フォフォイのフォイ (Dacla)
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入学前 死日和

 彼女は睨んでいた。青空に刺さる煉瓦の煙突を。

 指揮棒のような「魔法使いの杖」を握る手にも力が籠もる。すでに二度、彼女はその「魔法」に失敗している。もし三度目も失敗したら、すぐにその場を立ち退かされてしまう。

 煙突に向けて杖を振り、彼女は叫んだ。

「インセンディオ!」

 煙突の先から勢いよく炎が吹き出した。

 

「おめでとうございます! 素晴らしいです」

と、脇にいるアトラクションのスタッフが声を上げた。

 三度目の正直で「魔法」を成功させた彼女が、得意げに振り返った。俺はその笑顔をスマホの画面に納めた。

「撮ってくれた?」と彼女。

 もちろん、とスマホを見せつつ、次の順番を待っていた小学生に場所を譲る。

 

 大阪、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン。映画『ハリー・ポッター』の世界を模したエリアは、この日も盛況だった。

 連休を利用しての大阪旅行でUSJを訪れたのは、彼女たっての希望だった。大阪城と新世界くらいしか観光先を思いつかなかった俺も、異論は無かった。紳士のテーマパークこと飛田新地に行きたいとは、さすがに交際相手の女性には言えない。

 

「見てるだけじゃつまらないでしょ。次のポイントは代わりにやってもいいよ」

 はい、と杖を差し出された。屋外型アトラクション「ワンド・マジック」専用の杖は、お値段四九〇〇円。高い。

「いいよ、俺は」

 往来で棒を振って魔法ごっこをするのは、三十も間近の男には気恥ずかしい。

「だったら何か乗りたいの、ある?」と今度は園内マップが広げられた。

「フライング・ダイナソー乗りたい」

「ハリポタエリアで、何か乗りたいの、ある?」

「……何でもいいよ」

 

 彼女は『ハリー・ポッター』シリーズの熱烈なファンだった。俺が映画第一作でリタイアしたと知るや、旅行前の予習と称して、原作小説と映画ブルーレイの全巻をまとめて押しつけてきた。

 不遇な環境で育った少年ハリー・ポッターが、魔法使いのための学校、ホグワーツに入学してから経験する、ダークでシニカルでスリリングな青春物語。

 世界的にも人気な物語だが、俺には今一つ主人公に感情移入できなかった。予習も、旅行出発日の前に早送りと流し読みで消化しただけだ。お陰で寝不足だ。

 

 日中いっぱいをUSJで過ごし、夜にはのぞみで東京に戻った。アパートに荷物を置いて、友人宅にバイクで駆けつける。

 旅行帰りに慌ただしいことだが、仕方ない。友人からただならぬ様子の連絡を受けていた。なんでも、妻子が実家に帰っている間に相談に乗ってほしいということだった。

 しかし直に話を聞いてみると、「妻が不倫しているのを知ってしまった。どうしよう」という相談だった。

 知るか。俺は独身だ。

 

 気の利いたアドバイスが出来ない分も愚痴を聞き、友人宅を引き上げた頃には日付が変わっていた。

 思ったよりも消耗したのか、バイクを転がしながら意識が途切れそうになった。一瞬眠りかけたと気付いた時には遅かった。

 目の前に黄色い光。衝撃。

 見えない巨人に体を吊り上げられ、振り回され、叩きつけられた。

 痛みを感じる前に何もかも消えた。

 

          ◇

 

 目を開けると、柔らかな光が見えた。

 レースのカーテン越しに差し込む日光が、白い天井を照らしている。肌に当たる布の感触が心地よい。

 どうやら俺はバイク事故を起こして、病院に運び込まれたらしかった。最後に見たものから想像するに、交差点出口に設置されているライトか、その手前のクッションドラムに衝突したのだろう。

 

 誰も巻き込んでいませんように。

 バイクはどうなった。

 保険の書類はどこだ。

 職場に連絡、は、状況を聞いてからにしよう。

 ――というか、今は何日の何時だ。

 

 身を起こしてナースコールのボタンを探した。

 そこは病室というより、老舗ホテルの客室に近い雰囲気の部屋だった。ベッド横のサイドテーブルには水差しとグラス。磨き上げられた木の床の上の分厚い絨毯。木目まで黒光りした壁際のワードローブや書き物机。アンティークな柄の壁紙に掛かった、立派な額縁の洋画。

 

 肝心のナースコールは見つからず、裸足のままベッドを下りて扉に向かった。痛みは無かった。事故でアスファルトに叩きつけられたはずなのに、怪我一つ無かったとは奇跡だ。ただし、感覚と動作のずれに違和感がある。

 その時、扉が向こうから開いた。

 

 ドアノブよりも背の低い、二足歩行の生き物がそこにいた。

 大きな目と視線が合った。見開かれた目は顔の半分を占めるほど。無毛の頭から飛び出した耳が尖っているのもあいまって、チワワを連想した。人間だとしたら大変申し訳ないが、人間ではない醜い生き物に見えた。ヨーダかゴラムか。目が大きいからゴラムだな。

 

 俺が一歩踏み出すと、相手は荷物を放り出して廊下に飛び退った。

「奥様、坊ちゃまがお目覚めになりましたよ。奥様!」

 甲高い声を上げて、その生き物は一瞬で姿を消してしまった。

 

 開いたままの扉から、俺も外に顔を出してみた。

 長い廊下。やはり大きな建物のようだった。そこかしこに俺のいる部屋と同じ木の扉が付いているから、ホテルじみた印象は変わらない。しかし非常口を示す緑色の表示や、非常ベルの赤いランプといった、公共施設にあるべきものは見当たらなかった。

 

 俺は足元に落ちている服を拾った。せっかくアイロンが掛かっていたのに、ゴラムもどきが放り投げたせいで乱れてしまった。畳み直して、いつも服をしまってあるワードローブの中の棚に収める。

「ん?」

 他に収納家具は無いから、ワードローブに片付けるのはおかしくない。それでもなぜ俺は、そこが「服をしまう場所」だと確信できたのだろう。

 

 自分を取り巻く環境に不審を覚えて頭を振ると、横に誰かがいた。

「うおっ」

 気配もなく隣に立たれたことに驚くと、相手も同時に身じろいだ。よく見ればそれはワードローブの扉の裏に取り付けられた鏡だった。つまり隣にいると思ったのは、鏡に映った俺自身だ。そのはずだが、鏡の中にいたのは見知らぬ白人の少年だった。

 

 小学校中学年くらいだろう。淡い色の金髪に、薄い灰色の瞳。不細工ではないが、癇の強そうな、憎たらしい顔をしている。アラブ人の着る服のようなゆったりした白い寝間着を着ていて、肌の生白いもやしっ子ぶりが際立つ。

 髭の感触がない自分の顎を撫でると、鏡の中の少年も尖りぎみの顎を触った。

 

 俺の両親は日本人だ。祖父母も曾祖父母も、それ以前の代も、ずっと百姓をやってきたような日本人だ。当然俺も黒い髪に黒い目のモンゴロイドなわけで、コーカソイドでございと主張するような外見ではない。そもそも子供に若返るわけがない。

 しかし俺は、鏡に映る姿が今の自分だと理解することで、逆に落ち着いた。要するにこれは他人になった夢だ。現実の俺はきっと、バイク事故からまだ目を覚まさずに昏睡している。

 夢の中で夢を見ていると自覚する状態を、明晰夢という。これまで何度か体験したことはある。夢の状況をコントロールできたことはないが、状況を楽しむことはできる。

 

 ――よし、夢だ。

 

 まもなくして、一人の女性がガウンの裾を翻して部屋に飛び込んできた。やや険があって神経質そうだが、まず美人と言える金髪の白人女性だった。

 女性は、俺を見るなり上から覆い被さるように抱きついてきた。

「ああ、目が覚めたのですね。良かった。あなたは丸一日ずっと眠っていたのですよ」

「何があったんですか」

 俺は「母親」に尋ねた。その女性が少年の母親であるという認識(夢の中の設定というべきか)は、なんとなく浮かんでくる。たとえそれが無くても、女性が少年の額や頬に触れる時の仕草で分かる。

 

「覚えていないのね。あなたは昨日、杖を握った途端に卒倒したの。どこか痛いところはない? 気分はどう? お母様に教えて」

「大丈夫です。苦しいので放して下さい」

 少年の母は、息子を解放する代わりにベッドへ押しやった。

「顔色は良いようだけど、先生が診て下さるまでまだ寝ていなさい。アビー!」

「はい、奥様」

 女性の呼びかけに応じて、先ほどのゴラムもどきが現れた。

 

「すぐにカンフォラ先生をお呼びして。それからスープか何か、消化の良い物を持ってきてちょうだい。ああ、まずは紅茶かしらね」

「かしこまりました」

 恭しく一礼した後、アビーは戸口近くの床を見回した。

「服ならしまったよ」

 

 俺が告げるなり、アビーはワードローブに飛びついた。そして中の棚を見て叫んだ。

「何ということを! 坊ちゃま、なんということをなさるのです。アビーの仕事を奪われるなんて!」

 その剣幕に思わず「ごめん」と謝ってしまう。相手の金切り声はますます甲高く耳障りになった。

「ハウスエルフに謝られた! 奥様、坊ちゃまはご病気でいらっしゃいます!」

「アビー。命じられたことを早くなさい。罰を受けたいの?」

 女主人の冷ややかな声に、アビーは落ち着きを取り戻した。改めて一礼すると姿を消す。

 

 女性は溜息を吐き、俺に目を向けた。

「主人たるもの、ハウスエルフの仕事を奪ってはいけませんよ。自分で服を片付けてしまったのは、彼らの存在意義を否定したに等しい行為です。あなたも理解していると思ったけれど」

「気を付けます」

 女性や俺の意識が乗っている少年は主人で、アビーは使用人。階級や身分差という、現代日本では意識する機会のないものが、ここでは絶対だった。昔のヨーロッパの貴族みたいだな、と思った時に気付いた。

 俺たちは最初から英語で会話していた。

 

          ◇

 

 夕食には、俺の意識が乗った少年とその両親の、家族三人が揃った。

 

 この建物は富裕層向けの病院でもなければ、老舗のホテルでもない。少年の生家だった。日本のテレビに登場する「豪邸」などお呼びでないほどの屋敷であることは、食事前に探険して確認した。

 例えるなら『ゴスフォード・パーク』や『日の名残り』の世界、『キングスマン』の本部。日が落ちてからの雰囲気は『ロッキー・ホラー・ショー』じみたところもある。要するに貴族の住むような邸宅だった。

 

 そこの主人である男性も貴族的な雰囲気があった。

 綺麗に撫でつけたプラチナブロンドの髪と、灰色の薄情そうな目。鏡の中に見つけた少年とよく似た顔立ちで、親子であることは明らかだった。

 その冷たい目がこちらを――彼の息子をじっと見据えている。食事がしづらい。

 

「それでカンフォラは何と?」

 尋ねた父親に、母親が医者の見立てを伝える。

「体は健康そのもの。倒れたのは、初めて持った杖から魔力の反動を受けたことに対する過敏反応で、間違いないそうですわ」

 

 そう、魔力だ。

 日中に往診に来た中年男性は、指示棒のような物(この夢では「杖」と呼ばれるらしい)で少年の体を撫でた。体調を調べるにあたり、「杖で魔力の流れを探る」ためだそうだ。その後の問診で、てんかんや脳出血の可能性も疑っていたので、男性が単なるスピリチュアル系ペテン師だったとは言い切れない。付き添っていた少年の母親が平然としていたので、この夢ではそれが常識なのだろう。

 

 だいたいこの家庭からして奇妙だった。

 人間ではない生き物を使用人として使っているのもそうだし、屋敷には電化製品やコンセントが見当たらなかった。服装にしても、どこがどう変とは指摘できないが、女性も男性も(そして寝間着から着替えさせられた俺も)時代錯誤な印象を受けた。それがこの屋敷では当たり前だということは、少年の「記憶」から読み取れた。

 それなら時代劇の夢を見ているのかと、居間に置いてあった新聞(当然ながら英文だった)を見たら、日付は一九九〇年の六月。九〇年といったら、東西ドイツが統一した年とか、ソ連でゴルバチョフが大統領になった年とか、現代史的にはその辺りだったはず。日本ではバブル経済が崩壊する寸前だ。

 なのに手元の新聞に掲載された男性の写真は、人物部分が身動きしているように見えた。その動きは滑らかで、シート状の液晶で動画をループ再生しているとしか思えなかった。

 年代設定と技術水準がちぐはぐすぎる。

 だが夢には夢の理屈がある。今のところ、無理にその理屈に逆らう気はない。夕食に出された鴨のコンフィが旨いので、逆らう理由もない。

 

「その過敏反応というのは一生続くのか」

「一過性の反応だそうで、杖に慣れてしまえば問題ないというお話でした。カンフォラ先生も、次に杖を持たせる時だけは立ち会いたいそうです。そこで何もなければ、普通に魔法を使わせても大丈夫だと」

「魔法が使えないわけではないのだな」

 父親はワインを口に運んで、深く息を吐いた。

「ならば良い。来年には学校に上がるというのに、マルフォイ家とブラック家の血を引く男児がスクイブだった、では洒落にならん」

 

 聞き覚えのある単語に、俺は噎せそうになった。

 日中から何度も呼ばれていた少年の「ドゥレイコゥ」という響きの名前を、「ドレイク」だとばかり思い込んでいた。しかしそれがマルフォイという家名と結びつくなら話は別だ。カタカナ表記では「ドラコ」が正解だったのだ。

 ドラコ・マルフォイ。すなわち『ハリー・ポッター』シリーズの登場人物。主人公ハリーの同期生で、何かとハリーに突っかかる小物の悪役。それが、この夢の中で俺に与えられた役割だった。映画を吹き替えで見たせいで、正しい発音を知らなかったのが勘違いの元だったな。

 俺の意識が乗っている少年がドラコだとしたら、男性はその父親のルシウス・マルフォイ、女性は母親のナルシッサ・マルフォイということになる。

 

 どうでもいいことだが、この屋敷に電化製品が存在しない理由も判明した。『ハリー・ポッター』における魔法使いの暮らしが、そういうものだからだ。時代錯誤だと感じた服装は、いわゆる魔法使いの伝統的な服装、ローブだった。

 もちろん屋敷の外に出れば、そこには普通に九〇年代のイギリスの社会が広がっているだろう。多くの人々に隠されているだけで、現代社会にも魔法や怪物は存在する。それが『ハリー・ポッター』の基本設定の一つだ。

 

「大丈夫か、ドラコ」

 先ほどより和らいでいる男性の目を見返し、俺は慎重に質問を選んだ。

「父上、学校というのは、もしかしてホグワーツですか」

「そうだ。だがホグワーツが嫌なら他校でも構わん。ダームストラングはどうだ。少し遠いが、良い学校だぞ」

「私は反対です」

 いきなり女性が会話に割り込んできた。

 

「ダームストラング校は海外です。遠すぎます。言葉も違いますし、食事が合わなかったり苛められたりしたらどうするのですか」

「心配性だな、ナルシッサ。あそこの校長は知り合いだ。ドラコに目をかけてくれるように頼めばいい」

「毎年クリスマスカードをくれるカルカロフさんね。けれどホグワーツにだってセブルスがいるわ。私たちも卒業生だから学校の勝手は知っているし、何かあればすぐに駆けつけることもできます。安心ですよ」

「ホグワーツの校長はダンブルドアだ」と、男性は忌々しそうにナイフを動かした。「あの老いぼれが校長である限り、良い教育環境とは言えん」

 夫の反論を、妻は笑い飛ばした。

「それならあなたが理事か監査役になって、ドラコのために環境を整えて下さいな。今でさえクィディッチチームの面倒を見ていらっしゃるのだから、不可能ではないでしょう。それとも、OBとして後輩の面倒を見る時間はあっても、息子のために使う時間はお持ちでないのかしら」

「チームの後援は卒業生としての援助範囲だ。学校運営まで関わりたくない」

「ですが国内の魔法使いのほとんどは、ホグワーツ出身ですよ。将来のことを考えたら、ドラコには国内の学校に行かせるべきです」

 

 男性は不意に俺のほうを向いた。「ドラコ。おまえはどうしたい」

 俺は口の中の物を飲みこむ間に考えた。

 

 二人の会話に登場した固有名詞からしても、この夢が『ハリー・ポッター』の物語を下敷きにしていることは間違いない。

 物語の大部分は、主人公が在学するホグワーツの校内で展開する。身の安全や心の平穏を求めるなら、物語の舞台から遠ざかるのも手だろう。

 

 ただし、それは俺の役回りがドラコ・マルフォイではない場合の話。

 

 原作では、父親のルシウスが主人公の宿敵ヴォルデモートの部下だったため、物語後半ではドラコも悪の手先として散々にこき使われる。

 部下の面倒見が良いタイプのボスだったら、まだ良かった。だがヴォルデモートは、恐怖と暴力で支配するタイプの暴君だ。下手を打てば殺される、不興を買えば殺されるという危機感で従っていた部下が大半だった。もっとも、従わずに抵抗しても殺されるのだが。

 そんな中、マルフォイ家の三人が最後まで五体満足に生き残れたのは、他のキャラクターと比較しても奇跡だった。かつて裏切った主との縁を切ることができずに、パワハラを受けて萎縮していく父親。自分と家族の命を握られ、父親の代わりにヴォルデモートに顎で使われる息子。家族のためにヴォルデモートを欺き、結果的に主人公の逆転勝利のチャンスを作り出した母親。三人とも、いつ死んでもおかしくないポジションにいた。

 

 おっと。物語の結末に思いを馳せるのは気が早いな。

 とにかく、ドラコというキャラクターが物語と無縁でいることはできない。父のルシウスがボスと距離を置いたところで、母ナルシッサに、ヴォルデモートに心酔している姉がいるからだ。二人の息子である以上、どこにいてもヴォルデモートの影響を受ける。

 

 それなら与えられた椅子を蹴っても仕方ない。この役どころを選んだのは、無意識とはいえ俺自身だ。だからこう答えた。

「ぼくもホグワーツがいいです」

 どうせ夢なら、舞台上の特等席から楽しんでやろう。

 




Bathory "A Fine Day to Die"


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化けの皮一枚・1

 

 ある所にドラコという男の子がいました。

 ドラコは、名家の当主である父と、同じく名家出身の母の間に生まれました。

 そのため父の薫陶を受けて選民意識と加虐嗜好に染まりつつあり、母の溺愛を受けて甘ったれた傲慢さと狡猾さを身に着けつつありました。とは言え、まだ深刻なものではなく、「意地悪で嫌な感じの子」という程度でしたが。

 

 ドラコには魔法の素質がありました。

 驚くことではありません。両親ともに先祖代々ずっと魔法使いでしたから、その息子も魔法を使えて当然だと思われていました。

 十歳の誕生日に、ドラコは両親から杖を贈られました。杖は魔法使いの意思を具現化するための大切な媒体、相棒です。

 杖を使った魔法を学ぶのは、学校に入ってから。そしてドラコが学校へ入学するのは二夏も先でしたが、両親は魔法に親しむ機会を早めに与えたのでした。マグルの家庭でも、就学前の子供に文字の書きかたや数の数えかたを覚えさせるのと同じです。ちなみにマグルとは、魔法を使えない、その知識のない者のことです。

 

『お誕生日おめでとう、ドラコ。今までお母様が使ってきた杖を譲りましょう。大切に使いなさい』

 母の横で、父も穏やかな顔で息子を眺めています。

 

 手渡された箱の中には、一本の杖がつやつやと輝いていました。杖を振るって魔法を使う両親を見てきたドラコには、それが未来へ続く扉の鍵に見えました。

『これがぼくの物になるのですか?』

 息子の確認を不満と取ったのか、父がやや不機嫌に言いました。

『学校に入学する時におまえに合った物を選んでやる。それまでその杖で練習しろ』

 

『父上、母上、ありがとうございます』

 ドラコは父の機嫌をそれ以上損ねないように、急いで杖を箱から取り出しました。ところが杖を握りしめた途端、あっと叫んで気を失ってしまいました。

 

 ――そして翌日目を覚ました時には、中身が俺に成り代わっていましたとさ。

 

「ちゃんちゃん」

 俺の呟きを、近くにいた母親が耳聡く拾った。

「何か言いましたか、ドラコ」

「いいえ、母上。何も」

 

 ドラコ・マルフォイになった夢は、夢の中で一晩経ってもまだ続いていた。

 喋ったり体を動かそうとする意識は俺のものだが、少年の肉体に蓄積された「経験」が自動的なフィルターとなって、ドラコらしい振る舞いには苦労しない。とくに口から出るのが上流階級のイギリス英語なのはありがたい。俺自身のカタカナ発音のアメリカ英語だったらやばかった。ご都合主義万歳。

 ちなみに俺自身のものと同等にはっきり掘り起こせる「知識」に比べると、「ドラコの記憶」はやけに淡かった。それこそ起きた途端に忘れてしまう夢のようだ。もっとも「記憶」に頼らなくても、取り繕うことは余裕だろう。原作知識と、四半世紀分を超えた人生経験と、「衝撃を受けて一日意識不明だったことによる記憶の混乱」という言い訳がある。

 

 俺の前には、ドラコが母から譲り受けた魔法使いの杖が置かれている。手を伸ばして触ろうとしたら、母親に遠ざけられてしまった。

「いけませんよ。カンフォラ先生がいらっしゃるまで待ちなさい」

 一人掛けのソファに座る父親が、ステッキを模した自分の杖の杖頭を撫でながら言う。

「そうだぞ、母上の言う通りにしろ。今度は倒れるだけでは済まないかも知れんぞ」

「ドラコを怖がらせるのは止して下さいな」

 

 やがてカンフォラ氏が到着した。

 前日にドラコ少年を診察したこの男性は、『ハリー・ポッター』原作で「癒者」と訳されるところのヒーラーである。マルフォイ家のホームヒーラーだそうで、つまりはこの家のかかりつけ医だ。

 

 カンフォラは改めてドラコの体を診察して、少年の両親に(主に父親に向けて)説明した。前の晩にナルシッサが要約して夫に伝えたことと同じだ。

 曰く、ドラコが倒れたのは、杖から受けた魔力の反動に、刺激に慣れない体が過敏反応してしまったため。一度も杖を握ったことのない子供が、初めて杖を握った時に稀に起こす反応である。魔力の豊富な子供や、魔法の感受性が強い子供に見られる反応で、杖との相性とは直接関係ない。新品の杖を軽く振っただけで魔力の反応が溢れ出す現象と、原理は同じと考えられている。

 そういう話だった。

 

「丸一日も眠り続けた症例は珍しいですが、後遺症は認められません。まずはドラコくんの肉体が魔力に慣れたか、一昨日と同じ杖で確認したいのですがよろしいですか」

 両親はヒーラーの提案を了承した。

 件の杖の元々の持ち主だった母親が、杖の調子を確かめてからこちらに差し出してきた。

 

 受け取っても異変は感じない。

 三人の大人が固唾を飲んで見守る中、杖を軽く振ってみる。

 やはり杖は、見た目通りのただの木の棒だった。映画のように火花が華やかに散ったり、二日前のドラコが受けたという衝撃をもう一度味わったり、そうした劇的なことは起きなかった。

 ステッキに似た父親の杖、シンプルな棒のヒーラーの杖も触ってみたが、何もない。

 

 俺の左右で、両親が深く息を吐いた。

「良かった。ドラコも何ともないようですし、これで安心ね」

「確かに一過性の症状だったな。ドラコ、魔法を使ってみろ」

 誰でも使える初歩の浮揚魔法とやらを、その場で教えられて試した。

 

 何も起きなかった。

 何度やっても、誰の杖で試しても同じだった。

 

 USJで売られている「ワンド・マジック」が使えないほうの杖だな、という冗談は黙っておいた。とてもそんなことを口に出来る雰囲気ではない。

 落胆する両親をカンフォラが慰めた。

「才能のある子でも最初から成功するとは限りません。ご子息がまた倒れなかったということで、とりあえずは良しとしましょう」

 

 その言葉に頷いた二人だったが、彼が帰った後、血相を変えて俺に魔法を教え始めた。

「杖の構えかたはこう。それをこう動かす」

「呪文の唱えかたは合っています。恥ずかしがらずにはっきり発音しなさい」

 二人の真剣さに飲まれて俺も本気で練習したが、それでも羽毛一つ浮かせられなかった。溜息で吹き飛ばしたほうが手っ取り早い。

 

 虚しい努力を続ける俺の横で、父親と母親が言い合いを始めた。

「ひょっとして杖の相性が悪いのか」

「そんなはずありません。癖のない素直な杖ですよ。あなただって、ご自分の杖より私の杖のほうがドラコに使いやすいと仰ったでしょう」

「しかし私の息子がこんな初歩で躓くなどありえん。私が初めて杖を握った時には、難なく成功した魔法だぞ」

 そうぼやくと、父親はこちらを見下ろした。

 

「おまえは本当に私の息子か」

 

 その乾いた視線に身が竦んだ。投げかけられた言葉も辛うじて疑問形ではあったが、一切の温度がなかった。

 ドラコ役を演じるのは簡単だと思っていたが、大間違いだった。父親は、息子の中にいる赤の他人に気付いている。単に確証がないからそう言わないだけだ。

 

 愕然とする俺を抱き寄せ、母親が声を荒げた。

「聞き捨てなりませんわね。少し手間取ったくらいでその仰りようはあんまりです。この子は間違いなくあなたの子。誰が見たってそっくりな親子なのに、こんな時だけ他人扱いなんて卑怯です。ドラコだって可哀相に、こんな固まってしまって。それとも私のほうに責任があると仰りたいの? それなら結構です。ドラコは私一人の子として、ブラック家を継ぐ男子として育てていきます」

 妻の剣幕にルシウスはたじたじとなった。

「そういうつもりでは無かったんだ。悪かった、ナルシッサ。……ドラコも」

 

 夫からの謝罪に、まだ鼻息は荒いもののナルシッサは矛を収めた。それから腕の中にいる息子の髪を撫でた。

「大丈夫ですよ。あなたはお母様とお父様の子。魔法だってすぐに使えるようになりますからね」

 どうだろうな。

 俺は懐疑的だった。確かに原作のドラコは魔法を使えていたが、今ここにいるのは、中身が俺という別人だ。

 

          ◇

 

「まあ。駄目だったとは意外ですね」

 俺が魔法を使えなかったことを報告すると、グラブラ夫人は目を丸くした。

 

 ドラコ少年は小学校に通っていない。

 そもそも魔法使いの子供のための小学校が存在しない。ホグワーツ魔法魔術学校は中等教育にあたり、その手前の初等教育は家庭で行うのが一般的らしい。

 経済的に余裕がある家は家庭教師を雇い、そうでなければ親が教える。裕福なマルフォイ家は複数の家庭教師を雇っていた。グラブラ夫人は、その中で最もドラコと付き合いが長い。ちなみに教わっているのは、いわゆる「国語」の範囲だ。他の科目は別の教師がついている。

 魔法の基礎だけは両親が教える方針だったようだが、俺のせいで初めの一歩から躓いてしまった。

 

「こつが掴めないだけで、スクイブではないでしょうが、ご両親もご心配でしょうね。ちょっと私の杖でも試してごらんなさい」

 持たされた杖で魔法を試してみるが、やはり何も起きなかった。

 夫人は「まあ入学まで一年もありますしね」と杖を取り上げて服にしまった。

 

「ミセス・グラブラ。世間的にはスクイブはどういう扱いを受けるのですか」

 スクイブという言葉の意味は、原作知識として知っている。しかし登場するスクイブのキャラクターが少ないので、どういう目で見られるのかが、今一つ想像できない。そんな俺の質問に、夫人は困ったような微笑みを浮かべた。

 

「魔法界とは魔法使いの社会です。もちろん人魚や巨人など他の種族もいますが、基本的には魔法を使う者が中心となって作り上げてきた、魔法を前提としたコミュニティです。ところがスクイブは、魔法使いの両親の間に生まれた、先天的に魔法の素質がない者。喩えるなら、渡り鳥の群に生まれた、一羽だけ飛べない鳥です。呪具を駆使すれば魔法を使えないこともある程度はごまかせますが、生まれながらの落伍者ということは覆せません。ですから、魔法の存在を前提としていないマグル社会に移ったほうが、その人にとっては幸せかも知れませんね」

 どうやら社会的弱者として見られているらしい。

 

「もし、ぼくがこのまま魔法を使えなかった場合、スクイブと判断されるのでしょうか」

「後天的に魔法を使えなくなる者もいるでしょうが、あなたがそうだと決まったわけではありません。さあ、授業を始めますよ」

 

 その日の授業を終えた後、グラブラ夫人はドラコの母親と何かを相談していた。

 スクイブかも知れない生徒などごめんだ、という話か。それとも、スクイブだった時のために地元の小学校に転入させてみろ、という話か。

 

 二人の様子を廊下から窺っていると、書斎から父親が出てくるのが視界の端に入った。声を掛けられる前に走って部屋に逃げた。

 彼の薄灰色の冷たい目で見下ろされると、居心地が悪くなる。こちらには、ドラコのふりをしていることを彼に勘付かれている引け目がある。できるだけ接触は避けていた。

 

          ◇

 

 ある夜、部屋で勉強していると母親がやってきた。

「ドラコ、少しいいかしら」

「どうぞ」

 母親はベッドに腰掛け、隣を軽く叩いた。中一人分ほど空けて俺も座ると、小さく笑われた。

 

「ドラコは最近急に変わりましたね。大人びて、我が侭も言わなくなって。杖を手にする前と後では別人だわ。一人前になろうとしているのだったら良いけれど、違うのでしょうね。ハウスエルフへの態度さえ変わったもの。私の息子は、杖を持って倒れた時に何を見たのかしら」

 

 母親にも疑われていた。

 誰だよ、余裕でごまかせるとか調子こいた奴は。

 家に仕えるハウスエルフに普通に接したのがいけなかったか。

 

 原作同様、この夢でもマルフォイ親子はハウスエルフのドビーをいたぶっていた。いつかドビーに刺されるか、それとも折檻の末にドビーが衰弱死するか鬱で自殺するのが早いか、という扱いだった。

 しかし俺は自分の家のために働いてくれる人(正確には人間ではないが)を虐待したくなかった。なのでその点だけはドラコらしく振る舞うことを放棄し、「使用人にも気さくな坊ちゃん」となることにした。

 それで疑念を招くことは想定内だ。俺は反論に掛かった。

 

「倒れた時のことは、正直まったく覚えておりません。ですが、その後で魔法を使えないと分かってから色々と考えました。ぼくがスクイブだと確定して、母上たちに疎まれたらどうしようか。出来損ないは要らないと、家から追い出されたらどうするか。生きていくために働きたくとも、学歴のないスクイブを雇ってくれるところはあるのか」

 母親は口元にそっと手を当てた。俺は言い訳を続ける。

「それを考えれば、ハウスエルフへの接しかたも変わります。もしかしたら彼らの下で働くことになるかも知れませんから。家を追い出されずに済んでも、魔法学校には行けません。魔法を諦めて地元のマグルと同じ学校に行くなら、これまでの勉強では不十分です。だからこの先どうなるかは分かりませんが、勉強だけはしておきたいのです。ぼくが変わったとしたら、そういうことでしょうね」

 半分は方便だ。勉強と称して部屋に引きこもっているのは、父親と顔を合わせる時間を減らすためだ。

 

「ドラコ……。一人でそんなことを悩んでいたの」

 母親は息子に寄り添い、肩を抱いて引き寄せた。

「あなたはちゃんと魔法を使えます。覚えていないでしょうね。三歳になる前は、杖無しで魔法を使っていたのよ。子供部屋の家具を宙に浮かせてきゃっきゃと笑っていました。すぐに自制を覚えさせたけれど、確かにあなたの身に魔力は宿っています。今はまだ魔法が成功しなくても、それは杖を与えた私たち親の責任。ドラコが気に病む必要はありません」

 そう言うと彼女は息子の額にキスを落とした。この様子なら俺への疑いは晴れたか、少なくとも保留になっただろう。

 

「ですが、父上がぼくをお疑いでしょう」

 探りを入れてみる。母親は目を見開いた後、眉を顰めて息を吐いた。

「やはり気にしていたのね。本当に自分の息子か、とお父様が言ったことが。あれはお父様の本心ではありませんよ。むしろあなたに期待しているからこそです」

「そうでしょうか」

 俺を見るルシウスの薄灰色の目は、いつも冷たい。氷もドライアイスも通り越して、いっそ液体窒素の温度だ。

「そうですよ。お父様も言い過ぎたと悔やんでおいでです。だからお父様を避けないであげて、一度じっくりお話ししなさい」

 それは気が進まない。じっくり話したら最後、おまえは誰だと問い詰められる気がする。

 

 母親は黙り込んだ息子をあやすように囁いてきた。

「たとえお父様が何を言おうと、ドラコはお母様が守ります。大丈夫、大丈夫ですよ。今度のホリデーで綺麗な景色を見て、のんびり過ごしましょう。きっと気分も晴れますよ」

 

 毎夏、避暑を兼ねてマルフォイ家は旅行に出かける。今年は知人に招かれ、湖水地方で過ごすという話だった。

 



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化けの皮一枚・2

 ドラコ・マルフォイというキャラクターになった夢が始まって、体感時間で一ヶ月が過ぎた。

 

 その間、一度も俺自身の肉体で目を覚ますことはなかった。こうなるともはや自覚した邯鄲の夢だ。

 

 一月の間にあった変化といえば、ナルシッサを夢の中での母親として見ることに抵抗がなくなったこと。そして父親のルシウスから逃げ回るのが上手くなったくらいだ。

 俺の正体に勘付いている彼をどうやったら誤魔化せるか、いい案が浮かばない。魔法が使えるようになったら、掌を返して「さすが我が息子」と言い出しそうだが、日々の練習の成果は出ていない。

 

 もし原作のようにヴォルデモート派の復権があったら、と考えると更に気が重くなる。魔法の使えない俺はいびられた揚げ句、自殺に追い込まれるかも知れない。それならむしろ今の内に「おまえなんか息子じゃない」とマルフォイ家から追い出されたほうが、平和な夢人生を送れそうだ。

 

 そんな漠然とした不安を抱えつつ、夏を迎えた。

 

 家庭教師の授業も休みに入り、マルフォイ家の三人は湖水地方に飛んだ。

 俺も魔法での長距離移動を初めて体験した。

 

 移動に使われたのは、原作でも登場した複合魔法だ。出発地点から姿を消す「姿晦まし」と、目的地点に到着する「姿現し」。二種類の魔法を組み合わせることから察するに、歪曲させた高次元空間なり亜空間なりを通るワープの一種だろう。

 

 内臓が裏返るような素敵な余韻を味わいながら、俺はそう分析した。一時間連続でジェットコースターに乗り続けるよりも辛い跳躍だった。

 お陰で目的地の地面を踏んだ途端、強烈な乗り物酔いに立っていられず、その場に蹲って胃の中の物を全て吐いてしまった。

 

 頭上で両親が会話を交わしている。

「まったく、やわな奴だ。酔い止めは飲ませなかったのか」

「飲ませましたわ。昨夜寝るのが遅かったのかしら」

「立て。ここにいるとマグルの目に触れる」

 

 父親は俺の腕を取って、強引に立たせた。

 ワープ、もとい移動魔法の出口は藪に覆われた木立の中だったが、木立の向こうに人影がちらほら見えた。湖水地方は夏向きの観光地だ。人目が多いのは仕方ない。

 

 俺は母上に手を引かれて、朽ち果てた二本の枯れ木の間を抜けた。

 するとたちまち視界が開け、湖を背にした館が現れた。周囲の景色を邪魔しない、こじんまりした建物だった。

 

 後ろを振り返ると、二本の枯れ木があったはずの開けた場所に、一対の門柱が立っているだけだった。藪も木立も遙かに遠い。観光客の姿は木立の更に向こうに遠のき、ほとんど見えなかった。

 俺たちは一般人には意識もできず侵入もできない、ある種の結界の中に入っていた。ちなみにマルフォイ邸も同じ種類の魔法で外界から守られているので、ドラコとしては驚かない。

 

 玄関のノッカーに触れるより早く、館から年配の男女が出てきた。二人とも俺たちと同じようなローブを着ていて、魔法界に属していることが分かる。

 

「皆様ようこそお越し下さいました。マルフォイ様、そしてナルシッサお嬢様!」

 女性のほうがルシウスへの挨拶もおざなりに、その妻の両手を握り包んだ。

「遠いところをよくお運び頂きました。この館に本家の方を再びお迎えできるとは光栄でございます」

「お嬢様は止して。私はもう嫁いだ人間よ」

と、母上は微笑んだ。

 

 元々この館は、彼女の実家であるブラック家の別荘だった。それが遠縁にあたる夫婦に払い下げられたのだという。

 ブラック家はイギリス魔法界で名を知られた旧家だった。しかし本家筋で世間と付き合いがある者は、今はもうナルシッサしか残っていない。そのため他家に嫁いだにも関わらず、ブラック家ゆかりの貴婦人として招かれる機会が多い。つまりこの湖畔の館に住む夫婦にとって主賓はナルシッサであり、ルシウスとドラコはそのおまけに過ぎない。

 

 館に通されると、大きく取られた窓から湖が間近に見えた。

「結構な景色だ」と、父親が感心したような声を上げた。その割に目は冷ややかで、態度も淡泊だった。

 

 館の主人は客の世辞にもニコニコ笑い、その立地を自慢した。

「そうでしょう。毎日見ていても飽きませんよ。マグルもこの湖には近づけないので、静かなものです。ニジマスもいましてね。釣りをされるなら道具をお貸ししましょう」

「なるほど。気が向いたらそうさせてもらおう」

 全くその気はなさそうだった。

 

 俺は主人に話しかけた。

「湖では泳げますか? 水着を持ってきたのですが」

「ドラコくんは泳げるんですか」

「教えた覚えはないが」と、父親の素っ気ない声。「水着など持っていたのか」

「綺麗な湖の近くに滞在すると聞いて、この前母上に買って頂きました。泳ぎを教わった覚えはぼくもありませんが、何とかなるでしょう」

 薄灰色の目が俺を見下ろした。「吐いたばかりなのだから、今日は止めておけ」

 そんな忠告が小学生男子に通用するかよ。

 

 ティータイムの後、さっそく水着に着替えた。湖までは徒歩二十秒。

 

 水に触れた途端、硬質な冷たさに心臓と玉が縮む。だが、こちとら小中学生の頃は川で泳いでいた海なし県育ち。冷水には耐性がある。すぐに慣れた。

 ドラコの体は確かに泳ぎを知らなかったが、俺の意識で強引に動かしているうちに、ぎこちなさは消えた。途中、岸辺に現れたドラコの両親に手を振る程度の余裕はあった。

 

 テニスコート四面ほどの湖を独り占めして泳ぎ回る。仰向けになれば、薄曇りの空が視界一杯に広がった。午後の太陽は雲の陰だ。

 

 しばらくして水から上がると、父親がデッキチェアを持ち出して新聞を読んでいた。

「もう終わりか」と紙面から目を上げずに彼は言った。

「一休みです。母上は?」

「ここの夫婦と一緒に散歩をしている」

 子供が一人で泳いでいるのだから、大人が見守るのは自然なことだ。しかしルシウスと二人きりにされるのは、俺としては避けたい。突然豹変して「息子を返せ」と首を絞められたらかなわない。

 休憩もそこそこに切り上げて、桟橋から助走を付けて飛び込んだ。

 

 泳いでいると、不意に右足に激痛が走って硬直した。痛みを堪えながら岸辺に戻ろうとしたら、今度は左足まで攣った。

 

 ――あ、やばい。

 

 動かない両足が鉄の枷となって体を水中に沈めにかかる。冷静に力を抜いて浮こうとしても、鼻から水が入って体のほうがパニックになった。足を着こうにも底は深くて届かない。両腕で水面を叩き、もがく。俺の周りだけ湖が荒れ狂う。開いた口から湖が流れ込んでくる。湖に飲まれる。

 

 溺れ死ぬ夢なんて見たくはなかった!

 

 不意に腕を掴まれた。それを引っ張られたかと思うと、胴回りを何かに締め付けられた。ざばりと水音が聞こえ、顔が空気と再会した。反射的に激しく噎せる。

 水を吐き出す俺の体は、誰かに抱えられたまま移動を始めた。抱えてくれている人の体温が、そのまま生の実感になった。

 助かった。

 

 水際に着いても両足は攣ったままだった。その場に崩れ落ちて咳き込んだ。助けてくれた人が地面に膝を突いて、背中をやや乱暴に撫でさすってくれた。

「大丈夫だ。ドラコ。もう大丈夫だ」

 どうにか落ち着いて顔を上げると、傍らにいたのは父親だった。全身ずぶ濡れだ。乱れた髪からも重く濡れそぼった服からも、ぼたぼたと水滴が落ち続けている。先ほどまで着ていたローブもない。

 

「馬鹿者が。調子に乗るからだ」

と、父親は立ち上がった。その視線の先には、デッキチェア横の彼の杖。ひょいと指を動かしてそれを引き寄せると、父親は服と髪を乾かした。

 ついで彼が目を向けたのは桟橋だった。湖に突き出した桟橋の端に、ローブが投げ捨てられている。裾が水面に触れて揺れていた。

 それも手元に引き寄せて元の紳士然とした格好を取り戻すまで、俺は馬鹿面で眺めていた。

 

「何という顔をしている」

「いやあの……ありがとうございました」

 礼を言うと、ドラコの父親はふんと鼻で笑った。

「子供を助けるのは親の務めだ。そんな意外そうな顔をしなくてもいい」

「どうして魔法を使わなかったのですか、ぼくを助ける時に」

 生粋の魔法使いなのだから、桟橋を走って水に飛び込む必要はなかったはずだ。

 

 虚を突かれた表情で、父親は手の中の杖に目を向けた。そして「思いつかなかった」と苦笑を浮かべた。

「おまえとナルシッサを助けるためなら、火を噴くドラゴンの口に飛び込んでも構わん。どんな時でも、とは言い切れんが、手の届く範囲で助けてやる」

「ごめんなさい」

 申し訳なさに俯いた俺を、父親の手がぎこちなく撫でた。

 

 もしかしたら俺は勘違いしていたのかも知れない。目の前の男性の目が冷たいのは元々で、息子に対して疑問を抱いていなかったとしたら。母上の言う通り、ただの言葉の綾だったとしたら。そうしたら俺はなんと失礼な態度を取っていたことだろう。

 

「ぼくはあなたの息子ではありません」

 

 手が止まった。

 思わず出てしまった本音を、俺は慌てて取り繕う。

「その、ぼくは魔法が使えません。ドラコ・マルフォイなら出来て当然のはずのことが出来ないんです」

 

 咳払いしてから、父親は口を開いた。

「馬鹿なことを言うな。おまえは私の息子だ。たとえ一生魔法が使えなかろうが、それは変わらない。名家にもスクイブは生まれるし、スクイブの親から生まれる魔法使いもいる。第一おまえは、ドラコ・マルフォイにしか出来ないことを既に成し遂げているだろう」

 

 はて。何だろう。

 

 俺が瞬きすると、彼は軽く微笑んだ。

「私を父と呼び、ナルシッサを母と呼ぶ。私たちの息子にだけ許された行為だ」

 

 彼は、妻同様、息子の中身を疑ってなどいなかった。俺がすべきだったのは、彼を警戒することではなく、息子として接することだったのだ。この夢の中では二人が俺の親なのだから。

 

 彼は取り繕うようにローブの裾を払った。

「溺れたことは母上には黙っておいてやるから、今日はもう上がれ。明日も泳ぐつもりなのだろう?」

 息子が溺れたことを過保護の傾向がある母上が知ったら、遊泳禁止を言い出すことは明らかだった。べつに俺は水が怖くなったわけではないから、明日以降ももちろん泳ぎたい。

 

 少し考えてから俺は父上を見上げた。

「明日は二人で釣りをしませんか」

「……いいだろう」

 父上は目を細めて笑った。

 

 そうして翌日、二人で湖畔から釣り糸を垂らした。

 後で聞いたところによると、湖水地方での釣りは有料ライセンス(入場料)を取る所が多いそうだ。館のプライベートレイクのようなこの湖では、そんなものは関係なく釣り放題だった。

 釣果は、俺がブラウントラウト五匹にパーチ二匹。父上がブラウントラウトとパーチを三匹ずつ、レインボートラウト一匹だった。二人とも初めてにしては上々だろう。アマゴやイワナといった俺自身の川釣りの経験は、この際ノーカウントだ。館の亭主にも誉められた。

 

 ところがその次の日は揃ってボウズという情けないものだった。母上からは「ビギナーズラックでしたね」と非情な評価を受けた。

 俺と父上は顔を見合わせて肩を竦めた。




In Flames "Underneath My Skin"


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空の蟻・1

 芝生が足裏から離れていった。

 跨っている箒が勢いよく飛び上がり、視界が一気に上昇する。

 握った柄の角度を変えれば、箒は思うままに宙を滑った。

 林の上を軽く流していると、屋敷からドラコの両親が出てくるのが見えた。俺はそちらへ飛んでいった。

 二人の驚く顔が早く見たかった。

 

          ◇

 

 湖水地方への旅行を経て、ドラコの両親と家族でいることに抵抗はなくなった。今のところ二人も、息子の中身を疑う様子はない。今の状況を客観的に見ると、少年の体を生き霊が乗っ取ったようなものだが、これが夢であることを踏まえれば、何も奇妙な点はない。俺自身が物語の登場人物になったとしても、他人の人生を生きることになったとしても、深く悩む必要はない。

 

 それはさておき、重大な問題が片付いていなかった。

 魔法学校で主人公に張り合う役柄なのに、魔法が使えない問題だ。

 

 ホームヒーラーのカンフォラ氏は、その原因を「杖を握って倒れた時のショックを体が覚えていて、魔法を使うことを無意識に避けているから」だと推測している。身に覚えのない恐怖が原因だと言われても、俺には対処のしようがない。

 母上が魔法の使いかたを熱心に教えてくれているが、こつは掴めないままだ。一方、父上は「無理に覚えようとして覚えられるものでもないだろう」と長期戦の構えだ。ハウスエルフの態度は変わらない。ただ何となく、微妙に腫れ物扱いを受けている気がする。

 

 八月中旬になると、魔法の練習は中断された。更に、俺はまだ魔法使いの杖を持ったことがないことにされた。

 マルフォイ邸にクィディッチのスリザリンチームが滞在するからだ。

 

 クィディッチは言わずと知れた『ハリー・ポッター』作中のスポーツ。この夢の中でも人気がある。ホグワーツでも学生の課外活動として取り組まれ、学生寮ごとに編成される四チームが競い合う。そして愛寮心を煽る寮対抗戦には、卒業後も関心を持ち続ける者が多い。

 スリザリン寮出身の父上も、チームの後援活動の一環として、数年前から夏期合宿に屋敷を提供していた。なお、普通は学外でチームとして集まることはない。練習やメンバー選抜は新学期になってから始めるものだ。

 

 そもそもクィディッチは広いコートで行われる空中競技だ。練習場所の確保が難しかった。箒で空を飛び回っても周囲に迷惑が掛からず、非魔法使いに目撃されない場所。それが一番の条件だ。

 その点、マルフォイ邸の敷地は東京ドーム単位で数えられるほどに広い。芝生の庭の周辺には森が広がり、その敷地には非魔法使いの認識を逸らす「マグル除け」の魔法が掛かっている。空を飛ぶ姿を森の向こうから目撃されても、鳥と誤認されるだけ。十分なスペースのある練習場所としても、部屋数の多い合宿所としても最適だった。

 

 若者たちは、大きな荷物と競技用箒を抱えてやって来た。それをマルフォイ家の三人は玄関ホールで迎えた。

「ようこそ」と、父上は後輩たちに鷹揚に挨拶した。

「今年もご好意に甘えさせてもらいます」キャプテンだろう。体格の良い男子学生が代表して挨拶した。

 彼以外の学生たちも想像より行儀が良かった。学生たちはキャプテンの配った部屋割り表に従い、静かに二階の客室に分かれていった。ミーティングをしたら、早速練習に入るそうだ。

 

 階段の手すりに凭りかかっていた俺に、何人かは「久しぶり」と声を掛けてくれた。ホストファミリーの一員として、俺も愛想良く挨拶を返しておいた。

 母上はというと、学生たちが消えた途端に無表情になった。本音では学生たちを受け入れたくないのだ。屋敷が汗臭く泥だらけになるのが嫌だそうだ。自宅を部活帰りのサッカー部の溜まり場にされることを喜ぶ女性はいないだろう。しかし父上の手前、我慢している。

 

 父上が学生チームを後援するのは、愛寮心や学閥内での人脈強化だけが理由ではない。マルフォイ家に対する世間のイメージが良くないので、それを回復するためには慈善活動や社会奉仕が不可欠なのだという。

 イメージが良くない最大の理由は、ルシウス・マルフォイ自身がヴォルデモートの部下だった過去にあるだろう。ただしこれは原作知識による推測だ。「なぜ印象が良くないのですか」と聞いたら、「子供は知らなくていい」というお決まりの台詞で打ち切られた。

 

 ミーティングが終わっただろう頃に、庭に出てみた。

 芝生に人の影はあったが姿はない。

 チームは空中を飛んでいた。かなりの高所だ。青空に点在した黒い影がちょこまかと動いて、蟻のようだ。

 

「おまえもあれくらい飛べたら良かったな」

と、俺は傍らの白孔雀に話しかけた。

 

 この家では真っ白な孔雀を放し飼いにしている。初めて目にした時は、思わず二度見してしまったものだ。

 白孔雀は俺を無視して地面を啄んでいた。羽根を持たない生き物が自分たちの領域を飛び回っていることなど、気にしていなかった。

 

 しばらくすると母上と、ワゴンを押したハウスエルフがテラスに出てきた。ワゴンには氷で覆われた幾つかの水差しと、沢山のグラス。運動部への差し入れだ。

「まあ、こんな暑い所で見ているのですか」と母上は声を上げた。「湖で真っ赤に日焼けしてひいひい言っていたのに、もう忘れたの?」

「忘れましたね。夏は暑いものです」

「呆れた子ね」

「坊ちゃま、お飲み物をどうぞ」

 

 会話の合間に、コビーがグラスを差し出してくれた。コビーはマルフォイ家に仕えるハウスエルフのまとめ役だ。普段は父上の身の回りの世話や、家全体の管理を統括している。いわば執事のポジションにいるが、料理人でもある。

 夢の最初に俺と遭遇したアビーは、洗濯や母上の身の回りの世話を中心に行うメイド。原作にも登場するドビーは、その他雑多な仕事を請け負う下男という分担だ。その三人で、リゾートホテル並に広い屋敷の環境を維持しているのだから、大したものだ。

 

「このレモン水、塩を入れたんだな」

「お気に召しませんでしたか」

「いや、汗を掻いた人たちへの差し入れとしては正解だよ。あの人たちこそ、ずっと日向で動いているから」

 

 練習を眩しそうに見上げていた母上が、

「ドラコもクィディッチに興味があるのですか」

と尋ねてきた。

「そうですね。今はクィディッチよりも、空を飛ぶこと自体に関心があります」

 空を飛ぶ。いかにも夢らしい行為だ。箒に跨ると股間に全体重が掛かって痛そうだが、それでも空中を移動するのは楽しいだろう。

 

 母上は俺の返事に相槌を打つと、「日向にいるのも程ほどにしなさいね」と言い置いて屋敷に戻っていった。

 

 やがて学生たちは地上に休憩しに戻ってきた。レモン水をふるまいながら、ドラコの年齢でも不自然でない話題を振ってみた。

「チームに監督はいらっしゃらないのですか」

 丸々とした体格の学生が答えてくれた。

「いるけど合宿には来ないよ。寮監が――ああ、分からないか――学校の先生が名前だけ貸してくれてるんだ。指導までしてくれるわけじゃないから、いつも自分たちだけで練習しているんだよ」

 

「他のチームも条件は同じだから、そこに文句を付ける訳にはいかないね」横から別の学生が話に加わった。「だから経験者が指導してくれるこの合宿は、貴重な機会なのさ」

「おまえ、おっさんたちにああだこうだ言われてうざいって、この前」

 言いかけた丸っこい学生は、肩口を殴られて黙った。

 合宿には、チームを引退した卒業直後の若者だけでなく、クィディッチに一家言を持つ二十代、三十代のOBも顔を出す。

 

「本当に、屋敷を貸してくれるマルフォイさんには感謝だよ。他の寮の連中に知られたら、スリザリンだけずるいって絶対に言われるな」

「言われる言われる。スネイプ教授が合宿に顔を出さないのだって、他寮に文句を言わせないための予防線だからな。あの人ああ見えて心配性だから」

「ああ、監督が関わってないから合宿じゃなくてただの自主トレだっていう、例の論法ね。いても役に立たないからいいけどさ」

「それ今度チクったろ。フリント、五点減点!」

「まじかよざけんなおまえ」

 学生たちの会話は果てしなく脱線していった。いいなあ青春。

 

 その後、彼らは合宿を有意義に過ごした。帰る時には、日焼けした顔を意気揚々と輝かせていた。

 

          ◇

 

 夏が過ぎると、再び家庭教師たちを相手にする日々が戻ってきた。

 

 ある日、グラブラ夫人が一人の男性を連れてきた。男性は玄関ホールで夫人と分かれ、父上のいる書斎に案内されていった。

 ロンドンから離れたウィルトシャー州の田舎屋敷でも、意外と来客は多い。この時の男性も、仕事のための口利きか投資を頼みに来たのだろうと思った。

 

 男性が新たに雇われた家庭教師だと分かったのは、その翌週のことだ。

「ドラコ。今日からこちらの先生に飛行術を教われ」

「イースカラス・タービネイト。よろしく」

 

 父上に紹介された彼は、堅苦しい雰囲気を放っていた。年の頃は二十代前半くらい。黒っぽい髪を短く刈り込み、体格の良さも相まって軍人めいている。カーキ色のローブは丈が短く、軍用のレインポンチョに見えた。後ろ手に構えている長物が、小銃ではなく箒なのが不思議なくらいだ。

 

 父上が書斎に引き上げると、タービネイトは庭に続くフランス窓に近づいた。

「早速始めよう。外へ」

 壁際に用意してあった箒を取りに行こうとしたら、「まだいい」と言われた。

 手ぶらでどうしろと。

 困惑したが、口答えするのが怖かったので素直に従った。

 

 庭に下りて、かなり屋敷から離れた所まで連れて行かれた。タービネイト軍曹はようやく立ち止まった。

「この辺りでいいか」

と呟き、自分の箒を振り回す。フォームは完全に野球の素振りである。風切り音が凄い。

 

 ――まさか、ケツバット。

 

 強張った俺の顔を見て、軍曹はにやりと笑った。



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空の蟻・2

 強張った俺の顔を見て、軍曹はにやりと笑った。

「なーんてね。びっくりした? 俺がこれで殴っちゃうと思った? そんなわけないじゃん。俺、ひ弱だからね。きみを殴ったりしたら俺のほうが骨折しちゃうから。それよりこれ脱いでもいいかな。いいよね。さっきから暑くてさ。ほらこれウールだよ、ウール。冬物の。何考えてんの、俺」

 

 ぺらぺらと喋りながら彼はローブを脱いだ。それまでの厳つい態度と雰囲気が嘘のようだった。今はただのガタイのいい陽気な兄ちゃんだった。

 

「マルフォイさんに雇われたいなら真面目にしたほうがいいって、ここを紹介してくれた人に言われてさあ。べつにいつも俺が不真面目なわけじゃないのよ。ないんだけど、ドラコくんが俺を怖がってるみたいだから、早めに素を出したほうがいいかなと思ったんだ。どうよ、さっきの俺の態度」

「……あ。えっと、適切だったと思います」

「イエー」と、タービネイトは拳を俺のほうに突き出してきた。

 いきなりのカジュアルな挨拶に面食らったが、こちらも拳の指の甲をガツンと当てた。相手は少し目を見張ってから、にかりと笑った。

 

 俺たちは早々に打ち解けた。タービネイト氏からは、愛称のイースで呼んでもいいと言われた。

 彼の教えかたは要領が良かった。箒の扱いかた、正しい姿勢、やってはいけない事。子供にも理解できるように分かりやすく実演してくれた。

 

 基本レクチャーの後、「それじゃちょっと飛んでみようか」と、イースは箒を持ち直した。

「待ってください。ぼくの箒がありません」屋敷に置いてきたままだ。

「なるほど。箒さえあれば、ドラコくんはすぐにでも飛べると」

 杖があっても魔法を使えない今の俺には、答えられない問いだ。

 

 イースは「ここに乗りな」と、箒の穂を叩いた。「いきなり一人で飛ばせるわけないって。タンデムしよう」

 バイクの後ろに人を乗せたことは何度かあるが、箒の後ろに乗るのは初めてだ。箒を跨ぐ前に、幾つかの魔法を掛けられた。

 

 まずは、高所から落下した時のために衝撃緩和の魔法は必須だという。次いで、風や埃から目を保護するために、盾の魔法を眼前に展開(プロテゴってこういう使いかただっけ)。強風や騒音の中でも会話が出来る魔法は、ツーリングの時にあると便利なインカム代わりだ。

「このへんはご両親から教わって。魔法は時機を見て親から教えるって、マルフォイさんから言われてる」

 他人から魔法を教わったところで、スクイブだと思われるだけだからな。

 

 改めてイースが箒に跨った。前のほうに詰めてくれたので、パッセンジャー(タンデマー)の俺は穂の根本に位置取りすることができた。スカスカの穂先では体重に耐えられないのではと心配していたので良かった。

 ベルトやバーのような掴まる所がないので、仕方なくイースの腰に手を回す。片手首をがっしりと握られたので、途中で落ちる可能性は低くなった。

 

 困ったのは足の置き場だった。

 穂の根本近くから伸びるステップはライダー用なので、俺が横取りするわけにはいかない。かと言って箒の両脇に足を投げ出していては、ライダーの腰を膝でグリップすることができずに安定性が悪い。

 

 どうしようか考えていたら、イースがステップを蹴って角度を変えた。「地面から浮いたらここに足を置いて」と譲られた。

「イースはどうするんですか。これが無いと踏ん張りが利かないでしょう」

「平気平気。そんなスピード出さないし、昔の人は使ってなかった補助器具だから、無くても何とかなる」

 ありがたく使わせてもらおう。

 

 位置が決まると、飛行術のコーチは「それじゃしっかり掴まって」と言うなり地面を蹴った。

 箒が浮いた。

 

 それと同時に体重を感じなくなった。空に引きずり上げられるようで、慌ててライダーの胴体にしがみつく。

 それからしばらくは、地上二メートルほどの高さを、飛行というより空中散歩ののんびりさで飛んだ。

 

 俺が慣れたのを確かめて、箒は高度と速度を上げた。

 空に突っ込む。

 風が耳元でバリバリと叫ぶ。

 バイクで馴染みのある感覚に近い。体幹の使いかたも同じだ。

「どう?」と怒鳴る声が耳元で聞こえた。前からも千切れ飛んできた。

「最高です!」と怒鳴り返した。

 

 イースはしばらくマルフォイ邸の敷地の上を流してくれた。高度が下がり始めた時には、思わず文句を言うくらいには楽しかった。

「もう少し飛びましょうよ」

「駄目! 寒い! 俺もう限界!」

と叫ぶのを聞いた時には、ローブを脱いだからだと一瞬だけ呆れた。しかし彼はパッセンジャーの俺に、掴む所と視界を提供してくれたのだった。

 

 地面に降り立つと同時に重力が戻ってきた。草を踏んだ足に、ずん、と体重がのし掛かる。

 

 ローブを急いで纏うと、イースは飛行前に掛けた魔法を全て解除した。飛行中は杖を使わないのが彼のポリシーだという。

「時間的に今日のレッスンはここまでだね。どうだった」

「楽しかったです。本当に」

「そりゃ良かった。ドラコくん、体重移動が上手いね。センスあるよ。来週からはきみの箒を使って練習するよ。人に教えるのは初めてだから、分かりにくいところがあったらすぐに言ってな」

 こうして俺は飛行を教わり始めた。

 

 俺自身と年が近いこともあり、イースとは気楽な友人関係になった。ほぼ地の態度で接していたら、「十歳のくせにおっさんくさい」と言われたが、「周りが大人ばかりだから」という理由で納得してくれた。

 

 彼は学校卒業後、世界各地を放浪していたそうだ。イギリスに戻ってきて一年ほどぐうたら過ごし、いい加減働いてくれと母親に泣きつかれたのが今年のこと。母親の知人であるグラブラ夫人から、飛行の家庭教師を探している家があると紹介され、応募したそうだ。

 

「面接の時、俺がダームストラング卒だと知ったらマルフォイさんが俄然食いついてきたよ。ドラコくんも行くの?」

「いや、ホグワーツのつもりだ」

「だよねえ。俺からも母校を薦めてくれって言われたけど、そっちのほうがいいよ」

 

 息子をダームストラングに入れることを、父上はまだ諦めていなかった。しかし俺たちには全くその気がない。

 

「ちなみにどんなところなんだ、ダームストラングは。実践的に魔法を学ぶと聞いているが」

「うん。確かに、どんな魔法も体で覚えろって感じだったよ。あと女子が少ない。ブスばっか。でもどんなブスでもそれしかいないと可愛く見えてくるよ」

 やはりホグワーツに行こうと思った。

 

          ◇

 

 レッスンも五回目を数えた日。初めてイースの補助無しで一人で飛ぶことになった。

 まずは飛行用の各種魔法を掛けられた。

「これで箒から落ちても、きみが怪我をする確率は低くなった。あまり緊張しすぎないで、リラックスして。危ないと思ったら慣性と風には逆らわない。いいね」

「はい、コーチ」

 箒に跨り、深呼吸。

 

 上がれ、と念じると、上向きに落ちていく感覚と共に地面が離れていった。思ったより速い上昇。あっという間に芝生が遠ざかっていく。

 

 飛んだ。

 飛べた!

 

「イース、見ろ! 飛んでいるぞ」

「ああ浮いてるな。飛べたって言えるのは前進してからだから」

 家庭教師の冷静な指摘を受け、高度を保ったままゆっくりと前に進めた。

 

「どうだ。これなら飛べたと言っていいだろう」と地面で見守るイースに話しかけると、

「前を見ろ。バランスが崩れかけてる」と怒鳴られた。

 

 少しだけあった恐怖も消えてきたので、少し上空に上がることにした。

 芝生も、森も、屋敷の屋根も、青空も。秋の気配を帯びて色が柔らかい。

 敷地の外の田園風景が見えた。何か光る物が地上を猛スピードで移動していく。ハイウェイを走る車が陽光を反射しているのだった。

 このまま遠くまで行きたくなった。

「おい、ドラコくん。どこ行く。そっちはマグルに見つかるぞ」

 うるさいな。

 

 イースの視界から出るべく方向を変えた時、庭に出てくる人影が見えた。遠くて表情は見えなかったが、間違いなく俺のほうを見ていた。

 

 俺は逃亡する考えを捨てて、そちらへ飛んでいった。

 

 近づくにつれ、ドラコの両親の表情が見えてきた。二人とも驚いている。喜んでいる。

「ドラコ!」と、母上が両腕を差し出してきた。

 

 箒に乗ったままでは突っ込めない。手前でドリフト気味に取り回して着地しようとした。しかし摩擦が効かないせいか、地上付近の空気の上を滑りすぎた。着地は失敗した。

 

 地面に転がり落ちた俺のところに、両親が駆けつけてきた。

「ドラコ、一人で飛べたのね」

 母上は息子をぎゅうぎゅうと抱き締めた。父上は庭を歩いてきたイースに「ドラコが一人で飛んだ!」と、見たままを言葉にした。

 

 家庭教師は眉を僅かに上げて「ご子息に飛行を教えるのが私の仕事です」と、堅苦しい態度で応えた。

「それでも礼を言う」

 父上はイースの手を取った。素直に謝意を示すのは珍しい。いつも偉そうな態度で他人に接している父上の姿しか、ドラコの「記憶」には無かった。

 

 その日のレッスンはかなり早めに切り上げられ、イースは早々に帰った。「ご家族で存分に喜びを分かち合って下さい」と言っていたから、繰り返し礼を述べる両親の相手が面倒になったのだろう。

 

 レッスンが早く終わった分、思わぬ空き時間ができた。

 勉強も読書も手につかない。飛行の興奮がまだ醒めない。

 気分を落ち着かせようと、いつまで経っても結果の出ない魔法の練習をすることにした。箒を浮かび上がらせた力が、羽毛も宙に引き上げてくれればいいのに。

 

 杖を対象に向かって動かし、呪文を唱える。

 羽毛はあっさりと浮き上がった。

「え」

 

 何かの間違いではないかと、目に付いた他の物にも魔法を試してみる。いずれも成功した。

 室内が軽いポルターガイスト状態になったところで、俺は現状を認めた。初めて箒で飛べた日に、初めて魔法に成功した。これは偶然ではないだろう。

 魔法を成功させるには想像力――明確なイメージを描き出す力が必要だという。これまでの俺は、自分が魔法を使う姿が想像できなかった。子供のごっこ遊びをさせられているようで、夢の中だというのに白々しく感じていた。

 空を飛んだ爽快感の余韻が、それを忘れさせてくれた。部屋で色々な家具を浮かせて、魔法を使う感覚も理解できた。

 

 俺は杖を握ったまま、「父上! 母上!」と階段を駆け下りた。

 

 ドラコが魔法を使えるようになったと知った時の両親の喜びようは、飛行の比ではなかった。

 

 父上は息子の髪をわしわしと掻き乱してから、「今夜は祝杯だ!」と叫んでワインセラーに突撃していった。母上は「良かった、本当に良かった」と涙ぐんでいる。

「あなたがスクイブでも私たちの息子だという気持ちに嘘はありませんが、魔法を使えてくれたほうが、ずっとずっと嬉しいわ。魔法が使えないなんて不憫すぎるもの。この先あなたが世間に冷たい目で見られながら苦労すると思うと、気が気でなかったんですからね」

 

 大袈裟な、と笑い飛ばすことはできなかった。母上にとっては、息子が社会的弱者になるかどうかの瀬戸際だったのだ。無理に魔法を覚えようとしなくて良いと庇ってくれた父上も、内心では歯痒かっただろう。

 

「泣かないでください、母上。ご心配をお掛けしましたが、もう大丈夫です。きっと他の魔法もすぐに使えるようになります」

 俺がそう胸を張ると、母上は小さく笑った。

「期待していますよ。気分転換になればと思って飛行を習わせたけれど、予想以上の成果だわ」

 

 息子が魔法に苦戦していると分かった早い段階で、両親は飛行術を習わせることを検討したらしい。ろくに魔法を習得していなくても、魔力があれば専用の箒で空を飛べる。それは原作のハリーが証明した通りだ。魔法の素質がない者にはそれも無理だが、ドラコに魔力があることは幼い時に判明していた。そして俺が飛行に興味があると言い、母上に相談されていたグラブラ夫人が適当な人材を連れてきてくれたのだった。

 

「これで安心してドラコを魔法学校に預けられるわ。ねえ、ルシウス」

「そうだな」

 赤い目をして戻ってきた父上も頷いた。

 

 ああ、そうか。

 杖を介した魔法が使えるようになったので、ホグワーツ入学にあたっての心配は無くなったわけだ。

 

 つまりドラコという役割を与えられた俺が、『ハリー・ポッター』という物語に登場するための条件は満たされた。




Between The Buried And Me "Ants of the Sky"


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足元の不思議・1

 俺は壁に向かって声を掛けた。

「おはようございます、お祖父様がた、お祖母様がた」

「おやルシウス。箒など持って、どこかに行くのかい」

 年配者の言葉に軽く苦笑する。「いやだなあ。ぼくはドラコですよ。ルシウスは父上です」

「そうだったかね。子供の頃のルシウスにそっくりだよ」

「年を取ると記憶がいい加減になるのだ。許せよ、我らの子」

「気にしておりません。皆様がお亡くなりになった後に生まれた子孫ですからね、ぼくは」

 会話の相手は壁に掛かった肖像画だ。

 

 この屋敷のホールには、先祖代々の肖像画がずらりと飾られている。仏間の鴨居に並んだ写真のようなものだ。マルフォイ家は歴史が長いので、全員を飾るには人数が多すぎる。そのため時代が近い人物の他は、多大な功績のあった当主などに絞られていた。

 そしてこの肖像画は、原作のホグワーツ校長室にあったものと同じく、描かれた人物の擬似人格と喋ることができた。日頃接する人間が限られている俺にとっては、二次元の年寄りでも貴重な話し相手だ。

 なお、彼らのことは全て「祖父ちゃん・祖母ちゃん」と呼んでいる。曾祖父だの高祖母だのと呼び分けるのが面倒だし、個人名はよく知らない。先方だってドラコの名前は碌に覚えていない。

 

「それより我らの子よ。箒に乗るなら庭に出よ。ここで飛び回ってはならん」

「分かっています。これから友人と遠乗りに行くので、皆様にご挨拶をと思いまして」

 俺が家の外に出たがっているのを察して、イースが近場のツーリングに誘ってくれた。軍人めいた態度と正論を駆使してドラコの両親を説得してくれた彼には、本当に感謝だ。両親も、息子が魔法を使えるようになった恩を感じている。彼が一緒ならばと外出を許してくれた。

 

 肖像画の貴婦人が横に向かって呼びかけた。「アブラクサス、小さな冒険に出る我らの子に支度金を」

 それに応える老紳士は、ドラコの祖父に当たる人物だ。「それはこの子の親から与えましょう。ドラコや、父上を呼んできなさい」

「小遣いはもう頂きました。お気遣いありがとうございます」

 

 今朝、朝食後に母上から小遣いを貰った時には驚いた。金額もさることながら、渡された紙幣にエリザベス女王の肖像が印刷されていたからだ。

 イギリス魔法界では、非魔法界とは異なる独自通貨がある。ガリオン金貨、シックル銀貨、クヌート銅貨。ところが渡された貨幣は、ポンドとペンスだった。魔法界の住人にとっては外貨も同然のそれを、母上は嫌そうに指先だけでつまんで寄越した。

『マグルの世界ではガリオン金貨は使えないそうですからね。社会勉強のためにもマグルの金銭を知っておくべきだと、父上から預かりました』

 さすが父上、話が分かる。と思ったものの、何かが釈然としなかった。

 

 ホールでご先祖たちと喋っていると、母上がやってきた。

「ドラコ。あの靴下は履いていますか」

「ええ、言われた通りに」

 そう答えているのに、服の裾をまくって確かめられた。

 それは一見ただの靴下だが、ポートキーの魔法が掛かっている。決められた時刻にこの靴下が肌に触れていれば、どこにいようと、履いている人間はこの屋敷に召還される。門限厳守と誘拐防止のお守りだった。

「母上は心配しすぎです。近場に遊びに行くだけなのに」

「そうは言っても、何かあってからでは遅いのですよ」

 

 まもなくイースが迎えに来た。

 今日のために買ってもらったゴーグルを掛け、天狗の隠れ蓑、もとい透明マントを羽織る。これは原作でハリーが使っていた一品物とは違う。量産された、機能の劣る市販品だ。防護用の魔法はまだ習得していないので、母上に掛けてもらった。

 俺たちは社会勉強に出発した。ドラコにとっては「空からイギリスを見てみよう」とでも題すべき遠出だ。

 

          ◇

 

 快晴。かなり肌寒い。

 屋敷の周囲に広がる森の向こうは田園地帯だ。

「ここから先はマグル除けの魔法は掛かっていないそうだ。森を抜けたら気を付けなよ」

 声だけが耳に届く。

 前を飛ぶイースも透明マントで光学ステルス中のため、その姿は目視できない。しかしはぐれる心配は無い。引力と斥力を魔法で操作して、互いの箒の間隔を一定距離で保つようにしてある。

 

 空の青に全身を浸して飛んでいく。

 足元に広がるコッツウォルズ地方は、秋の黄金色に輝いていた。

 黄色く色づいた木立と、緑の丘が連なる丘陵地帯。その緑の丘で牧草を食む羊たち。敷地を区切る石垣の間のフットパス(小径)を歩く観光客の赤いデイパック。小川に反射した青空と日差しの欠片。

 集落に入ると川沿いに石造りの道が現れる。小橋も石造りだ。黒ずんだ茅葺き屋根を次々に飛び越える。足元の国道では、フェデックスの運送トラックが観光バスを追い抜いていった。

 

「右手向こうに真っ直ぐな道があるだろ」と声が入ってきた。「あれはマグルの使う高速道路。ロンドンまで行くやつだ」

「ロンドンまで行くのか。聞いてないぞ」

 驚いて問うと、笑い声交じりに返ってきた。

「行かないよ。今日は近くを流すだけって約束したからね、きみのご両親と」

 

 やがて俺たちは、こじんまりとした村に下り立った。早めの昼だ。

 パブに入ると、店内の客の視線が訝しげに俺たちに集まった。

 ごく普通の服装のはずなのに、と俺たちは互いの格好をもう一度確認した。うん。ただのジャージにサンダルのおにいさんと、ジャージにスニーカーのお子さまだ。服はイースが事前に買ってきてくれた物で、俺から見ても違和感はない。揉め事の原因になりかねないサッカーチーム関連の品も身に付けていない。透明マントは外したし、服の上に着ていたローブはバッグにしまった。

 

 とチェックしたところで、右手の箒に気が付いた。さすがに掃除道具を持ってパブに入る奴はいない。イースも同じ点に思い至ったらしく、周囲に聞こえるように大声を上げた。

「いくらチャリティウォーク中でも、休憩の時は箒を置いて大丈夫だぞ」

 何だそれと思ったが、話を合わせる。

「だって下手な場所に置いて片付けられたら困りますよ。コーチだって持ったままじゃないですか」

 周囲の人はそれで納得してくれたらしい。俺たちへの注目は静かに解けていった。

 

 俺はコーラを頼んだ。上空の秋風に晒されて体は冷えていたが、ビールを飲みたい気分だった。せっかく本場のパブに来たのに、酒が飲めない子供の体が恨めしい。

「お茶じゃないんだ、坊ちゃん」

と、イースにはからかわれた。

「外でくらい別の物を飲ませてくれ。もっと強い物でもいい」

 ぼやきながら向かいのビールにてくてく二本指を歩かせていくと、「あげないよ」とジョッキが遠ざけられた。

「きみに酒を飲ませたなんて知られたら、俺、首になっちゃう」

 監督者の慌てた様子に俺は笑い、話題を変えた。

 

「ところでチャリティウォークって何だ」

「ああ、マグルが寄付金を募る時にやるパフォーマンスだよ。目標距離を歩ききったら、スポンサーになってもらった人から約束の金額を受け取れる。子供がやることが多いかな」

「へえ。イースは非魔法界のことにも明るいんだな」

「マグルと魔法使いが混在する町で育ったし、放浪中に色んな人と出会ったからね。俺から見たら、イギリスの魔法界は閉鎖的すぎるよ」

 

 ちなみに、「魔法界」という言葉が示す地域は存在しない。マルフォイ邸の敷地のように「マグル除け」の魔法が掛かっている場所はあっても、それが即ち魔法界ということにはならない。特定の場所ではなく、各地に隠れ住む魔法使いのネットワークやコミュニティを指す言葉だ。だから意味合いとして近いのは「業界」だ。

 部外者を拒む、閉鎖的な業界。

 そう捉えれば、色々と歪んだ常識が罷り通っていた原作の魔法界も、特別なものではない。そんなムラ社会で育つドラコとしては堪ったものではないが。

 

「イースの言う閉鎖的って、たとえば純血主義のことか」

「俺なんかの考えを聞いてどうするの、ドラコくん」

 俺は肩を竦めた。

「ぼくの周りの大人は純血ばかりだし、きっと考え方も似通っているだろう。だから逆にそれ以外の考え方をドラコ・マルフォイは知らない。それを閉鎖的とか、世界が狭いと言うんじゃないか。世界を見てきたイースの目には、イギリスの純血主義はどう映っているんだ。べつに親に言うつもりなんか無いから、教えてくれないか」

 そこまで言えば、彼も警戒を緩めた。腕を組み、少し考えてから喋りだす。

 

「……あれが目指すところは要するに、ピラミッド型の階級社会だよな。長く続いている古い純血の血統が頂点に立ち、その次に普通の純血が来て、マグルから生まれた新しい多くの魔法使いが土台を支える。そんな感じ。反体制的なマグル生まれじゃなければ、多かれ少なかれ、皆持ってる感覚だと思うよ。昔あった、マグル生まれは悉く排除すべし、みたいな過激なのは論外だけどさ。初代がマグル生まれでも、魔法使いとして代を重ねれば自動的に純血になっていくわけだし、いくら代替わりしても階級が変わらないマグル社会のイギリスよりは柔軟かもな」

「なるほど」

 言うまでもなく、「純血」とは魔法使いの男女の間に生まれた魔法使いのことであり、「マグル生まれ」とは非魔法使いの両親から生まれた、原作のハーマイオニーのような魔法使いのことだ。

 原作では陋習として扱われていた純血主義だが、こうして聞くと意外に穏やかだった。

 

「俺の言う閉鎖的っていうのは、もっとこう、魔法界そのものが殻に閉じこもってるっていうか、そういう意味ね。十年くらい前までは、紛争で仕方ないかなと思える事情があったけど、今でも全然変わらねえもん」

「紛争って、『例の人』が起こしたやつか」

「そうそう。俺がダームストラングに行かされたのだって、避難の意味合いが強いんだよね。ドラコくんは覚えてないだろうけど、一昔前は血みどろの抗争を繰り広げててさ。あれ、もしかしてその頃まだ生まれてない?」

「いや、『例の人』が消えた時は一歳だった」

「それじゃハリー・ポッターと同い年だね」

 俺は頷いた。

 

 かつて、過激な純血至上主義を掲げ、イギリス魔法界に破壊と殺戮の嵐を呼び込んだ魔法使いがいた。ヴォルデモートと名乗っていたその魔法使いは、原作同様に、この夢の中でも名を呼ぶのを憚られている。九年前にポッター家を襲撃した際に、自らが放った死の呪文を返されて自滅したということになっているのも同じだ。

 その際に生き残った男児が、ヴォルデモートを打ち倒した象徴的存在として偶像視されていることも。

 

「でもあの子も、今どこでどうしてるか分からないもんねえ。家を襲撃されて、報道通りに一人だけ無傷で済んだとも思えないし、結局死んじゃったかも知れない」

「生きてるさ、きっと」と俺は呟いた。

「まあ元気に育ってるといいね。マグルの親戚に引き取られたって聞くけど、それ以上は分からないからさ。彼のことだけじゃなく、マグル側の情報を集めようとしても、中々難しいじゃない? 俺が言ってる閉鎖的っていうのはそういうところ。マグルから入る情報をわざと遮断して、魔法界の伝統とやらを守ろうとしてる」

 話が戻ってきた。

 

「食べ物や着る物だって、いつまで経っても古臭い。たとえばこれだって、魔法界ではパブの手作りメニューの塩味しか見たことがない」

 彼は、カウンターで飲み物と一緒に買ってきた緑色のパッケージを、バリッと開けた。

「ドラコくんはパブとか来ないだろうから、食べたことないかな。クリスプス。スナックの定番だよ」

 それがポテトチップスであることは、見れば分かる。「ソルトアンドビネガー味?」

「そう。美味いよ」

「あ、本当だ」

 スナックは体感時間で数ヶ月ぶりだ。初めて食べるフレーバーだが美味かった。酢の酸味がすっぱムーチョに似ている。ああ、この尖った塩味。脂ぎった揚がり。ポテチうめえ。

 

「いくつか買って帰ろうかな」

 財布を掴んで立ち上がった俺を、「待て待て」とイースが引き留めた。

「スーパーマーケットという所で、マグルの食品を売ってる。そこでならもっと色々選べるよ。味もメーカーも」

 おお、と俺は唸った。地元のスーパーで買い物体験。正に社会勉強だ。

 

 午後の予定を喋っている間に、フィッシュアンドチップスとバーガーアンドチップスが来た。そちらも美味かったが、ポテチの感動には負けた。

 

 昼食後はロングリートの屋敷へ。サファリパークと巨大迷路を併設した、有名なマナーハウスだ。

 さすがにここでは箒が邪魔なので、小型化して荷物にしまった。

 子供騙しだと舐めていたサファリパークは、期待以上だった。入園料の元手はここだけで取れる。庭園に作られた迷路は、『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』に出てくる迷路の雰囲気を味わえる。だが俺個人の感想としてはサファリのほうがいい。なお、マナーハウスの見学は見送った。よその屋敷をわざわざ見なくても、似たようなマルフォイ邸に住んでいる。

 その後ウェイトローズという高級スーパーに寄って家への土産を買い、帰途に就いた。

 

 イギリスは日本より緯度が高いので、秋冬の日没が早い。

 足元に並ぶオレンジ色の街灯を視界の端に見下ろせば、滑走路を離陸した飛行機の気分だ。街灯がないと方角が分からない不安を除けば、夜間飛行も楽しい。

 

 俺は見えないインカムに声を落とした。

「今日はありがとう、イース。着替えまで用意してもらって。この服、貰ってもいいかな、買い取るから」

 耳元に声が響いた。

「もちろんあげるよ。きみのお父上に頼まれていた物だし。実は昼食代込みの特別手当てで、結構貰ってるんだよね。友達をツーリングに連れて行くだけで稼げるなんて、良いバイトだよ、本当」

「ぼくは金づるか」

「冗談だよ、半分。とにかくそのマグルの服はきみの物だ。今度またツーリングする時に着ればいいよ。今度はロンドンかな」

「そうだな」

 俺は頷いた。



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足元の不思議・2

 一時間のフライトを経て、マルフォイ邸に到着。

 空のツーリングは爽快な体験だった。反省点を言えば、万全だと思っていた防寒対策がまだまだ甘かったことくらいだ。とくに剥き出しの耳が千切れそうに痛い。

 俺を門まで送ると、イースは「早く熱いシャワーを浴びたい」と、箒から下りることなくそのまま自宅に飛んでいった。

 

 遠乗りから帰ってきた息子を、マルフォイ夫妻は笑顔で迎えた。ホールのご先祖たちも、子孫の帰還にほっとした様子だった。

 夕食の場で土産話をさせられ、暖炉の暖かく燃える居間に移動した後もそれは続いた。

 家への土産として買ってきた紅茶とショートブレッドは、何の反感もなく受け入れられた。土産は無難なのが一番だ。

 

「あ、そうだ。父上、お小遣いありがとうございました」

「足りたか」

「はい。使った残りをお返ししたいので、後で書斎に伺ってもよろしいですか」

 父上は俺の買ってきた物をちらりと見てから「いいだろう」と頷いた。

 

          ◇

 

 代々の当主が使っている書斎で、父上は机の前に陣取った。俺と父上を隔てるクルミ材の机の上には、ペン皿にインク壷、羽根ペン、銀のペーパーナイフ。それらを照らすランプ。隅に新聞。背後の本棚には、本以外にも怪しげな骨董品が並んでいる。

 

 俺は余った小遣いを返した。茶封筒が無かったので紙に包んである。それを父上は無造作に机の引き出しに放り込んだ。

「小銭はそのまま取っておくかと思ったのだがな。マグルの金は触るのも嫌か」

「そういうつもりではありません。ぼくよりも父上のほうが使う機会があると思って、お返ししただけです」

 息子に社会勉強をさせるなら、小遣いとして渡すのはガリオン金貨でも良かった。そうすれば通貨の両替から経験できたはずだ。その手間を省いたのは、日頃から手許にポンドがあり、日常的に使っているからだろうと考えた。

 

「ひょっとして父上は、非魔法界にお詳しいのではありませんか」

 

 僅かな沈黙の後、机に置いてあった新聞がこちらに寄越された。

 父上が毎朝読んでいるのは、政治経済をメインに扱う、地味でお堅い魔法界の高級紙『モイライ』だ。原作に登場する『日刊予言者新聞』は、派手なタイトルと写真で煽る、タブロイド寄りの大衆紙。

 しかしここにある新聞は、そのどちらでもなかった。今日の日付のタイムズ紙だ。

 保守党の党首選でサッチャー首相が云々、と一面に出ている。え、サッチャーってこの時代もまだ政治家やってたの、と驚くべきはそこでなく。

「魔法界の新聞ではありませんよね。父上はマグル嫌いで通っているのに、よろしいんですか」

 

 原作のルシウス・マルフォイは反マグル派の代表格だった。マグル贔屓のダンブルドアとは、その件でも反目しあっていた。この夢の中でも、父上が非魔法使いを蔑む発言をするのを何度か聞いている。『マグル生まれのせいで魔法界が荒む』とか、『マグル生まれに譲歩しても連中はつけ上がるだけだ』とか。だから非魔法界の物もなるべく遠ざけているだろうと思っていた。今朝までは。

 

 父上は俺の思い込みを軽く冷笑した。

「混同するな、ドラコ。マグルとマグル生まれは別物だ。こちらに干渉しない者まで嫌っているわけではない。彼らが自分たちの社会で作り上げてきたものも、否定はしない。私が嫌いなのは、我々の先祖が作り上げてきた魔法の恩寵に与っているくせに、魔法界のルールや伝統は都合良く無視する、厚かましい新参者たちだ。連中が魔法界の人口を補っているのは確かだが、その増加し続ける割合も問題だ。数の多さを恃んで、マグル生まれに魔法界を好き勝手に変えられてはかなわん」

 

「マグル生まれの存在自体は、お認めになるんですね」

「忌々しいが仕方ないだろう。我々のような由緒ある家が魔法界を担っていくべきだが、純血だけでは人口を保てず、いずれ先細る」

 そういえば、家庭教師が言っていた。マルフォイ家は外国の血を入れることで、家が断絶するのを防いできたと。ドラコやルシウスの色素の薄い容姿は、北欧系の血を引いている証拠だそうだ。古い血脈を守るために新鮮な血統を受け入れる必要があると、父上が理解していて不思議はない。

 

「話を戻すと、私もマグルには関心がある。下品なウィーズリーとは動機が違うがな。傾倒しすぎなければ、おまえもマグルの社会に興味を持って構わんぞ。誰が権力の座にあって、何を欲しているのか。権力者でなくてもいい。一般のマグルは何に魅力を感じ、求めているのか。それを知っておくのもマルフォイ家の当主の務めだ」

「務め?」

 

 ぽかんと口を開けた俺に、父上は説明を始めた。

「マルフォイ家の富の基盤について、おまえもそろそろ知っておいてもいいだろうな。……千年前、フランスから渡ってきた初代当主のアルマンドは、征服王ウィリアム一世に協力した見返りに、この土地を手に入れた。それ以来、マルフォイ家はマグルの権力者に陰ながら『助言』と『助勢』を与え、土地や財宝、権利といった報酬を受け取ってきた」

「助言、ですか」

「マグルには不可能な、魔法的な支援だ。機密保持法ができて、魔法界がマグル社会から遠ざかってからのほうが、むしろ我が家の価値は上がったと言える」

 

 国際機密保持法は、映画『メンインブラック』で宇宙人の存在を一般人から隠匿している設定の、いわばハリポタ魔法バージョンだ。もし魔法を使うところを非魔法界の一般人に目撃されたら、目撃者の記憶を改竄してでも魔法の存在を隠さなければならない。

 しかし、機密保持法によって非魔法界との接触を禁じられれば、マルフォイ家はむしろ痛手を被るのではないか。

 

「何事にも抜け道はある。マグルに直接魔法の存在を伝えるようなことは止めたが、接触は断っていない。要は、先方がこちらを魔法使いだと気付かなければいいのだ。水面下での取引は今も続いている。興味があればホールのご先祖たちにも聞いてみるといい」

 俺の表情を見て、父上は僅かに口角を上げた。

「納得がいっていないようだな。マグル無くして我が家の繁栄はありえない。蜜蜂がいなければ蜜を集めることはできないし、蜜蜂を嫌う養蜂家はいない」

 宿主を見下す寄生虫の言い分だな、とは心の中だけで呟いた。

 

「ですが、父上は魔法界がマグルに接近することを快く思われていませんよね。時々『モイライ』を読みながらダンブルドア派の主張に文句を言われていますし、ご先祖の中には反マグルの論陣を張った人もいます。それはなぜですか」

 父上は俺の返した新聞の上で手を組んだ。

「かつて我が家がマグルの権力者と蜜月の関係であったことを覚えている者や、今も繋がりがあると疑っている者がいる。そうした者の目を逸らす必要がある。さすがに機密保持法を覆すことはできないからな。加えて言うならば、マグルに無知な者が多くなってくれたほうがいい。マグルに詳しい魔法使いが少なければ少ないほど、我が家の競争相手は減る」

「市場の独占ですか」

「社会科の勉強はしっかりやっているようだな」

 

 ここまで話してくれる機会は滅多にないだろう。俺はついでとばかりに無邪気に言った。

 

「しかしそれが我が家の方針だとすると、父上が『例の人』派だったという噂はどこから出たんでしょうね。『例の人』とその支持者は、純粋な魔法族だけで完結したコミュニティを作り上げることが目的だったと、授業で教わりました。父上は、何と言いましたか、特に熱心な支持者だと疑われたこともあったとか。失礼な話ですね。マルフォイ家とは全く違う考えかたに間違われるなんて」

 

 憤慨してみせると、父上は苦笑した。

「誤解ではない」

「え?」

「おまえにはまだ話していなかったか。私はかつて『あの方』の許でデスイーターとして活動していた。つまり中心的な信奉者のグループにいた」

「そうだったんですか」

 

 知ってるけどね。

 この夢の中でもルシウス・マルフォイがヴォルデモートの部下だった事実があるのかを確認したかった。血生臭いことに巻き込まれたくないので、接点のないことを願っていた。しかし残念なことに、彼らの関係は原作通りのままだったようだ。

 

「なぜですか? 我が家の方針とはどのように折り合いを付けられたのですか」

 父上の苦笑が歪む。組まれた手に僅かに力が籠もった。

「一言で言えば、私も若かった。あの方と出会い、その主張するところに心惹かれたのは、まだ学生の頃だった。しかし家を継いで物の見方が変わると、あの方の極端な主張とやり方について行けなくなった。ナルシッサと結婚しておまえが生まれたのも大きい。あの方の目指すところに、私の未来はないと思ったのだ。

 それでデスイーターから離脱しようと、魔法省に駆け込んだ。今思うとタイミングが良かったな。直前にポッター家の惨劇であの方が亡くなり、指導者を失った者たちは混乱に陥って、私を追うどころではなかった。その後、多くの仲間がデスイーターとして有罪判決を受けた。その一方で私は不起訴になった。しかし私を潔白だと思っている者はいないだろう。保身のために転向したのだから、それも当然だ」

 

「それは、何というか……」

 若気の至りでカルトやアカに入信して幹部になったものの、足抜けするために公安と取引した人の話を聞いた気分だ。

 

「昔の仲間に裏切り者だと恨まれたりしませんか」

「今も日の下を歩いている元仲間は、私と似たり寄ったりの転向者だ。心配ない。怖いのは、今現在デスイーターとして服役している者たちだな。特赦か何かで出所したら、恨みを晴らしにやって来るかもしれん。だが心配しなくていい。おまえと母上の身くらい守ってやる」

「お願いしますよ、父上」原作でヴォルデモートが復活したら、すぐに全面服従したくせに。

 

 俺の返事のおざなりさが伝わってしまったのか、父上は困り顔になった。

「そこの扉付きの棚を開けてみろ」

 指し示されたチェストを開けると、中にはファイルがぎっしりと並んでいた。

 

「私が不起訴になった時の記録と一緒に、デスイーターとそう疑われた者たちの裁判記録をまとめてある。私の昔の知り合いを警戒するつもりなら、見ておいて損はあるまい。ただし誰が本物だったのかは聞くな。有罪となった者の名前だけ分かればいいだろう。もちろん、その中に記してあることについては一切他言するな。書類もこの部屋から持ち出すな。それさえ守れば中を見てもいい」

 

 俺は父上を振り返った。

「ぼくのような子供がよろしいのですか」

 いくら何でも小学生に見せるべき物ではないだろう。そんな心配も込めての確認だった。しかし父上は面倒そうに手を振った。

「構わん。他人から適当なことを吹き込まれる前に、自分で客観的な資料に当たってみろ。母上の前で余計な疑問を口にしなかった分別があれば大丈夫だろう。おまえはきっと、おまえ自身が思っているよりも成長している。魔法を使えない間に十分に苦悩したお陰だな」

「そこまで買って頂けるなら、心して拝見します」

 父上のいる時間なら翌日以降も書斎に入ることを許されたので、その日は引き上げた。

 

          ◇

 

 そうして日を改めて資料を引っ張り出していたら、見つけてしまった。

 黒い表紙の日記帳。

 中は真っさらで新品同様だったが、名前が記されていた。

 

 ――間違いない。

 

 父上が席を外した隙に、急いでそれを廊下の隅に隠した。そして父上が戻ってきてから、何食わぬ顔で堂々と退室。廊下で日記帳を回収して自室に持ち帰った。日記帳は裁判記録ではないから、持ち出しても父上の言いつけを破ったことにはならないだろう。しかし原作通りの代物なら、即座に取り上げられかねない危険物だ。

 

 警戒しながらペンを手に取る。

 まずは、何も知らないふりで、各ページの隅に番号を振っていく。最終ページまで辿り着いた時、俺の書いていない文が中央に浮かび上がった。

『ナンバリングは完了ですね』

 

 ページを遡って確かめてみれば、痕跡も残さず全ての番号が消えている。そこで適当な見開きに、今度は下手な落書きを描いてみた。蝋燭の立ったバースデーケーキの絵だ。蝋燭の数は十二本にした。

 

 すると落書きが消え、隣のページに別の文が浮かび上がった。

『今日はあなたの誕生日ですか? おめでとう』

『これは何だ』

 俺が書き込むと、その問いを待ちかねたように新たな文が現れた。

『ぼくはトム・リドルの記憶です』

 

 知っとるわ。映画で観たわ。




Dark Tranquillity "The Wonders At Your Feet"


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掘り起こしたもの・1

 古い日記帳に宿る記憶の悪意に、一人の少女が体を操られる。ハリポタシリーズ第二作『ハリー・ポッターと秘密の部屋』は、そんなホラーじみた話だ。

 

 トム・リドルと名乗ったその記憶の正体は、まだ本名を使っていた若き日のヴォルデモート。後に魔法界をも手玉に取る話術と魔法で、リドルの記憶は少女の精神を浸食していく。

 そんな物騒な日記を少女に押しつけるのが、ルシウス・マルフォイ。彼はヴォルデモートに託された日記帳の処分に困っていた。その揚げ句、こっそりと他人の荷物に日記を忍ばせた。まさかそんな扱いをされるとは、ヴォルデモートも思わなかっただろう。予想していたら決して彼には預けなかったに違いない。日記帳に隠されていたのは、記憶だけではなかった。分霊箱の魔法で分割された、ヴォルデモート自身の魂の一部も密かに込められていたのだ。

 原作終盤は、「イギリスに点在する分霊箱全てを破壊し尽くさないと、何度ラスボスを倒しても復活するよ」という設定に基づくイベントだった。その辺りは俺も眠くてしっかり観ていない。

 とにかく原作第二作にあたる時期までは、日記がこの屋敷にあるのは当然だった。

 

 俺は机に開いた日記帳を眺めた。よく思春期の頃の自意識が爆発した思い出を、他人に託す気になれたものだ。ヴォルデモートという人は、ある意味では確かに大人物だった。

 ページに浮かんでいた『ぼくはトム・リドルの記憶です』という文が、ゆっくり消えていった。

 

 深入りするのは危険だが、少しは試してみたい。俺はペンのインクを付け足した。

『トム・リドルとはどのような人物か。自分は記憶であるとは、どのような意味か』

 書き込んだ文字のインクが紙に染みこんで消え、代わりに書いていない文字が湧いてきた。

『ぼくは、ホグワーツ魔法魔術学校に在学する学生です。正確には、その当時のぼくの意識が日記に転写されたものです。実体はありません。日記帳を通してあなたと会話するだけの存在です。あなたが十二歳ならぼくのほうが年上ですから、色々と相談に乗れると思います。気軽に尋ねてください』

 捲し立てるように、一気にそれだけの文章が浮かび上がった。相手が俺を十二歳だと予想しているのは、俺がケーキの上に十二本の蝋燭が乗った絵を描いたからだ。文字以外の情報も処理できることが分かった。

 

『そういう設定の架空の擬似人格か』

『本物のぼくは実在しています! あなたからしたら大昔の人間なので、本体はもう死んでいるかも知れませんが』

『今が何年なのか知っているのか』

『分かりませんが、前回この日記帳に書き込まれた時点で、ぼくが生きた時代から随分経っていました。そちらは何年ですか。あなたの名前を教えてくれませんか』

『知る目的』

『会話の糸口にしたくて。あなたのことを何と呼べばいいか教えて下さい』

 

 どうしようかな、と悩む間に文が浮かぶ。

『前にぼくと会話してくれたのは、ルシウス・マルフォイという若者でした。あなたは彼に近い人ではありませんか?』

 

 俺は日記帳とペンを持って一階のホールに下りた。そして先祖たちの肖像画の中の一枚に話しかけた。

 

「お祖父様、アブラクサスお祖父様! お話があります」

 ドラコの祖父は額縁の中から孫を見下ろした。尊大そうな薄灰色の目が、ルシウスとよく似ている。

「何か用か、ドラコ」

「お祖父様はトム・リドルという名前に、お心当たりはありませんか」 

 老人は記憶を手繰るように少し目線を漂わせた。やがて「ああ」と頷いた。

 

「私の若い頃だから半世紀は前になるが、そんな名前の後輩がいた。首席で卒業したのに、その経歴を活かせなかった残念な男として有名だった。それがどうした」

「不思議な日記帳を見つけました。擬似人格が与えられていて、会話をすることができます。それがトム・リドルの学生時代の記憶だと名乗っています。筆談になりますが、少し昔話でもなさいませんか」

 薄灰色の目が細められた。

「おまえはもうそれとやり取りしたのか」

「少しだけです。こちらの名前も、場所も時代も明かしていません。ですが昔父上が名前を明かしてやり取りしたことがあるらしくて、ぼくもマルフォイ家の者だと疑われてはおります」

「名前は呪術において重要な要素だからな。その帳面に掛かった魔法の正体が分からない限り、おまえの情報はなるべく与えてはいけないよ。私がどうにかごまかしてみよう」

「ありがとうございます」その言葉を待っていた。

 

 ドラコの祖父とヴォルデモートが同年代という話は、USJで順番待ちしている時に、俺の彼女に聞かされていた。どんな詐欺師でも、昔の自分を知る第三者が詐欺の現場に居合わせたらやりにくいだろう。考えてみると、生前の性格をトレースした擬似人格という点で、肖像画とトム・リドルの日記は似たようなものだ。どんな会話をするやら。

 

 俺はアブラクサス爺さまの口述したことを日記帳に書き込んだ。

『トム・リドル。ここにいる私の姿は見えるか』

『ああ! 会話を続けてくれるのですね。残念ながら、あなたの姿を視覚で捉えることはできません。ぼくが受け取れる外界の情報は、日記帳のページに落ちるインクの模様だけです』

 トムの返事を伝えると、爺さまは「よし」と頷いた。

 

『では、こちらのことを伝える前に一つ知りたい。以前に対話したという、ルシウス・マルフォイとの話題は何か』

『話らしい話もしていません。互いに名乗り合ったくらいで、突然「がらくた」と書き込まれて、それきりです。子供のおもちゃと思われたようですね』

「こんな邪悪な玩具があってたまるか」と、爺さまは唇に笑みを浮かべた。

 

 父上は、詳しいことをヴォルデモートから聞かされないまま日記帳を預かったようだ。偶然リドルと対話する機会があっても、その正体を理解しないまま、つまらない物だと興味を無くした。そして過去の思い出として棚にしまいこんだことすら忘れて、息子にその棚を開けさせた。流れとしてはそんなところか。

 

『日記帳に宿るミスター・リドルの設定は何歳か』

『設定と言われると悲しいですが、十六歳だと自覚しています』

『では特別功労賞で学校から表彰された頃か。あれは元スリザリン生として私も誇らしかった』

 日記帳の中の人は明らかに動揺した。文字が乱れた。『あなたは誰ですか』

 

「お祖父様。あなたは誰だと日記の人が聞いています」

「ルシウス・マルフォイの縁者のアブラクサスだと答えなさい」

 書き込むと、白いページにゆっくり文字が浮かんだ。

『ぼくより上の時代のスリザリンに、アブラクサス・マルフォイという人がいました。あなたと同じ名前ですね』

『その通り。同一人物である』

 それから反応が返ってこなくなった。

「日記の人は何か考え込んでいるようですよ、お祖父様」

「ははは。混乱しおったな。それとも嘘だと判断したか。ルシウスから私の死を聞いていたのかも知れんな。ではこうしてやろう」

 

『正直に書こう。ルシウスとは私、アブラクサスの人格の一つだ。長らく体の主導権を争っていたが、ようやく主人格の私に統一することができた。ルシウスを名乗る私が何を書いたかは覚えていない。ゆえに仕切り直しておまえの時代の話でもしよう』

『ぼくはそちらの時代のことを知りたいのです』

『では卒業後のおまえが、いかに燻っていたかについて話そうか、ヴォルデモール』

 

 すると風もないのに白いページがパラパラと捲られていった。最後にパタンと表紙が閉じて、日記帳は沈黙した。

 

 嘘交じりとはいえ、衝撃発言を詰め込みすぎだ。一応確認しておこう。

「ヴォルデモールというのは、『例の人』の名前に似ていますね」

「似ているどころか、同じ名前だ。昔はそういう呼び方もされていた」

「では、トム・リドルという人は、『例の人』と繋がりがあるんですか」

 後のリドルがヴォルデモートを名乗ることは、原作知識としてある。しかしそれを知る人物が、ダンブルドア以外にも現れるとは思わなかった。アブラクサスの肖像は力強く頷いた。

 

「間違いない。ヴォルデモールはトム・リドルのことだ。校内でも仲の良い者にそう呼ばせていると、別の後輩から聞いたことがある。詩人か役者気取りかと、そやつは笑っていた。その後魔法界を騒がせ始めた頃には、もう本名は名乗っていなかったし、私は知らんが、外見も随分と変わっていたようだ。その容姿の崩れぶりが衝撃的だったのか、リドルの知り合いでヴォルデモールの正体を声高に言う者はいなかったな」

「正体が分かっていたなら、止めようとはお考えにならなかったのですか。彼の、その、何と言いますか」

 

「彼の蛮行をかね」

 

 俺の言い淀んだことをあっさり口にすると、爺さまは苦く笑った。

「当初は、彼の主張を荒唐無稽だと笑い飛ばす者が多かった。出自も明らかでない男の誇大妄想だ、真面目に相手をするほうが馬鹿らしい。格式ある家ほど、そう考えた。しかし、気付けば彼とその同調者は手の付けられないほど勢力を拡大していた。敵対するのは家の存続に関わった。敵に回れば一族郎党皆殺しの憂き目に遭うかと思えば、静観するのが賢いやり方だった。それなのにルシウスの奴は……」

 話が脱線しかけた。老人もそれに気付いた。

「まあ、済んだことだ。今は曲がりなりにも平和になった。ともあれ、これでその帳面はおまえとの対話を望まなくなったはずだ。すぐに父親に事情を話して――いや、元々ルシウスの持ち物か。それを父親に返してきなさい。その時に、私のところまで来るよう伝えなさい。それは子供が触るには危険だ。対話する者から情報を引き出そうとする意図が感じられる」

 

 俺は黒い日記帳を抱えて立ち上がった。

「あの、お祖父様……。実はこれは書斎から勝手に持ち出した物なのです。父上には黙っていてもらえませんか。お願いです」

 父上に知られても、言い逃れる自信はある。それが駄目なら日記帳のせいにしてしまえばいい。そもそもリドルの日記には、手にした者が心惹かれるような仕掛けがされている。原作のハリーもジニーも、それに引っ掛かっていた。

 

 あれ、もしかして俺もそうだった?

 

「なぜ書斎に入った、ドラコ」

「忍び込んだわけではありません。父上から資料を見てもいいとお許しを得て、それでこの日記帳を見つけました」

 一度は厳しくなった老人の眼光が和らいだ。

「それならおまえばかりを責めるわけにもいかんか。ドラコ、この祖父と約束できるか? その帳面を元の場所に戻したら、二度と触らないと」

「約束します。あ、捨てるために触る可能性があるので、二度と書き込まないと誓います」

「条件を緩くしおって」

 爺さまは苦笑した。そして「日記帳のことは話さないからルシウスを連れて来るように」と言った。

 

 翌日には、トム・リドルの日記帳は裁判記録の詰まった棚から消えていた。「子供の手の届く所に危ない物を置くな」と爺さまに言われて、父上が移動させた。それで俺には保管場所が分からなくなってしまった。

 

 惜しいことをした。



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掘り起こしたもの・2

 ある日、書斎から出てきたところを母上に捕まった。

「ドラコ、少し来なさい」

 連れて行かれた先は母上の部屋だった。

 

 ベージュと渋めの青をメインの色調とした、落ち着いた部屋だ。壁際には、大女優が使っていそうなドレッサーが、どんと構えている。そのドレッサーの前の椅子に座らされた。母上は向かいのベッドに腰を下ろした。

 

「ここ最近、お父様の書斎で何をコソコソやっているのです」

 母上は背を伸ばし、真顔でこちらを見据えている。返答次第では説教コースだ。叱られるようなことはしていないので、こちらも堂々と答える。

「コソコソとは心外です。父上のお許しを得て、父上のいる時にお邪魔しているだけですよ」

「そう? それで何をしているの」

「将来のために、書斎にある書類を見せてもらっています」

 

 父上が集めたデスイーターの資料は、なかなか読み応えがあった。対象人数が多いので、公になっている裁判記録だけでも相当な量がある。どうやって手に入れたのか、魔法省の捜査資料まであった。それに加えてヴォルデモートの時代を総括する新聞や雑誌の記事。それらを総合すれば、大体の事情は見えてくる。

 

 ――かつて、ヴォルデモートと名乗る魔法使いが彗星の如く現れた。彼の掲げた極端な選民思想は、それまでの魔法界に閉塞感を抱いていた人々を惹きつけた。

 しかし社会を変えるほどの力はなく、彼とその支持者は、次第に過激な実力行使に訴えるようになっていった。その暴力に晒される立場の者や、治安を維持する者たちは、当然それに抵抗した。魔法界は二つに割れた。血生臭い抗争は、イギリス魔法界に嵐の時代をもたらした。

 嵐を呼び込んだヴォルデモートを人々は恐れた。その名を口に出すことも憚られ、いつしか彼は「例の人」「件の男」、支持者からも「闇の帝王」と呼ばれるようになった。

 

 その状況に終止符が打たれたのは、ハリー・ポッター一歳の時。ポッター家を自ら襲撃したヴォルデモートは、突然消息を絶った。それ以後、彼はいかなる活動も表明もしていない。魔法省は彼の死を公式に宣言した。

 ヴォルデモートの「死」後、信奉者たちの反応は三つに分かれた。徹底抗戦を叫んで過激な破壊活動に突き進んだ者。急激な情勢の変化を嗅ぎとり、それまでの仲間を売ってでも保身を図った者。状況についていけず、従うべき頭を失い、右往左往しているうちに逮捕されてしまった者。信奉者の中心グループ、デスイーターでさえそうだった。旗印を喪ったヴォルデモート派は、あっという間に瓦解した。確信犯の過激派と、要領の悪い有象無象は、今も一部が刑務所で服役中だ。

 

 一部。当局に検挙された者のほとんどが釈放された。というのも末端の活動員まで有罪にすると、魔法界が機能不全に陥ってしまう恐れがあったのだ。「友人の友人はデスイーター」と言えるほど、大勢の者がヴォルデモート派に関わっていた。

 その影響で、本物のデスイーターだったルシウスも嫌疑不十分で釈放された。決して表舞台に上がらなかったのが功を奏したと言える。彼の担当は裏工作と資金調達だった。まして「助言」や「援助」だけで、責任を取らずに甘い汁を吸い続けてきたマルフォイ家の人間だ。裏工作に証拠を残すことはなかった。

 

 こうして「限りなく黒に近い灰色」だったルシウスは、今も堂々と日の下を歩いている――。

 

 というわけで、この夢の中の「過去の事実」は、概ね原作の設定を踏襲していると思われる。

 

「将来の……。学校に行く前に、家のことを勉強し始めたということかしら」

 母上は小首を傾げた。

 捜査記録によれば、ナルシッサは実姉や夫と違い、デスイーターにはならなかった。抗争にも積極的には関わらなかった。当時の捜査資料の、「彼女は自分のささやかな世界の平和にしか関心がない」という指摘は、おそらく正しい。だから父上も俺に資料を見せる件を、母上に伝えていないのだろう。

「それもありますが、魔法界の人の情報を仕入れています」

「ああ、紳士録ね。あまり書斎に長居して、お父様の邪魔をしてはいけませんよ」

「はーい」

 

 母上はほっとした様子で俺の傍に寄り添った。

「そんなに急いで大人になろうとしなくていいのに。ドラコはまだ怖いのですか」

「怖い?」

「お母様はいつでもあなたの味方ですからね。たとえスクイブでも見捨てないと言ったでしょう。あなたが頑張るからお母様もついつい次の魔法を教えたくなりますが、それが追い詰めているのなら、もう無理強いはしないわ。立派な紳士になってくれたら、それは嬉しいけれど、無理して大人のふりをする必要はありませんよ」

 

 大人のふり、か。

 

「無理をしているつもりは無いのですが」

「そうかしら。杖が使えなかった時期に、お友達とも『気が合わなくなった』と遊ばなくなったでしょう。魔法使いでないことを知られたくないからだと思っていました。けれど杖が使えるようになっても会わないまま。同じくらいの歳の子と遊ぶのに興味を無くしたみたい」

「テオとはまた遊んでいますよ」

「あの子は大人びていますからね」

「では、ぼくも大人びてきたということで」

 

 すると横から母上に抱き締められた。

「そうならなければいけない理由があるの? お母様と一緒の時くらいは子供のままでいなさいな」

 ああ、と俺は両手で顔を覆った。「……申し訳ありません」

 上から髪を撫でる優しさに、しばらく顔向けできなかった。

 

          ◇

 

 家庭教師の授業がない時間に、庭に出た。

 

 マルフォイ邸の敷地は、整備された庭園部分と、鬱蒼とした森林部分に分けられる。

 夏に虫取りで歩き回ったのをきっかけに、俺は森にもよく足を運ぶようになった。クワガタが山ほど取れるが、カブトムシもセミも見つからない森だ。今、木々はすっかり葉を落とし、幹や枝を露わにしている。

 

 木立の奥で何かが動いているのを見掛けた。敷地の周囲には侵入者除けの魔法を巡らせてあるから、迷い込むとしたら動物だ。しかしそこにいたのは獣ではなかった。

「やあ、ドビー」

 原作にも登場するハウスエルフは、びくりと肩を竦ませてから振り返った。

 

 何をしているのかと尋ねると、手にしていた袋を広げて見せてくれた。麻袋の中には、蔓やら枝やら木の実やら。

「ごみ拾いか?」

「ドビーは、輪飾りの材料を集めていたのでございます」

と、彼は独特の言葉遣いで答えた。

「ああ、クリスマスリースか。おまえが作るのか」

「ドビーだけでなくアビーも作るのでございます。アビーが材料にあれこれ注文を付けるので、ドビーは色々沢山集めなければなりません」

「ふーん。手伝おうか」

「いいえ! いいえ! 坊ちゃまのお手を煩わせてはドビーが奥様にお叱りを受けます! 坊ちゃまはご覧になるだけで、ええ、決して手が足りないということはございませんから、全てドビーめにお任せを!」

「あっそう。邪魔するつもりはないから、作業に戻っていいぞ」

 ドビーは木の実拾いに戻った。

 

 彼と普通に会話できるようになったのは、つい最近だ。以前は酷かった。すぐに自傷行為に走り、話しかけても怯えてばかりで、まともな会話が成り立たなかった。原作でドビーがハリーの部屋に初めて現れた時の状態。それが常に続いていた感じだ。

 それはドラコのせいだった。

 この夢の、俺の意識が乗る前のドラコは、原作同様にドビーたちハウスエルフを虐めていた。両親はそれを止めるどころか、むしろ推奨する節さえあった。ハウスエルフを使い捨ての道具と見る家で育った母上と、自分が身内だと認めた者以外には冷淡で残酷な父上。そんな両親がハウスエルフを奴婢同然に扱うのを見てドラコは育った。お陰でハウスエルフには何をしても良いと勘違いした。

 

 だが俺に同じ事は出来ない。悪感情を抱いていない使用人をいびって楽しむ趣味はない。彼らは仕事の手を抜くことも、何かを盗むことも、主人の陰口を叩くことも、待遇に不満を言うこともない。ひたすら熱心に家の仕事に勤しむだけだ。

 原作通りのドラコを演じるなら、彼らを虐めるべきかも知れない。でも無理だった。俺自身も労働者だ。パワハラ反対。

 

「坊ちゃまはいつまでここにいらっしゃいますか」

「邪魔だから向こうに行けって?」

「そ、そんなことは申していないのでございます。お時間がおありなら、またドビーがハリー・ポッターの話をして差し上げるのでございます」

 

 彼はハリーを英雄視している。主人のルシウスに遠慮して、ヴォルデモートを斃したハリーに憧れていることは隠していたが、俺が吐かせた。それからはたまに彼から「英雄ハリー・ポッター」の話を聞くことにしていた。弾丸トークに付き合うのは疲れるが、その甲斐あって俺への怯えも徐々に薄れてきた。と、思いたい。

 

「もしハリー・ポッターの身に危険が迫ったら、きっとおまえは我が家の仕事を放り出して駆けつけるんだろうな」

 ハウスエルフは飛び上がった。「ハリー・ポッターが危ないのでございますか!」

「もしもの話さ。それくらい好きなんだろうと言ったんだ」

 

 小さな手が麻袋の口をぎゅっと締めた。

「ドビーは、マルフォイ家に仕えるハウスエルフでございます。お許しもご命令もなく、他家へ飛ぶことはできないのでございます」

 俺は笑った。原作では主人に背いて、無断でハリーの所に押しかけたじゃないか。

「おまえの忠誠心がこの家に無いことは分かっている。そうさせたのはぼくだな。おまえには本当に悪いことをした。母上も父上も相当酷いが、一番酷かったのは息子だ」

「そんな。お詫びの言葉は以前にも頂戴しました。だからそのことはもう、坊ちゃま」

 狼狽する相手に、謝るだけでは駄目かと、別のやり方を考える。

「そうだ。もしおまえがハリー・ポッターの所へ行きたくなったら、一度だけ、それをぼくの命令に従ったことにしていいぞ。ぼくが服を与える訳にはいかないから、完全な自由にはしてやれないが」

 

 ハウスエルフに服を与える。つまり永の暇を与えることが出来るのは、正式な主人である父上か、女主人の母上だ。

 原作では、ハリーの小細工により、ルシウスが捨てた物をドビーが拾うという形で、マルフォイ家とドビーの契約は終了した。それまでは主家への隷属とハリーへの思いに板挟みになって、ドビーの行動は支離滅裂だった。映画を観た時は、かなり鬱陶しく感じたものだ。その時の悪印象が尾を引いて、後々までもドビーというキャラクターには好意を持てなかった。

 しかしこの夢の中では、ドビーは俺の世話をしてくれる、ありがたい存在だ。虐待を受けて萎縮していた彼には、俺のせいではないが申し訳なく思う。

 

「坊ちゃまはドビーめを追い払いたいと、そうお考えでございますか」

「そうじゃない。ドビーもコビーもアビーもいてくれないと困る。おまえたちがいないと、この屋敷は回らないだろう」一人くらい欠けても問題ないとは思うが。

 

 ドビーは一度俯いてから顔を上げ、何かを言おうとした。

 

 その時、「坊ちゃま!」と別の方角からハウスエルフの金切り声が飛んできた。アビーが宙を滑るように走ってきた。

「ドラコ坊ちゃまは、今すぐお屋敷にお戻りにならなければなりません。家庭教師がお見えでございます」

「ああ、もうそんな時間か」

「お急ぎになるのでございます。なぜドビーが坊ちゃまのご予定に気を配らなかったのか、アビーには不思議でなりません。弛んでおります。折檻されるべきでございます」

「返す言葉もございません」同僚の怒りに、ドビーは身を縮めている。

「怒らないでやってくれ、アビー。時間管理できないぼくが悪いんだから」

 

 屋敷の方角に歩き出そうとしたら、ドビーに腕を掴まれた。

「せめてお部屋までお連れするのでございます」

 彼は俺を連れていきなり「跳躍」した。

 

 お陰で教師を待たせずに屋敷に戻ることはできた。だが跳躍酔いが治まるまで、授業の開始は遅れてしまったので意味はなかった。ドビーは自分で自分に折檻していた。



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掘り起こしたもの・3

 ある日、ドビーが俺宛に届いた手紙を部屋まで持ってきてくれた。差出人は父上の友人、セブルス・スネイプだった。

 

 年賀状をやり取りするより気楽に、イギリスでは十二月に入るとクリスマスカードを送り合う。

 ドラコ個人がカードをやり取りする相手は少ない。友人といっても家同士の付き合いの延長、惰性の繋がりがほとんどだ。だから去年までは、親のカードに便乗して名前だけ載せてもらっていた。なお、実際にはそれも俺が夢を見始める前の設定に過ぎないが、面倒なので、この夢における「過去の事実」ということにしておく。

 しかし今年は家庭教師以外の知り合いにも、ドラコ個人名義でカードを送った。物珍しさに買ってもらった魔法のクリスマスカードを、どうにか消費する必要があったからだ。開くと雪の幻が舞う仕掛けのあるカード。印刷されたサンタをタッチ操作して、イラストの靴下にプレゼントを届けるミニゲーム付きのカード。そういったカードに対する返事が、先方からも届き始めていた。

 

 スネイプからのものは、エンボス加工しただけの素っ気ない白いカードに、「きみの入学が楽しみだ」と読みやすい字で書いてあった。こちらから「来年ホグワーツに入学します。よろしく先生」と書いて送ったから、その返事になる。

 とりあえず暖炉のマントルピースの上に、他のカードと一緒に並べておいた。

 

 振り返るとドビーがまだいた。神妙な顔をしている。

「どうした」

「この前の、ドビーがハリー・ポッターの所へ行くのをお許し頂けるというお話でございます。やはり坊ちゃまは、何か良くないことが起きるとお考えなのではございませんか」

「単に想像しただけだ。生き残った英雄が反ヴォル……、『例の人』の反対派に担ぎ上げられて、逆にそれを良く思わない人たちから個人攻撃される可能性があるなと思っただけさ。具体的に言うと、ハリー・ポッターが魔法界に帰還したらダンブルドアの人気取りに利用されて、ダンブルドアを嫌いなうちの父上に目を付けられるとか、ありそうな話だろう?」

「さようでございますね」ドビーは感心したように頷いた。「ですが、それを仰るのなら、坊ちゃまも危ない目に遭われるかも知れないのでございます」

 

 俺は思わず自分を指差した。

 ドラコが自業自得の痛い目に遭うのは原作のお約束。それが深刻な状況になるのは六年生、早く見積もっても五年生以降だ。その頃に大変なのはドラコだけではない。他の同年代のキャラクターも、精神的・肉体的に苦痛を味わうことが多くなってくる。しかし、そんな未来の話をドビーが知っているはずがない。

「なぜぼくが危険なんだ?」

 

「世間は、旦那様が『あの人』の手先だったことを覚えているのでございます。マルフォイ家が古い血筋であることも、純血主義を掲げていることも、広く知られているのでございます。奥様のご実家が純血至上主義だったこともです。純血主義は『あの人』の主張でもございました。ブラック家の本家が消えた今、両家の血を引く坊ちゃまが純血主義の新しい象徴と見られても、おかしくないのでございます」

「待てよ。ブラック家の当主は、まだ生きているだろうが」

「世間的にはもう死んだも同然です。ハリー・ポッターが魔法界に戻ってきたら、『あの人』がいた頃を思い出す方々もいるでしょう。だから危険なのです。過去の恨みを、『あの人』の代わりに坊ちゃまにぶつけようとする輩が現れるかも知れません!」

 さすがにそれは無い、と笑い飛ばしたかった。しかしヴォルデモート云々は擱くにしても、ルシウスへの恨みをその息子で晴らそうとする者はいるだろう。というか、原作にいたな。

 

「大人の都合で振り回されそうなお立場は、ハリー・ポッターもドラコ坊ちゃまも同じでございます。でしたらドビーめは、坊ちゃまをお守りすべきなのです」

「でもおまえは、ぼくに虐められていたじゃないか。ぼくを憎んでいるだろう。憎い相手を守りたくなんてないだろう」

 

 するとドビーは身を震わせ、近くの壁にふらりと近づいた。「……ドビーにはもっとお仕置きが必要です」

 彼は壁に頭を一回打ちつけた。

「坊ちゃまが杖の魔法を覚えるのに苦労されていると聞いた時、ドビーは喜んでしまいました。今までドビーを厳しく折檻されたからだと、いい気味だと思ってしまったのです。ドビーは本当に悪い子なのです」

 ごん、ごん、と彼は額を壁に打ち続けた。

「同じ頃から、坊ちゃまはドビーにお優しくして下さるようになりました。虐めて悪かったと謝って下さいました。ハリー・ポッターの話も笑って聞いて下さいました。なのにドビーはそれを、魔法が使えず急に肩身が狭くなったからだと、当然のことだと思ってしまいました。悪い子です。悪い、悪い子です」

「仕方ないだろう。それまでがそれまでだった。もうその話は止そう」

 ドビーは急に振り返った。額に不気味に血が滲んでいる。

 

「いいえ! お聞き下さい! 坊ちゃまは魔法が使えるようになっても、ハウスエルフにお優しいままです。お陰で『悪戯』にお付き合いさせられて、ドビーが仕事を失敗をすることも今はなくなりました。その分だけ奥様や旦那様に叱られる回数も減りました。お仕置きを受けることもなくなりました。それでもドビーは、ただほっとしておりました。

 けれどこの前、坊ちゃまは、ドビーたちがいないと困ると仰いました。ハウスエルフの存在をお認め下さいました。その瞬間、ドビーは自分がいかに悪い子だったか解ったのです。以前の坊ちゃまは、ドビーたちのことをご存知なかっただけ。それはお伝えできなかったドビーが悪いのです。

 だからどうか、これからも坊ちゃまにお仕えすることをお許し下さい。坊ちゃまを良く思っていないと思われるのは、とても辛いお仕置きでございます」

 

 そう言って、またガンガンと頭をぶつけ続けるので、俺は慌てて壁から引き剥がした。

「解った。解ったから止めろ、ドビー。壁が汚れる」

「はい、申し訳ありません」

 ドビーはけろりとして抵抗しなかった。

 

「坊ちゃま」

「なんだ」

「ご心配がおありなら、それを取り除くお手伝いもいたします。坊ちゃまは、何を恐れておいでですか」

「恐れる?」

「はい。それでハリー・ポッターが危ないなどという話をされたのでしょう」

 

 いつまで続くかも分からない夢の中で、俺が恐れていること。それはこの夢が悪夢に変わることだ。痛みや苦痛や恐怖といった、一般的な意味での悪夢だけではない。ドラコの中身が本物ではないとマルフォイ家の人間に知られ、彼らを悲しませることも怖い。

 

 ドラコ・マルフォイは家族に愛されている。

 息子が将来正しい判断が出来るように、家の秘密や自分の過去の過ちを明かしてくれたルシウス。

 息子の精神と肉体のアンバランスさに気付き、愛情を注ぐことで安定させようとしてくれているナルシッサ。

 闇の帝王と恐れられた男の影を挑発してでも、孫への注意を逸らしてくれたアブラクサス。

 

 そんな彼らと体感時間で半年も暮らしているうちに、俺もマルフォイ家に情が湧いてきた。自分だけでなく、彼らが苦しんだり殺されたりするような事態は避けたかった。原作の流れに沿えば、ヴォルデモートの復活と共に、マルフォイ家は精神的・経済的・社会的に翻弄される羽目になる。

 それが怖い。

「ああ、そうか」

「何かお気づきになったのでございますね」

 だからトム・リドルの日記が手の届かない場所に移された時、残念に感じたのだ。物語の流れを変えられる機会が遠ざかったから。今思い出しても、惜しいことをした。

 

 俺はドビーを見返した。彼の大きな目は、真っ直ぐにこちらを見上げていた。

 いっそ彼と二人、ヴォルデモートの分霊箱を破壊して回ろうかと本気で考えた。原作でレギュラス・ブラックが試み、ハリーたちが実行したように。

「ドビー」

「はい」

「今、ぼくの胸の内にある問題を明かすことはできない」

「……はい」

 

 その思いつきを成功させたところで、ヴォルデモートの復活自体は防げない。足りない物も多かった。まだ子供の行動範囲は狭く、活動資金もなく、頼れる伝手もない。今のドラコの力量では、魔法で保護された分霊箱を破壊することも不可能だ。そもそもの問題として、日記帳以外の分霊箱の所在がうろ覚えだ。

 試しに挙げてみると、

・リドルの思春期日記:この屋敷のどこか(父上が簡単に捨てられたとも思えない)

・ハリー・ポッター:ロンドン近郊のどこか(住んでいる町や通りの名前は忘れた)

・ペットのアナコンダ:知らない

・ペンダント:どこか海辺の洞窟にあったのは偽物なんだっけ?

・金のカップ:レストレンジ家がグリンゴッツ銀行に借りている金庫の中

 我ながら酷い。

 カップだけ詳しく覚えているのは、ベラトリックス・レストレンジの出番はしっかり等速で観たからだ。あのヘレナ・ボナム=カーターが俺の伯母なんて、夢でも嬉しい。彼女の出演作では『ファイト・クラブ』『英国王のスピーチ』が好きだ。バートン作品は好きでも、その中でのヘレナはそれほど好きではない。『ビッグ・フィッシュ』はまあまあ好きだが。

 

 話が脱線した。

 分霊箱は他にもまだあったはずだが、今は思い出せない。こんな状況から、ドラコの平和な生活を確保しようというのも気が遠い話だ。

 しかしヴォルデモートの復活に怯えて、鬱々としているよりは前向きだろう。復活そのものを邪魔して遅らせるというのも、一つの手だ。但し、やるからには秘密裏に、完璧に、やりおおせなければドラコの身が危うい。そこだけは気を付けなければならない。

 

 こちらを見上げ続けているドビーに微笑みかける。

「だけどおまえのお陰で方向性は決まったよ。具体的にどうしたらいいかは、しばらく考えてみる。おまえにも仕事を頼むかも知れない」

「かしこまりましてございます」とハウスエルフは深々と頭を垂れた。「そのお仕事が何なのかドビーは存じませんが、その場合、旦那様や奥様にはお話し申し上げないほうがよろしゅうございますね」

 

「もちろん秘密だ」俺は頷いた。

「親には心配を掛けたくないし、この家の不利益になるようなこともするつもりはない。でも裏工作で目的を達成するなんて、いかにもマルフォイらしいやりかただろう?」

「お答えいたしかねるのでございます」

と、ドビーは困り顔で言った。

 




Carcass "Exhume To Consume"


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雪静か・1

 マルフォイ家の豪勢なクリスマスパーティが新聞のネタにされるのは、魔法界冬の風物詩だ。

 実態はほぼ業界交流会なので、特筆すべきことはない。それに魔法使いにとって重要なのは、クリスマスより冬至の祭祀だ。そちらは先日済ませた。

 

 パーティが終われば、翌日からは家族だけの静かな時間。居間の暖炉の前で父上は新聞をめくり、母上はパーティの出席者リストと何か別のリストを突き合わせている。俺は両親から贈られたばかりの、新しい箒をいじっていた。

 

 玄関のノッカーが響いた。

 父上が立ち上がり、居間を滑り出していった。俺も後を追いかけた。玄関ホールで追いついた時には、父上が雪交じりの風から客を奪い入れるところだった。

 客人は黒いローブに長めの黒髪の男性だった。ドラコの「記憶」に確かめるまでもない。セブルス・スネイプだ。

 

 その黒い肩にうっすら積もる雪を、父上が手で払った。

「こんな日まで仕事をさせるなんて、ダンブルドアは人でなしだな。うちのパーティを欠席するのは奴の勝手だが、きみまで仕事に縛り付けるとは」

 スネイプは苦笑交じりに弁解した。

「ダンブルドアのせいではありませんよ。休暇中も校内に残る寮生がいれば、寮監も残らざるを得ません」

「なんだと。ではその居残り連中のリストを寄越せ。休みになったらさっさと子供を引き取れと、保護者どもに言ってやる。生徒の健やかな成長は、教師の心身が健康であってこそだぞ」

「お気持ちは嬉しいのですが……」彼は、ホールの中央にいた俺に目を止めた。「久しぶりだな、ドラコ。背が伸びたか?」

 

 俺も微笑みながら歩み寄った。

「メリークリスマス、セブルス小父さん。小父さんを待っている間に、二インチは伸びましたね」

 

 スネイプは片眉を上げた。映画で彼を演じた時のアラン・リックマンに雰囲気がよく似ている。だが本人ではなかった。俺の器であるドラコもその両親も、映画で観た顔と一致しなかったから、そうだとは思っていた。

 でも残念だ。わりと好きだったな、リックマン。『ダイ・ハード』のテロリストに『ロビン・フッド』の悪代官、ついでに『ドグマ』の変な天使も。この分だとハーマイオニーはエマ・ワトソンではなく、俺の伯母はヘレナ・ボナム=カーターではない。彼女たちに会えないなんて、夢のない夢だ。名優たちに会わせろよ畜生。

 

 そんな俺の胸の内も知らず、父上が誇らしげに息子の肩を叩く。

「どうだセブルス。ドラコも随分と大人びてきただろう。うちに来るのは何ヶ月ぶりだ。え、一年? そんなになるか。きみと飲むためにパーティに出さなかった、とっておきのワインがある。それともまずはホットウイスキーで温まるか」

「ルシウス。そんな所でいつまでも喋っていないで、部屋にご案内したらいかが」

 母上も居間から出てきた。

 

「いらっしゃい、セブルス。ハッピークリスマス。ルシウスではないけれど、あなたもパーティに来てくれたら良かったのに」

「こんにちは、ナルシッサ。せっかくご招待頂いたのに申し訳ない」

「セブルスは仕事上がりにそのまま来てくれたのだぞ」

「あら。それなら尚更こんな所で立ち話させては可哀相じゃない」

 学生時代からの知り合いだった三人は、打ち解けた雰囲気で話している。

 

 父上の資料には、スネイプの裁判記録はなかった。ダンブルドアの証言で早々にシロと判断されたからだ。しかし、これまでのところ原作の設定はそのまま過去の事実として、この夢に存在している。だとすれば、スネイプがデスイーターだったことも、愛する人のためにヴォルデモートを裏切り密かにダンブルドアの二重スパイになったことも、恐らくは事実だ。確かめる術はないが。

 

 それから俺たちは、午後いっぱい飲み食いと会話を楽しんだ。イギリスでは、伝統的なクリスマスのディナーは二十五日の昼に食べるそうだ。

 会話はスポーツ、政治、有名人のゴシップ、芸術と、多方面に飛んだ。スネイプが教授職を務め、ドラコが来年入学するとなれば、当然ホグワーツも話題に上がる。

 

「ところで、今年のクィディッチはどうかね」

と、父上が機嫌良く尋ねた。卒業生に届いた季報で、寮対抗戦の初戦結果は知っている。それを承知のスネイプも、笑いを含んで答えた。

「グリフィンドールには順当に勝ちました」

「あそこに勝っても自慢にならんな。連覇は狙えそうか」

「ええ。今年もスリザリンの立ち上がりは上々です。卒業生のご支援のお陰ですね。とくに資金面でも練習面でもお世話になっているこちらには、私からも改めてお礼を言わねばと思っていたところです」

 選手から「いても役に立たない」と評された名ばかり監督でも、スネイプはスリザリンチームの監督者だった。

 

 母上が手を振った。「よして、セブルス。あれはルシウスが趣味でやっていることよ」

 ですが、と言いかけた後輩に、マルフォイ夫婦は澄ました顔で告げた。

「どうしてもというなら、来年ドラコをチームに入れてくれ。箒で飛べるようになった」

「そうね。この子、最近は遠乗りに出掛けているの。元気が有り余っているのよ」

 

 スネイプがこちらを向いた。「ドラコはクィディッチが好きなのか」

 原作のドラコは夢中だったはずだ。

「好きですが、チームに入りたいかどうかは分かりません。ホグワーツのことをよく知らないので」

 それもそうか、と彼は静かに頷いた。

 

「いい機会だ。スネイプ教授に学校のことを聞いてみろ。あの尊敬すべき偉大なダンブルドア校長のこともな」

「聞いてどうするんです、父上」

「一日も早くこの世を引退できるように、おまえも祈ってやれ」

 父上はダンブルドアを毛嫌いしている。一番の理由は、マルフォイ家が魔法省に影響を及ぼそうとする時に、鼻薬が効かない重鎮は目障りだということだろう。他にも、「口では魔法族以外の半端者(マグル生まれを含む)にも寛容なことを言って人気を取って、そのくせ本当は何もかも見下している偽善者」だからとか、「自分は名誉欲に取り憑かれているのに、権力欲や出世欲を持った人間を馬鹿にする」とか、色々言っている。

 

 しかし結局は、ダンブルドアがグリフィンドール派で、父上がスリザリン派だという、学閥の問題だと思う。

 イギリス魔法界では、若者が同世代で集団生活を送る場はホグワーツしかない。入学までは家庭で過ごし、卒業すれば大半はそのまま社会人だ。校内での七年間は、入学時に割り振られた寮での生活が基本となる。当然、そこでの人間関係が後々の人生にまで影響する。

 学校側も、寮ごとの点数制度を設けて、寮内の連帯感と、他寮への対抗心を煽る。一歩間違えれば恐怖の管理社会、ディストピア直行のやりかただが、学生を管理しやすいこの方法が改められたことはないという。

 その結果、多感な時期に一つの価値観を植え付けられた若者たちは、社会に巣立ってもそれを引きずって生きていく。それがイギリス魔法界だった。

 

          ◇

 

 飲み食いにも飽きた頃、四人でプレゼントを交換しあった。

 ドラコの両親からは、すでに新しい箒を貰っているので省略。スネイプからはフルカラーの鉱物図鑑を貰った。れっきとした魔法界の出版物なのに、非魔法界のものと見分けが付かない。掲載写真の対象が動かないからだ。これが動物図鑑だったら、獣たちが自由に歩き回る様子を定点観測できただろう。

 俺からも枕ほどのサイズの袋を三人に渡した。中身は大したものではない。

 

 スネイプが袋の中を覗いた。「クリスプス?」

「はい。クリスプスの詰め合わせです」

 客に続いて父上と母上も袋を開けた。

「ほう、初めて見るな」

「魔法界の物ではないのかしら」

 白々しい反応だ。

 

 イースとのツーリングでポテチの美味さを思い出した俺は、外出の度にちょくちょく非魔法界のスナックを買い込んでくるようになった。今では父上も母上も、すっかりスナックの味に慣れ親しんでいる。それでも人前では「マグル嫌い」の看板は、まだ下ろすつもりがないようだ。

 

「あら、本当に初めて見るわ。スイートチリに、ライムに、マーマイトですって」

「私のほうはブラックペッパー、ビーフ&オニオンと、ケチャップだったぞ」

「私とルシウスの分でも違うのね。セブルスは」

「えっ」

 

 スネイプは戸惑った声を上げた。魔法界屈指の名家で、まさかポテチ品評会が始まるとは思わなかっただろう。一家からの視線に促され、彼も詰め合わせ内容を確かめた。

 

「ええと……。プローンカクテル、ハニー&マスタード、バーベキュー、ソルト&ビネガー。あとはレディソルト(塩味)です」

 好みが分からなかったので、スネイプの分は無難な味で揃えておいた。ちなみにソルト&ビネガーとレディソルトは、両親の袋にも入れてある。家では定番の味だから無意識に省いたのだろうが、どうせ「初めて見るマグルの食べ物」を装うなら、その二種類も省略しないでほしかった。

「色々な味があるのだな」

「海老味なら、ドラコが一回だけ買ってきてくれた短い棒のも美味しかったわね」

「あれは別物ですよ」

 母上が言っているのは、イギリスで売られている偽物のかっぱえびせんのことだ。

 

 パッケージ裏を眺めていたスネイプが言った。

「マグルの製品ですな」

 

 さっと表情を変えたのは母上だけだった。俺と視線を交わして、父上が何気なく答える。

「先ほどドラコが遠乗りに出掛けると話しただろう。その折にマグルの店でちょっとした品を買ってくる。社会勉強だ。機械類と違って、食べ物なら使いかたが分からないということもない」

「なるほど」スネイプは目線を上げてこちらを見た。「遠乗りには一人で行くのか」

「飛行術の先生に付き添ってもらっています。色々とご存知の方で、ぼくの行動がマグルに怪しまれないようフォローしてくれます」

「若いけれどしっかりした先生でね。ドラコも懐いているの」

「ほう。その先生は、クリスプスを食べた後のごみの処理について、何か言っていましたか」

 

 ごみ。両親と俺は顔を見合わせた。

 

「ぼくはとくに何も聞いていません」

「他のごみと一緒に、ハウスエルフが屋敷の裏手で燃やしているはずよ。マグル趣味の包みが人目に触れる心配はないはずだけれど」

 そうではなく、とスネイプは頭を振った。

「マグルの使う人工素材は、安易に燃やすと有毒ガスが発生する可能性があります」

「有毒ガス?」母上が口元に手を当てた。「そんな危険な物で食品を包装するなんて、マグルは何を考えているの」

「そのままの状態ではべつに有害ではありません。低温で燃やした時に生成される物質が問題なのです。ダイオキシン類というそうです。無色で無味無臭、しかも返しの呪文が存在しない。人を呪い、土地を呪い、自らも呪われる……。マグルの生んだ画期的な呪いですな」

「セブルス、要点だけ話せ」

 

 父上に水を差されて、彼は一つ咳払いをした。

「要するに、焚き火程度の火力で、塩と油にまみれたクリスプスの袋を燃やすことはお勧めしません。屋敷周辺の大気と土壌が汚染されます」

 確かに一時期は有害物質として騒がれたダイオキシンも、最近はあまり人体への危険性は聞かれない。燃やす量も微々たる物だ。心配するな、と言ってやりたかった。

「燃やした後に魔法で清めればいいのかしら。ああ、でも空気に散った分はどうしようもないわね」

「私としては、マグルの作った物はマグルのごみ箱に捨ててくるのがいいと思いますよ。それこそドラコがクリスプスを買いに行くついでに」

 

 ところが無難と思えた案に、父上が異を唱えた。

「わざわざ外へごみを捨てに行くのは優雅ではないな。高温が必要なら、フィエンドファイアで燃やし尽くせばいいだろう」

 聞き覚えのない言葉だ。母上のほうを見ると、母上も首を横に振った。

「ドラコ、どうだ。新しい魔法を覚えてみるか」

 

「ルシウス!」とスネイプが鋭く咎めた。「ごみを燃やした後には、一気に冷やす必要もあったと思います」

「冷やす?」

「はい。燃やした後に冷却する段階でも、ダイオキシン類が発生する温度があったはずです。適当なことを言ってもいけないので、ホグワーツに戻って文献にあたってみます。ドラコにフィエンドファイアを教えるのは、それからにして下さい」

「たかが包装一つに面倒だな。まあいい、分かったら連絡しろ」

「はい」

 父上の横柄な依頼にも、スネイプは律義に返した。

 

 積もる話も一段落した頃。客人が、父上のコレクションに新しく加わった呪具を見たいと言い出した。父上は喜んで書斎に案内しようと立ち上がった。

「ああ、そうだ。ドラコ」と、スネイプは部屋を出る前に振り返った。「一昨日の新聞があったら、書斎に持ってきてくれないか」

「いいですよ。ハウスエルフに――」

「いや、きみに持ってきてもらいたい」

 父上が僅かに眉を顰めたが、何も言わなかった。

 俺は頷いた。「分かりました」

 

 わざわざ別室に呼び出して、俺の正体を父上の前で暴く気か。対応策をあれこれ考えながら、『モイライ』を書斎に持っていった。



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雪静か・2

 書斎の扉は細く開いていた。

 

 部屋に近づくと、中から「さて」と父上の大きな声が聞こえた。

「ドラコが来る前に、きみの秘密の話を聞こうか」

 俺は仕方なく扉の脇に立ち止まった。

 

「うちの息子に関わることで、何か気になる点でもあるのか」

 傲慢そうな物言いが鼻につく父上の声。それに応えるスネイプの声は、低く柔らかい。

「ドラコが親しくしているという、飛行の家庭教師のことです。マルフォイ家の跡継ぎにマグル製品を買わせるというのは、些か配慮に欠けているようなので」

 

 俺は新聞を脇に挟んで腕を組んだ。ドラコの中身が怪しいという話ではないのか?

 

「以前のナルシッサなら、マグルの物など手も触れなかったでしょう。それを承知しているはずのドラコが、わざわざマグル製品を買ってくるというのも奇妙です。二人はよほど家庭教師を信頼しているようですな。ルシウスはどう考えますか、その人物について」

 

「指導の場には立ち会っていないから、教えかたについては何とも言えん。教わっている本人に不満はないようだな。それに私もナルシッサも、彼には感謝している。彼が来てくれたお陰で、ドラコは悩み事の一つから解放された。それを考えれば恩人と呼んでもいいくらいだ。マグルの店で買い物をさせたくらいで、目くじらを立てる気にはなれん」

 父上自身が、非魔法界を知れと推奨しているくらいだ。表向きはともかく、問題視すべきことはない。ルシウス・マルフォイをマグル嫌いだと思っている者からすれば、俺の、ドラコ・マルフォイの行動は無神経に映るだろうが。

 

 やや間を置いてから、スネイプの声は遠慮がちに切り出した。

「マグル文化への傾倒。家と親への反抗心。いずれも思春期にはつきものです。ただドラコの立場を考えると、どこかで止めてやるべきでしょうな。子供が新しい世界に夢中になるのは当然ですが、そこにつけ込まれて思想的な誘導をされる恐れがあります」

「菓子を買ってきたくらいで大袈裟な」

「先ほどのプレゼントの件だけではありません。今年はクリスマスカードがドラコ個人から送られてきました。親離れの一環でしょうが、誰かの影響を受けたせい、という可能性もあるわけです」

 

 父上が鼻で笑った。

「心配してくれるのはありがたいが、牽強付会が過ぎないか」

「根拠がまるで無いわけでもありません。私の学生時代の知り合いに、魔法界の歴史を背負う旧家に生まれながら、それを足蹴にした男がいましてね。マグルの格好をして、マグルの乗り物を乗り回して。今思えば、親に反抗するためにわざとそう振る舞っていた部分もあるでしょう。

 奴は今、アズカバン刑務所にいます。奴が死ねば喜ぶ人間が大勢いるという点で、これから一つ善行を積むことが確定しているのは羨ましい限りですな」

 

 スネイプの言っているのが誰なのか、何となく分かった。

 

「その男は、何をして捕まったのかな」

「仲間のろくでなし連中を裏切りました。親友と呼んでいた男とその伴侶を敵に売って死なせた揚げ句、追ってきた別の仲間と近くにいた大勢の人間を爆殺しました」

「控え目に言って極悪人だな。妻の親戚のことを悪く言いたくはないが」

 

 名前こそ出ないが、やはりシリウス・ブラックのことだ。原作知識がなくても、ドラコ本人でも察しただろう。なにしろシリウスは母の従弟だ。

 

「ドラコなら奴のように道を誤ることはないでしょうが、気には掛けておいて下さい」

「善処しよう」

 父上が少し声のトーンを変えた。

「それで話を戻すが、ドラコのお気に入りの家庭教師をいきなり遠ざけるわけにもいかん。今のところ、その家庭教師が何か示唆したという証拠はない」

 

 スネイプの声が、ゆっくりと、考えながら応えた。

「では、とりあえず促すのはドラコ本人の自覚でしょうな。今のあの子の知り合いは身内ばかりです。よその人間と接触して、マルフォイ家が魔法界でどう見られているかを知るべきでしょう。知り合いが増えて友人が出来れば、それが子供にとっては新しい世界の入口となります。相対的に特定の人物への依存度も下がるはずです。結論としては、同年代の子供達と交流する機会を設けて下さい」

「同年代など、学校に行けばいくらでも交流できるだろう」

「それまでは知り合いも不要だと? たとえ寮が違っても、入学前からの友人がいれば心強いですよ」

「そうか。まあ、今のドラコの友人は、限られているからな」

 父上の相槌を最後に、部屋からは声がしなくなった。

 

 話は終わりか。その場を退こうとした時、ドアが大きく開いてスネイプがぬっと顔を出した。

「やあ、ドラコ」

「どうぞ。古新聞です」

「ありがとう」

 彼はじっと俺を見下ろした。黒い、昏い目は、不思議と嫌な感じはしなかった。

「ドラコ。きみに親しい友人はいるか?」

 

 俺は目の前の人物を指差してやった。すると彼は「私か?」と面食らった様子で声を上げた。

 彼の後ろで父上が笑い出した。「そうか。セブルスが友人か。それはいい」

 スネイプも仕方なく苦笑した。

 

          ◇

 

 翌日、俺は真っ白な庭で雪だるま作りを始めた。

 

 雪だるまの目鼻用にと、ドビーが人参や木の枝を持ってきてくれた。ボクシングデイだから仕事はしなくて良いと俺が言っても、笑って取り合わなかった。彼に言わせれば、「休みだから息をしなくていいと言われて、息を止めていられるか」ということだそうだ。

 雪玉を大きくする作業も魔法で肩代わりしてくれようとしたが、それは断って屋敷に戻した。

 

 それから少し経って、屋敷から来る人影が見えた。

 白い景色から拒否されたような黒い痩身。原作で「育ちすぎた蝙蝠」と称された、スネイプだった。雪面に触れているローブの裾が、濡れもせずに軽やかに翻っている。防水呪文を使っているのだろう。その薄着ぶりに、長靴とコートで防寒している俺のほうが馬鹿らしくなった。

 

「ナルシッサから伝言だ。お茶にするから適当なところで戻ってこいと」

「お客を伝言係に使うとは、母上も酷いですね」

「なに。私も人の家でやることがなくてね」

「でもこれがね」俺は傍らの雪玉をぽんと撫でた。転がしている最中の雪玉は、まだまだ小さい。

「分かった。手伝ってやるから早く仕上げろ」

「魔法は使わないで下さいよ」

 俺が言うと、彼はにやりと唇の端を引き上げた。

 

 さすがに大人の力を借りると作業の進みが早い。まもなく雪だるまが――日本の二段重ねではなく欧米の三段スノーマンが――できあがった。

「さあ戻るぞ。あまり遅いとナルシッサに文句を言われる」

 

 地面に放り出してあったマフラーと帽子が、雪を払ってから差し出された。

 

「セブルス小父さん。小父さんから見て、ぼくは変なことをやっているように見えますか」

 クリスプスの詰め合わせは迂闊だったと、昨夜から反省している。

 

「奇矯とまでは断言できない。ただ私は普段きみより少し年上の子供を大勢見ているから、些細なことでも色々と考えてしまう。心配性だと人には笑われるがね。去年会った時と比べると、きみの様子が随分と違うから、何かあったのかと思ったんだ」

 

 俺は少し考えて告げた。

「父上も母上も小父さんに話していないと思いますが、今年の誕生日に、母上の杖を貰いました。なのにいくら教えられても魔法が使えなくて、数ヶ月それで悩んでいました。スクイブだったら一人でどう生きていこう、非魔法使いの学校に転入させてもらおうかと、あれこれ考えました。その間にぼくの考え方も、ぼくを見る親の目も変わったのだと思います。

 飛行術の先生は、魔法を使えるようになったきっかけを下さった方です。ぼくも両親も先生にはとても感謝していますし、先生を警戒する理由はありません。小父さんも心配しないで下さい」

 

「そうか。それならいい」スネイプは屋敷のほうに目を向けた。「お父上もお母上も、私にとっては大事な友人だ。もちろんきみも。友人が悲しんだり困ったりするようなことになってほしくないと思ったが、出過ぎたことだったな」

 だが一つだけ、と彼は付け加えた。

「ドラコもこれから色々な種類の人間と出会うだろうが、全員が善人とは限らない。ルシウス・マルフォイの息子であることを少し意識したほうがいいだろう。今はご両親が守ってくれるだろうし、ホグワーツでは私もできる限り気を付けておくが、それでもだ」

 

 そう言うと、彼は屋敷に向かって歩き出した。

 

 俺はまたしても考え違いをしていたようだ。

 

 原作で、スネイプはこれ見よがしにドラコを贔屓してみせる。ドラコというよりその背後のルシウスとの関係を良く見せようとするのは、血筋を重視するスリザリンの学生への睨みを利かせるため。ルシウスがスネイプの校内での立場を強化しようと動くのも、ダンブルドアの力を削いで、自身の影響力を増すため。そうした打算に基づく友情だと思っていた。

 だから原作後半で、ナルシッサに懇願されてドラコを助けるとスネイプが誓ったシーンは意外だった。その時点ではルシウスは発言力を失っていて、スネイプがマルフォイ家に手を貸すメリットはなかった。後々の展開を観て、その誓いが「いずれスネイプがやらなければならない汚れ仕事」と矛盾していないから平気だったのだろうな、と結論づけたものだ。

 

 しかし、この夢で彼らの関係はもっと温かいもののようだった。

 仕事上がりにそのまま屋敷に来たというスネイプは、昨夜は居間のソファで爆睡していた(後で自分で起きて客室に上がっていった)。今朝、父上と母上が交わした会話を彼は知らないだろう。

 

『セブルスはかなり疲れているみたいね。ホグワーツのクリスマス休暇っていつまでかしら。遠慮しないでもう何泊かしていってもらいましょう』

『きみからそう言ってくれるのはありがたいが、それはそれで、あいつも気疲れするだろう。普段は人に囲まれている分、たまには独りでゆっくりしたいと思うぞ。まあ、誘ってはみる』

『そうしてちょうだい。寮監のお仕事って忙しいんでしょうね。前に会った時より痩せた気がするわ』

『ああ。よく続いているものだ。辞めたいなら一言そう言ってくれれば、良い勤め先を用意してやるのにな。本人に辞める気がないから、ささやかな支援しかできない。しかしセブルスが痩せたとしたら、きみが以前、年齢の割に貫禄が付いたと言ったからじゃないのか』

『いやだわ。太ったという意味ではないのに』

 

 彼らが打算抜きの友人であるなら、スネイプにも、俺のことは知られたくない。友人夫婦の息子の中身が赤の他人だと知ったら、普通は悩むだろう。悩んだ揚げ句、マルフォイ夫婦にドラコの真実を打ち明けられては困る。かと言って、二人に打ち明ける前によそに相談されるのは、もっと困る。

 

 さくさくと雪を踏む黒い背中に呼びかけた。

「セブルス小父さん」

「ん」

「ダンブルドアは二十世紀で最も偉大な魔法使いだったと聞きますが、今でもそうですか」

「ああ。現役では最強と言ってもいいだろう。お父上には言うなよ。ルシウスはダンブルドアをとても尊敬しているから」

「政敵としてね」

 

 スネイプはやはりダンブルドアに近い。父上の感情などどうでもいいが、俺にとってダンブルドアは警戒すべき相手だった。

 

 原作のダンブルドアは、対象者の意識の中の光景を垣間見る魔法、開心術を得意としていた。きっとこの夢の中でもそうだろう。もし俺に開心術を掛けたら、そこで『ハリー・ポッター』シリーズのワンシーンを視る可能性は十分にある。たとえ光景の中の登場人物が映画の配役のままでも、状況から「未来の出来事を知っている」「当事者しか知らない秘密を握っている」と解釈するかも知れない。それができるだけの知恵を与えられた人物だ。

 

 彼はハリーでさえ、ヴォルデモート打倒のための道具と割り切っていた。マルフォイ家の小倅に「未来」の記憶があると分かれば、遠慮無くそれを活用するだろう。しかもドラコはハリーと同学年で、デスイーター関係者。絶好の飛び道具だ。俺のことを知られたら最後、スネイプに続くダブルスパイとして使われかねない。

 

 一方、ヴォルデモートも開心術の強力な使い手だった。疑り深く、部下相手にも容赦なく開心術を使う。復活した後にドラコと接触する機会も多い。俺の心が読まれたら、本当なら知り得ない情報を握っている危険人物として始末されるのは間違いない。

 

 だから俺は、絶対にダンブルドアとヴォルデモートに疑われてはいけない。二人の腹心を同時に務めるスネイプにもだ。俺の相手は作中最強格の三人というわけだ。

 

「きついな」

 思わず漏らした独り言にスネイプが振り返った。

「何か言ったか?」

「いいえ。何も」

 

 両親の愛に護られたこの箱庭世界は、ドラコに優しい。しかし一歩でも外へ踏み出せば、そこには厳しい社会が待っている。自分でどうにかしなくては。




Trivium "Silence in the Snow"


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富を隠せよ・1

 まだ寒い曇りの日に、彼らはやって来た。

 

 温室を再利用した作業小屋で孔雀と遊んでいたら、傍らで作業していたドビーが不意に顔を上げた。

「坊ちゃま。ただ今ドビーに急ぎの仕事が入りましてございます。坊ちゃまは、できればお屋敷にお戻りになるのでございます」

 ハウスエルフにはある種のテレパシー能力があり、遠隔地からの要請にも応えることができるという。

 

 小屋から出ようとした時、いきなり現れた荷物とぶつかりそうになった。

「おっと」

 抱えた荷物の陰からコビーが顔だけ出した。

「真に申し訳ありません坊ちゃま。お怪我はございませんか。どうぞ本邸にお戻り下さい」

 

 その間に、ドビーは作業小屋の床板を持ち上げ、荷物を抱えて床下に飛び込んだ。アビーも荷物を運んできた。蟻が巣に餌を持ち帰るように、ハウスエルフ総出で書類や何かの袋を運び込んでくる。

 

 屋敷に戻ると母上に呼び寄せられた。

「ああ、ドラコ。これから人が屋敷に入ってきますから、良い子にしているのですよ。何か尋ねられても答えてはいけません。分からない、知らない。それだけでいいですからね」

「人が来るとは前から聞いていましたが、何か問題でも?」

「問題? ええ、お客人が増えただけですよ」

 

 書斎から出てきた父上が、手の埃を払ってコビーを呼んだ。「あらかた片付けたな。連中を入れてやれ」

 門に掛けられた魔法が一時的に解かれ、数人の魔法使いが玄関までやってきた。一人が前に出て、書類を差し出した。

「ルシウス・マルフォイさんですね。法執行部調査課の者です。先日ご連絡した通り、闇の魔術に関連した禁制品を不法に所持していないか、立ち入り調査に来ました。よろしいですか」

 

 すわガサ入れかと思ったが、そこまで深刻な事態ではないらしく、父上の対応は落ち着いていた。

「べつにあなた方に隠す物は無いが、そこの男を入れるのは断る。なぜ貴様がここにいる、ウィーズリー。とうとう何とか局長のポストも追われたか」

 

 父上は調査官の後方にいる男を、ドライアイスの視線で見やった。生え際がだいぶ後退した中年男性も、火の燻る目で眼鏡越しに父上を見返した。

 

 おそらくこの男性が、ハリーの親友となるロン・ウィーズリーの父親だ。ルシウス・マルフォイがアーサー・ウィーズリーという男を嫌っていることは、俺も知っている。原作では子供たちの前で取っ組み合いの喧嘩までした二人は、この夢でも心温まる交流をしていた。

 

 たとえば官僚の異動がガゼット(官報)に掲載される時期になると、父上は必ずウィーズリー氏の名前をチェックする。そして出世していないのを知って嘲笑い、「今年も変わらぬご活躍を」とメッセージを付けた豪華な花を先方の家に送りつける。

 ウィーズリー氏のほうでも、デスイーターだった人間が死んだり不幸な目に遭う度に、訃報欄の切り抜きと「同志がお気の毒に」というメモを添えて、保険のパンフレットを送りつけてくる。しかも公務員用の団体保険という、どう逆立ちしても父上が加入できないものをだ。

 

 そんな具合に、お互い相手の神経を逆撫でするための手間は惜しまない。逆に仲が良いのかと疑う。

 

 眼鏡の男性は苛立った声を上げた。

「部署は変わっとらん。応援だ。それとも私が来て何か不都合でもあるのか、マルフォイ」

「もちろんあるとも。貴様の手垢で調度品を汚されてはかなわない。金目の物を物色する気なら、十クヌートやるから帰ってくれないか」

「はっ! 尻尾を現したな蛇野郎。贈賄の現行犯で捕まってしまえ。デスイーターのくせにいつまでも名士面できると思うな。いつか必ず報いを味わわせてやる」

 

 不毛な言い合いに、先頭の調査官が咳払いで分け入った。

「マルフォイさん。ウィーズリー局長は確かに他部門の人間ですが、応援要員で来てもらっています。ご理解下さい。始まりが遅くなるほど調査時間も延びますよ」

「人手不足には同情するが、応援を頼む相手を間違えたのではないかね。こちらへ」

 

 調査官とその部下は父上の後に付いていったが、ウィーズリー氏だけは勝手に屋敷を調べ始めた。

 

「母上」放っておいていいのかと問うと、抱き寄せられた。

「これまで立ち入り調査の日は、あなたの叔母様のところへ行かせていたものね。立ち入り調査は今回が初めてではないのですよ。デスイーターと間違われた後遺症のようなものですから、仕方ありません。我慢なさい」

 ルシウス・マルフォイは転向者の中でも名を知られているほうだ。なおかつ純血の名家で資産家。世間への見せしめには最適だ。

 

 後でこっそり書斎に様子を見に行くと、調査官たちはファイル類をじっくり検分していた。父上の横に見慣れぬ男性も同席し、父上の代わりにあれこれと調査官の質問に答えている。

 

「そこの少年、少しいいか」

 振り返ると眼鏡の役人がいた。ドラコと顔を合わせるのは初めてのはずなのに、ウィーズリー氏は忌々しそうにこちらを見下ろしていた。

「父親と瓜二つだな。母親に似ればまだ良かったものを」

 余計なお世話だよ。「ぼくに何かご用ですか」

 

 ウィーズリー氏は腰を屈めて、俺と視線を合わせた。残っている頭髪は確かに赤毛だった。

「きみの父親は過去にとても悪いことをして、未だにその罰を受けていない。だからいつまで経っても悪いままだ。父親が悪い奴なのは嫌だろう? だから魔法省の調査に協力してほしい。持っていてはいけない物、よそに言ってはいけない物がこの家のどこに隠してあるのか、教えてくれないか」

 

 そう言われて思い浮かんだのは、作業小屋に何かを運び込むハウスエルフたちの姿。しかしそれが不法所持の危険物かと言われると、違う気がする。そもそもこの日に調査が行われることは事前に知らされていたようだし、直前に慌てて隠す理由はない。

「そういうのはよく分かりません」

「物分かりの悪い子だな。法令で禁じられた、闇の魔術に使う呪具だよ。マルフォイの息子が知らないわけないだろう」

 

 決めつけられたことに文句を付けようと顔を上げると、相手と目が合った。青空のように澄んだ目だ。

「さあ、言ってごらん」

 真っ直ぐにドラコの目を通して、真実を掴もうとしている。

 

 嫌だ、と思った瞬間に視界が黒く覆われた。腕で顔を隠すよりも早かった。

「ウィーズリー、私の息子にレジリメンスを使うなら、おまえの首を飛ばしてやる」

 

 真上から聞こえた父上の声にほっとした。ウィーズリーが苛立たしそうに答えていた。

「レジリメンスなど使っとらん。後ろ暗いところがあるから、そうやって常に人を疑う羽目になるんだ。私はただ目を合わせて話をしようとしただけだ。うちの息子たちともそうしている」

「ドラコはおまえの子ではない。杖も持たない他人の子供に勝手に術を掛けるなど、無礼もいいところだ。さすが血を裏切る家の人間。常識も何もあったものではないな」

 

 父上の袖に覆われて視界は遮られたままだが、却ってその怒りが間近に伝わってきた。声を掛けて腕を叩く。

「父上、ぼくは大丈夫です」

「ではこんな所にいないで、調査の邪魔にならないように母上と一緒にいろ」

「はい、すみません。失礼します」

 

 俺は早々にその場を離れて母上のところに避難した。そこでレジリメンスが人の思考や記憶を覗く魔法だということを知った。つまり、開心術か。

 ウィーズリーがその魔法を使ったという根拠はなかったし、実際に使っていないと思う。ただ、父上がそう疑うように、俺に開心術を使う人間がいてもおかしくないという状況が、急に現実味を持った。

 

          ◇

 

 調査官たちが帰った後の屋敷は、空き巣被害に遭ったようだった。犯人はもちろん、一人で家捜しを敢行したウィーズリー氏だ。なんとドラコの子供部屋さえ引っ繰り返されていた。日本の警察も家宅捜索の後に現状復帰するのは義務ではないという。覚醒剤の不法所持を疑われて家宅捜索された友人の家の惨状を思い出して、まだましだと自分を慰めた。一緒に片付けてくれるハウスエルフもいる。

 

 床に散乱したワークブックや辞書の中に、スネイプから貰った鉱石図鑑も混じっていた。乱暴に扱われたせいで、中ほどのページに折り目が付いてしまった。せっかくの贈り物だったのに。

 

 おのれ、ウィーズリーのくそ親父。

 

 役人の横暴を訴えようと、俺は図鑑を抱えて書斎に飛び込んだ。

「父上!」

「どうしたドラコ。貧乏人に何か盗まれたか」

 

 書斎では、父上と、先ほども同席していた男性が椅子を向かい合わせにして話していた。

「あ、申し訳ありません。お客様がいらしたんですね。出直してきます」

「いや、いい。ちょうどいい機会だ」

 

 父上はその壮年の男性に俺を紹介した。でっぷりと腹の出た穏やかそうな男性は、会計士ということだった。

「こちらのセラター氏は節税に長けた魔法使いだ。マグルの勅許会計士の資格も持っている。事務所とは一世紀以上の付き合いになるな。彼はいくつかの海外口座と法人を使って、我が家の利益が最大限になるように手を貸してくれている」

 

 それは魔法ではなく、マネーロンダリングというやつではないだろうか。

 

「ルシウス様にお褒め頂けるとは光栄ですな。しかし、そこまでご子息にお話しされて、よろしいのですか」

「構わない。いずれ伝えることだ」と言うと、父上は俺に向き直った。

「前に教えたと思うが、マルフォイ家の収入基盤はマグルとの取引にある。その利益の大部分はマグルのやり方に則ってオフショアで運用しているから、魔法省の連中は手を出せない。だが連中は、暮らしぶりの割に納税額が少ないと不満なのだ。それで今日は我が家の財政状況を調べに来た」

 考えてみれば、魔法省という行政組織があるのだから、魔法界にも租税制度がないと困るだろう。

「闇の魔術品を探している人もいましたよ」

「奴は嫌がらせに来ただけ、奴を寄越した連中は体裁を取り繕いたいだけだ」

 

 セラター氏がにこにこしながら会話に加わった。

「自慢ではありませんが、私が目を光らせている限り、マルフォイ家と関連法人の会計処理は完璧です。本当は税務課の連中も、踏み込んでも何も掴めないことは分かっているんです。だから調査が空振りでも失点の無いように、禁制品の取り締まりなどと上辺を取り繕ってやって来る。下手に勘繰られても困るので、帳簿類はちゃんと見せてやりますよ。ええ」

 やっぱりマルサ案件だった。

 

「すると、屋敷を片付けていたのは何だったのですか」

「マグルとの直接の接触を示す品だ。調査にウィーズリーが来ることは予想外だったからな。奴は知識の浅いマグルかぶれだが、現物を見ればさすがに勘付くだろう。我が家がマグルと繋がりがあることを奴に知られるのは、色々と具合が悪い」

「……開心術を掛けられなくて良かったです」

 俺が溜息を吐くと、父上とセラター氏は笑った。

 

 ふと、以前から考えていたことを思い出した。会計士がいるならいい機会だ。

「父上、こんな時になんですが、毎月決まった額の小遣いを頂くことはできませんか」

「欲しい物は買ってやっているだろう」

「お二人の話を聞いて、将来の資産運用のために、今のうちにお金をコントロールすることに慣れておきたいと思ったのです」

 

「ほう」父上は不審そうに片眉を上げた。「私や母上に知られると不都合なことに使うのではないか?」

 心外な、と俺は肩をそびやかしてみせた。

「息子の独立心を応援して頂けないのですか。だいたい誰かが一緒でないと外出もままならない身で、どうやって火遊びできるんです」

 

 父上が疑っていることは、実は正しい。

 ドビーとの対話を経て、俺はマルフォイ家がヴォルデモートの手駒にされるのを阻止したいと思うようになっていた。具体的に何をするかは決めていないが、いざという時は、すぐにタクシーを拾ってビジネスホテルに避難するくらいの資金は確保しておきたい。移動くらいは魔法でやれ? 非常時に備えるなら、魔法が使えない状況も想定すべきだ。

 

 横で聞いていた会計士が口を挟んだ。「ルシウス様。ドラコくんが加勢を期待しているようですので、私からも一言よろしいですか」

「当主より息子の味方をするのかね」と、父上は椅子に頬杖を突いてそっぽを向いた。

 

「私はお家の味方ですよ。ご子息に取り入って甘い汁を吸おうとする輩からお家を守るためにも、小遣い制度は有効だと私も思います。使える金額が限られていると分かれば、妙な連中にすり寄られる面倒は減るでしょう。学校に入る前に自立心と金銭感覚を養っておくのもよろしいかと。加えて言うならば、ドラコくん用の口座を作っておけば、いざという時の資金の一時避難に使えます」

 

 言い終えると、セラター氏はこちらに軽くウインクしだ。俺も会釈を返した。父上はまだ苦虫を噛み潰し続けている。

 

「口座の件は、許可してもいい。しかし、本当に自分で管理できるのか」

「できるとは思います。ご心配なら、ぼくが父上の後を継げるかどうかの試金石にでもなさって下さい」

「こんなにしっかり将来を見据えておいでのご子息だ。ご心配には及ばないでしょう」

 

 たっぷりと沈黙を取った後、父上は重々しく言った。「……後で母上と相談しよう」

「ありがとうございます。父上、セラターさん」

「ドラコくん、もし小遣いの使い道に困ったら、いつでも私の事務所に来なさい。特別に無料でコンサルティングしてあげよう」

「くれぐれも息子に余計なことを吹き込まないでくれ。ところでドラコ、何か用があったのではないか」

 図鑑の折れたページを見せて説明すると、父上は憤慨した。

 



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富を隠せよ・2

 飛行のレッスンは、年明け後もだらだらと続いている。学ぶためというより、ドラコの気分転換のために始めたことだ。止める理由はなかった。ドラコが魔法を使えるようになってからは、飛行時に便利な魔法も教わっている。

 

 イースはそれなりに多様な魔法と、その応用方法を知っていた。たとえば冬に重宝するのが泡頭呪文。気泡で頭部を覆い、水中でも呼吸が出来るようにするのが、この魔法の本来の目的だ(新しい酸素の供給はどこから、なんてことは知らない)。それを箒乗りの一部は、頭部だけでなく体全体を空気の層で覆うように発展させて使う。冬のツーリングの厳しさは体験した者でないと分からないだろうが、寒風に体温を奪われないので、とても温かい。

 しかし自分でやろうとすると難しかった。

 

「まあ、そんな簡単には覚えられないよね。他にドラコくんもできそうなのは……」

「飛行には関係ないけど、使いたい魔法ならある」

「へえ。どんなの?」

「閉心術。親には教わりたくない」

「そりゃまた面倒臭い」

 家庭教師は腕を組み、しばらく考えた。

 

 原作でも、ヴォルデモートの精神侵入に備えて、ハリーがスネイプに閉心術を教わっていた。たしかドラコ自身も閉心術を使っていたか、素質があるとか言われていた。中身が俺でも、ドラコに習得するチャンスはあるはずだ。

 

 ただし閉心術を覚えるには、まず開心術を受ける必要があった。少なくとも原作のハリーはそうしていた。俺がドラコの両親に閉心術を教わりたくないのは、それが理由だ。逆に家との縁が薄い他人になら、多少の事情が伝わっても構わないと思っている。

 

 ところで今の、中に俺を抱えたドラコに開心術を掛けると、術者はいったい何を視るんだろうな。

 

「悪いけど俺からは教えられない。その手の分野は苦手なんだよね。もちろん親の干渉を受けたくないっていうのは分かるよ。俺も昔――」

「そういう思春期の問題じゃない」

 俺が遮ったので、彼は口を閉ざして目を細めた。

 

「詳しくは話せない。秘密について知りたいなら、ぼくに開心術を掛けろ。だけどそれをしたら最後、イースはぼくに閉心術を教えなければいけない。さあ、掛けろ」

「何その脅し。タービネイト先生は本当にそういう魔法が苦手なんだって。ぶっちゃけ責任も取りたくない。だいたいさあ、隠したいことがあるなら他にもやりようはあるでしょ」

「たとえば?」

「たとえば、そうだなあ」

 

 イースが考えている間に、手持ち無沙汰な俺は箒を膝くらいの高さに浮かべて柄の部分に立った。目指すは桃白白だ。

 

「じゃあまずは閉心術について整理しとこうか。意識に侵入してくる開心術を遮断するのが閉心術だ。秘密や本心を守るのに最適と言われているね。だけど真実薬っていう自白剤を使われた場合、並大抵の閉心術じゃ抵抗できない。薬だけじゃなく、開心術を使ってくる術者の技量次第でも閉心術は役に立たない。乱暴に言うと、きみが閉心術を覚えても、大人の仕掛けてくる開心術には対抗できないと思うよ」

 

「というと、開心術や閉心術は、大人なら誰でも使える魔法なのかい」

「存在は知られてるけど、誰でも使えるわけじゃない。今度本屋に行ってみる? 並んでる本を見てみれば、何となく分かるよ。だいたい他人の心に勝手に踏み込むなんて、その人の財布の中身や日記を勝手に見るくらい失礼じゃん」

「そうかも知れないが……」

 開心術をそのレベルで語っていいのか。

 

「それ以外のドラコくん自身に対してのアプローチというと、忘却術もある。特定の話題のことを忘れてしまえば、きみにとっては秘密なんて存在しなくなる。ただし何も知らない状態に戻るだけだから、自分でも気付かないでまた同じ秘密に触れて、元の木阿弥になることもある。諸刃の剣だね」

 

 うーん、と俺は腕を組んだ。都合のいい記憶だけを消してもらうには、その部分を術者に説明する必要がある。自分で自分に忘却術を掛けるなら、術を習得するまでは無防備なままだ。

 

「三つ目は舌縛りの魔法。特定の話題や単語を喋れなくする魔法で、物理的に秘密を吐けないようにできる。開心術を使われたらおしまいだけど、真実薬を使って自白させられそうな時には心強い盾になる」

 先ほど言われるまで、開心術にだけ備えればいいと思っていた。しかし秘密を吐かせる方法は、ハリポタ世界の魔法だけに限らない。自白剤もあれば脅迫も拷問もある。俺なんて、暗い取調室に連れて行かれてカツ丼を見せられただけで、あること無いこと白状する自信がある。「決して折れない心」など持ち合わせていない。

 

「秘密をきみから引き出そうとする者へのアプローチも、当然考えられるね。たとえば忘却術でその話題を忘れさせればいい。不自然にその部分の記憶が抜け落ちたことに気付かれたら、却って秘密の存在が浮き彫りになっちゃうけどね。舌縛りの魔法を、自分ではなく相手に掛けるのも当然ありだ。犯罪だけど、服従の魔法で相手の行動を制限することもできる。だけど、合法であっても相手に魔法を掛ける方法はお勧めしない。危険だから」

 

「危険?」

 たじろいだ拍子にバランスを崩した。押し出されて進みかけた箒を、イースが自分の箒で抑えて止める。

 

「自分と相手の力量次第では、他人に魔法を掛けてもそれを無効化されたり跳ね返されたりする。きみの秘密を探ろうとするのは、子供と大人、どちらの可能性が高い? もし大人だったら、魔法勝負は子供のきみには最初から不利なんだよ」

「ほほう」

 受け取った箒の柄に顎を乗せた俺を、イースは不安げに見つめた。

「べつにドラコくんが弱いと言ってるわけじゃないからね。俺はきみの魔法の実力を知らないし、一般論で言ってるだけだから。世間一般の常識を喋ってるだけだから!」

「そんな念押ししなくても、無理はしないさ。他に対策はないかな」

 

「魔法を使わない前提なら、すぐに思いつくのは秘密を裏付ける証拠を隠滅することだよね。それから秘密に関わった人間を、買収したり権力に物を言わせて口封じ。大人はやるけど、ドラコくんはそういうのはまだやらないでほしい」

 中身はすでに薄汚れた大人なのに、気を遣わせて申し訳ない。ただ、ドラコ少年にはなるべく真っ当な道を歩んでほしいと、俺も思っている。そもそも本当の「秘密」は俺の意識そのものだ。証拠や証人は存在しない。

 

「ちょっと視点を変えて、建設的な方向で行こうか。やっておくべきことの一つ目は、秘密を暴かれても問題にならないだけの味方を作っておくこと。味方がいれば庇ってもらえることもあるし、孤立無援にならないというのは、案外重要だよ。この場合の味方というのは、同じ弱味を持つ共犯者のことじゃない。外部に向けてきみの立場を弁護してくれる理解者だ」

 

 彼は指を二本立てた。

「二つ目は、自分から秘密を明かしてしまうこと。他人に暴かれる前に自分から告白した秘密は、弱みになりにくい。もちろんそれで取り返しの付かない窮地に陥らないように気を付ける必要はある」

 

「打ち明ける相手を見極めるということかい」

「それと、予め足場を固めておくことだ。足場というのは法律改正かも知れないし、前例作りかも知れないし、ただの個人の信頼かも知れない。先に挙げた、味方作りも含まれるだろうね」

 力のない子供に出来るのは、他者の信頼を勝ち得ることくらいだろう。

 

「三つ目は、隠したい事情の核心部分を陳腐化してしまうこと。どう言えばいいかな。たとえばそこに転がってる小石が、実はダイアモンドの原石だった。というのが、きみの知ってしまった秘密だとする。その秘密を守るために小石をしまい込むんじゃなくて、ハンマーで叩いて粉々にしたり、高温で燃やしたりして、原石としての価値を無くしてしまうんだ。さっき言った秘密の証拠や証人を消すというのは、小石の組成を調べた時の記録を消すことに当たるから、少し違うね」

「秘密の存在を示す証拠を消すんじゃなくて、秘密そのものの価値を無くすということか」

 俺の場合で言うと、原作知識が役に立たないほど、この夢の世界が原作とかけ離れてしまえばいい。それで平和になれば万々歳。しかし原作ファンではないのでどこをどう変えたらどうなるか、さっぱり分からん。

「言うのは簡単だけど、やるのは難しそうだな」

 

 俺が笑うと、イースは真顔で頷いた。

「そうだよ。簡単なのは秘密を親に打ち明けて、相談することだと思うよ」

 それができれば苦労はしない。

 

          ◇

 

 後日、彼と一緒に本屋へ行った。

 

『これで安心! 浮気がバレない閉心術』

『浮気を見抜くたった一つの冴えたやり方』

『開心術と閉心術 その攻防と相互補完の歴史』

『うちの子が反抗期シリーズ3 育児に使える開心術』

『プロが教える開心術と閉心術・ポケット版』

『閉心術士の落とし穴 ~失敗実話百選~』

 

 そんな題名がずらりと並んで、一大コーナーを形成していた。硬軟取り揃えてある辺り、世間的にもニーズは幅広いようだ。平積みされた本によれば、開心術と閉心術とは、現代社会に生きる全ての人間に必要な魔法だそうだ。

 

「助けてタービネイト先生。多すぎてどれを選べばいいか分かりません」

「とりあえずベストセラーにしとけば? これ、定番らしいよ」

と適当に渡されたのは、『これで安心! 浮気がバレない閉心術』だった。付き合ってくれた友人の手前、本は買ったが、これでヴォルデモートとダンブルドアに抵抗できるのか。甚だ心許ない。

 

 不安だったので、閉心術をあてにしないで初心に返ることにした。つまり疑われるような行動は慎む。これに尽きる。

 

 その後に入った箒屋では、店員を交えて定番箒の改造について盛り上がった。バイクほどカスタム出来るパーツは多くないが、それでも穂の材料の割合など、乗り手が工夫できる部分はあるという。俺も手を加えたくなった。だがあしらわれた。新品を買ってもらったばかりの初心者に、チューニングはまだ早いと。

 

「ホグワーツは改造箒の持ち込みは禁止だよ」

と店員に釘も刺された。それ以前に、一年生のうちは箒の持ち込み自体ができない。特別扱いはハリー・ポッターだけだ。

 

 ダイアゴン横丁を出て薄暗いパブを抜けると、非魔法使いの世界。ローブの上からコートを着た俺たちは、とくに注目されることもなく通りを歩く。人目のないところで箒を原寸大に戻し、行きと同じく空の旅へ。

 

「あーカネ欲しい」

 イースがぼやいた。箒屋で、彼はオドメーターを何度か手にとっては、結局買わずに棚に戻していた。

 

 俺は恐縮した。今月から多額の小遣いを貰い始めたばかりだ。イギリスの小学生の小遣い相場は知らないが、くれる時に母上が「小役人の給料程度で足りるかしら」と心配そうに言っていた。それくらいマルフォイ家の金銭感覚は庶民とずれている。そんな親の脛かじりに、金の話は居心地が悪い。

 

「ドラコくんの友達にさあ、箒に乗るための家庭教師が必要な金持ちの子、いない?」

「悪いな。そんな都合のいい友人はいない」

 

 それはおいても、マルフォイ家での家庭教師も、ドラコがホグワーツに入学するまでには終わる仕事だ。他に働き口を探し始めたほうがいい。そう思ったのは、俺だけではなかった。

 

 屋敷に着くと、父上がイースを書斎に招いた。珍しいこともあるものだ。実はその時、彼に別口の仕事を紹介したそうだ。それを知ったのは翌週。魔法省の臨時職員に採用されたと、本人から教えられた後だった。

 

「先方は、海外経験のある人材が欲しかったんだってさ。俺が条件にどんぴしゃだったみたいで、即決だったよ。給料もまあまあだし、臨時とはいえ数年は続く仕事だから親も喜ぶし、マルフォイさんには本当に感謝だよ」

「就職おめでとう。どんな仕事だ」

「配属は国際協力部。数年後の国際イベントに向けての仕事だってよ。ワールドカップがあるから、それ絡みかな」

 

 もっと喜べばいいのに、厳つい容貌の家庭教師は、済まなさそうに眉を下げていた。

「それでドラコくんには申し訳ないんだけど、役所のほうからなるべく早く来て欲しいと言われたんだ。だから……」

 

 言葉を濁す相手の代わりに、俺から申し出た。

「ああ。タービネイト先生が合格だと認めてくれたら、ぼくも飛行術を習うのは終わりだな。父上たちもそれでいいと言っているんだろう?」

「俺の都合でごめんな」

「就職は大事だよ。でも今後も箒乗りの先輩としてツーリングに付き合ってくれたら嬉しい」

「それはもちろん。これからも箒仲間としてよろしく」

 俺たちは握手を交わした。

 

 その次の週で飛行のレッスンは修了した。最後の夜はタービネイト氏の新しい門出を祝って、ささやかな夕食会が開かれた。イースの母親と紹介者のグラブラ夫人も招かれた。

 

 客の帰りを見送った後、母上が俺の肩を抱いた。

「今度、お茶会を開きましょう。あなたと同い年の子たちを招いて。庭のブルーベルが咲く頃なら、きっと皆喜んで見に来るわ。新しいお友達もできますよ」

 

 そうですね、と俺は相槌を打った。子供相手なら、腹の探り合いや開心術を警戒する必要はないだろう。

 




Korpiklaani "Hide Your Riches"


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青に騒ぐ・1

 魔法界という狭い業界の中には、「聖二十八氏」という括りがある。非魔法使いの血を入れず、純血の魔法使いのみで血脈を保ち続けているという旧家を認定したものだ。数十年前に提唱された呼び方だが、概念自体はそれ以前からあった。魔法界の伝統や歴史に価値を置く者にとっては、意味のある区分だ。

 ちなみにマルフォイ家は、現存する聖二十八氏の中で最も裕福な家の一つ、ということになっている。本当は魔法使いでない先祖もかなりいるが、表向きはうやむやにされている。

 

 さて、そこの一人息子が同年代と交流するために、ウィルトシャーの屋敷に「ドラコのお友達に相応しい」子供たちが集まった。

 

 ――額から広がる衝撃。

 鼻面めがけて俺が勢いよく頭を突き出すと、クラッブ少年はよろめいた。反撃される前に相手の腰にタックルを仕掛けた。重い体をどうにか押し倒して馬乗りになる。そして拳を握って、……知り合いの顔を殴るのは躊躇われたから平手で頬を叩いた。悲鳴が上がった。

 二発目を当てる前に横から体当たりされた。艶やかな緑。光る青。交互に視界を支配する。頬骨の辺りに衝撃。真上に巨体。芝生のちくちくとした刺激。今日は快晴だ。

 

 伸びてきた腕に顔横の地面を殴らせ、前腕に噛みつく。腕が怯んだ。その隙に尻を上げ、腹の上の巨体ごと体を捩る。相手の体がころりと転がる。ゴイル少年だった。俺は相手の腕を掴んだままマウントを取り返す。

 彼の胸倉を掴み、太い顎めがけて思いきり頭を突き出した。肉のクッションがあるせいか衝撃が小さい。もう一回。

 そこでドラコの軽い体は突き飛ばされた。草が口に入った。

 

 身を起こそうとすると、後ろから羽交い締めにされた。太い息が耳元に掛かる。

 その息の隙間から、「やれ、グレッグ」と、クラッブが低く言った。ゴイルが口を押さえながら立ち上がった。

 脇の下から両腕を固定されているので、正面から殴られることになっても避けようがない。後ろに頭突きしたくても相手は警戒していてチャンスがない。ゴイルがでたらめに振り下ろしてくる拳は遠慮がなく、何発かは骨に沁みた。

 

 俺は顔の両脇にあるクラッブの太い手をしっかり掴んだ。地面を蹴った。逆上がりの補助板の要領で、正面のゴイルの体を蹴り付ける。腹。胸。最後に顎を蹴り上げて、勢い余って頭から芝生に落ちた。首が痛い。

 起き上がろうと体を捻ると、足元に転がっているゴイルがいた。顎下から入った蹴りが効いたのか、立ち上がる気配がない。泣いていた。

 クラッブはまだ呆然としている。

「おい」

 俺が呼びかけると、はっと我に返り怯えながらも殴りかかってきた。避けて、脛を思いきり蹴った。少年はその場にしゃがみ込み、泣き出した。こちらも貧弱な脛を使ったからやっぱり痛い。というか全身痛い。

 

「何か言うことは?」

 尋ねてもクラッブとゴイルは鼻水を垂らして泣き喚いているだけだ。俺も垂れていた洟を服の袖で拭い、それが鼻水ではなく鼻血だったことに気付いた。

 

 断っておくが、ドラコの友人を拳で決める必要はない。母上が聖二十八氏の家の夫人を中心に招いた、和やかな茶会になるはずだった。

 

 ――始まりは確かに穏やかだった。

「こんにちは、ミセス・マルフォイ。本日はお招きありがとうございます」

「お待ちしていたのよ、ミセス・パーキンソン。それにパンジーちゃん。可愛いドレスね。ねえ、ドラコ」

「そうですね」

 茶会に招かれた名家の夫人とその子供が屋敷にやってくるのを、母上と俺でにこやかに出迎える。

 

「初めまして。ドラコです。今日は来てくれてありがとう、ミス・パーキンソン」

「パンジーでいいよ。あなたホグワーツに行くんでしょう? そうしたら同級生だもの。仲良くしましょ」

「そうだね。よろしく」

 パンジー・パーキンソンは、黒髪おかっぱの、なかなか勝ち気そうな子だった。容姿が犬のパグに似ていると原作では評されていたが、やや目が離れ気味なだけだ。

 

 まもなくブルストロード家の母娘も来て、親たちも娘たちもその場でそれぞれお喋りを始めた。

「そういえばナルシッサさん。今日は息子さんと同年代の子をお持ちの方にお声掛けされたそうですけど、ザビニさんもご招待されたの? あの方の今の名字はちょっと忘れてしまいましたけど、確か一人息子がいらっしゃいましたよね」

 客が声を潜めて尋ねるのに対し、母上は鷹揚に答えた。

「いいえ。皆様とはお話が合わないと思って、お呼びしておりません。裕福でいらっしゃっても、育ちが違いますもの」

「色々とお忙しいでしょうしね。ご主人がもう体調を崩されたと、風の噂で聞きましたよ」

「六人目ともなると要領がいいこと。こちらもお花を贈る準備をしておこうかしら」

 花と言っても病人への見舞いではなく、イギリスの葬式で香典代わりとなる献花の話だ。娘たちは自分たちの会話に夢中で聞いていないが、密やかであけすけな噂話にはらはらした。かといって、客への挨拶の場から逃げ出すこともできない。居心地の悪い場所で、俺はひたすら気配を薄くしていた。

 

 そこへ新たな客が到着した。

 よく似た二人の夫人が、これまたよく似た固太りの少年をそれぞれ伴っている。

「こんにちは、ミセス・マルフォイ。ドラコくんがヴィンセントとまた遊んでくれて嬉しいわ」

「お招きありがとうございます、ナルシッサさん、ドラコくん。ほら、お久しぶりですってご挨拶なさい、グレゴリー」

 母親に促されて、少年二人はのろのろと、または渋々と挨拶した。

「二人とも久しぶり。元気だったかい」

 俺が話しかけても、目も合わせないで菓子のある場所に行ってしまった。これが、原作ではドラコの取り巻きだった、ヴィンセント・クラッブとグレゴリー・ゴイルだ。

 

 この夢の世界でも幼い頃からドラコとは交流があり、俺も去年に一度、顔を合わせたことがある。その時はあれこれ喋りかけても反応が薄く、主体性のない無気力さが目に付いた。

 彼らの父親は、ドラコの父親の学生時代からの取り巻きで、デスイーターとしても行動を共にしていた。それが息子たちにも影響していた。二人は、マルフォイの息子の取り巻きになることを期待されていた。だからドラコと一緒にいても少しも楽しそうに見えなかった。

 原作のドラコなら、気にせずガキ大将になったつもりで二人を引き回しただろう。しかし俺は「遊びたい気分でないなら無理しなくていいよ」と、二人と会うのを止めた。それなのに今更また呼びつけたことに不満を持たれたのかも知れない。

 

「嫌な感じの子たち」とパンジーが呟いた。

「まあそう言わないでくれ。親の付き合いもあるから」

 

 その後まもなく客が揃い、母親たちは茶会、子供たちは広間で放し飼いになった。

 

 集団生活の経験が無いわりに、どの子もそこそこ社交的だった。しかしそんな中、クラッブとゴイルはゲームにも参加せず、ひたすら菓子や軽食を食べ続けていた。声を掛けても聞こえないふり。

「ちょっと、ドラコが話しかけてるのに何で無視してるの。さっきから感じ悪くない?」

と見かねたパンジーが声を荒げても、無視。

 

 そのうち庭に出て遊ぼうという話になった。クラッブとゴイルはそれも無視しようとしたが、俺が「いいから皆で行こう。二人だけ残っていたら変に思われるぞ」と宥めすかして連れて行った。庭でも、孔雀に群がる子供たちをよそに、二人だけは離れた所で立ち尽くしている。何が何でもこの家では楽しまないと決めているようだ。

 

「なあきみたち。べつにぼくと仲良くしてくれとは言わないから、他の子と遊んだらどうだ」

 そう話しかけると、二人は小さい目で睨んできた。

「楽しいか。新しい取り巻き候補を見せつけるのは」

「俺たちは取り巻きにはならない。おまえみたいな奴、家の力がなければ何も出来ないくせに」

「ぼくみたいな奴とは?」彼らの言いたいことは分かっているが、先を促した。

 

「細くて青白くて弱そうなくせに、女に囲まれて偉そうで。おまえ自身はちっとも偉くないんだからな。黒髪女がべったりしてるのだって、おまえの家に取り入るためだろ」

と、ゴイルが意外に早口に捲し立てた。

「偉そうに振る舞っているつもりはなかったが、気に障ったのなら謝ろう。でもだからって、関係のない人を悪く言うのは良くないな」

「へえ、庇うんだ」

「おっぱいでも見せてもらったんじゃないか」

 

 クラッブが笑いながら突き出した拳が、俺の鳩尾を直撃した。軽く背を丸めた俺を見て、ゴイルも嘲笑った。

「ほら、弱い」

 ドラコがもやしっ子であることは否定しない。代わりに言う。「彼女に謝ってくれ」

「は? なんで?」

とクラッブが耳に手を添えてみせ、ゴイルも言った。

「おっぱいじゃなくて、もっと凄い物見せてくれたって?」

 二人はくぐもった声で笑った。

 

「……いい加減にしろ、坊やたち」

 より近い場所にいたクラッブの襟首を掴んで、思いきり頭突きした。

 

 彼の上げた悲鳴に、孔雀の周りにいた何人かが振り返った。パンジーの驚いた顔もそこにあった。

 

          ◇

 

 体格だけは立派な二人は、最終的には涙と鼻水で顔を汚して降参した。

 

 やりすぎたかな、と冷静になった頭で反省した。体感時間でもう十ヶ月以上も「お行儀のいいお坊ちゃん」を演じてきて、ストレスが溜まっていたようだ。まさか自分から子供に喧嘩を売るとは思わなかった。

 まあいいよね。こちらも同じ子供だし。ドラコの非力さでは殴っても大したことないし(頭突きについては棚上げで)。むしろ一番痛手を負っているのは俺だし。

 

 頭の中で色々と言い訳した後、周りを見た。

 クラッブとゴイルを除く子供たちは、俺たち三人を遠巻きに眺めている。思わぬ乱闘に戸惑った様子だった。マクミラン家の少年だけは、にやりと口角を上げて俺に親指を立ててみせた。少し離れた所では小さな女の子が、姉と思しき少女に抱き付いて泣きじゃくっていた。

 

 俺は姉妹の前まで歩いていって、妹の後頭部に謝った。

「ごめんね怖がらせて。もう終わったよ」

「こっち来ないで」と姉が手で追い払う仕草をした。「妹はあなたの血を見て、痛そうだって怖がっているんだから」

「鼻血ならもう止まったよ」

「うわもう本当こっち来ないで。おでこ拭いて」

と、姉には追い払われた。

 

 姉が嫌そうに差し出したハンカチで額を拭うと、血でべったりと汚れた。頭突きの時に歯に当たって切れたのか。

「もうこれは返せないな」

「純血の血なんだから、きちんと処分して」

「了解」それなら新しい代わりのハンカチを買って返そう。「ところで失礼だけど、きみの名前をもう一度聞いてもいいかい」

 三組も四組もまとめて挨拶したので、恥ずかしながら確信が持てない。すると少女は露骨に顔をしかめた。

「呆れた。客の顔と名前も一致してないわけ? こんな野蛮人が聖二十八氏の家の子だなんて。信じられない」

「面目ない」

「べつにいいよ。私の名前なんて覚える価値もないでしょうよ、ええ。そのまま忘れて」

「ダフネ」と妹が泣きべそ顔を上げた。小学校低学年くらいだ。「お姉様はダフネっていうの」

 ダフネというと、グリーングラス家だ。「そうか。それではきみはアストリアだね。教えてくれてありがとう」

「だから汚い手で触らないでってば」

 

 その時、屋敷から大勢の人が出てきた。

「小母様、こっち! 早く! ドラコが怪我しちゃう!」

と慌てるパンジーに先導されてきた母上は、俺を見て悲鳴を上げた。

 

「ああ、ドラコ、ドラコ。血が出ているじゃない。目もぶつけたの? 霞んでいない? 他に痛い所は? 全部お母様に見せなさい。ああ可哀相に。それにしても酷い格好だこと。すぐにお父様にも帰ってきて頂きましょうね。あの子たちにやられたのでしょう?」

 振り返ると、クラッブとゴイルも自分の母親に詰め寄られていた。

「マルフォイさんの息子さんに何やったの。あんたは力が強い割にぼーっとしているんだから、気を付けなきゃ駄目だといつも言っているでしょう」

「今すぐドラコくんに謝りなさい。いいから。え、歯を折られた? これは前から抜けかかっていた子供の歯でしょうが。ごまかさないの!」

「ドラコ、よそ見をしない。何があったのか説明できる? どうしてあの子たちはあなたに乱暴したの」

 

 三人の女性が各自の息子を叱り、息子たちのうち二人は泣きじゃくり、泣いていない一人も血だらけ。現場はなかなかの阿鼻叫喚ぶりだ。

 

 ――これは、思ったよりもやっちまったかな? 魔法使いの子供は取っ組み合いの喧嘩はしないのかな。いやいや、するだろう。俺たち三人の、正確にはその親の関係性がややこしくしているだけだ。その証拠に、他の客は心配そうな表情の下に好奇心を隠して、高みの見物を決め込んでいる。

 

 俺は母上に放してもらい、大勢に向き直った。

「皆様、お騒がせして申し訳ありません。ぼくが普段あまりよその子と遊ぶ機会がないもので、ついつい熱中しすぎました。付き合ってくれたヴィンセントくんとグレゴリーくんに怪我をさせてしまったことは、本当に申し訳なく思っています。二人の怪我の責任は全てぼくにあります。これから二人の手当てをしなければなりませんので、しばらく席を外します。皆様はどうぞご歓談をお続け下さい。ヴィンセントくん、グレゴリーくん、一緒に来てくれるかい」

 二人は立ち上がり、しっかり自分の脚で歩き始めた。良かった、大した怪我はしていない。

 

「待ちなさいドラコ。あなただけでは」

「大丈夫です母上。屋敷にはドビーたちがいますから。ああそうだ。パンジー、人を呼びに行ってくれてありがとう」

 屋敷に戻る前にそれだけ伝えると、パンジーは顔を歪めて泣きそうになりながら、何度も頷いた。




誤字報告、いつもありがとうございます。ただ、私文書では「いっかげつ」を「一ヶ月」と書くのは誤りではないんですよ。「ヶ」は「箇」「个」の略字として使えます。なので記者ハンドブック等で「一か月」表記が推奨されていても、本作では今後も「ヶ」を使うつもりですので、誤字報告頂かなくても大丈夫です。


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青に騒ぐ・2

 

 ハウスエルフたちが急いで怪我と身だしなみをなおしてくれたので、三人ともあっという間に良家の子息らしい姿を取り戻した。一番怪我が酷く、手当てに時間が掛かったのは、やはり俺だった。

 先に手当てを終えて手持ち無沙汰な二人のためにも、冷たい牛乳を用意するよう、アビーに頼んだ。

「お茶もご用意できるのでございますよ」

「いや、冷たいのでいい。口の中が切れているんだ」怪我をした場所がずきずきと熱を持っている。

 

 ハウスエルフが去り、後には所在なさそうにソファに座ったクラッブとゴイルと、俺。

「歯を折ってしまって本当に済まない。治療費は出すからヒーラーに治してもらってくれ」

 俺が謝ると、手の中で白い物をいじっていたクラッブは、

「……べつに」

と、もごもご言いながら、それをポケットにしまった。

「ゴイルも済まなかったね」

「……いや」

 こちらは俯いたきり、目を合わせてくれない。

 

 アビーが牛乳を持ってきてくれた。客のためにパウンドケーキも一切れずつ添えてある。ラム酒を効かせた自家製のパウンドケーキは、マルフォイ家の定番お茶請けだ。

「どうぞ。お茶の時にケーキが出るはずだけど、もしかしたら二人ともこの後すぐ帰るかも知れないだろう。その前にこれだけでも食べていってくれ」

 俺が勧めた途端、二人はすぐに皿へ手を伸ばした。

 

「食べながらでいいから聞いてくれ。さっき、きみたちのどちらかが、ぼくの取り巻きになんかならないって言っただろう。ああ、ゴイルね。こちらもそういう関係は望んでいない。でもぼくを傷付けようとして、関係のない他人を貶めるのは駄目だ。きみたちの言ったことをパーキンソンさんが聞いたら傷付くだろう。それは許せない。ぼくが手を出したのはそれが理由だ」

 

 クラッブが小さい目を精一杯開いた。ゴイルの顎の動きも一瞬だけ止まった。しかし、彼らの口からは何も聞けなかった。残念だ。

 

 三人で茶会の席に戻ると、クラッブ夫人とゴイル夫人は息子を連れて早々に帰ってしまった。俺も母上に捕まえられて隣に座らせられた。完全に問題児の扱いだ。お陰で茶会のお開きまで、他の子供と接触できなかった。

 

 そして客が帰ると母上が怒りを抑えなくなった。

「なんて酷いことをするのかしら、あのトロールたち! 親も親よ、躾がなってないのよ。ルシウスが目を掛けてやった恩をこんな仇で返してきて。許せない」

 クラッブとゴイルが悪いと決めつけて、親に責任を取らせると息巻いている。ドラコを溺愛しているのが悪い方向に出た形だ。我が子にも非があった可能性を都合良く無視する、典型的なモンスターペアレント。これでは原作のドラコが小さな暴君になるのも無理はない。

「母上、ぼくも二人に手を出していますから、二人だけを責めるのは止めて下さい」

「でもドラコの怪我のほうが酷いでしょう。あんな、人に謝ることも出来ないトロールを庇わなくていいのよ。お茶会のお客様だって、ドラコが二人を庇ったと分かっているんですからね」

「すみません」

 

 母上を宥めている間に、予定より早く父上がロンドンから戻ってきた。母上が事のあらましを伝えた後、俺のほうにも夕食前に書斎に来いという出頭命令が来た。

 

「クラッブとゴイルの倅に殴られたと聞いたが、事実か」

 父上は単刀直入に尋ねてきた。

「正確には殴り合いです」

「怪我は?」

「一見して分かる怪我は応急処置させましたが、家に帰ったらきちんと手当てするように伝えてあります。治療費はすみません、我が家持ちでもいいでしょうか」

「おまえの話だ。血だらけだったと聞いたぞ」

 目の周りをなぞられ、痛みに瞬きした。痣ができたところだ。

 

「まだ痛みはありますが、もう大丈夫です」

「勝ったのは誰だ」

 少し考えて「多分ぼくです」と答える。一番手傷を負ったものの、最後に立っていたのは俺だ。

 

 父上は椅子に戻り、ゆっくりと息を吐いた。

「我が息子ながら、そこまで根性があるとは思わなかったな。理由は何だ」

「……二人の態度が気になって、理由を尋ねてもまともな答が返ってこないのに腹が立ち――」

「違うだろう、それは」と遮られた。「それだけで流血沙汰になるか。去年からクラッブとゴイルの倅と距離を置いていることも気にはなっていたが、関係があるのか? 母親には言いづらいことでも、男同士なら話せるだろう」

 

 まあいいか、と肚を決めた。父親世代の関係が喧嘩の原因でもある。

「距離を置いたのは、義務感だけの付き合いから二人を解放してやろうと思ったからです。でもそのせいで、今日は二人とも最初から喧嘩腰でした。新しい取り巻き候補を見せつけていると思われたようです。誤解だと伝えても、二人はある女の子について邪推した発言をしました。それが彼女に失礼だったのと、ぼくの弱さを笑われたのが腹に立って、ぼくがクラッブを殴りました。そこからは泥仕合です。悪いことをしたとは思っていません。自分とその女の子の名誉を守ったつもりです」

 

「客の前では、全面的に自分に非があったと説明したそうだが」

「だって相手は茶会の客ですよ。さすがに手を出したぼくが悪いでしょう」

 父上は冷笑した。

「なるほど。ところで、見ていた子供たちがドラコは悪くないと証言してくれたらしいぞ」

「ありがたいことですね」

 俺は俯いたが、ほっとして口元が緩んでいたと思う。

 

 喧嘩相手を庇って全てを自分の責任にすることで、却って同情を得られるとは思わなかった――と言えば嘘になる。パンジーの口添えもあったので、喧嘩の現場を見ていなかった客人たちも、俺の言葉を額面通りには受け取らないだろう。原作のドラコは、自分が受けた痛みを大袈裟に訴えることで同情を買おうとした。一方俺は、自分が貧乏くじを引くところを見せて同情を買おうとした。似たようなものだ。

 それに、俺が責任を取ろうとしたのを見てクラッブとゴイルが謝る気になってくれることも期待していた。こちらは上手く行かなかったが。

 

「まだ物足りないか」

「いいえ」

「ではクラッブとゴイルには――父親のほうだが――私から話を付けよう。息子たちの怪我については互いに一切不問となるだろう。家同士の付き合いもあって、母親連中は大事だと思い込んでいるが、所詮は子供の喧嘩だからな。騒ぐほうが馬鹿らしい」

 良かった。ドラコの親が相手の親を威圧して、結果的に息子たちの恨みが深まるのが、一番面倒だった。

 

「ただし母上はおまえが怪我をしたことで、ひどく心が乱れている。しばらく行儀良くしていろ」

「そうします」

「これに懲りたら、次は人を呼ばれる前に片を付けるように。婦人の名誉を守ったことについてはよくやった。次からはもっと上手く立ち回れ」

「申し訳ありませんでした」

 俺は一礼して退室した。

 

 翌日になると、傷はうっすらと跡を残すだけになっていた。回復力を高める魔法薬を使ったお陰だ。息子の見た目から痛々しさが消えて、母上もようやく落ち着いた。

 

 そこで家庭教師の授業の合間に、話をする時間を作ってもらった。まずはせっかく設けてもらった友人作りの機会を潰してしまったこと、二人も怪我させてしまったことを改めて謝る。それから、茶会の客の夫人たちに手紙を書いてもいいかと尋ねた。

「何の手紙です」

「せっかくお越し頂いたのに、喧嘩沙汰で台無しにしてしまった詫び状です」

 

 母上は微かに眉を顰め、深い溜息と共にそれを開いた。

「あくまでも、あなたは自分が悪いというのね」

「はい」

「あまり二人を追い詰めないように、良い子にするのもほどほどになさい。実はクラッブ家とゴイル家から、息子本人と一緒にお詫びに来たいと連絡が入っています。いっそ二人とは仲直りしましたと、手紙に書き添えられたら素敵ね」

 

 クラッブ家、ゴイル家は、裕福な聖二十八氏の家に逆らう気はない。マルフォイ家も跡取り息子が問題児だという評判が広がるのは避けたい。そうしてこの件は「子供同士の喧嘩」として手打ちになった。母親たちが出張ってくる前に終わらせていたら、もっと早くこの結果になっていただろう。その点は父上の言う通りだった。

 

 その後屋敷にやって来た二人と謝り合ったが、目が合うことはなかった。クラッブもゴイルも言葉少なく、動きは鈍く、表情は乏しかった。思うところあって、同席していた母上たちに少し外してもらった。

 

 さて、と俺は顎を撫でる。

「きみたちは、親に言われて仕方なく謝りに来たんだろう。親に押しつけられた付き合いなんか嫌だよな。でも子供の意見は通らない」

 二人はふて腐れた表情で頷いた。もしここでまた疎遠になると、彼らは親から責められる。そしてドラコを恨む。今後ホグワーツでも顔を合わせるのに、そんな状況は好ましくない。

 

「ではまた一緒に遊ぼう。ただし、ぼくの機嫌が取りたいなら、卑屈にならずに堂々としていてくれ。ちゃんと自分の思っていることを口に出してくれ」

 先日の、殴り合いになる前に彼らがぶつけてきた言葉。そこから察するに、二人とも本来はそんなに愚鈍ではないはずだ。けれど己を殺して親の言いつけに従い、自己主張を諦めてしまった結果が原作のでくの坊だったとしたら、不憫でならない。

「ぼくたちが一緒に過ごしていれば、親はそれで満足だろう。そこで何をするかは、親の言いつけとか家の付き合いとか、余計なことを抜きにきみたち自身で考えてみてほしい。ゆっくりでいいから」

 

 二人は戸惑った様子で顔を見合わせた。

 

          ◇

 

 茶会の出席者に手紙を書いていると、ドビーが部屋に来た。

「坊ちゃま、今よろしいですか。お手紙を書かれると聞いて参ったのでございます」

「代筆してくれるのか。助かる」

 ドビーは「そうではございません」と、抱えていた大きな籠を床に置いた。ふわりと甘く清々しい香りが漂った。籠には、茎ごと摘まれた青紫の花がこんもりと入っていた。

「それ、庭のやつか」

「はい。お庭のブルーベルでございます。ようやく咲きましてございます」

 

 森に咲くブルーベルは、日本人にとっての桜と同じく、イギリス人が春の楽しみにしている花だ。その開花時期に合わせて母上が開いた茶会も、言ってみれば「庭の桜でお花見しませんか」という名目で誘ったようなもの。ただ残念ながら、茶会当日はまだ蕾だった。

 

「先日のお客様にお手紙をお送りするなら、この花も一緒にお届けしたら喜んで頂けると、ドビーめは思うのでございます」

 手紙に花を添える。そんな平安貴族めいた発想はなかった。宛先は旧家の既婚女性ばかりだから、受けはいいかも知れない。

「いいね。だったら手紙の配達中に花が萎れたり散ったりしないようにしてくれるか。せっかくおまえが摘んできてくれたのに、途中で駄目になったら意味がない」

「かしこまりました」

 ドビーはうきうきした様子で花を選び始めた。

 

 俺は机に向き直った。

 手紙の下書きは、母上による二度の修正を食らった上でようやく合格ラインに達した。あまりに完璧では親が書いたのと変わらないし、稚拙すぎてもドラコの教育レベルを疑われる。適度に子供らしい詫び状というのは、なかなか加減が難しかった。

 

 やがて母上が様子を見に来た。息子の部屋の床に座り込んでいるハウスエルフに、眉が顰められる。その口から刺々しい言葉が飛び出す前に、俺は急いで説明した。

「母上、ドビーは手紙に添えてはどうかとブルーベルの花を摘んできてくれたのです」

 すかさずドビーも一輪差し出した。

 母上は表情を和らげ、花を受け取った。「……悪くない考えね」

 滅多にない女主人からの肯定的な言葉に、ドビーはぱっと顔を輝かせた。「ありがとうございます! 奥様」

 

 その後、開花したばかりの花を添えて送った手紙は、母親連中には概ね受け入れられたという話だった。子供たちから何通か返事も貰った。

 

 その中の一通、パンジー・パーキンソンからの手紙には、自分のせいでもあるので怪我の見舞いに行きたいという一文があった。もしや、喧嘩前の俺たちのやり取りを聞いていたのか。「きみが責任を感じる必要はないよ」とでも伝えておこう。

 ダフネ・グリーングラスからの手紙には、俺が送ったハンカチの礼が、事務的な文章で綴られていた。

 

 手紙の内容に目を通した母上は、口角を緩く上げた。

「女の子からの返信。しかも二人も。ふふ、ドラコはお父様に似ているから女の子に人気があって当然よねえ」

「母上」

「ふふふ」

 

 父上も手紙の返事が来たことを耳にすると、興味深そうに言った。

「おまえを気に掛けてくれた友人候補だ。大事にしろ」

「お嫁さん候補の可能性もありますよ、ルシウス」

「そうか。聖二十八氏の家の娘なら何の問題もないな。おまえの母上ほど素晴らしい女性ではないかも知れないが、付き合いは続けておけ」

「父上。彼女たちは義理で返事を寄越しただけですから」

「どうかな、ふふふ」

 

 両親はにやにやしている。ドラコへの評価を俺がむきになって否定するものでもないので、好きなようにさせておいた。




Hail Spirit Noir "Mayhem In Blue"


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