馬酔木の花 (あばちみゃかむ)
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1話

「補習に懲りたら真面目に授業へ出ろ、いいな?」

 

 教材を抱えた教師は呆れ交じりに言い残して去ってゆく。

 数十名の若者を収容可能な教室に残るのはただ一人のみ。この一人の為に休日を使って授業の補習を担当することになれば流石の教師も愚痴を零したくなるもの。

 尤も、補習を受けた当人は気にした素振りも見せない。腰を据えて話を聞く座学の授業は性分に合わず、普段から気分次第で平然と授業を抜け出していた。

 実技科目は抜け出すことなく参加している。身体を動かせることや、鬼道など未知の経験を積める為だ。

 放課後や休日に組まれる補習も律儀に受けている。流石に補習を受けねば留年する可能性が大きいという、不純な動機を持っていたが。

 真央霊術院は尸魂界(ソウルソサエティ)の各所から死神を目指す若者たちが集う学び舎だ。生徒の数だけ個性が溢れるとも表現できる。

 流魂街出身者も、貴族出身者も、等しく死神を目指すという目標がある。性格や生まれ育った環境などから授業に対する得手不得手こそあれ、授業を受けない、抜け出すといった不真面目な生徒は存在しない。

 ただ一人の気分屋を除いて。

 

 

 ▽

 

 

「もうお昼になっちゃうっ! お婆ちゃんきっとお昼ご飯作ってるよねっ」

 

 慌ただしく顔を洗い、私物の着物へと袖を通す。愛用の髪紐で二つに髪を結い、備え付けの鏡の前に立つ。目の下に薄く隈が浮かび上がっていたが、他に変な個所は見受けられない。

 身支度を整えた雛森桃は駆け足で寮の自室を後にする。

 澄み渡る蒼穹に太陽が爛々と照り輝き、風に紛れて寮の食堂から香ばしい匂いが漂ってきた。

 休日の寮は学業から解放された生徒たちが多い。鍛錬場に向かう途中なのか制服を身に纏った姿も散見されるが、大半は私服姿だ。

 死神を養成する真央霊術院に入学して三か月が経つ。死神を目指す級友たちと学業に打ち込む日々を送っているが、休日は流魂街の実家に帰省するのが雛森の休日の過ごし方だった。

 

「流石に夜遅くまで勉強やりすぎたかなぁ」

 

 休日明けに座学試験が控えており、根が真面目な雛森は夜遅くまで試験勉強を続けていた。結果として寝坊してしまい、慌ただしく身支度を整えてから流魂街へ向かう現在へと至る。

 普段ならば既に実家へ帰り付く頃合いだ。祖母と慕う人物はいつもと同じく昼食の準備をはじめ、弟のような幼馴染みも雛森の帰りを待っているはず。

 道行く人々は雛森の必死さが伝わったのか、自然と道を空ける。だが曲がり角から現れた人影は雛森の存在など知るはずもなく、雛森もまた僅かに反応が遅れてしまう。

 

「うわっ、とっとっと」

 

 幸い追突することはなかった。だが足を止めようとした反動で雛森は盛大に尻もちをつく。砂埃が舞い上がり、聞き慣れぬ声が続く。

 

「えぇっと、大丈夫か?」

「うわぁっ」

 

 頭上から突如かけられた声に驚き、思わず飛び上がってしまう。

 小柄な雛森より頭一つ分大きい、同い年らしき少年がいた。鍛錬場にでも向かう途中なのかその格好は制服姿であり、霊術院から貸与された斬魄刀(ざんぱくとう)浅打(あさうち)を携えていた。

 困惑と呆れが入り混じった表情を浮かべながらも、親切に雛森の着物に付着した砂埃を払い落してくれる。

 

「わるい、怪我とかしてないか?」

「あ、うん、大丈夫。あたしこそごめんなさい、気づくのが遅れちゃって」

 

 急ぎのあまり注意散漫になっていたと非を詫びる。呆れた口調で嘆息され、気を付けるよう注意を受ける。

 

「ほら、急いでたんだろ? 俺もアンタも怪我はしなかったんだし、結果良ければ何とやらだ」

「うん、ほんとにごめんなさいっ」

 

 去り際にもう一度謝罪をし、雛森は真央霊術院の出入り口に向けて駆けだした。

 

 

 ▽

 

 

「あれが学年で一番の鬼道の使い手、なぁ」

 

 意外だとばかりに呟く。

 成績上位者のみが集められた特進学級、一組の雛森桃は抜きん出た鬼道の才能を持つと有名だった。直接話したのは今が初めてだが、その姿は合同授業で遠巻きながら目にしたことがある。

 その性質上、特進学級は授業内容が一歩も二歩も進んでおり、合同授業を除いて他の学級と交流を持たない。故に特進学級に在籍する者たちは閉鎖的になりやすく、噂なども断片的にしか伝わらない。

 鬼道の天才という評判から、雛森桃は生真面目で融通の利かない人物だと勝手に思い描いていたがどうやら違うらしい。駆け抜けて行った姿は小動物を彷彿とさせた。

 

「って、財布落としてんじゃん」

 

 もう喋る機会は訪れないだろうと鍛錬場へ足を向ければ、明らかに地面とは違う硬質の感触。視線を下ろせば可愛らしい桃色の財布が落ちている。

 十中八九、雛森の持ち物だろう。先ほど尻もちをついた時に落としたらしい。

 財布を片手に真央霊術院の出入り口まで駆け抜ける。だが雛森の姿は見当たらず、何処へ向かったのかも当然ながら知る由もない。

 流魂街で暮らしていた頃ならば運が良いと財布の中身を抜き取っていた。しかし、僅かな間とはいえ言葉を交わした相手が持ち主だと分かっているし、女の子の財布から中身を抜き取る趣味は持ち合わせていない。

 休日明けに返せばいいだろうと結論付け、踵を返す。

 

「人は見かけによらないって言うけど、鬼道の天才があんな風に抜けてるところあるなんて思えないよな」

 

 斬魄刀を片手に、誰が聞いてる訳でもないのに呟く。

 一陣の風が吹き、まるで同意するように心地良く肌を撫でつけた。

 

 

 ▽

 

 

 連絡事項を伝え終えた担任の教師が去ってゆき、放課後が訪れた。教室の至る所から試験の出来やこの後の予定を話し合う声が聞こえてくる。

 

「うぅ、夜遅くまで勉強するのやめよ……」

 

 机の上に突っ伏した雛森は弱々しく呟く。目の下には黒い隈ができており、疲労が色濃くにじみ出ていた。

 試験の手ごたえは確かに感じていた。流魂街の実家から寮の自室に帰ってからも、夜遅くまで試験勉強を続けたのだ。おかげで寝不足、頭は鈍い痛みを発し、全身を倦怠感が覆っている。

 

「財布も見つからないし、散々だなぁ」

 

 休日、実家に辿り着いてから手元に財布がないことを気付いた。寮の自室に忘れたかもしれない淡い期待は非常にも打ち崩され、貴重なお小遣い、そしてお気に入りの財布はもう二度と手元に戻って来ることはないはず。

 実家まで駆け足で向かっていたから道中で落としてしまったのだと容易に察せられた。

 寝不足と財布の紛失、二重の意味で消沈している雛森へ声がかけられる。

 

「よう雛森、どうした? お前にしては珍しく試験の結果に自信ないのか?」

 

 同じ特進学級でも仲の良い男子、赤色の奇抜な髪型が特徴的な阿散井恋次だった。

 

「俺は吉良のおかげで赤点は免れたと思いたいが、もし追試を受けることになったらその時は一緒に頑張ろうぜ」

 

 恋次の声を聞いていた何人かは雛森へ同情的な視線を送り、或いは内心で呟いていただろう。雛森をお前と同列に扱うな、と。

 斬術など身体を動かす実技に関しては優秀な恋次だが、頭を使うことが苦手なため座学や鬼道の成績は散々な結果を叩き出している。対する雛森は鬼道は言わずもがな、その他の実技や座学も優秀な成績を収めている優等生だった。

 

「阿散井くん、ちょっと静かにして……あたし遅くまで勉強して寝不足なの」

 

 顔を上げる気力すら残っておらず、半ば濁ったような声音で告げれば恋次は軽く頷いた。

 

「お、おう。そいつは悪かった、ちゃんと寝ろよ?」

 

 恋次の気配が遠のいてゆく。

 鉛のように重い身体を動かす気力は沸かない。暫く教室で休んでから寮の自室へ戻ろうと決める。

 やがて教室から声や気配が消えてゆき、遂には雛森一人が残される。少しだけ顔を持ち上げれば、窓の向こう側から茜色の夕陽が差し込んでいた。

 このまま教室に留まれば夜を迎えてしまう、鈍い頭でそれだけ考えると老婆のように弱々しく身を起こす。

 殆どの生徒が校舎を後にしたのだろう、廊下は静寂に包まれていた。

 寮へと続く道のりが果てしなく感じ、階段が地平線の向こう側へ消える錯覚に襲われる。

 試験を控えた休日は流魂街の実家に帰省するのはやめて、大人しく試験勉強に費やそう。そうすれば今日みたいに寝不足になることもないはず。

 身体を揺らしながらも階段へ辿り着き、一歩を踏み出したその瞬間。限界が訪れた雛森の身体から力が抜ける。

 

「ぁ……」

 

 地に足のついた感覚が消失する。身体が虚空へと投げ出され、全身を束の間の浮遊感が包み込む。

 視界一杯に広がる階段の踊り場はしかし、柔らかな白へと移り変わった。

 背中へと回される温もりと、耳朶を叩く鼓動。

 

「あっぶね、また急いでたから前方不注意なのか?」

 

 焦りと皮肉を込めた聞き覚えのある声が降りかかる。どこで聞いた声だろうか。特進学級の級友ではないはず。

 

「ほれ、歩けるか? あぁ、無理そうだな、うん」

 

 漸く思い出す。流魂街の実家へ帰省する途中に少しだけ会話をした人物であることに。

 遅まきながら気づく。名も知らぬ異性によって抱きかかえられていることに。

 仄かに頬が熱くなる。それを熱があると勘違いしたのか、小柄な雛森を軽々と抱きかかえた件の人物は短く一言。

 

「救護室に連れてくから」

 

 僅かに触れ合う肌の温もりが思いのほか心地よく、意識が朦朧するのも相まって身体を任せ続ける。

 

「二組の朝霧っす、具合悪い子がいたんで連れてきました」

 

 意識を手放す寸前に聞こえたのは、恩人の名前だった。

 

 

 ▽

 

 

 翌日の放課後、雛森は羞恥心に苛まれながら悶々としていた。昨日、階段から倒れそうになったところを助けてくれた人物が原因だった。

 

「二組の朝霧くん」

 

 辛うじて記憶に残った名前を口に出す。途端に思い出す肌の温もりや鼓動の響き。その全てがはじめての経験で、雛森の脳裏に強く焼き付いていた。

 救護室で目を覚ませば、片手に馴染み深いある物が握ってあった。紛失したと思い込んでいた愛用の財布で、恐らくは朝霧が拾ってくれていたのだろう。財布の中身も記憶と変わらなかった。

 当の朝霧は救護室の教師曰く、雛森を運んでからすぐにその場を後にしたらしい。

 疲労が溜まっていた、休日はちゃんと休むようにと救護室の教師から有り難い小言を貰って昨日は寮の自室へと帰った。

 

「ちゃんとお礼を言うべきだよね」

 

 恩人を探すべく二組の教室へと向かったが、少し後悔していた。特進学級の人間が珍しいのか、幾人もの生徒から視線が集中している。恋次や吉良などの友人がいればその身長に隠れることも可能であるが、生憎今は一人。

 更にもう一つ。流魂街出身の雛森にとって友人と呼べる間柄は特進学級の級友たちに限られていた。合同授業でしか他の学級とは交流を持たず、そして雛森自身は特進学級の友人と行動を共にしているため、当然ながら二組に友人などいない。

 

「あっ、ルキアさんがいた」

 

 友人ではないが、恋次の幼馴染みであるルキアとは顔見知りだった。会釈をする程度の仲だが、他人よりは距離が近い。朝霧という少年と取り次ぐよう頼むのも、幾分か気が楽だった。

 件の人物はちょうど、二組の教室から姿を現した。

 

「むっ、雛森さん、だったか。何か私に用か?」

「えっと、用っていうか。あの、二組の朝霧くんって今いるかな?」

「あ、朝霧か?」

「もしかして、朝霧くんっていない?」

 

 思い返せば二組とだけ口にしていた。同い年だと思い込んでいたがそうとは限らないのだ。上級生の教室も窺う必要があるのかと考えるが、幸いにもルキアによってそれは否定された。

 

「確かに朝霧は二組にいる。ただ、な」

 

 言葉を選ぶように逡巡し、呆れたように続ける。

 

今日も(・・・)教室に顔を見せていない」

「今日も? 朝霧くんって普段から授業を受けていないの?」

「気分屋と言うべきか、座学の授業は抜け出すことが多い」

 

 授業を抜け出すなど根が真面目な雛森からすれば考えられない。だが同じ二組のルキアがそうだと断言しているのだから、事実なのだろう。

 

「あぁ、別に人格破綻者だとか恋次のようにどうしようもない馬鹿というわけではないぞ? 気分屋で掴み所のない男ではあるが」

 

 その朝霧にどのような用件があるのかと問われ、些細な縁があって礼を告げたいと返す。

 

「もし朝霧くんが教室に顔を見せたら伝えて欲しいことがあるんだけど、いいかな?」

 

 

 ▽

 

 

 教材を包んだ風呂敷を左手に下げ、浅打を携えた右手で器用に欠伸を噛む口元を覆い隠す。

 夜遅くまで勉強を、或いは実技の自主練習を行って疲労が溜まっているわけではない。単純に早起きの習慣が身に染みていないのだ。普段のこの時間は寮の自室で横になるか、目を覚ました頃合いだ。

 朝礼が始まる前に校舎へ足を運ぶのは一週間ぶりだった。前回は確か、実技科目が朝礼の後に控えていたから登校したはず。

 窓の外から風と共に運ばれた小鳥の囀りによって目が覚めた。見遣れば木の枝で羽休めをしており、小鳥を見習って座学の授業で腰を落ち着けてみようかと思い立つ。

 現実は非常に厳しい。身なりを整えて校舎へ足を運んでいるが、幸福な夢の世界へ誘う睡魔の幻聴が響く。

 欠伸を噛み殺しながら二組の教室へ辿り着いても尚、睡魔は纏わりついて離れなかった。

 

「おはようさん」

 

 扉を開け、手近な席に腰を下ろした級友へ挨拶すれば、口を大きく開けて呆けたような表情を浮かべる。まるで死者が目の前にいるとばかりの反応だった。

 二組の教室は通夜を彷彿とさせる静寂に包まれた。だがそれも一瞬。

 

「あ、あ、あ、朝霧が朝からいるぞっ!?」

「おい、最初の授業って何の実技だ? え、座学?」

「今日は風が強いと思ったが嵐が来るのか……」

「ってか雛森さんと一体どんな関係なんだ」

 

 驚愕や疑念の入り混じった声、更には天災の前触れだと散々な扱いである。

 周囲の反応など気にせず殆ど人の座らない、つまりは自然と定位置と化した場所へ腰かければ人の近づく気配を感じる。振り向けば猫のような瞳が特徴的な女子生徒、ルキアがいた。

 

「朝霧、少しいいか?」

 

 何度か話したことはあるが、逆に言えばその程度の間柄。良くも悪くも同じ二組の級友でしかないルキアから話しかけてくるのは珍しい。

 

「ん、どうしたよ?」

「伝言を頼まれていてな」

「もしかしてまた補習か? 勘弁してくれ、一昨日も補習を受けたばかりなんだけど」

「ならば真面目に授業を受ければよいだろう。っと、そうではない。実はな」

 

 

 ▽

 

 

 珍しく朝礼から顔を見せたことに教師からも驚愕された一日が終わる。

 待ち望んだ放課後を嬉しそうに堪能する生徒たちが溢れる廊下を、目的の教室へ向かって進んでゆく。

 距離が近づくほど雰囲気が硬質なものに変わってゆき、不躾な視線を向けられる。

 飄々とした態度で気にすることなく歩を進めれば程なく特進学級の、一組の教室へ辿り着いた。

 

『お礼が言いたいから一組の教室で待ってる、確かに私は伝えたぞ』

 

 伝言を残した雛森の気持ちを無下にする薄情者ではない。気分屋ではあるけれど。

 幸いと言うべきか、放課後に補習は組まれていなかったため、こうして一組の教室へ赴いた。

 訪れた一組の教室からは部外者に対してあからさまな視線が向けられる。

 

「なぁ、雛森いるか?」

 

 教室の入り口付近にいた女子生徒へ声をかける。まるで声を掛けられること自体が心外だとばかりに目を見開いた女子生徒は、次いで胡乱な表情を浮かべた。

 首を傾げ、今度は傍らを通り過ぎようとした男子生徒へ声をかけるが鼻を鳴らすだけで相手にされない。

 成績上位者はその過半数が貴族出身者で占められる。流魂街出者と異なり、親族に死神がいる者も多く、恵まれた教育環境が与えられた貴族出身者の比率が成績上位者に多いのは必然的と言えた。

 学び舎での立場は対等だ。しかし、流魂街出身者と貴族出身者では環境の違いから微妙な空気が流れるのはよくあること。一組の人間は特に閉鎖的なのか、劣等生は鬼道の天才と取り次いでもらえないようだ。

 嘆息し、また日を改めて出直そうと踵を返す。

 

「もしかして朝霧くんだよね?」

 

 鈴の音を転がしたような可憐な声だった。背後を振り向けば、小動物を彷彿とさせる小柄な少女が駆け寄ってくる。

 尻もちをついて財布を落とし、寝ながら階段を下りようとする鬼道の天才、雛森だった。

 顰めき合う声が漏れ聞こえる。雛森との関係を憶測する類のものだろう。

 

「あのね、ちゃんとお礼を言っておこうと思って」

「あぁ、うん、とりあえず場所を変えないか?」

 

 周囲を窺うように目だけを動かす。数瞬遅れて、一組の人間から好奇の的になっている事実を雛森も気づいたようだ。

 殆ど利用されることのない階段へと場所を移し、改めて向き合う。

 

「ここなら大丈夫だろ。それで、お礼って?」

「あたしを助けてくれたこと、あともう一つ」

 

 そう言って雛森は桃色の可愛らしい財布を取り出す。休日に拾い、救護室に運んだ際に掌へ握らせた物だった。

 

「財布を拾ってくれたのも朝霧くんだよね? だから、ちゃんとお礼を言いたいって思ったの」

 

 幼さの残る風貌で屈託なく、嬉しそうに、満足そうに口元を綻ばせる雛森。

 艶やかに花が咲いたような笑顔に、思わず見惚れてしまう。胸中で暖かな感情が風となって吹きはじめたが、己を落ち着かせるよう短く返す。

 

「ん、そんなの普通だろ」

「そうかもしれないけど、朝霧くんがいなかったら階段から倒れてたし、お小遣いも戻って来なかったはずなの。だから本当にありがとうっ」

 

 腕を振り、飛び跳ねるようにしながら頭を下げる雛森。

 元々、拾った財布を返そうと雛森の下へ向かうつもりではあった。しかし自業自得ながら補習に拘束され、解放されたのは放課後も遅い時間。ダメ元で一組へ向かう途中、疲労のあまり雛森が階段から倒れ込んだところへ偶然居合わせただけ。

 幸運に味方された形だが、こうして雛森が感謝を示すならば黙って受け取っておこう。

 

「でもちゃんと授業には出なきゃダメだよ? 死神になるために霊術院に入ったんでしょ? 卒業できなかったら元も子もないよっ」

「けど俺、腰を落ち着かせるの趣味じゃないんだよなぁ」

「それでもちゃんと授業を受けなきゃダメですっ!」

「……もしかして説教されてんの、俺」

 

 己を指差して聞き返せば当然だとばかりに慎ましい胸を張る雛森。先ほどまで礼を言われてたはずなのにと首を傾げれば、その様子が面白かったのか雛森は口元を抑えつつ肩を震わせる。

 

「笑うなよ、雛森こそ階段で寝ようとしただろ」

「あ、あれは遅くまで勉強して寝不足だったから」

 

 途端に縮こまり、目を逸らしながらも反論される。言葉と裏腹に申し訳なさを感じさせる雛森の態度に、小動物が叱られている様子を重ねてしまい噴き出す。

 

「だったらお互い様ってことでいいだろ。ま、なんにせよ礼は有り難く貰っとく。それじゃあな」

「あ、ちょっと待って」

 

 背中を向け、けれど顔だけは振り返って続きを促す。

 

「朝霧くん、よかったら名前を教えてくれてもいいかな?」

 

 鬼道の天才という肩書を持ち、尻もちをついて財布を落とし、寝不足のあまり階段で寝ようとする。

 

「ゆうき、朝霧祐輝(ゆうき)

 

 小動物のように可憐で表情が変わりやすい少女、雛森桃との出会いだった。

 



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2話

 裂帛の気合いと共に振り下ろされた一閃は僅かに重心を傾けることで躱す。傍らをすり抜けた相手の斬撃は虚空を薙ぐに留まり、大きく隙を見せる形となった。

 足払いをかけて態勢を崩した相手の首元へ木刀を当てる。同時に判定役を務める教師の声が響く。

 

「一本! 朝霧の勝ちっ!」

 

 負けたというのに相手は清々しい笑みを浮かべ、祐輝の肩を叩く。次いで現れたのは体格に恵まれた、頭一つ分大きい少年。

 瞳に闘志を滾らせ、獰猛な笑みを浮かべながら言葉を紡ぐ。

 

「流石に連戦となれば消耗してるはず、お前の連勝記録は俺が止めてやる。そしてっ、雛森さんを振り向かせてみせるっ!」

 

 木刀の切っ先を祐輝に向けて吠えるように宣言すれば、周囲で観戦する級友たちが野次馬紛いの声援を送る。

 どうしてこうなったのか、頭を抱えたくなる程度には悩みの種と化している。

 元々、授業内容としては一対一の試合形式だった。勝者はその場に残り、新たな対戦者と試合をするというもの。

 連勝を続けていると、何を血迷ったのか祐輝に勝てば一組の雛森桃と親密になれると勘違いした野郎共が続出した。

 学年で一番の鬼道の使い手、小柄で可憐な容姿、これらの要素が相俟って男子の間で雛森の人気は非常に高い。だが特進学級に在籍するため、一般的な男子の間では高嶺の存在でもあった。

 些細なきっかけで祐輝は雛森と交流を持ち、廊下ですれ違えば挨拶や立ち話をする程度の仲だ。しかし朝霧祐輝と言えば気分次第で授業を抜け出しては補習が組まれる不真面目な生徒として、二組など通常学級では比較的有名だった。

 不真面目な祐輝と真面目な雛森の交流は傍から見れば不思議に思われても仕方がない。

 

「それでは、始めっ!」

 

 教師の号令と同時に対戦相手は距離を詰めて来る。上段からの振り下ろしを木刀で受け止めるが、体格差も相俟って徐々に押されてゆく。

 一瞬だけ力を抜き、身体を後ろへと引く。相手の木刀を受け流し、擦れ違いざまに一閃。手応えは浅く、教師の判定も出ていない。裾を薙いだに留まったか、相手が瞬時に身を捻って躱したか。

 位置を入れ替え、地を蹴り祐輝が仕掛ける。木刀を右下段に下ろした状態、視線を相手の腰から肩へと動かすように見せる。

 右下段からの斬り上げ、祐輝の行動を推測した相手は体格を活かした強引な振り下ろしで対応する。口元に弧を描き、勝利を確信した笑みが零れ。

 

「一本、そこまでっ!」

 

 鈍い音と同時に呻き声が漏れ、対戦相手が崩れ落ちる。

 静寂が場を包んだのも一瞬、何が起きたのか隣の者と囁き合う声が至る所から上がる。傍から見れば、振り下ろされた木刀は祐輝をすり抜けていた。にもかかわらず次の瞬間には相手が崩れ落ち、木刀を取り落としていたのだ。

 周囲の様子を気にせず、対戦相手へ腕を伸ばして身体を引き起こす。

 

「わるい、ちょっと力を込め過ぎた、大丈夫か?」

「あ、あぁ」

 

 手首を抑えながらも相手は純粋な疑問をぶつける。

 

「お前の身体、ちゃんとそこにあるよな?」

「こうしてお前を引っ張り上げてるだろうが」

 

 頭でもぶつけたのかと胡乱気に言えば、納得できないのか首を傾げている。

 

「最短で最小の動作をしただけさ」

 

 振り下ろされた瞬間に、迎撃するのではなく持ち手を弾くことで木刀を取り落とす。種を明かせばそれだけで、特別なことをしたわけではない。

 

「参ったよ、くそ。流石、実技だけは真面目に受けてるだけはある」

 

 座学を抜け出す祐輝への皮肉を込めながら退場してゆく。次の相手は一転して小柄な背丈に猫を彷彿とさせる瞳が特徴的な女子、ルキアだった。

 

「おい祐輝、流石に女子に負けたら雛森さんに嫌われるぞー」

「けど女は優しくするんだぞ」

 

 野次馬の間から下品な笑い声が巻き起こり、鬱陶しさを露に眉を顰める。

 

「気にするなよ、俺は手を抜かないしお前も本気でやる、それだけだろ?」

 

 唇を噛み締めていたルキアの心中は決して穏やかでないはずだ。言葉遣いはともかく、野次馬の口にした内容は女子であるルキアを格下として見ている証だった。

 

「元よりそのつもりだ」

 

 正対し、教師の号令がかかるのを待つ。

 

「それでは、始めェっ!」

 

 

 ▽

 

 

 木陰の隙間から暖かな光が差し込む。

 腰掛けるには充分な太さを備えた枝の上で、行儀悪く胡坐をかいた祐輝は木漏れ日を堪能しながら穏やかな午後を過ごしていた。

 小鳥の囀り、蟲の鼓動、風に吹かれる木葉の囁き、聴覚が拾ったものが脳裏に描かれてゆく。視覚で直接認識したものではない。風の筋道に導かれ、音が祐輝に存在を教えてくれる。

 新たに混じる、草を踏みしめる規則正しい複数の音。それは人の気配だった。

 

「あぁっ、朝霧くんそんなところで何してるの?」

 

 腰掛ける枝の下から馴染みのある声が届く。

 背中に浅打を背負った雛森が腰に両手を当てながら祐輝を見上げていた。雛森の傍らにはルキアの幼馴染みという阿散井恋次ともう一人、長身の優男の姿もあった。どうやら特進学級は校舎外で授業があるらしい。

 

「何って、刃禅」

 

 ほら、と祐輝は片手で己の斬魄刀を掲げて見せる。事実だと主張するように、浅打が風に揺さぶられた。

 死神は誰もが真央霊術院で無銘の浅打を渡され、寝食を共にし練磨を重ねることで唯一無二の斬魄刀を創り上げていく。そうして所有者自身の魂を写し取った斬魄刀の存在を認識し、その名を知ることで秘められた斬魄刀の能力が解放される。

 尤も真央霊術院在学中に己の斬魄刀を創り上げ解放した者は数十年に一人の割合でしか現れていない。

 

「そういう問題じゃなくて、今は授業中でしょ?」

「昼寝をしたくて抜け出した」

 

 午前に行われた試合形式の授業でかなりの体力を消耗した。故に午後の座学を抜け出し、こうして木の上で優雅に過ごしていたのである。

 無論、雛森にそのような言い訳など通じるはずもない。

 

「ちゃんと授業に出なきゃ、留年しちゃうんだよっ」

「補習は受けてるから大丈夫なはず、多分」

 

 そもそも今は授業中なのだろうと自分を棚に上げて問いかければ、雛森は小言を幾つか残して二人の男子生徒と去ってゆく。

 根が真面目な雛森は、顔を合わせる度に授業を抜け出していないか訪ねて来る。シラを切っても嘘だと見抜かれるのだから、女の勘は鋭いと妙な所で感心するほどだった。

 

「取り敢えず明日は授業に出るから今日は勘弁してくれ」

 

 姿が見えなくなってから独り呟く。自業自得ではあるけれど、何度も注意を受ければ罪悪感の一つ二つ沸いてくるのだ。

 

「雛森って真面目だよなぁ。お前もそう思うだろ?」

 

 鞘から抜いた浅打の刀身に移る影。それは祐輝を写し取った正真正銘の半身だった。

 

 

 ▽

 

 

「雛森さん、朝霧って人には関わらない方がいいわよ」

「えっ、どうして?」

 

 授業の合間に設けられた休憩時間、親切心に駆られた数名の級友たちが雛森を取り囲んでいた。

 鬼道の天才の肩書を持つ雛森は学年中の男子にとって様々な意味で憧れの存在だ。故に、同じ特進学級の阿散井恋次や吉良イヅルならば兎も角、一介の生徒でしかない朝霧との交流は避けるべきだと。

 

「朝霧って流魂街でも治安の悪い地区の名前よ、座学に出ないのもまともに勉強してないから読み書きが苦手って噂があるし」

「昨日も斬術の授業で同じ組の奴らを痛い目に遭わせたらしい。死神になりたいんじゃなくて、人を傷付けたいだけの奴なんだよ」

 

 噂には尾ひれがつくものだ。直接関係がなければ尚更その傾向が強まる。相手の頭に内容を刻み込むべく、無意識のうちに誇大して伝えてしまうのだ。

 親切な級友たちにとって朝霧祐輝という男は、雛森を誑かす悪鬼羅刹に等しい存在なのだろう。彼ら彼女らにとってはそれこそが真実として映っている。

 

「朝霧くんはそんな人じゃないよっ」

 

 数少ない例外、それは祐輝という人物を多少なりとも目にしたことがある者たちだ。

 雛森にとって祐輝は級友たちの口にする噂通りの人物ではない。確かに気分屋で授業を抜け出しては補習を組まれる不真面目な側面もある。しかし一つだけ断言できるのは、人を傷つけるのを好む性格ならば決して自分を助けはしなかっただろう。

 

「治安の悪い地区出身で、座学が苦手、斬術は得意、俺にも当てはまるな」

 

 会話へ割り込んだ男の声は、僅かながら怒りが込められていた。

 

「あ、ゴメンよ阿散井、お前のことを言ってるわけじゃ」

 

 祐輝と同列に扱われて不機嫌なのだろう、そう思い込んだ男子は言葉を続けることが出来なかった。恋次の眼光に全身が硬直し、逃げるようにその場を後にした。

 飛び火してはたまらないと、一人、また一人と蜘蛛の子を散らすように離れていく。恋次はその様子を眺めてから、重いため息をついた。

 

「噂ってのはあんまり気にしない方がいい。朝霧がどんな奴かは、実際に話したことがあるおめえが分かってるだろう」

 

 霊術院に入学して日も浅い頃、特進学級の恋次がルキアを訊ねに二組へ赴くだけで一時期話題になったことがある。その時を思い出してか、噂だけで語る輩に恋次は複雑な気分を抱いていた。

 

「うん、そうだね。ありがと阿散井くん」

「なぁに、吉良の奴も心配してたからよ。ま、友だち付き合いは当人たちの自由って俺は考えてるしな」

 

 柄にもないことを言ったと、恋次は照れくさそうに離れてゆく。

 授業が始まり、壇上に立つ教師が板書をしていくが雛森は上の空だった。

 尾ひれのついた噂通りの人物ではないと否定したが、思い返せば祐輝のことはあまり知らない。

 昨日も昼寝をしたいからと午後の授業を抜け出して木の上で休んでいた。廊下で会うたびに座学の授業へ出るよう注意すれば、飄々とした態度で誤魔化す。それは祐輝を構成する側面であるが、祐輝の全てではない。

 好きな食べ物から趣味、果ては死神を目指す理由まで、雛森は何も知らない。会話らしい会話は挨拶と、決まって祐輝に対する注意ばかり。

 

(朝霧くん、気分屋さんだけど優しい人)

 

 記憶に蘇るのは暖かな肌の温もりと、耳朶を叩く鼓動の音。全て初めての経験だからこそ脳裏に強く刻み込まれ、今でも鮮明に思い出してしまう。

 知らないならば、これから知っていこう。祐輝という人物への好奇心が胸の内に燻っていた。

 

「あ~、来週には現世で実習もあることだし一旦ここで復習といこう。まず現世には――」

 

 

 ▽

 

 

 翌日、放課後が訪れると雛森は二組の教室へ向かった。目的はもちろん気分屋の問題児だ。過去に伺ったときは教室に顔を出していなかったが、果たして今回はいるだろうか。

 

「どうしたんだ雛森?」

 

 件の人物は脇に教材を抱え、片手で浅打を携えた格好で教室から姿を見せた。縁があるのか顔を合わせる機会は比較的多かったが、雛森がこうして訊ねて来るのは記憶している限り初めてだった。

 それは雛森も同様で、つい二組へ訪れてしまったがよくよく考えてみれば異性と二人っきりになるのは殆ど経験がない。

 正直に祐輝のことをもっと知りたいと言うべきか、否か。何かしらの用件をでっちあげるべきか。

 碌な言い訳を考えて来なかった自分を恨めしく思っていると、助け船は相手から出された。

 

「この後は補習もないし、散歩でもしようと考えてたんだけど付き合うか?」

 

 迷わず首を縦に振った。緊張で頬が熱くならないよう、普段通りの笑顔を浮かべてみる。

 

「今日はちゃんと授業に参加したんだ?」

「机に突っ伏して寝るのも案外悪くないって気づいたんだよ。昼寝は木の上でもいいけど、風が強いと困るときがあるからさ」

「もう、真面目に授業も受けようよ。少しでも見直そうとしたのに」

「最近は早起きばかりして、昼間はとても眠いんだ」

 

 昼寝は当然だろうと嘯く祐輝は普段と変わらず飄々とした態度で、雲のように掴み所がない。

 

「それじゃあ死神になれないよ。朝霧くん、死神を目指したから霊術院に入ったんでしょ?」

 

 掴めずとも、雲の中には入ってゆけるはず。まずは軽く疑問に思ったことから訊ねてみた。

 死神という目標は共通でも、目指す理由は人それぞれ何かしら抱いているはず。

 

「そういう雛森も死神になるんだろ」

「もう、質問に質問で返さないのっ」

 

 理由が知りたいと祐輝の顔を見上げれば、隠すことでもないと言葉を紡ぎ始める。

 

「大した理由じゃねぇよ。子どもの頃に死神に憧れて、それで霊術院に入った」

 

 流魂街よりも贅沢な暮らしや成り上がって栄光を求めるのではない。純粋に憧れが高じて死神を目指すよう決心した。

 

「だから、死神になるきっかけをくれた人にいつか言うんだ。俺、死神になりましたよって」

 

 遠い過去を見詰める眼差し。死神を目指すきっかけの出来事を思い返しているのだろうか。その割には懐かしさなどではなくもっと複雑な、寂寥に彩られた微笑みと形容すべき表情が浮かんでいた。

 何でもないように嘯く口調だったが、仄かに影が差している。普段の飄々とした態度から一変した、雛森が初めて見る祐輝の姿だった。

 沈んだ空気の流れを払拭したいからか、戯けた口調で言葉が続く。

 

「まっ、補習は真面目に受けてるし斬術は授業で十人切りしたから、成績は大丈夫だって」

「真面目に受けるのは授業にしようよ」

「斬魄刀の声を聞こうと四六時中真面目に努力している」

 

 だから実技科目がなくとも浅打を携帯するのかと納得する。

 

「休日は何をして過ごしてるの?」

「補習が組まれてなかったら気分次第。昼寝か素振り、あとは甘味処に行くかな」

「えっ、意外。朝霧くん甘い物が好きなんだ」

 

 会話が弾んでゆく。祐輝が口にした甘味処の名前は雛森も知ってる有名な場所から知る人ぞ知る隠れた名店まで及び、話題づくりではなく心の底から甘味を求め歩いたのだと想像がつく。

 かと思えば、やはり気分次第で店を選び、場合によっては入り口の目の前で気が変わって別の店へ向かう時もあるという。実に祐輝らしい一面も聞かされた。

 祖母と慕う人物と、弟のような幼馴染みがいると伝えれば神妙な顔で頷かれた。雛森が事あるごとに小言を口にするのは姉だからなのからと、口元を歪ませて。

 不満気に頬を膨らませてみせれば、何が面白いのか爆笑される。ますます拗ねてみせるが、内心で言い表せない感情が蠢いている。

 

(朝霧くんのこと、まだよく分からないけど)

 

 悪人でないのは確かだ。 

 

 

 ▽

 

 

 銀月は、不吉の前兆を示すように輝いていた。

 荒い息を吐きながらせめてもの抵抗を続ける。

 月明かりに照らされて夜闇に浮かび上がる異形の影は嘲笑うように大腕を振るった。空気が振動し、人の背丈を超える長さの爪が襲い掛かる。

 胸元に穿たれた空洞は心の喪失を意味する。骸骨の仮面は異形へ堕ちた本能を隠すためのもの。巨大虚(ヒュージホロウ)は己の心の飢餓を癒すべく、魂魄を必要としていた。

 

「くそっ、檜佐木たちに連絡を――」

 

 最後の足掻きとばかりに手を動かすが、虚しくも胴を半分へと引き裂かれる。

 血の塊が辺り一面に広がっていた。絶望や恐怖、困惑が入り混じった様々な骸が転がっている。霊術院の白い制服は鮮血で彩られていた。

 

 

 ▽ 

 

 

 現世で実習中だった特進学級は巨大虚に襲撃され、引率の六回生も含め多数の死傷者が発生した。

 



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3話

 雷雨によって泥濘と化した道を必死に駆け抜ける。身体の至る所が泥まみれになり、雨に打たれ続けることで熱と気力は既に限界を迎えていた。

 それでも足を止めはしない。生存本能に突き動かされ、繋いだ手の存在を強く握りしめる。

 水だけで生きていける者達とは違い、食べ物を必要とする霊力を備えた身体は特別だった。しかし所詮は無力な幼子であり、捕食者にとっては美味を期待できる獲物でしかない。

 泥の中に潜んだ石に気づかず盛大に転んでしまう。顔を拭う暇も惜しいとばかりに離した手を引き掴んで身体を起こす。

 脚を止めれば、喰われてしまう。生き抜くために走り続けねばならない。

 悲しくもそれは終焉を迎えつつあった。健気に逃げ続ける獲物を追い立てた狩人は数歩の距離がある所へ降り立つ。

 振り返れば恐怖に竦み脚が固まる。それを理解していたからこそ前を向き続け、僅かな間でも二人で生き延びようと足掻く。否、足掻こうとした。

 掴んだ手の先が離れてゆく感触。震えながら紡がれた感謝の言葉。

 振り返るな、前を向き続けろ。生存本能の欲求に心で押し込めて瞳に映ったものは、供物を捧げ許しを請うように虚へと向かってゆく小さな背中。

 引き戻そうと伸ばした手は届かない。雷鳴が轟き、虚もろとも眩い光に覆われた。

 

 

 ▽

 

 

 掌に伝わる違和感。目を覚ませば、柄と鞘を両手で保持された浅打の姿。寝る前は確かに立て掛けてあった筈のそれを、無意識に抱き枕として利用したことに苦笑する。

 上体を起こし、軽く肩を回す。窓の外は陽と陰の境界を示し、徐々に闇が白んでいく空が垣間見えた。

 二度寝をするには充分な時間が残されているが、夢の続きを見るかもしれない恐怖を感じ、逃げるように寝間着から制服へと着替えて身支度を整える。教材を包んだ風呂敷はそのままに、浅打を片手に寮の裏庭へ向かう。

 夢ですら、逃げ続ける。虚構を恐れ、斬魄刀という力を求める。

 瞳を閉じれば視界は闇に包まれる。風の齎す道筋だけに気を配る。木の上に作られた巣で眠りにつく鳥や、地面を這い出る蟻などの小さな虫、日の出と共に増えてゆく草木の鼓動。それら命の息吹が鈴の音として存在を示し、風によって伝えられる。

 風が揺らいだ。澄んだ鈴の音色と共に背後で脈動する一つの命。

 振り向けば夢と同じく手の届かない箇所へ消えてしまう。心の奥底に根を張る恐怖に縛られた身体は動けない。背後の命はやがて風に乗り、何処かへ去ってゆく。この手で掴むことのできない場所へと。

 

「いつになったら教えてくれるんだ、お前の名前」

 

 祐輝の問いは虚空に響くのみだった。

 教材を取りに自室へ向かい、寮の食堂で朝食を済ませて校舎へ向かう。

 ふと、斬魄刀を携えた姿が妙に目につく。真央霊術院には六の学年が存在し、相応の生徒が在籍している。しかし、祐輝のように普段から斬魄刀を携行する者は少数派だった。

 何処かしらの学級で実戦形式の合同授業でも行われるのだろうと結論付け、二組の教室へ足を運んだ。途端に聞こえてくる、日常と化した級友の喜劇。

 

「全く、恋次の癖にいつも一組ばかり贔屓される。ええい、そんなに恋次が偉いのか、恋次の癖に、恋次の癖にっ!」

「へっ、その俺に成績で負けたからお前は二組なんだろうが、悔しかったら見返してみやがれ」

「ふん、伸びきった天狗の鼻をすぐに叩いてやるわっ!」

「すぐっていつだよ、お前はそう言って昔から胸も変わって――ふぐぉっう!?」

 

 何やらよからぬことを口走った途端、電光石火の早さで掌拳がのめり込み不甲斐無い声を上げて頽れる赤髪の長身。友人の優男が苦笑しながら手を差し伸べ、惨状を作り出した張本人は満足気に鼻を鳴らしている。

 幼馴染みである二人の喜劇は日常であるため何事もなく傍らを通り過ぎてゆこうとし、気づくのが遅れた。優男の長身に隠れていた小柄な存在を。

 

「おはよう朝霧くん、今日は朝から授業に参加するんだね」

 

 黒髪を二つに結った雛森が感心とばかりに手を振って来る。その可憐な姿に似つかわしくない、背中に背負った斬魄刀。

 見遣れば未だ腹を抑えている阿散井恋次や、友人の優男も斬魄刀を携えていた。

 

「あぁおはようさん。浅打を片手にした奴が多いと思ってたけど、特進の連中だったか」

「その通りだぞ朝霧。なんでも現世で実習らしい。全くいつも恋次ばかりが私より偉そうに先に行くのだから腹正しい、恋次の癖に、恋次の癖にっ」

 

 死神の役目は尸魂界の守護だけではない。現世で彷徨う魂魄を尸魂界へ送ることや、時には現世に出没する虚の退治も含まれる。

 故に死神を養成する真央霊術院で現世での実習が行われることはなんら不思議ではなかった。

 成績上位者の集められた一組は授業内容が二組より一歩も二歩も進んでいると聞く。現世での実習が行われるのも、将来の護廷十三隊を担う若者たちへの期待を示した優遇措置なのだろうと推測する。

 二組は未だ、現世と尸魂界の関係について座学で受ける段階だった。

 

「現世の街並はお伽噺みたいって聞くから、今から楽しみなの」

「遊びに行くんじゃないだろうに」

「もちろん真面目に取り組むけど、楽しみにしたっていいじゃない」

 

 屈託なく微笑む雛森の姿は、手の先から零れ落ちた小さな存在と面影が重なる。朝に見た夢の内容を想起し、無意識に言葉が紡がれる。

 

「それでも、だ。ちゃんと霊術院に戻ってくるまでが実習だからな?」

 

 遠ざかってゆく雛森たち三人の姿を見送る。傍らでは未だに特進学級が優遇されることに腹を立てたルキアが不機嫌そうにしていたが、瞳だけ真摯な色であると気がついた。

 言葉と裏腹に、阿散井恋次のことが心配らしい。素直になれば良いのだが、と無責任な感想を祐輝は抱く。

 

「見送るだけってのは、慣れないもんだな」

「む、何か言ったか朝霧?」

「いんや、何でもない」

 

 背中に手が届かないのも、あの日を思い起こさせる。

 

 

 ▽

 

 

「そっちに行ったぞ雛森っ!」

 

 恋次による大上段からの斬撃を喰らって傷ついた虚が跳躍した先には、斬魄刀を抜かず両手を突き出した雛森の姿がある。

 切迫した表情で吉良イヅルが斬魄刀を構えながら駆け寄るが、明らかに虚の牙が雛森に喰い込む方が早い。

 しかし三人で最も小柄な少女は動じることなく、突き出した両手へ霊力を集中させながら言葉を紡ぐ。

 

「君臨者よ、血肉の仮面・万象・羽搏き・ヒトの名を冠す者よ」

 

 両手の先に掻き集められた霊力が炎へと置換される。恋次と吉良は詠唱から授業で習った赤火砲を放つのだと推測するが、鬼道の天才たる雛森が続けた詠唱は異なるモノ。

 

「真理と節制、罪知らぬ夢の壁に僅かに爪を立てよ」

 

 炎の色が空よりも濃い蒼へと変わる。それは未だ授業で習っていない鬼道。

 

「破道の三十三、蒼火墜(そうかつい)っ!」

 

 今にも雛森へ襲い掛かろうとしていた虚は蒼炎に呑み込まれ足を止める。その隙を逃すことなく抜刀した雛森は虚を斬り裂き、恋次と吉良も追随する。

 連続した攻撃に耐え切れず虚は断末魔を上げながら消失してゆく。

 

「ふぅ、良かったぁ上手くできた」

 

 安堵のため息をつきながら浅打を鞘へ戻す。気丈に振る舞っていたが、骸骨のような仮面を纏った異形が迫り来る様子は慣れが必要だと実感した。

 加えて、かねてより練習していた蒼火墜を上手く発動できたことに喜びを噛み締める。

 

「凄いじゃないか雛森、今の鬼道、まだ授業で習ってないヤツだろ?」

「えへへ、教科書を見ながら練習してたの。赤火砲と違って、まだ詠唱しなきゃ完全に発動できないんだけど」

 

 流石は天才だと恋次が褒め称えているところへ、吉良が実習の終わりを告げる。実習生たちは引率者の六回生の下へ集まるようにと。

 各々が反省点や実習を終えたことへの安堵について語らいながらも、雛森はやおら浮かない様子だった。

 

「うぅ、街並を楽しみにしてたのになぁ」

「まっ、いいじゃねェか。死神になっていつかまた現世に来ればいい」

 

 実習場所は鉄の塔が遠目に見受けられる、倉庫やコンテナと呼ばれるもので溢れた一角だった。現世の街並を楽しみにしていた雛森は残念極まりないと肩を落とす。

 せめて現世の夜空だけでも目に焼き付けておこうと顔を上げる。膜に覆われたような夜空は尸魂界よりも濁って見える。対象的に銀月は爛々と輝いていた。

 月明かりに肌を刺す冷たさを錯覚した雛森は首を振る。幸い、会話に花を咲かせていた恋次と吉良にその様子は気づかれなかった。

 程なくして集合場所へ近づいた時、ふいに影が差す。夜空は変わらず、されど君臨していた銀月のみが忽然と姿を消失した。否、夜空が揺らめいた。

 

「え、実習は終わったんじゃなかったのか?」

 

 間の抜けた声が何処からか上がる。

 現世での実習に際し、将来を担う若者たちを傷つけないよう安全面は念入りに配慮される。

 雛森たち実習生が相手にするのは訓練用に作られた虚の模造品であり、万が一本物の虚が乱入した場合に備えて六回生の特進学級が引率として周囲の警戒に当たっていた。

 それ故に、姿を現した巨大な虚を訓練用の模造品と勘違いする者がいてもおかしくはない。警戒に当たる六回生からは、本物の虚が侵入したと報告されていないのだから。

 惨劇に気づいたのは誰だったか。虚の持つ爪に付着した血痕、そして警戒に当たった六回生は誰一人として応答しないことに。

 

「に、逃げろっ! コイツは本物の虚だ!」

 

 声を上げたのは引率の長を務める六回生の首席、檜佐木だった。同時に虚の爪が振り下ろされ、足元にいた四名が同時に血飛沫を上げながら倒れ伏す。

 

「俺たちが巨大虚(ヒュージホロウ)の相手をする! 一回生は尸魂界へ戻り次第、すぐに救援要請をっ!」

「逃げるぞ雛森! 先輩たちが時間を稼いでくれるんだ、今のうちに早く!」

 

 恐慌状態に陥った一回生たちが我先にとその場から離れる。三名の六回生は巨大虚との体格差を逆手に取り俊敏な動きで翻弄するが、頑丈なのか致命傷を与えられていない。

 

「くそっ、これだけ図体がデカい割にどうして霊圧を探知できなかったんだよ! それに他の先輩たちは!」

「多分、霊圧と姿を消せる特別な力を持ってるんだと思う! だから他の先輩たちは、多分……」

 

 否定するように言葉尻を呑み込む。どちらにせよ、先輩たちが命懸けで逃がしてくれるのだから今は一刻も早く尸魂界へ撤退すべきだ。

 己を落ち着けるべく拳を握りしめ、雛森は駆け抜ける。

 そして首の消えた胴体が後方から飛んできた。最後まで抵抗した証か、その胴体は全身血塗れであり、腹部には大きく抉れた痕が見受けられた。

 やや遅れて、二つの霊圧が消失する。一つは後方で戦ってくれたはずの六回生であり、もう一つは巨大虚のもの。

 犠牲を出したが仕留めたのかと自問する。振り返れば血を流した六回生の主席が斬魄刀を振り上げながら何かを大きく叫んでいる。

 脳内を警鐘が鳴り響き、全身を悪寒がひた走る。

 

「逃げてっ!」

 

 突風によって身体を吹き飛ばされたのは叫ぶのと同時。力強く地面に打ち付けた背中の痛みに呻き声をあげる。

 視界に映る景色が揺らめき、血に塗れた巨大な爪が振るわれる。たったの一振りで級友たちが倒れ、或いは錯乱したのか無謀にも立ち向かってゆく姿もある。

 加勢しなければ、理性に反して身体は重い。身体を吹き飛ばされた痛みによるものではない。多くの命を奪った虚への恐怖が、雛森の全身を支配する。

 

「何してんだ雛森っ」

 

 怒声と共に恋次は頭から血を流し気絶した吉良を背負い、小柄な雛森を脇に抱えて遁走する。

 

「お前たち、こっちだ!」

 

 声をかけたのは六回生の首席だった。出血で片眼が見えていないのか、ふらつきながらも雛森たちを誘導する。

 

「三人だけか、他の奴らはっ!」

「散らばって逃げたはずだが、これからどうするんすか先輩!」

「尸魂界からの援軍が来るまで自力で凌ぐしかあるまい! お前、名前は!?」

「阿散井恋次っす、檜佐木先輩」

 

 卒業を控え、更には護廷十三隊の入隊が確定している檜佐木は歪んだ笑顔を浮かべる。複雑な色が絡み合ったその表情に雛森は見覚えがある。

 死神を目指すきっかけを話してくれた祐輝と同じ表情だった。

 

「誰かがアイツを引き付けなきゃ、他の仲間が死んでしまう」

 

 虚の霊圧は、出現と消失を繰り返していた。他の仲間たちを追い続けているのだと容易に察せられる。

 多くの仲間を喪い、自身も傷を負いながら檜佐木はまだ生きる仲間を救うために死地へ赴こうとする。斬魄刀を握りしめる腕の震えは傷によるものでも、まして武者震いでもない。

 

「阿散井、すまないが俺に付き合ってくれ」

 

 負傷した吉良や、動けない雛森の二人を担いだ恋次ならば戦力になるという判断。傷だらけの檜佐木が尚も戦意を喪失していないこと、そして戦えない二人の仲間を抱える恋次も、震えながら吠える。

 

「二人と言わず、他の奴らも俺が助けてやりますよっ!」

 

 目立ちにくい場所で雛森と吉良を下ろした恋次は、檜佐木と共に虚へ向かってゆく。刹那、振り返らずに告げられた別れの言葉。

 

「ルキアによろしく言ってくれ」

「あ、阿散井くんっ!」

 

 充分に遠ざかった二人の霊圧が、途端に跳ね上がる。巨大虚の注意を引き付けるために敢えて霊圧で存在を誇示したのだ。

 

「助けなきゃ」

 

 虚の霊圧が消失した。一方で、恋次と檜佐木の霊圧は移動を続ける。少しでも多くの仲間を生かすために、自らの命を捧げるつもりなのだ。

 

「助けなきゃ、二人じゃ、二人だけじゃ死んじゃうよ! だからねぇ動いて、動いてよ、あたしの身体っ!」

 

 斬魄刀を杖代わりに立ち上がろうと試みる。だが恐怖に竦んだ身体はそれを拒み、震えのあまり斬魄刀を手放す。尚も雛森は斬魄刀を掴み、己の命令を拒否する身体へと叫ぶ。

 

「動けって――言ってるでしょ、雛森桃っ!」

 

 生存本能が、心に屈した。湧き起こる恐怖の衝動を、心の内で燃え滾る熱き感情で抑え込む。

 振り返る。額を切ったのか、頭から血を流す吉良は苦悶の表情を浮かべながら雛森を見詰めていた。

 

「ごめんね吉良くん。一人にしちゃうけど、でも、先輩や阿散井くんが頑張ってるのに、私だけ隠れるわけにはいかないもん」

 

 制服の袖を破り、即席の包帯として吉良の額に巻いてから手を当てる。青白い霊力の奔流と共に、僅かに出血の勢いが和らぐ。医療用の回道という鬼道だった。独自に練習しているためか効果は弱いが、今の雛森にできる最善だった。

 

「それじゃ、行ってくるね」

 

 震えは尚も続く。しかし、恋次と檜佐木の霊圧が健在な事実に安堵し、更に雛森の心を叱咤する。

 友人は皆、鬼道の天才だと評する。それは学年中に広まり、気分屋の少年も耳にしていた。

 巨大虚を相手取るのは特進学級でも一二を争う斬術の使い手と、六回生の首席。ならば雛森の為すべきことは、鬼道による二人の援護だ。

 雛森より頭二つ分以上も大きい恋次ですら小粒と見紛う巨大虚だが、脅威なのはその体格ではなく姿と霊圧を消す能力。この特殊能力さえ封じ込めれば勝機が見いだせるはず。

 二つの人影は縦横無尽に動き、時には立ち位置を入れ替えることで攻撃の感覚を変化させ虚を翻弄する。その戦いを観測しながら、虚の姿が揺らぎ始めたことに雛森は気づく。

 

「縛道の四、這縄(はいなわ)!」

 

 縄状の霊子が虚の腕に纏わりつくが、詠唱破棄、加えて雛森の力では巨大虚の拘束には至らない。それを理解しているのか、嘲笑うように巨大虚は姿を消した。

 尤も、端から雛森は虚の拘束を目的としていない。

 

「なっ、雛森お前っ!」

「二人とも、虚は確かに見えるはずですっ!」

 

 黄色い燐光を放つ霊子が不自然に虚空へ浮かんでいる。それは雛森が姿を消した虚の所在を把握するために放った這縄の輝きだった。

 

「ハハっ、こいつは有り難い!」

 

 荒い息に喜色を滲ませ、檜佐木は鬱憤を晴らすように虚空へ斬撃を放つ。鈍い音と同時に確かな手ごたえを感じた。

 姿を隠す必要性が消失し、咆哮をあげながら虚は闇雲に両腕を振り回す。一撃でもその身に受ければ致命傷となり得るが、雛森による援護もあって二人を捉えることができない。

 

「畳みかけるぞ阿散井! コイツも虚なら、教本通りにやれば倒せるはずだ!」

「りょ、了解っす!」

 

 霊術院の教本によれば、虚にとっての急所は顔を覆う仮面とされる。故に致命打を与えられない場合は、仮面への攻撃が推奨されていた。

 恋次と檜佐木はそれぞれ左右から巨大虚の身体へと飛び乗る。振り払おうともがけば、雛森の破道と縛道によって拘束される。

 瞬く間に仮面へと駆け上がり、二振りの刃が突き立てられる。仮面の欠片が舞い散り、一際大きい虚の絶叫が響き渡る。だが、その巨体は未だに健在だった。

 

「君臨者よ、血肉の仮面・万象・羽搏き・ヒトの名を冠す者よ」

 

 突き出した両手に集束してゆく霊子が炎へと転じる。

 

「情熱と争乱、海隔て逆巻き南へと歩を進めよ。真理と節制、罪知らぬ夢の壁に僅かに爪を立てよ」

 

 二重詠唱、二種類の鬼道の詠唱を行うことで鬼道の連発を可能とする高等技術だが、途中まで詠唱が同じ二つの鬼道で雛森は行使に成功した。

 蒼と紅、二色の炎が巨大虚へ止めを刺すべく放たれる。

 

「破道の三十一、赤火砲(しゃっかほう)! 破道の三十三、蒼火墜!」

 

 間髪入れずに放たれた二色の炎は頭部へと、仮面の割れた箇所へと吸い込まれてゆく。

 緊張状態が続き、加えて初めての二重詠唱を行使した負担もあって雛森は浅い息を繰り返しながら片膝をつくが、その瞳は巨大虚へと向けられていた。

 咆哮を続ける虚の巨体が揺らめき、霊子の塵と化して消失してゆく。断末魔が木霊し続けるが、その全身は確かに消滅した。

 

「勝った、の……?」

 

 茫然と呟く。

 

「あぁ、やったぞ雛森! 俺たち勝ったんだ!」

 

 汗を拭き出しながら恋次が雛森へ手を刺し伸ばす。

 

「お前のおかげだ、後輩にこんな天才がいるなんてなっ!」

 

 乾ききった血を煩わしそうにかきながらも、檜佐木が激励するように肩を叩く。

 酷使した身体の節々が痛み、霊力も極限まで使い果たしたのか意識が朦朧とし出す。それらは雛森の命があると示す確かな証拠だった。

 安堵する。それは生の実感であり、恋次や檜佐木、他の仲間たちが行き残ったことに対してである。

 もう一つ、雛森の心を占める実習に向かう前に祐輝からかけられた言葉。

 

「朝霧くん、あたしちゃんと帰るよ」

 

 霊術院に戻るまでが実習、その言葉を噛み締めて雛森は立ち上がる。

 

 

 ▽

 

 

「なぁ先輩、虚ってこんなに出て来るモンなんスか」

「あり得ない、巨大虚がどうして大量に出現する!?」

 

 周囲を取り囲む、仮面の数々。全てが先ほどまで命懸けで戦った虚と同じ巨体を有している。

 

「そん、な……こんなのって、ないよ」

 

 見渡す限りでも両手の指よりも多い虚を目にし、雛森の心が絶望に折れた。膝を折るように崩れ落ち、瞳から光が喪われてゆく。

 束の間の勝利の余韻を噛み締めていた恋次、檜佐木も斬魄刀を構えているが、既に進退窮まったと諦観の色を浮かべている。

 満身創痍の三人でこの窮状を凌げるはずもない。だが、三人の奮戦は無駄とならなかった。

 

「待たせたね」

 

 不思議と聞く者を安心させる優し気な声。

 

「射殺せ、神鎗(しんそう)

 

 一撃で巨体を消滅させる莫大な霊圧と刃。

 

「よく頑張った、あとは僕らに任せたまえ」

 

 たった二人の救援。だがその姿を捉えた檜佐木は何者にも勝る援軍だと歓喜する。

 

「五番隊の、藍染隊長と市丸副隊長!」

 



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4話

 精神世界を荒れ狂う突風と、耳障りに鳴り響く鈴の音色に思わず斬魄刀との同調を中断する。突如として出現した多数の命の存在に困惑していると、窓の外から喧騒が聞こえる。様子を窺うも、既に日は沈んでおり何事か判然としない。

 廊下へ出れば、同じように困惑した様子の寮生たちが視界に映る。

 

「おい、外にいるのって四番隊だぜ。救護の天幕も張ってある」

 

 慌ただしく走ってきた男子生徒が興奮気味に告げれば、各所から疑問の声が上がる。

 

「本当かよ? 救護専門の四番隊がどうして霊術院にいるんだ?」

「負傷者が出た際の訓練、だとしても俺たちに何の連絡もないよな」

 

 瀞霊廷を守護する護廷十三隊の一つ、四番隊は唯一の非戦闘部隊だった。治癒能力を持つ回道の使い手によって構成され、有事の際には前線に出撃せず後方で野戦病を担う役割を想定されている。

 その四番隊が突如として現れ救護天幕を張っている。抜き打ちの訓練にしては、教師や四番隊の隊士が寮に姿を現す気配が一向にない。

 他の理由を考える。四番隊が出動するならば負傷者の存在が前提だ。霊術院の生徒に負傷者が発生し、尚且つ備え付けの救護室では対応不可能なため四番隊が呼び寄せられた。

 

「雛森たちか?」

 

 胸騒ぎに突き動かされた祐輝は寮の外へ駆けだす。

 現世へ実習へ向かった雛森たちやその引率の六回生に何らかの要因で負傷者が発生し、こうして四番隊が展開したのだとすれば。

 校舎と寮の間に広がる中庭を寝間着姿の生徒が幾人か遠目に眺める。目を凝らすと、天幕の傍らには夜闇に浮かぶ黒ずくめの人影が幾つも目に入る。それは護廷十三隊へ正式に入隊した者が纏う死覇装だった。

 松明が掲げられ、様子が顕になる。

 担架に乗せられて次々と運ばれてくる鮮血に彩られた霊術院の制服。毛布に身をくるみ、放心してしゃがみ込む人影。痛みを訴えながら天幕へ入った男子生徒は、肘から先が消失していた。

 新たに運ばれた担架から力なく垂れる制服の裾は鮮血と違う朱色。元より染め抜かれていた女子用の制服だと気づき、隊士の制止を振り切って近づく。

 

「おい待てッ、コイツは――」

「雛森っ!?」

 

 担架の上を覗き込み、息を呑む。四肢を投げ出した華奢な身体の持ち主は表情を浮かべる術を永遠に失っていた。

 年嵩の隊士は気まずそうに祐輝を見遣り、担架を天幕の一つへ運んでいく。

 背中を向けて手の届かない場所へ向かった小さな背中を思い起こし、言いようのない喪失感に祐輝は襲われた。それが早とちりであるとすぐに気づかされる。

 

「ただいま、ちゃんと帰ってきたよ、朝霧くん」

 

 憔悴し、輝きの消え失せた瞳に力なく微笑みを浮かべていた。二の腕の先から制服の袖は破れており、所々に擦り傷が見受けられる。頼りない足取りで祐輝の下へ近づき、安堵させるように雛森桃は繰り返す。

 

「霊術院に戻るまでが実習、でしょ? あたし、ちゃんと帰ってきたよ、ちゃんと――っ」

 

 言葉は嗚咽へと変わる。感情の奔流を吐き出すように大粒の雫が零れ落ち、全身を震わせる。

 乏しい語彙力で慰めの言葉を探し、結局は無駄な努力となって思いつかず、祐輝は華奢な身体を引き寄せる。背中をさすり、薄汚れた髪を撫でまわし、短く返す。

 

「お帰り、雛森」

 

 

 ▽

 

 

 足は動かさず、腰と身体を呼吸する間という僅かな時間に逸らす。木刀の切っ先が掠めることなく虚空を薙いだと同時に、重心を相手へ傾ける。引き戻される木刀の動きは、遅い。

 鈍い音と共に相手の手元から木刀が弾き飛ばされ、攻防は祐輝の勝利で幕を閉じる。

 

「ちえっ、また負けたわ。お前ほんと風みたいに掴めねェな」

 

 確実に斬撃が届く距離にいながらも手ごたえを感じない、相対した者は皆が口を揃える。無論、常にそうとは限らず跳躍など大きな動きを見せることもあるが、祐輝は常に無駄な動作を廃するよう心掛けていた。

 その後も幾人かを相手取り、時には流魂街時代に鍛えた型破りな喧嘩作法で勝負をつける。疲れて来た頃合いを見て木刀を元の場所へ戻し、隅に移動して腰を下ろす。

 誰も相手にしないという意思表示だった。疲れた、面倒、眠い、気が乗らないなど理由はその時々によるが、実技科目であろうとも気分屋の性分を遺憾なく祐輝は発揮する。

 常に持ち歩いている浅打を膝の上に置いて級友たちの動きを呑気に観戦しながら、道場の外から様子を覗き込んでくる人物の存在に考えを巡らせる。

 斬魄刀に意識を回し、祐輝の知覚する世界が変貌する。命の存在は鈴の音色として風に乗って祐輝へ運ばれる。弱々しく濁った鈴の音色に眉を顰め、嘆息した。

 

「本日はここまで!」

 

 教師によって授業の終わりが告げられた。これで午前の授業は全て消化され、昼休憩を挟み午後の授業が開始される。

 鍛錬場の入り口をかいくぐると、駆け寄って来る人影が視界に入る。小動物を彷彿とさせる動きは見慣れたものだった。

 

「朝霧くんお疲れ様っ」

「おう、ずっと隠れて覗いてただろ、お疲れさん」

「うっ、気づいてたんだ……」

 

 気まずそうに笑いながらも肩を落とした雛森の目元には薄い隈ができており、顔色も優れていない。

 引率の六回生は生存者三名のみ、一回生は約半数が死傷した惨劇から二日が経過した。心身両面で傷を負った特進学級は休講措置が取られ、授業再開は未定だった。

 

「手持ち無沙汰でやることもないから、こっそり朝霧くんの授業姿を見ようかなって思ってたのに」

「だったらちゃんと寝ろよ、いつぞやみたいに倒れるぞ」

「その時はまた朝霧くんが運んでくれるでしょ?」

「お前なぁ、人を便利屋扱いしやがって」

 

 乱雑に髪を撫でまわし、雛森の抗議を聞き耳持たずに受け流す。頬を膨らませた雛森はまるで普段と変わらない様子を演じる。それが虚勢であるのは一目瞭然だった。

 せめて立ち振る舞いだけでも普段通りを心掛けようとしても、心の傷が癒されるわけではないと祐輝は経験(・・)していた。

 

「もう、朝霧くんだってあたしのこと子ども扱いしてるよっ」

「はいはい、んで、暇なら俺と一緒に昼寝でもするか? 寝不足だろ」

「もう、授業を受けなきゃダメだよっ」

「そんなのよりお前の方が心配なんだけど」

「え、あ、えぇっ!?」

 

 慌てふためき口を開閉させ、ともすれば両手で顔を覆い始める。摩訶不思議な挙動に首をかしげながらも、雛森の細い手を引く。

 

「はい決まり、今日は俺が傍にいるからぐっすり眠れるぞ」

 

 

 ▽

 

 

 霊術院の敷地内には、訓練場も兼ねた雑木林が広がっている。姿を隠しやすく、また木の枝を足場にした高所からの不意打ちも可能など、実戦的な訓練を積むために活用する生徒は一定数存在した。

 尤も摸擬戦をする相手がいない祐輝は授業を抜け出して昼寝するために足を運んだ回数の方が多い。

 太い樹木の根元に寝っ転がった祐輝の傍らに、膝を抱えて雛森は腰を下ろしていた。

 相変わらず授業を抜け出すことに躊躇がない気分屋の少年へ文句はある。しかし、自身を心配しての行動に罪悪感も抱いていた。

 

「俺のお気に入りの昼寝場所。ほら、横になったら楽になるぞ」

「そういう問題じゃないんだからっ」

「俺が授業サボるのは今に始まったことじゃないんだし、気にするな」

「あたしのことで心配かけたら余計に気にするよっ」

 

 罪悪感を抱く必要が無いのではなかろうか。心の底から授業を抜け出すことに躊躇がないとばかりに祐輝は飄々と言ってのけた。

 

「んで、夢に見るのが怖いから眠れないのか」

 

 だから何気ない挨拶のような口調で放たれた言葉に雛森は虚を突かれる。傍らの少年は横になったまま、虚空を見詰めていた。

 

「ううん、ちょっと違うかな。許せないんだ、自分のことが」

 

 実習で相手にした虚の模造品を前にしても身体は遺憾なく動けた。密かに練習していた蒼火墜(そうかつい)も難なく放て、恋次から称賛されたのは嬉しかった。

 それが本物の虚を前にし、仲間の死を目の当たりにして恐怖に囚われてしまった。引率の六回生、檜佐木は傷を負いながらも他の仲間を救うべく巨大虚(ヒュージホロウ)へ立ち向かい、恋次もまた、ルキアに対する伝言を遺して檜佐木の後を追った。

 

「死ぬかもしれないのに、阿散井くんたちは虚に立ち向かった。でもあたしは怖くて動けなかったんだ」

 

 瞼を閉じれば己の浅ましい姿が鮮明に描かれる。模造品の虚を倒したことに浮かれ、本物と対峙した自分がいかに情けないのか思い起こされる。

 

「助けたくてあたしにできる最善のことをしたけど、でも、虚に囲まれて諦めちゃった。弱虫な自分を、あたしは許せないの」

「凄いな雛森は」

 

 故にかけられた言葉を理解できなかった。他者の覚悟や勇気と正反対な己の醜態は許せるものではない、にもかかわらず傍らの少年は称賛する。

 

「逃げ出さず仲間の為に出来ることをした雛森が弱虫なはずないだろ」

「でもあたし、死ぬのが怖くてっ」

「誰だって死ぬのが怖い。だから逃げ出すような奴を弱虫って言うんだ。けどお前は逃げなかった、仲間の為に動いた。雛森は凄いよ」

 

 だから、と祐輝は続ける。

 

「お前は弱虫じゃないんだから、自分のことを責める必要はない。いくら真面目でもな、偶には我が儘を言えよ。恐かったけど頑張った、自分偉い、満足、みたいにな」

 

 乱雑に髪を撫でまわされる。抗議の視線を送りながらも、温かく繊細な手つきに思わず委ねてしまう。

 暫し無言が二人の間を支配する。心地良い風が頬を撫でた。

 

「あたしはまだ弱いけど、でもいつか、五番隊の藍染隊長みたいに皆を助けられる死神を目指すよ」

 

 沈黙を破って口にした決意。絶望に覆われた雛森を救った、穏やかな微笑みを浮かべた隊長を思い出す。

 巨大虚の群れを副官と共に次々と瞬殺しながらも、雛森たちに虚の攻撃が及ばないよう身を挺して庇い続けていた。

 他者を思い遣る心と実力を併せ持った五番隊の隊長。その姿に雛森は憧れを抱き、理想として進む道しるべとなった。

 そういえばと思い出す。死神を目指す理由は子どもの頃の憧れがきっかけだと聞いた。祐輝が憧れる死神とは一体どのような人物なのだろうか。疑問に思い、訊ねようとして、それは叶わない。

 

「もう、自由気ままなんだから」

 

 鼻息を立てながら満足気に眠る祐輝の姿を眺め続ける。飄々として風の様に自由な気分屋だけれども、優しい心を持つ不思議なヒト。

 

「ありがとう、祐輝(・・)くん」

 

 

 ▽

 

 

 死神の戦闘方法は四つに大別される。斬魄刀を用いた斬術、素手による体術を生かした白打、移動補助の歩法、雛森が得意とする鬼道であり、四種類の技術をまとめて‘‘斬拳走鬼(ざんけんそうき)”と呼称する。

 実技科目には抜け出すことなく出席する祐輝は斬術を得意とし、流魂街時代に培った喧嘩作法で白打の成績も悪くはない。しかし、意欲的に参加しようとも芳しくない科目がある。

 歩法の授業は、高速移動が可能な瞬歩を安定して制御することができない。これに関しては経験を積むしかないと教師から告げられていた。

 

「縛道の四、這縄(はいなわ)

 

 掌から放たれた縄状の霊子が人体を模した的へ絡みつき、全身を拘束する。その次の瞬間、閃光と共に霊子がはじけ飛び、這縄として放たれた縛道が爆発(・・)した。

 

「おい祐輝、お前また破道になってるぞ」

 

 級友たちは揃って皮肉を込めながら笑い飛ばす。斬術の授業で一本取れなくとも鬼道の授業、特に縛道に関しては祐輝が劣っていた。

 

「っかしいな、何で爆発するんだ」

 

 詠唱は完璧、暴発することなく形を伴って這縄は放たれた上に的を拘束した。そこまでは完璧なのだが、最後に爆発してしまう。これは這縄に限らず、授業で習った他の初歩的な縛道でも同様だった。

 本来ならば対象の拘束など補助用途である縛道は、祐輝に限って攻撃に特化してしまう。

 その後も様々な縛道を試すが最後には爆発するという結果は変わらず授業を終えた。

 得手不得手は個人によって分かれる。護廷十三隊の死神で例えるならば、四番隊の隊士は戦闘が不得手であり、戦闘を好む十一番隊の隊士は斬術や白打に特化し鬼道を全く使えないと聞く。

 だから縛道の出来が悲惨であろうとも死神にはなれる。戦いの手数が限られてくるのが痛手と言えた。

 嘲笑うように風が頬を撫でつけ、外へ出る気分が失せた祐輝は座学の授業へ出席しようと決める。

 午後、腰を下ろして話を聞くだけの授業に眠気を刺激され、教本を隠れ蓑にして昼寝へ没入しかけるが儚くもその試みは失敗に終わった。

 

「あぁ、言い忘れていたが来週の休日明けに全ての学級での合同授業が行われる。まぁ、簡単に言えば親善試合のようなものだ」

 

 教師の発した言葉に教室内は一斉に騒ぎ始める。それが原因で昼寝を邪魔された祐輝は煩わしそうに口元を歪めていた。

 

「知っての通り、悲惨な事故によって多数の死傷者が出たばかりだ。一組も当分は休講中だ。だからこそ、陰鬱な空気を払拭するために合同授業が企画された」

 

 各学級から四つの実技科目、即ち斬術、白打、歩法、鬼道の代表者を二名ずつ選出し、勝ち抜き形式で試合を行う。それぞれの科目で試合を行い、総合して尤も順位の高い学級が優勝となる。

 教師からの説明を受けて尚のこと教室内は盛り上がりを見せた。それは他の学級から選出される者や、科目ごとの優勝者を推測しあう声だった。

 

「誰か代表者に立候補する者はいないか? 自薦、他薦は問わない」

 

 途端に静まり返る教室内。観戦者として楽しみたい気持ちはあっても、代表として注目を集めたくない、敗北した場合の重責を負いたくない。そのため牽制し、押し付け合う囁き声が各所から漏れ聞こえてくる。

 確かに観戦するのは楽しいだろうが、自分が出るのは面倒だろうなと祐輝は呑気に考える。既に昼寝は諦め、頬杖をつきながら状況の成り行きを見守る。

 

「なに、まだ時間はある。今すぐにとは言わない。それでは授業を再開するぞ」

 

 安堵した空気に教室は包まれる。昼寝を試みるには充分なほどに眠気が醒めてしまっていた。

 

 

 ▽

 

 

「それじゃあ、二組は誰が出るかまだ決まってないんだ」

「だって面倒だろ、観戦するのは構わないけど自分は楽したいって思うわ」

「そう思うのは祐輝くんだけじゃないかなぁ」

 

 寮の食堂で祐輝と雛森は共に夕食を取っていた。休講中の一組と違い、一応は授業を受けているため二人が自然と顔を合わせる場所や時間は限られていた。

 

「ってか特進も出るのか?」

「そうだよ? あのねっ、あたし鬼道の代表で出ることになったんだっ!」

 

 鬼道の天才が出るとするならば優勝は雛森でほぼ決まりだろう。一組に在籍する者は成績上位者、加えて一定以上の霊力を持つ者に限られる。斬術などと違い霊力が直接関係する鬼道において、雛森に勝てる見込みは精々同じ一組の者に限られるはずだ。

 

「祐輝くんは斬術が得意なんでしょ?」

「さっきも言ったけど面倒なんだよなぁ」

「もう、男の子ならかっこいいところ見せる絶好の機会なのに」

「見せたい相手がいないんだけど」

「阿散井くん張り切ってたよ」

「うちの組に幼馴染みがいるからだろ」

「あたしの友だちの吉良くんも、頑張るって阿散井くんと摸擬戦してたよ」

「惚れた子でもいるんじゃないか」

 

 素っ気なく返し、親善試合に出るつもりがないと判断した雛森は肩を落とす。

 

「祐輝くんなら良い結果を残せると思ったのになぁ」

 

 心底残念だと言う雛森の姿を見て一抹の申し訳なさを抱くも、面倒という気持ちは嘘偽りない本音なのだ。

 二組を優勝に導こうという気概は持ち合わせていない。相手は学級の代表として選ばれるからには相応の実力を備えているはずで、面倒、疲れるからと気楽に挑むのは流石に礼を失する。つまり本気で相手をせねばならず、面倒という気持ちが拭いきれない。

 

「応援するから元気出せよ、ほら」

「ちゃんと二組を応援しなよっ! もう、祐輝くんの頑張る姿も見れなくて残念なのに」

 

 説教じみた小言が心地よく、悟られないよう僅かに口元で笑う。雛森も、言葉はともかく楽しむような表情を浮かべていた。

 何気ない会話を楽しむ余裕が雛森に戻ったのだ。祐輝はそれを心の中で祝福した。

 

「あ、勘違いしてるけど俺は出ないって一言も口に出してないからな?」

「祐輝くんのバカぁぁぁっっっ!」

 





休日だからと独り寂しく田中六五を呑みながらランキングを眺めてた午前、酔いが回ったのか下の方にこの作品の名前が……。
ここで活動をはじめ約5年、ランキング入りは初めてでした。読んで下さりありがとうございます。
本当に下から数えてすぐだったのですか、初めてのランキング入りがとても嬉しいので今夜は獺祭を開封します。






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5話

 真央霊術院で進級・卒業するには規定の成績を修める必要があり、当然ながら成績が芳しくない者には補習が組まれる。しかしその補習すら組まれなければ、成績不振者は留年、或いは退学へと至る。

 二組の気分屋な問題児は親善試合への意欲は欠片も持ち合わせていない。代表として参加しなければ補習を取りやめると教師から通達され、仕方なくという事情があった。完全に自業自得である。

 代表は、科目一つにつき二名であり、各学級から合計して八名が選出される。科目ごとに別れ、勝ち抜き形式で試合を行い、総合的な順位の高い学級が優勝となる。そのため試合の展開によっては、同じ学級から選出された者で一位と二位を争う場合も考えられた。

 祐輝はもう一人の級友と共に二組の斬術の代表として試合に臨む。白打、歩法の代表も既に選出されたが鬼道のみ、未だ誰も選ばれていない。

 鬼道の天才として名高い一組の雛森を相手に勝てる見込みを持たないこと、そしてもう一つ。

 

「短い間だったが世話になった。親善試合も、二組の皆ならば良い結果を残せると信じている」

 

 色褪せた瞳に、乾いた笑みを浮かべながらも気丈に振る舞う一人の少女。朽木の名を与えられた存在は最後に深く礼をして、教室を去ってゆく。

 気まずい沈黙に教室は包まれた。流魂街出身者は羨望と嫉妬の入り混じった複雑な感情を抱き、貴族出身者は程度の差こそあれ侮蔑の念を隠さない。

 天才には劣るが鬼道を得意としていた、今は朽木ルキアを名乗る少女は二組の鬼道代表に相応しいとの声が上がっていた。しかし、瀞霊廷の()大貴族が一つ、朽木家の養子に引き取られ、こうして別れの挨拶を残して霊術院を去ってゆく。

 

 

 ▽

 

 

 名目上は全ての学級で行う合同授業である親善試合に向けて、学年中が湧き立っていた。各学級の代表者が知られると共に優勝を推測し、または学級の総出を上げて代表者を応援する動きまで見受けられる。

 学業に追われる霊術院の生徒にとって娯楽は乏しく、今回の親善試合は祭りにも等しい。現世で実習中に虚に襲撃され、多数の死傷者を出した悲劇から日も浅いため、生徒の精神状態を立て直す教師たちの思惑は成功したも同然だった。

 一回生で行われる親善試合の空気に当てられたのか、上級生たちの間では親善試合を題材にした賭け事が流行っており、それらは教師の目を掻い潜りながら一回生にも拡大しつつある。

 

「よぉ、一回生だろ? お前の意見で構わない、鬼道はどこの組が優勝すると思う?」

「鬼道に関しては天才で有名な雛森のいる特進じゃないのか。俺の組の代表は雛森に勝つ自信がないから、準優勝狙ってるし」

「また雛森か、檜佐木先輩もそう言ってたし、鬼道は雛森一択かなぁ。番狂わせが欲しいが……ありがとうよ一回生、気が向いたらお前も誰かに賭けてみろよ」

 

 上級生からの聞き込みも適当に受け答えをするが、鬼道に関しては顔見知りの雛森をそれとなく口に出す。やはり鬼道の優勝者は雛森という見方が強いことに、他の鬼道の代表者に半ば同情する。

 ちなみに、斬術の優勝候補は幾つか別れていたが祐輝の名前は挙がっていなかった。

 曰く、他の学級に名前が伝わるのは悪評のため、曰く、卑怯な手を使うから正々堂々と戦えば負ける、曰く、馬鹿で単純だから戦いの駆け引きに弱い、など。

 座学の授業を抜け出して補習を受ける普段の行いが、まさかここまでの悪評に変貌しているとは知らず、祐輝は呆れのあまり笑いが零れた。

 

 

 ▽

 

 

 そして休日明け、待望の親善試合が開催された。

 上級生は通常の授業が行われているため観戦するのは一回生のみだが、試合会場は膨大な熱気に包まれている。

 斬術、白打、歩法、鬼道、それぞれが白熱した試合を見せ、敗者は肩を落としつつも勝者の健闘を祈り、勝者は学級と敗者の想いを背負って次なる戦いへと臨む。

 

「やっぱり、雛森さんに勝てる人いないわね」

「当り前だろ、二重詠唱とか俺ら凡人にはできないって」

「鬼道は特進の連中が一位と二位を独占だな」

 

 会場の一角で行われた鬼道の試合で大きなどよめきが起こる。並行して二つの鬼道を連発した二重詠唱で華麗に勝利した雛森は決勝戦へ進出する。

 既に決勝戦へと進出していたもう一人の一組代表と最後の試合が開始する。同じ特進学級の代表だけに苛烈な試合は接戦だったが、破道と縛道を巧妙に織り交ぜた雛森の勝利によって幕を閉じた。

 大多数の予想通り雛森が優勝したが、二組をはじめとする学級は落胆した様子を隠し切れない。一位と二位、その二つを特進学級たる一組に独占されたからだ。

 鬼道の試合の結果を受けて、他の科目での応援は更に激しさを増す。成績上位者は伊達ではなく、残る三科目でも一組は順調に勝ち進んでいた。

 番狂わせが起こったのは斬術の試合だった。

 

「疲れた、寝たい」

 

 手ぬぐいで汗を拭きとりながら切実に零す。それも束の間の贅沢で、二組はもちろんのこと三組や四組など、他の学級からも盛大な歓声で出迎えられた。

 

「凄いぞ祐輝! 特進の連中から一本取りやがったっ」

「他の組の奴ら見てみろよ、あれだけお前の悪口を言ってたくせに調子のいい連中だ」

 

 優勝候補に名前が全く挙がらなかった二組の朝霧祐輝が、優勝候補の一人である一組の吉良イヅルとの試合に勝利した。一組を除く全ての学級を熱狂させるには充分過ぎるほどの快挙だった。

 俄然、二組に続けとの声が聞こえ始めるが祐輝は次の試合に備えて身体を休める。

 雛森の様に名前が知れ渡っていなくとも、吉良イヅルの実力は授業で相手取る二組の級友たち、試合で対峙した他の組の代表とは隔絶していた。現世の実習で、虚の襲撃を生き延びただけのことはある。

 試合展開を崩し、主導権を奪い取れなければ敗北を喫したのは己だと祐輝は振り返る。

 

「このまま決勝まで勝てば、阿散井と当たるのか」

 

 残る一組の代表、阿散井恋次も吉良イヅルと同等以上の強敵だと推測される。幸い、試合の組み合わせで決勝戦に進出しない限り対峙することはない。

 確実に決勝戦へ勝ち進むだろう、元々優勝候補の一角として名前が挙がっていたのだ。

 眼前で行われる試合は苛烈な攻撃であっけなく決着がついた。勝者は言わずもがな、阿散井恋次だった。

 二組の代表として試合に参加し、更には一組に対して勝ち星を挙げたのだから次の試合で負けたとして誰も、そして教師も文句は言うまい。

 補習は取り消されることもなく、祐輝は阿散井恋次を相手取らず、級友たちは一組に勝ったことを誇らしく思うのだから、誰も損をしない。

 

「恨むぞ雛森、俺が負けるところお前に見られたくないんだよ」

 

 恐怖に屈した自分を許さない優しさと、それでも前を向いた芯の強さを持つ鬼道の天才。誰であろうとも彼女が見ている前で敗北した姿を晒したくない想いが燻っていた。

 試合は進んでゆく。阿散井恋次が獅子を彷彿とさせる勢いで決勝戦へと進出を決め、自身の相手を待ち構えている。その視線の先には、準決勝を制した祐輝の姿がある。

 

「よぉ、俺はお前が勝ち残ると思ってたぜ。正直、この場所に立つのは俺と吉良の筈だったからな」

「わるいな、俺も男だから無様な姿は見せたくないんだよ」

「はっ、雛森のことか? なら少し気の毒なことをするが、俺はこんなところで負ける訳にはいかないんだよっ」

 

 闘志を燃やす恋次の瞳は祐輝の姿を捉えていない。それは遥か遠く、決して手の届かない場所を見詰めている。

 学び舎を去った級友の姿を思い出し、祐輝は木刀を静かに構えた。

 

「お前なら勝てるはずだ朝霧っ!」

「阿散井っ、調子に乗ってるそいつを叩きのめせ!」

「祐輝くんも阿散井くんも、どっちも頑張って!」

 

 優勝候補の一角として名前の挙がっていた恋次と、番狂わせを起こした祐輝が対峙する。試合の行く末がどうなるか、誰にも予測ができない戦いが幕を開けた。

 

「うおぉぉぉぉぉっっっ!」

 

 雄叫びを上げながら瞬時に距離を詰めた恋次の振り下ろし。それを最短で最小の動作で躱すが、反撃を打ち込む間を与えられない。素早く引き戻された恋次の木刀は更に一撃、二撃と打ち込まれる、

 身体をずらす、捻る、傾ける。躱す動作に徹し続ける姿は恋次の攻撃を前にして手も足も出ないように見受けられた。

 感心と同時に獰猛な笑みが恋次の口元を歪ませる。

 刹那、恋次の木刀が僅かに逸らされた。切っ先が向かう先は、既に身を傾けた祐輝の右肩。

 

「やるじゃねえか、躱すだけが取り柄の野郎と思ってたぜ」

「お前みたいな力で押し切る奴とまともに打ち合ったら負けるから、なっ」

 

 重い打ち込みを木刀で受け止めるが、掌に大きな痺れが残る。

 僅かな攻防で、攻撃の瞬間に祐輝が躱す動作を始めていると恋次は見抜いた。ならば、それに合わせて攻撃を逸らして当てれば良い。単純で強引な解釈だが、結果として祐輝は回避を断念し木刀で受け止めざるを得なかった。

 力負けすると分かりきっており、敢えて木刀に込める力を弱める。一気に押し込まれるが、勢いを利用して足払いをかけ、大柄な相手の体勢を崩す。その隙に上段から振り下ろしをかけるが、片手で握りしめられた木刀に受け止められる。

 反撃が失敗した瞬間に祐輝は後方へ跳躍する。間一髪、握りしめられた拳が虚空を薙いだ。

 態勢を立て直し、再度恋次は攻勢を仕掛ける。一撃ごとに速度、切っ先を巧妙に変える。

 徐々に袖や裾を掠り始める。右へ身を捻るが、即座にその箇所へ木刀の切っ先が置かれる。勝利を確信した恋次の一撃は、雲を掴むように祐輝の脇をすり抜けた(・・・・・)

 躱しきれないのならば、敢えて隙を晒すことで相手の攻撃を誘導すればよい。

 

「なっ、この野郎っ!」

 

 視線を肩から胴へ投げる。瞬時に振り下ろしを警戒した恋次は胴を後方へ逸らすが、生憎と祐輝が取った手段は木刀の突き技だった。

 鈍い音が響く。逆手に持ち替えた木刀から伝わる痺れを気取られぬようにしながら歯を食いしばる。

 

「畜生っ、仕留め切れなかった……っ!」

「こんなところで負ける、その程度の力じゃルキアの隣に立てないんだよ、俺はァっ!」

 

 交差する二つの影、揺れる祐輝の身体を何度も木刀が通り抜けてゆく。接戦の攻防が繰り広げられ、多くの者が立ち上がり二人へ声援を送り込む。

 

「祐輝くんっ、阿散井くんっ、頑張って二人ともっ!」

 

 聞き慣れた少女の声は、対峙する相手にも向けられていた。それは胸の奥に、微かな痛みを生じさせた。

 

 

 ▽

 

 

 食堂からは相変わらずバカ騒ぎを続ける楽し気な声が聞こえていた。疲れの溜まった身体を癒すこともできず、次から次に訪れる人の波に辟易とした祐輝は食堂を抜け出し、浅打を片手に一人、寮の屋上で夜空を堪能していた。

 名も知らぬ他の組の人間から惜しみなく試合を称賛された。賭け事の胴元らしき上級生からは番狂わせを起こしたことに感謝された。

 顔に傷を負った、六回生の檜佐木という先輩からは励ましの声をかけられた。

 試合直後ならいざ知らず、夕飯くらい満足に取らせてくれないだろうか。

 

「風邪ひいちゃうよ祐輝くん」

「いいのかよ、鬼道の優勝者がこんなとこにいて」

「祐輝くんを探しにきたんだよ」

「騒ぎが落ち着くまで俺は戻らないからな」

 

 分かってる、とばかりに雛森は傍らへ腰かける。

 

「あたしも、ちょっと騒がしいから抜け出してきたんだ」

「いつからそんな悪い子になったんだ」

「偶には我が儘でもいいって祐輝くんが言ったでしょ?」

 

 反論のしようもなく不機嫌そうに黙り込んでみせる。普段、飄々と小言を受け流しているだけに気まずくなるが、雛森は嬉し気な様子だった。

 

「やっと祐輝くんがあたしの言うことを聞いてくれた」

「まて、それは違う」

「ううん、違わないよっ」

 

 どんな言葉を投げかけても聞き入れてくれないだろうなと、祐輝は話題を変える。

 

「それはそれとして、優勝おめでとう雛森」

「えへへっ、ありがとう。祐輝くんも、お疲れ様」

 

 一転して照れたように微笑みながらも、祐輝の奮戦を雛森は湛える。その際、視線が重なり、どちらともなく顔を逸らす。

 沈黙が訪れた。視線だけを動かして傍らを覗き込めば、同じように盗み見る雛森の瞳が重なる。

 頬が朱色に染まったのは、気恥ずかしさが原因だろうか。すぐさま横を向いた雛森の様子が可愛らしく、笑い声を抑えきれない。

 

「試合中の祐輝くんはかっこよかったのに、笑うなんて意地悪」

「そりゃ雛森が応援してくれてんだから頑張ったんだよ」

「もうっ、調子に乗る意地悪な祐輝くんは嫌いだからねっ!」

 

 腕を組み、朱色に染まった頬を膨らませる。けれども、澄んだ瞳で祐輝を見上げてくる。

 

「ほんとに、真剣な祐輝くんかっこよかったんだから」

 

 可憐な笑顔を向けられて、鈴の音を転がす声を聞かされて。熱に浮かされる祐輝を冷やすように、風が肌を撫でていく。

 

 

 ▽

 

 

「ほんと、真剣な祐輝くんはかっこよかったのに」

 

 いつも持ち歩く斬魄刀を抱いて、あどけなく眠る祐輝の表情を見ながら雛森は呟いた。

 心地良い風に撫でられながら二人で夜空を見上げ、気づけばこうしてまた祐輝が眠っている。

 決勝戦まで勝ち進み、恋次と熾烈な戦いを繰り広げたからには相当に疲れが溜まっているはず。仕方がないと、雛森は祐輝の傍らに腰を下ろしたまま、寝顔を堪能していた。

 

「シロちゃんもだけど、男の子って寝顔で凄く変わるね」

 

 弟として接する幼馴染みの少年も、普段は斜めに構えてかっこつける割に、寝顔は年相応に可愛らしいものを浮かべる。

 飄々として掴み所の無い普段と、試合中に見せた真剣な表情、そしてあどけない寝顔。

 

「こんなところで寝たら風邪ひいちゃうのに。全くもう」

 

 口では文句を垂れながら、眠りこむ少年の頭を抱き上げ、膝を枕代わりに提供する。

 

 

 ▽

 

 

 休日が訪れた。

 

「優しくて、安心できる、それで沢山の虚を倒せるくらいに強いのっ! だからあたし、絶対に藍染隊長の五番隊に入るっ!」

 

 瞳を輝かせ、五番隊の隊長がいかに素晴らしいか力説するも、白髪の少年は西瓜(すいか)を齧ることに神経を集中させており当然ながら聞き流していた。

 種を吐き出し、行儀が悪いと年上の幼馴染みに注意されても無視する。日番谷冬獅郎にとって、その藍染という死神の話題は実に面白くない。

 

「なぁ、アイツはいつもこんな感じなのか」

 

 尚も藍染の素晴らしさを口にし続ける様子を指し示し、雛森が連れて来た友人に訊ねる。

 茶を啜っていた何を考えてるか分からない男、つまり祐輝は肯定とも否定とも取れる表情を浮かべた。

 

「普段は真面目だけど妙に阿保なところがある」

「ちょっと祐輝くん! 誰が阿保なの、あたしが何度も注意してるのにいつも授業を抜け出してっ」

「ふうん、アンタら仲が良いんだな」

 

 休日の度に顔を見せていた雛森も、忙しさを理由に最近はその頻度が減っていた。久しぶりに顔を出したと思えば、友人と称した男まで連れてきている。

 面白くない、雛森に男の友人ができたこと、わざわざ連れて来たこと。話題と言えば、先ほどから続く藍染のこと。

 不機嫌だと意思表示をするべく雛森のことは無視し、けれども構って欲しい。そんな日番谷の気持ちを察しているのが、この何を考えているか分からない男である。それがまた悔しい。

 

「なぁ雛森、せっかく実家に帰ったんだからこのチビっ子にも構ってやれよ」

「だから、あたしの霊術院での様子を話してるでしょ?」

 

 藍染という死神の話しか口にしていないだろう。

 しかもさりげなく身長が小さいことを馬鹿にされ、余計に腹が立つ。祐輝にとってそのような意図はないのだが、日番谷が知る由もない。

 世話焼きで、一緒に祖母と慕う人物の手伝いをしたり、水汲みや御使いをしていた日々は雛森の隣に日番谷がいた。それが、死神になるために家を離れ、知らない男のことを嬉しそうに話し、これまた知らない男の友人が当然のように雛森と連れ添っている。

 

 

「そうそう、ちょっと前に親善試合があったんだけどね。祐輝くんも凄かったんだよ、斬術の試合は決勝戦まで出たのっ!」

「ちなみに雛森は鬼道の試合で優勝してるからな」

 

 家族が遠く離れてゆく寂しさと、会話の内容を共有できないもどかしさが入り混じり、つい意地の悪い質問をぶつけてしまう。

 

「アンタも大変だな、アイツは藍染って奴ばかり話すんだろ?」

「そりゃ死にかけたところを助けてくれたんだ、感謝や憧れを抱くのは普通だろ」

「死に、かけた……?」

 

 食べかけの西瓜を皿へ戻し、のうのうと茶を啜る祐輝へ詰め寄る。

 

「おい、雛森が死にかけたってどういうことだよっ」

 

 帰ってきた雛森が口にしたのは、祐輝が友人ということと、藍染という死神についてのみ。故に現世で行われた実習と巨大虚襲撃による惨劇など、日番谷は知らない。

 口を滑らしたことに気づいた祐輝は一瞬だけ後悔し、知る限りのことを隠さずに教えた。例え血が繋がっていなくとも、家族には知る権利があると。

 

「現世での実習中にな、本物の虚に襲撃されて引率の先輩たちや同級生が死んだんだ。何人もな。んで、尸魂界から救援で派遣されたのが五番隊の藍染隊長と市丸副隊長」

「ったく、死にかけたのにどうしてあんな元気なんだよ」

 

 日番谷は、死にたくない。それ以上に雛森が死ぬことを許容できない。だから嬉し気に死にかけた時のことを語る雛森の気持ちが理解できない。

 

「それはね、藍染隊長があたしの目標だからだよ、シロちゃん。優しくて、皆を安心させることのできる、シロちゃんやお婆ちゃんを守ることのできる死神になるのが、あたしの夢なの」

 

 雛森も、死にたくない。大切な存在を喪いたくない。だから家族を守るために力を求め、その理想が窮地を救ってくれた死神なのだ。

 

「でも、死神になっても虚と戦うんだろ、死ぬかもしれないんだろ」

「あたしは死なないよ、シロちゃんたちを守れる立派な死神になるんだから」

 

 昔、まだ幼い頃のこと。小さな姉代わりの少女は必死に世話を焼いてくれた。寒ければ身体を温めてくれた。重い物を代わりに持ってくれた。

 そんな少女の優しさが嬉しくて、けれども素直に接するのは気恥ずかしかった。いつまでも一緒に過ごせる、そう思い込んでいた甘えがあった。

 子どもは成長し、やがて大人になる。日番谷にとっての小さな姉は、死神を目指して遠く離れていく。

 

 

 ▽

 

 

 お使いの手伝いと称して無理矢理連れ出された祐輝は黙って少年の背後を歩く。歩幅の関係で通り越しそうになるが、その度に背後へ戻る。お使いの道のりなど祐輝は知らず、横に並べば身長差から見失う危険があった。

 尤もらしい理由を並べ立てたが、先ほどから悶々と言葉を濁す微笑ましい少年を背後から眺め続けるのが楽しい、というのが本音だった。

 

「なぁアンタ」

「どうしたチビっ子」

「俺は日番谷冬獅郎だっ!」

「おう、俺は朝霧祐輝だ」

「アンタ、俺をからかってるだろ!」

「名乗られたら名乗り返すのが礼儀なんだよ」

 

 足を止め振り返った少年はゆで卵のように顔を真っ赤に染めていた。勢いよく指をさし、上目遣いで高圧的な態度を取る。微笑ましく見守れば睨まれる。

 

「友だちなんだろ、だったら、その、俺じゃできないから、アンタに頼む」

「何が出来なくて、俺に頼むんだ? うん?」

「だからっ、俺じゃアイツを守れねぇ。けど死神になるアンタなら、守ってやれる。それを頼んだって言ってるんだよ」

 

 己の無力を噛み締める悔しさと、大切な家族を思い遣る優しさが入り混じった雫が零れ落ちた。出会って間もない男に家族を託す日番谷冬獅郎の想いを祐輝は受け取る。

 

「おうよ、お前の姉ちゃんは俺が守ってやる。だけどな」

 

 目線を合わせるようにしゃがみ込み、涙を流す小さな男の胸に手を当てる。冷たい熱、矛盾した表現が似つかわしい霊力が確かに存在した。

 

「お前の中にも力が眠っている。それを忘れるなよ、冬獅郎(・・・)

 



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6話

 それまで、座学の授業を抜け出す問題児に補習が組まれていたのは教師の僅かばかりの温情によるものだった。実技科目の成績は申し分なく、斬術では特進学級たる一組に劣らない実力を発揮していたからだ。

 

「お前、このままだと留年するぞ」

 

 放課後、呼び出しを受けた祐輝が教官室の扉を潜れば開口一番に教師からそう告げられた。

 元々、授業を抜け出す癖が一向に改善されないため補習を取りやめる話が持ち上がっていた。成績不振者ならいざ知らず、授業に参加する意欲を持たない者に構う暇は無駄でしかないと。

 親善試合で一組に唯一勝ち星を挙げた結果を惜しまれて補習は今も継続して組まれている。

 では何故、留年の危機に陥ったのか。

 

「縛道の四、這縄(はいなわ)

 

 霊子で構成された縄は目標の的を拘束し瞬時に爆発した。何度目か分からない見慣れた結果に虚しいため息をつく。

 初歩的な縛道だが、祐輝は一度も成功した試しがない。這縄に限らず、発動した縛道は対象に接触すれば必ず爆発していた。そのため、申し分ない破道の成績を縛道で相殺することになり、総じて鬼道の成績は充分と言えなかった。

 惨々な座学を実技科目で補っていたのだ。鬼道の成績が振るわず、結果として進級に必要な基準の成績が不足していた。

 残る三つの実技科目で座学、鬼道の成績を補うことも難しい。斬術は満点に限りなく近いため、これ以上の結果は望み薄。白打も二組では上位の成績を誇るまでになっていた。一方、歩法は諦めの境地に達している。

 高速移動を行う瞬歩は霊力を消耗する。鍛錬を重ねて安定した制御を行えるようになったが、保有する霊力の限界で長時間の瞬歩や、これ以上の高速移動は不可能だった。結果として歩法の成績は頭打ちになった。

 せめて霊力さえあれば、無い物ねだりは仕方がないと首を振る。

 斬術に秀で、座学と鬼道が惨々な阿散井恋次が一組に在籍するのも、祐輝を大きく上回る霊力を保有していたからだ。

 

「座学の成績を上げるか、縛道をまともに発動できるようになるか」

 

 留年を回避する選択肢、腰を落ち着かせるのが性に合わない祐輝は必然的に後者を選び、授業以外では滅多に足を運ばない鬼道の鍛錬場で縛道を何度も的に向けていた。

 変わらぬ結果を否定するべく努力するも、遂に発動すらできなくなった。それは霊力の限界が訪れた照明だった。

 九十九まで存在する破道と縛道は、数字が大きくなるほど難易度が増す。

 それが補助を目的とした縛道に限れば一番台であろうとも攻撃専門の破道と化す。理由は全くもって不明。ちなみに、治療を目的とした鬼道の一種として回道が存在するが、二組は未だ授業で取り扱っていないため当然ながら祐輝は発動できない。

 実のある結果を出せず、消耗した身体で足取り重く祐輝は鍛錬場を後にした。

 

 

 ▽

 

 

「祐輝くん、それで本当に成績を上げたいの? 真面目にやってる?」

 

 両手に腰を当てた雛森の表情は、虚無だった。瞳に影が奔り、声に普段の朗らかさは込められていない。

 視線の先には、縛道の詠唱で的を攻撃し続ける頭一つ分大きい少年、即ち祐輝の姿があった。

 縛道の稽古をつけて欲しい、一組の教室に赴いた祐輝は雛森に向かって頭を下げた。普段の掴み所のない態度と違って真摯な物言いで、加えて頼りにされたことが嬉しく雛森は快諾した。

 そうして放課後に二人は鬼道の鍛錬場に赴いた。

 真剣な表情で縛道を詠唱する姿は、斬術に打ち込む雛森の好きな祐輝と変わらない。霊力を込め、一番台とはいえ完璧に這縄を放った姿は流石だと思った。

 その思いはすぐさま打ち消された。的を拘束した這縄は次の瞬間に爆発を起こす。黒煙が立ち昇り、的には焦げ付いた跡が残る。

 最初はからかってるのかと笑いながら抗議した。もう、縛道が破道になってるよ祐輝くん。日頃の行いを思い返せば、また意地悪をしたのだと。

 

「ねぇ、祐輝くん」

 

 詠唱、発動、接触、爆発。

 

「ちゃんと座学の授業に出れば進級できるんだよ?」

 

 足音もなく雛森は祐輝の傍らに近づき、華奢な細腕で胸倉を掴み上げる。

 

「留年しちゃうかもってあたし言ったよね? ばかっ、祐輝くんのばかっ」

「だから雛森に縛道を教えてもら――ぐふおゥっ!?」

 

 鳩尾に一発、拳骨がのめり込む。額に青筋を浮かび上がらせ、肩を震わせながら、祐輝の首根っこを引っ掴むと引き摺りつつ鍛錬場を出ていく雛森。

 

「もう縛道は諦めてっ! あたしが座学の勉強を見てあげるから、いいっ!?」

 

 霊力を安定してこみ上げ、縛道を発動させるまでは雛森の目から見ても充分な出来だった。それでも的に接触すれば爆発するのは意図的としか思えない。だが祐輝は真摯に雛森に教えを請い、そして持ちうる限りの知識と経験を伝授しても一向に改善されなかった。ならば理由は不明ながら適性がないと判断せざるを得ない。

 鬼道の成績も改善できないのなら、座学の成績を伸ばすほかに留年を回避する術はない。

 

「ほらっ、これから放課後は毎日あたしと勉強することっ」

 

 寮の雛森の自室。備え付けの勉強机を前に、引き摺られて連行された祐輝は乱雑に手を離される。物音を立てて机の上に置かれるのは雛森の持つ教本。

 そもそも座学を抜け出す祐輝が悪いのだ。何度も注意してるのに、留年すると言い続けたのに聞く耳を持たず、そして留年が現実的となった。

 流石にお人好しが過ぎるだろうか。うん、普通ならもう知らないと放っておくはず。それでも見捨てずに勉強を教えようとするのは友だちだから。そう、友だちなら助けてあげなくちゃ。

 心の奥底では祐輝と共に過ごす口実ができたと喜ぶ己の気持ちに、雛森は気づかない。

 

「まっ、毎日、か……?」

「祐輝くんの自業自得なんだからね、ちゃんと反省するようにっ」

「そりゃまぁ、腰を落ち着けるのは性に合わないんだよ」

 

 悪びれながらも反論するように祐輝が言うと、雛森の中で何かの線が切れる。

 

「もうっ、それで留年しちゃったら元も子もないんだからねっ! ほんとに祐輝くんはどうしていつもいつも授業を抜け出すのっ!」

 

 怒りを発散するように勉強机に手を叩き、前のめりに詰め寄る。言い訳は許さないと睨み付ければ居心地が悪そうに祐輝は目を逸らす。

 数瞬、或いはもっとそれ以上の静寂が訪れる。やがて観念したのか、重い口を開いて祐輝は語った。

 

「昔からの、あぁ、流魂街にいた頃の癖なんだよ。毎日そこらじゅう走り回ってたからなぁ、ゆっくり腰を落ち着けるのが本当に慣れなくて」

 

 寂寥に彩られながら笑いかける祐輝を見たのはこれが初めてじゃない。確か、死神を目指す理由を聞いた時も同じ表情を浮かべていた。

 そう言えば、祐輝の流魂街時代の話は一度も聞いた記憶がない。どの地区出身で、どのように過ごしていたのか、怒りこそ醒めていないが興味が沸き出る。今ならば、或いは答えてくれるのではないだろうかと。

 

「納得してくれたか?」

「全っ然、これっぽっちも納得してません。それで授業を抜け出していい理由じゃないんだよ」

 

 だから、と続ける。

 

「祐輝くんの昔の話をしてくれたら、許してあげる」

 

 

 ▽

 

 

 東流魂街七十四区の住人にとって、朝という単語は昼と同義だった。日没と共に夜闇が空を支配する。太陽が顔を見せるのは、早朝から立ち込める濃霧が晴れた昼過ぎから日没までの僅かな間だけ。

 番号が大きくなるほど、流魂街の治安は悪化してゆく。七十四ともなれば、窃盗や喧嘩は日常的であり道端に死体が転がることも珍しくない。

 故にこの地区では、濃霧によって一寸先の視界を確保できない朝を出歩くことは自殺行為に等しく、日没後も同様だった。

 それでも太陽の恵みを受け取る僅かな間を、住人たちは懸命に生きている。貴重な水を巡った争いは各所で頻発する。大人たちは疑心暗鬼から少人数で行動し、絶対的な弱者である幼子は搾取されるか、或いは同じ幼子たちで群れることで糧を得る。

 地獄の苦しみを味わうことはなくとも決して気楽な場所ではない。その地区の名前は住人にとって忌々しい存在の象徴である朝霧(・・)だった。

 

「このクソガキがァっ! どうせ野垂れ死にすることはないんだ、さっさと水を返しやがれっ!」

 

 背丈の半分を占める樽を抱えた盗人は返事の代わりに速度を上げた。

 貧相なあばら屋が建ち並ぶ朝霧の一角は、太陽が出ているため住人の姿が多い。水をはじめとする貴重な生活用品を並べた露店では、店主と顧客が値段を巡って口論を交わす様が沢山見受けられた。

 貨幣を持たない幼子も、糧を得るために知恵を巡らす。口論の隙を突き、或いは商品を運ぶ台車から直接盗みを働く。

 盗人は小さな背丈を活かして大人では通れない道筋を使い、逃亡に成功した。

 足を緩め、息を整える。継ぎ接ぎが目立つ衣服の袖で額の汗を拭い、水の蓄えられた樽を抱えなおす。腹は(・・)満た(・・)せず(・・)とも(・・)、喉の渇きを潤せると盗人は顔を綻ばせる。

 大人から盗みを働き、捕まればどのような仕打ちを受けるか。その危険性を理解している幼子もまた知恵を巡らせる。大人同士で相争う朝霧の住人が、幼子同士で争うことは不思議でない。

 油断も一つの隙だ。小柄な盗人の戦利品を猫のように掻っ攫う影が忍び寄った。

 

「これは俺んだ」

「あれっ、あれれれっ!?」

 

 尤も、伊達に大人から盗みを働いていない。逃げ切った後に漁夫の利を狙う同じ子どもたちが寄ってくることも一度や二度ではなかった。

 勢いに身を任せて飛び出した影は樽を掴むことなく盛大に転んでしまう。盗人は悠々と樽を肩に掲げ、仰向けに転んだ影の背中へ腰を下ろす。

 雅な髪色を持つ、背丈が幾分か小さな少女は抗議の声と共に足掻く。

 

「重い~っ! ちょっと女の子に酷くない!?」

「他に仲間は? お前一人?」

「教えて欲しかったらその水を――わわわっ、ちょっと肩に乗らないで、一人、一人だからあっ!」

 

 周囲の様子を探るが、助けが現れる気配は感じられない。本当に一人なのだろうと判断するが、警戒は解かずにどうするか思案する。

 

「えっ、どいてくれないの!?」

「どいたら俺の水、取るだろ」

「喉乾いてるんだから当たり前じゃん!」

 

 包み隠さず正直に打ち明けられたところで、一滴であろうと水を渡す気はなかった。

 大多数の流魂街の住人は喉の渇きを潤すべく水を求め、その結果として殺傷沙汰が起こり、或いは虚という化け物に襲われて死を迎える。しかし、飢えて野垂れ死ぬことはない。

 だから盗人の持つ飢餓と無関係な存在に水を与える義理などないのだ。空腹を満たせない以上、喉の渇きくらいは。

 気の抜けた盛大な音が漏れたのはその時だった。音の発生源は下敷きにしている泥棒猫。

 

「食べ物がないんだから水くらいちょーだい! どうせお腹空いてないんでしょっ!?」

「お腹空いてんの?」

「その辺に生えてる草を食べてもお腹いっぱいになると思ってるわけ!?」

 

 草よりは木の枝を拾った方がまだ腹の足しにはなる。

 同じ境遇の幼子を目にするのは初めてだった。盗人の中に仄かな同族意識と呼べるものが芽生えたのはある種必然的と言える。大人も、同じ幼子も、周囲の全てが飢餓と無縁である癖に水を狙う敵という状況は盗人に孤独を与えていた。

 懐をまさぐる。取り出したのは、皺の寄った草で束ねられた乾いた固形物。

 

「露店から盗った最後の一個。不味いけど、食い物だから」

 

 腰をどかして差し出せば、固形物と盗人の表情を交互に見る。恐ろし気に手に取り口に含めば顔を歪ませるが、余程空腹だったのか勢いよく食してゆく。

 今度は盗人から盛大な音が漏れ出た。

 

「もしかして、アンタもお腹空いてたの?」

「草を食べても腹は膨れない」

 

 言葉を真似ると気まずそうに眼を逸らされる。心なしか、高い位置で結った髪の毛がしわがれたように見えた。

 

「ごめんなさい、他の人たちお腹空かないから、てっきり」

「いいよ、また盗ればいいから」

 

 樽を揺らして水も飲むかと訊ねる。大きく喉を鳴らしながら、食料を貰った罪悪感から逡巡し、けれども最後には頷かれた。

 結局、最後の食料と樽に入った半分の水を手放したが盗人は気にしていない。また盗めば良い、その程度に考えている。

 

「あたし茜雫(せんな)、あんたの名前は?」

 

 飢えと渇きは依然として残る。だがそれ以上に、孤独を埋める同胞と出会った。

 

 

 ▽

 

 

「腹は減る、喉が渇く。水を盗んでは大人から逃げる毎日だった俺にとって、腰を下ろして人の話を聞くのは全然慣れないんだよ」

 

 以前、雛森に連れられて訪れた西流魂街一地区の潤林安(じゅんりんあん)を脳裏に描く。雛森が祖母と慕う人物と、白髪が特徴的な生意気な少年、大人と子どもが一緒に暮らし、水や食料は盗む必要性が全くない。

 貴族と死神の住まう瀞霊廷より貧しくとも、祐輝の育った地区と雛森たちの育った地区は別世界だった。

 

「その、一緒に暮らしてた茜雫さんはどうしたの?」

「ちょっと遠くにな、俺を置いて先に()っちまったよ。あいつ、ほんと自分勝手だったし」

 

 雛森は酷く後悔した。子どもが生きるには過酷な環境で、水と食料も満足に手に入らない。そして祐輝は一人で霊術院に入学している。少女の現在を推測するには充分だった。

 

「ごめんね、祐輝くんに辛いこと話させちゃって」

「気にすんな、自分の名前にする程度には、な」

 

 幼くして流魂街に辿り着いた魂魄は、姓を知らないことが多い。故に育った地区の名前を姓として名乗る場合が多々ある。

 

「それでもだよ、誰だって辛いことを話すのは嫌なはずだもん」

 

 留年するかもしれないと真面目に言い続けた雛森は悪くない。それを適当に聞き流し続けた自業自得なのだから。

 ただ、それでもどうして雛森に話したのだろう。わざわざ勉強を教えてもらうから、それとも忠告を無視した贖罪のつもりか。或いは、過去を振り返った為なのだろうか。

 不可解な感情を解きほぐそうとして、それは唐突に中断される。

 

「明日から、ちゃんと勉強しよ」

「どうしたんだよ、さっきまで俺に勉強教えるつもりだったろ」

「ううん、いいの。だって」

 

 頬を熱いものが流れる。表情を歪ませた雛森を目にし、胸が酷く抑え付けられる錯覚に陥った。

 

「祐輝くん、哀しい顔をしてるもの」

 

 

 ▽

 

 

 講堂に続く道のりをゆるやかな風が吹いていた。季節を象徴する桃色の花びらが何枚も舞い落ちる。それは進級し、死神へ一歩近づいた若者たちを歓迎するように見受けられた。

 真央霊術院の進級式は、満開の桜が咲き誇る時期に行われる。後日には、新たな若者を迎える入学式が控えていた。

 講堂では学院長が進級した生徒たちに向けて有り難くとも眠気を誘う言葉を長々と紡ぐ。勤勉で真面目な者たちは姿勢を正して静聴し、大多数の一般的な感性を持つ生徒は小声での私語、或いは欠伸を隠しもしない。

 ごく少数の不真面目な者は存在しない。日頃の素行が悪ければ留年し、進級式の場に立つ資格が与えられない。

 雛森にしては珍しく上の空で学院長の言葉を聞き流し、進級式は終了した。

 その後は学級ごとに教室で担当教師からの注意事項や、今後の予定、行事、進級してからの授業の違いなどを説明される。一組の顔触れは見慣れた者たちだが、その数は入学式と比べ減っていた。

 現世での実習中に巨大虚(ヒュージホロウ)に襲撃され死傷者を出したのが原因だった。死者は帰ってこない、そして虚の恐怖に屈した者は霊術院を去っていた。

 一年前を思い出し、雛森は一抹の寂しさを覚える。

 

「どうしたよ雛森、春なのに辛気臭い顔するもんじゃないぜ?」

 

 様子を気にした阿散井恋次と吉良イヅルに何でもないと告げ、二組の教室へ向かう。

 進級式で、霊圧は探知できなかった。寮で顔を合わせても、特別変わった様子が見受けられなかっただけに、仄かな不満が芽生える。

 扉から教室の中を見渡せば、もはや見慣れた二組の面子。しかし、目的の人物は見当たらない。

 二回生二組の教室に姿を見せず、進級式でも霊圧を探知できなかった。自ずと結論は導き出される。

 

「祐輝くん、まさか」

「おうよ、俺がどうかしたか?」

「ふわぁっ!?」

 

 能天気な声がした背後を振り返る。浅打を肩に乗せ、器用に欠伸を噛み締める頭一つ分大きい少年の姿を見て、様々な感情が一挙に湧き起こる。

 姿を見せなかったことへの不満、能天気な様子への怒り、無事に進級した嬉しさ、それらを綯い交ぜにしながらも、桃色に頬を染めて言葉を紡ぐ。

 

「進級おめでとう、祐輝くんっ!」

 

 心配したせめてもの抗議として、強く祐輝の手を握る。それは風に吹かれてどこか遠くへ行ってしまわないように、強く握りしめて。

 








元々第6話は投稿済みでしたが、日を置いて改めて読むと個人的に納得のいく出来ではありませんでした。第7話は執筆していましたが、第6話を描き直したいとの思いが強く、大変身勝手ながら投稿済みのものを削除、新たに執筆した話を第6話として投稿しました
第7話は推敲が終わり次第に投稿します






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7話

 眼前まで持ち上げることで掌は漸く視界に入る。地面を踏みしめる確かな感触で地に足をつけていると理解できた。濃厚な霧によって己の身体すら存在しているか酷く不明瞭な錯覚に陥る。

 頭上を見上げれば、陽の光はもちろん、月明かりさえ届かないだろう灰色の霧が果てしなく広がっていた。時刻の判別などもちろん不可能だったが、濃霧と馴染み深い過去から一つの確信を抱いていた。

 今は朝だ、そして朝に霧が出る世界はかつて生まれ育った場所。

 両の掌を開き、握りしめる動作を繰り返す。普段は腰に差すお守り、即ち斬魄刀の重みが消失していることに気づく。

 成る程、この夢みたいな世界に呼び寄せたのはお前なのか。未だに名を知らぬ斬魄刀へ言葉にならない呻き声を挙げる。斬魄刀の狙いも自ずと想像がついた。先ほどから手を引くように風が肌を撫でる。誘う鈴の音色が響く方向は、風が手を引く先と同じ。

 霧の世界で探し出して見せろ、斬魄刀から与えられた試練なのだと。

 

「今日こそはお前の名前を聞き出すからな」

 

 鈴の音色は命を示し、風は命を運んでくるもの。導きに従い朝霧の姓を名乗る少年は一歩を踏み出した。

 地面の感触がぬかるんでいく。風の勢いが強まり肌を叩き付ける。

 祐輝は忘却していた。夢の世界で命を示す存在は斬魄刀のみではない。心に焼き付いた過去という記憶の中に、かつて寄り添った小さな命の残滓があると。

 いつしか霧が晴れ、だが雷鳴轟く豪雨が視界を覆う。無意識のうちに駆けだしていた己の身体は泥にまみれ、前方へと腕を伸ばし続ける。果たして探している存在は斬魄刀なのか、或いは茜雫なのか、もはや祐輝には分からない。

 誘う鈴の音色は雷鳴が轟くごとに儚くなってゆく。眩い光に一瞬だけ視界を奪われ、次に現れたのは死神の影と、幼い己の姿。

 

「お前が忘れない限り、心の中に残り続ける。いいか、弱い自分を許せないってなら、死神になれ坊主」

 

 黒髪の死神が残した言葉と共に、世界が砕け散ってゆく。幼い己の姿のみがいつまでも原型を留め、されど背中を振り返ることは決してない。

 世界の破片に少女の背中を垣間見たのは一瞬だった。

 

 

 ▽

 

 

 夜風に当たりたい気分が生じた祐輝は寮の屋上で胡坐をかいていた。眉を顰めながら見つめるのは、膝の上に置いた斬魄刀。

 無銘の斬魄刀、浅打が貸与されて以来、祐輝は同調と対話を幾度も試みていた。命の存在を鈴の音色として認識し、風によって伝えられる独特の知覚は斬魄刀と同調した結果によるもの。しかしながら名前を知ることはなく、祐輝は斬魄刀の姿を掴んだことはない。

 一向に名を教える気配のない斬魄刀へ向けてこれ見よがしに溜め息をついてみせるが、からかうようにそよ風が頬を撫でてゆく。

 

「今日はお月様が出てないのに、夜空を眺めてるの?」

「月の無い夜も風情ってあるだろ」

 

 浅打の柄で傍らを叩いて見せれば、膝を立てて雛森は腰を下ろした。薄い寝間着の上から厚着を羽織り、普段と違い髪は結わずに下ろしている。

 

「良い子は寝る時間だろ、わざわざこんなところに何の用だ」

「祐輝くんの霊圧を感じたから来たんだよ、それだけ」

「授業はもう抜け出さないよ」

「うん、知ってる。言ったでしょ、祐輝くんがいたから来ただけなの」

 

 一回生の学年末、祐輝は留年の危機に陥ったが雛森が勉強の面倒を見てくれたおかげで無事に進級を果たした。それ以降、雛森への恩義も相俟って祐輝は苦手な座学の授業も抜け出すことなく参加し続けている。

 そうして二回生は何事もなく過ごし、無事に三回生へと進級を果たした。

 いや、正確には変わったことが一つだけ存在する。祐輝がこのように独りで過ごしていれば、何処からともなく雛森が現れて傍らに腰を落ち着けるのだ。

 かつて寄り添った存在の面影を重ね、束の間の心地良さを思い出す。傍らの雛森は手の届かない場所へ離れて行かない、根拠のない安心感を抱いていた。

 心の内を零してしまうのも、雛森に信頼を抱くからこそ。

 

「なぁ雛森、斬魄刀の声って聴いたことあるか」

「ううん、ないよ。もしかして祐輝くんはあるの?」

「あぁ、声っていうか、命の鼓動みたいな鈴の音なんだけど」

 

 名前を教えてくれない意地悪な奴だと零せば、口元を抑えながら雛森は上品に微笑む。

 

「意地悪な所とか、祐輝くんにそっくりさんだねその斬魄刀」

「俺を何だと思ってるんだお前は」

「うん、意地悪で気分屋だけど、真剣な時はかっこいい人かな」

「最後に褒めればいいってもんじゃないぞ」

 

 不機嫌さを表現すべく口元をわざとらしく膨らませる。微笑みながらも気持ちの籠らない謝罪を口にする雛森の目は、優し気だった。

 吸い寄せられるように雛森を見詰めていた事実を悟らせぬよう、無理矢理に話題を、正確には悩みを続ける。

 

「俺がコイツの声を聞いたのは一回生の時だぞ、それがもう三回生。いつになったら名前を教えてくれるんだかさっぱり分かんねぇ」

「あたしはもう斬魄刀の声を聞いてるだけで充分凄いと思うなぁ。だってあたしは全くできないし、阿散井くんや吉良くんも同じはずだから」

「けど名前は教えてくれない」

「焦る必要はないよ、教本にも寝食を共にして練磨を重ねなければならない、って書いてあったじゃない。祐輝くんなら頑張り続ければ、いつか斬魄刀に認めてもらって名前を教えてくれるって、あたし信じてるから」

 

 照れくさそうに頬を桃色に染めながらも、確信に満ちた雛森の声を聞いて悩みが和らぐ。

 そうだ、時間は沢山ある。霊術院に在学中の生徒が斬魄刀の名を聞き出し能力を解放するなど、数十年に一人の割合と言われている。通常はある程度の歳月をかけて斬魄刀を解放するものなのだ。

 焦る必要はないと言い聞かせる。

 

「ありがとな雛森、なんだ、のんびりと付き合っていくさ」

「力になれたなら良かった。でも斬魄刀かぁ、あたしの斬魄刀はどんな感じなんだろう?」

 

 斬魄刀は所有者自身の魂を写し取るとされる。根が真面目で心優しく、しかし阿保みたいに抜けたところのある雛森を思い浮かべ、きっと斬魄刀も同じ心の持ち主なのだろうと推測する。

 可愛らしい音が聞こえた。傍らを見遣れば、肩を縮こませ鼻をすする雛森の姿。

 

「冷えて来たな、そろそろ部屋に戻らなきゃ風邪ひくぞ」

「じゃあ祐輝くんも戻ろ?」

「本音を言えばもう少し風に当たっていたいんだよなぁ」

「もうっ、祐輝くんが風邪ひいちゃうよ。それに明日は朝から藍染隊長の授業なんだからねっ!」

「はいはい、分かったから俺を引っ張るなって。部屋まで自分で戻るから」

 

 

 ▽

 

 

 三回生ともなれば、授業内容は大きく様変わりする。必修科目以外は生徒が各々受講したい科目を選択するのだ。

 身体を動かすことが得意な生徒は実技科目を中心に、護廷十三隊ではなく隠密機動を目指す生徒は、歩法や暗器の扱い方など関連する授業を選択する。

 必修科目以外は特進学級たる一組と、それ以外の学級の生徒も選択科目は同じものを受講できる。

 祐輝は選択科目を受講する際、雛森に誘われる形で可能な限り同じ授業を選択していた。座学の授業は抜け出さなくとも、眠気を誘われてしまうのは変わらない。そのため真面目な雛森がいれば、いざという時に勉強を教えてもらうつもりだった。無論、半分は冗談のつもりで飄々と言ってのけたが、嬉し気な表情が一転して怒りに染まった雛森に頬を叩かれもしたが。

 選択科目の一つに、五番隊の藍染隊長が行う授業が含まれていた。

 護廷十三隊の現役の隊長が教壇に立つ、それだけで授業は莫大な人気を誇っていた。教室内の座席は全て埋まり、尚且つ廊下に溢れてまで講義を聞こうとする熱心な生徒が何人も見受けられた。

 未だ死神ですらない生徒たちにとって、隊長は雲の上よりも高い存在だ。故に直接その話を聞ける機会は滅多にない。

 最前列の座席、それも教壇の目の前という誰もが羨む場所を確保したのは雛森の意地だった。憧れる藍染の話を間近で聞くためならば労力を惜しまず、瞬歩で教室に一番乗りしたほどだ。

 傍らには祐輝が腰を下ろしていた。居眠りしても目立つことのない後方の座席に腰掛けたいのが本音だが、雛森に呼ばれたのだから仕方がない。そう、他の授業でも雛森の隣に腰を下ろしているのだからある意味で当然なのだ、と誰に宛てたか分からない言い訳を作る。

 

「楽しみだね祐輝くんっ」

「お前の楽しそうな声が唯一の癒しだよ」

 

 子どものように瞳を輝かせ、小躍りしそうな勢いで雛森は待ちわびている。

 やがて、白い羽織をはためかせて眼鏡をかけた穏やかな物腰の男性が入室した。本当に隊長なのか、と思わず勘繰りたくなる程度には貫禄といったものが感じられない。学者か、それこそ教師と言われたら納得してしまいそうな雰囲気を漂わせる、それが祐輝にとっての第一印象だった。

 

「やぁ、これほど多くの将来有望な若者が受講してくれて僕も嬉しく思うよ。これから短い間だが君たちに教鞭を執らせてもらう、五番隊隊長の藍染惣右介だ」

 

 洗練された物腰で黒板に己の役職と名前を書いた藍染は教室内、そして廊下にまで伸びる人影を見渡したのち、最後に感極まる表情を浮かべた雛森に笑いかけた。

 もはや人生に悔いはないと昇天しかける雛森に、さりげなく肘をつついて現実に引き戻す。すぐさま表情を引き締める、かと思えばそれは数秒もせずに崩れた。

 この授業、寧ろ雛森はまともに話を聞けるのだろうか、と真剣に考えてしまう。

 

「さて、一つだけ残念なことを言わねばならない。僕は隊長としての業務もあるから、霊術院に足を運べるのは週に一回、この時間だけだ。授業で疑問に思ったことがあれば、霊術院にいる間は遠慮なく尋ねに来なさい」

 

 それではさっそく授業を開始しよう、藍染は達筆で二つの文字を黒板に書く。

 

「死神……?」

 

 思わず口ずさんだ雛森に応えるように藍染は説明する。

 

「尸魂界と現世の均衡を保ち、虚から現世を護る役目を与えられたのは他でもない死神だ」

 

 現世で彷徨う魂魄を尸魂界に送り、魂魄を糧とする虚を退治して現世と尸魂界の均衡を保つ。それは一回生の教本で習う基礎的な教養だった。

 

「斬魄刀という力を持ち、虚を退けることは出来る。それは現世の、流魂街の人々を救うことに繋がる。だけどね、僕たち死神は決して天から物事を見下ろす神ではないんだ」

 

 心の在り方次第では死神の力は虚と変わらない。私利私欲のために振るえば弱き命を傷付けることすらあり得る。力だけを求め、道を踏み外す者もいる。己の正義に酔いしれて、相容れない存在を悪と断言するかもしれない。

 藍染の語る言葉に、己が求める力は何だろうかと自問自答する。斬魄刀の名を聞くべく刃禅を繰り返すのは、力を求めるためだ。

 

「死神を目指す理由は個人によって異なるはずだ。僕はその理由や原動力そのものを否定はしない。例えば、そうだな。君、名前は?」

 

 教壇の目の前に座る雛森、ではなくその隣に腰掛ける祐輝へと眼鏡越しに柔和な笑みが浴びせられる。まさか指名されると思っておらず、思案中だったこともあり名前を告げるのに僅かな間が生じた。

 

「朝霧祐輝、です」

「では朝霧君、君が死神を目指す原点を聞かせてもらってもいいかな」

 

 かつて一度だけ、雛森にも聞かせたことがある。幼い頃に死神に憧れた、だから死神を目指すと。

 それは理由であって、藍染の訊ねる原点とは違うように思えた。

 記憶に蘇る、流魂街時代の思い出。腹が減るという同じ境遇の少女と盗みを働き、共に少ない水と食料を分け合った。幸せとは程遠いにせよ、日々を懸命に生きていた色褪せない記憶。

 茜雫という少女が生きていた確かな証であり、憧れの死神と出会った原点。

 

「俺の手が届く限り、誰かを護れる力が欲しかった。だから、死神を目指そうと思って」

 

 この場にいない、生意気な少年と交わした言葉。雛森を護ってやるという、確かな約束。

 

「朝霧君、君の言う誰かを護るための力は、君の在り方次第で暴力にも変わるんだ。皆も覚えていてほしい。僕たち人は誰もが地に足をつける平等の存在だ。決して、力を手にしても特別だと驕ってはいけないよ」

 

 

 ▽

 

 

「浅打はちゃんとあるっと。あ、帯が少し緩んでるよ。だらしないなぁ全く」

「お前は俺の保護者かよ」

 

 帯をきつめに結びなおす雛森へ呆れながら告げた。

 三回生二組は、現世での実習に出発する。特進学級の一組はこれまでにも何度か現世での実習を行っているたが、祐輝たち二組は三回生になって漸く現世での実習が執り行われる。待望の現世実習に級友たちは興奮を抑えきれず、祐輝もまた、初めての現世に密かに心が躍動している。

 見送りに来た雛森は真面目な性格を発揮して、持ち物から身だしなみに至るまで祐輝の全身をくまなく確認していた。

 傍から見て世話を焼く姉とだらしない弟、もしくは祐輝が尻に敷かれる光景だった。

 

「現世でもちゃんとしてね、霊術院に戻るまでが実習だよ?」

「それ、確か俺がお前に言ったよな」

「それじゃ、気を付けてねっ!」

「おう、すぐに戻って来るわ」

 

 何ら気負うことのない軽々とした返事はいつものこと。ただ、祐輝の背中を見送る機会は滅多にないものだと雛森は思った。

 ふと、忘れ物でもしたのか遠ざかる背中は歩みを止めて振り返る。

 

「そうだ、今度の休日にでも甘味処に行くか?」

 

 特に深い意味もなく、偶々そう考えついただけ。しかし淡い期待を雛森に抱かせるには充分過ぎる誘いの言葉。

 

「ほんとにっ!? 絶対に行こうっ、約束だよ祐輝くんっ」

 

 

 ▽

 

 

 固く舗装された道を、黒煙を噴き上げながら走る鉄の馬。洋服という見慣れぬ格好をした人々。流魂街の家屋や霊術院の校舎とは明らかに設計思想の違う高層建築物。

 はじめて目にする現世の光景はその全てが新鮮だった。

 雛森が現世の実習から帰って来る度に目にした光景を話す気持ちが、今ならば理解できる。確かに尸魂界と文化そのものが違う異世界、それが祐輝の抱いた現世の印象だった。

 くじ引きによって三人一組の班が幾つも組み分けられる。班一つに引率の上級生が付き従って実習は開始する。かつて雛森たち一組は一回生の段階で虚の模造品を相手にする実戦的な内容だったが、二組が行うのは現世の魂魄を尸魂界に送る魂葬というもの。

 現世で命を落とせば、その魂魄は全て自動的に尸魂界へ昇天するわけではない。未練によって現世に縛り付けられ、或いは死を自覚することなく、現世を彷徨い続ける魂魄がいる。

 死神はそれら現世を彷徨う魂魄を尸魂界に送ることで、二つの世界の均衡を保つ役割が与えられていた。

 実習で魂葬する魂魄は模造品ではなかった。正真正銘、現世を彷徨い続ける魂魄たちだった。

 当然ながら自力で見つけ出し魂葬せねばならない。

 

「おっと、向こうに一人いるぞ。多分これ、子どもだな」

 

 雛森曰く、祐輝にそっくりで意地悪な浅打を風の吹く方向に向ければ、弱々しい鈴の音色が聞こえた。先導すれば、訝し気な表情で二人の班員と引率の上級生が付き従う。

 魂魄を見つけ出す方法は特に指定されていない。持ち前の霊圧探知能力を活かし、或いは鬼道を用いてもよい。ならば、と祐輝は考えた。別に斬魄刀を使っても構わないのだろう、と。

 坂道を登り何回か角を曲がれば案の定、現世の格好をしたおかっぱ頭の少女が一人、物憂げな表情で佇んでいた。胸元から似つかわしくない鎖を垂らしていた。

 因果の鎖と呼ばれる、肉体と魂魄を結びつけるものだった。この鎖が千切れると肉体は死亡し、魂魄のみの存在と化す。更に鎖は切れた部分から消失が開始し、それが魂魄まで到達した時点で虚へと堕ちる。

 死神の魂葬は善なる魂魄を虚化させない側面も併せ持っていた。

 

「え、えっと、お兄ちゃんたち、だぁれ?」

 

 電柱と呼ばれる柱の陰に隠れ、怯えながらも問いかける幼子。対するは、現世の住人にとって見慣れない霊術院の制服を着こみ、刀を携えた正体不明の四人組。

 怯えるのが当然、寧ろ逃げ出さない少女は肝が据わった部類だった。

 視線を背後に向ける。級友二人は任せると頷くのみ。引率の先輩は余程のことが無い限り手出しは禁じられていた。

 

「尸魂界、は分かんないよな。あ~、空の上の世界からな、お前みたいな迷子を迎えにきたんだよ」

 

 我ながら語彙力が酷いと自虐する。

 

「えっ、じゃあお兄ちゃんたちは天使様なのっ!?」

「いや、まぁ、現世の言葉ならそうなるの、か……?」

 

 もし死神だと告げれば一転して泣き喚くのだろうかと首をかしげるも、信用を得たのか少女は因果の鎖を垂らしながら祐輝の足元まで近寄る。

 

「じゃあ、天国に連れてってくれるの?」

「地獄じゃない世界に、な。じっとしてろよ」

 

 ちくしょう、朝霧みたいな場所は気安いと言えないがそれでも地獄よりは恵まれた世界のはずだ。

 斬魄刀の柄を魂魄の少女の額に当てる。虚ならば刀身で斬り伏せることで魂葬が可能だが、善なる魂魄には柄を当てることで魂葬を行う。

 

「ん……っ」

 

 目を瞑り、震えながらも少女は息を吐く。やがて足元から霊子の粒子となって身体は消失してゆく。どこぞの流魂街に流れ着くはずだが、願わくば雛森の暮らした潤林安のような平和な地区で暮らしてほしい。

 

「ありがとう、お兄ちゃん」

「元気でな」

 

 初の魂葬にしては上出来だと上級生から告げられる。普通なら緊張などで力が入りすぎ、魂葬の際に魂魄は悲鳴を挙げる程の痛みに襲われるらしい。

 程なくして祐輝は上級生の言葉を目の当たりにする。

 

「あナぁルぅぅぅっ!?!?」

 

 奇声と共に痛みから逃れるべく尻を向けて消え去った中年の男。

 

「あっ、あぁっん……んっ」

 

 全身を悶えさせ、痛みを堪えるように口を噤ませながら光となった同い年らしき少女。

 同じ班の二人が行った魂葬はどちらも肩に力が入りすぎていた。見ていて魂魄が哀れに思えた祐輝の気持ちは上級生も共有していたようで、魂葬のコツと共に次に活かす言葉を並べている。

 その後も、魂魄を見つけ次第に魂葬をしてゆく。時には祐輝たちの持つ斬魄刀を見て逃げ出す魂魄もいたが、特別な力を持たない為に逃げられるはずもなく、最後には尸魂界へ旅立ってゆく。

 夕陽が差し、現世の街並が茜色に染まる。複数の班が町全体を回っているからか、魂魄が見つかる気配がない。引率の上級生も潮時と判断したのか、一足早く集合地点へ向かおうと提案する。

 慣れない現世で魂葬を続け疲労の溜まっていた祐輝たちは反対するはずもなく、四人は集合地点とされた自然公園へと足を運んだ。

 

「朝霧君も初めての魂葬なのに、どうしてそんなにうまくいったの?」

「雛森さんから手取り足取り教わったんだろ、なっ祐輝?」

「うるっせ、偶々だよ偶々」

 

 手近な木の陰に腰を下ろし身体を休める。木々が茜色に染まり、疑似的に紅葉が出現する。電柱や、空に伸びる現世の建物が若干風情を乱しているが、却って新鮮な光景だと目に焼き付ける。

 現世の風に身体を預け、暫しの休息に微睡む。

 

「しかし他の連中は遅いな。もう大して魂魄もいないはずなんだが。お前たち、少しここで待ってろ、様子を見て来る」

 

 引率の上級生は訝しみ、瞬歩で何処かへと消える。

 祐輝たちは魂葬すべき魂魄が見つからないため、魂葬を諦めて集合地点へとやってきた。それには身体の疲労も理由に含まれている。祐輝たちの見逃した魂魄を他の班が魂葬してるにせよ、班の一つや二つは集合地点に姿を見せてもおかしくない頃合いだった。

 風に乗って伝えられる鈴の音色は一つもない(・・・・・)。祐輝の消耗も関係しているのだろうが、この街に魂魄が存在しないのは確かだろう。

 

「もしかして私たちが集合地点を間違えたとか?」

「なわけあるかよ、俺たちが最初に降り立ったのはこの公園だぞ」

「だったらどうして私たちの他に誰も現れないの?」

「二人とも落ち着け、どうせ現世でも観光してんだろ。雛森はいつも現世の街並がどうのって俺に話してるしな」

 

 様子を見に行った上級生も一向に戻る気配を見せず、二人の級友は徐々に不安を隠せなくなる。いつしか茜色の空は群青色へ変貌しつつあり、肌を刺す風が吹いていた。

 尚も木の影に腰を下ろし続けた祐輝は同じく敢えて飄々と口笛を吹く。まるで気にしていない、というように。

 異変、と呼べるものは薄々勘付いていた。だからこそ普段通りに振る舞うことで級友二人を僅かばかりでも安心させようとする、不器用ながらの優しさだった。

 柄へ手をやる。現世の風は静寂そのものだった。祐輝たち霊術院の生徒が街の中に散らばるならば、それらの命を示す鈴の音色が風に乗るはずなのだ。

 

「おっ、この霊圧は先輩のものじゃないか?」

「でも一人だけよ?」

「土壇場で集合地点が変更になって俺たちを呼びに来たんじゃないのか。ほら祐輝、お前も寝てないで行くぞ」

 

 立ち上がる。肌を刺す風の痛みは変わらず、されども確かに霊圧は引率の上級生のものと寸分違わない。だが、妙なざわめきを感じる。

 不安、それとも違和感か。言い知れぬ感情の正体を探ろうとし、それは斬魄刀によって瞬時に解決した。霊圧の持ち主は、深淵を覗くように深い音色の命を発する。

 

「逃げろお前らっ!」

 

 過去は手が届かなかった。現在(いま)は、言葉が間に合わなかった。

 

 

 ▽

 

 

 刀を彷彿とさせる一筋の爪が振るわれ、空気を裂く振動と共に迫り来る。

 身体の軸をずらし、躱す。得意とする最短で最小の動作ですぐさま斬り返す。だが斬撃は浅く皮膚を裂いたのみであり、瞬時に傷跡が塞がる光景に舌打ちをする。

 細身に反した二つの剛腕から生える鋭利な爪を一撃でもこの身に受ければ、即座に致命傷となり得る。

 一旦距離を取るべく後方へ跳躍し、真正面から追撃して来る虚の顔面に向けて斬魄刀を保持しない左手を向ける。

 

「破道の三十一、赤火砲(しゃっかほう)っ!」

 

 正確無比な一撃は顔面へと叩き込んだ。黒煙が立ち昇る。確かな手ごたえを感じながらも、虚とは(・・・)異なる(・・・)霊圧(・・)を感知して斬魄刀を構える。

 黒煙から飛び出す影。仮面が虚の急所だという教本に則った祐輝の攻撃は、仮面の眼前に置かれた爪によって見事に防がれていた。

 馬鹿正直な突進だが、速度は侮れない。交差は一瞬、甲高い音が響き合う。祐輝の影は軸がずれ、虚の攻撃は虚空を過ぎったのみ。対して祐輝の浅い斬撃は虚が持つ超速再生によって瞬時に回復する。

 

「その回復力、少しでいいから俺に貸してくれよ」

 

 肩で荒い息を吐きながらも虚を視界に捉え続ける。

 現世の建物、その壁面を地面の代わりとして空中で強引に態勢を変える。追随する虚は祐輝の正面を位置取り、決して背後を見せることはない。

 仮面が急所であると理解し、また死角を晒す隙も見当たらない。知能を持った、或いは戦闘経験の豊富な虚だと容易に察せられた。

 元より慣れない現世、魂葬によって体力は消耗している。虚の一撃をのらりくらりと交わし続けるが、決定打を与えるべく仕掛けることはしない。自ら虚の懐へ潜り込んで斬撃を叩きつけようとすれば、二振りの鋭利な爪の餌食となり得る。

 再び振るわれる虚の爪。風の様に捉えることのできない祐輝の影。

 

「ってえな、くそっ」

 

 引き裂かれた左袖からは、血を流す二の腕が垣間見れる。虚は絶妙に間合いを調整し、祐輝が躱した先に攻撃を置いていた。それは過去に親善試合で対峙した恋次も取った手口だが、虚が持つ攻撃手段、即ち長く伸びた爪は二つある。置かれた攻撃に対処する極一瞬だけ祐輝の意識は片方の爪に集中し、その結果として左腕に傷を負ってしまった。

 対峙する虚は手に余る。だが祐輝は斬魄刀を構え続ける。決定打にならない斬撃を加え続け、注意を引き付ける。

 

「そもそも死神と(・・・)同じ霊圧(・・・・)を持つ虚(・・・・)なんて聞いたことないぞ俺は」

 

 細身で肋骨らしきものが浮き出た上半身と、獣並みの剛腕から生えた鋭利な爪を持つ姿は、まだ虚のものだ。しかしその身から発せられる霊圧は虚特有の、泥を思わせる濁りきったものではない。純粋な死神の、付け加えるならば複数の死神の霊圧が絡み合っていた。

 馴染み深い霊圧が幾つも感じられる。それは二組の級友であり、今日一日中行動を共にした引率の上級生だった。

 

「俺はお世辞にも頭は良くないって自覚してんだ、お前の霊圧をあれこれ考えたって無駄だってな」

 

 言葉が通じると思ってはいない。だが燻る感情の奔流を吐き出さずにはいられない。

 

「勝てないかもしれない。けどな、俺の力が、手が届く限り、這い蹲ってでもお前を止めるんだよっ!」

 

 手に余る虚と対峙し続けるのは二人の仲間を逃がすため。

 引率の上級生と誤認した二人に祐輝の警告は間に合わなかった。しかし、命を繋ぐことには成功した。

 即死には至らなくとも重症を負った二人の逃げる時間を稼ぐために自ら虚へ立ち向かい、注意を引き続けている。祐輝自身の命は勘定に入れていない。過去に命を取り零した己を許せず、だからこそ他者の命を護るために。

 出血と疲労が重なり、左腕の動きは意志に反して鈍い。すぐさまそれを見抜いた虚は狡猾に祐輝の左側面への位置取りを心掛ける。

 

「莫迦が、死角を放っておく自殺願望者じゃねぇぞ俺は」

 

 逆に言えば、虚の動きは祐輝の左側面を重点的に狙うものとなる。

 振るわれる爪を斬魄刀で抑え込み、動きは鈍くとも左掌を虚に向ける。

 

「縛道の四、這縄っ!」

 

 縄状の霊子が一時的に虚の剛腕を拘束し、爆発する。黒煙が立ち昇るが、拘束で稼ぎ出した僅かな時間を使い一瞬で虚の背後へ回り込むことに成功する。虚の首元へ向けて右腕で振るわれた斬魄刀は深々と刀傷をつける。だが片腕一本で振るわれた故か、首を落とすには足りない。

 咆哮と共に虚は身体を振り回し、祐輝をはたきおとそうと試みる。仕留めるには絶好の機会を逃さず祐輝は二撃目を振るう。

 

「ちく、しょう……っ」

 

 込み上げる液体を我慢できずに口元から吐き出す。口内は鉄の味で溢れ、白い霊術院の制服が鮮血に彩られた。

 大きく抉り取られた腹部からはとめどなく出血する。玉汗が噴き出、胴体から力が抜け落ちた祐輝は虚によって乱雑に放り投げられる。

 仕留めるには絶好の機会、それは虚にとっても同様だった。祐輝という獲物が動きを止めているのだから。

 下半身と左腕の感触が薄れてゆく。意地でも手放さなかった右腕の斬魄刀の存在を強く意識しながら、死神の霊圧を持つ虚を見据える。

 もはや祐輝に用がないとばかりに背を向けた虚の仮面が向く方向には、傷ついた仲間の霊圧が微かに探知できた。

 

「待て、よ……這い蹲ってでも、止めるって……言っただろうが……っ」

 

 斬魄刀を握りしめた右腕だけで身体を動かす。声を聞き咎めたのか、気まぐれか、無様に地を這う祐輝の姿を仮面の奥の瞳は嗤っていた。足音を立て、どのように弄ぶか思案するように鋭利な爪で祐輝の頬を薄く裂いてゆく。

 

「茜雫を見殺しにした、だからっ、弱い俺を許せなかった……っ」

 

 右掌は、柄を強く握りしめた反動で赤く染まっている。

 

「帰ったら甘味処に行くって、雛森と、約束……したんだよっ」

 

 面影が重なる、心安らぐ少女の笑顔が脳裏を過ぎる。

 

「いい加減に、お前の名前を俺に教えやがれっ!」

 

 己の斬魄刀に叫ぶ姿は、虚にすれば発狂したと捉えられるだろう。嘲笑うようにして祐輝の右腕に爪を突き立て、最後の希望たる斬魄刀を奪おうとして、それは叶わない。

 霊力の奔流が突風と化して吹き荒んだ。それは虚の爪を一瞬にして破損させるほどの威力を保持し、突然の事態に虚は慌ててその場を飛びのく。

 澄んだ音色が、全方位から響いた。

 淡い蒼の霊力を漂わせる斬魄刀の鞘が、柄が、鍔が、全て浅打から変じてゆく。

 祐輝が死に瀕したことで、意地の悪い斬魄刀は漸くその名を教える。

 荒い息遣いで厳かに放たれた、言霊。

 

「――響け、鈴葬(りんそう)っ!」



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8話

 血と汗に塗れた制服は至る所が破れ、生々しい傷痕を露にしていた。もはや斬魄刀を、漸く名を知ることになった鈴葬を鞘に戻すだけの気力すら残されていない。浅い息を繰り返しつつ、精気の消えかかった瞳であらぬ方向を見上げる。

 抉り取られた腹部からの出血は然程多くない。止血する余裕も気力もなかった。体内に残された血は既に微々たるものだった。

 投げ出された四肢は青白く、月明かりと夜闇が巧妙に入り混じった祐輝の顔に影が差す。

 霊圧を感じた。複数の死神によるものだった。動かすことの叶わない身体を震わせ、満足気に表情を歪ませる。

 あぁ、ようやく救援が来たのか。虚は、斬った。代償は己の命。まぁ、仲間二人の命を助けたのだから。既に己の身が長く持たないと自覚しているためか、妙に思考が冴え渡る。

 一緒に甘味処へ行く約束を破ってしまった雛森には顔向けできない。あぁ、一回生の頃から迷惑かけてばかりだったのに。わるいな雛森、流石に今回は反省してるさ。

 

「よぉ、遅れてすまない、ボロボロになるまでよく頑張ったな後輩。仲間たちは全員無事だぜ(・・・・・・)、何人か危ないが、なぁに、四番隊に任せれば大丈夫だ。お前も待ってろ、すぐ救護班が来る」

 

 額から流す血の所為で視界は赤く明滅していた。快活な声の持ち主を見上げるが、不明瞭な輪郭しか把握できない。

 

「俺は十三番隊の副隊長、志波海燕だ。んで坊主(・・)、一つ確かめたいんだが」

 

 坊主、懐かしい響きだ。そうか、つまりこの人は。

 

 

 ▽

 

 

 鼻孔を掠める薬品の匂いに目が覚める。最初に見えた光景は見慣れない白い天井、上体を起こそうとすれば腹部に激痛が走り、渋々断念する。

 身に纏うのは医療患者用の衣服。左腕は丹念に包帯が巻かれていた。右腕は対照的に傷痕が残るだけで、既に完治しているようだった。

 目だけを動かして場所の把握に努める。寝台の上に横たえられた己の身体が手当てを受けたのは確か。殺風景な部屋には調度品らしいものはなく、寝台のすぐ隣に小さな机と椅子がひっそりと備え付けられている。

 部屋自体は明るく、窓の外から微かに陽の光が差し込んでいた。

 霊術院の救護室か、或いは四番隊の総合救護詰所であると見当づける。恐らくは後者だと考えられた。室内には他に人の気配が感じられず、どうやら個室らしい。そして霊術院の救護室には、記憶が正しければ個室は存在しない。

 

「なんだよ、約束どうにか守れそうじゃねえか」

 

 祐輝は笑った。死を予期していた己の姿があまりにも莫迦らしかった。生の実感よりも、雛森との約束を破らずに済んだ事実が安堵を齎していた。

 腹に穴を空けた甲斐があったものだ。笑いすぎて腹部の激痛がぶり返し、強制的に気分を落ち着かせる。

 さて、死神の霊圧を持つ謎の虚を斬り伏せた英雄として彼女は称えるだろうか。あり得ない、傷だらけになった身体を目にすれば腰に両手を当てながら告げるのだ。全く、どうして無理をするの、と。

 

「なんだァ、もう目が覚めたのかお前」

 

 快活な声がした。首だけを動かし、入室してきた黒髪の死神を見遣る。酷く懐かしい記憶が蘇る。憧れるだけの背中だった存在は風呂敷包を右手に、左手には腰に差す斬魄刀とは別の斬魄刀を携えていた。

 

「起きたばかりで分からないだろ、ここは四番隊の総合救護詰所だ」

「十三番隊の、志波副隊長」

「海燕隊長、って呼んでもいいんだぜ。うちは隊長が病弱でな、俺が代わりに隊を仕切ってんだ。あ、これ見舞いの羊羹な。お前は腹に穴が空いてるから、客にでも出してやれ」

 

 羊羹、もし雛森が訪れたら喜んで差し上げよう。

 飄々と羊羹の包みを机の上に置いた海燕は、物音を立てて椅子に座り込む。左手に携えた斬魄刀を祐輝の前に突き出した。

 見慣れた浅打とは各所の形状が異なる。しかし、祐輝には浅打よりも遥かに親近感が湧き起こる。

 

「俺の斬魄刀、っすね」

「そうだ。まだ正式に支給されていない浅打をお前は自分のモノにした。霊術院の生徒が始解するのも確か五番隊の副隊長が最後だったから、四、五十年振りだな」

 

 ひょい、と海燕は手にした斬魄刀を取り上げる。手を伸ばせば微かに届かない絶妙な距離、上体を起こすことも叶わず指先が柄を掠めるにとどまる。

 目の前でこれ見よがしに鈴葬を振られ、意地でも取り返そうとすれば腹部の激痛で中断される。

 

「返してくれないんすか、俺の鈴葬」

「確かにお前のモノだな。けど言ったはずだ、浅打はまだ正式に支給されていない、と」

 

 霊術院の生徒は、浅打を一時的に貸与される。それは霊術院を卒業後、護廷十三隊に入隊するとは限らないからだ。鬼道衆、或いは隠密機動へ進むかもしれない。護廷十三隊も、霊術院を卒業すれば即入隊とはならず、入隊試験に合格する必要がある。

 護廷十三隊に入隊し、死神となって初めて浅打が正式に支給される。その程度のことは、祐輝にも分かる。

 

「自慢じゃないが俺も霊術院時代に斬魄刀を解放した。けどな、その時は既に護廷十三隊への入隊が内定していた。聞いて驚け、飛び級して二年で霊術院を卒業したんだぞ。あぁ、そんなことは置いておくが、つまりだな」

「ただの三回生が始解を修めた、ってのが問題とでも?」

「力の扱い方を知らないガキが持つには危険だとか、そんな声もあがってる。よく言うわ、市丸、五番隊の副隊長も一年で霊術院を卒業したが、お前よりも小さいただの子どもだったぞ」

「才能があれば賢いとでも思ってるんじゃないすか」

「違いないな、特に自分を賢いと思い込んでる連中は凡人が過ぎた力を持つことに拒絶反応でも出るらしい」

 

 わざとらしく咳き込み、周囲の様子を窺った海燕は鈴葬から手を離す。

 

「アー、手が滑って斬魄刀を落としちまっター」

「本当に落とす必要があるのかよ……っ!」

 

 病み上がり、もとい絶賛病んでる途中の身体は思い通りに動かず、健全な右腕だけで鈴葬を掴めば身体の節々が悲鳴を挙げる。抗議するように睨めば明後日の方向を向いて口笛を吹く海燕。露骨なまでに何も知らない、見ていないと貫き通すつもりのようだ。

 改めて、右腕だけで己の斬魄刀を見遣る。柄糸は風や霧、雲を彷彿とさせる灰色へと変わり、鍔の形状は葵型に鈴の紋様が刻まれていた。

 鈴を葬る名を持った己の半身を手にすれば、挨拶のつもりか鈴の音色が掌を通して直接伝わる。

 

「んじゃま、本題に入るとするか」

「さっきまでの話が本題じゃなかったんすか」

「後輩に対する忠告だよ。それで、なんだ、その鈴葬って斬魄刀と一緒にお前が虚を仕留めたのか?」

「俺、言ってませんでしたっけ」

「見つけた時には虫の息だったんだよ、お前。起きてるのか寝てるのか死んでるのか区別がつかないほど、な」

 

 少しでも海燕や救護班の到着が遅れていれば、今頃はこうして会話することもなかったのか。死の淵はすぐそばだったのかと受け流し、特に隠し立てする必要もないため答える。

 

「斬りましたよ」

 

 思い返せば随分と謎のある虚だった。死神と同じ霊圧を持っており、しかもそれは祐輝の知る複数の人物と全く同じもの。包み隠さず海燕に話せば、神妙な表情で顎を撫でながら一言。

 

「実はお前が虚、なんていうのは」

「俺の額に巻いてる包帯が仮面に見えるなら確かに虚っすね」

「わりぃわりぃ、少しからかっただけだ」

 

 飄々と笑い飛ばし、見舞いの品として自ら持ってきた羊羹に口づける海燕。

 

「死神の、あむっ。死神と同じ、あふぁむっ、霊圧ねぇ」

「食べるか喋るかどっちかにしろよ……」

 

 憧れが幻滅してゆく。幼い時分だったから美化されていた部分があるにせよ、目の前でだらしなく足を崩しながら羊羹を食べる姿に何とも言えない気持ちを抱く。

 

「俺たちが保護した霊術院の生徒たちな、命こそ助かったが霊力が極端に減少していた。魂魄そのものを一部分だけ喰われた、ってのが推測されてる」

「えぇっと、つまり? すみません、もうちょっとわかりやすく言ってくれないっすか」

「命を羊羹に例えるとだな、全部じゃなく端の部分だけ喰ったみたいなんだ。んで、喰われた分だけ霊力が減っている、理解できたか?」

 

 しっかしこの羊羹美味いな、と更にもう一つ手を伸ばそうとする海燕を睨み付ければ冗談だと笑い飛ばされる。未練がましく指を蠢かせているのは見逃そう。

 

「お前の感じた死神の霊圧は、まぁ霊術院の生徒から喰ったものだろうな。どうして虚の霊圧を感じなかったのか、とか、どうしてお前以外の霊術院の生徒は重傷を負っても命の危険はなかったのか、謎は残ってるが」

 

 聞き逃せない言葉があった。他の霊術院の生徒は重傷を負っても命の危険はなかった、とはどういう意味か。

 祐輝の疑問を察した海燕は答える。

 

「虚の奴、奇妙な拘りでもあったんじゃないか。一度喰った味はそれで満足、だとか。死者はゼロ(・・)だよ、ゼロ。ただお前だけは抵抗するから相応に料理する必要があったのか、それは虚にしか分からねぇな」

「料理したのは俺になったけれど」

「聞いたぜ、仲間を助けるために一人で戦ったんだってな。斬魄刀のおかげだろうが、得体の知れない虚を仕留めた、それは素直に誇っていい」

 

 見舞いを終えたとばかりに立ち上がった海燕は手を振りながら背中を向ける。

 

「まっ、ゆっくり傷を治すこったな」

「志波副隊長、一つ聞いていいですか」

「俺に答えることができるなら、いいぜ」

 

 死神を目指す原点となった出来事。弱い自分を許せないならば、死神を目指せという言葉。

 

「東流魂街七十四地区、朝霧で虚から子どもを助けたことありませんか?」

 

 沈黙は一瞬、振り返らずに扉を開けた海燕は短く言い残す。

 

「そういや、流魂街の泣きべそかいた坊主が最近腹に穴を空けたらしい」

 

 

 ▽

 

 

 暇だ、凄く暇だ、暇を持て余すも見舞客は海燕を除いて誰一人訪れない。護廷十三隊に知り合いは、朽木家に養子入りした元級友と一回生の頃に一度だけ会話を交わした檜佐木という先輩ならばいるが、知り合いとして数えていいのか迷う。

 最後に会話を交わしたのは経過観察に訪れた四番隊の隊士だった。

 寝台に横になり続けるだけというのも、中々の苦痛だ。昼寝を続けても咎められない環境だが、生憎と眠気は遥か彼方へ駆け抜けて行く。身体を無理に動かすこともできず、手持ち無沙汰となっていた。

 誰も見舞いに訪れない。どうせ斬術だけが取り柄の問題児だよ、と半ば自分を慰めていれば寝台の傍に立て掛けた鈴葬が嘲笑った気がする。いや、情けないと嘆息したのかも。

 

「おや~君が数十年振りに始解を修めた霊術院の生徒かい?」

 

 音もなく病室に姿を見せたのは、女物の着物をだらしなく羽織り室内にも関わらず笠をかぶった男性。立ち振る舞いや言動からは軽薄さを漂わせているが、女物の着物の下から覗く白い羽織は護廷十三隊の隊長の証。そして腰に差した二刀一対の斬魄刀の所有者は、二人しか存在しない。

 

「ボクは八番隊隊長の京楽春水、いやぁ手酷くやられたねぇ君」

「あ、自分は霊術院三回生の朝霧祐輝です」

「あぁいいよいいよ、堅苦しいのは。君病人なんだし、安静にしとこう。それにボクも二日酔いで大きな声が頭に響くしね」

 

 覚束ない足取りで椅子に腰かけた京楽の息は酒臭い。ほんのりと赤く染まった顔は、現在も何処かしらで酒を呑んで来た証拠だろう。

 海燕に続き、二日酔いの京楽の姿を見て隊長や副隊長に抱くものが音を立てて崩れ落ちてゆく。

 

「いやぁ卯ノ花隊長に二日酔いの薬を貰いに来たんだけどねぇ、ほらここ広いから迷ってたら君の病室に辿り着いたわけ」

「は、はぁ、ご苦労様です」

「にしても暇そうだねぇ、そうだ、どうせならボクと呑むかい?」

 

 どこからともなく徳利を取り出した京楽は、杯に注ぐと病室など構わずに喉を鳴らす。

 

「暫くは入院食しか食えないんで俺、その、遠慮します」

「大丈夫ここにはボクと、えぇっと、あ、朝風君? しかいないんだから、呑んだってバレやしないよ」

「朝霧です、京楽隊長。いや、腹にデカい穴を空けたんで、折角のお誘いなんですけど呑んだら腹から垂れ流しますから」

「そうかい、そりゃ残念だ。退院したらボクと呑もう、退院祝いと君の入隊祝いを兼ねて奢ってあげるよ」

「その時は喜んでご同伴に……はい?」

 

 祐輝は現在三回生、霊術院を卒業するまで漸く半分の年月が経過しつつあるばかり。退院祝いと入隊祝いを兼ねるなど不可能なのだ。流石に呑みすぎだろうと注意すれば、赤ら顔でさも当然のように京楽は言う。

 

「だって、君はもう始解を修めたんだよ? 霊術院の卒業を悠長に待つより何処かの隊で君の面倒を見た方がいいでしょ」

 

 それは遠回しに監視と同義ではなかろうか。海燕の口にした忠告も相俟って、始解一つで何やら事が動き出しているらしいと悟る。

 

「あ~持ち歩きの最後の一つだったのに無くなっちゃった。それじゃ退院したら呑もう、朝霧祐輝君」

 

 腰掛ける椅子に向かって粋の良い声をかけ、ふらついた足取りで壁にぶつかりながら京楽は去って行った。

 

「隊長って、あんな人ばかりなのか……?」

 

 教壇に立つ藍染は学者や教師という言葉が似つかわしいが、昼間から酒を持ち歩いて酔っ払う京楽に比べれば隊長らしいと感じる。

 なんにせよ、暇を潰せたことに京楽へ感謝する。入隊祝いは分からないが、退院した暁には遠慮なく酒を奢ってもらおうと決める。

 酔っ払った今日の会話を覚えているか甚だ怪しいものではあるけれど。

 

 

 ▽

 

 

 貸与された浅打を使っての実戦訓練で、雛森は些細な失敗を連発してしまった。見かねた教師から注意を受け、肩を落として雛森は浅打を鞘に戻す。

 ここ数日間、雛森は授業への集中力が乱れていた。真面目な雛森らしくはない。級友たちからは心配されるが、気丈に振る舞って誤魔化す。尤も、雛森の様子が変であるのは一目瞭然だった。

 総合救護詰所に搬送された二組の生徒と引率の上級生は重傷のため面会謝絶(・・・・)。死者は出ていないようだが、直接この目で祐輝の安否を確認できないことに気が散ってしまう。

 それは楽しみにしていた藍染の授業でも同様だった。講義を聞き、板書に集中しても傍らに腰掛けていた少年の不在を気にかけてしまう。

 どうすればお見舞いに行けるんだろう。甘味か、それともお花を持っていけば喜んでくれるかな。ちゃんとご飯も食べてるか心配だし。

 

「雛森君、何か悩み事でもあるのかい?」

「あああ藍染隊長っ!?!?」

「いつも熱心に話を聞いてる君が、今日は上の空だったからね。僕でよければ相談に乗るよ」

 

 授業が終わり、肩を落として立ち上がったところに話しかけて来た藍染。憧れの人物と直接言葉を交わせることに心躍るのも一瞬、藍染ならばと心の内を曝け出す。

 

「友だちが四番隊の総合救護詰所に入院したんです。面会謝絶なんですけど、どうしてもお見舞いに行きたくて」

「ふむ、その友人は朝霧祐輝君だね」

「は、はい、そうです。あの、どうして分かったんですか……?」

「いつも君の隣にいた彼が今日はいない。そして四番隊の世話になってる霊術院の生徒は限られる。そこから推測しただけさ」

 

 穏やかな笑みを湛えた藍染は顎を撫で、暫し思案に耽る。眼鏡が輝いたのも一瞬で、口を開いた。

 

「よし、僕と一緒に朝霧君の見舞いに行こう。流石に隊長が同伴ともなれば、面会は許されるはずだからね」

「えっ、でも藍染隊長もお忙しいはずじゃ……」

「未来ある若者のためなら僕は喜んで自分の時間を捧げるよ。彼の顔を見れば雛森君の悩み事も消え去るはずさ」

 

 

 ▽

 

 

 恩人の副隊長、酔っ払いの隊長に続いて見舞いに訪れたのは平隊士。しかし無名の隊士ならいざ知らず、五大貴族の末席に名を連ねる彼女と顔を合わせるのは実に二年ぶりだった。

 突然の来訪に驚き、されど暇を持て余していた祐輝は朽木ルキアを歓迎した。

 

「よぉ久しぶりだな、死覇装も似合ってるじゃないか」

「う、うむ。朝霧も身体の具合は大丈夫なのか? 虚に襲われて重傷だと聞いていたが」

「見ての通り暇を持て余す程度には元気だよ」

 

 あ、見舞いの品はそこの机に置いといてくれ。ありがとうな。そこの羊羹どうせなら食べないか、腹に穴が空いてるから食えないんだよ。気にするな、持ってきた人が見舞客に出すよう言っていたし。

 

「その、なんだ、相変わらず掴み所の無いヤツだ」

「褒め言葉として受け取っておくよ」

 

 一年にも満たない期間を同じ学級で過ごした仲だ。逆に言えばその程度で親密な間柄ではない。わざわざ祐輝の病室まで足を運んだ理由を問えば、ぎこちなくルキアは答えた。

 

「私の上司、十三番隊副隊長の志波海燕殿が折角だから同期の見舞いに行ってこいと」

「それならさっき来たぞ。ちなみにお前が頬張ってる羊羹はあの人が持ってきた品だ」

 

 あと京楽隊長もさっきまで酒を呑んでいたな。祐輝の話を聞いたルキアは猫を彷彿とさせる瞳を大きく見開いた。たかだか霊術院の生徒に一体何用だと。

 二日酔いで道に迷っていたらしい、当人から聞いた言葉を伝えれば納得の頷きが帰って来る。どうやら京楽隊長が酒にだらしないのは平隊士でも知られているようだ。

 

「それで、その、霊術院は変わりないか?」

「二年でどう変わるって――あぁ、なるほどね」

「むっ、どうしたのだその生暖かい眼は! ええい、何故かは知らぬが癪に障る!」

 

 雛森を通して、また親善試合で対峙したこともあって少なからず交流を持つ赤髪の人物を思い浮かべる。朽木家に養子入りした目の前の少女とは幼馴染みで、喜劇のような会話を二人は霊術院で繰り返していた。

 阿散井恋次のことが気になる。素直に尋ねるのがもどかしい。一人納得した祐輝は幼子を見守る表情を形作り、ルキアは抗議の声を上げる。

 

「阿散井なら時々鍛錬場で手合わせしてるけど、死神になってお前に追いつくんだっていつも言ってる」

「そうか、恋次の奴め……」

 

 寂しさの中に安堵を忍ばせたルキア。見舞いに来てくれた理由も、半分は恋次の現況を僅かでも知りたかったのだろう。

 それからは当たり障りのない会話に終始した。死神としての業務が大変だとか、海燕の稽古は励みになる、などのルキアの近況話。斬魄刀が名前を教えてくれなかった祐輝の苦労話。

 

「朝霧は斬術が得意だったからな。どのような斬魄刀なのだ?」

「死にかけるまで名前を教えてくれない意地悪な奴さ。雛森曰く俺にそっくりさんの斬魄刀なんだと」

「そうか、二人は相変わらずの仲なのだな」

「留年しかけた俺を助けてくれる優しい奴だよ雛森は」

 

 傷に障るだろうと、適当なところで話を切り上げたルキアは帰っていく。

 

「志波副隊長なりの気遣い、だな」

 

 もちろんそれはルキアに対してだ。養子と言えども朽木家に連なる者、まして同期もいなければ様々な苦労をしたに違いない。直接言葉に出さなかったが、死神としての近況を話す節々に疲れや影が差し込んでいた。

 彼女の姿が、近い将来の祐輝を暗示したものであると知る由もない。

 

 



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9話

 気恥ずかしくなる表現を敢えてもちいるならば、そこは、希望の楽園だった。かつて幼少期を過ごした故郷と違い、豊富な水と食料に恵まれていた。忌々しい濃霧とは無縁で、多くの人々が道を行き交い、活気に溢れた場所だった。

 露店の主人と客は気さくに談笑していた。値段を巡って交渉するにしても、口論を交わす光景は見当たらない。

 駆け回る幼子たちの衣服は小奇麗なもので、無邪気に笑い声をあげている。周囲の大人たちはそれを微笑ましく見守っていた。

 

「ちょっと、なにそんなとこで突っ立ってるのよ」

 

 懐かしい声だった。背後を振り向く。夕陽を彷彿とさせる茜色の瞳と、零れるように艶やかな髪が特徴的な少女だった。両腰に手をあて、怪訝な表情で見上げている。

 飢えから逃れるべくわずかな水と食料を分かち合い、寄り添いながら共に過ごした存在を思い返す。

 こみ上げてくる感情の奔流を押し留め、祐輝は彼女の名を呼んだ。

 

「それがお前の姿なのか、鈴葬(・・)

 

 世界が砕ける。楽園の残滓を振り払えば、馴染み深くも忌々しい濃霧が祐輝の視界を覆った。斬魄刀と同調を試みた際の精神世界だった。

 

「なぁんだ、あたしが茜雫じゃないってバレてたんだ。つまんない」

 

 不満気に頬を膨らませた斬魄刀の仕草は、記憶に残る存在と同一のものだった。

 

「アイツは俺が呆けてたら問答無用で蹴りをかましてくるからな」

「なによその信頼、もしかして痛みに快感を覚えるのアンタ。気持ち悪いからちょっと近寄らないで、この変態」

「付け加えるならお前みたいな性格じゃなかったよ茜雫は」

 

 斬魄刀は口元を歪ませて後ずさり、蔑む視線を投げかけて来る。幼い茜雫の姿にはあまりにも似つかわしくない態度だった。

 

「それで、今まで俺に名前を教えてくれなかった意地の悪いお前の用件は?」

「なにそれ嫌味? 性格悪いわねアンタ、しかも莫迦だし。ちゃんと教えたでしょ、あたしの名前は鈴葬よ、り、ん、そ、う」

 

 ふむ、気難しい性格の斬魄刀だな。いや、わざとらしく名前を強調しているから性悪なのだろう。なにせ、死にかけるまで名前を教えてくれなかったのだから。

 呆れを滲ませた深いため息。鈴葬は額に掌を当て、首を横に振っていた。それはまるで、祐輝の内心を全て見通しているように感じられた。

 

「あたしの声を聞かずに、ただ斬魄刀の力が欲しいだけの莫迦に名前を教えるとでも思ったの?」

「俺は何度もお前の名を問いかけたぞ。それに、声だって?」

 

 そんなもの聞こえたことは一度もなかった。いや、待てよ。声でなくとも、斬魄刀の存在を認識した音ならば。

 

「あの鈴の音色のことか?」

「呆れた、あたしはずっと話しかけてたのよっ! それでも声が聞こえなかったのは、アンタが斬魄刀(あたし)と対話するつもりがなかったってことでしょ」

 

 仕方がないわね、と鈴葬は続ける。同調は深い側面まで達していたが、言い換えるならばそれは最奥に眠る斬魄刀の力という側面だった。

 死神は対話と同調を繰り返すことで己の斬魄刀を認識し、名を知ることでその能力を解放させる。

 祐輝に足りなかったのは対話だった。同調のみで斬魄刀の存在を深く認識してしまった弊害かもしれない。力を追い求めるが故に一方的に名前を訊ねるだけの姿勢では、鈴葬の声が届くことはなかった。

 

「真面目に授業に出ないのも、心のどこかで戦いにはあまり役立たないとでも思ってたんでしょ。縛道が失敗するのも、アンタの力を欲する心が霊力に影響を及ぼしてんのよ」

「お前の能力にも、そうだろ?」

「あら、そこに気づいたのは素直に褒めてあげる。あたしたち斬魄刀は、持ち主の魂の半身とも言える存在。だからあたしの力は、アンタの心や霊力、そして魂が何らかの形で具現化しているのよ」

 

 出来の悪い学童を褒め称えるように鈴葬は頬をほころばせた。

 

「どうして俺はお前の名前を知ることができたんだ?」

 

 声が届かなかったと鈴葬は言っていた。しかし現世で虚を相手に死にかけた祐輝は、斬魄刀を解放することで難を逃れている。素朴な疑問を問うてみれば、己の半身は飄々と口ずさむ。

 

「あたしが茜雫の(・・・)姿と声(・・・)を真似(・・・)たから(・・・)でしょ、こうして対話もしているんだし。いい? アンタが死ねば斬魄刀(あたし)も死ぬの、あたしはそんなのまっぴらごめんだからね」

 

 あら、時間だわ。茜雫の声で、異なる存在の声が木霊する。淡い燐光を発揮し、鈴葬は不透明な輪郭と化してゆく。

 

「死にたくないからあたしの名前と力を授けたこと、それだけは忘れないで。じゃあね、次は祐輝が(・・・)あたしを呼び出すのよ」

 

 

 ▽

 

 

 総合救護詰所の廊下を雛森は落ち着かない様子で歩いていた。白地に朱色で染め抜かれた霊術院の制服は、黒一色に白帯の死覇装を着た死神たちの中では目立つ。加えて、傍らには十三人しか存在しない隊長の一人、藍染が連れ立っている。

 一つの隊を預かる立場の藍染は多忙なはずだった。それでも時間を割いて週に一回は霊術院へ足を運び教鞭を執る。そして今は、雛森のために貴重な時間を割いてくれた。

 事前に藍染が同伴する旨を伝えていたらしく、本来ならば面会謝絶となっている祐輝への見舞を雛森は許可された。

 霊術院の生徒と五番隊の隊長、奇妙な組み合わせにも関わらずに受付の隊士は快く病室の場所を伝えた。

 

「あの、藍染隊長。面会謝絶になるほど祐輝くんの具合は悪いんでしょうか……?」

 

 自身も一回生のころに現世で虚から襲われた経験がある。多くの級友が傷つき倒れた。当時引率していた六回生は殆どが死傷していた。

 近頃は真面目に授業に出ている少年の横顔を思い浮かべる。飄々とした立ち振る舞いは掴み所がない。斬術の腕前は相当なもの誇る。その祐輝でも、やはり虚に襲撃されたならば重傷を負ってしまったのだろうか。

 両手に抱えた風呂敷へ視線を落とす。病院食は味気ないものだと級友から伝え聞いたから、甘味や果物を包み込んである。もし、見舞いの品を口にできないほど傷の具合が酷かったとしたら。

 

「雛森君、現世で実習していた生徒の全員が面会謝絶な理由を考えたことはあるかい」

 

 人の気配がしない廊下での唐突な問いかけ。

 三回生の二組と引率の上級生は全員が総合救護詰所へ運び込まれ、面会謝絶の処置となった。

 もちろん雛森はその理由など深く考えもしなかった。心根の優しい性格をした少女は、皆が重態に陥ったのだと思い込んだ程だった。

 しかし藍染からの問いかけならばなんらかの意味があるはず。僅かな間を挟み、言葉を紡いだ。

 

「えっと、全員が面会謝絶になるほどの重傷を負ったから。それとも、面会謝絶にすることで、全員を隔離した、でしょうか」

 

 でも、仮に隔離したとしてその理由はなんだろう。わざわざ霊術院の生徒にそこまで手間をかける必要があるのかな。流石に考えすぎたかも。

 自らが建てた仮説を打ち消そうとするが、それは傍らの隊長によって肯定された。

 

「素晴らしい洞察力だよ雛森君。試験ならば僕は君に満点を与えていたさ」

「そ、そんなことないです。でも、満点ですか?」

「その通りだよ。生徒たちは検査が終わるまで隔離されているんだ。詳しいことはまだ分からないが、質の悪い虚の毒をその身に受けたようなものだ」

「それって、じゃあ祐輝くんはやっぱり……っ」

 

 流石に毒の耐性など持ちうるはずもない。面会謝絶と偽って隔離検査する必要がある毒ならば、祐輝はさぞかし苦しんだはずだ。

 

「こう言ってはなんだが、彼は無事だ。相応に傷は負っていたようだが、毒はなかったらしい。ただ、まだ話には続きがあってね」

「続き、ですか?」

「君にはこちらの方が本題かもしれない。彼は始解して虚を撃退したらしい」

「祐輝くんが、始解を……そっか、ちゃんと名前を聞けたんだ」

 

 驚愕を差し置いて安堵と歓喜が湧き起こる。斬魄刀が名前だけ教えてくれないと悩む祐輝の相談に乗り、励ましたのも記憶に新しい。

 主人に似て、意地の悪い斬魄刀なのだろうか。少なくとも祐輝は名前を教えない意地悪な性格だと言っていた。

 藍染の言葉が思考を現実に引き戻した。

 

「彼なら始解できると信頼していたのかい?」

「はい、祐輝くんは斬魄刀の存在を認識していましたから。焦らずに寄り添えば、いつかは名前を聞けて自分の斬魄刀を解放できるはずだって」

「教え子の君たちが固い信頼で結ばれていると知って僕は誇らしく思うよ。ただ、君には酷なことを言ってしまうかもしれない」

 

 歩みを続けながら藍染から視線を向けられる。逆光によって眼鏡の奥に潜む瞳の色は伺い知れないが、穏やかな雰囲気は鳴りを潜めていた。

 

「朝霧君は、霊術院にもう通えないだろう」

 

 放たれた言霊を咀嚼し、理解するまでに如何ほどの時間を要しただろうか。

 死神を目指すべく霊術院に通い、遂には始解を修めた祐輝がどうして霊術院に通えないのか。混乱を抑えて思考をまとめ上げれば、疑問が溢れ出て来る。

 

「どっ、どうしてですかっ!? 霊術院に在学中で始解した人は、全員が優秀な成績を残して死神になってます。だって、数十年に一人いるか、それくらい稀有なことですからっ」

「だから霊術院に通えなくなるのはおかしい、ということかい」

「はい、祐輝くんは特進学級じゃないですけど、それでも始解を修めています。だからっ」

「そうだね。飛び級をしたわけでもない、良く言えば平凡で、悪く言えば未熟な彼が始解を修めた。だからこそさ、雛森君」

 

 一拍の間をおいて藍染は続けた。

 

「力の扱い方を誤れば大きな事故に繋がるかもしれない。或いは、若さ故に過ちを犯すかもしれない。全ては仮定の話だが、朝霧君を霊術院に通わせるのは危険だとの声が挙がっているのも事実だ」

「そんな……」

「十三番隊の志波副隊長も、僕の副官を務める市丸君も、霊術院を飛び級した逸材だ。朝霧君は違う」

 

 鬼道の天才だと、級友たちは持て囃す。それは件の少年も同様だった。

 数十年に一人の割合で、霊術院の生徒は斬魄刀を解放する。総じて優秀な成績を修めて霊術院を卒業し、護廷十三隊に入隊後も上位席官入りを果たしている。

 雛森にしてみれば、天才の呼び名は祐輝にこそ相応しいものだった。

 

「藍染隊長は、どうしてあたしに教えてくれたんですか?」

「護廷十三隊の将来を担う君たちに期待しているからさ。僕にできることは少ないが、それでも、君たち二人の何らかの力になれたらいいと思ってね」

 

 藍染の歩みが止まった。釣られて雛森も立ち止まれば、陰鬱な病室の扉が視界にみとめられた。

 

「朝霧君の部屋だね。僕は廊下で待っているから、遠慮なく二人で話してきなさい」

「そんなっ、藍染隊長を待たせることなんてできませんっ!」

「その気持ちだけで充分だよ雛森君。それに、朝霧君も退屈な入院生活に飽きているはずだ。隊長の僕が顔を出して変に緊張させるよりも、君と話した方が落ち着くだろう」

 

 重ねて言われたのならばそれ以上雛森に反論のしようもなかった。藍染の言葉は正論で、尚且つ厚意に満ちたものだった。

 どんな顔をして会えばいいのだろう。始解のことで悩んでいたけど、それが原因で霊術院に通えないなんて。素直に祝福することができない。あぁもう、せめてお見舞いが終わった後に話してくれてもいいのに。

 それとも、祐輝くんはもう誰かに同じことを聞かされているのかな。だから、何も知らないまま何気ない一言で傷つけないように、前もって教えてくれたのかも。そうだとしたら、藍染隊長はどれだけ心の広い人なんだろう。

 逡巡し、息を整える。

 

「えっと、祐輝くん……?」

 

 緩慢な動作で扉を開け、顔だけ出して覗き込む。小奇麗に手入れの行き届いた病室内には椅子と備え付けの机、寝台が一つ。

 

「んあ、もしかして雛森か?」

 

 そして、裸体だった。

 

「わるい、甘味処に行く約束はまだ少し先になるわ」

 

 振り返ったその上半身には各所に裂傷の痕が見受けられた。腹部は不自然なほどに肌の色が変色していた。

 

「ちゃっ、ちゃんと服を着てよっ! 祐輝くんのバカぁあぁぁぁっ!」

 

 

 ▽

 

 

 病室で目を覚まして以降に訪れた見舞客を祐輝は鮮明に記憶していた。

 死神を目指すきっかけとなり、またしても命の恩人となった十三番隊の副隊長。二日酔いで道に迷ったらしいが、真意は不明な八番隊の隊長。そしてかつての級友にして五大貴族の末席に連なる平隊士。

 目を覚ました初日の見舞客だけでも、忘れることなどできない個性溢れる面子だった。

 傷の癒えていない身体でなにをするでもなく、退屈な入院生活で唯一の楽しみが人との触れ合いだった。経過観察に訪れる四番隊の隊士と交わす雑談すらも、娯楽の飢えを潤わせるに充分だった。

 昨日は、二人の隊長が祐輝の病室に訪れていた。

 二日酔いで道に迷った挙句、仕事を迫る部下から隠れる場所を探していたらしい十番隊の隊長はともかくとして、海燕とルキアの上司である十三番隊の隊長、浮竹との談笑は中々に賑わった。

 改めて考えれば、一介の霊術院生を見舞うにはあまりにも雲の上の地位を持つ人々が来訪している。

 偶然かもしれない。病弱な浮竹は薬をもらうために救護詰所へ度々訪れていたらしい。海燕とルキアの上司でもあるから、顔を出してくれたのは不自然でないとも言えた。

 本来ならば顔を合わせ、言葉を交わすことなど望めない隊長たちだ。浮竹のような偶然は考えられるが、しかし、何らかの思惑を疑ってしまうのも否めない。

 その点、本日の見舞客はある意味で必然的な存在だった。

 

「せめて一声かけてから扉を開けてくれよ」

「だって、祐輝くんが裸でいるなんて考えてなかったから」

 

 頬の熱気が醒めぬまま、申し訳なさそうに瞳を潤ませる。同学年で一番の鬼道の使い手で、もっとも親しい間柄の級友。震央霊術院の三回生一組、雛森桃。

 まあ確かに、病人が半裸でいるなど分かるはずもないか。不幸な事故だな、うん。

 傷もほぼ癒えたことで自由に身体を動かせた。まだ安静にしていなければならないが、着替えは担当の看護師の手を借りずに一人で行える。着替えの最中に訪れた雛森が不幸にも祐輝の上半身を目撃してしまったが。

 

「でもよかった、元気な祐輝くんを見て安心したよ」

「もしかして、なんだ、心配かけてたのか俺」

「虚に襲われたなら誰だって心配するよっ! 二年前も、祐輝くんあたしのこと心配してくれたでしょ?」

「ん、まぁな。そっか、わるいな」

「もう、謝る必要なんてないのに。ほら、これお見舞い」

 

 風呂敷の中身は甘味で溢れていた。ともすれば一人で食べきれない量だ。小柄な身体でよくも抱えて来たと妙な部分で感心する。

 

「羊羹と大福でしょ、それから」

 

 風呂敷から取り出された薄く淡い色合いの果実を、雛森の手からさりげなく取り上げる。

 

「桃」

「うひゃあっ! どどどどうしたの急に!?」

「ん、桃だよ、持って来てくれたろ、ほれ」

 

 海燕とルキアの見舞いの品は、それぞれ羊羹と大福だった。虚に負わされた傷のせいで祐輝はそれらを殆ど口にすることもなく、昨日訪れた十番隊の隊長がついでとばかりに酒のつまみとして腹に収めている。

 手にした桃はとれたてのようだった。瑞々しい輝きを放ち、一目で濃厚な果汁を味わえると察せられた。

 慌てた様子で雛森は落ち着きなく視線を彷徨わせていた。怪訝な表情を浮かべ、祐輝は原因と思われる果実へ視線を落とす。

 

「桃、もも、もも?」

「だっ、だからどうしたのかな祐輝くんっ!?」

 

 両手を振り回し、熟した果実よりも色濃く染まった表情で雛森は勢い強くにじり寄る。

 合点がいった。娯楽に飢えていた祐輝の嗜虐心を刺激させるには充分の反応だった。敢えて怪訝な表情を浮かべ、これ見よがしに掌の上で果実を転がす。

 

「いや、だから桃だよ。美味そうだったからついこの桃を手に取ったんだ。さっそくこの桃貰ってもいいか?」

「う、うん、そうだよね。大丈夫だよ、うん。祐輝くんに食べてもらうために持ってきたんだから」

「でも一人で食うのも風情がないし、どうせなら雛森()桃を一緒にどうだ」

 

 しつこく雛森の名を繰り返す。期待から落胆、そして見慣れた表情へと移ろい変わる様は非常に満足するものだった。無意識に口元が歪む。

 果実を振ってみせれば、流石は生真面目な優等生。すぐさま祐輝の意図を見抜いた。

 

「もうっ、あたしの名前でからかわないでよっ!」

「わるいわるい、だから一緒に桃を食おうぜ雛森(・・)

「祐輝くんのバカぁっ!」

 

 可愛らしい拳が振るわれる。寸前で躱しながらも、大仰に腹部を抑えた祐輝は呻き声をあげて寝台に横たわる。

 慌てて覗き込んだ雛森に格好つけて口角を釣り上げれば、問答無用で頬をはたかれた。

 

「ほんと、意地悪なんだから。ずっと斬魄刀が名前を教えてくれなかったのも、祐輝くんの性格を表してるよ。って、そうだよっ!」

「どうしたよ急に」

「やっと始解できたんでしょっ!? よかったね、祐輝くんずっと悩んでいたんだもん」

 

 純粋な祝福の言葉を向けられ、反応が一瞬だけ遅れる。精神世界での対話を脳裏に描き、つとめて普段通りに振る舞う。

 

「ありがとうな、コイツは死にたくないからって理由で漸く俺に名前を教えたんだけど」

 

 傍らに立て掛けていた斬魄刀を掲げて見せる。不満気に鈴の波紋が響いたが、雛森に聞こえた様子は見受けられなかった。

 

「鈴に葬ると書いて、りんそう、それが俺の斬魄刀の名前だ」

「綺麗な名前だね。ねぇ、どんな能力の斬魄刀なの?」

「あぁ、どう言えばいいんだ」

 

 虚を斬った際の情景を思い返し、伝える。まだ一度しか解放していないから、能力の全てを把握したわけでもないと付け加えた。

 

「能力も、祐輝くんそっくり」

「どういう意味だよ」

「そのまんまだよ、祐輝くん、目を離せばどっかに行っちゃうから」

「今は真面目に授業を受けてるだろ」

 

 苦笑を零した雛森は、ことわりを入れてから鈴葬を両手に抱く。祈りを捧げるようにしているが、似ているが異なると直感した。刃禅だった。己の斬魄刀ならいざ知らず、他人の斬魄刀と刃禅など聞いた試しがない。

 穏やかな鈴の音色が響いた。短い刃禅を終え、祐輝の手元に斬魄刀を返しながら雛森は答えた。

 

「素直で、優しい斬魄刀さんだと思う。祐輝くんを護ってくれるよう頼んだら、聞き入れてくれた気がするの」

「そりゃまた、どうしてそんなことを頼んだんだ?」

「だって、今は元気でも大怪我を負ったんでしょ。その、さっき祐輝くんが着替えているときに、お腹の傷とか見えたから」

「鈴葬が名前を教えてくれる前だったからな」

「それだけじゃないよ」

 

 なぁ雛森、どうしてお前は哀しい笑顔(・・)を浮かべているんだ。

 

「祐輝くんが遠い場所に離れて行っても、あたしの代わりに支えて欲しいから」

 

 

 




はじめてアイマスのライブに行きました
来年はフェイト・T・Hの中の人のライブに行こうと思います


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10話

 本来の用途を十全に発揮した代償は大きかった。数多の鬼道に耐え続けた的は根元のうえから消失し、周囲には焦げ目のついた破片が散らばっている。

 霊術院生が鍛錬のために鬼道を放ち続けた的は、完全に破壊されていた。

 常ならば己の技術を磨くため、鍛錬場には多種多様な鬼道の詠唱が木霊している。しかし、いまは異様な静寂に支配されていた。

 鬼道の授業でも鍛錬場は利用される。放課後、自主的な鍛錬のために訪れる霊術院生の数も多い。当然ながら、鍛錬場に設置された的の耐久力は容易く破壊される脆弱なものではない。付け加えるならば、正規の死神ではない未熟な霊術院生ならばまずもって破壊すら困難な代物だ。

 

「どうしよう、反省文とか書かされるのかなあたし……」

 

 ばつの悪い表情を浮かべながら雛森は肩を落としていた。心情を反映してか、二つに結って下ろされた黒髪も艶が消えうせている。呆れた口調で声をかけられることはない。傍らには誰もいなかった。

 遠巻きに雛森の様子を観察していた人影の間から、次第に囁き声が拡大してゆく。それらは驚愕と奇異に満ち溢れていた。上級生に至っては羨望の眼差しを向けてすらいる。

 鬼道の天才は、己の才覚に更なる磨きをかけていたのだ。

 

 

 ▽

 

 

 授業態度が劣悪か、あるいは補習の常連として教師から要注意人物と睨まれていれば、相応の処罰が与えられていた可能性はある。

 反省文を書かずに済んだが、経緯については詳細を説明せねばならなかった。教師は納得した上で次から気を付けるよう注意したに留まった。成績、素行、ともに優秀であるうえに五番隊の藍染隊長から目をかけられていた雛森は、教師からの覚えもよい。

 既に一夜が明けた。学年中に噂が広まっていた。多くの霊術院生に見られていたから仕方ないが、当分は鬼道の鍛錬場に足を運びづらくなったのは否めない。

 

「よう雛森、優等生のお前にしては珍しくヤらかしたな」

「阿散井くん、もしかしてそれは嫌味なの? あたし、これでもかなり気にしてるんだけど」

 

 教室に顔を出せば一番に声をかけてきた級友に対して、雛森は腰に差した浅打の柄へわざとらしく手を遣る。

 授業で使用しない限り帯刀する必要はなかった。常に浅打を携える霊術院生は少数派に位置しているほどだ。

 雛森は当初、多数派に属していた。特に深い考えは持たず、身近な級友たちもそうしていたからだ。小柄なこともあり、教材だけでなく浅打を常時持ち歩くことが面倒という側面もあった。

 きっかけは単純だった。己の斬魄刀を解放したい、その為にはどうすればよいのか。教本に記載された知識と、友人の実例を参考にした。

 即ち己の半身として扱えばよいのだ。寝食を共にし、常に浅打の存在を意識する。むろん、一朝一夕で成果が出ることはないが、不思議と認識が変わってゆく実感は抱いた。既に雛森の浅打はただの道具ではなく、かけがえのない仲間のような存在だった。

 

「わるかった、だから刀は抜くな」

 

 冷や汗をかきながら恋次が慌てて謝罪をすれば、冗談だと雛森は苦笑する。ただしその瞳は輝きが消えうせ、声音にも色が籠っていなかった。

 

「ほんとうにわるかったって。しっかし、鍛錬場の的をぶち壊すなんざ普通じゃできないだろ、一体どんな鬼道を使ったんだ?」

 

 空気を取り繕うようにした恋次の疑問に答えることはできなかった。廊下から雛森を呼ぶ声が聞こえたからだ。

 

「行ってやれよ」

「ごめんね、またあとで教えるから」

 

 廊下の外で待っていたのは面識のない三人の霊術院生だった。幼さが残る初々しい顔立ちをしている。月に一度しか顔を合わせていない弟のような幼馴染みを思い出させた。

 同期ならばどこかしらで見覚えがあるはずで、まさか上級生でもないだろう。緊張したように強張った表情を浮かべており、下級生かと雛森は推測する。

 

「えっと、あの、雛森先輩に頼みがありましてっ!」

 

 張りのある声は廊下を震わせるほどのものだった。何事かと、二組の人間が雛森たちを窺う様子が感じられた。

 

「うん、まずは落ち着こうよ。ほら、胸に手を当てて深呼吸してみて」

 

 微笑ましい三人の後輩は頬を赤らめつつも深呼吸を繰り返した。頃合いを見計らって雛森は会話を再開する。

 

「それで、あたしにお願い事があるんだっけ」

 

 大方の予測はついていた。過去にも何度か、面識のない霊術院生が雛森の下へ訊ねて来たからだ。用件の殆どが二つに大別されていた。一つは単身で教室まで乗り込んで来た男子生徒に共通していたから、複数で、尚且つ頼み事となれば必然的に予想はつく。

 

「は、はいっ! 雛森先輩にぜひとも鬼道の稽古をつけてもらいたくっ!」

「私っ、鍛錬場で見てたんです!」

「もう六十番台(・・・・)の破道(・・・)を修得するなんて、教本では席官でもない限り修得が難しい鬼道なのに。本当に先輩は鬼道の天才なんだと」

 

 瞳を輝かせ、興奮した様子で口々に語り出すのを両手で押し留める。今回のように、鬼道の稽古をつけてもらうべく下級生が訪れるのは珍しくない。

 放課後が訪れると鍛錬場に通うのが日課だ。鬼道に限らず斬術や白打、歩法の鍛錬場にも足を運んでいる。鬼道の天才という評判もあいまって雛森の顔は幅広く伝わっていた。

 

「天才じゃないよ、あたしは。それに昨日の件も、まだ完全に制御できてなかったし」

 

 本物の天才とは特筆すべき点を持ち、己の斬魄刀を難なく解放し、そして既に霊術院を去っている。しかし雛森は飛び級するほどの能力ではなく、斬魄刀の声を未だに認識できず、目標に向かって学び舎で己を高めているだけだった。

 それを目の前の後輩たちに告げることはないが、天才と人から向けられる度に雛森は思い返す。

 

「そ、それでも僕たちにとって雛森先輩は目指すべき目標なんです! だから、どうか」

 

 留年を免れるため、雛森に頭を下げて鬼道の稽古を頼み込んだ少年がいた。飄々と雛森をからかい、斬術では同期でも抜きん出た実力を誇った掴み所の無い少年だった。

 

「あたしでよければ教えるよ。ただし、今日の放課後だけになるけどそれでもいい?」

 

 異論が返ってくることはなかった。

 

「これでも稽古は真剣にやるからね、放課後まで元気を残しとくこと。それじゃまた鍛錬場でね」

「はっ、はい、ありがとうございます雛森先輩!」

 

 後輩たちの背中を見送り、思わず笑みが零れる。雲の上よりも高い、手の届かない場所に位置する存在を目標にするべきだ。下級生ならば授業の内容も初歩的なものであるから、鍛錬場で失敗した六十番台の鬼道は充分手の届かない範囲なのかもしれないけれど。

 雛森の目標とする人物は命の恩人だった。手の届かない場所、即ち護廷十三隊の死神だ。いずれは傍らに並び立ち、支えることができる日を実現すべく日々鍛錬に勤しんでいた。

 偶には身体を休める必要がある。最近は六十番台の鬼道を修得すべく、寝不足にならない範囲で猛烈な鍛錬を繰り返していた。下級生に稽古をつけるのは丁度いい休息になる。

 

「よくもまぁ慕われてるな。特に最近は色々と声をかけられてるじゃねぇか」

 

 教室に戻れば、なんともいえない表情で恋次が溜め息をついてみせた。

 

「そうかな? 稽古のお願いは週に一回は聞いてると思うけど、それでも毎日じゃないよ」

「ちげぇよ。あぁくそっ、つまりだな」

 

 珍しくも恋次が言い淀む。なにやら言葉を探している様子だが、会話の流れや意味を理解したとは言い難い雛森は助け船を出せるはずもない。

 遂には唸りはじめ、真剣な表情で額を抑え始めた。座学の成績は級友の吉良イヅルが面倒を見ることで赤点を回避する恋次が、その脳内思考力の全てを振り絞ろうとしてまで伝えようとする言葉はどんなものだろうか。

 

「えーと、つまりだな、あれだ。うん」

「ゴメンね阿散井くん、筆と墨を持ってくるから伝えたいことを紙に書いてみよう?」

 

 幼子をあやす口調で雛森は言った。

 

「ほら、言葉に出なくても紙ならすぐに出て来るかも。大丈夫だよ、癖のある文字は祐輝くんで見慣れているし阿散井くんの絵もちゃんと解読してみせるから」

「流れるように俺と朝霧のやつを罵倒したな!? っていうか、俺が言いたかったのは朝霧のことだよ!」

「えっ、祐輝くんがどうかしたの?」

 

 互いに斬術の好敵手と認め合う二人は鍛錬場で手合わせをすることが度々あった。時には吉良イヅルや二組の生徒も輪の中に加わり、回道の鍛錬も兼ねて雛森が生傷の治癒を担当していたものだ。

 

「朝霧の勉強を見なくなってからじゃないのか、色々と声をかけられるようになったの」

「あ、言われてみれば確かに」

 

 得心が言ったと掌を叩く。

 祐輝は一回生の頃に留年の危機に陥った。雛森が勉強の面倒を見ることで無事に進級を果たしたが、その後も勉強会と称して雛森が祐輝の面倒を定期的に見ていた。

 選択科目で二人が同じものを受講してからはその頻度も多くなり、必然的に雛森の傍らには祐輝の姿が常にあった。

 思い返せば下級生に稽古をつけるようになったのも、勉強会をやめたあとからその頻度が増えている。いや、以前はお世辞にも座学の成績が良くない祐輝を優先すらしていた。

 

「時間ができたからね。人にものを教えることは祐輝くんで慣れたから、なのかな。疲れないし、丁度いい休息になるの」

「休息って、お前は毎日どっかの鍛錬場に顔を出してるじゃないか。木刀で素振りをしていると思えば、白打で組手をしているしよ。流石に倒れるんじゃねぇか?」

「心配してくれてありがと阿散井くん。でも大丈夫だよ、充分な睡眠時間は取ってあるから」

 

 寝不足は天敵だ。思考の回転が鈍り、些細な失敗を連発してしまう。塵も積もれば山となる、失敗を重ねることで致命的な事態を招かない為にも睡眠時間には細心の注意をはらっていた。

 だって祐輝くんに心配をかけてしまうから。ほんと、いつもは意地悪でからかうのに、妙に気が回るんだから。その優しさを普段から向けて欲しいんだけどなぁ。

 

「吉良も心配してるんだ、ほどほどにしとけよ。まっ、目指すべき目標があるお前の気持ち、俺は理解してるつもりだからよ」

「だったらまた斬術の手合わせをお願いしてもいい?」

 

 右腕の袖をまくり、腕を回しながら不敵に宣言をする。学年で尤も斬術の腕が立つ恋次を相手に雛森は未だに一本も取れた試しがない。

 

「おうよ、軽く揉んでやるぜ」

 

 獰猛な笑みを湛えて恋次は快諾した。級友が斬術の腕前をどれほど上達したのか、純粋な興味を抱いていた。

 雛森の日常は鍛錬に打ち込むことで過ぎ去ってゆく。下級生への稽古や、級友たちとの手合わせを繰り返し、驕ることなく己の才覚を磨いてゆく。

 だがその傍らに寄り添う者はいなかった。

 

 

 ▽

 

 

 放課後、鬼道の鍛錬場はある種の賑わいを見せていた。各々が鬼道の詠唱を行い、あるいは見事に失敗しながらも集中力が欠如している。当然だった。雛森が三人の下級生を相手に、鬼道の稽古をつけていたからだ。

 可憐な容姿もあいまって、雛森の存在は目を引く。小柄な鬼道の天才から技術の一片でも盗もうと、或いはただその姿を拝もうとする輩は少なくない。

 

「そっか、三人とも鬼道が苦手なんだ」

 

 稽古をつける三人は同じ特進学級の後輩だった。入試の成績や霊力といった死神に必要な素質は同期でも上位に位置するが、どうやら鬼道の成績は芳しくないらしい。

 

「昨日も、授業で赤火砲(しゃっかほう)をうまく撃てなくて……」

「誰でも最初は失敗するものだよ。それじゃあ、取り敢えず的に向かって一発撃ってみよっか? 大丈夫、皆がどれくらいできるのか把握するためだから、構えすぎないで」

 

 緊張をほぐすため、敢えて穏やかな口調を心掛ける。

 やがて三人の後輩は詠唱をはじめ、前方へ突き出した両腕へ霊力を集中させてゆく。仄かに紅い燐光が漂うも、それは酷く不安定で儚いものだった。

 

『破道の三十一、赤火砲っ!』

 

 同時に放たれた霊力の焔は暴発せずに前方へ飛翔した。不安定な軌道を描きながらも発動者から数歩の距離までは鬼道としての形を保っていた。

 

「うん、お見事」

 

 素直に雛森は称賛した。適性を持たない者は鬼道に関して絶望的にならざるを得ない。縛道が必ず爆発してしまう、特進学級でありながら全般的に鬼道を発動できない、そういった実例が雛森の身近に存在していた。

 鬼道が苦手と訊いていたが、適正に関しては心配しなくてもよさそうだった。流石に恋次と同等であれば、雛森といえども諦めた方が良いと言わざるを得ないからだ。

 

「でも私、途中で爆発しましたよ……?」

 

 詠唱を終えて暴発はしなくとも的に届くことはなかった。赤火砲の発動は失敗したに等しいが、構わないと首を振る。もとより今の技量、そして未熟な部分を把握するためなのだ。

 

「もう少し肩の力を抜いて、でも集中して霊力を練り上げて。例えば」

 

 右腕を掲げ、掌の上に一個の球体を浮かび上がらせる。淡い色を帯びた球体は弾けるような熱が込められていた。

 

「これが練り上げた霊力。じゃあ、試しに投げてみるね」

 

 遊戯をするように雛森は的へ向かって霊力の球体を放り投げる。空中でその色合いが変化してゆき、的に着弾すると同時に小さな火球へと転じた。

 もちろん、的が破片と化すことはない。

 

「こんな感じで、安定して霊力を練り上げれば途中で爆発することはないよ」

 

 その後も稽古は穏やかに、けれども雛森による適確な指導によって過ぎてゆく。

 ひび割れた玉を浮かび上がらせた後輩には満月や餅など、円形状の物体を意識するよう伝えた。外見的には完璧でも、霊力の密度が塵のように薄いものもあった。当然、それは耐久性の観点からすぐさま消滅する。

 思考錯誤しながらも霊力を練り上げることに集中し、ようやく雛森から合格を貰えば本番へ移行した。

 詠唱と発動が繰り返される。霊力は安定し、遂には的へと命中するようになってゆく。

 持ち前の霊力だけで不完全ながら赤火砲を発動できたのだから、恐らく、初歩的な鬼道に関しては難なく行使できるだろうと考える。

 素質に優れた特進学級の弊害かもしれない。なんでも容易く行えてしまうが故に、霊力の扱い方が未熟だということに気づくことはなかったのだろう。

 

「凄い、赤火砲がこんなに簡単だったなんてっ!」

 

 あ、今の感想を阿散井くんに聞かせたいかも。鬼道は要らない、って絶対に言いそう。それで吉良くんが珍しくからかうんだよね。

 でも、祐輝くんなら教え方が上手いって褒めてくれるかな。

 

「雛森先輩、ありがとうございましたっ!」

「いつか私たち、先輩みたいに鬼道の熟達者になってみせます!」

 

 汗を流し肩で息を吐きながらも、疲れの色を見せることもなく感謝の言葉を捧げる後輩たち。筋は悪くないため、あとは雛森が指導しなくとも自分たちで鍛錬を重ねれば鬼道は上達してゆくだろう。

 

「あのっ、最後に一つだけお願いしてもいいですか?」

 

 怯えるように上目遣いの視線が向けられ、できることならばと頷いて見せる。

 

「昨日の鬼道、もう一回見せてくださいっ! 六十番台の鬼道は席官や鬼道衆でもない限り修得が難しいと聞きました!」

 

 鍛錬場に設置された的を破壊した鬼道のことだ。個人的には制御を誤ったから的を破壊してしまったのだと悔いてる代物だ。教師からも注意を受けている。

 精密な加減ができるほど扱いに熟達していない。僅かに逡巡し、閃く。的に当てなければよいのだ。地面へ下降してゆく軌道を描けば、的を破壊する危険性はない。

 

「いいよ、ちょっとだけ離れていてね?」

 

 聞き耳を立てていた他の霊術院生たちからも視線が注がれる。苦笑を堪え、一瞬だけ感情の矛先を腰の斬魄刀に、そして霊術院の外へ向ける。

 次は失敗しない。この程度で歩みを止める訳にはいかない。

 

「散在する獣の骨、尖塔、紅晶、鋼鉄の車輪」

 

 雛森の輪郭が朧気に揺れる。それは膨大な霊力の奔流が周囲の空気を震わせているものだった。

 

「動けば風、止まれば空、槍打つ音色が虚城に満ちる」

 

 厳かに紡がれてゆく詠唱が終わり、鮮やかな閃光が轟く。

 

「破道の六十三、雷吼炮(らいこうほう)っ!」

 

 朱と桃が重ね合わさった、不思議な色合いの雷だった。

 

 

 ▽

 

 

 中庭に設置された掲示板の前に、多くの霊術院生が群がっていた。興奮した面持ちで、或いは失意に叩きのめされた様子が至るところで見受けられた。

 群がる人の波を押しのけて掲示板まで辿り着こうとするも、小柄な背丈が災いしてそれは叶わない。ことわりを入れる雛森の声は周囲の熱狂によってかき消されてしまう。

 足を踏まれ、或いは肩がぶつかることで漸く雛森の存在は認識される。

 浅打を離さないよう柄を抑えながら、疲れた様子で掲示板の前に辿り着いた。以前までならばここまでの苦労をすることはなかった。仕方がないものと割り切っているが、それでも一抹の寂しさを覚える。

 邪魔にならない範囲で背を伸ばす。もっとも、どれだけ背伸びしたところで視界の邪魔にはならないが、それでも配慮を忘れないのが雛森だった。

 

「えっと、雛森桃、雛森桃……あっ」

 

 名前を探して彷徨っていた視線が固定される。己の名前が記された位置には、主席の二文字が併記されている。

 

「やったぁっ! あたし、一位だよっ!」

 

 両手を振り上げ、全身を使って喜びを表現する。ともすれば周囲に向かって自慢するような言動かもしれない。それでも雛森は構わない。

 

「待っててね祐輝くんっ!」

 

 

 ▽

 

 

 定期試験が行われる度に成績上位者の順位が掲示板に張り出される。科目ごと、そして学年での総合的な順位が張り出されるため、必然的に総合順位の一位は学年主席とみなされる。

 座学や鬼道の成績が散々な恋次は総合順位に名前が載ることはないが、斬術の科目では常に上位へ位置していた。

 雛森の学年では常に吉良イヅルの名前が主席に記されていた。鬼道の天才が雛森、斬術の使い手である恋次と並べば実技科目でこそ見劣りするが、殆どの科目で成績上位者として名前を載せている。一回生の頃から学年主席の座を降りたことはない。

 だが、それは変わった。紛れもなく、雛森桃という名前の横に首席の二文字が記されている。吉良イヅルは学年の次席だった。

 

「学年主席おめでとう雛森君」

 

 週に一回のみ執り行われる授業の終了後、憧れの人物にかけられた言葉は祝福だった。

 

「ありがとうございます藍染隊長っ! でも、あたしはまだまだです。吉良くんはずっと主席でしたから」

「吉良イヅル君か、彼も見込みのある生徒だね。それでも、君が努力を重ねて主席へと至ったのは紛れもない事実だろう?」

 

 その言い方は卑怯です、藍染隊長。

 

「一度の結果に驕ることなく高みを目指す姿勢は好ましいが、それも過ぎると謙虚ではなく傲慢となってしまうものだ」

「隊長がそうおっしゃられたら、反論できませんよ」

 

 だって、否定したらそれは吉良くんの、他の人の努力を貶すことになるじゃないですか。

 全てを包み込んでくれる暖かい人だと思っていたが、良い意味で意地の悪い言葉を投げかけて来る。その全てが正しいのだから、隊長の持つ清廉な人柄であるとは理解しているけれど。

 

「盲目的に人の言葉を信じるものではないと忠告しておくよ。それとも彼ならば、君は反論していたのかな?」

「祐輝くんは意地悪ですから、あたしをからかうだけです」

「ははっ、その信頼感が雛森君の原動力か。だけど、重ねて言うよ。盲目にならないことだ、君はまだ若く未来がある。焦る必要はない」

「大丈夫です。あたしは、祐輝くんの傍に立つのを目標にしているだけですから」

 

 同意を求めるように腰へ差した浅打に視線を落とす。

 

「一歩や二歩じゃ済まない、どれだけ走っても手で掴めない場所にあたしを置いて行ったんです。しかも一緒に甘味処に行く約束をしたのに、ですよ?」

 

 実習のため現世へ赴く背中はまだ手の届く範囲だった。虚に襲われながらも生き延びた姿には痛々しい傷痕が残っていた。

 飄々とした意地の悪い笑みを湛え、座学の授業は隙あらば居眠りを敢行する祐輝の存在は日常に不可欠な存在と化していた。それ故に、日常から欠けた破片の喪失感は大きい。

 

「あたし、約束を破る人は許しません。だから、早く追いかけて祐輝くんを怒らなきゃいけないんです」

 

 霊術院を卒業して死神になり、喪った日常を取り戻す。他愛のないことでからかわれ、不真面目な態度を叱責し、食事を一緒に取る日常だ。もちろん、甘味処に行く約束も果たしてもらう。

 残るは斬魄刀の解放のみ。それさえ叶えば、たとえ飛び級できなくとも霊術院を去ることができる。

 仮に卒業までに己の斬魄刀を解放できなくとも、優秀な成績を修めていれば護廷十三隊には希望した隊へ入れる確率が高いと聞いていた。

 

「ならば僕にできるのは過った道に進まないよう導くことだけだ。愛情は人の力を引き出す大きな糧だが、災いを呼び寄せることもあるからね」

 

 

 









斬魄刀異聞篇を見返すと、飛梅は本当に雛森らしい斬魄刀だと思います


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11話

 空には陽光が溢れていた。生い茂る木々の大半がそれを遮り、居心地の良い休息の安らぎを齎している。

 木陰に腰掛けた年若い死神は、その瞳に強烈な感情の輝きを灯している。眼前で繰り広げられる情景に身を乗り出して魅入られていた。

 遮蔽物が存在しない平原で、二人の死神が唯一無二の得物を振るう。銘を保持する斬魄刀の能力が芸術的とすら言える剣戟を可能とした。

 死覇装(・・・)を纏った(・・・・)祐輝の眼前で流水の波濤が舞った。視界の大半が青白い霊力によって生み出された偽物の波に覆われる。

 右腕に保持した得物を振るう。鈴の音色が呼応し、肌を撫でつける旋風が巻き起こる。視界を覆い尽くした波濤は正面から襲い掛かった風に撫でられて四散した。

 視線が交差する。好戦的な笑みを湛えた志波海燕は手にした三又を回転させ、怒涛の槍撃を繰り出す。

 十三番隊の副隊長が持つ斬魄刀は、始解によってその形状を三又の槍へと変える。流水の波濤を操る能力が解放され、槍撃と波濤を軸に回転を加えた独特の戦闘法を得意としていた。

 回転する三又を躱せば、後追いするようにして波濤が襲い掛かる。時間差での攻撃、それを的確に駆使する技量は斬魄刀の力を十全に引き出している証拠だ。

 小刻みに身体の軸を左右へずらし、追撃の波濤は鈴の音色が鳴るたびに旋風で相殺する。最短で最小の動作を続ける一方で僅かな硬直を敢えて曝け出す。間髪入れずに叩き込まれる槍撃は確かな隙を突いたもの。

 しかしそれは祐輝によって誘い出された一手だった。

 

「響け」

 

 突き出された三又を保持した刃で抑え込み、厳かに紡がれた一言。呼応した鈴葬の刃が震え、澄んだ音色がその場を支配する。

 即座に行われる海燕の反撃。悪戯の成功したような笑みが癪に障った。罠だと気づいたうえで誘いに乗ったのだろう。

 だが海燕の波濤は斬撃によって粉砕された。全身に回転を加えた動作で背後へ回り込み、振り向きざまに鈴葬を振るう。口元が歪むのを感じる。速度の乗せられた刃が届くのは一瞬だった。

 甲高い音が響き渡る。右腕から伝わる鈍い振動に表情を歪めながらも即座に後方へ跳躍した。半歩の後、胴が存在した虚空を波濤が薙いだ。

 

「背中に目でもついてんのかよ……っ!?」

「伊達に副隊長してねぇから、なっ!」

 

 悪態をつく。死角に回り込んで放った渾身の一撃は予備動作もなく防がれた。

 相手の視点からすれば、一瞬にして対峙する敵が消え去ったのだ。位置を捕捉し、尚且つ攻撃に対応するならば僅かだが、それでも戦いの場では致命的な時間という名の隙があるはずだった。

 間髪入れずに正面から迫り来る海燕に対し、間合いを取る愚を犯さない。互いの得物を考慮すれば当然で、相手は三又の槍なのだ。能力を解放しても形状に一切の変化がない鈴葬は凡庸な刀としての機能しか持たない。

 しかし懐に潜り込めば取り回しの良さで分があった。急所に打ち込んだ一撃の数は上回るはずだ。その全てが防がれており、決して届くことはなかったが。

 柄へ左手を添える。両腕で構えた一刀を下段へ構える。互いの身体が交差する寸前に視線を海燕の腰から肩へと動かす。下段からの斬り上げ、いかに予備動作を無くそうとも視線を用いた攻撃の起点はもはや反射的なものであり防ぐことはできない。

 予測される斬撃の軌跡が読めれば容易く対処される。尤もそれは眼に視えるからであり、不可視の刃は予測のしようがない。

 三又の間合いに入った。高い位置から回転した槍撃が振り下ろされる。敢えて己の手の内を晒した甲斐があったものだ。

 両腕を振り上げる。せめぎ合う刃が火花を散らし、妙に冴えわたる(・・・・・)音を鳴らす。青白い流水の飛沫。追撃の波濤に対応する暇はない。鈴葬を保持するが故に両腕は封じられている。

 

「お前、妙に器用な真似をするな」

「伊達に流魂街で盗人してませんでしたから……っ」

 

 波濤は飛沫を上げて四散していた。鈴葬を振り上げて生み出された風という不可視の刃によるものだった。

 槍撃を防がれても波濤の追撃で補う、またはその逆を行うのが志波海燕だ。

 祐輝は同様の戦闘法を用いる。異なる点は鈴葬の能力で生み出されるものが波濤ではなく不可視の存在であり、名前の通り能力を振るう度に鈴の音が鳴り響くことが挙げられた。

 斬魄刀の攻撃を防がれても、不可視の一撃を祐輝は叩き込んだ。惜しむらくは鈴の音色が鳴った瞬間に全てを読まれてしまったことだろう。

 波濤を凌ぎ、更なる一撃に繋げるはずだった。相手の得物が抑え込まれた絶好の機会であった。

 全身を包み込むような流水を浴びて、濡れそぼった死覇装を不快気に見つめる。下手人たる上司(・・)は愉快とばかりに三又を肩に抱えており、祐輝は仄かに敵意を抱く。

 

「んじゃ適当に死覇装でも乾かしとけ、流石に風邪ひくぞ」

「誰のせいだと思ってんだよっ!?」

「おう、だったら無様を晒さないよう強くなれ朝霧。まっ、鋼の精神力と止水の境地に達した俺に勝つなら卍解でもしてみせるんだな」

「ぜってぇにいつかぶち転がしてやる」

「負け犬の遠吠えにしか聞こえんぞう?」

 

 どうにも調子が狂うと祐輝は思った。口で何を言ってものらりくらりと躱される。しかし言葉の本質は正論を吐くのだから質が悪い。

 木陰から飛んできた手拭いを掴みながら海燕を見遣る。

 

「なぁ、海燕さんはまだ続けるんすか」

「当然、この程度は準備運動だな。お前らみたいな子どもと同列に扱うなよ朝霧」

 

 準備運動、その言葉を胸中で噛み締める。始解を含め、持ちうる武技を全力で発揮した。それでも実力、経験ともに勝る海燕には一撃もその身に当てることができなかった。

 観戦者が木陰で立ち上がる気配を察する。頭を振り、祐輝は振り向いた。

 

「おいルキア(・・・)、俺の死覇装が乾かないうちに終わらせるんじゃないぞ」

 

 猫を彷彿とさせる瞳が特徴的な、十三番隊で唯一の歳が近い同僚は意気込みよく言葉を返した。

 

「たわけ、私の方が海燕殿との付き合いは長いのだ。貴様のような無様は晒さぬわっ」

 

 付き合いの長さは関係あるのだろうか。いつも意識を鳥や雲、太陽に逸らしてしまう悪い癖が出た瞬間に終わるだろうに。

 率直に浮かんだ疑問を訊ねれば当然だと控えめな胸を張るはずだ。そして偉く自信に溢れた口調で講釈を垂れ流し、副隊長から制裁を喰らう。もちろん巻き添えで、だ。

 うん、適当に激励の言葉でもかけておこう。唯一の霊術院同期である先任隊士(・・・・)は単純なところがある。

 

「おう、頑張れ先任」

 

 えらく察しが良い雛森ならば微笑ましい反撃が飛んでくるのだけど。ちょっと、また意地悪するんだからって。いや、適当なこと言わないでよ、だろうか。

 まぁ根が優しいから頬をはたかれても大した痛みは伴わないが。そして今はそのやり取りが懐かしくすら思える。

 木漏れ日の当たる場所に腰を下ろした祐輝の見詰める先で、抜刀して斬術を繰り広げる二人の姿があった。始解を修得していないルキアに合わせ、海燕も斬魄刀を解放していない。

 視界に入るのは死覇装。瞳が求めるものは、傍らの存在だった。

 

 

 ▽

 

 

 腰を落ち着けるのは肌に合わない、その贅沢が許されないのは新参者であるためか。深刻な己の現状を打開する方法は一つしか残されていない。それを取らざる得ない状況が癪に障った。

 

「いい加減にせぬか貴様っ! たかが書類の整理を前に殺気を出す馬鹿がおるかたわけっ!」

「へぶゥっ!?」

 

 首筋に入った衝撃を受けて盛大に顔面を机へとぶつける。舞い上がった書類が束ねてあったのは不幸中の幸いだった。

 片手で首を抑えながら恨めし気に書類を、次いで背後のルキアに視線を移し、最後に中央四十六室(・・・・・・)へ殺気を飛ばす。

 霊術院時代は隣に雛森がいる安心感から座学の授業にも出席していた。堂々と昼寝をしても同じ授業を受ける雛森に勉強を教えてもらえたからだ。はたき起こされることが常だったが。

 それがどうだ、十三番隊では絶え間なく書類の整理を行わねばならない。副隊長や第三席の執務室と仕事場を往復し、ともすれば使い走りで各所に赴くこともある。

 鍛錬に至っては有り難いことに副隊長から直々に稽古をつけてもらえる。繰り返すが実に有り難い。隊舎から遠く離れた流魂街の山奥まで往復するだけでも瞬歩の鍛錬には充分だというのに。

 賢者の集まりであっても人の感情までは理解できぬらしい。忌々しい中央四十六室に吐き出す恨み言は両手の指でも足りない。

 

「現実逃避を続けても仕事は逃げぬぞ。手伝ってやるから少しは真面目にやれ。全く、霊術院の頃と変わらぬな貴様は」

 

 隣で小言を続けながらも書類を捌く手際は速い。霊術院では同期だが、ルキアは十三番隊の先任隊士に当たる。勤務した年月の分だけ、隊士として仕事のこなし方は心得ていた。

 仕事に熱中する他なかったのだろう、祐輝はそう思っていた。配属された十三番隊に歳の近い隊士がいるはずもない。そして五大貴族、朽木家の養女という身分に反して席官ですらない一般の隊士。標準的な感性の持ち主なら気安く接することは不可能だ。

 こうして同じ隊に配属されたのは細やかな気配りであると察せられた。海燕か、それとも他の誰かだろう。経緯は違えども、互いに鳴り物入りで現れた新参者だ。霊術院の頃は僅かな時間だけであるが、同じ学級でもあった。

 故に気心の知れた仲ならば孤独を味わうこともない、そのような配慮をしてくれたに違いない。

 

「むっ、手が止まっておるぞ」

 

 容赦ない指摘が加えられる。気づけば既に半分以上の書類を整理し終えていたルキアは、更に未整理の書類を引き抜いてゆく。

 

「わるい、少し考え事してた。怒られないうちに俺も真面目に仕事するか」

「寧ろ怒りを通り越して呆れの境地だ。貴様、それでよくも進級できたな」

「言ってなかったか? 一回生の頃に留年しかけたのを雛森に助けてもらって、それからはまぁ勉強の面倒を見てもらってたし」

「男として情けないと思わないのか……?」

「交わした約束の一つや二つ守れずにいるのは、情けないと思ってるな」

 

 隣で書類を捲る音が乱雑になる。怪訝に思いながらも、自分の手先は動かし続ける。

 

「後悔は、しておらぬのか」

 

 振り絞るようにして紡ぎ出された言葉は震えていた。後悔か、それなら何年も胸の中に巣食ってるよ。

 

「鈴葬を捨てるか、霊術院を捨てるか、俺の選択肢は二つに一つだったさ」

 

 正規の死神ですら、一般的な隊士は始解を修得していない者も存在する。

 己の斬魄刀を解放した祐輝は霊術院を卒業する資格が与えられていない。尸魂界の賢者たちは、力の扱い方が未熟な者を霊術院に在籍させることに危惧を抱いた。

 かつて見舞いに訪れた八番隊の隊長を務める京楽の言葉を思い返す。悠長に卒業を待つよりさっさと何処かの隊で面倒を見るべきだ。あぁ全くもって現実はそうなったよ。

 斬魄刀を手放して過去の無力な存在に舞い戻るなど耐えられない。死神を目指して鍛錬を重ねた。漸く力を手にした。ならば必然的に残された選択肢は霊術院を去り、護廷十三隊へ強制的に入隊するほかなかった。

 

「俺は雛森と甘味処に行く約束をしてたんだよ。大福か羊羹でも頬張って一緒に茶を啜る、そんなありふれた休日さ。んで、試験が近づいたら勉強を教えてもらう。代わりに俺が斬術の稽古をつけたりあいつの頭を撫でる」

 

 それでも、と言葉を続ける。

 

「なんだ、少しばかり抜け駆けしたけど、俺より才能がある雛森は絶対に死神になる。だから、ほんの数年だけ我慢すればいいんだよ。そうすりゃまた会える」

 

 永遠に手の届かない場所へ旅立った存在を脳裏に思い描く。かつてこの手から零してしまった家族と雛森は違う。

 生意気な白髪の少年とも約束を交わした。家族を想う日番谷冬獅郎に、自身と同じ喪失感など味わって欲しくはない。

 

「そうか、ならば私が徹底的に貴様を叩きなおしてやらねばな!」

「おい待てどうしてそうなった」

 

 手合わせでは一度も勝ったことないだろうに。

 

「書類仕事の一つもこなせぬ軟弱男などすぐに愛想をつかされるぞ。数年もの時が経てば心は別の者へと移っているかもしれぬ」

「お前の幼馴染みはどうなんだ」

「恋次か? あやつはどうしようもない単純で莫迦者だから器用な真似ができるはずなかろう」

「反論のしようがないほどに納得できる」

「うむ、それでは都殿から請け負った仕事の全てをさっそく」

 

 途中から手先を休めなかったおかげで、無事に与えられていた書類の整理は終わった。先にルキアが済ませていた分も素早く掴み取り、副隊長の執務室へ届けに向かう。

 

「待て貴様っ! まだ私の話が終わってないだろう!?」

「手伝ってくれてありがとうな、饅頭か何か買ってきてやるよっ!」

 

 冗談じゃない、わざわざ第三席の仕事を請け負ったなどと宣うなら相応の量を誇るはずだ。幸いにも本日の課業は海燕に整理した書類を提出すれば終わる。

 甘味を手土産にすれば雛森は嬉し気に受け取ってくれたし、きっと先任隊士の機嫌も良くなると願いたい。

 

 

 ▽

 

 

 隊舎の屋根に登って夜風を浴びる物好きは他にいない。自信をもって断言したいところだが、生憎と今回は先客が存在した。

 爛々と輝く銀月に照らされた後ろ姿に一瞬だけ面影を重ねた。寮の屋上、何をするでもなく夜空を見上げては肩を並べた。風邪を引くと注意しても、一緒に戻るのだと頑固な一面を見せてくれた雛森。

 

「一人で月見酒ですか、都さん」

 

 失礼しますよ。やや間を空けて隣に腰掛けた祐輝に対し、十三番隊の第三席を務める志波(・・)都は徳利と杯を差し出す。

 視線を逡巡させ、窺うように見遣れば失念していたとばかりに都は両目を見開いた。

 

「ごめんなさい、祐輝君はまだ子どもだったわね。お酒じゃなくてお茶が良かったかしら?」

 

 茶目っ気のある都だが、妙な所で天然な部分を見せることもある。海燕とは別の意味で調子を狂わされる相手だが、不思議と苦手ではない。

 他の隊士とは業務面ですら交流が乏しい祐輝やルキアに分け隔てなく接する、数少ない存在だからだろうか。

 

「いや一応は大丈夫ですけど。こんなところで都さんと呑んでたら海燕さん怒るかなぁ、って」

「心配は要らないわ、あの人が潰れたから一人で寂しく月でも眺めようと思ってたの」

 

 護廷十三隊の昇進は実力主義だ。単純にいえば席官の中で尤も強い者が第三席であり、更に上回る強者が副隊長、そして隊長と続く。

 もちろん、隊長となるには実力だけでなく相応の条件を必要とする。副隊長の場合でも、実力のみならず人格面などが隊を預かる隊長によって評価される。

 即ち第三席の都は十三番隊で三番目の実力者であると同時に副隊長である海燕には劣る。単純な認識ではそうなるのだが、それは修正せねばならないらしい。

 部下でもある自分の妻に吞み潰されるなんて海燕さん無様じゃないんすか。日頃の鍛錬で蓄積された敵意を糧に内心で毒をはく。

 

「んじゃま、遠慮なく」

 

 徳利から遠慮なく杯に酒を注ぐ。軽く喉に流し込めば、浅い風味と共に仄かな火照りが身体を温める。頬が熱く感じた。いくら夜風を浴びるために身体を温める必要があれども、流し込んだのは僅かな量なのだ。

 

「こんなの呑んでたら誰でも潰れるんじゃないっすか」

「あら、やっぱり子どもね。京楽隊長から呑みに誘われてるって聞いたから、てっきり酒豪だと思ってたけど」

「呑めるのと呑むのは違いますよ」

「でも、偶にはお酒の勢いに身を任せてみるのもいいわよ。雑念を振り切れるし、無理してため込んでる男の子を吐き出しなさいな。祐輝君、明日は非番でしょう?」

「酔ってますね、それ言ってること無茶苦茶っすよ」

 

 口元を抑え、都は楽し気に相好を崩した。頬に朱が指した様子は見受けられない。冗談だと遅まきながらに気づく。

 たかが一杯で酔いが回った事実が不快だった。子ども扱いされても否定が難しいじゃないか。

 

「いいのよ、貴方はまだ若いのだから。偶には大人に甘えなさい」

「甘えることなんかないっすよ」

「そうかしら。課業の時間は一緒にいるルキアさんも、朽木のお屋敷という家があるわ。隊舎ではどうしても貴方は独り、だからこうして月を見たり、風に当たるのでしょう? 孤独を紛らわすために」

 

 普段の祐輝ならば軽口の一つでも叩いて話題を変えた。えぇ、月を見てると兎が傍にいる気がするんですよ。

 だが酩酊した状態では思考がまとまらず、感情の奥底にある本心が零れ落ちてゆく。

 

「そりゃ、霊術院の頃は独りで飯は食ってなかったし」

「ルキアさんと一緒だったの?」

「いや、アイツには幼馴染みがいて。学級は違ったけど家族みたいに、ってか家族だったから」

「そっか。じゃあ祐輝君は誰と一緒にいたのかな」

「雛森」

 

 即答だった。喉の渇きを覚え、杯に残った液体の全てを胃袋へと流し込む。潤いが足りない。徳利から注ぎ直し、一息に飲み干してから言葉を続ける。

 

「危なっかしくて、でも根が真面目だから面倒見のいい奴。放っておけないから目を離しちゃいけないと思って、そしたらなんか、いつも」

「隣にいた?」

 

 待て、何を言おうとしているんだ。いや、もう口走った後か。つまり手遅れなのだから、全てを吐き出しても問題ないか。

 

「茜雫の手を離したんだ、せめて隣にいるあいつの手は握ろうって。約束もした。一緒に甘味処に行こうって、それなのに俺は独りでここにいる」

「でも、貴方は力を持ち続けることを選んだ。その代償が孤独では駄目なの?」

「独りだったら意味がないんだ」

 

 銀月が雲に遮られる。影が差した祐輝の表情には陰鬱なものが漂っていた。ある種の死相だった。死の淵を垣間見た者だけが浮かべる、己の命を彼方へ飛ばす呪いに似たものだ。

 

「寂しいのね、貴方は」

「なくしたものは戻らない。子どもでも分かることだよ都さん」

 

 酒の勢いに任せて吐き出したのは紛れもない真実だろう。寂しい、そうかもしれない。気心の知れた仲はルキアだけだ。それも日中、与えられた仕事をこなすときや海燕に稽古をつけてもらう僅かな時間のみ。

 雛森桃の存在は多大なる影響を与えていた。少女が傍にいる世界が、喪失の恐怖と後悔を抱き続けた祐輝にとっての日常と化していた。

 かつて流魂街で盗人として日々を送っていた頃、茜雫の名を持つ魂魄が傍に寄り添ったように。

 

 

 

 



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12話

 隊舎の廊下を倦怠感に満ちた身体で歩く。両腕に抱えた書類の重みが原因とは言い切れない。

 角を曲がり、目的の部屋に辿り着く。室内に人の気配を感じた。書類を届けに来た部屋の主はいるのだろうと確信し、祐輝は扉を開けた。

 

「副隊長からの書類を持ってきましたよ、虎徹五席」

 

 呼び声は軽やかな響きを持っていた。室内の先客から胡乱気に向けられた視線は努めて無視する。

 霊術院から引き抜かれた新参者であり、朽木ルキアの級友。面倒事を嫌ってか、親しく接してくれる隊士は少ない。

 

「お使いありがとうね朝霧君、よければお饅頭食べる?」

 

 十三番隊の第五席を務める虎徹清音は数少ない例外だった。入隊当初のルキアにも分け隔てなく接しており、当然とばかりに祐輝のことも同じ隊の仲間として扱っている。

 折角の好意を無下にするつもりはない。しかし先客の瞳が険を帯びていた。長居して欲しくはないのだろう。人付き合いが良いとは言い切れぬのだから、進んで嫌われる真似をしようとは思わない。

 

「すみません、この後も海燕さんから使い走りにされるんで今日は遠慮しときます」

「そっかあ、副隊長も人使い荒いなぁ。辛くなったら朽木さんも連れてあたしのことを頼っていいからね! 新人や後輩の面倒を見るのもあたし、つまり五席の務めだからっ!」

「そん時は頼らせていただきますよ、んじゃ俺はこれで」

 

 だが五席を強調したのには何かしらの意味があったのだろうか。首を傾げたい欲求を抑え込み、先客の隊士にも軽く頭を下げる。

 

「待て朝霧、話がある」

 

 妙に耳を震わせる迫力の声に、背を向けようとしていた祐輝の動きが止まる。

 浅黒い肌と額の鉢巻が特徴的な隊士は顎髭を撫でりつつ、その眼光が鋭く祐輝を睨んでいた。

 臆することなく祐輝は眼光を受け止めた。掴み所の無い表情で応じる。その内心では疑問符が湧き起こった。おいおい、睨まれる真似はしてないだろうに。

 普段の課業は書類の整理に使い走り、他にも雑用を任される。歓迎されない、或いは微妙な態度を取られることは多くとも問題を起こした記憶はない。

 わざわざ五席の好意を無下にしたことが癪に障ったのだろうか。

 悩む必要などなかった。半ば怒鳴るような声量で答えは返ってきた。

 

「俺とこのちんちくりん、どっちが四席に相応しいとお前は思うかっ!?」

 

 勢い込んで肩を揺さぶる隊士は小椿仙太郎という六席だった。大柄な体躯と声量の大きさが特徴的で、廊下を歩いてるだけでも隊舎の何処かしらから声が聞こえる程だ。

 これまでに言葉を交わした数は少ない。書類を届けに訪れても険の籠った表情を浮かべていることが多く、歓迎しない側なのだと祐輝は思っていた。

 

「ちょっと何いきなり訳の分からないこと言ってんのよ! ごめんね朝霧君、コイツ酒の飲み過ぎで可笑しくなったみたいで」

「あんだと虎徹!? お前が五席なら空いてる四席は当然この俺だろうが!」

「ちょっと意味分からないし、席次の順番なら四席はあたしでしょ」

「お前は七席から昇進したばかりだろっ!?」

 

 眼前で繰り広げられるのは喜劇の類だった。小柄な女性と強面の男性が互いに己の長所を賛美し、相手の短所を罵倒する。面映ゆいのは傍観者にしてみれば同類の類にしか捉えられない。

 既に放置されたも同然の祐輝だが、黙ってこの場を後にするのは気が引けた。

 

「あの、俺もう仕事に戻っていっすか?」

 

 十三番隊の五席と六席の仲が険悪だなんて聞いたことないぞ。理由なんざ推測したくもない。

 先に声を発したのは小椿だった。険の和らいだ声音で六席は確認する。

 

「おう、見苦しいところを見せちまったな。ま、面倒事があったら朽木ともどもこの小椿仙太郎に頼れよ。なんたって次の四席になる男だからな、お前もそう思うだろ?」

 

 当然のごとく虎徹が否定した。五席は打って変わって祐輝を気遣う神妙な態度で申し訳なさそうに表情を曇らせる。

 

「だからっ、次の四席は席次からしてあたしだってのっ! ごめんね朝霧君、こんな莫迦のことは放っておいていいから仕事に戻っていいわよ」

「んじゃ俺はこの辺で失礼します、虎徹五席、小椿六席」

 

 背後からは収まる気配のない喧騒が続く。廊下ですれ違った隊士が呆れのため息をついていた。十三番隊では日常の一部になっているのだろう。

 つまり自分一人が何も知らなかったわけか。たまたま、二人の喧騒をこの目で見る機会に恵まれていなかっただけで。

 頭を振り、今しがたの光景を打ち消す。祐輝には海燕の使い走りという課業が立派に残っている。

 普段はルキアと二人一組で仕事が与えられる。だが朽木家の用事で隊舎に顔を出せなければ、残された祐輝は主に海燕から雑用を押し付けられる。

 文句はなかった。たいして親しくもない隊士と仕事をこなしても、互いに気まずくなるだけだ。忙しく身体を動かした方が祐輝は良かった。

 

「あの二人は放っておけ」

 

 海燕の呆れた声が隊首室に響いた。

 本来ならば十三番隊を預かる浮竹が執務を執り行う場所だった。だが本来の主は病弱な身体を療養するため、滅多にこの部屋へ訪れることはない。

 広くて便利だからという理由で、海燕は許諾を得たうえで隊首室に腰を落ち着けている。

 今も机の上には書類が積み重ねられ、その傍らには急須と椀が置かれていた。

 

「あと小椿は悪いヤツじゃねぇぞ、お前や朽木のことを気にかけているし、顔が悪いのは生まれつきなんだ」

「いつも睨まれてたら誰だって嫌われてると思いますがね」

 

 軽口を祐輝は叩いた。相手を非難するというよりも、一般的な認識を語るような口振りだった。

 

「だったら覚えろ、小椿は顔が悪い。んで、次はちょっと八番隊まで行ってこい」

「ほんと、海燕さんは口が悪いっすね。それで」

 

 勝手知った様子で備え付けの棚から饅頭を拝借する。海燕の恨みがましい視線を軽く受け流す。疲れを癒すための甘味を隠した場所は十三番隊の紅一点から内密に教えられていた。

 

「地味に遠い八番隊まで俺は何をしに行けば?」

「うちの隊長の手紙を届けて来い。京楽隊長とは霊術院の同期で、かなり親しいからな」

「あぁ、霊術院の」

 

 小動物のように愛らしい少女の姿が脳裏を過ぎった。

 

「朝霧、お前どうせ暇を持て余してるだろ?」

「それが今日は人使いの荒い副隊長のせいで過労死寸前なんですよ。いやぁこの饅頭のおかげで辛うじて命を繋いでる次第で」

「次の鍛錬でお前の生意気な性根を叩きなおしてやる、ほらさっさと行ってこい。あぁ、それと」

 

 厳重な封がされた手紙を懐に仕舞い込んだ祐輝は、見せつけるようにして茶を啜る海燕を見遣った。

 

「その手紙を届けたら今日は上がっていいぞ。お前に任せる仕事はもう残ってない」

 

 

 ▽

 

 

「あぁ、十三番隊からか、お疲れさん。ま、雑用を押し付けられるのは新人の特権だから頑張るんだな」

 

 弛緩した空気を漂わせる八番隊の守衛は気さくに言った。霊術院に通っていてもおかしくない祐輝の風貌を目にして、新任隊士としか思わなかったらしい。

 数年たてば、いやでも退屈な仕事が割り当てられるのさ。へぇ、雑用からしたら守衛は天職に思えます。違いない、だが君が昇進すればもっと忙しくなるだろうね。それは勘弁願いたいっすわ。いやはや全く。

 軽く談笑を交わし合うのは新鮮だった。何も考えずに済む、これほど気が楽なことはない。

 

「それで京楽隊長は隊首室に行けば会えると思います?」

「おいおい、どうして当たり前のことを聞くんだ」

 

 言葉と裏腹に守衛の口角は歪んでいた。八番隊の隊長が昼間から酒臭い息を吐くのはそれなりに知られている。

 

「まだうちの副隊長が大声を挙げていないから、隊舎の中にいると思うぜ。俺も隊長が出ていく姿を見ていないからな」

 

 丁重に感謝の意を示して隊舎の廊下を歩く。すれ違う隊士は心なしか女性が多い。見慣れぬ他所の隊士が歩いていようとも、気さくに会釈が返された。

 途中、僅かに空いた扉の隙間からは仕事の手を休め一服ついてる光景が見られた。廊下に腰掛け、何をするでもなく談笑を交わし合う男女の姿もあった。

 隊長の素行が気風として現れているようだ。祐輝は他の隊に興味を抱いた。例えば、霊術院で授業を受けた藍染の五番隊はどのような感じだろう。

 学者のように物腰が柔らかい藍染だから、隊士たちは八番隊以上に穏やかなのか。雛森みたいに生真面目な性格の集団かもしれない。

 

「おや、珍しいねえ朝風君。もしかして八番隊に異動を希望かい?」

 

 呂律の怪しい声は足元からだった。視線を向ける。太陽の恵みを受けるが如く、陽の光に照らされながら肩ひじをついて横になる桃色の羽織が目についた。

 

「朝霧です、あ、さ、ぎ、り。相変わらず俺の名前を憶えてくれませんか、京楽隊長」

「いやぁボク男の子はあまり興味が沸かなくてねぇ」

 

 杯を傾けた京楽は下品な音を口元から立てて言葉を続ける。

 

「それで君がいるってことはわざわざボクと呑みに来たのかな? もし本当に異動が希望でも、女の子じゃないからちょっと」

「仕事ですよ、仕事。ほら、浮竹隊長からの手紙っす」

 

 隊長を見下ろし続けるのは礼を失するが、身体を起こす気配は一向に感じられない。仕方なくことわりを入れてから横にしゃがみこみ、懐から少し皺のできた手紙を見せる。

 酒臭い息をはきながら手紙を見詰める京楽の瞳は潤んでいた。既に酩酊状態らしい。

 果たして手紙を渡してよいものか。不安は的中した。

 

「それ、七緒ちゃんに渡しといて。隊長のボクが怠けるのは平和の証拠、だからボクと呑もうよ」

「いや、流石に昼から呑むのは遠慮しますよ。ほら、手紙受け取ってください」

「ヤダ、それボク受け取らないから。つれないなぁ朝霧君は、入隊したら呑もうって約束した仲じゃないか」

「先約があるって言ったじゃないですか」

 

 甘味処に行くという、雛森と交わした約束のことだった。結果的にそれは半ば強制的とはいえ祐輝が霊術院を去ったことにより実現していない。

 悔いを滲ませたのは一瞬だが、心残りであることに変わりなかった。ならば他の誰かと交わした約束を守る訳にもいかない。それが祐輝なりの雛森への罪滅ぼしだった。

 

「あぁ、女の子との約束だっけ、それは仕方ないよねぇ。うん、仕方ない。だから今日は呑もうじゃないか」

 

 話を聞いていたのかこの人は。完全に酔いが回っている。

 甲高い足音を立てながら近づく霊圧を感じ取った。腰に差した鈴葬が警鐘を鳴らす。冷や汗が湧き出る程に緊迫した空気が漂い始めた。

 京楽は編み笠を目深に被り、わざとらしい寝息を立て始める。

 日頃から酔っ払っている京楽が隊長を務めても、八番隊は護廷十三隊として機能する。当然だった。風紀を正す生真面目な副官の手腕によるものだった。

 

「三日分の仕事が溜まっています。隊長、いい加減に仕事をしてください」

 

 副隊長を務める伊勢七緒は冷ややかに告げた。道端に転がる石ころを見詰める眼差しだった。脇に抱えた帳簿が斬魄刀のように振り下ろされる。

 

「わぁ待って七緒ちゃんそれちょっと洒落にならないから」

「起きてたのなら返事をしてください。ほら、隊首室に戻りますよ」

「えぇ、それくらい七緒ちゃんやっといてよ。ボク今日は十三番隊からお客さんがいるし」

「あら、貴方は」

 

 素直に京楽の言葉通りにすればよかったと後悔した。酔いの回った酒臭い隊長ではなく、生真面目な副隊長に預かった手紙を渡せばこの場からは逃れることができた。

 傍らの隊長は編み笠によって表情が伺いしれない。飲酒の大義名分として巻き込んだのか。それでこの副隊長が納得するはずもないだろうに。

 

「朝霧君、こんなところで油を売ってないで仕事に戻りなさい。今ならまだ大目に見てあげます」

「あ、一応俺は浮竹隊長の手紙を届けに来たんですけど」

「隊長は見ての通りですので手紙は私が預かります。他に用件はないのでしょう?」

 

 有無を言わさぬ迫力だった。凍てついた空気によるものか、眼鏡によって瞳の色が隠されている。

 

「七緒ちゃんもっと優しく言わなきゃ、折角の可愛い顔が台無しだよ」

 

 矛先が向けられてはたまらない。退散すべく祐輝は手紙を七緒に手渡し、即座にその場を離れた。

 背後から未練がましい京楽の声が粘り着く。徳利でも取り上げられたのだろう。もし次の機会があれば、今度は生真面目な副隊長に直接手渡すことにしよう。

 さて、本日分の仕事はこれで終えた。思案する。余った時間はどうしようか。隊舎に備え付けの道場では始解の鍛錬などできない。まず稽古の相手が存在しない。

 隊舎の自室で昼寝をするのも、勿体無く感じた。霊術院にいた頃と異なり、死神となってからは課業と鍛錬に追われる日々だ。自由に使える時間は貴重なものだった。

 

 

「やぁ、久しぶりだね朝霧君」

 

 柔らかな声が背後からかけられた。霊圧や気配といったものは一切感じられなかった。今日は隊長に縁がある日だなと祐輝は感じた。

 振り向いた先には穏やかな物腰で見下ろす眼鏡をかけた隊長の姿があった。雛森の恩人で、霊術院では祐輝も授業を受けていた五番隊の隊長を務める藍染だった。

 

「もし時間があればお茶でもどうだい、雛森君の近況も聞きたいだろう?」

 

 

 ▽

 

 

 五番隊の隊首室は掃除が行き届いていた。贅を尽くさない程度の細やかな調度品が室内を彩る。

 達筆な掛け軸が特に目を惹いた。見覚えのある文字だった。祐輝の視線を辿った隊首室の主人は穏やかに説明した。

 

「渾身の作品でね、僕のお気に入りなんだ」

「霊術院を思い出します。隊長の文字を板書したら、俺の字が上達したのかと錯覚しましたよ」

「僕の記憶が確かなら、君はいつも雛森君に起こされてなかったかい」

「まさか、隊長の授業だけ(・・)最前列で受けてましたから寝ることなんてできませんよ」

「意外と正直だね、君のそういう性格に雛森君は惹かれたのかな」

 

 遅まきながらに祐輝は失言に気づいた。他の授業では居眠りをしていたと白状したも同然だった。ばつの悪い表情を浮かべると、藍染は朗らかな笑顔で受け流した。

 応接用の長椅子を促され、恐縮しながらも腰掛ける。他隊の隊長と二人きりなど、平の隊士としては考えられないことだった。

 もし雛森だったら歓喜で一杯だな。そして直接対面した途端に緊張で固まる。うん、真面目が損をする性格だな。

 

「茶菓子は好きなものを口にしなさい。隊士たちからの差し入れが多くてね、とても僕一人では食べきれないんだ」

「それだけ隊長が慕われてるって証拠ですよ」

「十三番隊もそうだろう? 浮竹隊長を支えるために、皆の結束が固いじゃないか」

「はぁ、まぁ海燕さんが隊を取り仕切ってますからね」

 

 煮え切らない態度で誤魔化した。何かしらの問題が起きても誰かが支え補う。互いの気配りが上手い。病弱な隊長と、代わって隊を取り仕切る副隊長、二人の存在が隊士たちの結束を強めているのだ。

 逆に言えば、異物などに対する反応も似たような形となって現出する。良い例がルキアの存在だった。朽木家の養子でありながら平の隊士という矛盾した立場が影響し、隊士たちの殆どが距離を置いている。

 席次は同じでも、相手は五大貴族の末席。問題を起こせばどうなることか。そのような心理が作用し、ルキアと対等以上に接するのは必然的に海燕を筆頭に上位席官ばかりだ。

 

「僕としては、教え子の君を五番隊に迎え入れたかったのだけれど。志波君たっての要望でね、流石に僕としても折れざるを得なかったんだ」

「要望って、ルキアのことですか?」

「それだけじゃないよ朝霧君。見ず知らずの他人に囲まれるのと、一人でも知人が隣にいるのと、君はどちらを選ぶかい?」

「そりゃ、まぁ知ってる奴がいた方が気は楽ですよ。つまりそういうことですね」

 

 二人しかいない同期なのだから、せめて同じ隊に配属させる配慮。恐らくそうだと考えていたそれが、隊長である藍染によって肯定された。

 

「それでもやはり、という気持ちはあるよ。霊術院の生徒が始解を修得したのは五十年ぶりだからね、その才能を五番隊で発揮してほしかったのさ」

「それは買い被りですよ隊長」

 

 祐輝は鈴葬へ視線を落とした。死の淵に陥ったからこそ漸く解放できた力だ。これが才能と言うならば、誰でも命の危機を感じることで斬魄刀を解放できる。

 斬術の腕前も、鍛錬を重ねた結果だ。身のこなしは、流魂街時代に生きる糧を得るため盗みを働き続けた結果だ。

 それ故に己は才に乏しいものだと断じる。過程を積み重ねても、本来ならば祐輝は鈴葬の名を知ることはなかったのだ。

 死にたくない、だから名前と力を与えられた。斬魄刀の意思によるもので、それは祐輝が自ら掴み取ったわけではない。

 

「謙遜は時に礼を失するものだ。朝霧君が自分を認めなければ、君の背中を追う者の努力をも否定することに繋がる」

「努力は否定しませんよ、でも俺の後ろを追うのは明確な間違いです」

 

 即ち斬魄刀に情をかけられた哀れな存在を目標とすることだ。己の才覚を否定すればその事実へと繋がる。

 

「君の考えや在り方を変えるつもりはない。ただ、心の拠り所にする存在もいることは忘れないでくれ。君の言葉は不可視の刃となって誰かを傷付けるかもしれないよ」

 

 不可視の刃、まるで鈴葬の能力じゃないか。

 

「すまないね、説教じみたことを言ってしまって。僕の中ではまだ教え子として映っていたらしい」

「俺はまだ知らないことの方が多いですよ。だから、藍染隊長の言葉は勉強になります」

「ならばさっそく悩み事を僕に相談してみたらどうかな、日々の出来事や君の持つ斬魄刀について、僕なりに力になれるはずさ」

 

 心の僅かな機敏でも隠し通せず、全てを見透かされているような気分に祐輝は陥った。この人の洞察力はどこまで見抜いているのだろうか。

 

「無理にとは言わないよ。それでも雛森君から頼まれていてね」

「まさか俺が悩んでたら力になって欲しい、とでも」

「その通りさ。どうだろう朝霧君、五番隊の隊長では力不足かな」

 

 祐輝は苦笑を堪え切れなかった。霊術院を去って尚も雛森に面倒を見てもらうのか。不快ではなかった。遠く離れても、傍に温もりの残滓を感じたのは気のせいだろうか。

 であるならば、腹を割って相談してみよう。多忙な隊長がこうして時間を割いてくれる意味、そして雛森の好意を無下にするわけにはいかないのだ。

 思い返せば人生はそういうものだ。放っておけなくて面倒を見るつもりでも、実はその逆である場合だ。流魂街にいた頃は、家族となった少女が生きる糧そのものだった。

 

「まぁ、悩みっていうんですかね、これは。十三番隊は確かに結束が固いですけど、その」

「あまり良い関係を築けていない、そういうことだね」

「えぇ、俺は対外的には霊術院から引き抜かれてきたことになってますし、同期のルキアは朽木家の養子ですから」

「だから、他の隊士は君たち二人を扱いかねている。ふむ、副隊長や上位席官の皆は違うのだろう?」

「そりゃもちろん」

 

 祐輝は即答した。特に副隊長と第三席を務める志波夫妻については熱心にその人柄を説明した。一方で交流の殆どが上位席官に限られていることも包み隠さずに打ち明けた。

 耳を傾けていた藍染は顎を撫で、暫し思案顔を浮かべる。どのような言葉が返ってくるのか祐輝は興味を抱いた。やがて眼鏡が輝き、安心感のある声で言葉が紡がれる。

 

「同じくらい、他の隊士のことは知っているかい?」

 

 言葉を疑った。仕事上で接する以外、他の隊士とは殆ど交流を持たないことは確かに説明した。当然ながら趣味嗜好など、そして性格といった面を知る由はない。

 藍染の意図を図りかねた。すると、眼前の隊長は微笑を打ち消した。霊術院で授業を受けていた頃でもこのような表情は見たことがない。

 

「周囲が拒絶する、だから孤独を受け入れる。それが今の君たちだ。自ら歩み寄ることもせずに不満を抱くのは、傲慢だとは思わないかい」

「それ、は」

 

 祐輝は呻いた。事実だった。分け隔てなく接してくれる少数の存在に甘え、他の隊士と積極的に関りを持とうなど考えたこともない。

 面倒事を嫌って距離を置かれた。ならばこちらも問題を起こさないように立ち回れば良い。そうして祐輝の周囲には同じ境遇のルキア、海燕や都など若干名の席官しかいない。

 

「僕の副官を務める市丸君も、昔は君たちのようなものだった。霊術院を一年で卒業し、入隊して即座に三席を務めたからね」

 

 あまりにも若く、当時の五番隊では古参の隊士を中心にして相応の反発が起きたのだと藍染は語る。

 

「三席に相応しい実力を示したから理解はされたよ。それでもまだ子どもの市丸君が上官という事実は心情的に納得できなかったみたいでね。実力で全てが決まる十一番隊なら話は別だったと思うけど」

 

 当時は副官を務めていた藍染の下へ苦情を送る隊士が後を絶たなかったと、苦労話を漏らす。

 

「十三番隊は結束が強い隊だ。朝霧君と朽木君、二人が自ら歩み寄る態度を見せれば、そのうち仲間として迎え入れてくれるはずさ」

 

 目が覚める思いだった。同時に己の愚かさを叱責する。単純だった。人付き合いで誰もが通る道ではないか。最初から全てを知るはずがない。名前を知り、言葉を交わし合うことが必要だったのだ。

 

「ありがとうございます、藍染隊長。俺がどうしようもない莫迦だと分かりました」

「人は地に足を付けた存在だ。道に迷い、ともすれば足を踏み外すこともある。それを正しく導くのが僕の務めさ」

 

 この人に憧れを抱く気持ちが何となくわかるな。全てに答えを用意してくれる気がした、ならば信じて背中を追い続けることが正しいのかもしれない。

 少なくとも、そう思わせる存在だ。これが隊長になる人物の器か。

 

「さて、固い話はここまでにしておこうか。折角のお菓子も不味くなるからね」

「勉強になりますよ、いや、隊長の授業をもう少し真面目に受けてればよかったかな」

「ならば五番隊に異動しないかい、僕はいつでも歓迎するよ」

「せっかくだから、もう少し十三番隊に残りますよ。俺、まだ仲間たちのこと何も知らないですから」

 

 そう言えばと祐輝は切り出した。藍染に誘われて五番隊の隊首室まで訪れた本題をまだ聞き出していなかった。

 

「雛森の様子はどうですか」

 

 

 






年内に茜雫篇の投稿が間に合わなかった……


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13話

 差し込んだ陽光に照らされ、眩し気に片手を持ち上げて陰影を創り上げる。心地の良い微睡みを名残惜しく感じながら、上体を起こした。

 盛大に欠伸をしながら両の手で瞼を擦った。首を回すことで意識の覚醒を促す。抱き締めるように掴んでいた斬魄刀が布団の中に潜り込んでいるのを確認する。

 霊術院の寮で寝起きしていた頃から変わらず、緩慢な動作で身支度を整える。くたびれた死覇装に袖を通し、微妙に緩い帯を締めなおすこともせずに己の獲物を腰差した。

 傍らに面倒見の良い少女はいなかった。大胆に着崩している訳でもなく、祐輝の身だしなみに注意を払う者は十三番隊に存在しない。

 それは単に思いついたことだった。服装に頓着しない傾向のある祐輝にとっては珍しく、帯を締めなおした。跳ねたくせ毛を姿見で認めれば、若干の手間をかけてそれをなおした。

 日常から外れた行動をするだけの確かな動機があった。

 備え付けられた食堂で取る朝食は常に独りだったが、祐輝は既に慣れたものとして気にしない。それどころか、鼻歌を口ずさんでいた。

 自宅で朝食を済ませてから隊舎に姿を現したルキアと合流し、そうして一日の課業を開始する。

 

「今日はえらく上機嫌だが、何か吉報でもあったのか?」

 

 連れだって廊下を歩く最中、引き攣った表情を浮かべたルキアは上目遣いに訊ねた。即座に悔いの色を滲ませるのだが、眼中にないため気づくことはなかった。

 

「吉報、そうだな。俺にとっても喜ばしいことだよ」

 

 日常に混じった小さな異物が具現化していた。朝を苦手とする祐輝にしては精気に満ち足りていた。傍目に見ても分かる程度には軽やかな歩調で、纏う雰囲気が心地よい涼風のようだった。

 欠伸を噛み殺しながら飄々と笑顔を浮かべる器用な真似を披露し、朝霧祐輝が吉報の詳細を口にする。

 

「藍染隊長から昨日きいたんだが、雛森が学年主席になったんだと。あいつのことだから兎みたいに飛び跳ねてるはずだよ。くそっ、直接この目で見てからかってやれないのが残念だ」

 

 祐輝は脳裏に霊術院での光景を描いた。定期試験を終え、成績上位者が掲示板で発表される度に雛森と足を運んだ。大勢の生徒で溢れかえる掲示板を前にして、小柄な雛森が懸命に背伸びをすることで自身の成績を把握する姿は小動物のそれだった。

 そうして最後には困ったように頬を掻くのだ。わざとらしくため息をついてみせ、仕方がないと雛森の手を引いてやる。幼子のような扱いに不満を覚えて頬を膨らませる仕草がまた面白かった。

 今回はどうしたのだろうか。自力で人の波を掻き分けたのならばたいしたものだ。褒美に大福でも奢ってやらねば。

 

「そ、そうか、それはめでたいな」

 

 硬さの滲んだ声音に首を傾げるが、新たな人の気配を感じることで疑問を追及する暇はなかった。

 

「朝っぱらから惚気る余裕があるのか朝霧、えぇ?」

 

 さも愉快だとばかりに海燕は口元を歪め、肩に手を載せて来た。足首の違和感。途端に視界が揺れる。身体に染みついた癖で反射的に受け身を取ることで転倒を免れ、足払いを仕掛けた相手を見遣る。

 誇らしげに清々しい表情を形作る下手人に対し、抗議の意も兼ねて恨みがましく睨み付ければ軽く受け流された。

 くそ、折角の気分が台無しだ。からかい癖をどうにかするつもりはないのか、この人は。

 もちろん、学年主席にまで上り詰めた少女に対して同様の態度を取っている事実を祐輝は棚に上げている。

 

「まっ、そんくらいの余裕があれば俺としても気が楽だ。二人とも、流魂街を荒らしてる虚の顔を拝みに行くぞ」

 

 現世を彷徨い続ける魂魄は多い。それらは基本的に無力な存在であり、虚にとっては格好の餌だった。現世を荒らす虚から魂魄を護り、更には尸魂界に送ることで二つの世界の均衡を保つ調停者が死神の役目だ。

 だが無力な魂魄が存在するのは現世だけではない。死神たちが住まう瀞霊廷の外側、即ち流魂街は現世から流れ着いた魂魄が集う場所だ。死神の中には流魂街出身が存在するように、霊力を保有した魂魄も少なくない。

 それ故に上質な餌を求めて流魂街を荒らす虚は少なからず出現した。瀞霊廷という死神の本拠地が目と鼻の先でありながら構わず姿を現すのは、総じて知能が高く危険な個体であることが多い。

 討伐隊が編成されるのは必然的だった。基本的には実力者である上位席官が討伐隊の指揮を執り、配下には経験を積ませるべく新任隊士が含まれる場合もある。

 

「海燕殿、それは実戦ということでしょうか?」

「寝ぼけてんのか朽木」

 

 後ろ手に髪をかき回しながら海燕は続ける。

 

「この先ずっと半人前でいるつもりかお前は。今すぐとは言わねえが、一歩先を進む頃合いだと俺は考えたんだよ。戦いの空気を嗅ぐだけでもな。朝霧はどうだ?」

「流魂街の虚を斬るんでしょ」

 

 常と変わらぬ飄々とした声音だったが、祐輝は両手の拳を強く握りしめていた。虚の恐怖は鮮明に刻み込まれているし、決して気楽な記憶とは言い難いが流魂街は幼き時分の故郷だ。

 

「行かない理由なんて俺にはないですよ」

 

 例え死神として赴く地区が治安と食料に恵まれた場所であろうとも。虚を前にすれば体格で偉ぶるだけの大人、対抗すべく知恵を働かせる幼子は等しく無力なのだから。

 それだけではなかった。掌から零れ落ちてゆくなにか、心に巣食う後悔の名を持つ病魔が囁きかける。

 

「はっ、一丁前の口を叩く。いやでも連れ出すつもりだったからな。それじゃお前ら、今すぐ支度を整えろ、出発は半刻後だ」

 

 そうした次第で、副隊長が直々に指揮を執る討伐隊の一員として祐輝は平原を歩いていた。傍らには緊張した面持ちのルキアが並ぶ。

 祐輝よりも先に入隊したが、訓練で出動したことはあれども本物の戦闘は今回が初めてとのことだった。

 周囲の、二人からは若干距離を置いた討伐隊の面々を祐輝は観察した。ある程度は経験を積んでいるらしく、緊張感を孕んだ様子は見受けられない。各々が談笑を交わすが、時折探るような視線を感じた。

 露骨な不満を示してはいない。副隊長の海燕が直々に連れ出しているからだ。彼らにとって十三番隊の副隊長は無条件で信頼するに足りるものを持っている。

 しかし誰もが抱く感情の波は穏やかではないだろう。朽木ルキアという未熟な隊士が掠り傷でも追えば、その責を追及されるのではないか。そう考えてるに違いない。

 権力や後ろ盾を持たない隊士にとって五大貴族の養女は重荷に他ならないはずだ。

 面倒事は嫌いだ。互いの領分を守り、適度に距離を置く。うん、平穏の代償は孤立だ。けれども今回は丁度いい機会じゃないか。

 仲間であると認識させる。いきなり上手くいかないだろうが、虚という明確な敵がいるんだ。足手まといとは違う、それだけでも示せればいい。藍染隊長の言う通り、こちらから歩み寄る。その最初の一歩だと思えば。

 

「情報じゃ森の中に巣を作ってるらしい。遊びに出かけた子どもが帰らず、探しに来た大人が命からがらに逃げ出したんだそうだ」

 

 陽光を遮るほどに高く重なる森林は不快な陰影を作りだしていた。昼間だというのに薄ら寒い風が頬を撫でる。腰に差した鈴葬が煩わしい感情を醸し出すことに祐輝は気づいた。

 空を打つだけで重みを持たない音が鳴る。鼓動を喪った鈴の破片だ。風が運んでくるものは既に命の形を成していない。

 海燕の話が確かならば、子どもだ。間に合わなかった。事前に情報があるのは誰かが虚を目撃したからだ。討伐隊が派遣されるよりも先、つまりそれは流魂街の住人であると容易に察せられた。

 それでも子どもが虚に喰われた事実は変わらない。

 

「捜索は二人一組だ。互いの死角を助け合え、虚を発見しても逸るな。近くの組を呼ぶんだ、移動せずに巣を作ってる虚だ、充分に警戒しろ」

 

 手慣れた様子で指示を出す海燕。討伐隊の面々は互いに気心の知れた仲で組を作る。

 当然のごとく、祐輝はルキアと組んだ。個人的な事情を抜いても妥当な判断だった。始解を修得していない者を組み合わせても、無駄に犠牲を出す可能性が高まる。ならば片方は経験豊富な、そうでなくとも己の斬魄刀を解放した者でなくてはならない。

 例外は海燕だった。副隊長の動きに合わせられるだけの実力者が討伐隊にはいなかった。しかし誰も異論を唱えない。その必要がないからだ。

 護廷十三隊の席次は隊によって若干の差異はあれども実力を優先して任じられる。

 

「それと朝霧、朽木、お前らは特に無茶をするんじゃないぞ。今日は実戦の空気を嗅ぐだけでいい、なるべく前に出るな」

 

 名指しの注意に対し、当然だと同意する気配が感じられた。煩わし気な視線も注がれる。

 

「何の為に稽古をつけてもらってるんですか。俺たちを連れて来たのも、経験を積ませるためでしょう」

 

 傍らの同期は滑らかに口が回る性格じゃない。ならば役割を引き受けるのは己だ。

 

「あぁん、たかが一回だけ虚から生き延びた程度で自分は特別だと思ってるのか朝霧」

「まさか、それと一つだけ訂正を。俺は一度だけ貴方に命を救われている。まあそれは置いときますよ、今は関係ないから。つまりですね」

 

 沈黙して成り行きを見守る周囲の視線を意識する。

 

「俺も、ルキアも、十三番隊の死神ですよ。そりゃあまだ半人前もいいところの未熟者ですけどね、少しは信じてください俺たち(仲間)を」

 

 海燕の、普段は人好きのする瞳が細められた。言葉の意味を吟味し、そのうえで覚悟を問いかけるような色合いを発する。

 祐輝は刃のごとく鋭い瞳で応じた。二度、左手で腰に差した鈴葬の柄を叩いた。銘を持つ斬魄刀に共通する、この世にただ一つしか存在しない形を見せつけた。

 永遠とも思われる沈黙の果てに、海燕の表情が和らいだ。周囲に言い聞かせるように口を開いた。

 

「泣きべそ欠いたガキが随分と偉くなったもんだ。忘れるなよ、お前の心にあるものを」

 

 続けて、祐輝が死神を目指すきっかけを作った男は茶化すような口調で付け加えた。

 

「女の一人も守れないようじゃ男が廃るぜ朝霧」

 

 護ってみせるさ。それが茜雫にしてやれる贖罪なんだよ。

 

 

 ▽

 

 

 その森林の情景は上品な表現を用いれば豊かな自然だった。空を窺い知れぬほどに逞しく育った木々に見下ろされ、足元には虫や草が群れている。

 人が踏み入った形跡が微かに見受けられるのは、流魂街の子どもたちが遊び場として活用していたからだろう。林の節々に印のような傷がつけられている。文字の形を成しているものもあった。

 幼子が振り絞った知恵の結晶を目にした祐輝は感心の声を漏らした。この印を辿れば、遊び場に迷わず辿り着く。

 子どもらしい理由で帰りが遅くなること、例えば遊びに熱中して夕暮れの闇で身動きが取れなくなっても面倒を見る善良な大人たちが迎えに来てくれるだろう。

 朝霧のような地区に流れ着く貧乏くじを引いたとしても、発案者は持ち前の頭脳を発揮して上手く立ち回ったに違いない。

 だろう、違いない、全ては仮定に終始する。確かめる術はなかった。死して尸魂界に送られた魂魄が再度の死を迎えれば、身体を構成する霊子が世界の一部となる。

 虚の胃袋に収まることがなければ、という注釈がつくけれど。

 

「貴様、どういう風の吹き回しだ」

 

 背後を歩くルキアからの問いかけ。

 目標とする虚は巣を作り、森林の中に迷い込んだ魂魄を餌として捕食すると予測されていた。ならば足を踏み入れた瞬間から既に敵地であるという認識を持つのは当然だった。

 奇襲を受けても即座に対応できるよう、斬術に秀でた祐輝が先頭を突き進む。その背中を鬼道でルキアが守る形だった。

 

「いつまでも半人前でいるわけにはいかないだろ。出発前に海燕さんも言ってたし、それに」

 

 視界が開けた場所に出た。そこだけ森林から隔絶されたかのように陽光が届いていた。腰に届く程度の岩が入り口と呼べるところに屹立している。黒ずんだ苔が特徴的だった。

 ふむ、遊び場はここだな。巣を作るにしては随分と目立つ場所だ。待ち伏せにも向いてない。

 

「俺たちは十三番隊の一員なんだ。それを他の隊士たちにも認めてもらう。お前も、いい加減にお客さん扱いは嫌だろ、同じ仲間なんだから」

 

 道中で虚の霊圧は感じられなかったし、奇襲を仕掛けるには絶好の機会だったはずだ。この近辺に巣を張っていない。そして辛気臭い森の中を隈なく探す必要がある。

 

「藍染隊長に言われたんだよ、俺たちから隊の仲間に歩み寄ってみたらどうかってな。だから、昨日の今日で実践してみた」

「ええい、ならば事前に一言声をかけておけばよいだろうっ!」

「だってお前、口下手だし」

 

 我慢ならないと喚き立てるルキアを適当にいなす。虚に勘付かれる危険性を懇切丁寧に説けば声量は小さくなるが、代わりに拳が飛んでくる。煽るように大袈裟な動作でそれを躱した。

 霊術院が懐かしいな、昼寝をしたり授業を抜け出せば雛森にいつも小言を貰っていた。

 

「勢いよく啖呵をきったからには虚を見つけるか、他の連中の援護くらいはしなきゃならん」

「しかし闇雲に彷徨うだけでは埒があかぬぞ? 子どもの遊び場を目指すのは手掛かりを探す意味もあったが、当てが外れたではないか」

 

 瀞霊廷から死神が駆け付ける危険を考慮に入れたうえで流魂街を荒らすからには相応の知恵を持つ虚だ。

 見通しの悪い森林地帯は奇襲に向いた場所だ。そこに巣を張り、確実に餌となる魂魄を捕食する。一見すれば合理的な判断だが、どうにも奇妙な引っ掛かりを祐輝は覚えた。

 敢えて場所を曝け出してるようなものだ。現世ならばいざ知らず、尸魂界にいる間は必ず討伐隊が派遣される。その危険性に気づかない莫迦ならば、これほど知恵が回るはずもない。

 死神を相手にしても確かな勝算があるのか、或いは別の目的に沿っての行動か。

 

「一応、まだ手はあるんだけど」

「むっ、それは妙案か」

「物は試しだ。あまり期待しないでくれよ」

 

 鞘から鈴葬を引き抜く。瞳を閉じ、視界に入る世界を遮断することによって霊子の流れを知覚する。風に運ばれる形を喪った命を認めたのも束の間に、あらゆる存在が暴風と化して祐輝に命を鳴らす。

 森林の全域に散らばる木葉が、折れた枝が、果ては足元の土に至るまで全ての霊子が流れ込む。それらは尸魂界を構成する霊子。本当の意味で、世界に還元されたかつて命を持った存在だ。

 精神世界を荒れ狂う暴風の中で鈴の音が鳴る。それは生ある命だ。脈打つ鼓動の数は討伐隊として派遣された仲間のもの。

 

「くそっ、わるい。無理だった」

 

 肩で息を吐きながらも、納得したような表情を祐輝は浮かべた。

 

「今のは、貴様の斬魄刀の能力か?」

「そんなところだ、霊圧探知を極限まで高めたようなもの。俺がまだ未熟だから、霊子で構成されるものは石ころ一つでも認識しちまう」

 

 鈴葬の名を知る前は、不完全な形で能力が発現していた。霊術院にいた頃の祐輝は霊圧探知に便利なものとして扱い、現世の実習では大いに役立てた。虚の襲撃を探知できたのもこの能力による恩恵だった。

 

「よく分からない斬魄刀だな。鬼道系の能力を持つのは確かだが」

「俺がまだ全てを引き出しちゃいないんだろうよ。難しく考えなくても、鈴葬は」

 

 空気を震わせると錯覚するような絶叫が木霊した。疑問の余地がないほどにそれは明瞭な発音で意味を認識できた。

 

「朝霧っ!」

「あぁ、虚だ、往くぞルキアっ」

 

 膨れ上がる霊圧を肌で感じながら駆ける。人が通るには向かない地面を滑空する有り様だった。

 木々を掻き分け、眼前に立ちふさがる邪魔なものは文字通り道を斬り拓く(・・・・)。目まぐるしく変わる視界の片隅に、薄暗い森の中でも殊更に目立つ漆黒を認める。

 死覇装だ。剣戟の音。煌めき。火花が飛んだ、抜刀して戦っている。影は二つ。片方は虚だ、一騎打ちを演じるのは海燕の霊圧じゃない。

 視覚から獲得した僅かな情報を瞬時に処理した祐輝は追随するルキアを見遣る。半歩遅れている同期の斬魄刀は鞘に収まったまま。

 思案は瞬時に言葉となって吐き出された。

 

「俺が加勢する、お前は負傷者を頼むっ」

 

 果たして返答があったのか祐輝は知らない。有無を言わさぬ勢いで既に抜刀していた鈴葬を構えなおす。交差した影、その片割れが縮こまる。鈍色の物体が弾かれたのを確認した。

 斬魄刀を手放したのだ。内側に抑え込まれていた感情の枷を外した。瞬間的に膨れ上がった霊圧によって爆発的な加速を得た祐輝は影の片割れ、片膝をついた死神に止めを刺す虚の背後へ疾走した。捻りを加えて右腕を振り下ろす。一閃、痺れという形で伝わる手応え。

 

「なっ、お前は……っ!」

 

 驚愕はすぐさま苦悶へと変わった。死覇装が濡れている。帯が赤黒く染まっていた、いや、違う。引き裂かれた布の隙間が顕になり、とめどなく血が溢れでていた。

 

「加勢しますよっ、もうじき海燕さんたちも来るはずっ」

「莫迦野郎っ、くっ、朽木はどうしたんだよ、もしものことがあっても俺は責任を取らないからなっ!?」

 

 即座に祐輝は反論した。もちろん、虚から視線を外す愚は犯さない。

 

「あんたらがどう思ってようがな、俺もルキアも十三番隊の隊士なんだよ、死神なんだ、俺は雑用をするために」

 

 新たに現れた健全な死神を脅威と認定した虚は、軟体動物を彷彿とさせる気色の悪い動作で上空へと跳躍する。

 空を覆い尽くす木々の枝に絡まり、足場を形作ることで有利な位置取りを占位する腹積もりだろう。

 

「死神になったわけじゃないんだっ、よっ!」

 

 しなやかな動きに反して先端が硬質化した触手が全方位から叩き込まれる。その数は両手の指を足しても足りない。攻撃範囲は回避が無駄だと思われるほどに広い。仮に祐輝が何らかの手段で潜り抜けようと、負傷した隊士は逃れられない。

 つまり人質を取ったようなものだ。しかし祐輝に焦りの類は見受けられなかった。己の振るう力は命を護るために欲したものだからだ。

 それが、利己的な動機だとしても。

 

「響け」

 

 祐輝を基点にして巻き起こる霊子の奔流。朧気で儚い微弱な存在が集約されてゆき、蒼き旋風を形作る。

 

「鈴葬」

 

 澄んだ音色が沁みてゆく。

 名は存在を示す記号だ。鈴の音色が響いたその時、力を向けられた存在は葬り去る。

 右腕を振るう、ただそれだけの動作だった。迫り来る触手に刃は届かない。その必要性を祐輝は考えなかった。

 立ち昇った旋風は祐輝によって放たれた不可視の刃だ。全方位から射殺さんとする気色の悪い触手の群を散々に刻み込んでゆく。

 圧巻の一言に尽きた。先任隊士が手傷を負う程の虚に対し、解放した斬魄刀の一振りで決着がつくかに思えた。

 奇怪な咆哮をあげながら、歪な仮面の奥に潜む眼光が覗き見えた。怒りによるものか、それとも別の感情に突き動かされているのか定かではない。興味もなかった。

 幼子の身で流魂街に流れ着いた魂魄は殆どが生前の記憶を持たない。故に祐輝は知識として尸魂界が死後の世界と認識はしているが、同時に日々を過ごす今こそが唯一の人生でもあった。

 虚は生前の記憶を持つらしい。罪を犯した魂魄や、尸魂界に導かれなかった現世の魂魄の成れの果て。死して尚も己の欲望に忠実で、欠けた魂を補うべく永遠の渇きに苛まれる哀れな存在。

 だから座して死を受け入れねばならないのか。お前たち虚が僅かでも人であった頃の幸福を求める糧になれと。

 

「生きてたんだよ、茜雫は」

 

 刃を鞘に戻せば、全てが終わっていた。消滅してゆく虚の最期を見届けず、背後に蹲る隊士へと肩を貸す。

 

「大丈夫っすか」

 

 見た目以上に深手を負ったらしく、返答の代わりが血反吐であった。医療用の回道など修得すらしていない祐輝に出来るのは簡単な応急処置のみ。

 死覇装の袖を破り、出血箇所へとあてがう。僅かでも止血の足しになればそれでよい。

 

「く、朽木は……?」

「もう一人、負傷してるんでしょ? そっちの救護に回ってますよ。まぁ、回道の腕前は気休めになれば御の字って感じですけど」

 

 にしても、一言も声をかけないのはどうしてだろうか。虚の消滅は霊圧を確認すれば分かるはずだ。半歩後ろを追っていたのだから、巻き込まれないように距離を置くにしてもそう遠くないはずだけれど。

 

「俺のことはいい、止血くらいはできる。今すぐ朽木の所にっ……行くんだ」

「いや、放っておけないっすよ。それに言ったでしょ、同じ隊の仲間だって」

 

 どうしてルキアに拘る。まるで襲撃を恐れているような口振りじゃないか。虚は確かにこの手で仕留めた、それを見間違えるはずがない。

 そこまで考えて、急速に思考が明瞭化してゆく。つい先ほどの疑問を反芻する。知恵が回る割に、死神を招き寄せるような行動が似つかわしくない。仮に勝算を持っていたにしては、あまりにも呆気ない。

 始解のみで討伐される程度の虚ならば尚のこと知恵を働かせるはずだ。巧妙な罠を設置するなり、やりようはある。

 不可解な虚の動きに得体の知れない焦燥感を抱く。

 

「気を付けろ、虚はっ、もう一体いる……っ」

 

 

 ▽

 

 

 静寂を打ち破るのは、散らばる小枝や木の葉を踏み抜く祐輝の足音だった。油断なく周囲を、そして森林の全域にかけて鈴葬の能力を応用して霊圧探知をかける。

 意思を持たない霊子のみ、そして置き去りにせざるを得なかった先任隊士の鼓動のみが応えてくれた。つまり、ルキアや海燕、他の隊士の存在を祐輝は知覚していない。

 焦燥に突き動かされる。突発的な奇襲に対応すべく祐輝は鈴葬を常時解放させていた。始解しても能力が発現するだけで形状は変化しない(・・・・・)、地味な特徴を持つが故に封印状態との見分けはつかないが。

 斬魄刀を常時解放させるなど正気の沙汰(・・・・・)ではない。何らかの手段で封印する必要があるほどの膨大な霊力を保有するか、或いは斬魄刀が持つ本来の能力でもない限り始解を維持することは死神に絶大な負担を強いる。

 

「俺は本当に莫迦だな、霊圧を消す虚の存在は知っていたじゃないか……っ」

 

 現世での実習中に雛森たちを襲撃した巨大虚の群れは、霊圧と姿を消す特異な能力を持っていた。

 比較的珍しい巨大虚、その群れが持っていた能力だ。仮に獣と変わらない大きさの個体であろうと同種の能力を備える可能性は充分に考えられた。

 しかし二体の虚が共闘、いや、共生するなんて珍しいこともあるのだな。仕留めた虚が撒き餌で、霊圧を消す不可視の虚こそが本命の刃、といったところか。

 現世で戦った虚は死神の霊圧を喰らって自分のものにした。今回は共生する虚、しかもそのうちの一体は雛森たちを襲った虚の同類らしいときた。どうも教本に載ってた常識的な虚とは縁がないらしい。

 

「結界の真似事するなんざ、本当に虚かよ」

 

 霊圧を消す能力の応用だろうと祐輝は当たりをつけた。ルキアたち他の死神の霊圧を覆い隠しているのだ。

 やがて祐輝を送り出した先任隊士の霊圧も朧気に消えてゆく。負傷して不安定になっていた霊圧だ、少しでも距離が遠ざかれば知覚すらできない。

 

「これじゃ顔向けできねぇな、くそっ」

 

 吐き出した罵倒が誰に向けたものなのか、祐輝には分からなかった。仲間の無事を祈るだけだった。

 仕留めた虚と繰り広げた戦闘の時間は長くない。短時間でルキアは忽然と姿を消した。不可視の虚に襲撃されたと考えるのが妥当だった。つまり祐輝が助けた先任隊士とその相方もまた、救援に駆けつける死神の撒き餌として扱われたのだ。

 負傷者を庇いながら小柄な身体で戦い、何処かへと逃げ延びたのだと願いたい。

 

「護るって、難しいんだな」

 

 意図的に己の半身が鳴らし続ける警鐘を無視する。常時解放の負担は背負い込む。霊圧を撒き散らしているのは、この身を以って撒き餌としているからだ。もちろん、祐輝が呼び寄せるのは不可視の虚だ。

 それに獲物が弱っていれば、狩人ならば必ず仕留めにくる。この程度の苦難は絶望とは言えない。

 

「響け」

 

 振り向きざまに背後へ刃を向ける。霊力の奔流がなだれ込み旋風を巻き起こす。

 霊圧を(・・・)遮断し(・・・)ようとも(・・・・)、風に流された霊子の残余は隠せない。空気をかき乱す音まで発していれば、祐輝には充分だった。

 意味を解することのできない奇声。森林という天然の死角から忍び寄った虚に加えた強かな反撃を緩めることはない。

 恐怖に屈し、無力を嘆いた。そうだ、自分の命を天秤にかけて茜雫の命を手放した。浅ましく、愚かで、後悔として巣食う病魔の記憶だ。

 過去を悔いて、現実に抗った。力が足りなくともこの手が届く限り、這い蹲ってでも虚に喰い下がった。力を求めた心の叫び、その果てに与えられた斬魄刀の力。

 目の前の仲間を助けるために、隣の仲間を生贄に差し出す。認められるか、ならば我が身を無能と貶められてでも仲間を救う。

 戦果を焦った愚か者がその命を引き換えにすることで二人が、それ以上が救われる。うん、そうすればルキアの奴も、他の連中も、朽木家に対して言い訳ができるだろ。

 本当にそれで満足なの。己の内なる存在が問いかける。

 どうしようもない莫迦ね、そして最低の屑。自分勝手で傲慢で、守るつもりのない口約束なんて虚しいだけよ。

 

「そうだな、俺は莫迦だよ。散々思い知らされた」

 

 雛森との約束を、破ろうとしたんだから。

 

 

 ▽

 

 

 鯉伏山(こいふしやま)は、西流魂街三地区の北端に位置する。斜面はなだらかで豊富な自然が鳥や獣に憩いの場を提供するが、所々に点在する断崖絶壁によって人が踏み入ることは阻まれた。

 治安も保たれているし、食料も恵まれた地区のため好んで山の道を拓こうとする気骨の住民も存在せず、餌となる魂魄も紛れ込まないために虚も出現しない。

 海燕が修行場として選んだのは絶好の条件を兼ね備えていたからだった。当初はルキアを連れて、そこに祐輝が加わり、今は三人で鍛錬を積んでいる。

 尤も、海燕が未熟な二人に稽古をつけているのが実態ではあった。

 蒼穹が心地よい春の風を運んだその日も、常と変わらぬ光景が繰り広げられていた。

 

水天逆巻(すいてんさかま)け、捩花(ねじばな)っ!」

「響け、鈴葬っ!」

 

 激突する波濤と旋風、楽し気に攻撃を捌き続ける海燕と手数の多さを駆使して渾身の一撃を打ち込む祐輝。

 二年と少しの歳月が経てば、間合いの呼吸から動きの癖に至るまでが把握されている。それ故に相手の思考を読み、裏をかくことが重要となる。

 

「この俺が持つ鋼の精神力を前にすればお前はまだ半人前ってことだなっ!」

 

 嫌味を込めて肩を組んでくる海燕の表情は清々しい。眉を一つ動かすだけで済んだのは成長の証だった。一年ほど前は掌底や足払いを仕掛けていた。

 入隊して一年も過ごせば普段の生活にも余裕が現れて来る頃合いだった。当時の祐輝は、虚を突けば海燕を転がすことができると本気で信じ込んでいたのだ。

 もちろん、それらは悠々と躱された挙句に丁重な反撃を貰ったのだが。

 

「二年っすよ海燕さん、それなのに一度も俺の攻撃が当たんない」

「なあに言ってんだ、俺は五十年以上も死神をやっている大先輩だぞ? 潜り抜けた修羅場が違うんだよ半人前」

 

 眉を動かし、両手を握りしめる。

 

「ぜってえにぶち転がすんで、勝手にくたばらないでください」

「あん? お前がそう言って何年よ、二年だぞ二年。俺が寿命でぽっくり逝くのが先だろ」

 

 額に筋を浮かべ、口元が歪んだ笑みを形作る。

 

「だったら今すぐぶち転がしてやりますよ、その拍子にぽっくり逝くかもしれませんけど」

「おう上等だコラ、やってみろよ朝霧、そう言ってまた俺に手が届かないんだろうが」

 

 この二年と少し、変わらずに繰り広げられた光景だった。

 それでも歳月が経てば変化を求められるものだ。些細な例を挙げるならば、祐輝やルキアは十三番隊の一員として迎え入れられた。何事にも平等の扱いを受ける。些細な失敗を犯せば朽木家の養女という肩書は関係なく叱責が飛ぶ。虚を討伐しても、始解を修めているのなら当然だと特別視をされない。

 

「しかし、私は未だに始解が出来ぬ身だ」

 

 稽古を中断し、三席が直接握った塩結びを頬張る最中に発せられたルキアの問いかけ。祐輝は傍らの副隊長と顔を見合わせ、示し合わせたように頷き合う。

 

「だってお前、霊術院生で考えたら俺らの同期が卒業するのは今年だぞ」

「あのな朽木、俺や市丸、それとこの莫迦は例外でお前は普通だからな」

 

 要約すれば言葉の内容に大差はない。さりげなく罵倒された側としては青筋を立てるに留める、実に寛大な態度を見せるだけだった。

 海燕がまだ口を付けていない塩結びを本業の盗人にも相応しい身のこなしで懐へ仕舞い込んでいるのは、誰にも気づかれていない。

 

「しかし、虚の討伐に赴いても始解を修めていない私が足手まといにならないか、それだけが不安なのです海燕殿」

「そんなこと気にするな朽木、仲間を支えるのが俺たちの役目だ。お前より先任でも、まだ自分の斬魄刀を解放してない奴は大勢いる」

 

 それと朝霧、おめえ都のお握り盗っただろ。いやはやなんのことかさっぱり、五十年も死神をしてたら呆けたんですね。なんだとお前。

 取っ組み合いにならないのは食事の礼儀を正しく心得ているからだ。祐輝のみならず副隊長の海燕でも、志波都という存在には頭が上がらない。説教というものは悪童にとっての天敵だった。

 

「二年前のことなら、あれは俺が悪いんだよ。傍にいるお前から目を離したんだからさ」

「そうだぞ朽木ぃ、全部この莫迦の責任だから気負う必要はない。まっ、どうしてもって考えるなら」

 

 いい加減に罵倒をやめないだろうかこの人は。にしても、今日はまたいつもより悪巧みをしている顔つきだな。新しい悪戯を考えた子どものそれだ。

 そして見つめる先はルキアじゃない。つまり被害者は今日も変わらず。なんと哀れなことか。

 

「朝霧が現世から帰って来るまでに始解を修めろ」

 

 なぁ雛森、甘味処に行くのはまだ随分と先になりそうだ。

 

 



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14話

 校舎に続く道のりを緩やかな風が吹いていた。季節を象徴する桃色の花弁が何枚も舞い散る空間を、期待や興奮に満ちた若者たちが駆け抜ける。

 定期試験を終われば成績上位者が掲示板に張り出されるのは常と変わらないが、生憎と春を迎えたこの日に限れば様子は違った。

 張り出された結果を一目見ようと学年を問わずに多くの生徒が掲示板へ群がる。一歩でも進もうとすれば手足がぶつかる有り様で、混雑は一向に解消される気配がない。

 桜が舞い散る霊術院は、出会いと別れの季節だった。研鑽を重ねた若者たちが己の目指す道へと歩を進め、そして新たに死神を志す若者を迎え入れる。

 卒業を控えた六回生にとっては最後の定期試験であった。多くの生徒が掲示板に群がるのも、学年主席の座を掴んだのが誰であるのか確認するためだった。

 六回生の主席は学年を代表して学院長から卒業証書を授与される。賓客として招かれた護廷十三隊の隊長から直々に言葉を賜る栄誉があった。

 注目される原因は他にもある。主席の座を巡り、常に二人の生徒が熾烈な争いを繰り返していたからだ。同期生よりも多くの下級生が掲示板に群がる事実は、件の人物たちが慕われる人柄だという証左であろう。

 

「卒業式で壇上に登るのは雛森先輩なのかな」

 

 校舎の窓から中庭の光景を見下ろしていた男子生徒が口にした。恐らく一回生だろう、子どものような風貌をしていた。

 

「吉良先輩じゃないかしら」

 

 話しかけられた女子生徒は相好を崩した。自身が口にした言葉が啓示であるかのように陶酔した様子だった。

 

「入試も主席で、三回生の途中までその座を手放さなかったらしいわよ。卒業式でも六回生の代表を務めるに違いないわ、絶対にそうよ」

「どうだろう、今の六回生は雛森先輩と吉良先輩が主席を争うのが風物詩みたいなものだし」

 

 男子生徒は異を唱えた。その頬が朱に染まっていた。腹を立てたというよりも、特定の個人に感情を抱く者に共通した表情だった。

 

「それに、雛森先輩は鬼道の天才だよ。護廷十三隊の隊長からも目を掛けられてるって教官たちが話していた。実習の途中で虚に襲われた時も勇敢に立ち向かったらしい」

「でも全ては結果で決まるのよ。入学式と卒業式、その両方で学年の代表を務めるのは素敵じゃない」

「まだ直接この目で確かめたわけじゃないだろう。ま、掲示板があの様子じゃ誰かに聞いた方が早いだろうけど」

 

 途端に醒めた様子で男子生徒は続ける。

 

「二人は六回生でも指折りで優秀なんだ。僕たちとは天と地ほどの差があるし、もうすぐ霊術院を卒業する」

「そうよね、先輩たちは互いに意識しているのかしら」

 

 対照的に女子生徒の口調は興奮を帯び始めた。好奇心を宿した瞳は爛々と輝き、己の夢想を現実化するように言葉を紡いでゆく。

 

「同じ学級で、学年主席を争い続ける関係。下級貴族の吉良先輩と流魂街出身の雛森先輩、二人の間には淡く情熱的な想いが燻ってるに違いないわ」

「どうかな、雛森先輩は誰にでも分け隔てなく優しいから。あぁ、でも一人だけ違うか、うん、話に聞いたあの人だけは」

 

 勿体ぶるように訳知り顔で呟き、納得の頷きをする。自己完結した男子生徒に対して、続きを促すように女児生徒が詰め寄った。

 

「僕たちが入学する前に、護廷十三隊から引き抜かれた人がいるんだ。朝霧って名前の先輩なんだけど、雛森先輩はその人にだけどうも違ったらしい。いつも説教をするけど、他の誰よりも仲が良かったのだとか」

「まさか、雛森先輩が説教しても言うことをきかない人だって聞いたわよ。荒くれ者だから十一番隊に気に入られて、教官たちも喜んで霊術院を追い出したって」

 

 同性間では学年を超えて構築された情報網が存在し、そこで仕入れた話を得意げに女子生徒は語った。

 ただし、信ぴょう性というものは人の口から伝達される度に薄れてゆき、原型を留めないまでに変容する場合もある。

 

「朝霧さんがいた頃は、一緒に稽古をつけていたらしいよ雛森先輩」

「どうせ根も葉もない噂でしょ。吉良先輩の他に、雛森先輩に釣り合う人はいないわよ」

「だけど、僕が五回生の先輩から聞いた話だと――あっ、おい」

 

 男子生徒は廊下の向こう側から歩いてくる雛森に気づき、慌てて背筋を伸ばした。女子生徒も蒼くなってそれに続く。どちらともなく顔を寄せ合い、会釈のみで足早に去ってゆく。

 苦笑を抑えきれずに雛森は頬を掻いた。内心は複雑な色が渦巻いている。下級生の二人が周囲に気が回らなくなるほどに熱中して言葉を交わした内容は、殆ど人の気配がしない廊下に響き渡っていた。

 後輩たちの話題に名前が挙がるのはもはや慣れたものだった。一回生の頃ですら、鬼道の天才として噂に華を添えていたのだ。

 雛森はいま、下級生から級友である吉良イヅルとの関係についてどのような視線を向けられているのか、正直な姿を見せつけられた。

 同時に、学年の浅い後輩たちから見た朝霧祐輝という個人についても。雛森が三回生の半ばで霊術院を去ったのだから、今の一回生や二回生が伝聞でしか知らないのはある意味で当然であるけれど。

 

「祐輝くんはあたしの言うことを聞かなかったり、護廷十三隊に引き抜かれて先生たちが喜んでたのは嘘じゃないんだけどなぁ」

 

 実技科目だけは優秀、座学は抜け出す問題児。留年の危機を乗り越えてからは出席こそするようになったが、平然と居眠りをするなど授業態度は真面目と言い難い。

 扱いの面倒な祐輝が霊術院を去ることで教官たちが喜んだのは雛森も把握していた。だがそれは好意的なものだったと記憶している。

 無事に卒業を迎えるよりも、事情があったとはいえ護廷十三隊から直接その身を引き抜かれたのは栄誉なことだからだ。

 

「三年もかかったけど、でもやっと追いついたよ祐輝くん」

 

 先ほどまで下級生たちが密談をしていた場所に立ち寄る。掲示板の周辺は相変わらずの込み具合で、小柄な雛森が自身の席次を把握するためには苦労するだろう。

 もう、祐輝くんの所為なんだからね。意地悪だけど手を引いてくれた頃と違って、今は掲示板の前に行くまでも大変なんだから。

 それに、この目で確かめたら祐輝くんに伝わる気がするの。だから他の人から聞こえないように、今すぐ結果を知りたい気持ちを抑えているんだよ。

 

「ねえ祐輝くん、三年間って長いけどあっという間に終わったね」

 

 一刻も早く同じ場所で肩を並べるために鍛錬を重ねた。学年主席の座を掴み、更なる高みを目指した。飛び級をすれば卒業が近づき、斬魄刀を解放すれば霊術院を去れるだろうと淡い希望を抱いた。

 現実は生易しいものではない。結果として雛森は飛び級も果たせず、己の斬魄刀は未だに無銘(・・)のままだ。

 腰に差した浅打の柄を撫でる。当初は小柄な背丈も相俟って帯刀するだけでも大変だったものだ。だが月日が経過してゆくにつれ、腰の重みは馴染み深いものへと変化した。

 未だに無銘であるけれども、雛森にとっては己の半身も同然だった。

 

「あの人だかりを見れるのも今日が最後だな」

 

 背後から快活に声をかけてきたのは級友の阿散井恋次だった。妙に疲れた様子で、けれども感慨深げに雛森と同じく校庭を見下ろしている。

 

「で、お前はもう結果を知ってるのか?」

「ううん、流石にあの人混みだと無理だよ。あたし、誰かに聞くんじゃなくて自分の目で確かめたいもん」

「安心しろ、俺もまだ結果は知らない。まぁ、大方の予想通りお前か吉良のどっちかだろうよ」

「吉良くんは? てっきり一緒だと思ってたんだけど」

「後輩たちに囲まれてる。ったく、けしからん奴だぜ」

 

 それだけで雛森は全てを察した。下級生の女子生徒は吉良イヅルを慕う者が多く、今ごろは本人の下へ押しかけているはずだ。恋次が疲れた様子なのも、人の輪を這い出て来たからだろう。

 無情かもしれないが、懸命な判断だ。質の悪いことに、吉良の言葉を全て聞き終えることなく己の妄想でその先を補完してしまうのだ。後輩たちの熱狂は治めるだけ無駄であると雛森は身を以って経験している。

 ある意味では掲示板の人混みよりも迫力ある下級生が群がった吉良に対し、内心で小さく合掌する。どうせ今日が最後なのだから、いい思い出になるのではないか。

 

「そういえば、斬術の一位はまた阿散井くんだよね。はぁ、あたし一度も勝てなかったよ」

 

 鬼道は言わずもがな、学年主席を目指すにあたって他の科目でも雛森は優秀な成績を修めている。努力の果てに一位を掴み取った数も少なくない。

 ただし斬術に限れば違った。立ち塞がった赤髪の級友とは幾度も手合わせを行ったが、終ぞ雛森の実力が届くことはなかった。

 雛森は考える。何を考えているのか分からない、あの意地の悪い少年ならば斬術の一位を掴み取っていたかもしれない。吉良よりも腕が立ち、恋次と接戦を演じたのだから。

 

「男の意地ってもんだ」

「あたしだって意地があるもん」

「なら、これから一本どうだ? どうせ掲示板の人だかりは当分あのままだろうしよ」

「今なら鍛錬場も空いてるから、ってこと?」

 

 二つに結われた黒髪が揺れた。闘志に燃えた瞳で不敵に笑みを形作ろうとするが、元々の顔立ちが影響してとても可愛らしいものになった。

 

「いいよ、卒業したら同じ隊に配属されると限らないし。あたし、今度こそ勝ってみせるからねっ!」

「上等だ、最後に俺から一本でも取ってみせろよ」

 

 二人が移動した斬術の鍛錬場は閑散としていた。同級生らしい何人かが、名残惜しそうに素振りや手合わせを行っているだけだった。

 六回生にとって後は卒業式を控えるのみだ。霊術院で過ごす日数も残されていない。

 学年でも指折りの優等生と、斬術に限れば一番手の実力者。その二人が姿を表せば流石に視線が集中するが、しかしそれもすぐに外れる。

 雛森が何度も斬術の手合わせを挑んでいるのは学年でも有名な話だったからだ。鬼道では他者を寄せ付けず、学年主席の座を掴み取っているのに、斬術でもその頂点に手を伸ばそうとする。

 向上心に溢れた雛森の姿勢は好意的に見られていた。或いはそれは、親しくない者たちにとって己の妄想を具現化した真実だった。

 斬術が得意な問題児と仲睦まじい姿は日常的なものだからだ。

 

「どうするよ雛森、折角だから本気でやるか」

「まるで今まで手加減してたみたいじゃない。それとも、あたしは鬼道を使ってもいいの?」

「当然、鬼道も歩法も白打もありだ。斬拳走鬼、俺たちが身に着けた力の全てを吐き出そうぜ」

 

 等間隔に距離を置き、鍛錬場で貸し出される木刀を構える。

 対峙する恋次は体格に恵まれている。小手先の技術ですら、腕にものを言わせた重い一撃で粉砕してくる人物だ。

 小柄で腕力にも劣る雛森では明らかに分が悪い相手。だからこそ、斬術の頂点を掴み取るべく立ち塞がるのは吉良イヅルではなく阿散井恋次だった。

 霊術院を去った祐輝が姿を現すはずがない。故に、雛森の眼前に佇む壁は一人しか存在しないのだ。

 静寂が場を支配する。神経を集中させ、雛森は呼吸の間を読む。両腕に保持した木刀を正面に構え、片脚のみ半歩ずらしていた。

 空気が揺れた。それは離れたところで観戦を決め込んだ誰かの息遣いだったかもしれない。だがこの瞬間の雛森にとっては狼煙に他ならなかった。

 視界に映る恋次の姿が掻き消える。身に沁みついた動作によって前方へ(・・・)跳躍する。振り向きざまに背後へ木刀を薙げば、岩壁を打ち叩いたかのような手ごたえを感じる。

 

「よく防いだなっ!」

「当然でしょ、死角を狙うのは定石なんだからっ!」

 

 力負けは必然だ。すぐに木刀が押し切られるのは明白だが、敢えて両腕に込める力を緩める。同時に体格の差を逆手に活かし、軽快な動作で今度は雛森が背後へ回り込む。

 即座に振り向くことなく背後へと振るわれた恋次の()。防ぐことは不可能と判断し、身体の軸をずらすことで殴打を回避する。

 だが雛森の眼前には既に恋次の木刀が迫っていた。

 白打を囮に用い、木刀で確実な一撃を叩き込むための巧妙な罠だった。口角が釣り上がった恋次の浮かべる会心の笑みは、既に勝負はついたも同然を意味する。

 同時に雛森も小さく言葉を漏らす。瞳に宿す闘志は変わらず、しかしあまりにも場違いな可憐な微笑みを浮かべていた。

 衝撃は一瞬だが、窮地を脱するには充分な時間が与えられた。無手(・・)の左腕(・・・)をかざした雛森は悠々と木刀を躱す。

 

「あたしは鬼道が得意なの、まさか忘れてないよね阿散井くん」

 

 縛道によって瞬間的に拘束された恋次は絶好の機会を逃したことに歯噛みする。すぐさまその表情が打ち消され、変わって心の底から感心するように吠えた。

 

「へっ、なら鬼道もぶった斬りゃいいってことだ、そうだろっ!」

 

 互いの木刀が交差する。大柄な恋次の一撃に比して、雛森のそれは威力や重みで劣る代わりに速度で勝る。

 剣圧によって発生した風が肌を薙いだ。はためく袖が視界の片隅に映る。対象の動きを封じる縛道の悉くが虚しく宙へと消えてゆく。

 雛森が放つ鬼道が最大の脅威と認識され、贅沢にも瞬歩を間断なく繰り返すことによって縛道の狙いを狂わせているのだ。

 内心で雛森は称賛する。鬼道を織り込んでの手合わせはこれが初めてだが、獣のような勘によるものなのか、恋次の動きは相手にしたくないものだ。

 同時にそれは互角の戦いを演じている何よりの証でもある。斬術のみでは叶わなくとも、得意とする鬼道があれば実力は拮抗する。

 つまり斬術の腕前は叶わないままかぁ。祐輝くんみたいな動きは真似できないし、自分なりに頑張ったんだけど。

 

「おらっ、余所見してる暇があるのかっ!?」

 

 首元を僅かに逸らした傍で恋次の木刀が薙いだ。大振りの一撃はそれ故に回避された場合の隙が大きい。

 致命的な硬直を補うべく足払いがかけられるが、真横に跳躍することで難を逃れる。すぐさま瞬歩で追撃を仕掛ける恋次が真正面に現れる。

 身を竦め、相手の脇を即座に駆け抜ける。鬼道の狙いを崩されるならば、当てるようにこちらも動けば良いだけのこと。

 執拗に側面や背後を狙えるように位置取りを心掛ける。そうすることで、致命的な差異が明確となってゆく。

 瞬歩を併用し距離を詰める。だが恋次の身体が振り向けば即座に方向転換する。懸命に攻撃を叩き込もうとするも、真正面からの交戦を避けるべく一撃離脱に徹した動きだ。

 傍から見れば戦況は膠着したも同然だが、徐々に雛森へ振るわれる木刀の精度(・・)が粗くなる。もちろんそれは疲労によるものではない。

 小柄な雛森の方が、方向転換が容易いだけという単純な事実。それ故に対応する恋次の動きは後手に回らざるを得ず、積み重なっていくことで負の循環へと陥る。

 状況を打開するには強引に距離を詰めるほかにない。そして雛森は攻撃を命中させるために、自ら恋次へと近づかねばならない。

 

「上を見てんのはお前だけじゃねえぞ雛森。俺だって、ルキアの隣に立てる相応しい男を目指してんだよっ!」

 

 心を大きく占める存在が遠く手の届かない場所へ離れて行ったのは同じなのだ。

 

「あたしも、祐輝くんを傍で支えるためにこの三年を無駄にしたわけじゃないよ」

 

 懐に深入りし過ぎた雛森は咄嗟に両腕を頭上へと回す。鈍い痛みが迸り、敗北という甘美な響きが耳を舐める。木刀を手放すことだけは抑え込み、苦悶の表情を浮かびながら後方へ退く。

 身体の動きが精彩を欠いた。恋次の攻撃を防いだ反動で応戦する呼吸が乱れる。その隙を逃してくれる容易い相手ではない。

 裂帛の気合いと共に真正面から瞬く間に距離を詰められ、一閃。

 丹念に施した策が漸く効果を発揮し、偽りの仮面を破り捨てた雛森が叫ぶ。

 

「縛道の六十一、六杖光牢(りくじょうこうろう)っ!」

 

 詠唱破棄(・・・・)によって出現した六つの帯状の光が恋次の胴を目がけて飛来する。これまでのように瞬歩で躱そうとするが、雛森の術中に(・・・)嵌った(・・・)今となっては遅きに失した。

 

「なっ、どういうことだよこれはっ!?」

 

 消失する寸前のように儚い霊子の縄が四肢の動きを束縛していた。瞬歩を封じられた恋次は成す術もなく雛森の放った六十番台(・・・・)の縛道(・・・)によって完全に拘束される。

 

曲光(きょっこう)で覆い隠した這縄(はいなわ)を少しずつ張り巡らしていたの。身体の一部だけ動きを止めても、阿散井くんなら振りほどくかもしれないから」

 

 一撃離脱を繰り返したのも全てはこの策を発動させるためだ。着々と這縄という檻を構築し、また心理面でも恋次に焦燥感を抱かせる。

 そして膠着した状況を打開すべく動いた瞬間に伏した罠を発動させ、六杖光牢の能力が発揮できる展開を作り出した。

 

「はじめてだけど、上手くできて良かった」

 

 安堵の息を零しながら雛森は呟いた。元より構想は練っていた。単純な鬼道の組み合わせと応用なのだから成功率は高いと睨み、その結果は充分なものだ。

 

「まさか、最初からこれを狙ってたのか?」

「だって、悔しいけど斬術だけは叶わないもん。あたしこれでも考えたんだからね、鬼道で自分より強い人を相手にしたときはどうすればいいのか、って」

 

 本心はそれだけではない。確かに雛森は斬術に限れば阿散井恋次という学年でも最強の使い手に実力が届くことはなかった。それは今回の手合わせでも確認できたことだ。

 しかし雛森の思い浮かべる実力者は他にも存在した。二人の死神だった。命の恩人であり、特に白き羽織を纏う隊長が誇るものは現世で既に目にしている。

 もう一人、雛森が後を追う少年の姿が脳裏を過ぎった。

 

「くそっ、これからは鬼道の対策も考えなきゃならねぇのか」

 

 拘束を解かれた恋次は面倒だとばかりに呟いた。

 

「その必要はないと思うよ。だって死神の敵は虚なんだから。それとも、あたしたち(死神)が将来は敵と味方に別れて戦うかもしれないの?」

「そのつもりじゃねぇんだ、ただよ。あぁくそっ、負けたら誰だって悔しいもんなんだよ、お前だってそうだろうが」

「そうだよ、あたしは祐輝くんに一度も斬術で勝ったことがないし……あれっ、なんでだろう」

 

 どうして、祐輝くんの名前が出たのかな。もう三年も顔を合わせていないのに。

 胸中に渦巻く困惑を持て余していると、意外にも助け船を寄越したのは恋次だった。

 

「ったく、朝霧の野郎ばかり見やがってよ。気づいてなかったのか、手合わせする時のお前はいつも俺の後ろを見ていた」

 

 腑に落ちた。得心のいった面持ちで雛森は繰り返す。祐輝くん、うん、意地悪な祐輝くんだ。

 

「あたし、祐輝くんの背中を追っていたからね」

 

 鍛錬場で行われた二人の試合てを見届ける幸運に恵まれたのは僅かな同級生だけだった。公的な記録として残されることのない結果に酷く残念な面持ちを浮かべながらも、紛れもない称賛の言葉を浴びせた。

 漸く、雛森は意地の悪い少年と同じ大地に立つことができる。

 最期に言葉を交わしたのは殺風景な病室だった。別れの挨拶もなく忽然と姿を消し、後に教官から簡潔な説明を受けるに留まった。

 それから三年の月日が流れ、祐輝の背中へと手が届くまで残り僅かの距離だ。

 

「待っていてね、祐輝くん」

 

 後日、桜の花が舞い散る日に執り行われた卒業式では檀上に果実が実ったという。弾けるように瑞々しく、桃と梅を合わせたような色合いをしていた。

 それは少女が宿す感情が焔として現れたのかもしれない。

 

 

 






この世界の雛森はシロちゃんに胸を貫かれるほど弱くないはず


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15話

 縁側に腰掛けた二人の間には呑気な空気が漂っていた。互いに饅頭を頬張り、熱茶で胃袋へと流し込む。常ならば憎まれ口を叩き合う間柄であるから、珍しい光景だった。

 穏やかに息をついたのは祐輝だった。午後の暖かな陽射しも相俟って絶妙に心地良い一時を堪能していた。熱茶を一口含み、思う。これで隣にいるのが雛森ならばよかったのに。

 

「平和っすねぇ」

 

 呑気に祐輝は呟いた。

 庭先から恥ずかし気な声が漏れ聞こえた。素っ頓狂な悲鳴が挙がる。副隊長の奥方がまた祐輝の同期に世話を焼いているのだろう。

 

「そうだな、いやぁ今日も尸魂界は平和だ。朽木の悲鳴が聞こえるのも普段と変わらない日常だ」

「いやぁ心地良くて俺もう尸魂界で骨を埋めますわ」

 

 手元の熱茶が空になっていた。傍に置かれた急須へ手を伸ばせば、既に海燕の手元にある。

 おう、副隊長が注いでやるから有り難く思え。いやいや海燕さんの手を煩わせるわけには。部下の面倒を見るのが良い副隊長なんだよ。だったら上司を立てるのが部下の仕事ですよ。

 互いに抜け目なく気配りを示し、自らが善意を行おうとする。祐輝は一向に湯呑みを手渡さない。それが良き部下であらんとする姿勢の表れだった。

 

「うん、実に謙虚でよろしい。だが上司の面子を潰すのは良くないぞ朝霧。だから現世に行け」

「いやぁ俺って本来なら霊術院を卒業する年頃ですから現世なんて荷が重いですよ。それにほら、先任隊士とかで相応しい人いるじゃないすか」

「お前の同期生たちはあと少しで卒業だろう。ほら、立派な先任隊士だぞ、喜べ。そして現世に行け」

「俺よりも真面目で優等生な連中が入ってきますね、なら問題児が現世に行っても先任としての示しがつきませんよ」

 

 交わされる言葉の論点は変わらない。つまりは現世に駐在しろという命令に対し、のらりくらりと躱しているのだ。

 流石に本人の意思を尊重するはず、祐輝の甘い目論見は藻屑と化した。病弱な隊長に代わって隊を取り仕切る海燕は他隊の副隊長よりも多忙なはずだが、こうして優雅に茶を酌み交わしている。

 己の上官がどのような人柄なのかある程度は心得ている。面倒見がよく、それでいて気さくで奔放な性格は多くの隊士からも慕われている。だからこそ、と祐輝は思う。

 どうして現世へ駐在させることに拘るのだろう。席官入りこそしていないが、経験豊富で相応しい先任隊士は幾らでも存在する。

 

「あぁ、そうだ。霊術院でお前や朽木と同期の連中が入隊してくるな」

 

 相変わらず呑気に熱茶を啜っていたが、声はつめたく、ほとんど抑揚が認められなかった。

 味の分からなくなった饅頭を胃袋へ流し込んだ。これが格の違いか。死神になって数年の自分と、五十年以上も大先輩との間に広がる絶対的な差。

 

「お前は虚の討伐任務でも順調に戦果を挙げ続けてるな。力量も、なんだ、始解を含めても同期生の中じゃ一番手だと俺は踏んでいる」

「こりゃ驚いた、海燕さんが俺を褒めてくれるなんて。明日には卍解まで修めてみせますよ」

「そう、俺は珍しくお前を認めたんだ。だから胸張って現世に行ってこい」

 

 入隊したその日のことを思い出す。半人前だから霊術院の教官に代わって直接この手でしごいてやる、ありがたく思え。あの時もこの人は熱茶を啜りながら呑気に言ったな。

 

「嬉しくない、とは言わないっすよ」

 

 拗ねるように祐輝は応じた。幼き時分に命を救われた恩人の背中が、こうして現在の立場を形作る礎なのだから。

 

「でも、本当にどうして俺なんすか。始解ができる、それだけの理由で霊術院を」

「そうだな、数十年に一度の割合で現れる才の持ち主だと相場は決まっているが、お前は本当に始解ができるだけで他は、まぁ」

「精々が斬術と他の実技科目、それしか誇れるものはありませんよ」

 

 始解さえ修めることが無ければ、今ごろは卒業を控えている一介の生徒に過ぎないのだと祐輝は主張していた。尤もそれは留年することなく無事に進級を果たしていれば、という前提によるものだったが。

 

「だが悪いことばかりじゃ無かっただろうが。お前は他の同期よりも数年だけ死神としての経験を積んでいる」

 

 後ろ手に髪をかき回しながら海燕は続けた。

 

「経験だよ、お前にもっと色んなものを積ませたい。言ったよな、仲間を信頼して欲しいって。これが俺なりに示せる信頼なのさ」

「それだけじゃないでしょうが」

 

 ある程度は本人の希望が受理される事例も多い。戦闘が苦手であれば虚の討伐任務に赴くことも無く事務仕事が割り振られる。或いは医療が専門の四番隊に配属されるだろう。

 当然だ、護廷十三隊という組織から死神が離反しないためと表現しても過言ではない。命令のみを押し付けられて嫌気が差せば、人心というものは容易く風に流されてゆく。

 だから、特定の個人に対して命令が下る場合は何らかの理由を備えたものと考えられた。適性を考慮された、特有の能力が必要とされるなど

 祐輝はそのどちらでもないと断言できる。本気で信じ込んでいた。鈴葬の能力が必要とされる局面など、最大限に好意的な解釈をしても虚の討伐のみだ。適性に関しては相応しいと思える先任隊士の顔が幾つか思い浮かんだ。

 

「逆に訊くが、お前はどうして現世に行くのを嫌がる。副隊長が直々に頼み込んでるんだぞ、名誉なことじゃないか」

「質問に答えて下さいよ」

「はぐらかすな、真面目に訊け。お前は討伐任務でも率先して斬り込み役を務める。相方の朽木はまだ始解を修得していない、それに斬術の腕も劣る。確かに合理的な判断だ」

 

 十三番隊の管轄する流魂街に虚が出現した際、祐輝は率先して討伐隊に志願した。負けてられぬとルキアも便乗することが多く、結果として二人が戦列を並べた回数は既に二桁を超えている。

 前衛として虚の注意を惹きつけ、側面からルキアが支援する。討伐の際に繰り返してきたことだ。

 

「朝霧、お前なら現世に行っても大丈夫だと俺は思っている、いや、信じたいんだよ。誰かが、いや、理由がないと戦えない、今のお前はそうだろう」

 

 核心を突く一言に祐輝が取り乱さなかったのは幸運だった。とぼけた様子で熱茶を啜ることで時間を稼ぐ。

 その瞬間にも海燕へ効果的な反論に用いる語彙を探すが、畳みかけるように言葉は続いてゆく。

 

「二年前、はじめての討伐任務にお前と朽木を連れてった時だ。罠を仕掛けて待ち構えていた二体の虚、そして俺たちは分断された」

 

 とてもよく覚えている。森の中に巣を作った虚の討伐任務だった。奇妙なことに、一体の虚が自らを餌として死神を誘き出し、霊圧を遮断する特異な虚によって獲物を狩るという一種の共生関係にあった。

 当時の祐輝は虚に襲われていた仲間を助けるため、束の間ルキアから目を離した。鈴葬の能力によって一体は討伐したが、残るもう一体の虚によって霊圧が遮断され、そして討伐隊の面子は見通しの悪い森林内で孤立した。

 

「二体とも朝霧が仕留めたと知った時は驚いたぜ」

「あの時はその、俺も焦っていたから。傷ついた仲間を放っておくのは論外だし、単独で動き回るのは虚の思う壺だ」

「だが、お前は自分を餌にして虚を誘き出して斬った。今もだ(・・・)、虚を相手するときは前に出て注意を惹く。どうしてそうする」

 

 暫し祐輝は黙り込んだ。理由を告げるのは簡単だが、同時にそれは己の言葉と矛盾するものだと気づいていた。

 今まで目を逸らし続けた問題に海燕は容赦なく斬り込んでゆく。

 

「危険を背負い込めば、その分だけ他の誰かが死ぬ可能性は低くなる。そんな阿保らしいこと考えているんだろ。朝霧、それって仲間を信じてないのと一緒だぜ」

 

 今度は熱茶を啜らなかった。降参したように息をついて項垂れる。

 

「俺は誰かを護るための力が欲しくて死神になった。昔、朝霧(故郷)で俺を助けてくれた海燕さんみたいな死神に憧れてね」

「あの時、俺が少しでも早く駆け付けていればお前の家族は救えたかもしれん。その逆もある、お前が死ぬか、そもそも二人して間に合わなかったか、だ」

「現実は俺だけが海燕さんに救われた」

「なぁ朝霧、人ってのは死んでもな、心を仲間の魂に預けるものなんだよ」

「聞きましたよ、俺が忘れない限り心の中に残り続けるって」

 

 忌まわしい惨劇の記憶は奥底へ鮮烈に刻み込まれた。茜雫と過ごした過去は全て残り続けている。

 家族を殺して生き残った。絶望に抗うだけの力が無かった。

 駆け付けた死神の背中が焼き付いている。命の灯火が風にかき消されなかった、圧倒的な力が欲しかった。家族を護れたかもしれない、永遠に叶わぬ希望を垣間見た。

 茜雫を心に遺す限り、後悔と贖罪、二つの深淵が泥濘と化して纏わりつく。生涯に渡って祐輝を蝕む呪いにも似た病魔だ。

 故に、己が持つ命に対しては無頓着だった。他者を救えるならば平然とその身を差し出す。

 祐輝の歪な姿勢は日ごろの鍛錬で既に片鱗を覗かせていた。寸分でも狂えば大怪我に繋がる、それ程までに紙一重の動きをする。敢えて隙を晒すことで相手の攻撃を誘引するのも厭わない。

 霊術院の実習で初めて現世に赴いた時も、仲間の命を護るために単身で虚を相手にした。その代償が己の命であると理解しながら躊躇はなかった。

 

「償いのつもりか、朝霧」

 

 へぇ、この人でも珍しいことがあるんだな。場違いな感想を抱きながら、悔いの滲んだ表情で口元を噛み締める海燕を見遣った。

 

「尚のこと見過ごせねぇな。俺にも責任の一端はあるってことだ、だから」

 

 続きを訊くことはなかった。重苦しい雰囲気を漂わせる二人の間へ申し訳なさそうにして第三者が闖入した。

 

「お取込み中のところ申し訳ないんですけど副隊長、朝霧君を借りてもいいですか」

「後にしろ虎徹、俺はこの莫迦と大事な話をしてる最中で」

 

 だが海燕はそれ以上の抗議を止めねばならなかった。第五席を務める虎徹清音の口から出された人物の名前を訊き、渋々ながら矛を収める。

 

「浮竹隊長が朝霧君に話がある、って」

 

 祐輝は気の抜けた表情を覗かせた。十三番隊は殆ど海燕が切り盛りするも同然で、わざわざ末端の隊士を病弱な浮竹が呼びつけることは珍しい。

 もちろん、身体の調子が良い時は溌溂とした姿を見せる。仲間を支え合う隊の気風も、全ては浮竹の存在によるものだ。代わりに隊を預かる海燕、団結する隊士たち。

 合わないのかもな、仲間という存在が。唐突に祐輝は感じた。背中を預け合う戦友よりも、命を賭して護るべき存在が傍に欲しい。

 犠牲と危険の渦中に身を投げることが己の望みかもしれない。途端に嗤いが込み上げてくる。恐怖に屈した記憶を拭うこともできない癖に。

 醜悪な部分を目の当たりにする気がして莫迦な考えを振り払う。それではまるで。

 

「失礼します、お呼びに預かり参上しました朝霧祐輝です」

 

 隊舎からそれなりに歩いた場所にその邸宅は建っていた。護廷十三隊でも地位の高い死神には個別に邸宅が与えられる。貴族の出である浮竹はそうして与えられた二つ目の邸宅を療養の為に用いていた。

 そうした次第で、畏まった口調で襖の向こう側へと告げるが、我ながら何ともまぁらしくない言葉だ。これから対面する人は砕けた物言いをしても気に留めないが、やはり隊長の存在は大きい。

 襖の向こうから入室を促す言葉が返った。これまたらしくないものだと思いながら、礼儀作法に則った形で足を踏み込む。

 広々とした室内を、贅沢にならない絶妙な安牌で調度品が存在感を示している。陽光の通りも良く、暗澹とした雰囲気は感じられない。

 

「ははっ、そこまで畏まらなくてもいい。肩が凝るんじゃないか」

 

 長い白髪を垂らした男性は朗らかに答えた。肌に艶がある。布団から上体を起こしていた。今日は身体の具合が良いのだと分かる。

 

「隊長がそう言うなら、お言葉に甘えて」

「朝霧の愚痴は時々聞かされていたよ、莫迦で生意気などうしようもない莫迦だとね」

「それ海燕さんでしょ、うっわ二回も莫迦って言ってるんすか。莫迦って言う人が莫迦だから莫迦な俺よりもあの人が莫迦ってことですねそれ」

 

 代理人として隊を預けた人物が罵倒されても、浮竹十四郎は痛快な様子で肩を震わせた。片手で膝を叩くほどで、業務を副隊長に任せて床に臥す病人だと誰が思うだろうか。

 しばらくのあいだ二人はどうということもない話題に興じた。虎徹清音の運んで来た、曰く健康に効くと評判の涼茶を呑み、茶菓子をつまんだ。

 つい先ほどまで海燕と似たようなことをしていたから、自然と手を付ける速度は緩い。やがて世間話の勢いもなくなった頃合いで、浮竹が本題を口にした。

 

「現世駐在が乗り気じゃないと聞いたが、深い理由でもあるのか」

 

 素朴な疑問だった。現世の駐在任務に就く死神は将来を期待された逸材だからだ。

 死神は基本的に単独で現世へ派遣される。管轄する一つの街に一人の割合だった。あまりにも多くの人数が駐在すれば、死神の存在それ自体が虚を呼び寄せる撒き餌としての役割を懸念された。

 必然的に単独で駐在しても問題のない実力を備えた死神が任命される。それらは席官入りを果たしていない一般隊士に限定された。

 席官は一般隊士を取りまとめる役割も担う。実力者が揃う上位席官に至っては現世の霊力ある存在にどのような影響を及ぼすか不明であり、二割までその霊力を封印される。

 それを逆手に取り、席官と同等の実力を保持する一般隊士が派遣される。形式上は霊力の限定封印対象とみなされることもなく、代替の効く存在であるからだ。

 現世で規定の駐在期間を勤め上げて尸魂界に帰還すれば、余程のことがない限り昇進は確実となる。

 

「そのことで海燕さんと話し込んでましたよ。どうも、意外と俺のことを買ってるみたいで」

「あいつは面倒見がいいからな。駐在の交代要員で朝霧の名前を口にしたのは驚いたが、それだけ認めている証だろう」

 

 その通りだ、海燕は信頼を示してくれた。祐輝は上官の心配りを裏切るに等しい理由で現世へ赴くことを躊躇する。

 

「怖いんですよ」

 

 あまりにも簡潔に述べられた一言は掴みようがない。

 

「現世か、確か朝霧は実習中に」

 

 眉根を寄せた浮竹を遮り、祐輝は首を横に振る。

 

「えぇ、虚に襲撃されて。始解できなきゃ俺は死んでましたけど、でも現世じゃないすよ俺が怖いのは」

「何を怯えているんだ。虚の討伐には率先して志願してるのだろう、報告書はこれでも目を通してる」

「俺がまだ子どもの頃、流魂街で海燕さんから命を救われたことは知ってますか」

 

 醒めた声音で祐輝は訊ねた。意図的に抑揚を抑え込んだ者に特有する、ある種の渋みを感じさせた。

 初耳だったのだろう、両目を見開いた浮竹は何やら口ごもり首を振った。

 

「よくある話ですよ、二人の子どもが遊んで(・・・)たら(・・)虚に喰われかけた。駆け付けた死神のおかげで虚は討伐され、俺はここにいる」

「子どもが朝霧、死神があいつか。だが、待て、二人だと?」

 

 ある種の予測を立てたらしい、確認するように浮竹は訊ね返した。

 

「もう一人は、既に」

「俺を置いて遠くに逝きましたよ」

「何が言いたいのか分からないな。虚や現世に怯えてるわけでもない、その過去が原因なのか」

「要約すれば」

 

 喉を潤すべく涼茶を一口含む。茜雫と暮らしていた頃では想像もつかない贅沢品だ。

 

「現世じゃ俺は独り、護るべきものは沢山。それが怖いんです」

「仲間がいないと戦えない、そういうことか」

「命を取り零す、そんな経験は一度で充分です」

 

 意味を解した浮竹は呻いた。

 

「どうしようもない莫迦、確かにその通りだ」

 

 現世に駐在する死神の役割は二つに大別する。彷徨い続ける魂魄を尸魂界に魂葬すること。そして、現世を荒らす虚を討伐することだ。

 独りでこなさなければならず、そして街というものは広い。存在の希薄な魂魄ともなれば、霊圧探知に引っ掛からない場合もあり得る。

 虚の出現はその兆候を探知できない。つまり後手に回らざるを得ず、僅かな差で悲劇が巻き起こるかもしれない。

 己の身に巣食う恐怖の一端を祐輝は示した。手の届く距離にいながらも、茜雫の二の舞、その仮定に囚われた。酷く傲慢で、この上なく人としての恥を曝け出した。

 

「中央四十六室で選択を迫られたはずだ。斬魄刀を持ち続けるか、全てを捨てるか。朝霧、力を持つ者には相応の責任と誇りがある」

「誇り、ですか」

 

 掴み所のない表情を浮かべながら呟く。過去を振り返って嘲笑うような口振りだったが、言葉と態度は奇妙にもかみ合わない。

 

「朝霧にとっての力は()る為にあるんだろう。お前は今、現世の守るべき存在を斬り捨てたと分かってるのか」

「えぇ、そうです。こんな俺だから、現世に行っちゃだめなんだ」

「心の内に抱く誇りすら容易く捻じ曲げる、そんな死神が現世でも尸魂界でも、誰かを護り、命を救えると思ってるのかお前はっ!」

 

 浮竹は怒鳴った。腰が浮いている。無理が祟ったのか咳き込むが、もどかしいとばかりに口元を抑える。

 祐輝は何も言わない。温厚な浮竹の怒鳴り声を訊くのは入隊して以来、初めてだった

 

「朝霧、まず護るべきものは自分自身の誇りだ。誇りを守る為に戦えば、やがて命を守る戦いにも繋がる」

 

 微かに祐輝は喉をうごめかせた。教え子を諭す教師のような口調に変化したことへ、対応できていないのかもしれない。

 

「まだ若く、俺と違って健康だ。些細な失敗を恐れずに見聞を広める機会だと思えばいい。隊長命令だ、現世駐在の任に就け、いいな朝霧」

 

 祐輝は頷いた。幾ばくかの間を必要とした。もちろん、心の底から納得したわけではない。しかし、浮竹の言葉は理にかなっている。

 無意識のうちに安堵のため息が漏れた。驚き、間を置いて理解する。見限られて当然の言葉を吐いた。それを若さ故のものと断じて捨て置かれた。つまり。

 

「承りました、朝霧祐輝、現世駐在の任務を拝命いたします」

 

 流れに身を任せるだけだ。手の届く範囲なら諦めずに足掻き続ければいい。虚が出現すれば、被害が出るよりも早く仕留めること、容易いじゃないか。

 

「もういい、この話はここまでだ。次は、そうだな、現世から戻った時にでもまた顔を出してくれ」

 

 浮竹の邸宅を後にすれば、空模様は夕闇に(いざな)われていた。随分と長く話し込んでいたらしい。

 凝り固まった身体をほぐすように動かしながら帰路に着く。瀞霊廷でも上位席官に与えられる邸宅が並んだ一角だからだろう、路地を歩く人影は認められない。立場と言うものは終業時刻を迎えても個人を拘束する時がある。

 閑散とした路地を進んでゆく。曲がり角の向こうに、茜色の光が差し込んでいた。

 陰影に彩られた二つの瞳を祐輝は宙へ向けた。忌まわしい濃霧は元より、一片の雲すら瀞霊廷の空には見当たらない。夕陽が儚く姿を隠そうとしているのみだった。

 見聞を広める機会だと浮竹は説いた。天は祐輝に示された可能性を暗示するかのように果てしなく広がってゆく。

 

「やぁ、奇遇だね朝霧君」

 

 反射的に鈴葬の柄へ手を遣りながら、すぐさま己の莫迦さ加減に辟易とする。旅禍が侵入でもしない限り瀞霊廷で抜刀するなどあり得ない。深呼吸を挟み、背後から声をかけた存在へと振り返る。

 

「藍染隊長、お疲れ様です。隊舎から帰る途中ですか」

 

 影の中でも眼鏡の煌めきが激しく存在を主張していた。両手を組みながら、常と変わらぬ穏やかで人を安心させる独特の微笑を藍染は浮かべた。

 

「そういう君は、浮竹隊長のお見舞いかな。久しく隊首会にも顔を出していないが、元気でいられたかい」

「えぇ、ほんと。少しばかり説教も喰らいましたけどね」

「ははっ、それが若者の特権だ。僕たち大人は失敗すれば責任を取る立場だからね」

 

 歩み寄った藍染は穏やかな物腰だが、眼鏡の奥から注がれる聡明な視線は全てを見透かされたように錯覚する。

 

「十三番隊では活躍してるそうじゃないか。訊いたよ、現世に駐在するのだとね」

「耳が早いですね。ついさっき、正式に隊長命令を貰ったところです」

「期待されているね、つくづく君が五番隊でないことを残念に思うよ。十三番隊は良き人材を得た」

 

 そうかな、本心を打ち明ければ貴方は見限るかもしれない。それとも浮竹隊長とは違った答えを示してくれるのか。

 だから莫迦なんだと海燕さんに言われるのだな。もうこの身は学生じゃないのに、求めれば答えが見つかると信じている。

 

「不安を抱くのは当然さ。寧ろ僕は諫める必要がなくて安心したよ。実力を過信して蛮勇に呑まれた命は一つの結末しか迎えない。あぁそれとも、君の場合は不満かな」

「漏らす不満はもう俺の中に残ってませんよ」

「嘘をつく男は女性から嫌われるよ朝霧君。霊術院の卒業式と日程が被ってるのだろう、駐在派遣期間と」

 

 卒業式の単語に眉が動いた。髭の生えてない顎を撫でさすり、感情の読みとれない顔色を浮かべる。能面ではない。飄々とした、掴み所の無い表情だった。

 

「しまったな、すっかり忘れてた。感動の再会が先延ばしになる、怒った雛森は面倒だ」

「どうだろう、今すぐにでも五番隊へ異動届を出さないかい。十三番隊とは僕が話をつける、そうすれば現世の駐在は無かったことになる」

 

 茶目っ気を含んだ声で藍染は便乗した。新たな一面を覗き見たことに驚きつつも、祐輝はわざとらしく応じた。

 

「藍染隊長に迷惑をかけたと雛森に知られたらどうなることか。それこそ俺は現世でほとぼりが冷めるのを待ちますよ」

「また振られちゃったか、京楽隊長を見習って口説き文句の一つでも考えた方が良さそうだ」

「やめてください、他の隊から多くの死神が五番隊に押し掛けますよ」

 

 海燕の使い走りで他の隊舎に赴く機会はそれなりにあるが、藍染は隊の垣根を越えて多くの隊士から慕われている。隊長が呑んだくれの八番隊や、業務を部下に丸投げする十番隊などからは本気で多くの隊士が異動を申請するだろう。

 割と真面目に釘を刺せば、傷ついたように藍染は苦笑した。本人の主観と他人の評価が一致しないのは致し方ない。

 

「雛森君に伝言があれば言付かるけれど、何かあるかい」

「なにも」

 

 祐輝は即答した。無情とも言える決断だが、歪な人間性を持つなりの誠意でもあった。

 

「祝言は直接あいつに伝えますよ、現世から帰った(・・・)後に」

「それは、無事に尸魂界へ戻って来る決意と受け取るべきかな」

 

 頼もしいと五番隊の隊長は頷きを繰り返した。やがて思い出したように付け加える。

 

「虚とは執着心の強い存在だ。いや、胸の孔こそが欠けた心だと言える。埋めることのできないものを永遠に求め続ける、理から外れた存在だ」

 

 沈黙で肯定を返した。藍染がいわんとしていることに興味をそそられ、続きを促す。

 

「ただの人には理解の出来ない行動でも、欠けた心を補う何かしらの意味があるものだと僕は思っている」

 

 夕陽の残光が儚く散り、藍染の全身を闇が覆い尽くした。

 

「君は、どうやら特異な虚と縁があるみたいだからね。現世では気を付けなさい朝霧君」

 

 鈴の音色が木霊するよりも早く、藍染の言霊が脳裏へ刻まれる。

 

「死者と対面するかもしれない、そのくらいの心構えをしておいた方がいい。人は目に見えたものを真実と誤認する弱い生き物だからね」

 

 

 



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16話

 飾り気のない黒一色に染められた着物へ袖を通し、汚れの見当たらない純白の帯を強めに締める。姿見に映し出された己の身体に異常がないか確認し、雛森桃は満足気に頷いた。

 白を基調として、朱色に染め抜かれた震央霊術院の制服ではなかった。死覇装を身に纏った雛森の姿は、護廷十三隊に所属する正式な死神だという紛れもない証だった。

 二つに結った黒髪を下ろし、半身として馴染み深い浅打を腰に差す。着物の色を除けば霊術院の生徒であった頃と大差はなく、それ故に経過した時の長さが顕著だ。

 小動物を彷彿とさせるほどに愛らしく、子どものように幼い顔立ちは爽やかな微笑を刻んでいた。名残惜し気に寮の自室を見回す様は外見に反して酷く落ち着いたものだった。

 備え付けの布団と机、そして姿見の他は何もない質素な部屋だ。それでも六年も寝起きした我が家との別れを迎えるのだから、寂寥に彩られるのは仕方がない。

 

「今までありがとうね」

 

 入隊式までは幾ばくかの時間が残されており、それは流魂街出身者に対する細やかな配慮だった。

 死神となれば与えられた隊舎の一室で生活を送る。気軽に流魂街へ出かける暇もなくなるため、家族と別れの挨拶を行うのは入隊式までの空き時間に済ませねばならなかった。

 むろん、貴重な時間を存分に活用させてもらう。

 故郷の潤林安は祝福するように蒼穹が澄み渡り、小鳥の囀りが鼓膜を震わせる。治安も良好で瀞霊廷に隣接する位置ではあるが、死覇装を着た雛森の姿に住人たちの視線が吸い寄せられる。

 嬉し気に、それでいて寂しさを覗かせる様子は雛森の心情を表現していた。

 慣れ親しんだ風景を噛み締めるように脳裏へ刻む。緩やかな歩みで故郷を堪能しながらも、やがて雛森は一軒の小さな家に辿り着く。

 風雨に打たれ、色褪せた木造家屋には所々に補修の痕が見受けられた。圧巻されるような立派な造りではないけれども、幼少期を過ごした大切な想い出の詰まった場所だ。

 視界の片隅で人影が揺れ動き、俊敏な動作で雛森の下へ駆け寄って来る。他に人の気配はせず、どうやら家には一人しかいないらしい。

 白髪と浅葱色の瞳が目を惹く特徴的な少年は、その表情には微妙な色合いが滲んでいた。

 

「お前、死神になるんだな」

 

 手を伸ばせば届く、なんとも微妙な間合いを保ちながら日番谷冬獅郎は呟いた。雛森と空いた心の距離を体現するかのようだった。

 

「ううん、違うよシロちゃん。あたし、もう死神なんだよ」

 

 死覇装の袖を持ち上げ、更には腰に差した浅打の柄を叩いて見せた。だが幼馴染みにとっては些細な事らしく、重ねるように言葉を発した。

 

「シロちゃんってのやめろ。死神になったら、その、もっと格好つけろよ。お前は泣き虫で寝小便するから、だから頑張れ」

「ちょっとシロちゃんっ! 女の子に向かってそれは酷いよっ!」

「うわ、ちょっ、離せよ……っ」

 

 日番谷の構築した心の柵を容易く乗り越えた雛森は、心の家族をその両腕に抱き締めた。言葉による抗議と裏腹に、その存在を掴み、離さんとする力強さが二人にはあった。

 胸中の温もりは矛盾するように冷たい鼓動をしていた。霊力の脈動が両腕を通して伝わってくる。かつて祐輝が独り言のように呟いた、日番谷に眠る力だと雛森は気づいた。

 同時に、祐輝の持つ霊圧探知能力の高さを実感する。生活を共にした雛森ですら、日番谷の奥底に宿す霊力の強さを見抜けなかったのだ。

 

「シロちゃんが死神になったら、名前で呼んであげる」

「誰が、死神になるかよ」

 

 日番谷は死神に快い感情を抱いていない。こうして雛森が死神になった今もそれは変わらないらしい。

 

「そっかぁ、残念。シロちゃんはあたしよりも強い死神になれると思うんだけどなぁ」

 

 両腕を離せば、面食らった日番谷が上目遣いに訊ねる。

 

「お前を守れるくらいに、か?」

「そこは頑張り次第だよ。あたしを守るつもりなら、祐輝くんよりも強くならないと駄目だよ?」

「あんな奴が、強い訳ねえだろ」

 

 祐輝が霊術院を去って以来、日番谷の中では好感度と呼べるものが最低に近いらしい。詳しい理由は雛森も知らず、それとなく探りを入れてもはぐらかされ続けた。

 休日に祐輝を連れてくれば、決まって不機嫌となりながらも本心から嫌った様子ではなかった。心境の変化なのか、或いは、もっと別の深い何かがあるのだろうか。

 

「でも、うん、大丈夫だよシロちゃん。あたしは虚に負けないし、いざとなれば祐輝くんもいるから。あたしの代わりにお婆ちゃんを守ってあげて」

「莫迦かよ、んなこと言われなくても分かってる」

「当り前のことでも、それは尊くて大切なものなんだよ」

 

 家族の温もりを、彼は遠い過去に置き去りにしている。雛森や日番谷にとっての日常は、祐輝から欠けた存在だ。

 

「一つだけ約束して。誰かの為に頑張れる、素敵な男の子になってね」

 

 胸中を占め、脳裏を過ぎるのは二人の死神だ。尊敬と憧れが同居する命の恩人は多忙であるにも関わらず、授業のために霊術院に訪れると生徒たちの相談を快く受けていた。

 そしてもう一人、風に乗せられて遠く離れた場所に赴く少年の背中が目に浮かぶ。

 

「もう時間だから、あたし往くね。お婆ちゃんを頼んだよ、日番谷(・・・)くん(・・)

 

 家族との別離で感情を揺さぶられる雛森は思った。今生の別れによって抉られた祐輝の傷は、容易に想像できるものではないと。

 飄々と意地の悪い性格になるまで、如何ほどの時間を必要としたのだろうか。僅かに垣間見た固い決意に満ちた表情と、普段の面倒くさがりな言動、矛盾を孕んだ掴み所のない人柄は決して後ろ向きの姿勢ではない。

 身近な者の死に触れた経験があるからこそ、人を気遣う優しさの持ち主なのだ。仲間を助けるために躊躇なく単独で虚に立ち向かうなど、誰にもできる芸当ではなかった。

 善性を体現した生真面目な性格が災いした。雛森が照らした祐輝の影は浅い局面に限られていた。

 祐輝の心は過去に囚われ、現在(いま)に至るまでその身を蝕んでいるなど雛森には知る由もなかった。

 

 

 ▽

 

 

 視界は全てが黒塗りの影だった。男女の違いはなく統一された漆黒の服装に身を包み、正式に己のものとした斬魄刀が腰へ差してある。むろん、その全てが無銘の浅打であるのは一目瞭然だった。

 雛森と同じ学年で銘のある斬魄刀を所持するのは、一人しか存在しないからだ。

 入隊式が行われる場所は隊舎に備え付けの道場だった。緊張によるものか、静寂が場を支配している。落ち着きなく周囲を見回し、或いは手近な同僚(・・)に話しかける死神もいた。

 仲の良い友人たちが同じ隊に配属されるとは限らない。同級生として見かけた記憶がある、という程度の間柄が大半なのだろう。

 その点、雛森はある意味で幸運だった。むろん、鬼道の天才として名が通っていたから、他の同期からすれば知らない存在ではない。

 雛森にとって幸運なのは、互いに頂点を目指して練磨を重ねた級友たち(・・)が同じ隊に配属されたことだった。運勢に恵まれた差配(・・)であると考えられた。

 

「良かったぁ、二人とも同じ隊で。あたし、独りぼっちだったら緊張で固まってたよ」

 

 先んじて談笑を交わしていた友人たちの下へ駆け寄った雛森は苦笑と共に漏らした。

 出来の悪い冗談を訊いたように、体格に恵まれた赤髪の青年が口元を歪めた。阿散井恋次は入隊式を控えても常と変わらぬ様子だ。

 

「ここは五番隊だぞ? お前、藍染隊長を追っかけに来たのか?」

「阿散井くんこそ、十一番隊の入隊式に行かなくていいの? ほら、ここは五番隊だから」

 

 控えめに祐輝のことを訊ねる恋次に対して、雛森は軽口を叩いて応じた。

 敬愛する藍染の五番隊に配属されたのは雛森にとっての希望が叶った形ではある。尤も、密かに残念な気持ちが生じたのも事実だ。祐輝を五番隊に迎え入れることが出来なかったと、霊術院時代に隊長から直接訊いていたのだ。

 

「へっ、俺は斬術だけが取り柄の猪じゃないって、きっと藍染隊長も理解してたんだろうよ」

「祐輝くんは縛道が駄目なだけで、他の部分は頑張ってたんだけどなぁ。阿散井くんと交換してくれないかな」

「まるで俺を物みたいに言いやがって。オイ吉良、お前も何か雛森に言ってやれよ」

 

 その一角だけは霊術院の頃と変わらない和やかな雰囲気を醸し出した。凍てついた緊張という枷も、雛森たちの談笑によって穏やかに雪解けの様相を見せる。距離を置いた他の同期生たちの表情に精気が戻り始めた。

 可憐な少女の華が咲く笑顔は、周囲の誰もが目を惹かれる魅力を放っていたのだ。

 不運なのは、僅かでも近づいて交友を深められない点だった。柔和だが影のある面持ちの吉良イヅルは時折周囲へと視線を走らせており、渦中の華へ何人も寄せ付けない気配を漂わせていた。

 もっとも、雛森桃という少女の気を惹こうと本気で考えるならば、遥かに手強い存在が控えていた。

 娯楽が少ない霊術院では、他人の恋路は貴重な話題の一つとして提供された。当然のごとく、可憐な容姿を持ち、学業も優秀で多くの生徒に好まれる人柄の雛森も名前が挙がった回数は少なくない。

 下級生を中心とした噂であれば、学年主席の座を争う吉良イヅルとの関係が逞しく妄想された。

 一方で、上級生の間で流れた話題は別だった。現世で虚を撃退し、その功績が評価されて護廷十三隊に引き抜かれた朝霧祐輝の存在が大きかったのだ。

 学年の問題児と鬼道の天才が傍目に見ても仲睦まじい様子であったのは日常だった。体調が芳しくない状態で授業を受けた雛森を、両腕に抱きかかえて強引に救護室へ運んだ逸話が残るほどだ。

 人格者である五番隊の隊長に勝る部分を持たない男子生徒たちは、必然的に問題児の後釜を夢想したが、逞しい漢気を発揮した彼らの恋路はその全てが無惨にも斬り伏せられた。

 そうした次第で、友人関係を築いた男子生徒は非常に少ない。

 

「君たちの緊張をどうやってほぐすか悩んだのは杞憂だったかな」

 

 穏やかな声が木霊し、室内に集められた新任隊士たちの視線が出入り口へと殺到する。

 折角の雰囲気を自身の登場で台無しとなった事実に軽い後悔を滲ませながらも、藍染隊長は朗らかに笑った。

 軽く首をうごめかし、雛森と視線が交差した際に僅かながら口元が緩んだように思えた。

 

「うん、どうやら皆が集まってるようだね。ははっ、僕のせいで緊張してるかもしれないが、気にする必要はないよ。そうだね、退屈な授業の延長とでも思ってくれた方が僕としては嬉しいかな」

 

 しかし、正直に藍染の言葉に従う素振りを見せた者は誰一人としていなかった。恋次ですら、背筋を正していたほどだ。

 問題児が紛れていれば、遠慮なく常と同じ態度を取ったのかもしれないと雛森は思った。何故ならば祐輝は、藍染の授業でも居眠りをしないだけで受講態度は褒められたものではなかったのだから。

 

「さて、まずはおめでとうと言っておくよ。君たちは霊術院で研鑽を重ね、尸魂界と現世を守護する魂魄の調停者へと至った」

 

 朗々と藍染の声が響いた。それは演説と呼ばれる部類のものであり、訊く者の心を掌握する不可思議な魅力を伴っていた。

 

「だが勘違いしないでほしい、僕ら死神は力を持つだけの個人であり、天から全てを見下ろす神ではないのだと。力に驕らず、それでも高みを目指して励んでくれることを願うよ」

 

 ふと、聞き覚えのある内容だと感じた。確か、はじめて藍染隊長の授業を受けた時にも同じような話をしていたはず。本当に、授業の延長みたいなものだ。

 

「そして、護廷十三隊はそれぞれに隊花がある。五番隊の隊花は馬酔木、花言葉は危険と犠牲、そして」

 

 一瞬、眼鏡の奥に垣間見える眼光に射抜かれた錯覚を覚えた。否、雛森を通して更にその背後、何処か別の人物を視てるような感覚だ。

 

「清純な愛、この三つを心の片隅にでも留めてほしい。将来、危険な任務に就くかもしれない。或いは、自らを犠牲にする局面が訪れるだろう。それでも、君たちが抱く信念や愛といった存在のために、果敢に立ち向かって欲しいと僕は願うよ」

 

 あぁ、祐輝くんのことを言ってるのかな。独りで虚と戦う危険、大怪我を負って友だちを助けた犠牲。うん、馬酔木の花言葉が似合ってる。

 やがて、茶目っ気の溢れる口調に転じて藍染は付け加えた。

 

「退屈な話を訊くと昼寝をしたくなる子もいるからね、これくらいにしておこう。僕ら五番隊は新たな死神を歓迎するよ」

 

 こうして、入隊式という大層な名に反した短い行事が終了した。藍染の細やかな配慮であるかもしれなかったが、雛森にとっては都合が良かった。

 退出する藍染の後ろ姿を追いかけた雛森は控えめに、しかし単刀直入に切り出した。

 

「あのっ、藍染隊長。祐輝くんの所属する隊をご存知ないですか?」

 

 一介の霊術院生には教えられないとかつて語られた。表向きは虚を撃退した功績による引き抜きだが、始解を修得した事実に関連して雛森には想像もつかぬ動きがあったらしい。

 面倒事に巻き込まれない配慮であるとは察せられたが、それでも辛抱強く問いかければ、五番隊に引き抜けなかったと告げられたのだ。

 雛森は正式な死神として、最低限の立場は得たと言える。

 

「相変わらず、朝霧君にご執心だね」

「そっ、そんなことないですっ! 祐輝くんは意地悪で面倒くさがり屋だから、誰かに迷惑をかけてないか心配、そうっ、心配してるだけですから……っ」

 

 嘘だ。不真面目な授業態度を注意してもどこ吹く風で、愉快だとばかりにからかう意地悪な祐輝。整えた髪を撫でまわす手の温もり、掴み所のない表情から僅かに垣間見えた刃のように鋭い瞳、その全てが懐かしく、そして。

 

「ならば君に入隊祝いとして、ささやかな贈り物の代わりとして受け取ってもらいたい。彼は、朝霧君は十三番隊に席を置いている。確か今は――」

「ありがとうございますっ、藍染隊長っ!」

 

 善は急げ、思い立ったが吉日という。年単位で顔を合わせていない祐輝の下へ駆けつけるべく、雛森は慌ただしくも瞬歩でその場を後にする。

 粉塵が巻き起こり、藍染の眼鏡だけが自己主張するように鈍い輝きを発していた。

 

「――現世に駐在してる、のだけれどね。全く、彼女を視れば愛とは僕にとって理解から程遠い感情だとつくづく思い知らされるよ」

 

 

 ▽

 

 

 路地の曲がり角から様子を窺えば、隊舎の入り口には守衛の姿が見受けられない。門も開け放たれており、堂々と中へ入ることが可能だ。

 人に逢いに来ただけで果たして他の隊舎に足を踏み入れても良いものだろうか。仕事でもないのに、他の隊舎に遊びに来るのが五番隊の隊士、そう思われるかもしれない。

 或いは目的の人物は今も仕事中で、突然押しかけたならばかえって邪魔なのではないか。

 根が真面目な性格が災いして、些細な事でも真剣に悩んでしまう雛森は結論を見出すまでに幾ばくかの時間を必要とした。

 そうして漸く決心が固まった雛森が路地から姿を出そうとしたときのことだった。

 

「ってなわけで、朝霧が――」

 

 複数人の気配と陽気な声が隊舎の内側から響いてきた。何よりも雛森の耳は敏感に反応を示した。

 半ば無意識のうちに鬼道で霊圧と姿を遮断しながら、隊舎から出て来た一団を観察する。遠征でもするのか、複数の死神は荷物を背負い込んでいた。女性の姿も見受けられた。

 見送りなのだろう、長身の男性は呑気な様子だった。遠征要員であろう小柄な女性の肩を叩きながら、快活に口元を動かしている。

 もっとも、雛森が注目したのは隊士の様子などではなく会話の内容だった。確かに訊いたのだ、朝霧という単語を。

 

「安心してください副隊長、朝霧がいなくともお守りは俺たちが立派に努めますって」

「そうですよ、そりゃあ朝霧は先任の俺らよりもう充分に強いですけど、経験ってもんじゃ負けたつもりはないです」

 

 幾人かの隊士が口にする朝霧、それは間違いなく祐輝のことだろう。先任隊士すらも既に実力では凌駕していると知り、雛森は我がことのように喜びを噛み締める。

 だがそれも束の間、続く会話の内容は感情を凍結させるには充分過ぎるものだった。

 

「まっ、朽木としては朝霧と一緒じゃないのが残念かもしれないが」

「そうそう、二人が連携すれば虚なんかすぐに片付くもんな」

 

 小柄な死神が何やら慌てふためいた様子で両手を振っている。一瞬、横顔を窺う機会に恵まれた。見覚えのある顔立ちだった。

 先ほど隊士が口にしていた朽木という姓、そして祐輝が行動を共にするとなれば、必然的にある人物が浮かび上がる。

 霊術院では祐輝と同じ二組に在籍しており、そして護廷十三隊の中では今日まで同期に恵まれなかった人物だ。同じ十三番隊ならば、成る程、二人が行動を共にするのも頷ける。

 同時に、内心を不快な感覚が渦巻いた。狂おしいほどに脈動が強くなり、思わず胸元へと手を遣る。

 雛森は瞳を瞬かせた。祐輝の好意、或いはそれに準じた何か。それらが己ではない他の誰かに向けられたかもしれない事実は、感情を揺さぶるには充分な威力を秘めていた。

 

「おい朽木、あの莫迦がいないからって虚を目にしても泣き喚くなよ」

「海燕殿まで何を言うのですかっ!? 朝霧なんぞいなくとも、私は戦えますからっ!」

「どうだか、いつも莫迦が身体を張っていただろう」

 

 やがて喧騒は収まり、凛とした面持ちの女性に率いられて死神たちは流魂街の方向へ歩み去ってゆく。会話の内容から察するに、虚の討伐に赴くのだろう。

 隊舎の門前には見送りの副隊長らしい死神が佇んでいた。思案顔で顎に手を遣り、瞬時にして視界から消え去った。

 咄嗟の出来事に雛森は混乱し、同時に耳元から囁き声が響く。

 

「盗み聞きは感心しねぇな、その度胸は認めるけどよ」

「うひゃあっ!?」

 

 驚愕のあまり素っ頓狂な悲鳴を挙げながら背後を振り返る。尻もちをつく醜態だけは回避した。

 両腕を組み、呆れた様子で仁王立ちする十三番隊の副隊長は雛森を見下ろしながら呟いた。

 

「なんだァ、まだ子どもじゃないか。見たところ新任、けど十三番隊(ウチ)じゃねぇな。あれか、恋人にでも逢いに来た、ってか。この時期になるといるんだよなぁ、お前みたいなの」

「こっ、こここ恋人じゃないですっ! 友だち、そう、友だちに逢いに来たんですっ!」

「ほぉ、友だちねぇ。嬢ちゃん、そいつはどんな奴なんだ? あぁ、俺は十三番隊で副隊長をしてる志波海燕ってんだ、なぁ、副隊長の頼みは断れないだろ?」

 

 脅迫じみた言葉と違い、海燕は実に愉快な玩具だとばかりに笑って見せた。人の困った様子をからかい愉しむ人柄らしい、何故だかそれは祐輝を彷彿とさせるものだ。

 頬を膨らませながらも反感を抱くが、盗み聞きしていた手前、突っぱねる訳にもいかなかった。自信のあった鬼道を容易く見破った実力は副隊長が伊達ではない証拠で、つまりこの場からの逃走も不可能だろう。

 そもそもとして、目的は祐輝なのだから堂々と胸を張ればいいのだ。うん、別にやましいことはしてないはず。盗み聞きに関しては、弁明のしようがないけれど。

 

「あたし、あの、霊術院で友だちだった朝霧祐輝くんに逢いに来たんです」

「ひょっとしなくても、あの莫迦で面倒くさがり屋で不真面目な朝霧祐輝か?」

「ええっと、多分そうです。霊術院を卒業する前に引き抜かれたはずなんですけど」

 

 一転して現実を拒否するかの如く海燕は呆けた表情で呟いた。

 

「嘘だろ、そいつは間違いなくあの莫迦じゃねぇか……」

 

 ねぇ、目を離した間に祐輝くんは何をしたの。副隊長さん、苦しそうに呻き声を漏らしてるんだけど。もしかして迷惑をかけてるのかな、ねぇ。

 

「くそっ、筋金入りの莫迦じゃねぇか。女の子を待たせるなんざ、男のやることかよ」

「あのっ、祐輝くんって何か迷惑をおかけしたのでしょうか……?」

「ん、なに、迷惑ってもんでもないさ。けど、あぁ、嬢ちゃんの名前と所属は?」

「今日から五番隊に配属された、雛森桃です」

「ってことは、藍染隊長のとこか」

 

 得心がいったと掌を叩いた十三番隊の隊長は、今度は困ったものだと呟きながら唸り始める。表情が良く変わる人物だと思ったが、感情が表に出やすい素直な人柄なのだろう。

 

「はぁ、莫迦の癖に隅に置けない野郎だ」

「莫迦、莫迦って言ってますけど、でも祐輝くんは」

「あぁ、朝霧は誰かの為に戦える、それこそ命を投げ出す優しい奴なんだろ。分かってる、アイツのことを貶めるつもりはないんだ」

 

 反論は瞬時に封絶された。冗談のような軽い口調だが、真摯な響きの籠った声音だった。

 

「嬢ちゃん、雛森だっけか。わりいな、朝霧は二週間前から現世にいるんだ。駐在の任期はまだ残ってる、当分の間はこっち(尸魂界)に戻って来ないぞ」

 

 暫し、雛森は無言を貫いた。俯き、両腕の震えを懸命に抑え込む。

 やがて面を上げた雛森は口元を綻ばせた。優等生らしい、相手を不快にさせることのない微笑を張り付けて謝意を示した。

 

「分かりました。祐輝くんが戻ってきたら、また十三番隊にお伺いします」

 

 眉をひそめた海燕は口ごもったが、頷きを返した。用件は済んだとばかりに手を振りかざし、雛森は礼を込めて頭を下げると踵を返す。

 

「朝霧の奴が戻ったら、労って欲しい。アイツは今、独りで現世にいるんだ」

 

 背後からかけられた声に歩みを止める。振り返れば、同じく背を向けた海燕は既に隊舎の中へ姿を消しつつあった。

 

「はい、祐輝くんの面倒を見るのは慣れてますから」

 

 

 ▽

 

 

 小気味いい音が店内に木霊した。善意で渡されたちり紙を有り難く受け取り、鼻孔へと当てる。粘着質な液体を包みながら、むず痒さに我慢ならず可愛らしいくしゃみが連続した。

 

「おや、風邪ッスか。死神に効くか分かりませんけど、現世の風邪薬なら揃えていますよ」

「んや、誰か俺のこと噂してるんだろ。それより駄菓子屋って薬も売ってるもんなのか……?」

「備えあれば患いなし、アタシゃ念を入れる癖があるんで何でも揃えてるんスよ。ほら、例えばこれは現世で健康器具として売られてるんスけど、男の悩みを解消できるから駐在任務の死神にもお勧めの」

「要らねえよ、そんな卑猥なもの普通の駄菓子屋が揃えるはずないでしょうが、浦原さん(・・・・)

 

 甚平の袖から取り出した扇子で口元を覆い隠し、気色の悪い笑い声で誤魔化す駄菓子屋の店主に溜め息をつく。

 見慣れぬ光景で溢れかえる現世は様々な意味で新鮮だったが、同時に単独での駐在任務は否応なしに孤独を強いられた。死神の存在を認知できるのは虚か、或いは現世を彷徨う魂魄のみだから当然だった。

 祐輝の任地である空座町は霊の数も多くはない。前任者が仕事熱心だったのか、着任した最初の週に魂葬した数は両手の指で事足りる程度だった。虚の出現に至っては数日おきの割合で、穏やかな平和を享受している。

 代償として、娯楽の欠乏が挙げられる。会話の相手が存在せず、現世の娯楽も大半が死神である祐輝にとっては意味を成さなかった。

 死神や虚の存在を理解する胡散臭い店主と知り合ったのは単なる偶然によるものだった。幼子の魂魄に駄菓子を恵んでいた現場へ、祐輝が通りかかったのがきっかけだ。

 それ以来、見回りのついでに駄菓子屋へと足を運んでいる。相手が死神であろうとも当然のごとく商売してくれる上に、怪しげな商品を宣伝する場合もあるけれど、祐輝にとっては貴重な話し相手だった。

 

「しっかし、朝霧サンも不思議な人ッスねぇ。義骸を使えばもっと現世を堪能できるでしょうに」

「任期が切れたら尸魂界に戻るんだ、心残りを作りたくないだけだよ。それに、どうせなら誰かと休暇で来る方が楽しめるだろうさ」

 

 カフェと呼ばれる現世の甘味処を訪れるのも良い案ではなかろうか。今頃は雛森も霊術院の卒業式を迎えたはずだ。互いに休暇を合わせれば、現世への旅行も不可能ではないだろう。

 苦味を堪能する洋菓子の会計作業を見守りながら、現世の土産も何か趣向を凝らすべきかと考える。尸魂界に持ち込めば自動的に霊子の存在へと変貌するから、食べ物でも問題はないのだけれど。

 雛森、少しは背が伸びたのだろうか。学年主席になるくらい勉強熱心なのは良いけど、寝不足にならないよう気を付けていたのか。あいつ、一回生の頃みたいに階段で倒れたら洒落にならないぞ。

 

「おや、朝霧サンが真面目な顔をするとは何やら悩み事ッスか」

 

 代金を受け取った浦原は興味深そうにのぞき込んでくる。帽子の影で瞳の色は窺い知れないが、ふざけた口調は普段通りだ。

 

「別に、大したことでもないよ。それよりいつもありがとうな浦原さん、また来るよ」

「いえいえ、アタシはちょっと影あるハンサムエロ店主、死神にとって実用的なありとあらゆる商品を――」

「んじゃ、見回りに戻るわ」

 

 実用的であっても、実戦に耐えられる商品とは限らない。現世の霊的商品として押し売りされた物体は、振動で刺激を与えるだけで霊的存在には何の効果も得られなかった。虚に向けた当時の己は今でも阿呆であると断言できる。

 それ故に浦原の宣伝文句を適当に聞き流し、霊子で足場を塗り固めることで空座町の上空を散歩のように回る。

 霊的なものが集まりやすい重霊地であれば、祐輝は今も絶え間なく空座町を駆け回り、虚の討伐や魂葬に勤しんでいたことだろう。

 幸いにも空座町は重霊地ではなく、そして虚の出現頻度も低い。残りの駐在期間も、特に大きな事件が起こることなく全うできるだろうと考えていた。

 

「独りでも、案外どうにかなるものなんだな」

 

 焦げ茶色の硬い洋菓子を噛み砕きながら、足元の街並を見遣る。死覇装のように統一された洋装の制服を身に纏い、同年代らしい学生たちが学び舎へと向かう姿が目に入った。

 命のある人間でも、稀に霊力を保有してるため虚から襲われる場合がある。彷徨う魂魄がいなくとも、空座町の住人を守護することは祐輝の役目に数えられる。

 既に二週間が経過した。虚が出現しても、犠牲者が出る前に仕留めていた。決して命を取り零す真似はしない。無力な魂魄が、或いは人間が襲われていれば、文字通り己の身を挺して間に入り込むつもりだ。

 もっとも、それ程までに逼迫した事態は発生しなかったが。穀潰しと罵られる具合の平和が死神には丁度いいのかもしれない。

 

「藍染隊長の忠告も、冗談のつもりだったのかあれは」

 

 死者が蘇ることはあり得ない。尸魂界で命の最期を迎えれば霊子として世界に還元されるのだ。

 尸魂界に送られることも無く、現世を徘徊する魂魄たちは死者に分類される。まさか魂葬の対象者と顔を合わせるのに心構えも何もないだろう。

 このまま平穏無事に、しかし退屈な駐在期間を過ごして尸魂界に戻る。漠然とした予想図は、ともすれば楽観的なものによるものだ。

 その点、祐輝は胡散臭い駄菓子屋の店主を見習うべきだった。念を入れるか、そうでなくとも物事を悲観的に視た予想図を一度でも描いていれば、心構えの準備にはなったであろう。

 

『――いいかこの莫迦、耳かっぽじって訊いとけよ。死神を意図的に狙ったと見られる狡猾な虚だ、油断するなよ』

 

 翌日、隣町を管轄する十番隊の隊士が虚によって殺害された。

 







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