鈴木悟の妄想オーバードライブ (コースト)
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一章 転移、転生、カルネ村
1話


※CAUTION

この二次創作小説には、厨二病成分、TS成分、ガールズラブ成分などが含まれています。また原作設定の大幅な改変があります。そういったものを許せない方は、ブラウザバックすることをお勧めします。この二次創作小説に登場するオリジナル魔法はD&Dから引用しています。


 DMMORPG『ユグドラシル』はサービス終了の時が迫っていた。

 

(ヘロヘロさんも来てくれるって言ったけどまだ早いかな)

 

 異形種ギルド、アインズ・ウール・ゴウンのギルドマスターであるモモンガは、円卓の間で最後のギルドメンバーのログインを待っていた。名前が残っていた3人のメンバーに、サービス終了前に会おうと連絡をしていたからだ。

 

 サービス終了で全てが消えてしまう事への絶望と悲しさの峠も過ぎ去り、今はただ静かに終わりを見届けたい、という諦観がモモンガの心を支配していた。既に2人のメンバーとの最後の別れを済ませていたが、最後の一人ヘロヘロだけがまだログインしてこない。

 

 とはいえサービス終了予定時刻の24時までには、少し時間があった。

 

(微妙に手持無沙汰なんだよなあ。かといってここから動けないし)

 

 ギルドメンバーがログインすると特殊な事情がない限りこの円卓の間に現れる。真っ先に仲間を出迎えたいモモンガとしては動く訳にはいかなかった。暇に任せてゲーム内オークションを覗くと貴重なアイテムがタダ同然で売り出されている。伝説級や神器級の強力な品のみならず、中にはゲーム全体で200個しかないワールドアイテムすら出品されていた。

 

(もうすぐ全部消えるんだもんな……)

 

 更新するたびに大量追加される出品リストをぼんやり眺めていたモモンガは、その中に知らないワールドアイテムを発見し、衝動的に購入してしまった。破格の効果を持つワールドアイテムだがユグドラシルのサービス中にプレイヤーに発見された物は100個にも満たない。モモンガが知らない品があるのも当然といえた。

 

 『妄執と追憶』という名前のそれは、使用すると特別な種族に転生するという消費型のワールドアイテムだった。

 

(消費型だって!?)

 

 ワールドアイテムの中でも特に強力で一度使うと消滅してしまう品は、その数を取って『二十』と呼ばれ、どれもこれもバランスブレイカーな性能を持っているのだが、これはその中に含まれていない。

 

「ずっと二十だと思われてたものが二十一だったのか。これはヘロヘロさんもきっと驚くぞ」

 

(と思ったら種族クラス全消去?転生先の種族が使用者によって変わる?うーん、微妙……)

 

 ユグドラシルのキャラクターが取得できるクラスには、ファイターなどの職業系クラスとスケルトンなどの種族系クラスがあるが、このワールドアイテムを使用すると種族系クラスが消去されて新しい種族クラスの1レベルを取得した状態になるらしい。ユグドラシルは上限が100レベルなので、人間種キャラの場合はおそらく最後に取ったクラスが消えるのだろう。

 

 モモンガの場合、アンデッド系の種族クラスが削除されることで、100レベルから61レベルに下落することになる。隠しクラスの条件を満たさなくなることを考えると56レベルかもしれない。一から作り直す気概がなければ、使うのが躊躇われるワールドアイテムだ。

 

 しかしサービス終了直前の今、そんなデメリットに意味はない。むしろ最後に未知の『二十』いや『二十一』を使える、という誘惑には抗い難いものがあった。ギルド拠点の維持の為だけにログインしていた長い期間忘れていた興奮と期待感が、モモンガの心に蘇ってくる。

 

(もう最後だし、使っちゃってもいいよな?折角ならどんな能力かもじっくり見たいし!)

 

 ヘロヘロがログインしてからとも考えたが、モモンガは久方ぶりの高揚感を抑えきれなかった。

 

「よし!使うぞ!!」

 

 ワールドアイテムの絶大な力が解放される。照明が落ちるようにモモンガの視界が暗転した。一瞬の後に目に飛び込んできたのは、眩い日差しに照らされた一面の草原と、美しい青空だった。どことも知れぬ草原にモモンガは一人立っていた。

 

「……は?」

 

(転移させられた!?そんなバカな!)

 

 モモンガのいたナザリック地下大墳墓はワールドアイテムによって守護されている。外部からの干渉など受け付けないはずだ。

 

(こんな草原と青い空、ヘルヘイムにはないぞ!?)

 

 一つだけ分かることは、モモンガが今いる場所はナザリック地下大墳墓でもなければ、ユグドラシルにおいてナザリックが存在するワールド、寒冷で陰鬱なヘルヘイムですらないということだ。

 

 モモンガが感じ取った異変はそれだけに留まらなかった。青草の匂い。日差しが当たった肌がじんわりと温められる感覚。そよ風が肌を撫でる感触。すべてユグドラシルではありえないものだった。

 

 さらに全身から違和感を感じたモモンガが自分の身体を見下ろすと、ローブの胸の部分が大きく膨らんでいる。さらに胸から肩にかけてずっしりとした重みが感じられた。慌ててローブを脱ぎ捨てたモモンガは、そこで己の目を疑う物を目にして愕然とする。

 

「女……のアバター……だと」

 

 視界を覆った白い肌と大きな乳房に、モモンガの目は釘付けになった。恐る恐る手で持ち上げると微妙にくすぐったい。間違いなく自分の身体のようだ。その事実にさらに驚愕を隠し切れない。そもそもユグドラシルでこんなことをしたら、運営が黙っていないはずだ。

 

 ならばこれはどういう状況なのか。ここまで事実が積み重なれば嫌でも理解させられてしまう。

 

(現実なのか、これ)

 

 草原を渡る風に、艶やかな黒髪がさらさらと揺れる。モモンガは胸から手を放して途方に暮れた。これが現実だというなら、今のモモンガは見知らぬ場所に女の身で一人ぼっちという事になる。この現象が自分だけなのか、他のプレイヤーもそうなのか。これからどうすればいいのか。身につけている物と言えばユグドラシルの装備品くらいだ。

 

(待てよ。ユグドラシルのアイテムがそのままなら、アイテムボックスも使えるんじゃ?)

 

 モモンガが適当に念じながら手を伸ばすと、空中に濃い靄のような塊が生まれる。やがて靄の中心が晴れると、ユグドラシルでモモンガが持っていたアイテムが整然と並んでいるのが見えた。装備品魔法の巻物、ポーションなどすべてが揃っている。ただ、モモンガが常に腹部に装備していたワールドアイテムだけは見当たらなかった。

 

(やった!なんとかなりそうだぞ)

 

 両の拳を握りしめてガッツポーズをしたモモンガは、全身の装備品を神器級の最強装備に取り換え、姿見を取り出して覗き込む。そこにいたのは想像した通りの黒髪の女だった。それも男の願望と妄想を煮詰めたような、可憐さと色っぽさの狭間の美少女である。

 

 スタイルに反してあどけなさの残る顔は、プロの3Dデザイナーだったギルドメンバーが作り上げたNPCに勝るとも劣らない。何より重要なのは、モモンガの好みのど真ん中だということだった。

 

(おぉ……でも自分がなるのはどうなんだ、複雑……)

 

 どれだけ美人で好みでも、反応するモノがないという悲しさ。これはむしろ究極の生殺しというものではないだろうか。

 

 装備品の外見も変わっている。魔法が付与された装備は、使用者の体型に合わせて自動的に調整されるという基本機能があるが、今のモモンガの装備は露骨に身体の線を見せつけるような形状に変化していた。

 

 布地が薄く滑らかになってフードは消え、一際目立っていた肩当ては小型化して形状も変わった。大きく開いていた胸元は閉じられたが、代わりに背中が開いて肌が露出している。肩口や袖や裾の形状、腰回りから太腿にかけてのラインといい、もはやローブというよりドレスに見える。マントも丈が少し短くなり、八の字のような形状に変化していて、動くと腰や背中が見えそうだ。

 

 それを見たモモンガは一言こう漏らした。

 

「うわあエッロ……ペロロンチーノさんが見たら喜んだだろうなあ」

 

 もはや二度と会えないだろうギルドメンバーの名を呟きつつ、モモンガは姿見の前で色々なポーズを取って身体の動きを確かめる。

 

(エロいのはいいけど、悪の魔法使いの威厳と迫力はなくなったな……やっぱり軍服か)

 

 紫色の瞳に意志の強そうな目元だが、10台にしか見えない顔では邪悪な魔術師路線には少し無理があるように思える。そこへいくと男が着ても女が着ても埴輪が着てもかっこいい軍服は、やはり万能ということなのだろう。

 鏡の前でひとしきり身体を動かしたモモンガは、自分の身体として何も問題がないということを確認する。気になる事があるとすれば、動くたびに布地に肌を撫でられるくすぐったさと、胸に振り回されるような感覚にモヤモヤしたものを感じるくらいだ。

 

(まあ神器級のローブはこれしか持ってないし仕方ない……よし次は……ふふふ)

 

 次に確かめるのはもちろん戦闘能力だ。現状があのワールドアイテムの効果なら、レベルダウンに従って使える魔法の数が大きく減っている可能性が高い。緊張しながら行使可能呪文のリストを思い浮かべた時、モモンガは驚愕に目を見開いた。

 

「これがワールドアイテムの効果!?微妙どころじゃないぞ!!」

 

 今のモモンガはユグドラシルで習得していた718種類の魔法全てを使用できる上に、クラス制限と習得上限を無視して、あらゆる魔法を習得可能な状態になっていたのだ。実際に覚えられるかは別としても、副次効果としてあらゆるスクロールやワンドを使えるようになった、というのは非常に大きいメリットだ。指輪の装備枠も幾つか空くので、耐性やステータス強化に回すことができる。

 

(魔法強化技術も全て使えるな。種族名が分からないけど、せっかくだし『アーケインルーラー』でいくかな!)

 

 魔法には一際思い入れがあるモモンガだけに、この結果は予想以上だった。「使用者によって転生先が変わる」という説明はこういう事だったのか、と表情が緩むのを抑えきれない。ここまで巨大なメリットに比べれば、骨から女になるくらいなんだというのか、と己に言い聞かせる。

 

 未使用のまま無くなってしまったものに若干思うところがないでもないが、どうせ使う予定もなかったものだ。モモンガは不自然なほど自然に現状を受け入れていた。そんな()()()()よりもモモンガはこの現実と化した世界で魔法を試したくて仕方がなかった。アーケインルーラー(自称)のレベルが上昇した時を考えると、期待感は上がる一方だった。

 

 モモンガはおもむろに半身になって足を肩幅に開くと、離れた草むらに向けて右手を差し伸べた。こんなポーズを取らなくても狙った方向に魔法を発動できることは理解していたが、モモンガの中の何かがそれを許さない。わずかに上ずった少女の声が、力ある言葉として紡がれ魔法を発動させる。

 

<魔法三重化>(トリプレットマジック)<火球>(ファイアボール)

 

 モモンガの掌の先に生まれた3つの火の玉が高速で空中を駆ける。先を争うように目標の草むらに着弾すると、破裂して飛び散り一帯を焼き払った。着弾地点の地面は抉れ、草は黒焦げになって延焼し、吹き飛んだ土砂が頭上から降り注いでくる。

 

「は、はははは!ユグドラシルとは比べ物にならない!!本当に魔法じゃないか!!」

 

 下腹に響く轟音と振動。吹きつける熱気。飛び散る灰と土砂。焼け焦げた草の匂い。現実ゆえの圧倒的な臨場感。眼前の光景を己の意志一つで引き起こしたことを理解して、モモンガの興奮は頂点に達した。飛行魔法を使用して狂ったように笑いながら飛び上がり、モモンガは上空から地上を見渡した。鈴木悟が生きていた現実では、見ることができなくなった雄大な自然をじっくりと目に焼き付ける。

 

「はははは、は……はぁ」

 

(やっぱり種族スキルは使えなくなってるか。でも魔法がそのままだっただけで十分だ)

 

 オーバーロードやエルダーリッチのようなスケルトンメイジ系の種族クラスで覚えるスキルは軒並み使えなくなっているようだった。現在レべルや能力値や耐性など細かく確認したい項目は多いのだが、コンソールが開けない現状では確認のしようがない。

 

(コンソールが開けないのは本当に困るな……ん、あれは煙か?人がいるのか!?)

 

 ぶつぶつと独り言を言いながら飛行を続けるモモンガの視界の先に、数条の黒い煙が見えた。やがてそれはどんどん大きくなり、小麦畑に木柵、みすぼらしい家々が見えてくる。中で動く人や馬の姿も確認できるようになってきた。

 

(村だ!人がいる!……って、なんか様子が変だぞ?何人も倒れて……!?)

 

 村では馬に乗って武装した人間が丸腰の人間を追い回し、何の躊躇もなく剣を振り下ろしていた。斬られた方はバタリと地面に倒れ、起き上がる様子がない。それがどういう意味をもつのかは暴力と無縁の生活をしてきたモモンガにも分かる。

 

(ひっ、人殺し!)

 

 よく見れば村のあちこちに血の跡があり、何人もの人が倒れている。武装した兵士が民間人を一方的に殺害しているとしか思えない状況だった。モモンガは慌てて急降下して地面に伏せる。

 

 兵士達に見つかれば自分も殺されるに違いないと思ったからだ。それどころか今の自分の身体を考えれば、もっと酷い目にあう可能性もある。経験したことのない恐怖にモモンガの身体が震えた。魔法が使えると言っても今はレベルが下がっているはずだし、相手の強さも分からないのだ。なによりモモンガは自分が現実で戦うことなど出来る気がしなかった。

 

<完全不可知化>(パーフェクト・アンノウアブル)!」

 

 モモンガは魔法によって己の姿と気配を遮断する。これでひとまず安心と言えるが、この魔法も絶対ではなく見破る方法はいくつもある。己の身の安全を考えるなら一刻も早くこの場を離れるのが正しいのだろう。

 

(でも、無抵抗の村人を武装した兵士が一方的に殺すって……ひどいな)

 

 一応の安全を確保したという余裕からか、モモンガの胸の内に理不尽な蛮行への怒りが湧き上がる。それは鈴木悟が生きていた歪みきった社会への憤りと同じものだったのかもしれない。かといって恐怖が拭えるはずもなく、憤りとの板挟みにあって立ち去ることも出来ない。

 

 モモンガがジリジリと焙られるような気分で村の様子を窺っていると、すぐ近くから悲痛な子供の悲鳴が上がった。

 

 その声を耳にしたモモンガは、激情に突き動かされて宙を駆ける。前方には剣を振り上げた兵士と二人の少女がいた。剣を振りかぶる兵士の前で、栗色の髪の少女が幼い少女をかばうようにきつく抱きかかえるのが見えた。

 

「やめろ!<現断>(リアリティ・スラッシュ)!」

 

 膨大な魔力で生み出された力場が刃となって、まっすぐに伸ばされたモモンガの手から放たれる。超位魔法を除いて最高の瞬間火力を持ち、魔法抵抗力を無視する巨大な魔力の刃が、兵士の首を容易く切断した。あまりの切れ味に兵士は自分が死んだことにすら気づかず、立ったまま硬直する。頭を無くした胴体からどくどくと鮮血が吹き上がった。

 

(く、首っ!?首が飛んだ!血、血が出てる!死んだ!?殺した!?俺が!?)

 

 自分がやったこととはいえ、モザイクなし臭い付きのリアルグロ描写に、モモンガは一瞬気が遠くなる。肉と言えば整形された合成肉しか見たことがなかっただけに、ショックが大きすぎた。

 

 そして攻撃をしたことで<完全不可知化>(パーフェクト・アンノウアブル)の効果が途切れる。モモンガは青ざめた顔で口に手を当て、吐き気を堪えながら少女たちの近くに着地した。

 

(人殺し……人殺しになっちゃったよ……違う……これは違う……わざとじゃないんだ……)

 



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2話

(……あ、れ?)

 

 予想していた痛みがやってこない。

 

 目を閉じて妹の身体を抱きしめていたエンリ・エモットが、不審に思って薄く目を開けると、一陣の突風が吹き抜ける。小さな悲鳴を上げて再び目を閉じたエンリは、全身に生暖かい液体が降り注いでくるのを感じて後ろを振り返った。

 そこには首の無い兵士が剣を振り上げたまま固まっていた。胴体から噴水のように噴き上がった血が容赦なくエンリの身体に降り注ぎ、髪も服も赤く染められていく。

 

「いやああああ!!」 

 

「うわああああ!?」

 

 エンリの悲鳴と聞き慣れない少女の悲鳴が重なった。

 

「……え?」

 

 困惑するエンリの前に、いつの間にか一人の女性が立っていた。この辺りでは見かけない黒髪に紫の瞳。意志の強そうな整った顔立ち。世にも美しい少女がそこにはいた。

 

「あ……あなたが、助けてくれた、の?」

 

「そ、そう、みたいだ」

 

 青ざめた顔の少女が引き攣った笑顔を浮かべる。死体を視界に入れないように顔を背け、横目でエンリの顔を覗き見ていた。歳はエンリと同じか僅かに上くらいに見えたが、スタイルが良く、髪も肌も信じられない程綺麗で、同性のエンリですら見惚れてしまうくらいの美人だった。

 身体の線がよくわかるドレスを着ているが、不思議と下品に見えないのは、それが途轍もなく高級なものだと分かるからだろう。

 

(こんな人っているんだ……)

 

 同じ女としても、自分とのあまりの差に嫉妬すらわいてこない。むしろこんな綺麗な人と結婚できる男の人が羨ましく思えてしまう。全身が血まみれなことすら忘れて、エンリは暫くの間、目の前の少女と見つめ合った。

 

 どれほどの間そうしていただろうか、頭を失った兵士の体がドシャリと音を立てて地面に倒れると、エンリの背中に先程兵士に斬りつけられた痛みが戻ってくる。心配そうな妹の前で必死に表情を取り繕うが、焼け付くような痛みは耐えがたく、呻き声が漏れるのを止められない。

 

「うううっ……」

 

「あ……怪我してたんだな。これを使うといい」

 

 そう言って黒髪の少女が差し出してきたのは、それだけでも売り物になりそうなほど美しい小瓶。中に入っているのは毒々しいほど赤い液体だった。状況的に回復のポーションなのだと想像はつくが真っ赤なポーションなどエンリは見たことも聞いたこともない。

 

「え……あの、これは?」

 

「はやく飲んで」

 

 さすがにエンリは躊躇するが、この美しい少女はたった今自分と妹のネムを助けてくれたのだ。そのネムも彼女に見惚れているのか何も言わない。きっと悪いことは起きないだろうと、エンリは意を決して蓋を外し、瓶に口をつけた。

 

 受け取ったポーションを飲み干すと、焼けつくような背中の痛みが水に溶けるように消えていく。見た目は返り血で酷いことになっているが、立つことも走ることも問題はなさそうだった。

 

「嘘……すごい……」

 

「おねえちゃん、だいじょうぶ?」

 

「うん、もう大丈夫。この人が助けてくれたから」

 

 腕の中で心配そうにしているネムをあやしながらエンリは立ち上がった。

 

「助けてくれてありがとうございます!私はエンリ・エモット、こっちは妹のネムです。良かったらあなたの名前も教えてくれませんか?」

 

                   ◆

 

 モモンガが勢いで助けた血まみれの少女はエンリ・エモットと名乗った。助けられたのはいいが言い訳できない人殺しになってしまったことに、モモンガは強いショックを受けていた。あの兵士がこんなに弱いと知っていれば、もっと弱い魔法を使っていただろう。

 

 咄嗟の事で夢中だったので、とにかく強い魔法をと考えて選んだ<現断>だったが、魔法強化技術も使っていない一撃で死ぬとは思わなかったのだ。

 

 しかしやってしまった事はどうにもならない。それに放っておけばこの姉妹が殺されていたのだ。やりすぎかもしれないが、間違ってはいないはずだった。下手に蘇生などできないし、このまま放っておくしかないだろう。とにかく今は一刻も早くここを立ち去るべきだ。

 

「な、名乗る程の者じゃない。それじゃ」

 

 背を向けて飛び立とうとするモモンガをエンリの悲痛な声が呼び止めた。

 

「あの!助けてもらった上にこんなこと頼める立場じゃないってわかってます。それでもどうか!どうかお願いします!両親を、村を助けてほしいんです!私にできることなら何でもしますから!」

 

「……えー……」

 

 目に涙を浮かべながら懇願してくるエンリを見て、モモンガは途方に暮れた。元々こんなことをする気はなかったのだ。悲鳴を聞いたら頭が真っ白になって飛び出してしまい、結果として二人が助かったというのが正しい。村を襲っている兵士達を排除して村人を救出するとなれば、一体どれだけの人間を殺さなければならないのか。

 

「お願い……します……どうか……」

 

「おねがいします!」

 

 モモンガが断りかねている間にネムとかいう幼い少女まで追加される。これで見捨てて飛び去るというのはあまりにも寝覚めが悪い。結局、一度関わってしまった以上最後まで面倒を見なければいけないということなのかと、モモンガは大きく息を吐いて向き直った。

 

(というかこの子恐いよ……全身血まみれで必死の形相だし……俺のせいなんだけどさ!)

 

 このクエストを引き受けるとして、どうすればいいかと考えたモモンガは、別に殺す必要はないことに気づいた。あれほど弱い相手なら、状態異常魔法で無力化することも可能なはずだ。捕えた後で村人に殺されるかもしれないが、それはモモンガの知った事ではない。

 

(万が一のためにアンデッドを作るか?いや、この作戦なら俺一人の方がいいな)

 

「わかった。何とかやってみよう」

 

「ほ、本当ですか!ありがとうございます!ありがとうございます!」

 

 モモンガは大喜びで頭を下げ続ける二人を落ち着かせ、その場にいるように言いつけていくつか

の防御魔法をかけていく。選んだ魔法は3つ。

生物の接近を阻む魔法、<生命拒否の繭>(アンティライフ・コクーン)

射撃攻撃を弾く魔法、<矢守りの障壁>(ウォールオブプロテクションフロムアローズ)

魔法攻撃を防ぐ魔法、<対魔法領域>(アンティマジック・フィールド)

 

 こういった魔法を見たのは初めてなのか、エンリとネムの姉妹は目を丸くして見入っている。ここまで素直に感動してくれるのは、モモンガとしてもなかなか気分が良いものだった。

 

「その光の中にいれば安全だ。それじゃ」

 

「あの、どうかお名前を!お名前を教えてください!」

 

 ここまで来たら、さすがに答えないのも可哀想に思えてくる。

 

「俺……いや、私は」

 

 モモンガ、と言いかけて言葉に詰まった。それはアインズ・ウール・ゴウンのギルドマスターにして最高位のアンデッドとしての名だ。

 それは栄光あるギルドの終わりを見届けられなかった自分に、ただ一人のアーケインルーラーの少女としてこの世界に転生した自分に、相応しい名ではない。ヘロヘロとの待ち合わせをすっぽかしてしまった事も、鈴木悟の心に棘として刺さっていた。

 

 

「さと……サトリ。私の事はサトリと呼んでほしい」

 

 なんのことはない、本名の悟を少し変えただけだ。だがこの世界で生きていく限り、この名前こそが自分を表す記号なのだ。いつか帰る事が出来たら、その時はモモンガの名でヘロヘロに謝ればいい。

 エンリとネムが深く頭を下げるのを見てから、サトリは<完全不可知化>(パーフェクト・アンノウアブル)で姿を消す。そのまま誰にも気づかれることなくカルネ村の中へ飛んでいった。

 

                   ◆

 

「この野郎!汚い血がついただろうが!」

 

 ベリュースはとっくに動かなくなった中年の男の体を、繰り返し蹴飛ばしていた。久しぶりに若い娘を楽しむチャンスを台無しにされたのだ。無駄に抵抗された苛立ちもあり、剣で滅多刺しにしたが、いまだに気が収まらないでいた。報告を上げるべき上司がいなくなったせいで、村中を探し回る羽目になった部下のロンデスが、ようやくみつけたベリュースに感情を押し殺した声で呼びかける。

 

「ベリュース隊長。この村の掌握は完了しました。撤収の準備を」

 

「まだ逃げた娘がいる。捕まえて連れてこい」

 

「は……」

 

「安心しろ。俺の後でお前たちにも使わせてやる」

 

 またか、とロンデスは思ったが口には出さない。こんな人間でも上司は上司だし、本国ではそれなりの家柄だからだ。しかし、この男のせいで作戦に支障がでるようなことだけは避けなければならなかった。

 

「予定時刻も迫っておりますので、自分は遠慮しておきます。では、これで」

 

「ふん。さっさと行け」

 

 ベリュースは手を振ってロンデスを追い払う。寛大な上司が部下を労ってやろうというのに優等生ヅラをする可愛くない部下であるが、役には立つ。べリュースとてその程度の人を見る目はあった。

 

(精々働かせてやる。どのみち成果はすべて俺のものだ)

 

 喉の渇きを感じたべリュースは、何かないかと近くの民家の中に立ち入ったところで急に意識に靄がかった。目から意志の光が消え、口を半開きにして棒立ちになる。呆然自失のべリュースの前に、いつの間にか黒いドレスを纏った少女が立っていた。

 

「……隊長って言うからにはこいつが一番強いのか?その割には抵抗らしい抵抗もなかったな」

 

 安堵とも落胆ともつかない言葉を漏らすその少女は、ベリュースが今までに抱いたどんな女より美しい肌と髪をしていた。桜色の唇から紡がれる言葉は、ベリュースの耳には天上の琴の音色のように心地良く響く。

 

「お前の仲間を一人残らず村の広場に集めろ。今すぐに」

 

                   ◆

 

 村の広場には襲撃側の兵士たちが整列していた。生き残っていた村人はすべて村の共同倉庫の中に押し込まれている。ロンデスはあの好色で下劣な上司が「お楽しみ」を諦めて撤収を急がせた理由が気になったが、任務が時間通りに遂行されることに文句はないので、あえて問うこともしなかった。

 

「べリュース隊長。1名を除いて全員集結しました」

 

 ロンデスが同僚に話を聞いた限りでは、その1名は逃げた村娘を追って行ったらしい。状況的に近くにあるトブの大森林に迷い込んだ可能性がある。捜索に向かうべきなのだが上司の許可が出ないのでそれも出来なかった。

 

「隊長……?」

 

 整列せよ、と指示を出したきり、ベリュースは口を噤んだままだ。さすがに隊員たちも隊長の様子がおかしいことに気づいて動揺しはじめる。ロンデスの言を借りればべリュースの行動は常におかしいので、気づくのが遅れてしまったのだ。

 

 静かに動揺が広がる広場で、ベリュースのすぐ隣の何もない空間に、前触れもなく黒いドレスを身につけた少女が現れた。それは他の誰でもない、<完全不可知化>を解除したサトリである。一斉に剣に手をかけるロンデス達を前に、サトリは目を閉じてわずかに顔を背けると、芝居っ気たっぷりに指を鳴らした。

 

<集団人間種支配>(マス・ドミネイト・パースン)……全員、跪け」

 

 パチンと言う音と共にサトリが行使した魔法で、居並ぶ兵士全員の意識は深い靄に覆われる。命じられるまま一斉に地面に膝をついた。

 

「ふふふ。呆気ない。隊長が隊長なら部下も部下ね」

 

 余裕たっぷりに侮蔑の言葉を投げかけながら、養豚場の豚でも見るような目で兵士達を見下ろすサトリだが、その内心はギリギリだった。なにしろ人殺しが仕事の集団相手に、荒事の経験など皆無の人間が挑むのだから。

 

 魔法で制圧しているとはいえ、何かの拍子に格闘戦になったらと思うと、恐ろしくて足が竦んでしまいそうになる。初めて人殺しをしてしまった衝撃からも、まだ立ち直れていない。苦悩した末に鈴木悟が思いついたのは、ユグドラシルの時と同じようにロールプレイをすることだった。

 

 『魔法詠唱者サトリの中には闇の人格がいて、いつかサトリの身体を完全に乗っ取ろうと画策している。彼女は奔放で残虐で好色で(中略)絶大な魔力を自在に操る恐るべき魔人なのだ』

 

 ちなみにベースはペロロンチーノの作ったNPCシャルティアを参考にしていた。女性NPCで真っ先に思いついたのがシャルティアだったのと、彼女くらい突き抜けていたほうがやりやすいと思ったからだ。

 

「全ての装備を脱いでここに並べなさい。終わったら列に戻って……そうね、豚におなりなさい」

 

 傍若無人でサディスティックな絶対者を演じているサトリだが、冷や汗や細かな震えは隠せない。声に出さないようにするのがやっとだった。冷静になって考えれば、支配の魔法を受けてまともな思考力を無くした者達がそんなことに気づくはずもないのだが。

 

 居並ぶ兵士達は命令通りに身につけた全ての装備を外していく。数十人の男たちが躊躇なく下着を脱ぎ捨てたところで、サトリのロールプレイが剥がれた、もとい、闇のサトリの人格を振り払った。

 

「し、下着は脱がなくていい。というか脱ぐなよ。馬鹿かお前ら」

 

 魔法が付与された下着という可能性もなくはないが、そちらの嗜好がない鈴木悟としては同性のモノなど見たくない。ましてや数十人のそれが臨戦態勢になっている光景なんて軽くトラウマものだ。

 

(なんでこんな状態になってんの!?俺のせい!?<集団人間種支配>の効果中なのに……むしろ魔法で理性が飛んでるから!?)

 

 兵士の醜態を見ている内に、サトリはゾクリとしたものが背筋を走るのを感じた。今の自分の姿を見た屈強な男達が、本能を剥き出しに間抜けな痴態を晒している。もちろん魔法という前提があってこそだが、その光景はサトリの己の容姿への自信を高めただけでなく、説明しがたい衝動の火を胸の内に灯してしまった。

 

 目の間では下着一枚の兵士達が四つん這いになってフゴフゴと鼻を鳴らしている。そうさせたのは自分だ。サトリの口元に亀裂のような笑みが浮かんできた。この連中を思う存分玩具にしてさらなる醜態を晒させたら、どれだけの愉悦を感じられるだろうか、と。

 

(……って何考えてるんだ俺は!?まだ闇のサトリとの切り替えが上手くいってないな)

 

 サトリは軽く頭を振って燃え上がる感情を押さえつけた。さすがに今そんなことをしている暇はない。説明のつかない名残惜しさを感じながら、兵士の一人に命じて村人を解放させる。

 

 ぎゅうぎゅうに押し込められていた倉庫から解放され、広場へ飛び出してきた村人達が目にしたのは、黒いドレスを着た少女の前に下着姿でひれ伏す男達、という異様な光景だった。

 

 



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3話

 それから数時間後。

 

 生き残った村人で兵士達を縛り上げて村の共同倉庫に放り込み、亡くなった村人達の簡単な葬儀を済ませるという大仕事がようやく終わった。

 

 涙を堪えて両親を見送るエンリの顔を見た時、サトリの頭を蘇生という言葉が過ぎったが、結局それはしなかった。というより出来なかった。一度でもそれをやれば、キリがなくなることくらい簡単に想像がつくからだ。いずれ行使する時があるとしてもそれは今ではない。

 

 一連の作業中、サトリはアンデッドを生み出して手伝わせることも考えたが、肉親知人を殺されたばかりの村人の前でやることではないと思い留まる。代わりに村人達に上位の強化魔法をかけて回ったので、仕事は驚くほど短時間で終わったが、代償として彼女の魔力はほぼ底をついてしまった。

 

 その原因は魔力の最大値や残量を数値やゲージで確認できなくなった事もあるが、一番大きいのは魔法の行使が楽しすぎて調子に乗ってしまった事だった。

 

 

「村を救っていただいた上にその後のことまで……サトリ様には感謝の言葉もありません」

 

(サトリ様、か……落ち着かないけど止めてくれないだろうな……)

 

 髭を蓄えた初老の男性が先程から何度も頭を下げるのを見ながら、こういう風習はどの世界でも変わらないんだな、とサトリは見当違いの感想を持っていた。エンリと話した時に気づいていたが、普通に会話が成立している事への疑問も含めて、今は放り投げておくしかない。

 

「年長の方にそう何度も頭を下げられてしまうと、私の方も居たたまれません。偶然通りかかった私にたまたま力があっただけだと、そう思っていただければ」

 

 村長の家のテーブルで、村長の奥方が出してくれた白湯を舐めるように口にしながら、サトリはどうやって自分の望む方向に話を持っていくか考えていた。とにかく今一番欲しいのは情報だ。他に必要な物といえば食料だが、仲間用に持っていた物が少しあるので、今すぐ必要というわけでもない。

 

「それにあの兵士達の武具を頂きましたから」

 

「サトリ様。それは村からのお礼にはなりません」

 

「ではこうしましょうか。私は遠方からやってきた旅の魔法詠唱者で、このあたりの地理や文化を全く知りません。ですので色々と教えていただきたいのです」

 

「その程度はお安い御用ですが、あなた様が村にしてくださったことと比べれば……」

 

「もう一つ。私が訪れたことや使った魔法について、村の外部には決して漏らさないでください」

 

「そ、それはもう。サトリ様がそうおっしゃるのでしたら、村人一同、絶対に秘密を守ります」

 

 ようやく話がまとまりそうな雰囲気にサトリは人知れず拳を握りしめる。こんな会話はさっさと終わらせて、この世界の事が知りたかったのだ。

 

「ではそれでお願いします。くれぐれも」

 

「お待ちください。おそらく長い話になると思いますが、この村にはサトリ様のような方が滞在なされる宿がありません」

 

「御心配なく。村はずれの土地を貸してください。魔法で仮宿を作りますので」

 

(グリーンシークレットハウスを使えばいいしな。<要塞創造>(クリエイト・フォートレス)は過剰だし今は魔力もギリギリだし)

 

「なんと……サトリ様の魔法は、そのようなことまで」

 

「はい。ですから秘密にしていただきたいのです。お分かりいただけましたか」

 

 サトリは可哀想なほど恐縮している村長夫妻の手を取って強引に握手をかわした。この世界での初めての知的生命体との交渉は、ひとまず成功と言って良いだろう。あんな恐ろしい体験をしたのだから、得られる情報が有益なものであることを願うしかなかった。

 

                   ◆

 

「リ・エスティーゼ王国、バハルス帝国、スレイン法国、六大神……」

 

 気が付けば日が傾いてきている。村長が語ってくれた内容はとても興味深かった。何より重大なのは、この世界がユグドラシルが現実化したものではなく、全く別の世界だという事だ。その割に過去にユグドラシルのプレイヤーらしき存在がいた事を窺わせる逸話もあった。

 

 何度となく質問を挟みながら、重要性と距離を考えて比較検討した結果、サトリは次の目的地を城塞都市エ・ランテルに決めた。今後の行動方針を決める為にも、今は少しでも多くの情報が必要なのだ。交易路の結節点で人口の多い大都市というからには、多くの情報が期待できるだろう。

 

(最優先目標は情報収集だな。当座の金はあの兵士達の装備を売り払えばいいか。手持ちのユグドラシル金貨はあまり使わない方が良さそうだし。あの豚……兵士達から話を聞くのもアリかな)

 

「村長っ!大変だ!」

 

 サトリが考えをまとめているところに、息を切らせた若い男が家に飛び込んできた。そのまま何か言いかけるが、家の中にサトリがいるのに気づいて口ごもる。

 

(また厄介事かな?イベント間隔短かすぎじゃないか、この村は)

 

 丁度いい機会だと思ったサトリは、鈴木悟だった頃に身につけた社交スキルを改良して実践することにした。村人と会話をしながら強化魔法を配っている時、意図せずに使っていたものだ。

 

 相手と目を合わせて僅かに首をかしげつつニッコリ笑いかけるポーズ、略してニコポである。ただの営業スマイルと言ってはいけない。確かに鈴木悟の場合はそうだったが、サトリが使うと別物と言えるほど劇的な効果があった。抵抗(レジスト)できなかった相手の心理的警戒を解き、交渉を有利に進める有用なスキルだ。

 

 実際この村人にも効果は抜群だった。顔がみっともなく崩れ、取り繕わなくなった視線がサトリの顔と胸を行き来する。エ・ランテルで情報収集するなら、このスキルは色々と役に立つだろう。とはいえこの村の人々はサトリへの心象に大幅なプラスがついているので、テスト対象としてはあまり良くないと言える。スキルの練度もまだまだなので、もっと研鑽を積まなければならない。

 

 何よりもこのスキル、使っていて楽しいのだった。

 

「かまわん。話してくれ」

 

「……あっ、はい。20騎くらいの騎兵が村に近づいてきて……きてまして」

 

「なんだと!?こんな時に……」

 

「旗は王国旗のようでしたけど、どうしたら!?」

 

 村長のすがるような視線を見るまでもなく、サトリの答えは決まっていた。作業を手伝っている内に多少の思い入れも出来てしまったし、ここまで手助けした村が壊滅させられたら悲しい。

 

「これも縁です。村の皆さんには隠れていてもらって、私と村長さんで対応しましょう」

 

「おお……重ね重ねありとうございます」

 

 緊張と恐縮で縮こまった村長にサトリは優しく微笑みかけ、いくつかの強化魔法をかけていく。闇のサトリのロールプレイ中は、勢いでかなり失礼な事を口走る可能性があるので、今のうちに好感度を稼いでおこうという作戦だった。

 

 そんな思惑も知らず、間近でサトリの全力の笑顔を見てしまった村長は、たちまち相好を崩す。緊張が解れたのは間違いないが、奥さんの目の前でその顔はまずいんじゃないか、とサトリは無責任な感想を思い浮かべた。

 

「ではいきましょうか。もし戦闘になりそうならすぐに逃げてください。魔法がかかっている間は並大抵の剣や矢は心配いりませんし、走れば余裕で振り切れるでしょう」

 

(魔力は厳しいけど、あの兵士達くらいなら余裕だろう。それにアーケインルーラーのスキルも出来れば試してみたいしな)

 

                   ◆

 

「私はリ・エスティーゼ王国の王国戦士長、ガゼフ・ストロノーフ。王命に従い、近隣を荒らしている帝国の兵を討伐するため村々を回っている」

 

 広場に立つサトリと村長の前で、一団のリーダーらしき男が馬に乗ったまま名乗りを上げた。短く刈り込まれた黒髪に浅黒い肌で精悍な顔立ちをした中年で、いかにも現場叩き上げといった雰囲気を放っており、潜ってきた修羅場の数々を想像させた。

 

「愚か者の豚は縛り上げて閉じ込めてあるから。どこへなりと連れていきなさい」

 

 既にサトリはロールプレイ、ではなく一瞬の隙に闇のサトリに身体の主導権を奪われていた。

 

「なんだと……おい、お前が村長だな?この少女の言っていることは事実なのか?」

 

 村長はサトリの突然の豹変に仰天しつつも、ガゼフの問いを肯定する。さらに村のために色々な手助けをしてくれた恩人であり、途方もなく偉大な魔法使いだと説明した。話を聞いてさらに驚きに染まったガゼフの目がサトリの顔をじっと見つめてくる。

 

「お前は……いや、あなたが何者なのか教えていただきたい」

 

「いいでしょう。よく聞きなさい」 

 

(き、きた……!ついにきたぞ!)

 

 自己紹介はとても大事だ。特にこういうシチュエーションは少ないので全力でやるべきだろう。サトリは含み笑いをしながら、あらかじめ考えていた台詞と幾つかの振り付けを思い浮かべる。

 

(ここは特に尊大なイメージの振り付けがいいだろうな。考えたのはかなり前だけど、さっきも鏡の前で練習したし)

 

「私は魔法を統べる者。大いなる世界樹の葉より生まれ、幾多の世界を旅する魔法詠唱者。この世にただ一人のアーケインルーラーにして漆黒の魔人、サトリ」

 

 言い終わると同時にサトリは手をかざして不敵に微笑んだ。ユグドラシルでは表情は動かせなかったが、現実なら特に力を入れるべきところだけに、あの時ちゃんと練習していたのだ。こんな時<黒の後光>を使えなくなったことが心底残念に思われた。

 

 堂々たる至高の名乗りを上げたサトリの顔を、ガゼフが、村長が、ガゼフ配下の戦士団が唖然とした表情で見つめている。

 

(……あれ?反応が薄いな。驚き過ぎたのか?水でも飲ませてあげるべきかな?)

 

 サトリがアイテムボックスから無限の水差しを出そうと手を伸ばしたところで、何かを察した様子のガゼフが慌てて馬から降りて近づいてきた。

 

「サ、サトリ殿……で、よろしいか?」

 

 サトリの身長はこの世界の女性の平均くらいらしく、ガゼフに目の前に立たれると見上げる形になる。筋骨隆々の見知らぬ男と間近で向き合うなんて普通は緊張するだろうが、闇のサトリはそんなことで動じるキャラクターではない。鷹揚に頷いてガゼフに先を促す。

 

「この村を救っていただいて、感謝の言葉もない」

 

 ガゼフはサトリに向かって深く頭を下げた。サトリはさも当然と言う態度を崩さないが、鈴木悟は少し驚いた。それなりの年齢の男が、自分の娘のような年頃の初対面の少女に、深々と頭を下げるなんてなかなかできることではない。部下の装備が不揃いなので怪しんでいたが、王国戦士長という肩書も本物なのかもしれないと思った。

 

「たまたま通りがかっただけ。大した事ではないわ」

 

「御謙遜を。しかしサトリ殿の名前は寡聞にして存じません」

 

「それは無理からぬこと。この土地にはついたばかりなのだから」

 

「そうでしたか。それではこの村を襲った者達について、詳しい話を聞かせて頂きたいですな」

 

「村長に聞きなさい」

 

「それは話には応じていただけないという意味ですかな?」

 

(ひっ!?)

 

 ガゼフが鋭い目を向けてくる。鈴木悟なら漏らしてしまいそうな程の迫力だが、サトリは余裕たっぷりの微笑を浮かべて応じた。そういうキャラクターなのだから、そうしなければならない。緊迫した雰囲気に、間近で見ていた村長が顔色を変えて二人の間に割って入り視線を遮る。

 

「どうか、どうかそこまでに!」

 

 サトリは村長のとりなしにもすぐには応じない。安く見られれば舐められるのだ。たっぷり時間をかけてからぷいと顔を背ける。

 

「……女の扱いが下手ね。戦士長」

 

「それは失礼。見ての通りの武骨者ゆえ、あなたのような美しい方に似合う誘い文句など思いつかんのです」

 

「……はぁ、同席はしましょう、次会う時はもう少しマシになっていなさい」

 

「ありがたい。今後の訓練に女性の誘い方を取り入れることも考えておきましょう」

 

 サトリこと鈴木悟は、考えてもいないことをすらすらと口走っている自分に恐怖を感じていた。男相手にあんな台詞を吐けるとは思わなかったのだ。完全に予想外の言動に、あるいは自分にそういう性癖があったのだろうかと疑念が湧いてくる。

 

(……ロールプレイしてると、キャラが勝手に動くってことあるよなー、ははは、はは……何が女の扱いだよ!?俺なんて女の扱いどころか付き合ったこともないよ!)

 

「で、ではサトリ様、戦士長様、話は私の家で」

 

 疲れた顔の村長が歩き出した。今日起こったことを考えれば無理もない。ガゼフは部下達に休息を取るように指示を出してその後に続く。サトリも後を追おうとしたところで、戦士団の内の一人の騎兵がただならぬ様子で村の広場に入ってくる。

 

「戦士長!周囲に複数の人影!この村を包囲しています!」

 

 



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4話

 間隔を空けて村を囲むように近づいてきている人影は、手に何の武器も持たず鎧さえ装備してない。しかしその全員が、背中から翼の生えた人型のモンスターを連れていた。

 

「天使か……しかも初めて見る種類だな。数も多い……厄介なことだ」

 

 建物の陰からそれを見つめるガゼフが忌々しそうに呟いた。相手の数は味方の倍以上で、天使まで数に入れるなら考えるのも馬鹿らしい兵力差だった。

 

「これだけの兵を使って、二度も襲撃をかける程の価値がこの村にあるとは思えないのだけど」

 

 ガゼフの近くで様子を見ていたサトリが呆れたように肩を竦める。

 

「サトリ殿に心当たりは?」

 

「この土地にはついたばかりだと言ったはずだけど」

 

「あなたのような女性を手に入れる為なら、千里を越えて追っ手を差し向ける男は幾人もいるでしょうな」

 

 この世に名高い美女は何人もいるが、特に有名なのは、このリ・エスティーゼ王国の第三王女ラナー姫だ。その美しさに加えて、聡明で優しい性格から国民に圧倒的な人気があり、周辺国家にもその名が知られている。

 ガゼフも王宮で何度となく顔を合わせているが、「黄金」の二つ名に相応しい美しさであり、彼女に並ぶ女性などいないと思っていた。この奇妙な魔法詠唱者に会うまでは、だが。

 

「ふふっ。あなたの方こそ心当たりはないの?」

 

「王国戦士長などやっていると、そういう相手には事欠かないもので」

 

「そう。有能な男には敵も味方も多いもの」

 

「かたじけない。あなたに味方になっていただければ百万の敵よりも心強いでしょう。さて、状況から見て相手はおそらくスレイン法国の特殊工作部隊、噂に聞く六色聖典でしょう」

 

 ガゼフに勝算はなかった。相手が雑兵ならば、あるいは万全の装備が揃っていれば、自分一人で蹴散らす自信もあるが今はそうではない。練度も装備も兵数も全てにおいて圧倒的に不利だ。自分が死ぬことは覚悟しているが、このままでは自分についてきた部下達や罪のない村人まで殺されることは目に見えている。

 

 あまりにも絶望的な状況であった。ここからひっくり返せるような援軍や手段などある訳がない。普通に考えればそうだ。だが今ガゼフの目の前には、未知の力を持つ魔法詠唱者がいた。

 

(この娘に協力してもらえれば……あるいは)

 

 ガゼフがじっと様子を窺うと、サトリは村を包囲している敵を見て何かを考え込んでいるように見えた。夕日に照らされたその美しい横顔に、ガゼフはまっすぐ向き直って姿勢を正す。

 

「サトリ殿。良ければあなたの力を貸していただけないか?報酬は望むままの額をお約束しよう」

 

 サトリは優美な眉を持ち上げて目を見開いた。先程までの言動や態度からは想像できない素直な表情に、そんな顔もするのか、とガゼフは少し意外に思う。

 

「嫌」

 

「その理由をお聞かせ願っても?」

 

「嫌だから嫌」

 

 サトリはにべもなかった。それは仕方ない。誰だって勝ち目の薄い戦いに参加したくはないだろう。だがガゼフとしても、はいそうですかと引き下がる訳にはいかないのだ。

 

「……王国の法を用いて強制的に、というのはいかがかな」

 

「私を力ずくで言いなりにしたいと?そんなことをされたら必死で抵抗するしかないわ……ふふ、とっても面白そう」

 

 直立不動で僅かに目を細めるガゼフと、笑みを深くしたサトリの視線が交差して張りつめた空気が漂う。

 

 泡を食ったのは、ユグドラシルのものとそっくりな天使を見て思考に没頭していた鈴木悟だった。

 

(キャラに合わせて適当に喋ってたら決闘寸前になってる!?確かに引き下がるような設定のキャラクターじゃないけど、まずくない!?この人すごく強そうだし!)

 

 といって今ロールプレイを止めようものなら、鈴木悟は人間の尊厳的な意味でとてもまずいことなりそうな予感がしていた。ガゼフのような人間と平然と睨み合えるような胆力は元一般人の悟にはない。剥がれそうになる仮面を必死の思いで顔に押し付け、「闇のサトリ」になりきることで動揺を抑え込もうとする。

 

 一触即発の状態が続くこと十数秒あまり。ガゼフが先に目を逸らした。

 

「怖いな。争えば我らの一人とて助かるまい。あなたの魅力はその美しさだけではないようだ」

 

「あら、残念」

 

 ガゼフの心の中で警鐘が鳴っていた。最初の名乗りからして尋常ではないと思ったが、現実離れした美貌も、自分の気当てにまったく動じない精神も、まだ少女と言っていい歳の女とは思えない。魔法の実力は未知だが、戦えば一瞬で殺される。ガゼフの歴戦の勘がそう告げていた。

 

 ガゼフが見る限りサトリが身につけている品々は、王家や大貴族の家宝として代々伝えられている宝物すら、玩具に見えてしまうほどの超一級品ばかり。ネックレス一つとっても王国の国庫を空にしても足りないだろう。

 

「いつまでも呆けていて良いのかしら?王国戦士長ともあろう者が、怖いの?」

 

 少女の形をした底知れぬ存在が、可愛らしく口元に手を当ててくすくすと笑っている。黒い布地が張り付く豊かな胸は、ガゼフほどの男でも気を付けないとつい目で追ってしまいそうになる。

 引き締まった腰とそこから太腿にかけての曲線も、輝くような黒髪も、瑞々しく滑らかな肌も、全てが目を惹きつけて止まない。微かに漂う芳香は先程からガゼフの理性を容赦なく削ってくる。

 

 ガゼフとて壮年の男なのだ。遠征任務中にこんな美女と間近で向き合わされてはかなわない。

 

(本当に何者……いや、何なのだ()()は)

 

 強さも裕福さも若さも美しさも、1つ2つ飛び抜けているだけならばまだわかるが、全て兼ね備えている人物などそうはいない。それこそおとぎ話に出てくる英雄を除いて。

 

 ガゼフが再び目を合わせるとサトリは相変わらず微笑みを浮かべていた。ラナー王女に匹敵する輝くような美貌にガゼフは一瞬時を忘れる。気づかないうちに美しさに飲まれ始めていた。ガゼフでなければ膝を折って愛を囁くか、獣欲に任せて襲い掛かっていただろう。無論結果は分かり切っているが。

 

 しかしガゼフには使命がある。王命に従いこの国の民を守るという任務があるのだ。その矜持が、サトリの持つ魔性の美から彼の精神を守り切った。

 

「それではこれで。サトリ殿もお元気で。この村を、無辜の民を救ってくれたことに感謝する。本当に感謝する。そして出来ることなら彼らをもう一度だけ守ってほしい。今差し上げられる物はないが、どうかこの願いを聞き届けてほしい!」

 

 ガゼフの必死の懇願を前にサトリの表情がきょとんとした物に変わる。そして、それまでとは全く違った凄惨な笑みを浮かべた。世界を隔てる壁に亀裂が入ったような笑みだった。

 

「なら、私の足を舐めなさい」

 

(ちょおおおおっ!?何言ってんの俺!?)

 

 己の心と尊厳を守るため、鈴木悟が精神力を振り絞って作り上げた仮面は、それがあまりにも強固な意志で作られたが故に、そして()()()宿()()()()故に、もはやただの仮面とは呼べなくなっていた。しかし鈴木悟がそんなことを知る由もない。

 

「何?」

 

「あなたは無辜の民を守るためなら何でもするのでしょう?私の足を舐めれば考えてあげるわ」

 

 サトリは無詠唱化した<上位道具創造>(クリエイト・グレーターアイテム)で黒曜石の玉座を生み出すと、驚愕するガゼフに見せつけるように足を組んで座った。魔法には疎いガゼフだが、黒く輝く見事な玉座を一瞬で作り出した魔法が恐ろしく高度なものだ、ということくらいはわかる。

 そしてサトリがその気になれば、おそらく誰一人として犠牲を出さずこの状況を切り抜けることができるという事も。

 

「ほら。迷う事なんてないでしょう?」

 

 靴を脱ぎ捨て、白く美しい素足を差し出すサトリの前で、眉間に皺を寄せたガゼフは目を閉じる。その目が再び開かれた時、そこには力強い意志の輝きが宿っていた。

 

「それは出来ない」

 

「それでいいの?あなたが意地を張った結果、命を懸けて守ろうとした民が死ぬことになっても」

 

「私は王国戦士長。王の剣だ。その名を汚すことはできない。ただの平民だった私を取り立ててくれたばかりか、王家の至宝を与える程に信頼してくださる王の為に」

 

「……そう。私の誘いを断るなんて。せいぜい後悔するがいいわ」

 

 サトリは一切の表情が消えた顔で呟いた。そして、中身が切り替わる。全身から発光する訳でも身体を震わせるでもなく、静かに、だが確実に別物に変わるのだ。

 

「……あ?!戻った、戻ったぞ!なんでロールプレイを止めるだけでこんな苦労するんだ……役にはまりすぎたのか?」

 

「サ、サトリ殿?」

 

「あ……これは、その……失礼しました。少し訳がありまして」

 

 今のサトリからは、先程までの絶対的強者たる覇気は消え失せていた。はにかみながら手を振る様子は年頃の少女と大差ない。一瞬で別人になったとしか思えない激変を目にしたガゼフは、そこに言いようのない悍ましさを感じて背筋が寒くなった。

 

「そ、そうですか」

 

「それより戦士団の皆さんの所へ戻りましょう。村長さんにも話をしないと」

 

「な!?それは手を貸していただけるということか!?しかし先程は……」

 

「ええ。その。色々事情がありまして……」

 

「……なにやら複雑な事情がお有りのようだ。しかし手を貸していただけるというのなら、これほど心強いことはない!」

 

 ここで男同士なら握手の一つもしたいところだが、女性に対して男から握手を求めるほどガゼフは礼儀知らずではない。仕官してから一番苦労したのは礼法だったのだ。というか今もそうである。

 

 それに汗と革の臭いが染みついた己の手があの美しい手に触れるというのは気が引ける。そんなことを考えていたガゼフの前に、ごく自然にサトリの手が差し出された。

 

「臨時パーティ結成ですね。よろしくお願いします。ガゼフ戦士長」

 

 ハッとしたガゼフの目と鼻の先に大輪の花が咲き誇るような笑顔があった。

 

(これは……まいった)

 

 ガゼフは慌てて両手のガントレットを外し、予備の麻布で入念に手を拭ってからサトリの手を握った。その手はガゼフからすると赤子のように瑞々しくて柔らかだった。

 

「こちらこそよろしく頼む。サトリ殿」

 

                   ◆

 

「おかしい……」

 

 スレイン法国が誇る六色聖典の一つ、陽光聖典の長、ニグン・グリッド・ルーインは目の前の戦況に違和感を感じていた。確実にガゼフを仕留めるため入念に計画された必勝必殺の作戦だったはずだ。なのに戦況は圧勝どころか膠着している。

 ここまでの計画にしくじりはなかった。標的のガゼフ・ストロノーフは王家の四宝たる強力な武装を剥がされ丸腰も同然。ガゼフ配下の戦士団もこの場にいる数は少なく、障害にならないはずだった。

 

 それに陽光聖典の隊員が召喚する天使達は通常の武器による攻撃に耐性を持っている。対抗策は魔法が込められた武器か、一部の武技だけだ。前者は高価すぎて末端の兵士に支給できる品ではなく、後者に至っては一部の強者しか使えない。もう一つ対抗策はあるが、それは彼らには決して用意できないものだ。

 

 ガゼフの部下達などカカシも同然のはずだ。しかし現実はそうなっていない。

 

「おらあああ!」

 

 戦士団の一人が振るう剣が鎧を着た天使の体を易々と両断する。二つになった天使の体は光の粒となって空中に溶けていった。耐性どころの話ではない。剣で甲冑ごと天使を真っ二つにするなど、ガゼフはともかく常人でしかない人間に出来ることではない。

 

「魔法ってすげえんだな!癖になっちまいそうだ!」

 

「ガゼフ隊長とサトリちゃんがいれば、帝国軍にだって勝てるぜ!」

 

「サトリ様だろうが!ぶっ飛ばすぞ!」

 

 よく見ればその戦士の剣だけが特別なのではなかった。他の戦士が振るう武器も陽光聖典が召喚した天使を容易に斬り伏せている。その様子をじっと観察していたニグンは、彼らが持つ何の変哲もない武器全てが、魔法の力を宿しているのに気づいた。

 

<武器魔法化>(マジック・ウェポン)だと!?ガゼフの戦士団に魔法詠唱者などいない!何が起きている!?)

 

 リ・エスティーゼ王国は魔法というものを軽視している。隣国のバハルス帝国は大陸中に名前を知られる大魔法使い、フールーダ・パラダインをトップに据え、国を挙げて魔法研究と魔法使いの育成に力を入れているが、王国はといえば王都や幾つかの貴族領に魔術師の私塾がある程度。魔術師組合はあるが国家の補助など微々たるもので、魔法使いの数は少なく質も低い。

 

 そんな王国で貴重な魔法使いが、平民上がりのガゼフ率いる戦士団に配属されるわけがないのだ。かの王国はそういう国だ。

 

「うおおおおっ!」

 

 思案に耽っていたニグンを、凄まじい雄叫びが現実に引き戻した。

 

「!……おのれ!ガゼフ!!」

 

 ニグンの見つめる先でガゼフが剣を振るっている。その動きは凄まじいの一言だった。数々の武技を同時に発動させながら、天使達の間を突風のように駆け抜けると、数体の天使が光の粉となって消えていく。例の四宝を装備している時でさえ、あれ程の強さはないだろうと思われた。

 

 ニグンもさほど詳しくないが、法国の最精鋭部隊、漆黒聖典に匹敵するのではと思わせるほどの一騎当千ぶりだった。強大な魔法詠唱者の支援を受けているのは間違いない。しかしそこまでの実力を持つ魔法詠唱者など、近隣一帯ではフールーダしかいない。そして帝国の重鎮たるかの魔法詠唱者が、王国に与する筈がなかった。

 

「全員よく聞け!ガゼフに力を貸している魔法詠唱者がいる!今の所姿は見えないが万が一ということもある!ガゼフへの圧力を維持しつつ準備を整えろ!」

 

 ニグンは部下たちに警告を送り、自らにも対抗魔法をかけていく。

 

(ガゼフよ。どこの魔法詠唱者の力を借りたのか知らんが、足掻いたところで結果は変わらんのだ)

 

 ニグンの読み通り、辛抱強く戦っていたガゼフ配下の戦士達が一人、また一人と倒れ始める。いくら強化魔法を受けていても、術者の魔力が続く限り何度でも生み出され、疲れを知らない天使相手では分が悪かった。陽光聖典の隊員も少しやられはしたが、自軍が圧倒的有利な状況は変わらない。

 

 戦士達が倒れるにしたがってガゼフを取り囲む天使は増え、さすがのガゼフも処理が追い付かなくなってきている。この機に一斉に攻め立てれば仕留められるように思われた。しかしニグンは決して焦らず警戒を強める。

 

 ガゼフと部下達には<武器魔法化>(マジック・ウェポン)だけでなく、かなり強力な強化魔法がかかっているように見えた。そんなことができる魔法詠唱者がゴロゴロいるはずがない。故に遠距離からの魔法攻撃ではなく奇襲を警戒する。

 

(ガゼフに力を貸した魔法詠唱者……参戦するとしたらこのタイミングしかあるまい。飛行か、短距離転移か、そしてなにより……)

 

「使え!<啓示>(レヴェレイション )!」

 

 等間隔に円陣を組んでいた陽光聖典の隊員達が、ニグンの号令に合わせて一斉にマジックアイテムを使用した。発動した魔法は使用者を中心に球状の範囲で見えない存在を発見する力がある。効果範囲は狭いが、陣形を組むことでその欠点をカバーできるのだ。

 

「くく、ネズミは見つかったようだな?」

 

 振り返ったニグンの眼前に見知らぬ黒髪の少女の姿があった。

 

「バレバレだったか!?<集団人間種支配>(マス・ドミネイト・パースン)!」

 

 少女が広範囲の精神系魔法を行使してくるが、対象となった陽光聖典は入念に準備を整えていたこともあって辛うじて抵抗に成功する。それでも数人が抵抗《レジスト》に失敗して魔法の影響下に置かれ、無事だった隊員に取り押さえられた。

 

「糞っ!」

 

 己の奇襲が失敗したことを悟ったのだろう、悪態をつく少女を陽光聖典の隊員が素早く包囲した。ガゼフは30体近い天使に囲まれていて身動きが取れない。生き残りの戦士達も天使の攻撃をどうにか凌いでいる状況だ。もはや大勢は決したのだ。

 

 ニグンは奇襲を仕掛けてきた相手の姿を素早く観察する。まだ年若い少女だ。あどけなさの残る美しい顔が一際目を引いた。均整のとれた魅力的な身体を見せつけるように、身体の線がよくわかるドレスを着ているが、それが神々の遺産にも匹敵する強力で高価な魔法の品だとニグンは見抜いた。

 

(……若いな。装備も超一級品と見た。この若さであれだけの力を得たというのか?)

 

 実力ある魔法使いは寿命すら延ばすことができるので、彼女の本当の年齢は定かではない。だが身のこなしやちょっとした素振りを見る限り、外見と食い違いがあるようには思えなかった。

 

「残念だったな、小娘。お前の作戦などお見通しだ」

 

 策を破られ包囲されているというのに少女に慌てる様子はない。むしろ周りを取り囲む陽光聖典の隊員たちを面白そうな顔で眺めている。ニグンは微かに感じた違和感を頭の隅に追いやった。もはや相手に伏せ札はないのだ。

 

「お前の力は認めよう。だが人を見る目がなかったな。ガゼフなどに肩入れするからお前はここで死ぬことになるのだ」

 

 これだけの美貌だ。低俗な連中なら殺す前に楽しもうとするのだろうが、屈指のエリート集団であり、神に忠誠を捧げた使命の使徒である陽光聖典の隊員には、任務を放り出して淫蕩に耽るような愚か者はいない。

 

「ガゼフらに色々と魔法をかけていたようだが、あれだけの魔法を使えば魔力はほとんど残ってはいまい。もはやお前達に勝ち目はないぞ。諦めて横になれば苦痛なく殺してやる」

 

「あなたたちが六色聖典とかいう連中?」

 

 己の敗北を悟ったのか、黒いドレスの少女はやけに落ち着いた様子で話しかけてきた。

 

「答える義理はないが、お前の実力と若さに免じて教えてやろう。そうだ。我らは六色聖典の一節、陽光聖典。人類の守護者たるスレイン法国の刃だ」

 

「なぜ人類の守護者があの男を狙うの?」 

 

「この過酷な世界で脆弱な人類が生き延びるには、団結して己を鍛え上げねばならん。その義務を放棄するばかりか、亜人との融和などという世迷い事をほざき、腐敗して周囲に毒を垂れ流す王国は滅ぼさねばならんのだ。ガゼフはその障害になる。故に排除する」

 

「ふうん。ところでそれ炎の上位天使(アークエンジェル・フレイム)でしょう。そっちの大きいのは監視の権天使(プリンシパリティ・オブザベイション)

 

「ほう?我らの魔法に詳しいようだが、それがどうした」

 

「誰からその魔法を教わったのかしら」

 

 今の魔法体系が出来たのは数百年前だと言われている。その起源ははっきりしないが、魔法という偉大な恩恵をもたらせる存在など神しかありえない。そして神といえばスレイン法国で篤く信仰されている六大神のことを指す。それ以外の神など()()()()()のだ。

 

「何かと思えばくだらんことを聞く。そのような奇跡を起こせるのは偉大にして慈悲深き我らが神以外にいるはずがなかろう。さて、おしゃべりは終わりだ、小娘」

 

「まだ聞きたい事は沢山あるんだけど、まあいいわ」

 

 言い終わるなり、少女は<飛行>(フライ)の魔法で低空を滑るように突っ込んでくる。一見無謀に見えるがこの場合は間違いでもない。接近戦になれば、同士討ちを避けるために大規模な魔法は使えない。残り僅かな魔力で逆転を狙うなら、消費の割に威力が高い接近戦用の魔法、あるいは武器による近接戦だろう。

 

 それはニグンの想定内だった。

 

「やはり若いな!死ね!」

 

 召喚魔法は原則的に1体しか使役できない。新しいモンスターを召喚すると古い方は帰還してしまう。そして呼び出された存在は基本的に術者のすぐ傍に現れ、即座に行動を開始するのだ。ガゼフを取り囲んでいた天使の半数が帰還し、新たに召喚された天使が剣を振りかざして少女に殺到した。

 

 

「さて、交代。ここまで手伝ってあげたのだから、役に立ちなさい。ガゼフ」

 



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5話

「六光連斬!!」

 

 サトリに殺到した天使達が一斉に光の粒となって消える。その後には剣を振りぬいた一人の男が立っていた。男の全身は傷だらけで、獣のように荒い息をつきながらも、その目には燃え上がる戦意を宿している。周辺国最強の剣士、王国戦士長、ガゼフ・ストロノーフであった。

 

「な……!?」

 

(馬鹿な!?ガゼフがなぜここに!?まさか転移!?ありえない!)

 

 離れた位置で天使に囲まれていたはずのガゼフが、一瞬後には目の前にいて、気がつけば天使をまとめて消滅させていた。瞬きの間に小娘が髭の大男に変わっていたのだ。ニグン達にとっては悪い夢としか思えなかった。

 

 完全に虚を突かれて動きが止まった陽光聖典。その隙を見逃すようなガゼフではない。地を蹴ったガゼフが弾丸の勢いでニグンに突進する。ついでとばかりに進路上の隊員を斬り捨て、魔法の力を帯びた剣をニグンに突き刺さんと身体をひねった。

 

 万事休す。そう思われた時、ニグンの後ろにいた監視の権天使(プリンシパリティ・オブザベイション)が動いた。片手に装備した盾でガゼフの必殺の剣を防ぐ。勢いを殺しきれず大きく体勢を崩したが、その間にニグンはガゼフの間合いから脱出することに成功した。

 

 空中でガゼフとニグンの視線が絡み合い、火花を散らす。ガゼフの技量もすさまじいが、咄嗟に反応したニグンも只者ではない。陽光聖典の長として数々の修羅場をくぐってきた経験は伊達ではなかった。ようやく動き出した隊員達がガゼフに魔法を放とうとするが、暴風と化したガゼフに次々と斬り倒され、血しぶきを上げて地面に倒れ伏していく。

 

 もはや出し惜しみしている場合ではないと、ニグンは切り札を使うことを決断した。

 

「最高位天使を召喚する!!時間を稼げ!」

 

 怯みかけていた生き残りの隊員達は再び勇気を得てガゼフに天使を殺到させた。

 

(逃げ出した小娘などもはやどうでもいい!最高位天使の召喚がなるまでガゼフを抑え込めば勝ちなのだ!)

 

                   ◆

 

 ガゼフに渡していたマジックアイテムの力で瞬時に場所を入れ替わったサトリは、10体以上の炎の上位天使に囲まれる形になった。転生前ならば上位物理無効化スキルのおかげで、一切ダメージを受ける心配はなかったが、今はそうもいかない。

 

 さらにニグンが言ったように、サトリの魔力はほぼ枯渇していた。普通に考えれば、魔力を使い果たした魔法詠唱者が敵に包囲されれば嬲り殺されるだけだろう。しかしサトリは笑っていた。その状況が楽しくて仕方がないとでも言うように。

 

「さあ踊りましょう。私を熱くして……」

 

(嫌だ、痛いのは嫌だ……リアルの剣とか無理……)

 

 心の中の鈴木悟は既に泣きが入っていたが、ガゼフに協力したのも、ここまで来てしまったのも自分なので今更どうにもならない。演じている内にキャラクターが馴染んだのか、半ばオートで喋ったり動いたりしてくれる優秀なロールプレイに全てを託して押し通すしかなかった。

 

 一方、標的のガゼフが忽然と消えたことで天使達は攻撃を中断し標的を探し始めた。ガゼフと入れ替わりに現れたサトリに攻撃するという意志はない。攻撃を受ければ別だが、天使は同じような存在の悪魔と違って命令がない限り勝手な行動はしないのだ。

 

 空中で棒立ちになった天使を、サトリの振るった()が薙ぎ払う。殴られた天使は吹き飛ぶ間もなく光の粒となって消えていった。サトリは勢いのままに一回転させた武器を再び肩に担ぎ直す。それは杖と言うにはあまりにも異質な形をしていた。半透明の黒い素材で作られたそれは、杖というより巨大な鈍器であった。

 

 

 

 ユグドラシルにおける一般的な魔力系魔法詠唱者は、通常の長剣や槍などは装備できないが、杖に分類される武器ならば装備できる。魔法でダメージと攻撃速度を強化し、そこらの剣や槍より遥かに強くても、分類が杖である限りは使用に問題はない。たとえ見た目が巨大な鈍器でしかなくても何も問題はない。

 

 ただしユグドラシル時代、モモンガがこの武器を使ったことはなかった。魔力系魔法詠唱者が杖で殴る事自体がほぼ趣味だということもあるが、この武器が攻撃ごとに魔力を消費するからだ。

 

 生命線である魔力を使い、接近して杖で殴るくらいなら、遠距離から魔法を使ったほうがいいのは当然の理屈。前衛の真似事をしたいだけなら<完璧なる戦士>(パーフェクト・ウォリアー)の魔法を使った方が良いのだ。

 

(じゃあ何でそんなもの作ったのかって?そういう性能の超レアデータクリスタル拾っちゃったからだよ!)

 

とは本人の談である。

 

 

 

 サトリを敵と判断した天使たちが一斉に斬りかかってくる。サトリはそれを掻い潜りつつ、相手の武器ごと叩きつけるように()を振り回して応戦する。しかし天使の攻撃全てを避け切れるものではない。炎の上位天使(アークエンジェル・フレイム)は今のサトリと比べてもはるかに格下だが、サトリが取得しているクラスは詳細不明のアーケインルーラー(自称)を除くと全て魔力系魔法詠唱クラスであり、近接戦闘能力は低いからだ。

 

 何度となく天使の剣がサトリの身体に当たり、その度にサトリの体にチクチクとした痛みが走る。が、影響と呼べるのはそれだけだった。存在としての格で圧倒的に上回っているだけでなく、全身を神器級の防具で固めているサトリには軽微なダメージしか与えられないのだ。

 

「あは……ちょっと物足りないけど、こういうのもいいわ」

 

(そういやシャルティアがベースだったなーって、痛い!痛いんだけど!俺はこんな性癖ないし!絶対ないし!痛い痛い痛い!)

 

 鈴木悟の困惑をよそにサトリはうっすらと頬を上気させ、微笑みを浮かべながら()を振り回し続けた。一閃するたびに天使の身体が光の粒となって霧散し、紫の瞳がかすかな光を帯びる。サトリは己の身体に起きた変化を感じ取って笑みを深めた。今にも大声で笑い出したくなる程の高揚感が彼女の胸を満たしていた。

 

 気が付けば、あれだけ群がっていた天使はサトリの周りからいなくなっていた。

 

「もう終わりなの?まだぜんぜん足りないのに……あら、あれは……」

 

 日が落ちて薄闇に染まった草原に、まばゆい光が差した。

 

                   ◆

 

「見よ!これこそが威光の主天使(ドミニオン・オーソリティ)!魔神をも滅した人類の守護天使だ!」

 

 高らかに吠えるニグンの頭上には、光輝く巨大な翼が花弁のように集まって浮いていた。翼の中心から王錫を持った2本の腕が生えている以外、頭も体も脚も存在していない異形の姿。陽光聖典の隊員はニグンを含めて5人まで減っていたが、周囲を覆いつくすほどの清浄な気配を漂わせる天使の出現に揃って歓声を上げた。

 

「あの化け物は……魔法ってのは何でもありか」

 

 警戒して立ち止まったガゼフを睨みつけ、ニグンは憎々し気に告げる。

 

「口を慎めガゼフ!本来貴様ごときに使うのは憚られる存在だ!だが……」

 

 ニグンの台詞を他所に、ガゼフのすぐ傍にサトリがふわりと着地する。どこにも傷を負っている様子はなく、身に纏うドレスに僅かな汚れすらない。違うのはその滑らかな白い肌に少しだけ朱がさしていることか。

 

「切り抜けるとは思っていたが……やはりあなたは底知れないな」

 

 まったくの無傷に見えるサトリに対してガゼフの全身は傷だらけだった。それでも致命的なダメージは受けていないのがガゼフという男の凄まじさだ。魔法による強化を受けたとしても、己の身体能力の変化に合わせて動きや戦術を変える事が出来なければこうはいかない。

 

「あなたは素敵な恰好になったわね。そうして己の思いの為にどれだけの死を積み上げてきたの?そしてこれからも」

 

「無論、倒れるまで。王の為に剣を振るえなくなった時が、私の死ぬ時だ」

 

「あなたがそこまで入れ込む人間に、少しだけ興味が湧いたわ」

 

「サトリ殿が望むならば、全力で推挙しよう」

 

 最高位天使すら眼中にない、とでも言いたげなサトリとガゼフの様子に業を煮やしたのか、ニグンは大声を張り上げた。

 

「そう!貴様だ小娘!!貴様さえ居なければ計画は全て順調だったのだ!!だがそれもこれで終わりだ!最高位天使の力を思い知れ!塵も残さずこの世から消滅せよ!」

 

 ニグンの頭上、空中に浮かんだ光輝く異形が動き出した。持っていた王錫が粉々に砕け散り、破片となって旋回し始める。それに呼応するように薄闇の空が白く輝き始めた。

 

「あれは……サトリ殿でも大変そうに思えるが」

 

「そうね。こんなところで死なれたらつまらないわ」

 

 サトリがガゼフに向かって軽く手を振ると、ガゼフの身を包むように半透明のドームが現れる。

 

「これは!?」

 

「死にたくなければそこから出ないこと」

 

「それはわかったが……サトリ殿は?」

 

「私は試したいことがあるの。ああ、本当に楽しみ。胸が高鳴るわ」

 

 一方、ニグンからもサトリが何かの魔法を使った事は分かったが、もはやそんなことは気にもならない。近隣諸国で最も魔法に秀でたスレイン法国でも、莫大な労力とコストをかけた大儀式によってしか召喚できない最高位天使の前では、人が何をしたところで何の意味もない。

 

「くくく、無駄だ無駄だ!!人の魔法など至高の存在の前では無意味!消え失せろ!<善なる極撃>(ホーリー・スマイト)を放て!!」

 

 ニグンの声と共に白く輝く天空から極大の光の柱が落ちてきて、サトリとガゼフの立つ草原を飲み込んだ。その凄まじい閃光にガゼフは咄嗟に目を覆う。

 

「ぐううっ!!」

 

 こんな途轍もない魔法が存在することなど、ガゼフの想像を超えていた。攻撃魔法というのはせいぜい<火球>(ファイアボール)程度のものだと思っていたのだ。これなら魔神を滅ぼしたとかいう話も本当かもしれないと思える。

 

 しかしすべてを焼き焦がしてしまいそうな光の中でも、ガゼフの身に眩しさ以外の影響はなかった。肌が焼けるどころか髪の毛すら焦げていない。

 

(これは……サトリ殿の魔法なのか……)

 

 視界を真っ白に染めていた閃光が徐々に弱まってくる。ニグンは結果を確かめようと指の間から目を凝らした。

 

「ハハハハ!素晴らしい力だ!すば……あ……あ?」

 

 そして光が去り、薄闇が戻った。光の柱が立っていた場所の草は全て燃え尽き、焦げた地肌が円形に露出している。まさに天罰と呼ぶにふさわしい力の前に、何人も生き残ることは許されない。そのはずだった。

 

 しかし依然としてその場に立っている者がいた。それも二人。

 

「実験は成功……ふふ、ふふふ」

 

 サトリは小刻みに肩を震わせながら己の掌を見つめていた。それは湧き上がる喜びを噛みしめているようだった。既に頭上の天使の存在など忘れてしまったとでも言いたげだった。

 

「サトリ殿!?御無事か!?なんという……」

 

 ガゼフはサトリの紫の瞳がうっすらと光を帯びているのに気づいたが、今はそんな些細なことはどうでもよかった。

 

「……ええ。試したい事があったから、わざと受けたの」

 

「そ、そうですか……しかし本当に身体はどこも?」

 

 何かの魔法で保護されていたガゼフと違い、何の備えもなくあれだけの魔法の直撃を受けたのだ。外傷がなくても身体の内部にダメージが入っているかもしれない。目立った外傷がなくても数時間後にバタリと倒れ、そのまま死んでしまうという事は戦場でも偶にある。

 

「平気よ。なんなら脱がせて確かめてみる?」

 

「……とても魅力的な提案ですが、まだ死にたくはないので遠慮しておきましょう」

 

 そんな会話を交わしている二人とは反対に、ニグンの顔は蒼白で驚愕と絶望に染まっていた。

 

「あ、ありえない……ありえないありえない!こんなことはありえない!何かのトリックだ!もう一度だ!!もう一度<善なる極撃>(ホーリー・スマイト)を!」

 

「それはもういいわ。()()()()<上位排除>(グレーター・リジェクション)

 

 サトリの魔法の発動に合わせ宙に浮かんだ巨大な怪異の姿が歪む。瞬きの後には何一つ残さず消えた。まるで最初から何も存在しなかったかのように、あっけない最後だった。

 

 光を失った草原は虫の声しか聞こえない薄闇に支配される。

 

「あ……あ……」

 

 魔神さえ消滅させた最強の天使が、いとも容易く掻き消されたのを目の当たりにしたニグン達は完全に戦意を喪失した。桁が違い過ぎる。逃げようとしたところで無意味なのが理解できてしまう。だから彼らはその場に立ち尽くすしかなかった。

 

「お、お前……お前は一体、何者なんだ……」

 

「答える義務はないけれど。あなたの愚かしさに免じて教えてあげる」

 

 サトリは無詠唱化した<上位転移>(グレーター・テレポーテーション)を使い、ニグンの目と鼻の先に姿を現す。

 

「ひぃっ!!」

 

 尻餅をついて後ずさるニグンを、サトリは亀裂のような笑みを浮かべて追いつめる。

 

「なぜ逃げるの?あなたが聞きたいと言ったのでしょう。私が何者か」

 

 サトリの脚が跳ね上がり、爪先がニグンの顎を乱暴に蹴り上げた。さらに地面に倒れこんだニグンの身体を遠慮なく踏みにじる。げえっ、と蛙のような声で呻くニグンを見てサトリはくすりと笑った。

 

「私は魔法を統べる者。大いなる世界樹の葉より生まれ、幾多の世界を旅する魔法詠唱者。この世にただ一人のアーケインルーラーにして漆黒の魔人、サトリ」

 

 言い終わると同時にサトリはニグンの鳩尾にヒールをねじ込んだ。

 

「んぎぇっ!サ、サトリ、様、おお許しをっ……身代金ならば……ぐげええ!」

 

 ニグンは苦痛に呻きながらサトリの華奢な足首を掴んで必死に退かそうとする。だが体格では遥かに差があるというのに彼女の足はびくともしなかった。

 

「汚い手で私にさわらないで」

 

 微笑みから一転、不快そうに顔を顰めたサトリは眼下のニグンに手をかざして魔法を発動した。

 

<死神の握撃>(クラッチ・オヴ・オルクス)

 

 サトリの手の中に半透明の肉塊が現れる。それは生々しく脈動する心臓だった。どくどくと脈打つその幻の心臓をサトリは容赦なく握り潰した。

 

「いぐぇぁぁ!!?」

 

 直後、ニグンの口から世にも恐ろしい悲鳴が上がる。サトリが足を離すと胸を押えて転げ回り、やがて身体を丸めたまま白目を剥いた。それでも生きてはいるらしく、全身をびくびくと痙攣させていた。

 

「漆黒の魔人……サトリ……」

 

 周囲で立ち尽くしていた陽光聖典の隊員達がへなへなと崩れ落ちていく。恐ろしい魔人の名をうわごとのように繰り返す彼らを一顧だにせず、サトリはまっすぐガゼフを振り返って静々と歩み寄る。凍りついたままのガゼフの顔を覗き込んで、にっこりと無邪気に微笑んだ。

 

「夜道は怖いわ。送ってちょうだい。ガゼフ」

 

「……ええ、喜んで」

 



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6話

 負傷者を救出し、陽光聖典の生き残りを捕縛してカルネ村へと戻ったサトリとガゼフ率いる王国戦士団は、村人から暖かい出迎えを受けた。途中でサトリが展開していた対情報系魔法が発動するハプニングはあったものの、それ以外に大きな問題もなく、村はようやく静かな夜を迎えていた。

 

 捕虜の人数が多すぎることもあり、エ・ランテルに早馬を送って応援を頼んだが、到着するのは翌日以降になる。大量の捕虜を抱えて村で一夜を明かすことになった訳だが、先に捕らえた兵士達はともかく、陽光聖典は危険なので厳重な監視が必要だった。

 

 

(渡りに船だと思ったんだけどな……村の中じゃさすがに、なあ)

 

 消耗しきっていた王国戦士団に代わって陽光聖典の死体の埋葬を買って出たサトリは、「死体を媒介に生み出されたアンデッドは長期間存在し続ける」というこの世界のルールを知った。クラススキルの方の<アンデッド作成>を使って動死体(ゾンビ)を生み出し、死体を回収させていた時に気づいたのだ。

 

 この重要な発見に喜んだサトリは埋葬用に掘らせていた穴を埋め戻すと、陽光聖典の死体を近くのトブの大森林の中へ運んで守っておくように動死体(ゾンビ)達に命じる。

 

 

 思いがけない収穫に喜んだのも束の間、見張りの問題が片付いていなかった。村人達の感情を犠牲にしたとしても、今のサトリが人間の死体から作れる程度のアンデッドでは、陽光聖典の捕虜が暴れた時に取り押さえるのが難しい。自分自身がマジックアイテムを使って寝ずの番をする、という案は即座に却下していた。サトリだって疲れているのだ。身体的にはさほどでもないが、魔力はとくに厳しい。

 

 なによりも鈴木悟の精神の方が限界だった。この世界に着てからまだ1日も経っていないのに、あまりにも色々なことがあり過ぎたせいである。

 

(今夜は風呂に入ってゆっくり休むと決めたんだからな!絶対に残業なんてしないぞ!)

 

 といって疲労困憊のガゼフや戦士団にやらせる訳にもいかないし、一夜の見張りのためにこの世界では過剰なマジックアイテムを大盤振る舞いするのも考えものだ。用心の為であってケチりたいからという訳では決してない。

 

 そんな訳でサトリとガゼフと村長が頭を悩ませていた時のこと。村長の家に手伝いにやって来ていたエンリの顔を見て、サトリは急に立ち上がった。何事かと顔を上げたガゼフと村長を尻目に、サトリはつかつかとエンリに近づいてにっこりと笑いかける。

 

「エンリ。あの時、何でもするって言ったよね?」

 

「はい……えっ?」

 

 サトリの笑顔に見とれて生返事をしてしまったエンリだが、言葉の意味を理解すると顔色を変える。たしかに自分に出来ることなら何でもすると言った記憶があった。その言葉はもちろん嘘ではないが、こんな形で持ち出されると何をやらされるのか不安になってしまう。

 

「そ、その通りです。サトリ様がおっしゃるなら私、どんなことでもやります」

 

「その言葉が聞きたかった。じゃあ私と一緒に外に出ようか。村長。戦士長。手が開いてる人を集めておいてください。呼び出すところを見ていた方が混乱しないと思いますから」

 

「え?え?あの、サトリ様?」

 

 すたすたと村長宅の外に出ていくサトリに、周囲は戸惑いを隠せない。

 

「サトリ殿、何か名案が?」

 

「一石二鳥の方法を思いつきました。ちょっと驚くでしょうけど、アンデッドよりは良いと思います」

 

                   ◆

 

 それから暫くして、サトリが灯した<永続光>(コンティニュアル・ライト)の光で煌々と照らされた村の広場で、エンリは驚きを通り越して固まっていた。彼女の前には19体のゴブリン達が整列しており、代表らしき屈強なゴブリンが、エンリを指揮官と仰ぐことを宣言したからだ。

 

「俺ら一同、エンリの姐さんの為に命を張らせていただきやす!」

 

「というわけでエンリ。彼らの面倒を見てあげてほしい。君の命令には従ってくれるから安心してくれていい」

 

 エンリの後ろで事の成り行きを見守っていたサトリは、エンリの肩をポンポンと叩きながら満足そうに頷いている。村人やガゼフ配下の戦士達も、ゴブリン達が出現した直後こそ戸惑いを見せていたが、彼らが一般的なゴブリンより遥かに賢そうなのと「サトリ様が大丈夫と言ったのだから」という理由でさほど混乱もなく受け入れてしまった。

 

 魂が抜けたような顔でエンリが後ろを振り向くと、そこにいた村長が慌てて目を逸らした。

 

「わ、わしらもなるべく協力はする。すまないがエンリ、頼んだぞ」

 

「……」

 

 村長は頼りにならないとみて、エンリは隣にいたガゼフに助けを求める視線を送る。しかしそのガゼフも目を逸らしたではないか。何よりも民を大事にしてくれるはずの王国戦士長が、村娘の危機を見捨てるなんてあっていいのかとエンリは歯を食いしばった。

 

「さすがに報告はできんからな。私は見なかったことにしておく。私の部下にも秘密を漏らすような人間はいないので安心してほしい」

 

 何を安心しろと言うのか。もはやこの場で状況についていけていないのは、エンリ・エモットただ一人だった。

 

「それじゃゴブリン達には交代で見張りに当たってもらおうか。エンリ、彼らへの指示は頼んだよ。皆さんも暗い中ありがとう。おつかれさま」

 

 サトリの言葉で解散となり、人々は広場を後にしていく。

 

「さあて、私も帰ってゆっくり風呂でも……」

 

 呟いて歩き出そうとしたサトリの腕を、エンリががっちりと掴んだ。

 

「……サトリ様?」

 

「な、何かな?」

 

「これはどういうことですか?」

 

「どうって……ゴブリン達のまとめ役がんばって。エンリの姐さん」

 

 その言葉を聞いたエンリは我慢の限界に達した。サトリの前に回り込んでその両肩を掴むと泣き出しそうな顔で詰め寄る。

 

「こんなの聞いてないですよ!私ただの田舎の村娘ですよ!?」

 

「何でもするって言ったし……」

 

 必死に迫るエンリに、サトリはとぼけたように顔を背けて言ってのける。

 

「出来ることなら、とも言ったはずですよ!」

 

「だだ大丈夫だよ。わ私も経験あるけどまとめ役なんて、たた大したことじゃないから」

 

 サトリはがくがくと身体を揺さぶられながらもすまし顔だ。むしろエンリが取り乱しているのを見て楽しんでいる気配すらあった。

 

「それならサトリ様がやってください……私なんかよりずっと上手く……」

 

「私はあちこち旅をするつもりだからね。それに村はこれから人手が必要だろう?」

 

「それは……そうですけど」

 

「あの、エンリの姐さん。ひょっとして俺ら御迷惑でしたか?」

 

 ゴブリン達の列の先頭、ジュゲムと名乗った一際屈強なゴブリンが進み出てきた。

 

「……え?」

 

「おい!てめえら!姐さんの迷惑になるくらいだったら、やることは分かってるな!?」

 

「あったりめえよ!」「覚悟ねえ奴なんてここにはいねえ!」

 

 ジュゲムに応じてゴブリン達は一斉にその場にしゃがみ込むと、鎧を外して武器を抜き払った。

 

「俺ら一同、腹を切って姐さんに詫びやす。サトリ様とおっしゃいましたか、介錯お願いしやす」

 

「分かった。エンリがどうしてもいやだって言うなら仕方ないよな。エンリから産まれたのに要らないなんて言われて可哀想だけど」

 

「要らないなんて言ってません!そ、それに私が産んだみたいに言わないでください」

 

「あとは一言、死ねと言っていただければ片付きやす!姐さん、どうかこれからもお健やかに!」

 

 ゴブリン達の真摯な視線がエンリへと集まる。彼らの表情から感情を読み取ることは人間には難しいが、その真剣な空気だけははっきりと伝わってきた。エンリはついに観念する。

 

「う……わ、わかりました!私がやればいいんでしょう!」

 

 あからさまな芝居だと分かっていても、結局引き受けてしまうのがエンリという少女の生来の人の良さである。この一件で村長はエンリに頭が上がらなくなるのだが、今の彼女は初めて他人の命を背負うという責任の重さを考えるだけで頭が一杯だった。

 

「就任おめでとうエンリ。お祝いに同じアイテムをもう一つ渡しておくから、足りなくなったら使ってね」

 

 サトリはエンリの手に小さな角笛を握らせると、脱兎のごとく逃げ出した。そして少女の絶叫が夜のカルネ村に響き渡った。

 

                   ◆

 

「あー……今日は本当に、ほんっとうに色々あったなあ……」

 

 グリーンシークレットハウスの中で、サトリはぬるめのお湯につかって汗や埃を落とし、一日の疲れを癒していた。疲労を回復するポーションもあるが、こちらの世界で入手できるかわからないので無駄遣いはしたくなかった。いっそ食事睡眠が不要になる魔法の指輪をつけておくべきだろうかとサトリは考える。

 

(でも、ずっと腹減らない、眠くもならないって、どっかおかしくなりそうなんだよなあ)

 

 自分が24時間仕事を続けるロボットになったところを想像してしまい身震いがする。それにこの世界は鈴木悟がいた世界と違って、汚染されていない豊かな自然が残っている。食べ物も鈴木悟が食べていた合成食品よりおいしいものがたくさんあるはずだ。それらを楽しめないのはあまりにももったいない。

 

 カルネ村の村人達に振る舞われた食事にはとても感動したものだ。味がどうというよりも、自分達が一番苦しい時なのに大変な労力と乏しい備蓄から、心を込めた料理を振る舞ってくれた事が嬉しかった。マジックアイテムの効果で普段から空腹を覚えない、食事の習慣がない、となればその感動と重みはずっと軽かったはずだ。

 

(……指輪か)

 

 サトリはアイテムボックスから一つの指輪を取り出して指に通す。指輪は組み込まれた魔法によって自動的にサイズ調整され華奢な指に収まった。

 

 リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウン。

 

 サトリがモモンガだった時に所属していた栄光のギルドの証だ。ギルド拠点内を自由に移動できる力を持つが、今となってはただの思い出の品でしかない。最盛期には41人いたメンバーも4人まで減り、そこから自分を引いた3人と顔を合わせたのは何年前か覚えていない。最後の最後に2人とは会えたが、ヘロヘロとは会えずじまいでこんなことになってしまった。

 

(ヘロヘロさんに悪いことしちゃったな……)

 

 なんとなくリングを指で撫でてみるが当然何も起きるはずがなかった。リングが嵌っている指も見慣れた白い骨ではなく、ほっそりとした女の子のそれだ。

 

(無断欠勤だし仕事もクビだな……仕事か……俺は本当に帰りたいのか?あの世界に)

 

 サトリは湯気が立ち込める天井を見つめながらぼんやりと考える。ヘロヘロに謝りたいという気持ちはあるが、ユグドラシルが終了してしまった世界に帰りたいかと聞かれたら。

 両親も友達も恋人もおらず、毒で汚染されつくした世界で、いつ身体を壊すかと怯えながら、食う為だけに働く毎日に帰りたいかと聞かれたら。

 

(そんなもの─)

 

 

(最初から帰る気なんてなかったでしょう?)

 

 サトリはぎょっとしてお湯の中に深く沈んだ。確かに聞こえたのだ、誰かの声が。女の身になったからにはそういう心配も必要なのに、頭から抜け落ちていた己の迂闊さを呪う。びくびくしながら周りを見回してみるが、いくら見回したところで誰もいない。念のために魔法を使ってみたが結果は同じだった。

 

(本気で疲れてるな俺。でも、その通りかもな)

 

 この刺激と魅力に溢れた美しい世界で、自分の望むように生きてみたい。色々な土地を旅してみたい。価値ある物を集めてみたい。もっと魔法を極めたいし、強さを求めてみたい。楽しかったユグドラシルの日々と同じように。それがサトリの、鈴木悟の偽らざる願いだった。

 

 欲を言えばギルドメンバーに会いたかったが、こうなった原因がワールドアイテムなら、彼らがこちらに来ている可能性は絶望的だ。しっかりした情報があるならともかく、やみくもに探し回っても徒労に終わるとしか思えなかった。

 

 もしも鈴木悟がモモンガのまま、ナザリック地下大墳墓と共にこの世界に来ていたら、そうは思わなかったのかもしれない。死の支配者(オーバーロード)モモンガとして、アインズ・ウール・ゴウンのギルドマスターとして、仲間達で作り上げたナザリック地下大墳墓を守る為に、己の全てをつぎ込んであらゆる努力をしただろう。

 

 だが今はどうだ。ギルドという形も、ギルドの象徴たるギルド武器(スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウン)も、ナザリック地下大墳墓という拠点も、死の支配者(オーバーロード)モモンガという身体すら残っていない。あの栄光の歴史を証明する物は、もうどこにも存在しないのだ。

 

 アインズ・ウール・ゴウンが存在しているのは、サトリという少女の身体に宿った鈴木悟の記憶の中だけなのだ。だが─

 

 サトリは自分の胸に手を当てて静かに目を閉じる。

 

(だとしても。俺が()()にいる限り、アインズ・ウール・ゴウンの伝説は消えない)

 

 この世界でサトリという少女が生き続ける限り、アインズ・ウール・ゴウンの栄光は彼女の中で生き続ける。だから鈴木悟は生きていく。偉大なギルドの記憶を決して忘れることなく。己にできることはそれだけだと悟は思った。

 

 

 

「……結局。何も変わらないってことだな、あんなに悩んだくせに馬鹿みたいだ」

 

 何となく胸の内がすっきりしたサトリは湯の中で大きく伸びをした。この至福の時間は何物にも代えがたいものだ。この世界にだって探せば温泉の一つや二つあるはずなので、探してみるのもいいかもしれない。何気なく視線を落としたサトリは、白くて丸い物がぷかぷかと湯に浮かんでいるのが目に入った。

 

 正確に言えば、ずっと目に入ってはいたが気にしないようにしていた、のだが。

 

(これなあ……)

 

 自分の身体の一部だということは実感として分かっているが、鈴木悟の意識としては未だに違和感が拭いきれないでいた。胴回りが細いせいで余計に胸が目立つのはシャルティアを彷彿とさせる。ただ、あちらは偽物という設定だった気がするが。

 ユグドラシル時代、ペロロンチーノと巨乳談義に熱中していて、彼の姉のぶくぶく茶釜にドスの利いた声で怒鳴られて肝を冷やした事が、昨日の事のように思い出される。

 

(本人にはあんまり良い事ないよな。揉んでも多少くすぐったいだけだし)

 

 ゲーム的に言えば社交スキルにボーナスとペナルティがつくのだろうか。面倒事も呼びそうだし、ギルドメンバーだったフラットフットのように逆効果な相手もる。いちいち身体を引っ張られるような感覚も困り物だ。それでも鏡に映った己の姿を見ると、全てを許してしまえる気分になるのは、鈴木悟が巨乳派閥だったからだろう。

 

(下の方も含めて嫌でも慣れなきゃいけないんだろうけど、童貞にはハードル高すぎるよ!これに比べたら骨の体の方がずっと楽だっただろうな)

 

(教えてあげましょうか?今夜にでも)

 

 自分の胸を見つめながら妄想に耽っていたサトリは、また誰かの声を聞いた気がして慌てて湯船に沈み、思い出したように胸を手で押さえる。気分は悪戯を見られた子供のそれだった。何ら疚しいことはしていないのに、なぜこうも恥ずかしいのか自分でもわかっていなかった。

 

(の、のぼせたかな。もう上がるか)

 

 頭の上で適当に纏めた髪が湯に落ちないようにそっと立ち上がる。この髪を洗うのが何気に一番大変だった。入浴の代わりになる魔法があったら、真っ先に覚えようと決めた理由である。ただそんな魔法を覚えられたとしても、湯に浸かるのをやめるつもりはない。入浴という行為は日本人であった鈴木悟の魂に根差した最高の娯楽なのだ。

 

                   ◆

 

 次の日の朝。

 

 身支度と朝食を早々に済ませたガゼフは陽光聖典の捕虜が放り込まれた家に向かっていた。エ・ランテルからの応援が来るまでの時間を使い、サトリと共に捕らえた陽光聖典の尋問をすることになったのだ。本格的な尋問は王都で行われるだろうが、そうなるとサトリが重要な情報を得るチャンスがなくなってしまう。それはガゼフが協力しても同じだった。

 

 ガゼフは王国戦士長という肩書で名ばかりの爵位も持っているが、実態はただの一部隊の隊長であり、王国の政治や司法に一切の権限はない。一旦引き渡してしまえばガゼフとて何もできなかった。

 それにガゼフ個人を狙った今回の襲撃の周到さからして、ガゼフを排除したい王国内の貴族派閥が裏で糸を引いているのは確実であり、引き渡せば真相など闇に葬られるのが目に見えている。

 

 ガゼフとしても自分が狙われるだけならまだいいが、そのために無辜の民を何百人も殺し回った法国や、権力闘争の為に自国の民の虐殺を後押しした貴族派閥の貴族達には、堪えがたい怒りを覚えていた。今ここで情報を得ておくことは貴族派閥への武器になるだろうと思ったのだ。

 

 ガゼフが家の前で見張り役と話をしていると、サトリが姿を見せて手を振ってきた。朝日の中で輝くように美しい顔を見て「あの難儀な性格でなければ」などと思っている事はおくびにも出さずガゼフも挨拶を返す。

 

「では、さっそく始めましょうか。戦士長」

 

「そうですな。エ・ランテルからの応援にも貴族派閥の手が入っているかもしれませんので」

 

「と言っても私は尋問なんてやったことはないので、自信はありませんが」

 

 ガゼフは喉まで出かけた言葉を辛うじて飲み込んだ。

 

「……な、なるほど。しかしあなた程の魔法詠唱者であれば如何様にでも出来てしまうのでは」

 

「そう願いたいです。彼らには聞きたいことが沢山あるので」

 

 サトリの本性を知っているガゼフは、彼女のちょっとした言葉や態度にも不穏なものを感じてしまう。この娘の極端な二面性は、自分などには想像もつかない魔法的な理由があるのだろうと想像していた。彼女が王や王国と対立するような未来が来ないことを願わずにはいられない。

 

(彼女が王に力を貸してくれたら、これほど心強いことはないのだがな)

 

 彼女の魔法の力は伝説の13英雄すら超えるのではないかと、昨晩の光景を見たガゼフは思っている。その力と知恵を王国の為に使ってもらえれば、様々な問題を抱えたこの国を立て直せるかもしれないという希望が湧いてくる。しかし、ただでさえ魔術師と魔法の力を軽視している王国が、貴族ではない彼女にどんな態度を取るかなど容易に想像がついた。

 

 仮に彼女に宮廷魔術師として力を貸してもらえたとして、素性の知れない流れ者の魔法詠唱者の力を背景に改革を行えば、結果は火を見るより明らかだった。貴族達は王が魔法で操られたと言い出すだろう。サトリが若く美しい女性というのがさらに良くない。いずれ彼女をして「王をたぶらかした傾国の魔女」とでも糾弾するに違いない。

 

 ありとあらゆる手を使ってサトリを追い落とし、あるいは闇に葬ろうとするはずだ。彼女がいかに強大な魔術師でも、生きている限りは不死身の存在ではないはず。彼らが本気でサトリの排除にかかれば、ガゼフとて守り切れるとは思えなかった。宮廷こそが貴族というものの主戦場なのだから。

 

 そしてそんな絶好の機会を、あの鮮血帝が見逃すはずがないのだ。

 

(歯がゆいな……この国が生まれ変われるとしたらこの機を置いて他にないだろうに)

 

 極上の良薬を見つけても、王国という重病人は既にその薬を受付けないところまで容体が悪化していたのだ。四肢を切り落とす覚悟がなければ回復など見込めない。そして切り落とされる四肢とは、結局のところ無辜の民に他ならない。それは王と民を守る剣となることを誓ったガゼフには認めがたいものだった。

 

 陽光聖典の隊長の言葉がガゼフの頭を過ぎる。

 

(腐っている、か……いかんな。敵の流言に惑わされてどうする。俺は王に剣を捧げたのだ。剣は主の敵を倒すことだけ考えていればいい……)

 

 家の中に入ったガゼフが周りを見回すと、陽光聖典の隊員達が厳重に拘束された上でゴブリン達に監視されていた。全ての装備を取り上げられ、下着一枚の格好で目隠しと猿轡、という徹底ぶりだ。

 

「おや、サトリ様にガゼフ戦士長。こいつらが何か?」

 

「ええ。ちょっと話を聞きたいと思って」

 

「協力に感謝する」

 

 陽光聖典の隊員達は目も口も塞がれていたが、耳についてはそのままだ。彼らは入ってきた人間の名前と声を耳にすると、一斉に呻きながら身をくねらせ始めた。

 

「やっぱり戦士長は恐れられてますね……昨日あれだけ大活躍でしたから」

 

「……はは、敵に恐れられるのは悪い事ではありません」

 

 彼らが真に恐れているのは誰なのかガゼフにはすぐわかったが、わざわざ寝ている竜の尾を踏む気はない。変に刺激して苛烈な方の性格のサトリに出てこられてはかなわない。ガゼフもあちらのサトリにはかなりの苦手意識を刷り込まれていた。あんな力と振る舞いを見せられては誰だってそうだろう。

 

「さて、まずは……ん、この人はなんで傷だらけなのかな」

 

 下着で転がされていた男たちの中で、一人だけ擦り傷や痣だらけの男がいた。

 

「ああ、そいつは逃げようとしやがったんですよ。縛られてるくせに大暴れしやがるんで、取り押さえるのが大変でした」

 

「なるほど。元気が有り余ってるなら、ちょっと大人しくなってもらおうか。試してみたいこともあるし」

 

 それを聞いて傷だらけの男が死に物狂いで暴れ出すが、縛られていてはどうしようもなかった。ガゼフの前でサトリの指が男の肩に触れ、何かの魔法が発動される。

 

<魔法最強化>(マキシマイズマジック)<生気吸収>(エナジードレイン)

 

 サトリに触れられた男は声にならない悲鳴を上げながらびくびくと身体を震わせ、やがて力が抜けたようにがっくりと地面に倒れ込む。呼吸はしているようなので生きてはいるらしい。

 

「……なるほど。現実だとこういう感じになるのか。これは色々実験するのが楽しみだなあ」

 

 満足そうに呟くサトリに、固唾を飲んで聞き耳をたてていた他の捕虜たちが一斉に呻き出した。その切羽詰まった様子にガゼフも見張りのゴブリンも思わず眉を顰める。

 

「サトリ殿……今の魔法は一体どのような?」

 

「ちょっとした呪いです。これで前程元気はなくなると思います。ダメージはありませんから死んでしまう事はないはずですし」

 

 恐ろしい台詞をさらりと口にして立ち上がったサトリは、指先についた血と泥を見てわずかに頬を引き攣らせる。

 

「手じゃなくても発動できるかな……試してみよう」

 

 サトリはどこからか取り出したハンカチで手を拭うと別の捕虜に近づいていく。恐怖に震える捕虜の一人に軽く足を乗せて先程と同じ魔法を発動した。そして再び同じ光景が繰り返される。

 

「ああ、予想通りだ。靴くらいならいけるな」

 

 ガゼフには意味の分からない理由で上機嫌になったサトリは、流れ作業のように陽光聖典の捕虜を踏んづけては呪いをかけていく。

 

(……どちらの彼女もあまり変わらないのでは)

 

 途中から見ていられなくなったガゼフは額に手を当てて目を閉じた。しかし時間的余裕がない状況で情報が欲しいのは同じなので止める気はない。耳を塞ぎたくなるような咆哮が数度繰り返された後で、家の中は静かになった。

 

 耳を澄ませても聞こえてくるのは不規則な呼吸音だけだ。サトリの目配せを受けたガゼフは、床に倒れていた男の一人を引き起こして座らせる。目隠しと猿轡を外したその顔には見覚えがあった。陽光聖典の隊長。魔法詠唱者でありながら、不意を突いたガゼフの必殺の剣をギリギリで回避した強者だ。

 

 昨晩見た時とは別人のようにげっそりしていたが、ガゼフの顔を見るなり憎々しげな視線を送ってくる。しかしガゼフの後ろに立っていたサトリの姿を見るなり、蒼白になってガタガタと震え出した。ガゼフがサトリに場所を譲ると、サトリは怯える隊長の前にしゃがみこんで無邪気な笑顔を見せる。

 

「さて、素直に喋ってくれればこれ以上の魔法はいらないんですが……話してくれませんか?」

 

 ガゼフを睨みつけた太々しさはどこへやら、陽光聖典の隊長は何度も首を縦に振った。

 

 



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7話

 少し雲が出てきた昼下がりのカルネ村。

 

 サトリと村人達は出発する王国戦士団を見送りに来ていた。視線の先に居るのは屈託のない笑み浮かべたガゼフだ。勇ましく馬を乗りこなす姿は線の細いイケメンには程遠いが、サトリから見ても実に絵になる雄姿であった。実際、リ・エスティーゼ王国の一般人からすれば、彼は期待の星であり英雄そのものなのだ。

 

 その重圧は大変な物だろうが、その日々がさらにガゼフを鍛え、人としての深みを増しているのだろう。役職に応じた扱いを受けている内に、自然とそれに相応しい振る舞いが身についてくるものなのだ。その重みに潰されなければ、だが。

 

 そんなサトリに、最初に出会った時と同じようにガゼフが馬を寄せてくる。だが交わされる視線の温度は明確に違っていた。

 

「サトリ殿。あなたにはどれだけ感謝しても足りない。王都に来ることがあればいつでもこのガゼフを訪ねてくれ。あなたが来たらすぐに通すように言っておく」

 

「ありがとうガゼフ戦士長。でも奥さんがいるところに私のような者が行けば、あまりいい顔はされないのでは」

 

 サトリはガゼフと握手した時、彼の左手薬指で輝く指輪に気づいていた。夫の知り合いだとか言う若い女が家を訪ねてきたら、奥さんがどう思うかなんて結婚歴のないサトリにだって想像がつく。少なくとも機嫌が良くなることはないだろう。

 

「はは、私は寂しい独り身でして」

 

「えっ?でも指輪を……」

 

「これはある人から譲られた魔法の指輪だが……もしかしてあなたの故郷ではそういう習慣があったのか」

 

「え、ええ……まあ」

 

(この世界、結婚指輪の風習はないのか……)

 

「サトリ殿さえ良ければ、いずれそういった話も聞いてみたい所ですな。それでは!」

 

 ガゼフはサトリに堂に入った敬礼をすると、捕虜を護送するエ・ランテルからの応援部隊を先導してカルネ村を出立していった。ガゼフ配下の王国戦士団も、村の広場で手を振るサトリに心を込めた敬礼を見せてくれる。

 彼らのほとんどが笑顔だったが、中には泣きそうな顔を向けてくる者もいて、サトリも少しだけ胸が熱くなるのを感じた。こういう出会いと別れも旅の楽しみの一つなのだと、ユグドラシルでも現実でも味わえなかった感動で目頭が熱くなる。

 

 だがそんなサトリの気分は一人のすれ違いざまの一言でぶち壊しになった。

 

「サトリ様!好きです!また会えたら結婚してください!」

 

(……空気読めよ!)

 

 その空気が読めない馬鹿は、戦士団で一番の重傷を負っていた男だった。アイテムの節約と下級治癒薬(マイナー・ヒーリング・ポーション)との違いを調べる実験を兼ねて、重傷治癒の首飾り(ネックレス・オブ・ヘビー・リカバー)を使って傷を癒してやったら、あっさりと陥落してしまったらしい。

 

 軍隊なんて色々と溜まるだろうし、死にかけたが故の吊り橋効果というやつにしても、サトリから見てもちょろすぎて心配になるレベルだ。

 

(普通、会って二日の女に求婚するか?それともこの世界じゃそれが普通なのか?)

 

 そんな戦士団だが、彼らはあの死闘を一人の死者も出さずに切り抜けた。サトリの魔法とアイテムがなければ命を落としていた者も多いが、彼ら自身の力がなければとても全員は生き残れなかっただろう。

 

 戦士達はあの一戦を共に戦ったサトリに対し、信仰に近い感情を持つようになってしまっていた。絶望的な戦況で、魔法支援だけでなく同じ戦場で武器を振るって戦い、巨大な怪物を消し去り、負傷した彼らを笑顔で治療してまわったのだから無理もない話ではある。

 

 笑顔の治療にしても、サトリ本人はスキルの練習のつもりだったが、若い戦士達にはある意味地獄だったのかもしれない。元同性故の微妙な距離感の近さがそれに拍車をかけていた。

 

 そんなサトリにつけられた二つ名が「漆黒の戦乙女」である。本人は自分で考えた「漆黒の魔人」の方がより邪悪で闇っぽい感じがして良いと思ったが、他人に二つ名をつけてもらうというのは夢の一つなので当然悪い気はしない。やはりレアリティが違う気がするのだ。

 

 

 

 土埃を上げて去っていく一団を見送って肩の荷がおりたサトリはゆっくりと深呼吸をした。ガスマスク無しでも苦しくならない澄んだ空気に、何度目か分からない感動を覚えながら、手に入れた情報を頭の中で整理していく。

 

 あの陽光聖典の長、ニグン・グリッド・ルーインからはかなりの情報を引き出すことができた。もっと時間があればさらに多くの事が聞けたのだが、いかんせん時間が足りなかった。それに六大神や神々の遺産の詳細など、スレイン法国の核心についての情報はあまり知らされていないようだったのも残念だった。

 それらを知っているのは法国でも最上層部のごく限られた人物や、六色聖典でも特に秘匿されている漆黒聖典の隊長クラスだけなのだろうとサトリは睨んでいる。

 

 とはいえかなりの収穫があったのは事実だった。ユグドラシルと同じ魔法体系ながらサトリの知らない魔法の存在、武技や生まれながらの異能(タレント)の話は重要で興味深かったし、各地方の特色などもいずれ観光する時が楽しみになる話ばかりだ。

 

 さらに「真なる竜王」のみが操るという始原の魔法(ワイルドマジック)の存在。この世界はなんと謎と神秘に溢れているのだろうとサトリは胸をときめかせたものだった。

 

 途中、ニグンがあまりにも素直に喋るのを不審に思ったサトリが、他の隊員に魔法をかけて裏を取ろうとしたところ、4人残っていた隊員の内2人が死んでしまうという事故が起きたりもしたが、

その時のガゼフの視線がサトリの心に残っている。殺してしまったら情報が取れない、という当たり前の理屈を思い浮かべないほど、ガゼフの中での自分のイメージが悪くなっていたのかと、軽くショックを受けたのだ。

 

 その時になって初めて、サトリは己の中でガゼフへの好感度がかなり高いということに気づいたりもした。

 

(一本筋が通っててかっこいいと思うんだよな。いや変な意味ではなく)

 

 ああいうのが男が惚れる男という奴だろう。無茶な任務に部下がしっかりついてくるのも頷ける話だった。「一生ついていきたい上司」なるものに、ついぞ巡り合えなかった鈴木悟でも彼らの気持ちが少しだけわかる。

 

(いずれああいう男を地に這わせて服従を誓わせたいわ)

 

「それはどうなんだ……って、え?」

 

 サトリの耳にまたあの幻聴が聞こえた。しかし今度は真昼間である。ぐるりと見渡したサトリの近くには戦士団を見送りに来た村人が何人もいたが、皆去っていく戦士団に手を振っていてサトリに話しかけてきている者はいない。昨夜も聞こえたこの声は疲れからの幻聴かと思っていたが、こう何度も続くという事はそれで片付けるのは無理がある。

 

 ではどういうことだろうかと考えていたサトリの頭に閃くものがあった。

 

(しまった……別人格の声が聞こえる設定は基本じゃないか!ロールプレイの経験値が溜まってレベルアップしたんだな)

 

 封じられた闇の人格は虎視眈々と力を蓄えているのだ。サトリは闇の魔力に対抗するための新しい魔法儀式を考えながら、ガゼフ達の一団が土埃と共に離れていくのを見送り続けた。

 

                   ◆

 

 カルネ村からさほど離れていない鬱蒼とした森はトブの大森林と言われている。奥地には凶暴な生物が多数生息し、「森の賢王」と呼ばれる強大なモンスターも存在する人外魔境だ。そんな森に少し分け入った場所に僅かに開けた空間があり、そこには10人ほどの人影があった。

 

 彼らは一様に生気のない顔で、目はどんよりと白く濁り、半開きの口の端からは涎が垂れ流されている。動死体(ゾンビ)と呼ばれる最下級アンデッドモンスターだ。彼らの足元には、装備を剥がれた数十体の人間の死体が転がっていた。

 

 血と汚物と臓物の悪臭に満ちる空間に、黒いドレスの少女が忽然と姿を現した。転移魔法で移動してきたサトリは、途端に不快感を露わにして鼻を押さえ、アイテムボックスから取り出した魔法の指輪を身につける。身体の周りを清浄な空気の層で包み込むマジックアイテムの効果で、ようやくまともに呼吸ができるようになったサトリは、悪臭を振り払うように顔の前でぱたぱたと手を振った。

 

「最悪。全部スケルトンにすればよかったかしら」

 

(うわあグロ……派手に中身出ちゃってるのもある……ガゼフやりすぎだよ……)

 

 知っていたとはいえ死体の山を前にして鈴木悟は辟易していた。誰も見ていないのに闇のサトリのロールプレイをしているのは、自分自身がこの場の矢面に立ちたくないからだ。ロールプレイで通しているときは、精神的な負荷や衝撃が和らげられるのを経験的に理解していたのと、キャラ作りの一環ということにすれば一石二鳥と考えたからだ。

 

 そもそもサトリがこんな村に程近い場所に死体を溜めているのは、己のスキルの実験をするためだった。この世界では死体を媒介にして生み出されたアンデッドは時間経過で消滅しないが、人間の死体から作り出されるアンデッドは、種族スキルがなくなった現状、動死体(ゾンビ)やスケルトンなどの弱いモンスターにしかならない。それらは弱くて頭が悪い、さらに見た目も悪い、おまけに臭い、という具合で使い物にならないし、使いたくなかった。

 

 <死者召喚(サモン・アンデッド)>のような、死体を媒介にしない召喚魔法ならそれなりに強いアンデッドを呼び出せるが、サトリはユグドラシル時代、魔法の数をなるべく節約したい事情もあって、種族スキルと効果が被っているそれらの魔法を習得していなかったのだ。

 

(覚えてたとしても、死体を使わないとすぐ消えちゃうしな……)

 

 そこでサトリは己のスキル<暗黒儀式習熟>を応用することで、もう少しマシなアンデッドを作れないかと考えていた。もちろんユグドラシルではそんなことは出来なかったが、アンデッドの仕様が変わっている以上、出来たとしてもおかしくはない。何事も実験してみなければわからないのだ。

 

 そんなサトリの前に集められた陽光聖典の死体は全部で30体。ガゼフと王国戦士団に殺されたのが40体、尋問の途中で死んだのが2体。そのうち12体は動死体(ゾンビ)に転生済み。どうせなら蝋燭や魔法陣などの小物にも拘って深夜に行いたかったサトリだが、これ以上死体を放置していると村人にバレそうなので昼間にやるしかないのが少し残念だった。

 

「苦痛と怨嗟に満ちて現世を彷徨う魂よ。我が名と血の下に集い、新たな冒涜の器に宿れ」

 

 怪しげな身振りをしつつ厳かな声で不浄な言葉を唱えたサトリは、<暗黒儀式習熟>を用いて<アンデッド作成>を使用する。別にこんなことをしなくてもスキルは使えるが、形というのは何よりも大事なのだ。

 

 空中に生まれた毒々しい暗紫色の霧が死体に覆いかぶさった。それは貪欲な生き物のように次々と死体を飲み込んで濃密な塊に変じていく。全ての死体を飲み込んだ霧は急速に体積を減らしながら徐々に形を変え、やがて人間の女性の形をとった。

 

 毒々しい霧と引き換えに現れたのは、完全に血の気が抜けた青白い肌と、血のような赤い瞳をした妖艶な女性。当然人間ではなく吸血鬼の花嫁(ヴァンパイア・ブライド)と呼ばれるアンデッドモンスターだ。ナザリック地下大墳墓に自動発生する程度の弱いモンスターだが、動死体(ゾンビ)などよりは遥かに強くて賢いし、可愛いし、臭くもない。それにサトリのスキルで強化されているので、自動発生の個体よりは強いはずだった。

 

 生み出されたばかりの吸血鬼の花嫁(ヴァンパイア・ブライド)は、即座に地面に跪いてサトリに忠誠を誓う。己の目論見通りに実験が成功したことでサトリは上機嫌だった。一方で、考えておいた名前が無駄にならなくて良かったと少しホッとしてもいた。

 

「お前の名はサティア。サティア・ブラッドムーンと名乗りなさい」

 

「名を頂けるとは身に余る光栄です。わが主」

 

 感激して深く頭を下げる吸血鬼に、サトリはさらに機嫌よく語り掛ける。

 

「ふふ……陽光聖典30人の死から生まれたお前に相応しい名でしょう?名に恥じない働きを……」

 

 

 その時、主従の契りを結んでいる二人目がけ、木々の間から恐るべき速さで何か飛んでくる。蛇のような鱗に包まれたそれは狙い違わず吸血鬼の花嫁(ヴァンパイア・ブライド)の頭に命中すると、熟れたトマトのようにぐちゃりと粉砕してしまった。ひとたまりもなく滅びて灰になっていくアンデッドを見て、サトリはぽつりと呟いた。

 

「……せっかく、名前考えたのに」

 

 滅びた吸血鬼にさほど思うことはないが、手間が無駄になったことへの苛立ちがサトリの中で湧き上がる。大量の新鮮な死体というのはなかなか入手できないのだ。こんなことを仕出かしてくれた相手には相応の代償を払ってもらわねばならない。血の代償を。

 

 吸血鬼の花嫁(ヴァンパイア・ブライド)を容易く滅ぼした凶器は、周りに立っていた動死体(ゾンビ)達を薙ぎ払ってバラバラの腐肉に変え、引き戻される鞭のように木々の間に戻っていった。

 

 サトリは僅かに目を細めてそれの消えていった方向をじっと見つめる。ニグンから引き出した情報から考えて、自分が作った吸血鬼の花嫁(ヴァンパイア・ブライド)を一撃で滅ぼすというのはガゼフに匹敵する、あるいはそれ以上の強者と思われた。この場所でそれほどの強者といえば「森の賢王」以外ありえない。しかもここは完全に相手の間合いであり、普通に殴り合えばサトリでもかなり分が悪かった。

 

「ふふ……」

 

 サトリの口が亀裂のような笑みを作る。何千回と繰り返したユグドラシルでのPvP。技と魔法、強襲に包囲、虚と実のせめぎ合い、全身の肌が泡立つようなギリギリの心理戦。そんな刺激的な日々が再び楽しめるを期待して。もちろん実力的には圧倒的に物足りない相手ではあるが、己を倒し得る存在との戦闘というのは心が躍る。

 

 そんなサトリの心情を察したのか、もはや小細工は不要とばかりに茂みの奥から巨大な獣がその威容を現す。

 

「アンデッドの群れがうろついていると思えば……それがしの縄張りで何をしているでござるか」

 

 現れたのは鈴木悟のいた世界のハムスターとしか思えない、可愛らしい顔と毛並みの生物。ただその身体は絶滅したシロクマよりも大きく、尻尾はどんな生物にも似ていなかったが。

 

「……でっかいジャンガリアンハムスターが喋った……」

 

 それなりに手間をかけて作ったアンデッドを破壊されたことへの苛立ちも、待ち望んでいた激しい戦いへの期待感も忘れて、眼前のシュールな光景を目にしたサトリは素に戻ってしまう。

 

「じゃんが……?何のことでござるか?それがしは人呼んで森の賢王。そなたが何者か知らぬが、ここから先はそれがしの縄張り。黙って去れば良し、去らぬなら命を貰うでござる」

 

 見た目が変なら言葉遣いまで珍妙だ。あるいはこの世界の法則でそう聞こえるだけなのかもしれないが、緊張感というものが足りない。おかげでロールプレイなしでもまったく怖くなかった。

 

「森の賢王っていうからには、もっと迫力あるのを想像してたんだけどなー……あ、そうか、アンデッドの代わりにこいつを家来にすればいい」

 

「それがしの聞き間違えでなければ、家来にする、と言ったように聞こえたござるが」

 

「ああ。俺……私が勝ったら家来になってもらう。お前が勝ったら好きにしていい」

 

「大した自信でござるな。ではそれがしが勝ったらそなたを頂くでござる。見た感じとても美味しそうでござる」

 

 自動翻訳がおかしいのか、森の賢王の言葉が別の意味に聞こえてサトリは思わず半歩後ずさった。

 

「しょ……食欲的な意味で、だよな?」

 

「それ以外に何があるでござるか?」

 

「そ、そうだよな、そりゃそうだ、ははは」

 

「どうもやる気が削がれるでござるが……さて、気を取り直して勝負でござる!」

 

(そりゃこっちの台詞だよ!)

 

 鈴木悟の心の絶叫が伝わるはずもなく、森の賢王は獲物に追いすがる肉食獣の動きで猛然とサトリに駆け寄ってきた。

 

 しかし─

 

 

「ま、まったく動けないでござる……それがしの負けでござる」

 

「ええー……」

 

 数秒後。サトリの前には真っ黒な触手で地面に俯せに拘束された巨大ハムスターがいた。何のことはない、真っすぐ突っ込んできたところに布石として設置しておいた<黒の触手(エヴァーズ・ブラック・テンタクルズ)>に嵌っただけのことだ。

 ペロロンチーノが「触手プレイきたこれ」とか、「運営に怒られないギリギリのラインを」と興奮していた魔法の一つで、指定した範囲から大量の黒い触手を召喚し目標を拘束する行動阻害の魔法である。

 

 <肋骨の束縛(ホールド・オブ・リブ)>も考えたがあちらはダメージも与えてしまう。うっかり殺してしまう可能性を考えてこちらを選んだのだ。といってもあくまでも牽制として設置したもので、これだけで終わるとは思っていなかったのだが。

 

 必死に身じろぎする森の賢王の背中に飛び乗ったサトリは、密かに気になっていた毛並みに触れてみた。柔らかそうに見えたそれは触ってみると硬く、下手な鎧よりも頑丈そうで、ふさふさの手触りを予想していた当人は大きく期待を裏切られる。自然とサトリの口調が刺々しくなった。

 

「お前って本当に森の賢王なのか?」

 

「そのとおりでござる。昔会った人間がそれがしをそう呼んだでござる。気に入ったからその人間は生かして帰してやったでござる」

 

 期待外れとまでは言わないが拍子抜けなのは確かだ。あの尻尾の一撃こそ凄まじかったが、それだけ。突進の時に魔法も使ってきたがサトリにはまったく問題にならなかった。アーケインルーラーの種族特性もあるようだが、そのあたりはもっと検証してみないと何とも言えない。

 

「はあ……じゃ、約束通りお前は私の家来になってもらう。文句があるならもう一回戦ってもいいけど」

 

「敗れたからには潔く従うでござる。それがし、これから姫に忠義を尽くすでござる」

 

 サトリが魔法を解除して拘束を解くと森の賢王は素直に頭を垂れた。用心のために無詠唱化した<時間停止(タイム・ストップ)>を考えていたサトリだが、これなら問題なさそうだと胸を撫で下ろした。

 

「姫って……私の名前はサトリだ。それと森の賢王は呼びにくいから、お前には新しい名前をやる。そうだな……ハム……ハムスケ、でどう?」

 

「ありがたきしあわせでござる!このハムスケ、サトリ姫のために忠勤に励むでござる!」

 

(予定とは違ったけど可愛くてそこそこ強い部下ができたし、結果オーライだろうな)

 

「しかしお前に森の賢王なんて名前を付けた奴の顔が見てみたいよ」

 

「それは酷いでござる姫!これでもそれがしはこの森で一番強いんでござるよ!」

 

「それならもっと頭をだな……それより姫って呼ぶんじゃない、恥ずかしい」

 

「む、サトリ様とお呼びしたほうがいいでござるか?」

 

 頭の中で、この巨大ジャンガリアンハムスターに名を呼ばれる自分を思い浮かべて、サトリは頭を振った。

 

「……村に戻るからついてこい」

 

 サトリは木々の上まで浮かび上がると、カルネ村の方向に飛んでいく。

 

「むう、やはり姫と呼ばせていただくでござる。なんかそっちの方がしっくりくるでござる!あ、姫!待ってほしいでござる!姫ー!」

 

 木々の向こうに消えていく主を追いかけ、森の賢王改めハムスケは森の中を滑るように走り出した。

 

 



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8話

「あ、あの……サトリ様。あなたの後ろにいるのは……ひょっとして……」

 

「ええ。元森の賢王、今は私の家来のハムスケです。よろしくしてあげてください」

 

「姫のおっしゃられた通り、それがしはハムスケ。姫の家臣でござる」

 

 サトリとハムスケの前で、集まった村人とエンリ配下のゴブリン達が静まり返っていた。サトリの奇想天外な行動にすっかり慣れてしまった村人達は「サトリ様が言うなら大丈夫だろ」と半ば投げやりな空気だが、サトリの事をまだよく知らないゴブリン達はそうは行かない。

 

「サトリ様、そいつは本当に大丈夫なんですかね?」

 

「大丈夫。この村のみんなは決して傷つけないように言ってあるから」

 

「その通りでござる。それがしは姫の忠臣。姫の御領地の民をいじめたりしないでござる」

 

 サトリも村人もゴブリンも一瞬固まったが、面倒臭そうなのでいちいち訂正したりはしない。とにかくハムスケが安全だということが分かればいいのだから。しかしそこに一人だけ空気を読めない娘がいた。

 

「サトリ様は領主様なんかじゃないよ!」

 

「ちょっとネム!」

 

 エンリに連れられてきていたネムは、年齢が年齢だけに空気を読むというのは難しかったのだ。

 

「なんと?それでは何なのでござるか?」

 

「サトリ様は領主様なんかよりずっと強くて、綺麗で、優しいんだよ!」

 

「おお……それがしとしたことが迂闊でござった。姫ほどのお方がそこらの領主と同じ訳がないでござるな!」

 

 最初はネムの乱入に呆れ顔だった村人たちも、やり取りを聞いているうちに納得したようにうんうんと頷いたり、そうだと呟く者まで出てきている。サトリは気恥ずかしさで顔から火が出る思いだった。

 

(持ち上げすぎだろ!それともこれは羞恥プレイか?俺をどうしたいんだこいつら!)

 

 こんなときこそロールプレイの出番なのだろうが、この状態でやると予想外の方向へ話が転がる予感しかしない。それに動揺しまくっていたサトリはうまく切り替えできる自信がなかった。ハムスケをちょっと抓って黙らせたいところだが、無駄に頑丈なので魔法を使わないと難しいし、そこまでやるのも何だかなあと思ってしまう。

 

 現実逃避したサトリが空に浮かんだ雲の形を何かに例えていると、足元に寄って来たネムがきらきらとした目で見上げてくる。

 

「サトリ様ってやっぱりどこかのお姫様だったの?」

 

(……ハムスケのバカ!さっそく子供が勘違いしちゃったじゃないか!)

 

 もう限界だとサトリは強引に話を打ち切る事にした。

 

「えーと!それよりお話があります!私は明日この村を出てエ・ランテルに向かうつもりです」

 

 村人達から戸惑いの声が漏れる。立て続けに襲撃を受けた村人たちは、サトリが居なくなってしまうことに強い不安を感じていたのだ。エンリのゴブリン達がいるとはいえ、村の男手が大きく減ってしまっているということもある。だが既にサトリに莫大な恩をがあると感じている彼らが、引き留めるような真似はできなかった。

 

「サトリ様、どこかに行っちゃうの?ずっと一緒にいてくれないの?」

 

「ネム!サトリ様に無理を言わないの!」

 

 寂しそうな顔のネムをエンリが宥める様子に、わずかな罪悪感を抱きつつサトリは話を続ける。

 

「なので暫くの間、このハムスケに村を守ってもらおうと思っています。もちろん普段は縄張りにいてもらって、村が危ない時には助けてもらえるように」

 

「なんと!それがし姫にお供できないのでござるか!?」

 

「この村が落ち着くまで村人達を守ってほしい。お前の力は私が良く知ってる。だから頼むんだ」

 

(こいつの図体じゃ滅茶苦茶食うだろうしな。ユグドラシルの金貨はあまり使いたくないし、呼ぶとしたらそれなりに稼いでからじゃなきゃ)

 

 冒険者になって乗騎や使役獣として登録すれば、街中にもモンスターを連れ込めるというのは聞いていた。ただし暴れたらもちろん飼い主の責任だ。エサが足りなくて街の人間を食べてしまったりしたら、目も当てられない。

 

「姫にそこまで言われては、このハムスケ、全力でこの村を守ってみせるでござるよ!」

 

「ありがとう。頼んだ」

 

 そういってサトリはハムスケの顔を撫でる。硬い毛皮の手触りははっきり言って良くないのだが、ハムスケが喜んでいるようなので我慢して撫で続けた。

 

                   ◆

 

(これはきっと夢なんだ。目が覚めたらいつものベッドで、ネムがいてお父さんとお母さんがいて……)

 

 サトリがカルネ村で過ごす最後の夜。村をあげてのささやかな送別会の後で、エンリと妹のネムは、サトリが魔法で作り出した家に招待されていた。温かいお湯に身体ごとつかる、という行為を初めて体験したエンリ達だが、あっという間にその気持ちよさの虜になってしまった。一緒に来たネムは大はしゃぎして疲れたのか、今は別の部屋で眠っている。

 

「お湯につかるのって……あんなにも気持ちがいいものだったんですね……」

 

 全身から湯気を立ち上らせたエンリは、体内に籠った熱を逃がすように長い息を吐いた。

 

「だろう?風呂は最高なんだよ」

 

 得意げに胸を張るサトリはどこか子供のように無邪気に見えて、エンリは微笑ましさを感じつつ心から同意する。

 

「あの石鹸もすごくいい匂いだったし……それにこのお酒もおいしすぎです……なんか自分が御貴族様になったみたい」

 

「ははは。貴族は言い過ぎじゃないかな。でも確かに美味しいよね、これ。飲んだの初めてだけど……」

 

 バスローブ姿でワイングラスを傾けるサトリの隣で、エンリはゆったりとしたソファに湯上りの火照った身体を委ねている。目の前のテーブルにはサトリの故郷の物だという果実酒が置かれていた。この土地ではエンリの歳は成人だということを聞いたサトリが、お別れの前に一緒にどうかと誘ってくれたのだ。

 

 最初は遠慮していたエンリだったが、甘くフルーティで飲みやすい口当たりのおかげで一口で夢中になり、気づけば飲み干してしまっていた。それだけでも恥ずかしいのに、空のグラスを持ってしょんぼりした顔をバッチリ見られていたのに気づいた時は、恥ずかしさで消えてしまいたくなった。

 

(仕方ないじゃない!こんなに美味しい物飲んだの初めてなんだから)

 

 誰に向けたのかも分からない弁解を思い浮かべながら、赤くなって俯いたエンリに、サトリはくすくすと笑いながら「沢山あるから好きなだけどうぞ」と、何処からか取り出したボトルをテーブルに置いたのだ。もはや何も言えなくなったエンリは、今夜の事は夢だと開き直って楽しむことにした。

 

(……こんない美味しいお酒、もう二度と飲めないだろうな)

 

 サトリが言うには何かの強化効果も付与されているという話だが、そんなことはどうでも良くなるほどおいしかった。顔も身体も熱くなって、何とも言えないふわふわした感覚に包まれている。エンリの人生で初めての経験だったが、それは決して嫌なものではなかった。

 

「でも、本当にいいんでしょうか……こんなに良くしてもらって……私、何もお返しできません」

 

「昨日のお詫びだと思って。それに一人ぼっちじゃ、何を食べたって飲んだって美味しくないしさ……」

 

 どこか遠くを見るような仕草をしたサトリの顔は寂しそうで、神様みたいな魔法使いとは思えないほど儚げだった。エンリは胸をきつく抱きしめられたような気がして、アルコールで朱が差した顔をさらに赤く染める。

 

(サトリ様……)

 

 綺麗でスタイルも良くて、すごい魔法を使えて色々な事を知ってるのに、知ってて当たり前なことを知らない。それに時々別人のようになる時がある。村人の中にはそれを怖がっている人もいたが、エンリは怖いとは思わなかった。口調はどうあれ、どちらのサトリもエンリ達には優しかったから。あるいは出会った時、震えていた彼女を見ていたからかもしれない。

 

(本当に不思議な人……むしろ人じゃないって言われたら納得できるくらい……)

 

 そんなすごい人と二人きり。バスローブ一枚という格好で同じソファに座っている。最初は離れていた距離も、お酒を注いで注がれている内に縮まって、今はお互いの体温が感じられるくらいだった。

 エンリは熱に浮かされた頭で自分の状況を悟ると、慌てて姿勢を正して胸元や裾を押さえ、機関銃のように話し始めた。そうやって気を紛らわせていなければ、どうにかなってしまいそうだった。

 

 家族の事、村の事、農作業の事、たまに行く大きな街の事。エンリからすれば、ありふれたつまらない話を、サトリは目を輝かせて興味深そうに聞いてくれた。彼女の顔に見とれて話が途切れそうになる度に、エンリはグラスに口をつけた。サトリにはペースが早くないかと心配されたが、飲まずにはいられなかった。そうでなければ恥ずかしさで頭が弾けてしまいそうだったから。

 

「それから、ええと……ええと……」

 

 ただの村娘のこと。話は千一夜も続かない。エンリは静かになった部屋で、口から飛び出しそうなほど暴れる心臓を抱えて俯いてしまった。

 

(どうしよう、もう何も思いつかない、なにか話さなきゃ、じゃないと私……)

 

「あー……その、エンリ。そんなに頑張って話そうとしなくてもいいよ。静かにお酒を楽しむのもいいものだし」

 

「……は、はい……つまらない話しかできなくて……」

 

「そんなことない。エンリの話は本当に面白かったし」

 

(あ……)

 

 そう言って本当に楽しそうに微笑んだサトリの顔を見て、エンリは己の身体がぐらりと揺れた気がした。使うのが怖いくらい高そうなワイングラスで口元を隠しながら、すぐ傍でボトルを吟味しているサトリの横顔を窺う。その御伽噺のお姫様のような顔に、自分と同じように朱が差しているのに気づいて、エンリの胸の鼓動はさらに早まった。

 

 なぜこんなにも自分の胸は高鳴っているのか。お風呂上りに女の子同士でお酒を飲んでいるだけなのに。胸の鼓動が収まらない。サトリの顔から目が離せない。エンリは握りしめた拳を胸に当て、理由の分からない動悸を少しでも和らげようと目を閉じた。

 

(でも……嫌じゃ、ない……?)

 

 部屋の隅にあった姿見に視線を送ると、茹でられたように真っ赤な顔で瞳を潤ませ、わずかに開かれた唇から熱い吐息を漏らしている栗色の髪の少女がいた。あり得ないことだが、本当にあり得ないことだが、今サトリに抱きしめられたら、エンリは全てを受け入れてしまいそうな気がしていた。

 

 

 

 すぐ隣でエンリが妄想をたくましくしている一方で、サトリの方も今の状況に困惑していた。

 

(よく考えたら、これってパワハラでアルハラじゃないか)

 

 立場を傘に若い女の子を無理やり家に泊まらせ、飲酒を強要しているのだ。今は自分も若い女の子ではあるが、鈴木悟としてはそう簡単に割り切れる話ではない。

 

(下心とかほんとになかったんだよ。現実化したユグドラシルのお酒に興味あったけど、折角飲むなら一人じゃつまらないと思って……村長や男を夜に家に呼ぶわけにはいかないし、他の村の女の人は歳が離れてるし、そこまで親しくないし)

 

 心の中で捲し立てているのは己の良心への言い訳だ。サトリがこっそり様子を窺うと、エンリの様子があからさまにおかしい。童貞で女性と付き合った経験もない鈴木悟ですら異変に気付くほどだった。肌をピンク色に染めて完全に出来上がっており、何かを言わんとする目でじっと見つめてきている。

 

(なんで?なんでエンリこんなことになってるんだ!?ペース早かったからか!?こういう時どうしたらいいんだ!?助けて!ぷにっと萌えさん!!)

 

 ギルド屈指の頭脳派メンバーに心の中で助けを求めるが、答えが返ってくる筈もない。ボトルのラベルを確かめているふりをし続けるのにも限界がある。どうしようかと冷や汗をかきっぱなしのサトリの胸に、エンリの身体が倒れ込んできた。

 

「ちょっ……!?」

 

 サトリは慌ててエンリの身体を抱き止める。柔らかいとか、いい匂いとか、頭に浮かんだ感想を必死に振り払う。同性なのだから何も起こりようがないのに、なぜこんなに狼狽しているのか自分でもわからなかった。

 

「サ、トリ、さま……」

 

「な、ななんでしょうか!?」

 

 固唾を飲んでその先を待った。エンリの息に肌をくすぐられ、しっとりとした肌が触れ合うと、サトリの心臓はエンリのそれに負けじと高鳴った。己の中の何かに命じられるまま、サトリの両腕がエンリの背中に回される。

 

「あの……エンリ、さん?」

 

 エンリの返事はなかった。代わりに聞こえてきたのは、すうすうという静かで規則正しい呼吸音。

 

「ね……寝たのか……そうか……」

 

 ホッとした様ながっかりした様な、何とも言えない気分のまま、サトリはエンリの身体を軽々と持ち上げて優しくベッドに横たえ、そのまま静かに部屋を出た。ぶるぶると頭を振って、閉じたドアに背中を預けると、がっくりと肩を落として一際大きな溜息を吐き出す。

 

(そんなだから童貞なのよ)

 

 ロールプレイの自分の声が、鈴木悟の心にグサリと突き刺さった。

 

                   ◆

 

 明くる朝の天気はどんよりとした曇りだった。

 

 それでもエ・ランテルに出立するサトリを見送るため、カルネ村の村人全員が村の入口に集まっていた。その中にはゴブリンを連れたエンリとネムの姿もあった。当然、ハムスケもいる。村長を始め、次々と感謝と別れの言葉を伝えていく村人達。最後にエンリとネムの番が回ってくる。

 

「サトリ様。いつでも、いつでもこのカルネ村に、帰ってきてください。この村はあなたのことを絶対に忘れません」

 

「うん。私もこの村のことは忘れない」

 

 サトリは注意深くエンリの様子を窺う。瞳を潤ませて別れを惜しんでいるエンリに、昨晩の事を気にしているようなそぶりはない。朝にエンリに尋ねられたが、「酔っぱらったところを抱きしめちゃいました」などと言えるはずがなかった。

 かなりワインが入っていたし、やはりエンリは覚えていないのだろう。出来ればそのまま思い出さないでいてほしいと思いつつ、サトリはアイテムボックスから小さなハンドベルを取り出す。

 

 エンリが躊躇うのを見越してサトリは彼女に歩み寄った。

 

「これは受け取ってもらわないと困るんだ」

 

「でも……」

 

「これは2つで1つの魔法の品なんだよ。一対になったベルのどちらかを鳴らすともう一方も鳴る。片方は私が持っていく」

 

 陽光聖典が持っていたマジックアイテムの一つだった。ユグドラシルにはなかったアイテムだが、数があるので渡したところで惜しくはない。

 

「それって、つまり……」

 

 サトリは自分がこの村を離れた後のことを周到に考えていてくれた、それを知ってエンリは堪えていた何かが溢れそうになる。口元を押さえて何も言えなくなってしまったエンリを見て、村長が一歩進み出る。

 

「失礼ながら、お聞かせ願いたい。サトリ様はなぜ、この村をそこまで気にかけてくださるのか?」

 

 村長の疑問は、カルネ村の村人たちがずっと秘めていた疑問でもあった。サトリは見送りに来た村人たちの前で少しの間目を閉じると、意を決して口を開いた。

 

「……最初はただの気まぐれでした。でも見ず知らずの土地で女……の身で放り出されて独りぼっちだった私を、あなた方は家族のように暖かく迎えてくれた。だから私も、出来る限りの事をしたいと思いました」

 

「「サトリ様……」」

 

「私が居た場所は、もう二度と戻れないかもしれないほど遠いところで……知人も友人も誰一人いない場所に来てしまった私に、あなた方の心からの優しさが嬉しかった。だからです」

 

「「おお……!」」

 

 その言葉に嘘はない。目には目を。歯には歯を。恩に恩を。仇には仇を。それは人として当たり前のことだとサトリは思う。どんな世界でも、男でも女でも変わらない。

 

「だから、受け取ってくれるよね?エンリ」

 

「は……はい」

 

 少しだけ落ち着きを取り戻したエンリが、サトリが差し出したハンドベルにそっと手を伸ばす。その手をじっと見ていたサトリが不意に動いた。

 

「あっ」

 

 伸ばされたエンリの手がぐいっと引っ張られ、釣られて身体も引き寄せられる。バランスを崩したエンリの身体が正面から優しく抱きしめられた。驚いて目を白黒させたエンリの鼻が、どこかで嗅いだ記憶のある良い香りで満たされる。

 自分がサトリに抱きしめられていることを理解したエンリの顔が、見る見るうちに赤く染まっていく。

 

「さっサトリ様!?なにを……」

 

「ごめんなさい。あなたには謝らなければいけない」

 

「そ、そんな、サトリ様が謝ることなんて……」

 

 サトリの身体は信じられない程華奢で柔らかかった。種族からして違うと言われてもエンリには素直に納得できる。王様が寝るベッドだって、これほど気持ち良くはないだろうと言い切れてしまうほど繊細で、吸い付いてくるように滑らかだった。

 

 野暮ったい田舎娘が触れて良いものではないと身体を離そうとするエンリだが、サトリはそれを許さない。本気を出したサトリは大人の男性でも投げ飛ばせる力があるのだ。エンリは首から上を真っ赤に染めたまま身を任せるしかなかった。

 

「御両親を亡くしたばかりのあなたに、大変なことを押し付けてしまったわ」

 

「そんな……い、いいんです……誰かがやらなきゃ……いけないことで……その……あ……」

 

「ありがとう。優しいわね、エンリ」

 

「サトリ様……」

 

 耳元で囁くように名前を呼ばれ、エンリの全身から力が抜けていく。抵抗しようとする気持ちがしぼんでしまう。エンリは周りの状況も忘れて、胸を満たす安堵と幸福感に身を委ねた。

 

 エンリのサトリへの感謝の思いは、遥かアゼルリシアの白い頂よりも高い。それだけにエンリは、昨夜の記憶がはっきりしないことが気にかかっていた。酔っぱらってサトリに失礼なことを言ったりしたのではないかと不安だった。サトリは「何もなかった」と言ってくれたが、それが何かを隠しているような素振りに見えて、いっそうエンリを不安にさせていた。

 

 だが、こうしてサトリが抱きしめてくれるということは、少なくとも嫌われるようなことはしていないと信じられる。それがエンリには何よりも嬉しかった。

 

「ン、ンンッ」

 

 どれ程の時間そうしていただろうか、村長のわざとらしい咳払いを耳にしてエンリは我に返る。半ば閉じられ焦点の合っていなかった目に光が戻った。見知った村人達の前で、サトリと抱き合っている自分に気づいたエンリは、恥ずかしさのあまり悲鳴を上げた。

 

「ひゃああああ!?サトリ様!?放してください!」

 

「嫌」

 

「そ、そんな!こんな、皆がいる前でこんなこと!ネムだって」

 

「じゃあ二人きりの時ならいいのね」

 

「えっ!?そ、そういうわけじゃ!!だいたい、女同士でそんなこと!」

 

 いい加減エンリが泣きそうになったところで、ようやくサトリはエンリを解放する。安堵と名残惜しさの板挟みになりながら、羞恥に頬を染めるエンリの手に先程のハンドベルが手渡される。エンリが見上げたサトリの顔は、悪戯が成功した子供のようだった。

 

「それじゃ、皆元気でね」

 

 村人全員が見守る中、サトリの体がふわりと浮き上がる。

 

「う、ううう……サトリ様も、お元気で」

 

 派手にからかわれたのだと知ったエンリは口を尖らせたが、別れはやはり笑顔でいるべきだと、怒鳴りたい気持ちを押さえて微笑んだ。ぼやける視界の中、飛び去っていくサトリの後ろ姿が見えなくなるまで、エンリ達はずっと手を振り続けた。

 

 

 

 

 

 

「あああああ!!どうして俺はあんなことを!?いくらその場の勢いだからって、衆人環視であんなことやらかして、次どうやって顔合わせりゃいいんだよ!」

 

 両手で頭を抱えて、錐のように回転しながらの飛行という曲芸じみた動きをしながら、完全に素に戻った鈴木悟は恥ずかしさのあまり絶叫していた。

 

「もうカルネ村行けないじゃないかああああ!!」

 

 闇のサトリは少しずつ力を増している。いずれ完全にサトリの身体を乗っ取る日は遠くないのかもしれない。この世界の命運は鈴木悟の意志にかかっているのだ。

 

 

 

第一章   終




これにて一章終了です。
読んでくれてありがとうございました。

二章も全体が出来てから投稿するつもりなので、時間が空くと思いますが、宜しければまたお付き合いください。


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二章 八本の長い指
9話


※CAUTION

この二次創作小説には、厨二病成分、TS成分、ガールズラブ成分などが含まれています。また原作設定の大幅な改変があります。そういったものを許せない方はブラウザバックすることをお勧めします。この二次創作小説に登場するオリジナル魔法はD&Dから引用しています。

・1章1話にあるように主人公は種族レベルが消滅したため、レベルがほぼ半減しています。


 その日の城塞都市(じょうさいとし)エ・ランテルは灰色の雲に覆われていた。空には薄紅色(うすべにいろ)の奇妙な鳥の大群が飛び回っているのが見え、時折それらが羽ばたく音すら聞こえてくるようであった。都市をぐるりと取り囲む城壁に設けられた城門の1つでは、街に入ろうとする人や馬車で今日も長い行列が出来ている。

 

 その中に一人、周囲から浮いている女性がいた。周りは揃ってくたびれた旅姿で埃や垢に塗れているのに、彼女だけがドレス姿で入浴したてのように清潔だったからだ。しかも身につけている衣類や装飾品は全て、この世の物とは思えない見事な品ばかり。

 

(なんだあれは)(貴族のお嬢様か)(なんでこっちの行列に)

 

 貴族や大商人などの重要人物には専用の受付があり、一般人に混じって行列待ちする必要はない。一体どんな顔をしているのかと人々は興味津々だったが、その女性が鍔の広いとんがり帽子を目深にかぶっていたせいで誰もその顔を見れないでいた。群衆の一人が一瞬だけ覗き見た口元から、その女性が年若い少女らしいということがわかったくらいだった。

 

(若い娘らしい)(顔見たい)(誰か行け)

 

 行列待ちで退屈していた人々は格好の話題が出来たとばかりに、黒いドレスの少女についてひそひそと話し始める。囁き声は少女の耳にも届いていたはずだが、まったく気にしていないのか、それとも本当に聞こえていないのか、消え入りそうな声で延々と何事かを呟いていた。

 

 興味を引かれた行列の一人が耳をそばだてても、あまりにも小さな声なので内容は聞き取れない。辛うじて聞き取れたのは「闇」と「抑制」という二つの単語だけだった。

 

 やがて行列は進み謎の少女の番がやってくる。受付の衛士の前で帽子を脱いで素顔を見せる少女。世にも美しいその横顔に行列の人々は一斉にどよめいた。

 

 濡れたように輝く長い黒髪。不思議な質感の絢爛艶美(けんらんえんぴ)な黒いドレス。繊細(せんさい)豪華(ごうか)な数々の装飾品。ため息が漏れてしまう程の美貌(びぼう)は僅かにあどけなさを残し、真珠のような肌をぴったりと覆っている黒い布地は均整(きんせい)の取れた魅力的な身体の線を見せつけている。

 

 (かお)り立つような煽情的(せんじょうてき)な美と、妖精のような幻想的な美が調和した奇跡の少女。曇り空の下にもう一つの太陽が現れた、そう思ってしまうほどの輝きと圧倒的な存在感を放っていた。

 

 そんなものと間近で接することになった受付の衛士は、我を忘れて呆けたように口を開けたままだ。

 

「……あの」

 

 遠慮がちに少女の口を開かれる。その声すらも天上の楽器の音のように涼やかで耳に心地良い。 

 

「あの?この街に入りたいんですけど」

 

 顔のすぐ傍で心地よい声に呼び覚まされ、ようやく我に返った衛士は己の職務を思い出した。

 

「……あ、え、ええと……それじゃあ君、名前とこの街に来た目的を教えてもらえるかな?」

 

「私の名前はサトリ・スズキ。この街には観光に来ました」

 

 そう言って少女の形をした奇跡は軽く会釈をした。

 

                   ◆

 

 この国には旅券(パスポート)査証(ビザ)という物はなく、足税さえ払えば誰でも街に入ることができるが、明らかに怪しい人物はそれなりの取り調べを受けることになる。その判断は特別な事情がない限り現場の裁量(さいりょう)だった。受付の衛士はサトリの全身を穴が開くほど見つめると、粗末なテーブルに置いてあったベルを鳴らした。

 

「え、えーと、サトリちゃん、だっけ?悪いけど君には身体検査を受けてもらおうかな」

 

「身体検査?」

 

 予想外の展開にサトリは眉を顰めた。

 

「ここはバハルス帝国との最前線に近いから、君みたいな怪しい……普通じゃない人がいたら、調べないといけないんだよ」

 

「お……私のどこが怪しいっていうんですか?」

 

 口を尖らせて抗議するサトリを見て再び見惚れかけた衛士は、わざとらしい咳払いをして仕切り直す。

 

「ンンッ……いや、むしろどこが怪しくないと思ったの?」

 

 衛士の言い分に様子を窺っていた周囲の人々も頷いている。今のサトリの格好は「貴族のパーティーから抜け出して来ました」と言われた方が納得できるものだ。少なくとも旅人の格好には見えない。

 

「え、あ、あれ?」

 

「「おおっ!」」

 

 場の雰囲気に気づいたサトリがびっくりした顔で周りを見回すと、ようやくサトリの顔を正面からはっきり見ることができた人々から先程より大きなどよめきが上がった。

 

(まいったな……村じゃ何も言われなかったから気にしてなかった)

 

 ユグドラシルでは女性アバターの装備品にこの手のデザインはありふれていたし、カルネ村でも誰にも指摘されなかったことで完全に頭から抜け落ちていたのだ。

 

「わかってくれたかな?君の格好はちょっと普通じゃないって。冒険者なら目立つ恰好をしてる人もいるけど、そういうのは特別だからね」

 

「で、でも身体検査なんて……何とかなりませんか?」

 

 サトリが身につけている装備品は、この世界のマジックアイテムの水準を考えると騒ぎになりそうな物ばかりだ。そんな面倒はお断りしたいサトリは、村で練習したスキルを実戦投入する。

 

 相手と目を合わせて僅かに首を傾げつつにっこり笑いかけるポーズ、略してニコポである。魔力消費が無い代わりに精神力を削る社交スキルだが、色々な場面で使える汎用性が売りだ。さっそくスキルの効果を受けた受付の衛士は、抵抗(レジスト)に失敗して締まりのない顔になった。

 

「そ、そう言われてもこれが仕事だし……」

 

 脈ありと見たサトリは、旅の恥はかき捨てとばかりに畳みかける。

 

「面倒は起こしませんから。お願いします、衛士さん」

 

 少し俯きがちに上目遣いで見上げながらの「お願い」である。ニコポスキルの応用だが精神力の消費が甚大で使い勝手が良くない。熟練度が高まれば一瞬で目を潤ませる事でさらに効果を上げられるのだが今のサトリには難しかった。

 

(う゛……ロールプレイ(闇の人格)に任せりゃ良かった……これ精神というか正気が削れる……)

 

 これもロールプレイではあるのだが、完全に闇のサトリを演じている時と違って諸々のダメージが緩和されず、ダイレクトに鈴木悟の正気を侵してくる。このスキルは当分封印しておくのが賢いだろう。

 

「……そ、そんなに言われたらしょうがないな……特別だよ?あと俺の名前はジェンターっていうんだけど、良かったらこの後……」

 

「おい。その娘の取り調べをするんだろ?」

 

 城門の内側から別の衛士が近づいてきた。中肉中背で目立った特徴はないが、目つきが鋭くいかにも抜け目がなさそうな男だ。

 

「げ、ザイン……え、ええと、すまんねサトリちゃん……やっぱり身体検査は受けてもらうよ。なに心配はいらない。問題ないと分かればすぐに解放されるさ」

 

 受付のジェンターはこのザインとかいう衛士に頭が上がらないらしく、サトリの取り調べはどうやっても避けられない流れになったようだ。

 

「サトリ・スズキだったな。ここだと人目があるからついて来い」

 

「……わかりました」

 

(もうちょっとだったのに!正気削れ損だよ)

 

 サトリは心の中で吐き捨てるが、こうなってしまった以上は素直に協力したほうが早く済むだろうと、ザインに従ってすぐ近くの建物の中へ入った。そこは飾り気のない2階建てで内部はそこそこ広く、<永続光>(コンティニュアル・ライト)が付与された照明で明るく照らされていた。

 

 屋内に入ったザインは慣れた足取りで地下への階段を降りていった。サトリの背後にはいつの間にか大柄な衛士がついてきており、はやく行けと言うように無言の圧力を加えてくる。その有無を言わせない強引な態度にサトリは反感を覚えるが、心象を悪くするのもまずいと黙ってザインの後を追った。

 

 地下に降りた3人は道なりにしばらく廊下を進み、突き当たりのドアを開けて中に入る。

 

「ここだ。入れ」

 

(うっぷ……なんだこの匂い)

 

 部屋に入った途端漂ってきた異臭に耐えかねて、サトリは取り出したハンカチで口元を覆う。そこは殺風景を通り越して牢獄のような部屋だった。壁や床は変わった質感の石で出来ていて、壁の一部からは金属の取っ手のようなものが飛び出ている。部屋の真ん中に大きなベッドとチェストが置かれている他は何もない。ベッド脇にあるチェストの上では丸い陶器が白い煙を立ち上らせていて、この異臭の発生元はそれのようだった。

 

(香炉ってやつか?実物見るのは初めてだけど、この匂い好きになれないな)

 

 サトリは口元を押さえたまま眉を顰める。もしかしたらこの土地では一般的なのかもしれないが、良い匂いとはまったく思えなかった。部屋に染みついた悪臭を誤魔化そうとしているかのようで、トイレの芳香剤を連想してしまう。旅先での様々な香りも楽しみの一つだろうと、例の魔法の指輪を外していたのが仇になった形だ。

 

「止まるな。もっと奥へ行け」

 

 後ろからついてきた大柄の衛士が、部屋に一歩入った位置で立ち竦んだサトリの背中を押してくる。嫌々ながらも部屋の真ん中近くまで進んだところで入口が閉じられ、さらに鍵をかける音まで聞こえた時、サトリは己の迂闊さに気づいた。

 

「え……」

 

 気づけば地下の密室で男二人に囲まれているという状況。地下に降りた時点で嫌な予感がしなくもなかったが、まだ女という自覚が薄いサトリは「まさか自分が」という気持ちの方が強かったのだ。それでもまだ勘違いという可能性もなくはないと、サトリは目の前のザインの様子を窺った。

 

「あの、こういうのって普通は同性の人がやるんじゃ……」

 

 ザインは返事の代わりに唇の端を吊り上げてサトリの胸に手を伸ばしてきた。

 

(セクハラ……いや強制猥褻じゃないか。なんだこの衛士)

 

 いくらサトリの自覚が薄いといってもこんな状況でやすやすと触らせるほど甘くはない。芋虫の様な指に触れられる寸前、サトリは手刀で男の手首を叩き落とした。無論骨を折ってしまわないように十分手加減はしている。

 

「ってぇ!!」

 

 ザインは悲鳴を上げて叩かれた手を押さえた。職権乱用の強制猥褻なんて普通に考えてクビな上に牢屋行きだ。これ以上この連中に付き合う必要はないと部屋から出ようとしたサトリの腕を、背後にいた大柄な衛士が掴んだ。

 

「手を放してくれませんか?今なら何も無かった事にしてあげますけど」

 

 苛立ちはあるが早く観光したいサトリとしてはなるべく面倒は起こしたくない。何よりも一刻も早くこの臭い部屋から出たかった。<無臭>(オーダレス)の魔法で消臭できるとはいえ、髪にこの臭いがうつったりしたら気分が悪い。

 

「逃げられねえよ。おめえだってここまでノコノコついて来たからにはわかってんだろ?」

 

「いや、ちっとも」

 

 彼らは知らない。サトリにとってただの衛士など子猫も同然だということを。握られていた手首を力づくで振り解き大柄な衛士の襟元を逆手で掴んで持ち上げる。相手の出方次第でこのまま床に叩きつけるつもりだった。

 

「んぐぇッ!?」

 

「ちっ……おい、いいのか?この街に入れなくなってもよ」

 

 ザインの口調が変わった。正体を現したというべきか。あまりにも予想通りの台詞を喋ったので吹き出しそうになったサトリだが何とか堪える。それをやってしまうとこの手の連中は後に引けなくなるだろうからだ。

 

 サトリが振り向くと、ザインはこれ見よがしに指をわきわきさせながら黄色い歯を覗かせていた。本人は笑顔のつもりなのだろうが、サトリには歯を剥き出した猿にしか見えない。

 

「そんな可愛い顔で睨まれても怖かないぜ。むしろ滾るわ。自分の立場を理解したんならそいつを離しな、サトリちゃんよ。お尋ね者にはなりたくねえだろ?」

 

「この街の衛士は腐ってる……」

 

 サトリが溜息交じりに襟首から手を離すと、解放された男は入口のドアに寄りかかって激しく咳き込んだ。

 

「この国はどこだってこんなもんさ。どこの世間知らずのお嬢様だか知らねえが、「スズキ」なんて家名は聞いたことがねえ。その髪からして南方の出なんだろうが、ここじゃそんなものは通用しねえぞ」

 

「こんなことやっていいんですか?あなたが私を連れて行くところは何人も見てるのに」

 

「伝手があってな。俺のやることに上は何も言えねえよ。それにしても……」

 

 情欲に染まった男の視線がサトリの身体を舐めるように這い回る。見つめられた部分にナメクジでも這っているような錯覚を感じてサトリは背筋が寒くなった。自然と胸をかばい、ザインの視線から逃げるような姿勢をとってしまう。

 

「おめえみたいな女は見たことねえ。ちょいとガキっぽいが良い身体してやがる。おまけにツラも肌も髪も極上と来たもんだ。おめえと比べたら「琥珀の蜂蜜」のトップだって見劣りするだろうよ」

 

(なんだこの……こいつは)

 

 カルネ村でのあれこれで自分の容姿に自信を持ち始めているサトリだったが、こんな男にこんな状況で褒められても不快感しかない。そもそも褒められているように思えない。それでもサトリは怒りを抑えて最後の交渉を試みる事にした。

 揉め事を避けたいのが半分、こんな連中に<記憶操作>(コントロール・アムネジア)の魔法をかける魔力がもったいない、というのが半分だ。あの魔法が膨大な魔力を消費することはカルネ村での実験で分かっている。

 

「いくら払えばいいんですか?」

 

「お前にゃ金よりもっと良いもんがあんだろ?もちろん金もいただくけどな」

 

 わざとらしく下卑た作り笑いを上げる男に、サトリは腐った生ゴミを見るような目を向けた。鈴木悟のいた世界でも汚職はありふれていたが、この豊かな自然に溢れた美しい世界で、それより酷い腐敗を見せられるとは思っていなかった。

 明確な敵はともかく、この世界に来て最初に出会った人々が素朴で親切なカルネ村の村人やガゼフ達だったせいで警戒感が薄れていたのだ。

 

「……はあ。そっちがそのつもりならやるしかないか。でもお前らは運がいい。闇の力を抑え込む儀式を行ってなかったらとっくに命はなかったぞ」

 

 カルネ村を出る時うっかりロールプレイ(闇の人格)が出てしまい、恥ずかしいことをやらかしてしまったのを気にしていたサトリは、行列待ちの間に闇の人格を封印する儀式を行っていた。あの儀式は他人に内容を悟られると封印の呪力が落ちてしまうので、帽子を目深に被っていたのだ。

 見られたところで闇の呪いに蝕まれていない人々には理解できないのでまず心配はないのだが、本来は夜に部屋で一人で行うべき儀式なのだ。じゃあなぜやったのかというと、行列待ちの間あまりにも暇だったからだ。

 

「闇の人格、だと?」

 

 容姿や持ち物からして普通とはかけ離れているだけに、サトリの言う「闇の人格」とは何かの暗喩なのかとザインは一瞬身を固くする。しかし彼らが今までに攫って売り飛ばした女の中にはミスリルのプレートを下げた女性冒険者もいたのだ。どんな切札があろうが己の勝ちは揺るがないという自信がザインにはあった。

 

「ぐっ、ごほっ!……こっ、このガキ!」

 

 激しく咳き込んでいた大柄の衛士が立ち直り、怒鳴り声を上げてサトリに殴りかかってくる。その男の身体はサトリよりも二回り以上も大きい。以前ならほとんどダメージがないと分かっていても恐怖で身が竦んだだろうが、今のサトリには余裕があった。

 

(ガゼフの睨みつけに比べたら子犬が吠えてるレベルだなあ)

 

 動きの方も比べ物にならない。ガゼフならこの男が拳を振り下ろす間に6回以上は斬れそうだった。余裕綽々のサトリはむしろ正当防衛の言い訳が出来たと喜んで身構える。

 

「おい。何勝手してんだカイアス?」

 

 ドスの聞いた低い怒鳴り声が部屋中に響き、サトリに殴りかかった男の動きがぴたりと止まる。声の主はザインだった。サトリも一瞬緊張したがガゼフのお守りを突破するほどではない。

 

「話はついたんだ。サトリは話し合いでケリつけたいって言ってんだよ」

 

「……」

 

 サトリとしてはもうやることは決まっている。が、この三文芝居がベタ過ぎてかえって新鮮だったので流れを止めるような真似はしない。悔しそうな表情を浮かべて雰囲気作りに協力しておいた。

 

「……わ、悪かった。つい頭にきてよ」

 

 大柄な衛士、カイアスがすごすごと身体を縮める。それだけでこの二人の力関係がはっきりと窺える。

 

「てめえの頭なんざ元々ついてる意味ねえだろうが。腕力しか取り柄のねえ屑のチンピラだったてめえを、「八本指」に話通して衛士にしてやったのはどこの誰だ?」

 

「わ、悪かったって!勘弁してくれよザイン」

 

「てめえは俺の言う通りにしてりゃいいんだ。そうすりゃてめえもおいしい思いができんだからよ」

 

(八本指……ニグン達の話にあったな。こんな街の衛士までマフィアの手が入ってるのか)

 

 この国を本拠に活動する犯罪組織で、麻薬に殺人、窃盗に売春、その他ありとあらゆる悪事を扱う巨大犯罪シンジケートだという。真に王国を支配しているのは彼らだと言われるほどの力を持っているらしい。

 

(にしても本当に安い芝居だな。いつまでやるんだこれ)

 

 子分を凄ませて叱りつけることで物分かりが良い大物感を演出。その上でさり気なくマフィアの名前を出して怖がらせ、言う事を聞かせるというテンプレートのような小芝居だ。それでもサトリが見た目通りの女の子で、ガゼフとの睨み合いを経験していなければ効果は抜群だったかもしれないが。

 

「待たせたなサトリ。あらかじめ言っとくがこの部屋じゃ魔法もマジックアイテムも使えねえぞ?嘘だと思うなら試してみな。それとももう試したか?」

 

 サトリは僅かに目を細める。ザインの話を鵜呑みにしたわけではないが、ユグドラシルでも魔法を無効化する場所というのは存在したからだ。それに魔法が当たり前に存在する世界でこういった部屋を作っておくのは当然の備えだろう。ただ、そんな重要な場所を末端の衛士が私室のように使っているのは普通ではない。

 

「……腐ってるのは衛士じゃなくて、この国なのか」

 

「おうちの家庭教師は教えてくれなかっただろ?いい勉強になったな。代金はおめえの身体と全財産だよ」

 

「はっ。魔法使えなくたってお前らなんれ……?」

 

 そこでようやくサトリは己の身体の異変に気付いた。舌が縺れてうまく言葉にならない。全身が徐々に重くなって握りしめた拳から力が抜け、膝が震えて立っている事すら辛くなってくる。

 

「な……これ……」

 

「やっと効いてきたな。何のためにダラダラ小芝居してたと思う?ずっと平然としてやがるから、この薬効かねえのかと冷や冷やしたぜ」

 

「く、すり……だと……」

 

 オーバーロードのままであればアンデッドの特性で毒など受け付けなかっただろう。ただし今のサトリはそうではない。毒耐性を得る装備品は酒に酔うことも出来なくなるので街に入ろうという時につけようとは思わなかったし、強力な魔法無効化の空間内ではそれらマジックアイテムの効果すら一時的に停止してしまう事もある。

 

 それにユグドラシルにおいても完全耐性を無視してくる攻撃はあった。ワールドエネミーの八竜の1体が使用してくる「屍毒のブレス」や、「五色如来」が使う「天人五衰」などの攻撃がそうだ。そしてこの世界には生まれながらの異能(タレント)という物がある。完全に耐性を整えていたとしても絶対などない。

 

 だが、そういう目に見えない物に怯えていたら家から一歩も出られなくなってしまう。命に代えても守りたい物があるならともかく、今のサトリはそうではない。折角異世界に来たのに維持する指輪(リング・オブ・サステナンス)を付けて、永久に穴倉に籠っていろとでも言うのだろうか?

 

「八本指お抱えの生まれながらの異能(タレント)持ちが作る特別製だ。当然値も張るが、おめえみたいな女も居るから念には念をってところだ」

 

<魔法無詠唱化>(サイレントマジック)<人間種支配>(ドミネイト・パースン)……)

 

 サトリは魔法を行使するが、ザインの言った通り効果は発揮されなかった。そうしている間にも毒はサトリの全身を侵していく。ついには足から力が抜けサトリは冷たい石の床の上に崩れ落ちてしまった。全身が鉛のように重くなって言う事をきかない。意識にも靄がかかっているのに肌の感覚は鮮明で、むしろ敏感になってさえいる。

 

 こんな異様な症状をもたらす毒物が何のために作られたのか、身をもって体験しているサトリには嫌でも想像がついてしまう。間違いなく()()()()目的のためだ。生まれながらの異能(タレント)という「なんでもあり」が存在する世界で、八本指のような犯罪組織が飛びつかないはずがない。

 

 ザイン達に効果がないのは対策済みだからだろうが、もしかしたらこの毒自体が女にしか効果がないような代物なのかもしれない。この部屋は周到に用意された八本指の為の狩場であり、この国全体が彼らの為の巨大な牧場なのだ。

 

 何とかアイテムボックスを開こうとするが、既に腕を持ち上げることもできない。仮に取り出せたとしてもアイテムが発動しない可能性が高かった。この後、自分が何をされるのか想像してしまったサトリは、今まで経験したことのない生理的な嫌悪と恐怖に囚われた。

 

 しかしこの時のサトリは自分自身でも気づいていない、気づいても認められない事があった。地下に入った時点で感じていた嫌な予感を押し殺した本当の理由とは─

 

 辛うじて上体を支えていた肘からも力が抜け、サトリの身体は完全に石の床に突っ伏してしまった。ギラついた男の目が固唾を飲んで見つめる中、美しい黒髪が床の上に広がった。

 

 

                   ◆

 

(この女、普通じゃねえ)

 

 ザインは自分が調子を狂わされていることを理解していた。八本指の末端として数々の悪事に手を染めてきた。見目の良い女を攫って売り飛ばしたことなど数え切れない。だがそんな女達の美しさなど、このサトリと言う名の少女とは比較にならなかった。

 

 ザインにとってはこんな役得はいつもの事で、()()()には劣るが女の扱いには慣れている。しかしこの娘を見ていると、みっともない童貞小僧に戻ったように余裕が消え失せるのを感じていた。煮えたぎるような衝動に急き立てられるのだ。

 

 ロマンティストとは真逆のザインだが、その理由は見た目だけの話ではないように思った。存在感と呼ぶべきものが根底から違う。まるで自然の猛威や巨大なモンスターを間近で見てしまった時のように、この娘から目を逸らせなくなる。

 

 未知なる神秘の存在への憧れ、そんなものを思うがままにしたいという背徳感。あまりにも恥ずかしい事を考えている自分に呆れて、ザインはがりがりと頭を掻いた。

 

 馬鹿げた妄想を抜きにしても、こんな獲物には二度と出会えないと断言できた。それだけにコッコドールに送った時の報酬が楽しみになる。行き先は王都の最高級娼館か、六大貴族の誰かの妾だろう。だがそうなってしまえばザインはこの娘を抱くことはできない。

 

(……惜しいな)

 

 ザインはコッコドールからの莫大な報酬より、この娘を手放したくないと思ってしまっていた。女は利用して捨てるものであって、惚れるものではないと思っていた自分とは思えなかった。

 

 そんな少女が今、己の足元に力なく横たわっている。完全に毒が回って身体など殆ど動かないだろうに、いまだ抵抗しようとする素振りが男の嗜虐心を燃え上がらせる。とうとう我慢しきれなくなったザインは冷静な仮面をかなぐり捨てた。

 

「諦めな!この部屋じゃどんな魔法だって使えねえんだ。聞いた話じゃ全体が骨の竜(スケリトル・ドラゴン)みてえなもんなんだとよ」

 

(後のことは後で考えりゃいい。今はこの娘を思う存分楽しんでやる)

 

 荒々しくズボンを脱ぎ捨てて下着になったザインは、サトリの身体に覆いかぶさった。

 

 しかしザインを迎えたのは柔らかな女の体ではなく、硬く冷たい石の床だった。襲い掛かった直後、サトリの身体が忽然と消えてしまったからだ。

 

「き、消えただと!?ふざけんな!なめんじゃねえぞ!」

 

 寸前でお預けをくらった形のザインは、バツの悪さと収まりのつかない下半身を抱えて怒鳴り散らす。

 

「あの女逃げやがったのか!?」

 

 事態を把握したカイアスは入り口のドアを振り返り、逃げたはずのサトリを追って外に出ようとする。

 

「落ち着けカイアス!姿を消す生まれながらの異能(タレント)は偶に聞く話だ!サトリはきっとまだこの部屋にいるにちがいねえ!おめえはしっかり鍵を持ってろ!」

 

「わ、わかった」

 

「よくも俺をコケにしやがったなサトリ!だが逃げられると思うなよ!見つけたら覚悟しやがれ!」

 

 ザインの血走った目が、白い煙が充満する部屋の中をぐるりと見回した。

 



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10話

「せっかくのオフなのに空は生憎の曇り空……金は無いし隣にいるのは気は良い奴だけど男だ……ああどっかその辺に美人が落ちてねえかなあ」

 

「落ちててもお前に惚れてくれるとは思えないぞ」

 

 エ・ランテルの街中を二人の若い男が連れ立って歩いていた。一人は痩せていて背が高く腰にショートソードをぶら下げており、もう一人はがっちりした体型で広刃の剣(ブロードソード)で武装していた。どちらも鎧の類は着ておらず草臥れた普段着姿である。

 

「まず出会いがなきゃ始まらねえだろペテル!その出会いが欲しいんだよ俺は!わかる!?お前だって悟ったような顔してるけど同じだろ!」

 

 突然の大声に通りを歩く人々は何事かと顔を向けるが、ペテルと呼ばれた青年はこういう奇行に慣れているのかさほど慌てた様子はない。

 

「大声出すなよルクルット。俺達だって実力はついてきてるしいずれは」

 

「そうかもしれないけどよ。血生臭い日々には潤いが必要なんだよ!心が渇いてヒビ入っちゃってんのよ!」

 

 少しの間を置いてペテルがぼそりと呟く。

 

「……どうしても我慢できないなら娼館に行けばいいじゃないか」

 

「装備更新の金が飛んじまうだろぉ!?あんまり安い所は後々高くつくっていうしよ!そういうお前だって行ったことねえくせに!」

 

「お前、意外とそういうところしっかりしてるんだよな」

 

「意外は余計だっての……金ないから本当に散歩するくらいしかできねえ。こんなんじゃ美人との縁なんて」

 

 ルクルットの嘆きはペテルにもよくわかる。ペテルとて女性に興味がないわけではないのだから。だがこればかりはどうしようもない問題だ。冒険者にも若い女性はいるが、男女混合パーティは愛憎のもつれで崩壊することが多いという理由であまり推奨されない。

 

 もちろん上手く行っているところもあるが、ちょっとした手違いで簡単に命を落とす仕事なのに仲間内に不和の元を増やすなど自殺行為である、というのがこの業界の暗黙の了解なのだ。そのせいでなかなかパーティを組めずに苦労する女性冒険者はよく見かける。

 

「だからって焦って背伸びしたって良いことはないさ。結局は毎日コツコツやるのが一番の近道、そうだろ?」

 

 それはペテルが自分に言い聞かせる言葉でもあった。冒険者の中には一足飛びに上に上っていく者も珍しくはないが、普通の人間がそんな連中を真似しようとしても命を落とすだけだ。才能や家柄の差を妬んだところで、現実として存在する物は否定できないし、したところで何も変わらないのだ。

 

 他人を羨むより己が出来たことを誇ろう。それがペテルの考え方だった。それでも人間である限り割り切れない時はよくある。そんなとき支えてくれるのが仲間なのだ。

 

「ん?」

 

 その時ペテルは隣を歩いていたはずのルクルットの姿がない事に気づいた。怪訝に思って後ろを振り向くとルクルットが必死の形相で突っ込んでくる。肩がぶつかりそうになったペテルは慌てて飛びのいた。

 

「うわっ!?急に走るな!」

 

 抗議を無視して全速力で走っていくルクルットに呆れつつもペテルはその後を追った。普段はあえてふざけているルクルットがああいう表情をするのは、かなり余裕がない時だということをペテルは経験から知っている。

 

「おい!何があった!?」

 

「女だ!空から女の子が落ちてきた!」

 

 叫びを聞いたペテルの足運びが遅くなっていき、やがて立ち止まった。小さくなっていく相棒の後ろ姿を見つめる表情が悲しそうなものへと変わっていく。

 

「……ルクルット……お前……」

 

 ルクルットはレンジャーだけあって目が良いし身のこなしも仲間内でも一番だ。そのおかげで助かった事や儲かった事は何度もある。だからペテルはルクルットの目には信用を置いていた。

 でもさすがにこれはない。あれが日頃からしつこく女女と言っていたのは冗談だと思っていたが本気だったのだろう。なのに女性との出会いがない日々が続いたせいでおかしくなってしまったのだ。

 

「ごめんな……お前がそこまで思い詰めてた事に気づけなくて」

 

 積み立てを崩してでも娼館に行かせてやるべきかと悩みつつ、ペテルはルクルットの後を追って走り出した。あれが道行く女性に抱き着いたりしようものなら殴ってでも止めなければならない。それが銀級冒険者チーム「漆黒の剣」のリーダーである自分の務めなのだ。

 

                   ◆

 

 屋根から転がり落ちてきた黒いドレスの少女が石畳に叩きつけられる寸前、全力疾走してきたルクルットはがっしりとその身体を受け止める。勢いがついていただけにルクルットの全身に痛みが走るが、取り落とすことも潰れることもなく耐えきれたのは、一般人よりも高い身体能力のおかげだった。

 

「ふぐうっ!?」

 

 歯を食いしばり痛みで涙目になりながらもルクルットの心は強い達成感で満たされる。若い女性だと分かったから助けに走ったわけでは決してない。意気込みはかなり違っただろうが。

 

(ま、間に合った……流石だろ俺……)

 

 ようやく痛みが治まってきて助けた相手の様子を観察する余裕が生まれてくると、ルクルットはまずその軽さに驚く。といっても貧民街のストリートチルドレンのように痩せ過ぎている訳ではない。女性らしい丸みを帯びた身体は柔らかくて抱き心地が良かったし、膨らんだ胸は見まいと思ってもつい目が向いてしまう。

 

「う……あ」

 

 ぐったりした少女が呻き声を上げたことで、ルクルットは慌てて視線を胸から逸らして少女の顔を覗き込んだ。そして、呼吸を忘れる。

 

 まず輝くような黒髪に目が行った。次に薄っすらと開かれた瞳に吸い寄せられた。そして切なげに歪んだ表情を見て、ルクルットの心臓が大きく跳ねた。僅かにあどけなさが残る整った顔は、苦痛で喘いでいてもなお、見る者の意識を塗り潰してしまう美しさがあった。

 

 ルクルットが呼吸も忘れて少女を見つめていると、何故かその顔が少しずつ近づいてくる。吐息がはっきりと感じ取れるようになったところで目が合った。宝石の様な紫の瞳が驚いたように見開かれた瞬間、ルクルットの頭が殴られたようにガクンと揺れ、視界から少女の顔が消え失せる。

 

「馬鹿野郎!今すぐその女の子を放せ!!」

 

 見れば追いついてきたペテルがルクルットの頭があった場所で拳を振り抜いていた。

 

「……ってえな!いきなり何すんだペテル!俺だって怒るときゃ怒るぜ!?」

 

 我に返ったルクルットは理不尽な暴力に怒り出す。褒めてくれとは言わないが少なくとも殴られるようなことはしていないだろうと。

 

「お前がそこまで追い詰められてたのに気づけなかった俺にも責任はある!でも、見ず知らずの女性に無理矢理手を出すなんて見損なったぞ!」

 

「人を犯罪者みたいに言うんじゃねえよ!俺は屋根から落ちてきた女の子を助けただけだ!」

 

 ペテルが何か勘違いをしているのは確かだが、一部頑固なところがあるペテルが一度信じ込むと誤解を解くには容易ではない。

 

「この期に及んで言い逃れする気か!?お前はその子にキ、キスしようと……」

 

「……る……さ……い」

 

「あっ……」

 

 助けられた少女が苦し気な息の合間を縫って声を上げたのを聞いて、ルクルットは口を噤んで少女の顔を振り返った。そして様子がおかしい事に気づく。目立った外傷はなかったはずなので、病気か毒あるいは呪いという原因を想像した。

 病気なら仲間の一人が治せるが今日はオフなのでここにはいない。

 

「ペテル、この子の様子は普通じゃねえ。ダインがいない以上神殿に運ぶしかねえが手伝ってくれるか?治療費は俺が出す」

 

「……あ、ああ、神殿で治療を受けさせるんだな?じゃあ俺が背負うからお前は俺の広刃の剣(ブロードソード)を預かっててくれ」

 

 初めて少女の顔をはっきり見てしまったペテルもルクルットと同じように呆けていたが、距離が離れていた分被害が少なかったようで比較的早く正気を取り戻した。ルクルットの傍まで来るとベルトに付けた剣を外し始める。

 

 ルクルットは横抱きにしている黒髪の少女をペテルの視線から庇うように身体を背けた。

 

「はあ?俺が助けたんだから背負ってくのは俺だろ。お前こそ俺の武器持っててくれよ」

 

「お前は助けて無理したんだから休んでろ。俺の方が力はあるんだから俺が背負う」

 

 ルクルットもペテルも十分理解しているのだ。鎧を着ていない状態でこの少女を背中に背負うという事の意味を。

 

「……は……な……せ……」

 

 すっかり興奮したルクルット達に少女のか細い抗議の声は届かない。

 

「おい!こんなことで揉めてる場合じゃねえだろ!手遅れになったらどうすんだ!」

 

「ならジャンケーだ。ジャンケーで決めよう」

 

「わかった。じゃあ最初はグー、ジャンケーホイ!」

 

 それはスレイン法国で信仰されている六大神が考案したと伝えられる遊びの一つ。何の道具もいらない上にルールは単純、それでいて駆け引きの要素もあるということであっという間に広まり、今では子供でも知らない者はいないくらい有名なゲームだった。

 

「ペテル!俺は次にチョキを出すぞ!」

 

「そんな手に引っかかるか!」

 

 どちらがこの少女を背負うか。勝った方はこの少女の胸の感触を背中で味わえるのだ。男同士一歩も引けない戦いがそこにはあった。そして勝負に夢中になっていた二人は少女の身体が一瞬淡い輝きに包まれたのを見過ごしていた。

 

「くそっ負けた!」

 

「よっしゃあ!俺の勝ちぃぃ!じゃあ、負けたお前は俺の武器よろしくー」

 

 ジャンケーの結果はルクルットの勝利で終わる。がっくりと石畳に膝をついたペテルを勝者の笑みで見下ろすルクルット。だが勝利の栄光に酔いしれるその顎が突然真上に跳ね上がった。ルクルットは曇り空で埋め尽くされた視界の端に、さらりと流れる黒髪を確かに見た。

 

「人の話を聞け」

 

 勢いのまま仰向けにひっくり返るルクルットと、その光景に度肝を抜かれて呆然と見つめるペテル、そして野次馬の群れ。彼らの視線の先で、黒髪の女の子がしっかりした足取りで立っていた。

 

                   ◆

 

(なんでこんなことになってるんだ)

 

 口を開けたまま固まっているペテルの顔をサトリは腕組みして見下ろしていた。

 

 咄嗟の事だったので<上位転移>(グレーター・テレポーテーション)の指定先を間違えて屋根の上に転移してしまい、転がって目を回したまま地面に激突する寸前でルクルットとかいう男に助けられたまでは良かった。

 だがお姫様抱っこされた状態で男二人の馬鹿騒ぎに巻き込まれ、周囲の注目を浴びる羽目になったのは想定外だ。

 

(お姫様抱っこ、ハネムーンキャリーとか言うんだっけ?持ち上げられる方がこんなに恥ずかしいなんて知らなかったよ……そして出来れば知りたくなかったよ!)

 

 大した時間ではなかったとはいえ男にお姫様抱っこされる姿を不特定多数の人間に見られるというのは、悟の精神力や正気を容赦なく削っていた。これに比べればニコポで削れる分など微々たるものだと断言できる。

 

 そんなことをやらかした張本人は、サトリの頭突きを食らって石畳の上でひっくり返っていた。相当手加減はしたが良い角度で入ったようなので失神している可能性もあるし、頭を強く打っていたりしたらまずいかもしれない。

 

(一応、助けられたんだし礼は言うべきだよな……キスされそうになったのは気のせいだろう……気のせいったら気のせいだ……)

 

 無意識に唇を指で拭ってしまう。この色魔を殴って止めてくれたペテルとかいう男もサトリからすれば恩人だった。

 

(くそっ!なんでこんな目に……男は無理、絶対無理)

 

 少しだけ頬を赤らめたサトリがふと気づくと、周囲にかなりの人だかりができている。エ・ランテルの住人の絶好の見世物になっているようだった。いつまでも見世物になっている訳にはいかないと、倒れているルクルットの顔を慎重に覗き込んだ。

 

 サトリから見て並以上だと思ったが軽薄そうな印象がマイナスだ。少なくとも初対面の同性に好印象を持たれるタイプじゃないだろうな、などと頭の中でガゼフと比較していると、硬く閉じられていたルクルットの瞼がカッと開かれる。弾かれたように身体を起こすと、びっくりして後ずさるサトリの顔を見つめてきた。

 

「君、身体は大丈夫なのかい!?すごく体調悪そうだったけど」

 

 お前こそ頭は大丈夫なのか、という言葉が出そうになるがサトリは寸前で飲み込む。

 

「えーと、自分で解毒したのでもう大丈夫ですが」

 

「そっかー、よかった。それじゃ改めて」

 

 ルクルットは唐突にその場で跪くとサトリに向かって仰々しく手を差し伸べてきた。芝居がかった振る舞いだが付け焼刃には見えない。かなりの研鑽を窺わせる動きにサトリは目を見張った。

 

「俺の名前はルクルット・ボルブ。シルバープレート持ちの冒険者で新進気鋭のレンジャー。よかったら君の名前を教えてくれないか?」

 

 隙の無いポーズで白い歯を見せて笑いかけてくるルクルットにサトリは感心と警戒の両方を感じた。

 

(こいつ……なかなか)

 

 感心したサトリが黙っているとペテルが慌ててルクルットの横に並んだ。こちらは姿勢を正してにこやかに話しかけてくるが、笑顔が少しぎこちない。まだスキルは低いようだ。

 

「わ、私はペテル・モーク。戦士です。このルクルットと同じ銀級冒険者チーム「漆黒の剣」のリーダーをしています」

 

(こいつは普通に真面目そうだ。かなり頼りないけど)

 

 まだ若いペテルには酷だが、現状サトリの中での戦士の評価基準はガゼフくらいしかいないので辛口になりがちだった。

 

「私は……サトリ。助けてくれてありがとうルクルット、それにペテル」

 

 流石にこの状況で名乗らない訳には行かないが、今は一刻も早くあの不良衛士を見つけ出して記憶を消してしまう必要がある。不本意ではあるがサトリはいつもの名乗りをせずに済ます。その代わりに丁寧に頭を下げた。

 

(これでひとまず筋は通した。あの衛士、ザインとカイアスとか言ったっけ?首を洗って待ってろ)

 

 こんな美しい世界にあんな醜いものが存在することが許しがたい。殺すつもりはないが一発撫でてやらないと気が済まない。さすがに転移で踏み込むのはありえないので準備を整えてから殴りこむのだ。

 

 ただし耐性の穴を埋めるために便利な指の装備部位のうち、初期の2箇所以外の8箇所は高額な課金アイテムが必要で、一度決定したら再び同じものを使わないと変更が出来ない。

 予備はあるがこの世界で新たな課金アイテムは入手することはまず不可能なだけに、使い所はよく考える必要がある。

 

「ちゃんとしたお礼はいずれ。今は急ぎの用があるので、これで失礼します」

 

 サトリが顔を上げると周囲は不気味な程静まり返っていた。漆黒の剣の二人だけでなく集まった野次馬達も魂が抜けたように口を開けてサトリの顔を凝視している。その異様な光景に居心地の悪さを感じたサトリは手を振って動揺を誤魔化しつつ足早にその場を立ち去ろうとするが─

 

「ちょ、ちょっと待ってサトリちゃん!見たとこエ・ランテルに来たばっかりでしょ?道案内とか困ってる事とかあるなら手伝うよ!」

 

「ルットお前!サトリさん。良ければ私も手伝いましょう。これでもこの街には詳しいですし冒険者として護衛の経験もあります」

 

 精神的ショックからいち早く立ち直ったレンジャーと戦士がサトリの逃走を阻んだ。二人はそのままサトリを挟んで口論を始める。

 

「ペテルくーん。そもそもサトリちゃんは俺が助けたんだぜ?譲ってくれるのが筋じゃねえか?」

 

「どさくさに紛れて前後不覚の女の子を襲おうとした奴と二人きりにできるか!」

 

「そんなことした記憶はねえ!無理やりなんて趣味じゃねえし!」

 

(こいつらまだ喧嘩続けるのか……そういえば昔はよくたっち・みーさんとウルベルトさんの喧嘩を仲裁したっけ……懐かしいなあ)

 

 昔の事を思い出してサトリは少し胸が暖かくなるが、この調子ではいつまでたっても一人になれない。

 

「あのー」

 

 ハッとして喧嘩を止めたペテルとルクルットに手招きして呼び寄せ、サトリは二人だけに聞こえるような声で囁きかける。

 

「用事が済んだら魔術師組合というところに行くつもりなので、良ければそこで……」

 

「「!!」」

 

 効果は抜群だった。今にも殴り合いになりそうだった二人は揃って笑顔になり、気を付けてと手まで振ってくる。やはり、とサトリは心に頷いた。こういう状況の時はこの手に限る。

 

 しつこくついてこようとする野次馬をペテルとルクルットが牽制してくれている隙に、サトリは最寄りの角を曲がって<完全不可知化>(パーフェクト・アンノウアブル)で姿を消し、空へ飛び立った。そのまま屋根の上を飛行して人気のない場所に着地したところでほっと胸を撫で下ろす。

 

(なんなんだこれ。一番の理由はあの二人が大騒ぎしたせいだろうけど……やっぱりこの神器級ローブのせいか?)

 

 世界級アイテムの力で形が大きく変わった結果、壮麗で色っぽいイブニングドレスになってしまっている。胸元は露出こそ皆無だが形の良い膨らみがはっきりわかるし、背中は大きく開いている。足を持ち上げればスリットから素足が覗く。ユグドラシルではこんなデザインはありふれていたが、異世界とはいえ現実となれば目立つのだろう。

 

(カルネ村の人誰も言ってくれなかったもんなー。でも持ってる中じゃこれが一番強いし、魔法のロー……ドレスだから手入れもいらないし……)

 

 そもそも捉え方が違うのだ。この世界の人々からすれば「服」にしか見えなくても、鈴木悟にしてみれば「防具」。魔法防御力のみならず物理防御力すらこの世界の重厚な金属鎧を上回る。あんなことがあった以上、あまり能力が落ちる物は着たくないところだ。

 

 とはいえ、一つの街に長く滞在するならやはり着替えるべきなのかもしれない。このドレス自体がどうというより、毎日ずっと同じ「服」というのは流石に変な目で見られかねない。

 「おまえその服しか持ってないの?」と思われるのはちょっと避けたい。「防具」なら同じ物を着続けていてもさほど違和感はないだろうが。

 

 神器級の防具はこの一着しかないが、1ランク落ちる伝説級の防具ならたくさん持っている。それらも全て今の身体に合わせて形が変わっていて、女性らしい魅力や可愛らしさを引き立てるデザインの物ばかりだったが、どれも一目で分かる高級感に満ちていて肌触りも最高だった。何故か下着まで揃っていたのは謎だが、あの世界級アイテムの効果だとしたらサービスが良すぎだろう。

 

 サトリも最初は愕然としたが今はむしろ楽しんでいるくらいだ。男物と違って華やかでデザインの幅が広いし、今の自分ならどれを着ても似合ってしまうからである。鏡の前で一人ファッションショーなんて以前は考えもしなかったが、今ならわかった。

 

 延々と続く服の列を眺めていたサトリはある一着の服で目を止めた。その黒い制服は鈴木悟のいた世界の軍服をモチーフにした防具だ。ユグドラシル時代、NPCのパンドラズ・アクター用に色々な制服の外装データを用意したのだが、没にした中で自分が気に入って防具に仕立てた物が何着かあり、この服もその一つであった。

 

(そういえばこんなの作ったっけなあ)

 

 元が軍服だからなのか他の装備ほどデザインが変化していないのも助かる。この世界の人々に軍服の意味合いが通じなくても威厳と迫力は伝わるはずだし、人間であればこのカッコよさが分からないはずがないという根拠のない自信があった。サトリは会心の笑みを浮かべて、アイテムボックスから取り出した軍服を胸に抱きしめる。

 

 といっても今は着替えたりしない。この服をお披露目するタイミングはもう決めたのだ。

 



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11話

(いない?まだそんなに時間はたってないはずなのに……)

 

 サトリは白い煙が充満する部屋の中で歯ぎしりしていた。先程襲われかけた地下室に万全の準備を整えて突入したまでは良かったものの、標的の二人は既に影も形もなかったからだ。隠れるような場所はなく姿を消していても発見できるはずだが、冷たい石造りの部屋には人っ子一人いない。<敵検知>(センス・エネミー)にも反応はなかった。

 

(くそっ。あいつら引き際が良すぎる)

 

 階段を駆け上がって屋外に飛び出したサトリは、すぐ近くの城門でさっきのジェンターという名の衛士が行列の対応をしているのを見つけて駆け寄った。

 

「すみません!ザインとカイアスという名前の衛士がどこに行ったか知りませんか!?」

 

 サトリが戻ってきた事に驚いたのかジェンターは目を丸くしたが、サトリの身体に上から下まで目を走らせるとすまなそうに頭を下げてくる。

 

「す、すまなかったサトリちゃん。俺達みんなあいつには逆らえなくて……でも無事だったみたいで良かったよ。これでも心配してたんだ。信じられないだろうけど、本当に危ないようだったら止めに入ろうと思ってたんだ」

 

「……」

 

(……はあ?)

 

 サトリの胸の中がチリチリしたもので満たされていく。相手が巨大マフィアということで見捨てられたのは仕方ないとしても、こんな即座に嘘とわかる言い逃れはありえない。さらに喋ってる間中だらしない顔で胸をじろじろ見てくるのがサトリの怒りに拍車をかける。

 

 気持ちはよくわかるので見るなとは言わないが、こんな時くらい我慢すべきだと思うのは間違ってないはずだ。笑顔を貼り付けたまま煮えたぎる怒りに耐えていたサトリは、自らに施した封印の効果が弱まっていくような気がした。抑え込まれていた闇の人格が再び力を取り戻して動き出しそうな気配を感じる。

 

(何だこいつ、人を馬鹿にしてるのか?いや落ち着け、落ち着け……今はあの二人を追うのが先だ)

 

 ここでロールプレイ(闇の人格)を始めたら、もとい身体を乗っ取られたら本当にお尋ね者になってしまう予感しかしなかった。漫画なら青筋がマークが出てしまう程の怒りを押さえて話を続ける。

 

「……あの二人がどこにいるか知りませんか?」

 

「折角上手いこと逃げられたんだろ?これは忠告だけど、もうあいつらには関わらない方がいいよ」

 

 急に真顔になったジェンターに違和感を覚えるがサトリとて引き下がれない。

 

「話をしないといけないんです」

 

「そうかい。悪いけど居場所なんて知らないよ。君と一緒じゃないならどこかでサボってるんじゃないかな。何せあいつらときたら……」

 

 サトリに濡れ衣を着せようとしているのかと思いきや、報復を恐れていち早く遁走したのだろうか。だとしたら勘がいい。おかげでサトリの手間と苛立ちは増えてしまったのだが。

 

「そうですか。仕事中にありがとう」

 

 ぺらぺらと喋り続けるジェンターにうんざりして強引に話を切り上げたサトリは、城門から伸びる大通りを足早に歩きだした。曇り空の下にそびえるのはカルネ村とは比較にならない巨大な城塞都市である。近くに大きな川もないのにここまでの規模を維持できるのは魔法があればこそだろう。

 

 魔法の力は本当に偉大だ。こんな大きな街で土地勘のないサトリが二人の人間を見つけ出すこともそう難しくはないのだから。

 

(あの猿顔はしっかり覚えてるからな。<生体発見>(ロケート・クリーチャー)の魔法を使えばいい)

 

 魔法があるせいか、この国自体かなり奇妙というかちぐはぐな印象を受ける。科学技術が遅れているわりに鈴木悟のいた世界よりも進んでいる面も見受けられたが、一方で前時代的な風習や価値観も残っていて慣れるまで時間がかかりそうだった。

 

 特に恐ろしいのは一般人の命や尊厳が綿毛のように軽く、上位者である貴族の気分次第で何をされても文句が言えないところだ。

 

(「無礼討ち」とか言うんだっけな)

 

 短期間にこれだけのことがあればいくら鈍いサトリといえども理解してくる。今の己の容姿がどれだけ他人と面倒事を惹きつけるのかということを。こうして真昼間の大通りを歩いていてさえ全身にじっとりとした視線を感じる程だ。最初はあまりにも露骨な相手は睨み返していたが、まったく効果がないので早々に諦めて気づかないフリをするようになった。

 

 サトリの胸中は複雑だ。恥ずかしくて隠したいと思う反面、誇らしさから見せつけてやれという気持ちもあり、そこには自分では手が出せないもどかしさの鬱憤晴らしも含まれていたりする。

 

(ほんと何でこうなったんだろうな。街を観光したかっただけなのに)

 

 <変装>(ディスガイズ・セルフ)のような幻術で誤魔化すことはできるだろうが、常にバレないかとびくびくしながら観光するのも落ち着かない。いっそ人目を引いてしまうのは諦めて名声や人脈を手に入れることを考えた方が良いのかもしれない。名声があれば大抵の事は許されるのだ。

 

(問題は名声を稼ぐ方法……やっぱり冒険者かな。アダマンタイト級の冒険者はこのあたりならどの国でも通用するステータスらしいし)

 

 あのジェンターとかいう衛士も「冒険者は奇抜な格好をしている」と言っていた。それは目立って名声を稼ぐ為だろうが、逆の発想をすれば冒険者なら変わった格好でも許される風潮がある、ということだ。

 

 あるいはガゼフのように仕官するという手もある。この世界の魔法のレベルを考えればサトリには難しくはないだろう。しかし仮に宮廷魔術師とやらになれたとしても具体的にどんな仕事をすればいいのかわからないし、宮仕えなどすると好き勝手に旅ができなくなってしまう。

 

 大通り沿いに並んだ色々な店を見ている内に商売をするというのも思いついたが、片手間程度ならともかく名声を稼げるほど本格的にやるのは、この土地にコネがなく様々な知識も不十分なサトリにはリスクが大きすぎる。

 

(やっぱり冒険者しかないかな。腕っぷしとルールを理解できる頭さえあればいいんだから……さて。そろそろいいか)

 

 行き交う人々から視線の集中砲火を浴びながら大通りを暫く歩き、人目のない路地に入ったところでサトリは建物の間を急上昇して屋根の上に着地した。いつの間にか後をつけてきていた数人の男が路地の奥へ消えていくのを冷めた目で見送って、目当ての人物を探し出すための魔法を起動していく。

 <偽りの情報>(フェイクカバー)<探知対策>(カウンター・ディテクト)といった様々な魔法を使って対策を整えたサトリは、<生体発見>(ロケート・クリーチャー)の魔法を使ってザインの行方を探し当てた。

 

(……近い、というかすぐそばだ)

 

 ザインの現在地はサトリが立っている民家の屋根からほど近い、雑多な建物が並ぶ地区だった。本気で逃げるつもりならもう少し遠くに逃げているはずなので、隠れる方を選んだろう。あの程度の魔法無効化を絶対視していた連中が情報系魔法の対策を取れるとは思えないのでほぼ間違いない。

 

 飛行して直線距離を行けばあっという間に辿り着ける距離だが、サトリは<千里眼>(クレアボヤンス)を発動して現場の映像を確認しにかかった。魔法の視界に映し出された路地裏の風景の中に見覚えのある二人の男が倒れているのを見つけ、サトリは息を呑んだ。

 

(死んでる!?殺された!?誰に?)

 

 薄汚れた家々がひしめき合う細い路地で、ザインとカイアスが血まみれで動かなくなっていた。二人とも全身を切り刻まれていて、低位の蘇生魔法では復活できないくらいに損傷が酷く、血と腸の匂いが漂ってきそうなくらいだった。無事なのは顔くらいしかない。見ているサトリも気分が悪くなってくるが、カルネ村で沢山の死体を見たせいか辛うじて取り乱さずに済んでいた。

 

 誰がなぜこんなことをしたのか。考えられるのはやはり八本指だろう。自分の拉致に失敗したので殺されたと考えるのが一番しっくりくる。

 

(あっ、これひょっとして俺のせいにされるんじゃ)

 

 サトリが彼らと一緒にいたところは色々な人間に見られている。現場が離れていると言っても魔法が存在する世界だ。おまけに法治より人治が優先され一般人の命や尊厳などゴミ同然の社会でもある。何の後ろ盾もない小娘一人を冤罪で捕まえるくらいやりかねない。

 そんな事態にはならないかもしれないがなってから後悔しても遅い。

 

「どうすればいい?蘇生は……却下だな。あの分じゃ低位の蘇生じゃ無理だろうし」

 

(間違いなく現場を張っているでしょうね。見えないように蘇生してもそんな事をした者を探して大騒ぎになるわ)

 

 サトリの頭にロールプレイ(闇の人格)の声が響いた。暫く静かだった相手がまた喋り出したのは、怒りで封印が弱まったという事だろう。

 

「だな。じゃあどうする?面倒だからすっぱり諦めて遠くの街に行くのがいいと思うけど」

 

 自分でもどうかしていると思いながらも、この時サトリは藁をも掴む思いで頭の中の声との会話を試みた。ロールプレイ上のキャラクターとはいえ自分には違いないが、素の自分は違う価値観と視点を持っている設定なので思わぬ解決の糸口が見つかるかもしれないと思ったのだ。それに屋根の上にいる今は他人に見られる心配もない。念のために姿も消している。

 

(私がどうにかするわ)

 

「本当に?でもどうやって……」

 

(あなたが困った時はいつも私に任せて切り抜けてきた。違う?)

 

「まあ確かに」

 

 この「闇のサトリ」はそういうキャラクターとして設定したとはいえ、本当に自分なのかと疑うほど肝が据わっていて戦闘や交渉の時は頼りになるのだが、シャルティアの設定をベースに考えたせいで色々と妙な暴走をしてしまうという欠点もある。そのあたりの設定のせいなのか、カルネ村を出る時なんて勝手に出てきて困ったことをしてしまったくらいだ。

 

(あなただって本当は彼女を抱きしめてみたかったのでしょう?今のあなたは機械でも死人でもないのだから、人肌に飢えても何もおかしくないわ)

 

「そ、そんなこと……」

 

 正直に言えばイエスだ。確かにあの晩せっかくのチャンスをフイにしてしまったことを後悔していた。今の身体ではどうせ間違いは起こりようもないのだし、抱き合ってもうちょっと……しておけば良かったと。

 

(あの二人に一服盛られた時もそう。心の片隅で期待していた。少しだけ先の展開を見たいと。無理もないわ。前の生でずっと願っていても体験出来なかった事だもの。だからあなたは─)

 

「ないない!男相手なんて!それにあんな連中に捕まったら何されるかわかったものじゃないだろ!」

 

(女性が好きなのに怖いから積極的に出られなくて、それでも好きで。鬱屈した思いを抱えたまま、あなたは女になってしまったから)

 

「……は、はあ?いきなり何を」

 

(今の状況と童貞を拗らせた結果歪んだ性癖の発露かしら。自分への言い訳もできる。結局は拒否感の方が上回ったけれど)

 

「そ、それはお前の設定だろ!俺自身にそんな性癖は」

 

 本当にないと言えるのか。人間は誰しもSかMの要素を持っていて隠しているだけなのだと聞いたことがある。童貞については今更だ。女性へのコンプレックスなど言われるまでもない。それを本当の意味で解消するための物はもうないどころか、今や自分自身の身体がコンプレックスの対象という有様。

 

(あなたは常に自分を殺し続けてきた。怯えて、我慢して、聞き入れて、宥めて。だから今度はもう少し自由に伸び伸びと生きたい。あの村でそう決めたはず)

 

「そう、だけど」

 

(今ならわかる。あの世界級アイテム『妄執と追憶』は、その名の通りあなたの想いを読み取って、違った姿と心でこの世界に送り出した。そこに一握りの悪意を忍ばせて。だから記憶のあなたと今のあなたは、同じなようでまるで違う)

 

「そんなことはない……はず。俺は元々こうで」

 

 魔力がほとんどなく相手の切り札もわからない状態で、主にガゼフを気に入ったという理由だけで陽光聖典と戦うという大きすぎるリスクを取った。村人を助けるだけなら他に方法はあったのだ。

 

 なにより慎重を期すのなら、超位魔法の<天軍降臨>(パンテオン)で強力な天使を呼び出せば良かったのに、スキルの実験をしたいからと敵の懐に飛び込んだ。

 

 そもそもこの世界に来てすぐに、エンリの悲鳴を聞いて頭が真っ白になって飛び出していた。そんな無謀なことは()()()()()なら絶対にしなかった……のだろうか?今となっては分からない。

 

 そしてその後、魔法をかけずともよく喋った陽光聖典の隊長からの情報や実験で、この世界の人々がいかに脆弱かを、千切れた四肢すら癒す魔法の万能性を、自分を脅かし得る存在は竜王や漆黒聖典といったごく限られた者達しかいないことを知ったのは事実だ。

 

 しかしいくらなんでも、感情に流されてこんな危ない火遊びを迷うような─

 

(私に心の内を隠す必要も意味もないわ。そして私はあなたを捨てていった薄情な人達とは違う。ずっとあなたの傍にいる。独りぼっちはもう嫌だもの)

 

「違う!」

 

 それは決して癒えない傷口である。時間という瘡蓋(かさぶた)を剥がされて直接そこに触れられたことで、サトリの頭の中で感情で爆発した。少女の身になったせいで感情の振れ幅が各段に大きくなっていたこともそれに拍車をかける。

 

「きっと大切な理由があったんだよ!ユグドラシルなんかより、アインズ・ウール・ゴウンなんかよりずっと……」

 

 サトリの声はみるみる弱々しくなっていき、やがて途切れる。いくら言葉を並べたところで外ならぬ自分自身が納得していない。心の奥底では自分は捨てられたと感じ、自分を捨てていったギルドメンバー達に憤りを感じていたのは事実だった。

 

 この世界に来る直前に別れを告げた二人のメンバーもそうだ。彼らにギルドやユグドラシルへの気持ちが残っていたなら、多少無理をしてでも最後の瞬間まで一緒に居てくれたのではないか。結局はあの二人もギルドを、ユグドラシルを、自分を捨てたのだと。

 

 あの二人が残っていてくれたら、自分が()()独りぼっちになる事もなかったのではないか。サトリの頭の中でどす黒い感情がぐるぐると回り出す。どうして()を捨てていったのだ、と。

 

(よく分かるわ。だって私はあなたから生まれたのだから)

 

 その言葉にハッとするサトリだが、ロールプレイという自分に慰められても空しいだけだ。いっそ本当に他人と言える存在なら少しはましだったかもしれない。

 

「……もういいよな。こんな一人喋り。キャラ作りとしちゃ十分だ……」

 

 僅かな躊躇いの後、サトリは再び自分の意志で仮面を被ることを選んだ。闇のサトリとしてのロールプレイを始めるのだ。生み出された人格が己の身体を隅々まで支配していくのを意識する。完全に「闇の人格」になりきることで全てが変わっていく。

 

 外界の時間にすればほんの一瞬だが、本人にとっては十数秒に感じられる時が過ぎ、憑き物が落ちたように平静を取り戻したサトリは、寂しげな表情のままゆっくりと遠くを見上げる。視線の先には二重の城壁に囲まれたエ・ランテルの中枢区画があった。

 

                   ◆

 

「都市長にお会いしたいという方がいらっしゃっています」

 

 城塞都市エ・ランテルの都市長パナソレイは煩わし気に時計に目をやった。この時間は誰とも会う予定はなかったはずだが急ぎの用だろうか。

 

「この忙しい時に誰だ?誰が私の仕事の邪魔をしに来たんだ」

 

 ドア越しに秘書に誰何しながら、パナソレイは最近自分の仕事を大幅に増やしている事件について思い返した。

 

 

 エ・ランテル都市長として既にひと月近くの間、帝国兵による連続襲撃事件の対応に追われていた。相手の手口は迅速かつ巧妙で貴族派閥による嫌がらせもあってガゼフ・ストロノーフ率いる王国戦士団を持ってしても足取りを追うのが精いっぱいだった。

 

 貴族派閥の王国戦士団への嫌がらせ自体は今に始まった事ではないが、ガゼフが王家の四宝物の着用を禁じられたり出陣する戦士団の兵数にも制限が加えられるなど、今回の件ではあまりにも生々しい動きが目についていた。

 

 ここエ・ランテル周辺は王家の直轄領であり、その都市長であるパナソレイも当然ながら王派閥である。そしてガゼフは王派閥の武力を支える要だ。万が一のことがあってはとパナソレイはガゼフの周辺の動向には細心の注意を払っていた。そんな折に当の本人から書簡が届いたのが昨日だ。

 

 最初はガゼフの訃報でなかった事を喜んだパナソレイだったが、文面に目を通していくにつれ顔を顰めることになった。あまりにも信じがたい内容だったからだ。だが王の信任厚く実直さに定評のあるガゼフが荒唐無稽の嘘をつくとは思えなかったし、実際に敵兵の装備の一部や捕虜まで送られて来たとなれば、ある程度は信じるしかなかった。

 

 書簡によれば村々を焼き打ちしていたのはバハルス帝国兵に偽装したスレイン法国の部隊だという。それだけでも大事なのに彼らが伝説で魔神を滅ぼしたという大天使まで召喚したというのだ。パナソレイは魔法やモンスターについては門外漢もいいところなので、それがどれほどの脅威なのか想像もつかない。

 

 だがガゼフの書簡に書かれていた最も信じがたい内容は、そんな伝説の存在をも一瞬で消滅させたという魔法詠唱者についてだった。ラナー姫にも匹敵する美しい黒髪の少女でありながら、その力はおそらく帝国が誇る大魔術師フールーダすら凌駕しており、敵に回せば確実に王国が滅ぶと言うのだ。

 

 ガゼフの気が触れているとまでは言わないが、戦場のストレスから誇大妄想に取りつかれているとしか思えなかった。

 

 そもそもラナー姫に匹敵する美女というだけで想像もつかないのに、伝説の英雄並みの力を持っているなんてどんな出来過ぎた存在なのだと。

 

 ひとまずパナソレイが信じたのは今回の連続襲撃事件がスレイン法国の仕業だった事、彼らが強大なモンスターを召喚した事、それを凄腕の魔法詠唱者が倒した事までだ。「もし彼女と会うことがあれば絶対に機嫌を損ねるな」としつこく念押ししていたのは気になったが。

 

 

(確かその魔法詠唱者の名前は─)

 

「魔法詠唱者のサトリ様とおっしゃる方が……」

 

「!!」

 

 パナソレイは勢いよく椅子から立ち上がる。

 

「すぐに会うと伝えてくれ。くれぐれも丁重に」

 

 ガゼフの話を全て信じた訳ではないが、これから会う相手が超一流の魔法詠唱者なのは疑いようもない。そんな人物が自分のところに会いに来るとはどういう要件なのか。どのみち無碍にしていい相手ではない。

 

(ガゼフには後で礼を言わないといけないかもしれんな)

 

 パナソレイは身嗜みを整えてサトリという少女が待つ応接室へ向かった。

 

                   ◆

 

 応接室に通されたサトリは軽く部屋の中を見回してから、案内してくれた女性に勧められたソファーに腰を下ろした。鈴木悟としてはこの世界でのマナーが気になって落ち着かないが、アポ無しで来る時点で今更なので開き直るしかないのだろう。

 

(いきなりトップに会いに行くのはたしかに真似出来ないな、いやロールプレイだけどさ)

 

 ただの一般人が面識もコネもない大会社の社長の所にアポなしで押しかけて、会ってもらおうと言うのに近い。普通なら取り次いですら貰えず守衛に追い返されておしまいだ。鈴木悟の感覚からすれば、何故通してもらえたのか不思議でしょうがなかった。

 

 思いついたかもしれないがさすがに却下しただろう。姿を消して忍び込んで記憶を操作というのも考えなくもなかったが、そんなことをするくらいなら別の街に逃げていた。自由に生きたいと思っているサトリだが、あえて犯罪や無法無礼な振る舞いをしたい訳ではない。

 

 しかし現実にこうして応接室まで通されている。透明化したり精神魔法を使いまくった訳ではなく堂々と正面から会いに来た結果がこれだ。いかにもな体格の男が二人、部屋の隅に立ってこちらを監視しているのは仕方がない。そもそも会って貰える方がおかしいのだから。

 

(普通に考えてガゼフが都市長に何か書いてくれたんだろうな。それでも取り次いでくれた理由はわからないけど)

 

 特に意識していないのに膝を閉じて背筋をぴんと伸ばしているが、ロールプレイ(闇の人格)中はそういうところを無意識にこなしているのが不思議だ。骨格が違うし股間の物もないので男の時ほど窮屈ではないにしても、素だったら意識を張り詰めていないとこうはいかない。

 

 魔法が当たり前で亜人やモンスターも存在する世界のマナーなど想像もつかない。、自分が出来る範囲で見苦しくないようにじっとしているが、本音を言えば部屋中を見て回りたくてしょうがなかった。

 部屋の中に様々な魔法の反応があったからだ。探せばこの世界独自のマジックアイテムもあるかもしれない。許されるなら実際に手に取ってみたいし、鑑定魔法をかけて詳細なデータも見てみたいが、さすがにそんなことを言い出す状況ではない。

 

 控えめに部屋の中を見回していると監視役の男の片方と目が合ったので、手持無沙汰だったサトリはここぞとばかりに全力で微笑みかけた。ロールプレイ(闇の人格)中はニコポスキルのリスクは軽微なので安心して使えるし、しかめ面の屈強な男がふにゃりと顔を弛緩させるのは見ていて面白い。

 

「っ……」

 

 暫くして仕事を思い出したのか表情を取り繕うが、明らかに様子がおかしくなっている。

 

(なんか、面白いな)

 

 別に悪いことはしていない、目が合ったから笑っただけだ、無表情で目を逸らす方が失礼だろう、社交辞令の範疇であって自分は何も悪くない、と居もしない誰かに向けて言い訳を並べつつ、やめない。

 

「ふふ……」

 

 サトリは可愛らしく口元に手を当てて笑う。見とれていたところを気づかれて笑われた監視役の男は、すっかり動揺して落ち着きをなくしてしまった。威圧感を取り戻そうとしているのか、しかめ面をさらに強張らせているが赤みが差した頬では何をしても無駄だった。もう一人の監視役はどことなく不満そうな顔で、相方にちらちらと視線を送っている。

 

(何だこいつら。見た目はゴツイけど可愛いぞ)

 

 サトリがもう一人にも同じように微笑みを送ると、先程まで部屋に満ちていた緊張感はもはやどこにも残っていなかった。必死に取り戻そうとするほど弛緩してしまう。満足したサトリが二人から視線を外して調度品を眺めていると、ドアが開いてでっぷりと太った男が入ってくる。

 

 病的にすら見える肥満に鈴木悟の意識はぎょっとするが、サトリはまったく動じることなく優雅に立ち上がって会釈した。そんなサトリの顔と立ち居振る舞いを見て、入ってきた男は驚いた顔で一瞬固まる。しかしサトリの事を事前に知っていたのか、素早く立ち直るとのしのしと近づいてきた。

 

「わたしがエ・ランテルの都市長、パナソレイ・グルーゼ・デイ・レッテンマイアですが……」

 

 一歩踏み出すごとに弛んだ贅肉がぶるぶると揺れ、床が揺れている錯覚を感じる。腹周りなんてサトリの3倍以上はありそうだ、ちょっと歩いただけなのに呼吸も苦しそうで、ここまでいくと痩せないと命にかかわるレベルに思える。ただ迫力と言う意味では抜群だった。先程まで腑抜けていた監視役もすっかり元の厳めしい顔に戻っている。少し、ほんの少しだが面白くない。

 

(……負けちゃいられないな)

 

 都市長の自己紹介を受けてサトリは軽く頷いてから深呼吸をする。周りの人間や物にぶつからないよう慎重に間合いを測るのは忘れない。途中でぶつかったりしたら恥ずかしいどころではない。

 

「私は魔法を統べる者。大いなる世界樹の葉より生まれ、幾多の世界を旅する魔法詠唱者。この世にただ一人のアーケインルーラーにして漆黒の魔人、サトリ。この地の人は私をこう呼ぶ。漆黒の戦乙女と」

 

 複数のポーズと表情を組み合わせ、一句ごとに繋げていくこの名乗りは最も難易度が高い。それだけに最後までやりきった時の破壊力は絶大だ。見れば都市長はじめ場の全員が、魂を抜き取られてしまったように呆然としていた。

 

                   ◆

 

 数十分後。目の前で優雅にティーカップに口をつける黒髪の少女を見て、パナソレイは内心の動揺を隠し切れずにいた。応接室の壁面に近い空中には魔法で作られた映像が浮かび上がり、エ・ランテルのどこかで衛士がせわしなく動いている様子が映し出されている。

 

(これは本当にガゼフに礼を言わないとならんな)

 

 その現実離れした美しさ、身に付けた衣類や装飾品の見事さ。都市長である自分の前であのような自己紹介をする胆力。只者ではないどころの話ではない。そして常軌を逸した魔法の力。こんな魔法は見たことがなかった。少なくともこの国でこれだけの魔法を同時に使える人間をパナソレイは知らない。もしもガゼフの書簡が届かず、この少女を門前払いしていたらどうなったか想像するだに恐ろしい。

 

 さらにその神秘的なまでの美しさと言ったらどうだ。既に枯れていると思っていた身ですら、思わず身を乗り出してしまう可憐さと艶やかさ。身につけた品々も例える言葉が見当たらない程見事で、王家に伝わる宝物すら子供の玩具に見えてしまう。この少女が咎められもせずここまで来れた理由が、魔法の力によるものではないとわかった。

 

「我が国の民と王国戦士団の窮地と救っていただいたあなたに御迷惑をおかけした事は誠に申し訳なく思っております。すぐに担当のハミルトンを呼びますのでどうか……」

 

 いつもの芝居も忘れてパナソレイは頭を下げた。どこの馬の骨とも知れない孫のような年頃の少女だというのに、頭を下げる事にまったく違和感がない。むしろそうするのが当然だと思えるような絶対者の風格を放っていた。王や皇帝といった他人を従えることを運命づけられた存在が纏う覇気である。

 優雅な物腰に立ち居振る舞い、髪の色からして遠い南方の国の王族というのが一番しっくりきた。

 

「ガゼフのおかげでかなり手間が省けたわ。だから掃除を手伝ってあげる」

 

「掃除とは……まさか。いえ、そのような危険なことは」

 

「私への気遣いは無用よ。この街に潜む八本指をまとめて捕縛するチャンスでしょう?」

 

 話を聞くと、この少女はあろうことか自らを囮にしようというのだ。受け入れれば大きな借りをつくることになるが、既にこちらの監督不行き届きで迷惑をかけている以上、受け入れないという選択肢はなかった。

 



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12話

 夏の太陽がだいぶ西に傾き始めた頃、魔術師組合の建物の前で二人の若者が落ち着かない様子で往来を見渡していた。ペテルとルクルットの二人である。

 

「彼女、本当に来てくれると思うか?」

 

「そう思うなら帰れよ。俺は何時間でも待つし」

 

「俺だってそうしたいけど今夜は次の仕事の打ち合わせだろ」

 

「……わかってるよ。でもギリギリまで待つ」

 

 サトリとの約束を信じた二人はあれからずっと往来を見張っていたが、未だにそれらしき少女が現れる様子はない。それでも飽きもせず人混みを睨み続ける彼らは、その中によく知った人間が混じっているのに気づいて手を振った。

 

「おーいニニャ、ダイン、こっちだ」

 

「あれ、珍しい場所で会いますね。ペテル、ルクルット」

 

「お前たちもマジックアイテムを見に来たのであるか」

 

 一人は十代前半の中性的な顔立ちの少年で、一人は立派な髭を蓄えた優し気な大男だ。往来の邪魔にならないように道の端に移動した4人は親し気に挨拶を交わすが、ペテルとルクルットの二人はその間も周囲を見渡すのを止めない。

 

「ここで人と待ち合わせをしてるんだけど見てないか?さらさらの黒髪のすんごい可愛い子なんだ」

 

「生憎見ていないが、この国で黒髪とは珍しいであるな」

 

「……また女性に声をかけたんですかルクルット。待ち合わせなんて言って体よく断られたんですよきっと」

 

 呆れ顔で肩を竦めたのは4人の中で最年少のニニャだ。しかしルクルットはにんまり笑って得意げに腕組みをする。

 

「それが違うんだな今回は。あの子はピンチを救った俺に向かって「ルクルットさんありがとう、再会したら結婚してください」って……」

 

「そんなこと言ってないだろ。お前が助けたのは本当だけどその後で台無しにしてたじゃないか」

 

 口を挟んだペテルにニニャの呆れた視線が飛んだ。

 

「ペテル。どうしたんですか()()?いつもより壊れ方が酷いですけど」

 

「ルクルットが屋根から落ちてきた女の子を助けて、お礼したいから後で魔術師組合の前で待ち合わせしようって一旦別れた……そんな所だな」

 

「屋根から?なんとも奇妙な話であるな」

 

「なんか怪しくないですか、その女の子。シルバーの冒険者プレートを見れば少しはお金を持ってると思うでしょうし、良くないことを考えてるのかもしれませんよ?」

 

「いや。そんなことはないと思うぞ。見るからに裕福そうだったし、上品で礼儀正しくて、笑顔が本当に綺麗で可愛くて」

 

「……ペテルまでルクルットと同じ病気になるなんて、相当ですね……」

 

「お前だって会えばわかるよニニャ。俺だってラナー王女様に並ぶような美人がこの世にいるなんて思ってなかったんだからな」

 

 ニニャはうんざりして肩を落とした。ルクルットはともかくペテルがそこまで言う美人に興味が湧かないでもないが、そんな相手がたかだか銀級冒険者をまともに相手してくれるはずがない。二人そろって騙されているか、何かに利用されているとしか思えなかった。しかしこの様子ではそう言ったところで聞き入れはしないだろう。

 

 ならば二人が致命的な間違いをしないよう、近くで見張るしかないとニニャは決断する。どうせ明後日からは仕事で街を出る予定なので、今日明日さえ凌げばどうにかなるだろうという予想もあった。空約束ですっぽかされるのが一番楽だと思っていたニニャだが、その期待はすぐに裏切られることになる。

 

「……き、きたっ!!ほら見ろ!彼女は嘘なんてついてなかったんだよ!」

 

 突然歓声を上げてぶんぶんと手を振り始めたルクルットに、周囲の奇異の視線が集まるが本人はまるで気にしていない。そんなルクルットの前に恐ろしく高価そうな黒いドレスを着た少女がゆっくりと降りてくるのを見て、魔法詠唱者であるとニニャとダインは目を大きく見開く。

 

<飛行>(フライ)の魔法!第3位階であるな!」

 

「すごい……私とあまり変わらないように見えるのに」

 

 魔法詠唱者として大成したものだけが扱える第3位階魔法。同時に常人の限界でありこれ以上は余程の才能に恵まれなければ一生かけても手が届かない壁だ。そんな領域に自分達とさほど変わらない年頃の少女が立っているのを見て、魔法詠唱者である二人の心に羨望と嫉妬が湧いてくる。

 

 そんな二人の心など知る由もないと言った顔で、黒髪の少女はドレスの裾を押さえて優雅に石畳に着地した。

 

「待たせたかしら。ルクルット、ペテル」

 

「いやいや全然待ってないって!俺達今来たばっかり!」

 

「え?あ、その通りです。サトリさんが気にするようなことは何も」

 

「そちらの二人は?」

 

 サトリの紫の瞳がニニャとダインの顔を捉えてにこりと微笑みかけると、他の多くの人々と同じようにニニャとダインも我を忘れて固まってしまう。ペテルは二人の反応に自分の姿を重ね合わせて笑いを堪えつつも、勢ぞろいした自分達のチームを紹介しようとルクルットを連れてサトリの前に並んだ。

 

「紹介します。サトリさん。大きい方がドルイドのダイン。小さい方が魔力系魔法詠唱者で<術者>(スペルキャスター)の二つ名持ちのニニャ。そして……」

 

「レンジャーの俺、ルクルットと!」

 

「戦士の私を加えた4人が銀級冒険者チーム「漆黒の剣」です!」

 

 それぞれの紹介に合わせて漆黒の剣のメンバーはポーズを決めた。ペテルは腰の広刃の剣(ブロードソード)に手を添えて胸を張り、ルクルットは奇抜なポーズを取りながら歯を見せて笑いかけ、ようやく我に返ったダインも腰に手を当ててふんぞり返る。

 しかし最後に我に返ったニニャだけはその勢いについていけず、顔を赤くして恥ずかしそうに俯いた。

 

「ちょっ!?ちょっとみんな往来で何やってるんですかっ!?それにその二つ名、恥ずかしいからやめてくださいって言ったのに!!」

 

「へえ……()()の剣……ふふ……」

 

 サトリが口元を押さえて笑うのを見て、ニニャはさらに顔を赤く染めて慌て出した。こんな綺麗な人にみっともない所を見られるのは余計に恥ずかしく感じるし、自分だけ二つ名付きということでさらに恥ずかしさが増してしまう。

 

「ほっ、ほらっ!!笑われちゃってるじゃないですか!!早く止めてください、こんな恥ずかし……」

 

 すっかり気が動転して真っ赤な顔でぱたぱたと手を振るニニャの後ろで、サトリは目を閉じて俯きがちに肩を震わせた。

 

「ならば私も応えましょう」

 

「……えっ」

 

 ニニャは耳を疑った。そんなはずはないと思いながら世にも美しい黒髪を凝視する。

そして─

 

「私は魔法を統べる者。大いなる世界樹の葉より生まれ、幾多の世界を旅する魔法詠唱者。この世にただ一人のアーケインルーラーにして漆黒の魔人、サトリ。この地の人は私をこう呼ぶ。漆黒の戦乙女と!」

 

 サトリは一句ごとに次々とポーズと表情を変えていく。その踊るような動きは舞台女優のようであり、付け焼刃ではなく洗練されていた。言い切ると同時に左手を胸に、右手は空へ、視線は遥か遠くへ。しばらくしてペテル達と目を合わせたサトリは、どうだと言わんばかりに得意げに微笑む。

 

 ペテルは、ルクルットは、ダインは、ニニャは、行き交う人々は目を奪われて息を呑んだ。往来で女の子がいきなり踊り出した事に仰天したのはもちろんだが、その容姿に、衣服や装飾品に、名だたるバードのような美声に、堂に入った動きと圧倒的な存在感に心を虜にされたのだ。

 それは伝説の名舞台の1シーンか、はたまた歴史に残る名画か。まるでそこに切り取られた一つの世界があるようだ。

 

「……惚れた……」

 

 ルクルットが魂を抜かれたような顔で呟いたのをきっかけに、止まっていた時が動き出す。周囲を取り巻いていた野次馬が歓声を上げてサトリを取り囲んだ。

 

「サトリちゃんって言ったっけ?うちの劇団に入らないか!?君ならきっとトップスターになれる!」

 

「息子の嫁になってくれないか!?これでもうちは大手の武器商で」

 

「うちで働かない?「琥珀の蜂蜜」っていうこの街でもトップの店だよ!君ならあっという間にナンバーワン間違いなし!」

 

 飛び掛かるような勢いで勧誘してくる人々にも余裕の笑みを崩さず、サトリは唇に人差し指を立てて人々を黙るのを待つ。そして漆黒の剣の4人に意味ありげな視線を送った。

 

「悪いけど先約があるの」

 

 詰め寄った人々は不満そうな呻きを上げるが、一般人の彼らが腕っぷしで銀級冒険者にかなうはずがないのは明らかだった。集まった群衆の半分ほどが肩を落としてすごすごと解散し始める。逆に喜色満面の有頂天になったのはペテルとルクルットだ。人混みを掻き分けてサトリの前後を守るように立つと、どさくさに紛れてサトリの身体に触れようと伸びてくる手をひねり上げて押しのける。

 

「皆さんお騒がせしました。危ないので腕は伸ばさないようにしてください」

 

「ほらほら、握手したけりゃ未来のアダマンタイト級レンジャーの俺がしてやるぜ」

 

「それじゃ中へ入りましょうか」

 

「場所を移すという事であるな。賛成である!」

 

 ニニャを除いた漆黒の剣の3人とサトリは、なぜか一気に打ち解けた雰囲気を醸し出しながら魔術師組合の敷地の中へと入っていく。あまりの展開についていけず、一人残されたニニャは呆然とその後ろ姿を見つめていた。一行が入口のドアを開けたところでルクルットが一人振り返った。

 

「ニニャ、いつまでも呆けてると置いてくぞ」

 

「……な、なんで私だけ空気読めてないみたいな扱いなんですか!?こんなの絶対おかしいですよ!!」

 

 納得いかないと口を尖らせるニニャだが心の奥ではああいう芝居っ気は嫌いではなかった。「漆黒の剣」といういかにもなチーム名の案を出したのは、他ならぬ彼女なのだ。

 

                   ◆

 

 魔術師組合のエ・ランテル支部は王都にある本部に次ぐ規模を持つが、王国が魔法に力を入れていないこともあってその規模はさほどでもない。扱われているマジックアイテムも本部で制作されたものが運ばれてきているが、その質も量も帝国などに比べればはるかに物足りない。

 

 ただ、この都市が大きな交易路の中継地点であるため、様々な国や地方の魔法詠唱者が情報交換をする場としては近隣でも指折りの場所であった。行き交う人々の人種も服装も様々だ。彼らはちょっとしたスペースを見つけては、活発に情報交換や取引を交わしている。

 

 そんな中を洒落たデザインの眼鏡をかけたサトリが興味深げに見て回っていた。すぐ隣には同じ魔力系魔法詠唱者ということで、なし崩し的に案内役を任されたニニャが付き、ペテル、ルクルット、ダインの3人は少し離れて後ろに続き、楽しそうなサトリの様子を見ては頬を緩めている。

 

 ルクルットは脇を歩くペテルとダインにだけ聞こえるように声を落とした。

 

「なあなあ。サトリちゃんってさ。生真面目でお淑やかなタイプだと思ってたけどそうでもないよな。むしろノリが良くて天真爛漫なところもあって……ああ可愛いなホントに!」

 

「そうだな。きっと最初に会った時は緊張してたんだろう。お前が無理矢理キスしようとしたせいで」

 

「だから知らんっつーの!しつこいぞ!」

 

「まあまあ。この地には来たばかりということであるし」

 

 3人の騒ぎに気づいたサトリが立ち止まって振り返ると、真っ先に気づいたルクルットは何でもないとジェスチャーを送る。微笑んで手を振ったサトリはニニャと顔を見合わせて何事かを話すとくすくすと笑い合った。

 

「「いいな……」」

 

 ため息交じりのペテル達の呟きが綺麗に重なった。

 

 

 彼らと知り合いになれたのはサトリにとっても都合が良かった。一人だったら邪魔とトラブルが列をなしただろうが、今はペテル達がいるおかげで心行くまで観光を楽しめている。サトリに声をかけようとする者をペテルとルクルットが威嚇して追い払うからだ。すっかり上機嫌のサトリは内装や掲示物、気になる人や物を見つけては隣を歩くニニャにあれこれと質問を繰り返していた。

 

「サトリさん、ここってそんなに面白いですか?」

 

 動悸を静めようと胸に手を当てて目を閉じるサトリを見て、ニニャが不思議そうに首を傾げた。

 

「ええ。何もかもが新鮮で楽しいわ」

 

 地元の人間からすれば見飽きた物かもしれないが、他所の人間からすればそうではない。ましてやサトリは違う世界から訪れた旅人なのだから。

 

(海外旅行なんてしたことなかったしな。自分が本当に別の国にいるっていうこの感覚、凄いわくわくするぞ。ユグドラシルでこんな気分を味わえたのは、いつだったかな……)

 

「ニニャ。ここでは魔法のスクロールやワンドは売っていないの?」

 

「売っていますよ。ただ値段が高いので……」

 

「見てみたいわ。案内してくれる?」

 

 苦笑しながら頷いたニニャを先頭にサトリとルクルット達が続いた。少し歩いて組合の建物内の一角にある物販コーナーにたどり着いたサトリは、その品揃えの貧相さに落胆の表情をを隠そうともしなかった。鈴木悟なら多少オブラートに包んだだろうが抱いた感想は同じである。

 

「本当にここなの?随分狭いのね」

 

 多種多様なスクロールやマジックアイテムが所狭しと山積みにされているのを想像していたのに、その場にあったのは安価な使い捨ての低級マジックアイテムと、魔法の力が込められていないローブ等だけだ。違うところと言えば王国魔術師組合のエンブレムが描かれていることくらい。スクロールやワンドなどどこにも見当たらない。

 

「店員に言えばリストを見せてもらえます。それを見て欲しい物を持ってきてもらう形になりますね」

 

「思っていたのとかなり違うのね……」

 

「第1位階の魔法のスクロールでも金貨1枚に銀貨10枚ほどしますから」

 

(えーと……銀貨20枚が金貨1枚と同じで、金貨1枚が一般人の平均月収なんだっけ?そう考えると確かに高いな。たかが第1位階のスクロールなのに……)

 

 高価すぎてとても山積みになどしておけないのだろう。0位階の生活魔法のスクロールすら、屋台で軽食を買う気分で買えるものではないようだ。サトリとしてはかなり拍子抜けだった。それでも気を取り直してカウンターの店員に声をかけると、お決まりの忘我状態から立ち直った後で女性店員がやけに愛想よく対応してくれる。

 

(俺の格好を見て金持ってそうに見えたのかな?悪いけどこっちの世界のお金はそんなには持ってないぞ)

 

 カルネ村で倒した偽装兵や陽光聖典から奪った分があるだけだ。少ない額ではないにしても金持ちと言うほどではない。しかしここまで愛想良くされたら、何も買わないわけには行かないだろう。店員が商品のリストが書かれた冊子を持ってくるのを見て、サトリは人差し指の先で眼鏡の位置を直した。

 

 マジックアイテムはサイズが自動調整されるので気になる程ずれている訳ではない。だが眼鏡をかけた以上この仕草はやらなければいけない気がした。渋い男性キャラや怜悧で大人な女性キャラがやると特にかっこいい仕草だ。ナザリックのNPCにも眼鏡着用のキャラは何人かいた記憶がある。

 

(あって良かった解読用マジックアイテム。これ一つしかないから大事にしないと)

 

 蒼氷水晶から削り出されたレンズを持つこの魔法の眼鏡は、この世界に転移した時点で他の大量の装備品と同じく形状が変化していた。元は目立つ外見をしていたが、今は常にかけていても奇異に思われないデザインになっている。おかげで組合内を見て回るときに重宝したのだ。今更目立ったところで、と言われればそれまでだが。

 

 リストに並んだ魔法の名前に目を通していたサトリは、そこに未知の魔法を見つけて目を見開いた。

 

「へえ……こんな魔法があるのね」

 

(俺の知らない魔法、ユグドラシルにはなかった魔法が色々あるな!全部欲しいけど金が足りない……)

 

 今のサトリは世界級(ワールド)アイテムの効果であらゆる分野の魔法を習得できるようになっているが、その副次効果としてあらゆる魔法のスクロールやワンドを使用することができる。人一倍魔法への思い入れが強いサトリの心が沸き立たないはずが無かった。ロールプレイ(闇の人格)中であってもそれが変わることはない。

 

(だからってこういうところで盗む奪うは何か違うよな。仮に盗むとしてももっとこう、国家の財宝とかそういうのなら……でもそれでお尋ね者になって街に居られなくなるのもちょっとな)

 

 サトリがこの世界に来てからまだ数日だが、この世界に慣れてくるにつれ感情の振れ幅が大きくなって来たように思う。でもそれを悪い事とは思わなかった。ロールプレイ(闇の人格)に言われた通り、前の世界では常に何かを我慢していた気がするし、この世界に来てようやくその抑圧から解放されたと感じていた。

 

(まあ性欲は解放するためのモノごと無くなっちゃったけどな!はっはっは……)

 

 もはや童貞だった前世の恨みはどう頑張っても晴らせなくなったのだ。超位魔法の<星に願い>(ウィシュ・アポン・ア・スター)を使えばあるいはと思うがさすがにそこまではしたくないし、この身は世界級(ワールド)アイテムの産物なので超位魔法の効果も及ばない可能性もある。

 

 じゃあ女性としてはそれはどうなのかというと、サトリにはそういう感覚がよくわからない。数日しか経ってないせいかもしれないが、分からないなら分からないで良いとさえ思っている。むしろ理解してしまうのが怖かった。筋金入りの童貞だったが故のもはや魂にこびりついた呪いに近い。

 

(しかし本当なのかね……信じられないんだけど)

 

 サトリは自分が心の底で、あるいは無意識のどこかで男とのそういう行為を求めている、などという信じがたい、信じたくない事実を聞かされてかなりのショックを受けていた。それが心理的な代償行為という物なのか、女性の身体のせいなのかは分からない。単純な興味かもしれない。何にせよそれは成人男性だった鈴木悟の意識には認めがたく、何としても拒絶したいものだった。

 

 かといって抑圧しすぎて今回みたいに暴走というのも困る。気が付いたらベッドで知らない男と寝てた、なんて話でしか聞いたことのない状況は御免だった。

 

(どうすりゃいいんだよ!童貞にはハードすぎるだろ!)

 

 今こうしている分には抱きしめるなら女の子が良いと思っているし、そういう事をするとしたら女の子としたいとも思っている。しかし心の奥底のことまでは分からないし、将来的にどうなるかなんてそれこそ想像もつかない。ロールプレイ(闇の人格)の元にしたシャルティアのように両刀なんて未来だってあり得る、かもしれない。

 

(男か……うーん無理……だよな……特にキスはなー)

 

 男の顔が間近に来るのを想像するだけで怖気が走る。反射的に即死魔法を使ってしまいそうだ。

 

 悟の意識が悶々としている間。カウンターの上で魔法のスクロールのリストが書かれた冊子をめくりながら、サトリは何とも言えない笑みを浮かべていた。紫の瞳は冊子に向けられてはいたが、どこか遠くを見ているようで書かれた文字を追っていない。だがそれに気づいたのは何気なくサトリの顔を覗き見たニニャだけだった。

 

「っ……」

 

「何かしら?ニニャ」

 

 視線に気づいて振り向いたサトリは怪訝そうな顔で首を傾げる。何故か見てはいけない物を見てしまった気分のニニャだったが、サトリの様子がまるで変わらないのを見て、今しがた見た光景を頭の外へ追いやった。

 

「い、いえ……その、気に入ったスクロールはありましたか?」

 

「ええ。決めたわ」

 

 サトリは低位階魔法のスクロールを幾つか購入して満足そうな微笑みを浮かべる。その顔にニニャはほっと胸を撫で下ろした。

 

「おっ、買い物はもういいのかい?もっとゆっくりでもいいんだぜ?」

 

「ええ。次は冒険者組合に行こうと思っているの」

 

「もしやサトリ殿も冒険者になるのであるか?」

 

 ルクルットの横からずいっと身を乗り出してきたダインの顔を見上げたサトリはこくりと頷く。

 

「ほ、本当ですか!?それなら初仕事は私達と一緒しませんか!?」

 

「私は願ってもないことだけど、そちらは良いのかしら?」

 

「第3位階魔法を使えるサトリ殿なら、こちらからお願いしたいのである」

 

「そうそう!そんでもって気に入ったら俺達のチームに入ってもらって」

 

 一斉に色めき立ったペテル達がサトリの前で拳を握りしめてガッツポーズをする。店員は迷惑そうな顔をしているが、高い買い物をした後ということもあって咎めてくることはなかった。

 

「ちょっと!サトリさんは女性ですよ?男の中に一人だけ女性なんて大変じゃないですか」

 

 ニニャが鋭い目でルクルットを睨みつける。口調は丁寧だが言葉の端々に棘があり、矛先を向けられたルクルットが可哀想に思えるほどだ。サトリとしては屋外に出た時の休憩や就寝時は個室が完備されたグリーンシークレットハウスを使うつもりだし、どうしてもという場合は維持する指輪(リング・オブ・サステナンス)を付けるので、プライバシーという意味で何の心配もしていないのだが。

 

「そりゃ、そうだな……」

 

 落ち込んだルクルットの後をペテルが引き継ぐ。

 

「チーム云々はともかく、サトリさんの初仕事を一緒にっていうだけなら良いと思うんだ。それでもニニャは反対か?」

 

「い、いえ。それなら反対はしません。……その、ごめんなさい。決してサトリさんがどうって訳じゃないんです。ただ男の中に女性一人はやっぱり……良くないと……」

 

「気にしないで、ニニャ。分かっているから」

 

(なんだよ。ものすごくいい子じゃないか。職場にはこんな素直で礼儀正しい子はいなかったな)

 

 素直で礼儀正しい年下の男の子というのは、色々と世話を焼いてあげたくなるものだ。もちろん変な意味ではなく。しかし二次性徴が始まっていそうなのに、声は高いし顔立ちも体つきも少年というより女の子みたいに見える。これで完全に女装させたら「男の娘」というやつになるのだろう。かつてのギルドメンバー、ぶくぶく茶釜が作ったNPCであるダークエルフの少年のことが頭に思い浮かんだ。

 

(いたよなあ、双子の弟で名前は確かマ……マーラ?違うな……マール?も違った気がする……マウラ?うーん、どうみても女の子なのに男の子っていう設定だったから印象に残ってたんだけど)

 

 悟の考えなどいざ知らず、じっと見つめられ続けていたニニャはどこか気まずそうに顔を伏せてしまう。そんな様子を目にした悟は不意に心をかき乱された。不覚にも可愛いと思ってしまったのだ。ならばロールプレイ(闇の人格)が止まるはずがない。俯いたニニャに歩み寄って顔を覗き込むと、幼い子供を慰めるように優しく囁きかけた。

 

「私を気遣って言ってくれたのでしょう?感謝こそすれ、あなたを恨んだりしないわ」

 

「い……いえ、私は……」

 

 ニニャは頑なにサトリと目を合わせようとしなかった。そんな様子では「何か嘘をついてます」と言っているようなものだが、ニニャの態度に面白そうな予感を感じたサトリは、追及を切り上げてにっこりと微笑む。恥じらう少年の一部始終を見ていた悟の意識は、己の内で前触れもなく燃え上がった衝動に戸惑っていた。

 

(なんか本気でかわいく見えるんだが……やばいのかな俺)

 

 そんな悟の知られざる苦悩はルクルットが上げた歓声でかき消される。

 

「おっしゃ決まり!すぐ組合行って登録して準備して、そんでもって酒場でパーッと前夜祭と行こうぜ!」

 

「それなら今日のお礼に支払いは私が持つわ」

 

「ホント!?やったあああ!」

 

 サトリのお大臣な一言にルクルットに続いて歓声を上げたペテルとダインを見て、ようやく顔を上げたニニャも曖昧な笑みを浮かべた。

 

 

 腕を振って意気揚々と先頭を歩くルクルットの後に続いて一行が魔術師組合の建物を出ると、そこには異様な空気が漂っていた。槍を持った十数人の衛士が周囲をぐるりと取り巻いていたからだ。彼らの視線の先にいるのはもちろんサトリだ。包囲の外に立っていた衛士の一人がわざとらしい咳払いの後で大声を張り上げた。

 

「サトリ・スズキ!お前を衛士2名殺害の容疑で連行する!」

 

 



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13話

 魔術師組合の前でサトリとペテル達漆黒の剣の4人は槍を構えた十数人の衛士に取り囲まれていた。ペテルとルクルットが阿吽の呼吸でいち早く前に出て身構え、ダインはニニャを壁際に庇った。

しかし衛士相手に武器を抜くわけには行かず、緊迫した顔で取り囲んだ衛士の壁を鋭い目で見つめた。

 

「な、なんで衛士が!?」

 

「ルクルット!ついにやってしまったんですか!?」

 

「ニニャ!俺だってさすがに落ち込むぞ!?」

 

「二人とも、今はそれどころではないのである!!」

 

(事情も知らないのに余裕あるな。冒険者なんてやってるとこういう突発的な事態に慣れてくるのか?)

 

 普段は静かに話すダインの大声は体格が良いだけに迫力があり、取り囲んだ衛士達はびくりと震える。衛士の力は一般人とほとんど変わらないので、銀級冒険者であるダインの大声が獰猛な肉食獣の咆哮のように感じるのかもしれない。

 

 身構えるペテルとルクルットの後ろでサトリはつまらなそうに居並ぶ衛士達を見回している。その冷たい視線に晒された衛士達は寒気を感じるが、中には全く動じない者もいた。

 

「だから言っただろう。あんな連中に関わるべきじゃないって」

 

「意外と遅かったわね。ジェンター」

 

(受付の……やっぱりこいつがそうだったのか!)

 

 唯一サトリの視線を受け流しているジェンターは、はっきりとした上位者として数珠繋ぎになった衛士の後ろにいた。

 

「お役所ってのはそういうものだよ。これも仕事さ」

 

「ふふ……()()()の仕事かしら?」

 

 怪しく微笑むサトリを見て金髪の三枚目気取りは僅かに目を細める。この国では一般的な青い瞳に警戒の色が混じった。

 

「はて何のことやら。ああ抵抗はしない方がいい。君が強いのは知ってるが抵抗すればさらに罪状が増えるだけだぞ?」

 

 サトリを庇って前に出ているルクルットが、槍を突き付けてくる衛士達を気迫だけで威嚇しながら舌打ちした。

 

「どうなってんだ!?なんで衛士がサトリちゃんを」

 

「言っただろう。その娘には衛士二名の殺害容疑がかかってるのさ。君らも冒険者なら犯罪者を庇ったらどうなるかわかるだろ?」

 

 ジェンターは大げさに肩を竦めて首の前で縦に手刀を切る仕草をする。その仕草が何を意味するかは冒険者なら誰でも知っていることだ。犯罪に関与した冒険者への罰則は罪状にもよるが、もっとも重いもので冒険者プレートの剥奪と組合からの永久追放。刑期を終えて釈放されても冒険者としては死ぬのと同じだ。しかしルクルットは全く怯まなかった。

 

「うるせえ!だいたい人殺して逃げてる人間が往来であんな派手な自己紹介するかってんだ!」

 

「それを判断するのはこっちだ。なに心配はいらない。問題ないと分かればすぐに釈放されるさ。さて。そろそろどいてくれ。邪魔すればお前らも共犯だぞ」

 

 ジェンターの指示に従って周囲の衛士たちはじりじりと包囲を狭めてきた。ペテルと共に最前線に立つルクルットは一瞬目を閉じて歯を食いしばる。再び目を開いた時にはその茶色の瞳に不退転の意志が宿っていた。

 

「ペテル。頼みがあるんだが」

 

「……駄目だ。それだけは許さない」

 

「そうか……すまねえ。じゃあ勝手にやらせてもらうわ。俺は─」

 

 その先は言われなくても分かってしまった。ルクルットの性格は良く知っているだけに漆黒の剣の定番のネタとして定着していたくらいだ。いつか女で大失敗すると。ダインやニニャは口々に止めろと叫ぶがルクルットの覚悟は既に決まっていた。今彼を止められる者などこの場には一人しかいない。

 

(あ、これまずいぞ。脱退とかしちゃったら絶対しこりが残る……クラン時代でもあったけど、大抵ユグドラシル自体辞めちゃうんだよなーそういう人って)

 

 仕込み済みだから心配する必要はないと伝えたいが、それを口にするとこの街の八本指を一網打尽にする計画をみすみす投げ捨てることになる。具体的なことを言わず「大丈夫だ、問題ない」と言っただけでは納得はしないだろう。時折サトリの顔を横目で見つめるルクルットの目には、燃えるような感情がありありと浮かんでいたからだ。

 

 その一途な視線は飼い主にじゃれつくペットのように見え、サトリは僅かに頬を緩める。悟の方はルクルットの様子に「若いなあ」としみじみしつつも、女性のためにここまで積極的になれなかったから自分は童貞のまま終わってしまったのだろうか、と後悔の念に駆られた。

 

 などと考えている間にも事態は悪化中で、そろそろ止めないと本当にまずい。<伝言>(メッセージ)の魔法は発声が必要だし、この世界では異常な程信頼されていないので身振りやアイコンタクトのような他の手段と併用する必要があるという。

 

(面倒だな。ここは困った時のロールプレイ任せでいこう。要は今だけルクルットを黙らせればいいんだ)

 

「俺は、ルクルット・ボルブは漆黒の剣を─」

 

「黙りなさいルクルット。さっきから鬱陶しいのよあなた」

 

 ぞっとするほど冷たく澄んだ少女の声が、ルクルットの言葉を途切れさせた。周囲はしんと静まり返り、野次馬のどよめきすら聞こえない静寂に包まれている。そこは今や舞台だった。今声を発することを許されるのは舞台上にいる役者だけだ。

 

「サトリちゃん、これは俺が勝手にやることで……」

 

「何か勘違いしているんじゃなくて?私とあなたはさっき偶然知り合っただけ。それなのに勝手に盛り上がって、全てを捨ててナイト気取り?」

 

「う……」

 

「ええ、あなたはそれでいいでしょう。でも仲間の気持ちは?あなたにとって彼らはそんなに軽いの?」

 

 図星を突かれたルクルットは言葉に詰まって唇を噛みしめた。その様子をペテルとダインは沈痛な面持ちで見つめ、ニニャは悲し気に顔を伏せる。

 

「お、俺は……」

 

「はっきり言うわ。鬱陶しいのよあなた。付きまとわれて迷惑なの。私、あなたみたいな軽薄な男は大っ嫌い」

 

 嘲笑を浮かべながら小動物を追い払うように手を振るサトリに、ルクルットはこの世の終わりのような顔であんぐりと口を開けた。

 

(うわ、ちょっと泣いてるぞ……言ってる方の胸が痛くなってくるんだが……まるで自分がこっぴどくフラれてる気分だ……)

 

「……」

 

 すっかりしょげて俯いてしまったルクルットと、悲し気な顔で見つめてくるペテルの間をサトリは悠然と歩いていく。すれ違いざまルクルットの足元にハンカチの包みが投げ捨てられた。ちゃりりという音と共に石畳の上に転がったその包みは、結び目の隙間から黄金の輝きが覗き見えた。

 

「助けてくれたお礼はそれで十分でしょう。これでもう私とあなた達は関係ないわ。さようなら」

 

 ルクルットの視線は一瞬だけ足元の包みを見たが、すぐに離れていく黒髪を追いかける。しかし呼び止める言葉はその口から出ることはなかった。向けられた槍の穂先など見えていないかのように、真っすぐ歩を進めてくるサトリの迫力に打たれ衛士達は慌てて構えを解いて道を開ける。ジェンターの前で足を止めたサトリは僅かに首をかしげつつにっこりと微笑んだ。

 

「それじゃ真面目な衛士さんは私をどこへ案内してくれるのかしら」

 

「物分かりが良いようで助かる。ああ、冒険者の皆さんも御協力に感謝しますよ。それではこれで」

 

 ジェンターはわざとらしくおどけてルクルット達に手を振ると、サトリを伴って歩きだした。

 

 

 衛士達がサトリを取り囲んで歩き去っていくのを、漆黒の剣の面々は為すすべもなく見送るしかなかった。がくりとその場に崩れ落ちたルクルットの目の前には、結び目の解けかけたハンカチの包みと何枚かの金貨が散らばっていた。

 

「うあああああ!!」

 

 ルクルットは雄叫びを上げながらハンカチの包みを拾い上げると、頭上に持ち上げた姿勢で身動きを止めてしまった。そのあまりにも悲壮な姿は見るに忍びずペテル達は悲し気に目を伏せるしかなかった。ルクルットもペテル達も分かっているのだ。なぜあんな言い方をしたのか。だからこそ誰も何も言うことが出来なかった。

 

                   ◆

 

 サトリを護送していた衛士達は詰所の前で解散して持ち場に戻っていくが、ジェンターはそのままでサトリを連れて詰所の近くにある大きめの一軒家に入った。入口の見張りの横を通り過ぎて家に入ると、中はかなり広く15人ほどの男がいたが、サトリの顔を見るなり一様に驚いた表情を浮かべた。

 

「ここだ。そう警戒するな。取って食う訳じゃない。デイバーノック、居るか?」

 

「貴様が急に短期で雇われろと言うからここにいるのだぞ」

 

 部屋の片隅にいた黒いローブの人影が人とは思えない怖気の走る声を発した。深くかぶったフードのせいで顔は全く見えないが、纏う空気は極寒の吹雪のように見た者の背筋を凍らせる。他の男達はデイバーノックを恐れるように離れた場所に腰を下ろしていて、その周りだけが空白地点になっている。

 

 全員が武装しているが抜く様子はなく、周りを見渡すと大きな部屋の壁には沢山の武器がかけられており、ありふれた剣やナイフ、盾、弓に混じって三日月刀(シミター)が引っかかっている。サトリはその中に魔法の武器がいくつか混じっていることに気づいて、八本指の羽振りの良さを実感した。

 

 全ての魔法武具が分かりやすく発光したりするわけではなく、普通の人間の目にはそれと分からない物もある。武具によっては魔法が掛かっていることを悟られたくない場合もあるからだ。それを見抜くためのスキルであり魔法である。

 

 部屋の観察を終えたサトリの視線はデイバーノックに向いた。フードに隠された顔は見えないが全身から色々な魔法のオーラを感じさせ、いくつものマジックアイテムを装備しているのが分かる。その割にはいかにも人外という空気を丸出しにしているあたり、気配を隠蔽する手段がないのだろう。

 

「どうせ仕事終わりで暇してたところだろうが。小遣い稼ぎになりゃお互い得だろう」

 

「ふん。休息など私には必要ない。ヒルマの手前今回は手伝ってやるが、次は知らんぞ」

 

 アンデッドを発見するスキル、不死の祝福が消滅してしまったのでそちらで確認することは出来ないが、こんな怪しいローブ姿で顔を隠し、化け物じみた声で話す存在などそうはいない。かつてのモモンガと同じスケルトンメイジがエルダーリッチ系統のモンスターだろう。サトリは無詠唱化した<敵識別>(ディサーンエネミー)を使いこっそりと確認する。

 

(やっぱりエルダーリッチか)

 

 エルダーリッチなら手の内など知り尽くしているので怖くはないが、逃げられることだけは注意しなければならない。<敵感知>(センス・エネミー)の反応を見る限り今の所敵対する気はないようだが、此方の目的を考えれば戦闘は避けられない。

 

「さて。待たせたな。サトリ、いや漆黒の戦魔と呼んだ方がいいか?」

 

(……おい、混じってるぞ!ちゃんと伝えろよ!そこ一番大事だろ)

 

「私は漆黒の魔女と聞いていたぞ。確かに二つ名の通りの出で立ちではあるがな」

 

 デイバーノックが訂正を入れるがそれでも微妙に違っている。

 

(近い、近いけど……そこまで行ったならもうちょっとがんばれよ。マフィアなんだから情報が命だろ)

 

「まあ、どっちでもいい。一応言っておくが─」

 

「漆黒の戦乙女」

 

「逃げら……え?」

 

「漆黒の戦乙女」

 

「……」

 

 サトリは譲らない。ここは譲れない。このまま話を続けさせたら間違った二つ名が広がってしまうかもしれない。どうせこの連中はみんな墓場か牢屋行きだが、それでも名前という物にはこだわりたい。本気の圧力を込めた瞳で見つめられたジェンターは言葉に詰まり、そして折れた。

 

「さて。待たせたな。サトリ、いや漆黒の戦乙女と呼んだ方がいいか?」

 

「ふふ……まさか城門で受付してた不良衛士が八本指の幹部だったなんて」

 

 二人のやり取りを見ていたデイバーノックは何か言いたげに身じろぎするが、結局何も言わずに元の姿勢に戻った。

 

「その割にはあまり驚いてないようじゃないか。俺の演技力もまだまだだな」

 

「そうでもないわ。予想していただけ」

 

 武器を下げた15人の男に周囲を囲まれデイバーノックの放つ鬼気に晒されていても、自信と余裕に満ち溢れたサトリの態度は崩れない。

 

「……そっちは演技や虚勢とは思えないくらい雰囲気が違うな。それとも今のが素で、あの頭の弱い()()みたいな態度が演技なのか?」

 

(きっ……)

 

 「なまむすめ」ではなく「きむすめ」である。相手はサトリの事情を知らないのだからそんなはずはないのだが、暗に童貞と指摘されたような気がして鈴木悟は絶句した。このジェンターという男はSRルクルットとでも言おうか、それなりに顔が良いのが余計にサトリの苛立ちを煽る。

 

 クリスマスにログインしなかった男は爆発するべきだとペロロンチーノと気概を上げたことがあったが、こいつは間違いなく爆発する側だ。

 

(糞っ!糞がっ!イケメンで非童貞だからって偉いわけじゃないんだぞ!)

 

 しかしここで動揺したら負けだ。幸い鈴木悟はともかくロールプレイ(闇のサトリ)の胆力はその程度では揺らがない。

 

「さあどうかしら。わざわざこんなところに呼んだからには話があるんでしょう?」

 

「そうだな、まあ座れ。一応言っておくが逃げようなんて考えない方がいい。その時はこの街どころか国中にお前の似顔絵が貼られることになる」

 

 こうなったらこの男をギリギリまで調子に乗らせてからどん底に突き落とし、その顔を見て笑ってやらないと気が済まない。今ここにいる時点でこの男の運命は決まっているが、頭の黒いネズミというのはいつもどこかに逃げ道を作っているものなのだ。

 

「ふふ……怖い。あなたも私の身体が目的なの?ジェンター」

 

「そっちがいいなら願ってもないけど今はスカウトだ。お前が頷くなら一つ仕事をこなしてもらう。それが終われば正式に仲間だ。この国で八本指に出来ないことはない。肩書や身分、家や兵隊、酒や薬、男でも女でも用意してやる。金はあんまり要らなそうだが」

 

 サトリが身につけている品々を見ればそう思うのだろうが、サトリの財布はさほど余裕があるわけではない。ルクルット達に見栄を張ってしまったせいだ。ユグドラシルの金貨ならあるがそれはなるべく使いたくない。危険性がどうというより、同じ用途でいくらでも手に入るものがあるのならそっちを使いたいという貧乏性からだ。

 

(まあ、この連中から奪えばいいだけなんだけどな)

 

 明確な敵や犯罪者から奪う事には何のためらいもない。いずれ犯罪で得た金だろうが持ち主に返すというのは不可能に近いしパナソレイへの点数稼ぎはもう十分している。自分を襲ってきた犯罪者などまさにカモだ。金貨入りの袋だと思えばこの男への苛立ちも少しは収まろうというもの。

 

「マフィアの使い走りなんてお断りだわ」

 

「ふん。お前はこの国来たばかりらしいが、八本指についてどこまで知ってる?」

 

 王国に根を張る巨大犯罪組織。あらゆる犯罪や違法行為に手を染め、多くの大貴族と繋がりがあって国さえ手が出せないほどの勢力を持つ。名前通り8つの部門に分かれているが、各自が独立性の強い組織でしょっちゅう内紛もしている。サトリが知るのはそれくらいだ。

 

「そうだ。そして俺は麻薬部門のヒルマの派閥だが、組織の拠点がいくつか冒険者に潰されたってんであの年増はカンカンで、近く腕利きを集めて暗殺しようって話になってるんだ」

 

「それで?」

 

「手が足りない。それぞれの部門ごとに腕利きはいるがアダマンタイト級冒険者に対抗できる奴となると、警備部門の最精鋭である六腕くらいしかいなくてな。そこのデイバーノックもその一人だ」

 

 ジェンターが指で指し示す先でデイバーノックは無言で突っ立っている。疲労という概念がないアンデッドは丸一日突っ立っていたとしても疲れるという事はないだけに、本人は構わないのだろうがこんな嫌なオブジェクトが部屋の中にあって気分が良い人間はいない。

 

「相手はあの「蒼の薔薇」。アダマンタイト相手じゃ兵隊なんてほぼ無意味だ。罠にかけようにも一味に暗殺者上がりの女がいる上に、こっちの手の内を知ってて嵌るような連中じゃない」

 

「その蒼の薔薇とかいうのを倒すのに力を貸せと。よく知りもしない女を随分買ってるのね」

 

「カルネ村でスレイン法国特殊部隊の殲滅に手を貸し、召喚された巨大な天使を一瞬で消し去った黒髪の女。お前の事だろう。漆黒の……戦乙女」

 

 サトリは何も言わずに微笑んだ。そっちについては口止めしていない、というか広まってほしかったので王国戦士団からエ・ランテルの応援を経由して話が広がったのだろう。それにしてもなかなか耳が早い。まだ昨日の今日のはずだ。力を認められつつ二つ名で呼ばれたことで心の中の悟は感動に打ち震えているが、それが表情に現れることは決してない。

 

「強力な切り札を持っているそうじゃないか。お前にはそれであの連中の最大戦力を引きつけてもらう」

 

「……イビルアイ、だな。あれに対抗できる魔力系魔法詠唱者はこの国にはいないだろう。悔しいが私ではとても敵わん。フールーダが帝国の最上位魔法詠唱者なら、イビルアイは王国の最上位だ……が」

 

 最大戦力とは何か問う前にデイバーノックが口を開いた。アンデッドとはいえ同じ魔法詠唱者にはそれだけ関心が高いのだろう。先程から感じていたが、無口かと思えば結構喋る方らしい。

しかしその不気味で耳障りな声が部屋に響くたびに周囲の男たちは揃って顔を歪める。

 

「漆黒の戦乙女よ。貴様がその比類なき装具に相応しいだけの実力を持っているなら、王国どころか近隣国最上位の魔法詠唱者は貴様になるだろう」

 

(分かる奴には分かるんだな。全身神器級(ゴッズ)で埋めるのはかなり大変だったし)

 

「囮役だけど重要。新入りですらない女に任せるものかしら」

 

「組織の為に危険な役目をこなすからこそ信頼が得られる。もちろん十分なサポートもつけよう」

 

「監視の間違いではなくて?」

 

(蒼の薔薇ねえ……)

 

 陽光聖典の隊長が語った情報の中に蒼の薔薇についての話もあった。任務で亜人の集落を襲撃した際に戦闘となり、危ういところで撤退する羽目になったという。その話を聞いたとき、全員が女性で構成されるアダマンタイト級冒険者チームという肩書に興味をそそられたものだ。容姿についての話は聞けなかったが、女性だけのチームという響きに少し心を惹かれるものがあった。

 

「一応聞いておくけどザインとカイアスはあなたが?」

 

「あいつらは極上のスープを床にぶちまけかけた間抜けだ。隠れ蓑に良かったが邪魔になってきたしな。最後にお前の力を確かめるという意味でも役に立った」

 

 驚くほどすんなりと殺人への関与を認めたジェンターを前にしても、サトリの胸中には濡れ衣を着せられた事以上の怒りは湧いてこない。悪党同士が殺し合いをしただけの自業自得としか思わなかった。自分の手で報復が出来なかったことは少し残念ではあるが。

 

「魔術師組合に寄っていたようだが、あんなところで手に入るマジックアイテムなんて子供だましもいいところだぞ。八本指で実力を示せばもっと珍しい物だって手に入る」

 

「断ったら?」

 

「お互いにとって不幸な結果になるだけだな。俺達は戦力を補充できないしお前はここで死ぬ」

 

 そう言い終わるや否や敵感知(センス・エネミー)に大量の反応が生まれた。恐ろしいほどの割り切りの早さである。ジェンターがテーブルを蹴倒して素早く後ろに飛びのき、デイバーノックがサトリに干からびた指先を突きつけてくる。

 

<魔法抵抗突破化>(ペネトレートマジック)<電撃>(ライトニング)!」

 

「……ふふっ」

 

 青白い電撃が一直線に伸びてきてサトリの身体を撃つが、彼我の圧倒的な能力差によって易々と抵抗(レジスト)に成功する。無数の強化魔法までかかっている今は上位魔法無効化能力がなくとも、デイバーノックの魔法がサトリにまともなダメージを与えることは出来ない。しかしそんなことは織り込み済みとでも言うように、剣を振りかざした男たちが一斉にサトリを取り囲んだ。その刃にはドロリとした液体が塗りつけられている。

 

「戦乙女が天界(ヴァルハラ)に誘うのは勇者だけ……あなた達の行先は冷たく暗い冥府の底よ」

 

 今やサトリは色々と絶好調であり、もはや誰も止めることは出来ない。猛毒の刃を悠々と躱しながら歌うように死の宣告を行うサトリの手には、いつしか()が握られていた。半透明の黒い素材で出来た鈍器にしか見えない杖だ。陽光聖典との戦いで天使の群れを粉砕したあの()だ。

 外見通り杖とは思えない破壊力と攻撃速度を持つ代わりに、攻撃ごとに魔力を消費するというデメリットのせいでユグドラシルではまったく使われなかったが、今のサトリにはデメリットにはならない。新たに得たスキルによって直接攻撃で魔力を若干回復することが出来るからだ。

 

(名付るならそう……「嗜虐の愉悦」……ふふ)

 

 ついに漆黒の戦乙女の反撃が開始された。横なぎに一閃された()は斬りかかってきた男たちの3人に当たる。不幸な犠牲者達は吹き飛ぶどころか上半身が爆発したように消し飛んで部屋中に中身を飛び散らせた。仲間の凄惨すぎる死に様を見た他の男達は、足が竦んで動けなくなる。

 

「ああ汚い。これはちょっと強すぎかしら」

 

 部屋の壁と飛び散った臓物の描く前衛的なアートにサトリは眉を顰める。臭いは問題ないが気分が良いはずもない。紫の瞳を薄っすらと発光させながら、巨大な得物の具合を確かめるように軽々と振り回す。以前使った時は相手が天使だったので全て綺麗に消えてくれたが、生ものとなるとそうは行かない。

 

「やはり……<第四位階死者召喚>(サモン・アンデッド・4th)

 

 デイバーノックの魔法によって<三日月刀>(シミター)<円形の盾>(ラウンド・シールド)を持った<骸骨戦士>(スケルトン・ウォリアー)が4体、床から湧き出るように現れた。それらは即座に行動を開始し、恐怖で動きを止めてしまった男達に代わってサトリに斬りかかった。

 

 骨なら粉々にしても汚れないと喜んだサトリは再び()を叩きつけた。<骸骨戦士>(スケルトン・ウォリアー)の1体は攻撃を防ごうとした盾ごと潰されて粉々になり、跡形もなく消えていく。部屋の出口まで移動したジェンターが大声で叫んだ。

 

「エドストレームッ!」

 

 それを合図に壁際にかかっていた5本の<三日月刀>(シミター)がひとりでに動き出す。放たれた矢のように空中を駆けた魔法の曲刀は、<骸骨戦士>(スケルトン・ウォリアー)を容易く粉砕しているサトリ目掛け全方位から襲い掛かった。六腕の一人であるエドストレームが別の部屋に潜んでいたのだ。

 彼女は針のように小さな覗き穴からでも、魔法の<三日月刀>(シミター)を正確に操作することができる能力の持ち主である。そしてデイバーノックも同時に魔法を放った。どうせ抵抗(レジスト)されることは想定済みであり、一瞬足止めできればいいという判断だ。

 

<魔法二重化>(ツインズマジック)<魔法の矢>(マジックアロー)!」

 

 魔法で生み出された回避不能の6発の光弾が一斉にサトリに襲い掛かるが、所詮は第1位階魔法。サトリの足をほんの一瞬止めることしかできない。だがその一瞬の間に勝負を決められるはず。八本指の幹部達はそう思っていた。

 

<魔法三重化>(トリプレットマジック)<黒曜石の剣>(オブシダント・ソード)

 

 サトリの頭上に黒く輝く剣が3本現れると、それぞれが意志を持ったように動いて飛来した<三日月刀>(シミター)を弾き返した。驚愕する男達の前でサトリは<骸骨戦士>(スケルトン・ウォリアー)の最後の一体を破壊する。魔法で生み出された存在は破壊されたり効果時間が過ぎると跡形もなく消えてしまうので、残骸が残ることはない。

 

 <舞踊>(ダンス)の魔法付与を施された<三日月刀>(シミター)は、エドストレームの意志に従って弾き返されてもなお執拗に食い下がるが、輝く黒剣と撃ち合っている内にボロボロになっていく。刃毀れや刃先が欠けるだけならまだしも、2本は刀身の半ばからぽっきりと折れてしまっていた。

 

 今やジェンターは自分達の失敗を悟った。必勝の作戦を正面から食い破られたという衝撃に顔を青ざめさせる。

 

「……いいわ、その表情。全てが上手く行ったと確信した後で失敗を悟って絶望する顔。とっても素敵」

 

 魔法を帯びた<三日月刀>(シミター)が四方の壁に掛かっていることに、サトリは最初から気づいていた。壁に掛けられた他の武器はそれを誤魔化すためのフェイクであろうということも。だが最初から目論見を潰してしまっては芸がない。分かっていながら知らぬふりをしていたのだ。

 

(だってその方が楽しいしな)

 

「ちぃ……<魔法二重化>(ツインズマジック)<火球>(ファイアーボール)!」

 

 デイバーノックはサトリに向けて<火球>(ファイアーボール)を放つ。こんな状況で広範囲攻撃魔法を使えばどうなるかなど分かり切っている。味方を巻き添えにしてでも逃走を図るつもりなのだ。意図に気づいた男たちが一斉に逃げ出し始めるが、<火球>(ファイアーボール)の魔法が炸裂する方が早い。

 

 数秒後には炎上する家の中に焼け焦げた死体が転がる凄惨な光景が生み出されるはずだった。しかし飛来した炎の玉はサトリの身体に命中する寸前に掻き消える。

 

「なに……?」

 

 デイバーノックはアンデッドだけに激しく動揺することはないが、自分が見た光景の分析に僅かな時間を必要とした。破裂して炎上するはずの魔法が何事もなく消えてしまったからだ。<火属性防御>(プロテクションエナジー・ファイヤー)で軽減したというわけではない。未知の武技あるいは魔法、生まれながらの異能(タレント)

 何にせよ第三位階の攻撃魔法を消し去るほどの能力。

 

「連発はできないと見た……ならばもう一度」

 

「あら、今度はこっちの番でしょう?<魔法最強化>(マキシマイズマジック)<善なる極撃>(ホーリー・スマイト)

 

 それは威光の主天使(ドミニオン・オーソリティ)との戦いにおいて、アーケインルーラーのスキルによって新たに習得した魔法。信仰系魔法であるため、特殊な手段を使わない限り決して使うことが出来なかった分野の魔法だ。そんな魔法を行使できる興奮と恍惚がサトリの胸の中を駆け巡る。

 

 そして光が満ちた。屋根と天井を破壊しながら落ちてきた光の柱が黒いローブの人影を完全に包み込む。アンデッドの弱点である神聖属性の眩い光の中で、デイバーノックという存在は一瞬のうちに跡形もなくこの世から消滅した。

 

 眩い光の柱が嘘のように消え去ると家の床は無くなっており、焦げた地面が剥き出しになっていた。その真ん中あたりにはデイバーノックが装備していた幾つものマジックアイテムが散らばっている。

 

 サトリはおもむろに勝利のポーズを決めるが、それを目に出来た者はいなかった。

 

 しつこく纏わりついてきていた5本の<三日月刀>(シミター)は、全て床に落下して動かなくなっている。操っていた術者が逃亡したのだろう。攻撃目標を失った3本の黒い剣はサトリの頭上に戻ってふわふわと漂っているが、その刀身には僅かな刃毀れすらなかった。

 

 サトリの魔法的感覚の中でいくつかの<敵感知>(センス・エネミー)の反応が遠ざかっていくが、この家の周囲はパナソレイの指示で衛士達によって完全に包囲されている。エ・ランテルで衛士を統括しているハミルトンまで八本指に抱き込まれていたため、その場での解任から逮捕取り調べということになり、今回の作戦は新任による指揮だったが思ったより上手くやっているようだ。

 

 そしてこの一帯での転移は封鎖している。ここから逃げるには衛士の包囲を突破するか、隠れてやり過ごすか、秘密の脱出路のようなものを使うかだ。予想通り遠ざかる反応の中に地下と思しき方向へ向かうものがあった。

 

「ふふ……早く顔が見たいわ。絶望に染まりきったあの男の顔を」

 

(そうそう。絶対笑ってやる決めたからな)

 

 サトリは対情報系魔法を使って守りを固めると<生体発見>(ロケート・クリーチャー)の魔法を発動させる。探す相手は言うまでもなかった。

 

 



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14話

 大通りに設置された魔法の街灯が灯り始める頃になっても、エ・ランテルの冒険者組合は多くの人間で賑わっていた。

 依頼の報告に証拠部位の換金、情報交換やアイテムトレードなど組合で行われる事は多岐に渡る。

 

 人の流れから少し離れた奥まったスペースで、漆黒の剣の4人はいつものように一つのテーブルを占拠していた。彼らが今ここにいる理由は2つある。一つは仕事の打ち合わせのため。もう一つはある人物を待つ為だ。だが例の騒ぎの噂を聞きつけた冒険者が頻繁に話しかけてくるのと、一人が使い物にならないせいで進捗はあまり良くない。

 

「おいペテル、お前の所のルクルットが黒髪の美女にこっぴどく振られて捕まったって話は本当か?」

 

「どうやったらそんな滅茶苦茶な話になるんだ。ルクルットならそこにいるぞ」

 

 普段ならこういう時率先して対応してくれるルクルットは壊れて止まったままだ。ペテルとダインに引きずられるようにして冒険者組合まで来てからずっと、手にしたハンカチを見つめて呆然としている。

 

「相当話題になってるんだな」

 

「あれだけ目立てば当たり前である」

 

「……そうですね」

 

 ニニャも口数が少ない。一方的に気まずさを感じていた相手が、自分達を巻き込まないために気を使ってくれた事が棘となって心に刺さっていたからだ。

 

「ペテル。明後日からの仕事は延期した方が良いのではないか?この調子では思わぬ不覚を取るやもしれん」

 

「俺もダインの言う事はもっともだと思う。皆が良ければ少し時間を置いて……」

 

 彼らの実力からすれば街道や開拓村付近でのモンスター駆除はそう難しい仕事ではないが、危険がないわけではない。さらにここ数日、エ・ランテル周辺で普段見かけないモンスターの目撃や被害報告も冒険者組合に上がってきている。万全でないときは可能な限り戦闘を避けるのが冒険者の鉄則だ。

 

 それまでずっと「心ここにあらず」状態だったルクルットが、ハンカチを握りしめて椅子から立ち上がった。

 

「なあ!いつもの小鬼(ゴブリン)人食い大鬼(オーガ)狩りもいいけど、この辺で大きく稼ぎたくねえか?そろそろ金級昇格も狙いたいしさ!冒険者になったからにはやっぱりアダマンタイト目指してえじゃん?俺達ならもっと上行けると思うぜ!」

 

 急にいつもの調子に戻ったように見えるルクルットに3人は何とも言えない顔を向けた。ルクルットの振る舞いがギリギリの虚勢であることは、付き合いの長い彼らにはすぐわかった。誰よりもショックを受けていながら、いつも通りのムードメーカー役をこなそうとする姿にペテル達は胸を締め付けられる。

 しかし空元気だろうが黙って塞ぎこんでいるよりは良いはずだと、ぎこちない笑顔を浮かべて流れに乗りかかった。

 

「うむ……ちょうど良い依頼があれば、考えても良いのである」

 

「私も経験を積んで、早く第3位階魔法を扱えるようになりたいです」

 

 街道や人里でモンスターの討伐を行うのも重要な仕事だが、冒険者としての等級を上げたいなら難易度の高い依頼をこなした方が早いのは事実だ。そういう依頼は当然危険も多い。無理をして大怪我をしたり命を落とすパーティなど枚挙に暇がなかった。

 

「……それもいいかもな。最近討伐が多かったし、上手く行けば功績も上がるだろう」

 

 ルクルットの提案に反対する者はいなかった。自分達を巻き込まないようにあんな振る舞いをした彼女を見て、何とも思わないには4人は若すぎた。自分達がせめてミスリル級だったら、あの衛士達ももう少し違う対応を取らざるを得なかっただろう、という思いは全員が抱えていた。

 

「そう言うと思ってこれだ!この辺に潜んでる盗賊団のアジトの捜索!見つからなくても手間賃は出るっていうから─」

 

 

 その時、組合の入口の扉が開いてまた新たな人間が入ってきた。近くで気配に気づいた冒険者達は面倒臭そうに視線を走らせ、そのまま目を釘付けにされる。仲間や知り合いの異変に気づいた他の冒険者達も視線の先を追い、同じように固まった。喧騒に満ちていた空間は一転して奇妙な静けさに包まれる。

 

 見慣れない服を着た黒髪の少女だった。鋭角的なラインで構成された黒い服は、見る者が見れば遠い南方の国の服に似通ったデザインだと分かる。この辺りではまず見かけない格好だが、いかにも高級な生地と仕立ての良さから、それがとても高価な物であることは明らかだ。

 黒い上下に黒い帽子という異様な出で立ちは年頃の少女とは思えず、輝く黒髪も相まって闇を切り出してきたかのようだった。

 

 さらに人々が少女から目を離せなかった最大の理由は美しさだ。整いすぎた顔立ちや身体はもちろん、全身から溢れ出る不可視の質量と言うべきものに強制的に目を引きつけられる。誰もが声を発することもできず、歩いてくる少女の姿に目をくぎ付けにされているた。

 

 受付のカウンターの前まで来た少女は、かけている眼鏡を人差し指で持ち上げつつ驚くべき事を口にする。

 

「こんばんは。冒険者登録をしたいんですが」

 

「「!?」」

 

 静まり返っていた組合の中が一斉にざわめき始める。冒険者たちも受付の女性もこの少女の事は依頼人だと思っていた。こんな美しく裕福そうな身なりをした華奢な少女が、冒険者のような危険な稼業と関係あるはずがないと。

 

 

 レンジャーであるルクルットは日々培った鋭い聴覚とそれ以上の執念めいた何かでその人物の声を聞き取った。忘れようとしても忘れられない響きを耳にした瞬間、その身体は既に走り出していた。ルクルットの形相に進路上にいた冒険者達は驚き、慌てて道を空ける。

 

 物音に気づいた黒づくめの少女が、走り寄ってくるルクルットに気づいて振り返る。少女の目と口が驚きの形に開かれた。

 

「ルクルット?」

 

 美しく澄んだ声。ずっと聞きたかった声だ。ルクルットの目にはもう、その少女以外の物は映っていなかった。別れた時とは違う見慣れない服を着ている。以前のドレスと違い肌の露出は皆無だが、威厳と凛々しさに満ちた別の魅力があった。ぎゅっと絞られたウエストや布地を押し上げる胸の膨らみに目を奪われる。

 

 目頭が熱くなり視界が滲んだ。耐えがたい衝動に背中を押され駆け寄って手を伸ばした。それが自分の見ている幻ではないことを確かめたかったのだ。

 

「おっと」

 

 しかし目当ての相手は寸前でひらりと身をかわす。その動きはこの街で最高の冒険者にも匹敵する軽やかさで、身をかわされたルクルットは床の上でたたらを踏んだ。それでも転倒しなかったのは流石シルバープレート持ちのレンジャーと言うべきか。

 

「ぶ……無事だったんだな!サトリちゃん!」

 

 

「あー、うん。この通り」

 

 今のサトリは素に戻っていた。この世界に来て三日目なのに戦闘ばかりしている気がする。それはそれでスリルがあってとても楽しい事なのだが、ゆったりとリラックスする時間は必要だ。幸いなことに、八本指の連中から分捕ったお金で今のサトリの財布はとっても重い。今夜はこの街最高の宿を堪能する予定で、今からそれが楽しみでしょうがなかった。

 

(それにしてもちょっとバツが悪いな。あんな別れ方しちゃったし。マジ泣きしてたもんなこいつ)

 

 必要なことだったとはいえ、あの時はつい調子に乗ってやり過ぎてしまったとサトリは思っていた。しかし当のルクルットはそんなことなどまるで気にしていない様子だ。

 

「良かったっ!本当に良かったっ!」

 

 普段はにやけた3枚目然とした顔が今はぐしゃぐしゃだった。涙で濡れたルクルットの迫力に圧されてサトリは顔を引きつらせる。この世界の男は感情表現が大きいのが普通なんだろうかと頭の中で分析していると、サトリの肩をルクルットの手ががしっと掴んだ。

 

「え……!?」

 

「良かったっ!本当に良かったっ!!うううっ」

 

(またマジ泣きか!本当によく泣く奴だな)

 

 対応に迷って目を白黒させているサトリの肩に手を乗せたまま、ルクルットは下を向いて嗚咽を漏らしている。払いのけるのは容易い。サトリからすれば銀級冒険者のルクルットも大した相手ではないのだ。しかし一応は恩人だし、本気で自分の身を案じて無事の再会を喜んでくれる相手に暴力を振るうというのは気が咎める。それに先程は自分がやり過ぎたせいで泣かせてしまったという負い目も少し。

 

(しょうがない、ちょっと胸を貸すくらいは我慢するか……)

 

「大げさだな。無事だったんだから」

 

 鈴木悟が生きていた社会では、大の男が人前で泣くのはよっぽどの理由がある時だけだったし、子供のようにしゃくり上げるルクルットを見ていると、どうも放っておけないという気分になってしまう。以前の自分からすれば彼らはずっと年下なのだ。これが父性というものかと、サトリはルクルットの金髪が揺れるのをぼんやりと見つめる。

 

 やがてルクルットの嗚咽と震えは止まった。しかしその手は依然としてサトリの肩を掴んだままだ。

 

「落ち着いたかな?そろそろ離れてほしいんだけど」

 

「も、もうちょっとだけ……」

 

 すんすんと鼻を鳴らすルクルットにサトリは全てを察した。その襟首に指を突っ込み強引に引き剥がす。

 

「ぐっ、ぐるじい!ごめん!もうしないから放して!ぐええええ!」

 

 溜息交じりに周りを見回したサトリは、全身に突き刺さる好奇と欲情の視線の中に違うものが混じっている事に気づく。振り向くとそこにはペテルとダインとニニャの三人が驚いた顔で立っていた。

 

「サ、サトリさん!?よく無事で!」

 

「うん。この通り無事だよ。あの時はその、色々言えないことがあって」

 

「分かっています!あなたが無事だっただけでいいんです!」

 

 感極まった泣きそうな顔でニニャが駆け寄ってきたのでサトリはルクルットの襟首から手を放した。ニニャもまた本気で心配してくれていたのが分かり、その真摯な瞳が何ともこそばゆい。距離感がかなり近い気がしたが相手が中性的な美少年のニニャなのであまり抵抗はなかった。決して変な意味ではない。

 

 数歩離れた距離でペテルとダインは満面の笑顔を浮かべていた。そして誰からともなく「漆黒」の名を持つ5人は小さな円陣を作る。

 

「一緒に仕事をしようって話、まだ有効かな?」

 

 帽子を脱いで朗らかに微笑むサトリに、漆黒の剣の4人は何度も大きく頷いた。

 

 

 

 

二章 終




これにて二章終了。
三章はまた時間空きます。


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