獣人少女を救った話 (風神莉亜)
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獣人少女を救った話

「…………」

「フーッ……!」

 

 ――思い切り噛み付かれてしまった左手。鋭く尖っていた歯が容赦なく突き刺さり、決して浅くは無い怪我を負ってしまった。

 目の前には、敵意を剥き出しにして此方を睨み付ける少女の姿。ボロボロの衣服にぎらついた瞳。尾を逆立たせて警戒を露にするその姿は、しかし足腰が立たないのか酷く脆く見えた。

 

「言葉もろくに覚えてないようだしな……まぁ、最初から信じてもらおうなんて思ってないさ」

 

 流れ出してきた血を舐める。慣れた味だ。

 とりあえず自分の怪我はどうでもいいとして、優先すべきは彼女の怪我をどうにかしなければならない。

 獣人である彼女の体力は、普通の人よりも優れてはいる。しかし、それにも限界はあるだろう。ぼろ切れに隠された身体は痩せ細っており、青アザや傷を差し引いても健康的とは言い難い。

 

「さて……とにかくその邪魔なものだけでも外させてくれな」

 

 先程からじゃらじゃらと音を立てている足枷の鎖。その先についていたであろう重りの鉄球はここに来るまでに排除されている。しかし、後ろ手にされた手錠と首輪はそのままでは何かと問題がある。

 今度は噛み付かれても怯まんぞ、と近付くと、それ以上近付くなとばかりに唸られる。間違いなくこちらに危害を加えるであろう敵意に苦笑しながら、更に近付いて。

 

「ガァウ!」

「ぐっ」

 

 殺意バリバリの噛み付きが、首筋に襲い掛かる。

 直ぐ様用意していた鍵を首輪に挿し込み外し、彼女が食らい付いている間に、しゃがみこんで足枷も外しにかかる。律儀に噛み付いたままついてくる彼女の牙は、徐々に危険な域に食い込んできた。

 

「最後にっ――」

 

 長引かせると冗談抜きで自分が死ぬ。

 その一心で彼女の背中に腕を回す。無理やり腕を掴んで、手探りで手錠の鍵を挿し込み、こちらも外す。

 いきなり自分の両腕が自由になったことに驚いたのか、噛みつく力が緩むのを感じた、瞬間に頭を掴んで引き剥がした。血が吹き出すことはない。どうやら致命的なものには至らなかった様子。

 

「飯持ってくるから大人しくなっ」

 

 そして即座にエスケープ。去り際に見た彼女の顔は、呆気に取られているようだった。

 

 

 

 

 

 

「今日のご飯だぞー」

 

 無事に彼女の枷を外して早数日。流石に初日は此方の出す食事を食べてはくれなかったものの、目の前で口にしたり敵意が無いことを身体で示したりしていると、ようやく食べてくれるようになってきた。おかげで日に日に身体は包帯まみれになっていったが、取り敢えずはもう増えることは無いだろう。

 オートミールなのでさほど旨くはないだろうが、長らくまともなものを食べていないであろうことを考えるといきなり固形物は具合が悪い。取り敢えずこれで一週間程は我慢して貰う。

 

「あーあー、口汚して……」

 

 一応スプーンは用意してあるが、使い方がわからないのか完全に犬食いである。まぁ、狼の獣人のようなのである種間違ってはいないと思うのだが。見た目は少女に大きな尾と耳が付いているだけなので直接はほんの少し見目が悪い。まぁそんなのは追々でいいのだが。

 とにかく完食するまで見届ける。その後は……自分の怪我の心配でもしておこうか。包帯でも替えることにする。

 

 

 

 

 

 

 更に数日経ったある日。いつものように口元をべったべたにしてオートミールを完食した彼女だったが、その後の様子が少し違うことに気付く。

 何やらその尾をパタリ、パタリと動かしながら此方をじぃっと見つめてきていたのだ。いつもなら、その服で口元を乱雑に拭いた後に、出ていけとばかりに唸られてしまうのだが。

 もしやと思い、いつもその口を拭いてやりたいと思ってポケットに忍ばせていたハンカチを取り出す。恐る恐る近付いて、その口元に手を伸ばした。

 

「……ふむ」

 

 逃げる様子もなく、警戒する様子も無い。

 ゆっくりと口を拭いてやると、目を細めてされるがままになってくれている。どうやら、多少の身体接触ぐらいは許してくれるようになったようである。

 そうなると、またやることが増えてくれる。お次は彼女の身体を少しずつでも綺麗にしてやらなければならない。

 

「少し待っててくれよ」

 

 口を拭き終わり、部屋を後にする。

 洗面器にお湯をくみ、タオルを何枚か。大人しくしてくれればいいのだが。

 

「…………」

「大丈夫だ。汚いままは嫌だろ」

 

 部屋に戻る。ひとまず手を取るが、特に抵抗はされない。先に濡らして絞っておいたタオルで、掌から拭いていく。そのまま肩までくまなく拭いて、反対の手に。

 両腕を拭き終わったところで、次は足へと。

 同じように太股の辺りまで拭いてから、さて次はどうしたものか、とタオルを洗いながら考えていると。

 

「…………」

 

 何をしてくれているのかわかったのだろう。彼女は自分から、身に付けていたぼろ切れを脱ぎ始めた。その下には何も身に付けてはいない。完全に生まれたままの姿になった彼女は、無言でこちらのタオルを握る手を掴み、それを自分の身体に押し付ける。

 拭け、ということなのだろう。

 許可が取れたなら何も心配することはない。少女の裸を前にして何も思わない訳ではないが、こうして少しでも接触を許してくれた彼女の信頼にこたえる為に、やれることを少しでもやっていかなくては。

 

 

 

 

「うん。いい感じ」

「…………?」

 

 身体を綺麗にした後に、今まで抵抗を受けながらも最低限で済ましてきた傷の処置をしっかりと施し、そしてぼろ切れからかわいらしいワンピースへと装いを変えた彼女は、不思議そうに自分の身体を確かめていた。勿論、尻尾の面も考慮した獣人用のデザインである。

 くるくる回る彼女のどこか幼く見える振るまいに微笑ましいものを感じながら、次は伸ばしっぱなしになっている髪の毛や耳、尾のメンテナンスに手をつけていこうと思う。

 部屋にある椅子へと彼女を座らせて、大きな布を身体に被せる。何をされるのか不安そうな顔をする彼女ではあったが、取り敢えずされるがままになることに決めたらしい。実際、少しずつ身体にも力が戻ってきているようで、本気で抵抗されたら最早押し留めることも叶わないだろう。助かる。

 

「怖くないぞ」

 

 柔らかな耳と共に頭を撫でてから、櫛をかけつつ毛量を減らしていく。ハサミと言えど刃物である。刃が擦れる音が聴こえる度に身体を震わせる彼女を落ち着かせながら、焦らないように、彼女が余裕を持てるように、ゆっくりと進めていく。

 腰まで伸びているが、元々の髪質が良さそうだ。これからしっかり栄養を取っていけば、きっとフワフワな……毛並み? と言って良いのだろうか。まぁ、きっと彼女の魅力のひとつとなるだろう。

 む……耳の根本に毛玉が。髪の毛と耳の毛は少し質が違う。こういう時は、毛玉を少し揉んでやって、スリッカーブラシで処置していく。

 

「髪はこんなものかな……? 次は耳の掃除……は、今晩にでも風呂に入ってくれたら一緒にやるとして。尻尾か。触らせてくれ……もふっ」

 

 顎に手を当てて考えていると、漏れた声通りもふっと顔に尻尾がぶつけられた。こっちもやれ、という事だろうか。仰せのままに。

 こちらは各種ブラッシングの道具を用いていく。毛が長いのもあるが、やはり長い間ほったらかしにされていたせいか毛玉が出来放題だ。これは長期戦である。地肌を痛めないように。

 

「……うん?」

 

 しばらく真剣にやっていると、ふと背中を向けていた彼女が船を漕いでいることに気付いた。目の前で眠ってしまうことはこれが初めてだ。どうこう言っても、やはりまだまだ気は張っていたのだろう。

 こうして無防備な姿を見せてくれるまでになってくれたのか、もしくは限界がきてしまったのか。前者なら嬉しいのだが……。

 

(こんなものかな)

 

 ひとまず満足いくまでやったあとに、起こさない程度にそよ風で散髪後の後始末を済ませていく。髪に当てながら切った髪を散らし、床に落ちた髪を袋に風で集めていく並列作業。微妙に器用な魔術行使である。

 恙無く作業を終えて、身体を覆っていた布を取ってから、少し考えて抱き上げた。

 彼女が今までいた部屋はひどく質素な部屋……というか、ぶっちゃけ物置である。ここに連れてきた時にここに逃げ込まれ、それ以来動いてくれなかったので仕方なしに片付け仮の部屋として使っていたのだが。もう部屋を移動していいだろう。もういい加減きちんとしたベッドで眠ってもらいたい。

 

「信用してくれなくても構わないが……」

 

 自分のことだけ考えてくれていいので、早く元気になって欲しいものである。

 

 

 

 

 

 

「今日からはちゃんとした飯だぞー」

「!」

 

 部屋に食事を持っていくと、ベッドで膝を抱えていた彼女の耳がピンと反応するのが見えた。オートミール生活もいい加減止めていいだろう。今回からはちゃんとした食事を用意してみた。

 朝食なので、麦パンにベーコンと目玉焼きというメニューだが、昼と晩にはしっかりした肉を出す予定である。

 

「……?」

「あぁ、それはジャムってやつだ。パンにつけて食べるんだ。こうして」

 

 彼女が瓶入りのイチゴジャムを持ち上げてしげしげと見つめているので、渡して貰って蓋を開ける。刃を潰したナイフで切り分けてある麦パンに塗り、はいと彼女に手渡そうとして。

 

「……そういえば、使い方も教えなきゃならないな」

 

 そのまま俺の手からパクリと食べた彼女に、フォークもナイフも使えないんだったなと思い出す。スプーンは辛うじて使うようになったが……。

 

「ん、なん……」

「……あ」

「意外と甘えたがりなのか? まぁ、いいけど」

 

 たしたしと手を叩かれ、何かと見ると目を輝かせながら

 口を開けている。どうやらジャムがお気に召した様子である。自家製なのでちょっと誇らしい。

 取り敢えず、今回は手ずから彼女に食事を取らせてあげることにした。彼女がここに来てから一ヶ月。どうやら大分気を許してくれたようで嬉しいものである。

 

 

 

 

 

 

「うおっ」

「…………」

 

 野暮用で日中に家を留守にしていた為に、暗くなってから帰宅することになった。

 そして玄関を開けたその先に、膝を抱えて座っている彼女の姿。微妙に尻尾を振ってくれているのは気のせいだろうか。が、此方を確認するとすっくと立ち上がって部屋へと帰っていった。ちょくちょく振り返りながらの帰還だったが、もしかして追い掛けてきて欲しいのだろうか。

 

「……まぁ、取り敢えず着替えよう」

 

 色々汚れてしまったし、先ずは着替えである。これで構いにいって嫌われたら今までの努力が無駄になってしまう。こういうのはちょっと離れるくらいの距離感でちょうどいいのだ、多分。

 

 

 

「なんてこと考えてたんだけどなー」

 

 着替え終わり、ひとまず疲れを取ろうと座椅子に背を預けて座り込み、お気に入りの本を手にして読書タイムに入っていたところ。唐突に扉が開いたかと思えば、そこに立っていたのは当然ながら彼女の姿。何かを言う前にスタスタ此方に近づいてきて、今の状況に至る。

 いや本当にどうしたのだろうか。

 

「…………」

「いきなりどうしたんだ、なんて言ってもわかんないだろうしな」

「……ことば、わかる」

「えっ」

 

 ――衝撃の事実。

 

 そういえば、こっちが勝手にそう思い込んでいただけであって、彼女が喋れないなんて誰かが言ったわけでもないのだった。

 しかしまぁ、それならコミュニケーションが取れる。

 

「で、どうかしたの?」

「……なんでも、ない」

「そ、そう?」

 

 そのわりにはやたらと距離が近いというか、まるで犬に寄り添われるかのように、座る膝元に寄り添われている。今までに無いことだったので、少し動揺しています。

 別にこれといってやることも無いので全然構わないのだが……いや、深く考えることもないか。彼女がこれでいいのなら、それでいいのだから。

 

「もう少しでご飯にしようか」

「……ん」

 

 頭に手を乗せると、へにゃりとその耳がへたれてしまう。それがどうしようもなく可愛くて、頬が緩むのを抑えきれないのだった。

 

 

 

 

 

「朝。起きる」

「ん……」

「早く起きる。お腹減った」

 

 ゆさゆさと身体を揺さぶられる。もう少し寝ていたいので無反応という抵抗をしていると、

 

「……なら、わたしも寝る」

 

 そんな呟きと共に、ぐいっと毛布ごと腕を開かれる。やや強い勢いで胸に飛び込んできた彼女は、むふーっと息を吐いて寝息をたてはじめた。

 随分信頼してくれたものだ。彼女が家にきて、三ヶ月目の朝である。

 すっかり身体も健康になり、心も開いてくれて、すっかりなついてくれて。ついでに俺の怪我も痕が残ったものの治ってくれた。

 そろそろ、最後の段階に進んでもいい頃だろう。今日の昼にでも話を切り出してみよう。どの道を選ぶかは彼女次第である。

 

 

 

 

 

 

「……独り立ち?」

「君も随分元気になった。俺の仕事はね、奴隷だった亜人の子供を引き取って、いずれは社会復帰させること。君のようにね」

 

 やや怪しい手付きでフォークを使いながら食事を取っていた彼女が、俺の言葉に首を傾げる。次いで、徐々に険しい顔になっていった。構わず続ける。

 

「この仕事は始めたばかりでね。君が初めての」

「やだ」

「やだって……」

 

 乱雑に切られた肉を豪快に口に入れた彼女は、聞く価値もないと耳を伏せて食事を続けてしまう。

 

「君だって、自由になったんだ。外に出て好きに生きるのが」

「今でも自由」

「いやでも」

「今、わたしは怒っていい」

 

 ごくり、とこちらまで聴こえるほどに喉を鳴らして肉をのみこんだ彼女は、やや乱雑に手のナイフとフォークを机に置いた。そして立ち上がり、対面に座る此方へ歩み寄り、

 

「わかってない」

「うっ!?」

 

 一瞬胸ぐらを掴まれ持ち上げられたかと思うと、地面に落とされて息が漏れる。

 何をするのか、と文句を言う前に、彼女が上に覆い被さってきた。

 

「わかって、ない」

「……?」

「捕まって、独りぼっちで、ひどいことされて」

 

 口数が少なく、感情の抑揚が少ない彼女の声が、小さく震えている。

 

「助けてくれても、信じられなくて。怪我させても、喋らなくても、ずっと優しくしてくれて」

「……それ、は」

「仕事でも!」

 

 ばっと身体を起こし、強い目付きで彼女は睨み付けて。しかしすぐに強く目をつぶって、ボロボロと涙が溢れ落ちてくる。

 

「わたしは嬉しかった! 帰るとこなんて他に無い! わたしが信じられるのは、貴方しかいない……!」

 

 ここに来てから、彼女は初めて涙を見せた。つまり、今の話が、今までで一番ショックだったということだ。

 それにひどく申し訳なくなって、顔を手で覆って肩を震わせる彼女を抱き寄せる。

 

「言葉足らずだったね。何も、出ていけと言っている訳じゃないんだ。ここに残りたいのなら、それだっていいんだよ」

「足りなすぎるぅ……! あやまれぇ……!」

「ごめんごめん」

 

 どんどん胸を叩いてくる彼女に謝りながら、くしゃくしゃと頭を撫でてやる。すっかり毛並みの良くなった尻尾が元気よく振られていた。

 

 

 

 

 

 

「仕事、続ける?」

「厳密に言うとボランティアなんだけどね。もちろん続ける」

 

 翌日、自分の部屋でいつものように読書をしていると、下の方から声が飛んでくる。こちらも、いつもと同じと言えるくらいには、膝元にすり寄るその姿が馴染んでしまった。

 

「わたしみたいな亜人を、また?」

「そうだよ」

「じゃあ、わたし、それ手伝う」

「手伝う?」

 

 本を閉じ、膝に顎を乗せていた彼女をみやる。彼女は幾分じとっとした目付きでこちらを見上げていた。

 

「いきなり連れてきても、最初は信じてもらえない。わたしが良い例」

「そりゃあそうだろう」

「ちょっとでも力があれば、襲ってくることもある。危ない」

 

 下ろしていた左手を掴まれて、ペロリと舐められる。かつて彼女に思い切り噛み付かれた箇所は、しっかりと痕として残っていた。

 

「だから、わたしが手伝う。亜人同士なら、警戒も薄くなる。きっと」

「それは、有難い話だけど」

「わたしみたいのばっかりじゃない。正直、わたしはチョロかったと自負してる」

「えっと」

「事実」

 

 ぐい、と肩に手をかけて、今度は頬被りをしてくる彼女。ひんやりした肌が心地好いが、ここまでボディタッチが激しいとこちらが照れる。どうやら、何かと振り切れてしまったようだ。

 

「気にしない。これは、わたしがやりたいこと。貴方がくれた自由を、貴方の為に使う」

「……卑怯な言い方だなぁ」

 

 意識してやった訳ではないだろうが、こちらの言葉尻を取られてしまっては断ることも敵わない。

 それに実際、同じ立場だった彼女の視点は、この仕事をする上で大きな力になってくれるだろう。

 

「力を貸してくれるかい?」

「良かった。それ以外の言葉だったら、噛み付いてるところ。こんな感じに」

「結局噛むんじゃないか」

「ふぉれわあまはみ」

 

 

 

 ――かつて冒険者として名を馳せた青年が、かつて奴隷だった獣人少女と暮らしていく物語。

 

 これは、そんな二人の出逢いの話。

 

 

 




ここまで一気に書いたのも久々。


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彼女は自分を蔑んだ

何やら予想外に反応が良かったので2本目投下。反応次第で次も書くかも書かないかも。


 彼女は自分をとにかく低く見ていた。

 自己肯定というものは殆ど存在しない、恐ろしく自分というものを蔑ろにして過ごしてきた。

 何故なら、自分は得体の知れない存在だから。気味が悪く、受け入れがたいものだから。

 そして周りもまた、そんな彼女の扱いに困り、結局は彼女の元から去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

「どうぞ」

「…………」

 

 皿に盛られた新鮮な野菜を、彼女はおどおどとしながら見つめている。その目は片方ずつ色が違っていた。

 

「遠慮しないで、食べる。わたしはあんまり食べれないけど、味は保証」

 

 自分の隣にいる獣人の女の子――ルミナスが、胸を張って言う。身体の構造的にあまり野菜が摂取出来ない彼女はもっぱら肉食だが、どうやら野菜の味もちゃんと理解しているらしい。

 二人に言われてようやく野菜に手を伸ばした彼女は、長すぎる袖からほんの少しだけ見える指先で野菜の葉を掴むと、小さな口で少しずつ啄み始めた。

 

「で、(あるじ)。この子はどこから?」

「主は止めて欲しいって言ってるんだけど……」

「将来に期待して欲しい」

「うぅん……」

 

 自分を主と呼んで憚らない少女、ルミナス。元々奴隷だった彼女を救いだしたのは確かだが、別に彼女と主従関係になった訳では無いのだが。

 まぁ、結構頑固なところもあるのはもう理解している。なにせ、最初に自分を主と呼び始めてから早半年。注意しようが何を言おうが全く直そうとしないのだから、もう諦めた方が良いのかもしれなかった。

 

「奴隷には見えない。けど、普通に暮らしてたようにも見えない」

「そうだね。彼女は君のような奴隷ではなかった。けれど」

 

 一度言葉を切ると、ルミナスは座る自分に近付いて少しだけ屈む。その耳元に、小声で彼女が置かれていた状況を説明した。

 全てを聞いた彼女は、耳と尾を心無ししんなりさせる。

 その目は、今は夢中になって自家製の花の蜜ジュースを吸う彼女へと注がれている。

 

「……それは、辛い。でもそんなことってある?」

「亜人の中でも森人や虫人は特殊だからね。有り得ない、とは言えないな」

「…………」

 

 それっきり、黙り込んでしまう彼女の頭を撫でてやる。

 

 

 目の前の彼女は、亜人の中でも群を抜いて多様性がある人種である。例を用いるならば、ルミナスは獣人であり、その中でも狼の亜人となる。このように亜人と言っても種別ごとに更に細かく分けられていくのだが、その中でも取り分け種別が多いのが虫人。すなわち彼女が属する人種なのだ。

 どれだけ多いかと聞かれれば、正直な話わからない、と自分は答えるだろう。なにせ、そもそもどれだけの種別がいるのかがわかっていないのだから。

 そして、目の前にいる彼女はその中でも更に特異な個体である。

 

「…………」

 

 虫人の中でも、成長過程で一度完全に身体を作り替えて大人へと至る種類がいる。つまり変体というものだが、これは別に珍しくはない。

 何が彼女を特異たらしめているのか、それは一重に、彼女以外にその身体的特徴を持つ種が存在しない、ということだ。

 

 平たく言うならば、新種。特異体。突然変異種。

 

 そんな彼女は、生まれるや否や捨てられたのだ、と里親であった者は言う。どう育つのかもわからない。危険な種であれば手に負えない。恐らくはそんな考えで捨てられたのだろうと。

 そしてそんな里親も結局はその考えに至ってしまったのが、ひどく自分には悲しく思えた。

 

「…………?」

「こんなにかわいいのに」

「…………」

 

 此方が何を話しているのか気になったのか、一度食べる手を止めて首を傾げている。そんな彼女を見て母性でも刺激されたのか、後ろから抱き締めて頭を撫で始めるルミナス。ぶっちゃけ見た感じの年と背丈はほとんど同じなので母性もくそもないのだが。

 因みにルミナスは十七歳である。背丈も小さく幼く見えてしまう彼女だが、それは奴隷の時期が長く発育が遅れてしまっているせいだ。ここに来てから色々急激に成長しているので、後一年もすればあるべき姿に追い付くのだろう。

 

「まぁ、取り敢えず俺は色々調べるとしよう。ルー、任せていいかい?」

「勿論。初仕事、頑張る」

「ふふ、仲良くね」

 

 取り敢えず、抱き着かれても困惑するだけで嫌がる素振りも見せないので、任せても問題ないと判断。

 ひとまず彼女のことはルミナスに任せて、自分は彼女のことを調べる為に席を立った。

 

 

 

 

 

 

「うーん……。確かにどの種にも当てはまらない、けど」

 

 書斎に籠り早二時間。虫人関係の書物を読み漁って得た結論は、やはり彼女の持つ特徴は前例にない。勿論、ある程度の当たりを付けて、成長過程で変体を行う種に絞って、の話ではあるが。

 

「前提から間違っているのか? 両親が蝶だと言うからその近辺で調べてるけど……」

 

 いいや、そもそもの話、彼女が完全な新種であったならばいくら調べても意味が無い。……無いことはないが、それは彼女が完全に独立した一個体であることを裏付けることにしかならない。

 それならそれでもいいのだが、自分にはどうしても引っ掛かるものがある。

 

「あの身体の模様には見覚えがあるんだよなぁ」

 

 そう。彼女の身体――特に、両手足に走る楕円が列なった色鮮やかな模様。自分は確かにどこかで、それと似たような物を見たような……あるいは、知識として知っていたような気がするのだ。

 資料を閉じて頭を抱える。それを知ったとするならば、まだ自分が仲間と共に世界を駆け巡っていた頃。レベルとしては軽く見て流してしまうような、豆知識として仲間からぽつりと聞いたような、そんなもの。

 恐らく危険なものではない。それならば忘れるはずもない。この頭が平和ボケしていなければ、の話だが。

 

「ダメだな、思い出せん」

 

 息を吐いて、頭を切り替える。

 そもそも、彼女は虫人にしてはいくつかおかしなところがある。

 先ずひとつ。未だに、彼女は言葉が喋れない。覚えてない、知らないだとかの話ではなく、そもそも言葉を発する器官が未発達なことが窺える。

 これは変体をしていない虫人にまま見られる現象である。幼年期の彼らはいくつか身体に不具合があることも多く、しかしそれらは変体を通して解消されるから問題視されていない。

 だがそうなると、彼女が未だに幼年期であることになる。変体を行う年としては、人の年で早ければ五歳、遅くても七、八歳に変体を終えて成体となる。その後、新たに年を重ねて成長していくのだ。彼らは幼年期と成体とで年を分けているらしく、感覚としては第二の生誕のようなものなのだろう。

 そして彼女だが、未だ幼年期であると仮定しても年を取りすぎている。里親から聞いた話では今年で十五にもなるというのだ。しかも、今では身体の成長が止まってしまっている。

 幼年期で十五年は長すぎる。しかし成長が止まるのは幼年期の特徴でもある。彼女が変体をするのならば、それはいつ始まってもおかしくないのだが、今のところその兆候は欠片もない。

 それに、瞳の色もそうだ。単なるオッドアイならともかく、彼女は瞬きをする度にその色が変わる。そんなものは見たことが無かった。

 

「難しいな……」

 

 ひとつ呟いてしばらく黙り込んだ後に、もういいかと資料をひとつに纏める。

 彼女の正体が何なのかはいずれはっきりする。ならば、ここで一人唸っていても何も変わらない。勿論これからも気になることがあれば調べはするが、結局のところ自分がすることは変わらない。

 かつてルミナスを救えたように、彼女にも自分の居場所を見つけられるようにするだけだ。

 

「主。全部食べた。追加する?」

「欲しそうならあげてもいいよ」

「わかった」

 

 部屋から出たところで、廊下の曲がり角から顔だけを出していたルミナスにそう答えてから、疲れた頭を癒そうと風呂場に向かうことにした。

 

 

 

 

 

 

 彼女は酷く何かを怖がっているようだ。

 

 受け入れてから一週間、彼女の様子を見て感じたのはそれだった。

 夜も更けた頃に部屋にきたルミナスもまた、同じことを感じたと言う。

 

「わたしとはまるきり違う。わたしは、主に救われるまで……救われてからも、しばらく自分のことしか頭に無かった」

「と、いうと?」

自分のことを考えてない(・・・・・・・・・・・)。それでいて、何かをするにも躊躇ってる、みたい」

 

 ふむ、とルミナスの言葉に、ここしばらくの彼女の行動を照らし合わせる。

 が、しばらく考えてから、

 

「何も、おかしなことはしてない、よな」

「それは主が? それとも、あの子が」

「どちらも」

「なら、どちらも」

 

 自分は特に怖がらせるようなことはしていない。というよりは、この一週間はなるべく離れて見守るようにしてきたつもりだ。

 そして、見守ってきた結果は、特に何も無かった、というのが結論となる。

 

「だからわからない。あの子は、何を怖がってる?」

「…………」

 

 耳を微妙にへたらせながら考え込むルミナスだが、その頭を撫でながら、

 

「もう少し様子を見よう。答えを出すにも、今はまだ早い気がする」

「……主が言うなら」

 

 本当は朧気ながら答えが見えてはいるのだが、別に急ぐことも無いだろう。

 目の前の彼女なんて、一週間じゃとりつく島も与えてくれなかったのだから。

 

 

 

 

 

 

 彼女を受け入れて一月が経ち、その日に大きな変化が起きた。

 それは晴天が広がる日。その昼過ぎに起きたことである。

 

「主のパンツが木に実った」

 

 鼻歌交じりで洗濯物を干していたルミナスが、木陰で本を読んでいた自分にいきなりそんなことを言いにきた。なんだその表現は。

 

「嫌な言い方をしない。風で飛ばされたんだろう?」

「まぁ、そう」

「取ればいいじゃないか。簡単に届くだろうに」

 

 単に木に引っ掛かった程度、彼女なら苦もなく取れる。何せ軽く飛べばその辺の木の高さくらい飛び越えられるのだから。

 しかし彼女は、そんな俺の言葉に不満そうに唇を尖らせる。

 

「今の服は、破きたくない」

 

 ワンピースの裾を掴みながら言うルミナス。

 見れば、それは彼女に初めて与えたあのワンピースだ。どうやらお気に入りのようで、確かにそれで木に登ればどこかしらほつれてしまいそうではあった。

 かつては足首まであった裾だったが、今では膝下辺りまで上がっているあたり、彼女の成長が窺える。

 

「……そろそろ限界じゃないのかな」

「まだいける」

「目のやりどころに困りはじめてきたんだが」

「……思わぬ副産物。尚更大事にする」

 

 ぐっ、と両手を握って妙な気合いを入れたルミナスを見て、余計なことを言ったかと頭を掻いた。

 まぁ、大事にしてくれるならそれは嬉しいものだ。取り敢えず今回は、木に実ったらしい自らの下着を収穫せねばならないかと立ち上がる。

 

「で、どの木?」

「あの木」

「……? 誰かいるな」

「シルク。見張ってもらってる」

「必要なのかい……?」

 

 指差された木の下に、日の光を受けて輝く頭が目に入る。ルミナスがシルクと名付けた、彼女の頭だった。

 人の、しかも男のパンツをじぃっと見られるのは忍びない。とっとと風で取ってしまおうと歩き始める。その時だった。

 

 シルクの口から、細い何かが吐き出される。

 

 それは赤だったり、青だったり、ピンクだったり、オレンジだったりと、それは色鮮やかな、細い糸であった。

 

 糸は俺のパンツに絡み付くと、あっという間に枝から外れてシルクの元へと戻っていく。プツリ、と糸を咬み切る音が聞こえた。

 一瞬呆気に取られたが、彼女に歩み寄ってその頭に手を置く。此方に気付いていなかったのか、驚いたように身体を震わせると、目をつぶって縮こまってしまった。

 

「ありがとう。取ってくれたんだね」

「…………?」

「それにしても綺麗な糸だ。もしかして、最初から出来たのかい?」

 

 自分の言葉に、シルクはぱちくりと目を瞬かせた。鮮やかな赤色から黄色、そして青へとその目の色が変わる。

 やがてコクりと頷くと、少しだけ怯えながらも、一歩、二歩と後ずさる。

 その身体を、俺は抱き寄せてから――持ち上げた。

 

「怖くなんてないぞ? 成る程、君はそれが気になっていたんだな」

「…………!」

「周りは君を怖がっていた。正体がわからない君が、何になるのかわからなかったから」

 

 瞬間、彼女の目が赤く染まる。どうやら感情でも変わるらしい。

 

「けれど、一番怖かったのは、他でもない君だったんだな。自分が何者かわからない恐怖……。そうだなぁ、その怖さは、君にしかわからないだろう」

 

 何もわからないうちに捨てられ、拾われた先でも気味悪がられて仲間外れ。何かを言おうにも声は出ず、それが何故かもわからない。そもそも、自分が何者なのかもわからない。

 それが怖くて、彼女は今から先に進めなくなった。周りにも自分にも受け入れられない未来の自分になんて、きっとなりたくなかったのだ。

 

「でも、俺は怖くないぞ。例え君が自分を受け入れられなくても、俺は君を受け入れよう。俺じゃ足りなければ、ルミナスだっている」

「ん。シルクは良い子。わたしは大好き」

「…………?」

「本当だとも。そうじゃなきゃ、こんなことは出来ないだろう?」

「主。わたしも交ぜる」

 

 下から聞こえるルミナスの声に、シルクを下ろす。すぐにシルクの背後から抱き着いた彼女ごと、俺は二人を抱きすくめた。

 おずおずと、その細い両腕が、俺の背中に回される。

 

「…………っ」

「信じてくれるかい? あぁ大丈夫だ。ここには二人もいるじゃないか。何も不安なことはない」

「わたしも主に救われた。シルクだって、救われなきゃ」

 

 顔を埋められた肩に熱いものを感じる。それは彼女がここにきて、初めて見せた感情の爆発だった。

 

 彼女が怯えながらもここでの生活をそつなくこなしていたのは、仲間外れにされたくなかったから。

 彼女は今まで何一つ問題なく過ごしてきた。ひとつひとつの行動に怯えながらも、一生懸命、普通に見えるように。ひとつでもおかしなところを見せたら、また仲間外れにされてしまうから。

 そつなく見えた彼女の生活は、懸命なまでの努力の塊だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の夜。彼女は、色鮮やかな繭に包まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あぁ、ようやく思い出した。参ったなぁ、こんなこと忘れてたなんて」

「主、何かわかった?」

 

 翌日、シルクが寝ていたベッドの上に現れた虹色の繭を見て、ようやくあの時感じていた既視感の正体がわかった。それすなわち、シルクの種類、種族である。

 いやしかし、本当に何で忘れていたのだろうか。あの時はひどく感動したのに。これでは相棒に怒られてしまうな。

 

「主、主。何かわかったら教えて」

「んー……。まだ内緒」

「ずるい、意地悪」

「だって、先に教えちゃうと感動が薄れるからね」

 

 感動……? と首を傾げるルミナスの頭を撫でてから、ある人物と連絡を取るために自室に戻る。

 まだアイツはあそこにいるのだろうか。自由を体現化した存在だから、下手をするといないのかもしれない。まぁ、その時はその時だ。

 

 

 

 

 

 

 

「連絡つくまで一週間もかかるとは思わなかったぞ」

『何よー甲斐性無し。こっちだって今更連絡来るなんて思ってなかったのよ』

 

 シルクが繭に籠ってから一週間。

 通話魔術の向こう側から全く悪びれもしない声が聞こえてきて、一瞬通話を切ってやろうかとも思ったがそうもいかない。此方は彼女に聞きたいことがあるのだから。

 

「聞きたいことがあるんだが」

『何よ。今更婿に来たいとか? ざーんねーんでーしたー! もう遅いですー!』

「…………あのな、実は家に」

『まぁでもー? どーしてもって言うなら! どーーーしても!! って貴方が言うなら、よう』

 

 通話を切った。無駄な数十秒と魔力を使ってしまった。

 そうだ。何もアイツに聞かずとも資料があるじゃないか。最初に調べものをした時は頭から抜け落ちていたから手を出さなかったが、今なら

 

『―――――――――!』

 

 頭に甲高い音が響き渡る。

 溜め息をついてからパスを開き、波長を合わせると、今度は声だけではなく姿まで目の前に現れた。……わざわざ映像まで送ってきやがった。

 

「どうした。忙しいんだが」

『ごめんなさいぃ! 連絡してくれたのが嬉しくて悪態ついちゃいましたあぁ!』

 

 うっすら透けた彼女の姿がおいおい泣きながらすがり付いてくる。映像なので感触はないはずだが、なぜかがっしり肩を掴まれているような気がした。

 取り敢えず話が進まないので、泣きじゃくる彼女を落ち着かせてから本題に入る。

 取り敢えず事情を説明すると、

 

『……ふーん。で、今何日目?』

「一週間経ったところだな」

『見せて貰うことは出来る?』

「あぁ。部屋を移動して繋ぎ直せるか?」

『貴方と私は完全にパスが通ってるのよ? 辿ってついてくから平気』

「……相変わらず器用だな」

『昔の貴方ほどじゃないけどねー』

 

 話しながら、部屋を移動する。

 シルクがいる部屋に入ると、彼女はまじまじと虹色の繭を見つめ始める。

 

「どうだ?」

『……七色とは驚いた。両親が蝶だから、蛹になるのは当然だけど』

「問題は?」

『無し無し。早けりゃあと二日もすれば出てくるわよ。あ、でも今のうちに貴方の魔力を送っておくのをオススメするわ。両親いないなら、貴方が親になるんだから』

「……そうか、良かった」

『それにしても、そっかー。まだ残ってたのね……。隔世遺伝、か』

「無事に出てきたらまた連絡する。一度はそっちに行かなければならないんだったな」

『単なる顔見せだけどねぇ。あの爺さん、新しい娘が産まれたとなるとじっとしてらんないから。ま、待ってるわ。ひとまず、じゃあね』

「あぁ、また」

 

 投げキッスをしてから、彼女の姿が掻き消える。変わらないな、と苦笑してから、そっと虹色の繭に両手を添えた。

 

 

 

 

 

 

 

 そして、ついにその日が来た。

 

「あ、主! 主ぃー!」

 

 まだ日が昇るか昇らないか、といった時間に、ルミナスの珍しく大きな声が家に響いた。

 いよいよか、と部屋を出ると、その瞬間に横から強烈なタックルが飛んでくる。当然避けきれる訳もなく、身体をくの字にしながら吹っ飛んだ。

 

「あ、主! 繭にヒビが! シルクが!」

「だ、大丈夫……羽化するだけだよ……」

「うかって何!?」

「シルクが出てくるの……」

「平気!?」

「シルクはね……」

 

 俺は全く大丈夫じゃないが。

 取り敢えずルミナスを落ち着かせてから、一緒にシルクの部屋へと走る。

 開けっぱなしの扉から部屋に入ると、そこには微かに歪み、亀裂の入った繭の姿があった。

 

 固まった糸が、解れていく。やがて、綺麗な円形だった繭が、次第に歪み始めた。

 最初に見えたのは、二つの隆起。それまで盾となりその身体を護っていた虹色の繭が、それまでの頑強さを無くし、柔らかな糸の束となり。それが、ほどけていく。パラパラと、艶やかだった糸が、役目を終えて。

 

 その中心に、羽根に包まれた少女がいた。

 膝を抱き、顔を埋め、その名の通り絹のような髪を持つ彼女は、顔を上げてうっすらと目を開く。

 

「シル、ク?」

 

 此方の服をぎゅっと握りしめていたルミナスが、不安そうに声を出した。

 それに答えたのは、自分ではない。であれば、返事をしたのは、声の出せなかった、目の前の彼女しか、有り得ない。

 

「おは、よう、ルミナス」

 

 朝日が昇る。窓を背にした彼女の、半透明な蝶の羽根。それは七色に輝いて――けれど何より、それよりも。

 

「どう、かな? 私、変じゃない?」

 

 初めて見せたその笑顔が何よりも輝いて見えたのは、きっと、気のせいではないのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「妖精、族?」

「あぁ。それがシルクの本当の種族だ」

 

 孵化したシルクに服を着せ、どうせだからと繭だった糸を三人で糸巻きに巻いて回収しながら、彼女のことを説明していく。

 

「でも、私の両親は……」

「あぁ、確かに蝶の虫人だったんだろう。……まぁ、この辺りはおいおい話していくよ。ちょっと難しい話になるからね」

 

 遥か昔に栄えた種族、妖精族。今では殆ど姿を見れなくなってしまった種族だが、希に虫人の中に妖精族の遺伝子を持つものが産まれる。それが隔世遺伝であり、シルクという存在である。

 正直この辺りは俺では説明しきれない。長という名のお爺ちゃんが丁寧に教えてくれるだろうから、余計な説明はしないでおく。俺の持つ知識は精々が伝承レベルの眉唾ものである。

 

「じゃあ、私は虫人じゃあ、ない?」

「そうなるわ。貴女は私と同じ妖精族。……ってやだ!

  綺麗な子じゃないの~……娘に欲しい~」

「えっ、誰!?」

 

 突然背後から聞こえた声に、シルクは咄嗟に俺の背中に隠れてしまう。呑気に振り返っていたルミナスとはえらい反応の違いである。種族的に彼女のほうが警戒心ありそうなものだが。

 ともかく、いきなり現れた彼女に文句のひとつでも言わなければ。

 

「いきなり来るなよ、王女様がポンポン外に出ていいのか」

「じい様に来られるのとどっちが良かった?」

「お前が来てくれて良かった」

 

 流石に王に出てこられたら色々と問題がある。いや王女でも問題はあるが。

 

「シルク。彼女は妖精族の王女だ。君は彼女についていって、妖精の国へと行かなければならない」

「え……」

「あそこには君と同じ妖精しかいない。君が今まで感じ、恐れていたようなことは有り得ない。きっと、平和に暮らせるはずだ」

 

 そこまで言って、何故かじとっと目の前にいる二人から睨まれていることに気づく。何だ、何かおかしなことを言っただろうか。

 

「主。わたしの時のこと、思い出す」

「言葉足らずは相変わらずか……」

 

 そんな二人の言葉に、あれ、と自分の発言を省みる。そしてちらりと振り返ると、なにやら瞳に涙を溜めているシルクの姿。その瞳は真っ青である。

 慌てて言葉を繋ごうとして、有難いことに王女様がフォローに入ってくれた。

 

「あのね。妖精は産まれたら一度国に来て王に会わなきゃならないの。それが終わったら晴れて自由、帰りたければ帰ったって構わないのよ。ねぇ」

「あ、あぁ、勿論。……ごめんよ、不安にさせちゃったかな。シルクがここを帰る家だって思ってくれるなら、そんなに嬉しいことはないよ」

「……ホントですかぁ?」

「本当、本当」

 

 必死に泣くのを堪えながら聞いてくる彼女の頭を撫でながら、罪悪感に苛まされる。俺は何をこんな良い子を泣かせているのか。

 ルミナスの時から何も成長していない。

 

「……じゃあ、帰ってきます。絶対、ここに帰ってきます」

「待ってるよ。……そうだな、約束しよう。帰って来た時には君の好きなものをご馳走するよ。何がいい?」

 

 ここでひとつ、彼女から我が儘を言ってもらいたい。そんな想いから、そう聞いた。

 今まではこんなことを聞いても、勿論喋れないのもあって答えてはくれなかったが。

 今なら、きっと。

 

 

「……じゃあ、蜜のジュースが飲みたい、です」

「わかった。約束だね。待ってるから、帰っておいで」

「――はい!」

 

 

 

 

 

 彼女は自分を蔑むのを止めた。

 自分の正体がわかったからでは、ない。確かに彼女の正体は美しい。今や誰もがそれを認めてくれる。

 しかし、彼女が自分を好きになれたのは、自分が妖精だったからではない。

 彼女を――自分を初めて認めてくれた人達の為に、彼女は自分を低く見るのを止めたのだ。

 

 彼女は今日も花のように笑う。

 シルクの髪を靡かせて、七色の羽を輝かせながら。

 



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渡り鳥は家をつくらない

気付いたら恐ろしく伸びてたのでお礼代わりに三本目投下。


「主。大丈夫?」

「酷い怪我ではあるけれど、きっと大丈夫。ほら、早く準備準備」

「わかった」

 

 不安そうに聞いてくる獣人の少女――ルミナスの頭を撫でて、その行動を促す。元気なくしおれかけていた耳は、改めて気合いを入れたらしい彼女に引っ張られてピンと天を突いた。パタパタと部屋から出ていく彼女を見送って、俺は目の前の存在――ベッドで苦しそうに呻いている翼を持つ少女に向き直る。

 身体の至るところに付いた傷。今も尚突き刺さったままの矢は、滑らかな肌を容赦なく食い破っている。

 

「誤射じゃないな」

 

 流れ弾に当たったにしては刺さった矢が多すぎる。まず間違いなく、飛んでいたところを狙い打たれたのだろう。

 少しどころじゃなく荒々しくなるが、先ずは矢から抜いていく。肉に食い込んだ矢尻には、恐らく返しがついているだろう。躊躇いなく引き抜いた矢の先を見て、予想通りの形に顔を歪めた。

 

「まぁ、雁股だよね」

 

 特徴的なその矢尻は、狩猟によく使われる形の横に広がる矢尻である。本来は内側に刃があるものだが、これは両側に刃が施されていた。

 

「魔力の痕跡も無し……。こういう原始的なのは、却って特定しづらいんだよな」

 

 ぼやきながら残る矢も引き抜いていく。五本の矢が地面に転がり、傷口のひとつから吹き出した血が顔に跳ねた。内臓まで傷付いている可能性が高い。迂闊に傷口だけを塞いでしまえば、ろくなことにはならないだろう。

 しかしそこは魔術の出番。かつては生傷絶えない、どころか洒落にならない怪我も数多く経験してきた。なので、単純な外傷に関しては最早お手の物である。

 ちょっとした事情があり、気軽に自分には使えなくなってしまったのが玉に傷か。

 

「血塗れ」

「おっと」

「平気。見慣れてる」

 

 いつの間にか戻ってきていたルミナスに濡れタオルを押し付けられ、それで自らの顔を拭う。結構スプラッタな光景でも怯まない辺り、その言葉に偽りは無いのだろう。彼女が奴隷として囚われていた組織、場所はかなりえげつないところであった。既に壊滅したらしい(・・・)ので、もう思い返すこともないが。

 

「……もう治した?」

「身体の方はね」

「わたしの時、すぐにやってくれなかった」

「あれは君が拒否してたから」

 

 治癒魔術自体の効力は高いとはいえ、それ専門のエキスパートではない。受ける側に拒否されると自分では満足に治療することが出来ない。だから不満そうにされても仕方ないのである。

 頬を膨らませながらも、彼女は血に濡れた翼の少女の身体を拭き始めた。その間に、此方は翼の治療に移る。

 翼の方は身体よりも損傷が酷い。此方には魔力の痕跡が残っているようだ。この風穴は魔力弾によるものか。解析し、覚えつつも治療をしていく。

 しかし、ここで俺は酷い頭痛に襲われた。魔力切れによる初期症状だ。全く不便な身体になったものである。

 

「ルー、ごめん」

「ん。呼んでくる」

 

 完全に治すには魔力が足りない。昔はこんなことに悩むことなんてなかったのだが。それこそ駆け出しの、単純に魔力量が少ない頃ならともかく、今は魔力量そのものは人より多い。なら何故こんなことになっているのかといえば――まぁ、そんなことは今はどうでもいいか。

 

「お父さん、呼びました?」

「シルク。ごめんよ、魔力が足りなくてね」

「そんな。役に立てるならいくらでも」

 

 彼女のお父さん呼びにも若干慣れてきてしまった――そんなことを思いながら、振り返って微笑みかける。

 まるで良いところのお嬢様のような佇まいでそこに立っている少女は、その七色に輝く蝶の羽を優しく羽ばたかせた。放たれる光の鱗粉は、魔力となって此方の身体に染み渡っていく。

 

「……うん。もういいよ、ありがとう」

「そうですか? まだ完全には」

「使いきれるくらいでいいのさ。余しても仕方がないから」

 

 治療に目処がつくくらいに回復したところでストップをかけると、シルクは何故か不満そうに羽を震わせる。パラパラと光の粒子が落ちて、その瞳は灰色よりも濃い色になっていた。不満の色である。

 

「シルク。主はシルクを気遣ってる。多分」

「……えぇ、きっと。だから不満なんだけど」

 

 はぁ、と頭を垂れてしまうシルクだったが。以前よりも遥かに感情豊かになってくれたことに喜んでしまうのは不謹慎だろうか。呆れられて喜ぶのも変な話だ。

 シルクは珍しい妖精族の少女である。その出生は蝶の虫人から産まれた隔世遺伝。身体に走る色鮮やかな模様はどの虫人にも例が無く、新種、または突然変異と見られて不気味に思われた両親に捨てられた少女。

 それから紆余曲折を経て今に至るわけだが、何をどう思ったか父としてこの自分を慕ってくれているようだ。

 

「……でも確かに、私の魔力量じゃお父さんを全快にするのは厳しいんだけど」

「わたしはその辺りわからない。そんなに?」

「率直に言えば、とんでもないと思うよ。でもそのぶん、疑問もあるんだけどね……」

「ま、色々あってね」

「私は役に立てるからいいんですけど」

 

 言いながら、また羽を震わせるシルク。もういいというのに。

 補充された魔力を使い、残された羽の怪我を治療していく。

 

「ちなみに。シルクのそれ、誰にでも出来る?」

「出来ると言えば、出来る。私の魔力は、この羽と同じでどの色にも変わるから、恐らくはどんな相手でも吸収した時点でその人の魔力に馴染むから。でも簡単には出来ないよ。これはお父さん相手だから、楽に出来ているだけで」

「つまり特別。羨ましい」

 

 まぁ、もっと言うなら繭の中にいた頃にシルクは俺の魔力を吸収していた訳で。多分そのお陰でその辺りは感覚的に楽なのだろう。

 ちなみに繭になった虫人に魔力を流して成長を促すあの行為は、普通ならば親がやるものである。虫人ではないとはいえ、同じ過程で産まれてきたシルクが自分を父と呼ぶのも、多分そこから来ているのだろう。

 

「よし、と。毒物反応も無いし、このまま安静にしていれば目を覚ますだろう」

「ん。じゃあ着替えさせる。主は回れ右」

「はいはい」

「シルクは手伝う」

「うん」

 

 女性陣二人に背中を押され、苦笑しながら部屋を後にする。どの道、一先ずのお世話は二人に任せるつもりであったし、こっちはこっちで彼女が何の種であるのかを調べなくてはならない。おおよそ予想はついているが、調べるに越したことはないだろう。

 少しだけ振り返り、二人の様子を閉められた扉の窓から伺う。その姿はまるで姉妹のようで、非常にほほえましいものだった。

 

 

 

 

 

 

 

「逃げた」

「らしいね。風通しが良くなった」

「そういう問題では……」

「この結果は予想してたしね。それが遅いか早いかの違いだけだったわけで」

 

 翌日。

 明朝にけたたましい音が響き、三人揃って彼女が寝ていた部屋に駆け付けたところ、待っていたのは破られた窓に散らばるガラス。そして数枚の羽がベッドの上に残されているだけ。

 元気になって逃げたのならばともかく、そうでも無いのに逃げたとしたら多少心配が残る。

 それにしても、逃げるのは想定内だったがなかなか荒々しい逃げ方を選んだものだ。

 

「知ってた?」

「知ってたというか……まぁ、普通は逃げるでしょ。ルーならちょっとわからない?」

「……言われてみれば」

 

 敵意丸出しだった頃のルミナスを思い返し、懐かしいものだとしみじみ頷いてみた。背中をポコスカ殴ってくるあたり、恥ずかしがっているのだろう。

 

「ルミナス、逃げようとしたことあるの?」

「……最初だけ。昔の話」

「そうなんだ。想像できないね」

「昔話は後にしよう。先ずは片付けないとね」

 

 風を起こし、散らばったガラスや木の破片を一ヶ所にまとめてしまう。一際軽い羽が舞い上がり、

 

「持っておくかい? 珍しいものだよ」

 

 ちょうど三枚あったので、ひとつは自分の手元に。残る二枚を二人の元へ飛ばす。

 それを受け取った二人は、互いの顔を見合わせた後に、取り敢えず懐へしまったようだ。

 

 案外、助けてくれたことへの恩返しだったりして。

 

 そんなことを思いながら、割れた窓の外。彼女が飛び立ったであろう空を眺めた。

 

 

 

 

 

 

「……うーん」

「なんだよ、浮かない顔してんな」

 

 とある受付の前。目の前にいる男にそんなことを言われてハッとする。

 話をしているところで他所に意識が向かっていたことにばつの悪さを覚えて謝罪すると、男は別に構わないと首を振った。

 

「お前が言ってたハンター組な。黒だった」

「そうか」

「違法狩猟に密売、裏の方への横流し。罪を上げれば枚挙に暇がない。情報提供感謝するよ」

「たまたま目につくところがあっただけさ。今の俺じゃ手に余りそうだったから、そっちに投げた。礼を言うのはこっちだ」

「よく言うぜ。その気になりゃあ組織のひとつぐらい潰せるだろうに」

「昔とは違うんだ。身の程を弁えてるだけさ」

 

 煙草の煙を燻らせながら言う男に、苦笑しながらそう返す。

 彼は此方のことをそう言うが、その言葉はそっくりそのまま返してやりたいところだ。

 自分よりも頭ひとつ大きな身体は、強靭な筋肉に覆われている。潜ってきた死線を物語る傷痕は痛々しいものではなく、却って彼の強さを裏付ける証拠になっていた。

 かつての仲間……いいや、今でも勿論仲間だが。頼れる前衛として誰よりも先陣を切っていた彼は、今では似合わぬ受付員とは。将来とはわからないものだ。

 なんて考えていたところで、背後から騒がしい音が響いてきた。どうやらいざこざが起きた様子。

 

「またかよ。全く冒険者って奴は血の気が多くていけねぇ」

「誰よりも血の気が多い奴がよく言うよ」

 

 振り返ると、二人の男が破壊されたテーブルのそばで掴み合い罵りあっていた。頭をがしがしと掻いた彼は、のっそりとした動きでカウンターから出ると、のしのしと二人に近付いていく。

 そして、その大きな身体から生まれる影に二人が呑み込まれ、同時に顔を上げようとした瞬間に――

 

「うぇっ……」

 

 岩石のような拳が、両者の頭に振り下ろされるのを見て思わず頭を抑えて苦い声を出してしまった。あの拳骨はとんでもなく痛い。どんなに頑丈なやつでも絶対に悶える。よく王女様と二人で地面を転がり回ったものである。

 懐かしい痛みを幻痛として思い出し、何故か口元が緩むのが自分でも可笑しくて。

 

「じゃ、俺は行くよ。頑張れ、ギルド職員さん」

「おぉ。たまには飲みに付き合えよ。昔を懐かしむには早い気もするが、思い出話も楽しいもんだ」

 

 拳から煙を上げる元伝説の傭兵は、あの頃よりも随分と柔らかく微笑むのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 それから更に数日。

 最近覚えて凝り始めたらしいルミナスが淹れてくれたお茶を飲みながら本を読んでいると、膝元の耳がピクピクと動いているのが目に入った。

 

「主。気付いてる?」

「うん。でもまぁ、気にすることは無いと思うよ」

「……もしかして、結構前から?」

「うん」

「……失態。今初めて気付いた」

「充分鋭いと思うけどね。多分、目に見える距離にはいないから」

 

 しょんぼりし始めた耳ごと頭を撫でる。元々感覚が優れている獣人の中でも、ルミナスは過ごしてきた環境のせいか一際警戒心が強い。なので、周囲の異常にはとりわけ敏感なのだ。

 そんな彼女は自分の言葉に顔を上げて首を傾げる。どうやら、遠方からの視線には気付いても、それが誰のものなのかまではわからないようだ。当たり前か。

 

「……危険じゃない?」

「きっとね」

「本当に?」

「本当に」

 

 仮に危険だったとしても。少なくとも、ルミナスとシルクは守る。口に出すと何となく膝元の彼女がむくれそうだったので言わないが……と、ちらりと本から膝元に視線を落とす。……既にむくれていた。何故か。

 

「私は、主のことを言ってる」

「えーっと……」

「主は私達を守ってくれる。それは嬉しい」

 

 起き上がり、此方に向き直る。その目はひどく真剣だ。

 

「でも、主が傷付いたら、私達も傷付く。もしかしたら、主よりももっと傷付く」

 

 ぽすりと彼女の頭が胸に当てられる。口調は淡白だが、籠められた気持ちは真っ直ぐだ。

 

「約束」

「ありがとう。ルミナスは優しいね」

「主のおかげ。……お茶、淹れなおしてくる」

 

 ぱっと離れたルミナスは、冷めたお茶を見てテーブルからカップを手に取った。そして、少し迷ってから残っていたお茶を自分で飲み干してしまう。

 

「飲んじゃうんだ」

「もったいない。お残しは罪」

 

 颯爽とさる後ろ姿。その尻尾はゆるやかに振られていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 徐々に近付いて来ている。間違いなく、視線の持ち主は接近を試み、実行に移して、そしてそれは成功している。

 これだけ聞くと多少恐ろしくも聞こえるが――

 

(あれでバレてないとでも思っているんだろうか)

 

 ぱっと振り返ってみる。

 ひとつの影が慌てたように一本の木の影に隠れてしまう、が。

 

(見えてる見えてる)

 

 完全にその翼が見えてしまっていた。

 先が黒く染まった、大きな翼。遠目に見る限り、後遺症も無く綺麗に完治しているようだ。

 気のせいか、と大袈裟に頭を掻いて前を向く。多分今頃はこっそり此方を窺っていることだろう。

 

 元々感じていた視線が、あの助けた少女――鳥人のものであることはわかっていた。敵意を感じるものではなかったので放置していると、段々と距離を縮めてきて。

 こうして、外出して一人になった時には完全にバレバレな尾行を行うようになったのだ。

 流石に家にいる時はかなり遠くから見るだけに留めているようで、ルミナスが辛うじて気付くか気付かないかのレベルに留まっているが……この様子だと近い内に接触してきそうである。

 まぁ、だからといってなんだという話だ。単に見られているだけなのでそもそも害は無い。精々が、気付いたルミナスがピリピリして自分の傍を離れなくなる程度である。

 シルクはその辺り全く気付いていないので終始リラックス状態である。たまにもう少し警戒心を持って欲しいと思うこともあるが、幸せそうに蜜ジュースを飲んでいる姿を見ると何も言えなくなるから卑怯である。せっかく七色の魔力を持っているのだから、少しでも自衛の術を教えておきたいのだが。

 

 と、考えを巡らせながら歩いていると。

 

「いやっ……な、なにこれ……!」

 

 振り返る。か細い声出したのは、当然ながら後ろをついて回っていた鳥人の少女だ。いつの間にかその身体には無数の細い糸が絡み付き、最早自由に動くことも困難になっているようだった。

 あれはアラクネの糸だ。どうやら俺を追おうとして空を飛び、アラクネの巣に引っ掛かったようである。

 

「なぁにぃ~? なんで鳥人が引っ掛かってるのよ~……」

 

 更にそこに巣の主人であろうアラクネ――蜘蛛の虫人が登場。どうやら巣に反応があったので見にきたようだが、予想外の獲物に困っている様子。

 此方の隣に並び、二人して囚われた少女を見上げてから顔を見合わせる。

 

「あれ、アンタの?」

「いや……まぁ、そうかな」

「ドジな鳥人もいるもんねぇ。あーはいはい暴れないの。今ほどいてあげるから」

 

 じたばたして更に巣に捕らわれていく少女を見てその多眼を細め、溜め息を付きながら糸をほどいていくアラクネ。数分で解放された少女は、涙目でこちらの背中に回り込んで、その大きな翼で自分を包み込んだ。……どうやら抱き着かれているようだが、見た目は此方が守られているようでどうにもしまらない。

 アラクネは大きく溜め息をついてからまとめてボール状になった糸を弄びながら、

 

「今の鳥人ってこんな低いとこ飛ぶの?」

「いや、彼女が特別なだけだと思うが」

「だよねぇ。まぁそんなことより……」

 

 アラクネは此方に歩みより、顔を覗き込んでくる。六つ目の全てがこちらに集中し、より強く翼に包まれた。暖かい。

 

「……恐がらないんだ」

「君は危険な種じゃないからね」

「確かに毒持ちじゃないけど、狂暴かもしれないのよ?」

「目の前で無抵抗の獲物を離しておいて言うことかい?」

「……それもそうか」

 

 ふぅん、と至近距離でまじまじと見詰められたまま会話をした後に、彼女は後ろに下がる。そしてそのまま背中を向けて。

 

「さーて、次はどこに巣を張ろうかなぁ」

 

 そのまま、伸びをしながらその場を去っていった。何だったのか、と考えようとして、背後で震えている存在を思い出す。

 ……取り敢えず、放っておく訳にもいかない。用事はあったが、一度帰ることにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

「何でずっと主を見てた」

「ひぅっ……」

「唸らない唸らない」

 

 ここ最近視線のせいでピリピリしていたルミナスが、その原因である少女に向かってぐるぐる唸る。そのせいで怯えた少女が自分の背中に隠れて密着。更にルミナスが獣に近付くという悪循環が発生。収拾がつかなくなる前にルミナスを落ち着かせることにする。女の子がしていい顔では無いぞ。

 

「あの、その、うぅ……」

「ゆっくりでいいから、話してくれないかな。大丈夫だから」

 

 ルミナスの頭を撫でながら、此方を包む翼をさすって語りかける。シルクはおろおろしながら部屋の天井を右往左往していた。

 しばらくして落ち着いてくれた少女の話を要約すると、このようなものだった。

 

「つまり、君の種族は飛べるようになると一人で世界を飛び回らなければならないけど」

「独り立ちしたその日に、運悪く撃たれた」

「それで長い時間飛べなくなってしまって、仕方なくこの辺をウロウロしてたけど、地上には敵が沢山で怖くて仕方がない」

「で、君を助けた俺をたまたま見付けて、取り敢えず様子を見ていた、と」

 

 三人で彼女の言葉を改めて口にして纏めたところで、三人揃って何だそういうことかと目を合わせた。

 彼女の種は所謂渡り鳥。一定期間ごとに移動を続けて生きていくタイプの鳥人だ。長い期間同じ場所に留まり続けると体調が悪くなるらしいが、それが何故かは解明されていない。一説によると魔力循環機能にそれの原因があるらしいが、おおよそ一日とそこに留まることが出来ない、ある種少し忙しい種族である。

 翼と同じく、白く、しかし毛先が黒く染まった髪の向こうで、瞳が不安に揺れている。

 そんな彼女にルミナスが近付いていく。怯えて後退る前に、ルミナスの手が彼女の頭に触れた。

 

「それなら、ここを止まり木にすればいい」

「え……」

「家は基本的に安全。話通りなら、日中ぐらいは飛んでられる」

「は、はい。本当は三日くらいなら飛んでられるんですけど……」

「なら、夜中だけでも帰って来てここで休む」

 

 いいよね? とルミナスが視線で聞いてきたので、勿論と頷き返す。

 

「そうやって、また元通り飛べるようになったら、改めてここから飛び立てばいい。大丈夫。多分直ぐにそうなる」

「……いいんですか?」

「というか、そうして欲しくて主を見てた。なら遠慮せずに受け入れる」

 

 何やら有無を言わせぬ口調で少女に言うルミナスの言葉に、どうやら少女は頷くしか無かったようだ。

 元々、倒れ伏していた彼女を拾ってきたのはルミナスである。きっと、責任のようなものも感じているのだろう。

 

 

 

 

 

 

 こうしてまた、家に出入りする亜人が増えた。

 あれからしばらく経つが思ったよりも順調なようで、今では数日に一度程休みに来るほどで済んでいる。夜中に帰って来て此方の布団に入って休むのがお気に入りのようだ。

 きっとそのうち、彼女も世界中を飛び回るようになるだろう。たまに、少し疲れた時にでもここにきて休んでくれたのなら、俺としては満足である。

 

 あ、因みに。

 

 

「お借りしてるわよ」

「……いや、まぁ構わないが」

 

 いつの間にかあのアラクネも庭に巣を張っていたのは余談である。別に邪魔にもならないのでいいのだが……。




沢山の感想と評価に感謝を。


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蜘蛛の目は何を見るか

四本目。皆様の感想のおかげで書けてます。


「お、お父さん! 庭に、庭にぃ!」

「ん」

 

 とある昼下がり。部屋のベッドで寝転んで微睡んでいると、何やら慌てた様子のシルクの声が聞こえてきた。目を開くと、丁度シルクが空中からふわりと身体の上に着地するところだった。

 身体を起こして抱き止めると、シルクは何やらあわあわとしながら窓の外を指差している。目まぐるしく変わる瞳の色から、どうやら相当混乱というか、興奮というか、とにかく気が昂っているようだ。

 わかったわかったとその名を現すような髪を撫で、窓の外へと目を向ける。何か彼女が怖がるようなものがあっただろうか、とぼんやり眺め。

 

「……あぁ、そういえばそうか」

 

 二本の木の間で何やらハンモックらしき糸に揺られるアラクネの姿を見て、納得する。此方の視線に気付いたらしい彼女は、ひらひらとその手を振っていた。

 

 

 

 

 

 

「ハーイ。何か用?」

「いいや、特に俺は何も無いんだが」

「アラクネ……蜘蛛……天敵……」

「――あぁ、そゆこと」

 

 自分の背後で震えているシルクを見て、その複眼を細めたアラクネの女性――リリアナは、丸い糸の塊から何かを啜りながら笑う。大きさはおおよそ人の頭程度だ。

 

「確かにアタシ達蜘蛛は何だって食べるけどねぇ」

「……因みにそれは?」

「お化けリンゴだけど?」

「何故わざわざ糸を巻くんだ……」

「習性よ。別にからかおうとしてるわけじゃないのよ?」

 

 少しいたずらっぽい笑みで、長い舌で唇を舐めるリリアナ。

 因みにお化けリンゴとは、単に巨大なだけのリンゴだ。ひとつの果樹に一個しか実らないリッチな果物だが、ある程度のところで収穫してやらないと果樹の方が枯れてしまうという手加減を知らないリンゴである。そこまで育てたお化けリンゴは王様リンゴに名前が変わり、目出度い日に振る舞われる名物果物となる。

 

 ……まぁそんなことはどうでもいいのだ。

 

 チロチロと糸の下にいるであろう果実を舌で弄びながら、ニコニコと言うにはちょっぴり邪悪な笑顔を見せるリリアナ。この手の笑顔は知っている。自分の行動が他人にどう影響するかを知った上でからかいにくる存在は良く知っている。

 その存在――仲間の治癒魔術のエキスパートであった彼……と言えばいいのか、彼女と言えばいいのか。その小悪魔な笑みを思い出して頭を抱えた。

 

「そもそも、人なんて補食してたら討伐対象でしょう? 何でも食べれるからって、悪食なわけじゃないの」

「だ、そうだけど」

「す、すいません……頭じゃわかってても、身体が」

「それこそ仕方無いじゃない? 本能はわかっていても変えられない。……貴方達人間くらいよ、天敵への恐れが無いのはね」

 

 怖がらせてごめんなさいね、とハンモックから降りた彼女は、その糸で出来たハンモックを回収すると、此方に向き直る。

 

「……とはいえ、見る度に怖がられるのもアレだし。要するにこの見た目が悪いわけよね」

「いや、そのぅ……」

「遠慮しなくていいわよ。他の亜人や人間からどう見られてるかなんて知ってるし」

 

 腕を組んで溜め息をつくリリアナ。

 彼女はルミナスやシルクと違い、身体の節々に蜘蛛のパーツが多く見られる。

 そもそも下半身は完全に蜘蛛そのものであるし、複数の目や鋭く尖る牙などの特徴から見る者の恐怖を煽ることが多いのだろう。彼女に限らず、アラクネは皆似たり寄ったりの悩みがありそうだ。

 

 が、目の前の彼女は一味違ったようだ。

 

「仕方無い。少し窮屈だけど」

 

 溜め息をついたリリアナは、一瞬だけ六つの瞳を妖しく光らせた。途端に顔を出した魔力の気配に何をするのか理解して、へぇと短く声を出す。瞬間に、彼女の身体が糸に包まれた。

 

「……こんなものか。どう?」

「驚いた。ただのアラクネじゃなかったのか」

「あら、それは少し無用心じゃない?」

 

 瞬きをした瞬間に、身体を包んでいた糸が消える。そこに立っていたのは、どこからどう見ても妙齢の女性であった。長い手足にメリハリのついた身体。真っ赤であった瞳も人間のものに変わり、銀にも思える細い髪が風に靡いている。

 

「アタシの遠いご先祖様がサキュバスだったらしくてね。隔世遺伝、とか言ったっけ?」

「……そんなポンポンいるようなものでも無いんだがな」

「類は共を呼ぶって言うじゃない?」

「返す言葉もないな」

 

 ケラケラ笑うリリアナ。何となく、アラクネにしては魔力の流れがおかしいとは思っていたが、まさかサキュバスの隔世遺伝……この場合は先祖返りとでも呼ぶのか。とにかく、サキュバス自体がこちらでは目にする機会の無い存在である。珍しいこともあったものだ。

 

「……というか、普通もっと警戒するものじゃない? サキュバスよ? 魔族よ? その気になればおかしなことだって出来る程度には力もあるんだけど」

「そう言う奴は大抵実行に移さないものだ。それに、何かするなら既に事を起こしてるはずだが」

「……そ。ま、今はそういうことにしといてあげる」

 

 どこか妖艶さを振り撒きながら、リリアナは言う。……どうやら、言葉の裏に隠された考えを見透かされたようである。一瞬だけ昔の感覚を思い出し、頭が切り替わりそうになって――止めた。

 そんな自分の様子を興味深そうに観察していたらしいリリアナも、不意に視線をその背後にあるシルクへと向ける。

 

「どう? これならいくらかマシでしょう?」

「……はい。ですが、ちょっと別な意味で……」

「この姿だと魔族寄りになるからかしら。妖精族とは相性悪いわよねぇ……流石に勘弁してもらうしか」

「いいえ。むしろ私のせいで無理をさせてしまって……」

「無理って程じゃないから平気よ。街に入る時とかはこの姿じゃなきゃいけないし」

「だからです。……自分の正体が受け入れられない辛さは、私も知っていますから。それを貴方にさせてしまうのは、とても……心が苦しいです」

 

 酷く申し訳なさそうに俯くシルクに、リリアナはキョトンとした顔をする。しかし直ぐに眉尻を下げて、ポンポンと彼女の頭を撫でた。

 

「どうしようもない良い子ちゃんねぇ。でもありがと。本当にアタシは平気だから」

「……でも」

「いいのよ。そもそも、アタシは自分の身体に何一つ不満は無いの。恐れるのも怖がるのも、他所で好き勝手言えばいい。他人の評価なんてくそくらえってね」

 

 最後に多少乱暴にぐしゃぐしゃと強く撫でてから、リリアナは背中を向けて歩き出す。シルクは、その背中に視線を向けたまま呆気に取られているようだ。

 自分を受け入れられなかった彼女には、ある種真逆とも言える彼女の言葉と生きざまが衝撃的だったのかも知れない。

 と、そこでぐいと右腕が前方に引っ張られる。見れば、いつの間にかそこには糸が絡み付いており。その糸はリリアナの手へと繋がっている。

 

「付き合いなさい。せっかくこの姿になったんだから、ちょっと買い物したいの」

「……はぁ。わかったから引っ張るな。シルク、ルミナスに少し出てくると言っておいてくれるかい?」

「は、はい。いってらっしゃい」

「うん。行ってきます……だから引っ張るなと言うのに」

 

 ぐいぐい引っ張られるままに、なんとかシルクに言伝てを頼んでから歩き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「で? 買い物は口実なんだろう?」

「え?」

「ん?」

 

 家から大分離れたところで此方から切り出すと、キョトンとした顔でリリアナが見返してきた。あれ、何か話があるから連れ出したのだと思っていたのだが。

 

「んー……そうねぇ。聞きたいことは沢山あるけど、別にいいかな。代わりに貴方の質問には答えてあげるわよ。警戒されっぱなしは疲れるから」

「警戒、とまではいかないんだが……」

「あはは。これでもそれなりに場数は踏んできたの。貴方には及ばなくてもそれくらいはわかるわよ」

 

 ケタケタ笑う彼女。

 

「貴方がアタシをあそこにいるのを良しとするなら、それはその気になればいつでもアタシを排除出来るから。違う?」

「……腹芸は無駄か」

「そうそう。別に生娘でもあるまいし、そうそう傷付いたりしないから」

 

 だから思ってること言っちゃいなさいよ、と軽くリリアナは言う。軽く息を吐いてから、そうさせてもらおうかと口を開いた。

 

「最初に言わせて貰うと、別に俺は君を危険だとか考えている訳じゃない。じゃなきゃ、庭に巣なんて作らせないし」

「そこが不思議なのよねぇ。あ、やっぱりアタシからも質問していい?」

「どうぞお好きに」

 

 てくてくと歩きながら言葉を交わす。

 ……なんだか新鮮な気分だ。ある意味、等身大の自分で喋れているからかも知れない。そう考えると、家にいるメンバーの中ではリリアナは貴重な存在なのかも。

 そんなことを考えながら彼女の横顔を眺めていると、彼女は恐らく、わざと目だけをアラクネのものに戻した。赤い六つ目がこちらを見つめてくる。

 

「普通に考えて、アラクネはともかく、サキュバスって魔族よ? 正体を明かした今、充分にアタシは危険な存在だと思うんだけど」

「俺はそもそも種族でモノを考えない事にしてるんだ。過去にそれで痛い目も見てきたから」

 

 味方だと思っていた人間に背中から切られ、敵だと考えていた魔族に助けられ命を繋いだ。他にも似たようなことは沢山あった。なればこそ、種族というくくりでモノを考えるのは迂闊だろう。善も悪も全ては個人の抱えるもの。自分以外は全て敵になり得る存在であり、良き隣人となる可能性も秘めている。

 

「そのおかしな(まじな)いも、痛い目にあった結果?」

「さて、どうだったかな」

 

 あえて否定はせず、適当にはぐらかす。やはり魔族にははっきりわかってしまうらしい。当然か、これは彼女と同じ、魔族から受けたものである。他の魔族には強く香る(・・)ようにしたと言っていたし。

 

「ふうん……。今の人間ってそういうもの?」

「いいや。昔程じゃないとはいえ、今でも魔族に対する人間の見方は厳しいだろう。俺みたいな奴は少数派さ」

「でしょうね。はーぁ、アラクネってだけでおかしな目で見られるのに。生きづらいったらないわねぇ。あ、街の近くまで脚だけでも出していいかしら」

「どうぞお好きに。やっぱり辛いものなのか」

「感覚で言えば、身体の中に押し込んでるようなものだから……まぁ、やっぱり窮屈よね」

 

 言いながら、背中の辺りから八本の脚を解放するリリアナ。調子を確かめるように身体の前でその尖った先を擦り合わせる彼女は、ひとつ大きく伸びをした。同時に脚も全て伸びている。長い脚が伸ばされることで、まるで鳥が翼を広げたように彼女の存在が大きく感じられる。

 

「その状態だと背中から出るんだな」

「背中というか、脇腹ね。場所的にここしか出すところ無いし」

「別の場所からでも出せるのか?」

「多少の調整は出来るけど、全く別の場所は無理よ。糸も出せないし、不便なのよねぇ」

「サキュバスとしての力は使えるんだろう?」

「別にあれはアラクネの格好してたって関係無いし。そもそも夢の中なら勝手に格好変わるしね。リリムの連中なら魔眼だとかその辺の魅了魔術も使えるらしいけど、アタシが使えるのは精々が人に近付く為にこうして身体を変えるくらい。あ、因みにこの身体、アンタの好みで出来てるからね」

「わかってるから持ち上げるな」

「今度夢に出てあげようか? アンタの精、極上の気配がぷんぷんするのよねぇ。正直興味津々」

「……頼むから、あの子達の前でそんな話してくれるなよ」

 

 頭を抱える俺に、またケラケラと笑うリリアナ。

 全く、色々ととんでもない存在が家に住み着いたものである。

 

 

 

 

 

 

 その後、特に他愛のない会話をしながら何事もなく街に到着した自分達は、取り敢えずリリアナの言うままに買い物を始めた。

 

「取り敢えず果物よね」

「俺もいくつか買っていくか……えーっと」

「あら、果物好きなの?」

「俺と言うより、シルクがな」

「あー……って、そんなに買って保存は効くのかしら」

「生活魔術は一通り覚えてるからな。保存に関しては問題ないぞ」

「良いこと聞いた」

「……持ち帰れる量にしろよ」

「帰りは持ってあげるわよ」

 

 先ずは食料関係。

 どうやら基本的にリリアナは果物を好むらしく、楽しそうにぽいぽい籠に品物を放り込んでいく。何でも溶かす手間が少なくて食べるのに楽なんだとか。

 じゃあ普段から果物ばかりなのか、と聞かれればそうでもなく、巣にかかったモンスターも見えないところで普通に食べているとのこと。道理で彼女が来てから家周りが静かだと思った。

 

「別に見られたからってどうってことないけど。結構ショッキングな絵になるらしいのよねぇ」

「あの子達に配慮してくれているんだろう?」

「ま、勝手に住み着いてる訳だし。……何、止めてよその生暖かい目」

「いや、良い隣人が来てくれたものだと」

「……ふふ。アンタくらいよ、そんなこと言うの」

 

 一瞬だけポカンとした後に、口元に手を当てて笑うリリアナ。ほのかに上機嫌になったらしい彼女は、会計を終えて此方に荷物を押し付けると、腕に絡み付いてきた。

 

「ね、どうせだから街中回りましょうよ」

「構わないが、どうして?」

「一人だと行く先々で声かけられて面倒でね。あんまりゆっくり回ったこと無かったの。ねぇ、いいでしょ?」

「エスコートに自信は無いが……まぁいいか。随分機嫌が良いな」

「だとしたら、アンタのせいね」

 

 せい、とはこれいかに。

 まぁ、目に見えて上機嫌になっていく彼女に水を差す真似はしたくないので、ここは言うとおりにしておこうか。

 ……色々と知り合いからちょっかいを出されそうだが――まぁ、そうそう会うことも無いだろうし。

 

 

 

 

 

 

 

 ――なんて考えていた十分前の自分に、その見通しの甘さをどうにかしろと説教してやりたい。

 

「新しい女が増えてる!! 離れなさいよー! この……えっと……うぅん? な、なんだか凄いのね、貴女」

 

 本来こんな場所に出てくるはずのない妖精国の王女様が、目の前で一人で騒いだ後に混乱している。こっちはお前がここにいることに混乱したいところだが、元々神出鬼没なのでどこに居ようが納得出来てしまうのが悲しいところ。明日には魔族の領域にいても何ら不思議ではないのが彼女の恐ろしいところである。

 

「あら、昔の女?」

「過去の女扱いするなっ! 現役ですー! 向こう三百年は現役ですぅー!」

「普通の人間はそんなに生きねぇよ。こっちが引退してるわ」

「……普通の人間のつもりなの?」

「急に素に戻るんじゃない」

 

 確かにちょっと普通とは言えないが、こんな大通りのど真ん中でそれを認めたら注目されるだろうに。いやもう充分に注目はされているんだが。

 とにかく、急に現れた王女様の腕を掴む。引っ張って、とある建物に向かうことにする。

 

「わぉ。両手に花ね」

 

 頼むから今は黙ってて欲しい。

 

 リリアナと王女様が言い争うのを全力で聞き流しながら、肩で扉を押し開けて中に突入。

 当然こんな状況なので、注目はされてしまう訳だが。

 

「……なんだか懐かしく感じるのは俺だけか?」

「全く以て同意だが、一先ず部屋を貸してくれ」

 

 筋骨隆々の大男が、苦笑しながらカウンターの下にあるらしいひとつの鍵を投げて寄越してきた。

 

 

 

 

 

 

「で、何で此処にいるんだ?」

「居ちゃ悪い?」

「今更お前がどこにいようが驚きはしないが、暇だからって理由で国を留守にするのはよろしくないな」

「だいじょーぶよ。王女は私一人じゃないし、弟もいるし」

「第一王女がそんなんでいいのか」

「むしろ、第一王女がそんなんでも大丈夫なくらい平和ってことよ。そもそも国政とか頭痛くなるし……戦乙女としての出番も無いし」

 

 苦い顔をしながら肘を立てる王女様。

 まぁ、生来のものとして考えるよりも先に行動を起こすタイプの彼女だ。複雑な魔術式や古代妖精語の解読、複数術式に必要な並列思考等、その辺りの知識や技術は群を抜いている癖に、その頭の良さが他には生かされないのが彼女である。今もカウンターで他の冒険者を威圧しているであろう彼の方がよっぽど知略に向いていた。

 今では自分と共に世界を渡り歩いた経験から、王女でありながら妖精国の有事の際に動く戦乙女の一員にもなっている。尚更国の外に出るなと自分は言いたいが、彼女の言葉通り平和だからこそ今のように好きにしているのだろう。彼女が国から出なくなることそれ即ち、妖精国はのっぴきならない状況ということになるのだから。

 そんな自分の葛藤じみた何かをさっくり無視した彼女は、ひとつ咳払いをした。どうやら空気を変えて、話題も変えたいらしい。

 

「で、貴女だけど。一応魔族……になるのよね」

「一応隠してたつもりだけど、やっぱり妖精族にはわかっちゃうか。初めまして王女様」

「堅苦しいのは遠慮するわよ。そもそもそんな柄じゃ無いしね」

 

 ひらひらと手を振る王女様。その雰囲気が仄かに固く感じるのは、きっと気のせいではない。

 それをリリアナも感じているのか、ほんの少しだが、座ったまま前に重心を置いた。それを見て、警戒されたとみた王女様が再度手を振る。

 

「そんな警戒しなくていいわよ。確かに私達妖精族と魔族は相性悪いけど、それは単に魔力の波長が壊滅的に合ってないだけだから、精神的に反りが合わないとかじゃないし」

「……そうなの?」

「それも妖精側だけが感じるものでね。実際、魔族側で妖精族そのものが嫌いな奴とかいなかったし。ねぇ?」

 

 不意に振られて、しかし直ぐに頷き返す。

 基本的に魔族というものは来るもの拒まず去るもの追わず、という種族である。良くも悪くも向けられた感情に素直に向かうので、好意を向けられれば友好的であるし、敵意を向けられれば容赦なく殲滅してくるのが魔族という存在なのだ。

 彼等に種族間での特別な感情は無い。俺が心掛けている種族の無差別、それを魔族は地で行っている。

 

「でも、警戒そのものは間違ってない。最近こっちの地方で過激派の神官がでばって来てるから、そっちには警戒しておいた方が良いわ」

 

 たまたまだったけど、会えて正解だったわね、と彼女は微笑む。微笑みかけられた当のリリアナは、困惑したように此方に視線を向けてきた。

 ふむ。出会った時もそうだったが、どうやら彼女は人に気遣われるという行為にあまり慣れていないらしい。自分と出会うまでどう過ごしてきたのかわからないが、少しだけ予想がついた。

 次いで、貴方も他人事じゃないからね、とテーブルを越えて胸に指を当てられる。

 

「疑われたら素直に(のろ)いだって答えること。で、解呪しようとしてきたら素直に一度受けること。どうせ絶対出来やしないんだから、変に固辞するんじゃないわよ」

「忠告どうも。ついでに、街を出るまでついてきてくれたら安心なんだが」

「言われなくてもついてくわよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、無事に街を出て暫く歩いた後に、右隣を歩くリリアナへと声をかける。

 

「もういいんじゃないか?」

「え、あぁ……そうね」

 

 ここにきて、初めて彼女は歯切れの悪い様子を見せた。

 どうしたのか、と聞く前に、逆側にいた王女様がひょいと顔を出す。

 

「何?」

「あぁ、リリアナは」

「言わなくても見ればわかるわよ」

 

 妙に冷めた声が聞こえてきて、そちらを見たときにはすでにリリアナの身体は糸に包まれていた。数秒でそのシルエットが大きく形を変えていき、まるで卵から孵化するように、アラクネの姿となったリリアナが現れる。

 体高が上がったことで此方を見下ろす形となった彼女は、何故か此方を見ようとはしなかった。

 が、

 

「成る程ー。アラクネとの混血だったか。道理で魔力の流れがおかしいと思った」

 

 いつかの自分と同じような感想を呟きながら、スタスタと近付いてその脚を指先で弾く。硬質な音が響き、おぉーとどこか間の抜けた声をあげる王女様に、リリアナはまたしても困惑していた。

 

「……驚かないのね」

「ん? ……あー、さっきから妙だと思ってたけど、そんなこと気にしてたの。別に恥ずかしがること無いじゃない、こんなにキレイなのに」

「い、いや。別に恥ずかしいとかじゃなかったんだけど」

「だったら、怖がらせるとか思ってた? は、ちゃんちゃらおかしいわね」

 

 はん、と鼻で笑う王女様に、此方は此方で苦笑する。確かに、彼女からしてみれば、リリアナの気にしていたことは些末なことでしか無いだろう。

 何せ――

 

「ねぇ、純血の妖精族が本気で戦うところ、見たことあるかしら」

「……いいえ」

「でしょうね。知ってたら、貴女よりも遥かに化物の私が(・・・・・・・・・・・・・)貴女のこの姿を見て怖がるなんてこと思うわけ無いもの」

「……何を、言っているの?」

 

 訳がわからない、とリリアナは今までとは違う意味で困惑する。まぁ、確かにいきなりそんなことを言われても意味がわからないだろう。

 しかし、長年彼女と共に戦ってきた自分には、その言葉が何一つ偽りの無い真実だということが理解出来る。

 深くは語らないが……俺がこの世界で何よりも敵に回したくないのは、目の前にいる王女様のような、純血の妖精族である。

 

「とにかく、私の前では楽な姿でいればいいのよ。文句言うやつがいたら私がぶっ飛ばしてやるわ」

 

 何故か俺を見て拳を握り締める王女様。俺が言って姿を変えさせたとでも思ってんのか。

 心外にも程があるぞと睨み付けると、王女様はビクッと身体を震わせてリリアナの脚にしがみついた、ところで。

 

「――っは、アハハハハハッ! 何よアンタ、本当に王女様? し、信じられないわ、アハハハハッ」

 

 ケラケラと、リリアナは今までで一番大きく、そして腹の底から笑い出した。おかしくてたまらない、と声を抑えることもなく大声で笑っている。

 

「な、何よっ! 正真正銘の王女様ですけどー! 証拠のネックレスでも、なんだったらじい様の王冠でも持ってきて見せましょうか!」

「止めろ」

 

 身分証明の為だけに国を大混乱に陥れようとするな。

 

 リリアナは王女様がキャーキャー言っている間に、ようやく落ち着いてきたらしく、息を乱しながらも溢れた涙を服で拭う。たっぷり数十秒の大爆笑だった。

 

「わかったわかった。じゃあ、ぶっ飛ばしてもらうことにするわ。……出来るものなら」

「……え、何か不安なんですけれど」

「ほら、アンタも荷物よこしなさい。さっさと帰るわよ」

 

 リリアナはそう言うと、此方の手にある大量の袋をひったくると、脚に抱き付いたままの王女様を連れて先に進み始めた。

 気付けば、空が少し赤く染まりはじめている。……なんだか色々と濃い一日だったが、悪くない時間だった。

 いつか、機会があれば仲間全員とリリアナを会わせてみたい。心を許せる仲間がいるというのは、とても素晴らしいものだから。

 

 

 

 

 

 

 余談だが。

 

「ほら、ぶっ飛ばしてみなさいよ」

「シルクちゃんにそんなこと出来るわけ無いじゃないのぉー!」

 

 ニヤニヤとするリリアナに、少女の前で膝から崩れ落ちる王女様。それを前にして、どうしたらいいかわからずおろおろとするシルクが、家の前でそんなやり取りを繰り広げていた。

 何をしているのか、と溜め息をついたところに、ルミナスが嬉しそうに此方に駆け寄ってくる。

 

「主、おかえりなさい」

「ただいま、ルー。お土産買ってきたよ」

「流石、主。さ、家に入る」

 

 手を伸ばされ、それを掴む。互いに顔を見合わせてから、連れ添って玄関をくぐる俺達だった。



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魔は悪となり得るか 始

「……あら」

 

 夜明け前。

 とある事をする為に家を出ると、小さく声が聞こえてくる。目をやると、相変わらず蜘蛛の糸で出来たハンモックに揺られている女性の姿があった。

 

「リリアナ。まだ起きてたのか」

「月が満ちてきたでしょう。こうなると夜の方が居心地がいいの」

 

 今はアラクネの姿でぐでっとした姿を見せる彼女だが、その半分は魔人であるサキュバスである。夢魔が人々の眠る夜に活動するのはわかるが、その割に堕落しているように見えるのは気のせいか。いや活動的なのも少し困るのだが。

 

「で、どうしたの? そんな物騒なモノ持ってきて」

「……月が満ちてきただろう? 必要になるかもしれないからな」

「あぁ、スタンピード」

「そういうこと」

 

 昔幾度となく世話になった武器を携えた俺は、少々憂鬱になりながら空を仰ぐ。そこにはうっすらと赤く染まった月が七分程で浮かんでいた。

 三ヶ月に一度程、普段は青い月が赤く染まり上がる。赤い月の満月はモンスターの活動が活発になり、スタンピードという魔物の大進行が起きることがあるのだ。

 前の赤い月も、その前の赤い月もスタンピードは起きなかった。ならばそろそろ動きがあってもおかしくはない。

 

「でも、別に貴方が出なくてもいいんじゃない? 他にいくらでも腕利きがいるでしょうに」

「勿論、今の俺よりも現役の連中に声がかかるだろうけど」

 

 腰に下げた数本の投げナイフ。それを抜き取り、リリアナがハンモックをかける片方の木に投げて、また投げて、もうひとつ投げて。

 狙ったところに寸分違わず――とはいかないまでも、全て同じようなところに突き刺さったナイフを見て、まぁこんなものかと残ったナイフを手で弄ぶ。

 

「そんなの意味ある?」

「実際に使うときはちゃんと術式でも込めるさ」

 

 わかりやすく破壊力のある爆発の術式でも込めておけば、それなりの攻撃手段にはなるだろう。今から仕込んでおけばそれなりの数は作れる。出費は嵩むが、五十本以上仕込めば足りないことは無いだろう。

 昔のように前衛で暴れることが出来ない以上、やれることは後衛からの援護や支援になる。混戦になるであろうことから、適当にやっていては味方の背中を切ることになるが――まぁ、そこまで腑抜けているわけでもない。弁えてやれることをやれば、そう酷いことにはならないだろう。

 

「そっちは試さないの?」

「今の俺にはちょっと使いきれないんだ。曰く付きの業物でね」

 

 腰に下げた鞘付きの剣――正しい名は刀――を撫でる。持ち主の魔力を常時吸い上げ、切れ味を保ち続ける術式が付いている。そこまでならまぁ、珍しいものでも無いのだが。

 リリアナが地面に降りてきて、まじまじと刀を見つめてくる。やがて、その異様さに気付いたのか、うぇっと小さく声を上げた。

 

「呆れた。呪われた人間が呪われた武器を持ってるなんて」

「自分でもそう思うよ」

「……もう。少しぐらい怒ってみなさいよ。失礼なこと言ってる自覚はあるんだから。これじゃただの嫌な奴じゃない」

 

 ばつが悪そうに顔をしかめるリリアナに苦笑を返し、刀を鞘から抜き放つ。

 月明かりに照らされた刀は、赤く妖しく光を放つ。いかにも妖刀といった雰囲気だが、別に特に危険なものという訳ではない。

 実は、この身に宿す呪いと、この刀にかけられた呪い。かけた人物は同一人物となる。

 元はこの刀もただの刀――業物なので、その時点でとても良い代物ではあるが――であり、それこそ肌身離さず旅を共にしてきた相棒である。が、その人物によって、この身体共々色々と手を加えられた結果。

 

「貴方、よく貧血にならないわね」

「そこまでわかるのか。詳しいな」

「そんな隠すつもりも無い呪い、ちょっと見ればわかるわよ」

 

 あまり近付けないで、と手を払うリリアナ。

 そう。この刀は――端的に言うと、俺の血を吸う。

 詳しく言うならば、この刀は俺の血を吸うことで初めて刃物としての能力を発揮する。吸えば吸うほど切れ味が増すわかりやすい性質だが、当然ながら調子に乗れば貧血で倒れることになる。

 勿論、勝手に持っていかれる訳ではない。どの程度吸わせるかは此方の意志次第であるし、余程でなければ身体に障らない程度の量で充分以前の切れ味を取り戻す。

 使わない時は定期的に血を吸わせる必要があるが、それも数滴指先から垂らすだけで事足りる。

 もし俺の身体が昔のままだったならば、思う存分こいつを振るうことが出来ただろう。しかし悲しいかな、血に問題が無いとしても、魔力の問題が残るのだ。

 

「ま、いざという時の手段だな。積極的に使うつもりはない」

「使わない、とは言わないのね」

「使えない物は持っていかないさ。そうでなきゃただの重りになる」

 

 実際、最終手段のつもりで持つ手札は切るタイミングに迷いが出てしまう。使いたくないものなら尚更だ。使わずに終わる手札は意味が無い。勝てばいいが、負ければただの無駄骨で終わるのだから。

 

「……まぁ、無茶はしないことね。貴方が只者じゃないのはわかるけど」

「弁えてるよ。無理だと思ったら尻尾巻いて逃げるさ」

「カッコ悪く?」

「あぁ、無様に背中を向けてでも」

 

 言い合って、互いに笑い合う。彼女はきっと、本当に俺が逃げ帰って来たとしても、今と同じように笑うのだろう。それが、何やらとてもありがたく感じた。

 

 

 

 

 

 

「悪いな。本当なら声を掛けるつもりはなかったんだが」

「そのつもりで準備してたんだ。構わないさ」

「面目ねぇ。俺も気張るからよ」

 

 それから数日経ち、予想通りにギルドから呼び出しを受けた俺は、申し訳なさそうに頭を掻く男に軽く手を振った。

 スタンピードはその規模の大小に差はあれど、基本的には無視できない災害の一種である。仮にその進行上に国や街が無かったとしても、いずれは進行している魔物同士で食い合いが始まる。それを放置してしまうと、残った魔物が変異して手が付けられなくなる可能性だってあるのだ。どの道、スタンピードは確実に制圧しなければならない。

 そんな状況で、ある程度名が売れてしまった自分が呼ばれない訳が無い。それは、目の前にいる大男もまた同じだった。

 

「こういう時に限ってバカ王女は姿見せねぇしよ」

「そう言うな。居たら俺だって手伝わせるが、いないなら無理に引っ張ることもない」

「ちょっと前に街中歩いてたじゃねえか」

「まあな」

 

 彼の言い分もわからなくもないが、あれで一応正真正銘の王女様である。もしかすると国に戻っているのかもしれないし、下手にこういう事に首を突っ込めない事情があってもおかしくはない。……もしくは、単に面倒で姿をくらましている可能性もあるが。

 まぁ、どの理由にしろ、無理に参加させる必要も無い。

 目の前の彼も言葉では多少毒づいてはいたが、それはかつてと同じ軽口のようで。

 自由奔放な彼女を諌める彼が、その光景が昨日のように思い出せる。懐かしくも忘れられない記憶だ。

 

「……代わりと言ったらあれだが、聖女様が参加してくれるんだ。それで良しとしよう」

「聖女様、ねぇ……。あれを聖女と呼んでいいもんか」

 

 薄く髭が生えた顎をさすりながら言う彼に、実は先程から感じている気配を告げるかどうか迷う。

 そして口を開こうとして、がしっと首を抱えられた時点で諦めた。どうやら遅かったようだ。

 

「楽しそうな話してるなぁ。アタシも混ぜなよ」

「ゲッ、来てたのかよ」

「呼んだのはアンタだろう? 忙しい中来てやったんだ、礼のひとつでも言ってみなよ」

 

 快活な口調。聞き慣れた声だ。

 此方の頭を脇に抱えた彼女は、そのままカウンターに寄り掛かって向こう側にいる彼と顔を突き合わせているようだ。

 普通にカウンターに顔が当たって痛いのだが、頬に、というか頭の半分近くを埋める柔らかい感触に、自分でもどうかと思うがひどく懐かしく感じて笑みが溢れた。

 それに気付いたか――いや、実際に気付いたのだろう。より強く頭を抱えてきた彼女は、笑いながら言う。

 

「このスケベ。アタシの胸が恋しかったのか?」

「…………」

「なんか言えよぉ、可愛いやつめ」

「単に肉で口が開けねぇだけだろ。胸焼けしちまうわ」

「ハッ! 羨ましくてもアンタにはしてやんないよ」

「それこそ頼まれたってゴメンだね。首を折られたくはないんでな」

「わかってるじゃないか」

 

 軽口の応酬が飛び交う中、そろそろ呼吸が怪しくなってきたので、彼女の肩を叩いて解放してもらう。

 そうして彼女の脇から逃れた俺は、目の前で八重歯を出して笑う彼女に笑いかけた。

 

「久しぶりだな」

「本当だ。寂しかったぞ?」

 

 自分と背が変わらない彼女の顔が至近距離に近付く。ぐいっと腕を引かれ、そのまま抱かれた。

 

「うん。やっぱり収まりがいい。アタシの居場所はここだな。しかし……」

「あーあー、いちゃつくなら他所でやってくれ。聖女様は門の前、お前は……」

「外壁の上。明朝でいいんだろ」

「あぁ。あー……ひとつ言っとく。間違っても前には出てくるな。たとえ誰がやられようとだ」

「約束しかねる」

「おい……」

「心配すんなって。アタシも出るんだ。誰が殺されたって死なせないよ」

 

 何やら肩口で鼻を鳴らして訝しげに顔を歪めていた聖女様が、ぱっと表情を切り替えて誇らしげにその豊かな胸を叩く。

 その揺れ様に鼻の下を伸ばすこともなく、さもありなんとばかりに肩を竦める彼を見てから、建物を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

「主、おかえ……」

 

 我が家の扉をくぐると、尻尾を振って出迎えてくれた獣人少女、ルミナスが全ての行動を停止した。尾も耳も、瞬きも息すら止まっているように見える。多分だが、その原因は――今も俺の腕に絡み付いている彼女の存在なのだろう。

 

「う、うわきもの……」

「おぉ、お前についてた匂いはこの子のだったか。……んー、でもまだ足りない。他にもいるな」

 

 ほほー、と腕に抱き付いたまま前のめりになってルミナスを観察する聖女様。ルミナスがぽつりと呟いた言葉はスルーした様である。

 

「本当に家に泊まるのか?」

「ん? いけないか? まだこうしてないと足りないだろう?」

「あぁ、あ、主から離れろ!」

「ルミナス、落ち着いて」

 

 再起動したらしいルミナスが、此方の間に割って入ろうと突っ込んでくる。その頭を撫でて落ち着けようとするが、どうにもそうはいかないらしい。

 ぐいぐいと身体を入れようとするルミナスだが、聖女様はその身体からは想像出来ない程に力が強い。それでピッタリと自分にくっついているものだから、そう簡単には割り込めないようだった。

 それどころか――

 

「可愛いじゃないか~。どうやってたらしこんだ?」

「ふぐぅ」

「人聞きの悪い事を言うな。今の俺の仕事は知ってるだろう?」

「わかってるよ。そんな器用な真似出来ないもんな」

「むふ! ふむぅ!」

「放してやれよ。息できてないから」

「おっと失礼」

 

 空いた片腕でルミナスを捕らえ、乱暴に抱き抱えた聖女様は屈託の無い笑みで笑う。自分が言ってようやく解放されたルミナスは数歩後ずさると、一瞬瞳から光を失い視線を下に落とした。それがどこを見ているのかはわかるが、俺からは何も言えない。

 しかし、隣の聖女様は別である。

 

「なんだ、胸なんか気にしてんのかい? 大丈夫だって、まだまだ育つ育つ」

「……主。今私は怒っていい」

「そういう話題には巻き込まないで欲しいな……」

 

 とりあえず、落ち着いて座らせて欲しいところだった。

 

 

 

 

 

 

 

「獣人に妖精族、鳥人にアラクネと魔人の混ざり物ねぇ。よくまぁそこまで集まったものだね」

「かつての仲間が仲間だしな」

「言えてる」

 

 くつくつと笑う聖女様。大体、キワモノというなら自分だって負けてない自信がある。今となっては尚更である。

 

「あのぉ、それで……聖女様って、あの?」

「あぁ、アタシは聖女だよ。自分で言うのは少しこそばゆいけどね」

「イメージと違い過ぎる。というか、私の見た聖女様はもっと聖女様してた」

「仕事の時はアタシだってちゃんとしてるさ。けど、今は仕事じゃないからねぇ」

 

 森の散歩から帰ってきたシルクは、目をパチパチさせながら。お茶を出して席についたルミナスは、若干訝しげに聖女様を見つめている。

 ルミナスに関しては一度目にしたことがあったのだろう。確かに、巡礼等で姿を見せる彼女と、今自分の隣にいる彼女ではイメージが違い過ぎる。自分はもう慣れてしまったが、二人からしてみれば信じられないというのが妥当だろう。世間一般の聖女とは、イメージがかけ離れ過ぎている。

 

「というか、いい加減離れる」

「断る。何も、アタシだって好きでくっついたまんまでいる訳じゃないよ? いや好きでくっついてるのもあるけどさ」

「訳がわからない。主のスケベ心が満たされるくらいしかメリットが無い」

「ルミナス……」

 

 ひどく悲しい心持ちになるので、たまには柔らかい表現をして欲しい。

 聖女様の言葉に嘘は無い。簡単に言うと、彼女が俺の身体に触れている間は、ひどく身体が楽になる。これは、彼女が持つ聖女としての力が俺に働いているからだ。

 しかしそれをどう説明したものか。この家にいるメンバーの中で、俺の身体に呪いが掛かっていることを知っているのはリリアナしかいない。

 別に隠す必要も無いのだが……説明する必要も無い。

 

 ……いいや、これを機に話しておくのもいいのかも知れない。今まで意識していなかったが、一度考えてしまうと隠し事のようで後ろめたいものを感じそうだった。

 その考えから、ひとつ咳払いをして口を開こうとして。

 それよりも早く、ルミナスが言った。

 

「それとも、主の身体が悪いとこ、貴女が治してくれてるとでも?」

「…………!」

「おや。お前、話してたのか?」

 

 ルミナスの言葉に驚いたような仕草を見せた聖女様だったが、本当に驚いたのは自分だった。

 そんな自分を見て、ルミナスは唇を尖らせる。

 

「主のことは、ずっと見てた。もしかしてって思ったけど」

 

 その反応見たら、本当だった。

 そうルミナスは続けた。

 

 本当に驚いた。彼女達の前では身体の不調など見せたことはない。常々身体の気だるさこそ感じてはいるが、それでも普段の生活をこなすには問題がない。精々、ちょっとした体力不足のような症状を起こす程度だが、それすらも見せたことは無いのだ。

 しかし、ルミナスはいつからか見抜いていた。その様子から確信は持っていないようではあるが。

 その隣にいるシルクも、どうやら気付いていたようである。彼女に関しては魔力を貰うこともあったし、俺の目の前で疑問を口にしてもいた。ただ、俺が言わなかったので聞かなかったのだろう。

 

「なら、話は早いね。細かいことは本人から後にでも聞くとして、アタシがこうしている限り、その不調から解放されるのさ」

「……下心は、無い?」

「あるに決まってる。……けど」

 

 ぐい、と抱かれていた腕が引き寄せられる。彼女の力には逆らえずに世界が回る。

 気付けば、俺の頭は彼女の膝の上にあった。

 見上げるその顔は、勝ち気な笑顔ではなく。

 

「それより遥かに、強い想いがあるのさ」

 

 その名に恥じぬ、聖女の笑みだった。

 

 

 

 

 

 

 

 明朝。まだ薄暗い内に外に出る。

 スタンピードとの戦いに出ると言うことで、普段なら眠っているはずのルミナスが見送りについてきてくれた。

 余程不安なのか、つい先程までしっかりと自分の服を掴んで離さなかった。

 

「主。無理はしないで」

「大丈夫。今回は後方支援だからね。前に出ることはないさ」

「でも、心配」

 

 ぎこちなく振られる尾と、しきりに動く耳が彼女の心情を現している。

 戦闘になるからには、絶対に安全など有り得ない。それがわかっているからこそ、彼女はここまで不安がっている。

 ここで何を言っても気休めにしかならないだろう。その頭をいつもよりもゆっくり、優しく撫でてやると、不意にルミナスは視線を横へと向けた。自分の隣にいる聖女様へとだ。

 

「主を、お願い」

「本当に良い娘だね。心配いらないよ、聖女の名は伊達じゃ無いのさ」

 

 彼女の戦闘スタイルは聖女とはかけ離れているが、ここでそれを言うのは野暮だろう。

 最後に一度、寄り添ったルミナスとシルクを抱き締める。これ以上いると決意が鈍る……わけではないが、後ろ髪を引かれてしまう。二人から離れると、そのまま踵を返して足を前に踏み出した。

 

 

 

 

 

 

「よいしょっ、と」

「リリアナ? どうした」

「何よ。いちゃ悪いかしら」

 

 出発して家が見えなくなった辺りで、近くの木から飛び降りてくる影。その正体であるリリアナが、此方の言葉に不満そうに眉を潜めた。

 別に悪くは無いが、一体どうしたというのだろうか。

 

「それにしても、見る度に違う女連れてるわよねぇ。しかも今度は聖女様か」

「おや、アタシを知ってるのか」

「神官連中とはいざこざ起こしやすいから。事実上のトップくらい把握してるわよ」

「……あぁ、魔族混じりのアラクネの話は知ってるね。あんたのことか」

「他に私みたいなアラクネは見たことないし、多分それはアタシでしょうね」

 

 言いながら、身体を変化させて亜人から人間の形態にするリリアナ。そうするということは、彼女も街に来るのだろうが……。

 

「もしかして、リリアナも来るのか?」

「一応冒険者登録はしてあるのよ。実入りもいいし、参加してもおかしくないでしょう?」

「それは、まぁ」

 

 規模に寄るとはいえ、スタンピードは総じて危険が高いギルドからの依頼になる。個人や商会からの依頼と違って信頼性もあり、リスクに見合うだけのリターンはあるのだ。

 それを受けることに対しての疑問は無い。疑問というか、少しだけ気になっているのは――

 

「正体、バレてるだろう」

「ギルド側には当然バレてるでしょうね。それでも黙認されてるんだから、おかしなことしなければいいってことなんでしょう」

「……まぁ、あの人ならそれくらいはするか」

 

 自分でも多少の違和感を覚えたくらいだ、あの人ならリリアナに魔人の血が混じっていることくらい軽く看破してみせるだろう。

 それでも登録を通し、活動も許している。味方から中立、敵に属するような存在でも、利用出来るなら利用していく。あの人らしいと言えば、そうなのかもしれない。

 

「でも、その姿じゃアラクネの力は使えないだろう」

「別にアラクネじゃ無きゃ戦えない訳でも無いけれど。そもそも登録はアラクネで通してるから平気よ。始まったら元に戻るわ。前線に立つし、遠慮もいらないだろうし」

「前線なのか」

「心配はいらないわよ。貴方ほどじゃないにしろ、戦う術はあるんだから」

 

 そういうリリアナに、まぁ本人がそういうのなら心配はいらないのだろうと結論付ける。

 それに、彼女が立つ戦線には今も隣で腕を絡める聖女様もいるのだ。どちらにせよ、心配は無用だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 街に到着し、二人と別れる。二人は外壁の周りに位置するのに対し、自分は外壁の上に位置することになっている。砲弾が並び、遠距離を得意とする魔術師や弩兵、弓兵が準備を終えてスタンピードを待つ中で、軽く下の様子を伺った。

 いくつか見知った顔がある。聖女様は言わずもがな、その隣には既にアラクネの姿となったリリアナ。彼女達は前線の中でも中衛の位置にいるようだ。

 最前線には一際目立つフルアーマー装備の大男。その鎧はどんな怪力自慢でも身動きが取れなくなる代わりに、鉄壁の防御力を誇る魔鉱石製。……まぁ、彼が本気で暴れる際にはそれらは無用の長物となるのだが。

 その他にも、皆が臨戦態勢を整える中で地面に寝っ転がって眠る長身細躯の男だったり、それを邪魔臭そうに蹴飛ばしている猫耳の女性であったり。

 はたまた壁際で酒瓶を傾けてケラケラと笑う魔法使い帽を被った妙齢の魔女であったりと……。

 

「……緊張感が無いな、あいつらは」

 

 どうして自分の仲間達は揃い揃って目立つ連中ばかりなのか。全員実力は折り紙つきなのだが、それにしたって目を覆いたくなるのは仕方がないと思う。

 というか、過剰戦力にも思うのだが、その辺はどうなっているのだろう。確かにスタンピードは脅威なのだが……。

 

 たとえば、飲んだくれている魔女は息を吸うように広範囲の殲滅魔法を連発するような奴であるし、今は受付に君臨する彼と聖女様が組めばそれは難攻不落の人間要塞となる。眠りこける彼と猫の獣人にかかれば、指揮するモンスターの元へと一目散に駆け抜けてその素っ首を落としてくることだろう。

 今上げた誰もが、現在も世界のトップを誇る戦闘力の持ち主であり、その巨大な戦力から国に属することを禁じられている『禁忌』の称号持ちである。まぁ、聖女や女王といった存在もいるにはいるが。聖女に関しては国に属することの無い協会に身を置く身であるし、女王は妖精国自体が俗世から離れたものである。どちらも『禁忌』の称号を与えられてはいるものの、所謂国家には属していないのでセーフ、という見解なのだろう。

 

「……まぁ、いいか」

 

 普段は自由に世界中を巡っている連中の一部がここにいるのは奇妙と言えば奇妙だが、好戦的な奴らばかりなので今回のスタンピードの始まりに一番近いここに集まったのも納得といえば納得である。

 今日自分がここでやるべきことは何も変わらない。おかしなことに気を取られる暇は無いのだから。

 

 

 

 

 

 

 太陽がその姿を完全に姿を表した頃に、地響きが辺りを小さく揺るがし始めた。目を凝らすと、地平線の向こうを埋めるおびただしい数のモンスターが波となって向かってきているのがわかる。規模で言うなら中規模程度だろうか……そんな感想を持ったところで、ひどく空気が歪むような感覚。煮詰めに煮詰めたような濃密な一個の魔力が、空気にまで影響を及ぼしているのだ。

 ほんの先程まで酒を煽り続けていた魔女が、その酒瓶までを魔力に変換して吸収しながら、単身前に躍り出た。……若干、その足元はふらついているが。

 久しぶりにアイツの魔法が見れるな、と腰の刀を抜いて外壁の床に突き刺す。既に血は吸わせているので、その刀身は容易くそれにささり、食い込んだ。

 そして、周りにいる連中に声をかける。

 

「吹き飛ばされないように身構えた方がいいぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

「さぁって、どれにしようかねぇ~」

「おい酒バカ! 周りの迷惑も考えて撃つんだよ!」

「だぁいじょうぶだってぇ。んんっとぉ……この辺でどうかなぁ?」

 

 ふらついていた足元が、その爪先がトントンと地面を小突いた。瞬間、水面に石を落としたかのように地面が揺らぎ、それを追うようにして新緑の魔方陣が広がる。

 それを見ていた、魔女に大声で注意を呼び掛けた聖女が頬を引くつかせて、隣の傭兵の背中へその身を隠した。隠れ蓑にされた傭兵もまた、その鎧の下で口をへの字に曲げて巨大な戦斧を地面に突いた。

 その間にも、魔女は酔っ払ったままの紅潮した顔付きで、楽しげに今度は指を踊らせる。

 

「風を~集めて~」

 

 草原がにわかにざわつき始めた。その場にいる全員が、魔女に引き寄せられるように前につんのめってしまうような感覚を覚える。

 

「まだまだ集めて~大きく~長く~」

 

 詠唱と言うには緩く。しかし魔力は絶望的に。

 

「技名とかいるかなぁ? んー……まぁいっかぁ。こんなの技とも言えないし~」

 

 世の魔術師が聞けば卒倒するような言葉を吐きながら、魔女は両手を空にかがけた。その頭上に浮かぶのは、姿無き巨大で凶悪な風の刃だ。

 彼女にしてみれば、こんなのはただのお遊び。ただ風を集めて固めて刃にしただけの、言うなれば力業。

 しかし、魔術師で彼女と同じ事をやろうとすれば、並の魔術師が仮に百人集まっても不可能だと首を横に振るだろう。

 それもそうだ。彼女は魔術師ではなく、全く別の魔法使いという存在なのだから。

 

「やぁー」

 

 ぺいっ、と。まるで適当に両手でボールを放り投げたような格好で腕を前に振り下ろす。

 

 ーー瞬間。

 

 暴力的、破壊的、そんな言葉すらも生温いと思える強大な風の刃が、地面すらも引き抜かんばかりの風を連れて射出された。

 その場にいた全員が根から引き抜かれるように連れていかれそうになり、それに動じなかったのは最初からわかっていた数名のみ。突風と言うのも生温い風を巻き起こしていった刃は、まだ遠いモンスターの群れの命を刈り取りに凄まじい勢いで飛んでいった。

 目には見えずとも真一文字に伸びた風の刃は、地平線を埋めるそれ以上の範囲を持って殺戮の限りを尽くす。

 それを腰に手を当てて見届けた魔女は、どこからか取り出したスキットルに口を当ててから、満足そうに踵を返すのだった。

 

 

 

 

 

「……相変わらずと言えばいいのか」

 

 半数以上は数を減らしたであろうモンスターに多少の同情を覚えながら、突き刺していた刀を引き抜いて鞘に納める。あれで本人からすればただの力業、有り余る魔力にモノを言わせただけのものなのだから呆れるばかりである。件の魔女は残る戦いを酒の肴にでもするつもりか、最後尾に下がって尚も酒を煽っていた。

 ……まぁ、あのまま暴れられたら他の仕事も無くなるだろうし、報酬やモンスターの素材目当ての連中も面白くないだろうから別に構わないが。

 

「そろそろ射程距離に入るんじゃないか」

 

 先程の一撃に腰を抜かしていた砲撃主にそう声をかける。

 モンスターの中でも特に足の速い連中や、空を飛んでいる種等が目に見えて近付いている。慌てて立ち上がった彼等を横目で見つつ、これからが本番だと自らも気を引き締め直した。

 

 ……ただまぁ、あの魔女に負けず劣らずの存在が他にも数名だ。果たして自分の出番はあるのだろうかと苦笑がこぼれたのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ーー戦いが始まる前のそんな想いは、見事に期待通りであった。

 

 とは言っても、魔女のようにワンマンな活躍はそこまで見当たらない。集まった冒険者や傭兵達の働きが凄まじいのだ。

 ただ、勿論それにも理由はある。見るからに全員の動きが良い原因は、自らも前線で拳を振るい、獰猛に返り血を拭う目を疑うような聖女がそれだった。

 彼女自身戦闘力の高い人間ではあるが、彼女が持つスキルがこういう集団戦闘では反則レベルで強力なのである。

 簡単に言えば、それは支援型のスキル。およそ戦闘における必要な要素を全て底上げするものだが、その範囲と効果が馬鹿げているのだ。

 例を上げるなら、範囲は決して小さくはないこの街を全て覆って余りある程度。そしてその効果は、年端もいかぬ幼子が石を粉々に握り潰し、馬車を跳ね返すまでに強く。

 彼女がその力を個人に集中しただけで英雄が一人出来上がる、そんなスキルを持つのが、今も尚暴れている聖女様である。

 最初こそ身に余る力に振り回される連中もいたが、今ではそれなりに使いこなしモンスターを圧倒していた。

 

 そして、それでも歯が立たないような規格外の怪物は、同じように怪物が迎え撃つ。

 

 いかな打撃も刃物も通さない、人を五人縦に積めばようやく届くかといった巨大なゴーレムが片腕を振り上げ、振り下ろす。

 およそ人には受けきれない、受けたところで形も残らないであろうその一撃を、全身鎧の大男が片腕を上げるだけで防御しようとしていた。本来なら自殺行為そのものだが。

 

「相変わらず……どんな身体してるんだろうな」

 

 術式が込められたナイフを投げながらぼやいてしまった。

 爆弾でも落とされたのかと思う程度には凄まじい轟音と地面の揺れ。しかし、彼はそこに微動だにせず立っている。防御に回したその腕は、恐らく動くことすらなかったであろう。

 そうして、もう片方の腕で巨大な戦斧を持ち直し、乱雑にゴーレムに向けて振り抜いた。そう、振り抜いたのだ。

 他の冒険者がどれだけ攻撃しても削れさえしなかった化け物を、型も何も無い横殴りのようなモーションでゴーレムにぶちあて、そして殴り飛ばしていた。破片がバラバラと散らばるが、最早そこに彼はいない。

 先程の意趣返しとでも言うつもりか、その信じられない脚力でゴーレムの頭上へと飛び上がった彼は、更に大きな爆音を響かせてゴーレムを粉砕した。

 

「はは」

 

 かつてはあれらと肩を並べることが出来ていたことを思うと、信じられないような悲しいような。そんなことを考えながら、尚もナイフを投げようとして。

 

「ねぇ、これアンタに預けていいよね」

「……は?」

 

 突然隣に現れた、自分より頭ひとつ小さい猫耳の彼女がそう言いながら何かを此方に押し付けてきた。

 ……いいや、これ、ではない。

 

「じゃ、ウチこれから頭落としてくるから」

「おい、いきなりーー」

 

 言うが早いか、そのまま飛び降りて、空中でその姿が掻き消える。

 ナイフを取り落とし、預けられた存在を取り敢えずしっかりと抱き抱え。

 

「参ったな……」

 

 意識を失っている『魔人』の少女を、人の目から隠すように更に深く抱くのだった。



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魔は悪となり得るか 中

迷いましたが投稿。短め。


 ――さて、どうするべきか。

 

 かつて旅を共にした仲間から、半ば強引に押し付けられた小さな存在を抱き直しながら考える。

 ただの子供ならなんの問題も無い。しかし、今腕の中にいる存在は、今もなお様々な偏見を持たれる魔族という存在だ。

 銀の髪に額に光る宝石のような紅い石。薄紫色の肌は、こちらでいう人間のようなスタンダードな魔族の出で立ち。人間が魔族と言えば、この少女のような存在を想像する。

 それはつまり、未だに魔族に敵対意識を持つ人間に見られてしまえば、間違いなく面倒なことになるということで――

 

「……逃げるか」

 

 ポツリと呟き、自分は身を翻してその場から走り出した。

 幸い今は戦闘の真っ最中。後方の此方も前線までとは言わずともかなり騒がしい。

 昔なら外壁からそのまま飛び降りるところだが、今はそんなこと出来やしない……いや、やろうと思えば出来るが、それに払うコストが昔とは比べ物にならないのだ。なので、大人しく外壁の途中にある搭の螺旋階段から降りるしかない。

 考えている間にそこにたどり着き駆け降りていく。

 と、そこに破壊音が搭内に響き渡る。振動に脚を止めかけたが、腰に差した刀を抜いてそのまま走り続けた。

 搭を破壊して現れたのは巨大な蟻だった。体高だけで人を越える、銀色の身体を狭い搭内にねじ込んできたそいつは、上から現れた自分に機敏な動きで顔を向けてくる。

 

「シルバーアント……」

 

 厄介な奴まで現れたものだと舌打ちする。

 その身体はそのまま銀のようなもので出来ているために、単純に硬い。性質が銀なので他の金属系の魔物よりかはましなのだが、シルバーアントの厄介な点は他にある。それ即ち、蟻系の魔物全てに見られる習性だ。

 簡単に言えば、一匹では済まないと言うこと。

 

「街中に入られたら厄介だな」

 

 声と共に、刀を握る掌に鋭い痛み。持ち手から鋭い針が飛び出し、そこから刀が血を吸っている。まさか本当にこの刀を使うことになるとは……まぁ、持ってきておいた甲斐があるというものか。

 刀身が紅く染まったそれで、一撃の元にシルバーアントを葬る。その死骸を踏み越えて街中に入ると、まさにシルバーアントが地面から次々に現れている状況に出くわしてしまった。

 当然ながら街中にも兵は配置されているが、これでは直ぐに多勢に無勢になってしまう。

 

「これだからスタンピードは」

 

 悪態をつきながら、盛り上がった足元に刀を突き立てる。その下にいたであろう蟻を貫いた刀が、一際紅く染まりあがった。

 ……純粋に身体に厳しいのであまり使いたくないが、仕方がない。これだけの数を一網打尽にするような攻撃をするには、更に血を使うしかないのだ。

 

「っ」

 

 肌を貫く程度だった針が、更に長く、太くなって手の甲を突き破る。しかし出血はしない。全て、この刀に吸われていく。

 軽い目眩を覚え、しかし目を見開いて堪えた。瞬間、地面に突き立てた刀から放射状に血の線が地面に広がる。さながらクモの巣のように広がったそれは、尚数を増やし続けるシルバーアントにたどり着いた途端に、鋭い針となって容易くその体を貫いた。

 自らの血を武器とするこの戦闘方法が、この身体でも出来る最大効率であることに辟易とする。魔力との混合なので見た目よりかは血を使わないが当然貧血は起こすし、何よりも見目が悪い。今に限っては蟻の緑色の体液まで混じって無闇にケミカルな様相すら見せている。

 

 

「もう止めていいぞ」

 

 それでも再現なく現れ続ける蟻に眩暈が強くなった頃に、空から声が聞こえてくる。

 先程風の一撃を加えた、魔女の登場である。途端に、蟻の出現がパタリと止まった。

 彼女が何をしたのか理解して、血の魔術を行使するのを直ぐに止めた。血液の糸が力を無くし、水音を立てて地面にぶちまけられていく。……あまり気分の良いものではなかった。

 

「……結界を張るなら先にやっておいて欲しいもんだ」

「簡単に言ってくれる。土壌に影響を与えない、かつ魔物が侵入不可能な程度に強力な大規模結界を地面の下に張るんだ。私でなきゃ不可能だぞ。更には穴だらけになった地下を直すサービス付きだ」

「お前なら出来るだろうから言っているんだがな」

 

 実際、他では難しくても彼女ならば片手間である。酒を飲んでいなければ、の話ではあるが。

 

「元より私は内部の守りの予定だったんだ。それを頼まれて外にいた。つまり私は悪くない」

「わかったわかった」

 

 先程までの酔っぱらいはどこへやら、魔法使いよろしく箒に腰掛けた彼女は宙に浮きながら肩を竦めていた。

 それを見ながら、刀を抜いて鞘に納める。

 トゲが抜けた掌からは思い出したように血が噴き出すが、仕方無いので今は無視である。

 魔女はそんな俺の怪我……ではなく、懐に抱かれていた少女に注目したようだ。端正な顔付きで眉間にシワを寄せた彼女は、溜め息をついてその眉間を指で揉んだ。

 

「魔族か。ふん、まぁ状況は察した」

「理解が早くて助かるよ。じゃあ、これから俺が頼むこともわかってくれるな」

「……なぜ私が、と言いたいが……わかったわかった、そう怒るな。お前を敵に回したくはないからな。スタンピードが収まるまで私が預かるさ」

「別に怒ったりはしないが……まぁ、頼む」

 

 腕の中にいた少女がふわりと浮き上がり、魔女の元へと向かっていく。

 自由になった腕を軽く回して、腰に当てた。

 

「それに、今の俺なんてお前の足元にも及ばんよ」

「笑わせてくれるな、『墓場行き』とまで呼ばれた奴が」

「そいつは元々蔑称だったんだがな」

「だとしても、今更お前に楯突くような奴はおらんよ。お前にこそ特級の『禁忌』が送られてしかるべきだと、仲間たちは口を揃えて言うだろうさ」

 

 口元に笑みを浮かべながら言う魔女に、思わず表情を歪めてしまう。

 確かに、昔――と言っても数年前の話だが、確かにその頃は自分でもどうかと思う程度には自己を省みない戦い方をしていた。『墓場行き』とは、まだまだ実力が伴っていなかった頃に付けられたあだ名のようなものだ。

 本来なら、そんな奴は早死にしてしかるべきものだが……何の運命か、はたまた神の気紛れか、俺は瀕死になることは数あれど、死ぬことだけはなかった。気付けば功績は積み上がり、馬鹿にされていた『墓場行き』の名も違う意味を持ってしまうまでになってしまったのだ。

 ……まぁ、そんなものは過去の話だ。今あんな無茶をすれば、それこそ直ぐに墓場行きなのだから。

 

「ん」

「……どうした?」

「いいや、どうやら子猫が頭を刈ったらしい。しつこく結界を叩いていた蟻がいなくなった」

「なら、残った連中を倒せば終わりか……大した被害が無くてよかった」

「まだ終わってないぞ。早く行かないと、その血を捨てる場所が無くなる」

「……それもそうだな。じゃあ、その子を宜しく頼んだぞ」

「暇ついでにあんたの家に届けといてやるよ」

「いや、そこまでは……」

「あー、早く身軽になって酒が飲みたい」

「……まぁ、頼んだ」

 

 心底そうしたくてたまらない、という顔を見て、喉元まで出ていた言葉を飲み込んでからそう返す。

 無類の酒好きな彼女は、最初のように酔っ払っているのが平常運転である。今は非常時と言うことで素面に戻ったようだが、一刻も早く酒が飲みたいのはまごう事なき本音であろう。

 気だるげに手を振って高度を上げた魔女を見送ってから、残る仕事を片付ける為に刀を抜いて足を踏み出した。

 いくらか吸わせた血は使用したが、まだまだこの刃には血という名の魔力が残っている。使い切っておかなければ、後々面倒なことになるのだ。

 ……全く、使い勝手の悪い刀になってしまったものだ。

 

「ぼやいてばかりもいられないか……。さっさと終わらせて、帰るとしよう」

 

 外に向かおうとしたところで、嫌な轟音が街に響いた。

 魔女が抜けたことで網の目が広くなったのか、飛行型の魔物が外壁を打ち壊したのだ。

 見ればワイバーン、つまり竜種である。本来ならパーティーを組んで討伐するような手強い魔物であるが――

 

「やれやれ……これ、俺の責任にはならんよなぁ?」

「知らない。請求されるか自分で直すかくらいは選べるんじゃない」

「全く冷たい娘っ子だよほんと」

 

 壁を抜けてさぁ暴れようと翼をはためかせたワイバーンは、しかし途端に糸が切れたかのようにその巨体をぐらつかせて倒れてしまう。

 倒れ付したワイバーンの後ろには、自分に件の魔人を押し付けた猫耳少女と、今も脈動する何かをどうでも良さげに捨てた長身痩躯の男の姿だ。

 大穴が空いた外壁を抜けて三人で外に出てから、刀の血液でクモの巣のように壁を埋める。

 

「便利じゃないの。羨ましいねぇ」

「ほざけ」

「なぁんでそう俺には当たりが強いかなぁ……」

 

 全く心にも思ってないことを言っているのだ。それをほざくと言わないで何と言うのか。そんな自分のストレートな言葉に続くように、猫娘が続く。

 

「過去の行動を省みることを進める。あれで優しくしてもらえると思うなら頭が涌いている」

「きっついねぇ」

「別に昔のことなんて掘り返すつもりはないぞ。ただお前にはこれぐらいでいいかと思ってるだけだ」

「んー、程々の気軽さ。いいねぇ、それぐらいが好ましいってもんさ」

 

 此方の本音にも、猫娘の毒舌もどこ吹く風。あくまでも飄々としている男である。

 なんだかんだ言いながら、確認していた仲間と全員顔を会わせていることに苦笑した。皆が皆全く変わっていないことに、相変わらずだと安心にも似た何かを感じる。

 

「頭は?」

「今回はクイーンだったねぇ」

「刈ったかどうかを聞いてるんだが」

 

 こちらの言葉に、彼は小さく肩を竦めることだけで返してくる。愚問だとでも言いたいのか……まぁ、ここにいるということはしっかり仕事はこなしてきたのだろう。

 利益と保身の為なら平気で立ち位置を変える、ある種全く信用ならない男ではあるが、その腕は呆れる程に確かである。まぁ、直接止めを刺したのは猫娘の方だったようだが。

 幾度となく手合わせをしてきた仲間の中で、唯一彼と命のやり取りをした自分が言うのだ。説得力はあると思う。

 

「……前線に出てくるなと言っただろうが」

「確約はしてないぞ。善処はするつもりだったが」

 

 掛けられた声の方に顔を向けると、そこには全身鎧の大男。フルフェイスのせいでその顔色は窺えないが、声色は確かに呆れていた。

 仕方あるまい、こちらにも事情があったのだ。そんな意図を込めて返した言葉に、彼はどんな表情をしたのだろうか。想像は出来るが、真実は見えない。

 

「あちゃあ……結局使っちゃったか。仕方無いねぇ」

 

 そして、隣に来ていた聖女様に未だ血を流す手を取られる。傷口に直接口付けた彼女は、あっという間にその傷を塞いで治してしまった。

 此方の血液で紅を引いた彼女は快活に笑う。口付ける必要は皆無なのだが……まぁ、それを言うのも野暮だろう。

 

「戦況は?」

「残りを倒すだけだ」

「変異種は」

「いたところで問題無いだろう?」

 

 それぞれ返ってきた言葉に頷いて改めて刀を抜いた。後は込められた血を使い切るだけなので、いらない怪我を負うこともない。

 号令をかける必要もない。そう判断して一歩を踏み出した瞬間に、各自がスタンピードを終わらせる為に地を蹴るのだった。

 

 

 




次が救済話。


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魔は悪となり得るか 終(仮)

 スタンピードから約一週間が過ぎた。

 幸いにも死傷者は出ず、目立った損害は外壁の崩壊のみ。討伐に参加した冒険者には充分な報酬が支払われ、数日間は街中でお祭り騒ぎだった。

 おびただしい数のモンスターは様々な素材で出来た宝の山となり、結果だけ見れば利益は大幅にプラスになったと言えるだろう。勿論、結果だけ見ればの話だ。スタンピードはまごうことなき災害であり、一度訪れれば多大な被害を被るのをほぼ避けられない天災。今回は人並外れた存在が何人もいたから良かっただけで、口が曲がってもスタンピードが来て良かった、なんて言ってはいけないのだ。

 

 さて、ひとつの山場を越えて本来なら気が抜けるところなのだろうが、家にはまだひとつ問題が残っている。それが──

 

「死ねっ」

 

 木陰に座り本をめくっていた自分の真上から、声と共に降ってきた殺気。

 瞬時に閉じていた本を頭の上に掲げると、強い衝撃がそれに当たった。空いている手を追うように上に伸ばし、掴んだそれをそのまま振り下ろすように投げ飛ばす。

 

「わぁっ!」

「……ひどいなぁ、まだ読み終わってないのに」

 

 小柄な身体が草原に転がるのを視界の端に捉えながら、短刀に貫かれた本を見る。見事に貫通しているそれを抜き、とりあえずペラペラと捲ってみた。一応読めないことはないな。

 

「っ……くそっ!」

「はい、返すね」

「ひゃあっ! あ、危ないだろっ!」

 

 別に短刀に用はないので、転がる少女の足元を狙い投擲。寸分狂わずにそこに刺さった短刀に驚き跳び跳ねた少女は、肩をいからせてそう文句を付けてきた。とりあえず、殺す気満々で飛び掛かってきた奴が言う台詞ではない。

 

「まだやるかい?」

「……ちっ、今に見てろよっ」

 

 腰に手を当てて聞くと、少女は悔しげに地面から短刀を回収して走り去る。

 次はどう仕掛けて来るだろうなぁ、なんてぼんやり考えていると、またしても頭上から声を掛けられた……だけではなく、見覚えのある顔が逆さまに降ってきた。

 

「流石に隙が無いわね」

「気配を隠せて無いからねぇ」

 

 蜘蛛の亜人であり、魔人の混血であるリリアナが楽しそうに笑っている。どうやら、リリアナは少女と同じように木の上で様子を見ていたらしい。

 

「それにしても、不思議なことやってるわよね」

「自分でも思うけど。最善手ではなくても、悪い手では無いだろう?」

「だからって、貴方が矢面に立たなくてもいいんじゃない?」

「別に必ずしも好かれる必要は無いし。他に適任もいないし」

「それこそ、アタシでも良かったじゃない」

「敵ばかりじゃ彼女の気が休まらないだろう。その点、魔人でもあるリリアナが彼女の味方になるのが都合が良い」

「……ま、それでいいならいいんだけど」

 

 穴が空いた本を片手で弄びながら答えていくと、ふぅん、と納得したのかそうでないのか微妙な声と息を漏らしてから、リリアナはスルスルと上に帰っていった。

 それを目で追うと、葉から漏れる太陽の光が視界に焼き付き、もう昼時かと立ち上がる。そろそろルミナスが呼びに来る頃だろう……そう思ったところで、部屋の窓から呼ぶ声が響くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「主、怪我は?」

「無いよ」

「本当に?」

「最近は毎日それだね」

「毎日聞く理由がある。当然」

 

 昼食後のお茶を楽しんでいると、ルミナスがペタペタとこちらの頬を確かめるように触ってくる。

 元々こちらの身体や健康状態を気にしてくれる彼女ではあるが、ここ一週間はそれが更に増えている。理由は明白であった。

 

「主が決めた事だから、口は出さない。けど、心配はする」

「不安にさせてごめんよ」

「ううん、無事ならそれで」

 

 ひとしきり確認して怪我が無いのを確認したルミナスは、定位置となるこちらの膝にその頭を乗せた。艶々と光沢を放つその髪を撫でてやると、心地好さげな吐息が漏れるのが聴こえる。

 そのまま撫でながらチラリと窓を見やると、先程の少女が悔しげに去っていくのが見えた。どうやら、自分が一人ではないので手が出せないと諦めたようだ。

 

 先程からこちらを狙い続けている少女だが、彼女こそ今自分が抱えている問題そのものである。

 スタンピードにて猫少女に押し付けられた魔人の少女が正に彼女な訳だが、本来ならそのまま魔族領に送って終わりの予定だった。

 が、そうにもいかない理由がいくつか出て来てしまったのだ。

 

 ひとつは、彼女自身が持つ人間への強い敵対心。魔族領に送ろうにもこちらの世話にはならないと一人で行こうとするが、身を隠す術も使えない彼女を一人で行かせては間違いなく問題が起こる。魔人への迫害が未だ残る中、人間嫌いの魔族が一人で行動すればどうなるかなど考えたくもない。

 こちらの問題は、彼女を拘束する為に……そう、言い方は悪いがこの家に拘束させる為にひとつ彼女と約束事を交わしている。それは、この家から出て行きたいなら、自分をどうにか倒してから出ていけというものである。

 正直彼女がこの案に乗る必要など無いのだが、そこは自分が過剰に煽ることでどうにか成立させることが出来ている。最初こそ此方の目を盗んで家から出ようとしていたが、そのことごとくを潰してやれば残る道は自分をどうにかすることしか残されない。

 因みにだが、自分が外出している時はルミナスとリリアナが見張ってくれている。身体能力では獣人のルミナスが上回り、ルミナスが捕らえるのに失敗してもリリアナの糸からは逃れられないようだ。……リリアナに関しては、脱走を企てようとした所で上手くヘイトを此方に向けることにも成功しているらしい。

 こうして、彼女は隙あらば自分に襲い掛かってくるようになったわけだ。

 

 そしてもうひとつ。自分としてはこちらの方が大問題で、逆に言えばこれが解決してしまえば何の問題も無くなるのだが……。

 

「言ってた魔人、見つかった?」

「目処はついているんだけどね。なかなか尻尾が掴めない」

「……早く、助けて上げてほしい」

「もちろん」

 

 様々な感情が入り交じった声で、ルミナスが懇願してくる。それに優しく答えた自分は、目の前にある資料を眺めた。それは、見ていて愉快では無い情報の集まり──奴隷商人のリストや、裏で奴隷を卸すことを生業とするようなならず者の情報である。

 何故こんなものを眺めているのか。その内容こそが何よりの大問題であり、解決せねばならないものだ。

 

 スタンピードにて拾われた彼女。その身体には、本来刻まれてはいけない刻印があった。すなわち、奴隷の刻印である。

 後から聞けば、猫娘はスタンピードに引き潰されたであろう馬車から少女を拾って来たと言う。彼女以外には商人であろう連中の無惨な人間の死体しかなかったらしい。

 そして、少女が目覚めた時、こちらに襲い掛かりながら放った発言が──

 

『お前ら、人間がぁ! 私達家族を! 許さない、絶対に許さないからなぁ!!』

 

 即座に動いたルミナスに地べたに抑え付けられながらも、激情のままに、血を吐くような勢いで少女は叫び続けた。

 そして、その身体にあった奴隷の刻印。まず間違いなく、少女の家族も奴隷へと落とされていると見ていい。すでに術者が死んだ刻印に効力は無い。彼女の刻印は自分が消したので問題は無いが……。

 

「もう少し、心配かけちゃうかもしれないけど」

「ん……無事に帰って来てくれるなら、それでいい」

 

 身を起こし、胸元に顔を擦り付けてくるルミナスの頭を撫でる。彼女の為にも、少女の為にも、早急にこの件は片付けなければならない。

 そう、改めて決心したところで──

 

「ずるい、ルミナス……」

「うおっ」

 

 物陰に隠れていたシルクの声に、大きく身体を震わせてしまったのは、まぁ蛇足だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 ──ようやく見付けた。

 

 とうの昔に捨て置かれた廃坑の中。厳重に隠された入り口から侵入したそこは、魔術によってしっかりと作り込まれた奴隷の収容所であった。

 平らに均された地面。音が鳴らないように壁を指でなぞり、余程の使い手がこの空間を造ったようだと確認する。

 そこらの奴隷商人や卸人は劣悪な環境に奴隷を保管しがちだが、ここは違う。最低限から上の環境を作り上げ、脱走という言葉すら浮かばなくなるほどに頑強な牢屋の造り。それでいて、ここにいる奴隷達は皆身なりこそそれなりに保たれた上で、完全に心が折られていた。

 

 ──一人では手に余る。

 

 隠密の魔術を掛けた上で、努めて気配を消したままそう判断する。

 今まで国も自分も見付けられなかったのも納得した。ここを回している連中は、そこらの裏家業共とは規模もレベルも段違いである。

 とはいえ、今日の目的はここの制圧ではない。あくまでも、下見と確認をしに来ただけである。そしてそれも、目の前にいる魔人の姿を見たことで完了した。

 両手足に嵌められた魔封じの枷。他とは違い天井から吊らされ、空中で項垂れたままの魔人の男女。魔力の波長も、刻まれた忌まわしい刻印も彼女と同じ。十中八九、彼女の両親である。

 ここで二人だけでも連れ出せればいいのだが……良い趣味と腕をした術師のようだ。術者の許可無くここを離れれば、全く面白くない結末が彼等には訪れるだろう。

 ここの奴隷を解放するには、ここの術師よりも優れた者に刻印を解除させるか……もしくは、術師そのものをどうにかするしかない。

 何が一番手早く、リスクを負わずに事を終わらせられるか。その算段を頭の中でつけながら、その場を後にした。

 

 

 

 そして更に一週間過ぎた日。

 

「全く……この私がこんな短い感覚で酒を抜くなんて」

「むしろ感謝して欲しいものだがな」

 

 ついこの間も見た顔が、全く以て不満だと愚痴を漏らすのを見て溜め息をつきながらそう返す。

 目の前にはあの施設から助け出された奴隷達の姿。これから、隣にいる魔女に刻印を解除してもらうのだ。魔力の関することに対して彼女以上に頼りになる存在は他には知らないので、アトリエに乗り込んで引っ張り出してきたわけだ。

 

「きっちりやってくれたなら、きっちり代価は払うさ」

「魔女の代価って響きから恐ろしいものは感じないのかねぇ」

「悪魔の霞、天使の誘惑」

「むぅ……本当に用意してくれるんだろうね」

「安心しろ、嘘はつかん」

「はぁ……ほらほら、一列に並びな」

 

 此方の言葉に、肩を落として奴隷達にそう指示を出す魔女。ちなみに、悪魔の霞も天使の誘惑も酒の名前である。どちらも酒として最上級、更には様々な触媒にもなる優れものな液体で、酒飲みと錬金術師、両者共に喉から手が出るほど欲しがる逸品だ。どちらも自然が産み出した奇跡的な産物であり、採集には骨が折れるが……必要経費である。

 

「全く……おかしな術式だ。解くことを考えてない」

「解くことを、考えていない?」

「紐を結ぶのに適当に何度も何度も強く結んだって言えばわかりやすいかね。固定するにはいいかもだが、解く人間がえらく苦労する。……まぁ、そこの阿呆共は解くつもりすらなかったんだろうが。奴隷として売り払う時に自爆の術式だけ解いてきたんだろう、ここだけ教科書通りの刻み方をしている」

 

 火傷のように刻まれた刻印を眺め、道端のゴミでも見るかのような視線を横に向ける。そこには、まとめて捕縛された奴隷商人達がいた。

 一人だけ嫌らしい笑みを浮かべているが、彼が刻印を刻み込んだ魔術師張本人だろう。そこらの悪人が持つとは思えない魔力を持っているようだが……その笑みは、簡単に術式が解かれる訳が無いという自信の笑みだろうか。

 だとしたら、それは大きな間違いである。ここにいる魔女は文字通り、レベルが違う。

 

「時間、かかるか?」

「まさか。はい次」

 

 魔女は刻印に手を軽く当てるだけで、まるで手品のように焼き付いた刻印を消してしまう。晴れて奴隷から解放された本人は、信じられないように魔女と刻印があった上腕を何度も見比べた後に、実感が沸かないまま列からずれた。

 

「ま、手間なのは認めるけど。まとめて解除出来ないから」

 

 言いながら、ほいほいと次々に刻印を消していく魔女の姿が信じられないのは奴隷達だけではない。自信の刻印を片手間で消されていく魔術師は、あんぐりと口を開け、

 

「ば……馬鹿な! この俺が……俺が何年もかけて生み出した奴隷術式だぞ! 複雑な式を何重にも重ねて、混ぜて! 俺以外に理解出来るはずが! そんな簡単に消せるはずが!」

 

 縛られたまま立ち上がろうとして即座に取り抑えられた魔術師は、それでもなおそう叫んだ。

 それに対し、魔女は。

 

「はん。よくよくいる低脳魔術師の典型だね。複雑な式が組めれば偉いとでも思ってるのか……それに、アンタのこれは複雑じゃない。ただの『雑』だ。砂に書いた文字を消すくらいには簡単に消せるよ。……まぁ、私には、だが」

 

 言いながら、それを示すように刻印を撫でるだけで消して見せる。

 それでも喚くのをやめないのに顔をしかめた彼女は、仕方無いと言わんばかりに顔を微かに歪め、その細い指先を軽く宙に踊らせた。

 

「身の程知らずに大サービスで見せてやるよ。これ、読めるかい?」

 

 そう言って宙に浮かべたのは、魔術言語で火を示す一文字だった。魔術を学ぶ者ならば、或いは少し見識の有るものならば誰でも読める文字。

 しかし、魔女の浮かべたその一文字は、『一文字』ではなかった。よくよく見れば、その文字は夥しい数の細かい文字の集合体であることがわかる。しかも、その全てが火に関連するもの。このたった一文字に、これでもかと火に関する情報が詰め込まれているということになる。

 それらが破綻せず、ただのひとつも乱れなく、理路整然と並び、寄り合わさってひとつの文字として成立しているのだ。

 それを、魔女は彼のすぐ近くに、指を向けて文字を差し向け、

 

「これが」

 

 その文字が地面についた瞬間に。そう、ほんの一瞬ではあるが、細く、しかし凄まじい熱量が圧縮された火柱が立ち上る。奴隷達が悲鳴を上げる中、目の前でまざまざと格の違いを見せ付けられた魔術師は一言も発することが出来なくなり。

 

「これが、所謂『複雑な術式』ってものだ。わかったかい? 愚かで可愛い、悲しいぼうや」

 

 魔女の無慈悲な言葉だけが、魔術師の耳に響くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「父さん、母さんっ!」

 

 まだまだ小さな背中が駆けていき、念願であったであろう両親の腕の中に治まった。

 それをルミナスと共に見届けたところで、自分は無意識の内に息を吐いていたようだ。見上げてきていたルミナスの頭に手を置いて、改めて再会を果たした三人に目を向ける。

 その身に刻まれていた奴隷の刻印は綺麗に消え去っている。少女は当然として、両親もそこまでの衰弱は見られなかった。あれなら、領に戻るまでの不安も無いだろう。

 

 娘を抱きながら、両親は此方に向けて頭を下げた。捕まって奴隷にされたのだ。人間である自分に悪感情を持ったとしてもおかしくないであろうに。

 その腕の中にいた少女が、くるりと体を回転させて此方を向いた。その手の中にあったのは、いつもこちらを狙っていたあの短刀である。

 それを彼女は、何の躊躇いもなくこちらに投げ付けてきた。ここ何日かで急激に腕前が上がったその技術で、自分の顔面に真っ直ぐ向かってきたそれを、片手でルミナスを抑えながら逆の手で止めた。

 いらない才能を育ててしまっただろうか、と苦笑すると、何やら短刀に文字が書かれていることに気付く。これは、魔人が使う文字である。

 普通なら読めないものだが、生憎自分は読めてしまう。そこには、殴り書きだが──しかしとても可愛らしい文字で『ありがとう』と、そして『ごめんなさい』とだけ書かれていた。

 顔を上げて、ニッコリ微笑む。まさか読めるとは思っていなかったのか、少女の顔は見る間に真っ赤に染まり上がった。

 

 

 

 

 

 

 

「……主は、ちょっと優しすぎる」

「そうかい?」

 

 色々と予想外から始まった魔人の少女との生活は終わりを告げた。

 いつもの木陰でのんびりしていると、膝元にいるルミナスからそんなことを言われる。

 

「……また気にしてる」

 

 よくよく少女が潜伏していた頭上の枝を見上げ、気に入らないと言わんばかりに呟かれて苦笑した。頭上にはもはやこの木の主と化したリリアナがいるのみである。

 どうやら拗ねてしまった彼女の機嫌を直すためにその頭を撫でながら、自分を倒そうと躍起になっていた少女を思い返す。

 

 ──そういえば、アイツは今どうしているのだろう。

 

 今も魔族領にてその敏腕を振るっているであろう魔人。

 きっと少女も彼の教えを受けるのであろうことを考え、何だか面白くなってしまった自分は、久方ぶりに連絡でも取ってみようかと考えるのだった。

 

 



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御主人は怒らない

「主は優しすぎると思う」

 

 特に仕事も用事もない日の昼下がり。膝元が定位置となる獣人少女、ルミナスがそんなことを呟いた。

 手元の本をパタリと閉じて、彼女へと視線を落とす。ルミナスは此方の膝に頭を預けたままで、特に見上げてきたりはしていなかった。

 

「怒る理由が無いんだから、必要も無いだろう」

「ん。まぁ、特に怒られるようなこともしてない」

「ならいいじゃないか」

「少し気になった。主が怒るとしたら、それはなんなのか」

「悪趣味だよ」

「自覚してる」

 

 何を考えているのか、とその頭を撫でてみる。そこで一先ずこの会話は終わったが──どうやら、彼女はそれではごまかされたりはしなかったようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ルミナスは考えた。あの温厚でお人好しな主人を怒らせるにはどうしたらいいのか。

 つい最近で言えば、魔人の少女に四六時中狙われていたとしても、主人は気分を害するような素振りすら見せなかった。元は彼自身が言い始めたことなので当たり前と言えば当たり前なのだが、それでもあれだけ気にくわないような態度を取られてあれだけ飄々としていられるのも珍しい。

 本人に言われた通り悪趣味なのは自覚している。優しく、大事に扱ってくれているのも大いに理解している。それならそれでいいじゃないかと言われればその通りなのだ。

 しかし、ルミナスは主人のことを知りたかった。大好きで信頼出来る人だからこそ、彼のことを出来るだけ知りたかった。

 良い面も悪い面もひっくるめて、ルミナスは主人とこれからも過ごしていきたいのだ。勿論、悪いとこを見たところで今更どうということもない。

 人の汚さは嫌というほど見てきた。奴隷に落とされた数年間はまさに地獄。心にも身体にも数え切れない程の傷を負った。それこそ、ルミナスが今こうして何の後遺症も無く過ごせているのが奇跡的な程に。

 だからルミナスには、自分の主人にどんなこと隠し事があったとしても、それを知ったとしても抱いている気持ちは変わらない。本当に悪いことをしているのだったら噛み付いて引き留めてやるぐらいの心持ち。同時に、あのお人好しが後ろめたいことをしているとは到底思えないとも考えてはいるのだが。

 

 とりあえず、うだうだ考えていても何も始まらない。頭を使うよりも身体で語るタイプだと自覚しているルミナスは、とにかく考え付くことをやってみることにした。

 

 

 ケース1:無視してみる。

 

 とにかく自分からは話しかけず、話し掛けられても何の反応も示さない。ぱっとルミナスが思い付いたこの方法をまず試してみることにする。

 

 ──朝食の席にて。

 

「ある……」

 

 朝食の準備を終え、むふーっ、と満足げに息を吐いたルミナスが主人を呼ぼうとして、早くも作戦が頓挫しかけていることに気付くルミナス。

 食事の準備は基本的にルミナスが行っている。そして毎朝主人と同居人を起こして朝食の席に皆でつくのが恒例である。

 これはいけないと考えつつ、そのまま流れで一日の流れを思い起こすルミナス。そして愕然とする。

 いつも自分から構いにもらっていっていたルミナスは、話し掛けられるよりも話し掛ける回数の方が圧倒的に多いことに気付いてしまったのだ。

 あれよあれよと言う間に、話し掛けることが多い→話し掛けられることが少ない→主は自分に興味が無いのかもしれない、と思考を飛躍させたルミナスは──

 

「主ぃぃ──!」

「おぐふっ!?」

 

 自室にて、既に起きて身体を伸ばしていた主人に勢いそのまま突撃をしてしまうのであった。

 

 ──ケース1、無視作戦失敗。理由、自滅。

 

 

 

 ケース2:だらしなくなってみる。

 

 盛大な自滅をした翌日。

 寝る寸前に思い付いた策を実行する為に、ルミナスは布団に潜り込んだままそこから出ようとはしなかった。

 いつもなら既に起きて朝食を用意している時間である。つまり完全な寝坊。朝食前にしっかり身だしなみを整えることもあり、普段よりも一時間近く行動を起こしていないことになる。

 こうしていればいつまで経っても起きてこない自分に少なからず主人は不満を持つはず。怒鳴られはしないまでもちょっとはムッとなるであろう。その顔が見てみたいが為に、ルミナスは罪悪感からくる落ち着かない気持ちを抑えて布団にこもる。先程からソワソワとしてしまう尻尾と耳はご愛敬である。

 そうして更に数分過ぎたところで部屋にノックの音が響いた。きた! と耳と尾が反応し、ルミナスは狸寝入りに入る。

 

「ルミナス? 朝ご飯の時間だよ」

 

 全く怒りの感情が見えない、いつも通りの優しい声。本当ならここでむくりと起きて甘えにでもいきたいのをぐっとこらえて、あたかもまだ眠っていたいですと寝返りを打って背を向ける。

 

「珍しいな……。ルミナス?」

 

 ぎしり、とベッドに腰掛ける音。瞼に感じる日の光が少し弱くなり、ルミナスは顔を覗き込まれていると判断した。

 あぁ、今自分は主人を困らせているだろうか。だとしたら少し心が苦しくなってくる。そんな想いを呑み込んで、眠った振りを続けるルミナス。

 無音の時間がしばらく続き、息がつまりそうになったところで。

 

「……最近はあまり構ってやれなかったかもなぁ」

 

 そんな声と共に、頭を優しく撫でられてしまった。反応しなかった自分を褒めてやりたいと瞬時に考えるルミナスを余所に、主人は優しい手付きで頭を撫で続ける。

 

「いつも頑張ってるもんな。たまには寝坊もいいだろう」

 

 ふわりと包み込むような声。大事に扱われているのが伝わる撫で方に、いつの間にか本当に眠くなってくる。

 いつしかルミナスの狸寝入りは本当の眠りへと変化していて、気が付けば────

 

「……寝過ごした」

 

 朝日どころか中天に太陽が昇る頃に、ようやく彼女は目を覚ますのだった。

 

 ──ケース2、わざと寝坊作戦失敗。理由、……寝坊。

 

 

 

 

 その後も様々な作戦を考えては実行してみるものの、主人を怒らせるまではいかない……どころかその雰囲気を欠片も見ることすら出来ずにいたルミナスは、うんうん唸りながら木陰にて頭を悩ませていた。

 ここは普段主人が天気の良い時によく木にもたれ掛かって読書をしている場所である。今はその主人が出掛けていて不在だが、主と同じ場所にいるというだけでルミナスは幸せな気分になれるのだ。……一番は、その主が使っているベッドの中なのだが。

 

「……さすがに主、手強い」

「あのお人好しを怒らせるのは難しいと思うけどねぇ」

「それは最初から知ってる」

「……なんだ、驚くかと思ったのに」

「いるの知ってた」

 

 つまらないわねぇ、と木の上にて器用に頬杖をつく人物に鼻を鳴らすルミナス。

 魔人としての性格か、そもそもの性格がそうなのか、彼女──リリアナはこうして時折人を驚かすような行動を取ることがある。今のように気配を感じ取れていれば驚くことは無いのだが、普段はわりとふわっとしているもう一人の同居人はよくよく驚かされているようだった。

 

「で、なんでいきなりこんなこと始めたのよ」

「なんでかって……」

 

 咄嗟に返そうとして、しかし人に語れるほどの確固たる理由は無いような気がして押し黙るルミナス。

 それに、語ろうにも聞かせるには多少気恥ずかしい気もする内容だ。

 取り敢えず、このまま黙ってしまうのも何か悔しいような気がして、逆に質問を返すことにする。

 

「リリアナは、主が怒ったところ見たことは」

「無いわよ?」

「無いのか……」

「なによ、失礼な溜め息ね」

 

 なんとなく聞いてみただけではあるが、もしリリアナからその話を聞ければそれで良しと出来そうな気がしていたルミナスはあからさまに落胆して息を吐いていた。別に期待していた訳では無いものの、一瞬もしかしたら、と考えてしまった故の反応である。

 頭上の糸を切って着地したリリアナが腕を組んで心外だ、と言わんばかりの態度をしても、ルミナスは別段態度を変えたりしない。

 それに対し少しだけ考え込んだリリアナは、一瞬閃いたように眉を上げる。

 

「見たことは無いけどね。経験上、あの手の人間は怒らせたら怖いわよ?」

「……?」

「ほら、普段静かな人間ほど怒らせたら恐いって言うじゃない。……興味本位であんまり困らせるようなことばっかりしてると──」

 

 そこで言葉を意味ありげに切ったリリアナは、ほんの少しだけ視線を他所にずらす。その先には件の主人が部屋でくつろいでいる姿があり、妙に芝居がかった口調は普段なら胡散臭いと切り捨てるところだったが──

 

「本当に嫌われちゃうかも知れないわよ」

 

 それまでの口調から一転、突然深刻さすら感じられる真面目な口調で言われてしまい、ルミナスの心は大いに揺さぶられてしまう。

 

「きら……嫌われ、る?」

「そうよぉ。底が抜けたようなお人好しかもしれないけど、人間どこに許せないポイントがあるかわからない。このまま貴女が今みたいなこと続けてたら、うっかりそれに当たっちゃいました、なんてこともあり得るのよ? そうなった時に、彼が許してくれる保証なんてどこにもない」

 

 いったいいつの間に作ったのか、リリアナの手には糸で作られた拳大の球体がある。それを弄びながら、やがて握り込んだ彼女は、ひとつ間を置いてにやりと見せ付けるような笑みを見せてから、

 

「いつか、貴女達の関係も」

 

 ぐしゃり、と手の中にある糸玉を握り潰し、

 

「こうなったりして」

 

 何も言えなくなってしまうルミナス。わかっていたようで、実際に言葉にされると、ましてや他の人物から言われてしまうと、それは自覚していたよりも遥かに重みを持って彼女の胸にめり込んだ。

 

「それに、人間外側を取り繕うことだってできるしねぇ。彼そういうの得意そうだし、もしかしたら手遅れってことも……」

 

 そこに更に追い討ちをかけていくリリアナ。

 最初こそ無意味だからやめとけ、くらいの気持ちで話していた彼女は、ここにきてルミナスの反応に面白さを感じていた。嗜虐心、と言うには些か可愛らしいものだが、それに近いものである。

 そして、その効果は抜群であった。

 

「……や、やだ」

「ん?」

「主に嫌われるのだけは、やだ!」

 

 尾を逆立たせて、全身に力を込めての、心からの叫び。

 自分の身体を抱きへたりこんだかと思うと、尾を股の下に通し丸め、両手で耳を抑えてうずくまってしまう。

 

「あらあら」

 

 その反応に、これは予想外と口に手を当てたのはリリアナだ。

 ルミナスが彼になついているのは目の当たりにして知っているし、その理由も経緯も当然知っている。

 しかし、この反応を見てその度合いが予想以上だと認識する。下手をすればパニックにすらなりそうな程に取り乱した彼女に、脅かしすぎたかとリリアナが頬をポリポリと掻いたところで、

 

「何をしているんだ、全く」

 

 ポン、とルミナスの頭に置かれた手。呆れたような──そして、若干の怒りのようなものを孕んだその声に、リリアナは軽く肩を竦める。

 

「アタシが見たかった訳じゃないんだけどねぇ……」

 

 やだやだ、と首を振りながらも、ひとつ謝罪だけを残してリリアナは木の上へと退散していくのだった。

 

 

 

 

 

 

「ほら、何があったか知らないけどもう安心しなさい」

「…………」

 

 部屋にルミナスを抱えて戻った彼は、いつもよりもべったりとくっついて離れない彼女を慰めるようにその背中を撫でていた。

 話の全容こそ知らないが、取り敢えず彼女が悲しむことは望むところではない。その想いから、とことん付き合ってあげようと考えていたところで、ルミナスはようやく顔を上げた。潤んだ瞳で、自らの主を見上げた彼女。

 

「嫌いに、ならない?」

「何を言っているんだ。なるわけがないだろうに」

「だ、だって、私……主、困らせた」

「最近のことを言ってるのかい? だったら、それは考えすぎだ。あれくらいで怒るほど心は狭くないよ」

「ごめんなさい。謝るから、嫌わないで」

「もう。今日はずっとこうしててあげるから安心するんだね」

「むにゅ……」

 

 そんなことを気にしていたのか、と呆れ半分愛しさ半分で両手で彼女の頬を挟んでから、全体をからかうように

 撫で回す。

 そして、その頭を胸に抱き抱えながら、彼はそういえばと数日前のルミナスとの会話を思い出しながら。

 

「……一応、成功はしているのかな?」

「……ん?」

「なんでもないよ」

 

 反応したルミナスの頭を撫でながら、リリアナのあの反応はそういうことかと苦笑する彼なのであった。

 



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渡り鳥は今日も飛ぶ

 渡り鳥である彼女は、特定の地域に留まることを基本的にすることがない。季節ともに風と共に、時には気の赴くままに。

 何事にも縛られない、雄大な空を飛び回る自由の体現者。

 

 しかし、そんな彼女は最近頻繁に羽休めとしてとある地域に訪れる。今日もまた、立派な翼を羽ばたかせながら、開け放たれている窓からひとつの部屋に降り立った。

 腕があるならば、胸の前で手を組むように翼をたたんだ彼女は、そろりそろりとその部屋にあるベッドに近付いていく。

 

「…………」

 

 そこに眠るのは、かつて自らの危機を救ってくれた一人の人間。静かな寝息を立てるその顔を、しばらくじぃっと見つめていた彼女だったが、やがていそいそと足で布団を動かし、その中へと潜り込んでいく。本来なら鋭い鉤爪を持つそれだが、彼女のそれには他を傷付けないように丸く加工されたカバーが付けられていた。

 

「……むふふ」

 

 やがて眠る人間の横にすっぽりと収まった彼女は、翼で口を抑えながらも満足そうに笑う。

 渡り鳥の鳥人である彼女は、普通高い木の上などで休息を取る。地上での戦闘能力が総じて低いとされる鳥人としては珍しくない習性だが、それでも危険が無い訳ではない。

 なので、行く先々の地域にて安息の地を求めるのもまた、鳥人の生きる術となる。

 生涯にて、番を見付けるまでは一人で過ごすのが彼女達の種族で、それまでは薄くなっていく家族の温もりを思い返しながら生きていくのが基本なのだが──

 

「暖かい」

 

 ひょんなことから、彼女は新たな温もりを見付けることが出来ていた。それを求めるがあまり、渡り鳥としては極端に活動範囲が狭まってしまっているのだが、そんなことは些末なことである。

 流石に毎日来ていると体調不良を起こしてしまうので一週間に一度程度の頻度にしているものの、身体が許すのならば毎日──それこそ、許されるのならばここで一緒に暮らしたい程度には、この温もりを彼女は求めている。

 当たり前のように一緒にいられる獣人と虫人が羨ましい。付き合いの浅い自分が何を言っているのかと思わなくもないが、この辺りの感情は理屈ではないと正当化にも似た何かであまり深くは考えようとはしなかった。

 

(眠ろう……この人が起きる前に、また空にいかなきゃ)

 

 もぞもぞと気持ち人間に身を寄せた彼女は、目を閉じて安心感と幸福感に身を委ねる。

 別に見付かってはいけない訳でもなく、実際半分公認のような形にも関わらず、彼女は人間が寝付いた後にこうしてやってきて、目覚める前にまた空へと飛び立っていく。

 ベッドには羽が残るし、何より自分のものではない暖かさが残るので人間にはもろばれなのだが、彼女にとって問題はそこではなく、単純に恥ずかしいから顔を見られたくないというだけなのだが。

 いつか、ここにいる彼女達のように真正面から向き合って、欲を言うなら羽根なんて繕ってもらえたら、なんて。

 そんな、願いというにはささやかな想いを胸に、彼女は穏やかな眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 

「あっ」

 

 それからまた一週間が過ぎた頃。

 南の方へと足を──というよりは、羽根を伸ばしていた彼女は、また同じように彼の元で休もうと北上して同じ地域に戻ってきていた。

 最近肌寒さを感じてきたなぁ、なんて想いながら滑空していたところで声を上げたのは、珍しい人物を道端で見付けたからである。正しく言うならば、その人物自体はよく見るが、一人でこうして出掛けているのは初めて見る光景だった。

 

 人見知りとも言える彼女にしては珍しく、話し掛けてみようかと高度を下げて、数秒もかからずにその人物の元へと降り立つ。

 それを見た絹のような髪を持つ虫人は、驚いたように口元に手を当てたものの、すぐに柔らかな笑顔を見せた。

 

「おはようございます。珍しいところで会いますね」

 

 向けられた言葉に、コクりと頷く。

 虹色に輝く羽を見て、なんて美しいものだろうと思わず見いってしまったせいで返事が返せなかったことを少し恥ずかしく思う彼女だったが、そんなことは気にもならなかったらしいその羽の持ち主は、腰かけていた岩から立ち上がり服の裾を払った。

 彼女──シルクは、そのままてくてくと歩いて近付いていき、持っていた篭から果物をひとつ彼女に差し出した。

 

「良かったらひとつ、いかがです? ……食べれました、よね?」

「えっ、う、うん」

「良かった。種族的に食べれなかったらどうしようかと」

 

 ニッコリと笑うシルクの瞳が柔らかな黄色に変わったのを見て、ぱちぱちと目を瞬かせる。間近でこうして見ると、ただの虫人じゃないのは明白だった。

 そもそも、虫人は鳥人が苦手なことが多い。羽の形状を見る限り蝶の虫人だと彼女は考えていたが、目の前の存在は全く自分を怖がる素振りが無いことにも困惑していた。

 近付いた後にそれに思い当たるあたり、彼女も少し考えなしでもあるのだが。

 

「そういえば、しっかりと自己紹介したことは無かったですね。私はシルク。一応、妖精族です」

「妖精……あっ、わた、わたしは」

「ゆっくりでいいですよ」

 

 一瞬呆気に取られ、慌てて自分も名乗らなければと慌てたところで、そう言われて彼女はひとつ深呼吸する。今度はしっかり、噛まないで言うことが出来た。

 

「……ヒバリ。わたしは、ヒバリ」

「ヒバリ、ですね。ふふ、ようやく名前を知れました」

 

 コロコロと笑うシルクを見て、彼女──ヒバリも、そこでようやく緊張から解放されたように身体から力が抜ける。

 悪い人では無いことはわかっていたが、何せ人見知りで引っ込み思案な彼女である。何の緊張もなく人と接する、というのはヒバリにとって簡単なことではないのだ。

 その辺りのことは、自らの経験として覚えがあるシルクが相手だったからこそ、こうして上手くコミュニケーションが取れている部分もある。シルクとしても、たまに現れるヒバリと仲良くなりたいという思いがあったのだから、この出会いは渡りに船だったのだ。

 

「良かったら、家に寄っていきませんか? 夜には来るつもりだったのでしょう?」

「……えっ、と」

「今ならお父さんもいます。たまには、起きてる時に会ってみてもいいと思いますよ」

「……め、迷惑じゃない?」

「まさか。ルミナスだって喜びますよ」

「うっ……」

 

 ルミナス。その名を聞いて、ヒバリの身体から抜けていた緊張がまた顔を出す。

 初対面の時に敵意を向けられた覚えが強く、こちらも悪い人ではないと知ってはいるものの、シルクよりも苦手意識が強いというのがヒバリの認識である。もちろん、今の生活が始まる切欠となったのがルミナスであるのも確かで、感謝をしているのも事実なのだが……。

 

「無理に、とは言いませんが……」

「……ううん。い、行く」

「良かったぁ。じゃあ一緒に」

 

 

 

 

 

 意外と押しの強いシルクに連れられて家までやってきたヒバリだったが、彼女は取り敢えず座っていてと言われた椅子に小さくなって座っていた。

 連れてきた張本人のシルクは、ニコニコ顔で父を連れてくると言ってその場から消えていた。一体何が嬉しいのかわからないヒバリには、その羽根から溢れる虹色の鱗粉が綺麗だな、くらいの感想しか浮かんでいない。……浮かんでいないと言うよりは、これから会う人物の事を思うと緊張してしまうので、半分は現実逃避しているようなものなのだが。

 

「ヒバリ」

 

 そして、自分の名を呼ぶシルクの声。びくり、と身体が反応して、そちらを向く。相も変わらずニコニコと笑う彼女の隣には、いつも寝顔しか見ていなかった彼の姿があって。

 

「やあ。こうして明るい時間に会うのは久し振りかな」

「…………!」

 

 何か返事をしようとして、上手く言葉に出来なくて。何度か口を開けては閉めてを繰り返してから、結局は頷くことしか出来なかった。それがなんだか無性に恥ずかしくて、翼に顔を埋めてしまうヒバリ。

 それを見た彼は、クスクスと笑ってからしばらくまじまじと彼女を観察するように眺めた。そうして、どうやら以前の怪我の影響は無さそうだと判断するとひとつ頷いてその頭へと手を伸ばす。

 

「元気そうで何よりだ。ちょくちょく来ているのはわかってたけどね。どうせなら、今みたいに起きてる時にでも顔を見せにおいで」

「っ……は、はいぃ」

 

 頭に感じる優しい温もり。

 いつもは、自分から触れにいって求めていた温もりが、今は向こうから触れてくれている。それがなんだか無性に嬉しくて、泣き出したいような、思いっきり飛び回りたいような。この感情を何と呼べばいいのか、彼女にはまだわからなくて。

 

 

 その日は結局その家で休むことはなく、ヒバリは夜風を切って空を飛んでいた。

 思い返すだけでも頬が熱い。こんな状況でいつものように密着して眠るだなんて、頭が茹で上がって大変なことになると断念していたのだ。

 

「────わぁぁぁーーーーっ!」

 

 込み上げてくる熱を放出するように、彼女は限界まで高度を上げて大きく叫ぶ。

 知らない感情に支配されるままに、彼女は空を駆ける。ヒバリがその胸に灯っている感情の名をいつ知ることになるかは、わからない。

 

 

 

 

 

「主は、たらし」

「なんだいいきなり」

 

 ──当の本人よりも先に、察している存在もいるのだが。




次は何を書こうか悩む。新キャラか既存か。


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その歌声は誰の為に:始

久しぶりの投稿。書いてるうちに長くなりそうだったので分割。


 パァン!! と。

 湿り気を帯びた破裂音が狭い部屋に響き渡る。

 

 ジンジンと痛む左の頬を擦りながら、尚も次の一撃を放とうとする彼女から両手を上げて数歩退いた。ぱちゃぱちゃと水音を立てて後退する自分を見て、彼女はその傷付いた尾をようやく下ろす。

 

「……警戒するなと言う方が無理か」

 

 傷付いて不揃いになってしまった尾ヒレ。傷付き剥がれ落ちてしまっている鱗。裂傷が治りきっていない肢体に、中でも目立つのはその喉だ。

 一目見て、直ぐに理解する。理解、出来てしまう。もはや、そこは手遅れだと。

 

「俺は君を助けに来たんだ。もう酷いことをする連中はここにはいないが」

 

 腰に手を当てて、今いる部屋を軽く見回す。なにひとつ衛生面に気を使っていない石の部屋。適当に吊らされた照明に、壁に取り付けられた鉄の手錠。まぁ、よくある奴隷拘束部屋とでもいうのか。

 ここまでは、全く面白くもない話だが、よくよく訪れることが多い見慣れたところだが。

 

「ここにいては良くなるものも良くならない。悪いが、無理やりにでも連れていく」

 

 バシャバシャと、今度は勢いよく間合いを詰めていく。手にはいつものように入手してある拘束具の鍵である。両腕が天井から下がる鎖に直接繋がれている。先ずはそれから外してあげよう。

 

「言葉はわかるだろう? 錠を外すから、抵抗するならその後にした方が楽だと思うぞ」

 

 先程と同じように傷付いた尾で身体を叩かれるが、最初の一撃程の力は無い。強く睨み付けてきてはいるが……衰弱の度合いはかなりのものだろう。まぁ、これだけ敵対的に強い態度を取れるあたり、強く心は持てているようだ。それがたとえ強がりだとしても。

 

「だいぶ錆びているが……よし」

 

 鈍い音を立てて外れた手錠から、まずは細い両腕が解放される。次は鉄球が繋がる、腰に巻かれた分厚い拘束具を外しにかかる……が、ここからではどうにも具合が悪い。なので、彼女の身体が浸かるその水槽(・・)へと身体を入れた。汚い水だ。どうせ交換も何もしてきていないのだろう。

 地肌に直接付けられた錆びた拘束具は、きっと美しく滑らかだったであろうその肌をひどく傷付けている。簡単には外れそうに無かったが、怒りを込めて半ば強引にこじ開けた。その拍子に指が切れたが、どうでもいい。とにかくこれで彼女を縛るものは無い。

 

「さぁ、ここを出るよ」

 

 言いながら魔術を使い、彼女がその身を委ねられる程度の水球を宙に作り出す。しばらくこちらを睨み付けていた彼女だったが、やがて自分からそこに入ってくれた。

 一つ息を吐いて、首を鳴らす。久しぶりに骨のある仕事だった……いいや、仕事はこれからか。まずは、彼女の傷をしっかりと癒すことから始めなければ。

 そんなことを思いながら、壊滅した悪徳奴隷商の根城を後にするのだった。

 

 

 

 

 

「あら、お疲れ様」

「ただいま。流石に少し疲れたよ」

「3日も帰ってこないから、娘っ子達は心配してたわよ」

「それは悪いことをした」

 

 自前の糸で作り上げたハンモックに揺られながら、蜘蛛の亜人であるリリアナが迎えてくれる。彼女の言葉通り、家を出てから3日が過ぎてのようやくの帰宅である。

 リリアナはその多眼を少し瞬かせると、直ぐに興味を無くしたように此方から顔を背けた。

 

「頼んでたプールならもう出来てるみたいよ」

「あぁ、流石に仕事は早いな。助かる」

「……わざわざ家に造ることも無いんじゃないの?」

「打てる手は打っておく。それで選択肢が増やせるのならね」

「そ」

 

 別に口出しこそしないけれど、と手を振ったリリアナに背を向けて、件のプールを頼んでいた場所へと足を向ける。

 横に浮かぶ水球の中には、眠ってしまったらしい彼女が尾を抱えて小さくなっている。あまり女性の寝顔を見つめるのは褒められたことではないが、起きている間はきつくこちらを睨み付けていた顔が、今は穏やかに寝息を立てていた。

 限界状態が長く続いていたのは想像に難くない。それでも、眠りに落ちることが出来るだけの体力が残っているのは幸いか。

 

「主。無事で良かった」

「遅くなったね。留守の間何も無かったかい」

「凄まじい寂しさの他には何も」

 

 目的の場所に着くと、そこには水際に腰を下ろして足で水を弄ぶルミナスの姿があった。口ではそんなことを言うが、すぐに駆け寄ってきたりしない辺りは、彼女も少しずつ大人になってきていると言うところか。ほんの少し寂しく思う自分に苦笑する。

 

「……すごい怪我。先に治療?」

「うん。眠ってる間に済ませてしまおう。悪いけど、シルクを呼んできてくれるかな」

「もうそこにいる」

「──おっと。随分気配を消すのが上手くなった」

 

 すぐ背後にあった存在は、そんな自分の言葉にしてやったりの顔をしながら横に並ぶ。教えたつもりこそないが、彼女の半生を思えば、気配を殺すこと自体は慣れたものなのか。

 そのきらびやかな羽を震わせる彼女は、今度は柔らかく微笑みながらその魔力の燐粉をこちらに纏わせる。使った魔力がじわじわと戻ってくるのを感じながら、傷付いた彼女を水際に優しく下ろす。

 

「お父さんは休んでいて下さい。私がやりますから」

「任せるよ。治癒魔術ならもう教えることは無いね」

「聖女様と王女様の直伝、ですから」

 

 いつからか魔術を本格的に学び始めた彼女。どの属性にも色にも染まる魔力と、手足どころか指先のように操れる細やかなコントロール。そんな生まれもったと言っていい才能に、高水準の魔術を操る二人の教えによって、彼女の治癒魔術は短期間で恐ろしいまでの進歩を見せている。こうして、何の不安もなく治療を任せられることは、自分にとっては嬉しい誤算となっていた。

 

「まだまだ、力不足ではありますけど。あの人達の背中どころか、影も見えないくらい」

「贔屓目に見てもあいつらは人類最高峰の存在だ。そんなのは当然さ」

 

 しかも、魔術に関してはあの二人よりも遥か高みに魔女の存在がある。まともに目指せばその理不尽さに心を折られるような、そんな連中なのだ。こんなことを言ってしまえば元も子も無いが、最初に目指す目的にするような存在ではない。

 ……それでも、将来その道をシルクが選んだとして。いつかは彼女達と肩を並べることも不可能ではないだろうと思ってしまうのは、親の贔屓目なのだろうか。

 

「なにしんみりしてる。主も早くお風呂入って休むべき」

「ん……そうだね。あとは任せてもいいかい?」

「心配ない。何かあれば容赦なく起こす」

 

 言葉こそ乱暴だが、ルミナスは此方が遠慮をしないような言葉を選んでくれた。きっと本当に心配はいらないだろうし、何かあれば彼女は言葉通りに叩き起こしてくれるだろう。

 最後に二人の頭を軽く撫でてから、自分はその場を後にすることにした。

 

 

 

 

 

 

「ふむ……」

 

 パラパラととある資料を捲りながら小さく唸る。

 無事に家に帰ってから数日経ち、一先ずの懸念であった彼女の保護という目的は達成したと言える。

 今回の仕事はギルドからの直接依頼であり、その始まりは漁師達によるちょっとした噂からだった。

 この辺りの海には、一月に一度程女性の歌声が聴こえてくることがある。その歌声が響いたその日から、海に出没する魔物達の活動が穏やかになり、比較的安全に漁をすることが出来る。漁師達はそれを一定の周期にして漁の頻度を調整していたらしいのだ。

 漁師達はその歌声の正体こそ知らないものの、実際に自分達が安全に漁が出来ることの感謝として、とある場所にちょっとした社を作り、月に一度貢ぎ物をそこに捧げていた。それが次の月には必ずそこから無くなっていることから、漁師達はその歌声の主を守り神としてありがたく思っていたのだが、あるときから歌声がぱったりと聴こえなくなってしまう。

 すると、海の魔物達は一月と経たずに暴れ始め、とてもではないが安全に漁なんて出来なくなってしまう。明確に漁獲量が減り、人的被害の報告も出始めたことを重く見た組合がギルドへと依頼。何とも不透明な内容に動かす人間を吟味した結果、ギルドは自分へと白羽の矢を立てた、と言うわけだ。

 

「主、お茶」

「あぁ、ありがとう」

 

 唸る自分の手元に、カチャリとカップが置かれる。

 

「何かわかった?」

「今の時点では、なんとも」

「……珍しい」

「そうでもないさ。毎回と言っていいくらい、俺は悩んでばかりだよ」

 

 尾と首を同じ角度に傾けるルミナスに苦笑しながら、好みの味に淹れられた紅茶を口に含む。

 

「参考までに、少し聞かせて」

「……まず、彼女の種族はローレライ。見た通り水棲の亜人だね。水中を自由に泳ぎ回れるし、陸上でも呼吸が出来る少し特殊な呼吸器を持っている」

「うらやましい」

「代わりに、足が無いから地上での活動範囲は限られるけどね」

 

 水棲亜人の中には完全に水陸両用の種もいるようだが、それは置いておくとして。

 

「ローレライの逸話としては……二面性が激しいね。共通するのは、種を通して素晴らしい歌声を持っていること。その歌声は聴く者を良くも悪くも魅了してしまう。過去にはローレライ一体に武装艦隊が壊滅させられたこともあるらしい」

「え、歌声だけで?」

「魅了と一言だけで言えば簡単だけど……聞き入った者の行動をある程度思った方向に仕向けることが出来るようだね。純粋に眠らせたり、陽気にさせたり、惑わせたり……」

 

 魅了と言うよりは、催眠に近いものがある。しかし、下手な催眠よりも質が悪い。何せ、聴こえてくるのは素晴らしい歌声なのだ。何も知らなければそこに危機感を持つことは不可能であり、知っていたとしても、余程でない限りはその声に集中してしまうだろう。防ぐのは難しいと言わざるを得ない。

 

「……じゃあ、危険な亜人?」

「そうとも言えない。言ったろう? 二面性が激しいって。ローレライがその歌に敵意を込めるのは、海を荒らすようなことをする存在に対してのみ。反対に、海を大事に扱い、敬意を持つような相手には、その歌声は文字通り美しい歌声でしかないのさ」

 

 そして、今回に関しては、歌声が聴こえなくなった時期から魔物が活発化している。つまり、

 

「件のローレライ……まぁ、十中八九彼女のことだろう。彼女は、その声で海の魔物を沈静化させていたんだ。そんな彼女がならず者に捕まってしまい、魔物達は好きに暴れ始めた……まぁ、そんなところだろう」

 

 これが、事件というか、今回の騒ぎの顛末だ。

 そして、問題はこれから。

 

「傷は全て塞がった。普段の活動に支障が出るような後遺症も見られない。けれど……」

「…………シルクは、頑張ってた」

「勿論。シルクの治療には何のミスも無い」

 

 そうだ。今回は、シルクが彼女の治療をやってくれたが、そこには何の問題も無かった。あれだけの傷口を、何の傷痕も残さずに綺麗に治したのだ。あれ以上の治療は、あの場では望めなかった。

 事実、問題が発覚した時に、無理を承知で聖女に診てもらったが、

 

「……可哀想だが、どの道手遅れだ。仮にここに来て、すぐにアタシが手を掛けたとしても。……いいや、あの双子であろうとも、結果は変わらない。──彼女の声は、元には戻らない」

 

 そう言いながら、ショックに震えるシルクを優しく抱き締める顔は忘れられない。

 そして何より、誰よりもショックを受けているのが、他ならない本人だ。

 

「許せない。……私も、酷い目にあったけど。今、改めて思う」

「…………」

 

 犬歯を鈍く鳴らしながら言うルミナスの頭を撫でる。優しい子だ。自分よりも、人の為に怒ることが出来る。あれだけの扱いを受けた経験があるからこそ、同じ境遇にある存在への想いが強いのだ。

 

「主……」

「大丈夫。きっと、何とかするさ」

 

 その顔が悲しみに歪む前に、手を引いて頭を抱き寄せる。

 君が悲しむ必要は無い。誰が悪いかと聞かれれば、それは間違いなく彼女を捕らえた悪徳奴隷商だ。そして、彼等は今までの報いを受けている。同情の余地は無く、全ては終わってしまっている。

 

「……こういうとき、私は悔しい。私は、何も出来ない。あの人に、何も言えない」

「そんなことは無いよ。……ルミナス。君はシルクの傍に居てあげて。代わりでは無いけれど、彼女のことは俺に任せて欲しい」

「……わかった」

「頼んだよ」

 

 強めに頭を撫でて上げると、ルミナスはこちらの胸に強く額を押し当ててくる。

 この信頼を裏切る訳にはいかない。伊達に修羅場を潜ってきたわけではないのだ。培った知識と、繋いだ人脈をフルに活用して、この問題を解決してみせよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて、改めて喉を見せてくれ」

「……なんのために

「勿論、君の声を治す為だ」

むりだって、いったじゃない

「それはアイツの見解であって、俺はそうとも限らないと考えている。まだ何もしてない内から諦めることは無いだろう」

「…………」

 

 小さく、歪み、滲んだ声。正直なところ、聞き取るのも苦労してしまうような声だ。

 きっと、本来の彼女の声は、万人が聞き惚れる美しいものだった。それが、

 

「希望を捨てないでくれ。きっと、何か手が──」

 

 彼女が、息を吸った。瞬間、鳥肌が経った。咄嗟に、耳を指で塞ぎ、

 

 

「うるさいっ!!」

 

「っ!!」

 

 音の衝撃。全身を鞭で叩かれたような衝撃が襲い、巨人の掌が叩かれたかのように水面が弾けた。

 それは正しく、破壊の慟哭。咄嗟に耳を塞がなければ、どんなダメージを負っていたかわからない。

 彼女の声は、単に美しさが失われただけではない。全てを魅了する歌声を生み出す喉が、破壊をもたらす破滅の歌声へと変わってしまったのだ。

 

「ほっといてよ……」

 

 自分が生み出した音の余波に愕然としたように一瞬呆気に取られた彼女は、両手で顔を覆って肩を震わせた。

 そして、ついには深く作られたプールの中へと逃げるように潜っていってしまう。

 

 それを呼び止める言葉を、今の自分は持っていなかった。

 

 

 

 

 



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その歌声は誰が為に:続

リハビリでひっそり(小声


 ──とある日。

 

「身体の具合はどうだい」

 

 水をかけられる。取り敢えず身体には問題無いらしいとポジティブにとらえた。

 

 ──また、ある日。

 

「良い魚が手に入ったんだ。どう料理するのが好みかな」

 

 顔だけ出してじぃっと魚を見つめている。どうやら魚は好物らしい。

 少し目を離すと彼女は魚と共にその場から消えていた。

 

 ──そのまた、ある日。

 

「凄い雨だけど! 平気なのかな!」

 

 雨音に負けないように声を張り上げると、ばしゃりと手だけが水面から飛び出してきた。そして、いいからあっちに行け、と言わんばかりに振られて、また水中へと去っていく。

 どうやら、この程度ならどうということも無いらしい。

 

 

 

 そんな、果たしてやり取りと言っていいのかわからないコミュニケーションを取り続けて早半月が経った頃。

 

 

「寂しくなったものだ」

 

 波打ち際。少し前まではそこそこに賑わっていた砂浜の海岸線は、今ではすっかり閑散としてしまっている。

 天気が悪いわけでも、海の機嫌が悪いわけでもない。穏やかな波は静かに砂を動かすばかりであるし、ふわりとした雲は青空に転々として、気ままに風に乗るばかりの空模様だ。

 だというのに、ここにはひとっこひとり存在しない。

 何故か。その答えは単純に、ここが魔物の出没域として立ち入り禁止区域に指定されてしまっているからである。

 

「思っていたよりかは、状況は深刻……か」

 

 彼女の歌声が、どれだけこの海に影響を及ぼしていたかが分かる。何を思って歌っていたかはわからない。ただ単純に、歌いたいから歌っていただけなのかもしれない。

 しかし、その歌が海の平和を創っていたことは疑いようがない。

 幸い、近辺にいる魔物は少し腕に覚えがあるような者なら対処できるレベルでしかないが、それもこの状況が続けばどうなるか。

 

 ──そもそも、彼女が元通りに歌えるようになったとして、前と同じようにここで歌うとも限らない……どころか、きっとそうはならないだろう。

 

 ローレライという種族は、妖精族と同じように俗世から離れた存在である。

 彼女達に、此方の事情など知ったことではない。

 極論、海が魔物で溢れようとも海そのものが平和であるなら彼女達はそれで構わないのだ。

 

「ここまできたら、もう別問題として考えるか」

 

 自分の仕事は、今も尚深い場所にいる彼女を救い出すこと。その後に彼女が人間に見切りをつけるとしたならばそれはそれ。

 身勝手な思想で声を奪われた彼女に、また同じように歌ってくれ、なんて。そんなことを言うくらいなら、それこそ、そんな喉こそ潰れてくれて結構だ。

 

「……まぁ、今もやってることは変わらないのかもな」

 

 ボリボリと頭を掻いてから、踵を返す。

 あの日から彼女は徹底してこちらを拒絶したままだ。

 彼女の声を取り戻そうとして、試行錯誤の果てに可能性のようなものは見えてきた。後は、彼女自身がそれを受け入れてくれたならば、少なくともどうしようもない状況からは抜け出せる。

 

 しかし、果たして本当に彼女が望んでいなかったとするならば。

 今やっていることは、ただの好意の押し付けになってしまっていないのか。それは、こちらの都合で歌ってくれと頼み込むことと、一体何が違うのか。

 

「…………」

 

 考えようとして、止めた。

 この仕事を始めようとして、同じように悩んだことを思い出す。心の底から拒否されたその時、それを無理やりに救い出すことは、果たして正しいことなのか。

 悪意か善意かの違いがあるだけで、やっていることはこちらの都合を押し付けているだけなのではないか。

 悩んで悩んで、結局たどり着いた答えは。

 

「俺が救いたいから、救い出す。……それだけだったな」

 

 偽善者上等。やりたいことをやるだけ。

 ……元より自分はそんな人間なのである。久しぶりに強く拒絶されたからか、そんな簡単なことすらも少し忘れていたようだ。

 まずは助ける。不当な状況から救い出す。そこから先は……まぁ、なるようになれ、と言ったところか。

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 また来たのか、とでも言いたいのだろう。

 敵意こそその瞳からは感じないが、代わりに呆れたような眼差しを向けられて苦笑してしまった。

 彼女を保護してからもう一月は経つが、毎日毎日懲りもせずに同じ顔を見せられては呆れもするだろう。

 それでも、有無を言わさず拒絶されていた今までに比べれば進歩したと言える。少なくとも、取り敢えず話だけは聞いてくれそうなのだから。

 

「…………」

 

 つい、と。磨かれた石の上に指を滑らせる彼女。そこに浮かび上がるのは、水で形作られた文字達である。

 

 ──助けてくれたのは感謝してる。今までの態度も謝る。ごめんなさい。

 

「謝る必要もないけれど、受け取っておくよ。それで、話を聞いてくれるのかな」

 

 ──声のことなら、もう大丈夫。きっと、ずっと私の声を治そうとしてくれていたのもわかってる。貴方の顔、疲れてるもの。

 

 ぴっ、と指で水を弾かれて、頬の辺りにかけられる。目の下のクマのことを言っているのだろう。いよいよ疲れが見た目に現れているのは否めない。

 

 ──もういいの。泣きたいほど悲しいけれど、失ったものは戻らない。子供じゃないもの。受け入れて生きていく。

 

「そう言ってくれるな。せっかく糸口が掴めたんだ。君さえ協力してくれるなら、どうにかなるかもしれない」

 

 ──期待させないで。ようやく、納得できそうになってるのに。

 

「……確かに、完全に失ったものは戻らない。けれど、君の声はまだそこにある。今の状況を受け入れようとする君の心は尊いけれど、ひどく悲しいものだ。それに囚われて、今ある可能性まで捨て去ることは無いだろう?」

 

 自分の言葉に、彼女の目付きが鋭くなった。

 言いたいことはわかるので、先んじて更に言葉を重ねる。

 

「もう一度言おう。君の声は、失われた訳じゃない。その形が変わってしまっただけで、まだそこにあるんだ」

 

 水面が弾けた。上半身を水際に乗せていた彼女が、その尾びれを強く叩き付けたのだ。

 紛れもない怒りの行動だが、ここで怯んでいては話が進まない。閉じた口を、もう一度開く。

 

「どうせ諦めようとしているなら、自分の現状を受け止めるんだ。その上で、前向きに考えて欲しい」

 

 腕が引かれた。肩が抜けそうな程に。

 ついで、視界が大量の泡に包まれて。自分の口からも、いくらかの空気が泡となって出ていった。早い話が、彼女が自分を水中へと引き込んだのだ。

 

 太陽の光がまだ届いている。

 自らを捕らえた彼女の姿は、美しい。

 あれだけ傷だらけだった身体は、もうそこにはなく。その歌声と心以外の傷は完全に癒えていた。

 

 だからこそ。

 

しつこい男ね

 

 その整った顔立ちで、穏やかに笑う。

 傷だらけの心を剥き出しにしたその笑顔は、ひどく痛々しくて──息が出来ない水中とは関係無く、胸が苦しい。

 

 彼女の手が、首に伸びてきた。

 その手が、指が、躊躇いなく、此方の喉に掛けられて。

 

だったら、貴方も私と同じ立場に立ちなさいよ

 

 食い込んだ。

 首が絞められる苦しみよりも、喉に食い込む指の痛みの方が激しい。

 その力に容赦はなかったが、猶予はあるようだった。

 彼女は選べと言っている。

 どうしても関わるのならば、その喉を、声を潰せと。

 それが出来ないならば、私に関わるなと言っているのだ。

 

 ──時間にして、ほんの数秒だっただろうか。

 

 少し前ならば、考える必要も無かった。当然のように、彼女に喉を差し出していた。

 けれど、ほんの少し躊躇ってしまったのは──やっぱり、守る者が出来てしまっていたからだ。

 彼女達が、怒って、悲しんで、きっと傷付いてしまうだろうと思ってしまうと、どうしても簡単にはこの身は投げ出せない。

 

 けれど、それでも。

 

「…………」

 

 目の前で此方の首を絞めている彼女に、最早笑みは無い。じっと、じぃっと見詰めてくる彼女のその手に、自分の手を重ねた。

 抵抗ではなく、それでいいなら、と。

 苦しむ顔は滑稽だろうが、彼女の問に、答えを出した。

 

「…………わかった、わよ

 

 そして──

 

 その手がパッと離された瞬間に、その立派な尾びれで、強かに顔を打ち抜かれた。

 水中だというのに身体ごと動かされたその衝撃に、一瞬思考が吹き飛ばされ、それから回復する間もなく彼女は自分を抱き抱えて水面へと浮上する。

 そのままぽいっと陸へ投げられ、色々な痛みに苦しむ自分の横に、彼女もその身を投げ出すように寝そべってきた。

 

そういう自己犠牲は嫌いよ。でも、ありがとう

 

 呼吸が落ち着いてきたところで、ぺちぺちと尾びれで顔を叩かれる。

 

どの道、貴方に救われた身だもの。諦めたから、好きにしてちょうだい

 

 ほんの少し、ひねった言い回しに笑ってしまう。

 濡れ鼠で咳き込みながら笑う自分を、彼女は眉を下げて、困ったように笑いながら背中をさすってくれるのだった。



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