刺殺に至る病 (月島しいる)
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01話 病巣

 叔父が人を殺した。

 刺殺だったらしい。

 前兆はあった。当時小学生だったボクに、それらしい計画を零していたからだ。

 全てが終わってから、ボクは事の大きさに気づいた。

 そして今、叔父は刑務所ではなく病院にいる。

 庭には二重フェンスと人感センサー。

 入口には金属探知機。

 廊下には等間隔に並ぶ非常ボタン。

 頑丈なセキュリティゲート。

 その奥に、叔父はいる。

 そして、面会に行くと必ずこう言うのだ。

「善の遵守は、法の遵守より優先されなければならない」

 叔父は同じ話を繰り返す。

 何度も何度も。

 敬愛していた頃と変わらず、まるで法学部の教授のように法と正義を語る。

 それは呪詛のようだった。

 投薬の影響でまともに呂律が回らないのに、叔父は未だ変わらず自らの思考を吐き出し続ける。

 その呪詛はボクの心の中に染みわたり、悪性の腫瘍のように大きく育っていく。

 通常の病巣と異なりそれは死に至る病にはならないけれど、いずれボクを怪物にするだろう、という予感があった。

 

 

 

「那智(なち)くんって優しいよね」

 部室で鞄の整理をしていた時、幼馴染に声をかけられた。

 ボクは鞄を持ち上げて振り返った。

「そうかな」

「そうだよ。後輩に怒ったりしないし」

 幼馴染の花梨(かりん)はそう言って笑った。

「というか、那智くんはどんな状態でも怒らないよね」

 花梨はそう言って、部室の扉を開けた。

 傾いた夕日が差し込んでくる。

「それは大体のことが怒るようなことでもないからだよ」

 花梨が開けてくれた扉をくぐって外に出る。

 晩秋の冷たい風が肌を撫でた。

「帰ろうか」

「うん」

 誰もいなくなった部室を施錠し、鍵をポケットに落とす。

 弱小テニス部の部長とマネージャー。

 それがボクと花梨の関係だった。

 あるいは幼馴染や腐れ縁という表現のほうが正しいかもしれない。

 極端に引っ込み思案な花梨は小学校の時に女子のグループで浮いていて、叔父のせいでクラスで浮いていたボクと何となく一緒に行動することが多くなった。

「あ」

 隣を歩いていた花梨から小さな声が漏れる。

 釣られるように彼女の視線を辿ると、同じクラスの男子生徒と女子生徒が手を繋いで帰っていくところだった。

「……あの二人、付き合ってたんだ」

 花梨が好奇心を隠そうともせず、二人の姿を目で追いながら言う。

「たぶん、夏休みからじゃないかな。一度、一緒にいるところを繁華街で見かけたから」

「ふーん。そうなんだ」

 花梨はどこか羨ましそうに二人の背中を見送ると、くるりと振り返ってボクを見上げた。

「那智くんはさ」

 花梨の瞳が、泳ぐように左右に揺れる。

「好きな人、いるの?」

 遠くでカラスが鳴いていた。

 傾いた夕陽で、ボクたちの影は長く伸びていく。

 さっきまで泳いでいた花梨の瞳が、真っ直ぐとボクに向けられていた。

「……いないよ」

 答えると、花梨の身体が小さく震えた。

「じゃあ……」

 花梨の声が、一段と大きくなった。

 彼女の瞳がボクを見つめたまま固定される。

「女の子と付き合いたいって思ったことはある?」

「あるよ」

 夕焼けの中でも、花梨の顔が真っ赤になっているのがわかった。

 彼女は紅潮した顔で、一生懸命言葉を紡ごうとしていた。

「あの、じゃあ……じゃあ……」

 徐々に声量が落ちていく。

 ボクは微笑を浮かべて次の言葉を待った。

 けれど、次に耳に届いたのは想定外の声だった。

「あのさ、いい雰囲気のところ悪いんだけどお金貸してくんない?」

 乱暴だがどこか気遣うような声だった。

 驚いて振り返ると、いつの間にか制服を着崩した茶髪の女子が近くに立っていた。

 彼女は気まずそうな表情を浮かべながら、ゆっくりと近づいてくる。

「財布落としちゃってさ。バス代貸してくんない?」

 見覚えのある顔だった。

 隣のクラスの時田(ときた)だった。

「マジで困ってんだよ。な、頼む。この通りだから」

 時田はそう言って、手を合わせながら頭を下げてくる。

 ボクは思わず花梨を見た。先程までの雰囲気は消え去り、花梨は警戒するように時田を睨みつけていた。

「……またですか?」

 また、という言葉に引っかかりを覚えて時田を見る。

 時田は一瞬顔をしかめて、それからすぐにヘラヘラとした笑みを取り戻した。

「私、こう見えてもドジっ娘でさー」

「これで三回目です」

 話が見えてきた。

 おそらく、寸借詐欺というやつだろう。

 あまり学生がやるような手法じゃないが、随分と手慣れているようだった。

「いや、本気で困ってるんだって。このままじゃ学校で野宿なんだよ」

 時田の顔からヘラヘラした笑みが消え、どこか真剣味が増した表情で食い下がる。

「困ります。もうこれ以上はお貸しできま――」

「いくらだ?」

 花梨の声を遮って前に出る。

 時田は驚いたようにボクを見たあと、ニヤっと唇を歪めた。

「330円」

「それくらいなら返さなくていい」

 どうせ返って来ないのだから、と思いながらボクは財布から取り出した400円を時田に向かって放り投げた。

「お、マジ? えっと、隣のクラスの法月だっけ? サンキュー!」

 時田はそう言って、本当に嬉しそうに笑った。

「ちょ、ちょっと、那智くん?」

 横から花梨の困惑した声。

 ボクはそれを無視して踵を返した。

「帰ろう」

「え、あ、うん」

 花梨は困ったような表情を浮かべながらもボクの後をついてくる。

 後ろから時田の声。

「ありがとうなー!」

 ボクは無視してそのまま校門に向かったけれど、花梨は時田のことが気になるようでしきりに後ろを振り向いていた。

「……那智くんは優しすぎるよ」

 呆れたようにぼそっと呟く花梨に、ボクは思わず苦笑する。

 優しいわけじゃない。

 叔父の言葉が頭をよぎっただけだった。

 人間を人間たらしめるのは善なる行いだ、と。

 最後に一度だけ振り返ると、校門前のバス停には誰もいなかった。



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02話 善悪の境界

「法は人間の善悪を規定するものではない」

 フレーバーティーの甘い香りがするリビングで、叔父はそう語った。

「しばしば私たちは法というものを絶対的な壁のように認識してしまうが、それは正しくない。例えば嫌がらせを繰り返して周囲の人間を追い詰めることは悪であるが、法で裁けないことも多い。しかし誠実に生きてきた人間が車を運転していて突然出てきた人影に接触すれば法で裁かれる事となる」

 法曹の道に進みはしなかったが、法学部を出ていた叔父はこういった話をよく好んだ。

 父も母も家にいないことが多いボクは叔父の家に預けられ、聞き手に回ることが多かった。

「構成要件こそが善悪の判断基準なのだという考え方は間違いだ。人間を人間たらしめるものはもっと別のところにある」

 力強く語る叔父はボクに向かって微笑みかけ、ゆっくりと言葉を続けた。

 そこからは確かな思慮深さと、正義感の強さを感じることができた。

「例えば、川で溺れている人間を通りすがりの人間が見捨てることは罪ではない。しかし、実の子が溺れているのを両親が見捨てた場合は罪となる。これは不作為犯論の話だ。そう、不作為犯論の話であって、善悪や人間らしさの話ではない。法の線引きは善悪の線引きに直結しない」

 人間の本質というものは、と叔父は語調を強めた。

「もっと別のところにある。この話において、両親が泳げなかったらどうするのかとか、台風の後で増水していて助けるのが明らかに不可能だった場合はどうなるのかとか、そういった作為可能性というのは重要ではない。重要なのは善悪を遂行する揺るぎない意思であり、私たちはそれによって結果的に法を遵守することになる。法の遵守は結果的に得られるものであって、目的であってはならない」

 そして、と叔父は言った。

「善に殉じた結果、法に触れることもありうる。ありうるんだ。個々の善悪と法は乖離していて、私たちはそういった極限の状況に追い込まれることもありうる。その時、私たちはきっと法の遵守ではなく善の遵守を選択しなければならない。それこそが人間を人間たらしめる本質であるはずだ」

 この時、すでに叔父は精神疾患を患っていた。

 けれど、ボクには叔父の抱える孤独感や悩みというものが見えなかった。少しだけ正義感が強い人、という認識だった。

 叔父が刑事事件を起こす数ヶ月前の出来事だった。

 

 

 

「よお、法月」

 昼休みが始まり、机の整理をしていた時、声をかけられた。

 顔をあげると、教室に時田が入ってくるところだった。

「悪いな。この前は助かった」

「気にしないでいいよ」

 答えると、時田は周囲を気にする素振りを見せて、それから顔を近づけて小さく口を開いた。

「なあ、小耳に挟んだんだけど、お前の親って両方とも医者なの?」

「……そうだよ」

 一体誰から聞いたのだろう。

 自分からわざわざ両親の職業を喋った覚えはないのに、隣クラスの時田すら知っているのは不思議だった。

「あのさ、それでお願いがあるんだけど」

 時田は僅かに視線を逸し、気まずそうに言葉を続けた。

「悪いんだけどまた金貸してくんない? 財布忘れて昼食買えなくてさ」

「いいけど」

 席から立ち上がり、自然と時田を見下ろす格好になった。

「時田さんは嘘が下手だね」

「え? あ、いや、嘘なんて」

「いいよ。奢るから」

 嘘を指摘されて狼狽する時田に一言付け加えると、彼女は一瞬で表情を変えた。

「え、マジ?」

「ああ」

 食堂に行くために戸口に向かうと、後ろから慌てて時田がついてきた。

「いや、マジ助かるわ。ごちです!」

 うしし、と満面の笑みを見せながらついてくる時田を見て少しだけ、犬みたいだな、なんて思ってしまった。

「やっぱ医者って儲かるわけ? 小遣いとか多かったり?」

「普通よりは多いかも」

 他の生徒の小遣いなんて興味ないけれど、きっと平均よりは多いのだろう。

「マジか。くっそ羨ましいな」

 じゃあさ、と時田が何気なく言葉を続ける。

「お前も医学部とか行くわけ?」

「継ぐ病院があるわけじゃないし、法学部に行きたいと思ってる」

「法学部? 弁護士にでもなんの?」

「法学部を出た人が全員法曹になるわけじゃないよ」

「ホーソー?」

「法律に携わる仕事をしてる人のこと。それ以外にも就職先はいっぱいあるから」

「へー。詳しいんだな。身近にいるわけ?」

「叔父が法学部卒だった」

「マジか。エリート一家じゃん」

 心の底から感心するように時田は目を丸くして、それから悪意のない様子で言葉を続けた。

「医学部じゃなくて法学部目指すなら、両親よりその叔父さんのこと尊敬してるってことか?」

 一瞬だけ言葉に詰まった。

 尊敬、しているのだろうか。

 数ヶ月に一度面会に向かうくらいには、尊敬していたのかもしれない。

「……そうかも」

「ふーん。弁護士って格好いいもんな。裁判を逆転させたりするドラマ好きだわ。よくわかんないけど」

「だから弁護士じゃないんだって」

 そんな会話を繰り返していると、食堂にたどり着いた。

 食券機の前に並ぶと、時田が急にそわそわした様子を見せて、遠慮がちに口を開いた。

「な、なあ。A定食頼んでもいいか?」

 A定食は食堂で一番高いメニューだった。

 といっても、それほど抜きん出て高いわけでもない。

 なのに高価な誕生日のプレゼントをねだる子供のような姿に、ボクは思わず小さく笑った。

「うん、いいよ」

「うお、マジか。一回食ってみたかったんだよなあ。卒業前に食えて良かったぁ!」

 時田の屈託のない満面の笑みを見て、悪い気はしなかった。

 独特の人懐っこさで、ボクのような内向的な人間も喋りやすい性格をしている。

 寸借詐欺を繰り返しているとはいえ、時田は善の領域に位置する人間に見えた。

 となれば、彼女の慢性的な金銭的問題の理由は限られてくる。

「時田は」

 食堂の喧騒の中、時田の双眸を観察しながら口を開く。

「親と仲が悪いの?」

 劇的な変化があった。

 それまではしゃいでいた時田の表情が崩れ、何かを誤魔化すような曖昧な笑みになった。

「は? 親? なにが?」

 咄嗟に回答を先送りにし、話題をずらそうとしている。

 決定だった。

「弁当、作ってもらってないみたいだから」

「え、ああ、お前だって作ってもらってないじゃん」

「ボクのところは二人とも忙しいから。時田さんの親はどういう仕事してるの?」

「あ、え、仕事? いや、まあ、普通の会社員だけど」

 具体的な回答を避けた。

 これまでの会話で無知を恥じる様子がなかった時田が隠そうとする職業。

 おそらく無職か水商売。

「そうなんだ。親が忙しいなら今度弁当作ってあげようか」

「え? マジ?」

 話を戻してあげると、時田は僅かに安堵した様子を見せた。

「いつもジャンクばっかり食べてそうだから」

「なんだよ。お前もだろぉ?」

「ボクは家だといつも料理作ってるから」

「へえ。私は料理とか全然ダメだわ。つーか洗い物が無理」

 列が進み、券売機に札を入れる。

 時田は嬉しそうにA定食のボタンを押して、先に列を離れていった。

 ボクもボタンを押して券売機から離れた時、ポケットに入れていたスマホが震えた。

 取り出すと、花梨からの着信だった。

「もしもし」

『あ、那智くん? 今どこ? 昼食一緒に食べようと思って』

「ごめん、今日は食堂で他の人と食べるから」

『え? 誰と?』

「隣のクラスの時田さん」

『へ、え? なんで時田さんと?』

 花梨の戸惑ったような声。

 それに重なるように前方から時田の呼び声が聞こえた。

「おい、法月。早くこいよ」

「ごめん。呼ばれてるから切るね」

『あ、待っ――』

 通話を切り、スマホをポケットの中に落とす。

「A定食が私たちを待ってるぞ」

 騒がしい時田に苦笑し、ボクは彼女のもとへ歩いた。

 ポケットの中でもう一度スマホが震えた気がしたけれど、出る気にはなれなかった。



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03話 死に至る病

「カフェインは苦手なんだ」

 叔父はそう言いながら、フレーバーティーを淹れてくれた。

「A、T、C、Gの4つの遺伝情報のうち、一部の遺伝情報がAではなくCに置き換わっただけでカフェインの分解速度が遅くなってしまう。けれど、この香りが好きでいつも買ってしまうんだ」

 叔父はそう言って、柔和な笑みを見せた。

 協調性のなさから仕事が長続きせずに職を転々としていたけれど、叔父はボクの前では穏やかで紳士的な姿しか見せなかった。

「体質と好みは必ずしも一致しない。人は不可思議で非合理的な行動を選択してしまう」

 叔父の身体がソファに沈み込み、ゆっくりと息を吐き出す音が室内に響いた。

 それがボクの目には、ひどく疲れているように見えた。

「正解は分かっている。カフェインを摂取しなければいい。それだけだ」

 けれど、と叔父は首を小さく振った。

「ダメなんだ。毎日のように飲んでしまう」

 叔父の視線が消えかけの灯火のように揺れていた。

「必然性と可能性の間で遊離が発生しているのは分かっている。キルケゴールはこれを死に至る病と称した。それが信仰心に至るのだとも。しかし私は神を持たない。ならば私はどうすればいいのだろう」

 叔父の瞳は、すでにボクを見ていない。

 彼の言葉は彼自身に向けられていた。

「分解できないものを積極的に摂取するのは、緩慢な自殺に他ならない。自己保存を放棄し、死へ至ろうとする思考は合理的ではない。自らを殺すのは、他者を殺すのと相違ない。理解しているはずだった。なのに実行してしまう。そこから生じるのは決定論的な絶望で、それが私を押しつぶそうとしているのは明白ではないか」

 当時のボクには叔父の言葉が理解できなかった。

 退屈そうなボクの様子に気づいたのか、叔父は苦笑いを浮かべてティーカップを豪快に飲み干した。

「すまない。くだらない話をしてしまった。今日は天気がいい。散歩にでも行こう」

 頷くボクに叔父は微笑を浮かべると、ゆっくりと立ち上がってグレーのジャケットを着込んだ。

「日光は良い。自律神経を正してくれる」

 叔父の柔らかい手がボクの手を包み込んだ。

 優しくエスコートするように叔父は前を歩いて、黒くて重い玄関扉を開いた。

 眩しい太陽光が差し込む中、玄関から一歩出た叔父が足を止めた。

「ああ……」

 叔父の視線を辿ると、ボクと同じ学年の女子がすぐ前の通りを歩いていた。

「懐かしいなぁ。初恋の人があんな感じだったよ」

 過去を回想しながら、叔父は噛みしめるように言った。

「相手にはされなかったけれど、ずっと好きだったんだ。愛していたと言ってもいい」

 叔父の視線は、女子生徒に固定されたまま動かなかった。

「本当に、ずっと好きだったんだ」

 後悔するように吐き出した言葉は、遠ざかっていく女子生徒には届かない。

 

 

 

「……今日も時田さんとお昼一緒にするの?」

 昼休みに入ると同時に不機嫌な声が届いた。

 振り返ると、呆れたような顔の花梨が立っていた。

「わざわざお弁当まで作って、なんでそこまでするの?」

「何となく。気になって」

 本音だった。

 なにか明確な理由があったわけじゃない。

 ただ、何となく放っておけないと思ってしまった。

「……あまり優しくすると勘違いされるよ?」

 一段と低い声で、花梨はそう言った。

「そういう感情はないよ。ただ本当に気になるだけ」

 そう言って、ボクは弁当箱を持って教室を出た。

 隣のクラスに向かうと、一人で机に突っ伏す時田の姿があった。

「時田さん」

 喧騒の中、廊下から声をかける。

 時田はすぐに顔をあげて慌てた様子で立ち上がり、こちらへ駆け寄ってきた。

「お前、本当に天使みたいなやつだな!」

「中庭、行こうか」

「おう!」

 中庭は校舎から丸見えだから男女で昼食を食べているとすぐに変な噂が立つ。

 そのせいか人が少ない。

 ボクも時田も人の噂を気にする方じゃないから都合が良い。

「今日も財布忘れたの?」

 中庭に着いて、ベンチに腰掛けながら時田の分の弁当箱を手渡す。

 時田はそれを受け取りながら、顔をしかめた。

「んなわけねえだろ。うちはムカつくくらい貧乏なんだよ」

 開き直るように時田はそう言って、弁当を貪るように食べ始めた。

 正直に家庭事情を話してくれるようになったのは大きな進展だった。

「……昨日の晩ごはんは?」

「食ってない」

 あっけらかんと話す時田に、ボクは正直言葉を失っていた。

「……これ、晩ごはんに持って帰っていいから」

 自分用の弁当箱を差し出すと、時田はバツが悪そうに視線を外した。

「いらねえよ。お前だって腹が減るだろ」

「ボクは適当に食堂でパン買うから」

 弁当箱を押し付けると、時田は渋々といった様子で受け取った。

 それから怪訝そうにボクを見上げた。

「お前さ……もしかして私に惚れてんの?」

「まさか」

 肩を竦めると、彼女は拗ねたように唇を突き出した。

「傷つくから即答するなよ」

「勘違いされるとややこしくなるから」

 じゃあ、と時田の視線が空を向く。

「なんでこんなに良くしてくれるんだ?」

「なんでだろうね」

 そう言いながら、脳裏に叔父の言葉が甦っていた。

 

「例えば、川で溺れている人間を通りすがりの人間が見捨てることは罪ではない。しかし、実の子が溺れているのを両親が見捨てた場合は罪となる。これは不作偽犯論の話だ。そう、不作偽犯論の話であって、善悪や人間らしさの話ではない。法の線引きは善悪の線引きに直結しない」

 

 多分、それが答えだった。

 実の子に食事を与えなければ罪になるが、見知らぬ人に食事を与えなくても罪にはならない。

 無意味な線引だった。

 そこに善悪の区別はない。善悪を決定づける領域はもっと別のレベルに存在する。

 叔父が繰り返し説いた教えは、今もボクの中に残っている。

 けれど、時田にこれを告げても理解されないだろう、と思った。

「味つけはどうかな」

「味? ああ。全部うまいよ」

「そっか」

 なら、それを答えにしよう。

「ボクはコックさんを目指していて、味見のために時田さんに食べてもらっている。そういうことにしよう」

「はあ? 法学部を目指してんだろ?」

「その設定は一旦忘れてほしい」

「はあ……?」

 時田は何度も目を瞬いて、おかしそうに笑った。

「法月って変なやつだよな」

「そうやって噂されることはあるけど、真正面から遠慮なく言ったのは時田さんが初めてだよ」

 笑い返すと、時田はひどく穏やかな顔で告げた。

「沙耶でいいよ。時田っていう呼び方はあまり好きじゃないんだ。うまく言えないけど、お前とはもっと仲良くなれる気がする」

 

 

 

 時田沙耶は学校では浮いた存在だった。

 寸借詐欺を繰り返したため、クラスの派手なグループにも溶け込めずに孤立している事が多かった。

「時田さん、身体を売ってるって噂もあるみたいだよ」

 授業間の小休憩中、花梨が声を落としてそんな噂話を口にした。

「ホテルが並んでる場所でよく見かけるんだって」

「……その噂は外れだと思うよ」

 もしも身体を売っていれば、もっとまともな食生活を送れているはずだった。

 寸借詐欺以外の悪事に手を染めているようには見えない。

 彼女の生活は、学校と家の往復だけで完結している可能性が高かった。

「……そんなことどうして言い切れるの?」

「毎日のように話していればわかるよ。沙耶はバカだけど悪人じゃない」

 花梨の目がすうっと細くなる。

「……呼び捨てするほど仲良くなったんだ?」

「そうだよ。だから大体の事情はわかるし、身体を売ってないこともわかる」

「そんなのわからないよ。火のないところに煙は立たないっていうし」

 花梨は引き下がらない。

 必要以上に沙耶を警戒しているようだった。

「花梨」

 意識的に柔らかい声色を作る。

「心配してくれているのは分かるけど、杞憂だよ。沙耶は悪い子じゃない」

「……ねえ。那智くんは、時田さんのことが好きなの?」

「まさか」

 沙耶の時と同じ答えを返すと、花梨は少し安心したように表情を緩めた。

「そっか。うまいこと騙されてるんじゃないかって思っちゃって」

「騙されてるわけじゃないよ」

 ただ、と叔父の言葉を思い出す。

「気になるんだ。他人だからって放置したくない」

「そっか。那智くんは優しいもんね」

 花梨は納得したように頷いて席に戻っていった。

 ボクと沙耶が付き合うようになったのは、その一週間後だった。

 

 

 

「毎日私のために味噌汁を作ってほしい」

 いつものように中庭で昼食をとった後、沙耶は真面目な顔でそう言った。

「まるでプロポーズみたいな言葉だね」

「まさにそのプロポーズをしてるんだよ」

 茶化すボクに、沙耶は表情を崩すことなく告げた。

 彼女の言葉を正しく理解するには、それなりの時間が必要だった。

 動きを止めたボクに対し、沙耶は頬を赤く染めながら言葉を続けた。

「その、笑われるかもしれないけど、本気なんだ。最近、ずっとお前のことばかり考えていて、本当、病気なんじゃないかってくらい他のことが何も考えられなくて」

 恥じらう様子を見せながらも、沙耶の力強い双眸が真っ直ぐとボクを射抜く。

「本気で好きなんだ。だから付き合って欲しい」

 言葉を失った。

 彼女の真剣な姿勢に対して、どう接すればいいのか皆目検討がつかなかった。

「釣り合ってないのは分かってる。お前は頭がよくて、私はバカで、お前の親は立派な医者で、私の親はどうしようもないヤツで……でも好きなんだ」

「沙耶……」

 心臓が締め付けられるような感覚があった。

 これだけの想いを伝えてくれているのに、既にボクの答えは決まっていた。

「……前も言ったけど、ボクは沙耶に対して恋愛感情は――」

「――頼む。お試しでいいからチャンスをくれないか」

 見たことのない表情で、沙耶はボクの手を握った。

「本気なんだ。絶対に後悔させないから。振り向かせてみせるから」

 だから、と沙耶は荒い息を吐いた。

「ゼロからスタートさせて欲しい」

 吐息がかかるほどの距離で、沙耶の双眸がボクを見上げていた。

 言葉が出てこない。

 決まっていたはずの答えは、どこかに消え去ってしまっていた。

「本気なんだ」

 沙耶の顔が近づいてくる。

「避けないってことは、そういうことだよな?」

 小さく囁く沙耶は、これまで見たことがない表情をしていた。

 上気した顔が、すぐそこにあった。

 沙耶の手が、ボクの肩をそっと掴む。

 その手が震えていることに気づくと同時に、互いの唇が優しく触れた。

 一瞬の静止。

 それからゆっくりと顔が離れて、沙耶は真っ赤になった顔で、うしし、といつもの笑みを見せた。

「ここまでやったんだから、今更ノーとは言わないよな?」

 恥ずかしさを誤魔化すようにため息をつく。

 すでに答えは決まっていた。

「……明日の味噌汁は、どんな具材がいい?」

 



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04話 善の選択

「私は今でも、自分が道を間違えたとは考えていない」

 精神病院という看板を掲げた監獄。

 第一回目の面会で、叔父はボクにそう語った。

「善の遵守は、法の遵守より優先されなければならない」

 この頃の叔父は視線の動きも発声もまだしっかりしていた。

「尊属殺重罰規定違憲判決というのは知っているかな」

 ボクの隣では、母親が怪訝そうな顔で叔父を見つめていた。

 清潔感を体現したような白い面会室に、叔父の声が静かに響き渡る。

「日本で最も有名な判例の一つだ。裁判所が法律そのものを違憲と判断した初めての判例で、法曹のあるべき姿を示した代表例でもある」

 こつん、と叔父の指がテーブルを叩いた。

 それがボクの耳を妙に強く打った。

「概要はこうだ。とある父親が実の娘に性行為を強要し、5人もの子供を産ませていた。娘が成長し、まともな恋愛を経験するようになって結婚願望を抱くようになると父親は激怒して娘を監禁するようになった。そして娘は睡眠中の父親を絞殺するに至った」

 一瞬、話の内容が理解できなかった。

 理解するより早く、叔父が話の続きを語り始めた。

「問題はここからだった。親の殺害は通常の殺人とは異なる尊属殺人と呼ばれ、199条の単なる殺人罪ではなく200条の規定によって死刑、もしくは無期懲役という非常に重い刑罰が与えられる。父親から一方的に強姦され、五人もの子供を産まされた娘に対して、この刑罰は果たして正しいと言えるだろうか」

 こつん、とまた叔父の指がテーブルを叩いた。

 横で母親が身を乗り出すのがわかった。

「ねえ、やめましょう。そんな話は今するべきではないでしょう」

「こんなものが正しいはずがない。大勢の人間がそう考えた。娘を重刑から逃がすには200条を無効とし、199条の殺人罪を適用させる必要があった。弁護人は法の下による平等を主張し、尊属殺と普通殺の区別の撤廃を求めた。結果的に一審で違憲判決、高裁で逆転合憲判決、最高裁では刑法200条を憲法14条に違反して無効とし、懲役2年6ヶ月、執行猶予3年となった」

 叔父は母親の静止を振り切って、なにかに取り憑かれたようにボクに向かって教えを説いた。

「ここで重要なのは、弁護人が無報酬でこの大仕事を完遂したことだった。親子二代に渡る長き戦いを、彼らはいくつかのジャガイモだけで引き受けた。彼らは一切の見返りを求めなかった」

「ねえ、やめましょう。この子に聞かせるべき話ではないでしょう!」

 母親の怒声。

 叔父は動きを止めると、歯を剥き出しにして怒鳴り返した。

「私は今、正義の話をしているんだッ! 善悪の境界ッ、法の限界ッ、それ以上に大事な話がどこにあるッ!」

 いつも穏やかで紳士的な叔父が怒鳴る姿を見たのは、それが初めてだった。

 眼の前で唾を飛ばして叫ぶ叔父を、ボクは呆然と見上げることしかできなかった。

「人間らしさの本質とは、善悪の境界とは、法とは別のところにあるッ!」

 立ち上がった叔父に対し、母親が驚いたように後ずさった。

 遠くから複数の足音。

「私は善の遵守を選択したッ! 私は、私であることを、人間であることを選んだだけだッ!」

 叔父の後ろで扉が開き、室内に複数の男性看護師が入ってくる。

 看護師に囲まれて椅子に座るように誘導されながら、叔父は突然大人しくなって小声で呟いた。

「だから私は、あいつを刺したんだ」

 

 

 

「帰ろうか」

 いつも通りに部活を終えて、いつも通りに花梨から声をかけられる。

 けれど、この日の返答はいつも通りにはいかなかった。

「ごめん、一人で帰ろうと思う」

 断りの言葉を吐き出すと、短い沈黙が落ちた。

 花梨は意味を理解できなかったように小首を傾げて、それから目を瞬いた。

「どうして?」

「沙耶と付き合うことになったから」

「え?」

 花梨の口から、小さな声が漏れた。

 誰もいない部室の前で、ボクたちは向かい合ったまま互いの瞳を暫く覗きあった。花梨の澄んだ瞳の奥で、瞳孔が収縮するのが見えた。

「聞き間違いかな」

 花梨の唇の端が釣り上がり、身体から力を抜くようにふらふらと左右に揺れた。

「時田さんと付き合うことになったって聞こえたんだけど」

「ちゃんと聞こえているみたいで安心したよ」

 花梨は半笑いのような表情で、ふらふらと左右に身体を揺らしながら足元に目を移した。

「いやいや、だってついこの前、時田さんに対して恋愛感情はないって話してなかったっけ」

「そうだね。だから自分でもびっくりしてる」

 正直に、胸の内を話す。

「恋愛感情は確かになかったはずなのに、いまは間違いなく意識してる。自分でも単純だなって驚いてるよ」

「んー、よくわからないなぁ」

 花梨はふらふらと身体を揺らしたまま、曖昧な笑みを浮かべていた。

 その目は足元に向けられたまま、一度もボクを見ない。

「時田さんに何かされたの?」

「キスされた」

 揺れていた花梨の身体が、ぴたりと静止した。

 半笑いのような顔が無表情に戻り、じとりとボクを見上げるように眼球が動いた。

「……それって順番が違うんじゃない?」

「そうかもしれないね」

 答えながら、ボクは慎重に花梨を観察していた。

 ボクたちは幼馴染だけど、男と女でもある。

 その場の流れで少しだけいい雰囲気のようなものになったこともあった。

 互いに恋愛感情と呼べるほどのものまで昇華はされなかったけれど、最も身近な異性であることに変わりはない。

 例えば、花梨にある日突然彼氏ができればボクは軽いショックを受けるだろうし、その相手が花梨を幸せにできる相手なのか見定めようとするだろう。

 ならば、逆に花梨がそういう心理を働かせることもありうる。

 花梨が沙耶に対して嫌な態度を取るのは、ボクが望むことではない。

「へー。まあ時田さんってそういうの軽そうだしね」

 どこか嘲笑うかのような言い方だった。

 やはり、花梨にはそういう心理が少なからずあるようだった。

「沙耶は人と付き合うの初めてらしいよ。孤立しがちだったから」

「ふーん。それ大丈夫なの? まともな友人関係さえ築けない人が恋愛関係なんて築けるのかなぁ」

 花梨の表情が、さっきの半笑いのようなものに戻っていく。

 ゆらりと揺れた身体が、夕陽を受けて黒く染まっていく。

「沙耶の問題の大半は家庭の事情に収束すると思う。沙耶の対人能力は平均よりも遥かに優れていると思うよ」

「あー、それもちょっとねぇ」

 ゆらゆらと揺れる花梨の瞳に、赤く燃えるような夕陽が反射して煌めいた。

「家庭の事情ってどうなんだろうね。男女交際ってどれだけ綺麗事を言っても最終的には家と家の付き合いなわけだし、凄くややこしくないかなぁ?」

 まあ、と花梨は笑みを深くした。

「一時的な遊びならいいんじゃない? 人生経験ってやつ? うんうん。那智くんもそういう事がしたい年頃なわけだし」

 いつもの柔らかい笑みではない。

 どこか昏さを感じる笑い方だった。

「うーん。でもやっぱり時田さんは正直どうかと思うけどなぁ。他に普通のいい子いっぱいいるんじゃないかなぁ」

「花梨」

 意識的にゆっくりと彼女の名前を呼びかける。

 途端、花梨はまるで叱られた子供のようにボクを方をじっと見つめた。

「それでも、沙耶のことが好きなんだ」

 冷たい風が吹いた。

 花梨の長い髪が大きく舞い上がる。 

「そっか、そっか」

 花梨は何かを我慢するような表情で足元を見た後、にっこりと顔をあげた。

「じゃあ私は遠くから二人を応援することにするよ」

 同時に彼女の後ろで夕陽が校舎の裏に吸い込まれていき、世界が暗闇に覆われた。



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05話 破滅の類型

「私も昔は、人並みに恋をしていたんだ」

 フレーバーティーが香るリビングで、叔父はやや気恥ずかしそうに言った。

 その時のボクは、壁際に置かれたズボンプレッサーに目を奪われていた。

 ボクの家にはないものだったから物珍しくて、あれは何なんだろう、と好奇心を隠せなかった。

 今思えば、叔父はいつも身なりに気を遣っていた。ズボンには綺麗な折れ目がついていたし、靴下だって丁寧にアイロンがかけられていた。体格が良かったから、ダブルのジャケットもよく似合っていた。

「小学生の時からずっと好きだったんだ。周囲の子とは雰囲気が違ってね。ずっと大人びていた」

 注意散漫なボクに構わず、叔父は過去の恋愛話を続けた。

「高校にあがって何度かアプローチをかけたけれど、相手にされなかった。そうこうしている内に取られてしまったよ。相手は学年一の俊才で、負けを認めるしかなかった」

 苦い思い出だよ、と叔父は軽く笑った。

 ティーカップを握る指が、こつん、と神経質そうにカップを叩いた。

「彼女とはそれっきりだった。誰にでもある、青春の一ページでしかない」

 けれど、と叔父の目が遠くを見つめる。

 こつん、と叔父の指がカップを良く叩いた。

「最近、SNSを見て知ったんだ。彼女はそのまま結婚したけれど、うまくいかなくて離婚したらしい」

 ボクは違和感のようなものを覚えて、テーブル越しに叔父を見上げた。

 叔父の目は、遠い日の何かを見つめたまま動かない。

「小さい子どもがいて、親に子どもを預けながら飲食店でアルバイトをして生計を立てているらしい。彼女は真面目だから、一人で色々なものを背負い込んでいるんだと思う」

 だから、と叔父は続けた。

 その間にも叔父の指が何度もカップを叩く。

 こつん、こつん、と鳴り響く音が徐々に早まり、何かに焦っているようにも見えた。

「一度、会ってみようと思うんだ」

 掠れるような声で、けれどしっかりと叔父はそう言った。

「遠くから見るだけでもいい。もう一度、彼女の姿を見てみたいんだ」

 うまくいくわけがなかった。

 この時、叔父は無職だった。

 片思いしていた相手に会うタイミングとしては最悪なはずだった。

「そう、見るだけでいいんだ」

 叔父の目は、遠い過去を見たまま動かない。

 その瞳は、現在に向けられていなかった。

 

 

 

「ねえ、法月くんって隣のクラスの時田さんと付き合ってるの?」

 騒がしい教室に、そんな声が響き渡った。

 ノートから顔をあげると、よく見知った顔があった。花梨の友人グループの一人だった。

「そうだよ」

 嘘をつく必要もない。

 正直に話すと、周囲から黄色い声が上がった。

「うわ、本当だったんだ。法月くんって時田さんみたいなのがタイプだったの?」

「自覚はなかったけど、どうやらそうだったみたいだね」

 周囲の女子が集まってくる。

「え、っていうか花梨は? 隠してるだけで花梨と付き合ってると思ってた」

「私たちはただの幼馴染だから」

 振り返ると、花梨の姿があった。

 彼女は小さくため息をついて、面倒くさそうに周囲の質問に答えていた。

「私は憧れるけどなぁ。幼馴染同士で結婚とか定番じゃん。一度も考えたことないの?」

「……そんなの、現実じゃありえないよ」

「そうなんだぁ。じゃあ時田さんと法月くんのことも応援するの?」

「んー、そうだなぁ。那智くんはちょっと変わり者だからなぁ。時田さんにうまく転がせるかな?」

 花梨の冗談に笑い声が響く。

「まあ、ぼちぼち遠くから見守ってあげる所存です」

 和やかな空気の中、教室のドアが開く。

 見ると、沙耶の姿があった。

「那智! 飯いこうぜ!」

「あ、今日も手作り弁当なんだぁ?」

 周囲からからかうような声。

「まだまだ新婚なので」

 適当に言葉を返して立ち上がり、沙耶の元へ向かう。

 最後に振り返ると、にこにこと笑みを浮かべる花梨と目が合った。

 ボクは何か口にしようとして、けれど結局正しい言葉を思いつかなかった。

「ほら、早く行こうぜ」

 沙耶に急かされて、そのまま教室を出る。

 ごく自然な動作で、彼女の腕がボクの腕に巻き付いた。

 そのまま、いつも通り中庭にたどり着く。

 他の生徒の姿はない。

「今日はなんなんだ?」

「トマト煮だよ。好きなんだ」

 ベンチに座り、弁当箱を手渡す。

「それに、冷めても美味しいから」

「へえ」

 沙耶は嬉しそうに弁当箱を受け取って、包みを解いていく。

 ボクはそれを横目で見ながら、何でも無い風に言った。

「沙耶の母親は、昔からそんな感じなの?」

 一瞬、沙耶の動きが止まった。

 それから困ったように曖昧な笑みでボクを見た。

「……ずっとじゃないんだ。頑張ってる時もある。けど、一度ハマると暫くダメなんだ」

 ハマる。

 その意味を考えていると、沙耶は恥じいるように言葉を続けた。

「うちの母親、ホストに貢いでんだよ」

 小さい声だった。

 そのまま沙耶は言い訳するように言葉を続ける。

「本当に一時的なものなんだよ。飽きたら普通の生活に戻れるんだ。けど、ハマってる時は生活費も全部使っちゃってさ」

 どこかで母親を憎みきれない部分が垣間見えた。

 親に対して強い反抗心を抱かないのは、日常的に距離があるからだ。おそらく、沙耶が言うような一時的なものではない。それなりの期間、沙耶は放置され続けている。

「ストレスの溜まる仕事ってことは分かってるんだ。だから、同業に話を聞いてもらうのも大事なんじゃないかって」

 職業は、やはり水商売。

 年齢的にそれほど稼ぎに余裕があるとは思えない。

 それ以外の生き方を知らず、行き詰まりを感じている。

「父親は?」

「……小さい頃に離婚してる。よくわかんねえ」

 おそらく養育費が発生していない。

 負担能力がないか、もしくは手続き能力がない。

 あるいは、認知すらしていない可能性もある。

「いや、本当にずっとそういう状態なわけじゃないんだよ。昔はもっと普通だったし……」

「祖父母や親戚は?」

「は? え? いや、会ったことねえけど……」

 縁切りしている可能性が高い。

 どの方向とも持続的な人間関係の構築が出来ない、もっとも破滅的な類型。

 問題は、沙耶自身がそんな母親に対して情を抱いてしまっていること。

「どれくらいの頻度で帰ってくるの?」

「……一週間に一回くらい」

 沙耶の声がどんどん小さくなっていく。

 頃合いだった。

「そっか」

 短く答えて、弁当箱を空ける。

「食べようか」

「え、ああ、そうだな」

 食べ始めると、沙耶の表情に色が戻る。

 それを眺めながら、思考を巡らせた。

 時田沙耶の抱える問題は、時田沙耶本人に由来するものではない。

 だからこそ、解決が難しい。

「沙耶」

 弁当を一心不乱に食べる沙耶の横顔に、声をかける。

「今度、デートしようか」

 勢いよく顔をあげた沙耶は、何度か目を瞬いてから、にい、と嬉しそうに笑った。

「ああ!」

 その頬は、ほんのりと桜色に染まっていた。

 綺麗な笑顔だと、心の底からそう思った。



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06話 最大多数の最大幸福

「法曹三者と呼ばれる裁判官、検察、弁護士のうち、最も門戸が狭いのが裁判官だ」

 叔父の声には、いつもの生気がなかった。

「現在、日本における裁判官は約三〇〇〇人。この数だけで裁判官になるのがどれだけ難しいか分かるだろう」

 叔父の瞳は昏く、どこか虚ろだった。

「そして、与えられる業務も辛く険しいものばかりだ。宮仕えである彼らは仕事を選ぶ事が出来ない。正解の見えない選択肢を毎日のように与えられ続ける。二、三年で転勤が繰り返され、最愛の家族と共に気を安らげる事も難しい」

 こつん、と叔父の指がテーブルを叩いた。

 その音は静かなリビングに波紋のように広がっていった。

「人が人を裁く事はとても難しい。そこに正解はない。だから、時間が必要だ。どのような罪が相応しいのか、じっくりと考えなければならない」

 ゆっくりと、叔父が立ち上がる。

 椅子が床に擦れて嫌な音が響いた。

「私はね」

 叔父の声が、粘りつくように鼓膜に張り付いた。

「ずっと考えているんだ」

 こつん、とまた叔父の指がテーブルを叩く。

「世の中にはどうしようもない悪人がいて、誰かが罰を与えなければならない時がある。そういう時があるんだ」

 叔父の様子がおかしくなったのは、過去の想い人に会いに行ってからだった。

 彼の中で危険な衝動が産声をあげようとしていた。

「最大多数の最大幸福と悪人の人権は、果たしてどちらが重いのだろうか」

 叔父の瞳が、窓の外に向けられる。

 灰色の雨雲が圧迫するように広がっていた。

「米国はテロリズムに対抗するため、悪人の人権を無視することにした。罪なき人々と悪人の命は、等しいものではない」

 窓の向こうの雨が徐々に強まっていく。

「日本もまた、重犯罪を犯した者は死刑とする事が許されている」

 これはつまり、と叔父は言葉を続けた。

「選択的な臓器くじが許されているということだ。臓器くじは知っているかな?」

 叔父の視線が僕に向く。

 僕は言葉もなく、ただ首を横に振ることしかできなかった。

「国民の中からクジで一人を選び、その臓器を病気の人々に移植する。その結果、一人の尊い犠牲によって多くの命が助かる。果たしてこの制度は善か悪か?」

 叔父の顔に歪んだ笑みが浮かんだ。

 加虐的な笑みだった。

「多くの人間は、この思考実験に対して強い嫌悪感を示す。自分がクジに選ばれ、大衆の為に臓器を差し出す未来を想像するからだ」

 けれど、と叔父は言った。

「これがクジで公平に決定するのではなく、悪人だけが選ばれるならばどうだろう。そして、病気の人々のために臓器が移植されることもない。ただ悪人が無為に死ぬだけだ。この制度は果たして善と悪のどちらに属すると思う?」

 こつん、とまた叔父の指がテーブルを叩いた。

 叔父がテーブルを回り込むようにして、ボクの目の前に立つ。

「大勢の人間はこう思っている。最大多数の最大幸福はとても望ましいものだが、そのために無実の人間が犠牲になることはとても悲しい。しかし、悪人ならば最大多数の最大幸福にさほど寄与しなくても犠牲になるべきだ、と考えてしまう」

 叔父の虚ろな瞳の奥で、何かが蠢いていた。

「悪人は例外なく排除されるべきだ。問題はどのように裁くか。それだけだ。私達の世界はずっと単純に出来ている」

 

 

 

「わ、私、デートってしたことがないんだよ」

 土曜日。

 待ち合わせの駅前。

 私服姿の沙耶はどこか落ち着かない様子で、聞いてもいないのにそんな告白をした。

「ボクもないよ」

 思わず苦笑しながら答えると、沙耶は怪しむように目を細めた。

「嘘つくなよ。お前、幼馴染のあいつがいるだろ」

「花梨と遊んだことは勿論何度もあるけど、デートと呼べるようなものじゃないし、ボクらはそういう関係じゃないよ」

「そ、それでも、男女二人きりで遊んでるならそれはデートだろうが!」

 沙耶が声を張り上げる。

 予想していなかった沙耶の反応に思わず頬が緩んだ。

「それよりその私服、似合ってるよ」

 話題を切り替える。

 途端、面白いように沙耶の顔が赤くなった。

「そ、そうか?」

 沙耶は戸惑うように自身の服を見下ろした。

「へ、変じゃないか? 二年前に買ったやつだし……」

「よく似合っているよ」

 ころころと変わる沙耶の表情を観察しながら、さて、と目的地に目を向ける。

「そろそろ行こうか」

「ああ……どこに行くんだ?」

「図書館だよ。近いんだ」

「図書館?」

 沙耶が不思議そうな顔をする。

 ボクは沙耶がそれ以上の疑問を抱く前に手を握った。

「恋人らしく手でも繋いで歩こうか」

「お、お前、やっぱりなんか慣れてるな……」

 顔を真っ赤にした沙耶が睨むように上目遣いでボクを見る。

「も、もしかして幼馴染のあいつといつも手を繋いでるんじゃないだろうな?」

「小さい頃はともかく、互いに思春期を迎えてからはそんなことしてないよ」

「ほ、本当か?」

 沙耶の目には一体、ボクと花梨がどういう関係に見えているのだろう。

 彼女の疑念を適当に捌きながら、すぐ近くの図書館に入る。

「ところで、なんで図書館なんだ?」

 沙耶の疑問の声。

 ボクは無言で笑って、そのまま奥のホールへ向かった。

「お、おい?」

 沙耶が声を落として戸惑った様子を見せる。

 ボクは沙耶の手を握ったまま、空いたテーブルに向かった。

「とりあえず、ここに座ろう」

「お、おう?」

 キョロキョロと周囲の書棚を見渡す彼女を横目に、カバンから数冊の本を取り出す。学校の教科書だった。

「沙耶。少し小耳に挟んだんだけど、あまり学校の成績が良くないらしいね」

「はあ? なんで今、そんな話を――」

 沙耶の視線が、ボクの教科書に釘付けになる。

 そこでようやく、彼女はボクの意図に気づいたようだった。

「せっかくだから今日は一緒に勉強しようと思って」

「お、おい! 今日はデートだって……」

「そうだね。勉強が終わってから映画でも見に行ってそれから晩ごはんにしよう。でも、その前にやるべきことをするべきだ」

「お、お前、もしかして初めからそのつもりで……」

 教科書を開きながら言う。

「ただ遊ぶばかりが、デートじゃないと思うよ」

 沙耶は一瞬言葉を失うように黙った後、諦めたように全身から力を抜いた。

「……わかったよ。終わったら映画行くんだな?」

「ああ、その予定だよ」

「やってやるよ」

 僕がテーブルに転がしたペンを、沙耶が拾い上げる。

 やる気を見せる彼女を、ボクは微笑ましく見つめた。

 沙耶は良くも悪くも素直だ。それが見ていて気持ちいい。

 彼女はもっと自由になるべきだった。

 解決すべき課題は多い。沙耶をあらゆるしがらみから解放するには長い時間が必要だった。



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07話 残虐な刑罰

「1948年、フランスのパリで世界人権宣言が採択された」

 いつものリビング。

 いつものテーブルを挟んで、ボクは叔父の話を聞いていた。

「同年、日本では死刑に関する合憲判決が下りた。死刑は憲法36条で禁じられる残虐な刑罰に相当するか、というのが争点だった」

 フレーバーティーの香りはしなかった。

 荒れたキッチンが叔父の肩越しに広がっていた。

「最高裁判所では十一名の裁判官全員が死刑は残虐な刑罰に当たらない、という憲法解釈を下した。死刑の存置は死刑による威嚇力によって犯罪予防をなし、特殊な社会悪を絶ち、社会全体を防衛する為という解釈だ」

 こつん、と叔父の指がテーブルを叩く。

 何度も何度も、リズムを取るように。

「加えて、四人の裁判官は次のような補充意見を出している。憲法は死刑を永久に是認するものではない。ある刑罰が残虐かどうかは国民感情によって決まるものである、と」

 叔父の充血した目が、じっとボクを見つめていた。

 血のように赤く、大きく腫れ上がった瞳はまるで爬虫類のようだった。

「現在の日本では大多数が死刑制度を肯定している。死刑制度は残虐な刑罰と呼べるものではなく、特殊な社会悪を絶つ為に必要である、とそういう事になっている。最高裁の判断である以上、全ての裁判官はこの判例に従わなければならない」

 日本は、と叔父のゆったりとした声が続く。

「ここは法治国家だ。他人の身体にメスを入れるには医師免許が必要で、医師免許がなければどんなに偉大な手術も傷害罪にしかならない。同様に人を裁くには裁判官である必要があり、裁判官になるには法科大学院を出た後に司法試験に合格し、司法修習を経て任官されなければならない。判事となるのは更に14年後だ。人を裁く権利は、人生の大半を司法と秩序の維持に費やした者のみに与えられるようになっている」

 だから、と叔父の赤い瞳がゆらゆらと揺れた。

「裁判官でない私が人を裁くには、私自身も裁かれる必要がある。私はね、それを何度も何度も考えて、納得することにしたんだ」

 ボクには、叔父が何を考えているのか分からなかった。

 ただ、なにか恐ろしいことが起ころうとしているのだけは分かった。

「正義は法に先立つものであり、人は善に殉じなければならない時がある。人間を人間たらしめるものは善の遵守であり、法の遵守ではない」

 ボクは叔父に対してどのように反応すれば良いのか分からず、充血した目をじっと見ていた。

「全ては幻想に過ぎない。あらゆるものは社会契約が作り出す実態のないものだ。だからこそ、個々の善性が問われる。そして全体の人道性は個々の人道性を凌駕しなければならない」

 私は、と叔父が力強く宣言する。

「確かな善の遂行によって、社会悪を絶ってみせよう。そうしなければ、あの人は救われないんだ」

 

 

 

「はー。もう駄目だわ」

 沙耶がぐったりと机に倒れ込む。

 時計を見ると一時間が経過していた。

「そろそろ終わりにしようか」

 まだ一日目だ。

 とりあえず少しずつでも習慣づけるところから始めなければならない。

「少し休んでから映画館に移動しようか」

「ああ、もう動けねえ……」

 情けない声を出す沙耶に頬が緩むのがわかった。

 小さく息をつき、それから教科書を片付ける。

「それと、晩ご飯は沙耶が好きなものを選んでいいよ」

「マジか?」

 机に突っ伏していた沙耶が勢いよく顔をあげる。

「焼き肉が食いたい!」

「元気になったみたいだね。じゃあ行こうか」

 立ち上がり、沙耶の手をとる。

 彼女は一瞬驚いたように身を強張らせたが、すぐに手を握り返してきた。

「もうヘトヘトだわ」

 沙耶の情けない声に小さく笑い返しながら、図書室を出る。

 ホールに足を踏み入れた時、自然と足が止まった。

 視線の先に、見慣れた花梨の姿があった。

 彼女もこちらに気づいたようで、一瞬動きを止めた後、歩み寄ってきた。

「おう。偶然だな」

 沙耶が自然体で真っ先に声をかける。

 花梨はボクと沙耶を見た後、表情を崩すことなく口を開いた。

「今日はデート?」

「それがさ、聞いてくれよ。そのつもりだったのにいきなり勉強させられたんだぜ?」

 そう言いながら沙耶が恨めしそうな目を向けてくる。

「でも、終わったからこれから映画行くんだ」

 嬉しそうな声。

 対して、花梨の目はどこか昏いものだった。

「……そう。仲が良さそうで何より」

 花梨が沙耶に対してあまり良い感情を抱いていないのは明らかだった。

 二人の様子を観察しながら、間に割り込むべきか思案する。

「じゃ、私用事あるから」

 視線を逸らし、花梨が足早に去っていく。

「またね」

 背後から声をかけると、花梨は小さく振り返って、うん、と柔らかい笑顔で頷いた。

 そのまま去っていく後ろ姿を眺めながら、沙耶がぽつりと零す。

「……なんかさ、私嫌われてるっぽいよな?」

「沙耶はガサツだから」

 軽口を叩きながらも、ボクは話題を変えるように明るい口調で言葉を続けた。

「さあ、行こう。今日の沙耶はよく頑張ったから、晩ご飯は少しだけ良いお店にしようか」

「マジか!」

 弾むような笑顔と声。

 彼女の明るさは、嫌な雰囲気を一瞬で払拭した。

 気持ちを引っ張り上げてくれるような彼女の明るさは、とても貴重なものだと思う。

 ボクは時田沙耶という人間に対して、間違いなく特別な感情を抱き始めていた。

 

 

 

「那智くんは、本当に優しいよね」

 週明けの部活終わり。

 薄暗い部室で二人っきりになった花梨は、唐突にそう切り出した。

 ボクは片付けをしていた手を止めて、彼女の瞳を正面から見返した。

「いきなりどうしたのかな」

「週末、時田さんと図書館に出かけていたでしょ」

 窓から差し込む夕陽が、花梨の瞳に赤く反射していた。

「時田さんはお金がないから、遊ぶ時は那智くんが全部負担することになっちゃう。けど、いつもそれだと時田さんが気後れしちゃうから勉強のご褒美って名目にしたんでしょう?」

 ボクは何も言わなかった。

 意図が見えない。

 肯定する必要も、否定する必要もまだないように思えた。

 ボクの無言を肯定と受け取ったのか、花梨が呆れたように笑う。

「時田さん、多分気づいてないよ。那智くんのそういうところを、全然わかっていないから」

 小馬鹿にするような、どこか冷たさを含んだ言い方だった。

「那智くんは、昔からそうだったよね。少し突拍子もないことをしたり、やや強引なことをするからたまに変わり者扱いされてきたけど、動機はいつも他人の為だった」

 どこか粘りつくような花梨の視線がボクを捉えて離さない。

「分析癖があって意図的に人を試すような言動もするから誤解されやすいけど、こうやって部活でも部長をやってるし、クラスの委員長だってやってる。一番負担になりやすい役割をいつも自分でカバーしようとする。損得に無頓着だから、行動が予測しづらくて結果的に変わり者扱いされる」

「それは過大評価じゃないかな」

「ううん。だって、私はずっと見てきたから。那智くんのそういうところ、ずっと近くで見てきた」

 だからね、と花梨は言った。

「どうしても時田さんと釣り合ってるとは思えないの。どうして時田さんなの?」

「明確な理由というものはないけど、強いて言えば真っ直ぐだからだよ」

「真っ直ぐ?」

「どんな物事に対しても、真っ直ぐだから。それは多分、ボクにはないものだから、かな」

 沈黙があった。

 薄暗い部室の中、花梨は微動だにせずボクのことをじっと見つめていた。

「……花梨、そろそろ出よう」

 沈黙を破り、部室の扉を開く。

「……うん」

 外に出ると、夕焼けが眩しかった。

 鍵を取り出して施錠する。

「ねえ、今日も一人で帰るの?」

 花梨の不安そうな声。

「うん。沙耶と付き合っている以上、幼馴染とはいえ花梨と一緒に帰るのは不義理になると思うから」

「そっか……」

 夕暮れの中、寂しそうな花梨の顔が妙に印象に残った。




ノベルゲーム制作のために更新が滞っていました。
すでに2つ制作完了してサイトの方で公開しています。
加えて、トライアングル・エラーのノベルゲーム版を現在制作中です。

【挿絵表示】


小説以外でもヤンデレや修羅場に関する創作をやっているので、興味ある方はTwitter等へ是非お越しください。
@tsukishima_seal


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08話 排除の暗黙的合意

「今日の議題は刑法と更生について、だ」

 何度も通った面会室。

 何度も通った金属探知機。

 そして、いつもの充血した目でボクを見る叔父。

「刑事政策における一つの重要なテーマが更生保護だ。現行法は法を破った者を排除するだけでなく、更生させて再び社会に順応させることを目的としている」

 ここに入院してから、叔父にはパーキンソン病の初期症状が現れていた。

 それでも、この時の叔父は昔の弁舌を失ってはいなかった。

「ここで問題とすべきなのは、更生を目的としているのならば、更生が不可能な者はどうするべきか、という点だ」

 例えば、と叔父の低い声が響き渡る。

「強い破壊衝動を持ちながらも、他人への共感性を一切持ちえない残虐なテロリストがいればどうする? それは一体どれほどの時間、どのような更生プログラムを与えれば更生可能であると判断するのかね?」

 あるいは、と叔父の充血した目がボクをじっと見つめる。

「私のように責任能力がないと判断された場合はどうする? 更生そのものが見込めない者はどうする?」

 ボクの横では、父が油断なく叔父を観察していた。

 その視線は、驚くほど冷たいものだった。

「答えは簡単だ。とてもシンプルなものだ」

 すう、と叔父が息を吸い込む。

 そして病院中に響くような大声で叔父は叫んだ。

「ただひたすら、こうやって閉じ込めるのだッ! 法の理念も人権も、あらゆる倫理をかなぐり捨てて社会から切り離そうとするのだッ!」

 透明なアクリル板が、振動するように揺れた。

 隣の父が、ボクを守るように半身を乗り出すのが見えた。

「人権で食っているような奴らはッ! 私のような者を見ない振りをするのだッ! 薬漬けにされて、正当な判決すら受けずに不当に閉じ込められ続ける事に誰も意義を唱えないのだッ!」

 自然と呼吸が早くなるのが分かった。

 獣のように叫ぶ叔父は、ボクが知っている以前の叔父ではなかった。

「更生が不可能な存在というのは、あらゆる思想にとって都合が悪いからだッ! 現行システムにとっての脅威であり、例外として扱うしかないからだッ!」

 だからこそ、と叔父が叫ぶ。

「どれだけ生存権が高らかに叫ばれる国家でも、国家的権力による射殺が公然と許されるのだッ! 憲法も刑事政策も人権も、あらゆるものは建前に過ぎないッ! 我々の社会はどれだけ成熟してどれだけ理屈をこねようと、社会契約から逸脱した人間を完全排除する暗黙的合意をなしているではないかッ!」

 父が立ち上がり、ボクの腕を取る。

 その間も、叔父は叫び声を上げ続けていた。

「私はただッ! 現行システムによって裁けない悪を裁いただけに過ぎないッ! その私を現行システムが排除するというのかッ!」

 力強く父に引っ張られる中、ボクは最後に振り返った。

「……なあ、言ったじゃないか。私は無罪だって。司法の番人たちが揃ってそう判決したじゃないか」

 叔父はもうボクたちを見ていなかった。

 中空に向かって何かに教えを乞うように、ただ嘆きの声をあげ続けるだけだった。

 

 

 

 沙耶と交際して二ヶ月が経過した。

 ボクたちの関係は、さして大きな問題もなく続いていた。

 だから、それはある意味で予定調和のような一言だった。

「なあ……今日はずっと親いないんだけど……うち来ないか?」

 図書館で勉強が終わった後の小休憩中。

 沙耶はペンを指で回しながら、何でもない風を装ってそんな事を口にした。

 僅かに赤く染まった頬と、珍しく自信のなさそうな視線から真意は容易に察することが出来た。

 逡巡。

 自分でも嫌になるほど打算的な考えが頭を掠めた。

 万が一の場合、ボクも彼女も大学進学を含めたあらゆるリスクを抱え込む事になる。

 父はわからないが、恐らく母は強く反対するだろう。うまく説き伏せる準備も整っていない。

 沙耶との関係が一時的か、あるいはもっと長期的なものになるか定まっていない段階で余計な事をするつもりはなかった。

 そのはずだった。

「……那智?」

 不安そうにボクの顔を覗き込む沙耶の表情が、自然と口を開かせた。

「たまには、そうだね。家庭訪問も良いかもしれない」

 茶化したように言うと、沙耶は安心したように笑った。

「多分、那智の家に比べたら小さくて汚い家だろうけど……」

「気にしないよ。ついでに食材を買って、そのまま一緒に晩御飯にしようか」

「お、いいなそれ! なんか……新婚夫婦みたいで」

 最後は消え入るような声だった。

 からかうのは止めて、沙耶の手をとって立ち上がる。

 普段より大人しい沙耶と共に図書館を出て、慣れないバスに乗る。

 空いたバスの中、隣に座った沙耶は一言も話さずにボクの手をじっと握っていた。

 気の利いた言葉が思いつかなくて、ボクも何も言わなかった。

 無言のまま、最寄りのバス停で下りてそのまま近くのスーパーに寄る。

 そこでもボクたちは一言二言くらいしか喋らなかった。

 スーパーを出た時には既に暗くなっていて、人通りのない路地を並んで歩くことになった。

「静かなところだね」

 声をかけると、沙耶はどこか上の空で曖昧な返事しかしなかった。

 そのまま会話が弾む事もなく、ある木造アパートの前で沙耶は足を止めた。

「ここなんだけど……マジでちょっと狭いかも」

「気にしないから大丈夫だよ」

 外階段から二階にのぼり、沙耶が鍵を開ける。

 それからやや気恥ずかしそうに、入れよ、とボクを急かした。

「じゃあ、おじゃまします」

 促されるまま、先に部屋に入る。

 まず最初にダイニングキッチンが目に入った。キッチンは古く、あまり機能的ではなさそうだった。

 後ろで鍵のかかる音。

「奥の和室にテレビあるから……」

 沙耶がそう言って横をすり抜けて先に歩いていく。

 明かりがつくと、あまり女性らしくない質素な部屋が目に入った。

「……つけとくか」

 そう言って沙耶がリモコンを手に取り、テレビの電源を入れる。

「……なんか好きな番組とかある?」

「……最近、あまりテレビ見ないから」

「え、ああ、そうなのか」

 どこかちぐはぐな会話。

 沙耶は暫くリモコンをいじっていたが、大した番組がやっていない事に気づくと操作を中断した。

「まあ、座れよ」

「うん、ありがとう」

 近くにあった座布団を引き寄せて適当に座ると、沙耶はボクに密着するように隣に腰を下ろした。

 見たこともないマイナーなテレビ番組が流れている中、沈黙が落ちる。

 そっと観察すると、沙耶は見たことがないくらい顔を赤くしてじっと畳を見つめていた。

「……この時間、あまり良い番組やってないんだな」

「そうみたいだね。先にご飯作ろうか?」

 助け舟を出したつもりだった。

 けれど、立ち上がろうとしたボクの服の裾を沙耶の手が掴んだ。

「なあ」

 沙耶の真っ赤に染まった顔が、意を決したように真っ直ぐとボクに向けられる。

「女の家に男が来るって、そういうことだよな?」

「……沙耶、必ずしもそういう――」

「――良いんだよな?」

 ボクの声を遮るように、確認するように沙耶が繰り返す。

 同時に沙耶に押し倒されるように畳の上に背中から転がる。

「嫌じゃないよな?」

 上からじっと見下ろす沙耶に、できるだけ優しい声をかける。

「沙耶、別に急ぐ必要はないよ」

「お前……なんか冷静だな」

 上から垂れる沙耶の髪が頬をくすぐった。

「……慣れてるのか? ……あの幼馴染と、こういう事したことあるのかよ」

「花梨はただの幼馴染だよ。そういうのじゃない」

「……じゃあ、初めてなのか?」

「何もかも、沙耶が初めてだよ」

 沈黙があった。

 横のテレビから流れる雑音が一層大きく聞こえた。

「なあ……良いよな?」

 繰り返し確認するような問い。

「……食材、冷蔵庫に入れないと」

「……そんなの、後で良いだろ」

 それは何時間後になるのだろう、と疑問は沙耶に口を塞がれた為に言葉にする事は出来なかった。

 

 

 

 枕が違うと眠れないのが常だった。

 しかし、昨晩はいつの間にか眠ってしまったらしい。

 目を覚ますと、外はすっかり明るくなっていた。

 沙耶を叩き起こし、慌ただしく支度を済ませる。

「一回くらい遅刻したって問題ないって」

 沙耶はそう言いながらも、てきぱきと着替えを済ませていた。

 朝起きた時から、彼女はずっと機嫌が良い。

 一緒に家を出て、慣れないバスに乗り込む。

 その間も、沙耶はずっとニコニコしていた。

 通勤時間帯であるために車内は混雑していたが、沙耶は気にせずにずっとボクの手を握っていた。

 そんな沙耶の様子に、ボクも少しだけぼんやりとしていた。

 登校時間をずらすとか、一つ前の停留所で降りるとかそういう考えが思いつかなかった。

 最寄りの停留所で降りた時、周囲には多くの学生がいた。

 そして、その中には花梨の姿もあった。

 ボクは普段、バスで登校することはない。幼馴染の花梨はそれをよく知っている。

「……おはよう」

 沙耶と手を繋いでバスから降りたボクを、花梨は一瞬唖然とした顔で見て、それから素っ気なく挨拶を口にした。

「……おはよう」

 それ以外に適切な言葉が見つからなかった。

「うっす!」

 朝から機嫌の良い沙耶だけが特に気にした風もなく元気な声をあげる。

 花梨はなにか言いたそうな目でボクを見た後、そのまま何も言わず校門の方に踵を返した。

「あー……完全にバレてるな」

 どこか他人事のような沙耶の呟きが、耳に残った。



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09話 カルネアデスの板

「命は平等ではない」

 その日の叔父は調子が良かった。少なくとも、当時のボクにはそう見えた。

 川原を散歩しながら叔父は饒舌に舌を回し続けていた。

「私達は、常に自己の命を優先する権利を持っている。生きる為に他人の命を奪う事は罪ではない」

 例えば、と叔父は川の方に目を向けた。

「あの川で溺れたとしよう。そして偶然にも板切れが浮いていてしがみつく事が出来た。この板切れは小さくて、一人分をかろうじて支えられている状態だった」

 叔父の口調はどこか荒く、鬼気迫るものがあった。

「そこに他の溺れている人が近づいてきた。もし二人で板切れにしがみつけば沈んでしまうかもしれない。さあ、どうする?」

 ボクは何も答えなかった。

 最初から叔父はボクの答えを期待していない。

 その瞳は、ボクを見ていない。

 どこか遠くへ向けられていた。

「正解はこうだ。生き残る為に板切れを独り占めにし、近づこうとしてくる人を突き放すんだ」

 叔父は大げさに手振りを交えながら、脅かすように大声で叫んだ。

「他にも溺れているやつがいたら、片っ端から沈めていくんだ! 板切れを守るという大義名分の為に、私達にはそれが許される!」

 叔父はそこで何度か咳き込んだ。

 身体を折り、苦しそうに顔を歪める。

 そっと背中を擦ると、叔父は感謝するように何度も頭を下げた。

「法は罪を定義するが、悪は定義しない」

 咳き込みながらも叔父は話を止めようとはしない。

「板切れは、あらゆる所に存在する。誰もが、板切れを守る為に他人を突き落とそうとする」

 呼吸が落ち着いた叔父は、ゆっくりと空を仰いだ。

 なにか大きなものに祈りを捧げるように。許しを請うように。

「それはお金だったり地位だったり、家族、そして愛しい人だったりする」

 愛しい人。

 そこだけ深い感情が込められていた。

「それぞれの板切れに用意された席は、一つしか存在しない。既に誰かがしがみついているならば、私たちはそれを突き落として奪うしかないじゃないか。そしてそれは、罪と定義されない」

 雲ひとつない晴天から陽光が降り注ぐ。

 叔父はどこか晴れ晴れしい顔でそれを仰いでいた。

「私たちは皆、この世界でよくわからない何かに溺れ続けている。誰もが、しがみつける板切れを探している。そして、突き落とし合っているだけに過ぎないのかもしれない。私はね、そう思うんだ」

 あまりにも清々しく、達観した物言いだった。

 この時、叔父は全てを覚悟していたのだと思う。

 一度入った亀裂は元には戻らない。

 後は広がり続けていくだけだった。

 

 

 

 次の日、花梨は学校に来なかった。

 次の日も、その次の日も。

 沙耶と一緒に登校したのを見られた日から、花梨は学校に来なくなった。

 携帯端末を開き、返信が来ていないか確認する。送信したメッセージも全て無視されていた。

「なあ、今日の放課後はどこへ行く?」

 机に両肘を置いた沙耶がボクの顔を下から覗き込んでくる。

 ボクは返事が帰ってこないメッセージアプリを閉じ、沙耶に目を向けた。

「実は今日も家に誰もいないんだけど……」

 騒がしい教室の中、沙耶は声を落としてそう言った。

 その瞳には、熱い光が灯っている。彼女はあれから毎日のように家に誘ってくるようになった。

 あまり良くない兆候だと思う。

 それだけ母親が長く家に帰ってきていないという事だ。

「今日はやめよう。別に用事が出来た」

「……用事ってなんだよ?」

「花梨の様子を見てくる」

「……放っておいてやれよ」

 沙耶の目が鋭く細まっていく。

「理由くらい分かるだろ? お前が行っても惨めなだけだよ」

 それに、と沙耶は怒気を滲ませた。

「彼女がいるのに他の女の家にのこのこ行くなよ。おかしいだろ、それ」

 少し思案してから、沙耶に従う事にした。

「そうだね。そうするよ。けれど、遊ぶのはやめておく。今日は勉強しないといけない」

「え……そ、そうか」

 あっさり引き下がった事と、誘いを断られた事に面食らったような顔をする沙耶。

「その代わり、明日は空いてるから」

 フォローを入れると、沙耶の表情がみるみる明るくなる。

「だから、今日は沙耶もちゃんと勉強するんだよ」

「お、おう」

「明日、ちゃんと勉強しているか確認するからね」

「……おう」

 途端に勢いがなくなる沙耶を見て笑いが漏れる。

 それから、何でもない事のようにボクは尋ねた。

「ところで、母親はどれくらい帰ってきてないの?」

 沙耶の表情が固まった。

 同時に視線が揺れる。

「あ、えっと、五日くらい……」

「正直に話して欲しい」

 被せるように言う。

 観念したように沙耶の視線が伏せられた。

「……二週間くらい、だな」

「生活費の余裕は?」

「……もう殆ど、ない……」

 沙耶は視線を外したまま、絞り出すように言った。

「多分、新しい彼氏が出来たんだと思う……」

 母親の新しい彼氏。

 ボクにとっては理解しがたい状況だった。

「彼氏って言ってもホストの事なんだけどさ……そうなると暫く戻ってこないから……」

 目眩のようなものを感じた。

 黙り込むボクに、沙耶が言い訳するように口を開く。

「いつもはしっかりしてて良い母親なんだ……どうせすぐに熱が冷めて帰ってくるから……」

「沙耶」

 彼女の言葉を止める。

「家賃や光熱費は?」

「光熱費は振り込み用紙が来るから……まだ大丈夫だと思う。家賃は引き落としだからよくわからない……」

 ゆっくりと息を吐く。

 ボク達はまだ子供だ。

 選択肢は多くない。

「……しばらくはボクが食費とかは出すから」

 沙耶は否定しようとするように口を開いて、それから諦めたように口を噤んだ。

「……悪い」

 短い言葉だった。

 沙耶は悔しそうに唇を噛み締め、視線を落としていた。

 ボクと沙耶は恋人関係にある。

 対等な関係を崩したくはない。

「それか、久しぶりにボクがお弁当作ろうか」

「い、良いのか?」

 沙耶が遠慮がちに言う。

「うん。それくらいなら負担でも何でもないよ」

 話しながら考える。

 何か手を打たないといけない。

 それに花梨の事も気がかりだった。

 思考の渦の中、叔父の言葉が脳裏をよぎった。

 

 ――私たちは皆、この世界でよくわからない何かに溺れ続けている。

 ――誰もが、しがみつける板切れを探している。

 

 沙耶にとっての板切れは母親だ。

 そして花梨にとっての板切れは……。



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