誰もがそれをやめられない! (kodai)
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 その空間は黒だった。地面はピンクと赤が混ざり、妙にざらざらと、ラメのような粒が散りばめられている。夜と形容するにはあまりにも虚しい空には一つ、人面の月が浮かんでいた。月は優しく微笑んで、悲鳴を上げる三人を見下ろしていた。

「ああ! にとりさん、早く言ってくださいよ。にとりさんが吐かないと、私達の足、本当に!」

「わ、私はにとりさんの考えてること、なんとなく分かってますから! 白狼天狗はハナが利きます! だから、いまさら言われたって、おどろかないし、笑わないし、だってなにより知ってたし!」

「えっと、その、わたし、だって、そんな!」

 錆びた拘束椅子に身体の自由を奪われた文と椛は必死でにとりに懇願する。二人の顔は青ざめて、にとりの頬のみが紅潮していた。

 三人の太腿の上に、けたたましい駆動音が在った。原理は不明だが、凄まじい速度で回転する丸鋸は、拘束椅子に備え付けられた機能の一部だった。

「ああ、にとりさん! 早く、早く!」

「に、にとりさん! 言ってください! 後生だから!」

 目に涙を浮かべ、紅潮した顔をぶるぶると震わせて、にとりは意を決して口を開いた。

「あー! わたしは、わたしは二人が! 二人のことが――」

 

 

  序

 

「もう一軒! もう一軒いきましょうよ! ねぇいいじゃないですか、ね! もう一軒いきましょうってばー」

 虫も寝静まる丑三つに、射命丸文は、木へと陽気に語りかける。少し離れたところには水銀灯が立っており、薄青の灯は文の醜態を引き気味で見つめる河城にとり、犬走椛両名の頭のてっぺんを、淡く、照らしていた。

「にとりさん、文さんたらあんなことになってますけど、どうしましょう」

「いいよいいよ、ほっとけって。あいつは構って欲しくてあんなふうに愛想振りまいてるだけなんだから」

 にとりの口元には煙草が咥えられており、朱く燃える先端から白紫の煙が立ち上っていた。煙は水銀の灯に曖昧に溶け、群がる蛾達は煙に噎せるようにはためいて、破裂音を奏でている。

「あれぇ。にとりさん、煙草なんて吸ってましたっけ」

「最近始めたんだ。そうそう、それで、ちょっと考えたことがあってね」

 え、なんですか。と、興味ありげな椛に対し、にとりは自信満々の顔つきで語る。

「射命丸。あの酔っぱらいに似てるものはないかをさ、考えてたんだ。それで考えついたのが、これ」

 にとりは言いながら、組んだ腕の片方、人差し指と中指に煙草を挟む左手をゆらゆらと振った。しかし椛はにとりの言わんとするところを今ひとつ解せず、期待の混じった微笑を貼り付けて、首を傾ける。にとりはすかさずふふんと笑って、左手を揺らしたまま、言った。

「煙草だよ、煙草。射命丸、あいつはね、タバコのフィルターと似てるんだ」

 椛は相変わらずに首を傾けたままでいた。

「煙草ってさ、タールとか、ニコチンとかさ、そういうのを摂取するために吸うもんだろう? 煙を吸うためにあるんだよ。だけどさ、フィルターはそれを邪魔してる。椛、わたしが言いたいこと、わかる?」

 椛はゆらゆら上下する烟草の朱い先端に夢中になりながら、「はい、なんとなく」とぼんやり答えた。

「つまり、つまりね。わたしが言いたいのは、射命丸、あいつはいらないってこと!」

 椛はぼんやりしやまま、「おおー」と、小さな朱燃の軌道を追い続ける。

「今日だってさ、わたしと椛だけで飲もうって話だったのに、あいつが飛び込んできただろう? そしたらこのざまだよ。毎回だ、毎回。あいつが来るといっつもメチャクチャ。わたしたちも子供じゃないんだし、もうちょっと落ち着いて呑みたいもんだよ、ほんと」

 つまり、にとりは椛をタールやニコチンといった、有害物質に擬えたわけだが、当の椛はそれに気がつくこともなく、にとりの口元に落ち着いた、朱い光を見つめていた。

 一人の友人をこき下ろすためにもうひとりを毒に擬えるにとりにしても、それに気づかない椛にしても、ほんとを言えば酔っていた。木々に絡む文と同等に、酩酊していた。文は酔えば、二人の気を引くべく、酔った上で泥酔した振りをする癖があり、にとりは酔えば、タールに類似した気分を愛し、椛は酔えば、頭の片隅に浮かぶ世界の破滅を待ち望んだ。

「ねぇもう一軒! もう一軒行きたいんですよお私はー」

 幸福の到達点めいて聞こし召した文の声で、椛はやっと朱燃の呪縛から解き放たれた。木に縋り付き駄々をこねる友人を一瞥し、椛は言った。

「たしかに。あの人と一緒にいると、気が触れそうになることがあります」

 煙草を用いて三人の関係をそれぞれ通釈するならば、煙草を始めたばかりの、タールやニコチンが、自分の身の丈を伸ばしてくれるものと疑わないにとりにとって、椛はタール、文はフィルターだった。素面ならば煙を有害物質と断じて曲げない椛にとっては、にとりはフィルター、文が毒だ。そして、文にとって、二人はおしゃぶりだった。ただ、これはあくまでも、三人が出来上がったときにのみ浮かび上がる関係性で、素面ならばこの限りにはない。しかし、こと最近において、三人は酒の抜けることのない生活を送っていた。

たまに仕事をするにしても、それは酔いの気まぐれ他ならず、文は適当なデマを書き連ねては、違期に憤懣する印刷部に平謝りをし、にとりは技術者という肩書に纏わる職人の外套を隠れ蓑に納期を伸ばした。

 椛も椛で哨戒の職務が在ったが、それは特に椛でなければ不可能な仕事というわけではなく、誰がそこにいてもいい、寧ろ、誰もいなくてもいいような仕事だったため、最近の椛は殆ど、その職務を放棄していた。

 人生に対し上納するべき真っ当さの納期を悟らない三人では無かったが、直面するのはあんまりに辛いので、三人とも、酒を飲んでは騙し騙しに生きていた。

「にとりさん。私、眠たくなってきちゃいましたよ」

「ああわたしも。お、ちょうどよくふかふかしてる場所があるぞ。なんてお誂え向きなんだろうなあ」

 にとりと椛は水銀灯の隣の、ゴミ捨て場の袋の山に飛び込んだ。

「なんだか落ち着くな。うわあ! 落ち着いたら嫌なこと思い出しちゃったよ」

 にとりは、「あー! あー!」と声を上げ、点滅する納期の二文字をかき消した。それは三人に共通する発作だった。少し離れてにとりの発作を耳にした文も、すかさず共鳴するように声を上げた。

「あはは。終わりですよ、終わり」

 自由の味を知ったばかりの椛にとっても、にとりの発作は辛辣だった。三人のかっ喰らう酒はいつも自由の味がした。自由はいつだって、発狂と、平熱と、身の破滅の味をしていた。しかし、三人は三人とも、酒を飲む事をやめなかった。二人が飲めば一人も来た、一人が飲めば二人が来た。三人は互いに、まるで何かに惹きつけられるように集まっては、酒を飲んだ。

 ゴミに埋もれて叫ぶにとりを目掛けて、「わー!」と文が飛び込んだ。

「うわ! やめろ、触るな。気持ち悪いんだよお!」

 にとりが本気で嫌がると、文はまた、「わー!」と叫んで、椛の胸に飛び込んだ。

「あはは。終わりですよ、終わり」

 椛は文の頭を木魚にして般若心経を唱え続けて、そのうちに眠った。

 頭部へと規則的に訪れる衝撃に、文は無意識に、母の胎内を想った。

 二人が寝静まってからしばらく叫び続けたにとりだったが、急に、辺りの静けさが鮮明に感じられ、声を引っ込めた。それから間もなく、にとりは眠りに落ちたのだった。

 水銀灯はぼんやりと淡く、青白く。コンクリートの低い塀に囲まれた、ゴミ捨て場を照らす。

 寝息と、蛾の爆ぜる音。そして、夜風に靡く木々の音が、妙に静かな夜だった。

 



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一 喫茶デマイゴ
1


   一 喫茶デマイゴ

 

そこは、天狗の寮の前だった。青く冷たく透き通った空に浮かぶ肥えた雲は、穏やかな白昼を讃えている。姫海棠はたてはゴミ置き場でもみくちゃになった三人の前で、額に手を当て、ため息を吐いた。ああ、椛とにとりがこうなったのも、みんな文のせいよ。ふたりとも、ちょっと前まではおとなしくて、いいこだったのに。はたては暫し考えて、大きく息を吸い込んだ。

「起きろ! このアル中妖怪共!」

 三人は急な怒声に各々呻いて、目を擦り、頭を抱えるように耳を塞ぎ、冷えた体温に涙目となった。

「あんたら揃って仕事サボってんの、あたし知ってるんだからね。そんなんじゃそのうちほんとにクビになるわよ」

 三人が自身の職務をおざなりに飲めば、寮で生活する天狗達から小言を聞かされるのははたてだった。あの三人をどうにかしてくれ。ゴミと一緒に回収されてしまえばいい、等々。はたてには、三人をどうにかしてやりたい友人らしい気持ちと、ゴミと一緒に回収されればいいという、半ばあきらめに似た気持ちが在った。それでも諦めずに、こうしてゴミに塗れる三人を叱責するのは、やはりはたてにとって三人は友人であるためだ。

 しかし三人は、そんなはたての想いなぞには頓着することもなく、起き抜けに、怒声と冷たい外気に苛まれる己の悲運に涙することで精一杯だった。

「ほら立ちなさい! 立て! 立った、立ったわね。そしたらとっとと仕事をしなさい。文は部屋に戻って原稿を書く! 椛は哨戒に行く! ほらにとりも!」

 起き抜けのぼんやりとした三人の頭では、その怒声の内容も、声の主も判然としなかった。自分たちはただただ理不尽に起こされ、不条理に怒鳴られている。

「こわ……」

 三人は寒さに耐えるよう、やおら肘を抱いて、それぞれ今際の際の命乞いめいた情けなさで呟きながら、おもむろに歩き始めた。

「あ、こら! あんたらどこ行くのよ!」

 背後から聞こえる謎の怒声と、空の青さに怯えながら、三人は「こわ……」と繰り返し、宿酔に足を取られつつ、歩き続けるのだった。

 

「今日はどこに行きましょうか。昨日の店でもいいんですけど、多分まだ開いてませんよね」

「えー、わたしはいやだな。開いてたとしても。あの店さ、酔ってるときは気にしなかったんだけど、知り合いがいたんだよね。昨日」

「部屋はどうですか? 誰かの」

 三人は里にあるちょっとした広場で作戦会議をしていた。相変わらずに青い空の下、そこには子供達のはしゃぐ声が響いている。にとりと椛はベンチに座り、文は立っていた。にとりの右手は左肘で挟まれており、左手には缶ビールが握られている。文の左手はジーンズのポッケに突っ込まれていたが、右手にはやはり缶ビールが在った。椛にしても大差はない。強いて挙げるとすれば、椛は二人と違い、一本の缶ビールを両手で握っているという点のみだ。

「部屋! 椛さん変なこと言わないでくださいよ。どこに昼間っから働きもせず寮で騒げる天狗がいるんですか。椛さんも同じとこに住んでるのに、よくもまぁそんな提案ができますね」

「うーん。わたしもいやだな、部屋は。仕事道具だらけで、どうしても目につくだろうから」

 椛はうーんと唸って、口を開いた。

「やっぱりそうですよね。でも私、早くどこかに行きたいんですよ、こうして空が明るいと、どうも落ち着かなくて」

 たしかに、と腕を組み、にとりと文は考える。椛の言うことは二人にも分かった。昼間っから酒を飲む至福は、三人の中から随分前に消えていた。

 ――ときに、夜の視界はとても狭い。もし自分の目の前に鏡があったとしても、自身の表情がわからないほどに、暗い。それでも朝になれば鏡には、明瞭に、映し出される。たとえ自身がどんな表情をしていたとしても、どれだけ気分と裏腹な顔をしていたとしても、朝がくれば必然、映し出されてしまうのだ。それはとても残酷な話である。しかし、これは酒を飲めば目の潰れることを知っている三人には、まったく、関係のない話であった。

「――そうだ! 地底ですよ、地底に行きましょう。このところ全然行ってなかったものだから、すっかり忘れてましたけど。やぁ、あそこは常夜の国ですよ」

 朗らかな文の声に、そりゃあいい! と二人は立ち上がった。

「そうと決まれば早速行こう! あの子供達を見てると、なんだか死にたくなってくるんだなあ、わたしは」

「地底といったらお肉ですね、お肉。ああ、楽しみです」

 三人は勢いよく缶ビールを空にして、ベンチの隣のゴミ箱に放ればすぐに歩き始めた。

 数歩進むと、不意に、にとりの足にボールがぶつかった。にとりは、なんだこれ、とボールを拾い上げ、やおら地面に弾ませた。意外と面白いぞ、と夢中になって繰り返すにとりをよそに、二人は上機嫌で『おお牧場はみどり』を朗らかに歌っている。三人はもはや夢中だった。遠い背後でボールを返せと叫ぶ子供の声に気づけないほどに夢中でいた。地底に着くまでの間、空の青さを忘れるためには、何かに夢中にならなければいけないと、三人は無意識下に悟っていたのだ。

 にとりに訪れた空前の鞠つきブームは広場を出る前に――跳ねたボールを取り逃した瞬間に。――終焉を迎えた。にとりは茂みの方へと転がっていくボールを暫しつまらなさそうに見つめ、ボールが茂みへすっかり隠れてしまったころ、すっと前に向き直っては、元気よく、「ホイ!」と口を切った。

 

 おお牧場はみどり 草の海 風が吹くよ

 おお牧場はみどり よく茂ったものだ ホイ

 雪が解けて 川となって

 山を下り 谷を走る

 野をよこぎり 畑うるおし

 よびかけるよ わたしに ホイ

 

 おお聞け歌の声 若人らが歌うのか

 おお聞け歌の声 晴れた空のもと ホイ

 雪が解けて 川となって

 山を下り 谷を走る

 野をよこぎり 畑うるおし

 よびかけるよ わたしに ホイ

 



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2

 三人の『おお牧場はみどり』は地底深く、旧都の繁華街その入口付近へ至るまで続いた。昼間っから陽気なやつらもいたもんだ。馬鹿みたいに陽気なやつらだ、此処に何のようがあるってんだ。地底に住む酒浸りの有象無象が向ける怪訝な眼差しに気づくこともなく、三人はニコニコと、これからについて話し合っていた。

「やあ、ずっと歌ってたおかげか、意外と早く着きましたね。おわー! どうしましょう! みてくださいよ、この場末の感じ! 中繁盛ってところでしょうか、うんうん。いやあ! 楽しみですねぇ!」

 文は感動が剰ったか、自らの頭を両掌で押さえつけながら揚々と謳う。

「ほんとほんと。そこかしこにぶら下がる提灯が祭りみたいで、まさしく常夜だね」

 腕を組んで頷くにとりの言う通り、繁華街のそこかしこはロープが伸びて、ロープには提灯やら何やらが吊り下げられ、薄暗い地底を橙に彩っていた。

 看板にまみれたぼろの直方体に囲まれた通りの狭さと暗さ、そして賑やかさは、にとりと文にとっては克明に夜だった。しかし、昂揚する二人をよそに、椛はどこで買ったかプラスチックのコップに注がれた小麦色の炭酸にちびりと口を付け、おもむろに口を開いた。

「でも、なんでしょうね。確かにここは落ち着くんですけど、でも、なんというか。……歌が悪かったのかな」

 場に似つかわしくない椛の訥々とした語り口に、二人は笑顔のまま首を傾げた。

「あの、なんというか。……ここは薄暗くても、結局、外は明るいわけじゃないですか。広場を出てからまだあんまり経ってないし、ここも文さんの言う通り、まだ中繁盛だし。やっぱり、その、昼を感じるんですよ。外に居たときよりなにか、地底に潜ってからの方が、よっぽど。壁一枚隔てて晴天、みたいな。映画館を出れば真っ昼間、的な。私はどうも、裏恐ろしい気分になってきましたよ」

 椛の話を聞いた瞬間、笑顔な二人の視覚野にも、青く透き通る空のイメージが鮮明に映し出された。おまえが口にしなければ私は平気だったのに、と思わない文とにとりではなかったが、結局、二人は「たしかに」と頷いては腕を組んで、やおら唸りをあげた。

「うーん。でも、そんなこと言ったってさ。さっさと酒を飲みたいことには変わりないんだよな」

「そうなんですけどね。でも、椛の言う通り、私もどうも裏恐ろしい気分になってきましたね。これじゃあ飲むにしたって、宿題やってないのに遊ぶ、みたいな気持ちで、十分に楽しめない気がするんですよ」

 コップをちびりちびりとやる椛をよそに、二人は「うーん」と、振り出しに戻った。無論、二人が納期や何やらを放ったらかしておきながら“宿題やってないのに遊ぶ”ような気分になっていないのは、先程飲んだ缶ビールのおかげである。

 椛のやる麦酒が三分の一程度となったころ、文が「そうだ!」と口を切った。

「映画ですよ! 映画。椛がさっき言ってましたけど、“映画館を出れば昼”が恐ろしいのは、映画館を出て、実際に外が昼だからじゃあないですか! 映画館を出て暗かったら? それはもう夜ですよ、夜! ああ、我ながら感心します。自分のインテリジェンスが恐ろしいですよ」

 椛とにとりは酷く感心した様子で、天才、天才、と文へ称揚の拍手を送った。酔っぱらいを納得させるのは信憑性や説得力ではなく、酔っぱらい特有の自信満々な態度のみだった。

 話がまとまるが早いか三人は映画館を探した。酒を扱う露店を三つほど梯子して、三人はようやっと目的の看板の前に立つ。

 建物の左辺りには地下の劇場へと繋がる階段があり、階段隣の外壁には様々な映画のポスターが貼り出された看板が在った。

「『遊泳監視録ムラサ』……これとかどうですか、あんまり面白くなさそうですよ」

「そうかな、ポスターみる限りだと、けっこう面白そうなんだけど」

 三人には映画館を探す中で交わされた或る取り決めがあった。それは、暗いシーンが多めで、かつ、いっとうつまらない映画を観よう、という取り決めである。映画を観るとして、それがつまらない映画ならば、実際に観賞している時間よりも、体感では長く感じる。とすれば必然、外に出たときの“夜度”も増すだろう。これも、文の発案だった。

 しかし実のところ、外は既に夕暮れていた。三人が映画を見終わる頃には実際に、世界には緞帳が落ちているだろう。三人は地底の暗さの中で、その事実に気が付けないまま、つまらなさそうな映画を探した。

「あ、これとかどうですか。『とにかく明るい殺人事件』だなんて。ふふ、ありえないですよ、そんなの。ね、これにしませんか」

 椛が口を開くと二人は即断した。こんなタイトルの映画が面白いはずがない。さっそく階段を降りようと、三人が一段目に踏み出した、その時だった。

 にとりがハッと、何かを思い出したように口を開いた。

「そういえばさ、劇場内はお酒飲めるのかな。飲めるにしても飲めないにしても、入る前に一杯買っといたほうがいい気がしてきた」

「それなら大丈夫ですよ。看板に書いてあったんですけど、館内飲酒オーケーらしいです。それに、中にお酒も売ってるとかなんとか」

「ほんと? よかった」

 椛の言葉ににとりは胸を撫で下ろした。文も文で「よかったよかった」と嘯いて、揚々と階段を降った。

「あと、野次もオーケーだとか」

「ああ、いいですねえ」

 地下へと続く階段は暗く、狭く。三人は一列になってゆっくりと一段一段を踏みしめた。これからつまらない映画を観ようという、三人の心は踊っている。文の後ろを歩くにとりは胸ポケットの煙草にぼんやりと思いを馳せ、文は階段の暗さと狭さに、無意識下で母の胎内を察した。一番後ろを歩く椛は、曖昧な笑みを貼り付けたまま、どこから取り出したか、やおら缶ビールに口を付けた。

『おいおいつまらなさすぎるぞ! 返せよ、金を。返せよ、金を!』

『もう死ねよ! 死になよ、死んでしまえよ!』

『誰だよこの映画を作ったのは! 何の病気に罹ればこんなのが作れるんだよ!』

 

 暗い劇場の、大きな四角い明りに照らされた観客達の顔は、皆一様に赤らんでいた。観客達はみなそれぞれ、モニターに缶を投げるなり、悲鳴に似た悪口雑言を投げるなり、前の席の背もたれを蹴りつけるなりしていた。

 館内の売店で酒とつまみを買い込んだ三人も周りの観客に倣い、各々非行に走った。

 文は永い新聞記者の経験に物を言わせて、秀逸かつ醜悪な野次を飛ばした。背丈の短いにとりは、前の席に座った長身の男、そいつのもたれかかる背もたれを執拗に蹴りつけた。椛は曖昧に笑いながら、狼の駆けるようなピッチで飲み続け、開いた缶をコンスタントに、また淡々と、モニターへと放り続けた。

 パンフレットに書かれたその映画のあらすじは、或る里で幼い少女が薬売りに任命され、蔓延る鬱病患者に抗うつ薬を処方していく、というものだった。しかしその実、少女が抗うつ薬を処方するシーンは一度として登場せず、鬱病を甘えと断じて曲げない少女が鬱病患者を結果的に殺す、という内容だった。これが筋書き通りにさらさらと流れるのであるならば或いは、シーンの一つ一つも酷く単調で、間延びしていた。ところどころに挟まれる意図の読めないお色気シーンや抽象的な会話もまた、映画のつまらなさに拍車をかけていた。

 ともすれば、三人はますますご満悦、酸いと甘いの甘いが此処だ、といった表情で野次を飛ばし、席を蹴り、缶を放り続けた。

 

三人が映画館を出れば、そこには夜が在った。街はいっそう橙に、猥雑な、無秩序な、騒がしい喧騒が跋扈している。それは紛れもなく、三人の望んだ夜だった。

 酒とつまみが有ったとはいえ、退屈な映画と窮屈な座椅子から抜け出した解放感と、街らしい夜の息遣いに、三人は心地よさげに伸びをした。夜だ夜だ、やっと夜だ、とはしゃいでは、つまらない映画という新鮮な魚を消化すべく、三人はすぐさま店へと駆け込んだ。

 

 個室に通された三人は和気あいあいと、映画の悪口を交えながら酒を飲む。他の個室から聞こえてくる下品な笑い声や、あまりにも楽しそう“すぎる”話し声、それらの喧騒は居酒屋という舞台において、これ以上ないバック・グラウンド・ミュージックだった。

「や、それにしても、これは絶品ですね。なんのお肉なんでしょうか」

 文は表面の白い肉の断片を口に運びながら、目を丸くして言った。座席は座布団が敷かれており、にとりは胡座をかいて、膝に肘を乗せては煙草をふかし、文に答えた。

「品書きにはとりわさって書いてあったんだろ? じゃあ、とりわさの肉だよ」

「え、とりわさ。そんな動物、聞いたことありませんね」

 文は何故か感嘆混じりにあむあむとした。

「でも、名前を聞く限り、かわいい動物なんでしょうね。ふふ、だって、とりわさって。ふふ、あははは」

 椛はすっかり出来上がった様子で、テーブルに突っ伏して笑い転げた。

 それから三人は腕を組んで、とりわさとは如何なる動物か、それについて議論をした。名前からしてかわいい動物に違いない。いや、でもそういうやつが意外と強かったりする。毒を持ってたりする。しかし動きは鈍く、点滴は空を飛ぶ、でっかくて素早い動物に違いない。ともすれば、草食に違いない。こうもくさみがなく、あっさりとした味とすれば、普段はシソあたりを食しているのだ。

 根拠の欠如を知ることもなく、みな真剣に、とりわさの生態を解き明かしていった。最終的に出た結論は、とりわさはとても可哀想な動物である、というもので、場の空気はやおら湿った。なにかに優しくしたい酔っぱらいはどこにでもいて、この三人ならば、その結論は当然の帰結であったと言えよう。

 三人の優しさは地球の裏側にまで到達し、その後リデュース、リユース、リサイクルの輪を描く。三人はループに気がつくこともなく地球を慰め続けたが、文が不意に、かわいそうといえば、と口を切った。

「あの映画ですよ、主役の女の子」

 主役は幼い少女が務めていた。二人はすぐさま腕を組み、文の発言の意図を慮る。

「作中では、最終的に村八分の憂き目にあってましたね」

 椛の言葉に文は「いやほんと」と、つまらない映画をこき下ろした。

「ほんと。あんな映画に出演させられて、かわいそうったらないね。わたしが親だったら監督を殺してるよ」

 実のところ、にとりはあの映画を楽しんでいた。前列の背の高い男に遮られ、映像は断片的にしか記憶していなかったが、それでも面白い映画であったと考えていた。しかし、文と椛の論調の辛辣さに、にとりは煙草をふかして合わせる他になかった。

「まあ、いろいろありますがね。一番はアレですよ。あの映画、妙にお色気シーンが多かった。水を浴びて透けたり、鬱病患者に迫られたり、年端もいかない少女があんな目にあうなんて。ああ。私はなにか、興奮してきましたよ」

 文の言葉に二人は困ったように腕を組む。

「う、うーん」

 酔宴に、色を持ち込むのはいつも文だった



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3

 所変わって、三人はネオン街を歩いている。

 楽園。ラッキーバニー。鳳仙花。キスショット。原色の妖光はそれぞれの店名を朧に照らしていた。

「レボリューション。天文学の世界じゃ公転を指す。つまり一回りして戻ることを指すんだ。知ってた?」

「へぇ。あ、天文学といえば。地球はあと四十億年したらアンドロメダ銀河に衝突されるらしいですよ。恐ろしいですねぇ」

「へえ。あ、でもでも。天狗も河童も、それほど長生きではないんですって、はは! 知ってました?」

「へぇ~」

 三人の期待と昂揚は、突けば爆ぜてしまいそうなほどに不確かだった。誰もが「よそうか」の一声を胸に秘め、当たり障りのないやり取りで平静を装う。

「寺子屋の、子供の話でさ。母親が水商売をしてる子供がいたんだよ。授業参観の日、その母親が、きらっきらした服着て、授業を観にきてさ。その子が恥ずかしさのあまり言ったんだと、立つ場所間違えてんじゃねぇ! って!」

「へえ。それ、今度記事のネタにしていいですか」

「え。う、うん。いいけど。で、でも、人から聞いた話だからなあ」

「いいんじゃないですか、別に。文さんの新聞読んでる人なんて、もうどこにもいませんよ。きっと。あはは」

 三人が発狂を介さずに仕事の話が出来るのは、頭が別のことで一杯になっている場合のみだ。各々、そこらにのさばる貸し春屋や、店先の招き猫達に気をやっては、チラチラと目を泳がせていた。

 みな、不確かな昂揚を突かれるのを待ってるのだ。平常より少し大きめの話し声で、三人は色めく通りを闊歩する。しかし、三人に声を掛ける者はおらず、招き猫達は、まるで、三人が見えていないかのように振る舞った。あたりから聞こえる他人たちの「おにいさん、どうですか」や、「今日はそんなつもりなかったんだけど……いくら?」といった間の悪いやり取りにやきもきしながら、三人はネオン街を往く。

 そうしてしばらくすると、三人は終ぞ声のかからぬまま、とうとうネオンの切れ目に辿り着いてしまった。少量の落胆と、下心を街に見透かされたような面映さを抱えながら、三人は、これでよかったのかもしれない、と息をついた。というのも、三人がこういった色街を、下心を持って練り歩くのはこれが初めてではなかった。これまで何度も、キャッチに捕まり、あれよあれよと個室に入れられ、商品を待った。しかし三人は、肝心の事が始まるその瞬間、みな一様に恐れをなして個室を飛び出し、逃げ出した。三人はその度に、公園のベンチに座り、肘を抱えて、震えながら黙って酒をやる。誰も何を言うことのない奇妙な時間は、三人にとっては日常の一部だった。

 ネオンの切れ目、背後に色めく喧騒を感じながら、文はなにかきまりの悪そうに、いやあ、と発声しては頬を掻く。喧騒にすら下心を見透かされたようで、どこか気恥ずかしい三人は、ようやく、胸中に秘めっぱなしの「よそうか」の四字を吐いてしまおうと考えた。

「こんばんは! どうですか、可愛い子、いますよー!」

 そのときだった。どこから現れたかその妖怪は文たちに声をかけた。妖怪はカマーベストに蝶ネクタイ、一本足の看板と、見るからにらしい風体をしている。不意を突かれた三人の心拍数は急上昇した。

 声の震えを堪えながら、文は言った。

「えっと。どうですか、とは、どういった……」

「やだな“おにいさん”。どういう気持ちでここを歩いてたの?」

 カマーベストの妖怪は、翡翠の色とも浅葱の色ともつかぬ、癖のある髪を揺らしながら、けたけたと笑う。三人の気を引いたのは妖怪の放った“おにいさん”という言葉と、その妖怪の身体的特徴だった。

「も、椛。この客引き女の子だよ。それに、こんな小柄な……」

「ええ、ええ!」

 対応をする文の背後で、椛とにとりは声を潜めた。

「ええと、じゃあその。……なんてお店なんですか」

 平静を繕う文の内心も、二人と同様に驚きと期待で満ちていた。というのも、三人は三人とも、多少なりとも少女性愛の気があった。文はマゾヒズムから、椛はサディズムから、にとりは屈折した自己愛から、少女を好んだ。

「デマイゴってお店なんだけど、最近オープンしたの。喫茶《バー》だよ」

 三人の視線は妖怪の、少女らしい身体に釘付けだった。胸の前で構えた立て看板の向こう、カマーベストの向こう、シャツの向こうの、僅かな膨らみ、伴うシャツの撓みを、三人は見逃さなかった。

「喫茶? ええと、どんな喫茶なんですかね」

 文の言葉に対する返答がどうあれ、三人の肚は既に決まっていた。各々、自室のベッドの下に『ミネハハ』を隠している三人が、この妖怪に着いていかないことは有り得なかった。

「んとね。なんていうんだろ、ハプニングなお店?」

「行くよ、行くからさ。連れてってよ」

 堪えきれなくなったにとりが文の背後から割り込む。妖怪は、にとりの言葉に「よかった。じゃあ行こっか」と微笑んで、三人の引率を開始した。

 ネオン街の入り組んだ路地に入り、一寸歩くと、歩きながら、妖怪が口を切った。

「着くまでお話しようよ。おにいさんたちは何やってる人なの?」

「私は新聞記者をしています」

 店に着いたとして、客引きが客の対応をするケースは稀だが、三人にはどうしても、あわよくばの気持ちがあった。であれば、文の即答も必然である。「え、記者! すごい」等の美辞麗句に文は、いやあ、と頭を掻く。文の気分の良さと引き換えに煩悶したのはにとりだった。

 にとりは技師で、組織の中でもそれなりに重要な仕事を任されていたが、それでも技師という肩書は、新聞記者という肩書のそれには遠く及ばない、矮小なものに思えた。しかし、あわよくばを望むのはにとりも同じだ。この妖怪と思しき少女に、どうにかよく思われたい。にとりが頭を捻っていると、少女が口を開いた。

「じゃあ、そっちのおにいさんは、なにしてるひと?」

「えっと、わたしは。なんといったらいいか。そうだな、社会イノベーションに、携わっているよ」

「え、すごい!」

 にとりは心でガッツポーズをした。おにいさん、という呼称が気にならなくもなかったが、今となってはそれも逆に、客あしらいと客、という関係を明確に示唆しているようで、その関係性はにとりの“あわよくば”を殊更刺激した。

 それから、文とにとりはいい気分のまま、一番うしろを歩く椛に気をやった。客引きの少女は椛にも同じことを尋ねるに違いない。山の犬っころ風情がどう答えたものか。二人が腕を組みしめしめとやっていると、少女が例の質問を繰り出した。

「じゃあ、そっちのおにいさんは?」

「私は公務員です」

 椛は然として言い放った。文とにとりは驚愕した。初対面の他人とはいえ、こいつは、こうも平然と嘘を吐けるものか。少女の「え! すっごーい! 幻想郷にも居るんだ、公務員」といった嬌声の中、二人は驚きを隠すよう曖昧に笑いながら、顎に手を添えて椛の脳の仕組みを慮った。

 しかし、言及すべきは文とにとりの、今となっては名ばかりの、腐りかけの肩書を臆面もなく口にできるメンタリティだ。その点では、椛は二人よりも“まとも”であると言える。

 

 屋と屋の狭間にはフェンスが張られ、フェンスの向こうには大きなゴミ箱があった。ゴミ箱から溢れたゴミはフェンスの網目に飽和して、害獣達は夜食にありつく。そんな路地を歩く三人が考えるのは、ハプニングな喫茶とはなんぞや、そればかりだった。

 そんな光景をいくつか通り抜けたころ、少女は立ち止まり、看板を掲げ、言った。

「着いたよ! ここが『喫茶デマイゴ』でーす! ちょっとボロっちいけど、中はきれいだから安心してね」

少女の言う通り店はボロく、木製の看板には大きく「胎」という文字が達筆に綴られたていた。みるからに怪しいが、そう考える者はこの場にはいなかった。酔いか、欲か。はたまた客引きの、妖怪少女の妖力か。

「なんだか、雰囲気のある店構えですねぇ! どれさっそく……」

「あ、まてよ射命丸。わたしが先に入るんだぞ」

 文とにとりは能天気に店の扉を開け、店内へと消えた。扉が閉まると同時に、扉の向こうから二人の悲鳴が響く。

 暫し、沈黙。

「……ほら、ふたりとも行っちゃったよ。さ、おにいさんも早く入って入って」

 残った椛を急かすように、少女が言う。

 椛はアルコールに溺れた頭で、なにか不思議なことが起こっているぞ、と、自身の置かれた状況を僅かに悟った。

「ええと」

 しかし椛には空気の急変に適応出来るほどの器用さは無かった。とりあえず、とりあえずで、店の扉を開ける。そして、椛はすべてを悟った。

 扉の開けると、そこには闇が在った。そこにあるはずの壁も、床も、視えないほどに、そこは漆黒に塗りつぶされていた。視線をくまなく泳がせど、文の姿も、にとりの姿も見当たらない。

 ああこれは。騙されたのだ。床の見えないことから察するに、二人は落ちていったのだろう。二人とも、能天気に、勇み足で踏み込んだものだから。

 深く広い闇を眼前に、椛はおもむろに口を開く。

「あの、すみません」

「なあに?」

 少女の声は椛の耳元、あまりにも耳元に響いた。背後に、いる。触れられていないけれど、ぴったりと、背中にくっついている。

 椛は本能で、もう逃れられないことを察した。

「……お名前、お伺いしてもよろしいでしょうか」

「こいしはね、こいしっていうんだよ」

 椛の背中に衝撃が走った。バランスを崩し前のめりに足を踏み出す。しかし、椛の予想通り床を踏みしめることはなく、足は暗く広がる虚空を切った。

「三名様ごあんなーい!」

 そのまま、落ちていく。どこまでも、落ちていく。椛は全てを諦めて、あの世で二人に再会した際、自分のみが知った少女の名を、自慢してやろうと、そう考えた。

 



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4

(評価)うれしいです。ぷりーず、ぷりーずみー。
Muchas gracias amigo!!


 永遠のような落下の最中、椛の視界、その遠くに、不意に月が現れた。月は人面を持ち、微笑んで、何かを優しく見下ろしている。椛は月の視線を追って、落ちながらも、なんとか下方を見やる。すると、そこにはピンクと赤の混じった、ドギツい原色の地面が在った。地面には文とにとりが立ち、無事に、何かを話し合っている様子だった。

「あれぇ」

 落下の衝撃というものは然程無く、椛は想像以上のふわりとした着地に素っ頓狂な声を上げた。

「困りましたねぇ。私は怪しいと思ってたんですよ。店の名前にしたって、デマに違期と、なんだか当てつけみたいで、嫌な感じがしてたんですよ」

「よく言うよ。客引きの子にあれだけ鼻の下伸ばしといて。だいたい、お前が悪いんだからな射命丸。お前と飲むといっつもこうだよ。調子乗って色街なんか歩いてさ、それで、失敗するんだ。いっつもこうだ」

 予想を上回りピンピンしている二人を見て、椛も調子を取り戻した。酔っ払いなぞそんなものである。

「ねえねえ聞いてくださいよ。私、あの子に名前、教えてもらったんですよ」

 二人は椛の言葉に「え。まじ」系の言葉を発音し、なんだよ椛だけ、といった具合にむにゃむにゃとした。自分にも教えてくれとは言えない押しの弱さが、いつもの色街での失敗を生んでいる、ということに、気がつく日は遠い。

『いらっしゃい! デマイゴへようこそ!』

 突如、空間に声が響く。三人が声の主を判別するのに時間はかからず、椛は一寸のうちに嬉々として「あ、こいしちゃんだ」と嘯いた。二人は突如降ってきた声を警戒しつつも、横目に、椛の口から発せられた少女の名を心に認める。

「やい。こいしとやら! わたしたちはただ楽しく飲みたかっただけなのに、こんな目に遭わされるなんて! いくらその、かわいいからって、許されることと許されないことがあるんだぞ!」

 にとりは、見つけ次第ぎったんぎったんにしてやる、と息巻いて虚空に叫ぶ。文と椛は「いくらかわいいからって」の部分のみ復唱した。こんな状況に落とされてなお点数稼ぎをやめられない愛嬌が、三人を酔っ払いたらしめる要素のうちの一つだ。

『あれ、なんかそっちの声が聞こえにくいな。まぁいいや。お店のシステムは至ってシンプル。飲み放題食べ放題のオールフリー、ずばり無料です! そこらへんのもの、すべて勝手に飲み食いしてくれてかまいませーん!』

 三人は目を丸くして、「え、まじ」を呟いた。しかしにとりは頭を振って、邪念を払う。

「やいやい! そんなこと言ったって、わたしは騙されないからな! だいいち、食べ物や飲み物なんて、どこにもないじゃないか!」

 にとりの喚いてる間、文と椛はなんとはなしに辺りを見やった。だがにとりの言う通り、見えるのはドギツい色の地面のみで、空間にはただただ闇が広がっている。そんな地面を見て、文は側頭葉上即頭回在中ウェルニッケ野に朧く浮かんだ、「ピンクの肉」という謎の言葉に苦笑した。それが文自身の無意識下に蔦を巻く、胎内回帰の願望に根差した言葉だということに文が気がつく日は、きっと、永遠に来ない。

『うーん。店を出るまで何も見つけられない、ってお客さん、意外に、けっこういるんだよね。でも大丈夫! そんなひとたちのために、こいしはなんと! ウェルカムドリンクを用意しておりまーす!』

 こいしと名乗る妖怪が「じゃじゃーん!」と声を上げると、三人の目の前にぱっと、テーブルが現れた。ちょうど、プロレスや野球などによく見る「実況席」のようなテーブルだった。テーブルの上には缶ビールがあった。ラベルには「胎」という文字が達者に踊っており、また、ラベルは冷冷しく汗をかいている。

 缶ビールは文と椛の目を輝かせた。懐疑的に、語気を荒げていたにとりでさえも、それを見れば、他の二人と同様に、否応なしに、瞳を輝かせてしまう。

「み、見たことないラベルですね。地酒でしょうか」

「ひ、冷えてる?」

「ひ、冷えてます、冷えてます」

 ちょうど三人分の缶ビールをそれぞれ手に持ち、手に伝わる冷たさを確かめるよう、目を丸くして、じいっとそれを見つめる。にとりは目を細めて缶をしげしげと舐めるように見、口を開いた。

「これ、ほんとに、飲んでもいいの?」

『え? ごめんね。もっかい言ってくれる?』

「飲んでもいいの!」

『え?』

「これは! 本当に! 飲んでもお金、取られないのかって聞いてるの!」

 ときに、三人の財政状況についてだが、所持金は、椛、にとり、文の順。給料は、文、にとり、椛の順。吝嗇家は、にとり、文、椛の順だった。要するに、文は給料のかわりに浪費が恐ろしく激しく、椛はその逆だった。

 にとりはそれなりの給料で、それなりの出費だが、恐ろしくケチという性質を持っていた。ともすれば、臆面もなく「これは無料か」といった内容を叫べるのも、何ら不自然ではない。三人で店で飲む度に、にとりが何かと理由を付けて三等分の支払いを渋るために、いつしか文と椛の間には「四、四、二」という不文律が出来上がっていた。

『もー! おにいさんってば疑り深いんだから! 大丈夫だって、それはタダだし、それに! 今後どんなにたくさんの食べ物や飲み物が出てきても、それは全部、おにいさんたちの好きにしていいの。そういうシステムなんだから』

 それでも、にとりは目を細め、むむむと缶を見つめることをやめかった。しかし、文と椛はこいしが話終わるが早いか、プルタブを引き放ち、上を向き、中身を胃の中へと勢いよく降下させていた。

 二人が「これ、おいしい」系の驚嘆を口にすると、ようやく、にとりも堪えきれずにプルタブを引く。そうして三人は、一寸の間に、それを飲み終える。

「あれ。ゴミ箱が見当たりませんね」

 文の一声に椛とにとりは一どきにゴミ箱を探し始める。

「ほんとだ。ゴミ箱、ないですね」

「え。それじゃあどうするのさ、この缶! まさかポイ捨てなんて、とんでもないぞ!」

 それは三人の習性だった。しかし、そんな習性に頓着する様子もなく、虚空からこいしの声が響く。

『飲んだ? ……飲んだね、おにいさんたち。……それじゃあ。肝心なこと、今から説明するから、よく聞いてね』

 缶は、と威勢よく文が叫ぶ。椛は文に同調し、にとりも、胸中にさんざめく「やっぱり騙された」の感慨をなんとか堪え、二人に続いた。

『缶はテーブルに戻しといて!』

 大人しく缶を置く。にとりもそうした。

『じゃあ、説明するね。これからちょっとすると、地面が狭まって、道になります。道というか、迷路というか、なんというか。まあ、道の形は重要じゃなくてね、重要なのは出口についてなんだけど……お燐どうしたの? え、お家でお姉ちゃんが呼んでるの? それ、今じゃないとだめ? あーわかった! わかったから、引っ張らないでよー。…………』

 三人の間に沈黙が訪れた。永遠のような沈黙を、虚空に浮かぶ月のみが、優しく微笑み、見守っている。

「文さん、あの、私ちょっと」

 椛が言いかけたその瞬間、世界が唸った。それは、地鳴りのような、電話のベルのような、はたまたサイレンのような、或いは赤子の鳴き声のような、怪音であった。

 世界はフラッシュの様相で七色に点滅し、地面はアメーバの如く蠢いた。鯨飲に見る悪夢に似た光景に、三人を唖然とした猫のように身を固める。

 赤、緑、白、黄、ピンク、橙。

 地面はアメーバに似て、蠢く。

 赤、白、緑、黒、ピンク、黒、黄。

 アメーバに似て、増殖する。

 ピンク、黄、白、緑、黒、黄、白。

 月は点滅のさなかに、百面相を、する。

 赤緑黒黒白黄黒。

 黒白白黒赤黄黒。緑、白黒、白白黒白黒白白白黒黒白、黒。

 そのまま、世界が固まった。

 月さえも消えた黒の世界には、三人の、きょろきょろと泳ぐ目玉のみが浮かんでいた。

 



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二 胎宮で迷子
1


二 胎宮で迷子

 

 その空間は黒だった。地面はピンクと赤が混ざり、妙にざらざらと、ラメのような粒が散りばめられている。夜と形容するにはあまりにも虚しい空には一つ、人面の月が浮かんでいた。月は優しく微笑んで、壁のない迷宮をあてもなく歩く三人を見下ろしている。

「なんだったんでしょうね。あの点滅。相変わらず暗いままですし、月だって浮かんで、結局、地面以外は元通りじゃないですか」

「こいしちゃんとやらも、手の混んだことするもんだよ、全く。出口について、さっぱり聞けないまんまだし」

「それにしても、壁がないと不安ですね。踏み外したらどうなるんでしょう」

 道の両端は暗闇に飲まれ、暗闇は三人を手招きするかのように、深かった。「もしかすると、落ちればここから出られるかも」にとりが呟いたが、そんな恐ろしいことを試そうと思う者はおらず、相槌は苦笑に溶けた。

 そういえば。文がふと口を切る。

「椛さん、点滅の前に、なにか言いかけてませんでしたか?」

 ああそういえば、と、にとりも続く。椛は少し困ったように笑いながら答える。

「ああ、ええと。その、気のせいかもしれないので」

「いいですよ。どうせ出口も見当たらないわけですし、話題になればそれで」

 文の言葉に、椛は自信なさげに頬をかいた。

「いや、その。なんていうか、あの缶ビールを飲んでから、なんだか、変じゃないですか?」

「缶ビールって、点滅の前に飲んだやつ? うーん、変か。たしかに。言われてみれば、なんだか懐かしい感じがするんだよね。さっきから」

 にとりの言う“懐かしい感じ”は、文にもわかった。文も「たしかに」と嘯き、椛に話の続きを促した。

「ですよね。お二人も薄々気付いてるかもしれませんが、その。……お酒抜けてませんか、私たち」

「あ、言われてみれば! ぜんぜん酔ってないよ、わたし」

「ほんとですね。でも、どうしてでしょう。地底であれほど飲んで、さっき、缶ビールを飲んだばかりなのに」

 三人は歩きながら、唸っては頭を捻る。

「うーん、でもなあ。だからどうした、って話なんだよね。結局、ここから抜け出すにはどうしたらいいか、ってとこなんだよね、問題は」

「うーん」

 三人はただ歩く。歩けば、足音のみが、三人の何も浮かばぬ脳裏を叩く。暗い世界の静寂は、足音によって殊更際立ち、三人の聴覚は従って過敏になった。足音以外の音がすれば、それを聞き逃す者はこの場にはいない。

 だから、誰もが一瞬にして、背後から迫る“それ”に気付いた。

 三人の背後に突如響いたその音は、発生と同時に、三人へと急接近した。それはまるで、濡れ雑巾を高速で、何度も、地面に叩きつけたかのような音だった。

 発生と同時に振り向き、音の正体を確認した椛は瞬時に駆け出し、二人にもそれを知らせるように声を上げた。椛の慌てた大音声に驚いた二人が振り向くと、二人の視界に、奇妙な動物が映った。

「わ、わわわ! や、やばいよ射命丸! なんだよ、あれ!」

「し、知りません! 私、知りません!」

 動物は四足だった。姿形は犬、狼等に類似していたが、他がまるで違った。動物に体毛は無く、ところどころは外皮もない。ぬらぬらと水気を帯びた皮膚は爛れて、そこかしこに肉が覗いている。何より特徴的なのはその四足だった。足はぶよぶよと、犬狼の姿形に似つかわしくない太さで、腐った象の足に酷似していた。その足で、動物は俊敏に、三人へと迫る。四足の一本一本が躍動すれば、地面に体液が弾けた。爆ぜた飛沫がにとりと文の頬を濡らしたとき、犬は一つ吠声を上げた。

「いいから、早く走って!」

 椛が叫ぶと、二人は短い悲鳴を上げて一目散に駆け出した。動物はBowともquackともつかぬ奇妙な声で吠え、三人を追い立てる。

「な、なんですか、あの犬! 椛のお友達ですか!」

「射命丸お前、あれが犬に見えるのか! どうかしてるよ!」

「ふざけたこと言ってないで、ちゃんと着いてきてくださいよ! こんな迷路みたいな場所でバラバラになったら、一巻の終わりですから!」

 先頭を走る椛の視界には、混乱に似て絡まって散乱した道がある。進めども曲がれども、いつ行き止まりに遭うかもしれない、行き止まりのあるかどうかもしれない道は、即ち迷宮だった。椛に遅れぬよう、二人も必死に食らいつく。しかし、奇妙な動物は無慈悲にも、追跡をやめることはない。

 しばらく走り、背丈の短いにとりが息を切らし始めたころ、にとりの消耗とは裏腹に、椛は多少状況に慣れて、走りながらに口を開いた。

「変じゃないですか。向こう、全然疲れてる様子でもないのに、追ってくるスピードが、全然、変わらないのは」

 にとりは息を切らして、なんとか疑問符を吐き出す。文も文で大変だった。

「なにを、冷静に、喋っちゃってるんですか。こちとら、さっきからなんだか走りにくくて、もう、大変だってのに!」

「そうなんですよ。私はにとりさんと文さんに合わせて、走る速度を少し落としたんです。でも、向こうとの間隔が変わらない。あの動物、こっちの速度に合わせて付いてきてるみたいなんです」

 椛はにとりの消耗にも、文の異常にも気付いていた。背丈の短いにとりの消耗は必然として、椛が見澄ましたのは文の異常だった。

 いくらこのところ酒浸りとはいえ、そこまで運動神経が鈍っていることもないはず。椛が後ろを走る文を振り返り見やると、直ぐに異常が判った。文の踏みしめる地面のみが、ぶよぶよと、肉の様相を呈していたのだ。ピンクと赤の色合いも相まって、踏みしめるたびに足の沈む地面は、何かの肉のようだった。

「それがどうしたってんですか! 止まったら向こうも止まってくれるって、そういう話じゃないですよね! こちとらもう、足元がぶよぶよしてて、走りにくくて、疲れちゃって! ああ!」

 当然、地面の異常には文自身も気が付いた。のみならず、文は薄っすらと、自身の踏みしめる地面“のみが”肉と化す理由も、なんとはなしに察していた。素面ならば、三人の中で一番勘の冴えるのは文だった。文がそれを言い出さない理由は三つ。考えが未だ憶測であること。必死の二人が聞く耳を持たぬこと。仮に考えが真実であったならば、糾弾は免れない、ということ。必死な振りをして、その実、既に文の心には余裕があった。これたぶん平気、無問題。しかし、必死な振りをしなければならない理由もまた、存在していた。繰り返しにはなるが、必死な二人に真実を話せば、仮にその憶測が真実であったならば、必然に、糾弾される。文はただ、それのみを恐れていたのである。

「でも、このままだとどうなるとも分かりません。こうなったら、私が一か八かで……」

 椛の動かす口を、息絶え絶えのにとりが、大声で遮った。

「わたし、もうつかれた!」

 にとりは言い終わると同時に勢いよく、前のめりに転倒した。それは、故意ではなく偶然の、本当の転倒ではあったが、なんとも、律儀で潔い転倒である。

「にとりさん!」

 文と椛は同時に叫んだが、救いに動いたのは椛のみだった。椛は咄嗟に倒れたにとりへ覆いかぶさり、身を挺した。

「にとりさん、大丈夫ですか!」

 にとりは転倒の衝撃を堪え、覆いかぶさる身体の隙間に目を開いた。

「あ、わわ! 椛ぃ!」

 視界には迫りくる怪物が在った。椛の背後に迫る怪物が、BowともQuackともつかぬ音で、大きく吠える! ああ、喰われる! そのように、ギュッと目を瞑り体を硬める二人を、文は、「ああ、これはまずいぞ」といった心持ちで、寒々と、白々しく、見かえしていた。

「……あれ?」

 恐る恐る、にとりはまぶたを開く。椛もにとりに続いて、やはり同じく、「あれ?」と発生した。間近に迫っていた怪物の姿が見当たらず、二人はぐるりと視線をまわす。

「わ、わー! 二人とも、た、たすけてー! 助けてくださいよー!」

 怪物は、やや大根気味に叫ぶ文を、付かず離れず緩やかに追いかけていた。二人はすくと立ち上がり、緩やかなペースの怪物に続いた。

「椛、これどういうこと?」

「さあ。でもあそこに、何か知ってそうな人がいますね」

 二人は、文の体力が尽きるまで、怪物に続くことを決めた。



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2

章は六つで全部です


「た、たすけてー! たべられちゃいますよー! ……って、ああっ!」

 這々の体ならぬジョギングの体で棒を読みつつ、文はふと振り向いた。

「椛さん、なんで犬と一緒に追ってきてるんですか! やっぱりお友達だったんですね、ひどい!」

「にとりさん、文さんがなにか言ってますよ」

 憮然とする椛をにとりがたしなめる。

「いいよいいよ。放っておこうよ、あいつはああいう奴なんだから」

「にとりさんまで! あ、あんまりですよぅ!」

 文はひぃひぃと息を切らしながら、犬に追われる。犬はどこか上機嫌で文を追う。文の必死の逃亡は、にとりにとっても、椛にとっても、そろそろ見飽きた光景だった。侮辱と文のしつこさに耐えかねた椛が不意に、

「ワン!」

 と叫んだ。

「ひっ」

 急な大音声に短く悲鳴を上げたのはにとりだった。隣にいる白狼が急にワンと叫べば、河童だって驚く。しかしそれ以上に驚いたのは天狗だった。天狗は驚きのあまり声すらあげずに、足を縺れさせて転倒した。

 追って吠えたのは怪物だった。尻尾を振って文に飛びかかる怪物の姿は、もはや犬と形容しても差し支えがない。

「あ、やめて! ちょっと、くすぐった……やめてくださいよう」

 犬は転倒した疲労困憊の文にじゃれつき、その顔面を無遠慮に、嬉々として舐め回した。見た目こそ醜悪ではあったが、尻尾の振り方や上下する鼻先は、愛玩動物のそれと遜色がない。

「おうおう射命丸。これはどういうことなんだ? そのワンちゃんはお前のお友達かなぁ?」

 疲労とくすぐったさに弄ばれる文に対し、にとりは「上手いこと言ってやった!」の顔で言い放つ。当然、それは本来であれば椛の台詞なので、椛はにとりに同調しつつも、幾許かの不条理さに眉を顰めた。文は話すかわりに犬をどけてくれと要求。対する二人は無視で応答。文にとっての次善の案は、呼吸の整うまで待ってくれ、というもので、にとりと椛はこれまた無視をすることで、文の要求を飲み込んだ。

「ああ、じゃあそろそろ話しますがね」

 犬に乗っかられっぱなし、舐められっぱなしの文が口を切る。二人は仰向けの文を見下ろしながら腕を組む。

「話すと言っても、全部憶測にはなってしまいますが、こうなっては仕方ありませんからね。……結論から言えば、この水棲めいた四足のワンちゃんは私の、その、欲求です。たぶん、酔っ払ったときの。あ、黙って聞いてくれるんですね。なんだか恥ずかしいなあ。いて、蹴らないでくださいよ」

「じゃあ、そうですね。わかったことをお話します。といっても、わかったのは先程言ったこの犬の正体程度なもので、他はあんまり分かってません。この世界もよく分からないし、出口についても、もちろんわかりません。いて、蹴らないでくださいね。しょうがないじゃないですか。わからないものはわからない」

 じゃれつく犬の顔を撫でながら、文は淡々と語る。

「わかっていることのみを話すように」

 文のみが何かを知っていて、それを二人に説明する際、文はいつもこんな調子だった。遠回りを介さず話せないものか、二人は七味程度の苛立ちを感じながら、説明を促す。

「私が思ったのはですね、あのウェルカムドリンクの、缶ビールですよ。アレが怪しい。私はアレを飲んで酔いが覚めたというよりは、アレを飲んで、世界に酔いを“吸われた”と考えているんです。そして、その酔いに含まれた欲求が、世界に影響を与える。私の足元のみがぶよぶよしたのも、この水棲めいた……河童めかしたこの犬も、そうであるなら、説明がつきます。世界の点滅は、それに付随する手続きか何かだったのではないでしょうか。根拠としては、こいしちゃんの発言です。覚えてますか?」

――『うーん。店を出るまで何も見つけられない、ってお客さん、意外に、けっこういるんだよね。でも大丈夫! そんなひとたちのために、こいしはなんと! ウェルカムドリンクを用意しておりまーす!』

「――着眼すべきは、『意外に』。この点です。何を持ってして『意外』だったのか、そこが重要なんですよ。まず、こいしちゃんの指す『お客さん』とは、どんな人物を指すでしょう? ここが私の言う通り『酔いに含まれた欲求が具現化する世界』だったとしたら、答えは一つですね。酒飲みですよ、こいしちゃんは酒飲みを相手に、商売をしているんです」

「ではその酒飲みが何を持って、こいしちゃんに『意外』と言わしめたのか、重要なのはそこですね。……ときに、世間一般の考える“酒飲みの欲求”とは何でしょう。そう、お酒ですね。酒飲みは世間一般では、ひたすらにお酒を求めているから、酒飲みなんですよ。さあここで、こいしちゃんの『意外』が、どういう気持から出た言葉なのか、わかってきますね」

 たしかに、と二人は首を傾げる。

「私たち、あの点滅の後に、一本でもお酒を見ましたか? 見てませんよね。ずばり、そこなんですよ。私たち酔っぱらいの欲求が具現化されるはずなのに、『意外にも』、お酒は一本も見つからないんです。まあ、実際は私たちにウェルカムドリンクを飲ませるための方便という側面もあったんでしょうけど、仮説を立てるなら、あれはそういった背景の元から出た発言と取るのが平和ですね。おーよしよし、よしよしよし」

 話は終わりと言わんばかりに、文は犬と戯れ始めた。にとりは今ひとつ解せなかった様子で、椛に耳打ちをする。

「椛、なんの話だっけ。わたし、途中から聴覚が故障しちゃったんだ」

「ええと、つまりこの世界は『酔いに含まれる欲求を具現化する世界』で、あのワンちゃんは文さんの『欲求』って話ですね。たぶん」

 椛が言い終わるが早いかハッとして、にとりは腕を捲って文に吠える。

「やい射命丸! おまえ、全然なんにもわかってないじゃないか! わたしはてっきり、お前が全部の黒幕で、どうすれば出られるか、とか、そういうことが聞けるかと思ってたのに。それに、どうしておまえの欲求で、そんな犬っころに脅かされなきゃいけないのさ!」

「それは、そのう。言いたくないなあ」

 お前のせいで恐ろしい目に遭った。吐け。文の眼前、ヤンキーの座位で凄むにとりをよそに、椛はふと、何かに気が付いたように、慌てて、口を切った。

「その、いいじゃないですか、にとりさん。文さんも言いたくないって、言ってることですし。何より、私もあんまり聞きたくないというか、考えただけで鳥肌が立つというか、気色が悪いと言うか」

 吐かねばこいつは死を免れぬ。にとりは椛をたしなめて、文に言い放つ。

「こないださ、凄い物を考えついたんだ。わたし、これでも技師だからさ。それは、椅子なんだけどね。ただの椅子じゃ、ないんだよ。座った瞬間、椅子は拷問器具に変わるのさ。一瞬で全身を拘束してしまうんだ。そして、腰から下を切り落とさんとする丸鋸がね、迫るんだよ。刃が肉に接触するまで十五分。上半分から下半分がさよならするまで十五分。計三十分の小さな冥府だよ。射命丸。長話を聞かせてくれたお礼にさ、お前の長い脚で、試させてくれよ。椅子の、座り心地ってやつをさ」

 犬も文もくうんと鳴いた。人を舐めた鳴き声に血管の危機を感じたにとりが文の首に手をかけると、文は観念したように口を開き、椛は耳を両掌でパタパタとし、「あー、あー」と発声し、聴覚を支配した。

「それじゃあ、その、白状しますがね!……私の足元だけぶよぶよしたのも、この河童めかした犬にしても、そのう。なんていうんですかね。私が、二人に、ええと。……甘えたかったからというか、甘えられたかったというか。構ってほしかった、というか……!」

 極力平静を装い発声した文だったが、だんだんと声が震え、結局は恥ずかしさに涙ぐんだ。椛は「あー! あー!」と叫び続けていたが、間近で聞いてしまったにとりは自分の愚かしさを悔やんだ。文は酔うと、酔った上で泥酔したフリをする癖があり。木と語らう等をして、二人の気をひく。文のそういった〝甘えたがり〟の性質は、椛もにとりも、薄々気が付いていたことではあった。しかし、カミングアウトなぞ行われるべきでないこともまた、確かだった。

 しかし、三人の羞恥とは裏腹に、カミングアウトは脱出への足がかりとなった。文が言い終わると同時に、犬が消え、かわりに、道の端に扉が現れたのだ。それを把握しない三人では無かったが、赤面に硬直に咆哮と、感情の着地点を見失った三人が扉の出現に言及するのは、ちょうど、十五分が経過した頃だった。

「これは、あれかな。出口ってやつかな」

「でも、こうして離れて見ると、普通に裏側が見えるのが怪訝ですね。なんたらドアみたいです。あ、なんたらドアだったら、即ち出口となりますね。早速誰か、開けましょうよ」

「しかし、開けたらさっきみたいなワンちゃんが飛び出してきて、今度は本当に食べられてしまうかもしれません。何にせよ、警戒するに越したことはありませんよ、文さん」

 何事もなかった、という共通認識で結ばれた三人は扉に向き直り、腕を組んだ。こうなるとじゃんけんへの発展は必然で、にとりはチョキを出し、文と椛はグーを出す。にとりは「ちぇっ」と嘯いて、恐る恐るに、扉を開けた。



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3

「あっ」

 にとりは思わず声をあげた。扉の向こうに広がるのは、にとりにとって、どこか見覚えのある景色だった。どうしましたか、と文が割り込む。

「……扉の向こうは、部屋、みたいですね」

 部屋? と、今度は椛が割り込んだ。

「……ほんとですね、部屋です。にとりさん、もしかして知ってる部屋ですか?」

 扉の向こうには部屋があった。大きな棚も、低いテーブルも、壁に打ち付けられたハンガーすらも、全てが地面と同じ質感、同じドギツいピンクで構築されていたが、三人にはそれが部屋と判った。とりわけてにとりには、その実感が、判然たる克明さで訪れた。

「ううん、しらない。しらない部屋だね」

 紛れもなく、にとりの部屋だった。二人がそれを解さないのは、二人の脳内に在る“にとりの部屋”が、“ガラクタゴミ屋敷”へと改名していた為である。

 にとりの脳裏に懸念が浮かんだ。この世界が文の言う通りに『酔った際の欲求が具現化される世界』だとして、文の場合は河童めかした犬の出現という形でそれが成った。では、自分の場合は。今はまだ何も起きていないが、これから何かが起こる、そのように想像するだけで、にとりは裏恐ろしい気持ちになった。

「ダメですね。棚は空っぽで何も入ってません。椛、そっちはどうですか?」

「冷蔵庫も空です。つまんないの」

 部屋に入るなり物色を始める二人に、勇者かお前ら、とツッコミたいにとりだったが、それ以上の、今にも自身の部屋とバレてしまいそうな焦燥に、にとりは扉の前で立ちすくみ、部屋に入れずにいた。

 扉の外でもじもじしてる河童を見れば、当然二人は声をかける。

 どうかしましたか。

 瞬間、にとりは奇策を思い付いた。それは素早い行動だった。威風堂々扉を潜り、手始めに低いテーブルを蹴り飛ばす。文と椛の目が白黒とする。二人の目が白黒しているうちに、にとりは棚を投げ倒した。櫓投げだ。とどめに冷蔵庫の扉を開け、勢いよく閉めて、にとりのターンは終了した。

「こういう家具の裏にさ、ヒントが隠れているものだよ。往々にしてさ!」

 ぽかんとしていた二人はやおら、たしかに、と発声し、家具をひっくり返し始めた。そろそろひっくり返せるものが無くなった頃、椛が部屋を見渡し「あれ」と口を切る。

「なんか、このぐちゃぐちゃした感じ、見覚えがあるような」

 にとりの策は裏目に出た。

 二人の記憶に眠る、かつての綺麗な部屋が呼び覚まされる前に、見る影もなく荒らしてやろう。そう考えたにとりだったが、もはや、にとりの〝綺麗な部屋〟など、二人にとっては故人だったのだ。――先ほど、二人の中でにとりの部屋は“ガラクタゴミ屋敷”に改名していた、と記述したが、“ガラクタゴミ屋敷”これは正しくいえば“綺麗な部屋”の“戒名”だったのだ。改名ならぬ、戒名なのである。――実際と違い、すべてが地面と同じドギツいピンクの物質で構成されてはいたが、部屋の荒れ具合は、それだけで、にとりの部屋を想起させるには十分だった。

「言われてみればたしかに。どことなく、にとりさんのお家と似てますね」

「うちは、もっとせまいよ」

 でもこの棚。椛が口を開く。

「この棚、にとりさんが布団被せて、いつも椅子にしてるやつですよね。ほらこの座り心地、身に覚えがあります」

 わたしにはないよ。にとりが発音するのと同時に、荒れた部屋に、忽然と、三つの椅子が現れた。革張りの、高級そうな椅子だった。それはにとりにとっても見慣れぬ椅子であったため、にとりはしめた!と口を切る。

「ほら、こんな椅子はわたしの部屋にはないぞ! 二人も座ってみたらどうだ、そしたらきっと、ここがわたしの部屋とは関係のないことがわかるから」

 にとりが口を動かしてる最中、椅子の革は盛り上がり、破け、裂け目から錆びた金属が飛び出して駆動した。にとりが言い切る頃には、椅子はすっかり拘束の、拷問器具に姿を変え、にとりの体は施された機構にしっかりと拘束されていた。

「ほら、座りなよ。二人とも。ね。座ろうよ、三人で」

 そんなにとりがなんだか不憫で、二人は椅子に腰を落ち着けた。椅子は機械的に駆動し、二人の身体を拘束する。

「にとりさん。この椅子は、にとりさんのどういった欲求なんですか」

「大丈夫ですよ。聞いても照れたりしませんから、言ってみてください」

 先程、文が自身の酔った際の欲求を打ち明け、犬が消えたことを、三人は把握していた。打ち明ければ、椅子は消え、きっと次の扉が開かれる。それをわからないにとりではなかったが、口をついたのは誤魔化しだった。

「い、いやあ。なんていうのかな。この、椅子はさ。わたしが造ろうと思ってたけど、どうしても完成させられなかった椅子なんだよね。こんなふうに、身体を拘束するところまでは実現させられてたんだけど、その先がどうも。だからこの椅子の正体は言うなれば、まあ、技師としての〝完成への飢え〟ってやつかな。あはは。しかしこの不思議な世界でも、構想を実現させることは不可能らしいや。わたしほど優秀な技師になると、ときどき、どうしても実現不可能なものを思いついてしまう。なんとも、ああ、かなしいね」

 にとりが格好付け終わると、三人の腿の付け根上あたりの虚空に、ぽわんと、丸鋸が現れた。初めは宙に浮いていた丸鋸だったが、一寸すると、丸鋸と、椅子を繋ぎ止める機構がぼんやりと浮かび上がった。半透明の機構は次第に実体を帯び、終には現実に、三人の視界に確かな物として顕現した。

「にとりさん。この、動けば下半分を切断してしまいそうな丸鋸は、にとりさんのどういった欲求なんですか」

「大丈夫ですよ。聞いても照れたりしませんから、言ってみてください」

 丸鋸の出現に合わせて、にとりはこの椅子の正体を確信した。しかし、それを打ち明けられるかどうかは、また別の問題である。

「しらんし」

 にとりの薄情な一声と同時に、丸鋸が駆動を開始した。軸ごと削りとってしまいそうな回転に伴う轟音は、とりわけて、薄情な駆動音であったといえる。

 

 十四分が経過した。

 

 丸鋸は十四分かけて、ゆっくりと、確実に三人の太腿の付け根に接近した。回転する刃は今にも肉に食い込まんとしている。

「ああ! にとりさん、早く言ってくださいよ。にとりさんが吐かないと、私達の足、本当に!」

 はじめ四、五分の間は極めて冷静だった文も、今では見る影もなく慌てふためいて、にとりに打ち明けるよう叫ぶ。文の思うよりずっと、にとりは強情だった。

「わ、私はにとりさんの考えてること、なんとなく分かってますから! 白狼天狗はハナが利きます! だから、いまさら言われたって、おどろかないし、笑わないし、だってなにより知ってたし!」

 七、八分頃までは、急ぐことはない、言いたくなるまで待ちましょう、と、回答を急かす文を嗜めていた椛にしても、今となっては文と同様に、動かぬ体でのたうって、顔面を青白く染めていた。

「えっと、その、わたし、だって、そんな!」

 錆びた拘束椅子に身体の自由を奪われた文と椛は必死でにとりに懇願する。二人の顔は青ざめて、にとりの頬のみが紅潮していた。

「ああ、にとりさん! 早く、早く!」

「に、にとりさん! 言ってください! 後生だから!」

 目に涙を浮かべ、紅潮した顔をぶるぶると震わせて、にとりは意を決して口を開いた。

「あー! わたしは、わたしは二人が! 二人のことが羨ましいんだ! 妬ましいんだ! 自分の短い背丈が、嫌で仕方がないんだよお!」

 ぱっと、椅子が消える。文と椛は尻もちをついて、そのままへなへなと、地面に倒れ込む。二人とも、どっと冷や汗をかいた。二人をよそに、にとりは体育の座位で俯いて、両腕に顔を埋めていた。

 死ぬかと思った。息を切らして出所不明の涙を拭う文を一瞥し、椛はにとりに声をかける。

「あの、にとりさん。なんていうか、その」

「いいよ! ほっといて!」

 にとりが酔うと煙草を吸うのは、謂わば、自身の子供じみた性質の裏返しだった。自覚のあるなしに関係なく、にとりには大人という言葉への憧れがあったことを、文はともかく、椛は知っていた。

 二人に自身のコンプレックスを知られてしまったにとりの胸中は、恥ずかしさと後悔で一杯だった。これまで、二人の前で自身のやってきた“大人めかした”言動、ないしは行動が、全て仇となって咲き乱れた。

 ――『煙草だよ、煙草。射命丸、あいつはね、タバコのフィルターと似てるんだ』――。

「あー!」

 にとりは声を出さずにはいられなかった。思い出したくないことは、それを一番思い出したくない状況で思い起こされる。恥とは往々にして、そんなものである。

 死ぬかと思った、と繰り返し続ける文の右方で、椛はにとりを慰め続けた。にとりにとって、椛の優しさが余計に辛辣だったことは、言うまでもない。




ストックが切れたのでしばらく更新が滞りそうです(多分
それまで感想とか評価が増えてるといいなあ!
いいなあ!


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4

 そうこうしているうちに、部屋の天井が、ダンボールか何かを開封するのと同じようにして、開いた。四つに分かれた天井はそのまま壁を引き剥がし、地面と同化する。にとりは恥ずかしさから両腕に顔を埋め、文は未だ消化しきれぬ焦燥を、地面にうつ伏せとなって吐き出している。よって、周囲の変化に気が付いたのは椛のみだった。

 部屋に散乱していたはずの家具も、気付けば消えている。椛が辺りを見渡すと、そこには広大な地面があった。地面はピンクが大凡の割合を締め、赤はどこか見覚えのある形状で、ぶちまけられていた。椛は、広いピンクの海と、赤く染まった所々に、或るパターンを見出した。

 ああ、これは世界だ。と、すれば。

 椛は静かに、空と呼ぶには虚しすぎる暗闇を仰ぐ。そこには、巨大な人面の月が在った。月は今までの温厚な笑みとは打って変わって、目玉をひん剥き、歯を思いっきり食いしばって、椛達に接近していた。今なお接近を続ける月は、あと数秒もしたら、椛達の身体を、世界ごと破壊してしまうだろう。しかし、月の接近には音が無かった。

 椛を除いた二人は、未だ各々の感情を消化し続け、月に気がつく様子がない。――これまで三人が人面というあからさまに稀有な特徴を持った月に一度も言及しなかった要因は、間違いなく、接近という“見せ場”でさえも無音で迫るその謙虚さにあると考える。彼の顔はどこぞの機関車に酷似していた。哀れみは、誰の心にでも存在する。――地面に描かれた世界地図、接近する月。椛は瞬時に、それらが自分の欲求であることを悟った。

「私、みんな無くなっちゃえばいいのにって、ときどき思うんです」

 落ち込んだにとりの頭を撫でながら、椛はするりと呟いた。

「え?」

 声を揃えて、二人が顔をあげる。しかし、その頃には月はすっかりと消え、宙には相変わらずの闇が在った。月さえも消えた深い黒は、宇宙と同じ色をしている。そんな黒い虚空の下、なんでもありません、と笑う椛の瞳に、二人は宇宙を見出した。

『おつかれさまでした! 途中からだけど、おにいさんたちのこと、ちゃんと見てたよー』

 突如、世界に声が響く。三人は瞬時に声の主を察して「あ、こいしちゃんだ」と嘯いた。

「ね、ね。どうだった? ハプニングだったよね? 楽しかったでしょ?」

 うつ伏せにへたり込んでいた文はすっと立ち上がり、頭を撫でられっぱなしのにとりは椛の手を素早く振り払った。椛も二人に合わせてしゃんとした。三人とも、自分たちの遊んでいるところを親に見られたような気持ちになっていた。

「おつかれさま、ってことは、これで全部おしまいですか」

『うん、おしまい! もしかして、ものたりなかった?』

 いえ、とんでも。げんなりして、文は首の裏をかく。にとりもすっかり居直って、「いくらただとはいえ、こんな目に合うなんて。むしろこっちが何か貰いたいぐらいだよ」と文に合わせた。椛が出口について訪ねようと口を開きかけたが、こいしが遮った。

『ふっふーん。実はね、報酬はちゃんと用意してあるのです。なんだと思う? ね、なんだと思う?』

「報酬だって。射命丸、何がいい?」

「謝罪ですかね」

 椛が出口について訪ねようと口を開きかけたが、またしてもこいしが遮った。

『正解は……出てからのお楽しみでーす。がーん! ショック! ……じゃあ、最初にできなかった、出口についての説明をするね。ここには出口っていう出口はないんだけど、出る方法があるの。けっこう、簡単だよ。自分の酔っ払っちゃったときの欲求を、十回唱えればいいの。ね、簡単でしょ?』

 三人は三人とも言いたいことがあり、銘々に口を開きかけていたが、こいしの、最後の一言を聞いた途端、各々開いた口が塞がらなくなった。

『どこかはわかんないけど、三人とも同じ場所には出るはずだから。それじゃあね!』

 またのご来店をお待ちしてます、もう戻ってきちゃだめだよ。と、支離滅裂な二言を残して、こいしはそのまま、二度と戻らなかった。

 ちょっとした時間が過ぎたが、その中で、三人が協議し決定した事項があった。

「耳、ちゃんと塞ぎましたか?」

「はは、馬鹿だなこいつ。ちゃんと塞いでたら聞こえるはずないだろ」

「あー! にとりさん! 誰が馬鹿ですか誰が」

「あ! ミイラ取りがミイラだ! やっぱりちゃんと塞いでなかったんだな。射命丸、お前ほど卑劣なやつは見たことがないよ」

 それは、椛の欲求をいまひとつ聞き逃してしまった二人が提案した紳士協定だった。自分たちが打ち明けたからって、椛までそれをすることはない。という体で結ばれた協定だったが、ミイラ二匹の狼藉に、椛の血管の危機を感じていた。――そして、三匹目だ!――。

「ふたりとも! ちゃんと耳塞いでてくださいよ。そっちが言い出したことなんだから、お願いしますよ。もう」

 椛が何か物騒なことを呟いていたことだけは察していた二人だったが、どうしても、はっきりと耳にしておきたかったのだ。

「だいいち、お二人だって、また聞かれるのも、聞くのも、恥ずかしいくせに」

 しかし椛の指摘も最もだったので、二人はしっかりと耳を塞ぎ、頷いて、準備万端の合図を出した。合図を互いに示し合わせて、いよいよ以て口を開く。

「私は二人に構ってほしい……私は二人に……」

「わたしは長い脚がほしい……わたしは長い……」

 声は頭蓋骨にこだまして、各々の聴覚に響き渡った。文とにとりは、ふと、椛の口元に目線を遣る。

「……。……。……」

 二人は、どうしても気になった。これほどまでに魅力的な椛の唇を、二人はこれまで見たことがなかった。二人して、ゆっくりと、耳元から手のひらを離す。

「……界滅亡、世界滅亡、世界滅……。…………」

 二人はそっと、耳をふさいだ。

目を瞑り、それぞれ十回唱え終えた三人の視覚野に、世界の暗闇がなだれ込んだ。それが紛れもなく意識の暗転を示唆していることを、三人は直感で察した。

「あれ」

 瞬間、感じた肌寒さに口を開いたのはにとりだった。目を開けると、見慣れているような、久しいような、景観。視界には雑多な店々が連なり、そのどれもが、出入り口を閉ざして、沈黙している。にとりの隣で伸びていた文も、目を覚ます。上体を起こせば、がさごそと、文は背中の後ろに雑然たるビニール袋の気配を感じた。椛も、少し遅れて上体を起こした。静まり返った場末の通りは、椛に白々とした早朝を想わせた。

 しかし空はない。そこは地底だった。地底の、用途の読めない木製の電柱の脇、低いコンクリートの塀の中、三人は捨て子の様相でゴミ袋に塗れていた。髪はぼさぼさ、服はしわくちゃ、目の下には、不足した睡眠に隈がよって、三人は見るからに、ネオン街から投棄された捨て子他ならなかった。

 街の静けさと肌寒さは、夜に甘えていた三人を突き放し、朝を思わせた。各々、おもむろに肘を抱く。

「あれ。ポケットに、なにか」

 言いながら、文は胸ポケットをまさぐった。にとりも椛も、「え、ポケット」と発音し、各々の服に付いた、いろんなポケットをまさぐる。三人はポケットから、同じタイミングでそれを取り出した。

 それは、小さなメモ用紙と、やたらに太い判子だった。小さなメモ用紙には、「ご利用ありがとうございました。他のお店がライターとかをあげてるのをみて、こいしも、粗品を用意したのです。それが、こいしの言っていた、報酬というやつです」と、上下どちらとも区別のつかぬ位置からのメッセージが走り書きされていた。三人は、数時間前にみたはずの、けれど、もはやどこか懐かしくなった“こいしちゃん”の顔を思い浮かべて、苦笑した。苦笑のままに、三人は、やたらと太い判子をみやった。印面には、文字ではなく、何か形が刻まれており、よくよく見ると、それはどうやら、唇の形をしていた。

 文はすかさず判子を握って、疲れにすっかり気怠くなった腕を動かし、隣の、にとりの頬を突いた。

「やめーや」

 にとりはそれを避けることはしなかったが、代わりに、頬にくっついたまま離れない文の判子を、やにわに振り払って、弾き飛ばした。飛ばされ、地面に転がっていく判子を無意識に追いかける文を見、椛は疲れからか、自分の役目を奪われたような気になって、ぼんやりとした。頬にべったりとキスマークを付けたにとりは、椛の頬へと、自分が文にされたのと同じように、判子を押し付ける。椛が虫の反応で報復をしたので、それは、ちょっとした戦争に発展した。判子を拾って戻ってきた文も乱入したので、三人の顔、またその周辺は、キスマークだらけとなった。疲労から、三人はそれを無感動にやり遂げた。

 要するに三人は、労働明けに気分を良くしたどこぞの馬の骨から、「おつかれさまです」の声をもらったり、朝早い露天商の、「昨夜は随分お楽しみだったようで」なんて邪推を投げつけられたり、早起きの、真っ当な商売人の、不愉快そうな視線を浴びたりしながら、帰路を辿ったわけである。帰路を歩く疲れ切った三人の頭は回らず、触覚と、聴覚だけが過敏になって、地面を踏みしめる感触と音のみが、意識のそばを、白々しく滑っていった。

 しかし、三人の心には所謂“やりきった”ような感慨もあったため、銘々に、格好をつけて闊歩した。文は、片手をお尻のポケットに入れ、その肘で、もう片手を脇腹あたりに挟み、少しだけ方をすくめ、また、背筋を曲げて、歩いた。にとりは、両手を外套のポケットに突っ込んで、文よりもっとわざとらしく、背筋を曲げて歩いた。椛は背筋こそ伸びていたが、腕を組んで、なにか、しきりに、右上や左上の虚空へ視線を泳がせていた。それがそれぞれの、持ちうる限りの美意識、というやつだったのかどうかは知れないが、ともかくとして。三人が他人とすれ違う際には、どこからともなく、間抜けな鳥が、鳴いたそうな。



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三 盲担TTE
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   三 盲担TTE

 

あれから暫くが経って、季節はすっかり冷え込んで、外套を羽織っても外出の憚られる寒さとなった。三人はこのところ、毎日、椛の部屋で呑んでいた。呑む、というには些かに落ち着きの欠けた酒宴ではあったが、外の薄暗い寒さと暖かい明りが灯る部屋の、冬特有の対比は、飲酒をとりわけ穏やかな、優しい行いへと変えていた。しかし、それは対外的な視点からの見解であって、三人が実際穏やかに飲んでいるかどうかは、また別問題である。

「えー、なんでしたっけね。わたしは、ふたりのながいあしが、うらやましいんだーっ、でしたっけ? ねぇ、にとりさん」

「射命丸おまえ、うるさいぞ。飲みすぎて脳が腐ったんじゃないか」

 文はへべれけの体でにとりに絡む。元来、椛の部屋、天狗の寮で騒ぐことに禁忌感を抱いていた文だったが、冬の寒さと協議した結果、外出は否決され、誰かの部屋で呑むことが決定した。それから三人で話し合ったが、集う場所は結局、椛の部屋に決まった。椛の部屋にはストーブがあったのだ。

「にとりさん、無視しましょう。無視」

「あ! 危険思想がなんか言ってますよ、にとりさん!」

 危険思想、その言葉に、にとりは思わず腹を抱えて笑う。デマイゴでの出来事は、今となっては酔っ払いの、格好の肴と化していた。

「私、文さんほど恥ずかしい人を知りません。かまってほしいんだなぁって思われながら、ひとを詰るのは楽しいですか」

「たのしいですよ。だって、お酒飲んでたら、なんだってたのしいに決まってるじゃないですか」

 椛は目を丸くして、やおら腕を組み、しばしの黙考のあと、「たしかに」と、なにもわかっていなさそうに、はにかんだ。にとりは煙草をふかして、二人に対しおもむろに、「酒は悪ふざけに似ている」などと意味ありげな言葉を意味深に呟いてみせる。とどのつまり、三人とも既に出来上がっていた。

 意味深な呟きに、二人はきょとんとして、にとりのほうを向く。

「ちょっと考えたんだけどね。この酒というやつと、何か似ているものはないかなって」

 にとりは言いながら、胡座に肘をついた片方、人差し指と中指の間に挟んだ煙草をゆらゆらと動かした。二人は興味ありげに、先端の朱燃を追う。

「えー、お酒とかけまして、悪ふざけととく。その心は。……どちらも度が過ぎれば“きつい”でしょう」

 あ、いつもとちがう! にとりの「ちょっと考えたんだけどね」を幾度となく拝聴してきた椛は、にとりの語り口の変化に感動しながら手を打った。傍ら、文は既に興味を失った様子で、なにやら手元の、巨大な物体を弄り回す。

 ストーブはときたま酸欠気味に埃を吐いて、明るい部屋を暖めた。カーテンの向こうの、薄暗い銀世界には雪がちらついて、寮前の枯れた木々に揺れ落ちている。

「お、射命丸。けっこうな大きさになったじゃないか、それ」

「ええ、ええ。だんだんそれっぽくなってきました」

 にとりもにとりで、床の上、なにか作業をしながら文のそれを見やった。二人と同様に、椛も“それ”のと似た、巨大な物体を弄っている。

「でも、お二人とも、結局それは何を作ってるんですか。いまだにみえてこないんですよね、私には」

「え! わかりませんか! いやあ、その見る目の無さはやっぱり犬ですね」

 言葉とは裏腹に、文は、よくぞ聞いてくれた、とでも言いたげな、とてもうれしそうな表情をみせた。巨大なそれは柱の形状をしており、全体、ビールの空き缶という素材で構成されていた。空き缶で作られた柱を掲げて、文は口を開く。

「木ですよ、木。時期ですからね、ツリーを作っているんですよ。ほら、枝だって」

 言いながら、文は柱の上部先端付近を指す。そこには連なったプルタブが幾つもくっつけられており、プルタブはとりわけて貧相な、枝の役割を担っていた。

「木か。お前らしくてなかなかいいじゃないか。きっと、話し相手にもなるだろうし」

「にとりさんのそれはなんですか?」

 椛がにとりに問いかける。にとりは、床の至るところに空き缶やなんやを配置して、なにかを作っている様子だった。床のそれらは、二人が手洗に行く際などによく躓くので、にとりのみが知る薬剤等で、今ではしっかりと固定されている。

「よくぞ聞いてくれた! これはね、村を作ってるんだよ。わたしの村だよ」

 え、村ですか。 文と椛は同時に発音して、各々作業の手を止め、にとりに近寄った。二人がよくよく床を見やれば、置かれている空き缶は、どうやらにとりの持ち込んだ手道具で形を整えられており、言われてみると建物らしき形状をしている物がちらほらとあった。興味有りげな二人の反応に、にとりはもう話したくてたまらない気持ちで喋りだす。

「うん。この大きいやつがね、みんなの寮で、こっちが、みんなの工場なんだ。村のみんな、大体は寮に住んで、この工場で働いているんだ。みんなで助け合って、毎日元気に働くよ。けど、この村には主人公がいて、主人公だけ、こっちの小さい家で、恋人と二人で暮らしてるんだ。あ、このプルタブが主人公で、このプルタブが主人公の恋人。こいつはね、みんなと同じ工場で働いてるんだけど、生まれが特殊でね。みんなと仲は悪くないんだけど、みんなとは別々に暮らしてる。はじめは一人で暮らしてたんだけど、いつだったか恋人ができたんだ。だから、それからはもう寂しくなかったよ。でも、二人で過ごせるのは夜だけ。朝が来たら働きに行かなきゃいけないから。ああ、かなしいなあ。だからそんなとき、わたしはこの工場を灰皿にするんだ」

 にとりは空き缶で出来た工場に、咥えていた煙草をぐりぐりと押し付けた。

「でもね、この工場には煙草の灰が必要だから。これも、わるいことではないんだよ。必要なこと」

 みんな、幸せになるといいですね。にとりが平常より深く酩酊していることを察した二人はにとりの頭を撫でながら言った。しかし、にとりは本気で嫌がって、触るな、と二人の腕を振り払う。酔っ払いとは難しいものである。

「椛の、その大きくて丸いのはなんですか」

「これは、地球ってやつですよ」

 三人は退屈だった。というのも、当然である。働きもせず酒を飲めば、必然、話題というのは底をつく。外で飲むのをやめたとすれば、かえって話題の消費は早まる。三人に残っていたのは、もはやくたくたに擦り倒されたデマイゴのみだった。三人は話題のなさに、仕方なく、デマイゴでの出来事を嘯く。すると、デマイゴでの常ならぬ、非日常な体験が僅かばかりに蘇る。そんな体験の残滓は、殊更三人の退屈さを助長させた。退屈さを埋めるよう刺激を求めて、酒の量ばかりが増えていき、気付けば、大量の空き缶に埋め尽くされた部屋があった。そうして、三人はそんな部屋を見つめては、おもむろに、工作に打ち込み始めたのだ。文とにとりはもはや、椛の部屋に住んでいた。たまに帰ることがあっても、それは、空き缶工作の材料を持ち込むための一時帰宅に他ならず、椛の部屋からは日がな一日、絶えず空き缶の、ガラガラとした音が響いた。

「へぇ、地球。……あ、そうだ。私、部屋からツリーの飾り付けをもってきますよ。もうずっと前に買ったやつを、何処かに仕舞っておいたんですよね、たしか」

「射命丸、ついでに酒を買ってきてくれよ。ほら、もう無くなりそうじゃないか」

「だめですよ、にとりさん。次の買い出しは文さんじゃなくてにとりさんじゃないですか。こういう決めごとを破るところから、堕落というのが始まるんです」

「やだよ。さむいもん。……みんなで行くんなら、考えてやらなくもないぞ」

 三人は流れる時間を忘れ、工作の日々にのめり込んだ。しかし、奇行から得た幸福な日常というのは、そんなに長くは続かない。隣室の、文と椛の同僚たちも、それを許さない。

 幸福というのはトカゲのようなもので、三人が得たのは、トカゲの切った尻尾だった。尻尾はすぐに乾燥して、干からびて、価値を見出すのも難しい、雑然とした塵の類へと成り下がる。

「お、もうこんなに積もってますよ。雪」

「さ、さむいよ。冬だからって、毎年降ることないのになぁ」

「雪が降ったら冬なんですよ、にとりさん」

 降り積もった雪に静まり返る世界の中、三人の笑い声がよく響いた。

 三人が今なお遠ざかり続けるトカゲの本体に気がつくには、きっと、時間がかかるに違いない。代わりといってはなんだが、三人の、その手に握り込んだそれが干からびるまで、それほどの時間は要さなかった。




三章はこれで終わりです
よかった


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四 Lost direction in the 飲酒
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四 Lost direction in the 飲酒

 

「え! クビですか!」

 白日。

 納期を超過し原稿を提出した文に、上司が言い渡したのは解雇通告、寮で日がな騒ぐ文の存在に感づいた同僚たちの密告により、文は即日クビとなった。退職金もその場で手渡され、同時に寮から出ていくように通告を受ける。

「で、でも部屋には家具とか、荷物とか……」

 聞けば部屋は既に片付けられているようで、次の入居者も決まっていた。家具や荷物は寮備え付けの倉庫にまとめられているらしく、住居が決まり次第受け取りに来るよう指示をされる。文はとりあえず大量の缶ビールを買い込んで、椛の部屋に帰ることにした。

「え! クビですか!」

 解雇通告を受けた際の文と同じ言葉を発音し、椛は笑い転げた。にとりにしても、腹を抱えて、酸欠の予感に身悶えをする。

「あは、あはは! ひえぇ、おもしろすぎる。さすが、射命丸はいいネタを持ってくるなあ! あははは! だめだ、止まんないや!」

 自身が部屋の床に創造した村が壊れていくのを気にもとめず、にとりは笑い転げる。椛も椛で、自身の創造した地球をばんばん叩きながら笑い続けていた。そんな二人に、文は少し不服そうに唇を尖らせつつも、とりわけて平静な態度で、缶ビールをビニールから取り出し、冷蔵庫へと仕舞っている。

「急に、急におもしろい話持ってこないでくださいよ、もう。文さんたら! はー、おもしろい。はー、それでこれからどうするんですか、文さん。あ、まずはお家探しですよね。寮だって、結局追い出されたみたいなものですし」

 息も絶え絶えに、椛が文に問いかける。にとりも文の今後の動向が気になるらしく、珍しく文のほうを向いて、その口が開くのを待ち望んだ。二人の視線を受ける文は、やおら缶ビールのプルタブを引き放って、ちびりと口をつけた。

「いやあ。なんというか。今後をどうこうっていうのは、そうですね。今はあんまり考えてない、というか。まぁ、上には内緒で、このまま椛の部屋に居座ればいいかな、みたいな。退職金もけっこう貰いましたし、しばらくはそういうこと、考えなくてもいいかな、的な。このツリーも、まだ未完成ですし」

 突然の解雇に文も流石にダメージを受けていた様子で、その語り口は訥々としていた。しかし、重要なのは語り口よりも内容である。文の放った言葉のすべてが、椛とにとりに衝撃を与えた。衝撃によって二人の胸中に浮かんだ感慨を言葉にしたなら、それは紛れもなく、「やべえな」の四字だった。ぐいっと勢いよく缶を空け、空き缶工作を再開する文を見、二人はゴミ掃除を開始した。

「あっ、二人とも! なにしてるんですか、もったいないじゃありませんか! せっかく作ったのに」

「ゴミ掃除だよゴミ掃除! 射命丸、お前のそれも捨てるからな!」

 い、いやですよ! にとりの言葉に、文は自作のツリーを守るように抱きかかえた。せっかくここまで作ったのに、とか、これにどれだけの時間とお金が、とか、狂人めいた言葉を吐きながら、文はツリーを処分せんとするにとりの手を防ぐ。

「文さん、もうやめましょう。ここですよ。変わるなら、ここです」

「椛さんまでどうしたんですか、急に! ふたりとも、ちょっと変ですよ!」

 椛が説得を試みるも、アルコールとニセ埋没費用効果に憑かれた文の耳はただの穴だった。文があんまり頑なにツリーを守るので、そのうち、二人はツリーの奪取を諦め、にとりは自身の身支度を始めて、椛は文の荷物をまとめ始めた。

「ちょ、ちょっと。椛さん、私の荷物をまとめて、どうしようってんですか。にとりさんまで、身支度始めちゃって。な、なんだか、もうお開きみたいな雰囲気が……」

「その通り。もうお開きだよ、射命丸。わたしは帰って真面目に働くとするよ。お前みたいにクビになっちゃ、かなわないからな」

「文さん、ごめんなさい。私もちょっと、真面目に働こうと思って……」

 椛は言いながら、まとめ終わった荷物を文に差し出す。文は空き缶のツリーを抱えたまま、愕然と立ち尽くした。

「じゃあ椛、わたしは帰るからさ。迷惑かけたね。……ほら射命丸。そんなゴミいつまでも抱えてないで、お前もとっとと出ていくことだな。それで、さっさと仕事をみつけてしまえよ。あんまり長居されちゃ、椛だって……まあいいや、それじゃ」

「ご、ゴミって」

 ふたりだって、あんなに夢中になってたはずなのに。文はアルコールに溺れた頭で、楽しかった日々を想った。しかし、二人の手腕により素早く解体、処分されたかつての村と地球は、今では数枚のゴミ袋に収まってしまっている。文はどうも、なにか判然としない気持ちで、抱えた空き缶のツリーとゴミ袋を交互にしてみつめていた。

「……じゃあ、荷物はとりあえず置いておきますね。私、今からもう、哨戒に行こうと思うんです」

「あっ、待って」

 文が不意に口を開いた。それは、文にとっても不意の言葉で、先に続く言葉は一つも思い浮かんでいなかった。椛がじっと二の句を待つので、文は必死に視線を動かして、言葉を探す。咄嗟に目についたのは、床に置かれた自身の荷物で、文は咄嗟に、それを拾い上げる。

「荷物、いいですよ。私も、帰りますから。ああ、帰る部屋はありませんが、とにかく、いいです。いやぁ、なんだか迷惑をおかけして……」

 口をついた言葉も、咄嗟に浮かんだ言葉だった。実際、これからどうするのか、何も浮かばないままに、文は玄関のドアノブを捻った。

「あ、文さん。お家が見つかるまではうちに居ていいですから! 見つからなかったら、帰ってきてくださいね。いつでも、開けておきますから!」

「あ、ありがとうございます。……それじゃあ」

 寮の階段を降る文の骨身に、冷たい風が染み込んだ。ああ、これからどうしよう。文の胸中は、その一言に満ちていた。

 それから、文は暫し里を徘徊して、ちょっとした広場のベンチに腰を落ち着けた。荷物をベンチに、空き缶のツリーをベンチの傍にもたれさせ、両手には、里で買ってしまった缶ビールが握られていた。

 広場の向こうでは子供たちがなにやら玉遊びをしていて、青空の下、子供たちの楽しそうな声がひどく響いた。文は未開封の缶を見つめ、黙考する。

 考えてみれば、当然のことだった。日がな椛の部屋で騒いだなら、寮に住む同僚たちがそれに気付かないわけがない。

 しかし文は、そんな、解雇となった直接的な要因よりも、自身のこれまでとこれからについて、漠然と思考を巡らせた。にとりと椛は、真面目に働くという。しれっと椛の部屋に戻って、いつもどおりに酒をやろうと考えなくもなかった文だったが、冷静になれば、それが、してはいけないことだとすぐにわかった。つまるところ、二人のところへは暫く行けない。となると、住居はどうしたものか。目下の指標としては、当面の住居の確保、それが重要である。しかし、二人のところへは行けないし、僅かばかりの退職金では、どうも。ああ、どうしたものか。

 不意に、文の足元になにかがぶつかった。視線を遣ると、そこには白と黒の球体があり、文の胸には、どことない感傷が滲んだ。

 ――すみませーん! ボールとってください!

 奇妙なオブジェクトを広場に持ち込んでは缶ビールを握りしめる大人に臆することのない少年の将来は有望だった。文はベンチに座ったまま、腰をうんと曲げてボールを拾い上げ、緩く投げ返す。二、三弾んで、心許なく転がるボールは無事、子供たちのもとにたどり着いた。

 ――ありがとうございます!

 文は、矢庭に缶ビールを開け放ち、中身を胃袋へ流し込んだ。ああ、もう、どうでもいいかも。そんな感じの、破れかぶれな感慨が、文の脳裏に、浮かんでいた。



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2

 一方、にとりと椛の日々は目まぐるしく流れた。久々の労働に目を回しているうちに、道の端で汚れていく初雪の上に、また新たな雪が覆いかぶさる。思いのほか姿を見せない文の様子がそろそろ気になりだした頃、二人は合った休日に集まって、酒をやるようになった。慰みのない労働には耐えきれない、というよりも、酒を楽しむために働くのだということを、二人はわかっていた。しかし、どうにも楽しめなかった。仕事を再開したにとりの部屋は整然とし、酒宴会場である椛の部屋にも、空き缶が溜まることはなかった。冬にしては、明るい陽射しが多かった。二人の部屋は小ざっぱりとして、白昼、平熱の風が吹き抜けて、カーテンを揺らす。休日の白球をその手に掴めば、二人はただただ、カーテンの挙動を追った。

 そうしてそれからは、そんな、小ざっぱりとした日々が、暫く続いた。

 休日、休日とは言ったものの、厳密に言えば、二人に休日は無い。椛の場合、それは非番で、にとりの場合は、毎日が平日にも休日にもなり得た。

 にとりの仕事は、河童たちの製品作製の工程を最適化する、マニュアルの作成、ないしは改訂だった。にとりの技師という肩書は伊達ではなく、工程の最適化は、全てにとり一人に任されていて、にとりはその業務の全てを自室で行ってもよい権利があった。しかし、河童たちの生産効率はにとりのやる気に左右されるのだから、それは重要な仕事である。だから、にとりが久々に新しいマニュアルを提出したときには、河童全員が喜んだ。やっと河城が戻ってきた! ヨッ、谷ガッパのにとり! みなが、にとりをもてはやした。にとりが耳にした噂によれば、自身があと少しサボり続けていたならば、代役が立てられていたという話だ。代役は後のことを考えて、経験の浅い、若い河童から選出される予定だったようだが、若く繊細な河童の中には、誰も、そんな大役を引き受けたがる者はいない。なのでますます、このところのにとりは持て囃されていた。

 以前のゴミ屋敷と比べて、ずっと整然とした部屋の中、にとりは機械を前に、ぼんやりとする。期待に応えよう、なんて、そんなやる気とは裏腹に、自身の心が空転しているのを、にとりは確かに感じていた。

 なんだかな。仕事も今ひとつ、身が入らない。そんな折、不意に玄関のチャイムが鳴る。

 あまりいい気分では無かった。最近、にとりはいろんな後輩と仲良くしていたが、なかでも一人、後輩よりも後輩らしい、あまりにも後輩然とした河童がいた。その河童はやたらめったらにとりを褒めた。にとりのことをこれでもか、というほどに褒め倒した。それは憧れと尊敬の入り混じった眼差しと一緒の色をした言葉で、悪い気がしないでもないにとりだったが、どうも、キラキラと輝く瞳を見ると、いたたまれない気分になってしまう。

 おおかた、そいつがまた、訪ねてきたのだろう。あまり浮かない心で、にとりは玄関の戸を開ける。

「あれ、椛じゃないか」

 少し照れたように、「どうも」とはにかんで、椛は玄関の戸をくぐった。

「にとりさん。お酒持ってきたんですよ、よかったらどうですか?」

「おお、いいね。ちょうど行き詰まってたとこだったから」

 二人は酒を飲んだ。冬の明るい陽射しは縁側から差し込んで、嘘っぽく部屋を照らしている。そろそろ寒くなってきたね、の一声で換気は終わって、縁側の大窓は閉じられる。それでも、窓の向こうの遠い空には、鈍白の陽が青空にまぎれて光るので、二人はそれを、何の気なしに眺め続けた。

「それにしても。いいの、椛。今日、非番じゃなかったよね」

「いいんですよ。どうせ、やることなんてなんにもないし」

空回りしているのは、椛も同じだった。やる気を出して足を踏み出せど、椛の仕事は、誰がいてもいなくても変わらない、やりがいのないものだった。やる気のあるなしに問わず、山中をぼーっと散歩しているなら、友人のところへ遊びにいってしまっても、なんら問題はない。誰も困らない。実際、椛の不在に気がつくものは少なかったし、気付いていたとしても、気にもとめない者ばかりだった。それは、なにも椛に限った話ではなく、誰も、哨戒という職務をまっとうにこなす者はいなかったのだ。

「最近、射命丸はどうしてるのかな。もっと、こう。すぐに訪ねてきてさ、いつもの調子で、くるもんだと思ってたんだけど」

 にとりは灰皿に灰を落としながら、「まぁ、忙しくしてたんだけどね」と続ける。

「ああ、そうだ。ちょっと考えたことがあってさ」

 にとりのそれは、酔った際によく出る言葉だったが、今回は然程酔っていない。前よりずっと落ち着いた口調や、煙草でわざとらしく身振り手振りをしないことから、椛にもそれがわかった。にとりは口元に烟草を構えつつ言う。

「前まではさ、仕事が嫌で、たまらなくて、毎日飲んでたわけだけど。最近じゃあ、何のために飲んでるのかよくわからないんだよね。仕事もそれほど嫌じゃないし、かと言って、打ち込めるほど楽しいかといえばそうじゃない。ああ、なんだろう。椛、わたしのいいたいこと、わかる?」

 椛はじっと、缶ビールを見つめて、うーん、と唸る。一寸の沈黙のあと、にとりはおもむろに口を開く。

「なんだかね。わたしもわかんないんだけどさ、まぁ。次は何を嫌いになれば、酒を楽しくやれるのか、って。そういう話だよ」

 そこまで言って、にとりが煙を吸い込むので、椛はなんとはなしに、煙草をくわえるにとりの横顔を眺めた。なんだか、随分と大人びた顔をしているな、椛の胸中に浮かんだのは、そんな感慨だった。

「にとりさん。なんだか、似合ってますね、煙草」

「あんまり、うれしくないなあ」

 それからは、静かな時間が流れた。

 日暮れ、椛はにとりの部屋をでて、家路を辿る。寮への家路は即ち職場への家路で、椛が考えるのは仕事と、自分のことだった。枯れ木と、土の混じった雪が、椛に変わらない冬を教えていた。

 山道は、目を瞑ってでも歩けるほどに、歩き慣れた道だ。いまこうして、本当に目を瞑っても、何にぶつかることもなく、歩き続けることが出来る。でも、それがなんになるというのだろう。あの二人は、きっと、仕事が嫌で、嫌でたまらなくて、お酒を飲んでいたのだろう。でも、私は。楽な仕事だし、隊のみんなのことも好きだ。だけど、楽しい仕事ではなかった。あの二人の仕事は、私のと違って、誰にでも出来る仕事ではないから、きっと、私なんかよりずっと、嫌で、嫌でたまらなくて、お酒を飲んだに違いない。

 下を向いて、腕を組んで、考え続ける。道なんかみえてやしなかったが、椛は岐路を曲がって、寮まで遠回りする道を選んだ。

 私は、何が嫌で、お酒を飲んでいたのだろう。

 三人の中で、椛は唯一酔えなかった。いくら飲んでも、素面でいた。二人と違い、現実的な問題を忘れ、個人の本質に根ざしたコンプレックスに執心することなど、出来なかった。二人と違い、椛には、忘れたいほどに嫌なことなど、なにもなかった。椛はそれが、たまらなく嫌だった。それでも、椛はやり甲斐のない仕事にしがみついた。しがみつけば、しがみつくほどに、自身の何もなさが浮き彫りになった。二人と遊んでいるときは楽しかった。けれど、一人になれば、よりいっそう、世界の破滅が恋しくなった。しかしそれでも、椛は自身の何もなさを浮き彫りにするだけの仕事も、缶ビールも、手放せないままでいる。

「あれ」

 椛は随分と、寮から離れてしまっていた。

 考えたところで結局、何が変わるわけでもない。仕事はやめられないし、二人ともずっと一緒にいたい。遠回りして、考えることこそ、遠回りで、寄り道だ。意味なんてないんだ。ああ、隕石でも、落ちればいいのに。

 椛は寂しく笑って、寮への帰路を急いだ。

 それから三人は、にとりと椛でさえも、集まることをしなくなった。文は結局、妙なプライドと捨て鉢の心で誰に頼ることもせず、里の、ちょっとした広場の主となり、にとりは仕事と空転を続けて、椛は何もせず、ぼんやりと破滅を待ち望む。そんな生活が、しばらく続く。




しばらく更新止まります
待ってくれてたら嬉しいけど


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五 このままじゃ帰れない!
1


   五 このままじゃ帰れない!

 

 さて、三人が各々悩んでいる間、その時間を埋める必要がある。そこで、時は遡り、三人がデマイゴから脱出した直後の話だ。

 三人が地底を出ると、外は紛れもなく朝だった。それは早朝で、薄暗くはあったが、それでも真冬の鈍い陽は、霧の向こうに確かに存在していた。戻りましょうか、そう口を開いたのは、やはり犬走椛だった。

「こんなに外が明るいと、寮につくまでに死んじゃいますよ」

 雑木林、地底への入り口である洞穴の前、文とにとりは腕を組んで、「たしかに」を発音する。

「でもそんなこと言ったってさ。わたし、もうへとへとだよ。戻ったところで、酒をやれるような体力はないし、それにきっと、お店だって閉まってる」

「それは、たしかにそうなんですけどね。でも、椛の言う通り、朝なんですよ。空の明るさも恐ろしいですけど、なにより今の時間は、みなが起きて働き始める時間なんです。そういう方々と鉢合わせになることが、私は一番恐ろしいですけどね」

 今度は、三人輪になって、腕を組み、唸る。

 ――このとき、三人は素面ではあったが、デマイゴでの出来事に疲弊していて、誰一人、まともに考える頭を持ったものはいなかった。加えて、髪はぼさぼさ、服はしわくちゃ、おまけにこいしから貰った“判子”で戯れたために、顔から首元付近にはキスマークが氾濫している。そんな姿で三人が各々の同僚と鉢合わせれば、一体どうなってしまうだろう。きっと殺される。

「――そうだ! とりあえず、今日は地底で眠りましょうよ。あそこは日雇労働者の天国で、たしか安宿が腐るほどあるとか。きっと宿で缶ビールぐらいは売ってるはずですから、それを飲んで、眠ってしまいましょうよ」

 文の提案に、二人は「そりゃあいい!」と声を上げた。はしゃぐための酒を飲める体力は無かったが、眠るための酒ならば、三人には未だ魅力的に思えた。

「そうと決まればさっそく戻ろう! ああ、なんだかワクワクしてきちゃった。お酒飲んでも眠れなかったらどうしようかなあ!」

「ふふ、大丈夫ですよにとりさん。これだけ疲れてるんですもん。きっと、一杯で寝ちゃいますよ」

 椛が嗜めてもにとりの気持ちが鎮まることはなかった。にとりの大脳辺縁系は睡眠不足が剰ってぐるぐるに空転していたのだ。それは、他の二人にも言えることだが、真っ先に所謂深夜テンションに突入したのはにとりだったというわけだ。

「歌をうたっていこうよ、歌を!」

 にとりの提案にあまり乗り気になれない二人だったが、歌い始めればたちまち例のテンションに突入した。林では鳥や虫達が起床して、朗らかに日の始まりを歌っていたが、三人が選んだのは、日の終りの歌だった。鳥や虫たちは目を丸くして、再度洞穴へ潜ってゆく三人を見送った。

 

 夕空はれて 秋風吹き

 月影落ちて 鈴虫鳴く

 思えば通し 故郷の空

 ああ わが父母 いかにおわす

 

 澄みゆく水に 秋萩垂れ

 玉なす露は 芒に満つ

 思えば似たり 故郷の野辺

 ああ わが兄弟 たれと遊ぶ

 

 三人の言語中枢は疲労に焼き切れそうになりながらも、なんとか地底までもった。とすれば、明けの地底には「故郷の空」が響き渡る。朝だってのになんて歌をうたいやがる。あいつら昨日も来てたぞ。嫌がらせみたいなやつらだ。地底の住民達は怪訝そうに一瞥をくれ、通り過ぎていったが、三人がそれに気がつくことはない。三人の視覚と聴覚は生きていたが、他は死んでいたため、既に目は節穴に、耳はただの穴と化していたのである。

「あー、ここまで来ればあと少しですよ。たしか、繁華街を抜けて、ちょっとした裏道に入れば、宿はごろごろ転がってるとかなんとか」

 三人はほぼ無意識に道を折れ、適当な裏路地を徘徊した。そのうちに宿の看板を見つけたが、その路地はどうも、三人にとって見覚えのある路地だった。

「お、宿だって。宿の看板があるよ。ほら」

「やっと見つかりましたか。随分歩きましたね」

「そうでもないですよ。それよりお二人とも、このお店って……」

 椛が指した指の先にはボロい面構えの店があり、その店の大きな木製の看板には「胎」という文字が達筆に踊っていた。

「うわ! この宿、デマイゴの隣じゃないか!」

「ちょっと、嫌ですね。ほかを探しますか?」

 文が提案をするも、みな渋い顔をする。三人が考えあぐねていると、不意に、椛がなにかに気付いた。

「……なにか聴こえませんか」

 耳を澄ませば、物音があった。それは間違いなくデマイゴから響いてくる音で、デマイゴから響くというだけで、三人にとってそれは怪音他ならなかった。

 それはどたどたや、ばたばたといった音色と似て、きっと何者かが、のたうつ音だった。

「なんだろうね」

「……ちょっと、確かめてみましょうか」

 三人は恐る恐るに、デマイゴの扉へと近づく。すると、入り口に声が漏れてきた。

 ――……ぼれ……る……お……れる……!

 扉から漏れる声に恐怖する三人だったが、それでも気になって、どうしようもなく気になって、扉を開けて、声と物音の正体を確かめたかった。とすれば、無言のじゃんけんは必然で、文と椛はグーを出し、にとりはチョキを出す。にとりは口内に舌打ちを溶かして、ゆっくりと、僅かに扉を開けた。

「ああ、これはみないほうがいいね」

 僅かに開いた隙間はにとりに独占され、他の二人はやきもきした。加えて、意味深な「みないほうがいい」である。文と椛がそれを堪えられるはずもなく、僅かな隙間は二人の手により解放され、音の正体が三人の視界に現れた。

「お、溺れる、溺れる! 溺れてしまうよぉ!」

 そこには、床の上をのたうつ女の姿があった。女は苦しそうに顔を歪めて、全身をがむしゃらに動かしては、酸素を求めている様子だった。

 ああ、見なければよかった! 三人がそう思ったのには二、三の理由があった。まず、そこにあるのは何の変哲もない床と壁、実況席のようなテーブルと、その上に置かれた「胎」の空き缶。溺れると悶え苦しむ女の言葉を肯定する材料である水は、どこにも見当たらなかった。続いて、女の容姿だ。女はなにやら“セーラー”を纏っていて、場末の色街の感と相まって、セーラーを着た女の苦悶の空間は、三人に、なにかそういった変態的な行為を彷彿とさせた。こいしのいないことから、これは放置等に類したそういうアレなのではないか。三人は無意識下で想像しては、顔を赤らめる。しかし、三人には女が幻覚を見ているであろうことも察していた。席の上の缶、そのプルタブは開け放たれて、中身の無いことをありありと語っている。三人は女の、ある種の滑稽さに、自分たちの姿を重ねていたのだ。

 ああ、自分たちも、こんなふうだったに違いない。

 思い出されたのは数刻前の、こいしの言葉だった。

 ――『おつかれさまでした! 途中からだけど、おにいさんたちのこと、ちゃんと見てたよー』

 ――三人は湧き上がる羞恥にピリオドを打つように、勢いよく、扉を閉めた。バン! という音と同時に、扉の向こうから悲鳴が響いたが、三人はそれを聞かなかったことにして、扉から離れた。

「宿に、行きましょうか」

「そうだね」

 



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2

 恥ずかしさから逃げるよう宿に駆け込むと、受付にはこいしの姿があった。ああ、この子に全部見られていた。あの、セーラーの女のような醜態を、全部! 三人は脳髄に翡翠の色とも浅葱の色ともつかぬ衝撃に卒倒してしまいそうだったが、こいしがそれを許さなかった。

「あれ? おにいさんたち戻ってきたの? てっきり、帰ったものだとばかり思ってたのに」

 文とにとりは醜態の観測者の出現に脳をかき乱され応対どころの話ではなかったが、椛は違った。椛はこういうときに居直れる強さがあった。

「ここ、宿ですよね。一泊したいんですけど、三人。今から泊まれますか」

「うん、いいよ」

 文とにとりは仰天した。二人は羞恥から逃れるためならば、また、どこにあるとも知れない宿を探すことを厭わない所存でいたのだ。それをこの白狼天狗は! しかし、ここで日和ってしまってはメンツが立たないと、二人は椛に負けじと言葉を紡いだ。あのとき慌ててましたよね、焦ってましたよね。二人は、友人にいつかその言葉を吐かれることを嫌ったのだ。

「あ、ああ。こいしちゃんじゃないですか。さっきぶりですね。い、いやあ、宿なんかもやってらっしゃるとは、手広いですねぇ。さすが、さすが……なんでしょうね」

「えへへ、そうでもないよ」

 当たり障りのない文の言葉は、友人たちに対し、自分は平静であることをアピールするための言葉としては及第点だった。

「あ、ああ! そういやさっき、デマイゴで、床をのたうってる女のひとを見たんだけど。も、もしかして、わ、わたしたちもあんなふうだったのかな」

「うん、あんなふうだったよ」

 ああこの河童は! なんてことを聞いてくれるんだ! にとりの場合は大失敗、赤点もいいとこだった。にとりのそれが、紛れもなく羞恥を引きずっての発言であることを二人は察した。そして、こいしの肯定は平静へと這い上がらんとする三人を再び羞恥の渦へ引きずり下ろした。

「部屋は別々がいい? うちは一部屋にみんな入れちゃっても問題ないんだけど、どうする?」

 ――あ、ええと。……一緒でお願いします。

 通常、こんなに恥ずかしくては各々別の部屋に宿泊するのが常軌というものだが、三人はそれをしなかった。三人はこのあとに“おわりの会”を控えていて、今日の出来事や現在の恥ずかしさを、その際の肴として消化しようと考えていた。つまるところ、受付の横に陳列された缶ビールが、三人を繋ぎ止めたのだ。

「はい、じゃあこれ。部屋の鍵ね」

「ありがとうございます。あの、あと、そこのビールを買いたいんですけどね」

「いいよ。何本にする?」

 鍵を受け取った文は二人に向き直って、「どうしますか?」を発音する。暫しごにょごにょと話し合って、文は再びこいしに向き直る。

「ワンケースおねがいします」

「え! ワンケース! ……まあ、いっか。こいし、何も言わない。じゃあ、ちょっと待っててね、ケースごと持ってきちゃうから」

 三人はケースを受け取るが早いか部屋に入って、缶の一本を空けた。部屋は畳約三畳ほどの広さで、小さなテーブルが一つ置かれていた。端のほうに布団が一組たたまれていたが、気にも留めずに、三人は二本目を開ける。ワンケース、即ち一人八本の至福は、三人の脳皺一本一本に染み渡った。

「あー、これだけ疲れて飲むお酒ほど、美味しいものはありませんね」

「ほんとほんと! それにしても疲れたよ、今日は。いろいろあったよね、ほんとに、いろいろ」

「ゴミ捨て場で起きて、里の広場で飲んで、地底に下りて、映画館で飲んで、お店で飲んで、こいしちゃんと会って……ああ、あそこの出来事も、今思えば、ちょっと楽しかったかも」

 回想する椛に、文とにとりは「そんなわけ!」と嘯いて笑った。それからというもの、三人は狭い部屋で、昨日起きてからの出来事を和やかに消化することに努めた。その日の出来事をその日のうちに、肴にして、消化する時間が、陽光から逃げ続ける三人にとっての至福だった。

 ――でもやっぱり、こいしちゃんは――たぶん、わたしのことを一番――。

 ――いや、私の欲求が――きっと彼女は――母性愛ってやつが――。

 ――そんなことより――彼女の――無料よりこわいものって――。

 ――危険思想――わたしね、ちょっと考えたんだけど――椛――危険思想――。

 ――。――――。

 三人の酔宴は、三人が眠りに落ちるまで続いた。

 と、結べればよかったのだが、そうはいかなかった。部屋には既に二十を超える空き缶が散乱しており、三人は銘々、目をギラつかせて、最後の一本に口をつけていた。

「だいたい、なんで私達があんな目に遭わなきゃいけないんですか。あのセーラー服の女の人みたいな姿を、どうして他人に見られなきゃいけないんですか! しかも、自分のコンプレックスの打ち明けまでさせられて、災難ったらないですよ。なんだかもう、苛々してしまって仕方ありませんよ、私は」

「ほんとだよ! こいしちゃんはかわいいけど、残酷だよな。残酷。目的が見えないもの! なんのために他人の醜態を眺めるような生業に手を染めてるわけさ、しかも、無料で! 考えれば考えるほど、あの子の性格が捻じくれて見えるよ。もう、いやだ、わたしは」

「許せませんね」

 疲弊した三人の身体に、悪い酒が入った! 一、二杯で眠りにつければよかったものを、初め、一杯、二杯、三杯と、殆ど一瞬で飲み乾した所為で、酒が眠気を呼び寄せることはなく、逆に、三人の大脳辺縁系を覚醒させたのだ。文、にとり、椛と一巡して、再度文が口を開く。

「今度、はたてを連れてきましょうよ。それで、私たちは「胎」の缶ビールを飲まずに、はたての醜態を眺めるんです。どうですか、面白そうだとは思いませんか」

「射命丸、おまえは天才だよ。あの人を人柱に立てることによって、わたしたちの羞恥を薄めようって、そういう腹積もりだな。射命丸、おまえは天才だよ!」

「私は、基本的に、文さんには常に、黙っててほしいと考えてるんですけど。でもやっぱり、ここまで一緒にいてよかったです。やっぱり、文さんは、ひと味ちがう」

 そうと決まれば! と文が口を切る。曰く、はたてを辱める計画の実行は明日で、明日のために今日は眠って、英気を養おうという話だった。にとりもそれがいいやと同調したが、椛は違った。椛の口から放たれた、訥々とした語り口を予感させる「でも」は空き缶だらけの空間に浮いて、場を支配した。

「でも。……なんでしょう、私、どうも目が冴えちゃって。お酒の所為で、逆に、目が冴えちゃって。……つまり、眠れないと思うんですよ。実際、こんなに盛り上がった気分のままでは」

 二人はハッとして、腕を組み、「たしかに」を発声する。

「うーん。そんなこといったってさ。みんな、疲れてるのはたしかだろう? もう今日の出来事も消化し終わったし、これ以上起きてたって、仕方ないから、眠ってしまうほかないと思うんだけどな。わたしは」

「それは、そうなんですけどね。しかし、椛の言うこともわかるんですよ。たしかに今、気分は盛り上がってて、とてもじゃないけど、このまま眠れるような状態ではありませんし。なにより、明日の計画が楽しみすぎて、もう、ワクワクしちゃって。余計に、眠れませんよね」

 三人はやおら唸りをあげて、考え込んだ。三人の心にはなにか、焦燥があった。それは言うなれば、“宿題やってないのに眠る”的焦燥だった。紛れもなく疲労と酒がもたらした偽の焦燥ではあったが、自分の心に気が付いてしまった文の口切りを止める者はいない。

「わかってしまいましたよ、私! この眠いのに眠れない状態の原因が! 要するにこれは、宿題をやっていないのに眠る、的な焦燥なんですよ。そりゃ、眠れるはずがありません。だって、やり残しがあるんですから!」

 にとりと椛は「天才、天才」と手を叩いて、文に称揚の拍手を送った。

「そうと決まればさっそく行こうよ! あ、でも……。わたし、あの人とあんまり仲良くないから、なんだろう。どうしようかな」

「……そういえば、私も。はたてさんは、文さんのご友人ですもんね。私たちが誘ったら、不審に思われるかも……」

 にとりと椛にとって、はたては友人の友人だった。今更になって怖気づく二人に対して、文は朗らかに口を開く。

「任せてくださいよ! 二人はデマイゴの前で待っててください。すぐに連れてきてやりますから!」

 言うが早いか、文はバタバタと部屋を飛び出していった。取り残された二人は、「やっぱりあいつ、頼りになるな」と感心して、残った酒に口をつける。

 それから、二時間ほどが経過した。部屋は通り沿いに窓が付いていたので、二人は何度か窓の外を見やったが、未だ、文の姿は見えないままでいた。

「あいつ、手間取ってるみたいだな。ふぁーぁ。わたし、眠くなってきちゃったよ」

「ええ、私も。それに、なんだかどうでもよくなってきました」

 寝よっか、という軽薄な一声を同時に発して、二人は床についた。一組の布団は二人で眠るのにちょうどいい大きさだった。

「射命丸が出ていってくれてよかったね」

「ええ。……あっ、にとりさん。いま思い出しました」

「何を?」

「とりわさって、鳥肉ですよ」

「ああ……」

 そうして、二人は眠った。

 一方、文は職場の、会議室前の長椅子に座り、腕を組んでは、ひたすらに貧乏揺すりをしていた。寮に戻りはたてにはすぐ会えた文だったが、その後が辛辣だった。会話を再現するなら、こうだ。

 ――うわ、文。なによその顔。どこで遊んできたらそんなふうになるわけ。

 ――はたてさん、ちょっといいお店を見つけたんですよ。行きませんか、今から。

 ――なに言ってんのよ、これから会議なの。行くにしても、会議が終わってからでいい? すぐに終わるとは思うけど。

 ――待ちますよ。

 会議はすぐには終わらなかった。会議室前、通路には既に夕暮れが差し込んで、通路に舞う埃を感傷的な橙で照らしている。文は腕を組み、寝不足の目を血走らせて、はたてを待った。あともう少しで終わるだろう、あともう少しで終わるだろうと繰り返し、気付けば夕暮れていたので、文はもう引き返せなかった。だから、ひたすらに待った。

 ……。…………。

「なによこの店。閉まってるじゃない。それに、なんだかいかがわしい感じがするし。どうせならもう少しまともな店に連れてきて欲しかったわ。それじゃあね」

 路地の向こう、繁華街は再び色めいて、猥雑で、無秩序な、騒がしい喧騒が跋扈していた。文とはたての立つ路地は裏路地然として物静かなものだったが、はたてはつまらなさそうな面持ちで路地を出て、通りの人混みに帰っていった。取り残された文はもはや、疲労が剰り、無意識のみで動いていた。やけに鮮明な視覚を操作して、文はきょろきょろと、にとりと椛の姿を探す。当然、二人は眠っているので、見つかるはずがない。文はそうそうに諦めて、宿に戻り、眠ってしまおうと脚を動かした。

 宿に入り、受付を見やる。こいしも、どこかに行ってしまっている。だからといって、何の感慨を浮かべることもなく、文はそのまま部屋へと歩く。部屋の戸を開けた瞬間に、文は、にとりと椛の、健やかな寝息と寝顔を知覚した。しかし、だからといって、何の感慨を浮かべることもなく。文はそのまま、二人の間に体をねじ込んでは、その空間に、無意識下で母の胎内を察し、眠った。

目を覚ました二人は酒を飲んで文の起きるのを待ち、文も目を覚ましたら酒をやった。二人が反故を文に謝罪することはなかったが、文も二人を恨むことはしなかった。つまるところ、三人はやはり“三人”で、諍いはあれど軋轢はなかった。しかし現在、そんな三人が疎遠になっている。それを気にするのは当人たち程度なものと思っていたが、どうやらそうではないらしい。要するに、そろそろなにか、現在の三人にも進展があったようだ。目を覚ました三人の話にはまだ続きがあったのだが、それはまた、別の機会となる。

 



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六 de 迷子
1


 

 

   六 de 迷子

 

 

 

「どうしたのよ三人とも、らしくないじゃない! ほら飲みなさい、飲みなさいよ。飲まんかい!」

 酔った姫海棠はたての酌は、即ち暴君の酌。テーブルの上に煮える鍋を中心に、射命丸文、犬走椛、河城にとりの三人は、萎縮していた。

 姫海棠はたてがこの“仲直りの会”を企画したきっかけは、射命丸文の存在だった。はたては里へ生活用品やなんやを買い出しに行った際、或る噂を聞きつけたのだ。曰く、「向こうのちょっとした広場に主がいる」。興味本位でちょっとした広場に赴くと、そこには少年たちとちょっとした賭けに勤しむ文の姿があった。賭けの内容は“時間内に卵を立たせられたら十円。一回五円”というみみっちいもので、はたてはすぐに文を広場から連れ出した。はたてが事情を聞くと文は泣きながら「二人が冷たいんです」と語り、これは重症だと判断し企画したのがこの“仲直りの会”である。

 しかし実際のところ、文が泣いたのは久々に友人と会話が出来た喜びからであり、二人に冷たくされたのが悲しかったわけではない。加えて、文は二人に冷たくされたなどと思ってすらいなかった。はたてに優しくされたのが思いの外嬉しく、泣いてしまい、焦って捻り出した言葉が「二人に冷たくされた」の一言だったのだ。

 要するに、文はあまりこういった会合を望んではいなかった。二人には二人の生活、仕事があって、自分はその日常を阻害すべきではないと、少々卑屈になって考えていた。しかし実際、実現してしまった仲直りの会は、文、にとり、椛の三人に、克明に、気まずさを与えた。文に対し幾許かの申し訳無さを抱えていたにとりと椛が多少緊張しながら会に出向くと、そこには物言わぬ文の姿があった。文は友人たちとの久々の再開が嬉しいのと、緊張するのと、気まずいのとで、二人と会っても、何も言えなかったのだ。とすれば、にとりと椛はもっと気まずくなった。やっぱり、怒ってるのかな。ちょっとは、優しくしてやればよかったかな。気まずい空気の中、飲み慣れていないはたてはえげつないピッチで酒をやった。よって生まれたのが、暴君と、暴君に傅く三人組、という構図である。

「だいたい、クビになったぐらいでなによ。え、文! なに、クビになったら人生終わりなの。違うでしょ、断じて」

「いやあ、仰る通りで……」

 はじめこそ、喋らない三人の会話を取り持つべく努めていたはたてだったが、如何せん、飲み方を知らなかった。あんたら、好きでしょ。と用意した酒は思いのほか口当たりがよく、場の妙な雰囲気とその口当たりの良さから、三人がちびりと口を一度つける度に、はたては一杯やってしまった。何より、はたての性質がそういった鯨飲の一因を担ったことは言うまでもない。はたてはもともと酔い易い性質もあって、所謂“一杯飲むと止まれないタイプ”の酔っぱらいだった。

 ――文に聞いたわ。喧嘩したんだって?

 ――まあ、私に任せておきなさいって。これでも文とは長い付き合いだし、きっと仲直りさせてあげるわよ。

 ――……あんたらがおとなしいと、私まで、なんだか調子でないのよね。

 いまやはたての良心は死に絶え、酔っぱらいを酔っ払いたらしめるだめな部分のみが生きさらばえて、三人を苦しめ続ける。

「こら、そっちの二人も! そっちの二人も悪いのよ、ほんと。ちょっと前までは二人とも、おとなしくていい子だったのに、文に引っ張られて酒浸りになってから、どうもよくないわ。意思が弱いのよ、意思が」

「お、お恥ずかしい限りで……」

 椛は気まずそうに答えた。

 辛辣なのはにとりだった。文や椛がはたての暴力と似た言葉に頬を掻くのを見ると、なんだか、悲しくて、悔しくてたまらなかった。

 ――あらにとりじゃない。あ、椛まで。二人とも、今日は休み? そっか。いいわね、休日に友達と遊んで息抜きだなんて、健全で。え、私? いいのよ、気を使って誘ってくれなくても。にとりが人見知りなのは知ってるし、それになにより仕事だし。いいの、ほんと、気にしないで。それじゃあね、良い休日を。

 普段は、あんなにも善良なのに。酒を飲んだからといって、こうも辛辣な急変が許されていいのだろうか。いや、よくない。許されない。

「はたて! ……さん! ちょっと言わせてもらうけどさー!」

 にとりが堪えきれずに口を切ると、文が慌てて遮った。

「あ、あー! なんだか具合が悪くなりました、急に! ちょっと風に当たりたいと思うのですが、誰かついてきてくれやしませんかねえ! ねえ、にとりさん!」

 文はにとりの手を引いて、廊下を抜け、玄関の戸を開けた。

 冬らしく冷たい風が、ストーブと不協和な酔宴に火照った二人の身体をすり抜ける。 「……わかってるよ、射命丸。はたて、さんは酔ってるだけで、普段はいい人だって」

「やあ、その、なんというか。どうも、すみませんね。やっぱり、発端は私ですから……」

「いいよ。……わたしこそ、悪かったよ。最近、ちょっと冷たくしちゃってさ。……実はね、わたしも一昨日、クビになったんだ」

「え、それは、その。なんと言ったらいいか……」

 いいよいいよ、笑ってよ。にとりははにかんで、遠い空に視線を投げる。文も困ったように笑いながら、にとりと同じ様にした。二人の視界に映る冬の空は、紺色に冷たく、多い雲が広大さを語っていた。

 にとりは二日前のことを思い出す。改訂したマニュアルを提出した次の日のことだった。不如意な空転の日々から生まれたそのマニュアルの出来は酷いもので、誰がみても手抜き仕事と判ってしまうほどに滅茶苦茶だった。当然、河童達はそのマニュアルに騒ぎ立てる。各所から、にとりに対する幻滅や失望の声が響いたが、もちろん擁護する声もあり、中でもいっとうにとりを擁護したのは例の後輩河童だった。にとりさん、風邪でもひいたんすか。それとも、天才特有のスランプってやつですか。後輩の河童はにとりを気遣うように、また、心配するように、にとりに対し声をかけた。しかし、にとりの口から出たのは軽薄な言葉だった。

――別に。スランプとかそんなんじゃないよ。おもしろくなかっただけ。元々ね、好きでやってるわけじゃないんだもん。河童に生まれて、なんとなく得意だったから、こうなっただけでさ。

 その言葉はにとりが空転の果てに頃に導き出した答えだったが、真実ではない。夜明け前に見つけ出した答えは信じてはいけないという諺が何処かの国にあり、幻想郷に生きるにとりがそれを知るはずもなく、やはり、にとりがその答えを見つけ出したのは夜明け前だった。

 にとりの放った言葉が真実であれどうであれ、それは後輩河童を幻滅させるには十分な言葉だった。工場の通路、気まずい沈黙の中、自分の吐いた言葉に居た堪れなくなったにとりが視線を泳がせると、まずい人物と目があった。その日はちょうど、山のお上が工場の視察に来ていたのだ。にとりの属する河童の組織なぞ、結局のところは山の下請けのようなもので、いくらにとりが河童の組織で重要なポジションを担っていたとしても、お上連中には関係のない話だった。

 にとりの言葉を聞いた山の天狗は、顔をしかめ、腕を組み、右手人差し指で二の腕をとんとんと叩いては、目を細め、にとりの顔をじっと見つめる。

 それが、まずかった。不如意な空転の日々に伴う破滅願望めいた破壊の衝動と、みなの期待を裏切ってしまった無力感と、自分を慕ってくれた後輩を幻滅させてしまった自身のどうしようもなさの果てに、天狗の“言葉次第では許してやらんこともない”的目つきをみてしまったにとりは、もう破れなかぶれな気分になった。

 ――やい! なんだよ、偉そうに睨みつけやがって! いいよ、わかってるさ。言われる前にこっちが言ってやる。こんな仕事、やめてやるよ! やめてやるからさー!

 吐き捨てて去っていくにとりの背中を、場に残された後輩河童と天狗は唖然とした面持ちで見つめていた。後輩河童の受けたショックは言わずもがな、しかし、天狗も同等に驚いていた。それもそのはず、お上にとって下請けの一個人などもはや個人ではない、ではないが、その天狗はにとりのことを知っていた。にとりがどれほど優秀で、みなから慕われているかを知っていたのだ。そのにとりがスランプというから視察を兼ねて来てみれば、にとりがらしくもなく愚痴を吐いており、なんと声をかけたらいいものかと、腕を組み考えていたら、あの台詞である。天狗は、それはもう驚いた。

 しかし、そんな天狗の心を知らずに、にとりは今もこうして、はたての部屋の玄関前、手すりを掴んで空を眺める。

「あー。私もさ、戻ったら飲んじゃおうかな。酔えばさ、どうせ楽しいし」

「それがいいかもしれませんね。私もそうしようかな」

「じゃあ、戻ろっか。いつまでも椛一人にしてたら、かわいそうだし」

「どうでしょうね。はたてさん、ああなったらすぐに寝ちゃいますから。戻ったらもう眠ってたりして」

 かもね、と嘯いて、にとりは玄関の扉を開けた。



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2

 ……。

 

「あたし、やっぱり、怒らせちゃったかなあ。にとりのこと」

「大丈夫ですよ。にとりさん、八つ当たり以外でひとに怒ったりしないんです。きっと、仕事とかで、なにか嫌なことがあっただけだと思います」

 一方、文とにとりが玄関前で話している間、椛はしゅんとしたはたてを慰めていた。ストーブはときたま不健康そうに埃を吐いて、鍋は炬燵の上でグツグツと煮え立っている。

「違うのよ、あたし。こんな、ああ、ちょっと飲みすぎちゃったな」

「わかってます、大丈夫ですよ。はたてさんが飲みすぎるのはいつものことですから。みんな、きっとわかってます」

 椛は話しながら猪口をちびちびとやっていたが、やはり酔えないままでいた。

「あたしね、みんなに、三人にね。仲直りして、元気になって、また、昔みたいに頑張ってほしかっただけなの。ほんとよ。こんな、こんなつもりじゃあ……」

 はたてはそのまま寝息を立て始めた。はたてのやさしい善良さも、酔った際のどうしようもなさも、しっかりと理解していた椛だったが、どうしても、はたての言葉が響くことはなかった。なんだか、自身がはたての計らいで久々に二人と会って、飲んでいる、という実感が、どうしても湧かなかった。山でぼんやりと散歩しているのと、地続きな感じがした。はたての用意したそこそこに値の張る酒や肉を啄んでも、なんだか味がわからなかった。そんな折、二人が戻ってきたようで、廊下の向こう、玄関の扉の開く音がする。そのまま足音が近づいて、リビングの戸が開け放たれる。

「ごめんごめん。……あっ。射命丸の言ったとおりだ。はたてさん、寝ちゃってるよ」

「やっぱりですね。そろそろ頃合いかなと思ってはいましたが」

 にとりの「布団どこだっけ」に、文は「廊下出てすぐ右」と返す。勝手知ったる他人の家とは、よく言ったものである。文はそのまま炬燵に入って、自身の皿と、にとりの皿に鍋をよそった。椛は自身の皿から既によそってある野菜を咀嚼して、はたてのため、炬燵の横に布団を敷くにとりを待った。

 にとりははたてを炬燵からずるずると引っ張り出して、布団に寝かせ、その後ようやく、炬燵に脚を潜り込ませた。

 みなのお猪口に酒を注ぎ終えた文が、おずおずと口を開く。

「じゃあ、乾杯しましょうか」

「うん、そうしよっか。なんだか、はたてさんに申し訳ない気もするけど」

「そうですね。ふふ、でも、仕方ないですよ」

 乾杯、と猪口を掲げて、三人はぐっと、猪口の中身を飲み乾した。そうして生まれた沈黙の輪郭を、煮立つ鍋の音が粛々と縁取る。

「いやあ、なんというか」

 気まずそうに口を切ったのは文だった。にとりも椛も、文の言わんとするところがわかった。三人は今になってようやく、ほんとうに、久々に再会したような気持ちになったのだ。

「どうだ、射命丸。わたしたちに会えて嬉しいだろう。あのときは随分と冷たくしてやったからな」

「文さん、はたてさんに聞きましたよ。公園で暮らしてたらしいですね。お風呂とかどうされてたんですか」

 ええと、なんというか。歯切れ悪く、文が言う。

「里の、大衆浴場を、使ってましたね。はい……」

 ああ、妥当だな、普通だな、と、にとりが鍋をつつきながら相槌を打つ。椛も椛で、次から次へと絶えることなく、文に質問を繰り出した。文も質問の度にええと、と、どこか乗り切れない様子で口を動かす。

 そんな時間がしばらく続いたが、やはり盛り上がるはずもなく。三人は諦めたように鍋に蓋をして、口を閉ざした。誰かが目盛りを切に合わせると、煮立つ鍋は静まって、場ははたての穏やかな寝息に支配された。

 二人に会えたのは嬉しいけれど、なんだか二人とも、元気がない。それに、再就職の目処だって、結局ない。なにより、やっぱりなんだか、なにもどうだっていいように思える。

 文は未だに、クビになったあの日、椛の家を出たときの気持ちのままでいた。

 にとりにしても、頭の中は辞めた仕事のことばかりで、聞くところによると、自分の後釜が決まったらしく、そこに据えられたのはあの後輩河童という話だった。ああ、わたしは、きっと恨まれているに違いない。考えるのは、そればかりだった。

 椛は気分の乗らない様子の二人を見、二人がなにか悩んでいることを察する。二人はきっと、仕事とか、そういうことで悩んでいるに違いない。それに比べて自分は、悩むような仕事もなければ、甘えたかったり、背の低さを厭ったり、そういった二人のようなコンプレックスすら、自分の中に見当たらない。私には、本当になにもないんだ。と、やや卑屈になって、白けてしまっていた。それを自覚しないわけでもないので、余計に、椛の気分はさめざめとした。

 長い沈黙を打ち破ったのは、三つの大きなため息だった。どうも、だめだ。みな、そんな感慨がそれぞれの胸に渦巻いていることを、瞬時に悟った。

「いやあ、どうも、ダメですね。なんというか、おもしろくない。こんなに良いお酒と鍋をただでやれるというのに、なんとも、乗り切れないでいますね、私は」

「わたしも。なんだかな。どうしても、楽しめない。久々に三人で、ああ、それとはたてさんと飲めるっていうのに、ぜんぜん。なんだかつまんないよ」

「私は、その。お二人と会えたのは嬉しいんですけど。ええと、なんというか。……はい、私もあんまり、よくない気分です。……あはは、どうしたら、いいんでしょうね……」

 椛の言葉に、二人は腕を組んで考える。腕を組み悩む二人を、椛は申し訳なさそうに見つめるのみでいた。しかし、いくら二人が考えても、部屋にははたての寝息が響くのみで、いつものように、誰かが名案を叫ぶことはない。にとりは諦めたように、組んだ腕を解き放って、そのまま仰向けに倒れ込んだ。

「あーあ。だめだ、なんにも思い付かないや……ほんと、どうしたらいいんだろうね。わたしたち」

 文は諦めたように、ですね、と嘯くのみだったが、椛は違った。椛は、にとりの放った“わたしたち”の部分が、どうにも嬉しくなった。それはそれで、諦めに似た気持だったかもしれないが、とにかく、椛は腕を組んで唸った。

「お、椛がまだ考えてくれてますよ。にとりさん」

「ほんとだ。頑張れ椛、なにか名案を出してくれ」

 出たか! まだか! いや、出たか! おっとまだ出ない! 二人は徐々に悪乗りを始めたが、それでも、椛は必死に頭を捻った。

「さあゼッケン一番、椛選手考えております。にとりさん、雰囲気いかがでしょうか」

「とても力強く考えていると思いますよ。というのは椛選手目を瞑っております。加えて眉も潜めているというのは、実に印象が深いですね」

「ありがとうございます。さあ引き続き、椛選手頭を捻っております。ゼッケン二番三番と大きく差を広げていますね。いい雰囲気です。うーんうーんと唸っては、おっと、ここで息継ぎが入りました。さて引き続いて唸りをあげます。うーん、うーん」

 にとりが文のそれっぽさに苦笑していると、椛があっ! と声をあげた。

「おっとぉ! ここにきてようやく何かを思いついたようです! さて次の問題はどのように口を切るかといったところですが果たして――」

「だまれよ射命丸。ひとの話は黙って聴くもんだぞ」

 勝手に盛り上がる文が止まることはなかった。にとりが肩をすくめて首を降り、椛に開口を促す。椛は文の矢継ぎ早に紡がれる無意味な言葉の数々に開口のタイミングをしばらく図って、そのうちにあきらめ、少し大きな声で話し始めた。

 ――切るか、切るか! 口を、いま切るか! 切ったぁ!

「こいしちゃんのお店に、あの、デマイゴに行ってみるというのは、どうでしょうか。あそこは、酔ったときの欲求を具現化する場所という話でしたよね。いま、私達はお酒を飲んだから、酔えてないけど、酔ってはいるはずなんです。みんな、どうしたらいいかわからないけど、きっと、何かはしたいはずなんです。あそこに行けば、その何かがわかるかもしれないって、思うんです。だから、行ってみませんか。ダメだったらダメだったで、しかたないですけど。でも、どうせ、何がしたいかわからないなら、何かしてたほうが……文さん! 私の話、ちゃんと聞いてくださいよ!」

 椛が二人に何かを提案するのは、殆どこれが始めてだった。はじめての提案は思いの外恥ずかしく、自分の言っていることがズレているのではないかと、喋りながら、心配でたまらなかった。だから、悪乗りで実況を続ける文は、誰かに八つ当たりをしたいほどの羞恥のやり場としては、絶好の的だったというわけだ。

「そんな、怒ることないじゃありませんか。ちゃんと聞いてますって。さっそく行きましょうよ、あのお店。どうせ、何がしたいかわからないなら、何かしてたほうがマシ。椛の言うとおりだと思いました」

「こいつ、ずるいよな。あれだけくっちゃべっといて、わたしの台詞まで取るんだから」

言いながらせっせと外套を着込む二人を見、椛は思わずはにかんだ。そんな椛を、二人はきょとんと見つめては、椛にも外出の準備を促す。

「どうした椛、早く行こうよ」

「ええ、いま、いま準備します!」



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3

 にとりがさっさと玄関に向かうので、椛も続いて玄関に向かった。靴紐を結ぶべく屈む二人に、リビングから、文が声をかける。

「ああ、にとりさん。このストーブはつけっぱなしで大丈夫なんですか」

「だめに決まってるだろ。消して、はたてさんにはしっかりと布団をかけてさしあげろ」

言い終えて、にとりと椛は玄関を出る。今まで暖かい部屋にいた二人は冬の寒さに身体をぶるりと震わせて、残された文を待つ。

「うう、わかっちゃいたけど、やっぱり寒いね。それに、見てよ。中途半端に積もったもんだから、土と混じってべちゃべちゃだ。悪路だよ悪路。ああ、いやだなぁ」

 にとりは肩をすくめて両手をポケットに突っ込み、目線のみで手すりの向こう、寮前の雑木林を見下ろし指し示した。

「わ、ほんと」

 椛は日中の哨戒の際、その悪路に気付きもしなかったことを思って笑った。それから、二人がとりとめもなく気温の話なんかをしていると、戸締まりを終えた文が玄関から出てくる。

「おうおう、遅いぞ射命丸。ほら、さっさと行こうじゃないか」

「あはは。すみませんね、あとこれだけ」

 なにか気力に満ちたにとりの声に苦笑しながら、文ははたての部屋の鍵を電気メーターの裏に隠す。

 そのとき、玄関前に冬の風が吹き込んだ。

「あれ」

 瞬間、電気メーターの扉を閉める文の手が止まる。

「どうしましたか、文さん。なにか、忘れ物でも?」

「え、ええと……」

 冷たい風が吹き、文の胸中に浮かんだのは漠然とした不安だった。椛の言う通り、ストーブでも消し忘れたかもしれない。しかし、それはない。電源を消したことも覚えているし、眠るはたてにしっかりと布団をかぶせてやったのは文自身だ。何より、電気メーターも、ガスメーターも、動いていない。

「んん? 電気もガスも、ちゃんと止まってるじゃないか」

 にとりが目ざとく覗き込んで、文に言う。文はますます不可解だった。戸締まりに問題がないのなら、自分は何が不安なのだろう。

「そう……ですね。なんでしょう……。ああいや! 外が思ったより寒くて、びっくりしただけです、きっと! さ、行きましょうか、ふたりとも」

 その正体をつかめないまま、文は言う。二人は、なんだ、と笑っては、口を切る。

「よっしゃ。じゃあさ、歌はどうする?」

「えー。せっかくだから、お喋りしながら行きましょうよ、にとりさん」

 椛が嗜めると、にとりは、椛がそう言うなら、と諦めた。文と椛は元気の良いにとりに苦笑しながら、地底に向かった。

 地底への道中は、楽しいばかりの時間だった。三人は自身の“これから”など忘れ、思いつくままに話をした。“これから”なんて、デマイゴに着けばおのずと結論が出る、確証はなかったが、誰もがそう信じて、自由気ままに口を動かした。その中には自身の仕事についての話だってあった。文は上層部の“わかってなさ”なんかをこき下ろし、にとりはやけに懐いてくる後輩に手を焼いてることを話し、椛は哨戒部隊全体のやる気の無さを語って、談笑に花を咲かせた。椛がにとりの失業を知ったのも、ちょうどそのタイミングだった。椛は流石に驚いた様子で「どうして辞めちゃったんですか」を発声したが、にとりから返ってきたのは、なんとなく、とか、勢いで、とか、それらの類の、どこか照れくさそうな返答だったために、椛は余計に驚いて、腕を組み黙考した後、なにかを諦めるように二、三頷いた。

 それから、とりわけて盛り上がった話題の中に、文の創った“木”の話もあった。なんでも、広場に集う子供のなかに、やたらと“木”を欲しがる子供がいたらしく、子供は貯金全額を提示し賭けを挑んできたという。もはや木を手放すことに何の感慨も抱かなかった文は、どうせなら、と賭けに乗り、大敗した。賭けの内容は文の得意な“次に通る人物の性別当てゲーム”で、子供は十連単を的中せしめたという。文は「私がまだ記者だったら記事にしていた」と話を〆て、二人から見事失笑を買った。

 地底の繁華街、有象無象の喧騒とすれ違いながら、三人は話して、笑って、歩き続けた。

 そんな話を笑って出来るぐらいなので、もしかすると、店の前に着く頃には三人とも、自身のやりたいことなどわかっていたのかもしれない。しかし、三人はそれでも、結論の待つ店まで歩いた。繁華街を抜け、色街を抜け、路地から裏路地へと渡り歩いた。

 しばらく歩いて、三人はようやく、店まで辿り着く。店の面構え、木製の大看板には大きく「胎」という文字が達筆に綴られたており、そのボロさだって、以前のままだった。

 しかし、二、三の変化はあったようだ。

「えーと、『○月○日を持ちまして、喫茶《バー》デマイゴは、閉店させていただきます。ごめんね。』……あちゃあ、閉まってますよ」

 店の前には、こいしの掲げていた一本足の看板が突き立てられており、看板には閉店を知らせる告知文が張られていた。その日付をとうに過ぎた現在は、三人にちょっとした落胆を植え付ける。

「あーあ。せっかく歩いてきたのに、なんだかな。……あ、隣の宿は? こいしちゃん、そっちにはまだいるかも」

「ええと、あー。こっちも閉まってますね」

 にとりはふうん、と呟いて、腕を組んだ。

「そっか、どっちも閉まっちゃったのか。となると、いよいよこいしちゃんが何のためにこんなお店をやってたか、わからずじまいになっちゃうね」

「ほんと。なんだったんでしょうね。……椛さん、どうかしましたか?」

 先程から押し黙って眉を潜める椛に、文が問いかけた。椛はなにか集中している様子で、静かに口を開く。

「……なにか、なにか聞こえます」

 椛の言葉に、二人は思わず呼吸を潜めた。

「……ええと、お店から、みたいですね」

 椛の言葉を聞いた二人はもうワクワクして、デマイゴの扉の前に近づいた。椛も優しく微笑みながら二人を追って、扉の前に立った。三人にとってもはや“これから”の結論などは明らかとなっていた。だから、扉の向こうを知ろうという行動は、もしかしたらこいしに会えるかも、という期待からの行動だった。こいしに会う、というその行為は、三人にとって、これまでとこれからの一区切りとして、ちょうどいいものと思えたのだ。文もにとりも椛も、同じように、扉にぴったりと聞き耳を立てる。

 ――……ぼ……れる……お……ぼれる……。

「あっ」

 声を上げたのは文だった。二人も遅れて、あれ、この声は、と口を開く。

「あの、セーラー服の女だよ。あの女、店が閉まってるのに、まだ来てるんだ」

「でも、普通、入れないんじゃないですか。閉店してたら、鍵くらいかかってるはずじゃあ……もしかすると、中にこいしちゃんもいるかもしれません」

 椛の言葉に、にとりはそれもそうだね、とはしゃいで、勢いよく扉を開け放った。椛も、それを止めるともなく、にとりと一緒になって扉を開けた。文は何か不安げに、待って、と発声したが、二人の「こいしちゃん、こんばんは!」といった元気の良い声に、文の不安げなそれはかき消されてしまった。



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4

「あれ、おにいさんたち、ひさしぶり。……こいし、閉店って看板、置き忘れちゃったかな。……まあ、いいや。あれから、元気だった? おにいさんたち」

 三人の視界には、二度目の来店の際と殆ど同じ光景が映った。何の変哲もない床と壁、実況席のようなテーブルと、その上に置かれた「胎」の空き缶。床をのたうつ女は相変わらずセーラー服を着て、「溺れる、溺れる」と喚いている。ただ違うのは、部屋の隅にこいしの存在があったことだ。こいしは座り心地のよさそうな、革張りのロッキングチェアに腰をかけ、手には、なにかカップを握っていた。

 意気揚々と扉を開け放ったにとりと椛だったが、こいしの思いのほか落ち着いた態度に、すこし反省をして、「あ、その。急に、すみません」系の言葉を発音して、頭の後ろをかいた。

「別に、いいよ。でも、もう来ちゃダメだよって、言ったよねー?」

 こいしは冗談めかして、笑いながら三人に問いかけた。たしかに、三人とも、覚えがあった。デマイゴから脱出する際に、こいしはたしか、そんなことを言っていた気がする。椛は床でのたうつ女をチラと見やって、気まずそうに口を開いた。

「その、すみません。私たち、今日……」

 椛が言いよどんでる隙に、にとりも、ごめんよ、と呟いた。背後で文がなにか、壮絶に不安げな表情をしていたが、二人がそれに気づくことはない。

「あはは、うそうそ。こいし、おにいさんたちにまた会えて、とっても嬉しいよ。……えっと、別に、来てもいいんだけどね。こいしが来ちゃダメっていったのは、おにいさんたちはきっと、もう来ても意味、ないだろうなーって思ったからなの。だってほら、現に落ちずに、床に足をつけて、立ってる」

 にとりと椛は、やっぱり、と互いの顔を見合ってはにかんだ。二人は道中、自身の“これから”をなんとはなく悟っていた。それは、不確かな、急に湧いてくるやる気のように、ふわふわとした感慨だったが、こいしの言葉で、二人は自身の出した結論が、正しいものであることを確信できた。

 一方で、文は未だ、凄まじく不安げに佇んで、何かを凝視していた。文の視線の先にあったのは、はたての部屋を出る際に感じた漠然とした不安の正体だった。にとりと椛は先程から静かな文を不審に思い振り返り、ようやく、不安げな文を発見した。二人とも、そのまま文の視線を追う。

「ああ、その、セーラー服のひとはね。……常連さんなの。そのひとは、やっちゃいけないことをやらないように、やっちゃいけないことをして、ここに来るんだけど。まだ、迷子のままでいたいみたい。……こいしね、お姉ちゃんに言われて、このお店を閉めることにしたんだけど、このひとが自分のしたいことを見つけられるまでは、お店を開けてようって思って。それで、今日もここで、待ってたんだ」

 こいしは両手で、口元にマグカップを構えながら、のたうつ女を憐れむように見つめながら、訥々と語った。

 ――ああ! 溺れる、おぼれる、溺れちゃうよぉ! ひじり、ひじり、私溺れちゃう! 溺れてしまうよぉ!

 にとりと椛は、これまで女のことをすこし不調和なBGM程度にしか感じていなかったが、こいしの話を聞くと、たちまち、女がどうにも哀れに思えた。二人は女をどうにか救ってやれないものかと、やおら女に近づいた。しかし、こいしがそれを制止する。

「待って! そのひと、放っておいてあげてくれないかな。そのひとね、お友達、いっぱいいるんだよ。頼れる仲間の人達がね、いっぱいいるの。でも、そのひとはいま、そういう人達に頼らないで、ここにいる。だから、そっとしておいてあげて。ね」

 自分たちの取ろうとした行動が、自分たちが進むべき道を見つけられたのだから、このセーラー服の女にも見つけられるはずだ、という、そこそこに傲慢な優しさであったことを、二人は悟った。そういうことなら、しかたない。

「こいしちゃん、それじゃあ、わたしたちは帰るよ。事情は、よくわかんないけど、そのひと、幸せになれるといいね。それじゃ」

 椛もにとりに合わせて、ありがとうございました、と一礼し、扉の外へと向き直った。しかし、文は未だ女を見つめたまま、じっと、動かずにいる。

「文さん、しかたないですよ。心配なのはわかりますけど、私達にはなにもできることはないし、するべきでもないんです。ほら、行きましょうよ」

 しかし、文は不安げな表情を崩すこともなく、女を見つめ続ける。

「おい文、あのひとは見世物じゃないんだ。いつまでも見てたら、悪いじゃないか。それに、わたしたちは明日から、やることってもんがあるだろう」

 ――文の不安げな硬直は、女への哀れみから生まれた行動ではなかった。文は床で喚きのたうつ女を見て、暖かいはたての部屋を出て、冷たい外界の風に曝されたときの不安、その正体を察してしまったのだ。

 文の視界に、自分の欲求の世界で解を出さずにいつまでものたうつ女の姿は、まるで赤子のように映った。文はふと、自身が昔、暇つぶしに書いた記事を思い出す。

 産声をあげる生物はみな一様に胎内回帰という願望があり、悲鳴に似た産声は、狭く薄暗い、懊悩と似て不確かに安心な母の胎から放り出された不安によるものらしい。

 ああ、ともすれば、このセーラー服の女は、胎を出れば迷子になると知って、出れば二度とは戻れないと知って、胎から出るのが恐ろしいんだ。恐ろしくて、いつまでものたうっているのだ。

 けれど、それは自分自身にも言えることなのではないだろうか。にとりと椛の、二人の言うこともわかる。けれど、自分は今現在、確かな不安を感じていて、それはきっと、この女のように、迷子でいたい願望の表れに違いない。しかし、現に落ちなかった。こいしが言うには、自分はもう、迷子ではないという。

 文は再度女を見つめる。女は以前、誰かの名前を叫んでは、見えない水に咽喉を脅かされ続けている。すると、哀れみでもない、嫌悪でもない、不思議な感慨が、文の胸に浮かんだ。

「おい射命丸。いい加減にしろよな、どうにも、おまえは空気の読めないところがある」

 にとりは、すこし不機嫌そうに文の肩を叩く。そうしてようやく、文が静かに口を切った。

「にとりさん、椛。私が、働き始めたとして、暇な日はまた、前みたいに、一緒に飲んでくれますか」

 にとりは一瞬ハッとして、文の肩を再度優しく叩いてから、少々照れくさそうに口を開く。

「わたしは、べつに、構わないぞ。あんまりひどかったら、途中で返ってしまうけどな」

 椛も笑いながら口を開く。

「文さんこそ、ちゃんと付き合ってくださいね」

 二人の言葉に文は照れくさそうに腕を組んで、片手を額に当て、しばし悶えたが、いずれ、吹っ切れたように顔を上げて、言った。

「こいしさん。ビールはありますか、その、普通のじゃなくて、胎のやつ」

 こいしは微笑んで、懐から一本缶を取り出した。

「あ、わたしも、一本もらえないかな」

「わ、私も!」

 二人の言葉にも、こいしはにこにこと微笑んで、懐から缶をひとつ、またひとつ取り出す。懐の膨らんでいる様子もなかったのに、あまりにささっと、自然に現れる缶ビールは三人にとって手品のように映った。実際、手品なのかもしれない。

 三人はのたうつ女を跨いで、こいしに近づき、缶ビールを受け取る。三人はやにわにプルタブを引き放っては、口をつける。

「待ったぁ!」

 こいしは声をあげるのと同時に立ち上がり、三人を制止する。三人は然程困惑することもなく、缶ビールを構えながら、こいしの二の句を待った。

「……さて。ここが運命の分かれ道だよ。そのお酒が無味無臭の、ただの水なら、おにいさんたちはもう、迷子じゃない。でもね、もし、少しでも美味しかったり、まずかったりしたら、おにいさんたちはやっぱり、まだ迷子なの」

 こいしは言いながら、懐からもう一本、缶を取り出し、プルタブを開け放った。

「さあショータイムです。はたして、おにいさんたちは本当に、もう迷子ではないのでしょうか。それともやっぱり、まだ迷子なのでしょうか。ふふ、じゃあ、僭越ながら、こいしが音頭を取らせていただきます。いくよー!」

 

「せーの、かんぱーい!」

 

 乾杯! と声を重ねて、三人は缶を口元に構え、天井を仰いだ! こいしも、三人と同じようにして、缶の中身を、食道の奥へと流し込む。それを飲み干すのは一瞬だった。みな、酒飲み特有の感嘆詞を吐いて、次々に口を切る。



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5

「ああ! 全然、美味しくも、まずくもありません! 水です、ただの水。あはは!」

「ほんと! こんなものであんな目にあったなんて、信じられないくらいに、ただの水だよ! なんだよ、これー!」

「あはは、ほんと、なんなんでしょうね! でも、なんだか嬉しいです。いま、楽しいです、私!」

 笑い合う三人に、こいしも笑って、口を開く。

「おめでとう! おにいさんたち、よかったね。えへへ、なんだか、こいしまで嬉しいな。……さあさあ、三人とも! もう、ここに用はないでしょ? そしたらはやく、帰んなきゃ! ほらほら、出てくでてく。だいたい、他のお客さんが入ってるときは、絶対、入っちゃダメってルールだったんだから!」

 三人は笑うこいしに押されながら、笑いながら、出口までよたよたとした。三人とも、なんだか少しだけ寂しかったが、別に、これがこいしとの永別になるわけでもない、と笑って、各々、こいしに別れを告げる。

「こいしちゃん、ありがとね! わたしさ、あれ以来、こいしちゃんのことあんまり好きじゃなかったんだけど、やっぱり好きだなー! なんて! えへへ、また地底で会ったら、そのときは一緒に飲もうよ」

 にとりのプラスマイナスゼロぐらいの言葉にこいしは微笑んで「ありがとー」を発音した。続けて、椛が口を開く。

「あっ、にとりさん、なんかずるい! 私も、こいしちゃんのこと可愛いなーって思ってるんですよ。最初に名前知ったのも、私だったし。なんて! いや、ほんとにありがとうございました。……ちなみに、私たちの中で、誰がいちばんアリだと思いますか?」

 椛のマイナス二ぐらいの言葉に、こいしは笑いながら「もちろん、公務員のおにいさん」と発音する。あからさまにショックを受けるにとりと、小さくガッツポーズをする椛に苦笑して、最後に、文が口を開いた。

「ほんと、ありがとうございました。いやあ、お世話になりましたね、実際。他の二人は知りませんが、私はここに来なかったらたぶん、これからも、ちょっとした広場の、ちょっとした主を続けていたでしょうね。なんて! いえほんと、ありがとうございました」

 文が「それでは」と締めれば、にとりも椛も、元気よく「それじゃあ」と手を振った。

「うん、じゃあね。今度こそほんとに、ここに戻ってきちゃダメだからね。とゆーか、次来たときにはもう、きっと、本当に閉まっちゃってるだろうから。だから、ええと、なんだろ。……みんな、やっぱりちゃんと、大人なんだもんね。えへへ、それじゃあね!」

 こいしが手を振って、三人は扉の外へと向き直り、名残惜しそうに振り返りながら手を降って、歩き始めた。にとりと椛は扉から離れてそこそこに、完全に前へと向き直って、各々“やりきった”際の、いつものポーズを取る。にとりは両手をポケットに突っ込んで、すこし、背筋を曲げる。椛は腕を組んで、胸中の感慨を噛みしめるように眉を顰め、右左上方の虚空にきょろきょろと視線を泳がせた。

 最後まで振り返っていたのは文だった。こいしとの別れの名残り惜しさもあったが、文は何より、セーラー服の女がどうにも気になったのだ。

 今この女をデマイゴから、胎の世界から無理矢理に引き摺りだすなんて無責任なことはできない。ただ、いずれあいつが胎から這い出たときに、迷子だからといって先達が泣いていたら、あいつはまた、胎へ還りたがるに違いない。私一人がそれをしたところで、なにも変わらないかもしれないが、わめて私は、堂々と背筋を伸ばして歩いてやろう。そして、二人と笑い合ってるところを、見せつけてやる。世界は海のように広大で、行く宛の検討さえつかなくて、泳げなかった頃に戻ることも、容易じゃない。それは不安で、寂しいことかもしれないが、たまに楽しいことがあれば、それだけで笑えるんだ、ってところを、見せつけてやらなきゃいけない。

 以上、それらの感慨を、文は無意識下に察した。文本人からすれば、やけにセーラー服の女が気になっていたら、やけに爽やかな気分になってきた、というわけなので、自身の気分の推移が非常に不可解だった。

「そうと決まれば、私、すぐ帰って、明日の準備をしないと。ええと、お二人は、どうですか」

「私も、椛とおんなじですよ。今日はゆっくり休んで、明日からに備えます」

「わたしだって、もちろんそうだよ! えへへ、じゃあさ、なにか歌って帰ろうよ。わたしさ、正直言うと、歌って歩くの、好きなんだよね!」

 知ってましたを発音しながらも、文と椛は立ち止まって、腕を組み、やおら唸りをあげ始める。にとりはそんな二人にはしゃいで、我先に! とでも言いたげに、腕を組んで、二人に続いた。

 しばしの黙考の果て、三人は同時に、あっ、と声をあげる。

「私、いいのが思いつきましたよ。うってつけのやつが。いやあ、恐いですね、自分のインテリジェンスがおそろしい」

「おい待てよ射命丸。わたしだって、とびきりのを思い出したぞ。いいよ、じゃあ、せーので戦わせようよ。わたしのと、おまえのをさ」

「ちょっと。私も混ぜてくださいよ。なんて、ふふ。もしかすると、三人とも同じの、考えてたりして。そうだったら、たのしいですよね」

 文もにとりも、なんだか椛の言う通りな気がしたが、共感を表面には出さず、勝負の体を繕った。しかしやっぱり、三人のうちだれもが、きっと、同じ歌を選んでいるであろうことを察していた。さて、いよいよ勝負の幕が開く。

 

「せーのっ」

 

 

 

 

 ぞうさん ぞうさん

 おはなが どこまでも

 野をこえ 山こえ 谷こえて

 はるかな まちまで ぼくたちの 松を

 いろどる 楓や蔦は

 山のふもとの 裾もよう

 

 ぞうさん ぞうさん

 だれが どこまでも

 列車のひびきを おいかけて

 リズムに あわせて ぼくたちも 赤や

 黄色の いろさまざまに

 水の上にも 織るにしき

 

 

 

 

 明くる朝、目を覚ました三人は銘々に行動に移った。椛は昨晩夜なべした書いた辞表を手に取り、荷造りの済んだ部屋から飛び出し、にとりは河童の上司と共に、山のお上への謝罪に赴いた。文は、目を覚まして久々に、机に座った。机は以前とまったく変わらない座り心地で、文を迎えたのだった。

 

 それからまた、時が流れた。

「なんだかな。……はたてさんも、遠慮せず来ればよかったのに。『いいから、三人で行ってきなさい』なんて言ってさ。わたしやっぱり、あの人のことよくわかんないよ」

「まあまあにとりさん。はたてさんははたてさんなりに、気を使ってくれたんですよ。私ははたてのそういうところ、けっこう好きなんですけどね……まぁ、いないひとを褒めたってはじまりません。さっそく、始めましょうか」

「うう、なんだか照れちゃいます……。いや、やっぱり恥ずかしいですよ、就職が決まった程度のことで、祝われるなんて」

 そこは地底の居酒屋だった。特に、三人が選んだ、というわけではないが、奇遇にも、そこは以前つまらない映画を観た後に利用した店と、同じ店だ。店には暮れも早々に喧騒が響き渡り、他の個室から聞こえてくる下品な笑い声や、あまりにも楽しそう“すぎる”話し声といったそれらの喧騒は、三人の個室にまで筒抜けになっている。しかし、そんな喧騒や、店の、橙の照明たちは、これから始まる久々のたのしみを、三人に殊更感じさせるばかりだった。

「いえいえ、これは椛の就職を祝うばかりの会ではありませんよ。私だって、祝ってもらわなくては困りますからね!」

 文は結局、すぐに記者に戻ることをしなかった。いくら永い間務めたとはいえ、怠惰が原因の解職だ。そう簡単に、戻れるはずがない。仮に戻れたとしても、メンツが立たない。

 そう考えた文は、なにか、自身の経験にものを言わせて、エッセイなぞを書くことにした。娯楽の少ない里でならなにを書いても売れるに違いない、エッセイとかが簡単そうだ、私ならば、何を書いたとしても面白くなるにきまっている。などといった傲慢さの数々を腹積もりに、文は数ヶ月かけてエッセイを書いた。そして、今日はその出版記念の会でもあるというわけだ。

「うーん。出版に就職、それに比べると、わたしのはちょっと見劣りするかもしれないけど。でも、わたしだって頑張ったし、祝ってほしいから、祝ってね」

 にとりは今日が、復職後の初給料日だった。にとりはあれから、仕事に無事戻れたが、同じ仕事に戻る、ということはしなかった。にとりのやっていたマニュアルの作製、改訂の仕事には、例の、後輩河童が就いていたためである。しかし、まるっきり別の仕事を始めたわけでもない。にとりは、経験の浅い後輩河童の指導役の座に就いたのだった。

 後輩河童はやはり後輩よりも後輩らしく、後輩然として、知ってて当然のことを当然のように知らなかったため、復職後のにとりは随分と難儀したものだ。しかし、とりわけて、にとりにとってその日々は、明るく、楽しく、健全な、労働の日々だったといえるだろう。

「そんな! 私ですよ、いちばんどうしようもないのは! だって、とりあえずやってみようって思って始めてみることにしただけで、人生これに決めた! とか、そういうわけじゃないですから」

 哨戒を辞めた椛の前には、本当の自由が広がっていた。自分に合った仕事、自分が本当にやりたいこと。すべてが未定であったために、椛の視界に広がったのはあまりにも広大な世界だった。備え付けの家具だらけの寮を出て、二人と違い潤沢に蓄えた貯金で貸家を選び、家具だってなんだって、自分で選ぶ。もちろん仕事にしてもそうだ。いままで趣味という趣味も持たなかったので、趣味を持ってみるのもいい。貯金があるから、何もせず、ぼんやりするにしたって何にしたって、椛の自由だった。

「あ! 来てしまいましたよ、とりあえずの、生が。愛想振りまき合うのもこのへんにして、やってしまいましょう!」

「ちがいないね!」

「はい!」

 

――三人のこの物語にも、いよいよ一段落がつこうとしている。義務というわけでもないが、どうしたって、このあたりで締めなければならないようだ。

 しかし。

 どうにも、締め方というものが思い浮かばない。不誠実かつやぶから棒ではあるが、例のエッセイの最後のページを引用する、という形で、締めさせていただきたく思う。

 

 

しかしそれでも、みな、やつの尻尾を手放せない。手の中で尻尾が干からびたなら、また、やつの本体を探しては、追いかけてしまうだろう。

 それはきっと、猫の毛繕いそのものなのだ。毛玉を吐くとわかっていてもやめられない、動物じみた習性から、自分の届く範囲しか繕えない仕方なさまで、そのものなのである。

 非行として吸い始めたタバコを、気付いたら手放せなくなっているのと同じように。

 泳げなかった頃には二度と、戻れないのと同じように。

 月が沈めば、日が昇るのと同じように。

 きっと、世界中の誰もがそれを、やめられないままでいる。

 

 

 ――との、ことである。文の言わんとするところというのは、つまるところ……ああここで、乾杯の時間だ!

 

 

 

 

「――それでは、私の出版、にとりさんの復職ないしは初給料日、椛の自由に基づく再就職を祝って――」

 

 

 

 

 

 ――乾杯!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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エピローグ

   エピローグ

 

 

 そこは、天狗の寮の前だった。冷たく透き通った空に浮かぶ肥えた雲は、穏やかな白昼を讃えている。

 ――姫街道はたてはゴミ置き場でもみくちゃになった三人の前で、額に手を当て、ため息を吐く。せっかくまともに働きはじめたと思ったら、こうよ! にとりも椛がこうなったのは、どうやら、文だけのせいじゃないようね。ああ、こんなことになるなら、気なんて使わずに、昨日、着いていくべきだったわ。

 はたては暫し考えて、大きく息を吸い込んだ。

「起き……っ」

 言いかけて、はたては口を止めた。胸中に浮かんだ感慨を表すならば、それは間違いなく、あほらし、の四字だった。

 はたてはそのまま、ゴミ捨て場を素通りして、職場への道を歩く。付き合いきれないわ、と、思わずそんな言葉を溢しながら、早足で歩く。雑木林に囲まれた道に積もっていた冬の雪は、いつの間にかすっかり溶けて、木々の間を春一番の風が吹き抜けていく。緑に色づき始めた木々がざわざわと揺れて、はたては或ることに気が付き、無性に腹が立った。

「付き合いきれないわ、なんて。……誰に頼まれたわけでもないくせに。あたしって、あー、もう……」

 はたてはちょっとした自己嫌悪に陥った。主な要因は、にとりが未だに、はたてに対し心を開かないことにあるのかもしれない。

 少し落ち込みながら歩いていると、不意に、はたてに声をかける者があった。

「ね、おにいさん。いいの、あのひとたちのこと、放っておいて」

 はたてが振り向くと、そこには見知らぬ少女が立っていた。

 少女は鴉色の帽子に、薄黄のリボンをつけており、服も、似た色のものを身に着けており、緑のスカートには薄く、なにやら面妖な、花の模様があった。

「あ、あなた誰よ。いいのよ、あいつらのことは、もう放って置くって決めたんだから。それに、あたしはおにいさんじゃなくておねえさん!」

 はたての言葉に、少女は腕を組んで首を傾げた。

「うーん。おにいさんがそう言うなら、それはそれで、いいんだけどね。……でも、今回はあのひとたち、悪くないんだよ」

「……どういうこと?」

「こいしがね、『ただの居酒屋』なんて始めちゃったから、いけないの」

 言いながら、こいしははたてに近づいて、はいこれ、となにやらチラシを手渡した。

 はたては手渡されたチラシを注視する。

「『新オープン! 古明地こいしのただの居酒屋。なんと、ただです!』……え。ただなの」

「うん、ただだよ」

「へぇ……今度あたしも行ってみようかしら……。じゃなくて! 仮にただだったとしても、自制できないんじゃおんなじよ! 結局あいつら、意思が弱いの、意思が! ……って、あれ?」

 はたてがチラシから顔をあげると、少女の姿が消えていた。はたてにとって、それはまるで、自身の心を見透かされたような面映さだった。

「ああ、もう!」

 はたては殆ど走っているといっても過言ではない早歩きで、今まで歩いてきた道を引き返した。

 木々に囲まれた、青い空の下、大きく息を吸い込んで、勢いよく吐き出す。

「こら! 起きなさい、この、アル中妖怪ども!」

 

 

 

 

 

   『誰もがそれをやめられない!』 完。




おわりです
ありがとね


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幕間
『遊泳監視録ムラサ』


幕間です
『とにかく明るい〜』の裏、別館で放映されてた映画ですが、本筋とは本当に全く関係がないので読まないほうがいいです
『とにかく明るい〜』は上映禁止の誹りを受けたのでお見せできません


 偽造通貨生産工場取り押さえの件で名を馳せた河城カンパニーが、市民プールを設営した。市のない幻想郷でなぜ市民プールなのか、そんなことを尋ねる者はおらず、人間も妖怪も夏のプール開きを心待ちにしていた。さて、河城カンパニーがこのプールを運営するにあたって、博麗の巫女の信用に足るスポンサーが必要だったわけだが、そこで名乗りを上げたのが宗教法人命蓮寺だった。悪名高い妖怪の更生活動にも熱心な命蓮寺は〝件の〟河城カンパニーが市民の為のプールを運営すると聞いて、諸手を挙げて支援することを決めたのだ。河城カンパニーがスポンサーに求めたのはもちろん、博麗の巫女の信用に足る〝善良なイメージ〟だった。そこで、河城カンパニーがスポンサーである命蓮寺に要求したのは、プールで遊ぶ子供達の安全を守る〝監視員〟。そして命蓮寺から抜擢された監視員は、かの船幽霊〝村紗水蜜〟だ。プール開きを眼前に迎えた今、村紗水蜜の物語が始まる。

 

 遊泳監視録ムラサ

 

 

(どうして私がやらなきゃいかんのかな。ぬえにでもやらせりゃよかったのに)

 村紗は河城カンパニーが設営した市民プール、その事務所の入り口に立っていた。村紗は憮然とした表情で、世に蔓延る不平不満を憂いていた。

(監視員やるにしたって、何も寝食ここで取る必要ないじゃないか。あーあ、みんな今頃カレーでも食ってるんだろうな。私を差し置いて)

 プールから少し離れると、コンテナのような簡易住居が在った。村紗は夏の間、ここに寝泊まりをしなければならない。

 辺りで喚き散らす蝉の声がそろそろ鬱陶しくなってきた村紗は、意を決して事務所の扉を開けた。

「やあ。待ってたよ、村紗水蜜さん。今日から一ヶ月ほど、よろしくね」

 そこに待っていたのは河城カンパニー代表取締役、河城にとりと、その取り巻き数名だった。

「私は夏の間、工場の視察で忙しくてね。なかなか現場には居ないと思うが、仕事の詳細はモブ達が教えてくれるよ」

 河城にとりが「おい」の声をかけると、取り巻き達が大きな声で返事をした。なかなかの元気の良さだった。

「モブAです。にとりさんが不在の間、現場責任者を任されています。一ヶ月間、よろしくお願いします」

 モブAは可愛らしい黒髪のおかっぱ頭をうやうやしく村紗に向けて下げてみせた。それからB、C、と、似たような挨拶が続いたが、村紗は記憶の必要なしと判断して、聴覚を遮断した。

「基本的にはこのモブAが村紗さんを全面的に補佐してくれると思うから、何卒仲良くしてやってくれ。じゃあ村紗さん、私は工場へ行くから。改めて、よろしく頼むよ」

 そう言って、河城にとりは事務所の中の階段を降りて行った。村紗は、大物めいた喋り口調しやがって、こちとらスポンサー様やぞと河城にとりを内心毒づいていた。河城にとりが去ると同時にモブ達もどこかへ散らばっていき、部屋に残ったのはモブAと村紗のみとなった。

(しゃーない、挨拶してやるか)

 村紗が口を開こうとしたその時、モブAがおもむろに懐に手を忍ばせた。村紗は咄嗟に身構えたが、モブAが懐から取り出したのは何の変哲もない、ただのスタローンみたいなサングラスだった。

「あー……」

 モブAはスタローンみたいなサングラスをかけると、気怠そうに声をあげつつ、村紗に近づいた。思いの外サングラスの似合うモブAに、村紗の胸は少しキュンとした。

「改めまして……、今日からテメェの教育係を務めるモブAだ。よろしく」

 極めて輩然として、モブAは言い放った。村紗は面食らった。しかしスポンサーが舐められては立場がおかしなことになると考え、すぐに冷静さを取り戻した。

「よろしく」

「あー?」

「よろしく」

「声が小さくて聞こえねェよ、声張れや声」

 村紗は少し腹が立ったので、顔を近づけて凄むモブAにチュッとした。モブAは暫し感情の着地点を探している様子だったが、程なくして何事もなかったようにプールの説明を始めた。

「いいか?これが今日から一ヶ月間、テメェが座る監視席だ。テメェはここから子供達を見下ろして、安全を保全する、わかったか」

「わかった」

「あー?」

「わかった」

「あぁー?」

 村紗は少し腹が立ったので、なんすか、と聞き返した。夏の暑さと自分の置かれた境遇を憂いテンションの下がった村紗にとって、なんですか、のでを抜くのが消化に良い反抗だった。

「わかった、じゃあねェだろうが!監視業務未経験のお前みたいなワカメに、わかるわけがねーんだよ。今から俺が直々に監視業務のなんたるかを叩き込んでやる」

 村紗は憮然とした。村紗は〝ワカメ〟と呼ばれることと、〝俺〟という一人称を女性が使うことを嫌っていたのだ。村紗が他に嫌うものといえば、般若心経のサビの部分ぐらいだった。〝ノッてきた〟一輪の調子っぱずれの大声を思い出すだけで、村紗は成仏してしまいそうになるのだ。

 それはそれとして、モブAの業務説明はとても丁寧だったので、村紗は素直に説明を聞いてあげることにした。

「わかったか?」

「わかった」

「ならいい。あと一時間もすればプール開きだ。気合入れろよ」

 

 そうして、村紗の監視員として初めての業務が始まった。夏の日差しの下、子供達は透き通る水の中ではしゃぎまくっている。村紗は子供達がぎゃーぎゃーと喚く様を、向こうの監視席から響く怒号をBGMに、ぼんやりと眺めていた。何事もなく正午を過ぎ、プールの解放時間も折り返しに差し掛かったところで、モブAが村紗に近づき声をかけた。

「おうワカメ。俺はこれから工場を見に行かなきゃならねえ。後半は一人でこなすことになるが、しっかりやってくれよ」

「わかった」

 モブAは頼んだぞと言い残してその場を後にした。それから、村紗は子供達の戯れるプールを、暖かい日差しの中、穏やかな眼差しで眺めていた。

(うーん、プールサイドはなかなか涼しくていいな。子供達のはしゃぐ声も、なんだか和むぞ)

 子供達の死体のように浮く遊びや、帽子を取り合う遊びを微笑ましく感じながら、村紗は穏やかな時間は過ぎていった。

 ……。

 …………。

「おいワカメ!テメェ人の説明聞いてたのかよ!死体ごっこはすぐに注意しろってあれほど言っただろうが」

「だって」

 夕刻。藍がかった空の下、事務所にて、村紗は叱られていた。

「だってじゃねえんだよ、だってじゃよぉ。言っただろ、死体ごっこは伝播するって!一人始めればみんな真似し始めるんだよ!どうすんだよ一人死んじまったじゃねえかよ」

「だって、妖精だったから、大丈夫かなって」

 溺れ死んだ一人とは妖精だった。厳密には一匹かもしれないが、だからといって見過ごしていい命ではない。しかし村紗も反省はしていた。していたが、その反省が、反省慣れしていない村紗を言い訳がましくさせた。

「それに、まさか死ぬまで続けると思わなかったんだもん」

「お前、チルノだぞ!あいつはやるんだよ、そのまさかを平気でな。昔運営してたプールでもあいつは何度も死んだよ。ああ、今回死んだのが大妖精とかだったらな、俺もここまで厳しく言わないが、チルノに死なれるはまずいんだよ」

「なんでさ」

「……クレームが来ンだよ」

「どっから」

「レティホワイトロックからだよ!」

「保護者でもないのに?」

「保護者でもないのに、だ。しかしレティホワイトロックにはチルノの保護者というイメージがどういうわけか付きまとってる。そしてチルノがプールで一回休みになると、どういうわけか、レティホワイトロックは保護者面してクレームを寄越すんだ。うちのチルノちゃんが溺れたそうで、やっぱり夏って最低ですね。いい加減夏を冬にしてはいかがでしょうか。なんて気グルめいたクレームをな」

「へぇ」

「へぇじゃねえんだよワカメ!……まあ、起きちまったことは仕方ねぇ。明日、俺が手本を見せてやるから、しっかり頼むぞ」

「うっす」

 監視員生活始めての夜。村紗は命蓮寺で煮込まれているであろうカレーを夢想して眠った。

 

「コラそこー!死体ごっこはすぐにやめろー」

 村紗とは反対側のプールサイドの監視席で、モブAが子供達の危険な遊びを注意している。

「どうせ大人になったら生きてるか死んでるか判然としない人生を送ることになるんだ、地に足つけてられんのも今のうちだぞー」

「はいそこー!人の帽子を奪うなー。お前にとってその帽子がどれほどの価値があるのか、頭冷やして考えろー」

「ほらそこ飛び込むなー!飛ぶならせめて周りに迷惑をかけないように飛べー。お前がかけた迷惑の責任を取らされる親族の気持ちも考えろよー」

 モブAの手腕は見事だった。あんなにはしゃいでいた子供達が今ではすっかり落ち着いて、水面に映る自分の顔を、項垂れて、虚ろな瞳で見つめている。モブAは得意げな表情で村紗に近づき口を開いた。

「わかったか?監視業務ってのはこうするんだよ」

「うーん」

「はっはっは。まあ、お前もじきに分かるさ。安心安全とは斯くして保たれるってな」

「うーん」

「じゃ、手本は見せたからな。俺はまた工場に行ってくる……なんだか雨漏りがひどいって話でな。ま、手本通りにこなせば、まず間違いは起こらねえはずだ。それじゃ、頼んだぜ」

「うーん」

 モブAは相変わらずの輩口調でそう言い残し、そそくさと事務所へ引っ込んで行った。村紗は水に浸かり項垂れる子供達を眺めながら、サングラスの購入を検討していた。

 正午を過ぎて、子供達はすっかり元の調子を取り戻して水の中で戯れている。市民プールで泳ぐ者はおらず、大抵は水を掛け合ったり、帽子を巡って追いかけっこなどをする子供ばかりだ。そこかしこでザバザバと上がる水飛沫に陽が反射して、煌めく。そんな折、プールの端の方で一際大きな飛沫が上がった。帽子の取り合いや水の掛け合い程度なら見過ごせる村紗だったが、今回のそれを見逃すわけにはいかなかった。実質的に、村紗の初仕事である。

「こ、こらそこー。飛び込みはやめるんだー」

 飛び込んだ子供はすぐにプールサイドによじ登り、再度プールへと飛び込んだ。どうやら飛び込んだ子供には仲間がいるらしく、その中の頭から触覚を生やした子と羽を生やした子が村紗を嘲るように口を開く。

「おいミスティア、聞いたかよ『こ、こ、こらそこぉ。と、飛び込みはぁ、やめるんだぁ』なんて言って、あいつ、どっか怪我でもしてんのかな」

「ふふふ、ほんとねリグル。あんなのでチルノが止まるわけないじゃない。今回の監視員は生っちょろいわね」

 当人たちにしてみれば、それは遊びの最中の悪ノリかもしれなかった。しかし、曲がりなりにも仕事中の村紗水蜜にとってその口振りは死ぬほど腹が立った。村紗は瞳を潤ませながら、チルノの飛び込みを意地でもやめさせようと決意した。

(ちくしょうバカにしやがって。こちとら初仕事やぞ)

 水に飛び込み、プールサイドへ上がっては水に飛び込む、という狂気のルーティンを繰り返す奇跡のルーパーの元へと、村紗は向かっていった。虫と鳥は怯むこともなく村紗を待ち構える。そんな二人には目もくれず、村紗はチルノに声をかけた。

「こら。飛び込むなって言ってるだろうが」

 チルノは未だ親の仇のように飛び込みを繰り返している。

 虫と鳥は村紗の言葉を真似して村紗を茶化す。村紗は涙をこらえながら言葉を紡ぐ。

「こ、こら!やめないとアレしちゃうぞ!で、出入り禁止にしちゃうんだからな」

 自分にそんな権限があっただろうか?村紗が胸中に疑問符を浮かべている間にも、チルノはルーティンを繰り返している。

「あーあー情けないなセーラー服のおねえさん。目に涙浮かべてるよ」

「リグルったら、あんまりいじめたらかわいそうよ。それより見て、チルノのフォーム。だんだん綺麗になっていく」

「ほんとだ。まるで彭勃だな」

 子供の悪ノリの残酷さを噛み締めながら、村紗は泣いた。チルノの飛び込みのフォームは確かに綺麗になっていく。

「おいおいチルノ絶好調じゃないか。最早彭勃通り越して胡佳だな」

「いいえ、胡佳通り越して馬渕よしのだわ」

「グレゴリーローガニスに届くのも時間の問題か?」

 チルノのフォームはどんどん綺麗になっていく。気付けば他の子供達もチルノの周りに集まり、

『グレッグ!グレッグ!』

 と囃し立て始めた。そんなチルノに触発されて、

「あいつがグレゴリーなら僕はパトリシアマコーミック!」

 と、飛び込みを始める子供もいた。市民プールは熱狂に包まれた。

『グレッグ!グレッグ!』

『パット!パット!』

『グレッグ!グレッグ!』

『パット!パット!』

 狂熱の躍動する市民プール。そのプールサイドで、村紗は震えながら泣いた。しかし、そんな村紗の頭の中に、命蓮寺の面々が浮かび上がった。そうだ、私は命蓮寺の代表としてここにいるんだ。ここで泣いてちゃ、みんなに顔向けが出来ない。

 実際はセーラー服がそれっぽいからという理由で抜擢された村紗だったが、それでも村紗は覚悟を決めて、懐から底の抜けた柄杓を取り出し構えた。

「ははは、無理だよセーラー服のおねえさん。この熱狂が聞こえないの?こうしているうちにもチルノのフォームはどんどん綺麗になっていく。今のチルノを止められるやつなんて、何処にももいないのさ」

 チルノは今にも次の飛び込みを始めそうだ。

『グレッグ!グレッグ!』

『パット!パット!』

 チルノが満を辞して水面へと飛び込む。今までで一番の綺麗なフォームだ。同時に、村紗も柄杓を振り下ろす。村紗のその手は震えていたが、しかし確かに、力強く、柄杓は振り下ろされたのだった。

 瞬間、チルノが飛び込むはずの水面に〝穴〟が開いた。それはまさに、モーゼの起こした奇跡さながらだった。チルノはそのまま突如開いた〝穴〟へと飛び込んでいく。穴の底、それはすなわちプールの底。ゴツ、という嫌な音と共にチルノは消滅した。

 市民プールが、静寂に包まれる。向こうで金髪の妖怪と事の成り行きを見守っていた大妖精はしゅんとして、チルノのリスポーン地点へと一人で帰って行った。向こうでパトリシアマコーミックの名を掲げて飛び込みをしていた人間の子供は普通に引いていた。無数の視線が、村紗に突き刺さる。

「……これは、その」

「……ええと、私じゃなくて」

(そうだ!)

「……これは、守矢神社の東風谷早苗の起こした奇跡です。……はたまた、天罰か。みんな、東風谷早苗は知ってるだろう?そうともそうとも。な?有名だな?〝開海「モーゼの奇跡」〟。水に穴開けるなんてことが出来るのは、神様くらいだよなぁ?」

 静寂より静かな市民プール。ぽつり、ぽつりと雨のように、次第に声が降り始める。

「……守矢」

「……なんだ、守矢神社か。守矢神社の、東風谷早苗か」

 誰かの呟いたその一言を口火にして、子供達の声が、わっ、と湧き出した。

「なんだ!守矢神社の仕業か!」

「びっくりしたなあ!あのセーラー服のおねえさんを一瞬でも疑ってしまった自分が恥ずかしいや」

「やっぱり守矢は最低だな!信者をやめてしまおうと」

「やっぱ仏教だよ、仏教」

「私、家に帰ったら般若心経を読む!」

「仏教最強!」

 ああ、聖、みんな。見ているか?私の活躍を。そんなことを考えながら、村紗は泣いていた。

 ……。

 …………。

「テメェこらワカメ!人の話聞いてたのかよ!死んじまったじゃねえかチルノがよぉ!」

 プールの解放時間を終えた事務所に怒号が響く。あれから村紗はずっと泣いていた。なんだかもうわけがわからなくて、それが悲しかった。

「それにお前、能力使ったらしいな?書いてあるだろうが規則によぉ!プールでは人妖問わず、その能力の使用を禁ずってよぉ!お前、人間の子に話聞いたら普通に引いてたからな」

「のみならず、だ!お前そこで守矢の名前だしたらしいじゃねえか。どうしてくれんだよ、ただでさえ偽造通貨工場の件で微妙な時期だってのに」

「あーそれにまたチルノだ!またチルノ!クレームが来るよぅ、もう嫌だよぉ。怖いんだよぉ、レティホワイトロックがぁ」

 怒りのあまり情緒の安定が乱れたモブAがなんだか可笑しくて、村紗はもう何が何だかわからなかった。意味不明の涙が、嗚咽と共に村紗の頰を濡らしていく。

「あーもう!わかってんだろうなワカメ!もうお前がクレーム処理しろよワカメ!夏を寄越せと迫られるあの意味不明の恐怖はお前が引き受けろよ!泣いてんじゃねーよワカメがよぉ!泣きたいのはこっちなんだよ」

「ご、ごめんっ、なさっ、いぃ」

「あーもう泣くなよ!泣くなってぇ!わ、私まで……う、うぅ、うあぁぁ……」

 二人の泣き声が事務所に響き渡った。十二秒程経つと二人の胸中には、あれ、私はどうして泣いてるんだろう、という気持ちが起こった。それから二人は感情の着地点が見つからないまま一分ほど泣いて、何事もなかったように話を再開した。

「レティホワイトロックがなにさ。そんなに怖がることないじゃないか」

「わかってねえなワカメは。レティホワイトロックが夏を狙えば、春と秋が黙ってるわけねえだろ。そして今度はそいつらがうちにクレームを寄越すんだ。夏を寄越せってな」

「……ワカメっていうな」

「あ?」

「ワカメっていうな」

「あぁー?」

 顔を近づけて凄むモブAに村紗はすかさずチュッとした。モブAもすかさず村紗の頬を張った。

「あいつら、俺たち河童が縁日やらプールやらで夏の行事に事欠かねえからって、俺たちを夏扱いしやがるんだ。もちろん、初めのうちは奴らの矛先は河童に向く。しかし次第に、奴らの矛先は互いを向き始める。そうなると山の天狗が記事を書くんだ。『春秋冬、夏争奪戦争勃発。各地で冷害不作花粉症の被害。火種はあの河城カンパニーか』なんてな。それで、前のプールは潰れたんだ」

「へぇ」

「まあ、起きちまったもんは仕方ねぇ。それより気をつけないといけねえのはリグルだ」

「わたし、あの子きらい」

 リグルの顔を思い出すと、村紗は脳細胞が死んで行くのを感じた。リグルの声を思い出すと、村紗のふくらはぎが攣った。

「あの子、これ以上悪さするわけ?」

「おいおい、そんなこともしらねえのかよ。リグルっていったら、悪質なマッチポンプの害虫駆除業者で知られる、リグルナイトバグだろうが。その悪質極まりない手法で奴はどんどん同業他社を潰して回った。そうして付いた渾名は〝ムシキング〟。明日のプール開きには、うちのプールもフナムシだらけだろうよ」

「私、あの子こわい」

「俺もだよ。あいつには前の前のプールを潰されたんだ。それで、学んだ教訓がこれさ」

 モブAは事務所の金庫から札束を取り出した。

「リグルが手を差し出したら現金を乗せろ、河城カンパニーの社訓にまでなった。生憎、俺は明日の監視業務には参加できねえ。工場に行くんでな。だからワカ村紗、お前がやるんだ。できそうか?」

「ちょっと嫌だけど、やるよ」

「よし、頼んだぞ。じゃあ俺は工場に行く」

「あれ、工場に行くのは明日じゃないの?」

「ああ、今日はすぐに行って戻ってくるよ。にとりさんに今日のことを報告しなきゃいけねえからな。安心しろ、にとりさんは心の広いお人だ。そう簡単に首斬りにしたりしねえよ」

 村紗はそろそろ自分のスポンサーという立場を忘れかけていたが、にとりの名前が出たことによりどうにか踏み止まれた。それはさておき、村紗にはかねてから気になっていたことがあった。

「工場工場って言ってるけど、何の工場なのさ。また偽造通貨?」

 途端に、モブAが深刻な顔をした。

「……そんなこと、あるわけないだろ。こないだの一件で、にとりさん、ひいては俺たちは心を入れ替えたんだ。偽造通貨生産工場は全て取り壊した。もうこの地上のどこにも、そんな工場は存在しねえよ」

「そっか。ごめん」

「いいってことよ。ただ、周りにはもう少し信用して欲しいところだがな。ま、過ぎたことだ。悩んでも仕方ないさ。今出来ることを出来る限りやる、これも河城カンパニーの社訓だ。ははは。村紗、明日はよろしく頼むぞ」

「うん、そこそこ頑張る」

 そう言って、モブAは事務所内の階段を降りていった。

 監視員生活二日目の夜。村紗は命蓮寺で煮込まれているであろう二日目のカレーを夢想して眠った。

 明くる日、村紗はまだ客のない市民プール、その監視席に座っていた。妙に白んだ景色の中、モブAの言った通り、プールのそこらにはフナムシがひしめいている。そうこうしているうちに、プールに入場する者があった。他でもない、リグルナイトバグである。リグルは貼り付けたような微笑を浮かべて村紗に近付いた。村紗は監視席を降りてリグルを待ち構える。村紗の前まで来ると、リグルは出し抜けにその掌を村紗へと差し出した。村紗は半ば無感動に、リグルの掌に札束を置くのだった。

 それから、リグルは泳いだ。フナムシのいなくなった、まだリグル以外の誰もいないプールを、クロールで泳いだ。夏休みの宿題が終わった後のような達成感と、スポーツ選手の爽やかな笑みを足して二で割った様な笑顔を浮かべ、リグルはクロールで泳ぎ続けた。泳ぐリグルの二の腕や、しっとりと濡れた髪や表情に、村紗は一種少年的な艶かしさを感じて、変な気持ちになっていた。自分にとって〝生意気〟にしか感じられなかったリグルナイトバグの〝中性〟に、村紗は悶々としながら、リグル以外に誰も居ないプールの監視を続けたのだった。

 時刻はとんで、正午。いつの間にかリグルは消え、代わりにプールには蝉の声の中子供達のはしゃぐ声が疎らに響いていた。景色は依然として妙に白んでいたが、誰も気にする様子はなく、村紗もあまり気に留めなかった。村紗は白んだ景色のよりも、蝉の声が気になった。

「みーんみーん、うるさいなぁ。蝉」

「蝉なんて鳴いてないじゃねえか」

「そんなことないでしょ、ほら――あれ?」

 なんとなく返答したけど、モブAは今日工場のはずじゃあ。村紗はモブAの声がした方向を見やった。しかしどこにも、モブAの姿を見つけることはできなかった。村紗はちょっと寂しくなった。

 そんな折、プールの子供達が俄かに騒めき始めた。チルノが現れたのだ。チルノはプールサイドから静かに入水し、フチに沿うようにゆっくりと、しかし力強く歩き始めた。

「おい、あれみろよ」

「あれは確か昨日の……」

「今日は随分静かじゃないか」

「まさか生きてたとは」

 子供達が各々チルノの登場に反応する最中、プールの中歩み続けるチルノに背後から近付く者が在った。先日の、パトリシアマコーミックである。

「おいグレッグ!まさか無事だったとは」

 チルノはそんな呼びかけを無視して、歩みを続けた。しかし、チルノの背中は雄弁に、ある一言を語っていた。

〝あたいについて来い〟

 パットは震えた。わなわなと、その口を開く。

「お、おいみんな!グレッグ、いや、チルノに続け!」

 なんだなんだ、と騒めく市民プール。チルノはプールにムーブメントを巻き起こした。チルノは流れを創ったのだ。

(まあ、流れるプールくらい放っといてもならいいかな)

 村紗はチルノを先頭に歩き続ける行列を静観した。プールサイドで、大妖精はそんなチルノの英雄的行軍を心配そうに眺めていたが、隣にいたルーミアはそれほどでもなかった。

 暫くすると、プールには最早ちょっとした渦巻きが出来上がっていた。流れるプールの中を流されている子供もちらほらいる。村紗がそろそろ止めなきゃいかんな、と思い始めた頃、村紗の視界に蝙蝠とメイドが映った。

「日光とちょっとした流水の対策はしてきたけど、これは流石に無理ね。残念だけど、今日は諦めましょう。ね、フラン」

「お姉様は臆病だなぁ。あんなに特訓したじゃない。このくらいの流れなら何ともないよ。ねえ、咲夜?」

「ええ、お嬢様に不可能はございませんわ」

 刹那、村紗の視界に映る全てが動きを止めた。正確には〝咲夜〟と呼ばれるメイド以外の動きが、完全に止まったのである。あのメイドの仕業だな。どういうわけか、村紗は止まった時の中でそれを理解した。咲夜が「しらんけど」と呟いて、再び時間は動き出す。

「ほらお姉様?咲夜もこう言ってるし、ちょっと入ってみてよ」

「無理よフラン。流水どころじゃなく渦巻いてるもの。こんなところに入ったら、残機が減るだけじゃ済まないわっ、て、のわぁっ!」

 蝙蝠妹が姉蝙蝠を突き飛ばした。村紗とっさにメガホンを構えた。

「場内での危険行為はおやめくだ――

 

 瞬間、再度時間が止まった。またしても村紗は止まった時の中を認識することが出来た。今度はなんだろう。村紗が訝しんでいると、メイドが気怠そうにプールの出口へと一人歩き出した。メイドの姿が見えなくなって、不意に時間が動き出す。

 

――さーい!」

 時すでに遅し。姉蝙蝠もといレミリア・スカーレットは勢いよく流れるプールへと着水した。レミリアがプールへ落ちるが早いか、市民プールは眩い光に包まれた。一間遅れて、轟音。そして爆風。

 気が付けばプールの底には大きな穴が開いていた。村紗の口も、子供達の口も大きくあんぐりと開いていた。プールの底に開いた穴から、河城にとりの姿が見える。河城にとりは「あ、やべ」と呟いて、流れ込む水と共に姿をくらました。そう、プールの地下には偽造通貨生産工場が在った。逃げ遅れた河童たちは予想外の事態に慌てふためいては水に飲まれていく。子供達も底に開いた穴へと、偽造通貨生産工場へと流れ込んだ。先頭はやはりチルノだった。それを眺めていた大妖精は、穴の底を確認することもなく、しゅんとして、チルノのリスポーン地点へと項垂れて歩き始めた。ルーミアは笑顔で手を振った。

 村紗はモブAの姿を探そうと必死だったが、けたたましい蝉の声がそれを邪魔した。村紗の聴覚を、蝉の鳴き声が攫っていく。

 

 場面はとんで、木々の中。村紗とモブAは横並びになって木立の間の均された道の上を歩いていた。

「サングラスは?」

「あれはプールの時だけしかしないんだ」

 ぽかぽかとした陽光の中、二人は仲良く歩いている。

「口調も、プールの時だけ?」

「……口調はちょっと、素かもしれない」

「そうなんだ」

「そうだよ」

 相変わらず、景色は白かった。村紗は並んで歩く自分とモブAを、俯瞰しているような、変な感じだった。

「ねえ、私のほっぺた。ぶったよね」

「そうだっけ」

「そうだよ」

 ふふ、と笑った村紗は、どことなく幸せな気持ちだった。村紗はまた、モブAにねぇ、と語りかけるも、モブAの声がそれを遮った。

「なぁ村紗。私な、そろそろ――」

 急に、村紗の頭の中で蝉の声が響いた。

「蝉がうるさくて、聞こえないよ」

「村紗、私――」

 頭の中の蝉の声が、どんどん大きくなっていく。

「聞こえないったら。もういっかい、もういっかい」

「――――。」

 そのうち、蝉の声以外なにも聞こえなくなって。村紗の世界を、白い光が塗り潰したような、暗転したような。

 

 

 

 

「……うーん……んん……」

 気が付くと、村紗は布団の上に横たわっていた。村紗が瞼をうっすら開けると、傍から声が降ってきた。

「おはよう村紗。どう、少しは熱下がった?」

「……蝉が……うるさ……」

「まだ言ってるし。今何月だと思ってるのよ。蝉なんてまだまだ土の中よ」

 あれ、一輪の声だ。何故。村紗は判然としないまま口を開く。

「ええ……?なに、いま……いま何時?……夕方?」

 村紗はここでようやく夢から覚めた。ぼんやりとした視界に映る障子は、薄暗い光に照らされていた。

「明け方よ。まだみんな寝てるわ」

「ああ、そうか。……看病してくれてたの?悪いね」

「いいのよ。村紗のおかげで退屈しなかったわ。笑ったり、泣いたり、喚いたり。ふふ、誰よ〝グレッグ〟って」

 自分の寝言を指摘された村紗は少々バツの悪そうに答える。

「ああグレッグ、グレッグはたしか……あれ?ダメだ忘れてら」

 村紗の夢の記憶は既に曖昧になっていた。

「えー。じゃあそうだ!モブ江って誰よ。そのモブ江って人のこと、一番呼んでたわ」

 村紗は夢に出てきた彼女の名前を間違われたことが妙に引っかかり、一輪が尋ね終わるより早く口を開いた。

「モブ江じゃない!モブ江じゃなくて……なんだっけ」

 村紗の言葉に、一輪はくすくすと笑っていた。

「やっぱりまだ熱があるんじゃない?まだ寝てたらいいわよ。朝の読経も休むって、姐さんには言っておいてあげる」

 一輪の看病もあってか、村紗の体に気怠さは欠けらも残っていなかった。村紗は布団の中で伸びをして、一輪に答えた。

「……いやいい。もう大丈夫そう。悪かったね、看病なんてさせてさ」

 村紗がそう言うと、一輪はいいったら、大丈夫そうなら安心したわ、と言い残してお堂へと去っていった。今日のお堂の掃除は一輪が当番の日だったのである。村紗の胸中にて、看病してくれたこともあるし、お返しに掃除を手伝ってやろうかなという気が起きたが、村紗はすぐにそれを、病み上がりだし、と掃き捨てた。

 上体を起こして、戸を見やる。戸に貼られた障子はやはり鈍い朝焼けを薄暗く遮っている。村紗は伸びをする気力もないままに立ち上がり、何か冷たいものが飲みたいと、冷蔵庫に向かうのだった。縁側を伝い居間にある台所へ向かう。外は薄っすらと明るかったが、太陽はまだ見当たらなかった。朝の新鮮な空気が村紗の肺に心地よい冷たさを運ぶ。庭を見やると、小さな池がぼんやりと紺色の空を仰いでおり、その傍には紫陽花が綺麗に咲いていた。お堂の前を通る際、村紗は片手を上げ、床に雑巾をかける一輪に軽く礼をして通り過ぎた。居間を抜け台所に入り冷蔵庫の戸を開ける。冷蔵庫には作り置きの麦茶が在ったので、村紗はそれをコップにも注がず〝滝飲み〟にした。これをやると命蓮寺の面々に注意されることは承知の村紗だったが、それも、病みあがりだし、と掃き捨てた。

 空になった麦茶の容器をシンクに投げ、冷蔵庫を閉めようと手を伸ばしたその時、村紗の視界に気になるものが映った。

(おお、冷蔵庫にこんなものが。これはアレだな、病人の私を労わるつもりで誰かが買ってきてくれたんだろう)

 それはプリンだった。村紗は蓋を開け、大きく開けた口の上にプリンの容器を逆さまにし、容器の底をプッチンしてプリンを一飲みにした。これをやると命蓮寺の面々に勿体ながられる村紗だったが、病みあがりだし、とそれも掃き捨てた。同時に、台所の隅のゴミ箱に向かって空になったプリンの容器も投げ捨てた。プリンの容器がゴミ箱に収まる瞬間、容器に何やらひらがなで名前が書かれているのを見つけた。村紗はそれを自分の名前だと疑わなかったが、代わりに「ひらがなて、村紗水蜜やぞ」と意味不明の台詞を吐いて、上機嫌で寝室に戻った。

 村紗は二度寝をする際、布団の中で、台所に在った鍋の中身(カレー)を思い出しながら、いい気分で眠りについた。

 村紗が次に目を覚ますと、空はすっかり明るくなっていた。しかし村紗が時計を見やると、時間は三十分ほどしか経過しておらず、それはちょうど朝の読経の時刻だった。村紗がぐーんと伸びをして、障子の張られた戸を開き外を見やると、空はさっぱりと晴れており、青々とした空には白くて大きな雲が疎らに浮かんでいた。

 そんな空を見て、村紗は今朝見た夢に想いを馳せた。夢の中の暑い夏や、名前も思い出せない少女のことが妙に恋しく感じられて、村紗は照れるようにはにかんでいた。

 ふいに、寝室の前をどたどたと一輪が通り過ぎる。村紗は慌てる一輪を引き止めて、一緒にお堂へと向かうことにした。

 縁側を伝いお堂に入ると、聖白蓮は既に倍を構えており、今にも磬子を鳴らしそうだ。聖の後方に、命蓮寺の面々は既に静粛として座っており、一輪はその中にちょうどいい隙間を見つけて、そそくさと其処に座った。お堂、といえども境内の堂は小さく、せいぜいちょっと広い仏間程度なものだった。床に関しては畳である。堂の戸は開け放たれていて、気持ちのいい日の光が涼やかな風とともに差し込んでいた。

 そんな空間に、聖をはじめとした面々が座っている。その中に幽谷響子の姿を見つけた村紗は、響子の隣に座り、響子に小声で話しかけた。

「よぉ、来てるなちんちくりん。最近は熱心じゃないか」

 響子は笑顔で答える。

「あ、村紗さん。おはよーございます!えへへ、最近はお経も最後までちゃんと読めるようになったんですよ」

「ほお、それはそれは」

「それより村紗さん、お熱はもう大丈夫なんですか?」

「なんだ響子まで知ってるのか。ええ、ええ、お恥ずかしながら、今朝良くなりましたよ」

「よかった!ぬえさんから聞いて、心配してたんですから。ああ、そうだ村紗さん。私が今朝ここに来たとき、ぬえさんがなにか泣きながら出て行っちゃったんです。なんでも、プリンがどうとか」

「ああ、そりゃあ……」

 瞬間、磬子の音が堂に響いた。村紗と響子は慌てて両掌を合わして目を瞑った。響子は注意を恐れての行動だったが、村紗は違った。村紗にとって読経の時間は修行よりも修行めいていた。気を抜くと、成仏してしまう為である。お堂に向かう最中一輪の放った、

「病みあがりで読経に参加するなんて、村紗もなかなか度胸があるわね」

 なんて言葉を思い出そうものなら、村紗は忽ち経に滅されてしまう。村紗が気張ると、聖白蓮が徐に口を開いた。

「ぶっせつまーかーはんにゃーはーらーみーたーしんーぎょー」

 再度、磬子が倍によって打ち鳴らされる。

 

『かんじーざいぼーさーぎょうしんはんにゃーはーらーみーたー』

……。

 読経の最中、村紗はなんとはなしに、自身の見た夢について思い返していた。

(うーんなにか、楽しいやつが居た気がするぞ)

 村紗は夢に出て来た少女に想いを馳せた。

『ふーじょうふーめつふーくーふーじょうふーそーふーげん』

(おおよそ、儚さとは無縁の奴だった気もするけど、今思い返せば、どことなく儚げに思えるのはあの〝おかっぱ〟のせいかもしれないな)

 村紗は既に輪郭の曖昧になった彼女を薄っすらと思い浮かべては、幾許の寂しさを感じた。

『むーげんかいないしーむーいーしきかいむーむーみょうやく』

(ああ、意外と覚えてるぞ、私。たしかサングラスを……かけてなかったかな。どうだろう)

 村紗は夢の内容を殆ど忘れていたが、一つだけ覚えていることがあった。夢の中で自身とその少女は〝ちゅー〟をする仲だったという事がそれだ。そんな記憶が、村紗の中の少女像を妙に甘ったるくさせ、村紗を回想に執着させるのだった。

『はんにゃーはーらーみーたーこーしんむーけーげーむーけーげーこむーくふー』

(せめて名前だけでも思い出してやれたら、なんだか奴も救われるような気がするんだけどなあ)

 そんな村紗の聴覚に、不意に蝉の声が響いた。村紗は驚いて、咄嗟に堂から庭を見やった。

 しかし、そこに在ったのは、青い空を映した小さな池と、元気良く咲く紫陽花のみだった。気付くと、蝉の声も消えていて。その時、村紗の頭の中で彼女の名前が思い出されたが、村紗の中に浮かんだ彼女の名は、到底名前と呼べる代物ではなかった。

(ま、所詮は夢ってことだな)

 それでも村紗は彼女の名を浮かべながら紫陽花を見やり、記憶の中の彼女に、哀れむような、思いやるような微笑みを贈るのだった。

『ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてーはらそうぎゃーてーぼーじーそわかー』

「あ、やべ」

 村紗は消滅した。経が途切れ、聖は振り向くことなく、

「どうしましたか?」

 と皆に尋ねた。

 サビの部分を邪魔され少し不満そうな一輪が口を開いた。

「姐さん、村紗が消えました」

「まあ」

 聖はやはり振り向くことなく、口を開いた。

「それでは、消えてしまった村紗の為にも、今度はもっと元気良く唱えましょう」

 皆元気よく、はーい、と応えた。

「んっんー。それでは」

「ぶっせつまーかーはんにゃーはーらーみーたーしんぎょー」

 チーン、と磬子が鳴り響く。

「元気よくー、せーのっ」

 

『かんじーざいぼーさーぎょうしんはんにゃーはーらーみーたじーしょーけんごーうんかいくー……』

 

 さっぱりとした五月の空の下。

 〝元気のよい〟命蓮寺のお経は、いつまでも、どこまでも、響いていたのだった。




エンディングはデイドリームビリーバーと般若心経のマッシュアップです


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