを見せている。

 

 実際、耕作は悩んでいた。

 彼には今、静音に願い出なければならないことがあったのだ。

 だがそれを口にすれば彼女は間違いなく怒り出す。

 ことを穏便に進めるには、どうすればいいのだろうか。

 

 結局、良い考えは浮かばなかった。

 耕作は逡巡しながらも、馬鹿正直に話を切り出した。

 

「しーちゃん、お願いがあるんだ」

「なに?」

「その儀式は、俺よりもまずミーコに受けさせてくれないかな」

「嫌よ」

 

 予想通り。

 静音は間髪を入れず拒否してきた。

 さらに追い打ちをもかけてくる。

 

「絶対に嫌。こーくんのために準備したのに、なんであの子に使わなきゃいけないの? こーくんが困っているのも、全部あの子のせいなのに」

 

 静音の眉間にはしわが寄り、不機嫌な色があらわとなっている。

 声も怒気をはらんで割れ始めていた。

 

 恋敵を救うなど論外だ。

 理においても情においても議論をさしはさむ余地すらない。

 静音はそう宣告している。

 

 耕作は頭を抱えたくなった。

 だがこの点については絶対に引き下がる訳にいかない。

 耕作の目的はミーコを救うことであり、それが第一なのだ。

 心を奮い立たせて説得を始めた。

 

 ところが。

 耕作がどれだけミーコを大事に思っているか。

 彼女を助けたいと思っているのか。

 それを話せば話すほど、静音の怒気は逆に増していった。

 

 かといって耕作には静音を騙す、あるいは丸め込めるような図々しさや弁舌もない。

 真正面からぶつかるしかなかった。

 そして案の定、はね返される。

 そんな不毛なやり取りが、延々と繰り返された。

 

 その結果。

 先に折れたのは静音だった。

 愛する男の説得に、わずかながらも気持ちが揺らいだのだろうか。

 唇を歪め、眉間にしわを寄せ、完全なふくれっ面になりながらも、渋々といった様子で彼女は譲歩した。

 

「……分かった。じゃあ、あの子も助けてあげるけど、こーくんの後にして。あの子を先にするのは絶対に嫌」

 

 一歩、いや半歩前進した。

 耕作はそう思い、小さく吐息を漏らした。

 

 だが、まだ安心はできない。

 静音の発言を完全に信用する訳にはいかない。

 これは静音への好悪の念とは別問題である。 

 

 もし、耕作の悪魔祓いが成功したら。

 静音はなんだかんだと理由をつけて、ミーコを助けるのを拒むのではないだろうか。

 その可能性は否定できない。

 

 かと言ってかたくなにミーコを優先するよう主張しても、上手くいくとも思えない。

 例えば、

 

「ミーコを後回しにされるぐらいなら、静音の助けは必要ない」

 

 と言ったとする。

 その場合、静音はさらに譲歩してくれるかだろうか。

 可能性としては五分五分といったところか。

 

 ……いや、もっと分は悪いだろう。

 手にしているカードを比べれば一目瞭然だ、耕作に勝ち目はない。

 そもそも頭を下げてお願いする立場なのだ。

 ミーコを助けるため、最終的に折れざるを得なくなるのは耕作の方である。

 ではどうすれば良いか。

 

 耕作は考えた末、結論を出す。

 静音の提案を受け入れる。

 まずは自分が悪魔祓いの儀式を受けてみる、と。

 

 ただしその際、耕作は静音が行う儀式を、ただ受けるだけにするつもりはない。

 その内容について、できる限り記憶しようと思っていた。

 そして悪魔祓いが成功した後、静音が約束を破ってミーコを見捨てようとしたら。

 その時は記憶を頼りに儀式を行い、耕作がミーコを助けるのだ。

 

 いや、記憶だけを頼るわけではない。

 静音が用いるのは人間界に伝わる悪魔祓いの方法だ。

 どこかの文献なり、インターネットなどでも詳しい内容を調べられるだろう。

 時間はかかるだろうが、やってやれないことはないはずだ。

 

 この保険をかけておけば、静音が裏切ったとしてもなんとかなる。

 もちろん約束を守ってくれるなら、それに越したことはない。

 ……静音を信用しないというのは心が痛むが、やむを得ない。

 

 耕作は頭の中で考えをまとめる。

 それから咳ばらいを一つして、答えた。

 

「分かった。ミーコは俺の後で構わないよ、しーちゃん」

「本当に!?」

 

 静音は、跳ね上がって喜んだ。

 さらには勢いのまま耕作に抱き着いてくる。

 静音の女性らしい起伏に富んだ柔らかな肢体と、鼻腔に飛び込んでくる甘い香りに、耕作は酩酊しそうになった。

 慌てて静音を引きはがし、立ち上がる。

 

「じゃあ善は急げというし。早速はじめようか、しーちゃん」

「……うん」

 

 耕作から強引に引き離されたため、静音は唇を尖らせ、すねた顔になっていた。

 それでもすぐに笑みを見せると、耕作の手を取り、先に立って歩き始める。

 

 静音の私室は大邸宅の三階にあった。

 二人は階段を上り、広い廊下を進んでいく。

 すでに夜も更けているため使用人たちの姿も見えなかった。

 

 静音はこの間も上機嫌で、耕作の手を放さなかった。

 これから行う儀式について楽しげに話している。

 

 この儀式は主にイタリアで用いられていたものだとか。

 対象になったのは高貴な身分の人が多かったとか。

 準備だけでもかなりの時間がかかるので、静音も家にいる間、その作業にかかりっきりになっていたとか。

 

 静音の話を聞きつつ、耕作は考える。

 儀式の内容について記憶しておくだけでは心もとない。

 難しいだろうが録画か、最低でも録音ぐらいはしておかなければ。

 ポケットにはスマートフォンがある。

 どこかのタイミングでカメラを起動できれば……。

 

 考えているうちに大きな両開きの扉へたどり着く。

 耕作の目線からはやや下の位置に「静音」と記された表札がかかっていた。

 

 静音が、

 

「こーくん、いらっしゃいませ」

 

 と言って扉を開けた。

 耕作の手を取ったまま先に進む。

 

 そして。

 静音は明かりもつけずに耕作の手を引っ張り、部屋の中へと引きずり込んだ。

 

「え!?」

 

 耕作は驚き、声を上げた。

 

 彼を驚かせた理由は二つある。

 一つは思いもかけなかった静音の行動について。

 

 そしてもう一つは。

 静音が発揮した、とてつもない腕力についてだった。

 

 静音は片腕で耕作を部屋の中へ引きずり込んだのだ。

 耕作も油断してはいた。

 それでも大人の男性である彼が、一瞬で二メートル近くも移動させられたのだから尋常ではない。

 

 耕作は勢いに押され、軽く躓きながら前へと進む。

 背後から鈍い金属音が聞こえてくる。

 扉が施錠されたのだ。



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幼馴染は牙を剥く 二

 閉じ込められた!

 気づくと同時に、耕作の身体から音を立てて血の気が引いていった。

 

「しーちゃん、何を……!」

 

 背後にいる静音へ、振り返ろうとする。

 しかし耕作が身体を反転させ終える前に、部屋に明かりが灯った。

 視界が白色で染まる。

 耕作は眩しさから、目をしばたいた。

 

 次第に目は慣れ、情景が浮かび上がってくる。

 部屋の様子を見た耕作は思わず、

 

「なっ……!」

 

 と、うめき声とも叫び声ともつかぬ声を上げてしまっていた。

 

 部屋はとてつもなく広かった。

 耕作の部屋と比べると、確実に十倍以上はある。

 そして大部分がピンクで染められていた。

 壁紙から家具、大きな天蓋付きのベッドに至るまでが、ピンクを中心とした色合いで揃えられていたのだ。

 

 ただそれ自体は、特に異常とか奇怪とか表現されるようなものではない。

 少女趣味が強すぎるかもしれないが、それでも常識の範囲内にある。

 問題は別のところにあった。

 部屋には家具などとは異なる奇怪な物品が、多数そろえられていたのだ。

 

 床には大きな六芒星が描かれていた。

 その周りには呪文のような、耕作が今まで見たこともない文字が記されている。

 部屋の四角には大きな盃が置かれており、中は透き通った、水のような液体で満たされていた。

 壁際には凝った彫刻が施された杖、さらには白・黒・赤・青と四色をそろえた蝋燭などが何十本と並べられている。

 一面の壁には大きな祭壇までが設けられていた。

 

 祭壇に目を止め、耕作は絶句する。

 そこには宝石を埋め込んだ十字架や、精巧に作られた天使像などの物品と。

 それらが醸し出す神々しい雰囲気をぶち壊す、淫猥な道具が並べられていた。

 

 まず目につくのは極彩色で作られた、男性器を模した棒。

 透明な液体が入ったチューブは山と積まれている。

 その隣には丸みを帯びた形をした、耕作にはどう使うのかも分からない電気製品が鎮座していた。

 さらには凹凸のついたゴム製品や、革製の拘束具……と、見ていけばきりがない。

 

 耕作の鼻腔にベビーパウダーのような、甘い香りが飛び込んでくる。

 途端に、身体中の血流が勢いを増していく。

 性的な興奮も急激に高まっていった。

 

 媚薬か!

 耕作は察した。

 液体が満たされた盃に目を向ける。

 あの液体が、この匂いを発散させているのだろうか。

 

 それにしても、あの大量の淫具はなんであろうか。

 悪魔祓いの儀式に必要とは、とても思えない。

 これではまるで……。

 

 耕作は考え、静音に向かい合った。

 淫具を指さし、詰問する。

 

「しーちゃん、あれは一体なんだんだ!」

「どうしたのこーくん? なにかおかしい?」

 

 静音は全く悪びれない様子で返答した。

 耕作もさすがに怒りを覚える。

 彼には珍しい、憤然とした声を出した。

 

「おかしいもなにも、これじゃあまるで……」

「こーくん、勘違いしないで。ここにある物はすべて、悪魔祓いのために必要なものなの」

「あれが!?」

 

 耕作の怒声にも、静音は落ち着いていた。

 笑みすらたたえ、深く頷く。

 そして喜々として説明を始めた。

 

「人間界に伝わる悪魔祓いの儀式。その中でも最も効果が高いとジーリアさんが判断したのが、この方法なの」

「それは……」

「悪魔に取り憑かれた男性を救うため、身を清めた女性がその人と交わり、浄化するっていう方法よ」

 

 耕作は息をのむ。

 動揺し、やや癖のある髪をかきむしった。

 乾いた唇を開き、躊躇いがちに問いかける。

 

「交わるって……」

「こーくんの思っているとおりのことよ」

 

 楽しげに。

 かつ淫猥に笑いつつ、静音は断言した。

 

「過去には、悪魔祓いを理由にして女の子を手籠めにする人もいたみたいだけどね」

 

 静音はにじり寄るようにして耕作との距離を詰めてきた。

 耕作は媚薬の匂いと静音の言葉によって、目が回るような気持ちに陥っていた。

 それでも静音を阻止すべく、疑問をぶつける。

 

「しーちゃん、待ってくれ。じゃあこの方法は、ミーコには使えないんじゃないか?」

「そうね。男性限定で用いられてきた方法だし」

「それじゃ意味が……」

「あの子には他の方法を使えばいいじゃない」

 

 静音はあっけらかんとした様子で言った。

 

 耕作の意見は当然ながら異なる。

 ミーコを助けられない方法など意味はない。

 自分に試す必要もない。

 そう言って、再度抗議した。

 

 しかし静音は揺るがない。

 

「だめよ。私の目的はこーくんを助けることだもん、あの子はおまけ」

 

 静音の口調は今も、鼻歌交じりと言っていいぐらいの軽いものであった。

 だが、何か思うところがあったのだろうか。

 彼女は微笑みを消した。

 さらに険のある声で、露骨に脅迫を始める。

 

「……こーくん。もしこの方法を断ったら、あの子は助けてあげないからね」

 

 耕作は愕然とする。

 しかしそれでも、静音を翻意させなければならない。

 耕作は静音に立ち向かうべく、彼女の目を見つめ返した。

 そして――恐怖した。

 

 静音の瞳は今、古い湖のごとく暗く深く、澱み始めていたのだ。

 生気どころか光さえも感じられない、濁った闇。

 

 耕作は悟った。

 恋敵を人質に取って関係を迫るなど、プライドも何もあったものではない。

 静音はなりふり構わず耕作を手に入れようとしている。

 今の彼女は、まともな精神状態とは思えない。

 いや――もうずっと前から、狂っていたのかもしれない。

 

 静音が無言のまま、一歩を踏み出してくる。

 有無を言わせぬ圧力に、耕作は思わず後ずさった。

 

 静音は避けられて不快感を覚えたらしい。

 唇をへの字型にして、不満をあらわにした。

 

 しかし考えるような仕草を見せたかと思うと、今度は一転、破顔してみせた。

 瞳は相変わらず、濁ったままだったが。

 

「こーくん、心配しないで。聖水をとりよせて時間をかけて、身を清めておいたから。きっと成功するわ」

 

 いや、問題はそこじゃないんだ。

 耕作は叫びたくなっていた。

 だが静音の雰囲気にのまれ、舌が動かせなくなっている。

 

「こーくんの悪魔祓いが成功したら、あの子も他の方法で助けてあげる。それに……」

 

 そこまで話したところで、静音はいったん口を閉じた。

 数瞬の間を置いた後。

 獰猛な、獲物を前にした肉食獣の笑みを浮かべる。

 

「もう逃げようとしても、無駄よ」

 

 耕作の背筋に霜柱が立った。

 壮絶なまでの恐怖に、立て続けに襲われながら。

 それでも耕作は状況を打破するための方策を、なんとか見つけようとした。

 

 静音はああ言っているが、女性だ。

 腕力でねじ伏せられるとは思えない。

 ……普通に考えれば、そうなのだ。

 だがつい先だって、彼女は想像すらできなかったほどの力で、この部屋へ自分を引きずり込んだ。

 

 それにだ。

 この家の住人は、全員が静音の味方なのだ。

 耕作が抵抗し騒ぎを起こしても、助けに来るはずがない。

 むしろ静音に加勢するのではないか。

 

 加藤だけは別かもしれないが、先日のことがあるので釘を刺されているかもしれない。

 やはり逃げられない。

 

 万が一、逃げ出せたとしても、その時はミーコを助けられる可能性も消滅してしまう。

 静音にはミーコを助けるため、力を貸してもらわなければならないのだ。

 だがそのためには、ミーコを裏切らなければならない。

 

 ……一回の過ちぐらい、ミーコは許してくれるだろうか?

 とてもそうは思えない。

 

 いや、正確に言えば。

 ミーコは耕作のことは許すかもしれない。

 だが静音は絶対に許さないだろう。

 間違いなく殺そうとするはずだ。

 先にあるのは愛猫と幼馴染が殺しあう、凄惨な未来図である。

 

 それに静音にしても、耕作との関係を一回限りで終わらせるはずもない。

 後々まで関係を求めてくるだろう。

 

 いや、それすらも甘い考えかもしれない。

 部屋の様子を見る限り、静音は取り揃えた様々な道具で、今夜中に耕作を虜にするつもりなのだ。

 それどころか、二度とこの部屋から出さないかもしれない。

 今の静音には、そう思わせるだけの狂気があった。

 

 耕作の思考は袋小路に陥り、出口が見いだせなくなっていた。

 その間にも、静音は迫り続けている。

 艶めかしい舌で唇をなめ、頬を朱に染め、うっとりとした声で告白した。

 

「好きよ、こーくん。愛してる」

 

 その言葉にも、耕作は絶望しか覚えなかった。



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猫は人につく 一

 ……いや、諦めるわけにはいかない。

 打開策を見つけなければ。

 耕作は恐怖と戦いつつ、なおも考えた。

 

 突破口を見出すため今一度、部屋の中を観察する。

 カーテンのかかった大きな窓が目に入った。

 あの窓から逃げ出せないだろうか?

 一瞬、そんな考えが脳裏をよぎった。

 

 だがすぐに頭を振り、その考えを否定する。

 ここは三階なのだ。

 窓から飛び出すなど、自殺行為である。

 それに逃げ出したところで、解決にはならない。

 

 焦るあまり馬鹿馬鹿しい考えを抱いてしまった。

 耕作は己のうかつさに怒りすら覚えた。

 他の手段を探すため、視線を窓から外そうとする。

 

 だが、その時。

 窓から一つ、小さな音が聞こえてきた。

 小石がぶつかったような音だった。

 

 切迫した状況の中。

 耕作は一瞬、その音に気を取られた。

 

 雨が降ってきたのだろうか?

 ただ音の大きさからすると、衝突したのは雨粒より大きな質量をもつ物体のようだったが。

 と、考える。

 

 静音にはその音は聞こえていなかった。

 それだけ耕作に集中していたのだ。

 しかし耕作が窓を見つめて訝し気な顔をしたので、なにか異変が起きたことには気が付いた。

 何事かと、耕作と同じように視線を窓に向ける。

 

 その瞬間。

 窓から先のものとは比較にならない、すさまじい音が鳴り響いた。

 

 しかもその音は、一回では収まらなかった。

 雨粒などであろうはずがない。

 機関銃で弾丸を撃ち込まれているかのような轟音が、炸裂したのだ。

 

 音が発する衝撃は強烈だった。

 窓だけでなく周囲の壁、さらには部屋中までもが激しく揺れ始めた。

 

「なっ!?」

 

 衝撃のすさまじさに、耕作だけでなく静音までもが、窓と反対側の壁際まで飛びのいた。

 間一髪の間をおいて。

 窓は破砕音とともに砕け散った。

 カーテンも吹き飛んだ。

 

 強化ガラスが幾十、幾百もの欠片となり、大気中にばらまかれる。

 そして光る物体が窓から飛び込み、広い部屋の中を一直線に貫いた。

 物体は耕作と静音の中間地点の壁へ鈍い音を立てて激突し、停止する。

 物体に目を向け、耕作は戦慄した。

 

 それは包丁だった。

 尋常でない勢いで壁に激突したため、刃が根元まで突き刺さっている。

 耕作はつばを飲み込み、そして気が付いた。

 

「あれは、家の!」

 

 そう。

 包丁は、耕作が普段アパートで使っているものだったのだ。

 ということは包丁を運んできたのは……。

 

 耕作がそこまで考えた時。

 部屋の中に様々な物体が、次から次へとものすごい勢いで飛び込んできた。

 

 ハサミやカッターなどの刃物。

 大きな石や釘、ブロック塀の一部らしきもの。

 さらには大人用の自転車までもが。

 窓枠を完全に粉砕し、壁を削り取り、文字通り弾丸のような勢いで部屋へ突入してきたのだ。

 

 それら凶器は勢いのままに床や壁に衝突し、跳ね回った。

 台風の真っただ中に放り込まれたような。

 いやそれ以上の脅威が、耕作の周囲で発生した。

 

「しーちゃん、伏せて!」

 

 耕作は静音に声をかけると、その場にうずくまった。

 多少の怪我は覚悟して、とにかく頭だけは守る。

 身体を縮めて丸くなり、嵐が去るのを待った。

 

 だが凶器の群れは、耕作には襲い掛かってこなかった。

 伏せている耕作の視界は、ほとんど無いといっていい。

 それでもあらゆる方向から激しく物がぶつかる音が聞こえたので、凶器が暴れまわっているのはよく分かった。

 

 しかし耕作にはかすりもしなかったのだ。

 やがて全ての凶器が動きを止めたらしく、部屋には静寂が訪れる。

 

 耕作は顔を上げた。

 部屋中が破壊され、爆撃を受けたかのような惨状となっていた。

 特に祭壇には自転車が突っ込み、原形をとどめないほど破壊されていた。

 かつて窓があった場所にも、今は大穴が開いている。

 夜の冷たい外気が流れ込み、部屋に充満していた甘い香りを吹き飛ばした。

 

 静音は壁際で呆然として、立ち尽くしていた。

 どうやら彼女も無事らしい。

 耕作はそれを見て取って、安堵のため息をついた。

 

 すると同時に。

 部屋の中に最後の、そして最も特徴的な物体が飛び込んできた。

 

 その物体は耕作の目には最初、青く丸い、巨大な球のように見えた。

 回転しながら飛び込んできた物体は、部屋の中央で動きを止める。

 その瞬間、耕作は物体の正体に気が付いた。

 

「あれは確か、俺が使っている毛布……?」

 

 青い物体は、耕作が就寝時に使っている毛布だったのだ。

 今は毛糸玉のように丸くなっている。

 

 毛布は続けて形を崩したかと思うと、高く、天井まで飛び上がった。

 しかし耕作の目は、もうその動きを追ったりはしない。

 先ほどまで毛布があった場所にたたずむ、一人の少女に向けられていた。

 

 少女は黒と白を基調とした、上下そろいのブラウスとスカートを身に着けていた。

 流れる髪は腰に届くほど長く、白・茶色・黒の三色で彩られている。

 頭の上には二つの突起物、猫耳が生えていた。

 美神の愛娘とでも称すべき完璧な美貌の中、黄色い右目と青い左目が耕作をとらえ、涙をにじませた。

 

「コーサク!」

「ミーコ!」

 

 お互いに呼びかけるやいなや。

 二人は共に笑顔を浮かべ、駆け出していた。

 

 

 

 

 しかし抱擁は阻止される。

 鈍く光る物体が、二人の間を豪速で通過したのだ。

 危険を察し、二人は足を止める。

 部屋の一方の壁から、心臓に響くような重低音が聞こえた。

 包丁が先ほどとは別の壁に突き立てられたのだ。

 

 包丁はまたしても根元まで壁に食い込んでいた。

 その様子を見て、耕作は振り返る。

 静音が顔を般若に変え、仁王立ちしているのが目に入った。

 

 耕作は息をのみ、考える。

 壁に埋まった包丁を引き抜き、さらにあれほどの威力で投げつけるとは。

 やはり静音の腕力は尋常ではない。

 

 ミーコに攻撃されて無事で済んだのも異常だ。

 耕作が無傷だったのは理解できる。

 ミーコが守ってくれたのだろう。

 

 だが静音には容赦しなかったはずである。

 頭を伏せていたので見えなかったが、静音はどのようにしてミーコの攻撃を防いだのだろうか。

 

 耕作は一歩、後退して静音を見つめる。

 静音は耕作の、疑わし気な視線に気づいているのかいないのか。

 背筋の凍るような眼光をミーコに向けたまま、微動だにしなかった。

 

 他方ミーコも髪を逆立て牙を剥きだし、静音に勝るとも劣らない恐ろしい表情を見せていた。

 美女と美少女が、今まさに戦いを始めようとしている。

 

 しかし戦端が開かれる前に。

 扉を叩く大きな音が彼女らの耳に届いた。

 

「お嬢様! ご無事でございますか!?」

 

 声の主は加藤だ。

 騒動を耳にして主人の安否を確かめに来たのだろう。

 鍵がかかっているため中には入れないので、必死に扉の外から呼びかけてくる。

 

 静音が扉を一瞥した。

 苛立ちを隠そうともしない、ひび割れた声を出す。

 

「加藤さん。今夜は私の部屋からどんな物音がしても手を出さないように、と、命令しておいたはずだけど?」

「ですがお嬢様、今の騒ぎは一体……!」

「まあいいわ。他の人たちにも改めて伝えて頂戴。今夜これから私の部屋でどんな物音がしようが、どんな騒ぎが起ころうが、手出しは一切無用、とね」

 

 加藤は答えなかった。

 主人の命令と肉親への愛情がせめぎあっているのだろう。

 静音が冷淡きわまりない口調で、再度命令した。

 

「加藤さん、返事は?」

 

 長い無言の時が過ぎた後。

 加藤は答えた。

 

「……かしこまりました」

「もちろん警察への通報も無用よ。分かっている?」

「もちろんでございます」

「じゃあ結構。早く下がりなさい」

「お騒がせしました。ご無礼をお許しください、お嬢様。……失礼いたします」

 

 部屋の外で加藤は必死に表情を消し、頭を下げている。

 耕作には、そんな光景が見えるような気がしていた。



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猫は人につく 二

 静音は扉を無感動な目で見つめていた。

 加藤の気配が遠ざかると顔を再び般若に変え、ミーコへ向き直る。

 

「最悪だわ。薄汚い、どんな病気を持っているかもしれない捨て猫が私の部屋に上がり込むなんて。消毒ぐらいじゃ駄目ね、壁と床板を張り替える必要があるわ。とりあえず、さっさと出て行ってくれる?」

 

 軽蔑心と嫌悪感に満たされた、痛烈な言葉であった。

 しかしミーコが引くはずもない。

 髪を逆立て牙を剥きだし、鬼面をあらわにして、吠える。

 

「コーサクを騙して連れこんだくせに、なに言ってんだこの乳バカ!」

 

 発言の内容は、子供の口喧嘩と大差ない。

 だが裏に込められた殺気は半端ではなかった。

 実際、ミーコの周囲では既に冷気が渦を巻き始めていた。

 部屋中に散乱していた凶器も再び浮上を始めていた。

 

 間違いない。

 ミーコは静音を殺す気だ。

 耕作は悟り、戦慄した。

 

 ミーコと静音、どちらが傷つく姿も見たくはない。

 二人を戦わせる訳にはいかない。

 衝動の赴くまま、彼はミーコに声をかけた。

 

「ミーコ、ちょっと待て!」

「なに?」

 

 ミーコは険しい表情を崩さずに、耕作に顔を向けた。

 

 一方、耕作はというと、言葉に詰まってしまっていた。

 声をかけたはいいが、それからどうするかについては考えていなかったのだ。

 この期に及んで対策を考え始める。

 

 どうしたものか。

 何を話せばいいのだろうか。

 喧嘩はやめろ、などと言ったところでミーコが大人しく引き下がるはずもない。

 なにか良い方法はないだろうか。

 

 沈思する耕作に、ミーコが訝し気な視線を向けてくる。

 耕作は焦った。

 

 まだ考えはまとまっていない。

 それでも行動しなければならない。

 全面的な解決は後回しにして、まずはミーコを落ち着かせよう。

 冷静に話すきっかけを与えるべきだ。

 決断し、口を開く。

 

「そうだ、俺がここにいるってどうして分かったんだ?」

 

 とっさに思い付いた質問ではあったが、これは有効だった。

 ミーコだけでなく静音にも変化が現れたからだ。

 

 静音もミーコ同様、激昂していた。

 今にもミーコに襲いかかるような勢いだったのだ。

 しかし耕作が問いかけた後は、腕組みをしてミーコの返答を待つようになっている。

 耕作の質問は静音も疑問に思っていたところなのだろう。

 

 そしてミーコはというと。

 耕作に質問されて一瞬、目を丸くした。

 それからすぐに成長途中の胸を張ると、得意満面な顔をも見せる。

 そして右手の人差し指を耕作に向けた。

 

「コーサクが持っているスマホの位置情報を調べたんだニャ」

「……へ?」

 

 予想外の答えを聞き、耕作は間の抜けた声を漏らしてしまっていた。

 数瞬の後。

 今度は驚きの声を上げる。

 

「スマホの位置情報って、いつの間にそんなものを調べられるようになったんだ!?」

「ネットで覚えた」

 

 ミーコは腰に手を当てて平然と、かつ得意気に答えた。

 耕作は髪をかき回し、天を仰ぐ。

 

 ミーコの学習能力を甘く見ていた。

 人間になってからのわずかな期間で、そこまでパソコンやインターネットを扱えるようになっていたとは。

 そのおかげで今回、一時的に助かったとも言えるのだが。

 

 でもそうなると、スマートフォンの履歴なども密かに調べているかもしれない。

 これから先、下手な隠し事などはできなくなるだろう。

 そういえば最近、お気に入りだった成人向け動画サイトにつながらなくなっていたが、あれもひょっとして……。

 

 などと、耕作がくだらないことで頭を悩ましている間に。

 ミーコの怒りが再燃した。

 

「コーサクの帰りが遅いから調べてみたら、おまえが家に連れ込んでたとはニャ! よくも騙してくれたなこの乳バカ!」

 

 ここが静音の家だというのもインターネットで調べたのだろう。

 それを知った時、ミーコはどれほど怒り狂っただろうか。

 八つ当たりで自分のアパートもこの部屋に負けず劣らず破壊されてしまったかもしれない。

 耕作は荒れ果てた我が家を想像し、手で頭を押さえた。

 

 この間にもミーコと静音の舌戦は激しさを増している。

 

「私が貴女を騙した? いつ? どこで? 人聞きの悪いこと言わないでくれる?」

「乳に栄養とられすぎて記憶もなくなったか? 話をするのは日曜だったはずだニャ!」

「日曜に約束はしてたわね、それは確かよ。でもそれまでの間こーくんを誘わない、なんて約束はしていないけど? さすが捨て猫、頭の出来が最悪ね」

 

 お互いが火に油を注ぎ合っている。

 二人の怒気は今や業火と化していた。

 耕作もそれを察した。

 場を収めるため、再びミーコに声をかける。

 

「ミーコ!」

「なにかニャ?」

「えー……で、俺の居場所が分かって、どうやってここまで来たんだ?」

 

 耕作のアパートから静音の家までは相当な距離がある。

 歩いてくるのは一晩かかっても無理だろう。

 かといってミーコが普通の交通手段を使うとは思えない。

 

 インターネットでタクシーを呼ぶぐらいはできるかもしれない。

 だがミーコは大量の凶器を持ち出しているのだ。

 そんな客を見ればドライバーも警察に通報するだろう。

 服の中に隠すにしても、限界がある。

 

 と、耕作は疑問に思っていたのだが。

 ミーコの答えは、彼の想像できる範疇をはるかに超えていた。

 

「飛んできた」

「……は?」

 

 ミーコは何を言っているのだろう。

 耕作には、彼女の言葉が理解できなかった。

 ミーコもそれを悟り、答えを繰り返す。

 

「飛んできたんだニャ」

 

 そうか、飛んできたのか。

 二度も同じ言葉を告げられて、さすがに耕作も理解した。

 大声で別の疑問を口にする。

 

「……どうやって!?」

「こうやって」

 

 答えるやいなや。

 ミーコはふわりと、身体を浮き上がらせた。

 二メートル近くも上昇し、その場で滞空する。

 それから気持ちよさそうに宙で一回転し、着地した。

 

 跳び上がったのではない。

 宇宙遊泳のように、空間を華麗に舞ったのだ。

 耕作は口をぽかんと開けてその様子を眺め、今度は完全に理解した。

 

 そうか。

 物体を操る能力を自分の身体に使ったのか。

 よく考えたらさっきも窓から飛び込んできたのだ。

 驚異的な身体能力で猫のように壁を駆け上がってきたかと思っていたが……。

 

 考えてみればミーコの超能力は、冷蔵庫や自転車を含む様々な物体を同時に操れるほど強いものなのだ。

 身体を操るのも簡単だろう。

 ただ漫画などでは「超能力者は自分に対してはその能力を使えない」という設定がお約束になっている。

 だからミーコもそうなのだろうと思い、盲点になってしまっていた。

 

 それに自分のアパートから静音の家まで、長距離を移動させられるだけの能力があるとも思っていなかった。

 初めて超能力を使った時は、包丁一本を動かすのが精いっぱいだったのだ。

 やはりミーコの学習能力と成長速度を甘く見ていた。

 と、耕作は反省した。

 

 しかし、そうだとすると……。

 耕作は胸に、新たな危機感を抱いた。 

 

「ミーコ!」

「なになに?」

 

 耕作の呼びかけに、ミーコは目を輝かせて応じた。

 笑みまで浮かべている。

 質問に答えるたび耕作が驚いてくれるので、嬉しくなってきたらしい。

 

 ミーコの楽し気な様子を見て、耕作もホッとした気持ちになっていた。

 どうやら怒りも収まってきたらしい、と。

 

 ただそれはそれとして、言わねばならないことがある。

 耕作は厳しい声で叱責した。

 

「飛んできたって、そんなことしたら大騒ぎになるだろ!」

「大丈夫だニャ」

 

 ミーコはまたしても胸を張り、鼻を鳴らしてみせた。

 自信満々といったその態度を見て、耕作も安心しかける。

 だが、

 

「誰かに見られても大丈夫なように、あれをかぶってきたから」

 

 と、ミーコが毛布を指さして答えると、頭を抱えうなだれてしまった。

 愕然としつつ、考える。

 

 なるほど、あの毛布はそのために持ってきたのか。

 確かにあれを使えばミーコの身体は隠せるだろう。

 

 だがそもそも、空を飛ぶ毛布、などという存在自体が異常なのだ。

 そんなものが耕作のアパートから静音の家まで遠距離を飛んできたとは。

 深夜とはいえ首都圏の上空を、である。

 相当な数の人々が目撃しただろう。

 今頃は大騒ぎになっているはずだ。

 

 この家にも人が押しかけているかもしれない。

 河原崎家の本邸ともなればセキュリティは高いだろうし、加藤たちもいる。

 だからマスコミや野次馬がこの部屋までやってくるようなことはないだろうが。

 かといって、一晩やそこらで騒動が収まるとも思えない。

 

 静音も耕作と同様の考えを抱いたらしい。

 歯ぎしりをし、ミーコを罵倒した。

 

「余計な騒動まで持ち込んでくれたみたいね。この捨て猫が!」

 

 ミーコも静音に向き直った。

 顔を、耕作に向けていた楽し気なものから一変させる。

 牙を剥きだし目を見開き、鬼面をあらわにして咆哮した。

 

「心配しなくても、こんな淫臭まみれの部屋すぐ出て行ってやる! コーサクを連れて……そしておまえを殺してからな!」

「出ていく必要は、もうないわよ。貴女の身体を、薄汚い髪の毛一本も残らないように踏み潰して、存在自体を消し去ってやるから!」

 

 罵り合いを聞き、耕作は失敗を悟った。

 

 先にも述べた通り。

 耕作はミーコの笑顔を見て、彼女と会話しているうち、どこか安心してしまっていた。

 わずかながらも日常に戻ったような気分になってしまっていたのだ。

 だから、ミーコの怒りも収まりつつある、と思ってしまっていた。

 

 だがそれは誤りだった。

 ミーコの怒りはいささかも衰えていなかった。

 とっくの昔に沸点を突破したまま、溶岩のように煮えたぎり、爆発を続けていたのだ。

 

 静音も同様であった。

 むしろ彼女の場合、耕作とミーコの仲良さげな様子を見させられて、怒りは増していたかもしれない。

 

 二人は臨戦態勢で、いつでも戦端を開けるよう備えていたのだ。

 ところが耕作は安心してしまっていた。

 そのため二人に比して行動が、一歩おくれる。

 

「二人とも、待っ……」

 

 耕作の声は発生した冷気の竜巻と、宙を乱舞する凶器の激突音にかき消されてしまう。

 子猫と令嬢はすでに戦いを始めていた。



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再臨

 情景は一瞬にして凄絶なものとなった。

 

 包丁やハサミ、角ばった石に釘の打ち付けられた木片、さらにはタンスの引き出しから自転車に至るまで。

 様々な物体が紙吹雪のように宙を舞い、旋回し、壁や天井に激突していた。

 

 全ての物体は速度を上げ続けて巨大な弾丸と化し、静音に突進する。

 しかし同時に。

 それら凶器の群れは、ミーコへも襲い掛かっていった。

 

「え!?」

 

 耕作は、思わず声を上げていた。

 

 凶器はミーコが操っているはずである。

 だのになぜ、彼女にも攻撃を始めたのだろうか。

 ミーコが超能力の使い方を誤ったとは思えない。

 ということは、まさか……!

 

 耕作が考える間にも、戦いは激しさを増していく。

 凶器が部屋中のあらゆる場所で衝突し始めていた。

 

 ミーコに突進していたハサミが分厚い本によって動きを止められる。

 一方、静音を包囲した石や岩の群れは、毛布によって薙ぎ払われていた。

 

 全ての物体が弾丸の速度を持ち、さらに意志を持っているかのように動き回っている。

 お互いに衝突し、戦い、激しい攻防を繰り返す。

 その目まぐるしさは、とても耕作の目で追えるようなものではなかった。

 

 耳に届く音もすさまじいものとなっていた。

 物体が宙を旋回する、風を切るような音。

 凶器が激突する甲高い音や物体が砕け散る衝撃音。

 それらの大音が、ひっきりなしに鳴り響いていたのだ。

 

 激烈な戦闘を目の当たりにして、耕作も悟る。

 間違いない。

 静音も超能力を使っている、と。

 異常なまでに強かった彼女の腕力、その正体も超能力によるものだろう。

 

 だがなぜ、静音は超能力を使えるようになったのだろうか。

 彼女の身体には、もう天使はいないのに。

 しかも静音が使う超能力はミーコのそれと酷似している。

 いや似ているというよりも、全く同じものに見えるではないか。

 

 耕作が新たな疑問を抱いた、その瞬間。

 

「死ね!」

 

 ミーコと静音は咆哮した。

 冷気の突風が吹き荒れる。

 室温が、一気に十度以上も低下した。

 暖春から厳冬へと急激に変わった環境に、耕作は肌に痛みすら覚えていた。

 

 そして彼は見る。

 冷気の竜巻が、数を二つに増やしているのを。

 これまでミーコの周囲で渦を巻いていた、白い霧のような冷気。

 それが静音の周りにも発生していた。

 

「……やはり、同じ力!」

 

 耕作は呟き、思い出す。

 今日、静音自身が言っていたことを。

 

 ――私の魂が発揮していた力はあの子……ミーコさんが使っていた超能力と、ほぼ同じ属性を持っていたらしいの。

 

 あの言葉通りなのだ。

 静音が使っている超能力は、ミーコとほぼ同じものなのだろう。

 しかし、そうだとすると……。

 

 耕作の思考は、そこで中断する。

 戦闘がさらに激しさを増したのだ。

 

 どれだけの物体が宙を飛び、舞い、突撃し、そして防御しているのか。

 もはや数えきれない。

 間違いなく百や二百は超えているだろう。

 弾丸が飛び交う戦場の最前線に匹敵するような、いやそれを上回る光景が耕作の眼前で展開している。

 

「すごい……!」

 

 耕作は恐怖しながらも、どこか感嘆したようなため息をもらしていた。

 そして、今さらながらに思う。

 自分はこれほどまでに激しい戦いの至近距離にいながら、なぜ無事でいられるのだろうか、と。

 

 落ち着いて周囲を観察する。

 答えはすぐに分かった。

 耕作の周囲では戦いが発生していなかったのだ。

 台風の目のごとく。

 荒れ狂う室内で、耕作の近くだけは唯一、平穏を保っていた。

 

 凶器も一つたりとも飛んでこない。

 まれに耕作めがけて突進するような動きを見せても、激突する直前で方向を変えている。

 ミーコと静音は尋常でない戦いを繰り広げながらも、耕作だけは守っていたのだ。

 

 そうと気づいた時。

 耕作は戦いを止める方法を、一つだけ思いついた。

 

 それはミーコと静音の中間地点、戦闘の最前線に飛び込む、というものだ。

 二人とも耕作だけは傷つけないようにして戦っている。

 であれば、耕作が二人の間に割って入れば、戦いを中断せざるを得なくなるだろう。

 それから二人を説得する。

 

 だがそれは、自分の身を危険にさらすことでもある。

 耕作は恐怖し、足の震えを自覚した。

 

 耕作はこれまで広い部屋の壁際にいた。

 戦闘の中心からは距離を置いていたのだ。

 だからミーコにしても静音にしても、彼を守れていたのかもしれない。

 しかし最前線に飛び込めば、そうもいかなくなるだろう。

 

 二人が凶器を操作しきれなくなれば、耕作は大けがを負うだろう。

 いや、命さえも失うかもしれない。

 彼女たちの戦いは、それほどに激しいものだった。

 

 二人の間に割って入るべきか、否か。

 耕作も決心しきれずにいた。

 その時。

 

「しぶといわね! 捨て猫じゃなくてゴキブリだわ!」

 

 静音が怒鳴り声をあげた。

 果てしのない戦いに、苛立ちを覚えたのだろう。

 

 耕作は、恐ろしい光景を目撃する。

 部屋の一角に置かれた、巨大な天蓋付きのベッド。

 それが浮き上がっていた。

 

「死ね!」

 

 静音が怒声を上げる。

 ベッドは声に従い、ミーコへ突進した。

 

「ミーコ!」

 

 耕作は叫び、ミーコのもとへ駆け寄ろうとした。

 しかし、とても間に合いそうにない。

 ベッドは信じられないほどの勢いでミーコへ迫っていた。

 

 だが、しかし。

 

「乳がでかいだけのバカ牛が!」

 

 ミーコが吼えた。

 

 その途端。

 宙に浮かんでいた様々な凶器が、一斉に矛先を変えた。

 静音の攻撃を阻止すべく、ベッドへ殺到する。

 

 包丁が突き刺さった。

 石弾が激突する。

 さらには祭壇や自転車までもが、四方八方からベッドに攻撃を加えた。

 機関銃の射撃のような、連続した爆裂音が鳴り響く。

 ベッドは木っ端みじんに吹き飛んだ。

 

 ところが。

 バラバラになったベッドもまた、宙で動きを止める。

 全ての破片が切っ先をミーコに向け、再度おそいかかった。

 

 ミーコはひるまない。

 鼻で笑ったような仕草を見せたかと思うと、再び様々な凶器を操り、応戦していった。

 

 凄絶きわまりない戦いを見て。

 耕作は決断する。

 このままでは取り返しのつかないことになる。

 自分が止めるしかない、と。

 

 死ぬかもしれない。

 少なくとも五体満足で済むとは思えない。

 だが、ミーコと静音を助けるためだ。

 であれば、命を捨ててもかまわない。

 それが自分を、これほどまでに愛してくれた二人への、精一杯の恩返しだ。

 

 耕作は一つ深呼吸をする。

 両こぶしを握り、今だ残っている恐怖の念を取り払うため、頭を二度振った。

 そして床を蹴り、戦場の最激戦区へと駆け出した。

 

 すると、同時に。

 彼の視界が真っ白に染まった。

 

「!?」

 

 耕作は思わず足を止めた。

 ミーコか静音が、新しい超能力を使ったのだろうか。

 そんな考えが脳裏に浮かんだ。

 

 だが、それは誤りだった。

 

「ニャ!?」

「え!?」

 

 ミーコと静音も意表を突かれたような声を上げたのだ。

 それは彼女たちにとっても予想外の出来事が起きている、その証左だった。

 

 物体が床に衝突する乾いた音が、あちらこちらから聞こえてきた。

 ミーコたちの超能力が解除、あるいは阻止され、凶器がまとめて落下したのだろうか。

 あっけにとられつつ、耕作はそう考えた。

 

 視界が白く染まった理由も判明する。

 耕作たち三人の中間地点に、太陽のような、強い光の塊が現れていたのだ。

 

 この光は……。

 まさか!

 

 耕作が悟った、まさにその時。

 部屋中に美しく澄んだ、だがゾッとするような冷たさをも帯びた声が響き渡った。

 

「化け猫、それにそこの死にぞこない、少し頭を冷やすことね。耕作さんの身体を髪の毛一本でも傷つけてごらんなさい」

 

 一拍の間を置いた後。

 声は宣告する。

 

「生まれてきたことを後悔するような目にあわせてやるから」

 

 その声に、耕作は聞き覚えがあった。

 息をのむ彼の前で、光の塊は徐々に姿を変えていく。

 

 人型になり。

 白い衣をまとった少女となり。

 背から白く輝く羽を生やし、やがて頭上に金色の輪を浮かべた。

 

 現れた、神々しいばかりの美少女を見て。

 耕作は叫ぶ。

 

「貴女は!」

「ああ……耕作さん耕作さん耕作さん! どんなに会いたかったことか!」

 

 かつて耕作と恋仲になるため、静音の身体を支配した天使。

 ジーリアが、そこにいた。

 目に涙を浮かべ、歓喜の表情で耕作を見つめている。

 

 耕作は事態の急変に、ただただ唖然としてしまう。

 ジーリアにどんな言葉をかければよいのかも、とっさには思いつかなくなっていた。

 

 その間に、情景は再び変化する。

 室内が今度は黒一色に染まった。

 

「これは……!」

 

 耕作とミーコ、それに静音も声を上げていた。

 その声に呼応するかのように、部屋の様子はさらに姿を変えていく。

 

 広がっていた闇が一隅に収束し始めた。

 集まった闇はどす黒く丸い、不気味としか表現しようのない塊となる。

 その塊もあっという間に形を変えていった。

 

 人型になり。

 黒いタキシード姿の男となり。

 背中から禍々しい、虫のような翅脈が入っている羽を生やす。

 

「どうやら間に合ったようだな」

 

 現れた男――悪魔は爬虫類を思わせる目で、場にいる全員の顔を眺め渡した。



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悪魔は経緯を語る 一

 何が起きている?

 なぜ今になって、天使と悪魔がここに現れた?

 なぜミーコと静音の戦いを止めたのだろうか?

 

 耕作の頭は次から次へと湧いてくる、様々な疑問で埋め尽くされていった。

 だが答えを見つけようとしても、衝撃でまともに考えることもできない。

 愕然とし言葉すら失い、眼前の光景をただ眺め続けた。

 

 ミーコと静音も同様の心境であった。

 共に口をポカンと開け、立ち尽くしている。

 

 静寂によって支配された、部屋の中。

 壁に空いた穴から夜風が流れ込み、カーテンの切れ端や木の葉などを宙に飛ばしていった。

 

 風は勢いのまま、悪魔の長い髪も舞いあげた。

 悪魔は忌々しそうに乱れた髪をかき上げる。

 

「ようやく舞台は整った。茶番に付き合わされるのもこれまでだ」

 

 吐き捨てるようにして放たれた悪魔の言葉に、ジーリアが反応した。

 冷笑を浮かべ、悪魔を罵倒する。

 

「ベルゼブブ! 元をただせば全ておまえの馬鹿げた行動から始まっているのに、なにを他人事のように言っているのかしら?」

 

 ジーリアの声は蔑んだ感情が露わとなった、突き放すようなものだった。

 

 その声を聞き、耕作は我に返った。

 ジーリアの発言には、彼の心に引っかかる単語が含まれていたのだ。

 彼女に向け、声をかける。

 

「天使さん!」

「耕作さん、違います」

「え?」

「どうぞ遠慮なさらずに、私のことは『ジーリア』と、名前でお呼びください」

 

 ジーリアが弾んだ声で要求してきた。

 交際を申し込む少女のように、はにかんだ表情を浮かべ、両手も胸の前で祈るように組んでいる。

 瞳にはいつの間にか恋情の炎が浮かび上がり、本来の青から瑠璃色へと変貌していた。

 

 対する耕作はというと、

 

「この状況、前にもあったような……?」

 

 などと頭の片隅で思いつつ、答えに窮してしまっていた。

 ジーリアがにじり寄るようにして、耕作との距離を詰めてくる。

 その様子を見て、ミーコと静音が騒ぎ始めた。

 

「いきなり現れて何いってんだ、この鳥公!」

「人の身体を勝手に奪った盗人が! 馴れ馴れしくこーくんに近寄らないでよ!」

 

 二人は全速力で耕作の両隣を陣取る。

 ミーコは牙を剥き、静音は眦を釣り上げてジーリアを威嚇した。

 

 他方ジーリアは、無機質な眼差しで恋敵二人を一瞥したのみだった。

 視線を耕作に戻し、先にも勝る情熱と迫力で懇願する。

 

「ねえ、早く呼んで。ジ・ー・リ・ア。さあ早く」

 

 ガラス細工のように完成された美貌も、今や口元が緩み、だらしなく涎を垂れ流していた。

 

 神の使途から淫猥とすら言える表情で迫られて。

 耕作は絶句してしまっていた。

 

 しかし、このままでは話が進まない。

 呼び方を改めない限り、ジーリアはまともに話をしてくれないだろう。

 と、彼は考えた。

 事態を打開するため、思い切って口を開く。

 

「えー、ジーリア……さん」

「んふふ……なんでしょうか、耕作さん」

 

 ジーリアは両掌を頬に当て、幸せを噛みしめるようにしながら答えた。

 

 耕作の左右から、非難の視線が飛んでくる。

 ミーコは涙目で哀願するように、静音は険のある目つきで問い詰めるようにして、耕作を見つめていた。

 耕作はそれらの視線を強引に無視し、ジーリアに問いかける。

 

「そちらにいる悪魔……さんの名前ですが」

「はい」

「ベルゼブブさん、とおっしゃるんですか」

「その通りです」

 

 簡潔な返答を聞き、耕作は息をのむ。

 

 ベルゼブブ。

 その名は、特に信心深くもない耕作ですら知っている。

 数多くの文献に名を残す、大魔王だ。

 そんな相手がミーコを人間にしていたとは。

 

 ジーリアは耕作の驚いた表情を見て、彼の心情を察した。

 両腕を組んで悪魔を睨みつける。

 

「地獄でも特に悪名の高い『蠅の王』ベルゼブブ。こいつが今回、耕作さんにご迷惑をおかけした訳です」

「おいおい。その人間が勝手に右往左往していただけのことだろう。俺の知ったことじゃない」

「何をぬけぬけと……!」

 

 ジーリアはこめかみに血管すら浮かべ、憤怒の表情を見せた。

 他方ベルゼブブは肩をすくめ、おどけたような所作をとっていた。

 態度は違えどお互いを敵視しているのは明白だ。

 

 天使と悪魔の火花が散るような対峙を目の当たりにしつつ。

 耕作はそれでも、心を落ち着けて問いかけた。

 

「ジーリアさん、どういうことですか? ベルゼブブさんは俺たちに何をしたんでしょうか?」

 

 ジーリアは、すぐには答えなかった。

 人差し指で唇をなぞり、考え込むような仕草を見せる。

 それから後、躊躇いがちに口を開いた。

 

「私が説明してもよろしいのですが……」

 

 ジーリアは形のいい眉をひそめる。

 続いて汚物にたかる蠅を見るような、嫌悪感に満ちた目をベルゼブブに向けた。

 

「やはり当事者であるこいつが話すべきでしょう。耕作さんへの懺悔も込めて」

「馬鹿馬鹿しい」

 

 ベルゼブブは間髪入れずに拒否した。

 

「時間の無駄だな。そんなことをして何の意味がある?」

「耕作さんたちにも真相を告げること。それが神様とサタンの指示のはずだけど、もう忘れたのかしら?」

 

 ジーリアが冷静に指摘した。

 ベルゼブブは唇を歪めたものの、渋々といった様子で相手に理があることを認めた。

 

「そうだったな」

 

 呟き、耕作に顔を向ける。

 そして情のない爬虫類を思わせる目で、彼を見据えた。

 

 ただ、それだけのことで。

 耕作の背から大量の冷や汗が噴き出した。

 ベルゼブブは脅迫している訳ではないし、危害を加えようともしていない。

 冷たい目で見つめているだけだ。

 

 それでも耕作は恐れていた。

 古来より悪名を轟かせる大魔王の眼光には、それだけの力があったのだ。

 耕作の身体は蛇に見込まれた蛙のようにすくんでしまっていた。

 

 しかし耕作は思い出す。

 ミーコも以前、ベルゼブブに対峙していたことを。

 

 当時、彼女は一人ぼっちだった。

 そのうえベルゼブブからは露骨に脅迫されたりもしていた。

 それでもミーコは一歩も引きさがらず、ベルゼブブに対抗したのだ。

 耕作の恋人になるために。

 

 ミーコの想いの強さを、耕作は改めて思い知らされていた。

 ならば自分も、ベルゼブブに負ける訳にはいかない。

 心を奮い立たせ、睨み返す。

 

 ベルゼブブがわずかに驚いた顔を見せた。

 ただそれは一瞬のことで、すぐに唇の片端を上げ、耕作から視線を外した。

 そして何事もなかったかのように話し始めた。

 

「事の始まりは、今からおよそ百年前になる」

 

 

 

 

 今からおよそ、百年の昔。

 ベルゼブブは地獄の最下層に居た。

 途方もなく深く暗い地獄の文字通り底の底、最果ての地である。

 

 地獄は全域が人間ではとても生存できない過酷な環境にある。

 古来から伝えられている血の池、針の山といったものも、現実に存在しているのだ。

 おまけに下方へと進むにしたがって、劣悪の度を増していくようになっていた。

 最下層ともなると悪魔でさえ足を踏み入れない場所となる。

 

 気候は絶対零度の極寒と、岩をも溶かすほどの灼熱が交互に襲ってくる。

 それに伴い地は常に姿を変えていた。

 山が隆起したかと思えば、次の瞬間には谷底となったりするのだ。

 大津波が襲ってきたかと思えば、あっという間に氷山となる。

 さらには蒸発して雲になり、雷を落とす。

 

 当然ながらこのような場所に住む生物など皆無である。

 地獄の帝王サタンですら滅多なことでは立ち入らないのだ。

 

 ではベルゼブブはなぜ、そんな場所に居たのか。

 その疑問に彼は、長い黒髪を指先でからめとった後、陶然とした口調で答えた。

 

「サタン様がひるむような場所でも、俺は恐れない。新たな力、可能性を求めて危地に足を踏み入れるぐらい、どうということもない」

「……などと気取ったことを言っていますが、実際はサタンへの反逆を企み、それが露見して追放されただけのことです」

 

 ジーリアが呆れかえった声で、耕作にささやいた。

 ベルゼブブにもその声は聞こえていたらしく、険しい顔で睨みつけてくる。

 天使はどこ吹く風でベルゼブブの視線をやり過ごしていた。

 

 悪魔ですら立ち入らない地獄の最下層。

 となれば当然、他の生物にとっては生活どころか生存すらできるような環境ではない。

 そのはずだった。

 

 ところが。

 ベルゼブブはこの最果ての地からの脱出を試み、あがき、さまよっているうちに。

 ある、不思議なものを見つけていた。



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悪魔は経緯を語る 二

「それは二十粒ほどの小さな種だ」

「種?」

 

 耕作の問いに、ベルゼブブは首肯を返した。

 

 ベルゼブブが見つけた、小さな種。

 それは硬い焦げ茶色の殻で覆われた、一つ一つが指先でつまめる程度の大きさしかないものだった。

 見る限りは植物の種としか思えないだろう。

 

 だがその種は、地獄の最下層という過酷きわまりない環境を生き延びていたのだ。

 どうやってここまでたどり着いたのか。

 なぜ、これまで無事でいられたのか。

 ベルゼブブはその種に疑問と多大なる興味を抱いた。

 そこで種を全て回収し、懐へと納めた。

 

 ベルゼブブはやがて地獄の最下層からの脱出を果たす。

 すぐにサタンの元へ向かい、膝をつき、改めて服従を誓った。

 だが種については黙していた。

 

 その日からベルゼブブは種の研究を始めた。

 過酷な環境を生き抜いた秘密を解き明かすために。

 そして試行錯誤を繰り返し、数多くの失敗を積み重ねた末、彼はついに目的を達成した。

 

「種が秘めていた力……それは他者の感情を魔力に変換するというものだった」

「感情を魔力に変換?」

 

 耕作は再び問いかけた。

 両隣ではミーコと静音が、神妙な顔でベルゼブブの話に聞き入っている。

 

「そうだ。人間にも分かりやすく説明してやろう」

 

 ベルゼブブの低く重い、しかしよく通る声が部屋中へ浸透していった。

 

 魔力とは。

 悪魔や天使が魔法、あるいは超能力と呼ばれる不思議な力を使う際、燃料となるもののことだ。

 基本的には悪魔や天使、個人個人の体内に蓄積されている。

 彼らはそれを消費して宙に浮いたり火の玉を作ったりといった奇跡を起こす。

 つまり魔法を使う際には本来は代償が必要となるのだ。

 

「ところがその種は他者の感情、喜怒哀楽などを取り込み変質させ、魔力へ作り替えることができた」

 

 感情は心の中にあるものだ。

 使えば消費するといった類のものではない。

 ある意味、無限に湧き出てくるものとすら言える。

 

 無限に発生する感情を、燃料へ変換する力。

 それは「無」から「有」を生み出すもの、とすら言えるだろう。

 その可能性は計り知れない。

 

「種が自然に生まれ出でたものなのか、誰かがなんらかの意図をもって作り出したものなのか、それは今も不明だ」

 

 だが仮に、何者かによって作り出されたのだとしたら。

 種が地獄の最下層に放置された理由についても、ある程度は想像がつく。

 

「種の力は、作成者が想定していた以上のものだったんだろう。だからその可能性と危険性を恐れて、地獄の底に捨てたのだ」

 

 と、ベルゼブブは述べた。

 

 だが種は過酷きわまりない環境をも耐え抜いた。

 種の力となったのは、やはり他者の感情であろう。

 

 サタンによって地獄の最下層へ落とされた悪魔たち。

 彼らの恐怖や憤怒、あるいは絶望といった負の感情を取り込み、力に変えていたのではないだろうか。

 と、ベルゼブブは考えている。

 

 種の秘密を解明した後。

 ベルゼブブはさらに長い時間をかけ、種を改良していった。

 その可能性を最大限に引き出し、己の力とするため。

 強力な魔道具に作り替えていったのだ。

 

 ベルゼブブはやがて、満足できるだけの試作品を三つ完成させる。

 その能力はどのようなものなのか。

 ベルゼブブは得々と説明を始めた。

 

「種を何者かの体内に埋め込むと、種はその人物……まあ宿主とでも言おうか、そいつの身体と完全に同化し、願いをかなえるための魔法を発動させる。その際には、宿主の感情を魔力として使う」

「……」

「だが種が使える魔法は一粒につき一つきりだ。最初に使った魔法を、その後も延々と使い続ける。もっとも宿主の感情が高まるようなことがあれば、その時は魔法の効果もより高くなる」

 

 ベルゼブブの話を聞き、耕作は戦慄する。

 彼は理解したのだ。

 種が持つ能力の可能性と、底知れぬ恐ろしさを。

 

 種は感情を力に変える。

 そして人間が抱く感情は、当人の願望と深いかかわりがある。

 大抵の人間は願いがかなえば喜ぶし、希望に沿わないようなことがあれば悲しむか憤るだろう。

 ということは、種は宿主の願望が強くなるほど力を増していくことになる。

 

 さらに言えば人の願望や欲望には際限がない。

 可能であれば全てを手に入れたいと思う、それが人間なのだ。

 

 例えば幼い子供がスポーツを始め、プロ選手になる夢を抱いたとする。

 そして実際に夢をかなえたとして、それで満足するだろうか。

 勿論そういう人物も皆無ではないだろう。

 

 だが多くの場合、より上を目指していくはずだ。

 日本一の選手になりたい。

 さらには世界一の選手になりたい、という欲が出てきて当然である。

 

 権力を求める者となれば、この傾向はより顕著になる。

 歴史上に現れる独裁者の中には、権力欲の果てに自国だけでは収まらず隣国をも併呑した者が数多くいる。

 世界制覇までをも目指した例もあるのだ。

 

 だが多くの場合、願望はやがて本人の能力を追い越し、実現不可能なものとなる。

 そうなると多くの人は自分の夢に見切りをつけ、欲望を封じ込め、妥協点を見出す。

 

 あくまで夢を追い求める者もいるかもしれない。

 だがその場合、結局は挫折する羽目になる。

 独裁者が野望の果てに自滅するのは歴史上によくみられる事例だ。

 

 だが、願いが強くなるに従い、自分の力も増していくとしたら?

 欲望に比例して、より強大な力を得られたならば?

 そんなことが可能となれば、その人物はやがて神にも届くような力を得るかもしれない。

 

 ベルゼブブが求めていたものは、それだった。

 無限の力を彼は欲していたのだ。

 

 試作品を完成させた後。

 ベルゼブブは自らが種を使う前に、まず誰かで効果を試そうと思いついた。

 

 しかし地獄の住人に使うのはまずい。

 他の悪魔に力を与えたりすれば、ベルゼブブの強敵にもなりかねない。

 やはり人間界にいる、弱小な存在で試してみるのが良いだろう。

 と、ベルゼブブは結論を出した。

 

「それでなぜ、ミーコを選んだんだ?」

 

 耕作が険しい顔で問いかけた。

 つまりベルゼブブはミーコを実験台としたのだ。

 その事実によって、耕作は強烈な怒りを呼び起こされていた。

 

 ベルゼブブは鼻で笑うような仕草を見せ、答える。

 

「理由は簡単だ。そこの小娘の願いは、おまえに恋人を作りたいというだけのものだった。それならば力を得たとしても大きな問題とはなるまい」

 

 激しい出世欲や強烈な権力志向の持ち主に種を使えば、世界を覆すような事態にもなりかねない。

 それでは悠長に実験を見守る訳にもいかなくなる。

 ベルゼブブはその点を危惧していた。

 

「それに……」

 

 ベルゼブブは視線をジーリアに向けた。

 天使からは鋭い刃のような、殺気に満ちあふれた視線が返ってくる。

 ベルゼブブは唇の端を上げ、嘲笑うような声をも出した。

 

「そこの天使がおまえの周りでウロチョロしていたのが見えたからな。種が天使に対抗して、どの程度の力を発揮するのかも分かるとなれば、これは好都合だ」

 

 己の実験によって他者にどんな影響が及ぼうがかまわない。

 観察対象としては、むしろ喜ばしい。

 ベルゼブブの言葉からは彼が他者に向ける、残酷な感情が透けて見えていた。

 

 耕作の怒りが、さらに激しく燃え上がる。

 激情の赴くまま両こぶしを握り奥歯をかみしめ、ベルゼブブを睨みつける。

 

 だがベルゼブブは神話にも名を残す大魔王だ。

 耕作の眼光などに怯むはずもない。

 涼しい顔で話を続けていった。

 

 ミーコと契約し彼女に種を埋め込んだ後。

 ベルゼブブは実験の経過を見守るため、あらかじめ種に仕掛けておいた通信手段を使い、定期的に様子を探っていた。

 

 結果は満足できるものだった。

 種はミーコの願いをかなえ、彼女を人間にし、さらに恋敵を退けるための超能力をも与えた。

 発動した魔法も時と共に強さを増していった。

 

「そういうことか」

 

 耕作は心の中でつぶやいた。

 

 ミーコの超能力が次第に強くなっていった理由が、これではっきりした。

 あれは彼女が胸に抱く、耕作への愛情がより深まったので、それに応じて強さを増していったのだ。

 

 ミーコの学習能力が異常なまでに高かったのも同じ理由だろう。

 彼女を人間にした魔法がさらに力を発揮し、身体を成長させたのだ。

 ミーコは耕作を愛すれば愛するほど、より強く、賢く、美しくなっていく――。

 

「しかし問題が二つあった」

 

 ベルゼブブの様子が、嘲り笑うようなものから一変した。

 苛立たし気に髪をかき上げ、ミーコを見つめる。

 

 ミーコは牙を剥きだした。

 

「問題? なんのことだ!」

「種が魔法を発動する順番に狂いがあった」

「……ニャ?」

 

 ミーコは威嚇する姿勢を崩さないながらも、眉をひそめた。

 耕作と静音も緊迫感を保ちつつ、怪訝な表情を見せる。

 ベルゼブブは彼らの様子を眺めやったのち、苦虫を嚙み潰した表情で語り始めた。

 

 先にも述べた通り。

 種は宿主の願いをかなえるため、魔法を一つだけ発動させる。

 つまり今回で言えばミーコの願いをかなえるために三つの魔法が使われるはずだった。

 

 ただし種がどのような魔法を発動させるかについては、ベルゼブブにも分からなかった。

 種が宿主の願いを受け入れ、それを実現させるのに最もふさわしい魔法を選択し、実行する時。

 そこにベルゼブブの意志が介入する余地はなかったのだ。

 

 だがそうなると、種が同時に魔法を使えば、三つが三つとも同じ魔法を選択してしまうかもしれない。

 それでは願いをかなえるためだけでなく、実験という面からもあまり喜ばしくはない。

 と、ベルゼブブは考えた。

 

 そこで彼は、三つの種が段階を踏んで魔法を発動するように調整をした。

 具体的に言えばミーコが耕作への愛情を深めるにつれ、それに応じて順次魔法を発動させるようにしたのだ。

 こうすればミーコの願いが実現に近づく度に、その状況に最もふさわしい魔法が使われるだろう。

 ところが。

 

「種は小娘を人間に変えると、すぐに物体や熱を操る超能力をも与えていた」

 

 二つの魔法がほぼ同時期に発動した。

 しかもその後、ミーコの愛情は高まり続けていったにもかかわらず、三つ目の魔法はまだ使われていない。

 ベルゼブブは調整を失敗していたのだ。

 こうなると実験についても想定できない要素が大きくなってくる。

 ベルゼブブにとって、これは頭の痛いところであった。

 

「そして俺が想定していなかった、もう一つの問題は」

 

 ベルゼブブは言葉を切った。

 視線を耕作の隣に居る、女性へと向ける。

 それからゆっくりとした動作で、右手人差し指を彼女に突き付けた。

 

「河原崎静音、おまえが生き返ったことだ」



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悪魔は経緯を語る 三

 耕作は、静音が息をのむ音をはっきりと聞いていた。

 腕には彼女の手がかかり、爪を立てるほどに強くしがみついてくる。

 思わず横に目を向けると、静音の顔は常より白さを増していた。

 

 静音がおびえている。

 耕作は察した。

 前へ進み出て、ベルゼブブに対峙する。

 

「詳しく説明してもらおうか」

「そこの女が生き返ったのも種の力によるもの、ということだ」

「種は全部ミーコに使ったんじゃないのか!?」

「その通りだ。だがな……」

 

 ベルゼブブは耕作と静音の顔を見比べた。

 舌打ちの後、声を出す。

 

「河原崎静音が抱いていたおまえへの愛情、それが問題を引き起こした」

 

 静音の身体には幼い頃から抱き守り続けた、耕作への強い想いがあった。

 ミーコに使われた種が力の源泉にしていたのも、耕作への愛情だ。

 この二つの感情は、悪魔などの目から見ると実によく似た性質を持っていた。

 

 そのためミーコが静音を殺そうと超能力を使った、あの時。

 驚くべきことが起きてしまった。

 種の力が静音の想いにも同調してしまったのだ。

 同調した力は静音の感情に浸透し、身中に入り込もうとすらした。

 

「だがそれだけなら、問題はないはずだった」

 

 いくら同調したと言っても本来はミーコのものだった力だ。

 静音と完全に融合できるはずはない。

 おまけに静音はその時、超能力によって体液を沸騰させられ、肉体を滅ぼされている。

 彼女にとりついた種の力もそれで消滅するはずだった。

 

 ところが。

 

「そこにいる天使が、即座に身体を生き返らせてしまった」

 

 ベルゼブブが吐き捨てるようにして言い、ジーリアに目を向けた。

 ジーリアは「ふん」と言ってそっぽを向いている。

 

 だが実際、ベルゼブブが発言した通りだった。

 ジーリアが静音の身体を再生させたため、静音に融合しつつあった種の力までもが蘇ってしまったのだ。

 復活した種の力は再生を続け、遂には種へと戻ってしまった。

 

「つまり河原崎静音、おまえの体内には小娘と同じく種が埋め込まれている」

 

 と、ベルゼブブは断言した。

 

 耕作は驚き、同時に納得する。

 だから静音の超能力はミーコのそれとほぼ同じものだったのだ、と。

 

 再生した種は静音の身体と同化し、願いをかなえるために魔法を発動させた。

 静音の願いはミーコと同じ――耕作の恋人になりたい、というものだ。

 種はまず魂を呼び戻し、静音を生き返らせようとした。

 

 天国が大騒ぎになったのも、この時だ。

 天使たちは静音の魂が勝手に生き返ろうとし始めたのを見て、慌てふためいた。

 だがその中で、サラサはいち早く悪魔の力が介入していることに気が付いた。

 

 彼女は急ぎジーリアに警告を与えた。

 それから他の天使たちの助力を受け、さらに調査を進めていく。

 そして力を及ぼしている悪魔がベルゼブブだということも突き止めた。

 

 天国は事態解決のため非常手段を使う。

 地獄と連絡を取ったのだ。

 そしてサタンを通じ、ベルゼブブに問題を解決するよう促した。

 

 サタンに呼び出され事情を聞かされて、ベルゼブブは愕然とした。

 天国で起きている事態についてまでは彼も把握していなかったからだ。

 

「死者を生き返らせる力など、さすがに物騒きわまりない」

 

 生と死のことわりすらも覆しかねない力だ。

 ベルゼブブとしても呑気に実験を見守る訳にはいかなくなった。

 全てを白紙に戻すため、急ぎミーコの元へ駆け付け、契約解除を申し出る。

 

 だがミーコに拒否されてしまった。

 そこで彼女を脅迫し、無理やりにでも契約を解除させようとしたのだが。

 

「下手に小娘を刺激すれば、三つ目の魔法が発動するかもしれん」

 

 そんなことになれば、事態はより厄介なものになってしまうかもしれない。

 その考えがベルゼブブを思いとどまらせた。

 やむを得ず地獄に引き上げ、サタンに経緯を報告する。

 以降は天国と地獄で協議を行い、対策を検討していた。

 

 だが。

 

「しばらくして、そこの死にぞこないが生き返ってしまいました」

 

 ジーリアが無念そうに呟いた。

 

 静音の魂が、遂に身体へ戻った。

 ジーリアは静音の身体から引き離され、強制的に天国へ戻されてしまう。

 この時点でジーリアは妖魔、つまりミーコを処分するという使命を果たしていない。

 本来であれば罰を下されるはずであった。

 

「ですがその時の私は、自分の意志で天国に戻った訳ではありませんでした。それに事態の当事者でもあります。そこで『事態解決に尽力するように』という理由で処分は保留されました」

 

 以降、ジーリアも天国と地獄の協議に参加するようになった。

 

 ちなみにこの時点で協議がどこまで進んでいたかというと。

 情けないことに、結論には到底たどりつけそうもない状況となっていた。

 

 天国は主張した。

 死者を勝手に生き返らせるような力を作り出すとは、言語道断である。

 天国と地獄と、人間界。

 これらの関係を根本から覆すことにもなりかねないではないか。

 地獄とベルゼブブは猛省し、全面的に責任を負わなければならない。

 

 地獄は反論した。

 静音が生き返ったのは、そもそも天国の魂管理に不備があったためであろう。

 自分の失態を棚に上げて何をほざくのか。

 全ての責は天国が負うべきである。

 

 と、非難を応酬し責任をなすりつけ合い、まともな話し合いにすらなっていなかったのだ。

 結論が出るなど夢のまた夢、と言っても過言ではない惨状であった。

 

「それじゃなぜ、お二人はここに来られたんですか?」

 

 耕作が問いかけた。

 ジーリアが腕を組み、答える。

 

「そこの化け猫と死にぞこないが戦い始めたからです」

 

 ベルゼブブも無言で頷いていた。

 

 ミーコと静音が真っ向から殺し合いを始めた。

 種を内に持つ二人の女性が、感情を爆発させたのだ。

 このままでは最後の種が魔法を発動させるのも時間の問題である。

 

 ここに至って天国と地獄、二つの陣営は不毛な議論をやめ、重い腰を上げた。

 天国はジーリア。

 地獄からはベルゼブブ。

 各々の陣営で事態に最も深くかかわっていた二人を代表として人間界に派遣し、解決に当たらせることとしたのだ。

 

「さっさとこうしていれば、この程度の問題などすぐに解決できていたものを。天国の連中は舌を回すだけで頭の使い方を知らない、無能ぞろいだ」

「さんざん屁理屈をこねて話し合いを引っ掻き回したおまえらに言われたくないわね」

 

 ベルゼブブとジーリアが、罵倒の言葉を交わしあっている。

 お互いに相手を心の底から忌み嫌っているというのが、その会話からもよく分かった。

 その二人が共闘するとは。

 おそらく奇跡的な出来事なのだろう。

 

 だが耕作はそんな奇跡を目の当たりにしても、安心はできなかった。

 元来、楽観的な性格ではないということもある。

 従って、

 

「天使と悪魔が手を組んだからこれで全てが解決する、万々歳だ」

 

 などとはとても思えなかったのだ。

 それにこれまでの経験によって、地獄どころか天国にも無情な面があるのは身に染みていた。

 

 悪い予感がふつふつと沸き起こってくる。

 耕作は頭を振ってそれら負の感情を心の隅に追いやり、問いかけた。

 

「事態を解決するにしても、どうするつもりなんですか?」

「耕作さん、心配は無用です」

 

 ジーリアは両手を腰に当て、薄い胸を張った。

 得意気な顔をも見せ、宣言する。

 

「私は神様から、ベルゼブブはサタンから。それぞれ強権をさずかってきました」

「強権?」

「はい。事態を解決するためなら如何なる手段を用いても構わない、という強権です」

 

 ジーリアの説明を聞き。

 耕作の心中に、すさまじい勢いで不安感が増大していった。

 

 耕作の変化に気づいているのかいないのか。

 ジーリアは嬉々として説明を続けていた。

 

「今の私は、本来なら最終戦争の時にしか使えないような、真の力をも発揮できます。これによって……」

「……」

「全てを、完璧に解決して見せますわ」

 

 ジーリアは耕作を安心させるため、微笑を浮かべた。

 

 だがその笑みは、美しく自信に満ち溢れていると同時に、どこか酷薄にも見えるものだった。

 他者の思惑など関係ない、圧倒的な力で全てを押しつぶしてみせる。

 そう宣言しているかのような、独裁者にふさわしい笑みであった。

 

 悪い予感が的中したことを、耕作は悟った。

 顔どころか体中から血の気が引いていく。

 

 ベルゼブブがミーコに声をかけた。

 

「小娘」

「なんだ!」

「最後にもう一度きいておくが、契約を解除するつもりはないか?」

「断る!」

 

 間髪を入れずに、ミーコは拒否していた。

 ベルゼブブは怒らなかった。

 むしろ楽し気な様子を見せたかと思うと、周囲を睥睨し、高らかに宣言する。 

 

「それではまず、今回の件で生まれてしまった想定外の副産物、それを処分するとしよう」

 

 悪魔は右手人差し指を、再び静音に突き付けた。

 

「河原崎静音。おまえの身体から種を回収する」

「え?」

 

 静音は驚き、声を上げた。

 続いて探るような視線をベルゼブブに向け、質問する。

 

「……私はどうなるの?」

「種の力を失うからな。おまえは死ぬことになる」



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二度目の別れは残酷で 一

「嫌よ!」

 

 静音は絶叫した。

 

 散乱していた包丁やハサミ、釘や石片などの凶器が一斉に浮き上がった。

 静音の身体からは冷気が放出され、周囲にゆっくりと渦を巻いていく。

 激情のおもむくまま、彼女はさらに叫んだ。

 

「嫌よ、絶対に嫌! せっかく生き返れて……ううん、そんなことはどうでもいい」

 

 静音は耕作に目を向ける。

 

「本当の私を取り戻して、こーくんに再会できたのに。また天国なんかへ戻されるなんて、絶対に嫌よ!」

 

 その声は、怒号とも悲鳴ともいえるものだった。

 しかしベルゼブブに動じる様子はない。

 それどころか薄笑いさえ浮かべていた。

 

「そうはいかんな。おまえの魂とおまえの中にある種は、ここに存在してはならないものだ。あるべき姿に戻さねばならん」

 

 冷淡な返答を受け、静音は怒りをさらに燃え上らせた。

 まなじりを釣り上げ、顔を鬼面へと変える。

 凶器の群れも急激に速度を上げていた。

 

「ちょっと待ってくれ!」

 

 耕作がベルゼブブに向け、抗議の声を上げた。

 これまでベルゼブブの話に愕然とし、さらに静音の迫力にも圧倒されていた彼ではあったが。

 事ここに至って、ようやく我を取り戻せていた。

 

「しーちゃんは今までずっと、辛く苦しい人生を送って来たんだ。でもようやく解放されて、本当の人生を始められるようになった。それをここで終わらせるなんて、あんまりだ。だから……」

 

 耕作は必死に、真心を込めて説得している。

 だがベルゼブブに通用するはずもない。

 悪魔は今も嗜虐的な笑みを浮かべたまま、耕作の話を露骨に聞き流していた。

 

 ベルゼブブに話しても、らちが明かない。

 耕作は悟った。

 説得する対象をジーリアに切り替える。

 

「ジーリアさん、お願いです! しーちゃんを殺さないでください!」

 

 ジーリアからの返答はない。

 無表情かつ無言のまま、腕を組んでいる。

 

「ジーリアさん!」

 

 耕作が再び呼びかけた。

 彼の両隣では二人の女性が、異なる表情で事態の推移を見守っている。

 

 静音は悔し涙が浮かんだ目を、ジーリアに向けていた。

 歯を食いしばった面容からは憎悪と無念、そしてわずかながらの期待といった複雑な感情がうかがえる。

 彼女は今、藁にもすがるような気持ちでジーリアの返答を待っているのだろう。

 

 他方、ミーコはというと。

 こちらは耕作の右腕を抱きしめ、彼にぴったりと寄り添っていた。

 そして刃物のように鋭い眼差しをジーリアと、そして静音にも向けている。

 

 ジーリアはしばらくの間、耕作たちを眺めていたのだが。

 やがて首を横に、二度ふった。

 

「いくら耕作さんの頼みでも、それは聞けません」

「そんな!」

「その死にぞこないの魂は人間界に存在してはならない、それは事実です。それに……」

 

 ジーリアは口と目を閉じた。

 耕作は唾を飲み込み、彼女の言葉を待つ。

 

 数瞬の後。

 ジーリアは重くひび割れた、地獄の大魔王にこそ似つかわしいような、とてつもなく恐ろしい声を出した。

 

「それに、私が貴方にまとわりつく女を許すとお思いですか?」

 

 宣告と共に、ミーコと静音を睨みつける。

 その双眼には嫉妬の暗い炎が渦を巻き、青かったはずの瞳をも濃暗色に変貌させていた。

 

 耕作は絶句する。

 だが、ここで引くわけにはいかない。

 なんとかしてジーリアの翻意を促そうと、口を開いた。

 

 だがしかし。

 彼には、話す間も与えられなかった。

 ジーリアが指を高く鳴らした、その瞬間。

 

「えっ!?」

 

 耕作とミーコと、静音。

 三人は見えない力によってそれぞれ別の方向へと、猛烈な勢いで吹き飛ばされていた。

 

 鈍くも激しい衝突音が鳴り響く。

 衝撃によって、部屋が大きく揺さぶられた。

 ミーコと静音が壁に叩きつけられたのだ。

 

「かはっ……!」

 

 二人はともに、激突の衝撃で息ができなくなってしまう。

 背中には激痛が走っていた。

 二人は力なく壁からずり落ち、そのまま床に転がってしまう。

 

 二人の腕が見えない力で後ろへ回り、ひねりあげられる。

 新たな激痛に、二人は苦悶の声を上げた。

 続いて両腕と両ひざに、見えない輪のようなものがはめられる。

 天使の力によって拘束されたのだ。

 

 一方、耕作も危険に直面していた。

 と言っても、壁に叩きつけられた訳ではない。

 彼もまた見えない力で吹き飛ばされてはいたのだが、ミーコや静音と違いすぐに減速している。

 そして背後から、誰かに身体を受け止められていた。

 

 耕作の鼻腔に甘く瑞々しい、煩悩を刺激する芳香が飛び込んでくる。

 小さな腕と足が後ろから進み出て、上半身にからみついてきた。

 服を隔てても分かるほどの、なめらかで柔らかな感触を持つ肌が背中に密着する。

 背後の人物が、耕作にささやいた。

 

「つかまえた」

 

 その声は弾み、心底からの喜びにあふれたかのような響きがあった。

 だがそれを聞かされた耕作は、ゾッとするような寒気を覚えている。

 

「ジーリアさん!」

「もう離しません」

 

 ジーリアは耕作に頬ずりをし、さらには全身もこすりつけてきた。

 動物が甘えるような仕草である。

 

 しかしその動きは、どこか淫猥だった。

 ジーリアは頬を朱に染め、目も陶然とさせている。

 二枚の美しい羽根も広く大きく、限界まで広がり、彼女の喜びを表しているかのようだった。

 

 天使の愛情と執心を直に感じさせられて。

 耕作は喜ぶどころか、さらに恐怖していた。

 

「離してくれ!」

 

 叫び、必死にジーリアを振りほどこうとする。

 

 しかし彼女はびくともしない。

 小さな身体からは想像もできないほどの強大な力で耕作を捕らえ、離さない。

 さらには彼を抱えたまま宙に浮かび上がっていった。

 

 しまった!

 と、耕作は思った。

 

 これでは抵抗するのも逃げ出すのも難しくなる。

 ……いや、自分のことはどうでもいい。

 だがこれでは、ミーコや静音を守れなくなる。

 いざとなったら自分の身を盾にしてでも、彼女たちを助けるつもりだったのに。

 

 耕作は考え、自分のうかつさを呪い、奥歯をかみしめた。

 

「耕作さん、耕作さん、耕作さん……。私はずっと貴方を、貴方だけを見ていました。好きです。愛しています。……いいえ、私が耕作さんに抱くこの気持ちを表すには、『愛』という言葉ですら足りません。ああ、でも言わずにはいられないんです。耕作さん、耕作さん、耕作さん……愛しています!」

 

 耕作の心情に気づいているのかいないのか。

 ジーリアはひたすら耕作へ愛の告白を繰り返し、抱き着く力を強め、唇が届くところであれば所かまわず接吻していた。

 

 その様子を見て、ミーコと静音は激昂した。

 

「鳥公、貴様! コーサクを離せ! ぶっ殺してやる!」

「こーくんになにするのよ、この盗人!」

 

 拘束され床に転がっている状態ながらも、超能力を発動させる。

 冷気の竜巻が発生し、凶器が群れを成して激しく暴れだした。

 だが。

 

「無駄だ」

 

 ベルゼブブが呟き、右手を翻した。

 そのわずかな所作だけで、全ての凶器が動きを停止する。

 床と凶器が衝突する乾いた音が、あちこちで鳴り響いた。

 冷気の竜巻も姿を消している。

 

 まるで勝負にならない。

 圧倒的な力の差を目の当たりにして、耕作たちは言葉を失っていた。

 

 ベルゼブブは何事もなかったかのように歩みを再開する。

 向かう先には顔を蒼白にして後ずさる、静音の姿があった。



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二度目の別れは残酷で 二

 静音は恐怖に目を見開き、髪を振り乱し、震える声をも出していた。

 

「嫌よ……! 天国へなんか戻りたくない!」

 

 拘束された身体を懸命に動かし、床をはいずって逃げ出そうとする。

 その姿は、あまりにも悲痛なものだった。

 

 耕作の目から光る雫が落ちる。

 

「しーちゃん! 頼む、やめてくれ。お願いだ……」

 

 耕作は顔を伏せ、懇願した。

 ジーリアに捕らわれていなければ、間違いなく土下座もしていただろう。

 

「頼む、ジーリアさん、ベルゼブブさん。しーちゃんを助けてくれ……」

 

 天使と悪魔という強大な相手に対し、彼はあまりにも無力だった。

 できることと言えば、こうしてなりふり構わず慈悲を請うことしかなかったのだから。

 

 しかし懇願をつづけたところで、ベルゼブブには無意味であろう。

 ジーリアに至っては嫉妬心を煽ることにもなりかねない。

 それは耕作にも分かっていた。

 

 ただ今の彼には、静音を助ける方法はこれしか思い浮かばなかったのだ。

 だから万が一、いや億が一の可能性に賭け、頭を下げ続けていた。

 

 だが、その必死な思いはもろくも踏みにじられる。

 ジーリアが耕作の泣き顔を見て、次に静音を一瞥した後。

 能面のように無感動な顔で、耕作にささやいたのだ。

 

「耕作さん、あの死にぞこないがそんなに大事なんですか?」

「そうです! だから……」

「あいつは耕作さんを騙したんですよ?」

「え?」

 

 意外な言葉を受け、耕作は顔を上げる。

 ジーリアは静音を顎で指し示した。

 

「先刻あいつは『悪魔祓いの儀式を行う』と言って耕作さんと交わろうとしていましたが、あれは嘘です。あんな方法の悪魔祓いは、存在しません」

「じゃあ……」

「そう。あいつは嘘をついてまで、耕作さんと既成事実を作ろうとしていたんです」

 

 耕作は絶句し、静音に目を向ける。

 

 静音はハッとした表情になっていた。

 それから数度、口を開いて何かを言いたげな素振りを見せる。

 だが結局、唇をかみしめて耕作から目をそらしていた。

 

 ジーリアの発言は正しい。

 静音の所作によって、耕作もそれを悟った。

 

「出されたコーヒーを飲まなかったのも、良い判断でした。あれには媚薬が混入されてましたから」

 

 ジーリアは今や嬉々とした様子で話し続けている。

 

「つまりあの女は、耕作さんの信頼に値しない存在なんです。涙を流す必要もありません。その涙は……」

 

 ジーリアは白く細く、そして小さな指先で耕作の頬を撫で、涙をすくい取った。

 指先に集まったそれを、甘露を味合うかのように舌でなめ上げる。

 

「私にこそ相応しいものです」

「うるさい、この盗人! あんただってこーくんを騙して抱かれようとしていたくせに!」

「コーサクから離れろ、鳥公! その羽むしり取って身体をバラバラにして、豚の油で揚げてやる!」

 

 ミーコと静音は憤激し、様々な罵詈雑言を浴びせてきた。

 しかしジーリアは堪えない。

 舌を艶めかしく動かし、耕作の耳から頬、さらに唇から首筋に至るまでをなめまわしていた。

 

 耕作は身じろぎして逃げ出そうとした。

 ジーリアは許さない。

 より強くしつこく、両腕両脚を耕作の身体に絡みつかせ、彼の動きを封じていく。

 

「耕作さん、なぜ拒むんですか? 私にお任せくだされば、耕作さんの人生を至上の快楽と幸福で埋め尽くして差し上げます。だから暴れずに……ああ、でも……嫌がる耕作さんも可愛い……」

 

 ジーリアは完全に発情していた。

 頬を朱に染め、目を潤ませ。

 首元まで涎を垂らしながら、耕作へむしゃぶりついている。

 そして耕作への甘言と、ミーコと静音を貶める発言を繰り返していた。

 

 ミーコと静音の、発狂したかのような声が部屋中に満ちていった。

 二人は唇を噛みちぎり血涙すら流す勢いで、呪詛の言葉をジーリアへ放っている。

 当然ながら超能力で攻撃しようともしていた。

 だが発動させた超能力は、すぐにジーリアとベルゼブブによって無効化させられてしまっていた。

 

 悲鳴と怒声だけが続いていく、そんな状況の中。

 沈黙を保っていた耕作が、遂に口を開いた。

 

「いや……だとしても、かまいません」

「え?」

「しーちゃんのことです。彼女は大切な幼馴染なんです」

 

 耕作の声には、迷いもためらいもなかった。

 ジーリアも興奮が引いてしまったかのように、動きを止めている。

 

「俺を騙したのも、俺を想ってくれて、考えた末にそうしたんだと思います。だからかまいません」

「こーくん……」

 

 静音は耕作を仰ぎ見て涙を流し、笑顔を浮かべた。

 耕作も彼女を見つめ返し、微笑みで答える。

 

 その様子を見て。

 ジーリアは即座に美貌を歪め、悪魔などよりもはるかに恐ろしい顔を見せた。

 

「そう、ですか」

「はい。ですからジーリアさん、しーちゃんを……!」

「なおさら許せません」

 

 耕作にそれ以上、哀願する間を与えずに。

 ジーリアはベルゼブブに向け、叫んだ。

 

「ベルゼブブ、何をしている!? さっさと事を進めなさい!」

「ん? なかなか面白い見世物だったのに、もうやめるのか?」

「貴様!」

 

 ベルゼブブは肩をすくめ、薄笑いを浮かべる。

 それからゆっくりと静音に歩み寄った。

 

「おまえの抵抗は見苦しくはあったが、だからこそ興のあるものでもあった。馬鹿馬鹿しい任務の暇つぶし程度にはなったからな、礼を言わせてもらおう」

 

 静音は拘束された身体を必死に動かし、後ずさっている。

 だが背後に壁がある以上、その抵抗もすぐに終わってしまった。

 

 追い詰められた静音を見て。

 ベルゼブブは笑いを収め、冷然と告げた。

 

「だが、これで終わりだ」

「嫌よ、冗談じゃないわ!」

 

 静音は絶叫し、再び超能力を発動させた。

 全ての凶器群が浮き上がり、今日これまでで最大級の竜巻が発生する。

 

 だがそれらもベルゼブブが右手を翻すだけで、すぐに動きを止めてしまった。

 抵抗する手段を完全に奪われた静音は、虚ろな目で、ただ呟き続ける。

 

「嫌……嫌よ……。せっかく私を取り戻したのに……こーくんに会えたのに……こーくん……」

「しーちゃん!」

 

 耕作は目から、滂沱のごとく涙を流していた。

 死に物狂いでジーリアを振りほどこうとする。

 

 しかし天使はびくともしない。

 喜悦にまなじりを下げながら、ベルゼブブに再び命令した。

 

「その死にぞこないの身体には、傷をつけないでよね」

「注文が多いな」

「当然でしょ。私が使うんだから」

 

 その発言を聞き。

 耕作は驚愕のあまり頭が真っ白になっていた。

 

 ジーリアは静音の身体を、これから先も利用するつもりなのか。

 静音の尊厳をどれだけ踏みにじれば気が済むのか。

 その考えに至った時、さしもの耕作も激昂する。

 

「ジーリアさん! それはどういうことだ!」

 

 静音も怒声を轟かせた。

 

「おまえは、まだ私を!」

 

 彼女の怒りは、耕作以上に凄まじい。

 眼球に血管が浮き出るほどの憤怒の表情で、天使を睨みつける。

 

 ジーリアは耕作をなだめるように、彼の頭を優しく撫でた。

 続けて静音には嘲笑を向け、居丈高に宣言した。

 

「おまえの存在なんて、本来なら塵一つ残さず消し去るべきなのに。有効利用してあげるんだから感謝してほしいわね」

「盗人! だれがおまえなんかに!」

「いい加減うるさいわね。ベルゼブブ、さっさと終わらせなさい」

 

 ベルゼブブは静音の間近まで歩み寄り、彼女の胸の上に右手をかざした。

 その手からどす黒い、炎のように揺らぐ影が放出された。

 影は静音の身体を覆い、広がっていく。

 

 静音は恐怖のため瞬きすらできなくなった目で、身体が影に取り込まれていく様を見ていた。

 

「嫌……嫌よ……こーくん!」

「しーちゃん!」

 

 耕作の絶叫もむなしかった。

 影は静音の全身を覆いつくし、黒い蓑虫のような姿になっていた。

 

 数瞬の間、影はその状態を保っていた。

 やがて収縮を始めると、ベルゼブブの掌へ戻り丸い塊となった。

 

 ベルゼブブはこぶしを握り、黒い塊を握りつぶす。

 そして一呼吸おいてから、手を開いた。

 掌にはもう影はなく、焦げ茶色をした二粒の小さな種だけが残っていた。

 ベルゼブブは種を見て、満足そうに頷いている。

 

 静音の身体は影に覆われる前と同じ場所にあった。

 彼女はもう、声を上げることはない。

 目を開くこともない。

 微動だにせず、眠っているかのように横たわっていた。

 

 静音との二度目の、そして永遠であろう別れが訪れた。

 残酷なその事実を、耕作は否が応にも理解させられていた。



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愛に道理は通じない 一

「しーちゃん、ごめん……」

 

 静音の亡骸を見つめながら、耕作は謝罪の言葉を繰り返していた。

 

 静音は穏やかな顔をしていた。

 眠っているかのような表情はどこか幼く、毎日のように公園で遊んでいた頃の面影が確かに残っていた。

 

 大人になって再会した後は、嫉妬に狂った醜悪な姿を数多く目の当たりにさせられた。

 だが彼女の本質は、昔と変わらず優しい少女のままだったのではないか。

 少なくとも耕作にはそう思えていた。

 

 その彼女が、なぜあんなにも泣き叫ばなければならなかったのか。

 なぜ、二度も死の苦しみを味合わねばならなかったのか。

 そんな仕打ちを受けねばならないほどに罪深いことを、彼女はしたのだろうか。

 耕作には、とてもそうとは思えない。

 

 もう嫌だ。

 もうたくさんだ。

 天使だの悪魔だのに振舞わされるのは。

 勝手な思惑に翻弄されて、悲劇がさらに繰り返されるのは、もうたくさんだ!

 

 耕作は今、腸が煮えくり返るほどの激しい怒りを覚えていた。

 歯を、折れてしまうのではないかと思うほどに強く食いしばる。

 両のこぶしも、血がにじみ出るまで強く握りしめていた。

 

 ジーリアが頬と頭髪を撫でまわしてくる。

 その動きは優しく、心を落ち着かせようとするものであった。

 だが今の耕作は不快感しか覚えない。

 激しく頭を振って、拒絶の意を示す。

 

 ジーリアは名残惜しそうに耕作の頬を一撫でしてから、動きを止めた。

 悪魔に向け、声をかける。

 

「上手くいったようね」

「ああ」

 

 ベルゼブブは満足気な顔で二つの種を眺めていた。

 やがて種を服の中に収めると、床に転がるもう一人の女性――ミーコへ相対する。

 

「よるな! このバカでかい蠅が!」

 

 ミーコは、静音の惨状を目の当たりにしていたにもかかわらず、闘志を衰えさせていなかった。

 牙を剥きだし、悪魔を威嚇する。

 

 ジーリアが冷たく宣告した。

 

「じゃあ次は化け猫の番ね」

 

 耕作は、間髪入れずに怒声を上げた。

 

「やめろ!」

 

 その声音は、普段の彼からは想像もつかないものだった。

 荒ぶり、ひび割れ、恐ろしい響きを帯びている。

 顔も、まなじりと眉が吊り上がり、鬼のような形相と化していた。

 

 ジーリアが、こちらは聖母のように穏やかな顔で、耕作をなだめ始める。

 

「耕作さん、ご安心ください。悪いようには致しません」

「何を今さら、ふざけたことを……!」

「あの化け猫は助かります」

「……なに?」

 

 耕作の爆発しかけていた怒気が、わずかながらも勢いを失った。

 

 この期に及んでジーリアの発言に耳を傾けるなど、お人よしにも程があるだろう。

 それは耕作も承知している。

 

 だが「ミーコが助かる」という言葉は、今の耕作にとって唯一のこされた希望と言ってもいい。

 その可能性を切り捨ててはならない。

 耕作の、強すぎるとさえ思える理性はそう判断し、怒気を抑え込もうとしていたのだ。

 

「私としては、あの化け猫はそれこそ地獄に叩き落してやりたいところなんですけど」

 

 と、前置きをした後。

 ジーリアは努めて冷静に話し始めた。

 

「でも仕方がありません。これからベルゼブブは、化け猫から先ほどと同じように種を回収します。つまり化け猫も種の力を失います」

「……」

「お分かりになりますか? あの化け猫は、ただの猫に戻るんです」

 

 ジーリアの言葉が稲妻と化して、耕作の心を貫いた。

 怒りや憎しみといった感情も、衝撃で完全に吹き飛ばされていた。

 

 呆然とする、彼の代わりに。

 ミーコが反論した。

 

「ふざけるな! そんな話、お断りだ!」

「うるさい。おまえが猫に戻る、それが耕作さんの望みなのよ。それに化け猫でなくなれば、死後は天国に行けるわ。残念だけどね」

 

 そうだ。

 その通りだ。

 ミーコが猫に戻り、死後も穏やかに暮らせるのならば、それに越したことはない。

 それこそが、自分の望みだ……。

 

 ……。

 ……なんだ?

 ……誰かの、叫び声が聞こえる……。

 

 考える最中、耕作は悲鳴にも似た声を聞いたような気がしていた。

 顔を上げて周囲を見回す。

 

 ミーコとジーリアは怒声を上げ、舌戦を続けていた。

 ベルゼブブはその様子を無言で眺めている。

 部屋の中にいる誰も、叫声を上げたような様子はない。

 

 何かの聞き間違いか、空耳だったか。

 と、耕作は考えた。

 

 するとその瞬間、叫声が再び轟いた。

 耕作も、今度は声の出所をはっきりと認識する。

 声は頭の中で鳴り響いていたのだ。

 

 この声はなんなのだろうか。

 天使や悪魔、あるいはミーコが超能力を使っているとも思えない。

 

 考える間にも声は次第に大きさを増していく。

 実際には聞こえていないはずなのに、耕作は頭を揺さぶられているかのような衝撃さえ覚え始めていた。

 

 やがて声には悲痛な色が強く濃くなっていく。

 それによって耕作は、誰かに警鐘を鳴らされているような気持ちになっていた。

 声に突き動かされるようにして、口を開く。

 

「……ジーリアさん」

「はい、なんでしょうか」

「そのお話は本当なんですか? ミーコが猫に戻って、天国にも行けるというのは……」

「はい、その通りです。神様に誓って本当のことです」

「そうですか……」

 

 耕作はつぶやいた。

 ジーリアが本当のことを言っているのなら、もう心配する必要はない。

 と、結論を下そうとした。

 

 叫声がさらに勢いを増した。

 頭の内から、悲鳴と絶叫がぶつかってくる。

 

 こんな大事な時に、自分の身体には何が起きているんだ。

 耕作は考え、頭を振り、自分自身に舌打ちを漏らした。

 

 苦悩しているかのような耕作の所作と、勝ち誇った様子のジーリアを見て。

 ミーコが声を上げた。

 

「私はこのまま、コーサクの恋人になるんだ! それに、死んだって天国へなんか行くもんか!」

 

 拘束された身体を滅茶苦茶に動かし、暴れまわる。

 ジーリアが鼻を鳴らしながら答えた。

 

「残念だけど、そうはいかないわよ。おまえが確実に天国へたどり着けるように……二度と人間に戻ったりしないように、私が監視しておくから」

「……ニャ?」

「何かのきっかけで、おまえがまた種の力を発揮したりしないよう、死ぬまで見届けてあげる。そこの死にぞこないの身体を使ってね」

 

 ジーリアは静音の亡骸へ顎を向ける。

 耕作はハッとした顔を見せ、問いかけた。

 

「ということは、貴女はまたしーちゃんの身体に乗り移って……」

「はい、その通りです。あの女の身体を使って耕作さん、貴方の恋人……いえ、先々は夫婦として暮らしながら、同時に化け猫も監視する。これこそ全員が幸福になれる、完璧な解決です」

 

 ジーリアは耕作を抑えたまま胸を張った。

 ミーコが憤然とした声を出す。

 

「鳥公、貴様!」

「私と耕作さんが結ばれる様を、傍らで眺めてるといいわ。まあ猫に戻ってるから、どこまで理解できるか怪しいものだけど」

 

 ジーリアが勝ち誇り、ミーコは憤激に髪を逆立てている。

 二人の応酬を眺めつつ、耕作は自分の考えを述べ始めた。

 

「ジーリアさん、それでは完璧ではありません」

「え?」

「それだと、少なくとも俺は不幸です」

「なぜですか?」

「貴女と恋人や夫婦になるつもりは、俺にはありません」

 

 耕作の声は小さく寂しげではあった。

 だがそこには、明確な拒絶の意が含まれていた。

 

「もう俺は、貴女に振り回されるのはうんざりです。ミーコのそばにも寄ってほしくない。ミーコが猫に戻ったら、二人で静かに暮らしていきます。それが俺の幸福です」

 

 ジーリアは沈黙する。

 そして顔から表情も消して、耕作をじっと見つめていた。

 

 一方、耕作の頭の中ではまだ叫声が鳴っていた。

 彼が語った、決意の言葉をかき消すほどの勢いで、警鐘を鳴らし続けていたのだ。

 

 うるさい。

 うるさい。

 うるさい!

 なんなんだ、この声は!

 俺は今、大事な話をしているんだ!

 邪魔をしないでくれ!

 

 耕作が呼びかけても、声は収まらない。

 それどころか聴覚を飛び越え、五感を埋め尽くすほどに声量を増していく。

 

 鼓膜が破れそうだ。

 視界もおぼろげになっている。

 暑いか寒いかすらも分からなくなってきた。

 何もかもが、悲鳴にかき消されていく……。

 

「……耕作さんのお気持ちは分かります」

 

 遠い遠い所から、ジーリアが話しかけてくる。

 耕作はぼんやりとした頭で、その声を聞いていた。

 

「化け猫と死にぞこないに同情して、私に怒りを向けている。お優しい耕作さんなら当然のことです」

「……」

「ですが、耕作さんがそのようなお気持ちになることを、私が想定していなかったとお思いですか?」

「……え?」

 

 とてつもなく嫌な予感に襲われ、耕作は我に返った。

 叫声はまだ鳴り続けていた。

 それでも五感は戻り、視界も明瞭になっていく。

 

「私は耕作さんを二十年ちかく見守っていました。私は耕作さんの全てを知っています。全てを理解しています。ですから、私に怒りを向けるのも想定済みです。……そして想定している以上、対策も立てています」

 

 網にかかった獲物を見つめる、蜘蛛。

 今のジーリアが醸し出している雰囲気は、まさにそれであった。

 

「耕作さん、これから貴方の時間を巻き戻します」

「時間を巻き戻す?」

「はい。若返らせる、と言ってもいいでしょうか。でも期間にすればほんのわずか、三週間とちょっと程度のことですが」

「それは、まさか……!」

「はい。耕作さんの記憶も、死にぞこないを事故から救った頃まで戻ります」

 

 耕作の視界が、驚愕のあまり暗転した。

 彼は正確に理解していたのだ。

 ジーリアが語った言葉の、恐るべき内容を。

 

「そうすれば耕作さんは、あの化け猫が人間になったことも忘れます。河原崎静音となった私への好意も、元に戻ります。魂に帯びていた悪魔の影もなくなります。記憶が戻ることで、しばらくの間は悩まれるかもしれませんが……でも大丈夫」

 

 ジーリアは全身を、愛撫するかのように耕作に擦り付けた。

 

「恋人になった私が上手く説明しておきます。そして一生、貴方を支えます」

 

 耕作は今まで経験したことのない、発狂しかねないほどの恐怖を覚えていた。

 全身から汗が、一気に流れ落ちていく。

 

 恐怖の対象となったのは、ジーリアの狂愛だけではない。

 真実を知らぬまま彼女に束縛され続ける、その未来を怖れたということだけではないのだ。

 耕作からすると、それは二次的なものにすぎなかった。

 彼が真に怖れたもの、それは――。

 

「……いや、冗談じゃない」

「え?」

「ミーコの記憶を失うなんて、冗談じゃない」

 

 耕作の声は毅然として、力強いものだった。

 これまでの暗く沈んだものとは一転した、その声を聞いて。

 ジーリアも思わず息をのんでいる。

 

「ミーコの姿を忘れてしまうなんて、耐えられない。俺を一番に愛してくれた女の子を、心の中からも失ってしまうなんて……いいや、違う。そうじゃない」

 

 耕作は、ようやく気づいていた。

 先ほどから頭の中で聞こえていた、叫び声。

 あれは自分の、心の声だったのだと。

 

 自分の心が、傷つき壊れていく悲しみと苦しみに悲鳴を上げていたのだ。

 そして強すぎる理性を打ち破ろうとして必死にもがき、抵抗していた。

 

 早く目を覚ませ。

 道理や良識など些事にすぎない。

 自分にとって本当に大事なものは何か、それを思い出せ。

 と、警鐘を鳴らし続けていたのだ。

 

 耕作は頭を振った。

 汗と涙が合わさった雫が、頬を伝って床へ落ちていく。

 それによって最後まで残っていた理性と躊躇いもまた、彼の中から絞り出されたようだった。

 

 乾ききった口内に無理やりに息を押し込んで。

 耕作は告げた。

 

「俺はミーコを愛しているんだ。宝石みたいに綺麗な目も、触れると気持ちいい肌や髪の毛も、いつも俺に向けてくれた、あの笑顔も……人間のミーコを、俺は愛しているんだ。だからミーコを完全に失ってしまうなんて、俺には耐えられない」

 

 鳴り続けていた悲鳴が、ようやく止まった。



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愛に道理は通じない 二

「コーサク……」

 

 ミーコは、満開に咲いた花のような笑顔を浮かべた。

 両目からは涙があふれ、頬だけでなく顔中を濡らしていく。

 

 耕作が、やっと言ってくれた。

 愛していると言ってくれた。

 その言葉によって彼女は今、胸がはち切れそうになるほどの喜びを感じていたのだ。

 

 だがその喜びは、無情にも長続きはしなかった。

 ジーリアが瘴気をも漂わせる声で、場の空気を押しつぶしたのだ。

 

「そう、ですか。ですが耕作さん、その気持ちもすぐに消し去って差し上げます」

「誰がミーコを忘れるものか!」

「耕作さんが愛すべきなのは、愛して良いのは、私だけです。それが正しい、あるべき姿なんです」

 

 ジーリアの声音には一切の迷いがなかった。

 実際、彼女は心の底から自分の発言を信じているのだろう。

 

 他者からすると狂っているとしか思えない発言と愛情表現だが。

 しかしジーリアにとっては、まぎれもない真実であったのだ。

 

「だから本来あるべき姿のため……正義のために、耕作さんから化け猫への愛情を消して差し上げます。そして、それ以上の愛情を私に抱かせてみせます」

 

 ジーリアは耕作の顔を掴み、強引に自分へ向き直らせた。

 耕作の抵抗とミーコの悲鳴や絶叫を楽しむかのようにして、激しい接吻を繰り返す。

 

 数分後。

 ジーリアはようやく満足したのか、耕作から口を放し、悪魔へ命令した。

 

「ベルゼブブ、こちらの話は終わったわ。化け猫から種を回収してくれる?」

「やっと終わりか。いい加減、見世物としてもくどくなりすぎていたな。天国の連中には脚本家の才能はないようだ」

 

 ベルゼブブはうんざりした顔で言った。

 ジーリアは怒りで眉を歪めたものの、すぐに思い直したように笑みを浮かべた。

 

「退屈させたお詫びと言ってはなんだけど。化け猫から種を回収する際には、さっきと違って出来るだけ苦しめてもいいわ」

「ほーう? 苦痛のあまり発狂するかもしれんぞ?」

「どうぞご自由に。処女の悲鳴は大好物なんでしょう?」

「その通りだ」

 

 ベルゼブブは答え、ミーコに向き直った。

 爬虫類を思わせる目に、無機質な光が宿る。

 

 絶体絶命の状況に追い詰められても、ミーコは怯まなかった。

 殺気に満ちた眼差しを向け、拘束された身体を懸命に動かし、悪魔に立ち向かおうとする。

 

「このバカでかい蠅が! あの鳥公の糞尿にでもたかってろ!」

「やめろ! ミーコに近寄るな!」

 

 ミーコの罵詈雑言と耕作の絶叫が、部屋中にこだました。

 ベルゼブブは意に介した様子もなく、鼻歌すら歌いながらミーコへ手をかざす。

 黒い影が、再び悪魔の手から放出された。

 

 耕作が、あらん限りの大声を出した。

 

「やめろ! ミーコに触るな! ミーコに……俺のミーコに触るな!」

「コーサク……!」

 

 しかし耕作の鬼気迫るかのような声も、悪魔には心地よい響きに聞こえていたかもしれない。

 ミーコの抵抗も全くの無意味であった。

 黒い影は、すでに彼女の身体にとりついていたのだ。

 

 影は瞬く間にミーコの全身を覆い尽くしていく。

 そして彼女の視界が完全に闇で塞がれてしまった、その瞬間。

 ミーコの身体中に激痛が走った。

 先の言葉通り、ベルゼブブはミーコを苦しませたうえで種を回収するつもりなのだ。

 

 ミーコの身体を襲った激痛は、常人であれば一秒も耐えられないようなものだった。

 長く鋭く、そして熱く焼けた針が、肉体を貫いたような痛みだったのだ。

 しかもそれが何十何百と、身体中を襲っていた。

 

 苦痛に耐えきれずミーコも悲鳴を上げる。

 夜の冷えた空気を、高く美しい、しかし胸を痛めざるを得ないような響きの声が切り裂いていった。

 

 すると、ほとんど間をおかずに。

 ミーコの悲鳴をはるかに凌駕するほどの勢いと声量で、耕作が怒号を放った。

 

「やめろ! おまえら、殺してやる! 天使だろうが悪魔だろうが知ったことか! 絶対に殺してやる! この恨みは忘れない! 忘れるもんか! ミーコ、ミーコ、ミーコ……! 愛してる! 愛してるぞ!」

 

 その叫びを常人が聞いたとすれば、間違いなく恐れおののき耳をふさぎ地に伏して、ひたすら慈悲を請うたことだろう。

 耕作の声音には、それほどの憎悪と怒りが込められていた。

 

 その有り得ないほどの激昂した声を聞き、全身を苦痛にさいなまれながら。

 しかしミーコは、幸せだった。

 

 耕作のあの叫声は、もはや錯乱しているとしか思えない。

 温厚だった彼が我を失うほどに怒り狂い、明確な殺意を天使と悪魔に向けているのだ。

 それはつまり、自我を失うほどの、狂ってしまうほどの愛情をミーコに抱いていることの証でもある。

 

 ミーコが人間になってからというもの、耕作は常に悩み、苦しんでいた。

 そしてミーコも、耕作のつらそうな顔を見る度、悩んでいた。

 もちろん耕作を愛する気持ちは一度だって揺らいだことはない。

 

 だが、だからこそ。

 彼にとって、自分の存在は負担にしかなっていないのではないか。

 いつか彼に見放されてしまうのではないか。

 結局、飼い猫としか見てもらえないのではないか。

 最後まで「愛している」とは言ってくれないのではないか。

 その不安は時として霧のようにミーコの心を覆い、前途への道を閉ざそうとしてきたのだ。

 

 しかし、耕作は自分を愛してくれていた。

 それも狂ってしまうほどの情熱をもって。

 

 最愛の人に、これほどまでに愛されたのだ。

 これが幸せでなくてなんであろうか。

 ミーコはそう思い、全身が燃え上るほどの幸福を感じていた。

 

 と、同時に。

 彼をそこまで追い詰めた天使と悪魔には、尋常でない怒りと憎悪を抱いていた。

 

 耕作を泣かせた。

 耕作を苦しませた。

 温厚な彼を狂わせ、殺意を抱くほどの怒りすら覚えさせたのだ。

 そんな相手に対して、ミーコが容赦するはずもない。

 彼女は今、五感の全てを埋め尽くしてもなお足りないほどの、激しい怒りを覚えていた。

 

 天に至るほどの幸福と。

 地の底に届くほどの憎悪を感じた、今。

 ミーコの心は感情の爆発に耐えられなくなり、拡散する。

 

 

 

 

「なに!?」

 

 異変に真っ先に気づいたのはベルゼブブだった。

 ミーコを覆いつくし、黒い蓑虫のようになっていた影の塊に、ヒビが入ったのだ。

 開いた隙間からは光が漏れ出てくる。

 しかもその光は、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫と、七色を備えていた。

 

 七色の光は瞬く間に強くなっていった。

 爆発的な勢いで光量を増し、周囲を眩く染めていく。

 ミーコを覆っていた影も次々に崩れ、吹き飛ばされていった。

 

 影が消滅した後には、ミーコの姿が現れる。

 彼女は未だ床に転がされたままであったが、七色の光はその身体から発せられていた。

 

「まさか、三つ目の種か!」

 

 ベルゼブブは怒鳴り声をあげた。

 

「え?」

 

 ジーリアも困惑し、思わず声を漏らしている。

 

 もっとも彼女は、三つ目の種が力を発揮する可能性については予想していた。

 ミーコを極限まで追い詰めれば、彼女が感情を爆発させることにもなるだろう。

 となれば、当然おこりえる事態である。

 

 だが天使として最大級の力を発揮できる今の自分なら、どんな問題にも対処できる。

 危険な事態が発生するのであれば、それを理由にミーコを始末してしまえばよい。

 恋敵を完全に消せるのだから、むしろ好都合と言える。

 そう思っていた。

 

 しかし、今。

 ジーリアは予想だにしていなかった事態の発生に驚き、そして恐怖していた。

 

「耕作さん!」

 

 ジーリアが抱きしめ掌中に収めていたはずの耕作の身体が、七色の光を浴びた途端、薄れ始めたのだ。

 色素が抜けていくかのように、耕作の全身がおぼろげなものとなっていく。

 彼の重みも次第に失われていった。

 

 耕作が消えていく。

 ジーリアはその事実に愕然とした。

 対処法すら見いだせず、悲鳴とも絶叫ともつかぬ声を上げる。

 

「ベルゼブブ、何をしている!? 早く種を回収しろ!」

「やかましい! 言われるまでもない!」

 

 ベルゼブブは咆えると共に、全身から黒い影を放出させた。

 膨大な量の影は拡散して部屋を埋め尽くし、渦を巻く。

 ベルゼブブはそれらの影を再び両手に取り込み、ミーコへ叩きつけた。

 影は光ごとミーコを覆いつくすかに見えた。

 

 だが。

 

「馬鹿な!」

 

 悪魔は驚愕する。

 ミーコから放たれる光によって、影は瞬く間に吹き飛ばされてしまったのだ。

 

「がぁっ!」

 

 ベルゼブブは苦悶の叫びをあげた。

 

 そして、彼は見る。

 ミーコへ向けていた両手が、七色の光によって削り取られていく様を。

 先の影と同じように。

 永劫の時を生き抜いてきたはずの身体が、熱湯を浴びた砂糖細工のように崩れていくのだ。

 

「おのれ……!」

 

 その、怨嗟の声を最後として。

 ベルゼブブの姿は七色に埋もれ、消えてしまった。

 

 光は爆発し拡散し、部屋の隅々までをも埋め尽くした。

 情景は虹の国と化したかのように、七色だけに染められてしまっていた。

 

 

 

 

「……耕作さん?」

 

 爆発的に広がった光も、消えるのはあっけないほどに一瞬だった。

 文字通り、瞬く間に消え去ってしまったのだ。

 

 七色に代わって静寂に支配された、部屋の中。

 ジーリアの声だけが通っている。

 

「耕作さん?」

 

 愛する男を探す、その声に。

 答える者はいない。

 

 ジーリアの目に映る光景は、光が爆発する以前のものとは異なっていた。

 ただし散乱する凶器、倒壊した家具などは変わっていない。

 崩壊した窓などもそのままだ。

 

 だが大きく欠けてしまったものが三つあった。

 それは耕作と、ミーコと、そしてベルゼブブの姿だ。

 

「耕作さん!?」

 

 ジーリアは必死に呼びかけ、あたりを見回した。

 しかしやはり、耕作たちの影も形も見当たらなかった。

 ジーリアの他にある人影と言えば、眠ったように横たわる静音の亡骸だけだ。

 

「耕作さん……!」

 

 誰も答えない部屋の中で。

 ジーリアは、いつまでも耕作の名を呼び続けていた。



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天国にて。そして遠い遠い世界にて

 天国。

 人間界に生を受けた人々の、おそらくは大多数にとって憧れとなっている場所だ。

 途方もなく広いこの国では、人間だけでなく様々な動植物の魂が生活を営み、争いのない平穏な日々を送っている。

 

 当然ながら天国の運営を担う者、すなわち天使たちが住まい働く街も存在している。

 そこには白い壁と尖った屋根を持った、人間界の教会に類似した建造物が数限りなく並んでいた。

 

 街の中心部にはひときわ目を引く、巨大な建物がそびえたっている。

 それは建屋を幾重にも連ね、積み木のように複雑に組み合わせて築かれていた。

 城塞か、あるいは立体迷宮と見まがうような威容である。

 

 この建物こそが天国の中枢部であった。

 人間界で言えば国家元首の官邸といったところであろうか。

 そしてサラサの執務室もこの中にあった。

 

 とある日のこと。

 サラサは朝から自分のデスクを陣取って、業務にあたっていた。

 他の天使たちから送られてくる数多くの報告に目を通し、時には眉をひそめ、時には頬を緩ませる。

 そして各々に指示を出し、問題の解決にあたらせていた。

 

 昼を過ぎた頃になって。

 サラサは待ち人の到着を秘書役の天使から告げられた。

 山と積まれていた書類を放り出し、部屋へ案内するよう命令する。

 ほどなくして扉が開き、天使が三人、中へ入ってきた。

 

 サラサは顔をほころばせて彼らを出迎えた。

 そして三人のうち一人だけを残し、他の二人と秘書役の天使に退室を促す。

 彼らが全員出ていくと、残った一人の天使に改めて挨拶をした。

 

「元気そうだな、ジーリア」

「貴女にはそう見えるのかしらね」

 

 憎まれ口が返ってきた。

 サラサは苦笑しつつ、ジーリアに来客用のソファーを勧める。

 ジーリアが腕組みをしながら勢いよくソファーに座り込んだのを見届けると、自席へ戻った。

 

「ずいぶんご機嫌斜めのようだな」

「当たり前でしょ。天国に帰るなり、罪人みたいに連行されて取り調べを受けて。それがようやく終わったと思ったら、今日まで自宅で軟禁状態……」

 

 ジーリアはつらつらと恨み言を続けた。

 サラサは律義に、逐一相槌を打っている。

 

「……やっと家から出られるようになったと思ったら、ここに来るまでも、さっきの二人がずっと監視していたし」

「あの二人は護衛だったはずだが」

「周囲に気を配るよりも私を見張っている時間の方が長い連中を護衛というんなら、辞書を書き換える必要がありそうね」

 

 話しているうちに、ジーリアは怒りを増幅させていたらしい。

 苛立たし気に床を蹴りつけるようにもなっていた。

 

 サラサは友人をなだめ始める。

 

「君は今回の事件に、天国の中で最も深くかかわっていた。と同時に、いささか過激すぎる手段をとってもいた。重要性と危険性の両面から見て、神様や最上級天使の皆様方からすると、そういう処置をとらざるを得ないんだろう」

「分かってるわ」

 

 ジーリアの返答を聞き、サラサは目を丸くする。

 さらに肩もすくめ、問いかけた。

 

「分かっているなら、そんなに怒らなくてもいいだろう」

「理屈で分かっていても納得しかねることがある、そういうことよ」

「例えば?」

「取り調べに来た連中は話を聞くだけで、私には一切、情報をくれなかったわ。調査はこちらでやるから任せておくように、の一手張りで」

 

 サラサは「さもありなん」とばかりに頷いていた。

 

 ……二人の、ここまでの会話から分かる通り。

 ジーリアは今日ここに来るまで、天国で半軟禁状態におかれていた。

 

 耕作とミーコ、それにベルゼブブまでが消えてしまった、あの日。

 ジーリアはひたすらに耕作を探し続けた。

 静音の家だけでなく耕作のアパート、さらには彼が足跡を残していたあらゆる場所をも巡っている。

 だが結局、見つけられなかった。

 

 そこでやむを得ず、助力を得るために天国へ引き返した。

 すると待ち受けていた天使たちに取り囲まれ、この建物の一室へ連行されてしまったのだ。

 それからは延々と事情聴取を受け続けた。

 

 ジーリアからすると不愉快な事態である。

 だが耕作を見つけるためには天国の助力が必要だった。

 となると、ここで反発しても意味はない。

 彼女は不満を押しつぶし、取り調べには全面的に協力するようにした。

 知る限りの情報を進んで提供したのだ。

 その上で耕作の所在や、ミーコが七色の光を発したあの時、何が起きていたのかを尋ねている。

 

 だがしかし。

 それらの疑問に対する答えは、ただの一つも与えられなかった。

 

 ジーリアは怒り心頭に発した。

 とは言っても、暴発したところで事態が好転するはずもない。

 苦虫を数十匹まとめて嚙み潰しながらも、ジーリアは取り調べに協力を続けた。

 それでも結局、帰宅を許されるようになるまでは一か月もの時を要した。

 

 ところが家に戻ってみても、護衛という名目で天使が常に張り付いていた。

 行動の自由は無いに等しかった。

 

 一刻も早く耕作を探しに行きたかった彼女からすると、発狂しかねない事態である。

 しかしどうしようもない。

 焦燥と憤怒に塗れた日々を過ごしつつ、ジーリアは機会を待った。

 

 そして今日、ようやく機会が訪れる。

 サラサから招待を受けたため、一時的に外出を許されたのだ。

 

 サラサが溜め息をついた。

 

「なにしろ前代未聞の非常事態だったからな。調査が完全に終わるまでは、君にも真相を話すわけにはいかなかった」

「私は別に、真相になんか興味はないんだけど」

 

 吐き捨てるようにして、ジーリアは言った。

 そして飢えているかのような血走った眼差しをサラサに向け、問いかける。

 

「私が知りたいことは、ただ一つ。耕作さんはどこにいるの?」

 

 サラサは顎に手を当てた姿勢で考え始めた。

 やがて長髪をかき回し、躊躇いながらも口を開く。

 

「……まあいいだろう。事件は一応、決着している。当事者である君に隠しておく必要も、もうなくなっているからな」

「前置きは結構よ。それで?」

「相変わらず性急だな」

 

 サラサは呆れたように呟いた。

 それでもすぐに毅然とした態度を取り直し、話し始める。

 

「吉良耕作と、それに君が言う化け猫だが……」

「……」

「彼らはどこにも存在していない」

「え?」

 

 空気が一瞬にして凍り付いた。

 ジーリアの肌は蒼白に染まり、黄金の髪も白銀へと変じていた。

 組んだままの両腕も、わずかに震えていた。

 

 ジーリアの、絶望を露わにした様子を見て。

 サラサは慌てて言葉を付け足した。

 

「ジーリア、彼らは死んだんじゃない。存在していないんだ」

「……どういうこと?」

「彼らの肉体も、それどころか魂さえもが消えてなくなっている」

 

 人間界だけではない。

 天国と地獄も含めた全ての世界から、耕作とミーコの存在は消えてしまっていた。

 細胞の一個、魂のひとかけらさえもが無くなっている。

 サラサはそう説明した。

 

 ジーリアは恐怖と困惑に支配された頭で、なんとかサラサの言葉を理解しようと努めていた。

 やがて眼を見開き、声を上げる。

 

「ということは、まさか……!」

「その通りだ」

 

 サラサは机の上で両手を組んだ。

 落ち着いた声で真相を告げていく。

 

「彼らは、我々がいる世界とは異なる次元、別の世界へ転移した。そうとしか考えられない」

 

 その言葉を聞き。

 ジーリアはうめき声をあげ、歯ぎしりをした。

 ガラス細工のように完璧な美貌を歪めながら、彼女は考える。

 

 あの時ミーコが発揮した、最後の種の力。

 それは耕作ともどもこの世界から飛び出し、別の世界へ転移する能力だったのだ。

 

 神とサタンが対立し支配するこの世界から抜け出せれば、ミーコはあらゆるしがらみや宿命を断ち切れる。

 天国も地獄もなく、耕作と共に生きていけるだろう。

 それを可能とするために、種は力を発揮したのだ。

 

 サラサが再び口を開いた。

 

「正確に言えば、もう一つ可能性がある」

「別の世界に転移した、それ以外にどんな可能性が?」

「あの化け猫は、新しい世界そのものを作り出したのかもしれない」

 

 ジーリアは絶句した。

 

 新しい世界を作り出す。

 そんなことができるのはこの世でただ一人、神しかいないだろう。

 絶大な超能力を発揮する種と言えども、いくらなんでも不可能なはずだ。

 と、ジーリアは反論した。

 

 サラサは両腕を開き、頭を横に振った。

 

「化け猫が消えてしまった以上、調査に限界はあった。だが、あの場において発生した魔力が計り知れないものだったことは間違いない」

 

 それは、新たな世界が作り出されたとしても不思議ではないほどのものだった。

 サラサはそう告げると、さらに言葉を付け足した。

 

「ベルゼブブは化け猫の至近距離にいたからな。時空のひずみに巻き込まれて、引き裂かれてしまった」

「ああ、そうだったの」

 

 ジーリアはあっさりと答えていた。

 ベルゼブブの生死については、全く興味がないらしい。

 

 サラサは鼻白んだが、それでも説明を続けた。

 

「だが、あいつは生きている」

「……? まさか、あいつも耕作さんの所へ?」

「いや、あいつはこの世界にいる。身体を滅ぼされる寸前、ベルゼブブは危機を察したのか転生の術を使ったんだ」

「あの状況で?」

 

 ジーリアもさすがに唖然とし、問い返した。

 サラサは頷く。

 

「そうだ。だが咄嗟のことだったので、完全な転生は無理だった」

 

 ろくに準備もせずに転生を強行したのだ。

 ベルゼブブは今や、力のほとんどを失ってしまっていた。

 地獄に巣くう、小さな蠅となってしまったのだ。

 

 もっともしぶとい男なので、いずれ大魔王としての力を取り戻すかもしれない。

 ただそれには、何百年、何千年という歳月が必要となるだろう。

 と、サラサは説明を終えた。

 

 ジーリアはサラサの話をやはり興味なさげに聞いていた。

 だが、何か思い至る事があったらしい。

 突然表情を険しくして、ソファーからも立ち上がった。

 

「どうした?」

 

 驚いたサラサの問いかけにも、ジーリアは答えない。

 白く細い手を顎に当て、沈思している。

 かなり長い間、その姿勢を保った後。

 ジーリアはサラサに向き直った。

 

「ベルゼブブの種は、まだ十粒以上のこっていたはず。それはどうなったの?」

 

 サラサは即答しなかった。

 口と眉を歪めて渋い顔を形作り、手で頭を押さえ、考え込んでしまった。

 そして、こちらも長い時間をかけた後、静かに声を発した。

 

「聞いてどうするんだ?」

「……今後も天国にとって脅威になりかねない物よ。どう扱うのかについて興味を抱くのは当然でしょ?」

 

 ジーリアの返答を聞いても、サラサの思い悩む様子は変わらなかった。

 腕組みをして口をへの字にし、天井を見つめている。

 それでも、ようやく踏ん切りがついたらしい。

 友人を見つめ直し、明快に答えた。

 

「種は全て回収した。今は二度と世に出たりしないよう、封印している」

「封印? どこに?」

「それは私も知らない。所在を知っているのは神様と、サタンだけだ」

 

 ジーリアが息を呑む音が、サラサの耳にまで届いた。

 サラサは淡々と事情を説明していく。

 

「なにしろ世のことわりを覆しかねない物だからな」

 

 種の力は危険きわまりない。

 従って誰の手にも渡してはならない。

 天国の支配者である神と、地獄の王たるサタンは、同じ結論を下していた。

 そこで両者は極秘裏に会い、協力して種を封印したのだ。

 

 封印する際には誰も立ち会っていない。

 どこへどのようにして封じられたのかを知る者は、この世に神とサタンの二人だけである。

 と、サラサは話を終えた。

 

 ジーリアはしばらくの間、口元に手を当て、暗く殺気だった眼差しで宙を見つめていた。

 やがて肺が空になるのではないかというほどに、大きく息を吐き出した。

 腰に手を当て、口を開く。

 

「分かったわ。もう私から尋ねることはなさそうね」

「そうか、じゃあ私からの伝達事項だが……」

「伝達事項?」

 

 さも意外そうにジーリアは問い返した。

 サラサは久方ぶりに苦笑を浮かべる。

 

「いや、君を呼び出した本題はこちらなんだが」

「そうだったかしら?」

 

 ジーリアは、白々しいまでにとぼけた口調でまたも問い返した。

 サラサは呆れたものの、それでも咳ばらいを一つすると、姿勢を正して告げた。

 

「後日、正式な通達が届けられると思うが、君への処分が決まった」

「処分ね。天国から追放でもされる?」

「そんなことはない。君が退治しなければならなかった化け猫は、この世から消えている。従って君が使命を果たすのも不可能になってしまった」

 

 だからジーリアが使命を全うできなくなっても、止むを得ない。

 事件の原因となった種も回収された。

 種の能力、危険性も十二分に分かった。

 

 さらに言えば天国と対立する地獄、その実力者であり、事件を仕組んだ大悪魔ベルゼブブは力のほとんどを失った。

 この功績は大きい。

 天国からすると差し引き大きなプラスと言えるだろう。

 これらが全てジーリアの功績となれば、彼女は追放どころか称賛されてしかるべきである。

 

「とは言っても、君がそうなるように仕向けた訳でもない。選んだ手段も過激すぎた。ということでジーリア、君にはもうしばらくの間、自宅で謹慎してもらう」

「分かったわ」

 

 さばさばとした口調でジーリアは答えた。

 さらにもう用はないとばかりに帰り支度まで始めている。

 

「もう帰るのか?」

「貴女も忙しいんでしょう? 邪魔したら悪いもの」

 

 語りつつ、ジーリアは早くも踵を返しかけていた。

 サラサが、思い出したように声をかけてくる。

 

「そういえば、河原崎静音の魂なんだが」

「なに?」

「生き返ったことも人間界で起きたことも覚えていないようだ。今は平穏無事に暮らしている」

「そう」

 

 ジーリアは、これまた全く興味なさげにこたえた。

 扉を出るところでサラサに振り返り、声をかける。

 

「久しぶりに話せて楽しかったわ。ありがとう、サラサ」

「私もだ。謹慎が明けたら祝杯を上げよう」

 

 サラサの提案を聞いたジーリアは、今日はじめて、にこやかに微笑んだ。

 しかし声に出しての返答はせず、扉を開ける。

 待機していた護衛が二人、すぐに彼女の両脇に立った。

 ジーリアは左右を冷たく一瞥すると、無言のまま廊下を進んでいった。

 

 友人の後ろ姿を見送った後。

 サラサは部屋の中で独語した。

 

「あの様子では……やはり黙っているべきだったかな。まあ、隠したところでいずれは知れてしまっただろうが」

 

 サラサは悔やんでいた。

 原因は、種が封印されたことをジーリアに話してしまったという、その点にあった。

 

 サラサは予測している。

 ジーリアは謹慎が明け次第、種を探し出そうとするのではないか、と。

 種を手に入れ、ベルゼブブと同様の改造を施して強力な魔道具に変貌させる。

 そしてその力で時空を超え、耕作の元へたどり着くつもりなのだ。

 

 種の所在は神とサタンしか知らない。

 二人に口を割らせるなど不可能だし、自力で見つけ出すのも至難の業だ。

 

 だがそれでも、ジーリアはやるつもりだろう。

 どれだけ時間がかかろうとも。

 それこそ何百年、何千年。

 いや何万年かかっても、種を見つけ出そうとするだろう。

 

 天国と地獄、双方を敵に回すことになっても構わないとすら思っているはずだ。

 ジーリアの愛はそれほどに深く、そして狂気に満ちている。

 

 サラサには、友人の恋が成就してほしいと思う気持ちはあった。

 だからと言って暴挙を見過ごすわけにはいかない。

 謹慎が明けた後も監視の目は緩めないよう、最上級天使たちに進言しなければならないだろう。

 

 ……いや、ひょっとしたら。

 ジーリアは謹慎中を良いことに、種を見つける計画を既に練り始めているかもしれない。

 帰り際のそそくさとした様子からすると、そう考えて間違いないだろう。

 

「困ったものだ」

 

 過激きわまりない性分の友人に頭を痛めながら。

 だがサラサは、羨ましくも思っていた。

 

「そんなに誰かを愛せるというのは、それはそれで素晴らしいことだ。私にはそんな経験がないからなあ……」

 

 呟くと、最上級天使たちへの上申書をまとめ始める。

 その間も、彼女は何とはなしに溜め息をつき続けていた。

 

 

 ――――――

 

 

「コーサク」

「なんだい、ミーコ」

「ここ、どこだろうね」

「うーん……」

 

 耕作は呟くと、顔を上げて周囲を見回した。

 

 視界には、みずみずしい草花で覆われた緑の大地が、果てしなく広がっている。

 かなたには広い森のような場所と、なだらかな丘陵も見えたが、それがどれほど遠方にあるのかは見当もつかなかった。

 

 耕作は今、草原の上で寝ころんでいる。

 右隣にはミーコがいて、耕作に全身を絡ませていた。

 

 彼女からはどんな花々よりも甘く、それでいてどこか猫を思わせる香りが流れてくる。

 布地越しでも分かる柔らかく温かな肌の感触は、耕作に安心と昂奮という、相反するものを与えてくれていた。

 

 鳥のさえずりを聞いたような気がして、耕作は目を上に向けた。

 つがいであろうか、二羽の鳥が視界を右から左へ横切っていった。

 陽光を全身に受け、したたるような草と土のにおいをかぐ。

 休日にピクニックにでも来たかのような平和な情景が、時の経過にかかわらず、いつまでも続いていた。

 

 だが、しかし。

 耕作はこの場所が、もともと居た世界ではないことを知っていた。

 ここは断じて日本でも、それに地球ですらない。

 確信を持って言える。

 

 耕作は再び、上空に目をやった。

 そこには太陽があった。

 丸く大きく、とても目を開けてはいられなくなるほどの光を放つ太陽が、空に浮かんでいる。

 一見するとそれは、地球でよく見かける、ありふれた光景と言えるだろう。

 

 だが、その太陽は双子だった。

 二つの大きな輝きが距離を開けて並び、左右から耕作たちへ光の粒子を降り注いでくる。

 こんな光景、地球で見られるはずもない。

 

 あの日、あの時。

 ミーコから七色の光が発せられた、その瞬間を目にした後。

 そこで耕作の記憶は途切れていた。

 急激に深い眠りに落ち、目覚めたと思えばこの場所で寝ころんでいたのだ。

 

 耕作の服や身体は以前のものと変わりない。

 スーツを身にまとい、身体も五体満足なままだ。

 

 ミーコの姿にも異常はなかった。

 お気に入りのブラウスとスカートを着て、こちらも傷一つなく、美しく可愛らしい姿を保っている。

 

 ここはどこなのだろうか。

 ミーコの問いかけは当然のものともいえた。

 耕作はその答えを知らない。

 

 だが、その一方で。

 彼は一つ、己にとって間違いのない真実に気づいていた。

 それをミーコに告げるため、口を開く。

 

「ここがどこかは分からないけど」

「ニャ?」

「どこでもいいんじゃないかな」

「……そうだね」

 

 ミーコは嬉しそうに呟き、首筋や頬を耕作に擦り付けてきた。

 耕作は彼女の頭を撫で、考える。

 

 ここがどこかは分からない。

 自分たちの他、人が居るのかも分からない。

 この先どうなるのかも、全く分からない。

 

 だがそれが、どうだというのだ。

 ここにはミーコがいる。

 彼女がいてくれれば、他には何もいらない。

 何が起きても大丈夫。

 

 なぜなら。

 耕作の幸せは、ミーコの幸せ。

 ミーコの幸せは、耕作の幸せ。

 そして二人は、愛し合っているのだ。

 

 共にいる限り、どこに行っても二人は幸せでいられる。

 こんなに素晴らしいことはない。

 

 耕作の目から、自然に涙がこぼれてきた。

 ミーコに見つからない様、それをそっとぬぐう。

 そして今も自分に甘え、愛情をぶつけてくる少女を見つめた。

 黄色と青の、どんな宝玉よりも美しい瞳が、いつものように信頼と愛情に満ち溢れた視線を返してくる。

 

 ミーコに微笑み返し、彼女の長い髪に優しく触れながら。

 耕作は考える。

 

 回り道をしすぎてしまった。

 その為に、無用な悲劇も引き起こしてしまった。

 この点については悔やんでも悔やみきれない。

 

 だが、それでも。

 ようやく見つけた幸福を手放したくはない。

 そしてミーコを誰よりも幸せにしてあげたい。

 死がふたりを分かつまで……いや、永遠に彼女のそばに居たい。

 これが自分の、嘘偽りのない本当の気持ちだ。

 

 自分の望みをかなえるために。

 ミーコの幸福を実現するために。

 必要な言葉を、耕作は告げる。

 

「ミーコ」

「なに?」

「愛してるよ」

 

 やっとたどり着いたこの場所を、永遠の楽園にするために。

 いつまでもどこまでも、ミーコを愛し続けよう。

 

 耕作はその言葉を、心に刻み込んでいた。

 

 

 

 

 ――――――完――――――



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