元おっさんの幼馴染育成計画 (みずがめ)
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第一部
1.元おっさん逆行転生する


 自分には確かに結婚願望というものがあった。

 ただ、仕事が忙しく、それを後回しにしていたというのも事実だった。いや、言い訳だな。本当は仕事を理由に結婚できないことを誤魔化していた。

 気がつけば歳は四十を過ぎていた。独身貴族などと笑っている場合ではなかった。

 女性経験がないためか、見合いですら躊躇ってしまい、出会いをふいにしてきた。同級生での早い奴なんかはすでに孫なんかできちゃったりしていた。さすがに早過ぎるとは思ったのだが。

 結婚は人生の墓場と言うけれど、それすらできないのなら墓にも入れないのではなかろうか。

 だからと言って、四十歳も過ぎれば諦めの感情に支配されても仕方がないだろう。

 人生を棒に振ってしまった。そんな後悔が、次第に心の底から溢れてくる。

 もっと前から恥ずかしがらずに恋愛をしておけばよかった。羞恥心を隠すために、学生時代は女性に興味がないフリをしてきた。心のどこかで社会人になってからでも遅くないとでも思っていたのだろう。

 結婚とは誰もが通るイベント。そんな風にやる気なく考えていた。がっつくものではないと思っていた。こんな自分でも大丈夫なのだと、根拠のない自信にすがっていた。

 恋愛とは貪欲にならなければ成功しないものなのだ。その答えを得るまでに、自分は時間をかけすぎてしまったようだ。

 願わくば人生をやり直したい。そしてしっかりと恋愛をして結婚するのだ。でなければ、自分を産んで育ててくれた両親に申し訳が立たない。

 そんなことを考えていたからだろうか。

 いつも通り仕事をこなし、疲れた体を休めるために自宅のベッドで眠った、はずだった。

 次に目を開けた時に広がった光景は、しかし二人の見知らぬ若い男女の顔だった。

 これには焦ってしまっても仕方がないだろう。自分はアパートで一人暮らしをしているのだ。他人を家に上げた覚えはない。

 急激に覚醒する頭。しかし反対に体は緊張で固まってしまう。それもそうだ。見ず知らずの他人に不法侵入されて正常でいられるはずがない。

 

「あらあらどうしたの俊成(としなり)ちゃん?」

「お腹が空いたんじゃないか?」

 

 ほんわかした雰囲気で会話する若い男女。とても人様の家に無断で入ってくるような犯罪者とは思えない。

 それに女性の方が口にした名前は自分のもので間違いない。もしや自分の素性が知られているのだろうか。

 焦躁感に襲われる。心ばかりがバタバタしてしまい、反対に体の方は脳からの命令を聞いてくれない。

 固まっている俺をよそに、女性はおもむろに胸を露出した。

 これにはぎょっとさせられた。まさかの露出狂じみた行為に直面し、自分の頭は真っ白になった。

 

「はい、俊成ちゃん。おっぱいですよー」

 

 そんな言葉とともに押しつけられる乳房。抵抗空しく乳首が口の中に入ってきた。

 

「むぐ……んぐんぐ」

 

 反射的に乳首に吸いついてしまった。というか自分は何を吸っているのだ。

 自分の行動が信じられない。それでも体は勝手に動いてしまう。乳首に吸いつき何かを嚥下していく。母乳だ。

 突然の幼児プレイに困惑が止まらない。それでも止まることなく母乳を飲み続けた。

 

「けぷっ」

 

 ようやく乳房から顔が離される。ついでにゲップなんかしちゃっている自分がいた。しっかりと母乳を飲んだらしい。

 

「お腹いっぱいになったかしら」

 

 女性が慈愛の目差しを向けていた。その目に何か見覚えがあるような気がする。そして思い出した。

 この若い男女は自分の両親の若かりし頃にそっくりなのだ。

 それに気づけば、自分の今の体にも気づくもので。見慣れた中年の男のものではなく、赤ん坊のものへと様変わりしていた。

 

「あぶ、ばぶー」

 

 まさか、という言葉は赤ちゃん言葉に変換された。

 

「あら、この子笑ったわ」

「俺達の子だ。なんてかわいいんだろう」

 

 ほんわかと笑う両親。間違いなく自分の両親だった。

 ここまでくれば誰でも悟ってしまうだろう。

 自分が逆行転生してしまったのだということに。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 俺の名前は高木(たかぎ)俊成(としなり)。突然逆行転生なんぞしてしまい、自らの人生をやり直すこととなってしまった男だ。

 転生とは言うものの、死んだ自覚もない。もしや夢かと思って頭をぶつけてみたが痛かった。痛くて大泣きして両親を困らせてしまった。赤ん坊というものは感情の抑制ができないらしい。

 少し自分を振り返ってみる。普通に学生生活を送り、高校を卒業してとある会社に入社した。それからは自分なりに必死で仕事をこなす毎日だった。しかし優秀というわけでもなく、四十歳を超えながらもそこそこという胸を張れるとは断言できない地位にいた。

 我ながら、大したことのない人生だった。仕事人間として振る舞いながらも、そのくせ決して優秀ではなく、女性を楽しませるような術も知らない。これでは結婚できなかったのも当然だろう。

 しかし、今は赤ん坊へと戻っている。いくらでもやり直すことができた。

 子供の頃は、大人になるだけで人生が上手くいくだなんて都合のいい考えを持っていた。だけどそれは大きな間違いだった。もっと若い頃から、それこそ幼少の頃からがんばらないといけなかったのだ。

 今度こそ、俺は結婚してみせる。そして優しい両親に孫の顔を見せてあげるのだ。それが前世でできなかった、俺の親孝行だ。

 だが、それは大変なことだというのを俺は知っている。とくに社会人ともなれば出会い自体が激減してしまう。出会いがまったくないとは言わないが、仕事付き合いでの出会いと学生時代の気安い出会いは別物なのである。

 そこで一つ、俺に作戦がある。

 大人になってから彼女を作るのが難しいのなら、若い時から彼女を作ればいいのではないだろうか。それもお試しのような関係でなく、結婚を前提としたお付き合いをだ。

 その付き合いは長ければ長いほどいい。女性は付き合いの長さを大切にするものなのだと、どこぞの雑誌に書いてあった、気がする。

 つまり俺の作戦とは、女の子の幼馴染を作ることなのだ!

 よくあるだろう? 仲の良い幼馴染の男女が「将来大きくなったら結婚しようね」とかいう、甘酸っぱい約束事のアレだ。

 幼い頃ならば臆面もなくそういうことを口にできるのではなかろうか。思春期になってしまえば男女でいっしょにいることすら恥ずかしくなってしまうだろう。それでは遅い。そんな空気になってしまえばプロポーズなんてできるわけがない。前世で結婚できなかったことからわかるように、俺はシャイなのだ。

 作戦が成功すれば俺から告白することなく彼女をゲットできるだろう。受け身な自分ならではの発想だが、完璧ではなかろうか。

 ふふふ、まだ見ぬ結婚生活が楽しみじゃないか。

 かわいい幼馴染をゲットして、将来のお嫁さんに仕立て上げるのだ! それが俺の現世での目標となった。

 

 



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2.公園デビュー

 順調にベイビー時代を過ごした。この辺の時期は記憶がなくてもよかったんじゃないだろうか。正直きつかったとだけ言っておく。

 なんとか歩けるようになって食事も一人でできるようになった。両親がとても喜んでくれたけど、俺自身ものすごく嬉しかった。不自由から解き放たれて泣いてしまったくらいだ。子供は涙もろくていけない。

 そんなわけで三歳になってようやく公園デビューした。

 公園デビューって何歳くらいからが適正なんだろうか。今のところ辿り着いたばかりの公園を眺めている範囲では年下も年上もいるようだった。

 平日の昼間という時間帯というのもあり、小学生の姿すら見えない。前世基準になるけど公園で遊ぶ子供って段々と減ってしまうんだよな。やはり家でゲームとかパソコンで遊んでいるからなのだろうか? 現時点ではどちらもそれほど発展していない。もちろんスマホなんて便利アイテムなんてものも存在していない。ソシャゲ? とかいうのを若い社員がやっていたようだが俺にはよくわからんかった。

 外でしっかりと体を動かして遊ぶ。それは子供の成長にとって重要な意味合いを持つはずだ。

 よく遊び、よく食べ、よく寝る。子供の成長にとって基本だろう。できるなら前世よりも体を大きくしておきたいものだ。

 

「えっと……」

 

 とはいえどうしたものか。

 無邪気に走り回る子供達。遊具で楽しそうにしている子供達。砂場で何か作っているのか没頭している様子の子供達。

 この中に、どうやって入っていけばいいのだろうか?

 あれ? 自分が子供の頃ってどうやって友達作りしていたっけか。うーむ、思い出せない。記憶は彼方だ。

 ワイワイと騒がしい公園でぽつんと一人。どうすればいいのかわからなくて背後にいるであろう母親に目を向ける。

 

「どうもこんにちはー。あら、かわいいお子さんですね」

「うふふ、ありがとう。あなたもお子さんと来たのかしら?」

「ええ、大きくなってきたのでお外で遊ばせようと思いまして」

 

 おほほほほ。そんな奥さまの会話が聞こえてきた。

 母は母ですでにママ友を作ろうと行動していた。ここで助けを求めるのははばかられる。精神的に無理だ。

 子供の無邪気さなら勢いのまま「いーれーてー」と言えるのだろうが。大人の心がそれを邪魔してくる。だからといって話しかけなければ始まらない。

 これでも営業だってしたことがあるのだ。子供に話しかけるくらいやってみせる。営業部はすぐに異動させられたけども。

 深呼吸して、走り回る子供に目を向けた。

 

「あの」

 

 わーきゃー!

 

「えっと」

 

 わーきゃー!

 

「き、君達っ」

 

 わーきゃー!

 

「……」

 

 俺は公園の端っこに移動した。

 これはあくまで戦略的撤退である。休憩も必要だしな。うん、俺は休憩がしたかったんだよ。あー疲れた疲れた。

 大人は井戸端会議に夢中だ。子供はそれぞれの遊びに夢中だ。だから誰も俺のことに気づかない。

 ふぅ、端っこの木陰で一息つく。平日なのにそこそこ人がいるものだ。

 ここならぐるりと全体を見渡せる。そうして見ていると、俺と同じく端っこにいる子供を見つけた。

 仲間に入れてもらえなかったのか、仲間に入れてもらう勇気がなかったのか。どちらにしても俺にとってはチャンスだった。

 まずは一人友達を作ろう。そうすれば友達の輪が広がっていくかもしれない。

 やはり遊ぶのなら友達が必要だからね。遊んで成長して、その中からかわいい幼馴染を作るのだ。

 前世を振り返ってみれば幼馴染にしたい候補はいる。けれどその候補は早くても小学生にならないと出会うことすらできない。

 だからこそ今のうちに子供と接することに慣れておきたいのだ。できれば小学生になる前に女の子とおしゃべりできるようになっておきたいものだ。

 そうは言っても相手は子供。まあなんとかなるだろう。

 端っこでしゃがみ込んでいる子供に近づいていく。背中の中ほどまで伸ばしている黒髪にワンピース。後ろ姿からでも女の子というのがわかる。

 このぐらいの時期の子って男の子か女の子かわからない子もいるからね。これくらいわかりやすく女の子アピールしてくれるとありがたい。

 

「ねえ君一人? よかったら俺と遊ばないか」

 

 なんだか軟派な男になった気分。相手はたぶん俺とそう歳が変わらない子供なんだけどね。

 

「今日はいいお天気ね。お散歩日和だわ」

 

 うん、そのレスポンスはおかしい。

 なぜか噛み合っていないぞ。しかもこっちを振り向こうとすらしないし。

 もしかして無視されてる? でも誰に話しかけているんだろうか。見たところこの子一人だけしか見当たらないけど。

 

「お洋服かわいいわ。え? (あおい)もかわいいって? えへへ、ありがとう」

「……」

 

 この歳(推定三歳)でやばいことに。スピリチュアルな何かに語りかけるとか将来が心配で堪らなくなっちゃうじゃないか。

 女の子は俺に気づいていないようなので前方に回り込ませてもらう。すると女の子が何に話しかけているのかわかった。

 かわいらしいお人形さんを持っていた。女の子のお人形さんのようで、ドレスのような服を着ている。女子が好きそうだなと思った。

 なるほど。さっきまでのはこのお人形さんに話しかけていたようだ。霊的な何かでなくてよかった。

 このくらいの女の子はお人形さんが好きなのだろうな。おままごととかしているしね。

 目の前に回り込んだというのに女の子はお人形さんに話しかけるのに夢中のようだ。全然俺に気づいていない。

 せっかくなので女の子の顔を確認させてもらうことにした。

 

「おお」

 

 思わず声が漏れてしまった。

 期待以上にかわいらしい顔立ちをしていた。目はパッチリと大きく鼻筋が通っている。これくらいの年頃の子どもは男女どちらもかわいらしいものだが、それを差し引いてもこの子は将来美人になるだろうと予感させてくれた。

 まさかこんなところでここまでの美幼女に出会うとは。正直びっくりだ。

 小学生になってから確実に美少女になるであろうあの子にアタックするつもりだったのだが。うむ、この子もなかなか期待できるのではないだろうか。

 頬が緩んでしまう。おっと、これじゃあロリコンみたいではないか。今は俺も子供なので不審者にはならないはずだ。

 膝を折って女の子と同じ目線になる。彼女の視線はやや下方、お人形さんに釘付けだ。

 ここまで接近して未だに気づいた様子がないとは。なんだか簡単に誘拐されそうで心配になる。

 しばし女の子を眺める。他の子供達の賑やかな声が遠くに聞こえる。

 じーっと見つめていると、不意に女の子が顔を上げた。

 

「こんにちは」

「ッ!?」

 

 ニッコリと笑いながらあいさつをすると女の子の体がビクリと跳ねた。驚かせてしまったようだ。

 女の子は驚きに目を見開いている。大きな目がさらに大きくなった。なんか瞳がキラキラしてる。

 

「う、うぅ……」

 

 キラキラしてるかと思ったのは涙を溜めていたからだった。え、泣くの?

 これには俺も焦る。小さな女の子を泣かせるのはどんな理由があろうとも悪だ。

 

「あ、怪しい者じゃないよ! 泣かないで。ね?」

 

 涙を零させまいとあやしてみる。その甲斐あって女の子は目に溜めた涙を引っ込めてくれた。

 

「あの……あの……」

 

 泣かせずに済んだけれど、女の子は下を向いて言葉に詰まってしまったようだった。おそらく引っ込み思案なのだろう。まあ一人だけ端っこでお人形さん遊びをしていたから察していたけれど。

 まずは友達になるために自己紹介だ。それは大人も子供も関係ないはずだ。

 

「俺の名前は高木俊成っていうんだ。よかったら君の名前を教えてもらってもいいかな?」

「……葵」

 

 ぽつりと、女の子は自分の名前を口にした。

 フルネームじゃないのか。これって下の名前だよね。いいのかないきなり下の名前で呼んじゃっても。

 自分と同い年くらいであろう女の子にドギマギしちゃっている元おっさんがいた。というか俺だった。

 ええい! 何をしているんだ自分。動揺するな。これくらいスマートに振る舞えなくてどうする!

 深呼吸をして覚悟を決めた。

 

「じゃあ葵ちゃんって呼んでもいいかな? 葵ちゃん、俺と友達になってください」

「え?」

 

 想いをストレートにぶつけた。

 戸惑う様子が見て取れる。だけどここで退くわけにはいかない。押せ押せでいくのだ!

 

「葵ちゃんと遊べるなら俺なんでもやるよ。おままごとでもどんと来い! パパ役でもいいぞ」

 

 俺の言葉にしばしぽかんとしていた葵ちゃん。外したか? と心配になっていると彼女は笑顔の花を咲かせた。

 

「本当? 葵のおともだちになってくれるの?」

「もちろん」

 

 力強く頷いた。葵ちゃんはえへへと笑う。かわいいな。

 

「じゃあじゃあ、おままごとしたい」

「いいよ」

 

 俺と葵ちゃんはおままごとをして遊んだ。なんだか爺さんが孫を相手にする気持ちがわかった気がする。いや、前世でも孫どころか子供もできたことがないんだけどね。

 夕暮れになるまでおままごとで遊んだ。さすがに日が暮れてくると子供達も家に帰っていく。騒がしかった公園は段々と静かになっていった。

 

「俊成ちゃーん。そろそろ帰るわよ」

 

 それは俺も同様だ。母がこちらに向かって声をかける。

 

「俊成くん……、帰っちゃうの?」

 

 葵ちゃんがまた目に涙を溜めてしまった。こんな目をされてしまうと焦ってしまうな。彼女を泣かせまいと安堵させるように微笑む。

 

「うん。今日はもう帰らなきゃいけないけど、また遊ぼうよ」

「本当に? また会える?」

「もちろんだよ。また明日にでもこの公園に来るよ」

「約束よ」

 

 葵ちゃんはなんていじらしかわいいんだろうか。彼女には悪いがほっこりさせられた。

 

「葵ー?」

「あっ、お母さん!」

 

 葵ちゃんを呼ぶ女性の声がしたかと思えば、当の葵ちゃんは嬉しそうにその女性の元へと走って行った。どことなく葵ちゃんに顔立ちが似ている女性だ。いや逆か。どうやら母親らしい。

 やはりまだまだ親が恋しいのだろう。微笑ましい気持ちで見ていると、葵ちゃんの母親が俺に気づいた。

 

「あら、もしかして葵と遊んでくれていたのかしら。ありがとうね。えっと……」

「あ、私は……、俺は高木俊成です。葵ちゃんとは今日友達になってもらいました」

 

 危ない危ない。目上の人相手だとかしこまった言い方になりそうになるな。今のもけっこう硬かったかもしれないけれど。まだ三歳なんだから無邪気にならねば。

 

「自己紹介ができるなんて偉いのね俊成くん。よかったらこれからも葵と仲良くしてあげてね」

「はい、もちろんです」

 

 はきはきと答える。こういうのはしっかりと受け答えができる方が親御さんの印象が良いからね。

 

「こちらこそうちの俊成と仲良くしてやってください」

「俊成くんのお母さんですか? いえいえ、こちらこそ」

 

 こちらこそこちらこそ、謙虚な譲り合いのような応酬が少しだけ続いた。

 

「バイバイ俊成くん」

「うん、またね葵ちゃん」

 

 親同士のあいさつも終わったところで帰ることとなった。葵ちゃんが小さく手を振るので俺も同じように手を振った。

 顔がほころんでしまうほどのかわいさだ。今日公園に来てよかったな。

 

「お友達ができてよかったわね」

「うん」

 

 帰り道、母と手を繋ぎながら会話をする。

 

宮坂(みやさか)さんか……。仲良くできそうな人で安心したわ」

 

 ……ん?

 母の何気ない言葉に引っ掛かりを憶えてしまう。手を繋いでいたからか俺の様子に母が気づいた。

 

「どうしたの?」

「宮坂さんって?」

「ああ、葵ちゃんの名字よ。あー……名字っていうのはね、上の名前みたいなものよ。うちは家族みんな高木でしょ。それと同じように葵ちゃんの家族はみんな宮坂っていう名字なのよ」

 

 母の説明に俺は呆然としたまま頷く。体はなんとか動いてくれたものの、頭は彼女のことで占められていた。

 宮坂(みやさか)(あおい)。その名前は知っていた。むしろ転生してからすぐに思い出した名前でもある。

 彼女は前世の俺と出会っている。彼女とは小中学校を共にしており、とくに中学時代はかなりの美少女に成長していて有名だったのだ。

 そう、宮坂葵は俺が幼馴染にしたい子の筆頭候補なのだ。

 

 



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3.順調に幼馴染ルートへ

 前世での中学時代、宮坂葵は学校のマドンナであった。

 整った外見に大和撫子のようなおしとやかな性格をしていた。クラスの中心になる、というタイプではなかったが誰もが彼女を意識していた。

 小学校も共にしていたのだが、その頃は子供らしく遊び回ることに夢中で女というものに興味なんて持っていなかった。ようやく色気づいた頃には俺みたいなファンが多く、そんな彼女に接することができなかったのだ。

 中学を卒業してからの彼女がどうなったかは知らない。面倒だと思って同窓会にも出なかったから知りようがないのは当然だ。逆行転生するとわかっていればちゃんと情報収集したというのに。

 まああれだけ美人だったのだ。きっと良い人を見つけて幸せな家庭でも築いたのだろう。

 だが、今度は俺が宮坂葵と幸せな家庭を築いてみせる! 前世とは違う結末を迎え幸せになるのだ。

 そのために小学校に入学したらすぐにアタックしようと思っていたのだが。

 

「まさかこんなに早く会えるとは……」

「俊成くんどうしたの?」

「ううん、なんでもないよ」

 

 きょとんとする葵ちゃんに首を振る。よくよく見てみれば中学時代のマドンナだった宮坂葵とどことなく似ている。やっぱり本人なのだろう。

 今日も今日とて俺は公園で葵ちゃんと遊んでいた。

 葵ちゃんは運動するよりもおままごとのような女の子らしい遊びをするのが好きのようだ。俺は役者気分でおままごとを堪能していた。

 

「パパ、はいあーん」

「もぐもぐ。葵の作ったご飯は美味しいなぁ」

 

 葵ちゃんは泥団子を作って俺の口元に持ってくる。口を動かして食べるフリをする。さすがに三歳児でも泥団子を口の中に入れないという常識はできている。

 おままごとをする時は俺がパパ役。葵ちゃんがママ役で彼女が持っているお人形さんは娘役になっていた。ちなみに配役やストーリーを考えるのは葵ちゃんの役割だ。

 前世での自分が三歳児の頃だったらおままごとなんて、と嫌がっていただろう。なんだかんだで鬼ごっこやドッヂボールのような体を動かす遊びの方が好きだったから。

 でも今の自分なら微笑ましい気持ちで遊んでいられる。子供の笑顔とはなんて心が暖まるものなのだろうか。

 それに、葵ちゃんが俺が幼馴染にしたい子ナンバーワンであるあの宮坂葵というのなら気合も入るというものだ。しっかりと好感度を上げて結婚ルートに乗っかるのだ。

 そんな風に考えながら公園通いを続けていた。葵ちゃんの母親からも娘の友達の俊成くん、と認識されるようになった。将来お義母さんと呼ぶ予定の相手だ。こちらの好感度アップもかかせない。

 葵ちゃん相手には仲の良い、それでいて頼りがいのある男として振る舞う。お義母さんには聞き分けのある良い子として接するようにした。

 宮坂親子の俺に対する好感度が上がっていくのがわかる。こうしてみると子供としての生活も悪くないものだと思った。

 そんなある日、唐突に俺の度胸が試される事件が起こった。

 いつものように葵ちゃんがいる公園にやって来た。子供の声で騒がしいのはいつものこと。だからその光景を目にするまで気づかなかったのだ。

 

「やめて! やめてよ!」

 

 葵ちゃんが泣いていた。

 四人の男の子が葵ちゃんを取り囲んでいた。男の子の一人はお人形さんを持っている。それは葵ちゃんのものだった。

 

「ヘイ! パスパース」

「ほーらこっちだー」

 

 葵ちゃんが泣きながらもお人形さんを取り戻そうとする。だけど男の子はお人形さんを放ると他の男の子へと渡してしまう。お人形さんを追いかけて葵ちゃんが次の男の子へと向かう。それが何回も続いていた。

 明らかにいじめ現場だった。

 葵ちゃん一人に相手は四人。しかもちょっとだけ背が高い。おそらく年上なのだろう。

 今日に限って大人の姿はなかった。俺も葵ちゃんもそれなりに公園という場所に慣れたと判断されたためか親はついて来ていなかった。

 他の子供達もこのいじめに気づいてはいるようだが、遠巻きに見ているだけだった。そりゃそうだ。この時間帯の公園であの四人組は一番の年長者。子供の中で逆らえる者なんていやしない。

 なぜこんなことになってしまったのか。かわいい娘にちょっかいをかけたいお年頃というやつなのか。

 ちょっとした悪戯ならかわいいものだと笑ってやれるが、これは明らかにやり過ぎだ。子供は無邪気な分、やっていいことと悪いことの判断がつきにくいものなのだろう。

 大人がいれば簡単に収められる現場。でも今はいない。

 だから俺が動いた。

 

「ぎゃっ!?」

 

 ちょうどお人形さんをパスされた男の子の背後からドロップキックをお見舞いしてやった。その男の子は顔面から地面へダイブして倒れた。そして泣いた。

 

「何やってんだコラー!」

 

 我ながらなんてソプラノボイス。三歳児の怒鳴り声なんて怖くないな。

 

「な、なんだよお前……」

 

 それでもいじめていた男の子達をひるませるには充分だったようで。葵ちゃんをいじめていた動きが止まった。登場が派手だったから意図せず威嚇になったようだ。

 子供のケンカに頭を突っ込むことくらい怖くなんかない。しかし相手の人数は多く、年齢も一歳か二歳は上だろう。この時期の成長はバカにならんからな。

 相手は全員自分よりも目線が上だ。前世で一応のケンカ経験があるとはいえ、真っ向勝負をすれば勝ち目はないだろう。

 だが、ここで退くわけにはいかない。幼馴染を助けずして幼馴染として胸を張れるはずがないからだ。

 

「お前等……これ以上俺の葵ちゃんを傷つけようって言うならな」

 

 静まり返った公園で、ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた気がした。

 ビシッ、といじめっ子達に人差し指を突きつける。

 

「お前等の親に言いつけてやるからな!」

 

 子供にとってこれは効果抜群だ。まだまだ親とは絶対的な存在。悪いことをしたらちゃんと怒られてきた子達なら抗いようのない魔法の言葉だ。

 思った通り、いじめっ子達はたじろいだ。

 

「くっ……おい行くぞ」

「くそっ、憶えてろよ!」

 

 なんて三下なセリフ。おじさん君達の将来が不安になっちゃうよ。

 いじめっ子達は去って行った。自分でやっておいてなんだけど泣いている子が心配になった。大したケガはしてないとは思うんだけど、さすがにあんな小さい子供を蹴るだなんてちょっと罪悪感。

 それでも葵ちゃんを放っておくよりは全然いい。俺は地面に落ちてしまったお人形さんを拾うと軽くはたいて汚れを落とす。

 

「葵ちゃん大丈夫? はいこれ」

 

 涙でぐちゃぐちゃになっている葵ちゃんの目からさらに涙が出てきた。え、あれ?

 

「うええええん!」

 

 泣きながら彼女は俺にしがみついてきた。すごく怖かったのだろう。しわになるくらい服を掴まれて、葵ちゃんの怖かったという感情が伝わってくるようだった。

 そんな彼女の頭を優しく撫でる。背中もポンポンと叩いてあげる。泣き止むまでずっとそうしていた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「今日は本当にありがとうね。さあ食べて食べて」

「あ、いえ、お構いなく」

 

 葵ちゃんが泣きやんでから、俺は彼女を家へと送り届けた。あんなことがあってそのまま公園で遊ぶわけにもいかなかったのだ。

 葵ちゃんを家に送り届けると彼女の母親に出迎えられた。そこでまたいじめられたことを思い出しでもしたのか、葵ちゃんが大泣きした。

 彼女はつっかえながらもことのあらましを話した。ちゃんと俺がいじめっ子を撃退したことも話してくれた。

 聞き終わると葵ちゃんのお母さんは俺に感謝を述べた。それだけじゃ気が済まないということでお菓子とジュースを御馳走してくれるという状況となったわけである。

 

「それにしても俊成くんは本当にしっかりしているわね」

「いえいえそんな」

 

 娘を助けたというのもあって葵ちゃんのお母さんの俺を見る目がキラキラしている。隣にいる葵ちゃんの目もキラキラしていた。涙はもう溜まっていない。

 

「俊成くんがいれば葵も安心できるわね」

「うんっ」

 

 それは俺に葵ちゃんをくれるということですかお義母さん!

 おっと、自制しろよ俺。がっつく男は嫌われる。

 尻のあたりがムズムズしながら宮坂親子の会話に耳を傾ける。お菓子もちゃんと食べておく。子供がこういうのを残すのは返って失礼にあたるだろうからね。

 

「それにしても公園も危ないのね。そうだわ。お人形さん遊びをするんだったらお家ですればいいのよ」

 

 名案だと言わんばかりに葵ちゃんのお母さんが手を叩いた。

 それってつまり……この家に来ていいってことなのか?

 

「あの、お家にお邪魔してもいいってことですか?」

「もちろんよ。俊成くんなら歓迎だわ」

 

 俺への信頼か。宮坂家へ上がらさせてもらえるようになった!

 やった! やったぞ! これはもう幼馴染ルートに入ったと言っても過言じゃないんじゃないだろうか! 親公認ってことだろ。

 興奮を顔に出さないようにして、俺は「じゃあまた遊びに来ます」と紳士的に言った。

 幼馴染とは親からも認められてこそだからね。この時点でかなりリードしたと言っていいだろう。

 このまま順調にいけばいずれ葵ちゃんから「将来お嫁さんにしてね」という言葉をいただけるのも近いはず。ぐふふ、未来が明るいぞ。

 結婚という夢に向かってまっしぐら。将来が楽しみになってきた。

 

 



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4.幼稚園はどうする?

「俊成ちゃん。来年から幼稚園に通うわよ」

「幼稚園?」

 

 ある日のこと、夕食を食べていると母からそんな話を振られた。

 小首をかしげた俺に母が追加で説明をする。

 

「幼稚園っていうのはね……そう、俊成ちゃんと同じ歳の子がいっぱいいるところなの。そこでみんなといっしょにたくさんのことを学んだり遊んだりするのよ」

「そうなんだ」

 

 かわいらしく頷いておく。理解を示す息子に母はご満悦だ。

 幼稚園の存在自体もちろん知っている。こちとら前世での年齢は現在の母よりも上なのだから。

 ただ上過ぎて幼稚園で何をやっていたのかまったく憶えていない。入園するのも来年ってことは四歳になってからか。いつ幼稚園に通い始めたのかさえやっぱり憶えていないんだよね。

 それが不安ってわけじゃない。学校じゃないからテストもないし、そう身構える必要もないだろう。

 気になることがあるとすれば……。

 

「その幼稚園には葵ちゃんもいるのかな?」

 

 純真な子どもを意識して尋ねてみる。母は即答せずに唸った。

 

「うーん、どうかしらね。また宮坂さんに聞いてみるわ」

 

 母は葵ちゃんのお母さんと仲良くしているようだ。子供が仲良くしているとその親同士も仲良くなりやすいのだろう。これもまた幼馴染の条件をクリアしているはずだ。

 もう幼馴染と断言してもいいだろう葵ちゃんは前世で同じ幼稚園だっただろうか? 小学校が同じというのは間違いないんだけど。幼稚園ともなると曖昧だ。

 家は子供の足で辿り着けるのだから近所と言っていいだろう。だから幼稚園の選択肢も限られる。

 一応俺からも動いてみるか。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 葵ちゃんと遊ぶのは日課になっていた。お互いとくに用事がなければほとんど毎日いっしょに遊んでいる。

 葵ちゃんの家に訪問する。うちと同じ一軒家だ。インターホンを押すと葵ちゃんが出迎えてくれた。

 

「俊成くんいらっしゃい」

「お邪魔しまーす」

 

 ニコニコと笑う美幼女に手を引かれ家へと上がる。中で葵ちゃんのお母さんが待っていた。

 

「こんにちはおばさん」

 

 ぺこりと頭を下げてあいさつをする。礼儀正しい俺に葵ちゃんのお母さんはうふふと嬉しそうに笑う。

 

「こんにちは俊成くん。葵ったら俊成くんは自分でお出迎えするって聞かないのよ」

「お母さん!」

 

 秘密をバラされたと言わんばかりに葵ちゃんが顔を真っ赤にさせる。それを見てさらに葵ちゃんのお母さんは手で口元を隠して笑った。それを見て葵ちゃんの怒りはさらに上がる。

 

「行こ、俊成くん」

 

 ふんっ、とかわいらしく鼻を鳴らしながら葵ちゃんが手を引っ張って先導する。後ろから「後でお菓子とジュース持って行くわね」という声が聞こえた。

 俺は葵ちゃんに引っ張られるまま二階にある彼女の部屋へと入った。

 俺はすでに宮坂葵の部屋に招待されるまでになっていた。ふふ、前世では女の子の部屋に入るなんて甘酸っぱいイベントはなかったからね。にやけそうになるのを我慢しないといけなかったよ。まだ相手は三歳児だけどね。

 葵ちゃんの部屋はピンクを基調とした女の子らしい部屋だ。けっこうぬいぐるみが多いのが特徴か。公園にもお人形さんを持って行ってたし、こういうのが趣味なのだろう。

 部屋で遊んだり、たまに公園に行ったりと、場所の選択権は葵ちゃんにある。本日は部屋で遊びたいようだ。

 好都合だ。葵ちゃんのお母さんが来たら幼稚園のことを尋ねてみよう。

 いつものようにお人形さんを使ったおままごとをする。子供の欲求なのかたまには外で駆け回りたいと思わなくもないが、彼女からは一切そういった欲求はないようだった。ならば我慢するのはおっさんの役目だ。

 家族団欒(おままごと)しているとノックの音が聞こえた。俺は立ち上がってドアを開ける。

 

「開けてくれてありがとね俊成くん。はい、お菓子とジュース持ってきたわよ」

「こちらこそいつもありがとうございます」

 

 葵ちゃんのお母さんがお盆を両手に持って部屋に入ってきた。お盆の上には二人分のお菓子とジュースが置かれている。

 お盆をテーブルに置いて出て行こうとするので、俺は呼びとめた。

 

「あの、おばさん。ちょっと聞きたいことがあるんですけど」

「え? なあに?」

 

 葵ちゃんのお母さんは俺に目線を合わせるために屈む。ちゃんと話を聞いてくれる意志表示だった。

 

「俺、来年から幼稚園に通うんですけど、葵ちゃんはどうなのかって気になっちゃって……」

 

 いじらしい子供を演出する。こうすれば自分の娘と同じ幼稚園に通いたいのだと察してくれるだろう。策士だな俺。

 

「幼稚園か。葵も来年からって思ってたのだけど……。そうね、俊成くんといっしょなら安心よね」

「いっしょがいい! 葵、俊成くんといっしょがいい!」

 

 葵ちゃんが食いついた。彼女も俺と同じ気持ちらしい。嬉しいじゃないか。まあ幼稚園というのがどういうところなのかわかっているかは微妙だけど。ただ単に俺といっしょっていうのがいいだけかもしれない。やっぱり嬉しいじゃないか。

 

「葵って人見知りするから心配だったのよね。ただでさえ二年保育になるから馴染めるかどうか不安だったのよ」

 

 聞き慣れない単語があったので聞き返してみる。

 

「二年保育ってなんですか?」

「あっ、難しかったわよね。ううん、俊成くんが心配するようなことじゃないから」

 

 はぐらかされた。葵ちゃんのお母さんは俺の母と違ってちゃんとした説明はしてくれないらしい。

 まあいいけど。文脈から察せられるし。

 たぶん幼稚園にいる期間が普通よりも短いのだろう。前世で子供がいなかったから詳しい幼稚園事情は知らないけれど。

 うちも同じくってことだし。俺としては幼稚園にいる期間がどうかってよりも、葵ちゃんといっしょにいる期間が長い方がいい。

 

「また高木さんとお話したいわね……。じゃあお母さんは下にいるから何かあったら言うのよ」

「はーい」

 

 葵ちゃんが返事をしておばさんは部屋を出て行った。

 よしよし、これで葵ちゃんは俺と同じ幼稚園に行くはずだ。計画通り。

 引っ掛かっていた問題も解消されたので気持ち良く葵ちゃんと遊べた。

 俺はこの時、葵ちゃんが俺と同じ幼稚園に通うことが確定したものだと思い込んでいた。だが忘れてはならない。小さな子供は両親の事情に左右されるのだということを。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 あれから月日が経ってからのこと。

 

「どじなりぐん……」

 

 葵ちゃんが泣いていた。

 いつも通りに彼女の家に遊びに行ったらこれである。いきなりの泣き顔にさすがに面喰らってフリーズしてしまったよ。

 

「うええええええん!」

 

 いつぞやと同じように泣いている彼女に抱きつかれた。どうしたどうした?

 とりあえず落ち着かせようと頭を撫で撫で背中をポンポン。しばらくすると嗚咽も収まってきた。

 

「葵ちゃん、どうしたの?」

 

 できるだけ優しく尋ねる。なかなか答えが返ってこなくても急かさないようにする。

 彼女が口を開くまで抱きしめ続けた。ようやく震えた声で話してくれる。

 

「あのね……葵、俊成くんといっしょの幼稚園に行けないの」

「えっ!?」

 

 なぜだ! そう詰め寄りそうになって自分を押さえる。葵ちゃんに言っても仕方のないことだ。冷静になれ自分。

 

「……どうして?」

 

 それでも頭を冷やしても尋ねずにはいられなかった。葵ちゃんが鼻をすする。

 

「お父さんが……お仕事が大変だからって……。だから葵は、ほいくえんってところに行かなきゃダメなんだって……」

 

 お義父さん……っ! どうした、事業に失敗したようにしか聞こえなかったぞ。もしかしてヘビーな事情なのか!?

 もしそうだとしたら家庭はピンチだろう。彼女のお母さんは専業主婦で間違いないだろうし。収入はすべて大黒柱のお父さんからだっていうなら、それがなくなるのだとしたら確かに大変な一大事だ。

 そういえば今日、いつも葵ちゃんといっしょに出迎えてくれるお母さんの姿はない。用事で家を空けることがないとは言わないけれど、俺が来る時間帯にいないのは初めてだった。

 葵ちゃんを保育園に預けるというのを考えれば、もしかしてパートでもするつもりなのか? 思いのほかピンチなのかもしれなかった。

 葵ちゃんのお父さんとは面識がない。ぶっちゃけ何の仕事をしているのかも知らない。だけど同じく社会人として働いていた者として心配になってしまう。むしろ家庭を築かなかった自分と違ってその責任は重く、押し潰されそうなほどの不安でいっぱいに違いなかった。

 今の俺はなんの力もない子供に過ぎない。中身がおっさんだといってもやれることなんてなかった。

 こんな俺にできることは、葵ちゃんを安心させるように抱きしめることしかなかったのだった。

 

 



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5.幼稚園での友達

 四歳になって、俺は幼稚園に通い始めた。

 やはりと言うべきか、その幼稚園に葵ちゃんの姿はない。彼女の言った通り、別の保育園に行くのだろう。

 宮坂家の事情を詳しくは知らない。いくら純粋無垢な幼児を演じていたとしても他人の家庭にずけずけと首を突っ込むのは躊躇われた。「葵ちゃんのお父さんお仕事どうしたの? 失業でもしちゃった?」なんて聞けるはずもない。

 わかっているのは葵ちゃんは保育園に通い、おばさんは昼間働きに出ているらしいということだけだ。これは母が言っていたので間違いないだろう。相変わらず葵ちゃんのお父さんの情報だけは入ってこない。

 一つ安心したことがあるとすれば、家を引き払ったりしなかったというところだ。ローンが払えるくらいの収入が残っていたのか、そもそもローンなんてなかったのか。これも人様の事情なので知らないことだ。葵ちゃんに聞いても要領を得ない答えしか返ってこないしね。

 そんなわけでしばらく葵ちゃんと遊ぶ時間が激減してしまうことになってしまった。保育園のお迎えは夕方も過ぎてからになるらしいので平日に遊ぶのは無理だろう。子供は門限が厳しいのだ。

 はぁ……、せっかく葵ちゃんといっしょに幼稚園でラブラブできると思ったのに。入園したっていうのにテンションだだ下がりですわ……。

 

「タッチー! 高木くんの鬼だー!」

「くっそー! 俺が鬼だ! 悪い子はいねがー?」

 

 太陽の下、鬼ごっこに夢中になっている俺がいた。って俺かよ!?

 おっさんが鬼ごっこに夢中になってるだなんてキモいなんて言ってはいけないぞ。これがけっこう楽しいのだ。きっとこの子供の体が運動を欲しているのだろう。

 四歳児が集まると、みんな仲良くできるらしい。三歳から幼稚園に通っている子が多かったのだがすぐに仲間に入れてもらえた。もう少し大きくなれば見ず知らずの他人を簡単には受け入れてはくれないだろう。

 わーわーきゃーきゃーとはしゃぎながら園内を走り回る。幼稚園って場所はなんて笑顔に溢れているところなのだろうか。つられるようにこっちも笑顔になっちゃうね。

 このくらいの年頃だと男の子も女の子も関係ない。鬼ごっこに混じっているのは女の子も同様だし、周囲を見れば男の子が女の子に混じって砂場で遊んでいたりフラフープやあやとりなんてしているのも珍しくなかった。

 これが段々と男女で分かれて遊ぶようになったり、さらに進めば異性を意識するようになるのだ。そう思うとこの時期から人間観察ができるのは面白いことなのかも。

 そんなことを考えながら鬼として幼い子を追いかけ回した。……なんて言っていると、もし中身がおっさんだってバレたらものすごく白い目で見られそうだ。

 

「ガオー! 食っちまうどー!」

 

 俺が鬼っぽく(?)振る舞うときゃいきゃいと喜んでくれる。そんな純真な子供達を見ているとこっちの方が嬉しくなる。

 そう思えば思うほど気になっちゃうものがあるわけで。視界の端っこで確認して、行くと決めた。

 近くの男の子にタッチして鬼を交代する。俺は木陰の方へと隠れるように逃げた。

 子供ってのはいくら走っても疲れないものだ。疲労よりも楽しさが勝っているのだろうか?

 残念ながら俺は普通に疲れを感じていた。もしかしたら気持ちの問題なのかもしれなかった。結局体が子供でも心がおっさんだとついて行けないらしい。

 いやいや、言い訳をさせてもらえるのならさせてほしい。今まで葵ちゃんとばかり遊んでいて、彼女とはこういった運動的な遊びをしてこなかったのだ。そのため他の子供よりも体力がないのだ。

 ……うーん、我ながら女の子を言い訳にするのはかっこ悪かったかも。でも他の子よりも運動不足なのは事実だろう。ちょっと意識的に体を鍛えた方がいいかもしれんね。

 そんな反省を胸に、俺は木陰に隠れた。

 

「やあ瞳子(とうこ)ちゃん。そこで何して遊んでるの?」

 

 木の後ろ側、遊んでいるみんなから隠れるようにその子はいた。

 背中を向けて屈んでいるのは、ひと際目立った銀髪をツインテールにした幼女。振り返った猫目のブルーアイズはこちらを睨んでいるようだった。

 日本人らしからぬ容姿をしたこの女の子の名前は木之下(きのした)瞳子(とうこ)という。俺と同じく今年からこの幼稚園に通い始めた女の子である。

 瞳子ちゃんのお母さんを見たことがあるが、北欧の美女と表現するのがぴったりの麗しい女性だった。名前を考えれば瞳子ちゃんはハーフなんだろうなと予想がつく。

 まさか幼稚園にこれほどの美幼女が現れるとは思っていなかった。葵ちゃんと匹敵するほどだ。

 だからといって俺に彼女を理想の幼馴染に仕立て上げて結婚相手に、とまでは考えてはいない。その相手には葵ちゃんがいるからだ。俺には葵ちゃん一人で充分過ぎる。

 ただ、瞳子ちゃんを気にする理由としてはおっさんの欲望とかではなく、大人としての心配からであった。

 

「……」

 

 ぷいっとそっぽを向かれた。

 そう、瞳子ちゃんはとっても無愛想な女の子なのだ。

 子供にありがちな恥ずかしがり屋などではない。なんというか自ら他人を拒絶しているような感じがする。思春期ならありそうな態度だけど、このくらいの年頃だと珍しいというか不思議だった。

 まあ一応の他人を拒絶する理由があるにはある。入園初日に瞳子ちゃんの銀髪が珍しかったのか、一人の男の子が彼女の髪を引っ張ってしまったのだ。それに怒った瞳子ちゃんがその男の子を張り倒してしまったという事件があった。

 もちろんその男の子は大泣き。子供には泣いたら勝ち、というよくわからないルールのためか瞳子ちゃんだけが先生に叱られてしまったのだ。

 さすがに可哀想だと思ってよく見てなかったらしい先生に事のあらましを説明したのだが「暴力はいけません」の一点張りで聞き入れてもらえなかったのだ。

 そんなこともあって瞳子ちゃんは「暴力を振るう子」という認識をされてしまったためか、園児達からも距離を置かれてしまったのである。

 確かに手を出してしまった瞳子ちゃんも悪いのかもしれない。でも先に女の子の髪に乱暴を働いたのはその男の子なのだ。せめてケンカ両成敗というのなら話は変わっただろうに。

 

「……」

 

 さらに加えてこの無愛想な態度。かわいいんだから少し愛想よく振る舞えばすぐにでも園児達を虜にできそうなものなのに。勿体ない。

 今となっては暴力うんぬんよりも、この無愛想な態度が他の子を寄せつけない原因になっていた。ケンカしたとしてもこのぐらいの歳の子だとわりとすぐに忘れちゃうしね。現に瞳子ちゃんの髪を引っ張った男の子なんて彼女に張り倒されたことさえ忘れて外で遊び回ってるし。

 だから彼女一人だけがこんな隅っこでいるなんて心配になってしまうのだ。老婆心、という言葉はあまり使いたくはないけれど、まあそんな感じだ。

 子供の一年は大きい。こんな小さいうちから他人を拒絶してだんまりってのは見過ごせなかった。

 たくさん遊べるのは今だけかもしれないのだ。子供の頃が楽しくなかったら、大人になって悲惨だぞ。社会人になったらそうそう遊べないんだからな!

 

「瞳子ちゃんは何してるの?」

「……」

 

 幼い子に無視されるのって堪えますわ……。

 でもめげたりしない。大人の余裕を持って接する。

 屈んでいる瞳子ちゃんの前に回り込む。なんか葵ちゃんと出会った頃を思い出すなぁ。

 しかし彼女はお人形さん遊びをしていた葵ちゃんとは違っていた。

 

「……虫?」

 

 瞳子ちゃんが地面に指を突っついているかと思って見てみれば、アリやダンゴムシがうじゃうじゃといた。

 あー……、そういえば小さい頃って素手で虫に触るのに抵抗がなかったなぁ。そんな風にほのぼの思った。

 

「虫……いじめてるの?」

「いじめてないわよ!」

 

 怒られてしまった。子供なのに睨む強さが強過ぎやしませんかね。

 不機嫌オーラが増してしまったな。それでもここから動こうとしないのは手元の虫に愛着でもあるのか。まさか友達は虫さんです、とか言わないよね?

 瞳子ちゃんがじーっと下を向いて虫と戯れて(?)いる。俺はそれを見つめ続けた。

 

「……なによ」

「別に、ただ見てるだけだよ」

 

 ニッコリと笑ってみせる。敵意なんてないですよー、と笑顔に乗せる。

 

「ふんっ」

 

 鼻を鳴らす幼女。俺がここにいるのは問題ないってことかな? 何も答えてくれないし、俺のいいように解釈しておこう。

 木を挟んで甲高い子供達の声が聞こえる。タイプは違うのになんだか葵ちゃんといっしょにいるみたいだ。

 瞳子ちゃんがダンゴムシを突っついて丸くさせる。それを見ていてつい口をついた。

 

「ダンゴムシってさ、逃げる時にジグザグに進むって知ってた?」

「ジグザグ?」

 

 瞳子ちゃんが初めて顔を上げた。おっ、興味あるのか。

 

「じゃあ試してみようか」

 

 俺は一匹のダンゴムシの後ろの地面を叩く。前進するダンゴムシの前に手で壁を作った。

 

「まず右に曲がったね。だったら次は左に曲がるよ」

「わかるの?」

「まあ見ててよ」

 

 ダンゴムシの前にまた手で壁を作る。俺が言った通り、そのダンゴムシは左に曲がった。

 右、左、右、左。ダンゴムシはジグザグに逃げていく。

 

「へぇー……」

 

 感心したように吐息を漏らしている。猫目のブルーアイズがキラキラと輝いていた。美幼女っぷりが増してるね。

 こんな目を見せられてしまうと、やはり今までは楽しくなかったのだろうと思えてしまう。どんな子でもせめて子供のうちだけでも楽しく過ごしてほしいものなのだ。それはおっさんのわがままなのだろうか。

 

「ダンゴムシの迷路とか作ると面白いかもね。こうやってジグザグに動くからちゃんとゴールさせられるように作るんだ」

「うん」

 

 あら、素直なお返事。どんなにつんけんしたって子供には変わりないってことか。

 そこで先生から遊び時間の終了を告げられた。みんな室内へと入っていく。

 

「ねえ」

 

 立ち上がったところで瞳子ちゃんから声をかけられた。屈んだまま彼女は俺と目を合わせようか合わせまいかと揺れていた。

 

「名前は?」

「え?」

「だからあんたの名前を聞いてるのよ!」

 

 そんな怒らなくても……。というか憶えてくれてなかったのね。

 でも尋ねるってことは俺に興味を持ってくれたということだろう。人に興味を持つというのは良いことだ。変に茶化したりせずに答える。

 

「俺は高木俊成。気軽に俊成って呼んでよ」

「わかったわ。俊成ね」

 

 おおう、本当に呼び捨てされるとは思わなかった。なんか新鮮。

 相手は四歳児なので別にドギマギなんてしないけれど、あまりに新鮮過ぎてちょっとだけ反応に困った。

 そんな俺を無視して瞳子ちゃんは立ち上がった。そして自分の胸に手を当てて堂々と宣言するみたいに言った。

 

「あたしは木之下瞳子よ。これからよろしくしてあげてもいいわ」

 

 あれだけ「瞳子ちゃん」と呼んでいたのだから自己紹介なんていらないってわかりそうなものだけど。そう思いながら見つめていると、彼女のまつ毛がふるふると震えていることに気づいた。

 もしかして、彼女にとって俺が初めての友達なのだろうか? だから改めて初めましてとあいさつがしたかったのかも。

 素直じゃない。それでもかわいらしいと思った。

 

「うん。よろしくね瞳子ちゃん」

 

 俺は瞳子ちゃんと握手をし、友達のあいさつをした。

 

 



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6.瞳子ちゃんの変化

誤字報告ありがとうございます。本当に助かります。いつも感想ありがとうございます。モチベになっております。できればこのまま一日一話投稿していきたいかな。書き溜めなんてまったくないけどがんばる。


 幼稚園での生活も順調と言えた。

 明るく元気でしっかり者の男の子。それが俺、高木俊成である。周囲からはそんな評価をされているに違いない。

 幼稚園児は集中力がなく自分勝手な行動をする子が多い。そんな子達をなだめたりまとめたりしていると、自然と先生の評価も上がっていった。

 

「ほら、零しているわよ。あたしが拭いてあげるからじっとしてなさい」

「むぐ……。木之下さんありがとー」

 

 幼稚園生活が過ぎていき、一番変化があったのは瞳子ちゃんだった。昼食のお弁当タイム、ポロポロとおかずを零している隣の女の子の世話を焼いていた。

 最初は誰とも関わろうとしなかった彼女だが、園児達の面倒を見ている俺のマネをしてか、他の子の世話をするようになったのだ。

 元々はしっかり者だったようで、面倒見の良い姉御のような存在となっている。これが本来の瞳子ちゃんなのだろう。

 いやあ、おっさんは嬉しいよ。せめて幼稚園の時くらいはみんな仲良くしてほしかったからね。

 

「何見てるのよ俊成。あたしの顔に何かついてる?」

 

 ニコニコしながら瞳子ちゃんを眺めていたら頬を膨らませて睨んできた。どうやら不機嫌にさせてしまったらしい。それにしてもこの子は四歳児にしてははきはきとしゃべる。葵ちゃんや幼稚園の他の子と比較しても成長が早いように思える。男女の違いってよりは彼女自身の成長の賜物なのだろう。

 

「何でもないよ。ただ瞳子ちゃんを見てただけだから」

「ふ、ふんっ。そう……」

 

 そっぽを向いてしまった。頬が赤くなっている。あまり見つめ過ぎると恥ずかしがらせてしまうようだ。

 この幼稚園の昼食は弁当と給食の両方ある。本日は弁当の日だった。

 他の子の弁当を見るが、まだキャラ弁なんて流行っていないようだ。あれっていつからあったんだろう? 衛生面の心配うんぬんも聞いたことがあるけれど、やってる人はすごく気を遣っているらしいね。その辺の情報は全部前世でやってたテレビでの受け売りだけども。

 専業主婦のお母様方が多いためか、みんな充実したおかずだった。誰も日の丸弁当なんて持ってきてなかった。

 まあ子供の成長に食事は大切だからな。親として気を使っている分野なのだろう。

 そこは俺も意識していたりする。

 好き嫌いをせずに残さず食べるのは当たり前。むしろ好き嫌いをする子供達から食べ物をもらっているくらいだ。すべて俺の糧となるがいい! そして少しでも前世の自分よりも身長を伸ばすのだ!

 前世での俺は平均身長よりもやや下回ってしまっていた。男としてちょっとしたコンプレックスなのだ。だって高身長の奴等ってモテる人が多かったんだもの。

 できれば前世の自分よりも十センチは身長を伸ばしたい。それだけあれば将来マドンナと呼ばれるほどに美人になる葵ちゃんと少しは釣り合いが取れるだろう。

 日々の努力として牛乳だって毎日飲んでいる。前世の子供時代は牛乳嫌いだったからな。大人になったら平気になったけど。それでもあの時たくさん牛乳を飲んでいれば、という後悔があったのだ。

 後悔は一つずつ潰していく。それが逆行転生した俺のアドバンテージになるのだから。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 春が過ぎると夏がくる。それは今も昔も未来も変わらない。

 何が言いたいか。つまり夏、暑い、プール、イヤッホー! である。

 幼稚園でもプールの時間があったのだ。現在みんなでお着替え中である。

 そう、みんなで、だ。

 きゃいきゃいと、いつものように騒がしい園児達。着替える時でさえ変わらないな。

 水着に着替えるということでみんなすっぽんぽんになっている。男女関係ない。男の子も女の子も同じ場所で裸体をさらしている。

 そう言うとやばい感じのドキドキな展開かもしれないが、相手はとっても幼い子供なのだ。ぶっちゃけ男も女もそれほど体型に変わりない。

 この年頃って男女で更衣室を分けたりしないんだな。というか更衣室なんてなく、全員がプール前の空けたスペースに敷いたシートの上で着替えている。つまり外だ。一応日影であるってのは気遣いに入るのだろうか。

 まあ誰も裸になるのに頓着した様子はないけれど。女の子っていつ恥じらいを覚えるんだろうね。今はほとんどの女の子が裸のまま男の子とはしゃいでいるよ。

 

「な、何よ……何見てるのよ……」

「いや……別に」

 

 一人だけ恥じらっている女の子がいた。

 その子は白い肌を紅潮させながら俺の視線を気にしているようだった。まあ瞳子ちゃんなんだけどね。

 言っておくが俺はロリコンではない。ロリコンではなくただ単に美しいものを愛でようとする男なだけだ。女の裸と言われても幼児体型に性的興奮を覚えたりなんかしない。これは弁明ではなくただの事実である。

 普段は彼女の胸も腹も直接目にすることはない。服で隠れていた大事な部分までもが外気に触れている。体のどの部位も他の子と比べようがないくらいの白さだった。

 まさに処女雪。誰にも汚されていない瞳子ちゃんの素肌が俺の眼前に広がっている。

 

「美しい……」

 

 その一言で充分だった。それだけが今の俺の感情のすべてだった。

 

「ヘンタイ! じろじろ見るな!」

「ぶはっ!?」

 

 気がつけば瞳子ちゃんに張り倒されていた。羞恥心が限界突破したらしい。

 小さい子とはいえ女の子の肌をじろじろ見るのはよろしくない。俺は反省して自分の着替えを済ませた。男の着替えなんてあっという間だ。

 

「ねえ俊成。これ塗ってくれる?」

「ん?」

 

 瞳子ちゃんに差し出された物を疑問も持たずに受け取る。

 

「日焼け止めクリーム?」

「そうよ。後ろの方とか塗り残しがあったらいけないから、塗ってもらってもいい?」

「まあいいけど」

 

 こんなに小さいのに日焼けとか気にしてるんだ。いや、気にしているのは母親の方か? これほどの白い肌が日焼けして黒くなるだなんて確かに嫌だしね。

 瞳子ちゃんはシートの上でうつ伏せになった。水着を半脱ぎにして背中を出している。シミ一つない綺麗な背中だった。

 ワンピースタイプの水着みたいだし、背中全部を塗らなくてもいいんじゃないか? そうは思ったけど、日焼けを意識したことのない俺の知識は信用ならないだろう。大人しく瞳子ちゃんに従おう。

 俺は日焼け止めクリームを手の上に出す。それを体温を馴染ませるように両手のひらに広げた。

 

「じゃあ塗るからね」

「うん」

 

 素直なお返事だ。俺は両手で瞳子ちゃんの背中に触れた。

 ピクンと体が跳ねる。くすぐったかったか? そう思ったけれど彼女から文句は出なかった。

 背中に満遍なく塗り込んでいく。手のひらを何度も往復させて塗り残しがないようにと気をつけた。

 

「ふ……」

 

 うなじに触れるとくぐもった声が微かに聞こえた。

 首は自分でできそうなものだけど、瞳子ちゃんは後ろを塗ってと言ったのでそれに従う。とくに文句もないし、たぶん俺は間違っていないのだろう。

 

「ん……ふ……」

 

 太ももに手を這わせると、またしても微かな声が聞こえた。見れば彼女の耳は真っ赤に染まっていた。

 でもまあ、ここも後ろ側だ。文句がない限りは仕事をこなしていこう。

 まだまだ肉付きの薄い脚だ。大人の手ならその細さが際立つことだろう。今の俺の手は歳相応の小ささなので普通くらいに感じてしまうのだが。

 お尻も水着のラインに沿って手を滑らせていく。これで体の後ろ側は大丈夫だろう。

 

「よし、終わったよ瞳子ちゃん」

「ん……そ、そう」

 

 瞳子ちゃんは起き上がるタイミングで水着を着た。あとは肩にかけるだけだったからね。

 ちょっと顔が赤くなっているけど大丈夫だろうか。くすぐったかったのを我慢していたのかもしれない。

 

「ねえ俊成」

「ん?」

 

 日焼け止めクリームを返すと瞳子ちゃんが口を開いた。

 

「あたし……、水着似合ってるかな?」

 

 彼女にしては珍しくおずおずとした態度で尋ねてきた。少しうつむき加減なところからの上目遣い。猫目のブルーアイズが不安に揺れている。それが元々の美幼女っぷりに拍車をかけてかわいかった。

 さらにその水着はといえば、ピンク色を基調としたかわいらしいものだった。フリフリしたものまでつけて女の子らしさをアピールしている。瞳子ちゃんと融合してかなりの戦闘力を叩きだしていた。

 なんだろう。ものすごく頭を撫でてやりたい。力の限りかわいがってあげたい。そんな衝動を抑えるのに必死になってしまう。

 まさか四歳児にここまでやられてしまうとは。瞳子ちゃん、恐ろしい子。

 それでも水着が似合うかどうかが気になってるなんて、幼くても女の子ってことか。そんな彼女を安心させるように力強く頷いた。

 

「ものすごく似合ってるよ。瞳子ちゃんかわいいね」

「……」

 

 瞳子ちゃんは黙ってうつむいてしまった。衝動のまま綺麗な銀髪を撫でる。黙っているのをいいことに撫で続けてしまった。

 これはその……、体が勝手にね? だって瞳子ちゃんがうつむくもんだからつむじが見えちゃったんだもの。撫でたくなったのもしょうがないでしょうよ。

 

「みんな着替えたかなー? それじゃあ準備体操するから集まってねー」

 

 先生の号令で集合していく。俺も瞳子ちゃんの頭から手を離して後を追う。と思ったら瞳子ちゃんがうつむいたまま動かなかったので手を引いてみんなの方へと向かった。

 ふむ、この反応……。瞳子ちゃんの髪に触れたのがまずかったかな? 入園初日に髪の毛を引っ張られて激怒してたし。

 そのせいなのか、準備体操を終えてプールで遊んでいるのに瞳子ちゃんが俺と視線を合わせてくれない。

 これは女の命である髪を触られて怒っているのかもしれん。こじれる前にさっさと謝ってしまおう。

 そう思っているのに、プールだといつにも増してみんな騒がしくなっている。俺もそれに巻き添えを食う形で園児達から遊ばれていた。

 幼稚園のプールなので底は浅いし、大して広くもない。だからこそすぐに密集してしょうがなかった。先生なんてお馬さんやらされてるし。

 プールの端で瞳子ちゃんが一人でパシャパシャと控えめに水遊びしているのが見えた。なんでまた、と思いつつも俺のせいかと改める。

 上手いこと園児達の興味を他に向けてやる。その隙をついて瞳子ちゃんに近づいた。

 

「瞳子ちゃん」

「わっ!?」

 

 なんかすごく驚かれた。考え事でもしていたのかもしれない。

 謝罪は先手を取るのが吉だ。俺は頭を勢いよく下げた。

 

「さっきはごめん」

「え、何が?」

「勝手に瞳子ちゃんの髪を触ったりして。嫌だったよね」

「え? あ、ああ……」

 

 視線を上げて、瞳子ちゃんは思い出したというように頷いた。

 

「べ、別に嫌じゃないわよ! その……俊成が触りたいなら好きに触ればいいじゃない」

 

 そう言いながら瞳子ちゃんは自身の銀髪をいじる。ツインテールの片方が白い指に絡みつく。

 

「え? いいの? 怒ってない?」

「怒ってなんかないわよ……。ただ……」

 

 彼女の言葉は尻すぼみになっていく。待っていても言葉が続きそうになかったので促してみる。

 

「ただ?」

「な、何でもない! ほらっ、いっしょに泳ぐわよ!」

 

 なぜかぷりぷり怒っていらっしゃる? 子供は感情が豊かで変わりやすいから読み取るのが大変だ。

 遊んでいるとすぐに瞳子ちゃんは笑顔になった。その笑顔を見ただけでまあいいか、と思えてしまった。

 

 



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7.葵ちゃんは甘えん坊

 葵ちゃんと遊べるのは休日だけだ。少なくなってしまった彼女との時間を大切にしている。

 日曜日、宮坂家を訪ねるとちょうど葵ちゃんのお母さんが外出するところだった。

 

「俊成くんいらっしゃい。台所におやつ置いてるから二人で食べていいからね。夕方には戻るからそれまで葵をお願いするわね」

「はい。任せてください」

 

 礼儀正しく返事をすると、葵ちゃんのお母さんは慌ただしく出て行った。

 いつしか俺は葵ちゃんの保護者代理みたいな感じに思われているようだった。しっかり者としてやってきた甲斐があったというものだ。だいぶ信頼されている。

 家には子供しかいないので玄関の鍵は閉めておく。知らない人が来ても出ない。これ四歳児の常識。だよね?

 いつものように葵ちゃんに案内されて彼女の部屋に入る。今日はおばさんがいないからリビングかと思ったんだけど。まあ場所はどこでもいいけどね。

 葵ちゃんの両親は忙しくしているので休日でも会えたり会えなかったりである。それでも娘に心配をかけまいとしているのか弱音を零している様子はない。そういうのってポロっと言っちゃうだけで子供に伝わるからね。というか子供は素直にバラしちゃうからな。

 今のところ葵ちゃんから家族の話題は出ていない。状況は知らないけれど、あんまり重たい内容だったらかなり反応に困ってしまっただろう。

 だけど葵ちゃんの生活が激変しているというわけでもないようだ。葵ちゃんがすごく泣いていたからもっと大変なことになっているのかと思っていたんだけど、どうやら泣き顔にやられて必要以上に心配し過ぎていたのかもしれない。

 

「あなた……今日もお仕事なの?」

「うん、まあ。できるだけ早く帰ってくるよ」

「そんなこと言って、いつも帰ってくるのが遅いじゃないっ」

 

 ……大丈夫だよね?

 現在、葵ちゃんとおままごとをしている。本当におままごとが好きなんだなぁ。

 なんてほんわかしている場合じゃない。葵ちゃんのおままごと設定がいつもと違うんですが。パパを責めたりなんて今までなかったよね。もっと和気あいあいとした家庭だったよね。

 これが現在の宮坂家の家庭環境ということなのだろうか。本当に反応に困る。

 これは彼女の父親に対する感情なのか、母親をマネしているのか。それとも両親どちらともへの気持ちが出てしまったのだろうか。

 手を貸せることがあればいいんだけど。子供の身では働けもしない。まだまだ家庭にパソコンが普及しているとはいえない時代だからネットで副業ってのも難しい。

 少なくとも前世では小中学校をいっしょの学校に通っていたのだ。気がつけば夜逃げをしていた、だなんてことにはならないはずだ。

 それを考えれば瞳子ちゃんはどこの学校に行くんだろうか? 前世では小中高と彼女を見かけたという記憶はない。銀髪碧眼の美少女がいれば目立つだろうし、俺と同じ学校ではないのは確かだ。

 ほんのちょっとだけだけど、瞳子ちゃんを俺の幼馴染として結婚相手の候補に考えたりもした。けれど前世を考えれば彼女は別の学校、もしかしたら遠くへ引っ越してしまう可能性がある。それでは幼馴染ルートに進まない。

 やっぱり俺には葵ちゃんしかいない。君を離したりしないさ。

 そんなことを考えていたら、いつの間にか葵ちゃんに頭を押しつけられていた。なんかぐりぐりと擦っている。

 唐突な奇行に俺は目を白黒させてしまう。

 

「葵ちゃんどうしたの?」

「んー……。なんでもないー」

 

 本当に? 聞き返すのも野暮な気がして、俺は体の力を抜いて葵ちゃんの思うがままにさせる。

 おままごとは中断されてしまった。まあ宮坂家の一端を見るのは抵抗があるし、これでよかったのだろう。

 葵ちゃんの頭はずりずりと下っていく。やがて俺の膝へと重みがかかった。

 彼女の艶やかな黒髪を撫でる。葵ちゃんは「えへへ」と笑みを零した。

 これはなんだろう? もしかして甘えているのかな。

 最近は葵ちゃんのお母さんの姿を見る機会が減った。それは娘である彼女自身も同じなのだろう。

 四歳児なんて甘え盛りの子供だ。その甘えたい衝動を、母親の代わりに俺にぶつけてきたって不思議じゃないのかもしれなかった。

 よしよし、それじゃあおっさんが甘えさせてあげようではないか。

 

「葵ちゃん。保育園はどう?」

 

 なんか父親が子供に話を振るみたいな感じになってしまった。これじゃあ堅苦しいか。

 

「どう……?」

 

 聞き方が曖昧過ぎたかな? もっと単純に聞こう。

 

「保育園は楽しい?」

「んー……まあまあ」

 

 なんか話を振った父親に返事する子供みたいな答えが返ってきた。俺、面倒臭がられてないよね?

 俺の不安をよそに彼女は続ける。

 

「だって俊成くんがいないんだもん」

 

 思ったよりかわいい理由だった。「だって」からの「だもん」はけっこうくるものがあるね。

 にやけそうになるのを我慢する。ここは表情を崩す場面じゃない。

 

「友達はできたの?」

真奈美(まなみ)ちゃんと良子(りょうこ)ちゃんと(もも)ちゃんはお友達だよ」

「そっかー」

 

 名前だけ言われてもわかんないよ。まあ友達がいないってわけじゃないから安心したけど。

 

「女の子ばっかりみたいだけど、男の子の友達はいないの?」

「男の子は怖いんだもん。みんな乱暴で嫌い」

 

 そういえば葵ちゃんって公園で男の子にいじめられてたことがあったっけ。もしかしてそれがトラウマになっているのだろうか?

 前世を思い返せば中学時代の彼女は恋人を作っていなかった。もちろん告白する男子はいた。なのに彼氏を作らなかった理由に様々な憶測があったけど、その一つに男性恐怖症ではないかというのがあった。

 その理由が当たりだとして、こんな小さい頃からそうなっていたのか。いや、前世と今世は違う。ただ男に苦手意識があるのは正しいようだ。

 

「俺のことも怖い?」

「そんなことない!」

 

 葵ちゃんががばっと勢いよく起き上がる。彼女の頭が俺の顎に当たりそうだったのでスウェーでかわす。

 

「俊成くんは違うもん! 他の男の子と違って葵に優しくしてくれるし、かっこいいんだもの!」

「う、うん……ありがとう」

 

 かっこいい……。そんな真っすぐな瞳でストレートに言われると照れるな。

 別に子供に嫉妬なんてしないし、このぐらいの歳だったら異性と仲良くしていたっていいと思っていた。

 でも、葵ちゃんが俺を特別扱いしてくれてるっていうのなら、そのままずっと特別な存在にさせてもらってもいいんじゃないだろうか。

 

「じゃ、じゃあさ……葵ちゃんは保育園でも男の子と仲良くしたりしないんだ」

「うん。葵が仲良くする男の子は俊成くんだけだよ」

 

 純粋な瞳が俺を映している。俺はごくりと喉を鳴らした。

 

「じゃあ俺は葵ちゃんの特別……かな?」

「とくべつって?」

 

 小さい子って知ってる言葉と知らない言葉の境界線がわかりづらいな。

 

「えっと、みんなと違って良い……いや、他の人よりも好きってことかな」

「好き……うん!」

 

 葵ちゃんは目を輝かせた。何度も頷いて俺の手を取った。

 

「葵は俊成くんが好き! とくべつなの!」

 

 不覚ながら赤面してしまいました。

 ここまで真っすぐな感情表現をされると恥ずかしくなってしまう。俺がおっさんで中身が汚れているからかな。葵ちゃんが眩しい。

 でもやったぞ! ついに葵ちゃんから「好き」の言葉を引き出した。このままの流れで将来の誓いまで持っていけないだろうか。

 

「お、俺も好き……だよ」

 

 四歳児相手にどもる子供の皮を被ったおっさんがいた。ていうか俺だった。我ながらキモい。

 だが待ってほしい。いくら幼い子供相手とはいえ、将来は美少女になることが確定している女の子。それも結婚相手にしようとしている子なのだ。ちょっとどころじゃないほど意識してしまうのは当たり前ではなかろうか!

 

「葵も俊成くんが好き! いっしょだね」

 

 元気良く葵ちゃんは俺に抱きついてきた。元々薄いパーソナルスペースがなくなってしまったような気さえした。俺と彼女に壁なんてない。そんな確信めいたものがあった。

 葵ちゃんの黒髪が俺の頬をくすぐる。甘いにおいは女というより子供特有のものだった。

 ……なんだろうね。好きと言われ、好意から抱きしめられて、俺を必要としているのが伝わってくるとこう、なんか泣けてくる。

 目頭が熱くなる。それを押さえようと顔を上に向けた。抱きしめている彼女は俺の様子に気がつかない。

 手を目に伸ばそうとして、まだ彼女を抱きしめていないことに気づく。このチャンスを、幸せを逃してはなるまいと抱きしめ返した。

 これで葵ちゃんルート確定。あとはこのままゴールインするだけだ。第三部完! って言ってもいいんじゃないかな。

 彼女を抱きしめながら目をつむる。早く大人になりたい、そう心底思った。

 

 



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8.自分のスキルについて

 葵ちゃんルートに入ったとはいえ、浮かれてばかりもいられない。

 幼稚園の年長組に上がってから、そろそろ考えなければならないと思っていることがある。

 それは将来どんな職業に就くか、ということだ。

 前世では高校を卒業してすぐにとある会社に就職した。早く自立したかったってのが理由の一つではあるのだが、今思えば早まったのかもしれなかった。

 高卒でも簡単に入社できる程度だったのだ。正直そこまで業績の良い会社ではなかった。いや、俺を雇ってくれたのはもちろん感謝している。それにそこでは俺自身そこそこの社員でしかなかったのだ。あまり悪いことは言えない。

 ただ、できることなら今世ではもっと良い職場にいたいものだ。結婚を考えるのならやはり収入が多いのに越したことはない。

 学歴が絶対的に偉いとも思ってはいないのだが、何か自分なりの武器が必要なのも確かだ。

 勉強をがんばるってのはどうだろうか。小学校レベルなら楽勝だろうが、高校レベルだとちょっと怪しい。俺がそこまで優秀な生徒でなかったというのはお察しだろう。

 ならばその分を努力で補うのか。それもできれば遠慮したいな。なんか本当にやっている人なんかは一日の半分以上は勉強時間に充てていると聞いた。勉強ばっかりだと葵ちゃんと遊べないではないか。

 次にスポーツをがんばるってのはどうだろうか。今からやれば何かしらのスポーツ選手になれるかもしれない。

 などと考えてすぐに却下する。だって俺の運動能力はそこそこ程度なのだ。それにこれも努力時間が長過ぎる。しかもプロになれるかなんて保証はないし、仮にプロになれたとしてもそこは競争社会だ。実力がなければすぐに転落してしまうだろう。中途半端に再就職先を探すだなんてリスキー過ぎる。

 下手をすれば勉強して良い学校、会社に入るよりも荊の道だ。俺にそこまでの覚悟はなかった。

 だったら何か特技を身につけるか。手に職をつける的な。

 

「うーむ……」

 

 俺はクレヨンを掴んでは画用紙へとぶつけるように描いていく。

 今は幼稚園でお絵描きの時間だ。みんな思い思いの絵を描いている。

 園児らしく、下手だけど一所懸命さが滲み出ている絵ばかりだ。微笑ましくなるね。

 だけど、俺まで同じような絵ではいけない。見た目は子供でも中身はおっさん。人を感動の渦に飲み込むくらいの作品にしなければ。

 集中し、思いの丈を手に乗せる。俺の魂を描くのだ!

 

「わあ、高木くんお絵描きが上手だねー。すごいすごい」

「……」

 

 先生が俺の出来上がった絵を見て褒めてくれた。パチパチと手を叩いての絶賛である。

 ……褒めてくれたけど、その褒め方って子供に「えらいえらい」って言うのと変わらないよね。つまりはそういうことである。

 よくよく考えたら学生時代での俺の美術の成績はそんなによくなかったな。厳密に言えば5段階評価で2くらいだったか。切ない。

 なぜ俺がお絵描きに力を入れたのか? それは将来を見据えた理由があるのだ。

 ぶっちゃけて言えば漫画家なんてどうだろうか、とか考えてしまったのだ。ネタなら未来知識がある。あとは絵さえなんとかなればいけると思ったのだ。正直に言えば前世での漫画とか映画をパクる気満々である。

 だけどこれじゃあなぁ……。いやいや、これから絵の練習をがんばればいけるんじゃないか? でも大変そうだったら努力を続ける自信がないかも。

 くそー。弱気な自分が憎い。夢に向かってまっしぐらなんてできないよ。だって確実に成功するだなんて保証はないしさ。

 あー、これだったら宝くじや競馬でも憶えておけばなー。ギャンブルなんて当たりっこないと思って見ようともしなかった自分が恨めしい。憶えてたら働くまでもなく億万長者だったよ。

 というか、そもそも趣味っていう趣味がなかった。社会人になってからなんて休日はぼけーっとテレビを眺めるか漫画雑誌を立ち読みするくらいだったし。それほとんど無趣味ってことだよね。

 頭を抱えて思い悩む五歳児がいた。ていうか俺だった。子供なのに悩み過ぎてハゲそう……。

 

「俊成、頭痛いの?」

 

 俺の奇行に瞳子ちゃんが心配してくれた。

 

「頭は大丈夫だよ。自分の絵が下手だなーって思ってたとこ」

「ふうん。見せてくれる?」

「いいよ」

 

 俺は自分の描いた絵を差し出した。子供らしいと言えばらしい絵なので、全体的に下手というわけではないだろう。ただそれを中身おっさんが描いたというのが問題なのだ。

 瞳子ちゃんはふんふんと頷きながらじっくりと鑑賞していた。若干口元が綻んでいるのは気のせいか。

 

「上手いじゃない。で、これは何の絵なの?」

「わからないのに褒めないでくれるかな。これはここにいるみんなの顔だよ」

 

 室内では年長組のみんながお絵描きを続けていた。描き終わったり飽きてしまった子はきゃいきゃいと遊んでいるけども。そんな子供らしいみんなの絵だ。

 

「そう……、お団子が並んでいるのかと思ったわ」

「顔のついた団子になっちゃうんだけど」

 

 それにだんご三兄弟はまだ早い。たいやきくんの方で我慢しておくれ。

 

「これはあたしね」

 

 瞳子ちゃんは一点を見つめて言った。銀髪ツインテールに猫目のブルーアイズ。他の子と比べて特徴がはっきりしているからね。そりゃあわかりやすいだろう。

 しばらく彼女は目を動かしていた。ふと顔を上げて尋ねてくる。

 

「この中、俊成はどれなの?」

「俺? そういえば自分は入れてなかったな」

「ちゃんと入れなさいよ。みんなっていうのは俊成も入れてなんだからね」

「じゃあ端っこにでも付け足しておくよ」

「何言ってるの。あたしの隣に描きなさいよ」

「いや、瞳子ちゃんの両隣りはもう埋まっているんだけど」

 

 目立つ彼女を端っこに描くはずもなく、俺は瞳子ちゃんを真ん中に描いていた。

 だというのに、瞳子ちゃんはすーっと目を細めて不機嫌オーラを放出し始めた。

 

「じゃあ描き直しね」

「え」

「まだ時間はあるんだから大丈夫よ。ほら、新しい画用紙はあたしが持ってきてあげるから」

 

 そう言って本当に先生から画用紙をもらってきてしまった。やり直しは決定事項のようだ。

 これも絵の練習になると思えばいいか。すでに漫画家も無理かなと心折れかけているけども。

 絵が完成するとすぐに取り上げられた。瞳子ちゃんは納得したように頷く。どうやら合格のようだ。

 

「瞳子ちゃんは何描いたの?」

「これよ」

 

 瞳子ちゃんが描いたのはカマキリだった。クレヨンで描いたとは思えないほど立体感がある。というか幼稚園児の絵じゃない。

 

「ものすごく上手だ。将来は画家になれるよ」

「そんなのに興味はないわ」

 

 そんなの、か。五歳児に才能の差を思い知らされてしまった。

 

「ていうか瞳子ちゃんって虫さんが本当に好きだよね。ほら、ダンゴムシとか」

 

 ダンゴムシは瞳子ちゃんと仲良くなったきっかけだったしね。虫から始まる女の子との出会いってのもおかしな感じだけれども。

 あの時俺が言ったダンゴムシの迷路を彼女は作ったのである。ちゃんとダンゴムシをその迷路に招待していた。夢中になって笑っていた彼女がほんのちょっとだけ怖かったってのは内緒だったりする。

 

「女の子が虫さんを好きなのって、変かな?」

 

 おずおずと上目遣いで尋ねる瞳子ちゃん。恐々とした感情が伝わってくる。たまにこういうしおらしい態度を見せられるとギャップで頭がくらくらしそうになる。

 

「別に変じゃないよ。この絵もかっこいいしね」

「そう。じゃあその絵、俊成にあげるわ」

「え、いいの?」

「うん。……その代わりに俊成の絵をちょうだい」

 

 思わぬ提案に目を瞬かせてしまう。

 

「これ? 瞳子ちゃんに比べるとそんなに上手じゃないよ」

「いいから。交換……いいでしょ?」

「瞳子ちゃんがいいならいいんだけど」

 

 そんなわけで絵を交換することとなった。クオリティを考えると等価交換にはなっていないと思うんだけど。まあ彼女がいいのなら俺からは文句なんてない。

 俺の絵を受け取って瞳子ちゃんはニコニコだ。喜んでくれているようで何よりです。

 とってもかわいい瞳子ちゃん。それでも彼女との別れは近づいてきている。

 前世を考えれば、瞳子ちゃんとは小学校で別々になってしまう。だから彼女といっしょにいられるのは長くてもこの幼稚園を卒業するまでだ。

 せっかく仲良くなれたのに寂しいな……。でも、瞳子ちゃんとお別れする時がきたとしても泣いたりなんかしないぞ。それはおっさんの意地であり、瞳子ちゃんを笑って送り出してあげたいという大人としての想いだ。

 頭を振って未来の寂しさを振り払う。今は自分ができることを一つずつこなしていこう。

 将来葵ちゃんと幸せな家庭を築くために。その目標に向かって突き進めばいい。

 そのためにもスキルアップを考えないとな。得意分野を作って将来立派な大人になって家庭を支える大黒柱になるのだ。

 

 



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9.やっぱり親子

 それはある晴れた日のこと。少し雲が気になるけど、太陽が出てるんだから晴れの日だった。

 日曜日なのでいつものように葵ちゃんと遊んでいる。

 今日は珍しく公園に訪れていた。場所の決定権は葵ちゃんにあるので彼女の要望なのだけど、けっこうインドアな葵ちゃんにしては珍しかった。

 

「きゃー! 俊成くんもっとやってー」

「はーい。いっくよー」

 

 葵ちゃんはきゃっきゃとはしゃいでいる。この子供らしい反応にはいつもながらほっこりさせられるね。

 公園に辿り着くと、彼女は真っすぐにブランコへと駆け出した。ついに葵ちゃんは遊具で遊ぶということを覚えたようだ。今までは家だろうが公園だろうがおままごとばっかりだったからね。

 葵ちゃんはブランコに座ると押して押してとせがんできた。家族サービスをする父親のような気持ちで背中を押してあげる。

 ブランコか。懐かしいな。男子は立ち漕ぎでどこまで高く行けるかとか、座った体勢から飛び降りてどれだけ距離を伸ばせるかとかやったなぁ。

 未来では、今ある遊具はけっこう撤去されていたりする。ケガをする子が多いのが理由だったか。子供はケガしてなんぼじゃろい、と思わなくもないが、さすがに指が飛んだというニュースを目にした時は致し方ないと思ったものだ。

 せっかくここの公園はそれなりの数の遊具を有しているのだ。小学生になるまでには制覇しておきたいものである。子供の特権は子供のうちに使っておこうじゃないか。

 

「葵ちゃん、あっちでも遊ばない?」

 

 他の遊具を見ながら提案してみる。

 

「やーだー。ブランコがいいー」

 

 風に乗るような葵ちゃんからの返答。ブランコ以外には見向きもしない。ご執心ですかそうですか。

 まあいいか。葵ちゃんの小さな背中を押しては返ってくる。それを押しての繰り返し。単純作業だが彼女が嬉しそうなのでこっちも笑顔になる。

 しばらくそうやっていると薄暗くなってきた。見上げれば雨雲が太陽を隠してしまっていた。

 雨が降りそうだ。今日は晴れだと思っていたから傘なんて持ってきてないぞ。

 

「葵ちゃん、雨が降りそうだ。降ってくる前に家に帰ろう」

「えー? やーだー」

 

 え、ここでわがまま発動?

 そんなことを言われても雨に濡れてしまうのは面倒だ。ほら、他の子達も帰ってるし。

 俺は葵ちゃんの背中を押すのをやめてブランコを静止させる。

 葵ちゃんは俺をその大きな眼で見上げてくる。なんかうるうるしてない?

 

「俊成くん……葵と遊んでくれないの?」

「そうじゃなくてね、雨が降ると濡れちゃうから帰ろうって言ってるだけだよ。遊ぶのは家でもできるよ」

「でも……葵は俊成くんとお外で遊べるの、楽しみにしてたの」

 

 声が涙交じりになる。あれ? 俺いじめてないよね?

 葵ちゃんの反応を見るに、今日は絶対に俺と公園で遊ぶと決めていたようだ。決めていたことが崩れてしまうのは我慢ならないのだろう。

 葵ちゃんと遊べるのは大体週に一度のペースだ。祝日があったり、用事の兼ね合いで変わることもあるけれど、大体がそれくらいのペースなのだ。

 そのなかなか会えない時間が、葵ちゃんが俺に対して甘える言動をとる原因になっているのだろう。そう考えると黙ってても好感度が上がると思えば悪くないと思えた。

 けれど、その分だけ会えた時にわがままになってきた気がする。

 いや、それが迷惑に思っているわけじゃない。所詮は子供のわがまま、かわいいものだ。

 しかしこの状況ですらわがままを言われるとは思わなかった。さて、どうしたものか……。

 俺はゆっくりと葵ちゃんの背中を押した。

 

「……もうちょっとだけだからね」

「わーい!」

 

 俺は屈した。弱い男だった。

 子供のしつけとは難しい。いや、俺は葵ちゃんの親じゃないんだけど。だからこそ強く言えない自分がいた。

 あー……、空がゴロゴロ鳴っていらっしゃる。どうかお手柔らかにお願いします。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 案の定ずぶ濡れになりました。

 あの後、少し経ってからついに雨が降ってきた。小雨、なんてことはなくざんざん降りだった。

 急いで葵ちゃんの手を引きながら彼女の家へと向かった。その途中で葵ちゃんのお母さんが傘を差して迎えにきてくれた。傘の中に入ったけれど、すでにずぶ濡れになってしまったというわけだ。

 

「俊成くん、お母さんには電話したからね。夕方には雨は止むって天気予報で言ってたから、それまではうちにいなさい」

「はい。わざわざありがとうございます」

 

 ぺこりと頭を下げる。タオルを貸してもらった上に温かい飲み物までいただいている。お礼を言うのは当然だ。

 

「ごめんね。葵のせいで……」

「別にいいよ」

 

 俺の言うことを聞かずに雨に降られてしまったことを反省しているらしい。葵ちゃんはしおらしく俺に身を寄せてくる。

 まあ別に雨に濡れるくらいどうってことない。むしろ葵ちゃんの艶やかな黒髪が肌に張りついてちょっと色っぽいとか思ってしまった。良いものが見れた……って俺は幼女になんてこと考えてんだか。

 

「お風呂沸いたわよー。風邪引くといけないから入っちゃいましょうか」

 

 葵ちゃんのお母さんがそんなことを言った。確かに風邪を引かないためにも体を温めておいた方がいいだろう。

 葵ちゃんが立ちあがってお風呂に向かったので、俺はテレビにでも意識を向けることにした。

 

「俊成くん何してるの? 早く行こうよ」

 

 葵ちゃんがとてとてと戻ってきてそんなことを言う。俺は「どこに?」と首をかしげてしまう。

 

「お風呂だよ」

 

 にぱーと笑う彼女に俺は固まった。

 え? いっしょにお風呂? いやいやいや! それはまだ早いと言いますか……。

 俺の内心の動揺に気づかず、彼女は俺の手を引っ張ってくる。ま、待って! まだ心の準備がっ。

 

「俊成くんも早くいらっしゃい。温まるわよ」

 

 葵ちゃんのお母さんからの追撃。まさかの親のお許しが出てしまった。

 お、落ち着け俺! これはあれだ、そう、「昔はいっしょに風呂にも入った仲じゃないか」「バカ。小さい頃の話でしょ」っていう幼馴染特有で発生する会話のあれだ。そういうイベントだ!

 それってこんな突発的に発生するものだったのか。初めて知った。

 動揺するなよ俺。これはごく自然なことだ。何よりお母様から誘っているのだ。俺は悪くない! って誰に対しての言い訳だよっ。

 

「はい……。よろしくお願いします……」

 

 顔が赤くなってないか。それが一番気になった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 宮坂家の風呂は、高木家とそう変わらないくらいの広さだった。まあ風呂なんて一般家庭で考えるなら、そうそう差が出るところではないだろう。

 宮坂親子は躊躇いもなくすべての衣服を脱いだ。当たり前だが俺は男扱いされていないようだ。恥ずかしがって脱ぐのを躊躇っていた俺の方がバカみたいだ。

 葵ちゃんの裸体は俺とそう体型が変わらないはずなのに、純真無垢というのがその肌やラインに出ているみたいでまったくの別物に見えた。思わず出そうになったかわいい、という言葉を飲み込む。

 だが、今の俺に衝撃を与えているのは葵ちゃんが一番ではなかったりする。

 

「俊成くん、頭洗ってあげましょうか?」

「いえ……、自分でできますので」

 

 葵ちゃんのお母さんは美人である。さすがは将来マドンナと呼ばれるほどの美少女になる宮坂葵の母といったところ。葵ちゃんが成長していけばこの女性に似ていくのだろう。

 そしてすごいのはそのプロポーション。女性らしい丸みを帯びたラインは平均を大きく逸脱している。もちろん良い意味で、だ。頭の悪い言い方をするのならバンッ、キュッ、バンッ、である。

 確か二十代後半だったと思うのだが、肌のハリツヤは衰えている様子はない。そもそも元は四十過ぎのおっさんからすればこの人は充分に若い部類だ。子供だから「おばさん」と呼んでいるだけで、普通に「お姉さん」だ。

 こんな女性といっしょにお風呂。興奮と困惑が入り混じる。もちろん体は反応しませんがね。

 

「俊成くん洗いっこしよ」

「いいよー」

 

 あまりの大人の色気に緊張してしまい、俺は童心に返ることにした。

 そもそも五歳児がドギマギしてどうする。今の俺は子供なのだ。だったら子供らしく振る舞ってやるのが正解のはずだ。そうだ、集中するのだ俺!

 洗いっこと言うので、俺は葵ちゃんの体を優しく丁寧に洗う。女の子の肌への接し方は瞳子ちゃんに日焼け止めクリームを塗ったことで慣れている。

 次に俺が葵ちゃんに体を洗われた。拙い感じだったけれど「んしょ、んしょ」の掛け声とともにがんばっていた。娘に背中を洗ってもらう父親の気分を味わえた。

 子供二人と大人一人。なんとか三人で湯船に浸かることができた。

 

「ん? 俊成くんどうしたの?」

 

 葵ちゃんのお母さんが俺の目線に気づいて尋ねてきた。心臓が一瞬大きく跳ねる。

 この美人ママをできるだけ視界に入れないように葵ちゃんばかりを見ていた。だけどその……、お湯に浮いている二つの山を見ずにはいられないと言いますか。

 

「あの、母さんよりも大きいと思って」

 

 おいっ! 何ストレートに口走ってんだよ!? ど真ん中の絶好球じゃないですか!! ぶっ叩かれたいのか俺!?

「このエロガキ」と怒られてしまうかと覚悟した。けれど返ってきたのはふふっ、という優しい微笑みだった。

 

「そう? うふふ、ありがとうね」

 

 彼女は嬉しそうに笑う。大人の余裕だった。

 こんなお母さんを持った葵ちゃんは確実に魔性の女になるでしょうな。血の運命ってやつですよ。

 あんまり見つめていると頭が沸騰しそうになるので、俺は葵ちゃんとお風呂遊びに熱中した。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 今日は心臓に悪い日なのかもしれない。

 風呂から上がると葵ちゃんのパジャマを貸してもらうこととなった。まだほとんど同じ体型なのでぴったりだ。子供ながらに悔しい。

 ちょっと恥ずかしさがあるものの、ここまではよかった。

 

「君が俊成くんかい?」

 

 まさかのお義父様との初対面である。

 着替えも済んでリビングに行くと普通にソファーに座っていたのだ。どうやら風呂に入っている間に帰ってきたらしかった。

 お父さんの帰宅に葵ちゃんは大喜び。おばさんもいっしょになって家族団欒の空気が出来上がる。

 その空気を止めてまでお父さんは俺を見据えながら声をかけてきたのだった。

 葵ちゃんのお父さんはダンディーなおじ様だった。整えたヒゲが貫録を感じさせる。

 そうは言っても、上に見たとしても三十代前半といったところだろう。貫録がある顔だが、シワなんてなく若々しい。

 きっと将来大物になるだろう。いや、現在進行形で大物なのか? 葵ちゃん情報だと仕事に失敗したのかな? ってイメージがあるんだけども。

 ただ、この父の風格みたいなものが俺のイメージを払拭させる。少なくとも俺の父よりはすごそうに思えた。ごめんよ父さん。

 

「はい。初めまして、高木俊成です。あっ、お邪魔しています」

 

 そう言って頭を下げる。気分は営業で取引先を相手にしているみたいだった。その営業はすぐに異動しちゃったんだけどね。

 

「ふむ、礼儀正しいな。よほど両親から厳しくしつけられたのだろうね」

「いえ、父さんも母さんも厳しくないですよ。二人とも優しいので」

 

 これは事実。言葉とかは俺がすぐにしゃべれるようになったもんだから教えてもらったなんてことはない。ただ普通に喜んでくれていただけだ。

 

「葵とは……仲良くしてくれていると聞いているよ」

 

 やはり父親。娘の男関係が気になると見える。

 こんなに幼くても気になってしまうのだろう。俺は父親になったことがないから憶測だけれども。

 俺はまだ子供だ。「娘さんを僕にください!」なんてやり取りを今するはずがない。ならば子供らしく無難に答えておくべきか。

 

「はい。葵ちゃんとはお友だ――」「うんっ。すっごく仲良しなの! 葵は俊成くんのこと大好き!」

 

 俺が言いきる前に葵ちゃんが割り込んできた。目を輝かせながらいかに俺のことが好きなのかと語り始めた。語り始めちゃったのである。

 うん。嬉しいよ葵ちゃん。でも今そのアピールは俺の心臓に悪いよ。

 葵ちゃんは俺をお父さんに紹介したくて堪らなかったのだろう。息継ぎが心配になるくらいしゃべりまくっている。

 いつ終わるのこれ? おばさんはくすくす笑っている。俺は笑えない。お父様の顔が見れない。

 娘が話終わったタイミングでお父様は今一度俺に目を向けた。

 

「葵と仲良くしているようだね?」

 

 先ほどとは質問の意図が微妙に違う。これはただの確認だ。だってその内容は葵ちゃんががんばって言ってくれたからね。やっぱり息継ぎが足りなかったのか、肩で息をしてるし。

 ええい! びびってどうするよ。俺は背筋を伸ばした。

 

「はい。俺と葵ちゃんは仲良しです」

 

 言ってやったぞ。お義父様相手に俺は退かなかった。

 俺の返答に、葵ちゃんのお父さんはダンディーな顔を緩ませた。

 

「そうか。これからも葵と仲良くしてやってくれ」

「も、もちろんです」

 

 そこには娘を思いやる父親の顔があった。

 緊張していたのが嘘だったかのように脱力する。威厳ありそうな見た目に騙されていた。娘に近づく男の子としてチェックされていると思いきや、ただ娘の友達を歓迎しているだけのようだった。

 結局、俺はまだまだただの子供ということか。こっちが結婚相手として見ていても、大人からはその候補にすら思われていない。

 まあいいさ。歳をとるにつれて信頼を勝ち取っていければいい。それが幼馴染の特権なのだから。

 この後は帰る時間になるまでおじさんを交えて遊んだ。葵ちゃんは家族サービスをあまりできていなかった父親と大はしゃぎした。そう父親「と」だ。ダンディーな見た目に反してけっこうな子煩悩だったようで、はしゃぐ姿は親子なのだと感じさせた。

 

 



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10.宮坂葵は幼少期を振り返る

葵ちゃん視点です。


 私の保育園時代はつまらないものではなかった。ただ寂しいとは思っていた。

 ずっと仲良くしていた男の子、高木俊成くんがいなかったからだ。

 この頃の私は彼しか男友達がいなかった。通っていた保育園で女友達ができたものの、思いやりの欠片もなく騒いでばかりの男の子が恐くて仕方がなかったのだ。

 高木俊成くん……、トシくんは他の男の子と違って優しくて頼りがいがあった。年上の男の子達にいじめられていた私を助けてくれた姿は、生涯忘れられないのだろうと思う。

 だからこそトシくんがいなくて不安だったし、心細くて仕方がなかった。恥ずかしながら随分と泣いてしまった。

 その分彼と遊ぶ時は思う存分甘えていたっけ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「……本当に、いいんだね?」

「……うん」

 

 セピア色の記憶の中で、私とトシくんは見つめ合っていた。

 彼は逡巡を見せるように目を伏せる。今思えば仕草の一つ一つに大人っぽさがあった。

 目をつむってじっとしている私の服の裾をトシくんが掴んだ。ゆっくり、ゆっくりとめくり上げられていくと、私のお腹が無防備に露出する。

 お腹へと冷たいものが押しつけられる。私は身震いをした。

 

「服……持っててくれる?」

「……うん」

 

 私は彼の言う通りにする。両手で上着の裾を握る。トシくんの両手は自由になった。

 トシくんは真剣な面持ちだった。冷たいものをお腹のいろんなところに押しつけてくる。時折指でトントンと叩かれたりもした。

 彼に触れられることは嫌ではなかった。そう思っていたのは確かだった。

 ふぅ、とトシくんは息をついた。

 

「はーい。異常はないですよ。お腹は冷やさないようにすること。お大事にね」

「はい! 先生ありがとうございました!」

 

 聴診器を下ろして、彼は明るい調子で言った。無邪気だった私は元気良く頭を下げる。

 これは私が保育園に通っていた頃の話。数少ないトシくんと遊んでいた時の一ページだ。

 確かこれは、親戚の人から聴診器をもらって大はしゃぎした私がトシくんにせがんでお医者さんごっこをした時の記憶だ。

 トシくんはいつも私に付き合ってくれた。男の子が嫌がりそうなおままごとにだって、毎回真剣に取り組んでくれていたのだ。だから私はずっと彼に甘えられた。

 おままごとではトシくんがパパで私がママ。遊びとはいえ夫婦になることになんの抵抗もなかった。むしろそれが当然のように思っていた。この頃からすでに私の中でそういう認識が出来上がっていたのかもしれない。

 ……話を戻そう。そう、お医者さんごっこをしていた日のことを振り返っていたんだった。

 

「今度は葵がお医者さんするね」

「じゃあ俺は患者ね。先生お願いします」

「えへへ、まっかせて」

 

 私ノリノリだ。そんな私を見てトシくんは優しく微笑んでいた。過去で、まだ小さい彼なのに、胸がキュンとしてしまった。

 

「先生……。お腹が、お腹が痛いんです~……」

 

 トシくんはお腹を押さえて苦しそうな演技をする。小さい子の演技力じゃない。きっと才能があったのね。

 

「わかりました。じゃあお腹を見ますよー」

 

 幼い声の私がそう言うと、彼は上着の裾をめくってお腹を出した。かわいいお腹だなぁ……。

 そんな彼の動作に、幼い私が首をかしげる。

 

「葵が俊成くんを脱がしてあげるんじゃないの?」

「脱がす? ああ、病院でお医者さんに診てもらう時は自分でお腹を見せるんだ」

 

 微妙に言葉のチョイスが不安定な私の疑問に答えてくれる。病院に行ったことはあったんだろうけれど、どんなことをされていたのかとかどうしていたかまでは、私はまだちゃんと憶えていなかった。

 さっきトシくんがお医者さん役をした時は、彼から私の服に手をかけてくれた。それが引っ掛かってしまっていたのだろう。

 私はぺたぺたと彼のお腹を無遠慮に触れる。聴診器の使い方なんて知るはずもないのだから自由気ままだった。

 一頻り触って私は満足した笑顔を浮かべる。あまり人の体を触るなんてことがないので楽しかったのだろう。もう一度この日に戻ってもっとしっかり堪能したいな……。

 そしてそう、私はこう提案したのだ。

 

「俊成くん、もう一回お医者さんやって」

 

 彼と同じように患者さんをやりたくなったのか、それともまた自分の体を触ってほしいとでも思っていたのか。今となっては曖昧だ。

 でも、うん……エッチな理由じゃなかった……と思う。まだそこまで考えてなかったと思うし。そう、違うの! 私は決してやましい気持ちなんて……。

 

(葵の頭から何かが噴出する音がしました。しばらくお待ちください)

 

 ……こほんっ。続きね。そう、続き続き。

 もう一度トシくんがお医者さん役をしてくれて、私は患者さんになりきっていた。

 

「せんせー……。お腹が、お腹が痛いの」

 

 さっきは自分の中で患者さんの設定が甘かった。それを真剣に考えたわけではなかったけれど、とりあえずトシくんのマネをしていた。

 彼は「それは大変だ!」と大袈裟なリアクションをしてくれる。私が喜ぶ反応をしてくれるのだ。

 

「それでは、お腹を見せてもらってもいいですか?」

「はい!」

 

 私は勢いよく上着の裾をめくり上げる。それを見たトシくんが慌てた声を漏らす。記憶を振り返っていた私も慌ててしまう。

 幼い私は、お腹どころか胸が見えるところまで服をめくり上げていた。羞恥心もなく、彼の手が伸びてくるのを今か今かとニコニコしながら待っていた。

 

「……あ、葵ちゃん。そこまで服上げなくてもいいから。お腹だけ見せてくれたらいいから」

 

 彼が気まずそうに言う。ついでに顔が赤くなってる? トシくんだってまだ小さいのだから別に女子の裸に意識したわけじゃないのよね? むしろこれは羞恥心の欠けた私を心配してくれた反応なのだろう。

 そういえば、私とトシくんはいっしょにお風呂に入ったことがあったのだ。だから彼にだけは肌を見せることに抵抗がなかった。幼少の頃とはいえ、決して誰にでも肌をさらすような女の子じゃなかったはず。か、勘違いされてないわよね?

 

「お胸もお願いします!」

 

 困った彼を無視して私は大きな声で言った。まだまだ異性に対しての羞恥がなかった時のこととはいっても、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしい……。なんでそんなに堂々としているのよ私……。

 優しいトシくんは私のお願いを聞いてくれる。そうそう断られることなんてなかった。それはこの時も変わらなかった。

 トシくんの手が伸びる。彼の手は優しく、思いやりがあって、何より幸福感を与えてくれた。

 丁寧な彼の指使いに、私は――

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「わああああああああああーーっ!! 無理! もう無理ーーっ!!」

 

 私は自室のベッドの上で悶絶した。宙に放り投げた日記帳が床へと落ちる。

 小さい頃つけていた日記が出てきたので読んでみれば、ご覧の内容である。拙い文章なのに、思った以上に詳細に書いていた。おかげでその時の記憶が鮮明に蘇って私を悶絶させるのに至ったわけだ。

 私は保育園でトシくんは幼稚園に通っていた。そのため遊べるのは休日に限られていたのだ。

 その数少ない彼と遊ぶ日が楽しみ過ぎて、こんな日記を書いてしまったのだった。なんで思い出しちゃうかな。

 懐かしくて読み返してみれば我ながら恥ずかしいことをしていた。うう……顔から火が出そう……。

 

「でも」

 

 零れた呟きを塞ぐように、私はベッドに顔を埋める。彼の残り香を吸い込む。

 ちょっと前までトシくんが眠っていたベッド。勝手に寝てしまって彼は謝っていたけれど、私は全然構わなかった。最近の彼はとくにがんばっていてくれたしご褒美なのだ。誰が一番得したご褒美をもらったかは内緒だけどね。

 小さい頃の恥ずかしいこと。それをまたやっても……私は……。

 はっと正気に戻って息を吐いた。吐いた息は熱かった。

 もう一度日記帳を手に取る。

 あの頃から私はトシくんにたくさん守られてきた。でも、守られるばかりじゃダメなんだ。私はトシくんを支えられる女になりたい。

 日記帳を持つ手に力が入る。自分の気持ちを固めるようにぎゅっと握る。私の心がそのまま口から滑り落ちた。

 

「だって、瞳子ちゃんに負けたくないんだもん」

 

 




未来の葵ちゃんが幼少時代を振り返るお話でした。どのくらい未来かは本編が進めばわかるかもしれません。
感想でお医者さんごっこを忘れていたことに気づいて書いてみました。小さい頃にしかできないことはやっとかないとね。


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11.小さくて幼いお泊まり会

 幼稚園の年長組になってからの夏。お泊まり会をすることとなった。

 場所は通っている幼稚園。つまりはお泊まり保育というイベントである。

 こんな行事があったんだなぁ、と記憶を探ってみるが出てこない。やはり幼稚園の頃の記憶ってあんまりないようだ。園児にとってはけっこう大きなイベントだと思うのだが。

 親元を離れての宿泊。初めての子も多いだろう。自立心を養うためにも必要なのかもね。

 もちろん中身はおっさんな俺に動揺はない。一人暮らしをしていたからある程度の家事だってできる。むしろ家族いっしょに寝る時の方が込み上げてくるものがあるくらいだ。

 

「俊成ちゃん、肝試しがあるんだってね。すっごく楽しそうね! ほら、朝は自分で朝ごはん作らなきゃいけないのよ。俊成ちゃんにできるかなー? いいわねー。お母さんも幼稚園にお泊まりしてみたいわ」

「本当に大丈夫か? 寂しくならないか? やっぱり俊成にはまだ早いんじゃないのか。そうだ! 寂しくならないようにおもちゃを持って行けばいいんじゃないか?」

「ダメに決まってるでしょ! なんでそう不安を煽るようなこと言うのよ。俊成ちゃんにはお泊まりすることは楽しいことだって印象付けなきゃいけないの! 先生だって言ってたんだから」

 

 俺よりも親が動揺していた。ベクトルは違うがどちらも俺を案じているのだと伝わってくる。

 母には元気な顔で帰ってくればそれが一番な気がする。心配性な父には言葉が必要だろうか。

 

「俺、お泊まり会楽しみなんだ! いっぱい楽しんでくるね!」

 

 満面の笑顔でそう言うと、父の表情から幾分緊張が解けたように見えた。

 一泊二日なので着替えやタオルなどといった荷物をリュックに詰める。真剣な調子で準備をしてくれる母にも安心させるように笑顔を向ける。本当に親とはありがたい存在だ。子供の頃にちゃんと感じていなかった感謝を今はしっかり伝えられることが嬉しかった。

 そしてお泊まり会当日。いつもと違って登園は午後からである。

 みんな大きな荷物を持ってきている。中には子供に運べないんじゃないかってくらいの大荷物の子もいた。何が入ってるか知らないけれど、その子の親の愛情と思えば少しほっこりさせられる。

 

「おはよう俊成」

「おはよう瞳子ちゃん」

 

 瞳子ちゃんに会ったのであいさつをした。時間帯を考えれば「おはよう」ではないのかもしれないが些細なことだ。

 ふと瞳子ちゃんの隣を見てみれば銀髪の美しい女性がいた。彼女の母親だ。

 俺はぺこりと頭を下げた。銀髪の女性は微笑みを浮かべる。

 見た目が完全に北欧の人だ。ていうか外国人だよね。日本語は大丈夫なのだろうか?

 外国人にビビるおっさん。いや? ビビってはないですけど。本当ですよ。

 

「トシナリ」

 

 名前を呼ばれて一瞬硬直してしまう。流暢ではない。それでもはっきりと俺の名を口にしたのは瞳子ちゃんのお母さんだった。

 

「ヨロシクネ」

 

 それだけ言うと、瞳子ちゃんのお母さんは保護者が集まっている中へと行ってしまった。

 なんだったのだろうか。というか初めて瞳子ちゃんのお母さんと会話してしまった。いや、俺は何も言ってないけど。

 

「何ぼーっとしてるの。行くわよ俊成」

「あ、うん」

 

 少々呆けていたようだ。瞳子ちゃんに手を引かれて荷物を置きに向かった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 夕食は保護者が集まって作ってくれている。子供達はその間にプールで遊ぶ。

 瞳子ちゃんに日焼け止めを塗る作業は去年に引き続き今年も行っている。すでに慣れたものである。

 プールでわいわいはしゃいでから、その後に夕食になる。保護者のみなさんが作ってくれたカレーだ。子供に大人気なカレーは大好評だった。

 夕食を済ますと、それぞれの親は帰ることとなる。泣き出す子供もいれば、離れ難いといわんばかりに何度も振り返る親もいた。

 親が帰って、本格的にお泊まり会のスタートだ。

 

「はーい。じゃあみんなー。お風呂にしますよー」

 

 先生が手を叩いて号令をかける。着替えやタオルを用意する。

 この幼稚園に風呂場なんてない。じゃあ銭湯にでも行くのかといえばそういうわけでもない。

 

「なんか不思議な気分だ」

 

 思わずそんな言葉を漏らした。

 お風呂と言っても先生につれて来られたのはプールだった。昼間に水着を着て遊んだところに、今度は裸で入るってのは変な感じがした。

 これには他の園児達は大はしゃぎだ。水着を着ていた時よりもはしゃいでいるんじゃなかろうか。

 

「うぅ……」

 

 ただ、瞳子ちゃんはものすごく恥ずかしがっていた。

 瞳子ちゃんはいつものツインテールではなく髪を下ろしている。思った以上に長い銀髪が彼女の背中を隠している。

 雰囲気が違っている上に裸。なんというか……倒錯的だと思った。

 みんながお風呂というより昼間の焼き直しのように遊びに集中している時。俺は瞳子ちゃんにプールの端に引っ張られていた。

 

「ちゃんと見張ってて」

「わかったわかった」

 

 すでに羞恥心を獲得しているらしい瞳子ちゃんは俺を壁にして身を清めているようだった。

 恥ずかしがる彼女を見つめるわけにもいかないので背を向けている。さながらボディーガードだな。

 

「こっち向いちゃダメよ」

「わかってるよ」

 

 日焼け止めクリームを塗るのは大丈夫なのに裸はダメなのか。いや、女性で考えると変ではないのかもしれないけど、幼稚園児の感性でいうとどうなのだろう? 少なくとも瞳子ちゃん以外の女の子は裸でいることに恥ずかしがっている様子はなかった。

 お風呂タイムが終わるとお着替えだ。プールから着替えを置いている場所までは少しだけ距離がある。裸でうろつくなんてはしたないとでも思っているのか、瞳子ちゃんはそこまで行くのに俺の背にくっついて移動していた。むしろ肌と肌が密着するこっちの方がはしたないのでは? と思ったけど俺は無言を貫いた。

 

「これから肝試ししまーす。ペアで行くからみんなくじを引いてねー」

 

 お風呂の後は肝試しだ。まあ園内を一周するだけの簡単なものだ。他の先生がお化け役をしているのだろうが、まさか園児相手に本気で脅かそうとはしないだろう。子供騙しであることを祈る。

 それぞれくじを引いてペアを作る。同じ数字の相手とペアを組むようだ。俺が引いたくじには「6」と書いてあった。

 

「……」

 

 瞳子ちゃんが横から覗いていた。顔を向けるとさっと体ごとそっぽを向かれてしまった。

 

「はい、どうぞ」

「……」

 

 先生に差し出されたくじ箱を見つめ、瞳子ちゃんは静かに目を閉じた。それから両手を組んでお祈りのポーズ。なんか念でも送っているかのように見えるのは気のせいか。

 瞳子ちゃんはカッ、と目を見開くと勢いよくくじ箱へと手を突っ込んだ。その勢いのまま引っこ抜いた手には数字の書かれた紙がある。

 

「俊成! これ見て!」

 

 笑顔を輝かせた瞳子ちゃんは俺にくじの紙を見せてきた。そこには「6」の文字があった。

 

「いっしょのペアだからねっ」

 

 嬉しそうだな瞳子ちゃん。神様は彼女の祈りを聞き届けてくれたようだ。

 そんなわけで肝試しが始まった。昼間と違って暗い園内に子供達から緊張が走る。

 とはいえ、電気はついているので明かりに問題はない。それでも雰囲気にやられたのか、お化け役の先生に恐がってしまったのか、先を行った子の泣き声が響いてくる。

 くじに書かれていた数字がそのまま順番になっていた。なので俺と瞳子ちゃんのペアは六番目だ。

 四組目が帰ってきたところで俺達がスタートした。

 四組、つまり八人が行った中で泣いて帰ってきたのは二人だった。お化け役の先生方からすればほどよく成功ではないだろうか。

 前を行っている五組目のペアからは笑い声が響いてるけども。まあ楽しめればいいのかな。

 瞳子ちゃんと手を繋いで進む。さて、お化けはどこにいるのかな?

 

「ばあっ!」

 

 お化け役の先生が現れた。突然現れて驚かそうという魂胆らしい。あからさまに隠れてそうな場所にいたから気づいたけど。

 しかし瞳子ちゃんはしっかり驚いたようでビクッと体を跳ねさせていた。それでも恐がる姿を見せたくないのか唇を引き結んで耐えていた。頬がちょっとピクピクしてたけどね。

 だが段々進むにつれて、瞳子ちゃんは手だけじゃなく腕まで掴んできていた。一周する頃には俺の腕にがっしりとしがみついていた。

 おおむね順調に肝試しは終わった。眠気を促進させるためなのか、次にビデオ鑑賞をした。有名な懐かしいアニメだった。

 ほどよく眠くなったところで就寝だ。布団は前もってそれぞれの親が敷いてくれたらしい。朝は子供達が片づけることになっている。

 男女みんないっしょなので隣に女の子が寝るのも問題はない。当然のように瞳子ちゃんが隣にきた。

 みんな疲れたようですぐに寝てしまった。枕投げとかやるのかな? と、ちょっとした期待があっただけに少し残念に思う。

 数人の子は眠気に負けずホームシックになってしまったようで泣いてしまった。俺と瞳子ちゃんはそれぞれ泣いている子をあやした。眠ってしまえば寂しさも忘れるだろう。

 ようやく全員寝かしつけたところで、俺と瞳子ちゃんは自分達の布団へと横になる。

 

「やっと寝られるわね」

 

 あくびをしながらお姉さん風を吹かせる瞳子ちゃん。彼女も本当にがんばってくれた。

 お泊まり会はみんなのいろいろな姿が見れた。瞳子ちゃんはもちろん、他の子供達もそうだ。さすがに寝ている男の子にキスしていた女の子を見た時は驚いた。状況に流されたのか、元々そういう一面を持っていたのかは俺にはわからないけど。

 明日は朝食を食べたらすぐに親が迎えにきてくれる。寝過ごさないようにそろそろ寝よう。

 

「ねえ俊成」

 

 そう思っていたら瞳子ちゃんに小声で話しかけられた。

 まるで秘密の話でもするかのように顔を近づけて声をひそめる。

 

「俊成ってお受験勉強どうしてるの?」

「お受験勉強?」

 

 耳慣れない単語に首をかしげる。受験だなんて幼稚園で聞くとは思わなかった。

 

「何もしてないよ」

「え? 小学校はどうするのよ」

 

 今度は瞳子ちゃんが首をかしげた。

 互いにあれ? と首をかしげている。少しの間、変な沈黙が流れた。

 

「もしかして瞳子ちゃんは私立の小学校に行くの?」

 

 お受験という単語から考えてそうなのだろう。記憶を探り、この辺りの小学校を思い出すと、どこの小学校かあたりをつけた。

 なるほど。だから彼女は前世の俺の記憶の中にいなかったんだな。この歳でも優秀さが滲み出ているしなんの不思議もなかった。

 それにしても半年も先のことを考えてるなんてすごいな。むしろ親の教育か。小学校のお受験だなんて親から言い出さないと子供は意識もしないだろう。

 

「……俊成は違うの?」

 

 瞳子ちゃんの疑問に俺は頷いた。

 

「俺は公立の小学校だと思うよ」

 

 前世でそうだったのだから変わりはないだろう。それに葵ちゃんが行くことになる小学校なのだから変えるつもりもない。

 

「そう……」

 

 彼女の声が一気に沈んでいった。俺が何か言葉をかける前に布団に潜ってしまう。

 

「……」

 

 自惚れじゃなければ、この幼稚園で瞳子ちゃんと一番仲良くしていたのは俺だ。

 それが小学生になれば離れ離れになってしまう。仲良しの子がいなくなるとわかればショックもあるだろうな。

 正直、卒園を意識すると俺だって寂しさで胸が苦しくなる。だけど前世で俺は瞳子ちゃんと関わった記憶がない。だから、それが別れの時になるのだろう。

 寂しさを紛らわせるように目をつむる。そして眠りについた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 朝起きると布団を片づけた。今日帰れるからだろう。もう泣いてしまう子はいなかった。

 朝食は園児達が作ることになっている。メニューはサンドイッチだ。

 とはいえ準備のほとんどは昨日済ませてくれていたようだ。あとは挟むだけ状態である。

 それでもこの作業に朝から子供達のテンションは跳ねあがった。本当に子供って元気がいいなぁ。と、おっさん目線でしみじみしてみる。

 対して、瞳子ちゃんのテンションは下がったままだった。朝が弱いというより、昨晩のことが原因なんだろうな。自分が関係しているだけに心苦しい。

 なんて声をかけていいかもわからないままサンドイッチを食べた。瞳子ちゃんは隣で黙々と食べていた。俺達にしてみれば無言で食事をするなんて初めてだった。

 朝食が済めば親が迎えにきてくれる。荷物をまとめると、それぞれ親が来るまで遊んでいた。俺と瞳子ちゃんだけは並んで静かに座っていた。

 時間がくると親が迎えにきた。お泊まり会も終わってみれば子供はみんな笑顔だった。大人の方が感極まって自分の子を抱きしめていたりしていた。

 瞳子ちゃんにも親の迎えがきた。心配だったのか両親揃って来たようだ。

 彼女は両親に駆け寄って行った。立ち止まって何事か話し始めた。お泊まり会のことを話しているのだろう。

 

「帰りましょうか俊成」

 

 母が笑顔で迎えにきてくれた。俺も笑顔を返す。

 

「お泊まり会はどうだった?」

「すごく楽しかったよ」

 

 子供らしく返答する。家に帰ったらたくさんお泊まり会でしたことを教えてあげよう。胸の中にある寂しさを忘れるように、そんなことを思った。

 

「俊成!」

 

 幼稚園の門の前で声が響いた。振り返ればツインテールをなびかせた瞳子ちゃんがこっちに向かって走っていた。

 もしかして忘れ物でもしたのか? そう思って彼女を見つめていると、ブレーキを忘れたかのように彼女は俺に突撃した。

 俺はかろうじて瞳子ちゃんを抱き止める。いや、彼女も俺を抱き締めていた。というか俺達は抱き合っていた。

 え、何事!? 混乱する俺に、瞳子ちゃんは耳元でこう言い放った。

 

「お願い……。あたしをさらって」

 

 




そろそろ小学生編が見えてきました。どうでもいいかと思われるかもしれないけど小学校の名前で悩んでいたりします。S小学校みたいなのでも怒らない? 怒られそうならちゃんと考えます。


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12.変わる未来

 フリーズしました。ガ、ガガガ……ガガ……。再起動してください。

 

「……はっ!?」

 

 危うく脳内コンピューターが破壊されるところだった。で、何が起こったんだっけ?

 よし、状況を整理してみよう。

 瞳子ちゃんに抱きつかれた。そして「お願い……。あたしをさらって」と言われた……。

 どどどど、どういうことだ! 本当に何が起こった!?

 ま、待て。待て待て待て! まだ慌てるような時間じゃない。中身おっさんが幼女相手に動揺するだなんてキモいどころか意味不明だぞ! たとえ前世では家族以外の異性からの抱擁がなかったとはいえだ!

 そうだ! 抱きつかれたことは葵ちゃんにもあるし、昨日は瞳子ちゃん本人から裸で抱きつかれているじゃないか。

 なのに、瞳子ちゃんが耳元で変なことを言うもんだから俺の頭がパニックを起こしてしまったのだ。

 身じろぎほどの抵抗も見せない俺を、瞳子ちゃんはさらにぎゅっと抱きしめる力を強めた。ま、まだ戦闘力を上げるというのか!?

 

「俊成……早くっ」

「と、瞳子ちゃん?」

 

 急かされてもどうしていいかわからないぞ。チラリと母を見てみれば目を見開いて口をあんぐり開けていた。状況が飲み込めていないようだった。ですよねー。

 どうすればいいのかわからないので、とりあえず瞳子ちゃんを抱き締める腕に力を込めた。子供特有の柔らかい感触が返ってくる。うむ、今日は空が澄みきっているようですね。

 なんて実のないことを考えていると、視界に大人が二人走っているのが見えた。というか真っすぐこっちに向かってきていた。

 黒髪の男性と銀髪の女性だった。瞳子ちゃんの両親である。

 いきなりの息子の状況に母は固まったままだ。しかし大人の姿を目にすると体裁を繕うようにあいさつを交わす。瞳子ちゃんのお母さんは丁寧に頭を下げていたけれど、お父さんの方は娘が気になるのかおざなりだった。

 

「瞳子!」

 

 瞳子ちゃんのお父さんが声を上げると、瞳子ちゃんは俺の後ろへと隠れてしまった。そして改めて背中から腕を回して抱きしめられる。

 間近で見る彼女のお父さんは、イメージと違うと言ったら失礼かもしれないが凡庸な外見だった。てっきり葵ちゃんの両親みたいに美男美女の夫婦かと思っていただけに少し意外だと思ってしまった。

 彼は俺にしがみついている娘の姿に動揺していた。困り顔のままゆっくりとこちらへと近づいてくる。歩き方がまるで犯人を刺激しないようにする刑事のようだった。

 

「突然どうしたんだ? ちゃんと話を聞くから逃げないでくれないか」

 

 ちゃんと聞く耳を持った良いお父さんではないか。俺は好感を持った。

 だけど瞳子ちゃんにはそう映らなかったようで、声を張り上げて牽制する。

 

「来ないで! 止まってくれないとパパのこと嫌いになるから!」

 

 かわいらしい子供の反抗に、父親はうっと胸を押さえる。娘の攻撃にお父さんはクリティカルヒットをもらったようだ。

 というか何事? 親子ゲンカかな。それでなぜ俺が瞳子ちゃんの盾になってるのかわからないんだけども。

 瞳子ちゃんとお父さんのどちらに目を向けていいのかわからず視線を彷徨わせる。それに気づいたお父さんに眉を下げたままの笑顔を向けられた。

 

「えっと、君が俊成くんかな?」

「はい。高木俊成といいます。初めまして」

 

 内心の動揺を押し殺して頭を下げた。第一印象は大切だ。真摯な態度でいることにした。

 

「瞳子と話があるんだけど、いいかな?」

 

 つまり、彼女をこっちへ渡せ、である。

 ぎゅうぎゅうと抱き締め続ける瞳子ちゃん。離れる気がないようなんですがどうしたらいいでしょう?

 

「あの……、その話、俺もいっしょに聞いたらダメですか?」

「え?」

 

 まさかの俺の提案に瞳子ちゃんのお父さんは目を丸くした。俺自身まさかの対応だった。

 なんの話かは知らないけれど、他人の家庭の話に首を突っ込むなんてマナー違反なのかもしれない。でも今の俺は子供だからそんなマナーなんて知らない。

 ただ、必死に俺にしがみつく瞳子ちゃんのことを考えると、離れてしまうことに不安があった。ただそれだけの受け身な理由だ。

 口出しなんてできないだろう。でも、ただ隣にいるだけでも彼女の不安が取り除けるなら、それだけで俺の価値はあるんじゃないかって思ったのだ。

 しばらく彼は黙りこんだ。そりゃそうだ。子供だろうが大人だろうが、他人の前で家庭の話なんてしたくないだろう。

 

「パパ。あたし俊成がいるならお話してあげてもいいわ」

 

 父親に対してとっても強気な瞳子ちゃんだった。そしてお父さんは娘に弱かった。

 

「わ、わかったわかった。俊成くんもいっしょでいいよ。……瞳子、小学校に行きたくないだなんてどういうことなんだ?」

「はい?」

 

 思わず反応したのは俺だった。小学校に入学する前に不登校ですか? 瞳子ちゃんはどうしたというのだろうか。

 

「行きたくないなんて言ってないわ。あたしはお受験してまで小学校に行きたくないって言ってるの」

 

 疑問符を浮かべる俺をよそに瞳子ちゃんははっきりと答える。はきはき答える瞳子ちゃんに終始お父さんは困り顔だ。

 

「でも、お稽古をたくさんがんばってきただろう? せっかくお受験のためにがんばってきたのに……。もしかしてお稽古が嫌になったのか?」

「違うわよ。でも……」

 

 瞳子ちゃんは俺の胸が物理的に苦しくなるくらい腕に力を入れる。それから俺の頬に自分の頬をくっつけて言い放った。

 

「俊成といっしょにいられないなら意味なんてないもの!」

 

 娘の告白に父親はたじろいだ。俺も内心ではそんな感じだ。

 瞳子ちゃんの想いが俺に突き刺さった。特別扱いをされているとは思っていたけれど、まさか親に反抗してしまうほどとは思ってもみなかった。

 固まってしまった彼に、すすーっと銀髪の女性が近寄った。

 

「もう何を言っても無駄のようデスネ。さすがはワタシ達の最愛の娘デス」

 

 思ったよりも流暢な日本語だった。なんか昨日と雰囲気が違うように思える。

 瞳子ちゃんのお母さんは嬉しそうに笑いながら夫の腕を指で突っつく。木之下夫婦はアイコンタクトを交わし、笑い合った。え、なんでイチャついてんの?

 

「わかった。パパは瞳子のやりたいことを応援するよ」

「ふふっ、血は争えませんネ」

 

 何かを納得するかのように両親揃って頷く。説得を成功させた瞳子ちゃんはぱぁ、と笑顔の花を咲かせた。真横でその顔は反則……。

 

「ありがとうママ!」

 

 パパは? 呆然としてしまった父は悲しみを耐えるかのように立ち尽くしていた。

 

「高木さん。よろしければこれからお茶なんてどうデスカ?」

「え、ええ……あ、はい」

 

 なんだかんだでこの中で一番驚いたのは俺の母だろう。自分の息子が人様の娘さんにすごい決断をさせたのだ。俺だってまだ驚きが抜けていない。

 一番余裕に見えるのが瞳子ちゃんのお母さんだ。この人は娘の突飛な行動にも慌てた様子がなかった。もしかして瞳子ちゃんがこんなことをするってわかっていたのだろうか?

 瞳子ちゃんのお母さんの先導のもと辿り着いた喫茶店で、親達は小学校について話し合っていた。まあ俺が通う予定の小学校を聞きだして、娘も同じ学校に行くからよろしく、という話だった。

 これはなんて言うか……未来が変わったのか? 変えてしまったのか?

 瞳子ちゃんの未来を変えてしまったことに責任を感じてしまう。本当によかったのかと自問自答せずにはいられない。

 

「ほら俊成。あーん」

 

 瞳子ちゃんは喫茶店で注文したパフェをスプーンですくって俺の口元へと持ってくる。彼女は最高にご機嫌だった。

 そんな瞳子ちゃんの顔を見ていると、未来を変えてしまったという責任とか、もうどっか行ってしまったみたいだ。

 考えたって仕方がない。そもそも、初めから俺が幼馴染を作って結婚しようだなんて考えている時点で未来は変わっているんだ。前世と今世は違う。そう思うことにした。

 俺は瞳子ちゃんに差し出されたパフェにかぶりついた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 母はすっかり木之下夫妻と仲良くなっていた。

 最初は外国人というのもあり、瞳子ちゃんのお母さんへの対応を迷っているようだったけれど、普通に日本語が問題ないとわかってからは子供の話題で盛り上がっていた。

 親同士が仲良くなっているのを見て思う。これはもう瞳子ちゃんとも幼馴染の関係なのだろうな、と。

 

「どうしたの俊成?」

 

 俺は瞳子ちゃんを見る。首をかしげる彼女のブルーアイズは好意の色を帯びていた。初対面の時のツンツンとした態度はなりを潜めていた。

 うん。どうしよう? 葵ちゃんの顔を思い出しながら、無性に青空を見上げたくなった。

 喫茶店を出て、別れ際に瞳子ちゃんの両親に声をかけられた。

 

「瞳子との仲を認めたわけじゃないからな。そこは勘違いするんじゃないぞ俊成くん」

「は、はい……」

 

 穏やかな口調と優しい表情で幼稚園児を威嚇する父親がいた。その威圧には中身がおっさんでも身震いするほどだった。

 

「トシナリ……、娘を、ヨロシクネ」

「えっと……、はい」

 

 なぜかまた俺の前では片言になる瞳子ちゃんのお母さんだった。「娘を」の部分を強調された気がするのは気のせいじゃないんだろうな。

 最後に木之下一家が帰ろうとした時、見送る俺の方に瞳子ちゃんが駆け寄ってきた。

 このブレーキをしない感じ。また抱きついてくるのか? そう思って身構えていると、彼女は急ブレーキをかけたように足が止まった。

 だけど、顔はそのまま俺に向かっていた。スローモーションで流れる瞳子ちゃんの顔を眺めていると、頬にチュッと柔らかい感触がした。

 

「え?」

 

 呆けて目を瞬かせていると、頬を赤らめた瞳子ちゃんは小さく俺にしか聞こえない声でこんなことを言った。

 

「大人になったらいつか……ちゃんとあたしをさらってね」

 

 瞳子ちゃんは逃げるように踵を返して両親の元へと向かった。目が表現しづらいことになった父親と微笑む母親が対照的だった。

 

「キス……だったよな……」

 

 俺の声はあまりにもか細く、風に溶けて音にならなかった。

 頬を押さえる。彼女の唇の感触が蘇ってくる。

 

「ほわああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁーーっ!?」

 

 気持ちが容量オーバーとなって絶叫してしまった。変な子として近所で有名になる前に母が素早く俺を抱えて走ってくれた。母には本当に感謝。

 絶対に人には言えない俺の計画。かわいい幼馴染を作って結婚しようだなんていう俺のぶっ飛んだ計画は、どうやら思っていた方向とは少しばかり違っているらしかった。

 

 




次回から小学生編になります。


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13.思い出は卒園式とともに

前回、次回が小学生編とか言ったのに嘘になっちゃった。瞳子ちゃん視点です。


 あたしの見た目は他の子と違ってるって思っていた。

 銀色の髪の毛に青い瞳。ママに似ているあたしの特徴だ。

 それが嫌なわけがない。でも、みんな黒い髪の毛と目をしていた。あたしとは違っていた。あたしだけがみんなと違っていた。

 そのせいで変な目で見られてきた。デリカシーのない男の子は勝手にあたしの髪に触ってきたりもした。怒ったあたしは悪くない。

 

「瞳子、いっしょにお勉強しマショウ」

「うんっ」

 

 周りは本当に子供ばっかり。ママとお勉強する方が何倍も楽しかった。

 ママはあたしといっしょに言葉のお勉強をしてくれた。「日本語って奥が深いのデスネ。勉強のしがいがありマス」というのがママの口癖だった。

 

「日本語にはどんな言葉にも意味がありマス。瞳子、あなたの名前にもちゃんと意味が込められているのデスヨ」

「あたしの名前の意味?」

 

 ママは微笑むと、あたしの目元に指を滑らせた。

 

「瞳子が生まれた日。パパがあなたの瞳が綺麗だと褒めてくれマシタ。ワタシによく似たとっても綺麗な瞳デス」

 

 ママはウインクしながら「だから瞳子なのデス」と言った。

 

「でも……あたしの目を見ると、みんな変な顔をするの……」

 

 うつむくあたしの頭を優しく撫でてくれる。

 

「瞳子、あなたの目を好きになってくれる人は必ず現れマスヨ」

 

 ママはきっぱりと言った。断言っていうのかな。さっきお勉強で学習したばかりだ。

 たぶん、パパみたいな人が現れるって言っているのだろう。パパとママはいっつも仲良しで、ママもよくパパとの愛を育んだってお話をする。

 そうわかっていても、その時は素直に頷けなかった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 幼稚園でもみんな同じだ。初日に髪の毛を引っ張られた。怒ってその男の子を叩いたら先生に怒られた。すごく悔しかった。

 虫さんと遊んでいたら女の子も近づいてこなくなった。誰もあたしに近づかなくなっていた。

 

「つまんない……」

 

 幼稚園なんて楽しくなかった。やっぱりみんな子供ばっかり。なんにも変わらない。

 

「やあ瞳子ちゃん。そこで何して遊んでるの?」

 

 そんなあたしに声をかけたのが俊成だった。

 他の子と違って、俊成の目は変な目なんかじゃなくて、ものすごく優しかった。

 虫さんのことで俊成からは知らないことを教えてもらった。後でママに聞いても知らないことだった。たぶん、それがきっかけで俊成はすごいのかなって思ってたのだろう。

 それがきっかけで俊成といっしょにいることが多くなった。俊成はあたしのためにいろいろとがんばってくれた。

 あたしにちょっかいをかけようとする男の子には説教をしていた。次第に男の子達は乱暴なことをしなくなって大人しくなっていった。

 あたしが女の子達の輪に入れるように声をかけてくれた。おかげで俊成以外にも遊んでくれる友達が増えた。

 俊成はみんなと遊びながら、いつも一歩退いたところから見守るような目をしていた。端っこにいるような子にさえ目を向けている。だからあたしを見つけてくれたんだと思う。

 楽しくないと思っていた幼稚園が、俊成のおかげで楽しくなってきた。

 楽しくなってくるとあたしも俊成みたいになりたいと思った。面倒を見てくれる優しいリーダー。そうなりたいと思ったらあたしから他の子に話しかけるようになった。

 俊成のように他の子の面倒を見ていると、あたしに頼ってくる子が多くなった。それがまた嬉しくて、俊成みたいになれたのだと思った。

 

「瞳子ちゃん、泣いてる子を慰めてたって聞いたよ。本当にえらいね」

 

 そうやって俊成に褒められるともっと嬉しくなった。もっともっと褒めてほしくなった。

 どんなことでも褒めてほしくて、プールの時間に初めて水着を見せたから似合ってるかどうか聞いてみた。

 

「ものすごく似合ってるよ。瞳子ちゃんかわいいね」

 

 それを聞いたら嬉しくて嬉しくて、俊成の顔が見られなくなった。あたしがうつむいてしまうと俊成は頭を撫でてくれた。

 初めて、男の子に髪の毛を触られて嫌じゃないって思った。

 

「トシナリ……、瞳子にとっては特別な男の子なのネ」

 

 あたしの話を聞きながらママは笑っていた。今まで見たことがないくらいニコニコしてた。

 ママが俊成のことを気に入ってくれているのだと思って嬉しくなった。俊成からもらった絵を見せると喜んでくれた。あたしと俊成の顔が並んでいるその絵は大切に宝箱にしまっている。

 たくさん時間が経って、俊成とずっといっしょにいたいって思うようになった。ずっといっしょにいられるんだって思っていた。

 なのに、幼稚園のお泊まり会で何気なく聞いてみたら、あたしと俊成は別々の小学校に行くんだってわかった。

 胸がすごく苦しくなって、息をするのもつらくなってしゃべれなくなった。

 これから俊成がいなくなるなんて思ってもみなかった。頭がぼんやりしてちゃんと考えられない。

 でも、自分のしたいことはすぐに決まった。

 パパに俊成と同じ小学校に行きたいのだとお願いした。なのに「せっかくお受験のためにいろいろがんばってきたんだからさ」なんてとんちんかんなことを言うから、あたしは俊成のもとまで走った。

 

「お願い……。あたしをさらって」

 

 するりと口からそんな言葉が出た。それがあたしの心の声なんだとすぐにわかった。

 俊成と別れてしまうくらいなら、あたしをさらってほしかった。俊成にならさらわれてもいいと思った。

 あたしの気持ちをわかってくれたのか、この後はママが上手いことしてくれたみたい。パパを説得して俊成と同じ小学校に行けるようにしてくれた。やっぱりママは頼りになる。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 今日は卒園式。思い出でいっぱいの幼稚園とのお別れの日だ。

 もしも、あたしが俊成と違う小学校に行くというのを知らなかったら……。今日でお別れになっていたかもしれないだなんて考えたくない。

 俊成は卒園式で緊張していたり、はしゃいでしまった子をなだめていた。こんな日でも優しいのはいつも通りなんだ……。あたしも負けないように俊成を手伝った。

 式が始まると卒園証書をもらったり、歌を歌ったりした。大人がいる方から泣いている声が聞こえてくる。パパが泣いていた。

 

「今日でこの幼稚園ともお別れだね」

「そうね……」

 

 俊成と二人で最後に園内を歩くことになった。俊成は年少の子や先生を見かける度にお別れのあいさつをしていた。あたしもいっしょになってお別れのあいさつをした。

 年少の子なんて泣いて俊成にしがみついていた。女の子まで俊成にくっついてしまうと大変だろうから、そっちはあたしが抱きしめてあげた。

 

「瞳子ー。それと……俊成くん」

「おじさんこんにちは」

 

 パパが笑顔で近づいてきた。ママは俊成のパパとママといっしょにこっちに向かって歩いている。

 パパの手にはカメラがあった。

 

「卒園記念にいっしょに写真を撮らないか?」

 

 パパのお願いだからしょうがない。本当にパパったらしょうがない。あたしは俊成の手を取った。

 

「パパのお願いだから。俊成、いっしょに写真撮りましょうか」

「俺もいいの?」

「当たり前でしょ」

 

 あたしは俊成を引っ張ってある場所へと向かった。

 

「瞳子……俊成くんとじゃなくてパパといっしょの写真は……?」

「デリカシーに欠けマスヨ。瞳子の思い出、たくさん写真に撮ってあげマショウ」

「うちの息子ってモテるんだな……」

「ま、まあ子供ってませてる子が多いって聞くし……こんなものなのかしら?」

 

 ママ達の声はよく聞こえなかった。

 あたしは一本の木の前にきた。園内にいくつかある木の中で、これだけが特別だった。

 

「ここは……」

 

 俊成も気づいてくれたみたい。憶えててくれて嬉しい。

 この木の下で、あたしと俊成は初めておしゃべりしたんだ。あれからずっと憶えている。

 写真に残すのならまずここからって決めてた。もちろん他にもいっぱい撮ってほしいけど、最初はこの木の下がいい。

 ひんやりとした風が吹く。でも、俊成の手からあたたかいのが伝わってきて、全然冷たいなんて思わなかった。

 パパからカメラを向けられる。俊成のほっぺとあたしのほっぺをくっつけた。

 パパが変な声を上げながらも、パシャリとカメラの音がした。

 あたしの名前は瞳子。いつか自慢のママに似たこの青色の瞳を俊成に褒めてほしい。そして、パパとママみたいになりたいって思った。

 

 




次回こそは小学生編になります。ちなみに小説家になろうの方でも掲載開始しました。
せっかくだから分岐させちゃう? とか考えつつです。まあ先の話なんでどうなるかわかりませんが。予定は未定ということで。


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14.幼馴染は相まみえる(前編)

 小学校の入学式当日。学校指定の制服に身を包んだ俺は校門の前にいた。

 

「えへへー。俊成くんといっしょだ」

 

 同じく学校指定の制服に身を包んだ葵ちゃんのニコニコ笑顔が止まらない。俺と手を繋ぎ、横を向いて俺の顔を確認する度に笑顔が深まる。なんともかわいい女の子である。

 幼稚園と保育園という別々の場所で過ごしてきたのだ。その上でずっと仲良くしてこられた。だからこそようやく同じ場所でいっしょの時間を過ごせるのが嬉しくてたまらないのだろう。

 葵ちゃんとは近所というのもあり、お互いの家族揃って小学校を訪れたのだ。集合してからというもの葵ちゃんはずっと俺と手を繋いでいる。スキップしそうな勢いだ。

 

「葵、写真撮ってあげようか。ほら、俊成くんといっしょにさ」

 

 おヒゲの似合う葵ちゃんのお父さんがそう提案した。その手には狙撃でもするのかってくらいの大きくて立派なカメラがあった。

 

「入学式終わってからでもいいんじゃない?」

「まあまあ、せっかく桜が綺麗に舞っているんだ。記念写真にはうってつけだろう? 一枚だけだからさ」

 

 妻のやんわりとした制止にも聞く様子がない。やっぱりこの人は子煩悩だな。

 だけど、確かに満開の桜の花びらが風にさらわれて舞い散る風景は綺麗だった。写真を撮りたくなる気持ちもわかる。

 校庭には桜の木がたくさん植えられており、満開となっている今はとても壮観な光景となっている。記憶にある前世の小学校そのものだった。

 ぐいっと手を引っ張られる。走る葵ちゃんに置いていかれないように足を速める。

 

「お父さん撮って撮って」

 

 無邪気に笑う葵ちゃんの隣に俺も立つ。校門と校舎、それと桜が映るように位置取りを整える。両親が微笑ましいものを見る目をしているのが視界に入った。

 こういう時の写真ってどういう顔を作ればいいんだろうか。ニコニコした小学一年生となった女の子を見て、俺は笑顔を浮かべた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 俺と葵ちゃんの名札には「一年一組」と表記されていた。つまり同じクラスである。

 今日は入学式だけだ。だけどみんな初めての学校。不安もあるだろう。保護者にくっついたままの子だっていた。

 教室には保護者といっしょに入る。席に五十音順でそれぞれの名前が貼られているので、自分の名前を見つけて席に荷物を置いた。

 高木と宮坂なので葵ちゃんとは席が離れている。荷物を置いた葵ちゃんはすぐに俺のもとへと駆け寄ってきた。

 

「いっぱい人がいるね」

 

 教室には生徒とその保護者でいっぱいになっていた。両親共に来ていたり、片方だけだったりと、家庭によって様々のようだ。

 保護者から視線を集めているのは葵ちゃんだった。周りを見ても群を抜いてかわいいから仕方がないね。男の子なんかも何人かはチラチラと見てるし。段々と異性を意識する年齢になっているのかな。

 がやがやとした空気の中、突然わっと声が重なる。何があったのだろうと思って顔を声のした方へと向けた。

 

「高木さん高木さん! なんかすごい美人の外国人さんが来たわよ!」

「え、ええ……」

 

 葵ちゃんのお母さんが興奮している。母は苦笑いを浮かべるだけだ。だってそれが誰かって知ってるのだから。

 一年一組の教室に顔を見せたのは、やっぱり瞳子ちゃんのお母さんだった。その後ろから覗くように見ている瞳子ちゃんがいた。

 彼女達は俺に気づくとぱっと顔を輝かせた。似た者親子だな。

 

「ふぇ……妖精さんみたい……」

 

 隣からそんな呟きが聞こえた。葵ちゃんは瞳子ちゃんに視線を固定したまま固まってしまったようだった。

 瞳子ちゃんはこっちに向かってくる。その胸につけられている名札にはやはり「一年一組」という文字があった。

 俺の母を見た瞳子ちゃんのお母さんは、緊張感なんてないような調子であいさつをしていた。

 

「おはようございマス高木さん、卒園式以来デスネ」

「ええ、おはようございます」

「ええっ!? 知り合いなの高木さん!」

「まあ……、同じ幼稚園の子のお母さんだったんですよ」

「へぇー、あっ、私は宮坂と言います。これからうちの子ともどもよろしくお願いしますね」

「こちらこそ、迷惑をかけることもあるかもしれマセンガ、仲良くしてくださいネ」

「あら、日本語がすごくお上手なのね」

「娘といっしょに勉強しましたカラ」

 

 うふふ、おほほと、さっそくお母さんズは仲良くなっているようである。俺と葵ちゃんの父親は二人並んでそれを眺めていた。瞳子ちゃんのお父さんは来ていないようだった。どうやら仕事を休めなかったようだ。

 

「俊成! あ……」

 

 元気良く俺の名を呼んだ瞳子ちゃんの動きが止まる。彼女の視線は俺の隣にいる葵ちゃんに向けられていた。そして釘づけになった。

 しばし瞳子ちゃんは固まってしまう。葵ちゃんも瞳子ちゃんに見とれたままで、二人の時間が止まってしまっていた。

 

「……天使さん?」

 

 そうぽつりと瞳子ちゃんは言った。固まっていたのは瞳子ちゃんもまた葵ちゃんに見惚れているからのようだった。

 確かに超絶かわいい葵ちゃんの黒髪は艶やかで、天使の輪が輝いているみたいだ。天使という例えも納得だった。

 いつまでも時間が止まっているわけにもいかない。俺が声をかけようとすると、二人は同じタイミングではっと正気を取り戻した。

 大きな目と猫目の視線が交差する。葵ちゃんは俺の手を取ると身を寄せてきた。

 

「なっ!?」

 

 瞳子ちゃんは驚愕した。口を開けたまま目を見開く。レアな表情だなと他人事のように思った。

 葵ちゃんと瞳子ちゃん。この二人が出会ってしまうことをこの入学式の日まで考えないようにしていた。

 だって考えたところでどうしろと? どっちもかわいくてどっちも選べない。人から好意を寄せられて自分が優柔不断になるだなんて思ってもみなかった。

 あー……、前世の時に漫画雑誌のハーレムものを読んで「まったく優柔不断なんて男らしくないぞ。もっとビシッといかんとダメだぞ少年」とかしたり顔で言っていた自分が恥ずかしい。

 実際同じ立場になってみるとわかる。これ優劣つけられる問題じゃない、と。主人公はものすごく悩んでいたんだよ。きっと答えを出したくないけれど出さなきゃいけない。そんな心の葛藤が、今の俺にはわかる気がした。

 

「と・し・な・り?」

「はいっ」

 

 瞳子ちゃんに睨まれる。彼女に睨まれるなんていつ以来だろうか? 最近はかわいらしい笑顔しか見ていないから新鮮だ。

 なんて言ってる場合じゃないな。久しぶりだとしても睨みつけられるのは堪える。俺の防御力が落ちてしまう。

 

「俊成くんをいじめちゃダメなんだよ」

 

 俺がいじめられたとでも思ったのか葵ちゃんは口を出した。守ろうとしているのか俺の腕を抱きかかえる。それが火に油、瞳子ちゃんの目が吊り上がった。

 

「ちょっと! 俊成から離れなさいよ!」

「嫌っ!」

 

 瞳子ちゃんが俺と葵ちゃんの間に割って入ろうとする。しかし抵抗する葵ちゃん。二人の間で攻防が繰り広げられる。

 もしかしたらこんな事態になるのでは、と考えなかったと言えば嘘になる。でも二人はまだ子供だし、案外普通に仲良くしてくれるのでは? という甘い考えがあったのも事実だった。

 二人の好意を自覚しているだけに居たたまれない気持ちが強くなる。それでもまだ子供だ。そんな気持ちだってあった。というか期待していた。

 昼ドラ展開が目の前で行われている。ああ、周囲の視線が痛い。

 

「ま、まあまあまあまあ! とにかく落ち着こうか」

 

 俺は二人をなだめることにした。それ以外に方法がない。周囲では面白がってか俺達を遠巻きにして眺めている。葵ちゃんと瞳子ちゃんのお母さんはなぜか同じように面白そうに見ている。俺の母はオロオロしている。父親なんかは呆けていた。

 なんだこの空気は? 小学一年生の教室の空気ではなかった。

 そんな空気を破ったのは、教室に入ってきた担任の先生だった。

 

「あの……、保護者の方は体育館にお願いします」

 

 おずおずと女性の先生は言った。両親を含め、はっとしたように保護者達は教室から出て行った。

 入学式では保護者は子供を教室へ送り届けると、あらかじめ体育館に用意された席で待機することとなっている。それから各クラスごとに並んで入場するという流れだ。

 俺達のやり取りを眺めていたせいで遅れてしまったらしい。本当に申し訳ない。

 

「いつまで俊成にくっついているのよ!」

「葵はずっと俊成くんといっしょだもん!」

 

 保護者がいなくなってもまだ攻防は続いていた。それを見た先生の目が細くなる。

 

「……あなた達は何をしているの? こんなに小さいのに男の取り合い? いいわね。私なんてもうずっと恋できていないのに……。うぅ……なぜあなたはあの時退いてしまったのよ! 強引に抱きしめてくれれば私だって……」

 

 先生はおいおいと泣き出してしまった。え、こんな担任だったの? 小一の頃の担任だからあんまり憶えてないけど、こんな風にいきなり泣き出してしまう人ではなかった気がするんだけど。

 さすがに泣かれてしまうと葵ちゃんと瞳子ちゃんは動きを止めざるを得なかったようだ。葵ちゃんの力が緩んだのでやんわりと掴まれている手をほどく。

 一応これでも責任を感じているし、先生を慰めることにした。

 

「先生、元気を出してください。これから入学式ですよ。それに、先生はとっても美人だからこれからだっていい恋ができますよ」

 

 本心である。見たところ先生の年齢は三十歳前後といったところだろう。まだまだ女盛りではないか。前世で四十歳を過ぎた身とすれば充分に若々しい女性だ。

 教員だから出会いがないのだろうか? 学校の先生だなんて面倒見がよくてしっかりしているイメージがあるからモテそうな気がするのだが。まあ恋愛経験のない俺の見立てなんてあてにならないけどな。

 

「……本当?」

 

 確認するように聞いてくる先生の目には涙が溜まっていた。自信を持ってほしくて大きく頷きを返す。

 

「もちろんです」

 

 先生はハンカチで目元を拭った。どうやら泣きやんでくれたみたいだ。

 

「ありがとうね。君の名前は……」

 

 名札に視線を向けられる。その前に自己紹介をする。

 

「高木俊成です。これから一年間よろしくお願いします」

 

 礼儀正しくぺこりと頭を下げる。大人は礼儀正しい子に好感を持つからな。すでに経験則になっている。

 担任に好かれるものなら好かれていた方がいいだろう。小学生での先生の存在は強いからな。何かあった時には頼りにしたい。

 

「そう、高木俊成……くん、ね」

 

 なんだか熱い吐息を零しているのは気のせいか? うん、気のせいだよね。まさか異性に対する方の好感を抱いたとか……。ないない、あははー。

 連絡事項があるのでみんな席に着いていく。俺も自分の席の方へと振り返ると、葵ちゃんと瞳子ちゃんが俺を見ていた。

 瞳子ちゃんは俺を睨みつけていた。彫の深い目だからその力はかなりの圧迫感を与えてくる。

 

「俊成くん」

 

 葵ちゃんはニコニコしていた。ニコニコしながら俺に向かってゆっくりと歩く。彼女の席は俺がいる方の先にあるので、こっちに来るのは何ら不思議はない。……ないのだが。

 なぜだろう? 瞳子ちゃんに睨みつけられているのと同じくらい、いやそれ以上の圧迫感が俺を襲う。葵ちゃんはニコニコ笑っているだけのはずなのに、俺は身震いしてしまった。

 葵ちゃんの手が俺の肩を撫でる。ぞくりとしたのは気のせいだろう。気のせいだと信じさせて!

 

「あとでたくさん、お話しようね?」

「……はい」

 

 葵ちゃんの雰囲気が変わり過ぎていて恐いのですが。純粋無垢な葵ちゃんを返してください。心の中だけで抗議を申し立てる。当たり前のように却下された。

 葵ちゃんはそのまま俺の横を通って自分の席へと戻った。瞳子ちゃんもふんっ、と鼻を鳴らしながらも席に着く。

 なんか、入学式はまだ始まっていないはずなのに、ものすごく疲れてしまった。しかもこの後も大変そうだし……。

 これは入学式が終わってからの方がもっと疲れてしまう事態になりそうだ。どうやって二人をなだめたものか。俺は入学式が始まるまで、そんなことばかりを考えていた。

 

 




長くなりそうなので前後編に分けます。


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15.幼馴染は相まみえる(後編)

 先生の先導の元、男女一列となって体育館に向かった。

 道すがら懐かしい気持ちになった。小学校なんて卒業してから訪れることなんてなかったからなぁ……。

 入学式はつつがなく終えることができた。トラブルなんて起こすような子はいなかった。みんな良い子である。

 体育館を出てからまた教室へと戻る。それぞれの席に着くと、後から保護者が教室の後ろへと陣取った。

 先生が教科書や時間割表などを配布する。ついにランドセルの出番である。小学生といえばランドセルだよね。ほんと懐かしい。

 そういえば、前世では様々なランドセルの形や色があったな。ランドセルだけでも一人一人特徴があった。

 今俺が持っているのは黒色のランドセルだ。男子は黒で女子は赤、形はみんないっしょだ。俺の時代はこんなものである。

 そこに一年生は黄色いカバーをかけている。交通安全のあれである。これつけられるまで忘れてたね。いつまでつければいいんだったか。

 教科書類をランドセルに仕舞っていく。それから連絡事項を説明される。先生は子供にというより親に向かって話しているようだった。まあ集中力がないから仕方ないね。入学式は耐えれていたけれど、教室では後ろに振り向いて自分達の親を見ている子が多いし。

 俺はふむふむと頷きながら聞いた。久しぶり過ぎて学校のルールなんて憶えてないからね。さすがによほどのことをやらかさなければ問題ないとは思うんだけども。

 

「はい、それじゃあ皆さんお写真を撮りましょうか」

 

 連絡事項が終わるとクラス写真を撮るようだった。まずは教室で撮影して、それから場所を変えてもう一枚撮るらしい。みんな一斉に席から立ってはしゃいでいる。テンション爆上がりだな。

 クラスの人数は三十人くらいだった。これは幼稚園の一組よりも多い人数だ。これをまとめながら写真を撮るのは大変そうだ。

 この時期の子供は知らない子とでもすぐに仲良くなれるようだ。そこらかしこで「隣になろうよ」という声が聞こえてくる。並び順は自由、と先生が言ってから行動が早い。

 

「俊成くんのお隣いいよね?」

「俊成、いっしょに並んで撮ってもらうわよ」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんが同時に話しかけてきた。二人は顔を向かい合わせると、睨み合いを始めてしまった。なんか火花が見えるんですけど……。

 瞳子ちゃんのブルーアイズがキラリと光る。この睨みつける攻撃は強い! 今にもホワイトドラゴンが召喚されそうなほどの威圧感があった。

 対する葵ちゃんの背後から虎が「がおー!」と咆哮を上げる。……ん? いや、虎かと思ったら猫か? かわいらしい猫ちゃんがぷるぷるしながら睨みつける……いや、涙目になっていた。

 というかまさに葵ちゃんがぷるぷる震えながら涙目になっていた。彼女にはまだ瞳子ちゃんの睨みつける攻撃は早かったようだ。

 だが、効果はあったらしい。涙目になった葵ちゃんを見て瞳子ちゃんがうっと呻く。ちょっと脅し過ぎたとでも思ったのだろう。瞳子ちゃんはいい子だからね。

 

「えーと……、とりあえず二人は俺の両隣りってことでいい?」

「うん!」

「そうね……それでいいわ」

 

 俺の提案に二人は争いを中断した。右隣に葵ちゃん、左隣に瞳子ちゃんがくっつく。

 なんだろう、両手に花のはずなのに息苦しく感じる。挟まれてはいけないものに挟まれてしまったような……そんな感覚に襲われてしまう。

 ま、まあ今は気にしないでおこう。写真を撮るだけなのに時間をかけるわけにもいかないし。

 カメラを持った先生に目を向ければ、なぜか死んだ目で俺達を見ていた。というかさっきのやり取りを見られてたのかよ。

 みんなは二列になって教室の後ろに並んだ。みんなの顔が映るように前の人は屈んで、後ろの人は立った状態で撮影するようだ。保護者の方々は廊下に出て我が子の姿を見つめている。

 

「皆さーん。いいですかー? はいチーズ、で撮りますから笑ってくださいねー。高木くんわかったかなー?」

 

 なぜ俺を名指ししたの? なんか先生の目が恐いのは気のせいですか?

 悪目立ちしたくなかったから端っこに行こうとしたのに、葵ちゃんと瞳子ちゃんに両腕を拘束されて真ん中へとつれて来られた。

 俺達は後ろの列に並んだ。左右からガッチリと固められて身動きが取れない。写真を撮るだけなのに、なんで二人ともこんなにも力が強いのか。

 

「はい、チーズ!」

 

 先生が持つカメラからミシリ、と音がしたのは聞かなかったことにした。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 無事にクラス写真を撮り終えた一年一組は解散することとなった。この後は自由に写真を撮ってもいいとのことなので、それぞれの親御さんは記念写真という思い出のために子供をつれて散らばって行った。

 俺達、高木家と宮坂家と木之下家はいっしょに行動している。子供の交友関係はそのまま親同士の関係を構築しているようだ。

 

「わっはっはっ! 俊成くんはモテモテだな」

 

 葵ちゃんのお父さんが豪快に笑う。彼から見ればこんなのはかわいい子供のやり取りにしか見えないのだろう。

 そう、俺は両腕を葵ちゃんと瞳子ちゃんに掴まれたままだった。クラス写真が撮り終わってもこの体勢は変わらない。いい加減腕が疲れてきたんだけど……。

 

「……」

「……」

 

 言い合いはなくなったけれど、今度は無言で視線を交わしながら牽制し合っている。なんだか酸素が薄い気がします……。

 

「あそこの遊具で写真はどうだ?」

 

 俺の父が指差した先には、ジャングルジムや滑り台などが合体したような大きな遊具があった。公園であんなに大きな遊具はなかったな。

 

「それはいい考えデスネ。さすがはトシナリのパパ。素晴らしいデス」

 

 瞳子ちゃんのお母さんにべた褒めされて父が赤面する。気持ちはわかるよ父さん。異国の美人さんっていろいろ破壊力があるからね。それでも息子として複雑な気持ちになります。母さんに思いっきり肘でど突かれたから許すけど。

 

「せっかくだからてっぺんで撮ってやろう。ほらほら、俊成くんの腕を掴んでるままだと登れないぞ?」

 

 もしかして葵ちゃんのお父さん、俺を助けてくれてる? こうでも言えば手を離さざるをえないだろう。

 

「……」

「……」

 

 だが離れない。相変わらず無言のままで牽制し合っている。先に手を離したら負けと言わんばかりである。

 それを見ていた葵ちゃんのお母さんは笑いを堪えている。なんか宮坂夫婦ってこの状況を面白がってません?

 

「てっぺんに登りたいなー。俺早く写真撮りたいなー」

 

 遠まわしに手を離してほしいとアピールしてみる。しかし効果はない。むしろより一層力を込められた。いや逃げないよ?

 動かない俺達を見て、葵ちゃんのお父さんは「それじゃあ」と提案する。

 

「先にてっぺんに登った子に賞品をあげようか」

「賞品?」

 

 俺が聞き返すとおじさんはダンディーな笑みを作った。

 

「俊成くんとのツーショット、とかね。先にこのジャングルジムのてっぺんに登った方に、俊成くんと二人っきりの写真を撮ると約束しよう」

 

 俺に確認することなくそんなことを言い出しやがった。賞品って俺かよ!

 そこからは速かった。

 両腕が軽くなったかと思いきや、二人は同時にジャングルジムを登り始めていた。大人の体では入れないところをスイスイと進んで行く。

 

「勝ったわ!」

 

 結果は予想通りと言うべきか、瞳子ちゃんの勝利だった。インドア派な葵ちゃんでは運動能力に差があったようだ。

 

「うぅ……」

 

 目に涙を溜める葵ちゃん。今度は瞳子ちゃんに躊躇いはない。競争で勝ったのだからと無邪気に喜んでいた。

 

「…………もん」

「え? 何よ?」

 

 葵ちゃんはすーっと大きく息を吸い込んだ。

 

「葵は俊成くんのことが好きなんだもん! 俊成くんだってそうなんだもん! だから負けてないんだもん!」

 

 いきなりの告白に瞳子ちゃんが面喰った。たぶんこの場にいる全員そうだと思う。俺なんか表情がおかしなことになってる自信がある。

 だけど瞳子ちゃんも負けていない。すぐに葵ちゃんの目を見つめ返すと口を開いた。

 

「あたしだって俊成のことが好きよ! あなたよりもずっとずぅーっとね!」

「葵の方が好きだもん!」

「あたしの方が好きよ!」

 

 子供らしい応酬が続く。俺は居た堪れなくなってきた。なんか視線が集まってる気がするし。

 らちが明かないと思ったのか、瞳子ちゃんが切り口を変えてきた。

 

「あたしは俊成といっしょに寝たことがあるし、お風呂だっていっしょに入ったことがあるんだからね!」

 

 うん、幼稚園のお泊まり会のことですね。本人にそこまでの意図はないんだろうけど、言葉だけ聞くとけっこう危ない。

 

「葵だって俊成くんといっしょに寝たことあるもん! お風呂だっていっしょに入って、洗いっこだってしたもん!」

「え」

 

 うん、休日に遊び疲れていっしょにお昼寝したね。お風呂も一回だけだけどお母さんと三人で入ったね。

 同じことをしたはずなのに、瞳子ちゃんは動揺の色を見せる。たぶん「洗いっこ」という単語に反応したんだと思う、

 

「そ、そう……あ、あたしなんか、あたしなんかね……」

 

 瞳子ちゃんは視線を上げて記憶を探っていた。いつの間にか流れで思い出対決になってるし。いつ勝負方法が変わったのか。

 

「あ、あたしなんか……俊成に体の隅々まで日焼け止めクリームを塗ってもらったんだからね!」

 

 ワオ! と瞳子ちゃんのお母さんの声が耳に入った。俺は声なんて出せなかった。

 瞳子ちゃんのセリフにはちょっと脚色が入っていた。ちょっとどころじゃないくらい意味合いが違ってきたけどな!

 幼稚園時代に彼女に日焼け止めクリームを塗ったのは事実である。だけど誓ってもいい、俺は瞳子ちゃんの体の後ろ側しか手をつけていませんよ! 体の隅々だなんて……できるわけがない!

 だからお願いです。保護者の方々は一刻も早くそんな目で俺を見るのをやめてください。いや、どんな目か見れてないけど。とにかく視線が刺さってるのは確かだった。

 葵ちゃんも顔を上げて「えーとえーと」と考え始めた。とにかく瞳子ちゃんに負けない一心のようだ。たぶん彼女はあまり意味を理解できてはいない気がするけども。

 

「あ、葵は……葵は俊成くんと結婚の約束したもん!」

 

 ここにきての強烈な一撃! 瞳子ちゃんはのけ反った。次いで俺を睨んだ。思わず首をぶんぶんと横に振る。

 これは完全に葵ちゃんの嘘である。負けたくないがためにこんな嘘をついてしまったのだろう。ずっと望んでいた約束だけれど、こんなところで聞きたくはなかったよ……。

 

「あ、あたしだって……あたしだって俊成と結婚の約束くらいしたわよ!」

 

 してないしてない! 瞳子ちゃんとは際どいやり取りがあったものの、結婚という具体的な単語は出たことがない。断言してもいい。

 こっちもこっちで相手に負けない想いが強過ぎて嘘をついてしまったようだ。こうなるともう収拾はつかなかった。

 二人はどんどんヒートアップしていき、終いにはないことないこと言い出す始末。俺が間に入ろうとしても一向に言い合いは止まらなかった。

 最後には葵ちゃんのお父さんが仲介してくれた。威厳のあるおヒゲの前では女の子もケンカを止めざるを得ないようだ。

 二人が大人しくなったところで、葵ちゃんのお父さんは俺にしか聞こえない声でこんなことを言った。

 

「俊成くん。色男でもいいが、誰に何を口にするかは気をつけておくんだな。まっ、まだ子供だからわからないよな」

 

 わっはっはっ! と豪快に笑う葵ちゃんのお父さん。さっきの真剣な目はかなり俺の胸に突き刺さった。

 小学校生活はまだ始まったばかり。こんなことで俺の心と体はもつのだろうか? 葵ちゃんと瞳子ちゃんをぼんやり眺めながらそう思った。

 

 



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16.前世の友人は幼い

 四月も下旬。クラスメート達が新たな小学校という場所に慣れてきた頃のこと。

 入学してから葵ちゃんと瞳子ちゃんの争いは続いたままだった。それでも休戦は存在するようで、休み時間に葵ちゃんがお手洗いに行ったことで俺は一時の平穏を取り戻していた。

 元はしっかり者の瞳子ちゃんは葵ちゃんがいなければむやみに騒いだりはしない。普通に俺の隣にいるだけだ。

 

「あれ? もしかして佐藤(さとう)?」

「え、僕?」

 

 そんな気を抜いている時だった。次の授業の準備をしている一人のクラスメートに気づいたのである。

 いきなり俺に声をかけられて目を白黒させる男の子。記憶よりもだいぶ小さいが間違いなかった。

 彼の席の前に回り込んで名札を確認する。そこには「さとう いちろう」というひらがなの文字があった。確たる証拠というやつだ。

 

「やっぱり佐藤じゃないか。うわー、こんなに小さかったんだなお前。懐かしいなー」

「え? え? なんなんや? いきなり何?」

 

 佐藤は幼い顔を困惑色に染めた。眉を寄せた瞳子ちゃんに「俊成の知り合い?」と尋ねられる。そこで自分のテンションが異様に上がっていることに気づいた。

 やってしまった……。事情を知らない者からすれば俺の口走っていることは意味不明だったろう。

 だが、俺が急にテンションを上げてしまったのには理由がある。

 俺の目の前にいる男の子、佐藤(さとう)一郎(いちろう)は俺の前世での親友だったのだ。

 素朴な顔立ちに、特徴があるとするならそばかすがあるところだろうか。可もなく不可もなくといったそこそこの面をしている。俺も同程度のものだがな。

 佐藤は見た目だけではなく、勉強や運動、交友関係とあらゆる面でそこそこの男子だった。それが同じく様々な面でそこそこだった俺とウマが合ったのだ。

 そんな俺達は前世では小中高と同じ学校だった。高校を卒業してからめっきり会わなくなったものの、佐藤の結婚の報告はちゃんと聞いていた。前世の中で、唯一高校を卒業してからどういった未来を辿ったか知っている人物なのだ。

 人生で一番の親友、仲良くなった時期から考えても幼馴染と呼べる存在だったのだ。そんな奴が目の前にいればテンションだって上がるというものだろう。

 だからって前世は前世。今ではそんな思い出なんて存在しない。俺だけしか知らないことを、佐藤が知るはずもない。

 困っている顔をする佐藤。こいつは滅多に怒ったりしない。それは今も変わらないようだった。

 

「……ごめんごめん。ちょっと知ってる人に似てただけだから。いきなり驚かせちゃってごめんな」

「え、うん、まあそうならええんやけど」

 

 あっさり納得してくれた。うんうん、お前はそういう奴だよな。

 佐藤の関西弁も懐かしい。確か父親が関西の人で、その影響とかだったかな。この口調は大人になっても変わらない。

 それにしてもなんで佐藤がここにいるんだ? いや、悪いとかじゃなくてな。俺の記憶では佐藤と同じクラスになったのは小三の時だったはずなのだが。

 明らかに変わったことがあるとすれば、瞳子ちゃんが同じ小学校に通うようになったというところか? チラリと横を見れば銀髪ツインテールの女の子と目が合った。

 もしやこれがバタフライエフェクトってやつ? 前世をしっかり思い出すことができるならクラスメートの顔ぶれがだいぶ変わっている可能性もあるのか。

 まあそんなことはどうでもいい。考えても仕方のないことだしな。今大事なのは親友だった佐藤が幼い姿で俺の目の前にいるということだ。

 俺は佐藤に向かって右手を差し出した。

 

「俺、高木俊成。よかったら友達になってくれないかな?」

 

 すんなりと言葉が出た。小さい子だからこそそんな話を切り出しやすいというのはあったけれど、俺自身の本心として佐藤とは今世でも友達になりたいと思ったのだ。

 佐藤は俺の手を少しの間見つめると、すっと手を伸ばして握手してくれた。

 

「高木くんの名前はもう知っとるよ。毎日木之下さんと宮坂さんといっしょに賑やかなんやもん」

 

 佐藤は俺の横にいる瞳子ちゃんにチラっとだけ目を向けて赤面する。瞳子ちゃんはまったく気にする様子はなかった。

 

「俺だって佐藤くんの名前は知ってる。名字が鈴木だったら危なかったって思ってたからさ。世界の安打製造機と被っちまう」

 

 前世でそんな話をして笑い合ったのを思い出していた。今の佐藤にはわからない話だったけれども。首をかしげる彼に向って笑ってやった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 佐藤との出会いをきっかけに、俺は周囲のクラスメートに目を配ることにした。

 小学校から中学校まで、同じ学校に通う連中は多い。周りへの影響力が強い人もいるので気を配っていた方がいいだろう。

 

「あんたがあおっちが言ってた俊成くん、で合ってるのよね?」

 

 そう思っていた矢先、俺に話しかけてくる女子がいた。前髪をヘアピンでとめた背の高い子だ。小学一年生の平均身長に届いている俺でも首を傾けなければならない。

 現在は掃除の時間である。一年生は午前中で授業が終わり、給食と昼休み時間を挟んでから掃除の時間だ。これが終われば帰りの会をして下校となる。

 掃除の分担場所はグループによってそれぞれ違うのだが、昨日までは葵ちゃんと瞳子ちゃんといっしょのグループだった。ただ、あの二人がいっしょになると掃除どころではなくなるので、昨日別々のグループに変えられたばかりだった。

 何気に小学生になってから、葵ちゃんと瞳子ちゃん以外の女の子に話しかけられたのは初めてだったりする。二人のバリアはよほど強固だったようだ。

 

「君は……」

 

 同じクラスだったにも拘らず、前世の親友である佐藤に気づけなかったのは葵ちゃんと瞳子ちゃんの相手が忙しかったからだ。佐藤ですらこれなのに他の子なんてわかるはずもない。前世があるとはいえ、小学一年生なんてまだまだ幼いのだから記憶の中の顔と一致しなくても無理はないだろう。

 俺が名札に目を向ける前に、彼女は快活に答えた。

 

「私は小川(おがわ)真奈美(まなみ)っていうの。ねえねえ、あんたあおっちのカレシなんでしょ?」

 

 好奇心を隠さない目をしていた。この年齢でも彼氏という単語は知っているらしい。

 そして名前を聞いて思い出した。小川真奈美、彼女は前世での中学時代、女子のリーダー的存在だったのだ。

 中学時代、宮坂葵はマドンナと呼ばれるほどの存在だったけれどクラスの中心ではなかった。性格的な問題ではあるのだろうが、彼女を押しのけてクラスの中心になっていたのはこの小川真奈美だったのだ。

 さっぱりとした性格で男女の距離を感じさせない。そのため男女関係なく友人が多かったと記憶している。

 友人の多さは影響力の強さでもある。学生時代に俺はその事実を学んでいた。

 つまり、こういうタイプが一番敵に回したくないんだよなぁ……。

 

「あの、あおっちっていうのは葵ちゃんのことかな?」

「そうに決まってんじゃん」

 

 断言されてもわかんねえよ。話題を考えれば予想はついてたけど、もし別のあおっちさんだったら失礼ではないか。そういう人を間違えるようなミスはしたくないのだ。

 

「で? あおっちとはカレシカノジョな関係? ねえねえ、教えてよ」

 

 野次馬タイプだったか。こういうのは苦手だ。女の子なのにデリカシーがないのはいけないと思う。たぶんこれから学んでいくんだろうけども。

 

「いや、話よりも掃除しようよ」

「えー? そんなことより話聞きたーい。聞きたーい」

 

 小川さんは俺の制服にしがみついてくる。こらっ、しわになっちゃうでしょうが! 不機嫌な目を向けても好奇心に満ちている小川さんは笑顔だった。

 

「ちょっと、離してくれないかな?」

「お話聞かせてくれたらね。ほらほらー、しゃべってみ? 木之下さんもカノジョなの? そこんとこもどうなのよー?」

 

 小川さんの中で彼氏彼女とはどういう関係なのだろうか。少なくとも彼女が二人いても問題ないらしい。

 仕方がない。さっさと答えて掃除に戻ろう。手を離してもらうためにはそうするしかないのか。

 

「別に、彼女じゃないよ」

 

 はっきり言えたらいいんだけど、今の俺にはどちらかを彼女だなんて口にはできなかった。まだ子供だという言い訳以上に、自分の気持ちに嘘をつけなかったのだ。

 小川さんから背を向けるように掃除を始める。しかし俺の制服から手を離してくれる様子はない。

 

「何それ何それ? どういうことよ? 気になるー」

 

 小川さんは気の向くままに俺の体をガクガクと揺さぶってくる。やめなさいというのに。無駄に力が強くて抵抗は何の役にも立たない。

 同じグループの子達は真面目な子達が集まったのか、チラチラと気にしながらもちゃんと掃除をしている。このままでは俺が不真面目扱いされてしまうではないか。

 小川さんの追及が面倒臭い。当人二人がいないところを狙っているのがまた厄介だった。

 

「小川さん、今は掃除の時間だよ。ちゃんと掃除しないと先生に怒られちゃうよ?」

 

 やんわりと彼女の手を取りながら忠告した。そのまま制服から手を離させようとするのに上手くいかない。どんだけ力いっぱい握っちゃってくれてんだよ!

 四苦八苦する俺に構うことなく、小川さんは俺に顔を近づけてきた。秘密の話をしろという強要である。

 

「そんなことはいいから教えてよ。私はあおっちの友達として心配してあげてるだけなんだからね」

 

 それは友達の範疇なのか? 俺には謎理論にしか思えない。ていうかただ単に知りたいだけだよね?

 まったく子供というのは自分の衝動を抑えるということをしない。葵ちゃんと瞳子ちゃんはそのあたりちゃんと分別がついている。……と思うよ。二人ともまだ小学校に入学する前の方がしっかりしていたのは気のせいかな?

 

「本当に思いやりがあるならそっとしておくべきだと、俺は思うよ」

 

 というか本当にそっとしといてください。俺だって答えが出せていない問題を答えられるわけなんかないだろうに。

 小川さんがむっとした顔をする。これは何か言われるかと思いきや、彼女の動きはピタリと止まった。

 どうしたのかと首をかしげて、すぐに気づいた。小川さんの肩に後ろから誰かの手が乗せられていたのだ。体の大きい小川さんに隠れて見えていなかったようだ。

 一体誰なんだろうか。それは声を聞いてすぐにわかった。

 

「真奈美ちゃん? 何をしているのかな?」

「え、えーと……」

 

 葵ちゃんだった。声はいつものようにかわいらしいのに、小川さんに隠れて見えない表情のせいか少し恐い。本当に葵ちゃんだよね?

 小川さんも頬が引きつっている。俺と同じく言い知れぬプレッシャーを感じているようだ。

 

「あ、あのね? 私はあおっちのことを思って、その……」

「真奈美ちゃん」

「……はい」

「ちょっと、向こうでお話しましょうよ」

 

 この後、とある女子生徒の悲鳴が聞こえたとか聞こえなかったとか。葵ちゃんが変な方向に成長してしまわないか、幼馴染として激しく心配である。

 

 



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17.先輩に見られながらの登校

 朝の登校は近所の全学年の子が集まっていっしょに行くことになっている。集団登校というやつだ。

 場所は公園、近所の一年生から六年生までの小学生が集まっている。葵ちゃんも家が近いのでいっしょに登校しているのだ。

 

「葵ちゃんは本当に俊成くんが好きなのねー」

「うん!」

 

 集団登校を共にする同じ班の女子が葵ちゃんに話しかけている。俺の手を握りながら葵ちゃんは笑顔で頷いた。

 葵ちゃんは高学年の女子からのウケがよかった。彼女からは面倒を見て上げたくなるような、そんな庇護欲をかき立てられるのだろう。俺にも現在進行形で憶えがある。

 葵ちゃんの俺に対する好き好き光線は五六年生の女子からすれば微笑ましく映っているようだった。ここには瞳子ちゃんがいないから男を取り合う女の図、なんてものは存在しない。純粋なかわいらしいカップルに見えているのかもしれない。

 

「ふふっ、そんなに仲良しな姿を見せられたら羨ましくなっちゃうな」

 

 柔らかい雰囲気をかもし出す高学年の少女が口を手で隠して笑う。小学一年生と比べればだいぶ大人っぽく感じる仕草だった。

 

野沢(のざわ)先輩、からかわないでくださいよ」

「ふふっ、ごめんね俊成くん」

 

 謝りながらも笑いを堪え切れない様子だ。そんな顔をされると許してしまうではないか。

 野沢(のざわ)春香(はるか)先輩は小学五年生の女の子である。髪を二つに結んでおり、同年代の子と比べても少し大人びている女子だ。体も高学年の女子相応に成長しているので、一年生の俺からすれば大きく見える。

 高学年の人の中でも俺はこの野沢先輩と特に仲良くしていた。それには理由があったりする。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 小学生になってから俺は体を鍛えることを始めていた。

 学生時代、男子にとっての運動能力は大きな意味を持つ。スポーツができると一目置かれるし、単純に運動ができる奴はかっこいいのだ!

 まず手始めに走ることを始めてみた。脚が速いのはかなりのステータスだ。小学生は何かと走ることが多いからな。基本をしっかりしておこうと思ったのだ。

 問題はいつどこでやるか。六歳だと親だって心配で遠くへ行くことを許可してくれない。遠くまでランニングしに行くというわけにもいかなかった。

 母親との話し合いの結果、近所の公園でならと許可をもらった。葵ちゃんと初めて出会った公園である。何かあったとしても家から近いのなら幾分か安心だろう。そうして場所は決定された。

 次は時間帯である。夕方は葵ちゃんといることが多い。門限があるので夜はもちろんダメ。残ったのは朝方の時間帯だった。

 学校に行く前に公園で体を鍛えることにした。早起きはつらかったけれど、ここで努力を惜しんではならないと思った。自分の平凡さはわかっている。立派な男になるには様々な努力が必要だと理解していた。

 体を鍛えるのはその一つだ。ここで眠たいからやめるだなんて口にするわけにはいかない。同じ後悔だけはしたくないのだ。

 そんなわけで朝の公園にやってきた。準備体操をしてからダッシュで公園の端から端までを往復する。持久力強化のためにダッシュで疲れた体のまま公園をぐるぐると何周も回ってみたりもした。

 素人考えながらも、スポーツにおいて走るのは基本だろう。前世での運動部ではとりあえず走らされてきたからな。

 そんなことを続けていると、ある日野沢先輩が公園に訪れたのである。ジャージ姿から彼女もトレーニングに来たのだと察した。

 朝早くから小さな男の子が一生懸命走っているという光景は、少なからず野沢先輩に驚きを与えたようだった。

 運動を終えた後のストレッチ中に彼女は俺に話しかけてきた。

 

「すごくがんばってるみたいだけど、なんでそんなに走るの?」

 

 疑問をそのまま口にしたという感じだった。息を整えながら答える。酸素が足りなかったからか俺の答えは単純なものとなった。

 

「立派な大人になるためです」

 

 少女は目を丸くしていた。それからくすくすと笑い出した。何がツボに入ったかわからなかったので首をかしげることしかできなかった。

 これがきっかけで野沢先輩とは朝のトレーニングをいっしょにさせてもらう関係となったのだ。その日の登校時に先輩と同じ班だということに気づいた。葵ちゃんの相手ばかりしていたからそれまで気づかなかった。彼女の方はすぐに気づいていたらしいけれど。

 小学校も高学年になるとクラブ活動というものがある。野沢先輩は陸上クラブであった。朝のトレーニングはそのためのものらしかった。

 

「私、走るのが好きなんだ。あんまり得意なことってなくて自信を持てないことばかりだけど、走ることだけは自信を持って好きだって言えるんだ」

 

 毎朝いっしょにトレーニングをしていると、不意に彼女はそんなことを言った。小一の俺から見ればやっぱり先輩は大人びていて、その言葉にはしっかりとした意志を感じられたのだ。

 中身はおっさんな俺だけど……、小学生から見習わなきゃいけないことってたくさんあるのだと思った。

 この日から俺は尊敬の念を込めて彼女を「先輩」と呼ぶことにしたのだった。お姉さんと呼ばれることはあっても、小学生で先輩と呼ばれることはなかなかないらしかった。

 野沢先輩はあまり「先輩」と呼ばれるのが好きではないようだった。でも俺は彼女を先輩と呼びたかった。尊敬できるのは何も大人ばかりじゃない。そう思ったから。

 野沢先輩ほど考えがまとまっているわけじゃない。前世があるにも関わらず、将来設計だってまだまだ決めきれてはいない。それどころか好きなものとか得意なことでさえ定かじゃない。

 だけど、自分を信じて好きなものを好きだと胸を張って言える野沢先輩の姿は、俺だってもっとがんばらないとと思わせてくれたのだ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 登校は縦に二列に並んで歩いて行く。低学年の子が道路に飛び出していかないようにと、列の前と後ろに高学年の生徒が目を光らせている。

 とはいえ、年上といっても小学生。おしゃべりしたり、何か興味のある物を見つけて足を止めたり、列から逸れたりとこっちはこっちでなかなか目が離せない。特に男子な。ある程度は仕方がないけれど、車が近づいたりなんかすると俺も声を出して注意をする。

 

「俊成くんは一年生なのにしっかりしてるね」

 

 野沢先輩に褒められるとなんだか照れてしまうな。俺は頭をかいて照れを誤魔化した。

 登校中はずっと葵ちゃんと手を繋いでいるので彼女の心配はなかった。何か興味をそそられる物があったとしても俺の手を離してまで列を逸れるなんてことはなかった。

 歩けばランドセルがガチャガチャと音を立てる。なんだか懐かしい。ランドセルって大きかったんだな、と子供ながらに思った。

 出発してから二十分ほどで学校に着く。その間にたくさんの大人とすれ違うので大きな声であいさつをする。この頃は知らない人にあいさつをするのにも抵抗がなかったな。同じ班であいさつに躊躇いを見せる子はいなかった。

 いや、唯一葵ちゃんだけがあいさつに躊躇いがあった。実はちょっと人見知りなところのある葵ちゃんだった。最初は登校を共にする同じ班の子達から「かわいい」と連呼されて戸惑っていたっけか。馴染んでしまえばけっこう懐っこい子なんだけどね。

 こればっかりは少しずつ慣れていくしかあるまい。これからの成長に期待である。

 

「あーっ! また手を繋いでる!」

 

 横からの大声に、肩を跳ねさせてしまうほどびっくりした。葵ちゃんも同じく体をビクつかせていた。その拍子に長い黒髪がふわりと舞う。

 大声を上げたのは瞳子ちゃんだった。ちょうど道路を渡ってこっち側の歩道に向かっているところだった。

 彼女は俺と葵ちゃんを視界に収めて目尻を吊り上げた。

 自分の班の列を抜けると、こっちに向かってずんずんと歩いてくる。瞳子ちゃんのところの班長らしき男の子が注意するけど彼女の睨み一つで口をつぐんだ。少年よ、強く生きろ。

 瞳子ちゃんの登場で葵ちゃんは身体ごと俺の腕にしがみついてくる。それを見た瞳子ちゃんの怒りゲージがさらに上がる。悪循環であった。

 あー……、ついにこの日がきてしまったか。今まではタイミングが合わなかったからか登校中に出会うことはなかったんだけどな……。

 

「葵は俊成くんといっしょに学校に行ってるだけだもん!」

「学校に行くだけなら別に手なんか繋がなくてもいいでしょ! いいから離しなさい!」

「やだっ!」

「子供じゃないんだからわがまま言わないの!」

 

 君を含めてここにいるみんな子供だよ。いつもの二人の争いの中にそんなツッコミを入れられるほど俺は強者ではない。

 一向に俺の腕を離そうとしない葵ちゃん。それに業を煮やしたのか、瞳子ちゃんは空いている俺の腕を取った。そして葵ちゃんと同じように抱え込んできた。

 両手がかわいい女の子によって塞がれている。まさに両手に花。だけれどニヤニヤできる余裕なんてなかった。

 俺を間に挟んだまま葵ちゃんと瞳子ちゃんはケンカを続ける。これを見た高学年の先輩方は苦笑い。野沢先輩はニッコリ笑顔で口を開いた。

 

「なるほど。モテモテだね俊成くん。これは本当に立派な大人にならなきゃ、だよね」

 

 ソウデスネ。俺は白い目になりながら、何か納得している様子の野沢先輩に何も言えなかった。

 だが、こんなにかわいい二人の女の子から好かれているのだ。生半可な努力じゃあ足りないのだと否応なしに自覚させられるのであった。

 

 



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18.俺の前には二人のかわいい幼馴染がいる

 毎朝早起きしてトレーニングしていると疲れてしまう。前世での学生時代、運動部だったもののゆるーい活動だったので朝練なんてものはなかった。強豪校の運動部なんて俺が想像できないほどのハードトレーニングをしているに違いない。実際にしっかり鍛えようと思ったらその大変さが身に染みる。

 自分に厳しくしないとな。甘やかしてしまうと前世の二の舞である。

 

「ふわぁ~……」

 

 とはいえ眠たいものは眠たい。授業中にもかかわらず大きなあくびをしてしまう。やめられない止まらない。

 当たり前だが学校ではお勉強が待っている。とはいえ見た目は子供頭脳は大人を地でいく俺である。いくらなんでも小学一年生の内容は簡単過ぎた。

 基礎をやり直すのは大切なことだろう。だからって今さら小一の勉強をやってもなぁ……。やるにしてももっと上の学年の内容じゃないと意味がない。

 そんな感じで上手い具合に疲労と集中力のなさが融合してあくびが出てしまったというわけである。やってしまった後に怒られるかなとか思ったけど、俺以外にも集中力のない子がいるのでお咎めはなかった。

 担任の女教師は生徒に授業を聞いてもらおうと明るく指示棒を振っている。その指示棒の先には自作らしい犬の絵が貼りつけられていた。それが効いているのか、それなりの人数の子はしっかりと授業を聞いているようだった。

 さすがに机に突っ伏すわけにもいかないので先生の動きに集中することにする。授業は全教科担任の先生が教えてくれる。教師経験なんてもちろんないけれど、大変だろうなと今なら思えた。

 勉強だって今のうちに先のところまでやっておきたい。元々勉強が得意だったわけじゃないし、どこかで躓いているはずだ。それを回避するためにもアドバンテージは生かしたいものである。

 しかしどうしたものか。塾に行ったところで同学年の内容しかやらないだろうし、今行っても仕方がないだろう。小学校の図書室を見に行ってみたがさほど大きくもないし、難しそうな本なんてなかった。とりあえずマンガでわかる歴史の本ってのを借りてみたけども。

 今度どこか図書館にでもつれていってもらおうかな。規模が違えば勉強になりそうなものが何か見つかるだろう。

 そう考えてまたあくびをしてしまった。うん、まずはきっちり朝のトレーニングをしても眠たくならないくらい体作りをしないとな。話はそれからだ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「牛乳一気飲み競争しようぜ!」

 

 給食時間、クラスの男子が集まって「イエーイ!」とか言いつつ盛り上がっている。俺にもそういう時代があったんだよなぁ……、と懐かしみながら眺める。

 

「俊成はやらなくていいの? ほら、一気飲み競争」

「一気飲みは体に悪いのでパスです」

 

 俺の返答に瞳子ちゃんは「やっぱり俊成はそんな子供みたいなことしないわよね」と言いながらご満悦の表情である。なぜそんなことで嬉しそうにするのか。

 早食いとか一気飲みとか、今回の俺はそんなことしない。よく噛んでたくさん食べる。体に栄養を効率よく入れるためには必要だ。しっかり噛んだ方が脳の活性化にもなるってどっかで言ってたしね。

 それを意識して続けていたおかげか、俺の今の身長は同年代のちょうど平均くらいである。小学一年生の頃の身長を憶えてはいないけれど、学生時代はずっと平均に届かなかったのを憶えている。些細なことかもしれないが前世と比較して確実に変わった部分だ。

 俺の右隣りでは瞳子ちゃんが音を立てずに汁物をすすっている。左隣では葵ちゃんが牛乳をくぴくぴ飲んでいた。

 給食の時間は近い席同士の子で机をくっつけていっしょに食べることとなっている。けれど本来二人とも俺とは離れた席である。少なくとも隣同士ではない。

 ならなぜ俺の隣にいるのか? それは簡単。二人は本来俺の隣の席の子と交渉したのである。葵ちゃんはニッコリ笑ってお願いをし、瞳子ちゃんは睨みつけて了承を引き出していた。力ずくかよ。

 まあ男子連中も集まって牛乳の一気飲み競争なんかしているのだ。先生からは黙認されている。先生の目が恐かったのは気づかなかったことにした。

 

「うぇ……、俊成くーん。これ食べてー」

「ん?」

 

 葵ちゃんが俺におかずの皿を差し出してきた。そこにあったのはししゃもだった。どうやら口に合わないらしい。

 小さい頃は魚があまり好きではなかったけど、ししゃもだけは平気で食べられていた。骨を取る必要がなかったしね。

 

「いいよ」

 

 軽く頷いて俺は葵ちゃんからししゃもののった皿を受け取る。まあたくさん食べるためにおかわりはしようと思っていたし、これくらいならお安い御用だ。

 

「待ちなさい」

 

 しかし瞳子ちゃんから声が飛んできた。

 

「好き嫌いなんてよくないわよ。ちゃんと自分で食べなさい」

「で、でも……苦いし……」

「でも、じゃないっ。俊成に甘えないでよ」

 

 瞳子ちゃんの厳しい言葉に葵ちゃんの目にみるみる涙が溜まっていった。嫌いな食べ物があることを悪いと思っているのか、葵ちゃんは何も言い返さない。

 あ、これ泣いちゃうやつだ。俺は咄嗟に二人の間に入った。いや、元々二人に挟まれてるんだけどね。

 

「ま、まあまあまあっ。誰にだって好き嫌いの一つや二つあるもんだよ」

「その子、嫌いな食べ物が一つや二つなんてことないでしょ。この間も俊成に食べてもらってたじゃない」

「俺は気にしないし」

「そういうことじゃないっ」

 

 瞳子ちゃんの機嫌がみるみる悪くなっていく。解決法がわからないよ……。

 葵ちゃんはうつむいてしまった。なんだか空気が悪い。周りの子なんか目を逸らしちゃってるし。小一にして空気を読む子が多いな。

 

「……じゃあ頭と尻尾だけ俺が食べるよ。ほら、ししゃもさんのお腹は美味しいからさ」

「……うん」

 

 渋々と葵ちゃんが頷く。それを見て瞳子ちゃんはふんっ、と鼻を鳴らした。

 この二人は本当に仲が悪い。いや、俺のせいかもだけど。だからこそ二人の仲を良くするために俺ができることなんてないように思えた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 給食が終わって昼休み、それから掃除時間となる。一年生は午前中で授業が終わるのだから早く帰らせてくれればいいのにと考えてしまう。まあ掃除も子供からすれば授業の一環なのだろう。

 今日も今日とて小川さんの追及をかわしていく。掃除時間限定で俺に話を聞かせろとせがんでくるのは相変わらずだ。葵ちゃんに絞られたのに次の日にはけろっとしてるんだもんな。子供だからってよりは小川さんの性分なのだろう。

 そんな時だった。教室を掃除していると佐藤が駆けこんできた。彼は俺と小川さんとは別グループなので掃除場所も違うはずなのだが。

 佐藤は肩で息をしていた。慌てた様子に眉を寄せる。

 

「高木くん! 宮坂さんがいじめられとる!」

「なんですって!」

 

 俺よりも早く反応したのは小川さんだった。彼女は葵ちゃんと保育園の時からの友達だった。友達のピンチにカッとなってしまっている。

 

「小川さん落ち着いて。佐藤、葵ちゃんがいる場所を教えてくれ。小川さんは先生にこのことを伝えてつれて来てくれないか」

「私もあおっちのところに行くわ!」

 

 小川さんは頭に血が上っている。今の彼女をつれて行くのはややこしい事態になりそうだった。

 まずは彼女をなだめなければ。俺は小川さんに向きあった。

 

「葵ちゃんを助けるためには先生に来てもらわないとどうしようもないんだ。葵ちゃんのために早く先生にこのことを伝えて。お願いだよ小川さん」

 

 小川さんは唇を引き結んだ。葛藤がある様子ではあったが頷いてくれた。

 俺は佐藤に案内されて一年生の下駄箱に向かった。葵ちゃんの掃除場所である。

 

「なんだよこんなんが恐いのか? 全然恐くねえだろ。ほらほら」

 

 現場に辿り着くと、男の子が何かを葵ちゃんに突きつけていた。葵ちゃんは怯えてしまい小さくなっていた。

 なんだろうか? よく目を凝らすと、どうやら男の子が手にしているのはカマキリだった。掃除をせずに虫捕りでもしていたのか。

 おそらく葵ちゃんがカマキリを見て恐がってしまったのだろう。それに調子に乗ってしまった男の子が葵ちゃんにカマキリを近づけて恐がる姿を面白がっているってとこか。小さい子にありがちだな。

 

「ひっ!?」

 

 葵ちゃんが引きつった声を漏らす。男の子が葵ちゃんの髪にカマキリをつけたのだ。綺麗な黒髪になんてことをっ!

 頭に虫の感触。堪らず葵ちゃんはしゃがみ込んでしまう。その体勢はパンツ見えちゃう……じゃないよ俺!

 これはもう止めないとダメだ。俺は駆け出した。

 

「あんた何してんのよ!」

 

 俺よりも早く、どこから現れたのか瞳子ちゃんが男の子を張り倒していた。いい音がした。

 成す術なく倒れる男の子。それに一瞥もくれずに瞳子ちゃんは葵ちゃんの髪についているカマキリを取ってくれていた。虫を恐がるどころか嬉々としてかまってやろうとする瞳子ちゃんからすれば造作もないことだったろう。

 

「大丈夫?」

 

 葵ちゃんは瞳子ちゃんの声に顔を上げる。大きな目から涙をぽろぽろと零しながら何度も首を縦に振っていた。

 瞳子ちゃんは男の子に向き直る。猫目のブルーアイズが吊り上がっていた。

 

「女の子を恐がらせるなんて最低! 人が嫌がることはしちゃいけないのよ!」

 

 瞳子ちゃんは倒れて呆けている男の子に説教をかます。正論を叩きつけられた男の子は何をされたのか辿るように張られた頬に手をやった。

 ここで反省してくれればいいのだが、男の子にもプライドがあるらしい。顔を真っ赤にして立ち上がった。

 怒ってます、という子供らしくかわいらしい怒り方だったものの、男の子は手を出す気満々である。

 

「何すんだよ!」

 

 そして案の定瞳子ちゃんに飛びかかった。

 

「そこまでだ」

「ぐえっ!?」

 

 俺は飛びかかろうとしていた男の子の後ろ襟を掴んだ。瞳子ちゃんに先を越されてちょっとどうしようかと思っていたけど、近づいておいてよかったな。

 

「俊成!?」

 

 瞳子ちゃんは俺の登場に驚いていた。葵ちゃんも涙で濡れた瞳でこっちを見る。

 これくらいの歳ならケンカに男も女も関係ないのかもしれない。だからといって、彼女達に手を出そうとするのなら見過ごすわけにはいかない。

 

「女の子を殴るのはダメだよ。それにこれは葵ちゃんをいじめていた君が悪いんだろ?」

 

 男の子は咳き込んでいる。喉を絞めちゃったからな。まあ葵ちゃんを恐がらせた分だと思ってもらおう。

 

「なんだよお前! フーフなんだろ! フーフだからってイチャイチャしやがって!」

 

 言ってることが意味不明だった。というかイチャイチャなんて言うんじゃありません。まったくどこでそんな言葉を覚えてくるんだか。

 でもなんかピーンときたぞ。たぶんこの男の子は葵ちゃんが好きなのかもしれない。ほら、好きな女の子をいじめたくなるやつ。子供の頃は何かとちょっかいをかけたくなるものなのだろう。俺にはもう失われた気持ちだ。

 そして男の子は感情が高ぶり過ぎたのか、泣いてしまったのだった。そこに到着した先生。事情を説明するのは大変そうだ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 あの後、俺と瞳子ちゃんと葵ちゃんをいじめた男の子は先生にお説教された。俺と瞳子ちゃんは手を出したからという理由だ。ケンカ両成敗が担任の先生のやり方らしい。

 先生に促されて男の子は葵ちゃんに謝っていた。葵ちゃんに許してもらった男の子は顔を赤くしていた。その感情に関しては言及しないでおいてやろう。葵ちゃんはやらんがな!

 そして、いつもよりも遅くなった下校。帰路に就く俺の前方には、葵ちゃんと瞳子ちゃんが手を繋いで歩いていた。

 

「ねえねえ瞳子ちゃん。家に帰ったら葵といっしょに遊ばない?」

「今日はあたし習い事があるのよ」

「えー。じゃあじゃあいつならいい?」

「……明日は、別に何もないわ」

「じゃあ明日ねっ」

「まったく……葵はしょうがないんだから」

 

 なんか……二人はものすごく仲良くなっていた。

 自分を助けてくれたということで葵ちゃんが瞳子ちゃんに懐いたのだ。純粋に向けられた葵ちゃんの好き好き光線に瞳子ちゃんは陥落。元々面倒見のいい瞳子ちゃんに庇護欲を全身からかもし出している葵ちゃんという組み合わせは相性がよかったのだろう。

 数時間も経たないうちにこの通りである。気がつけばまるで姉と妹のような関係となっていた。

 まさかあれだけ仲が悪かった二人が、こんなに簡単に関係性が逆転してしまうだなんて思いもしなかった。これには俺を含めて驚いた人は多かった。

 でもまあ、仲良きことは美しきかなだ。やっぱり葵ちゃんも瞳子ちゃんもケンカしている時よりも、こうやって笑い合っている方が似合っている。

 後ろから二人のかわいい幼馴染の姿を眺めながら思う。

 ……あれ? もしかして俺、瞳子ちゃんに葵ちゃんをとられたんじゃね? と。

 

 



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19.習い事を意識するお年頃

 葵ちゃんと瞳子ちゃんから険悪な雰囲気がなくなったためか、一年一組の教室は平穏を保っていた。

 

「あれ? ここってどうすればいいんだっけ?」

「ん? これはこうじゃなくて反対に折るのよ」

「ありがとう瞳子ちゃん」

 

 にぱーと笑いながら葵ちゃんは瞳子ちゃんにお礼を言った。瞳子ちゃんも「別に大したことないわよ」と言いつつも満更でもなさそうな顔をしている。

 一度仲良くなってしまえば二人はいつもいっしょにいるようになった。今なんて葵ちゃんと瞳子ちゃんは並んで座っている。俺はその対面に座っていた。前みたいに俺を挟んでケンカされるのは堪えたが、これはこれで別の意味で堪えるな。

 

「俊成、何ぼーっとしてるの。ちゃんと手を動かさないと先生に怒られちゃうんだからね」

 

 なんて考えながら正面の二人を眺めていたら、瞳子ちゃんからお叱りのお言葉が飛んできた。相変わらずしっかり者ですね。

 小学一年生の科目数は少ない。勉強らしい勉強なんて「こくご」とか「さんすう」程度である。しかも一学期の内容だと文字の読み書きや数字の数え方なんてところから始めている。たとえ勉強が不得意な奴だったとしても、社会人なら誰だって余裕だろう。

 今は「せいかつ」の授業中である。最初時間割表を見た時にこれ何する授業だっけ? と記憶を探ったがあまり覚えてはいなかった。生活というのだから人の暮らしに関わることだろうか、なんて漠然と考えたものである。

 この「せいかつ」という授業はかなり自由度があるようで、聞けばクラスごとでいろいろと違ったことをしているらしかった。担任の先生の特色が出ているのかもしれない。

 この前は花壇の花を見に行った。その前は飼育小屋にいるにわとりを見に行った。さらにその前は学校の図書室を案内された。

 学校という場所を案内するだけの授業かと思いきや、本日はみんなで折り紙をしている。やっぱりよくわからない授業だった。

 とくにお題があるわけでもないのでそれぞれ自由に折り紙を楽しんでいた。俺は図書室で折り紙の本を借りてそれを見ながら折り鶴に挑戦していた。

 綺麗に紙を折る、という動作は脳の活性化に繋がるらしい。というのは前世でのテレビの知識だったりする。集中力や想像力、器用さといった様々な能力を向上させるのだとか。俺にも子供ができたら男の子女の子関係なく折り紙で遊ばせてやろうと思ったものである。まさか自分の子供じゃなくて自分自身がやるとは思っていなかったが。

 できるだけ難しそうなものに挑戦しようと折り鶴を折っている。これが思ったよりも難しくて苦戦している。本当にきっちりと折らないと上手くいかないのだ。

 

「俊成くんは何を作ってるの?」

「鶴」

 

 集中していたせいで葵ちゃんへの返答がぶっきら棒になってしまった。葵ちゃんは気にした風でもなく「へー」と感心したようなそうでもないような返事をした。たぶん鶴がわかっていないのだろう。

 折り鶴なんて久しぶりだからなぁ。それこそ前世の小学生の時以来ではなかろうか。確かクラスメートの誰かが入院したので、お見舞いに千羽鶴を折ろうなんて言い出した奴がいたのだったか。あの時は言い出しっぺを恨んだものである。しかも結局クラス全員で千羽折るよりも退院する方が早かったし。苦しい思い出は心に残るものなんだよな。

 あの時あれだけ折ったというのに、手順を忘れてしまって折り方の本を読まないとちょっと完成する自信がない。ほんと嫌々やっていることって身につかないものだよな。

 

「やった、完成した」

 

 最後に空気を入れて折り鶴が完成した。思ったよりも時間をかけてしまったな。この小さな手だと折り紙一つでも大変らしい。

 

「わー、すごいすごい!」

 

 葵ちゃんが俺の折り鶴を見てはしゃいでいた。小さい子は折り鶴好きだよね。

 

「まあっ、すごいじゃない高木くん」

 

 先生も俺の渾身の折り鶴を褒めてくれた。不器用なりにもやりきったものを褒められるのは嬉しい。

 まあ周りの子達は紙ひこうきとかかぶととかそんなのばかりだからな。俺の折り鶴はレベルが高いのではないかな。フフン。

 小一相手に得意げになる元おっさんがいた。ていうか俺だった。ちょっと反省。

 

「あたしもできたわ」

 

 正面からそんな声が聞こえた。瞳子ちゃんだ。

 どれどれと目を向けてみれば、彼女が折ったのは色彩鮮やかなお花だった。

 

「こ、これは……」

 

 何枚かの折り紙を重ねて作ったのだろう。じゃないとこんなにもカラフルになったりなんかしない。

 

「わあっ、きれー」

 

 葵ちゃんの表情がぱあっと輝く。素直な感情が漏れ出ていた。

 俺が本と睨めっこして完成させた折り鶴とは違う。瞳子ちゃんは子供らしい柔軟な発想でこのお花を作り上げたのだ。

 

「ま、負けた……」

 

 敗北宣言せずにはいられない。俺は折り紙に対して自由を捨ててしまった時点で柔軟な発想力を消してしまっていたのだ。俺の脳みその出来が知れてしまった気分になる。

 などと瞳子ちゃんとの差に落ち込んでいると、ぽんっと頭に手が置かれた。

 

「へぇー、すごいの作ってるのね」

 

 頭の上から小川さんの声がした。というかこの頭に乗っかっている手はあなたのですか小川さん? 勝手に人の頭を触らないでほしい。

 

「ねえねえ高木くん。私のしゅりけんとそれ、交換しましょうよ」

 

 そう言いながら小川さんは折り紙で作った手裏剣を見せつけてくる。これも懐かしいな。

 

「だが断る」

「はあ? なんでよ?」

「俺が作った折り鶴はそんなに安くない」

 

 いくら瞳子ちゃんに敗北宣言したとはいえ、けっこう力作なのだ。簡単にはあげられない。

 俺がきっぱり断ると、小川さんは俺の首に腕を回してきた。

 

「なまいきな人にはこうしてやる!」

「うぇっ!? ちょっ、やめっ」

 

 小川さんに首を絞められた。チョークスリーパーである。どこでそんな技を覚えてきやがった!? 小一の中では体格の良い彼女相手だと簡単には抜けられなかった。

 

「ギブギブ!」

「まいったって言わないと離してあげないよっ」

 

 だからギブって言ってんだろ! いや、わかんないのか。ていうか降参させたいんだったらもうちょっと緩めてくれよ!

 タップするが聞き入れてはもらえなかった。タップする意味がわかっていないらしい。

 くそー! これは「まいった」と口にするまで離してもらえなさそうだ。言うしかないのか。すごく嫌だけどな。

 

「まいっ―――」

 

 た、と続けるよりも早く首の拘束が解かれた。

 小川さんの腕から抜け出して振り向いてみる。小川さんは冷や汗を流しながら固まっていた。彼女の両肩に手が乗せられているのが見えた。

 

「いやー……そのー……」

 

 小川さんがしどろもどろになっている。その時点で俺は察した。

 

「真奈美ちゃん? 俊成くんを困らせたらダメだよ?」

「小川さんだっけ? ちょっとこっちに来なさいよ」

 

 ニコニコと笑う葵ちゃんと目が恐くなっている瞳子ちゃんだった。二人から両肩を掴まれて小川さんは身動きが取れなくなっている。

 

「あ、あおっち、これは違うの……。っていうか木之下さんまでなの!?」

 

 小川さんは葵ちゃんと瞳子ちゃんに引きずられてどこかへと行ってしまった。先生は「みんなは折り紙に集中するのよー」と声かけしていた。見なかったことにしたらしい。それでいいのか教師っ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「へぇ、幼稚園の時に折り紙習ってたんだ」

「幼稚園の時だけだけどね」

 

 下校中、瞳子ちゃんの習い事に関する話題となった。彼女はいろいろと習い事をやっているようで、他にも水泳やピアノ、お絵描きなんかもやっているのだとか。こんなに小さいのにとびっくりしてしまった。

 

「瞳子ちゃんすごいね!」

 

 葵ちゃんが感心している。俺も同じ気持ちだ。

 習い事なんてもっと上の学年になってからだと思っていた。前世では小学四年生くらいから書道や少年野球を始めた俺である。だから習い事なんて高学年になってからやるものだと思い込んでいた。

 でもそうか。スポーツ選手なんかでも小さい頃から練習していたなんてよくある話だもんな。何事も始めるのに遅いなんてことはないと言うけれど、やるなら早い方がいいに決まっている。

 ここは瞳子ちゃんを見習って俺も何か始めてみようか。もちろん母親と相談はしないといけないが、前世でも習い事自体はやっていたしやりたいという意志を見せれば通わせてくれるだろう。

 問題は何をやるかだな……。書道は役に立った実感がなかったし、少年野球ではそこそこの実力でしかなかった。そう考えると同じものをしようとは思わない。

 将来役に立つこと。それを基準に考えてやりたい習い事を決めた方がいいだろうな。

 

「葵も瞳子ちゃんといっしょにピアノやってみたい!」

 

 俺が考え事をしている間にも話は進んでいたらしい。ていうか葵ちゃん、今何て言った?

 葵ちゃんは瞳子ちゃんと手を繋いだままぶんぶんと腕を振っている。テンションが上がっているらしい。

 

「もうっ、わかったから落ち着きなさい。帰ったら葵のママとお話してみれば?」

「うん! そうする!」

 

 葵ちゃんは瞳子ちゃんの習い事の話を聞いてピアノ教室に通いたくなったようだ。意外と決断力があるな。俺なんかどうしようか迷っているっていうのに。

 

「俊成くんもいっしょにピアノしようよ!」

 

 目を輝かせた葵ちゃんが俺にピアノを誘ってくる。俺がピアノかぁ……、想像できん。

 ピアノじゃないにしても今から何か始めてみようか。将来に繋がる習い事。親が子供に何を習わせるのか悩む心が今ならわかる。自分の子供じゃなくて俺自身のことではあるけどな。

 

 



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20.小学生はじめての夏休み

誤字報告いつも感謝してます。……わざとじゃないんですよ? もっとしっかりしたいな。


 夏休みがやってきた。小学生になって初めての夏休みである。

 夏休みといえば宿題を溜め込んでしまったせいで地獄を見たっけか……。今回の人生では気をつけよう。

 まだ小学一年生の宿題だ。そう大したものなんてない。面倒そうなのは毎日つけないといけない絵日記と、お題がなくて悩んでしまう自由研究くらいなものか。そういえばアサガオを持って帰ったんだった。これもまた夏休み明けに持って行かなければならないので枯らさないように気をつけねば。

 夏休みの日数は驚くほど長い。社会人になってしまうとまずこんなにも休めるなんてことはない。これだけの自由時間を取ろうと思ったら、もう仕事を辞めるくらいしか方法がないからな。

 だからこそ満喫してやろうではないか。学生時代の夏休みは様々な経験をするチャンスである。早めに宿題を終わらせても余りある時間が残っているのだ。普段やれないようなことだってやれるチャンスだった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 夏休みに入るとラジオ体操なんてものがある。朝、登校の集合場所にしている公園で近所の子供と大人が、ラジオから流れる音楽とかけ声に合わせて体操するのである。長いこと続けられる国民健康体操だ。

 これをするかしないかで子供の運動能力に差が出るらしい。健康にもいいし、このまま取り入れてみようかな。

 野沢先輩との朝のトレーニングを終えたタイミングで近所の子達が集まってきた。葵ちゃんもお母さんにつれられてやってきた。あいさつもそこそこに雑談を始める。

 

「葵ちゃん、ピアノは楽しい?」

「うん! 楽しいよ! 瞳子ちゃんも教えてくれるからすっごくわかりやすいの」

 

 葵ちゃんはこの前の宣言通りにピアノを始めていた。瞳子ちゃんと同じ教室らしく、二人の交流がさらに深まったようだ。

 俺? 俺はちょっと……。この前瞳子ちゃんの家に葵ちゃんと二人して遊びに行ったのだが、その時にピアノに触らせてもらったのだ。うん、まあ……難しかったよ。イマイチリズムが掴めないというかなんというか。パソコンのキーボードに慣れるまでに苦労したものだが、これはこれで別の感覚が必要に思えた。

 両手でピアノを弾く瞳子ちゃんは実にリズミカルに演奏していた。あの領域に辿り着くのは至難の業に思えてしまったのだ。ちなみに葵ちゃんはあっさりと「ねこふんじゃった」を弾けるようになっていた。俺? 聞くな。

 

「へぇー、葵ちゃんピアノ習ってるんだ。すごいね」

 

 野沢先輩が感心して葵ちゃんの頭を撫でる。ナチュラルに頭を撫でられるなんてあなたこそすごいです先輩!

 年上のお姉さんに褒められて「えへへ」と笑う葵ちゃんだった。かわいいな。

 俺も習い事を始めたら野沢先輩に褒めてもらえるのだろうか。母と話をしてこの夏休みにいろいろと体験させてもらえることになった。自分に合うものを探して何かしらのスキルを磨くのだ。

 人が集まり時間がきたのでラジオ体操が始まった。前世で聞き慣れていたため、動きに淀みなく体操できた。葵ちゃんはまだ覚えられていないようで変な踊りみたいになっていた。その動きがちょっとかわいくて、何も口出ししなかった。そんな俺を許してください、と心の中だけで懺悔した。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 手始めにスイミングスクールの体験レッスンを受けてみることにした。

 なぜ水泳を選んだかといえば、水泳はどんなスポーツにでも応用が利くかと思ったからだ。全身をバランスよく鍛えられ、負荷が少ない水泳は子供の体にとってデメリットを探す方が難しいだろう。

 それに泳げるに越したことはない。夏になると川や海での水難事故はけっこうニュースで耳にしていた。事故予防にもなるだろう。

 あとは単純に瞳子ちゃんが通っているところだったからだ。やっぱり習い事をするにしても知っている人がいるとやりやすいしね。

 

「でもあたしと俊成はクラスが違うから。いっしょには泳げないわよ」

「わ、わかってるよっ」

 

 そこまでさみしんぼじゃないわいっ。だからそんな心配そうな目をするのはやめてくれないか。母の目と被るってば。

 

「あれー? 俊成くんじゃない」

「野沢先輩じゃないですか。どうしてここに?」

 

 なんと、このスイミングスクールには野沢先輩も通っていたらしい。いつもジャージか制服しか見ていないから競泳水着がとっても新鮮だ。

 

「春姉をじっと見つめてどうしたのよ?」

 

 春姉!? 瞳子ちゃんの野沢先輩に対する意外な呼び方に面喰ってしまった。その親しげな呼び方を聞いて察せられるだろうが、瞳子ちゃんと野沢先輩は仲良しさんだったのである。

 話を聞けば野沢先輩は小学一年生の頃からこのスイミングスクールに通っているのだとか。後から入会した瞳子ちゃんがメキメキと成長して、それを見て刺激された野沢先輩が瞳子ちゃんに話しかけてから交流が始まったそうだ。それから仲良くなるのにさほど時間はかからなかったらしい。

 

「あの時はびっくりしたなー。瞳子ちゃんが好きな男の子が俊成くんだなんてね。世間は狭いねー」

「は、春姉っ。あんまり大きな声で言わないでよ……」

 

 ほんわかと言葉を放つ野沢先輩に、瞳子ちゃんは顔を赤くしてしまう。いつも周りの目なんて気にしない風なのに、実際に口にされると恥ずかしいらしい。

 野沢先輩が言うあの時というのは、登校中に瞳子ちゃんが葵ちゃんとケンカを始めてしまった時のことだろう。あの時からすでに二人は顔見知りだったのか。

 それにしてもからかわれる瞳子ちゃんなんて珍しいな。クラスでは向かうところ敵なしで、一つ二つ上の子が相手でも物怖じしないのに。さすがは五年生、低学年の子の相手なんてお手の物か。

 

「それにしても野沢先輩が水泳もやってるなんてびっくりしました。てっきり陸上だけかと思ってましたから」

「あはっ、水泳はねお母さんとの約束なんだ。小学校を卒業するまでは続けるっていう約束をしてるの」

「先輩のお母さんは水泳にこだわりでもあるんですか?」

 

 野沢先輩は「そうじゃなくてね」と手を横に振る。

 

「最初は水に恐がらないようにっていう理由でね。それだけだったんだけど、お母さんが一度やり始めたことは途中で放り出さないって言うから小学生までって約束したの。中学生になったら陸上に専念したいからね」

「春姉はすごいのよ。大会に出て一番になったことがあるんだから!」

 

 瞳子ちゃんが目を輝かせながら言った。その目からは尊敬の色が見て取れた。

 ていうか大会で一番ってすごいな。そんなにすごい結果を出しているのにきっぱりやめられるものなのだろうか? 俺なら勿体ないって思っちゃうけどな。

 そんな考えが読みとれたのだろう。野沢先輩は柔らかい笑みを浮かべながら教えてくれた。

 

「やっぱり私が一番好きなのは走ることだから。胸を張ってやりたいことをするの。水泳だってそのためにしてるって思うからここまで続けられたの」

 

 ……やっぱり野沢先輩はすごいな。俺にはそれだけの情熱を捧げられるものなんて見当たらない。何をおいても一番好きだって、口にすることすら難しいことなのに。

 時間がきたので瞳子ちゃんと野沢先輩は練習に行ってしまった。俺も体験レッスンを担当する先生につれられ、準備体操を終えてからプールへと入る。

 

「はい、じゃあ水に顔をつけてみて」

 

 指示どおりに顔を水につけた。これくらいなら学校のプールの授業でもやった。ここでつまずく子はそうはいないだろう。……葵ちゃん以外は。

 プールの授業では葵ちゃんが水を恐がってしまったのだ。いっしょにお風呂に入った時なんかは顔をつけるのは大丈夫そうだったんだけど、プールとなると勝手が違うらしい。

 なんとか水に顔をつけられるようになったかと思えば、今度はそのまま沈んでしまったのだった。低学年用のプールでちゃんと足はつくはずなのにな。なんか不思議なものを見てしまった気分になったのだ。

 そんなわけで、すっかりプールに苦手意識を持った葵ちゃんは水泳に対してまったく興味を示さなかった。一応今日の体験レッスンのことは伝えてはみたが「葵も行きたい!」とはならなかった。ピアノはすぐに喰いついたのにね。

 体験、というのもあって優しめにレッスンは進んでいく。俺と同じく参加している子供がいたけれど、さすがに葵ちゃんみたいにつまずいてしまう子はいなかった。

 一通りバタ足のやり方などを教えてもらってから、一人ずつビート板を使って泳ぐこととなった。

 ビート板があるのだから、バタ足をするだけの簡単なものだ。先生だってついてくれている。恐がる子なんていなかった。

 一人ずつ順調に泳いでいく。すぐに俺の番がきた。

 

「はい、次は高木くんね」

「はい。行きます」

 

 初心者コースで飛び込みなんかしない。俺はプールの端を蹴ってスタートした。

 バタ足をがんばればがんばるほどバシャバシャと音が大きくなる。本格的に水泳をしなかったとはいえ、前世の体育の授業で二十五メートルは普通に泳げたのだ。これくらいは楽勝だ。

 スタートから反対側の端に辿り着く。息が上がっていた。小さい体なんだから前世ほど上手く泳げはしないか。いや、別に泳ぎが得意だったわけじゃないけども。

 体験レッスンは無事終えることができた。案外泳ぐのも悪くないな。前世ではそうは思わなかったのに、どういう心境の変化だろうか?

 体験レッスンは時間が短めだったので、瞳子ちゃんと野沢先輩に別れのあいさつをすることができなかった。まあ二人とも夏休み中でもたくさん会う機会があるからいいんだけどね。

 

「俊成ちゃん、今日は楽しかった?」

「うん」

 

 帰り際、母にそう尋ねられたので素直に頷いた。思った以上に水泳は楽しかった。

 この他にも体験会をしているところはある。まだまだ自分に合っているかなんてわからないけど、ちょっとだけやってみたいな、と思う心が芽生えたのは確かだった。

 

 



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21.俺は甘くて甘かった

 夏休みになると葵ちゃんが俺の家に入り浸ることが多くなった。

 互いに習い事なんかで用事がある時以外はほとんど毎日来ている。彼女のお母さんがパートに出ることもあって、うちはちょっとした保育所みたいになっていた。

 今日も葵ちゃんはうちにきた。手提げ鞄の中には夏休みの宿題のドリルが入っていた。

 もちろん俺はほとんど宿題を終えている。あとは毎日絵日記をつけるだけの状態だ。

 俺の部屋で葵ちゃんの宿題を見てあげることとなった。テーブルの上に算数のドリルと教科書が広げられた。

 

「えーと……、ひいて繰り下がるから……」

 

 葵ちゃんは指を折りながら計算している。その仕草はいかにも子供らしくてかわいかった。

 足し算引き算程度なので簡単な問題ばかりだ。だけど葵ちゃんのためにも俺が口出しするわけにもいかない。本当に答えが出なさそうな時だけ教えてあげることにしている。

 葵ちゃんは時間をかけながらも問題を解いていく。問題は簡単だけど数が多いので休憩しながらだ。

 

「俊成ちゃん葵ちゃん、スイカ切ったんだけど食べる?」

「うん、食べるよ」

「葵も食べるー」

 

 母がスイカを持ってきてくれた。前世ではめっきり食べなくなっていたな。子供の頃は夏の定番だったというのに、独り身だとわざわざ食べようとも思わなかった。

 

「葵ちゃん、塩かけてあげようか?」

「え? しょっぱくなっちゃうよ?」

「そんなことないんだよ。スイカに塩をかけると甘味が増すんだ」

「へぇー」

 

 宮坂家では塩かけないのかな? ちなみに餡子にかけても甘味が増すのだ。

 スイカを食べると硬い感触。種だ。種を皿に向かってぷぷぷと飛ばす。

 小さい頃は庭に向かってどこまで飛ばせるかやったものである。その度に母に怒られていたっけか。これもまた夏の風物詩かな。

 俺のマネをしてか、葵ちゃんも皿に向かってぺっぺっと吐いている。そんなやり方では距離は出せないぞ。いや、そういうつもりでもないか。

 葵ちゃんの集中力の問題もあるので夏休みの宿題は小分けにやっている。このペースなら早めに終わりそうだ。

 

「グッモーニングエブリワン!」

 

 葵ちゃんが何度もリピートアフターミーしている。この間行った英語教室の内容を話していたら、そのフレーズが気に入ったようだった。

 ABCの歌を教えるとノリノリで歌い始めた。やっぱり歌って憶えやすいようにできているんだな。

 こんな葵ちゃんを見ていたら英語を学びたくなってくる。前世では英語なんて苦手意識が強過ぎたせいでとくに成績の悪い科目だった。社会人になると英語しかできない人と接することなんてないし別にいいかと思っていたけれど、将来もっと良い仕事に就こうと思ったら英語は必要なスキルだろう。

 

「葵ちゃん葵ちゃん、いっしょに英語教室に通わない?」

 

 別に一人が嫌ってわけじゃないけれど、一応葵ちゃんを誘ってみた。楽しそうにしているし、英語は彼女に合うと思うのだ。

 けれど、葵ちゃんは俺の言葉にしょんぼりしてしまった。

 

「習い事は一つだけってお母さんと約束したの。葵はもうピアノをやってるからダメだと思う……」

 

 うーむ。家庭の事情ならば仕方がないか。葵ちゃんのお母さんもパートを続けているみたいだし、まだお財布事情はよろしくないのだろうか? あのダンディーなお父さんを見ると仕事で失敗するタイプには見えないんだけどな。

 それとも、あんまり一気にやらせるのは子供にとって難しいこととでも思っているのだろうか。この辺りは教育方針に関わることだし、俺から口出しできるものでもないだろう。

 

「だったら俺が葵ちゃんに英語を教えるよ」

「え?」

「俺の勉強にもなるし、葵ちゃんだってもっと英語をしゃべれるようになれば楽しいと思うしさ」

 

 俺の提案に葵ちゃんは表情を輝かせた。

 

「うん! 俊成くんに教えてもらいたい!」

 

 こりゃあがんばらないといけないな。葵ちゃんが本当に英語に興味を持っているとわかれば、おばさんだって考えが変わるかもしれない。学年が上がれば英語の必要性にも気づくだろう。

 そんなわけで俺の習い事がまた一つ増えた。ちなみに水泳はすでに始めている。瞳子ちゃんと野沢先輩が喜んでくれたのでこっちもしっかりがんばらないとな。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「ん……ふぁ……」

 

 朝から遊んでいると子供の体ではどこかで眠くなってしまう。なので葵ちゃんとはよくお昼寝をいっしょにしていたりする。

 これも体の成長のために必要だからと眠気に任せて睡眠を取ることにしている。まあ葵ちゃんなんかいつの間にか俺のベッドで寝ていたりするので、俺だけ起きていても仕方がないだろう。

 クーラーの風が心地良い。前世よりも幾分か暑さがマシとはいえ、昼間に気持ち良く寝ようと思ったらクーラーがあった方がいい。

 遊んでる時なんかは窓を開けて扇風機があれば充分なんだけどな。寝る時くらいならいいだろう。ほら、葵ちゃんもいるしね。

 

「んー……」

 

 くぅくぅと寝息が聞こえる。葵ちゃんはまだ夢の中のようだ。俺もまだ眠いので目を閉じた。

 俺と葵ちゃんは並んでベッドで寝ていた。男女でいっしょのベッドだなんて、とか一瞬思ったけれど、俺達はまだ子供なのだ。いっしょにお昼寝するくらい許されるだろう。母も何も言わないし。

 

「お……?」

 

 もぞもぞと動いたかと思えば葵ちゃんに抱きつかれた。寝息が耳元で聞こえる。どうやら抱き枕代わりにされてしまったらしい。

 まあ抱きつかれるのはけっこう気持ち良いのでそのままでいることにする。ほら、葵ちゃんを起こすのも悪いしさ。うん。

 

「ふわぁ~……」

 

 睡魔に負けて再度夢の世界へ。葵ちゃんの感触を確かめながら、良い夢を見るのだった。

 そして、次に目を覚ました時には葵ちゃんと視線がバッチリ合った。

 

「……おはよう?」

「う、うんっ。おはよう……」

 

 むくりと上体を起こす。体を伸ばすとすっきりしてきた。

 葵ちゃんは俺よりも早く起きていたようで、ベッドの上にちょこんと座っていた。暇過ぎて俺を眺めていたのだろうか。起こしてくれても構わなかったのに。

 彼女を見ているとなぜか目を逸らされた。はて? 葵ちゃんらしくない反応だな。

 時間を確認する。葵ちゃんが帰る時間までまだ少し余裕がある。

 さて、何をして遊ぼうか。おままごとだろうがなんだろうが付き合う心づもりはできている。

 俺が葵ちゃんに尋ねるよりも早く、彼女が口を開いた。

 

「……トシくん」

 

 と言った。俺は「ん?」と首をかしげた。

 なんか微妙に違う呼ばれ方をした気がする。まだ眠気が残っているのだろうか?

 俺が首をかしげたからか、葵ちゃんがわたわたと慌て出した。

 

「だ、だって俊成くんって呼ぶ人たくさんいるじゃない? 春香お姉ちゃんとか。だから葵はトシくんって呼びたいなって思ったの……」

 

 葵ちゃんはそう言ってチラと俺に目を向ける。それが上目遣いだったからかわいさが五割増しになっていた。

 葵ちゃんが言うほど俺を「俊成くん」と呼ぶ人が多いわけじゃない。ただ少しでも増えたのは確かだ。

 それに瞳子ちゃんなんて呼び捨てだからな。それを意識してなのだろうか? 葵ちゃんが俺に対して少しだけ踏み込んできた。

 人の呼び方を変えるのってきっかけがないとけっこう難しい。一度固定してしまうとなかなか変えるのに勇気がいると思う。ソースは俺。実際前世では下の名前で呼べる人はいなかった。仲良くなってもこのタイミングというのが難しいのだ。

 幼いからできることなのか。いや、葵ちゃんの恐る恐るといった態度から決して気軽に口にしているわけじゃない。彼女なりに勇気を出したのだろう。もしかしたらもっと前から呼び方を変えたいと思っていたのかもしれない。

 

「もちろんいいよ」

 

 俺は笑って葵ちゃんの頭を撫でた。彼女は「えへへ」と顔をほころばせる。本当にかわいいなぁ。

 頷くのは当然だ。呼び方一つでもっと仲良くなれるのなら願ってもない。

 頭を撫でられて気持ち良さそうにしていた葵ちゃんと視線がぶつかる。

 そして、葵ちゃんの表情が真剣なものへと変わった。

 子供らしく幼い彼女からは想像もしたことがなかった表情だった。一度も見たことがない真剣味を帯びた表情。これから何かを切り出す。そういった空気へと変わっていく。

 そんな唐突な雰囲気の変化に、俺は葵ちゃんが口を開くまで固まってしまっていた。小学一年生相手に俺は飲まれていたのだろうか。

 

「トシくん」

 

 まだたどたどしい呼び方だ。ただ、はっとさせられる声色だった。

 葵ちゃんは俺をしっかりと見据える。かわいらしい雰囲気は今だけはなりを潜めていた。

 

「葵がちゃんとした大人になったら、結婚してくれますか?」

 

 瞳子ちゃんと争って勢い任せで言ったものとは違う。それはちゃんとした彼女の言葉だった。

 息を飲む。

 まだ子供だ。ずっとそう言い聞かせていた。

 結婚したいと思っている。だから葵ちゃんと仲良くなった。瞳子ちゃんが小学校を変えてまで俺といっしょにいたいと行動で示したのには驚いたけれど、好意を寄せられるのは嬉しかった。

 まだ子供だ。だから二人の好意への答えはもっと大きくなってからでいい。そう思っていた。

 二人が大きくなれば他に好きな人ができるかもしれない。そうしたら残った方と付き合おう。なんて、かなり最低なことを考えていた。認めよう。俺は最低な男だった。

 葵ちゃんの瞳はどこまでも真っすぐで。本物の好きという感情を俺に突きつけてくる。

 だからこそ気づかされる。前世という人生のアドバンテージを得ていながらも、俺には決定的に足りないものがあったのだ。

 

 ――俺は本気で人を好きになったことがなかったのだ。その事実を知って、自分の感情の欠落ぶりに頭が真っ白になった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 葵ちゃんを門限前に家へと送った。帰ってからベッドにダイブすると、疲れていたことを自覚する。

 結局、俺は葵ちゃんに対して何も答えを返せなかった。

 

「はぁ……」

 

 ため息が漏れる。

 ちゃんとしてなかったのは俺だけだった。葵ちゃんも、瞳子ちゃんも、しっかり俺に意志を伝えていたというのに。俺は本当のところで本気にしていなかったのだ。

 だからってすぐに答えを出せる問題でもない。どっちにしても結婚できる年齢はまだまだ先なのだ。

 それでも本気で考えなければいけないものなのだとようやく理解させられた。葵ちゃんの言葉はそれだけ俺に衝撃を与えた。

 ずっとほしかった「大人になったら結婚しようね」という言葉だったはずなのに、実際に言われてみると保留してしまう俺。情けない。

 やれる? やれんのか? やれない? やるしかない?

 抽象的な言葉が頭の中をぐるぐる回っている。恋愛経験のない前世の自分を恨みたい。

 幼馴染と結婚するというような大層な計画を立てていながらも、実際の俺は甘かった。もう大甘だった。

 本物は想像以上。今の俺には、人を好きになるということがとても難しくて複雑なものに思えてならなかったのである。

 

 



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22.運動会はいい思い出であるべきだ

 夏休みが終わればすぐに運動会がやってくる。

 九月の体育は運動会の練習ばかりだった。それはどの学年も同じで、高学年の子達なんかは練習だけじゃなく準備の手伝いでテントや機材などを運ばされていた。

 大変だなぁと遠目に眺めていた。一年生は楽な種目ばかりなのでそんなに気合を入れる必要もない。ケガがありそうな騎馬戦や組体操は高学年の種目である。

 運動会でどんな奴が活躍できるのか? それはすばしっこい奴である。

 種目として走るものが多い以上必然である。二人三脚や障害物競争、借り物競走だって足の速い人が有利だ。

 ちなみに、俺の足はクラスで一番速い。つまり、運動会に対して何の不安もないということだ。

 

「トシくんトシくん。見て見てー。似合う?」

 

 運動会当日。着替えを終えて準備ができたらしい葵ちゃんが俺に駆け寄ってきた。示された髪型はポニーテールになっていた。運動するからと結んだらしい。

 

「うん、とっても似合うよ。かわいいね」

 

 そう言うと葵ちゃんはにぱーと笑った。純真無垢な笑顔である。

 夏休みに彼女から告白されてから、とくに関係が激変するというわけでもなかった。葵ちゃんはあれからもいつも通りの態度で接してくれている。

 あれは子供特有の衝動的なものだったのだろうか? そうだとしても俺の気持ちに変化を与えたのは確かだった。あの衝撃を忘れてはいけないとも思う。

 葵ちゃんはくるりと回ってポニーテールをなびかせる。髪型を変えてテンションが上がっているようだった。

 

「葵ー。走ると危ないわよ」

 

 瞳子ちゃんが小走りで近づき葵ちゃんをたしなめる。姉というよりも母親みたいだな。

 この小学校の体操服は男子はショートパンツ、女子はブルマである。久しぶりに目にした時は懐かしい気持ちになってしまったものだ。

 こうやって二人並んで見ても、太ももからふくらはぎにかけての肉付きが薄いのがわかる。やっぱりまだ子供。だけど侮ってちゃいけない。

 あの時の葵ちゃんのように、女の子の成長は早いのだ。いつまでも待っててもらえるだなんて考えない方がいい。

 ……って今はそれよりも目の前の運動会だ。気を散らしてケガをしましたなんてことになったら恥ずかし過ぎる。

 

「よし! 葵ちゃん瞳子ちゃん、今日は運動会がんばるぞー!」

 

「おー!」と続いてくれたのは葵ちゃんだけだった。瞳子ちゃんは「まったく二人とも子供なんだから」とやれやれ顔である。だからあなたも子供でしょうに。

 一学年のクラスは五組まである。それがそのまま五つのチームとなって分かれていた。俺達は一年一組なので、全学年の一組を応援していればいい。

 運動会が始まり、入場行進からだ。親御さん達が我が子の雄姿を撮影しようとカメラを向けている。俺の両親の姿を見つけた。どうやら宮坂家と木之下家といっしょに固まっているようだった。俺達の交友関係もあってか、親同士も本当に仲良くなったものだ。

 準備体操も終わり、競技へと移っていく。最初の大玉転がしは一年生からだ。

 

「いっちょやってやるわよ!」

 

 小川さんはやる気満々だ。なんだかんだで女子のリーダー的存在の彼女が声を出せばみんなもやる気を上げていく。

 

「がんばろうな高木くん」

「おうよ!」

 

 佐藤がふにゃりと笑う。がんばろうって感じの顔じゃないけど、こういう奴ってのはよく知っている。佐藤はがんばると言ったらがんばる奴なのだ。だから俺は拳を作って返す。

 大玉転がしは三位に終わった。この可もなく不可もなくといった成績が俺らしいといえばそうなのだが、別に個人競技ではなかったんだけどな。団体競技の難しいところである。

 この後も球入れや綱引きなどの運動会らしい種目が続く。それからようやく俺の個人種目がきた。

 

「トシくんがんばってね!」

「絶対に勝つのよ!」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんから応援のお言葉をちょうだいする。俺のやる気が上がった!

 俺が出るのは直線を走るだけのもの、かけっこである。

 単純でありながら注目される競技だ。足の速さがそのまま順位に直結する。ゴールテープを切る姿はさぞカメラ映えするだろう。

 ロケットスタートして誰にも追い抜かれることなくゴールした。朝の走り込みと水泳で鍛えられた俺に死角はなかった。

 ああ……、初めて一等賞を取ったぞ。ゴールテープを切るのってこんなにも快感だったのか……。前世では知らなかった気持ち良さに酔いしれる。

 ほわほわ気分でいると、野沢先輩の姿が見えた。五年生のかけっこに出るらしく、入場門で待機していた。

 俺は駆け足で野沢先輩の元へと向かった。

 

「野沢先輩!」

「あっ、後輩くんだー」

「おーい、春香ー……じゃなかった先輩ー。後輩くんが来てくれたぞ」

「ちょ、ちょっと、先輩って呼ばないでよっ」

 

 俺が近づくと、野沢先輩の同級生らしい女子が気づいてくれた。

 というか野沢先輩のあだ名が先輩になってる? もしかしなくても俺のせいじゃないか。

 野沢先輩は同級生にからかわれながらも、俺に顔を向けてくれる。五年生にもなるとブルマの破壊力がすごくなっていた。

 

「もしかして応援に来てくれた? でも私、俊成くんとは別の組だよ」

 

 野沢先輩のゼッケンには「五年四組」の文字があった。一組の俺とは敵同士ということになる。

 それでも関係ない。野沢先輩を応援することは、そんなことくらいでやめる理由にはならないのだ。

 

「野沢先輩、応援してます。がんばってくださいね!」

「……うん!」

 

 野沢先輩は力強く頷いてくれた。他の五年生から「かわいいー」という声が上がる。なんか恥ずかしくなったのでさっさと一年生の待機場所へと走った。

 五年生のかけっこでは野沢先輩が見事一着に輝いた。俺は惜しみない拍手を送った。なぜか瞳子ちゃんに「うるさい!」と怒られてしまった。盛り上がるのが運動会じゃないのん?

 着々と競技は進み、昼休憩の時間になった。それぞれ親の元に行き昼食タイムとなる。

 

「トシくん早く行こ?」

 

 葵ちゃんに手を握られて引っ張られる。それを見た瞳子ちゃんには反対側の手を握られ、同じように引っ張られた。

 俺達の家族同士でシートをくっつけ合っている。すでに弁当を食べられる状態にしてくれている。

 そこで俺は急ブレーキした。

 

「ごめん、教室に忘れ物取りに行ってくる」

「あっ、水筒……」

 

 葵ちゃんがはっとしたように口にする。そう、朝から教室に水筒を忘れてしまった俺は午前中、水分補給のため葵ちゃんの水筒からお茶を分けてもらっていたのである。

 本当はタイミングを見つけて昼食前には取ってこようかと思っていたのだが、競技に出たり、応援していたりですっかり忘れてしまっていたのだった。

 まあ急がなくても昼休憩はけっこう時間がある。教室に行って戻ったとしても昼食を食べる時間は充分あるだろう。

 俺は葵ちゃんと瞳子ちゃんに「先に食べててね」と告げてからダッシュで一年一組の教室へと向かった。

 

「あったあった」

 

 自分の水筒を回収する。運動会なのにこれを忘れてしまうだなんて我ながら間抜けだな。いろいろと気を取られていたから、というのは理由にはならないか。

 さて、運動場に戻るか、と思ったが先にトイレに行っておくことにした。

 一年生の教室は一組から三組が並んでおり、トイレと階段を挟んで四組と五組がある。ここからだとトイレが近いのでせっかくだから今行っておこうと思ったのだ。

 二組と三組の教室を横切ってトイレへと入る。用を足してから、俺は一年三組の教室を覗いた。

 

「……」

「……」

 

 一人の女の子と目が合った。やっぱり見間違いじゃなかったか。

 一年三組の教室には一人ぽつんと席に座っている女の子がいた。みんな運動場で家族と昼ご飯を食べている。そんな時に教室にいるのが不思議だったのだ。

 俺と同じように忘れ物をしたのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。女の子の机の上には弁当箱が置かれていた。まさかここで一人で食べるつもりなのだろうか?

 

「こんにちは」

 

 女の子に声をかけてみる。彼女は俺をじーっと見つめると、やがてこっくりと頷いた。それあいさつ返したことになってないからね?

 教室に入らせてもらい、女の子に近づく。何かトラブルでもあったのかと心配になったのだ。

 

「ご飯一人で食べるの? お父さんとお母さんは?」

 

 女の子はふるふると頭を横に振った。頭の動きに合わせて髪の毛が頬にぺしぺし当たっている。葵ちゃんみたいに髪を結べばいいのにと思った。そんな俺の考えをよそに、彼女はぽつりと呟くように言った。

 

「……おばあちゃん、これなくなったから」

 

 親はどうしたのかと尋ねたのにおばあちゃんが出てきた。もしかして複雑な家庭環境ってやつなのか? あまり突っつかない方が得策に思えた。

 さて、どうするか。このまま「じゃあさよなら」というのは気が引ける。

 俺が去ってしまえば女の子は一人、この誰もいない教室で昼食をとるのだろう。外ではがやがやと楽しげな声が聞こえてくる。そんな中で食べるご飯。それはあまりいい思い出にならないのだろうと誰もが想像できるだろう。

 女の子は無表情だ。この状況に悲しんでいるのか、それとも単に表情に乏しいだけなのか。どちらにしても放ってはおけなかった。

 

「俺は高木俊成。君の名前は?」

 

 俺は自己紹介をした。女の子の体操服についているゼッケンで名前はわかっているものの、彼女の口から名前を聞いた方がいいと判断したのだ。

 女の子はしばし俺を見つめてから、ゆっくりと口を開いた。

 

赤城(あかぎ)美穂(みほ)……」

「赤城さん、か。よろしくね。それでよかったらなんだけど、俺達といっしょにご飯食べない? 女子もいるからさ」

 

 赤城さんは俺をじーっと見つめる。なかなか表情の変わらない子だな。ちょっとばかし見つめられるのがプレッシャーだよ……。

 見つめられる時間が十秒、二十秒と過ぎてきたあたりで断られるかな? と心配になった。内心焦ってきた俺とは対照的に赤城さんはマイペースな調子で首を縦に振った。よ、よかったぁ……。

 

「じゃあ行こうか」

 

 そう促すのに赤城さんはなかなか動こうとしない。あんまりにも待たされると食べる時間がなくなっちゃうんだけど~。いい加減じれったくなって俺は赤城さんの手を引いた。

 

「それじゃあ走って行くよ」

「……うん」

 

 俺は赤城さんを引っ張りながら小走りで運動場へと戻った。

 

「ごめーん。遅くなっちゃった」

「まったく。早く食べないと時間がなくなっちゃうんだから……ね」

 

 家族が集まっているところに辿り着くとみんなに出迎えられた。瞳子ちゃんの言葉がなぜか尻すぼみになる。

 というかみんな固まっていた。心なしか空気が冷えた気さえする。

 ああ、と納得する。いきなり知らない子をつれてきたから誰かと思っているのだろう。俺は赤城さんの背中を軽く押して紹介した。

 

「三組の赤城美穂さん。ご飯一人だったから誘ったんだ」

 

 俺が促すと赤城さんはぺこりと頭を下げた。口数は少ないけれど礼儀はなっているらしい。

 

「そ、そう……よ、よろしくね赤城さん」

 

 ぎこちないながらも瞳子ちゃんがあいさつをする。面倒見の良い彼女なら赤城さんを放ってはおかないだろう。

 

「よろしくね赤城さん。こっちに座っていいからね」

 

 葵ちゃんがにぱーと笑いながら赤城さんをシートに座らせる。気遣いなのだろう。ちょうど葵ちゃんと瞳子ちゃんの間に赤城さんのスペースを作ってあげていた。

 突然新しいお友達を昼食に招いたにもかかわらず、大人達はとくに何を言うわけでもなかった。俺の言葉から彼女の事情を察してくれたのだろう。感謝だ。

 

「将来プレイボーイにならないか心配デスネ」

「こんなところでそういうこと言わないっ」

 

 何やら瞳子ちゃんと葵ちゃんのお母さんがこそこそ話していたようだけどよく聞こえなかった。まあ他愛のないママ友会話だろう。

 昼食を終えて昼からの種目に備える。一年生はあとダンスだけなので楽なものだ。一応振りつけのおさらいをしておくけども。

 

「高木」

 

 赤城さんとの別れ際に名前を呼ばれた。名字を呼び捨てとかちょっと新鮮だ。

 彼女は相変わらずの無表情だった。空の弁当箱をぎゅっと握りしめている。また俺をじーっと見つめてから、ゆっくり唇を動かした。

 

「……ご飯、誘ってくれてありがとう」

「うん、どういたしまして」

 

 せっかくの運動会だ。赤城さんの思い出にちょっとでもいい形で残ってくれればと思う。

 予想通りと言うべきか、一年生のダンスは瞳子ちゃんが観客を魅了していた。銀髪の超絶かわいい女の子が綺麗な踊りを見せれば目を惹くというものだ。

 しかし葵ちゃんも負けてはいなかった。運動は瞳子ちゃんに劣る彼女だけど、リズム感がとてもいいのだ。流れる動きには瞳子ちゃん以上の上手さがあった。

 お遊戯程度になりがちな一年生のダンスは、超絶かわいい葵ちゃんと瞳子ちゃんの活躍によって心からの拍手をいただくこととなった。俺? 端っこでがんばってたよ。

 最終結果で四組の優勝が決まった。まあ六学年もあると一学年だけよくても勝てないよねー、と自分を慰めた。でも野沢先輩が優勝したと思えば、それはそれで良い結果だったのだと納得できた。

 

 




時代は名言しないけど、とりあえず小学生まではブルマでいこうと思います。……世代が分かれそうな気がするなぁ。


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23.バレンタインデーはただの強制イベントだから

 うちの小学校の制服は夏だろうが冬だろうが半ズボンである。そう、冬でも、だ。

 水たまりに氷が張ってようが、つららができていようが半ズボンなのである。何が言いたいかって? 寒いんだよ!

 前世での小学生はどうなってたっけかな。さすがに寒い時なら長ズボンを許可するようになっているだろうか。俺の時代はずっと半ズボンである。それがわかってるだけに冬は覚悟しなけりゃいけない。

 

「俊成くん寒そうだねー」

「い、いやあ……ははっ」

 

 登校中、寒くてあまりにも震えてるもんだから野沢先輩に笑われてしまった。苦笑いの吐息ですら白くなる。

 

「トシくん大丈夫?」

 

 葵ちゃんが心配そうに首をこてんと傾けた。心温まるなぁ。

 手袋は許可されているので装着している。寒さはガードできるものの、繋いでいる葵ちゃんの手の感触もガードされてしまうのは寂しかった。

 北風がぴゅーぴゅー吹いている。そんな感じな歌を葵ちゃんが歌っている。寒いのに元気だ。子供は風の子というのは本当らしい。いや、今は俺も子供なんだけども。

 

「あっ、そうだ俊成くんに渡すものがあるの」

 

 学校に到着してそれぞれの下駄箱に向かうタイミングで、野沢先輩に声をかけられた。

 彼女はランドセルを開けて中から何か箱のようなものを取り出した。綺麗にラッピングされている。

 

「はいこれ、バレンタインのチョコだよ」

 

 にこっ、と笑って差し出されたのはチョコらしい。……チョコだって?

 そうか……今日は二月十四日だった。つまりバレンタインデー。リア充カップル爆発しろ! の時期だった。

 前世での俺は母親以外からチョコをもらったことがない。学生時代はもちろん、社会人時代でももらえることはなかった。同僚でも義理チョコもらってたのに……。お菓子メーカーの陰謀ってやつは不幸を生み出す悪しき風習でしかないと思ってたね。けっ。

 それなのにまさか……まさか今世ではもらえるとは! 前世のバレンタインデーがあまりにも悲惨で記憶から抹消していたというのに、こんなにいい形で思い出させてくれるなんてっ。

 

「あ、ありがとうございます。野沢先輩からチョコをもらえてとっても嬉しいです!」

 

 俺は野沢先輩のチョコをうやうやしく受け取った。手が震えているのは寒さからだけではないだろう。

 俺にチョコを渡すと「じゃあね」と野沢先輩は行ってしまった。あなたのようなお姉さんがいてよかったです。俺は彼女の後姿に深々と頭を下げた。

 

「……」

 

 顔を上げると、葵ちゃんが俺をじーっと見つめていた。大きくパッチリとした目に俺が映っている。

 

「な、何かな?」

「……別にー」

 

 葵ちゃんはすたすたと下駄箱へと行ってしまった。なんかツッコミづらい雰囲気だったな。

 バレンタイン。葵ちゃんと瞳子ちゃんはチョコをくれるのだろうか? 幼稚園の頃はそういう話すらなかったからまだ知らないのかもしれない。記憶を振り返ってもこんな小さい頃からチョコもらえるかなんて考えなかったし、もうちょっと大きくなってからのイベントなのだろう。

 今日は野沢先輩からもらえたからよしとしておこう。義理だとしてももらえたという事実が嬉しいのだ。

 葵ちゃんといっしょに教室に入ると、いつも通り一年一組のみんなは元気に騒いでいた。

 きゃいきゃいはしゃぐ姿からは、今日がバレンタインデーだなんてわかっていない様子だ。普通ならまだ男女で意識しちゃうような年頃でもないしね。

 

「俊成に葵、おはよう」

 

 先にきていた瞳子ちゃんがあいさつしてくれる。俺と葵ちゃんもあいさつを返してランドセルを席に置いた。

 

「ん?」

 

 いつも俺の席にくる瞳子ちゃんがこない。見ればぼんやり窓の外を眺めていた。

 彼女はみんなとわいわい騒ぐタイプの子ではない。それでも今日の瞳子ちゃんはいつもより大人しかった。

 

「瞳子ちゃん、どうしたの? 窓の外に何かある?」

「え? 別に……、何もないわよ」

 

 歯切れが悪いな。俺も窓の外に目を向けてみるけど、目新しいものはとくになかった。

 もしかして体調が悪いのだろうか。顔を覗き込んでみるが、顔色が悪いというわけでもなさそうだ。

 

「な、何よ……?」

「いや、体の調子が悪いのかなって思っちゃって」

「はあ?」

 

 眉をひそめられた。幼いながらも顔のパーツが綺麗に整っているので迫力を感じる。

 何か誤魔化した方がいいのだろうか。そんな逃げの一手を考えていると、一人の女子が教室の入り口から覗きこんでいるのが見えた。

 彼女は誰か探しているみたいに視線を動かしている。そして俺と目が合ってピタリと止まった。

 

「高木。こっちにきて」

 

 彼女は赤城さんだった。運動会でいっしょにご飯を食べてからあいさつ程度のやり取りをするようになったのだ。クラスが違うのでそう交流があるわけでもないのだが。

 何の用だろうか? 手招きしている赤城さんの元へと向かった。

 

「ちょっと、ついてきて」

「何かあるの?」

「いいから」

 

 説明なしですか。でも断る理由もないし、素直について行くことにした。

 赤城さんは階段の後ろ側に俺をつれてきた。ここなら目立たないだろう。つまり何か秘密の話でもするつもりなのかもしれなかった。

 俺が身構えていると、赤城さんは無表情なままきょろきょろと辺りを見回した。幼い顔なのに無表情でいるとなんだか仕事人みたいに見えてくる不思議。俺消されるわけじゃないよね?

 

「これ、あげる」

 

 赤城さんは制服の下に隠していた小さな箱を俺に手渡した。彼女の肌で温められたのかぬくもりを感じる。

 

「何これ?」

「……今日はバレンタインデーだから。チョコレート」

「えっ!?」

 

 まさかの赤城さんからのバレンタインチョコに目を見張った。そんなに親しいわけでもないと思っていたからびっくりしてしまったのだ。

 俺から少し距離をとると、赤城さんは少しうつむきながら言った。

 

「……運動会の時の、お礼、だから」

 

 それだけ行って赤城さんは走り去ってしまった。お礼を言う暇すらなかった。

 ……なるほど。つまりこれは運動会の時に昼食を誘ったお礼ということなのだろう。つまり義理チョコか。

 ああ、でも義理チョコでも嬉しいな。前世の記録を容易く更新しちゃってるよ。母親を除けば記録は〇個だったけどな。

 ほくほく気分で教室に戻ろうとすると、誰かがこっちを見ているのに気づいた。

 

「……おませなのね」

 

 担任の先生だった。なんだか背後に黒いオーラが見えるのは気のせいだろうか。

 

「せ、先生。おはようございます」

 

 なんとかあいさつを口にしたものの、先生はあいさつを返してはくれなかった。それどころか遠い目になっている。どうしたどうした?

 先生は遠い目をしたまま、ぼそぼそと何か言い出した。

 

「どうしてバレンタインまで彼は待ってくれなかったのかしら……。その日まで待ってくれれば最高のチョコレートで彼のハートを射抜いて、そのまま結婚できたはずなのに……。君は重いって何よ? 何なのよ!」

 

 小学一年生の前で愚痴を零すのはやめていただきたい。ちゃんと教師の仮面を被ってほしいものだ。

 なんか気まずいので慰めることにした。

 

「先生。先生ならチョコに頼らなくても素敵な男の人が振り向いてくれますよ。先生の優しいところをいっぱい見てきましたし、それに先生は美人さんですから、男の人が放ってはおかないですよ」

「そ、そうかしら?」

「はい」

 

 実際に男性教師の一人が先生に気のある仕草をしていたのを見たことがある。同じ男が言うんだから間違いない。たぶん年齢的にもそう変わらないだろう。

 あとはきっかけさえあれば付き合ってしまうのでは、とか思っていたらもうバレンタインデーだったのだ。ちょっと男性教諭、あなたアピール不足じゃないかな。

 でも、男は案外奥手だったりするしな。前世の俺とかな。ここは先生にがんばってもらおう。

 

「先生がちゃんとアピールすれば男の人なんてイチコロですよ。がんばってください」

「え? がんばっていいの?」

「はい?」

 

 俺と先生はしばし見つめ合った。しばらくしてチャイムの音が鳴った。俺達は慌てて教室へと入った。

 教師同士の恋愛か。大人になるとしがらみとかがあってうまくいかないのかもしれなかった。それでも先生にはぜひとも幸福を掴んでほしいものだ。陰ながらでしか応援はできないけれど、うまくいきますようにと祈らせてもらおう。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 下校はいつも通り、葵ちゃんと瞳子ちゃんといっしょに帰っていた。

 

「……」

「……」

「……」

 

 無言の時間が続いている。いつも何かしらおしゃべりしているというのに、珍しいこともあるものだ。

 話題を振ってみたのだが、二人の反応は悪かった。生返事ばかりで聞いているのかどうかも怪しいほどだ。

 瞳子ちゃんはやっぱり体調が悪かったのだろうか? 葵ちゃんは登校中は元気そうだったのに、今は心ここにあらずといった風である。

 たまにはしゃべりたくない日もあるだろう。そう納得することにした。帰り道、二人がぼーっとして事故に遭わないようにと気を張った。

 

「俊成、ちょっといい?」

 

 瞳子ちゃんが別れ道で口を開いた。なんだろう、と思いながらも頷くと手招きされる。

 

「葵、ちょっとだけ時間ちょうだいね」

「うん、あっちで待ってるね」

 

 二人はわかり合っていると言わんばかりに頷き合う。俺ハブられてない?

 車通りの少ない道。すでに住宅地に入っている。電信柱で身を隠すように瞳子ちゃんに引っ張られた。

 

「これ、受け取って」

 

 彼女がランドセルから取り出したのはラッピングされた赤色の箱だった。本日三回目だ。さすがにそれが何かは理解できた。

 

「バレンタインチョコ?」

「……うん。わかってると思うけど、本命だからね」

 

 瞳子ちゃんの猫目のブルーアイズが俺に突き刺さる。顔を赤らめながらも真剣な眼差しだった。

 本命と言われて、それを簡単に受け取っていいものなのだろうか。俺の中で躊躇いが生まれる。

 そんな俺を無視して、瞳子ちゃんは強引に俺の手に箱を握らせた。

 

「あたしの気持ちはずっと変わってないから。……今はそれだけわかっててもらえたらいいの。だから受け取って?」

 

 瞳子ちゃんの瞳が揺れている。綺麗な瞳だった。俺には眩し過ぎるほどの純粋さを帯びている。

 冷たい風が吹く。瞳子ちゃんのツインテールの銀髪がなびいた。寒いはずなのに、まったくそうは感じなかった。

 

「じゃっ、また明日ねっ!」

 

 俺が何かを言うよりも早く、彼女は走って行ってしまった。その後ろ姿にどう声をかけようか迷ってしまい、結局何も言えないまま立ち尽くしてしまう。

 

「トシくん、帰ろっか?」

「あ、うん……」

 

 気がついたら葵ちゃんが傍にいた。呆けてしまっていたらしい。

 二人だけになっても静かなままだった。葵ちゃんから口を開く様子はないし、俺も何かしゃべろうという気分ではなくなっていた。

 そして、葵ちゃんの家の前まできた。ここまできて、これから葵ちゃんがどんな行動をとるかわからないほど俺は鈍感ではない。

 

「トシくん」

 

 名前を呼ばれる。やっぱり葵ちゃんも真剣な目をしていた。純粋に、真っすぐに、俺を見ている。

 彼女はランドセルからかわいらしいピンク色の箱を取り出した。四個目。前世では考えられなかった数のバレンタインチョコだ。

 葵ちゃんはすーと息を吸い、はーと白い息を吐いた。

 

「トシくん……。大好きです。受け取ってください!」

 

 緊張が伝わってくる。それが葵ちゃんの本気を俺に伝えた。

 

「俺……」

「葵はトシくんのお嫁さんになりたいからっ。だからがんばる! いっぱいいっぱいがんばる!」

 

 俺が何かを言う前に、葵ちゃんが声を上げる。精一杯の想いを伝えようとしてくれているのがわかって、何も言えなくなる。

 

「がんばって……がんばるから。もっと大人になったら、答えをください」

 

 葵ちゃんは目に涙を溜めていた。まるで宝石のように、その目はキラキラと光っている。

 出会った時からそんな目をしていたね。そんなことを考えながらチョコを受け取った。

 

「俺も、ちゃんと答えを出せるようにがんばるよ」

 

 今はまだ、それだけしか言えなかった。それでも葵ちゃんは笑顔で頷いてくれた。

 

「うん!」

 

 いつもの無邪気な笑顔になった葵ちゃんは家へと入って行った。それを見送ってから自宅へと足を向ける。

 どこまでも純真な恋心。子供だからとバカにできるはずもなかった。

 好かれるというのはもっと気持ち良いものだと思っていた。でもそれだけじゃないのだと知った。

 恋を知らなかったおっさん。真っすぐな愛情を向けられるとこんなにもうろたえてしまうのか。前世があって長く生きているのに知らないことばかりだ。いや、経験したことがないと言えばいいのか。

 結婚がしたい。それは当然最愛の人とだ。逆行してからずっと考えていたことではあったけれど、その意味は想像していたものと違っていた。

 俺の気持ち。恋と愛。心から理解しようと改めて思う。

 葵ちゃんと瞳子ちゃん。彼女達には偽ることなく本心を伝えよう。たとえどんな答えになったとしても。

 

 ――たとえ、どちらかを傷つける結果になったとしても。

 

 



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24.宮坂葵は七五三を振り返る

「これ……七五三の時の写真だ」

 

 気分転換にお部屋の掃除をしていると、懐かしい写真を見つけた。

 まだ小さい頃の私が晴れ着を身につけて笑っていた。本当に小さいなぁ……。

 私一人で写っている写真。お父さんとお母さんといっしょに写った写真。そして、トシくんと瞳子ちゃんといっしょに写った写真があった。

 

「ふふっ、トシくんも瞳子ちゃんも小さくてかわいいな」

 

 まだ二人とも幼い姿だった。今と比べるとびっくりしちゃうくらい。年月の経過を意識させられる。

 この頃からでも二人はしっかり者だった。私はそんな二人を見て、このままじゃダメなんじゃないかって思ったのだった。

 何がダメかなんて説明できない。ただ漠然と、情けない自分のままでは二人に置いていかれてしまうんじゃないかって思ったんだ。

 目をつむる。私はまぶたの裏を見つめながら、懐かしい日々を思い出していく。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 七歳の私は、トシくんと瞳子ちゃんと七五三の日を迎えていた。

 この頃になると、私達は家族ぐるみで仲良しになっていた。いろいろな行事で行動をともにしていたと思う。

 

「よし、バッチリね」

 

 着物の着付けをしてくれたお母さんが笑いながらOKを出してくれた。髪型もアップにまとめていつもとイメージを変えてくれていた。

 

「綺麗よ葵。これなら俊成くんだって見惚れちゃうわよ」

「本当? トシくんに好きになってもらえる?」

「ふふ、そうね。好きになってもらえるわよ」

「うん!」

 

 私は元気良く頷いた。我ながら単純だなと微笑ましくなってしまう。

 写真館で私達は合流した。それぞれ祖父母が遠くにいるというのもあり、私達は家族ぐるみで気がねなく七五三の行事をすることができた。

 七五三ということで写真館で晴れ着をレンタルしたのだ。いっしょにきていたトシくんと瞳子ちゃんも同様にレンタルした着物に着替えていた。

 

「葵ー? ちゃんと準備はできてる?」

 

 合流してすぐに瞳子ちゃんは私の着物姿をチェックする。「お母さんにやってもらったんだよ」と言っても「もしもってことがあるじゃない」と聞いてはくれなかった。お母さんも苦笑いしてたっけ。

 私の着物をチェックしている瞳子ちゃんはいつもとは違う装いでかわいかった。普段のツインテールではなくアップで整えられている髪型というのもあり、なんだか大人っぽく見えたのだ。

 やっぱり瞳子ちゃんはかわいい……。どうしようもなく特別な子なのだと、幼いながらも私は理解していた。

 

「うん、大丈夫そうね。じゃあ俊成のところに行きましょうか」

「うん」

 

 瞳子ちゃんは私の手を引いてくれる。この時の彼女は本当に姉のようだった。

 

「俊成、葵がきたわよ」

「葵ちゃん?」

 

 瞳子ちゃんの声に振り向いたトシくんはかっこいい着物姿だった。頼りがいのある彼がより一層頼もしく見えた。

 

「何ぽけーってしてるのよ。葵に見とれたんでしょ」

「え、あ、いや……」

 

 瞳子ちゃんに言われてトシくんは慌て出した。本当に見惚れてくれていたのだろうかと気になってしまう。

 ちょっとだけ赤くなった顔で、トシくんは私の方に真っすぐ顔を向けてくれる。

 

「その……かわいいよ葵ちゃん。着物もすごく似合ってる」

「……うん」

 

 トシくんは真っすぐ褒めてくれる人だった。こんなに小さいのにふざけたりしないで「かわいい」って口にしてくれる。

 

「俊成ってば、さっきあたしを見た時も同じこと言ったのよ」

「うっ……。ま、まあ瞳子ちゃんもかわいかったんだから仕方がないじゃないか」

「……」

 

 ……ちょっとだけ胸が苦しくなった。なんで嫌な気持ちになったかは、この時はちゃんとした意味でわかっていなかったのだ。ただ、そんなこと今言わなくてもいいのにと瞳子ちゃんに対して思ったのは憶えている。

 

「ほらほらー、そろそろ写真撮るからこっちにきなさい」

 

 お父さんが声をかけてくれて、胸の苦しさが幾分か消えてくれた。私は笑顔でトシくんの手を取った。

 

「写真だって。行こ?」

「わかった。いつもと違う格好なんだから走ると転んじゃうよ」

 

 急かす私をトシくんはたしなめる。いつもと違う雰囲気に私は興奮していたのだろう。トシくんがそう言ってくれなかったら走って転んでしまっていたかもしれない。

 それでもトシくんの言うことを聞く頭は残っていたようで、彼と手を繋いだまま歩いた。すぐに瞳子ちゃんが彼の反対の手を握っていたけれど。

 写真を撮られるといっても普通のカメラを向けられるのとは違っていた。静かなところで緊張したのを覚えている。

 家にあるカメラよりもフラッシュが強かった。何度か目を閉じてしまう。トシくんに声をかけられながらなんとか撮り終えることができた。

 私達はそれぞれ写真を撮った。いつもと違う場所、いつもと違う格好、緊張することばかりだったけれど、トシくんと瞳子ちゃんがいると思えば幾分か気が楽だった。

 いろんな写真を撮って、最後に私とトシくんと瞳子ちゃんでの集合写真を撮ることとなった。

 私は迷わずトシくんの手を取った。だけどそれは瞳子ちゃんも同じだった。同時に彼の手を取ると瞳子ちゃんと目が合う。両手が塞がったトシくんは私と瞳子ちゃんを交互に視線を彷徨わせていた。

 

「……」

「……」

 

 ほんのちょっとの間だけ、彼女の青い瞳が揺れていた。私の瞳はどうなっていたかは今でもわからない。

 

「じゃあ二人とも、笑顔を写真に撮ってもらおうか」

 

 トシくんの言葉で私達はカメラと向き合った。大きくて立派なカメラのレンズが私達の姿を映す。

 この時の写真を見ると、自分で言うとおかしな感じだけれど、とても微笑ましい出来になっている。子供らしくて愛らしい。そんな風に私達は表現されていた。

 だけど、私と瞳子ちゃんはこの時にはすでにちゃんとした女の子だったのだ。それは今思い返してもそう思う。

 私達をそうさせたのはトシくんだ。彼のせいで、なんて言うつもりはない。むしろ彼のおかげで今の私達があるのだと思う。

 この後は確か……お宮参りに行ってから瞳子ちゃんの家に集まったんだ。みんなで食事をするということで彼女の家に集まったのだ。

 レンタルした着物を汚すわけにもいかないので普段着に着替えた。ふぅ、と息を吐いて解放感を味わう。着物はかわいかったけれど、慣れないものをずっと着るというのは子供ながらに疲れた。

 お母さん達は食事の準備に取りかかり、お父さん達でレンタルした着物を返しに行ったのかな。その間は私達三人で遊んでいた。

 習ったピアノの演奏をトシくんに聞かせたり、トシくんが習っている英語の歌を三人で歌ったりした。おままごとだけはできなかった。ママ役を私と瞳子ちゃんのどちらがやるかで絶対にケンカになっちゃうから。

 

「ちょっとトイレ借りるね」

 

 そんなことを言ってトシくんは部屋を出て行った。瞳子ちゃんと二人きりになって、少しだけ空気が張り詰める。

 

「ねえ瞳子ちゃん」

 

 最初に口火を切ったのは私だったと思う。

 綺麗な青い瞳が私を射抜く。これは睨んでいたわけではなく、彼女も緊張していたのだろうと今ならわかる。

 

「瞳子ちゃんはトシくんのこと好き?」

「ええ、大好きよ」

 

 即答だった。瞳子ちゃんは私に対して嘘はつかない。元々真っすぐな子ではあるけれど、トシくんへの想いは隠すどころか私に突きつけているようだった。

 そんな返答にも驚かない。それは幼い私にだってわかっていたことだから。

 

「葵もトシくんのことが好き。ううん、大好き。瞳子ちゃんに負けないくらい大大大好き」

 

 私の言葉に瞳子ちゃんは驚く様子はなかった。彼女もわかっていたのだろう。

 

「でも……、瞳子ちゃんにトシくんを取られちゃうのかなって思っちゃうの……」

「え?」

 

 次の言葉には、瞳子ちゃんでさえも驚いていた。

 

「瞳子ちゃんはかわいくてしっかりしてるんだもん……。トシくんは葵よりも瞳子ちゃんが好きなんだって思う……」

 

 子供ながらに私は不安だったのだ。トシくんの態度は瞳子ちゃんとその他の子とで違っていたから。瞳子ちゃんを特別扱いしてるんだって思っていたのだ。

 そんな思いがつらつらと口から零れる。聞き終わってから瞳子ちゃんはわかりやすくため息を吐いた。

 

「何それ。それはこっちのセリフよ」

「え?」

 

 今度は私が驚く番だった。

 

「葵はよく俊成を笑顔にしているわ。俊成だって葵を特別扱いしているのがわかるもの。……だからあたしだって葵に俊成を取られちゃうんじゃないかって恐かったんだから」

 

 まさかの思いだった。いつもはきはきしていて自信を持っている瞳子ちゃんがそんなことを言うなんて思ってもみなかったのだ。

 

「……あたしね、葵と初めて出会った時にあなたが天使みたいだって思ったのよ。とってもかわいくて勝てないって思っちゃったの」

「あ、葵だって瞳子ちゃんを初めて見て妖精さんみたいだって思ったよ! すごくかわいくて、葵よりもすごいって思ったもん」

 

 そう言ってから私達はしばし見つめ合った。そしてお互い同時にふふっ、と噴き出すように笑ってしまった。

 

「なんだ、あたし達って似た者同士なのね」

「うん。そっくりさんだね」

 

 そうしてまた笑い合う。

 一頻り笑い合ってから瞳子ちゃんが言った。

 

「俊成が好きな者同士として、あたしのライバルって認めてあげるわ。負けないわよ」

「うん、葵も負けないよ」

「でも……」

 

 瞳子ちゃんはちょっとだけ頬を赤くする。白い肌だから小さな変化でもすぐにわかった。

 

「……俊成ほどじゃないけど、葵のこともけっこう好きよ」

 

 そう口にしてそっぽを向く彼女はとてもかわいかった。

 幼い私もそう思ったのだろう。顔を赤くする瞳子ちゃんに抱きついた。

 

「えへへー。葵も瞳子ちゃんのこと好きだよー」

「わっ!? ちょ、ちょっとっ」

 

 バランスを崩してか瞳子ちゃんは後ろへ倒れる。私が押し倒すような形となった。

 青い瞳と視線がぶつかる。さっきまではちょっと不安になるような目だった。でも今は違う。彼女も私と同じなんだってわかったから。

 

「葵、正々堂々と勝負よ」

「せいせいどうどう?」

「……どっちが俊成と結婚できるか、恨みっこなしの勝負よ」

「……うん、わかったよ」

 

 トシくんが私を選ばなかったらという考えが頭をよぎって少しだけ躊躇いが生まれた。それはとても苦しいことだと思った。それでもそれは瞳子ちゃんもいっしょなのだ。そんな彼女が言うのだからと、私は力強く頷いてみせた。

 

「瞳子ちゃんの家って広いから迷っちゃったよー。結局おばさんにトイレの場所聞いちゃったし。……えーと、二人は何してるの?」

「「え?」」

 

 トシくんはこの後、なぜか変な目を私達に向けていた。彼らしくない眼差しだったから私と瞳子ちゃんは首をかしげるしかなかった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「懐かしいなぁ……」

 

 七五三の写真を眺めながらそんなことを思い出していた。あれから私と瞳子ちゃんはライバルとして、正々堂々とたった一人の男の子にアタックし続けている。

 私と瞳子ちゃんがギスギスした関係にならなかったのは、これはもうお互いの性格としか言えない。なんたって似た者同士だしね。

 瞳子ちゃんのことは今でも好き。それでもトシくんは譲れない。こればっかりはお互いに納得した勝負だから。

 あの頃から私達の関係は本当の意味で始まったのだ。どうしようもなくて苦しいこともあるけれど、私達は好きという気持ちを諦めないだろう。

 子供の成長を祝う日に、私達は自分の中の気持ちを抱えて走ると決めたのだ。どちらが先にゴールできるかは、もうちょっとだけ未来のお話。

 

 




七五三の記憶は本当になかったので調べてこんな感じかな? という風になってます。女の子は三歳と七歳だけとか、男の子は五歳だけとかいろいろありましたけど、男の子が七歳にやってもオッケーみたいです。仲良しのお友達と写真を撮るのもオッケーらしいので(料金は一括にならないとのことですが)こんな感じになりました。まあ地域とかでもけっこう変わるらしいので、なんか七五三としておかしいと思っても地域の差とでも思ってくださいな。以上、先に言い訳しときました。


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25.新しいクラス

 小学四年生になった。

 二年生と三年生の時は葵ちゃんと瞳子ちゃんと別々のクラスになっていた。休み時間や下校なんかはいっしょのことが多かったけど、俺がいない間二人はそれぞれの交友関係を築いているようだった。

 ちょっと嬉しいような寂しいような、そんな複雑な気分。まあいつも俺にべったりというわけにもいかないし、彼女達のためにはそれでいいんだけども。こればっかりは気持ちの問題ってやつだな。

 そんなわけで、久々に二人と同じクラスになったのだ。四年二組。それが俺達の新しいクラスである。

 

「私とトシくんと瞳子ちゃんが同じクラスだなんて一年生の時以来だね。嬉しいな」

 

 貼り出された四年生のクラス表を眺めていると葵ちゃんが言った。彼女も俺達の名前を見つけたようだ。

 葵ちゃんは自分の呼び方を「葵」から「私」に変えていた。子供っぽいのが嫌だからという理由だったか。そんな気持ちが少しずつ芽生えているようだ。

 横目で俺の隣に並んだ彼女を見ながら思う。一年生の頃に比べて葵ちゃんは本当に大きくなった。

 長く艶やかな黒髪に、大きな目と長いまつ毛。少女らしくありながらも、ほんのちょっぴり色気を纏うようになった。

 順調に美少女へと成長しているようで、葵ちゃんがパチパチと瞬きをするだけで顔を赤らめる男子がいるほどまでになっている。まさに魅惑の眼である。段々と性を意識する子が増えると考えると、これから大変そうだと心配になってしまう。

 それになんと言いますか……胸のあたりがふっくらとしてきたのだ。この時期にはもう膨らんでくるものなんですかね? 前世の彼女は驚くほどには大きくなかった気がするのだが。実際のところどこまで成長するのだろうか……、ちょっぴり楽しみである。

 

「あっ、俊成に葵。何組だったの?」

「二組だよ。私達三人いっしょなんだよ」

「本当? やったわね」

 

 背中から瞳子ちゃんの声がして我に返る。どうやら今登校してきたようだった。

 あいさつを交わして瞳子ちゃんが俺の隣にくる。サラリとツインテールにしている銀髪が揺れた。

 猫目のブルーアイズが優しく向けられる。元々年齢のわりに大人びている子だったけれど、今はさらに気持ちにゆとりが生まれたかのような雰囲気を出していた。

 習い事の水泳をともにしているのもあって瞳子ちゃんの体のラインは知っている。スラリと美しい曲線を描いているのだ。見惚れないように耐えるのが大変なくらいだ。これからさらに美を磨いていくであろう。期待せずにはいられない。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんはすでに学校内でかなりの人気を得ていた。ちょっとやそっとじゃお目にかかれない美少女である。二人はどちらも心根が良いこともあって、男女どちらからも好意的に見られていた。とくに年上のお姉さん方なんかは二人をものすごくかわいがっている。

 逆に、少しばかりヘイトを集めてしまったのが俺である。二人の俺に対するアピール合戦を見られてしまう度に黒々とした視線を突き刺されてしまうのだ。

 女子はそういうのはないのだが、問題は男子だ。とくに上級生な。色気づいてくるのもあってか一人前に嫉妬なんかしちゃっている。小学生の時の俺はそんな感情はなかったと思うんだがなぁ……。

 二年生までは野沢先輩が助けてくれていたのだが、彼女は卒業してしまって現在は中学生である。スイミングスクールも引退してしまい、さらに部活の朝練があるからと、朝の公園でのランニングもこなくなってしまったのだ。

 家は近所にはなるのでたまに会えば話をしたりはするのだが、まあそれだけだ。先輩とあまり会えなくなってちょっと寂しくなった。

 そういうこともあって、三人がまた同じクラスになるのは嬉しいことばかりではないのだ。今以上に嫉妬を込められた視線をぶつけられるに違いない。……自己防衛手段とか考えなきゃダメかもしれんね。

 

「俊成? 何ぼーっとしてるのよ。早く教室に行くわよ」

「だね。行こっかトシくん」

 

 両手が二人の手の感触に包まれる。体は大きくなっても、この温かさは変わらない。

 年月が流れても、二人の俺への想いは未だに変わらない。そんな二人に対して俺は未だに答えを出せてはいなかった。

 本物の想いに対しては、本物の答えを返さなければならない。そう真剣に考えれば考えるほど自分の心がわからなくなっていた。

 葵ちゃんも瞳子ちゃんも、決して俺を急かしたりはしなかった。いつまでも二人の優しさに甘えるわけにもいかないってのはわかってるんだけどな……。

 

「葵ちゃん、瞳子ちゃん。またよろしくね」

 

 それでも、俺の言葉に笑顔を見せてくれる二人といっしょにいたいというのは、間違いなく俺の本心だった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「おはよう高木」

 

 四年二組の教室に入ると赤城さんに出迎えられた。少々面食らったもののあいさつを返す。

 

「赤城さんも二組なんだね。同じクラスになるのは初めてかな?」

「そうね」

 

 赤城さんとは三年生まで別々のクラスだった。それでも一年生の時の運動会から交流は続いており、あいさつや雑談をする以外にもバレンタインは毎年お世話になっていたりする。

 義理とはいえ、毎年チョコをもらえるというのは嬉しいものだ。ついついホワイトデーのお返しに力を入れてしまっていたのだ。もちろん葵ちゃんと瞳子ちゃんへのお返しはそれ以上の力の入れようである。おかげでお菓子作りをできるようになったのだ。

 

「赤城さんもいっしょのクラスで楽しくなりそうだね」

 

 葵ちゃんが俺の前に出て赤城さんと話す。ガールズトークの雰囲気を察して俺は自分の席へと向かった。

 

「げっ」

 

 瞳子ちゃんがらしくない声を漏らした。なんだろうかと思って彼女の顔を見ると、まるで嫌いな食べ物が食卓に並んでしまったかのような顔をしていた。

 

「瞳子ちゃんどうしたの?」

「別に……なんでもないわよ」

 

 なんでもないような反応じゃなかった。瞳子ちゃんを見つめていると視線を向けていた方向に気づく。

 それを追って目を向けて見れば、俺は少しだけ体を硬直させてしまった。

 そこにいたのは一人の男子だった。まだ子供ながらにもかかわらず、イケメンオーラをこれでもかと放っている。

 俺はそいつを知っていた。そりゃそうだ。俺には前世の記憶があるんだからな。

 その男子の名前は本郷(ほんごう)永人(えいと)。将来超絶イケメンになる男子である。

 彼は葵ちゃんと同じように、小中と俺と同じ学校だったのだ。同級生全員を憶えているわけじゃないが、本郷のことはしっかりと憶えていた。

 前世での本郷永人は学校で一番のイケメンだった。宮坂葵が女子で一番かわいいのならば、男子で一番かっこいいのは彼なのだと誰もが迷うことなく答えていただろう。俺もその一人だった。

 本郷は外見がいいだけじゃなく、運動や勉強もできていた。とくに運動に関しては中学時代にサッカーですごいと騒がれていたのを憶えている。あの時は興味もなかったけれど、おそらく部活で良い成績が出せるほどには上手かったのだろう。

 そんなかっこいい本郷くんである。そりゃもうモテた。ものすごくモテていた。前世の人生の中で俺は彼以上にモテていた男を見たことがない。

 ただ救いなのは、前世で葵ちゃんと本郷の二人が付き合っていたという話は耳にしなかったことだ。よく美男美女でお似合いのカップルになるんじゃないかって言われていたのだが、結局中学を卒業してもそういう話はなかった。まあ実はこっそり誰にも気づかれないように付き合っていた、なんてことだったら知りようがないのだが。

 うーん……、どちらにしても警戒はした方がいいかな。気がついたら葵ちゃんも瞳子ちゃんも本郷に夢中になってました、だなんて嫌過ぎる。

 それにしても、まさかここで彼と同じクラスになってしまうとは。前世では小中学校の九年間で一度も同じクラスにならなかったのになぁ……。なんだか試練でも与えられている気分だ。

 

「瞳子ちゃん。あいつに話しかけちゃダメだよ」

 

 俺は本郷を指差しながら言った。我ながら小さい男である。それがわかっていても言わずにはいられなかったのだ。

 

「話しかけないわよ。そもそも俊成って本郷のこと知ってたの?」

「……いや、知らないけどね」

 

 あくまで前世は前世である。今世で同じようにいくとは限らないし、本郷がモテモテになるとは限らない。……でもこのイケメンオーラを見てしまうとやっぱりモテそうなんだよなぁ……。

 

「というか瞳子ちゃんはあいつのこと知ってるの?」

「まあ……去年同じクラスだったしね」

「まさか言い寄られたりとか?」

 

 ごくりと唾を飲み込む。緊張する俺とは対照的に瞳子ちゃんは手を横に振って「ないわよ」とあっけらかんと言った。

 

「あたしが嫌いなタイプってだけよ。ただそれだけ」

「ほ、本当にそれだけ? 実はかっこいいとか思ってるんじゃない?」

「ん? もしかして俊成、妬いてるの?」

「なっ!?」

 

 俺が嫉妬!? いやいや小四なんてまだまだお子様ですよ? いくら俺が葵ちゃんと瞳子ちゃんが好きとはいえ子供に嫉妬だなんて、そんなことないってば!

 

「俊成変な顔になってるー」

 

 瞳子ちゃんはふふっ、と笑いながら俺の肩を指で突っついてきた。なんかすごく恥ずかしい……。

 なんだか四年二組はいろいろと目立つ人が集まってしまったようだ。同じクラスというのもあり、毎日が気を抜けない日々になるかもしれない。そう考えて気を引き締めた。

 

「高木くんおはようさん。今年もよろしゅうなー」

 

 佐藤の顔を見たら一気にリラックスできた。これで佐藤とは四年連続で同じクラスになったのだった。

 

 



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26.俺達サッカー少年少女

 小学生の体育の授業は男女合同である。

 本日はサッカーをやっている。ひとチーム十人くらいで三チーム作っての総当たり戦だ。

 球技は大人気でみんなテンションを上げている。まあ冬にやるマラソンや縄跳びよりも面白いのは認める。

 

「サッカーかぁ……」

 

 葵ちゃんはあんまりサッカーが好きではないようだ。というか体育全般嫌いだよね。

 それでもすぐに暗い顔をぱっと明るくさせて俺を見た。

 

「トシくん。いっしょのチームになろうね!」

「いや、俺が決めるわけじゃないからね」

 

 チーム分けはくじ引きである。時間も限られているので早速くじ引きが行われる。

 先生から先端を赤・青・黄で色分けされている棒の束を差し出される。迷うもんでもないのでさっさと引っこ抜いた。棒の先端は青色。俺は青チームとなった。

 

「青、か」

「青、ね」

 

 振り返ると、葵ちゃんと瞳子ちゃんが俺が引いた棒を見つめていた。二人とも真剣な目をしていた。

 

「はい、次は宮坂だな」

 

 そう言って先生が葵ちゃんに棒の束を差し出す。彼女は両手を組んで祈りのポーズを作った。

 カッ、と目を見開き長いまつ毛が揺れる。勢いよく一本の棒を掴むと、その勢いのまま引き抜いた。

 

「宮坂は赤チームだな。はい、次ー」

 

 無情にも先生の声が響く。葵ちゃんはがっくりとうなだれた。

 

「ふっ、あたしがくじ引きに強いってところを見せてあげるわ」

 

 くじに強いも弱いもないと思うのだが。それでも瞳子ちゃんは自信満々である。その自信はどこからきているのやら。

 瞳子ちゃんは大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。精神を落ち着かせているらしい。

 葵ちゃんとは反対に、彼女はゆっくりとした動作で一本の棒を取った。

 

「やった! やったわ俊成!」

 

 俺の方に振り返った瞳子ちゃんの手には、青チームだと証明するくじの結果があった。

 瞳子ちゃんは大はしゃぎ。対する葵ちゃんはますますがっくりしてしまった。なんか試合が始まる前に勝負が決してしまったかのようだ。

 

「高木。あたしも青チーム」

「おっ、よろしくね赤城さん」

 

 わざわざ赤城さんが報告してくれた。さてさて、他のチームはどうなってるのやら。

 

「僕赤チームや。高木くんとは敵同士やね」

「マジかー。でも手加減しないぜ佐藤」

「お手柔らかになー」

 

 佐藤とは別のチームになってしまったか。くじだから仕方ないけどな。

 赤青黄チームそれぞれ分かれて作戦会議をする。ポジションを決めとかないとな。まあ体育のサッカーなんてキーパーさえ決められればあとはお任せって感じだろう。本格的にやっている奴がいなけりゃ作戦も立てようがないしな。

 授業時間中に全試合をするので一試合十分程度のものだ。まあ一チーム二試合するのでポジションを変更するのもありだろう。みんなボールに触りたいだろうし、ずっとキーパーを一人だけにさせるのはいけない。

 一応のポジションを決めてはみるが、たぶんあんまり意味がないだろうな。小学生のサッカーなんてみんなボールに触りたいからポジション関係なくボールの方に群がっちゃうだろうしね。

 まあサッカーは楽しめてなんぼでしょ。プロでも部活ですらもないんだから。

 俺は最初の試合はキーパーをすることにした。みんな嫌がってるし、ここは俺がキーパーをした方がいいだろう。サッカーはお遊び程度だったけど前世で楽しんだからな。できるだけみんなにも楽しんでもらいたいものだ。

 

「ちょっと! 俊成運動神経いいんだから攻めなさいよ!」

 

 瞳子ちゃんに文句を言われてしまったけれど、まあ二試合はやるのだし一試合くらいはキーパーをやった方がいいだろう。みんながんばってー。

 最初の試合は黄チームとだった。案の定みんなボールに群がって蹴りまくっている。一応体育でボールの蹴り方だとかは教えてもらっているんだけど、試合になると一生懸命でそんな技術は頭から離れてしまっているようだ。力任せに蹴られてボールが飛んだ。

 そこで活躍したのは瞳子ちゃんだった。彼女は女子の中でダントツの運動能力を誇る。小学生のサッカーでは技術うんぬんよりも運動能力の高さがものをいうようだ。

 俺はたまにくるシュートを確実に防いだ。みんな素直だからどこにシュートするかわかっちゃうんだよな。子供の時にはなかった視野の広さが今の俺にはあった。

 時間がきて青チームが勝利した。そのまま続けて赤チームとの試合になる。連戦でも子供は元気だ。

 赤チームは葵ちゃんと佐藤がいる。それともう一人。

 

「よろしく」

 

 敵である青チームを相手に丁寧にあいさつをするイケメン小学生。本郷永人が赤チームの一員だった。

 前世でものすごい奴だってのは知っている。だけどまだ小学四年生だ。負けるわけにはいかない。これでも今世では鍛えてるんだから。

 ポジションをチェンジして俺は前線に上がった。作戦を立てられるようなチームでもないので自由だ。あえて作戦名をつけるのなら「ガンガンいこうぜ」ってことで。

 キックオフは赤チームからだ。早速本郷がボールを持った。

 当然のようにみんなボールに群がっていく。しかし本郷はそれを簡単にかわしていく。まるでボールが生きているかのように操っていた。

 いやいやそれ小学生のレベルじゃないだろ! 一分も経たないうちに本郷のサッカーレベルの高さに驚愕させられる。

 

「止めるわよ!」

 

 瞳子ちゃんが果敢にも本郷の前に立ちはだかる。それに慌てることなく、本郷はふっと息を吐いた。

 その隙を逃すまいと瞳子ちゃんがボールを奪いにいく。だが、次の瞬間にはかわされてしまっていた。

 瞳子ちゃんですらあっさり抜かれてしまうだなんて。あいつはどこのつばさくんだよ。

 これ以上行かせてしまえばゴールされてしまう。俺は本郷の前に出てドリブルを止める。

 リズム感のある動きで体を左右に振っている。フェイントに引っ掛からないように気をつけた。

 本郷の背後からはボールを求めて他の子達が走ってきている。このまま前進させるのを防いでいるだけでも守りはできている。

 本郷がふっと息を吐いた。その瞬間、俺は彼の目を見た。

 

「あっ」

 

 しまったという声が漏れる。その声の主は本郷だった。

 彼の視線から左右どちらに抜こうとするのか予測したのだ。その予測は正解。見事ボールを奪うことに成功した。

 まだボールばかりに目が行ってしまう子ばかりだ。だからこそ彼も目線でのフェイントをしなかったのだろう。そんなことができるかまでは知らないけど。

 奪ったボールを蹴り上げてあとは任せることにした。本郷に抜かれてから前線で待っていたらしい瞳子ちゃんにボールが渡りゴールを決めてくれた。

 

「やったわ俊成!」

 

 飛び上がって喜びを表現する瞳子ちゃん。なんとなく瞳子ちゃんはサッカーも向いてるんじゃないかなって思った。

 

「ねえ君、名前は?」

 

 声に反応して振り返れば、本郷にじーっと見つめられていた。あっ、名前聞かれてるの俺か。

 

「高木俊成だけど」

「そっか……、憶えたよ」

 

 むしろ今まで名前も覚えられてなかったのか。クラスメートなのに……。

 そんなやり取りがありながらも試合は進む。少し離れた位置からボールが行ったり来たりするのを眺めていた。

 

「わわっ。どうしよっ」

 

 ボールが飛んだ先にいたのは葵ちゃんだった。足で止めたまではよかったものの、ボールに向かって殺到するみんなを見て葵ちゃんがパニックになる。

 

「宮坂さんこっち」

 

 さすがは佐藤。フォローが上手い。安心した葵ちゃんが佐藤にパスをする。

 とはいえ、前世の俺と同じで佐藤もそれほど運動ができるわけじゃない。まあ下手というわけでもないので無難にパスを出していた。

 

「よし! みんな行くぞ!」

 

 そのパスを受け取ったのは本郷だった。彼が一声かけるだけで赤チームの気が引き締まったかのように見える。これがリーダーシップってやつなのか。

 ドリブルで切り込んでくる。やっぱりサッカーが上手な本郷からは誰もボールを取れなかった。小学四年生にしてかなりの差を見せつけてくる。

 俺が本郷の前に行くと、一旦ボールを止めてフェイントをかけてくる。俺にはそんな技術はマネできないだろう。それでもゴールはさせてやらない。

 

「えい」

「あ」

 

 するりと本郷の後ろから赤城さんがボールを奪い取った。視界には入っていたのだろうが、俺も気づかなかった。赤城さんはミスディレクションでもできるのか?

 目立たないけど赤城さんもけっこう運動ができる子だ。油断をしてはいけないらしい。

 本郷がぐぬぬと悔しがる。なんだ、そんな顔もするのか。爽やかスマイルしかしない奴だったらどうしようかと思った。

 子供らしく負けず嫌いな面が出ているようだ。そんなところにちょっとだけ好感を持てた。

 などと気を緩めてしまっていたのか。次の本郷の攻めにはやられてしまい、ゴールを決められてしまった。

 

「ぐぬぬ……」

 

 今度は俺がぐぬぬをする番だった。それを見た本郷がふっと笑う。余計にぐぬぬしてしまった。

 

「悔しがるんだったら俊成も攻めなさいよ」

 

 瞳子ちゃんは攻撃は最大の防御と言わんばかりに俺の尻を叩いてくる。実力がある人ってのはみんな負けず嫌いなのかね。

 そんなわけで俺と瞳子ちゃんのツートップで攻めていく。足の速い俺たちになかなか追いつける子はいなかった。

 

「通さないよ」

 

 本郷に回り込まれた。俺は逃げるを選択する。

 

「ナイスパス!」

 

 瞳子ちゃんにパスをした。いくら本郷がサッカーが上手くても二人相手ではきついだろう。

 しかし本郷は諦めない。走ってすぐに瞳子ちゃんに追いついた。ていうか足速いな。もしかして俺よりも速くない?

 追いつかれてしまえば瞳子ちゃんは苦しいようだ。俺に目を向けてくる。

 パスを受け取るために動く。その動きを察して瞳子ちゃんのパスが飛んだ。ボールを受け取ったところで、目の前に誰かがいるのに気づく。

 

「トシくん、勝負!」

 

 ふんすと鼻を鳴らす葵ちゃんだった。真剣な面持ちで俺と向かい合う。

 

「……」

 

 正直隙だらけだ。抜こうと思えば抜ける気がする。

 それでもなんか躊躇っちゃうな。俺に抜かれて泣いたりなんかしないよね? 葵ちゃんの涙目には未だに弱いのだ。

 

「俊成何やってるの! そっち行ったわよ!」

 

 瞳子ちゃんの声が飛んでくる。見れば本郷が俺に向かって突進していた。

 やべっ。瞳子ちゃんにパスを出そうにも葵ちゃんの体がパスコースを塞いでいた。ここは葵ちゃんを抜いてから瞳子ちゃんにパスを出そう。

 そう決めると、俺はドリブルで葵ちゃんの右に突っ込んだ。

 

「うわっ!?」

「きゃあっ!」

 

 抜けると思ったのだが、タイミングよく葵ちゃんが俺の進行方向に体を滑らせていた。まるで予測したかのような絶妙のタイミングだった。

 俺は葵ちゃんとぶつかり、彼女を巻き込みながら倒れてしまう。葵ちゃんにケガをさせないように下になろうとしたのだが、失敗してしまった。

 

「いてて……」

 

 庇うのに失敗して変な体勢になってしまった。葵ちゃんは大丈夫だろうか?

 

「トシくん……」

 

 葵ちゃんの声が頭の上から降ってきた。声を認識して、なんだか感触がおかしいことに気づく。

 顔のあたりが柔らかいような。手を動かすとむにゅりとした感触が返ってきた。

 

「やん」

 

 葵ちゃんのなんとも言えない声色に驚いてしまう。そこで我に返った。思いっきり葵ちゃんを押し倒していたのだ。

 俺は倒れた拍子に葵ちゃんの胸に顔を押しつけてしまっていた。確かな膨らみと柔らかさを顔で感じる。

 さらに、葵ちゃんを守ろうとしたのだろう。俺の手が彼女の背面に触れていた。もっと厳密に言えば、ブルマに包まれたお尻を掴んでいた。

 

「~~~~!?」

 

 俺はうろたえた。もう自分でもびっくりするくらいうろたえた。大人の余裕なんて存在しなかった。

 そんな俺を落ち着かせようとしたのだろう。葵ちゃんはこんなことを言い放った。

 

「……いいよ。トシくんになら。何も心配してないから」

 

 俺の顔が真っ赤になってしまったのは言うまでもない。

 俺と葵ちゃんはケガをしていないか確認するためにグラウンドを出た。俺に軽い擦り傷があったので、葵ちゃんが付き添いという形で保健室へとつれて行ってくれた。

 その後、赤チームと青チームの試合は二対二で引き分けに終わったらしい。本郷が華麗にゴールを決めて、瞳子ちゃんが執念のゴールを決めたのだとか。

 佐藤が言うにはあの後の瞳子ちゃんはかなり恐かったのだとか。なんかすまんかった。

 

 



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27.たくましい子

 四年生にもなれば年下の面倒を見たりもする。

 朝の登校では下級生を見てやらなければならない。前を見ていなかったり、危ない子は突然道路を飛びだそうとする。事故に遭わないためにも注意してやらなければならないのだ。

 

「ほらほらー。危ないからちゃんと前見ろよー」

 

 俺が注意すると低学年の子達がきゃっきゃと笑う。

 

「はーい、わかりましたー」

「わかってるよトシ兄ちゃん」

「トシお兄ちゃんこそ葵お姉ちゃんの方ばっかりみてたらいけないんだよー」

「いけないんだー」

 

 低学年の子達にからかわれてしまうとは。なんだかやり返された気分。ちゃんと注意を聞いてくれているからいいけどさ。

 

「私の方ばっかり見てるの?」

「……ばっかりじゃないですよ。ちゃんと前見てます」

 

 隣にいる葵ちゃんに悪戯っぽく微笑まれる。からかわれると言っても低学年の子達からならそう慌てるものでもないらしい。

 今でも登校中では葵ちゃんと手を繋ぎながら歩いている。もう注意力がなくて事故に遭う心配はなさそうなのだが、一度習慣化してしまえばそれをやめるというのは難しかった。

 

「トシ兄ちゃんと葵姉ちゃん仲良しだなー」

「違うよ。ラブラブなんだよ」

「あっちっちー。あっちっちっだー」

 

 俺と葵ちゃんを見て下級生が騒ぎだす。はいはい前向いて歩こうねー。

 兄ちゃんと呼ばれるのは新鮮だ。ちょっと照れくさいが慕われている感じがして嬉しい。兄妹がいないから余計にそう思うのかな。

 ちなみにトシと呼ばれるのは完全に葵ちゃんの影響である。子供ってそういうところまでマネしたがるもんなんだな。

 

「おい、うるさいぞ。こっから車通りが多くなるんだからな」

「ごめんね野沢くん。ほらー、みんなちゃんと前見てないと車に轢かれちゃうぞー」

 

 班長の男子に注意されてしまう。俺は低学年の子達に注意を促す。

 今年の登校の班長は六年生の野沢(のざわ)拓海(たくみ)という男の子である。名字から察せられるかもしれないが、野沢先輩の弟さんである。

 俺が一年生の時は彼は三年生だった。その時は子供らしくてかわいかった印象なのだが、最上級生ともなれば責任が芽生えるのかビシビシ注意してくる。さすがは高学年だ。

 

「おい高木! 車がきてるぞ。宮坂と手を離して端へ寄れ」

 

 細い道に入ったところで車がきた。この道は車が一台分しか通れないくらいの幅しかないので、いざきてしまうと一列になって端に寄らなければならなかった。

 細い道の通学路というのもあり普段はほとんど車がこない道なんだけどな。仕方がないから葵ちゃんから手を離そうとして、ぎゅっと握られてしまった。

 

「葵ちゃん?」

「くっつけば大丈夫だよ」

 

 ニッコリと笑う葵ちゃんだった。車がゆっくりと通過する。葵ちゃんは車が通過するまで俺に身を寄せていた。

 

「おい! 手を離せって言っただろ!」

 

 野沢くんが怒った。姉とは違って彼はちょっと怒りっぽい。

 

「ごめんなさい。私が手を離したくなかったの。ダメ、ですか?」

「うっ……」

 

 葵ちゃんの言葉に野沢くんはたじろいだ。超絶かわいい葵ちゃんにそんな風に言われてしまえば、大抵の男子はダメだなんて口にはできない。

「しょうがねえな」と渋々ながらも引き下がる野沢くんを見て、葵ちゃんは俺にしかわからないようにぺろっと舌を出した。なんかたくましくなったね葵ちゃん。

 小さい頃は男の子という存在が本当に苦手だった彼女だけれど、学年が上がるごとに苦手意識がなくなっていったようだった。葵ちゃんの美貌もあってか、もう彼女をいじめようとする男子はいなくなっていた。

 学校に着いて低学年の子達を見送ってから下駄箱へと向かう。靴を脱いだところでばんっ、と勢いよく後ろから両肩を掴まれた。

 何事!? 驚き過ぎて悲鳴を漏らす暇さえなかった。振り返ると小川さんがいた。

 

「高木くんちょうどよかったわ! お願い、国語の教科書貸してー」

「はい?」

「今日一時間目から国語があるのに忘れちゃったのよー。すぐ返すから貸して!」

 

 両手を合わせてお願いのポーズをされる。小川さんには未だに身長で負けているので、お願いと言いつつ迫ってくる姿はまるで強迫されているようであった。

 

「まあ、国語は四時間目だからいいけど」

「ほんと? よかった~」

 

 小川さんとは三年生の時に同じ組だった。けっこう忘れ物が多い子だったために、去年は毎回その癖をなくすように言い聞かせていたのだが。クラスが別になってまた忘れ物癖が発症してしまったらしい。

 そんな風に彼女の忘れ物を注意していたからなのだろう。四年生になっても俺に頼りにきたようだ。

 

「真奈美ちゃん?」

「わっ!? あ、あおっち?」

 

 ぽん、と小川さんの肩に葵ちゃんの手が置かれる。どうやら小川さんは葵ちゃんに気づいていなかったようだ。

 

「忘れ物したんだったら私が教科書を貸してあげるよ。ね?」

「あ、うん……。借りられればどっちでもいいんだけど」

「じゃあ私が貸してあげるね」

 

 俺はランドセルの中に入れていた手を引っ込めた。物の貸し借りなら同性同士の方がいいだろう。

 葵ちゃんから国語の教科書を借りると、小川さんは「ありがとー」と手を振りながら自分の教室へと走り去ってしまった。廊下を走っちゃダメでしょうに。

 まったく小川さんはそそっかしいな。でもあれくらい隙があった方が付き合いやすいのかもしれない。前世の通り、彼女には友達がたくさんいるみたいだしな。

 

「トシくんは優しいよね」

「うん?」

 

 葵ちゃんがぽつりと言った。聞き返そうとする前に手を握られた。

 

「葵ちゃん?」

 

 登校中では手を繋ぐけれども、学校に着いてまではあまりない。それこそ瞳子ちゃんがいれば対抗するように手を握ってくるのだが、今日はまだ姿を見ていなかった。

 

「教室に行こっか」

「あ、うん」

 

 笑顔でそう言われてしまえば聞き返すこともできない。俺は葵ちゃんに手を引かれながら教室へと向かった。

 四年二組の教室前で瞳子ちゃんと小川さんが何やら話をしていた。小川さんが国語の教科書を持っているのを見るに、自分の教室に行く前に瞳子ちゃんに呼び止められたのだろうか。

 

「それじゃあよろしくね小川さん」

「わかってるよー。きのぴーは心配性だよね」

 

 きのぴー? それって瞳子ちゃんのことか? 小川さんからあだ名で呼ばれているなんて、あの二人って仲良かったっけ?

 珍しい組み合わせを見て固まってしまっていたのだろう。瞳子ちゃんに気づかれて不審なものを見るような目をされた。

 

「あたしの前で手を繋ぐなんていい度胸じゃない」

 

 あ、そっち? いやまあそれはそれでいつも通りなんだけれども。

 小川さんは今度こそ自分の教室へと行った。瞳子ちゃんはこっちへとずんずん近づいてくる。葵ちゃんがぱっと手を離してあいさつをすると、毒気を抜かれたようにはぁと息を洩らした。

 

「小川さんと何の話をしてたの?」

「大した話じゃないわよ。ちょっと聞きたかったことがあっただけだから」

「でも二人が仲良しだなんて俺知らなかったよ。きのぴーとか呼ばれてたし」

 

 猫目のブルーアイズで睨まれた。あれ、俺怒らせるようなこと言ったかな?

 

「俊成、そのあだ名であたしを呼んだら怒るからね」

「……はい」

 

 本気の目だった。そんなに怒るようなあだ名で呼んでいる小川さんと何があって仲良くなったんだろうか。気になる……。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 学年が上がれば科目数は増えていき、「理科」や「社会」などが加わっている。他にも「家庭科」や「図工」などもあった。

 正直、小学生の内容なんて楽勝だろ、とか思っていた。だけどいざ新しい科目が増えていくと「こんなのやったっけか?」と首をかしげてしまうことがあった。

 あまりにも古い記憶だから忘れてしまっていたのか、そもそもしっかりと憶えていなかっただけなのか。どちらにせよ小学生だからって舐めてばかりはいられないようだ。

 今世ではテストで満点しか取ったことがない。自慢に聞こえるかもしれないが、そもそも小学生のテストなんて百点を取らせるようにできているのだ。当時はそんなこと一切思わなかったが今ならわかる。

 中学や高校と違って小学生のテストはこまめに行われる。これはテストをすることによって復習をさせることが狙いだからなのだろう。だから俺以外にも百点を取っている子はそれなりにいたりする。

 

「見て見てトシくん。私百点満点だよ」

 

 国語のテストの答案が返ってくると葵ちゃんが笑顔で俺の元にきた。瞳子ちゃんは自分の答案と睨めっこしている。たぶん百点じゃなかったのだろう。

 なんだかんだで葵ちゃんと瞳子ちゃんは根が真面目というのもありテストはいつも高得点だった。今回瞳子ちゃんは見せにこないけど、九十点以上は取っているだろう。

 ちなみに教科が変われば二人の得意不得意が逆転したりする。算数になると瞳子ちゃんの方が得意で、葵ちゃんはちょっとばかり苦手だったりする。

 

「高木くん満点なんてすごいなー。僕なんか七十二点やで」

 

 安心しろ佐藤。前世の俺はお前とどっこいどっこいだった。今はどや顔しながら小学生のテストはうんたらと言っていられるが、当時の俺は小学生のテストですらひぃひぃだったよ。中学高校なんてお察しものだ。

 

「むぅ……」

 

 赤城さんが隅っこの方で唸っていた。気になってこっそり近寄ってみると、テストの点数がチラリと見えてしまった。

 

「っ!? 高木、見た?」

 

 急にビクリと体を震わせた赤城さんが振り向くと、バッチリ目が合ってしまった。無表情のままじと目を向けられる。

 

「……見てませんよ」

「嘘つかない」

 

 目を逸らそうとするとがっしり頬を掴まれた。何気にけっこう握力があるな。

 

「誰にも言っちゃダメ。わかった?」

「了解っす……」

 

 とりあえず、赤城さんにはあまり触れてやるな、とだけ言っておこう。

 赤城さんから離脱すると黄色い声の集団に気づいた。それは女子に囲まれた本郷だった。

 なんだろう、この絵に描いたようなモテ男は。それを嬉しそうにするどころか当然のように振る舞っている。小四でなんてメンタルしてやがる。

 

「本郷くん何点だったの?」

「きっといい点数なんだわ」

「運動ができて勉強もできるだなんて……素敵」

 

 女子から興味津々な目を向けられても本郷は動じていなかった。それどころか微笑みながら「秘密」と行って口元に人差し指を立てる。なんか背景に花が見えた気がした。

 運動と勉強ができるということであれば、今なら俺も条件に当てはまるのだが。え? ただしイケメンに限る? ですよねー。

 

「トシくん、どこ見てるのかな?」

「まさかあたし達がいてあれが羨ましい、だなんて思ってないでしょうね?」

 

 ニコニコと迫ってくる葵ちゃんとかけまして、目を吊り上げた瞳子ちゃんと解きます。その心は? どちらもプレッシャーがハンパじゃないでしょう!

 

 




活動報告にてアンケートをしています。よければ見てやってくださいな。


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28.習い事は順調です

 俺は週に二回英語教室へと通っている。

 講師には外国人がいるのでイントネーションの違いなどもわかりやすく教えられる。さすがは「将来英会話ができるようになる!」と謳い文句にしているだけはある。

 レッスン内容は座学はもちろんあるのだが、比重としてはマンツーマンでの会話などが多い。その相手は外国人講師であるケリー先生だ。メリハリのある欧米の女性である。

 

『トシナリはカレーライスが好きなんですか?』

『おかわりするくらいには好きですね。辛口はまだ食べられませんが』

『ワタシは辛口くらい食べられますよ』

『そりゃあケリー先生は大人ですもん』

『おっと、トイレに行きたくなりました。トシナリ、トイレはどこですか?』

『唐突ですね。ドアを出て突き当たりの右です』

『ありがとう。もうこれくらいなら問題ないですね』

 

 俺とケリー先生のマンツーマンでの会話が終了した。周りの子達が拍手してくれる。ちなみにさっきのは全部英語である。

 小学四年生になった現在。簡単な英会話ならできるようになっていた。

 この調子でいけば将来留学なんてこともできるだろうか。いや、まだそこまでは考えていないんだけれども。

 だけど、英語がしゃべれるというだけでも選択肢は広がる。将来英語を話せる人材は重宝されるというのは知っているからな。仕事求人でも英語を話せるというだけで給料がかなり上がる職種もあったほどだ。

 前世の時は英語に対する苦手意識が凄まじかったからな。学生時代で一番苦手な教科だった。今の調子でいけば、今回は英語が俺の強みになりそうだ。

 

『トシナリ。今日の発音は完璧でした。これならいつでも女の子をデートに誘えますね』

『今のところ外国の女性をデートに誘う予定はないんですが』

『おっと、トシナリにはもうカノジョがいるのでしたか』

『……まだいませんよ』

 

 ケリー先生は生徒達に対して本当に楽しそうに話しかけてくる。俺をからかうのは本当に楽しいんだろうけども。なんかもうウキウキとしているね。

 マンツーマンでの英会話でもアドリブが多い人だ。けれどそれが子供達にはウケがいいようで、みんな楽しんで英語を覚えている。俺もなんだかんだで雑談程度ならできるようになっているしな。

 ここの英語教室を選んで本当によかったと思う。やはりテストだけではなく、しっかりと自分のものにしてこそのスキルだからな。そういう意味では本場の英語に触れられるのは大きい。

 ケリー先生は日本語も問題なく話せるのだが、ある程度の日常会話を話せるようになった生徒にはレッスンが終わっても英語で話しかけてくる。日常的に英語を馴染ませようとする気遣いなのだろう。

 そんな気遣いが本当にあるのかどうか、ケリー先生はニカッと笑って言った。

 

『で? どっちと付き合うか決めたのですか?』

 

 悪意のかけらもなくツッコまれる。あまりにあっけらかんと尋ねてくるもんだから思わずむせてしまった。

 ケリー先生には葵ちゃんと瞳子ちゃんといっしょにいるところを見られたことがあったのだ。しかもタイミングが悪く、ちょうど俺を取り合うような形でケンカを始めてしまった時だったのだ。あまりケンカをしなくなったとはいえたまにそういうことが起こる。そのたまにの場面を目撃されてしまっていたのだった。

 それからというもの、レッスンが終わる度に俺の恋愛事情を尋ねてくるようになったのである。この野次馬的なところは小川さんと通ずるものがあるな。

 

『熟慮した上で、ちゃんと答えを出そうと思っております』

『うふふ。青春ですね』

 

 こっちはこれでも真剣なんだけどな。まあ言ったところで仕方のないところだけれども。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 俺は週に二回水泳教室へと通っている。

 ここでは瞳子ちゃんといっしょのスイミングスクールだ。こちらも小学一年生の頃からがんばっている。

 小学四年生から変化があったとすれば、俺ではなく瞳子ちゃんの方だった。

 

「そういえば選手コースに入ったんだよね。平日はほとんど泳ぎにきてるんでしょ? 他の習い事とかはどうしたの?」

「うーん……」

 

 瞳子ちゃんは濡らした髪を水泳キャップに入れながら口をもごもごさせる。髪が長いと大変だよね。

 小学四年生になって、彼女は選手コースという実力のある人だけが入れるところに入ったのだ。要は特別な子達の仲間入りをしたということである。

 

「まあ、他はやめたわ。じゃなきゃ選手コースでやってられないし」

「じゃあピアノとかも?」

 

 確かピアノは葵ちゃんといっしょのところに通っていたはずだ。それをやめると言って、葵ちゃんは何も言わなかったのだろうか?

 俺の質問に瞳子ちゃんは渋い顔をしていた。

 

「葵は……もう大丈夫よ。あの子のピアノの才能はあたしよりも上だもの」

 

 なんとなく声の調子が沈んでいるように聞こえた。それはまるで敗北宣言のようだった。

 なんでもそつなくこなす瞳子ちゃんが素直に自分よりも上だと認めるなんて。よほど葵ちゃんにはピアノの才能があるということなのだろうか?

 それでも葵ちゃんは送り迎えの関係でピアノに通っているのは週に一度だったと思うのだが。それなのにもう瞳子ちゃんを超えたのか? ちょっと信じられん。

 

「そんな顔するなら今度弾いてもらいなさいよ。本当に上手だから」

「んー、そうだね」

 

 葵ちゃんの家には練習用として電子ピアノがある。今度家に遊びに行った時にでも聞かせてもらおう。

 

「それよりも俊成はどうなのよ。あんたもコーチから選手コースを誘われたんでしょ?」

「うん、まあね」

 

 この水泳教室には通常コースと選手コースに分かれている。

 通常コースは楽しく学ぶ、という感じだが、選手コースではタイムが求められる。まず選手コースに入ろうと思っても基準のタイムをクリアしなければ入れないようになっているのだ。

 

「俺は選手コースとかはいいかな。ほら、英語教室も通ってるしさ。ちょっと本格的にはできないよ」

 

 本当の理由は水泳ばかりに時間を取られたくなかったからだ。選手コースに入ると週に五回は練習にこなければならなくなる。競泳選手になりたいわけでもないし、俺には習い事以外にもやっておきたいことがあるのだ。

 英語も水泳も、すべては将来のため。立派な男になるためには足りないことばかりだ。だからこそいろいろがんばらなければならないのだ。

 

「じゃあ大会とかは出ないんだ……」

 

 しゅんとする瞳子ちゃん。あれ、もしかして寂しいのか?

 選手コースに入ると記録会など大会に出るようになる。これは通常コースでは出られないのだそうだ。

 俺が選手コースに入らないということは、いっしょに大会に出られないということだ。瞳子ちゃんはそれが寂しいのだろう。

 

「や、もちろん瞳子ちゃんが大会に出る時は応援に行くよ。応援に行くくらいなら問題ないしさ」

「本当? きてくれる?」

「もちろん」

 

 そんな風に言われてこないわけがない。せっかく瞳子ちゃんが他の習い事をやめてまで水泳に打ち込もうとしているのだ。応援くらいはいくらでもする。

 

「あっ、そろそろ行かなきゃ。じゃあね俊成」

「うん。がんばってね瞳子ちゃん」

 

 時間がきたので瞳子ちゃんは選手コースの方に、俺は通常コースの方へと向かった。

 タイムなどでコース分けをされている。俺は通常コースでは一番速い組にいた。

 これでも一応選手コースに入るための基準タイムはクリアしているからね。通常コースに残っている子達でそのタイムをクリアしているのはあまりいなかった。

 慣れてくると水の中というのは気持ち良い場所だと感じる。一見動きにくそうだが、自由があって爽快なのだ。

 泳ぐ時は、がむしゃらに泳ぐのではなく、体の動きを一つ一つ連動させるイメージが重要だ。筋トレで鍛える筋肉を意識しながら動かすと効果が出るように、スポーツでの動きでも同じようにそういったイメージをしながら意識して動かすと結果が出やすくなる。いやー、前世のテレビでそういったことを言っていた気がするんだよな。テレビ情報もバカにはできないね。

 そんなわけで順調にタイムを伸ばしているのだった。たぶん、何も知らない状態の子供の俺だったらこんなにもタイムは伸びなかっただろうな。体だってよく食べ、よく寝て、よく動いているからか、前世よりも確実に大きくなっている。まあ平均身長をようやく超えたかどうかってくらいでしかないんだけどな。

 クロールに平泳ぎ、背泳ぎにバタフライ。とりあえず一通りは泳げるようになっただろう。「俺はフリーしか泳がない」なんて口にすることなく教わった泳ぎ方はしっかりとものにしていた。

 これだけ泳げれば夏に川や海に行った時でも溺れる心配はないだろう。毎年のように水難事故とかはあるからな。それが自分にだけはないだなんて断言はできない。気をつけるに越したことはないし、備えがあれば多少の安心感になるだろう。

 前世の俺よりは順調なのは確かだ。それでもちゃんと立派な男になれているのだろうかという不安が取り除けたわけではない。

 前世の記憶があるにも拘らず失敗したらどうしよう。そんな不安に襲われることがある。できるだけ新聞やニュースを見るようにして、ここは元々俺がいた世界で合っているんだよな? と自問自答もしていたりもする。

 小心者の俺だ。本当はもっと上手く生きるための術ってやつがあるのかもしれない。チート主人公みたいに楽勝な人生を送れるのかもしれない。

 だけど、どうしても失敗するのが恐いのだ。何がきっかけでそうなるかわからない。俺が知っている未来だっていつ変わってしまうかもわからないのだ。

 だからこそ、今できることだけはしっかりとやろうと思う。習い事だってそうだ。しっかりと身につける。一番信頼できるのは自分の力で身につけたもののはずだから。

 

 




アンケートご協力感謝してます。妄想力がチャージされておりますぞ。期限までまだありますので活動報告にて受け付けております。


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29.将来を見据えたクラブ活動

 毎朝の走り込みもすっかりと慣れていた。

 最初は早起きするのがきつかったり、疲れてしまって授業中に眠くなったりもしたけれど、今はもうそんなことはない。これが習慣化するということだろうか。

 慣れたら慣れたで公園の中だけでは物足りない感じがする。ダッシュする距離としては問題ないのだが、持久走をするのはちょっとな。ぐるぐると公園の中を回っているだけじゃあ面白味がない。

 だけどあまり遠くに行かないようにと母から言われている。朝早くからだって近所の公園だからこそ許可されているのだ。小学四年生にもなったし、そろそろ許可してもらえないだろうか。

 今朝も準備体操をしてから走り込みを始める。近所のおじいさんが散歩をしにきていたのであいさつをする。中には体操をしに公園を訪れている人もいた。始めたばかりの一年生の時はあまり人がいなかったと思うのだが、現在は適度な運動を意識してなのか、朝の公園に人が増えていた。

 軽くランニングをしてからダッシュを何本も繰り返す。ダッシュ力の向上は確かに出ていた。前世ではそこそこでしかなかった脚力は今では学年トップクラスである。まあ本郷には負けてしまったけどな。

 脚の前側ではなく後ろ側の筋肉を使うように意識する。確か後ろ側の筋肉を使う方が短距離では速いのだと、前世で読んだスポーツ漫画で言ってた気がするのだ。

 最初は筋肉の意識なんてよくわからなかった。それでもこうやって何年も続けていれば感覚としてわかってくるものである。

 息が上がるまでダッシュを繰り返した。その後は持久走だ。公園の端っこに沿って走る。

 これも最初はそれほど時間が経過していないのにすぐ苦しくなったものである。ただ体力は水泳をしていることもあってかメキメキと上がっていった。

 こうやって努力を重ねているおかげもあって俺の運動能力は上がっている。それは確かだ。それでもすでに俺よりも優秀な同世代はいるのだ。

 サッカーでは本郷に一対一で勝てないし、水泳では瞳子ちゃんよりもタイムが下だったりする。同じ学校の中でさえこれなのだから全国的に見れば俺よりも優秀な小学四年生はたくさんいるのだろう。

 逆行していてもやっぱり天才にはなれないらしい。それで下を向く理由にはならないんだろうけどな。

 

「あっ、俊成くんだ。今日もがんばってるんだねー」

 

 柔らかい声がしてそちらを向けば、自転車を押しながら公園に入ってくる野沢先輩の姿があった。

 中学生である野沢先輩は学校指定のセーラー服である。小学校の制服と違ってまた大人っぽい装いになったと思う。

 野沢先輩は今中学二年生だったか。一番体の成長の幅が大きい時期だろう。実際、体にも女性らしさが出てきた気がする。

 微笑む表情からは年下に対する優しさを感じる。小学校を卒業しても野沢先輩は俺をかわいがってくれていた。

 

「野沢先輩おはようございます。朝練はいいんですか?」

「もちろん朝練には行くよー。でも私だって先輩になったからね。後輩が練習の準備をしてくれるようになったからもうちょっとだけ時間があるんだ」

 

 野沢先輩は「先輩」を強調して胸を張る。後輩ができて嬉しいようだった。かわいい。

 彼女は中学生になって陸上部に所属していた。小学生時代は俺と毎朝走り込みをして水泳もがんばっていた。がんばっている野沢先輩は中学でもその努力を続けて、中二ですでに陸上部のエースとして活躍していた。

 

「俊成くんは毎日走ってるんだ?」

「雨が降った時なんかはさすがに走ってないですけどね。その時は家の中でできる体操をしてます」

「ふぅん。なんだか体もたくましくなってるね。初めて会った時はこんなにも小さかったのに」

 

 そう言いながら野沢先輩は親指と人差し指でこれくらいと大きさを示す。それだと豆粒くらいの大きさになっちゃいますけどね。

 野沢先輩は俺の頭から足の先まで目を走らせる。ふむふむ、と呟きながら俺の体をぺたぺたと触り始めた。

 

「え、せ、先輩っ!?」

「なかなか引き締ってるよね。本当にいい脚だと思うよ」

 

 勝手に納得するように頷いて俺の両脚を両手で挟む。感触を確かめるようにぎゅっぎゅっと握られる。

 動悸が激しいのは走って乱れただけじゃない。女性として体が成長した年上のお姉さんに触られるのは、なんというかこう……やばいのです!

 俺が固まっているとその様子にようやく気づいてくれた。野沢先輩は「いきなりごめんね」と謝りながら手を離してくれた。手の温かさが消えてちょっと寒くなった。

 

「中学生になったら陸上部に入りなよ。俊成くんならいいタイム出せると思うよ」

「いや、俺が中学生になる頃って野沢先輩いないじゃないですか」

「ん? そうだけど」

「野沢先輩がいないんだったらあんまり陸上に興味持てないです」

「……ふふっ、かわいいなぁ」

 

 陸上はちょっとマイナーな感じもするからね。まあオリンピックだとけっこう目立つ競技ではあるんだけども。

 それに、すでに足の速さでは本郷に負けてしまっているのだ。足のスペシャリストが集まる陸上の世界で簡単にやっていけるとも思えない。

 

「じゃあ中学での部活は別のに興味があったりするの?」

「いえ、まだ中学のことなんて考えてないですよ。今年からクラブ活動がありますからね。まずはそっちです」

「あー、クラブ活動って四年生からだったよね。懐かしいなぁ」

 

 野沢先輩は懐かしそうに目を細める。まだ過去を懐かしむ年齢でもないと思うのだが。

 うちの学校では四年生から六年生までクラブ活動というものがあるのだ。これは授業の一環なので時間割に入っている。

 クラブ活動には陸上やサッカーなどの運動系はもちろん、手芸や漫画研究などの文化系クラブもある。レクリエーションクラブなんていう自由に遊びを考えて実行するというものまであるのだ。本当にいろんなのがあるな。

 その中から俺が選んだクラブとは……、それは将棋クラブである!

 ……意外と思われるかもしれない。俺も最初は考えてなかったからな。

 四年生は初めてクラブ活動をやるので、最初は説明会みたいなものが行われた。それから各々どのクラブに入るか決めるのだが、ここで揉めたのは葵ちゃんと瞳子ちゃんだった。

 俺がどのクラブに入るかで二人の意見は対立した。瞳子ちゃんは運動クラブを、葵ちゃんは文化クラブを主張。意見がかみ合わずに言い合いに発展してしまった。

 俺の意見は? と立ち尽くすわけにもいかないので俺は二人の間に入った。落としどころはどこかと考えた。

 葵ちゃんはあまり運動ができない。どのスポーツをやらせてもあまり期待はできないだろう。一応あまり動かなくてもよさそうな卓球はどうかと提案したのだが、これには二人揃って渋い顔をされてしまった。なぜだ。

 横から空気を読まない本郷が「高木、サッカーやろうぜ!」とか言ってきたけど無視させてもらった。瞳子ちゃんなんかは「サッカーはないわね」と言う始末。瞳子ちゃんはなぜか本郷に対して冷たい。

 そんなわけで文化クラブの方に目を向けてみた。葵ちゃんはピアノをやっているし、瞳子ちゃんもやめたとはいえ経験があるという理由で音楽クラブを挙げてみた。まあ俺はあんまりできないんだけども。

 しかしこれもなぜか却下される。これまた二人して渋い顔をしていた。よくわからん。

 将来漫画家とかどうかな? とちょっと目指していたのもあって漫画研究クラブに目を向けた。けれど瞳子ちゃんだけじゃなく、葵ちゃんにさえ俺は絵の上手さで負けてしまっていたのだ。というか一向に上達してないし……。もうこれはさすがに才能がないだろうと思って諦めたので却下した。

 そこで見つけたのが将棋クラブだった。

 前世で社会人になってから上司に誘われて将棋を指す機会があった。駒の動かし方くらいは知っていたので相手をさせられたのだ。

 最初は接待みたいな感じだなとげんなりしていたのだが、その上司が戦法や囲いなど丁寧に教えてくれたのだ。しかも将棋を指したということで仲間意識が芽生えたのか、仕事でその上司にたくさんお世話になった。

 なんだかんだで前世の俺がまあまあの位置にいられたのは将棋のおかげと言っても決して間違いではないのかもしれない。将棋がなければその上司から目をかけられることもなかったのかもしれない。その辺はもしもの話になってしまうのだが。

 そんなちょっと思い入れのあるゲームである。麻雀は少しトラブルもあったし、俺は大人の遊びとして将棋を推すね。

 数あるクラブの中を見渡しても将棋には将来性があると感じてしまったのだ。またそういった上司に出会えるかもしれないし、もしかしたらプロとか目指せるかも? とか考えた。

 前世では中学生という若さで連勝しまくった子がいたからな。ニュースで取り上げられるくらいすごかった。これからがんばれば俺だってもしかしたらいけるかもしれないと、その時思ったのだ。思っちゃったのである。

 でも将棋は女の子には受けが悪いだろう。アピールとして将棋は頭脳のスポーツだとか、知性があって魅力的だよね、とかいろいろと良いことを言ってみた。その時に葵ちゃんと瞳子ちゃんがしばし見つめ合ったかと思えば了承の頷きを同時にしてくれたのだ。これにはちょっと二人の好みがわからないと思ってしまった。

 その後、将棋クラブに入る小学生はあまりいないだろうと思って佐藤を誘った。するとセットでついてくるといった感じで赤城さんもついてきた。

 俺がそんな流れを野沢先輩に説明すると、彼女はぽんと手を打った。

 

「あー、そうそう。そういえば拓海がそんなこと言ってたねー」

 

 やっぱり聞いていたのか……。

 野沢先輩のこの反応の通り、弟である野沢くんは俺が将棋クラブに入ったことを知っている。なぜなら彼も将棋クラブに所属しているからである。

 俺が将棋クラブに入って「小学生相手に無双してやるぜ!」などと考えながら意気揚々としていた時。初めて対戦したのがその野沢くんだったのだ。

 その結果は? ……はい、あっさりと捻り潰されました。

 野沢先輩は運動で優秀だったが、その弟さんは将棋で優秀だったのだ。クラブの先生でさえ勝てないくらい強いのだとか。負けた後に「今度は飛車角落ちでやってやるよ」と言われた時の悔しさったらない。もう将棋でプロを目指すなんて絶対に口にしないと決めた。儚い夢でしたね……。

 

「でも意外。俊成くんは運動クラブに入ると思ってたから」

「まあ、運動だけじゃなくて頭の回転も鋭くしたいですからね」

「そっかー。すごいねー」

 

 まあ運動に関してはこうやって朝走ってるし、水泳だって続けている。体だけじゃなく、脳を鍛えるという風に考えれば、将棋クラブに入ったのは決して間違いではないのかもしれない。

 クラブ活動は学年が上がればまた変更もできる。今はせっかく選んだことをしっかりやっていこうじゃないか。

 

「野沢先輩、そろそろ朝練に行かないといけないんじゃないですか?」

「あっ、そうだね。それじゃあまたね俊成くん」

 

 俺と野沢先輩は互いに手を振って別れた。俺も帰って学校の準備をしなきゃな。

 今年から始まったクラブ活動、最初の目標は野沢くんにハンデなしで指せるようになることかな。頭の中で盤面を思い描きながら家路に就いた。

 

 



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30.春の遠足は山登り【挿絵あり】

 春には遠足がある。体操服を着てリュックを装備。さあ、出発だ!

 四年生での春の遠足は山登りだ。近場の山まで徒歩で向かう。小学生が昇る山なので高い山というわけではない。道は整えられていて歩きやすいし、今の涼しい時期なので動くとちょうどいいくらいだ。

 

「ふ、ふえ~……」

 

 それでも初めての登山に葵ちゃんはへろへろになっていた。息は上がり、足元はおぼつかない。控えめに見てもグロッキーだった。

 坂道とはいえなだらかなものだ。それでもそれなりの距離を歩いたせいか、葵ちゃんの顔には疲労の色が濃い。

 

「葵ちゃん大丈夫?」

「う、う~ん……」

 

 なんか目がぐるぐるしてる。葵ちゃんってこんなにも体力がなかったのか。運動が得意ではないのは知ってたけど、この体力のなさにはびっくりだ。

 

「大丈夫なの葵? ちょっと休んだ方がいいんじゃない?」

 

 こんな姿を見せられれば瞳子ちゃんは心配せずにはいられないだろう。葵ちゃんと並んで歩いている彼女にはまったく疲労はないようだった。

 俺や瞳子ちゃんは水泳をしているため体力はある。それでも他の子でも葵ちゃんほどにはへろへろになっていない。というか葵ちゃん以外は誰もへろへろになんてなっていなかった。

 

「とりあえず水分補給しようよ。ほら葵ちゃん、リュック持っててあげるからさ」

「ふぃ~……」

 

 本当に大丈夫かいな。なんかもうおんぶでもしてた方がいい気がしてくる。今にも倒れてしまいそうなんだもの。

 葵ちゃんは立ち止まって水筒に口をつける。ゴクゴクと喉を鳴らしていたけれど、ひぃひぃと息が整っていなかったためかむせてしまう。瞳子ちゃんが葵ちゃんの背を摩る。

 酸素が薄くなってしまうような高さの山でもないと思うのだが。まだ半分といったところ。この調子で頂上まで辿り着けるかはかなり疑問である。

 俺は自分のリュックから氷砂糖を取り出して一粒葵ちゃんに渡した。

 

「これ氷砂糖。疲れた時には甘い物だよ」

「あ、ありがと~……」

 

 俺から受け取った氷砂糖を葵ちゃんは口に入れる。コロコロと口の中で転がしていると、彼女の表情が少しだけ綻ぶ。

 この後もへろへろでありながらも、葵ちゃんはがんばって歩いた。頂上に辿り着いた葵ちゃんは達成感からか満面の笑顔となった。かわいいな。

 学校を出発してえっちらおっちら歩いてから、頂上に着いたのはもう昼だ。先に頂上に辿り着いていた子達はすでに昼食の弁当を食べていた。

 

「やっと着いたわね。早くお弁当を食べましょうよ」

 

 瞳子ちゃんがテキパキとシートを敷いて準備をする。その敷かれたシートに葵ちゃんは倒れ込んだ。ぐでーと伸びている。はしたないですよ葵ちゃん。

 

「やっときた」

 

 声に反応してみれば赤城さんがいた。彼女は俺達よりも早く到着していたようだ。というか俺達が最後なんだけども。

 赤城さんは俺達のシートに自分のシートをくっつけるように敷いた。もしかして俺達がくるまで弁当を食べなかったのだろうか?

 

「赤城さんあたし達を待ってくれてたの?」

「うん」

 

 ストレートに瞳子ちゃんに尋ねられて赤城さんは素直に頷いた。まあ運動会なんかはいつもいっしょだしね。

 

「ま、待たせちゃってごめんね~……」

「葵ちゃ~ん、無理してしゃべらなくてもいいんだよー」

 

 葵ちゃんの汗を拭ってあげながら言う。今は息を整えようか。

 少し休憩を挟んでから昼ご飯を食べることにした。

 みんなよりも遅れたこともあってか、俺達が弁当を食べている時には遊び始める子達がいた。鬼ごっこをしたり、「ヤッホー!」と叫ぶ子もいた。

 みんな元気だなぁ。まあ葵ちゃんが疲れ過ぎなだけなんだけども。

 弁当をぺろりと完食する。子供用の弁当箱なので小さい。いつも給食ではおかわりしていただけにちょっと物足りない。おいしかったけどね。

 おやつは二百円まで許可されていたので駄菓子をいろいろと取り揃えてみた。氷砂糖やラムネなんかは登山にいいらしいので買ってもらった。まあそんな本格的な登山じゃないけれども。

 

「う~……、あんまり食べる気しないよ~……。トシくん食べてー」

 

 そう言って葵ちゃんは自分の弁当を俺に差し出してきた。疲労のせいで食欲がないのだろう。彼女には悪いが物足りないと思っていたのでありがたい。

 

「じゃあ代わりにラムネあげるよ。これくらいなら食べられるでしょ?」

「うん、ありがとうトシくん」

 

 そうして葵ちゃんの弁当と俺のラムネとの交換が成立した。うん、葵ちゃんのお母さんの弁当もおいしいね。

 

「同じ箸を使うんだ」

 

 ふと赤城さんが口にした言葉に葵ちゃんが固まった。というか葵ちゃんの弁当に手をつけてから瞳子ちゃんの目つきが怪しくなっていた。見ないふりをしてたのに。

 子供の頃は間接キスとか意識していたような気がしなくもないけど、大人になったらあんまり気にしなくなったな。それって俺だけなのかな?

 

「ふぇ~……」

 

 などと考えていたら葵ちゃんがしぼんでいくように背中からシートへと倒れる。胸の大きさがモロにわかってしまった。これから期待できるな……。

 弁当を食べ終わると自由時間だ。葵ちゃんに走り回る体力が残っていないというのもあり、頂上から見える景色や山の植物を見て回ることにする。

 

「わぁ、あそこに小学校が見えるよ。すごくいい眺めだね」

 

 葵ちゃんは体力が回復したようで景色に夢中になっていた。また下山する前に疲れてなきゃいいけどね。

 

「あの虫は何かしら? うーん、図鑑がほしい……」

 

 瞳子ちゃんは木に張り付いている虫を眺めながら呟いている。小四になっても虫好きは相変わらずである。

 

「ねえ高木」

「どうしたの赤城さん?」

「これ、膨らまないんだけど」

 

 無表情のまま赤城さんが差し出してきたのはポテチだった。まだ開けられていないようで袋は密封されている。

 赤城さんが何を言っているかわからなくて首をかしげる。

 

「山の頂上に行ったらお菓子の袋が膨らむって聞いたんだけど」

「ああ……」

 

 まだ授業で気圧とかは習っていなかったからテレビからの知識だろうか。それか誰か大人に教えてもらったとか。どっちにしてもこのくらいの標高じゃあ膨らむなんてわかりやすいことにはならないだろう。山と呼べるほどの山でもないし。

 とりあえずもっと高い山に登らないとお菓子の袋は膨らまないよと教えてあげる。この辺はまた授業で教えてもらえるだろうし、簡単な説明でいいだろう。

「そう」と呟く赤城さんはちょっと残念そうだった。期待してたんだね。

 

「ねえ高木」

「どうしたの赤城さん?」

 

 今度はなんだろうか。そう思いながら彼女を見つめると、手にしているポテチの袋を再び差し出してきた。

 

「これ、いっしょに食べる?」

 

 なぜか無表情の赤城さんの顔がほんのちょっとだけ微笑んでいる気がした。

 俺は葵ちゃんと瞳子ちゃんを呼んで四人で景色を眺めながらポテチを食べた。自然の中でのポテチ。これもまた乙なものですな。

 食べ終えたポテチの袋を持ち帰るためのゴミ袋に入れてから場所を変える。一学年いることもあって、たくさんの子供達がいろんなところで遊び回っていた。

 

「あ、高木くんだ。もちろんあおっちときのぴーもいるよね。あれ、さらにもう一人……」

 

 女子グループが固まっているかと思いきや、小川さんのグループだった。俺に気づくと声をかけてくる。

 

「高木くんって男の子の友達はいないの? いっつもあおっちときのぴーといっしょじゃん。珍しく別の子といると思えば女子だし」

「し、失礼な! そんなわけないじゃないかっ」

 

 俺にだって男子の友達くらいいるさ。ほら、佐藤とか。……佐藤とか、佐藤……とか?

 ……あれ? 佐藤くらいしか名前が出てこないぞ? おかしいな、前世ではもっといたはずなのだが。俺の男友達って本当に佐藤だけ?

 なんだか焦りを感じて佐藤の姿を探す。すぐに見つけた。佐藤は他の男子達と鬼ごっこで遊んでいた。それを目撃してショックを受ける俺がいた。

 俺には佐藤しか男友達がいないのに、あいつは俺だけじゃないんだよな……。なんかへこむ。

 

「どんまい」

 

 へこんだ俺を見て気を遣ったつもりなのか、赤城さんに慰められた。余計にダメージを受けてしまうのですが……。

 

「そんなことはいいんだけど。小川さんちょっといい?」

 

 そんなことって……。瞳子ちゃんはへこんだ俺に構わず、小川さんと二人だけになって話を始めてしまった。何か用でもあるのだろうか?

 葵ちゃんは小川さんのグループの女子とも仲が良いらしく、何やらおしゃべりを始めてしまった。もちろん俺はその中には入っていけない。同じく入っていけないらしい赤城さんと言葉をかけ合った。

 

御子柴(みこしば)さん、新しいクラスは楽しい?」

「う、うん……、小川さん優しいから」

 

 すぐに瞳子ちゃんと小川さんの話は終わったみたいでこっちにくる。瞳子ちゃんは小川さんグループの中の一人の女子に話しかけた。

 一目見ただけで引っ込み思案な子だなという印象を持った。誤解を覚悟で言えばこんな大人しそうな子が小川さんのグループにいるのがちょっと不思議だった。

 まあ友達なんて明るいとか暗いとか、それだけのことで決めるものでもないしね。タイプが違うように見えてもウマが合うなんてこともある。

 その子は小川さんだけじゃなく瞳子ちゃんとも仲が良いみたいだし、二人が放っとけない何かがあるのかもしれない。二人とも面倒見のいいタイプだしね。

 小川さんのグループと別れてから俺たちは山の自然と戯れた。一番楽しそうにしていたのは瞳子ちゃんだった。緑の自然に囲まれて笑う瞳子ちゃんはとてもかわいかった。

 自由時間が終わったので先生が点呼を取る。これから学校へと戻るのだ。

 そして、再び葵ちゃんがへろへろになってしまうのは言うまでもないことであった。

 

 




素浪臼さんからカスタムキャストで作成したイラストをいただきました! ブルマが実装されたようですよ(ガン見)


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31.動物園へ行こう

R18と思ってはいけません。


 今年のGWは高木家、宮坂家、木之下家が揃って遠出の旅行をすることとなった。

 GWに三家族が集まって遊びに行くというのは毎年のことになっていたのだが、今年はそれぞれの両親が予定を合わせてくれたというのもあり、俺達は泊まりがけの旅行をすることとなったのだ。

 温泉旅館に泊まるらしいのでちょっぴり楽しみなのだ。温泉だなんて前世の社員旅行以来だな。

 

「トシくん。はい、あーん」

「俊成。あたしの方を食べるわよね?」

 

 行きの車内、後部座席の中心で俺は窮地に立たされていた。

 高木家の車の中、子供達はいっしょにということで俺達三人は揃って後部座席に座っていた。俺の右に葵ちゃん、左に瞳子ちゃんという布陣である。ちなみにもう一台の車は木之下家のもので、そこに宮坂夫婦も乗っている。

 それで今の状況を説明すると、目的地に着くまでに時間があるのでお菓子を食べようという話になったのだ。ただ問題だったのは葵ちゃんと瞳子ちゃんが同時にお菓子を開けてしまったということである。

 しかも開けたお菓子というのが「きのこのお山様」と「たけのこのお里様」である。これはもう戦待ったなしである。

 

「ほらトシくん、お口開けて? 私が食べさせてあげるから」

 

 きのこ軍の葵ちゃんが攻めてくる! きのこ軍の方がたけのこ軍よりもチョコの量が多いのだ。それはすなわち数の優位!

 

「こっち向いてよ俊成。ほら、あたしの方がおいしいから」

 

 負けずとたけのこ軍の瞳子ちゃんが攻めてきた! きのこ軍とは形を変え、チョコとクッキーを融合させている。それは単純に足し算をしたおいしさにあらず!

 この二つの軍はチョコを二層構造にして、互いに味を微妙に変えてきているのだ。なんたる策士であろうか!

 まさに甲乙つけがたい戦いである。前世でどっち派かの選挙なるものがあったが、やはりこれは個人の趣向の問題だ。各々好きなものこそがナンバーワンなのである。

 

「自分の息子がモテるだなんて、いつ見ても不思議よね」

「だねー」

 

 前の方で両親がほのぼのした調子で会話している。自分の息子のピンチなのですが。

 俺がどちらかを決めきれないでいると葵ちゃんと瞳子ちゃんが睨み合いを始めてしまった。それは俺を取り合っての戦いなのか、それともきのこかたけのこかの戦いなのか、微妙に判断できない。

 

「と、とりあえず葵ちゃんと瞳子ちゃんがお互いの分を食べさせ合ったらどうかな? ほら、どっちもおいしいしさ」

「むぅ~」

「ふんっ、なら決着をつけましょうか」

 

 きのことたけのこの戦いに巻き込まれてしまっては堪らない。葵ちゃんは頬を膨らませたが、瞳子ちゃんが乗ってくれた。

 葵ちゃんも意を決して瞳子ちゃんの口元にきのこ様を持って行く。それを見た瞳子ちゃんも同じようにたけのこ様を葵ちゃんの口に向かって差し出した。

 二人はお互いに食べさせ合いっこをする。互いに違う特色を持ったチョコとクッキーをくっつけたお菓子である。果たしてどちらに軍配が上がるのか。

 

「あ、おいしい」

「……おいしいじゃない」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんは見つめ合う。そしてもう一度互いの将を食べさせ合った。二人の口は笑みの形を作っていた。二つの軍が手を結んだ証だった。

 食が進んだ二人は俺の目の前でお菓子を完食してしまった。「はい、あーん」も葵ちゃんと瞳子ちゃんの二人だけで終えてしまった。あれ? こんなつもりじゃなかったんだけども。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 昼前には動物園へと到着した。今日は昼間に動物園で遊び、夕方には予約している旅館へと行く予定だ。

 

「ゾウさんだ! すっごいおっきいー!」

 

 初めての動物園に葵ちゃんは大はしゃぎである。瞳子ちゃんなんかはぽかんとしながらゾウを見上げている。実際に大きなゾウを見て圧倒されてしまっているようだった。

 

「ワォッ! すごいデスネ。大きいデス」

 

 瞳子ちゃんのお母さんもはしゃいでいた。もしかしたら動物園に来るのが初めてなのかもしれない。

 

「動物園なんて何年振りかしらね」

「だねー」

 

 俺の両親はほのぼのしたものである。懐かしむように周りの動物に目を向けていた。

 

「瞳子ー! ゾウさんと写真を撮ってやるぞー」

「何? こっちも写真だ! 葵ー! こっち向いてくれー」

 

 瞳子ちゃんと葵ちゃんのお父さんが対抗するようにカメラのシャッターを切る。こっちも別の意味ではしゃいでるな。ついていけないとでも思ったのか葵ちゃんのお母さんは俺の両親のもとへと行ってしまいましたが。

 パシャパシャとシャッター音に気づいた葵ちゃんと瞳子ちゃんの二人が俺の手を取った。ゾウを背景にして三人で撮影してもらった。

 いくつか見て回ってから昼ごはんとなった。動物園は広いのでここでエネルギーを補給しておかないとな。

 俺はハヤシライスを、葵ちゃんと瞳子ちゃんはナポリタンを注文した。小四なんて食べ方が汚くても仕方のない年齢だとは思うのだが、二人の食べ方は綺麗なものだった。口元を汚すことなく完食していた。家で食事マナーとか勉強してるのかなと思ってしまう。

 昼食が済めば再び園内を回る。ちょうど動物に触れ合ったりエサをあげられるみたいなので行ってみた。

 ふれあい広場には子供達がたくさんいて動物たちと触れ合っていた。やはり連休というのもあり人が多かった。

 俺達は親からエサを買ってもらい、早速動物達の方へと突撃した。

 ヤギや羊などが俺達のエサに気づいて群がってくる。突撃していた葵ちゃんと瞳子ちゃんは急停止するが時すでに遅し。あっさりと囲まれてしまった。

 

「わっ。ちょ、ちょっと待って待って! 順番だからっ」

「あっ、コラ! 勝手に食べるなっ」

 

 二人は動物達にいいようにやられてしまっていた。手にしているエサを早い者勝ちだと言わんばかりに取られてしまっている。

 

「こっちに注目ー。エサだぞ。ほらほら整列しろー」

 

 手に持ったエサを掲げてやると、動物達の視線が上に集まっていく。なんて純真な目をしているのだろうか。食欲に忠実だな。

 俺の言っている意味が通じたのかはわからないが、言う通りに並んでくれた。元々そういう風にできるようには飼育員さんにしつけられていたのかもしれない。

 

「トシくんすごいすごい!」

 

 この光景を見て葵ちゃんが褒めてくれる。まあ悪い気はしないな。

 

「俊成って動物を操れるの?」

 

 純真な目で瞳子ちゃんに尋ねられる。操れるなんてそんな大層なことはできないのだが、動物園にいる動物達ってのは基本的にみんな良い子なのだ。こうやって触れ合わせてくれる動物はとくにだ。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんに群がってしまったのだって、連休で子供が多かったからいつもよりもはっちゃけていただけかもしれないのだ。せっかく触れ合えるのだから優しく接してあげよう。

 小動物を触れるとのことなので飼育員さんがいろいろとつれてきてくれた。モルモットを膝に乗っけられる。大人しくてかわいい。

 モルモットってなんか実験用みたいなイメージがあるけれど、こうやって動物園にも普通にいるんだな。撫でてあげると目をとろんとさせる。おお、かわいいな。

 同じように膝にモルモットを乗せた葵ちゃんと瞳子ちゃんもご満悦である。モルモットの株が上がったね。

 次に見たのは百獣の王、ライオンである。鬣がふさふさして立派だ。

 

「あははー、あくびしてるー。かわいー」

「牙は立派なのになぁ……」

 

 野性をなくしたライオンはただのネコ科の動物でしかなかった。あくびしてくつろいでいる様子のライオンを見て瞳子ちゃんはちょっと残念そうだ。

 迫力のある動物がいるとはいえ、ここでは凶暴なのはいないようだった。柵に囲まれているとはいえ威嚇ばっかりする動物には子供も寄って行かないだろうし、こんなものなのかもしれない。

 様々な動物を見て回る。ライオンなどの王道のものからカピバラなどのマイナー寄りの動物も見た。その度に葵ちゃんと瞳子ちゃんがいろんな反応をしてくれて俺と親達はほっこりさせられた。

 だが、その途中で事件が起こった。起きてしまったのである。

 

「あれー? あのお猿さん何してるんだろ? くっついてる?」

 

 始まりは葵ちゃんの言葉からだった。

 声に反応して別々のところを見ていた俺と瞳子ちゃんは葵ちゃんの方へと近づいた。それから彼女の視線を追った。

 

「何かしら……? あっ! 後ろから体を動かして何かしているわ!」

 

 一匹の猿がもう一匹の猿に後ろから覆い被さっていた。もぞもぞと動いていたかと思いきや、急にガクガクと腰振りを始めたのである。

 あまりの激しい動きにびっくり。ここで瞳子ちゃんが叫ぶ。

 

「あれはいじめているのよ! どうしよう、誰かに助けてもらわなきゃ!」

 

 正義感の強い瞳子ちゃんが目を吊り上げる。人だろうが動物だろうがいじめは許せないようだ。

 瞳子ちゃんのその心は尊いと思う。本当に心の底から強く思う。

 だがあれはいじめているわけではないのだ。おそらくあの二匹の猿からすればお互い了承している行為なのだろう。

 わかってない二人に説明してくれと、後ろにいる親達の方へと振り返る。全員顔を逸らしやがった!

 わかっているさ。純真な女の子にどう説明するかと困ってしまうのだろう。これは気まずい。

 でもさ、そんな二人に挟まれている俺はもっと気まずいんだよ! 誰か俺を助けてほしい。

 さて、ここまでで二匹のお猿さんが何をしているか察せられたかもしれない。察せられている人は立派な大人だよ。

 ……ぶっちゃけ交尾してるんだよね。

 何も今やらんでもいいのに。瞳子ちゃんはいじめだと怒り、それを聞いた葵ちゃんはあわあわと慌てている。その間にいる俺は固まったままだった。

 

「あたし飼育員さんを呼んでくるわ!」

「待って!」

 

 瞳子ちゃんが走り出そうとするので慌てて腕を掴む。そして強引に彼女の顔を俺の胸へと押しつけた。

 とりあえずこれで視界を塞げたな。ほっとする間もなく瞳子ちゃんが暴れる。

 

「離して俊成! 早くしないとあのお猿さんがかわいそうよ!」

 

 瞳子ちゃん……。なんて君は真っすぐ清らかなのだろうか。なんかもうこのままの君でいてほしいと思ってしまうよ。

 

「大丈夫だよ瞳子ちゃん。あれはいじめじゃないんだ。きっと合意のもとで行われているんだよ」

「へ? え? そ、そうなの?」

「うん。だからこのまま静かにしておこうね」

 

 そう言って瞳子ちゃんを抱きしめた。すると彼女はいじめじゃないとわかって安心したのか大人しくなった。

 瞳子ちゃんが大人しくなってくれて安堵の息が漏れる。

 

「じゃああれは何を? あ……」

 

 いじめじゃないとわかってか安心する葵ちゃんだったが、何をしているか気になって凝視しようとする。まだ葵ちゃんには早い。俺は葵ちゃんの腕を引いて彼女の頭も俺の胸に押しつける。

 

「ト、トシくん?」

「ちょっとの間、そっとしててあげようね」

「……うん」

 

 よかった。何かよくわかってないだろうけど葵ちゃんはとりあえずでも納得してくれたみたいだ。

 右胸と左胸に温かな感触。二人の吐息が生温かい。

 葵ちゃんが背中に手を回してくる。それに気づいてか同じように瞳子ちゃんも俺を抱きしめる。

 静寂な空気となった俺達の耳には、なんとも言えないぶつけるような叩きつけるような音が届いていた。その音が止むまで俺はこの体勢を維持し続けた。

 行為が終わるまでそれぞれの両親は顔を逸らしていた。どちらに気を遣ったのかは考えないことにする。

 あー……、早く温泉でさっぱりしたいなぁ。

 

 




旅館へと続きます。


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32.温泉旅館へ行こう【挿絵あり】

素浪臼さんからカスタムキャストで作成したイラストをいただきました! 本当にありがとうございます!
よければどうぞ見ていってくださいな。


【挿絵表示】




 動物園から予約していた温泉旅館まで車で三十分ほどで着いた。

 緑の多い自然豊かな場所にその旅館はあった。静かでゆったりと過ごすにはいい場所だ。

 凛とした雰囲気の女将さんと仲居さんに出迎えられる。こういうおもてなしが旅館の良いところだよね。

 

「さてさてさーて、予約している部屋は三つです。部屋割はどうなってるか知ってるかなー?」

 

 なぜか嬉しそうに葵ちゃんのお母さんが言った。クイズでも出してるつもりなのだろうか?

 葵ちゃんと瞳子ちゃんが首をかしげるので俺が答えることにした。

 

「三つなんだからそれぞれの家族でってことじゃないんですか?」

「ぶっぶー。はっずれー」

 

 葵ちゃんのお母さんは指でばってんを作って笑う。俺も首をかしげてしまう。

 

「せっかく旅行に来たのにいつもと同じだとつまらないでしょ? だからちゃんと考えました」

 

 瞳子ちゃんのお母さんが「考えマシター」と続く。どうやら母親勢の意見が通っているらしい。

 家族ごとではないとしたらどうなっているのだろうか。男女で分けているとかかな? いやいや、それだと部屋を三つも取らなくてもいいことになってしまう。

 うーむ……、わからないなぁ……。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「広いお部屋だー」

「景色もとってもいいわよ」

 

 旅館の一室に案内されて葵ちゃんと瞳子ちゃんのテンションが上がっていた。

 あっ、お菓子も置いてある。後で三人で食べようっと。

 

「夕食の時間までは自由時間だからね。外に行ってもいいけどあまり遠くに行っちゃダメよ」

 

 そう言い残して葵ちゃんのお母さんは部屋を出た。外から瞳子ちゃんのお父さんの声が聞こえた気がするけど、まあ気のせいだろう。そういうことにしておいた。

 葵ちゃんのお母さんが発表した部屋割は、俺と葵ちゃんと瞳子ちゃんの三人で一部屋となっていた。まさかの子供オンリーである。

 あとの二部屋は父親と母親がそれぞれ固まっている。葵ちゃんのお父さんなんて酒を買い込んでいた。男共は酒盛りする気満々である。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんと同じ部屋。しかも親公認である。……い、いいのか?

 いやまあお泊まり会くらい彼女達とやってたりはしたけれども。でもそれも久しぶりのことだ。もちろん子供だし間違いなんて起こりようもないんだけども。……い、いいのかな?

 

「ちょっと外出てみない?」

 

 瞳子ちゃんの提案で外を散歩することにした。少し冷静になりたかったしありがたい。

 旅館の外に出ると見慣れない緑の景色が続く。道は整備されているので歩きやすかった。

 秋頃に来ればまたいい景色が見れそうだ。こうやって知らない静かなところで和むのも風流ですなぁ。

 

「ちょっと冷えてきたわね」

 

 日が暮れてきて風が冷たくなってきた。瞳子ちゃんがすすすーっと身を寄せてくる。

 

「寒いから手を繋ごうよトシくん」

 

 葵ちゃんは躊躇いなく俺の手を取った。いつも登校時に手を繋いでるもんだからなんの違和感もない。

 それを見てちょっとだけむっとした顔になった瞳子ちゃんも俺の手を取った。もう冷えとか感じなかったね。

 暗くなる前に旅館へと戻る。ちょうど夕食時だった。

 夕食は和食だった。家庭ではあまり出ないようなものもあったので満足だ。せっかく旅行に来たのだからそこでしか食べられないものを食べたいからね。

 

「よーっし! 俊成くん、温泉に行こうか!」

 

 ダンディーなおじ様に誘われてしまった。これは断れないな。

 え? 温泉は混浴? 女湯に入らないのかって? はははっ、そんなのお父様方が許してくれるわけがないじゃないですかー。

 自分の母親のはともかくとして、葵ちゃんと瞳子ちゃんのお母さんの裸体が見れないのは残念だと記しておく。べ、別に口に出したりしないからセーフだよね?

 男同士で裸の付き合いだ。葵ちゃんのお父さんはダンディーな見た目通りと言うべきか、なかなかにたくましい身体つきだった。しかし意外にも大きいのは瞳子ちゃんのお父さんの方だ。何がとは言いませんが。こうして比べると父さんは普通だな……。

 体を洗いみんなで湯船に浸かる。肩まで浸かるとふぃー、と気持ち良い声が漏れた。これでも小学四年生の男子です。

 

「まったく! 瞳子が他の男と寝るだなんてっ。僕はまだ納得していない!」

「はっはっはっ! まあまあこういう経験は今のうちだけなんだからいいじゃないか。それにせっかく男が固まってんだから自由にできるだろ?」

「そうですねー。子供達はみんな良い子だから大丈夫でしょう。まあ私が言うのはちょっと説得力に欠けると思いますが」

 

 瞳子ちゃんのお父さん、葵ちゃんのお父さん、俺の父の順である。母親勢と同じくこっちも仲良くなっている。やはり同年代の子供がいると話しやすいのだろうか。そのあたりの感覚は俺にはまだわからない。

 父親の会話はけっこう自由だ。俊成くんはどっちとくっつくんだろうか、なんて話をしている。俺ここにいるんですけどね。

 親としてもまだ子供だと思って深刻に考えてないんだろうな。俺はこれでもけっこう悩んでるよ。早く決めようと思っても感情は思い通りになってくれはしない。

 

「そういえば宮坂さん。お仕事はどうですか?」

 

 父さんが何気ないことのように葵ちゃんのお父さんに尋ねる。俺は遠慮して聞けてないことだったのに、すごいよ父さん!

 

「ああ、もう軌道に乗ったからな。最初は大変だったが今は順調だ」

「起業するだなんて私では無理でしょうね。本当に宮坂さんはすごいですよ」

「高木さんが思ってるほどには事業を起こすこと自体は難しくねえな。タイミングと度胸。あとは勢いに乗るまでが大変なくらいか。まっ、俺は成功する見込みがあってやったからな」

 

 そう言って葵ちゃんのお父さんは豪快に笑った。起業家だったのか。なんかすごいんだな。

 そこそこの安定志向を持っている俺にはちょっと考えられない。成功するからいろいろな会社があるのだろうが、どうしても失敗するリスクを真っ先に考えてしまう。それが度胸のなさってことか……。

 前世ではしがないサラリーマン。今回はどうなることやら。俺自身のことなのに将来設計が未だに出来あがらない。

 

「しかし木之下さんも大したもんだ。整体師だろ? 文字通り自分の腕だけで家族を養ってるんだからな」

「僕は三男で自由な立場だったからね。技術を磨くためにたくさんの経験を積んだんだ。だからこそ今は稼げているんだよ」

 

 瞳子ちゃんのお父さんはそう言って胸を張った。というか整体師ってのを初めて知ったな。

 脱サラして整体師って話はけっこう聞くけど、成功するかなんて簡単にはいかないだろうと思っていた。稼ぎだってピンキリらしいし、安定しない職業だろうと漠然と考えていた。

 しかし、瞳子ちゃんのお父さんは成功しているのだろうな。お母さんの方が専業主婦ではあるから困らせない程度には稼いでいるのだろう。

 なんか葵ちゃんと瞳子ちゃんのお父さんってすごいんだな。どちらも我が道を進んでいる感じだ。

 どんな大人になりたいかと聞かれれば、こんな風に自分の力で道を切り開けるような大人になりたい。はっきり、というわけではなかったが、俺の中でそういう考えが芽生えた。

 俺の父親? 中小企業の会社員ですが何か? これでもちゃんと家族を養っているのだから尊敬しているに決まっている。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「お待たせ俊成」

 

 温泉から上がってから売店前で女性陣が来るのを待っていた。男よりも長いだろうからとのんびり椅子に座っていたのだが、思ったよりも早く浴衣姿の瞳子ちゃんがきた。

 風呂上がりの瞳子ちゃんは髪を下ろしている。綺麗な銀髪がしっとりとしており、ちゃんと温まったようで頬に赤みが差していた。

 髪を下ろして浴衣姿になっていると、いつもより大人っぽく見える。ツインテールの子が髪を下ろした時のドキリとする感覚は瞳子ちゃんばかりにやられてしまっている。

 

「瞳子ちゃん。葵ちゃんは?」

「まだ髪の毛乾かしてるみたいだったからおばさんに任せて先に出ちゃった」

 

 ぺろっと舌を出す瞳子ちゃん。彼女にしては珍しく葵ちゃんを出し抜いた形となった。

 

「そっか。じゃあ葵ちゃんがくるまでここでいっしょに待ってようか」

「うんっ」

 

 瞳子ちゃんは嬉しそうに俺の隣へと座った。初めての三家族での旅行で瞳子ちゃんのテンションは上がっているのだろう。

 

「ねえ俊成。これ、似合う?」

 

 軽く手を広げながら瞳子ちゃんははにかむ。浴衣が似合うかどうか聞いているようだ。

 

「とっても似合うよ。すごくかわいい」

「えへへ。ありがと」

 

 ……本当にかわいいなぁ。

 銀髪に碧眼という日本人離れな容姿の彼女だけど、中身はまだ小学四年生の女の子だ。褒められて笑顔になってるのを見ると歳相応に思えた。

 

「あー! やっぱり瞳子ちゃんトシくんのところにいたー! 置いて行くなんてひどいよー」

 

 髪を乾かしたらしい葵ちゃんがぷんすかしていた。急いでいたのかすでに着ている浴衣が少しはだけている。すぐに葵ちゃんのお母さんに直されているけども。

 

「葵が遅いからいけないのよ」

「うー! ずーるーいー!」

 

 葵ちゃんが地団駄を踏みそうな勢いである。これはなだめた方がいいな。

 

「まあまあ葵ちゃん。ほら、売店でフルーツ牛乳買ってもらおうよ」

 

 チラリと母親勢に目を向けると揃って苦笑いされた。こんな形でせがんでごめんなさい。

 この後フルーツ牛乳を飲んだ葵ちゃんのご機嫌は直った。俺は足を肩幅に広げ、左手は腰に当てながらコーヒー牛乳を一気飲みした。瞳子ちゃんはちびちびといちご牛乳を飲んでいた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「それじゃあ、もし何かあったら言いに来るのよ?」

「な、何かあったらだなんて……俊成ちゃんに限ってそんな……」

「高木さん、心配し過ぎデスヨ」

 

 葵ちゃんのお母さんにいろいろと注意事項を述べられて部屋へと送られた。母さんがちょっとテンパってたけど瞳子ちゃんのお母さんに手を引かれて部屋へと行ってしまう。

 これからパパ友とママ友の会でも始めるのだろう。両親には今日くらいは羽を伸ばしてほしい。大した親孝行なんてできていないけれど、それくらいは息子として願わせてほしいものだ。

 さて、と。

 

「もうお布団敷いてるね。私トシくんの隣ー」

「あたしも俊成の隣に決まってるじゃない。俊成は真ん中ね」

 

 部屋に入るとすでに布団は三人分敷かれていた。綺麗に横並びになっている。

 大丈夫だ。俺達はそれぞれの家でのお泊まり経験がある。二人と寝るのだってこれが初めてじゃないのだ。

 ただ、いつもと違う場所で、いつもと違う装い。浴衣姿ってそれだけで色っぽく感じてしまうのはなぜなのだろう?

 

「ねえねえ、いっぱいお話しようねっ。夜はこれからなんだからね!」

 

 葵ちゃんはにぱーと笑う。夜更かしする気満々であった。ちゃんと眠れるのか心配になってしまうよ。

 ……という心配をしながらも、最初に脱落したのは言い出しっぺの葵ちゃんであった。

 

「まったく、ちゃんとお布団かけなきゃ風邪引いちゃうんだからね」

 

 そう言いつつも、瞳子ちゃんは葵ちゃんを布団に寝かせていた。面倒見の良い彼女らしい。

 

「葵も寝たし、電気消しましょうか」

「そうだね」

 

 俺は電灯を消した。部屋は月明かりの光だけが頼りとなる。

 真ん中に敷かれている布団へと寝転ぶ。寝てみると体の疲れを感じる。そりゃあ葵ちゃんだってすぐに眠ってしまうよな。

 

「おやすみ俊成」

「おやすみ瞳子ちゃん」

 

 目をつむる。そういえば前世では泊まりがけの家族旅行なんて行った覚えがないな。キャンプで一泊した覚えはあるけれど、こんな旅館に家族では泊まったことがなかった。

 これもまた変化の一つなのだろう。それが良い方向だと信じたい。

 

「うーん……」

 

 声に目を開けると、葵ちゃんがもぞもぞと動いていた。またか。

 葵ちゃんは寝相が悪いのである。お泊まり会では何度抱き枕にされたことか。もう定番になっていた。

 今回もこっちにくるのかな? とか思って見守っていると、葵ちゃんは腕をあっちへこっちへと動かした。どんな夢を見ているのか。

 

「あ……」

 

 だが、いつものお泊まり会と違ってパジャマではないのだ。浴衣がはだけて胸が露わになっていく。

 月明かりに照らされて膨らみ始めたばかりの小山が段々と姿を現す。俺は断じてロリコンではない。ないのだが、その光景に見入っていた。

 

「うーん……」

 

 葵ちゃんの声が艶めかしく聞こえてしまう。俺は一体何を考えとるのだ!

 体を起こして葵ちゃんのはだけた浴衣を直してあげる。うん。風邪引かないようにね?

 

「……」

 

 やれやれと思って自分の布団へと戻ろうとしていると、無言でいる瞳子ちゃんと目が合った。

 正直かなりびびりました。てっきり寝ていたと思っていたのに。いつから見ていたのかガン見されている……。

 

「俊成」

「は、はいっ」

 

 ちょっと瞳子ちゃんに逆らえる気がしない。俺は冷や汗を押さえながら続きを待った。

 

「そっち、行ってもいい?」

「え?」

 

 俺が答えるよりも早く、瞳子ちゃんは俺の布団へと潜り込んできた。

 

「と、瞳子ちゃん?」

「しーっ。葵が起きちゃうでしょ」

 

 そう言われて慌てて口をつぐむ。葵ちゃんはすぅすぅと寝息を立てている。起きる気配はない。

 

「ふふっ、こうしてると幼稚園の頃を思い出すわね」

「幼稚園のお泊まり会か。懐かしいなぁ」

 

 あの時は瞳子ちゃんと長い付き合いになるなんて考えもしなかった。そのお泊まり会が終わってからだったかな。瞳子ちゃんの好意が本物だって思い知らされたのは。

 それでもまだ子供だと思っていた。それなのに今になっても変わらない気持ちでいてくれている。本当に俺には勿体ない。

 月の光が瞳子ちゃんを輝かせている。キラキラと銀髪が光っているようだ。彼女の特徴であるブルーアイズも不思議な輝きを帯びる。

 月が綺麗ですね、というのはかの有名な夏目漱石の告白文句だったろうか。現在はまだ千円札でいてくれている。

 だけど、俺は月よりも瞳子ちゃん自身が綺麗だと思った。

 

「綺麗だね」

「え?」

「あ、いや……月の光で瞳子ちゃんの瞳がとってもキラキラしてて……。その、綺麗だと思ったんだ」

「……っ!」

 

 月明かりだけなのに、瞳子ちゃんの顔がみるみる赤くなっていったのがわかった。顔が真っ赤になると、彼女は勢いよく自分の布団へと戻った。

 

「も、もう寝るっ! 寝るから! 明日早いんだから俊成もさっさと寝るのよ!」

 

 そうまくし立てて瞳子ちゃんは布団にくるまってしまった。恥ずかしがらせてしまっただろうか。

 まあうん、俺も恥ずかしいことを言った自覚はある。なんか顔熱いし。言われた通りさっさと寝ようかな。

 一泊二日のこの旅行は明日遊園地に寄ってから帰宅するという流れだ。子供の夢である遊園地が控えているのだ。睡眠不足でいるわけにはいかないだろう。

 最後に見せられた瞳子ちゃんの表情がなかなか頭から離れない。ドキドキする胸を落ち着かせるには、それなりの時間が必要だった。

 

 




次回でGWの旅行は終わりになります。


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33.遊園地へ行こう【挿絵あり】

前回に引き続き素浪臼さんからカスタムキャストで作成したイラストをいただきました! 本当にありがとうございます!
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 朝起きると葵ちゃんに抱きつかれていた。この子ったらかわいらしい寝顔だことで……。

 なんとか葵ちゃんの拘束から抜け出し顔を洗いに行く。すっきりして戻ると瞳子ちゃんが目を覚ましていた。

 

「おはよう瞳子ちゃん」

「お、おはよう……」

 

 あいさつを返しながらも瞳子ちゃんは布団に顔を埋めてしまう。まだ眠いのかもしれない。

 ほどなくして葵ちゃんも起きたので身支度を整える。みんなで朝食をとってから旅館を後にした。

 

「遊園地かー。私初めてなんだ。楽しみだねっ」

「そうね……」

 

 次の目的地は遊園地だ。車の中でも元気な葵ちゃんとは対照的に、瞳子ちゃんの元気がないように見える。お疲れの様子なのだろうか。

 まあ一泊の旅行なんて初めてだから仕方がないのかもしれない。彼女の様子には気をつけておかないとな。

 遊園地に辿り着いた。休日の人気スポットというのもありだいぶ賑わっていた。

 あんまり並ぶのは嫌なんだよなぁ。うまいと評判のラーメン屋だって行列ができてたら別の店を選ぶ。それくらいには行列が嫌いだ。

 この人混みではぐれると大変だ。葵ちゃんと瞳子ちゃんと手を繋ぐ。テンション爆上がりの葵ちゃんを押さえるのに苦労させられる。

 

「葵ちゃんっ。走ったら危ないよ」

「だって早くメリーゴーランドに乗りたいんだもん!」

 

 うずうずしているのが伝わってくる。このかわいいお姫様はメリーゴーランドがご所望のようだ。

 とくに反対意見もでなかったのでメリーゴーランドに乗ることとなった。列はできていたけれど大して待たずに乗ることができた。

 

「トシくん瞳子ちゃんっ。このお馬さんに乗ろうよ!」

 

 葵ちゃんが指差したのは、子供三人分くらいなら楽に乗れるくらいの白馬の形をしていた。やっぱりこういうファンシーなのが女の子は好きなのだろう。

 

「ほらほら瞳子ちゃん」

「わっ!? あ、葵っ。いきなり引っ張ると危ないでしょ!」

「あははー」

 

 葵ちゃんが瞳子ちゃんの手を引いて白馬へと乗る。葵ちゃんなりに瞳子ちゃんの元気がないことを気にしていたのだろうか? まあそう思えば一人置いてかれてしまったことにも納得できるというものだ。うん。

 遅れて俺も乗り込む。メリーゴーランドは子供ばかりで親達は外で見ている。大人に見られながらのメリーゴーランドってちょっと恥ずかしいな。いやまあ俺子供なんだけども。

 小気味の良い音楽に合わせてメリーゴーランドが動き始める。思ったよりも上下に動くんだな。

 葵ちゃんがピースしているのを見て親達からカメラを向けられていることに気づく。

 

「瞳子ちゃん瞳子ちゃん」

「え、な、何よ俊成……」

「写真撮られてるからいっしょにピースしようよ」

「……う、うん」

 

 瞳子ちゃんも気づいたようだった。カメラ目線でピース。シャッター音が鳴り響いた。

 メリーゴーランドが終わった後も葵ちゃんのテンションは凄まじかった。あれ乗りたいこれ乗りたいのオンパレードだったのだ。さすがの俺と瞳子ちゃんもついて行くのが精一杯だ。

 コーヒーカップではぐるんぐるん目一杯回しちゃうし、それぞれ父親といっしょに乗ったゴーカートでの競争はなんと葵ちゃんが一番だった。これに関してはほんのちょっとだけ悔しかった。ほんのちょっとだけな。

 

「あ、葵~。そろそろお昼休憩にしましょうよ」

「えー。これからジェットコースターに乗ろうと思ったのにー」

 

 まさか瞳子ちゃんが泣きごとを漏らしてしまうとは。葵ちゃんなんか唇を尖らせてまだまだ元気そうだ。体力ないんじゃなかったのか? 遊びは別腹と言わんばかりだな。

 続けざまにたくさんの乗り物に乗ったからな。こういう時に限ってタイミングが良いのか悪いのか、あまり待たされることなく次々と乗れてしまった。そのせいで葵ちゃん以外はみんな疲労の色が見える。

 

「瞳子ちゃんの言う通りにしましょう? 時間もちょうどいいし何か食べましょうか。ね? 葵」

 

 お母さんにそう言われてしまっては葵ちゃんだってわがままは口にしない。素直に昼休憩を受け入れてくれた。

 

「葵がこんなにも遊園地が好きだったなんて……。あたし今まで知らなかったわ」

「それは俺もだよ……。こりゃあ午後からも大変そうだ」

 

 俺と瞳子ちゃんは揃ってぐでーと伸びた。なんか前に登山した時と立場が逆転してしまったみたいである。

 昼食はホットドッグなどの軽食で済ませた。これからジェットコースターを含めたいろいろなアトラクションのことを考えたら満腹になるのはまずいと思ったのだ。瞳子ちゃんも同じように考えたのか軽めに済ませていた。葵ちゃんはがっつり食べてたけども。

 

「じゃあ、今度こそジェットコースターだね!」

 

 意気揚々と葵ちゃんは行く。しかし人気のアトラクションというのもあり、ここで行列に並ぶはめとなった。

 まあ休めるから却ってよかったかもな。いつもは面倒だと思っている行列に今だけは感謝である。

 行列を待たされているというのに葵ちゃんは熱が冷めないみたいにたくさんおしゃべりをした。なんだかんだで彼女が嬉しそうにしているのはこっちも気分が良い。そう思いながら話していると、いつの間にか行列は消化されていた。

 身長制限も問題はなかったのでジェットコースターに乗りこむこととなった。だが、問題が起こったのはここからだった。

 

「私トシくんの隣がいい!」

「あたしだって俊成の隣がいいわよ!」

 

 ジェットコースターに乗る直前となって葵ちゃんと瞳子ちゃんがケンカを始めてしまったのである。ジェットコースターは二人ずつ乗るのもあって、ここで三人いっしょに並んでというわけにはいかなかったのだ。

 係員さんが困っているのを見かねて二人のお父さんが立ち上がる。

 

「葵、ここはお父さんといっしょにってのはどうだ?」

「瞳子、パパが隣に座ってあげようか?」

 

 どちらも娘に優しい父親である。親心が感じられます。

 

「やだ! お父さんよりもトシくんの方がいい!」

「あたしはパパじゃなくて俊成がいいって言ってるの! 邪魔しないで!」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんのお父さんは撃沈した。娘の厳しいお言葉に胸を押さえてしまった。相当ダメージを受けたようだった。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんはおでこをくっつけて睨み合っている。微笑ましい絵にはなっているのだが、当人としてはちょっとどころじゃないくらい居たたまれない。

 

「葵ちゃん、瞳子ちゃん」

「トシくんは私と乗ってくれるよね?」

「俊成、あたしとがいいわよね?」

 

 おっと、この圧力はやばい。俺はすーっと視線を逸らした。逸らした先にいたのは母さんだった。

 

「ごめんね。俺ジェットコースターは母さんと乗るって決めてたんだ。だから葵ちゃんと瞳子ちゃんは二人いっしょに乗りなよ。ね?」

 

 マザコンとか思われたらどうしよう。あながち間違いでもない気がするが、ちょっと心配だ。男はマザコンと思われたくないものなのである。

 申し訳なさそうな顔をしていると、「トシくんはしょうがないなー」と葵ちゃんが折れてくれた。そうなると瞳子ちゃんも「まったく、俊成ったら」と言いつつも退いてくれた。

 逃げ場所に使ってしまったが、母さんは嬉しそうな顔をしていた。親のそういう表情を見ると息子としてなんだか安心する。

 そんなわけで俺と母さん、葵ちゃんと瞳子ちゃん、あとは宮坂夫妻と木之下夫妻がそれぞれ乗ることとなった。父さんは外から見るだけで充分らしい。

 ジェットコースターに乗りこむと安全バーが下りる。スタートしてからこの上がって行くところが緊張感を高めてくれる。

 そういえば、前世でジェットコースターに乗ったのっていつだっけか? 社会人になってからは確実にないと言えるから学生時代だろう。

 厳密にいつ、というのは思い出せない。それに、どんな風だったかさえ思い出せないでいた。乗ってないというわけではないと思うのだが。

 トンネルを抜けると、想像よりも高い位置に俺たちはいた。

 

「~~っ!!」

 

 ジェットコースターが頂点に辿り着いた時、俺は思い出した。

 ……俺、絶叫マシーンは超苦手だったわ、と。

 俺は叫んだ。ものすごく叫んだ。これでもかってくらい叫んだ!

 絶叫マシーンに偽りなし。こんな姿をさらしてしまうのなら、葵ちゃんと瞳子ちゃんの隣じゃなくてよかったと本気で思った。

 

「ト、トシくん大丈夫!?」

「ああ……」

 

 ……ようやく終わってくれたか。遠くで葵ちゃんの声が聞こえるなぁ……。ああ……、癒やされる。

 フラフラになった俺は何か柔らかいものを抱きしめた。温かくてほっとする。心からの安堵感を与えてくれる。

 ふぅ、気持ちが落ち着いてきたぞ。ぼやけていた視界が戻ってくると、なぜか目を吊り上げた瞳子ちゃんの顔が映った。

 

「あれ? 瞳子ちゃん?」

「あれ? じゃないわよ! いつまで抱きついてるの!」

 

 言われて気づく。俺は葵ちゃんを抱きしめていた。しかも彼女の胸に頬をすりすりしていた。

 

「……」

 

 葵ちゃんは顔を赤らめながらも俺にされるがままになっていた。というか頭を抱えられていた。胸に顔を埋めているというのに受け入れられていた。

 あ、あれ? マジで俺は何を……? おかしいな。こんなハレンチな体勢になった記憶がないんだけども。

 

「俊成のバカ!!」

 

 しかし、そんな言い分が通じるはずもなく。俺は瞳子ちゃんに思いっきり張り倒されたのであった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「楽しかったわねー」

「だねー。俊成も男の勲章をもらったみたいだしね」

 

 帰りの車内で両親はそんな会話をしていた。笑わないでほしいよ……。

 俺の頬には瞳子ちゃんの手形が残っていた。彼女に全力で叩かれたのはいつ以来だろうか。学年が上がって誰かを叩くなんてことなくなってきてたのになぁ。全面的に俺が悪いから文句なんて言えないんだけども。

 葵ちゃんには謝ったけど、「トシくんにならいいからね」としか言われていない。何がいいのだろうか。怒ってくれても何も文句はないというのに。

 まあ代わりに瞳子ちゃんが怒ってくれたからそれでもういいってことなんだろうな。引っ叩かれた時にすごい音したからな。

 夕日の光が車内に差し込む。葵ちゃんと瞳子ちゃんのかわいい顔を赤く染める。

 二人は遊び疲れたのか、車に乗ってからさほど時間を置かずに眠ってしまったのだった。俺は両肩に重みを感じている。

 旅行は本当に楽しかった。葵ちゃんと瞳子ちゃんも楽しそうにしていたし、そんな彼女達を見れたからこそ充実した気持ちになっているのだろう。

 少しでもいい思い出が作れただろうか。俺は胸を張ってよかったと言える。大きなことではないかもしれないが、俺は確かに前世とは違う貴重な思い出を作っていた。

 幼馴染だってずっといっしょにいられる保証なんてない。子供の頃は仲が良かったけど、大人になったら交流がなくなったなんてことは珍しくもないだろう。

 未来に不安がないわけじゃない。それでも葵ちゃんと瞳子ちゃんといっしょにいられる今を大切にしたいものである。

 俺の肩に頭を預けながら無防備でかわいい寝顔を見せてくれる二人を眺めていると、そう思わずにはいられないのだ。

 

 



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34.木之下瞳子は雨宿りした日を振り返る【挿絵あり】

この小説はアブノーマルなものだってもうわかってるよね? ね?(念押し)
瞳子ちゃん視点になります。


 昔の恥ずかしい思い出というのは、ふとした瞬間に思い出してしまうものなのかもしれない。

 

 学校から帰って、「疲れたー」なんて言いつつベッドに飛び込む。制服がしわになってしまうのを心配するところなのだけれど、あたしはそのままリラックスしてしまった。

 そうすると勝手に頭の中で過去を振り返ってしまう。

 それは学校のこと、通っていた水泳のこと、それから、俊成と葵のこと。

 和やかな時間が過ぎていた。思いだすだけで思わずほっこりしてしまう思い出ばかりで、なんだかんだ言いつつもあの頃は三人で仲良くしているだけで楽しかったのだ。

 思い出に浸っていると頬が緩む。しかし急に表情が固まってしまう。

 楽しいことが多かったのは確かだけれど、中には恥ずかしい記憶もあったのだった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 あれは確か、小学四年生の頃。下校中に急な雨に降られてしまったのだ。

 

「いきなりどしゃ降りにならんでもいいだろうに! 朝の天気予報じゃ何も言ってなかったぞ!」

「ひゃあっ! 冷たーい!」

「喜んでる場合じゃないでしょ! ほら葵、さっさと走りなさいっ」

 

 下校はいつもあたしと俊成と葵の三人だった。まだ家まで距離があるっていうのに大雨が降ったのだ。

 ランドセルで頭を守りながらも制服は濡れてしまっている。このままじゃ風邪を引いてしまうかもしれない。そんな時に俊成がこう言ったの。

 

「ここの神社でちょっと雨宿りさせてもらおう」

 

 あたしと葵はその提案に賛成した。このままでは家に着く頃には制服どころかランドセルの中身だって大変なことになるかもしれなかったから。

 鳥居をくぐり、拝殿の屋根で雨をやり過ごす。雨音が強くてちょっと声が聞こえづらかった。

 帰り道で見かけるものの、この神社にはあまり来たことがなかった。お正月で行く時の神社はもっと遠くの場所だったから。小さいというのもあってあまり立ち寄らなかったのだろう。

 

「ふぇー、びしょびしょになっちゃったねー」

 

 葵の艶やかな黒髪が彼女のシミ一つない白い肌に張り付いている。まだ子供っぽさがありながらも、雨に濡れたその姿に同性ながらも色気を感じてしまう。

 当時の俊成もそう思っていたのか、そんな葵に見入っていたのを憶えている。ものすごくもやもやしたんだから。

 まったくもう! 小さい頃から優しかったけど、俊成にはたまにエッチなところがあったんだと思う。葵の胸が大きくなり初めてから、俊成の視線が葵の胸に向いていることが多くなったから。あの時はあまり深くは考えていなかったけれど、俊成にも邪な気持ちがあったんでしょうね。男子って胸が大きい女子が好きだもんね!

 ……こほん。それはいいのよ。俊成だって巨乳がタイプってわけでもないみたいだし? ふふっ。

 

「教科書とか大丈夫かな?」

 

 俊成は上着を脱いでからランドセルの中を確認する。まだ夏服に衣替えしていない時期だったっけ。降り始めというのもあって濡れた上着を脱いだら幾分かマシになった。

 そんなことを俊成に言われてあたしと葵は上着を脱いだのだ。少しひんやりするものの、濡れた服を着ている不快感が和らいだ。

 

「いつまで降るのかしらね」

 

 ハンカチで濡れた髪の毛を拭いながらぽつりと言う。雨がザーザーと大きな音を立てていたから聞こえないかなって思った。でも俊成はちゃんと聞いてくれる。

 

「すぐには止みそうにないね。さすがにずっと降りっぱなしってわけでもないと思うけど」

 

 俊成の返答に「そっか」と答える。当分は雨宿りをしないといけないらしい。

 

「くちゅんっ」

 

 葵のくしゃみだった。俊成が心配そうにしている。ハンカチはあってもタオルなんてないから、濡れたせいで体の体温が奪われつつあった。

 びしょ濡れになった上着を脱いだからといって暖かくなるわけでもない。雨のせいか空気も冷たくなっていて、このままじっとしていると確かに風邪を引いてしまうかもしれなかった。

 

「そうだ! いいこと思いついた!」

 

 葵の顔がぱあっと明るくなる。直感的にそのいいことはあたしにとってはいいことではない気がした。

 

「わっ!? ちょっ、葵ちゃん!? こんなところで何をっ!」

「あ、葵!? あんた何やってるの!」

 

 戸惑う俊成に続いてあたしも焦った声を出してしまう。

 なぜなら、葵が着ていた服をぽんぽん脱いでいってしまっていたから。この頃はまだ羞恥心が曖昧だったのだ。今これを本人に言ったらものすごく恥ずかしがってしまうのだろうけど。

 スカートまで脱いでしまった葵は下着姿となった。いくら木に囲まれている神社とはいえ思いきりが良過ぎる。

 

「葵ちゃん……。外では服を着た方がいいよ」

「えー、別にトシくんと瞳子ちゃんだけしかいないし。それに寒くなった時は誰かとくっついて温め合うんだよ」

 

 どこからの知識なのか。葵は自信満々と言わんばかりに胸を張っていた。

 

「だからほらトシくんも脱ご? 私と温め合おうよ」

「え……、えっと……」

 

 困った顔をする俊成だけれど、こうなった時の葵は自分の意見をなかなか引っ込めない。そして俊成も案外押しに弱いのだ。

 弱々しくしていたのでは抵抗にならない。俊成は葵に服を脱がされていって、こちらも下着だけとなった。

 

「トシくんあったかーい」

「あ、はは……」

 

 葵に抱きつかれて困った顔のままの俊成だけど、喜んでいるのがなんとなくだけどわかってしまった。わかってしまうと一気に頭が沸騰する。

 

「あたしもやる!」

 

 葵とは仲良しだけれど、俊成が絡むとそういうわけにもいかなくなる。あたしだって俊成を取られるのは嫌なのだ。

 立ち上がって勢いよく服を脱ぐ。こんなことがなければ恥ずかしくてできないようなことだけど、あたしに退く気はなかった。

 キャミソールなんて心もとない。恥ずかしさを誤魔化すみたいにすぐ俊成に抱きついた。肌と肌が密着する。葵の言う通り、確かに暖かかった。

 俊成と触れ合っているとほわほわしたような温かい気持ちになる。それは体を温めるよりも気持ちがよかった。

 

「と、瞳子ちゃん……」

 

 やっぱり俊成の抵抗は弱々しい。たぶん喜んでくれているのだ。そう思うとなんだか嬉しさが込み上げてくる。

 

「トシくんはあったかいね。瞳子ちゃんもそう思うよね?」

「そうね……」

 

 今回の葵は俊成を取り合っているつもりはなかったみたい。ただ純粋に体を温めようとしているだけのようだった。そのつもりじゃなければ葵だってケンカ腰になっているはずだから。

 神社の境内で抱き合う三人の男女。あの時は小学四年生だったとはいえ、すごいことしてたんだなって思う。

 あたしと葵は温もりを求めて俊成に肌を擦りつける。雨音が激しい。あたし達は隔離されているかのような気分になる。このままでいられるのならそれでもいいかとも思う。

 もう、早く雨が止んでほしいとは思ってなかった。むしろこのまま俊成の温もりを感じられるのなら、もう少し止まなくてもいいだなんて考えていた。

 でも、あたしのその考えは途中で中断されてしまった。

 

「瞳子ちゃん?」

 

 俊成が首をかしげる。そりゃあ急にあたしが立ち上がったのだから気にしてくれたのだろう。

 だけどそれどころじゃなかった。

 あたしの背中に冷たい汗が流れた。切羽詰まった。とてもいけない状況だった。

 顔が熱くなる。もう猶予なんてなかった。

 あたしは走った。「瞳子ちゃん!?」という俊成の戸惑いの声を無視して走った。形振りなんて構ってられなかった。

 とにかく俊成には知られたくない。身を隠せる場所を探す。茂みがあった。そこでいい。

 あたしは茂みの裏へと体を滑り込ませた。水泳で培われた瞬発力を無駄に生かしてしまった。

 

「お、おしっこ……っ」

 

 そう、あたしは催してしまったのだった。

 なんだかあの空気の中で尿意を感じてしまったことにものすごい恥ずかしさを感じてしまったのだ。しかもこの神社にトイレが見当たらない。それがあたしに焦燥感を与えてしまった。

 早くしなきゃ。でもトイレがない。捜してる暇もない。でもしなきゃ!

 そこであたしは外で済ませるしかないと思ってしまった。いろいろと切羽詰まってしまって考えが回らなかったのだ。

 外で済ませてしまうだなんて俊成には恥ずかしくて言えない。とにかく俊成にだけは見られたくなかった。知られたくなかったのだ。

 茂みの裏は屋根のない場所なのでもちろん体は濡れてしまう。濡れて冷えたからかぶるりと震えてしまう。もう我慢できないっ。

 ……とても恥ずかしい話だけれど、あたしは外でおしっこをしてしまった。

 それだけで済めばよかった。恥ずかしいけれど自分の中だけでしまっておける話だから。

 

「瞳子ちゃん急にどうしたの!?」

 

 ……あたしの中でこの記憶が根深く残っているのは俊成のせいだ。

 心配してくれたのだろう。突然走り出してしまったあたしを追いかけてくれた。それは嬉しいことだ。でもこれは察してほしかった。この時ばかりは追いかけてほしくなかった。

 

「あ」

「あ」

 

 あたしを追いかけて茂みの裏まで来てしまった俊成。もちろん目撃されてしまう。女子はその……急には止められないのだ。つまり、終わるまでバッチリ見られてしまった。

 

「……」

「……」

 

 俊成は気まずそうに目を逸らして、やっぱりあたしの方へと視線を戻した。その目は真っすぐだった。

 俊成の表情が真剣なものになる。そうして口を開いた彼の言葉は――

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「いやああああああああぁぁぁぁぁぁぁーーっ!! ……はっ!?」

 

 思い出とシンクロしてしまってあたしは叫び声を上げていた。我に返って余計に恥ずかしくなる。

 あの時、俊成が何を言おうとしたのかはわからない。今みたいにあたしが叫び声を上げてしまって聞けなかったからだ。

 聞きたいような、聞きたくないような……。ていうかこんなこと思い出したくなかったっ。

 顔が熱くてしょうがない。まさか俊成も思い出したりなんてしてないわよね?

 気分を変えたくなって制服から部屋着へと着替える。この部屋着は俊成のお古だ。もう小さくなったからと言って捨てようとしていたものを彼からもらったのだ。これは葵にも秘密にしている。

 

「えへへ」

 

 これを着ると俊成に抱きしめられているみたいに感じる。あの時はあたしが俊成に抱きついていたけれど、どうせだったら俊成に抱きしめられたい。

 心がほわほわする。とっても恥ずかしい記憶だったけど、この温かい気持ちを思い出させてくれたし、やっぱりいい思い出なのかもしれない。

 

「……」

 

 今の関係。未来はどうなるかわからない。本当に不安なことばかり。ぐるぐると考えなくてもいいことも考えてしまう。

 葵は魅力的な女の子だ。それだってまだまだすごくなる。どうなるかわからなくてもそれは確信できていた。

 

「俊成……。お願い、あたしを見て……」

 

 あの時のまっすぐとした瞳で。そうやって見てくれたらあたしは安心できるから……。

 

 




素浪臼さんからカスタムキャストで作成したイラストをいただきました! 透けたとこを想像しちゃダメよ(迫真)


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35.母の心、娘は知らず

前半は葵ちゃんのお母さん、後半は瞳子ちゃんのお母さん視点です。


 私の娘、葵は真っすぐな女の子に育ってくれた。

 幼い頃はとても引っ込み思案で心配したものだけれど、一人の男の子と出会ってから変わっていった。

 その男の子の名前は高木俊成くん。葵が初めて仲良くなった同世代のお友達である。

 葵と同じ歳とは思えないほどに礼儀正しい子だった。小さい男の子はやんちゃな子が多いと思っていたのに、俊成くんは他の男の子達と比べて落ち着いていた。

 葵が好きなおままごとなどの女の子の遊びにも文句の一つも言わずに付き合ってくれていた。俊成くんの葵を見る目は同世代とは思えないほど優しかった。いっしょに遊んでいるというより葵の面倒を見てくれているという風だった。

 夫が起業するなんて言うものだから、それから一気に忙しくなった。収入が減ってしまうこともあり私もパートに出るようになった。

 葵には俊成くんと同じ幼稚園ではなく保育園に通わせることになってしまった。嫌がる葵を説得するのは大変だったけれど、俊成くんは休みの日になる度に葵と遊んでくれた。

 正直、私も夫も忙しかったというのもあって俊成くんには感謝していた。葵も俊成くんと遊べて不安が収まったのだろう。次第に保育園でもお友達を作っていった。

 

「俊成くんがパパをやってくれて楽しかったんだよー。葵はママなのー」

「そう、おままごとは楽しかったのね」

「うん!」

 

 それでも葵からの話題は俊成くんのことばかりだったけれどね。

 そうしているうちに小学校に通うようになった。葵も俊成くんと同じ学校に行けることもあってとても喜んでいた。

 我が子ながら微笑ましかった。だけど入学式で驚かされることとなる。

 木之下瞳子ちゃんという女の子と葵が俊成くんを取り合うようにケンカを始めたのだ。どうやら瞳子ちゃんは俊成くんと同じ幼稚園らしかった。

 親バカではなく、葵はとてもかわいいと思う。それなのに瞳子ちゃんはそんな葵と並んでも遜色ないほどのかわいさだった。

 ツインテールにした銀髪に澄んだ青い瞳。日本人離れした容姿に見惚れてしまう。フリフリのかわいい服を着せてみたいと思った。

 そんな瞳子ちゃんと葵が俊成くんを取り合っている姿は、なんというかこう小さな昼ドラを見ている気分になった。まだ子供同士なので微笑ましいものなのだけれどね。

 

「ワタシは瞳子の母デス。宮坂さん、よろしくお願いしますネ」

 

 瞳子ちゃんのお母さんはロシア人の美しい女性だった。モデルをやっていると言われても信じてしまえるほどの美貌である。

 

「娘さんかわいいデスネ。葵ちゃんのこと、もっともっと教えてくだサイ」

 

 本人いわく日本がとっても好きというのもあり、流暢な日本語だった。それに好奇心も強くて思わず娘の話をたくさんしてしまう。俊成くんのお母さんも同じように子供の話をしているようだった。

 

「瞳子にはしっかりとした女性になってもらいたいのデスヨ。だから習い事もさせてマス」

 

 そう言って瞳子ちゃんのお母さんは自分の娘の話もたくさんした。どういった教育方針なのか、まったく隠す様子もないのでこっちもついついいろいろとしゃべってしまう。性格なのか、お国柄が表れているのか、どちらにしてもストレートに考えをぶつけてくる女性だった。

 仲良しのママ友ができて嬉しかった。ただ、お互いの娘が一人の男の子を取り合っているというのはちょっと複雑だったけれど。

 葵が俊成くんと瞳子ちゃんと仲良くなっていくように、私達も三人でママ友同士集まっておしゃべりするようになった。

 毎回最後には俊成くんとお付き合いするのはどっちになるのかしらね、という話になる。俊成くんのお母さんはその話になると気まずそうになるのだけど、私と瞳子ちゃんのお母さんは大いに盛り上がった。

 これから大きくなるのだから恋はたくさんした方がいい。そう軽く考えていたのだ。

 

「お母さん。葵、チョコレート作りたいの」

 

 娘に突然そんなことを言われて何かと思えば、俊成くんにバレンタインデーのチョコを渡したいのだそうだ。

 これには私も葵と同じようにやる気になった。娘が意中の男の子にアピールできるチャンスなのだ。できるだけ協力してあげたかった。

 それに、瞳子ちゃんのお母さんにも負けたくなかったのだ。おそらく向こうもチョコレートを用意するだろう。負けないものを作ってやりたかった。これは母親としての勝負でもあるのだ。

 そうやって張り合っているとなんだか楽しい。これをきっかけに葵はお菓子作りだけじゃなく料理にも興味を向けてくれた。「トシくんにも食べてもらうの」と言いながら料理を憶えていく葵はいじらしくてかわいい。

 学年が上がって俊成くんと瞳子ちゃんとクラスが違っていた時は落ち込んでいたっけ。ちょっと心配になったけど、その心配は無用のものだった。

 葵はちゃんとお友達を自分で作れるようになっていた。それにクラスが違っても俊成くんと瞳子ちゃんとは家族ぐるみで遊ぶようになっていた。遊びにつれて行ったり、それぞれの家でお泊まり会をしたりなどこっちの頬が緩むくらい三人は仲良しだった。

 もしも俊成くんが葵か瞳子ちゃんのどちらかを選んでしまったらこんな関係も終わってしまうのだろうか? そんな考えが過ったものの、それはまだずっと先の話だろう。そう考えていた。

 私は葵のことを、葵だけじゃなく俊成くんと瞳子ちゃんのことも、ずっと子供のままだと思い込んでいたのかもしれなかったのだ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「ママ、話があるの」

 

 瞳子が真剣な表情でそう言ったのは、初めて高木さんと宮坂さんとの一泊旅行をして帰った日の夜デシタ。

 

「お話なら瞳子のお部屋でしまショウカ」

「……うん」

 

 話というのはトシナリのことデショウネ。長い話になりそうなので腰を据えるためにも場所を変えることを提案シマス。

 瞳子はトシナリのことが好きなのデス。娘は幼い頃から自分の意志を持っている子デシタ。だからワタシは瞳子の想いをちゃんと聞いてあげタカッタ。

 瞳子のお部屋に入ってお話をシマス。最初娘は旅行でどんなことが楽しかったかを教えてくれマシタ。

 話は温泉旅館に行ったあたりになってカラ、瞳子の声が段々と小さくなっていきマス。本題が近いのデショウ。

 

「……それでね、俊成が言ってくれたの。あ、あたしの瞳が綺麗だって……」

 

 そこまで言うと瞳子は枕に顔を埋めてしまいました。それで娘がどれほど嬉しかったのかわかってしまいマシタ。……トシナリ、やりマスネ。

 幼い頃からワタシに似た銀髪と青色の瞳をからかわれてきたことを知ってイマシタ。何かを言われなくても、遠巻きから馴染みのない視線を向けられたのは容易く想像できマシタ。ワタシもそうでしたカラ。

 そういうものだと覚悟していたワタシは気にしませんデシタガ、日本人として育った瞳子からすればなぜみんなと扱いが違うのだと悩んだことデショウ。

 そんな時、瞳子からトシナリのことを聞いた時は嬉しかったものデス。ようやく本来の瞳子を受け入れてくれる子が現れたのデスカラ。

 それからというもの、瞳子は明るくなりマシタ。トシナリという味方を得て不安がなくなったのデショウ。

 だからこそ、瞳子が予定していた私立の小学校に行かないと言った時はむしろ嬉しかったのデス。それだけ娘が本気だと知れたのデスカラ。

 ……まさかトシナリが瞳子以外の女の子に粉をかけているとは思ってもみませんデシタガ。モテる男は手が早いというのはどうやら本当のことのようデスネ。

 ライバルがいても瞳子の想いは変わりませんデシタ。それどころかより一層燃え上がっているようにも見えマス。

 それがずっと続いてもう小学四年生になりマシタ。体は成長していき女として確かに育っていきマシタ。もちろん心だって変化があってもおかしくない年頃デス。

 それだけずっと続いた想い。そんな想い人からコンプレックスを吹き飛ばしてくれる言葉をかけられたのデス。瞳子の心の中でどれほどの想いが暴れ回っているのデショウカ。

 

「瞳子は本気でトシナリが好きなのデスネ」

「……うん」

 

 静かな頷きが返ってきマス。すでに真意を尋ねるまでもないデショウ。

 瞳子は純粋デス。そしてトシナリは優しい。トシナリなら娘の相手だとしても文句なんてありマセン。だけどそれは二人で決めるコト。どちらか一方だけではなく、二人いっしょに確かめ合うものデス。

 

「愛……という言葉を知っていマスネ?」

「え、知ってる……けど?」

 

 ワタシも日本語をたくさん勉強しマシタ。日本語はたくさんの意味を持っていることも勉強しマシタ。

 

「愛という漢字には心という文字が真ん中にあるのデス。だから愛という字は真心を表している言葉でもあるのデスヨ」

「真心……」

「そうデス。真心は偽りのない、嘘のない本物の心デス。瞳子に真心があるのデシタラ、トシナリに真っすぐな気持ちをぶつければいいのデス」

 

 とはいえトシナリもまだ子供デス。異性の愛情というものを本当の意味ではわからないデショウ。

 だとしてもアピールは必要なことデス。トシナリの中で瞳子が大きな存在になるようにしナケレバ……。

 

「ママ?」

「おっと、そうデスネ。真心を教えるためにはワタシとパパの馴れ初めを教えなければいけマセンネ」

「えー、その話は耳にタコができるくらい聞いたわよー」

「ふふふっ。そう言わずに聞くのデス。あれはワタシが日本に来て――」

「あー……、始まっちゃった」

 

 夫はとても不器用デシタガ、とても素直に気持ちを伝えてくれる人デス。真っすぐで紳士で素敵な人。ワタシの運命の相手デス。

 トシナリが瞳子の運命の相手かはまだわかりマセン。それでも瞳子には思いっきりぶつかっていける恋をしてほしいものデス。

 それがどんな結果を迎えたとしても、ワタシは最愛の娘を応援し続けたいのデス。

 

 



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36.自覚して考える

また女の子出しちゃってー、とか言ってはいけない。眼鏡っ娘だからセーフ(何が?)


 うちの小学校には仲間班活動というものがある。一週間に一時間、時間割に組み込まれていた。

 一年生から六年生までの全学年が各班に分かれて活動するのだ。その活動内容は遊ぶことばかりだったりする。

 遊びを通じて集団意識を高めようというのが狙いなのだろうか。とくに高学年の子達は低学年の子の面倒を見るようにと言われている。年下の相手をさせてお兄さんお姉さん意識を芽生えさせようとしているのだろう。

 とはいえ、遊ぶにしても低学年と高学年の子では運動能力も頭の回転のどちらもかなりの差がある。年上の子が手加減するにしても遊びの内容はちゃんと考えてあげなければならなかった。

 

「今日は椅子取りゲームをしようと思う」

 

 俺の所属する十班の班長である野沢くんがそう切り出した。低学年の子達から歓声が上がる。ノリがいいなぁ。

 最上級生である野沢くんを含めた六年生が遊びの内容を考えてくることが多い。一年生から六年生までが楽しめる遊びを考えるのは毎回のことながら大変だと思う。俺も六年生になったら同じことをしなきゃいけないんだよな。今のうちに何をやってどんな反応をされるか観察しとかないとな。

 

「高木くーん、椅子取るのに夢中になって低学年の子をいじめたらダメなのよー?」

「そんなことしないってば。小川さんの方が熱くなりそうで心配だよ」

「何よ、熱くなって何が悪いの。真剣にやって勝つからこそゲームは楽しいんじゃない!」

 

 めっちゃ本気じゃないですか小川さん。まあそう言いつつも彼女のオーバーリアクションに低学年の子達が喜んでいるのも確かなんだけどね。

 仲間班では違う学年、違うクラスの子達といっしょになる。だからこそ俺は小川さんや野沢くんといっしょの班になっていた。逆に同じクラスの子といっしょになることはないので葵ちゃんや瞳子ちゃんとは別々になってしまっている。

 一つの班に一人の先生がついているものの、基本的には生徒の自主性に任せられている。なので進行を務めるのも生徒に委ねられていた。

 そこはさすがの野沢くん。指示を出して机を端に寄せて椅子を教室の中央に集めた。テキパキとした指示にみんな素直に従う。

 

品川(しながわ)ちゃんもこっちにおいでよ」

「……」

 

 テキパキと動いているみんなの中で、一人だけ端っこで固まってしまっている子がいた。その子は眼鏡をかけている三年生の女子だった。

 名前は品川(しながわ)秋葉(あきは)。下の名前は「あきば」ではなく「あきは」なので注意が必要だ。濁りません。

 品川ちゃんはかなりの引っ込み思案である。そういうタイプの子は何人かいたものだけれど、彼女はその中でもダントツの恥ずかしがり屋さんだった。

 誰かとしゃべるところをほとんど見たことがないし、話しかけても顔を真っ赤にしてうつむくばかりだ。

 とはいえ、この仲間班というのは六年生は一年生を、五年生は二年生を、そして俺達四年生は三年生の面倒を見ることになっている。そんなわけで放っておくわけにもいかないのだ。

 一つ下の三年生というのは微妙にやりづらい。低学年の子達なら気安く接する方が喜ばれるのだが、中学年の、それも一つしか歳が違わないとなるとあまりに気安くするとふてくされてしまうのだ。

 これがもっと年上相手ならそんなことにはならないと思うのだが、そうは言っても気にかけてやらないといけないのだ。それを放り出すわけにもいくまい。なんともさじ加減が難しい。

 俺は品川ちゃんの手を引いてみんなの輪の中心へと入っていく。名字にちゃん付けするのは変な感じなのだが、できるだけ仲良くできるようにと考えたらこうなってしまった。低学年の子なら下の名前で呼べるけど、三年生相手だとどうかなと考えてしまうのだ。さん付けも距離が離れてしまう気がするのでこんな呼び方になってしまった。

 

「先生、これCDです。音楽をかけて適当なところで止めてください」

「はい、任せなさい」

 

 野沢くんが先生に音楽CDを渡す。今日のために用意してくれたのだろう。さすが抜かりはないようだ。

 ちなみにこの十班を担当している先生は俺が一年生の頃の担任だった女教師である。ニコニコとしていて子供達から人気なのだ。なんだか俺達の担任をしていた頃よりも笑顔が多い気がする。

 

「はいはーい。みんな椅子の周りに集まってねー。押しちゃダメよー」

 

 先生に言われて低学年の子達が元気良く返事する。微笑ましい。

 椅子取りゲームとは音楽に合わせてみんなで椅子の周りを歩く。そして音楽が止まったら椅子に座るというゲームだ。参加人数よりも少なめに椅子を用意するので座れなかった子は負けとなって輪の外に出る。そうやって人数を減らしていって最終的に一人になるまでそれを繰り返すのだ。

 これならルールが単純だから低学年の子達でも楽しく遊べるのだろう。参考にしておこう。

 円を描くように椅子が揃えられている。その周りを一年生から六年生の子達がぐるりと囲んでいる。

 椅子の数は二十七。六学年の各クラスの生徒が一人ずつ集まっているので、ここにいる十班の人数は三十人である。つまり最初で三人の脱落者が出るということだ。最初だからとはいえ気を抜いていられない。

 ……なーんて本気で勝つことを考えるわけでもない。俺はみんなが楽しめればいいので最初に脱落しても構わなかった。

 

「……」

 

 ただ、俺の手をぎゅっと握る女の子。品川ちゃんのことを考えると簡単に終わるわけにもいかないと思わされる。というかゲームが始まるんだから手を離した方がいいんだけどね。

 

「よぉーっし! 私本気でやるからねーっ! みんなも本気でかかってくるのよ!!」

 

 低学年の子達を中心に「うおおおおーーっ!」と元気な声が上がる。盛り上げ役としては小川さんって優秀だよね。拳を突き上げる姿なんか五六年生と遜色ない背丈をしているだけに様になってるし。

 

「じゃあ始めるわよー。ミュージックスタート!」

 

 先生がそう言うとCDラジカセから軽快な音楽が流れる。きゃっきゃとはしゃぎながらみんな楽しそうに椅子の周りを歩く。

 音楽が止まった。みんな一斉に椅子へと座っていく。俺は品川ちゃんの手を引いて椅子へと座った。

 

「はーい、座れなかった子はアウトだからねー」

 

 最初に脱落したのは三人とも六年生だった。こうやって年上の自覚やら空気を読む能力やらを鍛えられているのかも。なんとなしにそう思った。

 

「負けても音楽に合わせて歌うからな」

 

 脱落者の一人である野沢くんがそう言って盛り上げてくれる。なるほどな。それなら負けたとしても歌を歌うことで参加し続けられるか。ちゃんと考えてるんだな。

 

「うおっしゃあっ! この椅子私が取ったどー!」

 

 小川さんは容赦がない。競り合いになった相手が一年生だとしても譲らなかった。それでも大袈裟に喜ぶ姿がウケたのか不満が上がることはなかった。すごいな。

 椅子の数は半分以下にまで減った。負けたら負けたでみんな楽しそうに歌ってるし、そろそろ俺も負けてもいいだろうか。

 また音楽が流れる。周りはそれに合わせて歌っている。人数も少なくなってきたからか残っている子から真剣な表情がうかがえた。

 全力で遊べるのは子供の特権だよね。今の俺にそこまでの気持ちになるのはちょっと無理だ。枯れてると言われても反論できない。

 音楽が止まる。みんな俊敏な動きで椅子に座っていく。あと残っているのは一つだけだ。

 

「品川ちゃん座りなよ」

 

 俺は手を引いて残った椅子に品川ちゃんを座らせた。これで全部の椅子が埋まった。俺は脱落だ。

 負けたので品川ちゃんの手を離そうとすると、手が離れなかった。あれ? と思って彼女に目を向けると、眼鏡の奥の瞳が涙で潤んでいるのがわかった。

 

「し、品川ちゃん?」

「む、無理です……」

 

 何が? そう聞き返す前に彼女は立ち上がってしまった。すかさず座れなかった子が滑り込むようにその椅子へと座った。なんかすごい動きだった。

 品川ちゃんは耳まで赤くしながらうつむいている。それでも俺の手を離そうとはしなかった。

 とても恥ずかしがり屋な子だ。手を離したら一人になってしまうとでも思ってしまったのかもしれない。見た目は全然違うのに葵ちゃんと瞳子ちゃんの二人と重なる。

 まあ、俺は四年生で品川ちゃんは三年生だ。面倒を見なければならないのなら、この時間が終わるまでは傍にいよう。

 

「じゃあ、いっしょに音楽に合わせて歌おうね」

「……」

 

 言葉はなかったけど頷いてくれた。今はまだ恥ずかしさが勝ってしまうのだとしても、こうやって遊んでいるうちにいずれ克服できるものだと信じよう。俺にはそれくらいしかできなさそうだ。

 椅子取りゲームに勝ったのは二年生の男の子だった。小川さんは最後まで残っていたけど、最後の最後で負けてしまった。いや、あれは花を持たせたのだろう。なんだかんだ言ってもエンターテイナーなところがある女の子だよね。

 チャイムが鳴るまで椅子取りゲームをした。品川ちゃんも口元が笑みの形を作りつつあったので楽しくはあったのだろう。よかったよかった。

 机と椅子を戻してから解散となった。それぞれ自分の教室に帰っていく。

 

「高木は本当に女子と手を繋ぐのが好きだよな」

 

 去り際に野沢くんからチクリと一言。登校中は葵ちゃんと手を繋いでるのを毎回見られてるもんなぁ。でもこれは意味合いが全然違うんだよ。そう言い訳する前に彼はいなくなっちゃったけども。

 

「あおっちときのぴーだけじゃ物足りないって言うの。高木くんって罪深いよねー」

「待て待て。誤解を招くような言い方をするんじゃないっ」

 

 俺の反論なんて聞こえないとばかりに小川さんは笑いながら去って行った。くそー、あれはからかいたかっただけだな。品川ちゃんが超がつくほどの引っ込み思案ってことを知ってるくせにっ。

 

「高木くんは相変わらずモテモテなのね」

「せ、先生まで……」

 

 一年生の頃を思い出すと先生がまた男女関係にトラウマを持っているのかと思って身構える。けれど先生の表情は穏やかなものだった。

 

「……先生、何か良いことがあったんですか?」

「え? えっ!? な、何もないわよっ」

 

 わかりやすいなー。先生は隠しごととかできないタイプのようだ。

 動揺している先生だったが、キョロキョロと辺りを見渡してから俺に顔を寄せてきた。

 

「ま、まあ高木くんのおかげってのもあるからちょっとだけ教えてあげるわ。うん、とっても良いことがあったの。その……ね?」

「彼氏でもできたんですか?」

「ほわあっ!? そそそそこまでは言ってないでしょ!」

「あ、ごめんなさい。つい思ったことを言っちゃいました」

 

 これは本当に男ができたんだな。俺のおかげってのは意味がわからないんだけど。何もしてませんよ?

 

「こ、こほん。ま、まあまた学校から報告があるから、今の話は秘密にしてるのよ?」

「わかりました」

 

 つまり、彼氏どころか結婚が決まってるってことなのか。いつの間にそんなことになっていたのやら。学年が上がってから先生を見かけるのも少なくなってたから気づきもしなかったよ。

 でもまあ、そうだとしたら本当におめでたいことだ。

 先生は幸せそうに微笑んでいた。幸福が滲み出ているといった感じだ。

 先生にこんな顔をさせるということは、その結婚相手はとても良い人なのだろう。これからの未来を明るく思わせてくれるような、そんな人なのだろう。

 俺も、将来の結婚相手をこんな幸せそうな顔にできるだろうか?

 葵ちゃんと瞳子ちゃんに接していると、本当に幸せになるのは一人だけではできないものだと思わされる。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんが笑ってくれると俺も嬉しい。どちらか一方に決められていない俺だけど、その想いは本物なのだ。

 前世で恋愛なんてしなかったものだからそんなことさえもわかっていなかった。それに関しては前世のアドバンテージなんて一つもない。下手をすればマイナスになっているかもしれない。

 だからこそ、なぜ結婚をしたいのか。結婚をすることによってその先にどういった変化があるのか。真剣に、真摯に考える必要があると感じた。

 また一から考え直そう。ただ結婚するだけじゃない。結婚をすることで相手を幸せにできるようにするのだ。それが俺の幸せにも繋がる気がするのだから。

 

「先生、おめでとうございます」

「も、もうっ、秘密って言ってるでしょ!」

 

 唇を尖らせる先生はどこまでも幸せそうだった。

 

 




私の小学校では仲間班活動って言ってたけど他の学校ではまた違うのかもしれない。椅子取りゲームとハンカチ落としとフルーツバスケットくらいしか記憶に残ってなかったな……。


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37.みんな大好き席替えイベント

「今日は席替えをするぞー」

 

 先生がそう言った瞬間、四年二組の教室が歓声で揺れた。

 席替えとは学生にとっては大イベントである。誰と近い席になるかで今後の学生生活が変わると言っても過言ではない。

 そのことは小学四年生にだってわかるのだろう。いや、すでに身に染みているに違いない。だからこそのこのテンションなのだ。隣のクラスの迷惑になってないか心配になるくらいのはしゃぎっぷりである。

 だが、席替えとは必ずしも良い結果になるとは限らない。一人一人の意見が通るはずもなく、それでいて平等にとなれば、それを決定する方法はおのずと限られるだろう。

 

「よーし、じゃあくじ引きするからなー。全員順番に引くんだぞ」

 

 くじ引きだ! それは圧倒的な平等! そして試されるのは悪魔的な運! 見せつけるのだ! 己の運命力を!! それによって決まるのは天国か!? 地獄か!?

 ……うん、無理やりテンション上げてみたけどかえって変な感じになってしまった。とりあえず教室はざわざわしている。俺の心はさざ波ほどもざわついてはいない。

 学生時代はあんなにもテンション上がってたのになぁ。今なら教卓の前という特等席でも抵抗はない。つまりどこでもいいのだ。

 授業中になれば集中してるからどこでも関係ないし、休み時間になれば葵ちゃんや瞳子ちゃんなどが集まってくる。彼女達と席が端から端まで離れていたとしてもそれは変わらないだろう。

 現在の俺は勉強ができて運動もできる男子という扱いだ。クラスでは一目置かれていると言ってもいいくらいだろう。そんな余裕があるからこそ誰が近くにいようと問題なんてないと思っているのかもしれない。

 だからってあまり調子に乗らないようにしないとな。余裕が油断にならないように気をつけなければ。子供の成長なんてものはとても早いのだから簡単に追いつかれてしまうぞ。

 そうやって自分を戒めていると、くじ引きの順番が回ってきた。

 くじは箱の中にある紙を取って、そこに書かれている数字に割り振られている席になるのだ。ちなみにくじは担任の先生の手作りである。ご苦労様です。

 俺は気負うことなく箱に手を突っ込み、一枚の紙を取った。

 

「高木は……二十四番だな。じゃあ次の人くじを引きなさい」

 

 席替えの進行をしている先生は次々とくじ引きをする生徒の名前を呼んでいく。俺は黒板に書かれた席順と番号を見比べた。

 俺が引いた二十四番は窓際から二列目、最後尾からも二列目というなかなかのポジションだった。どこの席でも関係ない、なんて思いつつもこの結果は嬉しい。

 

「二十四番……、隣になるためには十九番か二十九番を引かなくちゃ……」

「もしくは前後の席ね……。二十三番と二十五番はまだ埋まってないわ」

 

 振り返ると葵ちゃんと瞳子ちゃんがぶつぶつと何やら呟いていた。彼女達の真剣な目を見るとなんだかデジャヴがあるのですが。

 

「トシくんの隣になりますようにトシくんの隣になりますようにトシくんの隣になりますように……。よし!」

「あたしのくじ運はいいはず……。今度だって大丈夫……」

 

 二人して祈りのポーズを作って何やら言っている。声が小さくて聞き取れない。葵ちゃんが気合を入れたということだけはわかった。

 まあ俺の近くの席になりたいと思ってくれているのだろう。とても嬉しいんだけどくじだからね。こればっかりはどうしようもない。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんの運が試される。俺はそれをただ黙って見つめていた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「高木くんの隣になれて安心したわ。よろしくなー」

「俺も佐藤の隣の席になれて嬉しいよ。こっちこそよろしく」

 

 俺の隣、窓際の席には佐藤が収まった。やっぱり話せる奴が隣にいた方が落ち着くからな。これはラッキーと言ってもいいだろう。

 つんつんと背中をつつかれる。振り向けば赤城さんと目が合った。

 

「あたしも、よろしく高木」

「こちらこそよろしくね赤城さん」

 

 後ろの席も交流のある赤城さんだった。俺は運がいいらしい。

 

「よう高木。これも何かの緑ってやつだな。またサッカーしようぜ」

「本郷くんか。まあ気が向いたらな」

 

 佐藤とは反対側の隣の席になったのは本郷だった。「緑」じゃなくて「縁」な。漢字どころか読みまで間違ってるし。わざわざ注意してやらんけど。

 本郷の近くの席になれなかった女子から深いため息が聞こえてくる。せっかくだったら本郷と女子達で固まってくれても構わなかったのに。こいつの席の近くだと休み時間が大変そうだ。本郷は休み時間の度に女子に囲まれてるからな。

 さて、席替えは終わってしまった。また当分は今の席となる。誰かにとって良い結果だろうが悪い結果だろうが変更はできないのだ。

 

「うぅ~……あとちょっとなのに~」

「くじに強いはずのあたしがこんなところにいるだなんて……」

 

 悔しそうな声が突き刺さる。俺に声だけでダメージを与えられるのは葵ちゃんと瞳子ちゃんしかいなかった。

 

「ねえ佐藤く~ん。私と席を変わってくれてもいいのよ? 今ならいいにおいのする消しゴムがついてくるよ! 」

「そ、そんなん言われても。僕は勝手なことなんてできへんよ。ごめんな宮坂さん」

「ぶー」

 

 佐藤の後ろ、俺からだと斜め後ろの席に葵ちゃんがいた。そこでも近い席なのだが、彼女にはご不満らしい。

 

「木之下、よろしくな」

「……よろしく」

 

 本郷が真後ろの席に座る瞳子ちゃんとあいさつを交わしていた。本郷はいつもの爽やかスマイルだけど、瞳子ちゃんの方は仏頂面でそれを返していた。

 瞳子ちゃんは明らかに態度が悪くなっているけど本郷はそれに気づいていない様子だ。二人の間に何かがあったとかじゃなくて、瞳子ちゃんが一方的に嫌っているだけなのか? モテ男が気に食わないみたいな。いやいや、瞳子ちゃんはそんな表面だけで人を判断する女の子じゃないはずだ。うーむ、わからん。

 

「赤城さんいいなー。トシくんの後ろの席なんて……」

 

 葵ちゃんは隣の赤城さんを見ながらそんなことを言う。言われた赤城さんはどや顔になった。無表情のままのはずなのになぜかそう見えてしまった。

 

「ここの席なら高木を触りたい放題」

 

 なぜか赤城さんから背中を触られまくっている。どうやら葵ちゃんに自慢したいらしい。子供って他人が羨みそうなことを目の前でやるのが好きだったりするよな。赤城さんがそういうタイプだったとは意外だけど。

 見せつけられる側の葵ちゃんはぐぬぬと悔しがっていた。けっこう赤城さんとも仲が良いよね。微笑ましいやり取りに見える。

 

「ちょっと! 赤城さん俊成に触り過ぎよ」

 

 あまりにもぺたぺたと触ってくる赤城さんを見かねてか瞳子ちゃんが注意する。赤城さんは瞳子ちゃんに無表情のまま顔を向けて口を開いた。

 

「これは高木の後ろの席の特権」

「ぐぬぬ……」

 

 いやいや別にそこでぐぬぬとしなくてもいいでしょうに。瞳子ちゃんったらとっても悔しそう。

 まあそんなわけで俺の周りはこんな感じで固まった。本郷以外は仲が良い人だ。俺にとっては有意義な席替えだった。

 

「よーし、席替えも終って早速だが六人一組のグループを作ってもらうぞ」

 

 騒がしかった空気が落ち着いてきたところで担任の先生がそう声を上げる。どうやら席替えはこの流れのためでもあったようだ。

 そう考えると六人のメンバーはすでに決まっているようなものだった。

 

「トシくんと同じグループでよかったー」

「まあ文句は言わないでおいてあげようかしら」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんはもちろん、赤城さんと佐藤、それに本郷が同じグループとなった。男女比率も半々だしちょうどいいと言えばそうなのかもしれない。

 

「えー、来週そのグループに分かれて調理実習をするからな。食材はグループのメンバーそれぞれでおつかいして買ってきてもらうぞ」

 

 調理実習か。前世では小中高と戦力になった覚えがまったくないぞ。

 俺が料理を始めたのは親元を離れて一人暮らしをするようになってからだ。必要に迫られて覚えていったのだ。まあ大したものは作れなかったがな。

 今世ではできるだけ家事を手伝うようにしている。その中には料理のお手伝いも入っていた。

 そういうのもあって前世よりは自信があるのだ。料理のできる男というものをアピールしてやろうじゃないか!

 俺がやる気になっていると、背中をつんつんとつつかれた。振り返ると赤城さんが顔を寄せてくる。

 

「高木、いっしょにおつかい行かない?」

 

 



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38.はじめてのおつかい【挿絵あり】

 今回の調理実習はグループのメンバーで話し合って献立を決めることになっている。

 つまり自由である。だが自由と言われるとかえって何をすればいいのかわからなくなってしまうものだ。

 小四だと女の子でも母親のお手伝いをしている子としていない子で分かれるだろう。その中で献立を考えるのはグループによっては難しい。

 そんなわけで献立選びは親に相談するところから始まる。それぞれ相談した内容の中から話し合いで何を作るかを決める。それを先生に提出してOKをもらえば献立が決まったこととなる。

 それからさらにその料理に必要な食材を自分達で買ってこなければならなかった。米や調味料は学校で用意してくれるとのことだが、子供にはそれでも大変なのかもしれなかった。

 親の苦労を体感する。自立力を鍛える。まあいろいろな要素があるのだろう。調理実習とか面倒だと思っていたけれど、社会人になると国語や算数よりも大切だったんじゃないかって思えてくる。生活力がないとまず生きていけないからな。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「高木、待った?」

「いいや、今来たところだよ」

 

 言っててデートの待ち合わせでの定番なやり取りではないかと思ってしまった。赤城さんはそんなつもりないだろうし、そもそもこれはデートではない。

 

「……高木、見つめ過ぎ」

「あ、ごめん」

 

 何気に赤城さんの私服を見るのは初めてだ。学校での彼女しか知らないものだから制服とか体操服くらいしか想像できていなかったことに気づかされる。

 赤城さんはパーカーにショートパンツという装いだった。そこに野球帽を被っているものだからぱっと見では男の子に間違えそうだ。まあ髪の長さが肩にかかるくらいはあるのでそうでもないのかな? 惜しげもなくさらされている素足なんかも綺麗だし、やっぱり男の子に間違えそうだなんて失礼か。

 

「じゃあ高木、行こうか」

「そうだな」

「ちょっと。何二人だけで話を進めているのよ!」

 

 声に振り向けば瞳子ちゃんがご立腹という態度で仁王立ちしていた。腕を組んでいる姿は様になっている。

 もちろん瞳子ちゃんも本日は私服である。黒のキャミソールの上に薄手のカーディガン。ふんわりとしたフレアスカートを合わせてちょっぴりの大人っぽさとかわいらしさが表現されていた。

 瞳子ちゃんの私服は見慣れているとはいえいつもながら似合っている。今回も高得点間違いなしである。

 

「そうだよ。私達もいるんだからねっ。ちゃんとわかってるよねトシくん?」

「も、もちろんわかってますです、はい」

 

 葵ちゃんがニコニコと威圧感を放ってくる。なんだその能力は!?

 ここまでくれば当たり前のように葵ちゃんだって私服である。彼女は可憐さを強調するような花柄のワンピースだ。ひらひらのレースがついていて清純な見た目の葵ちゃんにはぴったりである。

 日曜日の昼間。俺は女の子三人をつれて調理実習のためのおつかいにきていた。

 献立を決めたらその食材を揃えるためにおつかいをしなければならない。親に協力を要請してはいけないのだが、子供同士でいっしょに行ってはならないとは言われていない。そこに気づくとはさすが赤城さん。抜け目がない。

 そんなわけで俺達四人で買い物する予定を立てたのだった。ちなみに佐藤と本郷はそれぞれでおつかいを済ませるとのことだ。この二人とは家がちょっと離れていることもあって仕方のない部分でもある。

 子供の足で歩きで行ける範囲だからな。おのずと行く場所も限られる。俺達は赤城さんの案内で一つのスーパーへと向かった。

 

「ここ、あたしがよく行くスーパーだから」

 

 そんな赤城さん情報を聞いて店内へと入る。赤城さんは慣れた調子でカートに籠を乗せる。

 

「おつかいの証明のためにレシートがいるから。それぞれレジは別々で通そう」

 

 言いながら俺はカートに籠を乗せて葵ちゃんと瞳子ちゃんに渡していく。二人揃って「ありがとう」とお礼を言ってくれた。

 さて、買い物だ。こういうのは母さんに任せきりなものだからちょっと久しぶりの感覚だ。

 買う物はグループの六人それぞれで分担している。一人一人違うからといって負担額で不公平にならないように後でレシートの合計額で合わせるようにする。まあそんなに高い物を買うわけでもないので細かいことと言えばそうなのだが。

 相談の結果、今回の調理実習で作る料理は味噌汁と肉じゃが、あとは卵焼きといったものとなった。米は自分達で炊かなければならないが、これをわざわざ料理という必要もないだろう。

 最初の調理実習ということもあり無難なメニューとなった。簡単なものでもまずは成功体験を得ることが大切だ。そこからいろいろな料理にチャレンジしていけるだろうしね。

 米や調味料は学校が用意してくれている。卵も割れやすいためかそれも学校任せだ。そう考えると買う物自体はそんなに多くはない。

 これはおつかいだからな。何を買うかではなく、独りで買い物をすることに意味があるのだろう。俺達は四人で来てるんだけども。

 

「野菜はこっち」

 

 赤城さんの先導で店内を歩く。子供だけの集団だからか生温かい視線を感じる。

 ニンジン、ジャガイモ、玉ねぎに長ネギ。豚肉や豆腐なんかは佐藤と本郷に任せている。六人で分けるとあんまり買う物がないな。出汁の素でさえも学校がなんとかしてくれる。さすがに出汁を取ったりはしたことがなかったので助かる。

 それぞれ担当の物を人数分籠に入れた。真っすぐレジへと向かう。

 

「あら美穂ちゃん。今日はお友達といっしょにお買い物に来たのね」

「うん」

 

 赤城さんはレジ係のおばちゃんに話しかけられていた。顔見知りになるくらいにはこのスーパーに通っているようだ。

 

「あなた達、美穂ちゃんと仲良くしてあげてね」

「あ、はい。もちろんです」

 

 このおばちゃんは赤城さんのお母さんか何かなのだろうか。もちろん違うだろうが言い方がね。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんはレジでお金を払う時にわたわたしてしまっていた。慣れてなさが出ている。小四ならある程度は仕方がないのかな。自分のはじめてのおつかいっていつだったかちゃんとは憶えてない。俺も前世の小さい頃はこんな感じだったのかもしれない。

 

「ちゃんとレシートはもらった? レシートは取っといておつかいノートに貼るんだよ」

「うん。わかってるよー」

「俊成ったら心配し過ぎなんだから」

 

 おっと、あまり口酸っぱく言うのは逆効果だろう。しっかり者の彼女達を信じよう。

 今回のおつかいはノートに記録して提出しなければならない。レシートがないと減点されちゃうからね。いつもの癖で捨ててしまいかねなかったので何度も注意していたのだ。結局は俺が忘れないためだな。

 商品をレジ袋に入れて店を出た。それほど重たい物もないので持って帰るのに問題はなさそうだ。

 これでおつかいは終わりだ。こんなにすんなりできるのならなんで赤城さんは俺を誘ったのだろうか。さっきの感じだと買い物自体には何の不安もないように見えた。というか明らかにこのスーパーの常連である。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんくらいに慌ててしまっていたのなら不安で誘ったのだろうと予想できるのだが。赤城さんはそういうタイプではない。そうなるとわざわざ俺を誘う理由があったのかと疑問に思ってしまう。

 

「ねえ赤城さん。今日はなんでわざわざ俺達を誘ったの?」

 

 考えてもわからないので本人に尋ねることにした。

 赤城さんはすまし顔のまま口を開く。

 

「共同作業だから」

「はい?」

「調理実習はみんなで作るから。だから買い物もいっしょにしたかっただけ。……それだけ」

「そっか」

 

 料理をいっしょに作るのがイコールでいっしょに買い物というのはよくわからなかったけど、赤城さんが満足しているようだからそれでいいことにした。どっちにしても葵ちゃんと瞳子ちゃんの買い物には付き合わないといけなかったろうし、手間を考えても何も変わっていなかっただろう。

 スーパーから一番近いこともあり、赤城さんの家に寄った。

 赤城さんの家は平屋の一軒家だった。木造で小さな家だ。

 

「荷物置いたらみんなで遊ぼうよ」

「わかった」

 

 というやり取りの後、赤城さんは買った食材を冷蔵庫に入れに行った。俺達は外で待たせてもらうことにした。

 

「赤城さんの家には二階がないのね」

 

 瞳子ちゃんが家を眺めながら呟く。一軒家で平屋というのがかえって珍しく感じてしまったのだろう。俺達三人の家は全部二階建だもんね。

 

「屋根に登れそうで楽しそうだね」

 

 葵ちゃんのポジティブ発言。でも君が一人で登ろうとすると落っこちる未来しか見えないよ。俺の目の届かないところでそんな危ないことしないでね。

 

「お待たせ」

 

 玄関のドアが開いて赤城さんともう一人。六十代くらいの女性がいっしょにいた。

 

「こんにちは、美穂のお友達ね。いつも美穂と仲良くしてくれてありがとうね」

 

 柔和な雰囲気の人だ。笑顔でしわがくっきりしてさらに優しげに映る。

 

「あたしのおばあちゃん。みんなにあいさつしたいんだって」

 

 淡々と言う赤城さん。彼女のおばあちゃんに会うのは初めてだった。

 赤城さんの口から唯一上がる「おばあちゃん」という家族の名称。両親の名前が出ないところから少しは察しているつもりだった。

 

「初めましてですよね。高木俊成です。こちらこそ赤城さんには仲良くしてもらってます」

「え、えっと……、私は宮坂葵です」

「き、木之下瞳子です。よろしくお願いしますっ」

 

 それぞれ赤城さんのおばあちゃんにあいさつをした。いきなりの大人の登場に葵ちゃんと瞳子ちゃんは緊張していた風だったけども。俺達のあいさつを聞いておばあちゃんは嬉しそうに笑う。

 

「美穂から聞いてるよ。これからも孫をよろしくね」

「おばあちゃん。そういうのはいいから」

「はいはいごめんね。よかったら飴玉あげるからね。好きなのを取っておいき」

「ありがとうございます」

 

 ここは遠慮せずに厚意に甘える方がいいだろう。赤城さんのおばあちゃんは持っていた何かのお菓子の缶の蓋を開けて俺たちに差し出してきた。中を覗けば様々な種類の飴玉があった。

 俺はその中から一つを取ると「ありがとうございます」と行って頭を下げる。俺の行動を見てから葵ちゃんと瞳子ちゃんも飴玉を選び出した。

 

「君は男の子なのに礼儀を知っているんだねぇ」

 

 赤城さんのおばあちゃんが目を細める。小学生の男子なんてやんちゃなのが多いから礼儀正しいのが新鮮なのかもしれなかった。

 でもこれくらいなら常識内での礼儀だからそう不思議なものでもないだろう。あまりやり過ぎるのも肩が凝るし、何より逆にとっつきにくいと思われかねない。今くらいなら大丈夫のはず。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんも飴玉を取ってお礼を言った。俺なんかよりも百倍は愛嬌がある。愛嬌ってセンスだよね、とか思ってしまう俺がいた。

 赤城さんのおばあちゃんと別れてそれぞれの家へと向かう。荷物を置いたら遊ぶとは言ったものの、休日に赤城さんを含めて遊ぶのは初めてだな。

 

「赤城さんはおばあちゃんと暮らしてるんだね。お父さんとお母さんはどうしてるの?」

 

 葵ちゃんがズバッと切り込んだ。天然さんは怖いものなしである。

 

「お父さんとお母さんはいない……」

「え? それってどういう――もがっ」

 

 俺は咄嗟に葵ちゃんの口を塞いでいた。うん、これ以上は蛇しか出てこなさそうなんだもの。

 両親がいるのは普通のことだと思っていた。それが当たり前で育ってきたのだから。でも、中にはそうじゃない家庭だってある。

 それを知ったのは学生を終えた後のことだった。しかし、赤城さんみたいに小学生ですでに両親がいないことだってあるのだ。

 そういう人がいる。それを知っていたとしてもどう接するのが正解なのかはわからないままだ。とにかく余計なことを言わないようにと考えていた。

 

「赤城さんのおばあさんってとてもあなたのことが好きなのね。すごくいいおばあさんじゃない」

「……うん。あたしもそう思う」

 

 俺が葵ちゃんの口を塞いでいる間に瞳子ちゃんはにこやかに赤城さんに向かって言葉を投げかける。赤城さんも照れを感じさせながらも頷いた。

 ……なんか俺って考え過ぎだったかな。どうして両親がいないのかはわからないけど、赤城さんにはおばあちゃんがいる。あのにこやかな顔を思い出すと親心にも負けないようなものがあるように感じた。

 赤城さんには確かな愛情を注いでくれる人がいる。それを外からどうこう考えるのは何か違う気がしたのだ。

 俺は葵ちゃんから手を離してみんなの前に出た。

 

「よしっ。さっさと荷物置いて遊ぼうぜ!」

「わっ!? トシくんいきなりどうしたの?」

 

 急にテンションを上げた俺に葵ちゃんが首をかしげる。俺は笑顔で答えた。

 

「みんなでいっぱい遊びたいからだよ」

 

 友達なら友達にしかできないことをしよう。そう思っただけだ。

 

 

 




素浪臼さんからカスタムキャストで作成したイラストをいただきました! かわいいイラストありがとうございます!


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39.調理実習はトラブルがないようにね

 おつかいをした次の日の月曜日。調理実習当日である。

 エプロンや三角巾やふきんを忘れずに用意した。もちろん食材を忘れてはいない。朝学校に到着してすぐに先生に預けた。

 

「調理実習楽しみだねっ」

 

 葵ちゃんは笑顔でそう言った。料理に関して自信があるように見える。

 

「えっと……、乱切りがこうで……、その前に猫の手だった……えっと……だから左手がこうで、右手が……」

 

 瞳子ちゃんは朝からぶつぶつと呟いている。聞こえる言葉から彼女の不安を感じられる。なんか自信のない瞳子ちゃんって珍しいな。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんは毎年俺に手作りのバレンタインチョコをくれるものだから、勝手に二人とも料理ができるものだと思ってた。お菓子作りとはまた違うからな。あまりプレッシャーをかけない方がいいかもしれない。

 などと考えているうちに調理実習の時間がやってきた。

 エプロンと三角巾を装備して家庭科室へ。エプロンなんかはみんなそれぞれで違っていた。けっこうキャラ物なんかも多いな。ほとんど黒一色のエプロンの俺が浮いているように感じてしまう。

 

「見て見てトシくん。このエプロンかわいいでしょ?」

「うん、とってもかわいいよ」

 

 葵ちゃんはピンク色を基調としたフリフリのエプロンだった。ファンシーにデフォルメされたクマさんがかわいさアピールのポーズをしている。

 葵ちゃんは髪が長いのもあって後ろで一つに束ねていた。家庭的な雰囲気が出ていてポイントが高いね。

 

「俊成。あたしはどう?」

「もちろん瞳子ちゃんも似合っててかわいいよ」

 

 瞳子ちゃんのエプロンは青色を基調とした柄物だった。葵ちゃんと違ってシンプルなデザインだが、大人びている彼女にはよく似合っていた。

 

「うぅ……なんか緊張するなぁ。失敗しても怒らんといてな」

「大丈夫だよ佐藤。ちゃんと俺がフォローしてやるからさ」

「ほんま頼むでー」

 

 佐藤の反応を見ていると前世の俺を思い出すな。詳しく憶えているわけじゃないけど、俺もこうやって緊張していたのだろう。

 

「今日はうまいもん食べられたらいいな」

「そうだな。そのためにもしっかりがんばらないとな」

 

 本郷は明るい調子だ。まったく不安を感じさせない。こいつ料理とかできるんだっけ? わざわざ他人の料理スキルまでは憶えてないからわかんないな。

 

「ねえ高木。後ろ結んで」

「ああ、エプロン? いいよ」

 

 赤城さんが俺に背中を向けてくる。エプロンの紐が結べなかったようなので結んであげることにした。

 ちなみに彼女のエプロンの絵柄は某夢の国のネズミさんである。でかでかと主張しているデザインに赤城さんとのギャップを感じてしまう。

 

「あっ! 赤城さん俊成に何してもらってるのよっ」

「もうっ。それくらいなら私がしてあげたのに!」

 

 赤城さんのエプロンの紐を結んでいると瞳子ちゃんと葵ちゃんが反応した。赤城さんはまったく意に介した様子もなく二人に顔を向ける。

 

「高木の後ろの席の特権だから」

 

 いやいやそんな特権は存在しませんよ? 赤城さん節に苦笑いしか出なかった。

 調理実習が始まるまでに二人をなだめた。なんか料理する前から疲れてしまったぞ。

 調理実習は包丁や火の扱いがあるためか二人の先生が見てくれることとなった。五つのグループがあるから大変だろうけど、ケガをさせないためにも必要な監督役である。

 最初に注意事項の確認と、わからないことがあれば素直に先生に聞くことを言い聞かせられる。まあどのグループにも何人かは料理経験者はいるようなのでそうそう問題は起こらないだろう。

 みんな手を洗ってから調理開始である。

 

「味噌汁と肉じゃがはそれぞれ分担するとして。卵焼きは後でいいか。と、まずは米を炊かなきゃだな」

「と、俊成……」

「ん?」

 

 頭の中で手順を思い描いていると瞳子ちゃんに話しかけられた。見れば両手の人差し指を突っつき合わせていた。そんな仕草をしながら彼女は不安そうに尋ねてくる。

 

「あ、あたしはどうすればいいの?」

「あー……。瞳子ちゃんって料理経験なかったっけ?」

 

 確認を込めて聞いてみた。すると瞳子ちゃんはうっと息を詰まらせる。

 

「お菓子作りならママといっしょに……。でも、今日はいないし……俊成に聞けば大丈夫かなーって……」

 

 なるほどな。でも瞳子ちゃんなら一度一通りやってしまえばちゃんと憶えてくれると思うし、できるだけ教えてあげよう。そうすれば次に繋がるはずだ。

 

「わかった。まずはお米の炊き方を教えるよ。佐藤、米を研ぐんだけどいっしょにやるか?」

「僕もやる。どうすればええんや?」

 

 そんなわけで俺は瞳子ちゃんと佐藤の二人を受け持つことにした。あとの三人は大丈夫だろうか?

 

「まずは野菜を洗おっか」

「そうね……。宮坂がそっちやるならこっちはあたしに任せて」

「なあなあ肉は?」

「それは後でね」

「ふうん」

 

 葵ちゃんと赤城さんは心配なさそうだった。本郷は……なんか怪しい感じがする。

 まあいいや。葵ちゃんと赤城さんに任せていれば大丈夫だろう。俺は米の研ぎ方を瞳子ちゃんと佐藤に実践しながら教える。

 

「お米を計って入れたら水を注ぐ。それからすぐに水を捨てるんだ。これを三回くらい繰り返すよ」

「こ、こうかしら? で、水を捨てればいいのね」

「待った!」

「きゃっ!?」

 

 思わず大声を出してしまったせいで瞳子ちゃんが身を縮こまらせてしまう。ごめんと謝りたくなるけど許してほしい。

 瞳子ちゃんは水を一気に流そうとお釜を傾けていたのだ。これでは米まで流れてしまう。慣れないからだろうか、彼女らしくないミスである。

 

「瞳子ちゃん、お米を零さないように水を捨てるんだよ。こうゆっくりと、手で支えてね」

「う、うん……」

 

 感覚を覚えさせるために瞳子ちゃんの手を取って教える。素直に聞いてくれるから教えるのが楽だった。

 水を捨ててから米を研ぐ作業に入る。

 

「水を切ったらお米を研ぐよ。こんな感じで同じ方向にかき混ぜるんだ。力を入れ過ぎたり、早く回さないように気をつけてね」

 

 実践してみせてから瞳子ちゃんにやらせてみる。ぎこちない動きだったけれど充分だろう。

 

「よし、今度は佐藤もやってみようか」

「うん、任せてえな」

 

 瞳子ちゃんがやっているのを見ていたからか、佐藤は失敗することなく米を研いでくれた。そのまま水を入れて白い研ぎ汁を軽く混ぜてから捨てる。水を溜めて捨てるを繰り返すと、濁っていたような研ぎ汁がうっすら米が透けて見えるくらいの透明度になった。これで終了だ。

 一度憶えてしまえば子供でも難しくはないからな。これで親にお手伝いできることが一つ増えただろう。

 米を研ぎ終わって炊飯器にセットする。炊飯器は米が躍るタイプではないスタンダードなものだ。スイッチを入れればあとは炊き上がるのを待つだけだ。

 

「トシくん、野菜は洗い終わったよ。でも玉ねぎがなかったの。どこ行ったんだろ?」

「ああ、玉ねぎだけはまだ冷蔵庫に入れてもらってるんだ。冷やしてた方が切る時に目が沁みないんだってさ。玉ねぎ切るのは俺がやるよ」

「そっかー。私は味噌汁を作るけど、瞳子ちゃんと佐藤くんは任せても大丈夫そう?」

「大丈夫だよ。俺は肉じゃがを作るよ。赤城さんも戦力になりそうだし、そっちは任せた」

「うん! 任されたよー」

 

 柔らかい笑顔に安心させられる。とりあえず葵ちゃんは心配いらないだろう。なんだか経験者の貫録を感じる。

 瞳子ちゃんと佐藤を見れば恐々とした様子で包丁を握っていた。なんかその構え方は怖いんですけど。

 

「えっと……、瞳子ちゃん。包丁を人に向けないようにしようか」

「あっ! そ、そうね……」

 

 料理初心者って包丁握らせたら怖いってイメージはあながち間違ってないのかも。なんでこう構えようとするのかね。

 

「ちょっと切ってみようか。切り方は授業で教わったからわかるよね? わからなかったら遠慮なく聞いてね」

 

 俺の言葉で瞳子ちゃんと佐藤は真剣な面持ちで野菜と向き合った。なんだか緊張感が増してきた気がする。

 

「あの、どうぞ?」

 

 そのまま二人して固まっているので促してみる。瞳子ちゃんは恐々とした様子で手を伸ばした。

 とはいえ、彼女は不慣れなだけで何事もそつなくこなしてしまうタイプである。最初は大きさがバラバラだったものの、段々と均等に切れるようになっていった。

 

「うぅ……、難しいなぁ……」

 

 それに比べると佐藤はもたもたしてしまっていた。切るスピードもだいぶ遅い。でもこのもたついている感じが前世の俺と重なる。うんうん、最初は包丁で切るってだけの動作がなんか怖かったよなぁ。

 玉ねぎは俺が切った。ザクザク切っていると瞳子ちゃんと佐藤から「おぉーっ!」という声が重なった。なんだかすごく料理ができる人になった気分だ。

 時間もあるので手伝ってもらえそうなところは二人にやってもらいながらも、俺主導で肉じゃがを作った。味見をしてもらいながら調味料を入れていく。煮る時間の間に卵焼きを作ってしまうことにした。

 

「卵は割れる?」

「ふふんっ。バカにしないでよね」

 

 瞳子ちゃんが急に強気になった。彼女は簡単にそして綺麗に卵を割ってみせた。

 

「どう?」

「あはは。さすがは瞳子ちゃん」

 

 褒めると瞳子ちゃんはとっても嬉しそうにしていた。おそらくお菓子作りで卵を割るのは慣れていたのだろう。さっきまでとは手際が全然違っていた。

 佐藤も苦戦はしていたがなんとか卵を割ることに成功した。殻も入ってないし上出来だろう。

 卵焼きは大丈夫そうなので肉じゃがの鍋を確認する。うん、なかなかいい感じだ。

 

「トシくん、味見してくれる?」

「うん、いいよ」

 

 葵ちゃんに差し出されるままに味噌汁の味見をする。おおっ、すごくおいしい! 小学生が作ったとわかっているだけにびっくりするほどおいしい。

 俺は手でOKサインを作った。葵ちゃんは「よかったー」と息を吐く。

 

「せっかくだからこっちも味見してよ」

 

 肉じゃがもいい具合なので葵ちゃんに味見してもらった。一口口にして「おいしいっ」と笑顔で言ってくれた。そんな満点の笑顔を見せられると自信を持ってしまうな。

 

「卵焼き、できたわよ」

 

 瞳子ちゃんが報告してくれる。俺は卵焼きを切り分けることにした。

 

「じゃあお皿出してもらってもいいかな」

 

 切り分けている間に瞳子ちゃんと佐藤がお皿を取りに行ってくれた。もうほとんど出来上がりだな。

 そこでふと気づいたことがある。本郷はどこ行った?

 いつの間にか近くには見当たらなくなっていた。赤城さんと目が合ったので聞いてみる。

 

「赤城さん。本郷はどこかに行ったの?」

「あっち」

 

 彼女が指差した先を見てみれば、別の女子グループの中で味見をさせてもらっている奴の姿があった。

 あ、あんにゃろ~! まさか手伝いもせずに他のグループに遊びに行ってたんじゃなかろうなっ!

 

「本郷は戦力にならなかった」

 

 しかし、赤城さんが真実を教えてくれる。そういえば学生時代に調理実習で戦力にならない奴って他のグループとかに行ったりしてちゃちゃを入れるだけの存在だったよな。本郷もそういうタイプの奴だったか。

 などと集中を逸らしていたのが悪かったのだろう。ザクッ、と手元から嫌な感触がした。

 視線を下げれば赤いものが点々と。俺は自分の指を切ってしまっていた。

 咄嗟に傷口を切っていた卵焼きから離す。幸いにも俺の血が卵焼きについてしまったということはなかった。

 それでもまな板には俺の血がついてしまっている。早くなんとかしないと。

 

「トシくん!? 指切ったの!」

 

 俺の様子に気づいた葵ちゃんが慌てて近寄ってくる。失敗してしまっただけに何だか恥ずかしい。

 

「あはは、ま、まあね……」

「見せて」

「あ、うん」

 

 葵ちゃんの迫力に負ける形で切ってしまった指を見せる。傷口は深いわけではなさそうだ。これなら絆創膏でも貼ればすぐに治るだろう。むしろ唾でもつけとけば治るだろうってレベルのケガだ。

 俺がそう言う前に葵ちゃんが動いた。顔を俺の指に寄せて、ピンク色の唇が傷口へと近づく。

 

「あむ……」

「え、あ、葵ちゃん!?」

 

 葵ちゃんは俺の指を傷口ごと口の中に入れてしまったのである。それだけではなく傷口に舌を這わせていた。

 表現しにくいような生温かさにフリーズしてしまう。その間にも葵ちゃんの舌は俺の指を何度も舐めていた。

 確かに唾でもつけとけばって考えたけれど。これは医療行為でもなんでもないぞ!? いや、葵ちゃんは真剣なのだろう。上目遣いで俺の反応を見ている目が心配の心で埋め尽くされているようだった。

 

「ちゅぱっ……、トシくんの、血の味がする……」

「……」

 

 なんて返せばいいのかわからない。俺はただ黙って葵ちゃんに舐められ続けていた。

 

「高木くんが指を切ったんですって!? 見せてみなさい!」

「高木。救急箱持ってきた」

 

 騒ぎに気づいた先生と、俺のケガにすぐ気づいていた赤城さんが救急箱から消毒液や絆創膏を取り出してくれた。

 葵ちゃんが俺の指を口に入れたままなので目線でもう大丈夫だと伝える。彼女は最後に傷口を吸ってから口を離した。吸われた時に痛みと同時に甘いしびれを感じてしまった。彼女は変なつもりはないだろうに、そんな風に感じてしまってちょっとだけ葵ちゃんに申し訳ない気分になった。

 傷はやっぱり浅かったようで、絆創膏を貼ってしまえば血が垂れる心配もなかった。

 せっかく料理のできる男の子をアピールしていたというのに。最後の最後でかっこ悪いところを見せてしまった。ほら、瞳子ちゃんの視線がなんだかじとーっとしたものになってるし。

 

「よし、食べようぜ」

 

 料理が完成すると、何事もなかったかのように本郷が戻ってきた。くっそー! こっちはお前のせいでケガしたってのによ~。まあ勝手にケガしたのは俺だけどもさ。

 

「これ! あたしが切ったのよ。卵焼きなんかもほとんどあたしが作ったんだから!」

 

 食事を始めると自分が作った物に目が行くようだ。瞳子ちゃんは自分が手を加えた物を見つけては嬉しそうに教えてくれる。

 成功して、それが嬉しくて興味を持つ。そうなっていれば今回の調理実習は大成功だろう。

 

「お米もこんなにもおいしかったんやな~」

 

 佐藤も満足そうな表情で食べていた。料理の苦労がわかればまたおいしさを感じるものだよな。

 赤城さんは無表情のままパクパクと食べていた。いつも通りに見えるが、ちょっとだけ箸の進みが早い気がした。おいしいと思ってくれているならいいな。

 

「肉じゃがすごくおいしいねっ」

「味噌汁もおいしいよ。おかわりしたいくらい」

「えへへ」

 

 葵ちゃんと赤城さんで味噌汁を作っていたのだ。自分が担当したというのもあってか嬉しそうに笑っていた。

 

「おおっ、すごくうまいね。みんな料理できるんだ」

 

 本郷は目を輝かせながら食べていた。そんな顔で言われるとなんかあまり手伝わなかったことを許してしまうな。これが本郷のカリスマの力か……。いやいや違うか。

 多少慌ててしまう場面があったものの、調理実習は成功と言っていいだろう。俺自身も刺激されたようで、何か作れるものを増やせたらな、と久しぶりに思った。

 

 



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40.綺麗な七夕の日

「今日は七夕だな。天気もいいから夏の大三角形が見られるかもしれないぞ」

 

 理科の授業終わりに先生がそんなことを言った。

 今日は七月七日。織姫と彦星の出会う日である。七夕の由来はいくつかあるけれど、織姫と彦星の物語が一般的に知られているだろう。というか小学校ではそう教わった。

 

「一年に一回しか会えないだなんてすごくかわいそう……」

 

 自分のことでもないのに葵ちゃんはしょんぼりしている。女の子って障害のある恋愛って好きだよね。

 葵ちゃんは七夕がとても好きだったりする。彼女のお父さんが望遠鏡を持っているというのもあって、幼稚園時代から七夕の日には夜空を見てベガとかアルタイルを探していた。

 でもまあ、織姫と彦星が年に一度しか会えなくなったのは二人して仲良く怠け者になってしまったからだよね。そういうところを見ると怠惰でいると罰を受けるぞ、という教訓でもある。

 俺も気をつけないとな。どんなことになっても怠け者にだけはならないぞ。怠惰でいるのには前世でこれでもかってくらいには堪能したんだからな。

 

「今日は私の家に来るんだよね?」

「そうだね。先生も今日はいい天気だって言ってたしね」

 

 七夕の日には葵ちゃんの家で望遠鏡を使って夜空を見るのが毎年の恒例になっている。小学生になってからは瞳子ちゃんも加わって三人の恒例行事となっていた。さすがに天気が悪ければ中止になってしまうのだが、今回はそんな心配はいらなさそうだった。

 

「でもあたしと俊成は水泳があるから。葵の家に行くのは遅くなっちゃうわね」

「どうせ星を見るのは暗くなってからだからいいよー。瞳子ちゃん今すごくがんばってるんでしょ?」

「ん、まあね」

 

 相変わらず瞳子ちゃんはスイミングスクールの選手コースでバリバリやってたりする。俺よりも長い時間泳いで、さらにタイムを離されてしまった。

 コーチが言うには瞳子ちゃんのタイムはかなり速いらしいし、今度の大会は期待できそうだった。

 もし俺が選手コースに行ってたとして彼女ほど泳げていたか自信はない。子供だからなんでもかんでも上達が早いと思っていたけどそうでもない。実際に水泳のタイムの伸びは徐々に悪くなってきている。

 努力を怠る気はない。それでも自分には決して才能があるわけではないのだと少しずつ突きつけられているような気がしてしまうのだ。

 ええい! そんなこと考えたって仕方がないだろ。才能だけで成功が約束されているわけでもないし、俺が求めている結果はまた別にある。自分の方向性すらはっきりとしていないのに何を悩んでいるんだか。

 それに今日は七夕なんだから。織姫と彦星の久々の再会を祝福しようじゃないか。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 俺と瞳子ちゃんはスイミングスクールを終えてから葵ちゃんの家に向かうことにしている。とはいえ俺と彼女では終わる時間が違うのだ。選手コースに比べたら俺なんて楽をしているのかなと思ってしまう。

 瞳子ちゃんがまだ練習している間に俺は帰宅する。飯を食べてから葵ちゃんの家へと向かった。

 

「トシくんいらっしゃい。瞳子ちゃんが来るまで私の部屋で遊ぼうよ」

「わかったから引っ張らないでって」

 

 夜遅い時間だというのに簡単に家へと上がらせてもらえる。それが俺が培った信頼なのだろう。改めて葵ちゃんとは幼馴染の関係なのだと感じさせられる。

 前世では考えられなかった。宮坂葵は俺にとって高嶺の花だったのだ。こうやって気安く触れられる存在じゃなかった。

 たまに葵ちゃんと瞳子ちゃんといるのが当たり前のように感じてしまう。けれどどちらも俺とは関わるはずもなかった女の子なのだ。

 その事実を噛みしめなければならない。もし当たり前だと思ってしまって二人に甘えるようになってしまったら。なんだか罰を受けてしまうような不安に悩まされるのだ。

 元々は働き者だった織姫と彦星。二人は結ばれて幸せになったことで怠惰になってしまった。

 ただ幸せに浸ることは悪いことなのだろう。事実、織姫と彦星は幸福にかまけて働かなくなってしまった。まあ責任の放棄ってやつだ。

 俺はただの子供ではない。頭の悪い凡才のおっさんだとしても前世の記憶を持っていることに変わりはないのだ。たとえその事実が誰にも知られていないとはいえ、俺だけは知らなかっただなんて許されない。

 ……なんて考えるとプレッシャーで押し潰されそうになる。最初は結婚したいっていう欲望だけだったのにな。なんでこうごちゃごちゃと考えるようになったんだか。

 

「ねえねえ知ってる? お星様に三回お願いごとをするとそのお願いは叶うんだって」

「うん。それ流れ星にお願いするやつね」

 

 歳を重ねるごとに美貌を増している葵ちゃん。彼女の瞳は出会った時から変わらずキラキラと輝いている。

 とても純粋な目をしている。それは瞳子ちゃんも変わらない。二人はとても純粋な好意を俺に向けてくれる。ずっと、ずっと変わらないのだ。

 なんで俺なんかに。そう考えたことは一度や二度ではない。

 いろんなことをがんばってきたから今のところは優秀な男子であるという自覚はある。二人のためになればと行動してきた。それでもたまに自信のない前世の俺がひょっこりと顔を出すのだ。

 いつかボロが出て二人に呆れられてしまうのではと考えてしまう。だからこそ早く答えを出したいのに、未だに葵ちゃんと瞳子ちゃんのどちらかを選べないままだ。

 年に一度しか会えない織姫と彦星。でもこのままじゃあ葵ちゃんと瞳子ちゃんのどっちにも会えなくなってしまう。俺が答えも出さずにぼやぼやしてたら本当にそんな未来がきてしまいそうな気がした。

 

「トシくんどうしたの? 疲れちゃった?」

 

 気づけば葵ちゃんが心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。なんだか変な考えばかりが頭の中をぐるぐると回っていたらしい。

 これだから七夕はいけない。葵ちゃんと瞳子ちゃんの輝きが強いってことを否応なく再認識させられる。

 

「大丈夫大丈夫。ちょっと水泳の疲れが出ちゃったのかもね」

「そうなの? よかったら寝てる? 私のベッドを貸してあげるよ」

 

 葵ちゃんは自分のベッドを指し示す。距離があるのに彼女の甘いにおいが鼻をくすぐった気がした。

 

「……いや、大丈夫だよ。ほら、瞳子ちゃんがくるしさ」

 

 寝てしまいたい衝動にかられたけどなんとか押さえ込めた。危ない危ない。

 葵ちゃんはぱんと手を打って「そうだ!」と立ち上がった。

 

「だったら私がトシくんのためにピアノを弾いてあげるよ。目が覚めるかもしれないし」

 

 その言葉の通りに葵ちゃんは俺をピアノのある部屋まで引っ張った。そういえば彼女の演奏を聞くのは久しぶりだ。

 そういえば瞳子ちゃんがすごく上手になったって褒めてたっけか。なかなかタイミングがなくて確かめられてなかったな。

 

「こほんっ……。じゃあ弾くね」

「うん。葵ちゃんの演奏が聞けるだなんて楽しみだよ」

「えへへ。いっくよー」

 

 葵ちゃんは滑らかに指を動かし始めた。

 その演奏には正直に言って驚いた。音楽に大して興味を持っていなかった俺だけど、彼女の演奏には心を震わされてしまっていた。

 ピアノの演奏を耳にして「上手いな」と思うことはあった。でも葵ちゃんのはそんな演奏とは次元が違っていた。前に聞いた時はそんな風には思わなかったのに、まるで別人のような成長を遂げていた。

 上手であることには間違いない。だけどそれだけでここまで心が震えるものだろうか? 音楽でこんなにも高揚感を味わうなんてこと生まれて、いや生まれる前からでも初めてだった。

 最後はゆっくりとした調子で演奏を終えた。葵ちゃんははにかみながら俺の方へと顔を向ける。

 

「ど、どうだった?」

「言葉にならねえよ……」

「え? どういうこと?」

「あ、いや、ものすごく上手だったよ。俺じゃマネできないくらいすごかった」

「そうかな? ふふっ、やっぱりトシくんに褒められると特別嬉しいな」

 

 なんだかものすごい才能の片鱗を見てしまった気分だ。ここまで葵ちゃんが大きく見えたことなんてなかった。超絶かわいい女の子だけど、瞳子ちゃんと違って才能に溢れているタイプではないと思っていたから。

 でも、もしかしたら葵ちゃんもとんでもない人間なのではなかろうか。そう思ったら俺の中で焦りの感情が動いた気がした。

 

「葵ー! 瞳子ちゃんが来たわよー」

 

 タイミングよくと言うべきか。瞳子ちゃんが家に着いたようだった。

 

「私瞳子ちゃんを出迎えてくるから。トシくんは望遠鏡を用意してて」

「わかった」

 

 あらかじめリビングに用意していた望遠鏡を担いだ。今日は葵ちゃんのお父さんはまだ帰ってきていないので俺が準備しなければならなかった。

 今回は公園で天体観測をしようということになっていた。葵ちゃんの家の庭からでもそう変わるもんでもないとは思ったのだが、葵ちゃんと瞳子ちゃんのリクエストなので従うことにする。

 玄関を見に行けば瞳子ちゃんとお母さんがきていた。

 

「遅くなってごめん。早く行きましょうか」

「そんなに急がなくてもいいよ。ご飯は食べたの?」

「ちゃんと食べたわ。あんまり遅くなっちゃうと葵が眠くなっちゃうでしょ」

「わ、私!? そ、そんなにすぐ眠くならないよっ」

「へぇー、そうかしら? 葵ってまだまだ子供だから遅い時間まで起きられないと思ってたわ」

「そんなに子供じゃないよ! ちゃんと成長してるんだもん!」

 

 葵ちゃんの意見に同意。どこがとくに成長著しいかは言わないけど。

 むしろ瞳子ちゃんの方が眠くなってないか心配だ。たくさん泳いでいただろうし、疲れていても不思議じゃない。葵ちゃんをからかったのだって眠たいのを誤魔化すためじゃないかって邪推してしまう。

 近場とはいえ夜も遅いので葵ちゃんと瞳子ちゃんのお母さんがついてきてくれた。もちろん何事もなく公園へと辿り着く。

 

「あっ、野沢先輩」

「あ、俊成くんだ。それに葵ちゃんと瞳子ちゃんもいっしょなんだね」

 

 公園には野沢先輩がいた。ついでに弟もいた。なぜか彼に睨まれてしまう。

 

「それ望遠鏡? すごいねー」

「あははっ。葵ちゃんのおじさんのですけどね」

 

 望遠鏡を組み立てながら野沢先輩とおしゃべりする。いつもながら彼女と会話するのは楽しい。

 

「み、宮坂も星を見にきたのか?」

「うん。それって双眼鏡?」

「あ、ああ。これでよく見えるかと思って……」

 

 野沢くんは葵ちゃんに話しかけていた。俺がお姉さんをとってしまったから葵ちゃんの方へと行ったのだろう。

 

「……」

 

 瞳子ちゃんは少し船を漕いでいた。大会が近いらしいし練習がきつくなっているのだろうな。それでもこうやって俺達と星を見ようとしてくれている。疲れている彼女には悪いかもだけど、それが嬉しい。俺達を大切に思ってくれているからだってわかるから。

 ロマンとか何も気にしなければ七夕じゃなくたって星は見れる。ベガも、アルタイルも、デネブだって逃げたりはしない。

 でも、初めて葵ちゃんと瞳子ちゃんの三人で七夕を迎えた時に二人が書いた短冊の願い事を、俺は忘れたくないのかもしれない。

 

「今年は短冊にお願い事は書いたの?」

 

 野沢先輩からそんなセリフが出てきてびっくりしてしまった。

 いや、おかしくはないか。今日は七夕なんだから。

 

「今年は……書いてなかったですね」

「そっかー。段々書かなくなっちゃうもんねー」

 

 野沢先輩はふんわりと笑う。柔らかい雰囲気の彼女だけど、その芯はしっかりとしているのを知っている。だからわざわざお願い事なんて短冊に書かなくてもいいのだろうと思う。

 俺はどうかな。書かないというよりも書けないというのが正しいのかもしれない。最初の頃はいろんなことを短冊に書いていたはずなのにな。今は手が止まってしまう。

 

「野沢先輩達もよかったら望遠鏡使ってください。よく見えますよ」

「いいの?」

「はい。まあ俺のじゃないんですけどね」

 

 綺麗な天の川は織姫と彦星を隔てる壁だ。綺麗だけれど、二人にとっては会えない原因でもあった。

 みんなが天体観測している中、のんびり座ってそれを眺めていると肩に重みがかかる。横目で確認すれば瞳子ちゃんが眠っていた。

 瞳子ちゃんはとても勤勉な子だ。それは葵ちゃんも変わらないだろう。

 俺は本当に前世の俺から変われているのだろうか? 綺麗なものを見るとどうしてもそんな考えが浮かんでしまう。

 今の俺の願い事はなんなのだろうか。七夕は俺の不安を煽るように浮かび上がらせようとする日だ。

 

 



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41.田舎の思い出(前編)

 小学生の夏休みの宿題は年々増えていく。四年生にもなればそれなりの量となっていた。

 だからといって一つ一つは楽なものである。簡単なものはさっさと済ませてしまい、長期休暇を堪能するに限る。

 夏休みに入ってからイベントは目白押しだった。俺だけじゃなく、葵ちゃんはピアノのコンクールがあったり、瞳子ちゃんが水泳の大会に出たりと大事なイベントが続く。もちろん二人とも優秀な成績を収めていた。

 二人みたいに俺は大会とかそういうのには出ないからな。なんだかちょっと寂しい気分。朝走ったり、水泳や英語教室に通ったりなどを続けているくらいだ。せっかくの夏休みなのに変わり映えしない。

 なんか新しいことを始められないかと図書館に行ってみたりもした。当たり前だが小学校の図書室とは比べ物にならないくらいの蔵書数だ。あまり字の小さい本は読んでこなかったのだが、時間もあるのでいろいろと読んでみた。

 様々な本を読んでいるとたくさんの人生があるのだなと気づかされる。専門書なんかでもこれを書くためにそのことについて深く調べたのだろうと伝わってくる。そういったものをいろいろと読んでみると、それぞれ人によって方向性の違いがあるのを知った。

 矢印を全方向に向けるのは無理だ。一人でやるには限界というものがある。凡才の俺になんでもかんでもやろうってのは現実的じゃない。

 将来をどんな方向に進みたいのか。まだまだはっきりしていない。俺ってはっきりしてないことばっかだな。

 ただ、今回の人生で決めていることの一つとして大学に進もうと思っている。それもできるだけいいところだ。

 今のところ勉強に関してはずっと復習しているようなものだ。だけど段々とそういうわけにもいかなくなる。高校でもいいところに行こうと思えば難しい問題を解けるようにならないといけないし、大学ともなれば俺にとって未知の領域である。

 とにかく勉強さえしていればいざ自分のやりたいことを見つけた時に力になってくれるはずだ。少なくともマイナスにはならない。

 そんなわけで夏休みの長期休暇を活かして自分を高めることにした。もちろん葵ちゃんと瞳子ちゃんと遊んだりしているので勉強漬けってわけでもないんだけどな。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「トシくん……本当に、行っちゃうの?」

「あたし達を置いて行ったのに、病気とかケガしたら……許さないんだからっ」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんの涙に濡れた目が頭の中にこびりついている。

 彼女達は去って行こうとする俺の服をずっと握っていた。ぎゅっと力強く、行かないでと言葉にされていないのにこれでもかと伝わってきた。

 それでも俺は葵ちゃんと瞳子ちゃんに背を向けた。二人の想いを振り払ったようなものだ。

 泣いてしまうだろうか。俺には振り返って二人の顔を見る勇気がなかったのだ。

 ただ「またね」と言った。「さよなら」だなんて嘘でも口にしたくなかったから……。

 

 ……ん? そうまでしてどこへ行くのかって? そりゃじいちゃんばあちゃんの家だけど。

 お盆がきたので父が実家に帰省することとなったのだ。遠いところだったり両親の都合の問題もあって毎年は行けていなかった。たまにはじいちゃんとばあちゃんに顔を見せた方がいいだろう。

 それに、確かじいちゃんは俺が中学生の時に亡くなってしまうのだ。ばあちゃんの方はけっこう長生きだったのだが。行ける時にはちゃんと顔を合わせておきたい。

 泊まりがけになることもあって、その間は葵ちゃんと瞳子ちゃんに会えないのだ。夏休みになっても毎日のように顔を見ていただけにこれは寂しい。

 

「おー、俊成か。でっかくなったな。ほれ、上がれ上がれ」

「久しぶりね俊成ちゃん。何もないところだけどゆっくりしていってね」

 

 じいちゃんとばあちゃんは元気そうだった。まだそこまで歳というわけでもない。ただじいちゃんはかなりの酒飲みだからなぁ。それが体を悪くした原因になってる気がしてならない。後でそれとなく注意しておこう。

 じいちゃんとばあちゃんの家はそれなりの田舎だった。畑と田んぼがあって家と家の間も離れていたりする。落ち着いた空気が心地よい。

 

「あーっ!! 兄ちゃんだーーっ!!」

 

 そんな空気をぶち壊しにする大声が響いた。声の主は俺を指差して元気いっぱいに笑っていた。

 俺とそう変わらない歳の女の子だった。というか彼女が俺の一つ下だというのは知っている。

 

「うちすぐに兄ちゃんだってわかったよ! すごいでしょ! ねえねえねえーーっ」

「はいはいすごいすごい」

 

 おざなりな感じで頭を撫でてやるとその女の子はこれでもかってくらい破顔した。

 彼女の名前は清水(しみず)麗華(れいか)。俺の父の妹の娘さんである。つまりは俺の従妹だった。

 麗華は日に焼けてちょっぴり赤くなった髪の毛と小麦色の肌をしていた。葵ちゃんと瞳子ちゃんのとっても白い肌を見慣れているためかなんだか新鮮に感じてしまう。

 その容姿の通り、麗華は外で遊ぶことが大好きなようだ。髪型もショートなので少年と見間違っても仕方がないだろう。

 

「ねーねー兄ちゃん遊びに行こうぜー。大人ばっかでつまんなかったんだ」

「わかったよ。荷物置いたら外に行こうか」

「おうよ!」

 

 ……なんかしゃべり口調も男の子っぽくなってるな。名前が「麗華」とお嬢様っぽいだけに叔母さんから教育されていた気がするのだが。もしかして諦めちゃったのだろうか?

 じいちゃんとばあちゃんの家には麗華の両親以外にも親戚の人達がいた。なかなか会わない人達ばかりなのでちゃんとあいさつをする。

 

「ねー! 兄ちゃんまだー?」

 

 麗華は待てができないのか。一つ下だから小学三年生のはずだ。葵ちゃんと瞳子ちゃんなら大人しくできるぞ。……いや、あの二人はいい子だからか。普通は麗華みたいに落ち着きがないものなのかもしれない。

 大人はがやがやと忙しそうにしている。明日はみんなで墓参りもあるからやることがあるのだろう。子供の俺は放置である。

 

「にーいーちゃーんー!! まだかよー?」

「……はいよ。今行くよ」

 

 いい加減麗華がうるさくなってきた。いや、最初からうるさかったけどさ。

 俺は両親に「麗華と外に遊びに行ってくる」と告げた。玄関に行くと麗華が足をバタバタさせていた。

 

「もー! 遅いってば!」

「悪かったって。じゃあ行こうか」

「おうよ!」

 

 麗華は元気に飛び跳ねた。本当に元気な娘だ。

 わかっていたけど外は暑かった。日差しが強くて瞳子ちゃんだったら日焼け止めクリームを塗ってあげなきゃいけないところだ。

 そういや葵ちゃんって日焼け対策とかしてるのかな? あの色白の肌を見れば何かやっているんだろうけど、瞳子ちゃんみたいに日焼け止めクリームを塗ったことがないんだよな。いやまあわざわざ塗りたいわけじゃないんだけども……。

 

「兄ちゃん! あっちの川の方に行ってみようぜ!」

「わかったって。だから走るなってば」

「なんだよー。兄ちゃんって足遅いのかよ」

 

 かっちーん! 毎朝走り込みをしている俺の脚力を見せてやろうか? あァン?

 俺は衝動のまま走り出し、前を行く麗華を抜き去った。それで火がついたのか、麗華も足を速める。

 小学三年生の女子相手に本気でかけっこをしている元おっさんがいた。というか俺だった。

 

「ぜーぜー……。兄ちゃん速過ぎー……」

 

 あれだけ元気だった麗華が息も絶え絶えである。彼女も同年代の女子相手の中なら速い方なのだろうが俺の敵じゃなかったな。

 麗華は息を整えると俺に向かってにっと笑った。

 

「うちの負けだぜ。さすがは兄ちゃん!」

「お、おうよ……」

 

 なんだろう、全然勝った気がしない。そもそも年下の女の子相手に本気出して俺は何をやってんだか……。なんだか急に空しくなってきた。

 

「おー! 川すげーっ! 超透明だー!」

 

 俺が冷静になって落ち込んでいる間に、麗華は川に近づいて行った。

 

「おーい麗華ー。流されるなよー」

「あははっ、兄ちゃんは何言ってんだか。流れなんて全然大したことないじゃんか」

 

 麗華の言う通り、川の流れは穏やかなものだった。底も浅いから川遊びにはもってこいだ。

 

「うひゃー! 冷たーい。兄ちゃんも早くこいよー!」

 

 麗華は躊躇いなく靴を脱いで川へと入った。自然に対して抵抗がまったくないようだ。

 もしかしたら同じ自然好きの瞳子ちゃんと相性がいいのかもしれない。葵ちゃん相手だとちょっと微妙かな。彼女はけっこうインドア派だし、声の大きい子は苦手にしているからな。

 

「うらあっ! 喰らえ兄ちゃん!!」

「ぶはっ!?」

 

 なんて考えていたら麗華に水を顔面に浴びせられた。不意打ちだったから水が鼻に入って咳き込んでしまう。それを見た麗華は指を差して思いっきり笑っていた。

 

「こんにゃろ~。俺を怒らせたなー!!」

「うひゃー! 兄ちゃんが怒ったぞー! 逃っげろーーっ!」

 

 俺も靴を脱いで川へと入る。足元がひんやりして気持ち良い。

 童心に返って麗華と遊んだ。たまにはこういうのも悪くない。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「おーい。どこまで行く気だー?」

「いいからいいから。もうちょっと探検しようぜ」

 

 川遊びを終えて、次に向かったのは山の中だった。

 この山はじいちゃんのもので、前に訪れた時に山菜採りを手伝ったのだ。だから知っている範囲なのでいいが、あまり奥深くに行くようなら麗華を止めなければならない。

 木々に囲まれていて影になっているために、日差しを浴びる心配はあまりなかった。日向にいるよりも涼しくて気持ちがいい。

 

「財宝を見つけたら山分けだからな。わかってると思うけど独り占めにしようなんて考えるなよ。兄ちゃんわかった?」

「わかったわかった」

 

 この子は何を期待しているんだか。ある意味夢と希望に満ち溢れてるけどさ。

 ずんずんと前を歩く麗華の後を追う。たぶん彼女の頭に地理はないだろうに、どうしてこうも迷いなく足を踏み出せるのか。子供の好奇心と言ってしまえばそれまでだけどね。

 

「しっ。兄ちゃん隠れてっ」

 

 麗華が急に振り返って俺の口を手で塞いだ。何事かと目を白黒させてしまう。

 見れば麗華は何かに警戒しているようだった。イノシシでも出たのだろうか? 俺も警戒しながら前方を確認する。ここからでは視認できなかった。

 麗華がジェスチャーをする。どうやら目の前の木の向こう側に何かがいるようだ。

 一応確認してみよう。危険な動物だったらすぐにでも山から出た方がいいだろう。

 警戒心と好奇心を同居させたようなドキドキを胸に、木の陰からそれを覗いた。

 

「……っ」

 

 木の向こう側を覗いて、俺は息を飲んだ。

 僅かな日光で金色の髪が光を放っているように見えてしまう。彫の深い顔立ちからは異国の血を思わせた。

 金髪の外国人の少女が、なぜか山の中で一人佇んでいた。

 

 



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42.田舎の思い出(後編)

 まったく予期せぬ事態だった。

 誰がじいちゃんが所有する山の中に異国の少女がいるだなんて予想できるのか。まったくできていなかった俺は硬直してしまったよ。

 金髪少女は俺とそう歳は離れていないように見える。年上っぽいけど二つか三つ上といったところだろう。あくまで外見での判断だが。

 日本人離れした彫りの深い顔立ちを見ていると瞳子ちゃんと重なる。それでも美少女度でいえば瞳子ちゃんの方が上である。身内びいきが入っているのは否定しないけどな。

 さて、そんなことよりも金髪少女をどう判断したものか。不法侵入といえばそうなのだが、まだ子供だしわからずに足を踏み入れたのだろうな。なんでこんなところに外国人が? という疑問があるが今は置いておく。

 金髪少女はぼんやり佇んだままで俺達に気づいていないようだった。どう声をかけたものかと思案していると先に麗華が動いてしまった。

 

「おいお前! さては財宝を奪いにきた悪い奴だな! うちが成敗してやるぜ!!」

 

 麗華は大声でそんなことを言いながら金髪少女の前に姿を見せた。このうるさい登場にぼんやりしていた金髪少女もさすがに気づいたようだ。慌てた様子もなくゆっくりと麗華に顔を向ける。

 

「What?」

「……」

 

 麗華は押し黙った。そして俺へと振り返る。

 

「どうしよう兄ちゃん……、相手は宇宙人だ」

「そんなわけあるか! 彼女は外国人なんだよ」

「ガイコクジン?」

 

 なぜ片言になるのか。出会ったことがないにしても日本以外の国の存在自体は知ってるだろ。小学三年生なら知ってるよね?

 それにしてもどこの国の子なのだろうか。欧米っぽくはあるんだけども。

 俺は咳ばらいをしてから金髪少女に向き直る。彼女は不思議そうな眼差しをこちらに向けていた。

 

『えっと、あなたは誰ですか?』

 

 今こそ英語教室に通っている俺の語学力を見せる時である。実際に外国人に話しかけるなんてケリー先生以外では初めてだ。

 俺の言葉に金髪少女は首をかしげる。あれ? 通じてるよね? これくらいなら簡単な英語のはずだ。もしかして発音がおかしかったのか?

 内心焦っていると、金髪少女ははっとしたような顔をすると、いきなり両手を腰に当てて顎をくいっと上げる。なんだか高飛車な人に見下されているみたいな形になった。

 

『人に名を尋ねる時は自分から名乗るのが常識よ』

 

 フフン、と鼻を鳴らしそうな勢いで金髪少女が言った。とりあえず自分の言葉が通じたことに一安心だ。

 

「に、兄ちゃんまで宇宙語をしゃべった……」

「宇宙語じゃなくて英語な。麗華も学校で習うようになるよ」

 

 まあ学校の英語でしゃべれるようになるにはけっこうがんばらないといけない気がするけど。少なくとも前世での俺はさっぱりだったからな。

 さて、麗華の相手をしている場合じゃない。まずは目の前の女の子だ。

 

『ごめん、失礼だったね。俺の名前は高木俊成。こっちの女の子は清水麗華だ。君の名前を聞いてもいいかな?』

『……クリスティーナ』

 

 なんとか名前を教えてもらえた。最初の関門は突破できたかな。

 

『……トシナリは英語話せるの?』

『日常会話程度だけどね。あんまり慣れてないからゆっくりしゃべってくれるとありがたいよ』

 

 クリスティーナは見下していた目をやめてまっすぐ俺を見た。少しの間見つめられた後に彼女はしゃがみ込んでしまう。

 

『う~……。わたしってばなんてことを……』

 

 急に落ち込んでしまった。さっきまで高飛車風だったのにこの変化はどうしたことか。

 落ち込むクリスティーナを見て麗華が喜ぶ。

 

「おおっ! 兄ちゃんこの宇宙人を倒したのか? すげー!」

「麗華ー。ちょっと黙っててねー」

 

 元気でいるのはけっこうだが、今は構っている余裕はない。俺はしゃがみ込んで顔を上げようとしないクリスティーナに近づいた。

 

『クリスティーナは一人なの? どうしてこんな山の中にいたのかな?』

 

 ゆっくりと顔を上げるクリスティーナ。彼女の目からは先ほどの見下す感じはなかった。

 

『わたし……幽霊を探しにきたの』

『はい?』

 

 ちょっと何言ってるかわからないですね。いやマジで。

 俺が疑問符で頭がいっぱいになっていると彼女はさらに続けた。

 

『日本に来たけれど誰とも言葉が通じなくて……。全然友達ができなくて……だから幽霊と友達になろうと思ったの』

 

 それはなんとも……。子供で言葉の通じない国に来たら苦労するのは当たり前だ。幽霊を求めてしまうのも仕方がない……のか?

 クリスティーナは『でもっ』と勢いよく立ち上がった。

 

『あなたとはお話できるわ! 日本の幽霊は怖いって聞いてたけど、トシナリは嫌な感じがしないわね』

『待て待て待て! 俺は幽霊じゃないぞ!』

 

 クリスティーナはきょとんとした顔になった。なぜ不思議そうにするのか。

 

『え? だってここの山は人が入っちゃダメなんでしょ? つまりあなた達は人じゃないってことだわ』

 

 断言しているクリスティーナからは自分は間違っていないと思っているようだった。

 厳密にはこの山はじいちゃんの所有する山だから勝手に他人が入らないようにと言っているのだ。俺達は身内というのもあって一応の許可をもらっている。

 そのことを伝えるとクリスティーナの顔がみるみる青ざめていった。

 

『わ、わたし……悪いことをしてたの?』

 

 彼女は真面目な子なのだろう。この反応を見るだけで彼女が悪い子だとは思えなくなった。

 安心させるようにできるだけ優しい声色を意識して出す。

 

『知らなかったんだし大丈夫だよ。でも子供一人で山の中にいるのは危ないからいっしょに出ようか』

『い、いっしょにいてくれるの?』

『もちろん。迷ったら危ないしね』

 

 そんなわけでクリスティーナといっしょに山から出ることになった。何かあったら危ないし、案内した方がいいだろう。

 

「えー! これから財宝を探すはずだったのにー!!」

 

 麗華を説得するのに少々時間を使ってしまったのだが。なんとか納得させて三人で来た道を戻った。

 道中でクリスティーナの事情を聞いてみる。彼女はイギリスから来たらしく、父親の「日本の風景を見てみたい」という号令で家族揃って日本にやってきたそうだ。

 都会ならまだよかったが来た場所は何もない田舎だった。自然の風景を見たいらしい父親に文句も言えないまま一人で近辺を歩いていたそうだ。

 とはいえ実際に来るまでは日本に興味を持っていなかったのだ。もちろん日本語の勉強をしているはずもなく、言葉が通じないままフラストレーションの溜まる日々だったとか。

 そんなことを愚痴るように説明してくれた。話してすっきりしたのかクリスティーナの表情はほころんでいた。

 

『そういえばさ、最初偉そうだったのはなんでなの?』

 

 ちょっとだけ気になっていたので尋ねてみる。クリスティーナはうっ、とたじろいだ。

 

『だ、だって……悪い幽霊相手だと体を乗っ取られるかもしれなかったから……強気でいなきゃって思って……』

 

 幽霊が危険なものだって思っているのにわざわざ会いにきたのか。恐怖を押し殺すくらいには寂しくてたまらなかったのだろう。

 そりゃそうだ。知り合いのいない場所で言葉の通じない異国の地。不安になる要素には充分だろう。俺だっていきなり知らない場所で言葉も通じない人ばかりだったらどうしていいかわからなくなる。

 

『でも、トシナリがいい幽霊だったみたいだから安心したわ』

『だから俺は幽霊じゃないっての!』

 

 ちなみにクリスティーナは俺と歳は同じだった。見た目が年上に見えていただけにちょっとびっくり。しかしそれは相手も同じだったようで、『嘘!?』と大げさに驚かれてしまった。どうやらけっこうな年下に見られていたらしい。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「おーい姉ちゃん! 遊び行くぞーーっ!!」

『レイカ! 女の子が大きな声を出すなんてはしたないわよ!』

 

 じいちゃんばあちゃんの家に泊まっている間、俺と麗華はクリスティーナと遊んだ。

 クリスティーナが日本に滞在する期間は一週間ほどだったようで、俺達に出会った時には残り三日ほどの猶予しか残されていなかった。まあ俺も麗華もそのくらいの日数しか泊まらないのでちょうどよかったとも言う。

 麗華は英語をしゃべれない。だけどそれで臆するという性格でもなく、目いっぱいのボディランゲージでクリスティーナと仲を深めていた。しかもそれで本当に意思疎通ができているかのように二人は仲良くなっていった。

 自然に囲まれながら俺達は遊びまくった。ほとんどは麗華に付き合ったという形だったが、クリスティーナも楽しそうにしていたし俺自身もなんだかんだで夢中になっていた。

 

「トシナリ、レイカ。コンニチハ」

「はい、こんにちは」

「おおっ! 姉ちゃんが言葉をしゃべったぞ! すげー!」

 

 いやいや、言葉自体は最初から口にしているからね。細かいことはツッコまないけどさ。

 クリスティーナに簡単な日本語を教えてみるとあいさつ程度ならすぐ覚えてくれた。それを一番喜んだのが麗華だったりする。あまりに喜ぶものだからクリスティーナのあいさつは日本語になった。

 一人の日本人として、できればクリスティーナが日本をつまらないところだなんて思ってほしくなかったのだ。短い期間だけど少しでも楽しい思い出を作ってほしかった。

 

『トシナリとレイカにはわたしのことをクリスと呼んでほしいの。もう友達でしょ?』

「兄ちゃん、姉ちゃんはなんて言ったの?」

「自分のことはクリスって呼んでほしいって。もう友達だからってさ」

「わかった! クリス姉ちゃん!」

 

 麗華の元気な呼びかけにクリスは心の底から嬉しそうに笑った。

 知らない土地でできた友達。それは俺と麗華にとっても嬉しいことだった。

 しかし、別れの日はやってくるのだ。

 

「いつもクリスと遊んでくれてありがとう。今日でお別れになるからあいさつをさせてほしい」

 

 クリスが帰国する日がやってきた。彼女は家族でお別れのあいさつをしにきてくれた。クリスの父親はバリバリのイギリス人だったけれど日本語はペラペラだった。瞳子ちゃんのお母さんよりも言葉に淀みがない。

 

「トシナリ……レイカ……」

 

 クリスの目には涙でいっぱいになっていた。それは友達との別れを悲しむ涙だった。

 泣いている彼女を見て、言い方は悪いが俺は嬉しくなった。この短い期間で別れを惜しませてしまうほどに楽しい思い出を作ったという証明でもあるからだ。

 そして同じように麗華の目にも涙でいっぱいだった。いや、彼女の場合は溢れてぽろぽろと零れてしまっている。

 

「クリス姉ちゃああああああんっ!!」

 

 我慢ができなくなったのか、涙を流しながら麗華はクリスに突撃した。クリスはそれをしっかりと抱きとめる。

 ふたりはしばらく抱きしめ合った。体を離してからクリスは俺の方に顔を向けた。

 

「トシナリ」

「うん」

 

 クリスは微笑んだ。とても嬉しそうに、とても楽しそうに。俺達との夏の思い出を心に残してくれるのだと確信させてくれる笑顔だった。

 

「サヨナラ」

「……うん。さよならクリス」

 

 最後は日本語で別れのあいさつをしてくれた。日本に来たことをよかったと思ってくれた。そう捉えてもよさそうだ。

 クリスの家族を乗せた車が見えなくなるまで俺と麗華は見送っていた。楽しい時間が過ぎれば、次にくるのは寂しいという感情だ。

 俺と麗華も今日中に家に帰るのだ。うるさい従姉妹だったけれど、別れるとなるとちょっぴり寂しい。

 従姉妹の麗華とはまた会えるが、クリスとはこれが最後の別れになるだろう。そうだとしても、思い出として彼女と友達になったことは忘れない。

 別れはつらいものなのだ。仲良くなった相手だからこそそう思うのだろう。前世では別れというものに対してそんな風に思っていなかった。俺は淡白な人間だったんだろうな。

 もしも、葵ちゃんと瞳子ちゃんのどちらかと別れることになったとしたら……、俺はそれをちゃんと受け止められるのだろうか? そんな不安で堪らなくなるような考えが、少し頭をよぎった。

 

 



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43.高木俊成がいない間の二人

田舎に行っている間の葵ちゃんと瞳子ちゃん視点です。


 トシくんがおじいちゃんとおばあちゃんに会いに行くということで、数日会えない日が続いていた。

 

「あ……間違えちゃった」

 

 家でピアノの練習をする。お父さんとお母さんは仕事でいないから私一人だ。瞳子ちゃんも今日は予定があるみたいで、他の友達も家族でどこかに出かけている子が多い。

 暇を紛らわせるようにピアノの練習をしてみたけど上手く集中できない。さっきからそう難しくもないところでミスをしている。

 

「……」

 

 いつもは一人でいるとトシくんが構ってくれたのに……。こんなにも会えない時間が長いと心がざわついてしまう。

 

「……まさか女の子と仲良くなんてしてないよね?」

 

 トシくんは人の少ない田舎に行くって言ってたけど、そこに女の子がいないとも言っていなかった。優しいトシくんのことだから、私や瞳子ちゃん以外の女の子にも優しくしているのかも。学校の女の子相手にも優しくしてるし。

 鍵盤に頭から突っ伏す。音が重なって不快な響きが体を震わせる。

 トシくんの優しいところが大好き。彼の優しい笑顔を見ていると大きくて暖かいものに包まれたような心地の良い感覚がするのだ。

 そうやって守ってもらえたから私はちょっとずつ自分に自信が持てるようになったんだ。小さい頃から男の子は乱暴で怖い子ばかりだったけれど、トシくんが傍にいてくれると思ったらちゃんと目を見て話せるようになった。トシくんのおかげで私は変われたんだ。

 でも、そうやって守ってもらっているのは私だけじゃなかった。

 瞳子ちゃんも私と負けないくらいにトシくんが好きだと思う。GWの旅行を境にさらにその想いが強くなったように感じる。

 瞳子ちゃんと私は似ている。だからわかるの。瞳子ちゃんが人見知りが激しくて寂しがり屋だって。もしトシくんがいなかったらそういう面がはっきりと出ていたのかもしれない。

 トシくんが私と瞳子ちゃんを特別扱いしてくれてるのはわかってる。わかってるつもりだけど……、トシくんってば他の女の子にも優しいのよね。

 やっぱりそれが彼の良いところなんだけど、それでも心がもやもやするのを止められない。できれば他の女の子を見ないでほしいって思っちゃう。

 

「そう思うのって変なのかな……」

 

 私を見てほしい。ずっと見てほしい。私はずっとトシくんを見ていたい。

 

「うーん……」

 

 頭がぼやけてきそう。トシくんのことばっかり考えてると他のことがおろそかになりそうだった。

 一度ピアノから離れてストレッチをしてみた。トシくんに「ちょっとずつでも体力つけられるようにしようね」と言われてから暇を見つけてはやっている習慣だ。

 ストレッチで前屈する。四年生になってから胸のあたりが急に大きくなってきた。お母さんみたいにちゃんとしたおっぱいになるのかな? お母さんに聞いてみると「葵が成長している証よ」と言ってたからそうなんだろうと思う。

 おっぱいが成長するにつれてトシくんの目線が私の胸に向くことが多くなってた。気になるのかな? 私も急に大きくなってきてびっくりしてるからトシくんもそうなんだろうな。私のことを心配してくれてるのかも。

 そう思ったらちょっとだけ嬉しくなる。別にいきなり大きくなってきたからって痛いわけじゃない。心配させないためにもトシくんには言った方がいいかな?

 

「んしょ、んー……。んしょ」

 

 体を伸ばしていく。段々と柔らかくなってきた。それをトシくんもいっしょになって喜んでくれたから今も続けられている。

 

「ふぅー……」

 

 一通りストレッチをして息をゆっくりと吐いた。トシくんか瞳子ちゃんがいたら背中を押してもらったりできるけど、今は自分一人でできるだけのことをやった。

 立ち上がって次は何をしようかと考える。夏休みの宿題はトシくんといっしょにやろうと思ってるから帰ってきてくれるまではやらない。だったら体を動かした後には頭の体操をしよう。

 私は折り畳みの将棋盤と駒を出した。お父さんのだけど、私が将棋クラブに入ってからは私の物みたいに使わせてもらっている。

 トシくんか瞳子ちゃんがいれば相手をしてもらえるのだけど、いないからって一人でできないわけでもない。

 いっしょにお父さんの将棋の本も持ってきた。戦法とか囲いとかが載っている。この本を読んでトシくんが「ふむふむ」と頭を縦に振っていたのだ。かわいい。

 その将棋の本にはいくつか詰将棋が載っていた。駒を並べて挑戦してみる。

 最初は駒の動かし方もわからなかったのだけど、トシくんが丁寧に教えてくれた。トシくんと瞳子ちゃんと遊ぶ時もたまに将棋をするようになった。

 トシくんとやるときはハンデをつけてもらって駒を減らしてもらってたんだけど「つ、強くなったね……」と彼が言ってくれたので今はハンデなしで指せるようになった。

 瞳子ちゃんもクラブに入るまでは将棋をしたことがなかった。同じところからスタートできるのがなんだか楽しくて、瞳子ちゃんとの対戦が一番多かった。

 新しいことを覚えていくのは楽しかった。何よりトシくんと手加減されないで遊べるのが嬉しい。優しくされるのは好きだけど、それだけじゃ何か違うかなって思っちゃうから。

 

「あれ、もうこんな時間」

 

 詰将棋に夢中になってたらいつの間にか夕方になっていた。そろそろお母さんが帰ってくる時間だ。

 私は将棋盤と駒を片付けた。本も元の場所に戻す。

 

「トシくんが言ってた頭がすっきりする感じがする……」

 

 いい頭の体操になったのだろう。頭がすっきりして気持ちがよかった。

 

「今ならいい演奏ができそう」

 

 もう一度ピアノに向き合う。今なら集中して演奏ができる気がした。

 ピアノを弾いたらトシくんが喜んでくれた。瞳子ちゃんも褒めてくれた。あんまり得意なことがない私だけど、ピアノはがんばれそうだと思った。

 またトシくんに喜んでもらえるように新しい曲を練習しよう。私は鍵盤に両手を添えて、力を込めた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 俊成がいなくなってから調子が悪い。大会が終わった後だからよかったけどタイムが落ち込んでしまっていた。

 コーチは今までがんばってたから疲れが出たんだろうって言ってたけど、そうじゃないってのはあたし自身がよくわかっている。

 

「早く帰ってきなさいよ……」

 

 俊成がいないとなんだか力が出なかった。早く顔が見たい。優しく笑ってほしかった。

 俊成の姿を見ないと胸がざわざわしてしまう。病気とかケガをしていないかって心配もあるけれど、向こうで女の子と仲良くしていないかって不安があった。

 人の少ない田舎だって言ってたけど、それで女の子がいないとも限らない。優しい俊成のことだから、出会った子がどんな子でも優しくするんだって予想できた。

 首を振る。そんないるかもわからない女の子のことを考えたってしょうがないじゃない。俊成が無事に帰ってきてくれるならそれでいい。そう思うことにした。

 会えない日が続くと俊成に触りたいって、そんなことばかり思ってしまう。葵みたいに毎日手を繋ぎたい。してもらえるなら頭を撫でてもらったり髪を触ってもらいたい。

 

「あたしって変なのかな?」

 

 スイミングスクールを終えてから家に帰る。自分の部屋のベッドに倒れて力を抜いてると俊成のことばかり考えちゃう。

 

『瞳子ちゃんの髪はサラサラしているね。どれだけ触っても飽きないよ』

「そ、そうかしら? べ、別にもっと触ってくれてもいいのよ?」

『瞳子ちゃんの瞳はとっても綺麗だね。キラキラしていて月の光に負けないほどだ』

「ん~~……っ。ばかぁ……」

 

『でも……葵ちゃんよりは胸が小さいね』

「ッ!!」

 

 あたしはがばっとベッドから顔を上げた。どうやら寝ていたみたい。

 せっかくいい夢を見ていたのにっ。いたのにーーっ!! 俊成と良い感じだったのにさっきのは何!?

 確かに、確かに最近の俊成は葵の胸に目が行くようになった。他の子と比べても葵の胸が大きくなってきたんだから見ちゃうのはわかる。わかるけど~~。

 あたしは自分の胸に手を当てた。大きさなんてない胸だった。

 大きくなったらあたしだってちゃんと胸が大きくなるもん! ママだって大きいし、あたしだってちゃんと成長する……はずっ。

 

「ちゃんと見てなさいよ俊成ぃ~~っ」

 

 夢の中での出来事のはずなのに、俊成本人から言われたように感じてしまった。あたしだって大きくなって見返してやるんだから!

 イライラしててもしょうがない。冷静になるためにあたしは将棋盤と駒を取り出した。クラブ活動を始めたからパパに買ってもらったのだ。

 駒を並べて新しい戦法を試してみる。あたしの実力は葵と同じくらいだ。俊成にはまだ勝てないけど、少しずつ近づいているという実感があった。

 

「これは、葵に負けてられないんだから」

 

 葵とは一つの勝負をしている。どっちが先に将棋で俊成に勝つかという勝負だ。

 勝った方は休みの日に俊成と二人っきりになれるのだ。遊ぶとなればあたし達は三人でいることが多い。一日二人っきりになれるというのはそうそうなかった。

 ちなみにこのことは俊成は知らない。あたしと葵だけの秘密の勝負だ。負けてられない。

 ……ただでさえピアノでは葵に負けてしまったのだ。あたしなりに自信があったピアノで、葵はあっさりあたしを抜かしてもう追いつけないところまで行ってしまった。

 すごくショックだった。葵にピアノ教室のことを教えなきゃよかったなんて考えて、そんな風に考えてしまった自分が情けなくて悲しくなった。

 その分あたしは水泳をがんばった。運動ができない葵がここにくることはない。そう考えてしまったことに気づくとまた自分が嫌になって、でも俊成の泳ぐ姿を見ていたらやっぱりがんばりたいって思った。

 あたしは自分に嫌なところがあるって思い知らされていた。それでも俊成には好きになってもらいたい。こんなあたしを知っても俊成なら笑って受け入れてくれる気がした。

 

「んー……」

 

 やっぱり疲れてるのかいい手が思いつかなくなっていた。今日はここまでにして片づけを始める。

 

「瞳子ー。ご飯デスヨー」

「はーいママ。今行くー」

 

 ちょうどご飯の時間になってたみたい。あたしは自分の部屋を出た。

 ……料理も勉強した方がいいかしら? 葵どころか俊成もけっこう料理ができていた。さすがに料理で俊成に負けるのはいけない気がする。なんていうか女として。

 水泳や勉強だけじゃなく、家のお手伝いももっとしなきゃ。俊成にがっかりされないためにもちゃんとがんばろう。

 夏休みはまだ残っている。俊成が帰ってこないからってやれることはあるのかもしれなかった。

 まったく、調子が悪いだなんて言ってられないわね。

 

 



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44.運動会はいい思い出であるべきだ(パート2)

 運動会の日がやってきた。

 なんだか今までの中で一番クラスのモチベーションが高い。本郷を中心に男女ともにやる気に満ち溢れていた。

 これが本郷のカリスマか。体を動かすのが大好きな男子はともかくとして、優勝を狙っている本郷をサポートしようと女子も力が入っている。

 とは言いつつ俺も今回はいけるんじゃないかって考えている。本郷と俺は学年で一、二を争う脚力を持っている。女子では瞳子ちゃんが一番運動ができるし、赤城さんだって期待できる。

 まだ俺は運動会で優勝したことがなかった。それは前世含めてである。別に個人で優勝できるもんでもないが、いつも優勝を告げられて盛り上がっている子達を眺めているとほんのちょっぴり羨ましくなるのだ。

 もちろんみんなで楽しむのが一番だ。たとえ優勝できなくても楽しい思い出ができればそれでいいとも思う。

 ……でも、一回くらいは優勝してみたいって思っちゃうのもまた事実だった。

 

「あっ、トシナリくーん。がんばってねー!」

 

 最初の入場行進をしていると声が飛んできた。聞き覚えのある声は野沢先輩だった。

 もちろん弟の応援に来たんだろうけど。それでも俺に声援を送ってくれたことが嬉しくてにやけてしまう。

 

「俊成っ。ちゃんと前向いて歩きなさい」

「はい……」

 

 瞳子ちゃんに怒られてしまった。入場行進が退屈だからってよそ見はダメだよね。

 

「よぉーし! みんな力いっぱいがんばるぞー!! 応援も大きな声でやるぞー!!」

 

 四年二組のみんなが本郷に続いて「おー!!」と続いた。全学年の中でも一番やる気のあるクラスではなかろうか。

 

「ふっふっふっ。二組なんかに負けないんだから。勝つのは私達四年五組よ!」

 

 しかしそれに対抗するように一人の女子が現れた。ショートヘアで前髪をヘアピンでとめている。身長が高く、いかにも運動ができそうな女の子だ。

 というか小川さんだった。そうだ、盛り上げ上手の彼女がいるクラスがやる気がないなんてことはなかった。小川さんの後ろには五組の生徒がずらりと並んでおり、一人一人の目に火が灯っていた。

 本郷はにやりと笑う。ライバルを見つけたかのような楽し気な笑みだった。

 本郷と小川さんの目線がぶつかり火花が散った。楽しそうだなぁ。

 

「がんばろうねトシくん!」

 

 二組と五組の争いに興味のない葵ちゃんが出ない力こぶを作ってアピールする。髪型をポニーテールにしているし本気モードなのだろう。

 

「高木」

 

 赤城さんが俺に駆け寄ってきた。

 

「今日はおばあちゃんもいっしょにしてもらってありがとう」

「いやいやお礼を言われることじゃないって。俺達運動会の時はいっつもお昼いっしょに食べてるからさ。応援だっていっしょの方がいいかなって思っただけだから」

「うん」

 

 本日の運動会には赤城さんのおばあちゃんが来ているのだ。毎年何かしら用事が入ってしまい来れなかったのだが、今年はついに応援に来てくれたのだ。

 せっかく来てくれるとのことだったので、それを両親に伝えて同じ席で応援できるようにと動いてもらったのだ。葵ちゃんと瞳子ちゃんの両親も了承してくれた。まあ赤城さんとは毎年昼食をいっしょにしてたからこそ簡単に受け入れてくれたのだろう。

 

「おばあちゃんが見てくれてるんだからがんばらないとね」

「もちろん」

 

 赤城さんはぐっと親指を立てた。まあ運動が得意な方だし自信があるんだろうな。

 

「高木くん、次の種目があるから入場門にいかんと」

「あ、そうだな。瞳子ちゃん行こうか」

「わかったわ」

 

 佐藤に言われて俺と瞳子ちゃんは入場門へと向かった。俺達は二人三脚に出るのだ。

 二人三脚は男女のペアである。最初は男子で一番足の速い本郷が瞳子ちゃんとペアを組むはずだったのだが、彼女が嫌がってしまった。俺と組むのだと主張するので本郷が退いてくれて他の競技に移ってくれたのだ。

 

「二人三脚はコンビネーションだからな。木之下のことは高木に任せた」

 

 そう言って爽やかに笑う本郷だったのだ。あれ、こいつ思った以上に良い奴じゃないか。

 

「私の相手は高木くんときのぴーなのね。ふっ、この私をがっかりさせないことね」

 

 小川さんが二人三脚のメンバーにいた。なんで強者目線なの?

 

「はいはい。小川さんもこけないようにがんばって」

 

 瞳子ちゃんはあっさりと受け流していた。なんというかものすごく余裕を感じる。

 まあ……小川さんのペアの男子って身長が低いんだよなぁ。背の高い小川さんと並ぶとデコボコっぷりがひどい。なんでこの二人をペアにしたのか疑問である。

 

「俊成、足結ぶからこっちきて」

「うん、わかった」

 

 瞳子ちゃんの左足と俺の右足が紐で結ばれる。途中で外れないようにと瞳子ちゃんがきつく結んでくれた。

 

「……よし。ちょっと歩いてみましょうよ」

 

 瞳子ちゃんが結び終わったようなので少し歩いてみる。きつく結ばれたというのもあって俺と瞳子ちゃんの足がくっついたかのようだった。

 

「問題なさそうだね」

「……そうね」

 

 二人三脚が始まった。俺と瞳子ちゃんは「イッチニー、イッチニー」とかけ声を口にしながら爆走した。もう圧倒的だったね。

 

「くそー! 負けたー!」

 

 二着でゴールした小川さんが地団駄を踏む。ペアの男子がこけないようにとバランスをとっている。このバランス感覚を見込まれて小川さんのペアになったのかもしれない。

 

「ふふっ、あたしと俊成が組めば誰にも負けないんだから」

 

 瞳子ちゃんは自慢げに胸を張る。それを見て小川さんはさらに悔しがった。この二人っていい関係だよね。

 今年の二組は全学年で健闘していた。午前の部が終って二組の順位は二位だった。午後の競技結果がよければ優勝が狙える。

 昼休憩の時間となった。それぞれ家族といっしょに昼食をとる。

 高木家と宮坂家と木之下家、そして赤城家を含めた大人数でシートをくっつけて弁当を食べる。

 

「美穂はすごいんだねぇ。あんなに足が速いだなんて知らなかったよ」

 

 赤城さんのおばあちゃんが微笑みながら孫を褒める。やっぱり孫の活躍が嬉しかったのか顔がずっと綻んだままだ。赤城さんもまんざらでもないのか少しうつむき気味になっている。照れてるんだな。

 

「瞳子の写真はいっぱい撮ったからな。アルバムが楽しみだなぁ」

「何? 俺だって葵の写真をたくさん撮ったからな。思い出の量は負けんぞ」

「まあまあ。勝負事でもないでしょうに張り合わんでもいいでしょう」

 

 父親って運動会が好きだよね。子供ががんばってる姿を間近で見られるのだ。普段目にできないだけにテンションが上がってしまうのだろう。

 

「葵はもうちょっとだったわねー」

「でもがんばってマシタ」

「そうね。すごくかわいかったわ」

 

 あまり成績が振るわなかった葵ちゃんは母親達に慰められていた。というか母さんのその感想は種目に関係ないよね?

 

「後は学年対抗リレーがあるわね」

「うぅ……走るのやだなぁ……」

「葵、そんなこと言わないの。抜かされても怒らないから最後まで一生懸命走りなさい」

「わ、わかってるよ~……」

 

 午後の部からは騎馬戦や組体操、そして学年対抗リレーがあった。

 学年対抗リレーは四年生から六年生までの学年で行われる。点数をもらえる最後の競技というのもあってその得点は高い。優勝できるかどうかはこのリレーにかかっていると言っても過言じゃないのだ。

 リレーは運動会の花形みたいなもんだからな。なんかドキドキする。男として活躍してやりたいって気持ちが強くなる。

 昼ごはんを食べ終わって俺達は午後の競技に備えることにした。軽くストレッチをしておく。

 

「赤城さん、美穂ちゃんこれからリレーに出ますから。しっかり応援してあげましょう」

「ええ、楽しみです」

 

 母さんと赤城さんのおばあちゃんの会話を聞いて、赤城さんにとってもおばあちゃんにとっても良い思い出になればいいなと思った。

 クラスメート達と合流する前に野沢家に近づいた。気づいてくれた野沢先輩が朗らかな笑顔を向けてくれる。

 

「俊成くんがんばってたね。今年は学年対抗リレーもあるから楽しみだよ」

「野沢先輩。俺がんばりますから見ててくださいね」

「もちろんしっかり見てるよー」

 

 野沢先輩には一年生の頃から走りを見てもらってるからな。どれだけ成長したのか見せてあげたいのだ。

 

「なんだよ。言いたいのはそれだけかよ?」

「こーら拓海。そんな言い方しないの」

「ふんっ」

 

 野沢くんが眉間にしわを寄せて俺を見ていた。というか睨んでいた。まあ野沢くんは五組だし、今日は敵同士だから仕方がないか。

 

「野沢くんは組体操にも出るんだよね。楽しみにしてるからがんばってね」

「み、宮坂……。お、おう! がんばるから見ててくれ!」

 

 葵ちゃんに応援の言葉をかけられて野沢くんは元気が出たみたいだった。強く胸を叩いたせいでむせていた。それを見てか野沢先輩がくすくすと笑っていた。

 そして、ついにお待ちかねの学年対抗リレーが始まった。

 四年生の全クラスで行われる。五クラスあるから一着を取るのは簡単じゃない。それでも十分に狙えると思っている。

 このリレーの順番は男女交互にというルールがある。それさえ守ればどんな順番にするかはクラスそれぞれで自由だった。

 俺達二組の順番は足の速い子を後ろに固めていた。アンカーは本郷。その前には瞳子ちゃん、俺、赤城さんとなっている。

 最初でリードを離され過ぎていなければ勝てるだろう。この作戦でどうなるか。すぐに結果は出る。

 

「位置について、よーい……」

 

 スターターピストルから「パァンッ!」という音が響いて一斉にスタートした。

 一番手は葵ちゃんだ。最初に足の速い子が集中しているらしくいきなり離されてしまう。ビリでも彼女は一生懸命走った。

 

「うおーーっ! がんばれ葵ーー!!」

 

 葵ちゃんのお父さん声が大きいです。ダンディな見た目に反してかなり熱くなっているようだ。しかしその熱に呼応してか、葵ちゃんはまだ始まったばかりだというのにリレーのクライマックスと言わんばかりのたくさんの声援をもらっていた。葵ちゃんのかわいさがあるからこその声援だろうな。

 葵ちゃんのバトンは佐藤に渡った。佐藤は追い越すことはできなかったものの確実に差を縮めてくれた。

 この後も目まぐるしく順位は変わっていき、俺達二組は三位まで順位を上げていた。

 トップは五組だ。二位から五位までが団子状態になっている。まだまだわからない展開だ。

 だんだんと俺の順番が近づいてくる。周りからは応援の声が響いているし、流れる音楽も気持ちを焦らせてくるかのようだ。

 あれ、俺緊張してる? いやいやそんなバカな。運動会だって初めてでもないのにさ。

 ついに俺達二組は二位にまで順位を上げた。最初がビリだったことを考えればかなりの追い上げである。この追い上げムードでクラスメート達は大はしゃぎしていた。

 だが、ここで事件が起こった。

 ついに赤城さんの順番が回ってきて、いよいよだと気持ちを引き締めている時だった。

 

「あ」

 

 その声は運動場に大きく響いたように感じた。

 赤城さんがバトンを受け損ねて落としてしまったのである。慌てて拾おうとしたが、焦ったせいか蹴ってしまいなかなか拾えない。

 その間に次々と抜かされてしまう。三位、四位、一気に最下位にまで転落してしまった。

 大きなため息が聞こえてきた。同じクラスメートからのものだった。

 なんとか拾って赤城さんはようやく走り始めた。

 

「……」

 

 だいぶリードを離されてしまった。トップを走る五組とはそうそう追いつける差ではないだろう。

 赤城さんが近づいてくる。他の組はすでにバトンを渡しているため俺だけが残っていた。

 

「ごめ……ごめんなさ……」

 

 赤城さんは泣いていた。泣きながら走っていた。いつもの無表情なんてそこにはなかった。

 彼女は責任を感じているのだ。いつも無表情で、何を考えているのかはっきりわからない女の子だけど。それでもみんなといっしょにがんばっていたのは確かだった。

 今日は赤城さんのおばあちゃんが来てくれているのだ。良いところを見せたかったに違いない。良い思い出にしたかったに違いない。

 知らず引き結んでいた口を開く。

 

「……大丈夫だよ赤城さん。絶対に勝つから!」

 

 助走をつけて赤城さんからバトンを受け取った。

 クラス一丸となってがんばる。それで優勝できたら最高だ。

 でも、優勝できなくても運動会は楽しい行事なのだ。まだ優勝したことのない俺だけど、毎年楽しい思い出になっている。

 だけど、このままじゃあ赤城さんには悲しい思い出しか残らない。ずっと心の中に残り続けてしまう。人は成功したことよりも失敗を記憶する生き物なのだから。

 

「うおおおおおおーーっ!!」

 

 俺は走った。本気で大真面目に速さだけを求めて走った。

 もしこのまま負けたら赤城さんはクラスメートから責められてしまうかもしれない。みんなで参加している競技なのに赤城さんだけが責められてしまうかもしれない。それはダメだ。

 社会人になると責任の所在を求められることが多くなった。次につながらない責任追及ばかりだった。

 それでもいい上司はいたのだ。その人が教えてくれた責任をチャラにする方法があった。

 

「勝てばよかろうなのだ!」

 

 つまり終わりよければすべてよし! 赤城さんの失敗をカバーするためにも、このリレーは勝ちたかった。

 息が上がるのを無視し、全力以上を出して痛くなる足に構ってやらなかった。どうせこのリレーが最後の競技だ。明日筋肉痛になっても関係ないことだった。

 離されていた背中が見えてきた。もうすぐ追いつける!

 四位の子の背中に迫った時、瞳子ちゃんの姿に気づいた。

 目と目が合う。彼女は小さく頷いてくれた。

 

「瞳子ちゃん任せた!」

「任せなさい!」

 

 バトンを渡すと瞳子ちゃんは力強い走りを見せてくれた。すぐそこまで迫っていた四位の子を抜くと、団子状態となっていた二位と三位の子もあっさり抜いた。

 さすがは瞳子ちゃん。息が苦しくなりながらも結果を目で追った。

 加速する瞳子ちゃんはついにトップの五組の子の背中を捉えた。そしてアンカーの本郷に最後のバトンが渡る。

 さすがにアンカーは速かった。それでもゴール目前で本郷は鮮やかに抜いてみせた。一着でゴールテープを切る。

 その瞬間、歓声が響いた。まあ最後の最後までデッドヒートだったからな。これは盛り上がるよ。

 

「ふぅ……」

 

 思わず息が漏れた。なんとか勝ててよかった。これで赤城さんの責任ってやつもなくなっただろう。

 最後に逆転のゴールインをした本郷と、一気に順位を上げてくれた瞳子ちゃんにクラスメート達が殺到する。今回のヒーローだからね。そんな二人を眺めていると嬉しさが込み上げてくる。

 

「トシくんすごかったね! あんなに差が開いてたのに追いついちゃうだなんて!」

 

 葵ちゃんが俺のがんばりを自分のことのように喜んでいた。みんなから褒められるよりも彼女一人から褒められる方が嬉しい。

 

「た、高木……」

 

 赤城さんだ。さっきまで泣いていたからか目が潤んでいて顔も赤い。

 

「その……ありがとう」

 

 消え入りそうな声だった。そんな彼女に俺はにっと笑ってやる。

 

「お互いがんばったよな。一位になれて嬉しいよ」

 

 ハイタッチを求めてみる。赤城さんはおずおずと手を伸ばして軽く手のひらを当ててくれた。

 彼女にとって今日が良い思い出になってくれるかはわからない。それでも悪い思い出にならなければと、そう思った。

 ちなみに最終結果が発表されて二組は一位だった。俺達四年二組のみんなが大盛り上がりしたのは言うまでもない。俺も運動会を初優勝という結果で終われて最高の気分だった。

 

 



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45.一定の音色

 小学校には学芸会という行事がある。

 学年ごとに歌とか劇などを保護者にお披露目するのである。俺達四年生は合奏をすることになっていた。

 ピアノやリコーダーやティンパニーなどなど。それぞれ担当の楽器を選んで演奏するのだ。

 

「指はこう動かすのよ。俊成はちょっと動きが硬いわね」

「トシくんリラックスだよリラックス。リズムに合わせてたら勝手に手が動くようになるよ」

 

 俺はわざわざ休みの日に瞳子ちゃんと葵ちゃんからリコーダーの指導を受けていた。芸術センスは二人とも俺と比べるまでもないほどのレベルなのだ。正直勝てる気がしない。

 音楽の授業でリコーダーを使うことが多かったからと選んではみたけど。一曲吹いてみただけでも大変だった。しかも学芸会で演奏する曲は二曲もあるのだ。ちゃんとやりきれるかどうか不安になってしまう。

 ちなみに葵ちゃんはピアノ、瞳子ちゃんは俺と同じリコーダーを選択した。瞳子ちゃんは下手な俺が見てられなかったのだろうな。葵ちゃんなんかは文句なしの実力を披露していた。本当は一曲ずつでピアノは他の子と交代するはずだったのだが、葵ちゃんがあまりにも上手過ぎたために二曲とも彼女が弾くことになったのだ。

 絵と同じで練習してもなかなか上手くならない。覚えればいい勉強と違って音楽はとても複雑なものなのである(俺視点)。

 

「私がお手本見せてあげるからよく見ててね」

 

 なかなか上達しない俺を見かねてか、葵ちゃんが自分のリコーダーを出して演奏してくれた。淀みのない音色に本当に同じリコーダーを使っているのかと訝しんでしまう。

 

「俊成は指の動きもそうだけど、吹き方そのものが下手なんじゃないかしら。なんか音がブレてる感じがするし」

「うぐっ……」

 

 なんかばっさり下手だと言われるとへこむな。瞳子ちゃんは容赦がない。

 二人の指導で同じ音を一定に出せるように吹き方から何度も繰り返しやらされる。何気に二人ともスパルタじゃない?

 

「うーん……、この辺りがとくに俊成の苦手なとこなのよね」

 

 瞳子ちゃんは俺へのダメ出しを呟く。それから俺の後ろに回り込んで手を回してきた。

 

「俊成は力を入れ過ぎなのよ。肩の力を抜きなさい」

 

 そう言いながら瞳子ちゃんは俺の手に自分の手を添えて直に指導をしてくれる。背中で彼女の体温を感じる。耳元で発せられる彼女の声が俺の耳をくすぐった。余計に力が入ってしまう。

 

「私もトシくんに教える!」

 

 瞳子ちゃんと交代する形で葵ちゃんが俺の後ろに回り込んだ。同じように手を回され密着する。瞳子ちゃんよりも柔らかい感触だった。

 そんなこんなで二人から練習を見てもらう日が続き、学芸会当日を迎えたのだった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「うぅ……。あかん、緊張してまう」

「大丈夫だ佐藤。観客はみんな野菜だと思えば緊張しないぞ」

「えー、そんな風に思えへんよ」

「だったらこう思うんだ。観客の誰も佐藤を見ちゃいないってな」

「……それはそれで寂しいやんか」

 

 俺達四年生の順番がくるまで時間がある。それまで佐藤の緊張を解いてやることにした。

 緊張しないようにと言葉をかけても効果がなさそうなので佐藤の手のひらをマッサージしてやる。手に刺激を与えてやれば自律神経が整うはずだ。

 

「高木、あたしにもやって」

「ん、わかった」

 

 赤城さんが俺の方に手を差し出した。いつものように無表情な彼女だけど、やはりこういう舞台は緊張してしまうのだろう。

 いや、よく見たら赤城さんは無表情というわけでもなかった。微かにだけど微笑んでいるように見える。彼女の無表情との付き合いは長いからな。僅かでも変化があれば読み取れるようだ。

 というか今日に限らず赤城さんが微笑む頻度は増えていた。運動会を終えてからだろうか。まあ優勝できてクラス中が盛り上がってたし赤城さんもその嬉しさが残っているのだろう。

 赤城さんの手のひらはふにふにとしてマッサージをしているこっちが気持ちいいくらいだ。赤城さんも赤城さんで目がとろんとしてきている。気持ちよさで緊張がほぐれてくれるといいのだが。

 

「トシくん、赤城さんに何をしているのかな?」

 

 思わず体がビクッと震えた。

 振り返ればニコニコしている葵ちゃんがいた。笑顔なのに冷汗が流れるのは何故なんでしょうね?

 俺は赤城さんからぱっと手を離した。「あ……」と名残惜しそうな声がしたけれどここまでだ。俺も命が惜しいのである。

 

「あ、葵ちゃんにもマッサージしてあげようか?」

「うん!」

 

 よかった。葵ちゃんから発せられるプレッシャーが霧散した。あのプレッシャーがずっと続いてたらどうしようかと思ったよ。

 

「葵ちゃんって指が長いよね」

 

 手のひらをふにふにと押しながら思ったことを口にする。

 

「そうかな?」

「うん。ピアニストって感じだ」

 

 まあピアニストがどんな指をしているか見たことないんだけどな。だけど葵ちゃんの長くて細い綺麗な指はピアノとマッチしているように感じた。

 嬉しそうに笑う葵ちゃん。その笑顔を見てほっこりしていると、すぐ傍で不機嫌顔になっている瞳子ちゃんに気づいた。

 

「と、瞳子ちゃんにもマッサージしてあげようか?」

「……しっかりやってちょうだい」

 

 ずいっと差し出される手を取る。スベスベの感触に手が止まりそうになりながらもマッサージをした。

 

「いい? ちゃんと練習したんだから落ち着いていれば大丈夫なんだからね。もし音を外しても焦っちゃダメよ」

「わ、わかってるよ」

 

 なんか瞳子ちゃんにものすごく心配されていた。なんだか母親みたい。言わないけど。

 

「高木、何やってんだ?」

 

 瞳子ちゃんの手をふにふにしていると本郷が声をかけてきた。気づいた瞳子ちゃんは「ありがとう俊成」とお礼を口にしてから葵ちゃんといっしょにその場から離れる。

 瞳子ちゃんを見送ってから本郷が「たはは」と笑った。それは苦笑いの色を帯びていた。いつもは見せない仕方ないといった力のない笑いだった。

 未だに瞳子ちゃんが本郷を嫌っている理由がわかんないんだよな。何もないのに人を嫌う子じゃないってのはわかってるつもりだ。だから二人の間で何かがあったんだろうと思っている。

 

「……本郷ってさ、瞳子ちゃんとなんかあったの?」

「え、なんで?」

「いや、その……」

 

 嫌われてるから、なんてことは言えなかった。言葉選びに困ってしまうな。

 

「まあ……、俺って木之下から嫌われてるもんな。ははっ」

 

 いつもの爽やかな笑いではない。本人に嫌われているという自覚があるのなら理由もわかっているのだろうか。

 

「なんで嫌われてるのか、理由はわかってるのか?」

 

 もうストレートに聞いてみた。瞳子ちゃんから聞くよりは本郷の方が何倍も聞き出しやすいと思ってしまったのだ。

 当人同士の問題みたいだし、何より瞳子ちゃんは俺に話そうとしてくれなかった。それでも知りたいと思ってしまうのは俺のわがままだろうか。

 本郷は少しの間真面目な顔になった。イケメン度が上がる。

 

「高木は木之下と仲いいみたいだけどさ。……木之下から何か聞いてるのか?」

「いや、何も聞いてないから気になってるんだ」

「そっか……」

 

 それからまた本郷は黙り込んでしまった。これは聞き出すのは無理かなと諦めかけた時、彼は口を開いた。

 

「……去年、木之下にすげー怒られたんだ。それからあんな風になってる」

「怒られたって、なんで――」

「高木、俺も緊張してるからなんとかしてくれよ」

 

 本郷は俺の追求から逃れるように言葉を重ねてきた。これ以上は話してはくれないのだろう。

 なんとなく瞳子ちゃんからも本郷からも今の関係を納得しているような雰囲気がある。わざわざ俺が突っつく話でもないのかもしれない。

 なんか、小学生のうちでも人間関係って複雑なのかも。そんなことはわかっていたはずなのになんで忘れてしまうんだろうな。

 俺は本郷の手をマッサージしてやった。彼の手は少しだけ冷たかった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 学芸会は一年生から順々に六年生まで行われる。四年生の俺達は午前の部最後である。昼からは五年生と六年生の演目が行われる。とくに用がなければ四年生の俺達は昼には下校できるのだ。

 今は三年生の劇が行われていた。それが終れば俺達四年生の合奏がクラスごとに行われる。

 音楽室で最後の通し練習を終えた俺達は体育館の近くで待機していた。そして俺はこっそりと窓から三年生の劇を見学していた。

 

「高木くん何してるの?」

「わっ!? な、なんだ小川さんか」

「なんだって何よー」

 

 小川さんは俺の頭を肘でぐりぐりと押し付けてきた。ハゲたらどうする!

 俺は彼女を振り払って距離を取る。彼女はやれやれとこれ見よがしにため息をついた。

 

「三年生ってことは品川ちゃんが気になるんでしょ。高木くんって心配症よねー」

「いいだろ別に」

 

 同じ仲間班である小川さんにはバレバレだったようだ。

 超がつくほどに引っ込み思案な品川ちゃんがちゃんと劇の役をこなせるか心配になってしまったのだ。仲間班での付き合いしかない彼女だけど、俺はほとんど彼女専属のような立ち位置になっているだけにこういう行事でちゃんとやれるのか気になってしまったのだ。

 

「なんか高木くんって品川ちゃんのお父さんみたい」

 

 ぼそっとそういうこと言うのはやめてくれ。俺が睨みつけても小川さんはどこ吹く風である。

 

「あっ、品川ちゃんだ」

 

 眼鏡が特徴の女の子が出てきた。恰好を見るに役名は「木」といったところか。ま、まあセリフがない方が彼女にとってはいいんじゃないかな。

 

「せめて村人Aとかだったら一言でもセリフあったのにねー」

 

 いいんだよ。木だってちゃんと役なんだから。品川ちゃんが出ている場面が無事に終えて安堵の息を吐く。

 

「……高木くんってさー、いっつもそんな風なわけ?」

「そんな風ってなんだよ」

 

 小川さんは「うーん……」と歯切れが悪い。さばさばしている彼女にしては珍しく要領を得ない態度だった。

 

「私もよくわかんない。でもさ、なーんか胸がもやもやするんだよねー」

「小川さんがわかんないのに俺がわかるわけないじゃないか」

「それもそうね」

 

 小川さんはあっさりと引き下がった。結局何が言いたかったんだ?

 

「ほらほら、そろそろクラスのみんなのところに戻らないと。楽器とか運ばなきゃなんだしさ」

 

 そう言って小川さんは自分のクラスの輪の中に戻って行った。本当に何が言いたかったんだろうか。気になりながらもクラスメート達のもとへと戻る。

 三年生の劇が終わって俺達の出番が回ってきた。協力して迅速に楽器を運び込む。

 持ち運びの楽なリコーダーやハーモニカはいいけれど、木琴なんかは音楽室から運ばなきゃいけなかったし、ピアノは体育館にあるとはいえその前の劇のために端に寄せられている。これらも動かさなければならなかった。

 一つの学年が終わるごとに休憩が挟まれる。その間に準備を終えることができた。

 プログラムが読み上げられてステージの幕が上がる。暗くて見えないけれど、たくさんの保護者が見にきているのだろう。もちろん俺の両親だって見てくれている。

 俺達の演奏が始まる。葵ちゃんのピアノの音に引っ張られるようにそれぞれの楽器の音色が一体化していく。

 音楽は決して得意ではない。それでも葵ちゃんと瞳子ちゃんといっしょに練習をしてきたのだ。その事実が俺に自信を与えてくれた。

 某アニメの曲の演奏を終えて、次の曲へと移る。本番前は失敗を覚悟していたのに、いざやってみるとそんなことを考えなかった。我ながらしっかり集中できたのだ。

 演奏が終った後にはたくさんの拍手をもらった。みんな嬉しそうにしていた。

 音楽は苦手なことに変わりはないのだろうけれど、俺の中でやり切ったという充実感があった。苦手なことでもしっかりと打ち込めばそれなりの成果を出せるのだ。

 もちろん根気よく練習に付き合ってくれた葵ちゃんと瞳子ちゃんには感謝である。本当に二人には頭が上がらないなぁ。

 

 



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46.サンタさん問題【挿絵あり】

素浪臼さんからカスタムキャストで作成したイラストをいただきました! 本当にありがとうございます!
よければどうぞ見ていってくださいな。


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 二学期が終わりに差しかかり、冬休みが近づいてきた。クリスマスももうすぐだ。

 クリスマスイヴの日は毎年俺と葵ちゃんと瞳子ちゃんの家族でクリスマス会をしていた。どの家でするかは順番であり、今年は瞳子ちゃんの家で行われることとなっていた。

 

「だっせー! お前まだサンタさん信じてんのかよー!」

 

 仲間班の活動前の時間のこと、低学年の男の子の声に俺は肩を跳ねさせてしまう。見れば男の子達がサンタを信じているかいないかでもめているようだった。

 小学生の子って他に信じている子がいたとしても、平気でそういう真実を言いふらしたりするよね。自然に理解していくものなんだからそっとしておいてあげればいいのにとも思う。

 それに、信じていたものに裏切られて純真な心にショックを受けてしまわないかと心配になってしまうのだ。たとえば目の前でうつむいている品川ちゃんとか。

 

「きょ、今日は何をして遊ぶんだろうねー? 寒くなってきたし体を動かすことかもよ」

「……う、うん」

 

 品川ちゃんに男の子達の声が聞こえないようにと話題を逸らそうとしてみる。あまり乗ってくる子でもないので俺はしゃべりっぱなしとなった。

 品川ちゃんとサンタの話をしたことはなかった。というか葵ちゃんと瞳子ちゃんとでさえまともに話したことはない。

 どこでボロが出てしまうかわからないからな。クリスマスの話題になってもサンタの話だけはできる限り逸らしてしまえと努めてきたのである。

 

「あんた達バッカねぇー。サンタの正体なんて決まってるじゃない。それは――もがっ!?」

 

 仲裁に入ろうとしたのか小川さんがサンタのことでヒートアップしてきた男の子達の間に入った。「サンタの正体」のあたりで俺の顔が青ざめる。彼女が決定的な言葉を言ってしまう前にその口を塞がせてもらう。

 小川さんの口を塞ぐ手に痛みが走った。噛まれたようで手を離してしまう。

 

「いってー! 何するんだよ小川さん!」

「それはこっちのセリフよ! 急に口塞がないでよ!」

 

 俺と小川さんは睨み合った。品川ちゃんがオロオロしているのが見えてはいたがここは退けない。純真な心を守るためにも余計なことを言わせるわけにはいかないのだ。

 

「お前等何やってんだ! 四年生がくだらないことでケンカするな!」

 

 野沢くんに叱られてしまった。俺もちょっと熱くなっていたらしい。とりあえずサンタの言及はされなかったので結果オーライにしておく。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「葵、クリスマスイヴの夜は早く寝るのよ。夜更かしなんてしてたらサンタさんがプレゼントを持ってこないんだからね」

 

 それはクリスマス会の前日に起きた。終業式を終えて、いつものように俺と葵ちゃんと瞳子ちゃんの三人で下校していた時のことである。

 瞳子ちゃんが前触れもなくサンタの話題を出したのだ。嬉しそうに言った彼女は純粋そのものだった。サンタの存在を欠片も疑っていなかったのだ。

 これは……瞳子ちゃんはまだサンタを信じているタイプだったのか? いや、今まであえて話題を逸らしていたのは俺だ。もちろん瞳子ちゃんの両親のがんばりがあるのだろう。やってきた隠ぺいの成果とも言えた。

 ここで葵ちゃんが元気良く「うん!」と頷いてくれれば俺だってスタンスを変えなかったろう。しかし、ここで葵ちゃんの表情が微妙に引きつったのを俺は見逃さなかったのである。

 ま、まさかっ! 葵ちゃんはサンタの正体に気づいているとでも言うのか? 正直彼女は瞳子ちゃん以上に純粋だと思っていたからちょっと驚きだった。

 クリスマス会でやるゲームの話をしながら瞳子ちゃんを家まで送り届けた。そこからは俺と葵ちゃんの二人だけとなる。

 

「……」

「……」

 

 しばし沈黙のまま歩き続けた。葵ちゃんの考えていることが少しだけ予想できていた。

 

「瞳子ちゃんってさ……、まだサンタさんを信じてるんだね」

 

 葵ちゃんがぽつりと呟いた。それは葵ちゃん自身はサンタを信じていないことの証でもあった。つまりはそういうことだ。

 内心うろたえている俺がいた。声が震えるのを自覚しながらも最終確認をする。

 

「あ、葵ちゃんは信じていないの? その……サンタさんのこと」

「うん。お父さんが普通にプレゼントくれるから」

 

 お父さぁぁぁぁぁん! もうちょっと隠す努力とかしようとか思わなかったんですか!!

 心の中で葵ちゃんのお父さんにツッコんでいると、彼女が補足してくれた。

 

「お父さんもサンタさんの服着たり白いおヒゲをつけたりしてるけど、わかっちゃうもんね」

「あー……、一応変装はしてるんだ」

 

 というか宮坂家ではサンタの格好をして直にプレゼントを渡しているようだ。俺のところは寝ている間に枕元に置いてくれてるからそういうもんだと思っていた。

 葵ちゃんはくすくすと楽しげに笑う。正体を知ったからといってショックを受けた様子はなさそうだった。

 

「それにトシくんもサンタさんの話になるといっつも変になるんだもん。もしかしてお父さんと話を合わせるようにって言われてたの?」

「い、言われてないよっ」

 

 どうやら俺の挙動がおかしくなるのもばれてしまった原因のようだった。不覚っ。

 

「でも、瞳子ちゃんはすごく信じてるみたいだったから。やっぱりこのまま黙ってた方がいいのかな?」

「う、うーん……」

 

 ちょっと難しい問題である。「サンタさんの存在をいつまで信じてた?」ってのはよくある話題だけども、実際にはどこで知るのが正しいのだろうか?

 純真な心を守るためならある程度の年齢まで待ってもいいと思うのだが、瞳子ちゃんは十歳をすでに迎えている。そろそろサンタの正体を知ってもいいのではと思ってしまわないでもない。

 でも、信じてるんだったら小学校を卒業するくらいまでは黙っててもいいのではないだろうか? 中学生になれば現実的に受け入れやすくはなるのではないだろうか。いや、むしろ大きくなってから知る方がショックだったりするのか? むむむ、何が正しいのかわからんぞ。

 

「トシくん、すごく真面目な顔してるね」

「うぇっ!? ま、まあ……」

 

 考えに没頭していたせいで葵ちゃんの顔が間近にあることに気づかなかった。微笑んでいる彼女は、サンタの正体を知っていると思っただけでちょっぴり大人っぽく見えた。

 

「トシくんがそんなに考えちゃうことでもないと思うよ。瞳子ちゃんだったらサンタさんの正体を知っちゃったからって傷ついたりなんかしないよ」

「そ、そうかな?」

「そうだよ。だから、トシくんは難しいこと考えないでクリスマス会を楽しめばいいの」

「そっか……」

 

 葵ちゃんの家に辿り着いた。彼女と別れて俺は一人で家路に就く。

 なんだか、俺の知らないところで大人になっていくんだなぁ……。いやまあ別に葵ちゃんの父親でもなんでもないんだけどさ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 三家族合同でのクリスマス会の日がやってきた。とはいえ俺たちは子供なのであまり遅い時間にはならない。

 みんなで飾りつけをしたりケーキを作ったりした。調理実習では動きが硬かった瞳子ちゃんだけど、ケーキ作りはまったく問題がなかった。お母さんがいるというのも大きいのだろう。

 今回は俺と葵ちゃんの父親は不参加である。仕事も忙しい時期だろうから仕方がない。その分瞳子ちゃんのお父さんが準備をがんばってくれているようだった。

 

「メリークリスマース!!」

 

 俺達は子供用シャンパンで乾杯をした。大人はアルコールありだったりする。とはいえ飲むのは専ら父親勢なので今日は大人しいものだろう。

 食卓にはローストビーフやフライドチキンなどが並ぶ。体の成長のためにも肉は欠かせない。俺はがつがつと思う存分食べた。

 

「そろそろパパが手品でもやってやろうかな」

 

 瞳子ちゃんのお父さんが立ち上がった。今日のために練習していたらしい。

 トランプを使った手品に大盛り上がりとなった。葵ちゃんと瞳子ちゃんも喜んでたし俺も何か一つくらい手品でも憶えてみようかな?

 手品の後はその使ったトランプで大富豪をした。

 

「いくわよ! 革命!! これであたしの勝ちが決まったようなものね」

「甘いよ瞳子ちゃん。革命返し!! これでわからなくなったね」

 

 にぱーと笑う葵ちゃんに開いた口が塞がらなかった。瞳子ちゃんなんかしばし放心していた。母親達はそれを見て笑っていた。瞳子ちゃんのお父さんはしてやられてしまった瞳子ちゃんに口パクで「がんばれ瞳子」と応援していたのを見てしまった。

 

「ケーキ食べるわよー。せっかくだから切ってみる?」

「私やりたーい」

「あたしもやるっ」

「じゃあ二人で切りましょうか」

 

 手作りのクリスマスケーキは葵ちゃんと瞳子ちゃんで切り分けた。二人の共同作業である。

 

「トシくんどうぞ」

「はい俊成」

 

 真っ先に葵ちゃんと瞳子ちゃんはいっしょに俺の分のケーキの皿を持ってきた。二人分の気持ちが込められているようだった。嬉し過ぎて鼻の奥がつーんとした。

 

「二人とも、ありがとうね」

 

 ケーキはものすごくおいしかった。子供の時に食べるケーキってなんでこんなにもおいしいんだろうね。できれば大人になってもこのままの味覚でありたいものである。無理だってのは知ってるけども。

 夜の七時にはお開きとなった。後片付けは瞳子ちゃんのお父さんがしてくれるとのことだ。お礼を言って家を出た。

 そういえば瞳子ちゃんのお父さんは酒を飲んだ様子はなかった。けっこう飲める人なのに飲まなかったということは、娘が寝ている間にプレゼントを枕元に置くためなのだろう。気づかれないために夜遅くまで起きているつもりなんだろうな。

 毎年そんな感じでばれないようにこっそりとプレゼントを渡してるんだろう。だからこそ賢い瞳子ちゃんでも気づかなかったのだ。これはもう父親としての誇りというか、意地なんだろうな。なんか尊敬する。

 俺もいつかはサンタになる日がくるのだろうか。まだうまく想像できないけれど、その時がくるとしたらちゃんとサンタになりきってみたいと思った。

 

 



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47.正月は初詣に行ったり凧揚げをしたりするよね【挿絵あり】

またまた素浪臼さんからカスタムキャストで作成したイラストをいただきました! 本当にありがとうございます!
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「トシくん明けましておめでとうございます! えへへ」

「明けましておめでとう。今年もよろしくね俊成」

「葵ちゃん、瞳子ちゃん。明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんに新年のあいさつをする。そう、正月を迎えたのである。新しい年になって初めて彼女達に会ったのだ。ビシッとあいさつを決めた。

 正月といえば初詣。初詣は毎年高木家と宮坂家と木之下家が集まっていっしょに行っている。なんかいつものことだな。

 それぞれの車に乗って少し遠くの神社に行くのだ。大きな神社なので人が大勢来ていた。

 

「みんなー。はぐれないように気をつけるんだぞ」

 

 一番背の高い葵ちゃんのお父さんがそう注意を促す。それを聞いた葵ちゃんと瞳子ちゃんが俺の手を握った。

 

「迷子にならないように手を繋ごうね」

「はぐれたら大変よ。あたしから離れないようにね」

 

 俺の両側から葵ちゃんと瞳子ちゃんがそんなことを言ってくる。その愛らしさに応えるように手をぎゅっと握り返した。

 屋台なんかも出ていて神社は大賑わいだ。葵ちゃんが足を止めようとするのでその度に手を引っ張った。

 

「それにしても寒いわね」

「そりゃ冬だからね」

 

 瞳子ちゃんが身を寄せてくる。厚着をしているはずなのに彼女の体温を感じられる気がした。

 

「トシくん、私も寒いー」

「わっ!?」

 

 瞳子ちゃんを見て対抗心を燃やしてしまったのか。葵ちゃんが俺に抱きついてきた。腕に抱きつくとかじゃなくて身体ごと密着してくる。頬と頬がくっついて暖かくなった。

 

「ちょっと葵! こんなところで迷惑でしょ!」

「トシくん……私って迷惑?」

「い、いや! そんなことないよ!」

「俊成も葵を甘やかさないの!」

 

 結局ヒートアップしてしまい、葵ちゃんと瞳子ちゃんのケンカが始まってしまった。瞳子ちゃんの銀髪が目立つこともあってすぐに周囲から注目の的になってしまう。

 

「ふ、二人とも落ち着こうか。ね?」

「俊成はどっちの味方なのよ!」

「トシくんは私の味方だもんっ」

「う~! 俊成はあたしの味方になってくれるもんっ」

 

 ダメだ止められない。間に挟まれているのに女の子の争いを止められない無力な俺がいた。ああ、こんなところを神様に見られていると思うと情けない。

 

「葵! いい加減にしないと俊成くんから離すわよ!」

「瞳子ー? トシナリとじゃなくてパパと手を繋ぎたいみたいデスネ?」

 

 母親相手には娘は逆らえないようだ。二人揃って「ごめんなさい!」とあっさり謝った。瞳子ちゃんのお父さんが寂しそうな顔をしたのは気づかないことにしてあげた。

 

「はい俊成。これお賽銭の分な」

 

 父さんが五円玉をくれた。安っ、とか思ってしまったけどお賽銭なんてそんなもんでいいか。もらっておいて文句は言うまい。

 しかしもらったのはいいものの、お賽銭箱までは行列ができていた。しびれを切らしてか遠くから投げ込んでいる人もいるようだ。葵ちゃんのお父さんが頭にぶつけられていた。

 

「トシくんは何をお願いするの?」

「え? うーん、今年も葵ちゃんと瞳子ちゃんといっしょにいられますように、かな」

「そ、そっか……」

「そ、そう……」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんがそっぽを向いてしまった。耳が赤いのは寒さからだけじゃないだろう。咄嗟に聞かれたもんだから正直に答えちゃったな。

 

「葵ちゃんと瞳子ちゃんは? お願い事はもう決めてるの?」

 

 尋ね返してみると二人は俺じゃなくて互いの顔を見合った。それから「ふふっ」と笑ってから答えてくれた。

 

「秘密」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんの声が重なる。女の子に秘密と言われてしまえばそれを暴くわけにはいかないだろう。

 時間がかかったもののお賽銭箱の前に辿り着くことができた。行列は現在進行形で続いているのであまり時間をかけるわけにもいかない。

 手早く五円玉をお賽銭箱に放り入れる。パンパンと手を叩いて願い事を心の中で呟いた。

 

(今年も葵ちゃんと瞳子ちゃんと仲良く過ごせますように……)

 

 二人とはいつまでいっしょにいられるのだろう。いつまで仲良くできるのだろうか。きっとずっとこのまま同じなんてことはない。それがわかっているからこそ、今はまだこのままでいたかった。

 横目で確認すると葵ちゃんと瞳子ちゃんはまだ目をつむって手を合わせていた。どちらも真剣な面持ちである。一生懸命さが伝わってきてそのかわいさから顔がにやけてしまう。

 どんなことを真剣にお願いしているのだろうか? ちょっと気になったけど秘密と言われてしまった以上は詮索できない。二人が目を開けるまで静かに待った。

 その後は甘酒を飲んで温まってからおみくじをした。

 

「やった! 見て見て大吉だよ」

「あたしも大吉よ。今年もいいことがありそうね」

 

 おみくじの結果に二人はほくほく顔である。神様は葵ちゃんと瞳子ちゃんの両方に微笑んでいるようだ。

 

「トシくんはどうだった?」

「ねえねえ見せなさいよ」

 

 俺のおみくじの結果なんてどうだっていいだろう。それよりも世界には大切なことがたくさんあるはずだ。だからほら、俺といっしょに未来を語り合おうじゃないか。だから、だから俺のおみくじを取らないでってば!

 

「あー……」

 

 俺のおみくじの結果を見た葵ちゃんと瞳子ちゃんが微妙な顔をする。そして悲しげに俺を見た。やめて! そういう反応が一番傷つくからっ!

 

「トシくん。私の大吉受け取って。私の幸せ分けてあげる!」

「あたしのもあげる。これで俊成は大丈夫よね? 不幸になんてならないわよね?」

 

 二人の優しさが身に染みます。良い子過ぎるだろ。

 え? 俺のおみくじの結果? 凶という一文字がありましたが何か? 大吉を二枚も持っている俺に死角はないね。不幸どころかこんなにも幸せな気持ちになったよ。

 自分のおみくじは枝にくくり、二人からもらった大吉のおみくじは大事に持って帰らせてもらうことにした。これは俺の宝物になりそうだ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 冬休みの宿題に凧揚げの凧を作るというものがあった。俺と葵ちゃんと瞳子ちゃんはそれぞれ凧を作って公園に集合していた。

 凧揚げなんてかなり久しぶりだ。それこそ前世でも小学生の時にやっただけだった。

 

「これお父さんが作っちゃったの」

 

 葵ちゃんが見せてくれた凧はかなり凝った作りをしていた。デザインなんか小学生レベルじゃない。お父さんが気合を入れ過ぎて全部やっちゃったんだろうな。

 

「あたしはちゃんと一人で作ったんだから」

 

 胸を張る瞳子ちゃんの凧の絵はトンボだった。その絵はどうなのだろうとは思ったけど瞳子ちゃんの絵が上手いから問題がないと判断。むしろかっこ良さすら感じる。

 

「俺も自信作だ」

 

 バーン! と脳内で効果音をつけながら作った凧を見せた。俺の絵をみて微妙な顔をする二人だった。そこはスルーしてほしかった。

 

「これは何をつけてるの?」

 

 瞳子ちゃんの疑問は俺の凧につけられている尻尾のことだ。そういえば葵ちゃんと瞳子ちゃんのにはついてなかったな。

 

「ただのビニールなんだけどね。こうやって凧に尻尾がある方が安定して飛ばせるんだよ」

 

「へー」と二人の感心した声が重なった。瞳子ちゃんはちゃんと感心したような声色だったけど、葵ちゃんはよくわかっていないようだった。付き合いが長いとニュアンスだけで違いがわかっちゃうな。

 何はともあれ実際に上げた方が楽しいだろう。電線がないのを確認して凧を上げてみた。

 風を浴びて手にしている糸が動くのでコントロールする。空を飛んでいる凧を見て葵ちゃんと瞳子ちゃんが「おぉー!」と声を上げた。その反応が心地よいね。

 

「あたしもやるわ!」

 

 目を輝かせながら瞳子ちゃんが言った。凧を上げるのは問題なくできていたが、風を浴びる度に彼女の凧がくるくると回ってしまっていた。

 

「あれ? あれれー?」

 

 実際にやってみると難しいようだ。まあ凧自体を改良すればちゃんと飛んでくれるだろう。

 

「な、なんでー? トシくーん、瞳子ちゃーん。私の飛んでくれないよー」

 

 葵ちゃんは一生懸命走っているのはわかるのだが、せっかくの凧が上がらないどころか地面を引きずってしまっていた。

 

「葵ちゃん落ち着こうか。大丈夫、コツさえ掴めば難しくないからね」

「本当?」

「本当だよ。じゃあいっしょにやってみようか」

 

 風を読む……なんて大層なことができなくても凧揚げはできる。こういうのは子供の遊びなんだからみんなが楽しめるものなのだ。

 昔々には空を飛ぼうとしてでっかい凧を作ったなんて話があるんだから、けっこう夢のある遊びなのかもね。葵ちゃんの凧が空に上がったのを眺めながらそんなことを想ってみる。

 

「すごいすごい! ちゃんと飛んだよ!」

 

 葵ちゃんが笑顔になった。お父さんが作ったというのもあってか安定した飛びっぷりだった。

 

「う~、あたしの凧どうにかならないの」

 

 相変わらずくるくる回ってしまう凧に苦戦している瞳子ちゃんだった。凧に詳しいというほどでもないけど、少し改良を加えるだけでもなんとかなりそうに見えた。

 

「よかったら安定して飛ばせるように手を加えようか?」

「本当? 俊成できるの?」

「まあ任せてよ」

 

 そんなわけで一度俺の家に集まって凧の改造が始まった。瞳子ちゃんのをやってると葵ちゃんが「私のもやって」と言うものだから結局二つとも手を加えることになってしまった。とはいえ葵ちゃんのはしっかりとお父さんが作ってくれていたので尻尾だけつけただけなのだが。

 

「わぁっ! 飛んだ! 見て俊成、ちゃんとあたしの凧が飛んでるわよ!」

 

 瞳子ちゃんがリトライすると、今度はくるくる回ることなく安定して凧が空を飛んでくれた。ものすごく喜んでくれていてこっちも嬉しくなってくる。

 凧揚げといえば正月と言えるほどには定番の遊びだったのにな。他にはカルタとか羽根つきとかね。もちろんそれらも葵ちゃんと瞳子ちゃんといっしょにやる予定だ。

 前世では大人になるともう凧揚げをしている子供すら見なくなったからなぁ。今楽しめることは全力で楽しんでやるのだ。そうやって楽しい思い出が一つずつ増えてくれればいいと思う。伝統の遊びってのはそのための協力をちゃんとしてくれるのだから。

 

 




今って凧揚げするのかな? とか思いながらも書いてしまった。また世代が分かれそうだねー。


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48.鬼は外と福は内で願うこと

 二月の節分の日。近くの神社で豆まき大会が行われることとなった。

 豆まき大会だなんて毎年行われているわけじゃない。なんだか今年は保護者を含めて力を入れているようだ。俺達含めてたくさんの子供が参加することが決まっているのでひとまず成功しそうな空気があった。

 当日、俺は葵ちゃんと瞳子ちゃんといっしょにその神社へと訪れた。神社に辿り着くとちょっとだけ瞳子ちゃんの表情が強張った気がしたけど見なかったことにする。そう、俺は何も見ていないのだ。

 

「あっ! トシ兄ちゃんだー!」

「トシお兄ちゃんがきたー! 葵お姉ちゃんもいっしょだー! 銀色のお姉ちゃんもいるー!」

「誰が銀色のお姉ちゃんよ!」

 

 朝の登校を共にする低学年の子達もきているようだ。そういえばたまに瞳子ちゃんのところの班と会うことはあっても自己紹介はしてなかったっけか。見た目で憶えてるのはわかるけど銀色のお姉ちゃんて……。

 瞳子ちゃんは低学年の子達を追いかけ回している。わーきゃーとなんとも楽しそうである。瞳子ちゃんも本気ではないようで逃げ回れるように手加減しているようだった。

 瞳子ちゃんも丸くなったものだ。小さい頃は容姿をからかわれると不機嫌オーラを隠そうともしなかったのにね。歳を重ねるにつれてお姉ちゃんになってるってことなのかな。

 葵ちゃんなんかも微笑ましそうに眺めている。彼女も瞳子ちゃんに出会った頃なんかは妹みたいに見られていたのに、なんだか最近は立場が逆転することさえある。

 俺達はもうすぐで五年生になる。小学生とはいえ低学年と高学年ではかなり差があるということか。

 

「ほんとにたくさん集まってるんだねー」

「そうだね。あっ、野沢先輩だ」

 

 子供の集団の中に野沢姉弟を発見した。野沢先輩はもうすぐ中学三年になることもあって女性らしく成長していた。

 

「あっ、俊成くんと葵ちゃんじゃない。こんにちは」

「野沢先輩こんにちは」

「こんにちは春香お姉ちゃん」

「よ、よう宮坂……。宮坂も豆まきにきたのか?」

「うん!」

 

 野沢くんも野沢先輩の後ろからあいさつをしてきた。葵ちゃんにだけみたいなんですが俺のことは見えてないのかな?

 まあいいや、と構わず先輩と会話することにした。

 

「野沢先輩も豆まきに参加するんですね」

「あははー。中学生は私だけなんだけどね。もしかしたら俊成くんや葵ちゃんに会えるかなーって思っちゃって参加しちゃった」

 

 野沢先輩っ。俺も会いたいと思っていたのだ。彼女が陸上でがんばっているという話は聞いている。俺が未だに朝の走り込みを続けられるのは先輩が真っすぐに努力しているのを知っているからだ。

 野沢先輩には秘密だが、彼女は俺の心の師匠だ。がんばりが足らなかった前世の俺から見る彼女はとても眩しい。それは今でも変わらない。

 俺は久しぶりに会った野沢先輩と近況報告を交わした。野沢先輩からは陸上部の話が主だった。彼女が三年生になれば中学最後の部活動となる。気合は充分に伝わってきた。

 

「トシくん!」

「わっ!? 葵ちゃんどうしたの?」

「んーん……。何でもない」

 

 急に抱きついておきながら何でもないことはないでしょうに。俺の胸におでこをぐりぐり押し付けてくる。どうやら甘えたがりの部分が顔を出してきたらしい。

 

「あららー。ごめんね葵ちゃん。別に俊成くんを取っちゃおうとかそんなつもりはなかったんだよー」

「み、宮坂……。くっ!」

 

 なぜか野沢くんにものすごく睨まれてしまった。葵ちゃんが俺を野沢先輩に取られまいかと思ったように、彼もまた野沢先輩を俺に取られるのではと考えてしまったのだろう。しっかりしているように見えてまだまだ姉が恋しいようだ。

 野沢先輩が葵ちゃんに「ごめんねー」と謝りながら離れて行ってしまう。まだ話したいこととかあったのにな。野沢くんも姉の後を追って行ってしまった。

 

「葵ちゃーん。そんなにくっつかなくてもどこにも行かないよ」

「んー……」

 

 葵ちゃんは俺の胸に顔を押し付けたまま動こうとしなかった。しょうがない子だなぁ、と心の中で呟きながら彼女の頭を撫でる。艶やかな見た目通りに手触りがいい髪だった。

 

「高木」

「うおっ!? あ、赤城さん!? い、いつの間に……」

 

 声をかけられたかと思えばすぐそこに赤城さんがいた。無表情なのに俺を見る目がじとーとしている気がする。気のせいだよね?

 

「今来た。……お楽しみのところをお邪魔して失礼しました」

「待って! そのセリフは危ういから口にしないで! ていうか全然そんなお楽しみの状況でもないし!」

 

 からかわれているとわかっていても反応してしまう。赤城さんは葵ちゃんや瞳子ちゃんを日常的にからかっているのもあって、相手が反応してしまう言葉を選んでいるみたいだ。それにしても誤解を招く言い方はやめてほしい。

 

「じゃあ何をしているのかしら? 二人で抱き合っちゃって」

 

 はっと気づけば瞳子ちゃんがいた。追いかけていたはずの低学年の子達は遠巻きから見ている。面白がるんじゃありません!

 

「えへへ。トシくんに頭撫でてもらってたの」

 

 ここで正直な葵ちゃんだった。嬉しそうに言ってしまいましたが瞳子ちゃんの目尻が吊り上がったことに気づいてますかー? そんなのは関係ないとばかりに再び俺の胸に顔を埋めてしまった。葵ちゃん、あなたの言葉で瞳子ちゃんの導火線に火がついてしまって大変なのですがっ。

 もちろん大変な目に遭うのは俺だけだったのは言うまでもない。豆まきが始まる前に滅されてしまいそうです……。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 子供も大人も集まり時間もきた。二月の寒さに負けない子供達の楽しそうな声が響く中、豆まき大会が始まった。

 これから鬼役の大人が現れるので豆をぶつけるのだ。子供達一人一人に豆が配られる。

 そういえば前世の会社の先輩は豆まきは落花生を使ってるって言ってたかな。たぶん地域での違いなのだろう。後片付けを考えたら落花生の方が楽そうだ。

 まあ今回は大人が後片付けをしてくれるので面倒なことは考えないことにした。だって俺子供だもんね。実はちょっとワクワクしていたりするのだ。

 豆まきなんて子供時代じゃないとやらないからね。しかも今回は鬼役まで用意してくれているのだ。ここでやる気にならなきゃ男じゃねえ!

 

「俊成、楽しそうね」

「え、そうかな?」

 

 俺の顔を覗きこんだ瞳子ちゃんが楽しげに言う。やる気が顔に出ていただろうか。

 

「いつも大人びた顔してる俊成もいいけど、そういう子供っぽい顔も好きよ」

「うっ……」

 

 ちょっとそれは不意打ち……。胸を押さえてしまう俺を見て、瞳子ちゃんは楽しそうに笑っていた。

 ……でも、顔が真っ赤になってるのは気づいてるんだからね。言わないけど。

 ちょっと熱くなってきた時、ついに鬼が現れた。豆まき開始である。

 

「あ……」

 

 小さい子供達が一斉に鬼役に向かって走り出した。豆をぶつけようと振りかぶったところで全員固まってしまう。

 

「わしは鬼だどー! 悪いごはいねえがーっ!!」

 

 理由はその鬼役の人を見てすぐにわかった。

 うん……、これは怖い。正直子供の豆まきだからと舐めていた。ちょっとデフォルメされた鬼のお面を被っただけの人が出てくると思っていた。

 その鬼の顔は凶悪そのものだった。無駄にリアリティに溢れていて恐怖心を煽りまくってくる。格好も本格的で偽物であろう金棒が凶器にしか見えない。

 うん、ちょっとこれはがんばり過ぎたね。ほら、先頭の子供達が後ずさりしてる。「ふぇ……っ」と声にならない悲鳴を漏らしている子までいる。なんかもうナマハゲにしか見えないんだもんね。仕方ないよ。

 固まっている子供達を見て微笑ましく見守っていた大人達も固まった。おいっ、誰だよあんな鬼にした奴! こんな状況になるとわかっていなかったのかオロオロしている人までいる。

 これはなんとかするしかあるまい。豆まきに重要なのはノリだ。乗ってしまえば後はどうとでもなるだろう。

 俺は前に出た。泣きそうな子供に「怖くないよ」と声をかけながら背中で隠してやる。まあ直視するのは心臓に悪いのは確かだ。

 ドン引きされている鬼役の人は戸惑っているようだ。もしかしてウケるとでも思っていたのだろうか? 一度その格好を鏡で確認してきた方がいいと思う。

 先頭に立つとすぅーーっ! と思いっきり息を吸い込んで、それから声を放った。

 

「鬼はぁぁぁぁぁぁ!! 外ぉぉぉぉぉぉーーっ!!」

 

 声と同時に力の限り豆をぶつけてやった。鬼役の人は「ぎゃああっ!?」と大袈裟なやられ声を出してくれる。ナイス!

 

「みんな見たか! 鬼は豆に弱いんだ! 豆には鬼を滅する力があるんだぞ! だから思いっきりぶつけてやれーーっ!!」

 

 しばしぽかんとしていたが、低学年の男の子達を中心に「うおおおーーっ!!」という雄たけびが響いた。

 それからは蹂躙であった。男の子達の容赦のない豆攻撃を受けて鬼は「助けてー!」と逃げ回ることしかできなかった。それを見た残りの子も参戦して、鬼は四方八方から豆をぶつけられることとなってしまった。「福は内」と口にする子は誰もいなかったことは気にしない。

 まあ終わってみればアクシデントなんてなかった。むしろ大盛り上がりだったね。俺も思いっきり豆をぶつけてすっきりできた。

 

「トシ兄ちゃんすげー! 一番にあの鬼をやっつけたぜ」

「怖かったけどトシお兄ちゃんのおかげで怖くなかったよ。ありがとー」

 

 そして俺は低学年の子達からヒーロー扱いされていた。なんか恥ずかしい。葵ちゃんと瞳子ちゃんと野沢先輩の三人から生温かい目で見られてるし。赤城さんは面白がってるな。無表情だからってわからないわけじゃないんだからなっ。

 この後、歳の数だけ豆を食べた。子供達から「早く大きくなりたーい」という声が聞こえてくる。いっぱい豆を食べられるもんねー。実際に大きくなると歳の数だけってのは気にならなくなるんだけどな。

 鬼は外、福は内。その通りになってくれればいいと思う。まずは無病息災が一番だ。何をするにしても健康あってこそだからな。子供の頃は気にしなかったけど、大人になると健康の大切さを身に染みてわかるようになるからな。今世では健康診断に引っかからないようにしたいものである。

 

 




※こっちじゃなくてなろうでの感想ですが、恵方巻のシーンは昔は全国的に定着してなかったというご指摘をいただいたので訂正させていただいています。


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49.二人のお雛様

 雛祭りは女の子の伝統的な行事である。俺は一人っ子だし、ずっと独り身で子供もいなかったためにあってないような行事だった。

 かろうじて従妹の麗華の家に雛人形があったのを見たことがある程度だろうか。まあ麗華本人も雛祭りは雛あられを食べられるくらいにしか思っていなかったみたいだけども。

 まあそんな感じで前世の俺は雛祭りという行事に関心がなかったのだ。男の子にとってはさほど面白味のあるイベントではない。

 

「これでよしっと。骨組み終わりました」

「速いわねー。さすが俊成くんね」

「じゃあお雛様飾ってもいいの?」

「布をかけるからもうちょっと待ってね」

 

 現在俺は宮坂家の雛人形を飾るのを手伝っていた。七段の立派なやつだ。それを俺と葵ちゃんとおばさんの三人で組み立てているのだ。

 毎年手伝っているので今年も当たり前のように手伝いにきていた。葵ちゃんのお父さんは仕事が忙しいことを理由になかなか手伝ってくれないらしい。そう葵ちゃんのお母さんが愚痴ってたけど、たぶん俺が手伝わなかったら普通にやってくれるのだろうと思う。父親だし本当は自分で飾ってあげたいのではないだろうか。そう考えると俺の方が仕事を取っていると言える。

 俺は俺で手伝うと葵ちゃんが喜ぶのでやりがいとか感じていたりする。毎年やってたら段々と慣れてくるもので、雛段の骨組みも組み立てるスピードが上がっていた。

 前世ではまったくと言っていいくらい縁がなかった雛祭り。葵ちゃんと瞳子ちゃんに出会ってから俺には関係ないと思っていた行事にも関わるようになっていた。

 赤い布を付け終わるとニコニコ笑顔の葵ちゃんと目が合った。その手には女雛の姿がある。

 

「トシくんトシくん」

「どうしたの葵ちゃん?」

「肩車して」

「はい?」

 

 いや、雛人形を飾りたいのはわかる。でも今まではちゃんと何かしらの台を用意してそれに乗って高い位置の人形を飾っていたはずだ。

 それがなぜにいきなり肩車を要求されているのだろうか。というか葵ちゃんスカートだし。

 俺は困り顔を葵ちゃんのお母さんに向けた。ここは母親にたしなめてもらうのを期待してみる。

 

「あら? 俊成くん葵を肩車できないの? 意外と力がないのねぇ」

「なぁっ!?」

 

 しかし期待していた援護射撃はなかった。それどころか俺の男としての部分に疑わし気な目を向けてきていた。

 ここで退いては男の沽券に関わる。俺は自らの男の尊厳を守るために葵ちゃんの前で膝を屈した。

 

「もちろんできますとも! ……わかった。肩車するから乗っていいよ」

「うん!」

 

 葵ちゃんは俺を見下ろしながら満面の笑顔で頷いた。おばさんは口元を手で隠して肩を震わせていた。

 俺は葵ちゃんに背を向ける。葵ちゃんは「よいしょ」と言いながら屈んでいる俺の頭の横に足を通した。

 

「立つからね。いい?」

「いいよー」

 

 立ち上がって葵ちゃんを肩車する体勢になった。もうちょっと重みを覚悟していたのだが、さほど感じることなく肩車できた。

 俺の顔がスカートで隠れていた葵ちゃんの太ももに挟まれている。スベスベのモチモチの感触が頬を通して脳を刺激する。

 まだまだ細い体だ。それでも確実に女性としての柔らかさがあった。

 

「あっと……。トシくんごめんね」

 

 少しバランスを崩したらしい葵ちゃんがぎゅっと太ももに力を入れた。柔らかいのに挟まれて目の前が真っ白になる。

 

「トシくんもうちょっと近づいてもらっていい?」

「……はっ!? わ、わかったっ」

 

 葵ちゃんの声で意識を取り戻す。危ない危ない、なんだかいけない気持ちになるところだった。

 これはあれだな。俺自身も子供で感覚が敏感だから余計に葵ちゃんの感触が効いてしまうんだろう。だから人の反応として俺は正常だ。何も間違っちゃいない。だから心の奥底にいる俺よ、そんな蔑む目で見ないでくれ!

 葵ちゃんは俺に肩車されながら最上段に男雛と女雛、それと金屏風やぼんぼりといった飾りを置いていく。葵ちゃんのお母さんはちょっと離れた位置から綺麗に飾れるようにと指示を出していた。

 続いて三人官女や五人囃子、右大臣と左大臣の段も飾っていく。肩車が終わるまで俺は緊張しっぱなしだった。もちろん葵ちゃんが落っこちないかと心配していただけだ。他に緊張するところなんてないよね。

 

「できた!」

 

 全部飾り終わって葵ちゃんが飛び上がりそうなほど喜んだ。振動してせっかく飾ったお雛様が動いたら大変なので彼女を抱きとめる。

 それにしても毎年のことながら雛人形を見ると葵ちゃんのテンションが上がるな。やっぱり女の子にとって雛人形は特別なものなのかもしれない。

 

「かわいいよねー。このままずっと飾ってたいな」

「うふふ、そうね。でも雛人形をしまうのが遅くなると婚期が遅れるって言うわよ」

「コンキって?」

「結婚するのが遅くなっちゃうってことよ」

「え」

 

 葵ちゃんが固まった。ギギギと錆びた機械のような動きで俺の方に顔を向ける。それからぶんぶんと頭を振った。

 

「ダメ! 結婚できないんだったらもう片付ける!」

「いやいやいや! 出したばっかりだし。それにまだ三月もきてないよ」

「で、でもトシくん……」

 

 葵ちゃんは涙目だった。彼女には悪いけどそんな表情がかわいいと思ってしまった。

 

「じゃあ雛祭りが終わったらいっしょに片付けようか。ね?」

「……うん」

 

 素直に頷く葵ちゃんを抱きしめそうになってしまった。ニヤニヤしておられるお母様がいるのでなんとか踏みとどまったけどな。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 雛祭りのお祝いをするということで俺と葵ちゃんは瞳子ちゃんの家に集まっていた。

 瞳子ちゃんの家も雛段を飾っていた。こちらは全部おじさんがやってくれたとのこと。葵ちゃんが俺に手伝ってもらったと口にすると、瞳子ちゃんはとても羨ましそうにしていた。お父さんもがんばってくれたんだよ?

 

「ちらし寿司はね、うちわで扇がなきゃいけないのよ」

 

 瞳子ちゃんのお母さんがちらし寿司を作るということで俺達も手伝うことにした。その際に瞳子ちゃんからどや顔でそんなことを言われたのだ。かわいい。

 ちらし寿司といっしょにハマグリのお吸い物も作る。瞳子ちゃんのお母さんはハマグリを眺めながらこんなことを口にした。

 

「ハマグリは二枚の貝殻がぴったり合うのがいいのデスヨ。それには仲の良い夫婦という意味があるのデス。日本には縁起の良い食べ物がたくさんアリマスネー」

「ほ、本当!?」

「ママ、そういうことは先に言ってよね!」

「あっ、瞳子ちゃんずるい!」

「ずるくないわよ! 早い者勝ちなんだから」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんによるハマグリ争奪戦が始まってしまった。瞳子ちゃんのお母さんは楽し気にそれを眺めていた。こうなるってわかってましたよね?

 騒がしくしながらも料理は一段落ついた。ゆっくりするかと思いきや、おばさんがパンパンと手を叩いて注目を集める。

 

「瞳子と葵は向こうで着替えマショウカ。トシナリはそこで大人しく待っているのデスヨ」

「今から着替えるんですか?」

「ふっふっふー。楽しみに待ってなサイネー」

 

 瞳子ちゃんのお母さんは意味深な笑いをしながら二人をつれて部屋を出て行ってしまった。

 料理で汚したわけでもなさそうなのにどうしたんだろうか? あの笑い、何かを企んでいるようなんだけども。

 女の子が着替えるというのだからそれなりに時間がかかるだろう。近くに料理本があったので暇潰しに読ませてもらうことにした。

 

「お待たせしマシター」

 

 声に振り向けば瞳子ちゃんのお母さんが部屋に入ってきたところだった。二人の姿は見えない。それに首をかしげていると、瞳子ちゃんのお母さんが「入っていいデスヨ」と言った。

 

「……!」

 

 息を飲む。

 そこには葵ちゃんと瞳子ちゃんがいた。それは間違いない。

 ただ、二人の格好は着物だった。ただの着物ではなく五衣唐衣裳だ。つまりは十二単である。まさに二人はお雛様となっていたのだ。

 

「トシくん……ど、どう?」

 

 葵ちゃんがはにかんだ。少しだけ照れがあるようだ。

 

「と、俊成……似合うかしら?」

 

 瞳子ちゃんが赤くなった顔を隠そうとうつむき加減になっている。それでも俺の言葉を期待しているようで、チラチラと目が動いている。

 まさかのリアルお雛様。頭の飾りまではさすがに用意できなかったみたいだけど、充分に二人はお姫様に見えた。

 

「うん。二人ともとってもすごく似合ってるよ」

 

 この感動を言葉として表せないのがもどかしい。結局俺が口にできたのは誰にでも言えるような簡素な感想だった。

 それでも、こんな俺の言葉にも葵ちゃんと瞳子ちゃんは心の底から嬉しそうな笑顔になってくれる。胸のあたりがきゅっと締めつけられた気がした。

 

「フゥ。こんな笑顔が見られたのならワタシも作った甲斐がありマシタ」

「えっ!? 手作りなんですか?」

「もちろんデス。二人に合わせたので、こう見えても軽くて動きやすいようにがんばりマシタ」

 

 瞳子ちゃんのお母さんはやり切ったという顔でサムズアップした。この人にこんなスキルがあったとは……グッジョブ!

 お雛様になった葵ちゃんと瞳子ちゃんか。これは写真に撮っておきたいものだ。もちろん永久保存である。

 

「じゃあ次はトシナリも着替えマショウカ」

「え、俺も?」

「もちろんデス。お雛様は男と女がいてこそなのデスカラ」

 

 俺は瞳子ちゃんのお母さんにつれられ着替えさせられてしまった。着替えさせてあげるという瞳子ちゃんのお母さんに逆らえず、というか着替え方もわからなかったので手を借りるはめになってしまった。恥ずかしい……。

 男雛のような束帯衣裳に身を包む。重ね着をしているのに思ったよりも軽い。それでいてしっかりとした作りだ。瞳子ちゃんのお母さんの仕事ぶりはすごかった。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんが待つ部屋へと向かう。なんだか格好だけで偉くなった気分。

 気分が良くなると羞恥心もなくなってきた。ずんずんと進んで躊躇いなくドアを開けた。

 

「着替えてきたよ。どうかな?」

 

 恥ずかしさも消えてしまったので見せつけるように胸を張る。俺の姿を捉えた葵ちゃんと瞳子ちゃんはしばし固まった。

 

「トシくんかっこいい!」

 

 葵ちゃんが駆け寄ってきて笑顔でそう言った。正面からそんな風に言われるとさすがに照れてしまう。

 

「……」

「瞳子ちゃん?」

 

 瞳子ちゃんはまだ固まったままだった。声をかけるとはっとした顔になる。

 

「俊成……その……似合ってるわよ」

「うん。ありがとうね」

 

 なぜか瞳子ちゃんの方が恥ずかしそうにしていた。おかげで俺も恥ずかしさがぶり返ってきた。うぅ……顔が熱いぞ。

 

「写真撮りマスヨ。並んでクダサーイ」

 

 瞳子ちゃんのお母さんがカメラを構える。葵ちゃんと瞳子ちゃんは俺を挟んで体を寄せてきた。

 二人は眩しいほどにかわいい笑顔だ。俺はなんだか照れてしまって、それでも二人の笑顔を意識して笑ってみせた。

 シャッター音とフラッシュ。記録に残った俺の顔は、なんともしまらない照れ笑いをしていた。

 

 



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50.赤城美穂は考えている

赤城さん視点です。


 あたしが高木と出会ったのは小学一年生の運動会の時だった。

 おばあちゃんが用事で応援に行けないって聞いて、教室で一人ご飯を食べようとしていたのだ。そんな時に見られている感じがして顔を上げたら彼がいた。

 

「こんにちは」

 

 正直に言うと、声をかけられて面倒だと思った。みんな運動場で家族といっしょにご飯を食べている。あたしだけ違うことをしてたら男子はからかってくるってわかっていたから。

 別に気にはならないけど面倒だと思わずにはいられない。騒がれるのは嫌いだ。ご飯くらい静かに食べさせてほしかった。

 あたしがそんな風に考えているのを知るはずもなく、高木は教室に入ってあたしに近づいてきた。

 

「ご飯一人で食べるの? お父さんとお母さんは?」

 

 お父さんとお母さん。みんな当たり前のようにいうけど、あたしからすれば顔の知らない人達だった。

 そういうことを友達に言うと「かわいそー」と返される。意味がわからなかった。両親がいなくたって、あたしにはちゃんと家族がいるのになんでそんなことを言われるのかと思っていた。

 だから高木の質問に首を振ってこう答えたのだ。

 

「……おばあちゃん、これなくなったから」

 

 あたしはあたしの家族がこられなくなったと伝える。お父さんでもお母さんでもない。おばあちゃんがあたしの家族だから、それで充分だった。

 でも、相手がどう捉えるかまではあたしにはどうしようもない。また「かわいそー」と言われるのだろうか。全然そんなことないのにみんなはわかってくれない。

 高木は考え込んでますといった顔になる。面倒臭い。早くどこかに行ってくれないかな。あたしはそんなことばかり考えていた。

 

「俺は高木俊成。君の名前は?」

 

 だからいきなり自己紹介されて面喰ってしまったのだ。同情ではなく、からかわれるでもない。ただ笑って自己紹介された。

 運動会ではゼッケンをつけているため、名前も学年もわかっていた。なのに初めて会っていきなり自己紹介をされて、この男子が考えていることが本当にわからなかった。

 だからってずっと黙っているわけにもいかなくて、あたしは口を開いた。

 

「赤城美穂……」

「赤城さん、か。よろしくね。それでよかったらなんだけど、俺達といっしょにご飯食べない? 女子もいるからさ」

 

 まさかご飯を誘われるなんて思ってなかった。高木は優しい笑顔を向けてくれていたのを憶えている。

 ちょっと迷ってしまう。高木とはこれが初めての会話だったし、そのいっしょにいる女子も知らないのだ。

 あたしは一人でも平気だ。むしろ知らない人とご飯を食べる方がストレスになると思う。

 そう思っていたのに、高木を見つめていると笑顔でありながら不安な感情が少しだけ見えてしまった。

 あたしに断られたくないと思ってる? よくわからないけどそう思っているのだろうと感じた。

 しょうがない。目の前の男の子をがっかりさせるのもよくないと思ったのだろう。気づけばあたしは首を縦に振っていた。

 

「じゃあ行こうか」

 

 高木は嬉しそうに笑った。笑顔にもいろんな笑顔があるんだなとこの時知ったのだ。

 それでもあたしは頷いておきながら、知らない人とご飯を食べるのだと思ったら急に尻込みしてしまった。なかなか動こうとしないあたしの手を高木が引っ張る。

 

「それじゃあ走って行くよ」

「……うん」

 

 ちょっと強引に手を引かれる。だけど嫌じゃなかった。ううん、この時にあたしを引っ張ってくれた高木には感謝している。

 この後に宮坂と木之下とも仲良くなった。みんなでご飯を食べて、そこで初めて運動会を楽しいだなんて思ってなかった自分に気づかされた。

 

「高木」

 

 お昼の休憩が終わって、高木と別れる前に彼を引きとめていた。

 ほんのちょっとだけ言うかどうか迷ったけど、口を開いてしまえば言葉はするりと出てくれた。

 

「……ご飯、誘ってくれてありがとう」

「うん、どういたしまして」

 

 高木の笑顔。その顔はまた別の種類のようで、あたしまで嬉しくなるような微笑みだった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 あれからも高木達とは運動会の度にご飯をいっしょに食べていた。みんなで食べるご飯はおいしかった。

 四年生になって初めておばあちゃんが運動会を見にきてくれた。そのことを聞いていた高木が家族といっしょに応援できるようにと気を利かせてくれた。高木達の親はみんな良い人ばかりだ。おばあちゃんも「一人じゃなくてよかったよ。美穂の友達の家族なら安心だね」と言ってくれた。

 おばあちゃんが見てくれているからとあたしはがんばった。クラスも運動ができる人が多いのもあってか午前中はいい順位だった。

 

「赤城さんお疲れ。じゃあご飯食べようか」

 

 お昼休みになって高木が声をかけてくれる。運動会ではいつものことだった。

 だけどいつもと違って、高木達の親だけじゃなくおばあちゃんもいてくれる。そう思っただけでなんだか嬉しかった。

 お昼御飯を食べながらおばあちゃんが褒めてくれる。午後からはもっともっとがんばろうと思った。

 四年生からは学年対抗リレーがある。これは運動会の競技の中でもとくに盛り上がるのだ。

 おばあちゃんに良いところを見せてあげたかった。その気持ちが強過ぎたんだと思う。

 リレーが始まって、歓声がすごくてびっくりした。いつもは応援している側だったけど、初めて学年対抗リレーに出て、いざ自分が走ろうってなったらこんなにも緊張するものなのかと戸惑ってしまう。

 何度も深呼吸をした。何度も心の中で大丈夫だと言い聞かせた。それでも胸のドキドキは収まってくれない。

 おばあちゃんが見てるんだからがんばらないと。そう小さく呟いているうちにあたしの番が回ってきた。

 バトンの受け渡しは何回も練習している。それなのに頭がこんがらがってどっちの手で受け取ればいいかもわからなくなっていた。

 

「あ」

 

 だから失敗して当然だったのかもしれない。

 バトンをちゃんと受け取れずに落としてしまったのだ。みんなからあたしの失敗が見られているのがわかる。おばあちゃんも、見てるのに……。

 急いで拾おうとするとバトンを蹴ってしまった。次々と抜かされていくのがわかる。歓声とため息が同時に耳に入った。

 なんとかバトンを拾った頃にはあたしはビリになっていた。もうどうにもならないほどの差が広がっていた。

 あたしのせいで負ける。みんなががっかりしている。おばあちゃんだってがっかりしたかもしれない。

 そう思うと涙が溢れてきた。せっかくおばあちゃんが見てくれてるのに。「がんばって」って応援してくれたのに……。

 

「ごめ……ごめんなさ……」

 

 がんばって走って、でもまったく差が縮まらない。高木にバトンを渡そうとして、思わず謝っていた。それも上手く言葉にできなくてさらに涙が零れた。

 こんなことになるならおばあちゃんに見てほしくなかった。そんなことを考えてしまうあたし自身が情けなかった。

 

「……大丈夫だよ赤城さん。絶対に勝つから!」

 

 高木にバトンを渡した瞬間、そんな声が聞こえた。

 一瞬何を言われたのかわからなかった。高木は走ってどんどんその背中が遠くなる。

 遅れて力強い言葉をもらったのだと理解する。それは慰めなんかじゃなくて、彼自身の覚悟みたいなものだったのだろう。

 高木はすごかった。足が速い方だったのは知っていたけど、いつもに比べてもっとずっと速かった。

 あれだけあった差がぐんぐんと縮まっていく。それが信じられなくて高木から目が離せなかった。

 高木は前の走者を抜かせなかったけど、どうしようもないと思っていた差を完全に取り戻してしまった。そのおかげであたし達のクラスは一位になれたのだ。

 みんなが騒いでいる中、あたしは高木に駆け寄っていた。

 

「た、高木……」

 

 あたしの呼びかけに高木が振り返る。リレーが終わってもまだ肩で息をしていた。ものすごくがんばってくれたんだ……。

 

「その……ありがとう」

 

 自然とお礼を口にしていた。でも泣いてたせいで声がちゃんと出てくれなくて、小さい声になってしまった。

 聞こえたかな? そう不安に思ったけど、高木は笑顔であたしの不安を吹き飛ばしてくれた。

 

「お互いがんばったよな。一位になれて嬉しいよ」

 

 高木はあたしの失敗をなくそうとしてくれたんだ。それが伝わってきて、さっきとは違う涙が溢れそうになった。

 

「今日はたくさんがんばってるところを見られて楽しかったよ。それに、美穂は本当に良い友達がいるのねぇ」

 

 運動会が終わっておばあちゃんは楽しそうにそんなことを言ってくれた。あたしも嬉しくなって、その日は高木のことをたくさん教えてあげた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 それから、高木といっしょにいるのが楽しくなった。前までだって楽しかったけど、あの運動会を境にもっと楽しくなったのだ。

 なんだか胸がドキドキだったりぽかぽかしたりする。高木の笑顔を見ると嬉しくなる。

 そうやって過ごしているとあっという間に四年生が終わってしまった。春休みが終わったら五年生になってしまう。

 五年生になったらまたクラス替えがある。もし高木と同じクラスになれなかったらどうしよう……。不安で胸が苦しくなる。

 高木は友達だ。でもみんなと同じの友達じゃなくて、特別な友達。

 こういうのをなんて言うんだっけ? ……あっ、そうだ。

 

「高木はあたしの親友なんだ」

 

 言葉にしてみるとしっくりくる。親友は特別な友達。うん、間違ってない。

 親友とは離れ離れになりたくない。あたしは不安に押し潰されそうになりながら春休みを過ごし、始業式を迎えた。

 学校に辿り着いてすぐに貼り出されているクラス表を見た。

 

「三組……、高木は?」

 

 自分の名前を見つける。高木の名前がどこにあるのかが気になって目を動かした。

 

「……あった! 同じ三組だ」

 

 何度も確認をする。どう見ても高木はあたしと同じ五年三組だった。

 よかった。そう思ったら力が抜けてくる。知らないうちに力が入ってたみたい。

 

「私トシくんとクラスが違うよ!?」

「あ、あたしも……葵といっしょの二組だわ」

「ま、まあ……こればっかりは仕方がないからね」

 

 声の方向を見てみれば、宮坂と木之下の間に挟まれている高木がいた。もう一度クラス表を見てみれば、確かに宮坂と木之下の名前は二組にあった。

 少しだけ唇の端が持ち上がったのが自分でもわかった。なんで勝手に唇が動いたのかはわからなかった。

 あたしは高木達に近づいた。高木の顔が困ってるみたいになっているのが見える。

 

「高木」

 

 声をかけると高木が振り返ってくれる。

 

「今年もよろしく」

 

 そう言うと高木はクラス表に顔を戻して「ああ」と頷いた。

 

「こちらこそよろしくね赤城さん」

 

 今年も楽しいクラスになってくれる。高木の笑顔はあたしにそう思わせてくれた。

 

 



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51.五年生のドッジボール大会

 五年生になって俺の新しいクラスは三組だった。残念ながら葵ちゃんと瞳子ちゃんは二組となってしまったのでいっしょにはなれなかった。こればっかりは運なので仕方がない。

 とはいえ、赤城さんとは四年生に続いて同じクラスになれた。佐藤なんかはこれでもう五年連続で同じクラスである。やっぱり仲の良い友達とともにいられるのは心強い。

 

「よう高木! 今日も勝負だな!」

「わかったからいちいち肩組むなよ」

 

 本郷が飛びかからん勢いで肩を組んでくる。そう、こいつも俺と同じ五年三組なのである。

 なんだかんだで四年生の頃は本郷と関わることがけっこうあったからな。運動能力が近いというのもあって、体育の時間では本郷とペアを組むことも多かったのだ。

 まさかスポーツ万能でモテモテの本郷くんと仲良くしてるだなんてな。前世の俺だったら信じられなかっただろう。

 さて、本郷のテンションが上がっているということはスポーツをするということである。

 本日の体育はドッジボールをやるのだ。小学生の頃は大好きだったスポーツである。サッカーは蹴球、バスケでは籠球と漢字で書いたりするが、ドッジボールを漢字で書くと避球となる。かなりどうでもいい知識を思い出してしまった。

 

「ちょっと本郷! 俊成から離れなさいよね!」

「うおっ!? 何すんだよ木之下!」

 

 瞳子ちゃんの声がしたかと思えば本郷が俺から離れた。どうやら彼女が引っぺがしてくれたらしい。

 二人が睨み合いを始めたのですぐさま間に入る。

 

「おい本郷。瞳子ちゃんとケンカするようなら俺は怒るからな」

「うっ……、悪かった。謝るから怒らないでくれ」

 

 本郷は引きさがってくれたようだ。まったく、いきなりケンカなんてしてほしくないもんだ。

 さて、クラスの違う瞳子ちゃんがここにいる理由がある。というか五年生全クラスが運動場に集まっていた。

 今日は合同体育で五年生全クラスでのドッジボール大会なのだ。みんな気合が入っていた。

 

「うぅ~……。ドッジボールかぁ……、やだなぁ……」

 

 いや、葵ちゃんはテンションだだ下がりだったね。小学生に人気のドッジボールでもそれは変わらないようだ。

 

「あおっち心配しないで。ちゃんと私が守ってあげるんだから」

「真奈美ちゃん……」

 

 小川さんの頼りがいのある言葉に葵ちゃんは目を輝かせた。小川さんは葵ちゃんと同じ二組なのだ。

 二組は葵ちゃんに瞳子ちゃん、それに小川さんのグループが固まっている。何と言うか女子の勢力が強いクラスとなっていた。

 そういえば前世でもこのくらいの時期から小川さんのグループが完全にカースト上位になっていた気がする。葵ちゃんがいるのはもちろん、今世では瞳子ちゃんもいるので相当な勢力だろう。

 

「俊成、今日は負けないわよ」

「俺も負けないよ」

 

 瞳子ちゃんはやる気だった。でも正直彼女にボールをぶつけるなんて俺にはできない。他の子を相手に全力を出すのだと心の中だけで誓った。

 

「トシくん……優しくしてね?」

 

 微笑みながらそんなことを言う葵ちゃん。なぜ俺は彼女と別のクラスになってしまったのかっ。守りたい、その笑顔を!

 

「高木、そろそろ集まらないと」

「ふぉうっ!? あ、赤城さんか……。そ、そうだね行こうか」

 

 背中をすーっとなぞられる感覚がして変な声を上げてしまった。赤城さんは俺の背中を突っついたりなぞったりと様々な攻撃を繰り出してくる。四年生の時に俺の後ろの席になってから背中を触られることが増えてたから癖になってしまったのだろうか。

 俺は赤城さんといっしょに三組の子達の元へと向かった。後ろの方からぐぬぬと聞こえた気がしたけど気のせいだろう。

 ドッジボール大会は一クラス二チームを作っている。五クラスあるので十チームもあるのだ。

 勝利方法は制限時間内に相手チームを全員倒すこと。制限時間がきてしまった場合はコート内に残っている人数が多いチームの勝ちとなる。

 

「高木、決勝で会おうぜ」

「はいはい。お互い勝てるようにがんばろうな」

 

 本郷は俺とは別のチームとなっている。俺と勝負したいからとわざわざ俺とは反対のチームを選んだのだ。別にいいんだけどね。

 運動場は広いので一度に五試合行うことができる。好きなことをする時は良い子なもので、みんなテキパキと試合をこなしていった。

 

「ふふふ、やっと高木くんを倒せる時がきたのね。佐藤くん、あんたもよ!」

「えぇーっ! 僕は高木くんみたいにすごくあらへんよ」

「問答無用っ! 私に泣きっ面を見せなさーい!」

 

 佐藤と小川さんは楽しそうだなぁ。そんなに興奮しなくてもすぐに試合は始まるのにね。

 

「俊成、わかってるとは思うけど真剣勝負よ。手加減なんてなしなんだからね」

「あ、うん。わかってるよ」

 

 瞳子ちゃんはやる気に満ち溢れていた。そんなにドッジボール好きだっけ?

 

「大丈夫。あたしと高木がいっしょなら負けない」

 

 赤城さんが俺の背中にくっついて顎を肩に乗せてきた。彼女の体温がそのまま伝わってきそうだ。ていうかくっつき過ぎじゃないかな?

 

「トシくん? どうして赤城さんとくっついてるのかな?」

「あたし達への宣戦布告と受け取るわよ?」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんから黒いオーラが発せられていた。あ、これやばいやつだ。

 しかし赤城さんはわかっていないようで首をかしげるだけだった。ちなみに顎は俺の肩に乗せたままである。

 赤城さんにとっては男女がくっついても異性の意識なんてまだないんだろうね。まあ子供なんてそんなものか。

 

「葵、やるわよ」

「うん。私がんばるよ瞳子ちゃん」

 

 なんか二人が結託していた。いや、同じチームなんだからそれはそれで間違ってはないんだけども。

 そうして三組と二組の試合が始まった。

 

「てぇいっ!」

 

 瞳子ちゃんが投げるボールが三組を襲う。運動ができる彼女はドッジボールでも強かった。なんなく三組の子達を倒していく。

 

「みんながんばって!」

 

 葵ちゃんがそう言うと二組の男子達が連携を取って彼女を守る。そしてガッチリとボールを押さえてきた。え、何あれ?

 まるで葵ちゃんを守る騎士団である。いやいやいや! まだ五年生になって間もないのに葵ちゃんを守るこの男子達はなんなんだよ!? 統制が取れ過ぎだろ!

 瞳子ちゃんが攻めて、葵ちゃん(というか彼女を守る男子達)が守る。なかなかに攻守のバランスがいい。

 コート外からボールを当てればその子はコート内に入れるルールだ。俺はボールを取ったらコートの外にいる子にパスをする。

 

「自分から攻めてこないなんて情けないわね!」

 

 小川さんに野次を飛ばされた。ちなみに彼女は俺が最初にボールを当ててあげたのでコートの外にいる。まあ佐藤を狙われるわけにはいかないからな。

 

「高木、くるよ」

「おう、任せろ」

 

 赤城さんは目立たないながらもしっかりとサポートをしてくれていた。わりとアシスト上手である。

 制限時間が刻々と近づいてくる。相手は葵ちゃんと瞳子ちゃんを含めて五人残っている。対してこちらは俺と赤城さんと佐藤の三人だ。数的不利だがまだ負けたわけじゃない。

 パスばかりだと読まれてしまうな。俺も攻めなきゃ。

 投げられたボールをキャッチする。今度はパスじゃなくて俺が投げて当ててやる。

 足元を狙って投げる。相手の男子はキャッチできずに当たってしまいコートの外に出た。

 

「やるわね俊成。でも勝つのはあたし達よ」

 

 ボールを拾った瞳子ちゃんが全力投球をする。そのボールは速く、簡単に佐藤を倒してしまった。

 

「当たってもうた~。ごめんな高木くん赤城さん。後は頼むわ」

 

 ついに佐藤がやられてしまったか。避けるのが上手い奴だったから最後まで残ってくれると思ったんだけどな。まああれは当てた瞳子ちゃんがすごかった。

 これで二対四か。ちょっと厳しいな。

 赤城さんがボールを拾う。彼女はしばしボールを持ったまま止まっていた。それから隙をつくようにボールを放った。

 だけど、それは相手の誰にも当たらない位置だ。コントロールミスかと思ったら、外に出たばかりの佐藤がキャッチして近くの相手男子にぶつけた。

 

「おぉー」

 

 思わず感嘆の声が漏れる。今のは上手い。

 コートの外にいる佐藤が当てたので戻ってきてくれた。これで三対三となった。

 葵ちゃんがコートの外に出そうになっていたボールを拾う。それから彼女は瞳子ちゃんに何やら耳打ちをした。

 なんだろうか? 気にはなったけど葵ちゃんがボールを投げたので思考を中断する。

 

「みんなお願いね!」

 

 葵ちゃんがそう言うと、パスを出された男子がさらにパスを出す。それから次々とパスが繋がっていき、俺たちは翻弄された。だからなんなんだこの統制された連携は!?

 距離を取ろうと下がればまたパスを出される。そして瞳子ちゃんにパスが渡った時、俺と彼女の距離はだいぶ近かった。

 これはまずいっ。この距離で瞳子ちゃんの速いボールをキャッチするのは無理だ。これはよけるしかない。

 瞳子ちゃんが投球モーションに入る。俺は回避行動に移った。

 

「瞳子ちゃん右!」

 

 俺がボールを避けるために足に力を入れた瞬間、葵ちゃんの声が響いた。

 地面を蹴ってから気づく。葵ちゃんが言ったのは俺が避ける方向だったのだ。

 狙いすましたかのようなボールが俺の足にぶつかった。キャッチできなかったのでアウトだ。葵ちゃんと瞳子ちゃんのコンビネーションにやられてしまった。

 

「やったね瞳子ちゃん!」

「葵の言った通りだったわね。すごいじゃない!」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんは互いを褒め合っていた。やっぱりあれは作戦だったのか。してやられてなんだかすごく悔しい。

 

「安心するのはまだ早い」

 

 すぐさまボールを拾った赤城さんが、喜んでいる途中だった瞳子ちゃんにボールを当てていた。この早業には俺もびっくりしてしまう。当てられた瞳子ちゃんもぽかんとしていた。

 ちょうどそのタイミングで制限時間がきてしまい試合終了となった。コートに残っている人数も二対二だったので引き分けとなってしまった。

 

「せっかく俊成に勝てると思ったのにっ。悔しい~」

 

 瞳子ちゃんは心底悔しそうにしていた。ほっといたら地団駄を踏みそうな勢いである。葵ちゃんが声をかけると収まってくれたみたいなのでよかった。葵ちゃんはいい笑顔だったな。

 それにしても、まさか瞳子ちゃんにやられてしまうとは。いや、葵ちゃんの協力もあったな。こんなところでも二人の成長を感じられた。

 五年生のドッジボール大会は俺と葵ちゃん瞳子ちゃんチームの同時優勝に終わった。ちなみに本郷は同じチームの女子達が彼の周りに固まってしまい身動きが取れなくなってしまったことで万事休す。不完全燃焼のまま敗退していたのであったとさ。

 

 



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52.先生が家庭訪問をしているようですよ

 新年度を迎え、俺は新しいクラスを受け持つこととなった。

 五年二組の担任。それが俺、多賀(たが)恭平(きょうへい)だ。

 五年生は体も心も成長著しい学年だ。俺のような若手(二十八歳)でなければ体力的にきついだろう。

 ……などと思っていたのだが、とくに問題のないまま一か月が過ぎ、家庭訪問の時期を迎えた。

 家庭訪問は数日にわたって行われる。通学路を確認しながら生徒達の家へと向かって行く。

 今日訪問する家を思うと多少なりとも緊張してしまう。なぜなら今日訪問する生徒はクラスの中心的な存在だからだ。

 宮坂葵と木之下瞳子。この二人の家庭訪問には否応なく緊張してしまう。

 どちらも男女ともに人気のある生徒だからな。下手なことをして嫌われでもしたら俺の担任としての立場がない。

 昨日は小川真奈美の家に行ったばかりだっていうのにな。五年二組はタレント揃いで大変なのだ。やはり俺のような若手(二十八歳)でなければ務まるまい。

 まずは宮坂葵の家だ。外観は普通の一軒家のようだった。

 

「先生いらっしゃい」

 

 インターホンを押すと宮坂が玄関を開けて笑顔で出迎えてくれる。なんて良い子なのだろうか。

 宮坂葵はかなりの美少女だ。教師になってからこれほどまでにかわいい小学生を見たことがなかった。

 長い黒髪はつやつやで見るだけで髪質の良さが伝わってくる。パッチリと大きな目は見つめているだけで吸い込まれそうだ。そして、しっかりと成長している胸は同学年の中ではダントツで大きかった。

 おっと、いかんいかん。生徒に見惚れるわけにはいかんぞ俺。

 それにしても早めに帰宅できるのをいいことに遊びに行く生徒が多い中、わざわざ俺を出迎えてくれるとはな。やはり若い(二十八歳)男性の教師というのは女子生徒に人気なのだろう。いやはやまいったな。

 

「先生こんにちは。どうぞ、上がってくださいな」

「ええ、お邪魔しま……す」

 

 家に入って女性の姿を見た。そこで俺は固まってしまう。

 なんだこの人は!? めちゃくちゃ美人じゃないかい!!

 宮坂葵とよく似た女性だった。いや、よく考えなくても母親だろう。だが母親と思えないほどに若い。本当に子持ちなのか?

 

「先生? どうされました?」

「あ……い、いえ! 大丈夫です! なんのご心配もありませんですよ!」

 

 美人に顔を覗き込まれて意識を取り戻す。というか俺は意識を飛ばしていたらしい。焦ってしまって舌が変な感じだ。

 リビングに案内される。宮坂のお母さんの後ろ姿を眺めながら何度も頷く。

 宮坂のお母さんか……。なるほど納得の美しさだ。宮坂葵はただでさえかわいいと思っていたが、もっと大きくなるとこれほどまでに……いや、もしかしたら母親以上になるのかもしれない。それほどのポテンシャルがまだ少女である彼女には感じられた。

 そんな少女に慕われていると思うとなかなかに気分がいい。やはりここは若さ(二十八歳)をアピールだな。

 リビングのテーブルに案内される。宮坂葵はケーキと飲み物を俺のために運んできてくれた。

 

「お構いなく」

 

 そう言いながらも内心嬉しかった。ここまでしてくれるなんて俺のことが好きなんだな。このくらいの時期の女子は子供っぽい同級生よりも年上の男の方に魅力を感じると聞く。つまりはそういうことなのだろう。

 

「じゃあお母さん。私トシくんのところに行ってくるね」

「ええ、気をつけて行ってらっしゃい」

 

 母娘のそんなやり取りを眺めていると、宮坂は部屋を出て行ってしまった。

 

「あ、あれ? 娘さんはいっしょではないのですか?」

「え? いっしょじゃなければならないんですか?」

 

 逆に尋ねられて「そんなことないです」と答えるので精一杯だった。

 俺ってやつは何を期待しとるのだ。子供なんてこんなものだろうに。ま、まあ宮坂が俺に好印象を持っているのは間違いないはずだ。なんたって若い(二十八歳)男性教師だからな。

 それに、この美人ママと二人きりになれたのだ。むしろ役得ではないか。

 時間も限られているので手早く話を始める。

 学校での宮坂はまさに「良い子」である。授業は真面目に聞いているし、日直などの面倒な仕事もしっかりとこなしてくれる。

 とくにありがたいのは、どんなことでも騒いでしまう男子も彼女の一言さえあれば大人しくなってくれるということだ。ちょうど男女という性別を意識し始める時期というのもあり、宮坂葵のかわいさは抑止力として働いていた。

 

「そういえば、休み時間では同じ男の子といっしょにいるのをよく見かけますね。えーと……誰だったかな。クラスが違う子みたいでして」

「ああ、それは俊成くんね」

 

 俊成? 誰だそれは?

 お母さんの口から出るのだから仲良しの子なのだろう。近所の子なのか?

 まだ今の学年を受け持って一か月といったところ。なんとか自分のクラスの生徒は覚えられたが、他はまだまだだ。本郷永人のように目立つ生徒ならわかるのだが。

 

「ははは、お母さんの知っている子でしたか。仲良しのお友達なんですね」

「うふふ、お友達というより葵の意中の男の子なんですよ」

「え」

 

 学年、いや学校内でも一、二を争うほどの美少女に好かれている男子だと? そんなイケメンではなかったと思うのだが……。

 記憶を思い返していると、その俊成という男子のことは宮坂のお母さんが嬉しそうに教えてくれた。

 いわく、娘が小さい頃から大好きな男の子なのだとか。つまりは幼馴染というやつか。

 まあ子供の頃の初恋なんて実るものでもないだろう。お母さんのしゃべり口調も軽いものになっているし、娘の初恋を微笑ましいもの程度に考えているのだろう。

 あっという間に時間がきてしまい、次のお宅に向かうと告げて宮坂家を後にした。

 いやあ、それにしても宮坂のお母さんは美人だったな。今もまだ顔がにやにやしているのがわかる。

 宮坂のお母さんだって俺のような若い(二十八歳)男と話ができて楽しんでくれたに違いない。半分以上は娘ではなくて俊成という男の子の話ばかりになっていたが、これは流れで仕方がなかったな。うん。

 それから次に向かったのは木之下瞳子の家だ。

 小川真奈美、宮坂葵、そして木之下瞳子。それが女子のグループでのトップにいる三人だ。

 小川はとくに女子の友達が多い。宮坂は男子からの支持率が高い。その点で比べれば木之下にはそこまで友達が集まっているという印象はない。

 ただそれは目立っていないというだけだ。木之下瞳子は大人しくて目立たない子に対しての面倒見がよかった。

 同じクラスの御子柴という女子を中心に、大人しめの子達は木之下に懐いているように見えた。聞いた話だが、低学年の頃から木之下はいじめっ子から次々といじめられた子達を助けていたようだ。

 家庭訪問をしていた中でも木之下瞳子の名前が挙がることが多かった。小川や宮坂に比べれば数は少ないかもしれないが、慕われている深さという一点で考えるのなら彼女が一番かもしれなかった。

 それに、木之下瞳子も宮坂葵とそん色がないほどの美少女なんだよな。あれほどのレベルが二人同時に同じクラスにいるだなんて奇跡的と言えた。

 ハーフらしく、銀髪に青い瞳をしている。処女雪のような白い肌にバランスよく整えられたかのような顔立ちをしている。均整の取れた体つきは運動のできる彼女らしかった。

 ちょっと吊り目で目力が強いのだが、見つめられていると癖になりそうなのだ。授業をしていると視線を感じてゾクゾクしているのは俺だけの秘密だ。

 木之下瞳子も宮坂葵と同じく俺を出迎えてくれるだろうか。ああいう強気な子にそんな献身的なことをされたらと思うと顔がにやにやしてしまう。

 木之下家に到着する。なかなかに広い家だ。庭も広い。停められている車は立派なものに見える。これだけで裕福な家庭なのだとわかる。

 

「お待ちしてマシタ。どうぞ、上がってクダサイ」

 

 わかってはいたが外国人である。娘と同じ綺麗な銀髪に青い瞳だ。日本語は問題なく話せるようで一安心する。

 それにしても、これまた美人だ。宮坂のお母さんもモデル並だと思ったが、こちらも負けていない。服の上からでもプロポーションがいいのがわかってしまう。さすがは外国人の美人は迫力が違う。

 

「どうされマシタ?」

「あ、いえすみません。担任の多賀恭平二十八歳です! ……お邪魔しますっ」

 

 また見惚れてしまい固まっていたようだ。慌てていたせいで自己紹介してしまった。宮坂のお母さんで抵抗力をつけたと思ったのだが、別種の美貌にやられてしまったようだ。

 案内されて通されたのは和室だった。畳でのおもてなしとは驚かされた。そう思ってしまうのは相手が外国人だという認識があったからだろうな。その認識は修正しておいた方がよさそうだ。

 テーブルの上には何もなかった。木之下が飲み物でも持ってきてくれるのではないかと期待していたが、そんな様子もない。別に口をつけるつもりはないのだが期待してしまうのだ。

 

「あの、娘さんはご在宅ではないのですか?」

「瞳子はスイミングスクールに行ってマスネ」

 

 習い事か。それなら仕方がないだろう。

 いやまあ基本家庭訪問は保護者と話ができればいいからな。うん、問題ないぞ。むしろ美人と二人きりだ。これはこれで嬉しいぞ。

 学校での生活態度や授業への取り組み方。親が知りたいであろう学校での子供の姿を話した。木之下はしっかり者のようで、忘れ物もしないので一番安心できる生徒なのだ。

 

「ふむふむ……、それで学校で瞳子はトシナリにどんなアピールをしているのデスカ?」

「は? アピールですか?」

 

 俊成という名前はさっきも聞いた。まさかと思いつつも続きを促す。

 

「トシナリは瞳子にとって大切な人デスカラ。ガンガン攻めてほしいと思ってマス」

 

 そう言って木之下のお母さんはころころと笑った。俺よりも年上のはずだが、笑っている姿は子供っぽくもあった。

 それからはその俊成という子の話題ばかりになってしまった。わかったのは彼が木之下瞳子の幼馴染ということだ。あれ? さっきも似たような話を聞かなかったか?

 話が盛り上がってしまい(木之下のお母さんだけだが)時間がきて家を出なければならなくなった。木之下の家での様子などを聞きたかったのだが。宮坂と同じく聞ける様子でもないし時間もない。

 これはさすがに若い(二十八歳)俺でもやつれてしまいそうなほどに疲れた。なぜ自分のクラスの生徒の家庭訪問をして他のクラスの子の話を聞かなければならないのか。しかも二軒連続で。

 だが、これだけ話を聞いているうちに思い出した。俊成とは高木俊成という男子のことだ。

 勉強ができて運動もできる。人当たりも良いので教師から信頼されている男子だ。あくまで他の先生から聞いた話なのだが、そんな俺でもそれくらいの情報は入ってくる生徒だった。

 確か昨年度に結婚して退職した先輩が言ってた。「結婚できたのは高木くんのおかげだわ」と。一体何があったんだか。

 イケメンで行動力のある本郷永人のように前に出て目立っている生徒ではない。しかし信頼されている生徒ではあるようだ。

 ただまあ、まず俺が思ったことがあるとすればこれだ。

 

「美少女二人に好かれるなんて羨まし過ぎる! 爆発すればいいのに!!」

 

 大人げないとわかっていながら、小学生の男子相手にそんなことを思ってしまったのだった。

 

 




この学校にはまともな先生がいないのか、とか思ったのはないしょですよ。ちなみに先生の名前は覚えなくても大丈夫です(ひどい)


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53.品川ちゃんのことが気になるのです

 仲間班は去年に引き続き品川ちゃんと同じ班だった。

 四年生になった彼女は三年生の面倒を見る立場なのだが、恥ずかしがり屋のせいで上手くコミュニケーションが取れないようだった。その代わりと言ってはなんだが、俺とはよくしゃべってくれる。

 

「あ、あの……これ。また描いてきたんです……」

「漫画? うん、読む読む」

 

 品川ちゃんは自作の四コマ漫画をよく俺に見せてくれた。もちろんプロには及ばないのだろうが、俺なんかよりも断然絵が上手かった。

 彼女の描く四コマ漫画はコミカルで面白い。学校のクラブ活動では漫画研究クラブに入ったとのことなので、これからもどんどん上達するのだろう。楽しみだ。

 品川ちゃんの描いた漫画を夢中になって読んでいると、一人の女子が話しかけてきた。

 

「あ、あのっ。高木くんいいかな?」

「ん? どうしたの御子柴さん」

「六年生の人が話があるって。たぶん仲間班で何しようかって話じゃないかな……」

 

 俺に話しかけてきたのは五年二組の御子柴(みこしば)(かえで)さんだった。葵ちゃんや瞳子ちゃんと同じクラスの女の子である。

 確か去年から小川さんのグループにいる女の子だ。明るい子ばかりが集まっている小川さんのグループの中で、彼女は物静かだったからちょっと目についてはいたのだ。

 なんというか、前世での葵ちゃんが今の御子柴さんの立ち位置だった気がする。クラスの中心グループに所属しながらも物静かで決して目立とうとはしない。それでも葵ちゃんの場合はその美貌のために人の目を惹いていたんだけどね。

 そう考えれば、前世よりも今の葵ちゃんの方が明るい性格になっている気がする。いやまあ、前世では接する機会自体がそうなかったんだけども。遠くから眺めるだけの高嶺の花だったんだよな。

 おっと、そんなこと考えてる場合じゃないな。六年生の子達も毎回何をしようかと仲間班活動に頭を悩ませているのだろう。俺はよく何か案がないかと相談されているのだ。

 俺が行こうとすると、品川ちゃんの眼鏡の奥の瞳が揺れたのがわかった。それは不安がっているようで、一人になりたくないのだろうと思った。

 

「御子柴さん」

「な、何?」

「これ、品川ちゃんが描いた漫画なんだけどすごく面白いよ。読んでみない?」

「え? う、うん……?」

 

 よくわからないといった感じながらも、御子柴さんが品川ちゃんが描いた漫画のノートを受け取る。品川ちゃんはあたふたしていたけれど、そこから何かを言うことはなかった。

 なんとなく、本当になんとなくなんだけど、品川ちゃんと御子柴さんは波長が合っているように感じたのだ。きっかけさえあれば二人は仲良くできるんじゃないかって思ったのである。あくまで俺の勘だけども。

 二人を残して六年生の子達のもとへと向かった。うまくいきますように。内心ハラハラしながらもその場から離れた。

 

「あの漫画読みました。胸がドキドキしてすごくよかったです」

「だよね。あたしも大好きなんだ。とくに告白するシーンなんてドキドキのハラハラでね」

「すごくわかりますっ。私なんてあのシーンを読んで自分でも漫画を描いてみたいって思ったんです」

「だからこんなにも面白いものが描けるんだね。ほら、ここなんてあの時のシーンみたい」

 

 六年生との話が終わって品川ちゃんのもとに戻ってみれば、なんだかすごく盛り上がっていた。

 俺にだってあんなにスラスラと力強くしゃべってもらったことがないのに……。御子柴さんって実はすごい子なのでは?

 なんて考えながら二人を眺めていると、そんな俺に気づいた品川ちゃんが急に顔を赤くして黙り込んでしまった。それに気づいた御子柴さんも振り返って俺を視認すると同じく顔を赤くして黙ってしまう。

 せっかく盛り上がっていたのに話を中断させてしまったみたいで申し訳ないな。ちょっと罪悪感。

 仕方がないので声をかける。さっきの雰囲気を取り戻そうとフランクな感じを心掛けてみる。

 

「話止めちゃったみたいでごめんね。えっと、今日するゲーム決まったから集まってほしいってさ」

「は、はい……」

「う、うん。わかった……」

 

 またぎこちなくなってしまった。本当に申し訳ない気持ちが強くなる。

 それでも、品川ちゃんがこの仲間班で俺以外にしゃべる子ができてよかったと思う。御子柴さんには感謝だな。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「トシくんといっしょのクラスになれないんだったら仲間班くらいはいっしょになりたかったなー」

「もうっ、そんなこと言わないでよ。あたしだって文句言いたいの我慢してるんだからね」

 

 下校時、いつものように俺は葵ちゃんと瞳子ちゃんといっしょに帰路に就いていた。

 二人とは仲間班で同じ班になれなかった。そのせいか活動がある日は愚痴を零してしまうのを我慢できないようだった。なだめても頬を膨らまされるだけなので収まるのを待つだけである。

 

「ねえねえ、今日はちょっと帰り道変えてみない?」

 

 葵ちゃんが唐突にそんな提案をしてきた。文句が冒険心に変わったようだ。

 たまに帰り道を変えることがある。大抵は葵ちゃんの気まぐれだったりするのだが、こういうちょっとした冒険は子供にはお約束である。

 もちろん危険な場所に行ったり、遠いところに行こうというわけではない。少し道を変えるだけでも子供にとっては目新しい景色が見られるのだ。

 そんなわけで俺と瞳子ちゃんは了承した。瞳子ちゃんはしっかりしているし、葵ちゃんからさえ目を離さなければ車に轢かれたりなどの危険はないだろう。

 ちょっと道を変えるだけでも発見はあるのだ。知らなかった駄菓子屋を見つけたり、人懐っこい猫と出会ったりと案外楽しい下校となった。

 ただ楽しさとは別に、今回は本当に帰り道を変えてよかったと心底思うこととなった。

 

「や、やめ……てっ」

 

 決して大きな声ではなかった。それでもちゃんとこの耳に届いたのだ。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんも聞こえたようで二人して顔を見合わせている。そんな二人を置いて俺は走り出していた。

 その声を知っている気がしたのだ。小さい声だったから間違えているのかもしれない。それでも焦躁感に突き動かされるように走っていた。

 そして、その声の主は俺の考えた通りの人物だった。この場合は正解してほしくなかったのだが。

 場所は空き地だった。住宅地の近くではあるが、見通しが悪く上手く隠れている。そんな暗い雰囲気のある場所。

 日陰となっている空き地にいたのは品川ちゃんだった。さっきの声は彼女のもので間違いないだろう。

 そして、彼女のであろう赤いランドセルは地面に転がっており、その中身がぶちまけられていた。

 品川ちゃんの周りには五人の男子がいた。そいつらは泣いている品川ちゃんを囲んで笑っていた。嘲る声が響いていた。

 男子達は品川ちゃんのランドセルを蹴飛ばし、髪の毛を引っ張っていた。彼女の涙が栄養であるかのように笑いが広がる。

 カッと頭に血が昇る。目の前が真っ赤になった。

 

「お前ら何やってんだ!!」

 

 瞬間的に沸いてきた怒りのまま怒鳴っていた。品川ちゃんを囲んでいた五人の男子がビクリと体を震わせる。

 足に力を込めてそいつらに近づいていく。近づくと品川ちゃんの涙と鼻水に濡れた顔がこちらを向いた。

 

「おい! お前ら何をやってた? 言ってみろよ!」

 

 聞かなくてもわかっている。これはいじめの現場だ。完全に現行犯だった。

 五人の男子の名札をさっと確認する。どうやら全員品川ちゃんと同じ四年生のようだ。

 俺が五年生とわかってなのか、ほとんどの子はばつが悪そうにしていた。

 その中でただ一人、俺よりも体格のいい男子がずいと俺の前に出た。おそらくこいつがリーダーなのだろう。

 

「誰だよお前? このガイコツメガネの友達か?」

 

 俺の名札を見て年上だとわかっているだろうに、なんてふてぶてしい奴。それにガイコツメガネとは……。状況を考えれば品川ちゃんのことなんだろうけど、ひどいあだ名だな。やせ型ではあるがガイコツなんてそんなことはないのに。

 

「ああ、友達だよ。そんな俺の友達をお前らはいじめてるってことでいいのか?」

「ぷっ、ぎゃはははははっ! ガイコツメガネに友達だってよ。ギャグかよ!」

 

 リーダーの男子に呼応して他の子達も笑い出した。とても無邪気で、とても不快な笑いだった。

 思わず拳を握ってしまう。ぐっと堪えて口を開く。

 

「質問に答えろよ。品川ちゃんをいじめてんのか?」

「は? いじめじゃねーよ。俺達はそのガイコツメガネを掃除してやってたんだよ。なあ?」

 

 リーダーに合わせて他の男子達がうんうんと頷く。その仕草だけ見れば子供らしい仕草だった。だけどそれは悪意に満ちていた。

 ダメだ、我慢できないっ! ぶん殴ってでも自分がやってることをわからせてやろうかっ。

 相手は子供だが、今の俺だって子供だ。リーダーは俺よりも体格がいいし、何より五人を一人で相手をするのは大変どころの話じゃない。

 だからってそんなこと関係あるか! 品川ちゃんをこのまま放っておけるわけがない。殴り合ってでも彼女からこいつらを引き離してやらなければと思った。

 

「あんた達何をしてるのよ!!」

 

 背後から飛んできた声に体が震える。振り返らなくてもわかる。瞳子ちゃんの声だ。

 彼女にはこんなところに出てきてほしくなかった。いくら運動ができようと殴り合いのケンカにでもなったらひどい目に遭わされてしまうかもしれない。こいつらは女子の品川ちゃん相手でも大勢で寄ってたかっていじめられるような奴等なんだから。

 

「さっき大人の人達を呼んできたから。すぐに来るよ」

 

 続いて葵ちゃんの声が聞こえる。いつもの明るい調子ではなく、俺でもびっくりするほどの平坦な声だった。

 

「げっ! 大人はまずいよ。森田(もりた)くん逃げよう!」

 

 大人という単語は効果てき面だったようだ。一気に慌て出したいじめっ子集団は逃げ去ってしまう。

 

「……」

「……」

 

 リーダーの男子、森田だけは俺を睨みつけていた。俺も負けじと睨み返す。

 少しの間睨み合った後、森田は先に逃げて行った連中を追いかけて行ってしまった。去り際に鼻で笑われてカチンときたが追いかけることはしなかった。

 

「トシくん大丈夫だった?」

 

 心配そうに駆け寄ってくる葵ちゃんの声の調子はいつも通りに戻っていた。さっきの感情が抜けたような平坦な声じゃなくて安堵する。

 

「俊成、何があったのよ? それにその子泣いてるじゃない」

「う……うえ……うええっ……ひぐ……」

 

 品川ちゃんは言葉にならない泣き声を漏らしていた。瞳子ちゃんが品川ちゃんの背中を摩って慰める。葵ちゃんは散らばってしまった教科書やノートを拾い集める。

 品川ちゃんがこんな目に遭ってるなんて知らなかった。小学生のいじめだからって放っておけるレベルじゃない。

 眉間にしわが寄ってしまう。難しい問題に直面したのがわかってしまったから。俺はどうすればいい? とにかく品川ちゃんのために何かをしなければならないと思った。

 

 



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54.俺達のいじめ対策委員会(仮)

 あれから、俺達は品川ちゃんが泣き止むまで彼女の傍にいた。

 品川ちゃんはつっかえながらもいじめられていることを教えてくれた。時折思い出してしまうのかまた泣いてしまい、葵ちゃんと瞳子ちゃんに抱きしめられていた。

 それから彼女を家に送り届け、歯がゆい思いを抱えながら俺達は帰路に就いたのだった。

 

「もうっ! 何なのあれ! 何なのよ!!」

 

 そして現在俺達は瞳子ちゃんの部屋にいる。葵ちゃんがついに堪え切れずといった感じでテーブルをべしべしと叩く。

 葵ちゃんはぷんすかー! という怒り方をしていた。さっきのいじめっ子達を追い払った時(大人を呼んだというのは嘘だった)のような平坦な声じゃない。それに安心している俺がいた。だってちょっと怖かったんだもん。

 

「わかってるわよ葵。あたしだって許せないんだから」

 

 瞳子ちゃんの目が怒りに燃えていた。声は落ち着こうとしているのか抑え気味ではあるが、吊り上がった目からは憤りを隠せてはいない。

 

「俺も許せないし、品川ちゃんのことは何とかしたい。……二人には協力をお願いしてもいいかな?」

「そんなの当たり前だよ!」

「むしろ俊成一人で何とかしようとしてたら怒ってたところよ」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんは力強く頷いてくれた。

 二人はそれぞれにいじめられた経験がある。だからこそ今回のことは許せないのだろう。

 瞳子ちゃんはやられたらやり返す性格なので、からかわれたりちょっかいをかけられたりしたら問答無用で張り倒していた。彼女は自分の力でいじめをなくしていったタイプだ。

 対して葵ちゃんはいじめられる度に俺と瞳子ちゃんで守ってきた。抵抗できないという部分では今回の品川ちゃんと同じなのかもしれないが、葵ちゃんをいじめる子達は彼女の気を惹こうとしているだけだったというところで大きく違っている。今では当時のいじめっ子を含めてたくさんの男子が葵ちゃんのお願い事(?)を聞いてくれるようになっている。

 どちらも解決できている問題ではあるが、今回の品川ちゃんのいじめはちょっと毛色が違う。

 珍しい容姿をからかわれた瞳子ちゃんと、かわいい子だからといじめられた葵ちゃん。この二人をいじめていた子には悪意がなかったし、言えばやめてくれる程度だった。

 しかし、品川ちゃんをいじめていた奴等には完全に悪意があった。それに俺を睨みつけたあの森田って男子には口でわかってくれるような、そんな相手には思えなかったのだ。

 ならどうするか? 考えていると葵ちゃんが挙手をした。

 

「私は先生に言った方がいいと思うんだけど」

「でも、あの子……親に知られたくないって言ってたじゃない」

「あっ……そっか。じゃあ秘密にしなきゃだね」

 

 瞳子ちゃんの言う通り、品川ちゃんは俺達に「親には知られたくないです……」と言ったのだ。泣き顔を取り繕って家へと入って行く姿を思い出すと胸が締め付けられる。

 

「いや、先生には報告した方がいいと思う。できるだけ大人を巻き込むんだ」

 

 俺の言葉に葵ちゃんと瞳子ちゃんは驚いた表情を見せる。

 

「ちょっと俊成。あの子が言ってたこと聞いてたでしょっ」

「聞いたよ。ちゃんと全部聞いた。だからこそ先生を巻き込むし、もっと大ごとにすべきだと思う」

 

 おそらくこれが全部ではないのだろうが、品川ちゃんが嗚咽を漏らしながらもいじめられていることを教えてくれたのだ。

 品川ちゃんは元々超がつくほどの恥ずかしがり屋というのもあり、クラスメートからからかわれること自体は多かったらしい。それでもまだ本人が言うには実害まではなかったそうだ。

 だが、四年生になってあの森田を含めた悪ガキ集団と同じクラスになってしまった。クラスメートになってしまってから目をつけられてしまったようだ。

 俺達が目撃したのはただの一端でしかなかった。他にも上履きを隠されたり、机に黒板消しの粉をかけられていたり、筆記用具や教科書などをゴミ箱に捨てられていたりなどのいじめを受けていた。それを品川ちゃんの口から聞かされた時は思わず絶句してしまった。

 俺は品川ちゃんとは仲間班での関わりしかない。去年よりも俺としゃべってくれるようになっていたからと、学校が楽しくなっているんだなんてそんな能天気な考えだったのだ。

 なんで気づいてやれなかったのだろうか。もうGWを過ぎている。新しいクラスになってから一か月以上経っているというのに……。どれほどのつらい体験をしたのか想像なんてできないだろう。

 俺の前世でもいじめはあった。いじめられている誰かを見ては自分はそうならないようにと振る舞ってきた。助けもせずに見て見ぬフリだ。俺は小さい人間だったのだ。

 でも、大人になるといじめは命に係わる問題なのだと知った。いじめられるのは弱いからなんだ。いじめられるのはその子にも問題がある。そんな言葉は最低なものだ。どんな理由があってもいじめる側が一〇〇%悪いに決まっている!

 いじめは犯罪のようなものではない。犯罪そのものなのだ。それを何とかするために助けを乞うことは当然であり、決して恥ずかしいことなんかじゃない。

 

「品川ちゃんも勘違いしてるよ。いじめは悪いことだなんて生易しいものじゃないんだ。いじめは悪だ。犯罪と変わらないんだ。普通だったら犯罪に巻き込まれたら警察に助けを求めるだろ。だから、いじめられたら誰かに助けを求めることは当たり前なんだよ。助けられるのが普通じゃないか……っ」

「トシくん……」

「俊成……」

 

 知らず握り込んでいた俺の拳が二人の両手に包まれる。はっとして自分が必要以上に熱くなっていたことに気づかされる。

 

「と、とにかくっ。品川ちゃんのためにできることを話し合ってみようか」

 

 冷静さを取り戻すためにも話を先に進めることにした。クールになれ高木俊成。

 

「トシくんは先生に言ってもいいって言ってたから、まずは先生に言うの?」

「いや、先生への報告はタイミングを考えた方がいいだろうね。先生任せにして簡単な注意だけだったらいじめは終わらないし、下手をしたら余計にひどいことになると思う」

 

 大人の協力は不可欠だとは思う。だけどそれだけに頼っているのは逆に危険だろう。

 

「品川ちゃんの話からしてこれだけのいじめをしておいて担任にまったく気づかれないってのはあり得ないと思うんだよ」

「それって、先生が見て見ぬフリをしてるってこと?」

 

 瞳子ちゃんの眉がピクリと動いた。俺は「あくまで想像だけど」と前置きをしてから続ける。

 

「担任の先生はいじめ現場を見ていないのかもしれない。でも話通りのいじめなら事実をまったく確認できないってことはないはずだ。それで動いているのかはわからないけど、品川ちゃんへのいじめは続いてるんだ。他の先生にも動いてもらわないとどうにもならないよ」

 

 少なくともこんないじめが行われているのに大きな動きを見せないようでは頼ろうだなんて思えない。先生への報告にしても、品川ちゃんのクラスの担任の他に別の先生の協力が必要だ。

 

「先生への報告にしても誰に報告するか。先生選びもあるからそれは後で考えよう。まずは品川ちゃんを守るところからだ」

 

 最終目標はいじめを止めること。だけどすぐにできることでもない。まずしなきゃいけないのは品川ちゃんの安全の確保だ。

 

「あの子を守るのは賛成ね。学校から家に帰るまでならあたし達がついてあげられるわ。他に誰かがいれば簡単に手を出そうだなんて思わないでしょ」

「そうだよね。お昼休みだっていっしょにいられるんじゃないかな? 学校の中でもいっしょにいてあげたらいいと思うな」

 

 瞳子ちゃんと葵ちゃんがぽんぽんと案を出してくれる。二人からすれば出会ったばかりの女の子なのに、こうやって真剣に考えてくれて嬉しくなる。

 

「学校の中でもいっしょにいてあげたいけど、問題は短い休み時間だよね」

 

 そう言うと葵ちゃんと瞳子ちゃんがうーんと唸り始める。

 短い休み時間とは、授業と授業までの間の休み時間である。基本的に次の授業の用意やトイレを済ませておく時間なのでとても短いのだ。俺達五年生と品川ちゃんのいる四年生の教室は校舎が違う。この距離を短い時間で行き帰りするのは難しいのだ。

 

「四年生の子で秋葉ちゃんと仲良くしてくれる子はいないのかな?」

 

 葵ちゃんがぽつりと呟くような音量で言った。ちなみに秋葉ちゃんというのは品川ちゃんの下の名前である。

 

「正直、品川ちゃんの話だけだとクラスでどの程度の人がいじめをしてるのかはわからなかったんだよな。まああの男子達が中心になってるのは間違いないんだろうけど」

「そうね。ああいう声ばっかりが大きい男子がいじめてると、周りの人だって話したくても話せないでしょうね」

 

 悪循環での孤立。品川ちゃんのクラスメートは手を出せない空気になってるんだろうな。

 

「それでも仲間を集めてみようよ。……とは言っても、俺の四年生の知り合いって登校の班と仲間班とクラブでの人しかいないんだけどね」

「あたしも似たようなものよ……」

 

 瞳子ちゃんが同調してくれた。俺達は揃ってはぁとため息を吐く。友達百人はできていないのです……。

 

「私もそんなに知ってる子がいるわけじゃないんだけど、ちょっとお願いしてみるね」

 

 葵ちゃんはにぱーと笑う。なんだかそのお願いって、ちょっとどころではない武器になっているのは気のせいだろうか?

 

「それに私達だけじゃなくて真奈美ちゃんや赤城さんにも協力してもらおうよ。男子だって佐藤くんや本郷くんだっているしさ」

「そんなにたくさんの人に相談したら、あの子がいじめられてるってたくさんの人に知られることになっちゃうわよ?」

 

 瞳子ちゃんの懸念に、葵ちゃんは笑顔で返す。

 

「何言ってるの瞳子ちゃん。トシくんだって言ってたじゃない。大ごとにするってさ。だからみんなに助けてって言うんだよ」

 

 葵ちゃんは胸を張った。たくさんの人を巻き込んででも、品川ちゃんを助けようという意思がそこにはあった。

 ……葵ちゃんも強くなった。彼女のように品川ちゃんも強い子へと成長できるかもしれない。ただ、それはいじめられながら成長できるものではないのだ。

 いじめは子供の成長の阻害でしかない。それはいじめる側だってそうだ。曲がった方へと行くだけで、成長とは程遠く停滞ですらない。それは枝葉が伸びているのではなくしおれている。いや、腐っているだけなのだ。

 

「そうだね、みんなに相談しよう。とくに小川さんや本郷あたりは交友範囲も広そうだし、四年生の友達もいるかもしれないしね」

 

 こうして品川ちゃんをいじめから助けるための方向性が決まった。その後も俺達は具体的にどうするかなどと話し合ったのだった。

 さあ、早速明日から行動開始だ!

 

 



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55.証拠と仲間集め

新しいパソコンに買い換えてログインしようと思ったらパスワードが違ってけっこう焦ってました。自動ログインに頼っていたら忘れちゃうもんですな。ちゃんとメモしとかんとあかんでっせ(戒め)今日はあと一つ、書けたらさらにもう一つ投稿しようと思います。


「森田くんはすごく怖い子だよ」

 

 次の日の朝。登校班の四年生の男子に品川ちゃんをいじめていた奴等のことを聞いてみた。それが先ほどのセリフである。

 とくにリーダー格の森田はガキ大将代表みたいな奴らしい。六年生の大きな子と大差ない体格で乱暴な性格なのだ。そりゃあ苦手な子はとことんまでに苦手だろう。俺だってできれば関わり合いになりたくないタイプである。

 目の前の男の子も苦手に思っているらしい。森田とは違うクラスになって安心だというのがありありと見て取れる。それをわかりながらもお願いをしなきゃならない。

 

「あのさ、ちょっと頼みたいことがあるんだけど……」

「え? 何々トシ兄ちゃんが僕を頼ってくれるのっ」

 

 なんか嬉しそうだな。目が輝いてんぞ。年上に頼られるのって嬉しいものなのかな。

 でもその態度のおかげで幾分か切り出しやすかった。

 

「その森田って奴を休み時間の間だけでいいから見張っててほしいんだよ」

「え」

 

 あー、表情が固まっちゃったな。けっこう大変なお願いをしているという自覚はある。

 さっき怖い奴だと言ったばっかりなのだ。そいつを見張れと言われたら尻込みしてしまうだろう。無茶ぶりされていると思ってしまったかもしれない。

 俺は品川ちゃんが森田を含めた男子達にいじめられているという事実を告げた。話を聞いて男の子は驚き、そして怒りを露わにした。

 

「女の子をいじめるなんてひどいよ!」

 

 この子はまっとうな感性を持っているようだ。森田達のようないじめっ子ばかりではないとわかって安心する。

 

「いじめを止めてくれとは言わない。むしろ手を出しちゃダメだ。ただどんなことをしているかを見て、それを俺に報告してほしい」

「見ているだけでいいの?」

「ああ、見てるだけでいい。見つからないようにこっそり隠れてても構わない」

「なんか刑事さんみたいだね」

 

 それは張り込みシーンのことを言っているのだろうか? アンパンでも差し入れた方がいいかな。

 まあ何はともあれやる気になってくれたようだ。まずは一人、協力者を得ることができたぞ。

 できるだけ四年生の協力者はほしいところだ。品川ちゃんのクラスメートはもちろん、他のクラスの子だっていじめを目撃しているかもしれない。目撃者は多ければ多いほどに信憑性を増すからな。

 ただ、集めるのは目撃者だけだ。いきなりいじめを止めてくれとは言えないし、それをしてしまうと余計に大ごとになってしまうかもしれない。いじめを止めるために他人を巻き込んで味方になってもらうつもりだが、いじめの規模を大きくされるのは望むところではないのだ。

 それにいじめを見たと証言するだけならハードルも低くなるだろう。ハードルが低くなれば味方だって増やしやすいはずだ。

 矢面に立つのは俺達がいい。俺達が率先して前に立てば安心して協力してもらいやすくなる。協力したからいじめられました、なんてことには絶対にさせない。

 だけど、これからの動き方は品川ちゃん次第だ。彼女へのいじめは絶対に止めさせる。それは変わらないけれど、そのやり方をどうするかは彼女の意思次第だろう。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 学校に到着すると瞳子ちゃんと合流した。品川ちゃんを探したけれどその姿は見えなかった。まだ来ていないと信じたい。

 

「下駄箱を見てみようよ」

 

 葵ちゃんの提案に乗って四年生の下駄箱から品川ちゃんの名前を探す。勝手に開けて悪いと思いながらも上履きがあるかどうか確認させてもらう。

 

「うわっ……」

「何よこれ……」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんが顔を歪ませて不快感を表す。それは俺も同じだった。

 品川ちゃんの下駄箱にはどこで拾ってきたのかというような汚いゴミが入れられていた。こんなのわざわざ持ってきたのだろうか? 労力の無駄遣いにもほどがあるぞ。

 品川ちゃんの上履きはあった。まだ彼女は登校していないようだ。それに上履きには何もされていないようでよかった。……ゴミを突っ込まれておいてよかったなんて言えないか。

 

「……さっさと片づけるわよ」

「瞳子ちゃん待って」

「何よ俊成。邪魔する気?」

 

 俺に止められて瞳子ちゃんの目が吊り上がる。今にも爆発しそうだ。それほどに彼女にとって許せない行いだったのだろう。

 

「片づけたいのは俺も同じだけど、証拠を残しておきたいんだ」

「証拠?」

 

 俺は頷くと制服の内ポケットからインスタントカメラを取り出した。そのカメラで品川ちゃんの下駄箱を撮影する。

 

「カメラなんて学校に持ってきていいの?」

「ダメだよー。だから秘密にしといてね」

 

 数枚撮影してから品川ちゃんの下駄箱のゴミを片づけた。俺がゴミを捨てに行っている間に品川ちゃんが来たら引き止めておいてと葵ちゃんと瞳子ちゃんにお願いした。

 そして、ゴミを捨てて戻るとちょうど品川ちゃんが来た。

 

「品川ちゃんおはよう」

「あ……、昨日はその……あ、ありがとう、ございました……」

 

 いつもよりも声が小さい。せっかく普通にしゃべってくれるようになっていたのに逆戻りだ。いや、去年よりも悪いか。

 いじめ現場を見られて恥ずかしいとでも思ってしまっているのだろうか。品川ちゃんはうつむき加減で俺の目を見ようとはしてくれない。

 

「ちょっと話があるんだけどいいかな?」

「え……?」

 

 いつまでも下駄箱にいたんじゃあ注目を集めてしまう。俺達は人の少ない階段の裏に品川ちゃんをつれてきた。

 上級生三人という人数に品川ちゃんが不安を持ってしまうかもと思い、俺は彼女の前でしゃがみながらできるだけ優しい表情を心掛けた。

 

「時間もないし単刀直入に言うね。俺達は品川ちゃんをいじめから助けたいと思ってるんだ」

「え……、え?」

 

 品川ちゃんは戸惑っていた。俺がこんなことを言うなんて想像もしていなかったようだ。

 

「俺にとって品川ちゃんはかわいい後輩なんだよ。できれば悲しい思いをしてほしくないんだ。だから、君をいじめから救うために戦わせてほしい」

「……」

 

 品川ちゃんはうつむいてしまう。しゃがんでいる俺にはその表情が見えてしまっていたけど、彼女自身の答えを待つことにした。

 

「秋葉ちゃん、とってもつらいんだよね。とってもつらいのに我慢しているのはすごいと思う。でも本当は我慢しなくてもいいの。いじめられてるのは秋葉ちゃんが悪いだなんてことは絶対にないし、いじめてる子達がみんな悪いことをしてるんだから。だから誰かに助けてもらっても全然恥ずかしくないのよ」

 

 葵ちゃんが品川ちゃんの手を取りながら優しい口調で言った。お姉さんのような振る舞いは彼女にはまだ早いだろうだなんて、俺はけっこう失礼なことを考えていたのだと反省させられる。

 

「少なくともあたし達は品川さんがいじめられているだなんて許せないわ。あなたにはちゃんと味方がいるの。頼ってくれるんだったらもっと味方が増えるはずよ。だからお願い。あたし達に助けさせて。そのためにもあなたの口からそのための言葉がほしいの」

「わた、し……は……」

 

 瞳子ちゃんの言葉に品川ちゃんの口が反応する。それはすぐに閉じられてしまったけど、何かを訴えようと小さく開閉を繰り返していた。

 

「品川ちゃん。いじめられているのを知られたらお母さんが心配するって思っているかもしれない。悲しませたくないって思っているのかもしれない。でも一番悲しいのは頼ってもらえずに品川ちゃんがずっと悲しい思いをすることなんだよ」

 

 子供に頼ってもらえないのは親にとってはつらいことなんじゃないだろうか。結婚もしたことがない俺だけど、もし自分に子供がいたら何があったとしても頼ってほしいと思うから。

 品川ちゃんの眼鏡の奥の目が潤む。表情が歪み、嗚咽が零れる。

 

「う……うぐ……」

 

 品川ちゃんは堪え切れない涙を零した。どれほどの我慢を重ねてきたのだろうか。そう思うと目の奥が熱くなってくる。

 そして、品川ちゃんは答えてくれた。

 

「助けて、ください……」

 

 品川ちゃんはそう絞り出すように言って頭を下げる。その瞬間、俺達のやるべきことは固まった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 俺達は品川ちゃんに付き添って彼女の教室へと向かった。

 四年生の教室が並ぶ廊下にくると注目度が増した気がした。主に葵ちゃんと瞳子ちゃんに目を向けられているようだ。まあ学校で一、二を争うほどの美少女が同時に現れたのだ。学年が違っても二人は有名なのである。

 四年一組が品川ちゃんの教室だ。堂々と胸を張って入らせてもらう。

 突然の上級生の来訪に教室が静かになっていく。葵ちゃんと瞳子ちゃんもいるものだからみんなこっちを見ていた。森田を始めとしたいじめっ子達もすでにいた。

 品川ちゃんに彼女の机はどれかと尋ねようとして、その前にわかってしまった。一つだけやけに白いのだ。すぐにそれがチョークの粉をかけられているからだと気づく。朝から無駄なことしやがって。

 俺はまっすぐにその机の前まで行く。一応確認のために品川ちゃんを見ると、彼女は無言でこくんと頷いた。

 

「インスタントカメラ~♪」

 

 俺は某青いネコ型ロボットの口調をマネしながら、制服の内ポケットからカメラを取り出す。この時代はまだ声が変わってないから安心してモノマネできるね。

 そのまま流れるようにレンズを品川ちゃんの机に向ける。俺は躊躇いなくシャッターを押した。シャッター音とフラッシュにざわめきが教室に広がった。

 それでいい。わざわざ声に出して注目を集めたり、隠すことなく撮影をしたのも狙ってやっている。

 

「よし、証拠は残したぞ。さっさと掃除してしまおうか」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんが雑巾を用意してくれた。このクラスの雑巾を使っているのに誰も何も言わない。俺は品川ちゃんの机の拭き掃除を終えて額の汗をぬぐった。

 さて、俺が「証拠」という単語を使ってからいじめっ子達の顔色が悪くなったな。カメラを持ってくるのは校則違反だが、いじめを容認しているこのクラスでそのことを先生に伝えたりなんてしないだろう。別に先生に言いたいなら言えばいいけどな。まだ二つだがこっちには「証拠」があるのだ。それがわかりやすいように口に出してやったしな。

 こっちが証拠集めをしているというアピールが重要だ。相手からすればどこまで証拠を集められたなんてわからないからな。少なくとも堂々といじめたりなんてできなくなるだろう。

 

「じゃあ秋葉ちゃん。私達は行くね。何かあったら友達の私達になんでも言ってね」

「そうよ。あたし達五年生はあなたの味方なんだからね」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんが打ち合わせ通りに牽制してくれる。小学生でも上級生というのは大きな存在だからね。しかも二人は五年生の中でも目立つ存在だ。下級生からすればより大きく見えるだろう。

 そうなるとおいそれと品川ちゃんに手出しできないはずだ。それでも確実じゃないからこそもっと協力者が必要なんだけども。

 昼休みにはいっしょに過ごすと約束できた。それでもそれまでの休み時間で何かをされる可能性があるのだ。俺達は次の行動へと迅速に移らなければならない。

 

「秋葉ちゃん、大丈夫かな?」

 

 教室を出て五年生の校舎に向かう途中、葵ちゃんが心配げに何度も振り返っていた。

 絶対に大丈夫だなんて言えない。だけどこれだけのアピールをしたのだ。もし人目につかないようないじめをしたとしても俺達の耳に入るとわかるはずだ。……ちゃんとわかってるよね?

 

「なんとかするためにも、俺達は昼休みまでに仲間集めをがんばろう」

「うん、そうだね」

 

 昼休みまでに俺達がやることは五年生の協力者を募ることだ。

 いじめっ子達には上級生の圧力というものを受けてもらう。そのための仲間集めだ。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんだけでもかなりの人を集められるだろう。そこへ小川さんや、少しだけしゃくだが本郷の協力を得られれば五年生のほとんどの生徒は味方になってくれるはずだ。

 たくさん味方がいれば四年生も仲間に引き入れられるだろう。そうしていけばあのいじめっ子達は少数派になっていく。いつになっても少数派は肩身が狭いもんだからな。

 五年二組は葵ちゃんと瞳子ちゃんに任せていれば問題ないだろう。俺は俺で自分のクラスメートの説得だ。

 二人と別れて自分の教室へと入る。赤城さんと佐藤がいたので早速声をかけた。

 

「そうなんだ。あたしにできることがあったらなんでも言って。協力する」

「僕も! してほしいことがあったらすぐに言うてや。全力で力になるで!」

 

 赤城さんはいつもの無表情ながらも真剣な面持ちで、佐藤は腕まくりをして出ない力こぶを作ってやる気を示してくれた。

 

「二人とも、本当にありがとう」

 

 素直に想ったことが口から出ていた。二人が頼れる友達で本当によかった。

 あとは本郷だ。彼の協力を得られれば一気に味方が増えるだろう。

 本郷の姿を探すが、まだ教室に来ていないようだ。時計を見ればもうすぐチャイムが鳴ってしまう。続きは授業終わりの休み時間だな。そう思ったところで本郷が教室に入ってきた。ギリギリかよ。

 まあ俺も四年生の教室に寄っていたから赤城さんと佐藤を説得するだけで時間ギリギリだった。焦らず次の休み時間までにどう説得するか考えておくか。

 一時間目の授業を終えて、俺はすぐに本郷の元へと向かった。

 

「本郷、ちょっと話があるんだけどいいか?」

「なんだよ高木。真面目な顔してなんかあったのか?」

「まあいいからこっちに来てくれないか」

 

 本郷は爽やかスマイルで「いいぜ」と頷いてくれた。人の少ない場所に移動して手早く品川ちゃんの事情を説明する。

 俺はなんだかんだで本郷は悪い奴じゃないと思っている。話せばわかってくれるし、誰かのピンチには立ち上がってくれる奴だと思っていた。

 

「――というわけなんだ。彼女をいじめから助けるために本郷も手を貸してくれないか?」

「……」

 

 だからこそ、言い終えて本郷の表情を見た時、俺は思わず首をかしげそうになってしまった。なぜなら彼らしからぬ強張った顔をしていたからだ。

 さらに本郷の次の言葉を聞いて、俺は大いに戸惑ってしまうこととなった。

 

「お、俺には……できない……」

 

 



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56.本郷永人は忘れられない

本郷視点となります。


 あれは小学三年生の頃のことだった。

 同じクラスに木之下瞳子という女子がいた。銀色の髪に青色の瞳をしていて、みんなとは違ってて目立っていた。

 

「先に言っとくけど、あたしに触ったらぶっ飛ばすわよ」

 

 クラスの男子に向かってギロリと睨みつけながらそんなことを言っていた。女子のくせに、とは言えない空気だった。それほどの迫力があったのだ。

 そのおかげなのか、木之下に群がろうとする男子はいなかった。それでも遠くから木之下を見つめる男子はいた。確かにあの見た目は珍しいからな。俺だって初めて見た時は二度見どころか三度見くらいしてた。

 反対に俺にはたくさんの女子が群がってきた。よくわからないけどきゃーきゃーとうるさい。木之下みたいに「ぶっ飛ばす」とでも言ってみようか。そんなことを言ったのがばれたら母さんにボコボコにされるな。やっぱやめとこう。

 俺にとって学校は勉強しなきゃいけないからできれば行きたくない場所だった。体育ではクラスメートの男子に負ける気がしない。それよりもサッカーチームで練習している方が何倍も楽しかった。

 

「あんた、手を抜いてるんじゃないわよ」

「あ」

 

 体育でサッカーをしている時だった。通っているサッカーチームに比べて楽勝過ぎてあくびが出そうになっていると、俺が持っていたボールを取られた。

 取ったのは木之下だった。男子よりも鋭い動きでそのままゴールを決めていた。体育のサッカーで自分がやられるなんて思っていなかっただけに、間抜けにも口を開けてただ見ているだけしかできなかった。

 たぶん、俺が木之下を意識したのはこの時からだったと思う。

 本気を出せば俺の方が上だ。それは間違いない。それでも俺が本気を出せるのは木之下だけだったのだ。それが面白くて、体育が楽しいと初めて思ったんだ。

 

「なあなあ木之下。これからサッカーやるんだけどいっしょにやらね?」

「やらないわよ。あたしこれから俊成のところに行くんだから」

「俊成?」

 

 木之下はあまり俺とは遊んでくれなかった。それがつまらなくてたまらなかった。

 木之下以外の女子は俺が話しかければ嬉しそうに応えてくれる。というか聞いてないことまでしゃべっていてうざいくらいだった。

 でも木之下はわざわざ俺に話しかけてこないし、俺が話しかけても素っ気ない。いつしか木之下にどうやったら反応してもらえるかと、そればかり考えるようになっていた。

 木之下を見ていると数人仲良くしている女子がいるのに気づいた。木之下みたいに目立っているわけじゃない。地味な女子ばかりだ。

 俺はそいつらに話しかけてみた。情報収集ってやつだ。

 

「なあお前、木之下と仲良いのか?」

「えっ!? ほ、本郷くん?」

「俺、聞いてんだけど」

「あ、う、うん……木之下さんとはと、友達だけど……」

「ふうん」

 

 俺が話しかけたのは御子柴という女子だった。同じクラスの女子で木之下としゃべっているのを見たことがあったのだ。

 そいつはとても地味な奴だった。それになんか着ている制服が汚い。ちゃんと洗濯してんのかって思った。

 

「お前、なんか臭いな」

 

 思ったことをそのまま口にしていた。その時は何も考えてなかったけど、それを聞いていたクラスの奴等が御子柴を「臭い」と言うようになった。

 俺は何も感じてはいなかった。御子柴がどんな気持ちになっていたかなんて一つも考えてなかったんだ。

 

「本郷! あんた女の子にひどいこと言ったんですってね!!」

 

 俺は何もわからないまま木之下に張り倒されていた。

 話を聞いていると木之下は御子柴がクラスのみんなから「臭い」とからかわれているのに気づいて問いただしたらしい。それで一番に言いだしたのが俺だと聞いて怒っているようだった。もちろん他にからかっていた奴らも怒られていた。

 木之下に言われて俺は御子柴をいじめていたんだってやっと気づいた。いじめはよくないって母さんに言われてたのに、気づかずに俺はそれをやってたんだ。

 

「御子柴さんに謝るまで、あたしあんたを許さないから」

 

 そう言われて、悪いことをしたんだっていうのが心に刺さった気がした。それなのに、わかってても謝るなんてかっこ悪くてできなかった。謝らない俺に対して、木之下はただでさえ素っ気なかった態度が余計に悪くなった。近づけば睨みつけられるようにもなった。

 木之下にそんな態度を取られる度にいじめをしてしまったという気持ちが大きくなる。時間が経つにつれて段々と謝るのが難しくなってくる。

 このまま時間が経てば、みんな俺が御子柴に言ってしまったことを忘れてくれないだろうか? いつしかそう思うようになっていった。

 そうして何も言えないまま、俺は五年生になった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 高木に四年生のいじめを止めるために協力してくれと言われた。それを俺は咄嗟に断っていた。

 俺は自分でも何を言うかわからない。男子ならいいけど、できるだけ女子を相手にはしたくなかった。

 誰かをいじめたことのある俺が、いじめを止めるために協力するなんてできるわけがない。せっかく木之下と違うクラスになれて三年生の時のことを忘れられると思ったのにっ。

 高木は余計なことをしようとしているんじゃないか? そう思うことによって高木から離れようと思った。いじめについて考えたくなかったから。俺はまた自分がやってしまったことから逃げようとしていたんだ。

 

「本郷。ちょっとこっちに来なさいよ」

 

 休み時間になって話しかけられてまたかと思った。俺は協力なんてしないと断ろうとして、顔を上げてぎょっとした。

 目の前には木之下がいた。腕を組んで席に座っている俺を見下ろしていた。

 木之下には逆らえない。俺はついて行くしかなかった。

 

「俊成から聞いてるんでしょ? あんた、協力しなさい」

 

 あんまり人のいない廊下にくると、木之下はそんなことを言った。

 なんだか木之下に怒られた時のことを思い出してしまう。苦い記憶に顔が硬くなる。

 

「お、俺にはできないって……」

 

 いじめに関わりたくない。そればかりが頭の中でいっぱいになる。

 知らず誰かをいじめてまた怒られたくない。俺は失敗したくなかったんだ。

 バン! と俺の顔の横を通過した木之下の手が壁を叩く。いきなりでびっくりしてしまった。ちょっとだけだけど殴られるかと思ってしまった。

 

「できないとかやりたくないとかそんなの聞きたくないのよ。あたしは協力しろって言ってんの」

 

 ものすごく強引だった。木之下が俺を睨み上げている。強気な彼女に俺はびびっていた。木之下の青色の瞳に映っている俺の顔を見ているとそれがわかる。

 息がかかりそうな距離で、木之下がはーと息を吐いた。

 

「……本郷あんた、ちゃんと後悔してるんでしょ」

「な、何が……?」

「御子柴さんのことよ」

 

 木之下は忘れていなかった。俺への態度を考えればわかっていたけどショックだった。

 木之下の顔が見れなくて横を向く。それなのに木之下はやめてはくれない。

 

「……ごめん。あたしもあんたに対して態度が悪かったわ。それは謝る」

 

 頭を下げる木之下を見て信じられない気持ちになる。知らず目を見開いていた。なんで俺が彼女に謝られているのかわからなかった。悪いことをしたのは俺のはずなのに。

「でも」と言いながら木之下は頭を上げる。その目はやっぱり鋭かった。

 

「あんたが御子柴さんに謝らないなら許さないのは変わらないから。ちゃんと後悔してるんだったらあたし達に協力して、それから御子柴さんにも謝って。そうしないとあんただってずっと後悔したままじゃないの?」

「……」

 

 何も言い返せなくて、その通りかもしれないと思ってしまった。いや違う。かもしれないじゃなくてその通りなんだ。

 あの時言ってしまったことをずっと忘れられないでいる。いくら時間が経ったとしても、俺は御子柴を傷つけたことを後悔し続けるのかもしれない。

 だからこれはチャンスなのだろう。

 木之下はずっと俺を見つめ続けている。それがなんだか嬉しかった。俺はまだ彼女に忘れられていないんだ。

 

「……わかったよ。俺は木之下に協力するよ」

 

 自分でも力のない笑顔になったのがわかる。いろんな気持ちがごちゃまぜになったような笑いが漏れた。

 木之下がわずかにだけど口元を緩ませてくれた。それが初めて俺に向けられた彼女の笑顔なのかもしれなかった。

 

 




この話はおっさんは知らないままだったりします。その方が面白いかなーとか思ってみたり。


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57.キレる小学生

 俺が本郷の説得に失敗したことを葵ちゃんと瞳子ちゃんに報告すると、瞳子ちゃんが教室を飛び出して行ってしまった。葵ちゃんと顔を見合わせながらぽかんとしていると、休み時間が終わる前に帰ってきて「本郷が協力してくれるって言ったわよ」と親指を立てた。

 俺が言葉を尽くしても「できない」の一点張りだったくせに……。やはり奴も美少女には弱いということなのかっ。

 いやまあ、ここは瞳子ちゃんの説得力を褒めるべきだろうな。今は誰が説得したかなんて些細な問題なんだから。

 そんなわけで、昼休みまでに引き続き仲間集めをした。本郷効果もあって一気に仲間の輪は広がっていった。イケメンは強いのである。

 

「品川ちゃん、遊びに来たよ」

 

 給食が終わってからの昼休み。俺は葵ちゃんと瞳子ちゃんを中心とした女子グループと共に品川ちゃんのクラスを訪れていた。

 俺の朝の威嚇的な行動もあってか、教室中の空気が固まったような気がした。品川ちゃんだけがぱっと表情を明るくさせる。

 

「品川さん、いっしょにお話しよ?」

 

 いっしょについてきた御子柴さんが真っ先に前に出て品川ちゃんの手を取る。大人しい印象だった彼女の積極的な行動に俺は感心した。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんが警戒するように教室を見渡す。この学校の二大美少女を敵に回したくないのか、クラスの四年生は身を小さくしていた。

 

「あんた達何よ?」

 

 同じくついてきた小川さんが口を開いた。彼女の視線の先にいたのは森田を中心としたいじめっ子どもだった。

 

「い、いや……なんでも……」

「んー? はっきりしないわねー」

 

 背の高い小川さんは女子ながらも迫力があった。身長だけなら体格の良い森田にも負けていない。

 怖気づいてしまっているいじめっ子への興味を失ったのか小川さんは教室にいる女子に声をかけていた。年下相手でも顔見知りは多いようだ。

 小川さんの存在は大きい。彼女が味方についていると認識させるだけでも、品川ちゃんをいじめるリスクが高いのだと思わせることができるだろう。弱い者いじめをしようなんて奴ならそれだけでも手出しできなくなるはずだ。

 俺たちは品川ちゃんをつれて教室を出た。森田達から隠すように五年生の教室へとつれて行く。

 

「品川ちゃん、何かされたりしてないか?」

「う、うん……。だ、大丈夫、です……」

 

 その答えにほっとする。朝にやった威嚇は効果があったようだ。

 

「五年生はみんな品川ちゃんの味方だからね。だからもう大丈夫だよ」

 

 葵ちゃんに瞳子ちゃん、佐藤や本郷に赤城さんや小川さんだっている。他にもたくさんの子達が品川ちゃんのために協力してくれるのだ。

 あとはみんなに四年生から話を聞いてもらって証言を集めるのだ。小川さんのように仲良くしている子がいるなら、品川ちゃんのクラスの子からも話が聞けるだろう。

 下校は十人以上の子が品川ちゃんといっしょに帰ってくれた。赤城さんや小川さん、方向が全然違うのに佐藤や本郷までついてきてくれた。

 

「これだけいれば安心ね」

「だね。秋葉ちゃんも嬉しそう」

 

 瞳子ちゃんと葵ちゃんが言うように、品川ちゃんは笑顔を見せてくれていた。御子柴さんを始めとした女子達と楽しそうにおしゃべりしている。

 俺達としてもこれだけの大人数で下校することなんて滅多にない。みんなもそうなのかけっこうテンションが高いように思えた。

 

「俊成、あれ」

「ん? あいつら……」

 

 瞳子ちゃんに腕をつんつんとつつかれて指し示された方を見てみれば、森田達いじめっ子集団がいた。遠目から見ても森田以外は顔を青ざめさせているのがわかる。さすがに戦力差というものを思い知ったと見える。

 

「高木、どうしたんだ?」

「あそこに男子連中がいるだろ。あいつらが品川ちゃんをいじめていた奴等なんだよ」

 

 本郷が俺の視線の先を追って「ふぅん」と目を細める。

 

「何人かは同じサッカーチームの奴だな。そいつらには俺がきつく言っとくよ」

「お、おう……。頼んだぞ」

 

 本郷の声色が冷ややかな感じになってびっくりした。おいおい、いつもの爽やかな本郷くんはどこ行ったよ?

 なんだかんだで本郷は体育会系だからな。彼の言う「きつく」というのは本当に言葉通りなのだろう。上級生怖い。

 結局、下校中のいじめはなかった。森田だけが俺達を睨みつけていたくらいだ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 品川ちゃんのいじめを止めるために動き始めて一週間が経った。俺達を中心に五年生が品川ちゃんを守るために動いた甲斐もあってか、彼女へのいじめはぱったりと止んでいた。

 いじめを止める。その第一段階の目的は達成したと言えるだろう。

 次にすることはいじめっ子達へのお仕置きだ。いじめをやめたから勘弁してください、なんてのは通らない。品川ちゃんに対してあれだけひどいことをしていたのだ。きっちり反省してもらうためにも、それは必要なことだ。

 聞き込みの結果、品川ちゃんをいじめていたのはあの森田を含めた男子共だけだというのが確定した。他のクラスメート達は森田が怖くて何も言えなかったのだそうだ。

 四年生もほとんどが味方になってくれた。これに関してはやはり小川さんと本郷の力が大きかった。とくに本郷はスポーツのできる子達からは慕われているようで、その子達が中心となって品川ちゃんを守るために動いてくれたようだ。おかげで目の届かない休み時間の間も安心して任せられた。

 子供達の味方はこれで充分だろう。今度は大人の味方だ。

 聞けば品川ちゃんのクラスの担任は気の弱い女性教師らしかった。こういうのは子供でも目ざとく気づいてしまうものだからな。だからこそ舐め切ってしまった森田達いじめっ子どもが調子に乗ってしまったのだろう。

 それにしても、他の先生方は品川ちゃんのいじめのことを知らないのだろうか? 知らないとしたらその担任が保身のためにあえて報告していないのかと邪推してしまいそうだ。

 どうしても疑いの目で見てしまう以上、この担任以外の先生の協力が必要に思えた。品川ちゃんの担任を巻き込まない選択肢はないのだが、その人だけに頼るのは不安過ぎる。

 まずは一人。そこからあと数人引き込めば学校側としても周知の事実となるだろう。

 どの先生に相談するか。俺は葵ちゃんと瞳子ちゃんと相談した。

 話しやすいのは五年生の担任の誰かだろうか。他の先生にも声をかけたいが、まずは信頼できる先生を味方にする。そうすればその先生を通して他の先生を引き込めるだろうと考えた。

 品川ちゃんの担任のこともあるので男の先生が望ましい。それを念頭に考えたら、五年生では二組と四組の担任が男性なので、頼むとしたらこのあたりだろうか。

 確か四組の担任は生徒から「おじいちゃん先生」と呼ばれているほどには年配だったか。性格も穏やかであまり怒るイメージが湧かない。

 てなわけで、消去法で申し訳ないと思いつつも五年二組の担任を説得することにした。葵ちゃんと瞳子ちゃんの担任でもあるから声をかけやすいだろうしね。

 

「――というわけなんです。先生の力を貸していただけませんか?」

「うーむ……」

 

 放課後、俺はすぐに五年二組の教室に突撃し、先生を捕まえて説得をした。

 事情を知っている二組の生徒達も集まってくれて俺の話にうんうんと頷きで同調してくれた。そんな生徒たちに囲まれて先生は厳しい表情を浮かべている。

 

「しかしなぁ……、それは四年生の問題だろう?」

 

 この乗り気ではない反応はまずいな。面倒事には巻き込まれたくないって考えが漏れている。少しの苛立ちを握り拳を作って耐えた。

 

「四年生の問題だろうが俺達五年生はこのいじめを見過ごせないんですよっ。実際にその男子達が女子一人を寄ってたかって暴力を振るっているところだって見たんですから」

「それは見間違いってことはないのか? ほら、いじめていると思ったら遊んでいただけだったなんてのはよくある話だ」

 

 この教師……っ。どうやら俺をイライラさせる才能があるらしいな。

 いじめをなくそうという考えは、決していじめをなかったことにしようという意味ではない。たとえ子供の話だとしても、こんな内容を考えたら調べようとするもんじゃないのかよ。

 この男教師にこだわる必要はない。それでも、こんな先生ばかりだったらと思うとここで退くなんてできなかった。

 俺は二枚の写真を取り出した。それを先生に見えるように差し出す。

 

「先生、これを見てください」

「なんだこれは? 下駄箱と机か? どっちも汚いな」

「これは品川さんがいじめられているという証拠の一つです。ただの一端ですけどね」

 

 写真に写っているのは、俺が撮った品川ちゃんのゴミを入れられた下駄箱とチョークの粉で汚された机だった。

 

「もちろんこれ以外にも証拠の写真はあります。それに、四年生の子達も品川さんへのいじめを見たという証言だってありますよ」

 

 証言を集められたのは本当だが、写真に関しては今出したこれだけだったりする。つまりはハッタリだ。

 品川ちゃんへのいじめをさせないようにしていたために、証拠の写真はこれ以上得られなかった。だがそれでいい。これ以上品川ちゃんに悲しい想いをしてほしくなかったし、たくさんの目撃者がいるのだからそれだけでも充分だった。

 

「う、うーん……、だがなぁ……」

 

 ……まずこの教師から殴ってやろうか。そんな風に思ってしまった。クールダウンだ俺。

 なおも渋い反応を示す先生に、俺はさらに切り込むことを決める。

 

「もし先生方に動いてもらえないようでしたら、俺はこのいじめの詳細を保護者達に広めようと思います」

「なっ……! そ、それは大ごと過ぎるだろ!」

「ええ、だから先生に相談しているんですよ。大ごとにしないためにも先生からいじめている子達へ何かしらの罰を下してほしいんです。そうすれば俺達だって親に頼る必要がなくなりますからね」

「……」

 

 先生は思案顔になってしまった。無言になってしまい、なかなか答えを返してくれない。これでも足りないのか?

 教師ってこんなにも腰が重たいもんだったっけか? いやまあ、教師だって人だから、やっぱり人それぞれってのはわかるんだけども。それでも先生としての対応を求めるのは間違っていないはずだ。

 目の前の男教師を説得できないようなら、この先の先生達への説得もスムーズにいかないだろうと覚悟しなければいけない気がした。

 みんな黙って先生の答えを待っている。そんな時だった。

 

「多賀先生」

 

 鈴を転がすようなかわいらしい声で、葵ちゃんが先生を呼んだ。ちょっとだけ先生の鼻が伸びたのは気のせいだろうか。ちなみに多賀というのは五年二組の担任の名前である。

 

「ちょっと、あっちで私と二人だけでお話しませんか?」

「み、宮坂と二人だけか?」

「はい。いいですよね?」

「ま、まったく……仕方がない奴だ」

 

 多賀先生は葵ちゃんに手招きされて教室の外へと出て行ってしまった。これには俺達も顔を見合わせるしかない。葵ちゃんからは何も聞いてはいなかったからだ。

 けれど、葵ちゃんにも何か考えがあるのだろう。俺はざわつくみんなをなだめながら彼女を信じることにした。

 

「なっ!? い、いや! お、俺は見てないぞ! そ、そんな……、せ、生徒のそんなところを……教師がみ、見るわけがないだろっ!」

 

 教室の外から多賀先生の声が聞こえた。何を話しているのかはわからないがひどく動揺しているようだ。ちょっと声が裏返ってたし。

 葵ちゃんの声は聞こえない。たぶん小声なのだろう。先生の方は焦りからか声が大きくなっているけどな。

 全部が聞こえるわけではないが、それでもいくつかは漏れ聞こえてくる。

 

「……わ、わかった。そのいじめの件は真剣に対応しよう。だ、だからそのことは広めないでくれ。な?」

 

 俺達は揃ってしんと静まり返った。何か葵ちゃんがとんでもないことをしているのではないかという疑念を抱いてしまったからかもしれなかった。

 ガラリと教室のドアが開く。葵ちゃんと先生が戻ってきたのだ。

 ニコニコとかわいらしい笑顔の葵ちゃんと、真剣というか切羽詰まったような表情の先生が印象的だった。なんだか詮索してはいけない気がしてしまう。

 そして、多賀先生は重々しく口を開いた。

 

「わかった。いじめの件は俺が責任を持って取り組もう」

 

 先ほどと打って変わっての真摯な対応である。その表情はなんというか、真剣さを帯びているということで間違いはないのかな?

 うん……。俺は葵ちゃんのこと信じてるからね。信じてるから先生に何を言ったかなんて聞く必要なんかないね。うん。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 先生を説得してからは早かった。

 多数の生徒からの目撃証言もあったので、学校側としても早急に動いてくれたのだ。

 品川ちゃんと森田達を集めて、先生達から今後いじめがないようにと厳重注意があったそうだ。それだけだったら抗議ものだったのだが、多賀先生がいじめはどれだけ人を傷つけ、不幸にしてしまうものなのだと涙ながらに熱く語ってくれたらしい。これにはいじめっ子の奴等も泣いてしまったのだそうだ。どんな話をしたのかちょっと気になるな。

 それからいじめっ子達の保護者にも話は伝わり、品川ちゃんの家を訪れて親子揃って謝罪したらしい。いじめっ子達の親がモンスターではなかったようなのでそこはよかった点だろう。きっと親からの愛の再教育を受けているに違いない。

 さらに学校からの罰として反省文を書かされているのだとか。反省に終わりはないからな。どれだけ自分達がひどいことをしたのかというのを時間をかけて意識し続けてもらった方がいいだろう。

 そんなわけで、品川ちゃんに対するいじめは一応の決着を迎えたのだった。品川ちゃん自身もこのことがきっかけとなって御子柴さんを始めとした五年生や、同級生の女子達と仲良くなった。よく好きな漫画についておしゃべりしている。それはもう楽しそうな顔だった。

 下校はもう俺達がついていなくても大丈夫なようで、品川ちゃんは仲の良い女子と帰りを共にしている。俺はまた葵ちゃんと瞳子ちゃんの三人で帰るようになった。

 

「俺、用事があるから二人は先に帰っててよ」

「トシくん? 用事なら私待ってるよ」

「あたしだって今日は時間があるから気にしなくてもいいわよ」

「いやー、ちょっと遅くなっちゃうというか。たまには俺だって男の用事があると言いますか」

 

 放課後、適当なことを言って葵ちゃんと瞳子ちゃんには先に帰っててもらった。俺は一人でとある場所へと向かう。

 見通しが悪く暗い雰囲気の空き地。そこは俺が初めて品川ちゃんのいじめを目撃した場所だった。

 その空き地には一人の男の子がいた。小学生の中では体格がよく、六年生と比べても遜色ない。今の俺では見上げなければならなかった。

 

「よう、待ったか?」

 

 俺が軽く手を上げるとその男子、森田はぴくりと眉を動かした。

 

「お前か? 俺を呼び出したのは」

「上級生をお前呼ばわりしちゃいけないでしょうに。まったく、反省してんのかね」

 

 俺の言葉に森田の顔が怒りで歪む。その顔を見て、こいつは全然反省なんてしてないんだろうなと思った。

 

「なんだよ! いつまでもいつまでもみんなして文句ばっか言いやがって! うぜーんだよ!!」

 

 森田は近くの小石を蹴飛ばした。この様子を見るに、品川ちゃんをいじめていたということをまだ誰かに責められているようだ。

 まあ、そんなこと関係ないんだけどな。

 

「森田、お前を呼び出したのは俺だ。ちょっと用事があったんだよ」

 

 俺は森田を手紙で呼び出したのだ。来てくれるかどうかは半々だったけれど、まあ来てくれたのでよしとしよう。

 森田が睨みつけてくる。それ四年生の眼力じゃねえな。さすがは猿山の大将だったというだけはある。ただの猿だけどな。

 俺は背負っていたランドセルを地面に置いて森田へと近づく。

 

「なあ森田、俺とケンカしよう」

「は? 何言ってんだよ! バカじゃねえの!」

 

 俺が何気ないように口にした言葉に森田が噛みついてくる。

 ふぅ、と小さく息を吐いた。もう限界だった。俺は爆発したように怒鳴っていた。

 

「俺はお前をぶん殴りたいって言ってんだよ! バカ野郎!!」

 

 



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58.わかり合えないなんて思い込み

 俺の言葉に森田は呆けてしまっていた。

 

「は、はあ? 何言ってんだよお前」

 

 相変わらずのお前呼びか。今はそんなことどうだっていいか。

 

「聞こえなかったのか? 俺は森田、お前をぶん殴りたいって言ったんだ。だからケンカしたいんだよ」

「それがわけわかんねーつってんだよ!」

 

 おお、怒鳴るねぇ。体だけじゃなく声も大きいもんだから迫力がすごい。知らなかったら下級生だなんて思わなかっただろうな。

 でも、下級生だからって許してやる気はないけどな。

 

「わけわかんねー、じゃねえんだよ! 俺は弱い者いじめしてたお前の方がわけわかんないね」

 

 森田は俺を憎々しげに睨みつける。その目はちょっと小学生らしくないんじゃないかな。

 心臓がバクバクと鳴っている。手のひらにじんわりと汗が出てくる。この緊張を悟られてはいけない。

 口の中が渇く前に唇を舐める。声に緊張が伝わらないように言葉を続ける。

 

「まさか大勢で一人の女の子をいじめることはできても、一対一のケンカはできないって言うんじゃないだろうな? それはさすがにかっこ悪いにもほどがあるだろ」

「……いいぜ、やってやらあっ!!」

 

 森田は自分のランドセルを放り投げると拳を握った。簡単に煽られてくれて助かる。

 これから俺がやることは余計なことなのだろう。もう品川ちゃんはいじめられないだろうし、森田達いじめっ子一同はきっちり制裁を受けている。これからの他の子達から向けられる目を考えれば充分過ぎる罰を受けているように思えた。

 それでも、こればっかりは心の問題である。大人になればそうそう手をだせるものではないが、今の俺は子供だ。子供のうちでしかできないことをやりたいのだ。

 森田が肩を怒らせながらずんずんと近づいてくる。俺は精一杯の余裕を見せるようにゆっくりとした足取りで前へと出た。

 近づくにつれて森田の体の大きさが圧迫感となって俺を襲う。奴の方が俺よりも年下なのに、見上げなければならないほどに身長差があった。

 手が届く距離になる。すかさず森田は右手を振り上げた。

 これはテレフォンパンチだ。冷静に見ていれば俺にだって避けられるほどに予備動作が大きかった。

 しかし、それをあえて真っ向から受ける。森田のパンチが俺の顔面を打った。

 

「ぐっ!?」

 

 呻いたのは俺ではなく森田だった。俺を殴った右手を押さえている。

 だけど俺だって超痛い! 小学生のパンチだなんてとバカにはできないくらいに痛い。モロに喰らったのだから痛いのは当たり前だろうが、少し涙が出そうになるくらい痛かった。歯を喰いしばってなかったら耐えられなかったかもしれない。

 それでも泣くのは論外だ。倒れてもやれない。避ける気すらない。

 

「うらあっ!」

 

 反撃で思いっきり森田の顔をぶん殴ってやった。硬い感触が拳に響く。たたらを踏んだものの、森田は耐えやがった。

 互いに一発ずつ相手を殴った。こうなってしまえばもう止まらない。本格的に殴り合いのケンカの始まりだ。

 今世だけでいうなら殴り合いのケンカをするのは初めてとなる。俺はケンカをするというよりも、その仲裁に入ることが多かった。葵ちゃんにちょっかいをかけようとする子が多かったので、そういう立ち回りにならざるを得なかったという事情もある。

 それに、さすがに小学生相手にケンカだなんて大人気ないと思っていた。子供が怒ってもどうやってあやしてやればいいのかと、そんな風に考えてしまっていたのだ。

 

「おらあっ!!」

「この野郎っ!!」

 

 森田に殴られ、負けじと俺も反撃する。殴り殴られのノーガードで拳を繰り出していく。

 森田は体格が良いだけじゃなかった。動きが機敏で力の伝え方をよくわかっている。テレフォンパンチは最初だけで、それからのパンチは淀みなく繰り出してくる。何か格闘技でもしているのかもしれなかった。

 俺だって格闘技をしているわけじゃないが、それでも朝の走り込みと水泳をしているので運動はできる方なのだ。人を殴るという行為は鍛えていないけど、小学生相手には負けるだなんて思っていない。

 思っていなかったのだが……。

 

「ぐふっ」

 

 上から叩きこまれるように殴られ思わず声が漏れる。けっこう効いたみたいで膝が震える。頭だってクラクラだ。

 顔ばかり殴られている。いや、顔だけ殴らせている。骨の硬さに、森田は殴る度に表情をしかめていた。

 

「おうおう、つらそうだな森田」

「その顔で言われたくねーよ!」

 

 どうやら俺もひどい顔をしているらしい。けっこう殴られて顔の形が変わってんじゃないかって心配になる。

 しかしそれは森田も同じだ。俺に殴られて顔にアザができている。自分でやっといてなんだが、見るだけで痛々しい。

 俺と森田は二人揃って肩で息をしていた。つらい、しんどい、痛い。そんなことばかりが頭というか、体中に響くように訴えられているようだ。

 それでも絶対に負けるわけにはいかないのだ。根性、根性、根性! 意地の張り合いで子供には負けてられないのだ。こんなんでも、前世では大人として生きてきたのだから。

 森田は一旦俺から距離を取る。すぐさまステップを踏むように接近したかと思えば、顔の位置に蹴りが飛んできた。小学生がハイキックかよっ!

 咄嗟に体が逃げようとして、それを意志を持って押し留める。風切り音を立てながら迫ってくる足を、一歩踏み込んで額で受け止めた。

 

「づっ!?」

 

 弁慶の泣きどころに頭突きをかましてやったのだ。痛みが強いのは森田の方だろう。

 蹴り足を下ろすと痛みからか膝が折れていく。すると自然に森田の顔の位置が近くなる。

 今だ! 瞬時にそう思って攻撃的に踏み込んだ。

 力いっぱい腕を突き出す。俺の左が森田の鼻を捉えた。すぐさま返しの右で奴の顎を撃ち抜いた。

 いい加減拳が痛くて仕方ない。そう思った時には森田は倒れていた。

 殴り殴られのケンカは、ようやく終わりを迎えたようだった。

 俺も膝がガクガクだ。それを必死で押さえ込み、森田へと近寄った。

 仰向けで倒れている森田から鼻をすする音が聞こえてくる。なんとなく気まずくなって頭をかいた。

 

「おい森田」

「……」

 

 反応はない。意識を失っているわけではなく、ただ単に泣いてしまうところを見られたくなくてふてくされているように見えた。

 そんな泣かしてしまった小学生を相手に、俺は声をかけるのだった。

 

「……立てよ。ジュースおごってやるからさ」

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「とりあえず、顔冷やしとけよ」

 

 近くの自販機で森田にコーラを買って渡してやる。言われたとおりに冷たいコーラの缶を顔に当てている。素直だな。

 俺も同じように冷たい缶で顔を冷やす。腫れて熱を持っていたので気持ち良い。

 しばらくそうして顔を冷やしてから缶ジュースを口に含んだ。口の中を切っていたみたいで涙が出そうなくらい染みた。

 無言でちびちびとジュースを飲む。チラリと見れば、地面に座り込んでうつむいている森田が缶に口をつけるところだった。

 

「いだっ!」

 

 どうやら森田も口の中を切っていたようだった、その反応に噴き出してしまう。

 

「わ、笑わなくても……」

 

 言葉は途中で尻すぼみになって消えていく。一応ケンカに負けたという自覚はあるらしい。なんか大人しいし。

 

「痛いか?」

「まあ……、あれだけ殴られたんで」

「顔じゃなくて手だよ。俺を殴った時、痛かっただろ?」

 

 森田は小さく頷いた。彼の拳は赤くなっていた。

 

「普通誰かを殴るってのは痛いもんなんだよ。痛いのを知らないまま暴力を振るってたんなら、お前は立派ないじめっ子だ」

「……」

「上級生と一対一でケンカができるような奴が、なんでまたいじめなんかしてたんだよ?」

 

 単純に疑問だった。なぜ品川ちゃんをいじめたのか俺にはわからない。いじめっ子の理屈があるのなら聞いてやろうと思ったのだ。

 森田は地面に視線を落としたまま動かなかった。何かをしゃべろうとする気配はない。それでも忍耐力では負けまいと黙って待ち続けた。観念したのか森田が口を開く。

 

「……別に、理由なんかなくて」

 

 そう言いながらも、森田はぽつぽつと語り始めた。

 自分に当たり散らす親のこと。空手の道場で実力のある自分を気に食わないと嫌がらせをしてくる上級生のこと。うまくいかない学校の勉強のこと。そういうイライラするものが積もりに積もって八つ当たりするみたいに品川ちゃんをいじめてしまったらしい。

 それにしても空手やってたんだな。道理でいいパンチしていると思ったよ。たぶんもうちょっと大きくなると俺じゃあ勝てなくなるんだろうなぁ。まだダメージが抜けていない頭でぼんやりそんなことを考えた。

 

「そっか」

 

 それが森田の話が終わっての俺が返した言葉だった。ただ頷いただけで、フォローなんて何もない。

 その代わりに拳骨を落とした。

 

「いって~~!!」

 

 大袈裟に頭を押さえる森田。コーラを落とさないようにしているところを見るに、それほど痛くはないのだろうなと判断する。次は本気で殴ってやろう。

 

「わかった。森田が品川ちゃんに甘えてるってのがよーくわかった」

「なっ!? 俺はあんなガイコツメガネに甘えてなんか――」

 

 無言で拳骨を落とした。今度は力を入れていたのでさすがに森田も悶絶する。それでもコーラは零さなかった。

 

「そういうあだ名は禁止な。守れないなら森田にも最低最悪のあだ名を広めてやるからな」

「うっ……ぐぅ……」

「でだ。話は戻るが、結局はストレスが溜まったから反撃されないような子をいじめてたってことだろ。これが甘えじゃなくてなんて言うんだよ。お前ほんとダサいな」

 

 俺の言葉に森田はキッと睨んでくる。まだプライドは残っているようだった。

 しかし何も言い返すことはなかった。これはそういう自覚が少なからずあるものだと思いたいものだ。

 ジュースを一口飲んで。俺は話の方向を少し変えてみることにした。

 

「……森田はさ、どういう大人になりたいんだ?」

「どういう大人って……、急に言われてもよくわかんねえし」

「将来の夢を言えとかそんなんじゃないんだよ。もっと漠然としたものでさ。たとえばかっこいい大人になりたいとかさ」

「かっこいい大人ってなんだよ」

「かっこいいはかっこいいだろ。少なくとも卑怯でもないし、ずるくもない。もちろんダサくもないぞ」

「……」

「か弱い女の子を大勢で攻撃するってのは漫画じゃあ悪役の鉄板だろ。それも三下な奴な。敵役のザコみたいなことするのはかっこ悪いと思わないか?」

 

 森田はうつむいてしまっていた。大きな体が小さく見えてくる。自分のやってきたことを振り返っているのだろうか。そうあってくれと願う。

 俺はランドセルから一冊のノートを取り出した。

 

「これ、読んでみろよ」

「これは?」

「いいからいいから。とりあえず読んでみろって」

 

 頭に疑問符を浮かべながらも森田はノートを受け取った。ページをめくるとぽつりと呟いた。

 

「……漫画?」

 

 その言葉を最後に森田はノートに釘づけとなった。ページをめくる度に口元が緩んでいる。時折「くくっ」と堪え切れない笑いが漏れていた。それをキモいと言ってやるのはやめてあげた。

 

「これ……高木さんが描いたんすか?」

 

 森田の口から「高木さん」と呼ばれるなんて思ってなかった。ちょっとだけ背中がぞわぞわと変な感覚に襲われる。

 

「俺はそんなに上手く描けないよ。それを描いたのは品川ちゃんだ」

「え」

 

 彼が固まる暇すら与えないように続けた。

 

「品川ちゃんは確かに誰とでもおしゃべりできるような子じゃないかもしれない。大人しくてか弱い女の子かもしれない。それでも、目立たないだけでこんなすごい特技があるんだよ。それが受け入れられないっていうのは、とっても器が小さいと思わないか?」

 

 俺は森田の胸を叩く。大きな体が揺れた。

 

「親が、上級生が、学校が。それが気に食わなかったらお前は全部ダメになっちゃうのか? せっかくこれだけ大きい体があって、この俺と殴り合いのケンカができるんだからよ、自分で勝手に心を小さくしようとするなよ。かっこいい奴はみんなでっかい心を持ってるぞ」

「俺、は……」

 

 この後、森田の表情がくしゃくしゃに歪んでしまったのが印象的だった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「あー……、なんか説教くさくなっちまった……」

 

 あれから森田と別れて、俺は帰路に就いていた。

 奴の中の認識が変わってくれればいいのだが。変わってくれなきゃ俺って無駄に恥ずかしいことをしただけじゃないだろうか。なんか腫れとは違った熱を帯びてきた気がする。

 一人であーとかうーとか唸りながら歩く。もうすぐで家に辿り着く。帰ったらベッドに直行して悶絶する自信があった。

 そう考えていた時だった。急にぐいっと後ろに引っ張られる。あまりに突然なことだったのと、殴られたダメージが足にまできていたのもあって踏ん張ることができなかった。

 そんな俺の背中が誰かの手に支えられる。それから俺の視界にひょっこりと入ってくる少女がいた。

 

「トシくん。その顔どうしたの?」

 

 葵ちゃんだった。満面の笑顔のまま俺の顔を覗き込んでいる。彼女の笑顔が段々と近づいてきて、なぜだか圧迫感というか、緊張感みたいなものを感じてしまった。

 

「こ、転んだんだよ……」

 

 口からでまかせがぽろりと零れる。一応親への言い訳を考えていてよかった。おかげで口をつぐむことなく言葉が出てくれた。

 

「ふぅん? 転んだ、ねぇ……」

 

 今度の声は瞳子ちゃんのものだった。背中は彼女が支えてくれていたようで、手が離れると俺の顔をがっしりと掴んでくる。強引に横へと向かされて少し首が痛かったけれど、瞳子ちゃんの目が吊り上がっていたので痛みといっしょに声も飲み込んだ。

 

「葵」

「うん。トシくんこっちこっち」

 

 瞳子ちゃんに呼ばれると、葵ちゃんは俺の手を引いてどこかへとつれて行こうとする。なんだなんだ?

 抵抗できないまま、すぐ近くまで来ていた葵ちゃんの家へとつれ込まれてしまった。女の子二人に連行されて、葵ちゃんの部屋に入れられベッドへと座らせられる。

 何が何だかわからなくて、俺は二人のやることをただ黙ってみているしかなかった。

 葵ちゃんが部屋を出て行ってしまい、残った瞳子ちゃんが俺と向き合う。怒っているような、悲しんでいるような、なんとも形容し難い表情だ。

 

「あたし達はさっきまで俊成が何をしてたかなんて聞かないから。俊成、教えてくれなかったんだもの。だからあたし達は何も知らないの」

「え、う、うん……?」

「だから、これからあたし達のすることだって気にしないでよね。嫌って言われても勝手にやるから。俊成と同じね」

「は、はあ……」

 

 言ってる意味がわからなくて曖昧な返事しかできない。顔を殴られ過ぎて思考力が低下しているのだろうか。

 戻ってきた葵ちゃんの手には救急箱があった。どうやら手当てをしてくれるらしい。

 

「転んだ、のは顔だけなの?」

「う、うん。そうだよ……、痛っ」

「ほーらトシくーん。我慢してくださいねー」

 

 子供に優しくするような声色で葵ちゃんが俺の顔を消毒する。思いのほか痛くて声が漏れてしまう。

 でもこれくらい甘んじて受けよう。葵ちゃんと瞳子ちゃんはあくまで俺のやったことを追求しないでいてくれるようなのだから。

 俺が森田にやったことはわがままで自分勝手なことなのだ。そんな俺の都合を、二人に関わらせるわけにはいかない。

 

「はい。できたよー」

 

 葵ちゃんに手当てをされてけっこうひどいケガをしているんじゃないかって思えてきた。なんか顔がガーゼまみれになってるし。

 

「あたし飲み物取ってくるわね」

 

 今度は瞳子ちゃんが部屋を出て行ってしまう。彼女にとっては俺と葵ちゃんの家は自分の家とそう変わらないのだろう。

 ふっと、体が傾いた。

 ぽすんと頭が柔らかいものに包まれる。それをなかなか認識できない。やはり殴られ過ぎて思考力が落ちているらしい。

 

「トシくん」

 

 葵ちゃんの胸に抱かれていた。同年代の中では目を見張るほどの発育の良い部位に、俺の頭は包まれていたのだ。

 

「えっと……、服に血がついちゃうよ?」

「トシくんのなら気にしないよ」

「そ、そうか……」

「ねえトシくん」

「うん?」

「無理はしていいけど、無茶だけはしないでね」

 

 無理と無茶。葵ちゃんの中でどういう違いがあるのだろうか。

 ただ、彼女の俺に対する心遣いが伝わってくる。それが心地良くて目をつむってしまう。

 そんな俺は、人のことを言えないくらいに甘えた野郎でしかなかったのだ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「今まで本当にごめん!」

 

 後日、森田は品川ちゃんに改めて謝った。

 先生を挟んでの一回目、保護者同伴での二回目、そして今回の三回目。これが三度目の正直といってほしいものである。

 品川ちゃんと森田の要望で、俺がお目付け役に選ばれた。ここには俺達三人しかいない。

 

 森田はたくさん悪いことをした。俺が見たものと聞いたもの。それ以外にも知らないところでいじめをしていたかもしれない。

 一人の女の子の体と心を傷つけてきたのだ。謝って済むものじゃない。罪なんて消えてはくれないのだろう。

 だけど、少なくともそれを決めるのは俺じゃない。それを決められるのは品川ちゃんしかいないのだ。

 頭を深々と下げる森田に、品川ちゃんがおずおずとした調子で声をかける。

 

「本当に……謝ってくれてる、の?」

「本当だ! 今度の今度は本当の本当に悪かったって思ってる。だからごめん!」

 

 森田は九十度からさらに深く頭を下げる。案外体が柔らかいらしいこいつは自分の足につきそうなくらいまで頭を下げていく。かえって失礼じゃないだろうかと思った。

 

「う、うん……もう、いいよ……」

 

 品川ちゃんの言葉に、森田はおずおずとうかがうように彼女を見上げる。頭はまだ下げたままだった。

 

「ゆ、許して、くれるのか?」

「うん……。たくさん友達もできたから。もういいの」

「そっか。じゃあケジメとして俺をぶん殴ってくれ!」

「え?」

 

 言うが早いか、森田はがばっと頭を上げると足を肩幅に開いて、両手を後ろへと持って行く。そして目を閉じて「さあこい!」なんてのたまった。

 バカ野郎かこいつはっ。品川ちゃんにそんなことができるわけないだろうに。それを強要するとはまだわかっていないらしい。

 俺が拳骨を繰り出してやろうとする前に、品川ちゃんが口を開いた。

 

「わかった……。もうちょっと、屈んで?」

「お、おう」

 

 森田は屈むどころか膝をついてしまう。身長差があるのでそれくらいでちょうどいい高さとなった。

 ていうか、え? 品川ちゃん殴るの? マジで?

 なんだか俺の方がハラハラしてきた。そんなのは知らないとばかりに品川ちゃんは手を振り上げて、そのまま振り抜いた。

 パチィンッ! と乾いた音が響く。彼女の平手打ちは意外と威力があったようで、膝立ちになっていた森田は地面に倒れた。

 

「これで……いい?」

「お、おう……。品川の気が済んだんならいいぜ」

 

 いいらしい。なんか間に入れないな。当人同士が納得したなら俺から言うことは何もないんだけども。

 

「それで、さ……」

 

 汚れを払いながら森田は立ち上がり、言いにくそうに口をもごもごと動かす。

 なかなか続かないので小突いてやろうかと思ったが、品川ちゃんは静かに待つ構えだったので彼女に倣うことにする。

 そして、意を決したように森田が言った。

 

「し、品川のっ。……ま、漫画の続きが読みたいんだけど……」

 

 とても恥ずかしそうに、森田は顔を真っ赤にして大きな体を縮こまらせながら言ったのだ。

 品川ちゃんは眼鏡の奥の目を見開いて、ついで顔をほころばせた。

 前もって品川ちゃんには漫画を描いたノートを借りる時に森田に見せる旨を伝えてあった。相手が相手なだけにきっと彼女の中では葛藤があったのだろう。それでも「いいです」の言葉とともに頷いてくれたのだ。

 

「……私のマンガ、面白かった?」

「おう! すげー面白かった! 品川ってすげー奴だったんだな!」

 

 森田は「すげー」を連呼して品川ちゃんをありったけ褒めていた。品川ちゃんの照れている表情を見ていると、語彙力のなさなんて気にするもんでもないのかもと思った。

 さらにこの後、俺はあっちへこっちへと動いて品川ちゃんと森田の関係が好転したのだと言い含めて回った。少しは疲れたが、二人が仲良さそうに笑い合っているのを見かけると、そんな疲れもどこかへと飛んで行ってしまったのであった。

 

 



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59.夏だ! 海だ! ……じゃなくてプールだ!!【挿絵あり】

素浪臼さんからいただいたイラストですぞー!!(喜)


【挿絵表示】





 輝く太陽が地面をじりじりと焼いている。揺らめく景色を眺めていると、まるで砂漠に取り残されたような気分にさせられる。

 

「トシくん、はいあーん」

「あーん」

 

 まあ、オアシスはすぐ隣にいるんですけどね。

 葵ちゃんから一口サイズのチョコを食べさせてもらいながら、俺はバスに揺られていた。

 葵ちゃんと二人きり、というわけではない。もちろん瞳子ちゃんもいるし、他にも同級生といっしょにバスに乗っているのだ。

 夏休みに入ったので、五年生のメンバーでプールに遊びに行くこととなったのだ。品川ちゃんのいじめの件を協力して解決したのもあってか、みんなの団結力が増したようだった。

 

「なあ木之下。夏休みの宿題どれだけ進んだ?」

「んー、ドリルとか読書感想文とか、自由研究も終わらせたわね。絵日記なんかの宿題もないし、そろそろ全部終わらせられるかしら」

「えっ!? まだ八月もきてないのに早くねえか!?」

「毎日ちゃんとやってたらそんなに手間取るものでもないでしょ。そういう本郷はどこまで進んだのよ?」

「……ぴゅー」

「誤魔化せてないわよ」

 

 品川ちゃんのいじめの件から変わったことと言えば、瞳子ちゃんと本郷の関係もその一つである。

 俺と葵ちゃんが並んで座る座席の斜め前方に、瞳子ちゃんと本郷が隣り合って座っていた。

 別に席順に文句はない。元々みんなでバスに乗る前からじゃんけんでペアを決めていたのだ。そこに文句を挟もうとするほどに俺は子供じゃない。

 気になるのは二人の会話。いや、会話の内容そのものに興味があるわけではなく、そもそもこのペアでちゃんとおしゃべりできているのが今までと違うところなのだ。

 いつもは本郷に話しかけられても瞳子ちゃんは気のない返事をするか、眉を寄せるくらいの反応しかしなかった。けれど今は嫌な顔をすることなく普通に会話が成り立っている。

 この問題は俺だって気にしていた。していたのだが、いきなりこうあっさりと改善されてしまうと何があって解決したのかが気になってしまう。

 うーん……、元より瞳子ちゃんがなんで本郷を嫌っていたのかを俺は知らないんだよなぁ。だからそれを掘り返すようなマネはできない。

 ま、まあ、仲が悪いよりはいいからな。胸に湧き上がるようなもやもやを無視して隣の葵ちゃんの方に顔を戻す。

 

「むぅー」

 

 葵ちゃんが頬を膨らませていた。これははっきりと「怒ってます!」と主張している。彼女なりにアピールしている時の怒り方だ。

 瞬時になぜ怒っているかを悟って謝るポーズを取る。

 

「ご、ごめんね。ちょっとみんながちゃんと座れているかを確認してただけなんだよ」

「瞳子ちゃんの方をじっと見てたのに?」

 

 うっ……、視線の先は完全にばれていましたか。こうなったら素直に白状するしかないな。

 俺は瞳子ちゃんと本郷の仲が好転したという印象を持っていることを告げた。葵ちゃんは顎に人差し指を当てながら視線を上げる。

 

「言われてみればそうかも」

「だろ? 何かあったのかなって思ってさ」

「別にいいんじゃない? 瞳子ちゃんだってちゃんと聞いてほしいって思ったら私達に話してくれるよ」

「む……」

 

 いやまあ、そうなんだろうけどさ……。

 でも葵ちゃんの言う通り、あんまり気にし過ぎても仕方がないか。瞳子ちゃんには瞳子ちゃんの付き合いがあるんだしな。そこにとやかく口出しするのは、確かに違う気がする。

 ガタゴトとバスは揺れる。本日の目的地までもう少しだ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 市民プールに到着すると、別ルートから来た子達が待っていた。

 合流すると総勢二十人ほどの集団となった。休日にこんな大人数で遊ぶのは初めてだ。ワイワイとした賑やかな空気にちょっとだけドキドキする。

 男女でそれぞれの更衣室に分かれて着替えをする。俺は佐藤と本郷の間のロッカーを使うことにした。

 

「俺は下履いてきたぜ」

「本郷くん頭ええなぁ。僕も履いてくればよかったわ」

 

 佐藤、別にそこは褒めるところじゃないぞ。

 よっぽど早く泳ぎたいのか、本郷は一番に更衣室を飛びだして行ってしまった。俺はさっさと水着に着替えてしまう。横を見れば佐藤がこっちに目を向けていた。

 

「高木くんもええ体しとるよね。僕もそんな風になりたいなぁ」

「ん、そうか?」

 

 佐藤に言われて腕の筋肉をムキっと出してみる。まだまだ細いものの、ちゃんと力こぶが表れていた。

 

「僕なんか全然やもん」

 

 佐藤も腕を曲げて力こぶを出そうとする。しかし出ない。まだまだ体が細いからそんなもんだろう。男子とはいえ筋肉がついてくるのはもう少し先の話だろうからな。

 成長期にあまり鍛え過ぎるのは、体の成長の妨げになると聞いたことはあるんだがどうなんだろうな。走り込みや水泳を続けているものの、筋トレはあまりしてなかったりする。運動は成長の促進になるのは間違いないのだが、背が伸びるまではやり過ぎないように控えている。

 

「これから先も体が大きくなっていくんだしさ、そしたら自然と筋肉もついてくるよ」

「それもそうやねー」

 

 のんびり口調で佐藤は頷いた。あまり気にしているというわけでもなかったらしい。

 当たり前だが着替えは男子の方が早かった。本郷のように早く遊びたい連中はすでにプールの中だ。俺と佐藤、あと数人の男子は女子を待っている。

 

「待たせたわね!」

 

 小川さんが走って登場した。赤色を基調としたシンプルなデザインの水着だった。彼女は背が高いというのもあって女子の中ではスタイルが良い方なのだ。

 

「走ったら危ないだろ」

「高木くんうるさーい。そんなのいちいち言われなくたってわかってるわよー」

 

 だったら走るなというのに。小川さんは俺を相手にするのが面倒だと思ったのだろう。佐藤に狙いを定めて突撃していた。

 

「佐藤くんは私の味方よね」

「わっ!? 小川さんくっつかんといてえな」

 

 小川さんは佐藤をいじりながら、彼をつれてプールの方へと行ってしまった。ああやって見ると、どっちが男子でどっちが女子なのかわからなくなるな。

 

「高木」

「おっ、赤城さん」

 

 小川さんと佐藤を見送っている間に他の女子も更衣室から出てきたようだった。気づけば赤城さんが俺の目の前まできていた。

 

「水着、似合う?」

 

 赤城さんがくるりと一回転して俺に水着を見せびらかしてくる。しばし返答に迷ってしまう。

 だって、赤城さんが着ているのってスクール水着なんだもの。紺色のポピュラーなもので、似合うも何も学校のプールの時間に何度も見ていたものだった。

 これはどう答えたものか。いつもの無表情なので本気かギャグなのか判別できない。

 

「いつも通り似合ってるよ」

 

 そんなわけで無難な返答になってしまった。だというのに、赤城さんはパチクリと目を瞬かせた後、滅多に見せない微笑みを見せてくれた。

 

「ありがとう」

「……どう、いたしまして」

 

 やばい……。ほんのちょっぴり、そうほんのちょっとのちょっとだけだけど、彼女にときめいてしまった。ただでさえ葵ちゃんと瞳子ちゃんを相手に悩んでいるというのに何やってんだよ俺。

 赤城さんはプールの方へと走って行ってしまった。「プールサイドは走らないように」と注意する間もない。というかそんな余裕もなかった。

 顔を逸らして「いい天気だなー」なんて呟いてしまう。動揺を隠し切れていないけれど、男子達の「おおっ!」という声に上手く隠れられた。

 

「トシくんお待たせ」

「ごめんね俊成。ちょっと手間取っちゃって」

 

 満を持して登場したのはもちろん葵ちゃんと瞳子ちゃんだった。男子達の視線は二人に集中している。

 葵ちゃんの水着はフリルのついた水玉模様のワンピースだ。かわいらしさを前面に出していながらも、小学生らしからぬ豊かな曲線がそれをアンバランスなものへと変えていた。しかし、だからこそ目が離せない。

 瞳子ちゃんの水着は青色を基調とした花柄のワンピースだ。すっきりとしたデザインで夏らしさをその身に包み込んでいる。水泳で鍛えられた体は芸術的なラインを作り出していた。これは見惚れずにはいられない。

 二人は呆けている俺の手を取るとそのまま歩き出す。しばらく歩いてからはっと我に返った。

 

「う~、やっぱりプールはあんまり他の男子ときたくなかったな」

「同感ね。じろじろ見過ぎなのよ」

「す、すんません……」

「なんで俊成が謝るのよ?」

「そうだよ。私トシくんにならいくら見られたっていいんだよ」

 

 嬉しいやら恥ずかしいやらで顔が熱くなってしまう。なんかもう二人には敵う気がしないよ。

 準備体操をして、さあこれからプールに入るぞ! というところで葵ちゃんに止められた。

 

「待ってトシくん。これ、お願いできるかな?」

「これは、浮輪?」

 

 手渡されたのはへなへなになっている浮輪だった。

 

「がんばったんだけど上手く膨らまなくって。トシくん膨らませてくれない?」

「わかったよ。ちょっと待っててね」

 

 そういえば家族ぐるみで海に行った時なんかは必ず浮輪を持ってたっけ。たぶんいつもは葵ちゃんのお父さんが膨らませてくれていたのだろう。

 葵ちゃんは運動が苦手だ。それは水泳も例外じゃない。そんな彼女は泳ぐよりも浮かんでいる方が好きなようだ。

 葵ちゃん、体は浮きそうなのにな。いや、深い意味はないぞ。うん……ないったらないぞっ。

 空気入れがないので口をつけて息を送り込む。息を入れるだけなのにけっこう疲れる。これも肺活量のトレーニングだと思ってなんとかやり遂げた。

 

「トシくんありがとう。ふふっ」

 

 ニコニコ笑顔で葵ちゃんはプールへと入って行った。俺は少し休憩をもらって酸素を補給する。

 

「俊成、ちょっといい?」

「んー? どうしたの瞳子ちゃん」

 

 シートを敷いて休憩していると、プールから上がってきた瞳子ちゃんが話しかけてくる。彼女の髪や肌から水滴がぽたぽたと落ちる。

 

「その、日焼け止めクリームを塗ってほしくって」

「あれ、葵ちゃんに塗ってもらったんじゃないの?」

「これ水ですぐ落ちちゃうタイプだから、こまめに塗り直さないとダメなのよ」

「そうなんだ。わかった、じゃあ横になってよ」

「うん」

 

 今日は同級生がたくさんいるからと、前もって葵ちゃんに塗ってもらうって言ってたんだけども。まあこまめに塗らなきゃいけないのなら手早くやってあげた方がいいだろう。

 瞳子ちゃんはシートの上でうつ伏せになる。その間に俺は日焼け止めクリームを出して手で温めた。

 

「じゃあ塗るよー」

 

 一声かけてから彼女の白い背中に触れた。我ながら慣れたものでスムーズな動きで塗り込んでいく。

 

「ん……っ」

 

 彼女の水着をずらしながら背中を塗り終える。瞳子ちゃんは肌が敏感なようなので塗り残しがあってはいけない。入念に足の方まで手を滑らせた。

 

「後ろはできたよ。あとは自分でできる?」

「あ……うん、ありがとね俊成」

 

 瞳子ちゃんに日焼け止めクリームを返すと、彼女は残った部位を塗ってすぐにプールへと戻って行ってしまった。

 そろそろ俺もプールに入るか、と思ったところで見知った人物を見つけてしまう。

 

「野沢くん?」

「高木か? お前なんでこんなところにいるんだよ」

 

 今年の三月に小学校を卒業した野沢くんがいた。中学生になった彼は、まだ半年も経っていないのに少し大人っぽくなっているように見えた。

 小学生から中学生へ。大人から見れば多少の変化だろうが、子供目線からだと本当に成長しているのだと感じさせる。ほら、身長差が離されちゃってるし。やはり中学生時代の成長期はバカにできないらしい。

 ふむふむと頷きつつ、小学生の頃の野沢くんを思い出しながら今の彼と比べていると、当の本人に呆れ顔を向けられているのに気づいた。

 

「何ぼけっとしてんだ。一人でいるわけじゃないんだろ?」

「あ、うん。今日は同級生の友達と来てるんだ」

「ふーん……。じゃあ、宮坂もいるのか?」

「もちろん葵ちゃんもいるけど」

 

 野沢くんは「そうか」と呟いてどこか別の場所に顔を向けた。もしかして葵ちゃんを捜しているのだろうか。

 

「おーい野沢ー。何やってんだよ」

 

 遠くから声をかけられる。三人ほどの男子が固まってこっちに近づいてきていた。

 背丈は野沢くんとそう変わらないほどの男の子達だ。たぶん野沢くんの同級生なのだろうな。

 

「こんにちは。野沢くんの友達ですか? 俺は高木俊成っていいます」

「なんだこいつ、礼儀正しいな。野沢の後輩か?」

 

 ぺこりと頭を下げるとこいつ呼ばわりされてしまった。見下されたとかそんなんじゃなくて、単純に言葉遣いがなってない子のようだ。まあ悪意がないのなら流してやろうではないか。と、心の中だけで上から目線になってみる。

 

「ああ。同じ小学校の奴だよ。二つ下だから今は五年生だ」

「へぇー。じゃあ俺達が三年になる頃に後輩になってくれるんだな」

 

 出身校の違う男子三人組は中学になってから野沢くんと友達になったようだった。早速別の小学校出身の子と仲良くなるなんて野沢くんもすごいんだな。前世の俺は人見知りしてたのか、違う小学校から来た人にはなかなか話しかけられなかったと思う。

 

「トシくーん? 何してるの。早くいっしょに泳ごうよ」

 

 俺がプールに入ってこないから心配になったのだろう。葵ちゃんが迎えにきてくれたみたいだ。

 水に濡れてより一層艶やかになった黒髪が葵ちゃんの肌に張り付いている。豊かな曲線に沿って水滴が流れて落ちていく。小学生にあるまじき色気がこの美少女にはあった。

 

「おぉー! 何この子! おっぱいすげーでけぇ!!」

「んなっ!?」

 

 何興奮してんだこの中学生どもはっ!? 自重しろ!

 

「お前等! こんなところで何口走ってんだ! 公共の場だぞ!」

 

 野沢くんに怒られて中学生どもは口々に「やべっ」と言って口を押さえた。手遅れだ。

 

「トシくん行こ」

「あっ、宮坂――」

 

 俺は葵ちゃんに引っ張られてみんなの元へと向かった。後ろから野沢くんの声が聞こえた気がしたけど、振り返る暇はなかった。

 葵ちゃんがとても苦しそうな表情をしていたから。そればかりが気になって、他に意識が向かなかったのだ。

 

 



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60.葵ちゃんの元気がない?

 七月の終わり頃に、地元で夏祭りがある。家族の恒例行事として俺達はいつものごとく三家族合同でその祭りに参加するのだ。

 当日、俺は葵ちゃんとともに瞳子ちゃんの家に訪れ、浴衣を着付けてもらっていた。

 

「ああ……、年々大きくなっていく瞳子の姿を見られるなんて感涙ものだよ……。僕はなんて幸せ者なんだろうか……」

「そうっすね」

 

 男の俺はそんなに時間をかけずに浴衣を着たので瞳子ちゃんのお父さんとともに待機している。恍惚に顔をほころばせるおじさんに俺はおざなりな返事をする。いやだって今のこの人は娘の姿を思い描くばかりでこっちの声がまともに届かないんだもの。

 現在、瞳子ちゃんのお母さんが葵ちゃんと瞳子ちゃんの浴衣の着付けをしている。あの人は外国人とは思えないほどに着物なんかの着付けが上手いんだよな。それどころか服を作ったこともあったし。長い付き合いなのに未だ底が見えない。

 

「お待たせしマシター」

 

 瞳子ちゃんのお母さんを先頭に女性陣が部屋に入ってくる。後から入ってきた二人の少女はきっちりと浴衣を着こなしていた。

 瞳子ちゃんの浴衣は濃淡な色合いに金魚が踊っていた。涼しげな感じとかわいらしさが合わさっている。

 葵ちゃんの浴衣は椿が大きく咲き誇っていて華やかさがあった。かわいいと思うのだが、なぜか彼女の表情が暗い気がする。俺の気のせいだろうか?

 

「どう? 今回は金魚がかわいかったからこれにしてみたの」

「おおっ! かわいいぞ瞳子!!」

「パパには聞いてないわよ。あたしは俊成に聞いたの」

「と、瞳子~……」

 

 瞳子ちゃんのお父さんは膝から崩れ落ちた。これはなんというか……、娘を持つ父親の運命なのだろうが、かわいそう過ぎる……。

 それにしても、銀髪ハーフ美少女な彼女は浴衣がよく似合っていた。まあ何着ても俺の口からは「似合っている」以外の言葉は出なさそうだけどね。だって本当になんでも着こなしてしまうんだもの。

 

「瞳子ちゃんは本当に浴衣がよく似合うなぁ。その柄もかわいいよ」

 

 俺の褒め言葉を聞いた瞳子ちゃんは小さくぴょんぴょんと跳ねていた。嬉しさが隠せないらしい。かわいい。

 

「トシくん……私はど、どうかな?」

 

 恐々とした調子で俺の前へと出る葵ちゃん。やはり、彼女にしてはらしくないと思った。

 帯を締めたことによって小学生らしからぬ胸部が強調されている。愛らしさがありながらも、それがギャップと思えるような色気がある。髪をアップにしているからさらに大人っぽく見える。

 

「葵ちゃんもとっても似合ってるよ。大人っぽくてすごくかわいいね」

「うん。ありがとう……」

 

 葵ちゃんは瞳子ちゃんほどの喜びを態度には出さなかった。浴衣に合わせて結い上げられた髪をいじりながら、鏡で身だしなみを確認している。

 葵ちゃんの元気がない。それはこの前プールに行ってからだ。もっと厳密に言えば野沢くんの友達である中学生どもに胸のことを言われてからだった。

 あんなあからさまなからかいの言葉はないだろう。中学生ってやつは性的なことに対して興味を持つ年代だとはわかってる。それでもあれはデリカシーがないにもほどがあった。

 あれから慰めの言葉をかけたものの、ご覧の通りあまり効果がない。こんな時どうやって元気づけていいかわからない。俺の経験値なんてまだまだなのだ。

 でも、今日は夏祭りだ。いっぱい楽しめば葵ちゃんだって元気を取り戻してくれるかもしれない。よし、がんばるぞー!

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 今回の夏祭りは歩いて行ける範囲というのもあって、さほど大きいものではない。打ち上げ花火はないものの、ステージを設置していろんな出し物をしているようだ。

 はぐれる危険を考えたら小学生の行く夏祭りとしてはこのくらいがちょうどいいのかもしれない。もちろん俺達の両親がそれぞれ同行するのだが、見慣れた場所というのもあって付きっきりで見ていなければならないなんてこともない。車も乗らないのもあって、父親連中は酒を飲みながら屋台の食べ物をつまみにしていた。満喫してんなー。

 

「これから自由行動だけど、もし迷子になったらここに集合ね。お母さん達はこの近くにいるようにするから。じゃあ俊成くん、葵と瞳子ちゃんを任せたわね」

「はい。任されました」

 

 大きな照明の下で葵ちゃんのお母さんが「行ってらっしゃい」と手を振った。大きくなるにつれて自由行動の範囲が広くなっていく。これは俺を信頼してくれている証なのだろうな。男として、しっかり二人をエスコートせねば。

 周囲は祭り特有の賑やかさに包まれている。離れたところから太鼓の音が聞こえる。この空気だけでも楽しくなってくるね。

 俺ははぐれないように葵ちゃんと瞳子ちゃんの手を握った。小さくて柔らかい手が握り返してくれる。

 

「何食べる? それとも遊ぼうか?」

「まずは遊びましょうよ。あたし金魚すくいがしたいわ」

 

 瞳子ちゃんが腕まくりしそうな勢いでやる気になっている。だから浴衣の柄が金魚だったのだろうか。

 とくに反対意見もなかったので金魚すくいをすることにした。金魚すくい屋の前に着くと、店のおっちゃんがにっと笑って「やるかい?」と聞いてくれた。

 

「とりあえず三人分お願いします」

「あいよ」

 

 俺は代金を支払って、金魚をすくうための武器、ポイを受け取る。瞳子ちゃんはさっそく構えて狙いを定めている。葵ちゃんは視線を動かして金魚の動きを追っているようだった。

 

「てりゃっ!」

 

 瞳子ちゃんがかけ声を発しながら、金魚を捕獲せんとポイを握った右手を走らせる。速い。

 

「あー……。穴が空いちゃった」

 

 しかし失敗。金魚を取る前に紙に穴が空いてしまっていた。穴は大きいのでもう使えないだろう。

 

「おっちゃん、もう一つ追加で」

「あいよ」

 

 瞳子ちゃんはリトライする気満々だったので、もう一回分支払う。だがさっきと同じように失敗してしまった。

 うーむ、ここは俺が手本を見せるべきだろうか。

 屈んで金魚の大群に視線を向ける。水の中で元気に泳いでいる。イキがいいね。

 

「すぅーー……、はー……」

 

 深呼吸をして気持ちを落ち着ける。大切なのは冷静な判断力と一瞬で捉える瞬発力だ。

 じーっと見つめる。金魚の動きの流れを掴むのだ。

 水圧で紙が破れてしまわないように角度を考え、水の中へと滑り込ませるようにポイを沈めた。それから瞬くよりも早く引き上げる!

 

「あー……、穴が空いちゃった。俊成でもダメなのかしら」

 

 見事な大穴を空けてしまった。よくよく考えたら俺ってあんまり金魚すくいとかしたことなかったわ。やれる感を出していただけに恥ずかしい。

 

「えいっ」

 

 俺が無残な結果に打ちひしがれていると、隣からかわいらしい声が聞こえた。

 

「わっ、葵すごいじゃない!」

 

 そちらへ顔を向ければ、葵ちゃんが金魚を一匹ゲットしていた。

 一匹だけじゃない。葵ちゃんは小さい動きながらも次々と金魚をすくっていた。これには俺や瞳子ちゃんだけじゃなく、店のおっちゃんも目を丸くしていた。一人だけレベルが違っていた。

 

「えいっ、えいっ、えいっ、えいっ」

「ちょっ、ストップ葵ちゃん!」

 

 受け皿の金魚がところ狭しと窮屈そうにしているのを見て、俺は思わず彼女を止めていた。なんというか、今の葵ちゃんは金魚すくいマシーンに見えてしまったのだ。しかも紙は水に濡れているものの、まったく穴なんて空いてないし。

 結局、俺達それぞれ一匹ずつ金魚をもらって、他は全部返した。たくさんいても困るからね。

 金魚すくいで思わぬ才能を見せた葵ちゃんはニコニコ顔になっていた。楽しんでくれたようでよかった。

 その後も射的や輪投げなどに挑戦した。それぞれの結果に一喜一憂して、俺たちは祭りを堪能していた。

 

「そろそろ何か食べようか。何がいい?」

「私りんご飴がいい」

「あたしはかき氷がいいわ」

 

 晩飯、というにはあまりにも物足りないメニューだろう。でもこういうのをちまちまと食べ歩くのが夏祭りの醍醐味とも言える。

 葵ちゃんはりんご飴、瞳子ちゃんはかき氷を買った。俺はたこ焼きを求めて店へと足を向ける。

 

「あれ? 高木さんじゃないっすか!」

 

 たこ焼きを注文すると店の人がそんなことを言った。顔を上げてその人をよく見てみると、品川ちゃんと同じクラスの男子、森田だった。

 

「森田? お前何やってんだよ?」

「親父の手伝いっすよ。親父、この人が前に言った高木さんだぜ」

 

 森田に呼ばれて、彼の後ろにいた大柄な男がこちらへと視線を向ける。かなりの強面でちょっとビビる。

 

「息子が世話になったようで。礼を言うぜ高木さん」

 

 森田のお父さんと思われる大柄な男が頭を下げた。その姿に俺は恐縮してしまう。

 

「いえいえいえ! 俺なんて大したことをした覚えがないんでっ。頭を上げてください。それに子供の俺に『さん』付けなんてしないでくださいよ」

「ふっ、謙遜するだなんて子供なのに大した男じゃねえか。息子の礼の分だ。金はいらねえからたくさんたこ焼きを食ってくれや」

 

 森田のお父さんはにやっと笑う。怖っ! 害がないのはわかったけど、この強面にはなかなか慣れそうになかった。

 

「高木さんはデートっすか? 彼女さん達も遠慮なくたこ焼き食ってください」

「ぶっ!?」

 

 森田は悪意なんてないとばかりににかっと笑う。子供らしい純真な笑顔だった。何気に「彼女さん達」と複数形になっているところが彼の無邪気な恐ろしさだった。

 

「トシくんの彼女さん……」

「俊成の恋人……」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんが顔を赤らめる。そんな反応にやられてしまってか、俺の顔にも熱が集まってきた。

 森田は山盛りのたこ焼きを渡そうとしてきたので、三人分だけもらってたこ焼き屋を後にする。なんかもう変な汗かいちゃったよ。

 適当に座る場所を探して腰を落ち着ける。行き交う人を眺めながら俺たちは屋台の味を楽しんだ。

 

「トシくん、りんご飴食べる?」

 

 葵ちゃんがりんご飴を差し出してくる。せっかくなので一口いただいた。子供の舌だと素直に甘くておいしいと感じられた。

 

「おいしい?」

「うん。すごくおいしいよ」

「えへへ。よかったー」

 

 元通りの調子に戻ってくれたかな。そう思っていると、正面を向いた葵ちゃんはビクリと体を震わせた。そして目を伏せてしまう。

 誰かいたのかと、正面の人混みに目を向ける。けれど見知った人物はいなかった。

 葵ちゃんの気が落ち込んでいくのを示すように、彼女は段々とうつむいていった。また振り出しに戻ってしまったことを悟る。

 せっかく元気になっていたのに。どうしてまた落ち込んでしまったのかがわからなくて、俺はどう声をかけていいのかわからなくなってしまった。

 

「葵、あたしのかき氷食べてみない? いちご味よ」

「うん。代わりに私のりんご飴も食べていいよ」

 

 俺を挟んだ状態で、二人は食べさせ合いっこを始めた。その光景はなんと言いますか……、とても良い眺めでした。

 たこ焼きを食べ終わって、ぼんやりと人の流れを眺めていると、家族で来たのだろう。小川さんが何人もの兄妹に囲まれながら歩いているのが見えた。俺が気づいたのと同時に、向こうも俺達に気づいたようだ。

 

「あーっ! あおっちときのぴーじゃん! ……と、高木くん」

「俺はついでかいっ。まあいいけどさ。こんばんは小川さん」

 

 俺達を見つけた小川さんは、兄妹を置いて興奮したように駆け寄ってきた。祭りとかで友達を見つけると確かにテンションが上がるよね。

 

「あおっちときのぴー浴衣じゃん! いいなー、かわいー」

 

 そう言う小川さんの装いは軽装の私服だった。ショートパンツなので動きやすそうだ。彼女の場合本当に動き回るからそんな恰好なのだろう。

 ちなみに、俺の浴衣に対してのコメントはなかった。別に気にしてませんけどね。

 腕をちょんちょんとつつかれる。瞳子ちゃんだ。

 葵ちゃんと小川さんが話し込んでいるのを見計らったようなタイミングで、彼女は俺の耳に唇を寄せてきた。

 

「俊成、あたしちょっと小川さんと回ってくるから。その間、葵のこと任せてもいい?」

「いいけど。いきなりどうしたの?」

 

 瞳子ちゃんが小声だったので俺も小声で返す。その内容は彼女にしてはらしくないと思えた。

 今までわざわざ俺と葵ちゃんを二人きりにすることなんてなかった。瞳子ちゃんは可能ならずっと俺の傍にいようとしてくれたから。

 

「あのね……、理由はわからないんだけど、葵の元気がないみたいなの。あたしもいろいろやってみたんだけど、あんまり上手くいかなかったみたいで……。でも、俊成に励ましてもらえたら葵だって元気になると思うのよ」

 

 瞳子ちゃんの返答は思いやりに満ちたものだった。

 彼女はこの間のプールで葵ちゃんが中学生達にからかわれたことを知らない。俺からは話せないし、葵ちゃんだって教えてはいないようだった。

 それでも、葵ちゃんの様子を敏感に察知して元気づけようとがんばってくれていたらしい。葵ちゃんのためになんとかしてあげたい。その一心で俺を頼ってくれているのだ。

 胸に湧き上がった衝動のまま瞳子ちゃんの頭を撫でる。彼女から「ふぇ!?」とかわいらしい声が漏れていたけれど、それを無視して撫で続けた。

 この子はもう本当に……。

 

「わかった。俺なりにがんばってみるよ。葵ちゃんのことは俺に任せて」

「うん。頼りにしてるわよ俊成」

 

 葵ちゃんをどうやって元気づければいいか。解決できる良い考えを思いついたわけじゃない。

 それでも、瞳子ちゃんから期待されたのだ。精一杯、やるだけやってみると決めた。

 

 




夏祭りは次回まで続きます。


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61.胸のぬくもり

 祭りの騒がしさが段々と離れていく。俺は葵ちゃんの手を引いて木々の間を抜けていく。

 

「トシくん? どこに行くの?」

 

 急に祭りの会場から離れてしまったせいで葵ちゃんから不安そうな声が漏れる。それでもせっかく瞳子ちゃんが気を利かせて二人きりにしてくれたのだ。腰を据えて話をするために静かな場所に行きたかったのだ。

 

「葵ちゃんと二人だけで話がしたいんだ。そんなに遠くへは行かないからついてきてほしい」

「……うん、わかった」

 

 祭りの照明が届かなくなってくる。あまりに暗いと足元が危ないだろう。そう思ったところで、ちょうど木々の間に挟まれるように鎮座している大きな石があったのでそこに座ることにした。

 ぼんやりとした照明が届き、月明かりに照らされるちょうどいい場所だった。俺は葵ちゃんと隣り合って腰を落ち着ける。

 しばらく無言になる。どう切り出そうか迷ってしまう。

 

「あ、あの……話って何かな?」

 

 葵ちゃんはそわそわと体がわずかに揺れている。いきなりこんな祭りとは関係のないところにつれてこられたのだ。その不安は当然といえた。

 

「えっと、葵ちゃんには大事な話があるというか……」

「……はい」

 

 正直言いづらい内容だ。言葉選びを間違えないように頭を回転させる。

 横を向けば葵ちゃんが姿勢を正していた。俺の話を聞く体勢となっている。

 そんな姿を見たら覚悟を決めなければならないな。咳払いを一つして、俺は口を開いた。

 

「葵ちゃん、最近元気ないよね」

「……え? あ、うん、そ、そうかな?」

 

 思いのほかしどろもどろである。それほどにプールで中学生どもに言われたことを引きずっているのだろう。

 

「こういうこと言うと気分悪くさせちゃうのかもしれないけど、やっぱりこの間プールで中学生の男の子達に言われたこと気にしてるの?」

「あ……」

 

 そこで葵ちゃんは顔を伏せてしまう。伏せた視線の先には小学生にしては明らかに大きい女性の象徴があった。

 この反応から、彼女が元気のない原因は胸のことで間違いないのだろう。

 葵ちゃんの胸は小四になってから一気に膨らみ始めた。五年生になった今では服を着てもその膨らみがわかるほどだ。身長は歳相応なだけに、相対的に余計大きく見えた。

 胸が大きいというだけで男からの視線を集めてしまうというのに、それが小学生というのもあってかなり好奇の視線にさらされていたのだろう。恥ずかしながら俺もその一人だ。

 

「……」

 

 葵ちゃんは無言だ。彼女からすれば掘り返してほしくない話題なのだろう。

 だとしても、俺は彼女に元気になってほしいのだ。塞ぎこんでしまうだなんて、そんな風にはなってほしくない。

 

「その……胸のこと、悩んでるのかな?」

 

 女の子相手に胸のことを口にするだなんて、自分で言ってて恥ずかしくなる。でも言われた葵ちゃんはもっと恥ずかしいはずだ。

 それを表すように、葵ちゃんが膝に置いている手をぎゅっと握ったのを目の端で捉えた。

 胸を小さくする、だなんてそんなこと簡単にはできないのだろう。男だからよくはわからないけれど、体重を減らすのとは違うのだろうな。

 そして男だからわかるのだが、大きい胸を見てしまう視線を止めるなんてことはできない。

 質量が大きければその分引力を発生させてしまう。つまり、巨乳の女性を目にすると視線が吸い寄せられてしまうのは自然の摂理といえた。

 ……変な理屈を考えてしまった。俺は男の欲望を擁護したいんじゃない。葵ちゃんに元気になってもらいたいんだ。

 

「……なんで、みんな私の胸を見るんだろ」

 

 葵ちゃんがうつむいたまま、そうぽつりと言った。

 俺は黙って彼女の言葉に耳を傾ける。

 

「私のおっぱい……みんなよりもすごく大きくなっちゃったの。それでいろんな人に見られてるのはわかってる。瞳子ちゃんだってまだなのに、私だけブラジャーしなきゃいけなくなっちゃった……」

 

 瞳子ちゃんがブラジャーしてないことが明らかになってしまった。いや、つけてたらそれはそれでびっくりなんだけども。じゃなくて!

 まあ葵ちゃんにとっては瞳子ちゃんが一番の比較対象なんだろうな。みんながブラをしていない以上に、瞳子ちゃんがしてないってのが不安なのだろう。

 一人だけみんなと違う。それは心細いものなのだろう。同じ年代の子と接する機会の多い子供のうちはとくにそうだ。

 両手で胸に触れながら、葵ちゃんはなおも続ける。

 

「今までは見られるだけだったけど、あの時言葉にされてやっぱり私のおっぱいっておかしいんだなって……。ひっく……私って変なんじゃないかって思ったら怖くって……」

 

 葵ちゃんは嗚咽を漏らしていた。どれだけ自分を追い詰めてしまっていたのだろうか。俺には想像できないほどの苦しさがあったのだけは確かだった。

 

「変じゃないよ。葵ちゃんは何もおかしくない」

 

 俺は葵ちゃんの手を握った。彼女としっかり目を合わせる。

 変だなんて、そんなことあるもんか。男の俺には絶対にわからない悩みだけど、それだけは断言できた。

 

「前に葵ちゃんの胸に抱かれた時、俺は本当に安心したんだ。葵ちゃんの優しい心が伝わってきて、不安なんてなくなったんだよ」

 

 森田と殴り合いのケンカをした日のことだ。あの時はあれでよかったのだろうかと内心不安でたまらなかった。そんな時に葵ちゃんが抱きしめてくれて、その胸の柔らかさに俺の不安はどこかへと飛んで行ってしまったのだ。

 

「きっと、これからも他人の視線が君の胸に集中するかもしれない。もっと気分が悪くなることだってあるかもしれない。それでも、俺は優しい心の詰まった葵ちゃんの胸が好きだよ」

 

 コンプレックスは簡単には消えてくれない。それでも、葵ちゃんには自分の体を嫌いでいてほしくなかったんだ。

 気がつけば葵ちゃんの手を両手で握り込んでいた。知らず力が入っていたらしい。

 

「ご、ごめんっ」

「本当?」

 

 痛がらせてしまったのではないだろうかと慌てて手を離したのに、今度は葵ちゃんの両手が俺の手を包み込んだ。

 そして、葵ちゃんの顔がずいっと近づいてくる。

 

「トシくん、私のおっぱい好きなの?」

「え」

 

 あれ、なんでそんなこと聞かれてるんだろ?

 首をかしげながら自分が口にしたことを思い出してみる。……言ったな。俺、葵ちゃんの胸が好きだって言ってるわ。

 

「い、いやその……そういうふしだらな意味ではなくてですね……」

「違うの?」

 

 しゅんとしてしまう葵ちゃん。そんな彼女を見てしまうと、勝手に俺の口が動いていた。

 

「違わない。俺は葵ちゃんの胸が好きだ」

 

 甘んじておっぱい星人の称号を得る覚悟を決めた瞬間だった。

 

「……ふふ、あははっ」

 

 葵ちゃんが噴き出すように笑いだした。目尻に涙があるものの、そこにはもう悲しさなんてものはなかった。

 

「そっかぁ……トシくんに変に思われてないんだ。ならよかった」

 

 ほっとしている彼女を見て、わかってしまった。

 葵ちゃんが一番怖がっていたのは、俺に変な風に思われることだったんだ。他の誰かの評価ではなく、俺にどう思われているかということだけが彼女にとっての悩みだったのだ。

 

「……」

 

 葵ちゃんは俺のために悩んでくれてたんだ。俺のために苦しんでくれていた。

 前世で誰かに好かれたことなんてなかったから気づかなかった。好きって気持ちはただ単に楽しいだけじゃないんだ。好きな分、悩んだり苦しんだりもするものなんだ。

 俺はそれに気づかずにいたのか……。たぶん葵ちゃんはもっと前から悩んでた。俺をその胸で抱いたのだって、俺に受け入れてもらおうとした行動だったのかもしれない。

 好きという感情の答えを探す前に、俺はもっと葵ちゃんや瞳子ちゃん自身を見なくちゃいけない。そう思った。

 

「トシくん」

 

 葵ちゃんが俺の手を離す。その手は彼女自身の浴衣の胸元を掴んだ。

 

「私のおっぱい……触る?」

 

 そんな魅惑的な言葉とともに胸元が開かれる。そこには淡く光るような白い肌。そして、谷間があった。

 

「え……ええぇぇぇぇぇぇぇぇーーっ!? なななななぜにっ!?」

 

 まさかの葵ちゃんの行動に慌てふためいてしまう。いやだってどんな流れになったらそうなるの!?

 俺の動揺とは対照的に、葵ちゃんはあっけらかんと言った。

 

「だって、好きなんでしょ?」

 

 うんわかった。よくわからんけどとりあえずわかったっ。

 これは葵ちゃんの好意だ。自分のおっぱいが好き、だったら触らせれば喜んでくれるに違いない。きっとそんな思考なのだ。じゃないと説明できない!

 これはどうするべきなんだ? 触ればいいのか、それとも触らない方がいいのか。

 いやいや、触ったらダメでしょ。このまま欲望に任せて触ってしまえば、大人になった葵ちゃんの黒歴史になりかねない。だって自分から「触って」とか言っちゃってるんだもの。子供じゃなければ痴女みたいだ。というか、彼女が大きくなってこのことを想い返せばそう思ってしまうに違いない。小さい頃を思い出してはベッドの上でじたばたする葵ちゃんが幻視できそうだった。

 だからって、彼女からしてしまったこの好意を断っていいものか。拒絶されたと思ってまた落ち込んだりしないだろうか? それが心配なのだ。

 葵ちゃんは胸をさらけ出したまま待ちの体勢である。俺が動かないとこの状況は変わらないのだろう。

 どうする? どうする俺? どうするよ!?

 目を泳がせてしまう。ついでに手も宙を泳いでいた。って、勝手に動いてる!?

 俺の手は葵ちゃんの胸に手を伸ばそうかどうかと迷っているようだ。無意識ながらも本能を理性で押し止めているらしい。

 本能に忠実になれるのなら、ぶっちゃけ触りたい! だってこんなにも立派なおっぱいなんだもの!!

 でも……っ。

 

「……いつでも、いいんだよ?」

 

 でも、こんなにも俺のことを想ってくれてる女の子を傷つけたくはないのだ。

 葵ちゃんの肩に手を置く。彼女の目を見ながら言葉をかける。

 

「……葵ちゃんのその気持ちだけで、充分だよ」

 

 地を這うような声になってしまったのは目をつむっていただきたい。俺の理性は本能に打ち勝ったのだ。

 きっと彼女は男に体を触られる意味をちゃんとはわかっていない。そんな子に対してわかっていないのをいいことに欲望を満たすためだけに触れるなんてしちゃいけない。そんなことをしたら後悔させてしまうだろう。

 こんな良い子に嫌な思いをしてほしくない。それはやっぱり、葵ちゃんが俺にとって大切な女の子だからだ。

 

「な・に・を・し・て・い・る・の・か・し・ら?」

 

 俺と葵ちゃんは同時に体を震わせた。

 ぶわっと嫌な汗が全身から流れる。声の方を向けば、案の定瞳子ちゃんが腕を組んで仁王立ちしていた。

 

「と、瞳子ちゃん?」

 

 俺と葵ちゃんの声が重なった。これはやばいと、心の声まで重なっている気がした。

 瞳子ちゃんがずんずんと近づいてくる。猫目が吊り上がっていた。威圧感が半端じゃない!

 葵ちゃんが胸元をはだけ、そんな彼女の両肩を俺は掴んだ状態だ。いろいろとアウトだった。

 

「こ、これはその……」

 

 弁解する言葉が出なくてそこで止まってしまう。瞳子ちゃんは拳にはーと息を吐くと、腕を振り上げた。

 

「いったーーっ!!」

 

 瞳子ちゃんが拳骨を落としたのは葵ちゃんにだった。葵ちゃんは頭を押さえて丸くなる。

 

「まったく、こんなところで俊成に何をさせようとしてたのよ。ママ達に見つかったら怒られるわよ」

「えっ!? お、怒られるのは嫌だよ~」

「だったら早く浴衣を直しなさい。あっちに小川さんがいるから行きましょ」

「う、うんっ。わかった」

 

 葵ちゃんはさっさと浴衣の胸元を直すと、小川さんがいるであろう方向へと足早に行ってしまった。

 それを見届けてから瞳子ちゃんが俺の方を向いた。

 

「え、えーと……俺も小川さんのところに行こうかなー」

 

 ちょっとどころじゃない気まずさを感じて目を逸らしてしまう。腰を上げて祭りの灯りの方向に足を向ける。しかし瞳子ちゃんに袖を掴まれてしまい動けなくなった。

 お、怒られるっ。そう思って目をつむると、引っ張られるままに体が傾いてしまい、顔に何かが当たって止まる。

 

「……ん?」

 

 目を開けると、金魚と目が合った。それは本物じゃなくて瞳子ちゃんの浴衣だった。

 見上げれば恥ずかしそうに唇を震わせている瞳子ちゃんの顔があった。そこまでの情報の結果、今どういう状況なのかを理解する。

 俺、瞳子ちゃんの胸に抱かれている……。それが結論だった。

 

「と、瞳子ちゃん?」

「あ、あたしのおっぱいはっ。……どうなの?」

「え?」

 

 彼女は恥ずかしそうにしながらも、それでも震える唇を動かして続ける。

 

「あたし葵みたいに大きくないし、ブラだってしてないけど……。あたしだってこうやって俊成を抱きしめたいの。……やっぱり大きくて柔らかい方が俊成は好きなの?」

 

 瞳子ちゃんの目は不安で揺れていた。その不安は俺が原因だった。

 葵ちゃんが悩んでいたように、瞳子ちゃんも悩んでいたのだ。さっき彼女達自身を見なくちゃって思ったばかりなのにな。

 俺は瞳子ちゃんの胸に顔を埋める。大きさはわずかで、そうなると柔らかさを葵ちゃんと比べるまでもない。

 

「うん。瞳子ちゃんの胸に抱かれていると安心する」

 

 それでも葵ちゃんと同じくらいの安心感があった。瞳子ちゃんも俺を受け入れてくれる。そんな気持ちがたくさん伝わってくるから。

 俺は顔を上げる。こんなこと、なんて言ったら彼女達に怒られてしまうかもしれないけれど、胸のことなんかで苦しい想いをしてほしくないのだ。

 

「瞳子ちゃんは思いやりがあって優しくて、そんなあったかい心がこの胸に詰まってる。安心させてくれる瞳子ちゃんの胸、俺は好きだよ」

「そ、そう! そうなの……。そっか」

 

 見ればあまり灯りがないというのに瞳子ちゃんの顔が真っ赤になっているのがわかった。そうじゃなくても心臓の鼓動が激しいのが伝わっていたりする。

 瞳子ちゃんも胸のこと気にしてたんだな。まあ身近に葵ちゃんのような育った子がいると仕方がないのかもしれない。

 でも、同じスイミングスクールに通ってるから知っているんだ。瞳子ちゃんの胸が膨らんできているということを。

 俺も含めて子供の体はまだまだ成長するのだ。女の子にとって胸とは悩みの種かもしれないけど、今がすべてじゃない。

 

「じゃあ俺達も行こうか」

「う、うん……」

 

 瞳子ちゃんの手を引きながら歩く。温かみを感じるだけでも胸の奥がぽかぽかする。この手の中のぬくもりを大切にしていきたいと思った。

 

 



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62.一つの将来と一つの家族、それからちょっとした未来図

 九月になっても暑さは残っていた。通っている英語教室が終わった後も、まだ日は沈みきってはいなかった。

 帰りは母さんが迎えにきてくれることとなっている。さすがに小学生一人で夜道を帰らせるわけにはいかないのだろうな。

 その母さんは迎えの時間に少し遅れているようだ。こういう時は近くの本屋で待つのが常である。

 本屋に入ると涼しい空気に出迎えられる。暇潰しに店内を見て回ることにした。

 なんとなしにビジネス書のコーナーに行ってみる。前世では勉強が嫌いだったのもあってこういう本を読まなかったな。いや、自己啓発の本なんかは読んでみたことがあるけれど、読んだだけで満足してしまってろくに役にたった記憶がないのだ。

 うーん……、ビジネス書は図書館に置いてるだろうし、今度行ってみようかな。また身にならなかったら嫌だし、購買意欲は湧かなかった。

 学生の今ならビジネス書よりも参考書かな。そう思って足を向ける。

 

「あれ? 俊成くん?」

「野沢先輩じゃないですか。買い物ですか?」

「うん。参考書を買おうかと思ってね」

 

 参考書のコーナーには野沢先輩がいた。夏らしい私服であり、陸上部で鍛えられた細身の手足が店内の明かりに照らされている。

 女子中学生が店に来る時間にしては遅い気がした。俺はついつい口出ししてしまう。

 

「あんまり遅い時間に出歩いてちゃダメじゃないですか。危ないですよ」

「ふふっ、それを言ったら俊成くんも同じじゃないかな?」

「お、俺は母さんを待ってるだけなんで」

 

 男とはいえ今の俺は小学生だった。ブーメランになったかと思ってしまい、反論も声が小さくなってしまう。

 

「そうだったね。英語教室に通ってたんだっけ?」

「はい。この近くなので、母さんが迎えにくるまでここで時間潰ししてるんですよ」

「そっかそっかー」

 

 野沢先輩はコロコロと笑う。相変わらず先輩の笑顔は柔らかさを感じさせてくれる。

 

「私は受験勉強のために参考書がほしくなっちゃってね。本当はもっと早く帰るつもりだったんだけど、どれにしようか迷ってたら遅い時間になっちゃってたみたい」

 

 どうやらだいぶ前からこの本屋に来ているようだった。中学生からしても参考書は安くはないから迷ってしまうのは仕方がないのかもしれない。

 

「それに部活があった時はこれくらいの時間に帰るのも珍しくなかったからねー」

 

 そう、野沢先輩はこの夏で部活を引退したのである。

 先輩は中学三年生なので部活が終われば受験まっしぐらである。前世で大した高校ではなかったとはいえ、受験戦争という単語を思い出すと顔をしかめてしまう。

 

「でも野沢先輩陸上で良い結果出してましたし、スポーツ推薦とかあるんじゃないですか?」

 

 彼女の中学最後の成績は中距離走での全国三位である。輝かしい結果であり、中学校では全国三位を讃える垂れ幕があった。褒められているのは自分じゃないのに、なんだか嬉しくなったものである。

 

「んー……まあね。でもスポーツ推薦だからって必ずしも受験をパスできるわけじゃないし。むしろ勉強をしない方が不安だしね」

 

 スポーツ推薦って勉強しなくてもいいもんだと思ってたな。俺には縁遠いものだと考えてたから調べもしなかった。

 でも、確かにスポーツ推薦で入学したものの結果が出せなかったり、大きなケガなんかしてしまって選手生命が断たれたりなんてしてしまえば大変だろう。そんな時に勉強さえついて行けなかったら学校にすらいられなくなるかもしれない。

 なんて、最悪の想像をしてみたけれど、野沢先輩に限っては心配いらないことなのだろう。こうやってわざわざ参考書を買いにくるくらいなのだ。不真面目な先輩を想像できない。

 

「もう志望校は決まってるんですか?」

「いろいろと声はかけられてるんだけどねー。ちゃんとは決まってないけど、やっぱり走るのが好きだから。陸上部の強いところに行きたいかなって想ってるよ」

「なるほど」

 

 やりたいことが決まってるのは強みだな。野沢先輩には迷いはないように見える。

 野沢先輩と同じように、俺にも将来への選択肢が訪れる。どの学校を受験するか。学歴至上主義とは言わないけれど、それはわかりやすい将来への選択肢なのは確かだった。

 先輩のようにまっすぐこの道に向かって行く、というほど俺には一番を決められるほどのものはない。それでも、選択の時がきても後悔がないようにしておきたい。

 

「俺も何か参考書買おうかな」

「そっちは小学生じゃなくて中学生用だよ?」

「ま、まあ……野沢先輩がどんな勉強してるのか興味があるんで」

 

 とにかく勉強だけはきっちりしておこう。野沢先輩を見て、俺は改めてそう思った。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 休日。葵ちゃんと瞳子ちゃんがそれぞれ欲しい本があるとのことなので三人で本屋に訪れていた。

 この間野沢先輩と出会った本屋である。また会えないかなと期待したものの、そう都合良くはいかなかった。

 

「あら高木くん? それに宮坂さんと木之下さんじゃない。久しぶりねー」

 

 その代わり意外な人と再会した。俺達が小一の頃に担任をしていた女教師である。

 確か先生は四年生最後の終業式の時に結婚したという報告とともに退職したのだ。なんだかんだでお世話になった先生なので少し寂しさを覚えたものである。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんは二人揃って「こんにちは」とあいさつをした。俺も軽く会釈しながら口を開く。

 

「お久しぶりです。先生は買い物ですか?」

「うふふ、もう先生じゃないわよ」

 

 そうは言われても、先生以外の呼び方と言われたらしっくりこない。それは先生もわかっているようで、自分で言っておきながらそれほど気にした様子ではなかった。

 

「ちょっと欲しい本があったのよ」

 

 そう言って先生が目を向けた先には子育ての本が並んでいた。

 それでようやく気づいた。先生のお腹が大きくなっているということに。

 

「先生、もしかして赤ちゃんできたんですか?」

 

 俺が尋ねると、先生は嬉しそうに頷いた。

 

「まだ何か月か先なんだけど、自分が母親になるって思ったらいろいろと勉強しなくちゃって思ったのよ」

「そうなんですね。おめでとうございます」

 

 お祝いの言葉を並べてみる。口を動かしながらも、知っている人が身ごもったという事実は俺に少なからずの衝撃を与えていたことに気づかされる。

 

「あの、お腹に赤ちゃんがいるんですか?」

 

 葵ちゃんが尋ねる。先生は「そうよ」と笑いながら頷く。その笑顔には母性が感じられる気がするのは彼女に子が宿ったからだろうか。

 

「よかったら触ってみる?」

 

 先生はそんな提案をしながら自分のお腹を摩る。葵ちゃんは目を輝かせた。

 

「わあ! いいんですか? じゃ、じゃあ触らせていただきます」

 

 緊張しながらも葵ちゃんの手はゆっくりと先生のお腹に触れた。慈しむかのような手つきで撫でている。まるで赤ちゃん自身を撫でているようだ。

 

「よしよし」

 

 葵ちゃんが楽しげに先生のお腹を撫でていると、瞳子ちゃんがうずうずとした調子で体を揺らす。

 

「あ、葵。あたしにも触らせて」

「うん。もうちょっとだけ待って」

「うふふ。焦らなくても木之下さんにもちゃんと触らせてあげるからね」

 

 和気あいあいと葵ちゃんと瞳子ちゃんは代わる代わる先生のお腹を触っては感想を言い合っている。男の俺はその中に入るかどうか少し躊躇われてしまう。

 

「高木くんも触ってみる?」

 

 そんな俺に先生が尋ねてくれる。咄嗟に首を横に振ろうとして、ぐっと堪えて首を縦に振った。

 せっかくの機会なので触らせてもらおう。少しドキドキしながらも手を伸ばした。

 服越しに先生のお腹を触る。薄着なのでふっくらとしたお腹の感触が返ってくる。

 

「なんか硬いところがありますね」

「もしかしたら赤ちゃんかもね。たまに動いたりするのよ」

 

 自分が触っているのが赤ちゃんだと思うと自然と手つきが慎重なものへと変わる。というか我ながらぎこちない。大丈夫だとはわかっていても触っている最中に何か起こってしまわないかと不安になった。

 手のひらから体温とは違う温かみを感じた気がした。

 赤ちゃんが生まれれば先生も母親になるのだ。それは一つの家族が誕生する時でもあるのだろう。

 俺も将来結婚できたのなら、妻となる人に子が宿るのだ。その時がきたら俺はどんな気持ちになるのだろうか。子供の自分にはまだ早いとわかっていながらも想像せずにはいられない。

 

「トシくん、私もう一回触りたいの。代わってもらってもいい?」

「あたしも。……いいかしら?」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんが代わってとせがんでくる。よほど赤ちゃんに興味があるのだろう。

 もし二人のうちどちらかと結婚するとしたら、俺の子供を産んでくれるのだろうか。結婚して子供ができて、家族になれたら幸せになれるのだろうか。

 それは俺にとって未知の領域だ。だから結婚生活がどうなるかなんてわからない。

 でも、これから母親になろうとしている先生は幸せそうな笑顔だ。俺も結婚できたのなら、相手にはそういう顔をしてほしいと思った。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「先生のお腹に赤ちゃんがいるだなんてすごいよね」

「本当ね。いつ産まれるのかしら。聞いておけばよかったわ」

 

 先生と別れた後も葵ちゃんと瞳子ちゃんの興奮は冷めないようだった。

 間近で見る命の神秘に興味が尽きないのだろう。俺だって妊婦さんを見たことはあっても、そのお腹を触ったことがなかったからな。良い経験をさせてもらった。

 貴重な体験を噛みしめるようにうんうんと頷いている俺は油断していたのだ。

 

「……でも、赤ちゃんってどうやってできるんだろう?」

 

 葵ちゃんがぽつりと爆弾を投下した。

 純粋な疑問だったのだろう。葵ちゃんの表情はどこまでも無垢なものだった。彼女の言葉に冷や汗を流してしまうのは俺だけだ。

 

「葵は知らないのね。しょうがない。あたしが教えてあげるわ」

 

 瞳子ちゃんが得意気に胸を張った。なぜだかダメな予感がするのは俺の気のせいだろうか?

 

「赤ちゃんはね、コウノトリが運んでくるのよ」

 

 俺は絶句した。そして瞳子ちゃんにそう教えたのは彼女の父親だということを悟る。

 

「コウノトリって? 鳥さんが赤ちゃんを運ぶの?」

 

 葵ちゃんが首をかしげる。彼女には馴染みのない話のようだった。

 確かその話の由来はドイツの言い伝えだったか。いや、今はそんなことどうでもいいな。

 

「そうみたいよ。詳しくは教えてもらえなかったけど、パパが言ってたから間違いないわ」

 

 やっぱりパパさんですか……。娘には純粋に育ってほしいというのはわかるんだけど、フォローを強要されるこっちの身にもなってほしいもんだ。

 

「でも先生のお腹に赤ちゃんがいたよ? コウノトリが運んでくるっていうのは違うんじゃないかな」

 

 葵ちゃんのもっともな意見に、瞳子ちゃんは少しだけ悩んだ素振りを見せる。そして閃いたと言わんばかりに手を打った。

 

「コウノトリが赤ちゃんを運んで、先生のお腹の中に入れたのよ!」

 

 何それ怖い。子供の発想力とは時に恐ろしいものなのだと知った。

 

「そっか、それで先生のお腹の中に赤ちゃんがいたんだね」

 

 その恐ろしい発想を信じてしまうのが子供の恐ろしいところである。葵ちゃんは「なるほどー」なんて言いながら頷く。

 

「いやいやいや! コウノトリは赤ちゃんなんて運んでこないからね。お腹の中に赤ちゃんを入れたりもしないからね!」

 

 二人がその結論で納得してしまいそうだったので思わず口を出してしまった。さすがにそんなコウノトリ説で認識されると悪影響な気がしてしまったのだ。

 

「何よ。じゃあ俊成は赤ちゃんがどこから来るか知ってるっていうの?」

 

 自分の意見を否定されたためか瞳子ちゃんが唇を尖らせる。そもそもどこから来るという時点でおかしなことに彼女は気づかない。

 だが、聞かれるとどう答えるか迷ってしまう。さすがに男女の営みを小学生女子に教えるのは躊躇われた。

 

「それはその……。そう、結婚したら神様が祝福してくれて、その贈物として赤ちゃんが女性のお腹に宿るんだよ」

 

 この説明ならどうだろうか? なんだかファンタジーっぽいけど、神様の贈り物だなんてむしろロマンチックではなかろうか。少なくともコウノトリが赤ちゃんをお腹に入れるなんていうホラーよりはマシに思えた。

 

「じゃあ……」

 

 見れば葵ちゃんが目を輝かせていた。

 

「私とトシくんが結婚したら、神様が赤ちゃんくれるの?」

 

 俺は衝撃を受けたかのようにのけ反った。代わりに瞳子ちゃんが前のめりになる。

 

「待ちなさいよ! あたしだって俊成の赤ちゃんが欲しいんだからねっ」

「私だって欲しいもん! こればっかりは瞳子ちゃんにも譲らないよ」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんが睨み合う。久しぶりのケンカが始まる。それがわかっていながらも、衝撃から立ち直れていない俺はこれから始まる二人のケンカを止められなかった。

 大きくなった葵ちゃんと瞳子ちゃんが笑顔で俺の子供を抱いている姿を想像してしまったから。それが胸を貫かれるような衝撃を与えられるほどの歓喜だったことに、この時の俺は気づく余裕がなかったのである。

 

 



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63.地震は恐ろしいものなのです

 本日は社会科校外学習ということで、俺達五年生は防災館に訪れていた。

 当時はあまり関心がなかったが、日本は地震や台風が多い国なのだ。前世でもあまりに大きいものは体験しなかったとはいえ、それらの災害を無視するなんてこともできない。

 実際に体験して備えをする。なんにしてもこういう過程は重要である。

 

「高木。……手」

 

 赤城さんがすっと手を差し出してくる。俺はその手を握った。彼女の手は少しひんやりしながらも握ると温かみがあった。

 さて、防災館を見学させてもらうのだが、みんなが勝手に行動するわけにもいかない。

 一学年五クラスあるので、クラスごとにそれぞれ分かれて見て回るのだ。それだけじゃなく、移動は男女それぞれ一列となって手を繋いで歩くのである。これで勝手な行動をする生徒を抑制できるのだろう。

 背の小さい順で並んでおり、ちょうど俺の隣が赤城さんだったのだ。まあ彼女とは体育を始めとしたいろんなペアを作らなければならない時にお世話になっているので、一番気楽にペアになれた。

 今回は様々な体験をさせてもらうことになっている。地震や煙、暴風雨などの災害をその身で味わうのだ。そんな風に説明されていたためか、クラスメート達に緊張が走っているようだった。

 最初にあいさつがあり、それから後はクラスごとで分かれてそれぞれの体験コーナーへと向かう。

 俺達三組は地震体験コーナーからだった。

 

「さーてみなさん。地震が起こったらまず最初にしなきゃいけないことは何かなー?」

 

 地震コーナーのお姉さんが明るい調子で聞いてくる。真っ先に反応したのは本郷だ。元気良く手を上げた。

 

「テーブルの下などの安全な場所に隠れることです!」

「はい正解。よく勉強してるね」

 

 褒められた本郷はこれでもかというくらいのどや顔をしていた。それを見た女子一同がきゃーきゃーと黄色い声を上げる。今のそんなに騒ぐところなの?

 社会科校外学習で防災館に行くこともあって、俺達は前もってそれなりの勉強をしていた。本郷にとってはその成果が出たこともあって嬉しいのだろう。まあ勉強したと言っても学校の避難訓練とかでするような内容だけどな。

 

「揺れがきたらテーブルの下などに隠れて身の安全を図ります。もし火を使ってたとしても慌てて無理に消そうとしないで、揺れが収まるまでは自分の身を守ることだけ考えてくださいね」

 

 みんなが「はーい」と返事をする。お姉さんはうんうんと満足そうに頷いてから続きを口にする。

 

「もし火を使っていた時は揺れが収まってから落ち着いて消火します。どんな災害がきても落ち着いて行動すること、それが大切ですからね。みんなそれだけは忘れないでね」

 

 お姉さんは他にも気をつけるポイントを教えてくれる。改めて聞いてみると意識してないこともあったのに気づかされる。案外細かいところまでは憶えてないもんだ。

 子供相手というのもあってお姉さんは身振り手振りを加えながらテンポ良く話を進めてくれる。

 そしてお待ちかね、というわけでもないのだが地震を体験するための場所へと案内される。

 

「では実際に地震を体験してもらいましょうか」

 

 五人一組のグループで震度6強の地震を体験することとなった。場所はリビングを想定したものとなっている。

 

「うわ……すごく揺れるんやね」

 

 佐藤の腰が引ける。本郷を始めとした最初のグループが地震を体験しているのだけど、外から見ててもものすごい揺れだった。音を聞いているだけでも恐ろしくなってくるほどだ。

 

「……」

 

 隣にいる赤城さんはいつも通りの無表情である。いや、わずかにその顔は強張っているように見えた。

 俺でも少し怖いと思ってしまったのだ。まだ幼い赤城さんが怖がっても仕方がないだろう。

 地震体験は一グループ一分近く行われる。女子達はきゃーきゃー騒ぎながら本郷にしがみついていた。本郷はといえば女子にしがみつかれても関係ないとばかりにテーブルの下で揺れが収まるのをただ待っていた。

 

「けっこう楽しかったぞ」

 

 体験し終えた本郷がわざわざ俺に報告してくる。揺れの中では真剣な表情をしていたが、終わってしまえば笑顔でどんな揺れだったか聞いてもないのに教えてくれる。

 

「揺れの間ずっと女子達にしがみつかれてたな」

「ん? ああ……まあちょっと邪魔……いや、ちょっと踏ん張りにくかったな」

 

 なんか言葉を選んだ感じだったな。わりとはっきり言っちゃう奴だったのに珍しい。本郷も自分の発言に思うところがあったのだろうか?

 次は俺と佐藤、それに赤城さんを含めたグループの番だ。それぞれ椅子に座ってスタンバイする。

 少しして揺れがやってきた。俺達はすぐさまテーブルの下へと隠れる。

 リビングを想定しているのもあって他にも家具がある。けれど固定されているのか、倒れてくる様子はない。それでも揺れに合わせてガチャガチャという音を立てられると、倒れてこないとわかっていても不安感を駆り立ててくるようだった。

 

「ん~~……」

 

 下からテーブルを支えていると唸るような声が聞こえた気がした。佐藤や女子が騒いでいる中、赤城さんは目をつむって必死に耐えている様子だった。

 

「赤城さん大丈夫?」

 

 揺れの音と騒ぐ声で聞こえないかと思ったが、彼女の耳にはしっかりと届いたようでこくこくと何度も頷いていた。いや、むしろその反応は大丈夫そうじゃないんだけども。

 揺れが収まるまで、赤城さんは目をぎゅっとつむったまま歯を喰いしばっていた。そんなあまり見ることのない彼女の様子に、俺は心配になって見つめていた。

 

「や、やっと終わったわ……」

 

 地震体験が終わると佐藤の力のない声が聞こえた。それからテーブルの下からみんなが出ると、次のグループに順番を譲る。

 

「た、高木……」

 

 声に振り返れば赤城さんが床にへたり込んだままだった。テーブルの下から出たものの、どうやら立ち上がる力が残っていないようだ。

 

「赤城さん大丈夫?」

 

 もう一度同じ言葉をかける。今度の彼女は首を横に振った。

 

「な、なんか……立てない……」

 

 目を開いた赤城さんは涙目だった。体験とはいえ、よほど地震が怖かったようだ。

 俺は赤城さんを支えながら体験コーナーを出る。先生に断って少し休ませてもらうことにしたのだ。

 この地震体験が終われば次の場所へと移動するのだ。終わるまで赤城さんを介抱することにした。

 

「気分悪いかな? お茶でも飲む?」

「うん、大丈夫……」

 

 そう言う赤城さんの顔は青い。初めて体験する大地震にやられてしまったようだ。

 椅子に座って休憩する。ふいに赤城さんが俺に手を伸ばしてきた。

 

「高木……手、繋いで」

「うん? いいけど」

 

 言われるがまま赤城さんと手を繋ぐ。繋いだ手は冷たくなっていた。それが彼女の恐怖心を表しているようで、思わず温めるように握った手を両手で包む。

 

「大丈夫だよ赤城さん。大丈夫。もう終わったからね。怖いことなんて何もないよ」

「……うん」

 

 赤城さんの強張った表情がほんの少しだけ緩んだ気がした。安心させるように俺は声をかけ続けた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 みんなが地震体験を終える頃には赤城さんの調子は幾分か良くなっていた。

「安心するから」と言うものだから移動以外でも赤城さんと手を繋いでいる。まだ手が冷たいし、落ち着くまではこうしていた方がいいだろう。

 いつも無表情で口数も決して多くはない。そんな赤城さんも普通の女の子なのだ。怖いものは怖いに決まっている。

 赤城さん以外は気分が悪くなったという子はいなかった。赤城さんの状態だけ心配していればいいか。グループの子達は佐藤に任せた。佐藤も赤城さんの様子を見て取ると力強く頷いてくれた。頼りになる男だ。

 地震以外の体験はとくに問題はないようだった。火事の時の煙を想定して逃げてみたり、雨具を着て暴風雨を体験した。少しのスリルが楽しいのか子供達は声を上げて笑っていた。

 でも、こういう災害が本当に起こったら大変だよな。もしもの時のために慌てず行動できるようにするためにも真剣に話を聞いた。

 

「高木、楽しい?」

「ん? なんで?」

「すごく真面目な顔して聞いてるから」

「んー、まあね」

 

 楽しい、というのとは違う気がしたけれど、説明するほどのことでもないので頷いておく。

 

「……本当にあったら怖いのにね」

「赤城さん?」

「ん、なんでもない」

 

 首を振る彼女を弱々しく想ってしまった。表情は変わらない。なのに不安を押し殺そうとしているように見えてしまったのだ。

 

「心配ないよ。大きな災害なんてそう滅多に起こるもんじゃないしね」

 

 俺は明るい声を意識して言った。とにかく元気づけねばと思ったのだ。

 本当に前世のように時間が過ぎているのだとしたら、少なくとも学生時代では俺達の住む地域で大きな災害はなかったはずだ。赤城さんが将来どんな道に進むのかわからない以上、未来で何もないとは言い切れない。

 だとしてもわからないからと不安ばかりを募らせるのは違う気がするのだ。どんなことが自分の身に降りかかってくるかわからない。備えをしていたとしてもどうにもならないことがあるかもしれない。それでもあるかどうかもわからない不安で自分を見失っても仕方がないはずだ。

 赤城さんは無表情でひょうひょうとした感じが彼女らしいと思う。どんなに性格が変わったとしても、不安ばかりが顔に出てしまうのは赤城さんらしくないと思うのだ。

 手に力を込める。ずっと赤城さんと手を繋いでるもんだからその手の感触に慣れてきた。

 

「もし大きな地震が起こったら赤城さんを助けに行くよ。だから心配しなくてもいいんだ」

「……うん、わかった。その時がきたら待ってる」

 

 さっきの地震コーナーでお姉さんも言ってたからね。近所の人達との声掛けが大事だって。赤城さんの家はちょっとだけ離れてるけど、同じ学区なのだ。そんなに手間でもないだろう。

 赤城さんはほんのちょっぴり安心した表情になった。本当にほんのちょっぴりだけで、それからの彼女はいつもの調子を取り戻したのか顔色の良い無表情になっていた。

 ちなみに、途中で葵ちゃんと瞳子ちゃんのいる二組とすれ違ったのだが、赤城さんと手を繋いでいるのを見られて二人から睨まれてしまった。

 いやいや、男女で手を繋ぐのは決まりごとだからね? 葵ちゃんと瞳子ちゃんも男子と手を繋いでるのに……。その男子二人に睨みつける攻撃をしようと思ったのだが、彼女達のかわいさに当てられてしまったのか顔を真っ赤にしてうつむいていたため不発に終わったのだった。

 

 




あの地震を体験できるやつの名称がわからなかったのは内緒(暴露)


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64.授業参観は集中できない

前半は小川さん、後半は佐藤視点になります。


 授業参観の日。教室の空気は私でもわかるくらい浮ついていた。

 

「で、では授業を始めます。み、みんな今日はお父さんやお母さんが見に来てくれているからって緊張しないように。いつも通りの姿を見てもらえればいいんだからな」

 

 そういう先生が一番緊張しているみたいに見えた。チラチラと教室の後ろに並んでる親達を何度も確認している。やっぱり反応とか気になっちゃうのかな。

 科目は国語。本読みだけなら楽かな。登場人物の気持ちとかどうとかはよくわかんないし、そっちでは当てられたくないな。

 

「じゃあ宮坂、ここから読んでくれ」

「はい」

 

 先生に当てられてあおっちが席を立った。親達もあおっちに注目する。

 浮ついているみんなと違ってあおっちは落ち着いていた。ゆっくりとした調子ではっきり読み上げていく。

 あおっちとは保育園の頃からの友達だ。あの頃は男子にビクビクしてて守ってあげなきゃって思ってた。それくらい男子に対しての苦手意識の強い子だった。

 そんなあおっちが小さい頃から心を許している男子が一人だけいた。高木くんっていう同級生の男子なんだけど、見た目は可もなく不可もなくといったぱっとしない感じの子だった。

 見た目なら本郷くんの方が人気がある。女子のほとんどが本郷くんのことが好きみたいだしね。まあ私が見ても顔で評価するなら本郷くんの方が明らかに上だとは思う。

 それでもあおっちは高木くんのことばかり見ていた。保育園時代にあおっちを守っていたという自負があったからか、私はちょっとだけ高木くんに嫉妬したことがある。まっ、それも過去のことね。

 

「よし、そこまででいいぞ。着席しなさい」

「はい」

 

 あおっちが文章を読み終わって席に座る。後ろの親達からほぅと息が漏れる。ただ本を読んでいただけなのにみんなを引きつける何かがあるのよね。

 昔はビクビクしてたのは本当だけど、今ではそんなところを全然見せない。それどころか苦手だった男子の扱いが上手くなっていた。これはもうあおっちだからこそなんでしょうけどね。誰にでもマネできることじゃないし。

 

「この次を木之下、読んでくれ」

「はい」

 

 きのぴーが席から立ち上がり文章を読んでいく。きのぴーもあおっちと同じで注目を集めやすい。彼女の場合は見た目からしてどうしても注目を集めてしまうみたいだけど。

 

「瞳子ー、がんばってくだサーイ」

「コラコラ、授業中なんだから声掛けないの」

 

 声に振り返れば銀髪と黒髪の美女がいた。

 声援を送ったのがきのぴーのおばさんで、それをたしなめたのがあおっちのおばさんだ。おばさんって呼んでいいのか迷っちゃうくらい綺麗な人なんだよね。母親というよりもモデルとかの方が信じられそう。素直にいいなーって思っちゃう。

 きのぴーは後ろを見ることなく声を出して読んでいく。その姿はみんなよりも大人っぽく見えた。

 きのぴーとは小学校に入ってからの付き合いだ。仲良くなったのは三年生の時くらいからかな。それまでは刺々しい感じの女の子だったように見えていた。

 最初は仲良くなれるかどうか怪しかったけど、案外優しい子だってことに気づいてからは迷いなんてなくなった。今では気を遣わなくてもいい友達の一人だ。

 

「うむ、そこまででいいぞ。着席しなさい」

「はい」

 

 きのぴーは静かに着席する。動きの一つ一つが子供っぽくない。もちろんいい意味でだ。

 あおっちときのぴー。二人ともとってもかわいい見た目をしてる。中身だって同級生のみんなに比べたら大人っぽくて、実はちょっと憧れだったりする。

 そんな二人が高木くんの前だとなぜかメロメロなのよね。そんなにかっこ良いわけじゃないし、あおっちときのぴーと比べると釣り合わない気がしなくもないんだけどね。

 あっ、でもでも四年生の子をいじめから助けるために一番動いたのは高木くんだったみたい。何をやったのかは知らないけど、いじめっ子の男子なんて高木くんに頭が上がらないみたいだし。

 そう考えるとやる時はやるタイプなのかな? そういうところを知ってるからこそあおっちときのぴーがゾッコンなのかもしれない。まあ見た目だけで好きになったって言われるよりは何百倍も信じられる理由かな。

 人は外見よりも中身だっていろんな大人が言ってるけど、その中身をちゃんとわかるのって難しいと思うのよね。中身なんて仲良くなんなきゃわかんないし、だからこそ外見に惹かれるのはしょうがないって私は思うんだけどね。

 だからほとんどの女子が本郷くんに目が行ってしまうのは当たり前かなって思ってる。だって彼がダントツでかっこ良いんだもの。だからって私も彼が好き、なんてわけでもないんだけどね。

 そんな中であおっちときのぴーは高木くんの中身を見て好きになった。そりゃあ小さい頃から仲良くしてるってのもあるんだろうけどさ、それでも心を好きになれるってすごいことだと思った。

 あおっちときのぴーを見てると私もいつか好きな人とかできるのかなーって考えちゃう。その時は二人みたいに私もその人の心が好きだって言えるようになりたいな。なんてね。

 

「よーし、じゃあここから最後までを小川、読んでくれ」

「え、わ、私!?」

 

 完全に油断してた。急に当てられてうろたえてしまう。

 

「そうだ。聞いてなかったのか?」

「聞いてました! 読みます!」

 

 私は勢い良く立ち上がり、教科書を読もうとして思いっきり噛んでしまった。

 授業参観のせいかな、なんか緊張してたみたい……。あおっちときのぴーみたいに上手くはいかないね。私は誤魔化すようにぺろっと舌を出した。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 授業参観の日。教室の空気は僕でもわかるくらいに浮ついてた。

 よりによって科目は算数やった。うぅ……、僕算数が一番苦手やのになぁ……。

 

「大丈夫。あたしも苦手だから」

「赤城さん、それ全然大丈夫ちゃうよ」

 

 赤城さんはあんまり表情を変えへん人やから冗談なんかそうやないんかがわかりづらい。それでも悪い人やないってのはわかってるから、たぶん慰めようとしてくれてんのかな?

 

「もしわからなかったら高木に聞けばいい」

「あっ、そうやね」

 

 赤城さんの言う通り高木くんならすぐに答えを出してくれる。それがわかってるから赤城さんもあんまり緊張してへんのやろうね。

 

「別にいいけどちゃんと自分達で考えるんだぞ。問題を解こうとする過程も勉強なんだからな」

「はいはい」

「赤城さーん? 軽く流さないでくれるかなー」

 

 赤城さんの表情はいつもの通り。でも、高木くんとしゃべる時だけはなんか感じが違うゆうんかな。なんとなくやけど楽しそうに見える。

 そんなこんなしているうちに授業が始まった。教室の後ろにお母ちゃんがいると思ったら緊張してきてまう。

 僕の席は一番後ろ。みんなの親も含めて一番近くやった。こういう時だけは前の席の方がええなぁ。

 後ろに意識がいかんように前だけ見て集中する。でも算数やとちゃんと集中できひん……。

 そんな風に思ってると、みんなの様子に目が行ってまう。ずっと後ろの席におるとちょっとしたことでも気づくようになっとったんや。

 

「……」

 

 高木くんと赤城さんは席が隣同士なんやけど、よく赤城さんは高木くんの方を横目でチラチラ見とる。後ろにおる親を気にしとるとかやなくて、それはいつものことやった。

 なんでそないに見てんのやろと思った。授業中の高木くんは変な顔でもしとるんかなって考えたんやけど、いざ移動教室なんかで高木くんの隣の席になった時に確認してみたけど普通の顔やった。

 そうなると理由がわからんくて、でも気になったから赤城さんに聞いてみたことがあった。

 

「それ以上そのことを口にしたら大変なことになる」

 

 という答えが大真面目な顔とともに返ってきたから僕は首を縦に振ることしかできひんかった。なんか赤城さん迫力があったなぁ。

 そんなわけで赤城さんが授業中に高木くんを見てんのはいつものこと。僕の中では気にすることやないってことになったんや。

 ……でもまあ、気にする理由に心当たりがないわけやなかったりする。

 去年、僕等が四年生の時の運動会。クラス対抗リレーで赤城さんはバトンミスをした。

 もしそれでビリになってもうたとしても彼女だけの責任やない。せやのにみんな、ちょっと赤城さんを責めるような空気になってもうてた。女子の何人かは声に出してたんを聞いてもうた。

 みんながんばって練習してたし、一位になれるかもって思ってたところやったから余計にやったんやろうね。その空気を感じてもうたんか、赤城さんが泣いとったんや。初めて泣いてるとこ見たからびっくりやった。

 そんな時、高木くんがすごい追い上げを見せたんや。ものすごい差があったのに追いついてまうから僕もすごく興奮してもうたんや。

 赤城さんなんか真っ赤な顔で高木くんをずっと見つめとった。本当にすごかったからそうなるんのも無理のないことやと思った。

 でも後々思い返せば、宮坂さんや木之下さんが高木くんを見る目に似とったんやって気づいたんや。

 高木くんはモテモテやね。僕なんかは全然やのに……。どうしてそないにすごい高木くんは僕なんかと仲良くしてくれるんやろ?

 僕は高木くんみたいに頭は良くないし、運動もできひん。「佐藤は佐藤だからいいんだよ」なんて高木くんは言ってくれたけど、僕にはようわからんかった。わからんかったからちょっぴり冷たくした時期があったんや。

 それでも高木くんは優しかった。そんな僕が困った時も助けてくれたし、あんまり分け隔てせえへん性格みたいやった。そんな彼を見てたら仲良くするのに理由なんてなくてもええんやないかって思うようになったんや。

 そういうところがもっとみんなに伝わればええのに。前に四年生の子のいじめを止めたのかって高木くんが一番がんばったのにみんなはそのことをあんまり知らへん。それがちょっとだけもどかしい。

 

「この問題誰かわかるかなー? 佐藤くん答えられるかな?」

「えっ、は、はい!」

 

 名前を呼ばれたせいで思わず立ち上がってもうた。あかん、全然わからへん……。

 僕があわあわ困ってると、高木くんからサインが飛んできた。その通りに応えると正解できた。

 ほっとして着席する。後ろから「よし!」というお母ちゃんの声が聞こえた。正解できてよかった~。

 高木くんがチラリとこっちを向く。あー……、これは後で復習せなあかんね。高木くんは答えだけを教えるんやなくて、後からわからんかった問題の解き方まで教えてくれる。そのおかげで僕の成績はそれなりには上がってたりしとる。

 それは僕だけやなくて赤城さんも同じやった。むしろ彼女はわざと教えてもらえるようにしているようにも見えるんやけどね。

 宮坂さんと木之下さん、そこに赤城さんが加わったら……。高木くんは誰とくっつくんやろうか。最近僕はそんなことを考えるようになっとった。

 

「じゃあこの問題も佐藤くんに解いてもらおうかな?」

「えっ!? また僕ですか!?」

 

 二回連続で当てるんは反則やん……。僕は授業参観の緊張なんて忘れてまうくらい頭を働かせた。

 

 



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65.正月に従妹が家に来た

小四時での調理実習でやったお米の研ぎ方が間違ってるとのご指摘をいただいたので修正しました。ご迷惑をおかけしました(土下座)


「兄ちゃーん。お年玉くれよ」

「と、父さんからもらってください」

 

 正月になると親戚との関わりも多くなるわけで、従妹の麗華が家を訪れるのも恒例行事の一つと言えた。

 日焼けした肌にショートの長さの髪が少年なのか少女なのかわからなくしている。そんな活発そうな見た目の女の子が俺にお年玉を要求するように手のひらを向けてくるので、父に助けを求めて目を向ける。父さんは「待ってなさい」と優しく言ってから麗華用のポチ袋を取り出した。

 

「やったー! おじさん大好きー!」

 

 麗華は弾けるように父さんの元へと走った。なんて素直な奴なんだ……。というか子供の俺にお年玉をせがまないでほしい。あの無邪気な顔を見てたらあげなきゃいけないなって思っちゃうんだからさ。

 

「麗華、ちゃんとお礼言うのよ」

「うん! ありがとうおじさん!」

「はははっ、麗華ちゃんは元気があっていいなぁ」

 

 麗華は父さんからお年玉をもらえてご満悦である。ああやって素直に喜ばれるとあげる方も気持ちがいいのだろう。なんだか父さんも嬉しそうだ。

 

「兄ちゃんお年玉もらったぜ。いいだろー」

「そっかそっか、よかったなー」

 

 麗華は相変わらずだな。従妹の元気な様子に頬が緩む。

 父さんと麗華の母親は兄妹である。久しぶりに会ったというのもあり、話が弾んでいるようだ。大人はここぞとばかりに酒盛りをしようとしている。まあ昼間に飲めるなんて一年中でそうあるわけでもないし、野暮なことを言う必要もないだろう。

 

「兄ちゃん兄ちゃん。どっか買い物行こうぜ」

 

 麗華が今しがたもらったばかりのお年玉を見せびらかしながら言う。早速使う気満々だった。貯金というものを知らないらしい。

 

「いや、どこも正月休みで開いてないと思うぞ。明日くらいからなら開いてると思うから今日は我慢しろよ」

「えー! 明日はうちここにいないのにー!」

「買い物なら地元でもできるだろ?」

「う~! 兄ちゃんの目の前で買って自慢したかったのにー!」

「そんな理由かよ……」

 

 なんというかしょうもない理由だな。まあ子供らしいと言えばそうなのかもだけど。

 

「じゃあどっかつれてってよー」

「えー……、寒いからこたつに入りたいし……。そうだ、将棋でもするか? それならこたつに入ってもできるしさ」

「将棋って……兄ちゃんジジくさっ」

 

 かっちーん。将棋をバカにするんじゃないっ。これは前世で上司と絆を深められたゲームなんだぞ。けっこう奥深いんだからな。

 思い入れのある将棋をけなされて一瞬頭に血が昇ったが、わからない子からすればそんなもんかと冷静に納得してみせる。ほら、俺大人だからな。

 

「こたつに入ってやるんだったらテレビゲームがいい。兄ちゃんとこはゲーム機置いてないの?」

「……ないな」

 

 前世ではそこそこやってたけど、今世ではまったくだ。自分の能力を少しでも上げようといろいろやってるとそんなに暇な時間なんてできなかったからな。葵ちゃんと瞳子ちゃんもやらなかったこともあってノータッチだ。

 

「むー、つまんねー。やっぱり外出ようよ」

 

 麗華はとにかく何かしたいらしい。体をうずうずとさせている。

 大人達に目を向ける。全員目を逸らした。誰も外へは出たくないらしい。まあ寒いからね。

 子供は風の子というからな。俺も子供だし、麗華に付き合って外で遊ぼうか。

 

「わかった。なら公園に行こうか」

「やった! さっすが兄ちゃん。話がわかるね」

 

 喜ぶままに外に出ようとするので厚着になるように注意する。まったく落ち着くということを覚えない子だな。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 俺と麗華は近所の公園に訪れていた。寒いからなのか、それともどこかに出かけているからなのか、公園には俺達以外の人の姿はなかった。

 

「よし! 勝負だぜ兄ちゃん!」

 

 羽子板を俺に向かって突きつけながら麗華は大声を張り上げる。外は北風ぴゅーぴゅー吹いて寒いってのにその元気は変わらない。

 これからやる遊びは羽根つきである。正月の伝統的な遊びの一つだ。

 二人で向かい合って羽根を打ち合う。打ちそこなったら負けとなる。これは追羽根というルールだ。一人用としては揚羽根という遊び方もあるけど今はやることもないのでいいだろう。

 

「じゃっ、いっくぜーーっ!!」

 

 大声とともにカーンと羽根を打つ麗華。声とは裏腹にふわりと羽根が上がる。それをタイミングを計って打ち返す。

 

「うりゃあっ!」

「ほいっ」

「どりゃあっ!」

「ほいっ」

「でりゃあっ!!」

「ほいっ」

「だりゃあっ……あ?」

 

 ぽとり、と羽根が地面に落ちた。

 

「……盛大な空振りだったな」

「う、うっさいよ兄ちゃん! たまにはこういう時もある!」

 

 負けたのに偉そうだな。顔に墨でも塗ってやろうか。まあ今回はそんなものは用意してないので罰ゲームはなしだけどな。

 羽根を打っては打ち返し、それをまた打って返す。羽根つきは単純な遊びだが熱中できた。

 何度も続けているとなんだか楽しくなってきた。体もあったまってきたし俺も本気を出してやろう。

 

「俊成?」

 

 背後から聞き慣れた声が聞こえて振り返る。そこには瞳子ちゃんがいた。初詣以来の再会である。

 あれ? なんで瞳子ちゃんがこんなところにいるんだろうか。彼女と葵ちゃんは今日親戚のところに行く予定だったはずだ。

 

「兄ちゃんどしたのー?」

 

 いないはずの瞳子ちゃんの登場に首をかしげていると、麗華がこっちに近づいてきた。彼女を見て瞳子ちゃんの眉が寄せられる。

 瞳子ちゃんと麗華の視線がぶつかり見つめ合う。何を納得したのか麗華はうんと頷いた。

 

「こほんっ……、俊成さん。この人は誰ですの?」

「は? 急にどうした麗華?」

 

 突然口調を変えた麗華に面喰う。一体何を考えてるんだ?

 その疑問が大きな隙だったのだろう。麗華は俺と距離を詰めると腕を組んできた。

 

「お、おい麗華っ。本当にどうしたんだよ?」

「おほほほほほ。なんでもございませんのことよ。いつものことではないですの」

 

 嘘つけ! と言おうとして麗華の目線に気づく。その視線を追いかけると瞳子ちゃんが目を吊り上げていた。なんか背後からゴゴゴゴという効果音が聞こえてきそうなくらいの威圧感を放っていた。

 

「と・し・な・り? 誰なのこの子? いいえ、名前は麗華っていうのよね。俊成が呼び捨てにするくらい仲良しなのよね?」

「い、いや待って瞳子ちゃんっ! 絶対に勘違いしてるからっ。瞳子ちゃんが考えてるような関係じゃないからっ!」

「あたしが考えてる関係って何かしら? ほら、言ってみなさいよ」

 

 と、瞳子ちゃんが怖いです……。助けを求めて麗華に目を向けた。すごいニヤニヤ顔だった。こいつ狙ってやりやがったな!

 

「ぷっ、あははははっ! こんなに面白い反応するなんて思ってなかったよ。姉ちゃん面白いね」

「は、はあ? 一体なんなのよ?」

 

 大口開けて笑う麗華に瞳子ちゃんは困惑顔だ。口調も砕けたのもあってからかわれたことに気づいたようだ。

 

「うちは兄ちゃんの従妹だよ。お年玉もらいに来たついでに兄ちゃんと遊んであげてんの」

 

 おいおい、お年玉もらいに来たのが一番の目的になっちゃってんぞ。いや、麗華にとってはそれで間違いないのか。それと遊んであげてんのはこっちの方だからなっ。

 

「な、なんだ従妹なのね……」

 

 あからさまにほっとする瞳子ちゃん。そういう反応はかわいいってば……。

 

「それにしても、瞳子ちゃんは親戚のところに行ったはずじゃなかったの?」

「う、うん……、今日はちょっと都合が悪くなっちゃって行けなくなったの。だから暇になったから俊成のところに来ちゃった。……迷惑だった?」

「ううん全然」

 

 俺が瞳子ちゃんを迷惑に思うはずがない。むしろ真っ先に俺のところに来てくれたのが嬉しい。

 

「姉ちゃんって髪の毛光っててなんかきれーだな。クリス姉ちゃんみたい」

 

 横から飛んできた麗華の言葉に瞳子ちゃんがピシリと固まった。あっ、これは嫌な反応だ。

 

「俊成? この子が言うクリス姉ちゃんって誰かしら? あたしの聞いたことのない名前なんだけど?」

「い、いや……。別に隠してたわけじゃないんだけども……」

 

 まるで浮気が見つかった夫の気分だ。浮気以前に結婚すらしたことはないけども……。

 それにクリスとはひと夏の思い出というか、去年の夏休みにちょっと遊んだくらいの関係でしかない。彼女は国に帰ってしまったし、もう会うこともないだろうからとわざわざ教えなかったのだ。

 

「そんなことよりも姉ちゃんの名前教えて! うちは清水麗華。麗華でいいよ」

 

 ナイスだ麗華! 今だけは麗華の空気の読めなさに感謝する。

 割って入られて瞳子ちゃんの意識が麗華の方に向く。基本無視とかしない子だからね。おかげでこれ以上の詰問はなさそうだ。

 

「え? ええ、そうね。あたしは木之下瞳子よ。俊成の従妹なら好きに呼んで構わないわ」

「じゃあ瞳子姉ちゃん! うちら羽根つきやってんだけど瞳子姉ちゃんもいっしょにやろうよ!」

「べ、別にいいけれど……」

 

 瞳子ちゃんが押され気味だ。麗華も遠慮を知らないからな。距離感を量るということを知らないもんだから瞳子ちゃんも戸惑ってしまっているようだ。

 俺の羽子板を瞳子ちゃんに貸すと、女子二人で遊び始めてしまった。せっかく体があったまってきていたが見学することになりそうだ。

 羽根つきは瞳子ちゃんともしたことがある。運動神経が良いこともあってなかなかの腕前なのだ。麗華よりも普通に上手い。

 しかし年下というのもあってか、瞳子ちゃんは麗華に打たせやすいように返している。こういうところにも彼女の優しさが表れていた。

 

「うりゃーーっ! あ……空振っちゃったぁ」

「振り回すようにしちゃダメよ。こうやってよく見て打つの」

 

 瞳子ちゃんが丁寧に打ち方を麗華に教える。初対面とは思えないくらいあっさりと仲良くなっていた。

 

「へぶしっ!」

 

 ずずずと鼻をすする。見学してたら体が冷えてきたようだ。じっとしてたらやっぱり寒いな。

 

「俊成大丈夫? ごめんね、あたしばっかりやってたから」

 

 俺のくしゃみを聞きつけた瞳子ちゃんが飛んできた。申し訳なさそうにするので首を振る。

 

「大丈夫だよ。ちょっと冷えただけだから」

「風邪引いたら大変じゃない。すぐにあっためなきゃ」

「じゃあ兄ちゃん家に帰るか? うちもスッキリしたし帰ってやってもいいぜ」

 

 なぜに麗華は上から目線なのか。まあ飯の時間も近いだろうからちょうどいい頃合いだろう。

 

「瞳子姉ちゃんも家に来るか?」

 

 そしてなぜに我がもの顔なのだろうか。そんな麗華にツッコむことなく、瞳子ちゃんは首を横に振った。

 

「ううん、あたしもそろそろ家に帰るわ。俊成、風邪引かないように帰ったらちゃんと手洗いとうがいをするのよ」

「わかったよ」

 

 瞳子ちゃんからは母親みたいなことを言われた。心配かけないためにも言う通り手洗いうがいをしっかりしよう。

 

「それと――」

 

 瞳子ちゃんが俺の耳元で口を開く。白い息が冷たくなった耳をくすぐる。

 

「今日のことは葵に言っとくからね」

「は、はい……」

 

 え、俺何もやましいことしてないよね? 葵ちゃんに報告されても大丈夫だよね?

 俺に心配の種を残して瞳子ちゃんは帰って行った。麗華は彼女の姿が見えなくなるまで手を振っていた。

 

「瞳子姉ちゃんと遊べて楽しかったなー。それにすげー綺麗だった」

 

 麗華は目をキラキラさせている。瞳子ちゃんと仲良く遊べてよほど嬉しかったのだろう。

 

「まさか兄ちゃんにカノジョがいたとはねー。うちもびっくりしたよ」

「ぶっ!?」

 

 まさか麗華からそんなことを言われるとは思ってなかったのでびっくりしてしまった。少し咳き込んでしまう。

 

「どしたの兄ちゃん?」

「いや……、瞳子ちゃんは俺のカノジョじゃないんだよ……」

「はい?」

 

 麗華の顔が怪訝なものへと変わる。俺に疑わしげな視線を送ってくる。

 

「いやいや兄ちゃん、そんなん嘘だよね? あんなにラブラブだったじゃん。瞳子姉ちゃんとか絶対兄ちゃんのこと大好きじゃん」

 

 初対面なのにそこまでわかっちゃうのか。俺は麗華のことを舐めてたらしい。遊ぶことばかりで恋愛ごとなんてまだまだちんぷんかんぷんなのかと思っていた。

 ただ、葵ちゃんの存在を知らないからこその見立てでもある。

 俺のしかめた顔を見てか、麗華ははぁとため息を吐いた。

 

「兄ちゃん、うちが言うことじゃないのかもだけどさ。あんまり女の子を待たせるもんじゃないぜ」

「うっ……」

 

 麗華の言葉がぐさりと俺の胸を抉る。

 俺にダメージを与えた麗華は「まっ、うちには関係ないけど」と言いながら俺の手を引っ張る。

 

「そんなことはいいから、早く帰って飯食おうよ! 動いたらお腹ペコペコになっちゃった」

 

 俺は麗華に手を引かれるまま家へと向かった。その短い帰路で考えてしまう。

 瞳子ちゃん、もちろん葵ちゃんもそうだけど、いつまでも答えを出そうとしない俺に呆れていないだろうか。そんなことを考えてしまう。

 まだ小学生、されど小学生。彼女達に好意を向けられてからそれなりの年月が経過している。

 俺が黙っている間も、葵ちゃんと瞳子ちゃんはずっと待ってくれているのだ。ずっと、好きでいてくれているのだ。

 そんな事実に、今さらながら胸を抉られる思いになってしまったのだ。

 わかっていないわけじゃない。忘れているわけでもない。それでも、どうやって答えを出せばいいのか、未だにわからないままなのだ。

 五年生でいられる期間もあと少ししかない。六年生になれば小学生でいられる時間もそう長くはない。

 時間をかけてしまった分、せめてしっかりとした答えを出せるように。そう考えれば考えるほどに、俺の中にあるだろう答えが見えなくなっていく気がした。

 

 



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66.雪解けの後に残るもの

 俺の住んでいる地域は冬になっても雪が積もるなんてことはあまりないことだった。

 だからこそ、いざ雪が積もって辺り一面銀世界になった時、子供達は大騒ぎであった。

 

「わぁ、すっごーい真っ白だー」

「足埋まっちゃわないかしら?」

「なんかシャリシャリしてるね。かき氷みたいに食べられるかな……」

「雪合戦しようぜ!」

 

 昼休み。様々な反応を見せつつ子供達は白に染まった運動場へと駆け出していく。

 

「ねえねえ、雪だるま作ろうよ」

 

 葵ちゃんも目を輝かせていた。興奮を隠しきれないようで早速雪を手に取っていた。

 

「まったく、葵ったらしょうがないわね」

 

 なんて言いながらも瞳子ちゃんも笑顔だ。雪だるまを作れるくらい積もることがそうなかったからか、彼女もワクワクが押さえられないらしい。

 

「でやあっ!」

 

 俺はまっさらな雪へとダイブした。俺の体の形がくっきりと残る。うむ、なかなか立派な大の字だな。

 くすくすと笑う声に振り向けば葵ちゃんと瞳子ちゃんがやれやれと言わんばかりにこっちを見ていた。

 

「トシくんも子供だねー」

「俊成ったらはしゃぎ過ぎよ」

 

 しまった……。久しぶりの雪に童心をくすぐられてしまった。いや、これはあれだよ。はしゃいでるみんなを見てたらその気持ちが俺にも芽生えてしまったというか。ね?

 俺は立ち上がって冷静な顔を取り繕う。うん、恥ずかしくなんかないぞ。

 

「えい」

 

 横からそんな声が聞こえたかと思えば、俺が作った大の字に赤城さんがダイブしていた。

 

「上書きしてみた」

 

 赤城さんはニヤリと笑う。せっかく俺の形を残したのにっ。なんだか悔しくなる。

 

「ぐぬぬ……」

 

 俺がぐぬぬと悔しがっていると、両隣りからそんな呻きが聞こえた。なぜか葵ちゃんと瞳子ちゃんまでぐぬぬしていた。なぜに?

 首をかしげる俺に雪球がぶつけられた。不意打ちだったのでびっくりしてのけ反ってしまう。

 

「高木、みんなで雪合戦しようぜ!」

 

 本郷が雪球を弄びながら言った。その後ろでは佐藤や小川さんを始めとした五年生の男女が集まっている。

 人数が集まっていて面白そうだ。自然にそれぞれ二つのチームを作っていく。

 

「あの、四年生も混じっていいかな?」

 

 御子柴さんが後ろに何人かの四年生女子をつれてきた。その中には品川ちゃんの姿もあった。

 

「そりゃもうどんと来なさいよ!」

 

 なぜか小川さんが応えて大盛り上がりしていた。雪のせいなのか今は何をやっても騒がしくなってしまう。

 

「品川ちゃんは雪合戦したことあるの?」

「あ、いえ……初めてです……」

 

 品川ちゃんはもじもじと足元の雪を見ていた。昼休みでも滅多に運動場へと出ようとしないインドア派なのだ。そんな彼女でも雪の魔力には勝てなかったみたいだ。

 

「冷たい……」

 

 雪を手に取った品川ちゃんはそうしみじみと呟きながらも嬉しそうに顔をほころばせている。なんだかこっちまで頬が緩んでしまうな。

 

「おい品川!」

 

 そんな時、怒声とも呼べるような大声が響いた。名指しされた品川ちゃんは体を跳ねさせてしまう。

 声の方向を見れば森田がずんずんと近づいてきていた。ざわり、と周囲から緊張が走ったのがわかる。

 森田が品川ちゃんをいじめていたというのは四年生と五年生の間では周知の事実である。それも解決したこととはいえ、怒鳴る森田を見ればみんなの警戒心が高まるのは当然と言えた。

 品川ちゃんの傍まで寄った森田が彼女の腕を引っ張る。この場の全員の緊張が一気に高まった。

 

「雪は冷たいんだから素手で触るんじゃねえよ! 手が凍ったらどうすんだ! ほら、ちゃんと手袋付けろって」

「あ、うん……ありがとう……」

 

 品川ちゃんの手に大きめの手袋が押しつけられる。どうやら森田の手袋のようだった。

 

「手が冷たくなって動かなくなったらどうすんだよ。その手はもう品川だけの手じゃねえんだからな」

「……うん。森田くんも、楽しみにしてくれてるもんね」

 

 品川ちゃんがほにゃりと森田に笑いかけた。二人から優しい空気が広がる。

 ざわり、と。先ほどまでとは別種の緊張が走った。

 少しの静寂の後、女子達はきゃーきゃーと黄色い声を上げる。葵ちゃんと瞳子ちゃんなんて目を輝かせている。男子に至っては舌打ちの嵐だった。

 あー……うん。これはみんな勘違いしてるな。

 俺は森田の肩を叩いた。

 

「あっ、高木さん! こんちはっす!」

「おう。……気持ちはわかるけど、もうちょっと言葉を選べよ」

「はい?」

 

 森田は品川ちゃんの手が冷えてしまったせいで漫画を描くことに支障が出やしないかと心配したのである。品川ちゃんのファンを公言している彼からすれば、彼女の漫画は彼女自身のものだけじゃないと言いたかったのだろう。

 まったくお騒がせな奴め。変に勘違いされたら品川ちゃんだって困るだろうに。

 なんて考えている俺の前に赤城さんが立ちはだかった。

 

「高木」

「ん、どうしたの赤城さん」

「手」

「手?」

 

 赤城さんが手を前に突き出してくる。うん、彼女の意図がわからないぞ。

 

「手」

「手……出せばいいの?」

 

 よくわからないままに俺も手を赤城さんの前に差し出してみる。赤城さんはその手を掴んだ。

 

「えっと、冷えてるね」

「高木のはあったかい……」

 

 なんだ? 人の手をカイロ代わりにしたかっただけなのか。そういう気持ちはわからないでもないけどさ。

 

「高木の手も、高木だけのものじゃないの?」

「いや、俺のは大層なもんでもないからな」

 

 なんだ、森田の言葉に疑問を持っただけか。別に俺は漫画を描けるわけでもないので過剰に大切にする必要はない。

 

「トシくん? なんで赤城さんと手を繋いでるのかな?」

「俊成……、ちょっと目を離した隙に何をしてるのよ?」

 

 ぞわりと背筋が凍った。これは寒さが原因じゃないと断言できる。だって振り返れば笑顔で黒いオーラを放つ葵ちゃんと、目を吊り上げて怒りの炎を燃やしている瞳子ちゃんがいるんだもの……。

 

「高木、雪合戦こっちのチームに行こ」

「え、あ、赤城さん?」

 

 赤城さんに引っ張られるままに葵ちゃんと瞳子ちゃんとは別チームになってしまった。タイミングがいいのか悪いのか、本郷が開始の合図を言い放った。

 三、四十人くらいの人数での雪合戦だ。雪球が乱れ飛ぶのは見ているだけで楽しい。

 

「トシくん、隠れちゃダメだよ?」

「俊成! 出てきなさい!」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんから集中砲火を浴びていなければ、だけどね。

 ちょうどいいくぼみがあったのでそこに身を滑り込ませている。ここなら当たらないとわかってるんだけど、何度もこっちに向かって雪球が飛んできていると、出るに出られなくなってしまう。

 

「高木も大変だね」

「赤城さん、もしかしてわかっててやってる?」

 

 赤城さんはふいっと目を逸らした。やっぱりからかってるんだな。彼女はこういうところがあるからなぁ。

 でもまあ、せっかくの雪合戦だ。こんなのは子供のうちでしかできない遊びだろうし、思いっきり楽しんでやろう。

 そうと決まればせっせと雪球を作る。俺を見てか赤城さんも同じように雪球を作り始めた。

 

「あっ、高木くんと赤城さんはこっちに来たんやね」

「佐藤もこっちのチームだったのか」

「うん。がんばろうな」

 

 二つのチームに分かれたとはいえ、とくに勝ち負けの方法を決めてるわけじゃない。単純に雪球をぶつけ合うだけのルールだ。まあ楽しめればなんでもいいや。

 

「行っくわよー!」

 

 向こう側から小川さんの声が聞こえた。それから間を置かずして一斉に雪球が飛んでくる。何人かぶつけられて倒れていくのが見えた。

 

「ほぇ~、なんか小川さんすごいんやね」

 

 佐藤が感心したように口を半開きにさせている。なんだかんだで小川さんもカリスマ持ちだからな。友達の多さでは一番だろうし、あんな一斉攻撃だってできるか。

 

「こっちも負けんな! みんなで投げろー!」

 

 本郷を始めとした男子連中が反撃する。できるのはサッカーだけじゃない本郷は肩も良いようだ。ストライク送球で一人ぶつけていた。運動ができる奴は雪の上でも関係ないらしい。

 

「どりゃあっ! 品川、当たってないか?」

「う、うん……。だ、大丈夫……」

 

 森田は品川ちゃんの前に立って壁となっていた。体格が良いためか、雪球をぶつけられてもビクともしない。それどころか本郷に匹敵しそうな剛速球を投げて反撃している。

 

「高木、雪球たくさんできたから投げよう」

「そうだね。佐藤もこれ使ってくれ」

「ええの? じゃあ僕も投げさせてもらうわ」

 

 俺は雪球を一つ掴むと立ち上がった。その瞬間、二つの雪球が顔面を直撃した。

 

「やった! 当たったよ瞳子ちゃん!」

「思いっきり顔に当たっちゃったわね……。俊成倒れちゃったけど大丈夫かしら?」

「トシくんはけっこう頑丈だから大丈夫だよ。ほらほら、瞳子ちゃんも次用意しなきゃ」

「……葵って案外容赦ないわよね」

 

 飛び交う雪球。楽しそうな子供達の声。それらを感じながら積もった雪へと体を預ける。

 雪の上で寝そべるのも悪くない。なんだか気持ち良くなってくる。鼠色の空からはもう雪は降っていなかった。

 雪解けのその日まで、楽しく笑い合っていたい。できることなら雪解けのその後も、楽しく笑い合っていたいものだ。みんなのはしゃぎ声を耳にしながらそんなことを想った。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 放課後。瞳子ちゃんを家まで送り届けてから葵ちゃんと二人で帰り道を歩いていた。

 

「雪合戦楽しかったねー」

「本当に楽しそうだったね葵ちゃん」

 

 葵ちゃんはそれほど肩が強いわけでもないはずなのに、的確に俺の方へと投げ込んでくるもんだからけっこうな数をぶつけられてしまった。あれだけぶつけられればそりゃもう楽しかっただろうな。

 

「でも、やっぱり雪だるま作ってみたいな。トシくん時間ある?」

「今日は習い事はない日だからいいよ」

 

 一度家に帰ってランドセルを置いて着替えを済ませる。それから公園に集合だ。残念ながら瞳子ちゃんはスイミングスクールがあるので俺と葵ちゃんだけだ。

 公園に辿り着いたが、葵ちゃんの姿は見えない。女の子だし少し時間がかかるのだろう。

 あまり触れられていなさそうなまっさらな場所を探す。雪だるまを作るなら綺麗に作りたいからな。雪にはこだわっちゃうね。

 

「あっ、俊成くんだ」

 

 声に反応して足元に向けていた視線を上げれば、そこにいたのは野沢先輩だった。ちょうど帰宅中だったようで制服だ。手袋やマフラーをしているとはいえ寒そうだな。

 

「野沢先輩、お久しぶりです」

 

 受験生の彼女とはあまり出会う機会がなかった。勉強の邪魔になっても嫌なので、それでもいいと思っていた。

 だとしても、久しぶりに会うと嬉しいものである。俺は野沢先輩の元へと駆け寄った。

 

「今帰りなんですか?」

「そうだよー。俊成くんは?」

「俺は葵ちゃんと雪だるま作ろうと思ってて。待ってるところだったんです」

「これだけ積もってるんだもんね。ふふっ、いいなー」

 

 受験生だというのに野沢先輩からピリピリとした空気は一切感じない。この柔らかい雰囲気が変わっていなくて安心させられる。

 もしかしてもう合格が決まったとかかな? 推薦とかを考えれば決まっててもおかしくないか。

 どうしようか。こういうのって簡単に聞いてもいいものか。表面上はにこやかにしてても、心はナイーブだったら余計なことを聞いてしまったということになりかねない。

 俺が悩んでいると、野沢先輩が口を開いた。

 

「ねえ俊成くん。朝の走り込みって続けてるの?」

「え? まあ、天気が悪い日以外はやってますけど」

「そっか……。よかったらなんだけど……今度私もごいっしょさせてもらってもいいかな?」

「え……い、いいんですか!? 受験勉強とかあるんじゃ……?」

「進学先はね、もう決まってるの。陸上部の強いところからお誘いがきてたからそこにしちゃった」

 

 さすがは野沢先輩。すでに受験という苦しみからいち早く解き放たれていましたか。

 俺は嬉しくなったままの勢いで進学先を尋ねた。

 

「それってどこの高校なんですか?」

 

 野沢先輩は少しの逡巡を見せてから、その学校名を教えてくれた。そして俺はそれを聞いてしまった。

 

「……え?」

 

 一瞬、その高校はどこなのかと思った。しかしそれは一瞬だ。俺でも名前を聞いたことのある有名な学校だったのだから。

 地元ではない。自転車では通えない。電車通学ですら無理だった。

 その高校は新幹線に乗っても数時間はかかる距離だった。そんな距離、家から通学できるわけがない。

 

「うん、だからね。私向こうで寮生活するの」

 

 そう野沢先輩は言った。

 つまり、野沢先輩はここからいなくなってしまうのだ。

 先輩が中学生になってから頻繁に会っていたわけじゃない。それでも、彼女のがんばりだとか成果はすぐに伝わってきた。たまに会えば自分のやりたいことに対して真摯に真っすぐ向き合っている彼女とたくさん話をした。

 その姿はとても立派で、俺が胸を張って尊敬していると断言できる先輩なのだ。

 野沢先輩を見習って俺もがんばろうって思った。身近でこんなにがんばっている子がいるのだから、俺もがんばらなきゃって思えたんだ。そして、そんな先輩をずっと身近で応援できると思っていた。

 ずっと身近にいてくれるだなんて、そんなわけないのに。ここへきてようやくそのことに気づいた。なんとも遅過ぎる気づきだった。

 大きくなればみんなそれぞれの道を行くようになる。前世の記憶がありながら、なんで俺はそんなことを忘れていたのだろうか。いや、忘れていたわけじゃない。頭の中ではわかってたつもりだった。ただ、ちゃんとはわかってなかったんだ。

 だって、前世では家族以外でこんなにも思い入れのある人なんていなかったから。

 

「そう、なんですね……」

 

 この気持ちはなんだろうか? 焦り? 寂しさ? それとも別の感情か。

 ただ、今言わなきゃいけない言葉はわかっている。その言葉のために、今自分の中で膨らみつつある感情に蓋をした。

 

「野沢先輩、進学おめでとうございます!」

 

 笑顔でお祝いの言葉を述べた。なぜだか頬の辺りが少し痛かった。

 

 



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67.旅立ちの春

今回は野沢先輩視点です。


 私に初めて「後輩」という存在ができたのは小学五年生の頃だった。

 私のことを「野沢先輩」だなんて呼ぶ年下の男の子。先輩だなんて呼ばれ慣れてなかったからびっくりしてたっけ。

 最初はかわいいなって思ってた。その男の子には登校の時にずっと手を繋いでる女の子がいたりして、小さなカップルにこっちも笑顔にさせてもらっていた。

 そんな小さな男の子から先輩と呼ばれるのにきっかけがあったりする。

 私は走ることが大好きで、当然のようにクラブ活動では陸上クラブを選んだ。クラブだけじゃなく、もっと走りたいからと朝早くからも走ってみようって思った。

 それで公園に来てみれば、そこにいたのはかわいらしい小さな男の子、高木俊成くんの走っている姿だった。

 すごく真剣な表情だったから。俊成くんは遊んでいるんじゃないってことがわかった。楽しく走ろうとしていた私とは違うんだなってすぐにわかったんだ。

 俊成くんはまるで秘密の特訓でもしているみたいだった。汗だくでつらそうな顔をしていて、それでも足を止めなかった。

 低学年の子が苦しい思いまでして走っている。私には不思議でたまらなかった。

 だからこそ聞かずにはいられなかったのかもしれない。走ることってそんな苦しい思いをしてまでするものじゃないと思っていたから。

 

「すごくがんばってるみたいだけど、なんでそんなに走るの?」

「立派な大人になるためです」

 

 これが俊成くんの返答だった。その時の彼の眼差しは強く輝いていた気がする。

 私みたいにただ楽しいとかじゃないんだ。走ることで何かを掴もうとしている。私とはまったく違う考え方に触れて、自分の中に確かな変化を感じた。

 それからは毎朝俊成くんといっしょに走るようになった。彼はいろいろと試しながら走っているようで、私も参考にさせてもらったりもした。逆に私から俊成くんへアドバイスすることだってあった。

 お互いを高め合っていくっていうのかな。ただ楽しいってだけじゃない気分の高揚を感じていた。

 

「私、走るのが好きなんだ。あんまり得意なことってなくて自信を持てないことばかりだけど、走ることだけは自信を持って好きだって言えるんだ」

 

 俊成くんに対してこんなことを言ったことがあった。言ってから私ってこんなことを考えてたんだって気づかされたんだ。ここでようやく自分の本音を知れたのかもしれない。

 それがわかったらなんだかがんばろうって思えた。好きなことを胸を張ってやれるようにって思えた。

 それは俊成くんが言ったみたいに、立派な大人になるために大事なことだって思えたから。私の中で道筋が固まった瞬間だった。

 それからは真っすぐな思いで走ることについて考えられた。俊成くんがいっしょにがんばってくれて、さらには先輩と呼んで私を慕ってくれている。ちょっと恥ずかしくはあったけれど、後輩にかっこいいところを見せたいって気持ちがあったんだ。

 そうしているうちに、気づけば同学年で一番速く走れるようになっていた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 中学三年生になった私にはたくさんの後輩ができていた。陸上部で全国まで行ったというのもあってか慕ってくれる子は多かったと思う。

 それでも、初めての後輩である俊成くんは特別と言えた。彼がいなかったら全国で結果を残すだなんて、たぶん私にはできなかったと思うから。

 だからこそ俊成くんの先輩として、いなくなってしまう前に何かを残せたらって考えた。

 

「競争、ですか?」

「うん。久しぶりにどうかな?」

「そりゃもう俺からお願いしたかったくらいですよ。やりましょう!」

 

 俊成くんは力強く頷いてくれた。かわいいなぁ。

 中学になってからは部活の朝練があって、俊成くんといっしょに朝の走り込みをするというわけにはいかなくなっていた。そんなわけだから今朝は本当に久しぶりに彼と走れるのだ。

 朝の公園。この空気が懐かしい。まだまだ寒い時期なんだけど、吸い込む空気はおいしく感じられた。

 お互いウォームアップは終えている。いつでも走れる準備はできていた。

 この公園は一番真っすぐ走れるところでも五十メートルもないだろう。それでもいい。短距離でも自信はある。

 俊成くんと並んで位置につく。なんだかドキドキしてきた。

 スタートは俊成くんのタイミングでいいと言ってある。彼は「よーい、ドン!」と言ってテンポの良いスタートを切った。

 姿勢の正しい走り方だ。後ろから見ていると俊成くんが本当に速くなったんだってわかる。私がいなくてもずっとがんばっていたのだろう。

 そんな彼ならきっと大丈夫。小さい頃から努力を重ねているのだ。きっと道を逸れることなく真っすぐ走り切っていくんだろうって思えた。

 半分の距離を走ったところで私はぐんぐんと加速した。俊成くんと並んで、追い抜いていく。

 やっぱり先輩として後輩にはまだまだ負けられないよね。ここからは本気だ。全力の走りを見せる。

 俊成くんが私の背中を見てくれている。そのことがどれだけ背中を押してくれただろうか。彼の信頼は確かに私の力になっていた。

 短くて、けれど長かった競争は終わった。もちろん勝ったのは私。

 

「はぁ、はぁ……、やっぱり野沢先輩は速いですね」

 

 息を整えながら俊成くんが歩み寄ってくる。笑顔で、楽しそうだった。

 

「ふふっ、先輩として後輩くんに負けられないもんね」

 

 そう、負けられない。俊成くんにかっこ悪いところなんて見せたくない。それが私の原動力になっている。

 

「野沢先輩」

「ん?」

「見送りには絶対行きますからね」

 

 俊成くんの表情を見て、この子はかわいいだけの男の子じゃないんだって思い出した。

 

「うん……、ありがとうね」

 

 彼の顔を見ないままに私は頷いた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 春になって旅立ちの日がやってきた。

 たくさんお別れの言葉を口にした。友達とお別れパーティーなんかやったりして、楽しかったけど寂しさも感じてしまった。

 でも、自分でやろうって決めた道だ。寂しいからってそれを曲げるつもりなんてない。

 もうすぐ新幹線が来る。見送りに来たお父さんが「根性出してやってこい!」と言ってくれる。お母さんは今でも心配してくれている。拓海は珍しく寂しそうな顔をしていた。

 

「姉ちゃん」

「どうしたの拓海?」

「……いつでも、帰ってきていいんだからなっ」

 

 そう言って拓海はそっぽを向いてしまった。私の弟はかわいいなぁ。

 

「野沢先輩!」

 

 声の方へと顔を向ければ俊成くんがいた。その両隣には葵ちゃんと瞳子ちゃんの姿もある。みんなで見送りに来てくれたんだ。

 三人は駆け寄ってきてくれる。葵ちゃんが口を開いた。

 

「春香お姉ちゃん。えっと……まだ遠くへ行っちゃうだなんて言われても実感がないんだけど、体を大切にしてね。風邪引かないように気をつけてね。ケガ……しないでね」

「うん。体調管理はしっかりするね。ありがとう葵ちゃん」

 

 葵ちゃんとは俊成くんと同じで家が近かったから登校の班が同じだった。いつも俊成くんにくっついていて、そのかわいさで頬が緩んでいたっけ。

 私は葵ちゃんを抱きしめた。すると彼女は嗚咽を漏らしてしまう。私のために泣いてくれてるんだって思ったら胸がぽかぽかしてきた。

 葵ちゃんが離れると、今度は瞳子ちゃんが口を開いた。

 

「春姉。あたし春姉のことすごいって思うわ。やることをやって、ちゃんと結果を残して、そして認められたから陸上の強い学校に行くのよね。だから、これからも胸を張ってがんばってね」

「うん。もちろんだよ。がんばって、もっとすごいところを見せてあげるからね」

 

 瞳子ちゃんとは小学生の頃にスイミングスクールでの付き合いが始まりだった。彼女は素直で良い子だ。そんな子の前でお姉さんぶれて嬉しかった。

 瞳子ちゃんとも抱きしめ合った。彼女は泣かなかったけれど、強い力で抱きしめてくれて、その想いを伝えてくるようだった。

 

「野沢先輩」

 

 俊成くんの声で瞳子ちゃんが離れる。真剣な面持ちの彼を見つめる。

 

「俺、野沢先輩を尊敬してます。好きなことを好きって言えるところ、努力を惜しまないところ、真っすぐ夢に向かって行くところ。その他にもたくさん素敵なところがあって、俺は憧れているんです」

「……うん」

 

 ちょっとだけ顔が熱い。そうやって真っすぐな目で言われるとどうしたって照れてしまう。

 

「野沢先輩は正直者のがんばり屋さんで、すごい人なんです。葵ちゃんも瞳子ちゃんも、もちろん俺だって信じてますから。だからその……、思いっきりやってきちゃってください!」

 

 それはとても力強い言葉で、思わず笑ってしまった。胸に温かいものが広がる。

 

「ふふっ、うふふ……。うん……うん、思いっきりやってきちゃいます」

 

 私は葵ちゃんと瞳子ちゃんと同じように俊成くんを抱きしめた。ちょっとだけ抵抗されちゃったけど、すぐに大人しくなってくれた。

 

「ここまでがんばれたのは俊成くんのおかげだよ。ありがとう」

「がんばったのは野沢先輩ですよ。それに、まだ終わりじゃないんでしょう?」

「そうだね。それもそうだ」

 

 私は俊成くんから体を離す。葵ちゃんと瞳子ちゃんを見ると、彼女達の目は潤んでいた。

 

「俊成くんも二人を泣かせないようにがんばるんだよー」

「うぇっ!?」

 

 まさかこんなところで言われるなんて思ってなかったのだろう。俊成くんは面白い顔を見せてくれた。

 ちょうど新幹線が到着する。家族にお別れの言葉をかけてから乗り込んだ。

 振り返って後輩達を見る。かわいい私の後輩だ。最初は先輩だなんて呼ばれて恥ずかしさがあったのに、今はそう呼ばれるのがしっくりきていた。

 

「それじゃっ、先輩はもっともっとがんばっちゃうから。後輩諸君には私のかっこ良いところをたくさん見せてあげるからね!」

 

 そこまで言うと、私は急いで自分の座席へと向かった。明るく振る舞って、最後の最後に恥ずかしさと寂しさが同時にやってきたのだ。

 後ろから応援の声が聞こえた。それがまた嬉し恥ずかしい。

 座席に着くと椅子に体重を預けた。そして新幹線は出発する。本気で挑戦するために私は旅立ったのだ。

 

「立派な大人になるため、か……」

 

 俊成くんと出会って間もない頃に聞いた言葉を思い出す。たぶん、私の中でスイッチが切り変わったのはあの時だったのだろう。

 次に戻ってくる時は立派な先輩になってからだ。強固な意志で、一年目からやってやるつもりでがんばろう。

 それは先輩としての私の意地。そして、がんばって良かったとこれからも思っていきたい正直な私の本心だった。

 

 




次回から六年生になります。小学生編もあとちょっとって気がしてきましたよー。


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68.これって初デート?【挿絵あり】

素浪臼さんからカスタムキャストで作成したイラストをいただきましたよー! けっこうたくさんいただいちゃってるなぁ(によによ)


【挿絵表示】





 六年生になってもクラブ活動は将棋を選択した。葵ちゃんと瞳子ちゃんも気に入ってくれているようだし、それに佐藤と赤城さんも付き合ってくれている。あまり将棋クラブを選択する子がいないこともあってか俺達の空間を作り上げていた。

 だが最上級生としてこれから入ってくる子達に楽しく活動してもらうためにも、数少ない四年生や五年生のみんなとも接していかなければならないだろう。

 そうしていくためにも、六年生である俺達にはやらなければならないことがあった。

 さて、現在はクラブ活動の時間。六年生全員で勝ち抜き戦をやっていた。 

 

「王手……ね」

「む、むぅ……」

 

 瞳子ちゃんの持ち駒である銀が打ち込まれる。これは逃げられない……。詰みだ。

 

「ま、参りました……」

「勝った……。やった! 俊成に勝ったわ!」

 

 俺が負けを宣言すると、瞳子ちゃんはその場で立ち上がって飛び上がらん勢いで喜んだ。

 そう、俺は初めて瞳子ちゃんに負けてしまったのだ。あー……、けっこうショックだ。

 でも、瞳子ちゃんがそれほどまでに強くなったってことだ。そう思うと嬉しさもあった。なんか複雑な気持ちだな。

 

「えぇーっ! トシくん瞳子ちゃんに負けちゃったの!?」

 

 あまりにも瞳子ちゃんがはしゃいでいるものだから、赤城さんと対局中の葵ちゃんが反応してしまった。他の子だってこっちを見ている。

 

「そうよ! あたしが勝ったの! ふふっ、あたしの勝ちね」

「うぅ~……、早いよぉ……」

 

 瞳子ちゃんは胸を張って俺に勝ったことをアピールする。よほど嬉しかったのだろう。負けた俺は悔しいんだけども。

 なぜか葵ちゃんも悔しがっていた。対局がなければ机をバンバンと叩いていそうなほどの悔しがりっぷりだ。

 それはともかくこの勝ち抜き戦。これに最後まで勝ち上がった者にはなんと、クラブ長になれる名誉な称号が贈られるのである。

 ……うん、まあそれは別にいいよね。ぶっちゃけクラブ長とかちょっと仕事が増えちゃうだけだし。なって嬉しいものでもない。

 だからって負けるのをよしとするわけじゃないのだ。全部勝つ気でいたから負けたのは悔しい。ぐぅ……、悔しいばっかり言ってんな俺。

 

「俊成」

「何?」

 

 見れば瞳子ちゃんはとても良い笑顔をしていた。とても無邪気に喜んでいるのが顔を見ただけでわかる。

 

「今度、どこか出かけましょうね」

「う、うん?」

 

 なぜ今お出かけの話をしたんだ? いや、瞳子ちゃんが来てほしいなら別に構わないんだけどさ。

 この日、瞳子ちゃんはずっと笑顔だった。そして葵ちゃんはずっと悔しそうにしていた。その理由は数日後に知ることになるのだった。

 ちなみに、最後まで勝ち上がり見事今年のクラブ長になったのは佐藤だった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 日曜日。気持ちの良い晴天で外にいても暖かい。お出かけ日和というやつだろう。

 俺は最寄りの駅にいた。近くの時計台に背を預けて、本日約束した人物を待っている。

 時計を確認する。約束している時間の十分前だった。

 次に顔を前に向けた時、スカートが翻らない程度の小走りでこっちに向かってきている女の子が見えた。気品のある小走りだな、なんて変なことを考えているうちにその女の子が目の前までやってきた。

 

「ごめんね。待った?」

「ううん、今来たところだよ」

 

 なんて、まるで初デートの待ち合わせのような会話をする。実際に予定していた時間前なのだから待たされてなんかいない。ただこのやり取りにちょっとだけ感動したのは秘密だ。

 

「俊成……今日はよろしくね」

「う、うん。こちらこそよろしく」

 

 俺が待ち合わせをしていたのは瞳子ちゃんだった。

 本日の彼女は清楚な白のワンピースにカーディガンを羽織っている。こういう格好は瞳子ちゃんよりも葵ちゃんの方がよく着ている装いだ。だからといって瞳子ちゃんが似合っていないなんてことはない。ただ彼女にしては珍しい服装だとは思った。

 

「その服」

「え、あ、こ、これは……その、似合わないかしら?」

「いやいやそんなことはないよ。とっても似合ってる。いつもと雰囲気が違うなって思っただけだから」

「そ、そう……。ま、まあたまにはね」

 

 彼女なりの気分転換だろうか? 服装を変えると気分も変わるらしいし。女の子には男にわからないような服への思い入れなんてものがあるのかもしれないな。

 今日俺が待ち合わせしているのは瞳子ちゃんだけである。他には誰もいない。二人だけでお出かけするのだ。

 何気に瞳子ちゃんと二人きりでお出かけするだなんて初めてだ。いつもは出かけるともなれば葵ちゃんか家族がいっしょというパターンだったからだ。二人きりだと家で遊ぶくらいなものだからなんだか新鮮だ。

 

「じゃあちょっと早いけど行こうか」

「……うん」

 

 こくりと頷いて瞳子ちゃんが手を差し出してくる。俺はその意図を察して彼女と手を繋いだ。

 わざわざ駅で待ち合わせしたのは電車に乗るからだ。瞳子ちゃんには家に迎えに行くと言ったのだが、断固として駅での待ち合わせがいいと言われてしまった。まあ、なんかデートっぽくて良かったけどね。

 しかし今回の目的は買い物の手伝いである。もっとはっきり言えば荷物持ちだ。

 それなら家族で行けばいいのでは? と思ったりはしたけど、そろそろ一人でじっくりと買い物したい年頃なのだろう。これも瞳子ちゃんが大きくなったからこそなんだろうな。

 女の子の成長は早いというけれど、元々瞳子ちゃんは大人びた面があったからな。隣を歩く彼女の横顔を盗み見ると、精巧に作ったような整った顔があってドキリとさせられる。

 電車に乗るとちょうど座席が空いた。瞳子ちゃんと並んで座る。

 

「あの子達カップルかな?」

「小学生カップル? かわいー」

「女の子の方って外国人なのかな? 綺麗な銀髪だよね」

「ていうかお人形さんみたいにかわいい」

 

 声の方を見れば女子高生くらいの集団がいた。こっちをチラチラ見ながら話しているが、全部聞こえている。

 

「カ、カップル……」

 

 瞳子ちゃんの顔が真っ赤に染まってしまう。ショート寸前と言わんばかりに頭から煙を出しそうな感じである。それを見た女子高生の集団から「かわいー」という声が重なった。

 

「だ、大丈夫だよ瞳子ちゃん。気にしないでいこう」

「……俊成は気にしないの?」

「う……」

 

 恥ずかしくて顔を真っ赤にしたせいか、瞳子ちゃんの目にはほんのりと涙が溜まっていた。そんないつもとは違うしおらしい瞳子ちゃんに、俺の方が真っ赤になったんじゃないかってくらい顔が熱くなる。

 

「その……」

 

 そこから先の言葉は出なかった。ただ瞳子ちゃんの手をぎゅっと握りしめるだけしかできない。彼女も同じようにぎゅっと握り返してくれた。

 

「……」

「……」

 

 黙って電車が目的地に辿り着くのを待つ。瞳子ちゃんの手のぬくもりを感じていると、女子高生達の黄色い声は聞こえなくなっていた。

 目的の駅に辿り着く。その駅前に大型ショッピングモールがあった。ここが本日の目的地である。

 

「買い物って服を買うの?」

「そうよ。こっちにあるからついて来て」

 

 と言いながらも手を繋いだままなので並んで歩くことになる。休日というのもあり、ショッピングモールは人でごった返していた。ぶつからないようにだけ気をつける。

 

「ここよ」

 

 瞳子ちゃんは一つの店舗の前で立ち止まった。実は高級店だったらどうしようなんて考えていたけれど、一般的かつリーズナブルな店のようで安心した。

 空いた手でポケットを摩る。こういう時のために無駄遣いをしなかったのだ。

 年頃の女の子用のスペースへと入って行く。なんだか視線が集まっている気がしてきた。子供とはいえ男が来るところじゃないから仕方がないか。

 まず一人では入らない場所というのもあってか、体が勝手に緊張して硬くなってしまう。手汗をかいてないか心配になっていた。

 男では考えられないような様々な種類の服があった。瞳子ちゃんは目を鋭くさせて一つ一つ見定めている。

 数が多いのもあってかどうしても時間がかかってしまうようだ。思い出したかのように瞳子ちゃんが俺の方に顔を向ける。

 

「ごめんね。退屈よね?」

「ううん。瞳子ちゃんがどんな服が好みなのか知るチャンスだからね。俺は瞳子ちゃんを見てるから、瞳子ちゃんはゆっくり選んでいいよ」

「……うん、ありがと」

 

 瞳子ちゃんは顔を前に戻す。顔を赤くしながらも真剣に服選びを続ける。

 いくつか選んでから試着することにしたようだ。瞳子ちゃんが試着室に入ったので俺はその前で待たせてもらう。

 女性の服売り場にいるだけでも緊張していたのに、独りで試着室の前にいるというのは居心地が悪くて仕方がない。

 それでもこれから始まる瞳子ちゃんのファッションショーを眺めていると、周囲の視線なんて気にならなくなった。

 いろいろな服装でたくさんの瞳子ちゃんのかわいいところを見ることができた。彼女が選んだというのもあってどれもセンスがあるように思えた。まるでモデルみたいに着こなす瞳子ちゃんがすごいというのもある。

 

「よし、それじゃああたしお会計済ませてくるから俊成は待っててね」

「あっ、ちょっと待っ……行っちゃった」

 

 支払いは俺がしようと思ったのだが、タイミングを逃してしまったな。こういうのはさりげなくするのがかっこ良いと思うんだけど、まだまだ俺にはスマートにできないらしい。

 待っている間に近くにある服を眺めてみる。そこにはワンピースが並んでいた。

 今日の瞳子ちゃんの服装はワンピースだ。珍しいと思ったけれど、これまでに着たところを見たことがあっただろうか? あったとしても思いだすのに手間取ってしまうくらいにはだいぶ前なのだろう。

 

「逆に葵ちゃんはワンピース多いけど……。だからって避けてるわけじゃないよね?」

 

 瞳子ちゃんなら葵ちゃんと服装がかぶったとしても、その個性までは色褪せたりしないだろう。二人はタイプも違うんだし。

 俺は淡い青色のワンピースを手に取っていた。瞳子ちゃんの綺麗な瞳のイメージがあるからか、彼女には青系統が似合うんじゃないかって思った。

 でも……、女の子の服なんてこれでいいのかなんてわからない。そもそも俺にセンスなんてものがあるのかも疑問だ。

 だけど、せめて一着くらい彼女にプレゼントしたいのだ。これはなんかもう男の意地なんじゃないだろうか。

 だって、二人きりで電車に乗ってショッピングして……。これってデートじゃないのか? というか人生(前世含む)初デートじゃないのか? 俺はデートだって思いたい!

 そう思ったらさ、記念がほしくなるというか……。なんていうか形を残したいって気持ちが俺をくすぐってくるのだ。

 しかし、と。俺は手に持っている淡い青色のワンピースに目を向ける。

 これをプレゼントしたとして、瞳子ちゃんが喜ばなかったらどうしよう……。彼女なら嫌な顔はしなさそうだけど、気に入らないものをもらっても困ってしまうだろう。

 

「んー……」

 

 想像して唸り声を洩らしてしまう。もっとスマートにできたらって思うんだけど……。どうしてもこれでいいのかと迷ってしまう。

 記念にプレゼントを贈りたいというのは俺の自己満足だ。しかし、せっかくの贈り物を自己満足だけで終わらせたくはない。

 

「俊成、お待たせ」

「瞳子ちゃん、これ瞳子ちゃんに似合うと思うんだけどどうかな?」

 

 そんなわけで、良いか悪いかは本人に判断してもらうことにした。

 ええいっ、男らしくないというならそれでもいい。プライドなんてないって思われるかもだけど、やっぱり良いものを選びたいのだ。

 

「え? これ……」

 

 いきなり言われて戸惑っている様子だ。俺は早口でまくし立てる。

 

「あんまり見なかったけど、瞳子ちゃんのワンピース姿ってすごく似合ってたから。だからその……どうかなって思って」

 

 最後の方は尻すぼみになってしまった。なんか恥ずかしくなってきた。今日は体温が上がることばっかりだ。

 しばらく無言の時が流れる。ダメかな? そんな考えが過った時、瞳子ちゃんが口を開いた。

 

「うん……。俊成が似合うって言うんだもの。あたしもそのワンピース、良いと思うわ」

「そっか。わかった」

「え、俊成!?」

 

 俺は駆け足でレジへと向かって会計を済ませる。包んでもらったところで瞳子ちゃんが追いついてきた。

 

「これ、瞳子ちゃんに」

「あたしに?」

「うん。俺からのプレゼントだから受け取って」

「で、でも、あたし誕生日とかまだだから……」

「初デートの記念。だから、受け取って……」

 

 うわあっ! デートとか言っちゃったよ! ど、どうしようっ。

 変に思われてないだろうか。そんな不安とともに目の前の女の子をうかがった。

 

「……ありがとう。大切にするわね」

 

 ようやく受け取ってくれた。ふぅ、と知らず肺に溜まっていた息を吐き出す。

 緊張が緩むと周囲の気配にも気づくもので、店員さんや女性客から生温かい目を向けられていた。それに気づくと一気に叫びたい衝動に襲われる。

 この後は食事をしたりいろんな店を見て回った。荷物は俺が持つって言ったのに、瞳子ちゃんは俺がプレゼントした袋をずっと抱えていた。

 後日、瞳子ちゃんはそのプレゼントしたワンピースを着てくれた。やっぱり似合ってて、俺の頬が緩みっぱなしになってしまったのは言うまでもないだろう。

 

 



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69.親友と仲良く写生大会

 六年生になると授業の一環で写生大会が行われる。

 場所は校庭の中ならどこでもありだ。校庭から見えるものならどんなものを描いても構わない。

 みんな思い思いの場所を陣取って描いている。一部の男子が「写生大会」と連呼しながらニヤニヤしているが、ほとんどの子達は変なものを見るような目で彼等を見ていた。とりあえずあの男子連中には葵ちゃんと瞳子ちゃんを近づけないようにしよう。

 

「さーて、何を描こうか」

 

 花壇はぐるりと人が密集している。花を描く子は多いようで、あの中に入っていくのは大変だろうな。

 遊具なんかは男子の人気が高い。校舎や遠くに見える山を描いている子がいたりと様々だ。

 

「トシくんは何を描くか決まったの?」

「ううん、まだだよ。葵ちゃんは決まった?」

「私はお花を描こうかなって思ってて」

 

 生徒に囲まれた花壇に目を向ける。まあ葵ちゃんなら簡単に場所を空けてもらえるだろう。

 

「そっか。俺はもうちょっと考えるよ」

「うん。出来上がったら見せ合いっこしようね」

 

 そう言った葵ちゃんは花壇の方へと駆け出して行った。彼女が一声かけるだけでスペースが空けられる。さすがだな。

 

「いたわね」

 

 瞳子ちゃんも描くものが決まったようである。彼女はすでに散ってしまった桜の木の近くで、集中して一点を見つめている。なんだか木との距離が近過ぎるように思えるのだが、何を見つめているのだろうか?

 

「瞳子ちゃんは何を描くの?」

「あれよ」

 

 瞳子ちゃんは目を光らせながら指を差す。桜の木……ではない。そこにくっついている毛虫を指し示していた。

 

「毛虫か……。毒とかあったりして」

「大したことはないんだけどちょっとだけあるわね。ブランコケムシって呼ばれたりしてて桜の木にぶら下がってることもあるから注意した方がいいわよ」

 

 冗談のつもりで言ったのに普通に注意されてしまった。

 六年生になっても瞳子ちゃんの虫耐性は変わらないようだった。むしろ詳しくなってないだろうか? 俺には毛虫の違いなんてわからないんだけども。

 

「かっこ良く描いてあげるわ」

 

 そう毛虫に向かって言うと、瞳子ちゃんは毛虫を描き始めた。たぶん女子で虫を描こうとするのは瞳子ちゃんくらいなものだろうな。しかも彼女は絵が上手だ。リアリティのある絵を見て涙目になる葵ちゃんを容易く想像できた。

 

「うーん……、どないしよかな」

 

 佐藤は俺と同じで何を描くかと迷っているようだった。親近感を覚えて近づいてみる。

 

「佐藤もまだ迷ってるのか?」

「うん。いざ自由になってみるとなかなか決まらないもんなんやね」

「だよなー」

 

 校庭という広い範囲で、そこから見えるものはなんでもいいときたもんだ。かえって何を描けばいいのかわからなくなってしまう。

 俺と佐藤は向かい合って「うーん」と唸り合った。そこへ赤城さんが音もなく近寄ってくる。視界に入っていたので普通に気づいた。

 

「ニワトリはどう?」

「ニワトリ?」

「うん。ウサギは人気があるからニワトリがおすすめ」

 

 校庭の端っこにはウサギとニワトリを飼育している小屋がある。なるほどと俺は頷いた。

 

「じゃあニワトリにしようかな。佐藤もそうするか?」

「えっ、僕も? ……赤城さんは僕がいてもええの?」

「別にいいけど」

 

 そんなわけで俺達三人はニワトリ小屋へと向かった。赤城さんの言った通り、ウサギ小屋には人が集まっていたけれど、ニワトリ小屋は不人気のようだった。まさか誰もいないとは思わなかったよ。

 

「うっし、じゃあやるか!」

 

 まずは題材が決まったことで第一段階はクリアしたようなもんだ。あとは描くだけである。

 やる気を出して腕まくりをする。俺の両隣りで赤城さんと佐藤が場所を確保していた。

 画用紙に鉛筆を押し当てる。とはいえ、俺は絵が下手なのだ。手をつけようとするものの、上手く描けるイメージが湧かない。

 

「……」

「ニワトリくーん。こっち向いてえな」

 

 俺が迷っている間にも赤城さんと佐藤は早速スケッチに取りかかっているようだ。赤城さんは無言で鉛筆を走らせているし、佐藤はニワトリに声をかけながらも全体像は捉えているようだった。

 俺も負けてられん。たとえ下手くそだとしても真剣に取り組んでやる。

 集中して描いていると、けっこう静かに感じるものである。校庭には六年生の全クラスの生徒がいるはずなのだが、まったく煩くは感じなかった。

 

「高木、順調に描けてる?」

「んー、まあまあかな」

 

 まあまあとは言ってみたが、あまりよろしくないまあまあだった。毎度のことながら上達しない絵心がもどかしい。

 

「あたしはこんな感じ」

 

 そう言った赤城さんは自分の絵を見せてくれた。一目でニワトリだとわかるような上手い絵だ。瞳子ちゃんほどのリアリティはないものの、かなり上手い方ではないだろうか。

 

「赤城さんは絵が上手だね」

「それほどでも」

 

 無表情のまま頭をかく赤城さん。ちょっと照れているのを感じ取った。

 ふふふ、こういう時に照れているのがわかってしまうとからかってやりたくなってくる。とくに赤城さんには葵ちゃんや瞳子ちゃんのことでからかわれることがあるからな。たまにはやり返してやろう。

 俺は自分の中に芽生えた悪戯心に対して忠実になっていた。決して上手く写生できないから気を紛らわせようとしているわけではない。ないったらない!

 

「いやーさすがは赤城さんだよ。赤城さんの絵は天下一だね。この辺のタッチなんて赤城さんらしさが出てて良いよね。赤城さんはニワトリを描く天才だよ。赤城さん――」

「高木」

 

 照れている赤城さんに対しての褒め殺し作戦。それを実行していると、俺の言葉を遮るように赤城さんに名前を呼ばれた。

 しまったな……。これはさすがにあからさますぎたか。俺は無表情のままの彼女の反応をうかがった。

 少しの間があってから、赤城さんは再度口を開いた。

 

「高木……と、赤城って似てるよね」

「うん?」

 

 なんか話が全然違う方へと流れている気がした。俺はそのまま続きの言葉を待つ。

 

「たまに高木って言ってるのか赤城って呼ばれてるのかわからなくなるんだよね……」

「ああ……」

 

 言われてみれば確かにそういうことってある。自分が呼ばれたと思って振り向いてみれば、それは違う人だったなんてことがある。その時の恥ずかしい気持ちったらない。そういう時は別に聞き間違えてませんよー、と変に意識してないフリをしてしまっていた。

「たかぎ」と「あかぎ」。最初の音以外は同じである。もしかしたら赤城さんはそれで聞き間違えてしまうことが多々あったのかもしれない。

 

「だからあたしからの提案。これから高木はあたしの下の名前を呼べばいい」

「下の名前って……、美穂……ちゃんって呼べってこと?」

「……そう」

 

 赤城さんとは長い付き合いだ。出会ってからずっと赤城さんと呼んでいる。それをいきなり下の名前で呼ぶというのは、なんというかハードルが高いように思えた。

 

「ぶほっ!」

「佐藤? 大丈夫か?」

「げほっ……、うん、大丈夫やから気にせんといてええから。僕のことはええから続けてえな」

 

 気管に何か入ったのだろうか。佐藤は咳き込んでいたが平気そうに手を振った。

 

「あたし、高木とは長い付き合いだし、仲が良い方だと思ってる。親友と言っても過言じゃない……と、思ってる」

「う、うん」

 

 親友か。良い響きである。俺は前世で友達が少なかったこともあってそういう響きに憧れていたりするのだ。もちろん佐藤とは過去現在問わず親友である。

 

「だから、呼んでほしい……」

 

 小さい声だったけれど、周りが静かなこともあってよく聞き取れた。

 頭の中を整理する。

 赤城さんは俺の名前と似ているということで困っている。なので聞き間違えのないように下の名前で呼んでほしい。親友なんだから気にすんなよ。と、こういう流れとなっている。

 うん、まあ……本人がそう言ってるのならそうした方がいいのかな。名前ってけっこう間違えられたくないもんだしね。

 

「わかった。じゃあ今度からそうするよ」

「今呼んで」

「え?」

「今、名前で呼んで」

 

 佐藤がものすごくむせていた。心配になってそっちを向くと「大丈夫やから気にせんでええよ!」と何度も言われてしまった。本当に大丈夫か?

 もう一度赤城さんの方に顔を向ける。いつもの無表情の彼女に見つめられていた。

 その視線からは逃れられない気がして、俺は赤城さんから目を離せずにいた。

 

「呼んで」

 

 こうなってくると彼女の下の名前を呼ばなければ終わらない気がした。一度了承したこととはいえ、いざ口にしようとすると恥ずかしくなってくる。

 自身を落ち着けるように深い呼吸を繰り返す。意を決して口を開いた。

 

「み、美穂ちゃん……」

「え? なんだって?」

「……」

 

 声が小さかったのは認めるけどさ。こんなにも近い距離なんだから聞こえなかったってことはないんじゃなかろうか。

 なのに彼女は耳を近づけて催促してくる。歯ぎしりしたい気持ちをぐっと押さえてもう一度口を開いた。

 

「美穂ちゃん」

「ん」

 

 今度は小さく頷いてくれた。あー……、なんか変に緊張しちゃったな。呼んでみたらなんだかスッキリした。

 

「じゃあ今度はこっちの番」

 

 そう言って美穂ちゃんは口を開こうとして、止まる。見ればその唇は微かに震えていた。だがそれほど間を空けずに再び口が動いた。

 

「と、俊な……」

 

 また止まる。そして彼女は目を瞬かせた。

 

「……よく考えたら高木が名前で呼んでくれるんだったら、あたしまで高木を下の名前で呼ぶ必要はないか」

「え、う、うん?」

「……そういうわけだから、あたしはそのまま高木って呼ぶから。高木はそのままでよろしく」

 

 それだけ言うと美穂ちゃんは絵の仕上げに取り掛かった。そんな彼女をぽかんとしながらしばし見つめてしまう。

 って、こんなことしている場合じゃない。俺の絵はまだ完成していないのだ。

 続きを描こうとして、佐藤がうずくまっているのに気づいた。

 

「さ、佐藤!? 本当に大丈夫なのか!?」

「う、うん……。大丈夫……。僕は何も見てへんし、聞いてもおらへんから……」

「何が!?」

 

 よくわからないが佐藤は大丈夫らしい。大丈夫そうには見えなかったが、佐藤は体調不良などではないと言い切った。そこまで言われれば引き下がるしかない。

 なんとか時間内には絵を描き終えることができた。同じく描き終えた葵ちゃんと瞳子ちゃんが俺に絵を見せてくれた。

 やっぱり瞳子ちゃんの絵はとても上手かった。まるで虫眼鏡に映るような迫力と緻密さで毛虫が表現されていた。ただの毛虫なのになんだかすごい。

 葵ちゃんは……うん、お花を描きたかったっていうのはわかった。彼女は俺と同様に絵の上達速度がゆっくりらしい。

 

「高木、先生に提出しに行こう」

「そうだね美穂ちゃん」

 

 美穂ちゃんについて行こうと先生のいるところへと足を向ける。しかしその足は前に出ることはなかった。

 

「トシくん、美穂ちゃんってどういうこと?」

「俊成、怒らないから質問に答えなさい」

 

 右から葵ちゃん、左から瞳子ちゃんが俺の腕をがっしりと掴んでいた。二人にここまでの力はなかったはずなのだが、俺の力では振り払える気がしなかった。

 ぶわっと滝のような冷や汗が流れる。この空気、逆らえないっ。

 俺は葵ちゃんと瞳子ちゃんに質問されるがまま、美穂ちゃんと呼ぶようになったいきさつを話した。

 

「それ俊成が赤城さんを下の名前で呼ぶ意味なんてまったくないじゃない!」

「あ」

 

 瞳子ちゃんに突っ込まれてようやく気づいた。そもそも俺じゃなくて周りの人が呼び方を変えなければ効果はないではないか。

 

「うん、知ってた」

 

 そのことを美穂ちゃんに言うと、このような言葉が返ってきた。わかってて俺に呼ばせたらしい。

 つまりこれはからかわれたってことなのか? 混乱する俺に彼女が耳元で囁いた。

 

「でも、これからも名前で呼んでね」

 

 吐息のようなお願いに、俺は首を縦に振っていた。

 

 



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70.二人きりでのプレゼント選び【挿絵あり】

素浪臼さんからイラストをいただきました! 本当にありがとうございます!

【挿絵表示】





 六月五日は葵ちゃんの誕生日である。

 俺や瞳子ちゃんの時もそうなのだが、誕生日は三家族合同でお祝いしている。もちろん今年もその予定である。

 

「今年は自分で誕生日プレゼントを買いに行くんだけど……、トシくんもついて来てくれないかな?」

 

 いつもは葵ちゃんの両親がそれぞれ選んだ誕生日プレゼントを渡している。けれど自分で欲しい物を選びたいという気持ちがあったのだろう。そんな申し出をされて俺は頷いていた。

 葵ちゃんの誕生日プレゼントを買いに行くのについて行くということを両親に告げた。「だったら俊成もその時にプレゼントを買うかい?」との父さんの心遣いでプレゼント代をもらった。父さんに感謝。

 そんなわけで葵ちゃんの誕生日プレゼントを買うためにも、彼女と同行させてもらうこととなったのである。

 

「なんでわざわざ駅で待ち合わせしてるんだろ?」

 

 休日、俺は最寄りの駅にいた。ぼんやりと時計台を眺めながらそう呟く。

 てっきり葵ちゃんの家の車で同行させてもらうものだと思っていたのだが。もしかして車にトラブルが起こってしまったとかかな? なら電車で出かけるのも納得だ。

 

「お待たせトシくん」

「おっと、全然待ってないよ。……葵ちゃん?」

 

 急に女の子に声をかけられて驚いてしまった。しかしすぐに声色で葵ちゃんだとわかった。わかったのだが……。

 本日の葵ちゃんの服装はカジュアルなパンツルックであった。いつもはかわいらしいフリフリやらヒラヒラのファッションが多かったものだから、失礼ながら本当に葵ちゃんなのかとしばし疑ってしまう。

 

「どうかな?」

 

 葵ちゃんはその場でモデルのような立ち姿を見せてくれる。いつも通りのかわいらしさがありながらも、かっこ良さも感じられた。

 こうしてみると葵ちゃんは脚が長いな。スカートばかりだったからズボンを履くとそれが際立つ。

 それに、あまり肌を見せない格好のはずなのだけれど、葵ちゃんのプロポーションが良いせいかかなり肉感的に見えてしまう。うん、くっきりはっきりしております。

 

「なんていうか……大人っぽいね」

「えへへ、そうかな?」

 

 はにかむ葵ちゃん。やっぱりかわいいなと思いながらも、不思議に思ったことを尋ねることにした。

 

「葵ちゃんのお父さんとお母さんは? 近くにいないみたいなんだけど」

 

 キョロキョロと辺りを見回してみるが彼女の両親の姿は見えない。どこか別の場所にいるのだろうかと思っていると、葵ちゃんがあっけらかんと答えた。

 

「来ないよ? 今日は私とトシくんだけでお出かけするんだもん」

「あれ、そうなの?」

 

 てっきり宮坂家での買い物に俺もいっしょについて行くと思っていたのだが。もしかしなくても俺の勘違いだったようだ。

 もしかしたらちょうど両親の都合が合わなかったのかもしれない。だから俺といっしょに行きたいと言ったわけか。

 気を取り直して葵ちゃんの方へと顔を向ける。

 

「そうなんだ。どこに行くかは決まってるの?」

「えっとね――」

 

 葵ちゃんが口にした場所は、前に瞳子ちゃんと二人で行ったショッピングモールだった。

 確かにプレゼント選びをするのならあのショッピングモールは都合がいいだろう。いろいろな店舗が揃っているし、何を買うかはっきりとは決まってなくても何か良い物を見つけられるかもしれない。

 目的地が決まっているのなら早速出発だ。当然のように葵ちゃんと手を繋ぐ。六年生になっても登校中に彼女と手を繋いでいるのは変わらないでいたりする。

 

「葵ちゃんは今日買う物って決まってるの?」

「ううん。だからたくさん見て回ろうと思ってるの。たくさん付き合わせちゃうけどいいかな?」

「うん。もちろん気にしなくていいよ」

 

 元々今日は葵ちゃんのために時間を使うつもりだったから問題なんてない。問題なのは俺が選ぶプレゼントの方だ。

 誕生日プレゼントを渡すのは毎年のことなので、ここで俺も葵ちゃんへのプレゼントを買うことを秘密にする必要はないだろう。でも、ちょっとは驚いてほしいし、何を買うかまでは見られないようにしておこうかな。

 葵ちゃんと電車に乗り込む。ほとんど座席は埋まっているようで、一人分しか座れるスペースがなかった。

 

「葵ちゃん座りなよ」

「トシくんといっしょに座れないんだったら私も立ってるよ」

 

 気遣いを気遣いで返されてしまう。そう言われてしまうと何も言えないな。

 電車がガタンゴトンと動き出す。大丈夫だとはわかっていても、葵ちゃんがバランスを崩したりしてしまわないかと用心してしまう。

 

「あの子達カップルかな?」

「小学生カップル? かわいー」

 

 がやがやと黄色い声が聞こえてくる。女子高生と思われる集団がこっちを見ていた。なんだか既視感に襲われる。

 

「あれ? あの男の子って前に別の女の子といっしょにいなかったっけ?」

「えー? あっ、ほんとだ。もしかして二股かな?」

「うわー、すごい小学生だね。あの女の子は知ってるのかな?」

「って、女の子ものすごい美人じゃない。前の時の銀髪の子とどっちがかわいいかな」

 

 好奇心に満ちた目を向けながら好き勝手なことを口にする女子高生達。人の色恋沙汰は恰好の餌のようだ。

 嫌な思いをしていないだろうか。そう心配して葵ちゃんの方を見ると、彼女はとても良い笑顔をしていた。

 

「トシくん」

「な、何かな?」

「私達、カップルに見られてるよ」

「そ、そうだね……」

 

 葵ちゃんは堂々としたものである。なんだか俺の方が恥ずかしくなって顔が熱くなる。

 

「トシくん」

「な、何かな?」

 

 今度はなんだろうか? 葵ちゃんの俺を握る手が少し強くなった。そして彼女の美貌が近づく。

 

「今日はデートだからね」

 

 耳元で告げられたその言葉に一瞬硬直してしまう。息が止まってしまったせいで返事ができなかった。小声で聞こえなかったと思うのだが、俺の代わりと言わんばかりにタイミング良く女子高生の集団から黄色い声が響いた。

 電車が目的の駅に辿り着く。変な汗を拭いながら俺は葵ちゃんの手を引いて電車から降りた。

 本日もショッピングモールは盛況だ。はぐれないように気をつけないとな。

 

「さてと、どこに行く?」

 

 今日の主役は葵ちゃんだ。彼女は顎に人差し指を当てて「うーん」と考える。

 

「とにかくぐるっと回ってみようよ。気になったら見てみるって感じでさ。ね?」

 

 つまりノープランである。葵ちゃんに歩幅を合わせながらどこが良いかと目を動かしていく。

 いくつか服売り場があったのだが、それはすべてスルーされた。

 

「服とかは見なくていいの?」

「うん。今日はいいかなって」

 

 葵ちゃんが反応したのはアクセサリーの類だった。小物が並べられている小さな店へと入る。

 ネックレスやイヤリングなどを見て顔を綻ばせている。やっぱり女の子はこういうものが好きなのだろうか。

 

「いいなぁ……」

 

 陳列している指輪を見ると葵ちゃんはそう零すように言った。俺も指輪から目が離せなくなる。

 ここに並んでいる指輪は子供でも買えるような値段の物ばかりだ。見る人が見れば玩具と言うのかもしれない。それでも、この形には心惹かれるものがあった。

 結婚したい。それが俺の願望で欲望だ。

 最初は親に対する申し訳なさみたいな感情が大きかったかもしれない。けど、今は葵ちゃんや瞳子ちゃんと接して、しかも好意なんて寄せられたりしている。前世では考えられなかったことで、経験のなかったことだ。だからこそ、今は自分の心の方が溢れそうなほどに勝っている。

 好きな人が現れると胸がドキドキする。そういう表現は陳腐なものだと思っていた。そう勘違いしていた。実際に経験してわかった。そのドキドキというやつは自分でもどうしようもできないほどのとんでもないものだったのだ。

 葵ちゃんの顔を盗み見る。とてもかわいい。かわいいけれど、かわいいだけじゃない。

 彼女には強さがあって優しさがある。それを一途に向けてくれる。気づけばもう堪らなくなっていたのだ。

 そういうものを瞳子ちゃんも同様に持っている。だからこそ迷ってしまう。

 なんでこんなにも良い子が二人も現れてしまったのか。たぶんどちらか片方だけならすぐにでも「俺と結婚してくれ」なんて口走っていたかもしれない。

 

「トシくんどうしたの?」

「ん、なんでもないよ」

 

 こうやってちょっとした俺の変化にもすぐに気づいてくれる。そんな彼女に俺は悩まされる。

 いつかは結婚指輪を贈る。形を残せば深く繋がれる気がするから。しかし、その相手はたった一人なのだ。

 俺は葵ちゃんの手を引いた。彼女は名残惜しそうな素振りもなくついて来てくれる。

 安い物だとしても指輪を買うのははばかられた。まだ心が定まってくれない。俺って優柔不断かな? ……そうなんだろうな。

 買い物をすることなく見て回るだけで午前中を使い切る。昼食を取ってから続きだ。

 大型ショッピングモールというだけあって、まだまだたくさんの店がある。これだけの店があれば何か気に入ったものが見つかるだろう。

 

「これなんかどうかな?」

 

 葵ちゃんが手に取ったのはヒールのついたおしゃれな靴だった。靴に詳しくはないが、大人っぽさを感じさせるものだった。

 ヒールってバランスを取るのが大変そうなイメージなんだけど大丈夫かな? まあ葵ちゃんが手にしているものはヒールと言ってもその高さは低めなんだけども。

 

「良かったら履いて見せてよ」

 

 俺がそう言うと葵ちゃんはその靴を履いて見せてくれた。若干目線が上がる。

 おしゃれは足元からと言うけれど、なかなか似合っているように見えた。葵ちゃんの大人っぽさがまた上がった。

 それに立ち姿も様になっている。これなら歩いてバランスが取れないだなんて心配はないのかな。まあ学校では履いて行かないだろうし、休みの日限定ならそう心配するものでもないだろうか。

 

「うん、似合うね。大人っぽいよ葵ちゃん」

「そ、そうかな? じゃあ私これにするね」

 

 葵ちゃんはレジで支払いを済ませる。だったら俺は靴以外の物の方がいいだろう。

 今日はやたらと大人っぽくなった葵ちゃんを見せつけられた気がする。本当に小さい頃からの彼女を知っているだけにそう感じるのだろう。

 だから、俺が考えたプレゼントも彼女を大人っぽくさせるような物へと目が行ったのかもしれない。

 別の店へと移動して、俺は一つの商品を手に取った。

 

「葵ちゃん、これなんかどうかな?」

「お財布?」

 

 誕生日プレゼントをするということは決まり切ったことなので隠さず本人に尋ねてみることにした。何を買うかは秘密にして驚かせようとは考えていたのだけど、今までとはちょっと違う物なので確認しておいた方がいいかなと思ったのだ。

 俺が手に取ったのは茶色の長財布だ。葵ちゃんは服装に反して財布は子供らしい物のままだった。せっかくなので財布も大人っぽくしたらどうかと思ったのだ。

 けれど葵ちゃんはどう思うかが問題だ。いつもはぬいぐるみかお人形さんばかりだったからな。そっちがいいのなら変更しよう。

 葵ちゃんは俺が手に持った財布を受け取る。まじまじと見つめて、うんと頷いた。

 

「トシくんはやっぱりわかってくれてるんだね」

「え? わかってるって何を?」

「ふふっ、なんでもないよ」

 

 葵ちゃんの微笑みは今までで一番大人っぽく感じられた。

 ちなみに、誕生日当日は俺と瞳子ちゃんと葵ちゃんのお母さんの三人でケーキを作った。プレゼントの話を聞いていたのか葵ちゃんのお母さんはずっとニヤニヤとした笑みを隠してはくれなかった。瞳子ちゃんの目つきが怖くなってくるからその笑みを引っ込めてほしかったです……。

 

 




背伸びしたいお年頃。少女はそうやって大人になっていくのであった(ナレーション風)


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71.清水の舞台から飛び降りる勇気……があれば苦労はしない!

 六月は修学旅行がある。行き先は京都と奈良だ。

 修学旅行とは自主性や協調性を養うためだったり、歴史や文化を肌で感じたりなど様々な目的がある。たくさんのことを実践して学ぶ。とくに小学生にとってはそういった機会の連続に感じるだろう。

 まあ、初めての修学旅行でテンションがこれでもかとハイになっている子ばかりなんだけどね。たぶん本来の目的どうのってよりも、友達と旅行できるという事実が楽しくてたまらないんだろうな。

 がやがやとしたクラスメート達を騒ぎ過ぎないように注意しながら京都への道中を行く。六年生になって初めて学級委員長になってしまった俺だった。まさか修学旅行がある学年で選出されてしまうとは思ってなかったな。

 まずは清水寺へと向かった。清水の舞台から飛び降りる、なんてことわざがあるように、京都の町並みを一望できる高さだった。

 

「すごいすごい! トシくんもいっしょに見ようよ良い景色だよ」

 

 葵ちゃんに手招きされて並んで景色を見る。なるほど、これは確かに一見の価値ありだ。

 

「それにしても下は崖になってるのね……。よくこんなところから飛び降りようなんて思ったものね」

 

 瞳子ちゃんは恐る恐る下を眺めていた。高い崖に面していて、もし落ちてしまったら命はないんじゃないかって思えた。正常に恐怖心が働いてくれていたら、飛び降りようなんて発想すら抱かせないような高さに見える。

 それだけの勇気のある決心があったのだろうか。……そういうことを考えると何か急かされる気がして、俺は目を逸らしてしまう。

 

「せっかくやから写真でも撮っとく?」

 

 佐藤がインスタントカメラを構える。それに反応した葵ちゃんと瞳子ちゃんが俺の両隣を陣取った。

 

「じゃあ、あたしはここで」

「わっ!? み、美穂ちゃん?」

 

 するりと首に腕が回される。美穂ちゃんが俺に後ろから抱きついてきたのだ。

 すぐに美穂ちゃんの行動に気づいた葵ちゃんと瞳子ちゃんが強く反応する。

 

「赤城さん? トシくんに何をしているの?」

「ちょっと! 俊成にくっつき過ぎよ!」

 

 種類の違う二人のプレッシャーに、美穂ちゃんは動じる気配すら見せなかった。

 

「だって、どうせ高木が真ん中になるんだったらここがベストポジション」

 

 それは……そうなのか? 葵ちゃんと瞳子ちゃんが俺の両隣りを押さえてしまった以上、できるだけ真ん中で映ろうとすればそうなっても仕方がない……のかもしれない。

 写真を撮られるのならやっぱり真ん中で映りたいのだろう。子供ならそう思って当然だ。俺は美穂ちゃんに対して反論できなかった。

 

「うーん……、まあええから撮ってまうでー」

 

 佐藤の言葉で葵ちゃんと瞳子ちゃんは慌ててポーズを取った。カシャリ、とシャッター音が鳴る。結局美穂ちゃんは俺に抱きついたままだった。

 さて、修学旅行は基本グループ行動である。同じクラスで五人一組のグループを旅行前に決めていた。

 六年四組に所属する俺のグループには、葵ちゃんと瞳子ちゃん、それに佐藤と美穂ちゃんを含めた五人のグループを作っていた。

 集合写真を撮ってから、この清水寺で自由行動となっているのだ。皆思い思いの場所に散らばっていた。

 

「はいはーい。私恋占いの石を見に行きたーい」

「あっ、それあたしも行きたいわ」

 

 葵ちゃんが挙手をして意見を出す。瞳子ちゃんも賛成のようだ。

 

「僕もええよ」

 

 佐藤も賛成したことで三票投じられたこととなった。すでに多数決では決定である。まあ俺もとくに反対意見はない。

 

「美穂ちゃんもそれでいい?」

「うん」

 

 美穂ちゃんも頷いたので満票で行き先が決まった。

 清水寺の境内にある地主神社へと向かう。縁結びとしてけっこう有名なのだ。

 本殿前にお目当ての恋占いの石があった。人気スポットのようで、すでに他の児童が順番待ちをしている状態だ。

 一対の恋占いの石は目をつむってもう一方の石に辿り着けば恋が叶うと言われている。まあただの願掛けだ。だが、そこには少しでも恋愛を成功させようとする切実な想いがあるのも事実だった。

 やはりと言うべきか、並んでいるのは女子が多かった。目を閉じて真剣に取り組んでいる。見ているだけで彼女達の本気度がうかがい知れた。

 男子は男子で遠巻きからチラチラと観察しているようだった。恋愛ごとなんて興味ないですよー、という体を出しながらも、意中の女の子がいるのか気になってしまう。というのが傍から見ていても簡単に察せられた。こうして見るとなんかかわいいな。今の俺なら微笑ましい気持ちで男子どもを見ていられた。

 とはいえ、みんな本気だな。俺まで緊張が伝わってきてごくりと唾液を呑み込んでしまう。

 小学生とはいえ、六年生にもなれば本気で恋をする子がそれなりにいるのだろう。行列がその証拠となっていた。

 

「みんな並んでるしさ、先におみくじやお守り買わない?」

「ううん、私並ぶ」

「あたしも。先に恋占いの石に挑戦したいわ」

 

 俺の提案はあっさりと却下された。

 二人の意志は硬い。彼女達が恋占いの石に成功したからといって俺の中で何かが変わるとも思えないのだが、それでも目は逸らさないようにしなければという義務感が生まれたのは確かだった。

 

「よしっ、行くぜ!」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんよりも早く並んでいたらしい本郷の声が響いた。それに反応して周りの女子達がかしましくなる。

 気合を入れた本郷がスタートする。見えない恐怖はないのか、彼は目を閉じているのにも拘らず走ってもう一方の石へと簡単に辿り着いてしまった。

 

「よっしゃああああぁぁぁぁぁぁーーっ!!」

 

 拳を天へと掲げて喜びを顕わにする本郷。それにつられてか、女子達から黄色い声が響き渡った。

 本郷はそんなにも恋愛ごとに対して本気になる相手がいるのか? いや、あいつの場合はゲーム感覚でやってる可能性があるな。こういうチャレンジ好きそうだし。

 

「じゃあ次は私だね」

 

 葵ちゃんが言うと今度は男子連中が反応した。好奇心を隠さない様子で見守っている。

 

「……」

 

 すっと目をつむる葵ちゃん。彼女の穏やかな静けさにあてられてか、周囲も静かになる。

 一歩、まずは最初の一歩を踏み出した。

 葵ちゃんはゆっくりと、それでいて迷いなく進んでいく。確実に進んで行き、目的の石に辿り着いた。

 葵ちゃんはそこでぱっと華やいだ笑顔を俺に向けてきた。その笑顔には胸を高鳴らせるには充分な破壊力が備わっていた。

 

「次はあたしの番ね」

 

 瞳子ちゃんの宣言に男女から反応があった。やっぱり彼女も注目度が高いようだ。

 スタートする前に瞳子ちゃんは俺に視線を向ける。薄く微笑んだ後、彼女は歩き出した。

 これまた真っすぐ向かっている。案外みんな簡単そうにするもんだな。

 

「ふふっ……」

 

 石に触れた瞳子ちゃんは満足そうだ。彼女が触れた物の意味を意識すると胸が暖かく、そして苦しくなる。

 

「次は高木の番」

「え? 俺はいいよ。美穂ちゃんどうぞ」

「……」

 

 俺の言葉を無視して、美穂ちゃんは俺の手を掴んで引っ張っていく。って、あれ?

 

「目をつむって」

「え?」

「早く」

「う、うん」

 

 有無を言わせない口調の美穂ちゃんに俺は逆らえなかった。目を閉じるとぐいぐい手を引っ張られる。

 これもしかしてスタートしてる? 二人いっぺんにってあり?

 美穂ちゃんに引っ張られるまま進んで行く。彼女も足取りに迷いはないようだ。

 

「あ、赤城さん! そっち違うで! 石が遠くなっとる!」

 

 佐藤の焦った声で立ち止まった。どうやら真っすぐ歩いてはいなかったようだ。

 それからは佐藤の指示でなんとか石に辿り着くことができた。なんかスイカ割りしている気分になっちゃったな。

 

「うん、こういうこともある」

 

 美穂ちゃんは表情を変えないままそんなことを言った。けれど、汗ばんでいる手から彼女も焦っていたことは丸わかりだ。

 

「……」

「……」

「はっ!?」

 

 凍てつくような空気に振り向けば葵ちゃんと瞳子ちゃんに睨まれていた。い、いやこれは……違うんだよ。なんてしょうもない言い訳しか思いつきそうにないので口をパクパクさせるだけに留めた。

 

「僕も行くでー」

 

 佐藤もやるようだ。佐藤から恋愛話は聞かないから本郷と同じゲーム感覚なのだろう。

 

「佐藤くん右よ右ー」

「え? み、右?」

「あー、やっぱり左ー」

「こ、こっち? 左ってこれで合ってるん?」

「あっ! 佐藤くん後ろー!」

「う、後ろ!?」

 

 佐藤はばっと振り向いた。目を閉じたままなのであんまり意味はない。

 

「ていうか、小川さん邪魔するなってば」

「あ、ばれた?」

 

 小川さんは悪びれる様子もなく舌を出した。今まで佐藤に指示を送っていたのは彼女だ。しかも全部間違った指示だし。

 どうやら面白そうだったからという理由で口出しをしてしまったようだった。いるよな、面白そうってだけでこういうことしちゃう人。

 佐藤は他の人から指示を受けながらなんとかゴールできた。肩で息をしている。恋占いの石でここまで疲れを見せたのは彼だけだろう。

 この後はお守りを買って、おみくじを引いた。

 

「やった! 大吉!」

 

 葵ちゃんがおみくじの結果を見て羽根が生えんばかりの勢いで喜んだ。すぐに我を取り戻して落ち着きを見せる。

 

「宮坂さん、大吉なんてすごいやんか」

「ううん、あくまでおみくじの結果だし、気にし過ぎても仕方がないよ」

 

 なんて冷静なことを言いながらも、葵ちゃんは大吉のおみくじを大事に折りたたんで財布の中へと入れた。ちなみに財布は俺が彼女の誕生日プレゼントで贈った物である。

 

「でも、大吉は一番良いと考えればあとは落ちるだけ……」

「赤城さん? 何か言ったかな?」

「……なんでもない」

 

 言わなくてもいいことを言おうとするから。明らかに水を差すだけでしょうに。

 

「あたし中吉……」

 

 瞳子ちゃんは複雑そうな表情を浮かべる。葵ちゃんが大吉を引いてしまっただけに負けたとでも思ってしまったのだろう。

 しょんぼりしながら俺のおみくじに目を向けた。あっ、と思った時にはすでに見られてしまっていた。

 

「ちょっ……、俊成それ……」

 

 瞳子ちゃんは「しまった」とでも言うように口を押さえた。そんな反応をさせてなんだか申し訳ないと思ってしまう。

 

「……大凶?」

 

 美穂ちゃんがぽつりと言った。うん、見間違いとかじゃないです、はい。

 

「へぇー……、僕大凶なんて初めて見た。なんかレアやね」

 

 佐藤がしげしげと俺のおみくじを見つめる。まさかこんなところで大凶を引くはめになるとは俺も思わなかった。

 大凶なんて実在したんだ……。おみくじ運の悪い俺でも大凶を引いたのは初めてだったりする。

 

「で、でもっ。どん底なら後は上がるしかないからっ。うん、むしろ良かったのよ! だから元気出しなさい俊成!」

 

 瞳子ちゃんのフォローに涙が出そうになるね。なんか必死なところがとくに……。

 

「大丈夫だよトシくん」

 

 葵ちゃんはニッコリ笑顔で言った。

 

「私の大吉があるから、トシくんを不幸にはさせないよ」

 

 なぜか佐藤が「ひゃあっ!」と叫び声を上げる。俺は彼女の相変わらずの優しさにおみくじなんて真に受けるもんでもないなと思った。

 

「でも、大吉と大凶ならプラマイゼロ……」

「んー?」

「……嘘ついた。とても良いと思います」

 

 笑顔の前に無表情は無力だ。大吉を握っている葵ちゃんに敵なしであった。

 

「だったらあたしの中吉でプラスよ」

 

 中吉のおみくじを見せながらふふんと胸を張る瞳子ちゃん。……やっぱり二人は俺に幸せを分けてくれるんだな。

 おみくじだけど、なんだかこんな甘え方はいけない気がした。

 俺はさっさと自分のおみくじを結びつけてしまう。

 

「葵ちゃんも瞳子ちゃんもありがとうね。でも、瞳子ちゃんが言った通りあとは上がるだけだからさ。自分で上がれるようにがんばるから。だから二人は自分の良い結果を大事にしててよ」

 

 前におみくじで凶を引いてしまった俺に、二人は大吉をくれたっけ。すごく嬉しかった。でも、そろそろ俺も男の意地ってやつを見せなきゃいけない頃合いだ。甘えっ放しではいられない。

 

「……トシくんがそう言うなら、わかった」

「俊成ってば、意外と頑固なんだものね」

 

 俺のことをわかった上で頷いてくれる。やれやれ、本当に下を向いてる暇なんてなさそうだ。

 次に向かったのは清水寺の名前の由来にもなっている音羽の滝である。

 この流れる霊水を飲めば不老長寿や無病息災などのご利益があるんだそうな。健康とかまだあまり意識しなさそうな小学生一同ではあったが、ここでも行列を作っていた。まあ有名だからとりあえず飲んでおこうといったところだろうか。

 

「あれ? これどれを飲めばええんやろか」

 

 音羽の滝は三筋に分かれて流れている。とはいえ、全部同じ湧水だろうし、どれを飲んでも問題はないだろう。

 

「好きなところでいいんじゃないか?」

「ふうん。そっか」

 

 あまり深く考えない様子で佐藤は頷く。

 葵ちゃん、瞳子ちゃん、次の佐藤が飲み終わってから俺の番が回ってきた。

 柄杓を取って滝の水を受けようとする。すると葵ちゃんと瞳子ちゃんの声が聞こえてきた。

 

「トシくん真ん中だよ真ん中」

「俊成、飲むなら真ん中のにしなさいよ」

 

 なぜかそんなリクエストがあった。改めて三筋に流れる滝を見る。俺が知らないだけで何か他にご利益があっただろうか?

 どっちにしても健康に良いのは嬉しいからな。俺は二人の言う通り真ん中に流れている水を柄杓で受け、口元に持って行った。

 うん、冷たくて上手い。ペットボトルにでも入れてお土産にしたいくらいだ。

 

「次、あたしの番」

「あっ、ごめん。待たせたかな」

 

 俺の後ろで待っていた美穂ちゃんは首を横に振る。場所を空けようとすると、持っていた柄杓を取られてしまった。

 

「あ、ちょっと――」

 

 止める間もなく、俺が使った柄杓で美穂ちゃんは滝の水を飲む。口をつけてこくりこくりと喉を動かしていた。

 

「な、なななななな、ななな、なぁっ!?」

 

 壊れたテープレコーダーのように言葉にならない葵ちゃん。

 

「かかかかか、間接キス!?」

 

 卒倒しそうな勢いで目を剥く瞳子ちゃん。

 

「ん?」

 

 そして、何が起こったのかわからないといった風の美穂ちゃんなのであった。

 この後、宿に着くまでの間はちょっとどころではないほどのギスギスした空気にさらされるのであった。俺はお腹が痛くなってしまったらしい佐藤を介抱するのに意識を集中させて、この痛いくらいの空気から逃避した。俺が男の意地を見せるのはまだ先の未来になりそうだ。

 

 




修学旅行編は固有名詞を出しちゃってるので何かおかしなところがあれば報告していただけたら助かります。
次回は女子会かな。女子のガチンコ勝負が始まる(煽り)


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72.心の中の波紋

 宿に入り、夕食をとった。それから入浴の時間がやってきた。

 入浴はクラスごとで順番に大浴場に入る段取りとなっている。六年四組の女子一同は支度を済ませると、固まって大浴場へと向かう。

 

「あっ、トシくんだ」

 

 女湯ののれんをくぐっている最中、夕食が終わって別れて以来になるクラスの男子達の姿が見えた。真っ先にそれを見つけた葵は小さく手を振る。

 目的の男子はすぐに葵に気づいたようで、同じく小さく手を振り返していた。しかし反応したのはその男子だけではなかった。

 クラスの、いや、学校で一、二を争う美少女がこちらに向かって手を振ってくれているのだ。少なからず異性を意識し始める年頃の男子連中は心が沸き立つのを感じていただろう。というか傍から見れば丸わかりであった。

 

「……」

 

 そんな男子達を冷ややかに見ていたわけではない。それでも美穂の視線は一人の男子に注がれていた。

 葵がのれんをくぐるのを見届けてからクラスの男子達も男湯ののれんをくぐって行った。それを見届けてから美穂も止まっていた足を動かそうとする。

 そこで彼女は気づいた。知らず自分の手が半ばまで上がっていたことに。それはまるで先ほどの葵のように手を振ろうとしていたのではないかと思わせる仕草だった。

 

「ふむ」

 

 無意識の行動に疑問があった。だけどそこまで考え込むことでもないだろうと自分を納得させる。

 友達に手を振るのは当然。おかしいことなんて何もなかった。そう問題ないと判断して、美穂ものれんをくぐった。

 脱衣所で服を脱ぎ、浴場へと入る。「もうブラジャーつけてる子がいるんだ……」という美穂の呟きは誰の耳にも届くことはなかった。

 みんなで大きなお風呂に入る。そんな状況が楽しいのか、はしゃいだ声が浴室に反響した。

 

「うはーっ! やっぱりあおっちのスタイルってすごー!」

「ちょっ!? ま、真奈美ちゃんっ。そんなに触らないで……」

「よいではないかよいではないかー」

 

 ただでさえ騒がしい中、葵と真奈美の声がひと際大きく響いた。

 美穂は体を洗いながらもチラと二人のやり取りをうかがう。背の高さを生かすように、真奈美が葵の体を後ろから抱きすくめている光景が広がっていた。

 腕に圧迫されて葵の立派なお山が形を歪ませる。肌と肌が重なる度にぐにゃりぐにゃりと……。美穂は顔を正面に戻した。

 

「……うん、完璧」

 

 体を洗い終えた。胸の辺りは入念に入念を重ねて洗ったから大丈夫だろう。何が大丈夫なのか自分でもわからないままだったが、美穂は満足げに体を洗い流していく。

 パコーンと小気味の良い音が響いたので美穂は振り返った。そこには頭を押さえる真奈美と、桶を持った瞳子がいた。真奈美の凶行を止めようと瞳子が天誅を下したのである。

 

「いったー! きのぴー何すんのよ!」

「バカなことやってるのはあなたでしょ! ほら、変なことしてないでさっさと体洗いなさいよ」

「……きのぴーも綺麗な体つきしてるよね。それに……、ここも育ってきた?」

 

 無造作に伸ばされた真奈美の手を、瞳子は容赦なく叩き落とした。

 

「小川さん? どうやら懲りてないようね」

「わーっ! 嘘です嘘! ごめんなさい! わ、私体洗わなきゃっ」

 

 真奈美はバタバタと逃げた。瞳子は鼻を鳴らしてそれを見送る。勝負(?)の行方は明らかであった。

 

「葵、こっちに来なさい。髪洗ってあげるから」

「うん。お願いね瞳子ちゃん」

 

 葵と瞳子の後ろ姿を眺めながら、美穂は湯船へと向かった。

 出会った頃からあの二人は仲が良かった。いや、二人じゃなくて三人か……。

 接していてもその三人の輪には入れない。その事実が美穂の奥底にくすぶっていた。けれど彼女はそれに気づけない。

 

「ふぁ……」

 

 とはいえ今はお風呂タイムである。足を伸ばせる広いお風呂というのもあり、気持ち良さも割増だ。何か思っていたような気がしたが、溶けるように忘れられた。

 

「赤城さん、横いいかな?」

「ん」

 

 美穂の体がぬくもっていく。それにつれてまどろみに意識を支配されつつあった時、横から葵の声が聞こえた。反射的に美穂は頷いていた。

 艶やかな黒髪をアップにまとめている葵には歳が同じとは思えないほどの色気があった。なぜか凝視するのははばかられたため、美穂は視線を逸らした。

 

「……」

「……」

 

 しばし二人は無言となった。しかし、それ自体はそれほど珍しいことでもない。

 美穂は元々口数が少ない。それをわかってなのか、葵も美穂に対してはそれほど口数は多くなかった。

 そもそも葵には静謐な雰囲気がある。意中の男子が関わらなければ、その雰囲気通りの穏やかな性格なのだ。彼女から発せられるそんな空気が、美穂にとっては居心地が良かったりする。

 なのだが、今回は少しばかし雰囲気が違っていると、美穂はそう感じていた。

 横目でこっそりと葵を観察する。湯のぬくもりでなのかその頬が赤らめられている。気持ち良さからかほっと熱い吐息が漏れている。

 そして何より葵の立派なお山が浮いていた。浮いていたのだ。美穂は信じられないものを見たような目になってしまい、そこから視線を動かせなくなってしまう。

 

「赤城さん」

「何?」

 

 葵の声で硬直が解けてくれた。美穂は何事もなかったかのように顔を正面へと戻していた。

 葵も正面を向いたままだ。美穂の顔を見ようとしない。ただ、言いにくそうに唇だけを数度動かす。

 

「……赤城さんって、トシくんのことどう思ってるのかな?」

 

 ようやく放った言葉は、葵の中でくすぶっていたものを吐き出すものだった。

 だがしかし、美穂は要領を得ないとばかりに首をかしげた。

 

「どうって?」

 

 葵が美穂に顔を向けた。その表情は困ったような、怒っているような、悲しんでいるような。何より戸惑っていた。

 葵は自分を落ち着けるようにゆっくりと息を吐いた。空気が変わっていることを感じ取り、美穂は表情を変えないまま身構える。

 

「あなた達ー。次のクラスも入るんだから騒いでばかりいないで早く出なさい」

 

 先生の声でみんなが「はーい」と返事する。

 話の腰を折られたような気分になって、葵はなんとも言えない顔になった。それと同時に少しだけ張り詰めていた空気が霧散する。

 

「……出よっか」

「……うん」

 

 なんだか却ってもやもやした気持ちを抱えてしまった二人は湯船から上がった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 入浴が終われば就寝まで自由時間だ。それぞれ思い思いの時間を過ごす。

 

「みんな本郷くんのいる一組の男子の部屋に突撃するんだってさー。いやー、最近の女の子は積極的だよね」

「小川さんも最近の女の子でしょ。で、行かなくてもいいの?」

「私? いやいや、私ってば良い子だから先生に怒られるようなことはしたくないのよね」

「それもそうね」

 

 瞳子と真奈美はくすくすと笑う。そもそも二人は学年で一番のイケメンと評される本郷永人という男子に興味を示してすらいない。

 各クラスの男女に大部屋を一部屋ずつあてがわれている。ほとんどの女子が他のクラスの部屋に遊びに行ってしまったので、この四組女子の部屋に残っている人は少ない。

 

「これからどうする?」

 

 葵は瞳子に髪をとかしてもらいながら部屋にいる面々に尋ねる。部屋に残っているのは葵と瞳子、それに真奈美と美穂の四人だけだった。

 

「トランプがある」

 

 美穂はトランプを掲げながら言った。ちなみにそのトランプは彼女の私物ではなかったりする。

 

「トランプねぇ……。罰ゲームはどうするの?」

 

 今度は葵に自らの髪をとかしてもらいながら瞳子が言った。いつもはツインテールにしている銀髪が真っすぐに流れている。

 

「罰ゲームかぁ……。負けたらジュースおごりとか?」

「えー、本当に罰ゲームなんてするの? その前にトランプで何をするかも決まってないし」

 

 瞳子と真奈美は罰ゲームをどうするかについて話し合っている。反対に葵は消極的だ。どうにか罰ゲームをなしにしてもらおうかと考えているようだった。

 葵の視線が美穂の方へと向けられる。味方になってほしい。そんな意志の込められた瞳だった。

 そんな気持ちがわかったのかわからなかったのか、美穂は口を開いた。

 

「じゃああたしはコーヒー牛乳で」

「もう勝った気でいるし!」

 

 そんなわけで女子四人でババ抜きをすることとなっちゃったのだ。

 いざババ抜きというゲームをやってみると、結果はわかり切っていたのかもしれないと思わされた。

 葵と美穂は笑顔と無表情を武器にまったく心を読ませないし、瞳子の観察眼はとある人物の所作一つでジョーカーの居場所を看破していた。

 

「うわー! また負けたー!」

 

 オーバーリアクションで倒れる少女。つまり、真奈美の一人負けだった。

 

「ね、ねえっ。トランプはやめてさ、恋バナでもしようよ。せっかく女子が集まってるんだからさー」

 

 話題を別の方向へと持って行こうと必死である。泣きを入れる真奈美に、彼女達は無情だった。

 

「何罰ゲームから逃げようとしてるのよ。あたしミルクティーね」

「それに真奈美ちゃん別に好きな人いないよね? 私はオレンジジュース」

「コーヒー牛乳」

 

 三対一で勝てるはずもなく、真奈美はがっくりと肩を落としながら罰ゲームを執行するのであった。

 

「……三人だけになっちゃったわね」

 

 真奈美の姿が消えるのを確認して、瞳子はぽつりと言った。

 そして、彼女の澄み切った青の瞳が美穂へと向けられる。

 

「小川さんが最後に恋バナがしたいって言ってたし、せっかくだからお話しましょうか」

「最後って……、まるで死んじゃう前の最後の言葉みたいだけど、真奈美ちゃんは生きてるからね」

 

 葵のツッコミは無視して瞳子は姿勢を正した。空気が真剣みを帯びる。

 急な雰囲気の変化に不思議に思いながらも、美穂は瞳子へと体を向ける。

 

「ねえ赤城さん」

「何?」

 

 瞳子の目からは強い意志が感じられた。なぜだか美穂はうっと呻きそうになってしまう。

 そして、瞳子は迷いなく口を開いた。

 

「あたしと葵は俊成のことが大好きなの。それは小さい頃からずっとで、今はもっとずっと好き。大好きなの」

 

 真剣で純粋な想い。真っすぐではっきりとした気持ちに、美穂の胸がじくりと音を立てた。

 

「だからね、俊成を、あたし達をからかうのはやめてくれないかしら?」

「からかう……って?」

「からかってるじゃないっ。俊成にベタベタして、あたし達の反応を楽しんでるのかしら? あたし達の気持ちがわかってないわけがないわよね」

 

 反論は咄嗟には出なかった。

 けれど美穂にからかうなんてことをしている自覚はなかった。友達だから、親友だから仲良くしている。そうやって彼とくっついているのがたまらなく心が満たされる。ただそれだけなのだ。

 そんな満たされたいという気持ちが先行してしまい、美穂は周囲の気持ちに鈍感だった。

 

「それとも、赤城さんも俊成のことが好きなの?」

 

 思いっきり踏み込んでくる言葉に、美穂の息が詰まる。

 この歳になって好きという意味を勘違いなんてしなかった。

 聞かれているのは友達としての好きではなく、異性に対する好きだった。それが理解できても、まさかそんな本気の質問が飛んでくるだなんて考えてもみなかった。

 前に佐藤に聞かれたことがあった。高木くんのことが好きなのかと。その時ははぐらかして、それで美穂自身でも終わりだと思っていたのかもしれない。

 相手が代わり、その本気度が変わればこんなにも違うものなのかと、美穂は思い知らされた。

 

「あたし……は」

 

 一度呼吸を止めてしまったために声が上手く出てこない。深呼吸をしたが、余計に言葉にならなくなっていた。

 

「瞳子ちゃん」

「葵は黙ってて。こういうのはあたしがやるから」

 

 葵を手で制して、瞳子がずいっと前に出た。

 

「赤城さん、もう一度言うわね。俊成のことが好きじゃないならちょっかいかけないでちょうだい。とても迷惑だから」

「……」

 

 ぐっ、と。美穂は拳を握った。

 それは瞳子に対する怒りではない。ただ困惑していた。はっきりしていなかった自分の心の正体を突きつけられているようで、頭が熱くなる。

 

「赤城さん、トシくんのこと好きなんだよね?」

 

 葵の言葉は疑問でありながら断定だった。穏やかでありながら厳しかった。

 

「……」

 

 やはり言葉なんて出てこない。美穂は二人の顔が見られない。

 だが、その態度こそが雄弁に物語っているように葵と瞳子には感じられた。

 はぁ、と瞳子はため息を吐いた。

 瞳子の手が伸びて、美穂の顎に触れるとその顔を上げさせる。

 

「……そういう顔しちゃうんじゃない」

「え?」

「あたしね、あなたのこと嫌いじゃないのよ。でもね、今のあなたは嫌いだわ。気に食わないって言えばいいのかしら」

 

 ストレートな物言いに美穂の心が揺さぶられていく。頭はもうクラクラだ。

 

「教えてほしいの。赤城さんは俊成のことどう思ってるのか」

 

 フラフラになりながらも美穂は考える。考えようとする。でも、考えようとすればするほどに思考回路が焼け焦げていくような感覚に襲われる。

 

「……」

 

 そしてやはり、答えは出なかった。

 これ以上待ち続けても答えは出ない。そう判断したのか瞳子は美穂から離れた。

 

「自分の気持ちも口にできないのに余計なことを続けるようなら、あたしだって怒るわよ」

 

 声を荒らげたわけではない。それでも厳しい口調で瞳子は言う。

 

「……」

 

 返事は、できなかった。

 

「売店に行ったらお土産たくさんあってさー。見ちゃったら目移りしちゃうよね」

 

 ちょうど良いと言うべきか、明るい声を上げながら真奈美が部屋に帰ってきた。その手には自分の分を含めた人数分の飲み物があった。

 

「……」

「……」

「……」

「え、何この空気?」

 

 部屋を出る前とあまりに違う空気感に、さすがに真奈美も困惑してしまう。けれど、誰も答えてはくれなかった。

 このなんとも言えない空気は、クラスメートの女子が戻ってくるまで続いたのだった。

 少女達にそれぞれの波紋を残したまま、夜は更けていく……。

 

 




修学旅行編はもうちょっと続きます。


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73.修学旅行二日目、女子三人に変化あり

 修学旅行二日目。二泊三日の旅行なので折り返しの日と言えるか。

 昨晩はウノやったり枕投げしたりと、修学旅行の夜を堪能した。本郷目当てで一組の男子部屋に女子が乱入したらしいが、さすがに先生に見つかって雷を落とされていた。俺達四組の部屋にまで怒声が聞こえてきたからな。

 当たり前だけど、葵ちゃんと瞳子ちゃんが俺のいる四組の男子部屋に乱入してくることはなかった。俺だけならともかく他の男子もいるからな。もし来たら俺が怒っていたところだ。

 

「わぁ! 金閣寺ってほんまに金ピカなんやね」

「だな。今日は天気も良いし、逆さ金閣が見られるかもな。もうちょっと近づいてみよう」

 

 金色の建物を目にした佐藤は大はしゃぎである。昼前で快晴というのもあって、庭園の池に金閣寺が映っているかもしれない。綺麗な逆さ金閣を見られたなら今日はついてるかもな。

 などと俺と佐藤は盛り上がっているのだが、グループ内は気まずい雰囲気だったりする。

 

「……」

 

 振り返ると反対に女子三人のテンションは低かった。

 葵ちゃんはぼんやりしているし、瞳子ちゃんは疲れた顔をしている。美穂ちゃんなんてずっとうつむいたままだ。

 昨日とあまりにも違う女の子達の態度に戸惑ってしまう。話しかけても上の空の返事ばかりなのだ。

 昨晩に別れる前まではいつも通りだったはずだ。それから何かあったのだろうか?

 例えば、修学旅行の興奮そのままに夜更かししちゃったとか。大部屋にクラスの女子が一塊となっているのだ。話が盛り上がっても不思議じゃない。

 でも、その割には他の女子は元気そうなんだよな。観察してみても元気がないのはこの三人だけである。

 じゃあたくさんの人といっしょに寝るのが緊張して眠れなかったとか? いや、幼稚園時代に瞳子ちゃんはお泊まり会を経験しているのは俺も目にしているし、葵ちゃんだって保育園でのお泊まり会は問題がなかったと聞いている。それに三家族で宿泊を経験しているが、こんなにテンションが下がってしまうほど寝つけなかったことなんて一度もない。

 うーん、なら原因はなんなんだ?

 

「葵ちゃん」

「え?」

 

 小声で葵ちゃんに話しかける。いつもならすぐに瞳子ちゃんに気づかれそうなものだが、そんな様子は一切見せてくれなかった。

 しかし葵ちゃんも反応が悪い。俺が話しかけるまで近づいたことを気づかないようだった。

 

「その、体調は大丈夫? どこか痛いとかしんどいとかない?」

「え、うん。大丈夫だよ」

 

 体調を崩したわけではないらしい。ならばと突っ込む。

 

「じゃあ、昨日何かあった?」

 

 その反応はとてもわかりやすかった。

 葵ちゃんはビクリと体を振るわせると、俺から目を逸らした。彼女にしては珍しい反応だ。

 何かあったのか。たぶんそれは瞳子ちゃんと美穂ちゃん含めてなのだろう。

 けど、それを根掘り葉掘り聞き出すべきだろうか。葵ちゃんの反応を見るに聞いてほしくなさそうではある。

 

「ト、トシくん?」

 

 俺は葵ちゃんの手を取って、しっかりと繋ぐ。

 

「瞳子ちゃん」

「……え?」

 

 俺はもう片方の手で瞳子ちゃんと手を繋いだ。

 なんか自分からこういうことするのって恥ずかしいな。他のグループの子にも見られてる気がするし。

 

「二人とも、佐藤先に行っちゃったし、俺達も追いつかなきゃ」

「う、うん」

「そ、そうね」

 

 ちょっと強引に葵ちゃんと瞳子ちゃんを引っ張る。それから美穂ちゃんに顔を向ける。

 

「美穂ちゃん早く早く。そんなにゆっくり歩いてたら置いてかれちゃうよ」

 

 俺の声に気づいて美穂ちゃんはのろのろと顔を上げる。彼女の無表情に元気が感じられない。ほんの少しだけ眉を寄せられた気がした。

 なんで三人の元気がないのかは知らないけれど、体を動かして目新しいものを見れば少しは気が紛れるかもしれない。

 せっかくの修学旅行だ。いっぱい楽しんで、嫌なことがあるのなら忘れられるくらい楽しめたらと思う。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 金閣寺の次は映画村にやってきた。

 江戸の町並みが広がっており、侍の格好をしている人を見かけると男心がくすぐられた。

 

「トシくん楽しそうだね」

 

 幾分か元気を取り戻した葵ちゃんが笑顔を向けてくれる。そのことに安心しながら俺は力強く頷いた。

 

「やっぱり侍とか忍者は男のロマンがあるからな。見るだけでかっこ良さが伝わってくるんだ」

「そうやね。刀で戦うところなんてかっこ良いんやもんね」

 

 男二人でそんなことを口にしたからなのか。突然侍同士でのチャンバラが繰り広げられた。鍛えられたスタッフなのだろう。その立ち回りには迫力があった。

 

「すごかったわね。まるで本物みたいだったわ」

 

 目の前で行われた殺陣に瞳子ちゃんは興奮していた。終わった後もしばらく気持ちの高ぶりが収まらないようだった。

 でもまあ、少しずつでも元気を取り戻してくれているようで良かった。笑顔の葵ちゃんと瞳子ちゃんの横顔を見ると安堵感が心に広がる。

 

「じゃあ今度はあれ行こうよ」

 

 そう言って葵ちゃんが指を差した先を見て、瞳子ちゃんは固まった。

 俺も指し示された方向へと目を向ける。そこには映画村の目玉の一つであるお化け屋敷があった。

 映画村のお化け屋敷はその辺のものとはまるで違う。セットやお化け役のクオリティがまさにプロなのだと胸を張って呼べるものなのだ。記憶が薄くなっている小学生の修学旅行とはいえ、このお化け屋敷のことは今でもはっきりと覚えているほどだ。

 

「葵ちゃん、本当に行きたいの?」

「なんかすごく怖いらしいし、せっかくだから入ってみたいかなって」

 

 一応確認のために聞いてみたが、葵ちゃんの目はキラキラと輝いていた。彼女はけっこうホラー好きという面があるのだ。

 

「うぅ……」

 

 対する瞳子ちゃんはお化けの類が苦手だったりする。作り物感満載の大したことのないお化け屋敷でさえ涙目になってしまうほどには苦手だ。

 

「どうする瞳子ちゃん。無理に入らなくてもいいけど」

「と、俊成はどうするのよ?」

「俺はまあ……入るけど」

「じゃあ、あたしも入る」

 

 怖がりな瞳子ちゃん。でも退くということを知らないから毎回こうやって入っちゃうんだよな。

 

「佐藤と美穂ちゃんはどうする?」

「僕も行きたい。このお化け屋敷楽しみやったし」

 

 佐藤はにこやかに首を縦に振った。あとは美穂ちゃんの意見だけど、彼女は視線を落としていた。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんの元気は戻ってきているけれど、美穂ちゃんの方はまだのようだ。

 

「美穂ちゃん」

「ん……、た、高木?」

 

 美穂ちゃんはほんのちょっぴり目を見開いて驚きを表す。なんか考え事に没頭しているみたいに反応が悪い。

 

「いや、これからお化け屋敷に行くんだけどさ。美穂ちゃんはどうかなって」

「あ、うん。あたしも行く」

 

 五人全員で入ることが決まった。人数がいれば怖さだって多少はマシになるだろう。うん、怖くないはずだ。

 そんなわけでお化け屋敷の列に並ぶ。思ったよりも待たずに順番が回ってきた。

 注意事項を聞いて、いざ本番である。足を踏み入れた先に広がるのは江戸時代をモチーフにした異質な空気だった。

 わかっていたが、おどろおどろしい気配は作り物と思えないほどだ。一歩進むだけでも恐怖感に襲われる。

 

「ほらほら、みんな早く行こうよ」

 

 なかなか進めなかったからか、葵ちゃんが先頭に立った。葵ちゃんがとてつもなく頼もしく見える。

 

「と、俊成……」

 

 暗がりを恐れてか瞳子ちゃんが俺の腕へとしがみつく。かなり力が入っており、本当に怖がっているのだと伝わってくる。

 小さな光源が薄っすらと井戸を映し出す。そこから何かが出てくるのかと警戒しながら進んだが、結局井戸の中から何かが這い出してくることはなかった。

 ほっと安堵の息をつくのを狙ったかのようなタイミングで、恐怖を思い出させようとするかのように驚かされる作り物が配置されていた。

 これは作り物。作り物なんだ! 自分にそう言い聞かせようと必死になる。腕に込められた力が強くなった。

 すっと、背中に触れられる感触がした。

 

「うぎゃあっ!?」

「きゃあああぁぁぁぁっ!!」

 

 俺が驚いた声で、連鎖するように瞳子ちゃんも叫び声を上げる。お化け役の人が後ろにいるのかと思って振り返ってみれば、そこには美穂ちゃんがいた。

 

「ごめん。驚かせるつもりはなかった……」

「ああ、いや、こっちこそ驚かせちゃってごめん」

 

 どうやら俺の背中に触れてきたのは美穂ちゃんだったようだ。伸ばされていた手を引っ込めようとしていた。

 顔にはあまり出さないけど、美穂ちゃんも怖いんだろうな。ここのお化け屋敷はレベルが違い過ぎる。

 

「背中くらいなら掴んでてもいいよ」

「……うん、ありがとう」

 

 美穂ちゃんが手をおずおずと伸ばしてくる。その手は俺の服の裾をちょんと摘まむだけだった。彼女らしくなく遠慮したみたいだ。よほど怖かったんだろうな。

 先頭は葵ちゃんと佐藤。その後ろで俺と瞳子ちゃんと美穂ちゃんが固まっていた。なんで前を歩く二人は楽しそうにしているんだろうか。

 生首を見て叫び声を上げてしまい、落武者に驚かされて足がもつれそうになる。とにかく腕にしがみついている瞳子ちゃんに何かないようにとだけで頭がいっぱいになってきた。

 

「あれ、行き止まり?」

 

 前を行く葵ちゃんがそんなことを言った。落ち着けと自分に言い聞かせて周りを確認すると、いつの間にか和室にいた。

 

「ひっ!?」

 

 瞳子ちゃんが引きつったような声を上げる。その視線の先には部屋の隅で倒れている人。いや、死体があった。

 あれも作り物のはずだ。それか役者さんが死んだふりをしているのか。当たり前だが本物じゃない。薄暗さもあって不気味に映るのは当然なのだ。

 背中にぽすんという感触。そういえば美穂ちゃんがいるんだった。ほんのちょっと前のことなのに忘れていた。

 

「ここからどうするんやろ?」

 

 そう佐藤が口にした時だった。鎧武者がバンッ! と勢い良くふすまを開けて現れた。大きな音がしたからびっくりしてしまった。うん、音が大きかったからな。

 その鎧武者はどかどかと歩き、ふすまの一つをこれまた大きな音を立てて開いた。それから一歩下がり、俺達をじっと見つめる。

 

「ここを通れってことかな?」

 

 葵ちゃんは鎧武者の前を通って開かれたふすまの向こうへと消えていく。佐藤もそれに続いた。

 

「お、俺達も行くぞ」

 

 鎧武者に見下ろされている。それをできるだけ意識しないように、俺達は三人で固まったまま鎧武者の横を通り抜けた。

 そこから先は一本道の通路で、すぐに出口があった。眩い光が俺達を迎えてくれる。

 

「お、終わった~」

 

 まさかこんなにも怖い思いをしてしまうとは。もっとスマートに振る舞えるかと思ったんだけど、恐怖心というものはなかなかにコントロールできないもののようだ。

 うるさい心臓を鎮めるために俺は近くのベンチに座った。固まったままの瞳子ちゃんもいっしょになって座る。美穂ちゃんは外に出て恐怖がなくなったのか、いつの間にか俺から離れていた。

 

「楽しかったね」

「そやね。やっぱり迫力が違うわ」

 

 葵ちゃんと佐藤は「ねー」とお化け屋敷の感想会を始めてしまった。今回ばかりはついて行けない……。

 空の青さに気持ちを和ませていると、横から小さな寝息が聞こえてきた。聞き覚えのあるその寝息は、案の定瞳子ちゃんのものだった。

 

「瞳子ちゃん?」

 

 返事がない。ただ眠っているようだ。って寝ちゃうのかよっ。

 まあ朝から疲れた顔していたし、その状態でお化け屋敷で気を張り詰めたものだから体力の限界がきてしまったのだろう。

 時間はまだ余裕がある。少し寝かせた方がいいのかもしれない。

 

「瞳子ちゃん寝ちゃったの?」

 

 葵ちゃんが瞳子ちゃんの様子に気づいた。少し複雑そうな表情を見せたが、すぐに顔つきを変える。

 

「ちょっとゆっくりした方がいいかな?」

「瞳子ちゃんは俺が見てるから、葵ちゃん達は少し見て回ってきたら?」

 

 葵ちゃんが俺の顔をじっと見つめる。俺と瞳子ちゃんが二人きりになってしまうのを危惧しているのだろう。待たせるのが悪いと思っただけなんだけども。

 

「……そうだね。瞳子ちゃんのことはトシくんに任せるよ」

 

 と思ったのだが、葵ちゃんはあっさりと了承した。待ち合わせ場所を決めて、佐藤と美穂ちゃんに声をかけて移動する。

 お化け屋敷に入っていたからか、外の風がとても気持ち良い。眠った瞳子ちゃんの重みを肩で感じながら、穏やかな時間を過ごす。

 

「ん……あれ? あたし寝てた?」

 

 身じろぎをして瞳子ちゃんが目を覚ました。目を擦ってキョロキョロしている。

 

「おはよう瞳子ちゃん」

「うん、おはよう俊成。……ってなんでこんなところで寝てるの!?」

 

 びっくりして飛び上がる瞳子ちゃん。うん、まあそれを聞きたいのはこっちだったりはするんだけどね。

 

「瞳子ちゃん疲れてるんでしょ。とにかくもうちょっと座って休もうよ」

 

 彼女の手を引くと大人しく腰を下ろしてくれた。せっかくだから休憩時間ということにしよう。

 それに、尋ねるにはちょうど良い。

 

「で、美穂ちゃんと何かあったの?」

「え……、えぇっ!?」

 

 瞳子ちゃんは目を剥いて驚いた。寝起きというのもあって簡単に表情に出してくれる。

 まあ、三人を観察していたらよそよそしさが目立ってたからな。この三人の間で何かがあるのは予測できた。

 葵ちゃんの反応を見るに、瞳子ちゃんとケンカしてしまったとかそういうわけじゃないのはわかった。そのぎこちなさは美穂ちゃんに向けられていたから。

 たぶん、葵ちゃんか瞳子ちゃん、もしくは二人ともが美穂ちゃんと気まずくなるようなやり取りをしてしまったのだろう。美穂ちゃんの態度を見るに、彼女は言われた側なんだろうけどね。

 女同士の関係に、男の俺が首を突っ込むのはお門違いなのかもしれない。でもやっぱり何かできないかと考えてしまう。空気が読めないなんて言われるかもしれないけれど、彼女達の力になりたいのだ。

 

「……」

 

 不意を突けば聞きだせるかと思ったけど、そう上手くはいかないらしい。瞳子ちゃんは黙ってうつむいてしまう。

 

「俊成は……赤城さんのこと、どう思ってるの?」

 

 ぽつり、と。瞳子ちゃんが言った。

 

「どうって……友達?」

 

 質問の意図がわからなくて、思いついたまま答える。でもそういうことじゃないんだろうなと頭の片隅で思った。

 

「友達にしては距離が近いとか思わなかったの?」

「え? うーん……」

 

 友達との適切な距離感ってことに関してはあまり自信がない。元々友達が少なかったから。周りを見てもどこまでの関係なのかわからないから参考にならないし。

 ただ、言われてみれば美穂ちゃんとの距離感が葵ちゃんや瞳子ちゃんのような近さになりつつあるようには感じている。

 それは俺が歩み寄ったものではなくて……。

 

「……もしかして?」

「そのもしかしてよ」

 

 彼女の瞳がそういうことなのだと語っている。思い至ってしまった真実にたじろいでしまう。

 瞳子ちゃんはしゅんとしおれる。どうしたのかと耳を傾けた。

 

「それで……、あたし赤城さんにきついこと言っちゃったのね。だからその……」

「傷つけてないかって不安なんだね」

「……うん」

 

 小さく頷いた瞳子ちゃんは告白するように続けた。

 

「相手が俊成じゃなかったらあんなこと言わなかった。でもあたし我慢できなくて……、それに赤城さんの態度がなんか悔しかったから……。だからあたし達がどう思っているのかわかってほしかった。赤城さん自身の気持ちをわかってもらいたかった。でも、赤城さんを傷つけたかったわけじゃなくて……」

 

 瞳子ちゃんは優しい。だからこそ考えなくてもいいところで考えてしまい、自分から重荷を作ってしまう。

 だから、放っておけないんだよ。

 それに、彼女にこんな顔をさせてしまっているのは俺が原因なのだろう。なんとかしなきゃいけないのは俺の方だ。

 

「……俊成?」

 

 俺は瞳子ちゃんの頭を撫でていた。サラサラした銀髪の感触が手のひらから感じ取れる。

 少しでも、ほんのちょっとでも彼女の心が軽くなるようにと、そう思った。

 

「美穂ちゃんと二人だけで話がしたい。その時間をもらってもいいかな?」

 

 瞳子ちゃんと目を合わせる。揺れる瞳を見て、思わず謝りたくなってしまう。

 

「……わかった。葵にはあたしから言っておくわね」

 

 瞳子ちゃんの言葉は涙交じりに聞こえた。

 これ以上やり取りの詳細を聞くのは野暮というものだろう。おおよその流れはわかったし、大事な点は一つだけだ。

 もう一度瞳子ちゃんの頭を撫でる。

 

「瞳子ちゃんは悪くないよ。それは絶対だから。だからそんなに気にしないで、ね?」

「……俊成」

 

 俺の肩に瞳子ちゃんは顔を押し付けてくる。そんな彼女の頭を撫で続けた。

 そうだ。気にしなきゃいけないのは俺の方だ。それを履き違えてはいけない。

 だから俺なりに責任を果たさないといけない。それは俺がやらなきゃいけないことだから。

 

 



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74.気づいて、変わる

 二日目の夜は奈良の宿に泊まることになっている。

 移動で疲れた体を休めるために指定された部屋へと向かう。京都の宿と違って三、四人で一部屋となっている。

 

「よお高木。遊びにきたぜ」

 

 部屋に入って荷物を置くと、すぐに本郷が訪ねてきた。数人の男子を引きつれてずかずかと入ってくる。

 

「飯の時間はすぐだぞ。部屋で荷物整理でもしてろよ」

「そんなこと言うなよ。また女子が部屋に来たら嫌だろ」

 

 本郷はげんなりとしていた。昨晩はお楽しみというわけでもなかったらしい。

 まだまだ異性といるよりも同性と遊ぶ方が楽しいようだ。まあ俺にとっても気晴らしになるか。夕食の時間まで男子連中で今日何をしたかなど話に花を咲かせた。

 

「な、なあ高木。明日は鹿を見に行くだろ? お前のグループといっしょに写真撮ってもいいか?」

 

 本郷が緊張した様子で聞いてくる。別にいっしょに写真を撮るくらいいいか。そんな安易な考えでの返事が他の奴等に火をつけた。

 

「じゃ、じゃあ俺もっ」

「だったら俺だって」

「宮坂さんと木之下さんと同じ写真に写れるならなんでもするぜ!」

「赤城も捨てがたいよな。あのクールな感じがたまらない……」

 

 俺も俺もと他の男子連中が言いだした。しまった。葵ちゃんと瞳子ちゃんの人気を考えればこうなることは自明の理だったか。何気に美穂ちゃん推しの奴もいるし。

 

「そういうことなら僕や高木くんには決められん話やで。木之下さんに許可を取らなあかんと思う」

 

 前のめりな男子連中を止めたのは佐藤の言葉だった。女子三人の中で瞳子ちゃんの名前を挙げたのが効果的だったのだろう。彼女ならはっきりと断りそうだしな。ナイス佐藤!

 相手が瞳子ちゃんだったからなのか、それとも女子と話をする度胸がなかったのか、男子連中はすごすごと引き下がった。

 

「俺、明日木之下に聞いてみるわ」

 

 ただ一人、本郷だけは引き下がらなかったが。こいつは怖いものなしなところがあるからな。

 写真くらいでとやかく言うもんじゃないか。それに、明日はできれば気持ち良く写真に写りたいものだ。

 夕食の時間がきたのでクラスごとで固まって大広間へと向かう。大勢での賑やかさのついでに食欲もそそられるのかよく食べる子が多かった。料理も美味かったからね。

 食事が終われば風呂である。昨晩は一組から順々に入っていたので、今晩は逆に五組から入浴することとなっている。そのため俺達四組の番が回ってくるのは早いのだ。

 俺は体を洗うのもそこそこにさっさと風呂を済ませてしまう。さて、そろそろ覚悟完了させないといけないな。

 他の男子が戻ってくる前に部屋を出る。先生達も入浴時間のおかげで手がいっぱいだろう。

 誰にも見られないように気をつけながら、俺は廊下の突き当たりにある非常階段へと出た。ドアを閉めれば居心地の悪い空間に取り残される。

 あんまり来るところではないからな。でも、ここくらいでしか二人きりで話をできる場所を思いつかなかった。

 そう、俺はここで美穂ちゃんと待ち合わせをしていた。こっそりと声をかけて、彼女もちゃんと頷いてくれた。

 瞳子ちゃんと葵ちゃんには美穂ちゃんを呼び出すことを伝えている。いないことを変に思われないように二人がなんとかしてくれるはずだ。

 しばらく待っていると、ギィと音を立てて非常階段のドアが開かれた。現れたのは美穂ちゃんだった。

 

「こんばんは美穂ちゃん」

「……こんばんは」

 

 緊張をほぐそうとあいさつをしてみたものの、むしろ心臓の鼓動が速くなった気がする。

 それは美穂ちゃんも同じだったようで、無表情のはずなのにその顔は強張っているように見えた。

 

「こんなところで悪いんだけど、えっと、とりあえずここに座って」

 

 階段にハンカチを敷いて座るようにと促す。美穂ちゃんはおずおずといった感じで腰を下ろす。

 美穂ちゃんは宿で用意されていた浴衣を着ていた。髪はまだしっとりと濡れている。彼女も急いで来てくれたのだろう。

 

「その……今日は楽しかった?」

「え、うん……そこそこ?」

 

 いざとなると本題に入れないものだ。だからってこれはないだろうに……。俺は自分の発言に頭が痛くなる。

 こっそりと深呼吸。落ち着いたわけじゃないけれど、今は真っすぐ向き合うだけでいいんだ。

 そう、真っすぐ伝えるだけだ。瞳子ちゃんの言ったことを信じていないわけじゃないけれど、俺は美穂ちゃんから何も聞いてはいない。だから、これから俺が口にすることはとても勝手なことなのだ。

 

「……俺さ、美穂ちゃんとは仲良くなれたと思ってるんだ」

 

 美穂ちゃんの目を見つめる。彼女も見返してきてくれた。

 小学生になってから出会って、交流を重ねてきた。俺が自分から声をかけて、自分から仲良くなろうって思って行動した。

 そこには異性としての好意はなくて、それでも他の子とは違うひいきめいたものがあったのも事実だ。それを彼女がどう受け取るのか、それを俺は見落としていたのだろう。

 

「正直最初はそんなに仲良くなれないと思ってた。美穂ちゃんってばあんまり表情変えないからさ、楽しくしてくれてるのかなってわからなくなる時があるし。迷惑になってたらどうしようかって思った」

「そんなことないっ」

 

 小さい声だったけれど、俺は思わず口を閉じてしまった。

 

「あの時、高木から声をかけられてあたしは本当に嬉しかった。それからも気にかけてくれて嬉しかった。それは、信じてほしい」

 

 あの時、おそらく小一の頃の運動会のことだろう。美穂ちゃんとはその時からの付き合いだから。同じく、葵ちゃんと瞳子ちゃんも彼女との付き合いがその時からだったのだ。

 

「もちろん信じるよ。そう思っててくれて俺も嬉しい。美穂ちゃんと友達になれてとても嬉しい」

 

 そうだ、彼女と仲良くなれて嬉しい。それは俺の本心なのだ。

 美穂ちゃんに何かを求めたつもりはない。ただ放っておけなかった。最初はただそれだけだったんだ。

 

「いつも表情があまり変わらないけどさ、美穂ちゃんってけっこう笑ったり泣いたりするよね。そういうのがわかってくると楽しくってさ。なんか安心してた」

「そう?」

 

 美穂ちゃんは首をかしげる。あまり自覚がなかったのかもしれない。

 あまり感情を表に出さないからって何も感じていないなんてわけがない。美穂ちゃんは普通の女の子で、誰かを好きになるのは当たり前のことなんだ。

 そんな当たり前のことが、俺はちゃんとわかっていなかったんだろうな。

 

「でも、そう思っているのは俺だけじゃないんだよ」

 

 初めて出会った頃、確かに彼女は一人ぼっちに見えた。

 けれどそれはもう過去の話なんだ。今では彼女は自分の輪を作っている。美穂ちゃんを中心とした輪だ。他人から見れば小さなものかもしれないけど、彼女は一人ぼっちなんてことはないんだ。一人きりでお弁当を食べる女の子はもういない。

 

「葵ちゃんや瞳子ちゃん、佐藤や小川さんだっている。みんな美穂ちゃんが変わってきたってわかっているんだ」

「高木……」

 

 だから大丈夫、なんてことを言うのは無責任だろう。

 美穂ちゃんの想いが本物だとしたら、きっと悲しい思いをする。でも、俺は彼女に寄り添うなんてことはできない。それこそ無責任だ。

 だから責任を持って伝えなければならない。

 

「俺、葵ちゃんと瞳子ちゃんが好きなんだ。まだどっちが一番かって決められないんだけど、二人が大好きなんだ」

 

 言いきって胸が苦しくなった。自分で思っている以上に俺ってば勝手な奴だな。

 美穂ちゃんの唇が震えた。それを隠すように彼女はうつむく。

 しばらく無言になる。そんな時間を止めたのは美穂ちゃん自身だった。

 

「それを、なんであたしに言うかなぁ……」

「……ごめん」

 

 肩をパンチされた。軽いけど、驚きでのけ反ってしまう。

 

「そっか……、そうだったんだ……」

 

 小さい呟き。ぼそぼそとした小ささで、よくは聞こえない。そして彼女は顔を上げた。

 

「……あたしの初恋って、高木だったんだ」

 

 彼女は潤んだ目で、噛みしめるように言った。

 息を飲む。美穂ちゃんの表情があまりにも俺に感情を伝えてきていたから。こんな顔もするんだなって、初めて知った。

 

「高木、立って」

「え?」

「立って」

「は、はい」

 

 立ち上がった美穂ちゃんに言われて俺も立ち上がる。もしかして殴られるのかな?

 そんな心配をしたからか。襟をぐっと掴まれる。俺は覚悟を決めた。

 

「考える時間がほしいんだけど……、一言いい?」

「……どうぞ」

 

 ぐいっと襟を引っ張られる。俺の覚悟を裏切るようにぽすんと胸に美穂ちゃんの頭が当たった。

 そして、すーと息を吸った音が聞こえた。

 

「高木のアホーーッ!!」

 

 ビリビリと体が震えるほどの音量だった。襟をぱっと離されると美穂ちゃんが一歩身を退いた。

 聞いたことのない彼女の声の大きさに呆けてしまう。その間に美穂ちゃんはドアノブに手をかけていた。

 

「高木」

 

 顔を向けると美穂ちゃんがんべっと舌を出していた。

 

「女の子を泣かせちゃダメだよ」

「……心にとめとくよ」

 

 ドアを開け、美穂ちゃんは去って行った。

 息を吐く。深く深く、大きく息を吐いた。

 

「これでよかったのかな……」

 

 わからない。でも今の自分の気持ちは伝えた。

 誰かを傷つけないなんてことはできないのかもしれない。今になって大事なところでは一歩退いていたんだって気づかされた。

 これは美穂ちゃん相手だけの話じゃない。葵ちゃんか瞳子ちゃん。いつかはどちらかを傷つけなければならないのだろう。

 そう考えると、憂鬱だ。

 少し脱力してしまった体を引きずり、俺は部屋へと戻った。今日は眠れるだろうか。そんな不用な心配をしてしまう。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 三日目、俺は奈良の大仏を見上げていた。

 巨大な大仏を見れば俺の悩みなんてちっぽけなもの。なんて考えられたらいいのだろうが、あいにく俺自身がちっぽけな人間なのでそんな風には解釈できなかった。大きくなりたい。

 みんなは柱の穴をくぐっている。大仏の鼻の穴と同じ大きさらしい。くぐれば無病息災や祈願成就だったりのご利益があるのだとか。俺もくぐっとこうかな。

 今日はまだ美穂ちゃんとはしゃべっていない。もしかしたら今まで通りというわけにはいかないかもしれない。

 でも、それは俺が選んだことだ。だからそれを悲しく思うだなんてのは自分勝手だ。

 美穂ちゃんの方をこっそりと見る。葵ちゃんと瞳子ちゃんと仲良くしているし、佐藤とは普通に話していた。昨日みたいなギクシャクした雰囲気がなくて良かったと思える。

 次は鹿公園。ここではグループごとでの自由行動だ。

 

「木之下、ちょっといいか?」

 

 早速本郷が瞳子ちゃんに声をかけていた。昨晩言っていた通りいっしょに写真を撮ってもいいかと交渉するのだろう。

 鹿せんべい買わなきゃな。そう思って視線を巡らせると、誰かに後ろから襟首を引っ張られた。「ぐえっ」と変な声が漏れる。

 

「高木、ちょっといい?」

「み、美穂ちゃん?」

 

 咳き込みながら振り返ると美穂ちゃんがいた。表情だけなら変わりないように見える。

 本日初の会話である。昨晩のことがあっただけにギクシャクしてしまいそうになった。

 

「宮坂と木之下には話を通してある。ちょっとだけ話がしたいんだけど」

「え、ああ、いいよ」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんがいいと言っているのなら俺からは文句はない。みんなから離れて美穂ちゃんと二人きりになる。

 

「本当に鹿がいるんだ……」

 

 公園を我が物顔で歩いている鹿を見て美穂ちゃんがぽつりと言った。そのセリフには「触りたい」というニュアンスを多分に含んでいるように聞こえた。

 

「あとで鹿せんべいあげようね。人懐っこいからすぐに寄ってきてくれるよ」

「うん」

 

 普通に会話できていることにほっとする。話してみるとギクシャクした感じはなかった。意識していたのは俺だけだったかな。

 前を歩いていた美穂ちゃんがピタリと止まる。俺も足を止めた。背を向けたまま彼女は口を開く。

 

「あれからね、宮坂と木之下といろいろ話をしたんだ」

「そうなんだ」

 

 いろいろ、か。たぶん男の俺には話せないようなことなのだろう。

 

「二人から高木の話を聞いて、あたしも高木の話を二人にした。良いところの話をしたり、悪口を言って盛り上がったりもしたりね」

「え、俺悪口言われてんの?」

 

 それはさすがに初耳なんですが……。葵ちゃんと瞳子ちゃんに悪口言われてたら泣く自信があるぞ。

 美穂ちゃんが振り向く。少しだけ柔らかくなった表情がそこにはあった。

 

「高木ってひどいよね。あたし告白もしてないのに振ってくるんだもん」

「それはまあ……その」

 

 確かに本人から気持ちを伝えられていないのにな。反論できない。

 

「でも、おかげであたしの初恋に気づけた」

「……そっか」

 

 美穂ちゃんの表情からはつらいとか悲しいなんて感情はなかった。ふっ切れたのだろうか。それとも隠しているだけなのか。確かめる術はないし、確かめてはいけない気がした。

 

「あたし、高木を好きになったこと後悔なんてしてない。昨日はあれから泣いたりもしたけど、高木と出会って良かったって、やっぱり思っちゃうから」

 

 ほんのちょっぴり明るい声で言われて、なんだか胸がせつなくなる。

 

「ねえ高木。昨日は女の子を傷つけちゃダメって言ったけど、いつかは宮坂か木之下を傷つけるんだよね」

「……うん」

 

 どちらかを選ぶということは、どちらかを傷つけるということだ。曖昧模糊とした態度をやめるのなら、傷つける覚悟を決めなければならない。

 傷ついた顔を見たくない。それも自分勝手なのかもしれない。全部を掴み取ろうなんて、それこそ傲慢だ。

 美穂ちゃんは俺を見つめる。強い眼差しではない。時折葵ちゃんや瞳子ちゃんが向けてくるような、柔らかな優しさが込められているように感じられた。

 

「たぶん誰かを傷つけないなんて無理なんだろうけどさ。後悔だけはさせないであげてね」

「……うん。心にとめとくよ」

「よろしい」

 

 美穂ちゃんは手を差し出してきた。握手を求めているようで、それが終わりの合図なのだと悟る。

 俺も手を出して彼女と握手をする。そこからいきなり手を引っ張られてバランスを崩してしまう。なんとか踏みとどまると、狙ったかのようなタイミングで頬に柔らかい感触がした。

 

「うん。これで勘弁してやろう」

 

 美穂ちゃんはそう言うとみんながいる方向へと走って行ってしまった。俺はしばし立ち尽くしてしまう。

 傷ついていないわけがない。それでもああやって振る舞うのは彼女の強さなのだろう。少なくとも俺はそう思った。

 

「……俺が考えることでもないか」

 

 みんながみんな思い通りにはいかない。思い通りにはならない人生を知っているからこそ、俺はがんばろうと決めたのだ。

 俺もみんなの元へと戻る。

 

「ちょっ! 鹿さんお願いだからやめてっ!」

「へ、変態! 離しなさいよ!」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんの切羽詰まったような声が耳に届く。聞いた瞬間に俺は駆け出していた。

 その光景を見て俺は目を見開いた。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんのスカートを咥え込んだ鹿の姿があったのだ。あろうことか咥え込むだけに飽き足らず引っ張っていやがる。そのせいで二人の白く美しい太ももが露わになってしまっていた。もう少しで大事な部分が見えそうになっている。

 周りの男子連中は思わぬハプニングに固まっている。いや、あれは眼福とでも思ってやがるな。唯一なんとかしようとしている佐藤は他の鹿から角を向けられて助けに入れないようだった。

 

「このエロ鹿どもがぁぁぁぁぁぁーー!!」

 

 俺は強引に鹿どもに囲まれた葵ちゃんと瞳子ちゃんの元へと割り込んでいく。角で小突かれたが構ってられない。

 鹿って草食動物じゃなかったのかよ。ある意味肉食系じゃねえか!

 なんとか鹿の角攻撃をかいくぐり、葵ちゃんと瞳子ちゃんの元へと辿り着いた。

 

「二人とも大丈夫か?」

「ト、トシくん。助けて……」

「助けにきてくれたのね俊成」

 

 割り込んできた俺に驚いたのか、葵ちゃんと瞳子ちゃんのスカートを咥えていた鹿が口を離した。その隙に二人の肩を抱いて距離を取る。

 だが他の鹿どもが俺達を囲んでいる。こいつら徒党を組んで何やってんだよ。鹿に女の子のスカートめくりをする習性なんてあったか?

 どうする? 周りを囲まれてしまうくらいには数が多い。さすがに二人を抱えて強行突破なんてできないぞ。

 その時、離れた位置から助けがやってきた。

 

「へいへいこっち見ろよ鹿さんよー」

 

 ものすごい棒読みだな。声の方向を見れば、美穂ちゃんが鹿せんべいをアピールするように掲げていた。

 鹿せんべいを目にして吸い寄せられるように美穂ちゃんの元へと向かっていく鹿ども。美穂ちゃんは囲まれる前に鹿せんべいを遠くへと投げた。食欲優先なのか鹿共はそれを追いかけて行ってしまった。

 危機が去って俺達は力が抜けたように寄り添った。

 

「トシくん怖かったよ~……」

 

 葵ちゃんがベソをかいて抱きついてくる。まさか鹿に襲われると思っていなかったのだろう。俺だって想ってなかった。

 

「うぅ……、あんなことしてくるだなんて……」

 

 瞳子ちゃんは真っ赤な顔でスカートを押さえている。よほど恥ずかしかったのだろう。そりゃあ人前で鹿にスカートめくりされるなんてどんな羞恥プレイだよと言いたくもなる。

 

「宮坂、木之下。大丈夫?」

「美穂ちゃん助けてくれてありがと~」

「本当に助かったわ……。ありがとう美穂」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんは美穂ちゃんに感謝を述べる。呼び方が変わっているのは、きっと昨晩悪口を言い合ったからなのだろう。関係が改善されたのなら悪口だろうがなんでもいいや。

 美穂ちゃんはぐっと親指を立ててどや顔をした。

 

「気にしないで。二人はあたしの親友だから」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんは笑った。三人の間にはしこりなんてもうないようだ。

 

「おーい! 高木探してたんだぞ」

 

 ほのぼのと女子三人を眺めていると、本郷が駆け寄ってきた。

 

「あれ? 本郷お前どこ行ってたんだよ」

「高木を探してたんだ。木之下が高木といっしょなら写真撮ってもいいって言うからさ」

 

 そう言って本郷はにかっと笑った。この笑顔を見るにさっきの鹿事件を知らないな。だからこんなことを言ってしまう。

 

「せっかくだから鹿といっしょに写真撮ろうぜ」

 

 そんな本郷の提案に、葵ちゃんと瞳子ちゃんは睨みつける攻撃。本郷はたじろいだ。

 

「「絶対に嫌!」」

「は、はい……」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんの同時攻撃にさすがの本郷もたじたじである。うん、まあ……タイミングが悪いよ。

 それから、みんなで写真を撮って、思い出が残る。俺はこの修学旅行を忘れないだろう。

 気づいてしまったこと、変わってしまったもの、そんなきっかけをこの修学旅行に求めていたわけじゃない。これが良かったか悪かったかもわからない。

 それでもいつかは答えが出るのだろう。そのために俺は気づいて、変わっていかなければならないのかもしれない。前よりもマシな人間になっているだなんて、慢心してはいけないのだ。

 

 



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75.夏休みの宿題は女子だけで

同級生の御子柴さんを覚えているだろうか? 今回は彼女の視点になります。


 夏休み。小川さんに宿題をいっしょにしようと誘われた。

 自転車に乗って小川さんの家に行った。外は暑いけど風が気持ち良い。

 インターホンを押すと、ドタドタと足音を立てて小川さんが出迎えてくれる。

 

「みこりんいらっしゃーい。みんなもう来てるよ」

「みんな?」

 

 他に誰か来ているのかな。全然聞いてないんだけど。小川さんってそういうところがあるよね。

 中に上がらせてもらって彼女の部屋へと行く。ドアを開けるとクーラーの涼しい風があたしを歓迎してくれる。

 

「あ、こんにちは御子柴さん」

「御子柴さん久しぶり。暑かったでしょ」

 

 部屋には宮坂さんと木之下さんがいた。テーブルに課題やノートが広げられている。先に宿題をやっていたみたい。

 

「……」

 

 それと赤城さんが部屋の隅っこで漫画を読んでいた。のめり込んでいるのかあたしが来たのも気づいてないみたいだった。

 

「おーい、みこりんが来たよー。あかちゃーん?」

 

 そんな赤城さんに小川さんが声をかける。それでも顔を上げないからと小川さんは漫画との間に自分の顔を割り込ませる。

 

「……何?」

 

 うわぁ……赤城さん不機嫌そうだ。

 小川さんは構わない様子で笑いながらもう一度言った。

 

「みこりんが来たってば。宿題やろうよ」

「ん」

 

 赤城さんがこっちを向いた。無表情な顔を向けられるとなんだか緊張しちゃう。

 

「こんにちは」

「え、えっと、こんにちは。あ、赤城さんも来てたんだ」

「小川に呼ばれたから」

 

 彼女が素っ気ないって感じるのはあたしだけなのかな? 木之下さんと宮坂さんは赤城さんに対して苦手そうな感じじゃない。小川さんなんかは「あかちゃん」なんて怒られそうなあだ名なんてつけてるし。あたしの「みこりん」もどうかと思うけど。

 

「えー、みんなに集まってもらったのには深ーい理由があるのです」

 

 小川さんが改まった調子で言う。たぶん大したことがないんだろうな。

 

「みんなで宿題見せ合いっこしよう!」

「嫌よ」

 

 小川さんの提案をすぐさま否定したのは木之下さんだった。はっきり言ってくれるところがやっぱりすごい。

 

「なんでよー。宿題見せ合いっこした方が早く終わるでしょ」

「それじゃあ自分のためにならないわ。わからないところがあったら教えてあげるから、ちゃんと自分でやりなさい」

 

 こうきっぱりと言われてしまうと反論できないみたいで、小川さんは渋々だけど木之下さんの言う通り自分でやろうって気になってくれた。

 あたしもテーブルに宿題を並べる。そろそろ七月が終わりそうなんだけど、まだほとんど手をつけていなかったりする。あまり人のことは言えない有り様だ。

 

「この『夏休みの友』ってネーミングはどうかと思うよねー。夏休み限定で友達面しないでほしいわ。私にとっては『友』ってより『敵』の方が正しいかな」

 

 いろんな人にどうかと思うようなあだ名をつける小川さんが何か言っている。宮坂さんが律儀に「だねー」と相槌を打っていた。

 

「で? 美穂はまた漫画を取ってどうするつもりなのかしら?」

「読書感想文の題材にと思って」

「漫画はダメに決まってるでしょ!」

 

 赤城さんが手に取った漫画を木之下さんに取り上げられていた。無表情なのにしゅんとしたのがわかってしまう。

 

「そんなに読みたいなら貸してあげるよ」

「本当?」

「うん。でもあかちゃんが恋愛漫画に興味があったなんて意外かも」

 

 読んでたのって恋愛ものだったんだ。赤城さんそういうのは興味ないと思ってたから確かに意外かも。

 

「参考にと思って」

 

 恋愛漫画で参考? さすがに恋愛ものみたいな展開は現実には起こらないと思うんだけど。

 

「はいはい、いいから早く勉強するわよ」

 

 パンパンと手を叩いて木之下さんが言った。ちなみに彼女はすでに夏休みの友は終わらせているらしかった。それどころか自由研究や読書感想文などの面倒なものまでもう終わらせている。さすが木之下さん。

 みんなでテーブルを囲んで宿題に取り掛かる。宮坂さんと赤城さんはほとんど終わらせているみたいだし、木之下さんなんて各教科の復習をしている。あたしと小川さんだけがひーひーしていた。

 

「もう疲れたー。難しいよー。終わらないー」

「まだ始まって三十分じゃない。見せて、教えてあげるから」

 

 泣きごとを口にする小川さんの面倒を見る木之下さん。優しい。あたしも教えてもらえないかな。

 小川さんみたいにそんなことができたら苦労はしないわけで。あたしはわからなかったら教科書を確認しながら進めていく。

 

「ふぅ、終わったー」

「あたしも」

 

 さらに三十分経つと、宮坂さんと赤城さんが夏休みの友を終わらせた。毎日計画的にやってた結果なのだろう。それがわかっていながらなかなか手をつけられなかった自分がいた。

 

「御子柴さん、わからないところはない?」

 

 算数で公式がわからなくて手が止まっていると、木之下さんが声をかけてくれた。嬉しいな。

 

「う、うん。ここがちょっとわからなくて」

「そこはね――」

 

 丁寧に教えてもらえた。木之下さんって先生に向いているんじゃないかな。授業よりもわかりやすく感じる。

 

「つーかーれーたー! そろそろ休憩しようよ」

 

 さらに三十分後。小川さんがテーブルに突っ伏した。邪魔になってみんなの手が止まる。

 

「そうだね。真奈美ちゃんの言う通り休憩しよっか」

 

 宮坂さんが時計を確認しながら賛成する。あたしも疲れてきたしちょうど良かった。

 

「よし、じゃあ私飲み物持ってくるね」

 

 さっきまでの疲れた様子はなかったかのようにきびきびと動いて部屋を出て行く小川さん。

 

「続きはっと……」

 

 赤城さんは断りもなく漫画の続きを読み始めていた。彼女の雰囲気はちょっと苦手だなぁ。

 でも、今日は木之下さんがいてくれて良かった。できればもっとお話したかったんだけど、学校ではなかなかそのタイミングがなかったから。

 

「美穂、何読んでいるのよ?」

「これ」

 

 木之下さんに顔を向けると、彼女は赤城さんに話しかけていた。赤城さんは漫画の表紙を見せて応じる。あたしも読んだことのあるタイトルだった。

 木之下さんが赤城さんと仲良くしているのは知っていた。ちょっと人付き合いが苦手な子を気遣ってくれる優しい女の子だからそれは不思議じゃなかった。

 でも、下の名前で呼ぶくらい仲が良かったっけ? その事実がなんだか変な気持ちにさせられる。

 

「御子柴さん」

「あ、宮坂さん」

 

 気づいたら宮坂さんが隣にいた。木之下さんと唯一張り合えるほどのかわいさがあたしの前で主張してくる。

 そのかわいさに当てられてちょっとだけドキドキしてしまう。彼女は男子からの人気がすごいし、なんだか緊張させられる。

 

「夏休みはどこか出かけたの?」

「う、うん。家族と水族館に行ったよ」

「水族館かぁ。いいなー。イルカさんいた?」

「うん。イルカショーやってたよ」

 

 宮坂さんに柔らかい雰囲気で笑いかけられる。その笑顔にドキリとさせられる。かわいいって得だ。

 宮坂さんの柔らかい雰囲気のおかげかスラスラと言葉が出てくれた。彼女は聞き上手だ。話をしていると段々と楽しくなってくる。

 

「誰でもいいから開けてー」

 

 ドアの向こう側から小川さんの声が聞こえた。飲み物を持ってくるって言ってたし手が塞がっているのかな。あたしが立ち上がろうとする前に宮坂さんがドアを開けていた。

 

「あおっちありがとー。ほらほらテーブルの上片付けて。お盆置くよー」

 

 人数分のジュースをお盆に乗せていた。それぞれの勉強道具を片づけるとテーブルの上にお盆が置かれる。

 みんなジュースに口をつけて喉を潤す。アップルジュースだった。家では麦茶ばっかりだったから美味しい。

 

「八月は林間学校があるよね。せっかくだったら夏休みじゃない日にしてほしかったなー」

 

 小川さんが愚痴るように言った。その意見にはあたしも賛成。

 

「私は夏休み中にみんなと会えるから嬉しいけど。でも川遊びするから水着がいるんだよね。川で泳いだことがないんだけど泳げるのかな?」

「別に泳がなくてもいいんじゃない? どうせそんなに深いところはないでしょうし」

 

 そうだ。林間学校の持ち物欄には水着があったんだった。

 水泳の授業でもないのに水着姿になるのは嫌だな。男子は宮坂さんや木之下さんばかり見るってわかっていても、嫌なものは嫌だった。

 

「水泳っていえばさ、きのぴーってなんかの水泳の大会に出たんでしょ? 結果はどうだったの?」

「え、大会に出たの? すごいね!」

 

 あたしは興奮気味に身を乗り出す。そんなあたしとは対照的に、木之下さんは暗い顔になっていた。

 

「……二位だったわ」

「へぇー、すごいじゃん」

 

 あたしもすごいって思う。だけど木之下さんはそうは思わなかったみたい。

 

「すごくないわよ。せっかく俊成が大きな声で応援してくれたのに負けちゃった……」

 

 木之下さんにとっては誰かに負けたということ自体が悔しかったみたい。それに高木くん。彼の前で良いところを見せたかったに違いない。

 それでも二位ってすごいと思うけどな。あたしと彼女では目標の高さが全然違うんだろう。

 小学生で最後の大会だったらしく、木之下さんはこれを機に水泳を引退したと言った。あたしから見れば勿体ないって思うんだけど、木之下さんはスッキリとした表情をしていたので何も言えなかった。

 代わりに塾に通い始めたのだそうだ。木之下さん頭良いのにまだ勉強するんだ。感心したけどマネはできそうにない。

 

「それにしてもきのぴーにとって高木くんは偉大だねー。あおっちにとってもか」

 

 小川さんの言葉に木之下さんは恥ずかしがることもなく「まあね」と認めた。宮坂さんなんて嬉しそうに笑っているし。なんかすごい。

 

「あー、あおっちときのぴー見てたら私も恋愛してみたくなっちゃうなー」

 

 恋愛かぁ……。六年生にもなったら女子の間で恋愛の話が盛り上がる。あたしはなかなかついていけないんだけどね。

 

「あかちゃんとみこりんもそう思うでしょ?」

「そ、そうだね」

 

 急に振られてびっくりしてしまう。対して赤城さんはマイペースに漫画を読んでいて返事をしない。小川さんが彼女に近づくと「あたしは充分」と返事した。聞いていなかったわけじゃないんだ。

 

「え、充分ってどういうことよ? なんか浮いた話でもあったわけ? ほれほれ言ってみー」

 

 興味津々の小川さんから追及が始まった。あたしもちょっと気になるかも。そう思って待っていると、木之下さんが止めに入った。

 

「はいはい、それより自分はどうなのよ? 誰か気になる人とかいないわけ?」

「私? うーん……」

 

 言われて小川さんは腕を組んで考え始めた。男女問わず友達が多い彼女。出会いは多いように思える。

 

「同級生の男子とかガキっぽいのばっかりだしなー。男子っていつになったら大人になるのかなって思ったらあんまり気になる人とかって少ないんだよね」

 

 それはわかる。なんか男子って騒いでいる人ばっかりだからそんなにかっこ良いって思える人っていないかも。

 女子の間では本郷くんが一番人気があるんだけど。確かに顔だけならアイドルみたいだからわからなくもない。でもやっぱりあたしは苦手。木之下さんのおかげで克服はできたけどね。

 

「いないとは言わないのね」

 

 木之下さんの目が細まる。その目が面白いと言っているように見えた。

 

「いや別に深い意味はないよ。ほんとに。まあ同級生の中でちゃんとしてくれそうなのは佐藤くんかなって思っただけ」

 

「あー」とあたし達は納得の声を上げる。

 

「確かに佐藤くんって優しいよね」

 

 宮坂さんが言う。高木くん以外の男子も褒めるんだ。

 

「まあ、良い人ではあるわね」

 

 木之下さんも頷く。高木くん以外の男子もちゃんと評価するんだ。

 

「佐藤は、いじると楽しい」

「それ! まさにそれよあかちゃん!」

 

 赤城さんの言葉に小川さんが大きく反応した。それって恋とは違うんじゃないの?

 

「佐藤くんの困ってる顔ってなんかいいのよねー。こういじめたくなるって言うの?」

「いや、いじめちゃダメでしょ」

「わかってるってば。そういうんじゃなくてさ、なんかこう構ってやりたくなるのよ」

 

 なんだろう。ペットを構って上げたくなるような感覚なのかな。犬を飼っているからそういう気持ちならわからなくもないかも。

 でも、あたしも男子の中なら佐藤くんがいいかな。彼ならあたしにも気遣ってくれそうだし。

 そういう意味なら高木くんも同様だ。彼は佐藤くんと違って頼り甲斐もある。もしまたいじめられるようなことがあっても高木くんなら助けてくれるだろう。

 でも、と。あたしは木之下さんと宮坂さんを見る。

 こんなにすごい二人の女の子に好かれているのだ。あたしが入っていける隙間なんてない。それが見るだけでわかるからこそ、高木くんに対して恋心なんてものを抱かなかったのだと思う。

 

「みこりんはどう? 好きな男の子とかいたりする?」

「あ、あたし? 特にはいないけど……」

「じゃあ好きなタイプとか。どんな人なら付き合いたいのかってある?」

 

 好きなタイプか……。少しだけ考えて、つい口に出してしまった。

 

「……木之下さんみたいな人、とか」

 

 はっとした時には場が固まってしまっていた。慌てて取り繕う。

 

「え、えっと変な意味じゃなくてね! 木之下さんみたいな強くて優しい人がいいかなって思っただけで……ただそれだけだからっ」

 

 顔が熱い。クーラーが効いているはずなのに体が熱ってきているみたい。

 

「あー、それはわかるかも。きのぴーってもし男子だったらものすごくかっこ良さそうだもんね。なんていうかモテそう」

「え、そうかしら?」

「そうだよー。私きのぴーとなら恋愛できそう」

「やめなさいってば」

 

 じゃれつくように小川さんが木之下さんに抱きつく。固まった空気がなかったことになったみたいで、安心してあたしは息をつく。

 それからは男子の評論会が始まった。あたしも含めてみんなシビアな評価をしていく。とても楽しかった。

 

「いい時間だからそろそろ帰るね」

 

 宮坂さんがそう切り出したので時計に目を向ける。外は明るいけれど、確かに家に帰らないといけない時間だった。夏は日が暮れるのが遅いから気をつけないとついつい遅くなっちゃう。

 

「小川、この漫画何巻まであるの?」

「それちょっと長いんだよねー。あかちゃんの鞄に入るとは思うんだけど」

 

 小川さんは赤城さんが読んでいたタイトルの漫画を本棚から抜き出している。赤城さんってけっこう漫画好きなのかな? こ、今度思いきって話しかけてみようかな。

 帰り支度を済ませてみんなで玄関へと向かう。

 

「バイバイ真奈美ちゃん」

「またね」

 

 宮坂さんと赤城さんが家を出る。外に出た瞬間二人は揃って「暑いー」と口にしていた。

 

「小川さん、ちゃんと夏休みの宿題は計画立ててやるのよ。ギリギリになって見せてくれっていうのはなしだからね」

 

 木之下さんが釘を刺す。あたしにとっても耳の痛い内容だ。

 

「あ、あのさきのぴー……」

 

 小川さんが珍しくしおらしい口調になる。あたしは何事かと思って足を止めた。

 

「私達ってそれなりに長い付き合いになるじゃない? 仲良い方だと思うしさ」

「そうね。いきなりどうしたのよ?」

「い、いやだからさっ」

 

 小川さんは夕日に負けないくらい顔を赤くしながら言った。

 

「真奈美、って呼んでほしくて……」

 

 木之下さんが目を丸くする。小川さんは慌てて続けた。

 

「いやだっていつの間にかあかちゃんのこと下の名前で呼んでるしさ。そしたら私もそんな風に呼ばれたくなったっていうか。だからえっと……」

 

 わたわたとする小川さんに、木之下さんは微笑む。

 

「わかったわよ真奈美」

「え?」

「呆けてるんじゃないわよ。そんな顔するならもう呼ばないわ」

「待ってまって! も、もう一回呼んでくれないかな」

「……真奈美」

 

 小川さんはガッツポーズを決めた。顔がだらしなく緩んでしまっている。

 

「あ、あたしもっ」

 

 それがとても羨ましくて。あたしは声を上げていた。

 

「あたしも木之下さんともっと仲良くしたいし。……楓って呼んでほしい、かな」

 

 今までの人生で一番勇気を振り絞ったかもしれない。それくらい心臓がバクバクと聞かれてしまうんじゃないかってくらい鳴っていた。

 木之下さんがあたしの方に体を向ける。正面から見る微笑みが綺麗だった。

 

「楓。あたしも瞳子でいいわよ」

「う、うん。……と、瞳子ちゃん」

 

 今日は来て本当に良かったと思う。小学生最後の夏休みはとても良いものになりそうだと確信できた。

 

 



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76.危険な林間学校(前編)

 八月は林間学校の行事がある。キャンプファイヤーしたり野外でカレーを作ったりという思い出がある。なんだかやたらと失敗していたような気がするが、まあ気にしないでおこう。

 とはいえ八月は絶賛夏休み真っ最中である。だからこその予定もあるわけで、全員出席というわけにもいかなかったりする。

 

「本郷くんお休みなんだってー」

「えー! 楽しみの半分がなくなっちゃったじゃない」

「せっかく久しぶりに本郷くんに会えると思ったのにねー」

 

 出発したバスの中で女子達から「ねー」という声が重なった。どんだけ本郷に求めているんだか。

 それにしても本郷は休みか。事情を知っている男子からの情報では、彼の所属するサッカーチームが全国大会の出場を決めたからだそうだ。すごいな。

 前世ではどうだったっけ? 男子では一番目立っていた奴だったし、普通に参加していたと思っていたのだが。まあ仲が良かった相手でもなかったし、何十年も前ともなれば記憶も不確かだろう。

 学校からバスで一時間と少し。目的地の自然教室へと辿り着いた。

 

「緑が多いね。空気もおいしい」

 

 葵ちゃんが自然豊かな空気を肺いっぱい吸い込む。豊かな胸が強調される。目線が吸い寄せられるのは自然なことであった。

 

「俊成、目をつむりなさい。ついでに息も止めなさい」

「え? ぷわっ!?」

 

 瞳子ちゃんにスプレーを噴きかけられる。首筋から顔。腕や脚にもかけられてひやっとした。

 女子には悟られたくないような目をしていたのがばれたのかと思って焦った。どうやら罰を与えられたというわけではないようだ。

 

「虫刺されしないようにね。葵も虫よけスプレーしてあげる」

「うんっ。お願い瞳子ちゃん」

 

 葵ちゃんは笑顔で瞳子ちゃんに虫よけスプレーをかけてもらう。林間学校ではほとんどが体操服で過ごすことになっている。女子はブルマなので脚なんかは特に虫に刺されないように注意しなければならないだろう。だからスプレーもしっかりとかけてやらないといけない。

 

「今度は私が瞳子ちゃんにしてあげるね」

「じゃあ任せるわ」

 

 シューと葵ちゃんが瞳子ちゃんに虫よけスプレーをかける。剥き出しになっている素肌を守るために念入りにだ。

 冷たいのか瞳子ちゃんの体がビクリと震える。声を漏らさないようにしている姿がなんとも……。

 

「高木、見過ぎ」

「うわっ!? な、何がかな?」

 

 急に背後から美穂ちゃんに声をかけられて驚いてしまった。彼女は無表情で俺を見つめる。いつもよりも冷たい眼差しをしている気がしてしまう。なんだか責められているようで心が痛いです……。

 

「そういう目は気をつけた方がいいと思う」

 

 ため息交じりにそんなことを言われて言葉に詰まる。美穂ちゃんは葵ちゃんと瞳子ちゃんの元へ行くと虫よけスプレーをかけてもらっていた。

 修学旅行以来、美穂ちゃんとは普通に会話できていた。少しは距離を置かれるのだろうと思っていたけれど、目に見えてというほどでもなかったりする。

 ただまあ、前と違って体に触れるようなコミュニケーションはなくなったか。そこはほっとしている。なんだかんだでドキドキしちゃうし。

 

「よーし! 宿舎に入るから全員ついて来い」

 

 先生が前を歩くのでクラスごとで列になってついて行く。

 まずは宿舎で荷物を下ろす。今回の林間学校は二泊三日で、初日は宿舎に泊まれるのだが、次の日の夜はテントを張ってそこで寝るようになるのだ。たまにはテントで寝泊まりするのも楽しいだろうけどね。

 初日、最初のイベントはウォークラリーだ。宿舎からスタートして、定められたコースをぐるりと回ってまた宿舎に戻るようになっている。

 俺のグループは修学旅行の時と同じメンバーだった。ベストメンバーとも言える。

 各グループがスタートしていく。俺達も山道へと入った。

 

「チェックポイントを見逃さんようにせえへんとあかんね」

 

 佐藤は渡されたコースの地図を穴が開くんじゃないかってくらい凝視している。本気で取り組む姿勢が見て取れる。

 グループごとでスタートしていくつかコースが分かれている。とはいえ人数もいるのでほとんど固まっているようなものだ。迷わないためにもその方がいいんだろうけども。

 ところどころで先生が立っている。コースから外れないようにするためだろう。

 

「きゃっ!?」

「おっと、葵ちゃん大丈夫?」

「うん、ありがとうトシくん」

 

 慣れない山道のせいか葵ちゃんが転びそうになったので支える。スタートして三十分ほどしか経っていないけど、すでに肩で息をしていた。体力のなさは相変わらずのようだ。

 

「佐藤、チェックポイントはまだ?」

「うーん、もうちょっと先やね」

 

 美穂ちゃんも疲れがあるのかチェックポイントを探しているようだった。わかりやすい通過点があれば気分的に楽だからな。

 日差しが木々に隠れているとはいえ夏なのだ。暑さもある。水分補給には気をつけておかないとな。

 

「瞳子ちゃん、少し休憩を挟まないか? ちょっと喉渇いちゃったしさ」

「それもそうね」

 

 一番体力のありそうな瞳子ちゃんが休憩に賛成してくれれば、みんなも休憩しやすいだろう。俺達は各々持ってきた水筒で喉を潤す。

 コースを記した地図を確認する。歩くペースを考えれば一時間くらいは覚悟していた方がよさそうだ。

 体力に自信のある俺や瞳子ちゃんならいいが、他のメンバー、特に葵ちゃんの体力を考えると休憩はこまめに取った方がいいだろうな。スタート前に先生も言っていたけど、熱中症には気をつけないといけない。

 林間学校は体を使うイベントが多い。目的自体が自然を通して体力の促進がうんぬんだった気がするので、仕方がないと言えばそうだ。

 でも、健康も大事だからな。倒れないようにだけは気をつけていかなければならない。特に葵ちゃん。

 順調にチェックポイントを通過し、俺達は無事にゴールした。ゴールした瞬間に脱力してしまった葵ちゃんを俺は見なかったことにした。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 二日目はまず宿舎の清掃から始まった。

 疲れもあってか昨晩はよく眠れた。そのためか朝早くだというのにみんな元気だ。

 

「ふぁ~……眠い~……」

 

 佐藤はそうでもなさそうだけども。たぶん夏休みで生活リズムが狂っちゃったんだろうな。

 

「夏休みだからって夜更かししてたのか?」

「んー……。ゲームが面白くてつい……」

「おっと、ちゃんと一人で立ってくれよ」

 

 フラフラしている佐藤を支える。ほうきが掃除するためじゃなくて体を支えるための杖になっちゃっているし。

 まあ今日も体を動かすことが多いからすぐに頭もすっきりするだろう。掃除を済ませると寝惚けた佐藤を引きずって朝食の席に着く。

 

「おはよー。佐藤くんすごい顔ね。笑える」

 

 小川さんが佐藤の眠そうな顔を見てケラケラと笑う。ここまでつれて来るのに苦労した俺からすれば笑えないけどな。

 朝食を終えてから荷物を持って移動する。移動先はキャンプ場だった。

 

「これからみんなでテントを張ってもらうぞ。今晩自分達が寝泊まりするからそのつもりで真剣に取りかかるんだぞ」

 

 先生の号令のもと、テント設営が始まった。

 キャンプ経験のある子がいるとテキパキと組み立ててくれる。小六にもなればテントの張り方がわかる子がそれなりにいるようだ。

 ちなみに俺も葵ちゃんや瞳子ちゃんと家族ぐるみで何度かキャンプに行ったことがある。父親勢に混ざってテントを張っていたのでやり方はわかっている。

 

「佐藤、シートかけるから手伝ってくれ」

「うん、任せてや」

 

 七、八人で一つのテントを使うというのもあり大きめのサイズだ。時間はかかったが、みんなで協力したので完成させることができた。

 テントの中に荷物を置いてまた移動だ。次は昼食作りである。

 野外炊事場に向かうとすでに食材が用意されていた。献立はカレー。定番ですね。

 グループごとに分かれて先生から説明される。当たり前だが家で料理するのとは勝手が違う。

 

「火をつけなきゃなんだよね」

 

 葵ちゃんが困り顔を浮かべる。料理が得意な彼女でもこの形式は初めてだから戸惑っているんだろう。キャンプだとバーベキューばっかりで父親勢がはりきっていたからなぁ。

 

「でも基本は変わらないんでしょ。あまり心配しないの」

 

 そう葵ちゃんに声をかける瞳子ちゃんの包丁さばきは見事なものだった。料理に関してはそこまで得意ではなかった彼女だけど、努力の成果なのだろう、かなりの上達を見せていた。

 葵ちゃんと瞳子ちゃん、それに美穂ちゃんを加えれば料理でつまずくことなんてなさそうだ。俺は火をつけたり米を炊いたりなどの仕事しかしていない。だって女子のレベルが完全に俺よりも高くなっているんだもん。

 

「あおっち! 助けてー!」

「きゃっ!? 真奈美ちゃん包丁持ってる時に脅かさないでよ!」

「うっ……ごめんなさい」

 

 葵ちゃんに怒られて小川さんがしょんぼりしていた。料理中の葵ちゃんは真剣だからね。包丁や火の扱いでの危険性をわかっているからこそなんだろう。

 葵ちゃんの代わりに、ちょうど手が空いていた瞳子ちゃんが小川さんに話しかける。

 

「それで、どうしたのよ真奈美?」

「きのぴ~。なんかね、途中で火が消えちゃってつかなくなっちゃったのよー」

 

 野外炊事場なので電気やガスはない。火をつけるにはマッチでまきを燃やすのだ。

 とはいえ大きいまきにそのまま火をつければいいものでもない。木くずや枯れ葉があればいいんだけど。

 葵ちゃんがことりと包丁を置く。

 

「手伝うからそんな不安そうな顔しなくても大丈夫だよ」

「そ、そんな顔してないしっ!」

「ちょっと真奈美ちゃんのところ手伝ってくるから。美穂ちゃん、ここはお願いできる?」

「もちろん。あたし一人で充分なくらい」

「トシくんがいるから一人じゃないよ。じゃあ行ってくるね」

 

 そんなわけで葵ちゃんは助っ人に向かった。先生がしてくれた火をつける手本を真剣に聞いていたし、任せて問題ないだろう。

 

「木くず持ってきたでー」

 

 それに話を聞いてすぐに行動していた佐藤もいたしな。俺が心配することなんて何もなかった。

 

「いただきまーす!」

 

 全員無事カレーを作り終えたので席に着く。木で作られたデコボコしたテーブルにカレーを並べて手を合わせた。

 

「野菜の芯が硬ーい」

「なんかカレースープみたいになっちゃったー」

「おこげができちゃったよ」

 

 などという声がちらほらと聞こえてくる。ガスを使わない調理にみんな苦労したようだ。それでも楽しそうにしているし、これはこれで新鮮な体験がスパイスになっているんだろうな。

 ちなみに俺達グループのカレーはしっかりとした美味しいものになっている。自慢したいくらいの出来栄えだ。

 

「外で食べるカレーって美味しいんやね」

「そうだね」

 

 佐藤も同じく新鮮な体験そのものが楽しいようだった。美穂ちゃんはいつもと変わらない様子でマイペースに食事しているけどね。

 昼食を終えて片づけを済ませる。それからはしばらく自由時間だ。

 

「ねえねえトシくん。川に遊びに行こうよ」

「わかった。じゃあテントに戻って着替えようか」

 

 葵ちゃんの提案で俺達は近くの川で遊ぶことにした。とはいえ川で遊ぶには先生が監視している場所に限定されている。安全を考えれば仕方がないか。

 男女それぞれのテントに分かれて水着へと着替える。男子の着替えは早いものである。必要な物だけ持って葵ちゃん達のいるテント近くで待たせてもらう。

 

「なんかこんなところで水着でおるのって不思議な感じやね」

 

 緑の自然を眺めながら佐藤が笑う。海とは違った解放感がある。

 

「だな。プールや海じゃこんな景色ないもんな」

「それに僕、川遊びって初めてやわ」

「そうなのか? 流されないように気をつけろよ」

「そんなんわかっとるって」

 

 佐藤と他愛のない会話をしていたら女子達がテントから出てきた。学校行事なのでみんなスクール水着である。

 こうして見てみると少しずつ子供らしさが抜けてきているように感じる。男子よりも女子の方が成長が早いってのは頷かざるを得ない事実だ。

 

「お待たせ俊成」

「そんなに待ってないよ。それじゃあ行こうか」

 

 ドギマギしないように心掛けて前を歩く。今日は日焼け止めクリーム塗ってとか言わないよね? 最近瞳子ちゃんが女性らしい体つきになっている。そんな彼女に日焼け対策とはいえ体に触れるのは恥ずかしさを感じつつあったりする。それが同級生達の前でともなればなおさらだ。

 瞳子ちゃんの言動に気をつけながら川へと到着した。すでにたくさんの子達が川で遊んでいる。自由時間とはいえ、見張りについている先生ご苦労さまです。

 

「トシくん、これお願いできるかな?」

 

 葵ちゃんにそう言われて差し出されたのは空気の入っていない浮輪だった。彼女の必需品だ。俺の肺活量が試される。

 俺が顔を真っ赤にさせて浮輪に空気を入れている間、みんなは準備体操をして川へと入っていく。「冷たーい」という楽しそうな声が聞こえても空気を入れ続けた。

 

「お、終わったよ葵ちゃん」

「ありがとうねトシくん」

 

 ニコニコ笑顔で膨らんだ浮輪を受け取る葵ちゃん。ちょっとだけ休憩をする俺に葵ちゃんが寄り添ってくる。

 

「葵ちゃんは泳がなくていいの?」

「んー、トシくんといっしょに川に入りたいから今はいいかな」

 

 葵ちゃんは浮輪を抱きしめながら笑顔を向けてくる。なんだか気恥ずかしくて目線を逸らしてしまう。

 しばし穏やかな時間が流れる。葵ちゃんを待たせるのも悪いしそろそろ泳ごうか。そう思って腰を上げた時だった。

 

「あ、あれ! きのぴー溺れてるんじゃないの!?」

 

 焦燥感をかき立てるような小川さんの声が耳に届く。俺はすぐに確かめようと目を向けた。

 

「がぼっ……あ、足が……」

 

 川の真ん中で溺れている瞳子ちゃんがそこにいた。手足を必死に動かしているのか水しぶきが上がっている。

 

「瞳子ちゃん!?」

 

 葵ちゃんが悲鳴じみた声を上げる。それと同時、瞳子ちゃんが下流へと流された。

 

 



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77.危険な林間学校(後編)

「瞳子ちゃん!!」

「トシくん待って!」

 

 瞳子ちゃんが流されたのを目にした俺は川へと飛び込んでいた。

 助けなきゃ! 頭の中でそのことだけしか考えられなかった。周りの声を置き去りにして今は水の中にいる。

 必死に泳いで一刻も早く瞳子ちゃんの元へと向かう。伊達にスイミングスクールに通っていないのだ。スムーズな動きでどんどん瞳子ちゃんへと追いついていく。

 

「ぷあっ!?」

 

 穏やかだった川の流れが急になる。少し水を飲んでしまった。

 川や海はプールとはまったく違う。とくに川は場合によってはライフジャケットを着ていたとしても沈んでしまうことだってある。

 それを思い出したところで今さら引き下がれない。何より瞳子ちゃんの安否が最優先だ。

 狭くなってくる視界で瞳子ちゃんを捉える。流されてしまっているが、こっちは追いつこうと泳いでいるのもあってなんとか彼女のもとへと辿り着けた。

 

「瞳子ちゃん! 俺に捕まって!」

「あぶ……っ」

 

 ダメだ聞こえてない。俺の存在に気づく余裕がないらしい。

 強引に彼女を捕まえる。俺の背中に乗せるようにするときつく抱きしめられた。

 

「い、息がっ!」

 

 泳ぎが得意だったのが却って溺れるという事実に動揺してしまったのだろう。瞳子ちゃんらしからない取り乱し方だった。

 しがみつくように抱きしめられては泳ぎに支障が出る。俺は余裕なく叫んだ。

 

「落ち着け瞳子!!」

 

 息継ぎが難しい中での大声で体力を消耗してしまう。それでも瞳子ちゃんがパニックから立ち直ってくれるのならそれでいい。

 瞳子ちゃんから反応が返ってくる。ようやく俺に気づいてくれたようだ。

 

「と、俊成?」

 

 声色に理性が戻っている。まずは一安心だ。

 平常時なら瞳子ちゃんが溺れてしまうなんてなかなか考えられない。足がつったのだろうか? それならこのまま俺が泳いで岸に向かうしかないか。

 とはいえ川の流れは厄介だ。真っすぐ流されているのではなく、右へ左へと流れが一定じゃない。そんな中では体を動かすのもかなりの負担だ。

 

「瞳子ちゃん、俺から離れないようにしてて」

「う、うんっ」

 

 背負うようにしているから瞳子ちゃんも呼吸がしやすいだろう。逆に俺は沈み気味になってしまったため水を飲まないように息をするのが大変だった。

 岸に向かって泳ぐがまったく思い通りにならない。川の流れに抵抗できていない。

 ……おい、これどうするんだよ俺! 冷汗は簡単に流されていく。

 川の流れはどんどん勢いを増していく。自分達がどこにいるのかわからなくなっていた。

 

「俊成! あれ!」

 

 瞳子ちゃんが指を差す。泳ぎに集中して気づかなかったが、木の枝が垂れ下がっているのが見えた。

 藁にでもすがる思いで木の枝へと手を伸ばす。掴んだ瞬間ちぎれてしまう、なんてことはなく、川の流れに負けず俺達を支えてくれた。

 良かった。おかげでこれ以上流されずに済みそうだ。

 とはいえ、こうも流れが強いと体が上手く動いてくれない。瞳子ちゃんほどではないにしても俺だって泳ぎには自信があるにも拘らずだ。

 この木の枝をつたっていけば岸に上がれるのではと思ったが、そちらは俺達のいた岸とは反対方向であり、そこまで高くはないのだけれどちょっとした崖になっていた。この川の流れの中で登るのは無理だ。

 

「俊成……、ごめんなさい……」

「いいから。大丈夫だよ瞳子ちゃん。助けがくるまでこのままでいよう」

 

 背中から弱気な声が聞こえる。こっちも余裕がないせいでそれだけの言葉しかかけられなかった。

 それにしても水が冷たいな。夏だってのに体が冷えてくる。瞳子ちゃんは大丈夫だろうか。

 助けを待つとは言ったものの、それがどのくらいの時間でくるかがわからない。こんな状況にいると数分ですら長く感じてしまう。

 一時間……。なんて言われたら持ちこたえられるか不安だ。さすがにそこまで長時間とは思いたくないな。

 大雨が降って川が氾濫したわけじゃない。傍から見たら大したことがないなんて甘く見ていた。

 枝を掴む手に力が入る。これを手放してしまえばどうなるかわかったもんじゃない。今はこの枝が俺達の命綱だった。

 

「~~……」

 

 救助がくるのを待ち続ける。

 ずっと立ち泳ぎの状態なので疲労が溜まっていく。少なくとも足がつく場所ではないようだ。

 力を抜いて体を浮かせようとしてみたが、むしろ沈んでしまうだけだった。何か浮く物でもないとどうにもならなさそうだ。

 

「ごめんなさい……」

 

 どれほどの時間が経ったのだろうか。また瞳子ちゃんが謝る。返事すらしてあげられなかった。自分の体力がこんなにもないなんて思うと悔しい。

 助けはまだか? あの場には先生がいたはずだ。きっとなんとかしてくれるはず。頼むから早くきてくれ!

 極度の緊張状態。当然だ。命がかかっているのだ。もう必死で打開策を考えられるほどの思考力なんて残っていない。

 自分が息継ぎをして漏れる声。川が流れる音。虫の鳴き声。聴覚情報はもう一つ、ミシリという音を捉えた。

 妙に気になった。顔を上げて音の出所を探る。

 

「……っ!?」

 

 気づいた。気づいてしまった。それは俺達の命を左右する音だった。

 俺が掴んでいる木の枝。その半ばからミシリミシリと音を立てていたのだ。

 今すぐにでもちぎれてしまいそうというわけではない。しかし確実にその前兆ではあった。

 垂れ下がってしまうほどの細い枝。子供とはいえ二人分の体重に水の流れが加わっている。こうなるのは必然だったのかもしれない。

 もし枝がちぎれたとして、また流されてしまうのは確実だ。流されたとして助かる保証はない。いや、間違いなく事態の悪化だ。

 ――溺死。そんな単語が脳裏を過ぎる。

 い、嫌だ……死にたくない! ここまでがんばってきて前世よりも良い人生を送っているんだ! こんなに自分の命が惜しいなんて思ったことはない。

 ぐるぐるぐるぐる。生存本能が働いたのか頭が回転し、とある案を導き出した。

 ……一人なら助かるんじゃないだろうか?

 重さが減れば枝への負担も減るはずだ。折れさえしなければ助かる可能性は充分にあった。

 

「……」

「俊成?」

 

 もうこれしかない。思いついたその案を実行に移すため、俺の首に回されている瞳子ちゃんの腕を取った。

 片手で木の枝を掴む形になってつらい。でも、そのつらさからはもうすぐ解放されるだろう。

 瞳子ちゃんの腕を引っ張って俺から引き剥がす。軽く抵抗されたが構わなかった。

 

「と、俊成!? 何を……っ」

「ごめんね瞳子ちゃん」

 

 俺は瞳子ちゃんの腕をさらに引っ張った。

 

「……掴んで」

「え?」

「いいから早く!」

 

 反射的に瞳子ちゃんは俺が掴んでいた木の枝を握った。

 もう片方の手も同じように掴ませる。川の流れもあるけど、体が冷えたのもあってこれだけのことでも時間がかかってしまったように感じた。

 

「こ、ここからどうするの?」

 

 瞳子ちゃんが尋ねてくる。その声色には期待があって、俺が上手く助かる方法でも思いついたとでも考えたのだろう。

 ……残念だけどそんな上手い案はない。

 

「瞳子ちゃんはこのまま救助を待つんだ。いつになるかはわからないけど諦めちゃダメだよ」

「え? え?」

 

 俺の言っている意味をわかっていないようで、顔を見なくても困惑が伝わってくる。

 彼女をパニックにさせてはいけない。俺はできるだけ落ち着いた声を意識する。

 

「聞いて瞳子ちゃん。この枝は二人分の重さには耐えられそうにないんだ。でも、一人なら持ちこたえてくれるかもしれない」

「ど、どういう?」

「俺は手を離す。瞳子ちゃんは誰かが助けにきてくれるまでこのまま流されないようにがんばっていてほしいんだ」

 

 助けにきたはずなのに結局人任せになるなんてな。かっこ悪いな俺……。

 

「待ってよ! 俊成はどうなるのよ!」

 

 ちょっと苦しくなってきたけどそんなのは表情に出さない。むしろ穏やかな顔になってやる。

 

「俺が水泳やってたの知ってるだろ? 一人だけなら簡単に戻れるよ」

「嘘よ! 俊成嘘ついてる!」

「頼むから!! 大人しく俺の言うことを聞いてくれよ!」

 

 感情のままに大声を出した。押し止める余裕なんてない。

 俺がいなくても瞳子ちゃんには助かるまでがんばってもらわないといけないのだ。どんなことがあっても助けがくるまでは手を離してはいけないんだ。

 彼女には生きてほしい。たとえ天秤にかけるものが俺自身だとしても、そう思ってしまったのだ。

 だから、これでいいのだ。

 今世は良い人生だ。前世に比べれば将来だって期待が持てる。

 でも、それは瞳子ちゃんがいるからこそなんだ。彼女がいなくなったらそんな風には考えられないかもしれない。いや、かもじゃなくて絶対にそうだ。

 

「……じゃあね瞳子ちゃん」

「や、やだぁ……」

 

 やっぱり、女の子の泣き顔なんて見たくないなぁ……。

 それでも、好きな女の子の前なら見栄だって張るさ。俺ってば男の子なんだから。

 

「高木くん! 木之下さん!」

 

 俺が木の枝から手を離そうとした時、なぜだか佐藤の声が聞こえた気がした。

 

「二人とも! あとちょっとの辛抱や!」

 

 いや、気のせいじゃない。佐藤の声だ。近くにいるのか?

 希望にすがるように佐藤を捜した。そして見つける。佐藤はこっちに向かって流されていた。

 ただ流されているだけじゃない。佐藤は浮輪をしていた。泳ぎながら俺達の元へと辿り着く。

 

「良かった。二人とも浮輪に掴まれる?」

「あ、ああ。助けにきてくれたのか?」

「当たり前やん。ええから早く!」

 

 俺と瞳子ちゃんは佐藤の浮輪に捕まった。それを確認してから佐藤が大きく手を振る。

 

「みんな引っ張ってーーっ!!」

 

 葵ちゃんの大声が響く。それからすぐに岸に向かって引っ張られていく。よく見てみれば浮輪にはロープがくくりつけられており、大勢の男子が綱引きのように引っ張ってくれていた。

 ぐんぐんと引っ張られていき、ついに俺達は岸へと戻ることができた。歓声に出迎えられながらへたり込む。

 

「瞳子ちゃん……大丈夫?」

「え、ええ……」

 

 疲労を感じるが瞳子ちゃんも大丈夫そうだった。ほっとして脱力する。

 

「二人とも……ほんまに良かったぁ……」

 

 佐藤が顔をくしゃくしゃにした泣き笑いになる。体を張って助けてくれた佐藤には感謝しかない。

 息を整えている俺に影が差す。なんだろうと思って顔を上げると、葵ちゃんが目の前に立っていた。

 バシィンッ! と乾いた音が響いたと思ったら俺は倒れていた。葵ちゃんに頬を引っ叩かれたのだと理解するのに数秒かかってしまった。

 

「私、待ってって言ったのに……。無茶しないでって言ったのに……っ」

 

 見上げれば大きな目に涙をいっぱいに溜めている葵ちゃん。そんな彼女を目にした瞬間、俺は間違えてしまったのだと悟った。

 

「葵っ。全部あたしが悪いのっ。俊成を怒らないで!」

 

 葵ちゃんが瞳子ちゃんに近づいていく。次は自分が引っ叩かれるとでも思ったのだろう。瞳子ちゃんはぎゅっと目を閉じた。

 

「瞳子ちゃん……無事で良かった……」

 

 葵ちゃんは優しく瞳子ちゃんを抱きしめた。静かに涙を流している彼女に気づいて、瞳子ちゃんの目から涙が溢れる。

 そんな二人の姿を見て、葵ちゃんは心配と不安でいっぱいになっていたんだってわかってしまった。瞳子ちゃんのことはもちろん、考えなしに飛び込んでいった俺のことだってそう思ってくれていたんだ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 念のためということで、俺と瞳子ちゃんは体に異常がないか確認するために病院へと訪れていた。

 

「……」

 

 ついでに葵ちゃんもいる。病院へ送ろうとする先生の車に、彼女にしては強引な形でついて来たのである。

 葵ちゃんは俺の腕をしがみつくように抱え込んでいる。なのに俺へと向ける目は睨みつけるようなものだった。葵ちゃんにそんな目を向けられたことがなくてどうしていいかわからなくなってしまう。

 あの後、俺が瞳子ちゃんを助けるために川へと飛び込んでからの話を聞かせてもらった。

 流された瞳子ちゃんに気づいた先生が助けを呼びに行くと言って真っ先に現場を離れてしまったのだ。置いていかれてしまい半ばパニックとなった同級生達をまとめたのが葵ちゃんである。

 葵ちゃんは女子達に他の先生を呼びに行かせ、男子達を引きつれて救助へと向かってくれたのだ。

 俺と瞳子ちゃんの体感ではけっこう流されたと思ったのだが、実はそうでもなかったらしく、すぐに見つけ出された。そこで葵ちゃんは自分が持っていた浮輪と数人の男子に探してもらっていたロープを組み合わせたのだ。

 ロープを木に結びつけて反対側を浮輪にくくりつける。川に入って助けに行くと真っ先に立候補してくれたのは佐藤だったらしい。

 あとは俺と瞳子ちゃんに合流し、男子達にロープを引っ張ってもらったというわけだ。全部終わってから先生が来たのだが、勝手なことをするなとみんな怒られてしまった。協力してくれたみんなには本当に申し訳ない……。

 受診の結果、俺と瞳子ちゃんの体に異常はなかった。今は親が迎えに来てくれるということで病院で待っている状態だ。

 

「……」

 

 葵ちゃんは未だに俺の腕を解放してはくれない。瞳子ちゃんも黙ったままで俺の肩に頭を預けている。

 

「ごめんなさい……。それから、ありがとう……」

 

 消えてしまいそうな瞳子ちゃんの声。反省の色が多分に含まれていて、彼女がとても小さく見えた。

 同級生の中では一番しっかりしている子だと思っていた。それが絶対に危険な目に遭わないという保証ではないことを思い知らされた。

 

「私も、ごめんなさい……。すぐに瞳子ちゃんのこと気づけなかったし、トシくんを叩いちゃったりして……」

 

 葵ちゃんの声も瞳子ちゃんと同じくらい小さかった。

 彼女には助けられたし、悪いことをした。もし葵ちゃんがみんなをまとめてくれなかったらどうなっていたかわからない。俺を叩いたのだってそれほどに本気で想ってくれたからなのだろう。

 

「俺もごめん……。後先考えないで突っ走ってたかも、余計に心配かける事態にしてた」

 

 突発的な事態だったとはいえ、もっと上手いやり方があったはずだ。それを気づいて実行するのは俺であるべきだった。

 俺達は謝り合って、また無言の時間が訪れる。三人でくっついたまま、ずっとじっとしていた。

 

「瞳子!!」

 

 どれくらい時間が経っただろうか。ぼんやりした頭が突然の大声で引き戻される。

 声の方向を見れば瞳子ちゃんの両親が来ていた。肩で息をしており、ここまでどれほど急いできたのか簡単に想像できた。

 

「こ、この度はご心配をおかけしまして――」

「瞳子ぉ!!」

 

 付き添っていた先生を無視しておじさんが瞳子ちゃんを勢いのままに抱きしめた。

 

「心配したんだぞ! ぐぅ……、本当に心配した……」

「パパ……」

 

 おじさんから押し殺したような嗚咽が聞こえてくる。言葉の通りよほど心配したのだろう。

 

「瞳子……。良かったデス……」

 

 おばさんもいっしょになって娘を抱きしめる。そんな親子の姿を見せられてしまえば、誰もその中へは入っていけなかった。

 

「俊成!!」

 

 遅れて俺の両親も到着した。父さんは仕事中だったはずなのに、抜けだしてまで来てくれたんだ。

 俺は立ち上がる。葵ちゃんはようやく俺の腕を離してくれた。

 

「無事なのよね? どこもケガはしていないのね?」

 

 母さんの声に涙が混じっている。父さんがほっとした表情を浮かべる。

 俺のことを心配してくれていたのだ。両親は何よりもその想いが強い。それがわかった時、俺の目から熱いものが溢れていた。

 母親に抱きしめられる。この感覚は知っているはずなのに、知らない感情が流れてきた気がした。

 親孝行をしたいと思っていた。なのにこれじゃあ親不孝じゃないか。こうやって抱きしめられるまで、俺はそのことをちゃんとはわかっていなかったんだ。

 俺は父さんと母さんといっしょになって泣いた。それは今世で初めての心の底から湧き出た涙だった。

 

 




溺れている人を助けるために飛び込むのは最終手段だそうです。助けに行った大人が溺れたという話もあるくらいなので作中の救助方法は真に受けないようにしましょう(ここでフィクションアピール)


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78.彼女達のわだかまり

 夏休みも残り一週間である。

 俺はもちろん、葵ちゃんと瞳子ちゃんもすでに夏休みの宿題を終えている。俺達三人は優等生なのだ。

 今日は葵ちゃんの家で三人で遊んでいた。いつも通り、普通通りに過ごしていた。……そのつもりだった。

 

「ちょっとトイレ借りるね」

 

 そう断りを入れてから葵ちゃんの部屋を出る。トイレのある一階に下りてから背後の気配に気づいた。

 

「瞳子ちゃん?」

「あ、あたしもトイレ……」

 

 振り向けばもじもじしている瞳子ちゃんがいた。もしかしてトイレを我慢していたのだろうか。

 

「じゃあお先にどうぞ」

「え、俊成が先でいいわよ」

「でも瞳子ちゃん――」

 

 トイレに行きたいの我慢しているんじゃないの? なんて聞くのはデリカシーに欠けている気がして口を閉じた。

 さっさと俺が済ませてしまえばいいか。どうせ男は早いからね。そう考えて先にトイレに行かせてもらうことにした。

 トイレから出ると瞳子ちゃんが待っていた。なんだか順番待ちされるのって恥ずかしいな。

 

「じゃあ先に部屋に戻ってるね」

「待って」

 

 瞳子ちゃんの横を通り抜けようとすると手を掴まれた。まだ手を洗ってないんですけど……。

 

「その……あたしが出るまで待ってて……」

「待ってるって……、トイレの前で?」

 

 こっくりと頷く瞳子ちゃん。その顔は真っ赤になっていた。

 女の子のトイレをすぐ近くで待っていていいものなのだろうか? こういうのはお花を摘みに行くが如くこっそりとするものではなかろうか。

 なんて考えたものの、本人の要望である。なんだか恥ずかしいけど、本人が言うのだから仕方がない。うん。

 トイレの中に入る直前、瞳子ちゃんが振り返る。

 

「耳……塞いでてよね。音、聞いたりしたら許さないから」

 

 瞳子ちゃんは耳まで赤くしながらもそう注意する。だったらトイレの前なんかで待たせなければいいのでは? バタンとドアを閉められてしまったので口を開いたところで止まってしまった。

 

「トシくん? 聞いちゃダメだよ」

「あ、葵ちゃん!?」

 

 突然現れた葵ちゃんに耳を塞がれてしまう。目の前にくるまで気配に気づけなかった。いつの間に足音を消せるようになったのだろうか。

 そんなことを考えていたからだろうか。葵ちゃんが両手を伸ばしてくると、そのまま優しく俺の耳に触れてきた。なんの抵抗もできないまま聴覚情報を奪われる。

 

「……」

「……」

 

 正面から両手で耳を塞がれている。俺は葵ちゃんと見つめ合う形となっていた。

 最近、葵ちゃんの柔和な表情をあまり見ていない気がする。今だって俺をじっと見つめる目は少しだけきつさを帯びているように感じる。

 いつから? ……あの林間学校からだ。

 あからさまに態度が変わったわけじゃない。それでも、俺を見る瞳の色が変わってしまったのは確かだった。

 そのせいかずっと責められているようで、葵ちゃんに対してどう反省の意を示せばいいのか思いつかないでいた。

 言葉では謝罪をした。葵ちゃんも受け入れる言葉を返してくれた。だけどまだ、彼女の中では消化し切れてはいないのかもしれなかった。

 

「瞳子ちゃん。次は私が入るから待ってて」

「わかったわ」

 

 ぱっと葵ちゃんの手が離れて音が戻ってくる。見ればトイレから出た瞳子ちゃんが洗面所で手を洗っていた。

 それから入れ替わるようにして、今度は瞳子ちゃんが俺の耳を塞ぐ。葵ちゃんはトイレに入って行き、俺は瞳子ちゃんと見つめ合うこととなった。

 

「……」

「……」

 

 葵ちゃんとはまた違った沈黙が訪れる。しっかりと見つめてくる葵ちゃんと違って、瞳子ちゃんの瞳は揺れているように見える。

 葵ちゃんに心配をかけてしまったように、瞳子ちゃんにもまた心配をかけてしまった。

 あの時はいろんなことが見えなくなっていた。どれだけ彼女達を不安にさせてしまったのか。ほんの少し変わってしまった態度が物語っているようだった。

 目の端で葵ちゃんがトイレから出てきたのが見えた。手を洗ってから戻ってくる。

 

「お待たせ。部屋に戻ろっか」

「行くわよ俊成」

 

 部屋に戻るだけなのに、葵ちゃんと瞳子ちゃんに挟まれて腕を抱え込まれる。別々の柔らかさを俺に伝えてくれる。

 あの……、俺まだ手を洗っていないんですけど。お願いだから解放してーーっ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 二学期になった。

 大半のクラスメートとは林間学校以来である。学校に到着すると、俺と瞳子ちゃんは心配の言葉に囲まれた。

 林間学校に不参加だった生徒にも伝わっているようだ。あまり騒がれたくはないけれど、事が事だけに鎮めるのは難しそうだ。

 

「おい木之下! 林間学校で溺れたって本当か!?」

 

 本郷が教室に来たことによってその騒ぎはさらに大きくなる。

 俺達四組の教室に入ってくると、本郷は真っすぐ瞳子ちゃんの元へと向かった。これには瞳子ちゃんも「げっ」と言わんばかりの顔になってしまっていた。

 

「さっきみんなから聞いたんだ。俺林間学校欠席したから知らなくってさ……。体はもう大丈夫なのか?」

 

 本郷の心底心配した声が教室に広がる。まったく悪気がないっていうのはわかるんだが、当人である瞳子ちゃんは居たたまれないだろう。

 

「まあ……うん」

 

 案の定、彼女はばつが悪そうに顔を伏せる。

 瞳子ちゃん自身、川に入るのに準備不足だったり足が届かないところまで行ってしまったりと反省しているのだ。それをまた掘り返されるようなことは彼女にとってとても心が苦しくなることだろう。

 心配するのは本郷の優しさだろうが、みんなが集まっているこんな場所では遠慮してほしかった。これじゃあ話題の中心が瞳子ちゃんに向いてしまう。

 

「本郷、お前サッカーの大会で全国ベスト4だったんだってな。すごいじゃないか」

 

 俺は全力で話題を変えることにした。本郷がサッカー大会で活躍していたという情報を入手していて良かった。

 

「は? 今はそんなことどうでもいいだろ」

「そうだよ。全国で活躍しただなんて本郷くんってすごかったんだね」

 

 今は自分のことよりも瞳子ちゃんの心配が勝っているらしい本郷は眉を寄せる。しかしすかさず葵ちゃんが俺の策に乗ってきてくれた。

 

「聞いたで。得点王になったんやて? すごいやんか。同じ学校の同級生ががんばってくれると僕らも鼻が高いわ」

「もしかして本郷くん将来はプロのサッカー選手になっちゃうの? 私今のうちにサインもらっちゃおうかな」

「本郷すごいすごい」

 

 さらに佐藤、小川さん、美穂ちゃんが続いてくれた。美穂ちゃんは若干棒読みだった気がするけれど、周囲の注目を移すのには充分だったようだ。

 本郷を中心に輪ができる。学校の人気者が全国で活躍したというのはみんなの興味をかり立てるのに充分過ぎたようだった。何もなければ俺も話を聞いてみたかったところだ。

 ほ・ん・ご・う! と本郷コールが教室を湧き立てた。その間に俺は瞳子ちゃんをつれ出す。

 人気のない廊下までつれてくると、瞳子ちゃんは落ち着きを取り戻したようだった。

 

「ありがとう俊成」

「本郷には後で俺が言っとくよ。あいつだって言ってわからない奴じゃないからさ」

 

 瞳子ちゃんを心配するのは悪いことじゃない。それでもすでに終わったことではあるし、変に学校中で広まるのは避けたかった。

 そもそも瞳子ちゃんが溺れたというのなら、それを助けようとしていっしょになって溺れそうになってしまった俺なんかもっとかっこ悪い。葵ちゃんの指示でみんなが動いてくれなかったら本当に危なかった。

 

「……ごめんね」

 

 瞳子ちゃんが謝る。別に謝らなくてもいいのに。それでも彼女は申し訳なさそうに肩を落としていた。

 普段ミスをしない瞳子ちゃんだからこそ、今回のことは相当堪えたらしかった。ずっと負い目を感じているようで、なんというか今の彼女は自信なさげに見えてしまう。

 そんな彼女の姿を見ると胸が苦しくなる。瞳子ちゃんはもっと堂々と胸を張って自信満々でいてほしかった。それが似合っていると思うから。

 なんて、それは俺の押しつけだろうか。ただ、彼女が弱々しく顔を伏せてしまうなんてのはやっぱり似合わないって思ったんだ。

 

「瞳子ちゃん」

「きゃっ!? と、俊成?」

 

 俺は瞳子ちゃんの腕を引っ張って、前のめりになった彼女を抱きしめた。

 どんなに励ましの言葉をかけたってダメなのだ。それは今日までやってきたことだから。今の彼女を見ていると効果があったとは思えない。

 それでも、そうわかった上で何かを伝えようと思ったらこうするしかないって想ってしまった。気にするなと声をかけたところで彼女にわだかまりが残るのなら、せめてその心を共有したかった。

 

「……」

 

 抱きしめる。ただ抱きしめた。

 瞳子ちゃんの中でわだかまってしまったもの。それを伝えてほしいと思った。瞳子ちゃんを大切にしたいという心。それが伝わればいいと思った。

 瞳子ちゃんが俺の背中に腕を回す。体がより密着して彼女の体温が体全体で感じられた。

 

「俊成……もういなくなるなんてこと言わないで……」

「……ごめん。もう言わないよ」

 

 それは絶対だ。俺のために泣いてくれる人がいる。俺のために怒ってくれる人がいる。そのことを忘れちゃいけないんだって、この鈍感な頭にも刻み込まれたから。

 まだ時間がかかることかもしれない。それでも、以前のようなかっこ良い彼女に戻れたなら、過去を振り払ってしまうどころかさらにパワーアップするんだろうなって思う。それが俺の瞳子ちゃんに対する信頼だ。

 それまで支えるくらいなんでもない。むしろいきなり抱きしめちゃったりなんかして大胆過ぎたかなって今さら恥ずかしくなってきた。

 自分の体温が高くなったのを自覚しながら、それに合わせるように彼女の体温が高くなったのがわかって、なんだか嬉しくなっている自分がいた。

 誰もいない廊下で、チャイムが鳴るまでそのまま互いを抱きしめ合っていた。

 

 ――そして、そんな俺達を見つめていた視線に、俺と瞳子ちゃんはついに気づかなかったのだった。

 

 



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79.組体操はハードです

 運動会が迫っているのもあって、体育の時間は競技の練習ばかりになっていた。

 六年生の俺達は組体操をやることとなっている。六年生全員が運動場に固まって練習していた。

 

「行くで高木くん!」

「いいぞ佐藤!」

 

 組体操は一人の技だけではなく、二人や三人で組んだりもする。大技にもなればけっこうな規模にもなったりするのだ。

 二人組では俺は佐藤と組んでいた。補助倒立やサボテンなどといった技を問題なくクリアしていく。

 佐藤は俺や本郷に比べれば劣るものの、なかなか良い運動能力を持っている。というか前世よりも向上しているのは気のせいだろうか? 少なくとも前世の俺よりも足が速くなっていたりする。おっかしいな、同じくらいのタイムだったはずなんだが。

 まあそんなわけで佐藤と組んでいる俺に死角はなかった。始まる前から先生に「毎年ケガ人が出ているんだから気をつけるんだぞ」と脅かされていたがその心配はなさそうだ。

 むしろ心配なのは……。俺は女子のいる方へと視線を向ける。

 

「わわわっ!? ととっ、た、たぁっ!!」

「あ、葵! 落ち着いてっ」

 

 バランスを崩してじたばたしている葵ちゃんが見えた。それをフォローしている瞳子ちゃんがすごい。

 二人でのペアなら瞳子ちゃんがなんとかしてくれそうではあるけれど、三人以上での技はいくらなんでも危ないんじゃないか。女子はピラミッドなどの大技には参加しないものの、それなりの危険はあるのだ。

 

「コラ高木! ちゃんと顔を前に向けんか!!」

「は、はい!」

 

 ハラハラしながら葵ちゃんを見ていると先生に怒られてしまった。わかっていても気になってしまう。

 組体操は危険を伴うためか男性教師陣が張り切っている。手をぴしっと伸ばせだとか、集中しろだとかという言葉があちらこちらから聞こえてくる。

 

「宮坂! フラフラするんじゃない! もっとしっかりしろ!!」

 

 葵ちゃんも標的にされたらしい。ああ、気になるーーっ!

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「疲れた~……。組体操なんて難しいよぉ」

 

 体育の授業が終わった後、葵ちゃんは机に突っ伏してしまった。難易度はそう高いものではないんだろうけど、運動が苦手な葵ちゃんにとっては大変だったんだろう。

 

「組体操ってつまんないよねー。こんなのやるよりはリレーの練習の方がいいな」

 

 小川さんからも不評である。まあ俺も同意見だけども。

 組体操で連帯感を育むってのが狙いなのかな? 別に大勢でやる競技なんて他にもあるし、わざわざ組体操にこだわらなくてもいいのではと思わなくもない。

 今回一番の心配事は葵ちゃんがケガをしないかどうかってところだ。

 見ていて心臓に悪いし、本音を言えば組体操は中止になってもいいと思っている。そんなことを考えてしまうのは過保護だろうか。

 しかしさすがにやめさせるなんてこともできやしない。学校行事の嫌なところだ。

 

「高木は心配し過ぎ。それ態度に出過ぎだよ」

「え?」

「宮坂は体力ないけど体は柔らかいし、バランス感覚も悪くない。もっと信じてあげて」

 

 美穂ちゃんにきっぱりと言われてしまった。葵ちゃんを信じてあげられなかった。その通りだ、と反省させられる。

 

「そうよね。葵ってば一人技は問題ないものね」

 

 瞳子ちゃんが問題ないというのならそうなんだろう。人数が増えるとその分技も大きく派手になるからな。やっぱり心配になってしまいそうだ。

 

「三人でやる技なんて危ないものばっかりだし、葵ちゃんが上だとやっぱり心配かな。下で支える側になれないの?」

 

 思わず口に出してしまった。美穂ちゃんに言われたばっかりなのにな。頭じゃわかっていてもどうしてももしもを考えてしまう。

 

「どっちが上か下かって先生が決めてるもんね。体重が軽い方が上になっちゃうのよねー」

 

 小川さんの言葉に、つい素で返してしまう。

 

「え? 葵ちゃんって体重軽いの?」

 

 はっとして慌てて口を手で覆う。だが時すでに遅しであった。

 何かとてつもない気配。まるで黒いオーラが具現化したような、そんな目に見えるような圧迫感が俺に向かっている。

 あまり見たくはないけれど、それでも顔を向けなきゃいけないと思い、俺は葵ちゃんを見た。

 

「トシくん」

 

 笑顔だった。葵ちゃんの満面の笑顔。とてもかわいらしくて、見惚れてしまうほどだ。

 でもなんだろう。すぐに目を逸らしたくなってしまった。こんなにかわいい笑顔なのにどうしてだろう? あんまり見たくないなぁ……。

 顔を動かそうとして、自分の体が動かなくなっていることに気づく。まるで金縛りにあってしまったかのような。そんな不思議で怖い感覚だった。

 視界の端で瞳子ちゃんと小川さんが冷や汗を流しているのがわかった。美穂ちゃんは無表情のままだけど、早々と葵ちゃんから背を向けていた。我関せずなその態度が今は羨ましい。

 

「トシくん」

「は、はい……」

 

 もう一度名前を呼ばれる。さすがに返事しないわけにはいかない。声が上ずった理由は考えないことにした。

 ニコニコしている葵ちゃん。ここは背景が花柄になるところじゃないかな? なぜ黒いオーラが見えるのだろうか? ちょっと俺の視覚が正常ではないようなのですがどゆこと?

 

「私、重いって思われていたのかな?」

「いや、そういうわけじゃ……」

「ふぅん……、ほんとかなぁ?」

 

 葵ちゃんを重いだなんて思っていない。ただなんと言いますか、いろいろと成長しちゃったりなんかしているのでその分の重みが適正に反映されているのではなかろうかと思っただけなのだ。ただそれだけです、はい。

 しばらく表現しづらい圧迫感に耐えていたが、葵ちゃんの深い吐息とともにそれは霧散した。

 

「……まあいいやトシくんだしね」

 

 俺の目をじっと見つめていた葵ちゃんが諦めたようなため息をつく。その反応は逆にショックなんですけど……。むしろ効果的ってわかってやったんじゃないよね?

 それほど気にした様子もなく、葵ちゃんは瞳子ちゃんと美穂ちゃんに視線を向ける。

 

「瞳子ちゃん、美穂ちゃん。お昼休みに組体操の練習に付き合ってくれるかな」

「いいわよ」

「わかった」

 

 葵ちゃんの申し出に二人はすぐに頷いて答えを返す。三人技はこのペアでやるらしい。

 

「あおっち、私は?」

 

 小川さんが期待の眼差しで葵ちゃんを見つめる。その目は自分も自分もと連呼しているように見えた。

 

「真奈美ちゃんは同じペアじゃないし、身長差もあるからいいよ」

 

 と、あっさりと申し出を断られていた。どんまい。

 こうして項垂れる小川さんを置いて、葵ちゃんを中心とした特訓が始まるのであった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 葵ちゃんの特訓は体育館裏で行われることとなった。運動場はたくさんの子が走り回ったりボール遊びしていたりするのでぶつかる危険がある。人気のない場所の方がいいだろうという判断だ。

 それに体育館が影になっているため、地面の土は湿り気を帯びていて柔らかい。大人数で練習するスペースはないが、少ない人数でならこれほど組体操の練習に適した場所はないだろう。

 

「おっと、とととととっ」

 

 瞳子ちゃんと美穂ちゃんを台にしてタワーという技を完成させる。上に立っている葵ちゃんがフラフラしていてこっちの冷や汗が止まらない。

 なんとか肘を伸ばして形を作るものの、傍から見れば不格好なように映ってしまう。だって足をぷるぷる震わせているんだもん。まるで生まれたての小鹿だ。

 瞳子ちゃんと美穂ちゃんが屈んで葵ちゃんが降りる。その拍子にスカートがふわりと舞った。

 そう、この練習は制服のままで行われている。着替える時間が勿体ないからとスカートを短くしただけで練習しているのだ。さっきから三人の太ももが惜しげもなくさらされたままで目のやり場に困っている。

 一応そのことをやんわりと伝えると、三人から「下にブルマ履いてるから恥ずかしくない」というお言葉を返された。男の俺は何も言えなくなってしまったことを察してもらいたい。

 ならせめて俺は参加しない方がいいかと思ったのだが、安全面を考えれば付き添いがいた方がいいだろうとの意見があり、現在女子三人が組体操している姿を眺めているというわけだ。

 いろんな意味で心臓に悪い……。その辺は伝わってないんだろうなと思いつつ、俺は事故が起こらないようにと身構えていた。

 しかし葵ちゃんはフラフラするものの、落っこちてしまったりなんてことは今のところ一回もない。美穂ちゃんの言う通りバランスは取れているということだろうか? いや、ちゃんとバランスが取れていたらあれだけフラフラしないとは思うんだけども。

 

「うん。いいんじゃない?」

 

 だけど技自体はできている。

 形の美しさにこだわらなければ問題ない。そう想って口にしたのだが、葵ちゃんは渋い顔をする。

 

「ううん。ちゃんと足もきっちり伸ばせって先生に言われたから。今のじゃあまた怒られちゃうよ」

 

 普段の体育と違い、組体操の時だけ教師陣はスパルタコーチと化す。ケガをさせないようにという心が強いのだろうが、葵ちゃんみたいに運動のできない子はつらいだろう。

 女子がやるもので危ないと思える技はこういった三人でやるようなものばかりだ。それ以上の人数でやるものとしては扇くらいなものだから大丈夫だろう。

 

「瞳子ちゃんと美穂ちゃんは大丈夫?」

 

 上にいる葵ちゃんは危なっかしいが、下になって台を務める二人だってケガをする可能性がある。

 そんな心配はいらないとばかりに二人は涼しい顔をしていたが。まあ瞳子ちゃんも美穂ちゃんも女子ではトップクラスに運動ができるんだもんね。

 

「ええ、葵って軽いからなんの問題もないわ」

「宮坂は軽いから大丈夫」

「そんなに強調しなくていいよ!」

 

 瞳子ちゃんと美穂ちゃんのわざとらしいアピールに葵ちゃんが突っ込んだ。なんかごめんなさい。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「ほっ、んー……」

 

 葵ちゃんの足が天井に向かってぴんと延びる。綺麗に肩倒立を決めていた。

 放課後。一度帰宅してから瞳子ちゃんといっしょに葵ちゃんの家に遊びにきた。

 葵ちゃんは動きやすい服に着替えており、自室で組体操の一人技に取り組んでいたのだ。

 

「葵、すごくやる気になっているわね」

「ふふ、まあね」

 

 運動に関して葵ちゃんがここまでやる気になっていたことがあっただろうか? むしろ運動は苦手意識が強くて嫌な顔をすることが多かったと思うのだが。どういう風の吹き回しだろうか。

 足を下ろして今度はブリッジをする葵ちゃん。綺麗なもので文句のつけようがなかった。

 持久力はないけど体は柔らかいからな。ストレッチは毎日していたらしいし、体を動かすことに関して全部が苦手というわけでもないのだ。

 

「二人技なら手伝ってあげるわよ」

「部屋でやるの? 危なくないか」

「じゃあ下のリビングでやる?」

 

 どっちにしても家の中じゃあ危ないと思うのだが。でも葵ちゃんもやる気になっているからなぁ。できれば練習に付き合ってあげたい。

 

「ううん、いいよ。あとは学校の練習をがんばるから」

 

 ブリッジをやめて葵ちゃんが立ち上がる。その動きがスムーズで、もしかしたらよく一人で練習しているのかもしれないと思った。

 俺達ももう六年生だ。小学生の運動会だって今年が最後となる。だからこそ全力で臨んでいきたいのだろう。

 最後だし優勝して終わりたいものだ。しかし今年は運動能力では学校一の本郷が別のクラスである。チーム戦なのでたった一人でどうこうなるとも思っていないが、学年対抗リレーなんかはきついかなと、クラスでは諦めムードになってしまっていたりする。

 俺も走り込みを続けてはいるのだが、本郷とは年々差が広がってしまっている。歳を重ねるごとに才能の差が明らかになっているようでちょっと嫌になる。

 それでも全力を尽くそう。みんながんばっているし、葵ちゃんだってこうやって自主練しているのだ。

 

「えい!」

「きゃっ!?」

「うわっ!?」

 

 俺が心の中で拳を握っていると、突然瞳子ちゃんが倒れてきて受け止める。まったく踏ん張れずにベッドへと倒れてしまった。

 

「ちょっと葵! いきなり押さないでよ!」

 

 どうやら葵ちゃんに押されたせいで瞳子ちゃんが倒れてきたらしい。怒る瞳子ちゃんを前にしても悪びれる様子もなく葵ちゃんはぺろっと舌を出した。

 

「ごめんね、驚かせたくなっちゃったの。私ジュース取りに行ってくるから二人はゆっくりしててね」

 

 悪戯を成功させた葵ちゃんはそう言って足早に部屋から出て行ってしまった。「逃げたわね」と瞳子ちゃんが呟く。

 

「……瞳子ちゃん、降りてもらってもいいかな?」

「あ」

 

 瞳子ちゃんを受け止めたまま倒れてしまったので、俺は彼女の下敷きになっていた。別に重くはないんだけどちょっとこの体勢でいるのはよろしくない。

 瞳子ちゃんがぱっと離れる。その拍子に葵ちゃんのベッドがギシリと音を立てた。

 葵ちゃんのベッドのにおいが鼻孔をくすぐる。……良い香りです。

 ……じゃないな。はっとして俺もベッドから離れて床に座る。

 

「……」

「……」

 

 瞳子ちゃんと二人きり。そう意識したらなぜだか空気がギクシャクしてきた。その事実がわけわからなくて、俺達は黙って葵ちゃんが戻ってくるのを待っていたのだった。

 

 




私の小学校時代の女子はスカートの下にブルマが基本だったなぁ(懐かしむ眼差し)


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80.運動会はいい思い出であるべきだ(パート3)

「四組ぃー、ファイトー!!」

 

 小川さんのかけ声に俺達六年四組から続けて「ファイトー!」という声が合わさった。士気が高いのはいいことだ。

 運動会当日。晴天が広がっており、活気づいた空気が運動場に充満しているようだ。まさに運動会日和である。

 

「がんばろうねトシくん」

「おう。いっしょにがんばろう葵ちゃん」

 

 長い黒髪をポニーテールにした葵ちゃんが気合を入れるように拳を握りしめる。今までは運動会などの体を動かす行事には消極的だった彼女だけど、今年は組体操の自主練をするくらいにはやる気なのだ。

 そんな葵ちゃんに俺も負けられない。ぐっと握り拳を作って返した。

 まずは入場行進からだ。最上級生になってみると下級生の行進がかわいらしく見える。たくさんシャッターを切ってしまう親の気持ちがわかってくるな。

 準備体操を終えると競技が始まる。次々とプログラムを消化していく。

 

「二人三脚であたし達ゴールデンコンビに勝てるペアなんていないでしょうね」

「だな。がんばろう瞳子ちゃん」

 

 瞳子ちゃんが自信満々に胸を張る。俺と瞳子ちゃんは二人三脚に出場するのだ。

 四年生の時に組んで息ぴったりだったからね。これに関しては俺も瞳子ちゃんに同意見だ。負ける気がしないぜ!

 

「あっ、高木さーん! 今日はお互いがんばりましょう!」

 

 手をぶんぶんと振る森田が見えた。あいつでかいから目立つよな。五年生だけどこの小学校で一番背が高いんじゃないかな。

 そんな森田に寄り添うようにちょこんと品川ちゃんがいた。足元を見れば二人の足が結ばれていた。

 

「よう森田。品川ちゃんと二人三脚に出るのか?」

「そうっすよ。俺達のコンビネーション見せてやりますんで見ててください!」

 

 自信たっぷりの森田とは対照的に、品川ちゃんはぷるぷる震えている。なんだか小動物みたいだ。

 

「品川ちゃんもがんばってね」

「右足から……最初は右足から出して、次に左足……。右、左、右……」

「……」

 

 ダメだ聞こえていない。こんなに緊張していて大丈夫かなと心配になってしまう。

 

「あたしと俊成が一番速いでしょうけど、その次くらいになれるようにがんばりなさい」

「うっす! 姉御もがんばってください!」

「誰が姉御よ!!」

 

 森田は笑いながら入場門の列に並んだ。うーん、体格差もそうだけど、性格だって正反対のあの二人は本当に大丈夫だろうか。こけてケガをしなきゃいいけど。

 

「俊成、あたし達も並ぶわよ」

「あ、うん」

 

 そろそろ二人三脚が始まる。瞳子ちゃんといっしょに列へと並ぶ。

 

「森田と品川ちゃん大丈夫かな? 品川ちゃんが緊張しているのを森田は気づいてないみたいだったけど」

「あれはちゃんとわかっているわよ」

「え?」

 

 横にいる瞳子ちゃんを見ると、彼女は前方にいる森田と品川ちゃんを見つめ目を細めていた。

 

「気遣われない方が却って楽なこともあるのよ」

 

 どういう意味なのかと聞き返そうとすると同時に二人三脚の順番が回ってきた。瞳子ちゃんが「行くわよ」という声とともに駆け足になったので聞きそびれてしまった。

 やはり俺と瞳子ちゃんのペアを前に敵はいなかった。爆走して見事一位に輝く。

 俺が心配していた森田と品川ちゃんのペアだったが、森田が上手いこと品川ちゃんに合わせていた。着実な走りで運動場を駆け抜けてゴールイン。たくさんの拍手を送られて二人とも楽しそうに笑っていた。

 その後も競技は続いていく。借り物競走にエントリーしている葵ちゃんが出た時には男子達から熱い応援をされていた。

 葵ちゃんがスタートする。直線では遅れてしまうものの、借り物が書かれた紙へと辿り着く。

 一瞬固まったように見えたが、葵ちゃんは真っすぐ俺達がいる応援席へと走ってきた。

 ここにいる人が持っている物でも書かれていたのだろうか? そう思っていると葵ちゃんに腕を掴まれる。

 

「トシくん来て!」

「え、俺?」

 

 葵ちゃんに引っ張られるままゴールへと向かった。あれ、物じゃないの?

 そのまま一着でゴールイン。先生に借り物が書かれた紙を渡して確認してもらう。

 

「……いいだろう」

 

 先生は紙と俺とを何回か見比べていたが、その言葉とともに頷いた。なんでちょっとためたんだろうか?

 結局なんだったんだろうか。気になって葵ちゃんに尋ねてみた。

 

「葵ちゃん、借り物ってなんだったの?」

「んー……」

 

 葵ちゃんは視線を宙に向かわせた。それから笑顔で口を開く。

 

「秘密だよ」

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 午前の部が終わって昼食の時間となった。

 

「葵! 借り物競走一着だなんてすごいじゃないか!」

「さすがは瞳子! 運動会でも輝いている!」

「美穂もがんばったね。障害物競争なんて一番速かったね」

 

 親達の元へと行くとそれぞれ労ってもらえた。俺の両親も褒めてくれる。

 みんなの活躍もあって四組は一番得点を稼いでいる。しかしリードしているとはいえ僅差であり、二位の一組とはほとんど得点差なんてなかった。

 

「午後からもがんばらないとな」

「だね。私もがんばる!」

「そうね。せっかくだから優勝したいもの」

「もちろん勝つ」

 

 俺の言葉に葵ちゃん、瞳子ちゃん、美穂ちゃんが頷いてくれた。

 これが小学校最後だからね。みんなの気持ちは一つとなっている。かつてないほどのまとまり具合だ。

 午後からの競技で俺達が得点に絡めるものは騎馬戦と学年対抗リレーである。得点には関係ないけど、その前には組体操がある。

 チラリと葵ちゃんを見る。女の子座りをして食事している姿が映る。

 たくさん練習していたもんな。何事もなく無事終われますように。気づかれないようにそんなことを祈った。

 

「練習通り緊張せずにやればいいからな」

 

 下級生のダンスが終わって組体操が始まろうとしていた。先生はそう言うけど、それで緊張がなくなれば苦労はないよと思った。

 葵ちゃんはしきりに深呼吸を繰り返していた。大きく上下する胸が目に毒というのは置いといて、何か声でもかけるべきかと思案する。

 

「高木、待って」

「お?」

 

 葵ちゃんに声をかけようと一歩踏み出した時、体操服の裾を掴まれてつんのめってしまう。振り返ればいつもの無表情をした美穂ちゃんだった。

 

「美穂ちゃん? どうしたの」

「宮坂は今集中してるから、声をかけない方がいい」

「え、でも……」

「宮坂……木之下もだけど、高木に心配かけないようにがんばってる。だから高木は自分のことに集中するべきだと思う」

 

 真剣な眼差し。視線を逸らせば瞳子ちゃんも深呼吸をしていた。彼女も葵ちゃんといっしょに練習していたんだ。

 

「……わかった。じゃあ俺あっちだから。美穂ちゃんもがんばってね」

「言われるまでもないよ」

 

 ははっ、と笑うと美穂ちゃんも微笑を浮かべてくれた。俺は佐藤達のいる男子の列へと入る。

 六年生の組体操が始まった。音楽を流さずに先生の笛に合わせて技を行っていく。

 一人で行う肩倒立やブリッジ、V字バランスと順調にこなしていく。ここまでなら葵ちゃんも問題なくできていたはずだ。

 次に二人技へと移っていく。佐藤と組んで進めていく。

 葵ちゃんの方へと視線を送る。練習した甲斐もあってちゃんとできているようだ。瞳子ちゃんもいるのだからそうそう失敗しないはずだ。

 

「高木くん、今は自分のことに集中せなあかんで。宮坂さんかてずっとがんばって練習してきたんやから信じてやらな」

 

 俺だけに聞こえる程度の声で佐藤が注意する。いつものほにゃりとした柔らかい感じではなく、真剣に取り組んでいる者特有の雰囲気を放っていた。

 さっき美穂ちゃんに言われたばっかりなのにな。佐藤の言った通り葵ちゃんはこの日のためにがんばってきたのだ。心配し過ぎるのはできないと思っているようで失礼だった。

 

「ごめん。ちゃんとするよ」

 

 小声で詫びを入れる。もし俺の方がケガなんてしてしまったら葵ちゃんだけじゃなく、みんなに申し訳が立たないところだった。

 三人技へと突入する。女子はここが一番難しい技をするところだろう。俺は自分のやることに集中する。

 一つ一つ技が完成する度に拍手が送られる。「おぉー!」と驚きの声も聞こえてくる。

 そんな反応に喜ぶ暇はなくて、俺達はミスをしないように丁寧に技を行っていく。一つの技に対しての人数が増えていくにつれて緊張感が跳ね上がっていく。

 一人がミスをすればみんなが巻き込まれる。組体操とはそういうものだ。常に危険と隣り合わせである。

 ついに最後の大技、五段ピラミッドだ。一段重なるごとに完成が近づいていく。

 よくもまあこんな大きいものをやろうと思ったもんだ。子供だからやるのか、子供のうちしかできないのか。とにかくこれさえ無事に終わればいい。

 三段目。俺の出番だ。

 子供達でできた階段を上がり、俺もその一員となる。下の子は大変だろうなと思いつつ、上の子も高いところにいる恐怖とかあるのだろうかと考えてしまう。

 四段目、そして五段目の子がてっぺんに立つ。次の笛でみんな揃って顔を上げれば完成だ。

 ピー、という力が湧いてこないような音で顔を上げる。すると割れんばかりの拍手と歓声が俺達に向かって降り注がれる。

 嬉しい、というよりも早く終了の笛を鳴らしてくれと思う。下の子からつらそうな息づかいが聞こえるしさ。

 自分の忍耐力に頼っていると、葵ちゃんと目が合った。心配そうに見つめる瞳が真っすぐ俺を捉えていた。

 ……うん、俺は大丈夫だ。

 俺が葵ちゃんを心配するように、彼女もまた同じだったのだ。俺だけの感情じゃあないんだ。

 笛の音が聞こえてようやく組体操は終わった。誰もミスすることなく終えられて思わず安堵の息が漏れる。

 退場するとすぐに両手を取られる。葵ちゃんと瞳子ちゃんだった。

 

「トシくん今度は騎馬戦だからね。がんばろっ」

「さあ俊成、気合入れて行くわよ!」

 

 二人から緊張した様子が消えていた。組体操という難敵を超えられて元気になったみたい。

 でもこのまま引っ張られても困るんだけどな。

 

「いやいや、いっしょにはいけないよ。騎馬戦は男女別なんだから」

 

 はっとして二人は止まった。緊張感が抜けてしまったせいか、同時にいろいろと抜けてしまっていたようだ。

 騎馬戦は六年生全クラスでのバトルロイヤルだ。どうしても乱戦となってしまう。

 男子では本郷を擁する騎馬が大活躍した。次々とハチマキを取っていく。制限時間がこようかとするところで俺も本郷にハチマキを奪われてしまった。悔しい!

 男子は負けてしまったが、女子では小川さんが大活躍した。背の高い小川さんは一方的にハチマキを奪っていく。葵ちゃんはハチマキを取れないが、下になっている瞳子ちゃんと美穂ちゃんに的確な指示を送り自分のハチマキを死守した。

 午後の部も一進一退の攻防が繰り広げられていく。そして、残す競技は学年対抗リレーだけとなっていた。

 

「泣いても笑ってもこれが最後! みんな気合入れていきなさいよ!!」

 

 小川さんがクラスの士気を上げる。四、五年生のリレーが終わっても一位をキープしているものの僅差のままだ。俺達六年生のリレーですべてが決まるのだから力も入るだろう。

 

「あおっち。みんなに一言お願いします」

「ええっ、ここで私?」

 

 小川さんのキラーパスに葵ちゃんはこほんと咳払いを一つ。それだけでクラスメート達は耳を傾ける体勢となった。

 

「みんな、最後まで気を抜かずにがんばろうね」

 

 笑顔とともに放たれた言葉に雄たけびが上がった。男子連中のやる気はマックスだ。

 最後の種目というのもあってか、今までで一番の注目度だ。これで優勝が決まるのだからどの学年も等しく大きな声援を送っている。

 

「位置に着いて、よーい……」

 

 先生がスターターピストルを鳴らした。スタートダッシュでトップに立ったのは、瞳子ちゃんだった。

 今回は瞳子ちゃんが一番手で俺がアンカーを務める。俺達のクラスの男子はそこまで足の速い奴はいないのだが、逆に女子には期待できた。

 おそらく女子だけなら学年トップ3は瞳子ちゃんと美穂ちゃん、それに小川さんだろう。その三人がクラスに固まってくれていると考えればそう悪いメンバーではないのだ。

 しかし俺達四組と違って男子が強いクラスもある。それが本郷のいる一組である。

 学校一の脚力を持つ本郷を始めとして、運動クラブで活躍している子が一組にはけっこう多いのだ。間違いなく一番のライバルだろう。

 だがリレーは総合力だ。いくら速い連中がいるとはいえ全員というわけじゃない。

 最初は瞳子ちゃんがリードを作ってくれていたが、葵ちゃんは何人かに抜かれてしまった。それでも小川さんが再びトップ争いできるところまで持ってきてくれた。

 抜かし抜かされる度に周囲が盛り上がる。みんな一所懸命がんばっていた。

 

「なあ高木」

「なんだよ本郷?」

 

 バトンが渡る度に順番が迫ってくる。同じアンカーである本郷は暇なのか話しかけてきた。

 

「今日は勝たせてもらうからな」

 

 にっと爽やかスマイルを浮かべる本郷。全国で活躍したらしいサッカー少年はここでも相変わらずだった。

 こういうのも青春っぽくていいな。なんて考えてしまうと口元が緩んでくる。それを隠すように本郷から顔を逸らしながら返事した。

 

「こっちこそ負けないからな」

 

 四組は美穂ちゃんにバトンが渡る。次はアンカーである俺なのでスタート位置に着いておく。

 二位だった美穂ちゃんは簡単に前を走る子を追い抜かしてトップに立つ。終盤を迎えたこともあって今までの比じゃないくらいに盛り上がる。

 

「お願い高木!」

「任せろ!」

 

 美穂ちゃんからのバトンをしっかりと受け取る。前には誰もいない。このままゴールできれば俺達四組の優勝だ。

 地面を蹴る。加速していく。風を突っ切る。

 トップとはいえ独走ではなかった。他のクラスもすぐにアンカーへとバトンが渡っていく。そう実況が事実を述べてくれた。

 背中からプレッシャーが突き刺さるようだ。みんな俺を追い越そうと追ってくる。足音が恐ろしく感じる。

 ここで勝つか負けるかが決まってしまう。負けるわけにはいかなかった。みんなのため、それ以上に俺の意地のために!

 プレッシャーが近づいてくる。走っているだけじゃない興奮が心臓の鼓動となって教えてくれる。

 トラックのカーブを曲がり、あとはストレートだけ。ゴールテープが見えた。

 けれど、見えたのはゴールテープだけじゃなかった。視界の端で誰かが走っている。本郷だ。

 同年代でも俺は速い方である自負がある。それでも本郷の脚力には勝てる気がしない。それほどには差を感じてしまっていた。

 並ばれてしまえば抜かされるのはあっという間だろう。

 

「このぉぉぉぉーーっ!!」

「うおおおおおおーーっ!!」

 

 最後の力を振り絞る。本郷も必死の走りを見せた。

 互いに競い、勝ちなんて譲ってやらないと本気で思った。

 本郷が俺と並ぶ。ゴールはもうすぐだ。負けてやるもんかと前傾姿勢になった。

 

「俺の勝ちだぁぁぁぁぁぁーー!!」

 

 俺と本郷の声が重なった。ゴールテープを切った感触が確かに俺の胸にあった。

 

「おい、今のは俺の勝ちだったろ?」

 

 ゴールしてから本郷が確認する。呼吸が苦しいが教えてやらないといけない。

 

「いや、俺の方が速かっただろ。一着は俺だよ」

「待てよ高木。絶対俺の方が速くゴールしてたって」

「何言ってんだよ本郷。ほんのちょっとかもだけど完全に俺の方が速かったね」

 

 他のクラスもゴールしていく中、俺と本郷は睨み合う。男としてここは退くわけにはいかねえ!

 

「まあまあ二人とも。先生が話し合ってるみたいやから結果が出るまで待とう。な?」

 

 俺と本郷の間に佐藤が割って入る。佐藤の言う通り、先生が集まって審議中のようだった。

 自信がある俺は余裕の態度で待ってやる。本郷も余裕の表情を見せる。どっちが正しいかはすぐに結果が出るだろう。

 

「えー、ただいまの結果ですが……」

 

 結論が出たようで、一人の先生がマイクを持って口を開いた。俺は唇を笑みの形に作りながらそれを聞くのであった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 運動会が終わった。片づけも終えたのでみんな帰り支度をしていた。

 

「俊成、いい加減機嫌直しなさいよ」

「そうだよ。優勝したんだからいいじゃない」

 

 瞳子ちゃんと葵ちゃんが俺をなだめようとしてくる。別に機嫌を悪くした覚えはないんだけどね。

 

「別に……、ただ俺が絶対に勝ってたって思ってるだけ」

「めちゃくちゃ気にしているじゃない」

 

 瞳子ちゃんが呆れたと言わんばかりの表情を浮かべる。なんか納得できない。

 結局、俺と本郷は同着一位ということになった。元々の得点がリードしていたのでそのまま四組の優勝が決まったのである。

 せっかくだったら完全勝利を収めたかったものだ。引き分けというのは締まりが悪いというかね。なんか決着がついた気がしないのだ。

 

「でも、トシくんのそういう顔を見られて良かったかも。いい思い出になったよ」

「そ、そういう顔ってどんな顔だ?」

 

 まさか変顔してたわけじゃないよな? なんか不安になってきたぞ。

 

「そうね。今日は本当に楽しかったわ」

 

 瞳子ちゃんが表情を緩ませる。葵ちゃんの顔も優しいものだった。

 夕焼けに照らされて二人に朱色が加わっている。美しく、とても写真映えのする光景だと思った。

 パシャリ、とカメラのシャッター音に俺達は反応する。見れば葵ちゃんのお父さんがカメラを構えていた。

 

「いいもん撮れたぜ。じゃ、帰るか」

 

 葵ちゃんのお父さんはマイペースな調子で荷物を運んでいく。俺達は顔を見合わせると、笑いが込み上げてきた。

 後でさっきの写真をもらえるように交渉しよう。なんてことを考えつつも、無事に小学生最後の運動会を終えたのであった。

 

 




騎馬戦を描写しようと思ったけど今回の話は他の方が大切なのではしょっちった。たぶんやってない種目含めてこれから先の体育祭でまたやるかもです(たぶんね)


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81.幼馴染とのデート【挿絵あり】

素浪臼さんから葵ちゃんと瞳子ちゃんのイラストをいただきましたー! 感謝ですぞー!!


【挿絵表示】





 映画館の光り輝くスクリーンに映し出されるのはラブロマンス。顔が紅潮して胸がドキドキしてしまう。

 

「あっ」

 

 手が触れる。反射的にお互い引っ込めてしまった。

 二人で映画館に来た。同じものを観ているけれど、同じような気持ちを抱いているかはわからない。

 それでも、共有しているという事実がとても嬉しかった。

 

「……」

 

 なんとなく、とくに理由もなく隣を見る。ちょうど目が合ってしまい、別に恥ずかしさを感じなくてもいいのに心が焦った。

 

「……」

 

 正面を見る。物語はどんどん盛り上がっていて、私の気持ちも盛り上がっている気がした。胸のドキドキは本当に映画のせいだけなのかな。なんて……。

 本日、私は瞳子ちゃんと映画を観ています。……なんでこんな状況になったんだっけ?

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 十月十一日。その日は瞳子ちゃんの誕生日だ。

 誕生日会をするのも毎年のことなのでサプライズも何もない。トシくんと瞳子ちゃんと三人でいる時に誕生日の話題になった。

 

「もうすぐ瞳子ちゃんの誕生日だね。何か欲しい物とかあったりする?」

 

 トシくんがストレートに尋ねる。いくらサプライズがないとはいえ真っ向勝負過ぎじゃないかな。

 

「えー? うーん……、俊成が選んでくれた物だったらなんでもいいんだけど」

 

 そうは言いつつも瞳子ちゃんから期待感みたいなものが漏れ出ている。わかりやすいように見えるんだけど、トシくんは気づいていないみたい。うーんトシくん……。

 

「だったらさ、トシくんといっしょに誕生日プレゼントを選びに行けばいいんじゃないかな。私の時もいっしょに買いに行ったし」

 

 その間、私はケーキ作りをがんばろうかな。瞳子ちゃんに喜んでもらえるようなケーキを作りたいな。

 私の提案にトシくんは「そうだな」と頷く。けれど瞳子ちゃんの方は眉を寄せて難しい問題と向かい合ったような顔になった。

 

「……ううん。あたし葵にプレゼント選びに付き合ってもらうわ」

「え、私?」

「そうよ。ほら、女同士の方が気兼ねなく買い物できるでしょ?」

 

 それはそうかもしれないけれど……。トシくんも「そりゃそうだよね」なんて言ってるし。

 でもせっかくトシくんと二人きりになれるのに……。困惑を顔に出さないようにするのが大変だった。

 

「葵、そんなわけだから今度あたしとデートよ」

 

 満面の笑顔の瞳子ちゃん。どうして誕生日なのにトシくんとじゃなく私となんだろうか? 困惑が抜けないまま、頷くだけで精一杯だった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 と、そんなやり取りがあって私は瞳子ちゃんとお出かけすることになったのだ。

 目的地は前にトシくんとデートをしたショッピングモールである。瞳子ちゃんといっしょに電車に乗って向かう。

 瞳子ちゃんの服はカジュアルなパンツルック。わかっていたけどすごくかっこ良くてかわいい。ここまで似合っているのは瞳子ちゃんだからなんだろうなって憧れの目で見てしまう。

 

「葵がワンピースを着ると高貴なお嬢様に見えるわよね」

「え? そ、そうかな……」

「あたしは葵のかわいらしいところがとても羨ましいわ」

 

 瞳子ちゃんは私を見つめながら平気でそんなことを言う。私だって瞳子ちゃんがとても羨ましい。彼女みたいになりたいなって思っているのにな。

 

「あの二人どっちも美少女だよね。レベル高くない?」

「あれ? あの子達前に男の子とデートしてなかった?」

「男に愛想つかして女同士仲良くなっちゃったんじゃないの」

「そうかも。あの男の子って顔は普通だったもんね」

 

 電車に乗って揺られていると、好き勝手な会話が耳に入る。どうやら高校生の集団みたいで、制服を着たお姉さんが私と瞳子ちゃんを観て勝手な想像を膨らませているみたいだった。

 ちょっとカチンとくる内容があって抗議したかったけど、瞳子ちゃんが目で「放っておきなさい」と伝えてくるので黙って耐えた。大人だ。

 ショッピングモールに辿り着いて最初に向かったのは映画館だった。買い物じゃないの? と思ったけど、今日の主役は瞳子ちゃんなので好きなところに行ってもらえたらいいかなといらないことは言わないことにした。

 

「映画良かったわね」

「だねっ。私あのヒロインを追いかけるシーンが好きかも」

「わかる! あたしもドキドキしちゃったもの」

 

 映画館を出てからは喫茶店で感想を言い合った。私も瞳子ちゃんも満足していて語っていると時間を忘れてしまうほど楽しかった。

 でも今日は瞳子ちゃんのプレゼント選びに来たのだ。時計を確認してあまりの時間経過の早さに焦った声を出してしまう。

 

「あっ、もうこんな時間。そろそろプレゼント選びしようよ」

「ううん、別にいいわ。今日は葵とデートしたかっただけだから」

 

 そう言って微笑む瞳子ちゃん。私は首をかしげてしまうことしかできない。

 私とデートしたかっただけってどういう意味だろう? やっぱりプレゼント選びは口実で何か他に用があるのだろうか。

 瞳子ちゃんは微笑んだまま席を立つ。

 

「だから、これから別の場所に付き合ってもらうわ」

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 思い出すのはあの時のこと。今でもたまに夢に見てしまう嫌なこと。

 瞳子ちゃんが川に流されていなくなってしまう。それを追って飛び込んだトシくんもいなくなってしまう。

 大切な人がいなくなってしまう現実。そう、それは確かな現実で、心が欠けてしまうような喪失感を味わったんだ。

 それから先はただ必死だった。気がついたら二人が助かっていて、安心して、思い出したかのように怒りが込み上げてきた。

 私は大切に思ってほしかった。トシくんも瞳子ちゃんも、自分自身のことを大切にしてほしいと心の底から思っていたんだ。

 なのにトシくんは自分を大切にしてくれなかった。前だって他人を助けるために自分を傷つけていた。

 それはトシくんのかっこ良いところだと思う。あの時だって瞳子ちゃんを助けるためだってわかっていた。それでも許せなくて……それが私の自分勝手な感情からくるものだとわかってしまったから自分が嫌になってしまった。

 

 ――という他人には知られたくないような内心を、私は夕方の公園で瞳子ちゃんに吐き出してしまっていた。

 

「ずるいよ瞳子ちゃん。私こんなこと言うつもりなかったのに……」

 

 もう瞳子ちゃんには隠しごとなんてできないのかな。瞳子ちゃんが聞き出すのが上手なのか、それとも私の口が軽いだけなのか、なんだかわからなくなってしまう。

 

「隠しきれない葵が悪いのよ。様子がおかしかったら気になるわ」

 

 隣り合ってベンチに座る瞳子ちゃんが足を組む。そんな仕草も様になっている。マネしようと足を浮かせようとして、今日の着ている服を思い出して諦めた。

 

「……葵が話してくれたんだから、あたしも隠してた気持ち、話すわね」

 

 瞳子ちゃんは少しだけ恥ずかしそうに、自分の秘密を打ち明けてくれた。

 

「……あたしね、葵にピアノで負けたって思ってからずっと自分が勝てるものを探していたの」

「え?」

 

 それは初めて聞くことだった。

 最初は瞳子ちゃんが通っているピアノ教室に私も通わせてもらった。たぶん羨ましかったってだけで同じことをしようと思ったんだ。

 瞳子ちゃんがピアノをやめた理由はもっと水泳をがんばるから。それだけしか聞いていないし、私が瞳子ちゃんに勝った憶えなんてない。

 

「そんなこと――」

 

 否定をしようとしたら頭を撫でられた。話終わるまで口を挟めなくなる。

 

「あたしは水泳をがんばろうって思ったわ。才能があるって言われたし、俊成にも負けなかったから自信があったの」

 

 遠くを見つめる瞳子ちゃん。過去を振り返りながら話しているのだろう。

 

「でも結局あたしは水泳で一番にはなれなかった。春姉は一番になれたのにあたしはなれなかった」

 

 一番になれないままピアノをやめて、水泳もやめた。それが心のどこかで引っ掛かっていて、ずっと悔しかった。そう瞳子ちゃんは言う。

 

「あたしは一番になったところを俊成に見てほしかった。それができなくて、それでもかっこ良いところを見せたくて林間学校の時に川で無理な泳ぎをしちゃったのよ」

 

 申し訳なさそうな声色。実際にそう思っているのはわかっている。瞳子ちゃんは頭を下げた。

 

「何度も言うけど、心配かけてごめんなさい。それから助けてくれてありがとう」

 

 私が何かを言う前に、瞳子ちゃんは「だからね」と続ける。

 

「あたしのこと気にして俊成とまで距離を取らなくてもいいと思うのよ」

「え?」

「まさかとは思うけど、あたしを気遣っているつもりじゃないでしょうね?」

 

 と、瞳子ちゃん……、ちょっと目が怖いな……。

 

「別にそういうつもりじゃ……」

「じゃあなんでよそよそしい態度を取るのよ」

 

 瞳子ちゃんは私を逃すつもりがないみたい。顔を近づけてきて思わずのけ反ってしまう。

 誤魔化しは通用しない。それを許してくれる彼女じゃないのを知っている。

 

「そう、だね……うん」

 

 覚悟を決める。ここまできたら全部吐き出すべきだと思ったから。

 

「……私ね、トシくんと瞳子ちゃんどっちも大切なの。それがあの時に痛いほどわかって、どっちにもいなくなってほしくないって思ったの」

 

 あの光景は悪夢のようだった。もうあんなのは二度と見たくない。

 

「トシくんだったら瞳子ちゃんを守ってくれるし……。それで二人がいっしょにいてくれたらいいかなって。そうしたら二人ともいなくなったりなんかしないって思った」

 

 トシくんは瞳子ちゃんを大切にしてくれる。そう確信できる場面を見て、胸がズキリと痛んだ。

 

「……葵」

 

 瞳子ちゃんの両手が私の頬に触れる。ちょっとだけひんやりした手。そんな感想を抱いていると、むにーと頬を引っ張られた。い、いきなり何を?

 

「ほ、ほうほひゃん?」

 

 頬を引っ張られているせいでまともな言葉にならない。痛いとまでは言わないけれど、手を離してくれる様子はなかった。

 

「別に葵に他に好きな人ができただとか、俊成のことが嫌いになったっていう理由ならあたしは何も言わない。でもね、あたしのせいで身を引くのなら許さないわ」

 

 青い瞳が怒りを表している。彼女の綺麗な瞳が揺れていた。

 

「そんなの、あたし自身を許せるわけがないじゃない……」

「ほうほひゃん……」

「葵はいいの? 何もしないで俊成を諦めて、それで本当にいいの?」

 

 トシくんを諦める。トシくんが私を見てくれなくなる。想像しただけで心臓が掴まれたみたいに苦しくなった。

 そんなこと簡単に想像できたはずなのに。瞳子ちゃんが言葉にしてくれるまで私はちゃんとわかっていたわけじゃなかったんだ。

 瞳子ちゃんの手が離れる。私の目をじっと見つめてきて、私の心の声を聞こうとしているみたいだった。

 

「嫌……。私、やっぱりずっとトシくんといっしょにいたいよ……」

 

 瞳子ちゃんが頷く。知っているって言っているような頷き。

 

「あたしもよ。俊成が誰かを選ぶまで絶対に諦めたくないわ」

 

 それにね、と瞳子ちゃんが続ける。

 

「葵が俊成とあたしを大切に思ってくれるように、あたしだって葵が大切なのよ」

 

 真っすぐな瞳でそんなことを言われて、ちょっとだけ顔が熱くなる。

 瞳子ちゃんは悪戯っぽくニヤリとした笑みを作る。

 

「だから、振られるならちゃんと振られなさい。そうしたらあたしは俊成と結婚するわ」

「それは頷けないよ。だってトシくんと結婚するのは私だもん」

 

 ニッコリと笑顔で言い返す。瞳子ちゃんは怒るでもなくただ楽しそうに笑った。

 

「それでこそ葵ね」

 

 そう言われて、私は自分らしくいきたいのだとわかった。自分らしくあれるのだと思ったら、心の底に溜まっていたものがスッキリと洗い流せたような気持ちになった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「俊成ってあたし達を子供扱いしているところがあるのよね。それがたまにイライラするわ」

「だよね! 私なんか体育の時はいつも心配されてるの。あの心配は全然嬉しくないよ!」

「組体操は特にそうだったものね。チラチラ見てるのすぐにわかったもの」

「まるでお父さんみたい。トシくんだって子供なのに!」

 

 帰り道はトシくんの話で盛り上がった。本人の前では言わないようなことでも瞳子ちゃんとなら気兼ねなく話せた。

 

「……今日はありがとうね瞳子ちゃん」

「いいわよ別に。あたしももやもやしてたしね。それに葵はあたしのライバルだもの。気遣いなんてされたくないわ」

「ライバル、か……。そうだね、私と瞳子ちゃんはライバルだもんね」

 

 くすくすと笑ってしまう。瞳子ちゃんにライバルって言ってもらえただけで嬉しくてたまらない。

 私は瞳子ちゃんが羨ましい。それは私に持っていないものを彼女はたくさん持っているから。

 でもそれは瞳子ちゃんも同じように思っていた。私を羨ましいと思っていたんだ。きっと私も瞳子ちゃんに持っていないものを持っているのだから。

 それでも、わざわざ私に厳しくて優しい言葉をかけてくれる。それは確かに瞳子ちゃんのすごい部分だと思う。

 

「もし瞳子ちゃんが男の子だったらものすごくモテモテになりそうだよね」

「またそういうこと言う。それでも葵は俊成がいいんでしょ?」

「えへへ……うん」

 

 小さく頷く。夕日では誤魔化せないくらい顔が赤くなっているのがわかってしまう。

 正直に正々堂々と。もう自分の気持ちに嘘はつかないようにしていこう。自分のためにも、瞳子ちゃんのためにも。

 瞳子ちゃんの家に到着する。玄関のドアを開けると誕生日会の準備をしていたトシくんが出迎えてくれた。

 

「二人ともおかえり。ご飯の用意は出来てるよ」

 

 トシくんが柔らかい笑顔で「おかえり」と言ってくれる。なんだか気持ちが抑えられなくなって、気づけばトシくんを抱きしめていた。

 

「え、え!? 葵ちゃんいきなりどうしたの!?」

「葵! 今日はあたしの誕生日なんだから気を遣いなさいよ!」

 

 さっき気遣いなんていらないって言ったばかりなのにね。まったく瞳子ちゃんはわがままだなぁ。

 離れない私に対抗するように瞳子ちゃんもトシくんに抱きついた。それから先は奪い合うようにトシくんを抱きしめ合った。

 もう余計なことは考えない。我慢するのは瞳子ちゃんにも失礼だから。だからこの気持ちに正直になろう。

 大切な人を大切にしたいのなら、わたしがしっかりすればいいんだ。今日の瞳子ちゃんみたいにかっこ良くなろう。そう決意を胸に秘めた。

 

 



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82.本当にキスを待っているのは……

 学芸会の時期がやってきた。

 六年生の俺達は劇をするのだ。その内容は「白雪姫」である。定番と言えば定番だが、一般的な流れの物語では終わらない。なぜなら小学生の劇ではアレンジが加えられるものだからだ。

 

「男女逆転させたら面白いんじゃない?」

 

 小川さんのそんな不用意な一言で方向性ががらりと変わってしまったのだ。面白いことに目がない小学生諸君はその意見に賛成してしまったのである。

 人数が多いこともあって役割はいろいろと振り分けられている。役以外にもナレーションやライトを当てる係、舞台セットを準備したりと様々だ。

 俺は裏方でよかったのにな。そう思っていたのに小川さんの再びの不用意な言葉が投げられた。

 

「高木くん、白雪姫やったらどう?」

 

 投げられたのは爆弾だったのかもしれない。

 その提案に反応したのは葵ちゃんと瞳子ちゃんだった。すぐに二人そろって王子役に立候補した。

 誰も二人には逆らえない。必然的に俺の白雪姫役は決定されてしまったのだった。誰得だよ……。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「高木くん似合ってるじゃない!」

「……そりゃどうも」

 

 ケラケラと笑いながらの小川さん。絶対面白がってるだけだよね?

 学芸会当日。俺は白雪姫の服とウィッグを身につけていた。形だけならそれっぽく見えなくもないのかもしれないが、ちょっと鏡で見るのは躊躇われる。

 

「トシくんかわいい!」

 

 冗談でもなんでもなく、葵ちゃんは本当にそう思っているようだ。なんか目が輝いて見える。

 そう言う葵ちゃんは王子様の格好をしている。男装しているのにこれまたかわいく見える不思議。まあ葵ちゃんだしね。

 誰が準備したのか、白雪姫といい王子様といい、なかなか立派な物を用意したもんだ。これなら余計に葵ちゃんか瞳子ちゃんに白雪姫をしてもらいたかったな。二人なら文句なしに似合っていただろう。

 

「あら俊成、似合っているじゃない」

「ほわぁ……」

 

 俺の目の前に王子様が現れた。

 瞳子ちゃんは銀髪を上手くまとめて帽子の中に入れているようだ。スレンダーで手足が長いので王子の恰好がよく映える。絶賛成長中の胸が気にならないほどのイケメンっぷりである。かっこ良い……。

 俺がぽけーと見つめていると、猫目のブルーアイズが吊り上がる。

 

「何よ。俊成はあたしのこと男っぽいって思っているわけ?」

「えっ!? い、いや、そういうわけじゃないよ! 確かにかっこ良くてまさに王子様って感じだけど……」

 

 しまった! あらぬ誤解をさせてしまったようだ。かっこ良いとは思ったけどそれは決して瞳子ちゃんが女らしくないっていう意味じゃなくてですね……、あー! なんか上手い言葉を思いついてくれないかな。

 瞳子ちゃんはフンッとそっぽを向いてしまった。完全に怒らせてしまったか。やばい、どうしよう……。

 俺は瞳子ちゃんの肩を掴んでこっちを向かせた。

 

「瞳子ちゃんが男っぽいってことじゃないんだ。えーと……、瞳子ちゃんはかっこかわいいんだよ!」

「……何よそれ?」

「かっこ良くてかわいいんだよ。だからその、瞳子ちゃんは魅力的な女の子ってこと!」

「そ、そう……」

 

 瞳子ちゃんは顔を真っ赤にさせてうつむいてしまう。やっぱりかわいい。

 

「ねえねえトシくん! 私はどうかな?」

 

 葵ちゃんが割り込むように俺の正面に立った。ニコニコとした笑顔が俺を逃がしてはくれない。

 

「葵ちゃんは……」

 

 視線を走らせて葵ちゃんの姿を上から下まで確認する。

 瞳子ちゃんと同じ王子様の格好をしている。髪を二つ結びにしていていつもとは印象が違う。だけどそれはかわいらしさの方向転換というだけでかわいいことには変わりなかった。というかかわいい。

 こうして見てみるとやはりと言うべきか、葵ちゃんは王子様役よりもお姫様タイプの役が似合っているんだよな。今からでも俺と代わってもらって瞳子ちゃんの相手役になった方が舞台として盛り上がるのではなかろうか? うん、想像したらとんでもない反響がありそうな気がしてきた。

 

「葵ちゃんは王子様よりも白雪姫がよかったかな」

「それって、この格好の私が似合わないってことかな?」

 

 気づけば葵ちゃんの笑顔の圧迫感が増していた。俺また何か間違えちゃいました?

 しかし、葵ちゃんははっとした表情になると、なぜかもじもじと指を突っつき合わせる。

 

「……それとも、白雪姫の私に目覚めのキス、したいとか?」

 

 言い切ってから葵ちゃんは頬をぽっと朱に染めた。恥じらいと期待感が見て取れてしまう。

 自然と彼女の唇に視線が吸い寄せられる。リップを塗っているかのようにぷるんとしていて瑞々しさを強調しているみたいだ。立体感があってとてもセクシーに見える。

 あまり意識していない部分だったから気づかなかったけど、唇一つ取っても葵ちゃんが着実に女性へと成長しているのだと感じられた。

 

「俊成、何顔を赤くしているのよ」

 

 冷たい瞳子ちゃんの声が突き刺さる。そこでようやく葵ちゃんの唇に釘づけになっている自分に気づいた。

 

「い、いや……これはやましい心があるわけではなくてですね……」

「ふーん……」

 

 い、言い訳にならねえ……。瞳子ちゃんの冷たい眼差しが心に突き刺さる。まだ目を吊り上げて怒ってくれた方がマシに思えてしまう。

 

「みんなー。通し練習するから集まってやー」

 

 佐藤の間延びした声に助けられる。ナイスタイミングだ!

 俺達六年生の劇の順番は午後からである。そのため午前中はフリーになっている。しかしそれは暇な時間というわけではなく、本番に向けて最後の確認作業の時間として使われていた。

 最後の通し練習。俺は出番がくるまで待機させてもらうことにした。そんな俺へと小川さんが近づいてくる。

 

「うくく……。お姫様は大変だね」

「小川さん笑い過ぎだから」

 

 小人役の恰好をした小川さんが俺の姿を見て笑いを堪えている。元はと言えば小川さんの発言で女装するはめになったのだ。ちょっとくらい怒ってもいいんじゃないかな。

 

「そんな顔しないでよー。それに、白雪姫役なんて高木くんにぴったりじゃない」

「はあ? そんなわけないだろ」

「いやいや、王子様にキスされるのを待っているところなんてそっくりだと思うけどなー」

 

 俺が王子様にキスされるのを待ってる? 気持ち悪いこと言うなよ。

 そう反論しようとしたのに、小川さんの次の言葉に固まってしまった。

 

「私はあおっちときのぴー、どっちも好きだからどっちかに肩入れする気はないけどさ。でも、高木くんが待ってる立場ってのはなんか違うと思うよ」

 

 息が詰まるような指摘だった。

 小川さんは「私は関係者ではございませんが」と冗談混じりに言ってセリフの練習へと戻った。残された俺は立ち尽くしてしまう。

 

「あたしも小川に賛成」

「わっ!? み、美穂ちゃん?」

 

 突然背後から美穂ちゃんに話しかけられて驚いてしまった。振り向けば木にコスチュームチェンジを果たした美穂ちゃんの姿があった。作り物の木の幹に顔だけが出ていてシュールだ。

 

「同じ小学校でいられるのもあと半年もない。中学校が同じだったとしてもそれから先もいっしょにいられる保証もない」

 

 美穂ちゃんは無表情のまま淡々と続ける。

 

「あたし、けっこう根に持つタイプだから。高木がキスされるのを待ち続けるだけの奴だったら、怒るかもしれない」

「は、はい……」

 

 無表情だけど有無を言わせない迫力があった。木の格好だけど……。

 美穂ちゃんはしばらく俺をじっと見つめてから、背景役の子達が集まっているところへと行ってしまった。圧迫感が消えてほっと息を吐く。

 

「わかってる、つもりなだけなんだよなぁ……」

 

 視線を向けた先では葵ちゃんと瞳子ちゃんが台本を見ながら互いの演じる姿を確認し合っていた。集中しているようで、そんな俺の視線には気づいていないようだ。

 ずっと前から、できるだけ早くどちらかを選ばなければと考えていた。だけど二人のうちどちらかを選ぶことができなくて、ここまできてしまったのだ。

 三人でいっしょにいるのが心地良い。二人ともかわいくて良い子で、俺には勿体ない女の子だと思う。

 

「ずっと子供のままでいられたら楽なのかもしれないのに……」

 

 俺の思わず出てしまった情けない言葉は、きっと誰の耳にも届かなかった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「昔々、あるところにとても綺麗で、そして嫉妬深いお妃様がいました」

 

 劇の始まりは佐藤のナレーションからだった。なんか関西弁じゃない佐藤って珍しいの一言では片づけられないくらいの違和感があるな。

 ナレーションは入れ替わりが激しいのもあってか冒頭部分で佐藤の役割は終わった。いい役を選んだな。

 

「鏡よ鏡。この国で一番美しいのは誰だい?」

 

 妃役の本郷が鏡に向かってセクシーポーズを取る。けっこうノリノリだな。観客席から笑いが上がる。

 それにしても女装が似合ってるな。バカにしているとかではなく、素直に綺麗だと思ってしまうのは本郷がイケメンだからか。俺がいじられるのとはわけが違う。

 アレンジしたところといえば、まず王子が白雪姫の幼馴染という設定の追加だろう。同じ役でもパートごとで人が入れ替わる。出番を増やせば王子役になれる人が増えるということでそんな設定となったのだ。

 劇は滞りなく進行していく。

 小人の家がお菓子の家だったり、小人が七人ではなく十四人に倍増していたり、小人が狩人と戦ったりと様々なアレンジが加えられていた。ていうか小人関連多いな。

 まあなんだかんだありながらも白雪姫が毒りんごを食べて眠りについてしまうのは変わらない。あとは王子様に目覚めのキスをしてもらえればハッピーエンドだ。

 そして俺の出番はその眠っている状態からである。キスをしてもらって目を覚ます。それからちょっとセリフを言えばめでたしめでたしだ。

 舞台がラストへと動く。照明が落とされてそれぞれの位置に着いた。

 ぱっと照明がついて明るくなる。眠っている設定の俺はまぶたを閉じているが、それでも眩しさを感じてぎゅっと目を強く閉じてしまう。

 寝たままでお話は進む。目を覚まさない白雪姫を見て小人達が泣く。そこへと通りかかる王子様。

 

「おおっ、なんて美しいお嬢さんなんだ。僕は隣の国の王子。君達はどうして泣いているんだい?」

 

 瞳子ちゃんの声だ。ちなみに最初の幼馴染設定の王子様とは違う王子様である。わけわからなくなりそうだが、本筋を考えればこっちの王子が正しい。

 小人達からかくかくしかじかと事情を聞いた王子が目覚めのキスをしようとする。

 目を閉じたままでも瞳子ちゃんが近づいてくるのがわかる。俺の頬に瞳子ちゃんの手が添えられてビクリと震えてしまった。

 

「待て! そこで眠っている白雪姫は僕のフィアンセだ!!」

 

 瞳子ちゃん王子の行動を止めるほどの大声。声の主がスポットライトを浴びながら登場したのだろう。頬に添えられた手が遠のいていく。

 声の主は幼馴染設定の葵ちゃん王子である。本番になると凛々しい声になるんだなと感心させられる。

 

「なんだと! 彼女と結婚するのは僕だ!!」

 

 ここで唐突に王子二人の決闘が始まった。誰だよこんなアレンジ考えた奴。

 しかし葵ちゃんと瞳子ちゃんの演技が良かったのか、観客は喜んでいるようだった。子供は決闘とか好きそうだしね。

 そしてついに決着。勝ったのは葵ちゃん、つまりは幼馴染の王子である。

 ゆっくりと近づいてくる気配がする。もちろんフリなのだが、目覚めのキスをされてから俺のセリフだ。

 目を閉じていても影が差したのがわかる。葵ちゃんの顔が近づいているのだろう。演技とわかっていてもドキドキしてしまう。

 

「トシくんは……本当はどっちにキスされたかった?」

 

 胸を掴まれた想いになって大きく目を見開いてしまう。目を開けた先では葵ちゃんは悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

 

「トシくん、セリフ」

「え、ああ……。ふ、ふわぁ~、よく寝たわ」

 

 葵ちゃんに小声で指摘されて自分のセリフを思い出す。自分でも気づかずに固まってしまっていたようだった。

 頭からふっ飛びそうになっていたセリフをかき集めてなんとか役をこなした。最後は葵ちゃん王子につれられて小人達とお別れをする。

 手を振って何度も「さようなら」と言った。そうしてステージの端まで手を引かれていく。

 最後はナレーションの「めでたしめでたし」の言葉で締められた。幕が下りて拍手が鳴り響く。

 葵ちゃんに手を引かれながらステージの端に行くまで、俺のドキドキは収まってくれなかった。

 

「トシくんお疲れ様」

「うん……、葵ちゃんもお疲れ様」

 

 どうしてあんなことを言ったのか? そう尋ねようとして、俺がそう聞くのはとてもずるいことに思えて口を閉じた。

 考え事をしていて油断したせいか、葵ちゃんに唇を指で突っつかれてしまう。

 

「ぷあっ!? な、何?」

「別に急かしてるわけじゃないからね。私達はトシくんが答えを出してくれるまで待ってる。……それだけ」

 

 葵ちゃんは天使のような微笑みを見せてから片づけへと走って行ってしまった。俺も動かなきゃいけないのに、唇を押さえたまましばらく動けずにいたのであった。

 

 



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83.再会と演奏と

あの子を覚えているかな? 忘れたとか言ったら泣いちゃうから気をつけてね(前フリ)


 音楽とは芸術である。音を楽しむと言えば簡単そうに聞こえるかもしれないが、実際のところは一定のレベルが求められる。

 もちろん俺にそんな技術は備わっていない。がんばってもできないことってあるんだよ、うん。

 がんばってもその一定の実力を手に入れるのは難しい。そう思ったのは俺ができなかった以上に、葵ちゃんと瞳子ちゃんのレベルの高さを目の当たりにしたからだ。

 ピアノもそうなのだが、他の楽器でも自分の手足のように演奏してしまえる二人なのだ。二人との隔絶されたレベルの差というものを思い知った俺は「バンドやろうぜ!」などとギター片手にのたまうことはできなくなっていた。

 俺がそんな風に思い知らされたように、意外かもしれないが瞳子ちゃんも葵ちゃんとの実力差に敗北感を抱いていたのだ。

 思い返せば、最初はピアノ教室に入り立ての葵ちゃんを純粋に応援していた瞳子ちゃんだったけれど、歳を重ねるごとに素直な応援の言葉は少なくなっていたように思える。ついには四年生になる前に通っていたピアノ教室をやめてしまったのだ。スイミングスクールが要因の一つだろうが、彼女の感情としての決断でもあったらしい。

 その決断が間違っているだなんて思わない。だって瞳子ちゃんが悩んで決めたはずだから。絶対に間違っているだなんて言わない。

 瞳子ちゃんが掛け値なしに認める実力を持った葵ちゃん。彼女が出場するピアノコンクールに、俺と瞳子ちゃんは応援に来ていた。

 

「今日は私のかっこ良いところ、ちゃんと見ていてね」

「もちろん。いつも通りがんばってね」

「葵は本番に強いんだものね。別にあたしは心配なんてしていないわ。……しっかりやりなさい」

 

 淡い青色のドレスを着た葵ちゃん。艶やかな黒髪をアップにまとめていて、お嬢様みたいな雰囲気をかもし出していた。

 会場に到着して葵ちゃんが着替えをしている間、瞳子ちゃんからピアノに対して抱いていた想いを打ち明けられた。いや、葵ちゃんに対しての想いか。

 知らなかった俺は彼女の告白に驚いてしまったのだが、本人はむしろ晴れやかな顔をしていたので余計なことは口にしないことにした。たぶん、瞳子ちゃんの中ではすでに消化した想いなのだろう。

 

「今年は素直に応援できそうよ」

 

 そう言って笑う瞳子ちゃんはまた少し大人になったのだろう。強いなと素直に思う。

 

「それにしてもだいぶ人が多いね」

 

 会場は人の多さに比例して賑やかだった。出場者の関係者だけじゃないようで、主催者側なのだろう。きっちりとした服装の大人をたくさん見かける。

 出場者であろう正装をした子供達の姿が見える。ドレス以外にもフォーマルな服装の女の子もいるんだなと頭の中で感想を述べてみる。

 

「去年よりも大きなコンクールだもん。審査の人の中には外国人の人もいるんだって聞いたよ」

「へぇー。すごいんだね」

 

 話を合わせて頷いてはみたものの、どれだけすごいかはわかってなかったりする。それでも外国人がいるってだけでなんとなくすごいと思ってしまうのは島国の日本人らしい発想に思えてならない。

 去年までは会場は小さめで、観客もそう多くはなかった。しかし、この人の多さを考えれば会場が大きくなったにも拘わらず、観客席がいっぱいになってしまいそうに思えた。

 去年まではなかった予選を通過して、今日の本選を迎えている。

 この日のために、最近の葵ちゃんはピアノの練習に力を入れていたのだ。そのがんばりを知っているだけに良い結果で終わってくれればと願わずにはいられない。

 

「葵、これから本番なんだからあまりはしゃがないようにね。せっかくのドレスなんだから」

「はしゃいでなんかないよ。私ちゃんと落ち着いてるもん」

 

 葵ちゃんのお母さんが我が子の姿をチェックする。舞台が大きいものだから心配になっているのだろう。なんだか子供よりも親の方が緊張しているように見えてしまう。

 

「葵ちゃんがんばってね」

「楽しんでくるのデスヨ」

 

 俺と瞳子ちゃんの母親も葵ちゃんの応援をする。ちなみに父親勢は全員不参加である。残念ながら三人とも仕事だ。

 葵ちゃんのお父さんなんて「仕事したくない!」とちょっと駄々をこねたそうだ。……ちょっとか? 普段はダンディーな雰囲気なのに我が子に関してはちょっとどころじゃないほどの溺愛っぷりを見せつけてくるからなぁ。

 

「そろそろあたし達は観客席に行きましょうか」

 

 瞳子ちゃんが時計を確認して言った。別れてしまう前に葵ちゃんに一言でも多く応援の言葉を口にしようとした時である。

 

「トシナリ!!」

 

 いきなりの俺を呼ぶ大きな声に飛び上がりそうになってしまった。

 言葉のニュアンスが瞳子ちゃんのお母さんっぽいと思って彼女を見やる。しかし首をかしげられてしまった。どうやら違うようだ。

 だったら誰だ? と首を巡らせると、すぐにこちらへと走ってくる少女が視界に入った。

 金髪をなびかせる少女が目前でブレーキをかける。顔を上げると見覚えのある彫の深い顔が目に入った。

 

『トシナリ! トシナリよね!! わたしよわたしクリスよ! 憶えてるでしょ?』

『クリス? 本当にクリスか! どうしてクリスがこんなところにいるんだ!?』

 

 彼女の興奮に当てられたかのように、俺も声が大きくなる。久しぶりだったけれど英語がスラスラと出てくれた。

 小学四年生の夏に出会った女の子、クリスが俺の目の前にいた。二年ぶりの再会である。

 初めて出会った頃から年上に見えていた彼女は、変わらず俺の数歩先を行くような成長を遂げていた。歳は同じはずなのに、高校生を間近にした中学生くらいに見える。

 

『本当に偶然ね! いいえ、これはもう運命的かも! やだ、わたし興奮しちゃってはしたない……』

 

 我に返ったクリスは恥じらいからか頬を紅に染める。成長の差なのか、仕草に艶めかしさがあった。

 俺も突発的な再会に興奮していたのだろう。クリスとの会話を楽しんでいた。

 

『それにしてもクリスはなんでここに? もしかしてコンクールに出るの?』

 

 クリスの恰好を改めて見てみると、黒のドレス姿だった。ドレスに詳しくはないが、そんな俺でも気合の入れようが見て取れた。

 

『そうなのよ。審査員の一人がわたしの親戚なんだけど、注目度が上がるから出ろって煩くって。まあ日本に来たかったしちょうどいいかなって思って参加させてもらったの』

 

 そんなんで出られるのか……。その審査員はどんだけ権力持ってんだよ。

 呆れながらも、そのおかげでクリスと再会できたのだと思うとまあいいかと想ってしまう。我ながら現金なものだ。

 

「トシくん? この人は誰かな?」

「ちょっと俊成。距離が近いんじゃないの」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんに腕を引っ張られる。入れ替わるようにして二人はクリスの前に出た。

 

『あなた達は?』

 

 クリスの言葉に葵ちゃんと瞳子ちゃんが揃って呻く。クリスの英語に臆してしまったのだろうか。難しくない言葉のはずだけど、反応が悪いように見受けられる。

 二人にはたまに英語教室で習った内容を教えたりしている。けれど、本場のネイティブな発音を前にしては上手く聞きとれないようだった。

 だが、言葉の壁を前にしても二人は引き下がらない。わからなくても絶対に退かないという意志を感じる。

 そんな二人を前にしてクリスはパンッと手を打った。にこやかな表情で言葉を発する。

 

「わたしは、クリスティーナです。よろしく」

「えっ!? 日本語?」

 

 クリスの日本語に葵ちゃんと瞳子ちゃんが驚く。あいさつ程度は話せるのは知っていたけど、前と違って発音のぎこちなさが解消されているように聞こえた。

 

「二人の、名前を、教えて、ください」

「あ……と、私は宮坂葵です」

「あ、あたしは木之下瞳子よ。……で? あなたは俊成のなんなの?」

 

 自己紹介をして緊張が解けてきたのか、瞳子ちゃんが切り込む。ぽぅとしていたクリスは噛みしめるように頷いた。言葉の意味を咀嚼していたようだ。

 

「わたしは、トシナリの、友達……」

 

 そう言ってクリスは頬を紅潮させる。彼女の熱っぽい瞳が俺を映した。

 ちょっとクリスさん? そんな意味深な反応したら誤解してしまうじゃないですかっ。

 案の定、葵ちゃんと瞳子ちゃんが同時に「どういうこと!?」と詰め寄ってきた。

 

「いやいや、言葉の通りだって。クリスとは四年生の夏休みに仲良くなったんだ。ただの友達だよ」

「私そんな話聞いてないんだけど?」

 

 葵ちゃんの笑顔が怖い。これから演奏が控えているんだから冷静にいこうよ。リラックスリラックス。

 

「アオイと、トウコはトシナリの、何?」

 

 聞き返すクリスの言葉に、二人はピタリと固まってしまった。

 もちろんクリスの言葉に棘なんか含まれてはいない。単純に聞かれたから聞き返したに過ぎない。

 

「私とトシくんは、その……友達……よりは特別で……えーっと……」

「俊成とは……別にまだそういう関係じゃないけれど……でも……」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんは顔をこれでもかと真っ赤にさせていた。そんな反応に俺まで顔が熱くなる。

 二人の呟きを聞き取ろうとクリスが耳を傾ける。それが追及されているように見えたのか、ついに葵ちゃんと瞳子ちゃんは弾け飛ぶように後ずさった。

 

「あ、葵ちゃんっ。ほらドレス着ているんだから激しい動きはしちゃダメだよ。もうすぐ本番なんだから落ち着いていこう、ね?」

「う、うん。……大丈夫、私は落ち着いてるよ」

 

 なだめようとして葵ちゃんの前に立つと、真っ赤な顔をしていた彼女の顔色はすーっとほど良い血色に戻っていった。言葉通り、落ち着きを取り戻したみたいだ。

 気づけばコンクールが始まる時間が迫っていた。懐かしいクリスとの出会いだったけれど、いつまでもここにいるわけにもいかない。

 

「トシナリ」

「ん?」

「わたしを、応援してね」

 

 クリスはバチンッとウインクして去って行った。様になっているなという感想を抱く。

 返事を聞く前に行ってしまったクリスの後ろ姿を眺めていると、顔を掴まれて葵ちゃんの方を向かされる。

 

「私の応援を、してね」

 

 静かに、けれどしっかりと強調する葵ちゃん。もちろん葵ちゃんの応援をする。しないわけがない。

 

「うん。がんばってね葵ちゃん。ちゃんと見ているから」

「私、絶対に負けないようにがんばるね」

 

 彼女の手が離れてようやく一息入れられた。顔が近いから息するのも躊躇ってしまう。

 

「「……」」

 

 何か嫌な視線を感じ取って振り向いてみれば、葵ちゃんと瞳子ちゃんのお母様方からじとーとした目を向けられていた。

 口を動かさずとも言葉が聞こえてくるようだ。「またか……」と。

 圧迫感に耐えられなくなって助けを求めて母親に目を向ければ、あっさりと目を逸らされてしまった。母様見捨てないでっ。

 

「早く席に行くわよ」

 

 親からの冷たい視線から守ってくれたのは瞳子ちゃんだった。俺の手を引いてこの場から逃がしてくれる。

 

「……」

 

 でも、心なしか足音がズンズンと聞こえるのは気のせいだろうか? それに握られた手が痛い気がするんですけどこれも気のせいかな?

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 司会の人が開演を告げる。注意事項を述べてからあいさつへと移る。

 観客席はほとんど埋まってしまっていた。俺が想っている以上に今回のコンクールは注目度が高いらしい。

 席に着くと瞳子ちゃんにクリスのことを洗いざらい話せとの圧力を受けた。言葉にしていないはずなのに尋問されている気分になり、俺は包み隠さず夏の思い出を語った。

 俺だってあれが今生の別れだと思っていたのだ。思わぬ再会にテンションが上がってしまったとしても、許してほしい……というのはダメですかね?

 事情を知った瞳子ちゃんは「まあ俊成だしね」と一言。一応、尋問が終わったという合図だと受け取る。

 

「あの子……、クリスティーナって言っていたかしら。お手並み拝見ね」

 

 トップバッターはクリスだった。司会の紹介で「クリスティーナ・ルーカス」というフルネームを初めて知った。

 彼女が姿を見せると観客から大きな拍手が広がる。外国人を珍しがっている子供の声が聞こえた。

 ライトに照らされて金髪が輝いているかのように見える。堂々としていて案外場慣れしているようだ。

 椅子の位置を調整してから座る。一度目をつむるとクリスは手を鍵盤に這わせた。

 

「すごい……」

 

 隣の瞳子ちゃんから思わずといった呟き。素人の俺ですら引き込まれてしまうほどの圧倒的な演奏力。

 ただのひいきなんかじゃない。クリスは確かな実力があったからこそこの場に呼ばれたのだ。

 繊細で滑らか、同い歳の小学生が弾いているとは思えない。

 そう思っていたのはほとんどの観客が抱いていたことなのだろう。クリスの演奏が終わると水を打ったような静寂となる。そして夢から覚めたかのように遅れて万雷の喝采が巻き起こった。

 これには認めざるを得ないようで、複雑そうな表情ながらも瞳子ちゃんは拍手を送っていた。俺もあまりの演奏に力いっぱい拍手していた。

 

「俊成、あの子何者なの?」

「いや、俺も数日遊んだだけだから詳しくは知らないんだ。ピアノやっているなんて今日初めて知ったし」

 

 頭をかいてそう返すしかない。クリスにこんな一面があるだなんてあの時は本当に知らなかったのだ。

 それからは本来の出場者の演奏が行われた。みんな上手なのだが、最初に演奏したクリスのインパクトのせいで言っては悪いがどの子も小粒に感じてしまった。これは明らかに順番を間違えているだろう。

 せめてクリスの順番が最後だったら。いや、どちらにしても最後で全部持って行ってしまっただろうか。それほどに圧倒的だったのだ。

 主催者は何を考えているのか。しかしクリスのおかげでレベルの高いコンクールにはなったのだろう。

 

「葵はこの次ね」

 

 プログラム表を見ながら瞳子ちゃんが言った。ようやく真打登場である。

 だけど、本人は意図せずであろう作ってしまったクリスの流れは厄介だ。ここまで演奏した子達はあまりの実力差に萎縮してしまっているようなのだ。そう瞳子ちゃんが言っていた。

 葵ちゃんのピアノは上手だ。彼女の演奏には心惹かれるものがある。

 それでも、クリスと比べると……。俺には答えられなかった。

 

「何心配しているのよ」

 

 俺の手に瞳子ちゃんの手が添えられる。葵ちゃんを心配してしまう心は彼女にはお見通しらしい。

 

「このあたしがどうしたって勝てないって思わせた葵の演奏よ。ぽっと出の女なんかに負けたりしないわ」

 

 まるで自分のことのように、瞳子ちゃんは誇らしげに胸を張った。

 瞳子ちゃんは葵ちゃんを信じている。きっと葵ちゃんも自分自身を信じている。

 だったら、俺が葵ちゃんを信じないわけにはいかないだろう。

 ついに葵ちゃんの順番が回ってきた。

 きっちりとしたお辞儀。ピアノへと向かう葵ちゃんの表情は真剣でありながら柔らかい。

 緊張して動きが堅くなる、という心配はなさそうだ。

 深く息を吐いたのがわかる。始まりを予感させた。

 

「おぉ……」

 

 誰の呟きだったのか。右から聞こえた気がするし、左から聞こえた気もする。はたまた前か後ろか、それとも俺自身だったのか。

 葵ちゃんの演奏は観客を魅了していた。心に訴えかけるような音の集合体。おそらく誰もが彼女に見惚れていただろう。

 指はそれぞれが別の生き物のように動いている。それでいてリラックスしており自然体の姿があった。

 まるで歌っているかのようだ。葵ちゃんの演奏が俺の心に響く。

 心が弾む。心が安らぐ。まさかピアノでこれほどまで心が動かされるものなのかと驚きを与えられる。

 演奏が終わるとクリスに負けないくらいの拍手喝さいが巻き起こった。何度も「ブラボー!」と連呼している人までいる。

 

「どう? すごいでしょ!」

 

 興奮気味に瞳子ちゃんが胸を張った。俺は何度も頷く。

 すごい。本当にすごい! すごいしか出てこないくらいすごい!!

 

「葵ちゃんってこんなにすごかったのか!」

「そうよ! 今さら過ぎよ俊成。葵はすごいのよ!」

 

 俺と瞳子ちゃんは大はしゃぎである。まあ母親勢も似たようなものなので許してもらいたい。

 全員の演奏が終了して結果が出る。葵ちゃんは文句なしでの金賞に輝いた。

 クリスはといえば、ゲスト扱いということで賞はもらえないようだった。それでも彼女の実力を疑う人なんてこの場にはいないだろう。

 

「アオイ、すごい!!」

「わっ!? クリスティーナさん?」

 

 ピアノコンクールが終わった後、クリスが葵ちゃんに目を輝かせながら迫っていた。

 どうやら葵ちゃんの演奏に感激したのだそうだ。熱心なファンのようにぐいぐいと迫っている。

 困り顔の葵ちゃんの意志が届いたのか、瞳子ちゃんが割って入る。

 

「ちょっと! 葵が困っているでしょ!」

「トウコですか。あなたがアオイ、教えてくれますか?」

「え? えぇっ?」

 

 ターゲットを変えたクリスは瞳子ちゃんに迫る。止まらないクリスに瞳子ちゃんもたじたじである。

 しかし話してみれば人懐っこい面を見せるクリスに、葵ちゃんと瞳子ちゃんは次第に仲良くなっていった。

 笑顔が増えていき、かしましくなる。また一つ、クリスの日本での思い出が増えたと思えば嬉しくなる。

 

「わたし、もう行かなければ、なりません……」

 

 そう名残惜しそうにクリスは肩を落とした。別れの時がきてしまったのだ。

 久々の再会。しかし次もまた会える保証なんてどこにもない。あの時のような寂しさが込み上げてくる。

 

「トシナリ」

 

 なのにクリスは微笑んだ。

 

「また会える、思う。二度あることは、三度ある、から」

 

 しっかりと発音を意識するように言葉を紡ぐ。まだ片言だけれど、クリスがどれだけ日本語を勉強しているかは伝わってきた。

 クリスは葵ちゃんと瞳子ちゃんに目を向けた。

 

「アオイ、トウコ。わたしもっと、日本語、勉強する。次に、会ったら、友達に、なってください」

 

 間違って伝わらないように。この出会いを大切にしたいという気持ちが伝わってくる言葉だった。

 

「クリスちゃん、私達もう友達だよ」

「そうよ。今度会う時は友達としていろいろ教えてあげるわ」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんの優しさにクリスは笑顔を浮かべた。目の端には薄っすらと涙が見えた気がした。

 クリスは俺の方へと顔を向ける。

 

「またね」

 

 今度は「サヨナラ」ではなかった。根拠は何もないはずだ。それでも、クリスはまた俺達と会えるんだって信じているのだ。

 親御さんにつれられ去って行くクリス。前と同じように見えなくなるまで見送った。

 思い出とともに寂しさが顔を出そうとする。俺はそれを必死で押し留めるのであった。

 

 




クリスさんゲストキャラとしての登場でした。……ゲスト?(前フリ)


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84.あくまで夢の話

瞳子ちゃん視点です。


 少女は一人だった。

 きらめく銀髪は誰もが目を奪われ、サファイアのような青い瞳は誰もが目を惹きつけられた。

 妖精じみた美少女。それでも少女の周りには人が集まらなかった。

 少女はその容姿に反して攻撃的だった。目つきは常に厳しく、近づこうとする者達を躊躇させた。

 それは少女の防衛本能だ。

 その珍しくも美しい容姿からか、昔からちょっかいをかけてくる者が多かった。少女はそれらに対して不快感で身を硬くし、そして撃退してきた。

 注目はされていた。なのに誰もが見て見ぬフリをした。

 誰も助けてくれないのなら自分でなんとかするしかない。幸い少女には自分自身を守るだけの力と度胸があった。

 身を守るため。そうやって少女は他人を遠ざけてきた。

 年月を重ねるごとに人との間に壁が出来あがっていく。それは段々と厚みを帯びていき、いつしか少女をすっぽりと覆い隠した。

 こうして少女は一人となったのだ。しかし、時折壁の向こう側に目が向いてしまう。

 そこには誰かといっしょにいる者達がいた。嬉しそうに、楽しそうに、幸せそうに。少女から見ても正の感情に彩られているのがわかった。

 眺めていると少女の冷え切ってしまった心でも思ってしまう。

 とても羨ましい、と。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「はっ……」

 

 目が覚めて体を起こす。汗をびっしょりかいていて気持ち悪い。

 

「何よ、まだ夜中の二時じゃない」

 

 時計を確認するとまだ起きる時間じゃなかった。もう一度眠ろうとして、汗で湿ったパジャマが気になった。

 季節は冬。このまま汗で濡れてしまったパジャマを着たままで寝るのは風邪を引いてしまうかもしれない。

 ベッドから降りる。床に触れた足があたしに寒さを訴えてくる。

 それにしても……。

 

「……変な夢」

 

 思わず言葉が零れる。

 なんだかよくわからない夢だった。知らない感情で胸が苦しくなった。何より俊成と葵がいないのに平然としていた自分が不自然で仕方がない。

 なんであたしが一人ぼっちになっている夢を見たのだろう? 何か未来でも指し示す意味でもあったのだろうか。そう考えてしまうのは昨日夢占いの話題で盛り上がったからだろう。それでこんな夢を見てしまったに違いない。

 だからさっさと忘れてしまうべきだ。そもそも夢なんて時間が経てば勝手に忘れてしまうものである。

 なのに、寂しさは消えてくれなくて、ドロドロとしたものが心の中に入ってこようとする感覚があった。

 

「俊成に会いたい……」

 

 無性にそう思った。ちゃんと俊成の存在を確かめたい。じゃないとこの変な気持ちが収まってくれそうになかった。

 着替えを済ませてベッドに潜り込む。ぬくもりに包まれたまま、早く朝になりますように、そう思いながら二度目の眠りについた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「おはよう瞳子ちゃん」

「おはよう俊成」

 

 いつものように笑顔であいさつをしてくれる俊成がいた。それだけで寒さで冷えていた体がぽかぽかしてくる。

 やっぱり夢は夢か。思った以上に安心して力が抜けていく。

 

「どうしたの瞳子ちゃん?」

 

 あたしの変化に気づいてくれた俊成が心配そうに駆け寄ってくる。嬉しいけれど、これくらいのことで心配させるわけにもいかない。

 

「そんな心配しなくてもいいわ。ちょっと立ちくらみしただけよ」

「それはそれで気になるんだけど……。体調が悪くなりそうだったらすぐに言ってね」

 

 俊成はあたしの隣を歩いてくれる。安心感とちょっとした幸福感で満たされていく。近くにいてくれるだけで大丈夫なんだって思えた。

 いつも通りに学校に行って、授業を受けて、休み時間を迎えた。

 俊成の顔を見て夢のことなんてもう気にならなくなったはずなのに。なぜかまだ心の中に残っている感じがした。

 誰かに話したい。じゃないとこの気持ちはすっきりしない気がした。

 

「変な夢?」

「そうなのよ。俊成と葵がいないのに普通に生活している、そんな夢を見たの」

 

 まずは葵に夢の内容を話してみることにした。

 葵は黙ってあたしの話を聞いてくれた。聞き終わる頃にはせつなそうな表情に変わっていた。

 

「なんだか嫌な夢だね」

 

 嫌な夢。そうかもしれないと、言われてから思った。

 

「夢の中のあたしはそれが普通だって思っていたのよね。なんだかそれが不思議」

「でも夢ってそんなものじゃない? あり得ないことでも目が覚めるまでそれが夢だって気づかないものだよ」

 

 言われてみればそうかと納得する。なんであたしはこんなにも気になっているのだろうか?

 

「私もたまに見るよ。トシくんと瞳子ちゃんが近くにいない夢」

「え? それってどんな?」

「うーんとね……」

 

 葵は視線を宙に向けて記憶を探る。

 

「瞳子ちゃんは全然出てこなくってね。トシくんはいるんだけどすごく遠いの。……なんだか赤の他人みたいに」

 

 寂しそうな目で葵は窓の外を見る。そこからは運動場が広がっていて、たくさんの生徒が遊んでいた。

 そこには俊成の姿もあった。本郷に誘われてサッカーをやっている。あたしも誘われたけど「女の子だけで遊びたい」と言ったらあっさりと引き下がった。

 遠目からでも本郷の速いドリブルについていけているのは俊成だけだった。眺めていると手に力が入る。近くで応援したいな。

 

「夢の中では私が話しかけてもトシくんは目を逸らすだけなの。嫌だよねそんなの……」

「……そうね」

 

 考えられない、考えたくない。たとえ夢だとしても俊成にそんな態度を取られたくない。

 

「あっ、でもそういう夢の時は真奈美ちゃんがいつも近くにいたかも」

「真奈美が?」

 

 空気を変えるように葵が言う。唐突に出てきた名前に何か意味でもあるのかと勘繰ってしまう。

 

「なになに? 私のこと呼んだ?」

 

 自分を呼ばれたと思ったのか真奈美がこっちに近づいてきた。

 

「真奈美ちゃんが私の夢の中に出てくることがあるって話していたの」

「えー? あおっちったら私のこと好き過ぎなんじゃないの」

 

 嬉しそうね真奈美。表情がふやけているわよ。

 

「トシくんよりも真奈美ちゃんが私の近くにいるのって変な夢だよねって思っていたの」

「そ、そう……」

 

 葵の笑顔とともに放たれた言葉に真奈美は顔を引きつらせる。けれどもう慣れてしまったのか、肩をすくめるだけだった。

 

「まあいいけどね。あおっちときのぴーが高木くんのこと好き過ぎるのは今に始まったことじゃないし」

 

 真奈美はやれやれとかぶりを振る。まあ反論はしないけれどね。

 

「高木がどうかした?」

 

 今度は美穂が反応する。無表情のまま首をかしげるので話していたことを教える。

 

「夢の中に出ないって……、そういうこともあるんじゃないの?」

「まあ、そうなんだけどね。なぜか気になっちゃって」

 

 このもやもやした気持ちは自分でも説明できない。なのにどうしても心が不安になってしまって仕方がないのだ。

 

「別に毎回出ないわけじゃないんでしょ?」

「そう、なんだけどね……」

 

 むしろ夢の記憶が残っていた時はほとんど俊成が登場している。今回の夢は本当に珍しいのだ。

 あたしの反応の悪さに美穂が顎に手を当てて頷く。

 

「なら高木の写真でも枕の下に敷いてみたらいいと思う」

「それ聞いたことあるー! 枕の下に好きな人の写真とか名前を書いた紙を敷いておくとその対象の夢が見られるんでしょっ。私もそれ試してみてさー、スイーツの写真を敷いて寝たことあるよー」

 

 真奈美……、それ好きな人じゃないから……。お菓子に囲まれた夢だなんてそれはそれで夢があるけれど。

 それから葵。ちゃっかりとメモしているの見えているんだからね。早速今夜から試すつもりでしょ。

 

「そういえば、好きな人が夢に出てこないのは悪い意味ばかりじゃないって聞いたことがある」

 

 思い出したかのように美穂は言う。あたし達は耳を傾けた。

 

「夢に出ないのは現実での関係が順調だからとか。それに出たのに冷たい態度とか素っ気ない態度なんてのも、現実での関係が好転するサインだったかな」

「美穂ちゃん、それ本当?」

「……確かそう聞いたような、気がする」

 

 葵が前のめりになって美穂に詰め寄る。夢の中とはいえ俊成に素っ気ない態度を取られて相当不安だったみたい。人のこと言えないけれど……。

 美穂の言ったことを信じるのなら、あたしと俊成の関係は順調ってことよね。うん、きっとそのサインだったのね。絶対そうよ。

 

「あとさー、見たい夢を見るためのおまじないに戻るんだけどさ。パジャマを裏返しにして寝ると確率が上がるって聞いたことあるよ」

「そうなの?」

「あー、きのぴー信じてないな。この私が試しましたとも。写真を枕の下に敷くだけじゃ見られなかったけどね、なんとパジャマを裏返しにしたら念願だったスイーツに囲まれる夢を見られたんだから!」

 

 真奈美は体験談を交えてどれだけ効果が出るかと熱弁する。ほとんど「スイーツは女の夢!」てばかりだった。わかったわかった。

 葵はそれもメモしていた。今夜の葵は俊成の写真を枕の下に敷いて裏返しにしたパジャマを着て眠りにつくのだろう。

 

「盛り上がっているみたいだけど、みんな何を話してるの?」

 

 いきなりの俊成の出現に驚きで固まってしまう。どうやら休み時間の終わりが近いから教室に戻ってきたようだ。

 

「高木が夢に出なくて――もがっ」

「え、俺?」

「な、なんでもないわよ!」

 

 余計なことを口にしようとする美穂の口を塞ぐ。俊成本人に言うのは恥ずかしいじゃないっ。

 

「占い……。そう! 私達占いをしていたの! トシくんも占ってあげようか?」

「へぇー、占いか。女子はそういうの好きだよね」

 

 葵が上手いこと話を逸らしてくれた。さすがは葵。大事なところで機転を利かせてくれる。

 即興で葵が俊成を占ってくれたおかげで誤魔化せたみたい。安堵の息を零す。

 でも、みんなに話したおかげでだいぶ気持ちが楽になっていた。

 夢は夢。あくまでも夢の中での出来事でしかない。

 今この現実のあたしとは違っていて、きっと俊成も違う。ただの記憶のつぎはぎと考えてしまえば、変な夢を見たところで思い悩む必要もないのかもしれない。

 ただまあ、今夜は良い夢が見られるようにと願う。だからちょっとだけ、ちょっとだけおまじないを試してもいいかなと、そう思った。

 

 




小さい頃に好きなマンガを枕の下に敷いて寝たことがありますねー(純粋)


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85.風邪を引いたら看病をしたいのです

「ごめんね俊成くん。葵ね、風邪引いちゃったのよ」

 

 休日。宮坂家に訪れると葵ちゃんのお母さんから申し訳なさそうに謝られた。

 外は寒くて空気も乾燥している。風邪を引きやすい時期ではあった。

 

「葵ちゃん大丈夫ですか? 俺看病しますよ」

「あら本当? それは助かるわね」

 

 娘によく似た満面な笑顔を浮かべる。促されて家に上がらせてもらった。

 

「インフルエンザの心配はないんですか?」

「昨晩体調を崩して病院に行ったんだけどね。ただの風邪だって言われたわ」

 

 まずはひと安心。いやいや、葵ちゃんがつらいことには変わりはないか。

 一晩経っているけど体の調子はどうなのだろうか。気になると尋ねずにはいられない。

 

「熱はどのくらいなんですか?」

「今朝計った時は八度二分だったわね。薬があるから食べさせるようにはしているけど、食欲はあまりないわ」

 

 当たり前だけどしんどそうだな。ここはおかゆでも作ろうか。

 

「おばさん、台所を借りてもいいですか?」

「ふふっ、もちろんいいわよ。俊成くんにはいつもお世話になっちゃうわね」

 

 葵ちゃんのお母さんは快く頷いてくれた。この家で料理を作ったこともあるのでもう驚かれることもない。

 葵ちゃんは病弱というわけでもないのだが、年に一回はどこかで必ず風邪を引いてしまうのだ。手洗いとうがいはしているのだけど、どうしても抵抗できない。

 その度に俺はおかゆやうどんなどの食べやすいものを作っている。

 

「料理ができる男の子だなんて本当に助かるわ」

「簡単なものしか作れないですよ」

「謙遜しちゃって。お母さんから聞いているんだからね。体調が悪い時には料理から洗濯まで全部やってくれたんだって喜んでいたんだから」

「毎日やってもらってますからね。俺がやることなんてたまにです。おばさんもそうですけど、母親には頭が上がりませんよ」

 

 葵ちゃんのお母さんと会話しながらおかゆを作っていく。材料や調味料を使うのも笑顔で了承してくれる。こういうところで信頼されているんだなと伝わってくる。

 

「それにしても、俊成くんも大きくなったわね。最初はあんなに小さかったのに」

 

 懐かしむような目差しを向けられてなんだか照れくさくなる。

 葵ちゃんのお母さんと出会ったのはまだ幼稚園にも通っていない頃だったっけか。あの頃は見上げるほどだった身長差も、今ではまだ俺の方が背が低いとはいえだいぶ差が縮まった。

 両親で実感しているのに、なんだか改めて考えると新鮮な感覚だ。

 

「もう少ししたら抜かされちゃいそうね」

 

 そう言って葵ちゃんのお母さんは嬉しそうに笑った。母親とさほど変わらない歳の女性に思ってしまうのは失礼かもしれないけれど、無邪気でかわいらしい笑顔だと思った。さすがは葵ちゃんの母親と言うべきか。

 さて、そろそろおかゆが出来上がる。今回は卵おかゆだ。青ねぎも刻んで入れる。

 そういえばお尻にねぎを刺すと風邪にいいとか聞いたことあるな。眉唾物だから試したことすらないが、実際のところはどうなんだろうね。なんかピリピリしそうなイメージ。もちろん葵ちゃんにする気はないですよ。

 時刻は昼になったばかりだったのでちょうどいい。完成したおかゆを持っておばさんといっしょに葵ちゃんの部屋へと向かう。

 

「葵ー? 俊成くんがお見舞いに来てくれたわよ」

 

 おばさんがノックをして反応を待つ。小さい呻きのような声が返ってきた。返事だけで調子が悪いんだってわかってしまう。

 

「葵ちゃん、体調はどう?」

「んー……」

 

 かなりしんどそうだ。つらそうな表情を見ると胸が苦しくなる。

 

「おかゆ作ったんだけど食べれそう?」

「……トシくんが作ってくれたの?」

「うん。今回は卵が入ってるよ」

「じゃあ、食べる……」

 

 葵ちゃんが上体を起こす。熱のせいか顔が赤い。汗のせいで髪が頬に張り付いていた。

 

「大丈夫? 無理はしなくてもいいからね」

「うん……、トシくん食べさせてー……」

 

 葵ちゃんがとろんとした目を向けて甘えてくる。

 段々と大人っぽくなっていく葵ちゃんだけど、風邪を引いた時なんかはこうやって甘えてくることが多い。まだまだ子供だからしょうがない。

 

「お母さんお邪魔虫みたいね。俊成くん、後は任せたわ」

 

 止める間もなく葵ちゃんのお母さんは部屋を出て行ってしまった。しんどいから純粋に甘えたいだけだと思うのですが……。

 

「トシくん、ちゃんとふーふーしてー……」

 

 葵ちゃんは口を開けて待ちの体勢となった。こういうところを見ると小さい頃の甘えん坊の彼女を思い出すな。

 今の歳を考えれば懐かしむのはおかしな感じがするけれど、そう思ってしまうほどにたくさん成長したということなのだろう。葵ちゃんのお母さんが言っていたことだけれど、出会った頃に比べれば本当に大きくなったもんな。

 スプーンでおかゆを掬って息を吹きかける。熱くないようにしてから葵ちゃんの口元へとスプーンを差し出した。

「あーん」をしていた葵ちゃんの口が閉じられる。食べた葵ちゃんの感想はにぱーとした笑顔で充分だった。

 同じようにして食べさせていく。食欲がなかったという話が嘘だったみたいに綺麗に完食してくれた。

 

「トシくんが作ってくれたおかゆおいしー……」

「ありがとね。じゃあ薬飲もうか」

 

 薬と水を差し出すと嫌そうな顔をされた。薬に対して苦手意識を持っている葵ちゃんなのである。

 

「熱を計っとこうか」

「うん……」

 

 ぽやぽやした調子で体温計を受け取った葵ちゃんは、躊躇いなくパジャマのボタンを外していく。

 

「わっ!? 葵ちゃんストップストップ!」

 

 慌てて葵ちゃんの暴挙を止めさせる。上のボタンを二つほど開ければ充分だろうに、彼女は全部のボタンを外してしまっていた。うん、遅かったな。

 はだけたところからキャミソールが見える。ブラジャーはしていないようで目に毒だった。

 葵ちゃんはその状態で体温計をわきの下に挟む。計り終わるまで明後日の方向を向いていた。

 電子音が聞こえて体温計を渡される。三十八度ちょうどか。ちょっとだけ下がったけど、まだ安静にしていた方がいいだろう。

 

「まだ熱があるね。ゆっくり休んでるんだよ」

 

 氷枕を取り替える。食器を片づけようと立ち上がると、ベッドに横になった葵ちゃんがこっちをじっと見つめてきた。

 

「トシくん……行っちゃうの?」

 

 彼女の表情に弱気が表れていた。そんな顔をされたら離れるわけにはいかないと足が止まる。

 食器をテーブルに置き直して葵ちゃんに近寄る。

 

「眠れるまでいっしょにいるよ」

「手……繋いでてほしいな……」

「わかった」

 

 布団の中から葵ちゃんの手が出てきたのでその手を優しく握る。葵ちゃんは微笑みを浮かべて目を閉じた。

 

「……」

 

 やがてすぅすぅと寝息が聞こえてきた。早く元気になってほしい。そう思って彼女の顔を見つめ続けた。

 白い肌がまだ赤くなっている。それでもつらそうな表情は消えていた。

 大きな目を閉じていると今度は長いまつ毛が存在感を主張する。鼻筋が通っているし、唇は見た目からでも瑞々しい。

 

「って、いつまで見ているんだか」

 

 時間を忘れて葵ちゃんの顔を見つめ続けていた。ていうか見惚れていたのか。長い付き合いになっているから見慣れたはずなんだけどな。

 葵ちゃんの前髪に触れる。汗でおでこに貼りついていた。

 

「タオルでも持ってくるか」

 

 握った手を離そうとして、葵ちゃんの手が緩まないことに気づく。

 

「タオル持ってくるだけだよー……」

 

 小声で言ってみる。当然眠っている彼女には聞こえるはずもない。

 さてどうしたもんか。すでに眠っているから手を離してもいいとは思うのだが、そうなるとこの手を引き離さないといけない。

 

「……」

 

 これは動けない。だから仕方がないのだ。

 俺はベッドの傍らで葵ちゃんの手を握り続けるのだった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「俊成、何寝ているの。起きなさい」

「ふぁ……。あれ?」

 

 体を揺すられて目が覚めた。どうやらいつの間にか意識が落ちてしまっていたようだ。

 

「ん……瞳子ちゃん? どうしてここに?」

 

 俺を起こしたのは瞳子ちゃんだった。確か今日は用事があるからと言っていた気がするのだが。

 

「もう夕方よ。帰ってきて電話したら葵が風邪を引いたって聞いて急いで来たの」

 

 窓の外を見れば夕焼けが広がっていた。冬は日が暮れるのが早いとはいえけっこう寝てしまっていたようだ。

 

「でも、もう体調はいいみたいね」

「え?」

 

 瞳子ちゃんの言葉で葵ちゃんの方を見る。するとバッチリと目が合った。

 

「えへへ」

「体はどう? 熱計ろうか」

 

 葵ちゃんといっしょに上体を起こす。ベッドに突っ伏すような体勢で寝ていたからか体が変に凝り固まっていた。

 体温計の表示は三十七度三分。ここまで下がれば安心してもいいだろうか。

 

「俊成、ずっと葵の看病してたの?」

「ん、まあ……寝ちゃってたけどね」

 

 居眠りしたのに看病したと言えるのだろうか。なんか微妙だ。

 

「一応これ。スポーツドリンクよ。汗もたくさんかいたみたいだし水分補給はしっかりとしなさい」

「うん、ありがとう瞳子ちゃん」

 

 瞳子ちゃんはペットボトルの蓋を開けて葵ちゃんに渡した。葵ちゃんはスポーツドリンクを受け取ると一口二口とゆっくり飲んでいく。

 

「おばさん今は買い物に出かけているから。すぐに帰るって言ってたけど、それまではいてあげるわ」

 

 瞳子ちゃんは勝手知ったるという風に座布団を自分で出して座る。

 

「で? いつまで俊成は葵の手を握っているつもりなのかしら?」

「え? あっ」

 

 葵ちゃんの手を握りっぱなしで寝ていたからなのか気づかなかった。長時間握っていたせいで汗ばんでしまっていた。

 手を離そうとすると葵ちゃんが力を入れる。一瞬動きが止まったが、彼女はすっと手を開いた。

 

「看病してくれてありがとうね」

「どういたしまして」

 

 風邪が治ったのなら良かった。彼女の元気な様子を見ると頬が緩んでくる。

 

「じゃあ俊成、もう帰ってもいいわよ」

「え、でも……」

「あら、これから葵を着替えさせるんだけど、部屋にいるつもりなのかしら?」

「そういうつもりじゃ……、部屋の外で待ってるよ」

「あんまり長い時間看病でいられるのも却って迷惑でしょ。あたしもおばさんが帰ってきたらすぐ帰るから。俊成はもう帰りなさい」

 

 確かにもう俺にできることはないのかもしれないけど、そんなに帰らそうとしなくてもいいんじゃないだろうか。

 

「トシくん、今日はありがとうね。あとはお母さんが帰ってくるまで瞳子ちゃんといるからもう平気だよ」

 

 しかし葵ちゃんにそう言われてしまえば反論のしようがない。この調子なら学校は来れそうだし、長居をするのも瞳子ちゃんの言う通り迷惑になるか。

 

「わかった。俺はこれで帰るから無理しないようにね。お大事に」

「はーい。トシくんバイバイ」

 

 手を振ってドアを静かに閉じた。食器を洗ったら大人しく帰るかな。

 この後に部屋で行われた二人の会話を、俺が耳にすることはなかったのであった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「体拭いてあげるからパジャマ脱ぎなさい」

「うん」

「お風呂はまだあんまり熱めにしちゃダメよ。体力使っちゃうんだから」

「うん」

「今さらだけど、濡れたタオルを部屋に干すと乾燥予防になるわよ。お肌のためにもあまり乾燥させない方がいいんだから」

「うん」

「水分補給はこまめにね。自分が思っている以上に体の水分は出て行っちゃっているんだからね」

「うん」

「……」

「……」

 

「……瞳子ちゃん」

「何?」

「……トシくんのことで、話があるんだけど」

 

 



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86.バレンタインデーでカタチにされる想い

 二月十四日はバレンタインデー。小学生になってからというもの、毎年楽しみと申し訳なさの狭間にあった。

 それは必ず葵ちゃんと瞳子ちゃんからチョコをもらえるから。それも本命を、だ。

 

「おはようトシくん」

 

 朝、集合場所の公園で葵ちゃんに元気良くあいさつをされる。緊張を悟られないようにあいさつを返した。

 いつも通りの彼女に見えるが、今日という日を知らないわけがないだろう。今年もチョコを用意しているはずだ。

 それでもこちらから切り出すわけにもいかない。彼女が言いだすまでは黙っておく。

 

「おはよう俊成」

 

 登校中に瞳子ちゃんと合流する。彼女もいつも通りを意識しているのだろうか。そう思いながら無難にあいさつを返した。

 いっしょになって学校に向かう。二人から特別な反応はない。当たり前だ、毎回渡される時は下校中なのだから。

 そう思えば今から緊張なんかしていたら身が持たないか。意識している姿を見られるのも恥ずかしい。リラックスせねば。

 なぜ毎年のイベントなのに緊張をしているのだろうか? そんな疑問が過って、すぐに理解した。

 今年で小学生で迎えるバレンタインデーが最後になるからだ。終わりを意識すると、とても特別なことに感じてしまう。

 

「ほらほら男子共チョコだぞ! ありがたく受け取りなさい。そしてホワイトデーは十倍返しでよろしくねー」

 

 教室に入ると小川さんがクラスの男子にチョコを配っていた。明らかな義理でも嬉しいのだろう。男子連中の表情が笑顔で満ちていた。

 

「高木くんおはよう。これ見てや、小川さんからチョコもらったんやで」

 

 ニコニコだな佐藤。こっちまでニッコリしてしまいそうだよ。

 小川さんは四年生の時くらいからバレンタインデーにチョコをクラスメートの男子に渡すようになったようだ。まあお返しが目的らしいんだけども。

 事実、佐藤がもらったという小川さんからのチョコとはチロルなチョコだった。一つ十円。クラスの男子だけなら二百円もかからない。

 

「あら、そんな羨ましそうな顔しても高木くんにはあげないよ。私だってあおっちときのぴーには睨まれたくないしー」

「いや、別に羨ましくなんてないから」

「ほっほう、さすがにモテモテだと余裕ですねー」

 

 ちょっと今そういうからかい方はやめてほしい。こっちだって意識しているんだから。

 

「佐藤くん、ちょっといいかしら?」

「え? 僕?」

 

 瞳子ちゃんが佐藤を廊下へとつれ出した。葵ちゃんも当然のようについて行く。

 佐藤になんの用があるのだろうか? 首をかしげているのを小川さんに見られてニヤニヤとした笑みを向けられる。

 

「ねえねえ気になる? 嫉妬しちゃう?」

「……別に」

 

 というかその顔やめなさいっての。女子としてどうかと思いますよー。

 席に着いてランドセルを下ろす。騒がしい教室を眺めていると肩をちょんちょんと叩かれた。

 

「美穂ちゃん?」

「高木、こっちに来て」

 

 このパターンは……。俺はピンときたがそのまま美穂ちゃんについて行った。

 瞳子ちゃん達が向かった廊下の反対方向へと進む。人気のないところへと辿り着くと、美穂ちゃんが振り向いた。

 

「これ、受け取って」

「えっと、今年は美穂ちゃんからもらえないと思っていたよ」

 

 差し出されたのは綺麗に包装された箱だった。バレンタインチョコである。

 一応の確認として彼女に尋ねる。

 

「その、義理……なんだよね?」

「本命が良かった?」

「いや、そういう意味では……」

 

 美穂ちゃんは目をつむる。まぶたを開いた目差しは俺を貫くようだった。

 

「あたしと高木の関係がなかったことになったわけじゃないから。あたしの中では高木は親しい友達。それじゃダメ?」

「……わかった。ありがたく受け取るよ」

 

 彼女から毎年もらっていたバレンタインチョコ。今年はその込められた意味合いが違う。

 美穂ちゃんは友達としてこのチョコをくれたのだ。その意味を、俺が間違えてはいけない。

 

「ありがとうね美穂ちゃん」

「……どういたしまして」

 

 言ってから思い出したかのように美穂ちゃんが続ける。

 

「お返しは十倍返しでいいからね」

「それ小川さんみたいだよ」

 

 美穂ちゃんはくすりと笑った。自然で美しい笑みだった。

 

「た、高木くん……木之下さんと宮坂さんからチョコをもらってしもうた……」

 

 教室に戻ると佐藤が震えながらそんなことを言った。俺はといえば冷静に返事……できるわけもなく固まってしまった。

 

「ちょうど良かった。佐藤、こっちに来て」

「えぇっ!? また?」

 

 佐藤は美穂ちゃんにつれられてまたもや廊下へと出て行ってしまった。そんな光景を現実味のない目で知覚していた。

 固まったままの俺を葵ちゃんと瞳子ちゃんが教室の隅へと引きずって行く。「俊成、聞いて」との言葉でようやく再起動できた。

 

「ごめんね俊成。今まで俊成以外にチョコあげなかったのに」

「べ、別に気にしてないよ……。ほら、佐藤は親友だし、うん」

「あのねトシくん。佐藤くんにはお礼をしたかっただけなの」

 

 お礼? オウム返ししそうになったが、その前に瞳子ちゃんが話を続ける。

 

「ほら、林間学校の時に佐藤くんに助けられたでしょ。あの後お礼をしようとしたんだけど『友達助けただけやからお礼なんかいらへん』って断られて何もできていなかったのよ」

 

 そんなやり取りがあったのか。俺そんなちゃんとしたのじゃなくてジュースおごっただけだったわ。

 

「だからね、私と瞳子ちゃんで佐藤くんにお礼のチョコを作ったの。こういうイベントでもないと受け取ってくれなさそうだったから。それだけだから、あんまり気にしないでね」

「そういうことなら、わかった」

 

 ま、まあ別に深読みなんてしてなかったし? 二人なりにお礼をしないと気が済まなかったのだろう。それだけなんだからな、うん。

 

「俊成の分は学校が終わってからね」

「お、おう……」

 

 瞳子ちゃんに小声で囁かれてドキリとしてしまう。今日一日は緊張がほぐれてくれそうになかった。

 予鈴が鳴る前に佐藤と美穂ちゃんが戻ってきた。やっぱりと言うか、佐藤は美穂ちゃんからチョコをもらったようで、その手には俺がもらったのと同じ箱があった。

 

「なんでや?」

 

 女子からもらったチョコの数を更新した男子の呟きである。困惑した様子の佐藤がちょっと印象的だった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 本日の学校はバレンタイン一色だった。

 男子同士ではチョコをもらったかもらわなかったかという話ばかりだし、女子は女子で友達同士でチョコを交換しているグループもあった。

 人気ナンバーワンの本郷は山のような数のバレンタインチョコをもらっていたり、他は他でところどころで告白している現場に出くわしたりもした。まだまだ早いと思っていたのだが、小学生カップルもいるらしかった。

 そんな中、微妙に肩身の狭い思いをしながら一日を過ごした。

 そして、ついに下校の時間がやってきたのである。

 これまたいつも通り三人での帰宅である。毎年の傾向を考えれば、チョコを渡してくるタイミングはそれぞれの家の近くだ。

 

「トシくん、神社に寄ってもらってもいい?」

 

 帰り道で葵ちゃんが真剣な面持ちで尋ねてくる。この日にそんな提案をすることなんて今まで一度もなかった。だからって断る理由もないので了承した。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんといっしょに神社へと入っていく。相変わらず人気のない場所だ。道路から遠ざかったせいで車の音が小さくなる。

 二人が振り返る。強い目差しに負けないように足に力を入れた。

 いつもは二人別々にバレンタインチョコを渡してきていた。二人同時にというのは初めてだったりする。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんはランドセルを下ろすと中から綺麗にラッピングされた包みを取り出した。想いのこもったチョコである。

 

「トシくん」

「俊成」

 

 緊張じみた声。毎年のイベントではあるが、毎回二人とも真剣だ。

 俺はそんな二人の気持ちを、毎回ちゃんと受け取っていないのかもしれなかった。

 

「……」

 

 これは本当に簡単に受け取っていいものなのだろうか? 今さらながらそんな疑問が過る。毎回の躊躇いだった。

 でも、葵ちゃんも瞳子ちゃんも本気で作ってくれたのだ。段々と上達しているのは食べている俺が一番よくわかっている。

 

「大好きだよトシくん。一番、好き」

 

 葵ちゃんは真っすぐとした気持ちを俺へと渡す。

 

「好きよ。あたしの、本気の気持ちだからね」

 

 瞳子ちゃんは俺から目を離さずに気持ちを渡してきた。

 言葉にされて胸がきゅうきゅうと締め付けられる。二人の想いが詰め込まれたバレンタインチョコを受け取った。

 どう返答すればいいのだろうか。毎年、同じことを思い悩んでいる。

 葵ちゃんも瞳子ちゃんも両方好きだ。それが俺の正直な気持ちだ。

 だけど二人ともが好きだなんて、それはとても不誠実ではないだろうか。こんな気持ちのまま気持ちを伝えるわけにはいかない。

 葵ちゃんと瞳子ちゃん。未だに天秤はどちらか極端には傾こうとはしてくれない。

 それがずっと、ずっと続いている。答えを出さなきゃと考えているのに、気づけば小学生でいられる期間はあと僅かになっていた。

 立派な大人になろうとしているのに、これじゃあ全然理想の自分には程遠い。

 理想の自分。かっこ良い自分。それはこんなところでまごついているような男などでは断じてない。

 

「えっと……」

 

 口を開けて何かを言おうとするけれど、気持ちが定まっていないのに何かを言えるわけがなかった。開いた口はすぐに閉じてしまう。

 

「……トシくん、バレンタインチョコを渡すといつもそんな顔になっちゃうよね」

 

 ギクリとして葵ちゃんを見る。その口元は笑みの形を作っていた。彼女だって緊張しているだろうに、余裕さえ感じさせる。

 

「そんな顔したって毎年あげるんだからね。こっちの気持ちが変わらないんだからしょうがないじゃない」

 

 瞳子ちゃんは鼻を鳴らしてそっぽを向く。耳が赤くなっている、だなんて指摘しない方がいいんだろうな。

 葵ちゃんの吐息が白く、消えていく。

 

「私達まだまだ子供なんだよね。トシくんをこうやって困らせちゃう。答えを待ち続ける覚悟はできているけど、知らないうちに急かしちゃっているのかな」

「あたし達の気持ちはずっと変わらないわ。ううん、もっとずっと大きくなっているのよ。だからこそ俊成の気持ちを大切にしたいの。俊成があたし達を大切に想ってくれているように、それはこっちだって同じなんだって伝えたい」

 

 二人の言葉から俺に対する気持ちが伝わってくる。その言葉は重く、俺の心の深くに沈み込んでくる。

 だからね、と二人は続けた。

 

「トシくんが本当の本当に思っていることを教えてほしいの。正直なトシくんの気持ちが知りたい」

「どんなことを言われたって構わないわ。あたし達の前では飾らないでほしいの。優しさだけじゃない、俊成の本心を教えて」

 

 二人の目を見るのがつらい。その綺麗な瞳に映るのが怖くなる。

 俺はそんな……、二人の期待に応えられるほど大層な人間じゃないって思ってしまうから。

 

「ごめん。急かしているように聞こえるよね。私達はただトシくんの今の気持ちを知りたい。ただそれだけなの」

「今すぐにあたし達のどちらかを選んでっていう意味じゃないのよ。どちらかを選んで、それですぐに付き合ってっていう話でもないの。俊成にはちゃんと言葉にしてほしいだけなの」

 

 選ばなくてもいい。なのに答えを聞きたい。矛盾しているようで、きっと意味が違うのだろう。

 

「それが、トシくんに求めるお返しかな」

 

 そう葵ちゃんが締めくくった。

 ざわりと木々が揺れた。冷たい風が吹いて、体に熱がこもっていることに気づく。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんはランドセルを背負い直すと、二人で手を繋いで俺の横を抜けて行く。

 

「それじゃあたしと葵は二人で帰るから。今日は俊成一人で帰りなさい」

「え、それは……」

「察しなさいよバカ。こっちだって勇気振り絞っているんだからねっ」

 

 俺は去って行く二人の背を見送ることしかできなかった。

 俺の手の中には二人からもらったバレンタインチョコが残った。カタチにされた想いをどうやって咀嚼すべきなのか、俺は答えを出さなければならなかった。

 

 




次回で小学生編ラストになります。


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87.卒業の日にカタチにする想い【挿絵あり】

 悩んで悩んで、悩む日々が続いた。

 葵ちゃんはとても良い子だ。幼い頃は甘えるばかりだったけど、今では周りをよく見ている。だからこそ何か起こったとしても頼りになるし、大舞台でも実力を発揮できるほどの心の強さを持っている。

 瞳子ちゃんはとても良い子だ。幼い頃からしっかりしていて、それでも弱い気持ちも持っている。だからこそ人に対しての優しさがあり、守るということに関して妥協しない強さがあるのだ。

 二人ともがそれぞれの成長をして、それぞれのすごいところを俺は見てきた。

 そんな彼女達が、俺のことを好きな気持ちは変わらないのだと、本当に真っすぐ伝えてくれた。

 葵ちゃんと瞳子ちゃん。二人とも最高の女の子だと思う。最高と言いつつ二人もいるんだけども。

 そんな二人に対する俺の気持ち。それはずっと考えてきたことだ。何年も前から考えてきたのだ。

 葵ちゃんと瞳子ちゃん。どちらも好きだ。どちらも大切で、どちらかを選ぶなんて簡単にできることじゃない。

 俺の優柔不断な心が彼女達にあそこまでのことを言わせてしまったのだ。ずっと好きだと言ってくれていたのに、俺が答えられないから。

 でも、もうこれ以上待たせるわけにもいかない。小学生でいられるのも残り僅かだ。それがわかっていながら刻々と時間ばかりが過ぎていく。

 ホワイトデー。その日は手作りのクッキーをお返しした。いろいろ考えて葵ちゃん、瞳子ちゃん、美穂ちゃんの分をそれぞれ別々の種類になるように作った。手間はかかったけれど、何かに没頭できる時間が今は恋しかった。

 

「卒業式の日にちゃんと聞かせてね」

 

 ホワイトデーのお返しを葵ちゃんに渡した時のお言葉である。どうやら俺がまだ悩んでいるということはお見通しらしかった。

 とはいえ、期限はもうすぐそこまで迫っている。

 俺達の小学校の卒業式は第四週の金曜である。その日が近づくにつれて、悩みとは別に寂しさとかそういう気持ちが湧いてくる。

 あっ、卒業生代表に俺が選ばれているんだった。あいさつ文も考えなきゃいけないな。

 陽の暖かさを感じるようになり、季節の移り変わりに想いを馳せる。なんて和んでいるわけにもいかず、結局卒業式当日まで俺は悩み続けたのであった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 ついにと言うべきか、卒業式の日がやってきた。

 俺達の門出を祝って桜は満開……というわけにもいかず、三分咲きくらいなものだった。まあ時期を考えればこんなものだろう。

 満開になったらまた家族ぐるみで花見に行くのだろうか。なんて、それは今日の俺次第か。

 卒業式に出席する生徒は六年生はもちろん、あとは在校生として参加する五年生だけだ。会場の準備なんかは五年生がしてくれている。

 卒業式には母さんが参加してくれる。父さんは仕事なので朝「おめでとう」と言ってくれた。

 祝ってくれる両親には感謝ばかりだ。こんな家族でいられて、俺は恵まれていたんだって改めて感じさせられた。

 見上げていた母はいつの間にかそう変わらない目線となっていた。前世よりも体が成長しているし、このままいけば父さんの身長を超すことだってできるだろう。

 心配かけないような信頼される息子。そんな風になれているだろうか。できればそうなりたい。

 教室に入ると黒板に「卒業おめでとうございます!」の文字と絵が書き込まれていた。

 これは品川ちゃんの絵だ。初っ端からサプライズをもらって目頭が熱くなる。こんなの反則でしょうに……。

 

「これ、五年生の子が描いてくれたんやろうね。他のクラスの黒板にもあったわ」

「そっか……。こういうの見ると俺達卒業するんだって実感するな」

「そやね……」

 

 黒板のメッセージを眺めながら俺と佐藤は六年間の思い出に浸っていた。

 前世では小学校の卒業にここまで込み上げてくるものはなかったと思う。今が鮮明ということもあるのかもしれないが、これまで積み重ねてきたことの差に思えた。

 

「なーにしけた顔してんのよ!」

「いだっ!?」

「いったー! 小川さん何すんねん!」

 

 突然背中が衝撃に襲われた。バシン! といい音がして悶絶してしまう。どうやら小川さんに張り手を喰らったようだ。同じようにやられた佐藤だったが、切り替え早く犯人に向かって抗議していた。

 小川さんに悪びれる様子はない。これから小学校を卒業するというのにこの子は変わらないな。

 

「そっちが変な空気出してるから喝入れてあげたんじゃない。せっかくの卒業式なんだからそんな顔してないで笑顔でいかなきゃ!」

「……そうやね。小川さん、ありがとうな」

 

 喝を入れられた佐藤は笑顔になった。それを見て小川さんもにししと笑う。

 確かに小川さんの言う通りだ。先生、保護者、在校生とみんなが俺達の卒業という門出を祝ってくれている。最後は笑って見送られようじゃないか。

 

「あと高木くんは卒業生代表として答辞があるんだから、噛んだりして私達に恥ずかしい思いをさせないでよね」

「噛まないよ。みんなの気持ちを代弁できるような答辞を考えてきたからな。小川さんこそ居眠りせずにちゃんと聞いてろよ」

「お、やる気だね。その意気だ」

 

 俺も喝を入れられたようだ。やり切ろうという気持ちが強くなっている。

 式が始まる前に一回答辞を読み上げる練習でもしとこうかな。なんて考えていると、肩をちょんちょんと叩かれた。

 

「ねえ高木」

「どうしたの美穂ちゃん?」

 

 美穂ちゃんが小声で尋ねてくる。何か気になることがあるらしかった。

 

「今日宮坂と木之下が話しかけてこないみたいだけど何かあった? なんか目を逸らしているように見えるけど」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんは友達に囲まれて小学生最後の時間を楽しんで過ごしていた。ただ、美穂ちゃんの言う通り俺の方を見ようとはしない。

 まあ、それは俺も同じことなのだが。

 

「うん、まあね……」

「ふむ……やっと告白する気になったと見える」

 

 ドキリとして美穂ちゃんをまじまじと見つめてしまう。彼女は少しだけ得意げに胸を張る。

 

「これでも付き合いは長いんだからわかる。で、どっちなの?」

「いやいやそれはちょっと……」

「誰にも言わないから。ここだけの話にするから」

 

 興味津々だな美穂ちゃん。俺は目を輝かせて顔を近づけてくる彼女をかわすのだった。

 そうやっていると卒業式の時間となった。小学生最後のイベントである。

 体育館に入場すると拍手で出迎えられた。すでに在校生や保護者が着席していた。注目されていると思うと緊張してくる。

 慣れ親しんだはずの体育館なのに厳かな雰囲気を感じる。場所は関係なく、そういう場として臨んでいるからなのだろう。

 卒業式の練習はしてきている。三月に入ってからはほとんどそればっかりだったほどだ。

 作られた感動の場、とでもいうのか。しかし、今はこの場の空気と、これが最後だという寂寥感でいっぱいになりそうだった。

 校歌斉唱、卒業証書授与、校長先生やPTA代表からの祝辞。つつがなく式が進行していく。

 

「在校生代表、森田(もりた)耕介(こうすけ)

「はい!」

 

 よく通る大きな声が体育館に響いた。

 在校生からの送る言葉。意外と言ってはなんだが、森田が代表者になっていた。聞いた話では自分から立候補したのだそうだ。

 

「六年生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。在校生を代表して心からお祝いいたします。六年生の皆さんは――」

 

 練習を重ねたのだろう。はきはきとした大きな声で淀みなく読み上げていく。まさに森田が在校生代表だとみんなが思うであろうほどの立派な送辞だった。

 

「卒業生代表、高木俊成」

「はい!」

 

 俺も負けてられない。卒業生として、在校生には立派な姿の俺を記憶に残したい。

 壇上に上がる。練習ではそこまでだった。みんなの前で答辞を述べるのはこれが初めてだ。

 目線が高くなるとここに集まっている人達の顔が見られた。みんなが俺に注目している。

 前世の俺だったら、この光景だけで緊張でパニックになっていたかもしれないな。内心で苦笑しながら、俺は口を開いた。

 

「今日は私達のために卒業式を開いていただきありがとうございます」

 

 口にするのはこれまでの思い出、それからこれからへの決意。そして、集まっていただいた方々への感謝を込める。

 きっと今だけしか感謝の言葉を送れない人だっている。あの時ありがとうと言っておけばよかった、そう後悔しないように答辞を述べた。

 読み終わると拍手が広がった。礼をして壇上から降りる。階段から降りる最中、母さんが泣いているのを目にしてしまった。

 そうして卒業式が終わる。これで小学校生活も終わりだ。

 クラスのみんなと最後の言葉を交わす。と言ってもほとんどは同じ中学校への繰り上がりである。あまりお別れという感じでもなかった。

 写真を撮ったり寄せ書きをしたり、卒業式が終わった後もみんなしばらく残るようだった。

 俺もこれからやることがある。いや、これからが本番か。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 俺は葵ちゃんと瞳子ちゃんをつれて校庭を歩いていた。桜の木が何本も植えられていて、歩くだけでも情緒を感じられた。

 

「あれを見ると葵と初めて会った時のこと思い出すわね」

 

 そう言って瞳子ちゃんが指を差したのはジャングルジムや滑り台などが合わさった大きな遊具だった。それを見た葵ちゃんは頷く。

 

「確かにそうだね。あの時は瞳子ちゃんとトシくんを取り合いっこしたっけ」

 

 二人は思い出に浸るように目を細める。入学式での出来事を思い返しているのだろう。

 あまりあの遊具では遊ばなかったけれど、思い出深いことには変わりない。あの時の自分はオロオロしているだけしかできなかったな。

 

「あの時は人前で俊成のことが好きだって、そう口にするのが恥ずかしくなかったわ。誰にも負けないくらい好きだって大声を上げたかったくらいよ」

「うん、私も。瞳子ちゃんに負けたくなくってトシくんと結婚の約束をしたって嘘ついちゃった」

「それはあたしもよ。もっとすごいことしたって言い合いっこしたりね」

「そうそう。今思えば恥ずかしくなっちゃうことを平気で言ってたよね」

 

 二人は笑い合う。あの時はこんな関係になれるだなんて思わなかった。それはお互いそうなのかもしれないけれど。

 それにしてもよく覚えている。それほどにインパクトのある記憶なのだろうな。

 風が吹く。まだ肌寒い風だった。

「でも」と、葵ちゃんが思い返していた記憶を止めさせる。

 

「トシくんへの気持ちはずっと本当で、嘘なんか一つもないんだよ」

 

 振り返った葵ちゃんが俺の目を見つめる。真剣な眼差しは、彼女が口にしたことが言葉通りだと告げていた。

 

「そうね。あの時から何も変わらない。ううん、ずっといっしょに過ごしてきたからこそこの想いが本物なんだって胸を張って言えるわ」

 

 振り返った瞳子ちゃんが俺の目を見つめる。その目は偽りなく、正直な気持ちを口にしているのだと伝えてくる。

 一拍の間を置いて、二人は同時に口を開いた。

 

「好きです」

 

 想いが重なる。その一言に、二人の想いのすべてが詰め込まれていた。

 心臓の音がうるさい。この鼓動がどこからくるものなのか、言葉にできる人はいるのだろうか。

 葵ちゃんと瞳子ちゃんが真っすぐ俺を見つめている。決して逸らさない。この気持ちがどれだけ大きいものなのかと、間違いのないように伝えてくるかのようだ。

 

「俺は――」

 

 口を開く。それはとても重たく感じた。

 それでも、これだけの想いを伝えられて何も返さないのは卑怯だ。どんなことになったとしても、俺は二人に今の気持ちを伝えなければならなかった。

 

「俺は、最低なんだ」

 

 こんな始まりなのに、二人とも黙って俺の言葉を聞いてくれていた。

 

「たくさん考えたんだ。葵ちゃんと瞳子ちゃん、どっちが好きなのかってずっと考えてた。……六年間、ずっと考えてたんだ」

 

 葵ちゃんも、瞳子ちゃんも、黙ったままだ。これから俺がどんなことを口にしようと最後まで聞き届けるつもりなのだろう。

 ――そんな優しい二人だからこそ、俺は好きになったのだ。

 

「でも、俺の中で答えはでなかった。俺は葵ちゃんも、瞳子ちゃんも、両方が特別な好きなんだ!」

 

 葵ちゃんに目を向ける。

 

「葵ちゃんのかわいらしい大きな目が好きだ。サラサラの長い黒髪が好きだ。俺と手を繋いでくれるところが好きだ。俺を甘えさせようとしてくれて、でも自分も甘えたいって思っているところが好きだ。危ないことをしてちゃんと叱ってくれるところが好きだ」

 

 今度は瞳子ちゃんに目を向ける。

 

「瞳子ちゃんの綺麗な青い瞳が好きだ。ツインテールにしている銀髪が好きだ。人に優しいところが好きだ。恥ずかしがっているけど俺に触らせてくれるところが好きだ。しっかり者で、それでもちゃんと俺を頼ってくれるところが好きだ」

 

 そして何より、と。俺は続けた。

 

「二人が俺のことを本気で好きって言ってくれるところが、何よりも一番好きだ!!」

 

 感情が爆発したかのように自然と腹から大声が出た。出てしまった。

 どうやっても消化できない気持ち。どうやってもどちらかを選べない優柔不断な自分。

 そんなわがままで自分勝手な最低の告白だった。

 

「ごめん! 本当にごめん!! あれだけ好きだって言ってもらっておいてちゃんと答えを出せなかった。俺、最低だよな……」

 

 俺は頭を下げる。深く深く、体が柔らかいこともあって地面スレスレだ。これはもういっそのこと土下座をした方がいいのではなかろうか。そう考えついた時、葵ちゃんと瞳子ちゃんの声が重なった。

 

「……はい」

 

 と、一言だけ。

 それにどう反応していいかもわからず顔を上げると、葵ちゃんと瞳子ちゃんの顔は見事に真っ赤となっていた。

 二人の目は潤んでいて、泣きそうなのかと思って焦りが生まれる。

 

「や、やっぱり俺って最低だよな。愛想尽かされても仕方がないと思うし……」

 

 うろたえていると、葵ちゃんと瞳子ちゃんが同時に俺へと抱きついた。

 ぎゅうーっと力いっぱい抱きしめられる。二人とも柔らかい感触なので全然苦しくなかった。

 って、何が起こった!?

 

「あ、葵ちゃん? と、瞳子ちゃん?」

 

 戸惑う俺の耳に、またもや二人の声が重なる。

 

「やっと、言ってくれた……」

「え?」

 

 葵ちゃんと瞳子ちゃんはばっと体を離す。そこから一気にまくしたてられた。

 

「遅いよトシくん! 私達がどれだけ不安だったかわかってるの!? どうやったら気持ちを言ってくれるかすごく悩んだんだからね!!」

「そうよどれだけ待たせるのよ! 行動でわかってたつもりだけど言葉がなかったらこっちは怖いんだからね! あたし達は素直に言っているんだから俊成も素直になりなさいよ!!」

 

 なんか、ものすごく怒られてしまった……。

 それからもう一度二人に抱きしめられる。優しい抱擁だった。

 これは結局……、俺はどんな反応をすればいいんだ?

 どうすればいいかもわからず固まっていると、葵ちゃんと瞳子ちゃんがじと目で俺を見上げた。

 

「ここは抱きしめてよトシくん」

「黙って抱きしめ返しなさいよ俊成」

 

 あれ、そういう流れ? 二人はそれでいいの?

 なんだか俺の方が納得できないまま、葵ちゃんと瞳子ちゃんの背中に腕を回した。二人ともなんですけどいいの?

 しばらく抱きしめ合っていたと思う。状況が状況なだけに時間の感覚がなくなっていそうだ。

 どれほどの時間が経っただろうか。ようやく二人が俺から離れた。

 

「トシくん、ここで提案があります」

 

 なぜか敬語になる葵ちゃん。真面目な話ということだろうか。

 

「恋人としてのお付き合いを始めましょう」

「え、いや、だから俺には葵ちゃんと瞳子ちゃんのどちらかを選ぶなんてできなくてですね……」

 

 敬語がうつってしまった。じゃなくて葵ちゃんは何を言い出しているんだ? 今さっき二人とも好きで選べないと言ったばかりなのに。

 しかし、葵ちゃんの次の言葉に俺は耳を疑った。

 

「だから選ばなくてもいいのです。私と瞳子ちゃん。二人をトシくんの恋人にしてください」

「……え? ええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇーーっ!?」

 

 葵ちゃんの言葉が脳へと伝わり、意味を理解した俺は驚愕の声を上げた。

 いやいやいやいやいや! 二人同時に付き合うとかダメでしょ! それって二股ってやつでしょ! 葵ちゃんと瞳子ちゃんに対してそんな不誠実な付き合い方できるわけがない!!

 

「俊成、聞いて。これはあたしと葵、二人で話し合ったことなの」

「え、どういうこと?」

 

 瞳子ちゃんは静かな調子で話し始めた。

 

「もし俊成があたしと葵の両方を好きって言ってくれたのなら、いっしょに俊成の恋人になろうって決めていたのよ。あたしと葵は文句なんてないわ。女の子がそう言っているんだから、俊成は気にしなくてもいいの」

「でも、それじゃあ……」

 

 渋る俺に葵ちゃんが言葉を被せる。

 

「だってトシくん、今の関係のままだったら一生決められないでしょう?」

 

 葵ちゃんまさかの突き刺し攻撃! 言葉の槍で俺の胸を貫いてきた。

 翻訳すると「このままだと一生優柔不断のヘタレでしょ?」である。笑顔で辛辣なことをおっしゃる……。

 だけど反論できなかった。確かに何年も悩んでこれだったのだ。どうやればどちらかを選べるのかまったく思いつかない。

 

「だからね、今よりももっと深い関係になるの。そうすれば私達はもっとトシくんのことを知れるし、トシくんだってもっと私達のことを知れるよ」

「今のままじゃわからないのなら、ちゃんとわかるまで付き合ってあげるわ。あたし達も納得できるまで退く気なんてないから。だから今よりももっとたくさん俊成のことを教えて?」

 

 言葉が詰まる。二人は本気だった。本気で二人いっしょに俺の恋人になろうとしている。

 そんなことが許されてもいいのだろうか? 蓄積された倫理観が俺を止めようと吼えている。

 

「たぶんね、私達のしようとしていることは子供の浅知恵だって思われるかもしれない」

 

 でもね、と葵ちゃんは続けた。

 

「私は瞳子ちゃんも好きなの。だから、どんな最後になったとしてもトシくんを好きって気持ちを出し切りたいし、瞳子ちゃんもそうであってほしいの」

「……あたしも同じ気持ちよ。後悔はしたくない。葵にも後悔してほしくないわ。だから、三人でいっしょに気持ちを確かめ合っていきたい。そんな風な関係でもいいのかなって、葵のおかげで思えるようになったの」

 

 葵ちゃんも瞳子ちゃんも真剣だ。真剣に三人でいっしょの恋人関係を結ぼうとしている。

 

「これが絶対に正解だって言えないけれど、絶対に間違っているだなんて言われたくもない」

 

 葵ちゃんは優しく俺の手を包み込んでくれる。

 

「いいじゃない。トシくんがわからないって言うんだったら三人でその気持ちを育てていこうよ。私達の成長期は体だけじゃないよ。心だってこれから育てるものなんだから」

 

 そう言って、葵ちゃんはにぱーと華やいだ笑みを見せてくれた。

 その笑顔を見て、頑なにいけないことだと思っていたのがバカらしくなる。すると笑いが込み上げてきた。

 

「ぷっ、あはははははっ。そうだな、俺達まだ子供だもんな」

 

 肩の荷が下りたような、そんな楽になった気分になった。

 最初は葵ちゃんと幼馴染になって結婚しようだなんて企んでいた。でも、そこへ瞳子ちゃんが現れて幼いながら俺のことを好きだと言ってくれた。

 二人はいつも俺に好意を寄せてくれていて、そんな二人と過ごしているうちに、好きって気持ちは頭で考えてるだけで割り切れるような簡単な気持ちじゃないってわかったんだ。

 だからこそ、素直に伝えて育んでいかなければならないものだった。俺だけじゃあこの気持ちに決着をつけられないのかもしれない。けれど、俺にはこんなにもかわいい幼馴染がいるのだ。

 

「うん、わかった。こんな優柔不断な男だけど、これから恋人としてよろしくお願いします」

「トシくん……そ、それって……」

「こういうことだよ」

 

 目を見開く葵ちゃんの頬にキスをした。自分からするのってとてもドキドキする。

 ぽかんとする葵ちゃん。何が起こったのか理解が追いつかないようだ。

 しかし段々と首から上が赤くなっていく。そんな反応がかわいいと思った。いや、ちゃんと口にしよう。

 

「葵、かわいいよ」

「よ、呼び方……。う……、うひゃあああああああああーーっ!!」

 

 葵は頭から煙を噴き出してフラフラになった。

 

「ちょっ、俊成!? ていうかずるいわよ葵!」

 

 それを目の前で見ていた瞳子がわたわたしている。俺はそんな彼女の腕を取って引き寄せた。

 

「きゃっ!?」

 

 俺の胸に柔らかい感触が収まる。状況が飲み込めていない瞳子の頬にキスをした。

 

「え? 今のって俊成の……」

「瞳子、好きだよ」

「そ、そんないきなり……、ふわぁ……」

 

 瞳子は体中の血液が全部顔に集まったんじゃないかってくらい真っ赤になってよろけてしまう。二人とも足元がおぼつかないので肩を抱いて支えた。

 

「葵も瞳子も顔が真っ赤でかわいい」

「と、俊成だって顔赤いわよ……」

 

 だろうな。だってものすごく顔が熱い。ドキドキが止まらない。

 こんなことになってしまうほどの好意を、二人はずっと俺に向けてくれていたんだ。それがわかるとより一層葵と瞳子に対して愛おしさが込み上げてくる。

 

「二人とも、大好きだ」

 

 素直な気持ちを伝えると葵と瞳子の体がへなへなと崩れそうになる。それを慌てて腕に力を入れて支え直した。

 

「こ、このまま負けてられないんだから……」

「わ、私もやられっ放しじゃないんだからね……」

 

 二人はいっしょになって俺に顔を近づけてくる。唇に、二人分の暖かな感触がした。それが俺の心を震わせた。

 

「おぉ……」

 

 唇から幸せが広がった。二人からもたらされる幸福感は俺の想像力なんて目じゃないくらいとんでもないものだった。

 そこでパシャリと音が聞こえて我に返る。なんだか嫌な予感がしつつも、音の方へと顔を向けた。

 葵のお父さんがカメラを向けていた。もちろん彼一人だけではなく、家族が勢ぞろいしていた。

 

「ほほう……」

「これはすごいことになっちゃったわねぇ」

「と、瞳子ぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

「トシナリ、立派になりマシタネ」

 

 宮坂夫婦と木之下夫婦がそれぞれの反応を見せていた。俺の親? 明後日の方向を向いて知らないフリをしているよ。

 なんかとんでもないことをやらかしてしまった気がする。いや、実際そうなんだろうけども。

 でも、今の俺は葵と瞳子のぬくもりを手放そうとは考えられなくなっていた。

 こうして、小学校を卒業する日に、俺に人生初の恋人ができたのであった。

 

 




今回の話をチャーコさんがあっきコタロウさんにファンアートを依頼してくれました。本当にありがとうございました!
字幕つきアニメ風になっていますのでなんだかすごい。かわゆいですよー(見てみてね)


【挿絵表示】



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第二部
88.どこでもない世界の彼女達


第二部開始。瞳子ちゃんと葵ちゃん視点になります。


木之下(きのした)課長、これいいですか?」

「うん、いいわよ」

 

 部下の男が席にやってきた。渡された書類に目を通す。

 

「……やり直しね」

「えぇっ!? マジっすか」

「真面目に言っているわ。ここが間違っているからおかしなことになっているのよ。これくらいあたしに見せる前に気づきなさい」

 

 部下の男に間違いを指摘すると渋々ながらも席に戻って行った。

 ふぅ、と息を漏らす。

 有名大学に進学して大企業に就職できた。順調にキャリアを積み重ねて、今では課長として働き部下だっている。

 でも、思ったより充実感はなかった。

 むしろ中途半端な地位になってしまったことでのしがらみがあった。上司から向けられる目は嫌悪を感じてしまうし、部下からは女だからと舐められている節がある。

 あたしはずっと変わっていない。他人からあたしに向けられる目、どうしたって他人の評価を気にしてしまう。

 銀髪に青い瞳。そんな日本人らしからない容姿が人の目を否応なく引きつけていた。

 みんなから違う者は排除される。子供の頃からそれを理解していたあたしは排除される前に他人を排除してきた。自分には親しくする人なんていらないんだって、そう思い込もうとしてきた。

 だけどそれじゃあダメなんだって、そう気づいて大学時代は変わろうってがんばってはみたけれど、幼少の頃から染みついてしまった意識というものはなかなかに頑固だった。

 人と仲良くしようとサークルに入って、合コンにも参加してみた。その度に向けられる好奇の視線が耐えられなくて、あたしにとっては全部がストレスを感じるものでしかなかった。

 社会人になっても何も変わらなかった。あたしにだけ向けられる好奇の目。それがどうしても嫌で堪らない。

 そのおかげと言ってはなんだけれど、他人からの視線を振り払おうとして学業や仕事に集中できた。傍から見れば素晴らしい人生を歩んできたのかもしれない。そういう結果を出してきたという自負だけはあったから。

 でも、あたしが本当に求めているものは――

 

「また木之下課長に怒られちゃったよ」

 

 はたと足を止める。部下の男の声だった。

 悪いとは思いながらも聞き耳を立ててしまう。

 

「お前さ、木之下課長に怒られたくてわざとやってんじゃないの?」

「ちげえよ。あの人ハーフの美人だからってお高くとまってんじゃないか。なーんか俺達に向ける目がきついんだよな」

「確かに。お前と違って彫が深いから余計にそう見えるな」

 

 男達は笑い合っていた。あたしは気づかれないようにその場から立ち去る。

 なぜだか嘲笑われているようで、耐えきれなかった。

 こんな気持ちになるのは初めてじゃないのに。なのにいつも心が痛くなる。いつになっても慣れてはくれなかった。

 仕事が終わってアパートへと帰宅する。誰もいないとわかっていても「ただいま」と口にしてしまう。

 電気をつけて姿見の自分と目が合った。鏡越しのあたしはひどく疲れた顔をしていた。

 ママと同じ色の髪と瞳。ママはとても美人で、とてもあたしに優しい。

 ママのことは好きだ。あたしのことを愛してくれている。それはパパだって同じで、目の前で口にするのは恥ずかしいけれど好きだ。

 

「ごめんねママ……。やっぱりあたし、自分の容姿が好きになれない……」

 

 こればっかりはパパに似てほしかったと思ってしまう。そうすればこんなにも他人を嫌わなくて済んだのかもしれない。

 あたしを見る人達はまずこの容姿に注目する。それから、ここにいてはいけない異物でも見たかのような感情をその目に浮かべる。

 それは幼少の頃から変わらなくて、嫌だという感情のまま行動に移してきた。さすがにそれではやっていけないと思って抑えてきたつもりだったけれど、どうやら態度までは隠しきれなかったようだ。

 こんなあたしをパパとママは心配してくれていた。し続けてくれていた。

 

瞳子(とうこ)、ゆっくりでいいんだ。パパは何があっても瞳子の味方だからな』

 

 パパはそうやって優しい言葉をかけてくれた。いつまでも友達の一人すら作れないあたしの味方になってくれていた。

 そんな風に、心配される自分が情けなかった。

 

『ごめんなさい瞳子……。ワタシが日本人だったら良かったのに……』

 

 一度だけ、あたしはママを泣かせてしまった。

 とても、とてもひどいことを言ってしまった。あたしの汚い泥のような心が、ママに言わせてはいけないことを口にさせてしまった。

 ママはずっとあたしに優しくしてくれていたのに……。そんな優しさに甘えて、あたしはママに自分のうっ憤をぶつけてしまったのだ。

 ママの涙混じりの謝罪を聞いて、自分がとんでもない過ちを犯してしまったのだと気づいた。気づいた時にはもう遅いというのに……。

 

「ごめんなさい……。ごめんなさいママ……」

 

 涙が零れる。頬につたう涙は自分で拭くことができず、そのまま床に落ちてシミを作った。

 パパとママのように誰かを愛することができない。そのイメージが湧かない。だってこんなにも人と違うあたしを誰が愛してくれるというのだろう。

 だから願ってしまうのだ。

 

「神様お願い……」

 

 あたしはもう無理だ。他人に対して不信感でいっぱいになってしまったから。それでも一人では生きられないと知ってしまったから。

 だから、もし次に生まれてくることがあればと願ってしまう。そうなってほしいと願望を口にしてしまう。

 

「――あたしのことをちゃんと見てくれる人に愛されたいです」

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「同窓会?」

『そうそう、中学のね。あおっちのところに案内来てない?』

 

 久しぶりに真奈美(まなみ)ちゃんから電話がきた。その内容は中学の同窓会の誘いだった。

 正直あまり気乗りしない。当時の友達グループで集まるのならまだしも、男の人といっしょというのは歓迎することではなかった。

 でもせっかくのお誘いだ。断るわけにもいかないか。

 

「うんわかった。私も参加するね」

 

 電話を切ってからちょっと後悔。やっぱり嫌かも……。

 私は小さい頃に男の子からいじめられていた。真奈美ちゃんのグループにくっつくようになってからいじめがなくなって安心した憶えがある。

 またいじめられるのが嫌で、私は真奈美ちゃんのグループにいつもくっついていた。いっしょにいることで守ってもらえるようにしていたんだ。我ながら計算高い子供だったかな。

 そうしているうちに男子が苦手という意識が出来あがっていた。中学になると変な視線を向けられるようになって、その気持ちに拍車がかかった。

 ますます真奈美ちゃんのグループから離れられなくなっていった。寄生虫みたいな自分が嫌でちょっとだけ離れようとしたんだけど、たくさんの男の子に近づかれて怖くなったっけ。逃げ帰るように戻ってしまったのだから自分のことながら情けない。

 

「そんな私が今やホステスをしているだなんて、驚くだろうなぁ」

 

 お父さんの仕事が上手くいかなくて借金を作ってしまった。お母さんもがんばって働いていたけれど、返済するのは難しいようだった。

 中学を出たら私も働こうとした。だけど両親から高校には通いなさいと言われて進学をした。

 真奈美ちゃんとは別の学校に行ってしまったため、また男の子を遠ざけるために女の子のグループに入った。目立たないように話に相槌を打つだけが私の役割だった。

 そんなのが楽しいはずもなく、私にとって高校生活は灰色だったと言ってもいいのかもしれない。

 高校を卒業する時期になっても借金は返済できていなかった。さすがに大学に行きなさいという言葉はなかったので私は働くことにした。

 男の人が苦手だったにも拘わらず、ホステスとして働くこととなった。しかし高校時代の経験が生きたのだろう。相槌を打つことだけは得意になっていた。

 男の人が気持ち良く話をしてくれるように笑顔で相槌を打つ。それだけでお金がもらえた。もちろんそこに行きつくまでにママから厳しく教育されたものだけれど。

 人と接することは慣れなんだなぁと思ったものである。苦手意識は変わらず残っているけどね。

 

「あおっち久しぶりー。歳取ってるはずなのに綺麗なのは変わらないね」

「あはは、ありがとう真奈美ちゃん」

 

 真奈美ちゃん相手なら素直にお礼を言うのが正解だったはず。相手によってどう返答するのかを考えてしまうのは職業病なのかな。

 同窓会は某ホテルの会場で行われた。欠席者もいるとはいえ百人以上が集まっている。

 私は中学時代そのままに、目立たないように真奈美ちゃんについて行った。見られるのには慣れているとはいえ、男の人の視線には辟易させられる。少しは欲望を隠してよ。

 同窓会とはいえ友達とおしゃべりできるだけで満足だ。そこに男の人は含まれていない。仕事だけで充分だからね。

 

「真奈美ちゃんは結婚生活はどう?」

 

 真奈美ちゃんは結婚していた。すでに子供が二人もいるのだから驚きだ。私がホステスとして働いているのもすごく驚かれちゃったからお互い様かな。

 

「うーん……、まあ普通かな?」

「なんだか歯切れが悪いね」

「まあねー。元々お見合いだったから恋愛感情とかなかったのかも。私も子供の世話で忙しいからちゃんと働いてくれているんだったら文句なんてないよ」

 

 けっこう淡白……。でも結婚ってそんなものなのかもしれない。

 結婚か。この歳になるとそれなりに結婚して家庭を持っている人はいるけれど、未だに自分がそうなる想像ができない。

 

「はぁ~、結婚する前にちゃんとした恋愛したかったかも」

「高校や大学で彼氏いたじゃない。それはちゃんとした恋愛じゃなかったの?」

「そうだけどー……。なんだかんだでその時は本気のようで本気じゃなかったのよね」

 

 よくわからないけど相槌を打つ。これは一種の反射だね。

 

「あおっちはどうなの?」

「え?」

 

 急に振られて「何が?」と聞き返してしまいそうになる。

 

「あおっちの恋愛話。もういい歳なんだからさ。ホステスだってずっとは続けられないでしょ」

 

 真奈美ちゃんの言葉を受け流す。今の私にはそんな余裕はないし、そもそも男性に対する苦手意識は変わらず持っているのだ。

 恋することって本当に幸せなことなのかな。やっぱり私には想像できない。

 真奈美ちゃんの子供に話題の矛先を向ける。子供のこととなるとよく口を動かしてくれた。

 そういえば、と。私は会場を見まわした。

 いくつか男の人と視線がぶつかる。求める人ではないので頭を動かして次へ次へと向かう。

 

「どうしたのあおっち?」

「えっと……、男の人を探しちゃって」

「男の人ならたくさんいるじゃない」

「そうじゃなくてね。その……ある人を探していて」

「ある人? 名前は?」

 

 名前……。その人の名前が出てこない。あれ? 私は憶えていないような人を探しているの?

 

「でもあおっちが特定の男に興味持つところなんて初めて見た。どんな人なの?」

「それは……」

 

 名前を憶えていない。でも気にはなっていた。そんな人をどう説明すればいいかなんてわからない。

 なんで気になっていたんだっけ? ……そうだ。その男の子の目が私と似ていると思ったんだ。

 やる気がない。違う、何かを諦めてしまったかのような目をしていたから。みんながキラキラとしている中学時代で、彼が私に一番似ているって思ったんだ。

 男の子が苦手だった。家には借金があった。私はおかしいんじゃないかって思っていた。

 自分はちゃんとした幸せを手にできないのかなと漠然と考えてしまっていた。意志のない私は簡単に諦めてしまっていたのだ。

 話したこともないけれど、彼だってそういう目をしていたのだ。私は勝手に親近感を抱いていた。そんな気持ちだったからか、男の人が苦手な私なのに言葉を交わしてみたいと思っていた。

 けれど、今日だけじゃなく、きっと彼にはもう二度と会えないのだろうと思った。それは確信めいていて、それは確かな事実だった。

 だから、ほんのちょっとの後悔から誰にも聞こえることのない呟きを漏らした。

 

「一言だけでもいい。話してみたかったな……」

 

 彼に何かを求めていたわけじゃない。きっと会話したとしても大した言葉はなかっただろう。私と似ているのだとしたらなおさら。

 ――だからこれは、こんな私の、ただのわがままでしかなかった。

 

 



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89.現在の彼女達

「ん…………夢?」

 

 嫌な夢を見てしまった。そう自覚できるほどには内容を憶えている。

 時計を確認する。まだ起きるには早過ぎる時間だ。

 

「……汗かいちゃった」

 

 びっくりするほど汗をかいていてパジャマが湿っていた。このままもう一度眠る気になれなくて、体を起こしてベッドから降りる。

 このまま放っておいて汗臭いだなんて思われたくないし。うん、こんな時間だけれどシャワーを浴びよう。これは必要なことなのです。

 準備を整えて静かに浴室へと入る。静か過ぎてなんだか変な感じ。

 

「はぁ……」

 

 シャワーの温かさが体に纏わりついていた不快感を洗い流してくれる。でも、夢の内容までは消えてくれなくて吐息を漏らしてしまう。

 

「なんでこんな夢を見ちゃうのかな……」

 

 トシくんと瞳子ちゃんがいない夢。そんな現実ではあり得ないはずなのに、それが当たり前のような世界。

 これが初めてなんかじゃない。たまにではあるんだけど、思い出したかのようにこうやって夢に出てくる。

 良い夢だと思おうとした。悪い夢は何かが好転するサインだって言い聞かせていた。

 だけど、夢は段々と鮮明になっていって、まるでそこにいるのが本当に私なんだって思ってしまいそうになるほどに現実味があった。

 不安を押しとどめようとするけれど、感情をコントロールするのが難しくなってしまって、胸のところが形容できないような変な感じになる。

 

「トシくんはいる……瞳子ちゃんだって……だから何も心配なんていらない……」

 

 夢と現実の区別がつかなくなったら。それは私が変な子ということになってしまう。それだけならいいと思う。

 鏡に映る自分の顔を見ると暗い表情だった。こんな顔をトシくんに見せたくない。私は自分の頬をマッサージして笑顔になってみる。まだ硬いけど及第点はあげていいかな。

 シャワーから出るお湯が肌に降りかかる。温かくて気持ち良い。ついつい長く浴びていたくなる。

 

「胸の間も汗かいちゃってる」

 

 ここの辺りは気をつけないと汗疹になっちゃう。いつも念入りに洗っている。けっこう大変なのだ。

 最近はトシくん以上に美穂(みほ)ちゃんから見られているのは気のせいかな? 自分のものではあるけれど、これだけ大きくなると同性でも見てしまうのはわからなくもないかな。

 シャワーを止めてバスタオルで体を拭く。

 

「……こういうのってトシくん好きだったりするかな?」

 

 大事な部分を隠すようにバスタオルを体に巻いてみる。鏡で確認するとけっこう色っぽいかも。なんてね。

 こんな姿の私を見たらトシくんはどんな顔をするかな? そんなことを考えていたら暗かった気持ちが明るくなってきた。

 朝になればトシくんに会える。そう思うと、早く寝ようと部屋へと戻ってベッドに潜った。

 目を閉じて、ちょっとだけ怖くなる。またさっきの夢を見たらどうしよう。そんな不安が胸中に広がる。

 

「う~……だったら」

 

 私はトシくんの姿を思い描きながら呟く。

 

「トシくんが一人、トシくんが二人、トシくんが三人……」

 

 私の周りにトシくんがたくさんいる光景を思い描く。ふふっ、これだけトシくんがいれば怖くなんてないもんね。

 私はトシくんに囲まれていく自分を想像しながら眠りに就いた。

 そして朝になって目が覚めた。目覚めはスッキリだった。トシくん効果ってすごい。

 今日は入学式がある。遅刻なんてするわけにはいかない。

 台所で朝食を作っているとお母さんが起きてきた。

 

「早いわね(あおい)。入学式なんだから朝食くらい私が作ったのに」

「いいよいいよ。今日は寝起きが良かったから体を動かしたかったしね」

「入学式だから目が冴えちゃったのね。ちゃんと眠れたんでしょうね? あくびなんかしたら俊成(としなり)くんに笑われちゃうわよ」

「しないよー。それにトシくんだったら笑ったりしないもん」

 

 お母さんは笑いながら朝の準備を整えていく。

 そろそろ朝食が出来あがる。和食は香りがいいよね。

 

「おはよう。おっ、良いにおいだ。葵が作るご飯はいつも美味しいから楽しみだよ」

「あら? 私が作るご飯はどうなの?」

「もちろん最高の味さ」

 

 お父さんとお母さんは朝から仲良しさんだ。ずっとラブラブ夫婦のままである。

 子供の頃から見ていたからマヒしそうになるけれど、こんなにも仲良しでいられるのってすごいことなのかも。友達の両親の関係を聞くとそう思う。

 私もいつかはトシくんと……。よし! 料理がんばるぞ!

 朝食を取って支度を済ませていく。制服に着替えて身だしなみをチェックする。

 今日から新しい制服だ。紺色を基調としたブレザー。赤いリボンがアクセントになってかわいい。

 

「おかしいところはない、と。忘れ物もなし」

 

 うん、準備は整った。あとはトシくんが迎えにきてくれるのを待つだけだ。

 

「……」

 

 待つだけなんだけど……、できるだけ早く会いたいな。

 トシくんの家はすぐ近くだ。すぐ行けるのなら、行ってもいいよね。

 

「行ってきまーす!」

 

 うずうずした気持ちが抑えられなくて、私は飛び出すように家を出てトシくんの家へと向かう。

 早歩きのつもりがいつの間にか走っていた。ちょっとの距離で息が上がってしまう。体力って才能じゃないのかなって思う時がある。

 トシくんの家が見えてきた。ちょうど玄関のドアが開いて、トシくんが姿を見せた。

 瞳子ちゃんには悪いとは思いながらも、先にトシくんの制服姿が見れて嬉しくなる。そんな彼の元へと向かって走るスピードを上げる。

 

「トシくん!」

「え? 葵は家で待ってるんじゃ――」

 

 トシくんの胸に飛び込んだ。突然だったのにしっかりと受け止めてくれる。

 私を支えてくれる男の子の体。抱きしめるとそれがよくわかる。頼り甲斐を感じて胸が熱くなった。

 

「葵、どうしたの?」

「んー、トシくんに早く会いたくって」

 

 頭を撫でられる。そんなことされたらほっぺが緩んじゃうよー。

 

「トシくん……」

「ん?」

「……キスして」

 

 彼を見上げるとちょっとだけ目を瞬かせていた。それから優しい顔をして頷いてくれる。

 目をつむって首を傾ける。顎に手を添えられてドキドキする。

 

「ん……」

 

 唇に温かさが伝わってくる。離れてしまうのが切なくなった。

 

「トシくん、上手になりましたね」

「……おかげ様で」

 

 冗談めかして言うと、彼は顔を赤くする。

 そんなところがまた愛おしくて、もう一度抱きついた。

 

「葵……」

「なあに?」

「これ以上こうしていたら……遅刻する」

 

 そうだった。今日は入学式があるんだった。遅刻はできない。

 

「じゃあ行こっか。瞳子ちゃんも待ってるよ」

「葵っ、引っ張ると危ないって」

 

 トシくんの手を取って歩き出す。ウキウキした気持ちはそのままで。これが現実なんだって私に教えてくれていた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「んっ…………あ?」

 

 目が覚めた。そう、目が覚めたんだ。今までのは全部夢だった。

 

「……驚かせないでよね」

 

 夢相手に悪態をついてしまう。これくらいは言いたくなるくらいの夢を見せられたのだから仕方がない。

 体を起こすと涙を流していたことに気づいた。夢の自分と同調していたみたい。

 

「あれは……本当にあたしだったの?」

 

 年齢が離れていて違うと言いたいのに、そうは言い切れないような感覚があった。

 こういう夢は頻度は少ないけれど見ること自体はあった。元々現実感があって不思議な夢ではあったのだけれど、夢を見る度に現実味が増してきているように感じる。

 ただの夢。気にすることじゃない。そう言い聞かせているのに、そうじゃないって訴えられているようだった。

 

「実は予知夢……なんてことはないわよね」

 

 嫌な予感に首を振る。そんなことがあるわけがない。絶対に。

 

「シャワーでも浴びようかしら」

 

 寝汗をかいて気持ち悪い。俊成に臭いって、言われないだろうけれど思われるのは嫌。

 時計はまだ朝じゃないと告げていた。こんな時間にシャワーを浴びるのは気が引けるけれど、音を立てないようにして脱衣所へと向かった。

 パジャマを脱いで下着に手をかける。……下着も替えておこう。

 

「冷たっ!?」

 

 温度調節を忘れていた。冷たい水を浴びて驚いた声を漏らしてしまう。

 思っている以上に動揺しているみたい。嫌なドキドキがあたしの心を支配しようとしていた。

 

「もうっ!」

 

 イライラした声を出しながらちょうどいい温度へと調整する。温かいお湯が出てくれてようやく一息ついた。

 

「はぁ……」

 

 心が不安がっている。夢の状況が足音を立てて近づいている気がするから。

 

「そんなこと、あるはずがないのに……」

 

 あれはただの夢だったのだ。そう言い聞かせながら手を胸に当てる。深く沈み込ませて心臓の鼓動が収まるのを待つ。

 こんな夢を見た時は無性に俊成に会いたくなる。

 できれば今すぐに、とわがままを言いたいけれど、さすがにこんな夜遅くにというわけにもいかない。きっと俊成はぐっすりと寝ているのだから。

 せめて俊成は良い夢を見ていますようにと考えてしまう。彼にはこんな気持ちになってほしくない。

 シャワーのお湯があたしの体をつたって流れ落ちていく。少しばかり冷えていた体が温まって落ち着きを取り戻す。

 

「大丈夫。俊成はちゃんといてくれている……」

 

 胸の鼓動も落ち着いてきた。慣れたくはないのだけれど、こういった夢を見るのは初めてじゃない。だから自分を落ち着かせるのには慣れてきた。

 深呼吸をする。あとは俊成に会えばこんな夢、忘れてしまえる。

 シャワーを止めると鏡に映る自分と目が合った。

 ふっと笑ってみせる。夢とは違う自分を見せつけてあげた。

 余裕を取り戻すと今度は自分の肢体に目が行ってしまう。

 

「……うん」

 

 運動と睡眠には気をつかっているし、肌のケアもしている。ママに似て本当に良かったって思う。

 

「別に胸が小さいわけじゃないし、葵は……特別なのよね、うん」

 

 体のラインに沿って指を這わせる。肌触りはいいわよね?

 こんなところで時間をかけているわけにもいかない。スッキリしたのならもう寝てしまおう。

 明日……、もう今日ね。今日は入学式があるのだから。

 気分が持ち直すと朝まで眠ることができた。

 

「朝……、俊成と葵が迎えにくるわ……」

 

 ベッドから降りると少し頭がフラフラした。変な時間に目が覚めたせいね。

 でも、悪い夢は二回も続いたりはしなかった。

 顔を洗って頭をスッキリさせる。

 

「おはよう瞳子。よく眠れまシタカ?」

「おはようママ。よく眠れたわ」

 

 台所ではママが朝食を作っていた。あたしも手伝わせてもらう。

 

「今日から新生活デスネ。アピールは大事デスヨ?」

「もうっ、ママに言われなくてもわかっているわよ。それに学校に行くんだから成績の心配でもしててよ」

「そこに関してはまったく心配していマセンノデ」

 

 面白そうにしちゃって。ママってちょっと変わっているわよね。

 ママとおしゃべりしながら朝食の準備をした。そこへパパが起きてきた。

 

「ふぁ~、二人ともおはよう」

「おはようパパ。寝癖がひどいわよ」

「今日は起きるのが遅かったデスネ。いつもの時間に出なくて大丈夫なのデスカ?」

「ふふんっ、今日は瞳子の入学式だからね。仕事は遅れて出られるように調整済さ。瞳子が晴れ舞台を新しい制服に身を包んで登校するんだよ。僕が一番にその姿を見たいじゃないか」

 

 パパは胸を張ってそんな親バカなことを口にした。

 いつもならため息でも吐きながら流してもいいのだけれど、たまには親孝行でもしようかな。そんな気分になっていた。

 

「わかったわ。制服に着替えたら見せてあげるわね」

「おおっ! ありがとう瞳子!」

 

 そんな涙ぐまなくてもいいから。パパったら仕方がないわね。

 家族みんなで朝ご飯を食べる。パパが興奮気味に今日がどれだけ楽しみだったかを話して、それをママが笑顔で相槌を打つ。あたしはそれに混ざって……、混ざっているのはいつものことなのに特別のことのような幸せを感じてしまう。

 朝食を終えて、自室で支度をする。制服に着替えて髪型を整える。

 姿見の前で最終確認。ブレザータイプの制服がなんだか大人っぽい。

 

「お待たせパパ」

「おお……。瞳子……こんなに大きくなったんだな……」

 

 パパがむせび泣いてしまった。「仕方のない人デスネ」なんて言いながらママが嬉しそうにパパを慰める。

 

「そろそろ俊成と葵が来る時間だから出るわね」

「行ってらっしゃい瞳子」

「どうごぉ! 気をづげで学校に行ぐんだぞぉぉぉぉぉっ!」

「……行ってきます」

 

 親バカなパパには困ってしまう。ちょっとだけ口元が緩んでしまったのは俊成に会えるからだけじゃないのかもだけれど。

 もうすぐ俊成に会える。早く会いたくて玄関のドアを開けた。

 

「あっと、おはよう瞳子」

 

 眼前に飛び込んできたのはちょうど俊成がインターホンを押そうとしていたところだった。

 

「おはよう俊成」

 

 いきなりでびっくりしたけれど、いつも通りの態度であいさつを返せた。……と思う。

 

「瞳子、ちょっと緊張してたりする?」

「あたしが緊張? 緊張なんてしていないわ」

「あはは、それならいいんだ。なんか俺を見て安心したみたいな顔になった気がしたからさ。学校が変わって不安だったのかなって思っただけ」

 

 俊成……っ。

 胸の奥がきゅっと苦しくなって、でもこの苦しさは嬉しいサインだった。

 

「……」

「瞳子?」

 

 堪らなくなって俊成に抱きついてしまった。急にこんなことをしているのに、俊成はちゃんと抱きしめ返してくれる。

 

「……」

「……」

 

 黙っているだけなのに優しい時間が流れる。俊成があたしを受け入れてくれているってわかるからなのだろう。

 ……キス、してほしいな。

 彼の胸に埋めていた顔を上げる。見つめ合うだけで意志が通じたみたいに俊成の顔が近づいてくる。

 

「ん……」

 

 目を閉じて彼の唇を受け入れた。温かさが心にまで伝わってくる。

 唇を離すとまたほしくなってしまう。今度はあたしから。そうつま先を伸ばそうとして――

 

「じー……」

 

 今になって、すぐ横からの葵の視線が突き刺ささっていたことに気づいた。

 

「はっ!? あ、葵……いつから?」

「最初からだよー。ていうかトシくんといっしょに私が迎えに来るってわかってたはずだよね」

「うっ……」

「まあ私もさっきしちゃったんだけど」

「ちょっ!? 何よそれ!」

 

 俊成に顔を向けるとたははと笑って誤魔化された。誤魔化されないわよ!

 

「瞳子ちゃん、キスの権利は一日一回までだよ。約束は破ったらダメなんだからね」

「わ、わかっているわよ……」

「ほんとかなぁ? さっき二回目しようとしなかった?」

「き、気のせいじゃないかしら……」

 

 こういう時の葵は鋭い。目を見たら嘘なんてつけなくなるほどの迫力がある。

 そんなあたし達の間に入るのは俊成だった。

 

「まあまあ。今日はこれから高校の入学式なんだからさ。早く行かないと遅刻しちゃうよ?」

「あっ、そうだ時間」

「電車の時間があるんだからもたもたしてたらダメじゃない」

 

 あたし達は駆け出した。仲良く同じペースで走る。

 今年の春。あたし達は新しく高校生活を始める。

 恋人と親友と。親友にとっても同じような関係で。そんな世間では三角関係と呼ばれるような関係でありながらも、あたし達の関係は世間一般的なものとは良い意味で違っていた。

 こんな三角関係のまま、あたし達は順調に仲を深めながら日々を過ごしていたのだった。

 

 




てなわけで高校生編スタートです! ……うん、誤字じゃないですよ。


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90.新たな生活の始まり

前回の感想にてスタンド攻撃された人が続出したようで笑ってしまいました(こいつが犯人)


 高校生とは青春真っただ中の時期である。

 前世でも高校に入学した時はドキドキと胸が高鳴っていたものだ。まあ、大したことなんて何も起こらなかったのだが……。

 しかし、今世の俺にはかわいい幼馴染がついている。しかも二人も、だ。

 

「トシくん、ネクタイ曲がってるよ」

 

 艶やかな長い黒髪の少女が俺のネクタイを直してくれる。くっきりとした大きな目が俺を見つめていて、いい加減慣れてきたはずなのにドキドキしてしまう。

 細くてしなやかな指がこそばゆい。直し終わったのか「よし」と呟く彼女の潤いのある唇に視線が吸い寄せられてしまう。

 宮坂(みやさか)(あおい)。俺の幼馴染にして彼女でもある美少女だ。

 

「俊成、髪が跳ねてるわよ」

 

 サラサラとした銀髪をツインテールにした少女が俺の髪を整えてくれる。澄んだ青色の瞳が俺を映していて、意識しないようにしても胸が高鳴った。

 白く繊細な指使いが心地良い。「いいわよ」と許可を出す薄く色づいた唇に目が行ってしまう。

 木之下(きのした)瞳子(とうこ)。俺の幼馴染にして彼女でもある美少女だ。

 ……そう、俺には二人の恋人がいる。

 小学校を卒業した日から、今までずっと恋人として付き合い続けている。中学時代は周囲の目が厳しかったこともあって大変ではあったが、結果として俺達の絆を深めることとなった。

 ゆっくりと時間をかけて恋心を育んだ。もうこの気持ちは立派な愛情である。

 そんな俺達も高校生となったのだ。また一つ、成長した姿を見せていかないとな。よし、がんばるぞ!

 

「なんだかやる気だねトシくん」

「ふふっ、緊張しているわけじゃないでしょうね?」

 

 二人に笑われてしまった。もう葵と瞳子には心すら隠せないのかもしれない。

 これから俺達がお世話になる新たな学びやへと到着した。

 入試の時も思ってはいたが、中学とは規模が全然違う。敷地は広いし、校舎も数が多い。外観だけでレベルアップしたのだと実感させられる。

 同じ新入生であろう生徒達もいっぱいいる。中学までと違って知らない人ばかりで少し緊張する。

 新入生達は葵と瞳子を見ると二度見三度見する。男子ともなればそのまま視線を外せずに見惚れてしまうまでがお約束である。そして二人の間に挟まれている俺を発見して恨みのこもった目になるのもお約束だ。

 

「あっ、向こうにクラス表が貼り出されてるみたいだよ」

 

 他人からの視線に慣れている葵は動じない。人だかりを見つけてクラス表の存在に気づいたようだ。

 どのクラスになるかで高校生活のスタートを上手く切れるかどうかが決まると言っても過言ではない。俺は祈るような気持ちでクラス表に目を向けた。

 一学年十クラス、A組からJ組まである。クラス数も中学の時よりも多い。

 

「俺は……A組だ」

 

 探してすぐに自分の名前を見つけた。それからもう一人の名前も見つける。

 

「僕もA組やで。今年もよろしくな高木くん」

 

 後ろから聞こえた声に振り返ると佐藤(さとう)がいた。ニコニコとしていて緩い空気を身に纏っているような男子である。

 これで小中高と佐藤とずっと同じクラスになり続けている。今回でもう十年目だ。ここまでくると誰かの作為を感じるね。

 でも、佐藤と同じクラスなら安心だ。スタートダッシュは問題なく切れそうで良かった。

 

「おう! 今年もよろしくな佐藤」

 

 男子二人で盛り上がっている中、女子二人の反応は芳しくなかった。

 

「佐藤くん、あなた何か細工でもしているんじゃないでしょうね? ずっと俊成と同じクラスだなんて……ずるいわよ」

 

 瞳子ちゃんが恨みがましい目で佐藤を睨む。佐藤は困ったように笑うだけだ。

 どうやら瞳子ちゃんはA組ではないらしい。俺はA組の女子の名前を眺めて「ん?」と小さく首をかしげた。

 

「そうだよ佐藤くんばっかりずるいよ。私もトシくんといっしょのクラスが良かったのにっ」

「そ、そんなん言われてもなぁ……」

 

 そして葵ちゃんの名前もA組にはなかった。まあこれだけクラス数があれば仕方がないか。

 同じ中学の人達はあまり多くはないけど、みんなはどこのクラスなのかと探してしまう。

 

「おっはよう! 私はあおっちと同じC組だよ!」

「きゃっ!? もう真奈美ちゃん。驚かせないでよ」

 

 突然現れた小川(おがわ)さんが葵を後ろから抱きしめていた。高校生になってもこういうテンション高いところは変わらないな。

 女子の中では高身長である彼女と平均身長ほどの葵とでは身長差が違う。そのため抱きしめる姿がなんだか様になっていて、ちょっとだけ危険を感じてしまう。

 でも、身長に関しては俺は小川さんを追い越したのだ! 小学生の時は見上げる存在だったが、今では俺の方が目線が高い。……若干ではあるんだけどな。

 

「真奈美も佐藤くんも自分のクラスを知ってたってことは先に来ていたのかしら?」

 

 瞳子のふとした疑問に佐藤が頷いた。

 

「うん。僕は小川さんといっしょに来たんよ。小川さん道に迷いそうやったから」

「ちょっと! 人を方向オンチみたいに言うのはやめてくれる!」

「ほんまやん。入試に行ったはずやのに一人で行けるか不安やって言うたのは小川さんやで」

「わー! わー! 聞こえなーい!」

 

 楽しそうだなぁ。そう思えるのはこれもまた見慣れた光景になっているからかな。

 

「よう、みんな早いな」

 

 手を上げて近づいてくるのは本郷(ほんごう)だ。

 本郷を目にした新入生の女子から黄色い声が上がる。高校生となった本郷のイケメン度はさらに磨きがかかっていた。

 中学時代に勉強ができないことがばれてしまった本郷だったが、その分部活でのサッカーの成績はすごかった。中三の時は決して強豪ではないうちの中学を全国制覇させてしまったのだ。

 それは高校進学の大きな武器となった。本郷はスポーツ推薦で俺達と同じ高校に進学したのだ。

 

「俺のクラスはっと……F組か。木之下と同じクラスだな」

 

 本郷はクラス表をぱっと見て数秒もかからずに自分の名前を見つけたようだ。これが一流のスポーツ選手に備わっているという周辺視野だろうか。なんか無駄にすごい。

 しかも瞳子と同じクラスか。F組の人達は我が中学が誇る美男美女に驚くだろうな。

 

「あとは……赤城(あかぎ)は来てないのか?」

 

 本郷が辺りを見回しながら言う。背丈のある本郷が見つけられないのならまだ来ていないのだろう。

 

「いや、来てるし」

 

 と、思っていたのに横から声がしてびっくりしてしまった。

 今まで気配を消していたかのようにいきなり美穂ちゃんが現れた。忍者かよ。

 俺だけじゃなくみんな驚いていた。その反応を見てなぜか美穂ちゃんは自慢げに胸を張った。

 自慢げとは言っても基本彼女は無表情である。付き合いの長い俺達じゃないと微細な表情の機微には気づかないだろうな。

 

「で、あたしはどこのクラス?」

「俺や佐藤と同じA組だよ」

 

 A組女子の中に美穂ちゃんの名前があるのに気づいていたので伝える。彼女は微かに目を見開いた。

 

「高木と? 中学では一度も同じクラスになれなかったから久しぶり」

「そういえばそうだね」

 

 ちなみに中学では葵と瞳子といっしょのクラスになれたのは一年の時だけだった。これは本当に作為があったのだろうと今でも邪推していたりする。

 

「高木」

「ん? どうしたの美穂ちゃん」

「高校でもよろしく」

「ああ、よろしくね」

 

 ここに集まった七人が、同じ中学からこの学校に進学したメンバーである。

 これからそれぞれの高校生活が始まる。もちろん俺だってそうだ。前世ではあっさりと過ぎ去ってしまった青春を今世では謳歌するのだ!

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 みんなと別れ、佐藤と美穂ちゃんといっしょにA組の教室に入った時である。

 

「トシナリ! やっぱりトシナリね! 一目でトシナリってわかったわ。まさかとは思ったけれど、トシナリとクラスメートになれるだなんて夢みたい! わたし日本に来て本当に良かった!」

 

 金髪の美人さんが駆け寄ってきたかと思えばそうまくし立てられた。

 興奮気味の彼女はぐいぐいと顔を近づけてくる。見た目だけでも目立つ子がこんなにも騒がしくしていたら目立つのは当然だ。クラス中からの視線が痛い……。

 ただ、俺もこんなところで会えるとは思っていなかったし、それもクラスメートになっただなんて信じられなかった。クラス表を見た時はまさかとは思ったが、本当にそのまさかだった。

 

「久しぶりだねクリス。元気にしてた?」

「うん! トシナリも元気そうね」

 

 クリスティーナ・ルーカス。三度目に出会った彼女は俺のクラスメートになっていた。

 俺の後ろにいる佐藤と美穂ちゃんが「は?」と声を漏らしていたのは、聞いてないフリをした方がいいかなーとか思った。

 

 




中学時代が気になるとのことで、回想していくつもりではあったんですがどこまで思われていたのか気になりました。で、よければですが中学編でこんなことしてほしかったなどのアンケートを取りたいのです。詳しくは活動報告に記載してますので参加いただけたら嬉しいです(ぺこり)


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91.スタートダッシュは自己紹介から

こないだ感想が1000件超えました! 嬉しいよぅ。そんなわけで高校生編もがんばるどー(テンション高め)


 入学式が始まった。

 小学校や中学の入学式よりも人が多くて圧迫感がある。さすがにこの歳にもなると式という行事にも慣れたものである。

 さて、小中と前世通りの学校だったわけなのだが、高校は前世の時よりも偏差値の高い学校へと進学できた。

 なのでここでの顔ぶれは本当に知らないのだ。違う学校にも拘わらず、前世通り佐藤とまたクラスメートになれたのはちょっとだけ意外だったりもする。まあ受験勉強はいっしょにがんばったしな。同じ高校に通えて心強い。

 それにしても入学式は緊張よりも退屈が勝る。緊張するのはこの後だろう。

 これから始まる高校生活は俺の知らないものになるだろう。まあ今までも俺の知らない流れだったけれどね。

 チラリと目線を向ける。その先にいるのはクリスだ。

 まさかクリスといっしょの学校になるだなんて……。正直また会えるかなんてわからなかったくらいなのに、クリスが日本に来て学校に通うだなんて考えもしなかった。

 彼女の雰囲気はそのままに、成長して美人度が増していた。最後に会ったのは小学生の時だもんな。大きくなって当然か。

 俺の視線に気づいたクリスと目が合う。にこやかに手を振られて、とりあえず笑顔で返した。

 日本語もすごく上手になっていた。流暢にしゃべっていたから却って違和感を感じるのが遅れてしまったほどだ。

 知らない人は多いけれど、知っている人も確かにいる。それはクリスだけではなく、そう、たとえば今壇上に上がってあいさつをしている人とか……。

 

「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。在校生を代表して歓迎の言葉を述べさせていただきます」

 

 それは落ち着いた男子の声だった。生徒会長として祝辞を述べる三年生の男子だ。

 聞き取りやすいように大きく口を開けてはきはきとあいさつをしているのは俺も知っている人物だった。ていうか野沢(のざわ)くんだった。

 

「……」

 

 野沢(のざわ)拓海(たくみ)。俺が尊敬している野沢先輩の弟さんである。

 いや、彼がこの高校にいるってことは知っていたんだけどね。でもまさか生徒会長になっているだなんて思ってもみなかった。

 野沢くんって俺に対してなんか冷たいからなぁ。中学の時でもほとんど話はしなかった。彼が高校に上がるとほとんど見かけなくなったので、あいさつでさえ最後にいつしたのかちょっと思い出せないほどだ。一応これでも近所なんだけどな。

 久しぶりに見る野沢くんは堂々としていた。眼鏡をかけ始めたのは高校に上がってからなのかな。確か中学まではかけていなかったはずだ。

 彼も彼で見ない間に大人になっちゃって……。なんていうか優等生って感じである。生徒会長しているくらいだから優秀なのは間違いないんだろうけれども。

 あいさつを終えて壇上から降りる野沢くんと目が合った。しかしそれは一瞬で、目が合ったのが俺の勘違いだったみたいに自然と離れて行った。

 ……やっぱり俺に冷たい気がする。元々仲良しでもなかったけどさ。

 入学式は滞りなく終わりを迎えた。体育館から出て教室へと向かう。

 廊下に出ると葵がすぐ横に並んで話しかけてくる。

 

「ねえねえトシくん。野沢くんすごかったね。ちゃんと生徒会長してたんだ」

「俺はびっくりしたよ。まさか野沢くんが生徒会長しているだなんて思ってもなかったからさ」

「そうなの? 私は聞いてたから、てっきりトシくんも知ってるんだって思ってた」

 

 葵も野沢くんと近所ではあるからばったり会うこともあるんだろう。俺は全然会っていないが。……避けられているわけじゃないよね?

 

「アオイ! アオイよね! あなたも同じ学校だったのね!」

「あ、やっぱりクリスちゃんだったんだ。私のこと憶えてくれてるなんて嬉しいな」

 

 近寄ってきたクリスが俺の隣にいる葵に気づいた。目を輝かせて葵の手を取って喜んでいる。

 二人は一度きりしか会っていないなんて思わせないくらいの仲良しっぷりだった。クリスの人懐っこさと葵の優しく受け入れてくれる性格が合っているのだろう。

 みんなが教室に戻ろうとする廊下で、きゃいきゃいとはしゃいでいる女子二人はもちろん注目される。それもかなりの美少女さんだからね。片方俺の彼女だけど。

 

「ちょっと葵。こんなところで騒いでちゃダメでしょ」

「トウコ! トウコよね! わたしすぐにわかっちゃった!」

 

 金髪と銀髪の美少女が並ぶとなんだかきらびやか。そこに黒髪の美少女もいるものだから色合いも含めて目の保養です。

 

「クリス……よね? ものすごく日本語が上手くなったわね」

「たくさん勉強したもの。日本の学校に通う予定があったからがんばっていたの」

 

 葵といっしょに「へぇー」と声を漏らす。クリスはしゃべるのが好きなようで、口がなかなか止まらない。

 

「わかったから。今は教室に戻りなさい。また話を聞いてあげるから」

 

 さすがは瞳子である。興奮しているクリスを止めてしまった。こういう時ははっきりものを言える瞳子は強かった。

 

「葵も今は教室に戻りなさい。まったく真奈美は何をやっているのよ」

 

 小川さんは葵の保護者じゃないからね。小川さんのことだから物怖じせずにもう友達を作っているのかもしれない。

 それぞれの教室に別れていく。先生が来るまで少し時間があるようだった。

 

「高木」

「どうしたの美穂ちゃん?」

「あの人は何?」

 

 美穂ちゃんが指を差したのはクリスだった。やっぱりみんな外国人に興味があるのか、彼女を囲んで話しかけている。

 

「クリスティーナ・ルーカス。イギリス人の女の子だよ」

「そういうことを聞きたいんじゃない。高木とどういう関係なのか聞いているの」

 

 静かな口調で圧迫感を与えられる。無表情なのにちょっと怖いですよ?

 

「クリスとはちょっとしか会ったことがないけど友達だよ。小学校の時に二回だけしか会ってはないけどね。小四の夏休みの時と、小六の時に葵のピアノコンクールを応援に行った二回だけかな」

「そのわりにはけっこう好かれているみたいだったけど?」

「ああいう性格なんだってば。俺以外にも、俺の従妹とか葵や瞳子に対してもあんな感じだし」

「ふぅん……」

 

 じっとりとした目を向けられてしまう。美穂ちゃんは何か思うところがあるらしい。

 

「あたしさ……、正直今でも高木が宮坂と木之下の二人と付き合っているのを納得できたわけじゃないからね」

 

 美穂ちゃんの視線が突き刺さる。俺は目を逸らさなかった。

 

「誰に納得されなくてもいいよ。誰かに納得されたくて付き合っているわけでもないし。ただ、今は葵と瞳子を大切にしたいってのが俺の一番やりたいことなだけだから」

「……」

 

 美穂ちゃんは押し黙った。先に目を逸らしたのは彼女だった。

 

「……二人が悲しむようなことだけはしないで」

「そんなの当たり前だ」

 

 絞り出したかのような彼女の言葉に、俺はしっかりとした頷きを持って返す。

 

「そろそろ先生が来そうやから席に戻らなあかんで。高木くん、後でそのクリスさんのこと紹介してな」

 

 佐藤の言う通り、すぐに担任の先生が教室に入ってきた。クリスに集まっていた生徒達も慌てて自分の席へと戻る。

 

「えー、一年A組の担任になった鮫島(さめじま)だ。これから一年間よろしく」

 

 そう言って鮫島先生は軽く頭を下げる。ちょっと強面で四十代前後くらいと思われる年齢の男性教諭である。生活指導とかが似合いそうだなと考えてしまったのは内緒だ。

 

「今日は連絡事項や配布物などいろいろあるんだが、まずは自己紹介してもらおうと思う。みんなもクラスメートがどんな奴か早く知った方がいいだろう。俺は知りたい。まだみんなの顔と名前が一致していないんだ。これじゃあ名前を呼ぶ時に困ってしまうからな」

 

 鮫島先生が冗談混じりに言うと小さく笑いが起こった。顔のわりにはとっつきやすい雰囲気のある先生だ。

 

「席順は出席番号順だから、男子の一番の奴から自己紹介してもらおうか。立ち上がって自分を思う存分アピールしてくれ。ああ、でもこの後も予定があるから一人一分以内な」

 

 そんなわけで男子の出席番号一番から自己紹介が始まった。

 出席番号は男女別である。なので現在の席順は教卓から見て右側に男子、左側に女子が集中している。

 一人が自己紹介を終える度に拍手される。鮫島先生がしているのでみんなそれに倣っていた。

 

「僕は佐藤(さとう)一郎(いちろう)です。関西弁しゃべるんやけど関西人ちゃいます。でも美味しいたこ焼きは作れます」

 

 この辺じゃあ関西弁は聞き慣れないからか佐藤の自己紹介はウケが良かった。長過ぎず短過ぎず、佐藤のほんわかした雰囲気もあって反応は悪くないだろう。

 さ行に入ったから、た行の俺の番が近いな。頭の中で何を言おうかと繰り返し確認する。

 佐藤が席に座ると、次の男子が勢いよく立ち上がった。

 

「俺の名前は下柳(しもやなぎ)(けん)! 中学ではサッカー部だったんで高校でもサッカー部に入ろうと思っています! もちろん運動は得意です! 清潔さには自信があるんでこれからよろしくお願いします!」

 

 大きな声で下柳くんはあいさつを終えた。体育会系か? 清潔さに自信があるって何だよ? 髪型はしっかりセットしている感じではある。清潔さってそこだろうか。

 そして「よろしくお願いします」の辺りで女子に向かって頭を下げていた。なんともわかりやすい奴である。

 まあ高校生男子ともなれば女子に興味津々だからな。性に目覚めたばかりの中学では恥ずかしくてアタックできなくても、高校生になったのを機に行動を起こしたくなるものだ。ソースは前世の俺。実を結ぶことはなかったのだが……。

 この後も順調に自己紹介は進む。今のところテンションが高かったのは下柳くんくらいなもので、他は大人しめな感じの子が多かった。まだ最初というのもあって緊張しているのだろう。

 ……俺も緊張しているから気持ちはわかる。初対面の顔ぶれが数十人もいるのだ。仕方がないと言い聞かせてやるしかない。

 ついに俺の番が回ってきた。息を吐きながら立ち上がる。

 

「えっと、高木(たかぎ)俊成(としなり)です――」

「おっ、高木俊成っていえば去年柔道で全国大会出たんだろ?」

 

 自己紹介の途中で鮫島先生に割り込まれてしまった。なんか前のめりになっているのは気のせいか。

 先生を無視して自己紹介を続けるわけにもいかないので頷きを返す。

 

「ええまあ……。先生のおっしゃる通り中学では柔道部に所属して三年の時に全国大会に出場しています」

 

 全国大会というワードが強烈だったのか、教室にどよめきが広がった。

 とはいえ、全国では一回戦負けだったけどね。その俺に勝った奴が優勝したのだから、悔しかったけど誇らしさがあった。

 

「うちの柔道部は弱くてな。お前が部に入ってくれれば刺激になるぞ」

「いえ、部活をやるかはまだ考えていないので。これからいろいろと見させてもらおうと思っています」

「なんだそうなのか? まあいい、気が向いたらいつでも歓迎だ。じゃあ次」

 

 俺の後ろの男子が返事をしたので腰を下ろす。

 ……あれ? 俺ちゃんと自己紹介してないんじゃないか?

 これじゃあ柔道やってた奴という印象しかないぞ。何しやがるんだあの先生はっ。

 俺の恨みがましい視線は目に入らないようで、男子の自己紹介は全員終えてしまった。次は女子の番だ。

 

赤城(あかぎ)美穂(みほ)。よろしくお願いします」

 

 美穂ちゃんはすっと席を立つと簡潔な自己紹介を述べた。そのまますっと着席する。

 

「あー……赤城? それだけでいいのか? もっと自分をアピールしていいんだぞ?」

「大丈夫です」

「そ、そうか……」

 

 強面先生もたじたじである。美穂ちゃんが長々と自己PRしているなんて確かに想像できないけど。彼女はどうやって面接を切り抜けたのだろうか。ちょっとした謎である。

 

「まっこれも個性か。だからってマネするとみんな無個性になるからなー。それを踏まえて次頼むぞ」

 

 鮫島先生はあっさりとPR不足の美穂ちゃんを流してくれた。見た目よりも柔軟な先生なのかもしれないな。

 女子も順調に自己紹介を済ませていく。見た目の印象だけなら大人しめなタイプが多いクラスだ。

 

「こほんっ、僕の名前は望月(もちづき)梨菜(りな)です。皆さんのような素敵な学友ができて嬉しいです。得意なことはお料理やお裁縫で、苦手なものはお化け……かな」

 

 そう言って恥じらいつつもぺろりと舌を出す望月さんに男子達が色めき立ったのがわかった。下柳くんなんてモロ声に出してるし。

 望月さんは肩にかかる程度の明るめの茶髪の女の子だった。中学校を出たばかりといった、まだあどけなさが残る感じのかわいらしさを振りまいている。

 俺が一番気になったのは一人称が「僕」ってところかな。本当にいたんだ僕っ娘。

 望月さんの自己PRは他の人に比べて長めだった。とはいえ時間をオーバーするわけでもなく、ギリギリ一人分の時間として収まるものだった。一分ぴったりだったんじゃないかな。

 

「目標はたくさんお友達を作ることです。みんな気軽に話しかけてね」

 

 ここが締めというように彼女はニコッと笑顔を見せた。その笑顔はなかなかにかわいらしく、男子連中の興奮した空気が伝わってくるほどだ。

 かわいらしい笑顔だと思う。でも葵と瞳子の笑顔の方が百万倍かわいいけどな。なーんて言うと親バカならぬ彼氏バカになってしまうか。

 そして、女子の自己紹介もあと一人を残すだけとなった。

 綺麗な立ち姿を見せるのはイギリス人の女の子である。

 

「クリスティーナ・ルーカス……です」

 

 少しだけ緊張を見せる彼女に鮫島先生がフォローを加える。

 

「えー、ルーカスさんはバリバリの外国人だが、日本語は問題なくしゃべれるとのことだ。ただ日本での生活には慣れていないのでそこんとこはみんなで手助けしてやってほしい」

 

 周囲の視線が興味津々といったものになっている。島国の日本では外国人はよく目立つから仕方がない。

 

「あの!」

 

 クリスが声を出すと、教室中が静寂となる。

 心の中で「がんばれ!」と応援する。

 クリスはその場で深呼吸をすると、自己紹介の続きを口にした。

 

「……わたしは日本が好きです。なぜなら幼い頃、日本に来た時に楽しい思い出を作れたからです。日本は楽しくて素晴らしい。だからこそわたしは日本で学びたいと思いました。この場所での体験を、より良いものにしていきます。クラスメートのみんな、これから仲良くしていきましょうね」

 

 クリスが一息ついたタイミングで、教室中が拍手に包まれる。

 今までの自己紹介で一番大きく、優しい拍手だった。

 クリスははにかみながら着席した。この雰囲気は彼女にとって幸先の良いスタートと言っていいだろう。

 いろいろと不安があったものの、このクラスなら良い高校生活のスタートを切れそうだ。クラスメートから拍手されて照れているクリスを見て、そう思った。

 

 




さらっと新キャラ出ていたり。野沢弟は眼鏡男子に進化しました。


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92.前世とは違うこと

 小学校を卒業し、中学校も卒業した。現在の高校に入学するまでに俺の予測していなかった変化が起こっていたりする。

 逆行したこともあっておぼろげながらも未来を知ってはいたのだが、その未来が俺の知識と乖離してきているのだ。

 それは葵と瞳子の変化、もあるのだけど、それ以上に大きな食い違いが起こっている。

 例えば葵のお父さん。俺達が中学生の時に経営している企業が大躍進した。

 それに伴って宮坂家はかなり裕福な家庭となった。大きな家に引っ越すかという話がちょっとだけ出たらしいのだが、葵が猛反対してその話はすぐに立ち消えた。あくまでそうできるだけの余裕ができたという話である。

 

「小さい頃から俊成くんが葵を支えてくれたから安心して仕事に集中できたんだ。君には本当に感謝している」

 

 誰が見ても成功者となった葵のお父さんにそんなことを言われるとかしこまってしまう。結果を出したのはおじさんなんだから俺に感謝だなんて何もないでしょうに。

 そんなこんなでダンディーな社長は今も成功者であり続けている。葵も立派な社長令嬢となったのだ。

 ただ、目立ってきた企業は葵のお父さんのものだけではなかった。

 俺の記憶にない会社が有名企業へとなったものがいくつかあった。わかりやすく表れたのはテレビのCMである。一つや二つなら「こんなのもあったかな?」で済ませられるのだが、何度も続くとさすがに記憶との食い違いに気づく。

 こうなってくると少しだけ期待していた株で稼ぐなんてやり方はリスキーに思える。すべてが前世とは違うわけではないが、どう変化していくのかは読めなくなっていた。

 生活に影響が出るわけじゃないが、知っている世の中が乖離するというのは不安にもなる。どんな状況になっても対応できる力を養うためにも、前世というアドバンテージに頼り過ぎるのはよくないのだろうが、変化の理由が知りたいとは思ってしまう。

 なぜこんなにも変わってきたのだろうか? バタフライエフェクトというには俺の影響力なんてそこまでではないと思うんだけどな。

 しかし、葵と瞳子の未来を変えてしまったことには違いない。これだけは責任を持って認めている。認めるも何も俺が変えようとして変えたのだから。

 二人が前世でどんな未来を辿っていたのかは知らない。知りようがないし、今さらそれを考えたって仕方がない。

 前世よりも幸福に、なんて比べようがないことは言わない。今は葵と瞳子を大切にしていければいい。難しく考えずにそう思うことにしている。

 ただまあ、そのためにはこれからどうしていくかを考えないといけないわけで。

 高校生にもなれば具体的な進路を考えなければならない。というか前世を経験しておきながらまだ決まりきっていないのかと自分に突っ込みを入れたくなってしまう。

 ここらで自分の能力についておさらいでもしようか。

 まずは学業。小学生時代はトップを走り続けていた俺だったが、中学ではテストの点数は高得点でありながらもトップではなくなっていた。そういえば前世では中学で躓いた部分が多かった気がする。

 それでもけっこうがんばったんだけどな。成績は上がっているわけで。トップであり続けるなんて本当に大変なんだなと実感させられた。

 次に運動面。前世では中学くらいから不良になる子が出始めるとわかっていたのもあって、武道を学びたかった俺は柔道部に入部した。中学ではそういう部活は柔道と剣道しかなかったので、素手でできる柔道部を選んだのだ。

 自分の身を守る以上に葵と瞳子を守りたかった。とはいえ腕っ節にものを言わせてやろうだなんて思ったわけじゃない。だが俺が強いとわかっていれば、そう簡単にケンカをふっかけられることはないだろう。

 小学生の時に走り込みや水泳をやっていたのもあり、最初から基礎体力はついていた。早い段階から技を教わったりして随分としごかれたものだ。

 あまりのしごかれっぷりに、それをやり遂げた俺に対して先輩方から賞賛された。柔道部の先輩方に気に入れられたからこそ、俺にケンカを売ってくる者は少なかったのだろう。

 そんなこともあって強くなった自信はあるのだけど、全国の広さも知ってしまうと俺もまだまだなのだと思えてしまう。

 ならばと、勉強や運動以外で何か得意なことはないだろうかと考える。

 これまでに葵と瞳子といっしょにいろいろなことを経験してきた。前世よりも確かにできることは増えている。

 例えば瞳子のお父さんから整体を習っていたりする。

 おじさんはいくつか店を持っており、けっこうな売れっ子整体師だったりするのだ。俺も柔道で悪くしてしまった体を治してもらったものである。

 実際に体験してみるとこんなにも効果があるのかと驚いたものだ。そのこともあって興味を持った俺は、瞳子のお父さんに整体を教えてもらえないかと頼み込んだのだ。

 最初は渋い顔をされたものだったのだが、何度も頼んでいると根負けしたように了承してくれた。

 

「ただし時間が空いた時だけだからな。それと途中でやっぱりやめたなんてのは許さないぞ」

 

「もちろんです」と頷いた俺はおじさんからご教授してもらえることとなった。

 そんな俺を見てか、葵と瞳子もいっしょに整体を習うようになった。おじさんにとっては愛娘との時間が作れたようでかなりご満悦だったようだ。

 時間があれば三人で施術し合ったりしている。これは今でも続けてやっていることだ。

 整体師は将来への選択肢の一つになっているのかもしれない。やってみると奥が深い。教えてもらい始めてから二年近くになるけど、俺の腕はまだまだ未熟だろう。

 

「俊成くんは自分の会社を持ってみたいとは思わないか?」

 

 そういえば葵のお父さんからこんなことを言われたことがあったか。自分が成功者だからって俺もそうなるとは限らないと思うんだけどね。

 だけど、おじさんのように思い切って大きなことに挑戦するのにも興味がある。そのためには勇気と自信が必要だろうか。おぼろげな前世知識だけで上手くいくものでもないだろうしね。

 

「どんな仕事にも意味はある。だから俊成がどんな道に進もうとも、父さんは応援するよ」

 

 将来のことで悩んでいる時、父さんの言葉には気持ちを楽にさせてもらったものだ。サラリーマンとしてしっかりと働く父親の姿は、大黒柱としての信頼感があった。俺の父さんって立派な人なんだって、今は胸を張って断言できる。

 いろいろと考えていると、俺にはまだまだたくさんの道があるんだなって思わされる。いや、まだ道が残っているのは、俺がこれまでがんばってきた証拠でもあるのかな。なんて、少しだけ自信にしてみたり。

 未来のために。そのためにこの高校生活は大事な時期だ。よく考え、積極的に行動し、将来を見定めていくのだ。

 そうしていきながら、葵と瞳子のことをしっかり考えよう。ちゃんとした答えを伝えられるように、俺にはぐうたらしている暇なんてないのだ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 放課後、俺の部屋で葵が真面目そうな顔を作っていた。瞳子はそれに追随するように並んでいる。

 

「これから持ち物検査をします。トシくんは速やかに鞄を出してください」

「忘れ物はないでしょうね? 余計な物が入ってないかもチェックしてあげるわ」

 

 葵と瞳子は嬉々として俺の鞄の中身を確認する。本当に楽しそうだなぁ。

 さて、高校に入学して最初の大きなイベントであるオリエンテーション合宿を明日に控えていた。

 一泊二日だけではあるが、まだ馴染みのない同級生が多い中で行われる行事だ。逆を言えばクラスメートと仲良くできるチャンスでもある。

 学習内容もあるにはあるが、一番は学校生活に馴染めるようにと考えられているようだ。ウォークラリーや肝試しだなんてのが入ってるし。なんか遊び心が多めに感じるのは気のせいかな。

 

「葵と瞳子はクラスで新しい友達とかできたか?」

「私は真奈美ちゃんといっしょに六人グループを作ったよ。もちろん女子だけでね」

「あたしも葵と似たようなものね。席が近い子が良い子ばっかりだったからすぐに友達になってくれたわ」

 

 二人とも順調だな。葵も瞳子も友人を大切にするタイプだから、そういうところがなんとなくでも伝わっているのかもしれない。

 俺達は別々のクラスになったこともあり、まず高校生活に慣れるためにそれぞれのクラスに馴染むようにしていくと決めていた。と言っても登下校は相変わらず三人いっしょではある。

 

「トシくんはどう?」

「んー……」

 

 そりゃ聞き返されるよね。俺は言いづらくてなかなか口を開けなかった。

 でもこのくらいのことでは隠しごとにもならない。素直に話すことにした。

 

「しゃべるのはクリスばっかりとかな。休み時間になる度に俺の席にくるからさ。だからあんまり他の人とは話せてないんだ」

 

 目を輝かせてやって来るクリスを拒めるはずもない。他のクラスメート達も彼女と話したそうにしているのがわかるだけになんだか申し訳なかった。

 

「クリスちゃんもトシくんといっぱいおしゃべりがしたいんだね。トシくんのおかげで日本が好きになったって言っていたし、その気持ちはわかるなー」

 

 それは光栄ではあるんだけど、まさか同じ学校に通うことになるとは思いもしなかった。まあ元々クリスの父親が仕事でしばらく日本で生活すると決まっていたらしいのだが、クリスには父親について行かずに本国に残るという選択肢もあったのだ。むしろ彼女は「わたしも日本に住んでみたい!」と喜んでいたようだった。

 

「そうして偶然の再会か……。まさに運命ね」

 

 瞳子? その目はなんでしょうか?

 じーっと見つめてくる瞳子の視線が突き刺さる。彼女の綺麗なブルーアイズに見惚れてしまい、気づけば顔を近づけていた。

 

「と、俊成?」

「今日はまだキスしてないから」

 

 魅惑的な瞳子が悪いんだ。彼女の肩を抱いて引き寄せる。為すがままになっている瞳子は覚悟したようだ。

 瞳子の顎を持ち上げ唇を重ねる。高揚し過ぎて荒々しくならないうちに顔を離した。

 顔を離せば切なそうな表情をしている瞳子。二度三度と、いやもっとしろと本能が訴えかけてくる。理性よがんばってくれ。

 

「……見せつけてくれちゃって」

 

 葵が頬を膨らませる。大人っぽく成長した彼女だけれど、こうしてふとした時には子供らしさが顔を出す。

 そんな彼女が愛おしくて、高ぶった気持ちのまま抱きしめた。

 

「ん、トシくん……」

 

 耳元での声がこそばゆい。俺の理性を溶かそうとしているのかと勘繰ってしまう。

 柔らかくて細い感触だ。力いっぱい抱きしめると折れてしまうんじゃないかって心配になってしまう。

 

「トシくんの体って硬いね。男の子って感じ」

「痛いか?」

「ううん、大好き」

 

 俺は葵にキスをした。互いが気持ち良くなっているのがわかるキスだった。

 心臓が早鐘を打つかのようだ。頭がぼーっとしてしまいそうになる。

 俺はゆっくりと葵から離れた。深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。

 

「ねえトシくん。キスは一日一回までっていうの。いつでもなしにしていいんだからね?」

 

 葵の言葉に、俺は曖昧に頷くだけだった。

 

「わかってるつもりだから決めたルールは守るけど、不満はあるんだからね。瞳子ちゃんだって私と同じ想いなんだから。ね、瞳子ちゃん?」

「えっ!? う、うん……、そうねっ」

 

 ちょっと反応が悪かった瞳子を見ると、白い肌を紅潮させていた。どうやら葵とのキスを見てドキドキさせてしまったらしい。

 

「ま、まあそれはおいおい考えるとして。荷物検査はもう終わりでいいの?」

 

 露骨に話を逸らしているのを自覚しながらもそんなことを口にした。

 

「忘れ物はなかったから大丈夫よ」

 

 瞳子からオーケーが出た。確認してもらえると俺も安心して明日を迎えられる。

 

「トシくんは私達の荷物検査したい?」

「二人で確認し合ったりしてるんだろ? 俺がわざわざ見るのもな」

 

 それに泊まりなんだから下着とか入っているでしょうに。あれ? もしかして俺の荷物、下着もチェックされたのかな? いやいや、中身が見えないように袋に入れてたから大丈夫だろ。まさかわざわざ出して確認なんかはしないだろう。……してないよね?

 

「それは残念。じゃあ明日は早起きしなきゃだからもう帰るね」

「ならあたしも帰ろうかしら。俊成、今日は夜更かしせずに早く寝るのよ」

「俺は子供か。まあ言う通り早く寝るよ」

「ふふっ、よろしい」

 

 瞳子が微笑むと俺の頬も緩む。葵も楽しそうな笑顔を見せていた。

 二人を家まで送り届ける。明日からオリエンテーション合宿だ。どんなものになるだろうかとワクワクしながら帰路に着いた。

 

 



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93.オリエンテーション合宿を通じての親睦の深め方

アンケートへのご回答ありがとうございました。中学生時代の回想もふとした時に(?)やっていこうと思います


 オリエンテーション合宿の当日。俺達は長い道のりをバスで進んでいた。

 一泊二日の合宿だ。目的は集団行動を通じて協調性を高めることである。これによって新たな高校生活を適切に迎えるための手助けとなる、というような説明をしていた。

 みんなまだまだクラスメートとの距離感を掴みかねている状態だ。この合宿を機に親睦を深めればと思う。

 

「トシナリトシナリ。あれ、あれを見て。なんだかすごく独特な形をしているの」

 

 行きのバスではクリスが俺の隣の席に座っていた。窓にへばりつくようにして景色を眺めている彼女はなんとも楽しそうである。

 日本語を話せるようになり、文化も勉強していたらしいのだが、実際に目にする本場の景色は違うようだ。何を見ても楽しそうに反応するクリスは微笑ましかった。

 一度目は爺ちゃんの田舎、二度目はピアノコンクールの会場。その出会いがそのままクリスが日本を訪問した回数となる。

 そして高校に進学して、またまた日本に訪れた。彼女にはまだまだ目新しいものはたくさんありそうだ。

 宿泊施設に到着して荷物を下ろす。体操服に着替えて改めてクラスごとで集まった。

 オリエンテーション合宿を行う場所は自然溢れる山の近くだった。場所を知った時、小学生時代の林間学校の記憶が呼び覚まされて、俺と瞳子は黙りこんでしまったものである。

 

「おおーっ! 女子の体操服姿が眩しいぜ!」

 

 そういうこと大声で言うなよ。同じA組の下柳くんがはしゃいでいたので距離を取らせてもらった。

 

「それ、女子に聞こえたら大変やで。しもやんが嫌われたいっていうなら構わへんけど」

「やべー、口閉じとこ。助かったぜ一郎」

「まあ手遅れやとは思うんやけどね」

 

 佐藤からあだ名で呼ばれているだと? 俺だって呼ばれたことないのに……。

 下柳くんも佐藤のことを「一郎」って名前呼びだし。高校で始めて会ったはずなのに、なんで二人はあんなにも仲良しなんだ。

 出席番号が近いからとよくしゃべっているのは見かけていたが。それにしても相性が良かったからかなんなのか。ちょっと仲良くなりすぎやしませんかね?

 くっ、これじゃあ男子の友達ができていない俺がひがんでいるみたいではないか。決してそんなことはないぞ。佐藤に仲良しの友達ができた? けっこうではないか! 俺も高校での友達を早く作ってやるのだ! ……クリスは元から友達だったのでカウントされません。

 女子も少しだけ男子に遅れてから全員集合した。

 

「これ、恥ずかしいわ……」

 

 クリスが顔を赤らめる原因になっているのは着用した体操服にあった。

 女子の体操服はブルマである。小学生の頃は何とも思わなかった子でも、高校生にもなれば足の付け根までさらされるブルマに恥ずかしさを覚えてしまう女子がいた。クリスに至ってはブルマを履くのは始めてのようだった。

 彼女の日本人とはまた違った白い肌がさらされている。脚が長いこともあり、その美しいスタイルは目を惹いた。

 クリスはシャツの裾でブルマを隠そうとしている。そんな姿が却って見つめてはいけない色気を発していて思わず目を逸らしてしまう。

「おおーっ!」と男子どもから何とも嬉しそうな声が広がった。こんな反応を見てしまうと葵と瞳子が心配である。二人は大丈夫だろうか。

 それにしても恥ずかしがっているクリスが見ていられない。男子連中もあからさま過ぎる視線を向けるのがいけないのだが。

 クリスへと集中している視線を塞ぐために体を割り込ませた。これまたあからさまにがっかりした空気を出してくる。気持ちはわからんでもないが、自重しろ男子!

 

「あ、ありがとうトシナリ」

 

 これで少しは恥ずかしくなくなっただろうか。がんばれクリス、とアイコンタクトで伝える。今は恥ずかしいだろうからすぐに逸らしたけど。

 

「ルーカスさん、女子はこっちだから行こう」

「はい、わかったわ」

 

 美穂ちゃんが気を利かせてクリスをつれて行ってくれた。あとは任せておこう。

 クラス数が多いこともあって大きく二つに分かれることとなった。A組からE組までが山でウォークラリーを行い、F組からJ組までが施設のホールで説明会を受けるようだ。

 ウォークラリーを行うとのことで各グループに別れた。男女別で五、六人のグループだ。

 

「なあなあ、高木って言ったよな。お前クリスティーナちゃんと仲良いみたいだけど、知り合いなわけ?」

 

 ウォークラリー中、同じグループとなった下柳くんが話しかけてきた。ちなみに佐藤も同じグループである。

 

「うん、小学生の頃からの友達だよ」

「あんなかわいい子と友達になってるなんて運の良い奴め。クリスティーナちゃんもすげえ懐いてるしよ。なあ高木、俺と友達になろうぜ。高木といっしょにいればクリスティーナちゃんとお近付きになれそうだ」

 

 うん、すごく素直な奴だな。

 少しは言いたいところはあるのだが、俺にとってもクリスにとっても良い申し出なのかもしれなかった。お互いもっとほかのクラスメートとも交流を持った方がいいだろう。

 

「わかった。よろしくな下柳くん」

「くん付けとかいいって。好きに呼んでくれていいけど堅苦しいのはなしな」

 

 カラカラと笑う彼はとても好青年に見えた。欲望が漏れているのを抜きにすれば良い奴なのかもしれない。

 このグループで下柳は中心となっていた。盛り上げ役を任せてしまっている状態だ。そのおかげで他の男子とも仲良くできたと思う。

 

「でさ、入ったサッカー部には同じ一年に本郷って奴がいてよ。こいつが中学で全大優勝してMVPになったとかいうとんでもねえ選手なんだよ。もっと強豪校に行けただろうに、なんでうちに来たのかってみんな言ってるぜ」

「本郷くんは僕らと同じ中学やから知ってるで。昔からサッカーが上手かったんや」

「マジか!? どんな奴なんだ? 弱点とか教えてくれよ」

 

 山道を歩き始めて一時間以上は経っているのに下柳は元気だな。ずっとしゃべりっぱなしだ。さすがは運動部といったところか。それにずっと付き合っている佐藤もわりと体力があるのだが。

 チェックポイントを確認してコース地図と照らし合わせると、ゴールまでの道のりはまだ続いていそうだった。歩き通しで他の男子は疲れを見せている。

 

「下柳、少し休憩しないか?」

「休憩? いらないだろ。ゴールまでこのまま一気に行こうぜ」

 

 俺の提案に下柳は首を横に振る。まあ運動部のお前は体力に余裕はあるんだろうけどさ。

 グループのみんなと話してみたが、中学の時に運動部だったのは俺と下柳だけである。運動部じゃなかった佐藤は余裕を見せてはいるが、他の連中まで体力があるわけじゃない。

 

「せめて水分補給はしておこう。夏場じゃないからってこれだけ歩いていたら汗だってかいているだろうしさ」

「なんだよ。柔道部だったわりには軟弱だな」

 

 む……。いや、下柳の言いたいことはわからなくもない。俺だって中学の柔道部の練習では途中で水分補給なんてさせてもらえなかったからな。

 だからってそれをみんなに強制させなくてもいいと思うのだが。飲み物を持って行くのは許可されているし、もちろん飲んではいけないルールなんてない。

 

「俺は高木に賛成ー。ちょっと休もうぜ」

「僕も喉渇いたー。歩いてばっかりはしんどいって」

 

 他の男子も賛同してくれた。佐藤も俺の意見に乗ってくれたので多数決で休憩することとなった。

 

「まったくしょうがねえ奴等だな。休憩がてら俺がためになる話をしてやろう」

 

 休憩中でも元気だな。その間に俺も水分補給させてもらう。運動部だからこそ大事なことなのだ。

 男子でも疲労の色を見せるウォークラリー。こういう体力のいるイベントで毎回心配になってしまうのが葵のことである。

 結局中学時代も葵の体力が向上することはなかったからなぁ。こればっかりは本人も諦め気味だし、彼女には体力がなくても得意なことがたくさんあるから俺も別にいいかと思っている。

 でも、学校生活ではこういった強制参加イベントがある。無事にゴールできるといいんだけど。

 

「それでだな、我らがA組にはクリスティーナちゃんが目立ってはいるのだが、他にもかわいい女子がいるわけよ。俺のおすすめは望月ちゃんだ。守ってやりたいオーラが半端じゃないぜ。あとは見た目だけなら赤城ちゃんかな。俺はああいう何考えてるかわかんねえ無口系とは合う気はしないけどな」

 

 それにしても下柳のためになる話って女子のことかい。まあ思春期真っ只中な高校男子にはためにはなるのかな? みんな興味津々に聞いているし。

 

「あっ、男子だー。ねえねえ、チェックポイント行けた?」

 

 下柳の話が途切れるタイミングを待っていると、クラスの女子グループに追いつかれた。思った以上に休憩していたようだ。

 

「チェックポイントは見逃していないぜ。見せてみ? 教えてやるからよ」

 

 嬉しそうだな下柳。女子とお近付きになりたい彼からすればいい休憩になったのかもしれない。

 ウォークラリーが終われば今度は説明会だ。学生としての心がけやら、我が校の理念やらというありがたいお言葉をけっこう長い時間に亘って聞かされた。運動後とあって、大半の生徒がぐったりしていたというのは、きっと気づいてはいないんだろうなぁ。

 最後は校歌の練習をして終了となった。時間があるからって何回も練習した。なんだかウォークラリーよりも疲れた気がする。

 日も暮れてきて夕食の時間となった。

 クラスごととはいえ、男女別々の席である。ウォークラリーでいっしょだったのか、クリスは美穂ちゃんと楽しげにおしゃべりしていた。美穂ちゃんはほとんど聞き手になっていたように見えたけれども。

 

「ここの飯は美味いな!」

「しもやん零しとるで。服についとる」

「うわっ! やべーシミになっちまう!」

 

 食事時でも騒がしい。でも騒がしい方がみんなしゃべりやすくなるのかも。実際、あちらこちらで楽しそうな笑い声が聞こえている。

 俺も同じテーブルのクラスメートと会話した。部活や中学でのあるある話をして盛り上がった。

 ちょっと不安があったものの、俺もクラスに馴染んでいけそうで安心した。もしかしたらこういう感情はみんないっしょなのかもな。

 夕食が終われば入浴の時間である。それも終われば肝試しの時間だ。

 クラス数が多いので、肝試しは五つのコースに分かれることとなっている。俺達A組はB組といっしょに五つ分かれたうちの一つのスタート地点に集まった。

 

「これからくじ引きをして男女のペアを作ってもらう。二人きりになるからといって男子は変なこと考えるなよ。紳士であるようにな。先生との約束だ」

 

 鮫島先生が肝試しのルールを説明してくれた。

 男女のペアで決められた道を進む。折り返し地点に先生がいるのでチェックをしてもらい、帰ってくるといったものだ。

 一本道ではあるし、とくに脅かし役なんかもいなさそうだ。夜にみんなで楽しむというのが重要なのだろう。

 

「次は高木だな。ほれ、早くくじを引け」

「はい」

 

 くじを引くと十四という数字が書かれていた。同じ番号の女子とペアになるのだ。

 

「十四番の人誰だー?」

 

 みんながくじを引き終わったので聞いて回る。俺の声に反応して、一人の女の子が手を上げた。

 

「はいはーい。十四番は僕ですよー」

 

 近づいてきた女子はぴしっとかわいらしく敬礼をした。

 

「望月梨菜です! 高木くん……ですよね? お相手よろしくお願いします!」

 

 あどけない笑顔を向けてくるのは、下柳がかわいいと推していた望月さんだった。

 

 




調べてみるとオリエンテーションも学校によって違うみたいですねー。学校で講習会をやるところもあれば、県外に出て体験学習するところもあるそうです。てなわけで私の高校をもとにさせてもらってみたり。無茶苦茶歩かされた思い出……(良い思い出か?)


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94.オリエンテーション合宿中の女子達

美穂ちゃん、葵ちゃん、瞳子ちゃん視点です(多いかな?)


 今日はオリエンテーション合宿だ。

 一年A組の生徒達を乗せたバスが走っている。子供の頃に比べ、流れる景色に見入ってしまうことはなかった。

 

「トシナリトシナリ。あれ、あれを見て。なんだかすごく独特な形をしているの」

 

 だからこそルーカスさんのはしゃいでいる姿はより一層無邪気なものに見えてしまう。

 あたしの少しだけ前方の席。そこに高木とルーカスさんが並んで座っている。

 出身地がイギリスというルーカスさんは驚くほど日本語が上手だった。外国の人だとわからなくなってしまいそうなほどに日本に適応しているように見えた。

 そんな彼女も日本の景色は興味津々のようだった。あたしも外国に行けばああいう反応を見せるのだろうかと想像して、それはないなと首を横に振る。

 

「……」

 

 ルーカスさんは高木を追いかけて同じ高校に進学した、というわけではない。

 その線を疑っていたものの、それはまったくの偶然らしい。教室での二人の会話を聞いてそう判断できた。

 でも、彼女が日本に来たのは高木がきっかけになっているのは間違いない。彼から何か心に残る思い出をもらったのだろう。

 

「思い出だったら、あたしだって負けてないのに……」

「どうしたの赤城さん?」

「ううん、何でもない」

 

 ルーカスさんと勝負してもしょうがない。それに、もう勝負にもならない。

 あたしはもう諦めたはずだ。高木とはただの友達。宮坂や木之下とも友達だからこそ、言いたくなることはあるけれど、あたし自身がどうかなろうだなんて考えていない。

 

「あの、赤城さんって本郷くんと同じ中学なんだよね。私本郷くんのファンなの……。良かったら彼のこと教えてくれない?」

 

 バスで隣の席となった女子からおずおずとそんなことを尋ねられた。

 本郷は地元では有名人だった。サッカーの実力とそのルックスで他校から彼の試合を観戦しにくる人もいたくらいだから。

 わかりやすく一番モテていたのは本郷だろう。でも、中学で一番男子から嫉妬されていたのは高木だった。

 

「あたしが知っていることだけでいいなら」

「本当? 赤城さんありがとう!」

 

 まるでアイドルのファンみたいな反応。それでもいいと思う。宮坂や木之下みたいな恋のし方がみんなに当てはまるわけでもない。

 あたしは……まだ手探り中かな。

 話してみれば本郷のファンだと思っていた女子は、それ以上にサッカー選手としての彼のファンだった。

 どんな練習をしているか、体調管理のために何かしているのか。聞いてくるのはそんなサッカーに関係がありそうなものばかりだった。最後には本郷がどれだけすごいプレーができるかと力説していた。彼女の話では彼は将来日本サッカーを背負って立つ男らしい。サッカーのことをちゃんと知っているわけではないけど、それは大袈裟だと思った。

 

「あ、ごめんね私ばっかり話しちゃってさ。誤解してほしくはないんだけどね、私は本郷くんの恋人になりたいだとかそういうことは考えてないの。選手として憧れの存在ってだけ。それに私には彼氏がいるし……」

「そうなんだ」

「そうなの。赤城さんは? 彼氏とか、付き合ったこととかある?」

「付き合ったことのある人数なら十人以上かな」

 

 あたしの言葉を耳にした女子はきょとんとした顔になる。それから噴き出すように笑った。

 

「赤城さんって冗談言うのね。なんだか思っていたよりも付き合いやすい人で安心しちゃった」

「そう……」

 

 冗談に受け取られたようだ。まあいいけどね。

 一応、冗談ではないのだけど……。わざわざ訂正する必要もないだろうと思って何も言わなかった。

 バスが目的地へと到着する。一泊する宿泊施設はとても大きかった。一学年全員が寝泊まりするのだから当たり前なのかな。

 体操服に着替えてクラスごとで集まる。A組の男子の視線はほとんどがルーカスさんに向いていた。

 中学生の時くらいから女子を見る男子の目の色が変わったように感じる。それは高校になっても変わらないようで、ルーカスさんに向けられているものなんかは宮坂や木之下に向けられる視線に似たような熱量があった。

 そんな風に彼女へと向けられている視線を遮るように、高木が体を割り込ませた。

 

「あ、ありがとうトシナリ」

 

 意図を知ってかルーカスさんがお礼を口にする。高木は当たり前のことをしただけだというように、特別な反応は返さなかった。

 

「……」

 

 この場の男子の中で高木みたいに行動できる人が何人いるのだろう? あの時のあたしに、高木みたいに声をかけられる人はいたのだろうか。

 止まりそうになっていた呼吸を取り返すように、慌てて大きく息を吸い込んだ。

 

「ルーカスさん、女子はこっちだから行こう」

「はい、わかったわ」

 

 あたしが声をかければ彼女はあっさりと頷いた。

 高木と視線が交差する。ふっと緩められたその目が何を伝えたかったのか。わかってしまいそうになるのがちょっとだけ嫌だった。

 ウォークラリーは男女別のグループで行われる。女子の方が距離が短くはあるが、男子のコースと被っているところも多いし、道のりが長いことには変わりなかった。

 

「改めまして、僕は望月梨菜です。クリスティーナさんとはお話してみたかったんですよ。故郷のお話とか聞かせてください!」

「いいわよ。えーと……」

「梨菜でいいですよ。僕もクリスティーナさんってファーストネームで呼んじゃってますし」

「わかったわ。わたしもクリスでいいわ。よろしくねリナ」

「はい! こちらこそよろしくです!」

 

 あたしのグループはルーカスさんと望月さんからのそんな会話から始まった。

 入学式の日の自己紹介でみんなの名前は覚えていたけれど、あまりしゃべっていないこともあってあたし達は改めて自己紹介をした。

 

「こうやって山の中にいるとトシナリと出会った時のことを思い出すわ」

「トシナリ? もしかしていつも教室でお話している男子ですか?」

「そうよ。トシナリはわたしの日本で初めての友達なの」

「へぇ……。どんな人なんですか?」

 

 ルーカスさんが語る高木のことを、あたしは黙って聞いていた。

 ウォークラリーも半分以上が過ぎただろうか。みんな疲労の色が濃い。元気を残しているのはルーカスさんだけだった。

 

「ミホはトシナリと同じ学校だったんだ」

「まあ、そうだけど」

 

 話相手をしていた望月さんがばててしまったこともあり、今度はあたしに標的を変えたようだ。

 よくしゃべる人だ。満面の笑顔で高木のことが好きなんだって伝わってくる。

 

「ルーカスさんは高木のことが好きなんだね」

 

 だから、ちょっと意地悪のつもりでそんなことを口にしていた。

 一瞬きょとんとしたルーカスさんだったけど、すぐに花が咲くような笑顔となった。

 

「もちろんトシナリのこと好きよ。ミホも好きなんでしょ?」

「え」

 

 まさかの反撃だった。

 咄嗟に否定しようとして、息が詰まってしまっている自分に気づく。早く言葉にしなければ誤解されてしまう。

 

「だってミホ、いつもトシナリのこと見ているじゃない。わたし彼の近くにばかり行くから気づいちゃうのよ」

「……」

 

 そんなことはない。本当にそんなことはないのだ。

 あたしと高木は友達だ。それで納得している。高木だって、あたしを好きだなんて言わないだろう。

 高木には他に好きな人がいて、その二人と付き合っているのだから。

 

「違うよ。高木に外国の友達がいるんだなって驚いていたから見ていただけ。ルーカスさんが物珍しかっただけ」

「わたしって物珍しい? あはっ、ありがとう。でもルーカスさんはやめて。クリスでいいわ」

 

 なぜお礼を言われたのかわからない。あたしは首を横に振った。

 

「さん付けをしないのはいいけど、名前を呼ぶのは遠慮しとく。あたしの呼び方は好きにしていいよ」

 

 ルーカスは明るい調子で了承してくれた。疑問を挟んでくるかと思ったけれど、人の意志を尊重してくれるようだった。

 高木と同じ学校の出身だからだろう。ルーカスはウォークラリーが終わるまでずっとあたしに話しかけ続けた。ていうか終わった後も彼女の話は終わらなかった。よくそんなに体力があるね。

 食事中もいっしょだったのであたしがルーカスの面倒を見ることとなっていた。箸の使い方だけはなっていなかったので教えてあげた。

 高木はよくルーカスの相手をできるものだと思ってしまう。いちいちリアクションが大きいものだから疲れてしまった。

 入浴中も彼女といっしょだ。誰か引き取ってくれないだろうか。高木はスタイルの良い女の子に好かれ過ぎ……っ。

 本日残すイベントは肝試しだけとなった。早く終えて布団に入りたい。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「ねえ真奈美ちゃん。肝試しのペア、私と組まない?」

「残念だけどあおっち。肝試しのペアはくじ引きで、しかも男子相手って決まってるよ」

「だよねー……」

 

 日が暮れればそれなりに雰囲気も出ていた。ホラーっぽい雰囲気だ。

 少し月明かりが明かる過ぎるのが残念なところ。それでもペアの相手がトシくんだったのなら構わなかったのにね。

 今回の肝試しはあまり楽しみではなかったりする。あまり怖くなさそうなのはもちろん、やっぱりトシくんと絶対にペアを組めないというのが私の気持ちを沈ませた。

 せめて同じクラスだったのなら、くじを引くのだって楽しみにできたのにな。ウォークラリーでものすごく疲れちゃったし、これなら肝試しなんてせずに早く休ませてほしかった。

 

「よ、よろしくな宮坂さん!」

「こちらこそよろしくね」

 

 私のペアになった男子に声をかけられる。わかっていたことなのに、トシくんじゃないのかとがっかりしてしまう。なんでA組じゃなくてC組になっちゃったんだろ。

 トシくんは誰とペアを組んでいるのだろう? トシくんのことだからまたかわいい女の子とペアを組んでいるんだろうな。そんな予感めいたものが頭を過る。

 瞳子ちゃんがトシくんと同じクラスだったら安心したのに。こういう時の瞳子ちゃんのくじ運は信頼できるものがあるから。

 

「み、宮坂さん。俺達の順番になったよ」

「今行くね」

 

 男子とペアで薄暗い道を歩いて行く。

 そんなに距離はないし、不気味な雰囲気もとくにない。これで肝試しっていうのはちょっとね……。高校生を相手にしているんだからもっとがんばってほしかったな。

 

「俺は中学の時にバスケで県大会ベスト8だったんだぜ。今のバスケ部だって新入生の中で一番筋がいいって先輩から褒められてるんだ。このままいけば一年でレギュラーとして大会に出られるかもしれないんだぜ」

「そうなんだ。すごいんだね」

 

 肝試しという雰囲気が足りないせいでペアの男子が自分語りを始めてしまった。

 私が相槌を打つと彼は嬉しそうに身振り手振りを加えてさらに話を続ける。バスケの話題は私にはよくわからなかった。

 この男子のように、たぶんほとんどの人はこんな脅かす気がない肝試しに恐怖を覚えたりしないんだろうな。

 それでも、瞳子ちゃんは怖がってしまいそうで心配だった。暗いのがダメってわけでもないみたいなんだけど、雰囲気にやられてしまうというか、とにかくホラー耐性がないのだ。

 こういうイベントの時はいつもトシくんが傍にいてくれただけに、瞳子ちゃんがどんな反応を見せてしまうのかが気懸りだ。

 変な人に当たったりしなければいいんだけど。

 

「お、俺ってけっこうモテていたりするんだよね。バスケの実力はあるし勉強もできるからさ。ラブレターをもらってかっこ良いからって告白されたことだってあるんだ」

「そうなんだ。すごいね」

 

 折り返し地点で先生にチェックをしてもらう。その間だけはペアの男子は口を閉じていた。

 あとは戻るだけ。その道中に私の隣を歩いている男子はこんなことを聞いてきた。

 

「あ、あのさ……宮坂さんって付き合っている人とかいるのか?」

 

 私は足を止めた。それに気づいた男子も遅れて振り返った。

 

「いるよ」

「え?」

「私、とっても素敵な彼氏がいるの。その人のことが大好きよ」

 

 偽りのない笑顔を向ける。これで充分だった。

 別に男子と交流を持たないようにしているわけじゃない。トシくんとはちゃんと気持ちが通じているから、今さらこんなことで誤解なんてしたりしない。

 でも、私をそういう目で見る人とは仲良くなれない。ただそれだけのことだった。

 やっぱり肝試しをするんだったらトシくんと瞳子ちゃんと三人でしたかったな。それが今回の肝試しを終えての感想だった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 オリエンテーション合宿はほとんどクラスの人達との交流ばかりで、帰るまで俊成に会えそうにはなかった。

 

「木之下、疲れているのか?」

 

 先ほど肝試しのペアに決まった本郷に心配されてしまう。そんなに疲れている顔をしていたかしら?

 

「別に疲れているわけじゃないんだけどね」

「クラスの女子のことを一人でまとめてくれてただろ。疲れが出たっておかしくない」

 

 見ていたのね。あたしもクラスをまとめようと思っていたわけじゃないのだけれど、自然とみんなに声をかけて回っていたのだ。

 F組の女子は悪い子がいない印象だった。ただ、主体性のある人がいないような感じでなかなか動こうとしなかった。だからみんなが動けるようにと声をかけてやるべきことをやっていただけなのだ。

 でも、それが疲れたってわけじゃない。結局は俊成に会えないと思ったら寂しくなってしまっただけである。

 ええいっ! あたしだってもう子供じゃないのだ。俊成と葵には今朝会っているし、明日帰ればまた会える。

 こんなことくらいで寂しくなっていたらいらない心配をかけてしまう。もっとしっかりしなきゃ。あたしは胸を張って俊成の隣にいるのだから。

 

「おっ、木之下、俺達の番がきたぞ」

「え、ええ。い、行きましょうか」

 

 そのためにも、あたしはこの試練を乗り越えなければならなかった。

 肝試しはちょっとした山道だ。とはいえ、道は綺麗なもので、坂道だってなだらかだ。

 

「きゃっ!?」

 

 風なのか木々がざわめいた。何かが現れる、なんてことはない……はずなのよね?

 

「大丈夫か?」

「だ、大丈夫よ。問題なんて何もないわっ!」

 

 早く終わってほしい。俊成がいないから腕にしがみついて恐怖を押し殺すこともできない。

 すっと、あたしの前に手が差し出された。

 男の人の手だ。一瞬俊成が来てくれたのかと思ってしまった。

 

「あ……悪い。俺と手なんか繋げないよな」

 

 もちろんこの場に俊成はいない。手を差し出してくれたのはペアになっている本郷だった。

 怖がっているあたしが見ていられなかったのだろう。子供っぽいと思っていた彼だけれど、いつの間にか優しさを見せられるようになったらしい。

 

「せ、背中くらいなら貸してやれるが……どうだ?」

 

 本郷はあたしに背を向ける。背中に掴まっていいという意味なのだろうか。

 あたしと俊成が付き合っているのを知っているからこそそんな気遣いをしてくれたのだろう。小学生の頃、周囲の目を考えていなかった頃とは大違いね。

 

「じゃあ、遠慮なく借りさせてもらうわね」

 

 体操服の裾を掴ませてもらった。少しは恐怖が収まってくれる。

 

「歩くからな」

「ええ。いいわよ」

 

 一声かけてくれてから本郷は歩き出す。ゆっくりとしたペースに、あたしはついて行った。

 

「……高木が羨ましいな」

「え? 何か言った?」

「何でもない。早く行こうぜ」

 

 少しペースを上げてきたので慌ててついて行く。

 本郷のおかげで肝試しを何とか切り抜けることができた。高校生になって、ちょっとだけ彼のことを見直したかもしれなかった。

 

 



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95.肝試しでの怖いこと【挿絵あり】

チャーコさんが『元おっさんの幼馴染育成計画』にぜひファンアートを贈りたいと、まるぶち銀河さんに依頼して描いていただきました。
まるで本の表紙のような出来栄えなのでよろしければ見てってくださいな。


【挿絵表示】





「うおおおしゃああああああああああああーーっ!!」

 

 突然の大声に驚いてしまった。それは目の前にいる望月さんも同じようで、肩が大きく跳ねていた。

 声の方向を見れば、下柳が右手を天に向かって突き出していた。その手にはくじが握られている。

 

「クリスティーナちゃん! 俺、下柳賢です! よろしくお願いします!!」

「あはは、名前は覚えているわ。よろしくねシモヤナギ」

「覚えてもらっていて光栄です!」

 

 どうやら下柳のペアはクリスのようだ。それにしてもキャラ変わってんぞ……。かわいい女の子と組めて嬉しかったんだろうなぁ。

 

「下柳くん、テンション高いですねー」

「だなー」

 

 望月さんがちょっと呆れ気味だぞ下柳。まあこれも青春か。

 

「高木くんは僕とペアになってテンション上がらないですか?」

「ん? んー……」

 

 とくには変わらない……、なんて言ったら悪いだろうか。そりゃあ葵と瞳子なら嬉しかったんだろうけどさ。

 

「まあ……それなりに、かな」

「むぅ……」

 

 結局曖昧な答えを口にしてしまう。案の定と言うべきか、望月さんの眉が少しだけ寄る。

 しかしそれも一瞬のこと。彼女はかわいらしい笑顔を向けてきた。

 

「高木くんは僕なんかよりもクリスさんの方が良かったですよね」

「別にそんなことないよ」

 

 肝試しで一番いっしょになりたかったのは瞳子かな。というか心配だ……。瞳子は雰囲気だけで怖がってしまうからな。

 ペアの男子によっては危険ではなかろうか。などと考えていたら心配でたまらなくなっていた。知らない奴なんかに抱きついたりしてないよね?

 葵はたぶん大丈夫だろう。むしろホラーは好きなくらいだし、ああ見えてガードは硬い。中学生時代も後半になれば勘違いをする男子はいなくなっていたほどだ。

 

「遠くを見ちゃったりして、どうかしたんですか?」

「いや、なんでもないよ」

 

 今心配したところで仕方がないだろう。ここは信じるしかないか。

 

「ほな僕等も行こか」

「そうね」

 

 佐藤と美穂ちゃんのペアがスタートする。中学までで見知った顔同士だと趣旨を考えればあまり意味がない気がするな。でもこの二人はなんだか安心感があるね。

 

「次は十四番のペア。早く行ってこい」

「はーい。それじゃあ高木くん、行きましょうか」

「うん」

 

 望月さんといっしょにスタートする。

 暗がりとはいえ月明かりはあるし、懐中電灯も持たされている。見ようによっては不気味に感じられなくもないが、あまり怖いとかはなかった。

 小学生の修学旅行で行った映画村のお化け屋敷ならやばかったかもしれないけど、脅かし役もいないなんちゃって肝試しなんかにびびったりはしないのだ。かっこ悪い姿を見せたくないというのもあってホラーへの耐性がついてきたのもあったりする。

 

「ん?」

 

 袖をぎゅっと掴まれた。一瞬実は脅かし役がいたのかと身構えたが、その相手は望月さんだった。

 

「あ、あの……僕はこういうお化けが出そうなのは苦手で……。ちょっと腕をお借りしてもいいですか?」

 

 そういえば自己紹介でそんなことを言っていた気がする。もしかして彼女も瞳子と同じタイプなのだろうか。

 

「まあ、服だけなら掴んでいてもいいよ」

 

 望月さんが身を寄せてくる。並んでみると葵や瞳子よりも小柄だというのがわかる。二人は女性として成長しているから高校生として見えるのだけど、望月さんはあどけない顔も相まってまだ中学生らしさが抜け切っていないように見えた。

 

「お……?」

 

 腕に当たる柔らかな感触。服だけでと言ったのに、望月さんは俺の腕を抱えるようにしていた。

 これ胸が当たっているよね……? 葵はもちろん、瞳子よりも小さいだろうが、美穂ちゃんよりは確実にあるであろう膨らみだった。美穂ちゃんに怒られそうなので絶対に口にしないけど。

 いやまああくまでも目算だ。美穂ちゃんは当然として、葵と瞳子の胸をそうそう触ったりはしないし。まあ当たったというか、事故で触れたことはあるけども。

 

「望月さん? ちょっとくっつき過ぎじゃないか?」

「怖いんです。いけませんか?」

 

 上目遣いで訴えかけてくる。なんだろうこの感じ。なんだか誰かと似ているように感じた。

 ちょっとだけ考えて、ああと納得した。

 

麗華(れいか)と似てるんだ」

 

 俺の従妹である清水(しみず)麗華(れいか)。あの年下だからこそのしょうがなさと言うか、からかったりしても悪意がないから許してしまうような、なんだかんだでやれやれと思いながらもさせてしまうみたいな雰囲気が望月さんにはあるのだ。

 

「あの、麗華って?」

 

 おっと、口に出ていたらしい。俺は誤魔化すように笑った。

 

「ごめんごめん。麗華ってのは俺の従妹だよ」

「なんで今その従妹さんが出てきたんですか?」

「なんだか望月さんが麗華と似ているなと思ってさ。深い意味はないよ」

「むぅ……、その子かわいいんですか?」

 

 麗華がかわいい? うーむ、かわいいと言えばかわいいし、憎たらしいと言えばそうかな。

 

「面倒なところもあるけど、かわいいところもあるかな」

「それどっちなんですか」

「まあ年下の従妹なんてそんなもんだよ。望月さんはお兄さんかお姉さんがいるんじゃないの?」

「え? よ、よくわかりましたね。一応兄が何人かいますけど……」

「何人かって。何人いるかは家族なんだから知ってるでしょうに」

「……四人います。僕は五人兄妹の末っ子なんですよ」

「へぇー、それは大変そうだね」

 

 何気なく口にした言葉だった。それに望月さんは大きな反応を見せる。

 

「そう! 大変なんですよ!」

 

 いきなり声が大きくなったな。俺の腕を掴む力が強くなる。

 

「兄はみんなデリカシーがないんですよ! 僕が女の子だってことをいい加減わかってほしいんです! 他の女子にそれを言っても『イケメンのお兄さんなんだから羨ましいだけだよー』ですよ? んなこと理由にならねえってんですよ!!」

「お、おう……」

 

 なんかものすごく熱くなっていらっしゃる……。とにかく兄達に対して妹ながらに思うところがあるらしかった。

 俺は兄妹いないからなぁ。葵と瞳子も同様なので妹がどんなのかって想像しづらい。

 ただ、望月さんの反応を見るに、家族だからって女性に対してのデリカシーというものを考えなければならないようだ。

 一度火がついたら止まらない。望月さんからお兄さんに対しての愚痴が吐き出し続けられるので、歩きながらそれを聞いていた。

 

「望月さん望月さん」

「なんですか!」

 

 いや、そんな怒ったように返事しなくても。感情を引きずってはいないですか?

 

「そろそろ折り返し地点だよ。先生もいるしさ」

「……はっ!? ご、ごめんなさい。熱くなってました」

 

 本当に熱くなってたねー。別に吐き出したいことがあるなら吐き出せばいいとは思うけどね。

 折り返し地点にはB組の先生がいた。照明のおかげでここはさらに明るくなっている。

 実はここで脅かされるんじゃないかと期待していたのだが。そんなことはなく先生は普通に突っ立っているだけだった。なんだかなー。

 チェックをしてもらい帰りの道を進む。いつの間にか俺の腕から離れていた望月さんはなぜかしゅんとしていた。

 

「望月さんどうしたの?」

「いえ、その……」

 

 さっきまでの勢いと違って歯切れが悪い。一体どうしたのだろうか?

 再びの上目遣い。けれど、その意味合いは違っているように見えた。

 

「あの、僕に兄がいるってこと、みんなには黙ってもらっててもいいですか?」

「え、なんで?」

「恥ずかしいんですよ! 兄と同じで僕もデリカシーのない女子だって思われたくないんです!」

 

 いやいや、そこまで兄妹セットには思われないでしょうに。

 

「……」

「わ、わかったよ」

 

 しかし、こうも目をうるうるさせて見つめられたら頷くしかない。きっと彼女には譲れないことなのだろう。

 

「なんか、望月さんって苦労しているんだね」

「そうなんですよ! 兄貴……兄さん達のせいでとっても苦労しているんです!」

 

 今「兄貴」って言ったのに言い直さなかった? 別に呼び方をとやかく言ったりはしないのにな。

 望月さんはヒートアップして、またもやお兄さんへの愚痴へと移行した。いろいろ溜まっているんだなぁ。前世では羨ましいと思っていたものだけれど、兄弟も良いことばかりではないらしい。

 

「僕だって女の子なのにっ。そこんとこわかってないんですよ!」

「そうだね。望月さんは誰がどう見たって女の子だよ。女の子扱いされて当然だ」

「ですよね! それなのに兄さん達ときたら――」

 

 これは長くなりそうな予感がする。望月さんってけっこうしゃべる人なんだな。主に愚痴だけれども。

 とはいえ今は肝試し中である。終わりがあるので彼女の話が長く続くことはなかった。

 

「高木くんおかえりー」

 

 望月さんの話を聞いているだけで時間が進んでいたようだ。歩いている感覚もなく最初の地点へと戻ってきていた。佐藤に出迎えられてそのことに気づく。

 

「あ……、終わっちゃいましたね」

「うん。望月さんもあまり怖がらなかったみたいで良かったよ」

「え? ああ……そうですね」

 

 お化けが苦手な彼女からすれば、兄への愚痴を吐き出しているだけで肝試しが終わったのだから良かったんじゃないかな。なんかスッキリしているみたいだしね。

 

「あのっ」

 

 望月さんに肩をちょんちょんとされる。小声で何かを言おうとしていたみたいだったので膝を曲げて耳を近づけた。

 

「さっきのこと、絶対に秘密ですからね」

 

 耳元でそんなことを言われた。よほど兄のことを気にしているようだ。

 

「誰にも言わないよ。約束する」

「本当ですか? 約束ですからね。破ったら許さないですから」

 

 念押ししてくる。そこまで必死にならなくてもいいのに。

 望月さんはもう一度「約束ですからね」と言って女子の集団へと戻った。

 

「何が約束だって?」

「うおっ!? み、美穂ちゃんか。驚かせないでよ」

 

 背後から声をかけられて驚いてしまった。今のはちょっと恥ずかしい。

 

「望月さんと何かあったの?」

「え? 別に何もないよ。ただの雑談だって」

「ふうん……」

 

 なぜだろう? 美穂ちゃんに責められている気がしてしまう。

 美穂ちゃんはそれっきり言葉を続けることなく女子の集団へと戻って行った。今のプレッシャーはなんだったのだろうか?

 

「なあ佐藤。肝試し中に美穂ちゃんを怒らせるようなことをしたのか?」

「え? 僕は何もしとらんで」

「そうかぁ?」

「なんか高木くんに疑われるのって納得できへんのやけど」

 

 俺と佐藤がそんなやり取りをしていると、どこからか叫び声が響いてきた。木々がざわついて場が騒然となる。

 

「び、びっくりしたー。なんや今の?」

「肝試ししている方向から聞こえてきたな。誰か怖がりな奴でもいたか?」

「そんなに怖いもんでもあらへんやろ。こんなん木之下さんでもないと怖がらへんって」

「それ瞳子が聞いたら怒るぞ」

 

 しかし叫び声は段々と近づいてくる。わけのわからなさに恐怖を感じてしまったのだろう。女子の集団から悲鳴が上がる。

 一体なんなのだろうか。俺は前に出て身構えた。

 すると、山道の方から何者かが飛び出してきた。

 

「うおおおわああああああああん!!」

「は? 下柳か?」

「た、高木ぃぃぃぃぃーーっ!!」

「うおおっ!?」

 

 現れたのは下柳だった。どうやら叫び声の主はこいつだったらしい。

 恐怖にひきつったひどい顔をしたまま、一番前に出ていた俺に抱きついてきた。って、なんだよ気持ち悪いなっ。

 

「な、なんだ? 一体何があったんだ?」

 

 尋ねてみると下柳はつっかえながらも説明しようとする。

 

「ク、クリスティーナちゃんが……、クリスティーナちゃんがぁ……」

「おい! クリスに何かあったのか!?」

 

 涙までながしている下柳を見て、尋常じゃない事態が起こったのだと悟る。そういえばペアであるはずのクリスの姿がない。

 

「落ち着け下柳! 落ち着いて何があったか説明しろ」

 

 俺だって落ち着いてはいられない。でも、まずは状況がわからないと動きようがなかった。

 息が荒い下柳だったが、それでも説明してくれようとしていた。飛び出してしまいそうな自分を押し止めて、俺は静かに彼の話に耳を傾けた。

 

「クリスティーナちゃんが……、ものすっげえ怖い話をするんだよぉぉぉぉっ!!」

「……は?」

 

 えっと……、クリスが、なんだって?

 

「すまん下柳。ちゃんと説明してくれ」

「だからよ! クリスティーナちゃんが超怖い話をするんだって! それがもう真に迫るなんて生易しいもんじゃなくってよ! 情景から何まで全部そこにあるかのように想像できちまうんだ! そうしたら俺、もうじっとしてられなかったんだよぉぉぉぉっ!!」

「……」

 

 ごめん、ちょっとこめかみ揉んでもいいかな。もみもみ、うん、スッキリした。

 つまり簡潔に述べれば、肝試し中にクリスと会話していました。彼女から怖い話を聞かされました。それが本当に怖くてクリスを置いて走って逃げてしまった。そういうことか?

 

「シモヤナギー。急に走るなんてひどいわ。それに、話はまだ終わってないのよ」

「ヒィィィィィィィ!! 来たぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 いや、大袈裟過ぎだろ。そんな反応が面白かったのかクリスも楽しげである。

 この後は肝試しそっちのけでクリスと下柳の追いかけっこが始まった。それは鮫島先生に怒られるまで続いたのであった。醜態をさらしてしまった下柳の株が下がったと、ここに記しておく。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 次の日。俺達はオリエンテーション合宿の最後のプログラムである閉舎式を迎えていた。

 

「えー、皆さん。今回のオリエンテーション合宿はどうでしたか? たった二日間でしたが、私には皆さんが絆を深め成長したように感じます」

 

 校長先生の話をみんなで聞いている。一泊二日とはいえけっこう疲れた。

 

「えー、研修の終わりにあたって私から次のことをお話します。まず一つ目は――」

 

 あ、これ長話になるやつだ。

 校長先生の話はありがたいものである。それは間違いない。社会人になった時にもっとちゃんと聞いておくべきだったかと思ったものである。

 でもね、こんな疲れている時にためになる長話をしなくてもいいと思うんだ。ほら、船を漕いでいる子達がいるしさ。

 校長先生の話を最後にオリエンテーション合宿は終了した。後片付けを済ませて、俺達は行きと同じようにバスで学校へと戻った。

 

「やっとトシくんに会えたよー」

「なんだかこんなにも会えないなんて久しぶりね」

 

 帰りは葵と瞳子といっしょだ。一日ぶりというだけなのに、二人のぬくもりが恋しくなっていた。

 

「でも、道端で腕なんか組んでいたら目立つんじゃないか?」

 

 葵と瞳子に挟まれて、どちらも俺と腕を組んでいる。嬉しいけどいいのかなと思ってしまう。

 

「だって昨日はほとんどトシくんと離れていたんだから。今はこうやって取り返しているの」

「あたしだって本当は会いたかったんだからね。これでも我慢してたんだから……、今くらいいいでしょ?」

 

 二人からそんな風に言われてしまえば首を縦に振るしかない。満更でもないのだから俺だって同じだ。

 やっぱり腕を組むなら葵と瞳子とがいいな。彼女達の感触に心がほっこりしながらそう思った。

 

 



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96.下柳賢は目撃する

下柳視点です。


 俺の名前は下柳賢。一年A組の男子である。

 教室の男子を見渡してみるが、クラスで一番かっこ良いのは俺だろう。高校への入学を機に美容院で髪を切ってもらって良かったぜ。

 俺が外見を整えて高校デビューしたのには大きな理由があるのだ。その理由とは、女子とお付き合いをすることなのだ!

 もちろんそんな目標を掲げている俺は努力を怠らない。自分をアピールするだけではなく、学校にどんなかわいい女子がいるのかとリサーチもしているのである。

 まずは同じクラスの女子。この中で目を惹くのは三人いる。

 一人はクリスティーナ・ルーカス。欧米の美女といった外見の女子だ。

 見た目のインパクトもあって女子の中では一番目立っているだろう。もちろん外見レベルは高い。外国人というのを差し引いてもお近づきになりたい……と考えている時期が俺にもあった。

 このクリスティーナちゃん、とんでもなく怖い話をしやがるのだ。流暢な日本語で語られる話は、まるで今その内容の通りのことが起こっているのかと錯覚させられるほどだ。

 お付き合いをしたとしても毎度そんな話をされたらたまったものではない。彼女は俺のヒロインではなかったのだ。

 二人目は望月梨菜。今のところ彼女が俺の本命である。

 明るい茶髪は肩までかかる。小柄であどけない顔立ちをしており、なんかこう守ってあげたくなるような雰囲気をかもし出しているのだ。俺の好みはそういうタイプだ。

 望月ちゃんはインパクトではクリスティーナちゃんに劣るものの、外見レベルは彼女と同程度に高い。性格も明るく社交的だしな。申し分ない。

 最後の三人目は赤城美穂。正直言うと一応候補に入れたというだけの女子である。

 それでも候補に入っただけはあって顔は整っている。しかし勿体ないことに常に無表情でいるのがその良さを殺していた。実に勿体ない。

 見た目からしてあまり口数も多くないようだ。だけどそれなりに友達作りはできているようで、一人ぼっちでいるという姿はあまり見ない。

 赤城ちゃんは三人の中で一番よくわからない女子だ。見た目通りであるような、そうでもないような。彼女とあまり話していないからか、まだ掴みかねている状態だ。

 

「しもやん昼休みやで。いっしょに弁当食べようや」

「おう、わかった」

 

 振り返った一郎が声をかけてきたので弁当を持って立ち上がる。

 佐藤一郎は高校になってからの友達だ。出席番号が前後というのもあって、席がすぐ前なのだ。

 話すきっかけは席が近かったからだが、一郎とはなんだかウマが合う。俺とは違うタイプであるのは間違いない。だからこそなのか一郎の柔らかい雰囲気は新しいクラスで緊張していた俺をリラックスさせてくれた。

 俺と一郎は弁当を持って移動する。移動した先では望月ちゃんとクリスティーナちゃんが机をくっつけ合っていた。

 オリエンテーション合宿は無駄ではなかったのだ。成果はこうやって女子と昼食をともにできるようになった形で表れていた。

 男子は俺と一郎と高木。女子は望月ちゃんとクリスティーナちゃんと赤城ちゃん。この六人で昼をいっしょにするようになったのだ。

 女子といっしょにご飯。なんという青春だろうか。俺、高校生になって良かったって本気で思えるよ。

 椅子に座るとクリスティーナちゃんが首をかしげた。

 

「トシナリはどこへ行ったの?」

「そういえば高木くんの姿が見当たりませんね」

「佐藤、高木はどこ?」

 

 クリスティーナちゃんを始めとして女子三人の疑問が飛ぶ。赤城ちゃんに尋ねられた一郎はたははと笑いながら答えた。

 

「今日は二人といっしょにご飯食べるって言うてたよ」

「そう」

 

 赤城ちゃんは納得したみたいで弁当の蓋を開けた。

 一郎は高木と赤城ちゃんと同じ中学だったな。てことは一郎の言う二人ってのは同じ中学の奴なんだろう。

 たまには他の連中と弁当を食いたいよな。俺的には男子が一人減っても問題なんてない。

 

「今日はトシナリとご飯を食べられないのね……」

「えー、高木くんがいないなんて残念です」

 

 クリスティーナちゃんと望月ちゃんががっかりとした声を漏らす。クリスティーナちゃんはずっと高木と昼飯いっしょだったもんな。望月ちゃんは本気でがっかりしているわけじゃないよな?

 高木俊成は一郎と同じく高校から友達になった。全国大会に出場したというのには驚かされたが、それは柔道でのことだ。柔道なんてモテないスポーツ代表だろう。残念な奴め。

 それはともかくとして、こうやって女子と昼をともにできるようになったのは高木が交渉してくれたおかげだ。これに関しては本当に感謝している。残念な奴ではあるが、良い奴である。

 今はいない高木のためにも、ここは俺が明るい空気を作るべきだろう。

 

「いいから飯食おうぜ。昼休みつっても時間は限られてるんだからよ」

 

 そう言って弁当を開ける。すると望月ちゃんが「おおー」と目を丸くした。

 

「下柳くんのお弁当ってボリュームたっぷりですね。二段になってておかずもぎっしり詰まってて。さすがは男の子ですね」

「ま、まあ部活で運動するからこれくらいは食っておかないとな」

 

 これは望月ちゃんに男らしさをアピールできたな。お袋、大盛り弁当を作ってくれてありがとう!

 

「ミホのお弁当もすごいわよね。お母さんが作ってるの?」

「自分で作っている」

 

 赤城ちゃんの弁当を見てみると、なかなかに凝っているような感じだった。弁当とか自分で作ったことがないからどう凝ってるかまではわからんが。

 

「ふっふーん。僕もお弁当は自分で作っているんですよ。これを見よ!」

 

 ノリノリで弁当を開ける望月ちゃん。かわいい。

 彼女はかわいいだけではなかった。卵焼きやタコさんウインナーという基本を押さえながらも、彩り鮮やかな弁当を仕上げてきていたのだ。

 うおおっ! こんな子に弁当を作ってもらいてえっ!!

 やっぱり料理のできる女子はポイント高い。俺の中での望月ちゃんは高得点を叩き出し続けている。

 

「みんなすごいんやねー。僕は母ちゃんに作ってもらってばっかりや。たまには自分で作ろうかな」

「え、一郎って料理できんの?」

「簡単なもんくらいなら作れるで」

 

 なんて家庭的な男子なんだ。俺には自分で作ろうっていう発想すら湧かないというのに。俺の作れる料理なんてカップラーメンくらいのものだ。お湯の入れ加減が難しいんだよな。

 今日の話題は弁当のおかずをどうしているかというのがメインだった。料理繋がりでなのか、望月ちゃんと赤城ちゃんは案外話が合うように感じた。料理を作らない俺は話に入っていけなかった。

 

「そういえばシモヤナギにはあの時の続きを話してなかったわね」

 

 弁当を食べ終えてクリスティーナちゃんがそんなことを言い出した。

「あの時の続き」と言われ俺はピンときた。肝試しをした時に口にした怖い話の続きのことだ。

 笑顔を向ける彼女が悪魔へと変貌する。俺を恐怖のどん底へと叩き落とそうとしている顔だ。

 

「もしかして肝試しで下柳くんが泣いちゃったって話ですか? それ僕も聞きたいです!」

「あたしも気になるかも。高校生にもなって泣いちゃったって話がどれほどなのか聞きたい」

 

 女子三人は俺を見ながらニヤニヤと笑っていた。赤城ちゃんは無表情のままのはずなのに、まるで俺を嘲り笑っているようだった。

 やめろ! そんな顔で俺を見るな! 嫌な記憶が呼び覚まされる!

 

「い、一郎! 俺達これから用事があったよな!」

「え? 僕もクリスさんの話聞きたいんやけど」

「あったよな! な? 大事な用件がよぉぉぉぉぉ!!」

「そんなに必死にならんでも……。うん、あったあった」

「そ、そういうことだから俺達はこれで失礼するぜ!」

 

 俺は一郎をつれて教室を出た。背後から「逃げたね」という赤城ちゃんの言葉が聞こえた気がするが、たぶん気のせいだ。

 

「しもやんってけっこう怖がりなんやね」

「バカ野郎! 俺はお前にトラウマを植えつけないようにと気を遣ってやったんだよ」

 

 ケラケラと笑う一郎はわかっていないのだ。クリスティーナちゃん……いや、あの金髪の悪魔の話に耳を傾けてはならないんだってことをな。

 

「でも、これからどうすんねん。どこか行く場所でもあるん?」

「ふっ、それは任せろ。俺も早めにリサーチしておきたいことがあってだな。一郎にはそれに付き合ってもらう」

 

 俺は歩きながら説明してやる。

 

「うちの高校は生徒数が多い。つまりは女子も多い。そこで早めにかわいい女子がどれだけいるのかとチェックしておく必要がある」

「思った以上にくだらん調査やね」

「くだらない、だと?」

 

 まったく、一郎は何もわかっていないようだな。まだお子ちゃまということだろうか。

 それなら俺が一郎を大人の階段に昇らせてやるように導いていかないといけないな。きっと高木も似たようなもんだろうし、手のかかる奴等ばかりで大変だぜ。

 

「いいか一郎。女子とお付き合いをするのはとても大切なことだ。これは早ければ早い方がいい。いつか一生大切にする女が現れた時に何もできないようでは男失格だからだ」

「へぇー、しもやんもちゃんと考えているんやね」

「ふっ、まあな」

 

 俺は将来を見据えている男なのだ。

 

「A組の女子はレベルが高い。だがサッカー部の奴から聞いた情報では超絶美少女が他のクラスにもいるらしいんだよ」

 

 緩みきった表情で語る同じ一年の男子を思い出す。A組だって負けていないと言い返したものの、気にならないと言えば嘘になる。

 

「名前とか、どんな子とか知ってるん?」

「それは聞いてきた。とくに人気があるのは二人だな」

 

 全クラスチェックするつもりではあるが、この二人は絶対に自分の目で確認しておきたい。

 俺はその二人の女子の名前を一郎に教えてやった。

 

「C組の宮坂葵とF組の木之下瞳子。この二人がとんでもない美少女らしい」

「……」

「ん? どうした一郎?」

「い、いや、なんでもあらへんよ」

 

 一郎が固まるなんて珍しい。大方どれほどかわいいのかと想像してしまっていたのだろう。こいつも男ということか。

 俺達はB組から順番に教室を見て回ることにした。と言ってもみんながみんな教室にいるわけでもない。

 食堂や購買、他のクラスの友達と食べるために教室から出た人もいるだろう。それでも残っている人もいるのだから見ておくに越したことはない。

 B組か。かわいい女子がいるにはいるが、望月ちゃんよりもかわいいというのはいなさそうだ。まあ全員揃っているわけでもないからそう断定するのは早急だろう。

 

「次はC組だな」

 

 早速注目しているクラスだ。宮坂ちゃんか……。一体どんな女の子なんだろうか。

 情報では長い黒髪が美しく、パッチリと大きな目をしているらしい。何よりすごいのはおっぱい。とてつもなく規格外の大きさを誇っているとのことだ。

 個人的にはちょっと小柄な方が好みなのだが、おっぱいに興味がないと言えば嘘になる。一体どれほどのものなのだろうか?

 C組を覗き見る。超絶美少女というくらいだからすぐにわかると思ったのに、なかなか見つからなかった。

 

「あれ? 佐藤くんじゃん。私に用でもあるの?」

 

 俺の視界を塞ぐように一人の女子が立ちはだかる。

 女子にしてはでかい方だ。一七〇センチくらいはあるか。俺のストライクゾーンからは外れている。

 

「うん……そういうわけやないんやけど、ちょっと様子を見にきただけ」

「恥ずかしがんなくってもいいのにー」

 

 どうやら一郎の知り合いらしい。なんか仲良さそうだな。

 一郎よりも少しだけ背の高い女子は嬉しそうだ。こんなに仲が良さそうってことは同じ中学出身とかなのだろう。

 

「僕等他に行くところがあるからもう行くわ。ほなね小川さん」

「いつでも来なさいよー」

 

 宮坂ちゃんがいないようなので次のクラスへと向かう。D組に行く前に一郎に尋ねてみた。

 

「さっきのって同じ中学の奴か?」

「うん。小川さんっていうんや」

「ふーん」

 

 一郎が立ち止まる。俺を見る目がちょっとだけ真剣なものになっていた。

 

「小川さんのこと、良いなって思うた?」

「え、いや、俺は望月ちゃんみたいな小柄な方がタイプだから」

 

 そう答えると一気に空気が緩んだ。「そっかー」と一郎はいつもの調子に戻っていた。

 その後も順々にクラスを見て回った。かわいい子がいたにはいたのだが、望月ちゃん以上と言われるとなかなかに難しい。

 つまりA組になった俺は勝ち組ってことだな。段々と優越感のようなものが胸に広がってくる。

 

「しかし、見つからないもんだな」

 

 もう一つの注目であるF組でも目的の人物はいなかった。木之下ちゃんは銀髪のハーフ美少女という話しだったからすぐに見つけられると思ったのにな。教室にいないんじゃあ見つけようがない。

 最後のJ組まで見て回った。とりあえずの結果だけを述べるなら望月ちゃんよりかわいい子はいなかった。

 

「どうする? 全部見て回ったし教室に戻る?」

「いや、せっかくだから校内を見て回ろうぜ。ここってけっこう広いからよ」

 

 俺は探検気分で提案した。一郎も頷いてくれる。

 昼は教室で弁当ばかりなこともあってか食堂や購買に行ったことがなかった。いつかは利用するかもしれないのでどんなところなのか見に行った。

 

「おっと」

 

 廊下の曲がり角で人とぶつかってしまった。女子だったら出会いのきっかけになったかもしれなかったが、相手は男子だった。

 

「気をつけろ」

「あ、すんません」

 

 態度が大きくて先輩っぽい。反射的に謝ってしまう。

 そっちも不注意だっただろと思いながらも先輩には逆らえないのが後輩の宿命である。サッカー部にいると上下関係には逆らえないことを学ぶものなのだ。

 先輩は眼鏡をかけていて、なぜだか見覚えがあった。サッカー部ではないのは確かなのになんでだろうと考えていると、先輩は俺の横に居る一郎に目を向けた。

 

「こんにちは野沢先輩」

「お前か。今日はあいつといっしょではないんだな」

 

「野沢先輩」と聞いて入学式であいさつをしていた生徒会長だったと思い出す。どうやら一郎と生徒会長は顔見知りのようだった。

 野沢先輩は俺をチラリと見た。なんか嫌な感じだ。

 

「友人は選ばないと自らの品位を下げることになるぞ」

 

 一郎は珍しくむっとした顔を見せる。

 

「しもやんも、高木くんも、僕の自慢の友達です」

 

 野沢先輩は表情を変えずに鼻を鳴らした。それ以上何かを言うことなく立ち去っていく。

 

「なんだあれ? スゲー嫌な感じだな」

「きっちりしている人ではあるんやけどね」

「一郎の知り合い、ってことでいいのか?」

「うん。同じ中学の先輩やねん」

 

 もしかして一郎の中学ってすごいのか? 生徒会長がいて、高木は柔道で全国大会に出場している。それにサッカー部の本郷なんかは全国大会で優勝している。並べてみるとタレント揃いな気がしてきた。

 いやいや俺だって。俺はこれから結果を出していくのだ。大器晩成型ってやつだ。

 食堂と購買を確認して、そのまま探検を続けていると人気の少ないところに来てしまった。

 

「どこまで行く気なんや?」

「何もなさそうだし、あの階段で下に降りて戻ろうか」

 

 人気がないこともあって目ぼしいものはなさそうだ。

 前方にある階段に辿り着くと、どこからか声が聞こえてきた。

 

「ごめんねトシくん。私が来るのが遅れたから、お昼食べるの遅くなっちゃったね」

「別に気にしなくてもいいよ。俺がいっしょに昼飯を食べたかっただけで葵と瞳子に無理言っちゃったからさ」

 

 男女の声だ。階段を上がった先に声の主がいるようだった。

 

「無理なんて言わないでよ。それにあたしもなかなか教室から出られなかったから葵だけが気にすることじゃないわ。まだ時間もあるし大丈夫よ」

 

 もう一人の女子の声。人数は三人か。

 話を聞くに、これから三人で遅めの昼食をとるらしかった。

 男一人に女が二人。男子はいいご身分だな。どんな奴か見てやろう。

 

「覗き見なんてよくあらへんよ」

「ちょっと見るだけだって」

 

 制止しようとする一郎を振り払ってこっそりと覗き見る。そして、この目に映る光景に俺は口をあんぐりと開けて驚愕してしまった。

 そこには高木が超絶美少女二人に挟まれている光景が広がっていたのだ。

 

「ど、どういうこっちゃ……?」

 

 口から洩れたのはそんな疑問だけだった。

 待て待て! 高木だぞ? 同じクラスの高木で間違いない。なんであいつがあんな美少女二人に挟まれてんだ?

 一人は長い黒髪に大きい胸。もう一人はツインテールにした銀髪に青い瞳。共通しているのはどちらも超絶美少女という点だ。

 この特徴を目にして、俺の中でカチリと何かが噛み合った音がした。

 

「もしかして……あの二人って宮坂ちゃんと木之下ちゃんじゃないか?」

「そうやね」

 

 肯定する一郎に俺は反応した。

 

「そうやねってお前っ……。あれ知ってたのかよ!?」

「小声で声張るなんて器用やねー」

 

 それは今はどうでもいいだろうが!

 混乱する俺に、一郎は静かに説明してくれた。

 

「言うてなかったけど、宮坂さんと木之下さんも同じ中学出身やねん。しかもあの三人は小さい頃から仲が良くってな。家族ぐるみでの付き合いがあるんや」

「それはつまり……幼馴染ってやつなのか?」

「そういうことや」

 

 幼馴染だと!? あんなにかわいい幼馴染がいるだなんて……羨まし過ぎる!

 

「今日の弁当当番は俺だったからなー。葵と瞳子に比べると上手くないからちょっと下がっちゃうな」

「ううん。私トシくんの甘い卵焼きが好きだよ」

「あたしも。俊成があたし達の栄養バランスを考えてくれているんだってわかるから嬉しくなるわ」

 

 弁当当番ってなんだ? 俺はもう一度こっそりと覗き見た。

 中身まではわからないが、三人の弁当箱は同じように見える。まさか!? 三人ともいっしょの弁当なのか!?

 

「幼馴染やからね」

「お、幼馴染っていっしょの弁当を食べるのかっ!?」

 

 当番制ってことは宮坂ちゃんと木之下ちゃんの手作り弁当を食べている日もあるということなのか!? そういえば、高木の弁当って同じ人が作ったとは思えないほど毎日中身が違っていたな……。マ、マジか!?

 幼馴染ってスゲー! 俺にはいないからどんな距離感なのかはわからない。でも目の前の光景を見るに、異性でも幼馴染ならとてつもなく距離感が近いのだとわかってしまう。

 呆然としたまま眺めていると、宮坂ちゃんが箸で掴んだおかずを高木に差し出した。

 

「トシくん、あーん」

「あーん」

 

 高木はなんの躊躇いも見せずに差し出されたおかずを食べた。その行動は明らかに慣れてやがる!

 

「美味しいでしょ?」

「んぐっ、俺が作ったんだけどね」

 

 なんだと!? 「あーん」って実在したのか!?

 

「俊成、こっちもあーん」

「あーん」

 

 驚愕する俺をよそに、今度は木之下ちゃんが同じようにおかずを差し出す。さっきと同じように、高木は照れを見せることもなく差し出されたおかずを口に入れた。

 

「どう? 美味しいかしら」

「だから俺が作ったんだってば」

 

 あはは、えへへ、うふふと笑い声が響く。イチャイチャラブラブな空気にあてられて、俺はどうしようもなく震えが止まらなかった。

 

「お、幼馴染やからね」

「幼馴染って『あーん』ができるの!?」

 

 初めて知った。そして、かわいい幼馴染のいない俺は心底後悔した。

 なぜ俺はかわいい幼馴染を作らなかったのか。幼馴染がいれば俺だって今頃「あーん」ってしてもらえたのにっ!

 

「これ以上覗き見するなんて悪いって。もう行こう。な?」

「ああ……」

 

 放心してしまった俺は一郎に引きずられるようにしてあの桃色の世界から離れて行った。

 まさか高木にあんなにかわいい幼馴染がいたなんて……。裏切られた気分だ。クリスティーナちゃんだけに飽き足らず、あんな超絶美少女の幼馴染がいるだなんて聞いてないぞ!

 あんなことができるなんて……、幼馴染ってスゲー。俺も「あーん」ってしてもらいたい!

 俺は教室まで一郎に引きずられながらも、高木にはもう優しくしてやらん! と心に硬く誓ったのであった。

 

 



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97.スポーツテストで友情が芽生えるはず

初めて推薦文をいただきました。嬉しいですぞ(によによ) 書いてくれたチャーコさんありがとうございます!


「おはようトシくん。はい、今日のお弁当」

「おはよう葵。弁当ありがとうな」

 

 朝、葵を迎えに行くと手作り弁当を渡してくれた。受け取った重みに思わず顔がほころぶ。

 中学までは給食だったのだが、高校からは弁当を持参している。学校には食堂や購買といったものがあるにはあるのだけど、節約や栄養バランスを考えても弁当の方がいいだろう。

 現在は俺と葵と瞳子。三人でローテーションを回して弁当を作っている。

 毎日一人分を作るよりも、数日に一度三人分を作った方が負担が少ないだろうという判断だ。まあ葵と瞳子に料理の腕は置いてかれてしまっていることもあって、俺が作る日はあまりいいものではないだろうけれど。俺が一番得しちゃっているなぁ。

 

「今日は唐揚げの味付けに自信があるんだー。お昼楽しみにしててね」

「葵が自信があるって言うなら期待できるな」

 

 二人で瞳子の家に向かう。インターホンを押すとすぐに玄関が開けられる。

 

「おはよう瞳子」

「瞳子ちゃんおはよう。これお弁当だよ」

「二人ともおはよう。ありがとう葵。遠慮なくいただくわね」

 

 瞳子が葵の弁当を受け取る。ここだけを見ると女の子が女の子に手作り弁当を渡している図なんだよな。二人とも綺麗だからとても良い絵だ。

 

「何よ俊成? こっちを見つめちゃったりして」

「え? いやぁ、二人とも綺麗だなって思ってさ」

「そ、そう……」

 

 瞳子は顔を赤くして少しうつむいてしまう。だからそういう仕草はダメだってば。抱きしめてキスしたくなってしまう。

 

「こほん……。じゃあ学校に行こうか」

 

 俺は煩悩を振り払うように咳払いをする。三人で並んで駅へと向かった。

 登校の道中、俺は佐藤から聞いた情報を思い出して口を開いた。

 

「そういえばさ、この間俺達三人で昼飯食べていたのをクラスの奴に見られたらしい」

「クラスって俊成の?」

「そうそう、男子なんだけどな」

「ふうん」

 

 葵はあまり興味がなさそうだ。瞳子は首をかしげる。

 

「俊成はその人から何か言われたりしなかった?」

「とくに何も。俺も佐藤から聞くまで気づかなかったからなぁ」

 

 言われてみれば、俺達が昼飯を食べている現場を見たという下柳の目つきがちょっとだけ厳しくなったように思える。それでも口を利かなくなったというわけでもないのだが。

 

「別に私達はトシくんと付き合ってることを隠すつもりなんてないし。やましいなんて一つも思ってないもん」

「俺も葵と瞳子の関係をやましいだなんて思ってないよ。ただ、葵と瞳子が周りから嫌なことを言われたりするのが心配なんだ」

 

 俺は何を言われても構わない。二股野郎でもスケコマシと呼ばれても気にしない。

 けれど、葵と瞳子が嫌な目に遭うのは耐えられないのだ。実際、中学時代は俺達の関係を公にしていたことで散々なことを言われたものである。

 最終的には落ち着いたものの、あの時の苦労を考えると公にするのは得策ではないように思えた。それは協力してくれた佐藤を始めとした友人も思ってくれている。

 秘密にしたいわけじゃない。わざわざ目立つ必要はないだけだ。俺達三人で決めたことを周りからとやかく口出しされたくないだけではあるのだが。

 

「せっかく高校生になって新しい友達もできているんだからさ。それは大切にしていこうよ。な?」

「こんなことで陰口言うような子とは友達じゃなくてもいいよ」

 

 葵はふんっと鼻を鳴らす。当時を思い出しているのかご立腹である。

 全部俺が守ってあげられたらいいのだけど、それができないというのは思い知らされてしまっている。最後に助けられたのは友達の存在だったから。

 この関係をずっと隠しとおせる気はしないし、隠しとおす気もない。だけど、友達作りは最初が肝心だ。

 二人に信頼できる友達がいてくれたら俺も少しは安心できる。葵と瞳子なら見る目もあるし、時間さえあれば良い人間関係を構築できるだろう。

 

「俊成の心配もわかるけれどね。あたし達は大丈夫よ。自分のことくらいなんとかするわ。なんとかできるだけの力を俊成にもらっているんだから」

「そっか。うん、とりあえず何かあったら報告する。それだけは守っていこう」

 

 葵と瞳子が頷いてくれる。

 高校生は青春時代真っ盛りである。できることなら葵と瞳子には楽しい学校生活を送ってほしい。

 それが良い思い出になるように。歳をとってあの時代はもっと輝いた時間を過ごせたんじゃないかって後悔しないように。そんなことを求めてしまうのだ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「おう高木! スポーツテストで白黒つけてやるぜ!」

「お、おう?」

 

 下柳が俺に指を突きつけて宣言する。どう反応したものかと困惑した声を漏らす。

 本日はスポーツテストが行われる。五〇メートル走や握力を測ったりなど数々の種目をこなしていくのだ。

 自分の体力が数値化される。男にとっては学力以上に負けたくない分野なのかもしれない。運動部ならなおさらか。

 

「ふっ、この勇姿を望月ちゃんに見てもらいたいぜ」

 

 下柳はそう言って女子が集まっている方へと視線を向ける。

 体育は男女別々である。しかし同じくスポーツテストをすることもあってか、近い距離に女子達はいた。

 一年A組の男子連中は浮ついた空気を出しまくっている。その上でキリリとした顔つきでやる気に満ち溢れていた。下心で人は強くなれるんだからわかんないもんだな。まあ人のことは言えないんだけども。

 体育教師の説明を受けて各種目を測定していく。

 最初は体育館で握力や反復横とび、上体起こしや長座体前屈などを行っていく。

 

「力こそ男の象徴! 俺の握力を見せてやるぜ!」

 

 力こぶを見せつけてくる下柳。けっこう自信があるようだ。

 なんだか視線を感じて顔を向ける。記録をしていない女子の何人かがこちらを見ていた。

 男子が女子を気にしているように、逆もまた然りといったところだろうか。そう思うとなんだか安心する。葵と瞳子も俺のこと気にしてくれているもんな。

 

「六十キロの大台に乗ったぜ!」

「おおー、しもやんすごいやん」

 

 次々と握力を測定していく。俺の順番がすぐに回ってきた。

 

「高木、右七十二キロ。左七十キロ」

「な、ななじゅう……?」

 

 俺の記録を読み上げる先生の声に反応した下柳が愕然とした表情になる。ちょっとだけ胸を張ってやりたくなったのは内緒である。

 

「高木くんも相変わらずすごいんやね。僕なんか五十キロもなかったわ」

「柔道部で鍛えた成果だな」

「そ、そうだ! 握力はサッカー選手とは関係ないからな。これはまだ勝負の始まりですらなかったんだ」

 

 下柳は張り合ってくるな。よほど運動能力に自信があると見える。

 

「……」

 

 でも、なんて言うのかな。なんかこう、男として張り合っていくというのは少し興奮するような気持ちになる。

 前世では平均的な記録で運動部の奴等とは勝負にならなかった。それがわかっていることもあって勝負しようとも思わなかったんだ。

 今ならちゃんとした勝負になる。本当はこうやってちょっとしたことでも勝った負けたで一喜一憂したかったのかもしれない。

 次の反復横とびでは下柳に負けてしまった。たった一回の差とはいえ負けは負けだ。すごく悔しいっ。

 

「こんにゃろう……。柔道部のくせにやるじゃねえか」

「今は柔道部じゃないけどな。次は負けないぞ」

 

 下柳と勝ったり負けたりを繰り返しながら測定を行っていく。今のところクラスでの記録トップは俺と下柳で二分していた。

 場所を移してグラウンドへと出る。残す種目は五〇メートル走とハンドボール投げ、それに持久走だ。

 

「今までの結果は互角。五〇メートル走と持久走があるからな。こりゃあ俺の勝ちで決まりだな」

「油断するのは早いだろ。俺だって走るのには自信があるっての」

 

 まあ本郷には負けるのだが。しかもサッカーでドリブルしている奴に追いつけないほど差をつけられていたりする。あれはショックだった……。

 さすがに下柳もあのレベルとは思いたくないな。……だよね? 本郷と同じサッカー部だと思ったらものすごく速い奴に見えてきた。

 五〇メートル走は二人一組でいっぺんに測っていく。それを聞いた下柳が俺と肩を組んできた。

 

「おう高木。白黒はっきりつけるためにもいっしょに走るよな? ん?」

 

 ニヤニヤしやがって。こいつもう勝った気でいやがる。

 いいだろう。その挑発を受けてやろうじゃないか。

 

「いいぜ。白黒つけようか」

 

 ニヤリと笑ってやる。脚が速いんだろうがそう言われて逃げるわけにはいかない。

 

「トシナリー! がんばるのよー!」

 

 俺と下柳がスタート位置につくとクリスの声が飛んできた。女子はハンドボール投げをしている最中なのだが、順番待ちをしている何人かの女子はこっちを見ているようだった。

 

「こんにゃろう……。あれほどの美少女とお昼をともにしておきながらクリスちゃんまで……」

 

 下柳がぶつぶつと何か呟いている。まるで呪詛でも吐いているみたいだぞ。

 

「位置について、よーい……ドン!」

 

 スタート係の生徒が合図で旗を振り下ろす。俺達は同時にスタートを切った。

 腕を振り、脚に力を込める。視線はゴールから離さない。

 隣の下柳が少しだけ先を走っている。言うだけあってやっぱり速いなこいつ。

 周りの景色を置いて俺達はどんどん前へ前へと向かっていく。十秒もかからない競争の中で、俺はある人物を思い出していた。

 野沢(のざわ)春香(はるか)。俺が尊敬している先輩だ。

 走ることが大好きで、彼女はいつも俺の前を走っていた。

 それは競争するのはもちろん、夢に向かって真っすぐ走る姿を想像できた。俺にはない真っすぐさを持っている彼女が羨ましかった。

 少しは先輩に追いつけているだろうか? 今の俺を目にしたら先輩はなんと言うだろうか? 先輩の前では胸を張っていたいと思うのだ。走っているとそんな気持ちが呼び覚まされる。

 立派になったというところを見せたい。俺もちゃんと真っすぐ走っているんだって。

 ゴールを目前にして、いつの間にか俺は下柳に並んでいた。

 あとちょっと、あとちょっと前へと出れば……。

 

「六秒二! 二人同着だ」

「ええーっ!?」

 

 ゴールして下柳は驚きというか、疑問の声を上げた。確認しても変わらないだろうにストップウォッチを確認している。

 

「ぐぬぬ……。高木、お前本当に柔道部だったんだよな?」

「柔道部だったよ。間違いないって」

 

 柔道やっている人がみんな鈍足だっていう偏見でもあるのかよ。下柳の顔は納得いかないという感情をありありと示していた。

 続くハンドボール投げは俺が勝った。コツは斜め四五度に向かって投げることだな。

 

「この持久走だけは負けらんねえ!」

 

 下柳が準備運動として軽く腿上げをしながら吼える。これで俺が下柳の上をいけばトータルで勝ち数が多くなると決定する。

 

「みんながんばってくださーい!」

「トシナリがんばれー!」

 

 男子集団に向かって望月さんとクリスが応援してくれる。クリスは俺にばっかりだけども。

 持久走では女子全員が見学していた。次に彼女達が走るので待っているのだ。

 スタートの合図で男子の集団が一斉に走り出す。

 男子の持久走は一五〇〇メートルをゴールしたタイムを測るのだ。トラックをぐるぐる走るばかりで、見ている女子はあまり面白いものでもないだろう。

 下柳が先頭に出る。ぐんぐんと集団から抜け出していく。

 俺はそれを追って行った。そのまま後ろにいるのも嫌なので並んで追い抜こうとする。

 

「誰が抜かせるかよ!」

「む……このっ」

 

 下柳がペースを上げるので俺もピッチを速める。呼吸が浅くならないように意識する。

 ペース配分なんか考えちゃいない。俺と下柳は抜かし抜かされのデッドヒートを見せていた。

 息が上がって苦しい。でも、確かな楽しさも感じていた。

 苦しくなってきたからこそ、俺の脳裏には葵と瞳子の姿が映し出されていく。

 恋愛は大事だ。葵と瞳子の関係をもっともっと深めたいと思っている。

 それでも、それを抜きにしても高校生活はきっと楽しいものなのだ。きっと俺はこれを求めていたのだから。だからこそ、葵と瞳子にも高校生活を楽しんでもらいたいと思ってしまうのだ。

 できるだけ色褪せない思い出を。なんて考えてしまうのはおっさん臭いだろうか。

 後半ペースを落としながらも下柳と争い続けた。そして、最後に下柳の前に出た。そのままゴールを決める。

 倒れるようにして体を休める。あまり良くないとわかっていながらも地面に横たわる。

 脚だけじゃなく全身が疲労している感じだ。本当に全力を尽くしたんだな。

 そんな俺へと下柳がフラフラと近づいてきた。俺の横で腰を下ろす。

 

「ぶはー、ぶはー。……けっこうやるじゃねえか」

「はぁ……はぁ……、下柳もな」

 

 俺と下柳は見つめ合う。互いの健闘をたたえ合っているのだ。なんたる青春。

 俺が握手を求めて手を伸ばそうとすると、その前に下柳が口を開いた。

 

「だがな! スポーツは数字だけで語れるもんじゃねえんだ! 今度は球技で決着つけるんだからな! 俺はまだ負けてねえ!!」

 

 下柳は突然がばりと立ち上がったかと思えば、どこかへと走り出してしまった。

 

「おい下柳! どこ行くんだ!」

「トイレですー!」

「そうか! 漏らすなよ!」

 

 当然ながら先生に引きとめられるが、理由を口にした下柳はあっさりとグラウンドから姿を消した。あいつ、まだ元気じゃないか。

 

「ふぇ~……、終わった~」

 

 他の男子連中も続々とゴールしていく。佐藤なんかは俺みたいに倒れていた。よほどがんばったらしい。

 

「お疲れ佐藤」

「高木くんも……お疲れさん……」

 

 荒い息づかいなのに労ってくれる佐藤だった。しっかり休め。

 下柳との友情が芽生えるかと思いきや、そんなことのないままスポーツテストは終わったのであった。青春とは難しいものだ。

 ちなみに、女子の持久走で一位だったのが美穂ちゃんだった。小学校の頃から運動のできる子だったけれど、高校生になってもその能力は健在らしい。

 授業が終わったら昼休みだ。けっこう運動したからな。葵が作ってくれた唐揚げが楽しみだ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 一年C組のスポーツテストにて。

 

「んー……。ふっくぅ~……」

「ほらほらあおっちがんばって。もうすぐ十回だよ」

「む、無理ぃ……」

 

 上体起こし。膝を九十度に曲げて胸の前で腕を組んだ状態で腹筋運動をし、両肘が両太ももについた回数を測定する種目である。

 真奈美が足を固定し、仰向けになった葵は腹筋運動に力を入れていた。

 が、無情にもタイムアップ。良い成績とは言えない回数で終えてしまった。

 

「胸が大きい分、あおっちには有利だと思ったのになー」

「はぁはぁ……、どういう意味かな?」

「さすがに疲れてると迫力が落ちるね」

 

 力のない葵の笑顔に真奈美は余裕を崩さない。

 しかし、離れた位置から眺めていた男子達には余裕を見せられないほどのダメージを与えていた。

 息を荒らげながら胸を上下させる美少女から目を離せない。なんか色っぽくね? 男子高校生になったばかりの彼等には刺激が強過ぎた。

 次の種目は長座体前屈だ。あらゆる運動が苦手な葵ではあるが、この種目には得意げな表情を浮かべている。

 その表情の通り、葵は良い記録を叩き出した。

 

「七十二センチ! おおーっ! あおっちやらかーい。これは胸が邪魔になったりしないんだね」

「どういう意味かな真奈美ちゃん?」

「あ、しまった」

 

 少し体力が回復した葵の笑顔はとても良いものだった。反対に真奈美の顔は青ざめていく。これが本来の力関係である。

 

「で、でもさ。これから持久走とかもあるし面倒だよねー」

「持久走……、そうだった。やだなぁ……」

 

 話を逸らそうとした真奈美の言葉に葵はげんなりとしてしまう。彼女の苦難はこれからなのであった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 一年F組のスポーツテストにて。

 

「本郷くんすごーい!」

「また一番なんだってー」

「学年どころか学校で一番の成績って先生が言ってるよ」

 

 騒ぐ女子達の視線を追ってみれば、ひと際目立つ男子、本郷(ほんごう)永人(えいと)が反復横とびを終えたところのようだった。

 瞳子は横目でチラリと見ただけで、自分の種目へと戻っていった。

 彼は相変わらず人気があるようだ。そうぼんやりと思う瞳子だったが、彼女もまた男子達から似たような視線を向けられていたのだった。

 

「木之下さん、女子の中でトップの成績みたいだぜ」

「運動している姿が綺麗だよな。さっきの垂直跳びなんかツインテールがふわって持ち上がってよ」

「いいよなぁ、ハーフ美少女ってさ。銀髪が美しい……」

 

 小声で語り合う男子連中の声は瞳子に届かない。届いたのは近くにいる男子だけである。

 

「……」

 

 その男子の一人、永人はしっかりとその会話を聞いていた。

 ほんのちょっとだけ眉をひそめて、彼は何も言わずに次の種目を測定するために体育館を出て行く。

 

「みんなー、あたし達もグラウンドに出るわよ」

 

 瞳子のかけ声に女子達は元気良く返事する。リーダーシップを発揮している彼女は見事にF組の女子をまとめ上げていた。

 

(俊成に負けないんだから)

 

 頬を緩ませる瞳子が競っているのは、自分の愛する人だけだった。

 

 



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98.部活動見学はご自由に

 高校の部活は四月いっぱいまで仮入部期間である。気軽に体験できる期間とでも言えばいいだろうか。

 中学の時よりも部活の数が増えている。ざっと一覧を見て、フェンシング部やオカルト研究部などなど中学ではなかった部活がたくさんあった。

 

「俊成は部活どうするの?」

「うーん……」

 

 登校中にふと瞳子が尋ねてきた。葵も耳を傾けて興味を示している。

 中学時代は柔道部に所属していた俺だったが、高校でも続けてやろうというのは考えていない。あくまで心身を鍛えたかっただけだったからな。

 高校生はバイトもできるし、学校以外での関わりも増やせるだろう。俺の一番の青春は葵と瞳子なので、部活に高校生活を捧げようという風には考えられないのだ。

 

「目新しい部活があるからいろいろ見て回ろうかなとは思うけど、たぶん部活には入らないかな」

「でもトシくんを勧誘する運動部って多いんだよね?」

「ははっ、まあね」

 

 どこから聞きつけたのか、俺のスポーツテストの結果を知ったらしい運動部の先輩方から激しい勧誘を受けたのだ。とくに柔道部なんて俺が全国大会まで出場したという事実を持ちだして「柔道をするべきだ!」と詰め寄るようにして迫ってきたほどだ。ちょっと柔道場には近づけないなぁ。

 

「そういう二人は部活に入る予定はあるの?」

 

 俺が尋ねると葵と瞳子は顔を見合わせた。

 中学時代、俺が柔道をやっていたように二人もそれぞれ部活に入っていたのだ。

 瞳子は小川さんに誘われてバレー部に入っていた。二人のコンビプレーは強力で、弱小だったバレー部を県内でも上位に食い込むほど押し上げたのだ。

 葵はピアノがあったので毎日部活に顔を出していたわけではないが、美術部として絵の上達に励んでいた。三年間がんばってきたこともあり、瞳子と近いレベルにまで上手くなっていた。

 中学と同じ部活に入るのか、それとも別の部活を探すのか興味がある。葵と瞳子は高校生活をどう過ごすつもりなのだろうか。

 

「トシくんが入らないなら私はいいかな」

「あたしも。中学とは違う方向でがんばってみたいわ」

 

 葵と瞳子はあっけらかんとそう言った。

 二人がそれでいいのなら俺から言うことは何もない。他にやりたいことがあるのなら全力で応援するしね。

 しかし部活もまた青春の一つの形には違いない。良さそうなものがあるのなら入部してもいいかもな。まあ今回は葵と瞳子とよく相談しながらになるだろうけどね。

 

「部活の見学に行くんだったらいっしょに見て回ろうよ。瞳子ちゃんもいいよね?」

「もちろんいいわよ。あたしもどんな部活があるか興味があるし」

 

 そんなわけで、本日の放課後は三人で部活動見学をすることとなったのだった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 昼休み。教室で弁当を食べている時に部活の話題を振ってみた。

 

「俺はサッカー部だぜ!」

「うん。下柳には聞いてないかな」

 

 下柳がサッカー部ってのは知ってるし。今さらな情報だ。アピールしまくっているからもうお腹いっぱいなんですよ下柳くん。

 

「僕は将棋部に入部したで。先輩とも対局したんや」

「そっか。佐藤は中学でも強かったもんな」

 

 佐藤はすでに将棋部に入部したようだ。

 小学校の将棋クラブから始まって、中学でも将棋部として続けていたからな。その実力は俺じゃあ敵わないほどとなっている。あの野沢くんにも勝ったことがあると言ってたっけか。

 

「将棋って、一郎は渋い趣味持ってんだな」

「将棋は面白いんやで。対局するとその相手と仲良くなれるんや」

「勝負した相手と仲良くなるって、なんか少年漫画みたいだな」

 

 闘った相手と友情が芽生える。そう捉えてみると確かにそうかもな。もちろんそれは佐藤の人柄があるからこそなんだろうけれど。勝っても負けてもまったく嫌味がないからな。今思えばそういう性格って貴重なのかもしれない。

 

「将棋……聞いたことはあるわ」

 

 クリスは将棋を知っているらしい。でもその様子だと本当に聞いたことがあるだけなんだろうな。ルールとかまったくわかってなさそうだ。

 

「クリスさんも興味があるんやったら教えるで。将棋はやってみると面白いんやで」

「やでー……。はい、また教えてねイチロー」

 

 佐藤が目を輝かせている。よほど将棋が好きなんだろうな。

 好きこそ物の上手なれ。佐藤はまさにそうやって強くなった。最近は本当に勝てなくなったからなぁ。

 

「僕は料理研究部に入ろうかと思ってますよ。これでも腕に自信があるものですから」

 

 明るい調子で望月さんは胸を張る。料理研究部は見てなかったな。そういうのも部活としてあるんだ。

 

「美穂さんもいっしょなんですよ。ねー?」

「ねー」

 

 美穂ちゃんが無表情のまま頷いている。心なしか楽しそうである。

 案外と言っては失礼かもしれないが、美穂ちゃんと望月さんは仲が良いらしい。美穂ちゃんが高校でも友達を作れてなんだか俺も嬉しくなる。って、俺は何目線で語っているのやら。

 

「望月ちゃん! 良かったら俺に望月ちゃんの料理を食わせてくれ!」

 

 下柳がいきなり大声を上げる。少し落ち着こうか。

 けれど望月さんは嫌な顔を一切せずにニッコリと笑顔を見せた。

 

「わかりました。上手くできたらサッカー部のみんなに差し入れしますね」

「おおおおおおおぉぉぉぉぉーーっ! 嬉しいっす……」

 

 うん、複雑だな下柳。でもリアクションが大き過ぎるから逆に望月さんには伝わってないぞ。

 

「ならあたしは将棋部に差し入れしてあげる」

「ほんまに? ありがとうな赤城さん」

 

 美穂ちゃんの言葉に佐藤が笑顔を見せる。女子からの差し入れって青春っぽくていいよね。

 

「クリスは部活どうするんですか?」

 

 望月さんがクリスに尋ねる。クリスは首をかしげて俺に顔を向ける。どうした?

 

「わたし……日本の部活ってよくわからなくて……」

「ああ、イギリスとはちょっと変わってくるかもね」

 

 まあイギリスの部活事情とかは知らないのだが。

 

「だったら放課後僕達といっしょに部活見学しに行きましょうよ。ね? いいですよね高木くん」

「え、俺?」

 

 その「僕達」の中には俺も入ってるの? 彼女の笑顔は有無を言わせまいとするような強引さがある。俺が断るとは毛ほども思っていないようだ。

 望月さんに押される形で、俺達はクリスを部活案内することとなった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「ふぇ~……。二人ともお綺麗ですね」

 

 望月ちゃんが漏らす言葉に、葵と瞳子は謙遜を返した。

 放課後は葵と瞳子と部活見学をする先約があったのだ。もちろんこの約束を破るわけがない。

 断ろうとしたものの「アオイとトウコともいっしょがいいわ」とクリスが言うもので、二人も快く了承したのでいっしょに見学して回ることとなったのだ。

 メンバーは俺と葵と瞳子、それにクリスと美穂ちゃんと望月さんだ。下柳と佐藤は部活である。下柳が血の涙を流していたのは言うまでもない。

 

「ていうか男子が俺一人ってのはどうなのかな?」

「いいじゃない。私トシくんといっしょがいいし」

「俊成がいて問題になることなんて何もないわよ」

 

 葵と瞳子に両腕を掴まれる。優しい感触に思わず顔がほころんだ。

 

「三人はとっても仲が良いのね」

 

 クリスがニコニコと笑っている。彼女は俺達が小学生の頃から仲良しだって知っているからな。

 ……さすがに今の関係までは説明してないんだけども。どうしよう、クリスには教えた方がいいのかな。

 

「えっと……、宮坂さんと木之下さんは高木くんとどういったご関係ですか?」

 

 そんな風に考えていたからか、望月さんが切り込んできた。嬉しそうに葵が口を開く。

 

「私達とトシくんはね――」

「三人は幼馴染。小学生になる前からの付き合いだから仲良しなの」

 

 答えようとした葵を遮って、美穂ちゃんが言葉を被せてきた。

 

「へぇー、幼馴染なんですか。なるほど、だからこんなにも仲良しさんなんですね」

 

 望月さんは納得したと言わんばかりに手を叩いた。美穂ちゃんは振り返るとこっちに顔を近づけてくる。

 

「騒がれたらどうするの。まだ入学して一ヶ月も経ってないのに」

「うっ……、でも私はトシくんとの関係を隠したくないよ」

「わかってる。でも今はダメ。こういうのは少しずつ納得させていくの。じゃないと中学の時みたいに好き勝手に騒がれるだけになるから」

「……ごめんなさい。それと、美穂ちゃんありがとう」

 

 小声でのやり取りながらも、葵は太陽のような笑顔を輝かせる。美穂ちゃんはそっぽを向いた。

 

「……お礼なんて言わないで」

 

 美穂ちゃんは望月さんの方に振り返った。どうやらどこを見学するか話し合っているようだ。

 

「美穂には借りを作ってばっかりね」

「そうだな。いつも気遣ってもらってる」

 

 美穂ちゃんはなんだかんだと俺達のことを助けてくれていた。友達としての繋がりに感謝してばかりだ。

 

「日本の部活って三年間も同じことをしなきゃいけないの?」

 

 部活についての説明を聞いたクリスが驚いていた。やはり日本とイギリスでは違ってくるらしい。

 

「そういうわけじゃないですけど、退部する人の方が少ないですよ。一応兼部は認められていますけど」

 

 ふむふむとクリスは頷く。ちょっとしたことかもしれないが、国が違えばどうしてもギャップがあるものなのだろう。やり方を変えられるものでもないし、クリスにはそういうものだと受け入れてもらうしかない。

 権力があればどうにかなるもんなのかもしれないが、そうなると今度は変化についていけない人が出てくるだろう。難しい問題である。

 

「クリスはどんな部活に興味があるんだ? 運動部とか文化部とか。何かあれば候補が絞れるんだけどさ」

「そうね……」

 

 クリスは腕を組んで考えるポーズとなる。しばらくそうしていたけれど、顔を上げた彼女は満面の笑みとなっていた。

 

「わたし、楽しいことがしたいわ」

 

 要領を得ない回答に俺はガクッと崩れそうになってしまった。

 でも、そうだよな。一番は楽しいことをする。それでいいのだと思った。

 

「じゃあ気になるところから片っ端に見て回るか」

「おー!」

 

 元気良く手を上げるクリスにみんながきょとんとした表情になる。けれどすぐに頬を緩ませて次々と「おー!」と続いた。

 クリスにとって日本は異国だ。馴染めないことだってあるのかもしれない。

 それでも、彼女のような良い子の力になりたいと。日本という国を好きになってもらいたいと思ったのは、きっと俺だけじゃなかったのだ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「今日は楽しかったね」

「そうね。クリスも楽しかったみたいで良かったわ」

「だな。クリスを気に入ってくれた人も多かったしね」

 

 いくつかの部活を見学し終わって、俺達は帰路についていた。美穂ちゃんと望月さんは料理研究部に顔を出すということで途中で別れた。

 クリスは学校から近いところに住んでいるらしく、駅へと向かう俺達とはすぐに別れたのだ。帰り際のクリスの後ろ姿からは今回の部活動見学が楽しかったと告げているようだった。

 それにしてもたくさんの部活があったな。茶道部では着物姿の先輩方にクリスは目を輝かせていたし、探偵部で「犯人はお前だ!」と指を突きつける先輩にもクリスは目を輝かせていた。ていうかあれは探偵部じゃなくて演劇部だろ、という突っ込みは誰の口からも出てこなかった。

 

「クリスちゃんみたいにいろんなことに興味を持つのって楽しそうだよね」

「クリスの場合は目新しいものばかりだろうしな。そう考えたら俺達だって海外に行ったらあんな風に目が輝いちゃうのかもな」

「海外かぁ……。いいわね、いつか三人で海外旅行をしてみたいわ」

 

 瞳子の言葉に葵が「だね!」と大きく頷いた。

 クリスみたいに海外での生活か。葵と瞳子といっしょならそれも悪くない。そんなことを思ってしまう。

 

「日本を離れて遠くに行ったとしても、あたしは俊成の隣にいるわね」

「私もトシくんとずっといっしょにいたい。……いいよね?」

「う、うん……」

 

 なんだか照れくさくなって二人を抱き寄せる。葵と瞳子の頬がぽっと赤くなったように見えたのは、きっと夕焼けのせいだけじゃないのだろう。

 いつかはどちらかに決めなきゃいけない。そう思って付き合い始めたはずなのに、もっともっと二人ともが好きになってしまっている。

 こうやって三人でいるのが当たり前になって、すごくドキドキするようになって、とても落ち着くのだ。

 

「手放せないよなぁ……」

 

 どこへ行ったとしても離したくない。そんな欲望が俺の心にとっくに芽生えていたのかもしれない。きっと、この感情はすでに手遅れだったのだ。

 

 



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99.中学時代を振り返る(高木俊成の場合)【挿絵あり】

 高校に入学してから一ヶ月が経過した。

 今のところ順調に高校生活を送れていると思っている。葵と瞳子も楽しそうで、俺はこっそりと安堵していた。

 中学生の頃の入学式だってこれからの期待に満ちていたなと思い出す。俺が葵と瞳子の二人と付き合っていることを知られてから後ろ指を差されることもあったけど、確かに楽しい日々はあったのだ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 小学生の卒業式の日に、晴れて俺達三人は恋人関係となった。

 二人ではなく三人。今までの関係と同じようで違う。そんな初めての変化に戸惑いがあるのも確かだった。

 俺なんて前世を通じて初めて恋人が出来たのだ。しかも二人同時のお付き合いである。

 もし自分に恋人ができたのなら名前を呼び捨てにしてみたかった。ちょっとした憧れのつもりだったけれど、まさか二人同時に呼び捨てするようになるとは考えもしなかったな。

 

「葵ちゃん……じゃなくて葵。瞳子ちゃん……じゃなくて瞳子」

 

 ただそれだけのことでも嬉しくなってしまう。たぶん今の俺の顔は人前には出せないような締まりのないものになっていることだろう。

 今までも葵と瞳子を大切に想ってきたつもりだけれど、関係が一段階上がった以上、もっと大切にしていかなければと気合を入れていた。

 いつかは答えを出さなければならない前提の付き合いだ。だとしても、二人ともを大切にするのが当然だと思ったのだ。

 

「トシくんこっちこっちー」

 

 満開になった桜が散っていく。花びらがはらはらと舞い落ちている日に、俺達は中学の入学式を迎えた。

 桜色の景色の中に二人分の影。真新しいセーラー服を身につけた葵と瞳子が俺を待っていた。

 

「二人ともお待たせ」

「ううん、あたし達も今来たところよ」

 

 銀髪のツインテールをなびかせながら瞳子がはにかむ。春休みにも会っていたはずなのに、新しい制服を身にまとった彼女がまた少し大人っぽく見えた。

 

「それに、トシくんを待っている時間もなんだか楽しいの」

「そうなのか?」

「そうだよ。トシくんが迎えにきてくれると思ったら安心して待っていられるんだよ」

 

 葵は風を受けてなびく黒髪を手で押さえる。セーラー服を着ているからだけではなく、仕草の一つ一つが大人っぽくなっているのだと感じた。

 家まで迎えに行くと言ったのに、二人は中学校までの道のりに待ち合わせ場所を指定してきた。

 それはきっと恋人らしい雰囲気を味わいたかったのだろう。俺も同じ気持ちだったから。

 

「葵も瞳子もセーラー服がとても似合ってるよ。なんだか大人っぽいね」

「えへへ、ありがとうトシくん」

「俊成も制服似合っているわよ」

 

 久しぶりに着る学ランが俺の背筋をシャキッとさせる。褒められると自分の格好が気になるね。

 ゆったりとした空気が流れる。くすぐったいような、こそばゆいようなそんな感覚。

 

「じゃ、じゃあ学校に行こうか」

「そ、その前に……トシくん?」

 

 葵が照れた様子で俺をうかがう。な、何かな? なぜだか緊張してしまう。

 一歩二歩とゆっくり近づいてくる。その足取りは彼女の緊張と期待が見え隠れしていた。

 

「学校に行く前に、その……キスしてほしいな……なんて」

「う、うん……」

 

 俺と葵は二人して顔を赤くしてしまう。

 顔の熱さにぼーっとしていると、袖をくいと掴まれたのに気づく。

 

「あ、あたしも……お願い……」

 

 見れば真っ赤な顔で俺を見つめる瞳子がいた。恥ずかしがりながらも唇を震わせる彼女がとても愛おしく感じてしまう。

 いや、うん……愛おしく感じちゃってもいいんだよね? だって俺達付き合っているんだし。

 勢いがあればキスしちゃえるんだけどさ。なんて言うかこう、意識しちゃうと恥ずかしさが勝っちゃうね……。

 

「瞳子ちゃん、私が先に言ったんだから私が先でいいよね?」

「あたしも先がいいのだけれど……」

「次は瞳子ちゃんに先を譲るよ。今回は私ね」

「……葵ってけっこう押しが強いわよね」

 

 俺がぼーっとしている間に、葵と瞳子の間で話がついたようだ。葵が吐息が触れ合いそうなほどに接近してくる。

 

「トシくん……」

 

 葵の大きな目が近づいてくる。綺麗な瞳が俺を映す。

 まだまだ幼さを感じさせる顔だ。それでもその目はドキリとさせられるほどの色香があった。

 唇は触れ合っていない。顔は近いけれど、これ以上彼女から近づこうとはしてこない。

 最後の一歩は俺から踏み出さなければならない。いや、俺から彼女に近づきたいのだ。

 

「ん……」

 

 互いに目をつむった。次の瞬間、唇が柔らかい感触で満たされる。

 チュッと音を立ててすぐに離れる。照れくさくなって笑ってしまった。

 

「えへへ、……もう一回……ん」

 

 今度は葵から唇を押しつけてくる。人のことは言えないけれど、不慣れな感じが出ているキスだった。

 中学生になったばかりなのにこんなことをしていていいのだろうか。頭の片隅でそんなことを思う。唇が離れてまた俺の方から彼女の唇へと押し付けた。不慣れで拙い口づけだけれど、それでもいいやという気持ちになってしまっていた。

 

「と、俊成……」

「うん……瞳子……」

 

 横から瞳子の震えた声がして彼女を抱き寄せる。葵は譲るように一歩退いた。

 瞳子の青色の瞳が揺れている。緊張しているんだなと自分のことを棚に上げながら想った。

 緊張をほぐすように頭を撫でる。彼女は気持ち良さそうに目を細めた。

 俺は堪えられなくて瞳子に顔を近づけ、唇を触れ合わせた。

 すぐに離れてしまうような軽いキス。それでも胸に広がる温かなものが本物だ。

 二人のことが本当に好きだ。それを確かめるように何度もキスをする。

 葵と瞳子は納得してくれたとはいえ、俺は本当に答えを出せるのだろうか? 二人を愛しいと想う気持ちが変わる様子がなくて、それに関してはちょっと自信がなくなりそうになる。だって二人ともかわいいんだもの。

 彼女達の前では情けないことは口にできない。これは俺が真剣に向き合ってがんばっていかなければならないことだから。

 

「瞳子……もう一回……」

「うん……ん」

 

 熱に浮かされたようにキスをする。肩をちょんちょんと叩かれて目を向けると、葵がニッコリと笑っていた。

 

「そろそろ学校に行かないと遅刻しちゃうよ」

「あ、時間」

「そ、そうね……うん」

 

 瞳子が恥ずかしそうにツインテールを手くしで整える。俺もなんだか誤魔化すように頭をかいた。

 ていうかこれから入学式なのに何をやってんだか……。こんなことをしていたら二人のことしか考えられなくなってしまう。

 

「トシくん、手つなご」

 

 葵がいつものように手を差し出してくる。俺はいつものように彼女の手を取った。

 

「うーん、そうじゃなくてこうがいいかな」

 

 彼女は丁寧に一本ずつ指を絡める。それはいわゆる恋人つなぎというものだった。

 柔らかくて温かい感触が深くまでわかる。自然と笑みが零れた。

 

「ほらほら瞳子ちゃんも。トシくんはここまでやらなきゃわかんないんだから」

「そ、そうね……。俊成、あたしも手をつなぎたいわ」

「う、うん。喜んで……」

 

 瞳子とも指を絡ませてしっかりと手をつなぐ。葵とは違ったぬくもりが感じられて笑顔が止まらなくなる。

 両手で二人を感じているだけで胸がドキドキする。恋人つなぎをしているだけなのに、心がどこかへ飛んで行ってしまいそうだ。

 

 三人で揃って学校へと向かう。新しい通学路。でも前世で通ったことのある道だ。なのに違った景色に見えるのは隣を歩いてくれる人が愛しい人だからだろうか。

 中学校に辿り着くと初々しさを思わせる新入生が集まっていた。まあ俺達も同じく初々しい新入生なのだが。

 同じ小学校から上がってきた子達がたくさんいる。その中に混じるように知らない子達がいた。違う小学校から上がってきたのだろう。だけど懐かしく感じるのは前世で見知っているからだ。

 中には恰好から不良っぽさをアピールしている男子がいた。あれはリーゼント……。なかなかに気合が入っている。懐かしいなぁ。

 当時は恐いと思っていたが、今はまだあどけなさを残しているせいか微笑ましく感じてしまう。だからと言って舐めた態度をしていたらケンカを売られてしまうかもしれないので気をつけたいところだ。

 

「トシくん?」

「俊成?」

 

 葵と瞳子の手をぎゅっと握る。二人を守れる男になりたい。まずはそれができなければ話にならない。

 これまでも未来が変わってきたように、この中学生としての未来が変わってくるのかもしれない。いや、変わるはずだ。そもそも葵と瞳子と付き合っている時点で未来は変わっているしね。

 未来が変わるのは臨むところだ。そうするように行動してきた。

 もちろん良い未来へと辿り着くように。幸せになりたい気持ちとともに、幸せにしたいという気持ちが大きくなってきた。

 一度は辿った道とはいえ、油断はできない。人生は楽じゃないと知っているからな。

 

「二人とも、中学でもよろしくね」

 

 俺の言葉に、葵はぱぁと笑顔を見せ、瞳子はくすくすと小さく笑った。

 

「うん! これからもよろしくねトシくん!」

「こちらこそ。俊成といっしょにいられて嬉しいわ」

 

 こうやって俺達は入学式を迎える。心と体の成長が著しい中学生。子供から大人へと変化していく時期を、俺は葵と瞳子といっしょに過ごしていくのであった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「最初は本当にドキドキしてばっかりで、余裕なんてなかったなぁ……」

 

 まあ、今でも余裕があるとは言えないが。

 中学生になったばかりの時は葵と瞳子と同じくらいだった身長も、今ではだいぶ差がついた。目線が変わって俺を見上げてくる二人がかわいくてたまらない。

 そんなかわいい二人は当たり前だが人気があった。中学生にもなれば異性を意識するお年頃だ。元々かわいかった二人に対して向けられていた目の色が変わったことを俺は敏感に察知した。

 救いだったのは男子が妬みでちょっかいをかけるのは俺の方に向いてくれていたところだろうか。葵と瞳子だって大変だったろうし、少しでも二人の盾になれたのなら良かったと思える。

 佐藤を始めとして、味方になってくれた人達の存在も大きい。柔道部員なんて俺が困っているというだけで手を差し伸べてくれたりもした。今でも感謝している。

 

「まずは二人を守れるようになること。話はそれからだ。……じゃないとここから先へと進む資格なんてないよな」

 

 腕に力を込める。中学生になったばかりと違って我ながらたくましくなった。力で何でもかんでも解決するつもりはないけれど、これなら二人を守れるんだって自信にはなる。

 俺が成長したように、葵と瞳子だっていろいろな面で成長した。それはみんなも同じで、前世とは関係性が違ってきたこともあって印象が変わったように思える。

 これからどんな未来に向かって行くのか。高校生活はまだ始まったばかりだ。

 俺が答えを出すために悩んでいるように、きっとみんなも何かを悩んでいる。俺が困っていた時に助けてもらったように、できるだけみんなの力になりたい。

 それは葵と瞳子も同じだと思うから。

 できることならこの高校生活の中で俺は答えを出したい。みんなを急かすつもりはないけれど、それぞれの答えを出す時を見届けられたらと思うのだ。

 

 




チャーコさんがメロンボールさんにファンアートを依頼してくださったので載せさせていただきました。中学生の初々しい感じのイラストで、私のお胸がやばいのです(ドキドキ)


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特別編 百歳の誕生日

100話目なので特別編なのです。曾孫視点となります。


 本日、私のひいおじいちゃんが百歳の誕生日を迎える。

 よくは知らないんだけど、ひいおじいちゃんはとっても偉い人で、誕生日のお祝いをするだけでもかなりの人を集めてしまうらしい。

 らしい、というのには理由があって、私はひいおじいちゃんの誕生日でそこまで大きなパーティーを開いたところを一度も見たことがないのだ。なんか仕事関係の人とか来たりしてお祝いの言葉とかあるみたいだけど、誕生日会にまで参加しようとはしなかった。

 まあ結局親戚が集まったりしてそこそこ大きな誕生日会にはなるんだけどね。

 

「エリ、準備はできたの?」

「もうとっくにできてるよー」

 

 母親に呼ばれて私は声の方へと向かう。自室の姿見でチェックした私は通っている高校の制服を身に着けていた。

 誕生日会に制服というのは違う気がするのだけど、ひいおじいちゃんの母校である高校の制服姿を見せると喜んでくれるのでサービスだ。私ってば優しいね。

 私はひいおじいちゃんの奥さん、つまりひいおばあちゃんの若い頃に似ているらしい。

 らしい、と言っているのは私はひいおばあちゃんの顔を知らないからだったりする。今度写真を見せてもらおうって毎回思っているのに、私を構ってくれるひいおじいちゃんがこれでもかと笑顔になるもんだから忘れてしまうのだ。まったく、私に夢中なんだから。

 ひいおばあちゃんは私が物心つく前に亡くなってしまったのだ。ただ、ひいおじいちゃんは「ちゃんと看取れて良かった」と言っていたのでそこんとこは良かったんじゃないかって思っている。記憶はないけれど、赤ちゃんだった私をひいおばあちゃんは抱いてくれたらしいし。

 私がひいおばあちゃんに似ていることもあってか、ひいおじいちゃんは私を大層かわいがってくれるのだ。そうじゃなくても私ってば美少女だから仕方がないね。

 

「ほら、表情を引き締めなさい。せっかくのかわいい顔が残念なことになっているわよ」

「えっ、嘘!?」

 

 私は自分の顔に触れて確かめる。スベスベとした良い感触が返ってくるだけだった。

 そんな私を見た母親がため息をつく。父親は苦笑いを浮かべるだけだ。

 

「用意ができたなら車に乗って。出発するぞ」

「はーい」

 

 父親の運転で、私達家族はひいおじいちゃんの家へと向かった。

 

「相変わらず大きい家だなー」

 

 到着した家はなかなかの大きさだ。毎度のことながら私もここで暮らしたいなーって思わせるほど立派な家だ。

 ひいおじいちゃんは子宝に恵まれてたくさん子供がいたからこそ、こんなに大きな家を建てたのだとか。でも、子供たちは独立するために家を出て、ひいおばあちゃんも亡くなって、今はどんな気持ちでこんなに広い家に住んでいるのだろうと考えてしまう。

 

「……」

 

 よし! せっかくこの私が来てあげたんだからいっぱい構ってあげよう。私がいる時くらい寂しいだなんて思わせてあげないんだから!

 気合を入れて腕まくりをしていると、駐車場で同い年くらいの男の子と目が合った。ちょうど同じタイミングで到着したようだ。

 

「……何してんの?」

 

 腕まくりをしている私を目にした男の子が首をかしげて見つめてくる。私は興奮のまま彼に近づいた。

 

「ヒロちゃん? わあ、久しぶり! 大きくなったね」

「なんか親戚のおばちゃんみたいな反応だな」

「誰がおばちゃんか! 訂正を要求する!」

 

 私に失礼なことを言うのはヒロちゃんだった。彼は私と同じ歳の再従兄(はとこ)だ。

 やいのやいのとやり取りをする。こんなに気軽におしゃべりできるのも大勢の親戚の中でも唯一ヒロちゃんが私と歳が同じだからだろう。

 

「でなきゃヒロちゃんみたいな普通男子がこの私と気軽におしゃべりなんてできないよね」

「おい、声に出してんぞ」

「あ」

「あ、じゃねえだろ」

 

 まあまあ怒りなさんな。かわいい私に本気で怒ったりなんかできないくせに。

 ヒロちゃんは諦めたように息を吐いて脱力した。

 

「まったく、エリは変わらないな」

「変わらない美少女って言いたいの?」

「違う。……美少女は認めるけど」

「あはっ、今なんて言ったの? 私聞こえなかったなー。もう一回言ってよ」

「うるせー。嫌な奴だな」

 

 ヒロちゃんの腕を突っつきながら家の中を進む。廊下も広いからこんなことしてても邪魔になんかならないもんね。

 私よりも幾分か高い身長のヒロちゃんを見上げる。普通レベルの顔だけれど、見つめているとなんだか落ち着くような顔だ。

 ヒロちゃんの外見はひいおじいちゃんによく似ているらしかった。こんなに普通の顔なのに、ひいおじいちゃんは私のような美人のお嫁さんをもらったと思ったらよくやったなと誉めてあげたくなったものだ。

 

「ヒロちゃんにも甲斐性があればねー」

「いきなりなんだよ」

「ひいおじいちゃんみたいになればヒロちゃんにだってとっても美人な奥さんができるかもよ?」

「わかってるよ。俺だって俊成さんにいろいろ教わったりしてんだから」

「ほう?」

 

 ヒロちゃんはひいおじいちゃんを「俊成さん」と呼んで慕っていた。外見が似ているだけじゃなくて、生き方そのものを尊敬しているって言ってたかな。

 ひいおじいちゃんも自分の若い頃の姿に似ているヒロちゃんを気にかけているようだった。だからこそお節介をかけたくもなるのだろう。

 

「俺だって好きな人に気持ちを伝えられる立派な男になるんだ……」

「ヒロちゃん? 何か言った?」

「……なんでもない」

 

 変なヒロちゃん。いきなり私と目を合わせようとしなくなるし。たまにこんなのだったかな。

 

「そんなことよりも早くひいおじいちゃんに会いに行こうよ。私ここに来るのも久しぶりなんだよね」

「……そうか」

 

 ん? これまた反応の悪いヒロちゃんだなー。女の子の前でそんな態度だとモテないぞ。

 私とヒロちゃんは並んでひいおじいちゃんがいるであろう部屋へと入る。

 誕生日会というのもあり、広い部屋に飾りつけがされていた。飾りつけは子供のお誕生日会とはレベルが違っており、センスの良さが際立つように綺麗だった。

 実はこういうところにもけっこうお金を使っているよね。それでも抑えているのだからひいおじいちゃんはどこまで稼いだのやら。

 私が部屋の飾りつけ一つ一つに唸っていると、しわがれた声が聞こえた。

 それはひいおじいちゃんの声だった。でも、私には聞き慣れない名前を呼んでいた。

 

「エリ。こっちに来て」

「え、でも……」

「いいから」

 

 いつもとは違う母親の真剣な表情に私は二の句が継げなかった。

 いつもとは違う雰囲気をかもし出しているのは母だけじゃない。親戚のおじさんやおばさん、ヒロちゃんまでもが滅多に見られないような真剣な表情をしていた。

 

「やあ、久しぶりだね」

 

 そう言ってひいおじいちゃんは優しい笑顔を私に向けてくれた。

 そして、続けて呼ばれた名前に私は目を見開いてしまう。

 なぜならその名前は私のものではなく、亡くなったひいおばあちゃんのものだったからだ。

 もしかして、もう私のことがわかっていないのだろうか?

 少し前までは元気だったのに……。歳を感じさせないほどに活動的で、ずっとこのままなんじゃないかって思っていたほどだ。

 それが今では私を見ているようで見ていないような目をしている。椅子に座ったまま立とうともしないし、足だって弱ってしまったのかもしれない。

 そんな姿を見ていると、なんだか胸がぎゅうっと掴まれたみたいに痛くなった。

 頭の片隅ではひいおじいちゃんはいつまでも元気でいるのだと思っていたのかもしれない。そんなこと、あるはずがないのに……。

 どんなにすごい人だって最後には寿命がくる。頭ではわかっていたつもりだったのに、実際に弱っている姿を視界に入れるまではまったく現実味のある情報として処理していなかった。

 

「エリ……」

 

 母親が耳元で呟くような声で教えてくれたのは、ひいおじいちゃんがもう長くないだろうとお医者さんに宣告されたということだった。

 私が小さい頃に会った時と何も変わらない。ひいおじいちゃんの優しい顔はなんにも変わっていなかった。

 でも、私が知らなかっただけで変化はあったのだ。

 たぶん、これが最後の誕生日会となるのだろう。そう確信めいたものが心にすとんと落ちた。

 その瞬間、私の中で何かが入り込んだような感覚がした。意識もせずに私は口を開いていた。

 

「俊成さん、お誕生日おめでとうございます」

 

 ヒロちゃんみたいな呼び方。けれど自分でも不思議になるくらいにそのニュアンスは違っていたと思う。

 思う、だなんて他人事のようだけれど、私だって信じられないくらい勝手に口が動くのだ。

 だけど、ひいおばあちゃんに似ている私にしかできないと思ったから。だからこそ、私は俊成さんにひいおばあちゃんが伝えたかったであろう言葉を紡ぐ。

 

「最後まで幸せにしてくれてありがとう。俊成さんも幸せでいてください。それが私の幸せですから」

 

 ひいおじいちゃん……いや、俊成さんが目を見開く。私の言葉を聞いて、みるみるとしわだらけの顔に生気が宿る。

 俊成さんがどんな夫婦関係を築いてきたかは知らない。でも、きっと幸せだったのだろうと思う。だってこんなにも嬉しそうに笑っているのだから。

 それにそう……、俊成さんが美人な奥さんをもらってくれたからこそ私のような美少女が生まれたわけで。私とうり二つというくらいだからかなり濃い遺伝が出たのだろう。

 だからその……、これはちょっとした孝行みたいなものだ。

 

「ありがとう……。その気遣いが嬉しいよ」

 

 俊成さんに頭を撫でられる。

 弱々しいけれど、とても優しい手つきだ。指は細くなってしまったのだろうけど、大きな掌が安心させてくれた。

 とっても嬉しそうな顔。こんな幸福感が滲み出るような顔にさせるだなんて一体どんな奥さんだったのやら。

 

 誕生日会は盛り上がった。俊成さんも喜んでくれたのがわかって心が温かくなった。

 せっかく結婚するんだったら、自分の旦那になるであろう人にあんな幸せそうな顔をさせたいな。私はちょっとだけ俊成さんのお嫁さんがどんな人だったのかと気になったのであった。

 

「次に来た時こそ写真を見せてもらおう」

 

 それまでは生きていてほしい。私の大好きなひいおじいちゃんの口から、ひいおばあちゃんのことをたくさん教えてほしいから。

 

 




あくまでもしかしたらの未来ということで。次回は何事もなかったかのように本編へと戻ります。


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100.望月梨菜は企んでいる(前編)

 僕、望月梨菜は五人兄妹の末っ子です。

 四人の兄を持つ僕は男だらけの環境に慣れきってしまっていたのでした。それがまずいと気づいたのは中学生になってからなのです。

 小学生の頃までの僕はやんちゃで男口調でした。兄貴達と遊ぶのが普通だった僕は男子と遊ぶのが当たり前になっていたのです。

 けれど、中学生になると女子のみんなは一気に色気づいてきたのでした。男子の誰々がかっこいい、男子の誰々と付き合いたい。そんな話ばかりで、恋人ができたなんて言えば大盛り上がりしていました。

 そんな女の子の会話に、僕は入っていけなかったのです。

 

「梨菜ちゃんはあんなにかっこ良いお兄さんが四人もいて羨ましいなぁ」

 

 ただ、兄貴達は女友達の話題にはよく上がっていました。

 家ではズボラでデリカシーの欠片もない男どもでしたが、僕の兄ということもあって見てくれは悪くはなかったのです。

 女子からモテモテな兄貴達。そこで僕は気づきました。

 

「あれ? 兄貴達に比べて僕って全然モテていないのでは?」

 

 今まで男女の仲というものに興味はなかったのですが、こうして周りが騒いでいると嫌でも意識してしまいます。

 それに僕だって思春期の女の子なのです。男友達は遊び相手でしかなかったのが、それだけでは見られなくなっていました。

 だからって急に女の子らしくするのはハードルが高い。口調を変えるのはとくに難しく、敬語にすることでようやくおしとやかになったのでした。

 

「いやいや、梨菜はちんまいんだから男と付き合うだなんてまだ早いだろ」

 

 兄貴どもは声を揃えてそんなことを言いやがります。あのデリカシーのないバカ兄貴どもがっ!

 僕だって本気を出せば男子からちやほやされるに決まっています。あの兄貴どもができて、僕にできない道理なんてないでしょう。

 少し美容を意識して、仕草だって雑誌に書いてあるようにかわいらしくしてみればほら、いかにもモテそうな女の子の出来上がりです。

 高校生になったら僕の真の実力を兄貴達は思い知ることになるでしょう。僕にメロメロになった男子達を引き連れているところを見せれば、いくら鈍感な兄貴達だって認めざるを得ないはずです。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「こ、これが超高校級というやつですか……」

 

 これから楽しくなるであろう僕の高校生活は、二人の美少女の前に早くも揺らいでしまったのでした。

 片や艶やかな長い黒髪が似合う正統派美少女。片や輝くような銀髪をツインテールにした異国の美少女。

 後に宮坂葵と木之下瞳子という名前なのだと知りました。二人は入学して早々に男女問わず視線を集めていました。ちなみに木之下さんは母親がロシア人のハーフでした。

 

「ん? 二人の間にいる男子は誰でしょうか?」

 

 顔立ちは平凡ですね。背丈も特別高いわけでもありません。

 けれど美少女二人ともが彼に心からの笑顔を向けているように見えます。彼も彼で二人に向ける目がとても優しく感じさせます。

 恋人……三人ですし、それはないでしょう。友達……にしては距離が近すぎるような。

 僕が高校で最初に興味を持った男子は、二人の美少女に挟まれていた高木俊成という男の子でした。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 高木くんは只者ではない。そう思うようになるまでに時間はそんなにかかりませんでした。

 宮坂さんと木之下さんが幼馴染と発覚したとはいえ、超高校級の美少女二人といっしょにいて平然としていられる男子は普通なんかじゃありません。英国美女のクリスの対応だって緊張が見られませんでした。

 その態度は僕に対しても変わりません。

 これでもそれなりに男子の視線を集めている自覚はあります。高校でも僕の容姿は通用しているはずなのです。

 それでも高木くんが僕に向ける目は他の男子のような好色を帯びたものではありませんでした。オリエンテーションでの肝試しでは密着と言えるほどにくっついていたにも拘わらずです。恥ずかしがる素振りすらないとはどういうことですか!

 ……それどころか兄貴達の愚痴を聞いてもらってしまいました。あの時は話してすごくスッキリしたものでしたが、後になって考えてみればかなりどうかと思いましたね。

 いきなり家族の愚痴を吐き出す女子……。あまり良い印象を与えないでしょう。

 しかし、高木くんは他の人に僕が兄貴達のことを愚痴っていたことを漏らすようなことはしませんでした。

 高木くんは兄貴達ほど顔が良いわけではありません。でも、ちゃんとデリカシーを持った人なのでした。

 やはり本当にモテる人はデリカシーを持っているのですよ。宮坂さんに木之下さん、クリスだって高木くんとおしゃべりしているのが楽しそうですしね。兄貴達にはよく言ってやらないといけませんね。

 

「それでまた良兄が失礼なことを言うんですよ。あ、良兄はですね――」

「うん、良一(りょういち)さんだっけ。長男なんだよね」

「はい。それで良兄が言ったことはですね――」

 

 気づけば僕も高木くんとおしゃべりするのが楽しくなっていました。まあほとんど兄貴達に対しての愚痴ですが。

 それでも文句も言わずに聞いてくれるとなんと言いますか……、どうしたって甘えてしまうのです。

 他の男子には言えませんし、女子はイケメンの兄貴達の愚痴を言うとたしなめてきます。こうやって思う存分吐き出せるのがどれほど心地よいことか。

 ただ、こうして愚痴を言うのも簡単ではありません。教室ではクリスがほとんど彼を独占していてなかなか口にできないのです。下柳くんあたりが上手くおとりになってくれればこうやって階段の踊り場につれて来ることはできますが。

 僕の愚痴に高木くんはうんうんと相槌を打ってくれます。いやー、思う存分愚痴るというのはけっこうスッキリするものですね。気分爽快です。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「そんな男はダメだ」

 

 家族団らんでの食事中。僕が学校でのことを話していると良兄が厳しい口調でそんなことを言いました。

 

「はい?」

 

 僕は首をかしげます。この兄貴はいきなりなにを言いやがるのでしょうか。

 

「そんなとりあえず女に優しくしとけばいいだろうだなんて浅い考えが見え見えの奴なんて俺は認めない」

「兄ちゃんも同感だ」

「俺もー」

「……右に同じ」

 

 良兄に続いて他の兄貴達も反対の意を述べます。いや、これなんの話ですか?

 

「いいか梨菜。そういう八方美人な男は将来逃げ場のない修羅場確定だ。お兄ちゃんは絶対に許しません!」

「それ良兄の経験談じゃないですよね!?」

 

 兄貴達はモテるので女の子から囲まれることもしょっちゅうです。とくに良兄は誰にでもいい顔ばかりしてましたからね。勘違いしてしまう女の子も多いと聞きます。

 良兄と高木くんはタイプが違うと思いますが……。というか僕は別に彼のことが好きだなんて一言も口にしていませんし。

 まあ、高木くんが僕に惚れてしまうというのなら仕方がありません。好かれてしまうのはどうにもなりませんからね。

 

「俺も良一に賛成。その男は梨菜には釣り合わない」

「俺もそう思うー。梨菜にはもっと素敵な人がいるよ」

「……右に同じ」

「だから僕と高木くんが付き合うだなんて誰も言ってないじゃないですか!」

 

 兄貴達は誰一人としてまともに話を聞いてくれません。こういうところが嫌いなんですよ!

 その点高木くんは僕の話を正しく聞いてくれますからね。あー、兄貴達をセットであげるから交換してくれないかなぁ。

 

「おい梨菜。今なんだか不吉なことを考えただろう?」

「別になんでもないですよー」

「その顔は図星だな!」

 

 兄妹なんて長くやるもんじゃないですね。ちょっとした変化にも目ざといです。

 こうやっていちいち口うるさくするのは僕が信頼されていないということなんでしょうね。交際経験がないからって人を見る目がないってのは違うと思います。

 早く兄貴達に僕がモテモテになっている姿を見せてあげないといけません。でないといつまで経っても口うるさいままでしょう。

 ふっふっふ、僕が本気になれば男子なんてイチコロということを教えてあげますよ。望月梨菜のすごさってやつを思い知るがいい!!

 

 



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101.望月梨菜は企んでいる(後編)

 現時点で、一年A組で一番人気の女子は僕のようです。と、下柳くんがクラスの男子から集計していたのを聞いてしまいました。

 抜群のスタイルに人懐っこい性格のクリスの人気が高いと思っていただけにこの結果は意外でした。どうやら高木くん、もしくは下柳くんにしかあまり接していないからのようです。出だしでクラス全体のことを考えて立ち回っていた僕の勝利といったところでしょうか。

 

「提出物は委員長の望月が集めといてくれー」

「はーい、わっかりました!」

 

 鮫島先生に名指しされたので元気よく返事します。

 

「望月さんお願いー」

「委員長これ私の分ね」

「望月ちゃん! 俺忘れ物せずちゃんと持ってきたぜ!」

 

 クラスのみんなが僕のもとに提出物を持ってきます。机の上に本日の提出物であるプリントが束となって積み上がっていきました。

 ……うん、これは人気があるとかじゃないですよね。これじゃないという気持ちでいっぱいになりそうです。

 張り切ってみんなと仲良くしようとした結果、僕は学級委員長に任命されてしまったのでした。

 頼りにされるのはやぶさかではないですが、モテモテになるという狙いからは外れてしまうように思えてきます。学級委員長って真面目というか、堅物な人がやるイメージですし。僕はもっと親しみのあって愛嬌のある女子を目指しているのですが……。

 

「望月さんごめんな。僕が影薄いばっかりに負担を押し付けてしもうて……」

「そ、そんなことないですよ。荷物を持ってくれますし、佐藤くんは頼りになりますってば」

 

 学級委員長は男子と女子で一人ずついます。つまり僕の他にあと一人学級委員長がいるのです。

 クラス全員分のプリントを持ってくれているのは、男子の学級委員長に選ばれた佐藤一郎くんです。

 ほんわかした雰囲気に関西弁が特徴的な男の子です。高木くんと同じく僕に対して色目を使わない数少ない男子でもあります。

 まあ高木くんや下柳くんに比べるとそこまで男っぽくはないですしね。きっとまだ女性に興味がないのでしょう。

 クラス全員分といってもプリントを運ぶのなんて一人で充分です。しかし、先生に名指しされたのは僕ですし、佐藤くんに何もさせないというのは彼のプライドを傷つけてしまうかもしれません。

 考えた末に僕と佐藤くん二人で職員室に提出物を持って行くことにしました。もう一人の学級委員長として佐藤くんにも頼ることがあるでしょうし、先を見据えた判断です。

 佐藤くんと廊下を歩いていると、長身の女子が声をかけてきました。

 

「おー、佐藤くんじゃん。何、雑用してんの?」

「学級委員長の仕事やで。小川さんのクラスにもおるやろ」

「そ、そうだっけ?」

「小川さんはぽやぽやしているんやから。しっかりせなあかんで」

「佐藤くんにぽやぽやしてるだなんて言われたくないわよっ」

 

 目の前で繰り広げられるやり取りに僕は入っていけませんでした。

 特別な話をしているわけではありません。けれど、二人が親密な関係であるということは伝わってきました。

 いつも通りの佐藤くんに見えますが、若干声が弾んでいるようにも聞こえます。

 もしかして、これが彼氏彼女の関係というやつですか!?

 うわー! うわー! 高校生になって初めてカップルを目撃してしまいました! そういう目で見ると女の子の頬が赤らんでいるように見えます。きっと甘酸っぱい照れを感じているのでしょうね。

 佐藤くんにはまだ色恋沙汰なんて早いと思ったのに……。ちょっとだけ裏切られた気分です。

 

「ん? 隣の子は?」

「僕と同じ学級委員長の望月さんや」

「初めまして、望月梨菜です! 佐藤くんとはただのクラスメートですのでご安心を」

「あああああ安心なんてしてないわよ! い、いきなりなんなのっ」

 

 お? けっこう面白い反応ですね。佐藤くんの彼女さんはリアクションが良いようです。さすがは関西人の相方です。別に佐藤くんは関西人ではありませんでしたっけ。

 彼女さんは自分を落ち着けるように咳払いをしました。顔は赤いままですが。

 

「私はC組の小川真奈美よ。佐藤くんとは小学生の頃からずっと学校がいっしょなの。ただそれだけだから……」

「あれ? 佐藤くんの彼女さんじゃないんですか?」

「だだだだだ誰がそんなこと言ったのよ!!」

「す、すみませんっ」

 

 ものすごい大声で怒られてしまいました。小川さんは顔を真っ赤にして涙目です。これはとんだ早とちりだったようですね。

 

「え、ええから望月さん。はよ職員室にみんなの提出物持って行かなあかんやろ。ほな小川さん、僕ら急ぐからもう行くわ」

「そ、そうね……。ひ、引き止めてごめん」

 

 そう早口で言った佐藤くんは職員室へと向かいます。さっきまで僕の歩くペースに合わせてくれていたのに、今は小走りしないと追いつけないほどの早歩きでした。

 声をかけてゆっくり歩いてもらおうとする前に、佐藤くんが曲がり角で誰かにぶつかりそうになっていました。

 

「きゃっ!? って佐藤くん?」

「わあっと! ごめん宮坂さん。大丈夫やった?」

「うん、別にぶつかってないから大丈夫だよ。佐藤くんが急いでいるなんて珍しいね」

 

 曲がり角から現れたのは超高校級の美少女。宮坂さんでした。

 顔のパーツ一つ一つが綺麗で、それが左右対称に整えられています。さらには暴力的……、いえ破壊的なまでのスタイル。これはもう高校レベルでは収まりきらないでしょう。さすがの僕もこれには自信を破壊されてしまいそうです。

 宮坂さんは廊下を行き交う人達から視線を向けられているのに平然としています。なんだかオーラが他の生徒と一線を画しているようです。

 

「佐藤くん、真奈美ちゃんを見なかった?」

「小川さんならさっき見たで。あっちにおったけど。……また何かやったん?」

「うふふ、別になんでもないよ。佐藤くんありがとう。望月さんもまたね」

「あ、はい……」

 

 小さく手を振る宮坂さん相手に、僕は呆けたような返事しかできませんでした。この間会ってわかっていたことでしたが、他の女子とは雰囲気からして全然違います。

 彼女は高木くんの幼馴染でしたね。確かにあんな幼馴染がいたら女子への対応力が身に着くでしょう。僕に色欲に満ちた目を向けないのも納得です。

 宮坂さんのような人の恋人か……。それってどんな相手なら釣り合うのでしょう? 同性の僕でも身構えてしまいますし、男子諸君は大変でしょうね。まあ他人事ですが。

 佐藤くんと並んで職員室に到着します。ちょうどドアに近づいた時に一人の男子が職員室から出てきました。

 

「失礼しました。……って佐藤? お前も職員室に用があるのか」

「うん。クラスの提出物を持ってきたんや。本郷くんはどないな用があったんや?」

「俺は顧問にサッカー部の話があったんだ」

 

 その男子は答えながら爽やかな笑顔を見せました。キラリと白い歯が光ります。

 ていうかなんですかこのイケメンは!? とんでもねえオーラですよ!!

 身長は高く、鍛えられているのが制服越しでもわかります。たぶんスポーツをしているのでしょうが暑苦しさはなく、それどころかより爽やかさを強調しているように感じられます。なんだかキラキラしていて王子様みたいです。

 彼は閉めたばかりのドアを開けてくれました。僕に王子様スマイルを向けてくれます。

 

「どうぞ。じゃあな佐藤」

 

 そう言って彼は立ち去りました。後ろ姿でさえキラキラです。

 

「さ、佐藤くんは彼と知り合いなんですか?」

「うん。小中と同じ学校やったんや。本郷永人っていうて、しもやんと同じサッカー部やで」

「サッカー部の……本郷くん……」

 

 そういえば下柳くんがよく「本郷には負けらんねえ!」と騒いでましたっけ。同じサッカー部ですし間違いないでしょう。

 下柳くんはもちろん、うちの兄貴達ですらあんなイケメンには勝てないでしょうね。上には上がいるのだと思い知らせてやれそうです。

 

「そんなことよりも早く提出物持って行かな」

「あっ、そうですね」

 

 職員室に提出物を届けて僕達の仕事は終わりました。

 それにしても高木くんを始めとして、佐藤くんと本郷くんも同じ中学ですか。本郷くんは第一印象だけですが優しそうでした。高木くんと佐藤くんも優しいですし、そこの中学出身の男子は優しい人ばかりなのかもしれませんね。

 男子に必要なのはまず思いやりだと思うのですよ。決して兄貴達のようなデリカシーのない男ではないのです。

 佐藤くんとおしゃべりしながら教室に戻っていると、前方からキラキラしたオーラを感じ取りました。

 またもや本郷くんかと思いましたが、どうやら違ったようです。キラキラオーラの種類も違うようでしたから。

 そこには二人の女子がいました。いえ、二人の美少女ですね。

 

「宮坂さんと木之下さん? 宮坂さんはさっきぶりやね」

 

 宮坂さんと木之下さんが並ぶととてつもないオーラを発しています。その総量は本郷くんを上回るかもしれません。

 木之下さんは銀髪ハーフの美少女です。手足が長くてモデルのような美しさがあります。吊り目なのに柔らかい雰囲気という不思議な感覚を覚えてしまいます。

 

「佐藤くん、さっきぶりー」

「ちょうど良いところにきたわね」

 

 二人はにやりと笑いました。その笑顔にはどんな意味があるのでしょうか? 佐藤くんは一歩退きました。

 

「ぼ、僕に何か用?」

「そうなの。佐藤くんにちょっと聞きたいことがあってね」

「少しだけ時間いいかしら? そんなに手間は取らせないわ」

 

 佐藤くんは二人に確保されてしまいました。尋ねておきながら強制のようです。

 

「望月さん、佐藤くんを借りるけどいいかしら?」

「あ、はい。どうぞ」

「ふふっ、ありがとう」

 

 木之下さんは僕に向かってウインクしました。とても様になっていてかっこ良い……。

 はっと我に返った時には佐藤くんはつれて行かれてしまった後でした。仕方がないので一人で教室に戻ります。

 

「高木く――」

 

 教室に入ってすぐに高木くんを見つけました。けれど、彼はクリスと楽しそうにおしゃべりしていました。

 なぜか声をかけるのをためらってしまいます。言葉が出なくて、思わず視線を逸らしてしまいました。

 

「美穂さん?」

 

 逸らした視線の先には高校から仲良しになった赤城美穂さんがいました。彼女は普段から無表情で口数もあまり多くはありませんが、話してみると案外面白い人でした。

 ぼんやりしている美穂さんの視線の先にいるのは、高木くんとクリスでした。

 

「美穂さん? 高木くんとクリスがどうかしたんですか?」

「……なんで?」

 

 こっちを向いた美穂さんには冷たい雰囲気を感じられました。いつもは無表情の中でも感情が滲み出てくるというのに、今日は少し違うみたいです。

 

「いえ、お二人を見つめていたように見えたもので」

「見つめてない。少し考え事をしていただけ」

「なーんだ。そうだったんですか」

 

 ……嘘ですね。表情の変化に乏しくてもわかりますよ。

 クリスは海外からでしたが、高木くんと美穂さんは同じ中学でしたね。きっと、僕の知らない関係というものがあるのでしょう。

 僕のように高校から新しい関係を構築しようとする人もいれば、今までの関係に引きずられている人もいる。新しいクラスになってから一ヶ月が経過して、段々とわかってきたような気がします。

 

「そう、ですよね……」

 

 自然と口角が持ち上がります。

 いいでしょう。この望月梨菜、みんなの高校生活ってやつを楽しくしてやろうじゃないですか!

 覚悟してもらいますよ。口の中だけで音にならなかった言葉は、誰の耳にも届くことはありませんでした。

 

 



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102.勉強をしよう(前編)

 五月には中間テストがある。前世よりも偏差値の高い高校なだけに油断はできない。

 もちろん普段から勉強をしているが、テスト週間はより集中して取り組まなければならないだろう。そう理由をつけて葵と瞳子は俺の家に来てテスト勉強をしていた。

 せっかく恋人が家に来てくれているのだ。俺はキリリと表情を引き締めて問題を解いていく。

 

「トシくん、その問題間違えてるんじゃないかな」

「えっ、んー……。確かに間違えてる。葵、教えてくれてありがとう」

「えへへ、どういたしまして」

 

 お礼は言ったものの、こうして葵から間違いを指摘されるようになるとは。はにかむ彼女を見れたからいいけども。

 俺がテストで無双できていたのは小学生の頃までで、中学生になってからはトップからは転げ落ちてしまっていた。

 それどころか瞳子には順位で上をいかれるし、葵とだって負けないまでもテストの点数はさほど変わらないところまで迫られていた。

 人生を学業だけに費やしたとは言えないけれど、こんなに簡単に二人に追いつかれてしまうとはな……。これでも前世に比べてかなり偏差値は上がっているんだけどね。初期スペックが違い過ぎるのだろうか。

 

「ふぅ、終わったわ」

 

 瞳子がシャーペンをテーブルに置いて一息ついた。どうやら問題集を全部解き終わったようだ。ちなみに俺はまだ終わってない。

 

「葵は自分の問題に集中しなさい。俊成の方ばっかり見ているからなかなか進まないのよ」

「ごめんなさーい」

 

 悪びれる様子を見せない謝罪を口にした葵だったが、素直に問題の続きへと戻った。元が真面目だから葵はやればできるんだよな。サラサラと問題を解いていく彼女を見ていると中間テストは心配ないように思えた。

 

「俊成も集中して。手が止まっているわよ。これくらいならちゃんと考えれば解けないものでもないでしょう」

「は、はいっ。やります。集中します」

 

 瞳子に注意をされて背筋が伸びる。相変わらずしっかりしていらっしゃる。

 大きくなっても変わらない猫目のブルーアイズが俺を映している。瞳子に見つめられるのをわかっていながら黙って試験勉強に取り組んだ。

 

「疲れたねー。今日はこれくらいにしよっか」

「そうね。外も暗くなってきたことだし、キリもいいでしょう」

 

 葵と瞳子が同時に腕を上に突き出し体を伸ばす。勉強で凝り固まった体がほぐれて気持ちがいいのか、二人とも表情が緩んでいる。ついでに強調される胸部がとても眼福である。うむ、こちらもしっかりと成長しているんだねぇ。

 

「……ねえ、気になる?」

 

 俺の視線に気づいた葵が挑発的な笑みを見せる。制服のリボンを指でいじくりながら流し目を送ってきた。高校生とは思えないほどの色気だった。

 心が盛り上がりすぎないようにするのが大変だから、そういうのは自重してほしいのですが……。なんとか視線を逸らして意識を保つようにと務めた。

 

「もうっ、葵のバカ! そんなこと言うから俊成が恥ずかしがって目を逸らしちゃったでしょっ」

「あっ、そうだった。トシくんってば恥ずかしがり屋さんなんだから」

 

 しまった、とばかりに葵が口を手で隠した。

 まさかの策略だった。自然に体を伸ばしているように見せかけて俺の目を自らの胸に釘づけにしようとしていたとは……。なんて恐ろしい作戦だったんだ……。瞳子の言う通り照れが勝って顔を逸らしちゃったんだけども。

 そ、そんなハニートラップに引っ掛かる俺ではないわ! ……でも、もうちょっとくらいは見たかったかも……。照れ屋な自分が憎らしい。

 俺が煩悩と戦っていると、いつの間にか瞳子がにじり寄ってきていた。

 

「あたしだってこんなことするのは恥ずかしいんだから……、そこんとこちゃんとわかってよね」

「う、うん……、ごめん」

 

 好きな人に顔をこれでもかと朱に染めて言われてしまうと弱いのだ……。愛しさが制御できなくなってしまう。

 

「あ……」

 

 瞳子の肩を掴んでしまっていた。それは無意識の行動だった。

 本能のまま、欲望のまま、俺は彼女との距離を縮めて――

 

「……このままキスしちゃうと今日二回目になっちゃうね」

 

 その途中で、横から葵の声が飛び込んできた。

 俺と瞳子は同時に動きを止める。耳には葵の言葉が入りこんでくる。

 

「私はいいよ。トシくんがその気ならむしろ歓迎したいくらいだもん。でもね――」

 

 一呼吸を置いて、葵は続きを口にした。

 

「――私も瞳子ちゃんも、歯止めが利かなくなっちゃうよ」

 

 身震いをしてしまうような甘さがその言葉にはあった。

 自然と葵の顔を見つめていた。彼女の肌は熟れたように赤い。それでもその大きい目は潤みながらも俺を離さなかった。

 いや、俺も葵から視線が離せない。まるで魔法にでもかかったかのように彼女を見つめたまま動けないでいた。

 

「うおっと!?」

 

 体が突然の衝撃にぐらついてしまう。なんの! と踏ん張って倒れることだけは阻止した。

 目線を下げれば瞳子がタックルするように俺の胴に抱きついていた。

 

「べ、別にあたしは俊成を急かしたかったわけじゃないんだから! 意識してほしいけれど、あまり意識しなくてもいいわよ……」

「うん……ごめん。それと、ありがとう」

 

 ヘタレな俺で本当にごめん。二人に気を遣われてしまうことが彼氏として情けなかった。

 こんなことをしていたせいで頭が沸騰しそうになってしまい、今日の勉強はすべてふっ飛んでしまったのだった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 中間テスト三日前。さすがに休み時間でも勉強に集中している生徒が多くなった。

 

「昨日のテレビでさ、まさかあのアイドルがあんなことまでするとは思わなかったよなー」

 

 下柳は空気を読まずに昨日のテレビの話題でケラケラ笑っていた。こいつちゃんとテスト対策してんのかな? いつもと変わりがなさすぎてどうにも試験勉強しているようには見えない。

 緊張感のない下柳みたいな奴がいれば、反対にとてつもなく追い詰められている奴もいるようで……。

 前の授業でやったテスト範囲を頭に叩き込んでいると、俺の席に向かってくる女子がいた。そのスピードは凄まじく、思わず手を止めてしまう。

 

「助けてトシナリ!」

「ク、クリス!? いきなりどうした?」

 

 接近してきた涙目のクリスを視認して俺は体をのけ反らせてしまう。急ブレーキをかけた彼女は俺の目と鼻の先にまで距離を縮めていた。

 

「きゃっ!? トシナリ近いっ!」

「お、俺のせいか!?」

 

 なぜか理不尽に怒られてしまう。近づいてきたのはクリスでしょうに。

 クリスは人との距離感を縮めるのが上手い。本人の人好きな性格ゆえだろう。だけど必要以上には接近はしていないんだよな。誰かにボディタッチをしているところなんて見かけないし。

 クリスの中ではそれはダメという線引きのようなものが何かしらあるのだろう。それはみんなそれぞれ持っているラインだろうし、直させる必要なんてない。

 

「悪かった。それでどうしたんだ?」

 

 軽く頭を下げて本題を尋ねる。ここは重く受け止めずに俺への用件を聞いた方がいいだろう。

 クリスは金髪を揺らして「そうだったわ」と頭を振った。

 

「わたし、トシナリに勉強を教えてもらいたいの!」

「勉強?」

 

 中間テストが近いからだというのはわかる。でもなんで今? もうテスト三日前なんですけど……。

 

「わからないところがたくさんあって困っているの。トシナリが勉強ができるって、前にミホが言っていたのを思い出して……助けてほしいのよ!」

「美穂ちゃんがねぇ……」

 

 美穂ちゃんにそう言われるのはちょっと複雑な気分。チラリと彼女の方を見れば、眼鏡をかけて本気モードで学習に取り組んでいた。あの様子じゃあこっちに気づいていないだろう。

 

「俺、テストの日まで葵と瞳子と勉強するんだけど……」

「なら、アオイとトウコにもわたしの勉強を見てもらいたいわ」

 

 思いついた、とばかりにクリスは身を乗り出す。しかし問題点もあった。

 

「あんまり人数が多くなると勉強する場所がないだろ。図書室じゃうるさくなっちゃうしさ」

「だったらわたしの家に来ればいいわよ」

「クリスの家?」

 

 満面の笑顔でクリスは頷いた。まったく邪気がなく、男子を家に呼ぶ心配なんて一ミリもしていないような輝かんばかりの笑顔だった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 放課後、俺と葵と瞳子の三人はクリスに連れられて彼女の住まうマンションの前にいた。

 学校から徒歩で通える距離だ。そこには立派な高層マンションが建てられている。

 

「へぇ~、こんなマンションに住んでいるだなんてクリスちゃんってお嬢様なんだね」

 

 そんなことを呟くのは社長令嬢さんである。葵は感心したようにマンションを見上げていた。

 新築のように綺麗な二十階建てのマンションだ。未来ではもっと高いマンションが建つのだが、今の時代ではこれでもかなりの大きさである。

 

「こっちよ。ついて来て」

 

 そう言われるがままエレベーターに乗って案内されたのはマンションの最上階だった。

 エントランスもそうだったけど、廊下もホテルみたいに綺麗だった。その辺の建物と違う高級感がある。

 

「なんだかすごいところに来ちゃったわね」

 

 そう瞳子は言うけれど、この子もけっこう裕福な家庭なんだよなぁ。もしかしてこの中で俺は唯一裕福とは言えない家庭なのではないだろうか。ごめんよ父さん。収入の差ってやつはどこへ行っても比べられるものなんだ……。

 と、心の中だけでの父親いじりはこのへんにしておいて、ついに俺達はクリス宅へと迎えられた。

 

『お帰りなさいクリス。そろそろ帰ってくると思ってチーズケーキを焼いておいたわ。お友達といっしょに食べてちょうだい』

 

 出迎えてくれたのは金髪の美女であった。外国人は顔の違いがわかりづらいとは言うけれど、この女性はクリスの母親とすぐにわかるほどに面影があった。というか若いな。

 なんだか甘いにおいがすると思っていたけど、チーズケーキを焼いていたからか。この様子だとクリスは今日俺達を家に招くと家族に伝えていたんだろうな。

 というか英語だ。もしかしてクリスの母親は日本語を話せないのだろうか? だとしたら生活に苦労しているのかもしれない。そんな勝手な心配をしてしまう。

 

『お邪魔します。チーズケーキの美味しそうなにおいがしますね。手伝えることがあればなんでも言ってください』

『あなたはトシナリね! 本物のトシナリね! 会えて嬉しいわ! 本当に会えるだなんて日本に来た甲斐があった! クリスの願いが叶うだなんて運命のようだわ!』

 

 なぜかクリス母のテンションが急に上がった。この反応にはなんだかデジャヴ。金髪美女の目が輝いたのを見て、俺は目を白黒させてしまう。

 

『トシナリはわたしのこと覚えてないわよね? あんなに小さかったんだもの』

『いえ、クリスのお母さんですよね。ちゃんと覚えてますよ』

 

 本当はちゃんと覚えてなんていなかったが、がっかりさせないためにそう口にした。確か小学生の時にクリスと会った時に見かけていたと思う。会話はしていなかったと思うんだけど、この態度はどういうことなのか。

 俺の発言を耳にしてクリス母のテンションがさらに上がった。外国人の人って明るい人が多いよなぁ。主にクリスと瞳子のお母さんだけどさ。俺が英語教室に通っていた時の先生もそうだったしね。

『後でチーズケーキを部屋に持って行くわね』と言ってクリス母は鼻歌を歌いながら奥へと戻って行った。

 

「母が作るチーズケーキはとても美味しいの。楽しみにしていてね」

 

 クリスは自分の母親を自慢するように笑った。反抗期の心配はなさそうで、親子関係は見るからに良好そうだ。

 自室へと案内をするクリスに俺達はついて行く。隣にいる葵が声を潜めて話しかけてきた。

 

「トシくんすごいね。咄嗟に英語で話されても対応できるんだ。私なんていきなりだったから固まっっちゃったよ」

「まあね」

 

 もう通ってはいないけれど、英語教室でアメリカ人のケリー先生とおしゃべりできるくらいには話せるからね。クリスと出会ったことで俺の英語に対する自信は深まっているのだ。

 俺が得意げにしていると瞳子の言葉が飛んできた。

 

「まあ、あたし達もリスニングには自信があるのだけれどね」

 

 瞳子に顔を向けると、青色の瞳がじっとこっちを見つめていた。

 綺麗な瞳だ。誉め言葉を総動員させたいほどの綺麗な瞳が、今は恐ろしく感じてしまう。なぜでしょう?

 

「瞳子ちゃんの言う通りだね。私も英語の成績は良い方なの」

 

 葵に顔を向けると、大きくて黒い瞳が俺を映していた。

 葵は優しい目をしているはずなのに、背筋が冷たくなるのはなぜだろう?

 きっと俺の勘違いだろう。俺は自分にそう言い聞かせながら、案内するクリスの後ろ姿を見つめることにした。

 

 



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103.勉強をしよう(後編)

 意外と言っては失礼なのかもしれないが、クリスの部屋は案外簡素なものだった。

 八畳ほどの部屋にはベッドに勉強用机。衣服はクローゼットに収納されているのだろう。クリスは物をもっとたくさん持っているのだと思っていただけに、このシンプルさには少し驚かされた。

 

「待ってて、すぐにテーブルを出すわ」

 

 部屋の主であるクリスは率先して準備を始める。端っこにあったローテーブルを部屋の中央まで運んできた。

 

「思っていたより物が少ないんだね」

 

 俺が思っていたことを代弁してくれるかのように葵が言った。

 

「勉強に集中したいからできるだけ気になる物は部屋に持ち込まないようにしているの」

 

 これまたクリスの答えは思ったよりも真面目なものだった。裏を返せばプライベートな物は他の部屋に置いてあるのだろう。乙女の秘密を探るなんて俺はしないぞ。

 

「本当に机の上はスッキリしているわね。これなら気が散らなくてよさそうね。ん、この写真立ては?」

 

 瞳子が気になったのは伏せられて置かれている一つの写真立てだ。勉強机の上で、整頓された教科書の横にそれはあった。

 

「ああ、それはね」

 

 クリスが俺を見てニッコリと笑う。なんだろう? その笑みに対してどう返したものかわからなくて変な表情をしてしまったかもしれない。

 クリスは机に近づいてその写真立てを取ると、俺達に見せてくれた。

 

「こ、これってトシくん!?」

「小さい頃の俊成よね……。隣にいるのはクリス? それに麗華だったかしら……」

 

 その写真に映っていたのは、まだ小さい頃の俺とクリスと麗華の三人だった。三人とも夏らしい薄着で、背景にはのどかな田舎の風景が広がっている。

 初めてクリスに出会った小四の夏。その思い出が蘇るような写真だ。というかその時に撮った写真だな。写真を撮ったのはこの一枚だけだったから忘れていたよ。

 

「懐かしいなぁ……」

 

 クリスと出会った頃を思い出してつい零してしまう。それはクリスも同じだったようで、頬を緩ませながら写真を眺めていた。

 

「本当にものすごく昔のことみたいに懐かしい……。あの時もしトシナリに出会っていなかったら、わたし日本の学校に通おうだなんて思わなかったわ」

「そうなのか?」

「だって、トシナリとレイカに出会わなかったら日本を楽しいところだって思えなかったはずよ。あの頃の思い出が今のわたしを作った。それは絶対なの」

 

 クリスは田舎で遊んだ時のことを振り返るように目を細める。実際に思い出に浸っているのだろう。彼女の瞳にはキラキラとした記憶が映し出されているみたいだ。

 

「レイカは元気?」

「あいつはあの頃とまったく変わってないほど元気だよ。だいぶ身長が伸びているから再会したらびっくりするぞ」

「あはは、そうなんだ。またレイカにも会いたいな」

「麗華は住んでいる場所がちょっと離れているからな。夏休みや冬休みになったらまた会える機会があるとは思うよ」

「そっかぁ……。レイカと会える時は教えてね。あの時みたいに遊びたいな」

「わかった。必ず伝えるよ」

 

 俺の目にもクリスと遊んだ田舎の思い出が映し出されていた。初めて実戦で英語をしゃべってコミュニケーションを取った。そうして友達になれたことが、葵と瞳子と出会った時とは違った嬉しさがあったなぁ。

 あの頃はクリスとはそれっきりになると思っていた。麗華も同じだったようで、良い思い出として話題にすることはあっても「また会いたい」なんてことは口にしなかった。

 でも、クリスはここにいるわけで。今は同じ日本に暮らしている。きっとそう遠くない未来にクリスと麗華は再会できるだろう。

 

「トシくんそろそろ勉強しようよ」

 

 腕をぐいっと引っ張られる。意識を過去へと飛ばしていたからかたたらを踏んでしまう。

 

「葵っ、急に引っ張るなよ」

「勉強をしに来たのにぼーっとしている俊成が悪いんじゃないかしら?」

 

 葵を注意すると、なぜか瞳子からチクリと言葉のトゲが飛んできた。味方がいるからか葵も「だよねー」と同調して反省する様子がない。

 

「ごめんね。わたしが誘ったんだからしっかり勉強しなきゃね」

 

 クリスは写真を戻すと人数分の座布団を用意した。なんか座布団が出てくると日本に染まってきているんだなと感じるね。綺麗に正座する金髪美少女を見ると胸がほっこりした。

 

『はーい、チーズケーキよ』

 

 勉強道具をテーブルに並べたところでクリス母が部屋に入ってきた。チーズケーキの甘いにおいが鼻をくすぐり食欲をそそる。

 まだ勉強を始めてもいないのだが……、このままチーズケーキを前にして手をつけないまま勉学に励むことなんてできないです! というみんなの考えが一致したので、クリス母のご厚意をありがたく受けることにした。

 クリス母がチーズケーキを人数分に切り分けてくれる。葵と瞳子の目がキラキラと輝いているのを見ると、女の子はやっぱり甘い物が好きなんだなと再認識させられた。今度デートに行く時は何かスイーツのある店をリサーチしておこう。

 

「いただきます」

 

 手を合わせてさっそくいただくことにする。実はチーズケーキは俺の好物でもあるのだ。

 内心で楽しみにしながらチーズケーキを口へと運ぶ。

 

「美味い!」

 

 これは店を出せるレベルではなかろうか。フォークを持つ手が止まらないぜ。

 

『トシナリの口に合って良かったわ。ね、クリス』

『そういうのはいいからっ。食器はわたしが片づけるから、お母さんは早くあっちに行ってよ』

『えー、お母さんもトシナリとおしゃべりしたいのに』

 

 などと本場のイギリス英語でのやり取りをしてクリス母は部屋を出て行った。クリスも年頃の女の子みたいな反応している。国が違っても親子のやり取りはそう変わらないようだ。

 

『お母さん、美味しいチーズケーキを作ってくれてありがとう』

 

 クリス母が部屋を出る間際、クリスはお礼を口にした。ふわりとした柔らかな母の笑みを見せると、クリス母は静かにドアを閉めた。やっぱり仲良しだな。

 

「これすごく美味しいね。クリスちゃんのお母さんはお菓子作り得意なの?」

「母は仕事をしない日はよくお菓子作りをしているの。食べるのも好きだからいろんなお店に行っているのよ。だから太ってしまうのね」

「へぇー、そんな太っているようには見えなかったのに。お仕事で体力を使っているんじゃないの? なんのお仕事をしているのかな?」

「ピアニストよ」

 

 俺達の動きがピタリと止まる。

 そういえば、クリスってピアノすごく上手かったよな。それって母親に英才教育されていたってことか?

 

「でも今はピアノを弾くのは趣味程度だけれどね。お金は父が稼いでいるし、父の集中を乱さないためにもピアノは控えているわ」

「ちなみにー……クリスのお父さんのお仕事って何?」

「父は画家よ」

 

 芸術家のサラブレッドがここにいた。金髪も相まってクリスがとんでもなく高貴に見える……。芸術家のオーラが見える気がしてきたぞ。

 思い出してみれば、小四の夏に出会ったクリス父は自由人な雰囲気だった。今思えばなんか画家っぽいぞ。と、画家の知り合いなんて一人もいないのに先入観で見てしまう俺がいた。

 

「父は日本の風景が大好きなの。日本にいるとたくさん描きたいもののイメージが湧いてくるって喜んでいるわ」

「だから日本語ペラペラだったのか」

 

 言葉がわかれば来日する閾も低くなるもんな。それになぜクリスがあんな田舎に来たのかというのもわかった気がする。たぶん父親の仕事の付き添いだったんだろう。

 俺達はクリスの芸術家一家の話を聞いて圧倒されていた。音楽家にしても画家にしても遠い存在だって思っていたから。ほんのちょっぴり夢心地な気分になった。

 

「ねえねえクリスちゃん。お母さんのピアニストの話がもっと聞きたいな」

「わたしが知っていることでよければ」

 

 葵は興味津々に食いついていた。その証拠に前のめりになっている。

 葵のピアノの腕はどんどん上がっている。俺と同じ学校に行きたいなんて言わなければもっと音楽に集中できる学校に行っただろう。

 将来何がやりたいかなんて話はしてこなかったけれど、葵はピアニストになりたいんじゃないだろうか。目を輝かせながらクリスの話に耳を傾けている姿を見るとそう思わずにはいられない。

 これが葵にとって良いきっかけでありますように。彼女には自分の思うままの道を進んでほしい。なんて親でもないのにそんなことを考えるのはおかしいだろうか。

 

「おかしくないわよ」

「え」

 

 声に出していないはずなのに瞳子が小さく笑いながら言った。心を読まれた!?

 

「俊成は顔に出やすいのよ。……あたしだって俊成がやりたいことがあるのなら全力で応援したいわ」

「そっか……、ありがとう瞳子」

「だから俊成の将来には期待しているのよ。しっかりがんばってね」

「う、うん……」

 

 なんかプレッシャーをかけられた気がするのは気のせいかな? 将来のためにもまずは試験勉強をがんばろう。うん。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 勉強した時間に比べて中間テストはあっさりと過ぎ去ってしまった。

 テストの日までしっかり勉強してきたのだ。それなりには手ごたえを感じている。

 結果が出ると三十位までの順位表が貼り出されるのだ。俺はクラスメート達と見に行くことにした。

 

「うわ~……、俺全然勉強してなかったから点数悪いよぉ……」

 

 下柳は頭を抱えていた。そう言いつつも裏ではしっかり勉強していた……タイプじゃないんだよなぁ。これは言葉のままその通りなんだろう。まあ自業自得だな。

 

「それは下柳の自業自得」

 

 って、美穂ちゃんが言葉に出しちゃってるし。言われた下柳は「そういう赤城ちゃんはどうなんだよ」と反撃していた。

 少なくとも美穂ちゃんはお前よりも上だよ。という言葉は飲み込んでやった。すぐにわかることだろうしな。

 

「おっ、あれが順位表みたいやね」

 

 佐藤の視線の先には人だかりができていた。みんな人の順位が気になるらしい。

 

「さすがに三百人超える人数の中で三十位以内に入ってはいないとわかっていますが、それでも順位表を見るのは緊張しますね」

「わたしは自信があるわ」

「さすがはクリスですね」

 

 クリスが自信ありげに胸を張ると、望月さんがパチパチと拍手した。いや、まだ見ていないでしょうに。

 名前が見える位置に移動して上から順番に確認していく。

 

「って赤城ちゃん!? 赤城ちゃんの名前があるぞ!!」

「わかってるから。黙って下柳」

 

 下柳が驚くのも無理はない。なんたって美穂ちゃんは学年二位だったのだから。

 

「相変わらずすごいね美穂ちゃん」

「ううん。一位になれなかった……」

 

 返事する美穂ちゃんのトーンが下がっていく。本気で学年トップになるつもりだったのだろう。いや、なってもおかしくないほどの実力があるからこその反応だ。

 美穂ちゃんは小学生の頃は平均的なレベルだったのだが、中学になってからめきめきと学力を上げたのだ。中一の学年末考査で美穂ちゃんは俺を抜かして学年トップとなった。それからの中学時代で彼女はトップの座を誰にも譲らなかったのである。

 そう考えれば美穂ちゃんにとって二位という結果は久々の転落ということになるのか。さすがに転落とは言い過ぎだけど、それほどに彼女が一位であることが当たり前になっていたのだ。

 美穂ちゃんでも中学に比べ順位を下げてしまったのだ。さすがは各学校から生徒が集まった進学校ということか。レベルが高い。

 俺だってこれでも中学までは十位以内をキープしていたのだけど……。どうやら今回のテストではその中には入っていなかったみたいだ。だけど、十位以内の中に知っている名前が一つあった。

 

「木之下は八位だね」

「やった。さすがは瞳子だ」

 

 八位に木之下瞳子と名前が記されていた。自分のことじゃなくても嬉しい。まあ俺の彼女だしな。俺の彼女は優秀なのだ。

 

「あっ、トシナリの名前があった」

「二十位だなんて、高木くんって頭がいいんですね」

 

 クリスと望月さんの声に反応して見てみれば、俺の名前が確かにあった。なんか中学までよりも嬉しさがあるな。

 前世では通うことのなかった高校で結果を出した。それがより自信を深めることになっているのだろう。経験したことのない場所でもやっていける。そんな強い気持ちを持てる気がした。

 だからうん……そんなに睨むなよ下柳。こちとら天才ってわけじゃないんだからけっこうがんばったんだぞ。

 

「すぐ下には宮坂さんの名前があるなんて相変わらず仲良しやね」

「いやいや、それは関係ないだろ」

 

 俺のすぐ下、二十一位の葵の名前を見た佐藤がからかってくる。口ではそう言いつつも、内心では俺と葵の名前が並んだことにニヤニヤが止まらなかった。名前がすぐ近くにあるというだけなのにどうして気分が良くなっちゃうんだろうね。不思議だなー。

 途中から葵と瞳子がいっしょに順位表を見ている姿が目に入った。瞳子の方が順位が上のはずなのに、なぜか瞳子が悔しがって葵の方が誇らしげにしていた。不思議だなー。

 ちなみに、自信満々だったクリスは三十位以内に入っていなくて落ち込んでいた。しかし悪くない順位だったということをここに記しておく。

 

 



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104.中学時代を振り返る(宮坂葵の場合)

 私は幼い頃から好きな人とキスをすることに憧れがあった。

 この場合の好きな人というのはもちろんトシくんのことで、彼以外には想像したこともない。だからトシくんとキスをするのは待ち望んでいた憧れの行為なのだ。

 ずっと頭の中で思い描いていた初めてのキスをした。それからも何度も彼とキスをしてきた。それはとても甘くときめく瞬間で、幸せという漠然とした最高の気持ちを与えてくれた。

 そんな大好きなトシくんとのキスが一日一回という回数制限がついてからもうだいぶ経つ。いつになればその制限が解除されるのか。私と瞳子ちゃんは頭を悩ませる日々が続いていた。

 トシくんのはっきりとした気持ちはまだわからない。でも、キスが一日一回になってしまった日のことはよく覚えている。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 トシくんと恋人になった始めの頃はドキドキばっかりだった。それでも一年も経てば緊張ばかりのドキドキは、安心感ばかりのドキドキに変わっていた。

 中学生になってから、私は男子から告白されることが多くなった。幼い頃の私なら男子と二人きりになるのが怖くてたまらなかったかもしれない。だけど今は胸を張ってトシくんが私の彼氏だって言える。そう思うと気持ちに余裕が生まれて、呼び出されることに怯えなんてなかった。

 

「ごめんなさい。私には彼氏がいるの」

 

 断る申し訳なさと同時に、トシくんを「彼氏」と言葉として表せる嬉しさがあった。いつもそうやって断っていると、中学一年生の冬になる頃には告白されることはぱったりとなくなった。

 告白をされなくなった代わりに悪口を耳にするようになった。トシくんは「気にするな」と言ってくれるけれど、彼のことを悪く言われた時はひっぱたいてやろうかと思った。

 私とトシくんと瞳子ちゃんの関係。いろんな憶測を立てられたりしていたのを知っている。普通は三角関係ってあまり良いような関係に捉えられないもんね。わからなくもないけれど、良い気持ちにはなれなかった。

 だけど私達はこれで良かった。これが幸せだった。周りの声なんてどうでもいいと思えるほどに心が満たされていた。

 

 ――そう感じていた私は、何も考えていなかったのかな?

 

 中学一年生という期間が終わり、春休みを迎えた。この時期は部活があまりないというのもあって私と瞳子ちゃんは交互にトシくんとデートを重ねていた。

 とはいえ外出ばかりしているわけでもない。お互いの部屋でのんびりと過ごすのも立派なデートなのだ。好きな人と同じ空間にいられるのならどこでも構わない。

 今回はトシくんの部屋だった。両親が出かけていると聞いて、私は舞い上がっていたのかもしれなかった。

 

「トシくん、キスして……」

「うん、いいよ……」

 

 私は彼に甘くおねだりをする。応じてくれる彼が愛しくて、心があたたかく熱くなる。

 私からキスをせがむこともあれば、トシくんが求めてくれる時もある。唇を合わせる瞬間がとても幸福で、もっともっと繋がっていたくなる。

 さっきまでのんびりとした空気だったのに、キスをするだけでとろけるような空気へと変化する。やっぱりキスって特別。大好き。

 

「ん……」

 

 唇を重ねて押しつけ合う。そうしているとトシくんと身も心も一体になれた気がして嬉しい。

 

 ……でも、さらに踏み込みたくもなる。

 

「ん、はん……ちゅ……」

 

 ディープキス。今までのキスよりも深いキスがあるんだって、私は知ってしまった。

 唇だけじゃなくて、舌を絡ませるキス。恥ずかしいけれど、したいって欲望が私の中で訴えかけてくる。興味だけじゃなく、真剣に欲してしまっていた。

 口を開いて舌を突き出す。トシくんの唇を割って口内へと侵入させた。

 目を閉じたままでもトシくんがびっくりしたのがわかる。でも止まらない。もう止まれない。

 舌と舌が触れ合う。経験したことがないとても不思議な感触がした。頭をしびれさせる感覚に支配されていく。

 トシくん……。ああ、トシくんと深く繋がれている……。

 今までのキスでは耳にすることのなかった水音が体を震わせる。私ばかりが動いていたはずなのに、いつの間にかトシくんに攻められていた。

 すごい……。頭がクラクラして体がフワフワする。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 時間の感覚があいまいになってしまうほどのキスがようやく終わる。顔を離して彼と見つめ合う。お互いの呼吸がやたらと熱かった。

 

「きゃっ!?」

 

 最初は何が起こったのかわからなかった。

 トシくんの怖いくらいに真剣な顔を見て、酸欠になっていた頭が働き出すと、やっと状況を理解した。

 私……、トシくんに押し倒されている?

 

「葵……」

 

 トシくんの声色がいつもと違う。これまでにない緊張が体の隅々を硬くさせた。

 彼の手が私の体に触れる。体が勝手に反応してビクンと跳ねた。

 これ、これって……!? そ、そういうことなんだよね?

 いつまでも子供のままじゃない。私だって、恋人同士がどんなことをしているかくらい知識として知っているのだ。

 だから、これからトシくんが何をしようとしているのか。私がどんなことをされるのか。容易に想像してしまえる自分がいた。

 期待していなかったわけじゃない。むしろ望んでいた。初めてはトシくんって決めていたから。

 ただ、いざその行為を前にすると、思ってもみなかった恐怖心がちょっとだけ湧いてきてしまった。

 目をぎゅっと閉じる。心の中で暴れ出してしまいそうな感情を押さえつけるように強く、強く閉じた。

 

「……」

 

 

 …………あれ?

 

 覚悟していたものがいつまで経っても訪れない。それどころか私にかかっていた重みが離れていく。

 

「トシくん?」

 

 さすがに目を開いてしまう。さっきまでそこにあったトシくんの真剣な顔はなくて、私に背を向けて座っている彼を見つけた。

 

「ごめん葵……。俺、早まろうとしてた……」

「え?」

 

 トシくんが何を言っているのかわからない。

 上体を起こしてはみたけれど、首をかしげる以外のことができなかった。だって何がどうなったのかわからないんだもん。

 

「キスしてたらいきなり気持ちが昂っちゃって……、葵を傷つけたくないって思っているのに……」

 

 トシくん落ち込んでる? もしかして私を怖がらせたって勘違いしているの?

 

「違うのトシくん! 私は別に嫌なんて思ってないよ!」

 

 それは違うんだって伝えたくて、声が大きくなる。でも、トシくんは振り向いてはくれなかった。

 

「そうじゃないんだ……。まだ責任も取れないのに欲望に負けそうになってた。ただでさえ中途半端なのにしちゃいけないことだった」

 

 待って! それは違うよトシくん。

 なんでこんなにも嫌な流れになっているんだろうか。私は混乱していた。

 何か言わなくちゃいけないって思うのに、何を言えばいいのかわからなくて声が出ない。わかっているのはトシくんの悪い部分が顔を出してしまったということだけだった。

 

「……今の葵に、これ以上のことはできない」

 

 その言葉に、私は思考できなくなるほどの衝撃を受けてしまった。

 そして、トシくんからキスの回数制限をすると告げられてしまったのだった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「葵ってば大胆ね……」

 

 私は瞳子ちゃんにトシくんに拒絶されてしまった日のことを話した。瞳子ちゃんにとってはキスの回数を制限されてしまっただなんてとばっちりもいいところだろう。

 

「ひぐっ……ご、ごめんね瞳子ちゃん……」

「あー泣かないの。よしよし大丈夫だから、ね?」

「どうごぢゃーん……」

 

 涙が一気に溢れてくる。瞳子ちゃんの胸で私はわんわん泣いた。

 私が泣き止むまで彼女は頭を撫でてくれた。落ち着きを取り戻してから話をする。

 

「……瞳子ちゃん」

「何よ?」

「私、瞳子ちゃんとトシくんが大人の関係になっても怒らないからね」

「ふぇっ!? なななな、何を言うのよ!?」

 

 瞳子ちゃんったら顔が真っ赤。かわいい。

 恥ずかしがり屋なところのある瞳子ちゃんだけれど、考えていなかったわけじゃないだろう。その証拠に真っすぐ私と目を合わせてきた。まだ顔が赤いままだけれどね。

 

「……あたしも、葵と俊成がその……そういう関係になったとしても怒らないわ。というか……お互い俊成が初めてじゃないと嫌だものね」

 

 そう言って瞳子ちゃんははにかんだ。顔が赤いままでかわいい。

 私と瞳子ちゃんは二人ともがトシくんの恋人だ。なんのために二人で恋人になったのか。それは断じて私と瞳子ちゃんを平等に大事にしてほしかったわけじゃない。

 トシくんには好きという気持ちに正直になってほしかったから。それは欲望でも正直でいてほしいという意味でもある。

 トシくんは私達を大事にしてくれる。思いやってくれる。それが嬉しいってのは否定しない。

 だけど、それはこっちも同じ。私も瞳子ちゃんもトシくんのことを大事に想っている。

 ただ思いやってもらえるだけの存在にはなりたくなかった。重荷になるだけの女にはなりたくない。

 トシくんには正直に気持ちをぶつけてほしい。それが男としての欲望だったとしても、私達には受け止める覚悟はあるんだから。

 

 ……だからこそ、私を大事にするための拒絶がつらかった。

 

「トシくんのバカ……バカァ……」

「まだ涙が出るのね。うん……気持ちはわからなくもないわ」

 

 瞳子ちゃんが抱きしめてくれる。こんなこと、彼女にしか相談できない。

 私を抱きしめたまま瞳子ちゃんは少し言葉を選ぶようにして口を開いた。

 

「ねえ葵。俊成は今の葵とはできない、って言ったのよね?」

「うん……」

 

 そうしてキスの回数を一日一回にされてしまった。たくさんキスをしたらまた押し倒してしまうって思ったのだろう。

 

「葵、あたし達ってまだ身長も伸びているし、成長期真っ最中よね?」

「え、うん」

 

 小学生の頃は同じくらいだった身長のトシくんはぐんぐんと背を伸ばしていて差が広がっているけれど、私と瞳子ちゃんも確かに体つきが変わってきている。身長だけじゃなくて胸やお尻も大きくなっているし。

 

「もしかしてだけど、俊成はあたし達がちゃんと大人の体になるまで待っているんじゃないかしら? ほら、そ、そういうことをするのって体を傷つける可能性もあるって先生も言っていたじゃない。きっと俊成はあたし達の体を傷つけることを心配しているのよ」

「な、なるほど」

 

 さすがは瞳子ちゃんだ。くよくよしていた私と違って答えを出してくれる。

 

「じゃ、じゃあ……ちゃんと体が成長したらトシくんは私を抱いてくれるってことだね。気持ちの問題なんかじゃなくて、まだ体が成長しきっていないから早いってだけなんだよね」

「う、うん……たぶんね」

「そっか……うん、そっかぁ~」

 

 なんだか一気に心が軽くなった。トシくんが私を拒絶したとか心の壁を作ったとかじゃなかったんだ。時期が早かった。そういうことなら時期さえくればトシくんに……。

 

「じゃあそれまでにしっかり覚悟を決めとかなきゃだね。ね、瞳子ちゃん」

「葵ってなんだかすごいわね……」

 

 まったく、瞳子ちゃんも他人事じゃないんだよ。

 

「……でも、もし大人の体になってもトシくんが手を出してこようとしなかったらどうしようか?」

 

 消しきれない不安を漏らしてしまう。腕を組んで考えた瞳子ちゃんが小さく呟いた。

 

「……二人でいっしょに俊成に迫ってみる、とか?」

「それいいね! さすがは瞳子ちゃん!」

 

 ナイスアイデアに思わず手を叩く。瞳子ちゃんといっしょなら心強い。

 もちろん二人きりがいいという気持ちはある。でも初めては勇気がなかなか出ないかもしれない。まずは初めてを経験することが第一だ。相手がトシくんなら悪い思い出にはならないだろうしね。

 

「え、いや今のは違――」

「ディープキスしてその気にさせたんだったら、二人同時なら確実だね。う~、早く大きくなりたいよ」

 

 トシくんともっと深く、深くいっしょになりたい。私の全部を愛してほしいから。彼には私の全部を知ってほしい。

 待っている間に気持ちは強さを増していく。想いは募り続ける。

 瞳子ちゃんに相談したおかげでキスを一日一回にするという提案を受け入れられた。この制限が解かれた時、私たちの関係はまた一段階上がっていくのだ。それは確実な前進のはずだから。

 でも、早くキスの回数制限がなくなるようにアピールはしてもいいよね? 私も瞳子ちゃんもトシくんとのキスが大好きだから。そのことについてもしっかりと相談していくのであった。

 

 



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105.球技大会で叶えたいこと(前編)

 球技大会前日、瞳子からこんな提案をされた。

 

「ねえ俊成。もしあたしが明日の球技大会で優勝したら……一日のキスの回数を増やしてくれる?」

 

 もじもじしながら頬を朱に染める瞳子は本当にかわいい。思わず抱きしめたくなるのを理性を総動員させて押しとどめる。

 

「キ、キスの回数ですか?」

 

 敬語になってしまったのは決してどもったのをごまかすためじゃない。ないったらない!

 

「う、うん……。ど、どうかしら?」

 

 キスの回数を増やす。そもそも恋人だというのにキスの回数を制限しているのがおかしいのだ。制限したのは俺なんだけども。

 素直なことを言えば、俺だってもっとキスしたい! そう望むほどに葵と瞳子とのキスは幸せで満たされるのだ。きっとセロトニンとか幸せホルモンが湯水のごとく溢れているのだろう。

 

 ……しかし、である。

 瞳子も葵も魅力的過ぎるのだ! 二人とあんまりにもキスを繰り返していたら理性なんて簡単にふっ飛んで欲望を抑えられなくなってしまうに決まっている。

 俺の欲望まみれの手で葵と瞳子に触れてしまうのに抵抗があった。もし二人を悲しませてしまう結果になったらと思うと、心の臓が絞めつけられるような感覚にとらわれてしまうのだ。

 イチャイチャするのはいいだろう。キスだってもっとしたいくらいだ。だけど、二人のどちらかを決められないでいる状態で責任を取れないことをしてはダメだと思うのだ。

 もし片方を選んでしまえばもう一人はどうなる? 俺に手を出されたことが嫌な思い出としてこびりついてしまうのではなかろうか。それにもしもその……ね? 準備をしていても万が一ということがあるかもしれないし……。

 頭の中でぐるぐると考えていると、瞳子の俺を呼ぶ声で現実に引き戻された。

 

「と、俊成……その、ダメかしら?」

「え、えっと……」

 

 ああ、綺麗な青い瞳が揺れている。不安になんかさせたくないのに。贅沢な悩みだとわかっていても口が重い。

 俺がまごついているのに不安を覚えたのか、瞳子は慌てるように言葉を重ねる。

 

「に、二回でいいの。一回から二回に増やすだけ……。そ、それならいいでしょ?」

 

 二回か……。一日一回で耐えられているのだからもう一回くらい増やしても大丈夫だろうか。

 うん……そうだな。もう一回くらいいいだろ。うん、たった一回増えるだけだし。

 

「そ、そうだね……。じゃあ瞳子が優勝したらってことで……」

「本当! 男に二言はないんだからね! 明日は絶対優勝するわ!!」

 

 瞳子の表情がぱぁっと輝いた。やる気に満ち溢れたようで拳をぎゅっと握っている。

 俺の理性が持ちますように。自分だって期待しているくせに、そんなことを願っていた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 瞳子とそんな約束をした翌日、球技大会の日を迎えていた。

 生徒数が多いこともあり、球技大会は各種目に分かれて行われる。俺が選択したのはサッカーだ。というか無理やり下柳に選ばされていた。

 二、三年生は選べないのだが、一年生だけは所属する部活の競技への参加を認められていた。まあ上級生とも対戦するのだからそれくらいのハンデがないと一年が勝つのは難しいだろう。

 

「よっしゃーっ! 優勝して俺達のかっこ良いとこ見せてやろうぜ!!」

 

 下柳に同調するようにサッカーに出場するクラスメートの男子どもが雄たけびを上げた。みんなのやる気は充分そうだ。

 

「かっこ良いとこ見せて女子からの声援を勝ち取るぞーーっ!!」

 

 男子どもの雄たけびがさらに大きくなる。下柳は男子を乗せるのが上手いな。なんだかんだでクラスのムードメーカーである。

 俺と佐藤はそんな輪から外れてじっくりと準備体操をする。佐藤も下柳の付き合いでサッカーを選んでいた。

 

「高木くん、今日はがんばろうな」

「そうだな。下柳じゃないけど応援されてるしな」

 

 グラウンドには自分の競技がまだなのであろう生徒達が観戦していた。同じクラスの女子なんかもいて「がんばれー」と応援の声が聞こえてくる。

 

「あっ、宮坂さんがおるよ」

 

 知ってる。なんか緊張しちゃいそうだから意識しないようにしてたんだよ。

 

「隣には小川さんもいるな。応援してくれてんのかもよ」

「えっ!? で、でも違うクラスやし……」

 

 佐藤の方が緊張してしまいそうだ。もうちょっとって感じはするんだけどなぁ。

 佐藤の緊張をほぐすためにストレッチを手伝ってやる。リラ~ックスだぞ佐藤。

 そして球技大会が始まる。

 

「野郎ども準備はいいか! 必ず勝つぞーーっ!! 女子の声援はすべて俺達のもんだーーっ!!」

 

 一年A組男子の雄たけびがグラウンドに響いた。ここまで燃えているクラスはなかなかないだろうな。

 チラリと葵がいる方へと目を向ける。目だけで顔を向けたわけじゃないのに葵は気づいたようだ。手を振ってくれたおかげで力をもらえた。

 下柳はサッカー部に入っているのをアピールするだけあって上手かった。二年や三年の先輩方相手でも関係ないとばかりにシュートを決めていた。

 これには女子からの黄色い声が飛び交った。本日は下柳が高校生になってから一番輝いている日である。

 

「しもやん本当にすごかったんやね!」

「本当にってなんだよ! まっ、一郎もナイスアシストだったぜ」

 

 まさか下柳がここまで活躍するとはな。なんて意外に思うのは失礼か。

 我が一年A組が快進撃を続ける中、俺は何をしていたかといえば、ゴールキーパーをしていた。だって誰もやりたがらないんだもん。

 フォワードの下柳が攻めてばっかりだから出番がないんだよ。そんなわけだから午前中はすべての試合を無失点に抑えた。あまりボールがこなかっただけなんだけども。

 午後からは本格的に優勝争いだ。昼飯をしっかり食べて栄養取らないとな。

 

「トシくんお疲れ様。はいタオル。飲み物もあるよ」

「ありがとうな葵」

 

 試合が終わって昼休みになると葵が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。

 

「ぐぬぬ……。活躍したのは俺なのにっ」

「まあまあしもやん。ほら、あっちに女子がたくさんおるで」

「おおっ、あれ俺に手を振ってくれてるんじゃね?」

「そやねー」

 

 下柳を送り出した佐藤が近づいてくる。葵といっしょにいた小川さんが声をかける。

 

「佐藤くんもお疲れ様っ。要所要所でいい動きしてたねー」

「そんなことあらへんて。しもやんがいっぱい動いてくれた分、僕のマークが緩かったから自由にできただけや」

 

 佐藤は謙遜するけど本当にいい働きをしてくれた。おかげで俺は暇だったけどな。

 

「葵と小川さんは出番はないの? 午前中ほとんどここにいたみたいだけど」

 葵は顔を逸らした。運動系のイベントは苦手だもんね。

 代わりに小川さんが苦笑いとともに教えてくれた。

 

「いやー、私とあおっちはバレーに出たんだけどさー。初戦敗退だったんだよね」

 

 バレー部の小川さんがいても負けてしまったのか。まあ団体競技だしそういうこともあるか。

 

「でも瞳子ちゃんは勝ち進んでいるんだよ」

「きのぴーがいっしょなら勝てたと思うんだけどねー」

 

 中学時代は瞳子と小川さんのコンビプレーが光っていたからね。この二人が揃えば球技大会くらいならもっと勝ってもおかしくないだろう。

 ちなみに瞳子が出ている競技はバレーではなくバスケである。小川さんが同じクラスじゃなかったからかバレーは選択しなかったらしい。

 

「瞳子はバスケだから体育館にいるのかな? 合流して昼飯いっしょに食べようか」

 

 俺がそう提案すると、葵が「んー……」と言葉を濁しながら言う。

 

「瞳子ちゃん、今は集中したいだろうし、トシくんの顔を見ちゃったら余計な力が入っちゃうと思うな」

「えっ、そうなのか?」

「私としても瞳子ちゃんには絶対に優勝してほしいし、お昼ご飯は瞳子ちゃんと二人で食べるよ。たぶんその方がいいと思うんだ」

 

 葵は「午後からもトシくんの応援に行くね」と言って瞳子のもとへと行ってしまった。え、俺にできることってないの?

 

「……高木くん、どんまい」

「気を遣わないでよ小川さん」

 

 そんなわけで昼食は佐藤と小川さん、それに後から合流してきた美穂ちゃんとクリスといっしょにさせてもらった。

 

「赤城さんも午後からの試合があるんやね」

「うん。クリスががんばったから」

「トシナリ達も見てくれたらよかったのに」

「見られなくて残念だけど、こっちも試合があったんだよ」

 

 美穂ちゃんとクリスが出場しているのは瞳子と同じくバスケだ。どうやら順調に勝ち残っているようだ。このままいけば決勝戦で瞳子と試合するかもしれない。

 ちなみに、望月さんもA組女子のバスケメンバーである。交流の多い彼女は午後からも出番のある人達を激励しに行っているそうだ。マメな子である。

 

「トシナリ達も勝ち残っているのよね? すごいわ!」

「まあね。って俺はほとんど何もしてないけどさ。佐藤と下柳は大活躍だったんだよ」

「高木くんがしっかりゴールを守ってくれたから攻めに集中できたんや。シュートされてもゴールされる気がせえへんかったわ」

 

 佐藤はそう言ってくれるが、俺のところまでボールがきた回数は片手の指で足りるほどである。数少ない出番くらいちゃんとこなさないとな。

 

「くっそー! 私だってもっと活躍したかったのにー! 佐藤くんずるいぞ! こうしてやるっ」

「わあっ!? せっかく取っておいた唐揚げ食べるなんてひどいやん!」

「もぐもぐ……、おいしー。佐藤くんのお母さんはいい仕事してますな」

「だ、だったら僕も反撃や!」

「あーっ! 春巻きは反則でしょ! 楽しみにしてたのにっ」

 

 佐藤と小川さんはイチャイチャとおかずの取り合いを始めてしまった。お前らもう付き合っちゃえよ。

 

「これが夫婦漫才……」

 

 クリスのぽつりとした呟きは騒いでいる二人の耳には届かなかった。意味が違っているようで合っている気がする。

 

「……」

 

 美穂ちゃんは黙ったままじーっと佐藤と小川さんを見つめながら食事を続けていた。無表情のままでいる彼女が何を考えているかは読み取れなかった。

 小川さんのおかげで午後からの佐藤も期待できるだろう。下柳も午前中に活躍したこともあって女子に囲まれながら昼食をとっているようだし、そのまま調子に乗ってがんばってもらいたいものだ。

 ……嬉しいことに、瞳子は俺とのキスの回数を増やすためにがんばっているのだ。

 彼女を応援しに行きたい。でも、瞳子のがんばりに釣り合うくらいには俺だってがんばらなきゃいけないだろう。そうじゃなければ格好がつかない。

 そう、格好の問題なのだ。葵と瞳子の彼氏ならいいとこを見せられる男じゃなきゃ格好がつかない。それが彼女達の彼氏である俺のプライドだった。胸を張って俺を彼氏だと堂々と口にしてもらえる男にならねばと強く思う。

 ここまできたら優勝したい。瞳子といっしょに球技大会を優勝して終えるのだ。

 葵の作ってくれた弁当を全部たいらげて活力を漲らせる。やる気に満ちたまま球技大会午後の部を迎えるのであった。

 

 




小説家になろうでこの作品のほのぼの集を投稿しました。おまけの小話なんですけど、こっちでだと本編と分けづらいかなと思って向こうだけに載せちゃってます(その他ジャンルにしてます) 興味があればどぞー、ということで。


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106.球技大会で叶えたいこと(中編)

 午後からの試合も順調に勝ち進んだ俺達一年A組男子は、決勝戦に臨んでいた。

 

「俺達ここまでよくがんばったよな」

「ああ、上級生にも勝ったし、たくさんの女子から注目されたぜ」

「やれることはやった。目標は達成した……」

「だから……、もう負けて楽になってもいいよね?」

 

 一年A組のほとんどの男子は、試合が始まる前からすでに勝負を投げ出していた……。

 それもそのはず、決勝戦の相手は本郷を擁する一年F組だからである。

 本郷は中学時代に全国制覇を成し遂げた実績がある。つまりはサッカー界では誰もが認めるスター選手なのだ。その女性の目を惹きつけるルックスもあってか、本郷永人という男子は一年生でありながらも校内での知名度はトップクラスなのだった。

 実力、人気ともに桁違い。いくら一年は所属する部活の競技に出てもいいとはいっても、プロでも通用しそうな奴をたかだか学校の球技大会なんかに出場させちゃったらダメでしょうに……。

 そのせいで、本郷の名前を聞いただけでうちのクラスの男子どものモチベーションはダダ下がりである。最初の勢いはどこ行った。

 

「野郎ども! 何やる気なくしてんだよ! 俺達は優勝するんだ! 相手が誰だろうと関係ねえ!!」

 

 下柳の熱のこもった声にも反応が薄い。まあ今回参加している連中のほとんどはサッカー部ですらないのだ。素人がプロに勝とうだなんて考えられなくて当然だ。別に本郷はまだプロではないんだけども。

 しかし、下柳は諦めない。チームを盛り立てようとさらに言葉を重ねる。

 

「本郷がなんだ! お前らにはこの俺がついている! 本郷のライバルと呼ばれるこの下柳賢がな!!」

 

 大きく出たな。面白くなってきたので静かに見守ることにする。

 

「知ってるか? うちのサッカー部の一年の中でレギュラー入りしてんのは俺と本郷だけだ。つまり! 俺と本郷はライバルなんだよ!!」

 

 なるほど……、ってなるか! いや、確かに一年でレギュラー入りしている下柳もすごいんだけどさ。その理屈はなんかおかしい。イコールで同列ってことにはならないだろ。

 

「ほ、本当なのか下柳?」

 

 しかし、その発言はみんなの希望となった。

 素人からすれば実力の差なんて簡単にわかるもんじゃない。本郷と同じく一年生でのレギュラー入り。たちまち下柳が本郷クラスの全国区の実力者に見えてくる。俺には見えないけど。

 

「ああ! それに今日の俺の活躍を知ってるだろ。俺にボールを集めれば点は取れるんだ!」

「お、おお……」

「本郷に勝って、あいつの人気を全部かっさらってやろうぜ!! 女子の声援は俺達のもんだ!!」

「「「おおおおぉぉぉぉぉぉーーっ!!」」」

 

 一年A組男子達の雄たけびがひびいた。そう、チーム一丸となったのだ。打倒本郷! みんなの気持ちが一つになった。

 

「下柳ってすごいな」

「せやね。しもやんは立派なリーダーや」

 

 俺と佐藤は感心していた。

 同じ中学だから知っているが、本郷の実力は学生でいるのがインチキに見えてしまうほど圧倒的なのだ。同じ部の下柳ならその実力を肌で感じているはずなのだが……。それでも勝ってやろうという意思は本物のように見えた。

 

「まあ、僕も勝てるかもって思ってるんやけどね」

 

 佐藤は小さく笑う。

 

「本格的なサッカーの試合やないし、高木くんが本郷くんを止めてくれたら充分に勝機はあると思うんや」

「それ、けっこう無茶ぶりしてないか?」

 

 佐藤は笑っていた。冗談とかではなく、本気でなんとかなるかもと考えているようだった。

 

「せっかくここまで勝ち上がれたんやもん。楽しまんと損やで」

「だな。かっこ良いとこ見せる、だもんな」

 

 俺と佐藤はにっと笑い合うと、雄たけびを上げるみんなの声に混じるのだった。

 

 本郷効果なのだろう。俺達の試合を観戦する人はフィールドを囲むほどに多かった。

 ほとんどは本郷を応援する女子の黄色い声ばかりだ。でも中には俺達を応援する声も聞こえてくる。

 

「高木」

 

 声の方に顔を向ければ本郷がいた。爽やかな風が奴の髪を揺らしている。俺にはそんな風吹いてないんですけど。

 

「今日は全力でやろうな」

「本郷に全力出されたら勝負にならないかもしれないぞ」

「そんなこと言うなよ。こんなチャンス、滅多にないんだから」

 

 本郷の表情は柔らかいものだ。これだけの人数から注目されても気負う様子なんて微塵もない。そりゃあ全国大会のプレッシャーに比べればこれくらいへでもないのだろう。

 しかし、本郷の目は真剣そのものだった。油断なんてない。気迫のこもった目で俺を見据えていた。

 なんだかんだで本郷とも長い付き合いだ。ぶつかったこともあれば、助けられたこともある。勘違いでなければ、部活は別だったとはいえ、中学時代の俺達は互いを意識し合っていた。

 ただの球技大会。でも決勝戦だ。こんな舞台で本郷と勝負できるのは最初で最後だろう。

 

「ああ、負けないぜ本郷!」

「おう! 勝つのは俺だぜ高木!」

 

 俺達は各ポジションへと散らばる。決勝戦、一年A組対一年F組の試合が始まった。

 キックオフはF組からだった。本郷へとボールが渡る。

 球技大会の試合時間は十分だ。この短い時間で大量点を取るのは本郷といえど難しいだろう。こっちにだって下柳という得点源がいる以上、確かな勝機があるはずだ。

 

「何やってんだ?」

 

 つい疑問が口に出てしまった。

 ボールを持った本郷が宙に向かって思いっきりボールを蹴り上げたのだ。

 パス……にしてはF組の男子は誰も上がってきていない。最前線の本郷がいきなりボールを飛ばしてしまったものだから誰も追いつけない。

 意表を突くにしても、これはどういう意図があるのかわからない。A組のディフェンスを超えてはいるが、このままではラインを割ってしまうだろう。野球じゃないんだからホームランしたって得点にはならないんだぞ。

 そんなこと、本郷が知らないわけがない……。

 ぐんぐんとボールは俺の守るゴールへと向かっている。高過ぎて明らかにゴールの枠に入ってないけどな。

 

「高木! 落ちてくんぞ!!」

 

 下柳の大声と同時、空を飛ぶように進んでいたサッカーボールが急降下してきた。

 こ、これはドライブシュート!? しかもギリギリ枠に入っている!

 こんなシュートを中央から打ってくる奴があるか! 何十メートルの距離があると思ってんだっての!

 俺は咄嗟にゴールラインまで下がった。強烈な縦回転を加えられたボールが、すぐそこまで迫っている!

 

「開始早々点を取られてたまるか!!」

 

 ジャンプ一番。俺の頭上を通ってゴールしようとしていたボールに手を伸ばす。

 

「ぐっ!」

 

 手に当たった瞬間、想像以上の威力に襲われる。力負けしまいと歯を食いしばる。

 これでも力には自信があるのだ。握力七十キロオーバーはダテじゃない!

 

「と、止めたーーっ!! あの本郷のドライブシュートを止めやがったぞ!! 何者だあのゴールキーパーは!?」

 

 観客の誰かは知らないけど、いい実況だ。俺は味方にパスをした。

 

「回せ回せ! ボール取られるなよ!」

 

 パスを回して下柳に届けようとする。それを断つかのような本郷の声が響いた。

 

「みんな落ち着いてマークにつけ! 簡単にパスを出させる状況を作るな!」

 

 本郷に統率されてF組のディフェンスが安定する。ボールをキープしてはいるが攻めの勢いは止まってしまっていた。

 

「俺に任せろ!」

 

 下柳がマークを振り切ってボールをもらいに行く。パスを受けた彼はドリブルで相手ゴールへと突進する。

 さすがは一年にしてサッカー部のレギュラーだ。F組のディフェンス陣をものともしない。次々とドリブルで抜いていった。

 

「んなあっ!?」

 

 しかし、一人でゴールを奪えるところまではいかなかった。

 戻っていた本郷にあっさりボールを奪われたのだ。俺と五十メートルのタイムが同じくらいの下柳である。追いつかれてしまうのは当然だった。

 本郷は自分で行くのではなく、味方にパスを出した。

 細かいパスをつなぎながらF組の男子達が上がってくる。統率された動きに、勢い任せのディフェンスでは歯が立たない。

 パスで揺さぶられてA組のディフェンス陣が崩されていく。相手とは対照的な光景だ。

 さて、ゴール前まできたぞ。俺が止めるしかない!

 

「こっちにパスだ!」

 

 腰を落として構えていると、猛然と突っ込んでくる本郷の姿が視界に入る。それに合わせるようにパスされてしまった。

 シュートだと身構えていただけに、逆を突かれた形になってしまう。急いで本郷のシュートコースを塞ぎに動く。

 ボールを蹴った後から動いても止められない。どこにシュートを撃ってくるか予測するんだ。

 本郷の目を見る。視線は固定されていた。俺は右へと飛ぶ。

 

「ゴォォォォォル!! エース本郷のシュートがゴールネットに突き刺さったぁぁぁぁ!! やはり黄金の足を持った男は格が違う!!」

 

 しかし、俺が飛んだ方とは逆側にシュートされてしまった。実況の声に女子の黄色い悲鳴のような歓声が重なる。だからこの実況は誰だよ!?

 

「まずは一点だ」

 

 ふっと笑って本郷は俺に背を向けた。

 くそっ、目線でのフェイントなんて高度なマネしやがって……。次は絶対に止める!

 予想通りの本郷の先制点に周囲は盛り上がっている。アウェイ感があるが、俺の耳はしっかりと「トシくんがんばって!」という声援を受け取っていた。力が萎えるどころか湧いてくる。

 だが、A組男子達は「やっぱりダメかぁ……」と諦めモードへと逆戻りしてしまった。

 

「時間は少ないんだ! 早く俺にボールを回せ!」

 

 先制点を取られ、味方はやる気をなくしている。こんな状況でも下柳は諦めない。……こいつは本当にすごい奴だ。

 

「まだ一点取られただけや! それくらいしもやんがすぐ取り返してくれるわ!」

 

 佐藤も士気を上げようと声を上げる。諦めそうになっていたチームが再び活力を取り戻そうとしている。

 

「次は絶対に止めてみせる! だからみんな! 点を取ってくれ!!」

 

 俺も腹の底から声を出していた。

 下柳を起点としてA組が攻める。だが、本郷を中心とした守りは堅い。本郷の指示は的確で、まるで強豪チームを相手にしているかのような錯覚にとらわれる。球技大会でクラス単位での戦力でしかないはずなのにね。

 

「くそっ! また本郷か」

 

 再び本郷にボールを奪われてしまう。なんとか奪い返そうとするものの、華麗なプレーを見せつけられるだけの結果に終わってしまう。

 二度目のゴール前での攻防。絶対に止めると言った手前、ここで決めさせるわけにはいかない。

 本郷がシュート体勢に入った。見てから取るのは無理だ。それはわかっている。

 しかし予測しようにも、さっきのようにフェイントをかけられている気がして迷いが生まれている。本郷を凝視してもシュートコースを予測する自信がない。

 

 だから、本郷の蹴り足が振り下ろされる前に、俺は上体を左へと振った。

 高校生レベルを超えた強烈なシュートが放たれる。俺は飛びついていた。

 

「うおおおおおーーっ!!」

 

 目いっぱい腕を伸ばす。シュートを止める! 俺の頭はそれだけしか考えられなくなっていた。

 俺が左へ動くかと思った本郷は、狙い通りに右側にシュートを打ってくれた。フェイントは成功したのだ。

 ……それでも、届くかは微妙なところ。先に動けたはずなのに、あまりのスピードに目では追えなかった。

 バシィッ!  という音と衝撃でボールに触れたのだと気づく。

 弾いてはダメだ。すぐにボールを取られて今度こそゴールを決められてしまう。

 ここで抑える! 俺は両手で押し込もうとしてくるボールを力づくで抑え込んだ。

 暴れていたボールが大人しくなる。俺は本郷のシュートを止めたのだ!

 

「な、なんと取ったぁぁぁぁぁぁ!! 放たれたのは目にも止まらない高速のシュート! 決めたかと思われた本郷のシュートを止めてしまったぞぉぉぉぉぉ!!」

 

 俺はボールを持って立ち上がる。本郷の目が見開かれていて、どうやら驚いてくれたらしい。やった! と叫びたくなったのを我慢する。

 

「みんな上がれ! カウンターだ!」

 

 俺は大きくボールを蹴り上げる。本郷とともにほとんどのF組男子は前に出ていたようだ。守りがおろそかになるくらいな。

 蹴り上げたボールは思いのほか伸びていく。転々と弾むボールに追いついたのは下柳だった。

 

「チャンスだ! 攻めるぞ!」

 

 下柳がドリブルで切り込んでいく。人数の少なくなったディフェンスを突破するのは難しくなさそうだ。

 しかし、F組男子も残ったディフェンス陣が粘る。動きの良い奴がいるようだし、おそらくあの中にもサッカー部が混じっているのだろう。

 

「しもやんこっちや!」

「おお! 任せたぜ一郎!」

 

 下柳が佐藤にバックパスを出す。相手がつられて前に出たことで空いたスペースへと走る下柳。そこへ絶妙な佐藤のパスが通る。

 わかりづらいが、オフサイドになるかならないかの攻防だったのではなかろうか。キーパーと一対一になった下柳は危なげなくゴールを決めた。

 

「うおおおおおぉぉぉぉーーっ!! やったーーっ! やったぞーーっ!!」

 

 下柳と佐藤が抱き合って喜びを表している。そこへA組のメンバーも加わっていく。いいなぁ……。キーパーの俺はここから動けない。

 これで得点は一対一。試合時間はそれほど残っていない。次のゴールで勝敗が決まるだろう。

 

「みんな! あと一点取れば優勝だ!」

 

 それがわかっている本郷はチームメイトを鼓舞する。これが最後の攻防だと思えば力を振り絞ってやろうと考えるものだ。

 本郷が攻めてくる。スピードとテクニックでは誰も勝てない。

 

「喰らえーーっ!!」

 

 下柳がスライディングで本郷を止めにかかる。だけど鮮やかに飛んでかわされてしまう。

 

「本郷くんもろうたで!」

 

 佐藤は本郷が着地する瞬間を狙っていた。これを狙っていたからこそ下柳も思いっきりスライディングをしたのだろう。二人のコンビディフェンスである。

 

「甘いぜ佐藤!」

 

 しかし、このコンビプレーでさえ本郷は空中でボールの軌道を変えてかわした。いやいや! あんなの普通できないだろ!

 しかも本郷は他の奴にパスを出して自分へのマークを集中させないようにしていた。あいつなら一人で全員抜けるだろうに、そんな強引なプレーはしなかった。

 そうして、本郷は三度ゴール前でシュート体勢に入った。

 試合時間は残り僅かだ。ここで決められたらもう逆転はできない。大ピンチである。

 いや、むしろこれはチャンスだ。このシュートを止めて再びカウンターで得点する。この位置なら本郷は戻れないだろうし、充分に成功できる可能性がある。

 

「いくぞ高木!!」

「こいよ本郷!!」

 

 二度もフェイントは通じない。それは向こうも同じように思っているはずだ。

 真っ向勝負! 本郷の右足から力強いシュートが放たれた!

 

「うおおおおおおぉぉぉぉぉぉ!!」

 

 体が勝手に反応していた。気づけばボールに飛びついていた。

 ガッチリと両手で抑える。防いだ!

 

「ぐ、ぐうううううぅぅぅぅぅぅぅ!?」

 

 いや、まだだ! まだボールの勢いは収まってはいない。

 歯を食いしばってボールを抑え込む。さっきとは違った強い回転がかけられている。俺の手から離れようと暴れていた。

 負けるもんか!! 強い意志をありったけ込めて力へと変えた。

 

 

「うあああああああーーっ!! 一度は止められたかに見えたシュートだったが、キーパーの手をぶち抜いたぁぁぁぁーーっ!! そのままゴォォォォォォルゥゥゥゥッ!!」

 

 本郷の力強いシュートは、俺の力では止められなかった。ゴールネットを揺らす光景を見れば認めるしかない。

 そして、これが決勝点。二対一で、一年F組の優勝という結果に終わった。

 

「高木」

 

 終了のホイッスルの音と歓声の中、本郷が俺に近づいてきた。

 

「ナイスシュート。さすがだな」

「ああ、高木に勝ったのがめちゃくちゃ嬉しいよ」

 

 この野郎……。めちゃくちゃ爽やかな顔しやがって。

 

「俺は悔しいっての……。あーくそ! 悔しいーーっ!!」

 

 本気で悔しい。心の底から悔しがっているんだって、俺は驚かなかった。

 

「高木を悔しがらせられて俺は満足だよ。目標達成だ」

「なんだよ目標って」

 

 俺を悔しがらせるだなんて、そんな小さい目標もないだろうに。本郷ならもっとでっかい目標があるだろ。

 

「ははっ、高木が真剣に勝負してくれた結果でもあるからな。こんなことないと思ってたし、目標達成ってより夢が叶ったってのが正しいか」

「夢って……余計に大げさになってんぞ」

「いいんだよ。夢は叶えるためにあるんだからさ」

 

 本郷が言うとなんかすごいこと言っている気がする。将来本当にサッカーで飯を食っていけそうな男だからかな。

 しかしまあ、爽やかに笑う本郷を眺めていると、負けて悔しいってのにこっちもスッキリする。

 濃密な十分間だった。すごい男と本気で勝負できて、俺も満足感でいっぱいだ。

 大勢からの拍手の雨が降り注ぐ。本郷から握手を求められ、それに応じた。

 

「高木もサッカーやればいいのに。プロでやっていくのも夢じゃないと思うぜ」

「本郷に言われると自信になるな。でも、俺の夢はサッカーにはないからいいんだ」

 

 そう、俺にとって叶えたい夢は別にある。がむしゃらなだけじゃあ叶えられない夢だ。

 負けてしまったけれど、俺は堂々と胸を張る。そうして、応援してくれた彼女へと腕を掲げて応えるのだった。

 

 



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107.球技大会で叶えたいこと(後編)

更新するのが遅くなりましたが、またお付き合いいただけたら嬉しいのであります(低姿勢モード)


 瞳子が出場するバスケの試合が始まろうとしていた。

 

「なんとか間に合いそうだな」

「ああ。木之下の活躍が見れそうで良かったな」

「……」

「……」

「おい本郷」

「ん? どうしたんだ高木?」

「なぜお前がここにいる?」

 

 体育館に向かう道中、本郷はずっと俺についてきていた。というか現在進行形ですぐ隣にいる。

 

「俺も木之下の試合を見に行くからだけど」

 

 本郷は爽やかに笑いながら答える。そう自然に答えられると変に思った俺の方がおかしく思えてしまう。

 

「トシくーん。早くしないと瞳子ちゃんの試合が始まっちゃうよ」

「わかってる。……急ごうか」

 

 先を急ぐ葵を追って俺も足を速める。本郷は……仕方がない、好きにさせておこう。

 

 男子のサッカーの試合が終わってから、本郷だけではなく俺達A組男子達にも注目が集まっていた。

 それに気分を良くしたのは下柳である。他の男子連中とともに男女問わず囲まれて鼻を高くしていた。いや、俺達負けたんですけどね。

 

「あのキーパーの人すごかったよね。本郷くんのシュートを止めていたわ」

「本郷くんも彼を認めていたって感じよね。試合が終わってあの本郷くんが話しかけていたもの」

「きっと男の友情が芽生えたのよ。二人ともすごく爽やかな顔をしていたもの。あの試合をきっかけに二人は禁断の熱い関係へと……」

「「「きゃー!!」」」

 

 とまあ、俺ですらこのように黄色い声を上げられていたのだ。ある意味本郷効果と言えるのだろうか。奴と良い勝負ができただけで大金星扱いである。

 

 熱気が冷めやらないうちにグラウンドからなんとか抜け出して、葵といっしょに女子のバスケの試合へと急いだ。気づけば本郷もいっしょだったのだが、今は瞳子が先決だ。

 体育館へと辿り着く。本郷が出ていたサッカーの試合よりは少ないのだろうが、すでに大勢の生徒がコートを囲んでいた。

 

「女子のバスケもこれが決勝戦みたいだな」

 

 高身長の本郷は対戦表でも見えたのか呟きを漏らす。背が低いわけじゃないが、こういう場面ではもうちょっと背丈があればとも思う。

 

「瞳子の相手はどこだ? やっぱり三年生のクラスか?」

「いや……、俺達と同じかな」

 

 俺達と同じ? 本郷の言っている意味がわからなくて首をかしげてしまう。

 

「とにかくもっと前で応援しようよ。すみません、少し空けてもらってもいいですか?」

 

 葵が声をかければ男子高校生なんて抗えないものである。どうぞどうぞと場所を譲ってもらえた。

 

「相変わらず宮坂ってすごいな」

「それ本郷が言うとおかしく聞こえるぞ」

 

 お前も女子相手なら同じようなことできるから。

 

「いや、ああやって迷いなくできる度胸がすごいよ。木之下はあまりやらないだろうからな」

「む」

 

 まあ、言われてみれば同じくらいの美少女だけど、瞳子はあんまり男子相手に「お願い」はしないか。葵限定の武器ってわけじゃないんだろうけど、実際に瞳子がやっている姿は見ない。葵限定の大きな武器があるのは認めますけども。

 とりあえず、葵のおかげで俺達はいいポジションを確保できた。ここなら瞳子の試合もよく見えるだろう。

 

「どれどれ、対戦相手はっと……」

 

 目立つ銀髪を発見して、相手側に目を向ける。視界に入れてぎょっとしてしまった。

 

「な? 俺の言った通りだろ」

 

 本郷がどや顔をする。いらね。

 だけど、本郷が言った通りなのは事実だった。

 俺達と同じ。それは先ほどのサッカーの試合と同じ組み合わせということだ。つまり――

 

「あっ、トシナリー! 応援にきてくれたのね!」

 

 目立つのは運動するからかポニーテールにしている金髪に、彫の深い顔の少女。どっからどう見ても外国人であるクリスだった。

 彼女がいるということは、男子サッカーと同じく、女子バスケの試合も一年A組対一年F組ということだ。

 まさかの対決に苦笑いしてしまう。クリスが手を振ってくるので、俺も振り返してしまう。これはどっちの応援をすればいいんだ?

 

「痛っ!?」

「瞳子ちゃんを応援するに決まっているよね、トシくん?」

 

 葵が笑顔で俺の尻をつねっていた。大きく首を縦に振ることで解放してもらえた。

 瞳子へと目を向ける。はしゃいでいるクリスに気づいているだろうに、こっちを向く様子はない。集中しているのか静かにストレッチをしている。

 

「高木くーん、他の男子はどこですかー?」

 

 クリスと同じく、バスケに出場する望月さんも俺に声をかけてきた。同じクラスからの応援が少ないことに気づいてしまったのだろう。

 

「俺にはわからないなー」

 

 サッカーに出場した下柳達は黄色い声を浴びている最中です、とは言いづらい。たぶん他の競技に参加していたクラスメート達はきているだろうし、それで手を打ってもらおう。

 ちなみに、佐藤はバレー部の先輩の応援に行かなきゃという小川さんにつれていかれてしまった。佐藤は別枠だから仕方がないね。

 

「……」

 

 美穂ちゃんはチラリと俺を見た。いや、隣にいる葵か本郷を見たのかもしれないけども。

 彼女は何かを言うこともなくすぐに視線を逸らせてしまう。クリスなんかと違ってこんな大勢の中で手を振るような性格でもないけれど、なんだかピリッとした緊張感を纏っているように見えた。

 同じクラスで悪いけど、俺は瞳子の応援をさせてもらう。それがわかっているからこそ美穂ちゃんは何も言わなかったんだろうな。

 

「それにしても今年の一年はレベルが高いよな」

「ああ、美少女ばっかりだ。しかも飛び切りの」

 

 どこの下柳かと思って声の方へと顔を向ければ、どうやら上級生と思われる男子の会話のようだった。

 

「女子のブルマ姿をこうやってまじまじと見られるんだから球技大会って最高だよな」

「ああ、体育は男女別だからクラスメートでさえしっかり見られないからな」

 

 この男どもは何を見学しとるのだ!?

 俺が顔を向けていたからではないのだろうが、会話していた男子どもがこっちを向いた。

 

「おいあれ見ろよ。すげえエロいスタイルだ」

「ああ、エロい美少女だな」

 

 そいつらは明らかに葵を見ていた。この無遠慮な視線と言葉には上級生とはいえども怒っていいのだと判断する。

 葵を隠すように動いてにらみつける攻撃。俺の存在に気づいた男子の眉がピクリと動く。

 ああいう連中がいるのだとわかってしまうと、葵と瞳子をこんな場所から遠ざけたくなってくる。二人を一刻も早く男の視線から届かない場所までつれ出したくなる。

 

「お、おいっ。行こうぜ」

「あ、ああ。そ、そうだな」

 

 俺がにらみつける攻撃を続けていると、男どもが怯えた表情へと変わりどこかへと行ってしまった。

 俺のにらみつける攻撃が効いたのかと思ったが、逃げた奴らは俺とは目線が合っていなかったように見えた。後ろを向くと爽やかスマイルの本郷がいるだけだった。

 

「高木、そろそろ試合が始まるぜ」

「あ、ああ。そうだな」

 

 気のせい、ということにしておこう。

 

「ありがとうねトシくん。それと本郷くんも」

 

 葵が笑顔でお礼を口にする。さらりと「別に俺は何もやってないよ」と流す本郷のイケメンを見た。

 葵はああいった輩には慣れているといった反応だが、嫌なことには変わりないだろう。俺は静かに彼女に寄り添った。

 

 審判が笛を鳴らして整列するようにと促す。ついに女子バスケの決勝が始まる。

 

「瞳子ちゃんがんばって!」

 

 葵の応援に反応して瞳子の顔がこっちを向く。気負っていたらどうしようかと考えていたけれど、彼女の表情は思っていたよりもリラックスしたものだった。満面のとは言わないが、笑みを浮かべている。

 

「がんばれ瞳子!」

 

 俺も声援を送る。自分のクラスが相手でも関係ない。俺は瞳子を応援するのだという意思表示を伝えるつもりで声を張った。

 

「トシナリー! ちゃんとわたし達を応援して!」

「そうですよ! 幼馴染よりもクラスメートの応援してください!」

 

 クリスと望月さんが頬を膨らませて俺の応援に不満をぶつけてくる。見た目が欧米の美女であるクリスが頬を膨らませるとギャップがあってかわいいな。望月さんはまんまかわいい。

 美穂ちゃんがクリスと望月さんをなだめてくれた。同じクラスなだけに、瞳子へと声援を送りづらいな。

 試合時間は十分。ジャンプボールから試合は始まった。

 

「いいジャンプ力だ」

 

 本郷が唸るほどのクリスの跳躍力だった。ジャンプボールを制したのはクリス擁するA組だ。

 

「瞳子ちゃん速ーい」

 

 しかし、ボールを取ったのは瞳子だった。予測していたかのように飛んできたボールをキャッチすると、そのままレイアップで決めてしまう。

 

「みんな、中を固めるわよ!」

 

 瞳子の指示でF組女子は統率されたディフェンスを見せる。サッカーの時といい、F組は訓練でもされているのかね。それとも瞳子と本郷のカリスマが成せる業なのか。

 だが、A組女子も負けていない。

 クリスは女子の中で言えば体格も運動能力も頭一つ抜け出ている。美穂ちゃんがスポーツ優秀な女子というのは、小学生の頃から付き合いのある瞳子の頭にもあるだろう。この二人を同時に相手をするのは苦労するはずだ。

 

「確実に一本ずついきますよー!」

 

 それから望月さん。個性のあるメンバーをきっちりとまとめてチームという形を作っていた。チームとしてはA組男子よりもまとまりがあるように見える。

 司令塔として働く望月さん自身の運動能力も悪くない。上手く美穂ちゃんやクリスにパスを出して得点を重ねていく。

 瞳子の運動能力は誰もが認めるほどに高い。たぶんこのコート上なら一番かもしれない。

 だけど、押しているのは瞳子率いるF組ではなく、A組だった。

 

「チーム力の差が出ているこの状況……木之下には厳しいな」

「おい」

 

 本郷の呟きに思わず反応してしまう。けれど、言葉は続かなかった。

 

「あの金髪の外国人の存在が大きい。木之下以外じゃ相手にならない。かと言って赤城をフリーにするわけにはいかないからな。木之下一人で二人はマークできない。逆に、あの二人なら木之下一人に集中すれば止められる」

 

 本郷は冷静に分析していた。こいつはサッカーだけではなく、他のスポーツを見る目もあるのだ。

 それが事実だと証明するように、瞳子がドリブルで突破しようとするのをクリスが止め、その隙をついて美穂ちゃんがボールを奪っていた。

 

「あの外国人もすごいけど、やっぱり赤城も侮れないな」

「……」

 

 今度の本郷の言葉に対して、俺は何も返せなかった。

 確かに瞳子の能力は高い。だけど、本郷ほどに圧倒的なわけじゃない。

 差は徐々に広がっていく。四点差、六点差……。試合時間も刻々と過ぎていく。

 約束事とは関係なく、がんばっている瞳子に勝ってほしい。そんな想いから応援を口にしようと息を大きく吸い込んだ。

 

「大丈夫だよトシくん。瞳子ちゃんを信じてあげて」

 

 葵の言葉で、俺の応援の声は中断された。

 彼女を見ると、強い意思のある瞳で見つめ返された。信じている目だった。

 

「葵……」

「トシくんも知っているでしょ?」

 

 葵は満面の笑顔で、不安なんて一切感じさせない声色で言った。

 

「瞳子ちゃんはとっても素敵で、すごい女の子なんだから」

 

 そんな葵に見惚れていると、体育館に歓声が響き渡った。

 コートに目を戻せば、瞳子が見事シュートを決めたところだった。

 

「……そうだな。宮坂の言う通りだ」

 

 本郷がふっと笑って同意する。

 

「木之下って最初からすごい奴だと思っていたけどさ、そういうわけでもないんだよな」

「どういう意味だ?」

 

 なぜだか本郷の笑みは自嘲気味に見えた。

 

「木之下ってさ、案外高木、お前に似ているんだ。だから、俺は敵わないんだよ」

 

 本当にどういう意味なのか。瞳子が俺に似ているだなんて、それは違うんじゃないかって反射的に思ってしまう。

 

「……かもね」

 

 しかし葵は本郷の言葉に頷いていた。ころころと笑い声を漏らしている。

 なんだか葵と本郷が通じ合っているようで心穏やかにはいられない。でも、今は瞳子がこの試合に勝とうとがんばっているのだ。俺にやれることは決まっていた。

 腹の底から精いっぱいの声を発する。彼女の力になれ、その想いだけを込めた。

 体育館の喧騒に埋もれてしまったかもしれない。けれど、瞳子の表情がほころんだ気がした。

 瞳子につられてなのか、F組のメンバーの士気が上がっている。彼女をサポートしようとチーム一丸でまとまっているのが見ているだけでわかる。

 

「なんか応援したくなる。木之下ってそういう奴だよ」

 

 本郷は微笑んでいる。こんなにも優しい顔ができる男だったんだな、なんて意外に思ったりはしなかった。

 A組女子も負けまいとプレーしている。瞳子が相手じゃなければ手放しで応援したいほどのがんばりだ。

 瞳子は立ちはだかるクリスをかわし、隙をついてボールを奪おうとする美穂ちゃんをかいくぐり、フォローに回った望月さんをものともせずにシュートを決めた。

 

「すごい! 瞳子ちゃんすごいよ!!」

 

 これには運動音痴の葵も手を叩いての大絶賛である。

 点差はみるみる縮んでいく。他のF組女子の面々も活躍を見せるから、瞳子一人にマークを集中できないようだ。

 瞳子はイキイキとプレーしている。クラスメートと楽しそうにバスケをしていた。その光景はなんだか妙に安心させられる。

 瞳子を中心とした輪が広がっている。俺の知らない子達と上手くやれているのだと、プレーからだけでも見て取れた。

 

「……」

 

 なんだろう、この気持ち。瞳子が俺の手から離れていくような、嬉しいけれど寂しく感じてしまう。これではまるで俺が瞳子を子供扱いしているようではないか。

 

「いけー!!やっちゃえ瞳子ちゃん!!」

「決めちまえ木之下!!」

 

 試合の残り時間はあと数秒。はっとした時には同点になっており、瞳子がシュートを打つ場面だった。

 クリスと美穂ちゃんが必死に止めようとするけど間に合わない。綺麗な曲線を描いてボールはゴールネットを揺らした。

 その瞬間、試合終了のブザーが鳴った。劇的な勝利を収めたF組女子は抱き合って喜びを爆発させていた。観衆から降り注がれる拍手の中心にいるのは瞳子だった。

 主役となっている瞳子と目が合う。しばし見つめ合った後、彼女は渾身のどや顔をするのであった。

 彼女らしからぬ表情に、なぜという部分を知っている俺はちょっとだけこそばゆい。少し照れてしまっていると、強い力で背中を叩かれた。痛みで強制的に背筋が伸ばされる。

 

「がんばれよ」

 

 満面の笑顔の本郷だった。え? なんで俺が応援されてんの?

 一発では飽き足らず、二発三発と叩かれる。痛い痛い! 力の調節がなってないぞ。

 ひとしきり叩き終えた本郷は満足したのか爽やかに笑いながら去って行った。叩かれ損かよ。

 

「ったく……、わかってるよ。お前の気持ちには負けられないからな」

 

 親友の活に、俺はそっぽを向いた。その先で葵が優しげに笑っていた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 今回の球技大会。結果で言えば一年A組は見事に一年F組に負けてしまったわけだ。

 瞳子が勝ったのは嬉しいこととはいえ、やはり自分が負けてしまったことについては悔しかった。チクショー!

 いつも通り葵と瞳子と三人で帰路に就く。瞳子の家に辿り着いたところで葵が小走りで前へと出た。

 

「じゃあトシくん、私は先に帰るね」

「え? 家まで送るよ」

「何言ってるの。今日は瞳子ちゃんが主役なんだから。ちゃんと優しくしてあげて、ね?」

 

 そう言って葵は瞳子に目線を向けて頷く。俺からは瞳子の顔が見えなかった。

 葵は二歩三歩と進んでから振り向いた。

 そして、自分の唇に指を這わせて言うのだ。

 

「……明日からは私も、だからね」

 

 背を向けた葵の黒髪がふわりと舞う。まったく、高校生とは思えないほど色気のある表情をしてくれるものだ。

 葵の背中が見えなくなり、制服の裾が引っ張られる。弱い力なのに抗えなかった。

 夕焼けの中で瞳子と二人きり。心臓の鼓動を抑えることなんてできなかった。

 

「……俊成」

 

 俺は体を瞳子の方に向ける。彼女はうつむいており、恥じらっているのが伝わってくる。

 

「……あたし、勝ったわ」

「うん、見てた。すごかったね」

「……約束、覚えているわよね?」

「……うん」

 

 キスの回数が一日一回から二回になる。ささやかな約束事。それなのに胸のドキドキがどうしようもなく強くなってしまう。

 我ながらもう少しくらい余裕を持てればいいのに。経験がないだなんて、初めてのことばかりだというのは言い訳にならない。こんな俺だけれど、彼氏なんだから。

 

「瞳子の部屋に行ってもいい? その……、約束、守りたいから」

「は、はい……」

 

 俺は瞳子と手を繋いで家へと上がった。

 約束とかじゃなくて、俺が勇気を出して一歩を踏み出せるように。いつまでも二人に甘えてばかりはいられない。

 俺よりも小さな手を握りながら、いつまで経ってもドキドキが止まらない中で念じる。願うばかりではいけないけれど、強い一歩を踏み出すために想いの力は必要だ。

 

 



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108.今日はパンの日【挿絵あり】

 六月は衣替えの季節でもある。あたしは新品の制服に袖を通していた。

 梅雨入り前のわりと快適な気候。雲が少なく青空がこれでもかと顔を出しているというのに、あたし達がすることといえば教室内での雑談だった。

 

「あーもうっ! もう少しで球技大会で優勝できたのにー」

「ルーカス、まだ言ってるの。もうとっくに結果が出たこと。それに準優勝だって立派だと思うよ」

「でも本当に惜しかったですよね。あんなに競った試合なんてそうないですよ」

 

 話題はこの間行われた球技大会のことだった。準優勝は良い結果でもあれば、悪い結果と捉えることもできる。なかなかに振り返りやすい結果を残してしまったものだ。

 

 高校に入ってからはルーカスと望月といっしょにいることが多い。最初は二人とも初対面だし、性格的にも合わないだろうと思っていたのに、気づけばいつものメンバー扱いされるようになっていた。

 夏服となったルーカスはポニーテールがよく似合っていた。スタイルの良さも相まってモデルのような立ち姿だ。

 望月も夏服になって人懐っこい明るさが増したように見える。背は低めなくせして、それなりなものを持っている……。

 女の度胸は形に現れるものじゃない。そう心の中で結論づけた。

 

「ミホ? ぼーっとしてどうしたの?」

「なんでもない。未だにぐちぐち文句言ってるルーカスが小さい女って思っただけ」

「まあ。わたしは平均よりも大きいわ」

「なんかツッコミづらいですねー」

 

 おっと、咄嗟だったから変なことを口にしてしまった。反省しよう。

 ルーカスは無邪気に笑っている。そんな表情でさえ綺麗だ。本当に純真無垢なのではないかと思えるほどに。

 チラリと高木を見る。彼は佐藤と下柳の二人と何やら会話しているようだ。無邪気に笑っていたりなんかしている。もちろん綺麗だとは思わなかった。

 

「それにしたってトシナリがトウコの応援をするだなんてひどいわ。わたし達クラスメートなのよ。ミホとリナは悔しくないの?」

「幼馴染なんだから仕方がないですよ。それに、あれだけ熱い声援を送るだなんて……もしかしたら将来恋人になってしまうかもしれませんよ!」

 

 もうなってる。黄色い声を上げて盛り上がる望月は普通の女の子に見えた。

 ルーカスはどんな反応をするのかとうかがってみれば、彼女はニコニコと笑っており、いつも通りの調子に見えた。

 ……恋人という単語に、何か思うことはないのだろうか。

 はっとした時には嫌悪感に襲われていた。ルーカスが負の感情を見せるのではという期待感。そんなものを抱いていた自分に気づいて嫌になる。

 高木を見る。何度目かわからなくなるほどの問いかけを自分に投げつける。

 なんであたしは高木を好きになってしまったのだろうか。そんなわかりきった答えを探してしまう。そんな無意味なことをどれだけ繰り返したのかわからなくなっていた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 昼休みになってあたしは席を立った。

 

「あれ? 美穂さんお弁当はどうしたんですか?」

「忘れちゃった。今日は購買でパンでも買ってくるよ」

 

 今朝はうっかり寝過ごしてしまった。無駄遣いになるからあまり学校の購買は利用するつもりがなかったのに。

 

「一人で大丈夫? ついて行こうか?」

 

 そう気遣いを見せるのは高木だった。言葉通りの気持ちがあるのだと感じ取ってしまう。

 

「問題ない。みんなは先に食べてて」

 

 あたしは子供か。高木の心配があたしをイラつかせる。

 教室を出て購買まで辿り着く頃にはイライラした気持ちが収まってきた。というかそれどころじゃなくなった。

 

「うおおおおっ!! 焼きそばパン! 焼きそばパンは俺のもんだぁぁぁぁぁぁーーっ!!」

「押すんじゃねえよ! いってぇ! オイ! 誰だよ俺の足踏んだ奴!!」

「今こそ相撲部で鍛えた力を開放する時……、どすこーい!!」

「「「うわあああああああああああーーっ!?」」」

 

 目の前に広がる光景に固まってしまう。

 購買は男子の戦場だった。ここにいるのはパンを求めて獣と化した者だけのようだ。あたしから見ればただの地獄絵図。

 あたし以外に女子の姿はない。まさかこんなことになっているとは……。これなら食堂を利用するのが正解だったかもしれない。

 どうしようか……。男子達の戦場を眺めながら迷っていると、肩にぽん、と手を置かれた。

 

「えい」

「どわっ!? あ、危ねえな」

 

 無断で肩に触れてきた相手に裏拳を放つ。惜しくもかわされてしまった。

 

「なんだ、本郷か」

 

 あたしの攻撃をかわした相手は見知った人物だった。高身長でなかったら当てられていたものを。本郷との身長差を恨めしく思う。

 

「いや、今のは絶対に俺だってわかっててやっただろ」

「……」

「無言は肯定ってことなんだよな」

 

 舌打ちが漏れる。本郷は苦笑いしていた。

 わかっていましたとも。男子の中で軽々しくあたしに触れてくる人物なんて限られているのだから。その辺高木は女子へのボディタッチはあまりない。……あの二人以外は、だけど。

 

「赤城が珍しくそんなところでぼーっと突っ立ってるからさ。もしかして購買でパンでも買いたいのか?」

「ここにいる理由って他にある?」

「なんでそんなに態度でかいんだか。まあいいや。ついでだし買ってきてやろうか?」

 

 本郷がニカッと笑う。女子から好かれそうな笑顔ができるようになったものだと感心させられる。あたしには関係ないけど。

 

「じゃあ頼んだ」

「はいよ」

 

 本郷は軽い調子で戦場へと赴いた。

 頼んどいてなんだけど、線の細そうな本郷で大丈夫なのだろうか。いくらサッカーが上手くてもこの密集地帯を突破するのは難しいように思えた。

 

「赤城ー。買ってきたぞ」

「速っ」

 

 本郷は笑いながら戻ってきた。その手には確かにパンがいくつかあった。

 

「本郷。あたしはあなたのことを見くびっていたのかもしれない。本郷はすごい人」

「パン買っただけで大げさだな。で、どれにする? 何がほしいか聞いてなかったからテキトーに買ってきた」

 

 ふむ。焼きそばパンにコロッケパン。アンパンやメロンパンなどいろいろな種類がある。よくこんなに買えたもんだと彼をもっと称賛してあげたくなる。

 

「じゃあ焼きそばパンとメロンパンで。はい、お金」

 

 財布から小銭を取り出して本郷に渡そうとしたけれど、なぜか受け取ろうとしない。

 

「いいよ。俺のおごりだ」

「……何か企んでる?」

「なんでだよ! ……いやまあ、あれだ。おごってやる代わりに昼飯いっしょに食わないか?」

 

 彼らしからぬおずおずとした誘いに首をかしげる。

 

「もしかして本郷……いっしょにご飯食べる友達がいないの?」

「変な心配してんじゃねえよ。ちゃんといるから安心しろ」

 

 まあ知ってたけど。本郷ならたとえ男子の友達がいなかったとしても女子をはべらせることだってできるだろうしね。

 まあいいや。いっしょに昼食をとるだけでおごってもらえるのならラッキーだ。そう考えることにした。

 

「いいよ。その代わりもう一個パンちょうだい」

「おごりってなったら遠慮ないな。別にいいけどさ」

 

 本郷は苦笑しながらあたしにパンを献上する。仕方ない。受けた恩くらいは返そうか。

 そうやって、彼よりも立場を上にしようとする浅はかな自分に気づかないフリをした。

 

 




チャーコさんが『元おっさんの幼馴染育成計画』にぜひファンアート二枚目を贈りたいと、まるぶち銀河さんに依頼して描いていただきました。一年A組三人の夏服バージョンです。


【挿絵表示】


今回文字数減らしたので次回も美穂ちゃんのターンです(無表情)


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109.もぐもぐタイム

 本郷が案内するままついて行くと、屋上で二人きりになっていた。とくに深い意味はない。

 外はさえぎるものもなく日差しが降り注いでいる。少し強めの風がスカートを揺らした。夏服を着たばかりというのもあってか心地良いくらいの気候だ。

 

「そういえば、屋上は初めて来たかも」

「そうなのか? なんか意外だな」

「意外って言われる方が意外なんだけど。本郷はあたしのことどんな風に思っているんだか」

 

 本当にどう思われているのだろうか? 本郷とは互いの認識について話し合った覚えがない。ある程度予想はできるだけで、実際に話すことといえば他愛のないことばかりだった気がする。

 思ったよりも広い屋上の周りはフェンスで囲まれている。本郷はぽつぽつと並べられているベンチへと歩み寄った。

 

「赤城、こっち来いよ」

 

 ベンチにハンカチを敷きながら手招きされる。当たり前のようにしている行動にあたしは密かに面食らっていた。

 

「ん? どうした?」

 

 意識に空白ができるくらいには驚いていたらしい。あたしは固まってしまっていたことなんてなかったかのようにベンチに敷かれたハンカチの上へと腰を下ろした。

 

「まさか本郷がハンカチを敷いてくれる思いやりがあったなんてね」

「ああ、高木がやってるのを見たことがあるからさ」

 

 納得。こんなのを素でやってたら多くの女子を泣かせてしまう結果になっていたと思う。

 早速あたしは焼きそばパンの封を切った。

 

「いただきます」

 

 食べ物に感謝。それからおごってくれた本郷にも感謝を。またおごってもらえますように。

 本郷もあたしに続くようにパンへとかぶりついた。その食べっぷりはさすがは男の子と言いたくなるほどの豪快さがあった。

 

「この間の球技大会は惜しかったな」

「それは嫌味ですか? F組の本郷くん」

 

 A組のあたしからすれば惜しい結果だけど、優勝した側のクラスである本郷に言われるとただの嫌味でしかない。どうせ負けましたとも。

 

「……木之下が活躍できてよかったね」

 

 なので嫌味を返してやった。

 

「まあな。おかげで男女揃ってでの優勝だぜ」

 

 なのに、本郷は明るく笑うだけだった。

 いや、本郷に読み取れという方が酷だったか。まあサッカーバカだから仕方がないか。そのサッカーの実力はとんでもないけどね。

 無言でパンを食べる。本郷はたくさんパンを買ったようで、がつがつという表現が当てはまるほどの食べっぷりを見せていた。

 あたしが焼きそばパンを食べ終わり、メロンパンを手に取ったタイミングで本郷が口を開いた。

 

「高校では誰かと付き合ったりしないのか?」

 

 唐突……というわけでもないか。

 あたしは隣の本郷に目を向ける。本郷はこっちを向かずにもぐもぐとパンを咀嚼していて、本当に興味があるのかどうか判断できない。

 

 中学時代のあたしはたくさんの男子と付き合った。そのことについて小学生の頃からあたしを知っている人達からは驚かれていたと思う。

 早々に宮坂と木之下が高木と恋人関係になっていることが広まったのもあって、二人への告白ラッシュはすぐに収まった。二人の態度からどうにもならないと諦めた男子は多かったろう。

 それであたしの方に告白してくるというのはヤケにでもなったのかと思ったほどだ。別に心配はしなかったけれど、恋人になるということはどういうことなのかと気になっていたあたしにはただのカモでしかなかった。

 結果を言えばよくわからなかった。相手が悪いのかと他の人と付き合ってみてもしっくりこない。そんなことを繰り返しているうちに、付き合った回数は二桁に到達していた。

 それでも数をこなしただけあって学んだことはある。

 それは手間と時間を取られるということ。なんとも思わない相手に捧げるものとしては貴重すぎた。正直、同じことを繰り返すのはちょっとためらってしまう。

 

「さあ。むしろ本郷はどうなの? もう告白くらいされてるでしょ?」

「んー、まあ赤城よりは少ないとは思うけど……告白されたことはあるよ」

 

 本郷は思い返すように空を仰いだ。顔が良くてサッカーの実力は全国レベル。これでモテないわけがない。

 

「でも、今は誰かと付き合う気はないかな」

「相手が木之下だったとしても?」

 

 間髪入れずに意地悪なことを口にした。事実、本郷はあたしに恨みがましい目を向けている。

 

「普通、わかっててそういうこと言うか?」

「ごめん。意地悪言った」

 

 素直に頭を下げる。あたしと本郷は互いの認識を擦り合わせたわけではないけど、互いに片思いしている者同士だと理解し合っていた。

 ……だからこそ、あたしはいつしか浮かべるようになった彼の未練を感じさせない表情に気づいていた。気になっていた。

 どうしてそんな顔ができるのだろうか? やせ我慢なんかじゃなくて、本当に心の底から認めている。それがわかってしまうほどの明るい表情なのだ。

 

「もし木之下に告白されたら正気を疑うさ。高木と何かあってヤケになったんじゃないかってな。それに、俺が好きな木之下はあの関係からできたもんだろ」

 

 あの関係。あの特別な関係を思い返し、チクりと胸に痛みが走る。

 

「つーか、今はサッカーが一番だしな。こんなにサッカーが好きになれたのも高木や木之下ってライバルのおかげだと思ってる。あいつらと競ったからこそ今の俺があると思ってる」

 

 本郷は拳を握る。それはとても力強く見えた。

 

「まっ、俺の初恋なんてどうでもいいんだよ」

「初恋って断言しちゃうんだね」

「そりゃあ俺の大事な思い出だからな。これ話すの赤城だけだぞ。けっこう恥ずかしいんだからな」

 

 端正な顔が朱に染まっている。その正直さがまぶしく映る。

 本郷は恥ずかしさを誤魔化すように大きく口を開けてパンを頬張った。

 

「……未だに引きずっているあたしはどうしようもないね」

 

 そんなところを見せられたからだろう。正直な想いが零れていた。

 

「ほんはほほへーはほ」

「しゃべるなら飲み込んでからにして」

 

 ごっくんと嚥下する音が聞こえた。

 

「そんなことねえだろ」

 

 言い直した本郷の表情は女子から黄色い声が上がりそうなほど引き締まっているけど、残念ながらさっきので台無しだ。

 

「いつかは自分の気持ちに決着はつけなきゃいけないんだろうけど、それを決めるのは赤城自身だろ。俺がふっ切れたからって合わせるもんでもない」

「……普通は諦めろとか言わない? これってただの横恋慕だよ」

 

 実際にあたしの気持ちに感づいている人はそう思っているに違いなかった。

 心が選べたらどんなによかっただろう。自由に選べたらまた別の人を好きになるだけでよかったのに。

 自分でも強い眼差しになっているのがわかる。それを正面から受けた本郷はこてんと首をかしげた。

 

「……ヨコレンボってなんだ?」

「……」

 

 ここで頭の悪さを見せつけなくてもいいのに……。わざとやってんのかな。

 

「もう付き合っている人がいるのに行動を起こすべきじゃない。それが友達ならなおさら。もしも関係が壊れたらって思わないの?」

「そこは上手くやればいいだけだろ」

 

 あっけらかんと本郷は言った。あまりにもあっさりとしたものだから自分の耳を疑ってしまった。

 でも、彼の言いたいことがわからないほど浅い付き合いではなかった。

 

「本郷っていい加減な奴」

「知らなかったのか? 俺ってデリカシーが欠けてるって言われたことがあるんだぜ」

 

 それは胸を張って言うことじゃない。……って言っても無駄か。

 あたしは残っていたパンを一気に頬張った。「小動物みたいだな」という言葉は聞こえないことにしてひたすらもぐもぐと口を動かす。

 ようやく飲み込んだ。よく考えたら飲み物がない。なんでもいいから今すぐ飲み物がほしかった。

 

「わざわざこんなことを話すために昼食に誘ったの?」

「まさか。そもそも今日赤城に会ったのは偶然だったからな。でもまあ、タイミングがいいとは思ったよ」

「タイミング?」

 

 本郷はパンの袋をひとまとめにして片付ける。気が付けば彼も食べ終わっていたようた。

「この間の球技大会。赤城がいつも通りのプレーをしていたら勝っていたと思うぜ」

「は?」

 

 本郷は勢いよく立ち上がる。風が彼の髪を爽やかに揺らした。

 

「この俺からボールを奪ったことのある奴がいつまでもふぬけてるってのはなんか嫌なんだよ。言いたかったのはそれだけだ」

「ボール? え、なんのこと?」

 

 なんのことを言っているのかわからなくて戸惑ってしまう。何度聞いても本郷は「覚えてないならそれでいい」と言って教えてはくれなかった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「あっ、美穂さんどこ行ってたんですか。探しましたよー」

 

 教室へと戻る途中で望月とばったり会った。どうやらあたしのことを探してくれていたらしい。

 そういえばみんなには何も言わずに本郷と昼食を共にしたのだった。購買に行ったまま教室に戻らないものだから心配をかけてしまったようだ。

 

「美穂さんがなかなか戻ってこないから何かあったんじゃないかと思って、みんなと手分けして探していたところですよ」

 

 ……本当に心配をかけてしまったようだった。

 

「ごめんな。俺が赤城を無理やり誘ったんだ」

「えっ!? ほ、本郷くん!?」

 

 あたしのフォローに回る本郷に、望月は飛び上がりそうなほど驚いていた。

 同じく教室へと戻るため、あたしと本郷はいっしょにいたのだった。望月は声をかけられるまで気づかなかったみたいだけどね。

 

「え、えっと……。えとえとっ」

 

 あ、望月がパニックになってる。もしかして、本郷の容姿にやられちゃってるのかな。女子は本郷に接近されるだけで舞い上がっちゃう子が多いから。

 白い歯を光らせる本郷と顔を赤くしている望月を見て思う。

 ……面白そう。

 と、いけないいけない。他人の色恋に興味を抱く余裕はあたしにはないはず。まったく、初心な反応を見せる望月が悪い。

 あたしの内心に気づいたのではないだろうが、望月と目が合った。その目は忙しなくあたしと本郷の顔を行き来する。

 そして、その動きがはたと止まった。

 

「も、もしかして二人は付き合っているのですか?」

「「それはない」」

 

 あたしと本郷の声が重なった。この時ばかりは心が一つになった。

 

「俺達はただの友達だ。なあ赤城」

「な」

 

 本郷がモテるのは認めるけれど、だからってあたしも好きになっていると思われるのは心外だ。なんかやだ。

 

「へ、へえ。そ、そうなんですか」

 

 望月は緊張しているのか返事がぎこちない。こういう反応は本郷を前にした女子にはありがちである。

 まあ中身はわりとバカなのだが。でも、だからこそデリカシーのない話題ができるのかもしれなかった。

 ほんのちょっぴり本郷への認識を改めた。本日はそんな昼休みだった。

 

 



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110.中学時代を振り返る(赤城美穂の場合)【挿絵あり】

まだ美穂ちゃんのターン!


「あのさー……。赤城さん、俺と付き合ってくんね?」

 

 あたしが初めて異性から告白されたのは中学二年の春だった。

 なんだかんだで初めては記憶に残りやすいようで、最初に告白されたことはよく覚えている。

 

 体育館の裏に呼び出されて行ってみれば、一人の男子がいた。まさかタイマンを張れとでも言われるのかと身構えていると、飛んできたのは冒頭のセリフである。

 その男子は自分の格好を気にした風でありながら、勇気を振り絞っているのがわかるほどに顔を赤くしていた。

 

「……」

 

 最初に抱いた感想としては何が起こったのかわからないというものだった。そもそも感想にすらなっておらず、実際にどうしていいかわからなくなったあたしは黙りこくってしまった。

 男子はあたしの返事があるまでこの場を離れるつもりがないのか、しきりに髪を触ったり、学ランの襟を微調整しながら返事を待っていた。

 彼のそんな仕草を眺めているうちに、ゆっくりとだけど状況を把握できるようになった。ここでようやく自分が異性からの告白を受けたのだと実感として現れたのだ。

 

「わかった。いいよ」

 

 淡白な了承。こんなので悪いとは思ったけれど、目の前の男子は大喜びしてくれた。

 これが初めてあたしに恋人ができた瞬間だった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「うーん……」

 

 あたしは自分の所持している服を前にして唸っていた。

 恋人としてやることといえばデートである。そのくらいは知識として頭にあった。

 

「うーん……」

 

 何度唸ったところで並べられた服が変わることなんてあるはずもなく、ここにきてようやく自分自身のおしゃれに対する関心のなさに頭を悩ませるはめになった。

 今まで服はほとんどおばあちゃんが選んで買ってくれたものばかり。それに文句はなかったし、むしろ楽とすら思っていた。

 でも、こうして改めて並べてみれば地味な色合いのものばかりだった。外出、それもデートに出かけるのを考えれば少しためらってしまう。

 人の目を意識すると服装一つにも自然と気を遣うようになるのか。なるほどなるほど。新しい発見だ。

 

「美穂? 何をしているんだい?」

「おばあちゃん」

 

 声に振り返れば部屋の前でおばあちゃんが不思議そうな目を向けていた。

 こんなところを見られてしまってちょっと恥ずかしい。羞恥心から顔に熱が集まってくる。視線を逸らせるフリをして赤くなったであろう顔を見られないようにした。

 

「明日出かけるから何を着て行こうかって考えてた」

「あらまあ。もしかしてデートかい?」

「……うん」

 

 恥ずかしさがあったけれど、嘘をつく必要もないので頷く。おばあちゃんは口に手を当てて驚きを露わにした。

 

「そうかいそうかい。美穂も年頃だもんねえ」

 

 それからおばあちゃんの顔に浮かんだのは喜びだった。あたしに恋人ができたと喜んでいてくれている。

 

「だったらお金をあげなきゃねえ。これで明日楽しんでおいで」

「え、いいよ。別に遠出しないし」

「いいからいいから。おばあちゃんは美穂に恋人ができて嬉しいんだから。その気持ちくらい受け取っておくれ」

 

 そう言っておばあちゃんは千円札三枚をあたしに手渡してきた。

 恋人になったとは言っても、お試しという気持ちが強い。そんな気持ちでもらってしまった千円札三枚が重たいもののように感じてしまった。

 だというのに、おばあちゃんはとても嬉しそうで。あたしは何も言えなくなっていた。

 これ以降、あたしがおばあちゃんに自分の交際関係について口にすることはなくなった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 結論から言えば、初めての彼氏との交際期間は一か月ほどしかなかった。

 最初は好きでもないのに付き合ってしまった申し訳なさからがんばって恋人をやっていた。誘われればデートに行ったし、お弁当を作って「おいしい」と喜んでくれた時には確かな嬉しさがあった。

 でも、相手もあたしのことを大して好きじゃなかったと知った時に罪悪感なんてものは吹き飛んでしまった。

 彼氏が高木に向ける目。それは宮坂や木之下といっしょにいる場面でより厳しくなっていた。

 彼氏は前に宮坂に告白してフラれたらしい。なぜフラれたかを知って、高木に対して敵対心を抱くようになったようだった。

 あたしを友達に紹介して自慢げにしているのも、高木への敵対心からくるもの。まるでどっちのアクセサリーが高価なのかと競おうとする姿は、あたしを冷めさせるのに十分だった。

 

「あ、赤城さん……。お、俺と付き合ってください!」

「わかった。いいよ」

 

 初めての彼氏と別れてから、そう間を置かずに二人目の彼氏ができた。

 共通するのはあまり親しくもない男子だったということ。それはこれから付き合ってくる人達とも共通している部分である。

 もともと好きではなかったとはいえ、別れたばかりの女子に告白なんてするものなのだろうか。普通はどうなのか知らないけれど、この時点であたしの感情はマイナスではあった。

 それでも、断ろうとも思わなかった。男子に対して罪悪感なんてなくなってしまったあたしにとっては恋人というものを知る良い機会ではあったから。

 だって、宮坂と木之下の顔を見ていると、どうしても羨ましくなってしまうのだ。

 幸せでかけがえがなくて……。あんなに満たされているような表情を見せられると羨ましくて仕方がなくなる。

 あたしだって。そう思いつつ、手探りを繰り返す日々を過ごした。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 つまらない。それが十人目の彼氏を振った時の感想だった。

 結局、一番長続きしたのは最初の男子だった。それ以外での最長は二週間。それもなんとか引き延ばしてやっとだったのだ。短い人なんて一日も持たなかった。告白に頷いたとはいえ、いきなりキスを求めてくるのは意味がわからなかった。

 付き合った人数も両手の指で数えられなくなってから、数えるのはやめた。告白を断らないことが広まったのだろう。別れた先から早い者勝ちだと言わんばかりに告白されるようになっていた。

 

 ただ、それだけの人数と付き合っておきながらキスをしたいと思う人はいなかった。なので交際した人数のわりにキスはしていない。

 その代わり手を繋いだ。告白を受けて早々キスを求めてきた男子以外となら全員と手を繋いできた。

 手が冷たい人もいれば、びっくりするくらい大きい手をした人もいて、こんなところでも人は特徴を持っているのかというのを知った。

 そんな経験を重ねても、胸がドキドキする人は現れなかった。むしろ高木と手を繋いだことを思い出してしまうだなんて我ながらどうしようもない。

 

「また美穂ちゃんがトップか。すごいね」

「もう高木には負けない」

「ははっ。オール満点だもんな。美穂ちゃんがミスでもしてくれないと勝てないって」

 

 あたしにとっては誰かと付き合うことよりも、勉強に取り組む方が楽しかった。

 何より高木に勝てるようになってから楽しさが増していったように思う。気にしてない風を装いながらも陰で悔しがっている高木を想像するとより一層勉強に身が入ったほどだ。

 

「トシくーん。テストの結果どうだった?」

「ふふん。またあたしの方が上かしらね」

 

 宮坂と木之下の声に顔を向ける高木。いつもの三人の輪が出来上がる。

 

「……」

 

 高木はどうして二人を恋人にしてしまったのだろう……。

 どちらか一人だったならこんなに思い悩むことはなかったのだろうか? わからない。だって、そんな答えはなかったのだから。

 恋人になるのは一人だと思っていた。どちらかがなるものだと思っていた。それはあたしの勘違いだったらしい。

 二人でもよかった。複数いてもよかったのなら、なんであたしはあの中に入れなかったのだろう? そんなことを自問自答し続けている。

 沈殿している感情に目を向けないまま、あたしのつまらなくも忘れられない日々は過ぎていくのだ。

 

 




素浪臼さんからカスタムキャストで作成したイラストをいただきました!


【挿絵表示】


今回の話を考えると、ね(胸のざわつき)
素敵なイラストを本当にありがとうございました!


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111.生徒会執行部は活動している

 生徒会執行部。俺は生徒会長としてそのトップに君臨している。

 学校行事があれば協力を義務づけられるし、定期的な会議があったり、来客に対応しなければならなかったりと仕事は多い。見た目よりも大変な役職である。そのわりに生徒会室は校舎の端に位置しているし、部屋自体そこまで広くもない。

 

「会長ー。予算余ってるみたいだしお菓子買いましょうよ。円滑に仕事を進めるためにも必要経費だと思うんです」

「却下だ」

 

 提案とも呼べないものを一言でばっさりと切った。生徒会室にブーイングが響くが無視させてもらう。

 ある程度気を緩めることが必要なのは否定しないが、そんなことをしていると知られれば生徒側からも非難されかねない。生徒会役員としてわかっているのだろうか? ……わかってるから俺に言ってきたんだろうな。

 

 生徒会執行部は生徒会長である俺、野沢拓海を始めとした十名ほどの人数で組織されている。体育祭や文化祭などでは役員を募ることもあるが、基本的には今いる生徒達で仕事を回していた。

 とはいえ、俺も三年生だ。もう六月に入ったこともあり、次期会長を考えたいところではある。

 候補としては先ほど俺に話しかけてきた女子生徒。現在書記をやってもらっている垣内(かきうち)明日香(あすか)だ。

 二年の垣内は書記として生徒会の仕事をこなしてきたという実績もあるが、明るい性格や人前でも物怖じしないところが会長向きといえるだろう。素直に人を頼れるし、集団相手でも和ませるものを持っている。正直、俺よりも良い生徒会長になれそうだと思う。

 

「それにしても次期生徒会長は大変ですよね。野沢先輩の後だなんてプレッシャーばっかりで私なら押し潰されちゃいそう」

 

 ……こんなことをしょっちゅう言わなければもう少し推薦しやすくなるのだが。

 別に俺がわざわざ推薦する必要はない。ただ、早めに愁いをなくした方が受験に集中しやすくなると思うだけだ。

 

「そうそう、今年の新入生は粒揃いらしいですよ。この間の球技大会なんて男女ともにすごかったんですから」

 

 新入生との単語でふっと浮かび上がる面々を首を振って打ち消した。

 しかし、他の生徒会メンバーも興味があるらしく、球技大会の話で盛り上がってしまう。

 

「男子はなんと言っても本郷永人だろ。俺ずっとサッカー見てたけど、あいつの動きは高校生レベルじゃないって。中学で全国MVPに選ばれたって話も聞いたしな」

「そうそう! かっこ良いよね! イケメンだし!」

 

 生徒会室が一気に騒がしくなる。今日やるべきことは終わっているから別に構わないが、あまり入りたくない話題だ。

 

「本郷くんが生徒会長だったら人気出るんじゃないですか?」

 

 俺に振るな垣内。興味ないポーズをとっていると話は次へと進む。

 

「男子サッカーっていったら決勝戦がすごかったな。あの本郷のシュートを止めたキーパー。名前は……なんつったかな?」

「確か高木とか呼ばれていたか。あんまり目立ちそうな奴じゃなかったけど陰の実力者ってやつなのかも」

「案外そういう人が生徒会向きだったりしそうですよね」

「あいつだけは絶対にない」

 

 しまった。つい口に出してしまった。

 俺の厳しい口調に一瞬場が静まり返る。垣内がおずおずと手を挙げた。

 

「もしかして会長とお知り合いですか?」

「別に……。真面目に仕事をしそうにない奴だと思っただけだ」

 

 咄嗟に出たのは思ってもない言葉だった。おそらくあいつは自分の役割ともなれば真面目に取り組むだろう。

 それがわかっていながらも、俺が大人になれない部分が出てしまった。俺の表情を察したであろう垣内が咳払いをして空気を変えた。

 

「女子も目立つ子が多かったですよね。外国人さんもいましたし」

「確かに。金髪とか銀髪がいたもんな」

「しかも美少女ばっかり。あれだけの容姿だと嫉妬もしないわね」

 

 女子もまた一年が目立っていた。見た目だけなら確実に男子よりも目立っていただろう。

 女子で能力が高いといえば木之下と赤城か。おそらくこの高校でも二人の実力なら通用するはずだ。

 宮坂は……。運動に関しては活躍できるところを想像できない。まあ運動ができないくらい大きな問題にはならないがな。

 

「一年女子のかわいい子で固めるのなら選挙は楽勝かもですね」

「それただの人気投票だから」

 

 室内に笑い声が広がる。

 ……一年だけで生徒会のメンバーを決めるとしたら、か。

 たとえば、あくまでたとえばだ。

 生徒会長には宮坂を据える。ああ見えて度胸があってカリスマもある。人気は絶対的な支持に繋がるだろう。

 副会長には木之下と本郷。フォロー役には適任な二人だ。男女の意見を上手くくみ取れるだろう。とくに影響力は男女関係なく絶大のはずだ。

 会計には佐藤だ。普段の性格では信じられないほどの頭の回転力を持っている。計算なら信頼できる。それでいて全体を見る役割も任せられる。

 書記には赤城か。この中では学力が一番であるし、黙々と仕事をこなしてくれる姿が容易に想像できる。生徒会の頭脳になってくれるかもしれない。

 広報には小川が適任だろうか。先輩後輩関係なく関係を築けるのは大きな武器だ。顔の広さを生かした活動をしてくれることだろう。

 庶務は……高木か。まあ力仕事は得意だろうからな。

 他の一年も合わせれば、生徒会執行部として問題なく活動できそうに思える。あくまでたとえばなのであり得ないメンバーなのだがな。

 

「次の生徒会長は一年の誰かになりそうですね」

「明日香ちゃんやりたくないだけでしょ」

 

 笑い声に包まれる。なんだかんだ言いつつも俺だけじゃなく他の生徒会メンバーも次期会長には垣内が適任だと思っているのだろう。それは本人含めてだ。

 

「でも野沢先輩は私とは別の人を推したいんじゃないですか?」

「俺がか? 誰のことを言っているんだ?」

「ほーら、佐藤くんでしたっけ? 同じ将棋部の一年生男子ですよ。ものすごくべた褒めしてたじゃないですか」

 

 佐藤か……。確かにもったいない才能だ。

 あいつは自分を凡人だと思っている節がある。周囲が目立っているせいもあるが、実にもったいない。本来なら周囲の連中に負けないくらいの才能の持ち主なのに。

 俺に勝ったからというわけではないが、佐藤の将棋の実力はプロでも十分に通用するはずだ。その思考力は怪物といっても大げさではない。どこまで先を見通しているのかと戦慄してしまったほどだ。

 冷静な判断力と視野の広さ。それを活かしている場面が周りの連中のフォローばかりというのが口惜しい。しかし、そのこと自体が将棋以外の分野でも優秀な人材になりえる証明でもあった。

 きっと友人関係を見直すだけでも佐藤の枷を外すことができるはずなのだ。付き合う連中が自らの評価を決めたり、未来に関わったりもする。これは大げさな表現ではない。

 人間関係を清算するのは悪いことではない。自らを陥れてしまう関係ならなくてもいい。誰かを傷つけてしまう奴ならなおさらだ。

 そう思うからこそ今の俺は生徒会長として、こいつらに支えられている。昔の後悔がなければ人の上に立とうだなんて考えもしなかっただろうな。

 

「俺が佐藤を褒めたのは将棋の話だ。生徒会とは関係ないだろう」

「そうですか? 野沢先輩にしては熱心だったからてっきり『俺の後を継げるのは佐藤だけだ!』とでも言うのかと思ってましたよ」

 

 おい待て。今のは俺の真似か? わざわざ声色を変えるんじゃない!

 それに、佐藤にはさっさと自分の実力を自覚してもらいたいのだ。俺が何度言っても冗談だと思ってやがる。さっさとプロにでもなんでもなってしまえ!

 

「じゃあ会長直々の推薦はないんですね」

「む……」

 

 そう言われると推薦をしてもいいかと思っている一年はいるにはいる。あくまで会長ではなく一役員ではあるが。本命は垣内。指名したいのは垣内といっしょに仕事ができる奴だ。

 耳に入れるのがこいつらならいいかと、口を開こうとした時である。生徒会室のドアがノックされた。

 垣内が「どうぞ」と声をかけるとドアが開かれた。

 

「失礼します」

 

 なんてことのないあいさつのはずなのに、生徒会室が一気に華やいだ。

 

「うわぁ……」

 

 垣内の口が阿呆のように開いている。他の役員も似たような反応だった。

 来訪者が一歩室内へと足を踏み入れる。そこで俺と目が合った。

 

「あっ、野沢くんだ。って生徒会長なんだからいて当たり前だよね」

 

 美しくはにかむのは宮坂葵だった。彼女のオーラの前では全校生徒のトップとして働いてきたはずの生徒会執行部でさえ飲まれてしまいそうになる。

 宮坂は初めて訪れる生徒会室でも緊張する仕草すら見せない。自然体で俺に近づいてくる。

 

「用件はなんだ?」

 

 眼鏡を押し上げながら尋ねる。俺まで動揺するわけにはいかない。

 

「えっとね、クラスのことで先生に頼まれごとされたんだけど―ー」

 

 宮坂の用件は言わば雑用であった。だからといって彼女は嫌な顔一つしない。責任感のある女子なのだ。

 

「ありがとう野沢くん。それじゃあ失礼しました」

「み、宮坂」

 

 用件を終えて退出しようとする宮坂を思わず呼び止めてしまった。何やっているんだ俺は……。

 

「ん? どうしたの?」

「いや……」

 

 生徒会室の壁にかけられたカレンダーに目が行ってしまう。今日は六月五日だった。

 

「……気をつけて帰れ」

「うん。ありがとうね野沢くん」

 

 彼女は改めて「失礼しました」とお辞儀をして退出した。ドアが閉められた瞬間、空気が弛緩する。

 結局、彼女に「おめでとう」と口にすることは一度もなかった。

 何もしないことは何も変わらないのと同義だと身に染みた。息を吐いて気持ちをリセットさせる。

 

「野沢先輩……」

 

 現実へと戻ってきたらしい垣内が俺に顔を向ける。彼女は口を真一文字に引き結んでいた。

 

「なんだ?」

 

 俺の返事から数秒後、彼女は再び口を開く。

 

「私……、胸の大きさならそれほど負けてませんよ」

 

 垣内以外の全員が噴いた。

 女子がなんてことを口走っているのか! 油断ならない後輩を導かなければと、俺は固く誓った。

 

 



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112.雨と電車と事件と

 梅雨の時期がやってきた。連日雨続きでじめじめする。

 しかし、毎日雨が降ろうが、学校だって毎日あるのだ。こういう時、もっと近くの高校に通えばよかっただなんて思ってしまう。

 

「最近雨ばっかりで嫌だよねー。髪も変な風になっちゃうし」

 

 朝。駅のホームに着くと、葵が髪型を意識しながらそんなことを言った。俺にはいつも通りの艶のある綺麗な黒髪にしか見えないけどね。

 

「そうよね。湿気が多くて嫌になっちゃうわ」

 

 瞳子も同意する。俺にはいつもと変わらない輝くように綺麗な銀髪にしか見えないけどな。

 

「俺も髪がうねちゃって嫌になるよ」

「トシくんはそんなに変わらないでしょ」

「俊成は短いんだから気にしなくてもいいでしょ」

 

 俺も同意見だと乗っかろうとしたら、二人にバッサリ切られた。確かに気にしてはなかったけどさ……、そんな風に言わなくてもいいじゃないかよ。

 葵と瞳子は互いの顔を見合わせてくすくすと笑う。たまに手を組んで俺をいじるのはやめていただきたい。

 

 それにしても、今日は朝から雨が強い。傘をさしてきたというのに、ちょっと濡れてしまった。

 

「ん? 葵、何しているんだ?」

「トシくんさっき濡れちゃったよね。拭いてあげる」

 

 葵がハンカチで俺の制服をぽんぽんと叩くように拭いてくれる。

 さっき、駅へと向かう途中で車が水たまりを跳ねたのがかかってしまったのだ。まあそんなに大したものでもなかったけどね。

 

「気にしなくてもいいって。俺よりも自分のことを気にしなよ」

「何言っているのよ。俊成があたし達をかばってくれたからこっちはそんなに濡れてないの。大人しく拭かれてなさい」

 

 瞳子も俺にハンカチを当ててくる。ハンカチからふわりと良いにおいがした。

 二人の美少女に体を拭かれている。なんてことをされていたら目立つのは当然で、周囲からの目が気になってくる。とくに男子学生やサラリーマンの方々からは殺意を抱いているようにしか感じられない。

 

「大丈夫だって。俺もハンカチ持ってるんだからさ。二人は自分の方を気にして、ね?」

 

 そう。本当に気にしてほしい。

 今はただでさえ夏服という薄着なのだ。葵も瞳子もスタイルが良いんだから、服が濡れて張りつきでもすればけっこう扇情的なことになってしまう。そんな姿を他の男なんかに見せるのは嫌だ。

 幸い、二人の制服はそこまで濡れている様子ではない。それでも気にしてほしいと思ってしまう。

 

「まったく、それはこっちのセリフよ。俊成も自分のことを気にしなさい」

「はい」

 

 なぜか説教じみた声色になる瞳子。そんな彼女に俺は従うしかない。

 

 電車を待つ間に身なりを整える。天気が悪いと服装が乱れがちになるからな。学校に着く前にちゃんと直しておこう。

 雨の日は電車を利用する人が増える気がする。登校や通勤の時間というのもあるが、いつも以上に駅のホームは人でごった返していた。

 

「今日も混みそうだね」

 

 葵がなんとなしに言った。人の目には慣れている彼女でも、人が多い場所はあまり好きではないようだ。

 大都会のような無理やりな超満員ではないにしろ、やはり朝の時間帯の電車は混んでしまう。そうなるとどうしても心配事が頭によぎってしまうのだ。

 

「二人は安心してていいよ。どんなに混んでいても俺が守るから」

 

 俺は拳を握って決意を口にする。

 

 満員の電車。その中に美少女がいたとすれば……、痴漢が現れてもおかしくないだろう。

 それは俺の心配し過ぎかもしれない。痴漢なんてそうそう現れるものではないのかもしれない。

 でも、もし葵と瞳子が被害に遭ってしまったら? そう考えるだけで心が荒れ狂いそうになってしまうのだ。

 

「そうね。俊成がいると安心して電車に乗れるわ」

 

 微笑む瞳子は俺への信頼感で満ちていた。そんな表情を見せられると気合が漲る。

 

「まあ、もし痴漢が現れでもすれば、あたしが張り倒してやるわ」

 

 瞳子さん目がマジっす……。かわいいはずの彼女に気圧されてしまう俺がいた。

 瞳子は小さい頃から姉御肌なところがあるからな。おそらく自分以外だろうが、被害に遭った女性を放っとけはしないだろう。

 

「トシくんと瞳子ちゃんがいると私はすごく安心できるよー」

「はいはい、葵はあたしが守ってあげるわよ」

「わーい」

 

 葵は瞳子へと抱きついた。女の子同士だと周りの目をあまり気にしないよね。

 葵は外見から痴漢に狙われそうではあるのだが、安全を確保するのに抜け目がない。それに、今の彼女なら痴漢に遭ってもすぐ声を上げられるだろう。絶対に他の奴なんかに手を出させないけどな。

 

「二人ともー。そろそろ電車がくるぞー」

 

 俺の呼びかけに仲良く返事をくれる。本当に仲良しだな。

 

 電車は想像通り混んでいた。いつものことなので今更気にすることでもない。

 俺がやるべきことは変わらない。葵と瞳子を車内の端っこへとつれて行き、他の乗客に押されないように壁になる。

 

「トシくん、つらくない?」

「大丈夫。これくらいどうってことないよ」

 

 代わりに俺が押されるといっても大したことじゃない。中学の時の柔道部の練習に比べれば屁でもない。

 電車はガタンゴトンと揺れながら進んでいく。やがて、次が目的の駅というところまできた。

 

 どうやら今日も二人を守れたようだ。密かな満足感に浸っていると、瞳子の視線がある一点へと集中しているのに気づいた。

 瞳子は眉をひそめて目を凝らしている。何かを判別しようと集中しているように見えた。

 

「瞳子? どうし――」

 

 俺が声をかけると同時、瞳子は動いた。壁になっている俺をすり抜けて混雑している中へと向かっていく。

 

「瞳子ちゃん?」

 

 葵が瞳子の突然の行動に首をかしげる。俺も彼女と似たような心境になりながらも後を追う。

 

「あなた、何をしているのよ!」

 

 瞳子の声が電車内に響いた。

 

「い、いや……その……」

 

 それから男のうろたえた声。俺は強引に人をかき分けて瞳子のもとへと進む。

 乗客の注目が集まってきたが、電車が駅へと辿り着いた。ドアが開き、人の波に押されてしまう。

 

「こ、このっ! 放せ!」

「きゃっ!?」

 

 つい先ほどまでうろたえていたはずの男が豹変した。腕を振り回して瞳子から逃れる。突然抵抗されてしまい、瞳子に為す術はなかった。

 俺は瞳子に危害を加えて逃走しようとする男の腕を掴んでひねり上げる。

 

「痛っ! て、てめっ……放せよ!」

「あ?」

 

 こいつ……。瞳子に暴力を振るおうとしておきながら何言ってんだ? 俺はさらに力を入れてやった。

 

「痛い痛い! ごめんなさい! 謝るからもうやめてくれ!!」

 

 状況を把握しきれてはいないが、とりあえずホームへと降りた。もちろん男の腕をひねり上げたままなので注目を集めてしまう。

 状況を知っているであろう瞳子が声を上げた。

 

「この人痴漢よ。あたし駅員さんを呼んでくるわ」

「わかった。ここで取り押さえておくから頼む」

 

 瞳子が走って駅員のところへと向かった。その間、男がなんとか逃げ出そうと抵抗していたが、痛みを与えているうちに大人しくなった。

 

「俊成! つれて来たわよ」

 

 駅員をつれて瞳子が戻ってきた。男を引き渡すと、事情説明を求められて駅長室へと案内される。

 その前に、俺は瞳子と向き合った。

 

「瞳子! 勝手に危ないことをするな!!」

 

 俺の怒号に、瞳子は肩をピクリと跳ねさせた。そう、俺は怒っている。

 痴漢を捕まえた瞳子は正しいことをしたのだろう。でも、男が腕を振り上げて瞳子に対して暴力を訴えたのを目にして、俺の肝はこれでもかと冷えてしまったのだ。

 

「お前にもしものことがあったらどうすんだ!! もし殴られでもしたら……、本当に危なかったんだぞ!!」

「……ごめんなさい」

 

 瞳子が泣きそうな顔で謝った。それを見てようやくカッと熱くなってしまった頭が冷えていった。

 

「あ、あのー……。そ、そんなに怒らないであげてください」

 

 おずおずとした声。顔を向けると、葵に付き添われている望月さんの姿があった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 痴漢の被害者は望月さんだった。

 

 瞳子は見知った彼女に気づいた。それからすぐに様子がおかしいことにも気づいたようだ。もしやと思って近づいてみれば、被害に遭っている瞬間を目撃。行動に移ったとのことだった。

 

「高木くん、木之下さん。助けてくださって本当にありがとうございます」

 

 犯人を引き渡すと、望月さんは深く感謝を示してきた。

 

「僕……、痴漢されたのは初めてで、もうどうしていいかわからなくて、何もできなかったんです。だから、助けてもらえて本当に感謝しています」

 

 望月さんのような明るい子でも声すら上げられなくなってしまうのか。男だから気持ちが全部わかるもんじゃないとは思っていたけど、まだまだ舐めた認識だったかもしれなかった。

 

「あたしは何も……。俊成が捕まえてくれたからよ」

 

 さっき俺が怒ってしまったからか、瞳子は素直に感謝を受け取ろうとはしなかった。彼女のしゅんとした姿を見せられると、頭に血が上って怒鳴ったことが恥ずかしくなってくる。

 

「ごめん瞳子。さっきはああ言ったけど、瞳子が声を上げなかったら俺は痴漢に気づかなかったよ。勇気ある行動だったんだから胸を張ってくれ」

「俊成……」

 

 そう、瞳子は悪くない。ただ俺が身勝手なまでに彼女を心配してしまった。それだけのことなんだから。

 

「そうだよ瞳子ちゃん。トシくんは瞳子ちゃんに何かあったらって心配し過ぎちゃっただけだから気にすることないって。心配するのはトシくんの仕事なんだから」

 

 心配するのが俺の仕事って……。元気づけようとしているのはわかるけど、葵はもっと言い方というのを気にしてほしい。

 

「……ふふっ、何よそれ」

 

 瞳子に笑みが戻った。こういう時、葵の存在の大きさを感じる。

 

「そうです! 本当に感謝しているんですよ! 木之下さんが助けてくれなかったら僕は泣き寝入りしかできませんでした」

 

 望月さんの声に熱がこもる。よほど怖かったからこその反動に見えた。

 

「……あの、もしよければ瞳子さん、とお呼びしてもいいですか?」

 

 ついでに顔も熱っぽい。これまた反動の結果のように思えてならない。

 

「え、ええ。構わないわよ」

 

 瞳子が了承すると望月さんは喜びを表した。

 

「瞳子ちゃん……けっこう罪な女だよね」

 

 葵が何か呟いた気がしたが、俺の耳には届かなかった。

 

「電車って怖いです。雨の日だからって乗ったのが間違いでした」

 

 望月さんは普段から電車を利用しているわけではないらしかった。それもそのはず、家から学校まで一駅分の距離しかないとのことだ。

 数少ないであろう電車で痴漢に遭ってしまうとは不運かもしれない。

 

「お二人はいいですね。高木くんがいれば痴漢なんて怖くないでしょう?」

「まあね」

 

 なぜか葵がどや顔を見せる。瞳子は呆れた目をした。

 

「……本当に仲がよろしいようで。ねえ高木くん?」

「ん、まあな……」

 

 なんだろう? 望月さんのその意味深な目は。

 しかし、彼女の視線の意味を考えている暇はなかった。

 

「えー、それでは事情聴取をしてもよろしいでしょうか?」

 

 これから始まる痴漢事件の事情聴取は、思った以上に時間がかかって大変だったとだけ記しておく。

 

 




活動報告にも載せましたが、葵ちゃん瞳子ちゃんの中学生イラストをいただきました。もちろん本編にも載せさせていただきましたぞ。
セーラーですし、よかったら見てねー(ドキドキさせられたのですよ)


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113.突きつけられたこと

先に謝っとく。小学生時代の品川ちゃんが好きな人、ごめんなさい(どういうこっちゃ)


『先輩! 高木先輩! 助けてください!!』

 

 家の電話に出ると、開口一番に切羽詰まった声が俺の鼓膜を震わせた。

 電話口の声色から状況のまずさを想像させる。

 

「い、一体何があったんだ!?」

 

 だが返事はなかった。ツーツーと、空しく通話が切れた音がするだけだ。不吉すぎる。

 わかることは、とにかく時間がないということだけだった。俺は慌てて家から飛び出して彼女の家へと駆け出した。

 何があったのかはわからない。ただ無事でいてくれと願った。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「いやー、さすがは高木先輩。頼りになります!」

「……そうっすか」

 

 現在、俺は年頃の少女の部屋でペンを動かしていた。

 俺は黒縁眼鏡の少女にじと目をぶつける。彼女に気にした様子はない。いや、少しは気にしろよ。

 

 俺を呼び出したのは一つ年下の女の子、品川(しながわ)秋葉(あきは)であった。

 切羽詰まった声で俺を呼び出した彼女だったが、用件はなんてことはない。漫画のアシスタント要請だった。

 手伝ってほしいのなら普通に呼べよ。そう言うと、品川ちゃんからは「ああした方が先輩が急いできてくれると思いまして」と悪びれもせずにのたまった。玄関前で元気な品川ちゃんを目にして安堵してしまった健気な俺を返してほしい。

 

 品川ちゃん……。小学生の頃は大人しくてかわいげがあったのにな。今はぺろっと舌を出すだけで謝る気ゼロだよ。

 どうしてこうなってしまったのか。俺は恨みがましく、この場にいるもう一人の人物に目を向けた。

 

「おい森田(もりた)。この先輩使いの荒い後輩をしっかり管理しとけよな」

「ああ。すんません」

 

 もう一人の後輩の男子、森田(もりた)耕介(こうすけ)は俺と目を合わせることもなく、アシスタント業に勤しんでいた。おい、こっち見ろよ後輩!

 

 品川ちゃんの自室で漫画の手伝いをする。頼まれれば俺達はベタ塗りだろうがトーン貼りだろうがやっていた。アシスタントレベルが上がったと言っても、俺の画力が上がったわけではない。悲しいなぁ。

 

「でもせっかくだったら宮坂先輩や木之下先輩をつれてきてくれればよかったのにー。高木先輩よりも戦力になりますし」

「人を慌てさせておいてその言い草はないだろうが。ちょっとは反省しろ。そんなことしてたらいざ助けを求めても誰もきてくれなくなるぞ」

「その時は俺が行くんで大丈夫っす」

「森田は品川ちゃんを甘やかし過ぎだ」

 

 まったく。このデコボココンビは俺に疲労感を与えてくるな。手を止めて二人の後輩を眺める。

 

 品川ちゃんは黒縁眼鏡をかけて、髪型はおさげにしている。小柄な体躯から、外見は小さい頃からあまり変わらないように見える。ザ・文学少女って感じだ。

 だが、中身はけっこういい性格になっていた。漫画を描くのが好きなことには変わりないが、使えるものは使うといった精神で先輩相手でも遠慮がない。おかげでいつ漫画のアシスタントをしても戦力になれそうだよコンチクショウ。

 

 そんな彼女を支えているのが森田だった。

 森田は大柄な体で品川ちゃんを守り続けている。その身長は一九〇センチを超えているのだとか。中学から始めたバスケでもその高身長は生かされているようだ。

 そのバスケを始めたきっかけも、品川ちゃんが描いたバスケ漫画を読んだからだというのだからもう何も言えない。

 

「そもそもなんで急いでるんだ?」

「そりゃまあ……新人賞に応募しようと思いましてですね……」

 

 品川ちゃんはさっきまでの態度を一変させて、恥ずかしそうに自分のおさげを撫でつけながら言った。

 

「新人賞って漫画の? え、品川ちゃんプロになるのか!?」

 

 俺は驚きから思わず立ち上がってしまう。彼女はわたわたと両手を振った。

 

「いやいやいや! そんなに上手くいくだなんて考えてないっすよ! ただ……、せっかくだし挑戦してみたいなーって」

 

 俺は恥らいながらも向上心を表す品川ちゃんから目を離せなかった。

 まっすぐ夢に向かっているその姿が眩しくて、年下だからと将来のことなんてまだ考えていないと思い込んでいた。

 そんな彼女を見ていると、未だに将来やりたいことを決めきれていない自分が情けなくなった。

 人生やり直しているのにこの体たらく。葵や瞳子のことばかりで自分のことをおろそかにしていたかもしれない。いや、まるで彼女達のせいにするかのような言い方はいけないな。

 

「ちょっ、高木先輩見つめ過ぎっすよ! やだなー恥ずかしいっ」

 

 品川ちゃんはぱたぱたと手で自分の顔を仰ぐ。女子の顔を見つめるもんじゃないなと謝った。

 

「そんなことより今は手を動かしてくださいよ。ほら、森田くんは文句も言わずにやってくれてますよ」

「もう少しくらい森田をねぎらってやれよ」

 

 とか言いつつも俺は作業に戻った。後輩想いのいい先輩だよ、本当にさ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 品川ちゃんの漫画の手伝いが終わる頃には日が暮れていた。と言っても、まだ彼女の作品は完成していないのだが。

 帰り道は途中まで森田と同じだった。ガタイのいい奴といると夜道でも安心できるな。空手経験者でもあるからボディガードとして申し分ない。

 

「森田は明日も手伝うのか?」

「もちろんです」

 

 森田は当然といった風に頷いた。こいつも受験や部活なんかがあるはずなのに、大丈夫なのだろうかと心配するのは野暮だろうか。

 

 案外森田は尽くすタイプだったようだ。品川ちゃんのためにと漫画の描き方を勉強したらしい。大きな体を丸くして作業する姿は、アンバランスでありながらも様になっていた。

 夢へと向かう彼女。それを支える彼氏。なかなか良い組み合わせだと思う。

 

 それに比べて俺は……。最高の彼女が二人もいるのに、今になって将来を突きつけられた気分だった。

 将来を考えてなかったわけじゃない。でも、まだ進路のことは大丈夫なのだと、根拠のない安心感に身を任せてしまっていた。

 俺のできることは前世に比べれば確実に多くなった。選択肢は広がっているはずなのだ。

 このまま順調にいけばそれなりの大学にいけるだろう。それからそれなりの会社に就職する。きっと前世よりもグレードアップしているはずだ。

 

「……」

 

 なのになぜだろう? それでいいのかと、心の奥底から問いかけられているようだ。

 いつから満足していたのか。今の自分に、俺はいつしか満足してしまっていたのだ。

 この程度なら、たぶん葵と瞳子の方がもっと成功者と呼ばれる存在になるはずだ。それだけ彼女達の素の能力は高い。

 それを支える存在になる? なんだかそれは違うと思った。

 

「高木さん? ぼーっとしてどうしたんすか?」

「あ、いや、なんでもない」

 

 知らず足を止めていた。森田が怪訝そうな表情をしている。

 

 品川ちゃんには漫画を描くという武器がある。他を挙げれば、本郷ならサッカーがある。佐藤の将棋の実力だってすごいと聞くし、美穂ちゃんの学力は同学年でトップクラスだ。

 俺だってこれまで努力してきたつもりだ。実際に前世よりも優秀な自分になれている。

 

 でも、何かが飛び抜けているわけじゃない。

 いっしょになりたい人がいて、その存在が現状を問い詰めるかのように突いてくる気がする。このどこからか湧いてくる焦りに似た何かが、責任って奴なのかもしれなかった。

 

「高木さん? さっきから止まってばっかりでどうしたんすか?」

「悪い悪い。ちょっと考え事してた」

 

 再び森田の声で現実に引き戻される。歩きながら考え事なんてするもんじゃないな。危ないしね。

 

「それにしても森田はすごいな」

「何がっすか?」

「好きな女の子にあれだけ尽くせるのがすごいって話だよ」

 

 俺の言葉を耳にした森田はしばしぽかんと口を半開きにした。油断した顔だな。

 

「いいいいいいいいやいやいや! なな何言ってんすか!?」

 

 こっちが驚くほどの動揺っぷりを見せられた。夜道の電灯からでも、顔を赤くして汗をかきまくっているのがわかるほどの動揺っぷりだ。

 

「何慌ててんだよ。それでも品川ちゃんの彼氏か?」

「は、はあっ!? 俺はあいつの彼氏なんかじゃ……ない、です」

「はあ?」

 

 言葉を尻すぼみにさせる森田。冗談か何かだと考えたが、うなだれるでかい体を見るとそうではないのだと理解してしまう。

 

「マジ? 俺はてっきりお前と品川ちゃんはとっくに付き合ってるものだと」

「自分に彼女がいるからって簡単に言わないでくださいよ」

 

 いやいや、そうは言ってもだな。傍から見れば相思相愛にしか見えなかったんだが。むしろ当たり前すぎて夫婦のような安定感すらあったんだが。

 でも、付き合ってないと言ってもだ。これまで先輩として二人の関係を見てきたけど、明らかにお互い気があるようにしか見えなかった。

 

「でもさ、品川ちゃんだって気がなかったら漫画の手伝いとはいえ、同級生の男子を自分の部屋に入れたりしないだろ」

「……それ、高木さんにも気があるってことになりますよね?」

「あ」

 

 って「あ」じゃないだろ俺! ほら、森田が落ち込んじゃうっ。

 こうした態度から、森田は確実に品川ちゃんに対して好意を持っている。なのにまだくっついてないってことは……。

 

「……品川ちゃんに告白しないのか?」

「……」

 

 なぜか森田は黙りこくってしまう。しばらく待つと、ようやく口を開いた。

 

「……俺が、品川に告白できるわけないじゃないですか」

 

 そう、力なく言った。

 

「なんでだよ? 別に緊張し過ぎて告白できません、ってタイプでもないだろ?」

 

 俺の疑問に森田は首を振った。言いづらそうにしながらも理由を口にする。

 

「俺は……、品川を傷つけたクソ野郎だから……。そんな奴が、自分勝手に告白なんてできねえ……っ」

 

 俺は森田の言葉に、心の奥底から吐き出される後悔に、何を言っていいかわからなかった。

 森田が言っているのは小学生の頃の話だ。過去に品川ちゃんをいじめてしまった。その後ろめたさが、未だに彼を苦しめている。

 

「……」

 

 俺は勘違いしていた。

 昔、森田は品川ちゃんをいじめていた。それは変えようのない事実だ。

 しかし、それはもう終わったことだと思っていた。二人が仲良さげにいっしょにいるのを知っている。だからこそ、森田と品川ちゃんの間にわだかまりなんてないと思っていた。

 それは俺の勝手な思い込みだったのだ。森田の苦しそうな表情を見ていると、それを否応なく突きつけられている気分だった。

 関わったとはいえ、俺は当事者ではない。そんな俺が、今もなお苦しんでいる森田にどんな言葉をかけられるというのか。

 

 湿気の含んだ風が吹く。なぜだか重たく感じてしまう。

 罪の意識にさいなまれている森田。今更気づいた俺には、かけられる言葉なんて用意しているはずもなかった。

 

 




森田&品川ちゃんの話はちょいと続きます(予告)


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114.余計なお世話

 中学生になった品川ちゃんは美術部に入部した。

 同じく美術部だった葵は彼女をかわいがった。先輩としてちゃんと指導もしていたのだそうだ。得意げに胸を張っていたから覚えている。

 とはいえ、もともと漫画を描いていたのもあり、品川ちゃんの絵は上手かった。上達していた葵だったが、品川ちゃんの実力には先輩の面目がないと愚痴っていたっけか。

 それでも信頼される先輩にはなっていたようで、漫画についての意見を求められるようになっていた。

 そのついでというわけでもないが、俺と瞳子にも意見を求められた。

 

「風景はもっとこう、自然なのがいいわ」

 

 試しにと、瞳子が背景の一つを描いた。それはとても上手で、背景だけなら品川ちゃんよりも上手かったように感じた。

 

「すごいです木之下先輩! こっちも描いてもらっていいですか?」

 

 それは品川ちゃんも同じだったようだ。いつもは見られない目の輝きをしていた。

 これが彼女の俺達に対する態度の変化の始まりだったかもしれない。大人しかった品川ちゃんが恋しいなぁ……。

 

「私も手伝うよ。私が、秋葉ちゃんの先輩なんだからね!」

 

 部活の先輩の意地として、葵は瞳子に対抗するように背景やキャラクターを描いてみせた。葵の絵が急成長したのはこの頃からだったろうか。

 

「あっ、高木先輩暇してますよね。よかったらベタ塗りしてみます?」

 

 ……この頃からだろうか。品川ちゃんが俺に対して悪い意味で気さくになったのは。

 彼女にはベタ塗りやトーン貼りなどを教え込まれた。俺に背景を頼まなかったのは、きっと俺の実力を正しく把握していたからなのだろう。瞳子と葵の方が何百倍も上手かったしな。

 

「ども。先輩方、差し入れです」

 

 俺達はたまにだけど、品川ちゃんの漫画を手伝うようになった。その頃からというか、初めて彼女の部屋に入らせてもらった時から森田はいた。

 最初、森田は差し入れという名目で品川ちゃんの家に訪れていた。いつしかアシスタントの技術を身につけ、品川ちゃんの手伝いをするようになっていた。

 森田も部活があって忙しいはずなのに大したもんだ。俺達三人は気を利かせ、品川ちゃんの家に訪れる回数を減らしていった。

 品川ちゃんと森田。二人の間に流れる暖かくも甘い空気を感じ取れないはずがない。

 わかっていたからこそ、二人の仲はとっくに進展していると思い込んでいた。森田があれほどの負い目を感じているだなんて思ってもみなかったのである。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「そっか……。森田くんは自分がしたいじめのこと、気にしていたんだね」

 

 俺は昨晩の森田とのやり取りを葵と瞳子に話した。

 二人は俺と同じで、品川ちゃんと森田はとっくに付き合っているものだと考えていたのだろう。葵はぽつりと残念そうに呟き、瞳子は唇を噛んでいた。

 確かに森田は品川ちゃんをいじめ、俺達はその間に入った。だけど今は二人ともが俺達にとってかわいい後輩になっているのだ。

 二人が納得したことならば、俺達が口を挟める余地はないのかもしれない。しかし、そうは思えなかった。

 

「なんとか……できないかな?」

 

 頭をかきながら情けないことを吐き出してしまう。

 一晩考えたが、俺にはどうすべきかという答えを導き出せはしなかった。今回は力づくでなんとかできる話でもない。

 葵と瞳子は真剣な面持ちで俺を見つめていた。おもむろに瞳子が俺に向かって手を伸ばす。

 

「ふぉ……? はひふふんふぁ?」

 

 瞳子の白い指は俺の両頬を引っ張っていた。あまりにも自然な動作だったので反応できなかった。

 あの……言葉にならないんですけど。抗議の目を向けてはみたが、意に介することなく、くすくすと笑われた。

 

「ふふっ。変な顔してるわよ俊成」

 

 いや、それやってる張本人が言うことじゃないからね?

 だけど……瞳子の笑顔につられて、俺の肩の力が抜けてきたのがわかる。そこでようやく肩に力が入っていたのだと気づかされた。

 

「まずはトシくんだね。変に責任を感じないこと。あの頃は確かにいじめに関わっていったけれど、それとこれとは話が別。トシくんが気に病む必要なんてまったくないよ」

 

「でもね」と葵は続ける。

 

「トシくんがこうやって余計なお世話を焼くのって久しぶりだね。私はいいと思うよ」

 

 余計なお世話……ですか。でもそうかもな。

 人の恋路に関わってやろうだなんて、まるで親戚のおばさんみたいだ。親戚ですらないお節介は確かに余計なことなのかもしれなかった。

 

「俊成らしく、ね。あの二人だって、今さら俊成のお節介を迷惑だなんて思わないわよ」

 

 だから自信を持てと。瞳子は俺の頬をぐにぐに揉みながら言った。

 なんだか背中を引っぱたかれた気分。それで元気が出てしまうだなんて、俺もけっこう世話を焼いてもらっているんだなと実感する。

 

「ふん。ふはひひはひょうひょふをおへはひふふほ」

「トシくん……何言ってるかわからないよ」

「ちゃんとしゃべりなさいよ俊成」

 

 だったら手をどけてくれないかなぁ。俺は恨みがましい目を瞳子に向けた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 昨日に引き続き、本日も品川ちゃんの家に訪れていた。

 俺はアシスタント業に没頭する。それは森田も同じだった。

 

「手伝ってもらってて言いにくいんですけど……宮坂先輩や木之下先輩といっしょにいなくていいんですか? 先輩方の時間を奪っているようで申し訳ないです」

 

 品川ちゃんが今さらなことを言う。眼鏡の奥の瞳から、彼女の魂胆が透けて見えた。

 

「……それは、なんで今日も二人をアシスタントにつれてこなかったのか、って言いたいのか?」

「いつでもアシスタントデートしてくれても構いませんからね。私は歓迎します」

 

 この後輩は……っ。本当にいい性格になりやがったな。

 とか思いつつも手を動かしてしまう俺。社畜根性とは思いたくないものだ。

 しばらくカリカリと作業の音だけとなる。一ページ分のベタ塗りが終わったタイミングで口を開く。

 

「でもさ、もし品川ちゃんが新人賞を取ってプロデビューしたらさ……俺達がこうやって手伝いにくることもなくなるんだろうな」

 

 俺の言葉に森田の手が止まる。品川ちゃんの手も止まることはなかったが、見てわかるほどに遅くなる。

 俺は手を動かしたまま続ける。

 

「だってそうだろ? プロの漫画家ならプロのアシスタントを雇うんだからさ。そうなれば俺達の出番はなくなる。今のうちにサインとかもらっておいた方がいいかな?」

「あ、あはは……。高木先輩ってば何を言うんですか。冗談ばっかり」

「いやいや、現実味はあると思うよ。今描いてるこの漫画は面白い。俺は漫画雑誌に載っていたとしても不思議じゃないくらい面白いと思ってんだよ。だからこそ、品川ちゃんがプロになった時のことを考えるんじゃないか」

 

 品川ちゃんがどこまで先のことを考えているかは知らないが、もしプロとしてやっていくのなら環境の変化は避けられない。こうやって友達感覚で作品に関わっていくだなんてもうできなくなるかもしれない。

 

「……」

 

 森田は何も言わなかった。品川ちゃんの手は完全に止まっていた。

 夢に向かっていく未来図は明るいものなのだろう。そうあるべきとも思う。

 でも、期待は不安と隣り合わせでもある。思い描いているうちは楽しくても、実際に飛び込んでいくのには勇気が必要不可欠だ。

 だからこそ、今しかできないことがある。

 

「で、でも……先輩が言うほど甘い世界じゃないですから……。そう上手くはいきませんって」

「そっか……まあそうだよな。俺達はあくまで素人だし、わかんないよな」

「そうですよ。初めて賞に応募して、いきなり上手くいくだなんてデキすぎですってば」

 

 謙虚な態度を崩さない品川ちゃん。でも、その態度は自分の不安に気づいたからじゃないのか。俺は年下の女の子の目を見つめた。レンズ越しの目は、少しだけ揺らいでいるように見えた。

 

「でもさ、森田も覚悟しとけよー。品川ちゃんが先生って呼ばれるようになったらさ、こうやって作品に関われることなんてなくなるぞ」

「……うっす」

 

 短い返事。しかし、その中に込められた想いはどれほどのものなのか。そんなのは俺が思っている以上のものに決まっていた。

 それだけの真っすぐした気持ちがありながら、後悔なんてしてほしくない。年上として、そんな余計なお世話が先立ってしまうのだ。

 

 



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115.先輩は後輩のために

 本日もアシスタント業を終えて、俺と森田は品川ちゃんの家を後にした。

 大きく体を伸ばせば背中からポキポキと小気味のいい音がした。疲労とともに働いた後の充実感に包まれる。

 

「いい具合に腹が減ったな。森田、ちょっと飯でも食っていかないか?」

「いいっすよ。どこ行きます?」

 

 職場の同僚のような気持ちで、俺と森田は飯屋を目指して足を運ぶ。もちろん家に帰ったら母が作ってくれた食事もいただくつもりだ。成長期は腹が減って仕方ない。

 チラリと品川ちゃんの家に目を向ける。女の子相手には女の子がいいだろう。それは男も変わらない。

 

 この辺で、となると候補は限られる。男だけの間食だしと、お好み焼き屋に入った。

 店内に入った瞬間にソースのにおいが空腹の胃袋を刺激した。じゅわっと鉄板で焼く音で唾液が口内に溜まる。

 葵や瞳子とはちょっと行きづらいが、男友達とはよく食べに来ている。粉物って美味いよな。

 森田は鉄板を挟んで対面の席へと座った。注文を済ませると、大柄な男の眼光が光る。

 こいつ、鍋奉行ならぬ鉄板奉行なのだ。森田といっしょだと、お好み焼きは食べる時まで何もさせてはもらえない。楽だから別にいいけど。

 

「俺が高木さんの分も焼いていいですよね?」

 

 毎回許可を取ってくるのだが、有無を言わせる目ではない。いいから早く作ってくれ。

 まあそうやって聞いてくるのは後輩としての遠慮というやつだろう。一度勝手に焼こうとして佐藤と険悪な空気を作りやがったからな。佐藤も粉物にこだわりがあるのだ。

 平和的な話し合いの結果、お好み焼きは森田、たこ焼きは佐藤の担当となった。担当ってなんだよ、というツッコミはしてはいけない。平和のためだ。

 森田は手際よく焼いてくれる。お好み焼きをヘラで押しつけるように焼くとマジギレされるので注意が必要だ。まあヘラは森田が独占しているわけだが。

 

「どうぞ高木さん」

「ありがとうよ。美味そうに焼けてんな」

 

 出来上がったお好み焼きを皿に移して渡してくれる。ソースとマヨネーズが全体に偏りなくかけられており、かつお節がふわふわしている。嗅覚を刺激する香ばしさに腹が鳴った。

 

「いただきます」

 

 箸を取ってお好み焼きにかぶりつく。キャベツのシャキシャキした歯ごたえとふっくらした生地が最高だ。

 森田も大きな口を開けてお好み焼きを頬張る。ヘラを使って食べているのが通っぽい。

 

「なあ森田」

 

 口をはふはふさせながら言葉を続ける。

 

「お前さ、品川ちゃんが他の男と付き合うって言ったらどうすんの?」

 

 森田が食べようとしていたお好み焼きがヘラから落ちた。見れば表情が強張っており、ちょっと目を合わせたくないくらいの恐い面をしていた。

 

「……それは、品川の勝手じゃないっすか」

 

 大きな体というか、森田には似つかわしくない小声だった。動揺を誤魔化すように口いっぱいにお好み焼きを詰め込んでいる。わかりやすい奴め。

 傍若無人でなくなったのは彼にとっての成長なのだろう。でも、頑なに塞ぎ込んでしまうのは違うと思った。

 森田は頑固な態度を崩さない。それは罪の重さを知っているからこそなのだろう。中学生にしては立派でもあり、子供にしては背負いすぎでもあった。

 それに関して俺がどうこうできる話じゃない。許すとか許さないとか、こればっかりは当事者である二人の問題だからだ。

 ただ傍から見ていれば、森田と品川ちゃんは互いを好意的に意識し合っているのは丸わかりなのだ。しかも品川ちゃんは待ちの体勢である。どちらかが一歩を踏み出さなければこの関係に終着点は訪れないだろう。

 一番怖いのは自然消滅だ。ずっと変わらない関係なんてない。変わらない関係を望んでいたとしても、伝えなければ気持ちに確証なんて持てない。

 

「……誰なんですか?」

「ん?」

「だから、品川が付き合おうっていう男ですよ」

 

 さほど声は大きいわけでもないのに威圧されているかのようだった。ヘラを持つ腕が膨張している。見た目からでもとんでもない筋肉なのがわかっちゃうな。

 

「それを聞いてどうすんだ?」

「……別に」

 

 盛り上がっていた筋肉がしぼんでいく。まるで森田の心の機微を表しているかのようだ。

 それを眺めながら、なんだかなぁと心の中だけで呟いてみる。もぐもぐからのごっくんするまでの時間を置いて、口を開いた。

 

「安心しろ。ただのたとえ話だ」

 

 それを耳にした森田は一気に脱力したようだった。表情から気を張っていた分の疲労に襲われているのがわかってしまう。

 

「なあ森田。このままだとさ、いつかは今みたいに品川ちゃんといっしょってわけにはいかなくなると思うんだけど、それはよくないんだろ?」

 

 森田は唇を真一文字に引き結ぶ。その表情だけで本音を雄弁に物語っていた。

 友達という関係性は学生時代ならばとても大きな存在だろう。けれど少し離れてしまうだけでも、それは思うよりも儚い繋がりだと知る。

 もし品川ちゃんが本当にプロの漫画家になってしまえば。そうなれば同じ関係が続くかなんて保証はできない。そうでなくても高校受験を控えている二人が、来年も同じ学校にいるかなんてわからない。

 だからこそ、人は深い関係というものを望むのかもしれない。親友、もしくは恋人という関係を。

 しばらくの沈黙。じゅわじゅわという鉄板の焼ける音と周囲の客の笑い声が場違いに感じられた。

 

「何が、言いたいんですか?」

 

 森田の目は真剣だった。というか怖かった。下手なことを口にすれば掴みかかってきそうなほどだ。

 

「告白しろ、だなんて強制するようなことは言わない。でもな、品川ちゃんとしっかり話し合え。相談したっていい間柄だろ」

 

 森田は品川ちゃんへの好意を否定しない。返答は思いやりに満ちていた。

 

「俺は……もう二度と品川を困らせたくないっ」

「困らせたっていいんだよ。むしろ困らせちまえ」

 

 間髪入れずに放った俺の言いように森田は口を半開きにさせる。よく見たら口の端にソースついてんぞ。

 

「女の子って生き物はな、繊細なようでけっこうたくましいもんだ。俺達男に気遣われるよりも、困った時はいっしょに悩みたいって考えてんだよ」

 

 森田は目線を下げてしまう。大きな体なのに、ひどく頼りなさげであった。

 

「……そうやって言えるのって、宮坂先輩や木之下先輩と付き合ってるからっすよね。俺達はそういう関係じゃ――」

「そういう関係じゃなくても腹を割って話しはできるだろ。お前が積み重ねてきた時間はそれくらい許されていいもののはずだ」

 

 許しを得たい。そう望むように振舞っていても、それだけじゃないと森田の行動は告げていた。

 できることなら後悔のない選択を。先輩から後輩に望むのはただそれだけだ。だから、余計なお世話はここまでだった。

 

「ごちそうさま」

 

 お好み焼きを食べ終わり手を合わせる。森田には咀嚼する時間が必要だろう。頑なになった心を自分自身で噛み砕いてほしい。そう思った。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 お好み焼き屋から出ると、すぐに森田と別れた。そのまま自宅、ではなく瞳子の家へと向かった。

 

「トシくんどうだった?」

 

 瞳子の部屋に入ると、待ち構えていた葵が詰め寄るように接近してくる。よほど気になっているようだ。

 

「どうだろうな。あんまり自信はないけど考えるきっかけにはなった、と思う。そっちは?」

 

 尋ね返すと葵ではなく瞳子が答える。

 

「秋葉も悩んでいたみたい。下手なことをして今の関係が壊れるのが怖かったみたいね」

 

 つまり森田と本質的には同じ悩みを持っていたということか。いつの間にか似た者同士になっていたようだ。

 

 今回俺達は森田と品川ちゃんに対して「余計なお世話」をすることにした。

 男同士女同士がいいだろうということで、品川ちゃんへのお節介は葵と瞳子に任せたのだ。男二人でお好み焼きを食っている間、葵と瞳子は品川家へと訪れていろいろと話をしたのだ。男の俺では本音を引き出せないかもしれなかったので二人には助けられた。

 

「でもね、秋葉ちゃんも今のままがいいってわけじゃないの。やっぱり好き……だからって言ったの」

 

 葵がほんのりと頬を赤らめる。きっと品川ちゃんの想いを聞いて自分の気持ちと重ねたのだろう。

 

「改めて秋葉と話してみて、昔のあの子と違うって感じたわ。全部に手を貸すことなんてない。あとはあの二人が決着をつけるはずよ」

 

 瞳子の言葉は確信めいていた。品川ちゃんとどんな話をしたかは知らないが、彼女の強くなった心と触れたのだと実感したからなのかもしれない。

 

「なら、あとのことは若い二人にお任せってところかな」

「何よそれ」

「トシくんが言うと変な感じだよ」

 

 二人はころころと笑う。こんな柔らかい笑いができるのは安心できる何かを感じ取ったからなのだろうな。

 そして、それは俺も同じだった。

 元いじめっ子と元いじめられっ子。そんな二人の恋を応援するだなんて当時は考えもしなかった。

 でも、俺達三人の今があるように、絶対にあり得ないなんてことはないのだろうな。前世があったって想像もできなかったのだ。今だけを生きていてわかるはずもない。

 だからがんばれよ。あり得ないだなんて切り捨てずに、しっかり考え、決断してほしい。それが人生の先輩からの願いだった。

 

 



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116.忘れてはいけない日と忘れられない日

 俺は小学生の頃、同級生の品川秋葉をいじめていた。

 理由なんて大したことはない。反吐が出るほどの小さいイライラを、か弱い女子にぶつけていただけだった。

 

「わかった。森田が品川ちゃんに甘えてるってのがよーくわかった」

 

 だから高木さんに殴られて、そう言われた時にようやく自分が最低のガキだって気づいた。そうまでされないと気づかねえ俺は本当にただのクソガキだったんだ。

 それだけじゃなく、いじめを止められたのをきっかけに折り合いの悪かった親や上級生との関係だって改善されてしまった。勉強のことですら品川に見てもらうようになっただなんて、俺は本当に甘えてばっかりだ。

 今だって、品川の描いた漫画に関わらせてもらっている。これ以上のわがままが許されていいのだろうか? 俺がしてしまったことを許されていいのだろうか。いや、許されていいはずがない。できることなら彼女への罪滅ぼしをしたかった。

 高木さんは、俺と品川が積み重ねてきた時間は腹を割って話せるだけのものだと言った。

 いじめをしていた関係だなんて信じられないほど品川と仲良くなれた、と思う。俺自身、彼女といっしょに過ごす時間が居心地がいい。いっしょにいるだけで満たされている自分がいた。

 それだけで満足できる。満足……してしまいたかった。

 でも、もしも品川が手の届かないところへ行ってしまったら? そう考えるだけで胸を掻きむしりたい衝動に襲われる。そんな気持ち、無視してしまえればよかったのにな。

 

 

 学校が終わり、その足で品川の家へと行く。いつも通り漫画の手伝いをするためだ。

 

「ふわぁ……」

 

 今日の品川はあくびばかりだった。さすがに人前で大口を開けたりはしないが、俺はその油断したところを目撃していた。

 昨日、俺と高木さんが帰った後も漫画を描いていたのだろう。新人賞に応募するんだもんな。だからといって体を壊させるわけにはいかないが。

 

「森田くん」

「なんだ?」

「手伝ってもらっててなんだけど、部活はいいの?」

 

 品川にじっと見つめられる。身長差のせいで思いっきり顔を上げている。首を痛めやしないかと心配してしまう。

 

「今は品川の漫画の方が大事だからいいんだ」

「そう……」

 

 部のことを考えれば、中学最後の大会が控えているので練習しなければならないだろう。それでも、俺にとって品川の方が大事だってのは事実なのだ。彼女のためなら試合に出られなくても構わない。

 品川の性格が変わったと高木さんは言うけれど、こうやって無理をしていないかと確認してくるのは彼女の優しさだろう。本当に忙しそうなら先輩方に手伝いを強要することもないんだから。

 品川の部屋に入ってすぐにテーブルへと向かう。今日も張り切ってやるぞ。

 

「森田くん……あのね」

 

 原稿を渡されるのを待っていると、品川が言いづらそうに口を開く。

 

「昨日まで手伝ってくれたものなんだけどね……没にしたの」

「えっ!? あれ面白かっただろ! なんでだ!?」

「ひゃうっ!?」

 

 動揺がそのまま声に出てしまった。そのせいで驚いた品川が縮こまってしまった。「悪い」と謝ってから心を落ち着ける。

 手伝っていたとはいえ、それは全部品川の作品だ。俺がとやかく言うことじゃない。そんな資格もない。

 

「そ、それでなんだけど……新しいネームがあるの。読んでくれる?」

 

 おずおずとその新しいネームが描かれた用紙を出してくる。もう新しい話を思いついたのかと尊敬の念が湧き上がる。やっぱり品川はすごい。

 

「読んでいいのか?」

「森田くんに読んでほしいの!」

 

 前のめりになる品川。勢いに負けたようにのけ反ってしまった。

 ネームを受け取る。差し出す品川の手は震えていた。

 緊張しているのか? 最初の頃はそうだったが、最近は別段緊張なんてしている様子はなかったのにな。

 品川は俺を見つめていた。穴が空きそうなほどじーっと見つめている。なんかこっちまで緊張する。

 

「よ、読むぞ?」

「うん」

 

 決意がこもったような、力強い頷きだった。

 よほどの力作なのだろう。俺は原稿に目を落とした。

 

「……」

 

 学園ものなのだろうか? 中学生らしさのある描写で進んでいく。これが青春ものなのか恋愛ものなのかはもう少し先を読むまでわかりそうにない。

 しかし、途中で手を止めてしまう。

 

「読んで」

 

 すかさず品川の声。俺は黙ったまま、動揺を顔に出さないように続きを読み進めた。

 

 内容はこうだ。普通の女子がふとしたきっかけでクラスメートの男子に目をつけられてしまう。そこから始まるいじめは俺の過去を想起させた。

 品川ならではのリアリティのある描写に胸が苦しくなる。だからって手を止めることは許されない。これを俺に見せた彼女の意志を考えなければならなかった。

 だが、半分を過ぎたあたりから状況は一変する。

 周囲の手助けもあり、いじめは終息する。それからぎこちないながらもいじめっ子といじめられっ子の関係は縮まっていくのだ。感情の表現が上手く、俺の心を揺さぶってくる。

 最後のページを読み終わり、俺は動けずにいた。

 

「時間なかったし眠かったし、もっともっと丁寧に描きたかったりご都合主義なのは全面的に認めるけど……今の私の気持ちは、こんな感じ、です」

 

 早口にまくし立てたかと思えば、最後はか細い声量。うつむいてしまった彼女の表情はうかがえない。

 

「……」

「いや! 黙ってないで何か言ってよ!」

「わ、悪い」

 

 謝りながらも何を言っていいかなんて思いつかない。頭をかいて誤魔化してしまう。

 俺は本当の意味で高木さんのすごさを知ったかもしれない。こういった女の子の行動に、どう返していいか咄嗟には思い浮かばなかった。

 

 漫画なので事実とは差異があるが、この物語は俺と品川の過去を描いたものだった。いや、過去だけじゃなく未来も描かれている。

 もちろん未来なんて予知しているはずもない。だからこの未来というのは、品川の願望ということなのだろう。

 

「……」

「……」

 

 俺は顔を上げた品川と見つめ合う。何か、なんて不確かなんかじゃないものを待っている瞳だった。

 物語のラストシーン。それはいじめられっ子といじめっ子が和解を果たし、恋人になっていた。

 このネームこそが品川にとっての「腹を割って話し合う」ということなのだろう。確かに物語として見れば急ぎすぎなところがあるが、彼女の気持ちがこれでもかと伝わってきた。

 これは新人賞用の話じゃない。品川から俺へのメッセージだ。問いかけであり、答えが必要だった。

 まったく、こんなことまでさせて俺はいつまで彼女に甘えてんだろうな……。

 

「品川」

「は、はい」

 

 息を大きく吸う。自分の心と見つめ合う時間なんて呼吸一つ分だけで充分だ。なぜなら今までずっと考えを巡らせてきたことなんだから。

 

「俺は――」

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 昨晩、森田くんと高木先輩が帰ってから、入れ替わるようにして葵先輩と瞳子先輩が訪れた。

 高木先輩から話を聞いてアシスタントに来てくれたのかと喜んでいるのもつかの間、二人から切り出された話題は頭に水をかけられたかのように一瞬で脳を凍りつかせた。

 それは私の心に直接触れるような問いかけだった。つまり、森田くんに抱いている気持ちについてだ。

 普通の先輩と後輩なら深く踏み込むようなことじゃないのかもしれない。けれど葵先輩も瞳子先輩も私達の事情を知っている。恋する心も知っていた。

 いつの間にか私はすべてを吐き出していた。彼への想い、今に至った現状、踏み出せない理由。吐き出すということが、私の感情を整理させてくれた。

 

「秋葉はたくさん悩んでいたのね」

 

 そう言って瞳子先輩は私を優しく抱きしめてくれた。溜まっていたものがすっと下ろされたような感覚になった。

 葵先輩も私を抱きしめようとしたけど、なんだか別の感情が心の底に沈殿する気がしたので丁重にお断りさせてもらった。どんな顔をされようとも葵先輩の胸に抱かれてはいけないのだ。だからそんな顔しないでくださいよ。

 

「それでも秋葉は強くなったわ。強くなったのなら、待っているだけじゃダメなのよ」

 

 私に抱擁を拒絶された葵先輩を無視したまま、瞳子先輩の言葉が突き刺さる。

 いじめられている頃の私は弱かった。もし高木先輩に助けてもらえなかったら。私は変われないままいつまでもいじめられ続けていたかもしれない。

 あの頃のように待ち続けて、何かが変わるのを待つだなんてしていてはいけない。それじゃあ私は弱いままだ。強くなったのなら、強くなったと示すためには行動しなければならない。

 でも、どうやって?

 

「大丈夫だよ秋葉ちゃん」

 

 葵先輩の満面の笑顔。まるで根拠がない「大丈夫」という言葉が、ざわめく私の心を落ち着かせてくれた。

 

「女の子が好きな男の子にアプローチする時はね、強気が鉄則なんだよ」

 

 やけに自信のある言葉だった。たぶん経験が含まれているからなのだろう。

 だけど私は葵先輩のように強気でいられるほどの容姿じゃない。ただの普通の女の子だ。

 

「バカね。好きって気持ちを決めるのはそこじゃないでしょう?」

「そうだよ。それに、秋葉ちゃんには強気で攻められる武器があるじゃない」

 

 武器? 私の武器ってなんだろう?

 疑問が頭の中で駆け回り、思いついてからは早かった。

 

 私の得意なことは漫画を描くこと。これは森田くんがはっきりと「好き」と言って認めてくれた自慢の武器だ。

 そうと決まれば手を動かさずにはいられなかった。

 今まで抱いていた妄想を叩きつけるようにペンを走らせた。描けば描くほどに自分の気持ちが固まっていくのが実感できる。

 下書きまでだけど完成した。私がこうなりたいっていう願望。今の森田くんに対する偽りない想いだ。

 どんな言葉で繕ったとしても、私と森田くんの関係はいじめから始まった。とても苦しくて嫌な思い出。周りはみんな敵なんじゃないかって考えてしまっていたあの頃を、私は忘れることはないだろう。

 だとしても、その関係が改善してからは違った。彼のことが好きになってしまったのだから仕様がない。思うところはある。彼が私のアシスタントをしてくれている理由もわからなくもないし、それを壊したくないとも思う。

 だけど、あの頃の私とは違うってことを、何よりも森田くんに示さなければいけないんだって思った。

 

 睡魔と緊張に襲われながらも、私の想いが詰まった原稿を森田くんに見せた。

 せめてペン入れをしてから見せるべきだったかと思ったけれど、時間が経てば経つほどに恥ずかしくなって見せられなくなってしまいそうだった。尻込みしてしまう前に強気で攻めることにしたのだ。

 案の定、森田くんの表情は強張った。今の彼からすれば、いじめという題材は心をくじるものだろう。

 それでも伝えたかった。私はあの頃のことを今でも忘れていない。そして、許しているんだって。

 でも……これはさすがに恥ずかし過ぎた。今さらになって後悔してしまう。恥ずか死にそう……。

 漫画で告白だなんて私ってばどんだけ染まっちゃっているのか。脳内で悶えていると、ついに森田くんが口を開いた。

 

「俺は――」

 

 続きを待って彼の唇の動きを凝視している時間がスローモーションに感じる。じれったい心を押さえて根気よく待った。

 

 

「――品川が、好きだ」

 

 たっぷりと溜めて、彼はそう口にした。

 その目はとても真っすぐで、いっしょにいる時間が長くなったからこそ、それが嘘からくる言葉ではないことがわかった。

 

「し、品川?」

 

 ちょっと困惑した風な森田くん。どうしたのだろう?

 伸ばされた大きな手に支えられて気づく。どうやら力が抜けてしまったらしく、椅子からずり落ちそうになっていたようだ。

 自分が想っている以上にめちゃくちゃ力が入っていたらしい。緊張の糸が切れてしまえば体も支えられない。なんだか疲れが押し寄せてきてる。頭も体もふわふわしていた。

 でも、森田くんの手のひらから温かさが伝わってきて、少しずつ現実感を取り戻させた。

 

「ほ、ほわぁっ」

「本当に大丈夫か!?」

 

 私の奇声に目を剥く森田くん。

 

「だ、大丈夫……大丈夫ったら大丈夫!」

「お、おう。わかった」

 

 そう、森田くんの返事は間違えようがないものだった。

 

「どわっ!? し、品川?」

 

 爆発したかのように一気に気持ちが高ぶる。我慢ができなくなった私は森田くんに抱きついていた。

 びっくりしただろうに、彼は優しく私を抱き止めてくれた。硬い胸板にすっぽりと収まる。本当に大きい。

 

「好きっていうのはその……友達とか、そういう意味じゃないよね……?」

「……女として、品川が好きだ」

 

 見上げると、森田くんの顔は真っ赤だった。言葉はよどみないのに、恥ずかしくもしっかりと想いを伝えようとする彼の姿に、心が嬉しさで締めつけられる。

 

「俺の気持ちなんて口にするべきじゃないと思ってた。品川と釣り合うわけがないって思ってた。俺はひでえ奴だから。罪悪感でいっぱいで、こんな風に触れられるなんて思ってもなかった」

「私も。森田くんは罪滅ぼしのために私といっしょにいてくれているんだって思ってた。私が少しでも拒絶するような素振りでも見せれば、森田くんはいなくなるんじゃないかって不安だった。今はいっしょにいるのがとても安心できて、幸せなんだ」

 

 お互いを抱きしめ合いながら、心の底に沈めて、取り出そうとすらしなかった想いを伝え合う。

 どちらにとっても楔となっていた過去のこと。その思い出は罪であり、罰であり、繋がりだった。

 だからこそ、あと一歩が近づけなかった。踏み出してしまえば、こんなにもあっけないことだったのに。

 お互いの感情を吐露しているうちに、窓の外は夕焼けに染まっていた。ハチミツ色になった室内。空気にはすでに甘さが混じっていた。

 

「秋葉……、俺と付き合ってくれるか?」

 

 彼の言葉に身震いした。

 いつからその言葉を待っていたのだろうか。はっきりとはわからなくて、わかっているのはそれに対する返答だった。

 

「……うん」

 

 精一杯の勇気を振り絞った頷き。たった一回頷くだけなのに、胸がドキドキし過ぎておかしくなりそう。

 まるで漫画みたい。なんて考えている私は案外余裕があるのかな? それともテンパってるのかな。自分ではよくわからない。

 よくわからないから強気で攻め続ける。

 

「耕介くん……」

 

 ドキドキに身を任せて目をつむる。耕介くんに顔を傾けて、覚悟を決めた。

 戸惑う気配が伝わってくる。それも数瞬のこと。顎をくいと持ち上げられた。

 

「俺はたくさん秋葉に甘えたからな。次は俺が、秋葉を甘やかせてやるからな」

 

 あ、もう無理。

 私と耕介くんの影が重なる。どちらからが先だったのかもわからなくなっていた。

 ただ、一生の思い出になったのは確信できた。

 

 

「ねえ耕介くん」

「なんだ秋葉?」

 

 優しく撫でてくれる彼。私は高ぶった気持ちのまま、笑顔で口を開いた。

 

「高木先輩達よりもイチャイチャしようねっ」

 

 苦笑する耕介くんだったけれど、その表情は私の言葉に同意してくれていた。

 きっと、もう大丈夫。彼も、私も。これからはちゃんと自分の言葉で気持ちを伝い合えるはずだから。

 目標があって、やりたいことがあって、支え合える人がいる。それだけあれば充分。これだけのぬくもりがあれば、力はいくらだって湧き上がるのだ。そういうことを知った日になった。

 

 



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117.まだ大人にはなれない【挿絵あり】

 後日、森田から品川ちゃんとの交際を始めたとの連絡があった。

 わざわざ俺に報告してくるとは律儀な奴め。もちろん祝福の言葉をこれでもかと浴びせてやった。森田は恥ずかしがりながらも嬉しそうにしていた。

 品川ちゃんもこれで良かったのだろうか。とか思っていたら後ほど彼女からもノロケ話を聞かされた。物語を作ることをやっているためか、いちいち表現が生々しい……。男の先輩に言うことじゃないだろという話までされてしまった。

 なんだろうな。今までじれったい関係を続けていたというのに、いざくっついてみれば砂糖をどれだけ入れたんだってほどのこの甘さ。あまりの多さにおすそ分けをお断りしたいほどだ。もうお腹いっぱいですってば。

 

「それを高木くんが言うたらあかんやろ」

 

 ということを佐藤につらつらと話してみれば、真顔でそんな返答をされてしまった。

 まあ……そうだな。自分のことながら、美少女二人と同時に付き合っていながら、後輩相手に惚気やがってだなんて言えないか。

 そうやって少なからずの羨望を向けてしまうのは、後輩カップルの一途な想いがあるからなのだろう。

 いくら好きとはいえ、二つの矢印がある俺に一途なんて言葉は当てはまらない。だからこそ俺に向けられている葵と瞳子の一途な気持ちが眩しすぎるのだが。

 純真で綺麗なものには触れることすらいけないことなのだと考えてしまう。もしも汚してしまったらと考えると伸ばした手だって引っ込めてしまうのだ。

 結局のところ、森田の罪の意識は過去のことばかりではなく、現在の品川ちゃんに対しても存在しているものだったのだろう。夢を目指す姿ってのは人を輝かせるものだ。その輝きを鈍らせてしまったらと考えてしまっても不思議じゃない。

 

 それを感じていながらも踏み出した森田。後輩のそんな姿を見せられると、先輩である俺が足踏みしているわけにはいかないと思った。

 なんだかんだと言いながら、俺は恋人になってなお、葵と瞳子を遠くの存在だと考えていたのかもしれない。だから自分のもとへと引き寄せるのに申し訳なさというか、何か後ろめたいものを感じてしまっていたのだ。

 二人は身近な存在だ。それを忘れてはいけない。いつまでも前世のような気持ちでいてどうするというのだ。

 前世で瞳子とは出会った記憶はないけれど、葵は憧れの存在だった。とても綺麗で遠くて、まさに高嶺の花だったのだ。きっと瞳子も同じような目を男子達から向けられていたはずだ。

 だからと言って今はちゃんと手の届くところにいてくれている。それどころかこっちに手を伸ばしてくれてもいる。前世の俺が見たら絶対に信じられないだろうな。

 いつまでも手を出せないのは、俺が葵と瞳子を神聖視しているからだ。あれだけいっしょにいて、あれだけたくさんの思い出を作っておきながら、同じ世界の住人と思っていなかったのだろうか。そこまでではないにしても、悪い意味で特別扱いしていたのかもしれない。

 森田は自分の認識を変えたのだろう。おそらく森田にとって品川ちゃんは良い意味でも悪い意味でも特別だったはずだ。

 今までの認識を変えるというのは簡単にできるものじゃない。実際に俺は今でも前世に引っ張られているところがあるんじゃないかって思うことがある。変えたいと思って、変えようと行動してきたにも拘わらず、だ。

 たぶん、それは森田も同じで、今回変えたことというのは俺が考える以上に大変だったのかもしれない。

 でも、その結果は品川ちゃんといっしょに幸せそうにしている姿だった。当初、俺が追い求めていた光景そのものだ。

 もちろん後輩二人は互いにこれが初の男女交際だ。このままうまくいって円満に結婚へとゴールイン。という保証なんてどこにもない。

 あくまで学生のうちでの恋人。いや、だからっていつか別れると口にするつもりもないが。それこそこれからの二人のがんばり次第だろう。先輩である俺はどんな結果でも受け入れてやることしかできない。

 なんか頭の中でぐるぐる考えているが、結論を言えば、俺も踏み出す勇気ってやつが必要だろうってことだ。

 そうやって、勝手ながら後輩に背中を押されている自分がいた。後輩カップルは幸せすぎてそんなこと考えもしないんだろうけどな。今度会ったらまた祝福してやるっ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「お帰り葵。あら、俊成くんいらっしゃい」

「お母さんただいまー」

「おばさんお邪魔します」

 

 学校が終わり、帰宅前に葵の家へと上がらせてもらった。

 今日は瞳子は用事で先に帰っていた。まあそういう日もある。二人が俺と二人きりになる日を決めているだなんて、たぶん知らなくてもいいことだ。

 葵のお母さんは高校生の娘がいるとは思えないほどの若々しさがあった。それは瞳子のお母さんにも言えることなのだが、本当に歳いくつだっけ? と思ってしまう。俺の母親と同じくらいのはずなんだけどなぁ。

 

「後でお菓子とジュース持って行ってあげるわね」

「別にいいよー。それくらい私がやるってば」

「いいからいいから。葵は俊成くんをおもてなししてあげないとね」

 

 なんてほのぼのした母と娘の会話を聞きつつ、葵の部屋へと入らせてもらう。当たり前のようにしているけど、高校生の女の子の部屋にあっさり入るのってすごいことなのかも。なんて考えるのはちょっと前世に思いを巡らせたからだろうか。

 

「……」

 

 俺は座ってくつろがせてもらう。葵も鞄を置くと、俺のすぐ横にぺたんと座った。

 互いに気兼ねなくリラックスしている。幼馴染だからこその緩い空気感。けれど、その空気の中にはわずかな甘さを感じ取れた。

 

「トシくん……」

 

 葵が顔を近づけてくる。彼女の美貌は順調に成長していた。前世の時よりも美しく見えるのは俺のひいき目のせいだろうか。それだけじゃない気がした。

 ちゅっと触れ合うだけのキス。そんな軽い接触だというのに胸に広がる幸福感はとてつもなく大きかった。

 朝にも一度しているからこれが今日二度目のキスだった。

 ゆっくりと顔を離す。葵の顔は赤くなっていた。照れながらはにかむ彼女がかわいくて、愛しくてたまらない。

 キスはもう何度もしているというのに、いつも変わらない幸福感を与えてくれる。このドキドキした気持ちが収まる日が来るのか、まるで想像できなかった。

 

「葵ー、俊成くん。お菓子とジュース持ってきたわよー」

「はーい。今開けるね」

 

 ドアの向こう側からおばさんの声が聞こえる。さっきキスしただなんて思わせないようないつもの調子の声で葵は返事した。

 葵がドアを開けると、お菓子とジュースが乗ったお盆を持ったおばさんの姿。部屋に入るとお盆をテーブルの上に置いてくれる。

 

「いつもすみません」

「うふふ、遠慮しなくてもいいのよ。俊成くんは大きくなっても礼儀正しいままね」

 

 その含み笑い気になるんですけど。おばさんの目が面白そうなものを見るようなものになっているのは俺の考えすぎだろうか。

 というか、じっと見つめられている? おばさんの視線は俺を捉えたまま動かない。

 

「おっと、あまり葵と俊成くんの邪魔をしちゃ悪いわね。お邪魔虫は退散させてもらうわ」

「もうっ! お母さん!」

「うふふ。二人ともがんばってね」

 

 おばさんは含み笑いをしたまま部屋を後にした。声を荒らげた葵の顔は上気している。

 それに何をがんばれというのか。しょっちゅう会っているわけでもないのに何かに感づいているような態度が俺を怯ませる。

 

「……」

「……」

 

 おばさんがいなくなったのに、俺と葵は黙り込んでしまった。

 再び二人きりになった葵の部屋。ふわりと漂う彼女のにおいが嗅覚を甘く刺激する。

 せっかく持ってきてくれたお菓子とジュースに手をつけようとは思えなかった。

 静寂に支配され、聞こえるのは自分の心臓の音ばかり。葵に聞こえやしないかと、あり得ないことを心配しているほどに余裕がなかった。

 

「あ」

 

 だからだろう。俺は緊張のまま、焦ったように行動に移った。

 葵の手を掴む。そのまま引っ張ると、彼女は何の抵抗もないまま俺の胸の中へと収まった。

 葵の体温を感じていると緊張はしたままなのに、心が穏やかになっていく。それはきっと相反する感情ではないのだろう。

 

「葵……」

「ト、トシくん? な、なんだか珍しく積極的だね」

 

 固い笑いを零す葵。彼女の唇を指でなぞるとその笑いはピタリと止まった。

 緊張しているのだろう。葵を支えている手から体をこわばらせているのが伝わってくる。

 まあ、緊張しているのは俺も同じなのだが。

 意を決して葵の顔に、自分の顔を近づける。少しだけ彼女が目を見張る。

 俺自身がキスの回数制限なんて言い出しておきながら、それを破ってしまうのは勝手すぎるだろうか。

 でも、もう止まれない。止まるつもりもない。俺は目をつむった。

 

「ん……」

 

 葵と本日三度目のキス。初めて決められた回数制限を破った。

 何もしないことは誠実でもなんでもない。俺が思いやりだと思っていたことは、彼女達にとってはただその場から動かなくなってしまったことと同義だ。だからこそ、球技大会で瞳子は俺を動かそうとがんばったんだ。

 ただ今の関係を維持するために俺達は付き合い始めたんじゃない。むしろ深い関係になって、その上で俺が選べるようにと二人からもらったチャンスのはずだった。

 前世含めて初めて女の子と付き合うことだったり、大切な幼馴染を傷つけたくなかったりと、俺はそれっぽい理由を並べて何も進展させようとはしてこなかった。

 結局、葵と瞳子の二人といっしょにいるのが幸せすぎて、その関係を壊すのが怖かっただけ。やる後悔よりもやらない後悔の方が嫌なんだって、前世で思い知ったはずなのにな。

 

「んっ……ちゅ……」

 

 いつもよりも少しだけ深く。数値として出せば数センチも前進してないだろうが、それでもこの甘くしびれる感覚は段違いだ。

 もっと……、もっと深く繋がりたい。葵を抱きしめて密着する。

 気持ちが高ぶっていく。葵の感触すべてに溺れそうだ。

 もし、これが瞳子相手だったら? また違った気持ちになるのだろうか。

 

「んふぅ……、はぁ……はぁ……」

 

 頭の中で瞳子の顔を思い浮かべた瞬間、俺は葵から唇を離した。

 いくら二人ともが恋人とはいえ、キスしている最中に他の女の子のことを考えるなんて失礼だろ。葵に気づかれないように心の中だけで反省する。

 唇を離したといっても僅かな距離しかない。葵の熱い吐息が俺を興奮させる。

 

「トシくん……」

 

 葵の声のなんと甘いことか。鼓膜を通じて脳を溶かそうとしているみたいだ。

 

「……ごめんな葵。自分からキスの回数を決めたくせに、自分で破るなんて勝手すぎるよな。でも、俺が二人と付き合ってるのは自分の気持ちに正直になるためだもんな。だから、自分から枷をはめるだなんてバカな真似はもうしない。……いいか?」

 

 葵は顔を赤く染めたまま、小さく笑った。

 

「そうだね。本当に、トシくんをどうしてやろうかと思っていたよ」

 

 葵は優しく目元を緩める。けれど、その目の光は厳しく俺を見据えていた。

 

「瞳子ちゃんも同じ気持ちだから、もう一度伝えるね」

 

 そう言ってから、葵は一拍置いて、再び口を開いた。

 

「私も、瞳子ちゃんも、トシくんに傷つけられる覚悟はしているよ。したくないのは後悔だけ。それは私だけじゃなくてトシくんにも瞳子ちゃんにも同じように後悔してほしくないって思っているの」

 

 葵にとって瞳子はただのライバルじゃない。彼女にとっても特別な人なのだ。だからこその正々堂々な言葉だった。

 

「だからね、トシくんがこれからどうするのかっていうのを、瞳子ちゃんにもちゃんと言ってあげて」

 

 葵の体が離れていく。そうしてようやく息を止めていたことに気づく。俺は大きく深呼吸しながら「ね?」と微笑む彼女に頷きで返した。

 人はいつの間にか大人になっていくものだ。だけど、俺が大人になるまでにはまだ時間が必要らしい。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 時間も遅くなってきたので帰宅することにした。

 

「お? 俊成くん来てたんだな」

「お邪魔してますおじさん。って言っても今帰るところですけども」

 

 宮坂家を後にしようと階段を下りた時、ちょうど葵のお父さんと鉢合わせた。どうやらちょうど帰ってきたところのようだ。

 今やおじさんは何百人という社員をかかえる社長だ。かなり忙しいこともあって会うのは久しぶりだった。

 おじさんは俺と葵を交互に見やる。なぜかふっとダンディに笑い、俺の肩をバン! と叩いた。というか力強いって。

 

「俊成くん、いつか機会があったらいっしょに酒を飲み交わそうぜ」

「いや、俺まだ未成年なんですけど」

「わっはっはっ! 細かいことは気にするな」

 

 豪快に笑うおじさんだった。そんな父親に構わず葵は俺の手を引いて玄関へと歩く。

 

「お父さんったら……」

 

 葵の呟きに気づくことなく、俺は大人になるのはまだ遠いなぁと立派な父親に魅せられるのであった。

 

 




チャーコさんがまるぶち銀河さんに依頼してくださりファンアートをいただきました! もらいすぎ? 細かいことは気にするな(感謝でござる)


【挿絵表示】


次回は瞳子ちゃんの番ですね(予告)



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118.これから大人になるために【挿絵あり】

「え? 僕が整体師になった理由だって?」

 

 対面のソファに座っている瞳子のお父さんは俺の質問に目を丸くした。

 

 下校してから真っすぐ瞳子の家へと来た。今日は葵はピアノの稽古なので、瞳子と家デートである。

 その瞳子はといえば、帰宅早々「部屋を片付けるからちょっとだけ待ってて」と言い残して二階へと上がってしまった。葵から昨日俺がキスの回数制限を破ったことを聞いたのだろう。なんとか顔に出すまいと必要以上に仏頂面してたからな。まあ耳が赤いのは隠せていなかったんだけども。

 そんなわけでリビングで待たせてもらっていたわけなんだけども。ちょうど本日は休みなのか、仕事を早く切り上げたのか、瞳子のお父さんがいたので質問をぶつけてみたのだ。それが冒頭の反応である。

 

 おじさんは売れっ子整体師ってやつである。個人でというよりも、いくつか店を持っている。経営は大変らしいのだが、しっかり稼いでいるようなので上手くいっているようだ。

 きっかけは中学時代にやっていた柔道のケガなのだが、綺麗に治してもらってからその技術を会得できないかと教えてもらっていた。

 そんな俺を見てか、瞳子と葵も教わっていた。とくに愛娘である瞳子に教えられておじさんはご満悦だった。

 それはともかくとして、この技術を将来に生かせやしないかと考えた俺だった。漠然とした考えから教えを請うていたけれど、もっと本質的なところを見なければと思ったのだ。

 なぜその職種を選んだのか? 面接があれば聞かれることだろう。それほどに大事なことに違いなかった。

 

「そんなのは、僕に整体師としてやっていけるだけの腕があるからに決まっているじゃないか」

 

 ……ん? なんか思っていた答えとは違うような。

 

「腕、ですか?」

「ああ。稼げる腕さ」

 

 おじさんは力こぶを出すポーズで、ぽんっとその二の腕を叩いて見せる。今の俺の腕の方が太く見えるのは気のせいじゃないだろう。

 

「そうじゃなくてですね。こう、志したきっかけと言いますか……。そもそもやろうって思わないと自分にその才能があるかってわからないじゃないですか」

「ふむ」

 

 いや、「ふむ」じゃなくてですね。

 面接的に言えば志望動機。俺が知りたいのはそういうことだ。何かしらのきっかけ、やりがいなど、本当の意味でやりたいことを仕事に選んだのだとすれば、理由ってやつがあるはずだ。

 おじさんの答えからヒントを得たい。と、思っていたのだが。

 

「僕は手に職ってやつが欲しくてね。そう思った時に、自分ができそうだって思ったのが整体だった。身近にその筋の人がいるってのも大きかったかな」

 

 手に職か……。確かにそれは必要だろう。定年後でも働ける武器になるし、もしもの時があったとしてもなんとかやっていける気がする。

 前世の俺には特別なスキルなんてものはなかった。ただただやるべきことをするだけ。勤勉さだけが頼りの働きアリそのものだった。

 それに不満はあっても、疑問はなかった。自分はやるべきことはやっている。そんな安心感だけが、俺の唯一とも呼べる支えだったのかもしれない。

 でも、今回は違う。考える時間はたくさんある。今まで目にしようともしなかったスキルを得る時間だってある。

 これだけのアドバンテージがありながら、それでも納得できない将来に向かってしまうだなんてあってはならない。なぜかなんてわからないけど、せっかく逆行できたのだ。それに意味があるのだとすれば、そのチャンスを逃すわけにはいかない。

 

「……なぜそんな顔をするんだ?」

「え?」

 

 気づけば瞳子のお父さんが怪訝な顔をしていた。背を預けていたソファから身を起こすと、言い聞かせるような口調で続けた。

 

「俊成くんは力が入り過ぎているように見える。君達の年頃なら、将来だなんてまだまだ力いっぱい考えるようなことでもないだろ」

「でも、将来しっかりした大人になるためには今のうちからがんばるべきでしょ。そのために何をしたいか、どんな仕事に就くか。できるだけ早く決めた方がいいに決まっている」

 

 おじさんは「ふむ」と頷く。娘が関わると周りが見えないくらいの熱を出すが、その目は冷静なものだった。

 

「確かにね。俊成くんの言うことは正しい」

 

 おじさんは肯定しながらも「でも」と言った。

 

「君が言っているのは夢とかやりたいことではなく、誰にでも自慢できるような仕事だろう。どうすれば誰にでも胸を張れる仕事を見つけられるのか。僕にはそれをききたがっているように聞こえるよ」

 

 そう指摘されて息が詰まった。

 何も言い返せないでいる俺を、おじさんは責めることなく優しく続けた。

 

「僕だって最初から整体師になろうとしていたわけじゃない。君くらいの歳の頃の僕が聞けば驚くだろうさ。実際に前は別の仕事をしていたわけだしね」

 

 おじさんはソファから立ち上がり、俺の肩に手を置いた。今では柔道で鍛えたこともあって俺の方ががっちりした体格のはずなのに、その手は大きく感じた。

 

「将来に目を向けるのはいいが、焦るなよ。若いんだから失敗なんていくらでもできるんだからね。貴重な失敗を、無駄にするなよ」

 

 でも俺は……。一度詰まってしまった言葉はなかなか出ようとはしてくれなかった。

 

「と、俊成……。片付け終わったから部屋に行きましょう」

 

 背後からおずおずとした瞳子の声。気づかない間に二階から下りてきていたようだった。

 

「瞳子! 僕はこれからまた仕事に行かなきゃなんだけど少しおしゃべりしないかい?」

「パパ。あたしは俊成といっしょにいるから。仕事がんばってね」

 

 おじさんのさっきまで感じていた威厳はどこへやら。娘から親子の交流を断られて撃沈していた。その落ち込みようには思わず同情を覚えてしまう。

 

「俊成くん……。瞳子がかわいいからって変なことをしたら許さんぞ」

 

 怖ぇよ。まるで地の底から響くような声が俺だけに向けられる。絶妙な声量だったようで、娘さんには父親の嫉妬の声は聞こえていないようだった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 瞳子の部屋に入らせてもらうと、整理整頓された空間が広がった。

 片づけをしたばかりというのもあるのだろう。いや、もともと散らかっているところなんて一度も見たことがないか。そう思うと何を片付けたのかと気になった。

 

「そういえば、着替えなかったんだな」

「え?」

 

 瞳子の格好は帰宅したばかりの制服のままだった。てっきり片付けついでに着替えるのかと思っていただけにちょっと疑問に感じてしまった。

 瞳子は自分の衣服を見るために視線を下へと向ける。それから俺へと視線を戻した。

 

「へ、変だったかしら?」

「別に変だからって意味じゃないよ。俺が勝手に着替えてくるんだろうなって思っただけだからさ」

 

 うん、深い意味はない。

 

「じゃ、じゃあ今から着替えるわっ」

 

 だから瞳子さん? そんなぶっ飛んだ行動をしなくてもいいんだよ?

 しかし瞳子は顔を真っ赤にして制服のボタンに手をかける。ダメだ。このままでは俺の前でストリップを始めてしまう。

 ……それはそれでいいのでは?

 と、邪な思考を振り払い、俺は瞳子の手を取って行き過ぎた行動を止める。

 

「と、俊成っ!?」

 

 急に手を取られたからか瞳子は驚いた表情を見せる。ちょっとどころではなく、パニくっているようだ。

 いつもの瞳子じゃないな。そのまま瞳子を観察していると、彼女は視線を右へ左へと忙しなく動かす。

 ようやく落ち着いてきたかと思えば、俺を見上げ、すっと静かに目を閉じた。

 

「……」

 

 あれ? いつの間にか瞳子はキス待ちの態勢に入っていた。

 そんな彼女の顔を見つめている俺。手を取り……、つまり距離は近い。

 見つめていると瞳子の長いまつ毛がふるふると震えているのに気づく。

 これまで何度もキスをしてきた関係。キス、までしか進んでいなかった。

 俺がキスの回数制限を破ったことは、彼女は葵から聞いている。ずっと進もうとしてこなかった俺がやっと動いたのだと、彼女は知っている。

 今日はずっと緊張を隠そうと仏頂面だったもんな。瞳子は俺が彼女に対してすることを緊張しながらも待ち続けていたのだ。そりゃパニックにもなる。

 たぶん、帰宅して早々に部屋の片づけと言って俺から離れたのは、心を落ち着けたかったからなのかもしれない。それでも緊張をほぐすには至らなかったようだけども。

 

「……」

 

 待ち続ける瞳子。俺は黙って彼女との距離を詰めた。

 

「ちゅ……んっ」

 

 触れ合う唇の感触は、いつもとは違うように感じた。

 顔を離すと青い瞳が俺を見つめていた。素直に綺麗だと思う。

 

「……もっと」

 

 熱い吐息とともに、瞳子から声が漏れる。それは彼女の願望だった。

 

「……うん」

 

 顔が熱い。頭に血が集まっているような、クラクラした感覚でありながら、その頷きはしっかりしていたと思う。

 瞳子の肩を抱き、再び唇を合わせる。多少荒々しくなってしまったかもしれない。心配になって顔を離す。

 

「もっと……もっと、して」

 

 まるで今にも泣いてしまうんじゃないかってくらい、瞳子の目は潤んでいた。

 ああ。やっぱり俺の予想は当たっていた。

 こんなにも満たされることを知ってしまえば止まれなくなってしまう。もっともっと欲しくなってしまう。誰にも、渡したくないと思ってしまう。

 言葉を並べる余裕すらなくなり、ただの本能が俺を突き動かす。

 最初は軽い触れ合いだったのに、深く、もっと深くを求めて何度もキスをした。

 

「もっと、して」

 

 唇が離れる度に瞳子が切なそうに呟く。本能が刺激され、俺は彼女の言葉に従った。

 飽きない。何回繰り返しても飽きない行為だった。

 おそらく、次は葵に今しているくらいの欲望をぶつけるのだろう。それに対し彼女達は喜んでくれる。傲慢ながらも、そうなのだとわかってしまう。

 わかっている。背中を押されているのもわかっている。俺から前に出なきゃいけないのもわかっている。

 それでも、だとしても、俺はそんな彼女達に愛しさとともに、申し訳なさを覚えてしまうのだ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 結局、気づけば一時間以上もの時間をキスだけで過ごしていた。俺と瞳子は互いに正気に戻ってびっくりしてしまった。

 

「えへへ」

 

 素に戻ってから盛大に恥ずかしがっていた瞳子だったが、しばらくすると嬉しさが勝ったのか、にまにま笑顔が止まらなくなっていた。控えめに言って超かわいかったです。

 日が暮れたので帰ることにした。玄関まで瞳子が見送りに来てくれる。

 玄関を開けると、外の空気が肌を撫でる。日が暮れたというのもあるけど、やけに涼しく感じた。

 

「と、俊成……」

 

 俺と瞳子は二人で外に出た。瞳子は俺の腕をぎゅっと抱いた。

 

「い、いつでもキス……してもいいのよね?」

 

 恥ずかしそうに、それでいて期待のこもった眼を向けてくる。

 俺のわがままでどれだけ我慢させていたのかというのを嫌でも理解させられる。彼女は、いや彼女達は、俺が考えるよりもずっと恋人らしくありたかったのだろう。

 彼女達に想われていることが嬉しい。その分だけ、自分に求めるものは大きくならなければならないと思った。

 

「瞳子」

「あ」

 

 俺は腕を振りほどいて瞳子と向き合った。一瞬寂しそうにする彼女だったが、すぐに俺の行動に驚くこととなる。

 壁に手をついて、瞳子の目が瞬く前に強引なキスをした。

 

「ふっ……んんっ」

 

 誰もいないとはいえ、外でこんなキスをするのは否応なく興奮させた。

 突然の俺の行動に翻弄されていた瞳子も、目をつむり応えてくれた。それが嬉しくて、調子に乗ってしまいそうになる自分を抑えるのが大変だった。

 いつまでもこうしているわけにもいかない。俺は瞳子から唇を離した。

 

「……」

「……」

「……」

 

 瞳子と見つめ合っていると、それだけで誘惑されているようだった。

 いやいや、回数制限をなしにしたとはいえこれ以上はダメだろう。帰れなくなっちゃうって。

 

「……」

「……」

「……」

 

 ……なぜだろうか? さっきから気配が一つ多いような気がするんだけど。

 

「……じー」

 

 俺と瞳子以外の気配が声を発した。びっくりした俺達はそろって飛び上がってしまう。

 

「あれ? そのまま続けてもらってもかまいまセンヨ?」

 

 俺達のすぐ傍にいたのは銀髪の外国人だった。というか瞳子のお母さんだった。

 

「まままままま、ママ!? いいいいいつからそこにいたのよ!?」

「瞳子とトシナリが熱烈な愛を確かめ合っているところからデスヨ」

 

 テンパりながらも怒り顔を見せる娘にも動じることなく、おばさんはあっけらかんとしたものだった。

 

「え、えーとですね……」

 

 俺もなんて言えばいいのかわからず、言葉を濁してしまう。おばさんは娘に似た顔を向けて、ばっちーんとウインクした。

 

「モチロン、見なかったことにするので安心デスネ」

 

 いえいえ、お母様に見られた時点で安心なんてものは彼方に飛んで行ってしまいましたよ。

 

「パパには言いマセン。それだけは約束シマス」

 

 それだけが安心材料だった。あのおじさんなら血相変えて俺に詰め寄りそうだもんな。

 

「な、な、な、な、ななな……なぁーーっ!?」

 

 けれど、瞳子には耐えられなかったようだ。彼女の絶叫が、夜空まで響いたのであった。

 

 




前回に引き続きチャーコさんが依頼して、まるぶち銀河さんに描いていただいたイラストを載せさせていただきます。そろそろ爆発する気がしてきますね(美麗なり)


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119.中学時代を振り返る(小川真奈美の場合)

 男女交際という言葉を、中学生になってから知った。

 男子と女子が好き同士になって、恋人として付き合っていく。そういう関係は知っていたんだけど、どうにも堅苦しく感じる言い方があるんだなって思ったものだ。

 

「つまり……あおっちときのぴーは高木くんと男女交際をしているわけですな」

「真奈美ちゃん? いきなりどうしたの?」

 

 私の発言にあおっちが首をかしげる。かわいいあおっちはセーラー服がとても似合っていた。

 私なんてぐんぐん身長が伸びちゃってもう一七〇センチだ。あおっちを始めとした他の子みたいにセーラー服は似合ってない。別に部活で活躍できるから気にならないけど。

 

「で、どうなの? 高木くんと男女交際ってやつをしてて楽しい?」

「……うん。とっても」

 

 頬を鮮やかな朱色に染めちゃってまあ、とっても嬉しそうだこと。……ちょっとだけ羨ましくなるほどに嬉しさが伝わってくるね。

 

「ほうほう。それはようござんしたね……。あんなに小さかったあおっちもすっかり女になっちゃって、このこのー」

「ちょっと真奈美ちゃん。やめてよー」

 

 あおっちの肩を指でつんつんつついてじゃれる。それにしても本当に成長してるね。主におっぱいがね、うん、とくにね。……どうしてここまで差がついたのか。ま、まああれだけ大きいと運動するのに困りそうだからいいんだけどね。うん。

 なんて、あおっちのおっぱいに視線が向いていたのか、考えていたことが気づかれたのか。

 つついていた手をとられて、にっこり笑いながらこう言われてしまったのだ。

 

「真奈美ちゃん。やめようね」

「……はい」

 

 本当に成長したねあおっち。……主に威圧感が。

 

 あおっちときのぴー、そして高木くん。この三人のせいで三角関係ってものは案外良い関係なんじゃないかって思ったものだ。

 恋愛ドラマでの三角関係とは明らかに違っていたから。ドロドロの修羅場なんてものはなく、三人の後ろに花が咲いてそうなくらいの仲良しっぷりである。私が三角関係に疑問を持ったってしょうがないほどだ。

 

 中学生になればみんなそれなりに変わるようで、この三人以外にも浮いた話がちらほらあったりする。

 本郷くんは小学生の頃と同じく女子からキャーキャー黄色い声を浴びているのは変わらないんだけど、なんていうかその声の質が違う感じがする。テレビの中のアイドルに対するものから、実際に手の届く人に向けるものへと変わったような、とでも言えばいいのかな。実際にいろんな女子から告白をされてるらしい。

 そんな微妙な変化よりもすごく驚いたのはあかちゃんだった。なんと彼氏を作ったのである。あおっちやきのぴーならともかく、まさかあかちゃんにまで後れをとるとは……。乙女的な敗北だった。

 その他の人もそれぞれの変化があった。みんな段々と変わってきて、違ってきて、私もそうなっているのだろうかと気にはなった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「てりゃあああーーっ!!」

 

 腕をムチのようにしならせる。振り抜いた先にあるのはバレーボール。私のアタックはナンバーワンだ!

 強烈なスパイクは見事に決まった。コートに叩きつけた大きな音に、我ながら惚れ惚れする。

 

「ナイス真奈美!」

「きのぴーも絶妙なトスだったよ!」

 

 きのぴーとハイタッチする。バレー部での私達はゴールデンコンビなのだ。

 やっぱり体を動かすのって楽しい。気分はスッキリするし、自分だって青春しているんだって思える。

 

「それにしてもさ。きのぴーってなんでバレー部に入ったの? きのぴーならどこの部でも引っ張りだこでしょ」

 

 練習が終わり、更衣室で着替えながらずっと不思議に思っていたことをぶつけてみる。

 きのぴーって小学生の頃に水泳やってたし、それでなくとも運動神経抜群だ。他にいくらでも活躍できそうなのに、なんでバレーなんだろうって思っていた。もちろんそのバレーは大活躍しているんだけどね。

 練習着を脱いだきのぴーがちょっとの間だけ固まった。それから私から顔を逸らす。え、なんで?

 

「……あたし、部活では団体競技をしてみたいなって思っていたのよ」

「ほうほう。でも、団体競技ってバレー以外もあるよね。それこそ同じ体育館でバスケ部も活動しているし」

 

 顔を逸らしたままのきのぴーだったけど、段々と耳が赤くなってきた。肌がとっても白いから赤くなるとすぐにわかるんだよね。

 

「……真奈美となら楽しそうだなって思ったのよ」

「え?」

 

 今度は私が固まる番だった。

 え? 今なんと? きのぴーが言ったことをがんばって思い返す。

 私となら楽しそう? それって……。

 

「きのぴーってば、私といっしょに部活したかったの!?」

 

 待って待ってよく考えろ私。男子の高木くんは柔道部。あおっちは美術部だ。この二人が団体競技を選ばなかったからってことだよね。

 

「べ、別にいいでしょ。真奈美運動できてたし、いっしょにするなら自分と近い能力がある方がいいと思うのは当たり前よ」

 

 なぜかフン、と鼻を鳴らすきのぴー。耳が真っ赤なのは隠せてないけどね。

 

「そっかそっかー。ぐふふふ」

「真奈美、変な笑いをするのはやめなさい」

 

 へ、変じゃないやいっ。

 誤魔化すわけじゃないけど、私はきのぴーに抱きついた。驚きのスベスベな肌が感触から楽しさを伝えてくれる。人の肌に触れて楽しいってことあるんだなと新発見する。

 

「ちょっ!? いきなり何!? やめなさいってば!」

「やめないもーん。私もきのぴーといっしょの部活で嬉しいよぉ。ぐふふふ」

「きゃあっ!? どこを触ってるのよ!」

 

 悪ふざけが過ぎたらしく、この後きのぴーからげんこつをもらうこととなってしまったのであった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「あっ、佐藤くんだ」

「ん? 小川さんも部活終わりなん?」

 

 着替えを済ませたきのぴーと別れる。どうせあおっちと高木くんといっしょに帰るんだろうし、いちいち聞くのは野暮ってもんでしょう。

 そんなわけで一人で帰ろうとしていたところ、佐藤くんとばったり会ったというわけだ。彼もちょうど将棋部の活動が終わったらしい。

 

「部活、ご苦労様だね佐藤くん」

 

「なんやねんそれ」とか言いながら佐藤くんは笑った。佐藤くんらしい柔らかい笑い方。でも、なんだか違うきもする。何が違うかってはっきりわからない。雰囲気とかかな?

 

「小川さんもご苦労さん。ほなちょうどええしいっしょに帰ろうか」

「ジュースおごってくれるんなら、しょうがない、いっしょに帰ってやろう」

「なんで上から目線やねん」

「だって私の方が背が高いもんね」

 

 佐藤くんも背が伸びてきたけど、まだまだ私の方が高い。

 それが悔しいのか、彼は唇を尖らせる。こういう仕草はまだ子供だね。

 

「……成長期がきたら絶対に小川さんを追い抜いたるわ」

「ふっふっふーん。そうできたらいいですねー」

「くぅ~。絶対の絶対! 小川さんよりも僕が背ぇ高くなったる! そしたら――」

「そしたら?」

「……その時言うわ」

 

 ムキになっていた佐藤くんは急に冷静になって先を歩き始めた。からかいすぎちゃったかな?

 ていうか気になる。佐藤くんは何を言おうとしていたんだろ? 教えてくれないかなぁ。

 速足で佐藤くんに追いつく。不機嫌になったように見えて、私がすぐに追いつけるようにしてくれてたみたいにゆっくりとした歩みだった。

 

「そしたらの続きは何よー」

「だからその時になったら言うゆうてるやろ」

 

 そっぽを向かれてしまうと諦めるしかない。くっそー、教えてくれたっていいのにー。

 すっかり暗くなった道を二人で歩く。練習後だとお腹が減ってしょうがない。運動部はハードなのだ。

 どこからかソースのいいにおい。食欲が刺激されてお腹が鳴りそう……。

 

「何かいいにおいしてるよね」

「あそこにあるたこ焼き屋からやね」

 

 佐藤くんが指さした先にたこ焼き屋があった。ああ、視界に入ってしまうと余計にお腹が減ってきた。

 

「食べる?」

「い、いやぁ、今お金ないし……」

「なら今日は僕がおごったるわ。その代わり、今度は小川さんが何かおごってえな」

 

 むむ、空腹には代えられないか。たこ焼きくらいなら晩御飯に影響もないだろうし。私はその提案に乗ることにした。

 

「佐藤くんがそこまで言うならおごられてあげましょう」

「だからなんで上からやねん」

 

 ぶつくさいいながらも、佐藤くんはたこ焼きを買ってくれた。手ごろなところに座ってさっそく食べることにする。

 一口食べて、べちょっとした触感に戸惑う。これは……ま、まあお腹空いてたからそれなりに、ね。ソースとマヨネーズはしっかりかかってるわけだし。

 

「なんやこれ。不味いなぁ」

 

 佐藤くんド直球!? おごられてる手前文句なんて言えなかったてのに。

 佐藤くんは自分の分をさっさと食べ終えると、難しい顔をした。

 

「やっぱりダメやな。焼き方以前の問題や。ここ新しく出した店やったから期待しとったのに、この味ならすぐに潰れてまうやろね」

 

 佐藤くん厳しい。そういえばたこ焼き好きなんだっけ。いつだったか、本人から聞いた気がする。

 

「ごめんな小川さん。これならもっといい店にするんやったね」

「べ、別にいいって。私おごられてる立場だしさ」

 

 確かに微妙とは思ったけど、佐藤くんほどの文句はないし。うん、なんで店の人でもないのに心配してんだろうね。

 

「せや、今度僕がたこ焼き作ったるからうち来いひん?」

「佐藤くん自分でたこ焼き作れんの?」

「もちろんや。前に宮坂さんと木之下さんも食べてくれて美味しいゆうてくれたから女子の口にも合うと思うで。赤城さんなんかたくさん食べてくれたんやで」

「へー、みんな食べてるんだ……」

 

 あれ、なんだろう……。ちょっとだけ息苦しいみたいな感覚に襲われた。

 なぜだろうと考えて、すぐに答えが出た。

 そっか。みんな食べたのに私だけ佐藤くんのたこ焼きを食べてないのがいけないんだ。つまり、私だけ仲間はずれにされてたってことか!

 

「痛っ! って、いきなり叩いたりしてなんやねん!?」

 

 気がつけば佐藤くんの頭を叩いてしまっていた。私の方が身長高いから叩きやすかった……なんて言ったらダメよね。理由はどうあれ手を出した私が悪い。

 私は立ち上がって数歩進む。振り返った時、佐藤くんは困惑顔で、笑えてきた。

 

「人を叩いといて何笑うてんねん」

「今度たこ焼き作ってくれたら許してあげるわよ」

「は? なんで僕が許してもらわんとあかんねん」

 

 とか言いつつも、佐藤くんはやれやれとかぶりを振っただけで許してくれる。なぜかちょっとだけ恥ずかしくなって「ごめん」と言うタイミングを逃してしまった。

 みんなが少しずつ変わっているように、自分も何かが変わっている。そのことに気づくのは、まだ先の話だ。

 

 



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120.まだやれるんでしょ?

 七月。もうすぐ夏休みだ! と、言いたいところだけど、その前にクリアしなければならない問題があった。

 

「ぐおおおおおおおおおおおっ!! 期末テストやべえよぉぉぉぉぉぉっ!!」

 

 そう、学期終わりにある期末テスト。夏休みという楽しみの前に、立ち塞がる壁を打ち破らなければならなかった。

 

「どうしよぉぉぉぉぉぉっ!! テストで赤点取ったら夏の大会に出れなくなっちまうよぉぉぉぉぉぉっ!!」

「うるさいぞ下柳!」

 

 さっきから騒いでいるのは下柳だった。昼休みとはいえ、こんな情けないことを大声でまくし立てていると、嫌でも教室中の注目を浴びてしまう。

 というか赤点取りそうなほどやばいのか? スポーツ推薦で入学した本郷でも赤点を取らないくらいには勉強しているというのに。せっかくレギュラーになったんだからコツコツ勉強しておけばいいのにな。

 

「高木ぃぃぃぃぃぃ!! だってよぉぉぉぉぉぉっ!! 練習で疲れて家で勉強する暇がなかったんだよぉぉぉぉぉぉっ!!」

「ええいっ、落ち着け下柳! まだ慌てるような時間じゃない。テスト期間まで間があるんだから、今からでも勉強がんばれよ」

「無理だよぉぉぉぉぉぉっ!! だって俺授業についていけてねえもん! 先生の言ってることが異次元の言葉にしか聞こえねえもんよぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 

 マジか……。まだ一年の一学期だぞ。しかし下柳の必死な形相からは嘘や偽りではないと告げていた。

 

「しもやんノートはちゃんととっとるんやろ? 授業でここが要点やでーって先生も言うてるんやから、ノート覚えるだけでもけっこう点数取れるはずやで」

 

 佐藤の言う通りだ。ノートの内容を丸暗記するだけで、少なくとも赤点を回避できるだけの点数は取れるはずだ。

 

「甘いぜ一郎。佐藤の読みを甘い方の砂糖にするほど甘いぜ」

 

 さっきまで泣き言ばっかだった奴が急にどや顔になるとなんかムカつくなぁ。しかも全然上手いこと言ってるわけでもないのにこのどや顔。温厚なはずの佐藤のこめかみがピクピクと反応した。

 

「こんな膨大な範囲……、丸暗記できるわけねえだろうが!!」

「お前どうやってこの学校受かったんだよ!」

 

 いっそ清々しささえ感じさせる下柳だった。ちなみに、今年の一年でサッカーでの特待生は本郷だけである。つまり下柳は受験戦争を生き抜いたのだ。……そのはずなのだ。

 

「丸暗記が苦手だろうが、赤点取ったらサッカーの試合に出られないんだろ? なら、やるしかないだろ」

「せやで。しもやんやて勉強がまったくできへんわけやないんやろ。ここは気合入れてがんばりや」

「お前らって真面目だよなー」

 

 なんでちょっとやさぐれた感じになってんの? 下柳は無駄に影を背負った男という雰囲気をかもし出した。本当に無駄だな。

 

「じゃあ下柳は俺達に何を求めているわけ?」

「期末テストの攻略法を教えてくれ!」

 

 とりあえずげんこつしてやった。続けざまに佐藤から脳天チョップ。下柳は倒れた。

 

「あれあれー? 下柳くんいじめて何してるんですか?」

 

 望月さんの声に振り返れば、トイレに行っていた女子三人組が教室に戻ってきたところだった。あ、トイレじゃなくてお花摘みですね。

 

「下柳いじめならあたしも参加したい」

 

 美穂ちゃんが無表情のまま悪ノリすれば、

 

「わたしもシモヤナギをいじりたーい」

 

 クリスが笑顔でそれに乗っかる。

 

「僕もいいですか? とっても楽しそうです」

 

 望月さんは笑いながらシャドーボクシングを始めてしまった。パンチが女の子とは思えないほど鋭い気がするのは気のせいかな?

 

「しもやんモテモテやねー」

「なんか違うっ。俺の中のモテモテ定義がこれは違うと訴えてる!」

 

 下柳もいじられ役が板についたものだ。これもまたムードメーカーってことなのかもしれない。こんなムードメーカーなら俺は遠慮しとくけどね。

 

「で、なんの話をしていたんですか?」

 

 望月さんが小首をかしげながら尋ねる。下柳はいじられていたことも忘れて鼻の下を伸ばした。

 

「俺が赤点取りそうでやばいって話ー」

 

 下柳……、鼻の下を伸ばしながらだらしない声で言うことじゃないだろうに。ほら、望月さんが「こいつ大丈夫か?」って目になってんぞ。

 

「つまり……勉強会したいってことね!」

 

 クリスのテンションが一気に上がる。こういうみんなでやるイベント好きだもんな。そういえば中間テストの時はクリスが助けを求めていたっけか。まあテスト結果はそれなりに良かったみたいだけど。

 

「それだ! 勉強会をすれば俺の学力は上がるはずだぜ」

「その保証はない」

 

 根拠のない下柳に、すかさず美穂ちゃんからツッコミが入る。相変わらず容赦がない。

 

「でも勉強会っていいですよね。前の中間テストでは美穂さんが二位で高木くんが二十位だったわけですから。とっても心強いです」

「あたしアテにされてる?」

「美穂さんは心強いですもん」

「……別にいいけど」

 

 望月さんの純粋な尊敬の眼差しに、さすがの美穂ちゃんも目を逸らしてしまう。わかるよ。純粋な子には逆らえないもんな。

 

「そういうわけでー、みんなで勉強会しましょうよ」

「俺も望月ちゃんに賛成ー。みんな俺を助けてくれいっ」

「わたしもわたしも。なんだかすっごく楽しそうだもの」

 

 望月さんの提案に、すかさず下柳とクリスが乗っかった。この時点で半分の票が入ったことになる。

 

「僕はええけど、高木くんはどないする?」

「うーん……」

 

 佐藤が気遣ってくれているのは葵と瞳子のことだ。試験勉強はいつも二人としてるから。

 

「高木も参加すべき」

「美穂ちゃん?」

「勉強会。高木も参加すべき」

 

 いや、聞こえてますけども。同じことを聞きたかったわけじゃないからね。

 そうツッコむことはできなかった。美穂ちゃんはいつもの無表情ながらも真剣な目をしていたから。

 彼女はすすすーっと俺に近寄る。あまりにも自然な動作だったからか、誰も不自然さを感じなかった。

 

「いつまでも宮坂と木之下を言い訳にしない方がいい」

 

 美穂ちゃんの淡々とした言葉には、俺の目を見張らせるほどの強さがあった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「うん。私も真奈美ちゃんに泣きつかれたところだったからね。たまには別々に試験勉強してもいいんじゃないかな」

 

 休み時間。C組の教室を訪れ、クラスメートと勉強会すると葵に伝えると、そんなあっさりとした答えが返ってきた。

 

「そっか。小川さんもバレー部のレギュラーに選ばれたんだっけ。一年で夏の大会に出られるってすごいな」

 

 しかし下柳同様にテスト結果によってはレギュラーから外される可能性があると。小川さんってわりと下柳と共通点あるんだな。

 

「それに、私だってトシくんに勝ちたいからね。今回はガチンコ勝負だよ」

「ガチンコですか」

「うん。私の本気を見せてあげるよ」

 

 葵は良い笑顔で力こぶを見せた。まあ全然出ていないんだけど、自信があるってのは伝わってきた。

 

「帰りはどうする? 時間を決めて駅で待ち合わせにするか?」

「瞳子ちゃんと真奈美ちゃんがいるから気にしなくても大丈夫。トシくんは私達に気にせず帰ってもいいよ」

 

 大丈夫なのか? そう言われてしまうと却って心配というか、寂しいというか……。

 

「というか瞳子もいっしょに勉強するんだな。瞳子はよくて俺はダメなのか?」

「もうっ。トシくん何言ってんの。それに他の人と試験勉強するって言い出したのはトシくんでしょ」

 

 そうなんだけど、そうなんだけどー……。わっかんないかなこの繊細な男心。

 

「ちなみに、いっしょに試験勉強するのって他に誰がいるの?」

「えっとね、瞳子ちゃんと真奈美ちゃんと――」

 

 挙げられた名前はC組とF組の女子のものだった。男子は一人もいなくて安心してしまった自分がいた。

 

「で? トシくんは私達以外の女子といっしょにお勉強するわけだ」

 

 あら、葵さん良い笑顔だこと。……背中に冷や汗かいちゃったよ。

 

「べ、別に浮気じゃないですよ?」

「そこは心配していないかな。どっちかっていうと……」

「どっちかっていうと?」

「……ううん。なんでもない。お互いベストを尽くそうね」

「あ、ああ……?」

 

 言いかけたことが気になったけれど、もうすぐ休み時間が終わってしまう。葵と別れ教室に戻った。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 放課後。いつものA組のメンバーでファミレスに集まっていた。

 できれば図書室みたいな静かな場所がよかったのだが、絶対下柳が騒ぐからなぁ。人数を考えたら自然と学校近くのファミレスに決定したのだ。

 夕食の時間帯から外れたおかげか、さほど客はいなかった。これなら勉強するのに支障はないだろう。

 

「でよ、この問題の答えはなんなんだ?」

「さっそくかよっ。ちょっとは自分で考えろ」

 

 席に着いて教科書を開いたかと思えば、下柳はいきなり答えを尋ねてきた。もうちょっと自分で解こうとする努力しようか。

 

「下柳。そこは公式覚えれば簡単。まずは繰り返し書いてみて。頭で理解できないなら手で覚えればいい」

「お、おう……」

 

 美穂ちゃんは下柳にノートを開かせて、ひたすら公式を書くようにと指示する。近くでじーっと見つめられているからか下柳は真面目にペンを走らせる。

 

「さすが美穂さん。下柳くんを大人しくさせましたね」

 

 望月さん、驚くポイントが微妙にズレてる。そんな彼女に美穂ちゃんの目がキラリと光る。

 

「望月も見てないで手を動かす。苦手な教科があるんでしょ。わからないところがあったら教えてあげる」

 

 眼鏡をかけながら美穂ちゃんは先生モードになっていた。自分の勉強だってあるだろうに、他の人を教える気のようだ。

 

「ミホは楽しそうね」

「そういうのとは違うんやないかなぁ」

 

 ほのぼのと見守るクリスと佐藤だったが、美穂ちゃんのひと睨みで下柳同様大人しくなった。学業において美穂ちゃんに勝てる者はこの場にはいなかった。

 

「高木もぼーっとしてないで。勉強するなら真面目に、本気で、気合入れてやって」

 

 俺への言葉が厳しいと思ってしまうのは考えすぎだろうか。圧力が違うというか、なんだか凄みを感じる。

 

「な、なんか迫力あるね……」

「むしろ高木はもっとがんばるべき。今よりも昔の方がすごかった。……あたしよりもすごかった」

 

 と言われても美穂ちゃんの学習の伸びは俺以上だ。これでも勉強は前世では考えられないほどやってきたのだ。そんな俺を超えている美穂ちゃんはもともとできる子だったのだろう。

 

「昔のトシナリすごかったの?」

 

 隣のクリスがぽしょぽしょとした小声で聞いてくる。俺は曖昧に笑うことしかできなかった。

 確かに小学生の頃の俺は学業で美穂ちゃんの上をいっていた。けれど、中学にはそれも逆転されてしまい、現在では勝てる気すらしないほど差をつけられてしまった。

 学業だけじゃない。あらゆる分野で自分よりも上がいることを知っている。前世とは違い、立派な大人になろうと努力してきたのに、どんどん俺を超えてくるのだ。最初のアドバンテージはなんだったのかと文句も言いたくなる。

 それでも、俺にアドバンテージがあるのは動かない事実だ。他の人よりも有利な位置にいて、そのまま抜かされていくのをただ指をくわえて眺めているだけってのも、後悔を生み出しかねなかった。

 

 夕食の時刻が近づいてきて、そろそろ混み合ってきたかなというところで勉強会はお開きとなった。

 

「あー、疲れたー。頭使ったってのがわかるぜ。なんかスカーってする」

「しもやんやないけど僕も疲れたわ。でもこの調子なら期末テストはなんとかなりそうや」

 

 下柳が首を回し、佐藤は大きく伸びをする。疲れたとは言うが、二人とも充実感を表情に表していた。

 

「わたしはみんなと勉強できて楽しかったわ! またやりましょうね」

 

 反対にクリスは疲れを感じさせないほどの笑顔だ。みんなで勉強することもそうだけど、ファミレスで勉強するということ自体が彼女にとって新鮮だったのだろう。いつもと違う場所でというだけで気分も変わってくるもんな。

 

「そうですね。美穂さんの教え方はさすが学年二位というのが納得できるほどしっかりしてましたし、高木くんも丁寧でしたよ。僕達の勉強を見てくれてありがとうございました」

 

 望月さんはニコニコと俺と美穂ちゃんに感謝を述べる。美穂ちゃんほどではないが、俺だって少しくらい教えられる程度にはできるのだ。

 

「みんな家に帰ってからも勉強がんばって。期末は範囲が広いから大変だろうけど、要点さえ押さえれば赤点は取らないから。わかった下柳?」

 

「名指しかよ!」と慌てる下柳だった。当然だ。お前が言い出しっぺだろ。

 一段落ついたところで俺達は別れのあいさつをして帰路に就く。下柳はクリスを送り、望月さんは自転車で帰った。

 

「ほな、僕らも帰ろうか」

「そうだな。まだ明るいけどけっこういい時間だからな」

 

 俺と佐藤、それに美穂ちゃんの三人で電車に乗って帰ることとなった。高校になってからこのメンバーで帰るのは初めてだ。

 葵と瞳子は帰り大丈夫だろうか? さすがに女子ばっかりだしそんなに遅い時間まで勉強会しないと思うが……。一応帰りがけに二人の家に寄っておこう。

 そんなことを考えながらガタンゴトンと電車に揺られていた。座る席はなかったけど、朝の混雑ほどではなかった。

 

「高木くん、赤城さん。また明日学校でな」

 

 途中で佐藤と別れると、俺は美穂ちゃんと二人きりになった。家が近いのは俺の方だし、彼女を家まで送り届けなければならないだろう。

 

「……」

「……」

 

 無言で夕日に染まった道を歩く。もともと美穂ちゃんは口数が多くはないので二人だけだとこんな空気になるのは珍しくなかった。

 それでも居心地が悪いわけではない。黙ったままでも気を張らなくていい関係ってのは貴重だと思う。

 しばらく歩くと美穂ちゃんの家が見えてきた。なんだか久しぶりだ。

 

「高木」

 

 別れのあいさつをしようと口を開きかけたところで、美穂ちゃんが先に俺の名を呼んだ。

「どうした?」と言う前に、美穂ちゃんは続ける。

 

「今度の期末テスト、あたしと勝負して」

 

 真っすぐな目が俺を捉えていた。咄嗟に返事できなかったせいで美穂ちゃんの言葉は止まり時を失ってしまった。

 

「高木は今のままで満足してるの? してないよね。もし現状でもいいって言うのなら、あたしがぶん殴ってあげる」

「ちょっ、いきなり何!? なんか物騒だぞ」

「いきなりじゃない。ずっと思ってた。こうやって二人きりになれるチャンスなんてそうないから言わせてもらう。高木はふぬけてる。たぶん宮坂と木之下だってそう思ってる」

 

 何か反論しようとして、でも俺の口は動いてはくれなかった。

 

「あたしには高木がいろんなことを諦めているように見える。宮坂と木之下と恋人になれたから他はどうでもいいの? もう満足なの? それはらしくないと思う」

「らしくないって……俺は」

「高木はもっと一生懸命だった。何事に対しても目いっぱいがんばってた。無理かもしれないって考えちゃうところでも、一生懸命だったよ」

 

 美穂ちゃんは何かを振り返るように言葉を重ねる。それは今の俺と、昔の俺を比較しているようだった。

 

「だから、今度の期末テストであたしと勝負して」

 

 何が「だから」なんだ。そう言い返せていれば、この話はなかったことになるだろう。

 でも、美穂ちゃんの目はあまりにも真っすぐだったから。今の俺は全然足りていない。そう言われているようで……いや、事実そう言われているのだ。

 このままの俺では葵と瞳子と釣り合う男ではない。こんなところで限界を感じているようでは、才能豊かな二人とは釣り合いがとれない。

 そんなことはない。そうやって否定するために、俺は美穂ちゃんとの勝負を受けるのだった。了承した俺に、美穂ちゃんは満足そうに頷き返してきた。

 

 



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121.もっと……

 期末テストで美穂ちゃんと勝負することになった。前回の中間テストで学年二位だった美穂ちゃんと、である。

 彼女に学力で勝てていたのは小学生の頃の話。今となってはかなり差をつけられてしまったものである。正直勝てる気がしない。

 だけど、と。あの時の真っすぐな目を思い返す。

 厳しい目だった。そしてそれ以上に優しい目だった。

 美穂ちゃんは俺が立ち止まっているのが許せなかったのだろう。今のままでいいのかと、そんな不満を本当に抱いていないのかと問いかけられたみたいだった。

 

「よしっ、やるか!」

 

 俺は机に向かい、活を入れてから勉強を始めた。

 学業は学生の本分だ。何もわかっちゃいなかった前世では勉強なんて社会に出てしまえばそう役に立つものでもない。そんな風に考えていたくらいにはバカだった。

 これからの勉強はとくに進学や就職に大きく関わってくる。それがわかっていなかった子供の時分とは違う。コツコツやってきたことは身になっているはずだ。

 ……それでも足りていない。知らず満足していた俺はそのことに気づけていなかった。

 これからの成果が将来に関わっていくというのなら、将来俺と結婚してくれる相手にも関わってくるということなのだ。

 恋人が二人もいて、それで終わりじゃないだろう。

 確かに結婚は俺の目的だ。でも、それがゴールじゃない。相手すらよく考えていなかった時なら終着点だと疑わなかったけど、それからも人生は続いていくし、自分だけじゃなくて相手にも幸せであってほしいと思う。

 俺の怠慢で不幸せにしてしまったとしたら、後悔なんてしてもしきれないだろう。人生をやり直している今そのものが奇跡だというのに、それを棒に振ってしまうほどバカなことはない。

 前世で怠けた分は今取り返す。そういう心積もりじゃないとダメだ。前よりもできた、無難にできたからって満足してどうするよ。

 

「……もう十一時か」

 

 飯を食ってすぐに試験勉強に取りかかっていたから風呂にも入っていない。さすがに風呂に入らず明日学校には行けない。なんというか……葵と瞳子の彼氏として。

 

「さて、続きやるか」

 

 そんなわけで、風呂から出て明日の準備もろもろを終えると日付が変わっていた。いつもなら寝る時間である。

 体の成長のためと言って、夜更かしはあまりしないようにしてきた。高校受験の時だってそれは変わらなかった。

 でも、美穂ちゃんに勝とうというのならこれくらいの無理をしなきゃだ。いや、無理でもなんでもないか。今まで余力を残しすぎただけだ。

 見て、書き写して、声に出して読み上げる。そうやって脳に刻みつけながら、夜は更けていった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「俊成ってば今朝は一段と眠そうね」

「本当。トシくん何かあったの?」

「うん……。遅くまでテスト勉強してたから……」

 

 慣れない夜更かしをしたせいか眠たくてしょうがない。意識がまだ覚醒していないせいで葵と瞳子の顔がぼやけている。というかまぶたが重い……。

 

「ぐぅー……」

「ちょ、ちょっと俊成っ。ちゃんと目を開けて歩きなさいよ!」

 

 何かに腕を掴まれる。学校に行かなきゃという思いで足を動かす。

 

「って、止まらないし。こ、このまま支えてなきゃいけないのかしら」

「瞳子ちゃん重いでしょ。私もトシくんを支えるの手伝うよ」

 

 両方の腕からほわほわした感触がする。おぼろげな意識のまま足を動かし続けた。

 

「……はっ!? こ、ここは?」

「ここは一年A組の教室やでー」

「あれ? 佐藤……?」

 

 なんで佐藤がいるんだ? そもそも俺はいつ自分の席に着いたんだ? 葵と瞳子といっしょに学校に向かっていたところまでは覚えているんだけど……。

 

「……その様子やと高木くんは何も覚えてないんやね」

「覚えてないって、何をだ?」

 

 そんなとぼけた返事をした俺を見て、佐藤はため息を吐いた。そうしてため息の理由を教えてくれた。

 佐藤が言うに、寝惚けたままだった俺は、葵と瞳子に両側から支えてもらいながら教室に送り届けられたらしい。傍目から見ればクラスメートの男子が両手に花を持って登校してきたということだ。しかもどっちも負けず劣らずの美少女である。

 そんな話を聞けば嫌でも目が覚める。

 

「み、みんなどんな反応してた?」

 

 怖くて周りを見られない。クラスメートから視線の集中砲火を浴びているのではと思うと顔に血が集中しそうだ。

 

「そこまで騒ぎにはなってへんで。クリスさんがめっちゃフレンドリーに話しかけとったおかげでそんなに勘繰られへんかったよ。まあ宮坂さんと木之下さんが高木くんの幼馴染ってのはクラスのみんなにばれてもうたんやけどね」

 

 目立つクリスに普段から接していたおかげで、二人に世話をかけてしまったのも「目立つ人に縁があるのね」という認識だったのだろうか。どっちかといえば幼馴染というのが納得できたのか。とりあえずやっかみの視線はなさそうだった。

 そのクリスはなぜか葵と瞳子といっしょに教室から出て行ったらしい。俺抜きでも女子同士の友達関係があるだろうし、詮索はしないでおこう。とりあえずクリスにはお礼を伝えたい。

 

「まあ……約一名高木くんの幼馴染に納得できひんって男子がいるんやけどね」

 

 佐藤があごだけで指し示す方向に顔を向ける。教室のドアの先、下柳が顔半分だけ出して睨んでいた。

 何その距離? 睨まれるのは下柳の性格上わかるつもりだけど、なぜにドアのところにいるのか。出入りする人の邪魔になるでしょうに。

 

「下柳くん、そんなところにいたら邪魔ですよ。僕が教室に入れないじゃないですか」

「はっ!? ご、ごめんよ望月ちゃん! でもこれには深ーいわけがあるんだっ」

 

 案の定、ちょうど登校してきた望月さんの妨げになった。

 

「まったくもうっ、そんなところにいるなら僕の邪魔にならないようにだけ気をつけてくださいよ。僕が通った後なら好きにしてくれて構いませんから」

「で、でもさー……高木がさー」

 

 望月さんはぷりぷりとかわいく怒りながら教室へと入る。下柳は謝りながら追いかける。力関係がはっきりしてんなぁ。

 望月さんが席に着いたあたりで下柳がこそこそと話し出す。チラチラと俺を見ながらなので、聞こえてなくても内容は想像できた。

 

「それ……、試験勉強よりも大切ですか?」

 

 話を聞き終えたらしい望月さんは不機嫌度を増したようだった。たぶん下柳は同調してもらえるとでも思ったのだろう。わたわたと焦っていた。

 

「だ、だって高木は女の子をはべらせて登校してきたんだぜ? 学生としていけないことなんじゃねえのか。つーか羨ましい!」

「二人は高木くんの幼馴染ですよ。僕、三人で電車に乗って学校に来るのを知ってますし。仲良しなのは当たり前じゃないですか」

「お、幼馴染といっしょに登校……。くっそー! 幼馴染はなんでもありかよっ!!」

 

 なんでもありじゃないですよ……。とにかく俺は葵と瞳子に迷惑をかけてしまった。二人ともクラスで何か言われてなければいいけど……。

 

「それにしても、高木くんが朝から眠そうにしてるやなんて珍しい。何かあったん?」

 

 真剣な親友の顔をみて、どうやらいらない心配をかけてしまっているようだと今さら気づかされる。

 

「そんなに心配される理由じゃなくてだな……、試験勉強してたら寝るのが遅くなっただけなんだよ……」

「ほんまに?」

 

 俺の返答に佐藤は目をパチクリさせる。そんなに驚かなくてもいいだろうに。

 

「だって高木くんて今までテストゆうたかて遅うまでは勉強せえへんかったやん。テストは普段勉強してる分の実力を出せばええとかなんとか……。早寝早起きが高木くんのモットーやったんとちゃうん? ほんまに何があったんや!?」

「だから驚きすぎだろうが! 俺は健康第一主義ってわけでもないんだぞ。……まあ健康は大事だとは思ってるけどさ」

 

 それに俺の中の一番は葵と瞳子である。一番なのに二人いるって矛盾してる? 全然矛盾してませんけど?

 

「ちょっと、今回のテストは勝負しててな……」

 

 そう言って佐藤から視線をずらすと、眼鏡をかけて勉強モードの美穂ちゃんが映る。俺は負けてられんとノートを取り出した。

 美穂ちゃんの方が学力が上だ。それでも努力を惜しむ様子すらなく、本気で取り組んでいるというのがひしひしと伝わってくる。今時点で負けている俺が努力しないでどうするというのか。

 

「勝負て、もしかして赤城さんと? それでやる気になっとるんやね。……高木くん? あかん、聞こえへんくらい集中しとる」

 

 目をかっぴろげて目に映る情報を自分の脳に擦りつけてやる。地道に、確実に。そうやって覚える作業を繰り返した。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 期末テストの日まで、俺は寝る間も惜しんで勉強した。

 もちろん授業中に居眠りなんかしていない。下柳みたいに船を漕ぐなんて醜態はさらさなかった。

 放課後の勉強会もきっちりとこなした。むしろ自分では思いつかなかった理解の仕方があって勉強になった。人が集まると勉強方法一つとっても違いが出るものなのだと気づかされる。

 帰宅してからも勉強だ。根をできるだけ詰め込んでいく。長時間書き続けていると疲れてしまう。そうなったら左手で書くようにして休憩時間をできるだけ減らした。無駄に器用になっていた。

 

「おはようトシくん」

「おはよう俊成」

「葵、瞳子。おはよう」

 

 朝になれば眠気なんてもう見せない。勉強に全力を注いではいるけど、男として情けないところは見せられない。……二人に支えられながら登校するだなんて恥ずかしすぎるし。

 最初は慣れない生活習慣に苦労したけど、三日もすれば慣れてくるものである。これは今まで体力をつけられるようにと鍛えてきたからこそなのだろう。あとは若さか。若いって本当に財産だな。

 

「……」

「あ、葵? 俺の顔に何かついてるか?」

 

 葵がじっと俺の顔を見つめる。なんだろうか? とか思っていると頬をつんつんされた。

 

「やっぱりちょっと眠そうにしているからさ。……でも、トシくん気合入れてがんばってるんだもんね。休んで、なんて言えないなぁ」

「あ、あはは……」

 

 めちゃくちゃ勉強しているってことは顔や態度に出さないようにしてきたつもりだけど、けっこう疲れが出ていると見破られてしまったらしい。

 

「俊成だけじゃないわよ。あたし達だって気合入れて勉強しているんだから。期末テスト、楽しみにしてなさいよ」

 

 瞳子が胸を張る。そういえば瞳子と葵はずっと女子グループでの勉強会を続けている。彼女は根拠のないことは口にしない。とすれば、彼女なりの自信があるのだろう。

 

「俺だって自信があるからな。今回は瞳子にも勝ってやるさ」

「言ったわね。あたしだって負けないわよ」

 

 美穂ちゃんだけじゃない。瞳子にも負けっぱなしだったからな。いつまでもそれをよしとはしていられない。

 

 そうやって過ごしているうちに、テスト当日がやってきた。かつてないほどのやる気を漲らせて問題へと挑むのだった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「あー、やっとテスト終わったねー。なんだか気分がスッキリするよ」

「ああ……」

「疲れちゃったし、気分転換にどこか行かない? ね、俊成」

「ああ……」

 

 やっと……、やっとテスト期間が終わった。

 最後の科目が終わった瞬間、一気に疲労が体を侵食してきた。正直今にも倒れてしまいそうだ。

 

「……」

「……」

「……ん? 二人ともどうしたんだ?」

 

 気がつけば葵と瞳子が眉を下げながら俺を見つめていた。その表情で察せられた。自分の意識が朦朧としていたのだろう。

 また心配をかけてしまったか。俺は取り繕おうと口を開こうとするが、少しだけ遅かったようだ。

 葵と瞳子は俺と距離をとって二人だけでこそこそと小声で話し合う。「疲れてるんだよ」「休ませなきゃ」「リラックスよ」「誘えばいいのね」とかなんとか。ぼーっとしている頭だと断片的にしか聞き取れなかった。

 

「トシくん。テストも終わったからさ、私の部屋で遊ぼうよ」

 

 そう言って葵は俺の腕をとった。

 

「久しぶりにマッサージの練習相手になりなさいよ。最近勉強ばっかりしていたから体がなまっちゃったわ」

 

 瞳子は逆の腕をとる。そのまま二人に引っ張られるようにして帰路に就いた。

 

 葵と瞳子との時間が減っていたせいで、こうやって葵の部屋でのんびりくつろぐだなんて久しぶりに思えた。

 彼女のにおいと、クーラーの涼しい風がとても心地良い。帰宅してすぐに葵が飲み物を持ってきてくれたし、なんとも尽くされているみたいだ。

 

「暑かったし汗かいてるでしょ。あたしが背中を拭いてあげるわ」

「え、いや、自分でできるってば」

 

 瞳子がタオルを手ににじり寄ってくる。それはさすがに尽くされすぎではないでしょうかっ。

 

「素直に任せなさい。それとも何? 汗かいたまま葵のベッドで横になる気?」

「うっ……」

 

 そうだった。これから瞳子のマッサージの練習台になるのだ。葵の部屋なので、もちろん彼女のベッドを使わせてもらうことになる。瞳子の言う通りだ。俺の汗を葵のベッドに染み込ませるわけにはいかなかった。

 

「お、お任せします」

「よろしい」

 

 上を脱いで瞳子に背中を向ける。「うひゃあ……」という葵の奇声が聞こえたが、背中にタオルが接触した瞬間に頭から飛んで行った。

「んしょ」と小さく力を入れる声。俺の背中を拭いてくれている瞳子の声だ。その吐息が素肌の背中に当たって、なんだか落ち着かなくなる。

 だいぶ汗をかいてしまっていたようで、瞳子の拭く手が何度も往復する。あのままだったら汗が冷えて風邪を引いていたかもしれないな。

 瞳子に身を任せる。力を抜いていると、鼻孔をくすぐる香りが気になった。

 

「ん? このにおいは?」

「ふふふ、アロマだよ。この間お父さんがお土産にってくれたの」

「へぇ、良い香りだな」

 

 でも、葵のにおいに満ちたこの部屋のにおいそのままが良かったなぁ、だなんて口にしようものなら変態みたいなものだ。不用意な言葉は口にしちゃいかん。口は災いの元とも言いますし。

 

「ひゃんっ!?」

「な、何よ俊成っ。変な声出さないでよっ」

 

 わきからするりと出てきた瞳子の手が俺の胸をくすぐる。いや違う。その手にはタオルが握られていた。どうやら前も拭いてくれるつもりだったようだ。

 

「い、いやいや! 背中だけで充分だよ。あとは自分でやるからさ」

「でも」

「でもじゃなくてだな。最初背中を拭くって言ったじゃないか。背中だけでいいって」

 

 なかなかタオルを渡してくれなかった瞳子だったけど、なんとか言葉を重ねて説得に成功した。渋々タオルを渡す彼女に、なんで俺は我慢してしまったんだろうかと後悔した。

 

「汗拭いたら着替えてね。はい、これトシくんの着替え」

「おう。ありがとな葵」

 

 自然に受け取ってから、はてと首をかしげる。

 

「俺、葵の部屋に服置いてたっけ?」

 

 暑い時期らしく薄めの部屋着だ。しかしこんな物を持っていただろうかと記憶を探るが、思い出せはしなかった。

 

「もしもの時のために準備していたんだよ。ね、瞳子ちゃん」

「あ、あたしに振らないでよっ」

「まあそのもしもの備えがあって助かったよ。ありがたく着させてもらおうかな」

 

 上半身を拭き終えて二人を見る。どちらとも目が合い、しばし見つめ合う。

 

「えーと……俺着替えたいんだけど?」

「はっ!? ご、ごめんなさいね俊成。ほらっ、葵も行くわよ!」

 

 瞳子が葵を引きずりながら部屋から出て行ってくれた。まあ女子の部屋で着替えるってのも変な気分だな。俺が退出すべきだったか。

 ズボンを脱いで下半身もタオルでごしごしする。汗を吸収したシャツなんてちょっと重たく感じる。着替えがなかったら葵のベッドは使えなかったな。

 

「もういいぞー」

 

 着替え終えてからドアに向かって声をかける。すぐそこで待っていてくれたのだろう。間を置かずにカチャリと音を立ててドアが開かれた。

 

「じゃあさっそく始めましょうか。俊成はベッドに寝てちょうだい」

「瞳子先生、よろしくお願いします」

 

 三人そろって小さく笑う。この空気そのものが、溜まった疲労を癒してくれた。

 ベッドにうつ伏せになる。葵がいつも就寝しているベッドだ。甘くてとろんとするにおい。まぶたが落ちていく。

 

「リラックスしててね」

 

 瞳子にまたがられ、背中を繊細な手で揉捏される。気持ち良くて、彼女が制服姿のまま施術しているだなんてあまり気にならなかった。

 ああ、とても良い……。次第に意識は遠のいていく。それがとても安心できて、俺は彼女に身を任せた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「ふわ~……。あれ?」

 

 目が覚めると部屋は暗かった。とっくに日は暮れているようだった。

 俺はなんで寝ているんだ? と記憶を巻き戻してみる。はっとして状況を確認すれば、布団をかぶってのがっつりお寝んねモードだった。

 これは……やってしまったな。

 おそらく瞳子のマッサージで気持ち良くなった俺は、試験勉強での睡眠不足もあって眠ってしまったのだ。気を利かせた葵と瞳子は俺に布団をかけてゆっくり眠れるようにと静かにしてくれていたのだ。

 だからってこんなにぐっすり寝ちゃうだなんて……しかも葵のベッドで……、俺のバカ。改めて葵と瞳子の優しさに胸を詰まらされる。

 

「あっ、トシくん起きたんだね」

 

 ドアの開く音に顔を向ければ、葵が部屋に入ってきた。俺が寝ている間に部屋着へと着替えたみたい。……この部屋で着替えたわけじゃないよね?

 

「ごめん! 思いっきり寝ちゃってた」

 

 俺が慌ててベッドから下りようとすると、葵は「いいよ。ゆっくりしてて」と優しく押しとめる。浮かしかけていた腰が再び柔らかさに受け止められる。

 部屋は暗い。廊下の明かりが入ってくるだけの頼りなさ。そんな中でも、葵が優しく笑っているのはわかった。

 

「トシくんがんばってたからね。今日は特別、だよ」

 

 その笑みが優しすぎて、目を逸らしてしまう。直視するにはあまりにも綺麗すぎた。

 

「と、瞳子は?」

「暗くなる前に帰ったよ。今日は送ってくれなくていいからしっかり休みなさいよ、って瞳子ちゃんからの伝言」

「そ、そっか」

 

 だいぶ気を遣わせてしまったようだ。なのに嬉しいと思ってしまう俺は重症だろうか。

 

「明日は学校休みだし、このまま泊まってく?」

「そ、それはさすがに……。遅くなっちゃったしそろそろ帰るよ」

「それは残念」

 

 葵の笑みが悪戯っぽくなる。直視しても問題なさそうだ。

 ふぅ、と安堵が零れた。その時、頭を撫でられる感触にピクリと指先が震えた。

 

「トシくんすごくがんばってたもんね。だから私達ね、もっとがんばりたいって思ったよ」

 

 何を、と。そう聞くのはずるいだろうと口をつぐんだ。

 だから、そのまま自分の想いを返せばいい。

 

「もっとがんばるのは俺の方だ。もっと素直に、もっと単純に、もっと……がんばるよ」

 

 葵は俺の頭を撫でながら優しく笑うだけだった。直視できないほどの美しさを、真っ向から受け止めた。

 

 期末テストの結果は週明けに発表される。そこで俺のがんばりの結果、美穂ちゃんとの勝負の結果が出る。

 やるべきことはやった。もっとやれるんだと知れた。だからこそ、結果発表を心待ちにする。そういう気持ちがまだ俺の中にあるようだった。

 

 



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122.そわそわの結果発表

 週明けの月曜日。期末テストの結果が発表される日でもある。

 ただの発表日ではない。俺と美穂ちゃんの勝負の結果が出る日でもあった。俺の努力がどこまで通用するのか楽しみだったのだ。楽しみったら楽しみだったねっ。

 順位表が貼り出されるまで教室で大人しく過ごす。瞑想でもできたら心が穏やかになるのだろうか。今すぐ試してみたい気分だ。

 

「高木くん、なんだか落ち着いとるね」

「まあ、な」

 

 嘘である。表面上は落ち着き払っているが、心中ではそわそわが止まらない。早く順位表を発表してくれぇっ! と叫びたい気分だ。

 

「しもやんも落ち着いとるし。なんか僕だけハラハラしとるみたいや」

「ふっ、一郎もまだまだだな」

 

 なぜかキメ顔の下柳。こいつはなぜこんなにも余裕をかましてんのか。そんなに自信があるのか?

 

「赤点回避。それが達成できれば、俺は文句なんて何一つないぜ」

 

 つまり赤点ではない自信だけはあるらしい。下柳に順位は関係ないだろうな。

 

「何言ってるの。下手な点数取ったら、あたしが下柳に教えた分の時間を返してもらう」

 

 突然背後から現れた美穂ちゃんに下柳は飛び上がって驚いた。俺も声を聞くまで気づかなかったぞ。忍者かよ。

 

「ま、待ってくれよ。時間を返すなんてできないだろ? 冷静に考えるんだ赤城ちゃん。返せないものを返してもらうなんてできないって。な? 俺間違ったこと言ってないだろ」

 

 途端に焦る下柳。あいつ勉強会で美穂ちゃんに散々お世話になってたからなぁ。彼女の瞳がキラリと光った。

 

「下柳の時間をもらってもいいんだけどね。そこまで言うなら時間以外のものでもいいよ。とりあえず貸しにしておいてあげる」

「か、貸しっすか?」

 

 下柳は不穏な単語に後ずさりする。美穂ちゃんの口角がほんのちょっぴり上がっていた。どうやら追い詰めて楽しんでいるみたいだ。

 

「そうですよ。下柳くんのせいで美穂さんに教えてもらう時間が減ったんですからねっ。僕達も被害者ですよ。その分も貸しにしておきますからね」

「そーだそーだ! 責任取れシモヤナギー!」

 

 美穂ちゃんに乗っかるように、望月さんとクリスも下柳いじりに参加する。とくにクリスは完全に面白がっているだけだ。勉強会ではほとんど俺に頼っていたでしょうに。

 やいのやいのと騒ぐ。そんなのを眺めているだけなのに、少しだけ気分が穏やかになっていく。これも日常か。

 そんな中で美穂ちゃんがこっそり近づいてくる。動きに無駄がなさすぎて耳元で話しかけられるまで気づかなかったほどだ。

 

「高木も。あたしに負けたら罰ゲームだから」

「ば、罰ゲーム? 聞いてないんだけど」

「勝負事なんだから罰ゲームは当たり前。今言ったから知らないなんて言い訳も許さない」

 

「えぇー……」と情けない声を上げたところで後の祭り。思い返せば美穂ちゃんは確かに最初から勝負と口にしていたのだから。敗者は勝者には逆らえないのである。

 ええいっ! 今回はこれまでで一番と言っていいほどできた自信があるのだ。負けることなんて意識するな。どっちにしろ結果はもうすぐ出る。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 ついに……、順位表が貼り出された!

 こうして順位表が発表されるのは二度目だ。前回と違うのは、前情報によってある程度上位を予想できることだろう。自分でなくとも知っている名前があると探してしまうものだ。

 

「あっ、美穂さんの名前ありましたよ! 一位ですよ一位! わあっ、すごいすごい!」

「マジかスゲー! 赤城ちゃん前よりも順位上げんのかよっ! トップなんてすごすぎるぜ!!」

「……うん」

 

 望月さんと下柳がはしゃいでいる。美穂ちゃんはといえば控え気味なはにかみ顔で照れていた。この瞬間、勝負は決した。

 ……なんて早い決着なんだ。しかしこれは美穂ちゃんのがんばりの結果だ。本当にすごいとしか言えない彼女に、俺は賛辞を贈るだけだ。

 一位となった美穂ちゃんに勝つことができない以上、彼女の勝利は揺るがない。それで俺の順位はといえば……。

 

「あっ! トシナリの名前があるわ。ほら、あれ、あれだってば!」

「ほんまや! 学年五位やなんてすごいやないか!」

「そ、そうかな? ……へへっ」

 

 順位表の中に俺の名前を見つけたクリスと佐藤が盛り上がる。胴上げでもされそうな勢いに、ちょっと謙遜交じりに返してしまう。

 五位……、五位かぁ……。中学以来の一桁順位に意識しないようにしても顔がほころんでしまう。

 前回二十位なのを考えれば大躍進ではなかろうか。がんばれば高校でだって通用する。この結果に、俺の中でそんな自信が芽生えたのであった。

 

「トシくん何位だったのー?」

「もちろん順位を上げているんでしょうね?」

 

 遅れて葵と瞳子がやってきた。まだ知らない二人に俺は自分が学年五位になったことを教えてあげたのだ。どんなもんだいと胸を張るのを耐えるのが大変だった。

 

「えっ!? ご、五位!? そんなにあがっちゃったの……?」

「あら、本当みたいね。あたしは六位で俊成が五位……。ふふっ、並んじゃったわね」

「わ、私は……じゅ、十四位? 上がったけど~……!」

 

 葵も瞳子も気合入れたとの言葉通り、きっちり順位を上げてきた。さすがである。……でも嬉しがるところと悔しがるところがズレてるのは気のせいかな?

 それに、瞳子に勝てるとはな。美穂ちゃんには負けてしまったものの、これは嬉しい結果だ。

 

「高木くんもやけど、木之下さんと宮坂さんもさすがやね。当たり前みたいに上位におるんやもん。僕なんかは全然やわ」

「わたしだって自信あったのにーーっ! わたしの名前は入ってなかったわ! トシナリも、ミホも、アオイも、トウコも。みんなおめでとう!」

 

 佐藤からはほんわかと褒められ、クリスは自分が三十位以内に入っていなかったことに悔しがりながらも、俺達にお祝いの言葉をかけてくれた。

 

「高木」

「うん。俺の負けだね」

 

 美穂ちゃんが話しかけてきたので、すかさず自分の負けを認める。まあ認めるも何も目の前の結果がすべてなんだけどね。

 

「ほら、やればできるじゃん」

「え?」

 

 てっきり勝ち誇っているのかと思いきや、美穂ちゃんは優しく称えるような声色でそんなことを言う。俺はといえば予想外の反応に呆けにとられてしまっていた。

 

「むしろここまで伸びたことにびっくり。まだまだ高木は自分のことをわかっていなかったってことだね。成長の余地あり、ってね」

 

 俺に勝負を仕掛けておきながら、その実、勝ち負けは重要ではなかったらしい。

 彼女は俺の尻を叩いてくれたのだ。もうやるべきことはやったのだと、そんな諦めみたいな満足に浸っている俺に、それは錯覚なのだと伝えたかったのだろう。

 そのことに気づくと、胸の奥から感謝が湧き上がってきた。

 

「ありがとう美穂ちゃん。俺と勝負してくれてさ」

「うん?」

 

 なぜだかよくわかってないような「うん」だったので、俺はさらに言葉を重ねる。

 

「美穂ちゃんは俺に物事をもっと本気で取り組めって、勝負を通して伝えてくれたんだよな。俺が葵と瞳子に負けないくらい立派な男になれるようにってさ」

 

 そう口にした瞬間だった。

 無表情ながらも感情を表していた美穂ちゃんの顔から、表情が消えた。

 

「……あたしが、いつ、そんなことを言った?」

 

 いきなりの剣呑な空気に、俺は思わず凍りついたかのように息を止めてしまった。

 いつもの彼女じゃない。それはちょっとへそを曲げてしまっただとか、そんな軽いものではなかった。

 

「み、美穂ちゃん?」

 

 絞り出すように名前を呼ぶ。空気はもとに戻るどころか余計に冷え込んでしまった気さえした。

 

「……」

 

 無言の時が流れる。雰囲気も相まってか、本当に時でも止めてしまったのではないかという錯覚に囚われそうになる。

 

「……あたしは関係ない。だから、あたしが高木達にしてあげられることなんて何一つないし、できることなんてただの一つもない。そのつもりもない」

 

 雑踏に紛れてしまいそうな小さな声だった。なのに俺にはしっかりと届いていた。

 

「高木、勘違いだけはしないで。あたしは高木達の味方になるつもりはないから」

 

 重ねられた言葉は、きっと彼女の本心なのだろう。本心だからこそ、美穂ちゃんが言いたかったことの一端を掴めそうな気がした。

 俺はきっと勘違いをし続けていたのだと。ようやく思い至った。

 

「……ごめん」

「いい。罰ゲームを受けてもらえればね」

「え、罰ゲームって本気だったの?」

「もちろん」

 

 美穂ちゃんがにやりとしながら口にした「罰ゲーム」という単語に、張り詰めていた空気が一気に霧散した。

「どうしようかなぁ?」なんて煽りながら視線を走らせていた美穂ちゃんの目が止まる。その視線の先を追いかける前に、罰ゲームの内容を知らされた。

 

「宮坂と木之下。それでどう?」

「どうって何が?」

「あたしにあの二人をちょうだい」

 

 俺は絶句した。

 まさかのライバル登場。まさかの百合展開。まさかの……って冗談だよね?

 

「冗談じゃないって言ったらどうする? 高木は何か代わりを差し出せるっていうの?」

「二人の代わりだなんて……」

 

 そんなものがあるはずもなく、俺は口をつぐんでしまう。

 真面目に悩んでいると、左の頬を美穂ちゃんに掴まれていた。ぎゅっ、というような生易しいものではなく、むぎゅって感じにがっつり掴まれていた。

 

「その顔、イライラするからやめて」

「えーと……、イライラしますか?」

「うん。相当」

 

 マジか。情けない表情でもしていただろうか。もっと引き締めていかねば。

 

「二人で何をしているのかな?」

 

 能面を想像させる声に、美穂ちゃんは俺からすっと離れた。

 声の主は葵だった。想像とは違うニコニコ顔で黒いオーラを放っている。花が咲くような笑顔でこんなオーラを出せるなんてかわいいなぁ。

 

「宮坂」

「なあに?」

 

 無表情の美穂ちゃんと笑顔の葵が向かい合う。再び張り詰めていく空気。体にかかる重力すら重く感じる。

 

「あたしとデートして」

「ん? ……デ、デート!?」

 

 何を言われたのか。最初はきょとんとした葵だったが、意味が頭に浸透した瞬間、驚きに目を瞬かせた。ちなみに俺も似たような反応である。

 

「あたしは高木と今回のテストで勝負した。勝者として宮坂のデート権を一回もらうことにした。宮坂が受けるなら木之下は勘弁してあげる」

「え? え? ど、どういうことなのトシくん?」

「いやあ、俺も聞きたい……。み、美穂ちゃん? これどういうこと?」

 

 葵といっしょに戸惑うことしかできない。美穂ちゃんはといえば「何か間違ってる?」と、むしろ不思議そうである。

 

「宮坂は高木のために自分を差し出せないとでも?」

「……ト、トシくんのためならできるよ! なんだって差し出せるよ!!」

 

 葵は顔を真っ赤にしながら言い切った。けっこう大変なことを言われた気がする……。

 

「じゃあ決まり。夏休み初日でもいい? 早い方がいいでしょ」

「いいよ! デートでもなんでも行くよ! それでトシくんが助かるのなら!」

 

 ヤケっぱちな葵に、さすがに口を挟まずにはいられない。

 

「美穂ちゃ――」

「ちょっとだけ宮坂の時間をちょうだい。……勝負に勝ったんだから、それくらいいいでしょ?」

 

 俺よりも、美穂ちゃんの小声が早かった。

 面白がっているとか、ふざけているような目ではなかった。付き合いの長さから考えなしに言っていることではないと伝わってくる。

 葵に何か話があるのだろう。それは俺が入っていける内容でもないということだ。俺がいては邪魔ってことか。

 そう思われてしまうことがもどかしい。悩んでいる間に女子二人のデートはあっけなく決まってしまったのであった。

 

 余談ではあるが、小川さんと下柳は見事赤点を回避した。夏の大会で二人が活躍するのは、また別の話である。

 

 



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123.赤と青の感情

「今日は時間を作ってくれてありがとう」

「う、うん……」

 

 時間を作ったというか、作らされたというか……。美穂ちゃんの真っすぐこっちを見つめての「ありがとう」に、私はどう返答しようかと困ってしまった。

 夏休み初日。トシくんと美穂ちゃんの期末テスト勝負の結果、私は勝者である美穂ちゃんとデートすることになった。

 デートとはいえ彼女は女友達だ。ただどこかに遊びに行くのだろうと思っていたら、場所は私の家を指定された。

 そんなわけで家に遊びにきた美穂ちゃんを自室へと案内した。トシくんと瞳子ちゃん以外の友達を部屋に入れるのっていつ以来だろうか。

 それにしても、と。ぺたんと座る美穂ちゃんをまじまじと見てしまう。

 キャミソールにキュロットスカートの組み合わせ。肌の露出はあるけど落ち着いた色合いと彼女自身の雰囲気でとても大人っぽい印象を与えてくる。

 小さい頃は男の子みたいな恰好をしていたのに、今ではびっくりするくらいかわいらしい服に身を包んでいる。変な言い方だけれど、綺麗になった。

 

「何?」

「う、ううん。なんでもないよ。暑かったよね、飲み物取ってくるから待ってて」

 

「お構いなく」という彼女の言葉を背にして部屋を出た。

 なんだか緊張するなぁ。ジュースを取り出そうと冷蔵庫を開けたらやけに涼しく感じる。

 今日はお父さんもお母さんも外出している。静けさに寂しさを覚えてしまう。こういう日こそトシくんや瞳子ちゃんといっしょにいたから。

 

「すー、はー……」

 

 冷蔵庫を閉めてから深呼吸。ちょっとだけ速くなった鼓動を落ち着かせる。

 大丈夫。私は緊張する状況でも平静でいられる。

 後ろで隠れているばかりの私じゃない。ちゃんと前へ出られるようになった。私は強くなったんだから。

 

「お待たせ美穂ちゃん。適当にオレンジジュースにしちゃったけどいいかな?」

「もちろん問題ない。いただきます」

 

 テーブルの上に飲み物を置くと、美穂ちゃんは早速とばかりに手を伸ばした。涼しい顔をしていたと思ったけれど、やっぱり喉が渇いていたみたいね。

 

「それでどうするの? デートって言っていたし、何かして遊ぶ?」

 

 明るい声で尋ねる。できるだけいつもの調子を心掛けた。

 でも、美穂ちゃんの目は真っすぐに私を射抜くようで。少しだけだけど、表情が強張ったのが自分でもわかってしまった。

 

「そうね。久しぶりに将棋をしよう」

「え、将棋?」

「うん。宮坂とは長い間してなかったと思って」

 

 私の記憶でも美穂ちゃんとは小学生以来将棋を指し合った覚えはなかった。クラブ活動していたのが懐かしいな。

 トシくんと瞳子ちゃんとはたまに指したりするけれど。美穂ちゃんも続けていたのかな? 彼女とは中学生になってから少しずつ距離が離れていたように感じていた。

 

「わかった。準備するね」

 

 駒と盤を用意する。今ではトシくんにも対等に渡り合える実力があるのだ。自信はある。

「お願いします」と言い合って久しぶりの勝負が始まった。

 

「……」

 

 先手は美穂ちゃん。一手目で角道を開ける。私はそれに応じていく。

 将棋の勝利条件は王様を取ること。簡単に言ってしまえばその一言で充分だ。そのため他の駒を使って王様を守ることが重要になってくる。

 守りをしっかりと固めてから攻める。私の手順としてはそれが一番多い。美穂ちゃんもそうだったはずだ。

 

「……っ」

 

 だから、急戦を仕掛けられるなんて思ってもみなかった。

 美穂ちゃんは自分の王様の守りなんて知らないとばかりに私に攻め込んでくる。囲いを作り切れていないせいで不格好な戦況へと突入していく。

 らしくない戦法……てわけでもないのかな。

 興味ない素振りかと思えば、攻める時はこっちがドキリとするくらいの思い切りの良さ。なんて、将棋のスタイルと性格は違うか。

 

「宮坂」

「はいっ」

 

 心を読まれたのかと返事が裏返りそうになる。

 美穂ちゃんは盤面から目を離してはいなかった。目線を下に向けたまま口が動く。

 

「宮坂と木之下、二人で高木の恋人になる……。それを最初に言い出したのは宮坂だよね」

 

 美穂ちゃんの一手。パチリという音以上に、私の頭に大きく響いた。

 急な問いかけ。ううん、急でも、ましてや問いですらない。これはずっと前から彼女の中で確信となっていたのだろう。

 

「どうしてそう思うのかな?」

 

 声は震えることなく、私は笑ってみせる。美穂ちゃんの返答も淡々とした調子だった。

 

「ただの消去法。高木からはまずそんな発想は出ない。木之下は白黒決着をつけるタイプだから。あたしの中で宮坂だけがどんな結論を出すのかわからなかった。だからこそ、一番可能性があると思った」

 

 返答はしない。それを答えとするかのように、美穂ちゃんはふっと息をついた。

 

「それって美穂ちゃんに関係あることなのかな? あくまで私達三人の問題であって。美穂ちゃんが気にするようなことでもないよね」

 

 パチリと駒を置く音が響く。敵陣に入った銀将を成るかどうか、瞬きする間だけ迷って、結局成らずにそのままにした。

 

「関係ない。あたしには関係のないこと」

 

 美穂ちゃんが追撃する手を強める。

 

「でも、聞く権利はあると思う」

 

 私の手が止まる。攻めるにしても守るにしても、難しい局面に入った。

 彼女にたじろぐ様子はない。私も退く気はない。

 私と美穂ちゃんは顔を上げずに盤面へと意識を集中させる。言葉の応酬は止まらない。

 

「そうだね。そうかも」

 

 駒を動かそうと手を伸ばしては引っ込める動作を繰り返す。次の一手も返答も決まっている。なのに踏ん切りがつかない。

 ただ真っすぐに想いを伝えるのとはまた違った勇気が必要だった。ここにきてトシくんと美穂ちゃんのすごさを思い知らされる。頭ではわかっていたつもりでも、実感として向かい合ってみれば想像以上に勇気が必要だった。

 

「美穂ちゃんが今でもトシくんのことが好きなのは知っているよ。見ていればわかるもの」

「……うん」

「だから、前に瞳子ちゃんが言ったと思うけれど、今でも本気なら美穂ちゃんの邪魔はしないよ。私も、瞳子ちゃんもね。その答えを出すのはトシくんだから」

 

 攻めに転じる一手を、美穂ちゃんはすかさず受け流す。

 

「それはない。あたしが高木に何かをするだなんて、無駄なことだってわかっているから。たくさん思い知らされたから。……だからもう、そんな風には彼を見られない」

 

 はっきり、きっぱりと。美穂ちゃんは自らの言葉で言い切った。

 思わず顔を上げて彼女を見てしまう。すると目が合った。

 

「今回の期末テストでの勝負でよくわかった。高木がどれほど宮坂と木之下が好きかってことが。あたしに入る余地はない。よく、わかった」

 

 淡々と、でもどれほどの感情が乗せられていたのか。私には測ることはできないけれど、気持ちが伝わるほどには大きなものだった。

 

「それじゃあ、どうするの?」

 

 美穂ちゃんのトシくんに向ける好意はわかっていた。中学時代、彼女が他の男子と付き合っている時でさえトシくんを見ていたのを知っていたから。

 だから、どこかで行動を起こすと覚悟していた。

 その時は向き合おうと。瞳子ちゃんと二人で決めていた。彼女が本気ならぶつかっていくと決めていたのだから。

 

「どうもしないよ。あたしが何かすることはないし、できるわけもない。ただ知りたいだけ」

 

 彼女は厳しく私を見据える。

 

「宮坂は木之下と決着をつける気がある? もし負けたとして大人しく諦められるの?」

 

 黙ったまま美穂ちゃんを見つめる。視線の厳しさは変わらない。

 

「こうなった以上、高木に全部丸投げするのは無責任だと、あたしは思う」

 

 そう言ったきりしばらく美穂ちゃんは口を開かなかった。パチリパチリと、駒を打つ音が響くだけの時間が続いた。

 

「……諦められるかは、わからないよ」

 

 パチリと、彼女の攻めを受ける。

 

「私が言い出したことでも、ちゃんと瞳子ちゃんとは話し合ったの。どんな結末になったとしてもお互い恨みっこなしだって決めたの」

「じゃあさ、宮坂は高木と木之下がいなくなったら耐えられるっていうの? 二人が離れても今みたいに余裕な顔をしていられるの?」

 

 トシくんと瞳子ちゃんがいなくなる?

 想像してしまった瞬間、目の前がチカチカと眩んでいく。フラッシュバックみたいにここではない別の映像が流れる。

 つらかった記憶……。そう、つらいと感じていた記憶が私を絞めつけてくる。

 

「く……はぁ……っ」

「宮坂!? 大丈夫? オレンジジュースを飲んで。ゆっくりだよ」

 

 気づけば美穂ちゃんが私を支えてくれていた。差し出されたオレンジジュースに口をつける。ぬるい液体が喉を通ったころにはちゃんと意識を取り戻せた。

 

「いきなりごめんね。それと介抱してくれてありがとう」

「ううん。あたしのせいだよね。余計なことを言ったから」

 

 眉尻を下げて落ち込んでいる。彼女の人の好さが思わず顔を出していた。

 真奈美ちゃんや、ましてや瞳子ちゃんでさえこんな厳しさを私には向けないだろう。彼女の言動は決して妬みや嫉みからくるものじゃない。

 

「ふふっ」

「何笑っているの?」

「美穂ちゃんって不器用だなって思って」

 

 美穂ちゃんはしかめっ面になる。付き合いの長い私達にしかわからないほどの変化だ。それをわかることがちょっとだけ嬉しいということは本人には言えないよね。

 

「将棋の続き。体に問題ないならやろう」

「うん。負けないよ」

「こっちのセリフ」

 

 お互い勝負にのめり込んでいく。そうさせてくれることが彼女の優しさだった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 赤城美穂。私……、私達とは小学一年生から付き合いのある女の子だ。

 クラスが同じだったわけじゃない。トシくんがつれて来た女の子。彼に声をかけられたのがきっかけ、というのが関係の始まりだった。

 トシくんが手を差し伸べてくれた。それは私と瞳子ちゃんと同じで、正直言うとものすごく警戒していた。

 彼女もトシくんを好きになってしまうんじゃないかって、そう思っていた。結果的にはそうだったんだけど、彼女がそう想いを抱くのは思った以上に後のことだった。

 出会いを考えれば美穂ちゃんとトシくんが友達になるのは当たり前のことだった。

 そう、それはとても当たり前のことで。嬉しそうにしている美穂ちゃんを当たり前のように見てきた。

 最初から仄かな想いはあったのだと思う。けれどそれを形にするのは時間がかかって、難しかったんだって思う。私と瞳子ちゃんはそれをよくわかっていなかったんだ。

 気持ちを伝えることが難しいとはわかっていた。でも溢れる気持ちを形にするのはどうしようもなく簡単で、自然なことだって思い込んでいたんだ。

 

 ――それも勘違い。本当の私は美穂ちゃんの気持ちがよくわかっていたはずだったんだ。それに気付くのがどうしようもなく遅かった。私はただ甘えていれば良かっただけだったなんて、あまり考えたくはない。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「今日は付き合ってくれてありがとう」

「ううん、こっちこそ楽しかったよ」

 

 白熱した将棋での勝負は私が勝った。序盤は美穂ちゃんの勢いに押されてしまってばかりだったけれど、落ち着いて自分のペースに持ち込んでいくうちに逆転できた。その分長考も多かったせいで随分と時間をかけてしまった。

 おかげでたくさん話もできた。美穂ちゃんも言いたいことを言ったみたいでスッキリとした顔をしている。今度彼女を誘うことがあれば私からになるんだろうな。

 玄関で見送る間際、言い残したことがあったと彼女は普段通りの無表情な顔で振り返る。

 

「高木は男として好きだったけれど、宮坂は女として好きだよ。そこそこ良い奴だしね。……気に食わない部分があるのも事実だけどね」

 

「気に食わない部分」と言ったあたりで目線が下がったのは見なかったことにしよう。彼女なりに褒めているはず。だよね?

 

「まあでも、応援するなら木之下かな」

「美穂ちゃん!? さっきの言葉はなんだったのかな? ねえ?」

 

 くすくすと笑われてしまう。う~、納得いかないよ。

 

「がんばれとは言わないよ。胸が苦しくなるくらい悩むんだろうしね。ただ、高木に甲斐性があるのなら、選択肢は広がるのかもね」

「トシくんの、甲斐性……」

「待っているだけじゃ後悔する。知らないままでいるのは後悔する。後悔しないように生きるのはもちろん、後悔を振り払うのも難しいよ。本当にね」

 

 美穂ちゃんは背を向けて玄関のドアに手をかける。私に顔を見せないまま続きを口にする。

 

「それでも、宮坂は後悔のないようにね。それだけは応援してる」

 

 そう言い残して美穂ちゃんは帰っていった。

 しばらく誰もいなくなった玄関を見つめていた。本当に見つめていたのはここじゃないどこか……、はっきりと自覚した過去であり、未来のことだ。

 

「後悔なんてしないよ……絶対に……」

 

 誰にも聞かれることのない決意。聞かれてはならない後悔の声だった。

 

 



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124.たまには母親だって羽を伸ばしたい

 私には仲良しのママ友が二人いる。

 どちらも息子経由で仲良くなった。親同士の関係なんて子供の交友関係に大きく影響される。だから最初はこんなにも長いお付き合いになるとは思ってもみなかった。

 

「こうやって三人集まって飲むのも久しぶりねー」

「都合が合ってよかったデスネ。夫に感謝デスヨ」

 

 まさかこの歳になっても飲み会をする仲になるだなんて、本当に想像もしていなかった。

 

 今日は私の家で葵ちゃん瞳子ちゃんママと飲み会だ。家のことは夫と娘に任せられたようだ。私の夫は遅くまで仕事だと聞いている。もちろん飲み会をすることは伝えてある。

 お茶をすることがあっても、集まってお酒を飲むのは久しぶりだった。年甲斐もなく楽しみにしていた。

 

「これ、おつまみにどうぞ」

 

 俊成がテーブルにおつまみを置いてくれた。出来立てのようで、かぼちゃをバター醤油とガーリックで味付けしていていいにおいがする。息子がリビングから出ていくと感心した息を漏らす音が耳に届く。

 

「俊成くん気が利くわね。しかもこれ手作りでしょ。息子にほしくなっちゃうわ」

「あげマセンヨー」

「それ私のセリフだから。わ・た・し・の、息子なんですからねっ」

 

 葵ちゃん瞳子ちゃんママが揃って「おぉー」なんて言いながら拍手する。なんだかんだ言いながらも二人ともノリがいい。ついついこっちも乗せられてしまう。

 

「やっぱり最大の障害は母親よね。葵大丈夫かしら? どうやって懐柔すればいいのかしらね」

 

 本人を目の前にして障害だなんて言わないでほしい。悪い姑になるつもりなんてないんですからね。

 

「瞳子がおすすめデスヨ。きっとお義母さまにもやさしいはずデス」

「あっずるい。葵だって孝行娘なんですからね」

 

 二人の美人ママが子供みたいな言い合いを始める。私は大きなため息を見せる。

 

「気楽にしてくれちゃって。私は息子のことですからハラハラなのよ」

 

 俊成が葵ちゃんと瞳子ちゃんを恋人にした時は驚いた。それでも子供の言うことだと、すぐにそれはおかしいことだと気づいてくれる。そう甘く考えていた。

 でも実際は高校生になった今でもその関係は続いている。葵ちゃん瞳子ちゃんは退かない、というよりも仲良しの、子供の頃の関係をずっと続けていた。

 親としては心配だ。葵ちゃん瞳子ちゃんママは三人の関係を眺めては楽しそうにしているけれど、私は子供達のこれからが心配でならない。

 これだけ長い付き合いになると葵ちゃん瞳子ちゃんも娘のように見てしまう。どちらかじゃなくどちらも。心配は通常の三倍にまで膨れ上がっているのかも。

 

「これ美味しいデスネ。栄養も考えられているようデスシ、トシナリをお嫁さんにするのも悪くないかもしれマセン」

 

 おつまみを食べての感想。瞳子ちゃんママはもう酔っぱらっているのかもしれない。

 

「あら本当。こんな息子なら作っておけばよかったわ」

「まだ間に合いマスヨ。旦那さん元気そうデス」

「それはお互い様じゃない?」

 

「きゃー!」ってあんた達ね……。呆れた顔でコップに口をつける。

 

「それにしてもよく俊成くんをあれだけ立派に育てたわね。男の子の子育てって難しそうだけれど」

「まあねぇ……」

 

 俊成は最初から手のかからない子だった。

 ぐずったりわがまま言ったりもしない。小さい頃に通った習い事だって全部俊成から言い出したことだ。私は息子を尊重しただけだった。

 反抗されたことがあるとすれば、ちゃん付けをやめるように言われたくらいか。それもやんわりとたしなめるような物腰だった。こんなのは全然反抗期じゃない。

 俊成は親のひいき目から見ても悪い子じゃない。だからこそ恋人を二人作ったことに関して強くは言えなかった。

 ちゃんとした子供に叱る必要なんてない。私は子供を叱る経験がない。それは親としての自信がないのと同義かもしれない。

 

「子供は勝手に育つものデスヨ」

「え?」

 

 瞳子ちゃんママはニコニコとしていた。白い肌が朱色に染まっており、年齢は私とそう変わらないはずなのに色っぽさを感じる。

 

「瞳子には幼い頃からたくさんの習い事をさせていマシタ。ワタシ自身の経験を伝えてきたつもりデス。でも、娘が変わっていったのはいつだってワタシの知らないところでデシタ」

「そうよね……。葵だってそうだもの。私がかまってあげられなかった時だってしっかり育ってくれたものね。本当に大きくなってくれたわ……」

 

 二人は娘の思い出を振り返り遠い目をする。

 俊成は立派に育ってくれた。母親としてできたことは少ないのかもしれないけれど、ちゃんとやっていけるのならそれでもいい。別にあの子を育てただなんて自慢したいわけじゃない。あの子を自慢には思うけれどね。

 

「それにしても、こうやって集まってていつも思うんだけど」

 

 私はおかしくなって笑いそうになる口元を隠さずに続きを口にした。

 

「私達、お酒を飲んでても、話題はいつも家族のことばかりね」

 

 葵ちゃん瞳子ちゃんママは笑った。とても嬉しそうな笑顔だった。

 子供の将来は心配だ。だって親なんですもの。心配するのは当たり前で、期待するのも当たり前なんだって。安心してそう思えるのは仲良しのママ友の存在が大きかった。

 二人だって娘の将来を心配している。期待もしている。だから見守り続けている。

 変わっていく関係かもしれないけれど、仲良しなのは変わらない。私が俊成の母親なのも変わらないし、息子がどんな風になったとしても味方でいるのは変わらない。その覚悟だけは親らしくありたいと思った。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 ――三時間後。

 

「母さーん。寝るならベッドで頼むよ」

「俊成ぃー。いい子いい子ー」

「はいはい、上機嫌な酔い方してんな」

 

 飲み会が終わった後。葵ちゃん瞳子ちゃんママを家まで送り届け、会場となったリビングの片づけをしてくれて、私をベッドで寝かせてくれたのが息子だったのは次の日に知った。……我が子に頭が上がらない。

 

 



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125.欲望の行方

「あら、瞳子ちゃんいらっしゃい。ごめんなさいね、今俊成出かけちゃってるのよ」

「いえ……、その、俊成の部屋で待たせてもらってもいいですか?」

「ええもちろん。すぐ帰ってくると思うから。あとで飲み物でも持って行くわね」

「お構いなく……」

 

 あたしはドキドキする胸を押さえながらも、俊成の部屋に来た。

 おばさんには言えなかったけれど、あたしは俊成が今日出かけることを知っていた。知っていながら部屋に上がらせてもらったのだ。

 勝手知ったる彼氏の部屋。迷いなく座布団を出して座る。よし、ここまではいつも通りね。

 そんなに時間を置かずにおばさんが飲み物を持ってきてくれた。

 

「暑いでしょう、クーラーつけるわね。待たせるけどごめんなさいね」

 

 そう言い残しておばさんは部屋から出て行ってしまった。あたしは氷の入った麦茶に口をつける。

 落ち着けあたし! らしくない自分に冷静さを求める。

 のぼせそうな頭にクーラーの涼しい風が気持ちいい。もう一口お茶を飲めば幾分か鼓動が収まってくる。

 

「さて」

 

 部屋をぐるりと見渡す。俊成のマメなところがうかがえるように整理整頓されていた。

 

「え、えっちな本は、ど、どこかしらね?」

 

 覚悟を決められたと思ったのに、あたしはまたのぼせ上がった。

 うぅ……、なんであたしがこんなことを……。それもこれも変なこと聞いちゃったからよっ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 夏休み前、クラスで友達の女子グループと楽しくおしゃべりしていた時のことだった。

 

「そういえば彼氏がね」

 

 突然の話題変換だった。でも『彼氏』というパワーワードに無視なんてできなかった。他の子達も同じのようで、場がしん、と静まる。

 その子は声を潜めて、こんなことを言った。

 

「エッチな本を隠し持っていたの」

 

「やだー」と黄色い声が重なる。あたしも笑いながら聞いてはいたのだけれど、ふと俊成はどうなのだろうと考えた。

 一度考え始めると頭から離れなくなって、俊成の部屋はどうだったかしら? なんて、記憶を掘り返して、怪しい場所はなかったかと探る始末だった。

 別に、俊成のことを信じていないだなんて、これっぽっちも思ってなんかいない。でも、俊成だって男の子なのよね……と、考えてしまうことはある。

 エッチなこと……きっと俊成だって興味がある……はず。そうわかってはいても、なんていうか、そういう本を持っていたら、ショック……かもしれない。

 考え出すとキリがなくて。これはもう調べるしかない、だなんて考えてしまって、恥ずかしいと感じつつも実行に移してしまった。

 あまりにも恥ずかしくて、葵にも相談できなかった。単独犯と思えば罪が軽く……ならないわよね。

 もしこんなことが俊成に見つかったとしても、きっと彼なら許してくれるだろう。それがわかっていながら行動に移してしまったのは、あたしが彼に甘えてしまっているということに他ならない。しょうがないじゃないっ、だって気になるんだもの!

 

「ふぅ……。お、落ち着いたわ……」

 

 自分にそう言い聞かせて、ついに捜索を実行する。

 

「まずは、ベッドの下よね」

 

 エッチな本を隠すのはベッドの下が多い、らしい。実際に友達の彼氏はご丁寧に隠し場所として利用していたのだそうだ。

 

「ん?」

 

 奥の方に何かある……。もしかして、見つけてしまったのかしら?

 ベッドの下へと手を伸ばす。何かを掴む感触に緊張が走る。

 ま、まさか俊成……っ!? あたしは喉を鳴らすと、掴んだそれを、引き寄せた。

 それは箱だった。高さはそれほどでもないけれど、幅はそれなりにある。そう、例えばエッチな本を入れられる程度には。

 

「……」

 

 いざ目の前にしてみると、勇気がいるのだと実感する。

 開けて、もし本当にエッチな本があったらあたしはどう思うのだろう? ううん、なかったとしても不安はあるのかもしれなかった。

 俊成はあたし達にあまりエッチな目を向けてこない。それが大事にされている結果なのだとわかってはいても、踏み込んではくれないのだという落胆はあった。

 うん、そう思っていたからこそ、キスの回数が無制限になったというだけで嬉しくてたまらなくなってしまったのだ。これなら次に進むのも……近いうちにあるんじゃないかって思った。そううまくはいかなかったのだけれどね。

 実は性欲がない……なんてことはないわよね? 友達の話では男の子はそういうことに興味津々みたいだし、実際に今までの男子は欲望を感じさせる目をしていたのを見たことがある。

 俊成はどう考えているのかしら……。他の男子を参考にしようとしても、一番重要な彼を知らなきゃどうしようもない。

 

「考えているばかりでどうなるっていうのよ! 女は度胸! えいっ!!」

 

 うだうだとした意味のない思考を、自分に喝を入れて打ち切る。気合とともに、箱を開けた。

 開ける瞬間に目を閉じてしまっていたようで、視界が真っ暗になっていた。怖がってなんかいないと言い聞かせてゆっくりとまぶたを上げた。

 

「……カマキリ?」

 

 中身を目にして、あたしは思わず首をかしげてしまっていた。

 当たり前だけれど、本物のカマキリではない。それは一枚の画用紙に描かれたもの。今のあたしが見れば稚拙に感じられる出来栄えの絵だった。

 でも、見覚えがある。いいえ、見覚えがあるなんてものじゃなかった。

 

「……あたしの絵、よね」

 

 それはあたし自身が描いたもの。そう、幼稚園の頃に描き、俊成に渡したのだ。

 記憶が曖昧だけれど、俊成の思い出はちゃんと残っている。あたしだってその時に交換した俊成の絵を持っているのだから。それでも、自分が渡したものは忘れたとは言わないけど、思い出すのにちょっとだけ時間がかかる程度には頭の奥底に仕舞っていたみたい。

 虫の絵を描く女の子なんて、今になるとどうかと思う。だけど、俊成はすごく褒めてくれて、すごく喜んでくれていた。そして、こうやって大切に取っておいてくれている。

 

「ふふっ」

 

 そんな幼い日のことを思い出してつい笑みが零れる。

 

「…………ふえぇ」

 

 そして、涙が零れそうになった。

 俊成もあたしとの思い出を大切にしてくれている。それがやっぱり嬉しくて、とても胸が苦しい。

 いっしょにいられて楽しい。とても幸せ。でも、この先の不安がまったくないわけじゃなくて、だから今日は無断で彼の部屋にいる。

 俊成が本当にどうしたいのかがわからない。どんな答えを出そうとしているのか、そのためにどんなことを考えているのか。いくらキスをして繋がった気になっても、わからなかった。

 彼のペースでいいと言った手前、急がせることもできなかった。自分がどんなに焦って不安が膨らんでも、俊成が焦った末の結果を出す方が怖い。

 あたしは俊成の彼女。恋人で、それは葵も同じ。だから、彼が選ぶのは、あたしか葵のどちらかだ。

 いつまでも子供なんかじゃない。いつまでも同じ関係ではいられないって、知っている。

 

「ひっく……ぐす……」

 

 しばらく小さな嗚咽を漏らしていた。こんなところ、俊成や葵には見せられない。

 落ち着いてしまえば自分がどれだけバカなことをしていたのかわかってしまう。絵を箱に収めて、元あった位置に戻した。

 

「……帰ろう」

 

 気持ちをリセットすれば、また笑顔で会えるから。

 あたしが立ち上がろうと力を入れた瞬間、ドアが開いた。

 

「あれ、瞳子ちゃん来てたんだ?」

 

 入ってきたのは葵だった。どうやら帰るタイミングを失ってしまったようね……。

 

「え、ええ。でも俊成帰ってこないみたいだし、ちょうど帰ろうかなって思っていたところよ」

「そっかー」

 

 葵はニコニコしながら隣へと座る。少しだけ圧力を感じてしまうのはなぜなのかしら?

 葵とは俊成のことでよく相談をしている。不安なことだって、たくさん話し合った。

 でも、泣いてしまうほどの感情は見せられないでいた。たぶんプライドのせいね。一人で勝手に泣いているところを見られるだなんて、いくら葵相手でも恥ずかしいもの。

 だけどいい機会なのかもしれない。この際相談してみようか。考えをまとめようとしていると、葵の方が先に口を開いた。

 

「トシくんがいないなら帰ってくるまで将棋でもしようよ」

「将棋って、また突然ね」

「いいじゃない。今日の私は絶好調だよ! 勝てる気しかしないんだからねっ」

 

 いつになく自信満々な葵。もう準備を始めちゃっているし、別にいいかと受けることにした。

 駒を配置すると、葵の雰囲気が変わった。

 スイッチのオンオフがわかりやすいのはいつも通りなのに、どうしてだか、今回はその変化した雰囲気に飲まれそうになっている自分がいた。

 目を瞬かせる。目の前にいるのは葵で間違いない。そんなの、当たり前だ。

 なのに、葵が葵じゃないみたいに思えてならない。その感覚が拭えなくて、声もかけられなかった。

 

「瞳子ちゃん」

「ひゃいっ!?」

 

 対局の途中で前触れもなく名前を呼ばれるものだから、恥ずかしくなるくらい変な声を上げてしまった。

 葵はそんなあたしをからかうでもなく、静かに続きを口にした。

 

「夢のこと……なんだけど」

「夢?」

 

 言いにくそうに紡がれた言葉には、ただらない雰囲気があって。今の葵の雰囲気と合わせればどれだけ真面目な話なのかがうかがい知れる。

 普通なら、いきなり夢のことと言われてもなんのことだかわからないだろう。だけどあたしと葵の中では「夢」となれば共通する話は一つだ。夢とは思えないほど現実味のある、夢。

 

「うん。瞳子ちゃんはどう思っているのかなって」

 

 今さらといえば今さらな話だった。

 俊成と葵が隣にいなくて、独りぼっちになっている夢。他の夢の時はなんとも思わないのに、その夢だけは妙な現実感があって、それが少なからずあたしを不安にさせる原因の一つだった。

 とはいえ、あくまで夢の話。目が覚めれば葵にも、俊成にだって会える。前に聞いたけれど、想い人が夢に出ないのは現実で良い兆候なのだとか。

 だから、あまり気にするものでもないのだと、自分に言い聞かせていた。

 

「そっか」

 

 そんなことを葵に言うと、元気のない笑顔を返された。気になる反応に、どうしたのかと尋ねようとしたら、パチィンッ! と小気味の良い音が室内に響いた。

 

「ほら、瞳子ちゃんの番だよ」

 

 駒を打ち込んできたのだと気づくのに数秒かかってしまった。逆らえない雰囲気に、あたしは将棋に集中することしかできなかった。

 

「負けました」

 

 そこからの葵は厳しくあたしを攻め立てた。いつもと違う彼女の攻めに、あたしの守りは簡単に剥がされてしまう。

 

「ねえ、瞳子ちゃん」

 

 静かな、でも有無を言わせない言葉。勝負に勝ったからなんかじゃなくて、やっぱり今日の葵は何かが違っていた。

 あたしには彼女の言葉を待つことしかできない。こんなにも葵からプレッシャーを感じるなんて、初めてのことだった。

 

「今日はトシくんを抜きにした、私達の話をしようよ」

 

 



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126.中学時代を振り返る(木之下瞳子の場合)

「木之下さんってさ、高木くんと付き合っているって聞いたんだけど……。それって本当なの?」

 

 クラスの女子、中学に入ってから知り合った彼女が強い興味を抑えられないような調子で、ため息をつきたくなることを尋ねてきた。

 その女子を見つめると、後退りされてしまう。睨んだつもりはないけれど、知らずきつい目つきをしてしまったかもしれない。

 

「本当よ」

 

 隠すつもりもないし、俊成の恋人であることについては胸を張れる。だから、恥ずかしがることも、臆することもなく言い切る。

 あたしの返答に、その子は一度退いた足を前へと出し、前のめりの好奇心をぶつけてくる。

 

「へぇー、でもさでもさ。宮坂さんも高木くんの彼女だって聞いたんだけどー?」

「それも本当よ」

「えぇー!? それってどういうことなの? 木之下さんが高木くんの彼女で、宮坂さんも高木くんの彼女……。アタシには意味がわかんないよー」

 

 なんて言いつつも、ゴシップ記事を見つけたみたいにはしゃいだ声色だった。こうなってしまうと人はなかなか黙ってくれないことを、経験から知っていた。

 

 あたし達は三人で築いた恋人関係を隠さなかった。そのことは性に興味を持ち始めた中学生にとって恰好の的になった。

 好奇心を向けられるということは、決して良いものではないのだと知った。俊成が恋人関係を隠した方がいいんじゃないかって言っていた意味を、今さらになって思い知っている。

 確かに、よく考えなくたってこれが普通の恋人関係じゃないってわかってる。一人の男の子を二人の女の子が彼氏だって主張している。何も知らない人が聞けば良くない関係だと勘繰ってもおかしくない。

 でも、それはあたし達が決めたこと。三人で納得し合って、そうやって他人から見れば不思議な恋人関係を結んでいる。そんな自覚くらいはあった。

 

「それが何? わかってもらわなくても結構よ。それとも、あたし達のことにあなたは責任を持てるって言うの?」

「う……責任だなんてそんな……」

 

 今度こそ彼女を睨みつければ、さっきまでとは打って変わって言葉を失う。興味本位だけで聞いてきたのならそんなものである。

 逃げるように立ち去る後姿を見つめて、ばれないようにため息をついた。

 気持ちはわからなくもないけれど、やっぱり嫌なものね……。

 

「瞳子ちゃん」

「葵……、見てたの?」

「……うん」

 

 おずおずと声をかけてきたのは葵だった。ばつが悪そうな顔をしながら、目線をあたしに向けたり地面に落としたりと忙しない。この様子だと最初から見ていたみたいね。

 

「その、大丈夫?」

 

 心配そうに、恐る恐ると、葵は尋ねてくる。あたしは彼女の頭を撫でながらニッコリと笑ってみせる。

 

「大丈夫に決まっているじゃない。葵に心配されるあたしじゃないわ」

 

 フフンと鼻を鳴らしてみたりして。強気に振舞えば、葵はほっとしてくれるから。

 まるで二股されているかのように憐みの目を向けられるのは腹が立つ。違うと言えば余計に興味を引いてしまうのも嫌気がさす。

 そう思っているのはあたしだけじゃなくて、葵も、俊成だって同じだろう。

 ううん、葵はあたし以上に悩んでいる。自分が言い出したことだからって、あたし達に迷惑をかけてしまったと思っている。

 俊成はさらにその思いが強いかもしれない。自分が答えを出さないことが、あたし達を苦しませていると焦っている。そんな風に思ってほしくなくて今の関係になったっていうのに。考えた通りに上手くはいってくれない。

 俊成とはもっと深く、ゆっくりと関係を進めていこうとしているだけなのだ。三人でいっしょにいるのはそんなにも悪いことなのかな……。

 ええい! あたしが悩んでどうするの! 悩んでいたって仕方がないじゃない!

 葵の手を引っ張る。突然引っ張ったせいで困惑の表情をさせてしまう。

 

「俊成のところに行くわよ。三人いっしょにいれば怖いものなんてないでしょう?」

 

 ぽかんとした顔をする葵だったけれど、あたしの意図に気づいたのか表情が明るくなっていく。

 

「うん! いっしょにトシくんに会いに行こう」

 

 同性のあたしでも惚れ惚れするような輝いた笑顔だ。成長するにつれて、葵の美貌は天井がないのかってくらい磨かれ続けている。

 そうよ、あたし達は笑っていても大丈夫なんだから。それは忘れずにいなければならないと思っていた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 中学生になって半年が経ったくらいから、あたしは男子から告白されるようになった。

 俊成以外からの好意に最初は戸惑ったものの、回数を重ねるごとに俊成のことが好きだっていう気持ちがより一層深まっていった。

 だって、他の男子を見ていたら、俊成がどれだけあたしと葵のことを考えてくれているのかがわかってしまうから。

 告白を断る際、あたしは彼氏がいることを伝えていた。それは葵も同じで。あたし達が揃って口にする「彼氏」が俊成だというのはいつの間にか広まっていた。

 何も知らなければ二股をかけられているのかと思われてしまうようで、男子からの告白は次第に説得じみたものへと変わってきた。

 

「二股をかける男とは別れるべきだ」

 

 とかね。それで「だから俺と付き合おう」というのはまた違う気がするけれど。

 あたしがこの関係は三人で納得し合ったものだと言ってもなかなか信じてもらえなかった。信じてもらう代わりに変なものを見る目を向けられてしまう。それも段々と慣れてきてしまったけれど。

 周囲から悪いことをしているみたいに言われて、関係のない人達だからって不安にならないわけじゃない。そのせいで人付き合いで失敗したことだってある。葵は上手くやっているっていうのにね。

 例えば、こんなことを言われたことがある。

 

「だって木之下って二股かけられているんだろ? 最低な男から守ってやろうって思ってさ」

 

 これが告白の締めの言葉なのだから笑えない。そんなことを言われて怒りや悲しみがごちゃ混ぜになっているのを、目の前の男子は気づこうとすらしていない。

 男子ってちゃんと考えてから言葉を口にしようって思わないのかしら? そう疑ってしまうくらいにはデリカシーのない人が多かった。

 そのせいで段々と目つきが険しくなっていたのが自分でもわかってしまう。俊成と葵がいなかったら態度にまで出ていたかもしれなかった。

 それでも、俊成以外の男子を嫌いにならなかったのは、あたし達を助けてくれる存在がいたからだ。

 佐藤くんはもちろん、本郷や森田が庇ってくれた。俊成が所属する柔道部の人達に助けられたことだってある。

 

「僕ら友達なんやから。遠慮せんと頼ってえな」

「ははっ、放っていたらまた木之下が誰かを張り倒しかねないからな」

「木之下先輩は高木さんの大切な人なんで。あの人のためにも、何かあったら絶対に守りますよ。……品川も世話になってますし」

 

 ……男子って不思議よね。傷つけてくる人がいれば、助けようとしてくれる人だっている。それは男女関係ないか。

 たくさんの人に翻弄されながらも、中学生という時期を過ごした。心と体の成長が著しいこの時期に、どれだけの変化を体験できただろうと振り返る。

 でも、変えたいことと変わらないでほしいこと。それは表裏一体かもしれなくて、だからこそ人の関係は難しいのかもしれない。そう思えてしまう。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 たまに俊成が顔に傷を作っていることがあった。

 尋ねてみても「部活でケガしちゃってね」と誤魔化すばかり。それはまったくの嘘ではないのだろうけれど、それだけじゃないとも気づいていた。

 廊下でガラの悪い男子が俊成とすれ違う時に顔を逸らしているのを見たことがある。俊成本人は平然としたものだったけれど、あたし達に対する周囲の反応を考えれば何があったかは想像できた。

 

「顔のケガ……痛くない?」

「これくらい平気だよ。柔道やってたらよくあることだし」

 

 部活を終えて帰宅している時に、無駄だとわかっていても聞いてしまう。案の定あくまで部活で負ったケガということにしているようだ。

 今日はピアノの稽古があるからと、葵は先に帰っていた。だから俊成と二人きり。

 見上げるようになった彼の顔を眺めながら、どうすればいいのだろうと考えてしまう。

 俊成が多くの男子から敵視されているのは見ているからわかる。それでもあたしと葵に心配かけないようにと隠しているのを知っているだけに、あたしにできることが一つも思いつかなくて、どうしようもなさに情けなくなる。

 

「……」

「瞳子? 難しい顔してどうしたの」

「えっ!? な、なんでもないわっ」

 

 俊成に心配そうな顔をさせてしまった。こっちが心配しているっていうのに……何やっているのよあたし。

 

「と、俊成っ」

「うん?」

「家に寄るわよね?」

「そのつもりだけど。もしかして都合悪かった?」

「違うの! ちょっと確認しただけで、深い意味はないわ」

 

 ふぅ……、変な汗かいちゃった。

 ついさっき思いついたこと。俊成を元気づけられるように。あたしができることをしてみようと思う。

 帰宅して俊成といっしょに自室でまったりと過ごす。夕食の時間まで、もう少しだけ猶予があった。

 

「と、俊成? もう少し近くに来てもいいのよ」

「あ、ああ。じゃあちょっとだけ……」

 

 適度に離れていたところに座っていた俊成に声をかける。声が震えていなかったかと焦る前に、彼があたしのすぐ横に座る。

 

「……もうちょっと近くてもいいのよ」

「そ、そうか?」

 

 お互い緊張が走る。恋人としてキスだってしている間柄だというのに、未だにドキドキしてしまう。いつになったらこのドキドキに慣れるのだろうか。

 心の中で深呼吸。きっと葵なら躊躇わない。そう思うと踏ん切りがついた。

 

「えいっ」

「うおっ!?」

 

 俊成の頭を引き寄せると、自らの胸で抱いた。

 びっくりさせたみたいで俊成は固まってしまった。頭を抱いているから見えないけれど、きっと目を白黒させているのだろう。

 あ、熱い……。たぶんそう感じるほどの熱さはないのに、胸に感じる彼の顔はとても熱かった。

 

「と、瞳子?」

 

 困惑の声にぎゅっと強めに抱きしめることで黙らせる。

 胸のドキドキが俊成に伝わってしまいそうで恥ずかしい。そう考えると余計に緊張してしまって、ドキドキがもっと大きくなった気がする。さらに顔が熱くなる。

 それに……、こういうことは葵にされた方が俊成だって喜ぶと思う。あたしだってちゃんと成長しているからそんなには小さくないはずだけど……。葵の豊かさと比べればどうしたって見劣りしてしまう。

 ああ、どうしようどうしよう! 葵の方がよかっただなんて思われていたら嫌だ。お願いだから今はあたしの体温だけを感じて……っ。

 

「……」

「……」

 

 無言の時が流れる。自分からやっておいてなんだけれど、あたしからこの静寂を破るのは無理そうだった。

 

「瞳子は……嫌な思いとか、していないか?」

 

 あたし達の関係に好き勝手なことを言う人はたくさんいる。それでも、思った以上ではなかった。

 それは俊成が矢面に立っていてくれるから。もちろん味方してくれる人達のおかげでもある。だけどそれを含めても俊成があたし達のためにいろいろと動いてくれたからだと知っていた。

 あたしだって守られているだけではいたくない。でも、まずは守ってくれている彼に「ありがとう」って伝えたかった。そうしないと始まらないって思った。

 精一杯のお礼を伝えて、それから俊成と葵を守れるようにあたしもがんばってみる。覚悟して一歩を踏み出したのなら、どんな障害があったとしても飛び越えて二歩目三歩目と進んでやるんだから。

 

「嫌な思いなんて一つもしていないわ。むしろ俊成が嫌な目に遭ったらあたしに言いなさい。全力で守ってあげるからね」

「あははっ。そりゃ頼もしい。……ありがとうな瞳子」

「お礼を言うのはあたしよ。……ありがとう俊成。いつも感謝しているわ」

 

 俊成はおっかなびっくりあたしの背に手を回した。もっとぎゅってしていいのに……。

 これも自制しているからなのだろう。あたしからこれ以上のことをするとそれこそ歯止めが利かなくなってしまいそう。キスの回数制限だけでもつらいのに、さらに抱きしめることまで制限されたら耐えられそうにない。

 しばらく抱き合っていたけれど、あたしから身を離した。少し名残惜しそうな顔をした俊成を見れただけで内心嬉しくなってしまった。

 そんな顔されたら、あたしもがんばれちゃう。我ながら単純ね。

 

 それからのあたしは文句なんて言われないような振る舞いをしたつもり。でもがんばり過ぎたみたいで……、中学では「女番長」と陰で呼ばれるようになってしまったのはまた別の話。ああ、俊成と葵の耳に入っていませんように……。

 

 



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127.できる奴は夏休みが始まった瞬間には宿題を終わらせている

 夏休み。学生で一番長い休暇である。

 夏休み前には予定をいろいろと考えるものだ。それは前世の時からそうだった。そして、いつも計画倒れになるのが常である。

 今世ではそうならないようにがんばってきた。今年はいつも以上、いや、特別な思い出になるようにと計画を立てていたりする。

 

「高木くん早いなぁ。もうほとんど宿題終わってるんやね」

「まあな」

 

 今日は朝から佐藤とともに図書館で夏休みの宿題に勤しんでいた。久しぶりの勤勉コンビである。

 ガリガリと手を動かす。本日の俺は宿題を消化するマシーンだ。

 俺には夏休みで企んでいることがある。そのためにも宿題なんて煩わしいことは早めに終わらせるのだ。

 佐藤も感心してはいるが、その手は動き続けている。将棋部の大会に専念するためにも気合いを入れて取り組んでいるようだ。

 佐藤はすでに将棋部のエースである。一年生ながら、夏の大会で期待されている逸材だ。

 

「佐藤は順調か?」

 

 言葉の端にいろんな意味で、と込めてみる。

 

「まあまあやね」

 

 佐藤は手を動かしながら答える。この前の期末テストで順位を上げたらしい。小川さんがとても感心した様子だったのを覚えている。普通に教えているんだよな。

 

「高木くんも順調なん?」

 

 いろんな意味で、という含みがある気がした。

 

「まあまあだな……」

 

 この「まあまあ」は葵と瞳子のことについてである。

 この前の期末テストでがんばったことで思ったことがある。俺を労わってくれる葵と瞳子についてだ。

 彼女達に何かできないかと考えた。いつまでも同じことばかりしていられない。全力で二人のために、俺ができることをしたいのだ。

 

「……俺さ、八月まで短期のバイトするんだ」

「そうなんや。先生には許可取ったん?」

「もちろん。夏休み入る前に鮫島先生には話をつけてある」

 

 うちの学校は先生に許可さえ取ればバイトができる。

 これまで無駄遣いをしていなかったから金がないわけじゃない。ただ、これからの計画のために使う金は自分で稼いだものでありたかった。

 俺のプライドの問題だ。それでも、それくらいの見栄を張れなくてはやり遂げられないと思った。

 

「まあ、がんばりや。何か僕にできることがあったら遠慮せえへんでええからね」

「ありがとな佐藤」

 

 いつでも、どんな時でも佐藤は味方だ。

 ありがたいことに俺を信頼してくれているのがわかる。俺だって佐藤を信頼している。前世から今まで、ずっと親友だって思っているのだから。

 ……だからさ、なんていうの? こう、そういう気持ちを伝えたいわけですよ。

 親友だからって、呼び方を変える必要はないと思っていた。でもさ、下柳が親し気に「一郎」って呼ぶのを、密かに羨ましいと思ってしまっていた。

 俺の方が佐藤との付き合いが長いのになぁ。これじゃあ下柳の方が佐藤の親友っぽいではないか。

 

「……」

 

 でも、今さら呼び方を変えるのはどうなのだろうか。こんなことなら葵と瞳子みたいに最初から名前呼びすればよかった。なんて今になって後悔。

 

「ん? どうしたんや高木くん」

「い……いや、なんでもない……」

 

 恋人がいても、まだまだスマートにはなれないようだ。修業が足りない。俺はどこまで年月を重ねれば成長できるのだろう。

 それでも学力面は成長している。佐藤にわからないところを教えつつ、自分の宿題を終わらせていった。

 

「ふぅー。ちょっと休憩するわ」

「そうだな。けっこう時間経ってたな」

 

 少し休憩しようと席を立つ。ずっと座りっぱなしというのも体に悪いだろう。

 佐藤といっしょに飲み物を買いに自販機へと向かう。

 

「あっ」

「む……」

「野沢先輩やないですか」

 

 その途中で野沢くんと遭遇した。

 驚く俺達とは対照的に、野沢くんの反応は眉を上げるだけだった。まだ十代とは思えないほど冷静だ。

 

「佐藤と……高木か」

 

 そうです、高木です。相変わらずの嫌そうな顔なことで。

 小学生の頃に比べて目つきが険しくなったからか、俺に向ける目が睨んでいるように見える。別にいつも俺を睨んでいるわけじゃない、と信じたいね。

 

「野沢先輩も勉強しに来はったんですか?」

「まあな。図書館は静かだから集中できる」

「受験生やから大変ですね」

 

 佐藤と野沢くんが会話を始めた。佐藤相手だと普通の対応だな。別にいいんだけども。

 ここで俺も会話に参加したいものだが、空気を悪くしてしまいそうで踏み出せなかった。姉が相手ならむしろ輪に入れてくれそうなものなのにな。野沢先輩が恋しいです。

 

「そうや。せっかくやから高木くんにあのこと相談してみいひんですか?」

「おい! 余計なことを言うな佐藤!」

「あのこと?」

 

 佐藤がぽんと手を叩いて提案をする。なんのことだかわからない俺は首をかしげるだけだ。

 しかし、笑顔で提案した佐藤とは対照的に、野沢くんは渋い顔を作る。

 

「あれや。夏休み明けてすぐに次の生徒会役員を決めなあかんやろ。それに高木くんを推薦したらどうかなって話や」

「はい? 俺が生徒会?」

 

 まったく意識もしていなかった話題に目を丸くしてしまう。

 そういえば、野沢くんは生徒会長だったか。だからこそ俺には縁がないとも思っていたのだが。

 

「中学の時に生徒会役員に入っていたわけじゃないし、なんで俺の名前が挙がるんだ?」

「生徒会やないけど、高木くん柔道部の部長経験があるやんか。責任感のある役職が向いとるって、僕は思っとるんよ」

 

 さらりと高評価されて照れてしまう。佐藤のそういうところ、割と人たらしだと思うんだ。

 

「別に、高木である必要もないがな」

 

 野沢くんはフンッ、と鼻を鳴らす。現会長からは歓迎されてないみたいなんだけど。

 

「そんなこと言っててええんですか? はよ決めな困るのは先輩やないですか。だから僕に一年の中で候補になりそうな人を聞いてきたんやないですか」

 

 佐藤にそう言われて、野沢くんはうぐぅと呻く。どういうことだ?

 

「フンッ。自分の学校のこともろくに知らないのか」

「そういう言い方しなくてもええやないですか。それに、生徒会がどんな仕事をして、どんな仕組みで動いているのか、全校生徒みんながみんな把握しているわけやないですよ」

 

 人をフォローすることにかけて、佐藤の右に出る者はそうはいないだろう。だってほら、あの野沢くんがなだめられちゃってるよ。

 ろくにものを知らない俺は、佐藤から生徒会長選挙について聞かせてもらったのだった。

 次期生徒会長は候補者の中から全校生徒の投票で決められる。候補者は自薦他薦問わない。

 だけど、他の役員に関しては現生徒会の推薦で決められる。もしも話し合いの中で推薦する人がいなければ、次期生徒会長が決まってから、その会長直々に役員を探さなければならない。

 

「一応言っておくが、高木を会長に推薦する気はないぞ」

「一年の俺が推薦されたらそっちの方が驚きますって」

 

 でも、何かしらの役員には推薦してもいいとは思っているようだ。

 生徒会か……。俺は部活に入っていないし、手が空いていると思われたのだろう。

 部活に入らず、葵と瞳子のために時間を作れないかと考えていた。だけど、それを自分を高めない言い訳にしてはいけない。そのことをこの間の期末テストで思い知ったばかりだった。

 こんな話が出なければ、生徒会に興味を持たなかっただろう。前世でも縁のない役職であったし、今の俺でも務まるのかどうか、胸を張れるほどの自信があるわけじゃない。

 ただ、責任を持って何かをやり遂げられたなら、胸を張りたい人の前で堂々とできるのではないかと思った。

 

「俺が力になれることでしたら、是非やらせてください」

 

 チャンスだと思った。目標とする立派な大人ってやつには、責任感が不可欠なはずだ。

 強い気持ちで野沢くんを見つめる。強さを見せなければ、彼が俺を受け入れることはないだろう。

 

「フン。……いいだろう。認めてやる」

 

 野沢会長の推薦により、俺は生徒会役員になれそうだ。

 

「よかったやないですか野沢先輩、これで垣内先輩の負担を減らせますね」

「佐藤! お前わざとだろ! わざと言っているんだろ!」

 

 野沢くんは両手で佐藤の頬を圧迫する。ひょっとこ顔になった佐藤から「ふひはへん」とやる気のない謝罪の言葉が漏れ出る。思った以上に仲良しだな。

 

「垣内先輩って?」

「高木くんが生徒会に入るならすぐわかるで」

 

 つまり生徒会の関係者らしい。すぐわかるっていうなら今聞きださなくてもいいだろうか。

 

「今の二年生から推薦する役員は決まっているが、一年生にも経験させておきたい。他にも誰かいればいいんだがな」

「その生徒会ってわたしでもいいの? すごく興味があるわ」

 

 野沢くんの言葉に反応したのは、俺でも佐藤でもなかった。

 声の方向を見れば、不敵に笑う金髪の少女。英国の気品を雰囲気だけでかもし出している。

 クラスメートのクリスが、腰に手を当て堂々とした態度で立っていた。

 

 



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128.伝える難しさ

「ふっふっふー」

 

 不敵に笑うクリス。……不敵?

 突然の登場というか、彼女の奇妙な態度にあっけにとられていると、クリスはゆっくりとした足取りでこっちに近づいてくる。

 ゆっくり、ゆっくりと。もったいぶるかのように一歩一歩踏みしめている。

 ただならぬ雰囲気を感じてか、野沢くんの表情が固まっている。佐藤はごくりと喉を鳴らした。

 

「クリス」

「何かしら?」

 

 クリスは腰に手を当て顎を持ち上げる。雰囲気も相まってか様になっていた。

 

「野沢くんは悪い人じゃないよ」

「えっ!?」

 

 野沢くんを指し示しながら言うと、クリスは目を見開いて驚いた。

 クリスなりに野沢くんを威嚇していたらしい。この子はたまに突拍子のないことをする。

 

「わたし、てっきりトシナリが生徒会に入るように強要されているのかと思って……」

「あー、うん。心配してくれたんだね。ありがとうクリス」

 

 悪気はなかったのだろう。しゅんと落ち込むところを見せられては責めるわけにもいかない。

 

「それに、生徒会長は腹黒眼鏡だから……、悪いことしてそうかなって」

「おい! 誰が腹黒眼鏡だ!」

「きゃっ! 怒ったわ」

 

 そりゃ怒るでしょうよ。

 一体クリスの情報源はなんなんだか。ろくなもんじゃないってのはわかるけども。

 

「だって、あなたいつもトシナリに熱い視線を送っているんだもの。あれだけ見つめるってことは、あなたトシナリを狙っているんでしょう?」

「それ以上気持ち悪いことを言うのはやめろ! 佐藤も笑うなっ!」

 

 言葉に熱を込めるクリス。佐藤は声を押し殺したまま腹を抱えて笑っていた。プルプル震えていやがる。他人事だと思いやがって。

 

「ひ……ひー、ぷっ……あ、あかんて……」

 

 戻ってこい佐藤っ。お前がいないとカオスになっていくこの状況をどう浄化するっていうんだ。

 

「大丈夫よトシナリ。どんな危険があってもわたしが守ってあげるから!」

「うんクリス、その辺にしとこうか。本当に何から影響を受けたんだ?」

 

 そのノリノリのテンションが気になる。彼女が影響を受けたものが推察できない。

 でもまあ、クリスが善意を持って行動しているというのはわかった。方向性はわけわかんないけど。

 とりあえず、このカオスな状況をどうにかしようか。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 それぞれ自販機で飲み物を買って、ブレイクタイムでほっと一息入れることになった。

 落ち着いたところで、さっき話していたことをクリスに説明する。

 

「なーんだ。生徒会って学校行事に関わることしかしないのね」

 学校行事以外に関わることってあるのかな。クリスの中で生徒会という組織はどんなイメージになっているのだろう。

 

「で、それってわたしにもできるの?」

 

 興味があるってのは本気だったらしい。クリスはキラキラした瞳で野沢くんを見つめる。

 

「本気でやりたいなら立候補でもすればいい。俺は推薦しないがな」

 

 野沢くんの態度は冷たかった。この態度って俺限定ってわけでもないのか。クリスがぶー垂れても眉一つ動かさない。

 

「そういえば、クリスはどうしてここの図書館に来ているんだ?」

 

 空気を変えるために話題を変える。

 俺達の家からは近い場所の図書館だけど、クリスが住んでいるところからだと距離がある。わざわざこの図書館を利用する理由があるのだろうか。

 

「あっ! そうだったわ。わたしミホといっしょに来ていたのよ」

「美穂ちゃんも来てるのか?」

 

 この図書館へは美穂ちゃんに案内されたとのことだった。美穂ちゃんにクリスときたら、望月さんもいるのかと思いきや、今回彼女は不参加らしい。A組三人娘が揃い踏み、というわけではないようだ。

 

「リナとは後で会うの。用事があるからって言っていたわ。それまでミホと宿題をしていたの」

 

 やっぱりA組三人娘は仲が良いようです。そうやって楽しそうにしているのを見るとほっこりするよ。

 

「トシナリ達も同じ席に来る?」

 

 クリスの誘いに、俺は首を横に振った。

 

「俺はいいよ。この後用事もあるし」

 

 バイトに必要な物を揃えなきゃいけないし。別に大したもんでもないんだけどな。

 それに、美穂ちゃんもいきなり俺が来たらびっくりするだろう。

 

「なら僕がそっちに行くわ」

「佐藤?」

「高木くんが帰ってまうなら僕一人になるし。ええやろクリスさん」

「もちろんよ。歓迎するわサトー」

 

 にっこりと笑って応じるクリス。佐藤にはこの後の買い物にも付き合ってもらいたかったんだけどな。先に言ってなかった俺のミスか。

 

「そこの眼鏡の人もいっしょにどう?」

「遠慮する。それと先輩に向かって失礼な呼び方をするんじゃない」

「あら、眼鏡に失礼だったかしら?」

「……」

 

 攻めるクリスなんて珍しい。さすがの野沢くんも不機嫌顔になってしまう。それは元からか。

 それからクリスは美穂ちゃんと合流するということで、佐藤もいっしょに行ってしまった。

 もう少しだけ宿題を進めようかとも思ったが、案外はかどっていたので今日考えていたノルマまで終わっていた。佐藤の後を追うのもなんだかなと考えて、予定より早いが図書館を出ることにする。

 

「「あ」」

 

 図書館を出てすぐに野沢くんと早めの再会を果たす。

 

「「……」」

 

 互いに無言。そういえば野沢くんと二人きりという状況はあまり記憶にない。そもそも他に誰かいても話が弾むことなんてなかったけれども。

 別に彼を無視してきたわけじゃない。敬愛する野沢先輩の弟だ。できるだけにこやかに接してきたつもりである。

 けれど、姉と違って弟は俺に冷たかった。それはまるで父親をうざがる娘のごとく。言葉が少ない以上に、とにかく関わるなオーラがすごいのだ。

 それが思春期になってからだったらわかるのに、小学生の頃からだからなぁ。俺、何かやっちゃいました? と聞いてみたいけど、そんなことを言える空気すら作ってもらえない。

 葵は普通に話せるよ、なんて言うけれど。俺にはその糸口すら見えない。

 佐藤という仲介役を失っている俺では話しかけても迷惑なだけだろう。後輩らしく会釈をしてその場を後にしようとする。

 

「おい高木」

 

 背を向けた瞬間に呼び止められる。

 なんだか野沢くんの方から俺を呼ぶのが新鮮だ。それがイコール嬉しいという感情には繋がらないんだけども。

 

「なんですか?」

「その……だな」

 

 しかし呼び止めてきたものの、野沢くんは口ごもってしまう。何か言いたそうに唇が動き、でも言葉にはなってくれない。

 そんなに言いにくいことを口にしようとしているのか? 根気強く待っていると、野沢くんは頭を乱暴にかいて、意を決したといった調子で言った。

 

「木之下に、生徒会役員に興味があるかどうか聞いてくれないか?」

「え? 瞳子にですか」

 

 野沢くんは「ああ」と頷く。

 

「それくらいいいですけど」

「興味があるなら夏休み明けにでも生徒会室に来いと伝えろ。……以上だ」

 

 それだけ言うと、もう用はないとばかりに野沢くんは背を向けた。その「話は終わりだ」と語る背中に声をかけられるわけもなく、俺は彼を見送った。

 

「なぜ瞳子を生徒会役員に」

 

 聞きそびれた疑問が口の中で消えた。

 よく考えなくても理由は明らかだ。瞳子はとてもしっかり者で、生徒会のような役職が似合っている。それは俺よりも、だ。

 優秀な彼女なら推薦されてもおかしくない。ただ、俺に伝言を頼むのはなぜだろうか。

 別に野沢くんは人見知りってわけでもないし、小学校の頃から顔見知りなんだから知らない仲ってわけでもないだろう。

 まあ夏休みに入っちゃったから機会を逃したってだけだろう。生徒会長のご命令とあらば火の中水の中。てのは冗談にしても伝言くらいなら負担でもなんでもない。

 野沢くんの姿が見えなくなってから、俺もその場を後にした。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「あっ、お帰りなさいトシくん」

「……お帰り俊成」

「ただいま。二人とも来てたんだ」

 

 家に帰ると、葵と瞳子が俺の部屋でくつろいでいた。

 今日は出かけると前もって伝えていたのだが。まあ二人が来てくれるのならいつでも歓迎だ。

 

「もしかして、ずっと待っていてくれたのか?」

「気にしなくてもいいよ。私達トシくんが出かけるって知ってて来たんだから。それに、瞳子ちゃんとお話ししてたから退屈じゃなかったよ。ね、瞳子ちゃん」

「ええ……そうね」

 

 明るく返事する葵とは対照的に、瞳子の表情は影を差している。はて、と首をかしげる。

 

「瞳子? どうかしたか?」

「ううん。なんでもないわ」

 

 瞳子はさっきまでの暗い表情を引っ込めて笑顔を見せてくれる。本当にどうした?

 感情を押し込めるような笑顔に、瞳子らしくないと思ってしまう。これは追及した方がいいのかなと詰め寄ろうとしたら、唐突に彼女が立ち上がった。

 

「あたし帰るわね」

「え、俺今帰ったばかりなんだけど」

「用事ができたのよ。……少しだけ、考える時間をちょうだい」

 

 それだけ言って、俺の言葉を振り切って瞳子は帰ってしまった。

 瞳子に何があったのか。それを知っているかもしれない葵に顔を向ける。

 

「じゃあ、私も帰るね」

「え、葵も?」

「これからピアノのレッスンがあるの。トシくんの顔が見られたから、がんばる元気をもらったよ」

 

 口を開く前に先手を取られた。葵はにこにこ顔で、するりと俺の横を通り抜ける。

「またね」なんて言いながら葵も帰ってしまった。取り残された俺はぽかんと立ち尽くす。

 なんだったんだろう? 瞳子も、葵も、いつもと態度が違っていた。

 これから、と計画していたところでの二人の態度の変化をどう見るか。一人ではしゃぐ前に、気にしなければならないことがあるようだ。

 

「野沢くんからの伝言……、伝え忘れたな」

 

 それだけぽつりと零し、二人のことに意識を割くのであった。

 

 



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129.アルバイト始めました

 短期間ではあるのだが、ファミレスでバイトをすることになった。

 ちょうど『夏のデザートフェスタ』というイベントを始めるらしく、客入りが見込めるからと人員を募集していたのだ。そのためかなかなか時給がいい。

 初めてのファミレスバイトだ。しかし、これでも社会人経験のある元おっさんである。なんとかこなしてみせるさ。

 

「六番と十番テーブル注文入りました! 誰かお願いします!」

「九番テーブルのお客様からパフェはまだかとクレームがきてます!」

「おい! 皿洗い急げ! 早くしないと足らなくなるぞ!」

 

 響くのは怒号と悲鳴。戦場はここにあった。

 え、何これ? 家族で和やかに外食している裏側では、こんな戦場が繰り広げられているの?

 ホールではウエイトレスが注文を取ったり料理を運んだりと走り回っている。その中でも笑顔を絶やさない。まさにプロである。

 キッチンではお客様に聞こえない程度の大声が飛び交っている。声を飛ばしながらも、手はまったく止まる様子を見せない。やはりプロだ。

 俺はといえば黙々と皿洗いをしていた。

 皿洗いくらい楽勝かと思いきや、怒涛の勢いで積まれていく皿を目にして余裕が吹っ飛んだ。家でやる皿洗いとは規模が違い過ぎていた。

 自分に止まるんじゃねえぞ、と言い聞かせながらの皿洗いが始まってからどれくらいの時間が経っただろうか。時計を見る暇すらない。ひたすら皿を洗うことに全力を注ぎ続けていた。

 一息つけたのは昼のピークを過ぎてからだった。少しばかし遅い昼休みである。

 

「つ、疲れたー。腰痛ぇー……」

 

 休憩スペースに入ると、バタッとテーブルに突っ伏した。

 体力には自信があったってのに、スポーツをした後とは別の種類の疲労が体にのしかかってくる。

 初めてのファミレスバイトとはいえ、思った以上に大変なものなんだなと実感する。働くことに楽なものはない。どんな形であれ、プロ意識を持たなければならないだろう。

 だが負けてはいられない。エイヤ! と気合いを入れて上体を起こした。

 

「おはようございまーす」

 

 そこへ誰か従業員が入ってきた。危うくだらけているところを見られるところだった。休憩時間だからいいんだろうけどね。

 

「おはようございます」

「あれ? 高木くんじゃないですか」

 

 名前を呼ばれてよく見てみれば、クラスメートの望月さんだった。見慣れないウエイトレス姿だからすぐには気づかなかった。

 予期せぬ出会いに望月さんの表情が明るくなる。俺も知らない人に囲まれてのバイトだったからか、知っている顔を目にして頬が緩んだ。

 

「その恰好ってことは、望月さんもここでバイトしてるんだ」

「そうですよ。そういう高木くんはもしかして今日からですか?」

「そうなんだよ。さっきまで皿洗いしてた。今は昼休憩もらってだらけていたところ」

 

 望月さんは小さく笑う。普段学校で見る彼女とは違うウエイトレス姿だからか、雰囲気が少し別物みたいに感じる。

 

「それなら僕は高木くんの先輩ですね。僕はもう三か月以上はここで働いていますので」

「ははっ。そりゃあ確かに俺の先輩だ」

「いろいろ教えてあげます。先輩としてビシバシいきますんで、覚悟してくださいね」

 

 望月さんは自信たっぷりといった態度で胸を叩く。

 

「高木くんはお昼ご飯はもう食べましたか?」

「いいや、まだだけど」

「ここはまかないがあるって聞いてますか?」

「聞いてはいるけど……。一応弁当持ってきたんだ」

 

 初日だから勝手がわからなかったらどうしようかと心配して弁当を作ってきたのだ。ロッカーが暑くても問題ないように保冷材も仕込んである。

 それに、昼のピークは本当に忙しかった。その後にまかないを頼むのも気が引ける。

 

「えー、せっかく先輩としてまかないの注文のやり方を教えてあげようと思ったのにー」

 

 先輩、ということにこだわる望月さんである。後輩への指導ってなんだかやりがいがあるよね。気持ちはわからなくもない。

 

「また今度頼むよ。望月さんはこれから仕事じゃないの?」

「あっ、そうでした。僕は行きますので、高木くんはゆっくり休憩してくださいね」

 

 出勤したばかりの望月さんは慌てて仕事へと入る。俺も弁当を食べてしまおう。せっかくなので今度こそはまかないを食べようと心に留める。

 昼休憩が終わって仕事へと戻る。キッチンにはまた皿が山となっていた。

 もちろん皿洗いをしているのは俺だけじゃない。それでも次から次へと食器が運ばれてくるのは繁盛している証拠でもあった。

 昼ピークの次は夕方、つまり食事時にまた忙しくなるらしい。ファミレスなんだから当たり前だけども。

 だが今は『夏のデザートフェスタ』の期間である。昼のピークが過ぎたとはいえ、おやつタイムにまたお客様が増えていた。

 ホールからは子供の騒ぎ声が聞こえてくる。夏休みだもんね。やっぱり家族連れが多いようだ。

 

「おう新人。お前さんがいない間に皿が溜まっちまってんだ。すぐ洗ってくれ」

 

 キッチンスタッフのおじさんが声をかけてくれる。初めての職場にいると、こういう声かけってけっこうありがたいもんだな。

 俺は「はい」と返事して仕事へと取り掛かった。

 

「高校生の男って聞いてたからもっと雑な仕事をされるって思ってたんだがな。今時の若いもんにしちゃあ丁寧に洗い物するじゃねえか。感心感心」

 

 そう言っておじさんは上機嫌に調理をする。少しは腕に覚えのある俺でも感心させられる手さばきだ。

 それに俺褒められたか? ちょっとしたことかもしれないけど、なんか認められたみたいで嬉しいもんだな。

 昼のピークを乗り越えたからか、なんとなくでもコツを掴めたような気がする。スピードを上げて溜まっていた食器を洗っていった。

 順調に初日のバイトを終えられる。と、思った傍から問題が起こった。

 

張本(はりもと)さん! 吉田(よしだ)さんが急用で今日仕事に出られないと連絡がっ」

「何ィ! これから混み出す時間なんだぞ!」

 

 慌てた店長の報告に、さっき俺に声をかけてくれたキッチンスタッフのおじさん、張本さんが反応する。店長相手にも敬語じゃないってことは長く勤めている人なのかな。それに店長も真っ先に報告しているし。

 スタッフにはあいさつをしているけど、まだ吉田さんという人には会っていないな。話を聞くに夕方から出勤する予定だったのだろう。

 

「それじゃあキッチンの人手が足りねえってことか……」

「ど、どうしましょうか? 今から代わりの人を呼ぶとか……」

 

 店長と張本さんが真剣な顔で話し合いを始める。夕方のピークをどう乗り越えるのか。俺は皿洗いをしながら耳をそばだてる。

 

「悪いが望月にもキッチンに入ってもらおう。ホールが忙しくなるだろうが、そこは店長さんにがんばってもらうしかねえな」

「それでも大変じゃありませんか? 今はデザートの注文も増えていますし」

「大変だろうがなんだろうがやり切るしかねえんだよ。すぐに忙しくなる。早く望月に伝えてきてくれ」

「あの、いいですか?」

 

 俺が声をかけると店長と張本さんがこっちを向いた。ピリピリした空気に動じないように腹に力を込める。

 

「なんだ新人? 今立て込んでいるんだ」

「わかっています。よければですけど、俺も調理に回りましょうか?」

「は? 高木……だったな。お前には皿洗いが――」

 

 今洗い物をしなければならない食器はない。全部片づけた。この分ならピークがきたとしても少しは余裕があるだろう。

 

「でも高校生の男の子にいきなり調理だなんて……」

「マニュアルは調理含めて全部に目を通しています。家でも飯作ったりするんで簡単なものでよければ手伝えると思います」

 

 渋る店長にやれるという意思を示す。ここで曖昧な言葉は禁句だ。

 難しい顔をしていた張本さんが口を開く。

 

「……焼いたり揚げたりはできるか?」

「はい。できます! 皿洗いも両方します!」

「わかった。指示は俺が出す。高木、頼むぞ」

「はい!」

 

 バイトはただ金を稼ぐだけの場所じゃない。職場のピンチに、黙って指をくわえるだけの男にはなりたくない。

 自分ができることを、ちゃんとできると口にすること。それからやり切ること。俺に必要な要素だ。

 そして、夕方のピークがやってきた。

 

 



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130.どこからがピンチなのか

 ファミレスでバイトを始めた俺は、夕食時という混雑する時間帯を目前にしていた。そんな忙しい時間に入るはずだった貴重なキッチンスタッフが急用で出られなくなってしまった。さて、このピンチをどう乗り越えるのだろうか?

 

 と、他人事のように説明してみた。状況を冷静に見つめるためにも、俯瞰した視点って大切だと思うんだ。

 さて、どうピンチを乗り越えるか!? だなんて煽り文句みたいなことを言いたいところだが、それは俺自身が調理する側になることでなんとかするつもりだ。いや、なんとかしてみせる。

 これは自分から言い出したことなんだ。半端な仕事はできない。バイトだろうがなんだろうが、お客様に提供することには違いはない。

 頭の中でマニュアルを繰り返し呟く。他のスタッフの仕事ぶりをただ眺めていたわけでもない。

 

「高木、もし失敗するようなら洗い場に戻ってもらうからな。中途半端な仕事しかできないようなら皿洗ってくれている方がよっぽど戦力になる」

「はい!」

 

 こうして張本さんに指示されながら、初の調理仕事が始まった。

 料理には手際が肝心だ。それができる人とできない人とでは面白いほど時間に差が出るものである。

 それは家庭だけではなく、ファミレスのキッチンでも同じだ。

 品目によって調理時間にばらつきが出る。いくら家より広いといっても、調理スペースには限りがあるのだ。作業する順番を上手く考えないと時間ロスになってしまう。

 まあ、その順番は張本さんから指示が飛んでくるのだが。俺はしっかり集中してミスのないようにするだけだ。集中、集中だ!

 だけど、その集中力を切らそうとしているのかって思ってしまうほど熱い。洗い物をしている時には気づかなかったけど、調理場はとにかく熱い。

 火元にいるのだし当然と言えば当然か。俺は焼いたり茹でたりだけだが、フライヤーの前にいる張本さんなんて下手をすれば火傷の危険だってある。

 ついでに言えば盛り付けも張本さんがやっている。注文が多くなってくると、どのソースや皿を使えばいいのかこんがらがってきそうだ。だってのに手の動きからは迷いなんて微塵も感じられない。

 

「注文入ります。チョコレートパフェ、苺とベリーのパンナコッタ、豆乳のカフェゼリーバニラアイス添え、抹茶ぜんざいです!」

「お任せあれ!」

 

 望月さんはデザート作りを手伝っていた。

 『夏のデザートフェスタ』という期間限定メニューもある中での担当だ。デザート全品割引されているというのもあって、注文が殺到している。

 見るだけで大変そう。しかし望月さんの作業スピードは他のキッチンスタッフとそん色ないどころか図抜けたものだった。

 そういえば、望月さんって美穂ちゃんと同じ料理研究部だったか。なんか納得。

 夜の混雑が止むまで、スタッフ全員が一致団結してそれぞれの仕事をまっとうしていったのであった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「お疲れさん。高木、もう上がる時間だ」

「わかりました。それじゃあお先に上がらせてもらいますね」

 

 最後の皿を食洗機に入れてスイッチオン。これにてバイト初日は終了だ。

 

「今日は本当に助かった。帰ったらゆっくり休めよ」

「はい! ありがとうございました!」

 

 張本さんの労いが身に染みる。彼のサポートがなければやり切れなかっただろう。自分の仕事だけじゃなく、俺の方まで目を配ってくれたことには感謝しかない。

 目が回るほど忙しかった。それでも、やり切った充実感に満たされてもいる。まあこれが毎回と言われたら勘弁してもらいたいものなんだけどね。

 

「それでは僕もここまでですね。お疲れ様でしたー!」

 

 望月さんはニッコニコの笑顔であいさつする。相当疲れただろうに、まったく顔に出ていない。さすが先輩だ。

 着替え終わって更衣室を出てから少し待っていると、着替え終わった望月さんが出てきた。私服姿が目新しい。

 

「家まで送ろうか?」

「それでわざわざ待っていてくれたんですか? 高木くんってば紳士ですね」

 

 そうは言うけど、外は暗くなっていたのだ。クラスメートの女子をそのまま帰すにしては心配だろう。

 

「でも大丈夫ですよ。僕自転車で来てますし」

 

 望月さんの家はここから近いらしい。俺が働く前からいたのだ。帰宅に問題のない距離なのは当然か。

 

「俺も自転車で来たんだ。一応家の近くまで送るよ」

 

 電車を利用してもいい距離ではあるが、運動も兼ねて自転車で来たのだ。

 外に出ると生暖かい空気に店内へと引き返したくなった。日が暮れても暑いものは暑い。

 駐輪場で互いの自転車を回収する。意外にも望月さんはクロスバイクに乗っていた。急に彼女への印象がスポーティーなものへと変わってきそうだ。

 道中では今日のバイトのことが話題になった。同じ戦場を経験した、いわば戦友である。この日だけでかなり仲良くなれた気さえする。

 

「この前クリスが料理研究部に顔を出してくれたんですよ。何か日本食が作れないかって。外国人さんに日本のことを興味持ってもらえるのってなんだか嬉しいですよね」

「確かにな。クリスはいっつもニコニコしてるからこっちも教え甲斐があるしね」

 

 バイトのことから学校のことへ、ころりと話題が変わる。俺は相槌を打った。

 

「それにクリスは筋がいいんですよ。もともと料理はできるんでしょうね。今度は僕の方から何か教えてもらおうかな」

 

 料理研究部であり、バイトでの手際を見るに望月さんの腕はなかなかのものだろう。

 そんな彼女からのお褒めの言葉だ。クリスが料理できるのは事実なのだろう。イギリス人の料理がまずいってのはあてにならないのかも。クリス母のチーズケーキは美味かったし。

 

「それに美穂さんです。彼女相当料理上手ですよ。頭が良くて料理上手で美人さん。しかもクリスに教えるのも上手で……。もう料理研究部のエースと言っても過言じゃないですね」

 

 料理研究部ってエースとかそんなんあるのか。

 何はともあれ安定の三人娘のようだ。

 

「クリスのおかげで部員のみんな楽しそうで、もちろん僕や美穂さんも楽しくて、なんだか安心します」

 

 明るく朗らかに、望月さんは笑った。

「そうか」と、そっけなく受け取られそうな返事になってしまった。それをなかったことにしようと笑った。

 

「あっ、もうすぐ家が近くなのでここまででいいですよ。送ってくれてありがとうございます」

「俺が勝手についてきただけのようなもんだから気にしないで。またバイトで世話になると思うから頼むよ」

「あははっ。先輩として高木くんのお世話焼いてあげますね」

 

 冗談めかして笑い合う。

 望月さんは付き合いやすい部類の女子だ。敬語と人懐っこさが上手く融合しているというか、同性とは違った気安さがある。

 このまま笑顔で別れようとした時だ。望月さんの「そういえば」という言葉に動こうとした足を止める。

 

「高木くんはどうしてバイトを始めたんですか?」

 

 なんてことのない質問だ。望月さんもただの興味本位といった風である。

 

「まあ夏休みだし。経験と金を稼ぐためだよ」

「ふむふむ、意中の女の子のためだと白状しないのが高木くんらしいですね」

 

 ギクリと固まってしまう。この反応がお気に召したのか、望月さんは満足そうに頷いた。

 

「高木くんは期待を裏切らない反応をしてくれますねー。で? 瞳子さんと宮坂さん、どっちが本命なんですか? ここだけの話にしますので教えてくださいよ」

「ど、どっちがって……」

「隠さなくてもいいじゃないですか。幼馴染二人のうちどちらかが好きなんですよね?」

 

 これも興味本位なのだろう。さあさあ、と答えを迫る彼女からは悪意なんて一かけらも感じられなかった。

 高校から仲良くなったメンバーは俺達の関係を知らない。でも、葵と瞳子といっしょに登下校したり、校内で話だってする。望月さんのように仲を疑われても当然だろう。

 嘘をつこうとする自分と、嘘をつきたくない自分がいる。それはなんとも中途半端で、俺の口は間抜けにもパカパカと開閉を繰り返すだけだ。

 そんな間抜けな俺が面白かったのか、望月さんは噴き出した。腹を抱えて笑われ続けた。

 

「ふふ……。いじめるのもこのくらいにしておいてあげましょうか」

 

 しばらく笑われっぱなしだったものの、やっと落ち着いてくれたらしい。ただ、言葉はそれだけで終わらなかった。

 

「男らしくとか女らしくとか、そういうのは好きではありませんけど……、女の子はやっぱり男の子から動いてくれるのを待っているものですよ」

「……それって望月さんの経験談?」

 

 急に望月さんの目が輝いた。あれ、今目を輝かせるようなこと言ったっけ?

 

「高木くんは僕が経験豊富そうに見えますか!? モテそうな女子に見えますか!?」

 

 詰め寄られた勢いで思わず首を縦に振ってしまった。望月さんはむふーと心なし嬉しそうに息を吐く。

 

「さすがは高木くん。見る目がありますね」

「まあ、望月さんをかわいいって言ってる奴がいるからさ」

 

 主に下柳のことである。あいつにとって彼女は特別枠みたいなことも言ってたしな。

 そこまで言う前に「僕ってやっぱりモテモテなんですねー」とか呟きがバッチリ聞こえる。細かいところは見なかったことにするのも優しさだろう。

 おかげでこれ以上の追及もなく、そろそろお開きになりそうだ。いくら家が近いとはいえ、女の子が長い間夜道にいるものじゃない。

 

「それじゃあ望月さん、俺もそろそろ帰るよ。すぐそこなんだろうけど気をつけて帰ってね」

「あ、遅い時間なのに引き留めてしまってごめんなさい。高木くんこそ気をつけて帰ってくださいね」

 

 手を振ってさようなら。と、なるはずだったのに、望月さんの背後から闇に紛れるように男が現れた。

 不審者。頭がそう判断した瞬間、俺は動き出していた。

 

「望月さん!!」

 

 俺は自転車から飛び降りた。血相を変えた俺を見て、望月さんは慌てて振り返る。男と目が合ったであろう彼女は固まった。

 男の手が望月さんに伸ばされる。思いっきり地面を蹴るが間に合わないっ。

 

「梨菜、お帰り」

「良兄? なんでここに」

 

 男は望月さんのお兄さんだった。伸ばされた手は望月さんの頭にぽん、と優しく置かれる。駆け出していた俺は勢いを殺せず盛大にずっこけた。

 声もかけずいきなり現れるもんだから不審者かと思ったじゃないかよ! あと夜に黒一色の服装はやめていただきたい! 本当にびっくりするからっ!

 

「梨菜の帰りがいつもより遅いから迎えにきたんだ。で、誰だよそいつ?」

 

 望月さんの兄というのもあって端正な顔だちをしている。無遠慮に俺を指差さなければ、ただの妹想いのアニキなんだけどな。

 

「彼はクラスメートの高木くんですよ」

「高木……だと?」

 

 望月兄がわなわなと震える。え、俺なんかやっちゃいました? いやほんとに心当たりないんだけど。

 

「貴様が梨菜をたぶらかした男なのか!!」

「マジでなんの話ですかーー!?」

 

 突然現れたかと思えば敵視されているようです。あなたと俺は初対面のはずなのですが……。

 

「良兄! 高木くんは僕をここまで送ってくれたんですよ。それなのに失礼です! 高木くんに謝ってください!」

「む……」

 

 妹に怒られた兄は止まった。止まってくれてほっとする。

 良兄ってことは長男の良一さんだろうか。たまに望月さんから四人の兄の愚痴を聞いていたのを思い出す。

 

「ま、まあいいよ。お兄さんだって望月さんのことが心配だっただけなんだろうしさ」

「貴様にお兄さんと気安く呼ばれる筋合いなどないわ!!」

 

 め、面倒くせぇ……。彼女が愚痴ってたのもちょっとわかってしまうよ。

 でも、それだけ望月さんを大切に想っているということなのだろう。誰にどう思われたって構わない。彼には譲れないものがあるのだという気迫がこもっていた。

 

「良兄! ごめんなさい高木くん。後でしっかりと言い聞かせておきますので」

「気にしていないからいいって。お兄……良一さんがいるなら安心だよね。じゃあまたバイトで」

 

 自転車を起こして「バイバイ」とあいさつする。これ以上騒ぐのもご近所迷惑だ。さっさと退散させてもらおう。

 

「あいつ……素人の体さばきじゃなかったな。もし俺が梨菜を襲う不審者だったらどうなっていたか……うむ」

「何ぶつぶつ言ってやがるんですか。良兄はちゃんと反省してください。これで僕が友達から変な目を向けられるようになったら良兄のせいですからねっ」

 

 自転車を漕ぐ。背後のやり取りは風で耳に届かなかった。

 

「疲れた……」

 

 バイトよりも疲れてしまったのはここだけの愚痴にしておきたい。次から望月さんを送る時はもう少し手前までにさせてもらおうと思った。

 

 



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131.身内の目

 職場にはそれぞれ特有の雰囲気というか、ルールみたいなものがある。

 アットホームなところがあれば、必要以上に年功序列を厳しくしている職場もある。それを決めるのは店長はもちろんのこと、スタッフそれぞれの空気みたいなものがあるのだろう。

 上司が代わっただけで職場の雰囲気までがらりと変わったというのはよくある話だ。影響力があるならば、それは一人のスタッフからでも起こり得ることだろう。

 つまり、人一人が雰囲気を変えてしまうということが、職場でもままあるということなのである。……さすがに立場を度外視してまで影響力のある人なんて稀なのだと信じたいが。

 

「んまあー。新人が入ったって聞いてはいたけど、こんなに若い男の子だったのねぇー。張本ちゃんが何か厳しいこと言ってきたらあたしに言いなさいな。ビシッと言ってあげるから。おほほほほほっ」

「は、はあ……」

 

 パワフルなおばちゃんが俺の肩をばしばし叩く。力加減を間違えていることにも気づかず嬉しそうなものだ。

 この人は吉田さん。この間急用で休んだスタッフである。俺と望月さんが代わりになれるよう奮闘したことを聞いて、感謝をしたいと話しかけてきたのだ。

 

「それにしても高木ちゃん男の子なのに料理できるのねぇ。うちも男の子がいるんだけど全然ダメなのよ。もうね、料理は食べる専門だ、って言って手伝いもしてくれないの。そのくせ好き嫌いがあって困っちゃうのよ。この前なんてね、カレーが食べたいって言うからお野菜たっぷりのを作ってあげたのよね。それでなんて言ったと思う? こんなのカレーじゃないって文句ばっかりなのよ信じられる? だからね――」

「え、えっと……」

 

 ……のはずなのだが、感謝どころか話が別方向へと行ってしまうのは気のせいだろうか?

 職場のことを口にしていたかと思えば、自分の子供がどうのとか、学校はどうなのよとか、段々話が離れてきている。

 おしゃべり好きのおばちゃん。よくいそうな人ではあるけど、俺の周りにはここまでのマシンガントークする人に心当たりはなかった。一向に口の動きが止まらないことに戦慄する。これいつ終わるの?

 

 けれど、仕事に入ってしまえば吉田さんの雰囲気ががらりと変わった。ピリリとした緊張感が俺達にも伝染するほどである。

 吉田さんはただのおしゃべり好きのおばちゃんではなく、とても仕事ができるおばちゃんでもあった。それは職人気質だと感じていた張本さんでさえ頭が上がらないようだった。

 こんな人が休んだりすれば店長が慌てるのも納得してしまう。一体吉田さん一人で何人分の仕事ができるのやら。

 

「それでね、うちの子ったら夏休みだからってだらけちゃってばかりなのよ。こっちが宿題やってるのかって聞いても生返事するだけ。本当に困ったものよね。こっちだって暑い中でも関係なく忙しいってのにねぇ。そうそう、今朝のニュースで言ってたわ。あの女優が離婚したらしいわね。えーっと、名前はなんだったかしら……」

「へぇー、そうなんですかぁ。大変ですねー」

 

 休憩室から漏れる声を耳にし、今度は望月さんが吉田さんのターゲットにされてしまったのだと悟る。望月さんの生返事に気づいていないのか、吉田さんのおしゃべりは止まる様子を見せない。話題がコロコロ変わっても気にしてないみたい。

 

「ごめーん望月さーん。ちょっと教えてもらいたいことがあるんだけどー」

 

 休憩室の外から新人ならではの困っているアピールをする。望月さんは「助かった!」とばかりの表情で、小走りでその場を脱出した。

 

「高木くん気を利かせてくれたんですね。助かりましたー」

「お疲れ様望月さん。吉田さんっていつもあんなに元気なのか?」

「あはは……。たぶん新しく高木くんがきてくれたから嬉しくなっているみたいですよ」

 

 いつも明るい表情の望月さんがぐったりと疲れている。人付き合いの上手い彼女が疲労を隠せないほどになるとは……。吉田さん恐るべしである。

 俺が知らず労わるような顔でもしていたのだろう。望月さんは「勘違いしないでくださいね」と手を振った。

 

「僕は別に吉田さんを嫌っているわけじゃないんですよ。仕事はできるし、気配りだって誰よりもできる人なんです。お子さんがいる中で働いて、家のこともして……。僕は吉田さんのことを尊敬できる人だと思っているんですよ」

「それは俺も同感だよ」

 

 吉田さんが自分のことを話す中に、滲み出る苦労を感じた。冷静に聞いていると、よく働いている印象を抱かせるのだ。

 それを明るいおしゃべりで笑い話にしている。苦労を自慢するわけでもない。吉田さんのマイナスを感じさせないパワーが、より一層職場を盛り上げているのかもしれなかった。

 

「ただ……長話の相手をするのは大変かなぁって……」

「……それも同感」

 

 わりと関係のない話も多い人である。話した時間もそう長くない俺が思ってしまうのだから、望月さんはもっと大変だったのだろう。

 二人でため息をつく。ちょうどというべきか、休憩室のドアが開いた。

 

「あらあらまあまあ、まだこんなところにいたの? 高木くん困っていることがあるならいつでも言ってね。今困っているの? なんでも教えてあげるから言って言って。こう見えてもあたしけっこうベテランなんだから」

 

 俺と望月さんは噴き出すように笑った。どうやら新人は吉田さんにかわいがられる運命らしい。望月さんから口パクで「がんばってくださいね」とエールを送られた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 ファミレスバイトの日々は慌ただしくも過ぎていく。

 仕事を少しずつ覚えて、仕事をしていた頃を少しずつ思い出す。体は段々と慣れていくものである。姿勢が良くなってきたのか腰の痛みもだいぶマシになってきた。

 

 バイト以外のことで覚えたといえば、望月さんのことだろうか。正確に言えば望月さんのお兄さん達のことだ。

 望月さんと出勤日が被った日はいっしょに帰っている。また良一さんに出くわしたりしないようにと早めに別れるのだけど、はっきり結論を口にするなら無駄なことであった。

 

「俺の名前は勇士(ゆうし)。梨菜の兄ちゃんだ! お前も名乗れ。名乗っても梨菜はやらんがな!」

「俺は高木俊成です。まずは落ち着きましょうか。はい、深呼吸してくださいねー」

「すー……はー……。よし! なんかスッキリした。帰るぞ梨菜」

 

 ある日は次男の勇士さんと。

 

「ふーん。君が高木俊成くんなんだー。梨菜のクラスメートで、バイト仲間なんだー。へぇー」

「ええ、まあ……。そういうあなたは望月さんのお兄さんですか?」

「まあねー。幸治(こうじ)ってんだー。妹が世話になってるみたいだねー」

「世話になってるのは俺の方ですよ。望月さんにはバイトの先輩としていろいろ教えてもらっていますし。良い妹さんですね」

「へへっ、そうだろー。自慢の妹なんだー」

 

 ある日は三男の幸治さんと。

 

「……良兄達が言っていた高木って君? 俺は望月(もちづき)宗司(そうじ)……よろしく……」

「どうもご丁寧に。こちらこそよろしくお願いします。……今までのお兄さんの中で望月さんと一番顔立ちが似ていますね」

「そう……? 君は良い人、かも……」

「今のどこに良い人要素があったと!?」

 

 ある日は四男の宗司さんと。

 

「高木、毎回梨菜を送っているんだってな。バイトも真面目に取り組んでいると梨菜から聞いた。だがそんな上辺だけじゃあ何も判断できない。お前は俺達の梨菜を想う心について来れるか?」

「いい加減にしろバカ兄貴! 僕がどれだけ恥ずかしい思いをしているかちょっとくらい想像してよ! ……ですよ」

 

 そして、ある日は長男の良一さんにばったり会ったりした。本当にばったり? と疑問に思ってはいけないのだろうな。爆発した望月さんのことも見なかったことにした方がいいんだろうな。

 おかげで望月さんのお兄ちゃんズの顔と名前が一致するようになってしまった。遭遇率は一〇〇%である。毎回望月兄の誰かに会っている。全員妹のこと好き過ぎるだろ。

 だからって、彼らのことを悪くは思えなかった。

 兄として妹が心配なのだろう。俺は一人っ子だけど、葵と瞳子と幼い頃から接してきたこともあってか、なんとなくその気持ちがわかる。

 ほんの些細なことでも、俺は葵と瞳子を心配してしまう。それが余計なことだと思われたとしてもだ。

 

「兄達が本当にごめんなさい。こんなに迷惑かけちゃって……。妹ばっかりにかまけちゃうだなんて、恋人ができなくなっちゃったらどうするんでしょうね……。せっかく顔は良いのに、残念なことにならなければいいのですが。……いいえ、僕がしっかり言ってやらないといけませんね」

 

 それは逆も然りである。

 お兄さん達から心配されながらも、望月さんもまたお兄さん達の心配をしていた。それがなんとなくだけども、葵と瞳子が俺を心配している目と被る。

 

「……」

 

 身内の目、か……。

 自分以外は他人。そんな考えもあるだろう。

 でも、自分のことのように、もしかしたら自分以上に一喜一憂し、心が揺さぶられる。そんな人は確かにいて、それが身内と呼べるものなのだろうと思う。

 本当の意味で他人との違いがわかるとすれば、本物の身内になった時だけかもしれない。もしその時がきたとして、自分がどう思うのか……。今考えても仕方のないことだけれど、そうわかっていても気になってしまって考えずにはいられなかった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 俺は働く。時には吉田さんに指導され、時には張本さんに叱られ、四人の兄の奇行を愚痴る望月さんの聞き役となっていた。

 そして、ついに目標金額を稼ぐに至ったのである。

 短期間ではあったけど、濃い時間を過ごさせてもらったバイト生活も今日が最後だ。そのことを昼休憩の時に望月さんに伝えた。まかないのカツとじがいつもより美味しく感じる。

 

「おめでとうございます。でも、高木くんがいなくなるのは寂しいですね。それでお給料の使い道は決まっているんですか? ここだけの秘密にしますから教えてくださいよー」

 

 目標を達成して締まらない表情をしていたのだろう。望月さんが気になるとばかりに尋ねてきた。

 俺は表情を引き締めなおし、ニヒルな笑みを作ってこう答えたのだ。

 

「実は、ちょっとした旅行を計画しているんだ」

 

 



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132.初めて三人だけで海へ【挿絵あり】

 八月八日は俺の誕生日である。

 いつも葵と瞳子からお祝いしてもらっていた。二人が俺のために何をしようかと悩んでくれているのを、勝手ながら嬉しく思っていた。

 ただ、今回は俺の方からリクエストさせてもらっていた。

 この日のためにバイトをしたり、様々な準備をしてきた。誕生日なんだからと、大胆にも自分を突き動かしてきた。

 そして、ついに当日。

 

「わぁー。青い海だよ瞳子ちゃんっ」

「わかったからはしゃがないの。葵ってば子供みたいに騒いで恥ずかしいんだから」

 

 電車の窓から見える景色に、葵は目を輝かせる。それを他の乗客を気にしながら瞳子が注意する。ああ言いながらも瞳子の目もキラキラしているんだけどね。

 

「二人ともー。もうすぐ着くから降りる準備するんだぞー」

 

 俺の言葉に葵と瞳子は「はーい」と素直に返事をした。

 電車に乗ってやってきたのは海水浴場である。しかし、いつも家族で訪れる海じゃない。いつもより遠く、日帰りでは難しい場所を選んだ。

 そう、今回は家族ぐるみではなく、初めて俺達三人だけで一泊二日の旅行に来たのである。

 その事実に緊張してしまう。自分から誘っておきながら、気を抜くと体が震えてしまうくらい緊張している。ガチガチになる体をほぐすため、ここへ辿り着くまでどれだけ深呼吸を繰り返したかもう覚えていないほどだ。

 電車から降りれば潮風が俺達を出迎えてくれる。においだけで遠い場所に来たのだと感じさせてくれた。

 予約先の旅館へと辿り着く。海がすぐ近くなので、この旅館の部屋から見える景色が楽しみだ。

 朝早くの出発だったからチェックインまで時間がある。だけどチェックイン前でも荷物の預かりをしてくれるし、更衣室を借りられるのもリサーチ済みである。まずは海に出ようと二人を伴って旅館へと入った。

 

「トシくんトシくん、海楽しみだね!」

 

 はしゃぐ葵は目を輝かせたままだ。さすがにもう浮き輪のお世話にならなくなったものの、泳ぐことが得意になったわけではないでしょうに。

 まあ海での遊び方は泳ぐだけじゃないか。

 

「俺も楽しみだよ。でも葵、はしゃぐのに夢中になって預ける荷物と海に持って行く荷物を分けるのを忘れるなよ?」

 

「忘れないよー」と反論する葵。だけど心配になったのか確認し直していた。

 

「着いて早々海に行くけど、瞳子は疲れたりしていないか? 休みたかったらどこか喫茶店にでも行こうよ」

「ううん。あたしも早く海に行きたいわ」

 

 微笑む瞳子は大人だった。葵ー、もう少し落ち着き持とうな。

 

「……それで、なんだけれど」

「ん?」

 

 瞳子が言いにくそうに俺へとお願いしてきた。

 

「日焼け止め……、背中に塗ってくれるかしら?」

「あ、ああ。日焼け止めね……日焼け止め」

 

 そうだね夏の日差しが強いもんね日焼け止め塗らなきゃ肌に悪いもんね。

 内心で早口になるくらいドギマギしてしまう。

 さすがに男女の差がはっきりと出てくる中学生になってからは俺に頼むことがなくなってきてたから油断した。葵もいるから俺に頼む必要もないんだろうけど、それを指摘するのは野暮だろう。

 

「トシくん、私にも日焼け止め塗ってね」

「あ、ああ。もちろん」

 

 ニコニコの葵から威圧感が溢れているように思うのは考えすぎだろうか。俺は躊躇を見せることなく頷いた。

 旅館に荷物を預けて、更衣室で水着へと着替える。そして三人で海へと出発した。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 ここの海水浴場はなかなかの穴場のようで、人でごった返すほどではなかった。

 あまり踏み荒らされていない砂浜は太陽に照らされ白く輝いている。青空を映す海は美しい青だ。

 ビーチパラソルの下にシートを敷いて陣地を作成する。入念に準備体操をすれば、後は思う存分遊ぶだけである。

 

「トシくん、早く早くー」

 

 いち早く海に浸かった葵が振り返って手を振る。

 すっきりとしたピンク色のビキニが似合っている。髪をアップにまとめた葵はまた違った魅力を輝かせていた。

 昔に比べて大人っぽくなったものの、今回もまた浮き輪持参である。海は波に乗って浮かんでいるのも楽しいよね。

 

「冷たくて気持ちいいわよ。俊成も来なさいよ」

 

 瞳子が海に戯れながら呼びかけてくる。

 彼女の瞳の色と似たブルーのビキニが瞳子をより美しくさせている。フリルもあり、それがかわいらしささえも強調している。

 海に入ってしまえば葵のことを言えないほど、瞳子も満面の笑顔となっていた。

 二人とも今回が初ビキニである。高校生となったことで一段階段を上がったのかもしれない。

 二人の姿を見ていると、心だけじゃなく体も大人に向かって行くのだと感じさせられる。ビキニだと色っぽさが限界突破しているのだ。

 案外、子供の時期って短いものなのだろう。人生という大きなくくりの中ではあっという間の時期だ。だからこそ大切にしないといけない時間なんだ。

 葵と瞳子に向かって笑いかける。楽しい時間を大切にしていこう。二人が笑顔でいてくれる大切な時間なんだから。

 それから、さっと周囲に視線を走らせる。

 葵と瞳子の美少女っぷりに見惚れてしまう男がいるかもしれない。しかも今回はビキニという色っぽさ満点の姿なのだ。下心を抱いた瞬間、二人から目が離せなくなるだろう。葵と瞳子にはそれだけ男を惹きつけてしまう力がある。

 そんな視線から二人を守らなければ。彼氏としての使命感が燃え上がる。

 そんな心配をよそに、周りで海水浴を楽しむのは親子連れが多かった。海に出会いを求めてきた若者はあまりいなさそうだ。

 どうやら情報収集した成果があったようだ。

 近くに温泉旅館があり、ナンパ目的の若者が少ない穴場。無用なトラブルのないよう、細心の注意を払って準備してきた。

 ……二人には秘密なんだけど、ここへは下見にだって来ている。他の場所とも比較して、俺の考えた条件に当てはまった場所がここだったのだ。

 今までのデートの中でも慎重にことを運んでいく。すべては今日という日を大切な思い出にするためだ。

 

「よーし! 今年初の海だぜ。遊ぶぞー!」

 

 俺は海で戯れる葵と瞳子に向かって突撃していったのだった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 葵と瞳子といっしょに海で遊ぶのは楽しい。海に行く時はいつもいた両親がいないのもあって、俺達は解放感に身を任せて大はしゃぎしていた。

 

「そろそろ昼飯食べに行こうか」

 

 太陽が真上を通り過ぎているし、俺の腹も空腹を訴えている。二人はどうかと目を向ければ、揃ってほっそりとしたお腹を撫でながら了承の意を示す。

 

「私もうお腹ぺこぺこー。何か食べたいな」

「あたしもお腹が空いてきたわ。少し疲れてもきたし、どこかに座りたいわね」

 

 何気ない動作だというのに、いつもは見えないお腹が見えるせいかドキリとさせられる。ビキニってなぜ存在してしまったのだろう。最高だけどもさ。

 海の家があるのでそこで食事することにする。

 混んでいると覚悟していたが、あまり並ばずに注文できた。家族連れが多いためか、弁当持参のグループをよく見かけた。

 海の家で俺達は注文したカレーライスを食べる。

 具なしカレー。それなのに美味しく感じるのは海というシチュエーションのマジックか。潮の香りがスパイスになっているのかもしれない。

 

「食べ終わったらビーチバレーしようよ。ここでボール貸してもらえるみたいだよ」

「それはいいけれど、休んでからにしましょう。食べてからすぐに動くのは体に悪いわ」

 

 食事しながら次に何をしようかと話し合う。

 葵と瞳子といっしょだからってのが一番大きいように思える。二人がいれば大抵のものは美味しく感じられるだろう。

 昼食を済ませたら食休みだ。設置しておいたビーチパラソルの下で休む。

 日差しは強いけど、陰に入れば涼しい。海風が気持ちいい。

 

「……」

 

 心地の良い沈黙が流れる。俺達はしばし海の穏やかな風を楽しんだ。

 両隣から葵と瞳子の体温を感じる。くっついているわけじゃないのに、やけに近く感じる。

 

「……」

「……」

 

 黙ったままの二人。俺と同じように海を眺めているのだろう。海で遊ぶ子供の声が聞こえる。

 俺の緊張が二人に伝わっていないかと、そんなことばかりが気になってしまう。まだ慌てるような時間じゃない。でも確かに時間は進んでいた。

 

「ビーチバレーしようか」

 

 俺が言うと二人は同時に頷いた。少しの緊張が乗せられていたのは、勘違いじゃないのかもしれない。

 

「いっくよー!」

 

 やる気満々の葵だったけど、ビーチボールを打ち上げようとしては空振りを繰り返す。ムキになって腕を大振りにさせる。そんなに大振りしていると葵の大きなものが揺れてしまうのですが……。

 今までと違うビキニ。防御力は心もとない。心配から葵を凝視する。防御力を極限まで下げた代わりに攻撃力を最大限に上げるだなんて心配すぎる!

 

「ちょっと葵、貸しなさい」

 

 さすがにこれ以上させてはならないと思ったのだろう。瞳子が葵からボールを受け取り、軽くトスした。

 ビーチボールがふわりと舞い上がり、俺のもとへと落下してきた。それを葵へとトスして返す。

 

「葵。慌てないようにね。ボールをよく見てトスするのよ」

「うん、わかったよ瞳子ちゃん」

 

 葵の横で瞳子がアドバイスを送っている。

 落下するボールに向かって両手を突き出す葵。ボールは見事俺の方へと返された。

 

「すごいぞ葵! ちゃんと俺に返せたぞ!」

「やったじゃない葵! ちゃんとボールに触れられたわ!」

 

 俺と瞳子は葵を絶賛する。いやだってあの葵だぞ。これがどんなにすごいことか、俺と瞳子はよく知っている。

 

「もうっ。トシくんも瞳子ちゃんも驚きすぎだよ。私だってこれくらいできるもん」

 

 オーバーリアクションで褒めすぎたようだ。葵は頬を膨らませてご立腹の様子だ。

 怒っていた葵も何度かビーチボールをトスしているうちに機嫌が直っていた。かわいい奴め。

 遊び疲れたら浮き輪で海を漂う。浮き輪の貸し出しをしている海の家でマットタイプの大きなものがあった。ビーチボールを返すついでとばかりに借りてみた。

 葵と瞳子を乗せて、俺はエンジンのごとくバタ足で沖に向かって運んでやる。

 きゃいきゃいとはしゃいでいた二人へと大きな波が襲う。俺も避けてやることもできず、波に飲まれてしまった。

 

「ぷはっ。ト、トシくんっ」

 

 海へと落ちた葵は俺を浮き輪代わりとばかりにしがみついた。

 急に海へと浸かってしまったからか、驚いて何かに掴まらなければと思ったのだろう。俺に思いっきりしがみついて体を密着させてくる。

 

「大丈夫だ。俺がいるから心配するな」

 

 葵の柔らかい体を抱きしめる。強張っていた体の力が抜けていくのがわかった。

 

「俺の背中に掴まって。大丈夫だからな」

「うん」

 

 体勢を立て直し、後ろから両肩に手が添えられる。これで泳げる格好になれた。

 

「瞳子は無事か?」

「あたしはこっちよ。心配しなくていいわ」

 

 葵が落ち着いたので瞳子を探せば、すぐ傍で俺達を見ていた。その目がなんだかじとーとしたものに見えるのは気のせいだと思うことにした。

 

「足がつかないところまで来ちゃうと危ないわね。戻りましょう」

「ああ。葵、しっかり掴まってろよ」

 

 海は楽しい場所だけれど、危険な場所でもあるのだ。安全の確保を怠ってはならないな。

 

 日が傾いて夕焼けに染まっていく。俺達は砂浜で童心に返って砂遊びしていた。

 なんだか幼稚園の頃を思い出す。この年になると砂遊びをすることもないから懐かしくもなる。

 

「わぁっ。瞳子ちゃんのお城すごい!」

「これは一つの芸術だな」

 

 瞳子が巨大な砂の城を作っていた。幼稚園の砂場では作れないような大作である。

 昔から器用な彼女だけれど、その技術力は年々上がっているようだ。西洋の城であろうそれは、砂で作ったとは思えないほど細やかで迫力がある。本当にどこかで実在しそうなほどの出来栄えだ。

 

「このくらい大したことないわ」

 

 と言いつつも、瞳子の顔は夕焼けではない赤さがあった。わかりやすいほど照れている。おかわいい奴め。

 そんな彼女を見た俺と葵は微笑み合った。それからアイコンタクトを交わす。

 

「瞳子ちゃんは最高の芸術家だね」

「瞳子の手は芸術作を生み出せる神の手だな」

 

 俺と葵の褒め言葉攻撃に、瞳子はなんともかわいらしい嬉し恥ずかしの表情をしてくれた。あまりに恥ずかしくなって体をくねらせる彼女は、やっぱりかわいい!

 そうやって、俺達は海水浴を楽しんだ。

 

「そろそろ旅館に戻るか」

 

 海水浴を楽しんでいた他の人達もほとんど引き上げてしまった。日が長いとはいえ、あまり遅い時間まで海に入らない方がいいだろう。

 

「……うん」

「……そうね」

 

 静かに、ためらいがちに、二人は頷いた。

 海と夕日の組み合わせは綺麗だ。素直に綺麗だという感想が漏れるほどに。

 葵と瞳子。二人はこの景色に負けないほど綺麗で、美しく、そしてかわいい。

 どうしようもなく、それが俺の素直な想いなのだ。

 

 




チャーコさんの依頼でメロンボールさんにイラストを描いていただきました! 今回の話と合わせて、成長した葵ちゃん瞳子ちゃんを見守ってくださいな(凝視)


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133.ぬくもっていく

 シャワーを浴びて海水や砂を落としていく。着替えを済ませて葵と瞳子と合流した。

 改めて旅館でチェックインをする。預けていた荷物を受け取り、仲居さんの案内に従う。

 

「わぁー。綺麗なお部屋だね」

「宿泊代を俊成に任せっきりにしてよかったのかしら……」

「いいんだよ。俺だってたまには甲斐性があるんだってところを見せたいんだから」

 

 案内された部屋は調和のとれた和室だ。窓からはさっきまで泳いだりして遊んでいた海が見渡せる。景色といい部屋の雰囲気といい、満足するに十分なものである。

 俺達は仲居さんから旅館での注意事項を聞く。葵と瞳子は話を聞きながらも、部屋が気になっているんだなとそわそわする素振りから伝わってきた。葵なんか笑顔が隠しきれていないし。

 喜んでもらえたのなら上々だ。この日のためにけっこうがんばったからな。バイトもやったからね。

 

「それでは失礼いたします。ごゆっくりおくつろぎください」

 

 仲居さんが一礼して踵を返す。普通の一組ならカップルだと思うだろうが、俺達は男一人女二人の三人組だ。関係が気になるだろうに、そんな素振りは一切見せなかった。多少高くても良い旅館を選んだし、さすがに鍛えられているといったところか。

 

「ねえねえ見てよトシくん瞳子ちゃん。海がとってもいい眺めだよっ」

 

 興奮気味の葵に呼ばれる。どれくらいの興奮かっていえば、窓際で今にも飛び跳ねそうなほどだ。

 瞳子とともに窓際へと向かう。大きな窓で入り口からでも外は見えていたのだが、近づいてみれば葵が興奮する理由に頷けた。

 窓から見える景色は絶景だった。先ほどまで遊んでいた海が一望でき、夕日に染められてキラキラと輝いている。浜辺から見る景色とはまた別物だ。

 テレビ画面などでは味わえない本物の絶景だ。この景色だけでも、この旅館に泊まれてよかったと思える。

 

「葵の言う通り、いい景色だな」

「そうね……」

 

 瞳子は静かにうっとりと夕焼けに染まる海を眺めていた。葵のはしゃぎっぷりとは正反対だ。

 

「海であんなに遊んでいたってのに、葵は疲れてないのか?」

「全然だよ。むしろ目が冴えちゃってるくらいだもん」

 

 それは嘘じゃないんだろうな。いつものにぱーって笑顔が、にこりんぱー! ってくらいバージョンアップしているんだもん。

 テンションが上がっている葵は部屋の探索を始めた。なんとも好奇心旺盛なようで見ていてほっこりさせられる。

 

「あっ、すごい! お部屋に露天風呂がついているんだね」

 

 葵のはしゃいだ声に、うっとりと景色に見入っていた瞳子も反応する。

 

「えっ、そこに露天風呂があるの?」

 

 気になった瞳子は葵の傍まで寄っていく。自分の目で確認した彼女は「わあっ」と嬉しそうな声を上げた。

 

「ねっ、すごいよね?」

「本当ね。ここならいつでも露天風呂に入れるわね」

 

 女子二人はきゃいきゃいと盛り上がっている。俺は心の中でガッツポーズをした。

 露天風呂つきの部屋を予約してよかった。景色がいいし、夜の星空なんて合わさればロマンチック度が何倍にも増すはずだ。

 自分の選択に自画自賛していると、くるりと葵が振り返った。

 

「トシくんトシくん。ご飯とお風呂、どっちを先にする?」

 

 それとも私……という流れではない。冷静になろう。

 葵が聞いているのは、旅館の食事と風呂のどちらを先に済ませるかという話だ。この順番で、またこれからの予定も変わってくるかもしれない。

 どちらが正しいのか。いや、どっちが正しいとかないのかもだけどさ。こんな細かいことでさえこの後のことに影響が出そうで迷ってしまう。

 一瞬でいくつものパターンを考えて、答えを伝えるため口を開く。

 

「せっかくの温泉旅館なんだからまず風呂にはいろうか」

 

 大丈夫、ドキドキは最低限に抑えられている。俺は冷静だ。

 さらに冷静になるためにも、そして二人の心と体をほぐしてもらうためにも、お風呂は重要なのだ。温泉旅館だしね。

 

「だよね! まずは温泉の実力を見せてもらおうじゃない!」

 

 なぜか温泉に対して挑戦的な葵。温泉についてそんなにうるさかったっけ?

 

「……で、どっちに入るの?」

「どっち、て……?」

 

 どっちとは? いや、待て、わかっている。大浴場か部屋についている方なのか。その二択のうちどっち? という意味だ。

 ごくりと喉を鳴らす。まだ慌てるような場面じゃない。男だからこそ冷静にならねばならないはずだ。

 ただ、選択肢を出すということはだ。部屋の露天風呂でも構わないという意思表示であり、いっしょの部屋で泊まる俺もその風呂に入ってもいいということで……。

 

「……まずは大浴場の方に入ろうよ。いろんな風呂があるって仲居さんが言ってたしさ。それに、部屋の風呂ならいつでも入れるだろ?」

「うん……まずは、ね」

 

 葵は瞳子に顔を向ける。そしてにぱーと笑顔となった。

 

「瞳子ちゃんもまずは温泉を楽しもうよ! やっぱり温泉旅館のメインイベントだしねっ」

「そ、そうよね……メインイベント……」

 

 葵よりも瞳子の方が疲れているのかな。ちょっとフラフラしている。

 瞳子は運動ができるのはもちろん、体力だってある。そう思い込んで彼女の体調を見落とすなどあってはならない。

 

「瞳子は疲れてないか? 着いてからすぐに海に出たしさ。けっこう日差しも強かったし」

 

 瞳子の肌は繊細だ。幼少の頃から日焼け止めをして保護していたのを知っている。というか俺が日焼け止めクリーム塗ってきたし。

 その成果もあって瞳子の美白は保たれている。その一助となれて誇らしい。

 

「へ、平気よ。楽しくって来る前よりも元気になったくらい。だ、だから今日の体調はバッチリなんだからねっ」

「う、うん。それは何より」

 

 フラフラしていたと思っていたけど元気そうだ。顔色が赤くなっているのは日に焼けたせいではないと思いたい。

 

「よし! それじゃあ温泉に行こうよ瞳子ちゃん! 大きいお風呂楽しみだねっ」

「そうね! 温泉が楽しみよね葵!」

 

 二人は勢いよく準備を始めた。急いで支度しちゃうくらい楽しみだったのか。

 

「海でいっぱい遊んだからね。まずは温泉でゆっくり疲れを取ろう」

 

 葵と瞳子の勢いに負けないよう自分に言い聞かせるように言う。まだ焦る時間じゃない。

 持ってきた鞄から替えの下着などを取り出す。ついでに二人に気づかれないように注意しながら中身をチェックする。

 行く前に何度も忘れ物がないかチェックした。それでも現地に着いたらまた不安に襲われたのだ。不安を取り除くためにも確認は何度したっていい。

 鞄の奥へと手を突っ込む。箱の感触にほっと安堵の息を吐く。

 他にもいろいろ確認しておく。忘れ物はないようだった。気づいていないだけで他にもいる物があったらどうしようとまた不安が襲ってくる。

 

「トシくん? 準備できた?」

「どわあああああっ!?」

「きゃあああああっ!?」

 

 突然背後から葵に話しかけられて驚いてしまった。俺の大声に驚いたであろう葵も叫び声を上げる。

 

「な、何!? 何かあったの!?」

 

 少し離れたところにいた瞳子が戸惑う。俺は慌ててなんでもないことを二人に伝える。

 

「ごめんな驚かせて。ちょっとぼーっとしちゃっててさ。それでいきなり葵に話しかけられてびっくりしただけなんだよ。本当にそれだけだからなんでもないぞ。葵も近くで叫んじゃってびっくりしたよな。本当に悪かった」

 

 びっくりして胸を押さえていた葵が目を瞬かせる。落ち着きを取り戻したみたいで微笑みが返ってきた。

 

「ううん。私こそ驚かせてごめんね。トシくんに何事もなければよかったよー」

 

 葵の明るい笑い声で変な空気になりそうだった場が和んだ。

 

「それで?」

「え?」

 

 葵は笑顔だ。年頃の男子なら誰しもが見惚れてしまうような、それはもうとてもいい笑顔だ。

 

「それで、トシくんはなんでぼーっとしていたのかな?」

 

 そんなかわいらしい笑顔での追及が始まった。

 

「うっ……」

 

 対する俺は呻くだけ。できればこのまま黙秘を貫きたい気持ちである。

 

「これから温泉に行くって時なのに、トシくんは私に話しかけられるまで気づかないくらい、何を夢中になって考えていたのかなー?」

「い、いや……別に……決して変な考えをしていたわけでは……」

「それを判断するのは私だから。ね、教えて?」

 

 なんか圧がすごいんですけど!?

 別に疚しいことなんて考えていないぞ。だというのにこの後ろめたさはなんなのだろうか。葵にすべてを見透かされているようで恐ろしくなる。

 

「葵、そこまでにしておきなさい。これから温泉に入るんでしょ? 焦っていないで落ち着きなさいよ」

「わ、私は焦ってなんかいないよっ」

「はいはい。支度できたなら行きましょうね」

 

 瞳子が間に入ってくれたおかげで葵の追及から逃れられたようだ。瞳子にだけわかるように助かったと手を合わせることで示す。

 

「……」

 

 ふいと顔を逸らされてしまった。あれ、ここでツンデレ風反応?

 とにかく早く風呂へ行く支度をせねば。女の子よりも準備が遅いって男として恥ずかしい。

 

「お待たせ。じゃあ行こうか」

 

 俺達は大浴場へと向かった。当たり前だが男湯と女湯で二人と別れた。

 脱衣所で服を脱ぐ。こういうところで一人ってのも寂しいな。

 

「おっ、兄ちゃんいい体つきしてんね。何かやってたのかい?」

「あはは。中学の頃に柔道やってたんでそれでですかねー」

 

 服を脱いでいる最中に知らないおじさんから声をかけられた。裸の付き合いとはいうけれど、初対面でも話しかけやすくなるものなのだろうか。それともこれも旅の醍醐味の一つみたいなものか。

 女湯では葵と瞳子が同じように知らない人から話しかけられたりしているのかもしれない。さすがに女湯には入れないし……変な人に絡まれたりしていなければいいのだが。

 ここは温泉旅館としてはけっこう良質な方だろう。それは客の質も良いという証だ。そういう空気作りからしっかりと成されている。

 旅を楽しむ気持ちでおじさんと適当に言葉を交わして別れる。服を脱いだ俺は、堂々と何も隠すことなく浴場へと足を踏み入れた。

 まずは体をしっかり洗う。シャワーを浴びたとはいえ、海水というものは肌にあまりよろしくないものなのだ。湯に浸かるマナーの上でもちゃんと体を洗っておかなければならない。

 

「ふぃ~」

 

 体が洗い終わったら湯船につかる。気持ちよさから息が漏れる。あー、極楽極楽。

 温泉が命の洗濯だなんて、うまいことを言った人もいたものだ。普通の風呂では味わえない効果が、確かにある気がする。

 この後のためにもしっかり疲れをとっておかないとな。肩まで入り温まる。

 

「……」

 

 ……この後、か。

 ここへきてヘタレたくはない。気持ちの整理をつけるのは、ここが最後だろう。

 目をつむる。温泉の心地よさが、俺の気持ちをほぐしてくれる。

 しばらくそうしていた。バクバクと忙しないリズムを刻む心臓が、次第に落ち着いてくる。

 

「ふぅっ」

 

 短い息を吐く。トクントクン、平常時のリズムを取り戻す。これも温泉の効果か。

 

「ん?」

 

 目を開くと壁のところに何かが書いてあるのに気づく。どうやら温泉の効能一覧のようだ。

 

「へぇ、たくさんの効能が載ってるんだな。思った以上に温泉っていろんな症状に効くんだ」

 

 この温泉にはどんな効能があるのか。気になったので読んでみた。

 血行促進・リウマチ・捻挫・擦り傷・冷え性・美肌……子宝。

 

「ぶほっ!?」

 

 たくさんある効能のうち、一つの単語に俺は目を剥いた。

 いやいや待て待て! こんなのは温泉ではよくある効能の一つじゃないかっ。慌てる方がおかしいって!

 そんなことはわかっている。わかってはいるけど……破壊力のあるワードには間違いなかった。

 

「体もあったまったし……出るか」

 

 せっかく平常のリズムを取り戻した鼓動は、残念ながらまた大暴れし始めてしまったようだ。

 念入りに体を拭いてから出た。葵と瞳子はまだ出てきていないようだ。

 そりゃあ女の子の方が時間をかけるに決まっている。今はその空白の時間がありがたかった。

 大浴場の近くに売店があるのを見つける。少し見て回ると、定番の牛乳が置いてある冷蔵庫があった。

 小さい頃に家族ぐるみで旅館に泊まったことを思い出す。あの時も温泉の後に牛乳飲んでいたっけか。

 思い出にふけっていると、背後から気配を感じた。今度は驚かない。

 

「お待たせ俊成」

 

 振り返れば風呂上がりの瞳子が立っていた。いつものツインテールではなく、しっとりとした銀髪が真っすぐ背中に流れている。

 ちゃんと温まったみたいで頬に赤みがさしている。髪を下ろすとまた雰囲気が変わるんだよな。

 それがまた浴衣姿と相まって上品な美しさを感じさせる。ドキリと心臓が跳ねるのを悟られないように口を開いた。

 

「あれ、葵は?」

「うふふ。着替えに手間取っていたから先に出ちゃった」

 

 悪戯っぽく笑う瞳子。これは出し抜いたな。たまにこういうことをするのだから瞳子も侮れない。

 

「あー! 瞳子ちゃんずるいよ! 私待っててって言ったのにっ」

 

 浴衣姿の葵がパタパタと駆けてくる。海の時とはまた違った形に髪をアップにしていた。よく見るとお団子にしてまとめている。

 さらに頬を上気させている。言っていることは子供っぽいけれど、見た目はもう充分に大人っぽいと表現してもいいくらいだ。だから無防備に走らないでほしい。

 

「あら葵。早かったのね」

 

 瞳子はすまし顔だ。いや、すぐに耐え切れなくなってくすくす笑い出した。俺もつられて笑いが込み上げる。

 

「もうっ。二人とも笑わないの!」

 

 膨れっ面になる葵がおかしくて、かわいくて抱きしめたくなる。さすがに人の目もあるから控えるけどね。

 ぷりぷり怒っていた葵も、やっぱりいつの間にかいっしょに笑っていた。三人だと空気が和やかになってばかりだ。

 

「なあ、牛乳飲まないか? やっぱり温泉から出た後の定番だしね」

 

 俺の提案に二人は笑顔のまま頷いた。

 

「やった! 温泉から出たらやっぱりフルーツ牛乳だよねっ」

「ふふっ。葵ったらフルーツ牛乳が好きなのは昔から変わらないんだから」

「えー、そんなこと言っちゃってー。瞳子ちゃんも昔からいちご牛乳が好きでしょ?」

 

 葵はフルーツ牛乳を、瞳子はいちご牛乳を、俺はコーヒー牛乳を飲んだ。

 変わらない味だ。なのに味覚が変わってくるのか、少し違うもののように感じる。

 変わったこと、変わらなかったこと。変わったように思えても変わっていなかったり、変わっていないように思えても変わっていたりもする。

 今と昔を比べて、そうやって変化がないかと探す。変化がなくて安心を感じる。大事なのは期待することなのかもしれない。自分にも、相手にも。

 

 ――今夜は二人の期待を裏切らない。そして、自分の期待も裏切らない。そう決意していた。

 

 



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134.二人の気持ちは暴走中

「ふ……ん……くぅ……」

 

 背中に大きくて温かな手のひらが滑らされる。何度も何度も、しつこいくらい続けられた。

 こんなに丁寧にしていたんだ……。改めて体感してみると、ちょっとだけ嫉妬心が顔を出す。

 

「終わったぞ葵。……葵?」

「ん……はっ!? う、うんっ。ありがとうトシくんっ」

 

 慌てて飛び起きようとして、それを慌てて押しとめる。

 

「……ごめんトシくん。その……水着の……後ろ、とめて……」

「あ、ああ! そうだなこれビキニだもんなっ」

 

 トシくんが上の水着をとめてくれる。私からちゃんと塗ってもらうようにと外したのに、自分がビキニだとうっかり忘れていた。危うく落としてしまうところだった。

 普段は初めてだからって油断しないのにな……。トシくんがあんなにも気持ちよくするのが悪いよ……。

 でもいいんだ。私のビキニ姿にトシくん釘付けだったし。初めてのビキニは恥ずかしかったけど、勇気を出して着てみてよかった。

 

「と、俊成……。次はあたしの番よ……」

「お、おうっ。任せろ」

 

 夏の太陽から守ってくれるビーチパラソルの下。日陰のシートに寝そべって、私はトシくんに日焼け止めクリームを塗ってもらった。

 今度は瞳子ちゃんの番。普段の凛とした雰囲気は鳴りを潜めて今か今かと待っている。恥じらいと期待が入り混じった表情は、同性の私でもかわいらしく思う。顔を真っ赤にするくらい恥ずかしがっているのに、私と同じように無防備に背中をさらす。青色のビキニと合わさって色っぽい姿だ。

 トシくんが私の時と同じように、瞳子ちゃんの背中に日焼け止めクリームを塗っていく。私よりも綺麗な白い肌に触れようとする彼は何を思っているのだろう。

 

「ひゃっ……んふぅ……」

 

 触れられた瞬間、ピクンと反応する瞳子ちゃん。それが傍から見たさっきまでの私を見ているようで、急激に顔が熱くなる。

 それでも目は逸らせなかった。別に監視するつもりはないのに、なんだか傍にいないと落ち着かない。瞳子ちゃんがくぐもった声を漏らす度に、背けようとする顔に力を込める。

 私は何をやっているんだろう……。そうは思っていても、結局最後まで見届けてしまった。

 

「それじゃあしっかり準備体操するわよ」

 

 トシくんに触れられて、顔を真っ赤にしていた瞳子ちゃんはいなくなっていた。元気よく準備体操するのを見ていると、さっきまで恥ずかしがっていたのが嘘みたい。

 

「葵、もっとしっかり体を動かすのよ。浮き輪があるからって油断しちゃダメなんだからね」

「わかってるよー。私だってちゃんとしてるもん」

 

 そう言いつつも、さっきよりもちょっとだけ関節の可動域を広く動かすよう心掛ける。水難事故がとても怖いことだって、私達三人はよく知っているんだから。準備に手を抜いたりなんかしない。

 瞳子ちゃんはきびきびと準備体操をしている。でも、トシくんはただの準備体操なのに迫力まで感じた。

 筋肉があるからかな? 瞳子ちゃんがきびきびなら、トシくんはシュバッシュバッて動いているように見える。

 トシくんって……本当にたくましくなったね……。

 彼氏だから抱きついたりするけど、直に触れて筋肉を確かめてみたいなって……。それくらいはいいよね?

 

「はい。準備体操もこれくらいやれば充分ね。海に行くわよ葵」

 

 パンッと手を叩いた瞳子ちゃんによって現実に引き戻された。はっとして、さっきまで考えていたことにみるみる恥ずかしさが湧いてくる。

 

「そうだね瞳子ちゃん! というわけで、私が一番に海に入っちゃうもんね!」

「あっ、コラ。ずるいわよ葵っ」

「二人とも転ぶなよー」

 

 トシくんに膨らませてもらった浮き輪を持って海に向かって走り出す。顔が赤くなるのは恥ずかしいからじゃなくて走ったからだもんね。

 日差しの強さに少しだけ目を伏せる。一歩海に入ってしまえば勝手に顔がほころぶ。それは瞳子ちゃんも同じで、二人して黄色い声を上げた。

 

「トシくん、早く早くー」

「冷たくて気持ちいいわよ。俊成も来なさいよ」

 

 振り返ればトシくんがいる。それは決して夢でも幻でもない。それが当たり前のことなのに、彼を目にして私はひどく安堵した。

 

 

 夢を、見ることがある。

 その夢は現実感があって怖かった。ううん、今でも怖い……。

 私は大人になっていて、トシくんも瞳子ちゃんも傍にはいない。

 一人ぼっちの自分。だけど夢の中ではそれが当たり前のことのように受け入れている自分がいた。

 夢なんてそんなものなのかもしれない。ありえない状況でも、夢を見ている最中は不思議にも思わないものだから。

 だからってつらくないわけじゃない。二人がいないことに疑問を感じなくても、何かぽっかりと胸に穴でも空いてしまったかのような虚無感だけはあった。

 苦しいけれど笑っている自分。そんな嘘つきの笑顔を張り付けている自分自身が恐ろしくてたまらない。

 夢の現実味がどんどん増してきて、この夢はもしかしたら予知か何かを示しているのかと疑うようになった。

 予知夢、という単語を聞いたことがある。妙に実感がこもった夢。これは私の未来を示唆した映像ではないかと考えた。

 そう考えて、鳥肌が立つくらいぶるりと体を震わせた。

 もし予知夢だったら……、悪夢どころの話じゃなくなる。だって現実に起こりえることなら目が覚めてもなかったことにはならないんだから。

 トシくんの答えを覚悟して待っている。でも、夢が現実になったらどうしようという恐怖が、私の覚悟を揺さぶってくる。

 できるだけ早く、トシくんと深い関係になりたい。純粋に彼を想う気持ちがある一方で、彼の手で不安を払拭してもらいたい気持ちも確かにあった。

 早く、早く、早く! 気持ちばかりが急いでしまう。それだけ不安に追い立てられていても、トシくんと接する時だけは不安なんて忘れて安心できた。

 忘れられるけれど、不安を解消できるわけじゃない。

 

「今日はトシくんを抜きにした、私達の話をしようよ」

 

 だから瞳子ちゃんと話をしようと思った。彼女にしかできない話だと思ったから。

 瞳子ちゃんも私と似た夢を見ていたと知っていたから。彼女の夢の内容も、詳細は違うにしても状況がよく似ていた。

 私と瞳子ちゃんの夢が同じ予知夢だとしたら? そう仮定しても、やっぱりトシくんの存在がないことに説明がつかない。

 予知夢なら私か瞳子ちゃんのどちらかの夢に出てくるはずだから。私達のどちらでもなく、まったく別の人とくっついてしまった? ……ありえない。

 ただの悪夢と切ってしまうには夢を見る回数が多すぎる。それに、私も瞳子ちゃんも歳を重ねるごとに夢の現実味が増してきていた。まるであの光景がもうすぐ起こるのだと、そう迫っているみたいに。

 まとまらない不安材料。それを整理するよう一つ一つ瞳子ちゃんに話した。

 

「……断定はできない。でもあたしも葵と同じでただの夢とは思えないわ」

 

 瞳子ちゃんは青い顔をしながらも振り絞るように言った。

 しばらく頭の中を整理しているのか瞳子ちゃんは黙っていた。そして、こくりと喉を鳴らして、再び口を開く。

 

「一つ……仮定の話を考えたのだけれど……聞いてくれるかしら?」

 

 私は黙って頷いた。

 それから続けられた仮定の話に、私はひどく動揺した。

 

「仮に、本当に予知夢だとして……その通りの未来が訪れるのだとしたら、俊成はあたし達の前からいなくなるってことよね。もし、その理由があたし達……俊成の意思も関係ないのだとしたら……、未来で俊成はなんらかの事故に遭ってしまう。いいえ、一向に夢に現れないとなると、もしものことがあったのかも……」

 

 それ以上は瞳子ちゃんも言葉にならなかった。私も身が裂かれそうな思いになって聞いていられそうにない。

 ……でも、瞳子ちゃんの仮定の話を否定できないほど、私達の見る夢は現実味がありすぎた。

 

「……守らなくっちゃ」

「葵?」

「トシくんを、守らなくっちゃ」

「……そうね。今まで俊成に守られてきたんだものね。今度はあたし達が俊成を守る番よね」

 

 瞳子ちゃんの瞳が決意の色に染まる。きっと、私も同じ目をしていた。

 未来に何があるかはわからない。トシくんがどんな選択をするかはわからない。だとしても、私達にとってトシくんが大切な人に変わりないんだから。

 

 

「そろそろ旅館に戻るか」

「……うん」

「……そうね」

 

 トシくんが緊張の色を帯びた声で言った。私と瞳子ちゃんは心をともに頷いた。

 夕日に染まる海はとても綺麗で。ときめく胸の高鳴りは期待の証でもあった。

 大切な人との深いつながりがほしい。

 未来が不確定だからこそ、そう強く思う。あの夢を確定させないためにも、トシくんをもっとずっとずっと、離したくない……。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「ふぅ……、気持ちいいね瞳子ちゃん」

「うん。いいお湯加減だわ。これなら葵の緊張もほぐれたんじゃないかしら?」

「と、瞳子ちゃんだって緊張していたじゃないっ。すっごくフラフラしていたところ、ちゃんと見ていたんだからねっ」

 

 葵といっしょに温泉を楽しむ。

 昼間は海でたくさん遊んだ。楽しくて気づかなかったけれど、ちょっと疲れちゃっていたみたいね。ほっと吐息を零す。

 体は入念に洗った。葵と洗いっこしたからお互い洗い残しなんてないはずよね。

 

「……」

「……」

 

 体調は問題ないわ。ゆっくり温泉に浸かっていれば疲れもすぐ取れる。体の準備は整った。

 あとは、心の問題だけね。

 あたしも、葵だって覚悟はできている。付き合い始めた頃から意識していたことでもあったから。

 そうやって自分の心を決めていたとしても、いざその時がくるとこうも臆病になるものなのだと実感させられる。

 体が震えているのか、心が震えているのか。それすらわからなくなっている。

 

「あ、葵……その……」

 

 無言の時間を止めたのはあたしの方からだった。

 自分の方から口を開いたにもかかわらず、沸騰した頭からは何を言おうとしていたのか湯気とともに出ていってしまったかのように何も発せなかった。

 

「……不安、だよね」

 

 葵がぽつりと言った。

 微笑む葵の横顔からは不安を感じられなかった。そうやって表情で覆い隠しても、葵にも緊張や恐れがあるとあたしは知っている。

 

「俊成はその……本当に、あの……求めてくるって思う?」

 

 俊成がこの旅行のためにがんばっていたのを知っている。今までと違う雰囲気、どんな気持ちであたし達を誘ったのか、察した上で覚悟していたつもりだった。

 だけど、言葉にされたわけじゃない。そのまま夜が過ぎて、朝になって旅行がおしまい、なんてこともありそう……。

 

「大丈夫だよ。トシくんは、きっと求めてくるから」

 

 ニッコリと笑う葵が心の底からすごいと思った。葵の笑顔があたしに信じる力を分け与えてくれる。

 

「だから私達はお祝いするの。だって、今日はトシくんのお誕生日なんだもんね」

 

 葵の頬が朱に染まっているのは温泉のせいか、それとも……、それを詮索するのは野暮ね。

 

「そうよね。今日は俊成の誕生日なんだもの。特別な日……なのよね。いいえ、あたし達が特別な日にしなくっちゃいけないわ」

 

 そう言い切ってあたしは口元まで湯船に沈み込んだ。熱くなる体は温泉のせいだわ。

 チラリと横目で葵を盗み見る。

 まとめられた黒髪は艶やかで、同性でも素直にかわいいと感想が漏れるほどの整った顔立ちをしている。

 さらに視線を下げれば、思わず目を見張るほどの豊満な部位が飛び込んでくる。決して小さくないはずの自分の胸に手を当てて、その差に愕然とする。

 あたしと葵。俊成だって比べてしまうだろう。どっちがいいかなんて、わかりきっている……。

 はっとした時には葵と目が合っていた。

 自分の視線のいやらしさに羞恥が押し寄せる。かぁと顔中どころか体中が熱くなった。

 

「瞳子ちゃん……」

「な、何かしら……?」

 

 何を言われるのかとビクビクしてしまう。後ろめたさがあたしを責め立てる。

 

「瞳子ちゃん……。肌が綺麗で羨ましいなぁ」

「えぇ?」

「瞳子ちゃんの肌ってすごく白いよね。スタイルも均整がとれていて、手足も長くてモデルさんみたい。トシくんもよく見つめているし……男の人って瞳子ちゃんみたいな女の子が好きだよね」

 

 それは葵の方よ。と、言える余裕はなかった。

 もし比べられたら。その不安は共通のものに決まっている。あたしだけが思っていることじゃないんだものね。葵だって普通の女の子なんだもの。

 だからあたしは背筋を伸ばす。堂々と、自信を持てるようにと。

 

「葵はかわいいわよ。俊成がいつも言ってくれるのだから自信を持ちなさい」

「え、あ、うん。トシくんの言葉を信じなきゃだもんね」

「そうよ。……俊成が言ってくれるのだから、あ、あたしもかわいいのっ。だから、俊成の前ではお互い自信を持ちましょう」

 

 自分で自分のことがかわいいと口にするのってすごく恥ずかしい。

 でも、葵が笑顔で頷いてくれたのだから、よしとしましょう。

 葵があたしに勇気をくれるように、あたしだって葵を勇気づけられるんだからね。

 

「そろそろあたしは上がるわ。あまり入っているとのぼせちゃいそうだわ」

「あ、待ってよ瞳子ちゃん。……あれ? これって」

 

 葵が壁に目を留める。あたしもつられて目を向けた。

 そこには温泉の効能が記されていた。冷え性や肩こりなどに効くだとか、よくある症状が並んでいる。

 

「「あ」」

 

 同時に声が漏れた。

 記された症状に目を走らせ、一つの単語のところで固まった。

 

『子宝』

 

 あたしと葵は温泉から上がったのにのぼせそうになってしまった。今のあたし達には刺激の強すぎる単語に、目を回してしまったのだ。

 

 

 あの時。俊成の部屋で俊成がいない間に葵と二人で話をした。

 あたしと葵にしかわからない話。とても現実味のある夢の話だ。

 小さい頃から見始めた夢。俊成と葵がいなくて、大人の自分なのに独りぼっちで心が絞めつけられるような気持にさせられる。

 それは連続性があって、歳を重ねるごとに現実感が増してきていた。

 あたしも薄々思ってはいたけれど、葵は予知夢かもしれないと言った。それを聞いてあたしは一つの仮定が頭に過ってしまった。

 それは俊成の身に何かが起こってしまうかもしれないと暗示しているという考え。予知夢が本当に起こりえるのだと信じるなら、だけれど。

 あたしと葵の不安は尽きない。もしそれが現実になればと考えるだけで心が壊れてしまいそうになる。

 そして、夢の中でのあたしはそうなってしまったのだろう。葵が傍にいないことからも明らかだ。おそらく俊成がいなくなったことのショックで疎遠になってしまったのね。

 

「……初めては、俊成がいいわよね」

「うん。絶対に」

 

 それはあたし達の譲れない思いだ。

 何があろうとも俊成を守る。俊成の味方であり続ける。そう二人で決めたものの、もしもを考えるとより強く彼を求めてしまう。

 

「……私、トシくんの初めての相手が瞳子ちゃんでもいいよ」

「え? い、いいい、いきなり何を言うのよっ」

「その代わり、瞳子ちゃんまでどこかに行っちゃ嫌だよ」

「……葵」

 

 葵の瞳は揺れていた。

 俊成はあたし達にとって大切な人。世界で一番大切な人だ。

 そして、あたしと葵は世界で一番の親友なのだ。

 震える彼女を、あたしは抱きしめた。

 

「大丈夫よ。俊成も、葵も、あたしの大切な人に変わりないの。何があっても守るわ。俊成も、葵も、二人ともね」

「瞳子ちゃん……ありがとう……」

 

 嗚咽を漏らす葵を抱きしめ続けた。今それをできるのはあたししかいないのだから。

 ……そうやっていたのに、俊成が帰ってくる頃にはすっかり笑顔を取り戻していたのには驚きを通り越して呆れてしまう。むしろあたしの方が気にしているみたいじゃない。俊成もあたしが葵を抱きしめているタイミングで帰ってくるから、慌てて離れて変な態度をとってしまった。

 考えることが多くて、時間はいくらあっても足りない。あの現実味のある夢の通りの未来を回避するために。そして、俊成に愛されるために。

 

 

 温泉から上がり、あたしと葵は浴衣に着替えた。

 ドライヤーで髪を乾かし鏡でチェックする。背中に髪を流して、微笑んでみせる。

 早く俊成の口からかわいいと言ってもらいたくて、浴衣の合わせ目を気にしている葵を置いて脱衣所から出た。これくらいはいいわよね?

 近くの売店で俊成の後姿を見つける。こっそり近づいたのに、驚く様子もなく彼は振り返った。

 

「お待たせ俊成」

 

 あたしの姿を見て、俊成が微笑んでくれる。あたしの頬もほころんだ。

 俊成に「かわいい」と言ってもらえる前に葵がきてしまった。それでもいつも通りの態度となった葵に、つい噴き出してしまう。

 

「なあ、牛乳飲まないか? やっぱり温泉から出た後の定番だしね」

「やった! 温泉から出たらやっぱりフルーツ牛乳だよねっ」

「ふふっ。葵ったらフルーツ牛乳が好きなのは昔から変わらないんだから」

「えー、そんなこと言っちゃってー。瞳子ちゃんも昔からいちご牛乳が好きでしょ?」

 

 俊成の提案で売店で牛乳を買った。

 三人で牛乳を飲んでいると懐かしさが込み上げてくる。やっぱり三人いっしょの空気が好き。

 

「さて、部屋に戻ろうか。……瞳子の浴衣姿、かわいいぞ。下ろした髪もいつもと雰囲気が違って似合ってる」

「あ、ありがとう……俊成がそう言ってくれて、嬉しいわ」

 

 俊成が耳元であたしだけに聞こえる褒め言葉をくれた。

 俊成がちゃんと「かわいい」と言葉にしてくれて、言葉以上の嬉しさがあたしの心を満たしてくれる。

 もちろん葵のことも褒めていたけれど、それで腹が立つことはなかった。それ以上に、うるさくなってきた胸の鼓動を気づかれないようにするので精一杯だった。

 俊成ったら、もうっ……大好き……。

 あたし達は部屋へと戻る。心が急かされるのを自覚しながら、ゆっくりと歩を進めた。

 

 ――そして、ついに夜が訪れた。

 

 



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135.収束する気持ち

 葵のことが好きだ。瞳子のことが好きだ。二人ともが大好きすぎて、大切すぎて……、かえって大きく距離を縮めることができなかった。

 二人は俺の気持ちを尊重してくれた。時間がかかっても我慢して待ってくれていた。だからこそ、しっかり答えを出してからでないと、この先に進んではならないと思った。

 

 前世よりも良い人生を求めた。

 そのために結婚できれば、と。結婚さえすれば幸せになれるのだと、浅はかな自分はそんな漠然とした「幸せ」を思い描いていた。

 でも、生じる責任までは思い描いてはいなかった。

 いや、想像していなかったわけじゃない。それも含めて「責任を取る」ということなのだろうと思っていた。

 だけど、実感が伴っていなかったのだ。俺にのしかかってきたものはとてつもなく大きく、そして重かった。それがまた二人に対して抱く存在の大きさでもあった。

 そうだ。好きだからこそ、その責任はとてつもなく大きい。葵と瞳子と付き合い始めてから、ようやくそのことを実感していた。

 体感しなければ本当の意味では物事の実態がわからない。それを繰り返し続けていた俺だったが、恋人関係が出来上がり、自分の心境の変化に戸惑ったりもした。

 葵と瞳子のことが大切なことには変わりない。ただ、無責任なことをしてはならない。そう強く思い続けた。強く、思い過ぎていた。

 

 結局のところ、俺は臆病風に吹かれていただけだったのだ。葵と瞳子。大切な存在との絆を、自分の行動一つで壊してしまうかもしれない。そんな「かもしれない」恐怖に心と体をこわばらせていただけだ。

 現状維持は誰も求めてなんかいやしない。葵も、瞳子も、そして……俺だって。

 二人はずっと期待していたじゃないか。その期待に応えられるよう、そのために俺はがんばってきたはずだ。がんばれる自分になれたはずだ。

 

 たくさん葵のことを考えて、たくさん瞳子のことを考えて、たくさん自分自身に問いかけた。

 脳が沸騰するんじゃないかってくらい考えて、ある時、すとんと心に何かが落ちた。

 

「……そうか。俺には無理だったんだ」

 

 一人呟く。ある意味、諦めがついた瞬間だったかもしれない。

 このことを二人に伝えなければならない。それが俺の覚悟だから。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 夕食で何を食べたかは覚えていない。海鮮料理だったはずなのだけど、まったく味を思い出せないでいた。新鮮な見た目だったかなってくらいしか頭に残ってなかった。

 仲居さんに食事の後片付けをしてもらった。その後すぐに別の仲居さんが布団を敷きに来た。

 俺達は何の気なしに雑談に花を咲かせていた。少なくとも仲居さんにはそう見えたと思う。

 けれど、視線を向けていなくても心の目はバッチリと目撃していた。三人分の布団が隙間なくくっつけられているところを。

 旅館の方々が俺達をどう見ているかがわかった気がした。と同時に羞恥に顔が染まる。

 

「……」

 

 それは葵と瞳子も同じだったようだ。今の俺はこんな表情なんだろうなと、鏡を見ている気分だ。

 布団を敷くという作業をそつなくきっちりと終えた仲居さんが部屋を後にした。俺達はお礼を口にしながらも、敷かれた布団へと、意識のほとんどを持ってかれていた。

 

「……」

 

 それから、訪れたのは沈黙だった。

 気を紛らわすための雑談は自然となくなっていた。和やかな雰囲気はどこへやら。緊張から唇が震えそうになる。さっきまで何をしゃべっていたのか、もう覚えてはいない。

 

「あの、さ」

 

 そんな中、口火を切ったのは俺だ。

 

「電気……消さないか?」

 

 葵と瞳子は互いに顔を見合わせる。何か通じ合ったのか、二人は同時に俺へと顔を向けて、こくりと頷いた。

 明かりを消す。まったくの暗闇が訪れるわけではなく、月明かりが部屋に差し込んでいた。

 

「……」

 

 葵と瞳子は無言のまま俺を見つめている。軽く息を吐き出してから、大きく息を吸い込んだ。

 

「話が、あるんだ」

 

 声が上ずる。心臓が痛いくらい鼓動する。息が詰まりそうな思いだ。

 一瞬の静寂。まずは深呼吸をして、俺は言葉を紡いだ。

 

「俺は葵のことも、瞳子のことも、大好きだ。心からそう思っているよ」

 

 一片の偽りのない本心を伝える。息継ぎをして、続きを口にする。

 

「だから、二人には後悔してほしくなくて……。でも、だからって俺の決断で葵と瞳子の人生がどう変わってしまうのか、良いのか悪いのか、早く答えを出さなきゃって思うのに間違えることが怖くて悩んでばかりで……。どうすれば葵と瞳子が幸せになれるかって考えていたら、ずっと何もできないでいた……」

 

 ああ、支離滅裂になりかけてる。言い訳とか、迷いを吐露したいわけじゃないんだ。

 シンプルに考えようと決めたじゃないか。俺は二人と、自分の期待に応える。まずはそれでいい。

 その結果、きっと俺達は後悔しない。葵も、瞳子も、強い気持ちでここにいるのだから。だから俺だって負けない気持ちを持たなければならないんだ。

 月明かりすら眩しく感じる。そう感じるのは月光だけじゃなく、どこまでも優しい二人の微笑みのせいかもしれなかった。

 唇が震えるほど緊張しているってのに、目の前の存在に意識を奪われて、うるさく感じていた心臓の音が、いつの間にか聞こえなくなっていた。

 理由なんか知ったことじゃない。俺は求めているんだ。葵のことも、瞳子のことも。欲張りな俺は二人ともを求めている。そこに優劣はない。

 欲しい……。葵が欲しい。瞳子が欲しい。体も、心も、彼女達のすべてが欲しい。

 その強さも、優しさも、すべてが愛おしい。この想いはこれまで色あせることはなかった。きっと、これからも色あせないのかもしれない。

 気づけば唇の震えは止まっていた。詰まりそうになっていた喉を振り絞る。

 

「葵が……、瞳子が……、欲しい……。俺は二人の全部が欲しいんだ」

 

 感情を振り絞る。素直な欲望を口にするだなんて恐怖すら覚える。でも、後悔はなかった。

 今の俺はどんな顔をしているだろうか。二人のように優しい顔はできていないだろう。

 それでも、気持ちはいっしょでありたかった。

 

「……いいよ」

 

 最初に返事をしたのは葵だった。

 小さく、でも戸惑いはない声。

 

「私は、トシくんがいい……。だから、後悔なんてしないからね。絶対に……」

 

 俺の心を見透かしたかのように、彼女は不安を取り除く言葉をくれる。

 そして、俺へと手を伸ばしてくれた。その手を、しっかりと握り返す。

 

「私の初めて……トシくんにもらってほしい、です……」

 

 彼女の目が潤んでいる。熱を帯びた息が、俺の頬に触れた。

 強い眼差しで見つめ返す。月明かりしかないってのに、葵の顔がみるみる赤く染まっていくのがわかる。

 恥ずかしいのだろう。そりゃそうだ。初めてのことは誰だって緊張する。

 いや、違うか。葵は高揚しているのだ。俺を見つめる瞳から情欲が見て取れた。

 俺は小さく頷き、瞳子へと目を向けた。

 

「瞳子。俺は……」

「い、言わなくていいわよっ。あたしも、その……」

 

 葵以上の真っ赤な顔で、瞳子はもごもごと口を動かす。

 彼女も、どういう意味かわからないほど子供ではない。もう、子供ではないのだ。心も、体も。ずっと見てきたから知っている。

 

「えっと、だから、あたしは……」

 

 瞳子はなかなか言葉をまとめきれないでいる。急かせることなく黙して待ち続けた。

 

「~~っ!」

 

 恥ずかしさの極致に達したかのように、瞳子は目をぎゅぅっとつむった。次にぱっと目を開いた彼女の青色の瞳は、真っすぐ俺を映していた。

 

「……欲しがりなのは、俊成だけじゃないんだからね。あたしだって……、あたしだって俊成が欲しいわっ。俊成の全部が欲しいの!」

 

 そう言い切って、瞳子は俺へと思いきりよく手を伸ばした。その繊細な手を優しく、気持ちを強いまま握り返した。

 

「……ありがとう」

 

 ありがとう。そう何度も口にしたいと思った。

 葵と瞳子の気持ちがどれだけ強いことか、痛いほど伝わってくるから。俺も精一杯を伝えたいと思ったんだ。

 二人を抱きしめる。葵の体温が、瞳子の熱が、二人の柔らかさを感じる。

 

「葵……」

「トシくん……」

 

 長いまつ毛が震えている。俺しか映していない瞳。愛おしいほどの真っすぐな気持ちだ。

 彼女との距離は簡単になくなり、俺は葵とキスをした。

 唇同士を触れ合わせる。幾度となく繰り返してきた優しいキスだ。

 だけど、それだけでは物足りないと舌で葵を求める。もっと深く、彼女の本心が欲しいとばかりに求める。それは貪っていると表現してもいいほど深いキスだ。

 息苦しくなるまで続けられ、距離を離した時には二人して肩で息をしていた。

 

「俊成っ」

 

 一息入れる間もなく、瞳子からキスをしてきた。

 唇を押し付ける瞳子に俺も応える。気持ちが伝わってくるキスに、俺の心も高揚する。

 

「瞳子……」

「ん……」

 

 唇を離して名前を呼ぶ。瞳子の目がじわりと揺れる。

 今度は俺からキスをした。瞳子を貪るように求める。そんな俺に、彼女は応えてくれた。

 後頭部を撫でればサラリとした感触。いつものツインテールではなく、髪を下ろしたままの瞳子は色香があり、俺をドキドキさせる。

 二人とのキスを繰り返す。いつも通りではない、いつも以上に踏み込んでいく。

 濃密な時が流れる。求めている間に浴衣が乱れて彼女達の肌を露わにしていく。

 季節のせいだけじゃない熱さが体を覆う。それは感情の発露だったかもしれない。熱気が室内に充満する。

 

 今夜……俺は、葵と瞳子を抱く。覚悟を抱き、彼女達の深くへと踏み込んだ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 溺れる……。まさにそんな表現がぴったりだった。

 

 葵と瞳子だって怖さがあったに違いない。それでも、俺を戸惑わせないようにとがんばってくれた。いっしょに距離を縮めてくれた。

 そんないじらしい彼女達に、俺はまた魅了されてしまうのだ。愛おしくてたまらないこの気持ちを、精一杯行動で示せただろうか。

 

 しかし、まあ、なんていうのかな……。

 前世含めて初めてだったけれど、まさかここまでとは……。初めての体験に翻弄されてばかりだ。

 葵と瞳子は俺の求めに応えてくれた。俺は二人の期待に応えられただろうか? どう思ったのかと、ちょっと、いやかなり気になる……。

 

「…………」

 

 それを尋ねるのは野暮というものかな。

 ほてった体も心地良い。そう、体が汗ばんでいるというのに心地良さを感じていた。

 

「…………」

 

 俺は、葵と瞳子と、肉体関係を結んだ。

 俺は優しくできただろうか? やっぱり気になる。いや、今日のためにと用意した箱の中身がすっからかんになった事実に自信が揺らぐ。

 でも、俺の隣で眠っている瞳子の表情はとても幸せそうだ。普段の彼女からでもなかなかお目にかかれないほどのお顔である。

 そんな彼女の安らかな表情が俺に自信をくれる。

 反対側の隣には葵が……いない?

 あれ、と思い首を傾けて葵を探す。

 いた。葵はなぜか布団の端っこで俺と距離を離していた。

 

「ふぇ……ぐすっ……」

 

 彼女は背中を向けて震えていた。わずかに嗚咽が聞こえてくる。胸が締めつけられる。

 何か失敗して葵を泣かせてしまったのだろうか? 俺は彼女へとそっと手を伸ばす。

 

「葵――」

 

 そう声をかけられたかは定かではない。

 なぜなら、急激な眠気に襲われたから。抗えないまどろみの中、彼女に届くようにと必死で手を伸ばした。

 その手が届いたかどうかでさえ、定かではない。俺の意識は闇へと落ちていった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 スズメのさえずりで目を覚ました。

 

「ふぁ~……だるい……」

 

 あくびをかましながら重たい体を起こす。寝起きの倦怠感が布団へ戻ろうと訴えてくる。

 ぼーっとしたまま寝ぼけ眼で辺りを見回す。こぢんまりとした見慣れた部屋だ。

 

「ん?」

 

 なぜだか違和感を覚える。

 はてと目を擦る。それからもう一度部屋を見渡した。

 

「え……?」

 

 意識が覚醒するにつれて、脳が勝手に状況を認識していく。

 いてもたってもいられなくて、俺は布団を蹴り飛ばして転がるように部屋を出た。

 そうして辿り着いたのは洗面所。そこで俺は鏡に映る自分の顔を見た。

 

「嘘、だろ……」

 

 信じられない……、信じたくない……。唐突に襲った絶望に、俺は顔を青ざめさせていた。その顔が、鏡にくっきりと映し出されていた。

 鏡に映っているのは、高校生よりも明らかに歳を取った自分……。まるでおっさんになってしまったかのような顔が、そこにはあった。

 いや、正確には前世の俺自身。間違いなく、おっさんと呼べる歳の俺だった。

 

 



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136.映る世界が示すこと

海回のイラストが追加されましたよー(報告)



 信じられない……。信じたくない……。今この時、この現状に、頭が真っ白になる思いだった。

 鏡に映っているのは俺で間違いなくて。でも、そう認識するのと同時に、俺自身ではないと内心で否定していた。否定していなければ直視できなかった。

 見覚えのある顔がこっちを見つめている。当たり前だ。どんなに時が経とうとも、たとえ逆行して、人生をやり直していたとしても、自分の顔を忘れられるわけがない。

 鏡に映る顔も、今となっては過去のこと。本当だったら未来で再会できる顔のはずだった。だからこれは、到底受け入れられる現実じゃない……。

 そのはずなのに、この現状に対して妙にすっと納得していく自分がいるのも事実だった。

 

「今までのは、全部夢……だったのか?」

 

 それこそ嘘だろう。だってあんなにも実感があったのだ。何より葵と瞳子のぬくもりを覚えている。夢や幻なんかじゃないって断言できるくらい、俺の心と体の中で残っているのだ。

 では、ここが嘘の世界なのかと問われれば、口をつぐんでしまう。

 それほどの現実感がある。懐かしいと感じる前に、これがいつもの自分だったかと思ってしまうくらいに、しっくりと馴染んでいる。

 

「……」

 

 喉がカラカラになる。変な汗も出る。スズメのさえずりがとても場違いなもののように感じられた。

 やっぱり夢ではないのかと、一縷の望みをかけて顔を洗ってみた。水の冷たさにかえって現実を教えられる結果となった。

 フラフラと部屋へと戻る。さっぱりしたせいで、余計に絶望感にさいなまれた。

 どうしてこうなった? そもそも今の状況はなんなんだ? 前世に戻ってきたのか?

 それとも、今まで体験してきたことは、長い夢だったとでもいうのか?

 数々の疑問が頭を埋め尽くす。不安や焦燥感といった負の感情に、その場から動けなくなりそうだ。

 

「ほ、本当に前世なのか……っ。ここは、本当に……?」

 

 まずはちゃんと確認しなければ。ここが本当に前世なのかどうか確認しなきゃならない。

 現状を把握するために動く。それは原動力として充分な理由だった。

 震える手でテレビをつける。見慣れた朝のニュース番組が流れていた。前世で見慣れた、ニュースキャスターが笑顔でしゃべっていた。

 くそっ! なんで見慣れたと感じているんだよ。あれだけ長い経験をしたんだから、少しくらい懐かしさを覚えてもいいだろうが。

 ベッドに置いてある携帯を乱暴に引っ掴む。画面に表示された日付はテレビと一致している。日付が同じくらいどうした!

 ネットでニュースを調べる。その一つ一つが逆行する前の世界なのだと強く印象づけた。いくら調べても、結果は変わらなかった。

 

 力が入らなくなって床にへたり込む。何をどう考えればいいのかわからなかった。

 今までがんばってきた。後悔しないためにと、二度目の人生と真剣に向き合ってきた。

 好きな人ができた。気持ちを伝えても、どう進めばいいのかわからなかった。それでも、これからいっしょに歩んでいければいい。そう覚悟を決めた直後だったのに……っ。

 それが、全部なかったことになるのか? 葵と瞳子といっしょに経験した、すべてのことが……なかったことになるのか?

 絶望で足場が消失してしまう思いになる。心が浮遊感に耐えきれなくなりそうだ。だから、顔を上げた。

 

「葵と瞳子に会わなきゃ……。二人に会わなきゃ、何も始まらないだろ、俺!」

 

 ここが逆行する前の世界だったとして、だったとしても、葵と瞳子はいるんだ。二人の存在自体が消えたわけじゃない。

 手にしていた携帯を再び操作する。今度は電話帳を開いて目を走らせた。

 電話帳に並ぶ名前は、やはりここが前世なのだと記していた。変化のない電話帳から、実はあれから未来に飛んでしまったという考えは否定される。

 もともとの俺は、葵と瞳子とはあまり関わりがなかった。瞳子に至っては幼稚園の頃までで、あまり記憶にも残っていない。

 つまり、携帯の電話帳に二人の名前はなかった。

 それでもなんとか手掛かりを探す。今まで接してきた人。今もつながりが残っている人を振り返る。

 そして、ある人物の名前を見つけ、迷わず電話をかける。

 しばらくコール音が鳴り続ける。まだかまだかと待つ時間は、とてつもなく長く感じられた。

 

『もしもし?』

 

 ようやく出てくれた声は、世界が変わっても、あまり変わっていないように感じた。

 安堵する気持ちをぐっと堪え、俺はその人物の名を呼んだ。

 

「もしもし、佐藤か?」

『そうやけど。ていうか高木くんから電話かけてきたんやないの』

 

 ほんわか雰囲気の関西弁。逆行する前も後も、俺の親友である佐藤で間違いなかった。

 ようやく馴染みのある声が聞けて一安心する。だがここで安心しているばかりもいられない。

 

「佐藤に聞きたいことがあるんだ」

『久しぶりかと思えば、いきなりどうしたんや?』

「葵……、いや、中学までいっしょだった宮坂葵の連絡先ってわかるか?」

 

 呼び方がごっちゃになりそうになる。前世ではあまり関わりのなかった宮坂葵を、親しげに口にしたところで、今の佐藤には通じないだろう。そのことを苦しいだなんて、今は言っていられない。

 電話口から記憶を探るような小さい唸り声が聞こえた。ここで手掛かりが何もなかったらと不安がよぎる。

 

『中学までいっしょやった宮坂葵さん……。もしかして、美人で有名やった宮坂さんのことで合っとる?』

「ああ、その美人な宮坂さんだ」

 

 今さら「宮坂さん」だなんて呼ぶのはすごく違和感がある。前はそれが普通だったんだけどな。本当に世界が変わったのだと思い知らされる。

 

『直接は知らへんけど、知ってそうな人に聞けばわかると思うわ』

 

 思わずガッツポーズをとる。佐藤は大人になっても中学や高校の連中とそこそこの交友関係を持っているのだ。中学の同級生の一人や二人、もっと多くの人と交流が残っていたとしても不思議じゃない。佐藤しかまともに交流が残っていなかった俺とは大違いだ。……言ってて悲しくなるな。

 

「頼む! その知ってそうな人から教えてもらえないか?」

『ええけど……。ほんまいきなりどないしたんや? 昔から宮坂さんとはそんなに接点あらへんかったよね? こないだの中学の同窓会も出てへんかったし』

 

 同窓会? そんなのがあったのか……。当時の俺が興味なさすぎて覚えていなかったのか、仕事が忙しすぎて目に留めることすらなかったのか。とにかく記憶にはなかった。

 

『ちなみにやけど、宮坂さんの連絡先はすぐに必要なん?』

「ああ、必要だ。……頼む」

 

 受話器からため息が聞こえた。

 

『わかったわ。まったく、仕事前やのに朝からええ頼み事してくれるわ』

「悪いな佐藤……本当に迷惑をかける……」

 

 そうだ、戻ったとするなら俺達には仕事があり、それぞれの生活がある。朝の忙しい時間だってのに、面倒な頼みごとをしてしまったと申し訳なくなる。

 だけど、次に聞こえてきたのはため息ではなく、朗らかな笑い声だった。それはいつもの、変わらない佐藤の笑い声だ。

 

『ええよええよ、その代わり、また今度いっしょに飯でも食べに行こうや。もちろん高木くんのおごりやで?』

「……ああ、もちろんだ」

 

 前世だろうが、おっさんだろうが、佐藤は佐藤のままで変わりなかった。俺は快く了承する。この世界にきてから、初めて口元が綻んだ。

 佐藤との通話を終えてから、十分ほどで葵の連絡先が送られてきた。急いでくれた佐藤に感謝である。

 はやる気持ちを抑えて、早速送られた連絡先へと電話をかけた。

 受話器から鳴り続けるコール音。いくら待っても誰かが出てはくれなかった。

 通勤前の早い時間帯だ。忙しくて電話に出る時間すらないのかもしれない。

 仕方がない、電話は後にしよう。

 だからって、ただ待つには耐えられない状況だ。どうしようかともう一度携帯の画面に目を向けた。

 佐藤が送ってくれた葵の連絡先は、電話番号だけではなく住所も記されていた。短い時間でここまでしてくれた佐藤には本当に感謝が絶えない。

 

「……行ってみるか」

 

 そう決めて、すぐに準備を始めた。体感では久しぶりの前世だってのに、物の場所に迷うことはなかった。

 それにしても、現実感がありすぎて焦りばかりが募っていく。なんだかんだで夢だと思いたい自分がいる。この期に及んでも、まだ夢だと信じたい気持ちがあった。

 その答えをはっきりさせるためにも、葵と瞳子に会わなければならない。彼女達に会えば何かがわかる。漠然とだけど、そう確信していた。

 

 玄関のドアを開ける。朝もやのにおいが現実感をさらに高めてくれやがった。気持ちのいいはずの空気を吸って、舌打ちしたくなった。

 焦る気持ちに急かされて足を動かした。流れる景色はどう見ても本物で、意識的に無視して走った。

 しばらく走っていると息が切れてきた。高校生の俺ならこのくらいの距離で息を切らせることなんてなかったのに……。重くのしかかる疲労感が、同時に不安の重みのようにも思えた。

 朝早くというのもあり、住宅地ではあまり人とすれ違うことはなかった。

 だがさすがに街中となれば様々な人々が行き交う。ぶつからないようにしながらも、足を速めていった。

 

「え……?」

 

 急に足を止めてしまう。疲労のせいでふらついた。たたらを踏んでなんとか転ばないように踏ん張る。

 待て……待ってくれ! 今のってまさか……?

 急激に心臓の鼓動が速くなる。緊張の面持ちで振り返る。ついさっきすれ違った人……。それは今さら間違えようのない人で、今会いたい人であった。

 

「瞳子!!」

 

 自然と腹の底から声が出た。行き交う人々からの視線を浴びるけど構うもんか!

 銀髪の女性。髪が短めになってスーツ姿ではあるが、間違えるはずがない。瞳子を、俺が見間違えるはずがないっ。

 瞳子が立ち止まる。やはり、と。胸に広がる安ど感。その確信が得たくて、俺は瞳子へと手を伸ばした。

 

「……っ!?」

 

 しかし、伸ばした手は止まってしまった。

 だって、振り返った瞳子の顔が、見たこともない悲しみの表情を浮かべていたから……。

 吸い込まれそうなほど綺麗な青い瞳は、この世界でも変わらない。その目が潤んでいて、キラキラと光っていた。美しくて、こっちまで悲しくなる。

 瞬き一つ。彼女の、目の端に溜まっていた涙が溢れた。

 その瞬間、急速に意識が暗転する。それに抗えないまま、俺の意識が闇へと落ちた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「ん……あれ……?」

 

 目を覚ました。覚醒したことに気づくのに、少し時間がかかってしまった。

 がばりと上体を起こす。びっしょりと寝汗をかいていて不快感がある。しかしそれがあまり考えられないほど、気分が悪い……。

 俺が寝ていた場所は和室だ。そう、旅館の、葵と瞳子といっしょに宿泊している部屋だ。

 決して、前世の俺が住んでいた部屋じゃない。

 

「今のは……全部、夢?」

 

 にしてはリアルな夢だった。目を覚ました今でも本当に夢だったのかと疑ってしまうほどに……。

 

「俊成?」

 

 名前を呼ばれて肩が跳ねる。

 隣で寝ていた瞳子が目を覚ましたようだ。その表情は心配の色を帯びている。

 瞳子は体を起こして俺に寄り添う。朝焼けに照らされる銀髪はとても綺麗で、澄んだ青の瞳は潤んでいることもなく、ちゃんと俺を映してくれていた。

 

「どうしたの? すごい汗じゃない」

 

 肌と肌が触れ合う。彼女の感情も、触感も、本物だ。それこそ間違えようのない現実だ。

 そうだ、今、この今こそが現実なのだ。

 

「……いや、変な夢を見ただけで、なんでもないよ」

「変な夢?」

「ただの夢だよ。もう忘れたしね」

 

 さっきまでのはただの夢だ。今の俺達にはなんの関係もない。それこそ、すぐにでも忘れられるはずだ。

 

「俊成」

 

 もう一度、瞳子が俺を呼ぶ。

 彼女は優しく俺を抱きしめる。俺は抵抗もなく、瞳子の胸へと顔を埋めた。

 

「どんな夢を見たかは知らないけれど、とても怖い夢だったのね」

 

 柔らかい口調。するりと俺の頭は彼女の言葉を受け入れた。

 

「あたしが傍にいるわ。葵だっている。だから、一人で抱え込まなくていいのよ」

 

 夢の中、瞳子は泣いていた。溢れるほどの涙を溜めていた。その涙の理由はわからないままだった。

 あれは何かの啓示だったのだろうか? わからないけど、絶対にあんな顔をさせたくない。そう思った。

 

「うん……ありがとう……」

 

 まどろみに逆らわない。瞳子の抱擁に抗いたくない。前世では存在すらしなかった温かみだから。

 

「……なあ瞳子」

「なあに?」

 

 俺は隣で寝ている葵へと目を向ける。とても幸せそうな顔をして眠っている。あの夢を見る前に、彼女が泣いていたのは錯覚だったみたいだ。

 

「葵が起きたらさ……」

「うん」

「いっしょに、部屋についてる露天風呂に入ろうな」

 

 瞳子が固まった。抱きしめられているから緊張で体が硬くなったのがわかる。事実、見上げれば真っ赤な顔をした彼女。

 

「さ、三人でってことかしら……?」

「もちろん」

 

 俺は力強く頷いた。その拍子に柔らかい感触を頬で味わう。

 瞳子は恥ずかしそうに口ごもる。この状況で今さら恥ずかしがることなんてないと思うんだけどな。まあそれが瞳子か。かわいいなぁ。

 

「……ダメか?」

「ちょっ、そんな顔しないでよっ。う~、わかったわよ! あたしもいっしょに入るわ! 背中でもなんでも流してあげようじゃないっ」

 

 瞳子は思い切りよく言ってのけた。一線を越えても瞳子らしいままだ。

 なんだかそんな彼女がおかしくて、安心して、自然と笑みが零れた。

 葵が起きるまで俺達は抱き合っていた。目を覚ました葵に「二人だけずるい!」と怒られたのは言うまでもない。その後、三人で部屋に備えつけられている露天風呂に入って仲直りした。

 

 こうして、俺達三人の旅行は終わった。

 そして、さらに踏み込んだ関係となった日であり、本当の意味での始まりの日であった。

 そう、忘れられると思った夢は、これからが始まりという合図でしかなかったのだ。

 

 




ここで第二部の前半が終了です(やっとです)


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137.その頃、サッカー部はがんばっているから

 真夏の日差しが肌を焼く。日焼け止めの効果はどれほどのものか……。新商品のチェックはかかせない。

 

「美穂さん早く早く。試合前に差し入れしなきゃなんですから」

「暑い……」

 

 望月が振り向いて手招きをする。あたしの足取りは重いままだ。

 

「わたし日本のサッカーの試合を観るの初めて。とても楽しみよ」

「暑い……」

 

 ルーカスがニコニコしていてこっちまで楽しくなる。暑さにはまったく影響はない。

 望月とルーカスが先を行く。さらにその先には大勢の人がいた。

 人の熱気が蒸気になっているように見える。あそこに行くのはちょっとやだな……。そう考えるあたしは悪くない、と思う。

 

 我が校のサッカー部が全国大会への出場を決めた。さらにその全国大会で快進撃を続けている。

 と、望月が電話で教えてくれた。料理研究部の連絡網である。

 サッカー部を応援しよう! 遅ればせながら学校からそんな号令がかけられた。

 そうして白羽の矢が立てられたのがあたし達料理研究部だった。

 

「差し入れしてあげたら選手は喜ぶでしょうな」

「さすがは校長! ではすぐに申しつけてやりましょう!」

「教頭は話が早くて助かります。はっはっはっ」

「はっはっはっ。校長こそ素晴らしい提案です。部員は学校に感謝し、我が校は全国に名を轟かせるでしょう」

「「はっはっはっはっ」」

 

 そんなやり取りがあったかは定かではないけれど、とにかく料理研究部はサッカー部の差し入れに何か作ってあげましょうという連絡網があったのは事実である。

 緩い活動をしている料理研究部。熱心な運動部と違って、夏休みの活動はあまりなかった。

 おかげで部員全員で応援まですることになった。本郷の話ばかりなので先輩方のお目当てはわかりやすい。

 

「ミホ顔大丈夫? わたしの日傘貸しましょうか?」

 

 ルーカスがついて来たのは望月が誘ったからだ。あと心配してくれるのはありがたいけど、言い方には気をつけてほしい。

 一応、部活動ということで制服姿だ。日傘を差しているルーカスが変な感じ。でも異国のお嬢様みたいでよく似合っていた。やっぱり場違いではあるけれど。

 やっと目的地に着いた頃には汗で制服がベタベタになってしまった。

 あたし、こんなにも暑さに弱くはなかったはずなのに……。今年の夏はおかしい暑さだ。

 こんな暑さの中でサッカーの試合をするという。正気じゃない、と口にしないよう気をつけた。

 

「おー! マジで差し入れに来てくれた」

「何? 何作ってくれたの?」

「女子の応援か……。くぅっ! 青春だぜ!」

 

 あたし達料理研究部(+ルーカス)の登場に沸き立つサッカー部男子一同。悪くない反応。

 

「よっ、赤城。ご苦労さん」

「なんか上から……別にいいけど」

 

 白い歯を光らせるユニフォーム姿の本郷がいた。料理研究部の面々から黄色い声が上がる。

 すかさず女子に囲まれる本郷。背が高いので爽やかに受け答えしている彼の顔が観察できた。

 

「本郷くんが入部してからのサッカー部は連戦連勝って話ですよ。練習試合でも負けなし。まるで試合を支配するプレーを目の当たりにした対戦相手は口々にこう言ったそうです。本郷永人は『フィールドの貴公子』だと」

 

 どこから仕入れた情報なのか、望月が教えてくれた。ちょっとだけ噴いてしまいそうになったのは内緒だ。フィールドの貴公子って……ぷっ。

 

「ならホンゴウを見ていればいいのね? すごいプレーを見てみたいわ」

 

 ルーカスは澄んだ碧眼でじーっと本郷を見つめた。まだ試合は始まっていない。

 外国の美少女に熱い視線を送られて、モテモテの本郷もさすがに気になったらしい。

 

「クリスティーナ、だったよな。今度少し時間をくれないか?」

 

 周りの女子を刺激しないようにゆっくり近づき、ルーカスにそう声をかけていた。「ワオ!」と声を上げるべきだろうか。

 

「いいわよ。また今度ね」

 

 対するルーカスはウインク一つで応じる。同い年なのに大人っぽくてこっちも見惚れてしまう。

 

「あー! 本郷テメェ! クリスティーナちゃんに手を出したらこの俺が許さねえぞ!!」

 

 ここで空気を読まずに突っかかるのは下柳だった。久しぶりー、と心の中で呟く。

 

「聞きましたよ下柳くん。一年生なのにいくつもゴールを決めて活躍しているそうじゃないですか」

「おおっ、望月ちゃん。へへっ、俺だってけっこうやるだろ?」

 

 望月に褒められると一転して表情を緩ませる。いつもの下柳だ。

 他の人達もワイワイと談笑を始める。選手の激励になっただろうか。

 

「赤城もわざわざ来てくれてありがとな」

 

 みんなの輪を眺めていると、本郷が近寄ってきた。

 

「ん、これも部活動だから」

「差し入れって何?」

「炭水化物やビタミンが豊富なもの」

「……メニューを聞いたつもりだったんだけどな」

 

 あははと笑う彼は困ってる感じでもなかった。

 

「今日は勝てそうなの?」

「俺はいつも負けるつもりはないぜ」

 

 大口なんかじゃない。ちゃんと自分の実力を把握して、努力を重ね、相手を軽んじることもない。その上で負けないと言っている。

 

「一番負けたくない相手にも勝ったからな。自信がないなんて言ってられないさ」

「あれ、もう優勝候補を倒しちゃった?」

 

 本郷は嫌みのない笑顔で「違うって」と首を振る。

 

「俺と赤城がよく知ってる男だよ」

「……なるほど」

「全部勝って、優勝して……そうしたらあいつに見せつけてやるんだ。そうしたら満足するからさ」

「それだけ聞くと本郷は嫌な奴だね」

 

 本郷が噴き出す。

 

「くく……。だな、嫌な奴って思われたら最高だ」

 

 心の中で「なるほど」と呟く。

 あたしもそう思われたい。まだ不安定な自分だけれど、地に足つけて高笑いでもできるようになれば、あたしも嫌な奴と思われるだろうか。

 高木に羨ましがられるほどの自分に……なりたいな。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 試合の二時間前に、差し入れを渡してサッカー部と別れた。

 二時間は長いと感じるけれど、これから差し入れを食べて栄養補給をして、ミーティングで対戦相手の情報を整理して、ウォーミングアップをしたりなど試合前にやらなければならないことが多いみたい。思ったよりもサッカーって忙しい。

 

「日差しが強くなってきましたね」

 

 望月が小さく零す。試合が始まるのは昼を過ぎてからになる。

 あたし達は観客席で応援することになった。先輩達は選手でもないのにやる気に満ち溢れている。とても帰りたいと言える雰囲気じゃない。

 

「わたしは日傘を持ってきたから万全よ」

「いいなー。僕も入れてくださいよ」

「残念ね。これは一人用よ」

 

 ルーカスが日傘を差して日光から避難する。あたしと望月はブーイング。ルーカスは涼しい顔だった。

 

「ずるい……」

「日本のことわざにこんなのがあるんですってね。『備えあれば嬉しいな』って。備えをしていたわたしが賢いのよ」

 

 得意げなルーカス。あたしと望月は絶句した。

 嬉しいな……。言葉通り、ルーカスは嬉しそうだ。

 でも、それは言葉違い……。

 あたしと望月の視線が合う。うん、と頷き合った。心が一つになった瞬間。

 

「ルーカス。それを言うなら『備えあれば憂いなし』だから」

「あ、美穂さん言っちゃうんですね」

 

 あれ、教えてあげようって頷きじゃなかったの? 心を通わせるのは難しい。

 

「そうなの? 勉強になったわ。ありがとうミホ」

「どういたしまして」

「僕が思ってたよりもあっさり……。もし落ち込んでしまったらと考えたのは余計なお世話でしたね」

 

 余計なお世話はほとんどの場面で必要だと思う。これはただの経験談。みんながそうだとも思っていない。

 でも、本当に余計なお世話になる場合がちょっとだけある。

 あたしがそう。余計なお世話をしてしまったと思う。わざわざ宮坂と話なんて、必要なかったと思う。

 もう少しだけ気楽でいたい。サッカー部に差し入れしたくらいの気楽さ。これくらいがちょうどいい。

 

「そういえば、僕バイトで高木くんといっしょに働きましたよ」

「えっ、トシナリと?」

「……詳しく」

 

 どうやら高木はあたしを楽にはさせてくれないらしい。

 望月から話を聞くに、トラブルがあったものの初めてのバイトを無事にこなしたみたい。無事に乗り越えてしまうのが高木っぽい。

 

「あっ、わたしはアオイと会ったわ」

「宮坂と?」

 

 宮坂とルーカス。あまり接点があるようには思えない。

 

「先日ね、わたしピアノコンクールに出場したの」

 

 疑問は一瞬で氷解した。

 宮坂といえばピアノ。とても上手で、素人のあたしでも才能に溢れているんだって思うほどの腕前。

 

「ルーカスもピアノ上手なの?」

「フフン、得意中の得意よ」

 

 胸を張る金髪美少女。とても様になっている。

 

「……えっと、少し自信があるだけよ?」

 

 さっきの態度を引っ込めて、控えめな言葉に言い直す。

 白地の頬を染めて……恥ずかしかった? 胸を張って自信満々なのも似合うと思うけれど。

 

「でもでもピアノを弾けるってだけで憧れますよ。僕には縁がないことですから」

 

 望月が大きな目を輝かせる。あたしも同感。誇れる技術というものに憧れる。

 その点宮坂は飛び抜けた才能の持ち主だ。羨ましくて、妬ましいほど。

 いや、妬ましくはないか。あたしと宮坂は違う。それについてはもう結論が出ている。

 

「ピアノコンクール……。宮坂はすごかったでしょ?」

 

 わかりきっている問いを投げかけた。

 なのにルーカスの反応はイマイチで。「んー……」と悩ましく漏らし、あごに人差し指を添えて言葉を考えているようだった。

 それからニッコリと。こちらに笑顔を向けて口を開いた。

 

「アオイの演奏は、大したことなかったわ」

 

 その感想を耳にし、あたしの頭は「そんなわけがない」でいっぱいになった。

 

「やっぱり本場の人は実力が違うんですかねー」

 

 宮坂の実力を知らない望月は納得している。イギリスが本場なのか、あたしは知らないけれど、宮坂の実力は知っている。たとえルーカスがすごくピアノが上手だとしても、宮坂を「大したことがない」と言えるはずがないと信じている。

 何かがおかしい。そう思った。

 

「高木と木之下には会った?」

「え? トシナリとトウコ?」

「うん。ピアノコンクールで宮坂に会ったなら、二人にも会ったと思う」

 

 ルーカスは記憶を探るように視線を宙に向ける。そして首を振った。

 

「ううん。トシナリとトウコ、どちらにも会っていないわ」

 

 二人とも応援に来ていなかった? 何かあったのだろうか。

 また余計な考えをしている。そう気づいて目を閉じた。

 この夏休みの間に変化が起きた。ただそれだけのことで、それはあたしには関係のないこと。

 でも、知りたいと思っている。

 最後まで知って、今度こそ心の中をスッキリさせる。それがあたしの、最後のわがままだから。

 

「あっ、そろそろ試合が始まるみたいですよ」

 

 望月の弾んだ声で目を開く。

 フィールドには本郷や下柳など選手が勢ぞろいしていた。

 下柳がこちらに手を振っている。それにつられてか、本郷も手を振った。たちまち黄色い声援が上がる。

 みんながんばっている。あたしもがんばりたいけれど、何をがんばればいいか、まだわからない。

 だから応援をしよう。今がんばっている人に向けて声援を送る。

 そうすれば勇気づけられるから。きっと、あたしだって……。

 

 



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138.たまには父親だって羽を伸ばしたい

久々更新なのでお父さん視点の話です(ん?)


 私は息子を自慢に思っている。

 

 俊成は自分の息子とは思えないほどよくできた子だ。

 それは今現在だけの話ではない。まだ幼かった頃から今に至るまで、私は俊成を叱ったことがないのだから。

 仕事で俊成の相手を充分してやれたかと聞かれれば、簡単に頷けはしない。しかし妻でさえ「手のかからない子」という評価なのだ。私の印象とそうずれてはいないだろう。

 親としては喜ばしいことだ。「悪い子」よりも「良い子」の方が歓迎すべきことに決まっている。

 なのになぜだろうか? 今の俊成に対して、私は不安を覚えているのだ。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「すみません、お待たせしてしまいましたか?」

 

 駅近くの居酒屋。私が到着するとすでに宮坂さんと木之下さんが席に着いていた。

 

「そんなことないぞ。さあ座って座って」

 

 そう言ってくれる宮坂さんはもう顔が赤い。すでに何杯か飲んでいるようだ。

 

「僕は高木さんが来るまでは待てと言ったんだけどね」

 

 木之下さんは酒や料理に手をつけていなかったようだ。かえって申し訳なく感じる。

 

「私に気にせず始めてしまっていいですよ。こうして時間が合わせられるのはまたいつになるのかわからないですし」

 

 席に着く。今日は父親三人で飲み会だ。

 とりあえず生ビールを注文する。外が暑かったからキンキンに冷えたビールがとても美味い。

 

「たこわさあるぞたこわさ。高木さん好きだろ?」

「ははっ、どうも」

 

 宮坂さんがテーブルの上にあるたこわさをすすめてくれる。これまで何度も飲み会をしてきた仲だ。お互い好物を知っている。

 しばらく雑談に花を咲かせた。酒が入ったおかげか楽しい気分になっていく。

 

「そういえば」

 

 宮坂さんが改まって切り出した。

 

「葵が、今度俊成くんと瞳子ちゃんの三人で旅館に泊まると言っていたんだが……」

 

 私と木之下さんはピタリと箸を止めた。

 

「僕も、聞いたよ……」

 

 木之下さんの目が恐ろしい色を帯びる。私は曖昧に笑うことしかできなかった。

 

「……もしかしたら、俊成くん葵と瞳子ちゃんを同時に食っちゃうかもな」

 

 予想に反して、宮坂さんは明るく笑った。あまりの言葉に私はぎょっとし、木之下さんは口にしていた料理を噴いた。

 

「い、いや……二人ともだなんて、俊成はそんなことしないでしょう」

「そ、そうだっ。俊成くんはそこまで卑劣な行いはしないぞ!」

 

 卑劣……。少し胸が痛む……。

 小学校を卒業した日のことだ。二人の女の子と交際する。最初は面食らったものだった。

 しかしまだ子供。仲良しの三人組が、もっと仲良しになった。これまでの俊成達を見てそう思っていた。

 だから今回の旅行も微笑ましい思い出作りになるだろう。私は息子を信頼しているし、俊成も葵ちゃんと瞳子ちゃんの信頼を裏切ることはしないだろう。

 

「しかしなぁ、若い男女が泊まりの旅行だ。何もない方がおかしいだろ」

「それは……」

「と、瞳子に限ってそんな……」

 

 宮坂さんの言葉に私と木之下さんはうろたえる。

 木之下さんはとくに娘への愛情が強い。よほどのことでもない限り、男との旅行なんて認めなかっただろう。

 それでも認めたということは、口ではいろいろ言いつつも俊成を信頼してくれていたということを証明していた。

 

「い、いや僕は娘を信頼しているからね。それにまだ子供だよ」

「あれだけ大きくなったんだ。もう立派に大人扱いしてもいいんじゃないか? 親にとっては子供はいつまでも子供だがな、子供扱いをしすぎるってのは我が子にとってよくないことだと思うぜ」

「う……む……」

 

 木之下さんが頭を抱える。私も同じ思いだった。

 もし俊成が二人に手を出してしまったら? 私は申し訳が立たない……。

 

「そ、そこまで考えていて宮坂さんはいいのか? 自分の娘だってその旅行に行ってしまうんだぞ!」

 

 木之下さんはグラスをテーブルに叩きつけながら言った。酔いが回ってきたのか顔が赤い。

 いや、私も飲んでいなければ心配で気が動転してしまいそうだ。

 私だって俊成を信頼している。それに二人きりではないのなら、そういう空気にはならないのだろうと思い込んでいた。

 

「いいんじゃないか? もしそういう事態になったらなったで」

「んなっ!?」

 

 こともなげな宮坂さんの言葉に、木之下さんは絶句した。娘がいない私でさえ似たような反応をした。

 

「だだだ、だって……娘のことだぞ?」

「経験が多いに越したことはないだろう。問題が起こるなら若いうちの方がいいしよ」

 

 問題って……。むしろ問題が起こらないように導くのが親の役目ではないだろうか。

 

「……もしかしてよ、木之下さんはあまり女性経験がないのか?」

「は、はあっ!? 何を言っているんだ! 僕は妻一筋だ!!」

「わかったわかった。そんな大声出すなって。木之下さんが奥さんとしか恋愛しなかったってのはわかったからよ」

 

 木之下さんは肩で息をしながら「わかればいいんだ」と零す。本当に経験人数は奥さんだけらしい。

 

「高木さんは? どうなんだよ」

「わ、私ですか?」

 

 正直、胸を張れるだけの恋愛経験は私にはない。

 人数だけでいえば片手の指でも充分すぎる。それぞれの交際期間もそれほど長くは続かなかった。女性とは難しいものだと身に染みたものである。

 妻とはお見合いが出会いだった。しかし今まで出会った女性の中で一番の人だと思った。これは運命なのだと感じたほどだ。

 

「私もそれほど経験があるわけではありません。ですが、良い妻に巡り会ったとは思っていますよ」

「なるほど、高木さんも言う時は言うねぇ」

 

 ニヤリと笑う宮坂さん。さらに酒が進んだからか顔の赤さが増していた。

 

「そういう宮坂さんはどうなんですか? 実はたくさんの女性を泣かせてきたとか」

 

 冗談のつもりで言ったのだが、本人は苦笑いをして口ごもる。

 ……宮坂さんは若い頃からさぞモテていたのだろう。

 顔やスタイルといった外見には文句のつけどころはない。それに起業して成功して、とても活動的な人だ。女性に対して苦手意識もないだろう。

 経験……。それは自分の体験からくる意見なのだろうか。

 成功者としての意見といえばいいのか。だが、俊成には合わないと思うのは、父としての私の意見だ。

 傷つくのも確かに経験だ。若い頃の方が傷が浅く済むだろうというのも同意見だ。

 それでも、俊成にとって葵ちゃんと瞳子ちゃんはかけがえのない存在だ。片方、あるいは両方と別れて、はいおしまいとはならないだろう。

 いつかは誰かが傷つく結果が訪れる。そして、俊成だって傷つく結果となるだろう。俊成は優しく育ってしまったから。

 だからこそ、私達大人はしっかりしなければならない。

 三人の関係には口を出すのもためらわれる。手を差し伸べることすら躊躇してしまう。それでも我が子を支えてやりたい。その思いだけは心にあり続けていた。

 

「じゃあ宮坂さんと奥さんの馴れ初めを聞かせてもらおうか! よぉーし、今日は語ってもらうぞー!」

 

 木之下さんが宮坂さんと肩を組む。顔が真っ赤だ。完全に酔っていた。

 

「いいだろういいだろう。俺が大恋愛ってやつを教えてやろう!」

 

 宮坂さんも気分良く応じる。「ガハハ!」と笑いながら顔が真っ赤だ。完全に酔っていた。

 まあ、今子供達の心配をしても仕方がない。私も追加の注文をして話の輪に加わった。

 

 親として子供を心配してしまう。それは飄々としている宮坂さんもそうだろうし、木之下さんに至っては口にする必要すらない。

 私達はこうやって互いの不安を煽り合う。我が子を信頼している。しかしそれ以上に心配してしまう。それが親というものなのだろうね。

 将来どちらを選ぶにしても、きっと俊成は傷つくだろう。「良い子」だからこそ不安なのだ。二人の彼女のことを真面目すぎるほど考えてしまうだろうから。

 それでも「がんばれ!」と願う。

 充分がんばっている俊成にかけるべき言葉ではない。だからこそ心の中だけでも応援する。息子には幸せになってほしいからだ。

 俊成に不安を覚えている。しかし、同時に将来への期待もあった。それが親としての悩みであり、楽しみなのだろう。

 

 ……とはいえ、俊成が旅行から帰ってきたら様子を観察しよう。当分は不安の割合が多くなりそうだった。

 

 




夏イベントやるかどうか迷いましたが、次回から二学期に入ります(今度こそ…)


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139.奇妙で不都合な関係

 何もかもが上手くいくと思っていた。いつからそんな錯覚を起こしてしまったのだろうか……。

 

 初めて三人だけでの旅行を終えてから。俺は葵と瞳子に想いを伝えた。

 二人を愛している。いつまでもいっしょにいようと。そう誠心誠意伝えた。

 

「トシくん、それは違うよ」

 

 返答は葵の仏頂面とセットであった。

 なんだか論破されそうな予感。いつもの柔らかい雰囲気はどこへやら。彼女の放つオーラに緊張させられる。

 

「いつまでもいっしょにいたいのは私達も同じなの。でも、最終的には一人だよ。私か瞳子ちゃん、どちらか一人だけが結婚できるの」

 

 さらりと出た「結婚」というワードに背筋が伸びる。最初からそう考えていたこととはいえ、彼女の口から聞くのでは重みが違う気がした。

 

「だからその……海外に移住するとか、探せばいくらでも三人で結婚できる方法はあるはず──」

「私は」

 

 俺の言葉を遮る葵。仏頂面は継続したままだった。

 

「私は、トシくんを独り占めしたいよ」

 

 その瞳はまっすぐで。綺麗な黒の瞳は俺だけを映していた。

 

「私は瞳子ちゃんが大好き。瞳子ちゃんじゃなかったら二人でトシくんの恋人になろうだなんて考えもしなかった。むしろ三人でいるのが心強かったよ」

 

 でも、と葵は続ける。

 

「それでも、トシくんが私だけを見てくれたらいいのにって思ってたよ。そのための恋人関係でしょ? トシくんが私か瞳子ちゃん、きちんと答えを出すための関係だったはずじゃない」

「……」

 

 思い違いをしていた自分にようやく気づき、言葉が出なくなってしまった。

 葵は「そうだよね」と同意を求める。この場で一言も口を開いていない瞳子に顔を向けた。

 

「……そうね」

「瞳子ちゃん?」

 

 彼女にしては歯切れが悪い。葵もそう思ったらしく怪訝な顔になった。

 俺達の反応にはっとした瞳子はわたわたと手を振る。

 

「ち、違うのよっ」

「何が違うのかな? かな?」

 

 葵が笑顔で瞳子ににじり寄る。なんという威圧感。さすがの瞳子ものけぞった。

 

「あ、あたしも葵と同意見よ。ただ、俊成がその……あたし達を抱いた、のは、それだけ覚悟を持っていたってことじゃないかしら……」

「だから?」

 

 葵は笑顔のままだった。瞳子はうつむくが、やがて再び口を開いた。

 

「……ううん。俊成の答えを聞いて、あたしは少しほっとしたわ。どちらかを選んで……あたしが選ばれない結末じゃなかったんだって、そんな風に思ってしまったの」

「……」

「あたしだって俊成を独占したいわ。でも、この関係が壊れてしまうのだとしたら……とても怖い……」

 

 そこまで言って瞳子は押し黙ってしまう。葵も黙り込んでしまった。

 三人でいっしょにいたい。唯一無二の存在を独占したい。それはどちらも心に抱いていることで、俺だけしか答えを出せないことだったのに中途半端になってしまった。

 いや、中途半端な気持ちだったわけじゃない。少なくともこの告白を口にするまでは本気で葵と瞳子、二人ともを幸せにしたいという気持ちだった。

 だから俺は二人を抱いた。それだけの気持ちがあるのだと、行動で示したつもりだった。本心をさらしたつもりだった。

 それでも葵が怒っているし、瞳子が不安をあらわにしている。

 きっと足りなかったのだ。出した答えもそうだが、気持ちの上でも足りなかった。

 俺には前世がある。このアドバンテージは特別なもので、何もかもが上手くいくと錯覚させていたのかもしれない。

 ズキリと頭に痛みが走る。刹那、見えたのはあの日の夢の光景。

 かぶりを振る。夢は関係ない。ただ傲慢になっていた自分を戒める。

 最悪なのは二人ともを手放すことだ。こんな情けない形で手放してしまえば、それこそ悔やんでも悔やみきれない。

 自分に問いかけろ。俺にとっての一番は葵と瞳子だ。二人とも大切な存在なんだ。

 

 ……本当に、一番が二人も存在しているのか?

 

 葵と瞳子はどちらもかわいい。二人ともが大好きだ。優劣なんかつけられるはずがない。

 だけど、二人は別々の存在だ。宮坂葵という女の子であり、木之下瞳子という女の子なのだ。

 

「……」

 

 なんのために彼氏彼女の関係になったのだ。彼女達をもっともっと深く知るためだろう。そうやって俺にチャンスをくれたんじゃないか。

 いつの間にか幸せな未来図ばかりが俺の心を占めていた。

 未来に目を向けることが悪いわけじゃない。しかし遠くを見すぎれば今をないがしろにしてしまう。少なくとも、今の二人の気持ちをちゃんとは考えられていなかった。

 

「ごめん……もう一度だけ、チャンスをくれないか?」

 

 葵と瞳子は無言で続きを促してきた。

 

「どっちも好きで、やっぱり選べないからって都合のいいことを言った……。葵には俺の答えが逃げに映ったんだろうし、もう一度だけ答えを口にするチャンスがほしい、です……」

 

 我ながら格好悪いにもほどがある。男らしく決めてやろうだなんて考えていた奴はどこのどいつだったのか。穴があったら入りたい。

 

「逃げ、だなんて、思わなかったよ」

 

 葵の顔は真剣そのもので。俺は自分に恥じ入るしかない。

 

「でもね、きっと三人でいられない時はくると、思うの。そうなった時、私は後悔しちゃうから……。きっと、ううん絶対後悔しちゃう」

「そう、よね」

 

 瞳子が意を決した面持ちで大きく頷いた。

 

「あたしも後悔だけはしたくない。後悔しないために、全部を出し切るための関係だったはずなのに、いつの間にか目的が変わっていたみたいだわ」

 

 不安の感情を引っ込めて、瞳子は不敵に笑った。

 

「いいわ葵。これからが本番よ」

「うん、負けないよ瞳子ちゃん」

 

 葵と瞳子は互いの顔を見合って火花を散らせた。なんだか久しぶりに見る光景である。

 

「そして、どっちが勝ったとしても」

「あたし達の関係が消えるわけじゃない。だから──」

「トシくんを」

「俊成を」

「「守ってみせる!」」

 

 二人はそう言って笑い合った。俺が守られるってのはなんか違うんじゃないか? と、口を挟める空気ではなかった。

 じゃねえ! 自分の話のはずなのに何この蚊帳の外感。しっかりしろ俺!

 

「えー、それじゃあまた後日……」

 

 話を先延ばしにしようとして、こんな曖昧に終わっていいのかと俺の中で誰かが叫んだ。

 

「こ、今年中にっ」

「ん?」

 

 気づけば、口をついて叫んでいた。

 

「今年中に、必ず答えを出すから……だから、あとちょっとだけ待っていてくれ」

 

 言ってしまった。自分の首を絞める発言だとわかっていながら言ってしまった。これでもう、後戻りはできない。

 しばし無言の時間が過ぎる。正直目を覆いたくなる状況だ。自分の格好悪さに絶望感しかない。

 

「……わかったわ。もう少しだけ、待っていてあげる」

 

 握り込んでいた手がそっと柔らかい何かに重ねられる。見なくても瞳子が手を重ねてくれたのだとわかった。

 二人がいなかったら俺ってどうなっていたんだろうか。前世があるにもかかわらず情けない限りだけど、一人でやっていけた自信はまるでない。

 

「じゃあ、これからはルールを追加しようよ」

「ルール?」

 

 葵の提案に俺と瞳子は疑問符を浮かべた。

 

「今までといっしょじゃ変わらないなら、習慣を少し変えてみるべきだよ」

 

 たとえば、と悩む素振りを見せた葵は一度大きく呼吸をしてから言った。

 

「二人きりの時間を増やすの。三人いっしょじゃなくて、二人だけの時間を、もっと……ね」

 

 それきり口を閉ざしてしまう葵。視線だけは俺の方をまっすぐ向いていた。

 

「……うん。瞳子もそれでいいか?」

「もちろんいいわ」

 

 即答だった。迷いは感じさせなかった。

 二人きりになるってことは、もう一人とはその時間いっしょにいられないってことだ。葵にしろ瞳子にしろ、それは覚悟の上なのだろう。

 

「あら、舐めないでちょうだい。あたしだって俊成の傍にいられない時に何もしていないってわけじゃないのよ。俊成が見ていなくたって努力しているわ」

 

 フフン、と得意げな瞳子。そりゃそうか、と自嘲気味に笑う。

 彼女達が寂しがる、だなんて考えた自分が恥ずかしい。本当に寂しいのは自分の方だ。

 人の気持ちを自分と重ねるなんておこがましい。俺は俺。葵は葵で、瞳子は瞳子なんだ。

 

「わかった。ヘタレで申し訳ないけど、最後まで付き合ってほしい」

 

 恋愛って難しい。前世では縁がなかったから知らなかったけれど、今世ではとんでもない難問なのだと思い知らされ続けている。答えに辿り着けず迷走してばかりだ。

 複数の異性から好意を持たれているモテ男どもはこういう時どうするのだろうか? 少なくとも俺よりはスマートな答えを出していそうで羨ましい。……俺が羨ましがるのはおかしな話か。

 でも、本気で二人どちらともを幸せにしようと考えていた。葵の言葉で冷静になった今は熱に浮かされてしまったのだと気づかされる。

 ……だって、俺は葵と瞳子、二人を同時に抱いたのだ。

 

「あー……うー……」

 

 やらかしてしまった思いが強くなる。行為の了承を得たから大丈夫だと思っていたのに。むしろひどい行いをしてしまった。強い自己嫌悪に襲われる。

 

「ど、どうしたの俊成?」

「やっちゃったー、とか思ってるんだよ」

「え? どういうこと?」

 

 首をかしげる瞳子の耳元に口を寄せた葵が小声で何かを言った。すると瞳子の顔が一気に真っ赤に染まる。

 口をパクパクさせるだけとなった瞳子とは対照的に、葵は俺に笑顔を向けた。その笑みは妖艶さをかもし出していた。

 

「トシくん」

「な、なんだ?」

 

 まるで心の中を見透かされているかのように、葵の大きな目が俺を捉える。

 

「私達は恋人なんだから……」

 

 葵に抱きつかれる。力があるわけでもないのに、抵抗できないまま押し倒されてしまった。

 

「こういうこと、しちゃってもいいんだよ……」

 

 ぎゅっと密着してくる。彼女の柔らかさが充分に伝わってきた。俺の太ももを葵は両の太ももで挟む。

 何を言わんとしているのか行動で教え込まれる。刺激が脳髄に直接叩き込まれたような錯覚を抱く。なんて破壊力だ……。

 

「もっと、お互いを深く知り合おうね……トシくん」

 

 とどめの一撃だった。

 男って生き物は女には勝てないのだ。それを身をもって味わった。

 

「葵ーーっ!! 絶対に負けないんだからぁーー!!」

 

 頭がクラクラする最中、瞳子の叫びが木霊する。この後滅茶苦茶大変だった。

 

 変わらなければならない関係。いつも通りの日々ばかりを過ごすわけにはいかない。

 変わろうとする俺達はあがいていくことになる。不完全で未発達な三人は、足りない何かを埋めようと必死だった。

 俺はもちろん、葵も瞳子も完璧じゃない。それを知る頃には夏休みは終わり、二学期を迎えていた。

 

 



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140.変えていくために

 伸ばした手は届かず。決して彼女に触れることはない……。

 

「不吉すぎるだろ……」

 

 長い夏休みが終わって学校が始まる。

 休み明けという気合を入れなければならない日に嫌な夢を見てしまった。詳しくいえば前世に戻ってしまう夢だ。二度目だってのに一度目と同じルートを辿ってしまった。

 実際に俺はここにいる。だから前世に戻ったわけじゃない。そう思いたいのに、妙にリアルで、なかなか振り払えないでいる。

 あの日から、今日までこの妙な夢は見なかった。俺の間違った答えに対する戒めだったのだろう。そう結論づけて忘れそうになっていたのに……。よりによって学校が始まろうって時に見るはめになるとはな。タイミング見計らってんのかなって愚痴りたくなる。

 こういう時は体を動かすに限る。

 毎朝のランニングはかかさず行っている。帰ってきたら筋トレも忘れない。そのために早起きしているのだ。

 その後にシャワーを浴びる。変な夢のせいでたくさん汗かいたからな。冷静になるためにも冷水を浴びた。

 残った時間で予習をしておく。朝食ができたと母さんから声がかかってリビングへと行った。

 

「いただきます」

 

 ご飯はしっかり食べる。まだ身長は伸びるはずだ。そう信じて噛みしめる。

 

「……」

「……」

「ん? 二人ともどうしたの?」

 

 父さんも母さんも、揃って俺をじーっと見つめていた。箸を動かしもせず見つめられるとこっちも手を止めてしまう。

 

「いや、だって……なあ?」

「そうよ……ねえ?」

 

 夫婦でわかり合うことでも息子には伝わらないんだよ。一体なんの目配せだ?

 

「俊成」

「一体なんだよ父さん?」

「……背、伸びたか?」

 

 母さんと目配せして一体何を通じ合っているかと思えば。大したことのないことだった。

 

「さあ? もしかしたら数センチ伸びてるかもね」

 

 今日学校に行ったら保健室で身長を測ってもらおう。二、三センチ伸びてたら嬉しいなぁ。

 

「なんだか俊成が急に大きくなった気がして。何かあったのかなって気になったのよ」

「急に大きくなったって。牛乳は毎日飲んでるけど、そんなに驚かれるほど大きくなった気はしないんだけどな」

「うーん、大きくなったっていうか……大人っぽくなった?」

 

 母さんは言ってて自分が驚いている理由をちゃんとはわかっていないようだった。

 ……夏休みに大人の階段を上ったのは事実だ。でもそれは俺の誕生日の時のこと。今言われる理由じゃないだろう。まあ……したのはあれっきりってわけでもないけどさ。

 あと心当たりがあるとすれば、前世の夢を見たからか?

 もしかしたらあの夢を見ると前世に近づいてしまうとか。だから急に大人っぽく感じた……。それだとあと何回か夢を見たらおっさんの頃の俺に追いついちゃうってことか?

 

「俺だってもう高校生になって半年だからね。ちょっとくらい大人っぽくなるよ」

「そうよねぇ。俊成は早熟で手がかからなかったもの。こんなにも大きくなってくれて嬉しいわ」

 

 母さんがほんわかと笑う。それにつられてか父さんも食事に戻った。

 さすがに前世の夢に引っ張られて成長が早くなったとは考えにくい。いくら逆行という不思議なことを体験したとしても、それはないなと思えた。

 だから、両親が感じ取ったのは俺の心の面。

 これからは葵と瞳子をいっしょには考えない。二人のうちどちらかを選ぶために、俺は答えを出すための決意が必要だ。

 

「ごちそうさま。俺すぐに出るよ」

「今日は早いのね。葵ちゃんと瞳子ちゃんに早く行くって約束しているの?」

 

 俺は首を横に振った。

 

「今日は瞳子と二人きりで学校に行くんだ」

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 二人きりの時間を作る。登下校もそれに含まれていた。

 今日は瞳子の日だ。そういえば、彼女と二人だけでの登校はあまり記憶にない。

 小学生の頃は登校の班が違っていた。中学生になってからは葵を含めた三人で、というのが当たり前になっていた。瞳子と二人きりでとなると、葵が病欠した時くらいなものか。

 

「おはよう俊成」

 

 家から出てきた瞳子を見て、俺は固まってしまった。

 キラキラと銀髪が輝いている。青の瞳も朝の陽光に照らされて美しい色を帯びている。それだけじゃなく、雰囲気そのものがいつもより大人っぽくなっていた。

 

「瞳子、髪……」

「うん、ちょっと気分転換」

 

 はにかみながら彼女は自分の長い髪にそっと触れる。

 いつものツインテールではなく、銀髪のストレートロングが風になびく。度々見たことはあるけれど、学校へ行くのに髪を結ばないのは初めてじゃないだろうか。

 

「……ううん、気分で変えたわけじゃないわ。本気で葵に対抗するための決意よ」

 

 そう言って瞳子は胸を張った。にじみ出るのは確固たる決意だ。

 

「うん。綺麗だよ瞳子」

 

 素直な感想を述べた。口から勝手に出たのだから仕方がない。

 

「そ、そう……。俊成がそう言ってくれるのならよかったわ」

 

 そっぽを向く彼女の頬は朱に染まっていた。決意と言っていたし、がんばってくれたのだろう。よく見れば毛先とか整えてもらっているみたいだしね。

 

「それじゃあ学校に行こうか」

「ええ。行きましょう」

 

 手を差し出せばすぐに握ってくれる。駅までの道のりを銀髪の美少女といっしょに歩いて行った。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「高木くん、宮坂さんとなんかあったんか?」

 

 始業式の後、人気のない廊下でなぜか佐藤が心配そうに声をかけてきた。

 話を聞けば、葵は小川さんといっしょに登校したようだ。いっつも三人なのになんで? との疑問に葵は答えなかったらしい。それで小川さんから佐藤へ伝わり、俺に確認してこいとの命令を受けたとのことだ。

 

「命令って……それでいいのか佐藤」

「でも小川さんよりは僕の方が答えやすいやろ?」

 

 そりゃまあそうだけどさ。小川さんだと不用意に大きな声を上げちゃいそうだしね。

 

「もしかしてやけど、決めたんか?」

「いや、決めようとしている段階だ」

 

 何を、と言わなくても伝わる。佐藤はごくりと喉を鳴らした。

 

「そっか。大変になりそうやね」

「まあ、な」

 

 これまで固まっていた関係を変えていこうっていうのだ。それは想像しているよりも大変なことだろう。

 

「むしろ大変なくらいがちょうどいいでしょ」

「うおっ!?」

 

 にょきりと美穂ちゃんが顔を出した。まったく気配を感じなかったぞ。

 彼女は無表情のまま目だけで俺を見た。

 

「高木は三人で楽しいばかりだったかもしれないけど、二人は楽しいばかりじゃなかったかもだから」

「え?」

「自分が好きな人の一番じゃないかもしれない。それで全力で笑えるほど女の子は図太くないってこと」

 

 言われて頭に衝撃が走った。

 確かに三人でいっしょにいるのは楽しい。二人もそうだろう。でも、俺と違って何か挟まったような、そんな引っかかりみたいなものはずっと感じていたのかもしれない。

 それを、美穂ちゃんに言われるまで思い至らなかった。二人があまりにもかわいく笑うものだから気づかなかった。いや、気づかなかったのは鈍感な俺の責任だ。

 

「たくさん悩んであげて。それだけ宮坂と木之下が大変だったんだから。きっと、ずっと言えずにいたことだろうから」

「……うん。言ってくれてありがとう」

 

 やっぱり答えは出さなきゃダメだったんだ。改めて自分に言い聞かせる。しっかり二人を見よう、と。

 美穂ちゃんはふぅと息をついて、佐藤の肩にぽんと手を置いた。二人は見つめ合う。

 

「なんやろうね。赤城さん無表情なのに何を思うとるかわかってまうわ」

「以心伝心?」

「それは違うと思うで」

 

 何か通じ合ってる二人。え、なんなんだ?

 

「答えを出すのは高木くんやけど、困ったことがあったら言いや。赤城さんも僕も、他のみんなも、ちゃんと味方やから。助けが必要やったら手を貸すで」

「……本当にありがとうな」

 

 長い付き合いの中で、俺達の関係を見守ってくれていた。中学の時なんか周りから見れば歪な関係で、たくさんのごたごたもあった。

 それでも味方であり続けてくれた奴らがいる。それは本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。

 

「うおおい高木ィーー!! お前今日銀髪美少女と二人きりで学校に来たんだってなぁ!? どういうことか説明しろぉぉぉぉぉーーっ!!」

 

 下柳が大声を上げながら突撃してきた。それを佐藤と美穂ちゃんがカウンターのラリアットで黙らせてくれた。

 さっそく助けてもらってしまった。沈む下柳を眺めながら、俺は二人に感謝を述べるのであった。

 

 



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141.先輩に誘われて

「トシナリ、あなたアオイと何かあったの?」

 

 本日、そう尋ねられたのは佐藤に続いて二人目だった。

 相手はクリス。休み時間に手招きされたからとついて行けば、人気のない場所で疑問を投げかけられたのだ。

 佐藤は小川さん経由で聞いたのだとわかるが、クリスの疑問はどこから出たのだろうか? そもそも彼女は俺達の複雑な関係は知らないはずである。

 ただの仲良し三人組。それくらいにしか思っていないはずだから。

 

「どうして俺にそんなことを聞くんだ?」

 

 ボロを出さないように疑問を返した。そこでクリスはうんと頷いた。

 

「やっぱり何かあったのね」

 

 なぜか疑問は確信に変わってしまったようだった。あれ、ボロを出したつもりはないんだけどな。

 クリスはいつもの明るい表情ではなく、真剣な表情で口を開いた。

 

「この間ね、ピアノのコンクールがあったの」

 

 ピアノのコンクール。それでピンときた。

 八月に葵が出るピアノのコンクールがあったのだ。高校生になって初めてのコンクールだからと、気合を入れていたのを知っている。

 俺と瞳子は応援に行くつもりだったのだが、当の葵から「今回は一人でがんばってみたいの」と言われてしまったのである。

 その後、結果はどうだったのかと聞いたものの、葵は教えてくれなかった。瞳子が聞いても同様の答えだった。言いたくないのならと、俺達はコンクールの話題に触れないようにしてきた。

 俺としても申し訳ないという気持ちがあったために、それ以上踏み込めなかった。

 一人でがんばりたい。葵がそんなことを言ったのは、少なからず俺の発言のためだとわかっていたからだ。俺の答えを引き出すために、一人で出す結果にこだわったのだろう。

 

「久しぶりにアオイの演奏を聴く。わたし、楽しみにしていたの」

「そうなんだ」

「でも」

 

 クリスは悲しそうに目を伏せた。それで、なんとなく答えがわかってしまった。

 

「悪くはなかった。でも感動もなかった。技術は今のアオイが上かもしれないわ。それでも、あの時の感動は少しも感じられなかったの」

 

 小学生の頃の話だ。葵が出場するピアノコンクールで、俺はクリスと再会した。クリスが初めて葵と出会った日でもあった。

 そして、クリスが葵のファンになった日でもあった。あの時、彼女は葵の演奏に魅了されたのだ。

 

「ねえトシナリ。なぜアオイの応援に来なかったの? あなたがいれば結果は変わっていたわ」

 

 クリスは断言する。俺の応援が葵の力になると、微塵も疑ってはいなかった。

 クリスは俺達の関係までは知らない。それでも、葵にとって、俺がどういう存在なのかは感じ取っているのかもしれなかった。

 

「なあクリス」

「何?」

「その時、葵は苦しそうにしていたか?」

 

 彼女の碧眼が宙を向いて、ピアノコンクールのことを振り返る。

 

「苦しそう、ではなかったわ」

 

 そうだ。あれで葵は前向きな女なのだ。

 本当は苦しいことだって、つらいことだってある。俺がその原因にもなっている。

 それでも、彼女はそんなこと感じさせない。それほどの優しさと力、そして根性がある女の子なのだ。

 

「葵は一人でがんばるって言ったらさ、本当にめちゃくちゃがんばってるんだよ。だから、もうちょっと見守っていてくれないか?」

 

 たぶん、葵はコンクールの内容に落ち込んでいる。思った結果、想像していた演奏ができなかったのだろう。

 それでも、それらを一人で乗り越えようとしているのだ。いくら心配だからって、自分の力でがんばろうとしている人を、支えるばかりが優しさではないと思うのだ。

 

「……そっか。トシナリが言うなら、そうなのね。なら、わたしが心配することは何一つないわ」

 

 クリスがぱっと表情を明るくする。金髪少女が懸念していたことは解消されたようだ。葵のファンを安心させられたのならよかった。

 

「アオイはステップアップしようとしているのね。なら、これからが楽しみね!」

「ははっ、そうだな」

 

 うーん、期待を煽っていいものか悩む。葵なら期待以上のことをしてくれそうな気がするけれど、俺がコメントするものでもないだろう。

 クリスは前屈みになって面白そうに俺を見上げてくる。彼女が首を傾けると、本場の金髪がさらりと流れた。

 

「ど、どうした?」

「さすがトシナリ。アオイのこと、とっても信じているのね」

「そりゃまあ、当たり前だろ」

 

 俺の答えに、クリスは満足そうにうんうんと頷いた。

 

「わたしもトシナリを信じているからっ。トシナリが言った、アオイのことも信じて期待しているわ」

 

 そう言い残して、クリスは金髪をなびかせながら教室へと戻って行った。俺の返答に満足したのか鼻歌交じりだった。

 

「信じる、か。俺も、ちゃんと信じなきゃな」

 

 信じる心が揺らがないように。期待を裏切らないように。これからは自分の心の機微に敏感になっていかなきゃならない。

 俺も負けないようにがんばろう。二人の期待を裏切ることが、一番怖いことなんだから。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 放課後。生徒会室の前に俺と瞳子はいた。

 

「野沢先輩があたしを呼ぶだなんて意外ね」

 

 瞳子が堂々とした態度で髪をかき上げる。髪を下ろした自分にまだ慣れていない感じがする。

 

「まあ、能力を考えれば瞳子が一番の即戦力だろうからな。俺は全然不思議じゃないよ」

 

 おそらく一年の中では総合力が飛び抜けている。性格も真面目だし、今の段階で生徒会長に推薦されたとしても、そう驚くことではない。

 

「ま、まあ、俊成に期待されているのなら、がんばってあげなくもないわ」

「そこんとこは野沢くんの話を聞いて、瞳子自身で判断した方がいいよ」

 

 あくまで俺は夏休みの時に受け取った野沢くんの伝言を伝えただけだ。瞳子が生徒会に入るかどうか、それは彼女自身が決めたらいい。

 

「……」

 

 しかし、ここで渋い表情を見せる瞳子。どうしたどうした?

 

「あたし、あまり野沢先輩が好きじゃないのよね」

「そうなのか?」

 

 確かに野沢くんは誰にでも笑顔を見せてくれるタイプってわけじゃない。高校生になってからは近づくだけでピリピリとした緊張を感じさせられるほどだ。

 でも、瞳子は野沢春香先輩を「春姉」と呼ぶほど仲良かったからな。彼女の弟相手に「好きじゃない」とはっきり口にするとも思っていなかった。

 

「まあいいわ。とにかく入りましょう」

「そうだね」

 

 俺は生徒会室のドアをノックした。すぐに「どうぞ」と声が返ってくる。

 

「失礼します」

 

 室内には男女一人ずつ。男子は野沢くんだけど、女子の方は誰だろうか? 先輩には違いないんだろうけども。

 

「生徒会執行部へようこそ!」

 

 その女子の先輩は歓迎するように笑顔で大きく手を広げた。そのせいで胸の部分にある大きな丘が強調される。

 ショートヘアで明るい表情。野沢くんの隣にいるとその明るさがより際立っていた。背後からピカーと光るオーラ的なものを感じる。

 

「私は書記の垣内明日香。学年は二年ね。よろしく!」

「よ、よろしくお願いします」

「……よろしくお願いします」

 

 なぜか隣の瞳子から刺々しい気配を感じる。しかも俺に向けられている気がするのは……、気のせいだよね?

 それにしても、垣内って……。佐藤が言ってた人だっけか。彼女が役員だから「すぐわかる」だったのか。

 

「まずは座ってくれ」

 

 野沢くんに促されて椅子に座った。対面の席に野沢くんと垣内先輩が座る。

 

「始業式でも言ったが、会長としての俺の任期もあとわずかだ。よって、新しい役員を募ろうと動いている」

 

 生徒会長は選挙で決めるけれど、役員は今の生徒会役員の推薦で決められるんだったか。会長になってからいきなり役員集めをするのも大変だろうし、これが野沢くんの最後の仕事なんだろうな。

 

「会長ってば優しいんだよー。本当なら新しい役員は新しい生徒会長が選ばないといけないのにね、こうやって役員探しに付き合ってくれてるの」

 

 あれ、そうなのか? もし現生徒会役員で次の役員を推薦できなかった場合には、新しい会長が探さなきゃならないようなことを聞いた気はするけれど……。別に野沢くんの仕事ってわけでもないのか?

 

「黙れ垣内」

「そんなに怒らなくてもいいじゃないですか。後輩に会長の良さをわかってもらおうとする、健気な私の気持ちを汲んでくださいよ」

 

 野沢くんははぁと疲れたようなため息を吐いた。

 すごいな垣内先輩。あれだけピリピリしている野沢くんに怖がるどころか笑顔で対応している。それどころか彼とのやり取りを楽しんでいるように見えた。

 

「えっと、次の生徒会長って垣内先輩ってことでいいんですか?」

「そだよー。一応選挙があるけど、生徒会役員から推薦された人が会長になるのがほとんどだからね。そんなわけでー、ちょっと早いけどよろしくね高木くん」

 

 野沢くんに呼び出されたのだ。俺と瞳子のことはすでに聞いているのだろう。

 

「それで? なんであたしと俊成が呼ばれたのかしら?」

 

 見知った人がいるとはいえ、瞳子が珍しく高圧的だ。野沢くんのことが好きじゃないって言ってたし、仕方ないのだろうか。

 

「もう予想はついていると思うけど、二人には新しい生徒会の役員になってもらいたいからです!」

 

 ババン! と効果音でもつきそうな調子で言われてしまった。野沢くんから垣内先輩に会長が代わるって、この変化についていくのが大変そうだ。

 

「そういうことだ。新しい役員を俺が全員決めてやるつもりはないが、お前達二人がいれば、垣内を支えて仕事を回せるだろうと、それだけの能力がすでにあると判断した」

 

 あれ、野沢くんがいつになく俺を褒めている? いつも厳しい目を向けられていたばかりだったから、なんだか新鮮だ。理解するにつれて嬉しさが込み上げてきた。

 

「せっかく会長が推薦してくれたんだし、生徒会執行部に入ってみない? 先輩なのに申し訳ないんだけど、私もこれから頼っちゃうと思うのよ。だからこそ、みんなで協力して盛り上げていこうよっ」

 

 垣内先輩も身を乗り出してたたみかけてくる。動きが大きくなると胸の部分にある丘も動いた。丘って動くのか……。

 ええいっ、視線を向けるだなんて失礼だろうがっ。葵と接してきた俺には耐性がある。最近その耐性も強固なものになったはずだ。

 それはそうとして、ここまで言われるとやる気になってくる。とくに垣内先輩は人を乗せるのが上手いな。野沢くんに頼られるってのもなかなかないことだしね。

 

「高木くん、木之下さん。生徒会の役員……どうかな?」

 

 瞳子がいる手前、すぐに返事するつもりはなかったけれど、こんな風に尋ねられたら答えないわけにもいかないだろう。

 

「……気に入らないわね」

 

 瞬間、空気がピシリと固まった。

 その声は俺の隣、瞳子から発せられたものだった。彼女は厳しい目で対面の人物を見つめていた。

 

 



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142.代わりの一番

「……気に入らないわね」

 

 瞳子の声は決して大きいものではなかった。けれどはっきりと聞こえるだけの声量であり、場を凍りつかせるには充分な威力があった。

 垣内先輩は笑顔のまま固まっていた。一見動じていないかのように眉一つ動かさない野沢くんも、あまりのことに思考が停止しているようだった。

 

「えっと……と、瞳子?」

 

 俺はといえば動揺を隠せないでいた。情けないことにうろたえてしまう。

 瞳子が先輩に対してこのようなことを言ったのを初めて聞いた。

 彼女は運動部に所属していたこともあってか、目上相手への態度で問題になるようなことはなかった。物事をはっきり言うタイプではあるが、怒らせるようなことを口にしたことはないと思う。

 

「すみません垣内先輩。でも、これから野沢先輩に言いたいことがあります。よろしいですね?」

「え、えーと……」

 

 有無を言わせない圧力が感じられた。そんな瞳子相手に反射で否定できるはずもなく、垣内先輩は助けを求めるかのように野沢くんへと目を向けた。

 

「……言ってみろ」

 

 野沢くんは表情を変えない。さすがは生徒会長だ。

 ……いや、よく見たらこめかみがピクピクと痙攣しているみたいに動いていた。まったく動じていないってことでもないらしい。

 瞳子に見据えられる野沢くん。俺から見ればどっちが先輩かわからないように感じられた。

 

「野沢先輩。良いように言ってましたけど、別に俊成とあたしの評価は言うほど高くはないですよね?」

「え、えぇ? そんなことはないよ」

「今、野沢先輩に聞いています」

「……すみません」

 

 フォローしようとした垣内先輩は瞳子にピシャリと黙らされた。しゅんとする垣内先輩……あなたは悪くないですよ。

 

「なぜそう思う?」

「野沢先輩はあたし達のことをちゃんと知っているわけではないからです」

 

 はっきりした口調に場が静まり返る。野沢くんもすぐには返答しなかった。

 ふぅ、と息をつくのを合図に、野沢くんが口を開いた。

 

「まったく知らない者を生徒会に推薦するわけがないだろう。試験での成績や球技大会での存在感など、様々な振る舞いを見た結果だ」

「それならあたしよりも上の人はいます」

 

 それに、と瞳子は続けた。

 

「そんなよくわかりもしない基準なんか関係なく、野沢先輩が本当に推薦したい人物は他にいますよね?」

「……」

 

 野沢くんはむすっとした表情で押し黙った。

 

「他って、誰のことなのかな?」

 

 垣内先輩がおずおずと質問する。瞳子に怯えている様子だけど、好奇心には勝てなかったようだ。

 しかし、このままでは瞳子がケンカを吹っかけているみたいだ。

 瞳子の手の甲をちょんちょんと突っついて「これ以上はやめた方がいいんじゃないか」と合図を送る。

 すると手を握られた。少しひんやりとした、華奢な指が絡められる。

 

「……」

 

 握られた手のひらから伝わってくる。瞳子は退かないつもりだ。

 だったら俺は最後まで傍にいよう。そのくらいのことしかできないのなら、それだけは絶対にやってやる。

 

「あの、彼女の前ですけどいいですか?」

「か、カノジョだなんてそんなぁ……まだ早いよぉ」

 

 瞳子は目線で垣内先輩を示した。綺麗な青の瞳に見つめられて変になったのか、先輩は体をくねらせる。先輩相手に悪いとは思うけど変な動きだ。

 

「……構わない」

 

 目をつむり頷く野沢くん。心なしか眼鏡の奥から諦めの感情を帯びている気がした。

 瞳子も小さく頷いてから口を開いた。

 

「野沢先輩は人をまとめること、人の上に立つのは葵が一番相応しいと思っていますよね」

「……」

 

 疑問ではなく断言。それに対しての返答はなかった。

 

「ずっと葵がすごいって知っていたのに声をかけなかった。葵には他にやるべきことがあるはずだ、なんて言い訳をして自分から関わろうともしてこなかった」

 

 まるで野沢くんの心を見透かしているようで、瞳子の真っ直ぐとした青の瞳を見れば、そうじゃないと否定もできなかった。

 

「本当は一番認めている人……、生徒会長に相応しいと思っているのは葵でしょう? それでもあたしを指名したのはただ見てほしかっただけですよね? ちゃんと評価している自分を、正しいことができる自分をアピールしたかっただけです」

 

 野沢くんが誰にアピールしたかったのか。さすがに俺にもわかった。

 

「俊成もそうです。本当に指名したかったのは佐藤くんですよね? でも彼には将棋という才能があったから。それを間近で見てきた野沢先輩は生徒会に入れたくはなかったんです」

 

 淀みのない言葉。まるで的確に野沢くんの心の声を言い当てているかのようだ。

 

「……」

 

 野沢くんは沈黙を保っている。心の隙を見せないと言っているようで、その無言が雄弁に語っているようにも感じられた。

 瞳子が言った通りなのだとしたら、野沢くんは女子なら葵、男子なら佐藤を一番に評価しているってことか。

 瞳子と俺は二番目……二人の代わりってことか……。

 

「俊成とあたしを評価してくれているのは嘘じゃないんでしょう。でも、わざわざこんなところに呼び出す程度の評価でもない。ただ周りを納得させるだけの、あなた自身の評価を上げたいだけの推薦なのだとしたら……」

 

 瞳子の目が険しくなったわけじゃない。しかし空気が張り詰めていくのを感じられ、今にも破裂してしまいそうなほど膨らんでいくように思えた。

 

「……迷惑です」

 

 これまでとは裏腹に、最後のこの言葉は一番弱々しかった。

 急速に萎んでいく緊張感。瞳子はうつむいてしまい、これ以上の言葉はないようだった。

 

「……」

 

 ……そりゃあ、気に入らないよなぁ。

 ちゃんと自分を知らないくせに、見てこようともしなかったくせに、いきなり評価してやっているからと推薦された。でもそれはきっと、後釜を埋めたかっただけのことだ。

 もっと評価している人がいて、その人を選ばなかったのは思いやりがあってのことってか? それは代わりに選ばれた人に対して思いやりが欠けていないだろうか。

 結局、野沢くんは自分の一番に対して何もしてはいない。その気持ちを聞いてもいない。勝手に自分で判断して、勝手にそれぞれの道があるからと候補から排除して、勝手に瞳子と俺なら面目が立つだろうと侮った。

 

 野沢くんは生徒会長として立派にやってきた人だ。がんばっている背中を、小学生の頃から見ていた。だから高校生になってみんなから尊敬されるのも納得できるし、俺自身彼のことをすごい人だとも思っている。

 

 でも、正直好きにはなれなかった。

 野沢くんからは常に敵視されていて、まともに話せたことがない。姉の野沢先輩から良いところを聞いてはいたけれど、俺の前ではその面を見せてはくれなかった。

 敵視されてはいないだろうが、瞳子も似たようなものだったのだろう。瞳子と葵で野沢くんへの印象がかなり違っていたから。

 

 これまでがあって、今回のこの扱いだ。先に葵に声をかけていたなら二番目だろうとも納得できたのだろう。でも野沢くんは周りの目を意識してだろうか嘘をついた。いや、嘘ではないにしろ全部を口にしなかった。自身を良く見せるためのダシに、俺達は使われたのだ。

 そんな彼の言葉を信じるのは、無理ってものだろう。

 

「……そうだな。その通りだ」

 

 野沢くんは目を伏せたまま頷いた。

 彼はそれ以上語らなかった。理由は瞳子の想像通りと肯定しているつもりなのだろう。

 そうやって他人の考えに任せているばかりだから、自分の考えが一向に伝わらないのにな。

 

「俺は生徒会長ってなら、葵よりも瞳子の方が向いてると思うよ」

「え?」

 

 重くなっていた空気を無視して、俺は瞳子へと言葉を放っていた。

 何を驚いているのか、瞳子の目が真ん丸になっている。美人さよりも可愛さが勝った表情になったな。

 

「瞳子は大勢の人がいたとしても一人一人の顔をちゃんと見てくれるだろ。誰か困っている人がいたら真っ先に飛び込んでいける人だ。バランスを取るのが上手いから前に出てもサポートに回っても心強い」

 

 口にするのはただの感想だ。これまで瞳子と付き合ってきたから、当然知っていることでしかない。

 

「これは瞳子のすごいところで、葵がマネできないところだよ。葵は人を乗せるのが上手いけれど、生徒会長として良くも悪くも見渡せるだけの視野はまだないと思うし。何より集中しすぎると周りが見えなくなるタイプだ」

「葵がダメならあたしだって……」

「そんなことないだろ」

 

 だって、瞳子と葵で決定的に違う部分があるんだから。

 

「瞳子は文武両道で、なんでもできるって思われがちだけど、たくさん失敗を経験してきたからね。多くの失敗を知っている人は強いって、俺は思う」

 

 木之下瞳子は完璧超人ではない。なぜか周りでそう思っている人がいるが、そんなことはないって幼馴染の俺は知っている。

 

「野沢くん」

 

 瞳子に向けていた顔を野沢くんへと向ける。

 

「ああ」

「生徒会役員の件、また日を改めて返事させてもらってもいいですか?」

「……構わない」

 

 瞳子の手を引いて席を立つ。目をパチクリさせている彼女が新鮮で、抱きしめたくなるほど可愛かった。

 

「木之下」

 

 退室する前に野沢くんから声がかけられる。手をつないだまま俺達は振り返った。

 

「すまなかった。はっきり言われて目が覚めた。……迷惑、かけたな」

「いいえ。春姉は先輩のことをいつも褒めてました。気に入らないと口にしたことは撤回しませんが、先輩のことが嫌いってわけじゃありませんから」

「高木も……気分を害させたな。すまなかった」

「別にいつものことなのでいいですよ」

「うっ……」

 

 なぜか胸を押さえる野沢くん。さっきまでポーカーフェイスだったのにどうしたんだろう?

 

「えっと……ま、またね?」

「はい。お騒がせして申し訳ありませんでした」

「垣内先輩ごめんなさい。あたし失礼なことを口にしてしまいました……」

「い、いいのいいのっ。むしろ先輩相手でも意見を言える子じゃないとね! うんうん!」

 

 垣内先輩はすごくフォローしてくれるなぁ。役員にこういう人がいたからこそ野沢くんは会長として上手く仕事をできたのかもしれないね。

 一時は緊張感に包まれたけど、最後はお互いぺこぺこ頭を下げていた。生徒会室を出た瞬間にどっと疲労に襲われてしまったのは瞳子にも内緒だ。

 

 



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143.清々しい笑顔

前半は俊成、後半は野沢くん視点になります(ややこしや)


 夕日に染まる瞳子の顔は、それはもう清々しいものだった。

 

「はぁー、なんだかすっきりしたわ」

 

 長い銀髪が風になびいてきらめいている。心なしか表情も輝いているように見えた。

 

「俺はちょっとハラハラさせられたけどね」

「そう? あたしは言いたいことを言えたから満足よ」

 

 だからこそハラハラさせられたんだけどね。

 瞳子と野沢くんにはそれほど接点がないように思っていたから、あれほど緊張感があるやり取りをするとは考えていなかった。

 いや、瞳子の人を見る目は確かなものだ。わかっているようで、俺はまだまだ彼女を甘く見ていたってことなんだろうな。

 

「それに、嬉しかったわ……」

「ん?」

 

 隣を歩く瞳子はうつむいていて、どんな表情をしているのかわからなかった。その耳が赤いのも、夕日のせいかそうでないのかわからない。

 

「俊成が……、あたしの方が生徒会長に向いているって言ってくれたことよ。葵よりも向いてるって、はっきり言ってくれたことが嬉しかったわ」

「俺は素直に思っていることを口にしただけだよ」

 

 実際にそうだろうと思う。瞳子は人の心に寄り添い、行動できる人だから。

 まあ行動力があるからこそ突っ走ることもあるんだけどね。それは瞳子自身も自覚しているところではあるだろう。そういった経験があるからこそ、却って信頼ができる。

 

「俺も嬉しかった。瞳子が野沢くんに言ってくれたこと、正直スカッとする思いで聞いてた」

 

 あんまり考えないようにしていたことに、瞳子の言葉で気づかされた。

 俺は自分がやってきたことが、葵と瞳子との関係が他人から見れば歪なものに映るだろうとわかっているつもりだった。だから受け入れてくれる人がいる一方で、野沢くんのような厳しい目を向けられるのも仕方がないと思っていた。

 でも、ずっと敵視されているかのような目を向けられることが、嫌じゃないわけがない。侮られることは嫌に決まっている。

 

「なんかさ、俺も言葉にしてしまえばよかったんだなって。瞳子の言葉を聞いて、気に入らないって言ってしまえばよかったんだなってようやく思えたんだ」

 

 勝手に我慢しなければならないことだと決めつけていた。これがまっとうな反応なんだろうって、口を閉ざしていた。

 まっとうな大人になれなかったくせして、何を大人ぶろうとしていたんだろうな。

 

「おっしゃあっ!」

「ひゃっ!? な、何よ俊成。急に大声出して」

 

 腹の奥に溜まっていたものを吐き出すみたいに大声を張った。驚かせたのは内心でだけ「ごめん」と謝っておく。

 肩を跳ねさせて驚いた表情を見せる瞳子。先輩相手にあれだけはっきりとものを言ったのに、びっくりした顔はかわいらしい女の子そのものだった。

 

「瞳子ー!」

「今度は何!? と、俊成ここは外よっ!」

 

 溢れる衝動のまま瞳子を抱きしめた。

 

「きゃっ!? ちょ、ちょっと、下ろしなさい俊成っ」

 

 抱きしめたまま彼女を持ち上げる。羽のように軽くて、そのままくるくると回ってしまう。

 満足して瞳子を地面に下ろした頃には、ぽかんとした、彼女にしては珍しい表情になっていた。

 

「ほ、本当になんだったのよ……?」

「うん、瞳子がかわいいってことだよ」

「ちょっ、い、いきなり意味わかんない……」

 

 そう言いながらも、髪を撫でつけながら照れ隠ししている。そういうとこもかわいいんだよなぁ。

 かわいくて、しっかり者で。俺はもっと見習わなくちゃならない。

 

「さて、と。じゃあ生徒会役員の誘いは断ろうか」

「何言ってるの。あたしは受けるわよ」

「……あれ?」

 

 今度は俺がぽかんとする番だった。

 

「てっきり断るものかと」

「あたし、断るなんて言った覚えはないわよ」

「確かに……そうだね」

 

 野沢くんに「迷惑」とまで言っていたから勘違いしていたようだ。まあ彼は生徒会長を引退するんだしな。役員に入ったところで気まずくはならないだろう。

 

「じゃあ俺も──」

「俊成はダメよ」

「なんで!?」

 

 俺も生徒会役員になる、と言い切る前に、瞳子に止められてしまった。理由を求む。

 

「あたしが一人でやってみたいの。俊成や、知っている人がいない場所で信頼されてみたい。それに生徒会に入れば内申点もらえそうだからよ」

「最後の理由が一番びっくりしたよ」

 

 成績優秀な瞳子は内申点とか気にしなさそうだと思ってた。まあただの理由付けだろうけれど。

 瞳子が自分からやりたいと言っているのだ。彼女なりの考えがあるだろうし、それを邪魔したくはない。

 

「うん、わかった。俺は応援してるよ」

「ありがとう俊成」

 

 微笑む彼女は、また少し成長したように見えた。

 

「まっ、俊成は俊成でやりたいことがあるんでしょう。あたしと葵のことを考えてくれるのは嬉しいけれど、自分の時間も大切にしていいのよ」

「俺の時間?」

「そうよ。あたし達のこととは別に、何かやりたいことがあるのでしょう?」

 

 ……瞳子は本当に鋭い。

 もちろん瞳子と葵のことが最優先だ。それは間違いないのだけど、高校生になってから現実味を帯びてきたことがある。

 それは将来のこと。確実に訪れる未来への準備をしなければならない。

 大人として扱われるようになるまであと少しだ。どちらかを選ぶにしても、幸せにするためには考えることは避けられない。

 前世では考えが甘かった。時が過ぎて大きくなれば、勝手に自分が立派な大人ってやつになれるものだと勘違いしていた。

 本物の立派な大人ってやつになるためには、子供の頃からしっかり学んでいるものだ。漠然と考えるのではなく、将来の設計を立てて、やるべきことを実行しているのだ。前世ですごい奴を目の当たりにする度にそう思ってきた。

 もう高校生になっている。将来のビジョンってやつを、もっとはっきりさせておきたい。

 

「……うん。やりたいことが、あるんだと思う」

 

 まだはっきりとはわからない。ビジョンってやつが見えているだなんて、口にはできない。

 しかし頭の中で考えているばかりじゃ仕方がない。

 

「そう。がんばってね俊成」

「ありがとう。瞳子に応援されると力が湧くよ」

 

 愛しい彼女から応援されている。それが俺の力となっているのだ。

 自分と向き合わないわけにはいかない。なりたい自分になるために。つらいことだろうが何だろうがやってやる覚悟である。

 

「なあ瞳子」

「何よ?」

「応援ついでにキスしてくれてもいいんだよ?」

「……バカ」

 

 ……すっごく力が湧きました。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「ふぅ……」

 

 椅子の背もたれに体重を預ける。

 高木と木之下が出て行った後もドアを見つめていた。二人の言葉が何度もよぎっては消えていく。

 木之下が言ったことがすべて真実ではない……つもりだ。俺なりに二人を評価してはいる。

 ……その考えこそが傲慢だったのだろう。

 

「あの、会長……大丈夫ですか?」

「ああ、問題ない。……情けないところを見せたな」

 

 垣内の声で、ようやく誰もいないドアから視線を外せた。

 俺を見る後輩の顔は心配を表していた。生徒会長として最後の仕事だからと綺麗に終わらせるつもりでいたというのに、むしろ格好悪いところを見せてしまったな。

 

「なんだかすごい子達でしたね。とくに木之下さんは風格というかオーラというか、年下じゃないみたいでしたよ。私なんか黙らされちゃいましたし」

「そうだな」

「高木くんは惚気るし……。二人の雰囲気に私の方が顔熱くなっちゃいました」

「……そうだな」

 

 俺は高木と木之下を甘く見ていたのだろう。

 幼い頃からの付き合いだ。学年が違ったとはいえ、どれくらいの能力を持っているかは大体把握しているつもりになっていた。

 どちらも高い能力を持っている。まとまりがあり、どこででもやっていけるだけのものがあるのだと、そう認識していた。

 それは、まとまりはあるが特別秀でた力はない。俺が抱いていた評価はそんなものだった。

 同学年を見れば他に飛び抜けた連中がいた。スポーツでは本郷が、学業では赤城がいた。一芸に秀でている宮坂と佐藤は天才としか思えない。

 学年が違う俺でさえ圧倒的な差だと感じているのだ。誰が見たってそうだろうと思っていた。

 天才の邪魔をしてはならない。なぜなら天才は凡人には成し得ないことができるからだ。

 だからこそ天才ではない高木と木之下を選んでしまったのだろう。天才ではない連中にはいくら迷惑をかけたって構わない。言葉にしたことはなかったが、俺の本音はそんなものだったのだろう。

 

「あいつらはすごい……。きっと垣内の力になるさ」

「んー……、そもそも生徒会に入ってくれますかね? あまり印象は良くなさそうでしたけど」

 

 確かに言いたい放題言ってくれた。しかし、去り際の表情を見れば、悪印象ばかりでもなかったように思える。

 

「俺はもういなくなる人間だ。会長が垣内なら、あの二人も協力してくれるだろうさ」

 

 高木も木之下も面倒見がいい。俺ではなく垣内の頼みなら邪険にすることもないだろう。

 

「……木之下さんはいろいろ言ってはいましたけど、会長はすべきことをしてきた人ですよ」

「え?」

 

 気づけば、垣内はやけに真剣な顔をしていた。

 

「私は高校からの付き合いですけど、野沢会長がどれだけ生徒会を支えてきたか知っています。私なんか特技とか何もなくて、無気力に灰色な高校生活を送っていたのに、ここへ誘ってくれました。私を誘ってくれたのは野沢会長ですよ」

「それは、お前が学級委員長の仕事を嫌な顔をせず真面目にこなしていたからだ」

 

 クラスで必ず選ばれる学級委員長。仕事はとても地味なもので、ほとんどがクラスの雑用ばかりだった。

 誰もが嫌な顔をする。面倒臭いと態度で表す。その中で、いつも笑顔で学級委員の仕事だからと、生徒会室に訪れる垣内の笑顔が印象に残った。

 だから、俺は垣内を生徒会役員にと推薦したのだ。

 

「そう言ってくれたのは野沢会長だけだったんですよ」

 

 垣内は笑顔で言った。

 

「私はただ面倒なことを押しつけられただけでした。クラスの雑用係。それがみんなが私に対して求めていることでした」

 

 彼女の笑顔は曇らない。

 

「それを評価してもらえたことがどれだけ嬉しかったことか……。会長にしごかれたおかげで今じゃあクラスの子達から信頼されちゃっているんですからね。私はもう面倒を押しつけられるだけの都合のいいクラスメイトなんかじゃありません。私は頼りになる女子になったんですよ!」

 

 垣内は胸を張る。過去の経験から、大きな膨らみから咄嗟に目を逸らした。

 

「そ、そうか」

「野沢会長が高木くんと木之下さんとどんなことがあったのかは知りません。私には関係ないことです」

 

 でも、と彼女は続けた。

 

「何も持たなかった私が変われたのは、野沢会長のおかげですから! それだけは、譲ったりなんかしません!」

 

 俺のおかげだと、垣内は言い切った。その言葉が大きな衝撃となって俺の心を揺らす。

 

 ──俺は昔から高木が嫌いだった。

 それは宮坂葵に好かれていると知ったからだ。あっさりと敗れてしまった初恋は、奴への憎悪となっていた。

 宮坂が美しく成長する度に、溢れんばかりの才能を開花させていく度に、高木への嫉妬が増していった。

 勝手に「ただ幼馴染というだけで好意を持たれているずるい奴」と思っていた。ずっと思い込んでいた。

 だが違っていた。

 高木は信頼されるだけのものを積み重ねてきたのだろう。それは今日の木之下を見れば嫌でも思い知らされる。

 何もしなかった俺と、手を取って思いを口に、行動に表してきた高木。

 行動の結果が信頼となる。垣内の言葉でようやく思い至った。やってきたことが信頼になるのだと。その積み重ねは、決して運の良さではないことを。

 

「ありがとう垣内。おかげで目が覚めた」

 

 高木への嫉妬。その気持ちに、ようやく折り合いがつけられそうだ。

 今さら初恋を成就させようだなんて思いはない。ただ、自分の感情に決着をつけるために、また高木には謝罪をしよう。

 清々しい気持ちでそう思えたことが、俺の一番の変化だった。

 

「の、野沢会長が笑った……? まさか天地がひっくり返る予兆ですか!?」

「そんなわけがあるかっ!」

 

 ずっと間違えてきた。それでも、俺の行動で変わった人もいる。

 それが良かったと思えるように。誰かを大切にする思いを、高木のように行動で表していこう。

 それが、最後に生徒会長で学んだことであった。

 

 



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144.次のイベントは体育祭

 生徒会選挙が昨日終わった。

 会長には見事垣内先輩が選ばれた。それから彼女に推薦されて瞳子が副会長になった。

 肩書がついたからか、自分の彼女ながら風格が出てきたように感じる。もともとオーラがあったけど、なんていうか泰然自若と言えるほどの安心感がある。

 

「だって自信があるんだもの。俊成に信じてもらえていると思ったらなんでもできる気がするわ」

 

 と、胸を張る瞳子。なんだか余裕すら感じさせる態度だ。

 ……その自信の源が俺なのだと言われれば、少なからずプレッシャーを感じてしまう。それを撥ねのけるだけの精神力と実績を作ることが、これから俺に課せられた最低条件ってことだろう。

 

 さて、次のイベントは体育祭である。

 我が校の体育祭は全クラスが四組に分かれて行われる。別クラスでも葵と瞳子といっしょの組になれるチャンスである。

 

「うっしゃあっ! コテンパンにしてやるから覚悟しろよ高木ぃ!」

「コテンパンだぁー!」

 

 逆に言えば、同じクラスでも別の組になる人もいる。

 勢いよく俺に向かって宣言する下柳。ノリがいいクリスがそれに続く。コテンパンって実際に聞いたの初めてだな。

 俺は赤組になった。

 白組になった下柳とクリスが早速敵意を露わにしたってことだ。同じく白組である美穂ちゃんはなぜか二人と距離を取っていた。ノリが違うもんね。

 

「高木くん佐藤くん、よろしくお願いしますね」

「望月さんともいっしょの組になれてよかったわ。がんばろうなー」

「こっちこそよろしく」

 

 望月さんと佐藤は俺と同じ赤組になった。ほんわかチームである。

 他のクラスはまだわからないけど、下柳にクリスと美穂ちゃんというA組でもトップクラスに身体能力が高いメンバーが白組に集まっている。これは強敵だ。

 

「え、俊成は赤組なの? あたしは白組なのよ。同じ組になれなくて残念ね……」

 

 残念ながら瞳子は敵チームということになってしまった。互いにがっくしと肩を落とす。

 瞳子といっしょになれなかったこと自体もそうだけど、戦力的にもがっくしだ。味方なら心強いけれど、敵になるとかなり厄介なのだ。

 

「よう高木。聞いたぜ赤組なんだってな。俺は白組だからさ、またお前と競えるのが楽しみだよ」

 

 爽やかに笑う本郷が敵宣言をしてきた。サッカーで全国制覇を成し遂げただけではなく、一年生ながらMVPに輝いたと聞いた。体育祭で本気を出していいような男ではない。

 F組の男女のエースまでもが白組ときた。

 まったく組分けしたのは誰だよ……。先生方の目はどうなっているんだと問うてやりたくなるぞ。白組びいきにもほどがある。

 

「トシくん赤組なんだよね? 私も赤組なんだよ。えへへ、いっしょに体育祭がんばろうね!」

「おう! がんばろうな葵!」

 

 葵は俺と同じ赤組だった。

 葵には悪いが、彼女こそ白組に入れてバランスを取るべきでは? と先生方に進言したくなった。いや、もちろん俺が全力で面倒見ますけどね。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 そんなわけで、体育祭当日まで準備や練習をすることになった。

 赤、白、青、黄組。それぞれ学年ごとに分かれて競技の選択が行われた。

 

「二人三脚が男女混合ペアって本気なの? 私ら繊細な思春期なのに、何か間違いがあったらどうしてくれんのよ」

 

 同じ赤組の小川さんが競技種目を見て、そう文句を口にした。

 小学生の時ならいざ知らず、中学では二人三脚など様々な競技が男女別になっていたのだ。

 高校生ともなれば、もっと運動能力や肉体そのものに男女差が出る。学校側の方針ながら年頃の男女を接触させるのはいかがなものかとも思う。

 小川さんに同感なのだが、なぜだろうか? 彼女が思春期だとかそういうナイーブな部分を意識するとは意外だった。お年頃になりつつも「男とか女とか関係ねえ!」ってスタンスの人だと思っていたよ。

 

「真奈美ちゃん……。やっと乙女らしくなってくれたんだねっ。私嬉しい!」

「それどういう意味よ! 待てあおっちー!」

 

 葵と小川さんのじゃれ合いが始まった。もし俺が葵と同じことを口にしていたらじゃれ合いじゃあ済まなかっただろうな。

 赤組一年の中でも足が速いということで、俺はリレーに選ばれた。他に綱引きや二人三脚の種目の出場も決まった。運動できる奴は三種目以上は出ろ、というのが先生の弁である。

 

「へぇー。パン食い競走なんかあるんやな」

「あ、本当ですね。面白そうですし僕立候補してみます」

 

 先生が言うに、パン食い競走は我が校の伝統らしい。そのこだわり、ちょっと理解できないです……。

 面白がってなのか、パン食い競走を立候補した人は多かった。

 定員オーバーしたとのことで出場者を決めるためにジャンケンが行われた。それに見事勝ち残った望月さんは勝利のVサインをしていた。こんなところで運を使っていいのかな。

 

「う~、私二人三脚に入れられちゃった……」

 

 運動が苦手な葵は比較的楽そうな玉入れを選んでいたのだけど、思いのほか立候補が多かったらしくジャンケンに負けてしまった。

 代わりの種目は二人三脚になったのだが、ここで反応したのは男子連中だった。

 

「み、宮坂さんと二人三脚?」

「合法的に肩を抱けるだって?」

「ということは、体に触れられる? むしろ密着できる?」

「あ、あのワガママボディを……ごくり」

 

 男子連中の妖しい視線が葵を襲う。さすがにあからさますぎて彼女の体がビクッと震えた。

 

「……」

 

 野獣共の視線から守るようにして葵の前に立つ。無言で睨みつければ次々と視線は明後日の方向を向いた。

 マジで男子高校生の思春期を舐めてはいけない。異性に興味が出て当たり前のお年頃だ。小川さんではないが、何か間違いが起こったらどう責任を取ってくれるのだ。

 性への興味自体はとがめるつもりはない。けれど、それが葵に向けられるってんなら戦う覚悟はできている。

 

「葵。二人三脚は俺とペアを組もう」

「うん、よろしくねトシくん」

 

 男子連中のブーイングはさらに厳しい睨みで封殺した。

 葵を他の男に触れさせるわけにはいかない。学校行事だろうがなんだろうが、防げるものは全部防いでやる。それが彼氏である俺の義務であり権利だ。

 

「あおっちってば高木くんにしっかり守られてんね。……いいなぁ」

「小川さん、僕らも二人三脚でペアを組もうや」

「え? う、うん……。佐藤くんがどうしてもって言うならしょうがないなぁ」

「どうしてもや。どうしても小川さんと組みたい。この通り、よろしく頼むわ」

「ほ、本当にしょうがないんだから……」

 

 俺が男共の目から葵をガードしている間に、佐藤と小川さんはペアを組んだようだった。まあ身長も大差ないし、知った仲というのもあって良いペアになるだろう。

 

「やっぱり真奈美ちゃんって乙女だよねー」

 

 なぜに今そんな発言したの? ニコニコとした葵の笑顔に、ニヤニヤの成分が入っているのは見間違いなのかどうか、少し迷った。

 

 




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145.互いの差

 体育祭に向けて着々と準備が進められていく。

 競技の練習はもちろん、入場門のアーチや各組が応援で使用する旗の作成。応援団員は振付を覚えたりと大忙しだ。

 本日は出場する競技ごとに分かれて練習する。普段は授業が重ならない別のクラスの人といっしょというのは新鮮だった。

 

「私アーチ作りのお手伝いをしなくっちゃ」

「待て葵。そんな予定はないって知っているんだからな」

 

 体操服に着替えて佐藤とともに集合場所に行った。そこで先に来ていた葵が、なぜか俺と目を合わせた瞬間に逃げ出そうとした。

 咄嗟に葵の首根っこを掴んだ。大して力を入れなくても、非力な彼女はこれでもう逃げられない。

 

「いきなり逃げようとしたりして、どうした?」

「う~。だって……」

 

 涙目で見上げられる。無防備だった俺は、とてつもないかわいさの破壊力にたじろぐ。

 

「よく考えたら、私なんかがトシくんの相手が務まるわけないよ……」

「それは今さらだろ」

「トシくんひどいっ!?」

 

 自他ともに認める運動が苦手な女の子。それが葵である。

 それくらい覚悟の上だ。むしろフォローするのが当たり前だとも思っている。でなきゃずっと彼女の傍にはいられない。

 もし前世の俺であれば、幼少の頃に葵と遊んだりはしなかっただろう。

 鬼ごっこをしても、ドッジボールをしても、はっきり言って葵は足手まといだった。そういう子への男子の対応は残酷なほどにひどいものだ。

 

「いきなり上手くはいかないよ。葵に合わせてゆっくりやるから、少しずつがんばろう。な?」

「……うん、がんばってみるね」

 

 普通の子がどうだろうが、俺は葵の苦手なことに対して文句を口にしたりはしない。それどころか彼女の要望に応えておままごとに付き合ってた実績がある。むしろおままごとが楽しくなってノリノリでやってたまであるからな。

 まあ俺のことはいいとして。苦手なことだとしても、葵なら、と期待している。

 だって、彼女は苦手なことでもがんばれる女の子だから。

 小学生の頃の運動会。ただでさえ運動が不得意なのに、大変な組体操の練習をがんばっていた。

 苦手なことをできるようになるために努力するってのがどれほど大変なことか。文句ばかりで、苦手なことから逃げる人は大人だとしても案外多い。

 だからこそ、できないことをできるようにとがんばる葵を、呆れたりなんかしないし、いっしょにがんばりたいって思えるのだ。

 

「佐藤くん佐藤くん。初っ端から二人の世界に入っちゃってるよ」

「せやな小川さん。僕らも見つめ合ってみるか?」

「なっ!? なななな、なんでそういうことになるのよっ!」

「せえへんの?」

「いや、ちょっ、何か違くない? なんか佐藤くんらしからない雰囲気なんですけど!?」

 

 気づけば佐藤にガン見されて慌てる小川さんという図が出来上がっていた。

 どういう状況だ? なんか慌てるのがいつもと逆だな。

 

「む?」

 

 葵に両手で顔を挟まれる。それからぐいっと横を向かされた。

 

「あまり真奈美ちゃん達を見つめちゃ悪いよ」

「そうなのか?」

 

 そんなに悪い状況にも見えなかったけどな。でも葵がそう言うなら、そうなんだろうな。

 優しく微笑んでいる彼女からは、なぜだか聖母に見守られているかのような印象を抱かせた。葵が見ているんだから、佐藤と小川さんは大丈夫なんだろう。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 ともかく、俺達は二人三脚の練習をするために集まったのだ。練習をしなければ何も始まらない。

 艶のある黒髪をポニーテールにしている葵のやる気は充分だ。もう二人三脚しか見えないってほどの目をしている。体からはオーラらしきものを発しているような気がするほどだ。

 感嘆するほどのやる気に満ちている。これなら本当に期待できるぞ!

 

「おっとっと」

 

 葵と足を結んで立ち上がっただけで、彼女はバランスを崩していた。咄嗟に肩を抱き留める。

 

「あ、ありがとうトシくん」

 

 笑顔でお礼を口にする葵。その表情が普段よりもぎこちなく感じた。

 いきなり最初からつまずいてしまったな。いや、一歩も足を動かしてはないんだけども。

 

「もしかして緊張してる?」

「き、緊張なんてしないよ」

 

 表情が硬いなぁ。

 葵が緊張するだなんて珍しい。ピアノコンクールでも緊張とは無縁だっただけに、彼女が硬くなっているのを見たのはいつ以来なのか、すぐには思い出せなかった。

 

「とにかく練習だ。いっぱい失敗して感覚を掴んでいこう」

 

 こういうのは慣れだ。

 タイムにこだわりさえしなければ、それなりに走ることくらいはできるはずだ。葵は運動が苦手と言いつつも、バランスとリズム感はいいのだ。コツさえ掴めばなんとかなるだろう。

 まずは互いに肩を抱いて密着する。深い意味はない。二人三脚には必要な行為だ。

 肩小っちゃいなぁ……。

 

「ちょっと窮屈な感じがするね」

「ああ。身長差があるもんな」

 

 俺はともかく葵はやりにくそうだ。手を伸ばしているせいで、より密着して胸が当たっている……。

 普通は当たったりしないんだろうけど、身長差で体勢がおかしくなったのと、葵の一部分のサイズが超高校級のおかげで実現してしまった。

 体操服は生地が薄いからなぁ……って、何を男子高校生みたいな反応をしているんだ!

 まずはこの体勢をなんとかしなければ。これじゃあ走りにくいだろうしな、うん。

 

「手の位置、肩じゃなくて腰にしてみるか?」

「うん」

 

 葵はなんの抵抗もなく頷いた。

 そして俺の腰へと手を回す。俺も彼女の腰に手を添えた。

 

「……」

 

 真っ直ぐ正面を向ける体勢になった。胸の感触も俺から遠ざかる。

 でも、腰と腰がより密着した。互いの太ももが触れ合う。ブルマってもうすぐ終わってしまうんだっけ? と、しなくてもいい思考が頭に流れる。

 ええいっ! 今さら恥ずかしがるもんでもないだろ俺! 今よりも恥ずかしい行為をした仲じゃないか! これくらいで意識しているって思われたらそれこそ恥ずかしいぞっ。

 視線を前方に固定する。足元を見るよりも前を向いている方が安定して走れる。

 葵の腰に添えている手に力を込める。二人三脚では密着した方が安定して走れるのだ。

 

「んっ」

 

 色っぽい吐息だった。

 いやいや、葵はそんな声を出したつもりはなかったのだ。俺が手に力を入れるもんだから思わず漏れてしまった吐息でしかない。だから頼むから緊張すんなよ俺!

 咳払い一つで平常心を取り戻す。練習に集中してしまえば変なことは考えなくなる。

 

「まずは一歩目、内側から足を出してみようか」

「うん」

 

 真剣な返事が返ってくる。彼女がやる気だってのに、こっちがぼーっとしていられない。

 

「イッチ」

 

 結ばれている俺と葵の足が、同時に前へと出る。

 

「ニー」

 

 次は互いの結ばれていない外側の足を出す。まずは歩くことに成功した。

 葵といっしょに「イッチ、ニー」と声を出しながら数十メートルほどを歩いた。思っていたよりもいけそうじゃないか。

 

「よし、今度は小走りでいってみようか」

「う、うん」

 

 このまま徐々にスピードを上げていけばいい。

 ……そう順調にいけると思っていました。

 

「ごめんね。本当にごめんね……」

「大丈夫……。葵にケガさえなければ大丈夫だ」

 

 歩くところまでは順調だった。けれど、いざ走ってみれば葵は何度も脚をもつれさせていた。

 多少のフラつきくらいなら支えられるが、体ごと地面にダイブされてしまうと難しい。

 なぜにコケる勢いは豪快なのか。その勢いにはさすがに助け切れなかった。いっしょに転倒したが、なんとか葵に擦り傷一つつけないようにとかばうことには成功した。

 

「やっぱり私足手まといだよ……。せっかくトシくん足速いのに……。今からでも他の人に代わってもらおうよ」

 

 しかし、すっかり自信を失ってしまった。

 まさか一回転んだだけでここまで落ち込んでしまうとは。二人三脚限定でガラスのハートなのか? いや限定的すぎるだろ。

 

「それは嫌だ。俺は葵といっしょに走る」

「でも」

「でも、じゃありません」

 

 気合いを入れるべく葵にデコピンをした。葵は額を押さえて沈んだ。……そ、そんなに強かったか?

 大きな目を潤ませる彼女を、強く見つめ返す。

 

「葵が運動苦手だってのは言われなくても知ってたことだ」

「だ、だから他の人に代わってもらった方が……」

 

 またいらない弱音を吐こうとしたのでエアデコピンを見せて黙らせる。ブォンと風切り音。……ごめんこれは音だけでも痛そうだ。

 でも、黙って聞いてもらいたいことがある。

 

「俺が何か失敗した時、困った時とかさ。葵は助けようとしてくれたり、黙って見守ってくれていたりしただろ? 絶対に放っておいたりなんかしなかった。俺はそれが嬉しかったし、葵が見ているから、がんばろうって気合いを入れてこられたんだよ」

「……」

「どれだけ失敗したとしても、呆れないし、失望もしない。ずっと付き合うからさ、いっしょにがんばろう」

「……うん。私も、トシくんといっしょにがんばりたい。面倒かけちゃうけど、付き合ってくれる?」

「おうよ」

 

 立ち上がって練習に戻る。いつもの葵の華やかな笑顔に俺は目を細めた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 放課後。葵と二人きりでの帰り道。

 

「それにしても葵が弱音を吐くだなんて珍しかったな」

 

 そうからかい交じりに言ってみたら、思いのほか真剣な声色が返ってきた。

 

「夏休みが明けてから瞳子ちゃんがどんどん変わっていく気がして。私は成果を出せていないのに、これ以上引き離されたくなかったの。ここでトシくんにまで迷惑かけたらって思ったら……。ダメだね私……」

 

 成果を出せていないってのはピアノコンクールのことだろうか。今は触れるべきじゃないと判断して、黙って話を聞く。

 上手くいかないことが重なる自分。対する瞳子は生徒会の副会長になったことで能力を認められたし、人望を獲得した。確かに目に見えて良い方向へと変わっている。

 だからこその焦り。それで絶対的な自信を持っていると思っていた葵の心が揺れてしまったのか。

 

「瞳子ちゃんと正々堂々勝負をしているの。私だってがんばっているつもり……。でも、段々差を広げられていくのを見ていると落ち込みたくなる時だってあるんだよ」

 

 この気持ちが、俺のためのものだと思うと複雑だ。

 

「でも落ち込んでなんていられないし、このままの自分でいたくない。私は、この体育祭で瞳子ちゃんに勝ちたい」

「え、いやそれは無理だろ」

「バッサリ言わないでよ!」

 

 いやだってさ。チームとしてならともかく、個人戦では勝ち目がないぞ。ずっと葵と瞳子を見てきた俺が言うんだから間違いないって。

 どうやってわからせればいいのかと頭を悩ませる俺に、葵は不敵な笑いをみせた。

 

「トシくん。私は今の瞳子ちゃんに運動で勝とうとは言っていないよ」

「え? じゃあなんの勝負のことを言っているんだ?」

「私達は二人三脚に出場するんだよ」

 

 そうだけども。ちなみに瞳子は二人三脚には出場しないとの言質を取っている。直接対決はないのだ。

 葵はぐっと力こぶを見せるポーズをした。もちろん力こぶらしきものは出なかった。

 

「小学生の頃、トシくんと瞳子ちゃんは二人三脚で活躍したよね。今度は私とトシくんで、あの時の二人よりも速く走ってみせるの!」

 

 彼女の目標は、小学生の頃の瞳子を超えたいというものだった。

 

「そ、そっか……いっしょにが、がんばろうな」

「うん!」

 

 過去とはいえ、小学生相手に本気で勝ちたいと宣言する女子高校生の姿があった。というか葵だった。

 ……でもな葵。高校生になって体が成長したとはいえ、小学生の時の瞳子に勝つのはまだ難しいと思うぞ。

 運動に限って言えば、葵と瞳子の差は大人と子供である。悲しいことだけれど、こればかりは差が縮まりそうになかった。

 

「よーし! 打倒小さい瞳子ちゃん!」

 

 張り切っている葵を見ていると、そんなことはとても口にはできなかった。

 

 



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146.体育祭は燃えているか

 雲一つない晴天。最高の天気で体育祭当日を迎えられた。

 長い黒髪をポニーテールにした葵は赤組の先頭に立つ。堂々としていて、かわいさ溢れる彼女に誰もが釘付けとなっていた。

 

「よーし! みんなー! 今日は全力でがんばろうね!」

「「「うおおおおおおぉぉぉぉぉぉーーっ!!」」」

 

 葵のかけ声一つで、男子連中の雄叫びが轟いた。すげえな、地面が揺れたぞ。

 今回の葵はかつてないほどのやる気を見せている。これも瞳子へのライバル心が燃えているためだろう。小学生時代の彼女にとはいえ、立派な目標である。うん、微笑ましいぞ。

 

「やっぱり宮坂さんがいると心強いわ。みんなの目が違うんやもん」

「みんなってより、主に男子達のだけどね」

 

 佐藤と小川さんはほのぼのしたものである。佐藤はいつも通りだけど、こういうイベントで小川さんがのんびりしているというのは珍しい。

 

「な、なんかすごいですね……。僕も同じ赤組なのに圧倒されてしまいますよ」

「うん。まあやる気があるのはいいことだよね」

「やる気の一言で片づけていい士気の高さではないと思いますが……」

 

 葵のカリスマ(?)を目の当たりにした望月さんは驚いていた。中学までこんな感じだったから慣れてたけど、初めて見るとそりゃ驚くよね。

 

「ふっ。赤組も手強そうね。相手にとって不足はないわ」

「と、瞳子ちゃん」

 

 吹きすさぶ風とともに現れたのは瞳子だった。本日は運動するため髪を編み込んでいる。ツインテールばかり印象に残っているけど、これもかなりかわいいじゃないか。

 赤組の葵と、白組の瞳子が相対する。火花を散らす二人に、周囲は緊張感に息を呑む。

 まるで各組の代表者なのかってほどの空気を出しているが、別にそんなことはない。二人のオーラがすごすぎて周りの目を否応なく集めてしまっているだけという話だ。

 

「瞳子ちゃん……。今日は私が勝つよ」

 

 葵のポニーテールが風でなびく。いいタイミングで風が吹くね。

 

「葵……。あたし、もう負ける気がしないわ」

 

 瞳子が柔らかく微笑む。髪型だけじゃない印象の変化を感じる。

 この余裕の表情に、葵は満面の笑みで応えた。

 

「じゃあ、勝負だねっ!」

 

 こうして、体育祭の火ぶたが切られたのである。

 

「それはそうと、葵も瞳子も早く整列しろよ。もうすぐ開会式始まるんだから」

 

 俺の言葉に葵と瞳子が慌てて移動する。見守っていた周囲もバタバタとそれに続いた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「うんとこしょ! どっこいしょぉっ!!」

 

 大きなかぶを引っこ抜くつもりで力んだ。

 綱引き。俺達赤組が勝利した。

 

「さすがトシくん! すごい力だったねっ」

 

 赤組の応援席に戻ると、一番に葵に褒められた。

 

「いや、綱引きは俺だけの力じゃないし。全員の力があったからだよ」

 

 と、クールに振る舞ってみたものの、正直彼女に褒められてめちゃくちゃ嬉しかった。

 なんかこう、真っ先に褒めてくれると素直に嬉しくなってしまうものだよね。頬が緩むのを隠すために思わずそっぽを向いてしまう。

 

「高木くん、何よその緩み切った表情?」

 

 するとニヤニヤしている小川さんと目が合ってしまった。やなところにいますね……。

 

「さてさて、そろそろ僕の出番ですね」

「望月さん応援してるよ」

「がんばりやー」

 

 望月さんが決意のこもった表情で立ち上がった。彼女にしては珍しいシリアス顔である。

 まあ望月さんが出場するパン食い競走が次ってだけの話なんだけども。決勝戦の試合にでも出るのかって雰囲気をかもし出す背中に、俺と佐藤は声援を送った。

 

「僕、瞳子さんに胸をお借りするつもりでがんばります!」

「そ、そう? お互い全力を尽くしましょうね」

 

 ちなみに瞳子もパン食い競走に出場する。球技大会で実力を知っているだろうし、望月さんが緊張する原因になっているんだろうな。

 パン食い競走では口だけでパンを取らなければならない。手を使うのは反則だ。

 そのルールを守らせるためか、スタート前に両手を後ろ手にしてハチマキで縛るのだ。かなり動きにくそうな格好になってしまう。

 

「手を縛ってたらこけた時が危ないだろうが……」

「瞳子ちゃんは平衡感覚いいし大丈夫だよ」

 

 心配する俺とは正反対に、葵はあっけらかんと信頼を口にする。

 瞳子の身体能力の高さは知っている。知っているけれど、心配なものは心配なのだ。

 

「それは大げさやで高木くん……」

 

 手を組んで祈りのポーズをしていたら佐藤に呆れられた。小川さんに至っては大笑いしていた。ケガをしないようにと神様に願っていちゃ悪いかよっ。

 

「あっ、瞳子ちゃんの番だ」

 

 スタートラインに瞳子や望月さんが並ぶ。なんだか後ろ手に縛られている女子が何人も並んでいる光景ってのも変な感じだな。どうしたって胸を張る体勢になっちゃってるし……。

 

「葵はパン食い競走に出なくてよかったな」

「なんで? 私、けっこう平衡感覚いい方だよ。普通に走るよりはいけるかなって思ってたんだけど」

 

 うん、そこじゃなくてね……。悪いのは女子を後ろ手で縛ろうっていうこの種目自体だから。

 葵は規格外にしても、瞳子だって同世代の中で成長著しい方である。どこがとか言わないけどさ。とにかくあまり強調させないでほしい。

 

「くっ……」

 

 思わず唇を噛む。

 もっとパン食い競走の危険性を考えるべきだった。今さらながらこの危険な種目に瞳子の出場を許してしまったことに後悔しかない。

 

「ああしてみると、もっちーってばけっこう胸あるのね。きのぴーは……」

「小川さん黙っててくれ!」

 

 迂闊にそういうこと口にしないでほしい。他の連中まで胸に視線が集中したらどうしてくれるんだ!

 

「あー……」

 

 それと葵。その仕方ないなぁという顔はやめろ。今は別に男の子的な反応しているわけじゃないんだからねっ。

 そんなわけで、瞳子の順番が回ってきた。

 

 

「僕はベストを尽くしました。それで負けたのだから悔しさもありません。ただただ勝者を称えたいのです。……さすがです、瞳子さん!」

「ありがとう。梨菜も良い走りだったわ」

 

 競技を終えた瞳子と望月さんは互いの健闘を称え合う。名前呼びしているし、勝負を通じて仲良くなったのだろう。

 結果は瞳子が一着。望月さんが二着であった。

 後ろ手に縛られているにもかかわらず、望月さんは淀みのない良い走りっぷりだった。パンを取るジャンプも、口の使い方も完璧だったと言っても過言じゃない。

 けれど、それをことごとく上回った瞳子。流れるような美しい動きに、感嘆のため息が聞こえてきたほどである。あとパンをくわえて走る瞳子がかわいかったです。

 白組の応援席を見てみれば、瞳子は獲得したパンを友達と分け合って楽しそうにしていた。体育祭を満喫しているなぁ。

 

「次は私の番だから行ってくるね」

「おう。がんばれよ葵」

 

 葵と入れ替わるようにして望月さんが戻ってきた。

 

「はぁ~……。走っている瞳子さん、素敵でした……」

「そ、そっか……。望月さんもがんばってたね。お疲れ様」

 

 自分の彼女にうっとりしている女子。反応に困るな。

 

「瞳子さんが活躍して、高木くんも嬉しかったですよね」

「ん?」

 

 そりゃ瞳子が活躍して嬉しいけども。同じ赤組の望月さんが負けて喜んでいるところを見せるわけにはいかないだろう。

 

「やっぱり好きな人が活躍すると嬉しいですよね」

「す、好きな人って……」

 

 好きな人だけども。でも、そのことを望月さんに言ったことあったっけ?

 

「幼馴染だから、ってのはなしですよ。高木くんの熱烈な視線。瞳子さんの近くにいたからよくわかりましたよ」

「うっ……」

 

 熱烈な、って言われるほどだったのか? ちょっとだけ心配が表に出すぎたかもしれない。

 

「同じ赤組の僕も走ってたんですけどねー。まあ瞳子さんですし、しょうがないですよね。高木くんの応援は諦めておきます」

「ご、ごめんな……」

「あと、瞳子さんは高木くんの視線に気づいてましたよ。すごく嬉しそうにしていました」

 

 マジか。まったく気づいている素振りなかったから競技に集中しているもんだと思っていたよ。

 

「いいですよね。そうやって言葉にしなくてもわかり合える関係って」

「望月さんもお兄さん達にわかってもらってんじゃない?」

「高木くーん、怒りますよー」

 

 笑顔の望月さんからプレッシャーを感じる。なんだろう、笑顔で圧力かけていくのは女子の手口なのか?

 

「でもまあ、心で通じ合っているとか、目に見えないつながりが大切だとか言いますけど、やっぱり言葉の力は大きいですよ」

「ん、まあな」

「だからですね。宣言するならした方がいいと思うんですよ」

「宣言? あれ、何の話?」

 

 望月さんは無言で指を差した。その先には白組の応援席。楽しそうに談笑している瞳子の姿があった。

 

「誰かに取られても知りませんからね」

 

 その相手は友達の女子ではなく、見知らぬ男子だった。

 

 



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147.女子を羽交い締めにしてゴールしたやつ

 瞳子が楽しげに男子と会話している。

 距離があるので何を話しているかはわからない。しかし、重要なのは会話の内容ではなく、瞳子が俺以外の男と話をしているという事実そのものだろう。

 

「うん。瞳子も体育祭を楽しんでいるみたいで良かったよ」

「えー! その反応はつまらないですよ高木くん」

 

 ぶーぶー文句を言う望月さん。そこでつまんないとか言われる方が心外なんですけどねー。

 今さら瞳子の好意を疑う方がどうかしている。そこんとこの事情は望月さんが知るはずもないんだけどさ。

 ちょっと見知らぬ男と話していただけで嫉妬するとか、器が小さいとか言われかねない。それを言うなら今の俺は望月さんと二人きりで話をしているしな。瞳子だってクラス内で異性の友達の一人や二人いたっておかしくない。

 まあ、瞳子が楽しそうに俺以外の男といること自体、珍しいといえば珍しいけれども。

 

「あれ? やっぱり気にしてます?」

「そ、そんなことねえしっ。俺はちゃんと見守ってやれる男だからな」

 

 きっとあれだよ。瞳子も生徒会に入ったからな。相手は生徒会役員の男子なんだよ。それで「体育祭上手くいきそうでよかったねー」とか言い合っているに違いない。そうに決まっているんだ。

 俺がそんなことを考えていると、隣からふぅと小さなため息が聞こえてきた。

 

「いつも優しく見守ってくれて、ピンチになったら一番に助けてくれる。そんな王子様みたいな格好いい男の子がいたらとは思いますけど、女の子がそんな人ばかりを求めているわけじゃないですからね」

「ん? 望月さんの好みのタイプの話?」

「女子に好かれたいなら、女子の気持ちを考えろって話です」

 

 望月さんにずびしっ、と指を差された。微妙にわかりづらい話の入り方だな。

 

「さっき言ったことをあり得ねえ、の一言で否定しないでくださいよ。ここで大切なのは一つです。一番に思って行動してくれるという点ですよ」

「は、はい……?」

「自分がその子のことを一番の友達だと思っていても、その子にとって僕が一番の友達じゃない……。それはとても寂しくなっちゃうことなんですよ!」

「それって望月さんの経験談?」

「違います! 友達の話です!」

「お、おう」

 

 望月さんの剣幕に何も言えなくなる。すごい説得力だ。

 

「とにかく、女の子は好きな人の一番になりたいと思っているんですよ。最近瞳子さんの印象が劇的に変わったのもそれが理由だと思います」

「劇的に、か」

「そうですよ。綺麗になったとは思いませんか?」

「すげえ綺麗になったって思う」

 

「でしょう!」と望月さんがどや顔になる。なぜに君が得意げなのかな?

 

「ですから高木くんももうちょっとくらい独占欲を見せてもいいと思いますよ。信頼されるのは嬉しいですが、自分のために焦ってくれるというのも女の子は嬉しいものです」

「へぇ……、そんなものか」

「そうなのです。幼馴染だからって余裕かましてたら、気づいた時にはおじいちゃんになってますよ」

「いや、それはさすがに言いすぎ」

 

 でも確実に年月は過ぎていく。そうして後悔するはめになったのが前世だからな。

 葵と瞳子に早く答えを出して伝えたい。二人は俺の気持ちを尊重して、決して急かしたりはしない。それについては感謝している。

 けれど二人の好意に甘えて、周りのアプローチを無視するってのは油断しすぎか。葵も瞳子も、他にいないってくらい最高の美少女だ。それは外面だけじゃなく、内面も眩しいほどに輝いている。

 葵と瞳子を好きになる男の中には、俺よりも優れている奴がいたって不思議じゃない。そいつらを全部無視できるほど、俺は自分に自信がない。だから努力を重ね、答えを探っている。

 

「確かに、余裕はないな」

 

 答えを出すのは絶対に必要なことだ。それに加えて俺自身の価値を上げること。二人に好きでい続けられるような男であらなければならない。

 

「ほら、佐藤くんを見習ってください。あれくらいしていれば他の男子が寄ってくる隙間もなくなるんですから」

 

 佐藤は小川さんと体を密着させていた。物理的に隙間がないだと!?

 いや、午後にある二人三脚の練習をしているだけなんだけども。そのはずなのに、二人に流れる空気は嬉し恥ずかしの甘酸っぱいものだった。

 佐藤……。お前はもっと奥手な男だと思っていたのに。なんだか今回はけっこう積極的じゃない?

 どういう心境の変化があったのだろうか。理由はわからないけど、ちょっとは佐藤を見習おうと思った。

 

「ちょっと俺行ってくるよ」

「行ってらっしゃい」

 

 立ち上がる俺を、望月さんは理由を尋ねることなく見送ってくれた。

 

「瞳子」

「どうしたの俊成? ここ白組の応援席よ」

 

 声をかけると、瞳子がすぐに俺の傍まで駆け寄ってきた。

 さっきまで瞳子と談笑していた男子が会釈してきた。俺も愛想よく返す。

 

「いや、別に用事はないんだけども……」

「え? 何よそれ」

 

 ころころと笑う瞳子。綺麗になったのもそうだけど、また数段かわいくなったよね。

 

「葵が次の種目に出場するんだものね。ちょっと心配してる?」

「まあ、葵だしなぁ」

「本人の前で言ったら怒られるわよ」

 

 ほんわかとした雰囲気になる。やっぱり瞳子といっしょにいると安らぐ。

 

「俺はあんまり見覚えないんだけどさ、さっきまで話してた男子って誰?」

 

 笑いながら、あくまで軽いノリで尋ねた。

 一瞬きょとんとする瞳子。それから「ああ」と頷いた。

 

「そっか。まだ顔と名前が一致しないわよね」

「あれ、俺も知ってる人か?」

「彼は生徒会役員の書記なのよ。生徒会は体育祭の実行委員とも関わっているから、二人で『体育祭が問題なく行われてよかった』って話していただけよ」

「ほとんど想像通りだった!!」

 

 突然の大声に瞳子はビクリと体を震わせた。

 

「な、何!? どうしたのよ俊成?」

「あ、ごめん……。なんでもないんだ。驚かせてごめんな」

 

 ふぅ、ただの杞憂だったか。まったく、俺の心はまだまだのようだ。

 

「あっ、葵が出て来たわよ」

 

 瞳子の声で目を向ければ、借り物競走に出場する選手が入場しているところだった。

 借り物競走。よくある競技ではあるが、借り物のセンスによって盛り上がり方に差が出る種目である。

 単純に足の速さだけで勝敗を決められる競技ではない。「足が遅くても大丈夫だよね」との理由で葵は出場を決めていた。

 まあ小学生の頃からというか、一度一着を経験してから味を占めた葵。中学でも必ず借り物競走に参加して、上位を取っていた。

 実際葵が借り物を探していると協力する男子が多いからな。彼女の笑顔のためなら例え学校外にしかないものでも持ってきてくれそうな勢いがあった。

 

「クリスもいるな」

 

 白組からはクリスも出場するようだ。金髪の彼女はよく目立つ。

 彼女の場合は「面白そうね!」の一言で出場を決めていそうだ。好奇心に満ちた表情まで想像できる。

 

「ふふっ。クリスなら負けないわよ」

「勝敗を決するのは単純な運動能力じゃない。今回は葵が勝つさ」

 

 今回の俺と瞳子は敵同士。クリスには悪いが、赤組である葵の応援に集中させてもらおう。

 葵とクリス。それからその他大勢が並び、スタートした。

 スタートダッシュではクリスの独走だった。一番に借り物が書かれている紙の元に辿り着く。

 

「ん?」

 

 クリスの表情が困惑に染まる。その隙に他の人達が追いついてきた。

 

「あれ? みんな止まったぞ」

 

 みんな借り物が書かれている紙を見て固まってしまった。借りる物を探そうと動きもしない。

 周囲もこの状況に困惑し始めた時、やっと葵が追いついた。最後の一枚の紙を手に取り、内容を確認してすぐにこっちに向かって走ってきた。

 

「瞳子ちゃーん!」

「え、あたし?」

 

 葵の目的は瞳子のようだった。彼女に借りる物ってなんだろう?

 

「瞳子ちゃん、私といっしょにゴールして!」

「あたしと? 葵の借り物ってなんなのよ」

「『銀髪に青い瞳の美少女』だよ」

 

 瞳子以外の何者でもなかった。というかピンポイントすぎるだろ!

 瞳子は何か思い当たったのか「借り物は貸してくれる人が一定以上いる物って言ったのに……」と呟いていた。どうやら犯人に心当たりがあるらしい。副会長も大変そうだね。

 

「んー、でも……」

 

 なぜか渋る瞳子。

 

「今日の葵はあたしの敵じゃない。ここで葵といっしょにゴールしたら敵に塩を送るということにならないかしら?」

 

 まさかの抵抗。その表情は悪戯っ子の笑みを作っていた。

 今日は敵同士とはいえ、予想だにしなかった親友の裏切り。これには葵もショックを隠せない!

 

「トシくん! 瞳子ちゃんを捕まえて!」

「おうわかった!」

 

 いや、むしろショックを見せるどころか的確に指示を下していた。俺も咄嗟に体が動いて瞳子を羽交い締めにした。

 

「ちょっ、待って! 冗談だからやめてっ!」

「逃げられたらダメだよトシくん! このままゴールまでお願い」

「おう任せろ!」

 

 葵の人を動かす力に乗せられたのか、体育祭の盛り上がりにやられたのか、俺は葵とともに瞳子を引きずってゴールした。

 

「こんな格好でゴールするのは嫌ーーっ!!」

 

 瞳子の叫び声がゴールの合図だった。

 よく考えなくても出場者でもない俺がゴールしてしまった問題だけど、葵が「彼も借り物の一部です」というわけわからん理由で説得してしまった。それで通るのかよ……。

 それはともかくとして、銀髪美少女を羽交い締めにした俺は多くの男子からブーイングを受けた。瞳子が彼女じゃなかったら訴えられているところだろう。こっちは瞳子が問題ないと説得してくれた。

 

「でも、次はないわよ?」

「「ごめんなさい」」

 

 体育祭テンションとはいえ、俺も葵もやりすぎた。これには二人揃って誠心誠意謝った。

 

「う~。こんなのわからないわ」

 

 ちなみにクリスが取った紙に書かれていたのは「ピカピカな物」だったとのこと。こっちは逆に抽象的だな。

 

「ちょっとでも光ってたらピカピカってことでよかったんじゃないか? 眼鏡や腕時計とかさ。それなら生徒も先生も誰かしら持ってるだろうし」

「なるほど……。これが日本のトンチなのね!」

「トンチではねえよ」

 

 結局クリスは無理を言って吹奏楽部員からピカピカな楽器を借りていた。持ってきてもらうまでに時間がかかったため最下位となってしまったのだった。

 この順位により、俺達赤組がトップの白組へと大きく差を縮めた。

 

 そして、午後の競技へと続くのであった。

 

 



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148.守って守られて、やっぱり守りたい存在

 昼食を挟んで午後の種目を迎える。

 

「暑いな……」

 

 午後になって日差しがさらに強くなってきた。朝は最高の天気で体育祭ができてよかったとか思っていたけど、ずっと外にいると汗が出てしょうがない。

 もう夏は過ぎたんだから暑さも控えてもらいたいものだ。その分自販機で買ったスポーツドリンクが美味いんだけども。

 

「葵も水分補給するんだぞ」

「うん、ちゃんと水分取ってるから大丈夫。午後からは二人三脚があるし万全だよ」

 

 葵が力こぶを作ってやる気をアピールする。そのか弱い二の腕で何をしようってんだろうね。

 

「よーし! トップの白組との差はあと僅か。逆転勝利するわよー!」

 

 小川さんもやる気に燃えている。

 彼女の言う通り、点数差はほんのちょっとでしかない。午後の競技で白組に勝ち越しさえできれば優勝できるだろう。

 あとちょっと、そう思うほどやるぞ! って気になるものだ。

 

「ここまできたら勝ちたいですね」

「僕らも応援気合い入れなあかんな」

 

 競技に出る人も応援する人も、みんなの気持ちが一つになっている。こういう気持ち、なんかいいなって思う。

 

「それじゃあ、気を引き締めて応援がんばるよー!」

「「「うおおおおおおおっおおおおおおーーっ!!」」」

 

 葵のかけ声で、男子達の野太い声が轟いた。

 午後一番に行われたのは応援合戦である。

 赤組の応援団長は、なんと葵だ。学ランに袖を通す彼女の姿は普段と違って凛々しかった。ちなみに学ランは俺が中学の時に着用していたものである。

 

「フレー! フレー! あ・か・ぐ・みぃーー!!」

 

 赤組の応援団は団長の葵以外全員男子である。葵に統率された応援団は息の合った振りつけで観客を魅了した。

 

「うわぁ……宮坂さんも格好いいですね……」

「さすがや。宮坂さん、さすがとしか言えへんわ」

「あおっちが前に出ると周りもすごくなっちゃうわよねぇ。存在感が別次元だわ」

 

 応援団長の葵を見ていると、とても運動が苦手とは思えない。むしろ迫力さえ感じ、周りからも感嘆の息しか聞こえてこないほどであった。

 かわいらしさだけじゃない。応援する姿さえ華がある。彼女の一番近くにいる自負があるけれど、傍で見ていてもそのすごさに圧倒されそうだ。

 

「ふぅ……私の応援、盛り上がったかな?」

「周りの声援すごかっただろ。みんな葵に見惚れてたぞ」

「トシくんは?」

「……見惚れすぎて目が離せませんでした」

 

 葵は満足そうに頷いた。

 一所懸命がんばっていたのだろう。かわいい顔が汗でキラキラ輝いていた。がんばる彼女は美しい。

 さて、葵の応援で赤組のやる気は最高潮だ。暑さにも負けず、闘志を燃え上がらせている。午後の競技も期待できそうだ。

 応援合戦が終わった後は二人三脚である。

 

「僕と小川さんがアンカーでええの?」

「何度も確認するなよ。佐藤と小川さんのペアが一番速いんだから自信持てって」

 

 佐藤はアンカーという大役に不安を隠しきれずにいた。逆に小川さんは「ゴールテープを切るのは私達ね!」とすでに勝った気でいるほど自信がある様子だ。

 佐藤と小川さんのペアは赤組の中で一番速い。というか練習を見る限りだと他の組含めても一番速かった。

 つまり、アンカーにつなぐまでにリードしていれば勝てるはずだ。

 

「真奈美ちゃんがんばってね」

「まっかせなさい! ていうか、あおっちもがんばるのよ。私にタスキを渡すんだから重要なんだからね」

 

 俺と葵がリードした状態で、佐藤と小川さんペアへとつなぐのが理想だ。そう考えると、俺達も最後から二番目というプレッシャーのかかる順番だった。

 整列して、各々ペアとハチマキで足を結んでいく。

 

「ふっ、ついに俺様の出番だな! 全国にエースストライカーとして名を轟かせた下柳様の出番がよぉっ!!」

「うるさい下柳。今結んでるんだからじっとして」

 

 美穂ちゃんが表情に出るほど嫌そうな顔をしていた。

 白組の出場者には美穂ちゃんと下柳もいた。しかもペアを組んでいる。

 足の速さを買われてのペアだったけど、練習を見る限りではあまり息は合っていないようだった。当日までにどれほど練習の成果が出せるのか、二人とも足が速いだけに気は抜けない。

 

「ふふ、美穂ちゃんのところもすごいやる気だね」

「下柳が調子に乗ってうるさいだけ。未だに自分が全国区の選手ってことばかり自慢しているの」

「ああ、サッカー部の」

「はい! 全国制覇を成し遂げたサッカー部の点取り屋! 下柳賢です!」

 

 葵と美穂ちゃんの会話に下柳が割り込んだ。身を乗り出したせいで美穂ちゃんがバランスを崩す。

 

「落ち着け下柳。黙れ下柳。こけたら責任取ってもらうからな下柳」

「す、すんません……」

 

 美穂ちゃんの冷たい視線に下柳が小さくなる。もう足結んでるんだから本当に落ち着こうな。

 

「下柳、今はお互い二人三脚に集中しよう。実力を見せたかったら競技で見せればいいだろ」

「おっ、言ったな高木。宮坂さんとペア組んでるからってこれ以上調子に乗らせないぜ」

 

 とか言っているうちにピストルが鳴った。

 あちらこちらから声援が聞こえてくる。BGMが競技を盛り上げてくれる。抜かし抜かされ、順位が目まぐるしく入れ替わっていた。

 段々とヒートアップしていくレース展開。順番を待っているこの緊張感って独特だよね。

 

「うっしゃあっ! 俺の番がきたぜ!」

「急ぎすぎないで下柳」

「任せろ赤城ちゃん! トップはもらったぁぁぁぁーーっ!!」

「急ぎすぎるなって言ってるだろ下柳」

 

 いきり立つ下柳を、美穂ちゃんがなんとかなだめながら走る。よくこけずに走れるもんだなってくらい動きがバラバラだった。

 あれを見ると、いかに息を合わせることの大切さがわかるというものだ。

 

「葵、俺達は自分達のペースを崩さないように気をつけような」

「……うん」

 

 何気なく振っただけなのに、葵の返事に間があった。

 

「もしかして緊張しているのか?」

「う、ううんっ。ごめんね、ちゃんと集中するよ」

 

 という割にはぼーっとしているように見える。ぼーっとしているっていうか、疲れてる? やけに顔が赤いし。

 それに、応援合戦が終わってから、葵の汗がまだ引いていない。

 葵への心配が大きくなってきた時、俺達の順番が回ってきた。

 

「練習通り、落ち着いていこう!」

「うん!」

 

 とにかく今は目の前の二人三脚に集中しよう。

 イッチニー、イッチニーとかけ声を合わせて走った。

 いい調子で走れている。練習の成果か息もピッタリだ。

 自然と力が入って、より密着した。汗ばんでいても気にならなかった。

 緩いカーブを曲がって、あとは直線のみ。アンカーの佐藤と小川さんの姿が見えた。

 

「うわっ!?」

 

 突然のことで何が起こったのかわからなかった。

 わからなかったけれど、体が反応してくれていた。

 

「痛ってぇ……。大丈夫か葵?」

 

 痛みを感じて、やっと転んだのだと理解できた。

 咄嗟に体が反応してくれたおかげで葵をかばうことができた。ぱっと見ケガはないように思えた。

 

「ごめん……トシくん……」

「謝んなって。立てるか?」

 

 しかし葵は立ち上がらない。その間に後続に抜かされてしまった。

 

「どこかケガしたのか?」

 

 首を横に振る葵。そんな小さな動きでさえ弱々しい。

 ほてった顔。止まらない汗。さらには力が入らない様子の今の状態。

 そこでようやく彼女の異常事態を悟った。もしかしたら熱中症かもしれない、と。

 

「悪い。じっとしてろよ」

「……ごめんね」

 

 足を縛っていたハチマキを外す。俺のいきなりな行動に観客からどよめきが起こる。

 ぐったりとしたままの葵を抱き上げる。いわゆるお姫様抱っこ。観客の、とくに男子から大きな絶叫が上がる。

 周りに構わずそのまま走り始めた。柔らかい感触も、今は気にしていられなかった。

 

「何かあったんか?」

「悪い佐藤。葵を保健室に連れて行く。後任せた」

「任せとき。高木くんも急ぎいや」

 

 途中、佐藤にタスキを渡した。全部を説明することはできなかったのに、頼り甲斐のある態度で見送ってくれた。

 スピードを緩めることなくそのまま突っ走る。周りから何か言われているが、葵を運ぶのが先決なので無視していた。

 一応競技を続けてくれたけど、俺のせいで赤組は失格になるかもしれない。責められた時は甘んじて俺一人で受けよう。

 保健室のある校舎へと向かう。生徒も教師もグラウンドに集まっており、校舎に近づくほど静かになっていった。

 靴を脱ぎ校舎に入る。上履きに履き替えるのも時間が惜しくて、そのまま廊下を走った。

 

「失礼します! って、誰もいない!?」

 

 ノックもせずに保健室のドアを開けた。けれど室内に保健医の姿はなかった。

 

「体育祭なんだからみんな外にいるか……」

 

 そういえば救護用のテントがグラウンドにあった気がする。俺も気が動転しているようだ。

 

「トシ、くん……」

「安心しろ葵。休めるところに来たからな。もう大丈夫だ」

 

 緊急事態だ。勝手だけど、無人の保健室を利用させてもらおう。

 まずは葵をベッドに寝かせた。

 冷蔵庫に入っているスポーツドリンクや氷嚢などを拝借する。タオルも必要だ。いくつか適当に持って行く。

 

「葵、スポドリ飲めるか?」

「……うん」

 

 ふらついてはいるけれど、ちゃんと渡したスポーツドリンクを飲んでくれた。重度の熱中症ではないと信じたい。

 

「体、拭いていくからな」

 

 タオルで顔の汗はもちろん、体中の汗を拭いた。……体操服をめくって腹や背中、胸の周りもだ。彼氏じゃなかったらアウトだったな。

 あとは氷嚢を額に乗せる。体中の熱を冷ますためにわきの下も冷やした。

 

「トシくん……ごめんね……」

「気にすんなって。先生呼んでくるからそのまま寝てろよ」

 

 立ち上がろうとしたら裾を掴まれた。

 

「葵?」

「ごめんね……私のせいで、トシくんケガしちゃった……」

 

 言われて体のところどころに痛みがあるのを思い出した。こけた拍子に擦りむいたのだろう。

 でも血が出ているのは膝くらいなもので、葵が気にするほど大したことではない。

 

「こんなもんケガのうちに入らないよ。むしろこっちこそごめんな。葵の体調のこと、気づいてやれなかった」

 

 首を横に振る葵。

 

「私が、これくらい大丈夫だって軽く見てたの。トシくんには無茶しないでって言っておきながら、自分ができていなかったよ」

「……葵も、がんばりたかったんだもんな」

 

 葵は運動が苦手だ。

 だからいつも運動が関わる行事は嫌がっていた。真面目に取り組みはするけれど、前向きなやる気を見せることはあまりなかった。

 なのに今回の体育祭は気合いを入れていた。小学生の頃の瞳子に勝つんだと意気込んでいた。

 

「葵ががんばってたのは知ってるよ。変わっていく瞳子を見て焦ってるのも知ってる。変わった自分を俺に見せたいってのも、知ってる」

 

 少しでも変われるように。少しでも近づけるように。その目標が近ければ近いほど、思いは強くなる。そのことを、痛いほど実感している。

 葵の頭を撫でる。触り心地の良い黒髪。サラサラして、根元から先端にかけて指を這わせるだけで心地良くなる。

 

「葵ががんばりたいってんなら、俺は尊重するよ。でもな、無理はしても無茶だけはすんなよ?」

 

 いつぞやに葵から言われた言葉。

 本人も気づいたのだろう。大きな目がパチクリと瞬きをする。それから彼女はぷっ、と噴き出した。

 

「それ、トシくんが言うの?」

「おうよ。葵に言われてから俺の心に刻まれているんだ。それに、無理と無茶をした経験者でもあるからさ。限界はやりながら覚えるもんだ」

「……うん。確かにそうだね。トシくんばっかり見ていたのに、私には経験がなかったみたい」

 

 葵が笑うと俺もつられて笑ってしまう。

 彼女の傍にいると胸が温かくなる。

 守って守られて、やっぱり守ってやりたくなる。出会ってから今に至るまで、葵はそういう存在だ。

 

「私はもう大丈夫だよ。たぶん保健室の先生が来てくれると思うし、トシくんは競技に戻って。まだリレーが残ってるでしょ?」

「いや、でも……」

 

 先生は呼びに行くつもりだけど、葵の傍にいたい。体調によっては病院に行かなきゃならないかもしれないし、かなり心配だ。

 

「トシくん」

 

 真っすぐな瞳。視線だけで人を魅了してしまう目に見つめられ、ドキリとさせられる。

 

「な、なんだ?」

「赤組、優勝するといいね」

 

 そう言って、葵は輝かんばかりの笑顔を見せてくれた。

 

「……そうだな。優勝できたら最高だ」

 

 今度こそ立ち上がる。もう裾から手が離されていた。

 

「葵っ! 大丈夫なの!?」

 

 ドアに向かおうとしたら、瞳子が飛び込むような勢いで保健室に入ってきた。

 

「私は大丈夫だよ瞳子ちゃん。トシくんが助けてくれたからね」

 

 瞳子は瞬時に状況を把握したようで、ふぅと安堵の息を零す。

 

「何が起こったかわからなかったけれど、大事にならなくてよかったわ。先生を呼んだから、すぐに来てくれるはずよ」

 

 その先生といっしょに来なかったってことは、心配でいてもたってもいられなかったんだろうな。

 

「何笑ってるのよ俊成。葵の体調のことだから仕方ないけれど、周りを見なさすぎよ。競技そっちのけで葵をお姫様抱っこして姿を消すものだからあの後大騒ぎだったんだからねっ」

「ご、ごめんなさい……」

 

 俺も人のことは言えない。どんな状況でも冷静にならないと周りに迷惑をかけてしまう。わかってはいるつもりでも、咄嗟の事態ではこの様だった。

 

「まあいいわ。葵にはあたしがついているから。俊成はさっさと戻りなさい。まだリレーが残っているんでしょう?」

 

 葵と同じことを言われてしまった。

 ここで俺が残っていても仕方がない。むしろ早く戻らないと余計迷惑をかけてしまうか。

 

「わかった。じゃあ後は任せるからな瞳子。葵も、ゆっくり休むんだぞ」

「うん。トシくんのリレーの出番までには元気になるよ」

「「ちゃんと休みなさい」」

 

 俺と瞳子に注意され、さすがの葵もしゅんとなった。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 二人三脚では俺と葵が転んで最下位になったものの、佐藤&小川さんペアの追い上げで二位を取った。

 俺が葵をお姫様抱っこして勝手に競技から抜けてしまった件だけど、新生徒会長の「ロマンチックで素敵でした」の一言で反則にはならなかった。俺が言うのもなんだけれど、それでいいのか?

 まあ俺が佐藤にタスキを渡した時には最下位になっていたからな。ズルをして順位を上げた、ということではなかった事実が大きかったのだろう。あと垣内先輩の緩い判決に助けられた。これが野沢くんだったら問答無用で退場処分されていてもおかしくなかった。

 その結果はよかったのだけど、周囲の波紋はまた別の問題である。

 

「まあ緊急事態やったし仕方あらへんよ。宮坂さんを放っておく方が危なかった思うし」

「フォローありがとうな佐藤……」

 

 俺の周りを誰かが通りかかる度に「ほらさっきの……」と意味深な会話が聞こえてくる。男子連中なんかは殺気を隠すことすらしない。

 葵はすでに学校中で認知されているほどの美少女だ。学園のアイドルと言っても素直に頷けるほどの人気っぷりだ。

 そんな誰もが憧れる美少女を衆目の場でお姫様抱っこしたのだ。目立つなという方が無理がある。

 

「人のうわさも七十五日って言うからな。別に気にしないよ」

「でも二か月半ってけっこう長いんやで」

 

 佐藤……。せっかく気にしないようにしてんだからそういうこと言うんじゃねえよ……。

 

 



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149.成長しているのは君だけじゃない

 二人三脚でトラブルはあったものの、最後のリレーには問題なく出場できそうだ。

 

「よし。足も大丈夫だ」

 

 擦りむいた膝は瞳子が処置してくれた。葵の心配ばかりで自分のケガを忘れていたのを瞳子にとがめられたのだ。彼女の心配りに感謝が絶えない。

 

「白組とは僅差やで。リレーに勝てれば赤組の逆転優勝や」

 

 最後の種目を前にして、佐藤に「がんばりや!」と背中を叩かれた。

 なんていうか、この託されたって感じいいよな。こう、心の底からやる気が漲ってくる。

 

「絶対勝ちなさいよ。じゃなきゃここにいられないあおっちが報われないんだからね」

「葵は無事だからね? あんまり不吉な言い方してると報告しちゃうよ」

「ひえ……そ、そんなこと、高木くんはしないわよね?」

 

 小川さんが半泣きになった。二人の力関係はどうなってるんだか。

 

「高木くん高木くん」

「どうしたの望月さん?」

「応援はしていますけど、あまりプレッシャーに思わないでくださいね」

 

 優しい声色。望月さんは俺がプレッシャーを感じていると思っているのか。

 最後の種目。一位になれば逆転優勝という点差。そして、白組には本郷がいる。

 並べればプレッシャーとなりそうな条件ばかりだ。本郷はサッカーで全国制覇したこともあり、さらに注目される存在となった。今日もあいつが出た競技での声援がすごかったし。

 だから負けたって仕方がない、か。

 

「望月さん」

「はい?」

「別にプレッシャーなんかないよ。それよりちゃんと応援しててよ。赤組が逆転優勝するんだからさ」

 

 そう言い残して最後の種目へと向かった。

 

「よう高木。悪いが声援は俺が全部いただくぜ!」

「うん、まあ、どうぞ?」

 

 声援ならいくらでもやるぞ下柳。代わりに勝たせてもらうけどな。

 

「高木、足は大丈夫か?」

「ああ、問題ないぞ」

 

 本郷と少しだけ言葉を交わした。その後は黙って競技が開始されるのを待った。

 入場するだけでものすごい歓声が起こった。最後だから注目されているってのもあるけれど、それ以上に本郷が出場するからだろう。

 本当に運動に関しちゃ他を寄せ付けないほどの存在感を放ってくる。才能だけじゃないって知ってるからこそ、文句の一つも言えやしない。

 

「うおりゃああああああーーっ!!」

 

 第一走者がスタートした。下柳の大声が目立つ。みんな驚いたのか一瞬声援が止んだ。

 大声のおかげってわけじゃないんだろうが、下柳がトップで次の走者にバトンを渡した。二人三脚の空回りっぷりが嘘のようである。

 そういえば春の体力測定では俺と下柳の五〇メートルのタイムが同じくらいだったか。

 

「なあ本郷。体力測定で五〇メートル走のタイムって覚えてるか?」

「ん? えーと、五秒八くらいだったか……それが何?」

 

 五秒台か……。しかも春時点のタイムだ。もっと速くなってる可能性があるか? あまり早く成長しないでほしいもんだよ。

 最初は白組がトップだったものの、他の組も黙ってはいない。

 抜きつ抜かれつのデッドヒートが繰り広げられる。さすがは各組で足の速い出場者だ。

 でも、赤組だって負けてはいない。白組を抜いてトップ争いをしていた。

 

「高木がアンカーなんだよな」

「ああ」

「負けないぜ」

「俺だって負けるつもりはねえよ」

 

 最後の走者にバトンが渡る。最初は青組。それから赤組の俺もバトンを受け取った。

 実況の声で黄組、そして白組もアンカーにバトンが渡ったとわかった。

 俺は青組のアンカーを抜き去る。このままゴールすれば優勝だ。

 しかしここで大きな歓声。後ろを振り返らなくても、本郷が次々と走者を抜いたのだとわかった。

 黄色い声援。場が期待感を膨らませているのが嫌でもわかる。

 本郷がケツからぶち抜き逆転する。その劇的なまでの勝利への期待が段々と膨らんでいるのだ。

 俺への応援は確かにある。それでも、周りの声はそれを飲み込むほど大きかった。

 

「トシくんがんばってぇーーっ!!」

「踏ん張りなさい俊成ぃーーっ!!」

 

 たくさんの人の声援が入り乱れていて、もう誰の声かなんてわからなくなっているのに、二人の声だけはやけに耳に響いた。

 

「……ったく、ちゃんと休んでろよな。お前も俺と同じ意見じゃなかったのかよ」

 

 二人とも、終わったら叱ってやらなきゃだ。

 足に力が漲る。地面を蹴る力が強くなる。

 前だけを見て走った。風を感じるのが気持ちいい。プレッシャーはまったく感じなかった。

 気づけば、俺はゴールテープを切っていた。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 赤組は優勝した。

 大勢の人達、というかとくに女子は本郷の逆転勝利を見られなくて残念そうにしていた。まあ赤組はみんな喜んでいたからいいかな。

 

「おい高木、また速くなったんじゃないか?」

 

 息を切らせた本郷に背中をバシバシ叩かれた。負けたってのになんか嬉しそうにしてんな。

 

「まあ、愛の力のおかげかな」

「それを恥ずかしげもなく言ってのけるんだから勝てねえよなぁ」

 

 むしろ俺の前を走っていたみんなのおかげだ。白組にリードしてくれていなかったら本郷には勝てなかったはずだし。

 

「いや、でも本当に速くなってた。高木の背中に追いつける気がしなかったよ」

 

 爽やかに笑う本郷。相手を称える姿はスポーツマンシップの鑑だ。

 本郷に褒められると嬉しい。嘘や誤魔化しがない言葉だからだ。素直に思ったことを口にする奴だからこそ、自分の変化を感じられる。

 

「俺、成長してんのかな」

 

 少し背が伸びた。気づかない間に足も速くなっていた。たぶん変化はまだまだあるのだろう。

 自分の限界ライン。そろそろ頭打ちだろうと考えていた。その判断は早かったのかもしれない。

 

「二人が変わろうとがんばっているのに、俺だけ立ち止まっているわけにはいかないよな」

 

 自信が芽生える。

 すごい奴に勝った。自分はまだ戦える。一時はもう絶対に追いつけないと思ってしまったからこそ、この胸の鼓動は大きく感じた。

 体育祭で大きなものを得た。そんな確信を持てる日となった。

 

 その後。葵と瞳子は俺の前で縮こまっていた。

 

「ご、ごめんね。私が無理を言ったからで、瞳子ちゃんは悪くないの……」

「ひ、日陰にいたから大丈夫だと思って。それに、あたしも俊成が走っているところ見たかったし……」

「二人とも」

「「……はい」」

「体調を優先しろっていつも言ってるだろ! 反省しなさい!!」

 

 体育祭が終わって、葵と瞳子に大きな雷を落としたのであった。

 

 



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150.人は周りに影響されるもの

「悪い高木。教科書貸してくれないか?」

 

 本郷がA組の教室を訪れた。甘いマスクに反応してか、大半の女子から黄色い声が上がる。フィールド以外でも騒がれる奴だなぁ。

 

「本郷が忘れ物とは珍しいな」

 

 スポーツの成績は最優秀である本郷だが、学業成績はすこぶる悪い。それでも忘れ物はしない奴だったってのにな。

 

「ついうっかりしてた。いざこういう時になると誰を頼ろうかって迷うな」

「それで頼るのが俺なのかよ」

 

 本郷のF組は俺のA組の教室とけっこう離れている。本郷ならここに来る前に教科書貸してくれそうな人くらいいそうなもんだけどな。

 

「まあ、ちょうど持ってきてる科目だからいいけど」

「サンキュ。木之下の言った通りだったぜ」

「瞳子が?」

「俊成なら持ってきているはずよ、って言ってたからさ」

 

 ああ、瞳子なら俺の今日の授業くらい覚えているか。でもな本郷、瞳子の声マネするお前はいくらイケメンだろうとも気持ち悪いぞ。

 

「ちょっと待ってろ。今持ってくる」

「おう。今度何かおごるぜ」

 

 本郷が教室にいるだけで女子が騒がしい。さっさと渡してお引き取り願おう。

 

「あれ、本郷? うちのクラスに来るなんて珍しい」

「よう赤城。教科書忘れちゃってよ。今高木に借りてるところだ」

 

 お花を摘みに行っていた美穂ちゃんグループが帰ってきた。本郷は笑顔で忘れ物をしたことを自白した。

 

「ほ、本郷くん!? ほ、本日はお日柄も良く……って、僕は何を言って……あわわ」

 

 望月さんも本郷に気づいて顔を赤くしていた。お兄さん達がイケメン揃いで耐性がついているだろうに、それでも緊張してしまうようだ。

 まったく緊張が見られないのは美穂ちゃんだけだった。まあ見慣れているってのもあるだろうし……いや、美穂ちゃんならたとえ初対面だったとしても緊張している姿を見せないだろう。実際はともかくとして。

 

「望月。本郷相手にそんな緊張しなくても大丈夫。忘れ物をしたただのうっかりさんだから」

「そうだぜ。普通でいいんだよ普通で」

「フツーよフツー」

「おっ、クリスだ。イエー!」

「ホンゴー! イエー!」

 

 本郷とクリスがハイタッチを決めた。君らそんなに仲良しだったっけ?

 机から頼まれた教科書を取り出して持って行く。

 

「はいよ。俺も使うんだからすぐに返してくれよ」

「ありがとな高木。次の休み時間に返しに来るよ」

 

 俺から借りた教科書をブンブン振りながら本郷は自分の教室へと戻って行った。教科書は大切に扱いなさい。

 

「ああ……」

 

 残念そうに本郷を見送る望月さんだった。わりとミーハーだよね。

 

「それにしても、クリスって本郷と仲良かったんだ。知らなかったよ」

「あれあれ? もしかしてトシナリ、嫉妬しているの?」

 

 なんでやねん。俺には葵と瞳子がいるって知っているでしょうに。

 クリスは「冗談よ」とケラケラ笑う。どこまでわかってやってんのかわからないんだよ。

 

「ホンゴーは私と英語で話したいって言うから。それで最近話すようになったのよ」

「クリスと英語で?」

「ええ。彼、面白いわね。ホンゴーって名前も呼びやすくていいわ」

 

 クリスは「ゴー! ゴー!」と楽しそうに腕を振っていた。何それ応援?

 そもそも本郷って英語しゃべれたのか? さほど学業成績が良くないと知っているだけに不思議に思ってしまった。

 

「ネイティブな発音を聞き慣れておきたいんだってさ。本郷自身、けっこうしゃべれていたし」

 

 と、美穂ちゃんが教えてくれた。本郷は勉強でも実践向きらしい。

 

「へぇ……」

 

 本場の英語を慣れておきたいと……。本気で英会話を勉強しているんだな。

 いずれ本郷ならプロのサッカーチームに入ると思っていた。けれど、俺が想像していたのは日本のチームで、海の向こう側のことまでは考えてもみなかった。

 さすがは本郷か。スケールが違う。

 前世でもすごい奴だったけれど、今の本郷なら海外でも通用するんじゃないかって期待感がある。

 高校一年で頂点まで勝ち抜き、すでに高校生ナンバーワンプレイヤーとまで言われているらしいからな。現時点でも日本のトッププレイヤーに近いレベルがあるのではというのが世間の評価だ。

 そういう話を聞くと本来なら手の届かないすごい奴なんだけど、わりと付き合いが長いせいでそんな風に見られないんだよな。だから本郷が海外に行くと言ったとしても納得できる一方で、何かしっくりしないというか不思議な感じがしてしまう。

 

「高木」

「ん?」

 

 美穂ちゃんに呼ばれて意識が戻る。気づかず考え込んでいたようだ。

 

「本郷がやりたいことを決めた時、応援してあげてね」

「そりゃあもちろん。まあ、本郷なら応援され慣れているだろうけどね」

「そんなことない。高木が応援してくれたら、本郷はすごく喜ぶから」

 

 無表情に真っすぐ見つめられる。美穂ちゃんの真剣さが伝わってきて、俺は頷いて応えた。

 ……俺と本郷は違う。容姿やスポーツではレベルが違いすぎて、張り合いなんかすれば周囲から冷めた目を向けられてしまう。それほどの差がある。

 別に本郷に勝ちたいだとか、負けを認めているだとか、そんなことではない。ただ、親しい友達が、先の先を見据えて将来のための努力をしていると知ると、なんだか胸の奥がたぎってくるような気になるのだ。そこに関して差を感じているわけじゃないからな。

 俺はどこまで進めているだろうか? 今は時間の進みとともに、焦りまでくっついてくるようになった。

 

「俺にできることか……」

 

 手堅さは大切だ。でも、小さくまとまりすぎてはいないか、という迷いもある。スケールの大きい奴を見ると、どうしても比べてしまう。

 幸せってやつを掴むのは思った以上に難しい。やり直したからこそ簡単ではなかったと実感する。

 いや、これは現在進行形での話だな……。

 

「高木? 何難しい顔をしているの?」

 

 美穂ちゃんに言われて眉間に力が入っていたことに気づく。

 

「いや、別に。なんでもないよ」

「そう。もうすぐ授業が始まるよ」

 

 そう言って美穂ちゃんは無表情のまま自分の席に戻る。俺も遅れて席へと戻った。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 放課後。今日は葵と二人で下校する。そのまま葵の家にお邪魔させてもらった。

 瞳子は来月の文化祭について話し合いがあるとのことだ。生徒会は忙しいらしい。くつろいでいるばかりだと申し訳ないな。

 

「どうしたのトシくん? なんだか難しい顔をしているよ」

「そうか?」

 

 昼間と同じことを言われて眉間に力が入っていたことに気づく。軽くマッサージして表情を緩めた。

 

「何か嫌なことでもあったの?」

「そういうわけじゃないから心配しないで」

 

 嫌なことというか、もっとしっかりしないといけないって気持ちになっただけだ。俺って同じことばかりを考えてる気がするな……。

 

「本郷がさ、将来に向けてクリスと英会話の練習をしていたみたいなんだ。同い年の奴がちゃんと先のことを見据えているって考えたら、俺もしっかりしないとなって思って……」

 

 ただでさえ葵と瞳子の問題に決着をつけられていないのだ。高校生になっても、俺はまだ自分が何をやりたいのだとか、そういう将来のことを決めかねている。

 前世があるってのに遅すぎだ……。アドバンテージを生かせない自分に焦りが募る。

 

「そうなんだね……。ねえトシくん。私のピアノ、聴いてくれる?」

「え? うん。構わないよ」

 

 突然ピアノを弾きたいという葵の後を追う。アップライトピアノの前に座った葵が「リラックスしていてね」と笑いかけてくれた。お言葉に甘えて用意された座布団に座らせてもらう。

 そして、一瞬で空気が変わった。

 コンサートでもないのに、葵の演奏は迫力があった。今までのように心に響くのはもちろん、何か表現し難い迫力を感じる。

 一曲弾き終わった葵が振り返る。

 

「トシくん、どうだった?」

「すごかった……。俺はピアノのことに詳しくないけど、何か今までとは違うように感じたよ」

「そっか……。うん、聴いてくれてありがとう」

 

 葵は少しだけ考えるような仕草を見せて、もう一度俺を見た。

 

「トシくんは、私が海外でピアノを演奏したいって言ったらどうする?」

「えっ!?」

 

 唐突な言葉に驚きでいっぱいになってしまった。

 どうするって……。いや、葵がやりたいことなら応援したいけど……。でもそれって、葵がいなくなるってことだよな……?

 

「あー、ごめんね。そんな深刻な話じゃないの。クリスちゃんと話している時にね、イギリスで演奏してくれたら楽しいのに、って言われたことがあって。それでちょっと聞いてみただけだよ」

「そ、そうなのか……」

 

 かなり驚いた……。驚きすぎて今も心臓バクバク鳴ってるよ……。

 

「私も将来のことを決められていないし、どうしようかなってちゃんと考えてもいないんだよ。でもね、小さい頃からピアノが好きだなぁって……。できれば、どんな形でも、ピアノに関われる仕事に就けたらなって漠然と思っているんだ」

 

 ニコッと葵は笑った。好きが伝わってくる笑顔だ。

 葵はしっかりしている。自分の好きなものがはっきりしていて、そのための努力も欠かさない。

 本人はまだまだだと言うんだろうけれど、充分しっかりした考えを持っていると思った。

 

「……それにね」

 

 葵は床に胡座をかいている俺に、四つん這いになって近づいてきた。

 

「私はまず目の前のことに全力を注ぎたいの。絶対に、譲りたくないからね……」

 

 顔が近い。下から見上げられて、吸い込まれそうな黒の瞳にのけ反りそうになる。

 目の前のこととはなんのことか? そんなすっとぼけたこと、俺自身が口にできるはずがなかった。

 彼女の言う通り、全力を注がないといけないことは目の前にある。

 

「トシくん……」

「葵……」

 

 甘い空気だ。脳がしびれる感覚がした。彼女の匂いだけで頭がクラクラする。

 

「あんっ……」

 

 葵を抱き寄せてキスをした。その時間は甘美なもので、いつまでも続けばいいと思った。

 決着をつけなければならない関係。そして、どうしてもこの関係を終わらせたくないと考えてしまう自分がいるのも確かだ。

 将来のことよりも、やはり俺は目の前のことに全力を向けなければならない。じゃないと、葵と瞳子の将来にも悪影響を与えてしまいそうだ。そのことを、肝に銘じなければならなかった。

 

 



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151.前世と今世の私

 放課後。教室に忘れ物をしたことに気づいて取りに戻った。

 ドアを開けようと手を伸ばした時に、教室の中から話し声が聞こえてきた。

 

「宮坂さんってかわいこぶってるよね。前も男子に色目使っててさ。ああいうの本当にムカつく」

「わかるー。ちょっと顔がいいからって勘違いしてんだよね」

「そうそう、男子を手のひらで転がすなんて簡単って顔してるよ。ほら、男子ってバカだから胸がでかいのが好きでしょ。それだけのことなのに自分が人気者って勘違いしてんじゃない?」

「それだー。胸にしか栄養がいかないからわかってないんだよ」

 

 きゃはははー! 意見が一致したのが嬉しいのか、揃って笑い声を上げていた。

 教室には何人かの女子が残って悪口に花を咲かせていた。聞き覚えのある声は、みんなクラスメートのものだった。

 

「そこまで嫌われてるって、思ってなかったなぁ……」

 

 教室の前で小さく零す。話題の中心人物になっている私がドアを挟んだすぐ近くにいるだなんて、彼女達は思いもしないだろう。

 対立していたわけじゃない。教室では仲良くおしゃべりできていた。私は、友達だと思っていた。

 でも、今の話を聞く限り彼女達にとって、私は友達じゃなかった。ただそれだけのこと。

 

「……っ」

 

 そっと踵を返す。こんなところに入っていける勇気を、私が持ち合わせているはずがなかった。

 私はとても弱い。だから敵を作らず、他人に不快感を極力与えないようにと振る舞っていた。

 男子は怖いから関わりたくない。だからって女子が絶対に味方になってくれるわけじゃないって知っていた。身の振り方を考えないと排除される。それは子供でも起こりうることだって、見てきたからわかっていたんだ。

 わかっていたから、そうならないように私は気をつけていたのに。

 どこかのグループの中に確実に存在し、でも絶対にグループの中心人物にはならない。それが適切な立ち位置で、一番安全な居場所だと思っていた。

 

「それは、ただの勝手な思い込みだったんだね……」

 

 けれど、実際には違っていた。

 安全地帯にいるはずだった私は、知らないところで攻撃されていた。楽しく笑い合っていると思っていたのは私だけで、裏では笑い者にされていた。

 もしもさっきみたいな悪口を面と向かって言われでもしたら……。きっと私は弱い自分をさらけ出してしまうだろう。

 ……それが、とても怖い。

 

「うわっと!?」

「ひゃっ!?」

 

 気がつけば、学校を出て帰り道を早足で歩いていた。現実から逃げたくて、とにかく家に帰りたいと、それしか考えられなかったのだろう。

 周りも見ずに無意識で歩いていたせいで曲がり角で人とぶつかってしまった。今のは下を向いて歩いていた私が悪い。

 

「ご、ごめんなさ──」

 

 謝ろうとして、ぶつかった相手に目を向ける。その相手を見た瞬間、私は固まってしまった。

 

「こ、こっちこそごめんなさい。ケガはないですか?」

 

 こちらを恐る恐るうかがってくる顔には見覚えがあった。中学を卒業してから、もう見ることはないだろうと思っていた彼の姿がそこにはあった。

 名前……えっと、彼の名前はなんだっけ?

 小・中と同じ学校だったけれど、まともに話したことがない。そんな関係だから名前を憶えていないのも当然だろう。

 なのに、なぜか唐突に彼の名前がするりと口から零れた。

 

「た、高木くん……」

 

 高木俊成くん。小・中学が同じだった同級生。高校の進路が別々になって、久しぶりに見る彼の顔はさほど変わっていなかった。違っていたのは制服くらいかな。

 同級生とは言っても、友達どころか知り合いとも呼べないような薄い関係性だ。彼を覚えていたのは、いろんな意味でギラギラした目をする男子の中で、高木くんだけが何かを諦めているような目をしていたから。

 きっと私も似たような目をしている。

 家庭環境に人間関係。自分ではどうにもできないことと、上手くできない自分に嫌気が差す。

 もっとがんばれと思う一方で、もう無理だよと思っている自分がいる。どこか諦めているせいで、心の底から笑うことなんてできない。自分の目が、濁っているように見えてならないのだ。

 

「えっと、本当に大丈夫ですか?」

 

 私の呟きは聞こえていなかったのだろう。黙り込んでいると思われたのか、高木くんの眉尻が心配そうに下がる。

 ていうか私だって気づかれてない? 話す機会は皆無だったけれど、それでも九年間同じ学校に通っていた同級生なのだ。忘れられているだなんてショックだよ……。

 

「う、うん。大丈夫、です……」

 

 笑顔を貼りつけて、なんとかそれだけを絞り出す。愛想だけは数少ない私の長所だ。

 でも、高木くんに忘れられたってしょうがないよね。ただでさえ男子と関わりを持たないようにしてきたのだ。覚えてもらえていないのは私自身の責任だろう。

 それに、私の見た目は中学の時に比べて大分変わった。

 周囲に同化するためとはいえ、自分でも私らしくないと思う。これで簡単に私だと気づかれたら、それはそれでショックだったかもしれない。

 自分を歪めて周りに合わせたはずなのに、それが上手くいっていなかっただなんてね。本当に、自分が嫌になる……。

 

「あ、あのっ」

 

 暗く落ち込んでいく私を、裏返った声が押し止めた。

 

「こ、これっ」

 

 高木くんがハンカチを差し出してくれていた。え、なんで?

 

「え……?」

 

 困惑を隠せないまま、差し出されたハンカチをまじまじと見つめる。

 

「い、いやっ。使ってないやつだから清潔だと思うよ」

「汚いから受け取らないとかじゃなくて、なんでハンカチ?」

 

 高木くんが困ったような顔をして首をかしげる。なんだかその仕草がやけにかわいく思えてしまった。首をかしげたいのは私の方だけれども。

 

「だって泣きそうな顔をしているから。ぶつかった時にどこか痛めたのかなって」

 

 言われて顔を触って確認する。特に涙を流しているだとか、表情を歪めているだとか、そんなことはないように思えた。

 

「私、別に泣いてなんか──」

 

「いないよ」と、最後まで言葉は続かなかった。

 急に涙が零れたのだ。わけもわからずとにかく止めようとするけれど、ダムが決壊したみたいにとめどなく流れてくる。

 なんで、なんで、なんで……? 溢れてくる感情の奔流を止められなくて、私はただ泣くことしかできなくなっていた。

 

「ご、ごめん! 本当にごめんなさい! ど、どこが痛いの?」

 

 こんな私を前にして、高木くんはおろおろするばかりだった。

 困らせてしまっているだろうに、それでも彼はこの場から立ち去ろうとはしなかった。ただ、いっしょにいてくれた。

 愛想の良い笑顔を作れず、泣いているばかりの面倒な女子を、彼は見捨てようとはしなかったんだ。

 男子が傍にいるのに不快感がまるでない。時間が経つにつれて、私は止まらない涙の理由を知った。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

 あの後、高木くんと劇的な何かがあったわけじゃない。

 彼は私が泣き止むまで傍にいてくれた。でもそれだけで、なぜ泣き出したのか尋ねられることもなく、私も説明しなかった。

 それで終わり。高木くんとの再会は、特別な出来事もなく、接点が生まれることもなく終わった。

 

「何もなかったけど……。何かを逃したような、そんな気がするよ……」

 

 あの時もらったハンカチ。私の涙で汚れたハンカチは、洗濯してすっかり綺麗になっていた。

 だけど高木くんに返せてはいなかった。タイミングを逃したというか……、あれっきり彼に出会えてはいない。

 

「きっと、私から話しかける勇気があればよかったんだよね……」

 

 私が溜め込んだ感情を、取り巻く環境を、話したところで高木くんに何かができるはずもない。

 そう思うのに、あの時に高木くんと再会したことがターニングポイントだったんじゃないかって考えずにはいられないのだ。

 

「そんなの……今更、だよね」

 

 自嘲気味に笑う。

 私と高木くんの未来は交わらない。諦めた人生を辿るだけ。きっと平行線のまま途切れてしまうのだろう。

 私は、自分が変わるきっかけを永遠に失った。

 

 

  ※ ※ ※

 

 

「今更、なんで……」

 

 夢から覚めて、やっと私は自覚した。

 ずっと現実味の強い夢だと思っていた。それもそのはず、だって私が経験してきたことだったのだから。

 夢は私の前世だった。今の私はここにいて、過去の私が年上というのもおかしな話なんだけど。本当におかしいよ……。

 

「トシくん」

 

 隣で眠っている彼に小さく呼びかける。

 

「むにゃむにゃ……」

「ふふっ」

 

 トシくんは口をもごもごと動かして反応した。反応しただけで再び寝息を立てる。かわいいなぁ。

 

「あの高木くんが……トシくん、なんだよね?」

 

 前世の高木くんと、目の前で気持ちよさそうに眠っているトシくんが私の中で一致しない。

 でも、あの時の優しさはやっぱり彼と同じもので……。前世と今世の違いに混乱しそうになる。

 違うのはトシくんだけじゃない。瞳子ちゃんと同じ学校だった覚えはないし、周囲の人達も性格が少し違っていたと思う。

 

「何より、私が一番変わった」

 

 最初から前世の記憶があったわけじゃない。小さい頃の私は、間違いなく私そのものだった。

 でも今は違う。前世の私はピアノを弾くことができなかったし、男子とまともに目を合わせることもできなかった。他にも変わったところを挙げればきりがない。

 なんで私は記憶の中の自分と違っているの? そう考えて、その答えはすぐ近くにいたと思い至る。

 

「……トシくん、なの?」

 

 すやすやと穏やかな寝息が聞こえてくる。彼の寝顔をじっと見つめるだけで、胸の中が温かくなる。

 私が変わったきっかけがあるとすれば、トシくんしかいない。

 今でも覚えている。トシくんが独りぼっちだった私に話しかけてくれたこと。遊んでくれて、いっしょにいてくれたこと。

 それが始まり。私を構成するものの中に、トシくんの存在が入り込んだんだ。

 トシくんの存在があったからこそ、彼に影響されたからこそ、今の私がここにいる。

 ああ、だとすれば、絶対に手放してはいけない存在じゃない。

 

「なんで、こんな記憶があるのかはわからないけど……。全部本物と信じられたわけじゃないけれど……」

 

 私はトシくんの頬を撫でた。愛おしい彼に触れていると、安心感に包まれる。幸せが心を満たしてくれる。

 信じられなくて、自分さえ疑ってしまいそうだけれど、それでもやることだけは決まっていた。

 

「私はトシくんに変えられた。あなたのおかげで変わることができた。だから、今まで育んできた愛情は全部、トシくんに受け取ってほしい」

 

 トシくんの隣で私も横になる。彼の大きくて温かい手をぎゅっと握りながら目を閉じた。

 もう二度と後悔しない生き方をするんだ。幸せな未来のために、手放してはならない存在がいるのだと知っているから。

 

「でも、瞳子ちゃんも私と同じような夢を見ているんだよね……」

 

 やっぱり断言できない。ただの思い込みかもしれない。荒唐無稽な話を信じて、なんて無茶にもほどがある。

 

「瞳子ちゃんは、どう思うかな」

 

 それでも、瞳子ちゃんなら信じてくれる。

 たとえ私の妄想だったとしても、それを込みで寄り添って考えてくれるだろう。瞳子ちゃんは私の親友なのだと、胸を張れる存在なんだから。

 

「後悔しないように。それは私だけじゃなくて、瞳子ちゃんにもしてほしくないことだから……」

 

 まぶたが重い。抗えない心地良さに抱かれて、私は再び夢を見るのであった。

 

 




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