羽沢先輩目当てでバイトするのは不純に違いない (Washi)
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本編
第1話 一目惚れは唐突に


※時間軸の関係上、僅かにアニメ2期の設定を適用していますが、投稿開始時点では放送中のため、基本的には拾わずにゲームのバンドストーリーを軸にやっていくつもりです。ご了承ください。


 僕が高校1年生になってから1ヶ月が過ぎた。新しい環境やクラスメイトにも慣れ、各々が所属する部活が定まってくる頃だ。実際、放課後となった今も、僕のクラスメイトの多くは足早に教室を去る。もっとも、僕にはあまり関係のない話だ。なにせ、帰宅部なのだから。

 

 元々引っ込み思案な僕は、友達を作るのがあまり得意ではない。中学の頃は1,2人いたのだが、進学に伴って離れ離れになってしまった。大学進学を考えて、僕が実家から少し離れた進学校を選んでしまったからだ。

 

 寂しいと思うことは少しだけ、ある。でも、1人なら1人なりに楽しく過ごす方法はたくさんある。むしろ、基本的には1人の方が自由で楽だと思ってしまうくらいだ。

 僕は忘れ物がないかだけ確認すると、とっとと学校を出るのであった。

 

---

 

 自動ドアが開いた瞬間、けたたましい騒音が鼓膜を震わせた。地元のゲームセンターだ。それなりに大きく、フロア別に様々な筐体が設置されている。

 

 僕の趣味の1つがアーケードゲームで遊ぶことだ。厳格な父が子供のころは少し苦手で、土日に父を避けるように遊びに来ている内に、すっかりお気に入りとなってしまった。

 

 今日はなにを遊ぼうか。格闘ゲーム、シューティング、あるいはカードを使うゲーム……色々と迷ったが、やはりここは僕が1番好きな音ゲームを遊ぼう。

 

 階段を上り、目当ての音ゲームが置いてある区画へと向かう。あちこちのプレイ中の筐体から、全く統一感のない音楽が好き勝手に流れている。この破天荒な感じは意外と好きだ。

 

 幸い、僕が遊ぼうとしていたゲームは空いていた。キーボードを模したタイプのゲームだ。ピアノを弾いたことはないが、それに近い演奏感を得られるらしいのが特徴だ。

 

 お金を入れて、自前のイヤホンを接続する。これで周囲の音に邪魔される心配はない。さて、今日はどんな曲を遊ぼうか。そんなことを考えながら、僕は画面に表示された曲の一覧をスクロールさせていくのだった。

 

---

 

「ただいまー」

「あ、お帰り。ちょうどよかった。あんたこのあと暇?」

 

 少々早めにゲーセンでの遊びを切り上げた僕は、まだ明るい内に家に戻った。そしてリビングに入ったその瞬間、姉さんに声をかけられた。姉さんは僕の2つ上で、今は羽丘女子学園高等部の3年生だ。

 しかし、姉さんがいきなり話を振ってくるのはいつものことだが、一体なんなんだろうか。

 

「まあ、暇と言えば暇だけど、どうして?」

「これ、一緒に行かない?」

 

 そう言って姉さんは手を掲げる。なにか手に持っているようだ。よく見てみると、それは2枚の細長い紙だった。その紙にはこう記されていた、『ガールズバンド☆ライブ』と。

 

「……ライブのチケット?」

「そ。一緒に行く予定の友達がドタキャンしちゃってさ。余らせたままなのも勿体ないから、どうかなって」

「僕、ライブとかバンドとかって全然分からないけど」

 

 なにせ中学時代はゲームと読書と勉強にほとんど捧げてしまったのだ。そんなエネルギッシュなイベントに参加したことなんて全くない。事実、体育祭で応援とかするの苦手だし。

 

「へーきへーき。私だって友達に誘われただけであんまり詳しくないし。むしろ、だから誰かと一緒に行きたいんだし」

「ふーん……」

 

 姉さんの言葉に適当に返事をしつつ、チケットを受け取る。裏面を見ると、出演するバンドの一覧があった。『Poppin’ Party』、『Afterglow』…………やっぱり全然分からない。そもそもテレビに出るようなアーティストだってロクに知らないのだから、当然と言えば当然だ。

 

 うーん……正直、ライブを見に行くよりゲームなり読書なりがしたいんだけど。外出もしないといけないわけだし、ライブ会場も電車を使わないといけない距離だし。

 そんな感じで僕が悩んでいると、姉さんは続けて口を開いた。

 

「もちろんタダでとは言わないよ。帰りに夕飯、好きなもん食べさせてあげるからさ」

「え、ほんとに? なんでも?」

「高級焼肉とか高級寿司とかじゃなけりゃね。まあ、どうしても嫌ってんなら私1人で行くけど」

 

 そこまで無理強いする感じではないようだ。悩ましい選択だ。外食を引き換えにライブに行くか否か。実を言えば、結構外でラーメンが食べたい気分ではある。同時に、外出は面倒くさいとか考えちゃう自分もいる。

 うーん、うーんと十数秒間は唸った末……勝利したのは、食欲の方だった。

 

「……分かった、行く」

「じゃあさっさと準備して。10分後には出るから」

 

 姉さんはもう準備を済ませているらしく、近くに外出用のかばんが置いてある。僕は頷くと、急いで自室に移動した。

 

 とりあえず、私服には着替えないといけない。流石に制服でライブを見に行く気はない。クローゼットから適当に服を見繕い、着替える。ジーンズにパーカー。簡素だが、別にこれでいいだろう。そんなにおしゃれな服を持っているわけでもないし。

 

 あとは財布と、スマホと……定期もか。それらをポケットに入れておく。これで準備完了だ。

 

 まだ5分しか経っていないことを確認しつつ、リビングに戻る。それから更に5分後、僕たちは出発するのであった。

 

---

 

 チケット制だから会場もそれなりに大きいのでは、と思っていた僕の予想は少々裏切られることとなった。大体、2〜3クラス分の座席数の会場だった。

 

 ライブなんてテレビで流されるやつくらいしか知らなかった僕は無意識にそのイメージに引っ張られていたらしい。会場は小さいとまでは言わないが、結構コンパクトだ。あ、でもその分、バンドとの距離が近くて見やすいのかも、とも思った。

 

 実を言うと、それ以上に気になることがあった。なんというか……観客に女子が多い気がする。男子もちらほらとはいるが、割合としては1割未満だろう。これまたテレビのアイドルグループのイメージに引っ張られていたらしい。てっきり、男子が多いと思っていた。

 

「なんか、気まずい……」

「大丈夫だって。どうせライブ始まったら気にならなくなるっしょ」

 

 先程購入したドリンクをストロー越しに飲みながら、姉さんは背もたれに体重を預けている。いつもこんな感じでマイペースなのだ。消極的で周りに影響を受けやすい僕としては羨ましいと思う。僕は座席に座っているだけでそわそわしているというのに。

 

 でも、これがライブ会場か。天井に照明がいくつも備え付けられていて、舞台の上にもマイクとかスピーカーとかの機材が色々置かれている。ドラムもある。

 

 まだ始まってはいないのだけど……ちょっぴり、張り詰めた空気を舞台から感じる。ここまで来た以上、流石に幾らかはライブに興味が出てきた。

 

 出演順を再度確認する。えっと……先発は『Poppin’ Party』で……ふむふむ……ラストは『Afterglow』みたいだ。確か、チケットの裏面でもちらっと見た気がする。

 

 そうやって2分、3分としばらく待っていると、少しずつ会場が暗転していく。いよいよ始まるみたいだ。しん、と会場が静まり返る。この感じは知っている。中学のイベントで演劇の鑑賞に行ったときの、劇が始まる直前の空気に似ている。

 

 そんなときだった。突然、「ポピパ! ピポパ! ポピパパピポパ!」と暗闇の中で謎の掛け声が木霊した。一体なんだと微かに動揺するが、そんな暇すら与えてはくれないようだった。

 

 闇を切り裂くように、無数の照明が舞台に向かって照らされた。そしてそのスポットライトの中心にいたのは、僕と同年代くらいの女子の5人組だった。白を基調に、それぞれが別々の色をワンポイントにした統一感のある衣装に身を包んでいる。

 

 そんな中、最初に声を出したのは真ん中の特徴的な形のした赤いギターを持った女の子だった。

 

「こんにちは! 私達、Poppin’ Partyです!」

 

 自己紹介と同時に、会場が一気に沸いた。待ってましたと言わんばかりにたくさんの細長いライトが左右に軌跡を描き、歓声が聞こえる。1曲目が始まってもいないのに、すごい熱気だ。テレビで見るそれに勝るとも劣らない感じだ。

 

 これは……思ってたよりすごいのかもしれない。場の雰囲気にあてられたせいか、ワクワクとした気持ちになってきた。

 

「——それでは聞いてください! ”Yes! BanG_Dream!”」

 

 曲が始まった。軽快にドラムスティックが踊り、リズムを生み出す。キーボードがそれを支え、ギター(ベースとかいうのもあるらしい)が主役に踊り出る。

 

 戸山香澄と名乗ったボーカルの人が歌い出す。バンド名通りと言うべきか、ポップ調の柔らかい音楽だった。それくらいなら僕にも分かる。

 

 控えめに言っても、とてもいい音楽だと思う。トップアーティストたちと比べられるほどじゃないとは思うけど、それでも想像を遥かに超えるくらい上手だった。それが、同年代の女子たちが奏でているというのだから驚きだ。

 

 少しずつ、彼女らの世界に引き込まれる。1曲目の演奏が終わるころには、時間を無駄にしているなんて考えは彼方へと吹き飛んでいた。こういうのもいいのかもしれない、そう思えるようにはなった。もっとも、それでも1人で来るのは雰囲気的にちょっと無理そうだけど。

 

---

 

 『Poppin’ Party』の演奏が終わったあとも、次から次へとガールズバンドが登場し、演奏していく。どのバンドもそれぞれの音楽というか個性があり、ダレることなく楽しめた。

 

 そして、いよいよ最後のバンドである『Afterglow』の登場となる。前のバンドが退場を終え、舞台が暗転する。観客が持っている色とりどりのライトが、あちこちでまだかまだかとゆらゆらと揺れている。

 

 暗闇の中で静寂が続く。何秒ほど待ったかは分からないけど、少し前まで演奏で盛り上がっていたせいか、とても長く感じた。

 

 そんな緊張がピークに達したとき、その場面は訪れた。照明が復活し、『Afterglow』と呼ばれている女子たちの姿を映し出す。5人組のバンドのようだった。なにげなく、メンバーの顔を一瞥する。

 

 ——次の瞬間、信じられないことが起こった。具体的には、キーボードの後ろに立っている短めの茶髪の女子を視界に収めたときに起きた。なんと時間が止まってしまったかのように、視線を彼女に固定してしまったのだ。

 

 それだけに留まらず、頭を鈍器で殴られたかのような衝動が走った。鼓動が爆発した。急に恥ずかしくなり、その子の顔から視線を外してしまう。電子ケトルのように耳が一瞬で沸騰した。体温が上昇したのか、暑くなり、汗もかいてきた。

 

 なにが起こったのか自分でも分からず、混乱のあまりボーカルの子の挨拶を聞き逃してしまった。しかしなぜか、『キーボードの羽沢つぐみ』という部分だけは聞き逃していなかった。

 

 キーボードの羽沢つぐみ……そのワードを心の中で反芻する度に、温かいような、むず痒いような感覚が胸の内で渦巻く。完全にどうかしてしまっている。

 

 演奏が始まる。しかし、もう曲は頭に入ってこなかった。ロック調だということ以外、なにも分からなかった。演奏中も、トーク中も、視界に収まっていたのはただ1人……羽沢つぐみさんだけだった。

 

 キーボードの上で踊るしなやかな指、照明でキラキラと輝くその瞳、真面目そうな雰囲気に反したロック風の衣装、リズムをとって体を動かす度に揺れるスカート。そして眩しい笑顔。まるで彼女1人だけが舞台にいるかのようだった。彼女の所作の全てに夢中になってしまう。

 

 結局、全ての演奏が終わって他のバンドも勢揃いでの挨拶のときも……そして、彼女らが舞台裏に消えるその最後の瞬間まで、僕は彼女から目を離すことができなかった。彼女が見せた柔らかい笑みは、完全に僕の脳裏に灼きつけられるのであった。

 

---

 

 ライブが終わり、約束通り駅の近くのラーメン屋で夕食を食べている間も、僕の頭の中は羽沢つぐみさんのことでいっぱいだった。

 

 他の何もかもがどうでもよくなる感覚。昔、小学生くらいの頃、これと似たような感覚を抱いたことがある気がする。……いや、自分を誤魔化すのは止めよう。僕だってもう高校生だ。自分がどうなってしまったのかくらい、当然分かっている。

 

「……あんた、途中からずっと羽沢さんのこと見てたでしょ」

「——ッ!? ご、ごほッ、ごほっ!」

 

 ただ、それを面と向かって指摘されて平静を保てるかというと話は違うわけで。突然姉さんに核心を突かれた僕はむせてしまった。

 

「き、気づいて……」

「そりゃあ、あんなに長いこと見てたらね。ここに入ってからも様子おかしかったし、気づくって。……そんで? どうなの、好きになっちゃったの?」

「う、うるさい……」

 

 ニヤニヤとからかうような口調に対し、僕は顔を背けるしかなかった。

 そう、その通りだ。俗に言う、一目惚れだ。彼女を一目見た瞬間、完全に心を奪われてしまったらしい。まさか高校生にもなってこんな経験をすることになるなんて、思ってもみなかった。

 

「でも羽沢さんかー。言っておくけど、あの子結構な人気者だよ?」

「え? 知ってるの?」

「あの子、うちの高校の2年で生徒会の副会長。ついでに、実家が喫茶店。私も偶に行くけど、常連さんには人気だよ?」

 

 ま、常連さんにはお年寄りも多いけど、なんて補足しながら姉さんは呑気に麺を啜る。

 一方で僕は、その情報をありがたいと思いつつも、頭を抱えることになる。確かに好きになってしまった。それは認める。だけど、アプローチなんてことは、とてもじゃないがする勇気はなかった。

 

 慣れてるゲーセンとかならともかく、家から離れた喫茶店に1人で行くのだってつらいし、なによりそんな露骨な真似ははばかられる。ライブを見に行くのも同じだ。あの男女比率はつらいものがあるし、あんな風に盛り上がれる性格でもない。

 

 昔からこうなのだ。自分から他人に話しかけるなんてできなかったし、積極的に行動することもできない。小学校の頃の初恋だって、結局は遠くから気になる子をチラチラと見ていただけだった。

 

 ましてや、相手は他校、それも女子校の年上の人だ。そんな人に声をかけることすら、雲を掴むような話なのだ。

 

「ねえ……偶に今回みたいなライブに付き合ってよ」

 

 だから、僕にできそうなのは姉さんと一緒にまたライブを見に行くことだけだった。そうすれば、少なくとも羽沢つぐみさんの姿を見ることはできるのだから。それに対して、姉さんは露骨に不満そうな顔を浮かべる。

 

「ライブくらい、いつでも付き合ってあげるけど……ほんとにそれでいいの? ちょっとくらい声をかけてみたっていいんじゃないの?」

「む、無理だよ……そんなこと。絶対、心の中では嫌がられるよ……」

「あんたのその性格も重症だねえ……そんなんじゃバイトだって……ん? あ、そうか……」

「ど、どうしたの?」

 

 なにかよからぬことを思いついたのか、姉さんは手のひらを握りこぶしで軽く叩いた。はっきり言って、嫌な予感がする。そしてその予感はすぐに的中する。

 

「確か羽沢さんの家のお店……”羽沢珈琲店”って言うんだけど、あそこ前バイト募集してたわ。キッチン兼ホールで。——あんた、あそこでバイトすれば堂々と羽沢さんと話せるんじゃない?」

「ぜ、絶対に無理ッ!!」

 

 結局、声をかける以上に衝撃的で難易度の高い提案だった。僕はその場で大きく首を横に振るのであった。

 

 

 



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第2話 初めてのバイト

 あのライブから既に1週間が経過した。当然と言うべきか、僕は『羽沢珈琲店』にバイトの希望の連絡を入れてはいなかった。姉さんから、店に貼り出されているらしい募集のチラシの写真が送られてきたので連絡先は知っている。でも、連絡する気はなかった。

 

 いや、正確にはほんのちょっとはあった。砂漠の中の1粒の小石程度にはあった。スマホに店の番号を打ち込むところまで行ったこともある。でも結局、怖くなってそのまま消してしまうの繰り返しだった。

 

 それに不満を抱いていたのは、他ならぬ写真の送信主である姉さんだったようだ。土曜の放課後、僕が自室で寛いでいると、姉さんはノックもせずに突然部屋に侵入して来たのであった。

 

「な、なに、いきなり……?」

「ちょっと。あんた、いつになったらバイトに応募するの?」

「いや、だから……しないって前に言ったじゃん……」

 

 どうやら、姉さんは意地でも僕に『羽沢珈琲店』でバイトさせたいらしい。それが面白がってのことなのか、僕を気遣ってのことなのかは分からないけど。一応、後者だと願いたい。

 

「あんなに熱心に見つめてた癖に、そんな簡単に諦めちゃうの?」

「いや、だって……無理だよ……いきなり、その人の実家で働くなんて。第一、僕バイトの経験ないし……」

 

 まあ、高校生になる以前からバイト経験があったらそれはそれで大問題だろうけど。

 それはそうと、僕の回答をどう受け取ったのか、姉さんは分かりやすいくらいに盛大な溜息をついた。

 

「んなのやってみなきゃ分かんないっしょ。言っておくけど、このままなにもしなかったら絶対に後悔すると思うよ。あんただってそれくらいは分かってるんでしょ?」

「それは……まあ、ちょっとは、そんな気もするけど……」

 

 でも、怖いものは怖いし、勇気が出ないのもれっきとした事実なのだ。変に拒絶される方が、きっと後々に響く気がしてならない。

 

「……もう1度だけ確認するよ。本当に応募する気はないの? 言っておくけど、これが自主的に応募する最後のチャンスだから」

 

 姉さんも姉さんで怖いことを言う。でも、その程度で行動できるんだったらとっくにやっている。逡巡はあったものの、僕の答えは変わらなかった。もしかしたら、ボロクソに言われて意気地になっているのかもしれない。

 

「……ないったらないよ」

「ふーん……なら、こっちにも考えがあるから」

 

 僕の返答を呆れた様子で受け止めた姉さんは、懐から自身のスマホを取り出した。そしてなにかを入力したあと、それを耳元に当てる。

 普通に考えれば、どこかに電話しようとしている。そして会話の流れからすると……いやいや、まさか。いくらなんでもそこまで強引な手法を取る筈が……。

 

「あ、もしもし。実は私の弟が現在バイトを探してまして、偶々通りかかったときにチラシを見たんですけど、募集ってまだしてます?」

「ちょ、ちょっと……っ!」

 

 平然と取ってきた。なんの躊躇すらなかった。僕が慌てて電話を止めようとすると、口元に手のひらを被せられ、しゃべれなくなってしまった。無理やり通話を切ることも考えたが、そこまでやるのは相手方に失礼だと思い、思い留まってしまう。僕は姉さんとは違うのだ。

 

「はい……はい……えっと、今日の16時ですか? はい、大丈夫だと思います。本人に伝えておきます。名前は……”木下勇樹”です」

 

 募集が終了していることに一縷の望みをかけてみたが、どうやら駄目そうだ。無情にも、話はトントン拍子で進んでいく。姉さんの口から漏れた時刻は多分、面接の時間とかだと思う。本人の了承なしに、僕の外出が決定されてしまった。

 

「はい、それではよろしくお願いします。失礼します…………というわけで、16時に”羽沢珈琲店”ね。普通に入店して面接だって言えば伝わるらしいから」

「……最低」

 

 嘘だと言って欲しかったが、どうやらそんなことはないらしい。意地の悪い笑みを浮かべる姉さんに対して、手のひらから解放された僕は精一杯の怨嗟を込めて睨みつけることしかできなかった。

 

---

 

 面接の時間の少し前、僕は『羽沢珈琲店』の最寄りの駅に到着した。今回の件で1つだけ幸いだと言えるのは、その駅が定期の範囲からそこまで外れていないことだろう。予定外の外出ではあるものの、追加の電車賃はそれほどかかってない。

 

 スマホで地図アプリを開き、お店までのルートを検索する。どうやら、近くの商店街にあるみたいだ。歩けばすぐの距離だ。

 

 正直、今でも気が重いことには変わりない。具体的には、高層ビルの下敷きになってしまったかのようだ。逃げてしまいたいが、正式に決まった面接を無視できるほど、僕の神経は図太くもない。大人しく向かうしかないのだ。

 

 ……いや、でも、僕なんてそもそも採用なんてされないか。料理とかほとんど未経験だし、話すのも得意じゃないし。動機が下心満載な分、相手に申し訳ないので落として欲しいという気持ちも少なからずある。

 そんな自己評価に自己嫌悪を抱きつつも、少しは気が楽になった。

 

 一方で、永遠に店に辿り着かなければいいと思っていたが、悲しいかな、駅からそう離れていないことは自身で確認済みだ。ほんの僅かな時間で商店街が見え、商店街に入ってからものの数分でいとも簡単に目的地を発見してしまった。

 

『羽沢珈琲店』

 

 そう、看板に書いてある。何度読んでもそう書いてある。地図アプリもここが目的地だと主張している。間違いなく、ここが羽沢つぐみさんの実家である『羽沢珈琲店』だ。

 

 アプリを閉じるついでに時間を確認する。面接の7分前。……いや、まだ入るのはちょっと早い……そう、5分前になったら入ろう。そうしよう。誰にしているかも分からない言い訳をしつつ、適当に周囲をうろつく。

 

 もっとも、2分なんて時間はあっという間に過ぎてしまうわけで。ほんのちょっと歩いた所で、僕は来た道を戻って店の入り口に再び立つのであった。

 ……行って戻ってくるだけとか、絶対周りに変な人だと思われてる。穴があったら入りたい。

 

 ……しょうがない。入ろう。面接から逃げちゃうのだけは駄目だ。姉さんにバレたら後が怖いし。覚悟を決めた僕は、固唾を飲みながらゆっくりと入り口のドアを開けるのだった。入店を知らせるベルが店内に鳴り響いた。これ、注目されやすいから僕は苦手だ。

 

「いらっしゃいませ! お1人様ですか?」

「ッ!?」

 

 雷に打たれたかのように肩が跳ね上がり、視界がグラリと揺れた。心臓が飛び出るかと思った……。全く予想していなかった人物…………今最も会いたくて、かつ最も会いたくなかった人が目の前に立っていた。

 

 愛嬌のある笑顔、そして短めに切り揃えられた茶髪。忘れる筈もない。あの、羽沢つぐみさんが僕の前にいるのだった。しかも、喫茶店の制服らしき、白いシャツにベージュのエプロンを着けた姿で。制服の自己主張が控えめな分、本人の容姿と合わさって素朴で清純な感じが出ていて、その……とても可愛いかった。

 

 まさか、家の手伝いまでしてるとは思わなかった。その上、都合よく僕が来たタイミングで対応に出てくるなんて。

 入店してすぐに言おうとしていた言葉が頭の中から消し飛んでしまった。

 

「ぁ、その、僕……っ!」

「……?」

 

 顔が沸騰する。相手に聞こえてしまうのではないかと心配になるくらい、バクバクと心臓が鳴る。体が石のように固まってしまい、急に声が出なくなる。呼吸の仕方を忘れてしまい、息苦しくなる。

 

「え、えっと……! ぼ……じゃなくて、じ、自分……? その、め、面接に来た……っ! き、木下です……!」

 

 それでも、なんとか奇跡的に記憶を取り戻し、声を絞り出すことができた。よくよく考えたら”自分”という1人称もなんかおかしいけど、そんなの気にする余裕はなかった。

 きっとこの時点で相当変な人に思われている筈だ。なんだかもう、帰りたい……。

 

「——あ、面接の予定の木下さんですね! お待ちしてました。ご案内しますね!」

 

 接客だからなのか、それとも単に優しいからなのか、羽沢つぐみさんは嫌な顔を浮かべることなく満面の笑みで対応してくれた。その笑顔は、色んな意味で僕には強烈過ぎる……。

 

 その後彼女に先導され、店の奥へと進む。客席は結構埋まっていて、お客の年齢層も結構マチマチに見えた。一応、学生服の人が多いようには見える。少なくとも、繁盛してそうだというのは分かった。バイトを募集しているだけはある。

 

「お父さん。面接の方がいらっしゃったよ」

 

 コンロやらシンクやらが並んでいるキッチンスペースと思しき場所まで連れられると、彼女はそこでコーヒーを淹れていた男性に声をかける。どうやら、彼女の父親のようだ。

 

「ああ、ありがとう。……君が、木下勇樹君だね? それじゃあ、奥で話そうか。つぐみ、しばらくの間頼むよ。あ、それとこのコーヒーもよろしくね」

「はーい。行ってらっしゃい」

 

 今度は彼女の父親……マスターとかでいいのかな? とにかく案内がマスターに変わり、更に店の奥へと連れられた。椅子がいくつかとテーブルが置いてあって、休憩所兼事務所のようなものなのかなと思った。

 

 そこにお互い腰掛け、すぐに面接は始まった。

 

「店長の羽沢です、よろしくね」

「は、はい。き、木下です。よろしくお願いします」

 

 緊張のせいで言葉がつっかえる。今の心境的には採用されたくないが9でされたいが1くらいだと思う。やっぱり、ちょっとくらいは期待するものはある。ただ、それ以上に恐怖心やら羞恥心が強いってだけで。

 

 ……一応、結論だけ先に言ってしまうと、僕は採用されることとなった。なんというか、相当人手不足だったのか、最初から採用する前提かのようにトントン拍子で話が進んでしまったのだ。というか、直接人手不足であることを告げられてしまった。流石に、やっぱり止めておきますなんて言える雰囲気じゃなかった。

 ちなみに、動機は大学進学に備えてみたいな感じで適当に誤魔化した。

 

 ま、まあ……採用されてしまった以上はやるしかないとは思う。僕だってそこまで無責任ではない。

 1つ問題があるとすれば、それは……。

 

「それで、もしよければなんだけど、今からでも入れないかい? あまり忙しいときは教える暇もないだろうし、お試しってことで」

 

……採用が決まったその直後からシフトに入ることになってしまったということだろうか。もうちょっと、心の準備は欲しかったかな……。僕みたいな人間は、家族以外に”ノー”と言えない人種なのだ。

 

---

 

 支給された制服に着替え、手を洗う。これで店に出る準備はできた。しかし、入店してから今に至るまで、僕の心臓は早鐘を打つことを一向に止めようとしてくれなかった。

 

 だって、同じ仕事場に羽沢つぐみさん……いや、一応同じ場所で働くことになったんだから羽沢先輩の方がいいかな。とにかく、羽沢先輩と同じ空間での仕事だ。しかも、バイト自体が初めて。あらゆる意味で、不安と緊張でいっぱいだった。

 

 ひとまず、深呼吸をして少しでも心を落ち着けよう。吸ってー、吐いてー、吸ってー……

 

「木下くん? 準備はどうかな?」

「ッ!? ゴホッ! っ、だ、大丈夫です……!」

 

 まるで見計らったかのように羽沢先輩がやってきた。不意を突かれた僕は、またもや挙動不審な所を見せてしまった。いい加減死にたい。

 

「ご、ごめんね! 驚かせちゃった?」

 

 申し訳なさそうに謝る羽沢先輩を見た僕は慌てて首を横に振って否定する。タイミングこそ悪かったかもしれないけど、彼女のせいではない。

 

「いえ、そんなことないです……すいません……」

 

 どもることはなかったものの、消え入るような小声で答えてしまう。耳まで熱くなってきたし……顔、赤くなってないかな……

 

 お互い、黙ってしまう。なにかしゃべった方がいいのだろうけど、こういうときになにを話せばいいのか分からない。変なことを聞いたら、ますます空気を悪くしてしまうかも。

 

「えーっと……そうだ! まずは、自己紹介からだよね!」

 

 幸いにも、妙な空気を打ち破るようにして羽沢先輩が声を張り上げてくれた。助かった。

 

「羽沢つぐみです。今は高校2年生で、こうして偶に家のお手伝いをしています。担当は、主にホールかな。よろしくね!」

「その……木下勇樹です。高校1年生です。それから……バイトは、初めてです。よ、よろしくお願いします……」

「そっか、バイト初めてなんだね。でも大丈夫! 最初は大変だと思うけど、きっとすぐに慣れるから!」

 

 それを聞いて少しは安心する。それはそうと、羽沢先輩は家の手伝いに、バンドもやってて、姉さんの話によれば生徒会の副会長までやってるってことだよね。それに羽丘女子って進学校だし……完璧超人だ。好意云々を置いておいても、すごい人だと思う。

 

「今日はまだ初日だし、シフトも2時間だけだから、軽めのキッチン作業だけにしよっか。ケーキとか軽食とか、すぐに用意できるものを作ったり、お皿を洗ったりとか。それで大丈夫かな?」

「は、はい、大丈夫です……!」

 

 いよいよだ。どこまでできるかは分からないけど、せめて仕事中くらいは集中するようにしないと……。羽沢先輩に、変な所見せたくないし。

 

 こうして、羽沢先輩の指導のもと、僕の初めてのバイトが始まった。あれだけ嫌がっておいてなんだけど……やっぱり、こんな近くで羽沢先輩に一緒に居てもらって、しかも指導してもらえるなんて……なんだか幸せだ。直接は言わないけど、ありがとう姉さん。

 

 ——ところが、そんな邪な考えを徹底的に咎めるがごとく、仕事の出来そのものは悲惨の一言に尽きるのであった。

 

「うわ……」

「うーんと……ちょっと……ほんのちょっとだけ焦げちゃってるね。もう1回、やってみよっか……」

 

 ——ホットサンドを焦がしたり。

 

「あ、最初にバターだよ。そうしないと、野菜の水分がパンに染み込んじゃうから」

「す、すいません!」

 

 ——たかだかサンドイッチの手順を間違えたり。

 

「っ……」

「だ、大丈夫!? 指切ってない!?」

 

 ——洗おうとした食器を割ってしまったり。

 

 多分、考えうるあらゆるミスを、たったの2時間で成し遂げてしまった。ほぼ常に隣に羽沢先輩が居たのにも関わらずだ。アピールとしても、戦力としても完全にやらかしたのだった。

 

 そんな僕を責めることはせず、羽沢先輩は必死にフォローをしてくれた。それが逆に、惨めで、恥ずかしくて、申し訳なかった……

 

 バイトが終了する頃には幸せな気分はすっかり消え失せ、魂は抜け殻のようになっていた。多分、傍から見たら絵画の『叫び』みたいな感じになってると思う。

 

---

 

「……すいません。割った食器は弁償します……」

「えっ!? ううん、そんなことしなくても大丈夫だから!」

 

 バイト終了後、待機所で死人のように項垂れている僕は、今日の責任を取ろうとしていた。それを、羽沢先輩はなぜか止めようとする。

 ……ああ、そっか。そうだよね。弁償とかその前に、クビに決まってるよね……

 

「……お世話になりました」

「……? あっ!? 違う、それも違うよ! そういうことでもないから落ち着いて!」

 

 両手を振りながら、慌てた様子で羽沢先輩は僕の考えを否定する。じゃあ、一体なんなんだろうか。まさか、お咎めなしということもあるまい。

 

「……あのね、木下くん。私だってお皿を割っちゃったことはあるし、恥ずかしい失敗もたくさんしちゃったよ。木下くんが辞めちゃうんだったら、私なんてもう何回も辞めなくちゃだよ」

「え…………そう、なんですか?」

 

 ……どうやら、そのまさかのようだった。頬を指で掻きながら、羽沢先輩は仄かに顔を赤くしながらポツポツと己の失敗経験を語ってくれた。いかにもなんでもできそうに見えるのに、意外な事実だった。

 

「うん。でもね、その度に今度は失敗しないようにとか、もっと頑張らなくちゃって思うの。ほら、落ち込んだままだといつまでもなにも変わらないけど、頑張って上手くできるようになったら嬉しいでしょ?」

「それは……まあ……」

 

 そう言われて、音ゲームを始めた頃を思い出す。今になって思い返せば、なぜクリアできなかったのかが不思議になるような曲はいっぱいあった。だけど、当時は全然クリアできる見込みがなくて、失敗ギリギリになりながらも成功させたときはすごく嬉しかった覚えがある。

 

「だから、次また頑張ればそれで大丈夫だよ! 木下くんよりずっとたくさんのお皿を割ってきた私が保証します!」

 

 グッ、と両手を握って力強く頷いてくれた。僕を元気付けようとしてるのは明らかだった。

 羽沢先輩が言うことが事実だとして、1日目の僕が割った皿の総数で勝ってたらそれこそ一大事なのに、そんな慰め方をしてくれるなんて……なんだかそれがおかしくて、思わず頬が緩んでしまう。

 

「その……ありがとうございます」

「えへへ、どういたしまして!」

 

 うん……次、頑張ろう。とにかく、まずは皿を割らないようにしないと。そう、改めて決意するのであった。

 

「それじゃあ、お疲れ様…………あ、ごめんなさい! まだ1つ聞かないといけないことがあるんだった……」

「聞きたいこと、ですか……?」

 

 僕は首を傾げる。すると、羽沢先輩は「ちょっと待っててね」と一旦席を外す。しばらく待っていると、すぐに戻ってきた。その手には、自身のものと思しきスマホが握られていた。

 

「なにかSNSってやってるかな? シフトの確認用に、連絡先の交換をお願いしてもいい? もちろん、メールとか電話とかでもいいんだけど」

「——っ!?」

 

 核ミサイル級の爆弾発言に、僕の脳回路はショートし、しばらくは言われたことの意味を理解できないのであった。

 ……気づいたら帰りの電車に乗っていて、それまでの間の記憶はすっぽりと抜け落ちていた。我ながら、怖すぎる。

 

 しかし、車内で確認したらちゃんと羽沢先輩とチャットアプリでの友達登録がされていたので、どうやら無事交換できたらしい。その日の夜、スマホを弄っている間、僕は隙あらばアプリを起動しては、友達に追加された羽沢先輩のアカウントを眺めているのであった。

 

 翌日、そんな自分の行動を振り返って凄まじい罪悪感に苛まれたのはまた別の話。

 

---

 

 私は店の裏口から、今日お店の後輩になったばかりの木下くんを見送った。連絡先を交換した辺りから少しぼーっとしてたみたいだけど、疲れちゃったのかな?

 

 最初、お父さんから同年代くらいの男の子が新しくバイトに入るかもしれないと聞いたときは、ちょっとびっくりしちゃった。

 学校は中学から女子校だし、幼馴染はみんな女の子だし、この1年で交流が増えたバンド繋がりのお友達もやっぱりみんな女の子だ。お客さん以外で歳の近い男の子と話すこと自体、久しぶりだった。

 

 ちゃんと話せるかな、と思っていたけど、そんな心配は実際に木下くんと会ったら吹き飛んでしまった。だって、私なんかよりもずっとずっと緊張してたんだもん。

 

 バイトをするのは初めてみたいだったし、学年も1つ下の後輩。私がしっかりしなきゃ駄目だって思ったら、不思議と普通に話すことができた。

 ……まあ、お店の仲間として初めて話しかけたときはすごく驚かせちゃって申し訳なかったけど。

 

 それに、木下くんはとても責任感のある子だった。些細なミスでもすごい落ち込んじゃって、なんと割ったお皿の弁償までしようとしてくれた。お皿を割っちゃうことなんて、私やイヴちゃんも未だにやっちゃうのに。もちろん、割らないのが一番なんだけど。

 

 だからこそ、しっかりとサポートしてあげたい。私はホールがメインだし、コーヒーは練習中だからそんなに教えられることがあるわけじゃないけど、それでもできる限りのことはしてあげたいと思う。それで、最終的にこのお店のことが好きになってくれたら嬉しいな。

 

 あ、そうだ。今度、お店のケーキとかを試食してもらわないと。お客さんに説明やおすすめをするとき、やっぱり実際に食べたことがあるかどうかで全く違うから。コーヒーの種類の説明とかも必要な筈だ。……ブラックが苦手な私が説明しても、説得力がないかもしれないけど。

 

 ……そろそろお手伝いに戻らないと。もうすぐ閉店だし、頑張らないと! 

 

 そういえばチャットで同年代の男の子と友達登録したのも初めてだなあ、と思いつつ、私はホールに戻るのであった。

 

 

 



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第3話 懇親会? 尋問会?

 日曜日、『羽沢珈琲店』の開店の10分前。僕は店の裏口から店内へと入る。早いもので、こうして裏口から入るのは既に5回目だ。

 

「おはようございまーす」

「おはようございますユウキさん! 今日も一緒に頑張りましょう!」

 

 元気な声が返ってきた。待機所には、既に制服に着替えた三つ編みの銀髪の女子が立っていた。若宮イヴ先輩。ハーフの帰国子女であり、僕のバイトの先輩だ。初めて会ったのは、先週の日曜日だった。

 とても社交的で明るい人で、休憩中などの仕事以外の時間でも僕に積極的に話しかけてくれた。話題さえあれば僕でも普通の受け答えができるので、意外にもすぐ打ち解けられた。偶に、彼女独自の『武士道』の話を聞いて、反応が遅れることがあるけど。

 ……それと、どこか別の場所でも見た気はするのだが、全然思い出せない。どこだっけ?

 

 ちらりと待機所を見渡す。羽沢先輩の姿はない。やっぱりか。元々今日は手伝いに入らないということをチャット経由で聞いていたので驚きはない。でも、ちょっと残念だった。心の中で、小さく溜息をつく。

 

「……? ユウキさん、どうかしましたか?」

「ああ、いや、なんでもないんです……」

 

 マスターがこっそり教えてくれたことだが、そもそも僕を雇ったのは人手不足もあるが、羽沢先輩の負担を少しでも和らげる為のようだ。だから、僕がシフトに入っていて羽沢先輩が入っていない今の状況というのは、むしろ理想的なのだ。

 ……まあ、残念であることに変わりはないのだけど。

 

 仕事そのものには、少しずつ慣れてきた。初日みたいな凡ミスは起こさなくなったし、仕事の範囲も僅かに広がった。簡単な部類の仕事にしか関わっていないものの、サポートなしでキッチンの仕事を進められるようにはなった。近々、ホールなどもやるらしい。

 

 先週の記憶では、日曜日は結構忙しい感じだった。今週こそは、もう少し役に立ってみせたいと思う。

 そんなことを考えながら、僕は開店の準備をしていたマスターに挨拶をするのであった。

 

 

***

 

 

 家から少し離れたところにある、練習用のスタジオ。今、私はそこで『Afterglow』のみんなと一緒に次のライブを想定した練習を進めている。みんなの演奏に耳を傾けつつ、自主練で克服したフレーズをなんとか合わせる。よかった、今日は1度もミスせずに弾けた。

 今日は久しぶりに全員で集まれる練習だし、可能な限り進行を止めないようにしたかったんだけど、上手くいってよかった。

 でも、みんなもたくさん練習してるみたいで、すごく上手になってたし、ここで満足しちゃ駄目だよね。置いていかれないように、もっともっと頑張らないと。

 

「……うん、まあまあかな」

 

 演奏が終わり、蘭ちゃんが僅かに口元を緩めながら頷いた。表情の変化は少ないけど、とっても嬉しそうだ。それに、蘭ちゃんがああ言ってるときは、実は結構褒めてる証拠だ。

 

「めっちゃいい感じ〜、の間違いじゃないの、ら〜ん?」

「う、うるさい。どうせ通じるんだから、別にいいでしょ」

 

 モカちゃんが目元を細めながら蘭ちゃんに詰め寄る。すると、蘭ちゃんは顔を真っ赤にしながらモカちゃんから顔を背ける。あんなに簡単に蘭ちゃんの本音を引き出しちゃうなんて、やっぱりモカちゃんはすごいなあ。

 

「うんうん、前よりかなりよくなってるよ! いっぱい練習してきてよかった〜」

「だな。次のライブがいつになるかは分かんねーけど、そんときはみんなを驚かせてやろうぜ」

 

 ひまりちゃんと巴ちゃんが同意する。もちろん、私も。最近はお客さんの数も増えてきたし、1人でも多くの人に楽しんで欲しいなって思う。

 

「時間は……うん、あともう1回だけできる。次で、ラストにしようか」

「りょうか〜い」

 

 蘭ちゃんの号令のもとに、私たちは再度構える。ラストだし、いい雰囲気のまま終わらせたい。でも、気負いすぎると力んじゃって失敗しやすくなるから、なるべく自然体で。最近、ちょっとだけ意識してできるようになった。

 

 巴ちゃんのドラムがリズムをとる。それに続くようにして、私たちは前奏を開始するのだった。

 

 

 最高の出来栄えで練習を終えた私達は、レストランで遅めの昼食を取っている。ちなみに私が頼んだのはハンバーグ。子供っぽいって言われちゃうかもしれないけど、今でも好きなの。

 

「ねえねえ、みんなはこのあとどうするの?」

「別に、特になにかあるというわけじゃないけど。強いて言うなら、花屋とか見ておこうかなって感じ」

 

 ひまりちゃんの問いに、最初は蘭ちゃんが答えて、モカちゃん、巴ちゃん、私と続けて答えていく。するとなんと、みんなこのあとは時間が空いているということが判明した。

 ここまでみんなのスケジュールが噛み合うのって、すごい久しぶり。なんだか嬉しいなあ。

 

「じゃあさ、久しぶりにみんなでつぐの所に行かない? 私、あそこのケーキが食べたくなっちゃった」

「え〜、ひーちゃん、この前甘いもの減らそうって言ってたのに〜?」

「う、そういえば言ったような…………だ、大丈夫! 今日いっぱい演奏したし、上手にできた自分へのご褒美ってことで!」

「なにそれ。……でも、それもいいかもね」

「だな。つぐはどうだ?」

 

 巴ちゃんに聞かれた私も「大丈夫だよ」と笑顔で頷く。あ、そうだ、みんなに木下くんのことって話してないや。ついでに紹介しておかないと。

 

「そういえばね、先週から新しいバイトの人が入ったんだ。1年下の男の子で、木下くんって言うんだけど」

「え、ほんと!? ねえ、その木下君って子は今日はいるの!?」

「えっ!? うん、夕方くらいまではいるけど……」

 

 予想以上にひまりちゃんの反応がよくて、少し狼狽えてしまう。一体どうしたんだろう?

 

「どんな子なの!?」

「とっても真面目な子だよ。あ、それと、仕事を覚えるのも早いんだよ。初日は緊張してて失敗も多かったんだけど、最近はすごい助かってるの」

 

 これは自信を持って言える。料理は初めてって言ってたけど包丁の扱いとかもすぐに上達したし。木下くんって手先がすごい器用なんだなあ、って思ったもん。

 ……だけど、ひまりちゃんが期待していた回答とは違ったみたい。

 

「そういうのも大事だけど、そうじゃなくて〜! 見た目とか、身長とか、そういうの〜!」

「ええ!? 身長は……巴ちゃんと同じかちょっと高いくらいで……見た目は……えーっと……」

 

 答えに困ってしまう。どちらかと言うと、中性的な顔だよね。髪は黒くて……体は、細めかな……。私は、可愛い感じだと思うけど、ひまりちゃんは瀬田先輩の男性版みたいな人を想像している気がする。

 

「そこら辺で止めときなって、ひまり。どうせこれからつぐん家に行くんだから、直接見て確認すればいいだけだろ?」

 

 幸い、巴ちゃんが間に入って止めてくれた。ひまりちゃんもそれで納得したようで「はーい」と落ち着いてくれた。

 

「ちなみに〜、つぐ的にはどうなんですかな〜? その、木下君って人は〜? ”あり”か”なし”かでお答えくださ〜い」

「どういうこと!? えっと、うーん…………”あり”?」

 

 もちろん、嫌いということは断じてないし、もっと仲良くなりたいとは思う。でも、”あり”か”なし”かってそういうこと?

 あまり質問の意味が分からず、首を傾げながら答えてしまった。

 

「止めなよモカ。そんな聞き方したって、つぐみが”なし”って言うわけないじゃん」

「分かんないよ〜? もしかしたら、もしかするかもよ〜? モカちゃんの勘は百発百中ですから〜」

「……??」

 

 結局、蘭ちゃんが止めてたけど、どういうことだろう? 疑問だけが残るのであった。とにかく、久々に勢揃いになった私たちは実家の喫茶店に向かうことで決定したのだった。

 

 

***

 

 

 僕は休憩を挟み、午後の業務へと戻る。午前中の動きは悪くなかったけど……多分、今から夕方くらいまでが一番忙しくなる筈だ。油断せずに行こう。

 

 そう思っていると、入り口の扉が開いてベルが鳴る。新しいお客さんだ。若宮先輩が対応に出る。この時間の新規のお客さんは十中八九軽食かデザートを頼む筈だ。すぐに取りかかれるようにしておく。

 

「いらっしゃいませー! あ、ツグミさん! それにみなさんもご一緒なんですね!」

 

 ”ツグミさん”という言葉に反応し、僕の胸が一瞬高鳴る。その衝動に誘われるように、入り口の方へと視線を向けた。

 

 羽沢先輩が居た。今日は1日中外出していると思ってたから、1目見れただけでも嬉しい。しかも、今日は制服じゃなくて私服だ。茶色のワンピースにベージュのカーディガン。めちゃくちゃ可愛い……。

 

 ……あれ? 羽沢先輩の後ろにも4人の女子が立っている。羽沢先輩の私服に気を取られて、気づくのが遅れてしまった。友達だろうか?

 

 ……そう思っていたが、厳密にはそれだけではなかった。その4人は、2週間前……羽沢先輩を初めて見たとき、一緒に居た人たちだった。

 つまり、バンドの『Afterglow』のメンバーが勢揃いしていた。色々あって名前は全然覚えてないけど、容姿くらいは覚えている。例えば……たしか、あそこの黒髪に赤メッシュの人がボーカルだ。

 

「こんにちは、イヴちゃん。えっと……席、空いてるかな?」

「はい! 奥のテーブルに椅子を追加すれば大丈夫です! ご案内しますね!」

「ありがとう、イヴちゃん。私も少しだけ手伝う……」

「いえ、駄目ですツグミさん! 今日のツグミさんはお客様です。私達に任せて、ゆっくりしてください。ブシにも休息は必要です!」

 

 羽沢先輩が働こうとしていた所を、若宮先輩が押し留める。現状、ちゃんと店は回っているし、友達と一緒に来たのならお客さんとしてゆっくりして欲しい。そんなところだろう。それに関しては、僕も同意だ。

 しかし、羽沢先輩もそう簡単には引き下がらなかった。やや押され気味ながらも、”する”、”しない”の攻防が繰り広げられていた。まあ結局、バンド仲間の説得もあって渋々納得したみたいだけど。

 

「えーっと、じゃあ、お言葉に甘えて……ごめんね?」

「気にしないでください。それでは5名様、ご案内です!」

 

 話は終わったみたいで、ようやく若宮先輩が案内を始める。5人はそれに続く。

 あんまり見てると不審がられるかもしれないと思って、僕は視線を外す……んだけど、今度は向こうから視線を感じる。

 顔は動かさずにチラリと見ると、ピンクの髪の人が僕の方を見ているのが分かった。えーっと……そうだ、ベースって奴をやってた人だ。

 

 ……うわ、なにあれ……大きい……。若宮先輩を含めても、あの中でぶっちぎりなんじゃ……いや、駄目だ駄目だ! 女子はそういう視線に敏感だって姉さんが言ってたし、見ないようにしないと。集中、集中……

 

「——木下くん、お疲れ様」

「ぅわああ!? お、お疲れ様です……」

 

 集中しようとした矢先、いつの間にか近くまで来ていた羽沢先輩に声をかけられ、素っ頓狂な声をあげてしまった。なんか、先週にもこんなことがあった気がする。

 

「ご、ごめんね、急に声をかけちゃって……」

「いや、大丈夫です。その、なんですか?」

「あ、うん。あのね、ちょっとだけでいいんだけど、時間あるかな? 今、一緒に来た人たちって私の幼馴染でね。多分、よくお店にも来るから紹介したいんだ。もちろん、お父さんの許可は貰ってるから」

「えっと、はい、そういうことなら……」

 

 その提案に内心びっくりしている僕がいるが、断る理由もないので承諾する。というか、羽沢先輩の誘いにならなんにでも承諾する所存だ。

 4人の座っているテーブルに向かう羽沢先輩に続く。当たり前だけど、全員女子だ。あそこまで女子が固まっている集団に自分1人が向かうという経験は今までにない。気まずいような、緊張するような……なんか変な気分だ。

 

「お待たせ、みんな。紹介するね……こちら、新しくバイトに入って貰ってる木下くん。えっと、簡単に自己紹介とかしてもらっても大丈夫かな?」

 

 4人の視線が僕に集中する。さっきの変な気分がますます強くなる。……ん? あれ? なんでベースの人はそんなあからさまにがっかりしてるの? 僕、なんか失礼なことした?

 

「その……木下勇樹です。高校1年で……1週間前から、ここでバイトさせて貰ってます。羽沢先輩にはいつも助けてもらっています」

 

 最後に「よろしくお願いします」と付けて、軽く頭を下げる。羽沢先輩の幼馴染ということは、これから何度も顔を合わせる可能性があるということで、出来るだけ丁寧かつ簡潔な挨拶を心がけた。

 

 それが功を奏したのか分からないが、4人は幾分か表情を和らげてくれた。……いや、銀髪の人は最初からあんな感じだったかも。

 

「美竹蘭。ここにいるみんなそうだけど、高校2年生。まぁ、よろしく」

 

 ボーカルの人……美竹先輩は淡々と告げる。この人のことは比較的印象に残っている。印象の通り、クールな人みたいだ。

 

「ふっふっふ〜、蘭はね〜、なんと、家が華道の家元なのだ〜。お花のことならなんでも聞いてくれたまえ〜」

「ちょっと、モカ……! 今はそういうのいいから……! というか、なに勝手に質問受け付けてんの」

 

 ……と、思ったら、銀髪の先輩——名前はモカというらしい——に褒められたことで目を丸くし、髪のメッシュのように顔を赤らめていた。どうやら巷で言う、ツンデレって奴みたいだ。

 

「宇田川巴だ。よろしくな」

「上原ひまりです。部活はテニス部! よろしくね!」

 

 続いて、赤髪の人……ドラムをやってた人だ……が宇田川先輩で、ベースの人が上原先輩。

 

「青葉モカで〜す。え〜っと、コンビニでバイトしてて〜……ん〜?」

 

 そして、最後にギターの青葉先輩か……って、あれ? 青葉先輩がなんか難しい顔で僕のことをじーっと見てくる。なんだか不思議な雰囲気を纏ってはいるが、その容姿のレベルは羽沢先輩に勝るとも劣らない。そんな人に見つめられ続けているせいか、妙に落ち着かない。

 しかし、こちらから止めるように言うこともできず、向こうの出方を待つしかできなかった。

 

「どうかしたの、モカ?」

「んー、……ねえ、ゆー君?」

「は、はい?」

 

 ゆー君……勇樹を略してゆー君か。まさか初対面でそんな呼び方をされるとは思わなかった。女子に名前で呼ばれてことなんてないから、なんだかムズかゆい。

 ——そう思っていた直後、青葉先輩の口からとんでもない爆弾が飛び出るのであった。

 

「なんか、どっかで会ったようなー?」

「な……っ!?」

 

 え、嘘、なんで気づいたのっ!? もちろん、あのライブ以外で彼女らと顔を合わせたことはない。あのときは結構なお客さん居た上に、客席は照明が暗くて顔は分かりづらい筈なのに、青葉先輩は僅かでも僕のことを認識していたの……!?

 

「い、いや……多分、ないと思います……」

 

 当然、この場はしらを切る。もし僕があのライブに居たことを知られたら、バイトを始めるまでの期間的に、動機がバレてしまう可能性まである。羽沢先輩の居るこの場でそんなことが起きたら……終わりだ。

 

 思い出すな、思い出すなと全力で祈る。これは、あれだ。受験のときの合格発表直前のときの緊張感に似ている。落ちていたらどうしよう……お願いだから受かっていてくれ……そんな切実な思いで発表を待っていた気がする。

 果たして、今回の結果は…………

 

「んー……まあ、いっか〜。そんじゃ、今後ともよろしく〜」

 

 …………危なかった。そこまで興味がなかったのか、特に追求されることも、思い出されることもなかった。

 青葉先輩……この中では要警戒対象である。これからもその言動には注意しよう。

 

「えっと、じゃあ、羽沢先輩……」

「あ、うん。時間取らせちゃってごめんね。もう大丈夫だよ。残りの時間も頑張ってね!」

 

 羽沢先輩の素敵な笑顔に見送られつつ、僕は逃げるようにしてその場を離れた。その後は少々忙しくなった為に彼女らと接触する機会はなかったが、結果的にそれでよかった。羽沢先輩の様子を窺うことができなかったのは残念だけど。

 

 

 夕方、道路が茜色に染まった頃、僕はバイトを上がって店を出た。再度青葉先輩と接触しないようにと急いで帰る準備をした結果だ。

 ……ところが、どうやらそれが裏目に出たようだ。

 

「じゃあ、みんな、また明日ね!」

 

 店の入口から聞こえた声に、僕は思わず物陰へと隠れてしまう。羽沢先輩の声だ。それが入り口で聞こえるということはつまり……。

 

「うん、また明日」

 

 続いて聞こえたのは美竹先輩の声。その後もあのテーブルに集っていた面々のさよならを告げる声が聞こえてくる。どうやら彼女らの帰宅のタイミングと重なってしまったらしい。最悪のタイミングだ。

 

 お願いだからどうか、彼女らの帰宅ルートが裏口側の見えるルートでないようにと再び必死に祈った。

 しかし、今回はその祈りは通じなかったらしい。こっちへと歩いてくる。隠れる場所なんてないし、後退できる道もない。このままだと鉢合わせだ。

 どうする……どうする……と考えを巡らせるが、なにも思いつかなかった。結果的に、その場に立ち尽くして彼女らを待ち構える形になってしまった。

 

「……あれ、あんた……木下だっけ?」

「おう、木下。今、帰りか?」

 

 先頭を歩いていた美竹先輩と宇田川先輩と目が合う。しかも、声までかけられてしまった。これはもう回避は不可能だった。

 

「っ……お疲れ様です」

「お疲れ、木下君! 木下君は、いつもどこから来てるの?」

「えっと……、ここから3つ先の駅で……」

「そうなんだ! じゃあ、ちょっとだけだけど途中まで同じだね。一緒に行こっか」

 

 女子4人と一緒に歩く。字面だけ見れば非常に素晴らしいイベントなのだが、今の僕には上原先輩の言葉は脅迫にすら聞こえてくる。

 

「おお〜両手両足に花ですな〜…………んん? …………おー……そうだったー」

「いや、両足ってなに……ってモカ? どうかした?」

 

 あ、嫌な予感。なにを考えているのかよく分からないトロンとした目をこちらに向けてくる。ああ……お願い、後生だから……当たらないで……

 

「ゆー君、どっかで見たな〜って思ったけど〜そうだ〜、前のライブで初めて見たお客さんだ〜」

 

 駄目……でした。残酷にも、恐れていた事態が起きてしまった。不幸中の幸いと言えるのは、ここに羽沢先輩が居ないということだろうか。

 

「い、いや、それは……!」

「ん〜? それでー、ライブが2週間前で〜バイトを始めたのが1週間前か〜。おやおや〜? これはこれは、どういうことかな〜?」

 

 なんとか会話を流そうと思ったが、青葉先輩に先んじられてしまう。自分から話しかけにいけない僕には、難しすぎたようだ。

 

「……あ! もしかして、もしかして……!? 恋の予感!?」

「ほーう……面白いことになってきたじゃねえか」

 

 上原先輩が目を輝かせ、宇田川先輩は不敵な笑みを浮かべながら鋭い視線で僕を射抜く。青葉先輩以外の人にも、完全に察せられてしまった。

 

「……ちょっと、木下。どういうこと?」

「えっと……その……」

 

 うう、なんか美竹先輩……急に怖くなった……。僕よりずっと背は低いのに、すごい迫力だ……流石、バンドのボーカルやってるだけはある。猫に睨まれた鼠の気分だ。

 

「まあ、待てよ蘭……落ち着けって……」

「落ち着けって言ったって……! つぐみのストーカーかもしんないじゃん!」

「いや、それはねーだろ。つぐの奴があんだけ信頼してんだ。別に悪い奴じゃないって」

「でも……!」

 

 美竹先輩は必死に宇田川先輩に食い下がる。正直、美竹先輩の言い分は分かる。というか、ちょっとはそういう自覚はあったからバレたくなかったわけだし。

 

「ねえねえ! それってつまり一目惚れってこと!? そうだよねー、つぐはとってもいい子だし、可愛いもんねー! 分かる分かる!」

 

 あの、上原先輩……あまり大きな声を出さないでください……羽沢先輩に聞かれたら、死んでしまいます……。

 

「ところで木下。お前、このあと時間あるよな? 少し早いけど、一緒に飯でもどうだ?」

 

 話が一段落したのか、宇田川先輩は僕に首に腕を回しながら夕飯に誘ってきた。うわ、近いよ……でも、これってつまり……。

 

「あの……それって……」

「心配すんなって、別に取って食ったりしないさ。あれだ……ちょっとした”懇親会”だ」

 

 尋問会の間違いではないだろうか。もちろん、決して口には出さないが。

 

 ……こうして、僕は近くのファミレスへと連行された。ことここに至って誤魔化すなんてことができる筈もなく……僕は全ての事情を白状してしまうのであった。

 

 

 夜の8時。空がすっかり真っ暗になり、1人でゲーセンに入れる時間がとうに過ぎてしまった頃。尋問会兼懇親会は終わりを告げ、僕たちは解散した。バイト上がりということも相まって、結構疲れてしまった。

 

 ファミレスに入ってからというものの、質問に次ぐ質問の嵐だった。どうして好きになったの? とか、どういう経緯で『羽沢珈琲店』を知ったの? とか、進捗はどうなの? とか。最後のみたいな、本当に心が抉られる質問もあって、人前でなければ泣きたかった。

 

 一応、問い詰められるだけの徒労には終わらず、成果もあった。

 1つ目は、とりあえず美竹先輩からのストーカー疑惑が晴れたこと。決め手は姉さんに無理やりバイトに応募されたという事実と、尋問中に僕が顔を真っ赤にさせていたかららしい。……なんでそういうこと本人に言うの。ただの拷問だよ……。

 同時に、「つぐみを傷つけたら、許さないから」と釘を刺されもしたが。

 

 ちなみに、僕の羽沢先輩への好意を確認した他の3人の反応は三者三様だった。

 宇田川先輩は「ま、頑張れよ」と、ほぼ中立。

 上原先輩は「相談したいことがあったらなんでも聞いてね! 応援してるから!」と、友好的。もっとも、興味本位な感じも見受けられたけど。

 そして青葉先輩だが……よく分からない。「いや〜、エモいね〜」とか言われたが、理解不能である。多分、面白がってるんだと思う。

 

 2つ目は、その4人と少し打ち解けたこと。羽沢先輩が僕のことを紹介前から話していてくれたらしく、尋問が終わってストーカー疑惑が晴れてからは結構穏やかに会話ができた。なので、後半はなんだかんだ言って懇親会ぽかった。彼女らと険悪な関係のままバイトを続けるというのは多分無理なので、よかったと思う。

 

 そして最後に、彼女らの口からバンドをやっていることを教えてもらったこと。これで変に知らないフリをせずに済む。どうやら最近は『Circle』というライブハウスでライブをすることが多いらしく、よかったら見に来いと誘ってもらえた。うーん……正式に誘われたなら……なんとか、1人でも行ける……かな?

 

 まあ、そんなこんなで、意外にも悪い結果とはならなかった。しかも、連絡先まで交換してしまった。羽沢先輩に続いて、4人も友達登録が増えた。まさに快挙だ。

 

 ゲーセンには行けなかったけど……有意義な時間だった。そう思い、駅に向けて歩きだす。

 

「へい、そこのお兄さ〜ん。いいモノがあるんだけど〜、ちょっと話を聞いてかね〜かい?」

「……なんですか、青葉先輩」

 

 歩きだそうとしたその瞬間、後ろから青葉先輩に呼び止められた。他の3人とはもう別れたらしく、1人だった。

 ヤクの売人のようなふざけた口調に、今度はなにが来るんだと警戒する。

 

「ふっ、ふっ、ふ〜。まずは、これを見なされ〜」

 

 彼女はスマホを操作すると、その画面を僕へと向けた。

 ——ソレを見た瞬間、僕の体は石になった。

 

「こ、これって……!」

「ココだけでしか手に入らない、限定商品だよ〜。気に入ったか〜い?」

 

 内緒話でもするかのように、青葉先輩は手を口元に寄せながら潜めた声で語りかけてくる。彼女の顔がかなり近くまで寄って来るが、僕はそれどころではなかった。

 

 ——画面に映っていたもの、それは羽沢先輩の写真だった。こっそり撮ったものじゃないことは、カメラ目線の羽沢先輩の顔を見れば分かる。

 撮られたとき恥ずかしかったのか、微かに頬を染めつつ、困ったように眉をへの字にしている。それだけでも1発K.O級の破壊力を秘めているが、もっと恐ろしいものがあった。着ている衣装だ。頭に黄緑のリボンを巻き、黄色を基調とした丈が短めのワンピース、そしてやや大きめの黒のパーカー。これはヤバイ。特にパーカーが少し大きい所がヤバイ。普段の彼女のイメージを知っている分、ニューヨークのストリートファッションぽいこの衣装とのギャップがヤバイ。もし仮にこの衣装で、いかにも世の中がつまんないんですみたいな表情をしていたら、完全にいい所のお嬢さんがグレちゃった不良の構図だ。はっきり言ってこの写真は危険だ。僕にとってはヤクと同義だ。一度見てしまったらもう目が離せなかった。

 

「前〜、新しいバンドの衣装を合わせてたときの写真で〜す。どうかね〜? やまぶきベーカリーのパン30個で手を打ちましょ〜う。もちろん、みんなには内緒ですよ〜?」

 

 ……悪魔だ。悪魔が目の前に居る。…………いやいや、確かに盗撮された写真じゃないけど、本人の許可なくこの写真を手に入れていいわけがない。そうだ、我慢だ木下勇樹。やっていいことと悪いことがあるだろう? ここは青葉先輩を注意する場面だ。よーし……

 

「青葉先輩、そういうのは——」

「ちなみに〜、いらない場合は〜容量がもったいないので削除しま〜す」

「ッ!? ……っ……うぐ……いや……ぅ…………………………くだ、さい」

 

 永遠にも等しい葛藤の末……とても、とても小さな、そよ風で吹き飛んでしまうような声で、そう答えてしまった。……僕は、僕……は間違いなく日本一駄目な日本人だ。

 そして僕にとっての日本一素晴らしい日本人は、「毎度あり〜」と惚けた顔で告げるのだった。

 

 ……ごめんなさい、羽沢先輩。でもこの写真、めっちゃ可愛いです。宝物にします。

 

 

 



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第4話 最初の一歩

「そんでさー、あんた、そろそろ羽沢さんとなんか進展とかないわけ?」

 

 バイトを始めてからそろそろ1ヶ月が経とうとした頃の日曜日、今日も今日とてバイトに向かおうと準備していた僕を、姉さんが呼び止める。そしてなんの前触れもなく、僕の心にナイフを突き立てた。

 

「いや……別に、ないけど……」

「はあ? マジで言ってんの? なんつーヘタレ……」

「うぐ……」

 

 その物言いに腹が立たないわけじゃないが、事実だけに言い返せない。既に結構な回数、羽沢先輩と一緒にバイトしたが、せいぜいがちょっとした雑談で他はほとんど仕事中のやりとりばかりだ。

 その程度で男女の仲が進展するなんて奇跡が起こる筈もなく、連絡先の交換が今の所の最高の戦果だ。

 

 ついでに言えば、悲しいことに……いや、むしろ当然か……羽沢先輩には全く意識されていない。その証拠に、仕事中に指が触れ合うなんていうラッキーなアクシデントがあったが、僕が慌てて手を離して謝罪した一方で、羽沢先輩は「ううん、大丈夫だよ。私こそごめんね」と平然としていた。あれは……ちょっとへこんだ。

 

「別に……今のままでいいよ。近くに居られれば、それで……」

「それは、羽沢さんに彼氏がいないからでしょーが。もし羽沢さんに彼氏ができたら、あんたそれでも今と同じこと言えるわけ?」

「ぇ……」

 

 姉さんの指摘に言葉を失う。もし……羽沢先輩に彼氏ができたら…………ぁ、うわ……無理、ダメージ大きすぎるかも……。だって、もしそうなったらバイト中に2人で店に来るかもしれないんでしょ? それをずっと見せつけられるんでしょ? そんなの生き地獄に決まっている。

 

「ほらやっぱり駄目なんじゃん。言っとくけど、あんた今相当ラッキーなポジションに居るんだからね? 羽丘は女子校だから学校にライバルは居ないし、バンドもガールズバンドだし。バイト先でも男子はあんただけなんでしょ?」

 

 た、確かに……姉さんの言う通りだ。考えれば考えるほど、自分がいかに幸運なのかが分かる。

 

「動くなら今の内っしょ。いい加減、デートにでも誘ってみたら?」

 

 姉さんの提案に、普段の僕だったらすかさず「無理!」と叫んでいたことだろう。しかし、先ほどの”最悪の未来”を聞かされてしまった以上、そうも言ってられなかった。

 

 デート……デートか……誘えるかな、僕に……。こういうときって、なにに誘えばいいんだろ。……映画とか? よく分からん。

 止むを得ず、姉さんに聞いてみた。

 

「まあ、映画は無難ちゃ無難だけど、相手の好みのがやってるとは限らないかな。ご飯も、なにかのお礼とかでもない限り露骨じゃない? 羽沢さんを交えてご飯に行ったこと、ある?」

「ううん、1回もない……」

 

 羽沢先輩以外の『Afterglow』との懇親会を除けば、さっぱりだ。

 

「うーん……だったら、最初はとりあえず勉強を教えてもらうとかの方がいいんじゃない? 先輩と後輩だからお願いする理由としては妥当だし、話も途切れにくいでしょ。羽沢さんは生徒会に入ってるくらいだから、極端に成績が悪いとかはないだろうし」

「……なるほど」

 

 思った以上に堅実で、実現可能そうな案が出てきた。勉強か……僕の学校は1学期の定期テストは期末のみらしいから、今すぐがっつりやる必要はないけど、羽沢先輩を誘う口実としては、一番現実的だ。

 

「ありがと。一応、その方向でやってみる」

「んー、頑張りな。上手くいったらお礼になんか奢ってね」

「はいはい」

 

 姉さんの言葉を適当に流しつつ、僕は残りの準備を終えてから家を出た。まだ店に着いてすらいないのに、なんだかもうドキドキしてきた。

 いや、大丈夫、大丈夫。勉強を教えて欲しいってお願いするだけだ。デートの誘いって思っちゃうと緊張するからこの際一旦忘れておこう。とにもかくにも、こっちから声をかけるのが大事なのだから。

 

 ……チャットツールを使おうともしたのだが、文章がなかなか纏まらず、その文章ができあがっても、いざ送信する段階になったら怖気づいてしまい、送信せずにそのままにしてしまった。こうなったら、もう直接言うしかない。

 道中、何度も深呼吸を挟みつつ、心の準備を進めておくのであった。

 

 

 『羽沢珈琲店』に到着し、着替えを終えてシフトの時間まで待機中の僕は、いよいよだぞと己に言い聞かせる。

 羽沢先輩に直接話を切り出すタイミングはそれほど多くない。待機中の今、休憩時間、そして上がった後だ。そのいずれかで誘う必要がある。

 

 うう……手が汗ばんできたし、心拍数はもはや異常な数値を叩き出している。なんか、なにもしてないのに息切れしてきたし。昔、授業の一環でプレゼンをやったことがあるけど、そのときの、クラス全員の前で発表するときの緊張感を何倍にも高めた感じだ。

 

「あ、木下くん、おはよう。今日も早いね」

 

 既に制服に着替えている羽沢先輩が姿を現す。最初のチャンスがやって来た……!

 

「おはようございます、羽沢先輩。……えっと、その…………」

「……? どうしたの?」

 

 話を切り出そうとする。しかし、喉になにかが詰まってしまったかのように続きが出てこない。ほら、行け、木下勇樹……! ”勉強教えてください”と言えばいいだけだ……今こそ、なけなしの勇気を振り絞って……!

 

「つぐみー、ちょっといいかーい?」

「お父さん? はーい、今行くー! ……ごめんね、木下くん。また後でね」

「ぇ……あ、はい……」

 

 ……駄目だった。突如マスターに呼ばれた羽沢先輩は、そのままキッチンへと行ってしまった。僕だけがポツンと待機所に取り残される。お前は敗北者だと言われているかのような静けさだった。

 

 いやいや、ここで折れちゃ駄目だ。さっきも話しかけるタイミングの確認はしたじゃないか。まだ後2回も残っている。大丈夫、必ずできる。

 

 ——そう、思っていた。だが、現実はそうは上手く行かなかった。

 

 まず、休憩時間。先週は休憩時間の一部が被っていたので、話す時間はあるだろうと見込んでいたのだが、今日はそうじゃなかった。見事に入れ替わりでの休憩となっていた。

 よって、休憩時間に話しかける案は挑戦することもなくボツとなった。

 

 そして、次にバイトを上がった後。このタイミングであれば時間に制限などないので、自由に話しかける機会を窺うことができる。なんだかんだ言って、このタイミングが本命ではあった。

 ところが、その目論見は大きく外れることになる。なぜならば……

 

「木下くん。今日はこれからバンドの練習があるから、お先に失礼するね。お疲れ様!」

「え……あ、はい、お疲れ、様です………………はぁ」

 

 ……と、まさかの先に上がられるという事態。このケースは全く想定していなかった為、虚を突かれた僕は咄嗟に誘うことができなかったのだ。

 

 結果として、この日は僕はほとんど会話することができず、”勉強を教えてもらおう大作戦”は見事に失敗に終わった。勉強のべの字も言い出すことすらできなかった。

 

 ……いや、まだだ。単に今日が失敗に終わっただけだ。必ず、誘うチャンスは来る筈だ。今回ばかりは、そう簡単に折れるつもりはない。なにせ、結構な危機的状況なのだから。

 

 

 ——こうして、僕は来る日も来る日も羽沢先輩を誘おうとした。誘おうとしたんだけど……結論から言えば、僕がいかにヘタレなのかを認識するだけの日々の連続だった。

 

 初日は、単に間が悪いだけだった。仕方がなかったと、言い訳のしようもあった。

 だけど、それ以外の日は話しかけるチャンスくらいならばいくらでもあった。実際、話しかける所までは行ったこともある。なのに、その後が続かないのだ。誘おうとする瞬間、断られたときのイメージが脳裏に浮かび、言葉を止めてしまう。そして、結局はどうでもいいことばかりを口から出してしまうの繰り返しだった。

 

 立ち止まっている場合じゃないことは分かってるのに、羽沢先輩ならきっと勉強を教えてくれるだろうことも予想がついているのに……まだ体験してもいない最悪な結末の空想の前に、僕は足を止めてしまった。

 

 ……やっぱり、僕には無理なのかな……恋人を作るなんて。そういうのは結局、もっと明るくて、気遣いが上手くて、話上手な人だけに与えられた特権なのかな。

 そんな風に考えが下向きになりつつあったとき、再び日曜日がやってくるのであった。もし、今日誘えなかったらもう絶対に誘えない気がする。そう考えてしまうほど、僕は追い詰められていた。

 

 

***

 

 

 日曜日。いつものようにお店を手伝うべく、制服に着替えた私は開店に備える。今日はイヴちゃんが居ないから、お父さんを除けば木下くんと2人でのシフトになる。頑張らなくちゃ。

 

 ……そういえば、その木下くんなんだけど、なんだか最近元気がない気がする。多分だけど……今週の半ばくらいからかな? ほんの少しだけど、いつもより口数が少ないのだ。今日も、まだ挨拶しか交わしていない。

 

 体調が悪いというわけではなさそうなんだけど、ちょっと心配だなあ。もしかして、なにか悩みとかあるのかな? もしそうだったら、どれだけ力になれるかは分からないけど、相談に乗ってあげたい。違うかもしれないから、無理に聞いてみたりはしないけど。

 

 せめて、今日はできるだけ木下くんの様子を気にかけるようにしておこう。もちろん木下くんのことは信頼してるけど、念の為。一応、先輩だしね。

 

「つぐみ、ちょっといいかい?」

「お父さん? どうしたの?」

 

 そんなことを考えていたとき、お父さんが近くまでやってきた。

 

「突然なんだけど、午後からしばらく外出しないといけなくなってね。多分、17時くらいまではかかるから……すまないんだけど、その間はつぐみがコーヒーの面倒を見てくれないかな?」

「え、私が? でも、いいの……?」

 

 ずっと練習してきたし、1年生の頃と比べれば上手に淹れられるようになってきたとは思うけど、それでも私1人でやるのは不安だなあ……。任せてくれるのはすごい嬉しいけど、大丈夫、かな……?

 

「父さんは大丈夫だと思ってるよ。まあ、これも経験ってことで、やってみなさい」

「……うん! 頑張ってみる!」

 

 よーし! せっかくの機会だし、精一杯やってみよう。私が1人でできるようになれば、お父さんももっとゆっくりできるようになるだろうし。

 私は両手で握り拳を作り、己を奮い立たせるのであった。

 

 

 午後になり、予定通りお父さんがお店を出た後、お店には私と木下くんだけになった。流石にキッチンかホールのどっちかに専念する余裕はなくなっちゃったので、私も自分で注文を受け、自分で淹れたコーヒーを自分でお客さんへと運ぶ。

 

「お待たせしました。オリジナルブレンドです」

「おや、ありがとう、つぐみちゃん。今日はお父さんの姿が見えないけど、これはつぐみちゃんが淹れたのかい?」

「はい! よかったら、感想とか聞かせてください!」

 

 カウンターに座っている常連のお爺さんの田中さんにコーヒーをお出しする。今日どころか、人生で初めてお客さんに飲んでもらうコーヒーだ。常連さんが相手とは言え、緊張する。お父さんとか、みんなには美味しいって言ってもらえてるけど……どうだろう?

 

「……うん、美味しいよ。いやー、あんなに小さかったつぐみちゃんが、もうこんなに美味しいコーヒーを淹れられるようになったのかー。時間が経つのは早いねえ……」

「そ、そういうのはいいですから……! とにかく……! ありがとうございます」

 

 うう、子供の頃から私のことを知っている常連さんは、事あるごとにこういう褒め方をしてくる。褒めてもらえるのは嬉しいけど……ちょっと恥ずかしいな……。

 

 なにはともあれ、常連さんに合格を貰えたので一安心かな。使う豆さえ間違えなければ、なんとかやっていけそう。

 

「いらっしゃいませ。3名様ですね、ご案内します」

 

 そんな風に考えながらキッチンに戻っている間も、新しいお客さんがいらっしゃる。2人だけというのもあるけど、今日は全体的に結構忙しい。ランチ系のメニューも、どんどん飛んでくる。

 

 本当は、もうちょっと木下くんの様子も気にしてあげたかったんだけど、そんな余裕はなさそう。それどころか、ホールにキッチンと縦横無尽に動いてもらっていて、現在進行系ですごく助かっている。

 木下くんも頑張ってるんだし、私も頑張らないと……! 

 

「あ……おっとっと……!」

 

 危なかった……体の向きを変えた拍子に、お湯が残っているドリップポットに右手が引っかかり、倒れそうになったのだ。急いで支えたおかげで、なんとか無事だった。淹れる為に少し冷ましてあるとは言っても、まだそれなりに熱いし、気をつけないと。

 

 ——そう思った矢先のことだった。なにか、肉が焼けるような嫌な音がした。直後、炎で焼かれたような鋭い痛みが左手の小指側の側面から感じた。

 

「っ!? ぁ……ッ!!」

 

 声を出さなかったのは奇跡だった。周囲を見渡してみるけど、気づかれた様子はない。よかった……。手を洗うフリをして、左手を水で冷やす。

 

 ……なにが起きたのかは、すぐに分かった。ドリップポットに気を取られすぎて、左手が湯沸かしに使ったやかんに触れちゃったのだ。沸かしたお湯がたっぷりと入っていて、まだ熱々のやかんを。それも、一時的にではなく結構な間。

 

 触れた部分が、赤くなってる。痛みで、ヒリヒリする。水で冷やしてから少しの間は痛みが和らいだものの、すぐに復活する。でも、我慢できない程じゃないかな。試しに手を開いたり閉じたりしてみる。……うん、大丈夫。ちゃんと動かせる。

 

「羽沢先輩。オリジナルブレンドが1つとアイスカフェラテです」

「ぁ……うん! 了解!」

 

 咄嗟に左手を木下くんから見えないようにしながら答える。今、お店に居るのは私と木下くんだけなのだ。せっかくお父さんにコーヒーを任せてもらえたのに、ここで抜けることは出来ない。

 

 こまめに冷やすようにすればきっと大丈夫。せめて、お父さんが戻ってくるまでは頑張らないと。

 その後、私は木下くんの目を盗むようにしながら定期的に手を冷やしつつ、仕事を続行した。

 

 …………したんだけど、私が思ってたよりかは深い火傷だったみたい。

 

「っ……ぅ……」

 

 痛い。最初はヒリヒリするだけだったのに、時間が経つにつれてジンジンと刺すような痛みに変わってきた。水ぶくれが出来ちゃって、患部がなにかに触れるだけでも痛い。手を拭くのに使うペーパーすら痛いので、止むを得ない場合を除いて自然に乾くのを待つようになった。

 

 ただ、お店が忙しくなるに連れて、手を冷やす余裕もどんどんなくなってしまった。そうなると、塞いでいた穴がジワジワと広がるかのように、痛みは強くなる一方だった。

 

 時計を確認する。まだ15時を過ぎたばかり。つまり、少なくとも2時間はこの状態が続く。流石に、それはちょっと辛いかも……。せめて、薬くらいは塗りたい。でも、飲食物を扱ってるのに薬を塗った手で作業するのは……。包帯巻いちゃったら、動かせなくなっちゃうし。

 

 ……あ、でも今、お客さんが2組退店された。それに、ちょうど注文も落ち着いたみたい。新しいお客さんが来るまでは、安全かな。今の内にもう1度手を冷やして……

 

「……あの、羽沢先輩?」

「ぇ、あ、ぼーっとしててごめんね! えっと、ご注文かな?」

 

 間の悪いって言っちゃうのはとっても失礼なんだけど、木下くんが近くに来てしまった。これじゃあ、手を冷やしに行けない。またもや左手を隠しながら、平静を装う。

 

「いや、そうではないんですけど…………っ…………その……今、ちょっといいですか?」

「うん、大丈夫だけど……どうしたの?」

 

 ……もしかして、本当になにか相談があるのかな? 今日は休憩時間が少しだけ被ってたけど、そのときはなにもなかったから、てっきり私の勘違いだと思ってた。

 

 キッチンで話し込むのもあまりよくないので、私達は一旦待機所へと移動する。と言っても、お客さんからの呼びかけには応えられるくらいの距離で。

 

 顔をしかめたくなってしまう痛みに耐えながら、木下くんの話を待つ。

 ……あまりにも痛みが酷いので、手短にしてほしいって思っちゃう自分が嫌になる。全部自業自得なのに、木下くんを責めちゃうのは違うよね。もし相談だったら、ちゃんと聞いてあげないと。

 

「えっと……ですね……」

 

 木下くんはしばらく言い淀んでいたが、やがて意を決したのか顔を上げる。これは……とても大事な相談みたい。ますます、きちんと聞いてあげないと。

 

「——間違ってたら、謝ります。……羽沢先輩、左手を見せてください」

「ぇ……」

 

 ギクリ、と背筋が凍った。予想もしなかった言葉に、私は呆然とするしかなかった。

 

 

***

 

 

 羽沢先輩の様子がおかしい。そう思ったのは、午後の仕事に入ってからしばらく経った頃だった。

 結局、休憩時間のときも話を切り出せなかった僕は、焦燥と諦めを同居させながらも残った僅かなチャンスを窺っていた。その為、普段より羽沢先輩をチラ見することが多かった。そして、だからこそ異変に気づけた。

 

 根拠となった要素は3つ。

 第1に、羽沢先輩が時計を確認する回数があまりにも多かったこと。そもそも、羽沢先輩が能動的に時間を気にかけること自体ありえない話だ。上がりの時間だと誰かに指摘されるまで仕事に没頭していることの方が圧倒的に多い。

 第2に、いつもより作業のスピードが遅いような気がしたこと。初めてコーヒーを担当している影響もあるのだろうけど、それにしても少し遅い気がした。普段は僕よりも遥かに手際がいいのに。明らかに妙だった。

 そして最後に、僕との受け答えの最中に限って左手を隠すこと。あまりにさり気なかったので最初は気づかなかったが、何度も同じ所作で隠されればいくらなんでも分かる。もし様子がおかしい原因があるとしたら、左手になにかあると考えるのが自然だ。

 

 こんな感じで、異変だと断じるだけの根拠はいくつもあった。しかし、実際にそれを確かめる為に羽沢先輩に声をかけるのには、随分な葛藤があった。

 もし違ったらどうしよう。無理に問い詰めて鬱陶しく思われたらどうしよう。そう思ったら、なかなか動き出せなかった。バイトを始める前の僕だったら、きっとそのまま諦めただろう。

 

 そんな僕の背中を後押ししてくれたのは、”懇親会”のときに美竹先輩や宇田川先輩が話してくれたとある話だった。

 曰く、羽沢先輩は1年前に無茶をし過ぎて倒れたことがあること。以降、本人も反省はして改善傾向にはあるものの、それでも頑張り過ぎるきらいがあること。だから、バイトで一緒のときはちゃんと見ててあげてほしいということを。

 

 仮に、本当になにかしらの問題が起きてて、それを見過ごすようなことがあったら……僕は、先輩方に顔向けができない。だからこそ、今度ばかりはなけなしの勇気を振り絞ることができた。

 

「え、えっと……なんのこと? 別に私、なんにも……」

「……なにもないなら、見せられる筈です。どうして駄目なんですか?」

 

 誤魔化そうとする羽沢先輩を問い詰める。話しかける前は半信半疑な所があったが、状況証拠的にはほぼ確定だ。僕は語気を強める。

 

 羽沢先輩は怯んだように顔を俯かせ、怒られた後の子供のような顔になってしまった。それでも、左手を見せようとはしてくれない。

 

 ……仕方ない。もし、間違ってたら土下座でもなんでもする。そう開き直った僕は、羽沢先輩に近づいて、強引に彼女の左肘辺りを掴んだ。「ぁ……」と微かに抵抗はあったものの、すんなりと彼女の左手を目の前に引き寄せることに成功した。

 

 ……羽沢先輩の左手の一部が、痛ましいくらいに真っ赤に腫れていて、水膨れが出来ていた。

 

「……これ、結構酷い火傷じゃないですか。いつからこんな……」

「……その、最初にコーヒーをお出しした後、沸かしたばかりのやかんに触っちゃって……」

 

 ……ということは、約2時間もの間、ロクに冷やしもせず、治療もしないでこのままずっと?   どうしてそんなこと……って、そうか。コーヒーを淹れられるのが羽沢先輩だけだからか。

 

「とにかく……ちゃんと治療して休んでください。せめて、痛みが引くまでは……」

「でも、それじゃあコーヒーが……」

 

 う、確かにその通りだ。僕にコーヒーを淹れることはできない。豆の種類や焙煎とかの基本的な知識は教わったけど、実践はまだだ。ドリップの際のお湯の注ぎ方が重要らしく、今この場で教わった所でいきなりできるようになるとは……………ん? ドリップ?

 

「……あの、羽沢先輩。ドリップの為にお湯を注ぐのって、片手でやりますよね?」

「……? うん、蓋を押さえたりすることもあるけど、片手でもできるよ」

「……なら、こうしましょう。まずは、治療してください。そしたら、左手は使わないでドリップだけやってください。他は全部僕がやりますので、やり方を教えてください」

 

 これなら、なんとかなる筈だ。豆を計って、挽いて、お湯の温度を調整する。そして、羽沢先輩がドリップしたコーヒーをカップに注ぐ。こうすれば、羽沢先輩は片手だけの作業で済む。火傷した左手を使う必要はない。

 

「で、でもそれって……! ホールもキッチンもほとんど木下くんに任せちゃうことになっちゃうよ!? これからまた忙しくなるかもしれないのに……!」

「……まあ、なんとか頑張ってみます。本当は、今すぐにでも休んでほしいくらいなんです。……お願いですから、無理しないでください。他の先輩方から去年のこと、聞いています」

「あ……」

 

 一向に納得してくれそうになかったので、僕はとうとう去年のことを持ち出した。目を丸くしている辺り、その点を突かれるとは思っていなかったのだろう。

 ……多分、僕は少し怒ってるんだと思う。無理をしていることに、そして僕を頼りにしてくれないことに。だから、普段だと言えないようなことまでも言えてしまう。

 

 しばらくの間、羽沢先輩からの返答はなかった。……だけど、どうやら僕の願いは通じたようだ。うん、うん、と頷くと、羽沢先輩は顔を上げた。

 その顔は、透き通るように綺麗な微笑みを浮かべていた。

 

「……うん、そうだよね。ここで無理しちゃったら、バンドの練習でも迷惑かけちゃうかもしれないんだよね。……ありがとう、木下くん。大変だと思うけど、お願いしちゃうね。すぐに戻るから、ちょっと待っててね」

 

 治療の為、羽沢先輩が一時的に仕事場を離れる。それを見届けた所で、ようやく僕は安堵のため息を吐いた。……はあ、すごい緊張した。もう絶対にあんなことしたくない。

 ……でも、納得してくれてよかった。とにかくこの後、頑張らなければ。そう、決意を新たにするのであった。

 

 ——そして、マスターが戻って来るまでの間、特殊な2人体制が始まるのであった。

 

「えっと、オリジナルブレンドのときはミディアムのモカ、ハイのコロンビア、それとフルシティのブラジルをこの割合で混ぜて……」

 

 ——左手に包帯を巻いた羽沢先輩の指示のもと、ブレンドした豆を挽いたり。

 

「挽いた粉から茶こしで微粉を取り除くの。そうすると、すっきりした味わいになるんだ」

 

 ——微粉を取り除いたり。

 

「お湯の温度はドリップポットに入っているときに87度くらいになるように調整するの。まずは一回こっちに移して……」

 

 ——ドリップ用のお湯の温度を調整したりした。

 

 ……大口を叩いたものの、はっきり言ってこの2時間の作業は地獄のように大変だった。来客対応、注文を取る、料理を作る、デザートを作る、コーヒーを淹れる準備をする、その他飲み物の準備、そしてそれらを運ぶ。再び客席が賑わってきたことも相まって、体がいくつあっても足りないかと思われるほどだった。

 

 結局、羽沢先輩はコーヒー以外の飲み物の用意など、片手でもできそうなキッチン作業も受け持ってくれた。ちょっと情けないことになってしまったが、あまりにも苦しかったので素直に甘えた。……まあ、羽沢先輩に無理をさせないという目的は達したので、トントンだろうか。

 

 それからしばらくして、17時ジャストにマスターが戻って来たことで羽沢先輩は完全に現場から下がり、休んでもらうことができた。現場もなんとか持ち直し、最悪の結果だけは回避できたのであった。

 

 

「お疲れ様でしたー」

 

 やっと、やっと終わった……今日は、ちょっともう、クタクタだ。帰って、早く休みたい。

 

「お疲れ。今日は大変な中、ありがとうね。すごく助かったよ。今度から、少しずつコーヒーの淹れ方の練習も始めようか」

「え……は、はい……了解です」

 

 なんと、本格的にコーヒーの講習を始めてくれるらしい。今日のようなことを再発させない為か、元々そういう予定だったのかは分からないけど。それでも、なんだかちょっとだけ認めてもらえた気がして嬉しかった。今日、豆挽いたりするのも楽しかったし。

 

 待機所に入り、更衣室で着替えを済ませる。そして、更衣室から出たそのときだった。

 

「木下くん、お疲れ様」

 

 横から声がかかる。体ごとそちらに顔を向けると、羽沢先輩が立っていた。左手には、今も包帯が巻かれている。そして火傷の為にマスターが戻った時点で上がった彼女もまた、既に私服だった。

 

「お疲れ様です、羽沢先輩。……その、具合はどうですか?」

「うん、さっきと比べればだいぶよくなってきたよ。……ありがとう、木下くん。今日は、本当に助かりました」

 

 そう言うと、羽沢先輩は僕に向かって丁寧に頭を下げた。それを受ける側の僕は、突然のことに慌てふためく。

 

「い、いや……! 結局、コーヒー以外でも色々と助けてもらっちゃいましたし、あんま大したことは……!」

 

 それに、もっと早くに羽沢先輩に声をかけてれば、今よりも軽傷で済んだかもしれないのに。あんな遅いタイミングで、あんな風に偉そうに羽沢先輩を問い詰めた自分が恥ずかしい。

 

「ううん、そんなことないよ。あのとき木下くんが私のことを注意してなかったら、多分だけど、私はお父さんが戻ってくるまで無理しちゃってたと思う。そしたら、もっと悪化しちゃって次のバンドの練習には間に合わなかったと思うの。だから、本当にありがとう」

「い、いえ、その…………どういたしまして」

 

 そこまで言われてしまっては、素直に礼を受け止めるしかない。ましてや、意中の相手である羽沢先輩からのお言葉だ。本音を言ってしまえば、嬉しくない筈がない。顔が熱くなるのを感じつつ、頷くのであった。

 

「あっ、それとね、ちょっと聞きたいことがあったんだ。木下くんってたしか、来週の土曜日はシフトから外れてるけど、なにか用事とかって入ってるかな?」

「え、土曜日ですか? いえ、今の所は……」

 

 即答する。そもそも、僕にそんなスケジュールとかいう高尚な概念はない。せいぜいが、ゲーセンで遊ぶくらいのものだ。もしかして、緊急でシフトに入ってほしいのだろうか?

 

「よかった。あのね、今日のお礼になにかごちそうさせてほしいの。ここから馬場の方に向かった所にショッピングモールがあってね。そこのどこかでどうかな?」

「……………………え」

 

 一瞬……どころか数十秒もの間、僕はその言葉の意味を理解できなかった。夢だと言われたら確実に信じていたであろうくらい、リアリティの感じられない提案だった。

 

 よく分からないまま承諾し……翌日に待ち合わせ等の詳細な連絡が届いたとき初めて、僕はデートの約束をしたことに気づいたのだった。……棚からぼた餅だ。

 その後、慌てて上原先輩とかに連絡して助言を求めたのはまた別のお話。

 

 

 



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第5話 初デート

 土曜日の放課後、14時にショッピングモール内部の入り口付近に私服で集合。それが月曜日に羽沢先輩から届いた約束の詳細だ。集合時間がやや遅めなのは、自宅と学校が少し離れている僕への配慮だ。まあ、ランチのピークは避けられるし、却っていいのかもしれない。

 

 それともう1つ。羽沢先輩から、せっかくだから食後に一緒にショッピングモールを回らないか、という提案があったのだ。どうやら”懇親会”のときに自分だけ出れなかったのを申し訳なく思っていたらしく、それを兼ねる形のようだ。

 理由はどうあれ、僕にとっては1秒でも長く一緒に居られる絶好のチャンスだ。僕はもちろん承諾した。顔には出さなかったけど、心は相当舞い上がっていた。

 

 そしてその素晴らしいご提案をいただいた放課後。僕は助言を求めて『Afterglow』のメンバーの4人と、前と同じファミレスに集まるのであった。多忙な先輩方だが、なんとか1時間だけ都合をつけてもらった。

 ちなみに、彼女らとは全員同時にとはいかないものの、バイト中にお客さんとして来てくれることも多いので、ホールのときはちょくちょく話すようになった。羽沢先輩の幼馴染だからというわけではないけど、みんないい人だ。

 

「……というわけで、どうすればいいと思います? 助けてください、お願いします」

「まっかせて! 私たちで完璧なデートプラン、考えてあげるから!」

 

 一番最初に相談のメッセージを送った相手である上原先輩が快諾する。それは嬉しいのですが、もう少し声を下げてください。周りに聞こえてしまいます。

 

「ひーちゃんのプランか〜。ゆー君、止めておいた方がいいと思うよ〜?」

「あー、モカ、ひっどーい! 私だってやるときはやるんだからね!?」

 

 上原先輩が横槍を入れた青葉先輩に対して頬をふくらませる。実を言うと、この中で最もお世話になってるのは青葉先輩だ。なにせこの前、早くも2枚目(パン40個の分割払い)を購入してしまった。なんていうか、僕……ダメダメだなあ。

 

「ま、なにはともあれおめでとさん。あ、それとつぐのこともサンキューな。聞いたよ、つぐが火傷したのに気づいて助けてくれたって」

「あ、いや、宇田川先輩、あれは偶々で……」

 

 それどころか、仕事中にデートに誘うチャンスを窺う、なんて邪なことをしていたのだ。決して褒められる行為ではない。

 だが、それを否定するように、美竹先輩は静かに首を横に振る。

 

「別に偶々でもなんでもいいけど、あんたは約束を守ってくれた。だから、まあ……ありがと」

「い、いえ……」

 

 それだけ言うと、美竹先輩はそっぽを向いてストローを咥えたまま黙ってしまった。基本的にはドライな感じの態度なんだけど、こういう要所で誠実なところは華道の家元の娘なんだな、と思う。

 

「それでそれで!? 大まかにどうしようとか考えてるの?」

「えっと、一応聞きたいことはあらかじめ纏めてきたんですけど……」

 

 スマホのメモアプリを起動し、そのメモを表示する。えっと、最初は……

 

〜質問その1〜

 

「お昼なんですけど、どこで食べたらいいと思います?」

 

〜上原先輩の回答〜

 

「デートって言ったらイタリアンだよ! もうこれで間違いなし!」

 

 ……なんか、テレビとかでも聞いたことのあるようなアドバイスだ。まあ、一応覚えておこう。

 

〜宇田川先輩の回答〜

 

「やっぱラーメンだろ! あそこのフードコートのとこの豚骨ラーメンなんて最高だぜ?」

 

 ……それは、宇田川先輩が好きなだけなんじゃ? 流石にラーメン、それもフードコートが”ない”ことくらいは僕でも分かる。

 

〜青葉先輩の回答〜

 

「やまぶきベーカリーのパンなんかがー、おすすめですな〜」

 

 ……あの、ショッピングモールの中にあるものでお願いします。

 

〜美竹先輩の回答〜

 

「……お礼なんでしょ。あんたが食べたいとこにすればいいんじゃない? つぐみもそれを望んでると思うけど」

 

 そんなこと言われても、そこまで遠慮せずに行くわけには……。

 

 

 ……その後、質問を変えた結果、羽沢先輩の好物の1つがハンバーグということを知ったので、そういう店にしようと決めたのであった。

 

 

〜質問その2〜

 

「お昼の後、どこを回ったらいいと思います?」

 

〜上原先輩の回答〜

 

「デートと言ったら恋愛ものの映画だよ! あそこのショッピングモールは映画館も入ってるんだよ!」

 

 これまたどこかで聞いたようなアドバイス、というか発想のレベルが僕と同じだ。もっとも、調べたけど今って恋愛系の映画、あそこでやってないんだよね。

 

〜宇田川先輩の回答〜

 

「うーん、そうだな……たしか、土日って偶にどっかのアーティストとかがミニライブやってるんだよな。それを観るとか?」

 

 とってもいい案だと思います。その日にやってるかは分からないけど、もしやってたらそれがいいかもしれない。

 

〜青葉先輩の回答〜

 

「あたしがバイトしてるコンビニで〜、デザートを買う〜」

 

 なんで頑なにショッピングモールから出させようとするんですかね? もしかして、遠回しに反対してます? 

 

〜美竹先輩の回答〜

 

「適当に2人で楽しめそうな所を回ればいいんじゃない?」

 

 適当って……その適当の中身が知りたいんですけど。2人で楽しめそうって言ったって、僕の好みが羽沢先輩と一致するとは思えないし。

 

 

 ……こんな調子で、僕が質問をしては4人から各々の回答を貰う。そして、今回の件で分かったことがある。

 上原先輩は一番協力的ではあるのだけど……ちょっと、なんというか、役立たずだった。ああ、でも、ファッション関係では頼りになったと思う。

 宇田川先輩は、真面目な回答もたくさんあるのだが、同じくらいぶっ飛んだ回答もあって、総合評価はプラマイゼロだった。真剣に考えてくれてるのは分かるので、ちゃんと聞くようにはしてたけど。

 青葉先輩は、おそらくはわざとボケてる。もう、とにかくボケる。こんなことならやまぶきベーカリーのパンを最初から持参すればよかった。そうすれば、少しは真面目になってくれてたかもしれない。

 美竹先輩は……僕の好きにしろって感じだった。初対面のときの態度と比べれば雲泥の差だけど、やっぱりまだちょっとそっけなかった。

 

 とにかく、必要な情報は集まった……とまでは断言できないけど、できる限りのことはしたと思う。

 それから当日までの間、集めた情報を基にデートの準備を進めるのであった。

 

 

 いよいよ、デート当日だ。天気は見事に晴れ。夏の到来が近いことを告げるかのようにギラギラと照りつける日差しが眩しく、少々暑い。

 

 僕は今日の為にわざわざ購入した服を着て、例のショッピングモールへと向かう。服装のチョイスは、宇田川先輩と上原先輩の意見を取り入れたものだ。男子ではなく女子に意見を求めている時点で僕の交友関係の限界を感じるけど、センスがない男子より、ある女子の意見の方が正しい……と思う。実際、上原先輩は男子のファッションにも驚くくらい詳しかったし。

 

 ただ……不安はある。このデートに対する羽沢先輩との熱量の差がどの程度あるかということに。結局の所、このデートは先週のお礼の延長なわけで。先輩側からすれば、もっと気楽なつもりでの誘いだったかもしれないのだ。

 ここまで気合を入れておいて、羽沢先輩がそこまでじゃなかったら、その温度差に結構なショックを受けるかもしれない。

 

 ……本当に、この服で大丈夫かな。というか、似合ってるのかな。でも、今更戻って着替える時間なんてないし……。うう、大丈夫でありますように。

 そんな無意味なことに思考を割いている間にもショッピングモールには近づいていく。もう、建物が見えてきた。確かに、結構大きなショッピングモールだ。

 

 ……とりあえず、入る前に先輩方からの助言を基に作成したミッションリストを思い返す。羽沢先輩に好印象を与えることを目的とした、己に課した課題の一覧のことだ。

 

 課題1:服装を褒めること。

 課題2:昼食はハンバーグがあるとこにする。次点でイタリアン。

 課題3:昼食後はミニライブを見るか、女物の服を見て回る。

 課題4:家まで送る。

 課題5:待ち合わせは先に着くようにする。

 etc…

 

 せっかくのチャンスだ。ここで少しでもポイントを稼ぐようにしたい。 

 

 今は約束の20分前。羽沢先輩は家から近いわけだし、まだ来てはいないだろう。ひとまず”課題5”は達成だ。そう思いつつ、入り口の自動ドアを通って店内へと入った。

 

「——あ、木下くん! こんにちは。今日も早いね」

「ぇ、あ、え!? は、はい、おはようございます!」

「あはは、バイトじゃないんだから普通の挨拶でいいんだよ?」

 

 ……僕より先に来てました、羽沢先輩。どこか待機する場所を探そうとした矢先に声をかけられたものだから、気が動転してしまった。

 変な受け答えをしてしまい、耳が燃えるように熱くなった。きっと今なら、この熱だけで湯を沸かせそうだ。

 

「そ、その……こんにちは。えっと……早い、ですね。てっきり、僕が先かと……」

「私の方からお誘いしたんだもん。木下くんより遅くなったら失礼だよ」

 

 なんとも羽沢先輩らしい理由だった。……ん? ということは、確実に先になるように、かなり早い時間に来たということだろうか。……ありえる。羽沢先輩だし。いずれにせよ、いきなり失敗してしまった。先が思いやられる。

 ただ、それだけ今日の待ち合わせを大事に思っていてくれたということでいいのかな……。もしそうなら、申し訳ない気持ちもあるけど……純粋に嬉しいとも思った。

 

 気持ちが落ち着いてきたところで、羽沢先輩の服装に目が行く。そうだ、まだ課題は他にもある。気を取り直して、”課題1”に挑戦だ。今日の服装は……初めて見る服だ。

 白い長袖のブラウスの上に、薄い青の花柄のワンピース。清涼感溢れる色合いで、暑くなりつつある今の時期にぴったりだ。控えめなデザインのネックレスが全体の雰囲気を引き締め、高級感を出している。しかも、キャスケットまで被っている。これは、アレだ。ヤバイ。全く奇をてらうことなく、本人の素朴なイメージを際立たせている。清楚という言葉ですら物足りず、僕は己の語彙力の低さを嘆く。花の女子高生という言葉があるけど、今の羽沢先輩の前ではどんなに美しい花でも己の不足を悟り、種子からやり直すことだろう。だって、目の前に唯一無二にして至高の花が咲き誇っているのだから。花の女子高生というか、花の羽沢先輩だ。可愛いという言葉を重ねれば重ねるほど陳腐に感じてしまう程の可愛らしさ。課題のことなど頭から消し飛び、しばらくの間、言葉が出なかった。

 

「えっと……木下くん?」

「ぇ……は、はい! なんですか?」

「遅めの待ち合わせだったから、お腹空いちゃったよね? 早速だけど、お昼ご飯に行こっか。こっちだよ」

 

 羽沢先輩がエスカレーターに向かって歩きだす。どうやらレストラン街は上の階にあるらしい。僕はそれを慌てて追い、先輩の横……のほんの少し後ろからついていく。どうにも、真横に並ぶのは気恥ずかしかった。

 

 ……そして気づく。なんだか、服を褒めるタイミングを逃してしまった気がすることに。

 自分の作戦では、羽沢先輩の到着を待ち、なるべく元気よく挨拶して、その際の勢いを利用して一呼吸の内に服のことも褒めてしまおうと思っていたのだ。だけど、待ち合わせの時点でその試みは破綻していた。

 ”課題1”も失敗である。

 

 でもまだだ、ミッションリストはまだまだ残っている。この際、最低でも過半数が達成できればよしとしよう。

 羽沢先輩の位置から1段空けてエスカレーターに乗りながら、密かに決意を改めるのであった。

 

 

 エスカレーターで上の階に移動し、しばらく歩くとレストラン街と書かれた看板が見えた。そしてそれが正しいことを示すかのように、ちらほらと食品サンプルと思しきものが並んだショーケースのあるお店が見えてきた。

 

「たしか……こっちに……あ、あった。木下くん、ここに載ってる中から食べたいお店を選んでね。どこでも好きなとこでいいからね!」

 

 羽沢先輩に促された僕は、レストラン街の店の一覧が表示された看板の前に立つ。看板は、店の名前に写真が添えられているタイプの奴だ。一覧の中から、目的の店を探す。

 実は、僕は事前にこのショッピングモールのHPを調べて、指定する店を最初から決めてあったのだ。なので今やっているのは、ちゃんとその店が入ってるかの確認と、選んでいるフリだ。

 

 ……よし、あった。石窯ハンバーグの店だ。店の存在を確認した僕は羽沢先輩にその旨を告げ…………ようとしたのだが、視界の隅に引っかかったある店の名前に、言葉を引っ込めてしまった。

 その店は、有名な唐揚げの店だった。色んな賞を受賞していて、テレビとかでも取り上げられることがあるようなとこの。僕もずっと食べてみたかったのだが、近くになかったので、断念していた店だ。

 でもおかしい、事前のリサーチではこの店は入ってなかった筈。……あ、”new”って書いてある。最近入ったから、まだHPに反映されてなかったのか。

 

 ど、どうしよう。すごく、食べたい。だけど、ハンバーグは当然ないし、揚げ物だし、どちらかというと定食屋に近い店だし。女子には到底合わないような店だ。ここを選んじゃったら、ラーメンを勧めた宇田川先輩と同レベルだ。

 ……うん、ここは我慢だ。今日はデートに来てるんだ。また後日、改めて自分1人で食べに来ればいいし。

 

「すいません。お待たせしました。ここの、ハンバーグの店が……」

「えっ、そうなの? 私はてっきり、そこの唐揚げのお店がいいのかなって思ってたんだけど……」

「なっ……!?」

 

 え、嘘、なんで分かったの……!? 未練を見抜かれた僕は、あからさまに動揺する。

 

「ど、どうして……!」

「だって木下くん、ずっとそのお店の写真見てたから。……あの、間違ってたらごめんね? もしかしてだけど、蘭ちゃんたちから私がハンバーグが好きだってこと、聞いてたりしない?」

「ぅ……」

 

 図星だった。な、なんでそんな鋭い……いや、でも、仮に逆の立場だったら、自分でも気づくかも……。

 

「あのね、木下くん。さっきも言ったけど、遠慮しなくていいんだよ? 今日はお礼なんだから、木下くんが食べたいものを選んでほしいな」

 

 ……奇しくも、美竹先輩が言った通りになった。結局、僕は羽沢先輩に押し切られてしまい、素直に唐揚げを選ぶこととなった。”課題2”、失敗である。

 

 ちなみに、唐揚げはめちゃくちゃ美味しかった。それに、羽沢先輩も美味しそうに食べてたし、会話も弾んだ。結果オーライって奴だろうか。

 ああ、それと、僕が普通の量の唐揚げ定食を頼んだ際、羽沢先輩はまたもや僕が遠慮しているのかと勘違いしてムッと頬を膨らませていたのだが、誤解が解けると「ご、ごめんなさい。男の子って、もっとたくさん食べるんだと思ってて……」と顔を赤面させたとき、ものすごく可愛いと思いました。

 

 

 ……もう言わなくても分かるかもしれないけど、”課題3”も失敗に終わりました。ええ。

 

 まず、ミニライブは残念ながらやってなかった。まあ、これは最初から可能性の1つとして考えていたので問題ない。

 なので、羽沢先輩が好きなブランドの服のお店を回るのはどうだろうかと、勇気を出して言ってみた。多分、ずっと失敗続きだったから今度こそ、とムキになっていたのだと思う。

 ところが、羽沢先輩には「2人で楽しめるようなお店じゃないと駄目だよ!」と注意されてしまった。これまた、美竹先輩のお言葉が正解だった。今度からは美竹先輩を頼ろうと思いました。

 それで、今は急遽プランを練り直しているわけだけど……

 

「2人で楽しめる場所、ですか……」

 

 羽沢先輩の言い分は分かったのだけど、2人で楽しめそうな場所というのに心当たりはなかった。再度、映画の案が浮上したりもしたのだが、上映時間を確認したらほとんどの作品が夕方まで次の上映なかったし。

 どうしよう……せっかくのデートなのに、全然いい案が浮かばない。

 

「うーんと、木下くんは普段どういうことをしてるの? その、好きなお店とか」

「好きなお店……あの、えっと……そのですね……大した場所じゃ、ないんですけど……」

 

 ゲーセンという単語がすぐに思い浮かんだけど、これを口に出してしまっていいのか迷う。バンドや生徒会などの活動をしている先輩に対して、ゲームという存在はあまり馴染みがないのでは、と不安に思ってしまったのだ。一応、言ってみる。

 

「その……僕、よく地元のゲームセンターに行ったりしてます……」

「あ、そうなんだ! 私も巴ちゃんとかモカちゃんと一緒に時々行くよ。下の階にゲームコーナーが入ってるから、そこに行ってみるのはどうかな?」

 

 ……よかった。杞憂だったみたいだ。ちょっとくらいはゲームもやるらしい。それに、ゲーセンのことなら僕も詳しいから、2人で楽しめそうなものも紹介しやすい。というわけで、僕たちはゲームコーナーへと一緒に行くのであった。

 

 

 件のゲームコーナーは、厳密にはモールに入っているゲーセンだった。その証拠に、地元の店と同じ名前の看板が入り口に設置されていた。入り口から見えるものこそ大衆向けのクレーンゲームばかりだが、奥に行けばコア向けの筐体もたくさん置いてあることだろう。

 

「えっと、どうしよっか? 木下くんは、なにかおすすめとかある?」

「うーんと、そうですね……」

 

 いつもよりは自信ありげに答えながら、ざっと店内を回る。そこから、誰でも楽しめそうなゲームを探し出しては紹介し、一緒に遊んでいくのであった。

 

 例えば、クイズのゲーム。4択の問題を答えて、成績を競う奴だ。それを、羽沢先輩との対戦形式で遊んでみた。

 偶にやってるので勝つ自信はそれなりにあったのだけど、結果は僅かに及ばず。交互に出題されるジャンルを選択できるのだが、羽沢先輩に僕の苦手な『芸能』を選択されたのと、僕が得意な『アニメ・ゲーム』を恥ずかしくて選択できなかったからだ。

 少し悔しかったが、勝利を無邪気に喜んでいる羽沢先輩を見てたらどうでもよくなった。

 

 次に、宇田川先輩が偶にやっているとかいう太鼓のゲームもやった。これも対戦形式で遊んだ。

 このゲームもそれなりにやり込んでるけど、流石に難易度を上げることはせずに相手に合わせた。それでも結果として僕が勝ったけど、叩いてるだけで楽しかったようで、「あーあ、負けちゃった。木下くん、上手だね」と言うだけで、笑顔だった。

 

 他にもクレーンゲームとか、いわゆる定番のゲームをいくつか遊んだ。ちなみに、クレーンゲームはなにも取れなかった。僕はクレーンは一切やらないのだ。何回かやってみて、駄目だったね、という感じで適当に切り上げた。

 それでも、アームが景品を掴んで持ち上げることに成功したとき、羽沢先輩が「あ……!」と期待するように声をあげ、あえなく落ちてしまったときに「あ……」と残念そうに呟く様子は賑やかで、いつまでも見ていたい可愛さだった。

 

 そして、最後に遊んだのが……僕が最も熱中してる、あのキーボード風の音ゲーだ。1回店内を回ったとき、置いてあるのを確認しておいた。

 本物のキーボードをやってる羽沢先輩なら興味を持ってくれるのではないかという期待は、見事に的中してくれた。「こういうゲームもあるんだね。面白そう!」と遊ぶ前から喜んでくれた。

 

 最初は僕がプレイし、遊び方を説明した。説明を兼ねてたので、1曲目の難易度は控えめにした。2曲目は難易度がそこそこ高く、それでいてノーミスクリアの経験のある曲を選択。かっこよく決めようとしたけど、気負い過ぎたのか、何度かミスをしてしまった。

 それでも羽沢先輩は「わあ、すごいね!」と小さく手を叩いてくれたので、なんだか嬉しいような、こそばゆいような気持ちになった。

 次に、羽沢先輩がプレイした。バンドのキーボードをやってるくらいだし、初見でも相当上手いだろうと思っていた。ただ、意外にも僕の完全な予想通りとはならなかった。

 

「あ! ……あはは、失敗しちゃった」

 

 曲の途中で画面が切り替わり、淡々と失敗したことをプレイヤーに告げていた。羽沢先輩は苦笑いを浮かべていた。

 僕の予想は、ある程度までは正しかった。初級や中〜上級の難易度のものは、難なくクリアしていた。ところが、最後にもっと上の難易度を試したら、ついていけずに失敗してしまったのだ。ちなみに、僕はクリア済みの奴だった。

 

「……なんか、キーボードと比べて違う所ありました?」

「うーん、楽譜が違うから反応がちょっと遅れちゃったかな。あと、あんな長いグリッサンドも初めてだったから戸惑っちゃった……」

「グリッサンド?」

「あ、ごめんね、それじゃ分からないよね。えっと、長押しでスライドさせる所のことだよ」

 

 ……ああ、そういえば。確かに、僕が長押しでやるやり方とは違う方法でやってた気がする。キーボードでの癖が逆に弊害になることもあるのかもしれない。

 

「でも、面白かったなあ。あの、木下くん。もう1回だけやってみてもいい?」

「え? は、はい、どうぞ……」

「えへへ、ありがとう。よーし、次はちゃんとクリアできるように頑張らないと!」

 

 思っていた以上に、好評ではあったようだ。”課題3”とはかけ離れた結果になったものの、これはこれでいっか、と思うのであった。

 

 

 楽しい時間はあっという間に過ぎる。18時を回り、夕飯が目前となる。そろそろ、解散の時間だった。2人で横に並びながら、モールの出口を目指す。

 

「——それでね、今度ライブをやることになってるんだ。よかったら、見に来てね」

「はい、もちろんです」

 

 雑談に花を咲かせる。今まではバイトの先輩という意識が強かったけど、今日1日だけで随分と羽沢先輩と仲良くなれた気がする。課題の達成に失敗してばかりで色々と空回りが多かったのが心残りだけど、とっても幸せな時間だった。

 

 ……っとと。いけない、いけない、忘れてた。まだ、達成できる可能性のある課題が1つだけ残っているのだ。それは、家まで送ること。この点に関しては、4人の先輩方の間でも意見が一致していた。

 

 自分から言い出すのは結構な勇気が必要なことであったが、デートを通して幾ばくか口が回りやすくなった僕は、自分でもびっくりする程すんなりと口にできた。

 

「あの、羽沢先輩。よかったらですけど、家まで送ります」

「え? あはは、大丈夫だよ。ここから家までそんなに離れてないし、木下くんの家から逆方向だよ?」

 

 痛い所を突かれる。実はこのショッピングモール、普段より1つ手前の駅から歩いた方が近いのだ。現に、今日はそうしている。だから、商店街の方まで歩いていくと遠回りになる。つまりは、逆に羽沢先輩に気遣われてしまっている。

 

「でも、そろそろ暗くなってきますし……」

「もう7月も近いから平気だよ。ふふっ、ありがとう。気持ちだけ受け取っておくね」

 

 なおも粘ってみるが、するりと躱されてしまう。ま、まずい……流石に無理にくっついて送っていくわけにはいかないし。

 もう自動ドアをくぐってしまったし、時間がない。どうにかして納得してもらわないと。そう思い、次の言葉を絞り出そうとする。

 

 ——直後、視界が一瞬だけ真っ白に染まった。

 

「え……」

「っ……!」

 

 なんだ、と疑問に思う暇すらほとんどなかった。数秒後、空が砕けるような轟音が鳴り、鼓膜が八つ裂きにされたかのような衝撃が走る。同時に、腹の底まで響くような空気の震えが体中を突き抜けた。その凄まじさに、微かに恐怖心が湧き起こったくらいだ。

 

 天の怒り、と形容するに相応しい雷だった。雷光から雷鳴までの間隔的に、かなり近いみたいだ。空は黒雲で埋め尽くされ、この時期のこの時間にしては既にかなり暗くなっている。今はまだ平気だが、その内雨も降り出すかもしれない。そして残念なことに、今日は傘を持っていない。

 

「すごかったですね、今の。予報では、特になにも言われてなかったのに」

 

 …………あれ? 羽沢先輩から返事がない。モールを出たばかりだし、さっきまで隣に居た筈だ。おかしいなと思い、横を見る。…………居ない。え、嘘、もしかして帰っちゃった?

 ……と、思ったが、そうではなかった。店内と入り口を繋ぐ、合間の空間。そこに、僕から背を向ける形で立っていた。僕も引き返し、羽沢先輩の後ろに立つ。それでも僕の存在に気づく様子はなく、微動だにしなかった。

 

「あの、羽沢先輩? どうしました?」

 

 声をかけてみる。すると、羽沢先輩の両肩がビクッ、と跳ねた。

 

「——ッ!! ……き、木下くん……!」

「え、あ、えっ……!?」

 

 突然のことだった。羽沢先輩が急に距離を詰めてきたかと思ったら、僕の片腕にしがみ付いてきたのだ。かなり強い力で締め付けられていて、その場から動けなくなる。

 ちょ、これ、ヤバイ……なんか、髪からいい匂いがするし、服が薄めだから体温がしっかり伝わってくる。それに、なにがとは言わないけど、腕に柔らかい感触が押し付けられているのが分かる。女子と密着すること自体初めての経験なのに……羽沢先輩にこんなことされたら理性が……ガリガリ、削れる。心臓はバクバク。体温は急上昇。顔は頭がクラクラしてくるくらい熱い。どうにかなってしまいそうだ。

 

 ……だが、次の一言で僕は少しばかりの平静を取り戻すことになる。煙に混じって消えてしまいそうな程に小さな声が、そっと耳に入ったのだ。

 

「お、お願い木下くん…………い、家まで……っ……送って、ください……」

「え……?」

 

 そこでようやく、僕は羽沢先輩の体が小刻みに震えているのに気づいた。両方の瞳に、大粒の涙を浮かべていることにも。しかも、見るからに顔は真っ青だ。その表情は、狼に怯える子羊のようだった。

 それらの要素から導き出される答えは1つだけ。羽沢先輩は…………雷が苦手に違いない。それも、非常に深刻なレベルで。

 

 最後の課題は達成した。でも、そんなのはどうでもよかった。もう、それどころではないのだということを悟ったのだから。

 

 

 



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第6話 雨の中の決意


前回からやむを得ず分割した分なので短めです。ごめんね。


 雷鳴轟く暗雲の中、僕たちはショッピングモールを出て『羽沢珈琲店』を目指して歩き始めた。降り出す気配は今の所ない。

 徒歩での距離としては決して遠いわけではないのだが、近いと言い切れるほどではない。大体、20分程度の距離だ。ただ、おそらくは通常より時間はかかるだろう。なぜなら、雷が鳴る度に羽沢先輩が足を止めてしまうからだ。

 

「ッ……!」

 

 山が崩れたかのような天の怒号に羽沢先輩が肩を震わせる。さっきよりも光ってから鳴るまでの間隔が短くなっている。おそらく、もうすぐ真上に来る。僕でも少し怖いのだ。羽沢先輩が足を止めてしまうのも無理はない。

 

 他の人も屋内に退避したのか、人の気配が感じられなくなりつつある道を僕たちは進む。風切り音が止め処なく吹き荒れる。電柱で結ばれたケーブルがブランコが如く揺れ、標識などの看板がガタガタとたわむ。これが映画だったら、間違いなく世界が滅ぶ前兆を仄めかすシーンだ。

 

 羽沢先輩は一言も発さず、僕の腕にしがみ付いたまま決して離れようとしない。見えない鎖で繋がれたみたいに、ちょっと揺すったくらいじゃびくともしない。

 

 ……服越しに伝わる体温、心臓の鼓動、呼吸に合わせて上下する胸、歩く度に形が微妙に変化する柔らかな感触。それら全ての感覚が同時に僕の腕に襲いかかってくる。チリチリと頭の中で散る火花が思考を鈍らせ、定期的に湧き上がる衝動が僕を苛む。

 なんというか……その……やっぱりこの密着状態は色々と危険だ。思わず、生唾を飲んでしまう。

 

 ……って、こんなときに、なに考えてるんだ……僕! ここはもっと羽沢先輩のことを心配すべき場面だろう。先輩が本気で怯えていることくらい、分かっているだろ?

 きっと、羞恥心なんてものを感じる余裕がないほどに、追い詰められている筈だ。そうでなければ、前言を撤回までして僕に家まで送ってほしいなんて言わないし、こんな密着してこないに違いない。

 いつも助けてもらってばかりなんだから、せめて今日くらい頑張らないと……!

 

 表面上は平静を装いつつ、羽沢先輩の様子を気にかける。うーん、このペースだと、いつまでも先輩を雷雲の下に晒してしまう。ちょっと、急いだ方がいいだろう。

 

「……羽沢先輩。もう少しペースを上げられますか? 速く歩けば、それだけ早く着きます」

 

 言葉が返ってくることはなかった。その代わり、羽沢先輩は肯定を示すかのようにコクリと小さく頷いた。すると、ほんの気持ち程度歩く速度が上がった。カタツムリから、カメくらいにはなったと思う。

 

 いつも笑顔でにこやかに接してくれる羽沢先輩が、こんなにも弱った表情を見せるなんて……。怖いものくらいあって当然なのに、こんな一面があるなんてこと、想像もしなかった。

 

「ひぅ……ッ!!」

 

 うわ……! ますます密着……って違う! そうじゃなくて! 落ち着くんだ、僕。とにかく、なるべく羽沢先輩の方を見ないようにしないと……!

 先輩の潤んだ瞳が視界に入るだけで、麻薬が如き甘い痺れが脳を侵食するのだ。あの状態が続いたら、なにをしでかすか分からない。あれは、危険過ぎる。

 

 遠くの景色を見ることで気を紛らわしながら、羽沢先輩を先導していくのであった。

 

 

***

 

 

 怖い。理性ではどうしようもないくらい怖くて、怖くて、怖くてしょうがない。視界が白で明滅する度に全身が硬直する。畳みかけてくる雷鳴に心が押し潰され、悲鳴すらも出せなくなってしまう。

 

 昔からずっとこうだった。雷が大の苦手で、高2になった今でも全く克服できない。普段だったら幼馴染の誰かが一緒に帰ってくれた。特に、私より身長の高い巴ちゃんはとっても頼りになった。だって、雷はより高い所に落ちるから。

 

 送ってほしいという私のお願いを、木下くんはほとんど間を置かずして引き受けてくれた。雷に気づく前、私はあんなに木下くんの申し出を断っていたのに。文句1つ言わずに、腕を貸し、歩調を私に合わせてくれる。

 歩きづらく、ないかな……こんなに引っ付いちゃって暑く、ないかな……現状が申し訳なくて、そんな心配ばかりしてしまう。

 

 ダメダメだなあ、私。前に助けてもらったお礼の為にお誘いしたのに、また助けてもらっちゃっている。私の方が先輩で、本当なら私の方がしっかりしてないといけないのに。

 この前だってそう。迷惑かけないようにって無理して、その結果火傷に気づかれて心配されて、助けてもらって。空回りしてばっかりだ。

 

 ……でも、木下くんは迷惑だと思ってるかもしれないけど、この腕にしがみ付いている体勢はちょっと安心する。

 木下くんは細身な方だと思ってたけど、こうして腕を掴んでいると、意外としっかりしているのだ。それに私よりはずっと背が高いし、お店で働いているときも私じゃ持てない量の荷物を軽々と持っていた。

 細身でも、年下でも、やっぱり男の子なんだなあ、ということを今まさに実感している。雷は怖いけど、完全には取り乱さずにいられるのは木下くんのおかげだ。男の子の側がこんなにも安心できる場所だなんて、知らなかった。

 

 また、お礼しないと。そう思いつつ、私は木下くんを頼りに歩き続けるのであった。

 

***

 

 

 非常に遅いペースながらも、僕たちは順調に商店街の方へと近づいていた。徒歩で10分くらいの距離までは近づいたと思う。商店街近くの、大きめの公園の端が見えてきた。

 風が強いおかげか、雷も真上は通り過ぎたようで、光ってから数秒後の間隔に戻っている。羽沢先輩は相変わらず無言だが、腕に込められている力が気持ち緩んだ気がする。ああそれと、腕にしがみ付かれているというこの状況にも、だいぶ慣れてきた。そのおかげで、羽沢先輩のことを気遣う余裕が出てきた。

 

「……羽沢先輩。公園が見えてきました。もうすぐ商店街です、頑張りましょう」

 

 少しでも羽沢先輩を落ち着かせる目的で現在地を告げる。先輩も認識しているかもしれないけど、念の為だ。

 

「……うん」

 

 思わず羽沢先輩の方を向いてしまった。今までずっと言葉を発さなかった羽沢先輩がようやくしゃべってくれたのだ。雷が遠ざかり始め、幾ばくかの平静を取り戻したのだろう。内心、ほっとする。

 

「……ありがとう、木下くん。また、助けられちゃった」

「いえ、羽沢先輩が大丈夫そうでよかった——」

 

 ”です”……まで言い切ろうとしたそのときだった。はっきりと目に映るくらい、上から下へと大粒のなにかが視界をよぎった。

 ……あ、これ、まずいかも。上を見る。直後、冷たいものが頬に当たった。水滴……つまりは、雨粒だ。

 

 どうしよう、と考える暇すらなかった。1粒、2粒と立て続けに落ちてきて……ほんの数秒後、雨に溜め込まれていた雨粒が一斉に落ちてきたかのような大雨となった。機関銃のように雨粒が地面を叩き、一瞬で僕らの服をびしょ濡れに変えた。

 ——目を合わせる。お互い、なにか驚きの声を漏らした筈だが、雨音にかき消されてしまった。

 

 や、やっぱりケチらずにモールで傘買っておけばよかった……! そう思っても後の祭り。とにかく臨時で雨風を凌げる場所はないかと、周囲を見渡す。

 ……あった。公園の入り口のすぐ近くに東屋がある。造りもしっかりしてそうで、この豪雨にも耐えられるだろう。

 

「羽沢先輩、一旦あそこに入りましょう!」

 

 返事は聞かない。聞く暇がない。走り出したことで結果的に腕の拘束を解いてしまった僕は、代わりに羽沢先輩の手首を掴んで先導する。先輩もこの雨の中にいつまでも居たくなかったのか、遅れながらも付いて来てくれたのが手の感触で分かった。

 

 顔に打ち付けられる雨粒が地味に痛い。早く屋根の下に入りたい。その一心で走り続け、公園に入った僕たちはようやく東屋へと到達した。

 ……うげ、気持ち悪い。靴下がぐちゅぐちゅ言ってる。全身も、大波に飲み込まれたあとみたいに濡れてしまった。

 

「羽沢先輩、だいじょう——ッ!?」

「……? 木下くん?」

 

 羽沢先輩の様子を確認しようと顔を向けて……次の瞬間には逸らしてしまう。雨で濡れたブラウスが張り付き、色々といけないものを浮かび上がらせていたのだ。例えば、本来は見えてはいけない淡い青の肩紐とか。背中に広がる肌色とか。

 せっかく落ち着いてきていたのに、どぎまぎが復活する。チラ見したい衝動を必死に抑える。

 

「…………っ!? ご、ごめんね、変なもの見せちゃって……!」

 

 しかし、努力の甲斐なく羽沢先輩に一連の行動の意味を悟られてしまったらしい。きっと、今は腕でなるべく透けている部分を隠しているのだろう。そしてなぜか、謝られてしまう。変なものではなく素晴らしいものなのだが、口には出さない。出したら引かれるのは分かりきっている。

 

 互いに顔を合わせぬまま、きまずい沈黙が続く。こういうときはえっと……あ、そうだ! 僕は着ていた上着を脱ぎ、軽く絞って水気を切る。幸い、今日着てきた上着は透けるような色ではない。その上着を、羽沢先輩の方に差し出す。もちろん、見ないようにしながら。

 

「あ、あの……もし嫌でなければですけど、これで……」

「え……? だ、駄目だよ! 木下くんだって濡れてるのに……冷えちゃうよ?」

「僕は別に、大丈夫です。むしろ、お互いを見れない今の方がきまずくて嫌です。あー、えっと……あれです、僕を助けると思って、みたいな」

 

 なるべく、羽沢先輩が断りにくそうな言葉を自分なりに選ぶ。これでもこの1ヶ月半、バイトを通して羽沢先輩のことを観察してきた身だ。少しずつだけど、羽沢先輩がどういう考え方をするのかは分かってきている。

 

 しばらくは逡巡していた様子の羽沢先輩だったが、やがて僕が上着を引っ込める気がないことを悟ったのか、「ごめんね。それじゃあ、お借りするね」と受け取ってくれた。これでようやく、羽沢先輩の方を向いて話ができる。

 ちなみに、羽沢先輩は上から羽織るような形で僕の上着を身に着けていた。

 

「雷も遠ざかってきましたし、しばらく様子を見ましょう。降り止まないようでしたら、僕が近くのコンビニで傘を買ってきます」

 

 雷鳴も、だいぶ控えめになってきた。鼓膜に圧力がかかることもないし、明確に遠くで鳴ってると分かる程度の音量だ。ひとまず、雷はやり過ごしたと言っていいだろう。

 商店街までもうそんな遠くないのだし、雨の勢いが収まったら歩いてしまった方がいいと思う。

 

「うん、ありがとう。でも、傘を買いに行くときは私も一緒に行っていい? その、1人になっちゃうのは、まだ、ちょっと……」

「あ……そ、そうですよね。 すいません、そこまで気が回らなくて……」

 

 そうだった、遠ざかったとはいえ、まだ雷は健在なんだった。それに、こんな濡れた格好で女子を1人きりにするというのも、よくよく考えれば危険な行為だ。なぜ気づかなかったのだろう。迂闊にも程がある。

 

「ううん、気にしないで。……私の方こそごめんね。いつもいつも助けてもらっちゃって」

「……え? いつもって……それこそ、そんなことないと思いますけど……」

 

 思いもよらぬ言葉に、僕は首を傾げる。助けたと言っても、前回の火傷のときと今日の雷くらいじゃないだろうか。羽沢先輩に助けてもらった回数と比べれば、大したことはない。

 

「でも、木下くんって備品の補充とかこまめにやってくれるでしょ? あと、時間があるときにキッチンの汚れがちな所の掃除をしてくれたり。あ、この前私がパフェを用意しようとしてたとき、必要なものをあらかじめ側に置いておいてくれたよね?」

「まあ、そうですけど。でも、それは仕事だから……」

「うん、それはそうなんだけどね。でも、それ以外にも色々と細かいことにも気づいて動いてくれるから、木下くんと一緒のときは動きやすいなって思ってたの。木下くんは当たり前って思ってるのかもしれないけど、それって本当はすごいことなんだよ?」

 

 なぜか、かなり褒められている。なんだかこそばゆい。羽沢先輩はやたらと相手のことを肯定、もしくは褒める傾向がある。ちゃんと見ていてくれていたことは嬉しいのだが、自分としては本当に大したことないと思っているのだ。

 ……それに、仮にその通りだったとしても、羽沢先輩と比べれば大したことはない。

 

「……でも、そんなこと言ったら羽沢先輩の方がすごいですよ」

「えっ?」

「羽丘に行ってる姉から聞きました。羽沢先輩、生徒会の副会長なんですよね? しかも進学校の羽丘の。それに、バンドだってやってますし、家の手伝いまでして……僕なんかより全然すごいですよ……」

 

 ……なんか言ってて悲しくなってきた。最後の方は自嘲気味になっちゃったし。口にすればするほど、自分との差を痛感してしまう。羽沢先輩と釣り合うだけのものを、持っていないと分かってしまう。

 というか、なにを言っちゃってるんだろ、僕。羽沢先輩に愚痴を漏らす場面じゃないのに。雨のせいで気持ちまで落ち込んでるのだろうか。

 我に返った僕は急いで前言を撤回しようとする。だが、もう遅かった。僕が口を開く頃には

羽沢先輩の声が聞こえていた。

 

「ふふっ、ありがとう。でも、私だって別に大したことはないんだよ?」

「いや、そんなこと言ったって実際色々やってるじゃないですか」

 

 僕の反論に、羽沢先輩は困ったように愛想笑いのようなものを浮かべる。しばらく返事に悩んでいたようだが、やがて考えが纏まったのか、ゆっくりと話を再開する。

 

「……うーんとね、確かに副会長をやらさせてもらってるけど、まだ先輩たちみたいに作業は速くなくて、練習の日なのに蘭ちゃんたちを待たせちゃうことがあるんだ。キーボードだって私より上手な人はいっぱいいるよ? それに、『Afterglow』のみんなも演奏がとっても上手だから焦っちゃうこともあるし」

 

 なんでも、昔やったライブの後に、SNS上で自分のことだけ話題に上ってないことに焦ってしまい、口では言えないような迷走を繰り返したこともあったらしい。一応詳細を伺ってみたが、頑なに語ろうとしなかった。

 

 それからも、ポツリポツリと自身がいかにすごくないのかを語り続ける羽沢先輩。ただ、僕のときと違うのは、それらの言葉からネガティブな感情はあまり感じられないことだ。ただ淡々と事実を述べている、そんな感じだ。

 

「だからね、前にもちょっとだけ言ったけど……頑張らなくちゃって思うんだ」

 

 明るい調子の声。それは、まるで自分を鼓舞するかのようにも聞こえた。

 

「私自身は全然大したことなくて、だからせめてみんなに迷惑をかけないように精一杯頑張ろうって思うの。頑張って頑張って少しでも前に進んで、置いていかれないようにって。頑張り過ぎてこの前みたいに迷惑かけちゃうこともあるし、頑張り方が間違ってたときもあったけど、それでも私には頑張ることしかできないから。……ね? 私も全然すごくないでしょ?」

 

 雨音が屋根を叩く中、羽沢先輩は苦笑いを浮かべてそう言った。羽沢先輩の言葉に、僕はすぐには返事をすることができなかった。羽沢先輩が秘める強さと弱さ。それを同時に見せてもらった気がする。

 前向きで思い切りがありながら、自信はない。自信がないから、努力する。自己評価が低いから、なんでもかんでもやろうとする。普通だと自覚しながらも、普通であるまいと足掻いている。……そして、雷のように頑張った所でどうにもならなかったものもあるのだろう。

 

 今までは、一目惚れというフィルターと多くの肩書によって塗り固められた、完璧超人なのではという僕の勝手なイメージがあった。高嶺の花なのではないかという思い込みが。

 一目惚れなわけだから、第一印象が悪い筈がない。そして、バンドという、いかにもかっこよさげな活動をしていて、進学校の副会長で、実家の手伝いまでしている。しかも、明るくて面倒見がよい。一見すると、完璧な人間に見えた。そういう部分ばかりが見えていたせいか、どこか萎縮していた所もあった。

 

 だからこそ、今日見せてもらった雷を怖がっている羽沢先輩の姿は割と衝撃だった。誰でも怯えうるものに羽沢先輩も怯えるという事実に、等身大の羽沢先輩というものを見た。そして、たった今聞かされた話が更なるダメ押しとなった。これまで抱いていたイメージは、泡のように消えてしまった。

 

 ……羽沢先輩は、積極的に動くという部分を除けば、割と僕と近い性質の人なんだと思う。主に自信がないという所が。ただ、それに対する解答が違っただけで。僕は自信がないあまり行動を起こすことを恐れるけど、先輩は自信のなさを行動によって克服しようとする。

 僕には無縁なライブという世界で、キーボードを演奏していた羽沢先輩の姿を思い出す。他の先輩方に聞いたことだが、元々バンドを始めようと言い出したのも羽沢先輩らしい。

 僕と似ている部分がありながらも真逆の道を進んだ羽沢先輩。それが、真の先輩の姿なのだと悟った。自身が普通であることを認めつつ、なにごとにも積極的に立ち向かっていくことを選んだ先輩を……僕は、この瞬間、心の底から……かっこいいなと思った。

 

「やっぱ、羽沢先輩はすごいです……」

「……? 今、なにか言った?」

「いえ、なにも」

 

 本当の意味で、羽沢先輩が魅力的な人に思えてきた。一目惚れがどうとか、容姿がどうとかではない。どこまでも普通な所が。それを努力でカバーしようとする所が。その内面に、僕は改めて惹かれている。今までより、ずっと強く。

 

 ……一目惚れした遠い存在の人に少しでも近づけたらいいな、とか奇跡が起こって恋人になれたらいいな、みたいな妄想に近いことばかり考えていた。だから、ショッピングモールでのミッションもグダグダに終わったんだと思う。まあ、デート自体は楽しかったけど。

 でも、今はそうじゃなくて……単純に、もっと羽沢先輩の力になりたいと思った。今日のように助けるのでもいいし、先輩の負担を少しでも減らす方向でもいい。火傷のときみたいなことを再度起こさないように、できる限り支えられる存在になりたい。そう思った。

 

 ……なんというか、不思議な感じだ。ドキドキするのではなくて、ポカポカと温かい気持ちだ。少し前までは、側に居られるだけで少なからず緊張したのに、今はそんなことはない。いや、ちょっとはあるけど。

 

 頑張ってみたい。羽沢先輩みたいになれるように。羽沢先輩をもっと助けられる存在になれるように。まずは、バイトをもっと頑張ってみよう。コーヒーのことも少し勉強してみよう。接客は苦手だけど、もっと頑張ろう。そう、思った。

 

「あ……」

 

 雨が、弱まってきた。これなら、そう遠くない内に小雨になるだろう。

 

「もう少ししたら、行きます?」

「うん、そうだね。あ、家に着いたら服が乾くまでは休憩していって。お礼にコーヒーくらいはお出しするから」

「ありがとうございます。今度は気をつけてくださいね」

「あはは……うん、火傷しないように頑張るね」

 

 その後、雨が完全に上がった所を見計らって再び出発した僕らは無事に『羽沢珈琲店』まで辿り着いた。それから羽沢先輩の淹れたコーヒーをごちそうになった僕は、しばらく休憩してから帰路に就くのであった。

 雨の中で得た、新たな決意を胸に抱いて。

 

 

 



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第7話 似たもの同士

 あの雨の日の決意以降、僕は羽沢先輩の支えになるべく、もっと頑張ってみることにした。まず、今すぐにでもできそうなことから取り組み始めた。

 

 第1に、バイトに入る日数を増やした。そうすれば必然的に羽沢先輩は休みやすくなるし、一緒に働いていたとしてもサポートができる。マスターの指導を受ける機会が増えるのも大きなメリットだ。

 

 次に、バイト以外の時間にもコーヒーの勉強をするようになった。『羽沢珈琲店』は紅茶も出しているが、やっぱり主力はコーヒーだ。僕が少しでも早くコーヒーを担当できるようになれば、作業を羽沢先輩と分担しやすくなる。

 勉強をするにあたって、有名なバリスタによるコーヒーの教本を何冊か購入した。すぐに必要じゃないけど、焙煎に関する知識も取り入れ始めた。元々勉強は得意な方だ。特に問題なく学習は進んだ。

 

 さらに、コーヒーを淹れる為の道具を一式揃えた。手の届く範囲のものを購入した為、業務用の設備には及ばないけど、練習には十分のものを揃えたつもりだ。

 練習は基本的には、焙煎済みの豆を挽いて、ドリップするの繰り返しだ。焙煎はまだ試してない。

 試飲は姉さんにやってもらった。最初の方の感想は「インスタントよりは美味しいんじゃない?」と散々だった。だけど、試飲を繰り返してもらう度に評価は上がり、今は「コンビニの奴よりは美味しいんじゃない?」までにはなった。ついでに、バイト代も消し飛んだ。

 

 そんなこんなで、非常に充実した2週間を送ってきた。暑くなってきたので学校の制服も夏服に切り替え、気分も入れ替わった。着実に進歩しているというのを久々に実感しながら、日々を過ごしていくのであった。

 

 ……だけど、このときは、実はとんでもないことを忘れているということに、僕はまだ気づいていなかった。

 

 

 日曜日。いつも通りにバイトをこなし、閉店となった後のこと。一通りの清掃を済ませた僕は、キッチンに立ってコーヒーを淹れていた。

 お湯の温度を調節し、しっかりと蒸らしを挟んでからお湯を注ぎ、ドリップさせていく。ブレンドされたコーヒー豆の香ばしい匂いがふんわりと広がり、鼻腔をくすぐる。よし、いい感じだと思う。これまでの練習の経験からすれば、今回の出来は結構期待できそうだ。

 抽出が終わったコーヒーを温めてあったカップに注ぐ。それも2人分。均等に注いだそれをトレーに乗せると、カウンターで待っていてくれた2人……マスターと羽沢先輩のもとへと運んだ。

 

「お待たせしました、マスター、羽沢先輩」

「お、ありがとう。さて、今日はどんな感じかな?」

「ありがとう木下くん。いただくね」

 

 それぞれの席の前にカップを置くと、2人から礼を言われた。2人がカップを眺めているのを、後ろから見守り結果を待つ。

 実はこれ、マスターと羽沢先輩にコーヒーの試飲というか、テストをやってもらっているのだ。頻度としてはシフト4回に1回くらい。マスターは毎回参加だが、スケジュールの関係で羽沢先輩はまだこれで2回目だ。

 この試飲会は僕の方からマスターにお願いしたことだ。なるべく早くコーヒーが淹れられるようになりたくて個人で練習もしてるから、テストしてほしい、と。とはいえ、この頻度はちょっと予想外だった。自分としては月2くらいをイメージしてたから。

 

 マスターはブラックのままカップに口を付ける一方で、羽沢先輩はミルクと砂糖を入れてから飲んでいた。前回羽沢先輩が参加したときに知ったのだが、先輩はブラックが苦手らしい。

 前回はブラックのままコーヒーを口にして、苦そうに顔をしかめていた。喫茶店の娘なのにブラックが駄目なのだと知られたくなかったかららしい。そんな所まで頑張らなくてもいいんじゃないかと、あのときは思った。

 

「……ふむ」

 

 息を呑み、マスターの感想を待つ。はっきし言って、マスターの評価は姉さんより厳しめだ。言葉そのものは優しめなんだけど、付ける点数は低めというか。その辺りはやっぱりプロなんだなと思う。

 

「……うん、店でお出しするにはまだもう少しかかると思うけど、この2週間で随分よくなったと思うよ」

 

 その言葉に、口元が緩むのを感じた。合格点ではないものの、間違いなく今までで最も高い評価をいただけた。練習は無駄ではなかったようだ。

 

「私もそう思うな。前より雑味が減って、すっきりしてて飲みやすいよ。木下くん、すごい頑張ってるね」

「あー、まあ……だいぶお世話になってるんで、これくらいはやらないとかな、と思いまして……」

 

 花が咲くような羽沢先輩の笑顔に、半ば照れ隠しのような返事をしてしまう。頑張っている本当の理由を羽沢先輩にだけは言えない、というのもあるけど。

 

「ごちそうさま。それじゃあ、奥で経理回りのことをやってるから、残ってる分の片付けをお願いね」

「はい。お疲れ様でした」

 

 コーヒーを飲み終わったマスターが奥へと姿を消す。僕は、少し遅れて飲み終えた羽沢先輩のカップも回収し、シンクに持っていく。残った洗い物を済ませ、コンロを閉じればおしまいだ。

 

「あ、コンロは私がやるね。洗い物だけお願い」

 

 ……と、思ったらコンロは羽沢先輩に取られてしまった。まあ、お湯沸かすのに使っただけで、既に簡単に掃除はしてあるので、大した負担ではない。お願いしても問題ないだろう。ここで変に仕事を取り合っても時間の無駄だろうし。

 

「そういえば木下くん、最近すごいたくさんシフト入ってくれてるよね? イヴちゃんが忙しくてあまり入れなくなっちゃったからとても助かってるんだけど、大丈夫?」

「……? ええ、特に無理してるとかではないですけど……」

 

 忙しいのは事実だけど、ちゃんと自分で決めてやっていることだ。むしろ充実してるし、思っていた以上にコーヒーの勉強は楽しい。実際、自分用のコーヒー豆も欲しいなと思っていたりする。

 

「そっか。ならいいんだ。変なこと聞いちゃってごめんね?」

 

 僕の表情か、返事の仕方か。なにが要因かは分からないけど、僕の言葉を信じてくれたようだ。あっさりと質問を切り上げて、羽沢先輩は作業に戻った。

 それからは作業も滞りなく完了し、僕は上がって帰宅するのであった。

 

 

 家に帰り、リビングに入ると先に帰っていたらしい姉さんの姿があった。テレビのオンデマンドで映画を見ているようだ。

 

「ただいま」

「おかえり。夕飯できてるから食べちゃいな」

「あれ、姉さんが作ったの? 母さんは?」

「なんか用事あるって2人で出かけたよ。深夜までかかるって」

 

 ああ、だからテレビを独占してるのか。

 まあ、こういうことは時々あるので驚きはない。僕は席につき、テーブルに置かれた料理を見る。チャーハンだ。僕の帰りが遅いので冷めてはいるだろうけど、十分美味しそうだ。

 

「ありがとう。お礼にコーヒーでも淹れる?」

「お礼って……あんたが練習したいだけでしょ」

「まあ、そうなんだけど。でも、今日はマスターにも結構褒められたよ」

「ふーん。あんだけ練習してたしね。当然ちゃ当然か。一応、期待しておいてあげましょう」

 

 試飲の約束を取り付ける。今日はどういうブレンドにしようか。せっかくマスターに褒められたばかりだし、ここは『羽沢珈琲店』のオリジナルブレンドがいいかな。

 

「ところでさ、あんた最近コーヒーの勉強とかバイトばっかりしてるけど、試験の方は平気なの?」

「ん、試験って?」

「いや、期末のことに決まってんでしょうが」

 

 ああ、期末。期末試験のことね……………………ん? え、あれ、期末?

 

「え、ちょっと待って。今日って何日だっけ……」

「7月1日。私は再来週の月曜からだけど、あんたは?」

「……5日から」

 

 つまり、4日後。そして、今日は既に夜。しかも3日から8日までシフトを入れちゃっている。トドメに、ここ最近はコーヒーやバイトに夢中で最低限の勉強すらロクにやってなかった。試験勉強なんて論外のレベルだ。

 

 肝が冷える、という表現は今このときの為に存在するのだということを知る。進学校で、初めての定期テストで、試験勉強してなくて、あと4日しかない。……やば。

 

「……あんた、忘れてたでしょ」

 

 姉さんの呆れた目線。その通りだ。完全に忘れていた。今までにない充実感を味わっていたせいか、意識に全く上がらなかった。

 

 しかし、これはまずい。本当にまずい。まずい通り越して絶体絶命だ。僕がバイトやらゲーセンやら自由にできているのは、親の求める成績の水準を保っているからというのが大きい。もし大きく順位を落とすようなことがあれば、きっとバイトを辞めさせられてしまう。

 しかも、中学のときとは違って今通っている高校は進学校なのだ。必然的に、上位にはかなり勉強ができる人たちが集まっている。高校になってから難易度そのものも上がったので、相当頑張らないと上位は厳しい。

 

 ……もしかして、羽沢先輩が今日、僕のシフトを心配してたのってこれが理由? だとしたら、僕は嘘ついた。すいません、羽沢先輩。全然、全くもって大丈夫じゃないです。

 

「あー、えっと、ごめん。コーヒーはまた今度でいい?」

「いいから、さっさと食べて勉強しなって。成績落ちたら、お父さんうるさいよ?」

「うん、分かってる……」

 

 こうなってくると、バイトに時間を取られるというのは非常に苦しい。だけど、1度シフトを入れた手前、直前で取り消すのはなしだ。

 ……普通に勉強してたら、絶対間に合わない。特に、日曜である今日をほぼ潰してしまったのは痛い。日程的に早くに始まる科目を優先しつつ、睡眠時間を極限まで削る……というかほぼ寝ずに勉強するしかない。

 徹夜なんてゲームでもやったことないけど……もう覚悟を決めよう。今まで通り、バイトを続けられるように。

 

 流し込むようにしてチャーハンを平らげた僕は、家に蓄えられていた栄養食をいくつか拝借し、部屋に籠もって勉強を始めるのであった。

 

 

 ……眠い。立っているにも関わらず、瞼が重くて閉じそうになる。平衡感覚も若干怪しい。あくびを噛み殺し、涙を瞬きで誤魔化す。

 

 7月3日。今はバイト中でキッチンに入っている。つまり、猛勉強を開始してから2日が経過した。そして、徹夜に慣れてない僕は早くも疲労を感じ始めていた。

 

 一応、少しは寝ている。1日1時間ちょっとくらい。でもなんというか、少し目を閉じてたら起きる時間になってたって感じで、全然休めている気がしない。

 時間を重ねれば重ねるほど睡魔が強くなり、集中力が加速度的に奪われていく。バイトの継続という目標があるから頑張れてるけど、そうじゃなかったらとっくに寝落ちしている。

 

「羽沢先輩。4番卓のホットサンドです」

 

 皿に盛り付けた料理を台に置く。近くにいた羽沢先輩が料理を取りに来る。

 

「ありがとう。……あれ? 木下くん、2番卓のフライドポテトが先に入ってたと思うけど、そっちはどう?」

「え……?」

 

 少し前に羽沢先輩から受け取った伝票を確認する。……本当だ。少し先に、フライドポテトの注文が入っていた。フライヤーには……なにも入っていない。

 

「す、すいません! すぐにやります……!」

「うん、お願いね」

 

 やってしまった。仕事である以上、疲労なんて言い訳にもならない。僕は急いで冷凍のポテトをカゴの中に入れて、油の中に沈めた。あまり時間のかかる注文じゃなかったのは不幸中の幸いだ。器とソースを用意して、揚がるのを待つ。

 

「……ねえ、木下くん。ちょっといいかな?」

 

 そんな最中、ホットサンドを届け終わった羽沢先輩が戻ってきた。その表情は、少しばかり曇っているように見えた。多分、今の注文ミスに関してだと思う。

 

「……はい。さっきはすいません。もっと気をつけます」

「あ、えっと、そうじゃなくてね……あ、ううん、もちろん気をつけてはほしいんだけど、それとは別に気になることがあって」

「気になることですか?」

 

 なんだろう? 店内の様子を見る限り、特に普段と大きく変わった部分はないように見える。

 

「うん。……木下くん、目の隈がすごいことになってるけど、大丈夫? ちゃんと寝てる?」

「……あー、これは……ですね」

 

 僕のことだった。まあ、そりゃ気づくに決まっているか。朝、鏡の前に立ったとき、自分でも驚いたくらいなんだから。

 

「ほら、試験前じゃないですか。高校で初めての期末なもんですから、できるだけいい成績を取ろうと勉強してまして。そしたら昨夜、ちょっと張り切り過ぎたと言いますか……」

 

 適当に、今思いついた理由で誤魔化す。試験があることを忘れてて、親が納得する成績取る為に今慌てて勉強してます、なんて恥ずかしくて絶対に言えない。

 

「そうなんだ。でも、あまり無理しないでね? もし駄目そうなら、バイトお休みにしても大丈夫だから」

「はい、ありがとうございます」

 

 もちろん、そんな無責任なことをするつもりはない。試験最終日の7日まで頑張れば、ちゃんと休める。そこまでは、なんとか粘らないと。

 

 羽沢先輩に疑われないよう、今度こそミスが出ないようにしないと。注文に抜けがないことを厳重に確認しつつ、眠気と戦いながら仕事を続けるのであった。

 危ない場面もあったが、今日はひとまずそれ以上のミスを出すことはなかった。

 

 

 翌日。つまりは試験前日。1つ、うっかりしていたことがあった。少々、困ったことになった。

 実はうちの学校、試験前日は半日授業だったのだ。現在は13時の少し前。掃除を終えた僕は、予期せぬ自由時間を得た。まあ、それ自体はよかった。ただでさえ足りないと思っていた時間を得られたのだから。

 

 問題は2つ。1つはカンニング対策で校内に残っての自習が禁止されていること。そしてもう1つは、今日もバイトがあることだ。

 校内で勉強できない以上、外で勉強するしかないのだが、どこかの店で勉強するのは好きじゃない。他の人が居るのが気になってしまうのだ。

 普段なら家に帰ればいいだけなのだが、そこでバイトが問題になる。今日も通常授業だと思っていたので、シフトの時間が夕方からなのだ。つまり、一旦家に戻った場合、再度家を出る必要があるのだ。移動時間を考えると、それは完全な無駄だ。

 

 どうしたものか。そんな風に頭を悩ませていると……『羽沢珈琲店』の待機所を使わせてもらうことを思いつく。あそこなら他の人はいないし、移動時間のロスも発生しない。ついでに商店街なので昼食の調達も簡単だ。

 

 まあ、もし駄目だったら、妥協して客として店内で勉強しよう。そう思い、店に向けて出発するのであった。

 

 

 店に着いた僕は、早めの到着に驚いていたマスターに事情を説明する。ちなみに、羽沢先輩の姿は当然ない。姉さんの情報が正しいのなら、羽丘はまだ通常授業だろう。

 

 マスターは待機所を使うことを快諾してくれた。それどころか、まかないのホットサンドまでいただいてしまった。本当に、マスターには頭が上がらない。

 

 手早く昼食を終えた僕は、早速勉強に取りかかった。今日はもう初日の科目に全力投球だ。問題集を解いては、分からなかった部分を確認していく。初日は得意の理系科目が集中しているということもあり、比較的順調だ。

 

 ……ただ、1時間半くらいが経過したところで、3日で蓄積された睡魔がついに本気で牙を向いてきた。食後ということも大いに影響しているのだろう。前日の比ではないレベルの眠気が僕を苛む。

 

 頭上に岩でも乗せられているのかと思うくらい頭は重いし、ほんの少し気を抜いただけで意識が飛んでしまう。目なんて、開いているのか、そうでないのかが曖昧だ。かろうじて数文字が読める程度の視界。多分、1秒以上目を閉じたら寝てしまう。

 

 手のひらに爪やシャーペンを刺すことによる痛みで、かろうじて意識を繋ぎ止める。だけど、それは言うならば電池の少なくなったスマホの節電モードと同じだ。持ちこたえる時間を幾らかは伸ばせるが、いずれは必ず電池が尽きる。

 

 フラフラと、船を漕ぐ。意識の暗転と覚醒の間隔が短くなる。問題の内容が頭に入らない。文字を書くことすらできない。睡魔に抵抗することに全ての力を注ぐ。それでも、1度ヒビの入ったガラスが元通りにならないように、どんどん割れ広がっていく。

 

 ……駄目だ。寝ちゃ…………駄目だ。今、寝ちゃったら…………試験、が…………バイト、が…………………

 

 

***

 

 

 放課後となり、私は寄り道することなく帰宅した。もう試験1週間前だから、勉強に集中しないといけない。あと数日もしたら、お手伝いも一旦お休みかな。

 

 店の裏口から家に入り、お父さんに帰宅を伝えてから自室に向かおうとする。裏口は待機所と繋がっているため、まずはそこを通ろうとする。

 その待機所のテーブルの方を見たときだった。そこに、背中を向けながら伏せている、白いワイシャツを着た人がいることに気づいた。

 

「……木下くん?」

 

 今日のバイトのシフトからして、木下くんくらいしか考えられない。試験前は生徒会の仕事もないので、学校から家までの距離が近い私の方が先に着くと思ってたけど、そうじゃなかったみたい。

 

 側まで近づいて様子を窺ってみる。気持ちよさそうに寝ている。起こすのが忍びないくらいぐっすりだ。男の子の寝顔をこんな間近で見るのって、初めて。気の緩んだ木下くんの寝顔は、なんだか可愛かった。

 本当はこのままずっと寝かせてあげたいけど……うーん、もうすぐシフトの時間だよね。かわいそうだけど、もう起こしてあげないとかな。

 

「木下くん、起きて。あと少しでシフトの時間だよ」

 

 指先でトントン、と軽く肩を叩く。起きる気配はない。次に、もう少し強めに叩いてみる。これでも起きる気配はない。

 仕方がないので、今度は肩を揺すってみる。うう……これも駄目みたい。心を鬼にして、かなり強く揺すってみたけど……全然駄目。一向に目を開いてくれない。

 

 そういえば昔、モカちゃんに寝たフリをされて、延々と肩を揺らしては声をかけることを繰り返したことを思い出す。もしかして、木下くんもそれをしてるんじゃ……と思った所で首を横に振る。あの真面目な木下くんがそんな悪戯をする筈がないもん。

 

 ……そんなとき、あるものが目に入る。私は「あれ?」と首を傾げる。木下くんの頭の下にあるのって……参考書とノート? しかも開きっぱなし。試験勉強をしてたんだとは思うけど、休憩するなら普通は一旦閉じて除けておくよね?

 

 なんか……おかしいな。そう思ったとき、私はあることに気づいた。木下くんの右手だ。芯が出たままのシャーペンを握ったままだった。その軸先の下には、開いたままのノートのページが広がっていて、紙には赤ん坊の落書きのようなグルグルの黒い線が錯綜していた。

 

 それともう1つ……これが、最も重要なことなんだけど……目元の隈が消えていない。ううん、昨日よりもずっと酷くなってる。昨日もあまり寝ていないであろうことは、明らかだった。

 

 ……そっか。休憩して寝てたんじゃなくて、勉強している途中で寝落ちしちゃったんだ。それも状況からして、すごい頑張って抵抗してたんだと思う。

 

 一旦、キッチンの方に行ってお父さんに聞いてみたら、試験前日で半日授業だったのを忘れていたようで、待機所でシフトまでの間勉強しているらしい。

 

 なんでかは分からないけど、木下くんはこの数日、ほとんど寝ないで猛勉強してたみたい。それも、こんな体勢で寝てるのに体を強く揺すっても起きないくらいの寝不足になってまで。

 

「……大丈夫だって、言ってたのに」

 

 思わず、言葉が溢れてしまった。木下くんのこと、信じてたのに……やっぱり無理してたんだ。昨日、無茶はしちゃ駄目だよって言った筈なのに。相談すら、一言もなかった。

 

 なんで、言ってくれなかったんだろう。なんで、無茶してたんだろう。頑張りすぎがよくないって最初に言ったのは、木下くんの方なのに。

 

 色々と言いたいことが浮かんできた……それはもう、止め処なく。今すぐ木下くんを起こして、言い聞かせたいくらいだ。

 ……けど、それは後にしよう。今は、寝かせておいてあげよう。今、無理に起こしたら、きっと慌ててシフトに入っちゃうから。

 

 私は自室に行って、余っているタオルケットを引っ張り出す。柄がちょっと男の子に合ってないけど、そこはしょうがない。寝てる木下くんが悪いんだから。

 そのタオルケットを持って待機所まで戻り、木下くんにかけてあげた。夏ではあるけど空調が効いてるし、じっとしてたら冷えちゃうかもしれない。せめて、これくらいはしてあげないと。

 

 ……うん、ぐっすり寝てる。これなら、もうしばらくは休んでてもらえるかな。本当はソファやベッドに移動してほしいけど、起こさずにそれは無理なので、諦めるしかない。

 

「ねえ、お父さん。木下くんなんだけど……」

 

 タオルケットが落ちないのを確認した私は、お店の制服に着替えた後、お父さんにあることを頼みにキッチンへと向かうのであった。

 

 

***

 

 

 ……痛い。主に首の辺りが痛い。それと左手が痺れているのか、感覚がない。体がだるい。でも、頭はちょっとだけすっきりした気がする。

 えーっと、なにしてたんだっけ…………たしか、半日授業で……早めに店行って……それで、勉強してて…………って、やば!? もしかして寝てた!? うわ、なにこれ、涎がノートに……!?

 

 慌てて体を起こす。慌てすぎたせいでガタン、と椅子が派手な音を響かせてしまったがそれどころじゃない。

 スマホは……あった。時間、時間は…………ぇ……17時半? 今日はシフトが16時半からだから……もう1時間も過ぎてる。勉強が進まなかったのもやばいけど、バイトに遅れる方が何倍もやばい。

 

 血の気が引くのを感じる。心臓がバクバクと鼓動を速め、胸が苦しくなる。背中に虫を入れられたかのような悪寒が走り、嫌な汗が吹き出す。

 なんて様だ。まかないを作ってくれたマスターに合わせる顔がない。

 

 とにかく、早く着替えて今からでもシフトに入らないと……! そう思って立ち上がろうとしたとき、肩になにかがかかっているのに気づいた。

 

「……タオルケット?」

 

 非常に可愛らしい柄のタオルケットだ。僕のものではない。ありえるとしたら……もしかして、羽沢先輩?

 

「あ、起きたんだ。おはよう、木下くん。よく眠れた?」

「は、羽沢先輩!? あ、いや、あの……! ……すいません! すぐシフト入りますから!」

 

 突然現れた羽沢先輩に、僕はなんと返事をすればいいのか分からず、しどろもどろになった末……とにかく謝罪することを優先した。

 そして、タオルケットを椅子にかけてから更衣室に飛び込もうとしたとき、「あ、待って」と羽沢先輩に呼び止められた。

 

「シフトは大丈夫。お父さんに言って、今日は外してもらったから。……ううん、今日だけじゃなくて、今週分は全部」

「……え? 外したってどういう……」

 

 シフトを外した? どうして……と混乱する僕を他所に、羽沢先輩は微笑を浮かべつつ、淡々と次の言葉を紡いだ。

 

「その説明の前に、少しお話しよっか。そこに座ってもらってもいいかな?」

「っ……」

 

 一見すると、いつも通りの優しい声音。だけど、その声には有無を言わせぬ迫力があり、到底逆らえるようなものではなかった。その背中から、尋常じゃない圧力のオーラが見えた気すらした。

 ……僕は大人しく、席に戻った。その対面に羽沢先輩が座ると、早速先輩の方から話を切り出してきた。

 

「木下くん、どうしてそんなに無理して勉強してたの?」

 

 羽沢先輩の真剣な眼差しに、僕は言葉を詰まらせてしまうのであった。

 

 

***

 

 

 私の質問に、木下くんは顔を俯かせていた。無茶をしていたという自覚はあったみたい。これはますます、どういうことなのかと問い質さなくては、と決意を新たにする。

 

「本当は昨日よりも前から全然寝てなかったんだよね?」

「それは……」

 

 連日の睡眠不足の辛さは、私もよく知っている。意識が不明瞭になっちゃって、信じられないくらい集中力が落ちちゃうのだ。それはとっても、危険な状態だ。

 

「どうして寝なかったの? 昨日だって、結果的には調理の順番のミスで済んだけど、もしかしたら私みたいに火傷してたかも……ううん、もっと酷いことになってたかもしれないんだよ?」

「っ……」

 

 私は語気を強める。昨日、私は睡眠不足なのではないかと指摘したし、木下くんもそれは認めていた。なのに、きっと昨日も徹夜に近いことをしていたのだろう。

 睡眠不足がどれだけ危ないのかは昨日の失敗で自覚していた筈なのに、結局それを無視したということになる。

 ……自己管理が全くなってない。思わず、眉間にシワを寄せてしまった。

 

 多分、私は怒ってるんだと思う。無茶をしていたことに。嘘をついていたことに。こうなるまでなにも相談してくれなかったことに。先輩と後輩ではあるけど、今では木下くんのことは大事なお友達だと思ってるのに。

 

 だから、今日は容赦はしてあげない。ちゃんと問題が解決するまで、ここを動くつもりはない。お店の方は、しばらくお母さんにお願いした。

 

「……木下くんが理由もなくそういうことする人じゃないのは分かってるよ。そう思ってるからこそ、なにがあったか教えてほしいの」

 

 今度は一転して、なるべく優しく、諭すような調子で語りかける。沈痛な面持ちの木下くんを見て、後悔しているのは分かったから。

 答えを急かすようなことはせずに、じっと返事を待ち続ける。

 

 時計の針の音が今日はとてもよく聞こえる。普段だったら気にならないくらいの大きさなのに。思わず、回数を数えちゃうくらい。

 ……秒針が40回くらい動いたとき、ついに木下くんの声が部屋に響いた。

 

「……すいません。こんなことになるつもりは、なかったんです」

「うん、分かってるよ」

「……実は」

 

 ——木下くんはポツリポツリと呟くような調子で、なにがあったのかを教えてくれた。映画とかで見る、懺悔室での一面のように。

 

 お店の力になりたくてコーヒーの勉強を頑張っていてくれたこと。バイトをできるだけ増やしてくれたこと。そしたら試験前なのを忘れていたこと。もし上位の成績が取れなかったらバイトを辞めさせられるかもしれないこと。でも、バイトを直前で休むなんて無責任なことができなかったので、ほぼ徹夜で勉強していたこと。纏めると、そんな感じだと思う。

 

「だからって……!」

 

 思わず、立ち上がりそうになってしまった。感情に任せたまま、身を乗り出す。

 

 勉強が大事なのは分かる。お店のことを大事に思ってくれるようになったのは嬉しい。でも、本当にそんなに無理をしないといけなかったのだろうか。そもそも、体を壊したら元も子もないではないか。

 そんな感じのことを衝動的に言ってしまいそうになって…………寸前で思い留まった。なぜそんなに頑張ってしまったのかを……察してしまったからだ。

 

「……ごめんなさい。私が言えたことじゃないよね」

 

 水を被ったかのように、急速に心が落ち着いてくるのを感じた。木下くんに謝ってから、姿勢を正す。

 

 ……気づいてしまったのだ。今の木下くんは、1年前の私と全く同じだということに。不安に押し潰されそうになって、あれもこれもやらなくちゃと無理しすぎて、本当に倒れてしまったときの私と。

 同じ過ちを犯した私に、木下くんを責めたり叱ったりする資格はなかった。

 

 今の木下くんの風貌は……あんまりよくない。目元の隈は今もすごいし、顔色は明らかに悪い。誰がどう見ても、体調を崩しているようにしか見えない。そんな姿の木下くんの目を通して、1年前の自分の姿が見えた気がしたのだ。その私の姿も……酷いものだった。

 

 ——そっか。みんなには、頑張りすぎているときの私はこんな風に見えてるんだ。ようやく、その深刻さに気づいた。

 あのときとは逆の立場に立ったことで、かつての自分を客観的に見ることができた。なるほど、確かにこれは心配になるし、無茶をするなと叱りたくもなるよね。

 

 ……もっと自分を大事にしないといけない。本気で、そう思った。今まではきっと、分かっているようで分かっていなかった。だから、火傷のときみたいなことも起きてしまった。でも、これからは大丈夫……だと思う。

 

「あの、本当にすいませんでした。変に意地を張らないで、相談すべきでした……」

「……ううん。お店のことを大事に思ってくれたってことだもんね。私も、きっと同じことをしちゃってたと思う。……ありがとう、話してくれて。バイトを辞めない為に頑張ってるって言ってくれたの、とっても嬉しかったよ」

 

 今にも罪悪感で押し潰されそうな表情をしていた木下くんに、僅かばかりの笑顔が戻った。よかった、少しは安心させられたかな。

 

 とにかく、木下くんにはなるべく早く休んでもらわないと。ほんのちょっと前まで寝てたとはいえ、テーブルの上じゃあんまり疲れはとれない。ちゃんとベッドで横にならないと。

 

「えっと、それじゃあ今日はもう帰って休もっか。勉強はしてもいいけど、今夜は早めに寝てね。それとさっきも言ったけど、今週はシフトは全部なしにしたから、勉強に集中して大丈夫だよ」

「了解です。でも、その……いいんですか? さっきはああ言いましたけど、大丈夫だって言っちゃったのは僕の方なのに……」

 

 木下くんが申し訳なさそうにこちらを見る。そんな彼の心配を吹き飛ばすかのように、私は精一杯の笑顔を浮かべた。

 

「うん、平気だよ。私は試験は来週だし、試験前とかは元々お母さんにお願いして代わってもらってたりしてたから。心配しないで」

 

 だから無理をしない程度に一緒に頑張ろう。最後に、私はそう告げた。

 

 

 結果だけ言ってしまうと、木下くんは私との約束をきっちりと守ってくれたようで、来週会ったときには目の隈はすっかり消えていた。

 

 さらにそれからしばらくして、木下くんはチャットを通して、無事にバイトを続けるのに十分な成績を出せたと教えてくれた。まだ私が学校にいたときに届いたメッセージだったから、結果が分かってからすぐに送ってくれたんだと思う。

 

 よかった。これからも木下くんと一緒に頑張れる。そう思うと、安堵で自然と頬が緩むのであった。

 

 

 



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第8話 仲良きことは美しかな

 無事期末試験が終わり、夏休みとなった。特にやることもなかった僕は、バイト中心の生活をしていた。だけど、そのバイト生活自体には大きな変化があった。

 

 あの日……羽沢先輩に睡眠不足を咎められた日。先輩に諭されたことで初めて、僕は先輩と全く同じ失敗をしかけていたことに気付かされた。先輩の背中を追おうと張り切っていた内に、悪い面まで吸収してしまっていたらしい。

 羽沢先輩を支える為に頑張り始めたというのに、蓋を開けてみれば先輩に支えられてしまうという結果になってしまった。

 ミイラ取りがミイラになるというが、それが自分に適用される日が来るとは思わなかった。

 

 そのとき言われた、互いに無理しないように頑張ろうという言葉は僕の心に深く響いた。羽沢先輩が頑張りすぎているときは僕が止め、僕が頑張りすぎているときは羽沢先輩が止める。似たもの同士になりつつあったからこそ、互いの些細な変化に気づけるようになった。

 どちらかが一方的に支えるのではなく、支え、支えられる関係。気づけばあの日から凡そ1ヶ月半。僕と先輩の関係はそういう風に変化していた。

 

 例えば、シフトだ。夏休みに入った直後のシフトの休憩時間のときのこと。休憩中、僕が待機所で読書をしていると、同じく休憩になったらしい羽沢先輩が声をかけてきたのだ。

 

 

「ねえ、木下くん。シフトだけど、この週だけ6日全部希望に入ってるのはどうして? シフトは週に4回までって決めたよね」

 

 なにやらご立腹の様子で、僕を非難するかのような半目でこちらを睨んでいた。まあ、そんな顔をしても別に怖くは見えなかったけど。

 

「いえ、別に……希望日を書いただけなので、そこから羽沢先輩が4つ選んでくれれば大丈夫です。その週は、バンドの活動もないんですよね?」

「むぅ、そうなんだけど……でも、この日は絶対に休みます、みたいに言ってほしいの」

「でもそしたら、今度は羽沢先輩のスケジュールが自由に組めなくなるじゃないですか」

「この週は家でキーボードの練習と残ってる宿題をやろうと思ってるから大丈夫。木下くんの好きなように組んで?」

 

 そうは言われても……自分だって、そんな厳密に組まないといけないような予定なんてない。宿題やって、コーヒーの勉強して、ゲームでもやって……そんな感じだった。

 

「まあ、だったら……木金だけ抜けます。その代わり、羽沢先輩も週4を守ってくださいよ」

「ふふっ、了解。心配してくれてありがとう」

 

 ぐっ……その笑顔は反則だ。

 

 

 ……こんな感じで、僕は羽沢先輩に1週間辺りのシフトの回数に制限をかけられた。この前みたいに、不意のトラブルに対応できない程のシフトを入れないようにと。

 

 他にも、なぜか定期的に一緒に勉強会をすることになった。都合が合えば、他の先輩方も一緒に。曰く、試験勉強のことを忘れない為らしい。効果があるのかは微妙なところだけど、先輩方との交流の機会が増えるということもあり、反対せずに受け入れている。と言っても、まだ1回しか開催してないけど。

 

 一方で、僕は僕で羽沢先輩のスケジュールを助けることが多くなった。具体的には、上原先輩と連携してバンドが忙しくなりそうなタイミングに合わせてシフトに入るようにしたり、ライブの直前や直後で疲れてそうなときはなるべくバイト中の仕事を奪うようにしたり。

 以前、非常に混雑していて忙しかった日があったのだが、飛んでくる料理の注文を必死に捌き続けることで、羽沢先輩のヘルプによる介入を防いだことがある。羽沢先輩になにも悟らせなかった、完全なる勝利だった。

 ああ、それと、そろそろコーヒーを担当してもいいかもしれないと言われたので、今後はもっと奪うことができるだろう。

 

 まあ、なんというか、支え合うというか……いかに相手を暇にさせるかの勝負になっている気がしないでもないが、結果的に互いの為になっているという実感はある。

 それに、相手に無理をさせないという大義名分のもと、結構お互いに本音で話すようになった気もする。次第に、からかい合うことも増えた。ちなみに、羽沢先輩は論破されると口を噤み、悔しそうにしながら少しだけ拗ねる。見てて飽きない。

 

 決意を固めた当初の想定とは違う形になってしまったものの、羽沢先輩に無理をさせないという目的そのものは達成できたのでよしとするのであった。

 

 

 夏休み中のとある月曜日。その日は『羽沢珈琲店』の定休日だ。本来ならばシフトはないのだが、マスターからあることのミーティングをしたいということで任意での招集があったのだ。特に用事のない僕は、喜んで招集に応じるのであった。

 朝の9時頃に店に到着した僕は表から羽沢先輩に迎えられ、黒板の出された店内スペースでミーティングが始まった。

 参加はマスター、羽沢先輩、僕の3人だ。先輩の母親と若宮先輩は用事で来れなかったようだ。

 黒板を見る。そこには、『新作のスイーツ案』と書かれていた。

 

「定期的にこうやってみんなで話し合ってね、期間限定とか新作のスイーツを出してるんだ。私の案が採用されたこともあるんだよ」

 

 今日のミーティングの趣旨を、羽沢先輩が説明してくれた。その表情から察するに、かつて採用されたのがよっぽど嬉しかったようだ。もし先輩に犬の尻尾が付いてたら、勢いよく振っていたに違いない。

 

「新作ってことは、しばらくメニューに入れておく感じですか?」

「うん。定番のものは残して、それ以外は流行りとかに合わせて少しずつ変えてるんだ」

 

 なるほど。うーん、でも、甘い物は好きではあるけど、スイーツとかはあんまり詳しくない。役に立てるかな……一生懸命、頑張ってはみるけど。

 

「じゃあ、早速だけど始めよっか。今回はね、日本ではマイナーなスイーツをテーマにしようと思ってて……」

 

 マスターが黒板の前に立ち、いよいよ話し合いが始まる。なんだかいきなり戦力外になりそうなテーマが飛び出してきたのは気にしてはいけない。気にしたらなにも発言できなくなる。

 

「イギリスのショートケーキとかのこと?」

「そうそう、そんな感じで」

 

 え、ショートケーキって国ごとに違ったりするの?

 

「えっと、ショートケーキのショートって、”サクサクする”って意味の英語から来てるって言われててね、イギリスではビスケットとかの固めの生地でクリームと果物が挟んであるの」

 

 羽沢先輩に尋ねると、そう教えてくれた。流石、喫茶店の娘ということなのだろうか。それとも、女子だからなのだろうか。

 他にも、アメリカ式やフランス式などがあるらしい。なんかカレーみたいだ。

 

 ……やばい。本当に分からないぞ。普通に店で売ってたり、この店に置いてある以外のスイーツはさっぱりだ。名前だけ聞いたことがあっても、食べたことがない奴だって多い。

 

「あ! この前テレビでやってたけど、ズコットとかは? すごい美味しそうだったよ!」

「なるほどね、確かにセミフレッド系はいいかもね」

 

 ズコット? セミフレッド? いや、待て。セミフレッドはなんかの漫画で出てたような……あ、そうだ、なんか半分凍ってる感じの奴だ。もちろん、食べたことはない。

 

 ……やっぱり僕、いらないかも。

 

 その後もミーティングが続くが、羽沢先輩が意見を述べるのみで、僕は沈黙を保つしかなかった。時折羽沢先輩に質問したりはしたけど、それだけだった。なにも生産的な発言はしていない。

 なんだか虚しいような、置いてけぼりで寂しいような、そんな感じのミーティングだった。

 

 

 大体ミーティングが開始してから1時間が経っただろうか。黒板が意見の一覧でびっしりと埋まり、選定の段階となった。ちなみに、99%羽沢先輩産だ。

 途中から僕は、アイデア方面では役に立てそうになかったので、全員分のコーヒーとかを用意したりした。暑さが厳しいので、アイスにしてみた。

 

 会話を聞きながら自分で淹れたコーヒーの出来を確認していると。マスターは突然とある提案をするのであった。

 

「それじゃあ、2人にはこのリストにあるスイーツの調査をしてもらおうかな」

「え、調査……ですか?」

「うん。ほら、実際に食べてみないとどんな感じか分からないからね。都内ならどこかしらで食べれる店がある筈だから、その調査」

 

 マスターは「これが軍資金ね」と言って万札を何枚かテーブルに置いた。かなりの額だ。

 

「こんなにたくさん……お父さん、いいの?」

「流石に多いとは思うけどね。足りなかったら大変だし、念の為だよ」

「でも、マスターはいいんですか?」

「まあ、平行して試作とかもやりたいからね。役割分担というわけさ」

 

 そういうことらしい。リストを眺めていてもなんのことやらって感じだったので、試食に行けるのは非常にありがたい。僕を喜んで引き受けることにした。同様に、羽沢先輩も一緒に行くこととなった。

 

「ちょっと待っててね、すぐに準備してくるから。実は、ちょっと気になってたお店がいくつかあるんだ」

 

 羽沢先輩は店の奥へと姿を消した。おそらくは自室に戻ったのだろう。マスターと2人で、帰りを待つ。

 ……こういう、険悪な雰囲気ではないけど、話題がなくて無言になっちゃうときって、どうすればいいのか分からなくなる。どういう話題を出せばいいんだろ?

 とりあえず、アイスコーヒーを飲んで誤魔化そう。コップに口を付ける。

 

「ところで木下くん。君はつぐみのことをどう思ってるんだい?」

「ッ!? ごほっ、げほっ……!!」

 

 不意打ちのボディブローが如き一言に、僕は気管にコーヒーを混じらせてしまって咳込む。しゃべれるくらいまでに回復するのに、それなりの時間を要してしまった。

 

「ごめん、ごめん、驚かせちゃって。でも、図星みたいだね」

「な、なんで……」

「そりゃ、あの子の父親だからね。しばらく見てれば分かるさ」

 

 完全にバレていたようだ。バイトを初める前からそうだったとは気づかれていないようだが、それを抜きにしても好きな人の親にバレているこの状況。公開処刑に等しい。

 顔や耳が熱い通り越して灼熱の溶岩になってしまったかのようだ。今のこの顔を羽沢先輩に見られたら間違いなく死ぬ自信がある。

 

「え、えっと……あの……すいません」

「はは、別に謝ることじゃないさ。木下くんは真面目だし、仕事の覚えも早いしで、ずっとここで働いてほしいって思ってるよ。だから、仮にそういうことになっても反対はしないよ」

「そういうことって……その、僕は、羽沢先輩の力になれてれば、今はそれで……」

 

 当初は色々と焦って妙なアプローチをしてしまったが、今はもう違う。もちろん、マスターの言うそういう関係になれたら嬉しいとは思うだろうけど、それ以上に羽沢先輩の力になりたいという気持ちの方が強い。

 告白とか、そういう行動を起こすつもりは、今のところはない。

 

「その辺も含めて、つぐみに君は合ってると思ってるけどね」

「……? それは、どういう……」

「木下くんは、つぐみにとっていいストッパーになってるみたいだからね。逆も然りみたいだし。好きだから、みたいな感じでお互いに頼り切りになるより、そういう関係の方が健全だとは思うよ」

 

 うーん? なんか、分かるような、分からないような。とりあえず、曖昧な感じながらも頷いておく。

 

「なにはともあれ、今日はつぐみのことをよろしく頼むよ。あちこち回ることになるだろうからね」

「は、はい。了解です」

 

 年下とはいえ、自分は男子なんだからその辺りしっかりしてないとだろう。今度は、力強く頷く。

 

「まあ、それはそれとして、つぐみは自分への好意には鈍いところがあるからね。伝えるならストレートにはっきりと告げた方がいいと思うよ」

「っ、いや、まあ、そうかもですけど……」

 

 ぐっ、駄目だ。この話題だと防戦一方だ。この場から逃げ出したくなるような羞恥に、言葉を返せなくなってしまう。

 

「お待たせ! 行こっか、木下くん」

「は、はい……!」

 

 しばらくマスターにいじられていたところ、準備を終えたらしい羽沢先輩が戻ってきた。帽子と、小さめの革のショルダーバッグが追加されていた。

 

 ……返事のとき、なぜかどもってしまった。マスターに変なこと言われたせいだ。

 

 ともあれ、僕たちは駅へ向けて出発するのであった。僅かな緊張を、携えながら。

 

 

 せっかくだから、思い切って丸の内方面を回ってみようという羽沢先輩の提案に乗り、僕たちは電車で移動中だ。東京駅まで、あと5分ほどだろうか。

 

「すごい混んでるね」

「……まあ、夏休みですからね。明るい時間でも、こんなものじゃないですか」

 

 なるべく、平静を装って答える。実を言うと、今はあまり会話に集中できていない。その理由は、電車の混雑にある。

 

 電車内は満員とまではいかないものの、余分なスペースがほとんどない程度には混雑していた。羽沢先輩はドア付近の座席の壁を背にしていて、僕が先輩に向き合う形で立っている。

 互いの距離は、かなり近い。ほんの半歩前に進むだけで、密着してしまうくらいの距離。電車の揺れの影響で、偶に服が触れ合ってしまう。

 1つ間違えれば先輩の胸に体を押し付けてしまうことになるので、そうならないように吊り革をしっかりと握り、足を動かさないようにしている。

 

 マスターに弄られたせいだろうか。なんだか、さっきから羽沢先輩のことを意識しっぱなしだ。マスターに、今は先輩の力になりたいだけだと言っておきながら、この有様だ。秘めていた異性としての想いが表に這い出し、僕を悩ませる。

 

 こんなにも顔が近い。髪の毛の1本1本がはっきりと見える。リップをしているようには見えないのに、妙に唇が艶かしく見え、目を離せない。

 仕事中や雑談のときには全く気にならなくなってたのに、魔法にでもかかってしまったかのように、羽沢先輩の全てに魅了されている。

 

「……? 木下く……あっ!?」

「え? う、うわ……!」

 

 車線変更でもしたのか、車内が大きく揺れた。吊り革なしだったら確実にバランスを崩すほどの揺れ。席の壁に体重を軽く預けているだけだった羽沢先輩もその例に漏れず、前のめりに動かされる。その結果がどうなるかは……明らかだ。

 僕が代わりの壁となったおかげで羽沢先輩が倒れることはなかった。その代わり、両手を僕の胸板辺りに押し付けつつ、ぴったりと僕の懐に収まった。もし僕がここで先輩の背中に腕を回せば、完全に抱き止める構図となっていただろう。

 いつぞやの雷の日を思い出す。互いに向き合っている分、あのときより更に近く感じられる。シャンプーと思しき髪の匂い、喉元にかかる微かな吐息、じんわりと伝わる体温、吸い込まれそうな瞳。僕の脳は、ショート寸前だった。

 

「ご、ごめんね……! 痛くなかった?」

「い、いえ……特には……」

 

 接触は、数秒ほどの短い間だった。揺れが収まると同時に、羽沢先輩がすぐさま離れたからだ。ほっとしたような、残念なような、複雑な気持ちだ。

 

 ……今の接触、羽沢先輩はどう思っているのだろう。動揺していたのは分かる。でも、そこに少しばかりでも異性との密着による羞恥心が混じってたりはしないのだろうか。もしなにも感じてなかったとしたら、ショックだ。

 

 …………あ、でも、髪の間から覗く耳が、少し赤くなっている。光の加減による錯覚……じゃない。何度見ても、赤い。それどころか、徐々に赤みが増している。

 少なくとも、恥ずかしいとは思ってくれてるみたいだった。……やった、ということでいいのだろうか。僅かに心拍数が上昇する。

 互いに、無言になる。電車の走行音だけが響き渡り、柱の影が一定間隔で僕たちの間を駆け抜ける。相手の出方を窺っているような、妙な空気。

 

『間もなく、東京……』

「あっ、もう着くみたい……!」

 

 なんて言葉をかけようかと苦心していたところに、到着を告げる車内アナウンスがかかった。邪魔されたような、この奇妙な緊張感を断ち切ってくれたような、そんなタイミングだった。

 

 先程までの空気は霧散し、いつも通りに戻った。僕たちは電車を降り、羽沢先輩が前々から目星を付けていたという店へ向かうのであった。

 

 

 1店目は、ミーティングの最初の方でリストに上がった、ズコットというスイーツを出している店だった。非常に有名な店なようで、夏休みということも手伝って満席だった。

 そこで、しばらく待っていることになったのだが、僕たちを呼んだウェイターから衝撃的なことを告げられる。

 

「か、カップルシート……?」

 

 果たして、今の呟きはどちらから漏れたものだったか。その言葉の響きに、僕は呆然とするしかなかった。

 要は、普通の席から少し隔離された2人用の横並びの席のことだ。別に、それ自体は大した問題じゃない。2人きりになるのは休憩時間とかで慣れてる。ただ、その席の呼称が問題だ。

 別に、悲しいことに、誠に残念なことにカップルじゃないし、なによりその名前が恥ずかしい。そんな名前のついた席に羽沢先輩と一緒に座るというシチュエーション……狂おしいくらいにやばい。ちょっぴり、座ってみたいと思っちゃう自分がいる。調査に来ているのに、邪な感情全開である。

 僕の考えはさておき、問題は羽沢先輩側の気持ちだ。別にカップルじゃなくても座れるらしいが、一応今の僕たちの間柄は先輩と後輩兼友人のような感じだ。なので、そういう風に思われても大丈夫なのだろうか。

 

「あの、どうします?」

 

 羽沢先輩に聞いてみる。それが聞こえてたのかどうか分からないけど、先輩は仄かに頬を赤く染めつつ、熟考している様子だった。

 

「……………………大丈夫です!」

「え……」

「かしこまりました。それではご案内します」

 

 虚を突かれた僕の呟きは、ウェイターの声にかき消された。多少は期待していた部分もあるが、てっきり断ると思っていた。

 ウェイターの背中を羽沢先輩が追い、僕がそれに続く。店の奥の窓際の方まで案内される。そこには、紛うことなきカップルシートが設置されていた。

 

 ……お、思ったより狭い。普通に座っても、密着しちゃうんじゃないか、これ。

 

「……木下くん?」

「あ、は、はい、すいません」

 

 なんの躊躇もなく奥へと詰めた羽沢先輩に促され、僕も座る。うわ……肩越しに……体温が……。あ、やば、今ちょっと足動かしたら当たってしまった。

 

「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」

 

 ウェイターが去ったところで、完全に2人きりになる。もちろん他の客とかもいるのだろうけど、しきりのせいで個室のようにさえ感じられる。

 

「ご、ごめんね、木下くん。こんな狭い席になっちゃって……嫌じゃない?」

 

 嫌じゃない。全然嫌じゃない。むしろ歓迎してさえいる。でも、こうなっていることに驚いていることも確かだった。

 

「あー、いや、それは、大丈夫です。でも、なんで……?」

「あはは、その……前からずっと来たいお店だったから。普通の席が空くまではまだまだ時間がかかりそうだったから、つい……勢いで」

 

 そういうことらしい。羽沢先輩は肩を丸め、体を縮こませるようにし、顔を俯かせながらそう呟いた。……ああ、うん。まあ、そんなところだろうとは思ったけど。

 

「あ! 蘭ちゃんたちには内緒だよ!? やっぱり、ちょっと……恥ずかしいし」

「まあ、言わないですよ。知られたら、僕まで巻き添えですし」

 

 仮にこのことを知られれば、主に上原先輩や青葉先輩がうるさそうだ。

 

「そ、そうだよね! それより、早く選ぼっか。ほら、こんなにいっぱいあるよ! ふふっ、ひまりちゃんじゃないけど、どれにするか迷っちゃう」

 

 羽沢先輩がメニューを広げると、写真付きの色とりどりのケーキがページいっぱいに紹介されている。

 もちろん、僕たちの目的であるズコットもある。なるほど、こんな形をしてて、中にセミフレッドが入ってる感じなのか。フルーツもいっぱい詰まっていて、フルーツの種類ごとにメニューが分かれているようだ。

 

「この、いちごのズコットが美味しそうだなあ……あ、でもこっちのオレンジのもよさそう……うーん、悩んじゃうなあ……でも、他にも回るからたくさん食べるのは駄目だよね」

 

 満天の星空のように目を輝かせてメニューを眺める先輩。なんだかいつもより、はしゃいでいるように見える。普段はしっかりものの先輩が、今だけは自分より年下に見えてくるから不思議だ。これが、お菓子の魔力という奴なのだろうか。

 

「2種類頼んで、半分ずつにするのとかはどうですか。そうすれば、一応1個分で2種類までは食べられますよ」

「あ、そうだね。うん、そうしよっか。えっと、じゃあ……私はいちごのズコットにするね。木下くんは?」

「僕は別にどれでもいいんで、もう1つも羽沢先輩が選んでください」

 

 どうせどれも初めて食べるわけだし、これだけの人気店なら美味しいに決まってるだろうし。僕より、楽しみにしてた羽沢先輩に任せよう。

 

「え、ほんと? ありがとう! この、マロンとナッツのズコットでいいかな?」

 

 数回は遠慮されることを予想してたけど、意外にも羽沢先輩は1回で僕の提案を受け入れた。しかも、瞬時に頼みたいものを決めていた。これは、相当食べたかったのだろう。

 

「ええ、いいですよ」

「えへへ、本当にありがとう! それじゃあ、注文しちゃうね」

 

 サンタのプレゼントを待つ子供のように上機嫌な様子で、呼び出しボタンを押す羽沢先輩。ウェイターを待つ間も、注文を待つ間も、先輩は顔を綻ばせながら頼んだズコットの写真をずっと眺めていた。しかも、鼻歌まで歌っていた。

 それを横から見ていた僕の視線に気づいたとき、顔をトマトのようにしながらメニューで顔を隠していたのは、また別の話。

 

 

 ズコットを楽しんだ後も、僕たちの調査は続いた。次から次へと店へ渡り歩き、その店の人気スイーツなどを試していく。

 どれも美味しかったのだが……正直、僕は3店目を終えた辺りから軽く胸焼けしていた。だというのに、羽沢先輩は平然としていた。女子は甘いものならいくらでも食べられるらしいが、どうやら先輩もその1人だったようだ。

 

 もちろん、ただ楽しむだけじゃなくて、しっかりと調査も行っていった。どのスイーツをベースにするか、果物を使うならどれを使うか、甘さをどうするか、名前をどうするか。食べたスイーツを参考にしつつ、羽沢先輩と案を出し合った。実際に食べることができたおかげで、僕も真っ当な意見を言えるようになったのだ。

 積極的に意見を交わしあった甲斐があって、夕方になる頃には実現が可能と思しき案がいくつも纏まったのであった。

 

 

 帰りの電車の中。僕たちは並んで座席に座っている。そんなに長い時間乗るわけじゃないけど、行きと違ってかなり空いていたのだ。

 

「……あ、お父さんから返事が来たよ。うん、今日はそのまま帰っても大丈夫だって。それと、もしよければ夕飯を用意してもいいってあるけど、どうする?」

「すいません……申し出はありがたいんですけど、今日は流石にもう……お腹いっぱいで」

「あはは、そうだよね。私も夕飯、あんまり食べれなさそう。うん、分かった。そう返事しておくね」

 

 羽沢先輩は再度スマホを操作し始める。なんか今日だけで、1年分のスイーツを食べたかのような気分だ。先輩と一緒にあちこちの店を回れたのはよかったけど、少なくとも数日はスイーツを食べたくない。

 

「木下くん、今日はありがとう。木下くんのおかげで、色んな味のお菓子が食べれちゃった。写真もこんなにたくさん撮れたよ」

 

 先輩は自身のスマホを操作すると、今日撮っていた写真を見せてくれる。おお、綺麗な角度で撮れてる。こんなにたくさん食べたんだな、と思いながら写真を眺める。

 

「羽沢先輩は、今日食べた中ではどれが好きでした?」

「全部美味しかったけど、ズコットとか、クグロフが好きだったかな。木下くんは?」

「僕は、あのイギリス式ショートケーキが好きでした。固めの食感の方が好みみたいです」

 

 雑談に花を咲かせる。といっても、羽沢先輩の乗車時間はそれほど長くはない。話題が1、2個移り変わったところで、商店街の最寄り駅への到着のアナウンスが流れる。

 

「あ、もう降りないと。木下くんはもうちょっと先なんだよね?」

「はい。通学とは違うルートですけど」

 

 電車が緩やかに減速する。ああ……今日のお別れが近い。ドアが開いてしまえば、それで終わりだ。もっと、電車に乗る時間が長ければよかったのに。そう、思ってしまう。

 羽沢先輩が立ち上がり、僕の正面に立つ。僕の方が身長が高いとはいえ、流石に今の構図では僕が見上げる形となる。

 

「今日はお仕事としてのお出かけだったけど……えへへ、とても楽しかったよ。また、一緒にどっかに食べに行こうね!」

「っ! ……は、はい。僕で、よければ……」

 

 羽沢先輩の誘いに、ドキリと胸を弾ませてしまった。”一緒に”とか、果たして羽沢先輩は分かっててそういう言い方をしているのだろうか。

 ……いや、ここは前向きに考えよう。そうやって自然に誘ってもらえるようになったくらい、この3ヶ月半で仲良くなれたのだと。信頼されるようになったのだと。

 

 告白……するには足りないものがいっぱいあるとは思う。でも、それができる日は確実に近づいているのではないか。そう、信じたくなるくらいには、距離が縮んだのではないか。少なくとも、僕は羽沢先輩のことをただ学年が1つ上なだけの普通の女子だと見れるようになった。

 

 電車がホームに停車する。続けて、ドアが開いた。

 

「木下くん、さようなら。また明日!」

 

 向日葵のような元気な笑顔と共に手を振りながら降車する羽沢先輩を、僕もまた手を振りながら見送るのであった。

 

 

***

 

 

 夕焼けで道路が茜色に染まる中、私は心が浮ついているのを自覚しながら、道を歩いている。でも、しょうがないよね。それだけ、今日は楽しかったんだから。

 ……電車でぶつかっちゃったり、年下の木下くんの前ではしゃぎすぎちゃったり、勢いでカップルシートに座っちゃったときは恥ずかしかったけど。

 

 そういえば、木下くん、私なんかとカップルシートに座ることになっちゃって、嫌じゃなかったかな。平気だとは言ってくれたけど、ああいう席は本当は好きな人と一緒に座りたいよね。お友達の私とで、本当によかったのかな。

 

 ……好きな人、かあ……ひまりちゃんはよくそういうお話をするけど、実際に誰々が好きみたいな話をしてたことはなかったかな。女子校だから、校内でそういう男女の噂が流れることもないし。

 木下くんは、どうなんだろう。好きな人、いるのかな? 共学だって言ってたし、クラスの女の子の誰かとか、かな? 女子の私に言うことじゃないのかもしれないけど、本人の口からそういうこと、聞いたことないなあ。

 

 もし、そういうことを相談されちゃったら、どうしよう? 先輩として気の利いたアドバイスは……うう、できないかも。だって、私もそういう経験ないんだもん。

 男の子とのお出かけの経験なんて、それこそ木下くんくらいしか………………あれ?

 

 ……なにか、心に引っかかるものを感じた。とくん、となにかが奥底で揺れるような、切ない心のざわめき。初めての感覚に違和感を覚え、その正体に戸惑う。

 

 だけど、私がその正体をこの場で掴むことはなかった。

 

「あ、あの!」

 

 商店街の入り口に差し掛かった頃、不意に横から声をかけられた。思考に埋没していた意識が現実に引き戻され、声がした方を向いてみる。

 自分と同じくらいの年齢の男の子だった。ううん、それだけじゃない。どこかで、会ったことがあるような気がする。

 

「えっと…………あ、そっか。もしかして、よくお店に来てくれる……」

「は、はい! 北高の1年の加藤です!」

 

 そうだ、思い出した。半年くらい前から、週1から隔週くらいの間隔でいらっしゃる男の子の常連さんだ。髪が丸刈りで日焼けもしてるから、野球部なんだと思う。お店ではよく、コーヒーを飲みながら勉強をしていたと思う。

 

 でも、北高かあ……商店街から見ると、羽丘の反対側の、川の向こう側にある高校だ。そっちの方からもこのお店のことを知ってて通ってもらえるなんて、嬉しいな。

 

「羽丘の2年の羽沢です。でも、ごめんね。実は今日は定休日で、お店はやってないの」

「そ、それは知ってます……! そうじゃなくて……今日は、言いたいことがあるんです……!」

 

 言いたいこと? なんだろう……全然思いつかない。口調からしてだいぶ緊張しているみたいだし、大事な話なんだとは思うけど。私は大人しく、加藤くんの話の続きを待った。

 

 ——しかし、次の瞬間、私の頭は真っ白になることになる。それくらい、予想もしなかった衝撃的な発言だった。

 

「初めて店で会ったときから好きでした! そ、その……俺と付き合ってください!」

 

 

 



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第9話 仲良きことは残酷かな

 今日、初めて男の子から告白された。場所は商店街の入り口。多分、周囲に他に人はいなかったと思う。相手はお店の常連の男の子。木下くんと同じ、高校1年生の加藤くん。

 

 まさか、私なんかを好きだと言ってくれる男の子がいるなんて思わなかった。それも、あんな正面から突然言われるなんて。まるで、漫画の1場面みたいだった。

 

 最初は、加藤くんの言った言葉の意味が分からなかった。次に、言葉の意味を理解した途端、頭が真っ白になってしまった。現実なのか夢なのかが分からなくなって、無重力の空間をふわふわと浮いているような感覚に襲われた。

 それから更にしばらくして、ようやくこれが紛れもない現実で、男の子に告白されたのだと認めたとき、私の顔は熱湯のように沸騰した。

 

 ……どんな受け答えをしたのかは、全然覚えてない。でも、まともに言葉を紡げなかったのだけは覚えている。恥ずかしくて恥ずかしくて、羞恥心だけで倒れてしまいそうだった。相手の顔を見ることができず、ずっと俯いていたと思う。

 

 結論だけ言ってしまうと、私はその場で返事をすることができなかった。私がなにか言葉らしきものを発する前に、加藤くんが私に電話番号らしき数字が書かれた紙を渡して、こう言ったのだ。返事はいつでもいいから、そのときは連絡してほしい、と。

 それだけ言い残すと、加藤くんは走ってその場から消えてしまった。あの様子だと、きっと私がお返事をするまではお店に来るつもりはないのかもしれない。

 

 ……付き合う、ってどういうことだろう。もちろん、言葉の意味は知ってる。恋人になるということだ。でも、どうすれば恋人になってもいいのかな。その資格は、私にはあるのかな。恋人に、なりたいのかな。

 

 そもそも、恋人になったとして、なにをすればいいんだろう? 遊びに行く? ご飯を食べる? 腕を組む? でも、そういうことはお友達の木下くんとだってしたことがある。

 

 他には…………そ、その……き、キス……する、とか? む、無理……! そんなの、知らない人といきなりはできないよ……! それに、恥ずかしくて死んじゃう……! 

 

 うう、分からない。なにもかもが分からなかった。お受けすべきか、そうでないか。

 こう言っては失礼だけど、私は加藤くんのことはほとんど知らない。どういう性格なのか、なにが好きなのか、普段どういうことをしてるのか。そういうことを、なにも知らない。

 

 でも、相手のことを知らないからって、それだけを理由にお断りしてもいいのかな。なし崩し的に恋人になってから、お互いのことをよく知っていって……みたいなパターンも、漫画で読んだことがある。

 

 一晩中、考えて、考えて、考え続けた。それこそ、頭が痛くなってくるくらい考えてみた。だけど、やっぱり答えは出てこなくて。袋小路に入ってしまったように、なにも思いつかなかった。

 

 きっと、今の私が1人で悩んでも答えは出てこない。そんな気がした。だから、カーテン越しに空が白み始めたのに気づいたとき、一旦考えるのを止めた。代わりに、後で相談してみることにした。

 

 誰に相談しようか。……そう考えたとき、なぜかは分からないけど、真っ先に思い浮かんだのは…………男の子の木下くんの顔だった。

 

 

***

 

 

 羽沢先輩と2人でスイーツの調査を行った翌日。僕が裏口から店に入ると、羽沢先輩にシフトの後に予定はあるかと聞かれた。特にないと答えると、相談に乗ってほしいと言われた。夕飯を奢るから、ファミレスで話を聞いてほしいと。

 もちろん、僕は快諾した。単純に羽沢先輩と一緒に食事に行きたいというのもあったし、なにより先輩の方から僕を頼ってくれたというのが、たまらなく嬉しかった。

 わざわざ場所を店からファミレスに移すということは、結構大事な相談の筈だ。羽沢先輩の力になると決めている僕には、光栄すぎる話だった。

 

 いつものようにしっかりとバイトをこなしつつ、夕方を待つ。気持ちが上向きだったせいか、いつも以上に調子がよかった。要求されているであろう水準を遥かに超えるレベルで、順調に仕事を捌いていった。

 ああ、それと、今日はいよいよ試しにコーヒーも担当してみることとなった。今日の僕に障害などある筈もなく、結果は当然成功。マスターにも、コーヒー担当合格の判定をいただいたのであった。

 

 そして、いよいよ約束の時間となった。羽沢先輩と同時にバイトを上がり、僕たちはファミレスへと移動した。

 大事な相談の前だったからか、単純に疲れているからなのか、移動中の口数は少なかった。羽沢先輩にしては珍しいことではあったけど、このときは特に気にも留めてなかった。

 

 席に着いた後、僕は早速相談はなにかと切り出してみる。ところが、羽沢先輩は「そ、その前に、ご飯食べようよ……! お腹、空いてるよね?」と後回しにされてしまった。

 そんなに話しにくい内容なのか、一旦落ち着いてから話したいのか……どちらかは分からなかったけど、促された通りにご飯を優先することにした。

 ちなみに、今日はオムライスにした。デザートはいらないのかと聞かれたけど、もちろん断った。羽沢先輩は頼んでた。昨日の今日ですごいなと純粋に思った。

 

 ご飯を食べ終えるまでは、他愛もない雑談を楽しんだ。食事を終え、羽沢先輩がデザートをいただき、テーブルに残ったのはドリンクだけとなったころ、いよいよ本題に入るのであった。

 

「えっと、突然ごめんね? 相談を聞いてほしいなんて言っちゃって」

「いえ、全然大丈夫ですよ。それで、どうしたんですか?」

「……そ、その……なんて、言えばいいのかな……」

 

 なんだか、歯切れが悪い。話し出すそぶりを見せたものの、途中で言葉を切ってホットコーヒーのカップに口を付けてしまい、黙りこくってしまう。

 これまでの流れで、深刻な内容であることは明白だ。決して急かさず、僕も注いできたばかりのアイスのカフェラテを飲む。……最近のファミレスのコーヒーも、案外侮れないな。

 

「あ、あのね……!」

 

 僕がカフェラテを楽しんでいると、沈黙を保っていた羽沢先輩が勢いよく面を上げた。僕はコップをテーブルに置き、視線を先輩へと戻す。

 

「実は……昨日、木下くんと別れた後のことなんだけどね……」

 

 ポツリ、ポツリと呟いていく。いつもはっきりとしゃべる羽沢先輩らしからぬ小声だ。それに、なんだか顔を赤らめているように見えるのは気のせいだろうか。

 ……なんか、引っかかる。そんな顔をしてしまうくらい、話すのが恥ずかしいような相談というのは分かる。だけど、その正体までは分からなかった。

 

 ……ただ、後になって思えば、この瞬間に内容を予測できたとしてもまるで意味はなかっただろう。

 

 だって、どうせ僕が示す反応は同じだっただろうから。

 

「あの……偶にいらっしゃる髪の毛が丸刈りの男の子の常連さんがいるでしょ? 加藤くんって言うんだけど……そ、そのね…………っ……昨日、商店街で……告白、されたの……」

 

 …………………………え? 今……なんて?

 

「こく、はく……?」

「う、うん……そう、なの」

 

 確認の為というよりは、その言葉の意味を理解したくないあまり、壊れたラジオのような声でオウム返しをしてしまう。聞き間違えであってほしい。そう、思って。

 しかし……そんな都合のいいことは、起きなかった。羽沢先輩はますます顔を紅潮させながらも、確かに肯定の意を示した。

 ……飲み物を飲んだばかりなのに、喉がカラカラになる。知らぬ間に、手のひらは汗ばんでいた。それでいて……心臓の辺りが、すごく苦しい。吐き気まで込み上げてくる。

 

「私……男の子に告白されたの、初めてで……昨日、一晩中考えてたんだけど……もう、どうすればいいのか分からなくなっちゃって……」

 

 羽沢先輩の声が、遠く感じる。まるで、テレビ越しで声を聞いているかのようだ。言葉は聞こえる。でも、内容は半ばくらいしか頭に入ってこない。

 

 羽沢先輩が別の男子に告白されたのがショックなのではない。焦るような話なのは事実だけど、先輩の容姿や言動を考えればいくらでも起こりうることだった。

 相手のことをどう思っているにせよ、心優しい先輩が返事に苦心するのも無理はないと思う。悩んだ末に他の誰かに相談するのも……まあ、分かる。

 

 …………でも、なんでその相手がよりにもよって僕なんだ。羽沢先輩に想いを寄せている僕には、その選択はあまりにも残酷すぎる。

 だって、そうだろう? 男の僕になんの躊躇もなく、真っ先に相談できるということは……それはつまり…………僕のことを、そういう対象として見てない、って言ってるようなものなのだから。

 

「だから、男の子側の意見が知りたくて…………ねえ、どうしたら……いいのかな……? ごめんね、こんな曖昧な質問で」

 

 少しくらいは前進してたと思ってた。僕も、少しくらいは変わり始めていると思ってた。昨日のこともあったので、そういうことを全く期待していなかったと言われてしまえば、嘘になる。

 でも、実際は……なにもなかったみたいだ。羽沢先輩は僕のことを意識してなかった。僕は僕で、先輩の力になれればそれでいいとか言っておきながら、こんなにも動揺し、思考が停止してしまっている。先輩が真剣に悩んでいるということは分かっているのに。

 

 ……やっぱり、今も昔も不純な気持ちでバイトを続けていたのかもしれない、僕は。

 

「……さあ。そういう経験ないんで、僕だってそんなの分からないですよ」

 

 つい、棘のある言い方をしてしまう。本当は、今すぐにでも話を止めてほしい。心の奥底で、沸々となにかが湧き上がる気配を感じる。先輩が言葉を発する度に、神経がザラリとざわつく。

 早くこの場を離れたい。離れたいのに……相談を引き受けてしまったという最低限の責任感が、尚も僕をこの場に留まらせる。止めてくれ……こんなの、ただの生き地獄だ……。

 

「好きなら付き合えばいいし、そうじゃないなら付き合わなきゃいいんじゃないんですか」

「でも……付き合っている内に好きになるときもあるって聞いたことがあって……お受けすべき基準って、なんなのかなあ、って……」

 

 付き合っている内に好きになるかもしれない。その発言は、僕の心を著しく狂わせる。熱した鉄棒を心のど真ん中に突き刺され、乱暴に掻き回されているかのような痛み。

 

「……そもそも、羽沢先輩はその相手のことを知ってるんですか?」

「ううん、あまり知らないの。注文を取るときとか、注文のものを持って行ったときに少し話したくらいで」

「ほとんど他人じゃないですか。なんで受けるかどうかで悩んでるんですか」

「だからだよ。加藤くんがどういう人か知らないからって、そんな簡単にお断りしちゃうのは……せっかく告白してくれたのに……失礼だよ……」

「じゃあ、好きって言ってくれるんなら誰でもいいんですか?」

「そ、そんなことないよ……! ない、けど……」

 

 語気が、どんどん荒くなっているのを自覚する。……僕は今、なにに苛ついているんだろう。

 

 加藤とやらをすぐに振ろうとしないことに? こんな相談をしてくる羽沢先輩に? あるいは先輩の煮え切らない態度? それとも……僕の気持ちに気づいてくれないことに?

 

 ……いや、なにを考えてるんだ僕。言わなきゃ、気づかないに決まっている。そんなのは、ただの八つ当たりだ。単に、僕がその加藤という奴より勇気がないだけだ。

 それに、先輩が加藤を振ろうが振らなかろうが関係ないじゃないか。だって、今この瞬間にも、先輩の気持ちが一切僕に向いていないと宣言され続けているのだから。

 

「……すいません。僕じゃあんまり役に立てそうにありません。『Afterglow』のみんなにでも聞いてください」

 

 しばらく言葉の応酬が続いたが、いよいよ責任感だけで話を聞いてるのも限界になった。僕は席を立つ。このまま話を続けていたら、本当にどうにかなってしまいそうだった。

 「え……?」と戸惑う様子の羽沢先輩を他所に、「ごちそうさまでした」とだけ告げて、僕は逃げるようにして店を去った。いや……”ように”じゃなくて、完全に逃げたのであった。

 

 ……やってしまった。間違いなく、先輩に向けるような態度じゃなかった。

 

 一旦、頭を冷やそう。それで、次以降は表面上だけでも普通に振る舞えるようにしないと。そう、思うのであった。

 

 

***

 

 

 木下くんが退店する後ろ姿を、私は座ったまま見送ることしかできなかった。本当に、突然の退席だった。それでも、自分で注いだアイスカフェラテが空になっていたのは、木下くんらしかった。

 

 ……怒ってた、よね。多分……だけど。でも、どうしてだろう……。私がなにか悪いことをしちゃったんだと思うけど、それがなんなのかが全然分からない。

 

 私がいつまで経っても結論を出さなかったからかな? でも、いい加減な答えを出していい話じゃないよね。私にとっても、加藤くんにとっても。

 

 昨日、すぐに相談しなかったから? 結果的に私は徹夜で寝不足になっちゃったし、ありえるけど、そもそも寝不足のことは木下くんには言ってないし……。気づかれてる可能性も、ちょっとはあるけど……。

 

 偶々機嫌が悪かった? そういう日ってないわけじゃないけど、少なくとも仕事や食事の間は普通だったと思う。

 

 ……聞きたいことが、曖昧すぎたからかもしれない。やっぱり、もっとちゃんと聞きたいことを整理した方がよかったのかも。

 

 ……あれ? だけど、どんな答えを聞きたくて、木下くんに相談したんだろう? なんで、最初の相談相手に木下くんを選んだんだろう? ……そう、男の子の側の意見が知りたいんだった。でも、なんで? 私の方から男の子に告白するとかなら分かるけど、男の子から告白された私が男の子の側の視点を得ることに、どんな意味があるの?

 ……なんだか頭がこんがらがって、自分でもなにが分からないのかが分からなくなってきた。もしかしたら寝不足のせいで、今朝から頭が回らなくなってたのかも。

 

 ……だから、木下くんは怒ってたのかな。木下くんからしてみれば、なんでそんなことを聞くんだろうって感じだったのかも。だとしたら、申し訳ないことをしちゃったな……。

 

「……明日、みんなにも聞いてみようかな」

 

 よくよく考えれば、同じ女の子のみんなに相談してみるのが先だった気がする。なのに、最初に木下くんを頼ってしまったのは……相当混乱してたのかな、私。

 

 今度、ちゃんと木下くんに謝らないと。そう思いつつ、私はカップに残っていたコーヒーを飲み干すのであった。

 

 

 翌日の午前10時。バンドの練習の為に『CiRCLE』に集まった私たちは、各々の楽器の調整を進めている。この練習の後、相談をするつもりだ。それまでは、ちゃんと集中しないと。

 そう思っていたところ、リーダーのひまりちゃんが突然「みんな、ちょっと聞いてー!」と集合をかけた。どうしたんだろう?

 

「なに、ひまり?」

「んっふっふーん。実は今日、重大な発表がありまーす!」

 

 お日様のような笑顔で両手でガッツポーズを取るひまりちゃん。とってもいい知らせであることが、聞かなくても分かっちゃうくらいの笑顔だった。

 

「あ〜、もしかして〜、20キロ痩せた〜?」

「違うよ!? というか、いくらなんでも20キロも痩せたら大変だよ!? モカの中で私の体重はどうなってるの!?」

「あー、こらこら、モカ。話が進まなくなるから、まだ余計なことを言うなって」

「まだ!? もっと強く止めてよ!?」

「まあ、まあ……落ち着いて、ひまりちゃん。練習時間なくなっちゃうよ?」

 

 間に入って、話が脱線しそうになっていたのを引き留める。蘭ちゃんが「それで、話って?」と改めて問うと、ひまりちゃんがいよいよ話を切り出した。

 

「なんと! 私たち『Afterglow』は、9月に開催の『ガールズ☆スーパーフェス』に招待されることになりましたー!」

「え、待って……それって、渋谷ら辺の大きな公園でやる、ガールズバンド専門の野外フェスのことじゃ……?」

「そう、それ! それに招待されちゃったんだよー!」

 

 半信半疑の様子で聞いた蘭ちゃんに、ひまりちゃんは嘘じゃないと力強く頷いた。巴ちゃんとモカちゃんも目を丸くしている。それだけ、『ガールズ☆スーパーフェス』はすごいイベントなのだ。流石に武道館とかには敵わないけど、ガールズバンドが憧れとするイベントの1つなのは間違いない。

 

 そんな大きなイベントに、私たちが招待された。それはもう、この場で飛び上がってもおかしくないくらい、とびきりに嬉しいお知らせだった。

 

「私たちが、『ガルスパ』に……!」

「いよっしゃあ! あの『ガルスパ』でライブできるなんて……! くぅ、燃えてきたー!」

「やった。やったね、みんな……!」

 

 もちろん、私だってすごく、ものすごく嬉しい……! 一時的に告白のことや相談のことが頭から抜け落ちてしまうくらい、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。

 中学のときに結成してからずっと続けてきたバンド活動。去年は多くの困難に見舞われたけど、それを乗り越えたことで大きく成長できた私たち。その芽が、ついに出てきた瞬間だった。

 

「せっかくだし〜、らーん、新曲行っちゃう〜?」

「……そうだね。それも、いいかも」

 

 新曲……! 時間が潤沢にあるとは言えないけど、調子がいいときの蘭ちゃんは驚くくらい早く仕上げてくる。きっと練習は大変だけど、絶対に間に合わせよう。よーし! 頑張らないと!

 

「じゃあみんなー! えい、えい、おー!」

 

 ”いつも通り”ひまりちゃんの掛け声に無言で応えた私たちは、今までで最高潮のモチベーションで練習に臨むのあった。その出来は、言うまでもないと思う。

 

 

 練習後、ファミレスにて遅めのお昼を食べる私たち。昨日、木下くんに相談をしたのとは違う、イタリアンがメインのお店だ。

 そこで改めて、私は相談をみんなに持ちかけてみた。加藤くんという男の子に、告白されたと。

 

「え、ほんとほんと!? やったじゃん、つぐ〜! …………ん? 加藤君?」

「う、うん。ひまりちゃんも、見かけたことはあると思うよ」

 

 ひまりちゃんの問いかけに、私は今も熱い顔を俯かせながら答える。何回かは、ひまりちゃんがお店にいるときに加藤くんもお店にいたことはあったのだ。流石に、ひまりちゃんは覚えてないと思うけど。

 

「そうじゃなくて〜! その告白された男子って、本当に加藤君なの!?」

「そうだけど……ひまりちゃんって、加藤くんとお友達なの?」

「違う! そういうことでもなくて〜!」

 

 ひまりちゃんが頭を抱えてる。要領を得ず、最初はひまりちゃんの勢いに押されていた私も首を傾げてしまう。

 

「あー、まあ、ひまりのことは置いておいてだな……つぐ、結局なんて答えようって思ってるんだ? 付き合うつもりなのか?」

「えっと……それが分からなくて……」

「そもそも、つぐみはその加藤のことが好きなの?」

「それも、分からなくて……」

 

 巴ちゃんと蘭ちゃんの質問に、私は言葉を詰まらせる。それこそが、みんなに相談したいことなのだ。

 

「実は昨日ね、木下くんにも相談してみたんだ。でも、ちゃんと答えは出なくて……」

「……え? つぐ……ゆー君に相談したのー?」

 

 ずっと沈黙を保っていたモカちゃんが、急に真剣な面持ちで聞いてきた。心なしか、言葉の間延びもいつもより少ない。

 ……ううん、モカちゃんだけじゃなかった。なぜだか分からないけど、他のみんなも一様に驚いているように見えた。

 

「うん、相談したよ? でも、私の聞き方がよくなかったみたいで、少し怒らせちゃったの……今度謝らなくちゃ、って思ってるんだけど……」

「……少しじゃないと思うけどなー」

 

 消え入るような小声で呟かれたモカちゃんの返事は、残念ながら聞き取れなかった。

 

「ま、待って待って……! つぐは加藤君に告白されて、それを木下君に相談して……え? えっ!?」

「ひまり、落ち着いて。そのことだけは言っちゃダメだから」

「ああ。それはアイツの問題だ」

 

 ……なんだろう? 木下くんに相談した、と言った辺りから、みんなの雰囲気が変わった気がする。なんていうか……こう、困惑? してるように見える。

 

「……つぐはー、なんでゆー君に最初に相談したのー?」

「……実は、それも分からないんだ。ただ、相談しようって決めたときに真っ先に思い浮かんだのが木下くんだったの」

「うーん? ……これは、どっちだろうー」

 

 モカちゃんが、むむむーって感じの難しい顔をしてる。モカちゃん、国語が得意だし、私には見えてない部分が見えてるのかも。できれば、それを教えてほしいけど、悩んでるってことは、まだ聞かない方がいいのかな。

 

 そう思っていたら、今度は蘭ちゃんが腕を組みながら答えてくれた。

 

「……つぐみ。私はつぐみじゃないから、つぐみの気持ちは分からないけど……ちゃんと、本心から出せた答えだって言えるまで、考え抜いた方がいいと思う。じゃないと……後悔すると思う。まだつぐみ自身が気づいてないかもしれないことも含めて……つぐみが1人で考えないといけないことだと思う。どれだけ、大変でも」

「……うん」

 

 蘭ちゃんもまた、私が知らないなにかを見抜いてるみたい。でも、自分で気づかないと意味がないと言われてしまった。長い時間をかけて華道と向き合った、蘭ちゃんらしいアドバイスだと思った。ちゃんと、心に留めておかないと。

 

 ……だけど、なにを見落としてるのかな、私。みんなと一緒にいる間、ずっと頭の片隅で考えてみたけど、なにも思い浮かばなかった。

 モヤモヤとした思いを抱えたまま、解散となってしまうのであった。

 

 

 みんなと別れた後、私は真っ直ぐに帰宅した。今日は、15時からシフトの時間だ。今は14時半くらいだから、少し休んだら着替えないと。

 そう思い、待機所を通ろうとしたときだった。テーブルに、あるものが置いてあるのに気づいた。

 

「……あれ? これって……スマホ?」

 

 黒色のスマホだった。見覚えがある。多分、木下くんのスマホだ。一応手に持って背面とかを確認してみるけど、間違いないと思う。一昨日、近くで操作しているのを何回か見てたから背面のデザインはよく覚えてる。

 

 たしか……今日の木下君のシフトは14時までだった筈。ということは、もう上がってるということだよね。つまり……忘れて行っちゃったのかもしれない。

 

 どうしよう……気づいて、戻ってくるかな? それとも、届けた方がいい? まだそんなには離れてないと思うけど、流石に届けに行けるほどの時間はないと思うし、もし既に電車に乗ってたら、どうしようもない。

 

 うーん……こっちで預かっておいて、しばらく待っても取りに戻ってこなさそうだったら、木下くんの自宅に電話してみようかな。

 そう思い、そのスマホを貴重品用の金庫に仕舞っておこうとした。

 

 ——まさに、そのときだった。チャットツールによる通知が起動し、木下くんのスマホの画面が点灯したのは。

 

 ……もし、この通知に気づかなければ。そうでなくともせめて、画面に目をやらなかったら。後に、そう後悔することになるも……それこそ、後の祭りだった。

 

 光った画面に自然と視線が釣られてしまう。そして……ひまりちゃんのアカウント名が送信主の、チャットの通知によるメッセージの一部が目に入ってしまった。

 

『ねえ、つぐが別の男子に告白されちゃったんでしょ!? こうなったら、木下君もつぐに好きって言うしかないよ! 早くしないと、OKされちゃう…………』

 

「…………ぇ」

 

 息を呑む。後頭部を鈍器で殴られたかのような衝撃が走った。

 

 …………え? これ……どういう……? え、えっと……つまり……その…………え? ま、待って、落ち着いて考えないと…………でも、落ち着かないとって思えば思うほど頭がこんがらがっちゃう……。

 

 ……好き? 木下くんが……? そ、その…………私を? で、でも、今までそんな素振り……一昨日だって、そんな風には……。で、でも……いつから? 1ヶ月前? 2ヶ月前? それとも……まさか、最初から……とか? ううん、だけど、そんなことって……。

 

 ……っ!? も、もしかして、蘭ちゃんたちが困ってたのって……!? そ、そっか……知ってたんだ…………じゃないと、こんなメッセージなんて送らないよね。

 

 それじゃあ……それじゃあ……このメッセージが本当なら……私が昨日、木下くんにしたことって……!

 

「っ……ぅ……!」

 

 急に気持ち悪くなり、口を空いた手のひらで覆う。スマホを持つ手が、これ以上ないくらいに震えている。呼吸をするのが苦しくて、自然と息が荒くなる。

 

 自分がなにをしでかしてしまったのか……ようやく気づいた。なんで、木下くんが怒っていたのかも。

 ……なんて酷いことをしてしまったのだろう。私の言葉が、どれだけ木下くんを傷つけてしまったのか想像もつかない。きっと、謝罪なんかでは全くもって足りないくらいとても深い。

 

 月のように大きく、途方もない罪悪感に押し潰されそうになる……そんなときだった。

 

「——羽沢先輩?」

「っ!?」

 

 背後からの何気ない呼び声。普段であれば、ただの挨拶のような調子の声。だけど、今の私にはそれが死神の声にすら聞こえた。

 壊れた機械のようなぎこちない動きで、後ろを向く。

 

「き、木下くん……」

「すいません、スマホを忘れてしまいまして。どこかで見ませんでした?」

「ぁ……その……」

「あ、それです。羽沢先輩が今持ってる奴です。先輩が見つけてくれたんですか?」

 

 シラを切る暇すらなく、木下くんはそれを見つけてしまった。爆弾が表示されたままの、それを。咄嗟に電源ボタンを押して画面を消そうと思ったけど、私のと機種が違って、すぐにはボタンの位置を探れなかった。

 

「ぁ……!」

 

 その一瞬の隙に、木下くんは私の手からスマホを取ってしまった。木下くんの持ち物である以上、強引に保持することなんてできない。そんな思いがあって、あっさりと受け渡しを許してしまった。

 

 木下くんの視線が、画面へと落ちる。もう間もなく、通知の存在に気づくだろう。

 

 駄目……今、それを読んじゃ駄目……そう祈っても、止まってくれない。止まってくれる筈がない。だって、この状況で読まない方がむしろ不自然なんだから。

 

 そして、そのときが来てしまった。

 

「っ……!?」

 

 ……木下くんの目が、大きく見開いた。それをどうすることもできず、私は呆然と立ち尽くすだけだった。

 

 ……1秒……2秒……と沈黙が続く。その沈黙が、怖かった。雷なんかよりも、ずっとずっと怖かった。胃が痛い。まるで、ドラマの裁判の判決の場面かのよう。永遠に続くのではと錯覚するほどの苦しみの中、私は服の裾を握りながら判決を待った。

 

 ……しばらくして、木下くんが井戸の底のように暗く、冷たい瞳をこちらに向けたとき、私は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまった。

 

 

 



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第10話 壊れかけの関係

 スマホの画面に表示された上原先輩のメッセージの通知。羽沢先輩から受け取ったときには、もう画面は点灯していた。それはつまり、このメッセージを先輩も読んだということを意味する。

 ……僕が羽沢先輩のことが好きであることが明示されている、この一文を。

 

「……見たんですか?」

 

 自分でも驚くくらい、声が低かった。もしその声が自分自身に向けられたら、怖いと思うくらいには。なのに、その声を……女子で、先輩で、想い人である羽沢先輩に対して発してしまった。

 

「っ……」

 

 返事が言葉として返ってくることはなかった。代わりに、羽沢先輩は顔を俯かせたまま……微かに頷いた。

 ……表情は見えない。だけど、両手を前で重ね、両肩を痛ましいくらいに縮こまらせていた。

 

 今まで、そんな姿を見たくなくて頑張っていた筈なのに……そんなことは忘れたとでも言うかのように、腹の底で煮えたぎったものが渦を巻き、胃が酸で灼けるかのように熱かった。

 

「ご、ごめんなさい……私、その……」

「なにに対して謝ってるんですか」

「っ……それは……」

 

 どうしても、険のある言い方になってしまう。それでも完全な大声までは出さないのは、店の裏にいるからという最低限度のストッパーがかかっているからだ。本当であれば、今すぐにでも叫んでしまいたい。

 

 さっきの、スマホを受け取るまでのやり取り。あれですらも、僕はかなりの無理をして平静を装っていた。紛れもなく、限界ギリギリだった。

 そこに、羽沢先輩への想いが知られるという事故が起きた。その瞬間、僕の中で留めていた色々なものが爆発してしまった。もう自分でも、抑えようがない。

 

「なんで……僕に、相談なんかしたんですか……! なんで、我慢しようって決めた途端にこんなことになるんですか……! なんで、こんな……!」

 

 正当な怒りじゃない。完全に八つ当たりだし、言ってることも支離滅裂だ。ただ、僕の心はもういっぱいいっぱいだった。一度に受け止められる感情の許容量を越えてしまった。とにかく、どのような形でもいいから発散したかった。

 

「羽沢先輩の答えはもう分かってるのに……どうして、知っちゃったんですか……! 知らなければ、知らないままだったのに……!」

 

 羽沢先輩はなにも悪くない。間が悪かっただけだ。スマホを忘れるのが悪いんだと、片隅に残った理性が語りかけてくる。でも、そんなの知ったことではない。激情という名の拳で理性を握りつぶし、子供のように喚き散らす。

 

「……っ! なんで、黙ってるんですか……!」

 

 謝られても苛つく。静かにされても苛つく。もう、なにをされてても苛ついてしまう。今の僕はどうしようもなく子供で、錯乱してて……みっともなかった。

 怒りに任せて、沈黙したままの羽沢先輩に詰め寄る。なんて言ってほしいのかも分からなかったが、とにかく黙った状態なのが不快だった。

 

 ……だったのだけど、近づいたことである異変に気づいてしまった。それは、僕の心を急速に冷やすのに十分すぎるほどの異変だった。

 

「っ……ぐすっ…………ぅぅ……っ、ひっ……く……ぅ」

「……っ!?」

 

 嗚咽。あの羽沢先輩が嗚咽を漏らしていた。最初はすすり声だけだったのが、やがて声が大きくなり、ポロポロと顔から雫が落ちては床を濡らし始めた。

 それを見た僕は、あまりの衝撃にその場で固まってしまった。

 

「ご、ごめ……っ……ごめん、なさい……! ぅ……っ……ごめ……なさい……っ……!」

 

 羽沢先輩は両手で口を押さえ、肩を痙攣させる。声が震えており、大粒の涙が次々と落ちる。何度も何度も、謝罪の言葉だけを繰り返す。見てるこっちが苦しくなってくるほど、痛ましい光景だった。

 

 ……怒りは、完全に霧散してしまった。そして残ったのは、羽沢先輩を泣かせてしまったという、死刑でも足りないほどの罪悪感だけだった。

 

「す、すいません、羽沢先輩……! ぼ、僕、そんなつもりじゃ……!」

「違うの……ぐすっ……ぅ……木下くんはなにも悪くないの……! ごめ……なさ……ぃ……私が……私が全部、悪いのに……っ……卑怯だよね、私……!」

 

 とにかく泣き止んでもらおうと、ハンカチを持っていない僕は代わりにテーブルの上のティッシュを何枚か取り、小さく畳んで差し出す。しかし、一向に受け取ってくれる気配はない。ティッシュを持った僕の手が、所在なさげに宙に浮く。

 こちらから無理に拭うことも考えたものの……今の弱々しい気配の羽沢先輩はガラス細工かのようで……少しでも触れたら、壊れてしまいそうで……手を動かすことが、できなかった。

 

 ……泣かせたかったわけじゃない。謝ってほしかったわけでもない。ただただ、僕がやり場のない感情をぶつけてしまっただけ。僕の心が弱かっただけ。その結果が……これだ。

 羽沢先輩にだって心の許容量があることを考慮もせずに当たり散らして、追い詰めて……最低だ、僕。こんなの、羽沢先輩の気持ちに関係なく、付き合う資格なんてないじゃないか。

 

 羽沢先輩が涙を零している間、僕はなにもできなかった。ただ側で、自己嫌悪に苛まれながら、意味があるのかも不明な慰めの言葉をかけることしかできなかった。

 

 結局、なにやら様子がおかしいことに気づいたらしいマスターが待機所にやってきて、場を収めてくれるまで、その状態が続いた。

 羽沢先輩が一旦自室に引っ込んだ後、マスターの娘を泣かせた僕は激しい非難を受けることを覚悟してたけど、そんなことはなかった。マスターはコーヒーを1杯出してくれただけで、なにも聞こうとしなかった。そしてその顔は、穏やかだった。

 その意図は掴みかねたけど……相変わらずコーヒーは温かく、美味しかった。それが今の僕の心の醜さを浮き彫りにしているようで、却って辛かった。

 

 その後、僕は再び羽沢先輩と話す勇気が持てず……マスターに挨拶だけして店を去るのであった。

 

 

***

 

 

 ……なんで、涙なんか流しちゃったんだろう。お父さんに促されて自室に戻ってしまった私は、ベッドの上で膝を抱えて座りながら、自分を責め続けていた。

 

 全面的に、私が悪いのに……あそこで泣いちゃうなんて……私はズルいよ。まるで、木下くんが悪者みたいにしちゃって……。あのとき、泣きたいのは木下くんの方だった筈なのに、あんな風に困らせちゃって。涙こそ止まったけど、流した量に比例して、罪悪感は増すばかりだ。

 

 木下くんの怒りは、正当な権利だった。木下くんの想いに気づかなかったのもそうだし、気づかずに恋愛相談をしてしまったのもそうだ。

 それが、どれほど辛い立場だったのか…………想像するだけでも、胸が張り裂けそうだった。さっき、大声を出さなかった木下くんはすごいと思う。私だったら……自信、ないかも。少なくとも、泣き出していたとは思う。事実、加害者側なのに泣いてしまったのだから。

 

 どうやって、償えばいいんだろう。どうすれば、許してもらえるんだろう。

 許してもらおうなんて考え自体、おこがましいのかもしれない。でも、やだよ……こんなに仲良くなれたのに、おしまいだなんて。嫌われたく……ないよ。

 

 側に置いてあった自分のスマホを取って、写真のアルバムを開く。何度かの操作を経て、目的の写真を表示する。それは、一昨日撮った内の1枚。調査用に撮ったスイーツの写真とは別の、自分用の1枚。そこには、木下くんが写っている。

 3店目で撮ったものだ。木下くんがコーヒーのカップに口を付けてる瞬間を狙って横から撮ったもの。写真の中の木下くんは、撮られる寸前にカメラに気づいたのか、目を点にしていた。スイーツの調査に来てたのに、コーヒーの味まで調べようと少しずつ飲んでは無言になってたのがおかしくて、思わず撮ってしまったのだ。

 この写真を見てるだけで、不謹慎だと分かっていても頬が緩み、顔に熱が籠もる。心に、僅かばかりの余裕が戻る。どうしても……目が離せなくなる。

 

 ……私は、なんて鈍いんだろう。馬鹿なんだろう。どうして、加藤くんに告白されたときに気づけなかったんだろう。どうして、木下くんに相談したくなったときに気づけなかったんだろう。そうすれば、こんなことにはなっていなかったのに。

 

 後輩であることを忘れちゃうくらい、頼りになる男の子。とても真面目で、頑張り屋さんの男の子。心配で放っておけなくて、ついつい支えちゃう男の子。側に居てくれるだけで、安心する男の子。

 

「っ……そっか、私……」

 

 お友達だと……ずっと思っていた。でも、そうじゃなかった。そうじゃなくなっていた。そのことに、今になってようやく気づいた。

 

「……好き」

 

 ストン、と胸に落ちる心地だった。ずっと足りなかったパズルのピースを埋めるように、その言葉はじんわりと私の胸の内に溶け込んだ。

 

 考えてみれば、簡単な話だった。例えば、カップルシート。あのときは恥ずかしさはあったものの、あれだけ密着してしまう座席にも関わらず、すんなりと木下くんを受け入れていた。

 もし、あれが加藤くんだったとしたら……彼には申し訳ないけど、きっと一般の席が空くまで待っていたと思う。

 

 その違いが、明確に答えを指し示していた。相談のときに木下くんの顔が思い浮かんだのはきっと……本心を知っていた無意識からの警告だったのかもしれない。本当にそれでいいのか、と。

 

 最初は、普通のお友達と思っていた。それは、間違いない。でも、いつの間にか……お友達として好きという感情の中に……僅かに、一欠片だけ…………異性として好き、という感情が混じり始めていたのだ。そして、それは日に日に大きくなっていった。ところが、私はその変化に気づけなかった。

 

 クイズ番組で、写真の一部が少しずつ変化するタイプの問題がある。あれと一緒だ。変化前と変化後を見れば違いは一目瞭然なのに、変化している間、その場所に意識が向いてないと、なにが変わっているかが全く分からない。そんな感じで、ずっと焦点がズレていた。

 

 ……その焦点が、先程の件でぴったりと合ってしまった。あまりにも遅く、残酷なタイミングで。

 

「……っ、でも……私なんか……駄目、だよ…………資格、ないよ……」

 

 心に温かいものが灯りそうになったその瞬間、私はそれを消し去るようにかぶりを振った。喜んじゃ駄目だと、己を強く戒める。その好きな人になにをしたのか、忘れたのかと。

 

 膝をより強く抱え、組んだ腕の中に顔を埋める。視界が真っ暗になった。

 

 自分の想いを自覚もせぬまま、考えうる最悪の方法で木下くんの心を抉ってしまった。そんな私が、木下くんの隣に立っていい筈がない。彼を支えられる筈がない。

 きっと、私なんかよりも木下くんに相応しい人が居るに決まっている。少なくとも、私は相応しくない。大人しく、身を引くべきだ。……それが、最善だ。

 

「っ……ぅ……ひっく…………ぐす」

 

 だから……だから……お願いだから……”嫌だ”……なんて我儘、言わないで。

 

「ぁぁ……っ……! ぅ……ぁ……っく、ぅ………ッ!」

 

 なんで……っ……また、涙が…………そんな資格、ないって言ってるのに……!

 

 止まらない。堰が切られたように涙が止まらない。洪水のように溢れては、服を濡らす。理屈で抑え込もうとした感情が止め処なく噴き出す。

 自業自得だとか、それが木下くんの為だと言い聞かせても、感情が納得してくれない。自覚するまでに恐ろしいくらいの時間がかかった癖に、往生際が悪い。

 

 嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ……! なんで、私、こんな……鈍感なの……っ! もっと、早く気づきたかった……! そしたら、今頃……!

 

 ……結局、私は泣き疲れて眠ってしまうまでの間、ずっと自己嫌悪で蹲ったままだった。シフトに入ることも忘れ、夕飯も食べず、その日はずっと部屋に閉じこもってしまった。

 

 部屋から出て、ちゃんとご飯が食べられるようになるまでに…次の日の夕方までかかってしまうのであった。

 

 

 あの日……私が木下くんの気持ちを事故で知ってしまって以降……私たちの関係は、大きく変わってしまった。

 残りの夏休みの期間中、何度かシフトの時間が重なった。一緒に働いている間、表面上はこれといった問題は起きなかった。でも、それだけだった。普段の私たちを知る人から見たら、問題だらけだったと思う。

 

 お互い、顔をまともに見れなくなった。正確には、木下くんが顔を合わせてくれなかった。羞恥心によるものではない。戸惑いと、拒絶と、後悔。そんな感情が複雑に入り混じっているのがすぐに分かった。だって、私も同じようなものを抱えているから。

 

 口数が減った。というより、最低限の会話しかできなくなってしまった。シフトに入るときの挨拶とか、注文の伝達や料理が完成したときの連絡とか。仕事に支障が出ない程度の事務的なやり取りしかしなくなってしまった。

 なにか声をかけようと思っても、ごちゃ混ぜになった負の感情が言葉を封じてしまう。また、傷つけてしまうかもしれない。今度こそ、完全に拒絶されるかもしれない。木下くんの本心を知るのが怖くて、声が出なくなってしまった。

 

 話せないならばと、チャットツールを利用しようとしたこともある。でも、媒体が変わっただけで、結果は同じだった。どんなに慎重に言葉を選び、丁寧な文章を打ち込んでも、恐怖が消えることはなかった。送信ボタンを押すことができず、今も文章は残ったままだ。

 

 言うなれば、膠着状態。お互い、本心では曝け出したいことがたくさんある筈なのに、口を噤んだまま。ちゃんと話し合うべきなのに、心を閉ざしたまま。

 それは、息が詰まるような時間ではあったけど……同時に、私は安堵もしていた。木下くんに非難されていないことに。一緒に、仕事ができていることに。

 

 そうしている間にも時間は過ぎていく。1日、2日と経っていき、夏休みが終わろうとする。しかも、最後の方は宿題やら『ガルスパ』に向けた練習やらで大忙しで、木下くんとの一緒のシフトがほとんどなくなってしまった。

 

 そして、私たちのすれ違いによる弊害は、確実に大きくなっているのであった。

 

 

 8月31日。始業式前日。私たちは『CiRCLE』で、夏休み最後の練習に臨んでいた。『ガルスパ』に向けて、音合わせの練習を繰り返す。

 そんなとき、不意に音が止んだ。止めたのは、蘭ちゃんだった。

 

「——つぐみ! また音が遅れてる!」

「ご、ごめん、蘭ちゃん……」

 

 身を縮こまらせてしまう。始めたばかりなのに、注意されるのはこれで3回目だ。明らかに多すぎる。あの日以降、日を重ねるにつれて、ミスの頻度は上がり続けていた。

 『ガルスパ』まで、そんなに時間は残されていない。本番に向けて、少しでも完成度を高めないといけない時期だ。なのに……私の演奏は精彩を欠く一方だった。

 もちろん、個人での練習はしている。夏休みだったので、普段よりもずっとたくさん練習していた。なのに……木下くんとのことが頭の片隅に残って、集中しきれない。ふとした拍子に木下くんとのことを考えてしまって、気づいたら演奏が遅れているのだ。

 

「さっき、キーも少し間違えてたし……どこか悪いの?」

「ううん、そうじゃないの……本当に、ごめんね」

 

 一転して心配そうにこちらを窺う蘭ちゃん。その姿を見ていると、申し訳なくて仕方がなかった。具合が悪いわけじゃない。でも、問題を抱えているのも事実だった。

 

「つぐ、ほんとに大丈夫? もしかしたら知らない内に疲れてるのかもしれないよ? なにか、あったんじゃない?」

 

 次に声をかけてくれたのはひまりちゃんだった。彼女の声音はとても優しく、本気で私を気遣っているのが分かる。その気持ちは、とても嬉しかった。思わず事情を漏らしてしまいそうになるくらい、嬉しかった。

 

「だ、大丈夫……! 今度こそ、ちゃんとできるように頑張るから!」

 

 でも、言えない。『Afterglow』のみんなにだけは言えない。特に、ひまりちゃんには。もし事情を知ったら、ひまりちゃんはきっと自分を責めちゃう。ひまりちゃんだけ内緒にしたとしても、どこかで漏れてしまうかもしれない。だから心苦しかったけど……話せなかった。

 

「うーん、そっか。でも一応、次で早めの休憩にしよっか」

 

 またもや気を遣わせてしまった。後ろめたさを感じつつも、再度キーボードに指を添える。今はとにかく、目の前の練習に集中しないと。

 

 その後、私はなんとかみんなの演奏に喰らいつけるようにはなったものの、出来がよくないことに変わりはなかった。

 

 ……このままではいけない。そう思うも、依然として解決策は見えてこなかった。

 

 

 練習後、各々の用事があった為、『CiRCLE』で解散となった。みんなの姿が見えなくなったのを確認した後、1人になった私は肩を落とし、溜め息をつく。

 

 ——と思ったら、突然後ろから誰かが抱きついてきて、肩を跳ね上げてしまった。

 

「ひゃっ!?」

「つぐ〜、一緒に帰ろ〜」

「も、モカちゃん!? 用事があったんじゃ……」

「ふっふっふ〜、トリックでした〜」

 

 身動きできないので、顔だけを後ろに向ける。するとそこには、不敵な笑みを浮かべたモカちゃんが居た。わざわざ嘘をついてから私の所に戻ってきたみたいだけど……なんでだろう?

 

 本音を言えば、1人で帰りながら色々考えたいという思いも少なからずあった。でも、理由は分からないけど、そうしてまで一緒に帰ろう行ってくれるモカちゃんを無碍にできるわけがない。私はすぐに頷いた。

 

 2人横に並んで道を歩く。モカちゃんは練習前にやまぶきベーカリーで買ったらしいパンを歩きながら食べていた。

 

「はむはむ……いや〜、練習終わりのパンは最高だね〜」

「あはは、モカちゃん、本当にやまぶきベーカリーのパンが好きなんだね」

「それはもう〜、古今東西のパンの中でも、至高の美味しさだからね〜」

 

 モカちゃんの言い回しに笑みが溢れる。マイペースなモカちゃんとの会話で、気持ちが少しだけ楽になる。やっぱり一緒に帰ってよかったかも。

 ……そう、思ってたんだけど、次のモカちゃんの一言で私は顔を強ばらせることになる。

 

「それでー、つぐはゆー君となにかあったのー?」

「ぇ……」

 

 ぎくり、と胸が締め付けられた。再度モカちゃんの方を見てみると、既にパンは食べ終わっていて、いつもの緩んだ顔でこっちを見ていた。でも、幼馴染の私にはすぐに分かった。その瞳が真剣味を帯びていることに。

 

「ど、どうして……」

 

 本来ならば、ここで知らんぷりをするべきだった。でも、一足飛びで悩みの核心に触れられてしまった私は、動揺のあまり図星であることを認めてしまった。

 

「この前つぐのとこに行ったときー、なんだか2人の様子がおかしかったからー。こう……余所余所しい?」

 

 う、と呻き声を漏らしてしまった私を許してほしい。だって、あまりにもドンピシャだったから。意識的に作っていた笑みが崩れて、顔が曇っていくのが分かる。

 

 そういえば、前に加藤くんのことで相談したとき、モカちゃんは意味深なことを言っていた。もしかしたら……私の気持ちに、気づいてたのかもしれない。

 

「モカちゃんは、すごいね……」

「それはもう、名探偵モカちゃんですからー。それで、なにがあったのかなー? モカちゃんが聞いてしんぜようー」

 

 その微笑みに、私は白旗を上げた。ううん……本当は、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。『Afterglow』のみんなには言えないって思ってたけど、モカちゃんなら、こういう大事なことは絶対に他人に漏らさないだろうし……きっと大丈夫。

 

 観念した私は、モカちゃんに全てを白状した。事故で木下くんの気持ちを知っちゃったこと、自分の気持ちを自覚してしまったこと。でも、自分にそんな資格はないと思っていること。なにもかも全部話した。

 それを、モカちゃんは口を挟まずに、時々相槌を打ちながら、最後まで聞いてくれた。

 

 話し終わったとき、モカちゃんは目を細めて、うんうんと頷いていた。

 

「……そっかー。ゆー君が好きなルートかー。青春だね〜」

「やっぱり、モカちゃんはあのとき気づいてたんだね……」

「好きだからーが8で、意識してないーが2くらいだったかな〜。もちろん、8の方に賭けてたよー。大当たり〜」

「……あはは、8の方なのに大当たりなんだ?」

 

 苦笑いになってしまう。ものすごく真面目で深刻な話をしているのに、モカちゃんと話してると不思議と空気が弛緩してしまう。だからか、なんでも淀みなく話せちゃう。

 

「うーんと、つぐは、ゆー君のガールフレンドになりたくないのー?」

「ガール……っ!? お、お付き合いってことだよね……その、分からないの」

 

 聞き慣れない単語に一瞬鼓動が跳ねるも、思ったままの言葉を口にする。

 

「やっぱり……嬉しいよ? そういう風に思われてるのは。でも、私なんて……」

「さっき言ってたー、資格がないってことー?」

「……うん」

 

 結局のところ、そこに行き着く。木下くんを知らない内に追い詰めてしまった。あんな怒気を孕んだ表情を見せてしまうくらいに。今でもあの顔は、鮮明に思い出せる。

 また、あれをやってしまうかもしれないと思うと……。

 

「でもさー、資格があるかどうかなんて……付き合いたいかどうかとは関係ないようなー?」

「え? そんなこと、ないような……」

「だって〜、あたしはお金がピンチなときでも、やまぶきベーカリーのパンが食べたくなるときはいっぱいあるよー?」

「ぁ……」

 

 モカちゃんの例えに、ずっと混乱していた心の一部が一気に整理された。水と油のように、綺麗に切り分けられた。

 ……切り分けられた、けど。

 

「……うん、そうだね。好き……だとは思うよ。その、そういうことになれたら、とっても嬉しいとも思う。だけど、資格がないことには変わりはないよ……」

 

 どれだけ欲しくても、お金がなければパンは買えない。それと同じだ。

 

「じゃあーさ、資格をゲットしちゃうのはどうかなー?」

「えっと……ゲット?」

「お金がないならー、バイトで稼ごーう。資格がないなら合格目指して勉強しよーう。……漫画とかでもあるでしょー? 何回負けても、不合格になっても諦めないでー、つぐってつぐってつぐりまくってー、最後には勝利〜って感じでー」

 

 ええっと……つまり、今からでも遅くない……って言いたいのかな? そう、なのかな……まだ、やり直せるなんて都合のいいこと、あるのかな……。疑念は晴れなかった。

 

「……ほんとに、そう思う?」

「もちろんですともー。つぐは今まで『Afterglow』でなにがあったかー、もう忘れちゃったのかなー?」

「……? …………あ!」

 

 そういえば……1年前……みんなが蘭ちゃんの成長に置いていかれちゃって、焦ってたことがある。いつも通りがいつも通りじゃなくなったような気がして、蘭ちゃんと一緒に居てもいいのか、不安になったことが。

 でも、紆余曲折はあったけど、最後には乗り越えて……私たちの新しい、いつも通りが生まれた。今となっては、懐かしい思い出。

 

「……そっか。そうなの、かも……」

 

 意外と、なんとかなっちゃうのかもしれない。実は、今抱えている問題も、後になって振り返ってみれば、ただの思い出になっているのかもしれない。

 一見どんなに解決不可能に見える問題も……そんなこと、全然ないのかもしれない。まだ……手遅れじゃないかもしれない。

 

「……よし」

 

 疑念が完全には晴れたわけじゃない。けど……なんだか、モカちゃんの話を聞いている内に元気が出てきた。うん……そうだよね。いつまでも悩んでても、しょうがないよね。

 

「……ありがとう、モカちゃん。資格のことは……まだ迷ってるけど……とにかく、1回木下くんとちゃんとお話してみるね!」

「……うん。ファイト、つぐ」

 

 話の終わり際……モカちゃんが見せてくれた柔和な笑みは、慈愛に満ちていて……ちゃんと見守ってるから、って言われているようだった。とても心強くて、勇気が出てきた。

 

 明日……時間は少しズレてるけど、木下くんとシフトが重なっている。そのどこかでいいから、絶対に直接話し合う約束をしよう。

 そんな決意を秘めつつ、残りの帰り道をモカちゃんと一緒に歩くのであった。

 

 

***

 

 

 始業式となってしまった。僕と羽沢先輩の問題に解決の兆しがないまま、新学期を迎えた。

 

 始業式と言っても、なにか特別なことがあるわけじゃない。全校集会、宿題の提出、模試の日程などの細々とした連絡。その程度のものだ。

 だからHRの間も、僕の意識は羽沢先輩のことへと向けられたままだった。

 

 あの日以来、先輩との関係はぎくしゃくしたままだった。先輩を泣かせてしまった後ろめたさ、そして再発を恐れるが故に、僕は先輩に話しかけることができなくなってしまった。なにか会話のきっかけが生まれそうなときでも、事務的な会話に留めて逃げてしまった。

 

 羽沢先輩と一緒のシフトが、酷く憂鬱だった。それでまではずっと、少しでも長く一緒に居たいと思っていたのに、今となっては少しでも早く終わってほしいと願うようになってしまった。

 

 今、羽沢先輩からは僕はどういう風に見えてるんだろうか。そう、つまり……僕のことをどう思っているんだろう? 過程はどうあれ、僕の気持ちを知った羽沢先輩は、それをどう受け止めているのだろう?

 

 羽沢先輩と過ごした時間……間違いなく、楽しかった。それは今でも確信を持って言える。先輩も、少なくとも友人として信頼を寄せてくれていたのは確実だ。その一方で、異性として意識されていなかったのは、知っての通りだ。

 僕の気持ちを知って……その認識に、なにか変化のようなものはあったのだろうか。ほんの少しでも、そういう想いが混ざってはくれなかっただろうか。

 

 ……いや、止めよ。こんなこと未練がましいこと。あんなことをしておいて、未だになにかを期待するなんて、最低だ。これ以上、羽沢先輩になにかを求めるなんて間違っている。

 こんな子供の癇癪を起こしてしまうような人間より、もっと相応しい人が居る筈だ。それが加藤とやらなのかは分からないけど、他に誰かきっと居る。

 

 ……いっそのこと、バイトを辞めてしまおうか。このままだと、羽沢先輩を苦しめるだけだ。

 

 いや、でも、羽沢先輩との関係が悪化したから辞めるなんて、あまりにも無責任だ。代わりの人が居ない段階で抜けたら、シフトが崩壊する恐れがある。それに、元々人手不足の解消の為に雇われたのだ。羽沢先輩の負担を考えると……うん、駄目だ。

 

 よっぽどの理由がない限り、突然辞めるなんてことはしてはいけない。そう、どうしても辞めなければいけないなにかが起こらない限り。

 

「それじゃあ、最後の連絡です。一部の校則が変更となったので、該当する部分の生徒手帳の新しいページを今から配ります。ちゃんと、入れ替えて確認しておいてください」

 

 担任の声が耳に入る。どうやら、校則が変わったらしい。前から回されてきた数枚の新しいページを受け取る。

 変わったと言っても、自分になにかが影響することはないだろう。そう思いながらも、一応は内容に目を通しておく。

 

 ……結果的に、それがよかったのか、悪かったのか……答えはない。

 

「ぁ……」

 

 その呟きにどのような感情が籠もっていたのか、自分でも分からなかった。ただ1つだけ確かなことがある。

 それは……”よっぽどの理由”が、そこに書かれていたことだった。

 

 

***

 

 

 HRを終え、掃除を終え、生徒会の仕事を終わらせた私は、ショッピングモールに寄ってから、自宅に向かっていた。

 私の手には紙袋の紐が握られていて、その中には先程ショッピングモールで購入した商品の包みが入っていた。中身は、焙煎されたコーヒー豆とクッキーの詰め合わせ。せめてものお詫びにと、用意したものだ。

 最初はケーキにしようと思ったのだけど、以前の調査のときにスイーツはしばらくはいらないと言ってたのを思い出し、甘さが控えめで、日持ちするクッキーに切り替えた。

 

 緊張する。喉が渇くのは、暑さだけのせいじゃないと思う。道中、頭の中で木下くんに話しかけるときのイメージトレーニングを繰り返す。

 

 本当のことを言ってしまうと……なにを話したいのかはちゃんとは纏まってない。謝罪、励まし、償い……断片的には思い浮かぶけど、どこか違和感を覚えるのも事実だった。もっと、大事なことが抜け落ちているような、そんな気もする。

 でも、そんなの関係ない。きっと、話している内に纏まってくると思っておく。とにかく、今は木下くんとちゃんと向き合った形で話したい。

 

 お店が見えてきた。シフトの時間はまだだけど、木下くんはもうすぐ開始だったと思う。今なら、おそらくは待機所に居る。

 

 裏口に辿り着く。裏口の扉……いつもなら簡単に入れるのに、今だけは重い鉄の扉のように見えてくる。ドア全体が拒絶の意思を放っているかのようだ。

 ただ、ドアノブを回すだけなのに……それがどうしようもなく、緊張する。

 

「すー……はー……」

 

 胸元に手を当てて、深呼吸。大きく吸っては止めて、ゆっくりと吐いていく。それを何度か繰り返す。どれほど効果があったかは分からないけど、多分、きっと、ちょっとくらいはよくなったような気がしなくもない。

 

「よ、よーし……!」

 

 私だってシフトはあるのだし、いつかは開けなくちゃいけないんだ。そうやって自分を奮い立たせて、いよいよドアノブに手をかける。

 そして、臆病風に吹かれてしまう前に一気にドアを開けた。

 

「ぉ、おはよう、木下くん……! …………あれ?」

 

 居なかった。待機所のどこを見渡しても、木下くんの姿はなかった。更衣室のカーテンも開いたままだ。視界を妨げるようなものはなにもない。つまり、本当に木下くんはここには居ないということになる。

 

 ……遅刻? でも、そういった事務連絡なら今でもちゃんとしてくれる。スマホを確認してみても、そんな連絡はなかった。

 

 ならば早めにシフトに入っているのかとキッチンを覗いてみるも、お父さんしか居なかった。

 

「ああ、つぐみ。お帰りなさい」

「ただいま。えっと、木下くんってもうすぐシフトの時間だよね? お父さんは、なにか聞いてる?」

「……それなんだけどね、ちょっと言っておかないといけないことがあるんだ。こっちで話そうか」

 

 お父さんはオーダーがないことを確認してから、私を待機所に連れて行く。えっと、なんだろう? 風邪かなにかでお休み、って雰囲気ではなさそうだけど。

 

「木下君ね、実は30分くらい前まで来てたんだ。そしたら、話があるって言われてね」

 

 相槌を打つと、お父さんは一旦そこで言葉を切る。なんだか、すごく話しづらそうだ。その場でじっと続きを待つけど、一抹の不安を覚えつつあった。無意識の内に、紙袋の紐を握る力が強くなる。

 

「……木下君の通っている学校、校則が変わってね。バイトが禁止になったそうなんだ」

「…………ぇ」

 

 今……なんて……?

 

「——だから、バイトを辞めることになった。事情が事情だからね。今日からもう、木下君をシフトから外すことにしたよ」

 

 ……当たり前だと思っていたものが、当たり前じゃなくなった瞬間だった。それだけは起きないだろう、と高を括っていたことが、現実になってしまった。

 

 バサリ、と紙袋が床に落ちた。衝撃で紙袋が倒れ、丸い形をしたクッキーの缶がコロコロと不規則な軌道を描いて転がっていった。

 

 

 



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第11話 想いを伝えるのに必要なこと

いつも感想、評価、お気に入り登録、ありがとうございます。

本当は最終話で纏めて言おうと思っていたのですが、予想以上の反響を大変嬉しく思っており、
早めに言わせていただきました。
感想も、全部には返信できてませんが、ちゃんと全部読んでます。本当にありがたい限りです。

それでは、今後ともよろしくお願いします。


 耳に当てているスマホからコール音が繰り返し流れる。電話をかけている相手はもちろん木下くん。これで、3回目の発信となる。お父さんから木下くんが辞めることを聞いた直後、自室に直行し、前みたいにベッドに座りながら電話をかけ続けていた。

 

 胸の内に宿るのは、焦燥と後悔。木下くんに出てほしいという焦りと、こうなるならもっと早く決心すべきだったという後悔。膠着状態という、これまでの現状に甘えすぎていた。

 まだ、手遅れではないと思う。でも、そのタイムリミットは確実に迫っているような気もしていた。

 

 早く出て……とコール音から通話に切り替わることを期待するも、変化はなし。そうこうしている内に、またもや留守電サービスに繋がってしまった。溜め息を吐いてから、メッセージを残さずに電話を切る。

 

 無視、されちゃってるのかな……3回も留守電になっちゃうなんて。

 

 ……ううん! ここで弱気になっちゃ駄目……! もっと前向きに考えないと。もしかしたら、移動中で気づいていないだけかもしれないし、スマホの近くに居ないだけかもしれない。

 もう悩むのは止めたんだから、しっかりしないと。

 

 もう1回だけ、電話をかけてみよう。それで出なかったら、シフトの後にかけ直そう。そう思い、履歴から再発信しようとする。

 

 ——そして発信のボタンを押す直前、着信のメロディと同時に画面が切り替わった。あまりの不意打ちに変な声を漏らすも、発信主に『木下くん』と表示されているのを見て、慌てて通話ボタンを押した。

 

「も、もしもし……!」

『……羽沢先輩』

 

 声が聞こえた。電波が少し悪いのか、やや掠れてるけど……ずっと聞きたかった声が。電話越しに聞こえる声は心なしか、元気がないように思えた。

 

「ごめんね、何度もかけちゃって……忙しいのかと思って、後でにしようと思ってたところだったんだけど……」

『いえ、僕が気づかなかっただけです、すいません。別に、忙しくなんてないです。……忙しくなる筈の用事も、なくなってしまいましたから』

「ぁ……。あ、あの、木下くん……! バイトが禁止になったのって……!?」

『……ええ、本当です。悩んだんですけど……やっぱりバレたときに店に迷惑をかけちゃうと思いまして……』

「……そっか」

 

 ……疑ってたわけじゃないけど、嘘ではないと分かったことで、声のトーンが落ちてしまう。流石に、これは引き止めることはできないし、どうしようもない。

 

『羽沢先輩……ちゃんと言えてなかったので、今言います。……すいませんでした。スマホを置いてった僕が悪いのに、八つ当たりなんてしてしまって』

「え……? う、ううん……! そんなことないよ! 悪いのは私の方で……っ!」

『いや、僕が悪いんです。そもそも、他人の気持ちを察するなんて無理に決まってるのに、それにショックを受けたのがいけなかったんです』

「ぁ……そのことなんだけど……! あれから考えたんだけど、1回どこかでお話がしたいなって思ってて……」

『……別にいいですよ、そんなに気を遣わなくて。もう、ちゃんと割り切ってますから』

 

 言葉の節々から拒絶の意思を感じる。……ううん、ちょっと違う。上手くは言葉にできないけど、なんていうのかな……こう、まるで……最初から受け答えの内容が決まっているかのような雰囲気。

 粘り強く、お話がしたいと訴えかけても即座に断られてしまう。暖簾に腕押しといった感じだ。

 

 どうすれば、お話に応じてくれるんだろう? 会話をする傍らで、どうしようと頭を悩ませる。

 

『先輩。実は、もう1つだけ謝らないといけないことがあるんです。これは、この前のこととは関係ないんですけど……』

 

 その途中……木下くんの声が割り込んできて、思考が中断されてしまった。それを頭の片隅に留めつつ、意識を電話の方へと戻す。

 

『……僕、最初から羽沢先輩が目当てでバイトを始めたんです』

「え……? ぁ……わわ……!」

 

 知らない内にスマホを持つ手の力が緩んでいた。手の中から滑り落ちそうだったのを慌てて握り直す。……心臓が、バクバクとうるさく鳴り始めていた。

 

 思いもよらなかった告白。頭の片隅に留めていたものは、きれいさっぱりと彼方へと消えてしまった。代わりに、頭の中にはぎっしりと疑問符が詰め込まれていた。

 バイトで出会う前……いつ、どこで会ったのか……どうして、お店のことが分かったのだろうか、と。

 

「で、でも……面接のとき、初対面だったよね……? お店にも、1度も……」

『その前にライブやってましたよね? それ、見に行ってたんです。そのことに気づいてたのは、青葉先輩だけでしたけど』

 

 面接の前? えっと…………あ! もしかして、あの大きめのとこでやったライブのこと!? ほ、ほんとに、あそこに……? 全然、知らなかった……モカちゃん、すごい……。

 

『そのとき、一目惚れして……それで、姉が羽沢先輩の実家が珈琲喫茶だって教えてくれて、応募したんです。……だから、不純な動機でバイト始めたんです。ストーカーなんですよ、僕』

「不純だなんて、そんなことないよ……!」

 

 ”一目惚れ”という単語に一瞬でも顔を熱くしてしまった自分を恥じつつ、間髪入れずに言葉を返す。

 

「木下くん、ずっと真面目だったし、いつも言ってるけどすごい助けられてて……! そんな気持ち、全然知らな……! ……ぁ」

 

 自らの失言に気づいて言葉を止めるも、どう考えても遅かった。咄嗟の返しだったせいか、大きな誤解を与えうるニュアンスになってしまっていた。

 この言い方では結局、意識してないって言ってるのと同じように聞こえてしまう。

 

 ……仮に、始めたときの動機がそうだったとしても、最近の木下くんがお店のことを好きでいてくれて、その為に頑張っていることは知っている。本当は、そう伝えたかった。

 

 だけど、そうは伝わってくれていなかったようだ。

 

『ええ、そうですよね。分かってます。だから……すいませんでした。もう、羽沢先輩には近づかないようにしますから』

「っ……待って! 聞いて! お願い……!」

 

 違う、そうじゃないの。私が伝えたかったことは、そうじゃないの……! お願い、まだ切らないで……! 行かないで……だって、私は……!

 

 危惧していた誤解を与えてしまったことを悔いつつも、必死に縋る。話を終わらせようとしている気配を感じ、なんとかして木下くんの気を引こうとする。焦燥と混乱の中、今までにないくらい猛烈に頭が回転する。

 

「あの、私……私ね……!」

 

 結果、自らの想いを告げるようとした。好きだから、行かないでと。言った後のことなんて考えていない。木下くんが話を聞いてくれるのであれば、なんでもよかった。

 

「っ……私は……」

 

 ……でも、言えなかった。呪いにでもかかってしまったかのように、その言葉を口にしようとしたら声が出なくなってしまった。

 

 それは、未だ残る罪の意識のせい。それと、今の木下くんに告げたところで、こちらの想いがちゃんとは伝わらないでのはないかという、確信に近い予感があったから。

 この場で断られてしまうのが怖かった……というのも、あったのかもしれない。

 いずれにせよ、衝動的に告げようとした想いは、言葉にはならなかった。

 

『……たしか先輩、もうすぐシフトの時間ですよね。そろそろ、切ります。……それでは』

 

 結局、私は木下くんを引き止めることはできず……無情にも、通話は切れてしまうのであった。しばらくの間、スマホを耳から離すことができなかったけど……これ以上なにも聞こえてくることはないんだと悟って、スマホをベッドの上に置いた。

 

「……どうしよう」

 

 気持ちが沈む。底なし沼に落ちてしまったかのように沈む。このままだといけないと分かっているのに、解決の糸口が見つからない。

 連絡先が消えたわけではない。電話番号も、チャットのお友達登録も未だ健在。だけど、このままなにもしなかったら、いずれは疎遠になってしまう。そんな気がした。

 

 そんなの……嫌だ。こんな終わり方、したくない。諦めないって決めたのに……なにも思いつかない。

 

 電話を通じて、分かったことはある。木下くんは多分、今でも私が木下くんのことを異性として意識していないって思い込んでる。……そう思わせてしまったのは、私のせいだけど。

 木下くんは、もう諦めちゃってるのかもしれない……そう感じるような、会話だった。

 

 だから、せめて……そうじゃないんだと伝えたい。ちゃんと、好きだということは伝えたい。一緒に居てほしいって訴えたい。

 それでなにが変わるのかは分からないけど……それでも伝えたい。

 

 ……だけど、どうやって? 口に出して言えなかったのは、さっきの電話の通りだ。チャットを使うというのは、今までのことを考えれば不誠実だ。

 もっと他の形……本気の想いだと伝えることができて、かつ私が呪いにかからないような形。それって……なんだろう?

 

 残り少ないシフトの時間までの間、うんうんと唸ってみたけど、答えは出そうになかった。

 

 

 木下くんが不在となった中、シフトに入った私はテーブルを拭きながら、想いの形について思い悩んでいた。

 なにをしたいのかが分かったので、気持ちこそ上向きになりつつあるものの、相変わらず名案は浮かばなかった。

 そんなとき、カランカランと入店を知らせるベルが鳴る。対応の為、一旦テーブル掃除を切り上げた。

 

「いらっしゃいませ……あ、蘭ちゃん」

「お疲れ、つぐみ。しばらくの間、ここ使わせてもらっていい?」

 

 お客さんは蘭ちゃんだった。一旦帰宅してたみたいで、私服姿でトートバッグを肩から提げていた。そのトートバッグには、いくつかの荷物が入っていた。

 

「うん、席はまだ空いてるから大丈夫だよ。えっと、自習とか?」

「夏休み明けから自習とか、するわけないじゃん。新曲作り、ここでやろうかと思って」

「そうなんだ。あ、ごめんね、こんなとこで話し込んじゃって。お席にご案内するね」

 

 比較的奥の方の、作業がしやすそうな2人用の席に案内する。カウンターよりこっちの方が物を広げやすいし、今はお客さんもまばらだから大丈夫だろう。

 

 蘭ちゃんを席に案内した後、お水を持っていく。蘭ちゃんはメニューを眺めながら、作業の準備をしていた。

 

「はい、蘭ちゃん。新曲の方はどう?」

「ありがとう。新曲は……正直、ちょっと迷ってる。せっかくの『ガルスパ』だし、今までとはちょっと違う感じのテーマがいいとは思ってるんだけど……」

「新しいテーマ……うーん、なんだろう? 季節にちなんだものとか?」

「それも悪くはないけど……まあ、色々考えてみるつもり。……この、ケーキセットのズコットをお願い。飲み物はホットコーヒで」

「ふふっ、かしこまりました」

 

 注文を受け、それをお父さんに伝える。お父さんがコーヒーの準備をしている間、私はケーキをいつでも出せるようにしておく。

 

 新曲かぁ……そういえば、作詞だけだけど、去年にみんなでやったっけ。最初、蘭ちゃんが考えた歌詞の意味が私たちに上手く伝わらなくて、戸惑ってたときのことだ。

 あのときは、みんなでお泊りしながら話し合って、変わらないもの、変わったものを確認しあった。

 それで、新たないつも通りが生まれて……それを歌詞にした。当時の私たちの気持ちを、精一杯込めた結果……私たちの新しい曲が生まれた。そういえばあのとき、朝日が綺麗だったなあ。

 

 そんなことを思い返していたとき、ぴたり……と思考が停止した。まるで、ずっと探していた商品の目の前を通り過ぎてしまったような感覚。

 新曲……作詞……気持ちを込めた……。それらの言葉を頭の中で反芻しながら、こてん、と首を横に傾げる。

 出そうで、出てこない。もう答えは出ている気がするのに、それが言葉にならないもどかしさ。

 

「——あ!」

 

 だけど幸い、今日の私の頭はなんとか答えを捻り出してくれたようだ。2、3回首を傾げたとき、突然閃いたのだ。濃い霧が晴れたように、はっきりとどうすべきかが見えた。燻っていた心が燃え上がり、四肢に力が入った。

 

「うん、うん……! そうだよね……!」

 

 このアイデアで間違いないと、何度も何度も自分で同意する。ようやくアイデアが手に入ったからか、狂喜乱舞したとしても物足りないほどの興奮が湧き上がる。仕事中だけど、もう我慢できない。私はまっしぐらに蘭ちゃんへ駆け寄った。

 

「蘭ちゃん! ちょっといい!?」

「え、あ、つぐみ……!? なに、急に……」

 

 作詞の為と思しきノートを広げ、手の中で鉛筆を遊ばせていた蘭ちゃん。突然私が大声で隣まで来たからか、目を白黒とさせていた。

 私は蘭ちゃんに落ち着く暇も与えずに、己の興奮に促されるままに強く詰め寄る。

 

「お願いがあるの! もう、一生のお願い!」

「ど、どうしたの……? ひまりみたいなこと言って……」

「私はこれが1回目だからひまりちゃんとは違うよ!」

「わ、分かったから落ち着いて。それで、お願いってなに……?」

 

 熱意が通じたのか、蘭ちゃんはすぐに折れてくれた。未だ困惑しているのか、眉をひそめているけど。

 承諾を得た私は、光の速さでお願いを口にした。

 

「あのね、新曲の作詞、私にやらせてほしいの……!」

 

 そう、きっと……私の大好きな音楽を通してならば、伝えられる。だから、木下くんへの想いを込めた曲を作ろうと思ったのだ。これならきっと、上手くいく。

 

「……は?」

 

 一方で、それを聞いた蘭ちゃんは、呆気にとられた様子で顔をポカーンとさせていた。まるで、鳩が豆鉄砲を食らったような顔だった。

 

 

「ご、ごめんね、蘭ちゃん。いきなりあんなこと言っちゃって」

「まあ、別にいいよ。つぐみが突拍子もないこと言い出すのは、いつものことだし」

 

 蘭ちゃんのもとへ押しかけてから数分後。蘭ちゃんに宥められて我に返った私は、肩を丸めながら、未だに冷めない顔の火照りを感じていた。

 

 ……うう、失敗しちゃった。お店の中で、あんな大声出しちゃうなんて。お客さんが少なくてよかった。……本当はよくないけど。

 

 私は今、蘭ちゃんの対面の席に座っている。事情を知っているお父さんが、さっきの私の様子からなにか察したようで、早めの休憩にしてくれたのだ。テーブルには、2人分のコーヒーが置かれている。蘭ちゃんの方にはケーキもセットで。

 

「……それで? どうして急に作詞なんて?」

「えっと、それは……」

 

 蘭ちゃんの問いに、私は言葉を詰まらせる。事情を話すのが嫌なのではない。ただ純粋に、作詞の動機を語るのが恥ずかしいのだ。告白の為に、作詞がしたいだなんて……よくよく考えたら、とんでもないことをしようとしている。

 

「……言わないと、駄目?」

「駄目。大事な『ガルスパ』の新曲なんだから。つぐみの一生のお願いでも、簡単には承諾できない」

「だよね……うう」

 

 ……どういう風に説明しよう。ストレートに説明した方がいいのは分かってるけど、それは私の精神衛生上よろしくない。きっと、羞恥心で死んでしまう。だから、なるべく直球でありつつも、婉曲的な言い回しで説明したい。

 

「つまり、ね……歌を通して、ちょっと伝えたいことがあって……」

「なにを?」

「ぅ……その、よく使われてるテーマだとは思うんだけどね? ほら、あの……」

 

 言葉を捏ねくり回しながら、時間を浪費する。言おうとすればするほど顔の温度が上昇し、頭がクラクラする。ちゃんと言えるか、不安になってきた。

 

 ……そのとき、蘭ちゃんの方から口を開いた。

 

「もしかしてだけど……木下となにかあった?」

「ええっ!? な、なんで分かったの……!?」

「なんでって……。つぐみ、鏡で自分の顔見た方がいいよ」

 

 苦笑いを浮かべる蘭ちゃん。相当分かりやすい顔をしていたらしい。顔を俯かせてしまい、しばらくはなにも言えなかった。

 ……死にはしなかったけど、穴があったら入りたかった。むしろ、シェルターに閉じ籠もりたかった。

 

 その後、モカちゃんのときと同じように観念した私は、再度事情を語ったのであった。前回と違うのは、想いを自覚した結果、なにをしたいと思っているのかも話したことだった。

 自分の想いを打ち明けている間、最初は羞恥混じりで話していたものの、しゃべっている内に平常心を取り戻した私は、次第に真剣な口調になっていった。

 絶対に、本気の想いを木下くんにぶつけるんだ、という確固たる意思を口調で示しながら、全てを蘭ちゃんに話したのであった。

 

 ……説明を全て聞いた蘭ちゃんは、得心がいったと言わんばかりに頷いていた。

 

「なるほどね。最近調子が悪かったのも、そういうことか」

「うん……黙っててごめんね。それに、ただでさえ練習で迷惑かけちゃってるのに、新曲の作詞までしたいだなんて言っちゃって」

 

 自分でも、かなり無茶なお願いをしていることは自覚している。だけど、それを自覚した上で、無理を通してでもやりたいと思っているのも事実だ。

 

 蘭ちゃんが腕を組んだまま、私の瞳を覗き込むように見つめてくる。その眼光は鋭く、思わず目を逸らしてしまいそうになるほど力強い。でも、私は負けじと見つめ返す。

 きっと蘭ちゃんは、私がどれだけ本気なのかを確かめてる。だから、ちゃんとそれに応える。内心ちょっと怖いと思いながらも、一歩たりとも譲らなかった。

 

「……1つだけ、聞いていい?」

 

 やがてなにかを感じ取ってくれたのか、質問が飛んでくる。私はもちろん、と続きを促す。

 

「1人で作詞をするのは初めてだと思うけど、つぐみはやるって言ったらちゃんとやり切るって知ってるから、そこら辺は信じてるし、心配もしてない」

 

 だけど、と蘭ちゃんは前置きする。

 

「つぐみは、木下の為に曲を作りたいってことだよね? それも、つぐみがメインで歌うような曲を」

 

 私はそれに頷く。その通りだ。

 

「『ガルスパ』には、木下以外にもたくさんの人が見に来てくれる。下手したら、木下は来ないかもしれない。木下1人の為の曲を歌うってことは、その人たち全員を無視するってことになるけど、それは分かってる?」

「……うん、分かってるよ」

 

 そう、これは全部私の我儘。木下くんを振り向かせたいという、邪な気持ち。私たち『Afterglow』を表現するわけでも、お客さんになにかを伝えるわけでもない。たった1人に聞かせる為の曲を、『ガルスパ』という大きなイベントでやらせてほしいと言っているのだ。

 普通なら、有無を言わさず却下されてもおかしくない提案だと思う。

 

「それでも、やりたいの。『ガルスパ』って大きな舞台で歌わないと、私が本気だって伝わらないと思うから」

 

 おそらく、『ガルスパ』は直近での最後のチャンスだ。私と木下くんの行く末を決める分水嶺。もしここで木下くんに想いを伝えられなかったら、いよいよ覚悟しないといけないかもしれない。

 そんな想いで、蘭ちゃんの質問に答えるのであった。

 

 返事は……なかなか来ない。蘭ちゃんは考え事をしているのか、視線をノートに落として沈黙していた。待っている間、湯気の消えたコーヒーにミルクと砂糖を入れて、口にする。やっぱり、ちょっと温かった。

 

 どれくらい沈黙が続いただろうか。実際は1分ちょっとしか経ってないんだろうけど、私には何十分も経ったように感じられた。

 再び蘭ちゃんの声が聞こえたとき、私は自然と背筋を伸ばした。

 

「……3日」

「え……?」

「今日を含めて3日。その期間内に完成させられたら、採用する。作曲とか練習とかもあるから、それが限界。私も平行して作詞は続けるから、もし間に合わなかったら私のを使う。それでもいいなら……やっていいよ」

「蘭ちゃん……! うん、絶対に間に合わせるから! 蘭ちゃん、本当にありがとう!」

 

 椅子を跳ね除けるようにして立ち上がる。はしたないとも思ったけど、それくらい嬉しかったのだから大目に見てほしい。

 そんな私の様子を見た蘭ちゃんは一瞬だけ呆れ顔を見せた後、静かに笑みを浮かべた。それはモカちゃんが見せたのと同じように、とても優しげだった。

 

「気にしないで。まあ、”恋愛”をテーマにした曲はまだなかったし、ちょうどいいんじゃない? 私たちの中でそんな経験をしてるのはつぐみだけだろうし」

「そ、そうかな……? 蘭ちゃんは、気になる人っていないの?」

「わ、私は別に……まだ、そういうのはいい……って、今はつぐみの話でしょ……!」

 

 思わぬ反撃に照れているのか、蘭ちゃんは顔を真っ赤にしていた。でも、蘭ちゃんは美人だから、きっとそう遠くない内にそういう人が見つかる気がする。

 

「とにかく、ありがとう! 私、頑張るから!」

「うん、期待してる。ああ、そうだ。最後に1つだけ」

 

 休憩時間の終わりが近かったので、急いでコーヒーを飲み干してシンクに持って行こうとしたところ、蘭ちゃんに呼び止められる。

 

「さっきはあんな言い方したけど、”恋愛”をテーマにした曲って、元々誰か1人の為に歌うものだと思う。有名なのとかも、そうだし。そういう意味では……つぐみの我儘な考え方が、一番大事なのかもしれないね」

 

 それを聞いた私は喜びが溢れんばかりの笑顔で力一杯頷き、蘭ちゃんのアドバイスを心に刻んだ。

 

 これで、やるべきことは決まった。だから……そろそろ、あのことも清算しよう。随分と、待たせてしまったから。

 

 

 翌日の放課後。私はファミレスの、シートが向かい合わせになって席で1人座っていた。注文したドリンクバーから注いだアイスコーヒーをちびちびと飲みつつ、私は黙々と作詞に取り組んでいた。

 とはいえ、今日はその為にファミレスに来ているのではない。待ち合わせをしているのだけど、相手が来るのを待つまでの間、少しでも作業を進めているだけだ。なにせ、残り2日しかないのだから。

 

 正直、苦戦している。自分の言いたいことを表現しつつ、それでいて字数を揃え、語感もよくしないといけない。蘭ちゃんはこんな難しいことを毎回こなしているのかと思い、改めて感心しているところだった。

 作詞を手伝ったときは、自分の考えをみんなと擦り合わせて、それを蘭ちゃんに伝えるだけだったから、厳密には作詞には関わっていない。なので、実質これが初めての作詞となる。

 蘭ちゃんから借りた作詞の教本片手に進めているけど、なかなか大変だ。

 

 でも、大変だからと言って立ち止まるつもりはない。そんなに軽い気持ちで言い出したことじゃない。

 あーでもない、こーでもないと試行錯誤しつつ、少しずつ書き進めていった。

 

 そんなとき、入店のメロディーが店内に流れる。時間的にもそろそろだろうか。私は店の入り口の方を見る。

 居た。日焼けした、丸刈りの男の子。加藤くんだ。私は手を振って自分の場所を知らせる。

 すると、それに気づいた加藤くんがこちらにやってきた。その間に、広げていたものは片付けておく。

 

「こんにちは、加藤くん。ありがとう、急な呼び出しだったのに来てくれて」

 

 なにせ、連絡したのは昨日の夜だ。予定が合うのは数日は先になると思っていたけど、幸運にも今日、待ち合わせをすることができた。

 

「いえ、今日は部活もなかったんで大丈夫です」

 

 そう言って向かいの席に着いた加藤くんは、すぐに呼び鈴を鳴らして追加のドリンクバーを注文する。それから加藤くんが自分用のメロンソーダを持ってきたところで、話し合う準備が整った。

 

「えっと、それじゃあ……早速になっちゃうけど、前のお返事をさせてもらってもいいかな? その、すごく待たせちゃってごめんね?」

 

 そう、今日はいよいよ加藤くんの告白の返事をすべく、来てもらったのだ。あの日から、実に2週間ほどが経っていた。

 

「だ、大丈夫です……! いつでもいいって言ったのは俺の方ですから……!」

「ありがとう。じゃあ、言うね……」

 

 一拍間を置いて、1度だけ深呼吸。ここまで来て、あまり待たせてしまうのもよくないだろう。答えはもう決まっているのだから、一気に言ってしまうべきだ。

 なので、胃が締め付けられるような緊張に苛まれつつも、一息でその言葉を告げた。相手を傷つける、決定的な言葉を。

 

「——ごめんなさい」

 

 一瞬、加藤くんの呼吸が止まったのを感じた。誰がどう見ても簡単に分かるくらいに、動揺を全身で表現していた。胸に刃物を突き立てられたように、沈痛な面持ちで唇を一文字に結んでいた。

 

「そう、ですか……」

「うん。気持ちは、とても嬉しかったよ。でも、あれから色々考えて……気づいちゃったの。私、他に好きな人がいるんだって」

 

 一切の誤魔化しをせずに、正直に自分の気持ちを伝える。残酷なことをしているという自覚はあるけど……私の気持ちが変わることはない。私が好きなのは、木下くんなのだ。その想いを曲げることはできない。

 

「だから、加藤くんとは……付き合えません。……本当に、ごめんなさい」

 

 頭を丁寧に下げる。額がテーブルにくっつきそうになるギリギリまで下げる。目も閉じているので、加藤くんの姿が見えなくなった。

 この程度で彼のショックを緩和できるとは思ってないけど、せめてもの気持ちだった。彼が気が済むまで、頭を下げ続けるつもりだ。

 

「あの、顔を上げてください。そんなことされても、どうしたらいいのか分からないんで」

 

 加藤くんに促されて、姿勢を戻す。すると、先程までとは違い、彼の顔には貼り付けたような笑みが浮かんでいた。……無理をしているのは、明らかだ。

 

「……あんまり気にしないでください。ぶっちゃけ、ダメ元みたいなとこはあったんで。ほとんど話したこともないのに、上手くいくわけないですよね……はは」

 

 自らに言い聞かせるかのように、早口で捲し立てる加藤くん。撤回することも、フォローすることもできない私は、黙って聞いてるしかなかった。

 

「もしかして……あのバイトしてる男ですか?」

「えっ!? ど、どうして……!」

 

 ……黙って聞いてようとしてたけど、加藤くんの名推理を前にたじろいでしまった。

 『Afterglow』のみんなとかならともかく、まさか加藤くんにまで見抜かれてるとは思わなかった私は、あからさまな反応を見せてしまった。

 耳の端が、微かに熱を帯びる。

 

「実は夏休みの間、告白しようと思って、何度かあの商店街をうろついてたんです。でも、全然声をかけられなくて……そしたらあの日の午前だかに、あの男と一緒に歩いてるのを見ちゃったんです」

 

 それはきっと、スイーツの調査に一緒に出かけた瞬間のことだろう。確かに、傍から見たらデートにしか見えない……というか、今思い返しても完全にデートだった。私自身、当時は無自覚だったけど、それらしい反応を見せていた。

 

「そしたら、居ても立ってもいられなくなって……夕方、待ち伏せして、勢いで言っちゃったんです。でも……一緒に出かけるような相手に敵うわけないですよね」

 

 その問いには答えずに、沈黙をもって答える。肯定はしてないけど、私がなにを考えているかは加藤くんにも伝わっただろう。

 

 しばらくして……加藤くんはぼそりと、「もう、行きますね」と告げた。

 すると、彼は一気にメロンソーダを飲み終え、迷わず席を立つ。同時に、テーブルの伝票入れの筒から2枚の伝票を抜き取ってしまった。

 

「あ、待って……! 私の方が年上なんだから、それくらい……」

「いいんです。というか、これくらいさせてください。一応これでも男ですし。迷惑をかけたお詫びです」

 

 そんな言い方をされたら、なにも言えなくなってしまう。伝票を取り返そうと伸ばした手を、途中で引っ込めてしまった。

 

「それじゃ、なんというか、ありがとうございました。こんな真面目に答えてくれて。その、応援……してますから」

 

 それだけ言い残すと、加藤くんは手早く会計を済ませて、お店を去ってしまった。歩き出した方向の関係か、背中を向けた姿しか視線で追えなかった。

 角を曲がって消えてしまうその最後の瞬間まで目を離さなかったけど、結局、背中しか見ることができなかった。

 

「……1人、常連さん……失くしちゃったかな」

 

 自嘲気味に呟く。後悔はない。でも、せっかくの好意を断ってしまったことに胸が痛むのも事実だった。いつか、私よりいい人が見つかってほしい。そう、心から思った。

 それと最後の、応援しているという言葉。それが本心なのかどうかは分からない。でも、彼がそう言ったのだから、きっとそうなのだろう。そう、思い込むことにした。

 

 ……たった1つの想いを形にする為に、色んな人に迷惑をかけてしまった。傷つけてしまった。だからこそ、止まってはいけない。そう、強く言い聞かせる。

 

「よし……頑張らないと……!」

 

 必ず、絶対に完成させる。改めて確認したその熱い想いを胸に、私はもうしばらくファミレスで作詞を続けるのであった。

 

 

 



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第12話 手紙

 蘭ちゃんと約束した、作詞の期限の最終日。その日はスタジオでの練習があった。作詞も大事だけど、練習も大事だ。そもそもの完成度が低かったら、お客さんをがっかりさせちゃうし、新曲を作る意味なんてないのだから。

 

 昨日から一気に調子を取り戻した私は、それまでの不調が嘘であったかのように、練習でも綺麗に音を合わせられるようになった。雑念がなくなったことで指が淀みなく回り、ミスが目に見えて減少した。

 元々、個人練習はハードにこなしていたのだ。気がかりさえ消えてしまえば、その成果が如実に現れてくれた。ずっと調子が悪かった分、一気にバネで飛び上がったみたいな成長ぶりだった。

 

 その突然の変化に、事情を知らない巴ちゃんとひまりちゃんは驚きつつも、これなら絶対にイケると満面の笑みで喜んでくれた。

 よかった。ずっと心配させちゃってたから、その分の信頼をちゃんと取り戻さないと。

 

 一方、事情を知ってる蘭ちゃんとモカちゃんは、まるで子供を見守る母親のような温かい眼差しで私のことを見ていた。

 ……嬉しいんだけど、流石にそれはちょっと恥ずかしいよ、2人とも。

 

 その後も滞りなく練習は進み、久しぶりに意義のある時間にすることができた。

 

 

 練習の終了後、撤収の為の片付けをしていたところ、ギターケースを背負った蘭ちゃんが声をかけてきた。

 

「つぐみ、作詞の調子はどう?」

 

 他の3人に聞こえないようにか、やや声を落としていた。私のが採用されるかは現段階では分からないので、3人にはまだ内緒にしている。

 

「えっと、半分行くか行かないかくらい……かな」

「……大丈夫そう?」

 

 こちらを心配するような調子の声。確かにペースとしては遅れ気味だけど、私はしっかりと笑顔を返す。心配しなくても大丈夫、と。

 

「その、行き詰まってるとかじゃないの。逆に、書きたいことがいっぱいありすぎちゃってどうしようって感じで……でも、作詞自体は少しずつ慣れてきたから、今日頑張れば完成させられると思う」

「……そっか。なら、待ってる」

「ありがとう、蘭ちゃん。明日、学校のお昼休みに渡せばいいんだよね?」

「うん、それで大丈夫。その後私が確認して、OKだったらそのまま放課後に打ち合わせするから、そのつもりでいて」

 

 了解、と頷く。そうなると、実質的なタイムリミットは明日の朝、家を出るまでとなる。今夜が踏ん張りどころだ。

 実を言ってしまうと、昨日もあんまり寝ていない。夜更かししようと思ってしたのではなく、夢中になりすぎて、気づいたらすごい時間になっていたのだ。

 でも、不思議とまだ眠気はない。今でも、とにかく作詞の続きがしたくてしたくて仕方がないのだ。

 

「つぐー! 蘭ー! そろそろ行こうよー!」

 

 ひまりちゃんが呼んでる。スタジオの使用時間も残り数分だし、そろそろ出ないと。帰る支度を終えた私は蘭ちゃんと一緒に、先に出口へと向かっていた3人に続くのであった。

 

 

 夜中の午前1時。日付は既に変わっている。普段なら、余程のことがない限りはとっくに寝ている時間。でも、今日の私はそのつもりは毛頭なく、今も机にかじり付いて作詞を続けている。

 

「えっと……”許されないと分かっていても貴方を愛しています”……うう、ちょっと直球すぎるかな……」

 

 声に出して読んでみると、思った以上に恥ずかしい。自分で考えた歌詞なのに、胸の奥がむず痒くなって、枕に顔を埋めてジタバタしたい衝動に駆られる。

 

 ……やっぱり、”貴方が好きなんです”くらいにしようかな。その……あ、愛してるって言い方は、ちょっと大人っぽすぎるよね。

 紗夜さんなら合いそうだけど、まだ私には早いや。そう結論付けて、その部分を修正した。

 

 そんなことを考えながら、新しい歌詞をノートに書き込んだり、ときには消しゴムで消しては修正したりする。

 今の進捗は7割くらいだから……休憩を挟みながら朝まで頑張れば、なんとか間に合いそう。

 少しずつ終わりが見えてきたことに期待と安堵を感じつつ、軽く伸びをして全身をほぐす。

 

 すると、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。この時間だと珍しい。

 

「はーい?」

「つぐみ、入ってもいいかい?」

「お父さん? うん、大丈夫だよ」

 

 がちゃり、とドアが開く。それと同時に甘い匂いが鼻腔をくすぐり、優しく食欲を呼び覚ます。この匂いは……カフェモカだ。

 

「簡単にだけど、夜食を用意したよ。カフェモカとサンドイッチだけど、これで平気かい?」

「わあ、美味しそう……! ありがとう、お父さん……!」

 

 お父さんがお皿の乗ったトレイを側に置いてくれる。サンドイッチはハムサンド。挟まれているトマトやレタスが色鮮やかで、それだけでも元気が出てくる。

 

「どうだい、作詞の方は?」

「大変だけど、なんとかなりそう。……多分、ほぼ徹夜になっちゃうけど」

 

 声のトーンが落ちる。黙っていようかとも思ったけど、夜食まで作ってもらっちゃった以上、正直に言った方がいいと思った。

 かつて無理をして倒れたという前科があるので、あまり好ましい状況ではないのは分かっている。完成するまで寝るつもりはないけど、それでも少しばかり申し訳なかった。

 

 ところが、お父さんは私を責めるようなことはしなかった。ただ、頷きを1つ挟むだけで、顔は穏やかなままだった。

 

「そっか。頑張るんだよ」

「……いいの?」

「よくはないけど、つぐみはやりたいんだろう? なら、後でちゃんと休んでくれれば、なにも言わないよ」

「……うん、ありがとう」

 

 お父さんが淹れてくれたカフェモカを一口。……とても、温かい。溶けたチョコの甘みが口の中で広がって、幸せな気分だ。

 

「……それに、また木下君がつぐみと一緒に居てくれるようになれば、無茶することもなくなるだろうしね」

「っ!? お、お父さん……!」

 

 唐突に放り込まれたからかいの言葉に、私の羞恥心が爆発する。こういうことを親に指摘されると、こんなにも心が乱れるのだと、たった今知った。夜中なのに、大声を出してしまった。

 

「ごめんごめん。でも、本当にそう思ってるんだよ。木下君には前に言ったんだけどね、2人が一緒のときは息がピッタリだったし、いつもお互いを助け合っているように見えたからね。彼と一緒なら心配なさそうだなって」

 

 お父さんの話に目を見開く。そんな風に思っててくれたんだ……私と木下くんのこと。でも、確かにそうだったと思う。

 木下くんは私の生徒会やバンド活動に合わせてシフトを入れてくれていたし、私も木下くんが働きすぎないように気をつけたり、1回だけだけど勉強会で勉強を教えた。

 結果として、全体的にはしっかりとバランスが取れてた。

 

「……そうだね。うん、私も木下くんと一緒に居たい。一緒に働くのは……しばらくは無理だと思うけど」

「まあ、それは仕方ないかな」

 

 そこはお父さんも同意する。流石に校則を破ってまで働いてほしいとは思わない。私だって生徒会の人間だし。

 

「それじゃ、そろそろ行くよ。おやすみ、つぐみ」

「うん、おやすみなさい」

 

 パタンとドアが閉じた。私は作業を一旦中断し、早速お父さんが用意してくれたサンドイッチに手を付ける。……うん、レタスがシャキシャキしてて美味しい。アクセントのピクルスの酸味が、疲れを和らげる。

 

 思う存分夜食を楽しみ、十分な休憩をとったことで英気を養った私は、再び全力で作詞に取り組むのであった。栄養を摂ったおかげか、さっきまでよりずっと作業は捗った。

 

 

 夜食の後、時間の感覚があやふやになるくらい集中しながら作業を続けた。ペースがどんどん加速し、何回もシャーペンをノックしては芯を出した。時には芯を補充したりもした。いつの間にか、すごい量の消しカスが机の上に散らばっていた。

 

 見えるのはノートに綴られた歌詞の文字だけ。一節書いては、頭から読み返して語感やバランスを確認する。ちょっとでも納得いかなければ、修正を試みる。そのおかげで、完成を目前にしながらも、一部を没にしてやり直しになることが多々あった。

 あまりにも消した回数が多すぎて、ノートのその部分だけボロボロだった。消しきれなかった分が、ページのそこら中に黒い跡として残っていた。蘭ちゃんに見せる前に別のページに書き写しておこうと思いながらも、時間がもったいないので今はそのページを使い続ける。

 

 何時間経過したのかは分からない。でも、多分ものすごい時間が経ったんだと思う。ずっと同じ姿勢だったせいか、体の節々が微かに痛んできたし、流石に眠気も徐々に強まってきた。気をつけてないと、瞼が自然と重くなる。

 

 ……でも、それだけ頑張った甲斐はあったみたい。その瞬間が、いよいよ訪れる。

 

「できた……!」

 

 ついに、100%納得のいく新曲の歌詞が完成したのだ。

 達成感のあまり、胸が熱くなった。完成したのが嬉しくて、何度も読み返す。その度に、会心の出来だと、かつてないほどの自信を持って断言するのであった。

 

 シャーペンを机に置いて、窓の方を見る。カーテン越しではあるものの、既に朝なのが分かるくらい明るくなっているように見えた。

 時計を確認してみると、後30分くらいしか寝る時間がなかったことに驚くのであった。……やっぱり、ほぼ徹夜だった。

 私は少しでも休もうと、部屋の電気を消してからベッドに沈み込むように倒れるのであった。

 

 ……それから50分後。ギリギリ学校に間に合う時間に、私はかなり久しぶりに親に起こしてもらったのは内緒のお話。

 

 

 学校でのお昼休みに、屋上で完成した歌詞を蘭ちゃんに見せたところ、すぐに合格を貰えた。自信はあったけど、そう言ってもらえたのはとっても嬉しかったし、肩の荷が下りた心地だった。

 

 この後、私が作詞した歌詞をベースに新曲を作るという方針を、他のみんなにも共有した。

 その過程で、私と木下くんの間に起きたことが残りの2人に知られちゃったけど、なんとかひまりちゃんのメッセージのことだけは誤魔化すことができた。

 あのことは気にしてないし、もちろん怒ってなんていないけど、やっぱり知られたら気まずくなっちゃうと思うから。

 

 私が作詞をした経緯を話し終えたとき、巴ちゃんとひまりちゃんは、当初は私のことを心配してた。喧嘩別れしたようなものだし、当たり前の反応だと思う。

 でも、私が大丈夫そうだと分かると、一転してあからさまにニヤつき始めた。その視線が痛くて、思わずその場から後ずさってしまった。

 ひまりちゃんは「つぐ、頑張れー!」って抱きついてきたし、巴ちゃんは目を細めながら私の頭を撫でてきた。嬉しいやら、恥ずかしいやらであのときは黙り込んでしまった。

 

 ともあれ、作詞が完了したので練習と平行して蘭ちゃんの作曲作業が始まった。それで、私が作詞を担当したということで、私もその作業を手伝うこととなった。ううん、手伝うというよりは、私の希望を蘭ちゃんに伝える感じだったかな。

 例えば、ソロで歌いたいのはどの部分かとか、できればその部分はキーボードのソロにしてほしいとか、そんな感じで。各パートのボリュームの調整とか大変そうだなと思いつつも、この件に関しては妥協しなかった。

 放課後、時間があるときは必ず蘭ちゃんの家に寄って、急ピッチで曲を作り上げていった。土曜日に至ってはお泊りまでして作業を手伝った。そのおかげかどうかは分からないけど、作詞を終えた日から5日という早さで新曲は完成したのであった。

 

 新曲が完成したことで、披露するセットリストの曲が全て揃った。後はひたすら練習を繰り返すのみだ。

 『ガルスパ』まで残り2週間ちょっと。私たちは猛烈な勢いで仕上げていくのであった。

 

 

***

 

 

 バイトを辞めて、羽沢先輩との関わりがなくなってから、およそ1週間が経過した。まだほんの1週間なのに、バイトをしていた日々が既に遠い過去のように感じられる。

 

 生活のリズムは、バイトを始める前の状態に戻ってしまった。適当にゲーセンで遊んでは、家で読書か勉強をする。それだけの日々に。

 特に、勉強に没頭することが増えた。単純に今月は大事な模試があるからそれに備えてというのもあるし、なによりも、勉強していれば余計なことを考えなくて済むから。

 

 ……今でも思うことがあるのだ。なんで、あんなことを言ってしまったんだろう、と。羽沢先輩が目当てでバイト始めたとか、もう会うつもりはないとか。

 

 いや、なんでなのかは分かっている。どうせ意識されていないならば、いっそのこと嫌われてしまいたいと思ったのだ。そうすれば、諦めもつくんじゃないか。そう思って。

 いくら羽沢先輩でも、あのストーカー紛いのバイトの動機を聞けば気味悪く感じるだろう。言葉ではああ言ってたけど、きっとそう思ってる。

 

 ……だから、そう……諦めた。その、筈だ。

 

 でも、本当にそうなら、なんで僕は連絡先をそのままにしてるのだろう。

 チャットツールは再インストールしてしまえばいいし、電話番号は番号を変えるなり着信拒否なりすればいい。

 そうすれば、疎遠になるのは確実となる。

 

 ……いや、分かってるんだ。口ではなんと言ったところで、未練が残っていることは。

 せめて、別れを告げる前に正面から気持ちをぶつければよかった、とか。

 事故とは言え、気持ちを知られたのだから、そこから押せばなんとかなった未来もあったのでは、とか。

 あのときは失意と混乱で見えなかった可能性が、今になっていくつも思い浮かぶ。

 

 それだけじゃない。実生活にも、少なからず未練の影響は出ている。

 ゲーセンでもあのキーボードの音ゲームはショッピングモールのことを思い出してしまうので、今は意図的に避けてしまっている。

 勉強をしているときでも、ふとしたタイミングで羽沢先輩の笑顔が脳裏に浮かぶことがある。その度に、一瞬だけ手が止まってしまう。

 コーヒーも……わざわざ豆を挽いて淹れるのは、止めてしまった。だが、その為の器具を片付けてしまうことは……できなかった。

 

 なにもかもが中途半端。そして後悔だらけ。なのに、それを取り戻す為の行動を起こす勇気すらない。羽沢先輩と会う前の、情けない僕に退化してしまった。

 

 

 今日もまた学校の授業が終わり、HRが始まる。

 僕の心は虚無で満たされ、退屈を誤魔化す為に窓の外へと視線を向けていた。もしかしたら商店街が見えたりしないかな……とも思ったけど、見える筈もなかった。

 見えるのは、体育を終えて校舎に戻っている体操服の生徒の集団だけだった。

 

 そんな中で、担任の話が始まる。今日は、2週間後の日曜日に、学年全体で受けることになっている予備校主催の模試についての詳細な説明があった。

 難関校を目指す人向けのレベルの高い模試であること。

 上位10名の名前を壁に張り出す予定なこと。

 来年のクラス分けの基準や3者面談の資料として用いられること。

 そして、受験は校内で行い、次の日の月曜日を振替休日にすること。説明はそんなところだった。

 

 模試……か。中学のときにもいくつか受けたけど、その結果次第では父さんがうるさそうだ。

 上位10名とまでは行かないまでも、30位以内には入っておかないと、と思う。

 

 今日の連絡の主なポイントは模試のことだけだったのか、その後は大した連絡もなく、速やかにHRが終了した。

 少しだけ、自習していこう。そう決めた僕は、掃除を終えると同時に自習室に向かうのであった。

 

 

 1時間半くらい自習をした後、僕は下校することとした。学校を出てからしばらく歩き、学校近くの駅に到着する。

 

 家に向かう電車をホームで待っている間、反対側のホームが目に入る。バイトがあったときは、いつもあっちで電車を待っていた。だけど、もうバイトはない。

 駅の改札からホームへの道は、2つの階段に分かれている。1つは自宅方面のホームに繋がり、もう片方は商店街方面だ。

 学校の帰り、その分かれ道を見る度……胸が締め付けられるような、もどかしい気持ちになった。

 上がる階段を変えるだけで、『羽沢珈琲店』に行ける。羽沢先輩にも会えるかもしれない。

 なのに、僕の足は毎回自宅方面の階段を選んでしまう。

 

 ……電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。僕は、大きな溜め息をついた。それがどういう感情に起因するものだったのか、自分でも分からなかった。

 

 

 最寄り駅で降りて、自宅に向かって歩く。駅から、およそ徒歩で20分くらいのとこの住宅街に家がある。慣れた今となっては大した距離ではない。

 

 家に着き、ポストを覗く。いつもの習慣だ。

 案の定、封筒やらチラシがいくつか入っていた。それを取り出し、確認していく。もっとも、僕宛てのものなんて滅多にないけど。

 滅多にないのだけど……今日ばかりは違った。1通だけ、僕宛ての封筒があった。滑らかな肌触りの青白い封筒。

 

「……え?」

 

 そして、その差出人の名前を確認した瞬間、時間が止まったように感じられた。

 ……指先が、知らぬ内に震えている。妙に苦しいと思っていたら、息をすることを忘れていたことに気づき、慌てて呼吸を再開する。

 

 これだけ動揺してしまうのも無理はなかった。だって、差出人のところに『羽沢つぐみ』と書かれていたのだから。

 しかも、封筒を確認する限りでは……郵便局を経由した形跡がなかった。それが意味することは、ただ1つ。

 

「羽沢先輩が、ここに……!?」

 

 弾けるような動きで周囲を確認する。当然と言えば当然だったが……羽沢先輩の姿を確認することはできなかった。ずっと自習をしていたし、来たのはだいぶ前だろう。

 無意識だったけど、がっくりと肩を落としてしまい、なにを残念がっているのだと自身を心の中で叱咤する。

 

 それはそうと、問題はこの封筒だ。わざわざ家まで届けたのだ。なにか大事なものが入っているに違いない。

 

 急いで家に入った僕はリビングに他の奴を放り投げて、素早く自室に飛び込んだ。早く中を確認したい。

 椅子に座り、丁寧に糊の部分を剥がし始めた。まるでそれがなにかの思い出の品かのように、慎重に。

 そして、破かずに開いた口の方を逆さにして、中身を取り出した。ストン、と滑るように落ちてきた中身のものを、手のひらで受け止める。

 

「……チケット?」

 

 入ってたのは、折り畳まれた便箋と1枚のチケット。

 ……チケットには、『ガールズ☆スーパーフェス』と記載されていた。ご丁寧に開催場所まで。これがなんのチケットかは、一目瞭然だ。

 間違いなく、ガールズバンドのライブ用のチケットだ。1枚だけということは、知り合いの招待や宣伝用とかではなく、僕の為にだけ送ってくれたということ。

 

 ……羽沢先輩が、僕にライブのチケットを送ってくれた。あんな突き放すようなことを言ったのに。複雑な心境が邪魔して、感想が出てこない。

 

 ……僕は悩んだ末に、便箋を開いた。するとその便箋には、びっしりと文章が書き込まれていたのだった。

 伝票とかで見覚えがある。それは、羽沢先輩の文字だった。

 

 僕は飛びつく勢いで手紙の中身に目を通し始めた。

 

**

 

 まずは最初に謝ります。ごめんなさい! 手紙を届ける為に、履歴書から勝手に住所を確認させてもらっちゃいました。本当にごめんなさい。これで私も立派なストーカーです。おあいこだね。

 

 封筒に、チケットが入っていると思います。『ガルスパ』って呼ばれてる、ガールズバンド向けとしてはとても大きな野外ライブのイベントのチケットです。

 私たち『Afterglow』もそのライブに出ます。チケットの裏に書いてあると思うけど、14時くらいから出る予定です。

 そのチケットはいわゆる招待枠のチケットで、私たちの出番のときなら、1番前で見ることができます。

 私たちが出るその時間だけでもいいので、木下くんには絶対に見に来てほしいんです。私からの最後のお願いです。

 

 ……本当は言いたいこと、話し合いたいこと、たくさんあります。でも、今の木下くんには言葉だけでは伝わらないこともたくさんあるんだって思ってます。

 だから、ライブに来てください。私たちの歌と演奏を聞いてください。私たちの熱意を感じてください。会場の盛り上がりを見てください。

 その上で……私たちの言葉をどう受け止めるかを決めてください。

 

 絶対、絶対に来てください。待ってます。

 

 つぐみ

 

**

 

 ……手紙を読み終えた僕は、チケットの裏面を確認する。確かに、『Afterglow』の名前が記載されている。開始予定時刻も、手紙にある通りだ。

 

 まさか、こんな手段で連絡を取りに来るとは思わなかった。

 きっと、前の電話で僕が先輩のことを強く拒んでしまったから、黙ってポストに投函しておくという手段に出たのだろう。

 実際、チャットで会いたいと連絡されるよりも、ずっと効果的だったと思う。チャットだったら、意気地になって拒んでしまったかもしれないから。

 

 ……あの羽沢先輩がここまで強く念を押すということは、なにがなんでも来てほしいってことだろう。最後のお願い、なんて言うくらいだし。

 それに、先輩にしては随分と挑戦的な書き方だった。先輩の方からこんなに自信がありそうな言い方をしたことは、今までなかったと思う。

 

 こんな手紙を貰って、嬉しくないわけがない。自分から嫌われるように仕向けたのに、まだ嫌われてはなさそうだと、安堵している自分がいる。

 心の奥で燻っていた未練が、正真正銘の最後のチャンスだぞとしきりに訴えてくる。……それくらい、分かっている。

 

 行きたい。できることなら行きたい。いや、ものすごく見に行きたい。最後に、もう1回だけでもいいから、羽沢先輩のライブの演奏が見たい。本気で、それを熱望している。

 

「20日の……日曜日……」

 

 ……でも……でも、絶対に行くとは……即決できなかった。できない理由があった。こんなにも、運命を残酷だと思った瞬間はない。

 

「……なんで、1週間ズレてないんだ」

 

 『ガルスパ』が開催される日は……20日の、日曜日。その日は……校内での模試の日なのだ。終わってから急いで向かっても、『Afterglow』の出番はとっくに過ぎている。

 

 3者面談でも参考にされる重要な模試。そんな簡単に無視できるようなものではない。

 サボったって必ずバレるし、その場合は担任からも親からもこっ酷く絞られるだろう。事情を話したところで、どうにもならないであろうことは明らかだ。仮病を使ったら、今度は外出する口実がなくなってしまう。

 つまり、『ガルスパ』を見に行くには、後に怒られることを承知の上で模試をサボるしかないのだ。それも、いかにも模試を受けに学校に行く……という体を装って。

 

「……どうしよう」

 

 行きたいという気持ちは本物だ。最後のチャンスだということも、分かっている。

 なのに、どうしてサボるという決断ができないんだろう。

 進路に関わるから? 怒られるのが怖いから? 羽沢先輩と向き合う勇気がないから?

 ……きっと、全部だ。

 

 そして、行けるか分からないことを羽沢先輩に連絡することすらも……反応が怖くて、メッセージを送ることができなかった。

 

「ああ、クソッ! なんで、僕はいつもこんな……っ!」

 

 己の髪を掻きむしる。急に物に当たり散らしたい衝動に襲われたが、それを必死に抑える。大きく息を吸って、荒々しく吐き出した。

 ……危ない。もう少し自制が遅れていたら、きっとスマホを壁に叩きつけていた。事実、手に持って振り上げるところまでは行っていた。

 

 手の施しようがないくらいの臆病さ。昔からずっと、やりたいことと実際にとった行動が一致しない。そんな自分が大嫌いだし、頭に来る。

 なんでこんな名前なのに、こんなにも勇気がないんだ……!

 

「……どうしたら、いいんだよ」

 

 自己嫌悪に陥った僕は椅子にもたれかかったまま、項垂れるしかなかった。心の中で、繰り返し羽沢先輩に謝罪しながら。

 

 

 ……2週間後。『ガルスパ』当日。

 何度も何度も何度も悩みつつも……結局僕は制服を身に纏い、模試を受けるべく学校へと向かうのであった。未練がましく、『ガルスパ』のチケットを鞄に入れておいて。

 

 連絡は……していなかった。

 

 

 



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第13話 本当に大切なもの

長くなりそうだったので分割。次回はちょい短いかも。


 午前8時40分。学校の教室で出席番号順に座った僕は、前から問題用紙と解答用紙が回ってくるのを待つ。

 待っている間、外の方へと視線を向ける。今は窓際には座ってないのでチラリとだけ。

 ……どんよりと曇っている。雨こそ降ってないものの、空一面灰色だ。

 

 結局、僕は『ガルスパ』ではなく校内模試の方を選んでしまった。チケットは今も鞄の中にあるけど、それだけだ。この場ではなんの意味も持たない。

 『ガルスパ』のやっている公園までは、ここから向かうと大体50分くらい。道中走ったりすれば、40分まで縮められるかもしれない。いずれにせよ、まだ余裕で間に合う時間だ。

 そう……今から向かいさえすれば。

 

 今も、迷いは消えていない。行った方がいいのでは……いや、でも……と頭の中で右往左往してしまっている。

 どうしよう、どうするべきだろうと思っている間にも、試験の準備が着々と整いつつある。そしてついに、僕は問題用紙と解答用紙を受け取ってしまう。

 それに、教室内ではクラスメイト全員が着席しており、担任の先生が教壇に立っている。試験前特有の、ピリピリとした空気も感じる。

 ここから抜け出すのは精神的にかなり困難だ。風邪でもないのに体調が悪いと嘘をつくこと自体にも抵抗がある。

 

 ……だけど、羽沢先輩だって、僕のことを待っているに違いない。もし、時間になっても僕がライブの会場に居なかったら……なにが起きてしまうのだろうか。

 ……いくら先輩でも、今度ばかりは本気で怒るに違いない。失望するに違いない。本当に、縁が切れてしまうだろう。羽沢先輩の厚意を踏みにじる結果になるのだから、当然と言えば当然だ。

 胃が酸で灼ける。心臓が締め付けられる。羽沢先輩が抱くであろう怒りと失望を想像するだけで、生まれたての子鹿のように手足が震える。

 

「それでは、始めてください」

 

 そんなことを考えている内に、試験が始まってしまった。反応が少しばかり遅れ、周囲がページをめくる音でようやく現実に引き戻される。ちなみに、最初は数学だ。

 慌てて筆記用具を手に持って問題を解き始めるものの、内容がほとんど頭に入らない。全くと言っていいほど、集中できない。解答のペースが通常の半分以下な上、計算ミスも頻繁にしてしまう。急いで消そうとしたせいで、消しゴムを数回机から落としてしまった。

 

 結局、僕の頭の中は終始羽沢先輩のことでいっぱいで、数学の試験の出来は散々だった。結果を待つまでもなく、とんでもない点数であることは明らかだった。

 

 続けて、国語の試験に入ったものの、僕の調子は相変わらずなのであった。

 

 

***

 

 

 『ガルスパ』はライブだけを行うイベントなのではなく、一種のお祭りのようなイベントだ。いくつかのライブ用のステージがあって、その周辺にたくさんの屋台が出店している。

 

 えっと、つまりなにが言いたいかというと……私たちの出番までの間は、私たちも純粋に『ガルスパ』を楽しむ側だということ。

 今は午後の12時を回ったくらい。ちょうどお昼どき。周囲はたくさんの人で賑わっていて、天気が曇りであることを忘れそうになるほど各ステージのライブが盛り上がっているようだった。

 そんな中、私たちはお昼ご飯の確保の為に、周辺の屋台を回っていた。

 まあ、私たちと言っても、私とひまりちゃんと蘭ちゃんの3人でだけどね。モカちゃんと巴ちゃんは飲食スペースで席を確保して待ってくれている。

 

「あ! 見て見て! あそこに牛タンがあるよ! 買ってきていいかな!?」

「うん、平気だよ。行ってらっしゃい、ひまりちゃん」

「あ、ひまり。ついでにモカに頼まれてた分もお願い。8枚入りの奴って言ってたと思う」

「りょーかーい! ではでは、行ってきまーす!」

 

 そう言うや否や、ひまりちゃんはお目当ての屋台の方へ一直線に向かって行った。

 『ガルスパ』当日だからなのか、お祭りの雰囲気のせいなのか、ひまりちゃんはいつも以上に元気いっぱいだった。

 

「蘭ちゃんはなに食べるか決まった?」

「まあ、ライブ前だから軽めのものにしようとは思ってる。つぐみも、今回は結構歌うことになると思うから、あんまり食べない方がいいよ」

「あ、そっか。そうだよね、食べすぎないようにしないと」

 

 お腹いっぱいになると声が出にくくなっちゃうもんね。気をつけないと。

 うーん、そうなると……もしかしたら1人分でもお腹いっぱいになっちゃうかもしれないから……。

 

「……そうだ! 蘭ちゃん、半分こにするのはどうかな?」

「うん、そうだね。それがいいと思う。つぐみはなにがいいの?」

「えっと……あ! あれとかどうかな? ローストビーフ丼だって」

 

 視線の先に映った屋台の看板を指差す。屋台で売っている食べ物の中ではさっぱりしてそうだし、写真を見る限りでは量もそんなになさそうだ。なにより、とっても美味しそうだし。

 

「いいんじゃない?」

「よかった! じゃあ、私が買ってくるね」

「お願い。その間に、私は巴に頼まれた分を買ってくる。お金は後で返すから」

「うん、了解。それじゃあ、また後でね」

 

 その場で蘭ちゃんと別れて、私は目的の屋台の列を目指す。結構並んでいる。買うのに、ちょっと時間がかかるかも。でも時間はまだあるし、大丈夫かな。

 

 えっと、最後尾は……あそこ、かな? 人が多いから、少し分かりにくい。

 うーん、ちょっと聞いてみようかな。私は、最後尾と思しき所に立っている女の人に声をかけてみることにした。

 

「あの、すみません。ローストビーフ丼の最後尾ってここで合ってますか?」

「ええ、合ってますよ……ってあれ、羽沢さん?」

「え……?」

 

 最後尾であることを確認したはいいものの、それを聞いた相手の人に名字を呼ばれて、疑問が生じる。相手の人の顔をよく見てみるけど、知らない顔だ。

 ……初対面、だよね? 私が忘れちゃってるだけなのかな……? ……あれ? でも、どこかで見たような気も……。

 

 そんな風に頭を悩ませていると、私の考えを察したのか、女の人は苦笑いを浮かべていた。

 

「ああ、ごめんなさい。私が一方的に知ってるってだけで、初対面だよ。木下勇樹は知ってるでしょ? あいつの姉なの、私」

「……えっ!? 木下くんのお姉さんですか!?」

 

 驚きのあまり、大声を上げてしまう。幸い、周囲の喧騒のおかげで注目を浴びることはなかった。でも、すごい偶然だ。まさか、偶々話しかけた人が木下くんのお姉さんだなんて。

 

 確かに、言われてみれば……顔立ちがどことなく木下くんに似ている。見覚えがあると思ったのは、兄弟故の面影を感じていたせいだったみたいだ。

 そういえば、木下くんはお姉さんが私と同じ羽丘に通っているって言ってた。ということは、学校の先輩ということになる。

 

「えっと、木下先輩……で、いいですか?」

「うん。好きな呼び方でいいよ。私の方も羽沢さんで大丈夫?」

 

 私は「もちろんです」と笑顔で頷く。すると先輩は「よかった」と返してくれた。

 

「ところで、勇樹がバイトするようになってからあんまり店には行けてなかったんだけど、どんな感じだった? 本人はあんまり語りたがらなかったんだよねえ……」

「えっと、きの……勇樹くんには、バイトでいつも助けてもらってました。すぐに仕事覚えて、コーヒーまで淹れられるようになっちゃったので、びっくりでした」

 

 嘘偽りなく木下くんのことを伝える。好意云々を抜きにしても、木下くんはとても貴重な戦力だった。

 

「へえ……そうだったんだ。あいつも頑張ってたんだねえ……。あ、そういえばごめんね、勇樹のバイトのこと。私の方から連絡しといて、あんなことになっちゃって」

「あはは、確かに急で驚いちゃいましたけど、大丈夫です。今はシフトもなんとか持ち直してますから」

 

 本当は木下くんが辞めちゃったとき、すごいショックを受けてたのは隠しておく。先輩がどの程度まで事情を知っているのか分からないので、当たり障りのない範囲に留めておく。

 それからしばらくの間、木下先輩と他愛のない会話を楽しむ。そうしている内に列はどんどん進み、すぐに私たちの番となった。

 先輩は2人分買い、私は1人分を買って余分に器とスプーンを貰う。本当に、あっという間の時間だった。

 

「それじゃあ、羽沢さん。ライブ頑張ってね。後で見に行くから」

「ありがとうございます! お待ちしてますね。あ、そうだ! 先輩、今日は何人で来てるんですか?」

「友達と2人でだけど、どうして?」

「よかったら、これどうぞ。私たちのライブだけですけど、最前列で見れるライブの招待チケットです」

 

 ちょうど2枚だけ残っていたチケットを懐から出して、先輩に渡す。バンド繋がりのお友達の何人かが来れなくなってしまった為、余っていたのだ。

 

「え、いいの? わざわざありがとね」

「いえ、余らせてももったいないだけですから。勇樹くんにも同じチケットを渡したので、もしかしたら一緒になるかもしれませんね」

 

 私としては、それとなく木下くんも誘っていることを伝えようとしただけだった。

 だけど、それを聞いた先輩は予想外なことに、突然顔を曇らせた。

 

「え? 勇樹のこと、誘ってるの?」

「はい、そうですけど……?」

「……羽沢さん。今すぐ勇樹に連絡した方がいいよ。多分、まだここに居ないから」

「えっと……? でも、まだ私たちの出番まで時間はありますし……」

「ああ、そういうことじゃなくてね」

 

 私の考えを否定するように先輩は首を横に振る。

 なんだろう、と首を傾げていると……先輩は衝撃的な事実を私に告げるのであった。

 

「勇樹の奴、なんか大事な模試があるとかなんとかで、今朝制服で出てったよ。今頃、学校に居るだろうから早く連絡しないと来ないかもしれないよ」

 

 このとき、私はまた木下くんに難しい選択を迫っていたことに気づいた。

 

 

***

 

 

 国語の試験が終わり、昼休みに入る。今は12時40分。残っている英語は1時間後の13時40分から準備に入る。

 ……もしその時間を過ぎれば、もう引き返せない。ライブに間に合う可能性は完全に閉ざされる。

 諦めがつくから早くその時間が過ぎてほしいと思っているのか、それともまだ間に合うことに安堵しているのかも分からないまま、僕は学食で昼食を食べることにした。

 校内模試とはいえ、1学年しか登校していない為、学食は結構空いていた。カレーを購入し、適当に席に座って食べ始める。

 

 午前中の試験のことを振り返る。酷いものだった。そもそも最後の問題まで辿り着いてないとかそういうレベルで酷かった。こんなこと、初めての経験だ。

 

 駄目だな……僕。羽沢先輩の誘いを無視しているにも関わらず、そのことが気になって模試の方でも力を発揮できないなんて。中途半端な態度が、そのまま結果に現れている。

 

 憂鬱な結果にげんなりしながら、20分くらいのスローペースで食事を終える。

 そして座席に留まりながら、試験中は電源を切っていたスマホを起動する。昼休みが終わるまで、適当に弄くり回していようと思ったのだ。

 起動時のセットアップが完了し、ホーム画面が映る。

 

 ——その直後、チャットのメッセージの通知が飛んできた。どうやら、切っている間に届いていたらしい。

 恐る恐る、差出人を見る。姉さんからだった。そのことに安心したのも一瞬のこと。メッセージには、今最も触れてほしくない話題が書かれていた。

 

『ちょっとあんた! さっき偶々羽沢さんと会って、聞いたよ! ライブ誘われてたんだって!? なに呑気に模試なんか受けてんの! とっととこっち来なさい!!!』

 

「……簡単に言わないでよ」

 

 こっちの気も知らないで、と苛立ちが募る。その決断が簡単に出来るようなら、こんなに悩んでいないし、罪悪感も感じてない。

 送り主が姉さんであることで変に意気地になってしまったからだろうか、結局そのメッセージは既読無視してしまった。

 

 ——だが、それから10分後に届いたメッセージは無視することができなかった。差出人を見た瞬間、すぐさまアプリを開いた。……差出人は、羽沢先輩だった。

 

『木下くんのお姉さんから聞いたよ。木下くん、今日は大事な模試だったんだね。知らなくてごめんね。困っちゃったよね、突然ライブのチケットなんか貰っちゃって。こっちのことは気にしないで! ライブの映像は後々ネットにアップされるらしいから、そっちを見てくれれば大丈夫だから! それじゃあ、模試頑張ってね!』

 

 どうやら姉さんが模試のことを話したらしい。余計なことを、と思うももう遅い。

 

「……羽沢先輩」

 

 僕だってそこまで馬鹿じゃない。羽沢先輩が気を遣ってこんなメッセージを送ってくれたことくらい、分かっている。

 ……でも、その言葉に甘えてしまおうとしている自分がいる。表面上は怒っている様子がないことに安心してしまう自分がいる。

 

 どんどん楽な方に流されようとしているのを自覚しつつも、麻薬依存のようにそれから抜け出せないでいることに情けなさを感じ始めるのであった。

 

 

***

 

 

 13時20分。既にライブ衣装に着替え終えた私は、ステージに併設されている楽屋スペースのすぐ外から、スマホでメッセージを送った。

 相手は木下くん。ライブのことは気にしないで模試に集中してほしいという旨のメッセージを送った。

 

「うん……これで、いいかな」

 

 これで、木下くんも安心して模試に臨める筈。流石に、模試の予定をライブなんかで潰しちゃうわけにはいかないから。

 それに、動画がアップされるというのは本当なので、ちゃんと後でライブを見てもらうことはできる。なら、問題はない。

 

 だから……これでいい筈だ。いい……筈なのだ。

 

「っ……」

 

 ……なのに、なんでなんだろう。目の奥から熱いものが込み上げてきちゃうのは。倒れてしまいそうなくらい、胸が痛むのは。

 

 駄目……駄目だよ。もうすぐ出番なんだから、泣いちゃ駄目。そう思うのに、涙はどんどん瞼の上に溜まってきて……遂に、頬を伝い始めた。

 声こそ出さないものの、その代わりと言わんばかりに涙が洪水のように溢れ出した。抑えきれない感情が肩を震わせる。どうしてこうなるのだと、心の中で叫ぶ。

 

 悲しくて仕方ない。悔しくて仕方ない。木下くんが模試なんかを選んだことが。ライブを選ばせることができなかったことが。振り向かせることができなかったのが。

 なにがいけなかったの? 熱意が足りなかった? やっぱり遅すぎたの? それとも……単に運が悪かっただけ?

 ……こんなにも本気で取り組んだのに、必死だったのに……運が悪いだけで、全部台無しになっちゃうの? そんなの、あんまりだよ……。

 

「つぐみ、モカが戻ったらライブ前の最後の打ち合わせ……って、つぐみ!? どうしたの……!?」

 

 しまった。様子を見に来た蘭ちゃんに気づかれてしまった。慌てて涙を手の甲で拭う。

 

「な、なんでもないよ……えへへ」

「そんなわけ、ないでしょ……! また木下とのことで、なんかあったんでしょ……?」

 

 誤魔化そうとしたけど、やっぱり遅かった。

 蘭ちゃんは心配そうな顔で私に駆け寄り、持っていたらしいハンカチで涙を拭いてくれる。同時に、背中までさすってくれた。とても、優しい手つきで。

 

「つぐみがものすごく頑張ってたってこと、一緒に作曲した私はちゃんと知ってる。だから、無理して隠そうとしないで……」

「っ……! 蘭ちゃん……!」

 

 それが限界だった。背中をさすられたことで気が抜けたせいか、逆に我慢しようとしていた分の涙まで出てきてしまった。

 視界が歪んで、蘭ちゃんの姿がおぼろげになる。そして気づいたら、私は蘭ちゃんに抱き締められていた。

 

「っ……木下くんね……今日、模試があるからって……っ!」

「うん」

「だから、私ね……っ……気にしないで模試に集中してって連絡しちゃったの……っ! 本当は、ライブに来てほしかったのに……ッ!!」

「……そうだよね」

「私、あんなに頑張ったのに……ぐす……っ……なのに、選んで、もらえなかったの……っ!」

 

 いきなりこんなことを言われても、蘭ちゃんだって困るだろうに、言葉が止まらない。ここまで言ってしまった以上、もう全部吐き出してしまいたかった。

 

 その間、蘭ちゃんはただただ相槌を打ちながら、背中をさすり続けてくれた。

 

 

 5分ちょっとくらい経っただろうか。ようやく落ち着いた私は、そっと蘭ちゃんから離れる。

 いざ落ち着いてくると、今度は恥ずかしさが込み上げてくる。……さっきの蘭ちゃん、まるで巴ちゃんみたいだった。

 

「……どう、平気?」

「うん……ありがとう。ちょっと、楽になった……かな」

 

 気持ちが晴れたわけじゃないけど、それでもさっきよりは全然大丈夫だ。突然、涙が込み上げてくるようなことはない。

 

「蘭〜、つぐ〜。どうしたの〜?」

「っ、モカちゃん!?」

 

 気が緩みきったところで、突然後ろからモカちゃんに声をかけられた。びっくりしちゃって、飛び跳ねるようにして蘭ちゃんから距離を取ってしまう。

 

 モカちゃんは飲み物を買いに行ってたようで、その手には中身の入ったペットボトルが握られていた。もちろん、既に衣装に着替えている。

 

「あれ〜? もしかして、お邪魔だったかな〜?」

「そんなわけないでしょ。なんでもないから、早く楽屋に戻って。打ち合わせ始めるよ」

「はいは〜い」

 

 それだけ言うと、モカちゃんはトテトテと楽屋に入って行った。なんだか、急に嵐が来て、急に去ったみたいな感じだった。

 

「つぐみも、もうちょっとしたら楽屋に戻ってて。私もすぐ行くから」

「うん。……あれ? でも蘭ちゃんは?」

「私もやっぱり飲み物買ってくる。だから先入ってていいから」

 

 そういうことならと、私は頷く。まだちょっと目が赤くなってるだろうし、もう少しだけここに居ようと決める。

 蘭ちゃんと別れた私は、楽屋の壁に背中を預けながら時間を潰すのであった。

 

 

***

 

 

 教室に戻った僕は時計を確認する。13時35分。後5分で、タイムリミット。仮に今から向かったところで、羽沢先輩たちの出番はほとんど終わっている。

 

 今、どんな気持ちなのだろうか、僕は。この板挟みの状況からようやく解放されるという期待感? それとも、取り返しのつかないことをしてしまった後悔? なんだかごちゃ混ぜになっていて、よく分からない。

 

 残りの5分が経てば分かるのだろうか。そう思ったとき、スマホが振動しているのをポケット越しに感じた。

 危ない。昼休みに起動してそのままだった。僕はスマホを取り出す。

 

 ——しかしその瞬間、僕は画面を見て固まってしまった。

 着信だった。ただし、それは羽沢先輩からではなく……美竹先輩からだった。

 

 ……正直、迷った。出るべきか、出ないべきか。もうすぐ昼休みも終わるし、スマホの電源を切っておかないといけない。それに、なんの為の電話なのかも想像がつく。

 だけど……今まで散々不誠実な行為を続けていたからだろうか。積み重なった罪悪感がそれを阻んだ。いい加減にしろと、心のどこかからか聞こえた気がした。

 

 僕はスマホを手に持ったまま、廊下に出て通話ボタンを押した。

 

「もしもし……あの、美竹先輩?」

『……木下。時間がないから、1回しか言わない』

 

 僕の応答は無視されたが、有無を言わせぬ威圧的な声に押し黙ってしまう。美竹先輩の顔は見えないけど、分かる。絶対……怒ってる。初めて会った日に詰め寄られたときの顔を思い出す。あのときは、本当に怖かった。

 一体どんな罵声が飛んでくるのだろうかと、身構えてしまう。

 

 ……だけど、飛んできたのは罵声ではなかった。

 そして、その声のトーンは怒りを孕んでいるようなものではなく、責めてはいつつも……どこか、僕を諭すような感じだった。

 

『……つぐみ、さっきまで泣いてたよ』

「え……?」

 

 泣いてた……? 羽沢先輩が……? まさか、あのメッセージを送った後に……?

 

 ……ひんやりとした汗が、背中を伝った。その間も引き続き、美竹先輩の声が電話越しに聞こえる。

 

『つぐみはこのライブの為に、ほぼ徹夜で新曲を作った。なんでか分かる? あんたに聞いてもらう為だよ』

 

 え……新曲? それも、僕の為に……? どうして……? ……いや、もしかしなくても、ライブで僕になにかを伝える為……? 

 だから、あんなに来てほしいと念押ししてたのだと理解する。その新曲を、『ガルスパ』という大舞台で聞いてほしかったのだと。

 

 ……そして、次の美竹先輩の言葉で、僕の価値観は大きく揺るがされることとなる。

 

『私は、あんたがどんなことを考えているのか知らないし、悪気があってのことじゃないことくらいは分かっている。でも……あんたが受けてる模試って、つぐみを泣かせてまでして優先したいことなの?』

「……っ!?」

 

 天地がひっくり返った気分だった。ずっと目の前に置いてあった探しものに、たった今ようやく気づいたかのような感覚。

 

『……私からはそれだけ。後は、あんた次第だから。……じゃあ、切るから』

 

 直後、通話が切れた。僕は、ゆっくりとスマホを耳から離した。そして、ぼーっとしたまま画面を眺めていた。

 

 ……すると、今度は青葉先輩からメッセージが来た。アプリを開く。

 

『ちなみに〜、これが証拠の動画〜。それと、新曲は最後にやる予定〜』

 

 まるで美竹先輩との電話を聞いていたかのようなタイミング。

 メッセージに書いてある通り、動画が添付されていた。サムネには、羽沢先輩の姿が。ごくりと唾を飲み、震える指先で再生ボタンを押した。

 

 ……本当だ。羽沢先輩、泣いている。これ……青葉先輩が撮ったのだろうか。いや、そんなことはどうでもいいか。

 とにかく、先輩が泣いているのだ。……僕のせいで。

 

「……馬鹿だ、僕」

 

 美竹先輩の言っていた、羽沢先輩を泣かせてまで模試を受けたいのかという問いかけ。なんで、こんな簡単な比較を思いつかなかったのだろうか。

 

 ……答えは決まっている。ノーだ。羽沢先輩に、泣いてほしくなんてない。

 ずっとずっと、笑顔でいてほしい。そう思ったからこそ、先輩を支えようと頑張ってたんじゃないか。

 

 あんなメッセージを断腸の思いで打っていたであろう羽沢先輩の気持ちを思うと……申し訳なくて仕方がない。こんな最低な男に、ここまで気を遣わせてしまった。

 大体、なにが絶対に怒るだ。失望するだ。僕が行かなかったとしても、羽沢先輩がそんな風に考えるわけないじゃないか。それくらい、優しすぎる人なんだから。恐怖に駆られて、僕の目は完全に曇っていたらしい。

 

 もう間もなく、昼休みが終わる。ライブの開始には間に合わないけど……もしかしたら、新曲には間に合うかもしれない。

 

 ……心は決まった。この後、どれだけ怒られようと、非難されようと、罰を課されようとも、知ったことか。

 まあ、それに……どうせ最後の英語で満点を取れたとしても、総合で30位以内に入るのはもう無理だろう。それくらい、午前中の出来は酷かった。だったら、受けようと受けなかろうと同じことだ。

 だからというわけじゃないけど……決断した。羽沢先輩の所に行こう。今すぐに。

 

 教室に戻り、急いで荷物を纏める。突然帰り支度を始めた僕に、クラスメイトたちが怪訝そうな視線を向けているのが分かる。普段なら萎縮してしまうだろうけど、今に限っては別だ。怯まずに、支度を済ませる。

 そして、偶々視界に入った隣のクラスメイトの人に一言告げる。

 

「稲垣さん。体調悪くなったから早退するって先生に言っておいて。それじゃ」

「ぇ……え!?」

 

 返事は聞かずに、再び廊下に出る。急がないと先生が教室に来てしまう。鉢合わせになったら面倒だし、さっさと行かないと。

 

 道中走りながら向かえば、約40分。なんとしてでも新曲が始まるまでに辿り着くべく、僕は廊下を駆け、靴を履き替え、学校を飛び出すのであった。

 

 

 



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第14話 Even Guilty

 走る。全力で走る。革靴にも関わらず、猛烈なペースで駅に向かって走る。飛ばしに飛ばし、限界を越えて走る。

 一時的ではあるものの、今ならきっと駅伝の選手とも張り合えるかもしれない。そう思えるほどの速度だった。

 

 運動は苦手というほどではなく、平均よりちょい上くらいはある。でも、運動不足が祟って体力はそんなになかった。まだ学校から駅までの途中なのに、早くも息が上がってくる。

 

 だけど止まらない。どれだけ足が痛くなろうと、気持ち悪くなろうと止まるつもりはない。それが今、僕にできる最大限の贖罪でもあるから。

 

 駅に着いたときに、丁度ぴったりに電車が来るように祈りながら、僕は更にペースを引き上げるのであった。

 

 

***

 

 

 もう間もなく、私たちの出番だ。ステージ裏からこっそりとお客さんのスペースを覗く。今までに見たことのないほどたくさんのお客さんが待っている。最前列には木下先輩の姿もある。

 本来なら、驚きと嬉しさで胸がいっぱいになるところだ。でも、実際にはそんなことはない。心はモヤモヤとしたものを抱えたまま。

 だって……木下くんが、ここには居ないから。

 

 ……なに言ってるんだろう、私。居なくて当然だよね。木下くんは今頃、学校で模試を受けてる筈だもん。そしてその背中を押してしまったのは、他ならぬ私なんだから。

 

「つぐ……平気か?」

 

 流石に木下くんの不在に気づいたのか、巴ちゃんやひまりちゃんが難しい顔で私のことを見ていた。私が木下くんにチケットを送ったのはみんなが知っていることだ。

 一瞬、言葉がつっかえたものの、私はなんとか笑顔を作ってみせる。

 

「うん、大丈夫だよ……! こんなにたくさんのお客さんに来てもらえたんだもん。これはもう、いつもの100倍は頑張らないとだね!」

「……そうだな。見せてやろうぜ、私たちの最高のライブ!」

「……うんうん! せっかくの『ガルスパ』だもん! 楽しんでいこーう!」

 

 私の本心はきっと、みんなには見抜かれてる。それでも、みんなはそれに気づかないフリをしてくれた。私の言葉に敢えて乗って、モチベーションを高めようとしてくれる。今はその気遣いが、とてもありがたかった。

 

 『ガルスパ』までの間、みんな私の為に色々と協力してくれた。特に、蘭ちゃんには感謝してもしきれない。

 だから、その恩返しをしないといけない。たとえ木下くんがここに居ないとしても、最高のパフォーマンスを発揮しないといけない。それが、なによりの恩返しになるのだから。

 それに、あんなにたくさんのお客さんがいらしてるんだもん。その期待には、ちゃんと応えないといけないし、応えたいと思っている。

 

「……よし!」

 

 難しいかもしれないけど、気持ちを切り替えよう。今は目の前のお客さんに楽しんでもらうことだけを考えよう。

 直接見てもらえないなら、せめて最高の出来の演奏を動画に残すしかない。動画越しでも伝わるような、熱い想いの籠もった演奏を。

 

 ……そうだよね。まだ諦めるときじゃないよね……きっと。とにかく、今は頑張ろう……! 

 そうやって自分を奮い立たせることで、開始寸前ながらもなんとか気力を取り戻すことができた。更に気合を入れるべく、両頬を手のひらで軽く叩いた。

 

「開始1分前です。スタンバイお願いします」

 

 スタッフさんの呼びかけに応じて、いつでもステージに出れるようにする。

 いよいよだ。ごくりと生唾を飲む。まだ始まってもいないのに、耳の裏の辺りからタラリと汗が1滴流れ落ちる。体に余分な力が入ってたのに気づき、すぐに抜く。

 ライブは何度もやってきたけど、『ガルスパ』ほどの大舞台は初めてだ。流石に緊張してるみたい。

 でも、大丈夫。みんながいるから。たくさん練習したから。絶対、成功させるんだ……!

 

「……行こうみんな。いつも通り、最高の演奏で」

 

 蘭ちゃんの静かな激励の直後、スタッフさんが合図をする。それと同時に、私たちはステージに飛び出した。

 

 空気が震えるほどの大歓声が響き渡り、厳しい残暑にも負けないほどの熱気が会場を包んだ。それを受けて、否が応でも私たちの士気は高まる。

 みんなの顔つきが引き締まる。プロのスポーツ選手のような真剣な表情。必ず成功させるという想いが、私たちを1つにする。

 私はキーボードの前に立ち、指をキーに添える。これでいつ始まっても大丈夫だ。

 

 蘭ちゃんがギターを提げながらマイクの前に立つ。マイクが正常に動作していることを確認し、蘭ちゃんは挨拶を始めた。

 

「……来てくれてありがとう。今日は最高の演奏を届けるから……よろしく」

 

 一斉に会場が沸いた。私たちは互いに顔を見合わせて、不敵な笑みを浮かべて頷く。

 

「それじゃあ1曲目……『ツナグ ソラモヨウ』」

 

 しん、と静まり返り、空気が糸を張ったように張り詰める。でも、それは胃が痛くなるようなピリピリとしたものではなくて、丁度よく張られた弦のような、心地のよい緊張感。

 

 ——曲が始まった。みんなの音に溶け込ませるように、私はキーボードを鳴らし始めた。

 

 

***

 

 

 電車移動の間に少ない体力を回復させた僕は、再び全力疾走をしていた。渋谷ということでかなりの人混みだ。苛立ちを募らせながらも、僕は彼らの間を縫って進む。しかし直後に信号に引っかかり、足止めを食らう。舌打ちをするも、状況に変化はない。

 

 息を整えながら、スマホで時間を確認する。『Afterglow』の出番が終わるまで、残り15分を切った。つまり、残された時間は5分と少し。

 もうちょっとで『ガルスパ』の会場だ。電車移動の際にステージの場所も確認済み。間に合うかどうかは五分五分といったところだ。

 

 いや、五分じゃ駄目だ。絶対に間に合わせる。そう決めたんだ。だから信じるんだ、必ず間に合うって。

 

 最短のルートを思い描きながら信号の色が変わるのを待つ。そして変わった瞬間、弾けたバネのようにスタートを切る。

 

 もう全身は汗だくだ。喉は乾いてるし、暑くて暑くて仕方がない。足なんて、石になったかのようだ。ペースが落ちかけるのを、気力でなんとか支えている。

 明日、筋肉痛になっても一向に構わない。なんなら体調を崩してしまったっていい。だから、お願いだ。今だけは動き続けてくれ、僕の足。

 羽沢先輩の所に……どうしても行きたいんだ。

 

 その願いに応えてくれたのかは分からない。でも、僕の足はどれだけ重さを増しても、決して限界を迎えることはなかった。壊れかけながらも、粘り強く稼働を続けてくれた。

 

 ……見えてきた。公園だ。ここからでも分かる。すごい盛り上がりを見せている。あちこちから音楽や歓声、ときには拍手が聞こえる。その中に、『Afterglow』のものもある筈だ。

 僕は真っ直ぐ入り口に飛び込み、目当てのステージを目指す。人の密度が一段と増した為、人の流れに逆らうようにして掻き分けながら進んでいく。泥の中に浸かったまま歩いているみたいだった。

 

 急げ、急げと己を急かしながら、少しでも前へと強引に進む。偶に近くの人から非難の目線を浴びせられるが甘んじて受け入れる。悪いのがこっちなのは分かっている。でも、そう思ってくれて構わないから、先に行かせてくれ。

 

 どれくらい泥の中を掻き泳いだだろうか。いつまで経っても目的のステージが見えてこないことに焦りを覚える。人の壁が視界を阻み、泥に加えて濃霧の中に迷い込んでしまったかのようだ。

 

 本当に、こっちで合っているのだろうか。合っている……ような気はする。でも、はっきりはしない。

 仮に道を間違えていたら、すぐに引き返さないと間に合わなくなる。合ってるのだろうかと、悩む時間が長すぎても間に合わなくなる。

 どうする……このまま信じて進むか、それともどこか目印になりそうなものを探すか。ここに来て判断に迷い、足の速度が緩む。

 

 ——そんなときだった。僕の耳が微かに、聞き覚えのあるメロディーを拾ったのは。その瞬間、数ヶ月前に見た『Afterglow』のライブ映像が脳裏に浮かび上がった。

 メロディーが聞こえたのは、進行方向の先の方からだった。

 

「……『True color』」

 

 ……間違いない。僕はちゃんと正しい方向に進んでいた。もう、目と鼻の先の所まで来ている。

 確信を抱いた僕は一気にペースを上げる。何度もぶつかってしまいながらも人混みを突破していく。

 

 そして……演奏が止み、歓声が上がるのと同時に、僕はついに人海の壁を突破した。一気に視界が開け、大きなステージが目に入った。

 

 ……居た。ステージの上に、羽沢先輩が立っている。前のライブのときと同じ衣装で、あそこに居る。まだ遠目だけど……ようやく、一目見ることができた。体の疲れは、どこかに吹き飛んでしまった。

 

 間に合ったのだ。少なくとも、新曲には。前屈みになり、息を整えながらも、頬が次第に緩み始める。走っていたのとは別の理由で、心臓が早鐘を打つ。

 

 早く、羽沢先輩に知らせたい。僕はここに居るぞと、伝えたい。

 でも、どうしよう。会場はたくさんの人でぎっしりだ。密度で言えば、さっきまでよりも遥かに高い。チケットがあるとは言え、ここから最前列まで行くのは……困難だ。ついでに、迷惑でもある。

 

「……次がラスト。新曲をやるから」

 

 マイクで拡大された美竹先輩の声がタイミリミットが近いことを知らせる。急がないと。

 なにか方法はないかと考えつつ、ステージを見る。可能な限り、羽沢先輩を視界に収めておきたかったからだ。

 

 ——そんなときだった。羽沢先輩と、はっきりと目が合った。まん丸に見開かれた先輩の瞳が、こんな遠くからでもくっきりと分かるのであった。

 

 

***

 

 

 淀みなく指を踊らせ、キーボードを鳴らす。巴ちゃんのドラムが快音を響かせ、ひまりちゃんのベースが調和を司る。モカちゃんのギターの音が軽やかに舞い、蘭ちゃんの凛とした歌声が澄み渡って、お客さんを魅了する。

 最後にギターの余韻とドラムが曲を締めくくり、演奏が終わった。再び、大きな拍手をしてもらえた。

 

 ライブはとても順調だ。みんな、練習の成果が出てるし、私も十全の力を発揮できているという自負はある。ミスも、今の所皆無だ。

 

 ……いよいよ、最後の曲だ。私が初めて作詞を担当した新曲。私は演奏の準備を整えておく。

 

 ある意味では、私にとってはここからが本番だ。ミスをしないのはもちろんのこと、込められる限りの情熱を演奏と歌に乗せないといけない。

 簡単に喉の調子を確認する。うん、大丈夫。ちゃんと歌える。

 

「……次がラスト。新曲をやるから」

 

 蘭ちゃんが新曲の存在を明かす。それだけで、会場は再び熱気を増した気がする。

 この後、ちょっとだけ私にMCが回ってくる予定だ。なんの為に曲を作ったのか、話しておく為に。

 

 再度、最前列を確認する。分かってはいたことだけど、木下くんの姿はない。それでも、ズキリと胸に鋭い痛みが走ってしまった。

 

 パフォーマンスに影響が出るほどじゃない。だけど、やっぱり木下くんに居てほしかったという気持ちは今もある。

 もしかしたら模試をすっぽかして、こっちに来てくれてるかも……なんて都合のいいことを考えてしまう。

 例えば漫画だったら、たった今到着して最後列の方に居たりして……。

 

「……え」

 

 お客さんの最後列からほんの少し離れた場所。そこに……居る筈のない人が立っているのが見えた。いや……まさかと、自分の目を疑う。きっと、私の妄想が生み出した幻に違いない。そう思って、ぱちくりと何回かまばたいてみる。

 ……でも、結果は同じだった。何度見ても……木下くんが、そこに居た。

 

 なんで……ここに? 私は、来なくていいって言っちゃった筈なのに。ここから1時間近く離れた所で、模試を受けてる筈なのに。

 疑問は尽きない。ただ、1つだけ確かなのは、木下くんがここに居るということだけ。

 

 ……学校の制服を着ている。模試を受けていたのは本当なんだと思う。

 気になるのは木下くんの姿勢。両膝に両手を付いて、前屈みになっている。そう、まるで運動後で疲れ果ててるときのような姿勢。

 ……もしかして、走ってきたの……? 駅から、ここまで……? ううん、学校を出たときから……? だとしたら……すごく長い距離を走ってきたんじゃ……。

 

「ぁ……」

 

 ——木下くんが顔をこちらに向けた瞬間、目が合った。その刹那、まるで世界に私たちだけになったかのような錯覚に陥る。同時に、雷に打たれたような痺れが背筋を駆け抜けた。

 

 ……本来なら、確信を持ってそうだと言えるような距離じゃない。でも……なぜか、私は断言できた。木下くんと、目が合ったんだと。

 

 来て……くれた、の……? 大事な模試を、放棄して……? そんなに疲れちゃうくらい、全力で走って……? 私の歌を、聞きに……?

 

 ……やった。……やった! 来てくれたんだ! 聞いてもらえるんだ! 直接……! 私が作詞した新曲を……! 私の想いを……! 生のライブで、正面から!

 

「っ……!」

 

 また、視界が歪んできた。いけない……最近、涙腺が緩んでばかりだ。まだ、1曲残ってるんだからしっかりしないと。

 でも、今までの涙とは違う。この涙は、私にいっぱい力を与えてくれる。全力を越えた演奏をする力を。今までの限界を軽く飛び越せるような力を。

 

「普段は私が曲を作ってるんだけど、今回だけは違う。今日披露する新曲を作ったのは、キーボードのつぐみ。……続きは彼女から」

 

 ちょうど、蘭ちゃんが私にMCをバトンタッチしたところだった。蘭ちゃんは半ばまで振り向きながら、手のひらを私の方に向けた。

 ……零れそうになった涙を堪える。そして、自然と上がった口角と共に頷いて、口元をマイクに近づけた。

 

「こんにちは! 改めまして、キーボードを担当している羽沢つぐみです」

 

 お店の接客のときのように元気よく声を響かせる。拍手と共に、お客さんの視線が私に集中した。その中には、木下くんからのものも含まれている。

 私はそれらの視線をじっくりと見渡し、言葉を続ける。

 

「今回、初めて作詞というものをやってみました。蘭ちゃんに無理を言って、やらせてもらったんです。それには、理由があります。私にとっては、とっても大切な理由が」

 

 視線を木下くんへと戻して、固定する。

 

「この前、お友達と喧嘩しちゃったんです。私が無自覚のまま、とても酷いことを言っちゃって、傷つけてしまいました。それに気づいたときには、ちゃんとお話もできなくなっちゃうくらい、心の距離が開いてしまいました」

 

 細々とした部分を省きつつ、なにがあったのかを正直に告白する。懺悔をしているみたいだった。

 

「だから、この場に居るその人に音楽で伝えたいんです。私の今の気持ちを。そんな想いを込めた曲です」

 

 蘭ちゃんたちが私のことを見た後、客席の方へ視線をやるのが見えた。きっと、私がさり気なく木下くんがここに居ることを教えたからだと思う。

 視線が私の方に戻ったとき、みんなは胸を撫で下ろしたような顔をしていた。よかった、みんな木下くんのことを見つけられたみたい。

 これで、演奏の準備は万端だ。

 

「それでは聞いてください! ——『Even Guilty』!」

 

 始めよう、本日最後の音楽の時間を。楽しもう、『ガルスパ』という大舞台での演奏を。そして伝えよう、私の想いの全てを。

 感情は声に、情熱はキーボードに乗せて。伝えたい言葉は歌詞として歌い上げよう。

 

 身を焦がすように燃え上がったこの想い。押し潰されそうになった罪の意識。罪人でありながら尚も欲する卑しさ。そのどれもが私の本心だ。そんな表裏合わせた私の全てを、見てほしい。

 

 罪人を鞭打つような激しいドラムがけたたましく暴れまわる。その痛みにのたうち回るような音色を、私は指を攣りそうな勢いで跳ね回らせることで実現した。それをベースが優しく宥めると、ギターが切なげに吐息を漏らした。

 ロックバンドらしく、反抗的に。ペンキをぶちまけるように感情を喚き散らして。都合よく、我儘だけを言葉に変えて。

 

 告解と告白の時間が、始まった。

 

 

***

 

 

 『Afterglow』の演奏が始まった。その瞬間、魂の奥まで震えだす。幾重にも束ねられ、制御された音の暴力に圧倒される。今までイヤホン越しに聞いてきた音楽とは全く違う。

 律動する音の反響。共鳴するメロディーが奏でる、何層にも折り重なった立体的なハーモニー。それに呼応するようにボルテージを上げ続けるステージと観客。

 影が地面に縫い付けられたように、その場から動けない。こんなにも音楽はすごいのかと、目が乾くのも気にせずにステージを視界に捉え続ける。僅かな音も聞き漏らさないようにと、耳を澄ませる。

 イントロが終わり、歌詞が加わった。

 

——『神様 私は罪を犯しました』

 

 出だしの歌詞は、罪の告解。当事者だった僕にはすぐに分かった。羽沢先輩が僕に恋愛相談をしてから、事故で僕の気持ちを知ってしまったことまでを綴っていた。

 棒で泥を掻き回しているような混沌としたメロディー。胸の内が無数の針に蝕まれているような痛みが走る。羽沢先輩の抱いている後悔を、一緒に感じているみたいだった。

 

——『気づくのが遅すぎたこの気持ち 一晩中枕を濡らす』

 

「気持ち……?」

 

 心臓が跳ねる。健康診断だったら異常値だと診断されそうなくらい、心拍数が上がる。

 

 淡い期待が膨らむ。いや……まさか、と思いつつも止められない。もしかしたら、もしかしたらと今だけは都合のいい方向に考えてしまう。

 宝くじで確認した最初の数桁が一致していたときの、ぬか喜びを予感させてしまうような感覚。それでも、先の桁を確認するのを止められない。

 

——『どうすれば伝わるの どうすれば信じてもらえるの』

 

 諦めたつもりでいたとき、僕は羽沢先輩を拒絶した。これ以上傷つきたくなくて、耳を強引に塞いだ。

 でも、それが間違いだったのでは……と今になって気付かされた。羽沢先輩が伝えようとしたのは、もっと違うことだったんじゃないかと。

 

 次第にメロディーが整い、ドラムがテンポを上げ、ギターが唸りを上げる。遠くへ跳ぶ為には助走をつけるのと同じように、サビに入る前の盛り上げの段階に入ったのだと分かった。

 段差を飛ばして階段を駆け上がるように、どんどん熱気が膨れ上がっていく。でも、まだ爆発しない。熱気を溜め込んだ不可視の風船が膨らんで、膨らんで……まだ膨らむ。

 まだか……まだなのかと、その瞬間を待ち続ける。想定していた限界はとうに越え、今にもはち切れそうだった。

 

 ——大地を叩き割るような怒号がキーボードから放たれた。その瞬間に最高潮に達し、一気に弾けた。爆発した熱気が大きく波打ち、僕の全身を突き抜け、突風が如く髪を揺らした。

 

——『私は最悪な罪人 決して許されてはいけない罪人』

 

 ……すごい。本当にすごい……! それしか、言葉が浮かばない。前に見たライブと比べても、圧倒的な完成度の演奏だった。音楽に疎い僕でもそれが分かるくらい綺麗な音だった。

 新曲ということは、本番までそんなに時間はなかった筈なのに……一体どれだけの努力を重ねたのか、想像もつかない。しかも、羽沢先輩は僕に聞かせたくて、新曲を作ったと言ってた。その完成度が、新曲にかけた情熱を物語っていた。

 

 ……サビが終わり、熱が引いていく。熱の籠もり過ぎた空気を冷やすかのように、静かなキーボードソロが始まった。同時に、歌い手が羽沢先輩1人だけになった。

 山奥の清流のようにひっそりとしたメロディー。まるで独り言を呟くような、どこか寂しさを感じる歌声。

 空気が一気に引き締まり、まるで舞台の上で羽沢先輩にだけスポットライトが当たっているかのような雰囲気になる。もう、先輩の姿以外なにも見えなかった。

 

——『私は最悪な罪人 決して許されてはいけない罪人 それでも それでも……! 許されないと分かっていても……っ!』

 

 サビにもあったフレーズ。でも、その後に続いた言葉が違っていた。

 羽沢先輩の声に力が込められ、キーを叩くスピードが増していく。歩くような速度から、走るような速度に。加速し、再び空気が加熱していく……!

 

 ——と思ったそのとき、演奏が一瞬止まった。静寂が訪れたその刹那、羽沢先輩は一言だけポツリと、大きな声で囁いた。

 

——『……貴方が好きなんです』

 

「ぁ……」

 

 世界が止まった。切り抜かれた映像の1コマのように、周囲が固まって見えた。

 

 ……いつの間にか、天気は晴れていた。雲の間から日光が差込み、神々しくステージを照らしている。そんな光の中……羽沢先輩は目を細め、柔らかな笑みを僕に向けていた。

 僕にとってそれは、女神の微笑みそのもので……歴史上のいかなる偉大な芸術家にも表現できない、黄金比中の黄金比を成した美しさだった。

 

 一目惚れしたときのことを思い出す。あのとき受けた衝撃も、なかなかのものだった。でも、今受けた衝撃はその比ではなかった。天と地の差とはこのことだ。

 竹取物語において、かぐや姫はその魔性の美で数多の男を惹きつけた。男たちもまた、彼女の出した無理難題に応えようとした。それほどまでに、彼女の虜になっていたのだろう。

 今なら、その男たちの心が手に取るように分かる。だって、僕も同じ気持ちだから。

 

 僕はずっと勘違いをしていた。意識なんて全くされてないと思っていた。ただの友達としか思われてなかったのだと勝手に結論付けた。片思いだったのだと諦めていた。

 しかし……そうではなかった。たった今、羽沢先輩は己の想いを明らかにしてくれた。好きだと言ってくれた。

 その言葉が嘘でないことは、観客の反応を見れば明らかだ。偽りの言葉で、ここまで観客を盛り上がらせることなんてできるわけがない。

 

 僕は羽沢先輩のことが好き。羽沢先輩もまた、僕のことが好き。

 ……頬を抓る。痛い。夢……じゃない……? じゃあ、ほんと……なんだ。ほんとのほんとに、そういうこと、なんだ……!

 ぶるりと、体が震えた。抑えきれない感情の轟きが、心の内で激しく疼く。

 

 この気持ちは、なんて表現すればいいんだろう……! 嬉しい……なんて言葉だけじゃ到底足りない。なら歓喜……? いや、それでも足りない。どんな言葉を以ってしても、この愛しさを表現することは叶わない。いかなる例えも、決して釣り合うことはない。

 だけど、もし……今までの人生で最高だった瞬間を選べと言われたら……今この瞬間だと即答できることは確かだった。そしてそれは、今後一生変わることはないと断言できる。

 

 ……次は、僕の番だ。これだけのことをしてもらったのだ。だったら僕も、それに値するだけの勇気を出さないといけない。

 今度こそ、ちゃんと正面から伝えよう。僕の精一杯の気持ちをぶつけよう。好きなんだと、はっきりと言葉にしよう。

 

 ——もう二度と、羽沢先輩からは逃げ出さない。

 

 

 



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最終話 いつまでもずっと

 あの素晴らしいライブからしばらくして。僕は、楽屋スペースの近くで羽沢先輩たちが出てくるのを待っていた。

 手には買ったばかりの飲み物のペットボトルがある。長いこと走った後だったので、久々にスポーツドリンクにした。酸味の混じった濃厚な甘さが、今の僕には丁度よかった。実際、既に半分も飲んでしまった。

 

「木下くん!」

 

 待ち侘びていた声が聞こえた。ライブ衣装から私服に着替えた羽沢先輩が、キーボードが入っていると思しき黒のリュックを背負いながらこちらに駆け寄ってきた。その少し後ろには、先輩方の姿も見える。

 

「羽沢先輩……」

「今日は来てくれてありがとう! その、どう……だったかな……?」

 

 最初こそ勢いのよかった羽沢先輩だが、なぜか次第に言葉は萎んでいき、ついには俯いてしまった。よく見てみると、髪の束から覗く先輩の耳は茹でダコになっていた。

 

「あの、どうかしました……?」

「ご、ごめんね……! なんか、その……急に恥ずかしくなってきちゃって……。私……すごく大胆なことしちゃったのかも……」

 

 ……今更ですか、それ。羽沢先輩って、意外と後先考えないで行動するよね。まあ、それが先輩のいいところでもあるんだけど。

 ただ、ライブでの堂々とした姿とのギャップを考えたら、やっぱりおかしく思えてしまって、つい笑いが溢れてしまった。

 

「あ! 木下くん、今笑ったでしょ……!? 木下くんの為にやったことなのにっ!」

「い、いやっ、そんなことないですよ」

「ううん、絶対笑ってたよ! 木下くんの嘘つきっ!」

 

 羞恥心を紛らわそうとしているのか、強い口調と共に紅潮させた顔を突き出してくる。その表情は険しいが、顔が赤くなっている時点であまり効果はなかった。

 ひとしきり笑った後、羽沢先輩が拗ねてしまう前に謝罪をした。

 

 ……ああ、胸が温かい。羽沢先輩との他愛ない会話。たったそれだけなのに、こんなにも満たされる。この半月ちょっとの間、ずっと感じていた喪失感が癒やされる。諦めたフリをしつつも、本当はこれが欲しくて仕方がなかったんだ。

 

「……羽沢先輩。今日は来るのがギリギリになってすいませんでした。わざわざチケットまで届けてくれたのに。それに、あんなに気を遣わせてしまって」

 

 久しぶりの雑談を楽しんだところで、いよいよ自分の方から本題を切り出す。ライブが終わった時点で、僕の覚悟はとっくに完了している。怖気づいたりはしなかった。

 

「ううん、気にしないで。最後の新曲には間に合ったんだから、それで十分だよ。私の方こそごめんね? 大事な模試だったんだよね……?」

「あー、まあ……そうだったんですけど……午前の時点で結果は絶望的だったんで、もう大した問題じゃないです」

 

 きっと近日中に教師、両親の両方からキツイお叱りを受けるだろうが、それだけだ。あの素晴らしいライブを見れた代償としては安いものだ。

 

「それに、美竹先輩から言われたんですよ。羽沢先輩を泣かせてまでして模試を受けたいのかって」

「えっ!? ら、蘭ちゃんがそんなことを……!?」

 

 羽沢先輩は凄まじい勢いで美竹先輩の方に顔を向ける。情報をリークした美竹先輩はというと、素知らぬ顔で明後日の方向を見ていた。こっそりと共犯になっていた青葉先輩は、いつも通りの態度だったので発覚しなかった。図太い神経持ってる人だなー、とか思ってしまう。

 

「美竹先輩はなにも悪くないですよ。不甲斐ない僕が悪かっただけですから。それに、美竹先輩のおかげでこうして間に合ったんですから」

「うう、そうかもしれないけど……」

 

 泣いてたことを知られるのは恥ずかしい。でも、それを僕が知らなければ駆けつけることもなかった。そのことを理解しているからか、羽沢先輩はなにか言いたそうにしながらも口ごもるだけだった。

 

「それで、羽沢先輩。話があるんですけど、今大丈夫ですか? その、なんの話かは分かってるとは思うんですけど……」

「ぁ……う、うん、大丈夫だよ……」

 

 途端に頬を染め、両手を前で合わせながら指を絡ませ、しおらしく頷く先輩。その反応からして、僕の言わんとしたことは伝わったのだろう。

 

「あっ! ま、待って……! やっぱりここじゃ駄目! 場所、変えよう……!」

 

 ところが、急に我に返ったかのように羽沢先輩は視線を己の背後へと一瞬向けると、慌てて場所変えを提案してきた。僕も釣られて視線を動かすと、そこにはにんまりとした表情をした先輩方の姿が。青葉先輩に至っては既にスマホを横に構えていた。

 ……危ない。一部始終を見られるところだった。気が逸り過ぎていた。覚悟は決めたけど、流石にこれから話そうとしていることを直に聞かれたら恥ずかしさで死ぬ自信がある。

 

 羽沢先輩は先輩たちの所に行くと、大声で、少し外すから待っててほしいという旨を伝えていた。対する先輩たちもまた、頑張れだのファイトだのみたいなことを大声で返していた。

 その勢いに押し負けたのか、羽沢先輩は脱兎の如くこっちに戻ってきた。頬はますます赤みを増していた。

 

「じゃ、じゃあ行こっか……! こっちだよ」

 

 人気の少ない場所に心当たりがあるようで、先輩は迷わずに真っ直ぐ歩きだした。来たばかりの僕は素直に先輩の案内に任せることにした。

 会場の中心から離れる方向へと進む。あれだけ聞こえていた人の賑わいも次第に静かになって、本来の公園らしい雰囲気が戻ってくる。

 最終的に辿り着いたのは、池を中心に多くの木々に囲まれた、小さな庭園のような場所だった。東屋と幾つかのベンチがあるだけの自然豊かなスペースで、イベントのせいか人の姿はない。池の小さな噴水がチョロチョロと水面を揺らしているだけで、森の中のように静かだ。

 

「ここなら平気かな……」

 

 羽沢先輩が周囲を見渡し、改めて人が居ないのを確認する。あからさまにほっとしたのが見ているだけで分かった。

 ……いよいよだ。僕は居住まいを正し、先輩と正面から向き合う。

 

「羽沢先輩、聞いてほしいことがあります」

「……うん」

 

 羽沢先輩は僕を見上げる。その瞳が一瞬揺らいだのを見逃さなかった。その揺らめきがどのような意味を持つかは分からない。だけど、それが期待であってほしいとは思った。

 

 深呼吸を1つ。あまり待たせたくはない。ここは一気に言ってしまおう。先輩の瞳をじっと覗き、一言だけ告げた。

 

「……好きです」

 

 息を呑む気配を感じた。既にお互いの気持ちを知っているにも関わらず、空気が緊張で張り詰める。僕は間を置かずに言葉を続ける。

 

「初めて会ったときからずっと。一緒に働くようになってからは、もっと好きになりました。先輩の努力家なところとか、優しいところとか、真面目なところとか。先輩の新しい一面を知れば知るほど、先輩に惹かれました。先輩のようになりたい、先輩を支えたいと思うくらいに」

 

 羽沢先輩が僕を変えてくれた。失敗が怖くてなにも行動を起こそうとしなかった僕でも、羽沢先輩の為なら少しずつ、行動を起こせるようになった。支えられるようになった。

 ただ、好きというだけの人じゃない。僕にとっての羽沢先輩は、そう……大切にしたい人であると同時に、僕が頑張る為の原動力なのだ。

 

「だから、羽沢先輩……僕と、付き合ってください。色々ありましたけど……やっぱり僕は、先輩と一緒に居たいです」

 

 ついに、正面から想いをぶつけた。こういうとき、どういう姿勢でいるのかが最善なのか分からなかったので、代わりに軽く頭を下げた。

 後は返事を待つだけだ。……手のひらが、気づいたら汗ばんでいた。

 

 沈黙が僕たちの間を訪れる。僕は返事を貰うまで口を開きにくいし、その羽沢先輩からの返事もなかなか来なかった。

 噴水や木々の葉擦れの音だけが延々と流れる。数十秒はそんな状態が続いただろうか。草木のざわめきに焦燥を募らせた僕は、思わず顔を上げてしまった。直後、僕は虚を突かれることになる。

 

 ——そこには、目を潤わせている羽沢先輩の姿があった。今にも、頬を伝って涙が流れそうだった。

 またなにかやってしまったのか。焦燥から一転して、冷や汗が背筋を伝った。ど、どうしよう……!

 

「はっ、羽沢先輩……!?」

「ご、ごめんなさっ……! 違うの、これは……悲しいんじゃなくて……!」

 

 僕の考えを読んだかのように慌てて首を横に振る。それに合わせて、溜まっていた涙がキラキラと周囲に散った。同時に、先輩は強く目を瞑った。しばらく、そんな状態が続く。

 ……目を開き、再び正面を向いたときの羽沢先輩の顔には……笑顔があった。雨上がりの晴れの日に浮かぶ虹を思わせる、輝かしい笑顔が。

 

「嬉しいの……やっと想いを伝えられて。お返事を貰って……好きって言ってもらえて。すごく、すごく、嬉しいの……っ! 諦めないで頑張ってよかったなあ、って……!」

「先輩……」

 

 きっと、羽沢先輩にも多くの葛藤があったのだろう。挫けそうになったタイミングがあったのだろう。でも、それらを乗り越えて、こんな僕の為にあんなにも頑張ってくれたんだと悟る。

 ……やっぱり、あのとき決心して学校を飛び出してよかった。苦しみながらも走ってよかった。ライブの最後にギリギリ間に合って、本当によかった。

 

「私も……好きだよ。木下くんのなにげない優しさも、頑張り屋さんなところも、私が辛いときにいつも支えてくれた頼もしさも、全部。いつの間にかそれが当たり前になっちゃってて、気づくのは……少し遅れちゃったけど」

 

 僕に恋愛相談をしてしまったときのことを言っているのだろう。確かに、当時はそのことに憤ったし、苦しみもした。でも、あの歌を聞いてからというものの、そんな気持ちはどこかに消えてしまった。僕は静かに頭を振る。

 

「もう、それはいいですよ。今となってはどうでもいいです」

 

 過程はどうあれ、あの出来事があったからこそ、あの最高のライブに繋がったのだ。今ならば、あの事件が起きてよかったとすら思えてくる。きっと、互いの気持ちを通い合わせるのに必要だったのだと納得できる。なんなら、感謝したっていいくらいだ。

 羽沢先輩も同じなのか、コクリと頷いてくれた。

 

 ……そしてついに、先輩は僕が求めていた返事をしてくれた。

 

「だから、えっと……こちらこそ、よろしくお願いします。お付き合い、させてください」

 

 ……胸が、じんわりと温かくなった。ああ……ずっとこの瞬間を夢見ていた。心のどこかで、こんなことが叶うわけがないと思っていた。でも、叶った。

 ときにはすれ違ったり、僕が腑抜けなせいで迷惑がかかったことも多かった。そんな僕を、たくさんの人が助けてくれた。姉さん、マスター、それに先輩たち。こんな僕でも、みんなの支えのおかげで、大事なものだけは最後に取りこぼさずに済んだ。感謝してもしきれない。

 

 たった今……僕たちは恋人になったんだ。その実感が湧いてきたころ、僕たちは照れ臭さを誤魔化すようにぎこちない笑みを見せ合うのであった。

 

 

 恋人になってから10分後、僕たちは近くのベンチに隣り合わせで座っていた。肩が触れ合い、互いの温もりをしっかりと感じる。

 以前カップルシートで座っていたときは緊張しまくってたものだが、今は草原を撫でるそよ風のように穏やかな気分だ。きっとそれは、既に気持ちを確かめ合った後だからだろう。

 ただ一緒に並んで座っているだけなのに、温泉に入っているように幸せだ。

 

 すれ違いの1ヶ月を取り戻す勢いで、僕たちは会話を交わす。お互いにこの1ヶ月なにをしていたのかとか、今日のライブのこととか、ただの世間話など、思いついたがままに会話を繰り広げるのであった。

 

 そんな中、僕はあることを話題に出した。

 

「……僕、いつも行動するのが怖かったんです。失敗したらどうしようって、嫌われたらどうしようって。実は、バイトも姉に無理やり応募されたもので、元々自分の意思で行動したわけじゃなかったんです」

 

 なんとなく、自分が消極的であることを話し始めたのだ。唐突なタイミングではあったが、羽沢先輩は戸惑うこともなく、静かに耳を傾けてくれた。

 

「いざ羽沢先輩にアプローチをかけようとしても声をかけられなかったり、肝心な話が切り出せなかったり……まあ、とにかく、先輩の拒絶が最初は怖くて仕方がなかったんです」

 

 「だけど……」と前置きしてから続きを話す。

 

「あの雨の日に先輩と話して……思ったんです。先輩みたいに、頑張って行動できるようになりたいって。それで、先輩を少しでも助けられるようになりたいって。……なんというか、それだけなんですけど」

 

 そこで言葉を終える。別に、羽沢先輩になにか言ってほしいわけじゃない。ただ、先輩は自身の弱さを歌で表現した。だから、僕も自分の弱い部分をちゃんと知ってほしかった。

 この1ヶ月で存分に知られてしまったかもしれないし、そうでなくとも今聞いたことで幻滅されるかもしれないけど、それでも言葉で伝えたかった。

 

 ……ふと、右手が温かいもので包まれた。それが羽沢先輩の両手だと気づくのにしばらくかかった。内心の動揺を隠しながら先輩を見る。その表情から察するに、先輩もそれなりに勇気を出してこのような行動に出たらしい。

 僕の右手をギュッと握り、目を僕と合わせながら、先輩はただ一言だけ呟いた。

 

「……ありがとう」

「ぇ……」

 

 そのたった一言で、僕の心は熱いもので撃ち抜かれた。なにか、心の奥で凍っていたものが溶けた気がした。

 

「話してくれて、ありがとう。でも大丈夫。それくらいで、私の気持ちは変わったりしないから」

「先輩……」

「きっと誰にだって、駄目なところはあるんだよ。私だって、木下くんのこと傷つけちゃったし。でもね、思うんだ。……誰にだってそれと同じくらい、いいところもあるんじゃないかって」

「いいところ……」

 

 山彦のように羽沢先輩と同じ言葉を呟くと、先輩もまた「うん、いいところ」とオウム返しで返事をした。

 

「木下くんは察しがいいし、あんまり怒らないし、勉強が得意だし……ほら、木下くんのいいところ、私はたくさん知ってるよ?」

 

 「勉強会のとき、あんまり教えることなかったもんね……」なんて補足しながら先輩は笑う。まあ、あれは単純に自分のとこの授業の進みが予備校いらずの速度なだけというか……。羽沢先輩が特別勉強が駄目ということではないとだけ言っておく。

 

「だから、それでいいんじゃないかな? 駄目なところがあっても助けてもらえばいいし、いいところがあるなら、それで他の人を助けてあげればいいんだよ。それが助け合うってことだって、私は思うな」

 

 ……前言撤回。やっぱり、羽沢先輩になにか言ってほしかったんだ。それでもいい、って僕の弱さを受け入れてほしかったんだ。そして、先輩は実際に受け入れてくれた。

 ……最後に残っていた心のしこりが、すっきりと取れた。もう、僕を悩ませるものはない。そして、羽沢先輩の為であれば今度こそすぐに行動に移そうと固く決心する。

 

「……ありがとうございます、羽沢先輩」

「……うん、どういたしまして」

 

 僕は羽沢先輩の手を握り返す。小さくて、柔らかかった。こんな小さな手であんな演奏をしてくれたのか。……羽沢先輩はすごいな。そう思うのであった。

 

 

 それから更にしばらくその場に留まって、会話を楽しんだ。せっかくの『ガルスパ』なのだし、そろそろ会場の方に戻ってみようかと提案しようと思ったそのとき、先に羽沢先輩が口を開いた。

 

「ねえ、木下くんはこの後も時間大丈夫? 模試に戻らなくても平気?」

「大丈夫ですよ。もう今から戻っても終わってますし、早退するって言ってきちゃいましたから」

 

 今になって思えば、クラスメイトの稲垣さんには無茶ぶりをしてしまったと思うけど。ごめん、稲垣さん。

 

「それじゃあ、よかったらなんだけど……家に来ない?」

 

 ”家”という言葉に反応して、一瞬ドキリとしてしまうも、すぐにそれが店の方を指していることに気づく。少々紛らわしい。

 

「いいですけど……もうバイトはできないですよ?」

「うん、分かってるよ。そうじゃなくて……ただ、お店の方でゆっくりしたいなって思って。しばらくの間、お店で一緒じゃなかったから」

「そういうことでしたら……喜んで」

 

 上手く言葉では言い表せないけど、羽沢先輩の言いたいことは分かった。せっかく恋人になれたのだから、慣れ親しんだあの店で一緒に過ごしたい。多分、そんな感じな気がする。

 

「あ、そうだ。木下くんが丁度辞めちゃった日に、ズコットがケーキセットに入ったんだ。試食、まだだったでしょ? 食べてみてほしいな」

「そうですね、食べてみたいです。……あ、だったら代わりに僕がコーヒー淹れますよ」

「え? でも、バイトは駄目なんじゃ……」

「ちょっと場所を借りるだけです。ちゃんとマスターにも話を通しますから」

「……うん、それじゃあ、お願いしようかな」

 

 2人で一緒に立ち上がり、荷物を持ってから歩きだす。その際1度手は離れたものの、自然と再び繋がれた。別に離したままでもよかったのだが、そういう気にはなれなかった。向こうの力が緩む気配もないし、このままでいいだろう。

 先輩たちを待たせたままだったことを思い出すが、後で連絡を入れれば店に来るだろうと思い、頭の隅に追いやった。

 

「あ……ねえ、木下くん。今日のコーヒーなんだけど、ブラックにしてもらってもいい?」

「別に僕はいいですけど……羽沢先輩、ブラック苦手じゃないですか」

「うん、でも頑張って飲んでみようかなって。ずっと、克服したいとは思ってたから」

 

 そこで一旦言葉を止めた後、先輩は繋いでいる手に力を込めながら僕のことを見上げる。すると、「それに……」と続きを言い出した。

 

「木下くんの淹れてくれたコーヒーなら、ブラックでも飲めるかもしれないから」

「っ……!」

 

 向日葵のように眩しい笑顔をいきなり見せられて、たじろいでしまう。いきなりなんてことを言うんだ。やばい、顔が熱くなってきた……。

 この人は……自分がどれだけ恥ずかしいことを言っているのか分かっているのだろうか。いや、きっと分かってないんだろうな。それで後でそのことを思い出して、さっきみたいに顔を赤面させるのだろう。

 

 でも、まあ……もちろん、そんなこと言われて悪い気はしない。だから……頑張って淹れてみよう。先輩でも飲めるようなブラックコーヒーを。真心込めて。

 

「……はい。任せてください」

 

 手のひらに秘められた温かな幸せを噛み締めながら、僕は羽沢先輩と共に歩みを進めるのであった。いつまでもこうしていたい。そんなことを、思いながら。

 

 ——僕たちの頭上に広がる空は、どこまでも青く澄み渡っていた。

 

 

 




終わり。

いつもたくさんのUA、お気に入り、評価、感想、本当にありがとうございました。羽沢つぐみタグを盛り上げたいと思って始めましたが、なんとかその目標は達成できたようで安心しております。

ときにはスマブラに浮気したり、表現に悩んだり、スマブラに浮気したり、プロットを見直したり、やっぱりスマブラに浮気したりしながらも、無事終わらせることができました。……はあ、みんなスマブラ強いなぁ。

この後もいくつかアフターを出してから終わりにしようとは思ってますが、本編はこれで完結です。アフターは多分不定期になります。

次に関しては……また、つぐみメインでやりたいかな。まだまだ盛り上げたい。なにやるにしてもアフターが先ですが。

それでは最後に改めまして、ありがとうございました。


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アフター
打ち上げとお祝い


 『ガルスパ』が終わり、日が落ちて辺りがすっかりと暗くなる。夕飯どきとも言えるこの時間帯に、僕と『Afterglow』のみんなは『羽沢珈琲店』に集合していた。

 ホールから店の入口を見ると、”Open”と書かれた看板が掛かっているのが分かる。つまり、店はもう閉店しているということだ。本来ならば、閉店には少し早い。

 ならなんで閉店になっているのかと言うと、原因は僕たちにある。

 

「えっへん……では皆様、お飲み物はお持ちでしょうかー?」

 

 上原先輩がオレンジジュースの注がれたコップを手にしながら、テーブル席に着いている僕たちの前に立って声をあげる。語尾が伸びたりしているものの、やけに丁寧な口調だった。

 

「ひまり、気取り過ぎ。別にいつも通りでいいから」

「えー!? だって、あの『ガルスパ』の打ち上げの挨拶なんだよ!? それにつぐと木下君のこともあるし!」

 

 美竹先輩の指摘に、上原先輩は頬を膨らませる。先輩の筈なのに、なんだか子供みたいだ。隣に座っている羽沢先輩も「あはは……」と苦笑いを浮かべている。

 

「ほらほら、そこまでにしておきなって。そんなんじゃいつまで経っても始まらないぞ?」

「そうそ〜う。早くしないと〜、せっかくの料理が冷めちゃうよ〜」

 

 宇田川先輩が2人を宥めると、青葉先輩がそれに追従する。テーブルには色とりどりの料理が並んでいて、どれも香ばしい匂いを放っている。意図せずして腹の虫が鳴ってしまうくらいだ。青葉先輩が先を促す気持ちも分かる。

 ……もっとも、そんなことを言ってる青葉先輩は既に食べ始めているが。美竹先輩が呆れた様子でそれを見ていた。

 

「こ、こほんっ! じゃあ改めて……みんな! 今日はお疲れ様! おかげで『ガルスパ』のライブは大成功! そしてそんな記念すべき日に、つぐと木下君が晴れて結ばれました! おめでとう2人とも! はい拍手!」

 

 上原先輩の合図を皮切りにパチパチと拍手が僕たちに浴びせられ、おめでとう、と祝いの言葉まで贈られてきた。先輩たちの温かい目線が僕たちに集中する。

 ……なんとなく気恥ずかしくて、後頭部の髪の辺りを掻きながら俯いてしまう。チラリと羽沢先輩の方を見ると、彼女も困った風に肩を縮こませていた。

 

「というわけで、料理も飲み物もいっぱい用意してもらったから、いっぱい楽しもうね! それでは……乾杯!」

 

 かんぱーい! と僕たちは飲み物の入ったコップを持ち上げて、大人のマネをしてコップをぶつけ合った。カランカラン、と中に入っている氷が心地のよい音を響かせた。ちなみに、僕は緑茶にしてもらった。

 

 ……まあ、つまりは『ガルスパ』の打ち上げ兼、僕と羽沢先輩のお祝いパーティということだ。元々打ち上げは夜にここでやる予定だったらしいので、お祝いの方をくっつけてもらった形になる。

 

「木下くんもお疲れ様。今日はたくさん走ったから疲れちゃったよね? 用意も手伝ってもらっちゃったし、好きなだけ食べていいんだからね?」

「ええ、ありがとうございます。そうさせてもらいます」

 

 実は、僕と羽沢先輩も料理の用意は手伝っている。日中、店に行こうと提案してきたのはそういう意図もあったらしい。最初は羽沢先輩だけが手伝いに入ろうとしていたところを、僕が無理に加わったのだ。お金は発生してないからバイトじゃないと言い張って。

 結構ギリギリに完了したので、結果的に手伝ってよかったと言える。

 

 近くに置いてあるサンドイッチをいくつか取り、パスタを何種類か皿に盛る。更にオーブンで焼いたチキンやらを取っていく。羽沢先輩が言った通り、今日はもう腹ペコだ。これだけ美味しそうならば、いくらでも食べれる気がする。

 ちなみに、羽沢先輩が作った料理を多めに取ったのは内緒だ。

 

「あ、そのポモドーロとかは私が作ったんだよ。食べてみて?」

 

 ……と思ったら、バレていた。下心までは見透かされてないと思うけど、なんだかムズムズする感じだった。恥ずかしさを誤魔化すことも兼ねて、言われた通りに食べてみる。

 ……うん、美味しい。トマトソースが丁寧に煮込んであるから酸味や苦味が全くない。トマトの甘みと、油で炒めた香味野菜の旨味がパスタにぎゅっと染み込んでいる。そこにオリーブオイルの風味が合わさって深いコクを生み出している。パスタの茹で加減も完璧だ。

 

「どうかな?」

「美味しいですよ。トマトソースがめっちゃよくできてます」

「ほんと? ふふっ、よかった」

 

 両手を合わせて、花を咲かせるような笑顔を浮かべる先輩。釣られて、僕も口元を緩めてしまった。

 

「お〜、早速いちゃついてますな〜」

「あ、青葉先輩……っ!?」

 

 タイミングを見計らったかのように青葉先輩が乱入してきた。その手には料理が山積みにされた皿が。この人、男の僕より遥かにたくさん食べるんだよね。最初見たときはびっくりしたものだ。

 

「つぐの料理〜、とっても美味しいよ〜」

「えへへ、ありがとう。どんどん食べてね」

「うん、そうする〜」

 

 そう言うや否や、青葉先輩は口いっぱいにパスタを頬張る。これさえあれば、なにもいらないと言わんばかりの幸せそうな顔をしていた。羽沢先輩も嬉しそうだ。

 

「ところでー、つぐ〜、ゆ〜君?」

 

 食べ物を飲み込み終わったらしい青葉先輩が、僕たちになにか聞きたそうにしている。僕たちは口を揃えてどうしたのかと聞いてみた。

 すると、青葉先輩はまるで道を尋ねるかのような軽い調子で問いかけてきた。

 

「恋人になったんだし〜、名前で呼び合わないの〜?」

 

 空気が固まった。少なくとも、僕にはそう感じられた。名前……そう、名前ね。名字じゃない方の呼び方だ。もちろん、分かってる。

 ……うん? え? 名前? 待てよ、よくよく考えたら、女子を名前で呼んだことなんて一度も……。

 

「そうだよ2人ともー! 名前で呼び合えば心の距離はグッと縮まるんだよ!? 絶対そうした方がいいよー!」

 

 どこから聞きつけたのか、上原先輩が会話の輪に飛び込んできた。ジャーナリストの取材ばりの勢いに、僕は上体を反らした。

 

「名前……ですか」

「そうそう! ほら、ちゃんと向き合って!」

 

 上原先輩は強引に僕の座っている向きを変える。力の差を考えれば抵抗することもできた筈なのに、どういうわけかその気迫に押されて成されるがままだった。一方の羽沢先輩も、青葉先輩に同じことをされていた。

 

 2人の言っていることは正しいとは思う。付き合っているのだし、ちゃんと名前で呼び合うべきだ。ただ、この場でそれをするのはちょっと……と思ってしまう。

 それは羽沢先輩も同じだろう。そう思い、向き合っている先輩の様子を確認する。ところが、目に映った光景は想定とは違っていた。

 

「……う、うん! そうだよね! こ、恋人なんだもん……! よーし……!」

 

 あ、駄目だ。顔こそトマトのように真っ赤だけど、完全に乗り気だ。そうだ、先輩はこういう人だ。この中でも一番行動力に溢れているのだった。これは、逃げ場がない。

 

 先輩は覚悟を決めた様子で僕のことをしっかりと見据える。まだ戸惑っている僕はと言うと、矢で射抜かれたかのようにたじろいでしまう。間を置かずして、先輩は口を開く。

 

「……勇樹くん!」

「っ……は、はい」

 

 一発だった。僕の返事の情けなさが際立つレベルで、元気よく名前で呼んでくれた。上原先輩の挨拶のときのように、なぜだか周囲から拍手が贈られる。いつの間にか、全員がこの場に注目していた。余計にやり辛くなってしまったと思う。

 ……分かってる。次は、僕の番だ。

 

 先輩を見る。子犬が餌を欲しがっているときのような、期待に満ちた先輩の視線が眩しい。その上目遣いは反則だ。

 いや、言うよ? ここまで来たら言いますとも。……ただ、先輩の後ろでニヤニヤしている青葉先輩は後で絶対引っ叩いてやる。

 

 胸を突き破りそうな勢いで弾む鼓動を感じながら、深呼吸を繰り返す。心拍数が下がる様子はないけど、心の準備だけはできた。

 ……よし、言うぞ。ちゃんと言うんだぞ、僕。

 

「えっと……その……つ、つ……ぐ……」

 

 言葉に詰まる。たったの3文字なのに、上手に言えない。どんどん空気が張り詰める。炎で炙られているかのように体温が急上昇する。

 

 ……いや、逃げないと誓ったばかりなんだ。ここは絶対に言ってみせる。

 そう決意すると、喉につっかえているなにかを無理に押し出すようにして言葉を吐き出そうとする。頑張れ僕……もうすぐ、もうすぐで言える筈だ。

 ——その圧力が最高潮まで高まったとき、堰を切ったように言葉が飛び出した。

 

「っ……つぐみ先輩!」

「ぁ……うん!」

 

 やった……言えた。顔は赤熱した鉄のように熱いし、過呼吸になりかけてたけど、無事に言えた。みんなの拍手は恥ずかしかったけど、同時に関係が進展していることが実感できて、とっても嬉しかった。

 

 こんな感じで、打ち上げは始まった。食事を楽しんだり、アップされたばかりのライブ映像をテレビに映して振り返ったりしながら、過ごしていくのであった。

 

 

 各々が思い思いに誰かしらと雑談に講じる中、僕は静かにオレンジジュースを飲みながらテレビを眺めている美竹先輩の近くに座った。

 美竹先輩は僕の姿に気づいたのか、コップをテーブルに置く。

 

「……なに?」

「いえ、まだお礼言ってなかったなと思いまして」

 

 ピンと来ないのか、それともとぼけているだけなのか、美竹先輩は眉をひそめる。

 

「電話のことです。あれのおかげで、僕はなによりも大事なことに気づけました。……ありがとうございます」

「……別に、あんたの為にやったわけじゃないから」

 

 美竹先輩はそう言うと、無表情を保ったまま視線をテレビに戻した。顔が赤くなってるわけでもないし、本当にそう思っているようだ。

 

「ただ、泣いているつぐみが見ていられなかっただけ。あたしは2人が付き合っても付き合わなくてもどっちでもよかったけど……つぐみがあんたのことをどれだけ想っているのか、よく知ってたから」

「……それでも、ありがとうございます。あの電話がなかったら間に合わなかったかもしれないので。全部、全部……美竹先輩のおかげです」

 

 美竹先輩としては先程の言葉通りの意味しかないのかもしれない。けど、それを聞いて、はいそうですかでは僕の気が済まない。

 だから僕は、頭を下げた。しばらくは反応がなかったが、僕のことを目の動きだけで確認した美竹先輩は、再び顔をこっちに向けてくれた。一応、こちらの誠意は伝わったらしい。

 

「言っておくけど、今回は色々偶然が重なっただけって分かってるから、なにも言わないだけだから。もし次、つぐみのことを泣かせるようなことがあったら今度こそ許さないから……!」

「……はい、肝に銘じておきます」

 

 美竹先輩の言葉を重く受け止める。全くもってその通りだ。あんなにも胸が痛くなるようなこと、二度と起こすわけにはいかないし、起こしたくもない。

 

「……分かってるならそれでいいけど。ああそれと……まあ、一応……つぐみのこと、よろしくお願い。大事な、幼馴染だから」

「え……はい、それはもちろん」

 

 虚を突かれて間抜けな返事をしてしまったが、すぐにしっかりと応じる。

 そのときの美竹先輩の表情は、特に変わっていないように見えたが……よく見ると、耳の端が微かに赤みを帯びていた。なにを考えてその言葉を僕に託したのかは明らかだった。気難しいところはあるけど、やっぱり誠実な人だなと思う。

 ただ、会話はそこまでだった。美竹先輩は顔を逸らすと、テレビの観賞に戻ってしまった。

 

 僕の用もこれで終わりだ。邪魔はしてはいけないと思い、僕は席を立ってその場を離れるのであった。

 

 

 続けて、僕が立ち寄ったのは上原先輩と宇田川先輩の所だった。楽しそうに、ライブの感想を語り合っているようだった。

 

「それでねー……あ、木下君!」

「ん? お、本当だ。お疲れさん。ごちそうになってるよ」

「うんうん! とっても美味しいよ!」

 

 2人の褒め言葉に、お礼を返す。仕込み自体はつぐみ先輩の両親がやったとはいえ、そう言ってもらえるのは嬉しかった。

 

「ライブのことを話してたんですか?」

「ああ。無事、大成功に終わったしな。お前が最後に駆けつけてくれたおかげだ。ありがとな」

「いえ、僕は別に……」

「そんなことないよ! 今日のつぐの歌、すっごくよかったもん! 私も思わず泣きそうになっちゃったくらい。きっと、木下君があそこに居たからだよ」

 

 上原先輩の真っ直ぐな言葉に、僕はなにも言い返せなくなった。つぐみ先輩もそうだけど、上原先輩もそういうこっちが恥ずかしくなるようなセリフを簡単に言うから、返答に困ってしまう。

 

「まあ……ありがとうございます」

 

 だから、ぶっきらぼうに感謝を伝えるしかできなかった。そんな僕を見て上原先輩はニッコニコの笑顔を浮かべている。きっと、僕が照れてるのに気づいているからだろう。

 

「それはそうと……つぐとのこと、あんまり力になれなくて悪かったな。つぐから話を聞くまで、全然気づかなかったよ」

 

 途端に話題が切り替わり、宇田川先輩は顔を曇らせる。すると、上原先輩も同様の表情を見せた。……いや、むしろ上原先輩の顔の方が幾分か暗いように見えた。その理由は、おおよその見当がつく。

 

「うん、そうだね。……改めてになっちゃうけど、私の方もごめんね。あんなメッセージを送ってなかったら、こんなややこしいことにならなかったのに」

 

 ……そう。実は、『Afterglow』の全員が、僕とつぐみ先輩の間で起こっていたいざこざの全容を知っている。あらすじではなく、一から十までの全ての内容をだ。それは例えば、上原先輩のメッセージが発端になったということかも含めて。

 打ち上げの準備が始まる前、僕とつぐみ先輩で話し合った上で、みんなにちゃんと包み隠さず打ち明けようと決めたのだ。

 そして……先輩たちが店に来たとき、全てを話した。もちろん、上原先輩を責めようという意図をもって打ち明けたのではない。そんなマイナスな理由ではない。むしろ、その逆だ。

 

「さっきも言いましたけど、気にしないでください。結果論かもしれないですけど、あれがあったから、最後に上手く行ったんだと思ってますから」

 

 冷静に言葉を返す。慰めの為の取り繕った言葉ではない。本心からそう思って言っているのだ。

 もし、あのメッセージがなかったら、僕の気持ちがつぐみ先輩に伝わることはなかった。あのタイミングで伝わったからこそ、つぐみ先輩が加藤とやらへの返事を考えるのを一旦止めることができた。そして、つぐみ先輩が自身の気持ちに気づくきっかけとなった。

 あれがなかった場合、つぐみ先輩の性格を考えると……もしかしたら、もしかしたかもしれないのだ。あのとき、僕はつぐみ先輩のことを諦めかけていたのだから。

 

「……うん、ありがとう木下君。でも、やっぱりこれからは気をつけることにするよ。今回のことは偶々いい方向に転がっただけだし」

 

 上原先輩なりに思うところがあるようだ。まあ、ここから先は先輩自身の問題だろう。これ以上、僕があれこれ言っても意味はなさそうだ。僕は反論せずに頷いた。

 

「今更って思うかもしれないけど、なにか困ったことがあったらまた相談してくれよ。アタシたちにできることなら力になるからさ」

「あ、もちろん私も力になるからね! 遠慮なく言ってね!」

「……はい。そのときは、よろしくお願いします」

 

 先輩たちの頼もしい言葉に、僕は再び力強く頷くのであった。

 

 

 最後に、僕は青葉先輩のもとへ向かった。先輩は、未だにマイペースに料理を楽しんでいた。

 

「お〜、ゆ〜君、どうしたの〜?」

「えっと、さっき美竹先輩にも言ったんですけど、お礼が言いたくて」

「お礼ー?」

「はい。あの動画のこともそうですけど、つぐみ先輩の異変にすぐ気づいて支えてくれたこと……本当にありがとうございます」

 

 つぐみ先輩の話では、僕たちの関係が拗れたとき、先輩が立ち直るきっかけになったのは青葉先輩の助言だったらしい。しかも、青葉先輩は相談されてもいないのにつぐみ先輩の苦悩を見抜いてしまったそうだ。本当に、すごい人だ。

 

「まー、まー、幼馴染として当然のことをしたまでだよ〜。ゆー君はあたしのお得意様だし〜?」

「……確かに、そういうこともありましたけど」

 

 ニヤリと不敵な笑みを携える先輩。お得意様……あの、秘密裏に買い取ってたつぐみ先輩の写真のことだろう。最近はあまりそういうことをしてなかったけど、既に3枚も青葉先輩から買い取っているという、ろくでもない実績を持っているのも事実だ。

 

「あ〜でも、そういえば〜、明日はやまぶきベーカリーで新作のパンが出るんだよね〜。……ゆー君、今日模試だったんだから明日暇だよね〜?」

「……分かりましたよ。お礼に好きなだけ買ってあげますよ」

 

 露骨な催促を、僕は渋々と受け入れた。青葉先輩のおかげで色々と助かったのは本当のことだし、それくらいはしよう。ただ、今はもうバイトはできないので加減はしてほしいとは思う。

 

「ところで〜、お兄さん〜、そろそろ4枚目は欲しくはないかい〜?」

「……あー、いや、前と違ってバイト代が入るわけじゃないのでこれ以上は……」

 

 それに、流石にそろそろつぐみ先輩に申し訳ないし。3枚も買っといてなにを今更って感じはあるけど。

 

「いやいや〜、今回は出血大サービス〜。お祝いに、プレゼントしちゃうよ〜」

「いえ、そういうことではなくてですね……」

「いいからいいから〜、ほら〜試しにどうぞ〜」

 

 断ろうとするも、青葉先輩は退かない。それどころか、自身のスマホを弄ると僕に向けて画面を無理やり見せてきた。

 逡巡はあったものの、あくまで仕方なく……仕方なく、画面を確認する。さて、今回はどんなのだろうか。

 

 そんなことを考えていた僕に、全身を稲妻が駆け巡るような衝撃が走った。予想だにしてなかったものが目に映り、思考が止まる。

 

「こ、これは……」

「つぐが迷走してたときの格好だよ〜。この1枚が最初で最後の、激レア写真で〜す」

 

 言葉が出なかった。その写真の中のつぐみ先輩の格好は、僕が知る先輩のイメージとは対極に位置するものだった。

 まず、最初に目に入ったのはオールバックにされた前髪と大きめのグラサン。もう、この時点で誰だという感じである。だが、それ以上にヤバイのがその服装だ。黒の革ジャンなのだ。しかもロックの為のアクセントという感じではなく、下もレザーパンツで統一したライダースーツに近い形だ。そしてなにより、トゲ付きの肩パッドがこれでもかと存在を主張していた。そんな明らかに異質な格好で、足を組みながら乱暴な姿勢で椅子に座っていた。

 これは……本来の意味でヤバイ。ロックじゃなくてデスメタルとかになっちゃってる。つぐみ先輩を知っている人がこの写真を見れば、満場一致でどうかしたのかと心配になるレベルだ。

 

 た、確かにこれはレアな写真かもしれないけど……ちょっと、これを貰うのはどうなのだろうか。というか、本人も闇に葬りたい格好なのではないだろうか。

 ……そういえば、以前雨の日に励ましてもらったときに、どれだけ聞いても頑なに詳細を話してくれなかったものが1つだけあったような……まさか、これのこと?

 

「勇樹くん? モカちゃん? 2人でなにを見て……っ、わ、わわぁあ!? ど、どうしてそれが……!? だ、駄目! 見ちゃ駄目ぇえ!!」

 

 写真観賞の時間の終わりは唐突だった。偶然僕たちに話しかけてきたつぐみ先輩が写真に気づくや否や、猫に勝るとも劣らない俊敏な動きで僕と青葉先輩の間に割り込んできた。結果、写真は見えなくなった。

 背中を向けているせいかその表情は窺えないが、代わりに燃え盛る炎のようなものが見えた気がした。羞恥心と……怒り、だろうか。1つ分かるのは、息が詰まるくらい凄まじいオーラであるということだけだ。

 

「モカちゃん! それ! 早く消して!」

「えー、でもー」

「消して!」

「……はーい」

 

 お、おおー……あの青葉先輩が押し切られた。今のつぐみ先輩の気迫なら、どんな猛獣だろうと大人しくさせられそうだ。

 しばらくして、「これでいーい?」と青葉先輩がつぐみ先輩に確認を取っていた。そのやり取りから察するに、無事消去されたようだ。だが、それで終わりではなかった。

 くるりっ、とつぐみ先輩がこっちを向く。その瞬間、蛇に睨まれた蛙のように体が動かなくなった。その顔は紅潮していたが、同時に視線だけで人を気絶させられそうなくらい険しい表情をしていた。

 

「勇樹くんも。あの写真のことは忘れて。いーい?」

「……はい」

 

 そう答えるしかなかった。そして、今後二度とこのことが話題に上がることはなかった。

 

 

 宴もたけなわ。しかし、僕たち高校生が外出できる時間は限られている。打ち上げも、そろそろ終わりを迎えようとしていた。

 そんなとき、上原先輩がとある提案をした。

 

「そうだ! 最後にみんなで写真撮ろうよ!」

 

 そう言うとすぐにスマホを用意した上原先輩は、マスターに撮影をお願いしていた。他の先輩方も既に動き出している。提案というか、もうそうするのが決まっている流れだった。もちろん、僕も賛成だ。

 

「えっと、じゃあこの辺がいいかな?」

 

 つぐみ先輩がよさそうな撮影スペースを確保してくれる。ちょうどキッチン側がいい感じに背景になってくれる場所だ。

 今日は『Afterglow』が主役なわけだし、僕は端の方がいいだろう。そう思い、適当に先輩たちが並び終わるのを待つ。

 

「ちょっと、木下君はそっちじゃないよ! 木下君は真ん中でつぐの隣に座って!」

 

 ところが、そうはならなかった。上原先輩にセンターに入るよう促されてしまった。

 

「え、いや、でも……」

「いいからいいから! ほら、こっちこっち!」

 

 上原先輩に物理的に背中を押されて、席まで強引に運ばれる。本当にいいんだろうかと思いつつも、なんだかんだで従ってしまう。

 

「つぐもほら、ここに座りな」

「わわっ……あはは、それじゃあお言葉に甘えて」

 

 つぐみ先輩も宇田川先輩に引き寄せられるような形で僕の隣の席に着いた。

 椅子はぴったりと横付けされていて、片方の腕が完全に密着する距離だ。公園でもそうしてたとはいえ、今度は先輩たちやマスターたちの前だ。多少視線が泳いでしまうのは許してほしい。とはいえそれも、少ししたら落ち着いてきた。

 

 ふと、つぐみ先輩と顔を見合わせる。すると、つぐみ先輩はすぐに柔らかな微笑みを返してくれた。胸が温かい。その温もりがもっと欲しくて、僕は思わず手を下から差し出してしまった。一瞬目を丸くした先輩だが、すぐに目を細めて手を取ってくれた。しっかりと握る。

 甘えちゃってるなあ、と思いつつも、決して自分から離すことはなかった。

 

「よし、それじゃあ撮るよー」

 

 マスターの掛け声があったので、正面を向く。可愛らしいデコレーションの成された上原先輩のスマホのレンズがキラリと光る。

 

 ……隣につぐみ先輩が居る。それも、恋人として。気持ちが通じ合っているのは、しっかりと繋がれた手を見れば明らかだ。これで幸せじゃないわけがない。

 自然な笑顔を見せられない理由は、皆無だった。

 

「はい、チーズ!」

 

 カシャリ、とシャッター音が響いた。直後、上原先輩が確認にマスターの方へと駆け寄る。そして納得のいく1枚が撮れていたのか、「みんなー、見てみてー!」と僕たちを呼んだ。

 すぐに全員でワイワイと上原先輩の所に集まり、画面に映っている写真を確認した。

 

 ——それはいつまでも眺めていたい、最高の1枚だった。

 

 

 



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